ヘシアンの追憶 (Mamama)
しおりを挟む
へシアンの追憶<上>
身を苛む狂気に身を委ねながら、どこか冷徹に俯瞰している自分がいることに気付いたのは全てが終わりかけていた時だった。実質的に主導権を握っていた狼王ロボ、彼の霊基が消滅しかけていることが原因かもしれない、と冷徹な自分が一つの回答を出す。生前まったく由縁のない者同士の霊子が強引に結合され、漸くサーヴァントして確立した前代未聞の存在だ。同盟を結んだ胡散臭い老紳士は失敗はないと嘯いていたが、どんな不具合が起こっていようと不思議ではない。
復讐者のサーヴァント。アヴァンジャー、へシアン・ロボ。
所詮幻霊に過ぎないお伽噺に当てはまっただけの一兵士が随分と遠くまできたものだ、と自嘲する。血に濡れた歪な刃はどこか非現実的で、これは悪い夢の一種じゃないか、と勘繰ってしまいそうになる。
もう一度、戦いたかった。だからこの召喚に応えた。そしてその要望の通り、再び戦場に舞い戻ることができた。
けれど、自分が待ち望んでいた戦いは、こんなものだっただろうか。どこかで致命的にズレが生じている。抜本的に前提が異なっている、今更ながらそんな思いが湧き出てきた。新宿の魔術師達を数えきれないほど殺してきたこの身にとって、そんな疑問は遅すぎるというのに。
嗚呼、けれど。ほんの少しぐらいの時間はあるだろう。幻霊に貶められる前の、生前の記憶を思い起こす程度の、些細な時間ならば。
―――まずは其処に誇りがあった。それは絶対に間違いない。
マスケット銃を片手に激戦の最中のアメリカに乗り込み、名を挙げてやろうなんていうなんて、今考えてみれば自意識過剰も甚だしいことを望んでいたものだった。地元では多少名の知れた腕利きであったこともあって、天狗になっていたのかもしれない。自分の回りにあるものが世界の全てだと信じて疑わず、その中で頂点に立っていた身としては自分が選ばれた人間である、と大っぴらに公言していた時期もあった。
生まれも育ちもヘッセンの片田舎。母親は流行り病で亡くなり、物心つくときには大柄で乱暴的な父親の大きな背中ばかり見てきた。子は親を見て育つ。どう言い繕っても良い父親とは言えない男の背中を見て育っていたのだ。当然、そんな男の息子も同じように善良ではない方向に成長していった。学はない癖に体格だけは親譲りで大きかったものだから、地元の悪餓鬼共を纏めるような、そんな立ち位置にいつの間にかなっていた。日常生活が喧嘩と酒に彩られた、そんなロクデナシだった。
けれど、確かに其処には誇りがあったのだ。アメリカ行きの帆船に乗り込む時の高揚感の中に、誇らしい思いがあった。
自らを強者と謳った身は傲慢だっただろう。
礼儀を知らない粗忽者だっただろう。
世界の広さを知らない愚者だっただろう。
けれど、その時に抱いた想いそのものは、きっと真っすぐで綺麗なものだった。
立身出世を企てる利己心の中に、何の打算もなく、クニプハウゼン将軍の指揮下のドイツ軍部隊の一人として戦列に加わったことを喜びを覚えていた。
嗚呼、それは嘘ではない。
淡い色彩の喜びの感情は、嘘ではなかったのだ。
そうして意気揚々とアメリカに渡ったが、やはりというか現実は厳しかった。大よそイギリス戦線は大陸軍を押していたし、陥落の時間の問題だろうと思われていた。だがそれは大局的に物事を見た場合の考えであって、戦場のど真ん中でそんな能天気な事を考える余裕などあるはずもない。夥しい敵兵の屍の上で勝鬨が上がっても、その中には少数ながら友軍の屍も存在していたのだから。物言わぬ躯の中に自分が紛れているような幻覚に囚われて、それは言いようのない恐怖だった。
確かに現実は果てしなく厳しかったが、言葉でいうほど悪いものではなかった。負ければ命を失うという極限の中だからこそ得るものがあった。戦場の苦楽を共にしたからこそ芽生えるものもあった。
見ず知らずの他人に背中を預けた。
少数が囮となって、側面から敵部隊を強襲したことがあった。
民家からこっそり強奪した酒を、戦友となった友と分かち合った。
焚火にあたりながら、互いの事を話し合った。
そんな友の死に際に立ち会った。
多くの出会いと別れがあった。
