怠惰な飴のプロデューサー (輪纒)
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怠惰な飴
双葉杏。
この名を聞いてはて?と思う人物は日本では少なくないだろう。職業は俗に言う『アイドル』。身長は140を切っており、小学生と言われても信じてしまうが、実際は華の女子高生。JKである。ここまで聞くとイロモノとしても人気がありそうだがファンと呼べるものは意外と少ない。それもそのはず、『ニートアイドル』などふざけた通称を持っていれば世間からの風当たりは想像に難くない。しかし最近では、メディアへの露出も増えて、少しずつファンの幅が広がっているようだ。
さて何故こんな話をしているかと言うと、その双葉杏が今、私の横にあるソファーで寝ているからである。
少し誤解を与えてしまうかもしれないが、まずここはアイドル事務所。そしてこれはよく見る光景なのだ。
ここで、少し私の話をしよう。まず私は男だ。最近ここの事務所で雇われたプロデューサーである。そして現在この横でよだれを垂らして寝ている双葉杏をプロデュースしている者でもある。
私は双葉杏を専属している。ほかのプロデューサーは二人や三人、多い者だと六人ほどだが私は専属という形を採っている。さて、これには二つの理由がある。
一つは私が入ったばかりの人間ということだ。経験が足りないプロデューサーに二人も三人も担当させたらいつか潰れてしまうだろう。二百人近くなどもってのほかだ。うん。
二つ目はこの双葉杏の気性にある。この双葉杏という少女はあろうことか、仕事をサボるのである。遅刻、無断欠勤は当たり前。さらには替え玉まで実行しようとしたことがあるほどの筋金入りだ。こんな問題児に加えてさらに誰かもう一人担当させるのは酷だ、という上の判断なのだろう。
しかし私はこの待遇に文句はない。確かに大変ではあるがこの双葉杏というアイドルは見ていて飽きないのだ。これが双葉杏の魅力であり、ファンが増えていく証拠なのだろう。
現在時刻は16時に差し掛かろうとしている。そろそろ起こさなければならないだろう。私は事務作業をしている手をキーボードから離し、ソファーに向かって声をかける。
「んがっ」
……とても、アイドル。いや女性として出してはいけないようないびきをかいている。流石にそろそろ起こさなければならないと思い、声をかける。
「おい、杏。そろそろ起きろ。」
私がそう声をかけると気だるそうに呻き声をもらす。
「…あと5分……」
始まった。こうなると面倒だ。よって少し強引な手段をとる。
「毛布は没収な。」
そう言って毛布をとりあげると杏はすこし唸って、顔をあげる。やはりアイドルなだけあり幼さはあるものの整った顔立ちをしている。そして少し目を擦ると事務所に掛けてある時計を見る。
「まだ16時じゃん、レッスンまで時間あるでしょ?」
「ギリギリに起こすと色々難癖つけてくるだろーが。とりあえず、ほれ。」
そういって濡れたタオルを渡す。顔を洗わせれば、と思うだろうが、杏曰わく『洗面所まで行くのが面倒くさい』らしい。最初はそのことで揉めて、言い合いになったが、30分にわたる話し合いの結果、濡れたタオルを渡すという折衷案に落ち着いた。
杏はタオルで顔を拭き、少しすっきりしたのか辺りを見回す。
「あれ、他に誰もいないの?珍しいねー。」
「ちひろさん《優秀な事務員さん》は少し買い出しに出かけてて、ほかのプロデューサーは出払ってるよ。」
「プロデューサーぼっちじゃん。」
「うるせ!」
ここらへんまでが杏と私のあいさつのようなものである。ほかのプロデューサーには甘いと言われ、ちひろさんには距離が近くで仲睦まじいと言われた。おそらく皮肉であろう。実際私の杏に対しての行動はかなり甘く、物理的にも心情的にも距離が近い。しかし杏も私もこの距離が楽であり、より良い関係を築けている。
「そっちも珍しく今日はジャージを既に着ているじゃないか、どうした?やる気でも出たか?」
こういう私の問いには、杏はいつも同じ態度を取る。
「じょーだん。今日はここに着いたとき寒かったから着替えただけだよ」
「まあわかってたけどな。俺はそんなに寒くなかったから暖房入れてなかったわ。」
「これは寒くて仕事が出来ない、訴訟モノだね。一日オフを所望するよ。」
「なら少し早くレッスン行って温まるか?」
私がニヤニヤしながらこう言うと杏はわかりやすく舌を出して、うへー、と言って顔をしかめる。杏はこうして度々理由を付けては休みを欲しがる。最初の頃はだめだ、としか言えなかったが、最近では冗談混じりで返せるようにもなってきていた。
「まあ、それは冗談として荷物は纏めておけよ?」
私がそう言うと杏は、仕方ないなー、と言いソファーから飛び降りてロッカールームに向かう。その後ろ姿を見送り、先程まで進めていた事務作業に戻る。
16時20分、杏は荷物を纏めてさっき寝ていたソファーに腰掛けてスマートフォンを弄っている。私は時計を確認し、そろそろちひろさんが帰ってくるころだと考えているとソファーに座っている杏が話しかけてきた。
「あー、プロデューサー。新作の飴はー?」
やばい。そう言えば二週間前に新作の飴が発売されることを知った私は新しい飴を買う代わりに仕事を一つ増やす約束をしていた。思わずキーボードを叩く手が止まる。
「あー…すまん。忘れてた…。」
「えー!杏確かに交換条件で仕事増やしたよね!おーぼーだー!」
「悪い!今はミルク味の飴しかない!」
わざとらしく声を張り上げる杏に、こちらは手を合わせて謝る体制に入る。こちらもわざとらしい満載だ。
だがこれもまた、珍しいことに杏は折れてきた。
「はー、しょうがないなー。今日はミルク味で我慢してあげるよ。明日には買ってきてね。二袋。」
杏の言葉に少しほっとしながら、時計を確認する。16時半。そろそろ行く時間だ。
「おし、そろそろ行くぞ。」
「めんどうだなー、今日はもう行かなくていいんじゃない?」
杏がそんなことを言ったときに扉が開く音が聞こえた。そちらを向くと、どうやらちひろさんが帰ってきたようだ。ちひろさんはこちらの存在に気づくと声をかけてきた。
「すいません、留守番を頼んでしまって。」
私と杏は声をそろえて言った。
「「おかえり(なさい)」」
ちひろさんはふふっ、と笑うと時計を確認して慌てたように私の向かいのデスクに座った。何かあったのかと思い、私は尋ねた。
「どうかしたんですか?」
「明日の打ち合わせで使う書類、まだ出来てないんです。急いで作成しないと…」
「あー、それは急がないとですね。」
ふと、杏の方を見ると少しつまらなさそうにしていた。おそらく話においてけぼりにされたからだろう。
…仕方ないな、今日は約束を破ったのはこちらだから少し甘やかすことにした。
「杏、車で行くか?」
「え!?いいの!やったー!楽できる!」
お気に入りのぬいぐるみを振り回して喜んでいる杏を見ると、本当に小学生みたいだな、と思い笑みが零れる。その様子を見ていたちひろさんも少し吹き出して言った。
「本当に杏ちゃんに甘いですね。」
「そんなつもりはないんですけどねぇ…」
そう言い、車のキーを鞄から取り出してちひろさんに留守番をお願いして車に乗り込む。エンジンをかけ、杏を呼ぶと横から声がした。
「なんで助手席なんだよ。」
「別にいーじゃん。美少女とドライブデートなんだからもう少し喜んだら?」
「その美少女が俺の飴を勝手に食ってなきゃ喜んでたよ。」
アクセルを踏み、車を走らせる。沈黙が流れる。明日のことを考えて、次の仕事のことを考えて、将来のことを考える。そんなことを考えていると杏は唐突に口を開いた。
「やっぱサボっていい?」
「飴食ったんだから我慢しろ。」
こうして双葉杏との一日は過ぎていく。
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怠惰な飴とキグルミ
どっちかといったら仁奈ちゃん回です。
「おはよーごぜーます!」
午前10時、事務所のドアが開くと同時に女の子の声が響いた。その女の子は靴を脱ぎ自分の下駄箱へとしまい、慌てた様子だ。服装は普段見るものと違い、モコモコしてそうな着ぐるみは着ていない。
市原仁奈、我らがプロダクションのアイドルだ。どうやら今日はひとりでここまで来たようだ。慌てた様子の仁奈ちゃんに我らがちひろさんが声をかける。
「おはよう仁奈ちゃん。仁奈ちゃんのプロデューサーさんはまだ来てないよ?」
仁奈ちゃんはその言葉を聞いてがっかりした様子だ。
よく見るといつもここに来るときに背負っているリュックと違い、少し大きめだ。何か荷物でも入れているのだろう。
「そうでごぜーますか…、じゅーやくしゅっきんでやがりますね。」
その言葉に私とちひろさんはクスっと笑みをもらす。本当のことを教えてあげようかと思ったが、少し意地悪で言わないことにした。
そんなやりとりをしているとソファから声があがる。
「ん…、あー仁奈かー、おはよー。」
「杏おねーさん!おはよーごぜーます!」
杏が声をかけると仁奈ちゃんは杏の方にテコテコと歩いた。杏は、向かってくる仁奈ちゃんに、隣いーよー、と言い座らせる。ちなみにソファの前にあるテーブルには杏が食べていたであろうお菓子が広がっている。
意外に思われるかもしれないが、杏はうちのアイドルの小学生組と仲良しなのだ。面倒くさがりな杏だが小さい子には優しく、約束事も破ったりはしない。片や小学生組も背が小さいこともあるだろうが、お菓子をくれたり、優しくしてくれる杏に懐いている。
「ほら、仁奈、あーん。」
杏がそのお菓子の袋からチップスを一枚取り出し、仁奈ちゃんの口に運ぶ。仁奈ちゃんは笑顔で食べると、背負っているリュックを降ろして、中をガサゴソしだした。
「ねー仁奈、その中身なに?」
杏がそう聞くと仁奈ちゃんは、ふふん、といってリュックからあるものを取り出した。
「見てくだせー、新作のキグルミでごぜーますよ!」
取り出したのは耳が尖り、口な当たる部分は少し出ていて、ギザギザの歯がついたキグルミだ。おそらくオオカミの着ぐるみだろう。
「杏おねーさん、着てみやがりますか?」
「いやー、流石になー…、そ、そうだ仁奈が着て見せてよ。」
流石に着ぐるみを着るのは恥ずかしかったのか、杏が遠慮する。代わりに出された杏の提案に仁奈ちゃんは笑顔で答える。
「しかたねーでやがりますねー!杏おねーさんに仁奈の新作を見せてやるですよ!」
元気そうで何よりだ。と思い私も仕事に戻ることにした。さっきの杏による、『あーん』はどうにか写真に納められたようだ。後で見せてやろう。
仕事をしながらでも後ろでソファで談笑している声が聞こえてくる。
次の日、朝起きると携帯電話に連絡が入っていた。メールのようだ。送り主は仁奈ちゃんのプロデューサーのようだ。
『すまんが、今日は少し用事があっていかなくちゃならなくてな。仁奈を迎えに行ってくれないか?』
三船美優。確か仁奈ちゃんのプロデューサーが最初に担当したアイドルだったはずだ。二人も担当するなんてできる人は違うなー。
メールを確認し、少し違和感を感じた。確か、仁奈ちゃんも三船さんも同じ女子寮、しかも部屋も同じなはずだ。三船さんが部屋から出て行ったなら気付かないはずがないと思うが…、そう思い手っ取り早く電話することにした。
『なんだ、メール見ただろ?迎えに行ってくれ。』
「いや、それはいいんですけど。昨日仁奈ちゃんはどこに泊まったんですか?三船さんが部屋にいるなら三船さんに送ってもらえばいいんじゃ…」
そこまで言って、そう言えば昨日は事務所の連絡事項が書いてあるホワイトボード見てないな、と思った。
『はぁ…ホワイトボード見てないな?美優さんは泊まりがけのロケだったんだよ。そっちが終わったから今日のお昼には帰れるだろうが、そうすると仁奈を送れないだろ?』
そう言えばこの人は一昨日から三船さんのロケに付いて行ってるんだった。おそらく渋滞にでも捕まって遅くなるのだろう。
「すいません、で仁奈ちゃんはどこに止まってるんですか?」
『あ?片桐さんのところだよ。あの人今日オフだからな。頼み込んだんだ。』
「わかりました。何度もすいまs
……途中で切られた。
午前9時、女子寮の駐車場に車を泊めて片桐さんを待つ。一時間ほど前に連絡したときには起きていたし、おそらく大丈夫だろう。
ほどなくして片桐さんが駐車場に来た。声をかけて片桐さんをこちらに呼ぶ。傍らには仁奈ちゃんと何故か杏もいる。乗ってください、と言うと杏と仁奈ちゃんは後ろに乗り込む。お礼を言おうと前を向くと片桐さんが手招きしている。
「二人ともちょっと待っててくれ。」
車を出て、少し離れたところに来る。何かあったのだろうか。とりあえずお礼を言っておこう。
「ありがとうございます。何故か杏も一緒みたいなんですけど。」
「あはは、まあ一人も二人も変わんないからへーきよ、へーき。」
心の広い人でよかった。それで何かご用ですか、と私が尋ねると、苦笑いして話し始めた。
「んー、実は、仁奈ちゃんが何か悩んでるみたいなんだよね。杏ちゃんも気づいてるから心配して付いて来てくれたみたいで…、ほら普段仁奈ちゃんって元気な子だから、さ?余計心配なのよ。で、聞けたら聞いといてくれないかなーってさ。」
「仁奈ちゃんに悩み…ですか。わかりました、解決出来るかはわかりませんが任せてください。」
頼んだわよ、と言われさらに背中も叩かれて車に戻る。とりあえず後で杏に聞いておこう。
午前9時半、事務所に着き、あいさつめそこそこに、杏はソファで寝転がり持ってきたバッグから飴を取り出して食べていた。仁奈ちゃんは洗面台に向かったようだ。この隙に何があったか杏に聞いておこうと思い、ソファにいる杏に声をかけた。
「杏、仁奈ちゃんどうしたか知らないか?」
「んー、杏もわかんないんだよね。これから聞きに行こうと思ってさ。」
「そうか、俺も一応片桐さんに頼まれたからな、聞いてみよう。」
そんなことを話していると仁奈ちゃんが戻ってきた。とりあえず向かい側のソファに私は移り、仁奈ちゃんに話しかけた。
「仁奈ちゃん、今日はどうしたの?何かイヤなことでもあった?」
私がそう聞くと、仁奈ちゃんは少し俯いたがやがて口を開いた。
「実は、仁奈は、仁奈は妖怪だったでやがります…」
……ん?妖怪?私も杏も頭の上にハテナマークが浮かんでいたことだろう。杏の方をそれとなく見てみるがわからないようだ。なのでもう少し聞いてみる。
「えー、と。妖怪ってどんな妖怪?」
「前にテレビで見たでごぜーます。ニンゲンに化けてニンゲンを食っちまう妖怪でやがります…」
私はまったくわからずにハテナマークが浮かんでいたが、どうやら杏はわかったようだ。
「あー、プロデューサー。ちょっと仁奈と仮眠室借りていい?すぐ戻るからさ。」
「ん、あぁいいぞ?」
「りょーかい、ほら仁奈、行こ。」
そう言うと杏は仁奈ちゃんを連れて仮眠室に向かった、私やほかの人は何かわからずにハテナマークが浮かんだままだった。
しばらくして、二人は仮眠室から戻ってきた。少し仁奈ちゃんの顔が赤くなっており、杏は少し満足気だ。仁奈ちゃんはこちらに来るとぺこりと頭を下げて言った。
「ごめーわくをおかけしやがりました。」
「えー、とまあ解決したならよかったよ。」
仁奈ちゃんはその言葉を聞くと荷物を置きにロッカールームに走った。それを見送ると納得できない私は杏に聞いた。
「で、結局なにがどーなって妖怪になったんだ?」
そう聞くと杏は、にっ、と口を広げ自分の歯を指差した。そこは尖っていて、まるで狼のようだった。犬歯だ。
「なるほどな、それで仁奈ちゃんは自分を妖怪だって言ってたのか。」
「そうそう、ちょうど早苗さんちのテレビで人狼ゲームがやっててさ。そのあと歯磨きしたときに犬歯が目についたんだろうね。」
「で、このままだと人狼のゲームみたいに処刑されるかもってことか。」
納得した。思っていたよりも可愛らしい悩みで、他の人もほっとしたようで全員作業にもどっていた。杏もほっとしたのかだらけモードに入っていた。
「はー、働いたから今日休みにしてもいいでしょー?」
「杏は昨日休みだっただろ…、なんで事務所来たんだよ…」
私がそう尋ねると杏はうーん、と唸ってから答えた
。
「なんか…居心地いいから?」
「…そっか。」
私はそれを聞くとカバンを漁り、袋を取り出した。杏が好きなものの一つのミルク味の飴だ。これを杏に放り投げて、もう少しで行くから準備しろ、といってロッカールームに押してやる。
デスクに戻ってきた私は携帯電話のメールを開き、朝に来ていたメールを開いて、返信する。内容は、『今度奢ってください。』に昨日撮った写真を添付した。
そしてデスクに向き直ると、杏と仁奈ちゃんの二人の企画について考え始めた。
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怠惰な飴のコタツ
二月某日、現在23時、本日も我が家は寒さに悩まされていた。一週間ほど前にうちの暖房器具のオンリー、孤高のエースであるストーブがお亡くなりになられた。それ以来、外気が直接感じられるようになり冬の寒さを身に沁みて楽しませていただいていた。確か昨日やっていたテレビ番組では『冬を楽しもう!』とか銘打って色々な商品を紹介していたが、おそらく死んだ顔でテレビを見ていた自分が想像ついた。
「あぁ、寒い…」
私のアパートにはエアコンなどはなく、湯たんぽなども買ってはいなかった。ストーブを過信していたのである。そんな中私がとれる行動は布団にくるまり寒さに体を震わせて歯をカチカチ鳴らすことだった。
「明日の打ち合わせ大丈夫かなぁ…」
打ち合わせ。そう明日は午後から打ち合わせなのだ。私の担当しているアイドル、双葉杏と諸星きらりの二人でバラエティに出そうとしていた。まだ企画段階にも行っておらず、飲みの席できらりちゃんの担当プロデューサーと話し合っただけの、突発的な企画だった。
「取り敢えず、明日は6時起きだ…」
目覚ましがセットされているのを確認して、布団を頭まで被り目を閉じる。最後に寝る前に見た時刻が24時を廻っていたので少なくともそれより後に寝ていたのだろう。
早朝、カーテンから漏れた光が顔に刺さり、その眩しさで目が覚め、タイマーをセットしている時間より早く起きる。いつもの朝。
……となるはずだった。私はタイマーの音で目が覚めた。何故だ?と思いカーテンを開くと実に激しく吹雪いている東京の空が見えた。しまった、昨日はあまりの寒さにテレビを点ける暇もなかったのを忘れていた。天気予報を確認してなかったのだ。
「うっわ、出社したくねぇ…」
スマホの電源をポチ、メールが三件。その中にちひろさんからのメールが届いていた。
『本日の吹雪により交通機関が使えない可能性があります、車で出社される場合は気をつけてください。』
鬼!悪魔!ちひろ!
そういえば残り二件はなんだろうか、少し下を見ると双葉杏、の文字。なんとなく内容はわかるから見たくなかった。だが重要なことだと困るので一応見る。
『行くのめんどいから迎えよろ』
……つくづく世界は私を出社させたいらしい。
現在8時、場所は杏が住んでいるマンションの下。スマホを取り出して電話をかける。もちろん電話先は杏だ。コールするが出ない、しかしいつものことなのでもう一度かける。外はまだ吹雪いており、車の窓に当たる雪は先ほどよりはマシになってきているようだ。
『あ、プロデューサーおはよー』
何コールかしたあと電話が繋がる。間延びしたような声、間違いなく杏だ。はやく事務所に着いて暖まりたい私は杏に催促する。
「おはよう、下で待ってるから早く来てくれ。ここ車の中とはいえ寒いんだ。」
『んー、それなんだけどさー。』
そう言うと杏は少し黙る。悩んでいる声が聞こえているので何か言いにくいことなのだろうか。まさかここまで来て行きたくない、などと言うであろうことを予測して、ダメだ、を言う準備をしておく。
『杏の部屋で休まない?』
「だめ……ってええ!?」
コイツハナニヲイッテルンダ?確かにこの車の中は寒い、杏の部屋の中は暖かいのだろう。あれ、断る理由がなくない?
