紫煙を薫らす (柴猫侍)
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一話

 

 その年の梅の花が咲く前の話。

 病床に伏している母親の横に、一人の子供が寄り添っていた。風前の灯である母の下に寄り添う子供は、今にも泣き出しそうな表情で母親の手を握る。

 紫黒の長髪を髪紐で纏める子供は、翡翠色の瞳を潤ませていた。

 

 髪色や瞳の色は父親に似た子供。瞳の形は母親に似たらしく、儚げに、悩ましげな瞳の形を潤ませては、目尻から大粒の涙を零してばかり。

 もうじき梅が咲くにしては、障子の隙間から吹いてくる風は冷たい。

 気のせいか、握っている母親の手も冷たくなってきたような気がする子供は、自分の熱を分け与えようと強く握る。

 

 その健気な様相に満足そうに微笑む母親は、弱弱しく手を握り返す。

 今となっては満足に力も込められない腕で、必死に自分の存在をこの世につなぎとめられるようにと、子供の手を握り続けるが―――。

 

「―――ん」

「ッ……母上。どうかなされましたか?」

「父上を……恨んでいますか?」

 

 ヒュッと息を飲む音が響く。

 父上―――つまり、今目の前に居る子供の父の事だが、今にも妻が死にそうだというにも拘わらず傍に居てやらない。なんと薄情は夫か、と言いたくもなるが、元よりそれは叶わぬ事だ。

 彼女の夫は既にこの世を去っている。この子供が生まれるよりも前に。

 

 居ない者を恨んでも仕方ない。

 

 それを理解している子供は、フッと寂しげな笑みを浮かべてみせる。

 

「恨んでなど居りません。寂しい気はしておりますが……」

「そう……ですか。なら、是非あの子と仲良く……し……」

「……母上?」

 

 何かを伝えようとする母親であったが、次第に声が尻すぼみになっていく。その様子に、否応なしに不安を駆られる子供は、小刻みに母親の手を揺すってみる。

 何度か揺すった後に、子供は悟った。

 

―――ああ、もう旅立たれて……

 

 生気を失った母親の顔。うっすらと開かれている瞼をそっと下ろし、握っていた手を布団の上へ乗せる。

 母親が死んでから子供が考えていたのは、自身が母親になにかできたのだろうかというもの。非力な自分が、大切な人を失った彼女の為に何かできたのだろうか、と。

 だが、思い起こせば彼女は幾度となくこう告げていた。

 

『貴方が居たからこそ、私はあの人との繋がりを確りと感じ取れました』

 

 容姿が似ているからか。

 否、それ以外にも理由はあろうが、自分はどうやら母と父を繋ぐ楔となれていたようだ。ならば善し。少しばかりでも貢献できたのであれば御の字だ。

 

「ですが……せめて、今年の梅の花を母上と共に眺めたかったものです」

 

 そう言って子供は、可憐な容貌の頬に一筋の涙を流した。

 

 

 

 ***

 

 

 

 宗家と分家。

 宗家とは、ある一族、一門の本家をいうものであり、分家はその本家から分離して設立した家のことを言う。

 歴史ある名門ほど、この宗家が重んじられる傾向があるが、それはこの魂の故郷・尸魂界にも同じ事だ。尸魂界の中でも死神・貴族は住まう瀞霊廷では無数の家が存在しており、特に大きな上流貴族の家をまとめて、彼らは『四大貴族』と謳っている。

 元は五大貴族であったが、とある理由により志波家は没落。

 

 そういった訳もあり、現在は四大貴族として定着してきている。そのような四大貴族も例外に漏れず、宗家と分家がある訳だ。

 そして、彼の『天賜兵装番』と知られる四楓院家の宗家は、現在、歴代初の女性が当主となっている。『四楓院夜一』―――隠密機動総司令官及び同第一分隊『刑軍』統括軍団長を務めつつ、護廷十三隊二番隊隊長を務める女傑とあって、一時は貴族の間では彼女の話題で持ちきりであった。

 しかし―――。

 

「返せ、化け猫めッ!!」

「ふはははっ! いずれ朽木家当主ともあろう者が、女に髪紐を奪われるようではな!」

「おのれ……今に見ていろ! すぐにでも貴様を……!」

 

 如何せん、自由奔放。

 今も、彼の四大貴族の内の一つ・朽木家の名の下に産まれた少年にちょっかいをかけている。

 褐色肌でグラマラスな体をした女性―――彼女こそ四楓院夜一なのであるが、その手には一本の紐が握られていた。

 

 その持ち主である少年は、額に青筋を立てながら木刀を振り回して夜一を叩きのめそうとするも、一撃も当たりはしない。

 からかう夜一に憤慨する彼の名は朽木白哉。護廷十三隊六番隊隊長・朽木銀嶺の孫であり、同隊副隊長・朽木蒼純の息子でもある。

 

 まさにサラブレッドとも言うべき彼であるが、子供らしく頭に血が上り易い。更には真面目な性格も相まって、奔放な性格である夜一とはそりが合わない。度々彼女が来ては、こうしてちょっかいをされてはやり返そうとするも、何時も失敗ばかり。

 毎日鍛錬を積み重ねては『今度こそ』と意気込むも、まだ正式に護廷隊にも入っていない彼が、隊の長である彼女に敵う筈もなく、いいようにやられるのみ。

 

 今日もまた、木刀での一撃を喰らわせようと試みても、全て躱されて此方が息を切らすのみ。

 

「はぁ……はぁ……おのれ、夜一ッ……!」

「くくくッ、からかい甲斐のあるヤツよのう。今日も朽木白哉、敗れたり!」

「ま、待て! まだ私は負けを認めたつもりは……!」

 

 そう言って手を伸ばしている内に、夜一の姿は風のように消える。流石、“瞬神”の名は伊達ではない。

 しかし、それを悪戯如きに使われる身になれば、性質が悪いことこの上ないことは理解してもらえるだろうか。

 

 同世代の友が居ない白哉は、彼女への怒りをなんとか心に納める。先程まで夜一が佇んでいた屋根の上から、風に靡かれて髪紐がどこかへ飛んでいく。

 決して高い物ではないが、修行の時に髪を纏めるように愛用している物だ。

早々に回収して修行にのめり込み、悪戯の所為で無駄になった時間を取り戻そう。そう考えて、髪紐が流されていく方向へ視線を向けた。

 

「ッ……爺様! 帰っていらしていたのですね!」

「うむ。今日も夜一殿にいいように弄ばれていたようじゃな」

「……見ておられていたのですか?」

 

 隊長羽織を靡かせながら歩み寄ってくる老人。彼こそが、六番隊隊長・朽木銀嶺であり、白哉の父方の祖父である。

 白哉の尊敬する人物の一人が今目の前に居る訳であるが、白哉は自身が夜一に弄ばれていた光景を見られていたという事実に、頬を引き攣らせた。

 

 しかし、彼の背後からしゃなりしゃなりと歩み出てくるもう一人の人物に瞠目する。

 艶のある紫黒色の長髪を後頭部で纏め上げている人物。妖しげな色気を醸し出す、自身とさほど歳が変わらなそうな少年か少女か。どちらともとれる中性的な外見の人物は、容姿が非常に整っていた。

 顎や首の線の細さ。そして腕を通している羽織が、女性が好みそうな薄桜色だ。

 恐らく女性だろうと思いながら呆けていると、徐に歩み寄ってきた彼女はある物を手に取って歩み寄ってくるではないか。

 

「これは其方のか?」

「……は? あ、ああ……済まぬ」

 

 手渡されたのは、先程風に流されていった髪紐であった。

 それを受け取ると、彼女は薄い唇をやんわりと吊り上げて微笑を浮かべる。

 

「白哉。この者は、朽木家の分家の一つである柊家の当主じゃ」

(ひいらぎ)紫音(しおん)と申す。お初御目にかかる、朽木白哉殿……で、よろしいのだな?」

「ああ、私が朽木白哉だ」

 

 スッと差し出される手をとって握手を交わす白哉と紫音。

 細い指だ。毎日木刀を何百回も振るって鍛錬を欠かさない白哉とは違い、しなやかな印象を与える女性的な指。肌も絹のように滑らかであり、このまま触れていたい程の肌触りである。

 軽い挨拶を交わした後、紫音は白哉に対してにこやかな微笑を送り、銀嶺の方へと振り返った。

 

「銀嶺殿、そろそろ……」

「そうじゃったな。白哉、儂は紫音殿と話さねばならぬことがある。外すぞ」

「分かりました」

 

 どうやら、若き当主と話さなければならないことがあるらしい。

 その旨を孫に告げた銀嶺は、紫音と共に屋敷の廊下を進んでいく。

 

 彼等の背中を見送った白哉は、先程手渡された髪紐で自身の髪をまとめ上げた後、早速といった様子で鍛錬に戻る。

 再び朽木邸の庭で風を切る音が響き始めた。庭の鯉はその音に反応し、少しばかりバシャバシャと騒ぐが、すぐに落ち着きを取り戻し、庭には冒頭を振るう音だけが響き渡る。

 

(しかし……話さねばならぬこととは一体……?)

 

 だが、白哉の脳裏には妖しい美貌の持ち主が過ってばかりで、普段のように鍛錬に身が入る事は無かった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――そうか。葬式は滞りなく終わったか」

「はい」

 

 対面して座る銀嶺と紫音。畳が敷かれている広間にポツンと座る二人は、どこか哀愁を漂わせていた。

 銀嶺の背面には、これまでの朽木家当主の遺影が飾られている仏壇がある。

 天寿を全うした者から、病死した者、戦死した者など様々だが、紫音にとっては至ってどうでもよいことであった。

 

 紫音の母親は先日死んだ。老衰ではなく、精神的な衰弱によるものである。彼女の希望もあり、式は屋敷内の者だけで慎ましやかに行われたが―――。

 

「儂を薄情だと思うか?」

「いいえ。母上が望んだことです。銀嶺殿に迷惑を掛けたくなかったのでしょう」

 

 銀嶺の問いに対し、紫音は間を開けずに答える。

 どこか余所余所しい口調の紫音に銀嶺はなんとも言えない表情を浮かべ、顎に手を当てた。

 分家の当主の母。それほどの者の葬式であるのであれば、宗家の当主である銀嶺も顔を出すことが筋だったであろう。だが、彼女の意思を尊重した上で銀嶺は赴かなかったのだ。

 それでも銀嶺の心中には、少しばかりでも顔を出せば、という後悔が胸を渦巻いていた。

 すると銀嶺は、続けざまにある問いを投げかけてみる。

 

「お主は儂を恨んでいるか?」

「いいえ、と言えば嘘になるでしょう。父上を正しく導かなかった銀嶺殿のお蔭で、私は父親の導きというものを知らずに育ってしまいました」

「……そうか」

「恨む理由があるとすればそれだけ。しかし……これ以上は言わずとも良いでしょう」

「そうじゃな」

 

 そう言いながら、ズズッと茶を啜る銀嶺。

 この話題はこれまで、ということなのだろう。紫音も気分転換とばかりに茶に口を付けて、熱い茶で喉を潤す。

 

「して、お主は来年に霊術院に入るのじゃな?」

「はい。面子というものを守るのであれば、死神となって上位の席に身を置くのが手っ取り早いでしょう」

「成程。白哉も来年に霊術院に入れるつもりじゃ。仲良くしてくれると嬉しい限りじゃ」

「銀嶺殿の申しつけとあれば……」

 

 すると紫音は徐に立ち上がり、廊下の方へと向かって行く。何処に行くのかと銀嶺が瞳で訴えると、その視線に気付いた紫音が振り返り、フッと笑みを浮かべながら口を開いた。

 

「白哉の下に赴きます」

「……そうか」

「では」

 

 一礼し、静かに障子を開けて廊下へ出て行く紫音。

 その背中を見届けた銀嶺は、蓄えた髭を撫でながら、先程まで紫音が腰かけていた座布団を見つめる。

 

「ふむ……儂を祖父とは呼ばなんだ」

 

 

 

 ***

 

 

 

 足袋を履いた足で、廊下を擦るように歩んでいく紫音は、先程の庭までたどり着いて木刀を振るう白哉の姿を捉えた。

 一心不乱に木刀を振るう白哉は、後ろから歩み寄る紫音などには一切気が付かない。白哉自身、霊圧知覚が乏しいという訳ではないが、紫音がわざと自身の霊圧を極限まで抑えている為、鍛錬に集中している白哉は紫音に気が付かないという寸法だ。

 そっと後ろから歩み寄る紫音は、これから悪戯を仕掛ける子供のような笑みを浮かべて、汗水たらして鍛錬に明け暮れる少年の背後から声を掛ける。

 

「白哉殿」

「おぉッ!? ……なんだ、其方か。驚かせないでくれ」

「くっくっく。余りにも鍛錬に身を入れているようだったから、少し茶々を入れてみたかったのだ」

「……はぁ。何用だ?」

「次期朽木家当主の其方と、少し話をしたいと思ってな」

「うむ……相分かった。ならば、其処の縁側に腰を掛けてで良いか?」

「ああ。時間をとらせて済まないな」

 

 手拭いで汗を拭き取る白哉は、そのまま紫音と並んで近くの縁側に腰掛ける。自身とそれほど歳の違わない者との談話など、何時振りだろうか。

 気が付いたら鍛錬に明け暮れてばかりで、友人付き合いなどしていなかった気がする。

 そんなことを考えつつ、クツクツと笑みを浮かべている紫音の隣に腰掛けた白哉は早速口を開いた。

 

「それで、話とはなんだ?」

「なあに、大したことではない。私は来年彼の山本元柳斎重國殿が設立なされた真央霊術院に入るつもりでな。其方も来年入ると銀嶺殿に窺い、彼に其方をよろしく頼むと言われたのでな。改めてよろしく頼む、白哉殿」

「成程、そういう訳か。ならば『白哉』でいい。学友となる者に『殿』を付けられるとなると、堅苦しくて敵わぬ」

「そうか。ならば私も『紫音』でいい。よろしく頼むぞ、白哉」

「ああ、紫音」

 

 再び差し出される手に対し、白哉は一度掌に滲み出た汗を袴で拭ってから、握手に応える。

 

「それにしても、私とさほど変わらぬというのに当主とは……立派なものだな」

「身内に不幸があっただけだ。当主に見合うだけの立ち振る舞いは、これからじっくりと時間をかけ身に着けていくつもりだ」

「そうであったのか……うむ、だがあの化け猫などよりも、其方の方がよっぽど立派だ」

「化け猫?」

「四楓院夜一のことだ。彼奴(きゃつ)め……暇を見つけては私のことをからかいに来おって、当主としての自覚が足りぬのだ! 四楓院家初の女当主であるからと、調子に乗っているのではないかと疑いたくなる!」

「くっくっく、随分な言い様だな。化け猫とは」

 

 顔を赤くして憤慨する白哉の様相に、人差し指の第二間接を唇に当ててクツクツと妖しく笑う紫音。

 一通り自身の憤りを吐き出した白哉は、大分すっきりとした面持ちになった。

 

「ふぅ……私は将来、あの化け猫を反面教師として朽木家の家名に恥じぬ当主となるつもりだ。分家の当主の其方とは、是非仲良くやっていきたい」

「同感だ」

「其方も、女の当主で大変なこともあろう。私にも手伝えることがあれば、微力ながら手助けしよう」

「……なに?」

「む? いや、其方も女当主で―――」

「私は男だぞ?」

 

 静寂。

 ピタリと時が止まったかのように動かなくなる二人。遠方から、鹿威しの音が響いてくる。

 目が点になった白哉は、今一度紫音の全身をじっくりと観察し始めた。髪、目、唇、顎など到る所を見回した白哉の顔は、先程と違った感情で顔を赤く染め上げていく。

 

 まさか、男を女と見間違えていたとは。

 彼女を―――否、彼を美しいと感じてしまった過去の自分が恥ずかしいと、白哉は顔を手で覆い隠す。

 

「……くっくっく、はーはっはっは! そうか、其方は私を女と見間違えていたのか。まあ無理もない。このような格好ではな。如何にも女物の羽織を着ていれば、女だと見間違えても致し方ないだろう」

(いや、それ以外にも色々あるのだがな)

「なんだ? 私が女であれば手を出そうとでも思っていたか? ん?」

「……五月蠅い」

「成程、現世で昔は男と男がまぐわうのは珍しいことでもなかったらしい。其方が、私が男でも良いというのであれば、考えてやらんでもないぞ?」

「五月蠅いと言っている! 誰が男などと!」

「ああ、そうだな。私もまぐわうのであれば女が良い。お互い普遍的な性的感覚で良かったな。貞操は守れそうだ」

 

 笑いが治まらない紫音は、未だににやけた顔で赤面している白哉に視線を送る。

 宗家次期当主と、分家現当主による猥談。歳相応の男子の話と言えば、確かに歳相応だととれるかもしれない。

 

 普段、猥談をしない男児が顔を赤くし、少々性的知識を有す男児が得意げな笑みを浮かべながら語る。何時になっても変わらぬ光景が此処に。

 

 暫し声を荒げて男色を否定していた白哉は、大分落ち着いたのか息を切らしながら縁側に腰を掛ける。

 それを見計らった紫音は、未だににやけた面を浮かべながら『それでは』と腰を上げた。

 突然立ち上がった彼にどうしたものかと眉を顰める白哉。一方紫音は、笑い過ぎて赤く染まった頬を引き攣らせながら、白哉を見下ろした。

 

「短い時間であったが楽しかったぞ、白哉。私は用事があるから家に戻る」

「む……そうか」

「今度また会いに来よう。その時は、年頃の男児らしく好みの女性についてでも語らおうか」

「ッ……私に色恋沙汰などはまだ必要ない!」

「いや、いずれは其方も妻を娶らねばならぬ者だろう。大人になった時、良い女を紹介しあえるように、互いの好みを知っておいた方が便利なのではないか?」

「自分の妻ぐらい自分で見つけるわ、戯け!」

「むぅ……堅いヤツだな、其方は。まあ、これから仲良くやっていこうではないか。それでは、失礼するぞ」

「あ、ああ……」

 

 踵を返し、門の方へ歩み去って行く紫音。振り返りざまに漂ってきた香りは、どのような御香を使っているのか気になるような品のあるものであった。

 と、言うよりも―――。

 

(……どこか懐かしい香りがしたのは気のせいか?)

 

 御香の香りではない。

 彼自身から振り撒かれる香りに、白哉はどこか懐かしい気分に浸ってしまうのであった。

 

 

 

 

 





 活動報告の方に、本作についてのことを書いていますので、そちらの方を一読のほう宜しくお願い致します。


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二話

 

「其方は辛子煎餅が好きなのか」

「ああ。そう言う其方はどうなのだ?」

「嫌いじゃあない。ただ、何枚もバクバクと食べられる物でもない」

 

 縁側に座りながら、唐辛子の粉末が塗りたくられて赤く染まっている煎餅を齧る白哉と紫音。白哉は辛い物を好む。一方紫音は、辛い物はそれほど嫌いでもないが、余りにも辛すぎるのは食べられないという至って普通の味覚の持ち主だ。

 用意された煎餅の内、二枚程を食べた所で唇と舌がピリピリと痛み始める。思わず眉間に皺を寄せる紫音は、指に付いた煎餅のタレを舐めてから、湯呑を手に取って水出し煎茶を口に含む。辛い物を食べた後に熱々のお茶で追い打ちをかけるような真似はさせまいと、白哉が用意してくれたものだ。

 

 朽木邸の縁側で談話する二人。

 初めての邂逅を果たしてから早半年経ったが、歳が近いこともあって、親しくなるのにそう時間は掛からなかった。

 歳が近い、同じ男であることから、普段は口にしないようなことも白哉は口にして、彼と談笑し合う。赤裸々な話をすることもあれば、意見の対立で少々いざこざもあったり―――。

 だが、比較的仲睦まじい友人になれたことは確かだ。

 

「―――紫音。私は護廷隊に入るとすれば、六番隊に入りたいと思っている」

「其方らしいな。祖父の後を継ぐつもりか?」

「それもあるが、私は六番隊の掲げる隊花を気に入っている」

「成程。隊色を以てして、入る隊を選ぶと」

 

 将来入隊する隊はどれかを語り合う。

 白哉の望む隊は六番隊で、掲げる隊花は『椿。花言葉は『高潔な理性』。掟を重んじなければならない四大貴族の跡取りに似合う花言葉だ。

 

「其方はどの隊に入るのだ?」

「私か? 私は……まだ決めていないな」

「そうか。まあ、すぐに決めなければならぬ事でもない。じっくりと考えればよいだろうな」

 

 まだ霊術院にも入っていないのに、些か早計ではないか?

 そう訴えるかのような紫音の仕草に、白哉はあっけらかんとした態度で返事をする。それから湯呑に入っている茶をグビグビと喉を鳴らして飲み干した後は、近くに立てかけていた木刀を二本手に取って、片方を紫音に手渡した。

 

「よし、続きをするぞ!」

「はぁ……私は剣の類いは苦手なのだがな」

「案ずるな。私が手取り足取り教えてやろう」

 

 溜め息を吐いて木刀を握る紫音に対し、白哉は得意げな笑みを浮かべながら木刀を構える。普段から木刀を振るって鍛錬している白哉に対し、紫音はその華奢な体つきを見れば分かる通り、力を使う類いのことは得意ではない。

 今迄競う相手が居なく、漸く腹を割って話せるような友人が出来て、共に鍛錬できると意気込むのは構わないが、もう少し自重してほしいというのが紫音の本心だ。

 

 木刀を構えて睨みあう二人―――であったが、ふと何かに気が付いた紫音が目を見開く。

 何事かと訝しげな表情を浮かべる白哉。次の瞬間、首元に柔らかな弾力が当てられる。水風船のように弾力のある物体を首に当てられた白哉は、すぐさまその正体に気付いて額に青筋を立てた。

 

「また来たか、化け猫めッ!」

「ふはははっ! 白哉坊、お主が他人に剣術を教授するなど百年早いわ!」

 

 背後に勢いよく木刀を振るう白哉であったが、柔らかい物体―――もとい、豊満な胸の持ち主である夜一は、軽快な身のこなしで白哉の一閃を回避する。

 またか、と息を吐く紫音は、木刀を握る手の力を緩めた。

 紫音が朽木邸を訪れて白哉と共に居る時、夜一がからかいに来ることは一度や二度の話ではなかったのだ。ほぼ毎回のペースでやって来る彼女は、本当に仕事をしているのかと気になってしまう。護廷十三隊二番隊隊長と隠密機動総司令官、二足の草鞋を履いている彼女に、こう何回もちょっかいを出しに来る暇はない筈だが、

 

「遅い遅い! 太刀筋が止まって見えるぞ!」

「おのれェ!!」

 

 あの身のこなし、流石は“瞬神”を名乗るだけはあるか。

 下手な死神よりも優れている白哉の剣術を以てしても、夜一の体を掠めることはできない。

 夜一は暫し避け続け、白哉が汗をダラダラと流して息を切らしたのを見計らい、バク転で朽木邸に生えている木によじ登り、ぶら下がりながら茫然と眺めていた紫音と顔を合わせる。

 拳一つ分程までに顔を近寄せる夜一であったが、紫音は一切動揺した様子を見せずに『お久し振りです』と微笑を浮かべた。

 中々肝が据わっている。将来が楽しみだと笑う夜一は、『そうじゃ』と指を立てる。

 

「紫音坊。お主、剣が苦手と言ったな?」

「はい。なにせ、力が無いものですから」

「うむう、隠密機動にでも誘おうと思ったが、そういう類いも苦手そうじゃな」

「歩法は兎も角、白打も苦手かもしれませんね」

「ならば四番隊……お、そうじゃ! 鬼道衆はどうじゃ? あそこは剣術が上手くない……と言うより、そもそも斬魄刀を持っておらぬ者が多いからのう。お主にピッタリではないか?」

「私を……置いて……話を……進めるな、夜一ッ!」

 

 紫音にお勧めの隊や組織を進める夜一に、息が少しだけ整ってきた白哉はここぞとばかりに声を荒げる。

 しかし、夜一の提案に紫音は案外乗り気であるようだ。『そうですか……』と顎に手を当てて考え込む。

 

 隠密機動同様、護廷十三隊から独立している組織の一つである“鬼道衆”。文字通り、“鬼道”を得意とする者達が集う組織だ。現世において強力な虚が出現した際、周囲に被害が及ばぬように空間凍結の術式を執り行うのも、専ら鬼道衆の仕事。

 護廷十三隊とは切っても切れぬ間柄であるが、霊術院生の間では護廷隊入隊希望者の方が多く、若干人手が足りないのが現実だ。

 

「どうじゃ? 折角なら、今からでも鬼道を極められるよう、打ってつけの人物を紹介するが……」

「それは嬉しい限り。是非、夜一殿の厚意に甘えたく存じます」

「おお、そうか! ならば、儂から今度其奴に伝えておく!」

 

 嬉しそうに笑みを浮かべる夜一は、『白哉坊と違って素直じゃのう』と一言いらぬ言葉を吐いてから、ピョンと地面に飛び降りる。

 すると徐に紫音の体をベタベタと触り始めた。

 

「しかし、流石にこれは貧弱じゃのう。もっと筋肉をつけい!」

「そう仰られても……」

「飯をたらふく食って鍛錬せい! さすれば、すぐにでも儂のようになれるぞ! そのままじゃ女子のようじゃぞ、紫音坊!」

 

 どちらかと言えばグラマラス体形である夜一に『自分のようになれる』と言われてもピンとこない紫音は、愛想笑いを浮かべて『そうですか』と答える。

 すると、高らかに笑っている夜一の背後に瞬歩で肉迫した白哉が、隙ありと言わんばかりに木刀を縦に振るう。しかしあえなく躱され、夜一は何時の間にやら屋敷の屋根の上へ腰を下ろしていた。

 

「ふはははっ、残念じゃったな!」

「ふんッ! 紫音を誑かす化け猫を追い払うにはそれで充分だ! 紫音……私が居る限り、其方が一つの技術だけに甘んじる様な真似は許さぬぞ!」

 

 ガッと肩を掴まれた紫音は、思わず瞠目して白哉の真摯な眼差しを向けてくる顔を見つめる。

 

「……何故だ?」

「張り合いがないッ!」

「……時折、身勝手と言われぬか?」

「競う相手に張り合いを求めるのは間違っているか?」

「……地力が違うであろう相手に張り合いを求めるのは間違っていると思うが」

「むうっ……力を付けた方が其方の将来の為だ! 違うか!?」

 

 何故白哉はこうも必死になっているのだろう。

 その理由がいまいちはっきりとしない紫音は、呆れたような顔で『そうかそうか』と適当に返事をする。

 

(天才と凡人を比べないで欲しいな、まったく)

 

 本人が自覚しているかどうかは知らないが、白哉は所謂“天才”に分類される人物だろう。元より持ち合わせている霊力然り、剣術の腕然り。

 そんな天才に張り合いを求められる凡人の気持ちを考えたことはあるのだろうか。嫌味の一つでも言いたい気分になる。

 

(『仲良く』などと、わざわざ私に頼むことでもないでしょうに)

 

 こちらの気苦労を銀嶺に知ってもらいたいものだ、と考える紫音はフンと鼻を鳴らす。

 そんな紫音の心情はいざ知らず、白哉は未だに夜一とガミガミと言い合っている。

 

 白哉は非常に良い友だ。

 だが、親友と呼ぶにはまだ足りない。尸魂界に住む魂魄全般に言えることだが、生きる年月が現世に住まう人間よりも長い為、相対的に必要とする年月が増えているのかもしれない。

 

(いいや、違う。白哉……其方は私にとって疎ましい)

 

 紫音だけが感じている微妙な距離感。

 それは、知っている者と知らない者の間に存在する、埋め難い溝でもあり―――。

 

(……嫉妬か)

 

 父という存在を知らない者と知る者の溝であった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ミィ~」

「ん?」

 

 朽木邸を後にした紫音は、途中の茶屋を通りすぎた所でとあるものを見つけた。

 二匹の子猫。全身真っ白な体毛の子猫が一匹と、全身真っ黒な体毛の子猫が一匹だ。何かを強請る様に、紫音が穿いている袴の裾に縋りついてくる。

 

「ほう。愛いヤツ等だ」

 

 腰を下ろして子猫の首元を擽るように撫でる。

 気持ちよさそうに目をウットリとさせる子猫たちに、思わず紫音の顔も緩む。

 

「貴族のお坊ちゃん」

「む? 私のことか?」

「ええ。その猫たちは最近ここの辺りをうろちょろしてる奴等でしてね。良い匂いがする死神やら貴族の人達に餌をねだってるんですよ」

 

 すぐ近くの茶屋から顔を出した店主が、紫音が撫でている子猫たちのことについて語る。

 成程。御香を焚く余裕のある死神や貴族であれば、自分らの腹を満たせるような餌を買い与えてくれるだろうと考えているのか。中々強かな子猫たちだと、紫音も感心した面持ちで子猫たちを撫で続ける。

 

「だが済まぬ。生憎持ち合わせがないのでな」

「お坊ちゃん。ウチじゃ、猫にも食わせてあげられる食いモンを売ってるんですが、どうですか?」

「……ほう。成程成程。この子猫たちは招き猫ということか」

「ええ」

 

 よく出来た商売だ。

 特に女性の者であれば、思わず近くに茶屋で何かを買って子猫たちに餌を与えたくなる筈だ。

 人を悩殺するような仕草や潤んだ瞳。これに心打たれぬ者は少なくないだろう。

 

「……私も愛いモノには弱いな。その食い物とやらを頼む」

「へへっ、分かりました。少々お待ちを」

 

 裾に縋りつく二匹の子猫をスッと持ち上げながら、そのまま茶屋の椅子に座る。徐に子猫を膝の上に置けば、今度は襟元に手を掛けてくる子猫。

 ふわふわの毛並を撫でつつ、茶屋の店主が持ってくる食べ物を受け取り、懐にしまっていたがま口財布から何環か手渡す。

 

 そして、子猫たちが待ちかねていた餌を食べさせる時がやって来た。

 茹でられたささみを細かく千切り、掌に乗せて子猫たちに食べさせる。二匹同時にささみを求めて掌に顔を寄せてくるが、掌に伝わる舌の感触に顔を綻ばせた。

 

「ほれ、まだ欲しいか? ん?」

 

 千切ったささみを手に取って、子猫たちの前にチラつかせる。

 すると子猫たちはささみを求めてピョンピョンと膝の上で跳ねつづけた。それが滑稽で、尚且つ愛くるしくて、与えてはチラつかせ、与えてはチラつかせを何度も繰り返す。

 

 傍から見れば、一枚の絵になりそうなほどに様となっている光景。

 近くを通る者達は、子猫と戯れる麗しい容姿の少年(見た者のほとんどは紫音を女だと勘違いしているが)の光景を微笑ましく眺めていた。

 しかし、例外とは付き物で―――。

 

「……先程から何度も振り向いてどうなされた?」

「っ……!」

 

 背後から感じる視線に気が付いた紫音は、子猫に視線を落としたまま問いかけてみる。

 『気が付いていたのか』とでも言うように息を飲む音が聞こえてくるが、途端にモッチャモッチャと団子を噛み締める音が聞こえてきた。

 

「成程。普段からこの子猫と戯れていたが、私が戯れているばかりに邪魔者が退けるまで其処で時間を潰して……と言ったところか。遠慮せずとも良いのに」

「……ふんっ、貴様の所為でいらぬ団子を何本食したことか」

 

 足音が近づいてくる。声色から察するに、どうやら女性のようだ。

 振り返れば、おかっぱ頭の華奢な少女のような外見の女性が居た。厳格そうな口調と、女物の羽織の下からチラリと覗く死覇装―――否、刑軍装束から只者ではないことは理解できる。刑軍は、隠密機動の第一分隊。隠密機動の中でもエリートしか入れない部隊だ。

 不満そうに眉を顰めて団子を頬張っているが、中々可愛らしい顔立ちの女性だ。

 

 結構な時間、団子を食べて紫音の帰りを待っていたらしい為、紫音はやんわりとした笑みを浮かべて『済まぬ』と一言告げた。

 すると女性は、フンと鼻を鳴らした後に紫音の横へと座り込む。

 

「黒い猫の方を貸せ」

「黒猫が好きなのか?」

「どうでもよいだろう」

「まだささみが余っている。良ければ分けるが……」

 

 紫音の申し出に、女性はハッと顔を上げる。そうしている間にも、普段から可愛がられているらしい黒猫の方は、女性の膝の上でゴロゴロと寝転ぶ。

 愛らしい子猫におやつをあげたい。時間を潰すために必要以上に食べた団子の所為で、財布に残っている残金が少ない。

 ここは目の前に座っている物の厚意に甘えたいが、何かに悩んでいるのか『ぐぬぬ……』と歯を食い縛って悩んでいる。

 

「……いらぬなら、残りの分はこの白猫の方に―――」

「待て、黒猫が可哀相だろう! そのささみを寄越せ!」

 

 バッと手を差し出す女性に、『最初から素直になれば』と呟きながら、紫音は残ったささみの半分を手渡す。

 すると、先程とは打って変わった蕩けた表情の女性が、黒猫に対して餌を与え始める。足繁くこの店に通い、子猫たちと戯れているのだろう。かなり手慣れた様子だ。

 暫し、子猫のにゃあにゃあという鳴き声で鼓膜を癒していると、ささみを与え終わった女性が『ふぅ』と満足そうに息を吐く。

 

「猫が好きなのか?」

「あぁ。この奔放さが堪らぬ」

 

 子猫を両手で抱き上げる女性は、幾分か気分が良くなっているのか、赤の他人である紫音に嬉々とした表情で応答する。

 そうしている間に、ポフッと柔らかい肉球による猫パンチを額に受ける女性。

 その光景に思わず紫音は噴き出した。

 

「くくっ、その黒猫は夜一殿のように悪戯っ子のようだ」

「むっ? 夜一様を知っているのか?」

「知っているも何も、何度か話したことがある。当主という立場に縛られぬ奔放さは、一種の憧憬すら抱く」

「ふんっ、小娘にしては良く分かっているではないか」

「……私は男だ」

「……なに?」

 

 男と告げる紫音の方へ顔を向け、サッと全身を見渡す。

 

「それで男か。恥を知れ」

「これは厳しい言葉だな」

「軟弱な男は夜一様を語る資格などない」

 

 随分と厳しい言葉を口にする女性であるが、その両手が握っているのは子猫の前足だ。まるで万歳をしているかのように子猫の前足を掲げる女性は、恐らく軽口程度で今のことの口にしたのだろう。そうでなければ、生来の毒舌家かと疑いたくなる口のキツさだ。

 どうやら夜一を慕っているらしい刑軍の女性の言葉に、『ふむ……』と顎に手を当てて思慮を巡らす紫音。

 

「そうか。矢張り男は体を鍛えた方がいいのか」

「無論だ。私は口だけの無能な穀潰しが嫌いなのだ」

「成程。ならば、其方の言う無能な穀潰しにならぬよう、体を鍛えるとするか」

「ふんっ、口だけでなければよいのだがな」

「そうならぬよう、早々に家に帰ってとりかかることにしよう。ほれ」

 

 お腹が一杯になって膝の上でウトウトとしていた子猫を抱き上げて女性に手渡す紫音。手渡される子猫を嬉しそうに受け取る女性であったが、『白も捨て難いが、矢張り黒が……』とブツブツ呟き始める。

 既に紫音のことなど眼中に入らなくなった女性の姿を見て、踵を返して颯爽と茶屋から去って行く。

 

「……そう言えばあの小僧、朽木の倅に顔が似ていたな」

 

 子猫を二匹同時に撫でる女性―――砕蜂は、去って行った少年を、主君がよくちょっかいを掛けに行く家の跡取りの面影と重ねるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「父上。今日もまた、白哉の下に赴きました」

 

 夜の帳が下りて静寂が当たりを包み込んだ時刻、仏壇の前で正座する紫音は、一本の刀に語りかけていた。

 代々の柊家の当主の遺影が並ぶ仏壇―――ではなく、私室にひっそりと奉られている刀だ。抜身で飾られている刀の刀身は、日々の手入れが行き届いている証拠に、近くで点っている蝋燭の火の光を美しく反射している。

 

「父上は、私と白哉が手を取り合うことを良しとなされませんでしょうか? 銀嶺の血を引く孫の存在を良しとなされませんでしょうか?」

 

 返答はない。

 だが、それも当たり前かもしれないと紫音は息を吐く。

 

「ですが……私も銀嶺殿の孫。朽木の血を引く者です。血の因果は断てません。何より私は、父上を愛した母上の血を引いていることを、誇りに思っております」

 

 心臓の辺りに手を当て、妖しく艶やかな笑みを浮かべる。

 

「私は私なりの誇りを抱いて道を進みましょう」

 

 告げるのは、父親と決別する為の言葉であった。

 



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三話

「君臨者よ、血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ。真理と節制、罪知らぬ夢の壁に僅かに爪を立てよ」

 

 一言一言を集中しながら唱える紫音。その瞳が捉える先に在るのは、木で作られた一つの的だ。

 それを狙って掌に霊力を集中させていき、詠唱を完成させると、身体中の力が掌に集まるような感覚が身を襲う。

 

「―――破道の三十三『蒼火墜(そうかつい)』……っ!?」

「むっ、イケません! 紫音殿!」

 

 次の瞬間、右掌に収束していた霊圧が暴走し、紫音の体を青い爆炎が包み込んだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 シュルシュルと包帯を腕に巻く音が響く。『蒼火墜』の暴発に伴う火傷を負った紫音であったが、比較的軽微な怪我で済んだ。それも、今目の前に佇んでいる男性のお蔭だろう。

 

―――鬼道衆総帥・大鬼道長 握菱鉄裁

 

 以前、夜一に勧められた鬼道衆のトップである男だ。眼鏡とたっぷりとたくわえた髭がトレードマークの男性であり、礼儀を重んじる男性であるというのが紫音の第一印象。

 夜一に大恩があると口にする彼は、彼女の頼みを引き受け、赤の他人である紫音の為にわざわざ時間を見つけて指導に来てくれているのだ。感謝してもし切れないというのはこのことだろう。

 しかし、最強の鬼道使い手ともあろう大鬼道長の指導を受けても尚、三十番台の鬼道を暴発させる始末。

 

「申開きようもないとはこのことです」

「誰も最初から上手くいくとは限りらないもの。根気強く続けていきましょう」

「いえ、大鬼道長殿の指導を受けてこの有様……穴があれば入りたい心境です」

「省みる意気があれば良しです。私の指導の問題もありましょう」

「……そんなことは」

「しかし、怪我をしていてはこれ以上続けるのは厳しい筈。休憩に致しましょうぞ」

「……はい」

 

 どうにも後ろ向きな思考に陥って来てしまっている紫音の為、休憩に入る鉄裁。失敗はなににも付き物だが、後ろ向きな心境のまま鍛錬を積み重ねたところで、技術が向上するわけがない。

 指導し始めてから早三か月。良くも悪くも平凡は腕前な紫音は、今の所二十番台までの鬼道しか扱えない。

 余り高望みはするべきではないと考えていながらも、自分が指導するのだから、折角であればもう少し同じ年頃が扱う技術よりも上を目指していきたいところだ。

 

(後進を育てるのも我々の役目……夜一殿。貴女に託されたこの少年を、いずれは立派な鬼道の扱い手に育ててみせましょうぞ!)

 

 因みに、最初見た時に紫音を女と見間違えたのは、言うまでもないだろう。

 それは兎も角、縁側に腰を掛けて一息吐く二人。悩ましげな色を見せる少年に対し、どのような言葉を掛けるべきか思慮を巡らす鉄裁は、『う~む』と暫し唸る。

 息子を持ったことがない鉄裁は、紫音ほどの年頃の少年がどのような話題を好むかすら分からない。

 

 実に困ったものだ。気まずい時間だけが過ぎていく。

 

「―――大鬼道長殿。少しよろしいでしょうか?」

「どうなされましたかな?」

「大鬼道長殿は、鬼道の詠唱を唱える際のコツはなんなのでしょうか?」

「詠唱、ですか」

「はい。私は詠唱を間違えないようにと考えているばかりで、もしかすればそれが暴発の原因になっているのではないかと……」

 

 彼なりに鬼道に対して思慮は巡らせているようだ。

 成程。鬼道の達人ともいえる自分と紫音では、詠唱を詠む際に考えていることが全く違うのだろう。そもそも、鬼道には“詠唱破棄”と呼ばれる高等技術があり、鉄裁程の鬼道の使い手にもなれば、全ての鬼道を詠唱破棄で十分な威力を発揮することができる。

 しかし、詠唱とは鬼道を発動する際の霊力を安定させるという役目があり、具体的な術のイメージを浮かべる為にも必要なのだ。

 

 初心に立ち返り、鬼道の詠唱を唱える際のコツを今一度考えてみる鉄裁。

 

「そうですなぁ……詠唱を唱えるというよりも、詩や唄を歌うような心がけでいれば、鬼道のイメージを作りやすいと思われますぞ」

「詩や唄……ですか」

「ええ。鬼道の詠唱は、言葉に内在する霊力―――所謂“言霊”によって、内から放出する霊力を安定させるのです。ただ『安定させる』という意気ごみで唱えるよりも、心より歌い上げる方が、自ずと心の内で具体的なイメージが湧いてくるでしょう」

「『唱える』ではなく『歌う』……成程。そちらの方が楽しそうです」

「何事も楽しむことが肝心ですぞ」

 

 漸く表情を綻ばせてくれた紫音に、鉄裁の表情も和らいだものとなる。

 コツを聞いた所で早速実践したくなったのか、包帯を巻いた拳を握ったり開いたりと忙しなく動き出す紫音。

 

「むむっ、紫音殿。流石にその傷で鍛錬の続きは厳しいでしょう。暴発したということは、貴方が思っているよりも多大な霊力を消費したということ。逸る気持ちは解りますが、今日の所はこの程度で……」

「そうですか。偶にはこうして日和見しながら談話するのも粋ですね」

 

 鉄裁の言葉に、少々残念そうに眉尻を落とす紫音であったが、すぐに切り替えて休息の体勢に入る。

 

「大鬼道長殿は昔より鬼道の才はお有りで?」

「私ですか? ううむ、どうでしょう……鬼道の奥深さに気付き、我武者羅に道を極めようと鍛錬を積んでいた故、始めがどうだったかまでは……」

「それでは、大鬼道長殿のご友人に、所謂天才と呼ばれる方々はいらっしゃられますか?」

 

 一つ目とは違い、中々具体的な質問を投げかけてくる紫音。

 何か知りたいことでもあるのかと考える鉄裁は、詮索するような真似はせずに、問いに答えを返す。

 

「そうですな、夜一殿は瞬歩の天才と言うべきでしょう。他にも、浦原喜助殿と言う方が居られるのですが、彼も天才と言うべき存在」

「成程。では、その方々とはどのようなご付き合いをしておられましたでしょうか? 不躾だとは理解していますが、是非ともご教示して頂きたいのです」

 

 彼の聞きたいことは、要するに『天才との付き合い方』と言ったところか。

 周りにそういった類の人物が居るのだろうか。成程、自分の周りに他より優れた能力の持ち主が居れば、自身の力の無さに劣等感を覚えたり、その友人に嫉妬を感じ、果てには憎悪に変貌して友人関係が悪化することも無きにしも非ず。

 これは結構な難しい問題だ、と暫し思慮を巡らす鉄裁。

 

「……夜一殿は私にとって大恩人。あの方が天才であろうとなかろうと、私はその恩に報いるような立ち振る舞いをしていた故、紫音殿が求めるような付き合い方は教授できないでしょう」

「では、もう一人の方は?」

「ふぅむ、浦原殿は愉快な方でおられましてな。茶目っ気がたっぷりな方でしたが、何分奇怪な発明品を生み出す人物でして、私からしてみれば傍から見るだけで感嘆するばかり。ですが、特別これといった付き合いはしていませんでしたな」

「……そう、ですか」

「ですが、私が見ている限り、夜一殿も浦原殿も気さくな方でして、堅苦しい友人付き合いを嫌っておりました」

 

 求めていた解が出そうな雰囲気に、紫音の瞳には期待の色が嬉々として浮かび上がってくる。

 それを確認した鉄裁は、フッと柔和な笑みを浮かべて話を続けた。

 

「なにも特別なことは必要ない……ただ、一人の友人として普通に接しあう心意気。それが大切だと、私は考えますぞ」

「……成程。有難う御座います。大変参考になりました」

 

 大分穏やかな様子になった紫音に、鉄裁はホッと一息吐く。

 しかし、これだけではまだ懸念は拭えない。

 

「―――紫音殿。貴方がご友人と“付き合う”だけであればそれで充分ですが、“渡り合う”のを願うのであれば、少し話は違ってきますぞ」

「渡り合う?」

「天才とは、天性の才能のこと。生まれ持った才が他者よりも優れている者を指します。そのような者と、ありふれた才だけの……凡百の者が渡り合う為には、道は一つです」

「それは一体?」

「道を極める事。達人となることですぞ」

「達……人」

 

 物事の道を極めた者、又は奥義に達した者を、人は“達人”と呼ぶ。

 何十年という練磨を得て達することができる人の域であるが、生まれ持った才が優れていなくても―――天才でなくとも、並々ならぬ努力があればいずれ達することができる域だ。

 現世を生きる人間とは違い、数百年、数千年と生きていける死神であれば、達人となることは比較的安易になるだろう。無論、汗水のみならず血を流す程の努力の果てのあるものだが―――。

 

「……良い言葉の響きですね」

「ふふっ。言ノ葉の響きを良く感じることができるのも、今日の紫音殿の成長の一歩でしょうぞ」

 

 ギュッと襟元を握りしめる紫音。

 

 “天才”と謳われている白哉との友人付き合いは、銀嶺の頼みといえど少し心が重苦しかった。向こうが自分を一人の友人として親しく接してくれているからこそ、感じていた羨望が移り変わった嫉妬の吐き所を見つけることができず、胸の内に何時の間にやら途轍もない量の鬱憤を抱えることになっていたのだ。

 しかし、鉄裁の言葉で少々楽になった。

 彼との友人付き合いに、特別なことは必要ないこと。

 そして、彼と対等に渡り合いたいのであれば、“達人”となること。

 

 それを知ることができただけで、今日の安眠は保障されたと言えよう。

 

 

 

 ***

 

 

 

「七十八ッ……七十九ッ……!」

「ほれ。腕をもっと下ろせ。だんだん肘が曲がらなくなってきているぞ、白哉」

「ならば降りろ、紫音……ッ!」

 

 その結果が今に至る。

 上衣を脱いで、引き締まった肉体美を誇る上半身が露わとなっている白哉は、背中に正座している紫音を乗せて腕立て伏せをしていた。

 滑り落ちぬよう、丁寧に座布団まで敷いて、尚且つ湯呑を持って茶を啜る紫音。

 未だかつて、これほどまでに朽木白哉を尻に敷いた(物理)者が居ただろうか?