戦場では理不尽な事ばかりだったが―――そう、不思議と悪くはなかったのだ。
けれど、それはあの戦いで全て壊れてしまった。
1776年12月26日。ニュージャージー州トレントン。悪天候の中、デラウェア川を渡河したジョージ・ワシントン率いる大陸軍の強襲によって、ドイツ人傭兵部隊は壊滅的な大打撃を受けることになる。
それまで圧倒的な優位に立っていたイギリス軍が失墜する、その転換となる戦。
それは後にトレントンの戦いと名付けられた戦いだった。
それが運命の夜明けで、日暮れでもあった。
そこで大立ち回りを演じ、殺される最後まで勇敢に抵抗を続けた―――ということであればまだ恰好はついたのだが、現実は対岸にいた大陸軍砲兵隊の砲撃の余波を受け、戦う前から戦闘不能まで追い込まれていた、という情けない状況だった。ヴィータ―ホルト中尉の甲高い叫び声を聴き、マスケット銃を手に出撃しようとした矢先、轟音と共に天井の一部が崩壊し、それに巻き込まれたのだ。混乱に陥り混沌とした有体の戦場の後方、崩壊しかけの前線基地の中で無様にのた打ち回っているところを大陸軍兵士に捕縛され、896名の捕虜の1人となった。
後の顛末は特別、語るものではない。
捕虜としてあちこちに連れまわされ、行きついた場所がランカスターの農園だった。そこで農奴同然の扱いを受け、最終的には首を落とされた。
そこで■■■■■という人間はこの世を去った。
ただそれだけの、有り触れた無残な終わりかただった。
嗚呼、けれど、せめて戦士として死にたかった。望んでいたのは農奴としての屈辱的な扱いの果ての死では断じてなかった。こんな誇りのない無様な最期だけは認めたくなかった。屠殺場の豚のように、やせ細った無抵抗な躰に斧を振り下ろされるだけの一作業にされたくなかった。
戦功を挙げられなかったことなどどうでもいい。故郷に錦を飾れなかったことなどどうでもいい。望んだことはただ一つ、戦士として名誉な死でありたかったことだった。
マスケット銃で撃ち殺されても、それが戦友が一歩でも前に進むことに繋がれば、その死にはきっと意味がある。そんなささやかな願いすら叶えられないと自分の脆弱さを呪った。斧が振り下ろされる直前、自らがようやく一山いくらの塵芥に過ぎないことを理解した。
この死に意味があるのか。この死をもって、戦友を生き永らえることができるのか。
肉が削げ落ち、骨と皮ばかりの身体を押さえつけられながら、そう思った。そんな疑問は斧を持った執行人が下卑た笑みを浮かべるだけですぐに晴れた。
意味などない。なんの意味もなくここで死ぬのだ。
そう理解した時、途方もない激情が身に奔った。憤怒の感情だった。
トレントンの戦いを指揮したジョージ・ワシントンが憎い。
進言に耳を傾けようとしなかったトレント・ラールが憎い。
殺さず捕虜にした敵兵が憎い。
家畜のように扱い人としての尊厳を奪った敵兵が憎い。
そしてなによりも、不甲斐ない自分自身がどうしようもなく情けなく、憎かった。
斧が振り下ろされる。大きな衝撃と、生暖かい血の感触と匂い。暗転していく視界。
生前の記憶はここで途切れている。
薄れていく意識の中、もしも次があれば戦士として戦い戦場で死んでいきたいと思った。
矮小な身であるが、暴力の中で生きてきた。だからこそ銃弾飛び交う戦場の中で、戦友の庇って息絶えたいと。
そう、思った。
―――氷柱のような高層ビルが立ち並ぶ新宿の一角、そこに悲痛な獣の声があたりに響いた。
獰猛な喚声ではなく、威嚇のための咆哮ではなく、苦悶の色を乗せた叫喚だった。
どう、と巨体がアスファルトの地面に沈み込む。夥しい血痕が地面に吸い込まれ、染めていく。毛皮に覆われた巨躯に刻まれた傷創は全身に及び、生物としての限界をとうに超えていることは誰の目にも明らかだった。だが、それでもなお彼の命は尽きていなかった。幾度となく致命傷を負いながらも未だに命の灯は消えていなかった。
理論的に考えて、生物が致死量を優に超える血液を流しておいてを生きていられるわけがない。
或いは、何か特別な加護を受けた存在ならば可能だったかもしれない。後世にも謳われる一騎当千の英雄、死後英霊と召し上げられた、そんな存在ならば。