いや、流石にそれはまずい。確かにプロデューサーとアイドルの関係としては私と杏は仲がいい方だが、流石にアイドルの部屋に入るのはプロデューサーとして良くない。うん、だめだ。断ろう。
『だめなの?こたつあるけど。』
「行くわ。」
即答だった気がする。
そんなわけで私は杏の部屋の扉の前で待たされている。結局寒いところにいる目に逢っているが、これから暖かいところにいくことを考えたらいいことだろう。待たされているのは杏が珍しく部屋の掃除をしたいからだそうだ。曰わく、座るところがないらしい。
しかし、二つ返事で杏の部屋におじゃますることを決めてしまったがこれは許されるのだろうか。パパラッチに見られたらまずいし、万が一にもないだろうが、億が一にでも間違いがあってしまっては、クビを本当に切らなくてはならない。まあ、ここまで来てしまったし、腹を括るとしよう。
指は手袋をしているためそこまで寒くはないが耳と首はそうはいかない。そろそろ耳に当たる雪もきつくなってきた。そんなことを考えていると扉が少し開いて杏の小さい頭がぴょこっと出てくる。
「待たせてごめーん。とりあえず上がりなー。」
「いや、こっちも悪いな。おじゃまします。」
荷物を玄関に置き、コートを脱いでその上に置いておく。そして杏の案内でリビングに通される。リビングに通されたときに、こう言っては失礼かもしれないが杏の部屋は思ったよりも片づいていた。というか掃除をしたからかもしれないが。目立つものとしてはまず大型のテレビだろう。そしてそのデッキの部分には色々な機種のテレビゲームがある。そしてメインであるコタツはけっこう小規模で、人四人が入るのが限界だろう。
「外寒かったでしょ、コタツ入ってていいよー。」
そう言って杏はリビングに消える。私は悪いな、と言いコタツに足をいれる。冷え切った足にストーブとは違う、優しい温かみが下半身を包む。おもわず息が漏れてしまう。ちらと時計を見ると8時半を過ぎるか過ぎないかくらいだった。一応ちひろさんに連絡を入れておこうと思い、メールを返す。そう言えばあと一件来ていたメールは誰からだったのだろうか。確認しようとしたとき目の前にマグカップが置かれる。
「ほら、ココアだけど、甘いもの嫌いじゃなかったよね?」
「……ほんとなにからなにまですまんな。」
「はっはっはー、そう思うなら休みをよこせー。よこさないならサボるぞー。」
「結構取ってやってるつもりなんだけどな…」
杏は私の目の前に座り、ココアをすすり始める。その杏をじっと見て、体は小さいのによく頑張るな、と思う。
サボるサボると言うが、杏はアイドルを始めた頃に比べればサボる回数は激減していた。当初は何も言わずにレッスンなどをサボることも多々あったが、最近はめっきり減った。サボるときにはきちんと一言言うし、いなくなったとしても事務所を探せば隠れていることが多い。
これもユニットを決めた当たりからだろう。よほどきらりちゃんは杏とって気が合う存在なのか、事務所でも一緒にいるところをよく見る。
「さっき掃除してたみたいだけどそんな汚かったのか?座れないと言ってたからもっと汚いのを想像してたんだが。」
ココアを啜りながら私がそう言うと、同じくココアを啜っていた杏がマグカップから口を離してため息をつく。そして呆れたような口調で言う。
「普通さ、そう言うこと聞くかな?」
「失礼だったか?そりゃすまん。」
何か言いづらいことだったのだろう。それに女性にこういうことを聞くのは失礼だと言ってから気付いた。だが杏は普通に答えてくれた。
「別に大丈夫だけどさ…。あれだよ、パジャマとか下着とか服とかがそこらじゅうに落ちてたからそんな状態じゃ落ち着けないでしょ?」
その言葉を聞いて少し咳き込む。そして私も呆れたような口調で杏に言う。
「お前はほんとにアイドルとしての自覚ないな……。」
こいつは本当に女子力とかの変わりにアイドルとしての才能を手に入れてるのではないだろうか。アイドルと女子力という切り離せないようなものを取捨選択してるとは本当に恐ろしい存在だ、と再確認した。
「そう言えばなんで俺を家の中に入れたんだ?」
ここで少し気になっていたことを聞いてみた。まさか本当にこのことだけで休みを貰えるとは思っていないだろうし、何か理由か、手伝ってほしいことでもあったのだろうか。しかし杏はきょとんとしてから言った言葉は私を驚かせた。
「プロデューサーがストーブ壊れたって嘆いてたからさ、杏のコタツ自慢してやろーって思ってさ。」
なんてやつだ。さっきまでの感動を返せ。杏ははっはっはーと言い、コタツに潜り込む。もう怒った。事務所にすぐに連行してやる。
「まあそれだけじゃないよ。今日午後からなのに寒い中働かせるのは可哀想かな…って嘘!嘘!忘れろ!」
前言撤回。やっぱり許してやろう。杏はたまにこういうことをしてくるからたちが悪い。お礼を言うために杏に顔を見せろ、というと渋々コタツから顔を出した。その杏の顔はコタツせいか、恥ずかしいからかわからないが真っ赤になっていた。
「ありがとな、絶対休み取ってきてやるよ、杏。」
「うむ、よきにはからえー。」
そう言うと杏はまたコタツに潜ってしまった。仕方ない奴だな、と思い、ふと外を見ると吹雪が止んでいた。これなら雪が当たらない分そこまで寒くはならないだろう。
「おい、杏!吹雪いてないからすぐいくぞ!」
「えぇ…、まだコタツの中で寝ていたい…。」
「うだうだ言うな!俺外で待っててやるから!着替えてすぐこいよ!」
数十分後、着替えた杏を車に乗せ、エンジンをかけようとする、そこで少し残りの一件のメールが気になって確認するときらりさんの担当プロデューサーからだった。
『風邪を引いたので今日は行けません。すいませんがまた別の日にお願いします。』
後日、ストーブは直った。もちろん、きらりさんの担当プロデューサーを叱ったうえで。
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怠惰な飴に流れ星
汗ばむ肌。そして肌に張り付く服。上気した頬、息は荒く、吐き出される息は白く、風でどこかへ飛ばされる。下から見上げる目は潤んで、こちらを誘っているようだ。だが、その目はこちらの目を覗き込んでおり、その目からは強い意思を感じる。
「プロデューサーも、そうなの?」
私の目の前にいる双葉杏は、少し怒りを込めた口調で尋ねてくる。今、私は杏の片腕を掴んで動けないようにしている。小柄な杏はこの状況ではどこにも逃げることは出来ないだろう。傍目から見れば、私はまるで誘拐犯に見えることだろう。
私は心の中でため息をつく、どうしてこうなった、と。
時は9時間前、午前12時から始まる。私たちプロデューサーたちなどアイドルの裏方組は仕事の間の休憩をとっていた。ほかのプロデューサーはお昼のご飯を買いに行ったようだが、お弁当組である私とちひろさんは昼食をいただきながら雑談に耽っていた。
「……ということなので、今日は流星群が見れるらしいんですよ!」
「それはあの娘たちも観たいでしょうね…」
ちひろさんが言っていたことを要約すると、今日は流星が見られるらしい、だから今日は事務所を早めに閉めて上がりにしてもいい、とのことなのだ。流星群がどうとかは知らないが、早く帰れるのは嬉しい、やるべきことも溜まっているので、処理しておきたいからだ。
私が所属している事務所はなかなかの規模にまでなってきた。抱えているアイドルの数、事務所の大きさなどもだが、LIVEの回数なども多くなっていた。だが二週間後に控えている大きなLIVEにはアイドルたちだけではなく、私たちも浮き足立っているのだ。何故なら次のLIVEほどの規模はなかなか久しぶりであり、私が入社する前にあった以来だから、プロデューサーもアイドルも半分以上は経験してないのだ。それを見かねた上の判断で今日は少し早く上がって一旦気持ち落ち着かせることにしたらしい。
もちろんちひろさんがこうやってお喋りになっているのも、少し緊張があってのことだろう。そんな私も少し緊張はしているのだ。
「あ、そろそろ仕事の時間じゃないですか?」
ちひろさんのお喋りにつき合っていたらお弁当を食べそこねてしまった。私の今日の業務は杏の送り迎えとLIVEの設営や資料などをまとめる作業だけなので、明日に持ち込まないように終わらせられるから後で食べよう、と思うことにした。
「楽しいお喋りでした。また聞かせてください。」
私が笑顔で少し皮肉を効かせると、ちひろさんはそれに気づいたようで、ごめんなさい、と笑いながら謝った。
杏の予定は基本的に午後に多めに入れられている。もちろんLIVE前なのでレッスン以外の予定をあまり入れない、という理由もあるが単純に午前は杏が寝ている可能性があるからだ。遅刻が増えてきたときに試験的に午後にスケジュールを詰め込んだら、遅刻の回数や欠勤が減ったのでそのまま午後スケジュールになっている。
今日は学校があり杏は夕方からのレッスンになる。学校自体がない大人組などはレッスン前に仕事が入っているが、学生組は大変だろう。
業務の半分が終わった頃には15時になり杏をレッスンに連れて行く時間が来ていた。PCを閉じ、迎えに行くために準備をすると続々とほかのプロデューサーたちも準備に入ったものもいた。ノートPCを荷物の中に入れているところを見ると、家で続きをやるようだ。
杏とは、学校の帰りに拾うときは近くのコンビニで待ち合わせにしている。わかりやすく、軽食や飴も買えるから一石二鳥なのだ。いつもは少し遅れてくる杏だが、今日は珍しく待ち合わせ時間よりはやく着いていた。後ろの席に乗り込む杏に、飴を渡すと黙って食べ始めた。
そこからレッスン場に着くまで無言だったが、降りるときに小さく、いってくる、とだけ言っていた。
事務所に帰ってきたとき、中には数人しか残っていなかった。私はため息をついて、デスクにつき、隣のデスクの森久保ちゃんのプロデューサーと仕事をしながら話した。
「森久保ちゃん、今日はレッスン行ったんだな。」
「珍しく逃げようとはしてなかったよ、緊張はしてたみたいだけどな。お前のとこの杏ちゃんが羨ましいよ、緊張とは無縁そうで。」
「……そうだな。」
今日黙っていたのは緊張だったのだろうか、いやなにか違う気がする。少しもやもやを抱えたまま仕事に戻った。
「それじゃ、お疲れさまです。」
20時過ぎ、中には数人を残し、私は帰路についた。すでにレッスンは終わり、アイドルたちも帰っているだろう。私の帰る道にはレッスン場が見えるため少し確認していくことにした。しかし驚いたことにまだ明かりが付いていた。私は少し怪しみ、レッスン場に入ることにした。
レッスン場には誰もいなかったが、上から少し音がした。この上は屋上なので音がするのは誰もいないはずだが、と思い屋上に向かった。
そこから聞こえてきたのは、歌だった。次のLIVEで使う歌だ。歌っている声は聞き慣れた杏の声だった。覗き込むと杏は自主レッスンをしていたようだった。自分が歌う曲に合わせて歌い、時々止まって同じ動作を繰り返していた。
杏が自主レッスンをするのは珍しい。なんでも一応出来る、がモットーの杏は自主レッスンをあまりしないでもLIVEに臨んでいたからだ。私は杏の汗の量を見て、おそらく長い間やっていたのだろう、と思いそろそろ止めることにした。
「杏、自主レッスンもいいけど、そこまでだ。」
まさか誰かいるとは思っていなかったようで、ビクッと肩を動かした杏はこちらを振り向いた。それから少し悪いものを見られたらような顔をして、顔を背けた。
「どうかしたのか?そんなにLIVEが心配か?」
私がそう尋ねると、杏は首を振り、こう応えた。
「プロデューサーはさ、私がダンスや歌に向いてないと思う?」
私はそう言われて少し言葉に詰まった。確かに杏はダンスなどをするには小柄だ。それは肺機能が低いこともだが、悪目立ちする、ということでもある。小柄故にそこには完璧なダンスや歌が求められる。
杏がこう聞くということはなにかあったのだろうが、と考えているうちに杏は私の横を通り過ぎて帰ろうとしていた。思わず私は杏の腕を掴み引き止めた。杏は少し驚いた顔をしたが、私の言葉を待っているようだ。なので私はとりあえず何があったかを聞くことにした。
「誰かに言われたのか?」
杏は掴まれたまま、少し俯いて答えた。
「授業の体育のときにさ、転んじゃってね。そのときにクラスの人に言われたんだよね。『それでダンスできるの?』ってさ、何気なくだと思うんだけど、もしかした本当にアイドルに向いてないんじゃないかなって思ってさ。」
杏はそう言いながら徐々に顔を上げてきた。言葉に怒気を含ませ、私の顔を見つめてこういった。
「プロデューサーもそうなの?」
ため息をついた私を見て杏は何かを察したように腕を振り解こうとする。私はそんな杏の肩を空いている手で押さえると、杏は少し大人しくなった。
「杏、俺がお前をスカウトしたときになんて言ったか覚えてるか?」
我ながら月並みなセリフだと思う。杏は少し考えていたので腕と肩を離して、私は屋上の床に座り込んだ。
「……印税の話しか覚えてない、プロデューサーなんて言ってたっけ?」
「お前なぁ…、『君でもここにいるファン一号を喜ばせるアイドルになれる!』だよ。」
思い出すとものすごく恥ずかしいことを言っていた。杏も思い出したのか、そういえば、みたいな顔をしていた。そしてプッと小さく笑った。
「ずいぶん恥ずかしいこと言ってたねー。」
「俺も恥ずかしいと思ってたんだからそう言うな。……で、だな、確かにお前はもしかしたらアイドル向きじゃないかもしれない。」
私がそう言うと、杏は少し悲しそうに笑った。
「だけどな、それがどうした。世の中には30を過ぎてアイドルしてる人もいる。恥ずかしがり屋なのにアイドルをしてる人もいる。それどころか小学生でもアイドルをしてんだ、杏の悩みなんか小さいもんだ。」
私の言葉でハッとしたのか、杏は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。そしてせき止めていたものを吐き出すように笑った。ひとしきり笑った後こっちを見てわざとらしく言った。
「あーあ、杏らしくなかったねー。うんうん、ファン一号のために杏らしさを取り戻すよー。」
「お前しばらくそれ言うつもりだな!……ま、次のLIVE頑張れよ?ファン一号のためにさ。」
そう言うと二人で笑い会った。
そろそろ帰ろう、としたときに急に杏がよろけた。おそらくオーバーワークだろう。ひとりで歩かせるのは心配だったのでとりあえずおんぶをして運ぶことにした。杏の肌は少し熱を帯びていて、首筋に当たる息はこそばゆい。すると急に杏があっ!と声を出した。
「流れ星だー、そう言えば今日かー。」
ここは都会なのでそこまで多くは見えないがそれでも多くの流れ星が流れていた。私は心の中で小さく願い、杏に声をかけた。
「なんか、願っとけ。この量だし、もしかしたら願い叶うかもしれないぞ?」
「ほんと!?えーっと、週休八日にしてください、飴を一生分ください、印税をいっぱいもらえますように、あとはー…」
「杏の願いが叶いませんように!杏の願いが叶いませんように!杏の願いが叶いませんように!」
「……あと次のLIVEが成功しますように。」
ほんとに杏はかわいい奴だと思う。親バカ、いやプロデューサーバカだと思うが、こいつならトップアイドルになれるんじゃないか、と思える。だから私は流れ星に願う。
「杏の願いが叶いますように。」
私の小さな願いは必ず叶うだろう。
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怠惰な飴と絵本作家
午前10時、私は走っていた。ランニングなんてスピードではない。風を切り、顔を苦悶に歪ませ、額には汗がにじんでいた。そしてそんな私がたどり着いたのはいつも出勤している事務所だ。
バタンっ、と大きな音を立てて入ってきた私に、事務所の中にいた人は驚いていた。私は心の中で謝りつつ
、息を整えて、ふぅー、と息を吐いてから、口を開いた。
「誰か杏を見ませんでしたか。」
そう、久しぶりに杏がサボったのである。最近はサボっていなかったので、少し油断していた。
今日はレッスンの日だった。今考えれば、不幸中の幸いというべきか、撮影の日ではなくて助かった。事の始まりはトレーナーさんからの電話だった。というかそれで話は終わりなのだが。電話が来た時にはとても嫌な汗が流れた。『杏が来てないぞ』という連絡を受けたときは、電話越しにもかかわらず頭を下げていた。そこからは、まぁいつもの流れでここまで来ていた。ここに来たのは、最近の杏ならサボっても事務所にはいてくれるだろう、という希望があるからだ。
そしてそんな私に、ちひろさんが申し訳なさそうに言った。
「すみません、私も少し用事があって出払っていたので・・・」
どうやら裏方組には期待できないようだ。アイドルたちに聞こうと思ったが、どうやらいないようだ。仕方がないので、とりあえずデスクで一息をつくとしよう。そう思いとりあえず座って杏に電話をしてみる。しかし電源を切っているのか出てこない。ちくしょうと思いながら、買っておいた缶コーヒーをすすり、冷静になってみる。そしてふと、隣のデスクを見ていたら、少し動いた。
何事かと思っていたらあることを思い出し、デスクの下を覗くとやはりいた。中にいた人物は覗いてきた私に気づくと、ひっ、と小さく悲鳴を上げた。少し傷つく。
「森久保ちゃん、おはよう。ちょっと聞きたいことあるんだけどいい?」
「・・・なんですか。いぢめですか。ついに森久保は自分のプロデューサーだけでなくお隣さんのプロデューサーさんからもいぢめられるんですね・・・」
私は片手を森久保ちゃんに見えないようにデスクの上にのせて携帯電話をいじりながら、話をしはじめる。
「いやー、杏がどこいったかしってるよね?教えてほしいなーってさ」
「杏さんがどこにいったかなんて森久保がわかるわけないです・・・ソファに隠れている杏さんなんて・・・」
そこまで言うと、ソファが少し動く。私はため息をつくと、携帯電話を弄っていた片手を戻して椅子から立ち上がり、森久保ちゃんに礼を言う。
「森久保ちゃんありがとう。そしてごめんね?」
私の謝罪の意味がわからないようだが、こっちは微笑むことしかできない。そして私が森久保ちゃんに背を向けてソファに向かうのと同時に事務所の扉が勢いよく開かれて、怒号が飛んでくる。
「森久保ォ!!お前レッスンサボりやがったな!」
声の主は、森久保ちゃんのプロデューサーだった。先ほど、森久保ちゃんと会話する前に、そういえば森久保ちゃんもレッスンだったな。と思い先回りで連絡してしたのだ。
嗚呼、プロデューサーという仕事はなんと血も涙もない職業なのだろうか。後ろから森久保ちゃんの恨めしい視線が刺さるようだが無視をしてソファに向かう。ソファにおいてあるクッションは不自然に盛り上がっており、めくってみると必死に顔を隠している杏がいた。私は声もかけずに杏を抱え上げると、肩に担ぎ運ぼうとした。
この手際に顔を上げた杏がツッコミをいれてくる。
「いや、なんか言おうよ。プロデューサー」
「悪いが時間が押してるんでな。漫才も会話もしている時間はないんだ」
「いや、抱えてる方が時間の無駄・・・、ってあぁ、もう。降ろしてよ」
要望通りに降ろしてやると杏は、持っていたうさぎからタイマーを取り出した。そしてストップボタンを押すと満足そうにドヤ顔をした。意味がわからずにそれが何か聞くと、鼻歌交じりに答えた。
「これー?んー、杏が隠れてからプロデューサーが見つけるまでの時間だよー。ちなみに今日はここ二か月で最長の記録だー」
その場に崩れ落ちそうだったがなんとかこらえた。しかし、もはやそれにツッコム気力が沸いてこなかった。とりあえず時間が押しているので、杏に準備をさせようとしたがいつのまにか目の前から消えていた。するとデスクの下から杏が出てきて意地の悪そうな笑みを浮かべて私を呼んだ。
「見なよこれ。たぶん乃々の手帳だよ。たぶんいろんなことが書いてあるんだろうなぁー」
そういう杏の手には可愛らしい花がプリントされた手帳があった。今杏が出てきた場所は森久保ちゃんの定位置なので、間違いないだろう。確かに気になる話だし、これをお隣のプロデューサーにでも渡せば森久保ちゃんの仕事は増えるだろう。だが、今はそれどころではない。森久保ちゃんもレッスンだが杏もレッスンなのだ。
「わかったわかった、後で話は聞いてやるから今はとりあえず準備をしろ!」
はいはーい、と言いながら杏は荷物も片づけ始める。
嗚呼、なんて損な仕事なのだプロデューサーは。これは遅刻確定の叱られるコースだ。私は時計を見ながらそう思った。
午後6時、会議を終えて戻ってきた私は事務所の仮眠室から声が聞こえた。どうやら森久保ちゃんと杏が会話をしているようだ。手帳のことだろうか、と思いこっそり扉に近づき、聞き耳を立てた。
「乃々にこんな才能があったなんてねー。さすがの杏も驚いたよー」
「は、恥ずかしいんで誰にも言わないでほしいんですけど・・・」
どうやら手帳の中身の話でビンゴのようだ。しかし才能だと?まさか本当に森久保ちゃんの仕事が増えることになるのか?そう思い、話を聞くのを続行することにした。
「いや、これは仕事が増えるんじゃない?そして杏の仕事が減る・・・。うん完璧だね」
「も、森久保のお仕事はこれ以上増えないですし、万が一にでも森久保のお仕事が増えても、あ、杏さんのお仕事は減らないんですけど・・・。逆に森久保が減らしてほしいくらいなんですけど・・・」
そんなことはさせてたまるか、杏はこれ以上増やすし、もちろん森久保ちゃんの仕事も増やされるだろう。よし、この会話を最後まで聞いて、それを踏まえて森久保ちゃんのプロデューサーと会議にしゃれこんでやる。というか森久保ちゃんはなんの才能を持ってるんだ・・・?