 

「何を言っているのだ。筋肉を付ける為の鍛錬に付き合えといったのは其方ではないか」

「背中に乗れとは言っていないッ!」

「あまり叫ぶと茶が零れるぞ。熱々の茶を背中に掛けられたくはなかろう。もうすぐ百だ。辛抱せよ」

「後で覚えていろッ……くッ!」

(水出しだから、熱くはないのだがな)

 

 呑気に茶を啜る紫音。そう言えば、真面に友人を作ったことがない自分が、『普通の友人付き合い』とやらを知っている筈もなく、茶目っ気を出そうとしてみた結果が、腕立て伏せ中の白哉の背中に乗るという頓狂な行動だ。

 何気に背中に乗った紫音を振り下ろさず、そのまま腕立て伏せを始めた白哉のノリの良さにも感心した。だが、推定五十キロの重りが背中に乗った状態で続けたことはないのだろう。回数が五十を超えた所で、体全体がプルプルと震え始めていた。

 

「私も鍛錬で少々筋肉が付いたからな。初めて会った時よりは体重が重くなっている筈だ。重りにはちょうどいいだろう」

「八十五ッ……八十六ッ……」

「白哉。今は何月だ?」

「一月であろうッ……!」

「白哉。因みに今腕立ては何回だ?」

「……ッ……謀ったな、貴様ッ!!」

「くっくっく。夜一殿が其方にちょっかいを掛ける理由が分かるな。因みにさっきので八十六回だ」

「おのれッ……済まぬ、助かるぞ!」

 

 漫才のようなやり取りを交わす二人。

 経過は良好といったところなのだろうか。頭に血が上り易く負けず嫌いな白哉と、少し大人びて他人にちょっかいを掛けるのが好きな紫音。夜一曰く、『良くできた二人組』らしい。

 嬉しいような、嬉しくないような微妙な評価だ。

 

「白哉、どうだ? 中々堪えたろう」

「はぁッ……はぁッ……二度とやらぬぞ」

「其方はいずれ隊長になり得る器。この程度で根を上げてどうする」

「他人事だと思って……!」

 

 何故だろう。

 友人が最近笑みを浮かべながらズケズケとモノを言う様になっている気がする。

 

 滴る汗を拭う白哉は、紫音に手渡された湯呑に入っている茶を一気に飲み干す。余程喉が渇いていたのだろう。グビッと一飲みだ。

 次に水に浸してから絞った布で、汗に濡れた体を今一度拭う。火照っていた体も、冬の寒気と気化熱で一気に冷えていく。それから脱いでいた上衣を手渡され、これ以上体が冷えぬようにと早々に着こむ。

 中々手慣れた様子。マネージャーか何かかと疑いたくなるほどだ。

 

 白哉の鍛錬も終わって一息吐いた後、縁側に腰掛ける二人。

 最早朽木邸では定位置になってきている場所に座り込んだ二人は、冬空を仰ぎながら談話に入ることになった。

 春に会い、夏、秋と時を共にし、訪れた冬。移り変わる季節の中で、この庭の移りゆく様も眺めていた。

 

 春の華々しい栄華とは打って変わり、木の葉が落ちて寂しい雰囲気を醸し出す庭園ではあるが、それもまた一興。

 

 『栄枯盛衰』

 

 栄えるものには、いずれ衰えがやってくる。花も、家も、人も。

 ちょうど『衰』の時期に当たる今、縁側で語り合う二人はどこか寂しい気分になりながら、いつものように他愛のない会話の風呂敷を広げる。

 将来、どの隊に入るかなどは何度も話した。

 『こういう死神になりたい』や『こういう男になりたい』という成長期の少年らしい会話を。

 大人になれば盃を酌み交わし合いたいなどという願望も口にしながら、少し雲行きが怪しくなってきた空を仰ぎ続ける。

 

「……むっ? 雪か」

 

 思わず声を上げた紫音。

 雲行きが怪しくなった途端、空からはまばらに白い物体が地へ向けて降り注いでくる。ぽつぽつと庭に降り積もってくる雪を見て、ふと思ったこと。

 

「……綺麗だ」

「ああ、そうだな」

 

 紫音の呟きに同意する白哉。

 それから少しの沈黙。振り続ける雪に風流な気分を覚えていたが、紫音が沈黙を破った。

 

「なあ、白哉。私は煙管(キセル)を始めようと思うのだが」

「何故そうなる」

「大人ぶりたい年頃なのだ。白哉はどう思う?」

「……勝手に吸えばよいだろう」

「そうか。じゃあ、そうさせてもらおう」

 

 喫煙を始めたいと口にする友に、少々呆れた様子で返事をする。

 『子供には早い』と言おうかとも思ったが、自分も同じ年頃。制止する為の説得力も持ち合わせていない為、友の意思を尊重してみた。

 突拍子もない、何気ない問い。

 だがこれは紫音にとっては、それなりの一歩だった。

 

 まだ距離感を覚える友人に決断を委ねてみるという、一風変わった歩み寄り。

 

 それでも、少しだけでも歩み寄ろうとする意気。

 彼等はまだ“親友”ではないが、確かな“友人”にはなれ始めたのだろう。

 



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四話

 

「へへっ!」

「おらぁ!」

「貴様ら……さっさと掃除をせぬかっ!」

「「ひぃ!?」」

 

 竹箒を振るって遊ぶ男子たちを一喝するのは、真央霊術院生の制服である着物を身に纏う白哉だ。襷で袖をたくし上げて鍛え上げられた腕を魅せる白哉に、遊んでいた生徒達も畏怖した表情で掃除に戻る。

 

「くっくっく、教員殿よりも怖れられているのではないか?」

「ふんっ、私の知る事か」

「それだから私以外に真面に友人ができぬのではないか?」

「……言うな」

「自覚しているなら、もう少し物腰を柔らかくした方がいい」

 

 スッと後ろから歩み出てきた紫音は、鼻息を荒くして男子生徒を睨みつける白哉を宥めた。これまた竹箒を持ち、霊術院生の制服を身に纏っている。

 

 二人は現在、真央霊術院の一回生だ。春に試験を受け、難なく入学に成功した後は、特進学級である一年第一組の生徒として、日々勉学に励んでいる。

 四大貴族の倅が入学したとあって、一時霊術院は話題が絶えなかったが、三か月も経つと自然に落ち着いてくるものだ。しかし、その堅苦しい真面目な性格が災いして、少々友人作りは難航している。

 一方、紫音は幾分か白哉よりも物腰柔らかである為、白哉よりも友人の数は多い。

 

 女子ばかりだが。

 

 四大貴族に取り繕うとする女子生徒に対して応対する真似をしていたら、知らぬ内に友人が女ばかりになっていた紫音。その為、男子生徒には目の仇にされている。

 

「……学校というものは、勉学に励む場所だ。友人がさほど多く無くてもよかろう」

「いいや。学校というのは学を学ぶ場所でもあり、友を作る場所でもある。其方は一年で卒業できそうな勢いなのだ。もう少し歩みを置き止めて友人作りに励んだらどうだ?」

「そういう兄も女子としか仲良くないではないか」

「可憐な女子に目が向くのは、男として当然だろう」

「……女たらしめ」

「女が好きで何が悪い」

「大真面目な顔をして言うなッ!」

 

 真摯な表情で女好きを公言する紫音に思わずツッコんでしまう白哉。

 はぁ、と溜め息を吐いて掃除に戻る白哉であったが、『そう言えば』と振り返って紫音の顔を見つめる。

 

「兄は、座学の試験で一番の成績だったそうだな」

 

 霊術院に入ってからは、相手のことを基本的に『兄』と呼ぶようになった白哉は、定期的に行われる試験についての話題を振った。

真央霊術院では、死神の基本戦術である“斬拳走鬼”の他に、死神として覚えなければならない知識に関して学ぶ座学や、戦闘負傷時の応急処置の為の回道についても学ぶ。その中でも紫音は、座学が飛び抜けて優秀であった。

 

「しかし、最初の試験では私と変わらぬ程であったのに……一体どうしたのだ?」

「あぁ、それか。大鬼道長の勧めで真央図書館に通い詰めてな。色々書物を読み漁っているのだ」

「成程、それでか……」

「其方に勝る科目は座学と鬼道ぐらいしかない。だが、鬼道は辛うじて勝っている程度だ……ならば、『座学だけでも』と思うのが普通であろう?」

「ううむ……私も座学の方に力を―――」

「止めろ。私の数少ない其方に勝るアイデンティティを奪うな」

「……負けず嫌いめ」

「其方もだろうに」

 

 ピリピリと緊迫した空気を醸し出す二人。

 斬拳走鬼については、鬼道とそれに分類される回道のみ、紫音が白哉よりも勝っている。それ以外は白哉が学年を通して一番をキープしている為、生来体がそれほど強くない紫音などの追随を許さなかったのだ。しかし、一年に渡る白哉との鍛錬に伴い、中の上程度に成績が収まっていることは、二人の友人付き合いの賜物と言うべきだろう。

 だが、白哉の鍛錬に付き合わされた結果、毎晩筋肉痛に苛まれて悪夢にうなされたのは、友人付き合いの弊害であった。

 

 ジッと睨みあう二人であったが、話題を戻すように紫音が妖艶な笑みを浮かべて口を開く。

 

「そう言えば白哉。其方は成績が素晴らしくて、一年以内に卒業が見込まれているようではないか。数年前に志波海燕殿が二年で卒業し、また数年で其方のような逸材が現れる……霊術院にしても護廷隊にしても、嬉しいことだろうに」

「……まだ決まった訳ではない」

「まあそう言ってくれるな。私はしっかり六年かけて卒業するつもりだが、今年卒業するであろう其方に一つ情報を伝えておこう」

「……情報だと?」

 

 指を立てて、白哉の耳元で囁くように話を続ける紫音。随分と甘い声で話すが、白哉は慣れている為、さほど嫌そうな顔をせずに聞き手に回る。

 

「真央図書館では、年間の貸出冊数が一定数を超えていると、名誉会員の称号が送られるらしいのだ」

「ほう。何冊程度だ?」

「千だ」

「せッ……!?」

「千だ」

「二度言わんでもいいッ!」

 

 三百六十五日で千冊を借りなければ手に入らない称号。労力と名誉が釣り合っているのだろうかという疑問が浮かぶが、それよりもまず、その途轍もない数の本をいまさら借りるのが億劫になってくる。

 一月に大体八十を超える本を借りなければならないのだ。『貸出』というのだから、特段全頁を読まなくともよいのだろうが、『それでも』だ。

 

 白哉が呆気にとられて『千……千か』と呟いている隣で微笑を浮かべる紫音は、『私も将来的には名誉会員になりたいと思っている』と豪語する。

 

「一日三冊で、一年で千は自然と超える。それほど難しいものではないと思うぞ」

「……私は遠慮しておこう」

「そうか。私も最初は無理だとばかり思っていたが、興味のある本であれば自然と借りて呼んでしまうものだ」

「兄が呼んでいる本とはなんだ?」

「最近は専ら鬼道や回道の本だが、時折小説なども呼んでいる」

「小説?」

「恋愛小説だ」

「女子か、貴様は」

「別に私の趣味なのだからいいだろう」

 

 容姿、私服ときて、嗜好まで女に染まりつつある紫音に、複雑な心境になる白哉。

 だから女子の友人が多いのだろうと考えたところで掃除に戻る白哉であったが、二人が話している内にまたもや竹箒を振るって遊んでいる生徒の姿に、拳を握りプルプルと体が震え始める。

 

「おのれ等ッ……!」

「まあ落ち着け。長いモノを持ったら振り回したくなるのが男児の性だろう」

「なんだ、その理論は」

「かくいう私も、竹箒などの長物を持ったら振り回したくて堪らなくなるのだ」

「止めろ、品が無い」

「授業に棒術でもあればよいのだがなぁ」

 

 しんみりとした様子で言い放つ紫音。

 もし、いずれ彼は斬魄刀を持って解放する時は、槍のような長物の形状になるかもしれない。

 斬魄刀は所有者の精神を映し出す鏡でもある。所有者が普通の刀よりも槍を好むのでれば、斬魄刀もそれにしたがって槍に変形するかもしれない。

 

 簡単な推測であるが、白哉は友人の斬魄刀のことを考えつつ、自分がいずれ手にする刀がどのような姿になるのかと思いを馳せるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 清掃の時間も終わり、放課後。

 普段は六番区の東側に立ち並ぶ邸宅に共に帰る白哉と紫音であるのだが、今日は係の仕事も相まって、白哉は先に帰っていた。

 一人、下駄箱に入っている草履を手に取り、早々と真央図書館に向かおうとする紫音。

 そんな彼の横を、院生の着物を纏う男子二人が通りがかった。

 

 

 

 

 

「―――朽木の腰巾着が」

 

 

 

 

 

 聞こえるか聞こえない程度の小さな呟き。どちらが呟いたのかさえ判らないが、紫音は一瞬動きをピタリと止めた後、少ししてから動き始めた。

 あの程度の罵詈雑言、流すことができなければ白哉が卒業するまでやっていけないことだろう。

 

 実力が限りなく同格というわけでもなく、白哉に好敵手とされる弊害は、心無い陰口という形で紫音の心を蝕んでいく。

 

(霊術院というのも、案外居心地が悪いものだな)

 

 憂鬱を溜め息で外に吐き出そうとする紫音であったが、心中の靄が晴れることはない。

 陰口を叩かれたことは一度や二度ではない。辟易する程度には耳にした。

 

 四大貴族を共にする弊害がこれということなら、あの時の銀嶺の申し出を断っていたかもしれない。だが、今更彼との関係を清算しようもなく、白哉にはこのことを隠しながら友人として付き合っている。

 彼にこのことを告げれば、友人を罵られたことに業を煮やし、罵詈雑言を口にした院生を片っ端から矯正しに向かうかもしれない。分家の当主如きの自分に、宗家の倅を動かす訳にはいかない―――というよりも、彼を制止する労力を考えれば、必然的に心の内に鬱を秘めるというのが紫音の選択となった。

 

(図書館で本を読んでいる方が心落ち着く……)

 

 真央図書館に辿り着いた紫音は、適当な本を一冊手に取って、パラパラとページを読み進めていく。

 

 字が綺麗だ。

 言葉が華やかだ。

 文章が嫋やかだ。

 

 鉄裁の指導の賜物か、本を読んでいる時は自然とその世界にのめり込めていく。淡々と文章が頭の中に入っていき、文字が立ち上がり、世界が広がっていく感覚。

 目を閉じれば、脳裏に出来上がった世界に自分が一人ポツンと佇んでいるような感覚さえ覚える。

 

 視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚―――知覚が本の中に放り込まれたような感覚が堪らなく好きになってしまっている。

 誰にも邪魔されない自分一人の空間。

 

 燦々と太陽が輝けば、眩しいと目を細める。

 小鳥が囀れば、心地よいと耳を傾ける。

 花の香りが風に運ばれれば、爽やかな甘い香りにウットリとする。

 更に風に吹かれて散った花弁が、吸い込まれるように手の中に舞い込み、柔らかな寒色を確りと感じる。

 そして、何時の間にか切り株の上に用意されていた湯呑を手に取って、中に入っていた玉露を口に運ぶ。

 

(あぁ……ずっとこのままで―――)

 

 

 

 

 

『―――紫音』

 

 

 

 

「はっ……」

 

 何かに呼ばれたような気がした。

 ハッと我に返って瞼を開けて周りを見渡しても、誰も紫音のことを呼んでいるような様子の者はいない。

 誰が呼んでいたのか思慮を巡らせようとする紫音であったが、声の主よりも気になる者を見つけた。

 

 腕を小刻みに振るわせながら、必死に書架の上の方にある書物を手に取ろうと奮闘する少女。明らかに紫音よりも歳が低そうに見える少女であったが、見に纏っている着物はどこからどう見ても死覇装だ。

 これぐらいの歳で死神など余程才のある人物なのか、と感嘆の息を漏らす紫音であったが、このまま彼女を放っておくわけにはいくまいと、少女が手に取ろうとしている書物をヒョイっと手に取る。

 

「これか?」

「は、え……? あッ、ありがとうございます」

「いや、礼には及ばぬ」

 

 少女が振り向けば、その可憐な容姿が目に入ってくる。

 眼鏡を掛けている少女は、紫音が手渡した本を大事そうに腕の中に抱え、腰を四十五度曲げてお辞儀をした。手に抱えている本には『鬼道ノ極意・破』という安直な題名が刻まれている。

 

「あのう……」

「む?」

「差し出がましいのを承知でお願いしたいのですが、出来ればその本も……」

 

 そう言って少女が指差す先には、『剣乃道』という本がある。ヒョイと手に取って、ぱらっと中身を一瞥すれば、剣術について基礎的なことが書かれているのが分かった。

 死神であれば、霊術院時代に剣術を叩きこまれた筈だが―――などと思いながら、柔和な笑みを浮かべて書物を手渡す。

 

「かたじけないです」

「私は本を取っただけ。それほど礼を言われる立場でもない」

「いえ、八番図書館の整理を任されている身でありながら、あのような無様な様子を見せて恥ずかしい限りです」

「八番図書館を……?」

「はい。八番隊の伊勢七緒と申します。一応、この真央図書館の名誉会員でもあります」

「……名誉会員」

 

 あの年間千冊を借りなければ与えられない称号を手にしている少女。

 

「本の虫、か」

「まあ否定はしません。趣味は読書ですから」

「尊敬する、伊勢殿。余程本を愛してなければ、年に千もの数を読むことはできぬもの」

「貴方も本はお好きでしょうか? えっと……」

「ああ、申し遅れた。柊紫音。真央霊術院一回生だ。本はそれなりに好きなつもりだ」

「成程。柊さん、立ち話もなんでしょうに。お互い、本を持って席に座りましょう」

「かたじけない」

「ささっ、此方に」

 

 見た目に反して丁寧な物言いの少女―――伊勢七緒。

 先程紫音に取ってもらった本の内、特に『剣乃道』を熱心に目を通しながら、向かい側の席に座って鬼道の本を読む紫音と話をする。

 勿論、図書館であるが故に、それなりに小声で、だ。

 

「柊さんは鬼道がお好きなのですか?」

「好き……と言うよりかは、斬拳走鬼の内で最も得意と言ったところか。他が並みである故、必然的に他よりも得意なものに興味が移ってしまう。そう言う伊勢殿は、斬術が?」

「いえ、私はその……斬術が壊滅的なので、少しでもマシになればと……」

「ですが死神ということは、伊勢殿は霊術院を卒業なされたのだろう? ならば、それなりに扱えるのでは……」

「いえ、私は本当に斬術が駄目で、卒業後は鬼道衆配属を希望していたのですが、八番隊に……」

 

 どうやら、現八番隊副隊長が無類の“読書好き”であり、定期的に隊費で本を買い漁っては、適当に本を箱にしまいこんで図書館に放り込む。その所為で八番図書館の秩序が崩壊していた為、名誉会員の称号を手にした七緒が蔵書整理にピッタリであると、八番隊に配属されたようだ。

 しかし、護廷隊ではどうにも斬術に贔屓がある。席官になるには、斬魄刀の始解を習得しているのが必須であるといっても過言ではない。

 

「だというのに、蔵書整理だけの為に私を護廷隊になどと……」

「逆に鬼道は得意で?」

「ええ。自分で言うのもなんですが、鬼道だけは他よりも飛び抜けて成績が良かったので、斬術が駄目な私でも卒業試験や入隊試験を受けることができました」

「ますます鬼道衆でないことが惜しまれる人材、と言うべきだろうか」

「……私程度の腕前の人は、探せば幾らでも居ると思われますがね」

 

 スチャリと眼鏡を指で押し上げる七緒。どこか秘書風の雰囲気を醸し出す少女に、紫音は勝手に書類仕事が得意そうだと想像してみる。

 だが、それよりも気になる事が一つ。

 

「七緒殿は八番隊に居て楽しいのか?」

「え? あ……それは……」

 

 真正面からの問いに、思わず俯き気味になって口ももにょもにょと動かす七緒。

 

「……楽しいです。勿論、悩んだり辛い時はありますけど、相談に乗ってくれる方々がいらっしゃるので。いつかは隊の方々の為に役立てるよう努力を重ねることには、とてもやりがいを感じています!」

 

 真摯な眼差しで応える七緒に、思わず紫音は瞠目する。

 彼女から伝わる意気や意思は純粋であり、自分がなんとなしに斬術や白打を学んでいるのとは比べ物にならないと思った。

 

 ああ、これも才がないことに対してのコンプレックスがあるからこそ、か。

 

 自分も彼女ほど斬術に才がなければ、もっと本気になって学ぼうと思えたのだろうか。

 若しくは、せめて鬼道だけでもと、もっと鬼道の鍛錬に身を入れていただろうか。

 “惰性”で鬼道を学んでいるのか―――。

 

 

 

 

 

『違うだろう?』

 

 

 

 

 

「ッ……!」

「……どうなされました?」

「……いや、後ろから声を掛けられた気がしてな」

「誰もいらっしゃいませんよ?」

 

 後ろを振り返っている紫音に釣られ、身をピョコッと乗り出して確認してみる七緒。だが、紫音の背後には人一人居ない。

 

「……疲れていらっしゃるのでは? 今日はお早めに就寝なさることをお勧めしますが」

「ああ、そうさせていただく」

「慣れない学院生活では、知らぬ内に疲労が溜まってしまうものです。お体にお気をつけて下さい」

「済まない。では、失礼……」

 

 そう言って席を後にする紫音は、パパッと手にした本の貸出手続を済ませた後に、帰路についた。

 今日、何度か頭に響いた声の主がなんなのかを考えつつ。

 

 

 

 因みに、これを機に七緒と読書友達になったのは、また別のお話。

 



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五話

「コンニチハ。鬼道衆副鬼道長・有昭田鉢玄と言いマス。握菱大鬼道長が急用で来られなくなったので代わりにと頼まれて来マシタ」

 

 何者だ、この人物は。

 それが第一印象であった。

 

 月に数度ある鉄裁との鬼道レッスンであったが、今日やって来たのは恰幅のよい大男。若干訛った喋り方をする男性は、鉄裁に続く鬼道衆のトップである有昭田鉢玄という人物だ。

 攻撃用の“破道”と防御・補助用の“縛道”の内、後者を得意とする彼は、紫音に対して物腰柔らかな態度で熱心に指導をしてくれた。

 

 真央霊術院において、未だにギリギリといったところで鬼道は白哉に勝っている紫音。このままでは彼が卒業するまでには抜かれてしまうのではと、焦燥を覚えていた時期だ。紫音はどちらかといえば破道の方が得意。縛道のエキスパートである鉢玄に指導を貰えることには、内心僥倖であったと喜んで指導を受けていた。

 霊術院で学べるのは中級鬼道―――番号で言えば、七十番台までだ。それ以上は上級鬼道とされ、それらを学ぶ為には各隊に設置されている図書館に仕舞われているであろう書物を以て各自で学ばなければならない。というのも、上級鬼道は扱いが非常に難しく、発動者自身にも危害が高い為、席官以上でなければ読んではいけないとされているのである。

 時折、鉄裁にこっそりと上級鬼道を習っている紫音は、破道だけに関しては完全詠唱であれば、『安全に』繰り出すことはできるようになった。だが、縛道は中級鬼道も怪しい腕前。

 

「縛道の六十二・『百歩欄干(ひゃっぽらんかん)』!」

 

 掌から出現させた光の柱を的に向かって放り投げる紫音。普通であれば、ここから無数に分裂し、相手を縫い付ける様に突き刺さっていくのだが―――。

 

 ガスッ

 

 分裂せず丸々一本、的を貫いた。

 

「……申開きようも無いとはこのこと」

「そんなことはありまセン。地道に頑張っていきまショウ」

 

 がっくりと肩を落とす紫音を励ます鉢玄。

 その後、鉢玄の熱心な指導もあってか、最終的に五本程度に分裂するようにはなった。少なくとも二十本には分裂させたいところであったが、思った以上に霊圧を消費してしまった為、二人は一度休憩に入る。

 二人しか居ない鬼道演習場に座り込み、用意した茶と茶菓子を食べながら、暫しの休憩に楽しむ。

 

「ふぅ……落ち着きマス」

「ええ。矢張りお茶はいいですね」

 

 茶を啜りながら呑気に日和見をする。

 

「そう言えば紫音サン。どの隊に入るのかは決めたのでショウか?」

「お気が早いようで」

「アハハ……鉄裁サンに、訊いておいてくれと頼まれたものデシて」

「……私は鬼道衆に入ろうと思っております」

「オオッ、それは嬉しいデスね!」

「大鬼道長殿は、恩に報いる為に日々精進なさっていると仰られておりました故、私も大鬼道長殿の恩に報いるため」

 

 フッと柔らかい笑みを浮かべて、鬼道衆に入る決意を公言する紫音に、鉢玄も嬉しそうに目を細める。

 

「鬼道衆も楽ではありまセンが、やりがいのある職場デスよ」

「それは楽しみです。それと……副鬼道長殿、お一つ窺ってもよろしいでしょうか?」

「ハイ? 私に答えられることなら……」

「副鬼道長殿は斬魄刀をお持ちで?」

「それはモチロン。デスが、使うことはほとんどありませんね。鬼道衆の我々が現世に赴いて魂葬をすることも無ければ、戦闘では専ら鬼道を使いマス。なので使い機会は皆無といったところデショウか……どうしてそのようなことを?」

「いえ。ちょっとした知り合いに、斬術が苦手な者が居りまして。彼女は鬼道衆へ配属希望を出していたようなのですが、実際は護廷隊に入ったのです」

「ホウ」

 

 少し前に知り合った少女の話題を振る。

 どの組織・隊に入るかなど曖昧に考えていた紫音であったが、彼女の話を聞いた時に、はっきりと鬼道衆に入りたいと決意した節があったのだ。

 

「彼女は斬魄刀を持っていないにも拘わらず護廷隊に。対して私は斬魄刀を持ちながら鬼道衆に入りたいと思っております。いずれは始解も習得したいとも考えております。そう思うことは変でしょうか?」

「……ナルホド。“適材適所”についてデスか」

 

 人には得意不得意がある。そして適当な職もある。

 効率を求めるのであれば、鉢玄の言う適材適所のように、人の能力や特性を評価してふさわしい地位・仕事をつけるのがよいのだろう。

 だが、現実はそうではない。人には『こうしたい』、『こうなりたい』という意志がある。それを蔑ろにしてしまえば、組織に対しての不満が高まり、効率とは程遠い状況に陥るやもしれない。

 人間の難しいところだ。

 

 鬼道衆の者は、斬魄刀を持っていても解放できないのが大多数だ。更に言えば、斬魄刀を所持すらしていない者も居る。

 そのような者達が大勢いる中で、斬魄刀の解放を試みようとするのは如何に。

 それが紫音の問いだ。

 

 『ウ~ム』と唸る鉢玄は、肉がたっぷりの顎に手を当てて思慮を巡らす。自分も斬魄刀の解放は会得していない。

 しかし、その分鬼道が得意だったらから鬼道衆に入った。それだけと言えばそれだけかもしれない。だが―――。

 

「紫音サン。確かに貴方のコトを『変だ』というものが居ないとは限りまセン。デスが、一番大切なのは『どうあるべきか』ではなく『どうありたいか』デス」

「どうありたいか……」

「貴方が鬼道衆に入って尚、始解を会得したいというのであれば、私もそれを微力ながら応援させていただきマス」

「……有難う御座います」

 

 自身の想いを肯定されたことに、フッと胸の中が軽くなるような感覚を覚えつつ、両手の拳を床に突けて礼の姿勢をとる。

 それを見て慌てて鉢玄が『そんな大したことは言ってまセンよ』と、面を上げる様促す。

 鬼道衆の人達は、鉄裁を始め物腰柔らかな者達が多い。いつか自分もこのような方々になれたら、と紫音は心の奥底でひっそりと決意する。

 すると突然、鉢玄が神妙な面持ちで呟いた。

 

「斬魄刀……デスか。フム……」

「……どうかなされたのでしょうか?」

「鬼道衆にもそろそろ変革が必要なのデハ、と思いマシて」

「変革、ですか」

「ハイ。数年前に技術開発局という組織が発足したのはご存知デショウか?」

「確か、大鬼道長殿のご友人である浦原喜助十二番隊長が創設なされた、とは聞いておりますが……」

 

 技術開発局―――数年前、零番隊に昇進した曳舟桐生元十二番隊長の後任として就いた浦原が、勝手に創設したのが技術開発局だ。その名の通り、尸魂界に役立つ技術を開発していく組織であり、義魂丸や義骸、伝令神機など、その活躍は多岐に渡っている。

 

「その技術開発局では、鬼道衆無しで空間凍結を施す技術を開発中とのこと。数十年後には、既に実用化されると言われているのデス」

「空間凍結を?」

「ハイ。死神の殉死率が最も高い組織は、一に隠密機動。二に護廷隊。そして三つ目に鬼道衆となっているのは知っているデショウ。そして鬼道衆の殉死率の内訳を見た時に、最も被害が大きいのは現世で空間凍結を行う際なのデス」

「成程……空間凍結を施さなければならないほどの強敵の攻撃に巻き込まれて、ということですね?」

「ハイ。もし、空間凍結の技術が確立すれば我々鬼道衆の負担が減るというものデスが、その分個人に求められる技量が増えてくると思うのデス」

 

 技術の革新。それは人にとって喜ばしいことではあるが、労働者もそうであるとは限らないということだ。必要ない人件費は削減されるのが世の常。

 

「幸いなのは、死神は何時の時代も人手不足ということデショウかね」

「由々しき事態だと思われますね」

 

 ズズッと茶を啜り語る二人。

 年齢と体格の差を感じさせない会話の内容だ。雰囲気がしんみりとしてきたところで、茶で潤った唇で動かして紫音が語る。

 

「ですが、そんな時代になってきたからこそ、副鬼道長殿の先の言葉が胸に染み入るのでしょうね」

「……いえ、何時の時代もそうなのデショウ。ただ、それを自覚できるかできまいかの違いだけで」

 

 

 

 ***

 

 

 

 真央霊術院の授業において、一大イベントと呼ばれるものがある。それは現世に直接赴き、魂葬の実習を行うというものだ。生者が生きる現世に赴く、というのも勿論重大なことなのだが、それよりも院生たちの心を躍らせるのは、死神であることの象徴ともいえる斬魄刀―――『浅打』を貸出されることである。

無銘の斬魄刀である浅打は、柄尻を用いて整の魂魄を魂葬することなどを除けば、普通の日本刀のような外見をしている。しかし、そのような浅打には一つだけ重要な能力を有しているのだ。

 

それは、所有者の精神を刀に映し取り、所有者だけの斬魄刀へと進化していくというものである。ある人物曰く、『何にでもなれる最強の斬魄刀』。それが浅打だ。

 そのような斬魄刀を手にして浮足立つ院生たち。それは白哉や紫音も例外ではなく、表情には出さぬものの、心の中では自分の斬魄刀が如何なる姿になるのかと心躍らせる。

 

 正式に授与されるのは卒業後。大抵の院生は、貸出された瞬間にそれを自分の物と嬉々として腰に下げる。いずれはこの斬魄刀も、自分の魂を映し取った唯一の刀に変貌するのだと信じて。

 中には、正式に授与されるよりも前に始解を会得する者も居る。

 

 

 

 

 

―――散れ、『千本桜(せんぼんざくら)

 

 

 

 

 

 凄いじゃあないか、と褒めようかと思った。

 暇な奴め、とからかおうかとも思った。

 

 だが、実際には何の言葉も口からはではしなかった。ただ、『良かったじゃないか』と言っているような雰囲気で笑い、内心嫉妬するしかできなかった。

 

「……ふぅ」

 

 慣れない手つきで煙管を吹かす紫音。吸うことには未だ慣れていない為、口の中に煙を溜めて吐き出すだけだ。

 私室で煙管を吹かす紫音は、ユラユラと天井へ立ち上っていく煙を虚ろな瞳で見届ける。襖の隙間から風が入ってくれば、それに吹かれて形を崩してしまいそうだ。

 

 桜は散っても地面に残る。

 煙が散れば影も形も残らない。

 

 散り際の刹那の儚さは美しい。桜と煙。どちらが『刹那』という言葉に美しいかと問われれば、紫音は後者と答えるだろう。だからこそ、こうして何度も紫煙を薫らせるのかもしれない。

 傍らには、少しだけ抜身の浅打が置かれている。

 蝋燭の炎を反射させる刀身は、仏壇に奉られている刀よりは劣るかもしれないが、充分美しい見た目だ。

 

 白銀の刀身は、蝋燭の炎で橙に染まっている。

 

 

 

―――銀嶺が憎いか?

 

 

 

「ッ……」

 

 

 

―――朽木家が憎いか?

 

 

 

(……頭が痛い)

 

 

 

―――白哉が憎いか?

 

 

 

(……もう床に入るか)

 

 

 

―――私を使え。私を―――

 

 

 

(きっと私が疲れているだけだ)

 

 

 

 得も言えぬ眩暈。煙管を片付けた後、覚束ない足取りで布団の中に入る。

 原因不明の頭痛に苛まれながら、耳元で囁くように聞こえてくる声を断つように、掛布団で頭をすっぽりと覆い被した。

 

 きっと煙管で吸った煙草の所為だ。

 

 そう自分に言い聞かせて。

 

 

 

 ***

 

 

 

 次の日、白哉は斬魄刀を竹刀袋にしまいながら、紫音が住んでいる柊邸へとやってきていた。瞬歩で走れば数分の場所にある柊邸。白哉にとっては近所といえる場所にやってきていたが、現在門の前で立ち往生している。

 

「申し訳ありません、朽木白哉様。ご当主は、今朝から具合が悪うございまして、今医者の方に診て頂いているのです」

「具合……? どこが悪いのだ?」

「頭痛がひどいと……白哉様が参上なされたら、『済まない。また今度時間を作る』と伝えて欲しいと言われまして」

「そうか……相分かった。では、失礼する」

 

 応対に出てきていた侍女に一礼し、踵を返して朽木邸への帰路につく白哉。

 今日は霊術院が休みであり、二人で鍛錬にでも、と約束を交わしていたのだ。だが、いざ来てみれば頭痛がひどいと表にも出てこない。

 

(……仮病か?)

 

 一瞬、紫音が鍛錬嫌さに嘘を吐いているのかもしれないと疑った。

 

(いや、待て。だが、ここ最近彼奴の顔色は本当に悪かった)

 

 ここ数日の紫音の様子を思い出し、頭痛で寝込むような兆候が無かったかを思いだす白哉。思い当たる節は幾つもある。

 まず、顔色が悪かった。『顔面蒼白』を絵に描いたような顔の青白さだ。更に目元に隈が出来ていた為、寝不足であることも容易に想像ができた。

 次に授業中の態度。普段は真面目に教師の話を真面目に聞いている彼であったが、最近は心ここに在らずといった様子であった。斬術の授業でも、足元が覚束なくなっていて、普段であれば容易く流せるような一撃も喰らっていたような気がする。

 

(……なんだかんだで彼奴のことを見ているな、私は)

 

 何気に友人の状態を把握している自分に若干引く。

 しかし、気付いているのであれば早々に医者に診てもらうよう促すこともできたのではないかと、後悔がじわじわと胸の内にせり上がってくる。

 紫音との鍛錬の約束が無くなった今、今日の予定はフリーになってしまったが―――。

 

「何か見舞いの品でも買いに出掛けるか……」

 

 

 

 ***

 

 

 

(頭が痛い)

 

『第一にそう思った』

 

(吐き気がする)

 

『喉元まで込み上がる感覚を覚えた』

 

(いっそ、このまま眠り続ければ楽なのではないか?)

 

『病人は眠るに限る。そう思い瞼を閉じれば、屋敷ではないどこかに居た。

 無数の石柱が立ち並ぶ湖は、酷く荒廃していると感じた。罅が入っている石柱を一瞥した紫音は、得も言えぬような心痛に苛まれ、できるだけ見ないようにと目を逸らした』

 

(ここはどこだ? 確か、屋敷で眠っていた筈だが……)

 

『どことも分からぬ場所に不安感を覚えた紫音。石柱の上に佇んでいた彼は、意を決して湖へと飛び降りた。水であれば、落ちたところで泳いでどうにかなる筈。

 そのような考えを抱きながら水の中へ飛び込んだ紫音は、大きな水飛沫を上げながら水中に入る。しかし、濡れたような感覚は覚えない。水に体温を奪われる感覚さえない』

 

(本当に水なのか?)

 

『手を動かしてみる。

 だが、水の抵抗を感じることは一切ない。この世界は一体なんなのだろうかと思い、前へ前へと歩み進めていく彼は、湖の底に溜まっている石に目が留まった。

 只の玉砂利。しかし、それを見た途端、紫音は体が凍りつくような悪寒が背筋を奔るのを覚えた。

 

 深淵だ。あそこに堕ちれば二度と戻れない。

 

 浅はかな考えで水中に飛び込んだことをいまさら悔やんだ。

 更に、後悔した途端に体が濡れていく感覚が襲いかかっていくではないか。体が重い。上手く動けない。冷たい』

 

(ッ……!)

 

『先程まで何ともなかった筈なのに、突然息ができなくなったことに紫音は困惑した。

 否、元より水中で呼吸ができるというのが可笑しな話だろう。そうだ。これはまやかしなのだ。きっと性質の悪い術にでもかかっているのだろうと、瞼を閉じて必死に念じる。

 

 夢なら早く覚めろ。こんな現があってたまるものか、と。

 

 だが、無情にも紫音の体は湖の深淵へと吸い込まれていく。それを紫音は分かっていない。当たり前だ。目を閉じているのだから。

 故に、彼を救わんと一人の女が手を差し伸べた』

 

(だ、誰だ……?)

 

『突如、手を引かれる感触に瞼を開けた少年は、水面から伸びる華奢な腕を目に捉えた。

 女性の腕だろうか。水の中だというのにも分かる肌の滑らかさに、一瞬呆けてしまった。

 だが、そうこうしている内に、何者かは紫音の体を水上へと引き上げる』

「ッ……ぶはぁ、はぁっ……はぁっ……!」

『息も絶え絶えとなりながら面を上げると、そこには一人の女性が佇んでいた』

「はっ……?」

『何か物語でも読んでいるのか? そう言わんばかりの口調で喋る女に、紫音は瞠目する。すると彼女は、呆気にとられた顔を浮かべる紫音の瞳を見つめながら、こう言い放つのであった―――こんにちは、柊紫音』

 

 そう語る女の顔は、靄―――否、ノイズのようなモノが掛かっており、その容姿を把握することができない。

 彼女の存在自体は把握できる。女性であるということも分かる。だが、具体的にどのような格好をしているのかと問われれば、何とも答えられない程に女の姿はおぼろげだった。

 

 

 

『ようこそ、■■の精神世界へ』

 

 

 

 おぼろげな女は、『妖しく』『笑って』そう告げた。

 



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六話

 

「……済まない。聞き取れなかった」

『何の精神世界だ? 自分が聞き逃しただけかもしれないと疑った紫音は、目の前で喜色を浮かべる女に反射的に問いかけた』

「……其方は誰だ?」

『質問に答えない女に、少々眉を顰めて別の質問を投げかけるが、思ったような返答は返ってこない』

「つまり、答えを返すつもりはないと」

『正解』

 

 ビッと指を指してくる女に、呆れた表情で溜め息を吐く紫音。

 どうにも面倒な女だ。真央霊術院にもこれだけ面倒な院生は居ない筈だ。それに姿も曖昧であるとなると、怪しいことこの上ない。更に、知らぬ場所に何時の間にやら居るというのだから、普通であれば不安で心臓が握りつぶされそうになるほど混乱してしまうだろう。

 

「精神世界、と言ったが本当にこれが私の精神世界なのか? もっと悶々としているものだと思っていたが」

『それは貴方の今の心境。その都度その都度で世界が変わるほど、この世界は揺るぎ易くありません』

「だが、折角ならもっと夢のようにあり得ない世界が良かったのだがな」

『御所望なら、お視せしましょう』

「……なんだと?」

 

 パンパンッ、と二度手を叩く女。

 次の瞬間、紫音の眼前には在り得ぬような光景が一瞬にして広がった。

 

 先程まで湖と石柱だけの世界だった場所が、瞬く間に溶岩に呑み込まれて一面赤と黒に染め尽くされていく。肌と喉が焼けるような感覚を覚え、余りの熱さにじんわりと汗が身体中から噴き出してくる。

 ああ、これはいかん。そう思うや否や、今度は溶岩がどこからかやって来た雪崩に呑み込まれていき、一面を銀世界に染め上げた。

 

 成程。これは確かに夢でなければあり得ぬ光景だ。しかし、如何せん肌を突き刺す感覚が現実味を帯びている。

 更に今の数秒の『夢』を見ている間、治まっていた筈の頭痛が再び―――。

 

「……止めてくれ。矢張り、夢もそうそう良いものではないな」

『当然。夢見心地で長い眠りについた後の起床に頭痛は付き物です』

「夢という言葉で表現するには生ぬるい光景だったがな」

『ならばなんと言います? まやかし? それとも幻?』

「さあな」

 

 適当に返答する紫音は、元に戻った世界の中で、腰を下ろして周りを見渡す。溶岩も雪も無くなった世界だが、額から汗が流れ落ちるのを感じ取り、先程の幻に対して己の体が

『本当にその場に居た』ような感覚を覚えていたのだということを理解した。

 暫し、背中にベタベタと着物が張り付く不快感を覚えつつ、ボーっとする。

 

『……楽しいです?』

「ここは誰の精神世界なのだ?」

『言った筈です。■■の精神世界だと』

「私や其方のではなさそうだな」

『何故?』

「其方の声は、私に囁いていた声とは大分違う」

『……くっくっく、よく聞いているのですね』

 

 妖しく笑う女に、つられて紫音も笑ってしまう。

 

「其方は私の斬魄刀なのだな」

『ええ。名前を聞くつもりは?』

「まだない」

『何故?』

「刃禅を組んでいる時なら兎も角、こうして病床に伏している時にわざわざやって来るということは、ただ事ではないのだろう?」

『貴方が誑かされるやもしれない、と嫉妬で』

「私に似ているな。いや、当然か」

『ええ。嫉妬深いのに、やけに潔い。その上他人にちょっかいをかけるのが好きな貴方に……』

 

 二人共、可笑しくてクツクツと笑い始める。

 そんな二人に呼応して、湖の水面には波紋がいくつも浮かび上がった。綺麗に円を描いて広がっていく波紋に、思わず見とれてしまう紫音。

 ああ、こんなにも静止した水場を見ることは初めてかもしれない。今の内に網膜に焼きつけておこうと、水面を凝視する。

 すると背後から女がそっと紫音の首に腕を掛けてきた。

 

『貴方は此処が好きですか?』

「……何とも言えぬな。見て良かった、とは思っているが、どうにも恐ろしく感じてしまうのだ」

『それが正しい反応です。貴方以外がこの光景を見れば、恐ろしいばかりで足を竦ませるでしょう』

「……そうなのか?」

『ええ。見て良かった、と思うのは貴方だからこそ』

「……そうか」

 

 自分の斬魄刀の言葉に、首を傾げつつも日和見に入る紫音。

 瞼を閉じて、この精神世界とやらを堪能しようではないかと意気込む。

 

『どこから降り注いでいるのか分からない日差しは、初めてであるのにも拘わらず、どこか懐かしい気分になり得た。そして、先程まで吹いていなかった筈の風も、新鮮さの中に母の香りを感じた。これは残り香か? そう感じてしまうほど、漠然とした香りに―――』

「人の心中を読むな」

『私と貴方は一心同体。別に構わないでしょう』

「理由になっておらぬ」

 

 流暢な口調で喋り始める女に、鼻を鳴らしながら止める様伝える。しかしそれを耳にした女は、寧ろもっと読んでやろうと意気込んで、紫音の心の中に指をそっと添え始めた。

 

(……? 何故私は心の中に指を添えられたと……)

『紫音』

「なんだ?」

『私の名を聞くつもりは本当にないの?』

「今この場ではな」

『白哉は名を聞いたというのに?』

「……私と白哉の歩みは違うからな。別にいいだろう」

 

 白哉の話題を振られ、傍から見ても分かるようにシュンとした様子になる紫音。

 だが、諦観しているような様子は見られない。自分は、などと自分自身を卑下しているようにも窺えない。

 その様子にホッとした女は、主の首に掛けていた腕を上げて、そっと目に手を当てた。

 

「……なんのつもりだ」

『彼の弱いところを見ようとは思わない?』

「弱いところ?」

『ええ。天才と謳われる朽木家の麒麟児……そんな彼の弱かった時代を』

「……見れるものなら見てみたいな」

 

 他人の弱かった姿を見て悦楽しようというほど、堕ちているつもりはない。

 ただ、あの白哉が弱い姿を見せている様が想像できないのだ。朽木家の名に恥じぬよう、常に毅然と振る舞おうとする―――斬拳走鬼、どれにおいても一流の腕を誇る―――父や祖父を敬い、慕う朽木白哉の『弱い様』が。

 

『ならばお視せしましょう。現を夢にして―――』

 

 しかし、スッと視界が闇に堕ちれば、あるものが見えてきた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 黒髪の幼子が仏壇の前に正座して泣きじゃくっている。わざわざ手に取って自身の前に置いたであろう遺影には、嫋やかな女性の姿が映っていた。

 儚げな笑みを浮かべる女性。

 その遺影を涙に埋もれそうになっている瞳で凝視する幼子は、袖で大粒の雫を拭いながら嗚咽を上げていた。

 

『母上ェ……ひっぐ……!』

 

 何度も袖で涙を拭うも、溢れ出る悲しみは収まる事を知らない。

 

 どれだけの時間であっただろうか。顔がぐしゃぐしゃになるまで泣きじゃくっていた幼子の後ろに、漸く一人の人物がやって来た。

 

『白哉』

『っ……父上!』

 

 朽木蒼純。

 白哉に良く似た風貌の男性が、足元に駆け寄ってくる幼子をそっと抱きしめる。父親の抱擁を受けた幼子は、未だに涙は収まらぬものの、嗚咽は止まった。

 顔を真っ赤に晴れ上げさせた幼子は、優しい笑みを浮かべる蒼純の顔をジッと凝視する。

 

『父上、なぜ母上は先に逝かれてしまったのですか?』

『それはっ……』

『信恒が教えてくれました。母上は私を産んですぐに亡くなられたと』

 

 自身の従者の名を出しながら、今は亡き母のことを口に出し、収まり始めた涙が再び溢れだす。

 

『私を産まなければ、母上はもっと長く生きられたのではないですか? 私が生まれなければ……』

『それは違う。白哉の母上は、白哉に会いたくてお前を産んだんだ。白哉は……祝福されて生まれてきたんだよ』

『っ……ひっぐ……』

『余り自分の為ばかりに泣くものじゃない。その涙はとっておきなさい』

『う゛っ……なんのために……?』

『……お前の傍に居てくれる誰かの為に―――』

 

 

 

 ***

 

 

 

『―――泣いているのですか?』

 

 瞼を押さえる女の手。その隙間から一筋の涙が零れ落ち、湖へと落ちていく。

 

「……そっくりだ」

『何にでしょうか?』

「蒼純殿が、私の母に。やはり血は繋がっているということか」

 

 しんみりとした雰囲気の中呟く紫音は、女の手を除けて、涙に濡れる瞳を露わにした。

 水面を見下ろす彼の瞳には、得も言えぬ寂しさを懐かしむ様子が窺える。

 

「母上も、私によく自分の為ばかりに涙を流すものじゃないと言ってくれた」

『よく覚えていますね』

「ああ、自分でも驚いている」

 

 驚いているようには見えませんが、とは口に出さない女。

 何せ、紫音の斬魄刀なのだ。彼のことは良く分かっている。例え表情に出ていなくとも、心の中ではヒシヒシと思っていることなのだろうと、容易く予想はついた。

 

「……似た者同士、か。私と白哉は」

 

 生まれる前に父を亡くした紫音。

 生まれてすぐに母を失くした白哉。

 

 どちらが悲劇的かなど、比べるつもりはない。ただ、肉親を失ったという点で似ていることを確認したかった。

 

『ですが、白哉にはまだ父が居ります。祖父も生きております』

「祖父は私も同じだろう。だが……羨ましいなぁ」

 

 父も母も居なくなった自分にとって、まだ父が居る白哉が羨ましくてたまらない。

 ツーっと再び涙が零れるが、それを女が手で拭ってくれる。切実な想いを吐露した紫音の目尻から涙は止めどなく溢れるのだ。何度拭えども、ポツリ、ポツリ、と。

 何故か、無風であったこの空間に風が吹き荒び始める。

 同時に静止していた水面には、無数の波紋が刻まれていく。幾重にも重なる波紋は、広がりながら水平線の彼方へ。

 

 その時であった。湖が毒々しい紫紺色に染まっていったのは。

 

 ぐつぐつと煮えたぎるように泡を浮かべる水面は、先程の幻想的な風景とは一変、地獄絵図であるかのように移り変わっていくではないか。

 何事かと目を見開く紫音に対し、背後に佇んでいた女は、ある一点を指差す。

 

『あれを』

「……なんだ、あれは?」

『この世界の住人です』

 

 女が指差す先では、毒沼のような場所から必死に這い出ようとする人影が見えた。毒で焼けたか、はたまた溶けたか。全身黒づくめの人影は、苦悶の声を上げながら石柱に昇ろうとしてくる。

 しかし、全身濡れているが故に、何度も手を滑らせて毒沼へ堕ちていく。

 

「……住人にしては、随分住み心地が悪そうにしているな」

『それも致し方ないこと。そして彼こそが、今この状況を作る原因となっております』

「原因だと?」

『はい……紫音、単刀直入に訊きます。貴方はあれを助けますか?』

 

 女の問いに、言葉を失う。苦しみもがく人影を助けに行けば、道連れにされることは目に見えていた。

 あの沼に落ちたら、どのような苦痛が襲いかかってくるだろうか。それを考えるだけで足が竦む思いだ。

 だが、それなのにも拘わらず、紫音は脳裏に『助ける』という選択肢を浮かべてしまった。このまま見過ごしても良かった筈なのに、何故そのような選択を―――。

 

 こうしている間にも、人影はだんだん沼の底へ沈んでいく。早々に決断せねば、後味の悪い展開になることは容易に想像できた。

 

『見捨てますか?』

「……手を、貸してくれまいか?」

『構いませんよ』

 

 振り向かずして、女に手を貸すよう要求する。

 さほど嫌がっていない様子の女にホッと胸をなで下ろした紫音は、急に傾いている石柱を滑るよう下って行き、溺れる寸前の人影に手を伸ばす。

 その際、自然ともう片方の腕は、後ろに居るであろう女へと伸ばしていた。会って一時間も経っていない筈の相手に、不用心な信頼だと笑われたような気もする。

 

「……掴まれ」

 

 昔よりは筋肉もついた。人一人程度、訳ないだろうと気の抜けた想像をしながら、必死の形相をした人影が伸ばす手を取った。

 

 

 

 刹那、世界が晴れていく。

 

 

 

「っ……!?」

『有難う』

「これは……」

 

 一瞬にして、毒沼が下の澄んだ水へと変貌していく。足場の石柱は、砕けたかと思えば玉砂利へと細かくなり、先程よりかは幾分か安定した足場へと変わる。

 遠くからは川のせせらぎが響いてくるも、周囲に満ちる濃霧によって、遠方を窺うことはできそうにない。

 自然と女の方へと振り返った紫音は、今まさに己の手を取ってくれている女の方へ顔を向けた。すると、今迄靄がかかっていた姿の筈の女から、その靄が晴れているではないか。茶色の長髪をそよ風に靡かせる女は、白と紫が基調のファーコートを身に纏いながら、儚げな微笑みを浮かべている。

 

『貴方のお蔭で、靄が晴れました』

「はぁ。まやかしを立て続けに見せられて、頭が……ん?」

『頭痛はしないでしょう。もう』

「……ああ。不思議とすっきりした気分だ」

『ならば良かったです』

 

 頭が晴れたような気分を覚えた紫音は、目の前の女に対して柔らかな笑みを浮かべる。

 だが、次第にトロンと微睡んだ様子へ移り変わって行った。

 

「……眠いな」

『元より貴方が望んで此処にやって来た訳ではないのです。用が済み次第、貴方は現で目が覚める筈です』

「そう、か……」

『くっくっく……また今度相見える時は、私の声が貴方に届くと良いですね』

「そうだ、な―――」

 

 紫音がガクンと頭を垂れた瞬間、その体は靄へと変貌し、瞬く間にこの世界から消え失せていった。

 

『……夢くらいは幸福を。それは人の願うこと。しかし(まやかし)は―――幻は違います。他人が望む嘘の現を視せられるやもしれない。紫音……貴方が視せてくれる幻は幸せなものなのでしょうか?』

 

 腕を突きのばす女。その掌に周囲を覆い尽くす濃霧が収束されていき、一本の槍が形成される。

 それを手にした女は、大切そうに槍を腕の中に抱え、瞼を閉じた。

 

『瞞、幻、錯覚……全ての嘘の後には空虚しか残らない。そんな中で貴方は何を残していくのでしょうか? 個人的な話、私は……―――』

 

 

 

 

 

 (フィクション)は喜劇が好みですがね

 

 

 

 

 

 パチンと指を鳴らす女。

 瞬く間に彼女の周りには可憐な花が咲き誇り、空からは燦々とした太陽の光が降り注ぐ。御伽話の一場面に出てきそうな、春風薫る陽気な世界。行楽でもしたくなるような世界で、彼女は槍を抱えたまま仰向けになって寝転ぶ。

 

 夢のような世界で微睡むのは、“幸せ”だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 紫音が起きたのは夕方だった。

 夕日が赤く照っている時刻に漸く目を覚ました彼に、屋敷の者達は安堵した様子で息を吐く。寝起きで食欲のない紫音であったが、屋敷の者が『せめて』と作ってくれた梅粥は、するすると喉を通って行った。

 腹の底がじんわりと熱くなる感覚。舌の上に広がる酸味

 気付けばもうすぐ床に入る時刻だというのに、やけに目が覚めてしまった紫音は、私室の仏壇の前で息を飲んだ。

 

 飾っていた父の形見である刀。

 

 近くの蝋燭に火を灯せば、風でも吹いているかの如く揺らめくのが常であったが、今日に限っては蝋燭を灯しても一向に揺らめかない。

 昔は(あやかし)でも潜んでいるのではないかと不気味がったものだ。

 しかし、今になって怪奇現象が収まるのも気味が悪い。

 

 そう思いながら、眠くなるまで本を読み漁ろうと机の前に座った。

 

 だが、近くに立てかけていた浅打から、子守唄のような囁きが聞こえていると思っている内に、ぐっすりと深い眠りに落ちてしまっていたらしい。

 それで気が付いた。

 

 

 

 ああ……きっとあの人影は、父の斬魄刀の力の残滓だったのだろう

 

 

 

 帰る場を失い、孤児となっていた力に手を差し伸べた。

 あの時とった手が、父のものであったことを理解した瞬間、紫音は法悦とした笑みを浮かべるのであった。 

 



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七話

「おはよう、白哉」

「ああ、おはよう。具合はどうなのだ?」

「お蔭さまでな。すっかりよくなった」

 

 朽木邸の門の前で挨拶を交わす紫音と白哉。霊術院に通う日は、これが日常だ。

 昨日の今日で霊術院に通うのが大丈夫なのかと心配する白哉であったが、顔色のよくなった様を見れば、それが杞憂だとホッと胸をなで下ろす。

 いつもの道を並んで歩く二人。霊術院までは遠いが、二人の足の速さであればさほど問題ではない。寧ろ、瞬歩の鍛錬になると白哉は意気込んでいた程だ。

 そして、わざわざ邸宅から通う理由がもう一つ。

 

(朝食も、屋敷の者が作った物の方が美味しいからな)

 

 美味なる食は、心を豊かにするという訳だ。

 

「どうしたのだ、白哉? そのように朝食に想い焦がれるような顔を浮かべて」

「……人の心を読むな」

「そうか。鎌をかけたつもりだったのだが、どうやら当たっていたようだな」

「貴様……」

「別に苛立つことのほどでもないだろう。屋敷の者が腕によりをかけて作り上げてくれた飯が、不味い訳がないからな」

 

 偶然であろうがなかろうが、心を読まれたことがどうにも腹立たしい。竹刀袋に納めたまま斬魄刀の柄に手を掛ける白哉は、表情には出さぬものの、声に苛立たしさを乗せて紫音を睨みつける。

 霊術院に入ってからは、直情的な言動をとらぬよう心掛けていたつもりだが、どうにもこの男の前では“素”というものが出てしまう。

 

 素を出せるという点では、ストレスを発散しやすい相手なのかもしれないが、生憎相手はこちらをからかうことを好む性質をしている。昔のように頭に血を上らせてしまえば、いいように掌の上で転がされているのが目に見えるようだ。

 

「はぁ……」

「なにか憂鬱なことでもあったのか?」

「なにもない」

「なにも無しに溜め息を吐くものじゃあないぞ。幸せが逃げると言うからな」

「……幸せ、か」

 

 よく聞く言葉だが、自分に当てはめた場合、いつ幸せであるのかいまいち分からなくなる。

 

「妻でも娶って子を為せば、“幸せ”とやらを感じるのではないか? 其方でもな」

「……馬鹿にしているだろう」

「典型的な例を出してみただけだ。大和撫子然とした女子が好きなのだろう? そんな妻を娶れれば良いな」

 

 ニヤニヤと笑いながらからかってくる紫音に、竹刀袋の中からでもはっきりと鍔と鞘が擦れ合う音が響くほど、斬魄刀の柄を握りしめている白哉。

 普通の者であれば、白哉の憤怒が具現化するのではないかというほど憤っている彼に臆するだろうが、紫音はその程度では引き下がらない。寧ろ、面白いと言わんばかりに畳みかけてくる男だ。

 白哉自身、口下手であることは自覚している為、向こう側からどんどん話しかけてくれることは嬉しいが、人前では限度を弁えて欲しいと思うことがある。

 

(……ふっ、これでは私達はまるで兄弟のようではないか)

 

 兄、若しくは弟と赤裸々な会話をしているところは、他の者達―――無論、親にも見られたくないという感覚。紫音と話をしている時は、まさにその感覚であった。

 紫音が肉親であっても違和感はない。

 

「白哉。何をそんなににやけている。春画でも落ちていたか?」

「……そんなものを私が見る筈なかろうっ……!」

 

 紫音の言葉に、一瞬で心中が苛立ちに染まっていった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 霊術院に入り、早一年。

 一年の間は、死神としての基礎を固める授業ばかりだ。だが、優秀な生徒はどんどん授業プログラムを繰り上げていく為、一年で卒業する者も時たま存在する。

 例えば、現在五番隊に所属している市丸ギンという者も、非常に優秀な成績を収めた故、一年で霊術院を卒業するという快挙を成し遂げた。

 

 そして、今年もまた市丸ギンに続く快挙を成し遂げる者が現れた。

 

「―――まあ、快挙かどうかは兎も角、朽木家の分家である柊家の当主として。そして朽木白哉の一人の友として、彼に卒業祝儀と入隊祝儀を兼ねて、何か贈り物をしようと考えました故、白哉を熟知しておられるであろう蒼純殿にご相談いただいているという訳であります」

 

 私服の着物を身に纏う紫音。正座する彼のすぐ前に同じく正座で佇んでいるのは、六番隊副隊長であり白哉の実の父である朽木蒼純であった。

 容姿は非常に白哉に似ている。ただ、蒼純の方が幾分か柔和な雰囲気があった。彼は生来、体が弱いとあって、よく体調を崩しているようであるが、それでも副隊長に坐す能力は流石といったところ。

 厳格な銀嶺を父に持っている故、規則に準ずる厳しい性格ではあるものの、基本は他人を気遣うことのできる“優しい”男だ。

 

「そう固くならなくても大丈夫さ、紫音君。私も、君との間柄は理解しているつもりだ」

「では、『蒼純叔父様』と呼んだ方がよろしいでしょうか?」

「白哉が居ない所でなら―――」

「ですが、『蒼純殿』の方がしっくりきます故、暫くはこのままでいかせて頂きます」

 

 宗家の次期当主の言葉を遮る紫音。息子と同じ程の少年―――もとい、甥に話の主導権を握られている気がした蒼純は苦笑を浮かべながら、紫音の佇まいを見て一言口にする。

 

「……君は姉上によく似ているなぁ」

「幼き時に追いかけていたのは母上の背中のみ。似てくるのも、至極当然かもしれませぬでしょう」

「……今はどうなんだい?」

「白哉の背中を」

「成程」

 

 白哉と違い、紫音は第二回生へと進級した。それが普通なのであるが、白哉と共に鍛錬をしている中だとは知られている為、自ずと自身に求められている技量が多くなっているのではないかと感じ始めた―――否、ずっと感じている紫音。

 六年は流石に怠惰が極まっているか。今は三年以内の卒業を目指して鍛錬に励んでいる。

 そんな紫音の道標となっているのは、霊術院の偉大なる先人たちでも、父の背中でもない。一年間、隣に並んでいた友の背中だ。

 