だが、彼はそんな存在ではなかった。
強大な敵を打ち負かしたわけではない。
後世に伝わるほど偉大な功績を遺したわけではない。
人類史に残る偉業を成し遂げたわけではない。
断じて彼は、英雄と呼ばれる存在ではなかった。語られた歴史は浅く、神秘は薄い。英雄どころか、むしろただの人間に敗北するような、霊格の低いただの幻霊と呼ばれる存在だった。
だからきっと、彼の命を繋ぎ止めているものは理屈で説明できるものではないのだろう。
理論、理屈、理。そんなものを軽々と飛び越えるほどに彼の感情は、憎悪は超越していたのだ。同族を殺しつくした人間に対する憎悪、ブランカを喪った悲愴。裡に渦巻く負の感情を纏め上げ、薪をくべるように動力源と変換していく。
だが、それももう終わる。復讐に狂った魔獣の、彼の命数はここで尽きるのだ。
避けられない。避けようがない。この事実はどうあっても覆りようがない。
限界を超えるにも限度がある。燃料の薪も何時かは灰になり、風で運ばれ何も残らなくなる。憎悪で理を捻じ曲げることはできても、法則を歪めることはできない。そして己を顧みず、肉体を酷使した代償は大きい。既に躰の崩壊は始まっていた。霊核が軋みをあげ、硝子の罅が広がるような嫌な音を聞いた。
自らの消滅が目前に迫ってきている。けれども、不思議と心は落ち着き払っていた。
いや―――だからなのかもしれない。憎悪の感情が抜けていき、代わりに諦観の念が歪んだ心に入り込んでいく。目の前の敵を刻み殺すだけの視界が開け、眼前の光景を映し出していく。
陥没したアスファルト、なぎ倒された木々、倒壊した建物、横たわる巨躯、そして四つの影。
一人はバレルの胡散臭い老紳士と瓜二つ男。
一人は煙管を手にした線の細い男。
一人は毒々しい鎧を纏い剣を油断なく構える少女。
そして最後尾に控えるのは―――場違いに思えるほどの、ただの人間の少女だった。
恐怖しているのだろう。両手を握りしめ、足が震えている様子が見て取れる。けれど、己の力で立っていた。逃げることなく、迷いなく、蒼い瞳がこちらを見据えていた。
戦う術を持たない、それこそ撫でるような一撃で死に絶える脆弱な人間が、彼を破滅的な暴力の塊と認識したうえで立ち向かっていた。
嗚呼、と。
それだけの事に心を奪われた。例えようのない煌めきを少女から感じた。
だって、彼女は人間だ。サーヴァントを律する令呪を持っていようと、多少の魔術が使えようとも、此方から見れば彼女そのものは戦う力を持たない非力な存在であることに間違いない。それこそ生前の自分に劣るような、その程度の力量しか持っていないはずだ。
彼女は高名な魔術師ではない。
力量を過信した戦士でもない。
自分の命を度外視できるような狂人でもない。
そこにあるのは、覚悟を決めただけの、変哲もないただの少女。そしてその少女が、彼の妄執を止めたのだ。
……かつての英雄が彼女に従う、その理由が少しだけ理解できた。
どことなく、心が晴やかになったのを感じた。
それが霊基が消失していく最中の解れか、将又それ以外か。何に起因するものかは分からない。けれど確かに、取り戻したものがあった。
だからこそ、やらねばいけない責務があった。
認めよう。彼は、私は、この新宿において害悪を撒き散らすだけの怪物だった。無辜な民、とは到底言いがたいが無関係な者達を己が欲望のために無残に殺し尽くした。我々は悪で、正義は彼らにある。如何な名目を並べようともそれは覆らないし、覆していいものではない。きっと、どれ程優秀な弁護人でも彼の擁護は不可能だ。
だからこそ、立ち上がらなければならなかった。果たすべき義務があった。
だって、そうだろう。
彼の味方はどこにもいないのだ。最愛の妻も死に、荒野を駆け抜けた仲間達も死に、己すらも殺そうとした彼に頼れるべき仲間などいはしない。バレルの連中にしたってそうだ。死に体の獣を救うために態々援軍を差し向けてくれるほど人間味に溢れているわけではないし、何より意味がない。彼の消滅は確定的なのだから。
そう、意味はないのだ。
今更馬鹿のように立ち上がることに意味なんてない。戦うだけの力どころか、最早一歩大地を踏みしめる程の力も残されていない。霊核が砕ける臨界点に到達してしようとして、実体を保つことで精一杯だ。