「乃々がポエマーなのはなんとなく気づいてたけど、まさか絵も上手いなんてねー」
なんと、森久保ちゃんは絵も上手いのか。これは仕事の幅が広がりそうだ。というかポエマーなのか。
「森久保の将来の夢は絵本作家なんです・・・。笑わない子だった森久保が笑顔になれた絵本を、今度は森久保が書いて誰かを笑顔にしてみたいんです・・・。」
その言葉には普段おどおどして自信なさげな森久保ちゃんはいなかった。自分の夢のために頑張っている森久保乃々がそこにはいた。
・・・まぁ今も笑顔になれているか、といったら微妙なんだろうが。
「なおさらこれ関連の仕事を増やした方がいいと思うんだけど。」
「まだ全然見せられる状況じゃないんですけど・・・。」
ここで森久保ちゃんのプロデューサーでないことが悔やまれる。もしそうだったらこの場で突入してすぐさま話し合いにもちこめたのに・・・。
というか今の自分を客観的にみると、とてもやばいやつだ。バレないようにしゃがんで片膝を立てて扉に耳を当てて頷いたりしているやつ。通報されてもおかしくはない。
「あ、杏さんは将来の夢はないんでs
コンコン、と無意識に扉をたたいていた。慌てたような音が中から聞こえてきて、しばらくしたら扉があいたので私はしらばっくれて言った。
「あ、森久保ちゃんか、ごめんごめん。杏いる?」
「プロデューサー、どーかしたの?」
「そろそろ帰る時間だからな、呼びに来たんだよ。」
はいはい、と言い杏は仮眠室のベットから飛び降りて森久保ちゃんに手帳を渡してから仮眠室を出ていく。私も森久保ちゃんにもう少しで森久保ちゃんのプロデューサーが帰ってくることを伝えて、杏のあとを追った。
家まで送るために、車のエンジンをかけたところに杏はやってきた。杏は助手席に乗り、勝手に私のカバンから飴を取り出して口に放り込んだ。発進してしばらくは無言だったが、そのうち杏が思い出したように口を開いた。
「プロデューサー、絶対杏たちの話聞いてたでしょ。」
「・・・よくわかったな。」
正直、驚きすぎてハンドルを変な方向に曲げそうだった。が落ち着いて返答できた、と思う。
「だってタイミング良すぎだもん。ふつーにわかるでしょ。」
まぁ確かに、杏に質問が飛んだ瞬間にノックをしたのはわざとらしすぎた。それでもまさか気づかれるとは思っていなかった。ふっ、と自嘲的に笑うと杏は少しこちらを覗き込んで言った。
「なんで質問を遮ったの?」
「・・・どうせ印税生活、とかって言うつもりだったろうからな。森久保ちゃんの将来がそれに変わったら責任をとれないだろ?」
嘘だ。本当は別な気持ちがあったが、言うほどのことでもないだろう。
「はい、ダウトー。言い訳じみてるよプロデューサー。」
バレた、何故だ。
「で?本当はなんでなの?」
ちらと、杏を見ると顔はこちらを向かずに前を向いているが、顔は真剣だ。よほど気になるのだろう。私が答えずにいると、杏も何も言わなくなり、また無言のまま時間がすぎ、杏の家にたどりついてしまった。
杏はシートベルトを外し、じゃーねー、といい降りようとした。
「嫉妬したんだ。」
私の言葉に杏の動きが止まる。顔はすでにこちらとは逆にあり、表情を見ることができないが話を続ける。
「俺にはいつもはぐらかすけど、あの雰囲気なら言いそうだったからな。」
そうだ。普段私は杏から『印税生活はまだまだかなー』とか、『楽して生きたい』とかしか聞かないのに、私に言わずにほかの人に言うのはちょっと裏切られた気分になる。
言ってみて思ったが少し気持ちが悪い。プロデューサーとアイドルの本来なら淡泊な関係なのにこんなことを言うとは自分でも気持ちが悪いと思う。
「気持ち悪いな、忘れてくれ。」
私がそう言うと、杏は振り返った。その顔は、してやったり、といった顔だ。
「やっとプロデューサーの本音が聞けたよー。全然言ってくれないからねー。あーあ、それにしてもまさかこんなに思われてるなんてなー。」
顔から湯気が出そうな気持ちだったが、なんとか抑えた。
「じゃあ、杏の将来の夢は何だ?」
ずっと聞いてみたかった質問をしてみることにした。すると杏は待ってましたというような顔で言った。
「印税生活、だよ?まさか忘れちゃったー?」
「はっはっは、ならそのために明日から仕事の量を増やしてやろう。」
明日から絶対仕事を増やしてやろう、と心に誓った。
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怠惰な飴の看病
杏はどんなキャラにも出来る多様さがあって好きです。
午前9時、本来なら私は事務所に顔を出し、デスクに溜まっている書類の山を崩す作業に入っている時間だろう。しかし今日は違った。体は資本、社会人として私が大事にしているのは体と信頼だが、今日はその体がだめになってしまった。高熱を出してしまったのだ。
まず、朝起きて思ったのは頭が働かないことだった。何かおかしいと思い、体温計で熱を測ったら案の定、39℃の熱が出ていた。社畜である私はとりあえずそのことを言わずに事務所に出社していた。
流石に普段は元気にあいさつをする人間が顔を赤くしてマスクをし、目が虚ろの状態であいさつをしてきたら普通の人間なら体調を聞くだろう。そこからはよく覚えてないが、携帯電話に残っていたメールを見るに、心配した同僚たちが色々と買ってくれて、家まで送ってくれたらしい。やはり信頼は大事なものだ。私をベッドに寝かし、おかゆを作ってくれていたようだ。本当にありがたい。
幸いなことに今日は金曜日、平日なので担当アイドルの杏は今頃学校で勉強をしているだろう。午後からならメールしておけば見るだろうし、とりあえず今日は送り迎えができないことを連絡はしておいた。
うちのプロデュース方針は『自由にやれ』である。だからアイドルによってはバンジージャンプをしたり、スカイダイビングをしたりするらしい。杏にもさせるかは検討中だ。もちろんアイドルとの信頼関係がものを言うのであまり過激なことをさせないプロデューサーもいる、しかしそんなことではこの厳しいアイドル業界を生き残れないだろう。ちなみに私は過激派だ。握手会のボイコットには流石にこちらも度肝を抜かれたが。
・・・こうやってなにもせずにベットで寝ているのが落ち着かない。明日になるとやらなければならない書類がさらに積み重なるのだろう。そう考えると頭も胃も痛んでくる。だが今の私にできるのは安静にして風邪を治すことだ、と自分に言い聞かせて毛布をかぶりなおす。
ぐー、と腹の鳴る音で目を覚ます。どうやら寝ていたようだ。熱を計ってみるが・・・、まぁそんなに簡単には良くならないか。とりあえず食べて元気を出そうと考えているとチャイムがなった。この時間に来るということは同僚の誰かか、宗教勧誘とかだろうと思いベットから出る。よたよたと歩き、玄関を開けるとそこには杏がいた。
「やっほー、プロデューサー」
まぁ、なんとなくは来るかもしれない、とは思っていたので、別に意外性はない。しかし時間だ。今はお昼どき。学校があるはずだ。というかこいつ制服だし。杏はどうやら買い物をしてきてくれたようで、片手にバック、もう片手にスーパーの袋を持っていた。
と、固まっている私を無視して杏は扉をあけて家に入ろうとする。しかし私も慌ててそれを止める。意外性はないが中には入れられないし、門前払いしようとした。アイドルに風邪を移して仕事ができない、なんていうのは避けたかったからだ。
しばらく格闘していたが、つい咳き込んだ瞬間に中にするっと入られた。しかたがないので要件だけ聞いておかえり願おうとする。
「俺確かメールしたよな?用があるならメールしろよ・・・」
「なんだとー、杏様が直々に看病してやろうと思ってわざわざサボってまで来たのにー」
「いや、サボるなよ・・・」
思わず呆れてため息が出る。その瞬間また咳き込んでしまい、それを見た杏が呆れたように首を振る。とりあえず帰れ、という視線を送ると、杏はそれを無視してキッチンの方に歩って行った。
というかなんで杏は私の家を知っているのだろうか、教えたことはないはずだが・・・。そんな疑問が沸いてきたがとりあえず杏にキッチンを任せるのはなんとなく怖いので後ろに付いていった。キッチンに入ろうとすると杏に止められた。
「プロデューサーは風邪なんだからじっとしてなって」
悔しいが確かに今はやることがないだろう。こうやって杏の介護を受ける日が来るとは思いもしなかった。働かないんじゃなかったのかニートアイドル。とりあえずやることがない私はソファに座ってなにかを作っている杏を眺めていた。どうやらキッチンが高かったようで台を用意していた。そして台に乗って鼻歌交じりに料理を作る杏は普段と違い、新鮮だった。
ぼーっと眺めていたがなんとも犯罪テイストな絵ヅラである。見た目が小学生の女の子、しかも制服を着ている女の子が持ってきた自前のエプロンをつけて料理をしている。なんとも言えないモノがあった。もしくは娘が父親の看病をしているような光景だ。そう考えると少し涙が流れそうだった。
と、そんなことを考えているとどうやら何か出来あがったようでお盆に乗せて持ってきてくれた。うむ、やはり犯罪的だ。次は料理番組にでも出してやろう。
「なにつくったんだ?」
「んー?匂いでわかる・・・って鼻詰まってるのか。味噌汁だよ。お粥はあったしね。プロデューサー味噌汁好きだよね?」
その通りである。私は味噌汁が大好きで、白米と味噌汁があれば生きていけると思っている人間だ。ちなみに具材は大根と豆腐が好きだ。うん、入ってるな。
・・・というかそんなこと杏に言った覚えはないんだが。いい機会だからここで疑問を晴らそう。
「まぁ、好きだけどさ。俺杏に言ったことないよな?俺んちだって教えてないはず・・・」
「あー、そんなこと?全部事務所の人が教えてくれたけど?」
「俺の個人情報とは一体・・・?」
なるほど確かにそれなら合点がいった。というか普通最初はそこに思い至るはずだが、そうとう疲れていたのか頭が回らなかった。おそらくちひろさんか誰かだろう。そのあたりなら好きな食べ物や、自宅の話を知っていてもおかしくはない。
「まーまー、安心してよ、言いふらさないから」
「心配なのはそこじゃないけどな」
スキャンダルとかマスゴミとはほんとに勘弁だ。勢いづいている杏を止めたくないのもあるが、なにより担当アイドルとプロデューサーのスキャンダルはまっぴらだ。確かに仲は良いが、そこまでの関係ではない。杏もそこはわかっているのか、苦笑いをしている。
と、まぁ色々考えたがやはり看病をしにきてくれたのは嬉しいので礼を言うことにした。
「ま、わざわざ来てくれて嬉しかったよ。ありがとな」
と、言って飴が入った袋を渡す。
「まーね、流石に倒れられても困るし。まぁほかのプロデューサーに頼まれなきゃ来なかったけど」
「一言多いぞー。それがなきゃ休みをくれてやったのにな」
げ、という杏を尻目にまた咳き込む、すると杏も本気で心配したようで、大丈夫?と声をかけて背中をさすってくる。大丈夫だからとりあえず今日は帰れ、と言うと渋々だが荷物を持って玄関から出て行った。
私はそれを見送るとリビングに戻り、杏がつくった味噌汁を一口飲んでみた。少し冷ましてある味噌汁は人肌くらいの温かさでとても飲みやすい。杏に感謝をしながら完食し、薬を飲んでまた寝ることにした。
次に起きたときは夜の6時を回っていた。普段なら杏のレッスンも終わり、ラジオやテレビの収録もあるが今日は付いて行くことはできない。風邪は引くものではないな、と思った。
ふと携帯電話を見ると杏からメールが来ていた。
『こっちは問題ないからはやく治してよね。あと飴買っといて。』
まったく、こっちがこんな調子だと杏に申し訳ないな。
次の日、昨日のことが嘘のように回復した。・・・はずもなく37℃の微熱くらいに収まった。だが昨日よりは確実に回復しているので、今日はマスクを着けて出勤することにした。少しふらつくが大丈夫だ、問題ない。
事務所に入った時に同僚たちは心配していたが、溜まった仕事をやらなくてはならないので手伝ってくれるのか?と聞くと蜘蛛の子を散らすように自分のデスクに戻っていった。薄情な。
そうして仕事をしていると、いつの間にかアイドル達が集まってきた。アイドル達はここに来ると今日の予定を確認してアイドル同士で喋ったり、プロデューサーと話し合いをしたりしている。そんな中遅まきながらうちの杏も来ていた。
私はデスクを立ち持ってきていていたカバンから飴の袋を取り出して、杏を呼んだ。
「なにさープロデューサー。杏は疲れてるんd」
杏の言葉を遮って一個口の中に飴を入れてやる。勢い余って指も少し入ってしまい、抜くときに湿った、ちゅぷっっという音がした。杏は飴を舌で転がし、顔を赤くしながら言った。
「杏のために飴買ってきたのかーごくろー」
「ま、世話になったしな」
そういうと杏は、ほかのアイドルの元に戻っていく。
そういえば、誰が杏に私の家や好きな食べ物を教えたのかが気になり、ちひろさんに聞いてみた。
「あぁ、それなら私ですよ」
「・・・危ないですから、そういうことはやめてくださいよ・・・」
私がそう言うと、ちひろさんはふふっ、と笑みを浮かべた。この人は本当にアイドルを目指せるだろう。
「昨日杏ちゃんがすごい剣幕で電話してきたので、つい」
私はポカーンと、してしまった。あの杏がまさか本当に心配してくれていたなんて、涙が出そうだ。しかし、そうならそうと言ってくれれば言いのに、なんで黙ってたんだろうか。
「言ってくれればよかったのに」
「杏ちゃん、プロデューサーに対して恥ずかしがり屋なところもありますからね。きっと恥ずかしかったんですよ。まったく揃いも揃ってツンデレなんですから」」
「さーて、なんのことですかね」
図星を突かれたが、なんとか普通の態度をとれただろう、と思いちひろさんに背を向ける後ろからクスクス笑う声が上がるが無視をして杏のところに向かう。ソファに座って他アイドルと話している杏の後ろに立つ。気づいているほかのアイドル達は少し苦笑いを浮かべている。
「おい、杏!」
「うわぁ!なんなのさ、プロデューサー」
後ろから声を掛けたからだろう。ビクッ、と肩を震わせて杏が驚き、こちらを向く。
「今日はオフな」
私のこの言葉に周りにいた人々がざわめく。それはそうだろう、仕事をサボらせるプロデューサーなど聞いたことがない。ただでさえサボっている杏が相手なのだ。普通はそんなことにはならないだろう。しかし今回は違った。
「どういう風の吹き回しなの?プロデューサー」
「風邪の吹き回しですー」
「・・・あーあ、やっぱりバレちゃったかー」
「ま、杏とは短くないしな」
そう、杏は私の風邪がうつってしまっていたのだ。さっき口の中に指を入れてみて思ったが、少し体温が高い気がした。まぁ顔が赤かったのもあるが。
杏はしぶしぶ、といった感じでソファから降りる。
「ほれ行くぞ。すまんがきらりちゃん、こいつを背負ってくれないか?」
杏の座っていた場所の向かい側にいたきらりちゃんは、頷いて杏に声をかけて、背負ってくれた。
「それじゃ、お騒がせしました」
私はそう言って、きらりちゃんを連れて車に駐車場に向かい、車に乗せるようにお願いする。杏ちゃん、だいじょうぶに?と、きらりちゃんが聞いてきたが、まぁそれほどのことでもないし大丈夫だ、といっておいた。
車を発進させ、病院に向かっていたが、私は少し厳しい口調で杏に言った。
「俺の世話をしてくれたのは嬉しいが、自分のことももっと考えろ」
こういうと、杏はぷっ、と吹き出して、私にいった。
「そんときはプロデューサーがなんとかしてくれるでしょ?」
「ま、そうだな」
このあと、薬をもらい、私が看病したがそれは別のお話。
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怠惰な飴にストーカー
いつも通りの昼、この昼休みの時間は私にとって重要なものだった。パソコンに向かい合うことはなく、流れていく文字から目をそらすことが出来る。この事務作業はもちろん大事なものだ。上司に提出する書類をまとめたりする。出来ることなら全部事務員に投げ出したいが、全てのプロデューサーがそう思ってるのだ。一人が行ったら全員が行ってしまい、今度は事務員がパンクしてしまう。我々プロデューサーはアイドルの身を預かっているのでそう簡単に辞められないが、事務員は代えが効く。
まぁ、そんなことはどうでもいいのだ。今はお昼に私の目の前にあるサンドイッチとおにぎりのどちらを食べるかが問題なのだ。どちらを選ぶかによって買う飲み物を変えなければいけないので、ここまで悩んでいるのである。
うむ、コーヒーが飲みたくなってきた。よって今日のお昼はサンドイッチにしよう。
サンドイッチを食べる前にコーヒーを買いに行こうとして気づいたが、誰もいなくなっていた。さっきまでちひろさんがいたはずなんだが・・・、まぁいいや。とりあえずコーヒーを買いに行ってお昼としゃれこもう。
ふぅ、今日は微糖だー。これは最高のお昼になる予感がする。これで今日の午後からの業務も頑張れる。
「・・・デューサー・・・ないよね?」
「はい、大丈夫ですよ」
廊下に出たときにどの部屋からか、声がした。おそらくちひろさんと誰かだろう。本当は聞き耳を立ててやりたいが、今はコーヒーを買うのが先決だ。うむ、コーヒーをどっちにしよう。微糖か無糖か・・・。
「杏ちゃん、さっきの話本当なんですか!」
「ちひろさん、しー!プロデューサーに聞こえる!」
その言葉を聞き。ぴた、と私の動きが止まる。そして数歩後ろに下がり声が聞こえた部屋に耳を傾ける。まさか話し合っているのがちひろさんと杏とは。しかもなにやら私には内緒の話のようだ。これはとても気になる。いやはや珍しい。私に相談もなにもしてくれないとは。いや、もしかしたら普段からこうやって杏はちひろさんに相談事をしていたのかもしれない。
「・・・もしもプロデューサーが覗いてたらやばいから見てくれない?」
「わかりました」
杏のやつ!勘が働くじゃないか!くそ、どうしようか。おそらく扉を開けるまで数秒だろう。ちひろさんに昔嘘をついたら女の勘とやらで看破されたからな・・・。
ガチャ、ドアが開き目の前にちひろさんが現れる。ちひろさんは少し驚いた顔をしたがすぐにこちらに聞いてきた。
「聞いてました?」
「へ?なんのことですか?俺今コーヒー買ってきた帰りんですけど・・・」
よし、これでどうだ。ここぞとばかりにポケットからさっき買ったコーヒーを取り出してちひろさんに見せる。ちひろさんは少し怪しんだが信じたようだ。そして私がその場から去ろうとしたとき、部屋の中から杏の言葉が飛んできた。
「はい、ダウトー」
「いや、ほんとだって」
「聞いてないは噓でしょ?」
なんでバレたのだろうかそんなに私の嘘はわかりやすいのか?沈黙は金、といったように杏の言葉に黙っていた私を見てちひろさんも疑ったようで、冷たい目をむけてくる。
杏は何か納得したのか、頷いてから言った。
「仕方ないか、プロデューサーにも聞いてもらおう」
「杏ちゃん!でも!」
え、そんなに私は信用がないのだろうか。プロデューサーとして悲しいことである。
「いや、言いたくないならいいぞ」
「あ、やっぱり聞いてたんだね」
しまった。罠だったのか、ちくせう。杏もなかなかやるじゃないか。
「あー、はいはい聞いてたよ。で悩みって何なんだ?」
私がそう言うと、杏はため息をついて悲しそうな顔をした。これは何かあるな。そう思っていると杏が私とちひろさんを手招きする。
「その話は中でしよ。あまり聞かれたくないし」
「はぁ!?ストーカー被害にあってる!?」
「声が大きいですよ!」
私が声を荒げると、杏のうしろに座っているちひろさんが口に人差し指を当てながら小さな声で言う。この私たちのやりとりを尻目に、杏は下を向いている。
それにしてもストーカー被害とは。色々考えたがなかなか悪い方の予想が的中していた。まぁ良い見方をすればストーカーされるくらい杏も有名で魅力的になったということだが。
「ちなみになんで警察とかに連絡しなかったんだ?」
「だって事務所に迷惑がかかるかなぁ、と思ってさ」
確かにその通りだ。これがアイドルたちに伝播すると、アイドルたちは私生活での気の使い方が尋常ではないことになる。プロデューサーとしてはアイドルにストレスを与えたくはないので黙ってストーカーがいなくなることを願いたい。まぁ無理だろうが。
「でも杏ちゃん、危険ですよ」
「そうだな、ほかのアイドルたちに気を遣う姿勢は素晴らしいがそれは危険だ」
「でも解決方法がないじゃん?」
その通りだ。ごもっともである。事を広げたくないという考え方でいけば、どうしても自然消滅しかないのである。だが自然消滅は普通ありえないのだ。そもそもストーカーをするような人間がそう簡単に諦めるとは思えない。こうやって三人でうなっていると、ちひろさんが急に立ち上がった。
「いい考えがありますよ!」
「ほほう、そりゃなんですか?」
聡明なちひろさんが考え出したものだ。きっと名案に違いない。
「プロデューサーさんが杏ちゃんの家に住めばいいんですよ」
前言撤回、やはり追い詰められた人間はまともな思考ができない、という話は本当だったのか。それにしても一緒に住むなど、馬鹿がやることとしか思えない。と、言おうとすると杏が名案といった顔で顔を上げて笑顔になる。
「それいいね!そうしよプロデューサー!」
こいつはなんで賛成してるんだ。どう考えても碌なことにならないのはわかっているだろうに。私はポケットにしまっていて、冷めたコーヒー缶を開けて一口啜る。
「いや、なに言ってるんですか。杏も乗るな」
私ははぁ、とため息をつき、私は手を額に当てて考え出す。これはとてもまずいことだ、と。こいつは本当に自分がアイドルということをわかっているのだろうか。人気が上がることにはまったく問題はないが、悪いうわさが流れることは避けなければ。業界人とは風評被害や、ゴシップ記事などのマスコミに関わることにめっぽう弱い。ストーカー被害程度ならまだいいが、プロデューサーとアイドルの熱愛報道なんて、今時笑い話にもならない。いや、当事者以外には笑い話にはなるのか。
「とりあえずそのストーカーとやらの特徴はなんかあるか?」
私がそう言うと、杏は少し顔をうつむいて考え込む。そしてちひろさんを手招きで呼ぶ。まぁあまり俺に言いたくない話題なのだろう。そう考えないとちょっと心が持たない。杏たちはそのまま部屋の外に出ていき、部屋の外で話している。
戻ってきた杏はソファに座った。ちひろさんはススス、と私に近づいてきて杏に聞こえない声で話した。
「やっぱりどうにかした方がいいですよ、このままだと杏ちゃん襲われてしまいますよ?」
「いや、とりあえず特徴を聞かせてくださいよ・・・」
私がそう言うと、ちひろさんは、そうですね、と言った。
「えーと、身長は175センチほど、現れるときはスーツで、時間帯は朝らしいです」
・・・なるほどなるほどそういうことですか。つまり君はそんな奴だったんだな。そっちがそうくるならこっちにも考えがありますよ。
「杏・・・わかった。しかたない。俺がお前んちに泊まって守ってやろう」
「え゛っ」
「いいんですかプロデューサーさん!?」
「まぁ、泊まるふりですよ。すぐに帰りますよ」
あっはっは、この焦りよう、間違いなく杏の言ってたストーカーは私のことだろう。ついにサボりたいから私をストーカーにしたてあげるとは良い度胸だ。
「今日からいいですか?杏を安心させてやりたいので」
「ぷ、プロデューサー・・・」
「・・・それではお願いします。いろいろ気を付けてくださいね」
夜になり、今日は少し業務が残っていたがちひろさんが肩代わりしてくれた。ドッキリのためとは言えまさか仕事まで肩代わりしてくれるとは・・・。
「ほら、杏!行くぞ!」
「うん、ありがとうプロデューサー」
こいつ演技派だな。今のは本気で不安がっている人の顔だったな。今は・・・8時か、まぁ定時上りは久々すぎて若干テンションが上がっているな。
杏のマンションに着き、車を降りると。杏がしがみついてきた。いや、マスコミに見られると不味いんですけど。いや、これは彼氏のふりとかか?よくわからんな。杏はおびえたようにあたりを見回し、手は震えている。
「杏、大丈夫か?まぁ、そのままでいいけどよ」
「うん、ありがとうプロデューサー・・・」
数日が経ち、仕事もはやく終わらすことが出来、定時上りができるこの生活を結構気に入っていた。まぁ杏の家で泊まっているふりは大変だが。
そんなある日の帰り道でいつもはしがみついて車から出てくる杏が、私の胸倉をつかみながら叫んできた。
「プロデューサー!おかげでストーカーいなくなったよ!」
「お、もういいのか。ドッキリ終了か?」
私がそう言うと杏は心底不思議そうな顔をし、そのあと顔を青ざめた。・・・嫌な予感がする。まさか本当にストーカーはいたのか?そう思い後ろを振り向くと、そこには確かにちひろさんが言っていた通りの男がいた。
うお、しかも近づいてきた。どんどん近づいてきて・・・あれ?