「こう見えても、人並みの嫉妬心、焦燥、憧憬は抱いております。分家当主として、いずれは白哉の背中を支えられるようになりたいとは思っております」

「……君からその言葉が聞けて嬉しい限りだ。これで息子も任せられるといったところだよ」

「有難きお言葉。因みに、白哉は入隊して直ぐに席官の座が用意されていると聞きます」

 

 するりと話題を変える。

 実力主義的な側面がある護廷隊では、隊の中である程度の実力を誇っていると席次というものが与えられるのだ。下は二十で、上は所謂『隊長』。一部隊二百名を超える中の一割にだけ与えられるエリートの座が席官であるのだ。余談だが、席官ともなると瀞霊廷内に住まいが提供され、九席以上になれば隊舎内に私室が分け与えられる。隊長・副隊長ともなると邸宅が与えられるなど、よりどりみどりだ。

 卒業してすぐに席官になれるなど、余程の才がなければ不可能なこと。しかし、既に始解を会得している白哉は、実戦を積んだ者からしてみてもかなりの実力を有している。こうなることは必然かもしれないが、部隊の2トップを同じ家の者が就いている中、その肉親が入ったのだ。部隊の一部ではよろしくない噂が立っていることだろう。

 

 閑話休題。

 

「確かに席官の座は用意しているよ。だが、それは確りと実力を吟味した上で―――」

「いえ。自身の力に酔い痴れて堕落せぬよう、護廷隊の厳しさをこってりとご教示してほしいと思いまして」

「あ、ああ……無論だよ」

 

 現世では、加虐嗜好がある者を『S』と呼んだり呼ばなかったり。

 

 妖しい笑みを浮かべながら告げる紫音に、蒼純は笑うしかない。蒼純の実の姉は紫音の母である訳なのだが、小さい頃によくからかわれていたことを思いだす。

 嫋やか且つ強かな女性で、姉弟による口喧嘩で勝ったことは一度も無かった。

 血は脈々と受け継がれていることを感じながら、とりあえず話を戻そうとする。

 

「それで、白哉への贈り物だったね? 白哉のことだから、君がくれた物なら大抵喜びそうだけれど……」

「彼奴の好物の辛い物でも送ろうかと思いましたが、祝儀にしては貧相だと考えております」

「それなら装飾品でもどうだい?」

「……牽星箝でしょうか」

「ああ、それもいいだろうね」

 

 上流貴族しか身に着けることの許されない髪飾り―――『牽星箝』。朽木家の男たちは、揃ってこの髪飾りを着けている。

 一部の階級以上しか身に着けることのできない装飾品を送れば、白哉も自身の朽木家の者としての立ち振る舞いを省みて、護廷隊に所属する死神の一人として邁進していくことだろう。

 

 だが、男が男に対して装飾品を送るのは如何に。

 

 一瞬、そういった考えが脳裏を過ったのだが、

 

(まあ、私と白哉の仲だ。さほど問題はないだろう)

 

 あっけらかんとした様子で、贈り物を決めたのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「さて、どれがいいのだ」

「……本人を連れてくる奴があるか」

 

 “貴族街”と呼ばれる場所の店にやってきた紫音と白哉。六番区は、貴族御用達の老舗が軒を連ねていることから、瀞霊廷の死神達に“貴族街”と呼ばれている。それも最高位貴族の一、朽木家の邸宅があるからこそだろう。

 貴族でない者が来ることは早々ない場所にやって来た二人は、代々朽木家の者が身に着ける牽星箝を誂えている老舗だ。

 わざわざそこへ連れられてきた白哉は、何とも言えない表情で商品棚に置かれている髪飾りを眺めている。

 

「私とて、初めは黙って其方に贈ろうかとも思った。だが、気に入らない物を受け取ったとしてもさほど嬉しくはないだろう」

「そこまで私がそのように失礼な発言をする者に見えるか?」

「贈り物の装飾品というものは、身に着けてもらってナンボのもの。棚に飾られるだけの贈り物を見て、悲壮を覚える私の身にもなれ」

「……そうか」

 

 要約すれば、『気に入ったのを買ってやる』。

 確かに、これから身に着けるものであるのならば、自身が気に入った物が一番良い。そう自分に言い聞かせる白哉は、既製品の牽星箝を一つ一つじっくり見ていく。と、いっても白哉は装飾品の良し悪しを心得ていない。

 

(どれを選ぶか……)

「牽星箝が、見れば見るほど竹輪に見えてくるのは私だけか?」

「紫音」

「いや、きりたんぽにも見えてきたな」

「貴様……私が牽星箝を選ぶ横で、無粋な発言をするのは止めろ」

 

 普段は二人称が『兄』だが、苛立つと『貴様』呼ばわりになる。

 髪飾りを食品に見立てられていい気分になる者はそれほど多くないだろう。女子であれば多少別だろうが、白哉は生粋の熱血生真面目男児。髪飾り選びを悪ふざけに走って笑いを取ろうとは思わない。

 

「冗談に決まっておろう。気のゆくまで選んでいるといい。私は他の物を見ているからな」

 

 頬を引き攣らせてドスの効いた声を発する白哉を宥めた紫音は、女物の装飾品がある場所へと向かう。

 そっちの“気”でもあるのかとは何度も考えたことはあるが、恐らく紫音は京楽春水八番隊隊長のように、お洒落で女物を選んでいるのだろう。彼が熱心に視線を注ぐのは、高値の簪が並んでいる棚だ。

 豪華絢爛―――という品ではなく、飾らない質素な装飾の簪。

 その中の一つを手に取った紫音は、迷わず白哉の下に戻ってくる。

 

「む? まだ決まっておらぬのか」

「兄が早いだけだろうに」

 

 物を選ぶ早さは男に準じているらしい。

 どうやら梅の紋が描かれている簪を気に入った紫音は、会計を白哉の牽星箝と共に済ませるため、ピロピロと簪を手で弄びながら白哉の品選びを待つ。

 

「兄は買わぬのか?」

「牽星箝をか? むぅ……学院生がおおっぴらに牽星箝(ソレ)を着けていれば、生意気だと思われかねぬからな。それに私にはもうある」

「……なに?」

「父の形見があるからな。卒業したら着けるつもりだ」

 

 父の形見。

 その言葉を聞いた白哉は、最早『折角であれば自分と共に牽星箝を買え』などと、無粋な発言はできなくなった。

 自分に置き換えた場合でも、同じく形見を身に着けるだろう。そう思った白哉は、暫し逡巡した後に別の話題を振ってみた。

 

「斬魄刀との対話はどうだ? 始解は会得できそうか?」

「悪くは無い、とだけ言っておこう。だが、私は其方のように天才肌じゃあないからな。ゆっくりやらせてもらう―――っと……冗談だ。そろそろ私の其方への“天才”発言は冗談だと気付け。まあ、実際褒めている時も勿論あるがな」

 

 クツクツと妖しく笑う紫音に、肩を竦める。

 

「そう言えば、其方の斬魄刀の名は『千本桜』だったな? 桜の花言葉は『精神の美』。生真面目な其方にピッタリの斬魄刀だ」

「……六番隊の隊花は椿だがな」

「『高潔な理性』だったな。それもまた良し。……白哉、それならば梅の花言葉は知っているか?」

「梅? ……知らぬ」

「『高潔』、『忠実』、『忍耐』……、まあこれくらいだろうな」

「……兄に似合っている花だ」

「有難う。そう言ってくれると思っていたぞ」

 

 なんとなしに、物欲しそうな顔で待っていた紫音に似合っていると褒めた白哉。

 だが、紫音に似合っていると思ったことは本当だ。

 

 すると紫音は、自身を褒めてくれた白哉に対して、簪の梅の紋が見えるようにチラチラと見せつけてくる。

 

「何事も基本に『高潔』な精神の下、『忠実』に『忍耐』強く。尸魂界開闢以来受け継がれてきた刃禅の下に鍛錬を続ければ、いずれは始解も会得できるだろう」

「……そうだな」

「それに、斬魄刀は死神にとって一生添い遂げる伴侶のようなもの。長い時間を掛けて信頼し合える仲になるくらいがちょうど良い」

 

 チラッと白哉の腰辺りに目を向ける紫音。護廷隊として働くようになれば、常に斬魄刀を携えるであろう位置だ。

 

「……何が言いたい?」

「盛ってばかりの夫はロクでもないという事だ」

 

 白哉の方をコツンと拳で突く紫音に、白哉は『もしや』と眉を顰める。

 霊術院時代に始解を会得した白哉は、既に“卍解”会得に向けて鍛錬を開始していた。死神の斬魄刀戦術最終奥義と呼べる卍解の会得は、習得すれば須らく尸魂界の歴史に残るほどの偉業と為し得る。そしてなにより、卍解を会得していることは、護廷十三隊の隊長になる為の必須事項ともいえる事象だ。いずれは自身も祖父・銀嶺のように隊の者達を引き連れる者になりたい―――しかし、少々焦り過ぎているのだろうか。

 才ある者でも、習得に十年の歳月を必要とし、更にそこから扱い慣れるまでに十年を必要とする。それほどまでに強大な力なのだ、卍解は。

 

 

 

―――大いなる力を持つ者が、それを使いこなす為何を最も必要とするか

 

 

 

 銀嶺の言葉が、頭の中で反芻する。

 力だけが成長するのではいけない。それを扱うに足りるだけの、強い精神・肉体が必要となってくる。

 理解していても、白哉も時折忘れてしまいがちだ。

 

 昔、ある死神が居た。その死神は、その場から一歩も動かずして、屈強な男の肉体をズタズタに斬り裂いたと伝えられている。

 誰にも見えぬ刃―――飛び道具か何かだろうか? それを扱う彼に、いつしか護廷隊士は『鎌鼬』の異名を付けた。

 

 一方白哉の千本桜は、刀身が桜の花弁の如く千の刃へと散り、相手を切り刻む斬魄刀だ。一歩も動かずして相手を一塊の肉の塊にし得るだろう千本桜を持つ白哉を、ある古株の死神は『鎌鼬』足り得る力を持つ死神だと謳う。

 しかし、白哉はそれを認めていない。聞けば、その『鎌鼬』とやらは稀代の大罪人として真央地下監獄に収監されていると言うではないか。そんな大罪人が冠していた異名を受け継いで燥ぐ程、自分は単純ではない。

 

 重要なのは、それらの強大な力を何が為に行使するか。

 

 自身は、護廷が為に千本桜を―――そして、その卍解を扱おうと思っている。だが、始解を最近覚えたばかりであるにも拘わらず、もう卍解に手を出そうなど、幾らなんでも逸り過ぎではないか。

 

 大いなる力は、高潔な理性の下で扱わねばならない。

 

(私は少し、逸り過ぎていたかもしれぬな)

 

 紫音はそれを気付かせてくれたのだろう。始解もまだ会得していない彼の言葉であるからこそ、じわりと心に染み入る言葉であった。

 

「……済まぬ」

「何を謝っているのかは知らぬが、牽星箝を選ぶなら早くしてくれ。女は長い買い物が好きだが、だというのに男には早急に品を決めることを求める。今の内に慣れておけ」

「……貴様は男だろうにっ……」

「『女の気持ちを分かってやれる』と言ってもらおうか」

 

 ニヤニヤと微笑みながら急かしてくる紫音に、白哉はピクピクと頬を引き攣らせ、肩を震わせる。

 

―――ああ、彼奴との関係はこれからも変わりそうにない

 

 白哉はそう思いながら、牽星箝選びに戻るのであった。

 



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八話

「大鬼道長殿。その錫杖にはどのような意味があるのですか?」

「これですかな? これは私の斬魄刀の封印状態なのです」

「成程」

 

 ある日のこと、紫音は鉄裁が手に持っている錫杖が何か特別な物であるのかどうか気になり、なんとなしに問いかけてみた。

 だが、実際は鉄裁の斬魄刀とのこと。彼が斬魄刀を手に取っているのを見たことは一度も無い為、どこか不思議な気分になる。

 

「因みに、山本元柳斎重國総隊長殿も、普段は流刃若火を杖の形に封印しておられます」

 

 『流刃若火』―――炎熱系において、最強最古と謳われる斬魄刀だ。森羅万象を焼き焦がす炎に焼かれた者は、須らく灰燼へと為す程の勢い。それを普段は杖にして扱っているとは、少々面白い話を聞いたものだ。

 封印状態とは、俗にいう“始解”を会得した死神が、自身の斬魄刀を解放しない刀の形態のことを言う。が、意外と封印状態とやらは自由が効くらしい。

 

「中々洒落ておられますね。私も大鬼道長殿のように錫杖のようにしてみたいものです」

「むっ、そうですかな? 洒落ていると言われたのは初めてですが……」

「私は、大鬼道長殿の斬魄刀の封印状態が鬼道衆然として恰好がついていると思います」

「ほう、これは嬉しいお言葉ですな」

 

 存外悪い気分ではなさそうな鉄裁は、顎をなぞりながら嬉々とした声を上げる。

 すると突然、紫音がパンっと手を叩いて鉄裁の近くへ身を乗り出してきた。

 

「そう言えば大鬼道長殿。少しお聞きしたいことがありまして」

「はて、なんですかな?」

「以前、御指導をいただいた副鬼道長殿に『断空』という縛道をお聞きしたのですが」

「ほう」

 

 八十九番以下の破道を防ぐ防御壁を張る縛道の八十一・『断空』。番号から分かる通り、上級鬼道に位置する『断空』は、学院生の紫音が知っているような術ではないのだが、だからこそ『鉢玄に聞いた』と最初に口にしたのだろう。

 そんな『断空』の話題を出してきた紫音は、次にこう言い放った。

 

「『断空』の表面に『鏡門』を張る事は可能でしょうか?」

「『鏡門』をですか。ううむ……不可能、とは言い切りませんが、実用性はないと思われますな」

「そうですか……」

 

 至極残念そうな表情を浮かべる紫音。

 『鏡門』は、外側からの攻撃を反射する結界を張る術のことだ。鬼道衆の中でも特に結界に精通している鉢玄から聞いた術であり、『攻撃を反射する』というロマンのある能力に、初めてその名を耳にした時は心躍らせたものだ。

 しかし、鬼道衆のトップである男に実用性はないと言い切られ、ガクリを肩と落とした。

 

「攻撃を反射するだけでしたら『鏡門』単体で充分でしょう。わざわざ『断空』に重ね掛けする必要もないでしょうぞ」

「いいえ、違うのです」

「む?」

「私が考えていた事は―――」

 

 斯々然々。

 

「ほう、それは面白い考えですな」

 

 どうやら、二人の思考には齟齬が生じていたらしい。紫音の考えを聞いた鉄裁は、感心するように息を漏らし、若者の想像力の豊かさを噛み締めていた。

 二次元ではなく三次元で。

 且つ、術の特性を把握して。

 

「しかし、その手法を用いるのであれば、『断空』と『鏡門』を同時に多数張る腕と、場を立体的に捉える為の空間把握能力が必要になってきますが……」

「分かっております。今は夢物語でも、時間を掛けて少しずつ出来るようになっていければと」

 

 柔らかな笑みを浮かべて佇む紫音に、先程までの残念そうな色は見えない。

 可能であることが分かっただけで、大分気が楽にでもなったのだろう。

 

 種を植えても、芽が出て花が咲くとは限らない。

 しかし、種を植えなければ、花が咲く事は絶対にありえない。

 

 何事も、まずはやってみることが必要だと鉄裁は紫音の考えを快く肯定し、鍛錬に励むよう応援するのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

『草木も眠る丑三つ時に、狩りに洞穴から飛び出してきたナロは、道の途中で暴漢に貪られている女に出会った。人間同士の諍いに関わるつもりはなかったが、足音に気付いた暴漢がナロに気付き、真夜中であるというにも拘わらずはっきりと分かってしまう程、顔を真っ青に染め上げていく。

 情けない悲鳴を上げて逃げていく暴漢は、半裸の女などいざ知らず。

 一方、息を荒くしている女は、無理やり脱がされる途中であった着物を引っ張り上げ、自分を見下ろす生き物に瞠目していた。

 すると、真っ直ぐな瞳を浮かべるナロは、女にこう告げた。

 

 こんな夜中に出掛けると人狼に喰われてしまうぞ、と。

 

 月影に照らされたナロは、その身に纏う黄金の衣に似た体毛を靡かせながら、女の手を掴みあげ、ドンとその背中を押した。

 しかし、女はそのまま逃げ去ることもせずに立ち止まり、淡い微笑みを浮かべてナロの方へ振り返り、『そんなことを言う人は襲いませんよ』と口走る。

 

 気丈な女だ、と鼻で笑う。

 だが、彼女の焦点の定まらぬ黒い瞳を見て気が付いた。

 

 『目が見えぬのか?』

 

 そう言うと女は―――』

「……その話は嫌いだ」

『あら、そうですか?』

「盲目の娼婦と山里で暮らす人狼の叶わぬ恋の物語。最期は、人狼の子を産んだ女が、人間と思えぬ獣の子を引き連れるのを目の当たりにした村人たちに惨殺される悲劇……私の性に合わぬ」

 

 斬魄刀の彼女が口にしていたのは、真央図書館に仕舞われていた小説の一つだ。以前、紫音が一度だけ読んだことがあるが、猟奇的な内容に、一般受けはしないだろう性的描写に、思わず顔を顰めてしまった作品である。

 何より愛した女、そして彼女との間に儲けた子を惨殺される最期―――悲劇が気に入らない。

 

「創作であろうとなんだろうと、私は喜劇の方が好きだ」

『あら、でも他人の不幸は蜜の味と言うではありませんか』

「嫌いな者に限ってはな」

『ならば次は……

 

 『ややい、やい! 双魚め! 今日という今日こそは、この俺様が貴様を倒してやるーッ!』

 『そうはさせないぞ!』

 

 槍を構える悪巧夢に、双魚は正義の刀を―――』

「私がそれを読み聞かせられて喜ぶ歳だと思うか?」

『くっくっく、それにしては瀞霊廷通信に載っている時はちゃんと読んでいるじゃありませんか』

 

 十三番隊隊長・浮竹十四郎著のアクションアドベンチャー小説『双魚のお断り!』を身振り手振り加えて朗読する己の斬魄刀に、苦笑を浮かべる紫音。一話完結型の勧善懲悪を題材にした小説は、不定期ではあるが、毎月九番隊が発刊している『瀞霊廷通信』に掲載されている。

 内容が内容だけあって、決して大人向けとは言えない。御伽話を読み聞かせられるような子供向けの小説とはなっているが、貴族の子供の間では中々の人気作品らしい。

 当たり障りのない勧善懲悪の物語は子供ウケがいいのだろう。

 

「勧善懲悪モノは読んでいて気分が悪くならないからな。犯人が暴かれて、尚且つ裁かれる推理モノも然り」

『……そうですか』

「……私は間違ったことは言っておらぬつもりだぞ? 罪を犯したのであれば、相応の報いは受けるべきだ」

 

 意味深な斬魄刀の表情に、目を細めて持論を語る。

 彼等二人しか居ない精神世界は、この世の者とは思えない幻想的な空間だ。鏡のような地面。そして頭上には満点の星が絶え間なく煌めいている。優雅に石を磨いて形作られた椅子に腰を下ろす二人は、どこか寂しげに俯くばかり。

 だが、鏡のような地面には、そのような顔を浮かべる自身の顔が映り込んでしまう。

 

「人間、悲しい顔をするものじゃあないな」

『そうですね』

 

 フッと一度瞬きをすれば、世界は緑一色へと染まり替わっていく。

 木の葉が風に揺らされてざわめく音が響き、近くからは川のせせらぎが子守唄のように絶え間なく聞こえてくる。依然、石作りの椅子に腰かける紫音の前には、殻に包まれた胡桃を手に抱える栗鼠が、綿毛のような長い尻尾を振り回しながら目の前を駆け抜けていく。

 そこへ斬魄刀の女が、栗鼠の掛ける先にそっとつま先を伸ばす。すると、てとてとと栗鼠が華奢な脚を上っていき、あっという間に女の方へ上ってきたではないか。

 女が徐に手を差し出せば、持っていた胡桃を落とすように差し渡す栗鼠。ポトッと落ちた胡桃は、落ちた衝撃で殻が真っ二つに割れた。普通であればあり得ないであろう光景だが、この世界の非常識さを理解している紫音からすれば、さほど驚くような光景でもない。

 

「……ここは自由だな」

『ええ』

「夢のような世界だ」

『そうでしょうね』

「私の精神世界は、このように夢で溢れているのか」

『そうなるのでしょうね』

「……ああ、だんだん理解して来た」

 

 先程とは一変、澄み渡る青空を仰ぐ紫音は、隣で栗鼠と戯れている己の斬魄刀に意識を集中させる。

 斬魄刀の始解を習得する為に必要な手順は、『対話』と『同調』。対話はこれまでにも充分というほど行ってきたはずだが、同調に関してはそれほど理解を深めていなかった。他人と自分では同調の仕方が違うだろうと、白哉に聞くことはしなかった。いや、他人に頼ろうとしないで、己の力だけで達成してみせようという子供染みた意地だったのかもしれない。

 だが、こうして何か月もの間『対話』してきて、徐々に理解してきたことも勿論ある。

 

 こんなに『ブレ』の激しい精神世界などあって堪るか。余程、情緒不安定な人物でもなければ、瞬く間に色を変えていくこの世界の主には似合わぬだろう。

 だからこそ、思い至った。

 

―――この世界は『想像』で出来た『夢』の世界だろうと

 

 その中で唯一形の変わらない彼女の姿だけが真であり、周りの移りゆく景色は全て瞞―――いや、幻だろうか。

 瞞だろうと幻だろうと、此処が偽りの世界であることには変わりはない。

 此処では想像力だけが全てなのだ。頭で思い描いた映像が、そのまま現として現れているだけ。

 だが何故なのだろう。この精神世界が幻と理解してくるに比例して、次第にこの世界から『現実味』が消え失せていく。精巧に模られた景色が、ただの一枚の絵に見えてきた。彼女の肩で忙しなく胡桃を齧っている栗鼠も、機械仕掛けの人形にしか見えなくなってくる。

 

 以前まではこの現実味がない光景に心奪われ、入り浸るように精神世界へとやって来たというにも拘わらず、この世界がつまらなくなってきてしまった。

 ああ、あの時の感動をもう一度。そう願ったとしても、一度自覚しまったが故に、最初の感動というものは何処か遠くの方へと消え失せてしまう。濃霧の先に在るモノが何か分からぬように、最初は覚えていた現実味が消失していく。

 

「ならば想像……いや、創造しよう」

 

 瞼を閉じながら徐に立ち上がった紫音は、そのまま両腕を横へ大きく開く。

 頭の中で出来るだけ華々しい景色を想像しながら。

 

 次の瞬間、カッと目を見開いた紫音の視界に映るのは、『百花繚乱』という言葉がこれほどないまでに似合う、美しく、麗しく、煌びやか、尚且つ大衆的な光景であった。

 

「現実味のない景色というものには夢がある。期待がある。羨望がある。これが幻だと分かっていても、今の私には言いようも無い現実味を覚えている」

 

 ふわりひらりと舞い遊ぶ花弁を掌に吸い寄せる紫音は、その柔らかな感触を肌身で感じ取りながら、地面へと投げ捨てる。

 同時に、周囲を覆い尽くすように咲き誇っていた花々の花弁が紫音の右手の中に踊り込んできた。旋風でも巻き起こっているのだろうか。紫音や斬魄刀の女の髪を靡かせる程の風が、花弁を巻き込みながら掌に辿り着けば―――。

 

「……夢を現にするよう努める力。それが私に必要な力、という訳か」

『はい』

 

 気がつけば、女は紫音の眼前に佇んでいた。

 突然、百花繚乱の景色から一寸先も見えぬ闇に包まれた世界の中で、彼女は穏やかな笑みを浮かべながら紫音に語りかける。

 

『幻は所詮、幻。貴方に必要なのは、その幻を―――夢を現に近付けようとする『想像』と『創造』。つまり』

「鬼道が必要になってくるな」

 

 紫音の掌に花弁はもう既に無く、代わりに一本の槍が握られていた。千鳥槍と呼ばれる部類の槍だ。その刀身の根元には、普通の刀のように鍔があった。

 これまでの人生の中で、何度その形を見たことがあろうか。

 

「……父上の刀の鍔にそっくりだ」

 

 己の父が有していた斬魄刀の鍔。その形状にそっくりな自身の斬魄刀と比べ、『矢張り親子か』と呆れにも似たような溜め息を吐く。だが、その表情に陰りはなく、寧ろどことなく嬉しそうな色さえ感じさせるものであった。

 何度か槍を振るった紫音は、手に馴染む千鳥槍の振るい心地に『おお』と感嘆の息を漏らしながら、最後には杖代わりに抱える始末。

 

『……少々雑では御座いませんか?』

「四六時中丁寧に扱われるのも鬱陶しいだろう」

 

 その言葉にムスッと頬を膨らませる女であったが、同調が成功した主人に、至極嬉しそうな笑みを浮かべる。

 

『……知っておられたのですか?』

「何をだ?」

『私の名を』

「まさか……だが、全て知っておらぬと言えば嘘になるな。いや、知っていたというのも妙な言い方か。『想像がついていた』だけだ。其方の半分の名を」

『……それは―――』

「父上の斬魄刀の名を知っていたからな」

 

 半ば遮るように口を挟んできた紫音は、私室の仏壇の前に備えられている父の斬魄刀を思い浮かべる。

 物心ついたときには、『それが父だ』と教えられて時間を共にした斬魄刀。最初は、刀の周囲で起こる怪奇現象から妖刀のように思っていた。しかし、実際は息子を憑代とすべく、主を失った斬魄刀が必死に語りかけていただけ。

 

 そして紫音は、その力に手を差し伸ばした。

 

「他者に認められず、その態度を傲慢と嘆かれ、正しく導かれることもなく反逆者として死んでいった父上の無念……そして彼奴の無念、私には推し量ることも憚れる」

『ですが、貴方は彼の手を引いた』

「ああ。だが、父上の無念を晴らそうとは思わぬ」

『大逆、だからですか?』

「無論。尸魂界を相手取ろうという馬鹿な考えは起こさぬ。なに、父上のように力があれば、一時の夢として想像ぐらいはしていたかもしれぬが……馬鹿な夢想を実行しようとは思わぬわ」

『あら、父上に非道いお言葉ですね』

「いい女を悲しませた男は須らく馬鹿だ」

 

 それは母上のことですか。

 そう問われた紫音は、明確な答えは返さないものの、ただ黙して妖しい笑みを浮かべるだけであった。

 

「私は弱い。この刹那に心奪われる弱い男だ」

『知っています』

「『貴方の斬魄刀だから』か?」

『ええ。ですが、“強さ”は単純な力の一片妥当ではありません』

「ああ……―――視ろ」

 

 コツン、と槍の柄尻で地面を突く紫音。

 直後、闇に覆われていた世界の空は一変して、絶え間なく花火が打ち上げられる夜空に移り変わった。

 色とりどりの閃光が眩く夜空に、穏やかな笑みを浮かべる二人。

 

「人に夢を視せることも、“強さ”ではなかろうか」

『はい』

「これは幻だ。実体はない。だが……嘘と分かり切っているのであれば、現実味のない幻想的な光景の方が心躍るだろう」

『それを真に錯覚させるのは、貴方の努力次第という訳です』

「努めよう」

 

 フッと薄い唇で半月を描く紫音。

 

「さあ……真の名を、今一度唱えてみてくれ」

『はい。私の名は―――』

 

 差し出された紫音の細い手を取った斬魄刀は、百花繚乱の如く眩い輝きを見せる夜空の下、自身の名を唱える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――『朧村正(おぼろむらまさ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不確かな妖の刀。

 それこそが、柊紫音が斬魄刀の名。

 



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九話

 

 時は過ぎ、真央霊術院第三回生の冬を終えた。

 

「ふぅ……」

 

 紫煙を燻らせる紫音は、火皿に入った煙草の灰を煙草盆に捨てて、夜空に浮かぶ朧月を眺める。

 大人ぶりたいという理由で始めた煙管も、いつのまにやら習慣のように一日の終わりに吸うようになってきてしまっていた。麻薬に溺れる者も、最初は興味本位で始めて、最終的には薬無しでは生きられないようになっていくのだろうか。そんなことを思いつつ、黒檀性の煙管を煙草盆の傍に置いて、ボーっとする。

 

『煙管は程々にお願いしますよ』

「……そうだな」

 

 ふと、近くに立てかけている斬魄刀から声が聞こえてくる。スッと横を一瞥すれば、精神世界同様の姿をした朧村正が、縁側に腰掛けているではないか。

 『具象化』ではない。しかし、しっかりと此方側の世界に彼女の姿は見えるのだ。

 ブツブツと小言を口にする彼女の話も程々に、懐にしまっていたある物を取り出す紫音。

 

『……またそれですか?』

「別にいいだろう」

 

 呆れたような色を見せる朧村正を一瞥した紫音は、取り出した手甲を徐に嵌める。紫黒色の生地に、金糸で朽木家の家紋が刺繍された、如何にも高級そうな一品だ。

 鬼道衆への入隊が決まり、初仕事への昂ぶりもほどほどに家で休息していた紫音の下にやって来たのは、朽木家の従者である清家信恒。これまた高そうな木箱を携えてやって来た彼は、『本当は白哉様がいらっしゃるご予定だったのですが……』と苦心に満ちた表情を浮かべながら、白哉から預かってきた手甲を差し出してきた。

 

 余程、紫音の初仕事までに間に合わせたかったのだろう。それほど大切な物であれば、此方で時間を作るのにと告げれば、どうやら白哉は単独での現世駐在任務に向かったようだ。

 それでは流石に時間をとっても訪れることは叶わなかっただろう。少々運が悪かったのだと諦めつつ、贈り物に関してはしっかりと喜んで受け取った。

 だが、朽木家の家紋が入っていることに訝しげな表情を浮かべた紫音が清家に問いかければ、

 

『ご当主様が家紋を刻むよう、御指示なされました』と一言。

 

 つまり、銀嶺が朽木家の家紋の刺繍を入れる様提言したという訳か。中々粋な計らいをしてくれるものだと思いつつ受け取った手甲は、それは見事な完成度であった。

 

「大事にせねばな」

『御祖父さんの贈り物だから?』

「……家紋についてはな。だがしかし、銀嶺殿は少々祝い下手か。いや、白哉もか」

 

 任務がひと段落してから渡せば、直接祝儀を渡すことができたものを。装飾品は是非初日から着けていってほしいという考えも分からなくはないが、従者に頼んでまで渡しに来るほどなのだろうか。

 銀嶺に関しても、一応孫の卒業&入隊祝儀に、直系の孫の贈り物に家紋を付与するという、かなり遠回しな祝いの仕方。呆れて溜め息が出そうだ。

 

(朽木家の者は祝い下手な家系なのか?)

 

 自分もその血を受け継いでいることは、思考の蚊帳の外。

 しかし、朽木家の身内のものへ対する不器用さは、かなりのものではないだろうか。

 

「遠回しに祝われるよりも、面と向かって祝って欲しいというのが人情だろう。身内なら尚更」

『ですが、白哉には自分が従兄弟だというのを明かしていないのでしょう?』

「ああ。時期が来たら話すさ」

 

 とは言うものの、実際のところは話そうか話すまいかで悩む。

 どちらにせよ、言ったところで白哉は自分に対する態度を変える事は無い筈だ。もし変えたとすれば、それは白哉がそれまでの人間だったということ。

 一応、自分の友にはそれなりの信頼を置いているつもりだ。

 

『始解もお披露目していませんし、今度会う時が楽しみですね』

「私と白哉の始解の練度の程度は、天と地ほどの差がある。今、鍛錬の相手をしてもいいようにあしらわれるのが関の山だ」

『本当ですか?』

「何事にも相性というものはある。朧村正(其方)千本桜(彼奴)と相性が悪いだろう」

『御戯れを。鍛えれば、千本桜にも匹敵はするでしょうに』

 

 クツクツと笑う朧村正に、紫音も妖しい笑みを浮かべて『そうなりたいな』と願望を口にする。

 

「だが、地力に差があるのは事実だ。私がのうのうと霊術院に通っている間、白哉は何度実戦経験を積んだだろうか」

『さあ、私には量りかねます』

「そうか……」

『ですが、『のうのうと』と言う割には、呑気に一年中本を読んでいたじゃないですか』

「お蔭さまで、真央図書館の名誉会員になれた。良い思い出だ」

『おヒマな方』

「わざわざ時間を作って一千冊読破したのだ。褒めて欲しいものだ」

 

 真央図書館において、卒業した年に一千冊貸出した者に与えられる称号を手に入れた紫音。八番隊の平隊士である七緒に続く快挙であり、実は一度八番隊から勧誘を受けた。更には、回道の成績も同期の中では優秀な方であった為、四番隊―――さらには、体調の優れない隊長の付き人として十三番隊にも勧誘されたのだ。だが、一度恩師に『鬼道衆に入る』と言った手前、今更他の隊に入るなど口が裂けても言えることではない。恩を蔑ろにしてはいけないことを丁重に説明すれば、勧誘に来た者達は素直に引いてくれたことが幸いだっただろうか。

 

『あれだけ自分を平凡とのたまっていたのに、随分と成りあがったではありませんか』

「己に言い聞かせて奮い立たせていたのだ。非凡な者の指導を受けたのであれば、それなりには腕を付けねばなるまい」

『そうですか』

 

 嬉しそうに微笑む朧村正。主人が力を付けていくことを残念がる斬魄刀は居ないだろうが、過去が過去だ。彼女にとっては、少しだけ心配な部分もあるのだろう。己の力だけを過信しすぎた故に、自分の声が主に届かなくなるのではないか、と。

 しかし、幸いにも才能は母親似だったのだろう。比較的“真血”にしては緩やかな力の成長だ。慢心することなく、力を持つ者としての心意気を忘れなければ、決して自分を見失うことはないだろう。

 

「……どうしたのだ。そんなにも辛気臭い顔をして」

『……いいえ、なんでもありません』

 

 顔に出てしまっていたようだ。

 表情を取り繕う朧村正を一瞥し、よからぬことでも考えていたのかと邪推する紫音であったが、フワリと薫ってくる春風に思わず振り返った。

 僅かながらに温もりを感じる風は、これから訪れる花の季節を予感させるものである。この、母の温もりのような風に撫でられて、草木は揺り起こされていくのだろう。

 そんなことを思っていると、庭で咲いている梅の花弁が一枚、ヒラリと紫音の目の前に踊り落ちてくる。

 

「……もうすぐ、桜も咲くころか」

『ええ』

「花見でも行きたいな」

『誰とです?』

「誰かと」

『答えになっていませんよ』

「問いに絶対答えなければいけないと、誰かが決めたか?」

『いいえ』

「だろう? それに……曖昧な方が、人間楽に生きていける」

 

 ぼんやりと朧月を眺める紫音は、そう言って目を細めるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 晴れて下っ端の鬼道衆となった紫音。しかし、彼が腰に携えている斬魄刀を見るや否や、先達たちは目の色を変えて様々な仕事を紫音に押しつけてきた。

 各所の結界の点検、書類整理、怪我人に対しての回道の処置、果ては菓子や茶葉の買い出しなどの雑用に至るまで。

 

(これが俗にいう新人いびりか)

 

 最初はこう考えていたが、先達の炎が点っているかのような熱い瞳に気付き、徐々に考えを改めていく。

 

「皆さん、紫音サンに期待しているんデスよ」

 

 休憩時間に茶を淹れて差し出した時、鉢玄は柔和な笑みを浮かべてそう言ってくれた。

 始解を会得して尚、鬼道衆に入った紫音に鬼道衆が抱いているのは“期待”。鬼道はまだまだ先達には敵わないものの、それを補完するかのように習得している鬼道。紫音が初めこそ真面な技術だけを鍛えようとした結果、鬼道一片妥当の鬼道衆において紫音は皆無に等しい斬拳走鬼のバランスがとれた人材に育ったのだ。

 五十年も真面目に鍛えれば、護廷隊の副隊長には確実に就ける才。それを腐らせてはいかんとばかりに、先達は気合いが入っていたらしい。

 

 有難いといえば有難い心遣いだが、少々気合いが入り過ぎではないかと思うこともしばしば。

 

 最近は終業後にみっちりと六十番台の鬼道を詠唱破棄できるようしごかれている。紫音は霊術院時代、辛うじて五十番台を詠唱破棄できる腕前だった。そこから更に六十番台を詠唱破棄となると、毎日精魂抜かれた表情となって帰宅することが多くなり、屋敷の者達には心配される。

 余りにも心配した侍女が、わざわざ流魂街に赴いてマムシ酒を買ってきてくれたほどだが、仕事の疲れとマムシ酒の味で多量摂取することができず、思ったような効能は出てこない。

 

「これは……慣れるしかあるまい」

『ええ、そうですね』

 

 激務と疲労で刃禅を組むことも叶わなくなった際、わざわざ朧村正が赴いて激励を送って来てくれたこともある。

 毎日疲れ切って布団に入れば熟睡ばかり。浅い眠りにはここ最近ついた覚えはなく、夢も見た覚えがない。

 

「ふぁあ……今日はこのくらいにしなければ、明日に響くな」

『ええ。今日の所は早く床につくことを勧めますよ』

 

 斬魄刀の勧めもあってか、紫音は煙管一式をチャッチャと片付け始めて、眠りにつく用意を始める。元より寝る直前であった為、簪ではなく髪紐で纏め上げられた長髪を靡かせる後ろ姿の様は、まさに女性そのものであった。

 朧月の今夜。

その後ろ姿と夜の様はやけにお似合いだった。

 

 

 

***

 

 

 

「なに? 槍の使い手だと?」

「うむ。知り合いに居ないだろうか」

 

 紫音が鬼道衆に入ってから、漸く白哉の休みと被った時、二人は六番区の団子屋で茶を飲みながら談話していた。

 手甲の礼もほどほどに団子と茶を食べ進めていた二人であったが、徐に紫音が『そうだ』と手を叩いて白哉に問いかけたのが『槍の使い手を教えて欲しい』とのことであったのだ。

 暫し顎に手を当てて思慮を巡らす白哉は、何やら少々苦々しい顔になったものの、心当たりがあったようで口を開いた。

 

「……一人だけならば」

「おお、そうか! よいのならば、是非とも紹介してほしいのだが……」

「それより、兄の斬魄刀は槍なのか?」

「む? ああ、そうだ。所謂、千鳥槍の体をしている」

「……私の知っている人物の槍は三叉戟なのだが、それでもよいのか?」

「長物の扱いに精通しているという点では問題なかろう?」

「ううむ……」

 

 何故だか紹介を渋っている様子の白哉。

 

「……どうした、白哉。その者が苦手なのか?」

「苦手といえば苦手……かもしれぬ。化け猫に性分が似ているからな」

「奔放ということか?」

「まあ……そうなるな」

 

 成程。白哉が最も苦手とする人種―――奔放さが売りの人物ということは、確かに彼が会いに行くのを渋るのが分かるというものだ。だが、四楓院夜一という人物から、奔放な人間は総じて快活、且つ人当りが良いという印象を抱いている紫音からすれば、その白哉の知り得る槍の使い手とも手早く打ち解けることができるのではないかと、『好都合』といった表情を浮かべている。

 紫音の斬魄刀『朧村正』は、千鳥槍という長物。長物を扱う人物は、鬼道衆の中には勿論居らず、紫音が教えを望んでいたところだった。真央図書館にも通いつめ、槍の扱い方について学んでいたが、己一人だけでは程度が知れている。矢張り、実際に槍を扱う人物に教えてもらうことが一番だと考え、今日に至っているのだが―――。

 

「それで名は? 護廷隊なのか?」

「……志波海燕。十三番隊所属だ」

「十三番隊……浮竹十四郎十三番隊長が長の部隊か。それより志波とは……あの花火師の志波家なのか?」

「ああ。あの没落貴族だ」

 

 遠慮もなしにズバッと言い切る白哉に、流石の紫音も頬を引き攣らせる。『余り他人の悪口を言うものじゃあない』と注意しつつ、早速と言わんばかりに腰を上げた。

 

「今から向かえば昼休憩の頃には着くだろう」

「……行くのか?」

「駄目なのか?」

「……相分かった」

 

 不承不承といった様子であるが、なんとか十三番隊舎に行くつもりになってくれた白哉。

 その様子を見て、嬉しそうに目を細める紫音は紹介賃程度に、二人分の団子の金を払ってから、そそくさと店の外に出る。

 

「む……そうだ。折角ならば、斬魄刀も携えていった方が良いと思うのだが、白哉はどう思う?」

 

 後から続いて店から出てくる白哉に、斬魄刀を持っていくか否かを問う紫音。非番であった二人は、斬魄刀を家に置いて来ている。今日が二人で鍛錬する予定であれば話は別であっただろうが、『未だ仕事に慣れず疲弊している私を席官の其方と戦わせ、過労で殺すつもりか』と紫音が嘆願した故に、今日は談話だけの予定だったのだ。

 だというのにも拘わらず、わざわざ遠い十三番隊舎まで赴こうとする友人に、白哉の溜め息が収まる気配はない。

 

「……持っていけばいいのではないか?」

「そうか。ならば少し此処で待っていてくれ。直ぐに屋敷まで戻る」

 

 ビュっと風切り音が響くと、紫音の姿は白哉の目の前から消え失せる。白哉にしてみれば遅い方だが、紫音も確りと瞬歩を使えるようだ。飛び級で卒業したのだから、当たり前と言われれば当たり前かもしれないが、会った当初の女のような貧弱な体つきを思い返せば、よく成長したものだと思う。

 

「何様だ、其方は」

「心を読むな」

 

 ちょうど帰ってきた紫音。瞬歩にしても早過ぎると思うかもしれないが、元よりこの団子屋が柊邸宅とさほど離れていないのだ。このくらいの時間が妥当だろう。

 女物の羽織の裾の陰には、円に三つの突起が付いたような鍔の斬魄刀が見える。鬼道衆の紋に似ている鍔は、見れば見るほど彼が鬼道衆に入ることが決定付けられていたことではないかと錯覚してしまう。

 だが、実際の能力のところは白哉もまだ知らない―――というよりも、紫音がはぐらかして教えてくれないのだ。

 

(良い機会かもしれぬ。志波海燕のことだ。彼奴は紫音に一度始解を見せるよう口に出すだろう)

 

 海燕という男の性格を考慮すると、よほど不敬な態度を見せない限り、教えを乞う者を蔑ろにするような扱いはしないだろう。となると、紫音が海燕の槍の扱いを教示されるのは決定されている。そして、槍の扱い故に封印状態―――刀剣の状態で教えるような真似はしないだろう。

 つまり、必然的に紫音の始解を目の当たりにできるという訳だ。

 

 紫音の性格を考えるに、『朧村正』とやらが只の直接攻撃系の斬魄刀ではないことは明らか。鬼道系の斬魄刀のように、何かしらの特性が付与されているのは目に見えている。

 炎熱系か、はたまた流水系か。他にも氷雪系に幻覚系など、十人十色なのが斬魄刀の長所。

 白哉の『千本桜』は、一応直接攻撃系に分類される斬魄刀。しかし、刀身が分裂して遠距離より攻撃できる様より、『鬼道系寄りの直接攻撃系』と揶揄されることもしばしば。

 

 友の斬魄刀が如何なるものかという妄想は止まることがない。

 

 

 

 そして白哉が実際に目の当たりにした朧村正の能力は如何に―――。

 



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十話

 

「海燕。お前さんに客が来てるぞ?」

「え? 俺にっすか?」

 

 昼休憩の時間帯、モッシャモッシャと握り飯を頬張っていた十三番隊士である志波海燕は、先輩である死神に名を呼ばれて立ち上がる。海燕は、入隊してまだ数年ではあるが席官の地位に就いている実力者だ。霊術院時代には、護廷十三隊副官補佐レベルである“六等霊威”の霊力を有していた。既に始解も会得しており、これからが期待される大型新人と言ったところの人材である。

 墜天の崩れ渦潮の紋が刻まれている左腕の方の袖を捲し上げ、訝しげな表情を浮かべながら部屋から出る海燕。

 

 今日は誰とも予定は無かった筈だと考えながら、先輩である上官が顎で指す方向に顔を向ける。

 

「お、朽木の坊主じゃねえか」

「……名で呼べ。志波海燕」

 

 しかめっ面で佇む白哉の姿を目の当たりにし、『コイツが自分の下を訪れるとは珍しいこともあるものだ』と、呑気に頬をポリポリと掻く。

 

「見たところ非番か? なんだって俺のところに……」

「兄を紹介しろとせがむ男が居るのだ」

「俺を?」

「ああ、私の後ろに」

「……居ねえように見えるが」

「なに?」

 

 振り返った白哉は、誰一人居ない廊下を視界に納め、眉を顰める。

 

「……隠れていないで出て来い」

「相分かった」

「うぉおう!? なんだ、『曲光(きょっこう)』か?」

 

 ヌッと突然現れた中性的な外見の人物に、思わず瞠目する海燕。それが縛道の二十六・『曲光』であることをすぐに理解したのは、流石といったところだろう。

 女物の羽織を靡かせ、梅の花が描かれている簪で髪をまとめる少年の『曲光』に感心する海燕であったが、その少年がスッと白哉の後ろから歩み出て右手を差し出してくる。

 

「鬼道衆の柊紫音と申します」

「おお、そうか。俺は十三番隊士の志波海燕だ。だけど、なんだって俺の所に?」

「其方が優れた槍術の使い手だとお聞きして」

「俺がか? 誰にだ?」

「白哉にです」

「ほーん……」

 

 紫音の言葉に、ニヤニヤとした笑みを白哉の方に向ける。当の本人はというと、海燕の顔を直視しないように日和見に徹しているが、自身が海燕を紹介したという事実を追及されたくないが故の行動だということはすぐに理解できた。

 一応、自分のことが認められているということに気分を良くした海燕は、溌剌とした様子で紫音との握手を交わす。

 手の甲の肌は女のように白く滑らかだが、手の平には強く物を握った痕である堅い肉刺の感触が伝わる。

 

 見た目と違い、中々の男らしさを感じさせる掌だ。

 

「俺に槍の使い方を教えてほしいのか?」

「はい。私の斬魄刀も槍の形をしているので、ここは先達の業を見て自分のものにしたいと」

「いい意気だな。俺も他人にあーだこーだ言えるほど、槍の使い方が上手い訳でもねえが……まあ、俺に出来る範囲だったら頑張ってみるぜ!」

「誠に有難う御座います、志波海燕殿」

「あー、堅っ苦しいな……もうちょい砕いた感じでいいぞ?」

「それでは、『海燕殿』は如何でしょうか?」

「う~ん……変わってねえ感じもするがぁ……」

 

 チラッと紫音の腰に差されている斬魄刀を一瞥する海燕。

 実際に見せることができるように持ってきたのだろう。殊勝な心意気だと感心しながら、ニッと白い歯を見せる様に笑ってみせた。

 

「まあ、ちょっと待ってろ! ここでくっちゃべっても仕方ねえしな。浮竹隊長の所に行って、隊舎裏の修行場開いてもらうように言ってくるわ!」

 

 ひらりと手を靡かせて、廊下を軽快な足取りで掛けていく海燕。その後ろ姿を柔和な笑みを浮かべながら見届けた紫音は、未だに日和見に徹している白哉の方に顔を向ける。

 

「中々快活な方だったな」

「……知っている」

「一体どこが苦手なのだ?」

「昔、よく揶揄われたのだ」

 

 ブツブツと呟くように海燕を苦手とする所以を話す白哉。どうにも揶揄い癖のある人物は苦手な様子の白哉だが、となると自分も苦手な人物のリストに載っているのではないかと、紫音は一瞬不安になる。だが、今更だからどうということはないだろうと、すぐさまその推測は脳を片隅の方へ追いやった。

 今は大分落ち着いてきたが、彼は感情的で良くも悪くも真面目。元来、他人を嘲るような態度の人物は得意としないのだろう。

 

(まあ、単に言い包められ易いから、面倒で相手をしたくないというのも考えられるがな)

 

 口喧嘩では、白哉に軍配が上がり辛い。

 口が達者な人物とも相性が悪いのも、彼の弱点といったところか。だからこそ、歳を重ねるごとに口数が減っていく。友人として少しさみしい部分ではあるが、そこは友人らしくそれなりの期間を共にして得た感覚で彼の心情を読み取ろうではないか。

 そんなことを考えること数分、行楽気分かと疑うような様子の海燕が二人の下に戻ってきた。

 

「おう、待たせたな! 勝手に使ってくれて大丈夫だとよ! 早速行こうぜ!」

「有難う御座います。ですが、わざわざ場所をとって頂いたのであればお礼を……」

「悪い。浮竹隊長は体の調子がな……紫音の礼なら、俺が代わりに伝えておくからよ」

「そうですか」

 

 一度、十三番隊に勧誘されたときのことを思いだす。普段、具合の悪いと言われる浮竹には、回道に優れている付き人を欲しているらしいことから、余程の虚弱体質か何かか。

 だが、隊長ともある地位から、その虚弱体質を差し引いても凄まじい力を有しているのだろう。妄想はどんどん膨らんでいく。

 しかし、折角隊舎裏修行場を借りてくれた海燕の厚意を無下にする訳にもいかない。非番の紫音たちとは違い、海燕は昼休憩中なのだから時間を無駄にはできないと、修行場に案内してくれる海燕の後を追いかけていく紫音。その後ろに、先程とは打って変わって凛とした佇まいの白哉が付いてくる。

 

(もう少しでお披露目か、朧村正)

 

 振り返ると同時に、自分の斬魄刀に触れる。

 『千本桜』は見せてもらったことがあるが、彼に自身の斬魄刀を見せた覚えはない。あっさりと能力を伝えては、なんの面白みもないという考えからだ。

 流石に現場で虚と対峙している時に―――というのは無理であったが、相手が護廷隊の席官であれば相手にとって不足は無い。というよりも、此方側が本気でやらなければ怪我をしてしまうのではないかと、若干心配している部分もある。

 なにせ、槍術は未だからっきしなのだ。振り回すだけなら得意だが、戦闘ともなれば話は別。だからこそ、海燕の下に訪れたのだ。

 

(恩に報いる演出は視せてみせようぞ、白哉)

 

 背後に付く白哉に妖しい笑みを投げかけながら、紫音は修行場へ向かう。

 

 

 

 ***

 

 

 

「よーし、着いたな!」

 

 隊舎裏修行場。修行場とは名ばかりの平原ではあるが、遠慮なしに攻防を繰り広げるには十分な場所だ。春に行楽にでもくれば、大勢の人間が共に杯を酌み交わせるのではないかとも考えるが、今はそんな場合ではない。

 スッと斬魄刀を抜いて、杖代わりに地面に鋒を付ける海燕。

 

「そんで?」

「……はい?」

 

 突然の海燕の問いに首を傾げる紫音。

 

「おおっ、悪ぃ。俺の斬魄刀のこと、槍だってこと以外に何か知ってるのかって訊きたかったんだよ」

「いいえ。生憎……」

 

 チラリと丘の方で腰を掛けている白哉に瞳を向ける。

 紫音の目線に対し、プイッと顔を背けることから、『伝え忘れた』とでも思っているのだろう。

 

 一方海燕は、『そうか』と簡単に応答した後に斬魄刀を構え、クルリと刀身で円を描くように斬魄刀を回し始める。中々独特な刀捌きに紫音は、これから『闐嵐』でも放つのではないかと身構えた。

 しかし海燕は、ヘラヘラと笑って紫音を宥める。

 

「まあ待てって。知らねえなら、今から解放してみせるからよ」

「はい、ではどうぞ……」

 

 どうやらこれから始解を実際に見せる様子の海燕に、紫音はその場から一歩下がってみせる。

 次の瞬間、真剣な面持ちになった海燕が今迄で一番勢いよく斬魄刀を回して見せた。

 

 

 

「水天逆巻け―――『捩花(ねじばな)』」

 

 

 

 ザァ、と波打つ音が響いてくる。刹那、海燕の斬魄刀がどこからともなく現れた透き通った水に覆われていく。次第に淡い水色に包まれる斬魄刀は、次第に長さを増していき、数秒後には海燕の身長を超すほどになる。

 直後、パンッと水が弾ければ、刀身と柄の根元から瑠璃紺の毛を靡かせる、一本の三叉戟が姿を現した。

 

「こいつが俺の斬魄刀の『捩花』! 流水系の斬魄刀で、コイツから出る水で相手を粉砕、圧殺するっつー能力だ」

「成程」

「それで、紫音の斬魄刀は?」

 

 手を伸ばして、紫音に始解するように促す海燕。

 それを目の当たりにした紫音は、着ていた羽織を脱ぎ捨てて斬魄刀に手を掛ける。紫黒色の柄を握り、滑らかに刀身を抜いた。銀の刀身は、雲一つない澄み渡る空の光景をその身に映し取っている。未だかつて血を浴びたことのない刀身は、錆び、欠けた様子は一切感じられない。元より斬魄刀は所有者の霊力で直る代物である為、余程手入れを怠っていない限り錆びることはないのだが。

 兎も角、朧村正を抜身にした紫音は、クスりと一笑。薄い唇で上限の月を描くように妖艶な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(あや)かせ―――『朧村正(おぼろむらまさ)』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬、紫音が手に握る斬魄刀に靄がかかる。するといつのまにやら一本の日本刀が、不気味な雰囲気を醸し出す千鳥槍に変貌したではないか。

 一見、何の変哲もない槍なのだが―――。

 

(なんだ? なんかソコに槍が無えみたいな……)

「海燕殿。解放はしましたが、これからは一体何をするのでしょうか?」

「ん? ……お、おう。軽く打ち合ってみるか」

「分かりました。では……いざ!」

「おう、掛かってこい!」

 

 脱兎のごとく駆け出す紫音は、瞬歩で海燕の懐に肉迫する。

 長物である槍だが、刀身の部分は封印状態の時よりも短くなっている。的確に刀身で相手を捉える技術が必要な槍術であるが、槍同士の戦いともなると、刀との戦いとは一味違ってくるのだ。

 

 木製の部分が幾度となく激突する音が修行場に響く。時折、鋼の部分がぶつかり甲高い音が天高く響き渡るが、それ以外は鈍い音だけだ。

 紫音の必死の攻撃を、海燕が上手くいなしている。刺突を縦や横に薙いだり、時折持ち手の方を振り回してくるという攻撃には、縛道の八・『斥』で弾くように防ぐ。

 猛攻、と評するべき攻撃。

 しかし、

 

「軽ぃな!」

「むっ……!?」

 

 海燕が横に一薙ぎ。

 すると、その一撃を前に槍を縦にして防いだ紫音が、膂力の差を前に後ろに弾き飛ばされてしまう。だが、途中でクルリととんぼ返りした紫音が、朧村正の鋒を地面に突き立てるようにして衝撃を和らげて着地する。

 曲芸かなにかかと疑ってしまうかのような身のこなしだ。

 だが、何かに気が付いた海燕が、『う~ん』と唸りながら紫音の下まで歩み寄ってくる。

 

「あ~、なんか言い辛いんだけどよ……俺と紫音の槍術は別物かもしれねな」

「と、言うと?」

「俺は捩花を、手首を軸にして回す感じで使ってんだ」

「道理で中々独特な槍術だと思いました」

「だろ? 言い換えりゃあ、俺は捩花っつー槍を扱う為にこんな感じの扱い方になってるんだよ。それに比べて紫音の槍術は、教本通りっつーか……」

「実際、教本を頼りに鍛錬を積んでおります」

「そうなのか? まあ、つまるところよぉ……俺の槍術を参考にしても、紫音の役に立たねえ気がしてよ」

 

 苦笑を浮かべる海燕。

 彼は、自身の斬魄刀・『捩花』の能力を最大限に生かすための槍術を独自で身に着けている。元より自身の魂を映しだした刀―――もとい、槍を扱っているのだ。そうなるのは自然というものだが、ここで決定的な問題が発生する。

 『何にでもなれる最強の斬魄刀』が進化した先は、所有者の唯一無二の斬魄刀。その斬魄刀の最大限に扱える槍術を真似したところで、他人の“唯一無二”が最大限に扱える訳ではないということだ。

 

 流水の如く、流れるように麗しく

 

 それが捩花の能力を生かす槍術だ。

 

「せめて、お前の斬魄刀の能力が知れたら助言できんだけどよ……」

「ならば視せましょう……少し」

「お? 後ろに下がればいいのか?」

 

 押し出すような挙動を見せて海燕に下がるようジェスチャーで伝える。

 五メートルほどの距離をとった所で、紫音は朧村正の柄尻を地面に付けて瞼を閉じた。これから何が始まるのだろうと、海燕のみならず白哉も目を凝らして紫音を見続ける。

 

(……ん?)