だが、それでいい。それだけでいい。意志を見せることができれば、それだけ構わない。
その行為に意味はなくとも、意義は見いだせる。
意味のない死に方など御免だったが、こういう形でなら悪くない。
崩れ落ちそうな躰に鞭を打ち、力を籠める。そして二本の足で立ち上がった。
剣を構え、止めを刺そうとした少女の眼前に躍り出る。その直後、横薙ぎの剣が放たれた。
無造作に振るわれた一撃は果てしなく重く、腕に痺れが走った。
これが英雄、これが英霊。人類史に名を遺した偉人の一撃。
―――嗚呼、本当に、敵わない。
顔があれば、きっと笑みを浮かべていたに違いない。
剣がするりと手から滑り落ちた。がらん、という音をどこか遠くに聞いた。
そうして、両手を広げた。
彼を背に、彼を守るために。それが、きっと最低限果たすべき義務なのだ。
苛立ち交じりに、黒い剣を構えた少女は言葉を投げかけた。
『それでも、サーヴァントなのか』と。
ああ、そうだ。元を辿れば一地域に伝わるお伽噺、都市伝説に過ぎないとしても、有り得ない不確定分子だったとしても、この身はサーヴァントとして存在している。だが所詮は幻霊。その基質はか細く、物理的に干渉することすらできなかった。だからこそ、同じく召喚された彼と掛け合わされたのだ。
不完全な存在同士の霊子基質を強引に組み替えて同質化し、この身はようやくサーヴァントして確立した。彼無しでは、私は存在を許されなかった。
言葉が違う。
思想が違う。
文化が違う。
種族が違う。
生き方が違う。
唯一、彼との類似点を強引に挙げようとすれば、生きた年代が比較的近かった、ぐらいのものだ。お互いに心を開かず、開こうともしない無関心同士の共依存。
だがそれでも―――相棒であることに違いなかった。
だからこそ、立ち上がらなければいけなかった。
彼に頼れるものがいないというのなら、自分自身が頼れる存在にならなければならなかった。動機が悪意に満ちていても、成して来た行為は悪辣でも、共に戦場を駆け抜けた戦友なのだから。
戦う力はどこにもない。ならばせめて、意思だけでも見せるのだ。
彼の背に跨るだけの存在ではない。確かに彼の相棒だったのだ、とカルデアの面々に見せ付けるように。
気が向いたらカルデア視点も書きます(投げやり)
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
へシアンの追憶<下>
新宿幻霊事件終幕から藤丸立花がカルデアに帰還し、一夜が過ぎた。
時刻は早朝、立花に割り振られた部屋。ベッドの枕元に設置されたデジタル時計が規則正しくアラームを鳴らしている。立花は毛布を頭から被り抵抗するように身をよじっていたが、アラーム音に観念したのかと毛布から手を伸ばし、叩くように時計を止めた。
二度寝を敢行しようとしたが目が冴えてしまい、もそもそとベッドから這い出る。その姿からは数々の特異点を攻略してきたマスターとしての威厳は感じられない。両腕を上に伸ばし、伸びをする様子は何処にでもいる寝起きの少女の風体だ。
カルデア内のルーティンであれば朝食を取り、ホログラムによる戦闘シミュレーションや座学であったりの予定があるのだが、今日の立花には一日の休息が与えられている。身体的な負担は元より、精神的な負担を和らげるためのインターバルだ。ロマニ・アーキマンに代わって暫定的な指揮権を譲渡されているレオナルド・ダヴィンチの采配によるものだった。
よって今日の立花の予定は完全なフリーであるが―――彼女の中では既にしなければならない事項があった。寝間着からカルデアの制服に着替え、軽く身だしなみを整えて立花は自室を後にした。向かう場所は食堂ではなく、普段はあまり行くことがないとある場所だ。
入れ違いになる形で、マシュは立花の部屋に訪れていた。朝食のお誘いである。
特異点では気を張る必要があるため、その反動のせいかカルデアにいる間の私生活の立花は意外とだらしないことが多かった。先輩のサーヴァントとして私生活も支えなければ―――という彼女の考えは二人でいる時間を少しでも増やしたいという独占欲のようなものも多少は含まれていた。