「あんた!双葉ちゃんのプロデューサーか!」
「あ、ああ」
「よかったー、いやこのマンションに住んでいる者なんですけどもね。あんな小さい子を一人にしちゃだめですよ!たまに寂しそうに帰ってきているので心配になってみてたんですよ」
なんて良い人なんだ。だが一応言うことは言ってやらなければ。
「ありがとうございます。しかし失礼ながら申しますが、双葉はあなたをストーカーと勘違いいたしてましてね。私も疑いたくはないですが一応ご同行願えますか」
「えぇ、大丈夫ですよ」
その後、本当に身の安全が確認され、この人も本当にマンションの住人であり、これからは不用意な行動をしないことと杏の個人情報を漏らさないことを約束してくれた。ただのいい人だった。
明日からは普段通りの生活になるが、杏の身の安全が確保されてよかったよかった。
「で、明日からは行かなくていいよな、杏」
「うん、ごめんね。色々心配かけて」
「逆だ。もっと心配かけさせろ。俺はお前のプロデューサーだぞ」
「プロデューサーとはいったい・・・うごご・・・」
うむ、杏も元通りになったし一件落着!
「てかさ、ドッキリってなんのこと?」
「さー、仕事いくかー」
私はそう言って仕事に戻ろうとすると、杏が後ろから追いかけてくる。・・・これがバレたらサボるどころじゃないな・・・。
しかし、本当に何もなくてよかった・・・
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怠惰な飴とフタバ 前編
この話はかなりオリジナル要素が含まれます。
それと見る方によっては不快な思いをさせるかもしれません、ご注意ください。
4月、この時期は一部のプロデューサーにとっては重要な時期になる。
出会いの季節。新しく中学校、高校、大学などに入ろうとする新入学生をスカウトをしに行く。新しいことに挑戦しようとしてる娘、それからオーディションなども行われる。4月は人の警戒心が薄まる。そこに付け込む、と言うと聞こえは悪いが、そうやってスカウトをするプロデューサーも少なくはない。
それから新しく入ってくるプロデューサーもいるのだ。彼らは通称新人Pとして、先輩の仕事ぶりを生で見るためにあらゆる雑用を共にこなしながら、プロデューサーとしての下地を作っていくのだ。まぁ要は付き人である。当たった先輩や、新人本人の出来にもよるが、早くて半年でアイドルを任せられた者もいるようだ。もちろん私は一年かかったが。
この慌ただしく、どこか落ち着かない時期を、収穫の時期、と呼ぶ失礼な者もいるようだが、我々のプロダクションでは童話に沿って、『ガラスの靴を履ける人物を探す』と呼んでいる。というか私だけなんだが、なかなか秀逸な表現だと自負している。
が、4月にはもう一つの側面があるのを忘れないでほしい。別れの季節である。
この時期、既に契約しているアイドルと今後一年間の方針や、大まかな企画などを話し合う。未成年のアイドルの場合、父兄を交えての三者面談、もしくは四者面談も珍しいことではない。小~大までの学生がアイドルをやる前提条件として、基本的に学業をおろそかにしないこと、だ。当たり前だ、と思われるかもしれないが人気アイドルには勉学を優先する暇が無い者も多い。それ故に親から反対されてアイドルを辞める者も一定数いる。
それを防ぐために基本的にうちのプロダクションではアイドルに成績表の提示を求めている。成績によってはアイドルの仕事を少なくして、勉強させる。もちろんそれはプロデューサーによって違うが、基本的にはアイドルとなる前よりも成績が下回ったらアウト、となる。
これに悩まされるプロデューサーもいるだろう。だが、それ以上にアイドルを辞める原因となるものがある。
受験。これを控えているアイドルwithプロデューサーはとても悩むことだろう。何しろ将来に関わる一大イベントのひとつだ。手を抜くわけにもいかず、現に私が付き人をしていた先輩プロデューサーは、この件で担当アイドルが一人辞めてしまっていた。高校受験は、もちろんだが大変なのは大学受験である。なにしろ、大学に通いながらのアイドル生活というのはとても大変らしい。そのためにも意欲や関心など、大学と仕事の比率を大事にしなくてはならないのだ。ほかのプロデューサーに聞いた話だが、ゼミやコマの入れ方には本人以上に気を使っているらしい。
さて、何故こんなことを考えているかというと。私の担当アイドル、双葉杏にもついにその時期が来たのだ。
「めんどくさいし、大学行きたくなーい」
「お前もうちょい真剣に考えろよ・・・」
本日も自宅警備と言い、サボろうとしていた杏を引っ張ってきた。今日は仕事だが実は杏に伝えてあった時間は一時間ほど遅らせてあった。こうやって話し合いをする時間を設けるためだ。杏はいつも通りとてもアイドルとは思えない格好で椅子に座って・・・いや寝込んでいた。
「あのな杏、こんなこと言っちゃだめかもしれないけどよ。お前がいつまでアイドルをするのかわからない以上は出来れば大学には行っておいてほしいわけよ。わかる?俺の親切心」
「杏は印税とー、不労所得で生きていくからだいじょぶー。だってニートだもん!」
杏はそう言うと、杏はだらけきった状態からをドヤ顔をくりだしてきた。双葉杏というアイドルはやる気がないのではない。やらないだけなのだ。一緒じゃね?と思うかもしれないが本人にとっては違うことらしい。
「いやいや、真面目な話よ。杏はそれでよくても俺が納得しないんだわ。」
「えー、プロデューサーも頑固だなー」
まぁ、このままでは暖簾に腕押しなのはわかっていた。それにしても、最近気づいたのは杏は飴では釣られなくなってきたことだ。前は飴ひとつでなんとかなったが、今ではほかにも要求してくるようになった。やはり今回も何か手を考えなければ・・・
「そもそも杏が大学行ってプロデューサーに得はあるの?」
「いや、そりゃ・・・」
確かに私に得はないが自分のことなのになぜ私に聞くのだろうか。普通は自分のことなのだから私は関係ないのだが・・・。まさか杏はずっとアイドルを続けるということだろうか、もしくは本気で印税で暮らしていくつもりなのだろうか。後者は勘弁してほしいが。
私が言葉に詰まったのをどう思ったのかしらないが、杏は言葉をつづけた。
「はーい、お話おしまーい。」
そういうと杏は私の飴を一つ取って、着替えるためにどこかへ行った。やはり何か対策せねば。
杏の今日の仕事が終わり、私は事務所に残り杏へのアプローチを考えていた。私は杏の言葉を反芻していた。杏が大学に行って私に得がある?いや、当たり前だ。受験をさせないと親がうるさいし、アイドルを続けさせられない。先ほども言っていたが、未成年のアイドル活動には親の承認が必要なのだ。
「待てよ、杏の親?」
私は知らずのうちに呟いていた。聞こえてしまったのだろう、向かいのデスクにいるちひろさんが声をかけてきたが、一言謝って、手を頭にやり、先ほどの自分の言葉を何度も呟いた。杏の親、そういえば一度も会ったことがないのだ。不思議に思うかもしれないが杏がアイドルになるときも電話越しに数分会話した程度だ。杏の両親に会ったことが今まであっただろうか。今までの必要な書類は全て杏が書いていたのだろうか。気になりだしたとき、私は声を出していた。
「すいませんちひろさん、杏の資料を見せてもらえませんか」
私が急に声をかけたからだろう。ちひろさんは若干引いたような顔をしたが後ろの資料室から杏に関する資料を探しに行ってくれた。ほとんどのアイドルの情報が資料室にあるので探し出すのは大変だろう。私も手伝うとしよう。二人で探しているとちひろさんが棚を探しながら話しかけてきた。
「なんで急に杏ちゃんの資料を探し始めたんですか?もしかして進路関係ですか?」
「ええ、まぁ。杏の両親に会って話してみようと思いまして。」
「杏ちゃんですから、大変そうですね。それにしても担当アイドルの実家の電話番号くらい控えておいてくださいよ・・・」
「すいません、初めて会うもので」
ちひろさんが持っていた資料をポトッと落とす。やばい言ってしまった。親の承認なしでアイドルさせているので訴えられると不味いことになるのだ。厳密には許可を貰ってないわけではないので、その弁明をちひろさんに説明すると少し落ち着いたようだ。しかしまだ怒りが収まらないのか、まくし立ててきた。
「何考えてるんですか!それ本当に危ないですからね!」
「わかってます!でもおかしいと思いませんか、電話だけでその後なにも話がないなんて」
「普通はプロデューサーが会いに行くんですよ!」
「杏とはまだ一年目なので・・・、すいません」
ちひろさんは懐かしむようにへぇ、声を漏らす。私と杏はまだ出会ってから一年しか経っていないのだ。この短いペースで人気アイドルになれたのはひとえに杏の実力のおかげだろう。プロデューサー歴一年半である私の実力でないのは確かなのだ。こう考えると杏には助けられてきた。
「それで、杏ちゃんのご両親に会ってどうするんですか?」
「色々です、何をするかは言えません」
そういえば、どうしようか。今は口からでまかせを言ってしまったが、ご両親と何を話すかなんて考えてもいなかった。これからのことと、後何にしようか。ちひろさんはため息をついている。
「どうせ何も考えていないんでしょう?はい、これが資料になります。無くさないでくださいよ」
流石ちひろさんだ、頼んだことを終わらせてくれていた。そしてクールに去っていった。さて、私も色々準備をしなければ、私は少し暗い資料室で手帳を開き予定を確認した。
「にょわ?杏ちゃんのPちゃん!何かようかにー?」
「お願いがあるんだけど。きらりちゃんときらりちゃんのプロデューサーで杏の面倒をみてほしい」
あれから数日後、私はきらりちゃんに頼みごとをしていた。それというのも私が北海道に行っている間、杏の世話をしていてほしいということだ。杏の両親に連絡を取ってみたら、北海道から動けないというのでこちらから出向くことにしたのだ。まぁ普通なのだが。
「でもひとつ約束してほしいに。杏ちゃんを、悲しませないでね?」
「・・・善処する」
すまんなきらりちゃん、それは守れそうにない。
それからさらに数日後、私は北海道にたどり着いていた。杏には出張があると言って抜け出してきて、あんきらの仕事がここ三日であるのできらりちゃんたちに杏を任せてきたのだ。それにしても少し肌寒いがところだ。この寒さで寒がりの杏が生活していたとは考えられない。メモしておいた住所を探し出し、チャイムを鳴らした。中から幸が薄そうな女性が出てきて対応してくれた。こちらもそれなりの対応をしなければ。
「初めまして、私CGプロで双葉杏の担当プロデューサーをさせて頂いている者です」
「あぁ、あの電話の方ですか。私は双葉杏の母です。どうぞ、中へお入りください」
家の中は少し暖かく、外に比べれば天国のような場所だった。リビングに通され、少しお待ちくださいと言われる。暖かさで気が緩みそうになるのを我慢しているとお茶が湯呑に注がれる。それとなく母親を注視すると、杏とは少し似てないような気がする。父親に似たのだろうか。一息おいて母親が話しかけてくる。
「それで話とはなんのことでしょうか」
「はい、双葉杏の進路の件についてお話に参りました」
「・・・あの子の好きにさせてやってください。お金は大丈夫ですので」
何かおかしいな。自由主義な親は知っているが、これでは放任主義ではないのか。もう少し探りを入れようとすると、ある写真が目に留まった。家族写真だろうか。ただでさえ小さな杏がさらに小さい。しかし目を引かれたのは杏の表情、そして両親の顔だ。杏はぴくりとも笑っていなかった。今は笑顔を見せることが多いはずなのに。そして両親の顔は、杏に面影を残す程度でほとんど似ていなかった。
「すみません、あちら家族写真でしょうか」
「え、ああそうですね。大体4年ほど前の写真ですよ」
私がなるほど、という表情をしていると、母親は首を傾げてハテナマークを頭の上に浮かべて質問をしてきた。
「もしかしてプロデューサーさん。ご存知ないのですか?」
私は息を飲んだ。額から嫌な汗が出てきている気がする。私は、これより先を聞いたらもう戻れない気がした。
「・・・何をでしょうか」
「あの子は私の子供ではないんです」
導入部分の話の蛇足感がすごい(小並感)
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怠惰な飴とヤンデレ
宮城講演が今週末にありますね。地元なのに用事があって行けないのがとても残念です
「疲れた・・・」
現在時刻は10時前ほどであり、私を照らしてくる車のライトの数も減ってきていた。事務所の下にたどり着き、ふと見上げると事務所の中はまだ明かりがついていた。私は小さくだれにも聞こえないように、ご苦労なことだ。と呟くと、階段を上り始めた。
そもそも今日私の帰宅が遅くなっている理由は、いつも通り杏にある。朝から番組の撮影があったというのに15分も遅れてきたのだ。今日の撮影にはまあまあの大御所が出演する予定だったので遅れるわけにはいかない。しかし今日は迎えに行ってやれないから絶対に遅れるな、という話をおよそ五回はしていた。それでも杏の遅れてきた理由は『寝坊した』ということだけだった。よって撮影が少しだが長引いてしまい、大御所に謝りに行ったり、迷惑をかけたスタッフ方にも謝る必要があったのだ。まぁ、私だけだが。
さらにその影響を受けて、次のライブの打ち合わせにも遅れがでてしまった。その間、杏はポケットに手を突っ込んだまま話を聞き、少し上の空だったので時間が伸びてしまっていたのだ。今日の杏にはほとほと困り果ててしまった。あきれてしまい、先ほどもかなりの言い合いになってしまった。
私がガチャと、事務所の玄関に当たる部分の扉を開けて、中に入る。あいさつもしてみると誰もいないことがわった。ちひろさんは定時上りだとして、一体誰がここの明かりを・・・?とりあえずまだ事務的作業が残っているので、終わらせるための眠気覚ましとしてコーヒーを飲もうとしてコーヒーメイカーに近づいたときに左の方から声がした。
「杏さんのプロデューサーさん・・・?」
「どぉぉわ!!」
思わず変な声が出てしまった。慌てて声の主のほうを見てみるとそこにはリボンを手に結んだ女の子が立っていた。あの娘は確か佐久間まゆだ。元々は東北のどっかでロリータ系のファッション雑誌を担当していたが、今のプロデューサーである男と出会ってそのまま事務所を辞めて上京してきたらしい。
まぁ、この話だけ聞くとアイドルを目指していた女の子が上京してアイドルになった。という美談にも思えるかもしれないが、実はまゆちゃんとプロデューサーが出会って上京するまでは一週間もなかったという話を聞くと、私は身が震える。普通に考えて一週間でそんなことできるのか?通っている高校はどうする?親の説得は?考えてもわからないことだらけだ。前に聞いたこともあったがはぐらかされた。
「どうかされたんですかぁ・・・?」
「ま、ちょっと残業をね」
「大変そうですねぇ、杏さんのためにも頑張ってください」
まゆちゃんは私に労いの言葉をかける。私もコーヒー片手に自分のデスクに向かい、荷物を置いて作業を開始する。まゆちゃんは普段はいい娘なのだ。誰に対しても礼節を持った態度で接しており、なによりも優しい。ファンから人気がでるのもわからない話でもない。
それは別としてまゆちゃんは何をしているのだろうか。さっきからまゆちゃんPのデスクを漁っているような気もするが・・・。あの生真面目な男が自分のデスクに忘れ物をしてるとは思えないが、万が一があるといけないので一応声をかけておくことにした。
「まゆちゃん、何してるの?」
「プロデューサーさんの机を整理してるんです。さっき頼まれちゃって」
「へぇ、じゃああいつここに来るんだ。よかった」
「あと二十分くらいで着くと思いますよぉ」
私はありがとう、とだけ言うと書類をまとめる作業に入る。この書類は杏と他アイドル4人で歌うお花見の曲のCDの件についての書類だ。その5人の中にはまゆちゃんも入っていて、PVを見た限りだと、2人ともソロパートを貰えていて、とても嬉しいこと。今日の打ち合わせはそのためだったのだが如何せん杏の寝坊により、私と杏が少し喧嘩をしてしまい。あまり実りのある話し合いは出来なかった。
そんなことを考えていると、書類作業は進むはずもなく面倒になってしまっていた。そこにまゆちゃんが話しかけてきた。
「大丈夫ですかぁ?杏さんと喧嘩でもしましたかぁ・・・?」
「なんで知ってるですかね・・・」
「うふ、打ち合わせが終わったあと杏さん、ずぅーと言ってましたから」
「そうか、すまないなくだらない話を聞かせたみたいで」
まさか杏もそこまで怒っていたとは。自業自得だったはずなのだが、よく考えたら杏が寝坊していた理由がわからない。またオンラインゲームで徹夜をしていたはずがない。今は私が預かっているからだ。となると別なことで・・・?