 

 声には出さず、地面を見下ろす海燕。

 

「おおっ!?」

 

 次の瞬間、頓狂な声を上げて飛び上がる。

 彼が目にした光景とは、修行場の地面が大きくひび割れていく、その罅から絶え間なく溶岩が溢れ出してくるという、見るだけで汗がにじみ出るような光景だ。

 ぐつぐつと煮えたぎる―――燃え盛る溶岩を前に、じっとりと額に汗を滲ませる海燕。

 溶岩など実際に見たことは一度たりともないが、噴き出す溶岩に纏わりつく炎。周囲を赤々と照らし上げる様を実感出来れば、それが“溶岩”と認識できていなくとも“脅威”であることは容易に想像できた。

 

 と、思っている内に溢れ出す溶岩が自身の足元に迫ってくるではないか。

 迫りくる溶岩に、海燕が流す汗の量も桁違いに増える。

 

「これはっ……ヤベー奴だろ!」

 

 次の瞬間、海燕は反射的に捩花を振るって波濤を溶岩目がけて繰り出した。煮えたぎった岩の塊を休息に冷やしていく、途轍もない量の激流。

 近くに滝でも流れているのではないかと錯覚してしまうほどの波濤を繰り出せば、溶岩は瞬く間に冷えていき―――。

 

「……お?」

 

 一かけらも残らずに消え失せた。

 余りに突然のことに、海燕は呆けた様子で地面を見続ける。

 しかし、前方でピチョピチョと水滴が滴る音が聞こえてくることに気付き、バッと顔を振り上げた。

 海燕の視界に映ったのは、簪で纏め上げた髪も下りて、全身ずぶ濡れの紫音の姿。着物が着崩れて鎖骨が露わになるなど、女性であればかなり危うげな姿だ。

 

「悪ぃっ!!」

「……いえ、今のは私に非があったでしょう」

 

 すぐさま手を合わせて謝る海燕に対し、紫音は至って冷静だ。まさに頭を冷やした状態の紫音は、自身の着物の裾を掴み、海燕の波濤によってびしょびしょとなった着物から水分を絞る。

 そこへ紫音の簪を片手に白哉がやってきて、ずぶ濡れとなった友人を憐れみの瞳で見つめながら、少しでも乾くようにと威力を調整した『赤火砲(しゃっかほう)』を掌の中に放つ。『済まぬ』と言って簪を受け取る紫音は、大急ぎでやって来た海燕の手拭いを受け取りながら、着物を絞り続ける。

 

「……紫音。兄は何をしたのだ?」

「なにって白哉。お前見えなかったのか?」

「私は紫音に訊いているのだ。私には、兄が地面を見て情けなく慌てふためいて波濤を繰り出し、それを真面に受けた紫音が濡れた光景しか見えなかった」

「はぁ!? お前、あのヤバいのが見えてなかったのかぁ!?」

「……だからなんだ、それは? 私にはなにも見えなかったぞ」

 

 当事者を挟むようにして口論する海燕と白哉。何やら、視えていた光景に相違があるようだ。

 

「まあ白哉、待て。海燕殿もです。私の斬魄刀の能力を聞けば、自ずと解は分かるでしょう」

 

 二人の間に割り入って宥める紫音は、ピッと右手の人差し指を立てる。

 その様子に、二人は口論を止めて固唾を飲み、紫音の続く言葉を待つ。海燕には溶岩が大地から溢れるように見えさせ、白哉には一切の“変化”を見せなかった朧村正の力とは―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「簡潔に言いましょう。『相手に幻覚を見せる』―――それが『朧村正』の能力です」

 



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十一話

 斬魄刀『朧村正』。

 解放すれば、刀剣が千鳥槍の形状に変化するほかに、相手に幻覚を見せるという能力を有している。

 ただ、その発動条件には相手に自身の霊圧を送り込むという過程を経なければいけない上に、紫音が頭に思い浮かべる想像を映し出すが故に、所有者の集中力が途切れてしまえば幻覚もまた無に帰す。

 

 言うなれば、『幻滅する』といったところか。

 

 一見、相手の近くの主導権を握れるということにアドバンテージだと考える者も居るだろうが、あくまでそれは戦闘中常に余裕を覚えることができる状態であることが必須である。故に、未だ実戦経験が無い紫音にとっては『無用の長物』とまではいかないまでも、今は扱い切れるものではない。

 更に、能力はあくまで幻覚を見せるだけ。直接的な殺傷能力は皆無だ。つまり攻撃は紫音の手によって行わなければならない。

 

 そして大きな弱点が一つ。

 というよりも、幻覚を見せる類いの能力に通ずるものであるが、無差別な全方位攻撃で突破される可能性があるということだ。

 

「つまり、其方の千本桜を適当に振り回していれば、隠れている私を斬り裂くことも可能という訳だ」

「……成程」

 

 端的な説明を耳にしていた白哉は、漸く耳にした友の斬魄刀の能力に頷く。

 紫音らしいと言えば紫音らしい斬魄刀だが、扱うには己が千本桜を扱うのにかかった時間よりも多くの時間を掛けなければいけないという印象を受ける。

 

「まあ、無知の虚であれば鬼道で戦った方が早いというのが私の感じていることだ」

「難しい能力(チカラ)だな」

「まあ時間の問題だろう。斬魄刀というのはそういう物ではないのか?」

 

 やけにあっけらかんとした態度で応えてくる紫音。

 そこまで悩んではいなさそうだ。ならば結構と、白哉は息を吐く。

 

 海燕の『捩花』による波濤を喰らってずぶ濡れになった後、昼休憩中には乾かなかった為に、未だこうして隊舎裏修行場の丘の上で日和見がてら服を天日干しにしている紫音。

今は上衣を青々と生い茂る草むらの上に広げている。あと十分も経てば乾く事だろう。そうなるまでの間、紫音は半裸に羽織を羽織るという、まだこの季節には寒そうな恰好になっているが、延々と掌に灯している『赤火砲』で暖をとっていた。

 

本人曰く、鬼道は日常生活でも使えることから非常に便利らしい。

 一つの家の当主とは思えない庶民的な考えだが、敢てツッコまない。

 

 それは兎も角、鞘に納めた斬魄刀を手に握る紫音は、項垂れる様な様子で自身の斬魄刀を凝視する。

 

「……だが、少しばかり羨ましいな」

「なに?」

「其方はすぐに千本桜を扱えたのだろう?」

「……すぐに斬魄刀を扱える程、私は器用ではない」

「それもそうか」

 

 椅子に座っていたならば、『ガタッ』と音を立てて腰を上げていたところだっただろう。

 多少不器用なのは自覚しているが、他人に言われるとなるとどうにも腑に落ちない。しかし、いつもの揶揄い癖だと結論付けて、何とか草の上に腰を下ろす。

 その様子を見てクツクツと笑う紫音は、青空を仰ぎながら言葉を続ける。

 

「其方は天才だ。誰もがそれを認めるだろう」

「……私はそんな―――」

「本人がどう思おうと、客観的に見た場合はそうなるのだ。其方の露ばかりの努力は、他人の必死の努力を容易く上回るのだろうな」

「それは……」

「済まない。気を悪くしないで聞いてくれ。ただ、人には誰の所為でもない不平等というのがあるのだ。それが世の常だと言ってもいい」

 

 綴られていく友の言葉に、思わず言葉を喉に詰まらせる白哉。

 なんとなしに気まずい空気になってしまい、スッと視線をずらす白哉に対し、紫音は笑みを浮かべたままだ。

 

「其方は才に恵まれている。私は其方よりも才は劣っている。だがな、私はそれを言い訳にして、其方の背中ばかりを追っていたくはない」

「……なに?」

「言い訳は見苦しいだけだろう?」

 

 反射的に顔を上げた白哉の瞳に映ったのは、空で燦々と輝く太陽のように晴々とした笑みを浮かべる紫音の顔だ。

もっと、陰鬱な顔を浮かべているとばかり思っていた。だが、実際は先程昼休憩が終わって去って行った海燕を彷彿とさせる快活な笑みだ。

 

「私は面倒な性格でな。自身の才を肯定されたく、挙句否定もされたい矛盾を抱えているのだ。『お前は所詮その程度』と罵られる一方で、『お前はまだ高みを目指せる』と擁護されたい」

「そうなのか?」

「人間、程々に叱咤激励されたいというものなのだ」

「……人間らしくていいではないか」

「……其方もそういう事を言うのだな」

「変か?」

「それも人間らしくていいだろう」

「……ふっ」

「ほう、其方の笑うなど珍しいな。明日は雨でも降るのではないか?」

 

 だんだん話を可笑しく思えてきた白哉が一笑すれば、すかさずそれを紫音が揶揄う。

 一重に『人間らしい』と言っても、実際は非常に難しいものだ。感性も才能も人それぞれ。立場を同一として見ることも非常に難しいものでもあり、ある者にとって些細な一言は、他人の心を抉る言葉になり得る。

 

 人間は、なまじ知性を持ったが故に懐疑心渦巻く社会の中で生きていく。時には疑心暗鬼になり過ぎて人間不信に陥り、時にはある存在を盲信してしまう。

 どうにも複雑なこの世界。他人を思いやろうと思おうものなら、自身の心労がかさ張っていくばかりだ。

 独りで生きていくには少々草臥れ易い世の中であるが、せめてもの救いは、愚痴を零せる相手が居るということだろう。

 

「雨でも構わぬだろう」

「そうか。う~む……春雨の日に咲き誇る傘の華。これもまた一興だな」

「……よく毎度そのようなコトが頭に浮かぶな」

「寝る前に妄想を奔らせるのが日課だからな。想像力を鍛える一環だ」

 

 斬魄刀を掲げる紫音は、真面目なのかそうでないのか分からないような声色で告げる。

 

「……その気になれば、真冬に満開の桜を咲かせることもできそうだな。兄の斬魄刀は」

「ああ、そうだな。それも面白いな。だが、私は頂けないな」

「なに?」

「花見をするなら本物に限る、ということだ」

「……良く分からぬな」

「其方が粋でないだけだ」

 

 指を慣らすようにして掌中の『赤火砲』を霧散させ、乾かした上衣をさっさと着込む紫音は、『そうだ』と一声上げて白哉に問いかける。

 

「其方、女の肉親は?」

「……母上も婆様も、私の物心付く前には」

「そうか。なら、其方が妻を娶った時の為に、一つばかり助言しておこう。贈り物は季節に(あやか)っておくといいらしい」

「妻も居ない兄に言われても、説得力がないのだが」

「私の母上がそう言っていたのだ」

 

 屈託のない笑み。

 その表情に、一旦呆気にとられた白哉は瞠目するが、すぐさま我を取り戻し口角を吊り上げた。

 

「……そうか」

「ああ。其方が妻を娶った時は、盛大に祝ってやる」

「私もそうしよう」

「いっそ、どちらが先にコレを見つけるか競うか?」

 

 小指を立ててみせる紫音。対して白哉は『品が無い』と一蹴する。

 瀞霊廷ではよほど家柄がいい貴族でなければ婚姻の式は行わない。だが、逆に言えば宗家の跡取りの結婚ともなれば、盛大に式が挙げられることは決定事項だろう。

 

「だが、女に所縁の無さそうな其方が結婚するのは……」

「……なんだ」

「想像がつかぬな」

「はっきり言うな」

「見合いでもなければ交際もせぬのではないか?」

「……無いとは言い難い」

「だろうな」

 

 全く、此奴はズケズケと。

 

 あっけらかんとした態度で言い切る様に、時折無性に腹が立ってくる。

 

「其方には父も……()()()居るのだから、これ機に夫婦の馴れ初めでも聞けばいいのではないか?」

 

 わざわざ『祖父』と言い足した紫音に訝しげな表情を見せる白哉であったが、それよりも父や祖父の馴れ初め話とは―――。

 

「……気まずいだろう」

「くっくっく。なに、盃でも傾けながら飲めば、面白いように語ってくれるだろう。親子三代、縁側で酒を酌み交わすというのも一興だろう」

「酒は……」

「なんだ、下戸か?」

「下戸と言うよりも、口にしたことがない」

「成程。なら、酒を飲んだこともない其方の為に飲みやすいのを用意してやろう」

 

 ピッととある場所に指を差す。

 指の先を目で追えば、既に花を散らしている木が目に入った。細い幹ながらも、天を衝かんばかりに枝を生やす木は、黒々とした光沢を放つ樹皮を有している。

 

「梅酒だ。これから食前酒に一杯どうだ?」

「……頑張ってみよう」

 

 銀嶺も蒼純も酒を飲む性分ではないが、全く飲めないということはないだろう。

 そんなことを思いつつ、白哉は“従兄弟”が用意してくれるという梅酒がどのようなものなのか、想像を奔らせるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 それから数日後。

 

「はい、では此方へ……」

 

 片手に売り子のように看板を携え、あちこちを迷子のようにふらついている者達を手招く。

そんな紫音の導きに、老若男女問わず集まってくるが、如何せん恰好が死神達のそれよりも洋風だ。

 

 それもそうである。今ここで紫音や他の死神達が誘導しているのは、現世で死に、成仏や魂葬といった手段でやって来た魂魄たちであるのだから。現在紫音が居るのは、現世と尸魂界の中間地点という所に点在する場所―――言うなれば、輪廻の輪の中間点に位置する場所とでも言おうか。

 基本、成仏や魂葬された魂魄は、尸魂界に辿り着く前にこの空間に辿り着く。そして、空間に待機している死神達が、文字通り迷える霊たちに整理券を手渡し、流魂街のどの区に住むかというくじ引きを行わせるのだ。

 かなり事務的な仕事だが、この管轄は鬼道衆が請け負っている。日本だけに限れば、一日に千では足りない程の人間が死に至っている訳だが、そのまま成仏してやってくると仮定して大体一日に千以上の人間がやって来るのだ。

 

 地味、且つ大変な仕事。

 

 中には騒ぎ立てる十一番隊のような荒くれも居る訳だが、その時は鬼道で縛るなりして無理やりくじ引きの列に並ばせている。強引とも思えるかもしれないが、年中無休三百六十五日二十四時間対応しなければいけない仕事である為、こうでもしなければ人を捌けないのだ。

 派手さは無いが、精神的に疲れる仕事。一日立ちっぱなしということもあり、足にもくる。

 如何にも新人に任されそうな仕事であるが、鬼道衆であれば誰しもが通る道。欠伸を必死に堪えながら、最後尾を担当する紫音。

 

(最近は何故だかどうしてか、やって来る魂魄の数も多いな……)

 

 チラリと魂魄の列を眺める紫音は、くたびれた様子の壮年の男性ばかりが列に並んでいるのを見て溜め息を吐く。軍服ばかり着ている様子だが、現世ではまた戦争でも行っているのかと呆れる。

 煙管で一服しながら仕事はできない。ポケーッと頭の中で色々と妄想しながら、どんどんやって来る魂魄たちを整列させていく。

 

 するとそこへ、死覇装を身に纏った赤毛の女性が一人やって来る。

 

「交代の時間でーすっ!」

「む? 分かりました。では、後はよろしくお願いします」

「はーい」

 

 軽いノリで看板を受け取った女性は、紫音に代わって売り子のように魂魄の誘導に精を出し始める。

 一方、六時間の魂魄誘導を終えた紫音は疲れた様子で専用の穿界門を潜り、瀞霊廷に戻った。紫音が此処にやって来たのは明朝六時。となると、今頃瀞霊廷の死神達は昼休憩に入っている頃だろう。

 今日も屋敷の給仕が作ってくれた弁当がある。衆舎の片隅で風呂敷に包まれている弁当を思い浮かべれば、今にでも腹が鳴りそうだ。

 

 しかし、そこへヒラヒラと舞うように一匹の蝶がやって来る。

 一見、漆黒の羽を有す揚羽蝶であるが、その実は死神たちにとっての伝達手段の一つでもある地獄蝶だ。

 禍々しい名ではあるが、彼の蝶が請け負う仕事は伝達以外には、断界を安全に通ることができるように死神たちを案内することなどなど。

 

『魂魄誘導の任をしている鬼道衆に伝達します。現世・長岡町にて担当死神が虚との戦闘で負傷。医療要請が入っておりますので、一人回道を扱える者が現地に赴くようお願いします』

(……タイミングが悪かったな)

 

 踵を返せば、紫音と同じく交代で戻ってくる先達がやって来て、同じく地獄蝶による伝達を耳にする。すると、皆揃って紫音の方へ顔を向けてきた。

 

「……私が向かってもよろしいでしょうか?」

「おおっ、そうか。では、よろしく頼むぞ。上官殿には私から伝えておこう」

「よろしくお願いします。では」

 

 伝達に来た地獄蝶を手招く。

 断界は地獄蝶が居なければ、危険な道を通らなければならなくなるのだ。間違っても、地獄蝶無しで断界を通っていけないということは、真央霊術院で耳にタコができるほど耳にした。

 普段、死神が現世に赴くために使用する正式な穿界門に向けて、そそくさと足を進めていく紫音。早く済ませなければ、昼餉が夕餉になってしまう。

 

(現世に赴くのは……霊術院の魂葬実習以来か)

 

 昔の頃を軽く思い出しながら、早々に治療任務を済ませようと疾走する。

 

(現世の街並みはすぐ変わるらしいからな……楽しみと言えば楽しみか)

 

 そんな中、移り変わっていく現の世の景色に思いを馳せるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――っと、此処でしたか」

「……申し訳ない。瀞霊廷からわざわざ応援など……」

「いえ、まずは怪我の治療を」

 

 伝達された情報を元に、建物の陰で蹲っていた護廷隊士を見つけた紫音は、少しばかり焦った様子で駆け寄っていく。肩の部分が大きく切り裂かれており、結構な量の血が流れている。

 掌を翳し、ポッと淡い光で負傷した部位を包み込む。

 すると、裂けていた皮膚はじわじわと癒えていく。回道は本職である四番隊にも負けないと紫音は自負しているつもりだが、治療を受けている隊士は紫音の回道に驚いた様子を見せる。

 

「素晴らしい手際で……」

「いえ、それほどでも……一応、包帯も巻いておきましょう。念には念を」

「かたじけない」

 

 『不覚をとった』と言う男性隊士は、死覇装の襟を掴んで引きおろし、大部分が言えた負傷部位を露わにする。同時に、男性隊士の貧弱な身体も露わになるが、特に気にする様子もなく、淡々と包帯を巻いていく。

 一分もすれば包帯も巻き終え、風邪をひかないように死覇装を着ることを促す紫音。

 

「……十番隊なのですか?」

「ん? ええ……一応」

「私は鬼道衆なのです」

 

 襟元に刺繍されている隊花―――『水仙』で、男性隊士が十番隊であることを見抜いた紫音は、自分もと襟元を裏返して鬼道衆の紋を見せつける。鬼道衆は護廷十三隊のように、部隊で掲げる紋が変わる訳でもない為、全員が鬼道衆の紋が刺繍された死覇装を身に纏っているのだ。

 他愛ない世間話とばかりに口にした話題だが、男性は陰鬱な様子で項垂れはじめた。

 

「そうですか。貴方はさぞかし鬼道が得意なのでしょうね……」

「……まあ、鬼道衆に属することができる実力程度は身に着けているつもりです」

「私などは戦闘能力が低いばかりに、その辺の木端虚にも手こずらされて……」

 

 どうにも、自身を悲観しているように見える男性に、深く詮索しないように気を付けて周囲を見渡す紫音。

 

「ふぅ。これで一先ずは大丈夫でしょう」

「……助かりました」

「私は柊紫音と申します。今後、任務を共にするかもしれませぬので、お見知りおきを」

「……十番隊無席・由嶌欧許。まあ、覚えてもらわなくても結構です」

 

 紫音が微笑を浮かべながら差し出した手を、『一応』と言わんばかりの表情で握り、握手を交わす由嶌。

 これで紫音の任務は終了だ。後はさっさと瀞霊廷に戻り、昼餉に―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――あぁ、なんだぁ? 旨そうなのが二体居るじゃねえか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間、二人に大きな影が掛かり、頭上から酒で喉が爛れたような声が響き渡った。

 掛かる影には、一部分にぽっかりと孔が空いている。それが指し示す意味とはただ一つ。

 

 

 

 魂を喰らう悪しき霊―――虚

 

 

 

 救われなかった魂の成れの果てだ。

 



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十二話

 ビュっと風切り音が鳴り響いたと同時に、紫音の体は動いていた。呆気にとられていた由嶌の体を抱え、横に飛び込んでいく。

 そこへ丸太のように太い腕が振り下ろされ、紫音の左腰辺りを掠める。

 死覇装が破れる音が聞こえてきたが、構わず紫音は回避に専念した。

 

「ハハハァ!」

「っ……縛道の三十五・『漁火(いさりび)』!」

「なにっ!?」

 

 追撃を試みようと顔を上げた虚―――獅子のような鬣を有した猿のような見た目の虚であったが、紫音の掌から放たれる閃光に、仮面の奥の瞼を反射的に閉じてしまった。

 花火のように不規則に宙で爆ぜる閃光は数秒ほど続く。

 しかし虚は、自身の霊圧知覚を以て“何か”がある方へ、鋭い爪を有す腕を振るった。何かが砕け散る音が響くが、未だチカチカと眩い光が放たれているが故に、仕留めた対象が何であるかは認識できない。

 

(肉の感触じゃねえな……)

 

 切り裂いた物体が、先程佇んでいた死神たちでないことを理解した虚。

 暫し待機して瞼を開ければ、無残に散らかる木箱の残骸が目に入る。

 

「はっ! あの光、目くらましって訳か」

 

 未だに霊圧知覚の感覚が曖昧であることから、紫音の繰り出した閃光が、霊圧知覚に作用する術であることは理解できた。現世で言うところのチャフやフレアの類いのものであるのだろう。

 周囲で未だに小さな眩きを見せる光。あれが(デコイ)となっているのだ。

 

「逃がしたか……だが、そう遠くに行けてる訳ねえな」

 

 キョロキョロと辺りを見渡す虚は、近くに隠れているであろう二人を探す。霊圧知覚が駄目になったとしても、肉眼で探せば事は済むことだ。

 出来るだけ高い場所から探せば見つけやすいのではないかと、虚は建物を上って辺りを見渡し始める。

 

「ど~こ~だ~? 鼠ィ~~~!」

 

 品の無い叫び声を上げて、周囲に探索に向かう虚。

 その後ろ姿を見届けた二人の死神は、『曲光』に包まれながらホッと一息を吐いた。

 

「どうやら、ここからは離れてくれたようですね」

「……どうして、私などを?」

「どうして、とは一体?」

「どうして私などを庇ってくれた?」

 

 『曲光』によって相手の目を眩ませている紫音は、隣で冷や汗を流している由嶌を横目で見ながら、呆れたように溜め息を吐く。

 自身を卑下すかのような物言いの彼は、恐らく今迄に誰にも認められてこなかった人間なのだろう。

 ある種、己のもう一つの姿だと感じた紫音はぶっきらぼうに答える。

 

「共に護廷が為に働く死神……それ以上に理由が必要で?」

「たったそれだけの理由の為に救われるような命じゃないのだ。私などは……」

「……色々詮索するのも失礼でしょう。ここは、共に生き抜くために戦いましょう」

「ここは私の管轄だ」

「ですが、私は其方の怪我を治療しに来ている。ここを早々に立ち去って、明日に其方が死亡したという連絡を受ければ、寝覚めが悪い」

 

 『それに、建造物の破壊によって出撃料が差し引かれるのは其方でしょうに』と冗談交じりに付け足して、遠くに転がっている自身の斬魄刀を見遣る。先程、回避した際に虚の一撃によって帯紐を裂かれ、腰に差していた斬魄刀を弾かれてしまったのだ。

 今は向こうも気づいていないようだが、斬魄刀がないと少々心許ない。

 幾ら鬼道があるとは言え、油断は禁物。そもそも実戦が初めてだというのだから、慎重すぎるのがちょうどいいくらいだ。勇んで返り討ちに合うよりは、多少臆病に事を進めた方がマシになる筈。

 

(気付いてくれるなよ……)

 

 コソコソと忍び足で転がった斬魄刀の下へ歩み寄ろうとする。

 建物の陰に隠れながら、虚に見つからないように。

 

 しかし次の瞬間、空から落ちてくるように先程の虚がやって来て、朧村正を踏みつける。

 

「こいつぁ死神の刀じゃねえか……オイ! 出て来い! 早くしねえとコイツを折るぞ!」

 

 内心舌打ちをする紫音。自身の斬魄刀を雑多に扱われているのは勿論、先程の危惧がそのまま現状に現れてしまうとは思わなんだ。朧村正を人質―――否、刀質にとられてしまった。

 折られた所で、長い目で見てしまえばなんの問題もない。問題なのはそのまま斬魄刀を持ち去られてしまうことや、斬魄刀を折られた状態で戦闘に入ってしまう事だ。折られた斬魄刀では始解も存分に解放できない。となれば、鬼道で対抗するしかなく、乱戦になるのは必至だが―――。

 

(何よりも、私の(朧村正)が見ず知らずの野郎の手中に収まっているのが気に喰わん)

 

 腹立たしい。

 ピクリと眉尻が上がるのを覚えながら、どうしようものかと思慮を巡らせる。

 虚を倒すセオリーは、不意打ちで仮面を叩き切るのがセオリーだが、現状それは不可能なことだ。

 

(『漁火』による霊圧の攪乱も切れる頃だ……何か案でも考えなければな)

 

 顎に手を当てながら考え込む紫音であったが、良い案が浮かんでくることはない。時間は刻一刻と過ぎ去っていくばかりで、焦燥が胸の内に込み上がってくる。

 

(私の詠唱破棄で倒せるような相手にも見えぬ。となれば、完全詠唱辺りで頭部を狙うのが最善だろうが、見る限り身軽そうだ。遠距離から狙ったところで躱されるのが関の山かもしれぬな。なら縛道で縛ってからか? ううむ、実戦で鬼道を使ったこと無い故、どの程度で縛れるのかも検討がつかぬな……)

「随分悩んでいるようで」

「うむ。出来れば手を貸して頂きたい所存」

「……いいでしょう」

「なに?」

「私もここで死ぬのは本望ではない。あんな木端の虚如きに……」

「……兎も角、手を貸してくれるのであれば有難い。それで―――」

「私が囮を買って出よう」

 

 大胆に名乗りを上げてきた由嶌に、思わず瞠目してしまう紫音。自殺願望でもあるのかと疑いたくなったが、表情を窺う限りそのような様子は見られない。

 相手側が囮を買って出てくれるのであれば有難いが、果たしてどのように囮に出るのか。ただ単純に囮となって虚と鬼事をする訳でもなさそうだが。

 

「して、その方法は如何に?」

 

 無理な作戦であれば早々に断りを入れよう。

 そのようなことを考えながら耳を傾ける紫音に言い放った由嶌の言葉は―――。

 

「……私の斬魄刀の能力を使う」

 

 

 

 ***

 

 

 

「ちっ、中々出てきやがらねえ鼠共だ。どこかでチマチマと作戦でも練ってやがるか、応援でも呼んでやがるのか? そろそろ潮時かもしれねえな……」

 

 ブツブツと呟く虚は、踏みつけている斬魄刀を一瞥し、撤退を考え始めている頃であった。応援を呼ばれて駆けつけられれば、囲まれて討伐される可能性が高まる。

 こうなるのであれば、死神の正義感を煽るように一般や整の魂魄でも人質にとればよかったと反省した。しかし、もうそろそろ動かなければ此方が危険になる。

 

「……んぁ?」

「―――んなもので!」

 

 建物の陰からやや声量が抑えられた怒号のようなものが聞こえた気がした。ニヤリと仮面の奥の口角を吊り上げる虚は、そろりそろりと声が聞こえてくる方へと歩み寄っていく。

 次第に聞こえてくるのは、先程の死神達の言い合い。なにかもめごとでも起こしているのだろうか。だが、今の自分にとっては好都合とばかりに、獲物を狙う豹のように姿勢を低くして、攻撃がギリギリ届く場所へと近づいていく。

 そして、

 

「ひゃっはぁ!!」

「―――」

 

 背中を向けていた紫黒色の髪を簪で纏める死神―――紫音の胴体を、その爪による横薙ぎで、真っ二つに切り裂いた。ザンッ、という無情な音が響いた後は、上と下に切り分けられた体が地面に転がる。

 その光景に、紫音と向かい合うようにして言い合っていた由嶌が驚愕の色を顔に浮かべて、悍ましいものを見るかのような目で、尻もちをつきながら後ろに退いていく。

 

「ひ……ひぃ!?」

「はははぁ! なんだか知らねえが幸運(ラッキー)だったぜ! 内輪もめたァ、敵を背中にしてやるもんじゃねえなぁ!」

 

 由嶌を威すように、丸太のような腕を地面に叩き付けながらにじり寄っていく。

 じわりじわり、蛇が忍び寄るように。

 

 散々由嶌が怯え竦む様子に恍惚な気分となっている虚は、無邪気な子供が蟻を弄ぶような感覚で、今からどうやってこの死神で遊ぼうか嬉々として思慮を巡らす。

 しかし次の瞬間、由嶌の表情が恐怖から無へと変わる。

 突然、虚から興味が失せたように、荒んだ瞳の色で地面を見つめ始めるではないか。

 

 なんだ、絶望でもして諦めたか?

 

 虚がそう思った時、何かが足に這い上がるような感覚を覚えた。

 

「なんだぁ? ……いっ!!?」

 

 足にシュルシュルと紐を解くような音を奏でて這い上がっていたのは蛇。やけに細長い蛇が、舌をちろちろと出しながら、虚の体へよじ登ってくる。

 

「な、なんで蛇が俺様の体に……!?」

 

 蛇が特段苦手な訳ではない。しかし、虚が生前蛇に這いあがられるという経験が無かったが故に、こうして堕ちた魂()となった今でさえ、一瞬恐怖を覚えてしまった。

 だが、それが運の尽き。

 

―――カサカサカサ

 

 薄い紙が擦れ合うような音。

 どこからか響いてくる音に、虚は訝しげな色を見せつつ、音が聞こえた方向へ顔を向けた瞬間、虚は仮面の奥の瞳を大きく見開いた。

 カサカサという音は、次第にガサガサと言う音に移り変わる。すると、次第に奥の方から何か黒いモノが近付いてきたのだ。

 波打つように接近してくる黒い波―――否

 

 

 

 

 

 蜚蠊(ごきぶり)

 

 

 

 

 

「い……ひぃっっ!!?」

 

 普通の感性を持つ人間であれば、生理的に拒絶する感覚を覚える虫。それが百や千では言い表せない程の数で、虚の足元にガサガサと走ってきたのだ。

 凄まじい速力でやって来た蜚蠊は、迷うことなく虚の体によじ登る。枯れた雑草のような六つの足を這わせながら、瞬く間に虚の体を覆いつくしていくのだ。

 

「や、やぁ!! 離れやがれ!! 離れろっつって……こ、殺して……や、やめろぉぉぉぉ!!」

 

 情けない悲鳴を上げながら蜚蠊を手で払おうとする虚であるが、一向に蜚蠊が離れる様子はない。

 不快感は増していくばかりだ。

 

 

 

「だ、誰かぁああああ!!」

 

 

 

―――君臨者よ。血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ

 

 

 

「なんでもいいから、ご、ごきぶりをは、ひゃあああああ!!?」

 

 

 

―――真理と節制。罪知らぬ夢の壁に、僅かに爪を立てよ

 

 

 

「あ、あばっ、あばばば……」

 

 

 

―――破道の三十三・『蒼火墜(そうかつい)

 

 

 

 黒く埋め尽くされた視界が一瞬蒼く照らされた。

 次の瞬間、爆音が響いた気がしたが、虚は自身に何が起こったのかも知る事もせずに頭部を吹き飛ばされていたのだ。

 完全詠唱の『蒼火墜』を喰らった虚の体は、瞬く間に霊子に分解していく。

 この虚が生前大罪を犯していないのであれば、あと数秒もすれば鬼道衆の管轄である空間に向かった後、流魂街に向かうことになるだろう。

 

 そのようなことを考えつつ、解放した朧村正を握る紫音は、翳していた手を下ろして由嶌の下へ戻っていく。

 

「ふむ、成程。意外にも呆気なかったな。しかし、其方の協力がなければ易々と勝てなかっただろう。礼を言う、由嶌殿」

「……何をした? あの虚が泡を食ってたが……」

「少々人間には生理的に厳しい悪夢を見せていた故……内容を聞くのも悍ましいものを、な」

「……そうか。まあとりあえず、私も礼を言っておこう」

 

 紫音が差し出した手をとって立ち上がる由嶌。彼は、すぐ近くに隠していた自身の斬魄刀を手に取る。

 柄の部分が輪に囲まれている両刃の斬魄刀。

 

「『墨月暈(すみつきがさ)』……と申したな、その斬魄刀」

「ああ」

 

 始解を解いて、斬魄刀を鞘に戻す由嶌。

 彼の斬魄刀『墨月暈』は、空間操作と霊力吸収を行うという能力。今回行ったのは前者の能力であり、紫音が居る空間を切り取るようにして『複写』し、そのまま『復元』して紫音と言い合いになっているような光景を作りだしていたのだ。

 そんなダミーの紫音を切り裂いて虚が粋がっている間に、本物の紫音は細心の注意を払いながら瞬歩で建物の上を飛び移るようにして、朧村正がある場所まで赴いた。

 その後は言わずもがな。口にするのも悍ましい幻覚を見せて、オイタが過ぎた虚を懲らしめ、錯乱させたところを仕留めたという訳だ。

 

「非常に強力な能力……席官であってもおかしくはない筈でしょうに」

「……斬魄刀の力に、私個人の身体能力が追い付いていないだけ。だから、こんな辺鄙な町に駐在任務として弾かれているのだ」

 

 吐き出すように呟く由嶌は、憎悪に燃え滾る瞳を浮かべながら、ワナワナと拳を震わせる。

 

「皆、私の力を認めようとはしない……!」

 

 憤り。

 歯軋りする由嶌に、得も言えぬ様子になる紫音は、掛ける言葉も上手く見つけられず、頬をポリポリと掻きながら立ち尽くす。

 下手に慰めたところで、『赤の他人に言われたところで……』と思われるかもしれない。

 しかし、紫音は意を決して口を開いた。

 

「……個人の感想ですので、聞き流す程度で」

「は?」

「其方の力を鑑みるに、其方の心根はとても器用なのでしょう」

「なにを……」

「由嶌欧許という死神が、尸魂界が為に活躍することを切に願っております故。それではここらで御免とさせて頂きます」

 

 徐に空に向かって指を衝く様に突きだした紫音。そこへ、ひらひらと地獄蝶が舞い降りてくる。

 そして紫音は、始解を解いて斬魄刀を九十度回す。

 

「解錠」

 

 刹那、円型の襖が紫音の目の前に現れて、尸魂界へと続く道が出現する。フワリと断界から流れてくる霊子の流れをその身に受けながら、一歩歩み出す紫音であったが『ああ、そうだ』と振り返った。

 

「再三ですが自己紹介を。鬼道衆・柊紫音と申します。以後、任務を共にするときはどうぞよろしくお願いいたします」

 

 ペコリと一礼。

 妖しい笑みを浮かべながら穿界門の中へ入っていく紫音を見届けた由嶌は、ふぅと呆れたような溜め息を吐きながらその場に腰を下ろした。

 

(あれで慰めたつもりか……)

 

 淡々とした口調で、如何にも仕事然とした言い草。

 

(だが、陰口を叩かれるよりはマシか)

 

 御世辞でも褒められた方がマシ。それが人の性というものかもしれない。

 後にそれがお世辞でないことを知るのは、また別の話だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

「オヤ、疲れた様子デスが何かありマシタか?」

「はい。ですが、少しだけですのでお気になさらずに」

「そうデスか。では、今日の終業後の修行も大丈夫そうデスね。今日こそ、『鏡門を』習得できるように頑張りマショウ」

 

 

 

 



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十三話

 六番隊舎裏修行場にて、二人の死神が剣戟を繰り広げていた。絶え間なく響き渡る金属がぶつかり合う音。彼らが手に有しているのは真剣。一歩間違えれば大怪我では済まない事態もあり得るが、実戦のような緊張感を得る為という理由であれば妥当なのかもしれない。

 

「……破道の十一・『綴雷電(つづりらいでん)』」

「っ!」

 

 鍔迫り合いになった瞬間、紫音が『綴雷電』を放ち、白哉の体を電撃で攻撃しようとする。

 しかし、電撃が刀身に沿って白哉の肉体に到達するよりも早く、白哉は瞬歩を以てして紫音から距離をとった。

 

 剣術においては白哉の方が上。それは紛うことなき事実だ。だからこそ紫音は白哉に距離をとらせるような戦術をとった。白哉が退いた隙を逃さず左手に霊力を集中させ、照準を定め始める。

 

「破道の三十一・『赤火砲(しゃっかほう)』」

 

 紅蓮の火球が白哉の下へ疾走する。

 炎の尾を引かせながら奔る『赤火砲』であったが、確りと斬魄刀を持ち直した白哉による一刀のもとに、真っ二つに切り裂かれた後に爆散した。

 しかし、ここまでは予定調和。予想済みだ。

 

「破道の十二・『伏火(ふしび)』」

 

 前方に向かって、霊圧を蜘蛛の巣のように張り巡らせる。これ自体の殺傷能力は低いものの、彼の瞬歩の障害程度にはなる筈。再び接近戦に持ち込まれないようにするには、これが手っ取り早いのだ。

 そして、続けざまに視界を遮るような縛道を放つ。

 

「縛道の二十一・『赤煙遁(せきえんとん)』」

 

 赤い色をした煙幕が舞い上がるように出現する。これによって『伏火』を視認することも難しくなり、易々と瞬歩を扱えなくなったという訳だ。

 だが次の瞬間、目の前の状況を見た白哉が徐に斬魄刀を手前に構え、口を開いた。

 

「散れ―――『千本桜(せんぼんざくら)』」

 

 風に流されるように消えていく刀身。すると前方で満ちている煙が次第に渦巻いていくではないか。

 赤い煙は竜巻状に渦巻いていき、空へ逃がされていく。同時に蜘蛛の巣のように張り巡らされていた『伏火』も、千本桜の刀身で細やかに切り刻まれていき、罠という体を為さなくなった。

 渦巻く煙の奥に朦朧と佇む人影を視認した白哉は、徐に左手の人差し指を突きだす。

 

「縛道の六十一・『六杖光牢(りくじょうこうろう)』」

 

 直後、六つの光の帯が紫音の体に突き刺さる。中級~上級の縛道は、相手の行動を阻害するだけではなく、霊力の流れさえも阻害するのだ。これで真面に鬼道は使えない筈。人間の腕力では六十番台の縛道を振り払えない。

 

(さあ、どうする)

 

 この訓練の終わりは相手が『参った』と言った時。言わなければ実質訓練が終わらないことになるが、

 

(……矢張り)

 

 『六杖光牢』に縛られる紫音の体が次第にぼやけていく光景に、見越していたかのような感想を心中に抱く白哉。

 とすると、今本物の紫音はどこに居るのだろうか。

 前? 右? 左?

 

「しっ!」

 

 即座に背後に向かって千本桜の刀身を向かわせる白哉は、解放して千鳥槍に変形した朧村正を横薙ぎに振るおうとする紫音の姿を捉える。

 朧村正が振るわれるのが先か、千本桜が紫音に到達するのが先か。

 

 結果は、後者の勝利であった。

 

 一千に分裂した刀身の内の幾つかが、疾風の如く宙を奔ってきて、朧村正の剣閃を防ぐような位置に到達したのだ。

 これで今回の勝利も自分のものになるか。白哉がそう考えていた時であった。

 

「―――残念」

「っ……上か」

「明答」

 

 空から一直線に落ちてくる紫音は、その手中の朧村正を突きだしてくる。

 このままでは串刺しになるであろう軌道。傍から見れば殺すつもりなのかと問われそうな光景であるが、逆に言えば『この程度は避けられる』という信頼の証だ。

 証拠に、白哉はすぐさまバク転をするようにして朧村正による刺突を回避した。

 演舞のような一幕であるが、訓練はまだ終わることはない。

 

 砂塵巻き起こる程の刺突は、地面に深々と突き刺さっており、そう易々と引き抜くことはできないかと思いきや、紫音は始解を解いて刀剣の状態に戻した。

 長さが短くなることによって、自然と地面から刀身が抜けた状態になった朧村正を携え、そのまま瞬歩で肉迫する紫音。

 

 対して白哉は、斬魄刀の柄を持ってはいるものの、刀身が付いていないという状況。

 普段は白哉の方が剣の腕は上であるが、果たしてそれは刀身が付いていないときも同様であろうか。いや、同様ではない。

 

「っ……」

「どうした、白哉。余裕がないではないか」

 

 一瞬眉を顰めた白哉。その表情を見逃さなかった紫音は、動揺を大きくするように煽っていく。

 実際の所、余裕がないのは紫音も同じではあるが、ここまで余裕がない白哉の姿も初めてだ。初めて見る白哉の姿に高揚を隠せない紫音は、激しい動きの中で息遣いが激しくなって体が火照ったことにより紅潮した頬を釣り上げるようにして、妖しい笑みを浮かべる。

 辛うじて斬魄刀の柄で紫音の斬撃を防ぐ白哉。

 すると次第に千本桜の刀身が戻っていき、始解前の状態に変貌する。

 

 白哉が動揺している間に仕留めることができなかった。その結果に少々渋い顔を浮かべる紫音であったが、突如足がフッと浮くような感覚に唖然とする。

 

「あっ―――」

 

 咄嗟の足払い。

 白哉による足払いは見事紫音の足を掬い、そのまま彼を仰向けに倒すことに成功した。何とか持ち直そうとする紫音であったが、即座に白哉が斬魄刀を有す腕を掴むように拘束して、千本桜の鋒を喉元にあてがう。

 

 一瞬の静寂。

 

「……参った」

「今回も……私の勝ちだな」

 

 『やられた』と悔しそうに頬を引き攣らせて笑う紫音を前に、息を切らした白哉が鋒を引く。

 斬魄刀を鞘に納めた後は、仰向けに転がる友人に手を差し伸べて、立つように促す。

 

「今回は良い所まで行ったと思ったのだがな」

 

 そう口にする紫音は、白哉の手を取って立ち上がって空を仰ぐ。

 

「……正直、肉迫された時は焦った」

「お、矢張りか?」

 

 正直な感想を述べる白哉に、紫音が咄嗟に反応して嬉々とした声色で応える。

 

「私は鬼道が得意とする故に遠距離での攻撃が主になるのだが、それでは千本桜との相性が悪い……だから思い切って近付いたのが、随分と効果的だったようだな」

「……そこまで考えていたのか?」

「なんだ、その言い草は。私とて毎度何も考えずにやって来ている訳ではない。全方位から多角的に攻撃を仕掛けることのできる相手には、近付くのが一番効果的だと考えたまでだ」

 

 そこまで述べると同時に、白哉の瞳がカッと見開かれた。

 何事かと視線を合わせる紫音に、白哉は漏らすかのように小さく呟く。

 

「もしや兄は無傷圏を……」

「……なんだ、それは?」

「……いや、なんでもない」

「自分で言っておいて『なんでもない』はないだろう」

 

 『忘れてくれ』と言わんばかりに目を逸らし始める白哉に、悪戯小僧のような笑みを浮かべる紫音は鎌をかけてみることにした。

 

「なんだ、千本桜は己に近過ぎると刃を通せないのか」

「っ……!」

「成程。良い事を聞いた」

「……あまり他言はするな」

「案ずるな。私と其方の秘密にしておこう」

 

 嘘を吐くのが苦手な友人というものは扱いやすい。切に思う瞬間であった。

 

 白哉曰く、自身を中心に約半径85センチメートルのが、千本桜の操作を誤ったときでもギリギリ反応し、回避することのできる領域であるらしい。

 それを差して“無傷圏”と言うらしく、意図的にでも操作しない限り、その領域に千本桜の刀身を通すことができないと言う。

 

「成程……だから私が肉迫した時に、背中から斬りかからせるという真似をしなかったのか」

「そうだ」

「ふむふむ……『鏡門(きょうもん)』の修行の成果がここで出て来るとは思わなんだ」

「……なに?」

「『鏡門』は知っているだろう?」

「無論だ」

 

話のベクトルが少し変わる。

手早く印を組んで、外側からの攻撃を反射する結界―――『鏡門』を張る紫音。

 

「私が大鬼道長や副鬼道長に師事しているのは知っているだろう。上級の破道や縛道は勿論、他にも色々と教示して貰っているが、私も独自の戦い方を創り上げていきたいと思ってきたところでな」

「それと何の関係があるのだ?」

「まあ逸るな。見ていろ……破道の四・『白雷(びゃくらい)』」

 

 人差し指を突きだして、『鏡門』に一条の光線を解き放つ紫音。すると『白雷』は結界と衝突すると同時に、その軌道をずらして明後日の方向へと弾かれていくではないか。

 『鏡門』の能力を知っているのであればさほど驚きはしない光景。

 『だからなんだ?』と言わんばかりの瞳を向けてくる白哉に、紫音は納めた斬魄刀を抜く。

 

「妖かせ―――『朧村正(おぼろむらまさ)』。今度はこの状況で見せてみよう。破道の四・『白雷』」

 

 徐に始解した紫音は、もう一度『白雷』を結界目がけて解き放つ。

 しかし、白哉が待てども待てども、紫音の指先から一条の光線が出る事は無い。一体どうしたものかと訝しげな表情を浮かべる白哉に、遂に紫音は指先から『白雷』を放つことなく始解を解いた。

 

「……おい」

「自分の足元を見よ」

「なに? ……っ」

「気付かなかったか?」

 

 言われるがままに自身の足元を見れば、ぽっかりと地面に小さな穴が開いていた。そこから焦げ臭い香りが漂ってくることから、今まさに熱によって灼かれたものであることは理解できる。

 問題は、この穴を開けた正体を目にすることができなかったということ。

 しかし、目の前の男の斬魄刀の能力を鑑みれば、自ずと答えは出てくる。

 

「……幻覚で私の目を眩ました、という訳か」

「明答。どうだ? 中々よく出来ていただろう?」

 

 白哉が気付かなかった事に、至極嬉しそうに微笑む紫音。

 

「幻覚で目を眩まし、鬼道を多角的に操り全方位からの攻撃を可能とさせる……私の戦術の第一段階だ。だからこそ、千本桜のような類の攻撃の弱点を理解していた。道理は通るだろう? 当面はこれを完成させることが私の目標だ」

「第一段階……だと?」

「左様。第二段階は……」

 

 近くに立てかけておいた竹筒を手に取り、旨そうに喉を鳴らして中の水を飲み進める。

 そして喉を潤わせたところで、続きの言葉を口にした。

 

「これらを『断空(だんくう)』に組み込む」

「……なに?」

「詳しいことはまた今度話そう。そろそろ昼休憩も終わる時間だろう。これだけ激しく動けば腹も減る。昼餉も無しで午後の仕事はきついだろうからな」

 

 そこまで言ってから、右手に携えていた竹筒を白哉に差し出してみる。

 すると、余程喉が渇いていたのか、迷うことなく白哉は竹筒を手に取って残っていた分の水を飲み干した。

 飲み終えて空になった竹筒を手渡された紫音は、『衆舎に戻る故、また今度』とだけ告げて瞬歩で白哉の目の前から去って行く。

 

 六番隊舎から鬼道衆舎は近いとは言い難い。早めに帰らなければ、昼餉を食べる時間もなくなってしまう筈だ。

 

(それに、今日の終業後には大鬼道長殿直々に『断空』を教わるからな。この訓練を理由に修行に身が入らなかったら大事だ)

 

 霊力を消費すれば自ずと腹が減る。

 このまま昼餉も食べずに鉄裁の指導を受ければ、早々にへばって修行どころでないのが目に見えている。

 ならば早々に戻るべき。

 

(楽しみだ。久々だからな……)

 

 久し振りに鉄裁の指導を受けることに歓びを覚える紫音。

 気分で言うのであれば、誕生日を祝ってもらう直前の子供のようだ。

 

 父の背中もロクに見ることができなかった紫音にとって、師である鉄裁はある種父のような見方をできる人物の一人。あの大きな背中を追いかけ、いつかは追い越そうと早足で掛けていく様は、歩幅の合わない親子のそれだ。

 鉄裁がどう思っているかは分からないが、紫音にしてみればそれで充分であった。追いかける背中があるだけで良いのだ。

 

 

 

 

 

(嗚呼……私は幸せ者だ)

 

 

 

 

 

 しかし、その平穏が崩れ始めたのは、終業時刻間近に鳴り響いた警鐘の音であった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「流魂街へ魂魄消失案件の始末特務部隊に副鬼道長殿が……ですか?」

「はい。先の緊急招集も、そのことについてでして……」

 

 三日月が良く見えるほど透き通った夜、衆舎の門の前で召集に向かった鉄裁を待っていた紫音は、ざっくりとした説明を受けていた。

 召集から帰還してくるまで大分時間が掛かってしまったが故、最早『これから修行を』という時間ではない。素直に帰って、明日の業務に備えるべき時間帯だ。

 

「ですので、今日の修行は……」

「そう、ですか……」

「申し訳ありません。また今度、時間を作ります故」

「いえ、あからさまな表情を見せて申し訳ないのは此方です。残念だと思っているのは本当ですが、このような慌ただしい時に教示を受けたとしても、私も修練に身が入らないでしょう。今回はお気持ちだけ受け取り、明日に備えることにします」

「……本当に申し訳ありません」

「そう何度も謝られると、こちらの気が引けてしまいますが故、その辺りで……」

 

 何度も申し訳無さそうに頭を下げる鉄裁に、苦笑を浮かべて面を上げるよう促す紫音。

 

「して、大鬼道長殿はこの後どうなさる予定で……?」

「……万事に備え、体を休めようと」

「そうですか。ならば私も……」

「はい。では、また明日……」

 

 錫杖の輪をカランと鳴らしながら、紫音とは逆方向に向かって歩み進めていく。

 その背中を寂しげに見届けた紫音は、月影しか光源のない夜道を、『赤火砲』を照明のように扱いながら帰路につく。

 今頃、屋敷の者達も当主の帰りが遅いことに心配している頃だろう。

 

 草履を擦るようにして歩みながら、どれくらい時間が経ったのだろうか。気が付いたら屋敷まで戻っていて、フワフワとここではないどこかを彷徨う感覚を覚えながら食事・入浴を済ませ、縁側に座り込んでいた。

 浮ついている訳ではない。只、警鐘と共に報された九番隊隊長格―――六車拳西と久南白の霊圧消失を受けて、言い知れぬ恐怖を覚えているのは瀞霊廷に住まう者であれば、誰しもだろう。

 

「……煙管はどこだったか」

 

 襖を開けて、愛用の煙管を取り出す。

 一服して気を紛らわせようという安直な考えではあるが、中々寝付けないのだから、こうして時間を潰すしかない。

 モヤモヤと胸中の中に渦巻く不安と喧騒は留まることを知らない。

 

「っ……げほっ!」

 

 茫然とした様子で煙管を吹かそうとした紫音であったが、思い切り吸い込んでしまった。

 普段は吹かしてばかりである為、肺に満ちるまで紫煙を含んだ事は無い。何度も咳をして、涙目になった頃にようやく咳が止まる。

 

「まったく……どうしたと言うのだ、私は」

『寝付けなくとも、素直に床に入ればいいのに』

 

 ヌッと横に現れた朧村正は、クツクツと笑いながら縁側に腰を下ろす。

 