軽く身だしなみを再確認し、インターホンを軽く押す。しばらく待つが返事はなかった。
「……まだ睡眠中なのでしょうか?確かに昨日までのレイシフトで疲労もあるのでしょうが、朝食は一日の活力。しっかり食べていただかなくては」
そういって自己正当化し、ポケットから部屋のカードキーを取り出す。マシュやダヴィンチなどの極一部のサーヴァントや職員に渡されている合鍵だ。失礼します、と独り言のように呟き部屋の中に入るが、そこには立花の姿はない。乱雑に整理された布団だけがベッドに横たわっていた。布団に触れるとまだ仄かに温かく、部屋を出てからそう時間が経っていないことが窺えた。
「……あまり時間は経っていないようですが、もしかしてもう食堂に向かわれたのでしょうか?」
「マスター?いや、まだ来ていないが?」
しかし、真っ先に向かった食堂にはおらず。
「いらっしゃい。ささっ、ずずいっと奥まで―――え?立花ちゃん?今日はまだ見ていないけど」
ダヴィンチの工房にも姿形はなく。
「マスターですか?いいえ、こちらには。早朝のトレーニングは筋肉によい刺激なのですが」
主にバーサーカーとケルト勢が身体を動かす仮想戦闘室にも立花はいなかった。
「……一体先輩はどこに行ってしまったのでしょうか」
人理焼却式ゲーティアという脅威は取り除かれたものの、まだカルデアに敵対する魔神柱が残っている状況だ。カルデアの防御網を掻い潜って干渉してくるとは早々思えないが、もしや立花の身に何かあったのでは、と僅かに焦燥を募らせ―――
「あ……」
たまたま開いた図書館(ライブラリ)の扉、入口から見える奥の席に彼女は座っていた。
先輩、と声を掛けようとしてマシュは途中で口を閉じた。マシュから見える立花の横顔はどこか愁いに満ちているように見えて、躊躇ってしまったのだ。立花は頬杖をして片手で貸し出されている通信端末を触っていた。おそらく電子書籍でも読み込んでいるのだろう。後数時間も経てばカルデア職員や一部の作家系サーヴァントが図書館を利用するかもしれないが、今はまだ早朝とも呼べる時間帯。人気の絶えた図書館、静謐な空間にいるのは彼女だけで、何人にも侵しがたい雰囲気を作っていた。
図書館といってもハードカバーの本がずらりと並んでいるわけではない。データ管理サーバーに古今東西、ありとあらゆる情報が詰め込まれており、それを端末を使って閲覧する。白色の廊下と天井、等間隔で規則正しく机が並んでいる様子は図書館というより病院に近い。そんな白亜の空間は、立花が持つ形容しがたい神秘性をより強調しているように見えた。
立花の無事は確認できたし、かなり集中している様子は見てとれる。無言でこの場を立ち去るという選択肢がないわけではなかったが、立花が何を見ているのかという疑問がもたげ引き返そうとするマシュの足を止めた。
そろそろと物音を立てないように―――別にやましいことなどないが―――近づく。
立花の斜め後ろまで近づくと、端末の液晶画面に表示されている文字が目視できる。
何かの物語だというところまでは判断できるが、それ以上の情報をそこからから得ることは難しい。
「あの、先輩?」
「ん?ああ、マシュ。おはよう」
直前まで気配を悟らせず、しかも背後から声を掛けたにも関わらず、何事もないように振り向き立花は挨拶を返した。座りなよ、という風に隣の椅子を軽く叩く立花に動揺の様子はない。静謐のハサンや清姫がしばしば部屋に侵入することを考えれば、背後から声を掛けられることなど驚くものではないのだろう。
「おはようございます、先輩。あの、かなり集中されているようでしたが、一体何を読まれていたんですか?」
「ああ、これ?」
立花は手の端末をフリック操作し、マシュが見えるように画面を傾ける。そこには大きな太文字でタイトルが記されていた。
アーネスト・トンプソン・シートン著、『シートン動物記』
「……シートン動物記、ですか。新宿のアヴェンジャーの逸話となった」
「うん。小学生の高学年ぐらいだったかな、一回読んだことはあったんだけど、あんまり詳しいエピソードは覚えてなかったから」
シートン動物記。