「杏ちゃんと仲直りしてくださいね。ヒントは差し上げますから」
「ヒント・・・?」
ヒントとはなんのことだろうか。まさかまゆちゃんは杏がなぜ寝坊したのかをわかっているのだろうか。
「うふふ、明日がなんの日か思い出してみてください。ヒントはこれだけです」
「それって・・・」
私がなにかを言おうとしたとき、事務所の扉が開く。私は不審者かと思い振り向くと、そこにはまゆちゃんのプロデューサーがいた。あちらも不審者が事務所にいたと思っていたのか、お互いに肩の力を抜いた。まゆちゃんはプロデューサーに気づくと声をかけた。
「プロデューサーさん!」
「まゆ、残っていたのか。はやく女子寮に戻れ」
「プロデューサーさんが送っていってくれませんか・・・?」
「はぁ、仕方ないから行くぞ。すまんな戸締りを頼む」
「それじゃあ頑張ってくださいねぇ、うふ」
私が手を振り、お疲れと言うと。二人は扉を閉めて帰っていった。しかし明日が何の日だったかだと?杏とは長い付き合いだが恋人でもないし記念日なんて・・・。あっ。
次の日、私は少し早起きだった。いや、早起きというか寝てないだけなのだが。そういえばそうだったのだ、私と杏は恋人ではないが記念日と呼べるものはあった。杏と初めて出会った日、杏のファン一号となった日、杏のプロデューサーになった日。今思い返しても辛いことばかりだった。初日からサボってきたからだ。理由も当時は驚愕したものだ。
「はぁ、やっと出来た・・・」
あとはこれを持っていくだけなのだが。今は・・・7時か。はぁ、少し休んだら行かなくてはな。もし遅れたら本末転倒だ。まゆちゃんには感謝しなければ。
事務所に行く前に今日こそ杏を連れて行かなければならないので、連絡をしてみる、がやはり出てこない。まぁ怒っているのだろう。仕方がないので目の前の扉の横についているインターホンを押す、中から、はい、という声が聞こえてくる。
「拗ねてないで出てこい」
私がそういうと、中からドタバタと音がする。急に勢いよく扉が開いて私の持っている荷物に当たりそうになる。杏は少し息切れしており、はぁはぁ、と言っている。
「悪かった。今日は杏と俺が初めて仕事しに行った日だったな」
「思い出すの遅いよ、サイテー」
今日は杏と私が初めて仕事をした日、オンラインゲームをして遅刻をして、めちゃくちゃ怒られて帰りに一緒にケーキを食べて帰った。その日にまたいつか一緒にケーキを食べよう、と約束をしていたのだ。
「まゆに聞いたんでしょ?まゆからヒント教えたって連絡されたし」
「そうだな、あとでまゆちゃんにも何か礼をしなきゃな」
という話をしながら、杏はキッチンの方に消える。私は杏がいったのを見届けると持ってきた箱を取り出す。杏が顔を出したらこれを渡そう。
「「ほら、これ」」
杏もキッチンから箱を持ってきた。私たちは数瞬のあと、笑い合って箱をテーブルに置いた。
「プロデューサー、これ中身何?」
「一緒だよ、杏のと。それよりも部屋綺麗になったな」
杏の部屋は前はゴミ屋敷だった。きらりちゃんとユニットを組んでからはましになっていったが、今日はその中でも一番綺麗かもしれない。というか私も大分変わったほうだ。前は杏の部屋に入ってお茶するだけでも緊張していたが、その後ラジオで度々私がお邪魔していることを杏が喋ってからはファン公認ということになっている。
「まぁ、今日くらいはね・・・。まゆがやってくれたんだけどさ」
「自分でやれよ・・・」
「まぁまぁ!せーので開けようよ!」
私は今日徹夜でこのケーキをつくっていた。あのとき食べたケーキを思い出しながら。あのときも私が作ったケーキと買ってきた飴でこれからのことを話したものだ。
後日、仲直りをしたことをまゆちゃんに報告しようとしたが、その日は休みだったのでまゆPに話をすることにした。するとそいつは何かをさがしているようだった。そいつは私に気づくと、そうだ、といった顔で話しかけてきた。
「なぁ、僕のハンカチしらないか?」
「俺がしるわけないだろ」
そういってさっき買ってきた缶コーヒーを飲む。今日は缶コーヒーの気分だ。だが次の言葉で吹き出しそうになってしまった。
「おかしいな、一昨日お前が残業してた日だぞ?」
「・・・それ本当か?」
確かあのときデスクを弄っていたのはまゆちゃんだったような・・・。よくよく考えたらあのときの会話もおかしかった。もしかしてハンカチ消えたのは・・・
「どうかしたんですかぁ・・・?」
「ひっ」
後ろからまゆちゃんが声をかけてきた。今日は休みのはずだが、まぁプロデューサーに会いにきたのだろうか。だがちょうどいい、お礼を言っておこう。
「すまん、これ仲直りのことのお礼だ」
私がそういって取り出したのは杏と二人で作ったケーキだ。
「あら、ありがとうございます。それと・・・」
まゆちゃんはそう言うと、私にしか聞こえない声量で陰がかかった笑顔で優しく言った。
「あの日のことは・・・秘密ですよぉ?」
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怠惰な飴とフタバ 中編
過去編ではないですが、少し触れていきます。
あとシリアスを期待されている方は申し訳ありませんが、この話はシリアスではないです。
楓さんシンデレラガールおめでとうございます
靴と床の擦れる音と聴き慣れた曲が聞こえてくる。既に窓から見える景色からは明かりが少なくなってきていて、レッスン場から聞こえてくる音は一人分、当たり前だ。普段はおちゃらけていて周りの人からもやる気のない人間だと思わているが、陰ではこういう努力を重ねているのは必死で周りに付いて行くためだろう。
気づかれないようにこっそりと覗き窓から中の様子を覗くと、やはり中には杏がいた。あの小さなからだにどれほどの力があるのだろうか。少し目線を横にずらすとトレーナーさんもいた。トレーナーさんが激しい口調なところを見ると、この内緒の秘密特訓はうまくいってないのだろう。この窓から杏と目が合うことはない、それ故にここから覗いていたが・・・。トレーナーさんと目が合ってしまった。
「双葉!今日のレッスンはここまでだ。ここの後片付けをしておくから着替えて来い」
「ハァ・・・ハァ・・・。はーい」
そういうと杏はタオルや飲み物をもってレッスン場から繋がっているシャワールームへと消えた。杏が行ったのを見届けてから私もレッスン場に入り、トレーナーさんに軽く会釈をして近づき、小声で話しかける。
「ありがとうございます、うちの双葉のレッスンに付き合ってもらって」
「既に何回も行っている。レッスンに真面目になったのはいいのだが、体調を崩さないように注意してやってくれ」
私の小声に合わせて小声にしてくれた。これには感謝だ。さて、杏と二人きりになって話したいのだがどうやって切り出したものか。とりあえずここの片付けの手伝いをして早めに帰ってもらうとしよう。
私がモップを使って床の汗を拭いていると、トレーナーさんが話しかけてきた。
「そういえば、出張に行っていたそうですね」
「はい、とても有意義なものになりました」
そも有意義の成果を今から杏に披露してやろうとしているが、実はまだ迷っていた。あの話を聞いてしまった後では杏を大学に行かせる説得が出来るとは思えなくなっていた。
「アイドルを知ることだけがプロデュースではない、アイドルに自分のことを知ってもらうのもプロデュースだ。そしてそれこそコミュニケーションだと思うがね」
私が驚いた顔をしていたのだろう。私が振り向いたのを見てトレーナーさんは満足気に頷いた。床を拭き終わったのだろう。荷物をまとめて帰ろうとしている。私のことを知ってもらう。私は今まで杏とコミュニケーションを取っていなかったのだろうか。
トレーナーさんは手早くまとめた荷物を持ち上げモップを支えに考え込んでいた私の横を通り過ぎ、アドバイスを残していった。
「考えていても仕方がない。まずはプロデューサー。あなたが前に踏み出さねば」
「なんかすいませんね。ビビってたみたいです」
そうだな、と言うとトレーナーさんは静かに扉を開けて扉の奥の闇に溶けるように帰った。あの人はすごいな。是非ともプロデューサーたちにもレッスンをしてもらいたいものだ。さて、授業料と言わんばかりに片付けを任していったな。しかたない、はやく片付けて杏を待つとしよう。
サァァとシャワーの音が聞こえてくるような気がする。実際はこの部屋から聴こえてくるはずはないので空耳だろう。私も大分緊張しているのだろう。こころなしか部屋の雰囲気も暗くなった気がする。
さて、トレーナーさんが行ってから5分ほどが経過したのでポケットからスマホを取り出し、杏に電話をかけてみる。流石にまだシャワーが終わることはないだろうから、一応不在着信だけ残しておこう。その間に掃除を終わらせて、何を話すかを考えておかなければ・・・。そう考えていると杏に連絡がついてしまった。まだ2コールくらいしかしてないはずなんだがな。まぁはやく繋がるのはいいことだろう。
『なーにー?杏今シャワー浴びてたんだけど』
あー、あとおかえりー。と気持ちのこもっていない言葉を頂きながら、私は声を出しても気づかれないようにこっそりと扉を開けて廊下に出る。
「おお、そりゃわりーな。何してたんだ?」
さて、ここで杏はなんて答えるのだろうか。
『はははー、わかってんでしょー?」
すぐ後ろあたりで声がしたので驚いて振り向くと、レッスン場の覗き窓から顔を覗かせた杏が片手でスマホを耳に当てながら窓をコンコン、と叩いている。まったく気づいてたんなら言えよ・・・。だが私はまだ杏に何を言えばいいのか、何を言っていいのかがわかっていない。
杏はこちらが気づいたのに満足したのか窓を離れて私の視界から消えた。
「気づいてたのか、どこでわかった?」
『んー?えっと、プロデューサーがここを覗いた時かな、多分。トレーナーと目が合ったでしょ?』
すごい観察力というか、よく気がついたな。女の勘は恐ろしいというが・・・、帰る時間も言っていたし付き合いの長い杏からすれば私が杏のことを見に来るというのは予想できたことなのだろう。トレーナーさんのことに気づいたのは理由がありそうだがな。
『で、どーだったの?杏には内緒の出張とやらは。おかげできらりと色んなロケに連れてかれたんだけど』
「はっはっは、俺がそうするように頼んだからな!」
『きらりのプロデューサーはめちゃくちゃ優秀だったなぁ』
「おい、やめろ」
さて、こんなふうに会話できればこのあとの話もスムーズに行えるだろうか。普段から実のない話や友達みたいな感覚でいる私たちには真面目な話が出来ない。いや、本当は違うのだろう。私は恐れているのだ、杏と真面目な話をするとこの距離感が壊れてしまうのではないか。と思っているからだ。
『で、今明らかに出張の話題から離れたよね』
しかし私のそんな考えは杏には通じていないようだ。恐らく杏は気づいているのだろう。私が何か言いにくいことを言おうとしていることに。そこに踏み込んんでくる杏は何を考えているのだろう。
私は数瞬、間を置いて息を吸う。仕方ない、というのはズルい言い訳だろう。こちらも覚悟を決めよう。
「はぁ、やっぱり隠し事は出来ないな。それともその観察眼は双葉さんのところで学んだのか?」
私の言葉に杏は固まる。返答の代わりにツーツー、と通話が切れる音が聞こえてくる。まずい、やりすぎたか。と思ったがここまできて止まるわけには行かなかった。とりあえずレッスン場に入ろう。
「杏!」
「来るな!」
杏は扉の横で体育座りをしてうずくまっていた。声をかけようとしたが杏に来るなと言われたのでおとなしく部屋の扉を閉めて廊下に戻る。
ショックだった。怒られることも覚悟したし、もしかしたら上手くいくことも夢想していたが拒絶されるとは思わなかった。そこまで杏にとっては触れて欲しくないことだったのか。そんなこともわからない自分への憤りと、迂闊さなどで心がグチャグチャになり、思わず扉に寄りかかりそのままズルズルと崩れ落ちてしまう。
数時間、いや数分?あるいは数秒だったのかもしれない。月並みだが時を忘れるとはこういうことなのだろう。すすり泣いていたと思ったが、杏は泣いていないようだ。扉越しに杏が口を開いた。
「プロデューサー、どこまで聞いたの?その『フタバ』さんからさ」
「・・・質問の意図がわからんぞ。一応話してくれたことは全部話してくれたと思うが」
私は杏の問いにどう答えるべきかわからなかったがこの答え方は合っていたのか、扉の向こうからふぅん、という声が漏れる。とりあえず話を聞いてくれる気にはなったようだ。
「一応どこまで聞いたか言ってよ」
「ここまで言っておいてなんだが、言っていいのか?」
「いいから、はやく」
それから私はゆっくり話し始めた。杏の本当の苗字は双葉ではなかった。双葉さんと杏の本当の両親は姉妹だったが妹のほうが結婚して双葉に苗字が変わったが杏の本当の苗字は教えてもらえなかった。というより聞く勇気がなかった。杏が生まれたころから杏の本当の両親は仲が悪かった。別段、父親も母親もろくでなしではなかったが杏が4歳くらいのころから父親は出張が多かった。母親はその寂しさから不倫をしていた。
と、ここまで話したところで杏が口を挟んできた。
「杏も小さい頃は不思議だったんだよね、おばさんの家に預けられたの。後で聞いた話だと預けるときは仕事とか言って不倫をしに行っていたらしいよ」
「割と生々しいな・・・。っと、いや、すまん失言だった」
「まぁ、そっちは気にしてないよ。続けて」
そういう杏に従って、話を続ける。しかしここからは本当に話していい内容だろうか。まあ本人がいいと言うから別にいいか。ということにして話を続けた。最低な大人だ。
それから一年後、父親の出張の回数が減ってきたせいで、なのかおかげのかはわからないが、母親が不倫をしていたのがバレてしまった。当然離婚となったが杏は父親のほうに引き取られたそうだ。母親のそばにいたら碌な知識を得られないからだ、と双葉さんは語っていた。
しかし父親の方はその一件以来変わってしまった。杏に直接的な暴力こそなかったが言葉での暴力や、食事を出さなかったりなど目立たないDVも多かったそうだ。あと酒をよく飲むようになり物によく当たっていた。それ以来、親の目、人の目を気にしているようになったらしい。それが10歳まで続いた。
「今考えたら、物に当たってたのは杏を傷つけないようにする配慮だったのかもね。まぁわからないけどさ」
「それでもしていいことではないさ」
10歳になった杏は栄養失調や、精神的なストレスから背が伸びなくなったらしい。そしてある事件が起きてしまった。父親が母親と出会ってしまったらしい。母親は再婚していたらしい。しかしそれを見てカッとなった父親は母親と無理心中をしたらしい。電車に一緒に落ち、即死だったそうだ。それから色々あったが今の双葉さんのところに養子になったということ。
「・・・とここまでかな。俺はそもそもこれを聞くために行ったんじゃなかったんだけどな」
「ふーん、まぁまだ色々あったんだけどね。おばさんも知らないことだし、仕方ないか」
「それを教えてはくれないのか?」
「当たり前でしょー?プロデューサーはなんも教えてくれないのに教えた杏に感謝してほしいよねー」
まだ、何かあるらしい杏から聞こうとしたが正論で返されてしまった。今日は話を聞いてくれただけでも良しとすることにするか・・・?いや、このまま説得もしてしまおう。
「杏、大学に行こうぜ」
「嫌だ。絶対めんどうだし、それに・・・」
この返答は予想していた。だからあえてその先の言葉を聞こうとはしなかった。そもそも杏が双葉さんの本当の子供ではないと聞いたときから大学に行かない予想はついていた。杏は双葉さんに遠慮しているのだろう。大学に行くことが負担になるのではないか、という。
しかしこう言ってはなんだが、双葉さんは相当杏には甘いようだ。自堕落生活を容認していた、というところを見ればそう思うだろう。もしかしたら何かほかに事情があるのかもしれないが。
「まぁ、いいよ。今日のところは。杏、何か食いに行くか」
「え!いいの!?一応LIVE前だよ!?」
「明日からメニューの量を増やしてもらうからな。安心しろ」
「えーー!杏、週休8日が希望なんだけど!」
こうしてくだらない話をしていると、杏が出てきたので一緒に車に向かう。さて、二週間後のLIVEに向けてまた色々準備しなければな。
こうして二週間が経ちLIVEを迎えた。
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怠惰な飴とフタバ 後編
今回はいつもよりちょっぴり長いです。申し訳ありません。
双葉 杏 様
今日は杏のLIVE兼、イベントの日だった。イベントというのも大層なものではない。まぁ俗に言うトークショーのようなもので、観客の質問に杏とゲストのアイドルが答えていく、というものだ。まぁその質問というのも実は、事前に決まった場所にいる人にしか当てないことになってはいるが。
一つ息を吸い、小さく吐く。もう何度目かわからない動作を繰り返し目の前にある扉に手を伸ばそうとする。私が今やろうとしていることは、誰でも出来る簡単なことだ。扉のドアを2、3回叩き、中にいるであろう杏を呼ぶだけのはずなのだがどうにも手が伸びない。あのレッスン場での会話以来、まともに杏とは会話をしていなかった。もちろん、事務的な会話はしていたが、普段通りの私たちのようにくだらない会話をすることは出来なくなっていた。ちひろさんや他のプロデューサー、アイドルたちにも心配されたものだ。
が、やはりこんなことをしていてもどうにもならない。そう思い、私が意を決して扉を叩こうとしたとき扉が開き、私の拳が空を切った。そしてその伸び切ろうとした腕の先には杏がいたので腕を踏ん張って止めた。
片腕を伸ばし切った男と、それを見て眉をひそめている少女という滑稽な光景が出来上がっていた。滑稽な光景、どこぞの駄洒落アイドルに教えておこう。
「・・・いや、さっきから扉の向こうで深呼吸がうるさいんだけど」
「お、おお。すまん」
どうやら自分では小さくしていたつもりが結構うるさかったようだ。
「で、用はなに?杏も忙しいんだよ?」
「嘘つくなよ・・・。まぁ、そんな長くはかからない・・・と思うぞ、うん」
「リハまだだっけか。ならいいよ」
実は今は本番が始まる前、リハーサルも始まっていない時間なのだ。といっても後30分もないのだが、逆に言えばそれだけあるならここで話す内容としては充分すぎるほどの時間だ。なにせ今から話そうとしているのは私の話だからだ。
中に入って気づいたが、杏はまだ着替えもしてないようだった。いや流石にリハ前なんで着替えくらいはしてほしいかったんですけどね。私は近くにあった椅子に座った。
「さて杏よ、お前は前に自分の話だけは不公平みたいなことを言っていたな?よって今から俺の話をする」
「いや、杏は別に聞く意味がないんですけど・・・」
「いいから聞け」
私が少しドスの効いた声色で呟くと杏はおとなしく聞く姿勢に入った。なるほどなるほど、杏には飴だけでなく緊張感を持たせると言うことを聞く、とね。頭のメモ帳にメモをしておこう。
さて、と私は言うと杏も近くの椅子を引っ張てきて私の前に置き腰かける。どこから話そうか、何を話そうかは今だに整理がついていない。だから私は短く、しかし伝わるようにまとめたいと思う。当たり前のことだろって?
でも私と杏は相手に本心を伝えるのがとても苦手だ。特に私は担当アイドルにすら遠慮をしている。こんな調子では伝わるものも伝わらないだろう。
「正直、俺は杏とよく話し合ってこなかった。もちろん仕事面では上手くいってただろう。でも心の底で俺は杏を信用してなかった」
私はこれを言ったとき杏が驚くと思っていたのだが、私の言葉に杏は驚きも悲しみもしなかった。まぁ、そんなところでしょ、みたいな感じだろうか。それはそれで悲しいことではあるのだが。
「だから今だけは杏を信用したいと思う。・・・それでもいいか?」
「ん、おっけー」
杏は間の抜けた声をかけてきた。しかしいつもはソファに座ってゲームをしながら私にかけてくる言葉でも、今は違う。しかと私の目を見ている。
だからこそ私もそれ相応の態度で話す。今度こそ。
「実はな、俺は大学に行けてないんだ」
「・・・は?」
くそ!やっぱりこういう反応かよ!私は予想していた反応だったがやはり気恥ずかしさはあるのだ。うーん、杏がどんな反応をしても恥ずかしくならないように家で何回も練習してきたんだがな。
私の言葉をどう受け取ったのか、杏ははっ、とした表情をして恐る恐る聞いてきた。
「それ・・・ってもしかして理由は聞いちゃいけないかんじ?」
私はこの言葉に胸が締め付けられる。私がつぎに言う言葉を考えたら杏の心配が杞憂になってしまうからだ。
顔が熱くなっているのがわかる。おそらく私の顔は真っ赤なのだろうか。いや、私は耳が赤くなる人間なので耳だけが真っ赤なのだろう。
「・・・ジュケンニシッパイシタ」
私はぼそりと呟く。
「・・・は?」
はい、本日二度目のは?をいただきましたー、ありがとうございまーす。
と、心の中で冗談めかすが、流石にとても恥ずかしくなってしまった。それを隠すように大声になってしまったのは仕方のないことだろう。
「だから!受験に失敗したの!普通に!学力足りなくて落ちたんだよ!」
私の大声に場に一度沈黙が落ちる。私は恥ずかしさのあまり大声を出したときに立ち上がっていたようだ。椅子が後ろのほうに倒れてしまっていた。と言っても直すのはもっと恥ずかしいので直さないんだが。
沈黙を破ったのは杏の押し殺したような笑いだった。私は最近この笑い声をよく聞いている気がする。杏は向き直ると笑顔になっていた。先ほどまでの緊張していた表情が嘘のようだ。
「ふーん、つまりさー。プロデューサーはバカだったってことだよね?」
こいつ遠慮なく言うな。だが私は杏をぶん殴って叱りたい気持ちを抑え同意を示す。
「そうだな、だから杏には大学に行ってほしかった。もちろんアイドルが出来る範囲でな」
「でも、それと杏が大学に行くことは関係ないよね?」
はーー、ここまで予想通りだと逆に困っちまうな。まぁ予想通りなのはいいことだ。だが問題はここからだ。
「まぁまぁ、杏は俺のこの必死の説得を聞いて大学に行く気になっただろ?」
これはブラフ、いやここで乗ってくれるのが理想だが、恐らくは乗ってはこないだろう。当たり前だ。杏は責任感の強く、優しい女の子なので、叔母叔父夫婦に負担をかけたくないと考えているのだろう。杏が大学に行くとなれば二人への負担は大きくなってしまう。
だから杏は否定する。もしかしたら本当に行きたくないだけかもしれないが。
「杏は・・・大学なんて行きたくないよ」
こういうとき良識ある大人はどういう反応をしてあげるべきなのだろうか。そうだな、と同意するべきか。それとも真っ向から否定してやるのか。私にはわかりはしないだろう。
だからズルい大人はこういう手を使いだすのだ。
「・・・だ、そうですよ。双葉さん」
私がそう言うと、数秒後に控え室のドアがガチャリと開く。開いたドアからあの、幸が薄そうな表情が顔を覗かせた。双葉さんは杏の叔母であり、今は母親となっている人だ。今日は前に会った時と違い化粧をしてきているせいか、少し印象が変わって見えた。さらに先ほどまで私たちの話を聞いた上での登場だ、少し恥ずかしいのか頬には薄く紅がさしている。やはり、どこか杏に似ている。
杏はとても驚いている。まぁ今まで会うのを避けていた人物が急に目の前に現れ、かつ話に入ってくる雰囲気なのだ。無理もないだろうとは思う。同時に私に対する怒りが沸いているのか、私の方を睨みつけ、手には爪が食い込んでいた。
「お久しぶりでございます・・・、プロデューサーさん」
だから私は杏に気にすることなく双葉さんの問いに笑顔で答えるのだ。私は最低な男だろう、今のこの状況を私の思い通りにしたいがために、杏に辛い目を合わせようとしているからだ。いや、出会ったころから辛い目に合わせてきた、という方が正しい。
「はい、お久しぶりです。しかし、申し訳ございません。この様な場面に呼んでしまって」
「どういうこと!プロデューサー!」
だからこの杏の反応にも予想がついていた。私のこの態度が気に食わないのだろう。杏は椅子から飛び降り私に掴みかかろうとした。杏の身長では私の襟を掴むことは不可能なので、ジャケットのボタンのあたりを掴み、揺らしてくる。しかし私は何事もないように話を続けた。
「俺の口から言ってもいいのかはわからんが・・・。俺は杏が大学に行きたくない理由に関して仮説を立てた」
私の淡々とした言葉に双葉さんも杏も黙っている。つまり両方からの話の継続を許可されたのだろう。
「親への、つまりこの場合は双葉さんへの遠慮、もしくは仲違いかにより話を出来ない、という仮説だ。結果的に言えばこの仮説は遠慮、という面で当たっていた。それはレッスン場での杏との会話で想像がついた」
私の話に杏は苦虫を潰したような顔になる。おーう杏ちゃんよ、その顔はアイドルじゃないよ。
「・・・そこから私に急に電話が来ました。『杏のLIVEを見にきませんか。そして杏への誤解を解いてください』というプロデューサーさんの説得により私だけ見にくることにしました」
まぁ裏話程度だが、双葉さんは電話でだけ、と言っていたが実は北海道に直接説得しに行く算段もあった。さらにお金の問題で来るのを渋った場合は交通費や宿泊費、グッズ販売にいたるまで出す気でいたが本人曰く、自分で行きたい、だそうだ。
「・・・で?これで杏を説得するつもり?悪いけど杏は・・・」
「ま、俺が話すのはここまでだ。あとは双葉さんに任せるよ」
私はそういうとささっと部屋から出る。そして扉を閉め部屋から十分に離れる。
「・・・ふぅーーー、緊張した」
緊張がとけたからであろうか、玉のような汗が額から流れる。私は汗を拭きながら考えをまとめる。まぁ私が今から考えたところでどうにもならない。とりあえず今はコーヒーを飲んで落ち着くとしよう。
私がコーヒーを飲んで帰ってくると双葉さんが部屋の前で立っていた。私の姿を見つけると軽くお辞儀をしてくる。・・・早くね?いや、いいんですけど。まだコーヒー買いに行っただけだから5分も経ってないんですけど。
「ありがとうございます。杏ちゃんとは久しぶりに直接会話しました」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません、突然呼び出してしまいました」
軽い会話を終えると双葉さんは去ろうとする。あれ?結果は教えてくれないの?