『寝付けないなら、私が子守唄でも歌いましょうか?』

「……なんでもよい。今は……何も考えたくないのだ」

『ならば尚更、眠りにつきましょう。眠りについて夢を見ましょう。良き夢ならば、その刹那の光悦の余韻に浸ればいい。悪き夢なら、夢でよかったと起きてから割り切ればいい。ですが、何よりも大切なのは夢に堕ちようとする心意気。さあ、お眠りなさい』

「殺す気ではあるまいな?」

『御戯れを』

 

 朧村正の言い草に、得も言えぬ恐怖感を覚えつつも、普段通りの斬魄刀の様子にどこか安堵した表情になる。

 煙管の先に入れていた紫草も灰となり、一区切りつけるにはちょうどいい頃合い。ダンッと打ちつけるように灰を煙管盆に捨てて、既に敷かれていた布団の中に入り込む。

 しかし、煙管を吸った後では脳が興奮して上手く寝付けない。それを理解していた朧村正は、横になった紫音の横で正座して、瞼を閉じながら言葉を奔らせる。

 

鈴生姫(すずなりひめ)―――京の花街を歩む遊女が一人。鈴が二つほどついた簪で、漆で染められたような艶のある黒髪を結った姿が、髪から鈴を生やしたように見えることから、町の者は彼女を『鈴生姫』と呼んだ。

 母なし子の彼女は東の国より、流浪の民として花街に辿り着き、その万人を魅了する容姿で―――』

 

 どの国でも乙女が夢見る『灰被り(シンデレラ)』のような小説の内容を口遊む朧村正。

 柔らかな口調で語る彼女の語りを聞いている内に、次第に瞼は重くなっていき、意識もどこか遠くなっていく。

 眠りに入る直前の微睡の時間。昼寝も然り、この時ほど夢心地な快楽を覚える時はないのではないか。

 

 そう思いながら、紫音は夢も見る事もないような深い眠りについていくのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 夢から覚め、普段通りに屋敷を出る。

 寝付きが遅かったことから、完全に眠気も冷めぬまま向かい、衆舎で気付かされたのは―――夢であれば覚めてほしい事実。

 

 鉄裁が禁術行使により、別の罪状を有す浦原喜助と共に拘束され、四十六室で裁判が行われるというもの。

 

 

 

 そのまま悪夢は覚めることなく、終には別れを告げる間もなく、師として慕った男は紫音を置いてけぼりにして尸魂界から去って行った。

 



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十四話

 置いていかれてばかりの人生。

 

 生まれる前より父を亡くし、慕った母も数年前に亡くし、父の温もりを感じさせてくれる師たちも何も言わずに去って行ってしまった。

 立て続けに失くしていって、自分の下に残っているのは一体なんなのか。

 

 空虚―――虚しく空になった心中を感じ取りながら、紫煙を薫らす。

 

 聞くところによれば、浦原と鉄裁は中央四十六室での審議中の際に夜一によって連れ出され、そのまま“虚化”の実験の犠牲となった隊長格と共に現世に逃亡したと言う。

 虚化が一体何なのかというのも気になるが、護廷十三隊のみならず、隠密機動然り鬼道衆然り、長や副長が抜けた組織はそれを補うことに必死で、嘆いたり悲しむ暇がない。だからこそ、仕事を終えてこうして縁側に佇んでいる時に、ドッと虚しさが心になだれ込んでくるのだろう。

 

 実験がなんだ。

 禁術行使がなんだ。

 ただ、自分の下から何も言わずに去って行くのだけは止めて欲しかった。

 

「これは……我儘なのだろうか」

『出会いに別れは付き物。これが今生の別れという訳でもないでしょう。次会った時に、何を言うかぐらいは考えておけばいいでしょう』

 

 優しい声色の朧村正の声が聞こえてくる。

 

「……殴ったとしても、文句は言われまい」

『殴った貴方の手が痛みそうですがね』

「……くっく、それもそうだな」

 

 筋骨隆々な鉄裁を殴れば、逆に自分の拳の骨に罅が入ったとしてもおかしくはない。何せ、鬼道衆であるにも拘わらず白打は隠密機動並み。掌打で虚の頭部を粉砕したという逸話すら残っている。

 逆に鉢玄の体を殴れば、あのふくよかな肉に吸い込まれて殴ったという感触が残らないだろうと、可笑しな妄想が脳裏を過った。

 

 だが、考えれば考える程、今が虚しくなってくる。

 

 居なくなった者のことを考えるのはここまでにして、明日に備えようとする紫音は、チャッチャと煙管を片付けて床につく。

 救いは、幸せな夢だけ。

 例え覚めた後でも、刹那の快楽に溺れていたい。

 

 

 

 紫音は、今にも地に堕ちそうな鳥のようだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 それから数か月後、紫音が新たに鬼道衆総帥・鬼道長に異動命令を下された。

 異動先は護廷十三隊。鬼道衆から護廷隊への異動など聞いたことがなかったが、命令となれば仕方のないことであった。

 ただ、新たに長に就いた男が鉄裁や鉢玄よりも古参の人物で、彼らが目を掛けていた紫音のことを快く思っていなかったという噂を耳にすれば、この異動も納得できるものである。

 

 巣を追い出されてやってきた紫音。

 彼が辿り着いた第二の巣は―――。

 

「初めまして。ボクが八番隊隊長の京楽春水だよぉ」

 

 どことなく、自分と同じ香りが漂う男が長である八番隊であった。

 隊長羽織の上には、女物の桜色の羽織を着ている。室内であるにも拘わらず笠を被り、長い髪は二つの風車の形の簪で纏めていた。

 無精髭をなぞりながら挨拶をしてくる京楽に、紫音はシンパシーを覚えながら柔和な笑みを浮かべる。

 

「本日より八番隊に異動となりました、柊紫音と申します。どうぞ、よろしくお願いします」

「うん、よろしくねぇ。でも、そんなに堅くならなくてもいいよ。っと……ちょっと待ってねぇ」

 

 ゴソゴソと懐を探りだす京楽に、訝しげな表情を浮かべる紫音。

 その際、チラチラと見える腕毛や胸毛に感じたことは、

 

(……剛毛だな)

「お、あったあった。はいはい、これだよ。今日から君には、ウチの隊の二十席として頑張ってもらうよ」

「は?」

「ん? どうかしたのかい?」

「いえ、席次を与えられるとは思っていなかった故、少々驚いただけです」

「そうかい? 始解ができるんだったら、このくらい妥当だと思うんだけどねぇ」

 

 あっけらかんとした様子で言い放つ京楽。

 

「ウチの隊も新しい副隊長が決めたところでね……まあ、結構悩んでも結局は席次を繰り上げた感じさ。それで空いた席次をどうしようかって考えてたところで、ちょうど鬼道衆から護廷隊に異動させる予定の子が居るって聞いたから、是非ウチにって思ってさ」

「はぁ……」

「まあ、ボクは女の子には優しく、男の子にはほどほどだから。山爺の……っと、こう言っちゃ不味いね。一番隊とか二番隊とか、その辺りよりは気楽だと思うよ。君も早くウチの隊に馴染めるといいね」

「善処させて頂きます」

「もう、堅いなぁ~。どう? 今から一杯呑んでみる?」

「……くっくっく、生臭坊主ならぬ、とんだ生臭隊長ですね。噂通りです」

 

 にへらと笑いながら酒瓶と盃を取り出した京楽に、思わず笑い出してしまう紫音。

 八番隊の隊長が、仕事をほっぽり出して怠けたり、酒を飲んだり、昼寝に勤しんだりという噂は耳にしていた。

 まさに他の隊士たちは勤務中という時間帯に酒を進めるとは、肝が据わっているというかなんというか。

 『名は体を表す』という言葉がある通り、随分と“享楽”の道を進んでいるように思える。

 

「酒は好きですが、今は遠慮しましょう。後で先達たちに小言を言われるのは厭ですので」

「またまたぁ~。ボクに呑まされたって言えば、彼等もそう言えなくなるよぉ?」

「部下に苦労させるのも程々になされた方がよろしいのでは?」

「はははっ、そこまで言われちゃしょうがないねぇ。まあ、冗談はこのくらいにして……入っておいで~」

『は、はい!』

 

 京楽が襖のある方へ向かって声を上げると、向こう側から何者かの声が響き渡ってくる。まだ幼い少女のような声だが、どこかで聞いたことのある声に紫音は、首を傾げながら襖の奥から現れる者に目を遣った。

 丸い眼鏡。すぐ横の床には、待っている間呼んででもしていたのだろうかという厚い書物。

 

(あっ……―――)

「君に面倒を看てもらいたい子が居てね。ウチの隊……って言うより、護廷隊で最年少の死神の子。七緒ちゃんって言うんだ」

「い、伊勢七緒と申します! お手数かけると思いますが、以後よろしくお願いしますっ!」

「……久し振り、と言った方がいいのだろうか?」

「へ? ……あ」

 

 正座して頭を垂れていた七緒が顔を上げれば、見慣れた顔で妖しい笑みを浮かべている青年が目に映り、七緒の体がピタリと止まった。

 その様子に、京楽は『おぉッ』と声を上げながら話を続ける。

 

「知り合いとは奇遇だったねぇ。とりあえず紫音君には、これから席官としての仕事は勿論、七緒ちゃんの面倒も看てもらうからね。仲良くやってくれるとボクも嬉しいよぉ」

「分かりました。是非、そうさせて頂きます」

「だってさ、七緒ちゃん。ゴメンよぉ、わざわざ長い間待ってくれてたようだけど、これからもうちょっと込み入った話もするから……ね?」

「は、はい! では失礼します」

 

 再び頭を垂れて礼をした七緒は、そそくさと二人の前から立ち去っていく。再び二人だけの空間になった部屋の中では、初々しい姿の七緒を見てほっこりとしている男二人が笑みを浮かべていた。

 

「愛らしいですね」

「ホントカワイイよねぇ~、七緒ちゃんは♡ あんな子がウチの隊に居てくれるんだから、ボクもたくさん頑張れちゃうよぉ~」

「先程酒を進めてきた人の言葉とは思えませんが」

「おっ、鋭いねぇ」

「それで込み入った話とは一体?」

 

 スッと話を戻す紫音。

 その淡々とした様に、前の副隊長を重ねる京楽はフッと笑みを浮かべる。あちらは、どちらかと言えば毒があると言った方が正しいが。

 

「八番隊の前の副隊長―――矢胴丸リサちゃんって言うんだけどさ、現世に逃亡した彼等と一緒に連れて行かれたのは知ってるよね?」

「……はい」

 

 思い出したくない。

 意識したくはなかった事実を目の前で言われると、どうにも気分が優れなくなる。その様子に一言『ゴメンよ』と京楽が口にしてから、話を続けていく。

 

「彼女のこと、七緒ちゃんはよく慕ってくれててさ、毎月一日に読書会を開くくらいに仲が良かったんだよ」

「一日……」

 

 あの始末特務部隊が出撃した日は一日。

 すれば、自ずと答えは出てくる。

 

「あの日、七緒ちゃんの為にリサちゃんが用意してくれていた本があるんだ。それが上級鬼道の本でね」

「上級鬼道……確か、席官以上でなければ閲覧は認められていない筈ですが?」

「うん、そうだね。でもほら、七緒ちゃんって斬魄刀を持ってないじゃない? それに随分と悩んでいてね……だからこそ、斬拳走鬼バランスのとれた人材じゃなくて、一つの道を極めればいいって用意してくれたみたいなんだ」

 

 しんみりとした雰囲気に、口を噤んでしまう紫音。

 最年少という肩書のみならず、斬魄刀を持っていないのであれば護廷隊においての肩身が狭いことは用意に想像がつく。

 だからこそ用意した本。それを直接手渡し、激励の言葉を送れなかった無念を考えるだけで胸が締め付けられそうな気持になる。

 

「……優しい副官だったのでしょうね、その御方は」

「七緒ちゃんにはねぇ。ボクにはもうツンツンでさぁ~。綺麗な薔薇には棘があるって言うじゃない? ホンット、美人だけどボクにはツンとした態度しかとってくれなかったよ」

「京楽隊長殿の勤務態度を鑑みれば、致し方ないかと」

「あらら、君もそう言っちゃうんだ……まあそれは置いておいて、本題はさ、鬼道衆から異動してきた君に七緒ちゃんの鍛錬を手伝って欲しいってことなんだよ」

「私に……ですか? 私のような若輩に務まるとは思いませんが」

 

 鬼道衆に所属していたとは言え、実際に活動していたのはほんの数年。これであれば、護廷隊の上位席官の方が上手く扱えるのではないかと思えるレベルだ。

 教えを乞う立場から、急に教える立場になるには少々無理があるのではないか。そのような懸念を抱く紫音の顔色は優れない。

 

「まあまあ、探り探りって感じでさ。ボク達も手助けはしてくさ。()()、二人は知り合いだったみたいだしさ、これから仲良く―――」

「御冗談を」

「……おんやぁ、バレてた?」

「話が少々出来過ぎている故、鎌を掛けさせて頂きました」

「あらら……」

 

 ポリポリと頬を掻く京楽は『してやられた』という様子だ。

 しかし、知られたところで大して影響はないのか、寧ろ清々しい顔つきになる。もしや、わざとそのことを自覚させるように仕向けられたのではないか。

 

「銀嶺殿ですか?」

「……うん、そうだね。朽木隊長から話を聞いたんだ。白哉君からよく君の様子を聞いてるみたいでね、ここ最近ずっと疲れた()をしてるってさ」

 

 こうなるように仕組んだのは一体誰なのか、パッと頭に思い浮かんだ人物の名を投げかけてみれば、案の定返ってきたのは実の祖父の名。

 だが、彼が白哉を通して自分の様子を探っているとは思いもしなかった。

 

「そうですか……勘当した娘の子を思って動くとは、殊勝なことです」

「そう言わないでさ。ね? 朽木隊長も君のこと心配してるんだよ。煮ても焼いても結局は切れない親子の縁さ。孫が可愛くないお祖父ちゃんなんて居ないと思うよ、ボクぁ」

「……それで、なんと言われて?」

「『己を導いた師が居なくなり、因果のなくなった組織に延々と居るのは辛かろう』ってさ。ボクは君が実際のところどう思ってるのかとかは分からないんだけど、まあここで心機一転ってことで!」

 

 パンッと一度手を叩く京楽は無理に雰囲気を盛り上げようとでもしているのだろうか。

 だとしても、鉄裁や鉢玄の失踪のことを掘り下げられて嬉しいとは思わない。寧ろ、別に要らないことをしてくれたのではないかという考えさえ浮かぶ。

 祝い下手に加え、慰め下手とあっては、朽木家の将来を心配せざるを得ない―――とまあ、このような冗談を考えクツクツ笑う紫音。

 

「誰の背にも追いつけていないのに、誰かに追われる背中となるとは……私も数奇な人生を歩むものです」

「ははっ、置いてけぼりってことかい? それだったら、ボクも同じだね」

「……と言うと?」

「ボクも皆に置いていかれてばかりさ。皆、ボクに大切な物を預けてどっかに行っちゃう……っと湿っぽくなっちゃったね」

 

 笑顔を取り繕う京楽の顔は、頬が引き攣っている。その時、京楽の髪をまとめていた簪が一本、ポロリと落ちた。

 『おっとっと』とおどけた声を上げて、風車の簪を拾う京楽。

 中々の高値でありそうな簪。一体どこで買ったのか気になったが、今聞く事でもないだろう。

 

 簪を差し直し一拍。

 

「ま、人生人それぞれさ。でも大抵の人は、前に寄りかかって、横で支え合って、いつかは後ろに凭れ掛かってくる子を背負う人生だよ」

「……は?」

「君はまだ前に寄りかかって背負われることもできる歳さ。そう気負わずに、気軽にボクに頼っちゃってよ」

「はぁ……」

「ボクからしちゃ、君はまだまだ子供さ。大人は誰かにおぶさることなんてできないんだから、子供の今の内に甘えちゃいなよ」

 

 バンッと肩を叩かれる紫音は、意外に強い勢いに顔を顰める。

 流石は隊長と呑気なことを考えつつ、熱論してくれている京楽の言葉に合点がいくよう思慮を巡らせていく。

 

「ま、紫音君は白哉君みたいに横で支え合える子が居るようだから、ボクは安心だよ」

「……そうですね。私は良い友人を持てています」

「……よし、じゃあ入隊の儀はこれくらいにしとこっか! 毎回コレ、堅苦しくて苦手なんだよねぇ~」

「そう仰っている割には、嬉々として語っていたようですが」

「まあ実際色々複雑だったから、その分言うことも多かったんだよぉ。まあ漸くしちゃえば―――……ようこそ八番隊へ、柊二十席」

 

 紫煙は、享楽が渦へ呑み込まれていく。

 

 

 

 ***

 

 

 

 京楽との話も終え、部屋を出て行く紫音。

 少し廊下を歩いていけば、二人の話が終わるのを待っていたのだろう七緒が、背筋をきっちり伸ばした状態で立ち尽くしていた。

 ずっとあの状態で待っていたのかと気になるところだ。

 

「……待ちぼうけか?」

「はっ! えっと、お話は終わったでしょうか……?」

「ああ。これからよろしく頼む、伊勢殿―――は堅苦しいか。何と呼べばいい?」

「え? ……そのままで大丈夫ですが」

「そうか。では改めてよろしく頼む、伊勢殿」

「こちらこそ、柊二十席」

 

 小さい手と握手を交わす紫音。

 これから共に歩んでいく存在を、紫音は確りと確かめる。

 



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十五話

「ガァァアア!!」

「うぉッ!?」

 

 狼のような形をした虚の爪の一振りが、斬魄刀を構えていた男性隊士の腕に掠る。派手に鮮血が飛び散り、男性は思わずその場に尻もちをついてしまい、身動きがとれなくなってしまった。

 そんな男性に止めを刺すべく虚は、蠅の如く男性を叩き潰そうともう片方の腕を振り下ろす。

 

「―――縛道の七十五・『五柱鉄貫(ごちゅうてっかん)』」

「グルァ!?」

 

 だが、その直前で空より真っ直ぐ落ちてきた五つの柱が、虚の体に突き刺さる。

 周囲に轟音を響かせて、虚の体を縛る鉄の柱。それらに四肢を拘束された虚は、必死の形相で手足をじたばたと動かすものの、一向に振り解くことができない。

 九死に一生を得た男性隊士。ホッと息を吐くと、背後の方から草履を擦る音が聞こえてきた為、反射的に振り返った。

 

「はぁ……迂闊に前に出過ぎだ」

「ひ、柊九席!」

 

 印を組んでいた手を解けば、紫黒色の手甲がよく見える。すらりと細い、女性のようなしなやかな指だ。

 その指を持ってうなじをなぞる様は男とは思えぬ程に妖艶であったが、彼が放つ霊圧に呆れの感情が混じっていることに気が付いた男性は、『ひっ』と萎縮してしまう。

 

「出世欲に駆られて前に出るは結構。だが、それで隊列を崩し、自分の身を滅ぼしてしまうのは元も子もなかろう」

「す、すいません……」

「まあ、説教も程々に……」

 

 徐に斬魄刀を抜身にする紫音。

 虚の罪を濯ぐ死神の剣だ。それをチラつかせれば、虚は先程よりも拘束を振り解く抵抗を強めてみせる。

 

「無駄だ。其方程度の力では振り解くことは敵わぬ」

「ガ……ァァアア!!」

「早く往生したいだろう? なら、無駄な抵抗は止めて罪を濯がれることだ。案ずるな、尸魂界は喰うか喰われるかの虚の世界よりも、気安い所ぞ」

「ガ―――」

 

 待て。

 そう言わんばかりに仮面の奥の瞳を見開く虚であったが、声を上げて直ぐに仮面に真っ二つに叩き斬られた。

 瞬く間に霊子化していく虚を一瞥し、紫音は一息吐く。

 後から遅れてきた隊士たちの方へ妖しい笑みを浮かべつつ、手をパンパンと二度叩いた紫音が口にしたのは、

 

「さあ、皆の者。任務も終わったことだ。帰投しようじゃあないか」

 

 

 

 ***

 

 

 

「護廷隊というのも、中々疲れる職場だな」

「……今更ではないか?」

 

 瀞霊廷に佇むとある茶屋。昼休憩中、偶然出会った紫音と白哉はそのままの流れで共に茶を飲んでいた。

 紫音が八番隊に異動してから早二十年。その間に二十席から九席に昇進した紫音は、三席の白哉には及ばないものの、実戦経験を積み重ねて徐々に実力をつけていった。そして、その席次相応の危険な任務を与えられるのだが、今のところ命の危機に瀕した時はない。

 

 可愛らしい部下の世話も程々に、順風満帆な生活と自分の口から言えるようにはなってきた。

 

「それで、蒼純殿の具合はどうなのだ? 最近、余り優れないと四番隊伝いに耳にしている」

「ああ。父上は体調を鑑みて休みをとられることが多くなってきた。故に、私が業務を代行しているのだが……」

「いい経験だろう。本当に身を案じるのであれば、蒼純殿には早々に死神を引退してもらい、其方が副隊長に就くべきだ」

 

 自分とは違い、長年三席の座に就いている白哉は、既に副隊長相応の実力を身に付けていることだろう。

わざわざ病弱な者を前線に出して、身の危険を晒すことはない。尚更、隊の者達を危険に晒すことにもなりかねないということだ。

 

 紫音の言葉に『そうか……』と少し思慮を巡らせる様子の白哉。

 既に霊術院を卒業して二十年以上。態度も大分落ち着き、以前のように感情的に動くこともほとんどなくなった。代わりに反応が薄くなってしまった為、揶揄う側からすれば少し物足りないように感じてしまう事もしばしば。

 しかし、ちょっとした反応で大体のことが理解できるのは、長年の付き合いの賜物といったところか。

 

 談話の間に茶や団子を口に含みながら、昼休憩を存分に楽しむ紫音。

 そこへ、遠くから人影が一つ。

 

『柊九席~!』

「……呼ばれているぞ」

「ああ。可愛い使いが来たな」

 

 厚い書物を手に抱えながら駆け足でやって来る人影は、今年になって席官入りした七緒だった。

 幾分か背が伸びたが、まだまだ少女の域を脱しない彼女のことを『可愛い使い』と揶揄する紫音であったが―――。

 

「誰が可愛い使いですか」

「う゛ッ」

「昼休憩は早めに帰ってきてくださいっていつも言っているじゃないですか」

 

 辞典レベルに分厚い書物の角で脇腹を突かれた紫音は、くぐもった悲鳴を上げる。

 

「……休憩する為の時間だろう。こんなに早く来るのは早計ではないか?」

「只でさえ隊長が働かない隊なんですから、下の者がしっかりしないと駄目じゃないですか」

「暴挙ではないか?」

「文句なら京楽隊長に言って下さい。それに終業後は鬼道の鍛錬もあるんですから、柊九席には早めに業務を終えて頂かないと」

「……それは公事ではなく私事であろう?」

「だからこそです。一時も無駄にしたくはありませんから」

 

 二十年前の初々しさは何処へやら。

 綺麗な薔薇に棘が生えてしまったことを嘆く紫音は、茫然と茶を手に持って固まっている白哉を一瞥する。

 

「訂正する。可愛らしくて毒のある部下だ」

「どうでもいいことを朽木三席に言わないで下さいっ! すみませんが、柊九席をお借りしてもよろしいでしょうか?」

「……構わぬ」

「と言っておられますので、さあ行きましょう」

「白哉。それではまた今度」

「……ああ」

 

 七緒に腕を組まれるようにして連れて行かれる紫音を見送る白哉。

 暫し茫然とした後に、とあることに気が付いた。

 

「彼奴め。代金を払わなんだ……」

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ……優秀な部下を持つと苦労が多い」

「文句なら京楽隊長に言って下さい。中間管理職の大変さは理解しているつもりですが、縦社会である以上免れられないものなんですから。柊九席に上司と部下がいるのは勿論、京楽隊長も私も例外じゃないんです。いつまでもグチグチ言わないで下さい」

 

 茶屋を離れてから数分の間、紫音は七緒に腕を組まれたまま瀞霊廷の街並みを歩み進めていく。

 時折すれ違う知り合いたちに挨拶を交わしたり、呑気に日和見している間にも、七緒はそそくさと隊舎へ向けて足早に進む。

 ツンツンしてきた七緒であるが、これはこれでアリだ。元より京楽に近い感性をしていた紫音は、この二十年の間、彼に感化された。女好きで、酒も好きな婆娑羅者。おまけに煙管も嗜むが、与えられた仕事をきちんとこなすのは幸いだっただろう。

 

 生真面目で秘書のような立ち位置の七緒とは、正反対と言えよう。

 

「そんなに愚痴を零したつもりはない。ただ……」

「ただ……なんですか?」

「優秀な女の部下の尻に敷かれるのも一興だと思ってな」

「ふんっ」

「う゛っ」

 

 手を振りほどいた七緒がとった行動は、再び厚い書物で紫音の脇腹を小突くというもの。

 

「京楽隊長に似て、軽薄な振る舞いになってきたものですね」

「私は元々こういう男だ。それに伊勢殿の言葉は、遠回しに京楽隊長殿を貶しているように聞こえるのだが」

「事実、貶しておりますのであしからず」

「くっくっく。京楽隊長殿が耳にすれば落ち込むだろう」

「是非聞かせてあげて、それを機に真っ当に働いてもらいたいものですね」

 

 スチャリと眼鏡を指で押し上げる七緒。日光が眼鏡に反射すれば、鋭い眼光が紫音に向かって奔る。

 思わずビクリと肩を跳ねさせる紫音であったが、これも慣れたものだと苦笑を浮かべながら七緒を見遣った。

 

 そろそろ京楽にも働くように諫言するべきか。

 そのようなことを考えながら歩んでいると、七緒がふと気が付いたように話題を提示してくる。

 

「ああ、柊九席。最近、技術開発局の話題を聞いていますか?」

「技術開発局? なんのことだ?」

「貴方という人は……どうせ京楽隊長と一緒に女性のお尻を追いかけてばかりで、世間で話題になっていることを……」

「京楽隊長殿よりは自制しているつもりだ。それより、話題とはなんぞや?」

 

 本当に何も知らない紫音は、真剣な面持ちで七緒が口にするのを待つ。

 すると七緒は、辺りをキョロキョロと見渡し、周りにどれだけの人々が居るのを確かめてから、紫音に耳打ちし始めた。

 

「……改造魂魄ですよ」

「そのままの意味か?」

「柊九席が考えている意味かどうかは存じ上げないですが、とりあえず概略は纏めておりますので、今から話しますね」

「流石、伊勢殿だな」

「お褒めに預かり光栄です」

 

 全然光栄と思っていなさそうな声色で返答する七緒。

 徐に腕に抱えていた書物を開いたかと思えば、何枚か頁をめくる。そして該当した内容がまとめられている部分を、小声で話し始めた。

 

「今から百年以上も前の話になりますが、八代目剣八である痣城剣八―――本名・『痣城双也』という人物が、流魂街に住まう一般の魂魄を改造して、対虚用の兵力とするべく行動を起こしたことがあります。しかし、その非人道的な内容から中央四十六室から廃案が決定されたのですが―――」

「が、なんだ?」

「反乱を起こし、瀞霊廷に甚大な被害を及ぼしたそうです。後に投降。そのまま裁判にかけられて“無間”に投獄されたようです」

「ほう、無間か……」

 

 真央地下監獄―――瀞霊廷で罪を犯した者が投獄される監獄であり、八層に別れる監獄の内、最深部に位置するのが“無間”。永久の闇の中、文字通り“無の空間”に収監され続けるらしい。

この無間に投獄されるのは、処刑することもできない所謂“不死”の類いの力を持つ者。もし殺せるのであれば、隊長格は『燬彀王(きこうおう)』によって焼き殺されるだろう。

 それは兎も角、問題なのは―――。

 

「その改造魂魄とやらも、同じ類なのか?」

「さあ……私が知る限りは、義魂丸を用いているらしいのですが、それ以上のことは余り……」

「ふむ……つまり、義魂丸を対虚用の兵力に使う為に改造しようという内容だろう」

「まあ、恐らくは……」

 

 肉体に入った場合に疑似人格として作用する道具を義魂丸と呼ぶ。通常は、死神が義骸を抜く際に用いる。

 疑似人格に用いるのは、百八人の死神学者たちがはじき出した『理想の人格』が入っているらしいが、どういう訳か珍妙な性格のものばかりであり、真面な性格をしている義魂丸の方が少ないという一面があったりなどなど。

 

「まあ、義骸や霊骸に用いる分には賛成だが」

「えっ、そうですか……?」

「非人道的なのは、死体に用いるからであろう? 死神は万年人手不足なのだから、遠方の郛外区の見回りに用いるのであれば充分有用だと思うが」

「確かにそういう見方もできますが、私は賛成しかねますね……」

「現局長の涅マユリ殿が計画を進めている被造魂魄計画も似たようなものだろう」

 

 初代技術開発局長である浦原が尸魂界から去った後、二代目局長の座に就いたのは副局長であった涅マユリであった。元々、その思想の危険性から“蛆虫の巣”に収監されていた人物であったが、知能は“天才”そのもの。

 現在彼が進めている“被造魂魄計画”とは、無から新たな魂を生み出すというもの。彼自身、己の義魂技術と義骸技術の粋を集めて完成させると謳っている“被造魂魄”も、広い括りで言えば“改造魂魄”ということになる筈だ。

 

 そのようなことを示唆する紫音に対し、七緒はどこか納得に言っていないような表情だ。

 

「確かにあの方であれば、改造魂魄についても了承を下すかもしれませんが、四十六室が黙っているとは思えません」

「過去に提示した問題点をクリアしたならば大丈夫だろう」

「ですが……」

「『神無き知育は知恵ある悪魔をつくることなり』。逆に考えれば、その計画を進める者が人の道を外れさえしなければ、自ずとその技術は尸魂界のみならず現世が為となろう」

 

 楽観的と言うか、前向きと言うか。

 そのような紫音の言い草に、散々悩んでいた挙動を見せていた七緒は落ち着いた微笑みを浮かべる。

 

「ふふっ、そうですね……」

「伊勢殿は心配性なのだ。程々に適当で曖昧な方が、人生楽というものだ」

「度が過ぎても困ったものですけれど。ああ、そう言えば霊術院で話題になっている子のことも知っていますか?」

「知らぬな」

「意外ですね。女好きの貴方が知らないとなると、余程常日頃周りで起こっていることに無頓着なのでしょうね」

「……そこまで言われると、流石に私でも凹んでしまうぞ」

「だったら情報収集は怠らないで下さい」

 

 ガスガスと本の角で額を小突かれる紫音は、苦笑を浮かべながら仏頂面の七緒を見下ろす。

 

「はぁ。折角の美人も台無しになってしまうぞ」

「ふんッ」

「づっ」

 

 最後に勢いよく小突かれたのを最後に、七緒が『やれやれ』と首を振る。

 

「朽木副隊長以来、久し振りの一年で卒業の子が現れたらしいですよ」

「……それは凄いな」

 

 赤くなった部分を掌で擦っていた紫音は、七緒が口にした内容を耳にした途端、呆気にとられたような表情を浮かべる。

 その凄まじさは否応なしに理解しているつもりだ。

 そして更に、先程の内容を思い返して、ある事実に気付く。

 

「女が、か?」

「私よりも若い女子院生ですよ。そうですね……柊九席と初めて会った頃の私、とでも言えば分かるでしょうか」

「これはこれは……大層な麒麟児が現れたものだな」

「そうですね。藍染隊長の推薦で入試には一発合格。更に卒業前に護廷隊入りが確定されていて、五番隊三席の座が用意されているなんて尋常じゃありませんから」

 

 要約すると、ほとんど幼女であるにも拘わらず席官入りが確定の天才児と言ったところだ。

 

「藍染隊長殿の隊に……確か副隊長は市丸ギン殿だったか?」

「ええ。それがどうか?」

「いや、白哉が市丸副隊長殿を苦手と言っていてな。それだけだ」

「はぁ……」

 

 白哉がしかめっ面で『彼奴は苦手だ……』と口にする様子が脳裏を過る。

 確かに、揶揄い癖のある市丸は、白哉に敬遠されても仕方ないだろう。同じ揶揄い癖のある自分はどうなのかとも思ったが、今更だ。もし本当に苦手であれば休日に鍛錬に誘いはしないだろう。

 

「私は、市丸副隊長殿は好きなのだがな」

「そう……なんですか?」

「ああ。話していて楽しい」

 

 その“楽しい”の内容が、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、互いに心中を探り合うような掛け合いをすることなど、七緒は想像にもしないだろうが。と言っても、仕事で時折出会う程度。友人という程ではない間柄だ。

 それは兎も角、

 

「それで、先の麒麟児の名はなんと申すのだ?」

「女子院生のですか? 確か―――」

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

「藍染隊長」

 

 院生の制服を身に纏う少女が、隣を歩く柔和な笑みを浮かべる男性を指で突く。

 

「なんだい?」

「大福」

 

 突いた指をそのまま菓子が売っている店の方へと向ける少女に、『惣右介』と呼ばれた男性は隣に佇む部下に声を掛けた。

 

「ギン」

「え~、ボクが懐から出すんですか? そない殺生な」

「生憎、持ち合わせがなくてね」

「しゃあないですね。ほな、青ちゃん。ボクが()うてあげるから付いて()い」

 

 『ギン』と呼ばれた青年。

 彼が手招けば、店を指差す人差し指とは逆の指で唇を触れている少女―――『青』は無言で頷いて、青年の背中を追いかけていく。

 彼女が小走りで駆けていけば、夜の帳のように黒いセミロングの髪が靡き、琥珀のように美しい瞳に燦々と降り注ぐ日光が反射する。

 

 

 

 彼女達の物語が始まるのは、まだ先のこと。

 



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十六話

 

「なに? 蒼純殿が副隊長を引退だと?」

「……ああ」

 

 意外な事実に驚きの声を上げる紫音。

 ここは柊家の一室。休日が重なった二人は、近況報告がてらに小さな盃へ梅酒を注いで呑んでいた。

 そこで語られたのは、白哉の父であり紫音の叔父である蒼純の引退だ。

 

「疾病の発作がひどいらしい。これを機に護廷隊を引退して隠居すると口にしている」

「隠居となると、家督は継がぬのか?」

「……爺様が当主から身を引いたときには、私に、と……」

 

 どこか複雑そうな面持ちを浮かべる白哉に、紫音も困ったように眉を顰める。

 父親の体調が優れないのは勿論、いずれ任されるであろう当主としての責任の重さを身に染みて感じているのだろうか。

 そして近い内に白哉は副隊長に任命される筈。となれば、隊長の補佐としての責任も負わなければならない分、色々気負ってしまうのも無理はない。一応、隊長に与えられている“副隊長任命権”に対を為すように“着任拒否権”が隊士には認められている。

 

 だが、この頑固で真面目な友は断ることがないだろう。

 

「まあ、色々と思うところもあるだろう。しかし、案ずるよりも産むが易し。為るように為ればよいだろうに」

「……そういうものか?」

「若くして当主となった私が言うのだ」

「……そう言えばそうであったな」

 

 思い返せば、確かに紫音は二十年以上も前に当主となった男。

 まだまだ少年の時期であった彼が当主となった際の重責は推し量ることができないだろう。

 上には上が居る。そんなことを思った白哉は、一先ず目の前の友よりは大丈夫だと安堵の息を漏らす。

 

 やや酒気の混じった吐息を漏らす白哉の向かい側では、まだまだ飲み足りないといった様子の紫音が梅酒を盃に注ぎ続ける。自分の分を終えれば、次は白哉に―――と手を動かしたものの、『もういい』と言わんばかりに掌を突きだされた。

 まだ飲み足りない紫音としてはもう少し呑ませたいところだが、酒の強くないものに執拗に勧めるのは粋ではない。何時ぞやの飲み会で京楽が口にしていたことを思い出しながら、注ごうと傾けた徳利を垂直に持ち直す。

 

「……して、卍解の修練はどうだ? 順調か?」

「……屈服までもう少しだ。数年以内には会得してみせよう」

「それは楽しみだ。だが、使いこなすにも十年は必要らしい。くっくっく、乾く暇がなくてよいではないか」

「兄も卍解を会得して、共に修練するのはどうだ?」

 

 酔いが回って、普段よりは饒舌な白哉が一つ提案してきた。

 

「馬鹿を言うな。千本桜の卍解などという末恐ろしいのと相対すのは遠慮しておこう」

「……そうか」

「冗談だ。一度剣を交えて、具合を確認してみよう」

「あい分かった」

 

 凄まじく分かり辛いが、今の白哉の声色には嬉々が含まれていた。

 と言っても、卍解の会得自体並大抵の難度ではない。才ある者でも十年はかかる卍解の会得。主に、『具象化』と『屈服』の内の前者が難しいと謳われているが―――。

 

(普段から幻覚で横に居る故、パッとせぬな)

 

 始解とは違い、斬魄刀を精神世界ではなく此方側に呼び寄せるのが『具象化』。しかし、今言ったように幻覚で普段から寄り添われている紫音からすれば、さほど変わりはないのではないかという安易な考えが浮かんでくる。

 だが、それほど容易いものではないという分別はついているつもりだ。

 白哉でも始解の会得から二十年以上経ってまだなのだから、自分となれば五十年―――否、百年以上かかるのではないだろうか。そもそも習得できないという可能性もある。

 

(だが始解はできたのだから案外できるやもしれぬ)

 

 しかし、結構楽観的なのもこの男。

 

 死神の寿命は長い。長い目で見れば『いつかは』という希望的観測を抱くのは、当然と言えば当然かもしれない。更に言ってしまえば、卍解を会得すること自体が尸魂界の歴史に残るほど大変名誉なことである為、分家の当主として将来は安泰になる筈。宗家も鼻が高いことだろうから、周囲からの評判もよろしくなり、良い女性とも―――などと、桃色一色な考えが脳裏を過る。酒を飲んでいるのだ。今はしょうがないことにしておこう。

 

「……兄も京楽隊長に毒されたな」

「なんだと?」

「……いや、なんでもない」

 

 どこか呆れた様子の友の呟き。

 妄想に耽っていたが故にはっきりとは聞こえなかったが、大したことでもなさそうなので、紫音は深くは訊くまいと考えるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 翌日、紫音は上官や部下達と共に、出撃要請のあった南流魂街へと出向いていた。巨大虚が一体に、他四体程。ここ最近では一番手応えのあったような戦いであったが、特にこれといって死者が出るということは起こらなかった。

 寧ろ、虚が暴れた地区の建物への被害が大きい。平屋が幾つも潰れている様は、元々そこに住んでいた者達からすれば目を覆いたくなるような光景だろう。

 

(だがまあ、鬼籍に入るようなことにならなかった者が居なかっただけマシとしよう)

 

 『鬼籍に入る』―――つまり死ぬということだが、あれだけの虚が暴れて死者がでなかったことは奇跡といえよう。だが、怪我人が全くでなかった訳ではない。

 虚の駆逐が終了し、今は救護・治療専門の四番隊待ちだ。元々戦闘を行う部隊ではないが故、こうして他の隊に比べると現場への到着も遅れる。その為、彼らが来る前に虚を駆逐するというのが護廷隊の中ではセオリーとなっていたりなっていなかったり。

 

 だが、専門ではない護廷隊も霊術院では応急処置のみならず、得意な者は回道を習得している。虚によって刻まれた傷の処置法は心得ているのだ。

 よって現在は、元鬼道衆であり回道を得意とする紫音を中心に、怪我人の治療にあたっている。

 今も、左腕に大きな裂傷が刻み込まれている男性を治療しているところだ。

 淡い緑色の光が腕を包み込み、次第に傷が塞がっていく。失った血まで戻る事はないものの、これで失血死することは免れるだろう。

 

「ふぅ……一先ずは終わりましたが、痛みは?」

「あぁ、ありがとうございます。大分楽になりました」

「左様ですか。では、私は他の怪我人の下へ行きます故。もし以後具合が悪くなったのであれば、後に到着する救護部隊に申し付けるようお願い致します」

 

 軽く一礼し、颯爽と男性の前から立ち去る。

 辺りを見渡し、他に怪我人が居ないかを確認し始めた紫音であったが―――。

 

「あ、あのう……っ」

「む? どうかし―――」

 

 背後から女性の声が聞こえ、怪我人が居るのかと考えて振り返った紫音は、思わず言葉を失った。

 

(……綺麗だ)

 

 肩にかかるセミロングの黒髪は、漆で塗られたかのように艶を放っている。そして此方を見つめる双眸は、紫水晶のような色と光沢を有しており、見れば見るほどその宝石のような瞳に吸い込まれそうになった。

 淡い桃色の唇は薄いものの、瑞々しさを失ってはいない。吐息で濡れたであろう唇は、薄く開いたままだ。

 決して肉付きはよくないが、彼女の姿は彼の“大和撫子”を思わせるような清楚な美しさを感じさせる。

 

 普段なら、これほどの美女を前にすれば微笑みの一つでも浮かべたであろう紫音であっても、思わずそれを忘れて茫然と立ち尽くしてしまうほど。己では気付かなかったが、頬はかなり紅潮していた。

 

「申し訳ございません、死神様。向こうの方に傷ついた御方が居られます。是非、お力を……!」

「あ……あぁ。あい分かった。案内してくれ」

 

 思い返せば、随分と初心な反応だったと思う。

 美人を前にして上手く出てこない子供のような反応だ。恰好がついていない態度を次第に自覚していく紫音は、『此方です』と息を切らしながら駆けていく女性の後を追う。

 その間、漂ってくる女性の甘い上品な香りに、終始鼓動を高鳴らせる。

 京楽に遊郭まで連れて行ってもらった時でもこうはならなかった。なのに、一体どうして―――。

 

(調子が狂う……)

「死神様、この御方です」

「ふむ。この御老体か」

「おぉ……緋真さん、わざわざ済まないねぇ」

「いいえ。いつもお世話になっています。このくらいのことは……」

(成程、『ひさな』という名前なのか)

 

 緋真と呼ばれた女性の下に連れられてやってきたのは、一見どこも怪我をしていないように窺える老婆だ。女性の名前を胸に刻み込みながら、老婆がどこを怪我しているのかをしっかり確認していく。

 

「……御老体。一体何処を怪我なされて?」

 

 しかし、掌を少し擦りむいた以外は、大して怪我をしていない。

 訝しげに首を傾げる紫音が老婆に目を遣れば、プルプルと震えている老婆が口を開く。

 

「化け物に追われて、吃驚して腰をやっちゃってねぇ……真面に歩けないんだよぉ」

「……成程。それは大事です故、すぐに治療致します」

「ありがとうねぇ。座ってるだけでも辛くて……」

 

 すぐに命に関わりそうではないが、日常生活には関わってきそうだ。

 パッと後ろを見て、後は大したことのない怪我ばかりであることを察した紫音は、老婆を背負って近くの平屋まで背負っていく。

 そして畳の上に老婆をうつ伏せに寝かし、回道の光を腰に当てる。

 

 ぎっくり腰であれば数分程度で治るだろう。それまでの間は、老婆の容態を心配して付いてきた緋真の個人情報を訊くことで潰そうとする紫音は、早速声を掛けた。

 

「ひさな殿……でしたな?」

「え? あ……はい。名を覚えて頂けるとは思っておりませんでした」

「いえ、良い名の響きであった故。よろしければ、どう書くのかも教えて頂ければと」

「私の名のですか? 緋色の『緋』に『真』で『緋真』と書きます」

「成程、美しい名だ。其方によく似合っている」

「とんでもございません。ですが、有難う御座います。あのう、よろしければ死神様の名も」

「柊紫音と申す。是非、覚えて頂ければと」

 

 若干食い気味に名乗った紫音は、達成感を胸の内に覚えながら緋真の顔を凝視する。

 すると、目のやり場に困った緋真が手で髪を梳く真似をしながら、視線を畳の方へ向けた。特に親しくない者に凝視されれば誰でもそうなるだろうが、紫音はそのことに気付かず、目の前の女性を脳裏に焼き付ける為に凝視を続ける。

 

「その……ええと……紫音様の名は、どういう風に書かれるのですか?」

「紫色の『紫』に、音色の『音』だ。其方と同じく、色が名前に入っているな」

「ああ、確かにそうでらっしゃいますね。紫と言えば、高貴な身分の御方が纏われる衣の色……それと『音』で『紫音』とは、とても綺麗なお名前だと私は思います」

 

 フッと唇で半月を描く緋真。少しだけ下がる目尻。胸の前で合わせる掌。

 それらの挙動だけで、紫音の心を射止めるに足りた。

 

 柄にもなく挙動不審になりつつ、照れ隠しに回道を行っていない方の手で頬をポリポリと掻き続ける。

 

「そ、そうか……その……名を褒められて嬉しく思う」

「私も同じです。誰かに祝福されつつ与えられた名を、褒められて嬉しくない筈がありません」

「……ああ、そうだな」

 

 突然、神妙な面持ちになった紫音に緋真が眉を顰める。

 

「……紫音様?」

「いや、親を二人共亡くした私にしてみれば、己が名乗っている名も形見のようなものだと気付いてな」

「っ……! 申し訳ございません! 私の浅はかな言葉で紫音様を傷付けてしまい……っ!」

「気にしないで面を上げてくれ。別に私は傷心などには陥ってはおらぬ。寧ろ礼を言う。大切なことを教えられた気がするのだ」

 

 先程まで頬を搔いていた手で、両手を畳につけて頭垂れる緋真の手を取る。徐々に表を上げる緋真と視線が合ったものの、先程のように頬を紅潮させることはない。

 絹のように滑らかで白い肌の手を取りながら、紫音はジッと目の前の女性を見つめる。

 

 今にも崩れそうな儚い表情。

 それは、宙を漂う紫煙のようだ。だが、それを繋ぎ止めるように手を握る紫音はこう告げる。

 

「有難う、緋真」

「……そんな、恐縮でございます」

 

 少しだけ、ほんの少しだけだが喜色を頬に浮かべる緋真は、照れを隠すように再び畳を見つめる。

 

(ああ、ずっと眺めていたい。彼女を―――)

『四番隊、ただいま到着致しました!』

「む?」

 

 この甘い空間を延々と堪能していたいと願っていた紫音であったが、四番隊の到着によってそれは叶わぬ願いとなった。

 彼等が来たのであれば、自分達はすでに用済み。早々と報告の為に瀞霊廷へ帰るよう通達される筈だ。

 

「くっ……!」

「? どうかなされましたか?」

「い、いや……」

「そうでしょうか? ……紫音様、本当に有難う御座いました」

「大したことはしていない。任務を全うしたまでだ」

 

 老婆の背中から手を引きながら答える紫音は、後ろ髪を引かれているかのような表情で平屋を後にしようと立ち上がる。老婆はすっかりと良くなったようで、頭垂れる緋真の横で『ありがたやありがたや……』と合掌して、紫音を見届ける体制に入っていた。

 これで否応なしに出て行かなければ不自然な雰囲気になったが、少し逡巡した紫音が、宝石のような緋真の瞳を見つめる。

 

「その……緋真。また今度、話をしに来てもよいだろうか?」

「えっ……私とでしょうか? ええ、勿論でございます」

 

 華のような笑み。

 それだけで、紫音の心は釘づけになった。

 

 そして気付く。

 

―――そうか、これが初恋か

 

 

 

 ***

 

 

 

 あのような女性が妻であったら、どれだけ毎日が楽しいだろうか。

 あの華のような笑みを向けられ、琴のように安らかな声で語られ、絹のような肌と触れ合えば、どれだけ日々が満ち足りるだろうか。

 

「―――っ!」

 

 次の瞬間、乾いた音が響く。

 その音に気が付いた隊士の一人が、最後尾を歩む紫音に振り返り、不思議そうな顔で真っ赤に晴れた右頬を見つめる。

 

「あ、あの……柊九席? どうかなされたんですか?」

「蚊が止まっただけだ。気にするな」

「は……はぁ?」

 

 夏でもないのに蚊が居るのだろうか? そのような疑問を覚えつつも、隊士は瀞霊廷への帰路につく部隊に遅れぬよう足を進めていく。

 一方、止まらぬ妄想を己の頬を叩くと言う古典的な方法で止めた紫音は、我を取り戻して自身の浅はかな恋心を自分自身で咎める。

 

(落ち着くのだ、柊紫音。其方は朽木家分家の当主だろうに。幾ら品のよくて美しい女性であっても、流魂街の出の者……手を出せば我が家のみならず、朽木家の名を穢すことにも繋がりかねぬ)

 

 流魂街の者の血を、貴族の家に入れてはならない。それは単純に掟に反するからだ。

 

(妾も駄目だ。そもそも、手を出すこと自体が低俗と罵られるだろう……)

 

 貴族というものは陰湿なものだ。己の家の利益の為には、虎の威を借り、他人の揚げ足を取る。

 例え一時の娯楽という名目でも、流魂街の者に手を出せば、罵詈雑言を向けられるのは想像に難くない。

 

(だが……忘れられぬ)

 

 あの頬笑みが、鮮明に脳裏を過っていく。

 一目惚れとは恐ろしいものだ。しかもそれが初恋ともなれば、暴走は留まることを知らない。

 

(少し話すだけだ。そうだ、手は出さぬ……それならば良いだろう)

 

 確りと一線は設けつつも、会いに行くことを決心した紫音。

 自分は緋真と“友人”になりたいだけ。それ以上の想いはない。

 

 そう心に決める紫音であったが、この想いが数十年先に彼を苦しめることとなろうとは思いもしなかった。

 あのようなことでもなければ、()に本気で喧嘩を売ろうなどとも―――。

 




・活動報告で『宣伝のようなもの』を投稿いたしましたので、是非読んで頂ければと思います。この作品の本編にあたる作品についてのことです。気軽に読んで頂ければ幸いです。
 


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十七話

 

『紫音様の好きな花はなんでしょうか?』

『梅だな』

『うふふ、偶然ですね。私も梅が好きです』

『そ、そうか……』

 

 

 

 ***

 

 

 

「どーしたんだい? やけに元気がないじゃないかぁ」

「……京楽隊長殿。仕事は?」

「仕事もこうも、今は昼休憩中じゃないかぁ」

「いえ、てっきり伊勢殿に椅子に縛り付けられているとばかり思っておりました故」

「……七緒ちゃんは君の中でどういう子なのよ?」

「どうもこうも、可愛い部下以上でも以下でもありませぬ」

 

 他愛のない会話。

 縁側で湯呑片手に項垂れていた紫音の隣に座り込む京楽は、被っていた笠を手に取りながら、『なにか悩みでもあるのかい?』と問いかけてくる。

 その問いに暫し思慮を巡らす紫音。まさか『流魂街の女性に恋をしている』などと直球の質問など出来る筈も無い。上手い具合に例がないものか。

 

「……京楽隊長殿は『灰被り姫』の話をご存知で?」

「灰被り? ……あぁ~、確かシンデレラとか言う奴かな?」

「ええ。平民の普通の少女が、貴族や王族にその美しさを見出されて妻に娶られる……女子が夢見る典型的な物語の一つです」

「それがどうかしたのかい?」

「物語ではやけにあっさりと少女を妻に娶っておりますが、これを瀞霊廷に置き換えれば掟があります故、少々違和感を覚えてしまいまして」

「あぁ、確かにねぇ」

 

 京楽の家も上流貴族に位置する立派な家柄だ。今目の前に居る彼は次男坊であるが、長男が大分前に死去しているらしく、実質京楽が当主のようなものである。上流貴族の当主ともなれば、幾ら普段軽薄な振る舞いをしていようとも、しっかりと一線は弁えている筈だ。

 

「もし、京楽隊長殿が瀞霊廷の王族の王子だとしたら」

「おお、それはいいねぇ」

「灰被り姫のように美しい平民の身分の娘が居たら、手を出しますでしょうか?」

「う~ん、ボクなら出しちゃうかなぁ~。なんたって、ボクが王子様なんだからねぇ」

「成程。家臣の罵詈雑言を受けつつも妻に迎え入れると」

「え?」

「そうでしょうとも。場を瀞霊廷と仮定しているのですから」

 

 まるで紫音の質問の内容を聞き飛ばしていたかのように、京楽は得心していない顔を浮かべて『あぁ~』と声を漏らす。

 はっきり言えば、特に役に立つような問いかけではなかった。そのことに少々残念そうに項垂れる。

 

「―――何を話しているんですか、お二人は」

「お、愛しい愛しいボクの七緒ちゃぁ~ん♡」

「誰がボクの七緒ちゃんですか」

「いたっ!?」

 

 ふと近くから聞こえる声に振り返れば、分厚い書類の山を抱え込む七緒が居た。すかさず頬を緩ませて飛び込む京楽であったが、足袋を履いた足裏による蹴りで撃退され、あえなく廊下の上に撃沈する。

 八番隊では見慣れた光景である為、紫音も特にどうこう言う事は無い。否、今は言う気力がないといった方が正しいか。

 

「はぁ……」

「柊九席はどうなされたんですか? 貴方が溜め息を吐くなんて、明日は雨でも降りそうですね。女性にでもフラれたんですか?」

「女性関係であることは認めよう。……伊勢殿は貴族出身か?」

「え、私ですか? 一応そうですが……」

「……伊勢殿を恋したのであれば、どれだけ楽だったろうか」

「きゅ、急に何をおっしゃっているんですか!?」

 

 落胆した様子で呟く紫音に七緒は、照れ半分憤り半分といった様子で声を荒げる。

 確かに、今の言い様であれば様々な受け取り方ができるだろう。柄にもなく焦る七緒は、紫音の真意を問い詰める為に近づこうとするものの、それよりも早く彼の口からぽつぽつと言葉が紡がれていく。

 

「いや、誤解はしないでくれ。勿論伊勢殿を有りか無しかで言えば、当然有りだ。女性としても非常に良くできており仕事も出来て、容姿も端麗だ。だが、今になって其方を好いていると言ったところで、元からそういう目で見ていられていたのかという疑念を抱かせるかもしれない。と言うより、可愛い部下……もとい、私の鬼道の弟子のような存在である女子に手を出すなど、どこか気が引け―――」

「……柊九席は如何されたんでしょうか?」

「いんやぁ、ボクも良く分からないよ」

 

 照れや憤りを通り越して困惑しか覚えない七緒は、困った様子で京楽に事情を確かめようとするも、期待した答えは返ってこない。寧ろ京楽の方が七緒に答えを求めている様子だ。

 こうしている間にもブツブツと呟き続ける紫音を見て、京楽は話を逸らすようにある問いかけをしてみる。

 

「七緒ちゃんはどうなの? 紫音君はさ」

「柊九席ですか? それは鬼道の指導も頂いていますし、感謝も尊敬もしています」

「いや、そうじゃなくて異性としさ」

「異性として……ですか? 女性に軽い所は減点すべきところですし、浮気性なところは少し―――」

「それは違うぞ、伊勢殿」

 

 突然話に入ってくる紫音に、二人はビクリと肩を跳ねさせる。

 

「確かに普段は女性に軽いやもしれぬが、一応これでも一途なのだ。ましてや手を出した女性ともなれば、否応なしに妻に娶る程度の考えは持っている」

「はぁ……そうなんですか?」

「手折った華を放っておいて萎びさせるのはあんまりだろう。男として最低の行為だ。手を出した以上は責任をとる。それが私の持論だ」

 

 やけに熱弁している。

 だんだん引き始めている七緒は、この場を京楽に任せようと背高の彼の背後に回り込むが、『ちょっと逃げないでよぉ』と情けない声を上げる京楽に引き止められ、逃げる事ができない。

 紫音は産まれるよりも前に父を亡くし、母も早くに亡くしている。そのような経緯があれば、確かに手を出した女性に手堅いことも納得できる(かもしれない)。

 

「……あの、柊九席。何か悩みがございましたら、微力ながらも手助け致しますので、気軽に……」

「有難う、伊勢殿。私はもう少しここで息抜きをしてから仕事に戻ることにしよう」

 

 神妙な面持ちだった紫音は、フッと口角を吊り上げて空を仰ぐ。

 その様子に得も知れぬ不安を覚えつつも、七緒はとりあえず仕事に戻ることに―――。

 

「京楽隊長。どこに行くんですか?」

「えっ? あぁ、ボクはちょっと隊舎の外に出て散歩にでも……」

「駄目です。もうすぐ瀞霊廷通信に出さなきゃいけない原稿もあるんですから、今日は椅子に縛り付けてでも仕事をしてもらいますよ」

「えぇ~、そりゃないよぉ」

「いつも怠けているから、後でツケが回ってくるんです! のんびりしたいなら、尚更常日頃―――」

 

 ガミガミと廊下に響き渡る七緒の説教を聞き流しながら空を仰ぐ紫音は、自由気ままに空を流れていく雲を眺める。

 

 そうだ、これは只の若気の至り。緋真よりも美しい女性は探せば居るはずだ。その気になれば、朽木家の分家という立場を生かして片っ端から見合いでもすれば、良い女性は幾らでも見つかるだろう。

 それはいずれ柊家のみならず、朽木家の為となる。否、そうでなくては納得ができない。

 

『人間など元を辿れば猿のようなものなのに、何を以てして貴ぶ族たちとそれ以外を区別したのでしょうね。同じ人間ですのに』

「……今なら、其方の言葉に全力で同意しよう」

 

 いつの間にか隣に座っていた朧村正に頷いて見せる。

 掟によって阻まれる恋をするとは思わなんだ。とある物語の主人公になったような気分だが、実際為ってみて分かることは最悪にも程があるということ。

 

 叶わぬ恋をしている。

 

 それを成就させてはいけない。

 何故なら、自分だけでなく周囲も巻き込んでしまうのだから。

 

「そうだ。銀嶺殿や蒼純殿……そして白哉の為でもあるのだ。我慢するのだ、柊紫音。盛った猿でないのだからな」

『男は皆、盛った猿だと思いますが』

「違いないが、女に無理やり手を出すなどいつの時代の暴漢か」

『はぁ……変わらぬ風習もまた、悪しき歴史の産物とでも言いましょうか。その所為で我が主の初恋が叶わぬとは、私は寂しいばかりです。これこそ悲恋と言うべきでしょうか』

「言ってくれるな。泣きそうになる」

『ですが、私も一応貴方の斬魄刀。主が恋の道は応援するつもりです』

「……出来れば、そこは止めて貰いたかった」

 

 今日一番の深い溜め息を吐く。どうせ叶わぬ恋であるのだから、すっぱりと縁を切れるように叱咤されたかったのが本心だ。

 しかし、朧村正は寧ろその茨の道を激励すると言うではないか。

 嬉しいと言えば嬉しいものの、複雑な心境に陥る。

 

 そんな紫音に、朧村正が一言。

 

『本当に諦めているのであれば、何時までも女々しく悩んでいる訳がないでしょう。この甲斐性無し』

「……何とでも言え。私にとって緋真は高嶺の花だ」

『くっくっく。上流貴族の貴方に“高嶺の花”と言わしめるなど罪な女性ですね、彼女は』

 

 面白そうに語る朧村正であるが、紫音にしてみれば全く面白くない話だ。

 一度友人となるべく会いに向かって会話した手前、今更関係を白紙に戻すことなどできはしない。

 己の浅慮を恨みつつ、彼女との出会いにも感謝しつつ、心の中には暗雲が立ち込める。今すぐにでも雨が降り、地面が泥のようにグチャグチャとぬかるんでいきそうだ。

 

「……はぁ」

 

 何度吐いたか覚えていない溜め息。

 この曇りが晴れる予定は、今の所まだ無い。

 

 

 

 ***

 

 

 

 一流の悲劇と三流の喜劇があったら、君はどちらが好みだい?