新宿のアヴェンジャー、ロボの元となった物語。
それは後年にまで語り継がれる華々しい英雄譚などではない、ごく近年の文学作品だ。作者であるシートンの体験や見聞を基になっており、ノンフィクション作品と言ってもいいのかもしれない。
元は一般人の立花も知っていることから、知名度は高い。しかし成立したのは近代で、積み上げてきた神秘は低い。無論近代の存在だから英霊として成立しないというわけではない。エジソンやテスラ等、近代に活躍し英霊となった者はいるし、エミヤという例外もある。
ただいずれにせよ『英霊の座へ至る』必要がある。そういう意味ではへシアン・ロボはこれまで出会ってきた英霊の中でも特異な存在と言えるだろう。ありえざる英霊として、新宿のアヴェンジャーとカルデアと敵対した。
傷だらけの躰を引きずって戦場を後にした新宿のアヴェンジャーの姿を思い出して、マシュはどこか自分が感傷に囚われている事に気付いた。
「どうしてまた、それを見ようと?」
「どうしてって。マシュは難しいこと聞くなぁ」
苦笑いを浮かべ思案気な表情で、
「……結局あのアヴェンジャーは何をしたかったのかなって、気になったから、かな」
一人言を漏らすように、ぽつりと立花は言った。
「何を、ですか?」
「うん、勿論アヴェンジャーなんだから復讐だっていうことは分かるんだけど」
サーヴァントは英雄の断面を切り取り、クラスという枠組みに押し込まれ召喚される。故に、アヴェンジャーとして召喚されたのならば復讐者として現界し振る舞う。故に成すことは復讐だ。実際、相対した新宿のアヴェンジャーは殺戮を振り撒く、まさに復讐者として相応しい振る舞いを見せていた。無論、立花が言いたいのはそういうことではないのはマシュも理解していた。
「人間が嫌いだからって無差別に人を襲って殺し尽して―――その果てに何があったんだろうって。何にもないなんて、分かり切っているのにね」
「……それは」
それが復讐者、アヴェンジャーとしての性質だからと。そういってしまえばそれでお終いだ。けれど、性根が優しいマシュにはそんな冷徹な結論は出せなかった。
「モニター上でしか私も見ていませんが、新宿のアヴェンジャーはまさしく復讐に憑り付かれているように見えました。きっと復讐の先にあるものなんて意識していなかったのでしょう」
アヴェンジャーと言われてマシュが思い出すのは、第一特異点で敵対したジャンヌ・ダルクの側面の姿だ。けれど、新宿のアヴェンジャーとジャンヌ・オルタの双方は似ているようで『何に対して復讐するのか』という点で明確に違っていた。
「フランスの……第一特異点のジャンヌ・オルタは自分を裏切ったフランスに復讐するために動いてた。その気持ちは分かるんだ。誰かを恨んだり、仕返しをしたかったり、そういうのってある意味人間らしいから」
裏切られたから。大切な者を奪われたから。だから復讐する。それは立花にも理解できるのだ。人間は綺麗な生き物ではないということを立花は知っている。知識だけではなくて、自分の実体験として。だから復讐というものに積極的に賛同は出来なくとも、その想いに共感することは出来た。ただ、あの想いはあまりにも苛烈に過ぎた。
鋭利な牙からは必殺の意思が。零れ落ちる唸り声からは憤怒の意思が。全身から立ち上る純粋な殺意が。まるで復讐者としての本質を持つサーヴァントではなく、復讐という概念がサーヴァントの衣を被っていたようで。実際に目の当たりにした立花はそれを恐ろしいと思った。そしてそれ以上に悲しくなった。一体どれだけの事があれば、あそこまで堕ちることが出来るのだろうか、と。
―――新宿のアヴェンジャーの、復讐の終着点はどこにあるのだろう。
「マシュはさ、復讐って悪いことだと思う?」
「え?……そうですね、あまり推奨されるべきことではないとは。ただ強い想いは往々にして生きる原動力にもなるとも思いますし……難しいですね」
困ったように眉根を寄せる真面目な後輩の姿に、立花は軽く笑みを浮かべた。
「そうだね、私も復讐そのものはそんなに悪いものじゃないと思うんだ。大切な人を奪われたら、奪った側を恨むよ。それって結構普通のことじゃないかな。よく漫画とかだと『復讐なんて無意味だ』『復讐なんてしても何も生まない』とか言うけどさ。理屈じゃないよね、そういうのって。でも復讐するにしてもゴールを設けるべきだと思うんだ」