「えぇと、一応先ほどの会話の結果を・・・」
私の言葉に双葉さんはくるりと振り向き、笑顔で答える。
「それはあの子に、杏ちゃんに直接聞いてください。今日のLIVE、楽しみにしています」
そういうと双葉さんはそそくさと去ってしまった。とても気になるところだが、仕方ない杏に直接聞こうと扉に腕を伸ばしたときに気づいた。・・・リハーサルまで時間がない!!
私は大急ぎで部屋の扉を叩いて、叫んだ。
「杏!リハーサルの時間もうすぐだ!急いで準備しろ!!」
『もっと早く言ってよ!」
中からどたばたと音が聞こえる。私も急がなければ。ここまで気合の入ったLIVEは杏の初LIVE以来だろう。
歓声が聞こえる。どうやら杏のLIVEは大成功だったようだ。舞台袖から覗いていたところ、特に目立ったミスもなく、盛り上がりも絶好だったようだ。今もアンコールの声が聞こえてくる。
珍しく杏はすぐにマイクを持ち、一息いれて話をしだした。
『知ってる人もいると思うんだけどさー、杏は今年度で高校生じゃなくなるんだよねー』
観客の方からは、jkじゃくなるのかー、とか、まさか引退ー?とかでざわざわしている。
『でさー、てことはさー。そろそろ真面目に将来のことを考えなきゃならなくなってさー。大学に行こうか迷っていたんだけどね・・・?』
私は一人、舞台袖の端の方で笑いをこらえていた。流石杏だ、私の担当アイドルだけあるな。
『来年からは!jdアイドルとして活動することにしたよ!』
観客の盛り上がりは最高潮に達し、ペンライトの光が眩しいばかりに振られている。
『だから、さ。今からのアンコールは学力が足りないとかって嘘をついた杏の知り合いのために歌うよ』
おいおい、まじか。バレてたのか。確かに杏に話した大学へ行けなかった理由は嘘だ。本当はシングルマザーで私たち兄弟を育てた母親に遠慮をしたからだ。・・・双葉さんだな。話さないでくれって言っておいたのになぁ・・・。
観客はざわついている。まぁ当たり前だろう。
『その人は・・・杏の恩人だから』
「ははは。なんだよそれ。今まで言ったことないだろそんなこと」
私は一人で呆然と呟いていた。私が、杏の恩人か。笑いがとまらないな。とまらなすぎて涙が出てきたよ。しかもこの涙、止まりやしないぞ。
そんな私を知ってか知らずか、観客は静まりかえっていた。そして杏は一呼吸置き、マイクに向かって言う。
『双葉杏で、【あんずのうた】』
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怠惰な飴とギフテッド
今週は今日と明日で二話投稿します!
志希ちゃん誕生日おめでとう!
ギフテッド
先天的に平均よりも顕著に高度な知的能力を持っている人のこと。たとえ普通の人間が先取り学習により多くの知識を得たとしてもギフテッドとして成長することはない。代わりにギフテッドの、ギフテッドたる所以として、興味のないことには才能を発揮しない。ということにある。つまりギフテッドは自分の興味のある事象に対しては素晴らしい才能を発揮する。
高い論証能力、独創性、好奇心、洞察力、芸術性、理解力、記憶力etc...。これらを総称してなんというかというと、天才。この一言に尽きる。
もう一度言おう、個人差はあれど興味のあることに対しては絶対的な才能を発揮するのには間違いない。
さて、私の知っている人間の中に、一ノ瀬志希という女性がいる。彼女は赤み掛かった髪に猫のような目、そして豊満なバストを持ち、服装はどこで手に入れたのか白衣を好んで着ている。それ以外を覗けば雰囲気は、どこか飄々としており、掴みどころがなく、そしてやはりどこか猫っぽい。
しかし、それらすべては彼女についてを話す皮のようなものに過ぎない。
彼女は俗に言うギフテッドである。ここに来る以前は、確かアメリカだかで研究者をしていたらしい。大学を飛び級してまで没頭していたが、とある理由でこちらに戻ってきた。
そして彼女はアイドルという一面も持っている。ギフテッドも歌を歌い、ダンスを踊り、見ている人に媚びるのだ。いや、うちのプロデュース方針から言えば『個性を見せている』のだろう。
そして彼女はとても嗅覚が鋭いのだ。それは面白いことを嗅ぎつける、という話ではない。本当の嗅覚、五感のひとつであり、顔に付いているパーツのひとつである鼻を使って感じとるモノだ。とにかく鼻が利くのだ。この前もお昼に何を食べたのかを言い当てられた。
そんな彼女をプロデュースしている人物は一体何者なのか。それは唯の一般人である。特技は特にない。顔が特別いいというわけでもなく、実家が金持ちというわけでもない。しかし一ノ瀬志希曰く、匂いが他の人とは違う。らしい。あの、一ノ瀬志希をもってしても初めて出会う人間らしい。そのことを詳しく聞いたことはない。プロデューサーと担当アイドルの中だけで話した方がいい内容もある。
しかし、あの一ノ瀬を御せる人間はすごいとは思わないだろうか?
私は彼女が苦手だ。別段嫌いというわけではないのだ。話してみればわかるが年相応なところもあるし、何より話す内容は我々凡人が聞いてもわかりやすいように少し噛み砕いて話してくれるし、内容も興味を引くものばかりだ。なら何がだめなのか。
話しているだけでわかる。才能の差を感じてしまうのだ。この人間には絶対に追いつけない。どんなに努力してもたどり着けない次元があるのだということを理解させられる。
ギフテッドにはもう一つ意味がある。『神様のプレゼント』だ。くそくらえだ。
ただ、好意的に思える部分もある。
そんなギフテッドにも誕生日は訪れる。今日は一ノ瀬志希の19歳の誕生日だ。
pm.7時。朝から数名の手が空いているアイドルやプロデューサーたちが事務所を飾り付けていく。窓や天井からは折り紙を折ってつくられた飾りが縦横無尽に伸びていた。その作業をしている者たちのなかで一際楽しそうに飾り付けをしているのは志希ちゃんとユニットが同じであり、今回の誕生日パーティーの主催者である宮本フレデリカと塩見周子だ。そこに杏が入ってくる。
「ただいまー。おー、おつかれー」
「「お疲れ様ー」」
杏のやる気のない声に、二人の声が重なって飛んでくる。フレちゃんと周子さんの二人が飾り付けをしている手を止めて、周子さんが杏に向かって手をメガホン代わりに声を飛ばす。
「杏ちゃーん!おたくのとこのプロデューサーさんにも手伝えって言ってくれへーん?」
杏が横目でこちらを見てくる。なんだその目は、こっちにも用事があるんだよ。杏は荷物を持ったままこちらに来た。
「プロデューサーは血も涙もないね。志希の誕生日なんだから手伝ってあげなよ」
「遅刻してきたやつが何言ってんだ。この俺のデスクの上にある資料の山が見えないの?あそこで作業をしているちひろさんの代わりをやらされてるんだよ」
私は指をさして、窓の方で飾り付けを手伝っているちひろさんを杏に示した。どうやらちひろさんはアイドルの誕生日は祝ってあげたくなるらしく、手伝いたいから誰かが作業を肩代わりしなくてはならない。プロデューサー間でじゃんけんをしたところ負けてしまったので仕方なく私がやっている次第だ。
「へー、大変だねー」
「大変って言ったら前の志希ちゃんが起こしたバイオハザードだろ。『スナオニナール』とかいうドラえもんセンスの薬品をバラまいたせいで隔離されてたじゃないかお前」
一週間ほど前に起きたこの事件は、事務所内で収まったが大変だった。薬品を吸って、素直になったアイドルやプロデューサーたちが暴れていたからだ。私は吸引しなかったので大丈夫だったが。ちなみに志希ちゃんも無事だった。
「・・・杏どうした。顔真っ赤だぞ?そんなそのとき恥ずかしいこと言ってたのか?」
「うるさい!あっち向いてろ。止めろ、ニヤニヤするな!」
なるほどなるほど、あとで何を言ってたのか誰かに聞くとするか。とそんなことをしているとケーキが届いたようだ。アイドルお手製のティラミスとショートケーキのようだ。ファンに売ったら何円で売れるのだろうか、プレミアがつくレベルだ。さぁ、あとは私がこの作業を終わらせてしまうだけだ。全員の視線が痛い。
パン、パパン!
『志希ちゃん!誕生日おめでとう!』
「にゃはは~、みんなありがとぉー」
全員がクラッカーを鳴らして志希ちゃんを迎える。志希ちゃんは今日はテレビの収録だったので少し疲れているかと思いきやそんなことはなかった。というかケーキの灯りだけしかついていない状況なので、部屋は結構暗くなってしまっていて私の前に立っているはずの杏が見えない。
パッと電気がつくとみんなわらわらと動き出した。今ここにいるアイドルやプロデューサー陣は、俗に言うcuと呼ばれるアイドルがほとんどであとは別属性のアイドルとLippsのメンバーだけだ。それ以外の人たちは今も仕事をしているか何かだろう。
「なーに、やってるのー?」
「志希ちゃん、聞いてよ!この人手伝ってくれなかったんだよ!フレちゃんぷんぷんだよ」
嗚呼、今絡まれたくない二人に絡まれてしまった。主催者と主役がこっちに来るんじゃないよ。
「誕生日おめでとう。うん、俺は仕事を押し付けられたてたんだけど・・・」
「志希ちゃんショック!杏ちゃんのプロデューサーひどい!」
二人してはははー、と笑う。こいつらは・・・、本当はpaのアイドルなんじゃないか?だが元気がないよりは全然いい。担当ではないのでわからないが元気がないよりはあった方がいいだろう。
そういえば聞きたいことがあったのだった。
「そういえばさ、前のバイオハザードで杏はなんて言ってたの?」
「んー、教えてもいいんだけどね。やっぱりそれじゃ面白くないよねー」
横目でチラっチラっとこちらを見てくる。交換条件か、いいだろう。
「交換条件?まぁ条件次第だけど」
「杏ちゃんを実験に付き合わせたいんだけど、いい?」
「命に別条がなく且つ、アイドルとして影響が出なくて且つ、すぐに戻せる範囲ならおっけー」
そんなことか、全然いいだろう。もちろん偶にやばい薬もあるので限度はあるがこれが守れるならいいだろう。杏は今日は遅刻してレッスンに行っていたからな。お灸を据えなければ。
「やったー!太っ腹ー!」
私が言うや否やたたたーと杏のところに走っていき、驚く杏に何か耳打ちする。すると顔を真っ赤にした杏が何かを言ったが、すぐにまた何かを耳打ちされると大人しく志希ちゃんに付いていった。嘘だろ、杏をあんなに素早く従わせるとはすごいな、どうやったんだ。
「こらー!フレちゃんを無視するなー!」
耳元で大声を出されてのけ反って耳を抑えながら振り向く、フレちゃんが頬っぺたを膨らませながら何かを言っていた。しかたない、杏が帰ってくるまで会話しておくか。・・・結構みんなが志希ちゃんを探している。
フレちゃんとも話が終わり、私は一人でデスクの椅子に座っていた。すると猫が一匹足元によりついてきた。事務所に猫だと、誰かが持ちこんだのかな?そう思い、猫を持ち上げてみると猫が暴れだした。実はだが私は猫が好きだ。だから撫でまわしたかったのだが暴れては仕方ない。首元をギュっと摘まむと大人しくなった。
ふむ、メスか。なんでここにいるのだろうか。
「あー、ここにいた!探したよ」
「ん?この猫?」
「そうそう、その子って・・・ぷぷ」
私が首元を掴んで猫を志希ちゃんの方に向けるとまた猫が暴れだした。仕方ないから抱きかかえるように私の体の方に寄せると大人しくなった。しかし毛並みというか毛の色というか杏っぽい色だな。お腹を撫でると小さく鳴いた。可愛いなこの猫。
「で、杏は?というか教えてくれよ。何を言っていたか」
「うーんとねぇ・・・」
志希ちゃんはチラと猫を見ると、一撫でしてからニコニコしながら言った。猫がまた暴れ始める。
「『プロデューサーと一緒に居たーい!』だったかな?」
「へー、そうならそうと言えば言ってくれたのに」
私がそう言うと志希ちゃんは少し苦笑いをした。少し悲しそうな顔だった。
「頭が良くなるとね、甘えられなくなるものなんだよ?」
「・・・それって」
私が言い終わる前に志希ちゃんはどこかに行ってしまった。
もしかしてギフテッドは思ったより悲しい悲しいことなのかもしれない。誰も助けてくれない、常に頂点にいる感覚は私には図り切れない。
「あ、言い忘れてた。あと五分ね!」
急に志希ちゃんが戻ってきて言った。すると猫が先ほどまでとは違い激しく暴れて床に降りると、どこかに走り去ってしまった。なんだったんだ・・・。しかし、志希ちゃんに対する認識を改めなくてならないかもしれない。天才には天才の悩みがあるものなのだろう。
後日、杏がよそよそしくなったのはここだけの話だ。
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怠惰な飴と野球バカ
暗い話が多いとの話でしたが、しばらく暗い話が続きます。申し訳ございません。
今週は二話投稿しております!是非そちらも読んでみてください!
「はい!じゃあ今日は最近色々あって休めなかった自分たちへの慰安も込めて、乾杯!」
「「「かんぱーい」」」
このメンバーの最年長である男の音頭に合わせて全員がグラスをぶつけると、キンっ、という甲高い音が響く。一口呑むと、今日まで仕事をしてきた分の解放感が一気に押し寄せてきた。
本日の飲み会は最年長である姫川Pの自宅で行われていた。私たち四人、ここにいる野郎どもは全員プロデューサーである。同期の森久保P、速水P。そして場所提供者である姫川Pのデスクが近い仲間で構成された本日の飲み会は、私のみが明日オフという状態だった。この人たちは明日に影響がないのだろうか。
さて、飲み始めて10分もたった私たちが飲み会の席で何を話すのかというと。
「森久保ちゃんさ、うちの杏と本格的にユニット組ませない?」
「いいよなぁ、うちの友紀は一人の方が輝くからさ。ユニットをあんまり組んでないんだよなぁ」
「姫川さんはもっと酒のCMに売り込みましょうよ・・・。それともうちの奏とユニットでも組みます?」
・・・と、こんな感じである。プロデューサーという職業はある種、病気といっても過言ではない。続ければ続けるほどアイデアは生まれ、そして使い潰されていく。そのために日々いかなる時もアイドルプロデュースのことを片隅にいれるようになっているのだ。その中でプロデューサー同士の会話はやはりそちらに持っていく傾向があった。といってもプロデュース会話を誰かに聞かれると不味いので、貸し切った個室で飲む、ということもするのだが、やはり誰かの家を使った方が安く済むのは自明の理だ。
酒の席で楽しみなことは暴露話である。といってもそんなに頻繁に暴露があるわけではないが今日は違ったようだ。酒も進み気分が良くなってきたからであろう。軽くなった口はなにを言うか、本人も制御できないことがある。森久保Pは目ざとい人間なのだ。そういうところによく気づく。
「そういえばさっき」
急に話を止めてニヤニヤしだしたぞ、コイツ。
「いつもは『姫川』って呼んでるはずなのに『友紀』ってい呼んでましたよね」
わかりやすく強調して話している。こいつは性格が悪いわけではないのだが、仕事をしようとしない森久保ちゃんを辞めさせないために追い詰める手段を突き詰めていったら、揚げ足取りが上手くなってしまっていた。職業病だろうか?