 単純に言えばバッドエンドが好きかハッピーエンドが好きかの話さ。終わりなんて他人が勝手に定めるものだろうけれど、物語には終わりが付き物だ。それがどれだけ長い長い、気の遠くなるような歳月を経た物語であっても。

 

 例えを出せば、この世界も一種の物語のようなものさ。必ず終わりが来るのだろうけれど、今を生きる者達にとっては、自分達の終焉が訪れることの方が早いと思っているだろうから、あんまり気にしていないだろうね。

 ああ、御免。話が少し逸れてしまったね。

 本題に戻らせてもらうよ。

 

 君はどちらが好きだい?

 まあ、人それぞれだと思うけれど、もし選んだ方が自分の身に降りかかるのを知っていたとしたら、それでも君は“悲劇”を選ぶかな?

 

 僕は一人にとっての“一番”の喜劇を見てきたけれど、あれは悲惨なものだった。

 只一人の喜劇が、世界にとっての悲劇となったあの世界は、とても生きていられるようなものじゃなかったよ。

 生もなく、死もなく、光もなく、闇もなく、希望もなく、絶望もなく、あるのは延々と広がる虚無だけ。

 

 つまり僕が伝えたいことは、君にとっての喜劇は他人にとっての悲劇かもしれないと言うことだ。

 これは困った。

 屑しか存在しないような世界で、星屑の如く皆の願いの寄せ集めで生まれた僕にとって、それは非常に困ったものなんだよ。

 出来れば皆の願いを叶えてあげたい。だけど、それは誰しもの歓びとはなり得ないんだ。

 それでは矛盾してしまう。皆を喜ばせてあげたい僕にとって、それは非常に難しい問題であるといっても過言ではないんだ。

 

 だからこそ、喜劇の定義を考えてみようか。

 

 物語の主要人物達が幸せな結末を迎えること?

 それとも、一番の目的を果たすこと?

 もしかすると、客観的に見て喜劇であると捉えられたのであれば、どれだけ悲惨な最期でも喜劇なのかもしれないね。

 でも、僕はこう考えた。

 

 喜劇とは、“未来”があることだ。

 一先ずの区切りを迎えた彼等に、これから先進んでいける道が存在すること。それは喜劇にもなり得、悲劇にもなり得る。だけれども、彼らは生きて喜劇に向かえる未来という“可能性”がある。救いがあるんだ。

 確かにある一人にとって、生きて貰っちゃ困る人物の一人や二人は居るだろうけれど、それでもそんな彼等を大切に思っている人も居る訳だ。

 

 そんな彼らの命を奪うことは“悪”じゃないかい?

 

 ……また話が少し逸れてしまったようだね。

 でも、これだけは聞いておいてくれ。

 

 もし、君がこれから生きていく人生の中で、生きて欲しいと願う者が出たのであれば、強く願ってみて欲しい。

 それこそ、空に流れる星に願いを乗せるように。

 

 もしかするとその願いが誰かに届き、叶うかもしれない。

 やがて誰かが生きたという結果は、未来を少しだけ変える。

 

 そんな蝶の羽ばたきのような小さな結果が連なれば、やがて虚無しか存在しない果てしない先の未来を変えていけるかもしれない―――否、変えてみせる。

 だから、もしもの時の為に覚えて欲しい。

 僕の名前は月山(つきやま) (あおい)。名前に意味なんてない。只の言葉遊びさ。

 

 そんな僕が皆に届ける願い。

 嗚呼、僕は誰かにこの願いが届くことを願っているよ。

 

 

 

 ***

 

 

 

(……変な夢をみたものだ)

 

 やけに頭痛がひどい明朝、紫音は変な夢に苛まれていた事をしっかりと認識しつつ、東から上る太陽を仰いだ。

 延々と白い揚羽蝶が語りかけてくる夢だ。

 

「……悲劇がどうやら喜劇がどうやらと言っていたが、話が長ったらしいことこの上ない」

「……その夢なら、私も見ましたよ」

「なに?」

 

 そのことを隊舎に来て早々、書類を捌いていた七緒に話をすれば、同じ夢を見たというではないか。

 

「奇怪なこともあるものだな」

「そうですね……なにか不吉なことの前兆でしょうか?」

「おお、怖い怖い」

 

 おどけるように呟く紫音に、昨日よりかは調子が戻ってきたのではないかとホッと安堵の息を漏らす七緒。

 だが、依然として見ていた夢が同じだと言う事実が奇妙であることは変わらない。その日一日過ごしてみて分かったことだが、どうやら他の八番隊士のほとんどが白い揚羽蝶に語りかけられる夢を見たようだ。

 内容もほぼ一緒。

 隊士たちの間では、虫の知らせかなにかではないかとやや不穏な空気が流れ始めたが、噂というものは時間と共に鎮まっていくもの。

 

 奇妙な夢の噂が鎮まり始めた数日後、瀞霊廷の西に位置する白東門にて。

 

「ん?」

 

 尸魂界一の豪傑と謳われる白道門門番・兕丹坊が、門付近をヒラヒラと舞うある者を見つけた。

 

()(すろ)い蝶だなぁ。モン()ロチョウか?」

 

 常人の二倍以上の体格を誇る彼の横を通り過ぎていったのは、絹のように純白の羽を有す揚羽蝶であった。

 舞うように飛んでいく蝶は、深い深い森の中へ消えていったとさ。

 



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十八話

 

「妹が居る?」

「はい……」

 

 私服姿で煙管の煙を燻らせる紫音に、緋真は辛そうな面持ちで口にした事実。

 目の前で吸うのはイケないと、緋真が腰かける平屋の縁側から少し離れている紫音は、遠目から見ても分かる程に目を見開いていた。

 妹が居るとは意外―――という程でもないが、今迄に一度たりとも見た事は無かったのだ。流魂街に住まう者の大半は現世で死した者達。志波家などのように、元は瀞霊廷に住んでいた家は除けば、大半がそれだ。

 つまり緋真の妹ということは、生前共にしていた血の繋がった姉妹なのだろう。

 

 しかし、最初にどの流魂街の区画に割り当てられるかはくじ引きである為、同じ区画に住めるとは限らない。東西南北それぞれ八十区画も分かれているのだから尚更だ。

 

「私は以前戌吊に住んでいたのですが、劣悪な環境の中で面倒を看ていくことに限界を覚え……赤子の妹を捨ててきたのです……っ」

 

 震える唇を噛み締める様子から、彼女の後悔の念は見て取れる。

 流石に重い話だ。紫音も軽口を叩ける筈がなく、只ポツリポツリと紡がれていく緋真の言葉に耳を傾けるしかできない。

 

「今でも後悔しております。浅はかだったと。死して尚、抱き締めていかなければならない肉親を私は“重り”と感じてしまったのです。今でも、瞼を閉じれば妹の顔が脳裏を過ります……」

 

 戌吊は七十八番という区画番号から分かる通り、劣悪な環境。赤子が一人で生きていけるような場所ではない。

 生きている確率は絶望的だ。

 それでもどこか諦めていないような様子を、緋真からは窺える。

 

「……私は今も、妹を探しております。それが、私が私に科した業です」

「……そうか」

「こんな私をどうぞ罵って下さい。身勝手な振る舞いをしたというにも拘わらず、その罪を帳消しにしたいが為に動く私を……偽善だと、嘲って下さい」

「ふむ……」

 

 煙管に入っていた煙草が全て灰になったのを確認し、土の上へパラパラ落とす。

 その後、顎に手を当てて暫し思慮を巡らせる紫音は、徐に己の簪を引き抜いて緋真に投げ渡す。

 何事かと驚く緋真は、放物線を描いて飛んで来る簪を慌てふためきながらも何とか受け止める。二人が好きな梅の紋が描かれている簪だ。

 

「持っておいてくれ」

「は……?」

「私も微力ながら其方の力となる。その誓いの証だ」

「で、ですが……!」

 

 緋真は紫音が死神であることを知っているのは勿論、貴族であることも既知の事実だ。貴族の装飾品など、流魂街の者達からすれば頭が痛くなるような値打ちの物ばかりの筈。そのような物を軽々しく手渡されても、困るとしか言いようがない。

 だが、緋真が『返す』という旨の言葉を口にする前に、紫音が立て続けに語る。

 

「妹の名を教えてくれ。其方の妹であれば霊力の素質もあろう。もしかすれば霊術院にでも入っているかもしれぬし、既に死神であるかもしれぬ」

「そんな手数を紫音様にかける訳には……!」

「気にするな。私が好きでやることだ。話を聞いた以上、何をせぬというのも気分が悪い」

「しかし……っ!」

 

 それでも食い下がる緋真。

 普通であれば厚意としてそのまま受け取ってもよさそうだが、ここまで粘るというのは気丈なことだ。

 しかし、紫音にも惚れた弱みというものがある。素直に引き下がる訳にもいかない。

 

「くっくっく、なにもそこまで食い下がることもなかろう。幸い、私には優秀な部下が付いていてくれている。さほど苦労にはなるまい」

「だからと言って紫音様や、他の死神様の方々の手を煩わせる訳にはいきません。これは私の問題なのです……!」

「余り声を荒げるな。周りが何事かと思う」

「っ……申し訳ございません」

「気に病むことはない。ただ、其方が妹を本当に大事に思っているということは重々伝わった」

「……大事に思っていたのであれば、私はあの時妹を―――ルキアを捨てなかったでしょう」

 

 『ルキア』。

 中々特徴的な名前だ。一度聞けば早々忘れる事はなさそうな名前だ。緋真の名前と合わせるのであれば、『ル』は瑠璃色の『瑠』でも当てはめるのではないだろうか。そのような他愛のないことを考えつつも、自身の愚かさを吐き捨てるかのように述べていく緋真を見下ろす。

 

「私は愚かしいのです……捨てて、瞼の裏に映る妹の幻影から逃げようとここまで来て……そして毎晩夢に出てくる妹の……笑顔が離れなくてっ……もう一度、もう一度でもいいから妹の顔を見たいと自分勝手に……」

「……ふむ」

「あの子に会いたい……会って謝りたいのです。例え、姉だと思われなくとも。私が姉だと言ったところで、ルキアがどのように思うかは皆目見当つきません。しかし、姉だと思っていないと罵られようとも、捨てられた恨みで刺されても文句はありません。それが私の業なのですから……」

「はぁ……其方は少々難しく考えすぎではないか?」

「え……?」

「私の経験談だ」

 

 ピッと人差し指を立てる紫音。

 その様子に呆気にとられた緋真が瞠目するのを確認し、語り始める。

 

「私の父上は謀反の罪を犯した大罪人。その所為で母上は宗家より勘当された」

「っ……」

「私が生まれるより前だ。父上が死んだのは。母も神経衰弱で、そう長くはなかった。私はこうなった原因を、父上を正しく導かなかった祖父にあるのではないかと、子供の頃は恨みを募らせたものだ」

 

 予想外の話に、緋真はただただ茫然とする。

 母を早くに亡くしていたのは聞いていたが、まさかそのような経緯があったとは思いもしなかったのだ。

 だが同時に、何故そのような話をという疑問も生まれてくる。

 その理由を語るように、紫音は続けた。

 

「だが、私が薄情者かどうかは知らぬが、本人を目の前にしても案外憤ることは覚えなかった。宗家に募らせた恨みも大したことはなかったということだ」

「それが一体……?」

「其方が捨てた時の妹は赤子だ。捨てられた時など覚えても居ないだろう。私が思うに、会っても居ない者を恨むというのは案外難しい。故に、妹も其方を毛ほども恨んでなどおらぬだろう」

 

 ケラケラと嘲るように笑う紫音に、緋真は複雑な表情を浮かべる。

 肉親を捨てるという罪を犯した自分は、恨まれていようとも仕方がないと考えていた。だからこそなのかもしれない。恨まれる事で許してもらおうという考えが無かった訳ではなかったのだ。

 罵られ、暴力を振るわれ、蔑んだ瞳で見下されることも已む無し。寧ろ、そうでもされなければ自分は許されないのではと―――許してほしいと願っていた。

 

 だが、それを否定するかのような紫音の言葉には、どこか残念そうで安堵したかのような面持ちを浮かべるしかなかった。

 

「それでも、私は……」

「妹を探すのが其方の贖罪と言うのであれば私は止めぬ。ただ、血が繋がっているというのは……いや、なんでもない」

 

 最後に何か言おうとしていた紫音であったが、結局は心に言葉を押しとどめ、クツクツと笑いながら俯きがちの緋真に目を遣る。

 

「くっくっく、其方が妹探しを“偽善”と言うのであれば、私も手を貸そう。なにせ、『人が善を為す』と書いて『偽善』だ。来世に向けて善行を重ねるとしようじゃあないか」

「……紫音様は、輪廻転生を信じていらっしゃるのですか?」

「この世の理だ。現世で死した魂は尸魂界に……尸魂界で死した魂は霊子へ還り、やがて新たな魂の一片として現世に還る。そういう形に世界はできているのだから、私の信仰などが介在する余地は微塵もない。だが……」

「『だが』……なんでしょう?」

「……緋真、例えば誰かが死んだ場所から後で花が咲いたとしよう。其方はそれをその死んだ者の生まれ変わりと思うか?」

「花……ですか?」

「ああ。私は因みに、生まれ変わりだと思いたい。何故ならば、そちらの方が浪漫があって素敵だからだ」

 

 『女々しいだろう?』と屈託のない笑みを投げかけてくる紫音に、緋真は思わず笑みを零しす。

 今の話は、彼の感性だけでの話だろうが、それでもどこか緋真は納得したかのような気分になった。何か事あるごとに因果関係を結ぼうとするのは、人間の悪い所でもあって、人間らしい部分でもある。

 どうやら論理的思考で動いているような人間ではない彼に、これ以上『自分の問題』と言って押し切るのは不可能そうだ。

 だからこそ自分は、諦めるかのように笑みを零したのだろう。

 

「……紫音様、無礼を承知でお願い致します。妹を探すのにどうか手をお貸し下さい……っ!」

「無論だ。其方の頼みなら快く承ろう」

「有難う御座います、紫音様……!」

 

 パァっと明るくなる緋真の面持ち。

 月影のように儚い微笑み。

 潤っている瞳には紫音だけが映っている。そう彼女の瞳は、今だけは自分だけを映してくれているのだ。

 

 それを理解したと同時に、紫音は凄まじい勢いで己の左頬をひっぱたいた。思わぬ行動に緋真はすぐさま困惑の色を見せる。

 

「し、紫音様……? 如何なされたのですか……?」

「蚊がな」

「今は冬ですが……?」

「今年は暖冬らしいから、生き残りがおったのだろう」

「はぁ……」

 

 ジンジンと痛む頬の痛みで、本能的に熱を帯びていたアレが元に戻る。

 

 何がとは言わない。

 ナニがとは言わない。

 

 己がどうしようもないチェリーボーイであることを再び理解した紫音は、会話もほどほどに瀞霊廷への帰路につこうと体を振り向かせる。なにせやらなければならないことが増えたのだ。

 霊術院の在院生や卒院生の名簿は七緒と共に確認するとして、その見返りには何を贈ろうかと思慮を巡らす紫音は、別れの挨拶を軽く済ませ、瞬歩で流魂街を駆けていく。

 

 

 

 ***

 

 

 

 しかし、事はそう上手く進むものではない。

 ここ数十年ほどの霊術院名簿を確認しても、『ルキア』という名の女学生は存在しなかった。元より、捨てた時赤ん坊だったことを鑑みるに、別の名を使っているという可能性もある。となると、頼りになるのは緋真と顔が似ているかもしれないという薄い望みだけだ。

 幸い、霊術院名簿はモノクロの顔写真が載せられているが、姉妹でも顔が瓜二つという可能性は低い。

 

「はぁ……雲を掴むような話だな」

 

 名簿を調べ、時折流魂街に赴いてなんとなしに捜索を続けて早十年。

 席次は五席に上がり、副隊長になった白哉にもそこそこ階級が追いついてきたといったところだ。

 

「惚れた弱みとは言え、流石に拙いな」

 

 これといった義理がある訳ではない。売られた恩もない。ただ、『好き』であるからここまで首を突っ込んでいるのだが、少々辟易し始めた頃だ。

 年に数度会いに行く緋真には、毎度『もう大丈夫です』と手を引くように言われる。それもそうだろう。緋真にしてみれば自身の贖罪に付き合せているようなものなのだ。それを十年も付き合せてしまっているのだから、気が引けるのも無理はない。

 とは言っても、手伝うと言った手前退く事ができないのは、紫音が男に産まれた所以だろうか。二言はない。そう言わんばかりに、生きているかどうかも分からない者を探し続けている。

 

 緋真との進展はない。

 

 ただ“良くしてくれている死神”とでも思っているのではないか。

 だがそれで良いと、紫音は自分に言い聞かせる。

 

 

 瀞霊廷の貴族には瀞霊廷の掟がある。古くより守られてきた、その所以も知らない忌々しい鎖のような―――呪いのような掟だ。

 しかし、当主であるが故に掟は遵守しなければならない。

 それが家名の為。そして宗家である朽木家の為だ。白哉たちに迷惑をかける訳にもいくまいと、自身の恋心を押し殺して、“ただの友人”の妹を探し続ける。

 

 誰かが無理にでも止めてくれればよいものを、と何度考えたことか。

 

「はぁ。一服でもして気を紛らわせ……」

「仕事中に煙管は止めてください。火がついたらどうするんですか」

「後生の頼みだ」

「後生の頼みもなにもありません。はい、十二番隊に回さなければならない重要な書類です」

「……五席に頼む仕事ではなかろう」

 

 煙管をとろうと懐に手を伸ばした紫音に、すさかず分厚い書類を手渡すのは八席に昇進した七緒だ。鬼道の才は目を見張るものがあり、純粋な才能だけで言えば副隊長レベルといっても過言ではない。

 そして以前にも増して棘のある言動が増えたとでも言おうか。証拠に、今のように書類の運搬業務を紫音に任せてきた。

 

「重要な書類と言いました。だからこそ柊五席に頼むんです」

「同じ席官なら、伊勢殿でも変わりはなかろう」

「私は京楽隊長が働かない分をどうにかしなければいけませんので、文句があるとするのであれば京楽隊長に」

「……はぁ。しかめっ面ばかりしていたら、将来顔が皺だらけになるのではないか?」

「なにか言いましたか?」

「可愛い顔が台無しだと言った。では、早々に十二番隊舎に向かうとしよう」

 

 はぐらかしてすぐさま十二番隊舎へ向けて駆け出す。現在涅マユリが隊長を務める十二番隊に回さなければいけない重要な書類となると、技術開発局関連の書類なのだろう。

 

(なにやら最近はきな臭い話もあったらしいからな)

 

 『尖兵計画(スピア・ヘッド)』。

 とどのつまり、改造魂魄に関する話だ。どうやら、その計画を進めていた者は四十六室に案を提出したものの、結果は廃案となったらしい。元より非人道的な性質から研究の差し止めは予想がついていたものの、一定数生産した後に廃案になったため、これから改造魂魄は破棄されると言うのだ。

 疑似人格と言えど、死神の都合で生み出されて死神の都合で破棄されるとは、なんたる悲惨な末路だろうか。

 

(まあ、私にどうこうできる話でもあるまい)

 

 そんなことを考えている内に十二番隊舎に辿り着く。後は、隊士なりなんなりに手渡せばいいのだろうが―――。

 

「阿近殿にでも渡せばよいだろう」

「なにか十二番隊に御用で?」

 

ふと背後から声を掛けられた紫音は、徐に振り返る。

 居たのは箱を一つ抱えた、頬こけてやせぎすな印象を与える男性。緑と黄が半々になったような髪の毛は、大分印象に残りそうな髪型だ。

 

「ああ、書類を届けに参った」

「書類ですか。どなたまでに?」

「むう、重要な書類らしい故、阿近殿にでも渡そうかと」

「でしたら、近くの研究塔にいらっしゃると思いますので、私の方から渡しに行きましょうか?」

「む、そうか? 済まない、恩に着る。八番隊の柊紫音からと伝えておいてくれ」

「ええ、構いませんよ」

 

 そう言って封筒に入れておいた書類を手渡す。箱を一旦地面に置く形で書類を受け取った男性はそのまま研究塔に行こうとするが、箱の中身が気になった紫音がなんとなしに問いかける。

 

「済まぬ、この箱には何が入っているのだ?」

「それですか? 改造魂魄ですよ。今から廃棄しに捨てに行く予定です」

「なんと。そうか、この中に……」

「ああ、開けちゃいけませんよ」

「無論、開けるつもりはないが……なんというか、もったいない気もするな」

「もったいない?」

「ああ。肉体に作用する程度で、他は普通なのだろう? だったら、現世に駐留する死神にでも渡して普通の義魂丸代わりにでもすればいいものを」

「……まあ、そういう見方もありますね」

「だが廃棄するのであれば私はなにもできまい。とは言うものの、物は使いよう。廃棄以外に使いようはあったろうに……ああ、もったいない」

 

 物欲しげな瞳で箱を見下ろす紫音に、十二番隊士の男性は何やら無言で佇む。

 すると、暫し思慮を巡らせたかのような挙動を見せた男性は、掛けていた丸眼鏡の弦を指で押し上げた。

 

「……貴方は少々変わり者のようですね」

「婆娑羅者とはよく部下に言われる」

「そうですか。まあ、廃棄する物は廃棄する物。四十六室が破棄命令を出したのですから、持っているだけでも犯罪になりますよ」

「おお、それは怖いな」

「ですので、お手は触れぬように」

「相分かった。それでは、私はこれでお暇しよう」

 

 箱には触れぬよう注意された紫音は、素直に八番隊舎へ向けて踵を返す。

 同時に、男性の背後から研究員らしき眼鏡を掛けた女性が出てきて、男性が置いた箱を抱きかかえる。

 そして紫音が十分遠のいたのを確認してから口を開いた。

 

「影狼佐。これは?」

「ああ、それは流す物だ。そこに置いておけ」

「流す?」

「西流魂街に技術開発局の商品を高値で買い取りたいという酔狂な輩が居てな。私としては研究資金が賄えて好都合だ」

「ふ~ん……」

 

 興味が無さそうに鼻を鳴らす女性隊士は、ちらりと箱の中身を覗く。よく見てみれば、改造魂魄が入っていると思われるケースの他に、記換神機や内魄固定剤もあるのが窺えた。

 

「現世でもなければ使えないのに、一体何に使うんだ?」

「さあな」

「バレたら不味いんじゃないか?」

「十二番隊士にとって書類偽造などお手の物だ。それより望美。暇ならその箱を私の研究室に持って行ってくれ。私は副局長に書類を渡しに行く」

「……分かった」

 

 良いように扱われている気がしてならない女性隊士は、口を尖らせながらも男性隊士の指示通り、彼の研究室へ向けて歩き出す。

 その時、風に煽られて彼女の白衣が靡くが、白衣の影からはかなり改造されたような死覇装が垣間見えた。嘗ての八番隊副隊長をリスペクトするかのようなミニスカートであり、更には白いブーツを履いているではないか。

 かなり攻めている恰好の女性隊士は、箱の中身を覗くように俯きながら足を進めるのであった。

 



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十九話

 

 気まずい。

 何が気まずいのかと問われれば、それは見染めた女性の元に会いに行くということだと答えるだろう。

 

 元々、一目惚れという形で緋真との親交を深めようと思ったのが始まり。しかし彼女に妹が居り、数十年経った今でも必死に探し続けているという事情がある以上、無視ができない程度には紫音はお人好しだった。本人が『惚れた弱み』と言っても限度がある。

 そのようなお人好しを続けて十年以上経った現在でも、緋真との親交は途切れていない。わざわざ己の方から妹捜索を申し出たのだから、雲隠れするなど義に反することであり、到底できるものではなかった。

 

 故に、『報告』を名目として緋真との逢瀬を重ねる時は年に数度ある。

 だが、始めに口に出す内容が内容であるだけ、後に続く話題が盛り上がる訳もなく、他愛のない言葉を交わすだけで紫音は早々に帰ることがざらにあった。

 既に恋が成就するなどという甘い考えは捨てている。

 ただ、琴音のように優しい声と、月影のように淡い笑みを定期的に見たいという考えはあった。

 

 いっそ妹を早く見つけてやれれば、このズルズルと引きずった関係を断てることができるのではないかと奮闘するも、護廷隊の席官であり貴族の当主である紫音にプライベートな時間は少ない。その為、満足に捜索することもできやしない。

 

 今日もまた、散歩という名目で赴いた戌吊での捜索を終え、緋真が住む家に向かおうとした紫音。

 しかし、普段とは少々辺りに流れている“空気”が違うことに気付いた紫音は、首を傾げつつ忍び足で進んでいく。何故このような真似をし出したのかは、当初は皆目見当もつかなかった―――が、恐らくそれは流れる空気が何者のものであるか、薄々感づいていたからであろう。

 

 平屋の近くまで歩み寄った時、目に映った光景を前に反射的に物陰に隠れてしまった。

 

(何故彼奴が居る?)

 

 決して絢爛な衣を纏っている訳ではないが、漂う気品は隠しきれるものではない。

 その気品さが、紫音の目にはどうにも緋真と御似合いなような気がしてならなかった。普段能面な彼が、彼女の笑みに釣られて顔を綻ばせる。

 何を話しているのかは聞く事はできなかったが、例え聞いたところで自身が惨めな気分になるのではと思い、寧ろそれで良かったのだと言い聞かせた。

 

(白哉……何故其方が緋真の隣に居る?)

 

 友が想い人と楽しげに話す光景を横目に、紫音は不穏な空気を身に纏いながら邸宅への帰路につくのであった。

 心の中で渦巻く靄は、暫くは晴れそうにない。

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――……それは私の友だ」

「えっ……そうなのですか?」

「ああ。家の繋がりがあってな」

 

 縁側に座る白哉と緋真は、貴族には不釣り合いな番茶が入っている湯呑を片手に談笑していた。その中で繋がった思いもよらぬ事実に緋真は、猫のように丸々と大きい瞳を見開く。

 驚く緋真の一方で、表情には出ていないものの充分驚愕を覚える白哉。まさか、今自分の隣に居る女性と友人に接点があったとは思いもよらなかった。

 

 二人の出会いは至極単純。

 

 副隊長として隊士を引き連れ、この地区へ虚討伐に赴いた際、怪我人の手当てに奮闘する一人の女性に魅入った白哉が、柄にもなく声を掛けたことから関係は始まった。

 血は争えないという訳だ。

 従兄弟が恋をしている女性が、まさか自分が恋をしているかもしれない女性と同じとは想像もつかぬだろう。尤も、白哉は紫音が自身の従兄弟であることも知らぬが―――。

 

「……アレは振る舞いは少々軽薄だが、芯はしっかりしている男だ」

「承知しております。でなければ、このような私めの妹を探す為にお手を貸し続けてはくれまいでしょうから……」

「……そうか」

 

 友が休日こそこそしているのは知っていたが、まさか赤の他人と言っても過言ではない女性の為に身を粉にしているとは思わなんだ。なんの見返りも求めそうにはない―――否、この女性の美しさを前にすれば、そのような言葉は口に出せぬだろう。

 彼女を言葉で例えるのであれば何が相応しいか。『傾国の美女』、『魔性の女』、『絶世の美女』、『可愛いは正義』などなど、色々と候補は挙げられる。

 ただ、男という性に産まれた以上、『綺麗な女性の前では恰好をつけたい』という思考は働かざるを得なくなる為、紫音も恐らく今言った思考の下に動き、中々止め時を見つけることができなくなっているのだろう。

 

 緋真はそんな紫音について、感謝してもし切れない『恩人』という風に捉えており、非常に好感を持って接しているようなのだが、

 

「なんと言うか、少し距離を置かれている気がしてならないのです……」

「距離?」

「私と紫音様の関係は、妹を見つければそれで終わり……そう言わんばかりの瞳で私を見ているようで、少し寂しい気持ちがございます」

「……」

「あ、い、いえっ……流魂街の私が貴族である紫音様と間柄を深めようとすることが、あの方にとって不都合が生じるのではないかという危惧は勿論しております。というよりも、あるからこそ、敢えてあのような態度をとっていらっしゃるのかもしれません」

「……死神間の繋がりが無ければ、流魂街の者に会いに赴くなどほとんどないことだ。そもそも、貴族の中には未だ古い考えに思考を囚われている者も少なくない。ただ『流魂街の者に会いに行く』―――それだけで悪い噂を流されるやもしれぬという可能性は、常に孕んでいるだろう」

「っ、では私は早々に紫音様との関係を断たねば……」

 

 焦ったように身を乗り出して口に出す緋真。

 今白哉が言った通り、貴族の内情というものは非常にドロドロしている。いつの時代も、己や己が家の利益の為に動こうとする者は一定数居る。そういった者達が根も葉もない噂を流し、特定の家の名を下げようとする行為は瀞霊廷でも数多く見られた光景だ。

 ここ最近ではそれほどひどくはないものの、二百年ほど前には冤罪を被せて屋敷の者達全てを処刑するということも何度かあった。

 中にはわざわざ捕えて連れてきた虚と戦わせるなどという、愚劣極まりない処刑方法も存在し、他者を蹴落とした貴族たちはそれを眺めて醜悪な笑みを浮かべていたらしい。しかし、とある事件を境に今の処刑方及び処刑場は廃止・使用禁止とされ、忌まわしい過去の教訓という名義で瀞霊廷の一角に処刑場は佇んでいる。

 

 このように利権争いがある貴族。そんな中で、もし一人の貴族が流魂街出身の平民と逢瀬を重ねていると知ったらどうするだろうか? 情事にそれほど精通していない白哉であっても、想像には難くなかった。

 瀞霊廷の貴族の掟には、家に流魂街の者の血を混ぜてはならぬというものが存在する。破ったところで罰がある訳ではないが、相応の批難は飛んで来るだろう。

 

 そのことについて危惧した白哉は、『もしや』と緋真に紫音と体を重ねたことがあるかと質問したのだが、顔を真っ赤に染めて否定された。

 

「私が紫音様となどと……不釣り合いでしょうに」

 

 瞳に映るのは諦観。

 異性として充分意識できる範疇の魅力を持っているものの、“身分”という絶対的な壁があるが故に、“良くしてくれる人”として見るほかないというのが見て取れた。

 それは白哉に当てはめても同じ。

 

「白哉様も四大貴族が一員……私などと共に居られても、家名が下がるのみです」

「……好きで会いに来ているのだ」

「え?」

「……済まぬ。私が勝手に来ているだけ。兄が気にする所ではない」

「あ……ああ、そうでらっしゃいますよね」

 

 『好きで』。

 その言葉に一瞬反応してしまった緋真であったが、すぐさま頬をしかめっ面で否定する白哉を前に、残念そうに俯いた。

 そんな彼女の表情を見た白哉は心の中で、自身が口下手であることを呪う。紫音であればもう少し彼女を傷付けずに済む言い様ができたのではないか、と。

 

 暫し無言になる二人。

 風に巻かれて漂ってくる緋真の柔らかな香りが、白哉の胸の燻りを煽ぎたてる。彼女の一挙一動が愛おしい。一時でも目を離さずに見ていたいという衝動に駆られるがまま、熱心な瞳で緋真の横顔を見つめ続ける。

 その度、恥ずかしそうに顔を逸らす様子に再び燻る胸中の想いが大きく騒ぎ立てるのだ。

 

「あ、あのう……白哉様」

「……なんだ?」

「その……じっと見つめられると、恥ずかしゅうございます」

「っ……済まぬ……」

 

 会話が比較的受動的な緋真と、基本的に受動的な白哉では会話が弾み辛い。いや、弾む時は弾むのであるが、それは傍目にしてみれば弾んでいるのかそうでないのか分かり辛い微妙な表情や声色の違いであった。

 それを見分けるのは至難の業であるが、当事者たちは例外だ。

 似た者同士であるが故に、相手の様子がどのようなものであるのかが理解できる。

 

 だからこそ緋真は、白哉が自身に向けている感情がどのようなものであるのかを理解してしまったのだ。

 真っ直ぐだ。真っ直ぐ過ぎる。

 『目は口ほどにものを言う』というが、白哉の瞳はまさしくそれ。自分を“女性”と―――“異性”として見ているのだ。

 かつて“女”としてだけ見て、強姦未遂をされたり下心丸出しで近づかれたりしたことは多々あったが、白哉の瞳に籠っているのは初めて恋を知った少年のそれである。

 

 どうすれば仲良くなれるだろうか。

 どうすれば手をつなげるだろうか。

 どうすれば口づけを交わせるようになれるだろうか。どうすれば、どうすれば、どうすれば―――。

 

 このように、確りと交際の手順を踏んで自身と深い間柄になりたいという意志が、ビンビンと伝わってくる。故に、真っ直ぐ瞳を見つめられれば、余りの羞恥に目をそらしてしまう。それが失礼なことであると分かっていても、純情過ぎる瞳は心を熱く焚き付けてしまうのだ。

 それは即ち……

 

(私は……私如きが、白哉様を異性として意識してしまっているのかもしれません)

 

 紫音とは違う。彼はその瞳にわざと“靄”をかけて、真意が見えぬようにと配慮してくれた。

 その靄は紫音と自身の間に一定の距離を生み出し、必要以上に親密にならぬようにと一種の不気味さを感じさせてもくれていた。無償の善意ほど恐ろしいものはないと言わんばかりに。だからこそ、突然姿を消して居なくなっても、それほどショックにならぬようと。

 

 白哉は違う。

 数度会っただけだが分かる。彼は嘘が下手だ。だからこそ、自身の真意を隠すために無表情や無口になっていったのだろうが、その分瞳に―――見に纏うオーラに感情が反映されるようになったのだろう。

 彼の瞳に映る心中の想いを見てしまう度に、恥ずかしく思い、嬉しくも思い、複雑に感情が絡み合うのだ。

 

 だが、彼は瀞霊廷の貴族の模範となるべき四大貴族の一員。更には護廷隊の副隊長を務めている。護廷隊の中でも注目が集まる地位に存在する彼が、流魂街の女性に現を抜かしているという噂が立つのはよろしくないのではないか。

 否、現を抜かしているかどうかというよりも、こうして逢瀬を重ねること自体が噂の種になる筈だ。

 

 好意的に接してくれていることは確かである為、切実な彼に迷惑になるようなことはできるだけ避けていきたい。

 一時だけでも、人並みの恋心を抱かせてくれたことに礼を言い、早々に関係を断ちきるべきだ。

 

 そうでなければ、彼の瞳に点る恋情の炎に煽ぎたてられ、諦めることができなくなってしまいそうになるから―――。

 

「ええと……白哉様」

「……どうした?」

「私めなどに赴いて下さったことは非常に嬉しく思います……ですが、今後そのような御足労をかける必要はございません。白哉様と共に居た時間は緋真にとって短くも充実した時間でございましたので……」

「……相分かった」

(ホッ……)

「また今度赴く」

「え?」

 

 やんわりとした物言いで、遠回しに会いに来ないよう伝えたつもりで安堵の息を漏らしたのだが、直後に白哉が言い放った言葉に硬直する。

 どこでなにを勘違いしたものかと緋真があたふたと焦っていれば、白哉は早々に縁側から腰を上げ、瀞霊廷がある方へ体を向けた。このままでは恐らく―――いや、必ずまた会いに来てくれるだろう。

 嬉しさが半分、焦燥が半分の緋真は急いで立ち上がり制止しようとする。

 

「白哉様! その……私が言いたいのは―――」

「? ……今日はもう兄の都合が悪い故、私に帰って欲しいと言ったと思ったのだが……」

「そういう訳では……」

「だが、事前に伝えることもなく赴いたのは事実だ。長居すれば、兄に迷惑を被ることになってしまうだろう。今日の所は早々に帰ることにする」

「あ、あの」

「様子を見る限り、猶予がないように見える。それでは、また」

「あっ」

 

 ロクに人の話を聞く事もなく瞬歩で去って行ってしまった青年に、緋真は困った顔で縁側に座り込んでしまう。

 途中から話がかみ合わなくなり、その後は淡々と相手のペースに呑まれ、結局はこちらの意図も伝えることができずに見送ることになってしまった。これならばいっそのこと、癪に障るような事態になったとしてもはっきり伝えるべきだったろうか。

 しかし、緋真という人間は相手を傷付けるような物言いができない性分であった。恐らく、あのまま引き止めたとしても延々と齟齬のある会話を続けて、無駄な時間を過ごすのみに終わっていただろう。

 

(私はどうすれば……)

 

 どうすればよかったのだろうか?

 誰に問うべきか分からない難題を胸に抱いたまま、緋真は悶々としたまま頭を抱えるのであった。

 

 

 

 

 



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二十話

 

「……紫音、話がある」

「奇遇だな。私もだ」

 

 偶然休日が重なったとある日、紫音と白哉は互いに会いに行くべく家を出ていたのだが、道中でばったりと出くわした。

 悩ましげな雰囲気を漂わせる白哉の一方で、表情には出さぬもののどこか憤怒を表すかのような雰囲気を纏う紫音。いつも通り浮かべている筈の笑みも、四番隊隊長のように黒い笑みに見えてくる。

 

 思わず喉を鳴らしてつばを飲み込んだ白哉であったが、今日友人に会いに行こうと思ったのは、今の紫音の表情など些細に感じるほどの案件だ。尤も、その案件に紫音が関与していることなどは露ほども想像してはいなかったが。

 

「……表だって話す内容ではない故、此処では場所が不味い。少し場所を変えたい」

「そうか」

「……何故斬魄刀に手を掛ける?」

「気にするな。それより場所を変えるのだろう? 久し振りに朽木邸に赴きたいと思ったのだが……」

「ならば私の私室で話そう。茶くらいは出そう」

 

 徐に斬魄刀の柄に手を掛けた友人を窘めながら、朽木邸へ向けて足を進める白哉。休日である筈なのに帯刀しているとは何事か? 自分を誘って鍛錬にでも行くつもりだったのだろうかと、呑気なことを考える白哉であったが―――。

 

「……殺気を感じるのだが」

「気のせいだ。安心して前を向け」

「……相分かった」

 

 斬魄刀に手を掛けたまま、微弱な殺気の混じった霊圧を差し向けてくる紫音に違和感を覚える。果たしてここまで攻撃的な性格であったか、今迄の自分の記憶を探ってみるも、該当する記憶が見当たらない。

 もしかすれば、なにか気に障るようなことでもしでかしてしまっただろうか。

 だが、これ以上なにか問おうとしても中々質問できる雰囲気でないことを案に感じ取った白哉は、一先ず足早に話せる場所である私室へ向かう。

 

 元々二人の邸宅は近い。散歩気分で向かえる程度であるが故、相手の邸宅に向かう途中にUターンすれば数分程で戻ることができる距離だ。

 しかし、それだけの時間であるにも拘わらず、得も知れない重い空気を背に負いながら向かっていた白哉は、何時になく疲れた様相で(表情には出さないものの)草履を脱いだ。そのまま廊下を二人で歩み、『父上には会っていくか?』と問えば『後でいい』とぶっきらぼうに答えられる。

 

 なんだ、ここ最近の自分の態度の意趣返しでもされているのか。成程、確かにこのようにぶっきらぼうに受け答えされたのであれば、隊士の皆が自分と話す時に堅苦しい面持ちになるのも無理はない。

 若干、護廷隊での佇まいについて改善すべき点を見つけながらも、質素な私室へ友人を招き入れる。それほど娯楽を嗜まない白哉の部屋は、屋敷の者が内装にと用意してくれた壁紙やツボ以外はほとんど家具がない。貴族の私室は豪華な彩りに包まれているのではないかと勘違いする者も居るだろうが、“私室”なのだから住んでいる者の性格が反映される。

 つまりこれが白哉の性格が生み出した内装というべきだろう。

 

 それは兎も角、二人分の座布団を敷いて座り込んだ後は、廊下を歩む途中から付いてきていた侍女に茶を持ってくるよう頼む。

 やっと二人きりになれた空間。

 ふぅ、と呼吸を一度して緊張を解こうとした白哉は、面を上げて言い辛い内容を口に出そうとした。

 

「私が話したい内容は―――」

「流魂街での逢瀬は楽しかったか?」

「っ……!」

 

 遮られるように言い放たれた言葉に白哉は瞠目し、絶句した。

 

―――何故それを?

 

 そう言いたげな表情を浮かべる白哉は、様々な想像を頭に浮かべてみせる。もしや、流魂街の緋真に会いに行ったのを、他の貴族が差し向けた者に見られたのだろうか。そうするとなると、朽木家の家名に泥を塗るような噂を立てられてしまうのではないかと、内心で冷や汗を掻く。

 いや、待てよ。緋真と紫音には交流があることを自分は知っている。となれば、なんとなしに最も直接的にばれた理由が浮かんでくるではないか。

 

「……見ていたのか?」

「どうだろうな。其方が流魂街で腑抜けた顔をしていたのは見たが……」

(知っているな、こやつは)

 

 紫音が自分の前髪を指で弄りながらそう言うのを前に、白哉は以前緋真に会いに行った際に目撃されていたことを確信した。

なんというタイミングで目撃されてしまったのか。タイミングが悪すぎる。

しかし見られていたのであれば仕方がない。寧ろ、下手に遠回りせずに相談することができるのではないかという楽観的考えを無理やり抱き、再度口を開く。

 

「ならば話が早い。私は―――」

「私には一線を越えるな、としか言いようがない」

「……」

「そんな顔をするな。だが、そう言う他なかろう」

 

 深い溜め息を吐いた紫音は、徐に懐から巾着袋を取り出す。

 中から年季の入った白檀の煙管と紙に包まれた煙草を出した後は、煙草を煙管へ入れ、ビー玉大の『赤火砲』で火を灯した。

 軽く一服した紫音は、ふぅっと遊ぶかのように丸くなるよう煙を形作りながら吐き出す。

 

「で、他に話はあるのか?」

「……例えばもし、私が流魂街の者を妻に貰いたいと口走ったら、兄は何と言う?」

「面を貸せ」

「成程……いや、なんだと?」

「面を貸せと言った。表へ出ろ。無論、斬魄刀を持ってな」

「……相分かった」

 

 まるで十一番隊の隊士であるかのように、血気盛んな物言いで表へ出る様促してくる紫音に、白哉は仕方なしと言わんばかりな表情で私室に置いてあった斬魄刀を手に取る。

 その間、紫音はそそくさと表へ出て白哉が来るのをスタンバイしていた。

 おかしい。昔であれば、自分が彼を誘い、若干面倒臭そうな面持ちをしながらも付いてきてくれる友人と鍛錬を重ねた。今はどうだ? これから決闘と言われても違和感がないほどの威圧感を含んだ友に急かされて表へ出ていく始末。

 

 何か不味いことを言ってしまっただろうか。いや、言ったのだろう。実際、自分が訊いたことは貴族の掟に反することなのだから、戯けたことを抜かす友に憤慨しているやもしれぬという考えが浮かんだ。

 だが、実際のところは違うということを、未だ白哉は理解していない。只、無神経に彼の神経を逆撫でしてその気にさせてしまったことすら認知していないのだ。

 

梅雨の時期に湿気で身に纏う衣服が重くなるような―――そんな重苦しい空気のまま紫音が向かう場所へ向かう。既に先程侍女に茶を頼んでいたことも忘れてしまうほどに。

 石畳の道を突き進んでどれだけの時間が経ったのだろう。

 少し日も傾き始めたと自覚した頃に、二人は六番隊舎裏の修行場に居た。

 木枯らしは騒々しく枯葉を巻き上げ、同時に佇む二人の死神の長髪も靡かせる。只ならぬ雰囲気。

 何をするのかも知らされず連れてこられた白哉は、耐えかねて口を開いた。

 

「……なんの為にここまで連れてきた?」

「刀を抜け」

「なに?」

「久し振りに手合せ願おう」

「……良かろう」

 

 反論を許さぬ冷たく重い口調に、白哉も端的に応えて斬魄刀を抜いた。

 時を同じくして斬魄刀を抜身にする紫音は、斬魄刀を片手で構える白哉を一瞥して一笑した後に、鋒を相手に向ける。

 

「破道の三十一・『赤火砲(しゃっかほう)』」

 

 直後、鋒に紅蓮の火球が生まれ、周囲を赤く照らし上げながら白哉の下へ奔るではないか。だが、所詮は三十番台の鬼道。幾ら席官の鬼道と言えど、副隊長である自分が焦る道理はない。

 すぐさま左手を翳し、迫りくる赤い火の玉を崩すべく霊力を込める。

 

「破道の三十三・『蒼火墜(そうかつい)』」

 

 紅蓮の火球に相対すは蒼い爆炎。

 頭大の火球を呑み込むかの如く放たれた『蒼火墜』を放った白哉は、続く攻撃に備えるべく細心の注意を払って身構える。先程の爆発による焦げた臭いが鼻をくすぐるが、圧倒的な集中を前にしては些細な事象だ。

 木枯らしに巻かれる煙を一閃し、視界を明瞭にすれば、真っ直ぐ先に佇む紫音が未だに斬魄刀を構えているのが目に見えた。

 

 向こうから来ないのであればこちらからと、踏み込もうとする白哉。

 そんな彼に向かって鋒を向ける紫音は、徐に斬魄刀を空へ掲げて唱える。

 

「破道の四・『白雷(びゃくらい)』」

 

 一条の光線は空へ駆ける。

 そのまま行けば、宙を駆け、ゆくゆくは雲を貫いた後に霧散するだけだろう。

 しかし次の瞬間、空から一直線に降ってくる霊圧を感じた白哉は、僅かに体を捻った。

 

「っ……!」

 

 左足に僅かに感じる焼けたような痛み。今まさに駆け出そうとした白哉の左足に掠った光線は、違うことなき先程紫音の放った『白雷』であった。

 一体どうやって?

 そう問うかのように瞠目した白哉が捉えたのは、法悦とした笑みを浮かべる友の顔。

 

―――迂闊とは言われないか?

 

 煽り立てるかのように、言の葉は発さず口の動きだけで伝える彼に、僅かばかり腹が立つ。だが、問題なのは紫音の攻撃方法。空に放った筈の『白雷』が、何故白哉目がけて落ちてきたのか。

 『白雷』が放物線を描いて落ちてくることなど耳にしたことも無い。尤も、『白雷』の特性を鑑みればあり得ない事象なのだ。

 

(……いや、待て)

 

 肌に触れる場の空気に違和感を覚えた白哉。

 そんな彼の目の前には、再び空に鋒を向ける紫音が佇んだままであり、今まさに鬼道を放つところだ。

 

(既に始解しているのか……)

「明答」

「っ!」

「だが、朧村正はあくまで幻覚を視せる能力……霊圧まで誤魔化すことはできはせぬ」

 

 白哉の思考を読み当て、尚且つ否定を突きつける。

 すると紫音は空に掲げていた斬魄刀の鋒を、徐に白哉の頭部目がけて構える。

 

刹那、閃光が瞬いたと思えば再び発射された『白雷』が戦場を疾走した。一直線にしか進むことのできない霊圧の光線―――貫通力を生むという強みを生みながら、軌道を読まれやすいという欠点を持つが故、鬼道の中でも行使することの多い白哉はすぐさま対応する。

頭を少しばかり傾け、紙一重という距離で『白雷』を躱す。

 

 問題はこの後。既に始解しているということになれば、今見えている紫音の刀剣は千鳥槍に変形している筈なのだ。つまり、封印状態の間合いで動けば確実に斬撃を喰らうことになる。

 ならば少し接近したところで千本桜を解放するのが無難か―――そう思った時だった。

 

 背後から疾走してくる霊圧を覚えた瞬間、右手に痛みが奔る。

 

「破道の一・『(しょう)』」

「っ……!」

 

 手首が焼かれる痛みと同時に、殴られたかのような衝撃に見舞われた右手は、堅く握っていた斬魄刀をあろうことか手放してしまった。武器を手放したのは勿論、突然の後ろからの襲撃に目を疑った白哉が捉えたのは、先程躱したはずの『白雷』。

 

―――馬鹿な

 

 そう呟く間もなく、白哉に肉迫する一つの影。

 

「―――縛道の九十九・『(きん)』」

 

 ギリギリまで迫った紫音が繰り出したのは、縛道の最後を飾る術。術の名を唱え終えた瞬間、どこからともなく生み出されたベルトが放り出されている白哉の四肢を封じ込め、瞬くにそれらに鋲を打って拘束する。

 

(詠唱破棄……だと……?)