「ゴール、ですか?」
「うーん、ゴールというか『ここまでやれば復讐完了』っていう線引きかな。復讐って、いつかは終わるものだから」
―――だからきっと、私はこんなにも切なくて胸を掻き乱されているのだろう、と立花は胸中で呟いた。
仲間を、大地を、ブランカを。全てを奪った人間が憎くて、復讐に奔った。どこにも行けず、どこに行くのかも忘れてしまって。心を磨り潰して意味のない殺戮を繰り返して。
何も得ることができず、取り溢していくばかりで。
永遠に終わらない、復讐とは名ばかりの八つ当たりを繰り返して。
それを憐れむのは傲慢だと理解していながらも、立花はただ悲しかった。
だから、きっと少しでも理解したかったのだ。
例え自己満足だとしても彼がどのようにして生き、どのようにして死に、どのような想いでいたのか、少しでもその想いを汲みとめるように。
『復讐に囚われた殺戮者』だけで終わらせないように。
「……そういえばへシアンの方はどうなんだろう?」
そこでふと思うのは、ロボに跨った首なし騎士の事。アルトリア・オルタの前に立ち塞がったへシアンにはロボを護るという明確な意思があった。でなければ両手を広げて立ち塞がるなんてことはしない。最期のあの時だけは、へシアンはただ一人の英雄だった。
そんな彼は、何を思って復讐者になったのだろう。
「先輩?」
思考に没頭していた立花を心配したのか、気遣うような表情でマシュが顔を覗き込んでいた。
「ん、大丈夫。っていうかゴメンね、朝からなんか重い話しちゃって」
「いえ、そんな事は」
ないです、とマシュが言う前に立花の腹が盛大な音を上げた。遠雷を思わせる響きのある低音は空腹を知らせるサインだ。マシュが視線を向けると、立花は照れたように顔を赤らめて頬を掻いた。
「あはは……ごめん」
「そ、そうです。朝食にお誘いするために先輩を探していたんです」
「あー、もういい時間だね。お腹すいちゃったし、行こうか」
一回意識すると空腹感が堰を切るように押し寄せる。続きは朝食の後だ。急かすように自分の手を引き、食堂へ連れていこうとする世話焼きな後輩に頬が緩む。
図書館から食堂へ向かう間、廊下でサーヴァントやカルデア職員達とすれ違う。性別も人種も思考も何もかも異なっているけれど、彼等は立花に力を貸してくれている。
純粋な好意だけを向けてくる者ばかりじゃない。自分の思惑のため、利害の一致のために協力関係を結んでいる者だっている。けれど、藤丸立花という無力な魔術師に力を貸してくれていることに間違いはない。
「ねえマシュ」
「なんですか?」
「新宿のアヴェンジャー、カルデアに来てくれると思う?」
「……どうでしょうか。存在を確立された以上、理論上召喚は出来るとは思います。しかし互いの意思が必要な以上、向こう側が召喚に応じてくれるかどうかは……」
「普通に考えれば難しいよね」
―――でも貴方達が召喚に応じてカルデアに来るなら、私は歓迎するよ。
貴方達を受け止めるくらいの度量、カルデアにはあるから。
そして沢山話をしよう。貴方が感じていること、思っていることを私に教えて欲しい。
話し合いだけで全てが解決できるなんて思わないけど、言葉も無く唯敵意をぶつけられるのは寂しいから。相容れない運命だなんて言われても、私はきっと諦めきれない。それが藤丸立花たらしめる理由だから。
周囲のサーヴァントがマスターを守るように立ち塞がる。新たに召喚されたサーヴァント、あれは危険だと戦闘経験が豊富なサーヴァント達は一目で看破した。何時でも動けるように腰を低め、それぞれの獲物に手を掛ける。けれど、サーヴァント達が警戒を露わにする中でマスターは笑っていた。
恐怖はある。何度もあの死の恐怖に晒されたのだ。怖くないはずがない。それでも。
自らのサーヴァント達を信頼していることもある。けれど、それ以上に自分の呼び声に応えてくれたことが何よりも嬉しかったのだ。だから、いつもの日溜まりのような笑顔で。
「―――ようこそ、カルデアへ!」
目次 感想へのリンク しおりを挟む