森久保Pの鋭い指摘に場には緊張感が出来てしまった。言った本人は何食わぬ顔で酒を飲んでいるのだが件の先輩は冷や汗が流れている。そして追い打ちの一言を飛ばしてきた。
「まあ、問題にならない程度にしてくださいね」
・・・この言葉は誰が言ったのだろうか。私だった気もするし違う気もする。
「・・・っつーわけなんだけど、どう思うよ杏」
「いや、プロデューサー鬼なの?友紀さんがすごい顔真っ赤にしてるけど」
後日、私は杏に相談をしてみた。時刻は夜の8時、今日の戸締り当番は私なので全員が帰るのを待っていたところ杏と姫川さんが残っていた。本当は話すべきではないのかとも思ったが、こういうときに好奇心が勝ってしまうのは仕方のないことだと思う。それに下種なことだがここで私が問い詰めても私が責められる義理はないのだ。
姫川さんはテレビでいつも通りキャッツの応援をしていたところに知り合いに自分のこういう類の話をされたのだ。まぁ恥ずかしくて当然だろう。
「いや、そりゃわかってるけどよ。流石にプロデューサーとアイドルの恋愛に関しては明らかにしなきゃいけないんだよ。仕事だ仕事」
「絶対嘘でしょ・・・」
まぁ、こんなので騙される人がいるとは思えないが、一応嘘は言ってないのだ。ここで明らかにしておかなければあとで他のゲスデューサーどもが聞いてきて広めにかかる恐れがあるからだ。だからここで聞いておいて私が協力者となることにしたのだ。建前だが。
「あはは・・・、あの人そんなこと言ってたんだー・・・」
姫川さんは顔と耳を真っ赤に染めていた。苦笑いを浮かべて頬を指で搔いていた。そして気まずそうに佇まいを直すと、座り方が急にぎこちなくなってしまった。いつもは大きな声で笑って、パッションの名に恥じない明るさを持った姫川さんが、まるでおびえた小動物のようになってしまった。これは先輩が堕ちるのも無理はない。
実は先ほど杏たちに語った内容には続きがあった。あの後少しみんなで問い詰めたら先輩はすぐに姫川さんと恋人になったことや、いつから付き合っているかなどの関係性について白状してしまったのだ。つまり今、姫川さんに行っているのは確認作業だ。それにしても姫川Pさん曰く、姫川さんは酔うと甘えてくるらしい。気になる。
「はい、しかし立場上否定して頂けるとありがたいのです」
「プロデューサーも鬼畜だねぇ・・・」
杏がボソッと言ったが、姫川さんに気づかれないように背中を小突き、黙らせる。
「うーん、ごめん!否定はしないよ!」
「・・・へぇ、それは何でですか?一応立場があると思うんですが」
「ちょっと!プロデューサー、止めなよ!」
「黙れ、今俺は姫川さんと話してるんだ」
杏が私に静止の声を上げたが、一喝すると杏は押し黙った。
「うーん、難しいんだけどね、うーんとー、そのー・・・」
姫川さんは先ほどまでの可愛らしいテレが鳴りを潜め、少し顔を赤くしてはいるがそれほど恥ずかしくないようだ。話しながら時折唸っているところを見ると、恐らく言葉がまとまっていないんだろう。
「ゆっくりで大丈夫ですよ、落ち着いてください」
「あ、うん。ありがと、えへへ」
可愛いなこの人。
「なんていうかさ、ここで嘘をついてもこの場は凌げるからなんとかなると思うんだよ。でもさここで一回でもあの人と『付き合ってない』って言ったらさ、ほら、その・・・」
「・・・自分に嘘をつくことになる、ですか?」
「そう!それ!」
はぁ、これでは完全に私が悪者になってしまった。仕方ないから負けを認めるとしますか。
「申し訳ありません姫川さん。お詫びといってはなんですがこれをどうぞ」
そういうと私はスーツの内ポケットから封筒を取り出して頭を下げながら姫川さんに丁寧に渡す。するとお金を渡されたと勘違いしたのか、手をブンブン振りながら全力で拒否をしてきたので、頭を上げて封筒をあけて、中身を少し見せることにした。
「これ・・・キャッツの開幕戦のペアチケット!?いいの!?」
「はい、元々お詫びのつもりで用意してました。ついでに言うとその日は姫川さんのプロデューサーもオフですよ」
「ホント!?やったー!逆転サヨナラだね!」
そして何回も私にお礼を言った後、姫川さんはキャッツの応援歌を鼻歌交じりに帰っていった。
「プロデューサーも人が悪いね。最初から知ってたならそういえばいいのに」
お気に入りのぬいぐるみを抱きかかえ、私のデスクの開店する椅子に座り、私に背を向けた杏が私に悪態を突いてくる。確かにあの二人が恋人関係だったのを知っていたのを杏に言わずに、猿芝居に付き合わせたのは申し訳ないと思うが、そこまで怒るとは思わなかった。
「だから何度も言うけど、あんまし広めたくなかったから仕方ないだろ?」
「はいはい」
私はため息をつき、本日最後の窓の戸締りを確認して、持っている戸締りチェック表にしるしをつけると、戸締りの確認作業を終えた。荷物の片づけていた杏に先に一階に降りるように示した。
杏たちには言っていないがさらにあの話には続きがあった。
恥ずかしくて言ってないが、私たちも担当アイドルとの関係性について聞かれていた。そのとき私はなんと答えたか・・・、まぁこれは私の心の中にしまっておこう。
「あいつは・・・よし、いないな」
先ほどまで杏が座っていたデスクを確認する。一応デスクの下も。いないのを確認すると私はデスクの引き出しの上から三番目、鍵付きの引き出しを開けて、とある写真を見る。
その写真にはLIVE衣装に身を包み、笑顔とはかけ離れた顔で気怠そうにしている女の子を背負って、彼女と対照的に笑顔の男が映っていた。しかしこの写真は私のものではなく、とあるニートアイドルの忘れ物らしい。そのアイドルが、珍しくニコニコしていたところを目撃した野球アイドルが忘れ物を私に届けてくれたのだ。いつ渡そうか悩んでいるうちに戸締り当番になってしまっていた。
後日、この写真を返してあげたところ、急によそよそしくなったのは別のお話。
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怠惰な飴の心配
私は今仕事が出来る喜びを噛み締めていた。このような言い方をすると誤解が生まれるかもしれないが、決して仕事をしたくてたまらないわけでない。むしろ出来ることならば仕事をせずに宝くじでも当たってしまえば楽なのにと普段から思っているし、今パソコンに向かって噛り付くように作業をしているこの状況をどうにか抜け出したいとは思っている。
しかし、今私が作成しているこの企画は上手くいってしまえば、うちの担当アイドル、双葉杏の人気をさらに上げて、尚且つ知名度も上げること間違いなしだろう。いや、これは成功させなければならない、一人のプロデューサーチャンスを逃せば、そいつはプロデューサー失格と言えるほどの大チャンスだからだ。
「おはよー」
「おはようございます、杏ちゃん」
どうやら杏が来たようだ。杏の出勤にコーヒーを片手に給湯室から戻ってきた、ちひろさんが挨拶をする。しかし私は杏に対応している暇すら惜しいので少し目線をそちらにやった後、すぐ、にパソコンに目線を戻す。
「ちひろさん、プロデューサーは?」
「あれ?そこにいませんでした?」
杏の問いにちひろさんが立って答える。ちひろさんはデスクでパソコンとにらめっこしている私を指差した。私は短く「おう」と挨拶すると杏は不満そうに近づいてきた。
「プロデューサーいたんだ、返事がないからいなのかと思ったよ」
どうやら杏は自分の挨拶に私の返事がなかったのでいないものだと思ったらしい。挨拶がなかった程度で、と思ったが、そういえば毎日杏が顔を見せに来る時でも、私がいるときは杏に対して挨拶を返していたかもしれない。そう思ったが今はこの企画を練るのが優先なので、パソコンから顔を離さずに杏に対応する。
「悪いな、今は忙しいんだ」
杏は、ふーん、と半分納得、半分不満、みたいな声を出して私のパソコンを覗こうとする。私たちプロデューサーの仕事は多岐に渡り、アイドルに見せてから行うこと業務もあるが、企画段階のものは見せてはいけないというものがあった。それはその企画を見て上がったモチベーションが企画の廃案により下がるのを防ぐためであり、今回の企画は成功させるために私の全力を注ぐが、失敗もありえるのであまり見せたくないのだ。
だから私は画面を見ようとした杏を手で止めた。
「だめだ、これは見せられない」
杏は察しが良いのですぐに自分がやる仕事というに感づいたようだ。
「はっ、それはまさか杏の仕事!?」
「当たり前だろ」
隣から、いやだー、とか、働きたくなーい、とかが聞こえてくるが私は無視を決行した。
結果から言うとこの企画は大成功を収めた。まず、企画はラジオ局に持ち込んだので反響はデカいと見込んでいたが、まさにその通りになった。ネットでの評価も上々、さらに私の渾身の企画はラジオ局のプロデューサーに相当受けたようで、さらに放送枠を増やして、他のアイドルを含めたラジオになりそうだった。
「なかなか、反響が良かったぞ、杏」
「喋り通すのってやっぱ疲れるんだけど・・・」
杏としてはとても疲れる仕事のようだ。ラジオでの仕事をやるのは杏のキャラを押すのが目的なのと、双葉杏という強烈なキャラを印象付けさせるのが目的なのであまり力を入れるつもりはない。むしろここからが問題だった、テレビ局に売り込みに行き、今度は双葉杏のビジュアルの良さ、さらに杏のシングル曲をと杏のキャラをイメージ付けさせ、記憶に残すのが目的だ。
「はぁー、今日は焼肉ー、奢ってよねー」
「悪い、今から帰って企画をまた練り直さなきゃならないんだよ」
私は杏との食事を断った。そういえば杏との仕事終わりの食事会、というか私の奢りをなのだが。断ったのはこれが初だったかもしれない。そう思ったが、その考えをすぐに頭の片隅に追いやり次の企画を固めることにする。
「ほら、杏。送ってくから行くぞ」
「・・・ふん!」
いてぇ、杏のやつ脛を蹴りやがった。何を怒ってるかはわからないがおそらく仕事をこれ以上増やされるのが嫌なのだろう。私も仕事をしたくないと思っているしお互い様なのだ。だけど杏よ、ここを乗り切れば夢の印税生活をエンジョイするまでの近道と思って、諦めて仕事をしてくれ。
私たちは帰りの車の中、一言も話さなかった。
それから一週間ほど経ったある夜、私は最後まで事務所に残るためにちひろさんと話をしていた。なんとかテレビ局に持ち込む企画が形になりそうなのでここで勢いを止めたくなかったのだ。事務所の鍵の管理をしているのはちひろさんなのでちひろさんに許可を貰う必要があった。
と、言っても鍵自体はすぐに貸してもらえたので今は給湯室で今の企画の進捗などを話している程度だが。
「・・・ってわけで、結構うまくいきそうなんですよ」
「最近頑張っていましたからね。努力が形になってよかったじゃないですか」
ちひろさんが微笑む。この人は金にがめついところがなければアイドルとして活躍できると思うのだが。癒される笑顔もあるし。ただ、プロデュースしたいとは思わないが。
「でもプロデューサーさん、大丈夫ですか?」
「へ?何がですか?」
「・・・気づいてないんですか?それとも恍けてるんですか?」
なんの話だろうか。もしかして失礼なkとを考えていたのが伝わったのだろうか。そう思ったがどうやら違うようだ、ちひろさんは自分の目の下のあたりを指差して言った。
「隈ですよ、隈。ひどいことになってますよ」
「え、本当ですか?」
最近朝も忙しくて確認してなかったからわからなかったが、どうやらひどいことになっているようだ。ちひろさんが給湯室にある鏡をとって見せてくれた。これは・・・確かにすごいことになっている。
「うちはブラックではないんですから、残業代は出ますけど・・・。過労死だけはやめてくださいね?」
「・・・ウッス」
ちひろさんの笑顔がすごい怖かった。
ちひろさんが帰ってから数十分経った。事務所には私がキーボードを打つ音のみが響いていて、他にはなにも音を出すものがなかった。その証拠に、キーボードを打つ手を止めると無音になるからだ。そのときは意味もなく「あー」と声を出し、まだ起きていられることを確認する。
そういえばこの一週間、杏とそこまで会話をしていないことに気が付いた。挨拶に始まり、明日も仕事に来いよ、というまでの流れがここ一週間で途切れてしまったような気がした。杏は今何をしているのだろうか。もしかしたら私にあきれてしまっているかもしれない。仕事が増えて怒りを覚えているかもしれない。
・・・やめよう、女々しい考えだ。
少しのどが渇いたのでコーヒーを煎れに立ち上がる。給湯室の壁に寄りかかりコーヒーに何も入れずに啜ると、思考や意識がクリアになっていく感覚になった。一気にコーヒーを飲みほしてデスクに戻ろうとする。
一歩目を踏み出したときに踏み出した方の足から崩れ落ちた。急に力が抜けたのでそのまま前のめりに転がってしまう。床に倒れこみ、意識がクリアになったことで鈍くなっていた感覚も戻ってきて疲れも認識してしまったんだなぁ、とどこか冷静に分析している自分がいる中、この状況を見つかったらやばい、と焦る自分もいた。力をいれて立とうとするが力は入らない。そのうちどんどん力が抜けていき意識を手放してしまった。
「プロデューサー!大丈夫!?」
急に大きな声が頭の中に響き手放しかけた意識を再び掴んだ。抜けていた力も戻った。ゆっくりと立ち上がり声の主を確認するとそこには杏がいた。杏が少しオシャレな服装をしているところを見るとおそらく今まで遊んでいたのだろう。その杏が血相変えて近づいてきた。
「プロデューサー、指は何本に見える?」
「二本、その間からは杏が見えるよ」
「よし、冗談は言えるくらいにはなってるね」
どうやら心配をかけさせてしまったようだ。それにしても杏は何故ここにいるのだろうか。確か記憶違いでなければ今日はオフにしてやったはずだが。そのことを杏に聞くと。
「さっきまで近くできらりと遊んでたんだけど、ちひろさんからメールが来てさ、『心配なので様子を見てあげて』だって。来て正解だったね」
どうやらちひろさんには私が限界に近かったのがバレていたようだ。なんでそこを見極められたのかは怖くて聞けもしないが、これは次の呑みはおごり確定だろう。
杏は私の意識がはっきりしているのを確認すると緊張の糸が切れたようにその場にへたり込んだ。そして安堵の表情を浮かべて呟いた。
「よかったぁ・・・」
どうやら杏も心配してくれていたようだ。私は杏と目線を出来るだけ合わせようとしゃがんで言った。
「・・・すまん、杏にも心配かけたな」
すると杏は急に目つきを変えて私に胸のあたりに頭突きをかましてきた。そのまま二人とも倒れこみ、また私は床に頭を打ったら意識を再度手放しそうだったので右手を頭の後ろに添えて倒れる。杏は私の胸に顔をうずめたまま嗚咽を漏らした。
「よが、った。ほんどによかったよぁ・・・。ずっと心配してたもん。こうなるんじゃないかって・・・」
どうやら私は大馬鹿野郎のようだ。杏に心配をかけたのはこの時間だけだと思っていたが、どうやらずっと心配させていたようだ。
私は左手で杏の頭を撫でながら謝り続けた。
「ごめん、ごめんな」
結局あのあと、私は作業を途中で止めて杏を家まで送り届けた。しかしちひろさんに倒れたことはバレてしまっていたので、今後私のみで事務所に残ることは禁止された。
そしれ、あの企画はしばらく間を開けてからやることにした。そしてそのあと気づいたが杏はまさか仕事を減らすために私の介抱をしたのかな?とも思ったがそこは考えないことにした。いや、考える意味もなかったのだ。あのときの杏はマジ泣きだったからだ。
「ほら、こっちも焼けたぞ」
「うーん、美味い!!」
そして今は杏との約束であった焼肉を食べに行っている。結構お高い焼き肉屋だったが、あのときの杏の涙と、今の杏の笑顔を見れたとすればおつりがくるほどだろう。そう思った方が仕事を楽しめるからだ。
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怠惰な飴と駄洒落お姉さん
少し長くなってしまいました。今月は祝日がないので話を書く時間と考える時間がなかなかとれなくて大変なんです、すいません・・・。
お気に入り登録が気づいたら100を超えていました。見てくださっている方がいるのは本当に励みになります。これからもよろしくお願い致します。
6/14 10:00 少し内容を変更しました。楓さんの誕生日ということに今更気づきました。誕生日には間に合ってるので、既にこの話を見てくださった方は許してください。
『今年もこの時期がやってきました!!』
唾を飲み込む音が聞こえる。
テレビ局のある一室。杏のために与えられた一室であり、私と杏の二人部屋となっていた。その部屋には微かな音も目立ってしまうほどの緊張が流れ、目の前にあるラジオから流れる音以外は、扉の向こうの廊下の方からたまに聞こえる足音くらいなものだった。それほどまでに静かでいて、緊張感の漂う状態は、例えるならば音楽会でのソロパートだろうか。
私はラジオに向かい手を組み、祈るようなポーズをとっていた。熱心なクリスチャンでも、怪しい宗教でもない。いや、ある意味では神に祈ってはいたが。
一方の杏はというと手を膝の上に乗せて体を前に乗り出していた。その拳は強く強く握られており、杏の少し伸びた爪が手のひらに食い込んでしまっていた。緊張している杏をなだめるように背中に手を置き、その小さな背中をさすってやると、落ち着いたようで、姿勢を通常に戻した。
『ここで速報です!!』
ラジオの中の声が荒げられる。私と杏はその声を聞くと、食い入るようにラジオに近づいた。かなり小さめのラジオなので杏と私の顔の距離が近くなるが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
『今年のシンデレラガールは・・・高垣楓さんです!!』
あれから、今年のシンデレラガールが公表されてからおよそ一か月が経った。私は相も変わらず事務作業に追われていた。しかし今はその地獄のような事務作業から少し開放されて、休憩所で目を休めていた。生憎、今日は目薬を忘れてしまったので目を瞑って休ませる。しかし、今でも目を瞑ると思い出してしまう。
杏の順位は流れなかった。20位よりしたの順位は公表されないのだ。つまり、杏は20位圏外だったということだ。あの後、杏は泣いてしまっていた。いや、杏は私に頑なに涙を見せようとはしないので泣いてしまっていたかどうかは私の想像の域を出ないが、少なくとも悔しかったのは確かだろう。何故なら、あのラジオでの発表のあとに私が声をかけたとき、返ってきた声は震えていたからだ。
「どうしました?今日は朝食を抜いて、チョーショックですか?」
突如、後ろから声を掛けられ慌てて目を開けて振り向く。・・・なんてことには今回はならない。何故ならこの声の主は私が呼んでいた人だからだ。なので、ゆっくりと目を開けて振り向くと、深い緑のボブカットに、特徴的なオッドアイ、そしてニコニコとした笑顔を浮かべた今年の顔。
いや、今年のシンデレラ、高垣楓さんが立っていた。
「どうぞ、おかけください」
私は立ち上がり、高垣さんを私の席の正面の席を手で座るように促す。高垣さんは、一言礼を言い、一礼して座る。高垣さんと私は、実はそれほど会ったことがないのだが、飲みの席や、宴会の席で何度かお会いしたことがあるくらいだ。
初めて会ったときの印象では、モデル出身とは聞いていたのでとても綺麗な人だな。という印象だった。普段は可愛い系である杏をよく見ていて、しかも杏は食っては寝て、食っては寝てなのでスレンダーではあるが大人の魅力とは程遠い。だから高垣さんのような美人の大人にお酌をしてもうというのは新鮮だった。これで人と話すのが苦手だったというのだから恐ろしい。
「それで、何の御用ですか・・・?」
高垣さんが私に疑問を投げかけてくる。
「はい、実は高垣さんに聞きたいことがあって」
今日は高垣さんはオフだった。シンデレラガールはラジオに雑誌にテレビ等々、仕事に引っ張りだこなので、本来なら私と話す時間なんて惜しいほど忙しく、今日は久々のオフのはずだが、今日はわざわざ私のために予定を空けてくれた・・・わけではなく、今日は彼女のプロデューサーとふたりで飲むそうだ。まぁ、ふたりで飲むのなんて久々らしいので、上は黙認、私たちもマスコミに感づかれなさそで、雰囲気の良い店を探すのを手伝ったのだ。
今日は高垣さんの誕生日だった。彼女の機嫌が良いのも、二人飲みが楽しみだからなのだろう。楽しんでほしいものだ。
「はい、私に答えられることであれば、是非頼ってください」
この人はこういう人なのだろう。あの飲み会のあと高垣さんが口から、ポロッと駄洒落が飛び出したときは心底驚かされた。ああいうのをギャップというのだろうか。これも人気の秘密なのだと思うと、羨ましくもあるが。
「・・・杏になんて声をかければいいか、わからないんです」
「・・・それは、どういうことなのでしょうか?私の記憶が正しければ、あなたは杏ちゃんとは仲がよろしかったような気がするのですが。喧嘩でもしましたか?」
「えぇ、まぁそんなところです」
嘘をつくのが下手と言われる私だが、ここは嘘をつかねばならない。何故なら杏と話せなくなった理由は高垣さんにあるからだ。いや、そう言うのは責任転嫁かもしれないが、原因は高垣さんにあるのだ。高垣さんがシンデレラガールになったあの日から杏は無気力になってしまった。まるでアイドルになりたてのころの杏のようになり、レッスンはよくサボり、仕事には遅れてくる。挙句の果てには事務所に来ないことまである。
もちろん、大事な仕事などもある。しかしそんなことはお構いなしにサボるのでこっちは始末書の山が出来上がってしまっていた。そんなことよりもなによりも私と会話をしてくれなくなったのが一番恐ろしいのだ。今まで会話をしないくらいにまでケンカしたことはあったが、仕事まで休むとは相当だ。
しかし、そんな私を見透かしたように、高垣さんは優しく微笑んで言った。
「ふふ、気を使ってくださってるんですか?お優しいんですね」
私はハッとした。やはり私に嘘は向かないらしい。
「大丈夫です。私は、私のプロデューサーとシンデレラガールに選ばれた日に約束しましたから。『たとえほかのアイドルたちに恨まれようとも・・・。シンデレラとして毅然とする』って」
「・・・お強いですね、流石です」
「ふふ、ありがとうございます。でも私一人ではここまで来れなかったんです。シンデレラには王子様か魔法使いさんが必要でしょう?」
私は本当に驚かされてばかりだ。高垣さんがこれほどまでに強い人だとは思いもしなかった。だからこそ少し反抗してみたい気持ちが沸いてきた。
「シンデレラには王子様か魔法使いが必要・・・ですか。あなたのプロデューサーはどちらなんですかね?」
私の問いは最低なものだ。本来ならばプロデューサーとアイドルの恋愛はご法度、あったとしても答えられるはずがないので、これは質問した側が相手の反応を楽しむだけの質問だ。しかし、高垣さんは微笑みを崩さなかった。
「そうですね・・・。魔法使いが王子様だった。なんて、素敵じゃないですか?」
「・・・はぁ、完敗です。無礼な質問をお許しください、シンデレラ」
「はい、許してあげます」
高垣さんはとても楽しそうだ。対して私はとても疲れた顔をしているのだろう。まぁ主にここ一か月の杏への心労のせいなのだが。
『楓さーん』
どこかから高垣さんを呼ぶ声がする。この声はおそらく高垣さんのプロデューサーだろう。そろそろ時間のようだ。
「申し訳ありません、私のために」
「いえいえ、実は杏ちゃんには以前、お世話になっていまして。何かしらの形でお返ししたかったんです」
「そうだったんですか?そう言っていただけると助かります」
杏は私の知らないところで相談に乗っていることが多い。私の前ではだらしのない人間だが、私以外の人間には頼りがいのある人間という評価のようだ。理解不能。
高垣さんはバックを肩にかけて、扉を開けて出ようとしてピタと止まり、振り向いて言った。
「それでは、今日は機嫌が良いので、私からアドバイスをひとつ」
これ以上に何かあるのだろうか。確かに仲直りする方法はまだ見つかってはいないが、十分すぎるほどアドバイスはもらったような気がするが・・・。
というか、機嫌が良いのを自分で気づいていたのか・・・。
「簡単です。変わるべきはあなたですよ」
「・・・へ?」
「それでは、私は飲みに行きますので」
それだけ言うと高垣さんは手を振りながら去っていった。
どういうことなのだろうか。変わるべきは私だというのは。もしかして私のプロデュース方針が間違っているということだろうか。しかしプロデュース方針を高垣さんが知っているとは思えないのでまた別なことだろう。
私は休憩室を出て、コーヒーを煎れて飲んだ。苦みが体に染みわたり思考が冴えてくる。
もう一度考えてみよう。何故私が変わらなければならないのか。いや、変わらなければならないのは確かだろう。このままだと杏は次のシンデレラにはなれないからだ。では杏は変わらなくていいのだろうか。
今の杏はアイドルとして終わっている。レッスンにも来ずに仕事もサボる。これでは仕事がなくなってしまう。私はスマホを取り出すと杏に連絡を取ろうとする。
待てよ?
今私は何を考えていた・・・?