 

 上級の縛道になるほど、相手の力を阻害する力は強くなる。九十番台ともなれば、相手の四肢のみならず霊力の流れさえも阻害することができるようになるのだ。

 それほどの縛道を、まさか五席の友人が詠唱破棄で唱えることができようとは思わなんだ。

 

 為す術もなく地に伏せることとなった白哉は、すぐさま顔を上げるものの、ちょうどのタイミングで頬に始解状態の朧村正の刃先があてがわれた。

 

「王手……だ」

「……」

 

 血色のよくない顔。息も絶え絶えとなり、額にじんわりと浮かんでいた汗は一つの粒となって、頬を伝い地へと零れ落ちていく。

 考えてみれば当たり前だ。隊長格と言えど扱いが難しい九十番台を無理に行使すれば、この程度の弊害が出るのは妥当と言えよう。つまりこの『禁』は、無理をして繰り出し、本来の拘束力には遠く及ばないと言えど、副隊長である白哉を封じ込めるに足り得ているという訳だ。

 それが紫音の力量の凄さか、はたまた白哉の力量不足か、それとも『禁』という術の凄さか。

 

 今すぐにでも倒れそうな様相の紫音は、息を切らしながらも尚、不敵な笑みを浮かべつつ余裕を見せようとする。それが痩せ我慢であることは疾うに分かっているが、自分はその痩せ我慢で負けたのだ。彼をどうこう言える立場でないことは重々理解していた故に、白哉は何も語らない。

 

「慢心……していたろう。所詮、地力が違うとな。例え、あからさまに意識せずとも、意識の深淵においては見下していた筈だ。その慢心が一瞬の隙を生んだ……それが分かるか?」

「……」

「何も語らぬか。だが、本当に私を警戒していたのであれば、あの時語った内容を覚えている筈だ。私が『鏡門』を使い、鬼道を屈折させるという鍛錬……その旨、聞いていなかったとは言わせぬぞ」

「っ……!」

「何年経ったと思っている。それが其方の慢心だ」

 

 ゆっくり朧村正の刃先を引いた紫音は、そのまま始解を解いて斬魄刀を鞘に納める。同時に鬼道の拘束も解け、白哉は晴れて自由の身となったが、未だに体を縛られたままであると錯覚してしまう。

 既に拘束が解けたにもかかわらず、地に伏したままの白哉。彼を縛るのは、友の言う慢心した上での“敗北”だ。

 いつもに増して強張った面持ちの白哉は、延々と見下ろしてくる紫音の目の前で立ち上がろうともしない―――否、立ち上がる気にさえなれなかった。

 

「……口答えもせず、只地に伏すのみか。分家の者を前にして、宗家の男が地を舐めるとはなんとも見苦しい様だろうか」

「……」

「まあ良い。だが、これだけは言っておく。無様に私の前で伏しているにも拘わらず、まだ掟に障る戯言を吐くと言うのであれば、次はその舌を斬りおとす」

 

 ザリッと砂利が擦れ合う音が鳴り響く勢いで踵を返す紫音は、地に伏す白哉を軽蔑するかのような瞳を浮かべたまま、修行場を後にする。無理を押して『禁』を繰り出した反動は大きく、気を抜けば今にでも白哉のように地を舐める体勢になりそうだが、紫音は気力だけで持ちこたえて帰路につく。

 

『よろしいのですか?』

「なにがだ」

『あんなにも突き放して』

「……構わぬ」

 

 ふと響いてくる朧村正の声に、紫音は囁くように受け答えする。

 

「彼奴が緋真を好いているのは分かった……だとすれば、私が己の感情を押し殺して過ごした時間はなんだ? まるで私は道化ではないか。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿し過ぎて反吐が出る」

『貴方自身がそれを望んだのでしょうに』

「柊……もとい、朽木が為だ。それを彼奴が破るなどほざいて」

 

 静かな声色ながらも怒りを吐露する紫音に、朧村正は憐れみに似た感情を覚えながら主の隣に佇む。

 

「それに……」

『『それに』……なんでしょう?』

「私の知っている……私の憧れた朽木白哉は、あのような男ではない。芯は貫く男だ。もし本当に……緋真を愛していると謳うのであれば、再び私の下へ来る」

『くっくっく。ある種の信頼ですね』

「だからこそ許せぬこともある。私が追い求めた背中があの程度であるのならば、私はあの背中を踏み躙って前へ進もう」

 

 フッと柔らかい笑みを浮かべた紫音の目尻には、じんわりと涙が浮かんでくる。

 一時の―――若気の過ちであると気付いたのであれば、白哉は先程の敗北を以て頭を冷やし、緋真から手を引いてくれることだろう。だが、元より白哉は生真面目である男。祖父や父の教えを受け、貴族の模範であるために習った教えは彼の心深くに刻み込まれている筈なのだ。

 それを破ってでも愛したい女が居るのであれば、自分は何も文句は言うまい。

 だが問題なのは、その愛した女が自分が貴族であるが故に感情を押し殺して告白を踏みとどまった相手。動揺するな、という方が無理な話だ。

 

 それでも―――それでも友を許せない自分が居ると同時に、友の幸せを願う自分が居る。

 

 自分が望んだ幸せを踏み躙ってまで、友の幸せを応援できるほど、紫音は出来た人間ではなかった。

 だからこそ、『認めさせてほしい』という感情が心の深淵から浮かび上がったのである。

 白哉に勝ちたいと思う反面、白哉には『柊紫音の常に前を歩んでいく朽木白哉』で在って欲しい。そんなジレンマを抱える男が一人、寂しく六番区の街路を進んでいく。

 



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二十一話

 

 そもそもが八つ当たりのようなものであったのかもしれない。だが、どちらが悪いかと問えば大多数の家臣たちは自分を支持してくれるだろう。それだけ瀞霊廷の掟は破ってはならぬものであると、紫音は考えている。

 世界観が違えば、掟の有す力というものもまるっきり変化する。更には現世の者達と一人の生きる年月の差が激しい故に、価値観を捻じ曲げるということも容易いことではないのだ。

 

 遂にそれらは固定観念となって、傍から見れば異常とも取れる風習が身に染みていき、衣服に染み込んだ垢のように落ちなくなってくる。

 掟を遵守することと、掟に懐柔されることの違いは一体なんなのだろうか?

 世間一般の目から見ても反感を覚えるような法があっても、組織はそれに従わなければならないのだろうか?

 

 成程、組織の一部として動くのであれば上に立つ者の言葉を『是』と捉え、何も反感を抱くことなく動くことが正しい形であるのかもしれない。となれば、この尸魂界という唯一無二である魂の故郷は、愛に真っ直ぐ生きるには少々窮屈な世界だ。

 今一度、『貴ぶ』という言葉の意味を吟味したいところであったが、幾ら考えたところで諦めた自分に機会が巡ってくることはない。それが正しいと懐柔したのだ。己の選択が間違っていたとは露ほども思わない。

 

 それでも、人間とはなんと数奇なものであろうか。

 

「刀を抜け」

 

 己が周りの中で最も掟を重んじるような男が、それを破ろうとするとは。

 斬魄刀の鋒から放たれる殺気は、鼻の先を突くかのごとく研ぎ澄まされている。以前とは比べ物にならない程の覇気。彼の一挙一動が、自分を打ち砕く為の布石に見えてしまう為、気を張らねば既に平静では居られなかっただろう。

 

「……そうか。それが其方の(こたえ)か」

 

 一月前の新月は、巡り巡って満ちては欠けていき、あの時と同じように“無い”という存在感を示している。

 一月考えたのだろう。その吟味の果てに、再び自分を呼び寄せて刃を交えようとしている。本気だ。『以前負けたのが悔しい』とほざくタチでもないだろう。となれば、残る選択肢は限られている。

 

 しかし、長い御託は剣戟を終えた後でいい。

 

 フッと柔らかい笑みを浮かべる紫音は、殺伐とした目つきで斬魄刀を引き抜く。

 同時に重苦しい霊圧が六番隊舎裏の修行場を覆い尽くしていく。副隊長と五席が本気で放つ霊圧は、地に転がる小石を震わせ、生える雑草を騒がせ、木々に留まっていた小鳥を恐怖でこの場から追い立てていく。近くを流れる小川も水面に円を刻み、水中を泳いでいた小魚をも身震いさせる。

 ビリビリと張りつめる空気。実戦でもこれほどまでの緊張感を覚えた事は無い。

 それはとどのつまり、実戦において己の格上と戦ったことがないということになるが、今更どうこう言ったところで状況が改善するとは思えない。

 

(いずれ、こうなる予感はあった)

 

 初めて会った時から、白哉とはどのような形になれど本気で刃を交える予感はあった。それが当時、色恋沙汰で交えることになろうとは思いもしなかったが、それもまた一興と口角を更に吊り上げる。

 

 文字通り、白哉との真剣勝負。

 

 銀嶺がこの光景を見たらなんと言うだろうか気になるが、今はこれから始まる戦いに全身全霊を賭けよう。

 中々踏み込まない両者は、石像であるかのようにピクリとも動かない。

 

 接近戦では白哉に、遠距離では紫音に軍配が上がる―――そう単純なものでもないのだ。

互いの戦い方、斬魄刀の能力。それらを互いに知っているからこそ動けない。だが、瞬きをする時間さえも惜しまれる緊迫した空気の中、先に動き出したのは白哉であった。

一瞬にして掻き消える白哉に対し、霊圧知覚を研ぎ澄ませる。

昔、“瞬神”に弄ばれるようにして鍛え上げられた腕は相当。但し、“共に鍛えられていた”という条件を鑑みるのであれば、その限りではない。

 

 瞬時に後ろを向くよう振り返り、背後からの刺突を一閃を以てして退ける。甲高く擦れ合う音が鳴り響き、余りの勢いに火花さえ散った。

 

「開幕“閃花”とは、随分な仕打ちじゃあないか」

「案ずるな。急所は外すつもりだった」

「それはつまり、魄睡と鎖結は避けても刺すつもりだったということだ。末恐ろしいことを平然とやってくれるな」

 

 鍔迫り合いのような状況になっている二人は、互いの顔を見遣りながら軽口を叩く。

 “閃花”―――瞬歩で相手に肉迫し、通り過ぎ様と魂魄の急所である魄睡と鎖結を突き砕くという恐ろしい技。白哉の瞬歩の速さも相まって、一般隊士であれば視認不可能な程の斬術であり、何とか剣閃を逸らした紫音もタラリと冷や汗を流した。

 

 此奴は本気だ。

 

 以前、雌雄を争った際とは訳が違う。擦れ合う斬魄刀から伝わる感覚で分かる。昔ならここで『少し頭を冷やさぬか?』とでも言って、何とか刀を退かせようとしただろう。しかし、発破をかけたのが自分である手前、ここで『はい、負けました』と敗北宣言する気概が生まれてこない。

 いいだろう。昔、白哉との鍛錬における試合で二連勝を飾ったことは一度たりともない。ならば今こそ二連勝を飾り、今度こそ緋真から手を引くよう真正面から伝えよう。

 その為には否応なしに勝ちを掴まねばならない。

 

「縛道の九・『撃』」

 

 真面な接近戦では白哉に分がある。だからこそ自分は鬼道という搦め手を使って、勝ちを手繰り寄せようではないか。

 低級の縛道を唱える紫音。その様子にすぐさま瞬歩で距離をとる白哉は、左手を翳して固く結ばれている口を開ける。

 

「破道の三十三・『蒼火墜』」

「其方も好きだなあ……―――破道の三十三・『蒼火墜』」

 

 白哉の左手から爆ぜる蒼炎は紫音を呑み込もうとするも、それを相殺すべく紫音も斬魄刀の鋒から『蒼火墜』を放つ。二つの『蒼火墜』は二人の中央で激突し、そのまま爆発する―――と思いきや、中央の空間にねじ込まれるようにして、一切の爆発もせずに視界から消え失せていった。

 その光景を見た白哉は思い当たる事象を即座に口に出す。

 

「反鬼相殺か」

「明答」

 

 同質・同量の鬼道を逆回転で放つことによって、相手の放った鬼道を相殺するという高等技術“反鬼相殺”。昔より鬼道は優れていた紫音が、白哉が昔から好んで行使していた『蒼火墜』を反鬼相殺することなど、十分想定の範疇であった。

 故に動揺は見せない。見せる必要もない。

 

 見物人でも入れば、固唾を飲んで見守る光景。再び膠着状態に入る二人であったが、同時に斬魄刀を構える。

 

「散れ―――『千本桜』」

「妖かせ―――『朧村正』」

 

 始解。途端に白哉の周りには凛とした空気が渦巻き始め、逆に紫音の周囲には妖しい空気がズンと張りつめていく。この衣服に水気が染みて体が重くなるような感覚を覚えるは、既に朧村正の術中であること他ならない。

 しかし、自覚があるだけまだマシだ。これから起こるであろう奇怪な現象には全て朧村正が関わっているということなのだから。幻の中に隠される現を見抜き、現のみを断ち切る。今日白哉は、そのような気概で赴いているのだ。

 

 何が来る? 見るだけで汗が噴き出る、灼熱の溶岩地獄か。それとも寒さで骨の髄まで凍え付きそうな極寒地獄か。はたまた、身の毛もよだつ悍ましい光景か。

 何が来てもいいように、“明鏡止水”の心構えは崩すまいと心がける。

 

 そんな白哉に紫音が差し向けるのは、

 

「―――『金剛爆』」

 

 『赤火砲』とは比べ物にならない程に巨大な火の玉。それを朧村正の鋒から解き放つ紫音に、白哉は平静を装いながらも予想していなかった手に一瞬の逡巡が生まれた。

 見たことも聞いたことのない術。鬼道の教本に載っているのを見たことがない術―――つまり、紫音独自の鬼道だろうか。鬼道衆の優秀な死神達は時折、自己流の鬼道を生み出すというが、それらと同じ類なのだろう。

 問題なのは威力。少なくとも五十番台には匹敵しそうな威力に窺える。

 避けるか? 受け止めるか? 否、圧し通す。

 

「破道の七十三・『双蓮蒼火墜』」

 

 『蒼火墜』の上位互換である破道。両手を翳して解放すれば、白哉目がけて突進してきた火球を呑み込む。

 凄まじい爆発は、暴れ回る竜のような様相を見せた。赤と青の竜が互いを喰らい、呑み込み、噛み砕いていく。最期には自壊して霊力を吐き出すようにして散っていく。

 その衝撃で周囲には風が吹きすさび、黒煙が足元を駆け巡る。

 それらを邪魔だと言わんばかりに白哉は千本桜の花弁を奔らせ、直線状に佇まっている紫音を斬るよう仕向けた。

 

 だが、風の如き迅さで奔った千本桜は紫音の体を貫くものの、彼の姿は一瞬にして靄へと崩れていく。既に幻覚だったか。確かに、あれほどの霊力を込められた鬼道の激突の中、霊圧を極限まで抑え込むか鬼道で隠したのであれば、流石の白哉と言えど見抜く事は不可能だ。

 それでも何の考えも無しで千本桜を奔らせるほど白哉も阿呆ではない。

 空を斬った千本桜は、滝が逆流かのような動きを見せて空に昇ったかと思いきや、そのまま白哉の頭上に移動し、丸い檻を作るかのように主人の下へ帰っていく。

 “無傷圏”は知られている。であれば、幻覚で騙している間に肉迫してくることは明瞭だ。

 

 ならばそれを逆に利用してやろうではないか。無傷圏の範囲を知られているのであれば、その限限までに花弁を密集させた後に―――。

 

「しっ!」

 

 風切り音が響いたかと思えば、白哉を中心として放射状に千本桜は舞い散っていく。てっとり早い朧村正の―――否、幻覚系の能力を突破する全方位攻撃。

 刹那、どこかで何かが裂けた音がした。

 

「そっちか」

「くっくっく……蜘蛛の糸が蜘蛛自身を絡めとらぬような意を感じさせる千本桜の能力。それを生かしての攻撃とは肝を抜かれた」

 

 踵を返した白哉の目に映るは、頬に刻まれた裂傷から流れる血を指で擦り取り、ペロリと艶やかに舐め取る紫音の姿。

 

「だが、如何せん密度が足りぬな」

「了承済みだ」

 

 しかし、紫音の言う通り、今の攻撃には相手を倒し切るには密度が足りない。一本の刀身が千の刃に分裂しているのが千本桜だが、幾ら刃が一千あるとしたとて、四方八方撒き散らせば攻撃の密度が落ちる。

 

「所詮は刀一本分。攻防一体型の斬魄刀と言えど、私の鬼道を防ぐには些かか弱いということを、身を以てして教えてやろう」

「……なに?」

 

 途端に朧村正を回し始める紫音。その姿に十三番隊副隊長が斬魄刀を扱う際の独特な槍術が重なるが、向こうが周囲に水気が満ちていくのに対し、今目の前からは冷気が漂ってくる。

 思わず身震いしてしまうかのような冷気。一瞬にして全身の鳥肌が立つかのような冷気は、紫音の周囲に満ちていく白い煙によって顕著なものとなる。

 

「―――『氷牙征嵐』」

「っ!!」

 

 刹那、朧村正の鋒から放たれる冷気の渦を前に、白哉は周囲に散らしていた千本桜を自身の目の前に密集させた。

 雪崩を思わせる怒涛の冷気の渦は、白哉を千本桜ごと呑み込まんと唸りを上げる。瞬く間に『氷牙征嵐』の射線上に在る物体は凍えていく。石、草、水分、そして千本桜の花弁さえも。

 余りの冷気に直接喰らっていないにも拘わらず、白哉の身に纏う衣服が凍りついていく。ここで気を抜いて霊圧を緩めたとしたのであれば、この途轍もない冷気に肌が裂け、血まみれになってしまうだろう。

 

「どうした? ウンともスンとも言わぬではないか。既に氷像となったか?」

「……これが本気か?」

「くっくっく、今にも凍りつきそうな男の言う言葉ではないな。たかが刀一本で、この術を防げると思ったか」

「……これは」

「私が編み出した独自の術……と言えば嘘になる。私の父が編み出した術の受け売りだ。本来の威力の二分の一も出てはおらぬだろう」

「っ……!」

「そうだ。その半分の威力も無い術に其方は氷漬けにされるのだ」

 

 これで半分の威力もないという事実に、白哉は瞠目する。

 下手な氷雪系の斬魄刀よりも威力のある鬼道だ。恐らく上級鬼道に匹敵するであろう威力だが、それを受け止めるには始解の千本桜では余りにも拙い。既に花弁の幾らかが凍え付き、砕け散っていきそうだ。

 

―――呑まれる

 

―――凍える

 

―――だが……

 

 氷が幾らか張り付いている腕。無理に手を開けば、ブシッと皮膚が裂けて鮮血が舞う。だがそれで良かった。それだけで良かった。

 手を放したことによって地に向かって一直線に落ちていく千本桜の柄は、そのまま吸い込まれるように地面へ溶け込んでいく。

 

 瞬間、重苦しい霊圧が辺りを覆っていた氷を軋ませ、悲鳴を上げさせるように砕け散らせていく。

 

 

 

 

 

 卍解

 

 

 

 

 

「散れ、『千本桜景厳(せんぼんざくらかげよし)』」

 

 暗い闇を幻視する。

 同時に、地面から複数の巨大な刀身が突き上げてくるのも目に入った。

 

「なん……だとっ……?」

「……兄が氷嵐を生み出すのであれば、私は桜吹雪を以てそれらを呑み込むのみ」

 

 地から伸びる刀身が風に巻かれるようにして、無数の花弁に舞い散っていく。千や万では数えきれぬ億の花弁。始解とはまるで違う密度の桜吹雪は、紫音の繰り出す『氷牙征嵐』を呑み込むように進軍していく。

 

「くっ……!?」

 

 『氷牙征嵐』に送る霊力を多くしようとも最早手遅れ。既に桜吹雪は紫音の周りに渦巻き始めていた。

 雌雄は決するだろう。

 唸り声を上げる千本桜景厳の花弁を前に、白哉は友の風流めいた言動を真似るように呟く。

 

「散らすまい。私が胸の内に咲いた……―――この桜を」

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――まったく、ここまでズタズタに人の衣服を切り裂く奴があるか」

「……済まぬ」

「私にこのまま半裸で帰れと言うのか。成程、私は今日中に半裸で瀞霊廷を歩く変人と言われるようになってしまうのか。それは光栄だな」

「……済まぬ」

「済まぬと言えば済むと思っているのか」

「済ま……ぬ」

「一瞬躊躇った癖に言い切るな」

 

 ズタズタに切り裂かれた衣服を脱ぎ、上半身半裸のまま己の回道で回復に努める紫音は、グチグチと姑のような言い草で白哉に愚痴をたれていた。

 戦いはあのまま紫音の敗北で終わり。尤も、卍解に始解で勝てという方が無理な話だ。当然と言えば当然の結果なのだろうが、愚痴を言わずには居られない。

 だが、それよりも重要な案件がある。

 

「……卍解してまでくるとは、本気だったか?」

「無論だ。手を抜くつもりは―――」

「違う。緋真のことだ」

「っ……ああ。私は……アレを妻にしたい、と……」

 

 歯切れの悪い物言いだが、白哉が本心から緋真を愛しているということは伝わった。

 どれほどまでに邂逅を果たし、どれだけの逢瀬を重ねたのかは分からないが、卍解を習得させてきてまで掴みとりにきた発言は重厚な重みがある。

 

「成程。流魂街の者を貴族の家に入れる。それも将来は朽木家の当主ともなろう者が、掟を破ってまで彼の女を正妻に加えると言うのだ。私が助言したにも拘わらず掟を破ると言うのだ。私の初恋の女を奪ってな」

「っ……!」

「掟を守ろうとした友の言葉を無視して、自分は愛の道に生きようというのだ。しかも、友が諦めた女を娶ろうとしてな。これはイケない。これを限りに其方とは縁を切るしかあるまい。私は今日という日を忘れるまい。来年の今日も、再来年も、一生だ。私は今日という日に涙を流して月に曇りをかけようではないか。今日という日の月に曇りがかかれば……白哉、その時は私が悲恋の果てに友に裏切られた事実に涙を流していることを思い出せ」

「……済、まぬ」

 

 怒涛の口撃に、只でさえ口下手な白哉は言葉を詰まらせながら最上級の謝罪の言葉を口にする。あれこれ言い訳をしても見苦しいだけだ。

 ならば、友のありのままの言葉を受け止め、後生彼の言葉を胸に秘めつつ生きよう。

 そう考えた白哉は、影を落とした顔で俯く。

 

「冗談だ」

「……なに?」

「はぁ……初恋云々は兎も角、他は冗談だと言っている。現世の書物の一場面を引き出し、少しばかり捩っただけでそれほど落ち込むとは思わなんだ」

「……私は……」

「ふんっ、どうせ叶わぬ恋であるならば、其方の妻であった方が気楽に会える。従兄弟の妻となるのだからな。寧ろ、そちらの方面になるよう手を貸してやる」

「なんだと?」

「其方の妻となった後、余りにも見ていられなくなったならば私が寝取る。それでよいか? ん?」

「待て。聞き捨てならぬ事を言わなかったか、貴様」

 

 先程とは一変、軽くなった場の雰囲気。

 白哉に長ったらしく述べた冗談は勿論、緋真が紫音の初恋の女性であること、紫音が自身の従兄弟であること、緋真が妻となること前提で『寝取る』宣言。

 まず訊くのは、

 

「兄が私の従兄弟とはなんだ?」

「何? まだ銀嶺殿や蒼純殿に聞いていなかったか。私は蒼純殿の姉君の子だ。父は朽木響河。母は朽木翠蓮だ」

「……初耳だ」

「父上は大罪人。故に母上は自ら勘当されることを望んだが、それを良しとしない銀嶺殿が説得し、妥協という形で分家の柊家に嫁がされたのだ」

 

 あっさりと色々ぶっこんでくる。従兄弟ならば早々に話せばいいものをと思ったが、今更過ぎる内容であるが故にヘヴィな内容であるにも拘わらず呆れしか出てこない。

 当の本人も、それほど気にしなくていい内容であるかのような雰囲気でペラペラと語った後は、ふぅと大きな溜め息を吐いた後に、気が抜けた様子の白哉を見遣る。

 

「で、妻に娶りたいと言うのだ。婚儀は何時予定しているのだ? まさか、貴族の立ち振る舞いも覚えていない緋真を連れてきてそのまま婚儀という訳にもいかぬだろう。それなりの立ち振る舞いとやらを覚える期間を―――」

「いや……」

「……なんだ?」

「言い辛いのだが……」

「なんだ、言ってみろ。これ以上其方の言い辛い案件があるとは思えぬが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……未だ告白もしておらぬ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数十秒の沈黙。

 いたたまれなくなった紫音は、生気を失った瞳を浮かべながら、徐に腰帯に差していた斬魄刀を手に取る。鞘付きのまま握り、そのまま白哉の背後に回ったかと思えば―――。

 

「ふんっっっ!!」

「ぐっ……!」

 

 全力のケツバット。

 引き締まった白哉の臀部に、全力で振りかぶった鞘付きの斬魄刀での一撃が命中する。余りの威力に白哉は汗を垂らしながらその場で悶絶しているが、その背後では阿修羅の如き怒気を含んだ紫音が斬魄刀を担いで仁王立ちしている。

 

「……告白もしておらぬと言うか。どの面を下げて決闘に来た? せめて緋真に合意をとってから来るのが筋というものではないのか? どういう了見をしているのだ、其方は。んっ? 反論があるなら言ってみろ。んっ?」

「……済まぬ」

「其方はな、もう少し要領を考え―――」

 

 この後、紫音はめちゃくちゃ説教した。

 



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二十二話

 

 初恋の女を友に盗られた。いや、元々自分のものでないことを鑑みれば、『盗られた』という表現は適当ではないだろう。

 ただ、自分が狙いをつけていた宝石を後から盗られるのは気に喰わない。しかし、そうなるように発破をかけたのは自分であるのだから致し方ないと、留飲を下げた。自分が我慢した十年という月日に対しては、玉響の如き淡泊な最期であったと思う紫音。

 

 一歩下がれば、また別の景色も見えてくる。

 

 その時最高の女を侍らせたとしても、無限に等しい選択肢の内に過ぎない。緋真と生涯を共にするよりも、自分とって幸せな相手を見つけることができるのではなかろうか。楽観的に考える―――否、考えなければやるせなくなるのみ。

 初恋は悲恋という形を、自分なりに終止符を打ったつもりだ。

 これで後は白哉と緋真が結ばれて夫婦になれば一件落着なのだろうが、もし白哉がフラれたとしたならば笑いものである。散々喧嘩した挙句、結局はどちらも彼の女性の隣に立つことができなければ笑いしかでてこない。

 

 しかしながら、それはもう白哉に任せることしかできない。背中を追い続ける者として、少し小走りして彼の背中を押してやろうではないか。その程度の気概は持っているつもりであるが、今は白哉と緋真の交際を見守る事しかできない為、手持無沙汰と言っても過言ではない状況だ。

 

『なんと告白すればよいのだろうか』と訊かれたが、『月が綺麗だなとでも言え』と伝えておいた。緋真が文学少女であったならばそれなりの答えはしてくれるだろうが、そうでなければ何の進歩はない筈。

 

「のんびり経過を見るしかあるまい」

「なんのですか?」

「青春劇を繰り広げる男女の仲をだ」

「……よく解りませんが、面倒事に関わっているということだけは理解しておきます」

「ああ、それでいい。私の春が終わり桜も散ったのだから、今は彼奴らの青春を見るしかあるまいな。伊勢殿、茶をもらうぞ」

「どうぞ、ご勝手に」

 

 机に項垂れていた紫音は、七緒の持っているお盆の上に置いてあった湯呑を手に取って、中に満ちていた透明な緑青色の液体を口に含む。

 

「甘いな、玉露か?」

「ええ。浮竹隊長からの差し入れで京楽隊長に注いでくれるよう言われていたのですが、別に柊五席でも構わないでしょう」

「ウチの隊長殿は働かぬからな」

「ええ。仕事をさぼって疲れていないでしょうし、働いている隊士たちに配った方が有意義です」

「くっくっく、相変わらず毒のある言い様だな」

「毒があるように育てたのは何処のどなたでしょうね」

「さて、何処のどいつやら?」

 

 十中八九、京楽のサボり癖で純真無垢であった七緒が毒のある言い方をするように育ったのだろう。いや、元々こういう素質があったのかもしれない。一部の人間には喜ばれそうだが、生憎紫音はそちらの気はない。

 軽口を叩きながら徐に七緒の頭に手を乗せる。中性的な外見とはいえ、矢張り男。掌はそれなりに大きい。幾度となく刀を振るい、鬼道を放った掌はしなやかさの中にどこか無骨さを感じさせる。

 

「伊勢殿も大きくなったなあ」

「やめてください」

 

 だが、即座にぺしっと叩かれ振り払われる。

 

「……京楽隊長殿ではないのだから、もう少し手加減してくれてもよいのではなかろうか?」

「すみません。柊五席が京楽隊長と雰囲気がよく似てらっしゃいますので、反射的に」

「どこら辺がだ?」

「全体的にですかね」

「あそこまで軽薄なつもりはないのだがな……」

 

 遠慮ない物言いに流石の紫音も苦笑いだ。

 紛れもないツン。だからこそ時折垣間見えるデレが映えるというものなのだが、ツンとデレの比率の内、ツンが圧倒的に多い。雰囲気が似ているという理由でツンの割合が大きいというのは、少しばかり理不尽なのではないのだろうか?

 

「まあ、今更だな」

「なんの話ですか?」

「気にしなくともよい。伊勢殿にはいつも通り居てくれた方が助かると思っただけだ」

「成程。私も、柊五席には真面目な部分だけいつも通り居てくれれば幸いです」

「それはいつも通りとは言わぬのではないか?」

「いつも真面目で居て下さいという意味です」

「くっくっく、肝に銘じておく」

 

 唇に指を当ててクツクツと笑う紫音であったが、その様子に七緒は呆けた表情を浮かべる。なにか珍しいものでも目撃したかのような表情だが、特にこれといって珍しい行動をとった訳ではない。

 何事かと紫音の笑いも止まるが、今度は七緒がやんわりと笑みを浮かべた。

 

「ふふっ、久し振りに柊五席が笑ったのを見た気がします」

「なに? 私は普段から笑っているつもりだが……」

「ここ数年、目が笑っていませんでしたよ?」

「……ほう」

「なにかあったんですか?」

「私は伊勢殿によく見られていたということか。それはそれで嬉しいものだな」

「なっ……は、はぐらかさないで下さいっ!」

 

 紫音の言葉に、常日頃凛とした佇まいを崩さない七緒が取り乱した様子で否定し始める。このように取り乱すのは、まだ七緒が席官に入る前まではよく見られた光景であった。だが、席官入りが決定したことで、他の隊士たちに示しがつくようにと絶え間ない努力で、今の『デキる秘書』のような確固たる地位を獲得したのだ。

 しかし、このように少し頬を紅潮させながら取り乱す姿も可愛らしい。

 出来ればこのままずっと七緒が慌てふためいている姿を見ていたいが、それだと常日頃近くに常備している分厚い書物の角で殴られる為、揶揄うのもここまでにした方が得策。

 

「なあに。惚れていた女を盗られただけだ」

「は? でしたら、何故そんなに嬉しそうに……」

「私にも色々と事情があるのだ。それに、一つの恋が終わったということは、他の者達に目を向けることができると同義。伊勢殿、私の失恋の慰めに少しばかり戯れまいか?」

「結構です」

「……はぁ」

「な、なんですか? そんなに残念そうな顔をして駄目ですよ?」

 

 あからさかまに眉尻を落とす紫音に、断った七緒も思わずたじろぐ。先程の嬉しそうな笑みとは一変、ここまで気を落とされるとなると流石に気が引けるというもの。

 

「あぁ、もう分かりました! 後でお酌くらいはしますから」

「かたじけない」

「本当にそう思っているんですかね……」

「美人にお酌された酒ほど旨いものはなかろう」

「はいはい。京楽隊長の受け売りですか?」

「ボクがどうかしたのかいィ?」

 

 突然室内に響く声。反射的に二人が振り向いた方向には、少しばかり頬が紅潮している髭面のダンディな男が、ひょっこりと廊下から顔を覗かせていた。

 外から流れてくる風に運ばれる少々の酒臭さ。それだけで七緒の額に青筋を立てるには十分の理由となり得る。わざと響かせるように強く足踏みして京楽に近付いた七緒は、胸元に覗く胸毛に躊躇うことなく胸倉を掴みあげた。

 

「ちょちょちょ、七緒ちゃん?」

「京楽隊長。お昼であるにも拘わらず飲酒とは、良い御身分でらっしゃいますね……」

「は、ははっ……そりゃボクは隊長だし、一応貴族だから―――」

「隊士に示しがつかないから、勤務中に飲酒しないで下さいとあれほどっ!!」

「ご、ゴメンよ七緒ちゃ~ん!」

 

 凄まじい剣幕で捲し立てる七緒に畏怖を覚えて情けない声を上げる京楽。これが我らが隊の長と思うと、だんだん情けなくもなり、下の者達が頑張らなければと思うようになってくる。

 これでも隊長の中では実力者なのだというのだから、日常の態度では力は計り知れないというものだ。尤も、総隊長の元柳斎は威厳も常日頃の行いも実力に比例している為、一概にどうこうは言えないが―――。

 

 七緒の説教を聞き流しながらそのようなことを考えていた紫音。しかしそこへ、叱られて涙目になっている京楽が『そう言えば』と言うかのように袖から一枚の封書を取り出す。

 

「紫音君っ! キミに渡すよう預かってきたものが……っ!」

「京楽隊長! 聞いているんですかっ!?」

「まあまあ、伊勢殿。一先ずはその封書を預からせてはくれまいか。では、後はご自由に……」

「えぇ~!? それは殺生だよ、紫音く~ん!」

 

 封書だけ預かって、京楽を再び七緒の説教へと戻らせる。七緒は毒があるものの、ここまで怒鳴り散らすことはさほどない。しかし、その分鬱憤が溜まった後の説教は、長ったらしく心に突き刺さる凶器へと変貌するのだ。

 傍から見れば哀れみさえ覚える光景へと成り果てるが、京楽は普段の怠惰が原因。つまり自業自得であるが故、見ていてもさほど哀れには見えてこない。寧ろ『もっとやれ』と応援したくなる。

 

 それだけ京楽の日々の怠惰への鬱憤が溜まっているということだ。

 

 兎も角、自分宛てに書かれている封書を手に取り、早速中を確認すべく封を切った。中にはシンプルに白い和紙が一枚。これが美女の恋文であったらなという他愛のない妄想を思い浮かべながら、四つ折りとなっていた和紙を開く。

 

(……なに?)

 

 見当もつかない内容が如何ほどのものかと思いながら目を走らせれば、予想だにしない内容が書かれているではないか。

 暫し神妙な面持ちで文章に目を通す。打って変わって真面目な雰囲気を身に纏った紫音に、近くで説教をかましていた七緒と涙目の京楽が何事かと様子を窺いに来る。

 

「ええと、柊五席。差支えなければ、何が書かれているのか教えてくれないでしょうか?」

「相分かった」

「どうも」

 

 口で説明するのではなく、見てもらった方が早いと和紙を手渡す。スッと受け取った七緒は、眼鏡の弦を指で押し上げながら達筆な文字で書かれた内容に目を通す。後の文章に目を通していく内に、次第に七緒の表情が険しくなっていく。

 

「鬼道衆に異動……ですか?」

「の、ようだ」

 

 一難去ってまた一難、とでも言うべき状況か。

 初恋に終止符を打ったかと思えば、今度は古巣に戻れという伝令。

 

「はぁ……一体全体どうしたのやら」

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――という訳で、今度から鬼道衆に戻ることとなったのだ」

「……そうなのか」

 

 柊邸のとある一室。そこで、以前の決闘以来顔を合わしていない白哉と二人で談話していた。緋真との仲の経過報告諸々で、色々とゆっくり話さなければならないことは多い。

 しかし、いざ会ってみると話したところでそれほど時間がかかることがなかった。そこで、数十分だけ居座って帰らせるのも面倒な手間をかけさせたと悪い気分になる為、今もこうして会話しているのだが、

 

「だからといって私を引き戻す必要があるのやら。意外と手続が面倒なのだ。隠密機動のように護廷隊と直接のかかわりが深い訳でもない。鬼道衆も隠密機動や技術開発局のように、どこかの隊と併合されればよいものを……」

「……一理はあるな」

「大体、呼び戻すのであれば追い出すなと言いたいが、それを言い出した大鬼道長が痴呆で引退したとなれば憤りも感じることさえできぬ」

(痴呆で引退と……)

 

 言い換えれば老いなのだろうが、『痴呆』で引退となると余り良い印象は受けない。

 元々、野心が垣間見えるような老人ではあったものの、漸く長の座につけたと思ったら、約三十年の後に痴呆で引退。最早呆れしか感じない。

 

「だが、何故兄が呼び戻される? 人材であれば、鬼道衆で見つければよいだろう」

「それは私も思ったが、どうやら次期大鬼道長が『後進に』と私を呼び戻したいらしい。ほれ、これでも私は前大鬼道長殿に手ほどきで寵愛を受けていただろう。そんな男が今は護廷隊の五席だ。良い銘が付いたのだから、買戻したいというのが向こうの考えだろうに」

「銘……」

 

 あけすけに己の予想を口にする紫音に、白哉も少々呆れた様子を見せる。

 確かに、護廷隊の席官というのは良い銘だろう。なにせ、席官というのは一部隊二百名以上居る中の凡そ一割にしか与えられない名誉ある称号なのだから。

 更に二桁ではなく一桁であるというところもポイントだ。数が少なければ少ない程、実力があるということ。実力主義の死神の世界ではかなり重要なポイントである。

 

 大して鬼道衆では席官制度などは存在しない。大鬼道長や副鬼道長以外で言えば、仕事での責任者程度しか役職が残らないのだ。護廷隊や隠密機動に比べれば実力主義が緩やかな世界。年功序列とでも言おうか。とりあえず歳がいっている者が上の役職に就くといった、殺伐とした護廷隊とは一変、ほんわかした雰囲気の職場。その分、戦闘力が護廷隊に劣ることは言うまでもないだろう。

 

 無論、救護部隊である四番隊に劣るという訳でもなく、条件が揃えば護廷隊最強と謳われる十一番隊にさえ勝てる人材がわんさか居る。と、言うのも、斬術至上主義がはびこっている護廷隊に対して、刀の扱いが拙い者達が集まるのが鬼道衆。接近戦では不利になること間違いなしだろうが、遠距離攻撃に関しては目を見張るものがある。何も考えず突っ込んでくる相手であれば、中級鬼道で迎撃すれば事済むことだ。

 問題は、鬼道衆は歩法も苦手な者達が多い。故に、瞬歩ができて肉迫されればあっという間に不利な展開になるということ。

 

 このように、得意不得意がはっきりしている鬼道衆において、万能型―――器用貧乏とも言えるが、斬拳走鬼バランスよく鍛えられている人材はほぼ皆無なのだ。つまり、自己評価が『少し鬼道が得意な席官』である紫音はこれに当てはまるということ。

 大鬼道長が痴呆で引退するという若干不名誉な理由で人材が消えたとなれば、将来性のある優秀な人材を引き入れたいところ。そこで元鬼道衆の紫音に声が掛かったと言う訳だ。

 

「……まあ、兄がいいと思うのであればそれでよいのだろう」

「だからと言って、突然副鬼道長に抜擢されたところで困るのだがな」

「それだけ評価されていると思えばよかろう」

「そうか? くっくっく」

 

 あからさまに嬉しそうににやける紫音。

 その様子に無言となる白哉。

 

「……褒めて伸びる性格だと言ってもらおうか」

「まだ何も言っていない」

「どうせ、ちやほやされたいとしか思っておらぬと考えていたのだろう。其方には解らぬだろう、この気持ち」

「……解らぬ」

「ならば憐れんだような目で見るな。腹立たしいことこの上ない」

 

―――副鬼道長

 

 名実共に一つの組織のトップ2に座すこととなった紫音。護廷隊で例えるのであれば副隊長と同格の地位なのだから、紫音にとっては嬉しいことこの上ないだろう。なにせ、白哉と並べるのだから。

 ゆくゆくは鬼道衆を率いていく存在に育っていくのだと思うと感慨深いものがある。今度の大鬼道長がなにかしらの理由で引退でもすれば、後は自動的に繰り上げで紫音が長に就く確率が非常に高い。護廷隊と違い、大鬼道長に就く条件に卍解を会得するという項目も無い為、大鬼道長になるハードルは護廷隊長よりは低いのだ。問題は紫音の年齢。一組織を引っ張って行く為には少々若輩な気もするが、それは時間が解決する問題だろう。

 そんなことを考えつつ、白哉は携えてきた風呂敷の中から一つの瓶を取り出す。

 

「……祝いに酒を持ってきた」

「おぉ、意外だな。其方が酒を持ってきてくれるとは」

「……酒には詳しくない故、信恒に勧められた物を持ってきた」

「成程。清家殿か」

 

 朽木家の家臣である清家に勧められた酒を持ってきたという白哉。長年朽木家に仕えている家臣が進める一品というのだから、否応なしに期待の度合いは高まっていく。

 『それでは、早速一杯……』と盃を取り出した紫音は、トクトクと漆塗りの盃に酒を注ぐ。注がれた液体がやけに色濃いことが気になるものの、そういう銘柄なのだと勝手に納得し、今度は白哉の分にもと酒を注ぐ。

 

「よし、それじゃあ盃を交わすか」

「……相分かった」

 

 若干眉を顰める白哉。

 そんな彼には構うことなく、ちびりと盃に口を付けた。瞬間、舌にビリッとした感覚が奔る。

 

「……白哉」

「……なんだ?」

「もしかしなくてもだが、これは薬膳酒か?」

「……恐らく」

「そういうことは先に言え。恐ろしく苦いぞ」

 

 ゲテモノでも頬張ったかのような表情を浮かべる紫音の様子に、白哉は一瞬手に持った盃に口を付けるのを躊躇ったが、意を決して口に含む。

 次の瞬間、彼の顔色は急激に悪くなり、真夏日の日中かと疑うほどの汗を噴き出しながら厠に向かって行く。

 

 『良薬口に苦し』とは言うものの、苦過ぎるのも如何なものかと考えた日であった。

 



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二十三話

「……なんだ、これは?」

「開けてみろ」

 

 ジメジメとした空気で衣が肌に張り付く一方、街行く者達が差す番傘で邸内が彩られる季節。今日もまた外でザアザアと大粒の雨が降る中、朽木邸に一人でやって来た紫音と二人で白哉の私室で話をすることとなった。

 まず始めに紫音が手渡してきたのが、少しばかり分厚い封書。

 いつでも開けることができるように―――しかし、うっかり誰かに見られないような意図が見られる封書を開け、中に入っている紙を広げれば、紙一面にびっしりと文字がつづられているのが見えた。

 

「……なんだ、これは?」

「同じ事を二度訊くな。どうせ其方のことだ。貴族の結婚の手続の知識は皆無だろう。ゆくゆくは緋真と結ばれるつもりなのだろう? それゆえ、少しばかり私の方で手続について調べてみた」

「……済まぬ」

「よいよい。其方と私の仲ではないか」

 

 そうは言うものの、紫音の浮かべる笑みはどこか黒い。まるでこうなったのであれば強引にでも結婚させようとする意思が見えてくるほどに。

 だが、恋が奥手な白哉にとっては良い後押しだ。

 有難い激励程度に受け取って、ずらずらと書き綴られた内容に目を通す。

 が―――。

 

「……長いな」

「要約した方がよいか?」

「ああ」

「そうか。では、掻い摘んで話すぞ」

 

 瀞霊廷内に居住している者の婚姻であるため、人別録管理局へ婚姻届を提出。そして護廷十三隊隊士の婚姻のため、護廷隊士録管理局へ隊士婚姻届を提出。更には席官以上の婚姻であるため、高次霊位管理局へ高霊婚姻届を。また貴族の婚姻であるため、貴族会議へ貴族婚姻届を提出する。その上、四大貴族の婚姻であるため、金印貴族会議へ婚姻認許状を、夫婦立ち合いの下、当主が提出。最後に、隊首会にて全隊の隊長・副隊長へ報告。

 要約しても長い手続に、白哉の目は途中から死んだ魚のように濁っていた。

 実際、これを理解するまでに紫音も何度溜め息を吐いたことか。

 

「全て其方がらみだ」

「……これほどとは」

「貴族は面倒だろう」

 

 四大貴族の男にわざわざ言う科白ではないが、同意するかのように白哉は頭をたれる。

 そんな様子の白哉であるが、紫音が気になることは二人の関係の進展だ。

 

「で、緋真はなんと?」

「……考えさせてくれ、とな」

「まあ悪い答えではないな。ならばいいだろう」

「なにがだ?」

「いきなり緋真を朽木の邸宅に迎え入れれば心労が多かろう。故に、まずはウチに招き入れて邸内の暮らしに慣れさせようと思ってな」

「……なんだと?」

 

 突拍子もない紫音の提案に瞠目する白哉。

 

「どういう体裁で迎え入れるつもりなのだ」

「養女でよかろう。そうだな……義理の姉……いや、妹か? そういう体で迎え入れればよかろう」

「……だが」

 

 バツの悪そうな顔を浮かべる白哉が危惧しているのは、緋真を養女に迎え入れるということが『流魂街の血を貴族の家に混ぜる』ことと同義であり、掟に触れてしまうということだ。

 彼女を妻に迎え入れたいと願っている男が感じる危惧ではないかもしれないが、それでも友の家に汚名を着させるような真似を進んで賛同できるほど、白哉は単純ではなかった。

 だが白哉がどうこう言うよりも前に、紫音がニヤリと口角を吊り上げながら続きを語る。

 

「勘違いするな。どうせ掟に触れるのだから自棄になっている訳ではない。実の妹を探しているにも拘わらず、自分だけ瀞霊廷内に嫁ぐ彼奴の心労を考えてみよ」

「それは……分かっている」

「緋真は芯が強いが繊細だ。常に陰から発せられる心ない言葉に胸を痛めつつも、其方の前では弱みを見せまいと振る舞う筈だ……が、自分の家というものがそれほど気苦労重ねる場所であっていいのか? いい訳なかろう。であれば、少しでも気苦労が晴れる様に手助けするのが私の役割というものではないか」

「……しかし」

「口答えするな。体裁でも柊家の―――貴族の養女となれば、朽木に嫁ぐ時の周りの声が少なくなろう。まあ、気休め程度かもしれぬがな。直に嫁ぐよりはマシになろう」

「……済まぬ」

「よし、話は決まったな。後は其方らの経過報告を待つのみだ」

 

 そう言って紫音は、身に纏う羽織の袖元をたくし上げながら盃に入っている酒を飲む。以前清家に贈られた薬膳酒とは違う、ちゃんとした日本酒だ。

 皿の上に少しばかり盛られた漬物を肴に語り合う二人。

 昔は縁側で茶を啜りながら菓子を食べていた仲であったが、今はこうして酒を飲みながらつまみを食べる。否応なしに時の流れというものを感じさせられると同時に、互いの付き合いの長さを思い知らされた。

 三十年来の付き合いだ。今更絶縁になることなどできようもないだろう。

 

 それは兎も角、羽織をたくし上げながら酒を口に含む紫音を、白哉が何かを問いたそうな顔で見つめる。こうなった時は十中八九紫音の方から『どうかしたのか?』と問わなければ会話のキャッチボールが始まる事は無い。故に、コクっと口に含んだ分を胃袋の中へ注ぎ込んだ紫音は、血色のよくなった顔で笑みを作る。

 

「どうかしたのか?」

「……羽織の具合はどうだ?」

「これか。うむ、ぴったりだ。着心地も良い」

「……ならば良かった」

「くっくっく、そうか」

 

 紫音が今現在身に纏っている羽織の着心地を問う白哉。この羽織は紫音の副鬼道長就任に当たって用意した一品だ。四大貴族クオリティで、使用した反物も染色の素材も超高級の品である。

 とは言うものの、銀嶺や白哉が常時身に付けている“銀白風花紗”という家十軒に勝る次元の違う値打ちの襟巻には、流石に劣る。一度紫音は白哉に『銀白風花紗は要るか?』と問われたことがあるが、その時は即答で『要らぬ』と答えた。その理由が『金に首を絞められる気分になる』という奇天烈なものであったのは、また別の話。

 

「鬼道衆では上手くやれているのか?」

「なんだ、その上京した息子に対する母親のような問いは。まあ、一度は働いた職場だ。感覚を取り戻すのにも、今の立場に慣れる時間も必要になるだろうが、上手くやっていけている」

「……そうか」

「其方は返答に色がないな。もっとメリハリを付けねば、話す方としては面白みがないぞ」

「……済まぬ」

「そうやって緋真との会話でも謝ってばかりか?」

「いや、違う……恐らく」

「……先が思いやられるな」

 

 頭に幻痛が奔るのを覚えながら、やれやれと首を振る。

 緋真と白哉が談話している光景を思い浮かべてみよう。緋真が花鳥風月を共にするような話で花を咲かせている一方で、白哉が相槌を打つ程度のことしかせず、時折問われるたびに淡泊な返答をしているに違いない。

 

(赤べこの方が、会話を盛り上げられるのではなかろうか)

 

 ずっとリズムよく相槌を打ってくれる赤べこ。鹿威しでも代用可だ。

 

「……ああ、赤べこで思い出したのだが」

「? なんだ」

「新しい大鬼道長の訛りが凄まじくてな」

 

 赤べこからの話題転換。

 新任の大鬼道長についての話に変わり、白哉も少し興味あり気な声色で応えてくれる。隠密機動とは違い、護廷隊のどこかの隊と併合されている訳でもない為、鬼道衆の人事について詳しい人物はさほど居ない。

 その為、平隊士などに至っては鬼道衆の上層部の顔を知らないなどざらにある事態となっている。

 白哉は副隊長という立場であるが、新任の顔は未だ見てはいない。いずれ、何かの機会に相まみえることになるとは思うが、何か情報は一つでも知っておいた方が良いだろう。そのまず一つ目が“訛り”についてだとは思いもしなかったが。

 

「なんというか、語尾に『べ』や『んだ』が付く事が多い」

「……方言か」

「そうだ。時折、標準語ではないであろう言葉も使ってくるので、なにを話しているのか分からなくなる時があるのだ」

「老人か?」

「いや、妙齢の女性だ」

「女性だと?」

「ああ。茶髪で、顔にはそばかすがある。赤い羽織を着ている故、一目見れば分かるだろう」

 

 具体的な外見について語る紫音。しかし白哉が気になるのは、瀞霊廷の組織にしては年功序列の気がある鬼道衆で、意外にも妙齢の女性が長に就いたということだ。尤も、死神の外見で年齢を語るのは余り当てにならない。元柳斎のように生きた年月と外見が比例している場合もあるが、卯ノ花のように他の老いた外見の者達の倍以上生きているにも拘わらず、麗しい容姿をそのままにしている者も多いのだ。

 つまり、今の大鬼道長も卯ノ花のように外見と年齢が比例していない場合だと考えた白哉。もし卯ノ花の目の前で話せば、『女性の前で歳を語るのはイケませんよ?』と般若の如きオーラを纏いながら笑みを返されるであろう。故に、本人の目の前では決して口にはしないようにと密かに心に決めるのであった。

 

 そんな白哉の内心は露知らず、紫音は『それと』と付け足すように話題を吹っかけてくる。

 

「ああ、あと事あるごとに『わや―――ッ!』と叫ぶ故、鬼道衆の者達からは『わやさん』と呼ばれている」

「……『わや』とはなんだ?」

「めちゃくちゃな様を意味するらしい。大抵、大鬼道長殿が叫んだ時はなにかしでかして助けを求めている時だ」

 

 猫が苦手なのに、大勢の野良猫に詰め寄られて『わや―――ッ!』

 

 大事な書類の上に茶を零して『わや―――ッ!』

 

 箪笥の角に小指をぶつけて『わや―――ッ!』

 

 事あるごとに『わや―――ッ!』と、衆舎に轟く悲鳴や叫び声を上げる。因みに本当に不味い事態の時は、低いトーンで『わやっ……』と呟く。

 故に『わやさん』。

 

「……舐められているのではないか?」

「まあ、一日に十度も叫べばそう呼ばれるのも無理はなかろう。それに本人はさほど気にしておらぬのだから良いだろう」

「そこまで言うのであれば、私が介在する余地はないな」

「ああ。あれでも、縛道の達人だ。日常生活で救いようのない壊滅的な様を見せても、実力があるのだから『愛らしい』で済まされるのだろうな」

 

 そう口走る紫音の瞳からは、何時の間にか光が消え失せていた。それだけで副鬼道長である彼の苦労が窺い知れるというものだ。

 サボり癖のある京楽とは一変、トラブルメーカーが上司と来た。ある意味上司に恵まれている白哉にとっては知る事ができない苦労があるのだ。

ある意味で通称『わやさん』の大鬼道長が気になってきたが、これ以上友人に気苦労をかける訳にもいかない。今日はわざわざこうして婚姻の手続について綴った封書まで持ってきてくれたのだ。ここは一つ、彼の為に少しでも労おうではないか。

 

「……まあ、飲むがいい」

「……ああ」

 

 そう言って徳利を傾けてくる白哉に、紫音は素直に空となった盃を差し出す。

 その際、影が重なる彼の目尻から一粒の涙が零れるのを見て、『本当に苦労しているのだな』と実感するのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 あのような他愛のない会話をしてから幾星霜。

 月の満ち欠けのループを何度眺めたことか。毎日、欠けては消え、そして再び光に満ちていく月を眺めながら紫煙を薫らした。

 

 地穿つ雨粒が降り注ぐ梅雨の季節。

 騒々しい蝉の鳴き声が木霊する季節。

 反面、凛とした音を奏でる鈴虫達が庭で屯する季節を超え、それからはしんしんと降り積もる白い氷の結晶が降り積もる様も眺めた。

 庭を白銀の世界へ染め上げた結晶が解け、地面に染み込んでいけば、今度は雪の下に隠れていたフキノトウが顔を出す。それから春が始まり、庭の桜に花が咲き誇る。四季折々を感じさせる庭園を眺めつつ、煙管で一服。我ながら贅沢な真似ができるものだと思いつつも、習慣になってしまったことを今更止めることはできない。

 

「景色を眺める分には飽きはしないだろうが、いずれは白哉の下に嫁ぐ身だ。庭の景色は向こうの方が良い眺めだからな」

「い、いえ……私にしてみれば、充分素晴らしい庭園だと……」

「そうか? まあ、手入れしているのは庭師たちだ。その言葉は彼奴等に言ってやればよかろう」

「はぁ……」

 

 未だ緊張が抜けず、強張った表情で廊下に佇む女性。絢爛―――とはいかないまでも、鮮やかな彩りに染め上げられた着物を身に纏うのは、流魂街の平屋に住んでいた筈の緋真だ。尸魂界にやって来て初めて見る庭園に心躍らせつつも、身分不相応な自分が此処に居ていいものかという戸惑いを隠せずに、そわそわと手を握ったり開いたりしている。

 

 端的にここに至った顛末を説明すれば、白哉が緋真を落とした。

 

 そのため、以前白哉と話して了解を得た“緋真を柊家の養女に迎える”という行動に出たのだ。

 無論、紫音は屋敷の者達に流魂街の者を入れることに対して諫言や批難を多かれ少なかれ受ける事となったのだが、飄々とした態度を終始一貫して屋敷の者達の言葉を受け流し、我慢勝負に勝った。恐らく『一時の気の迷いだろう』と諦めたのかもしれないが、何時から迷っているのかと問われれば既に十年以上前からとなるので、なんら問題はない(?)。

 やはり、副鬼道長になったことが幸いしたのだろう。以前よりも紫音の当主としての発言権が高まった。主に古くから柊家に仕える老臣に対しても、なんとか緋真を養女に迎えいれるよう認めさせたのだ。常日頃の苦労に見舞う権力は得たということになるのだろう。

 

「緋真、まだ落ち着かぬか?」

「はい……白哉様の妻となるに当たって、粗相がないよう貴族の立ち振る舞いを覚える為とは言え、紫音様のご厚意を受けるとは思いもしませんでしたので……」

「私も其方らが結ばれたことを祝いたいのだ。友の未来の妻の面倒を看ることなど、私にとって痛くも痒くもない」

「……有難う御座います」

「気にするな」

 

 できるだけ平静を保とうと心がける紫音。

 なにせ目の前に居るのは初恋の女性。体裁をとる為とは言え、養女に迎え入れた戸籍上の家族であり、更には友の未来の妻―――つまり人妻だ。

 そう考えると、少しばかり何かに目覚めそうにもなるが、下手に手を出せば白哉の卍解で物言わぬ肉袋にされる未来が目に見えている為、煙管で一服することによって気を紛らわせる―――煙草は入っていないが。

 

「白哉が時間をとれるかどうかにもよるが、まず一年ほどは私の家で所作を身に付けてもらうつもりだ。まあ、簡単な習い事だと思ってくれていい。あくまで其方はこの家の当主の兄妹という立場なのだからな。自分の家だと思って気楽にしてくれ」

「い、いえ、そんな……あれほど反対があったにも拘わらず私を迎え入れて下さったのですから、私も何か奉仕をしなければ―――」

「そう気負うことはない。人生、適当と妥協が肝心だ。其方は夫と似て根が生真面目だからな。所々適当に……諸所で妥協するくらいがちょうどだろう」

 

 あえて名前を呼ばずに『夫』と呼んでみれば、緋真の頬に朱が差していく。やはり彼女は白哉を愛しているのだろう。それが例え、瀞霊廷の掟に反することであったとしても、抑えきれぬほどに。

 だが、掟を破る馬鹿者たちは彼等二人のみならず、自分も加担しているのだ。

 であれば、彼等に味方するのが筋というものだろう。

 

「一時とは言え、私と其方は義理の兄妹だ。なんでも頼ってくれればよい」

「あ、えっと……」

「くっくっく、そこは『はい』でいいのだ」

「は……はい、紫音さ―――いえ、紫音義兄様(にいさま)

「……っ」

 

 久し振りに胸を擽られるような感覚。

 余りのこそばゆさに笑みが浮かぶのを止める事ができない。

 

(自分で言うのもあれだが、緋真に義兄様と呼ばれるとはな)

 

 本来望む形ではない。

 しかし、一時でも彼女と“家族”になれたことを、紫音は悦ばしく思うのであった。

 



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二十四話

 

「緋真、不自由はしていないか?」

「はい、義兄様のお蔭で」

「そうか。面と向かって行われると照れるものだな」

「うふふっ」

 

 縁側で日和見していた緋真に声を掛ける紫音。

 彼女と義理の兄妹となってから、早五年。未だ、白哉との婚儀については進展がないままだ。というよりも、ここ最近朽木家において銀嶺が当主と隊長という二足の草鞋を履く立場から身を引き、自身は隠居となって後は白哉に任せようとする動きがあった。そのお家騒動によって、婚儀どころではなくなってしまっているというのが実情だ。

 

 だが、白哉が当主となるのであれば話が早い。曲がりなりにも家において最も発言権の強い者であるのだから、多少の我儘であればまかり通るというものだ。

 彼が当主となることによって朽木家での発言権が高まったところで、分家の当主である自分が緋真と白哉の結婚を推す。宗家と分家筆頭の当主が口を出すとなれば、如何に長く家に仕える老臣と言えど、文句をグダグダと垂れるようなことはなくなる筈。

 

 尤も、そんな文句を言わせる隙を見せないが為に、緋真に四大貴族に嫁ぐに相応しい才女へと仕立てあげようと、養女に迎え入れたのだ。

 と言っても、貴族に嫁ぐ妻というものは、世間一般で知られるような妻の振る舞いはしない。掃除・洗濯・炊事などは全て侍女がやってしまう。例外として、侍女も雇うこともできない下級貴族であるのならば、それらの技術は身につける必要はあるものの、緋真が嫁ぐのは四大貴族の一つだ。

 

 もし家事を行おうとすれば『イケません、奥様! 私たちめがっ!』と侍女たちがグイグイ前へ出てくるのは目に見えている。

 と、このように家事スキルが必須ではないのに、何を緋真が学ぶのかと言えば、時折貴族間で執り行われる祭事での立ち振る舞いの仕方や、日常生活では到底使いそうにない琴などの楽器の演奏。

 

 その程度だ。

 

 最も重要であるのは祭事での立ち振る舞いであるが、それほど複雑でもない一般教養程度の所作である為、覚えること自体はさほど難しくはない。

 最悪、緋真のそこはかとない大和撫子然とした雰囲気で、どうにか圧し通りそうな気さえしてしまう。

 

(まあ、元々振る舞いは出来ていた方であったが……)

「……どうか致しましたか? どこか具合でも……」

「む? いや、早く其方の花嫁姿を見てみたいと思ってな」

「っ……そんな」

 

 ポッと頬に朱が差す。

 花婿姿の白哉の隣に並ぶ、白無垢姿の己の姿を思い浮かべたのだろうが。

 

 世が羨む才色兼備の男女が契りを交わす時。出来れば自分が彼女の白無垢を隣で眺めたかったが、今更だ。彼等が結ばれたことを祝福する第三者として、華々しい景色を見届けようではないか。

 若干、感傷的な気分になりながらも、緋真の白無垢を幻視して笑みを浮かべる紫音。

 今はもう彼女は義妹なのだ。そう思えば、一人の兄として妹の晴れ姿を祝うべきではないかと、今から既に心が躍り昂ぶり始める。

 

 本当に肉親の妹であれば、このような気分にはならないだろう。何故ならば、知り合いの死神に『妹はかわいいもんじゃないぞ』と真顔で言い放たれた為だ。遠慮が無い分、家庭内では色々と凄まじいのだろう。

 ある種、一定の距離を保てつつ彼女の晴れ姿を素直に祝えるであろうことに幸運を感じる。

 

「くっくっく……其方の白無垢姿を見れば、白哉はきっと惚れ直すだろうに。それに其方との結婚を認めない家臣共も、其方の美しさに魅入られて呆けるだろうなあ」

「お止め下さい、義兄様。私はそんな……恥ずかしゅうございます」

「謙虚なのも其方の魅力か。まあよい、婚礼の時を楽しみに待っているぞ」

「……有難う御座います。義兄様には何から何までお世話になり……」

「あぁ~、よいよい。それは今度聞こう。堅苦しいのは苦手でな」

「……はい」

 

 感謝の言葉を遮られたことで、少し残念そうに顔を俯かせる緋真。

 一週間に―――いや、一日に何度も感謝の言葉を述べようとすれば、流石に辟易してしまうだろう。しかし、それでも自身が受けた彼らの寵愛を思えば、何度礼を言ったとしても足りない。感謝と共に、罪悪感を覚えるが故の行動だった。

 そんな緋真を目の当たりにして、クツクツと喉を鳴らして笑う紫音は、『面を上げよ』と一言言い、

 

「其方を悲しませれば、彼奴が怒り狂うのでな。出来るだけ笑っていてほしい。心の底からな……」

「……はい」

 

 義兄の言葉に、今度は笑みを取り繕って応答する。

 笑う門には福来る。明るく朗らかに笑っていれば、いつか幸せがやってくる。例え今は心の底から笑えずとも、いつかは向日葵のように満面の笑みで微笑んで欲しい。

 それが叶う時があるとすれば、自分にもう一人の義妹ができた時だろうか。

 未だ消息の掴めない緋真の妹。土台無理な話かもしれないが、自分は彼女と共に背負っていくと決めている。

 

 彼女が背負っている枷は、彼女一人のものではもうなくなったのだ。共に歩んでいかなければならない夫―――白哉も背負い、また義兄である自身も背負っていくつもりである。

 例え、生涯見つけることが叶わなかったとしても、緋真一人には背負わせまい。何故ならば、“家族”なのだから。

 

 この地に俯き気味の花を咲かせる為であれば、どのような苦痛も厭わない。

 

(尤も、そのようなことは十年以上も前から決めていた事だがな)

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ……副鬼道長というものは忙しないものだな」

 

 多忙な日々。やはり一つの組織においての次席たる立ち位置というものは、頭である以上の忙しなさがある。

 既に実装されている技術開発局での空間凍結技術で、以前よりかは忙しくはなくなったのであろうが、それでも溜め息を吐いてしまうほどには忙しい。乾く暇がないと言ったところか。

 

 書類仕事は勿論のこと、現場に赴くこともあれば、霊術院で講師を務めることもある。最後の仕事については、常に新入院生を確かめられる為、紫音個人としてしめしめと思っているが、身に染みて実感するのは、この多忙の合間を縫って自分に鬼道の指導をしてくれた恩人が如何に偉大であったかということ。

 これだけ忙しいというにも拘わらず、突出した才能もない、家柄の繋がり程度の関係で任された人間を指導するというのは、並々ならぬ苦労があったことだろう。

 自分であれば、不貞腐れてしまうかもしれない。

 だが、鉄裁にしても鉢玄にしても、彼らは真摯に向き合って鬼道という業の道について導いてくれた。感謝してもし切れないとはこのことだ。

 

 だからこそ、三十年以上も前の事件について、未だに信じられないという想いもあるが、時は何時でも未来へしか進まない。いつまでも彼等のことを想って立ち止まり、精進を怠れば、それは彼等の本懐の為さないところとなってしまう。

 であれば、少しでも恩人たちに報いるべく、高みを目指してみようではないか。

 この羽織に刻まれる鬼道衆の紋は只の飾りではない。いつの日か、それを証明できる時はくれば―――。

 

 若干、郷愁染みた感慨に耽った紫音は、日が沈み始めて空が赤く焼け始めた時刻の瀞霊廷を闊歩する。大鬼道長が普段威厳のない佇まいであるのだから、せめても自分は威風堂々とした佇まいを崩さず、鬼道衆の威厳を保つ存在でなければ。

 恩人たちへの想いも相まって、紫音が公事の立場で居る際の肩への力の入りようは、八番隊で席官を務めているときの比ではなかった。

 かつて鉄裁が携えていた錫杖を真似て、朧村正が封印状態である時は錫杖の形へと変化させている。主に元柳斎を真似て行ったものだが、高貴さを薫らせる紫色の羽織との組み合わせは絶妙なものだ。

 

 道行く仕事終わりの死神たちに『お疲れ様です』と声を掛けられれば、その度に笑みを浮かべて労いの言葉をかける。

 

(嗚呼、鬼道の詠唱以外でも喉を酷使することになろうとはな)

 

 しかし、その頻度によって紫音が挨拶に応える回数も加速度的に増える。

 『おつかれ』。この四文字を声に発するだけでも、それが十、二十、三十と増えていけば仕事終わりで疲弊した体に鞭打つ結果となり得るのだ。

 更に性質の悪いことに、瀞霊廷に住まうのは死神だけではない。店を営む者達も暖簾から身を乗り出して、奉仕に勤める死神達へ声を掛けるのだから、彼らの分も無視出来る筈もなく―――。

 

「おんやァ、随分疲れた顔をなさって」

「……これはこれは、京楽隊長殿じゃあございませんか」

「そういうキミは副鬼道長に昇進なんだから、立派なモンだよねェ」

 

 ふと、とある店の軒下で盃を携える京楽が声を掛けてきた。

 彼のことだ。どうせ隙を見て隊舎から抜け出し、こうして酒を飲みにでも来たのだろう。僅かばかりに御香の香りと共に漂ってくる酒気が、それを物語っていた。

 既に提灯が立ち並ぶ時間帯。彼の羽織る女物の羽織は、鮮やかな山吹色に染め上げられている。恐らく彼の頬も、そんな羽織のように朱が差しているのではなかろうか。

 そんなことを思っていれば、

 

「どうだい? 一杯」

「……酒焼けするのは勘弁です故、一杯だけ」

「いいねェ。ボク、紫音クンのそういうところ好きだよォ」

「褒められているとは思えませんが」

「はっはっは、ノリがいいって褒めてるんだよォ。ほら、ボクが奢るから」

 

 言われるがままに、軒下の椅子へ招かれる。

 渡された別の盃に、徳利から日本酒と思しき液体が注がれる。普段は食前酒として梅酒を飲む程度だが、よく京楽が執り行う飲み会では出される酒を軒並み飲み干していた。

 酒豪、とまでは言わないまでも、酒には専ら強い方だ。

 しかし、次の日になんの影響も出ないほど強い訳でもなく、飲み過ぎれば喉が酒焼けし、酷い頭痛にも苛まれる。ここ最近では忙しいのも相まって、梅酒程しか飲んでいなかった為、日本酒は久方ぶりだ。

 

 コクっと透明な液体を口に含めば、煙管で一服した時に似た苦味と、穀物を噛み締めて出てくる甘味が舌の上を這い、そのまま喉を通りぬけていく。

 だが、度重なる挨拶で疲弊した喉に酒はきつかったのか、若干紫音の眉尻が下がる。

 

「ん、日本酒は苦手だったかな?」

「いいえ、少々疲れているだけです故……」

「そうかァ、そりゃあそうだよねェ。まあ、そういうのは慣れだよ」

「そう……ですね」

 

 流石は、長年隊長を務めているだけのことはある言葉の重みだ。これがサボり癖のある京楽ではければ、もっと心に響いたのだろうが。

 

「でも、キミはウチの隊に居た時の方が息抜きがしっかりできてたかなァ」

「……は?」

「イイ大人っていうのは、仕事もしっかりできて息抜きもしっかりできる人のことを言うんだよ。今のキミは、少し張り詰め過ぎかなァ。仕事を一生懸命にできるっていうのは良いことだけど、息抜きができなきゃキミはまだまだ子供ってコトだね」

「……然れば、常日頃息抜きしかしておられないような京楽隊長殿は如何なる立場なのでしょう?」

「ありゃ、これは墓穴を掘っちゃったかな」

 

 おどけた様子で京楽が頬を搔く。

 

「組織の長が確りなさらなければ、下の者の負担も大きくなるのです。私も身を以て知りました故、隊長殿への諫言とさせて頂きましょう」

「はははっ、それっぽいことは七緒ちゃんにも言われたよォ」

 

 ということは、京楽は紫音が去った今でも七緒などの生真面目な隊士たちに迷惑をかけているのだろう。古参の者達は京楽春水という人物を熟知しているが故に、諦観しているのかもしれないが、それでは少々救いがないというものだ。

 京楽に説教できる者―――と言われたのであれば、まず始めに頭に浮かぶのは総隊長である山本元柳斎重國。そして四番隊隊長の卯ノ花烈に、十三番隊隊長の浮竹十四郎と言ったところか。

 

(ふむ……今度、浮竹隊長殿にでも頼んでみるとするか)

 

 槍術の教えを乞うた海燕繋がり。更には、京楽自身が浮竹とは長い付き合いの親友である為、紫音が八番隊に在籍している際にも何度か会った。

親友である浮竹の言葉であれば、一時でも真面目に仕事に取り組んでくれることだろう。

となれば、今度浮竹と会う機会があれば、可愛い部下たちの負担を減らすべく、彼に助けを乞おうではないか。

 

 そんな他愛ないことを、杯の上で揺らめく日本酒の甘美な味わいに舌鼓を打ちながら考えた。

 暫し、ボーっと焦点の定まらぬ瞳で、盃の中の酒を見つめ続ける。

 気付いた頃には、酒の表面に自分の顔が映っていた。それだけ辺りが闇夜に包まれていたということだろう。すぐにでも自宅の布団の中へ潜り込みたいという、自身の本音を暗示しているのではないかという程、今日の日の落ちは早い。

 すっかり瀞霊廷の街並みは、提灯の炎による鮮やかな橙色に染め上げられている。

 遠方に目を遣れば、人魂が浮いているのではないかと錯覚してしまいそうな光が、あちこちに点在していた。恐らくあれは、見回りの死神が携えている提灯によるものだ。近くで見れば何気ない提灯でも、遠くから見ればこれほどに幻想的なものなのか。

 

 また一つ、為にもならないものを覚えた気がした。

 

「紫音クン、大丈夫かい?」

「……あ、ええ。少しばかり、夢見心地でしただけ故……」

「ははっ、眠いのかい。うんうん、いいよねェ。夢見心地って」

「その通りです。現にて、夢を見れるか否かの狭間を漂うあの感覚……」

「お昼寝なんかもそうだよねェ。なんだァ、ボク達って結構趣味があってるんじゃないの?」

「……以前、伊勢殿にも雰囲気が似てると言われました。心根が同じなのかもしれませぬ」

 

 元上司と部下の、他愛ない会話。

 酒は一杯しか煽っていないものの、酔った者のような饒舌具合で言葉を並べる紫音。相手が気兼ねなく話せる者であるということも相まって、連ねる言の葉の数は増える一方だ。

 

「はぁ。私が甲斐性無しであったばかりに、惚れた女を義理の妹なぞに……」

「あぁ~、確か一時噂になったねェ。ボクも当時は吃驚したけど、惚れた女の子を妹にしちゃったのかァ。でも、どうしてかな?」

「……京楽隊長殿と同じですよ」

「ん?」

 

 突拍子もない答えに、流石の京楽も唇を尖らせるような挙動をとって呆気にとられる。

 一体、惚れた女性を義理の妹にすることのどこが自分と同じなのだろうか。既に空となった盃から香る酒気を嗅ぐ紫音は、項垂れるような体勢をとりながらこう続ける。

 

「夢見心地は今が“現”だと自覚できる。しかし、“夢”は至極であればあるほど、覚めた時の喪失感が大きく膨れ上がり、満ちていた心にぽっかりと空虚を穿つ……」

「……キミは」

「夢を見ることよりも、現実を受け止めただけです。その上で、誰かの幸せの後押しができるのであれば―――」

 

 そこまで告げたところで、途端に紫音の口の動きが止まる。

 不審に思った京楽が身を乗り出せば、すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくるではないか。疲れているとは思っていたが、まさかこれほどまでとは。

 まさに“夢見心地”で語ってくれていた内容であろう紫音の言葉。それを受け止める京楽は、瞼を閉じて昔を懐かしんでみた。

 

「―――……成程。確かにボクとキミは、似てるのかもしれないね」

 

 思い起こすのは、まだ自分の若かりし頃。そう、今の紫音よりかは少し老けていたが、それでも今よりはずっと若かった頃だ。

 今は亡き兄の家に遊びに行き、兄嫁である“彼女”の後ろ姿を眺めながら家の屋敷に寄りかかって昼寝をしていた。

 

 嗚呼、確かにあの時の微睡みの狭間ほど、至福の時はなかった。

 

 今となっては遠い昔。そうだ、自分の髪に刺さっている二本の簪と共に託された想いも背負わず、気楽に生きていた。だが暫くして兄が死に至れば、彼が持っていた簪を託され、その後にも兄嫁の簪も託されたのだ。

 

 あの時、自身に降りかかっていた重責に覚えている姿が、どうしようもなく、今の紫音と重なっているよう京楽には見えるのであった。

 



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二十五話

 

 すっかり日も暮れた酉の刻。朽木邸の庭園からは、辺りに良く響く鹿威しの音が鳴り響いてくる。水がせせらぐ音というものは人の心を落ち着かせてくれるものだ。

 今から話すことを鑑みれば、人々も眠りにつき、心安らぐ音色が響き渡るこの時間帯が相応しいのだろう。

 

 紫音は、銀嶺に呼び出されていた。

 

 わざわざ彼の方から呼び出してくることなど滅多にない為、よほどの吉報か、またはその逆か。

 しかし銀嶺の性格を鑑みるに当たり、前者はあり得ない。

 見合いなどであれば話は別になるだろうが、それでも結婚を急ぐような歳でもないだろう。

 正座で佇む銀嶺を前にした白哉は、その厳かな雰囲気を身に纏う彼の痛い程の視線から気を逸らすべく、そのようなことを考えていた。

 

「……入れ知恵したのは、お主か?」

「はて、何のことでしょうか」

 

 静かながらも、紫音を問い詰めるかのような厳しい口調。

 気を抜いてしまえばビクリと肩を揺らしそうになるほどの声色であるが、敢て紫音は平静を装った。いや、ここで平静を装える程度の余裕がなければ、これから始まるであろう問答には耐えられぬであろう。

 呆けてはみたが、銀嶺の問いが何を意味しているのかは一瞬で理解できた。

 その答えを示すかのごとく、銀嶺は腕を組みながらフンと鼻で溜め息を吐いてから口を開く。

 

「流魂街の者と白哉が結婚するように差し向けたのは、お主かと訊いておるのだ」

「成程。そのことについてですか。私の義理の妹に、なにか差支えがございましたでしょうか?」

「……余り戯けたことは抜かすな」

「ほう、戯けたこととは一体?」

 

 まるで義憤を覚えているかのような言い草だ。

 尤も、貴族の当主としては元より紫音が緋真を養女として家に迎え入れることは受け入れがたかったのであろう。こうして面と向かって銀嶺と話すこと自体も、かなり久し振りのことだ。

 間を開けても尚、彼の威厳というものは衰えない。

 

「貴族であるならば理解しておるじゃろうに。流魂街の者の血を貴族に入れるは掟に反するぞ。それを理解しつつ、何故家に迎え入れた。あまつさえソレを白哉に娶らせようとは」

「人聞きの悪いことです。私は只、彼等の道の先に幸多からんことを願いつつ、それを後押ししたのみ」

「それがどれだけ軽薄な振る舞いであったか解らぬ程、お主も馬鹿ではなかろう」

「霊術院時代では座学は得意でしたが」

「……目上の者に対し、神経を逆撫でるような物言いは止せ」

「……畏まりました」

 

 ニヤッと不敵な笑みを浮かべる紫音だが、心中では今すぐにでもこの場から逃げ去りたい気分に駆られていた。

 白哉曰く、もうすぐ隊長を引退するらしいが、それでも尚実力は銀嶺の方が一枚上手の筈だ。そのような相手に対して、わざと神経を逆撫でるような物言いをするというのは非常に胆力が要ることであったが、こうして窘められた以上は止めた方が良いだろう。余り怒らせて、真面に会話ができなければ本末転倒だ。

 素直に頭を下げて、そのことについて謝罪すれば、銀嶺は呆れたような溜め息を吐き、それから茶を啜る。話は長くなる。今の内に喉を潤しておかねば、年も取っているのだから喉が持たなくなるだろう。

 

「……ふぅ。白哉が先日、儂に『結婚したい女性が居る』と言ってきた」

 

 事の顛末を語るように、銀嶺が一方的に話し始める。

 

「どこぞの貴族の女かと儂は思うた。しかし、どこの家の女性でも彼奴の愛した女であれば、祝福する気持ちになった。じゃが彼奴が言うに、彼奴が妻に娶りたいというのはお主が流魂街より迎え入れた女と言うではないか。成程、儂はお主と彼奴が繋がっているのだと確信したよ」

 

 瞼を閉じる銀嶺。

 彼が想っていることは一体なにやら。その瞼の裏に映す光景は如何なるものであるのか。

 

「彼奴の幸せを願うのは家族として当然のこと。じゃがのう、儂たちは貴族。ましてや瀞霊廷の貴族の模範となるべき四大貴族が一じゃぞ? その跡取りともあろう男が掟を破り、流魂街の者を娶ればどうなると思う? 朽木家の名が穢れ、貴族らの風紀が乱れることは目に見えとるじゃろう」

 

 銀嶺の言う通りだ。だが、それを押し退ける覚悟で自分達は緋真を貴族の家に迎え入れたのだ。

 例え批難されようと、愛した女を迎え入れることが叶うのであれば。

 そんな覚悟も、朽木銀嶺という男を前にすれば鉄塊を乗せられたかの如く押し潰されそうな気分になる。一言一言の重みが自分たちとは段違いだ。

 

「彼奴は昔から直情的な部分があった。今回に限りは若気の至りということで赦しておいたが……」

「―――『赦す』とは、一体なにを示しているのでしょう?」

「……何?」

「銀嶺殿の言う『赦す』という言葉に含まれる意味。是非とも教えて頂きたいのでありますが」

 

 鉄のような言葉を押しのけ、紫音が漸く口を開いた。

 今まで俯いていた顔が見上げられ、覗く眼光は一切の言い逃れを許さぬような鋭さを有している。

 

「……『諦めろ』。儂はそう言った」

「成程。緋真を伴侶にすることを諦めろと」

「うむ。妥当じゃろうに」

「では、緋真とは一度対面なさったということですな?」

「一度たりとも会うてはおらぬ」

 

 きっぱりと言い切られた。

 『顔も見たくはない』とでも言いたいのか。そう言えば、緋真が柊家の養女となってから、彼女と銀嶺が共に居る場面は一瞬たりとも見た覚えはなかった。

 つまり彼は、孫の愛した女と話そうとも、会おうともせずして、彼女のことを否定しようというのか。

 

―――沸々と、胸の奥で何かが煮え滾ってくるのを紫音は覚えた

 

 だがグっと堪える。ここで激情のままに言葉を吐いたとしても、事態は何も好転はしない。

 白哉のことだ。恐らく銀嶺に一言だけ告げられ、それでその場は引き下がったのだろう。

 口下手な彼が銀嶺を上手く言い包められる訳もない。となれば、なんとか自分が彼と義妹の為に頑張らなければならない。

 

 そもそも、以前白哉に伝えたように婚姻の手続の一つに、夫婦立ち合いの下、当主が婚姻認可状を提出せねばならないという工程があるのだ。それは四大貴族であるが故の手続。つまり、是が非でも当主である者―――銀嶺に白哉と緋真の仲を認めさせなければならない。

 しかし、それを為せるだけの話術が白哉にあるとは到底思えない。

 やはり今、この場面でしか銀嶺の彼らの恋仲を認めさせるしかないのだ。

 

「それは流石に筋が通っていないのではありませぬか? 今は柊が家の者……婚姻を認めぬにしても、一度会って断りをいれるというのが筋」

「いくらお主の義妹だとしても、流魂街の者であるということに変わりはない。儂が貴族として通すべく筋合いも持ち合わせる必要もないじゃろう」

「いえいえ、その女の兄……そして家の当主が目の前に居るのです。少々不躾では?」

「であれば、お主が行ったことはなんじゃ? 不躾、且つ軽薄な振る舞いじゃったのう」

 

 一拍の静寂。

 余りの静寂に吐き気を覚えてしまう。最早外から聞こえてくる鹿威しの音など耳には入ってこない。

 息を継ぐことさえも忘れて、銀嶺の瞳を見つめる。年老いて色彩が薄れていった瞳だ。

 

「下がれ。これ以上の問答は不要じゃ」

 

 トーンが低くなった声で銀嶺が言い放つ。

 その時、やけに心が軽くなったことを覚えた。ここから立ち去れることに対しての安心感か。それとも銀嶺が自分を見限ったような言動に対して、一種の自暴自棄のような感覚を覚えただけなのか。

 いや、違う。

 理解したのだ。

 

 

 

 

 

「―――何をそんなにも恐れているのです?」

 

 

 

 

 

「……何?」

 

 思わぬ言葉に、背中を向けていた銀嶺が振り返る。

 

「何をそんなにも恐れているのかと伺っております。ましてや、会わずして相手を否定するという暴挙。とても銀嶺殿とは思えぬ焦燥ぶりに思えますが」

「戯けたことを……」

「何を恐れて目を背けようとしているのですか。家名が穢れることですか? 掟を破ることですか? それとも、白哉が悪女に誑かされているとでも? だとすればそれは心外です。緋真は貴族の妻に相応しいよくできた女だ。きっと、朽木家の名に恥じぬ振る舞いを見せてくれるでしょう」

「……儂が案じているのは朽木家の将来だ。そして、無論それは白哉の将来へと繋がる」

 

 そこまでして緋真を否定する理由は、白哉の為。

 成程、確かに理に適っている見方の一つかもしれない。死神の将来は長い。殉職を除けば、百年以上生きる者達はごまんと居る。そんな長い人生の中で、掟を破ってまで一つの恋を追い求めるような真似をしてほしくはない。それが銀嶺の言いたいことだったのだろう。

 だが、白哉に似て―――否、白哉が似たのだろう。白哉よりかは多いものの、口数が少ない銀嶺の真意を読み取るには、“深読み”と呼べるレベルまで考えなければならない。

 深読みとは、時に悲惨な勘違いを生む。故に日常生活ではできるだけしない方が良いことなのかもしれないが、紫音はここぞとばかりに“深読み”した。

 

「……成程、白哉の口数が少ないことに感けて、大した話をしていないのは理解しました。いつものことです。どうせ、背中越しで話したのでしょうに」

 

 朽木家の男に共通する事項。それは、こちらを向くように伝えなければ目も合わせずに、淡々と背中越しで語るというものだ。

 更には、その時目を瞑っていることが大抵である為、人の姿を見ようともしないという心根が露わになっていると言っても過言ではないだろう。

 

 恐らく白哉が緋真を妻に娶りたいと言った時も、仏壇に向かって瞼を閉じ、背中越しで会話をしていた筈だ。

 

「悪い癖です。銀嶺殿の父や祖父がどうだったかは知りませぬが、『背中で語る』というのは如何せん無理がありましょう。人と人が語り合う時は、確りと相手の目を見なければ」

「……何を言いたい」

「『背中で語る』というのは、口下手な父親の逃げ口上でしょうに。何故前を向こうとしないのですか? 何故相手の顔を見ようともしないのですか? 真に白哉の幸せを願うのであれば、確りと彼奴の目を見据えて窘めればよいのでは?」

 

 普段の飄々とした声色とは一変、ドスの効いた声色で畳み掛けるように言葉を並べる。

 

「『自分の父がそうだったから』と、その態度を真似て子や孫にまでそういった態度をとるのは当てつけ以外の何物でもないでしょうに」

「何を以てそう語る?」

「朽木響河とまた同じ過ちを繰り返す気か、朽木銀嶺」

「っ!」

 

 紫音が口にした名に、瞠目する銀嶺。

 かつて婿養子として迎え入れた男だ。若くして三席という立場に居り、その実力の高さ故に将来を見込まれていた男であったが、彼の力を妬む者の策略に遭い、牢獄に閉じ込められた。

 その一件を皮切りに彼は、今迄溜め込んでいた周囲の自分への嫉妬や欺瞞があるという疑心暗鬼を爆発させ、たった一人で何十人もの死傷者を出す反乱に打って出た。

 全ては、彼の心根にあった自信家という性質が起因したものだが、彼を止めることのできる立ち位置に居たのは彼の妻ともう一人―――銀嶺だった。

 

 次期当主とさえも嘱望(しょくぼう)され、過信していた彼を窘めるべく、敢て最低限にしか導く事は無かった。それが裏目に出て、最終的にはその手で自ら婿養子を殺す結果となる。

 その所為で彼の妻―――己の娘を神経衰弱で死に至らしめ、彼らの間に産まれた紫音にも充分な親の愛を注ぐことができなかったと、今でも悔やむ時があった。

 

 それを示唆されているかのようで、銀嶺は硬直する。

 真っ直ぐ射抜くかのような紫音の眼光に射止められ。

 

「私は、会談もせずに相手を否定するような軽薄な振る舞いをする朽木家当主は断じて認めぬ。是が非でも緋真と白哉を交え、会談してもらおう。是が非でもだ」

 

 恐ろしい執念を垣間見たような気がする。

 今迄、一度たりとも見たことのないような孫の瞳。

 

 孫として、祖父の態度に対する悵恨(きょうこん)

 

 兄として、妹への言い様に対する義憤。

 

 親友として、彼が真に愛した女性と共になれるようにという嘱望。

 

 これら三つが混じり合った紫音は、銀嶺程の男でさえも息を飲む形相を浮かべていた。夜である以上、大声を上げることはできないと声量は抑えたのだろう。それでもこの迫力。昼間に呼び寄せていたならば、どれだけの圧が発せられていた事か。

 

「……相分かった。時間が取れ次第、一度会談することにしよう」

「恩に着ます」

「どの口が言う」

 

 はんっ、と呆れるように鼻で笑った銀嶺は、手の所作で紫音に今居る部屋から立ち去るように伝える。

 それを見て颯爽と立ち去る紫音を見送った銀嶺は、遠い場所に離れたのを確認してから深い溜め息を吐いた。

 

「まったく……随分愛されているようじゃな、その緋真とやらは」

 

 なんとなしに呟く。

 同時に、先のあれ程までの執念深い紫音の態度に合点がいった。

 

 

 

 成程。惚れた女を蔑ろにされれば誰でも怒るだろう、と。

 

 

 

 ***

 

 

 

 五年後、朽木家祭祀殿。

 朽木家の先祖の御霊を納めた霊廟の前に祭殿を建て、そこを祭祀の場としているのだ。親族の会議、挙式、葬儀に至るまで……と、そのような場に佇んでいるのは隊長羽織を身に纏う白哉の姿。

 

 朽木白哉は、六番隊隊長に就いた。

 

 元より持ち合わせた才能に合わせ、何よりもその日々の精進を忘れない姿勢が実り、見事隊首試験にも合格して引退した銀嶺の後を継いだ。

 更には当主ともなり、以前よりも仕事に時間を割く割合も多くなった。自分の時間など二の次。

 そんな彼には献身的な支えが必要だった。故に、一人の女性が彼の身に寄り添うことが決まった。

 

 姓が『朽木』となった緋真。

 

 晴れて彼等は夫婦となったのだ。度重なる合議の下、彼女が白哉の妻になることが決定したのが二か月前。家臣の一部は最後まで流魂街の者を家に入れまいと必死であったが、銀嶺や蒼純、そして分家当主であり緋真の義兄である紫音の強い勧めで籍を入れる事となったのだ。

 が、婚姻が決定するよりも前に確認していた手続の通り、全ての手続を終わらせる為にかなりの時間を要した。

 そして今日、全ての手続を完遂したのだ。

 

 だというにも拘わらず、白哉の面持ちは神妙なものである。

 霊廟をじっと眺め、何を考えているのか。

 

「花婿がそのような顔をしているとは何事だ」

 

 ふと後ろから友の声が聞こえてくる。

 振り返れば、朱傘を差して妖しい笑みを浮かべている紫音が居るではないか。誰よりも緋真と自分の婚姻を推し進めてくれた旧友。感謝してもし切れない。なにせ彼が自分も含め、銀嶺や緋真を交えた会談を開いてくれたのだから。

 当初、結婚については否定的であった銀嶺も、実際に緋真と会ってからは考えが変わったようであり、かなりの時間は要したものの婚姻を認める形に折れてくれた。

 蒼純もなにか思うところがあったのだろうが、『息子が愛した女性であるならば』と言ってくれた為、最終的には親公認の仲となった訳だ。

 

 そうなるように取り持ってくれた紫音であるが、彼の差す朱傘の下には緋真が柔らかい笑顔を浮かべて佇んでいる。

 

「……どういう訳だ?」

「式は行わぬのだろう? だから……なあ?」

「はい……」

 

 にっこりと微笑みあう紫音と緋真。状況が呑み込めない白哉は、依然立ち尽くしたままだ。

 紫音が言う通り、白哉と緋真の婚儀については“先延ばしにする”方針が決まった。

 これは緋真の申し出である。彼女曰く、『心の底から素直に式を喜べる時が来るまで待っていてほしい』とのこと。それが何を表すのか、言わずもがな紫音と白哉の二人は理解した。

 故に、彼女の意志を尊重して式は見送ったのだが―――。

 

「なにもせぬというのも、心に区切りを入れるという意味で恰好がつかまい。だからこうして送り出しに来た」

 

 徐に朱傘を畳む紫音は、折り畳んだ朱傘の持ち手を白哉に差し出す。

 同時に緋真も白哉の下へ一歩前に出る。ゆらりと揺らめく彼女の前髪が、この時ばかりはどうしようもなく愛おしく感じられた。

 緋真と共にありたいという衝動に駆られる白哉。そんな彼を見てクスりと微笑む紫音は、緋真の背中に手を当て、柔らかく押し出す。

 

「幸せに」

「はい」

 

 それだけ。たったそれだけの言葉で、義妹を送り出す。

 それから朱傘も白哉の手に渡し、『緋真を頼む』と告げた。

 

「……だが」

「ん?」

「良かったのか? 兄は―――」

「ならば、尚のことだ」

 

 突拍子もなく重大なことを口走りそうになった白哉の言葉を遮り、紫音は彼の肩をグッと掴んだ。

 

「緋真を幸せにしろ」

 

 先程の『頼んだ』とは一変、命令するかのような強い口調だ。

 先の言葉が兄としてであれば、今の言葉は緋真を愛した男として、だろう。

 

 薄々感じていた事実。罪悪感を覚えないと言えば嘘になるが、寧ろより一層緋真を大事にしようとする気概が固まる。

 緋真の華奢な肩に手を置き、両袖に腕を入れる様に腕組みする紫音を見つめる白哉は、一瞬ばかり複雑そうな瞳を浮かべた。だが、すぐさま普段通りの真っ直ぐな瞳の色へ移り変える。

 

「相分かった」

「ふっ、其方のことだから『済まぬ……』とでも言うかと思ったぞ」

「……私を一体なんだと」

「ふ、ふふっ……!」

 

 紫音の言葉に笑いをこらえきれなくなった緋真が噴き出す。そんな彼女の姿を見た紫音も噴き出し、二人を見つめる白哉は茫然と佇む。

 そんな彼等を、ふと暖かい風が包み込んだ。同時に風に誘われた木々の葉が、一組の夫婦の門出を祝い拍手するかのようにザワザワと揺れる。

 そして木漏れ日は、彼らの行く先を明るく照らす。

 

 やがて白哉と緋真の二人は、祭祀殿の前の階段を共に下りていく。その際、日光で緋真が日焼けせぬように朱傘を差すという粋な計らいを見せた白哉に、紫音は思わず『おおっ』と感嘆の息を漏らした。

 あの白哉が女性に気を使えるとは。

 とは言うものの、結婚まで漕ぎ着けたというのだから、それくらいはしてもらわなければ困るというものだ。

 

 熱々、且つ新婚ほやほや。

 

 傍から見ればそれほど浮足立っているようには見えないが、長年連れ添った紫音であれば、彼らの高揚が目に見て取れる。

 長い階段を下りて、朱傘が赤い日の丸のようにしか見えなくなった頃、紫音は胸元に手を突っ込んで煙管を取り出す。

 

 唐突に、苦味を欲した。

 何故かと問われれば―――。

 

「甘々すぎて見ておれぬわ」

『ですね』

 

 斬魄刀の同意を得てしまうほどの光景を見届けた紫音は、いつものように紫煙を薫らすのであった。

 





次回、最終回です。


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二十六話

「副鬼道長、こちらです」

「ああ、分かった」

 

 かつて通っていた学び舎に赴くのは、鬼道衆副鬼道長・柊紫音。

 桜と共に木漏れ日が窓から差し込んでくる季節に、彼は鬼道を教える講師としてやって来ていた。

 度々、護廷十三隊から霊術院へ席官を送り、死神としての心構えを話す機会を設けている。護廷隊の席官―――しいて言えば、隊長格クラスになると院生からは現世でいう一流芸能人の扱いだ。

 それは一年に二度訪れる鬼道衆が受け持つ鬼道実習においても同じ。副鬼道長の紫音は、古巣に返って院生たちに羨望の眼差しを向けられることに一種の快感を覚えていた。だが、恩師と比べればまだまだ小童である自分の実力を鑑みれば、現を抜かしている場合ではない。

 

 ならば、大鬼道長を講師として呼べばいいのでは?

 しかし、組織の長たる者はスケジュールがみっしりと詰まっており、こうして霊術院に赴く事さえも敵わないのが現状だ―――というのは建前。大鬼道長の訛りが酷すぎて院生が話を聞きとれない&彼女の日常でのポンコツ具合が祟って、霊術院にやって来ても何かやらかして鬼道衆に対しての悪い印象を抱かせるかもしれないという鬼道衆全員の危惧が、主だった理由である。

 只でさえ人気を護廷隊に盗られているのだ。失態をまざまざと見せつけ、人員が向こうに割かれるのは真っ当御免である。

 

(今頃、『わや―――ッ!』とでも叫んでいるのだろうな……)

 

 どこかから『くしゅん!』とくしゃみする声が聞こえてきた気がする。

 それは兎も角、紫音が鬼道実習を受け持つようになってから、五年以上経った。毎度やって来るのが紫音である為、霊術院生にとって彼が来ることは恒例行事のようになっている。

 将来職場で世話になるやもしれぬ男を見ようと、教室からは院生たちがちょこちょこと顔を覗かせ、その度に紫音を引率してくれている教師が窘め、次々に引っ込ませていく。

 

「今年も元気そうな新入生が多そうですね」

「ええ、これからが楽しみですよ」

「それで私がこれから赴くのは、どの組で?」

「一年第二組ですね。一組の方には、十三番隊の志波海燕殿に来て頂いております」

「ほう、志波海燕殿が」

 

 槍術の指導をしてくれた海燕が一組に来ているとの情報に、紫音は驚いたような声色で応える。確かに、誰にでも分け隔てなく接するような溌剌した雰囲気は、院生を必要以上に緊張させることはない。しかれども、決める時は決める男。これからの霊術院生活、鍛錬を怠ることなく精進するよう告げる時は真剣な面持ちで語るだろう。

 一方、紫音はそこまでメリハリがつくような人間ではない。常に余裕ぶった笑みを浮かべて、特に深いことも考えてなさそうに飄々とした口調で話す男だ。五年前から続けているように、抑揚のない口調で無難な言葉を並べるのだろうと、自分で自分のことを推察する。

 

(まあ、鬼道の手本を教えてみせるだけなのだから、それほどまでに話すことも多くないだろう)

「では、柊副鬼道長殿。そろそろ演習場に着きますので……」

「相分かった」

 

 担当教師の言葉を受けて、身なりを整えるべく襟を掴んで、一度勢いよく鬼道衆の紋が刻まれている羽織を羽織り直す。紋に皺が付いたまま院生の前に出れば、流石に恰好がつかないだろう。

 

(さて……どれどれ―――)

 

 薄暗い廊下から演習場に入れば、正座して待機している院生たちが一斉に紫音に向けてお辞儀する。

 だがただ一人、呆けていたのか、お辞儀もせずにポーッと日和見に徹している女子院生が一人。

 

 その姿を見た紫音は、大きく翡翠色の瞳を見開いた。

 

 燦々と降り注ぐ陽の光は、初めて会った時の彼女を彷彿とさせる。

 セミロングの黒髪は、そよ風に揺られてしなやかに靡く。空を仰ぐ紫紺の瞳は、彼女と瓜二つだ。

 パッと見る限り、身長は此方の方が低いか。だが、その凛とした佇まいからはどことない気品が溢れ出している。

 

 

 

 思わず重ねてしまった。初めて会った頃の緋真と。

 

 

 

 そんなことを思いつつ女子院生を凝視していると、その女子院生の隣がハッとしてお辞儀の体勢のまま、膝をポンポンと叩いた。すると自分だけお辞儀していないことに気が付いた女子院生が、瞬く間に顔を紅潮させ、慌てふためきながら首を垂れようとするが、

 

「そこの女子院生」

「は、はいィ!?」

 

 紫音に錫杖の先で差され、ピシッと背筋を伸ばした。

 その慌てふためいた様相に、周りの院生たちはクスクスと小さく笑い始める。クラスの笑い者にされている女子院生はそれを自覚している為か、茹蛸のように耳まで顔を真っ赤に染め上げつつ目を泳がす。

 可愛らしい挙動に、思わずにっこりと笑みを浮かべてしまう紫音。だが、相手からしてみれば自分の行ってしまった無礼に怒っているのだろうと、気が気ではない状態だ。

 

「名は何と申す?」

「はいっ、戌吊ルキアです!」

「ほう……もしや、南流魂街の『戌吊』から来た『ルキア』で、戌吊ルキアか」

「その通りです! はいっ!」

 

 先程の無礼の分を取り戻すべく、必要以上にハキハキとした口調で応答するルキアに、クラスの者の笑いも紫音の笑いも止まらない。

 それは兎も角、重要な情報を訊き出すことができた。霊術院に入る者の比率としては、若干貴族生まれの者に偏っているが、依然として流魂街から赴く者も多い。だが彼らのほとんどは苗字を持っていない。現世と違い、苗字の重要性がない流魂街では長い時の間で自然と忘れ行く者が出てくるのだ。だが、霊術院に入る以上は苗字も必要となる。そこで苗字を有さないほとんどの者は、住んでいた地区の名称を苗字として名乗るのである。

 

 

 

―――戌吊。かつて、緋真が『ルキア』という妹を捨てた場所

 

 

 

「ほうほう……では戌吊ルキア女史。この授業が終わり次第、来賓室に来るように」

「はぃ……!」

 

 説教される。

 念願の死神への第一歩となる、霊術院生活初日。まさかその日に、講師としてやって来た副鬼道長に目を付けられ、説教されることとなろうとは。

 まだ怒られると決まった訳でもないのにも拘わらず、ルキアの目尻にはじんわりと涙が溜まってくる。

 常時ニコニコと微笑んでいる紫音の不気味さが、一層彼女の不安を煽ったのだろう。

 

 勿論、紫音にはそんな腹積もりは一切なかったのだが、第一印象はどうやら悪い方向に向かっているらしい。この時、紫音が笑っている=激怒している、という公式がルキアの中で勝手に作られているのは、言わずとも分かるだろう。

 

 偉い人には怒られそうになり、クラスの者にはおっちょこちょいキャラという印象を植え付けてしまい、最悪な初日の始まりだと言える。

 緋真とは似ても似つかないような死んだ魚のような瞳になるルキアを見届けた紫音は、クスッと一笑してから正座する院生たちを見渡す。

 

「さて……其処の者のお蔭で空気が和んだ所で挨拶するとしよう。私が、鬼道衆副鬼道長の柊紫音だ。若輩ながら、後輩に当たる其方たちの為に鬼道の髄を教授するべく参上した」

 

 シャンッと、錫杖に通る輪を鳴らしたかと思えば、紫音の斬魄刀が露わになる。

 その様に院生たちは『おおっ!』驚いたような声を出し、紫音の手に握られている斬魄刀を凝視し始めた。彼等はまだ新入生。未だ自分自身の斬魄刀を持つことが叶わない者たちだ。

 こうして自身の斬魄刀を有す紫音を羨望の眼差しで見つめるのは、当然と言えば当然のことだろう。

 

「死神を目指すべく霊術院に入ったのだから皆も知っているだろうが、死神は斬拳走鬼と総称される四つの技術を以てして、虚から(プラス)の魂魄を守ることを生業とする」

 

 これは軽い建前だ。

 流魂街から赴く霊力の資質を持つ者の中には、流魂街の厳しい暮らしに堪えかねて死神として瀞霊廷内に住むことを望む者が多い。霊力を持つということは、その分良質な魂を求める虚にとって格好の餌食であるのだから、尚更だろう。

 つまり、死神の具体的な仕事も分からずに死神を志す者も居るということだ。

 そんな者達の為、上澄み程度の仕事内容を語る紫音は、鬼道の詠唱を唱えるかのごとくすらすらと言葉を並べていく。

 

「その内、私が所属する鬼道衆では文字通り、鬼道を極めんとする者達が属する部隊だ。破道に縛道……共に九十九もの術がある鬼道は、戦いにおいて戦略を豊かなものとする。死神と言えば刀……斬術を極める者と思うかもしれぬが、鬼道も立派な死神の技が一つ。個人で得手不得手あるのは承知済みだが、鬼道衆の私としては是非研鑽を重ね、その道を極めて欲しいと願っている」

 

 次の瞬間、紫音は『曲光(きょっこう)』で自身の斬魄刀を覆ってみせた。

 突如として消えた斬魄刀に驚く院生たちの表情に、満足げな笑みを見せてから続ける。

 

「このような呪いのような真似もできるのが鬼道だ。少し話が逸れるが、斬魄刀には様々な種類がある。その所以は、斬魄刀が所有者自身の魂を映し出す鏡である故。よって、斬魄刀の形状や能力も、十人十色のものとなる訳だ。火を操る斬魄刀もあれば、刀身を桜吹雪の如く散らして相手を斬る能力の斬魄刀もある」

 

 鬼道衆が専門とする分野ではないが、オチに繋ぐ為に斬魄刀の説明を続ける。

 

「中には形状が変わるだけで、摩訶不思議な能力を持たざる斬魄刀もあろう……だが、その時に鬼道を極めていたのであれば、斬魄刀の能力にも及ぶ程の芸当を行うことも叶おう―――縛道の六十二・『百歩欄干(ひゃっぽらんかん)』」

 

 すると徐に青空目がけて光の柱を放り投げる紫音。光の柱は瞬く間に分裂する様は、春風に攫われて空を舞う蒲公英の綿毛のようだ。

 そこへすかさず『氷牙征嵐(ひょうがせいらん)』を繰り出す。

 鞘に納めたままの斬魄刀の鋒から放たれる壮絶な冷気は、一瞬にして放り投げた『百歩欄干』の群れを凍てつかせる。

 

「破道の三十一・『赤火砲(しゃっかほう)』」

 

 最後に一つの赤い火球が凍てついた柱の群れに直撃すれば、パリンと甲高い音を鳴らしつつ砕け、霊子と氷が日光を反射しながら鬼道演習場の中庭へと落ちていく。

 眩く日光を反射して落下する氷の結晶という幻想的な光景を作りだした紫音には、院生たちの歓声と拍手が送られる。この程度で鬼道のアピールは済んだことだろう。

 

―――ついでに言えば、ルキアも舞い散る氷の破片に目を奪われているようだ

 

「……さて、話が長くなってしまったが、鬼道は極めれば万能な術であることが少しでも伝わってくれれば良いと思う。それでは長々と正座しているだけも辛かろう。早速、実習らしく皆で鬼道を学ぶとしようか」

 

 

 

 ***

 

 

 

 とは言ったものの、初回の鬼道の授業などは、鬼道を放つ為の基礎中の基礎であることを教え、一桁代の簡単な鬼道を教える程度のことしかしない。

 だが、それでも各個人の得手不得手は目に見えてとれる。

 

 中でも、ルキアは顕著なものだったと言えよう。

 

(鬼道の才で言えば、一組に居てもなんら遜色ないな)

 

 一組が特進学級であるのに対し、二組は現世で言うところの普通科と言ったところか。

 そんな二組に在籍していながらも、ルキアが有す鬼道の才は他生徒よりも目に見えて優れていた。

 どことなく嬉しい気分になりながら紫音が赴くのは、霊術院の一角に存在する来賓室だ。

 流魂街では触れることもないであろうフカフカなソファーに背中を預ければ、ギシギシと機械のようにぎこちない動きで付いてきたルキアに座るよう促す。

 

 これから怒られるのであろうと思っているルキアの表情はどことなく強張っている。

 その容姿が惚れた女に重なってしまうも、彼女はここまで強張った顔を見せたことが無かった為、どこか新鮮な気分で見入ってしまった。

 

「ふぅ……さて」

「ヒィっ!」

「……くっくっく、なにをそんなに怯えている。なにも、とって食おうなどとは思っておらぬさ」

「は、はい……」

 

 声を掛けただけで悲鳴を上げる少女を滑稽に思いつつも、どうにか緊張が解れるように宥める。

 

「それで、戌吊ルキア……だったか。其方、流魂街の出だが親は居るのか?」

「い、いえ……赤子だった私を拾って育ててくれた老人は居りましたが、既に亡くなって……それで十年ほど前から、同年代の者達と共に暮らしておりました」

「成程……では、これからは院生寮での生活か」

「はい。瀞霊廷内に知り合いが居る訳でもありませぬし……寮が妥当だと思いまし、て……はい、そのう……」

 

 落ち着きがなく、そわそわとあちこちを見渡しながら受け答えするルキアに思わず噴き出しそうになるも、寸でのところで堪えつつ頭の中で情報を整理した紫音は、ある判断を下した。

 

 その容姿。

 

 霊力の質。

 

 生い立ち。

 

 全てを鑑みるに、この戌吊ルキアという少女は―――。

 

 

 

 

 

「なあ、戌吊ルキア」

「は、はいっ!?」

「其方に是非、紹介したい者達が居るのだが―――」

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 ()()蝶の羽搏きが、未来を一つ変えた。

 

 別の軸では叶わなかった邂逅。

 

 故に生まれる喜劇もあれば、生まれる悲劇も存在する。

 

 だがそれは例外なく、更なる未来への大きな(ひずみ)となり、やがては……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







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