『シンデレラになれない?』 『アイドルとして終わっている?』
私はすぐに杏に電話をする。何故なら気づいてしまったからだ。自分の愚かさを、杏の精一杯の抵抗を無視してしまっていたことに。杏は気づいていたのだろう。私が変わってしまったことを。
杏のプロデューサーとして私がすることは杏をトップアイドルにすることだ。しかし、それはシンデレラガールにすることとイコールではない。
トップアイドルにも色々あることを私は忘れてしまっていた。目先の大きな出来事に囚われて杏をアイドルとして輝かせることを忘れてしまっていた。杏の好きなことをさせて、楽しいアイドルになれると思ってスカウトしてきたのだ。思えばここ総選挙前から最近にかけての杏への仕事はメディア露出が多いものだった。杏はメディア露出があまり好きではない。それなのに私は人気取りのために杏のやりたくないことを押し付けてしまっていた。
『・・・はい、もしもし?』
杏に通話がつながる。私は何を言えばいいのだろうか。唇が乾燥する。のどが干上がる。口は空気を求める魚のようにパクパクと開き、先ほどまで冴えていた思考はぐちゃぐちゃになる。
『・・・もしもし?切るよ?』
そのとき、私はある文字が目に入った。私のデスクの端っこの方に貼ってあるメモだ。いつ書いたのかも思い出せないが、間違いなく私の字だった。それを読んだとき言いたい言葉が決定した。
「待て、言いたいことがある」
『・・・うん』
「・・・明日から三日間、完全オフにしてやろう」
『・・・へ?ちょっと!プロデューサー!?』
私は杏の疑問の声を無視して手元の手帳を開く、明日から三日間の予定のところにすべてバツ印をつけると通話を終了させる。
デスクの端っこのメモを手に取る。私はそこに書かれている文字を小さく口にする。誰にも聞こえないように、小さく、小さく。
『杏を幸せにする』と。
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怠惰な飴にブライダル
私の知識不足もあるので、誤った知識を書いているかもしれません。
今回はブライダル企画の話です。たぶん前話である『怠惰な飴と駄洒落お姉さん』の続きっぽくなってます。そこらへんをご了承ください。
皆さんは6月と聞くと、どんなことを思い浮かべるだろうか。
例えば、学生や、社会人なら雨が多いだろう。雨は歩きによる通学や、自転車通学の学生にとっては見過ごせない問題となってしまう。おそらく、普段は天気予報など見ない人たちでも確認しなければいけなくなり、とても面倒な季節という印象だろうか。そして、さらにその面倒くささを助長させるのが、休日の少なさだろう。知っている者も多いと思われるが6月には祝日がないのだ。もちろん、何で国は祝日を作らなかったんだー、とかいう声もあるだろう。理由は簡単、特に国民の生活に関係ある出来事がなかったからだ。
画して、6月は嫌われる月になったとさ。ちゃんちゃん。
しかし、そんな6月を良しとする人もいる。
皆さんはジューンブライドという言葉を聞いたことがあるだろうか。
6月に結婚したカップルは幸せになれる。というジンクスじみたものだ。
何故6月に結婚すると幸せになるのか?諸説あるが最も有名な説としてギリシャ神話から派生したという説がある。ギリシャ神話の最高神であるゼウス。彼には妻が一人おり、その妻は正妻であり、名をヘラという。
ゼウスには人間の守護神、支配神としての役割があるように、ヘラには女性や子供、家庭の神とされていたらしい。さらにヘラの母乳は肉体を強くするとされており、そのこともあり、転じて結婚生活の神とされた、とされている。
そんなヘラはローマに伝わった際に『ユーノー』(juno)と名前を変えた。そうして伝わったユーノーは6月1日に祭られるようになった。結婚の神が6月に。そこからjunoは6月を意味するjuneへと伝わり、6月に結婚の神を祭っていることから、結婚を意味するブライド(bride)がくっ付き、ジューンブライドとなったわけだ。
「ふーん、それはわかったけどさ。なんでそれを杏に言ったの?」
私はメモを書いてきた手帳を閉じる。外は今のこの時期にしては珍しく、数日ぶりに晴れており、気温は先日の雨が蒸発して蒸し暑くなっている。私たちは社用車を使い、次の現場に向かう途中だった。しかし、先方の予定が狂ったので、少し空き時間が出来てしまい近くのコンビニで車を止めて時間を潰すことにしたのだ。流石にアイドルを外に出すわけにはいかないので、車内で、だが。
「いや、まぁわかるだろ?」
私は運転席から杏に一枚の紙を手渡す。後部座席に座っている杏はそれを受け取ると、露骨に嫌がった。
「ブライダル企画かぁ・・・、なんで杏なんだか・・・」
「俺にもわからん」
先方による、是非双葉さんも使ってみたい、という要望があったのだ。なんでも少し前にきらりちゃんたちによるブライダルCMは、中々の反響だったらしく、続編を出してみないか?という話が上がったらしい。そこできらりちゃんは杏と二人でしてみたい、と言ったらしく、この企画が回ってきたのだ。
しかし、この企画を見たときの私の心情としては穏やかではなかった。理由としてはまず、きらりちゃんの頼みとは言え、それは難しいからだ。予定を組みなおさなければならないし、予定が合っても一日しか会えない可能性がある。さらに見た目の問題だ。前回の企画では背の大きめのアイドルが集められたらしいが、杏は139センチだ。さすがにどこかの団体に怒られそうな見た目なのだ。
と、ここまで否定をしてきたが、結局のところ杏の一存だ。杏がやりたければ、私は全力でスケジュール調整をするし、どこへでも頭を下げにいく所存だからだ。
「それで、その企画受けたいか?」
私は流し目で杏を見る。杏はうーーん、と唸ると私をちら、とみて質問してきた。
「プロデューサーは・・・どう?見てみたい?」
「なんで俺に聞くんだよ・・・。でもそうだな・・・」
杏の花嫁衣裳か・・・。杏の親族より先に見てしまうというのはいかがなものかとは思うのだが。それにしても、いつかは、私も杏の結婚式に参加することになるのだろうか。そのころには杏も少しは落ち着いて家事なども出来るようにはなっているのだろうか。結婚のときの衣装はどんなものだろうか。結婚相手はどんな男だろうか。杏を支えられる人物か、それとも引っ張って行ける人物か。
私が頭を抱えて悩んでいるので、杏が少し顔を覗き込んできた。
「プロデューサー・・・、もしかして見たくない?」
私はその言葉に、頭を抱える動作が止まり、顔を上げた。そして再び少し唸った。
「うーん、見たい・・・かな」
色々、杏の将来を想像できそうだ。見てみるとするか。
「そっか。なら杏、この企画やるよ」
「え、そんな簡単に決めんのかよ」
「こういうのはフィーリングだよ、プロデューサー」
適当だな・・・。しかし、私が決めてしまったようなものなのだが、大丈夫だろうか。とりあえずどうにか当日までスケジュール調整をしなければ。
「うっきゃー!杏ちゃん、かわゆーい!!」
「ちょっと、きらり抱きしめる力が強くて痛いんだけど」
「杏さん、とぉってもお似合いですよぉ」
部屋の中から姦しい声が聞こえてくる。その女の子たちによる声は、私が思わず扉を叩く手を止めてしまうほどだ。中にいるのは諸星きらりちゃん、杏、佐久間まゆちゃん、の三人だ。まゆちゃん・・・、いや、佐久間さんは何故参加したのかはわからないが、おそらく前のブライダル企画に参加していた響子ちゃんの伝手だろう。そう考えておく。
私は、扉をこんこんと二回ノックして中にいるアイドルたちの名前を呼ぶ。
「杏さんのプロデューサーさんですかぁ?杏さんの衣装を見てあげてください」
「え、ちょ!いいよ別に!」
「そうだにぃ!杏ちゃん、今日はハピハピになる日だにぃ、大事な人にも見てもらわなきゃ、勿体ないの」
なるほど、この二人がここまで絶賛するとは、相当なのだろう。衣装自体は、前回のブライダル企画のきらりちゃんの衣装がなくて大変だった話を聞いていたので、私は事前に色々なところを回りお目当てのもの探していた。まぁ、サイズが合っているのはわかっているが、実際に着るのをみるのは初めてなので見てみることにしてみよう。
「じゃ、お邪魔しまーす」
入ったときに目に入ったのは妖精、もしくは天使の姿だった。ウェディングドレスはシンプルに、いつもは二つにまとめている髪の毛を編み込んでアップにしている。そしてその髪にはティアラがあしらわれていた。そんな杏の花嫁衣装に私は少し見とれてしまっていた。
「プロデューサー。ど、どうかな」
杏は不安そうに私の顔を覗き込む、前に車で覗き込んだ時と違い、少し化粧をした杏の頬は赤くなっていた。それがたまらなく、私の心を揺さぶらせた。
「あの、なんか言ってほしいんだけど・・・」
私はやっとのことで意識を取り戻すと、少し顔をそらしてから小さな声で話した。おそらく私の顔も赤くなっているだろう。
「綺麗だ」
私は言うだけ言うと恥ずかしくなってきた。
「と、とにかく、会場の準備できたから!後でな!」
私はそのまま会場に走り去ってしまった。
会場では、多くのスタッフが走り回っていた。今回の企画は第二弾ということで、前回のときほど力は入れていないらしいが、それでも多くの人がいた。やはり、企画とはいえ、女の子にとっての大事なイベントを演出するのだ、念には念を入れる必要がある。そしてその走り回っているスタッフの中にはきらりちゃんPや佐久間さんPもいる。
会場はとあるチャペルを借りて行われている。今回はそんなに予算を割けないので全員一緒の会場でやってもらうことになっている。チャペルはこじんまりとしてはいるが、どこか神秘的な雰囲気が漂っている。
アイドル達が会場入りすると、一層慌ただしくなる。私はまだ先ほどの気恥ずかしさがあるので、アイドルたちから離れつつ、周りのスタッフさんたちに挨拶をする。
「今日はよろしくお願いします。すいません、無理を言ってしまって」
「あぁ、杏ちゃんのとこの。いや、いいんだよ。女の子の晴れ姿さ、力を貸さないわけにはいかないからね」
「はい、ありがとうございます」
私は丁寧にお辞儀をすると、時計を見てそろそろ始まるころだな、と思う。
撮影は順調に進んでいる。佐久間さんもきらりさんも流石である、やはりこういう女の子らしい企画は得意なのだろう。しかし、杏は今まであまりこういう企画には取り組んでこなかったので少し手間取っているのだ。
私は現場監督さんのところに近づき、相談を持ち掛ける。
「どうですかね、杏。手間どっているようですが」
「うーん、なんかね、こう、感情移入が出来てないのかな。まぁ、難しいことではあるんだけどね」
「・・・なるほど、ちょっと休憩良いですか」
私休憩をいれさせ、杏に近づく。椅子に座っている杏は相当集中していてやっていたのに、okをもらえないのでイラついているようだ。まぁ、杏は普段こういう仕事をしないのでこうなるかな、とは思っていたが。
「どうだ、杏。難しいか」
私が近づいていたのに気づいてなかったのだろう。私に顔をを向けてため息をつく。
「だめだねー、杏には向いてないや。イメージが湧かないんだよね」
あんまり言ってはいけない言葉だが、言うしかないだろう。アドバイスのためだ。
「なんか好きな人とかいないのか?もしくは演出変えるか?」
私の言葉に杏はピク、と反応する。どっちに反応したかわからないが何かしらのイメージが湧いたのだろう。よかったよかった。すると杏は、私の顔を見てニヤッと笑った。
「なら、プロデューサーに手伝ってもらおうかな」
「・・・は?」
後日、完成した映像が届いた。あのあと杏が提案した変更はスタッフたちにどよめきを生んだが、概ね成功した。私はどうかと思うが。
私と杏は休憩室のソファに座り、その映像を見ていた。
杏が提案したのは、私を使うことだった。簡単に言えば、杏がずっとNGをもらっていたのは、花束を持って、カメラに向かってセリフを言うものだったからだ。それでは慣れてない人では感情移入しづらいだろう。そこで杏が考え出したのが、私を使うことだった。そもそもの撮影方法を変えて、ヴァージンロードを私と歩く形にしたのだ。もちろん、それでは批判や反感を買うことが目に見えていたので、私のところを映さないようにかつ私の方から映すことにより、新婦気分も味わえるという仕様だ。
それと、追加でヴェールも頼んでいた。
「はぁ、結構ギリギリの作戦だったな」
私の言葉に杏は飴を舐めながら答える。
「そーでもないんだけどね、杏なりに考えてたし。だいじょーぶでしょ」
「まぁ、それならいいけどよ・・・」
そのとき私は目を疑った。杏の横顔を見たとき、目に一瞬、ハイライトが宿っていなかったからだ。
「プロデューサーさ、ヘラは結婚の神様って言ってたよね。でもさ、ヘラにはもうひとつの一面があるんだよ?」
「・・・なんだよ」
私はゾッとした。杏はこんな薄っぺらい笑顔をしただろうか。杏は映像が映っているテレビの方を見ながら話す。
「嫉妬の神、だよ。夫であるゼウスが浮気性だったからね。それを基にした話なら、ヴェールをするってことはヘラを見習うってことなんだよ。だからさ・・・」
「お、おう」
「杏を・・・幸せにしてね?プロデューサー?」
ここからはただの蛇足的な話ですが、この話の杏に恋愛感情はありません。
要は大事な友達がどこかへ行かないように・・・みたいな感じなんです!ヤンデレとかじゃないんです!
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怠惰な飴に通り雨
ニュースで見る大雨警報と私の地域の雨の量が違うんですよね・・・
カタカタカタカタ・・・
ちらと時計を見ると、短い方の針は10のあたりを指し示していた。まだ出勤から3時間しか経ってないのか。
今日も今日とて、事務所にはキーボードを打つ音が聞こえてくる。色々あり、五月病をも乗り越え、クソほど暑く、おそらく色々なイベントが控えているであろう夏を目前に置いたこの6月。この6月にも色々なことがあった。しかしその6月ももうすぐ終わりを迎えようとしていた。
しかしこの6月にももうひとつやばいイベントがあったのを思い出していた。梅雨だ。このクソイベントを忘れていた。思えば私は学生のころから梅雨が嫌いだった。服は汚れるわ、靴は汚れるわ、電車は遅れたりするわでいいことがなかった気がする。何より、傘を持って歩くのが面倒だったのだ。恐らくわかる人はわかるのだろうが雨が嫌いな人の嫌いな理由なんてこんなものだろう。
さて、私の主な通勤手段は電車だ。「アイドルプロデューサーなんだから、金はあるだろ」と、言われたことがあったが、それは大きな間違いだ。そういう人は職業名鑑でも見た人だろう。実際、私のようにそこそこ人気のアイドルを一人しかプロデュースしていない人間がこの事務所にも何人かいるが、みんな金欠で死ぬ寸前だ。正直なところ電車代すら惜しむだろう。まぁ、徒歩でもいいのだが時間がかかるので徒歩の人間は少ない。それに加えてこの時期は私の嫌いな雨が降るような時期だ。歩いて通勤したくない私が、家を出るときにしかめっ面なのは容易に想像できるだろうか。
そんなこともあり私は家を出るのが憂鬱になってしまう。特に休日出勤である今日などは特に、だ。労働基準法はどこにいったのだろうか。今度ちひろさんに直訴してみようか。まぁ、話を濁されて終わるのが目に見えるだろう。というか仕事は確かにきついが、そもそもプロデューサーをしようとする人間なんてまとも精神では務まらないだろう。まぁ、そんなことはどうでもいい。今日は早く終わらせて帰るだけにしたいものだ。
「あ、こっちもお願いしますね」
「ちょっと俺に回しすぎじゃないですか!?」
「だれか大阪公演の資料持ってなーい?」
「こっちでーす」
今、事務所は全国公演のことでてんやわんやとなっている。今までの公演をまとめる者とこれから公演を控えてる者の二種の業務に必要な資料が飛び交っているのだ。まぁ、私は今までの分もこれからの分もあるので,目から血の涙が出そうになるのを抑えながら、パソコンに目を向ける。背後では相当数のプロデューサーたちが話をしている。私もそうだが皆、この公演はとても重要なのだ。
今日はこの事務所としては珍しく、アイドル立ち入り禁止の日だった。理由は簡単。公演でお疲れのアイドルへの休暇と、プロデューサー間での会議だ。だから、こちらも珍しく、ほとんどのプロデューサーがこの事務所に揃っている。
そもそも普段この事務所の男女比は2:8だ。男はもちろん、プロデューサーだ。あとは一部の事務員も男になっているが、相当優秀でないと残れない、と、ちひろさんが言っていた。恐らくは、あまり事務員といえども男性をアイドルに近づけすぎるにはマズイ、という判断からだろう。さて、問題は女性だ。女性の割合のほとんどがアイドルなのは想像がつくだろうか。それに加えて事務員もほとんどが女性なのだ。さらに意外に思われるかもしれないが、女性のプロデューサーもいるのだ。そうなるとアイドルが仕事やレッスンで事務所にいないことを加味してもこの割合となってしまうのだ。だから相当な精神力が必要なのである。
「終わった人はさっさと出て行ってくださいねー」
ちひろさんの声が事務所に響き渡る。流石事務員代表(仮)だ。さて、私も早く終わらせて帰るとしますか。
「まだ終わらないんですか、みなさん帰りましたよ?」
「いや、雨と風が結構強くなってきたんで、少し待ってるんですよ。もう少し経つと止むらしいので。ここにいるのは自家用車ない組と、これから少し飲みに行く組なんです」
私の横にいる同僚がスマホをフリフリしながらちひろさんと会話をする。曇天のせいで事務所内は少し暗い。スマホの画面の光が同僚の手の中で残像を残しながら揺れる。確かにこの同僚の言う通り、あと1,2時間ほどで雨は止むらしい。私はどちらの組かというと、自家用車ない組だ。
ザーザーと降る雨と、暗い事務所の雰囲気に飲まれて、事務所に残っているメンバーの口数も段々と減ってきたころ。デスクの上に置いておいた私のスマホが光った。バイブ機能が働かないところをみると、メッセージ機能のようだ。私はスマホを取り、内容と送信者を見る。どうやら送ってきたのは杏のようだ。内容は・・・なになに?『たすけて』だけだ。・・・誘拐か?
内心冷や汗を掻いていた私を尻目に、杏から二つ目のメッセージが送られてきた。もうひとつのメッセージの内容は『あめめんどう』だった。恐らく、雨が降ってきて傘を忘れたから迎えにきてくれ。ということだと解釈して、ため息をつく。何故傘を持っていかなかったのか、なんでこの時間にらしくもない外出をしているのか、とか聞きたいことはある。だが何より早く迎えに行くことが重要なのだろう。はぁ、この雨の中を行かなくてはならないのか。面倒だな。
「お、どうした。彼女からか?」
ちひろさんと話をしていた同僚が私がスマホを弄っているのを見て、声をかけてきた。
「違うわ。杏からだな」
私が連絡してきた相手を言うと、同僚は意味ありげに苦笑いした。
「お前ら・・・。ホントに仲いいな」
「誉め言葉として受け取っておく」
軽く会話をすると私はスーツのジャケットを着て、荷物を持つ。そして同僚たちに挨拶をして事務所を出る。
外に出るとやはり雨は本降りとなっていた。私は事務所の玄関の屋根がついているところで雨宿りをしながら雨が降っているせいで少し冷える空気に身震いし、傘を開いて雨が降る空間と私のいる濡れてない空間の境を超えようとしたときに色々なことに冷静になって気づいた。まず一つ目に、私は傘を一本しか持っていなかった。これでは杏を送ることが出来ない。そしてもう一つは杏が送ってきたメッセージの意味だ。これはもしかして車で迎えに来てくれという意味だろうか?
しかし残念なことに今、事務所の車は別な人が全て使ってしまっているので私は車で迎えに行くことが不可能なのだ。もし杏が車での迎えを期待しているならば、その考えを正さなければ。ということで電話をしよう。幸いなことに杏にはすぐつながった。
「もしもし、杏か?」
『あー!はやく来てよ!寒いんだから!』
杏の声が電話越しに飛んでくる。杏と電話越しに会話するのもなれたものだ。
「もし期待していたとしたら悪いんだが、今日は車を出せないからな。傘を持っていくぞ」
杏が落胆の声を上げる。危ない危ない、このまま報告もせずに杏のところへ向かっていたら今日は確実に夕飯を奢りとなる流れだったな。
「傘を途中で買って行ってやるから。どこにいるかだけ教えろ」
私は杏の今の位置を聞き出すと、次の駄々をこねる前に電話を切る。空を見上げると雨が先ほどよりも強くなっているような気がする。実際はそんなことはないのだろうが、私の雨の中歩きたくない心がそう思わせているのだろう。この雨は本当に晴れるのか?そんなことを思いながら私は傘を開き、杏の待つ場所へと一歩踏み出した。
目的地周辺にたどり着く。私の片手には上に向かって、大きく開き、雨の中に藍色の花を咲かせている傘が、そしてもう片方の手には下に真っすぐ伸びるビニール傘があった。ぽつぽつと降る雨と、歩く人たちの水たまりを跳ねる音が重なり、私にとってはかなりの騒音だ。
はやく杏に傘を渡して帰ろう。
私はあたりを見回し、杏の姿を探す。杏は良くも悪くもわかりやすい見た目をしている。が、それは何も障害物がない場所での話だ。こういう雑多な場所や、人が多い場所では杏は見つけづらいのだ。実際今も見つけづらい。
そろそろ傘を差すのが面倒になってきたので近くのファミレスの屋根がある下で雨宿りをしようとする。するとそこにはよく見る139㎝がいた。いや、実際はもう少し成長してそうだが。杏にはしては珍しく、黒のパンツに赤チェックのシャツ、そしてそこそこ有名なので、キャップに眼鏡と少し大人っぽくまとめている。ふむ、やはりアイドルの私生活を覗いてみるのはいいものだな。意外な一面を見れる上に、とても次の仕事のヒントになる。それに可愛い。とりあえず近づいてそれとなく声をかけるとしよう。
「そこの、おい」
私の声に気づいて下を向いてスマホを弄っていた杏が振り向く。私が杏の名前を呼ばないのには、街中で杏の名前を出して、ファンにバレたくないという気持ちがあったからだった。万が一だが。さて、私の方を振り向いた杏は頬を膨らませて文句を垂れてきた。
「遅いよー。あn・・・。私のスマホの充電も切れそうだし。」
自分ことを杏と言おうとして途中で止めたな。プロ意識が高くていいことだ。
「すまんな。ほらこれが傘だよ」
私が杏にビニール傘を渡そうとすると、急に私たちから少し離れたところで声が聞こえた。どうやら4,5歳くらいの女の子とまだ若い女性の親子のようだ。
「ママー、パパ、お迎えに来れないの?」
子供の言葉に、少し母親は眉尻を下げて女の子と目線を合わせるためにしゃがむ。
「ごめんね、少しここで待とうか」
母親の言葉に、女の子は不満の声を上げる。
「ええー!もう少しでお友達来ちゃうよ!」
そこまで聞いて私は杏を見る。杏もどうやら話を聞いていたようで、こちらを見ていた。どうやら考えていることは同じのようだ。私は杏に渡そうとしていた傘を持ち、その親子のところに歩いて行った。
「突然すいません。お話聞こえてしまって。もしお急ぎならこちらのビニール傘で良ければ差し上げましょうか?」
私の提案に女の子は歓喜の声を上げる。しかし反対に母親は困り顔だ。まぁそうだろう。急に知らない男が傘を差しだしてくるなんて怪しいにもほどがある。そんな母親を尻目に女の子は傘を受け取る。
「ありがと!おじさん!!」
おじっ・・・。まぁいいだろう。若干顔を引きつらせながら私はその親子から離れて杏のところに戻る。杏には申し訳ないことをしてしまった。さてどうやって杏を送ろうか。
「あーあ。もうどうするのさ。私をどうやって送るのさ」
「わからんけど、どうにかする」
杏は私の傘を見てなにか碌でもないことを思いついたような顔をした。私は嫌な予感がしたがとりあえず杏に聞いてみることにした。
「・・・どうした。なんか思いついたか」
「うん、相合傘すればいい話だよね~」
なるほど、その手があったか。いや、思いついてはいたが杏が嫌がると思って口には出さなかったのだが、自分から提案してくれるならいいか。
「まぁ、恥ずかしいっていうなら・・・」
「よし、それでいいぞ」
「へ!?いいの!?」
自分で提案したくせになに言ってるんだこいつは。私は傘を開き杏を手招きする。すると杏はもじもじとしてなかなか来ない。珍しいな、恥ずかしがっているのか。しかし・・・。恥ずかしがっている杏を見るとやはり女の子だな、と思わされる。さていっちょ、男を見せますか。私は杏の腕を掴み、傘の中に引き込む。
「杏、今日の服装似合ってるぞ」
まぁ、このときくらいは名前で呼ぶのを見逃してほしいものだ。杏は私のコンボに顔を真っ赤にした。そしてすぐにニカっと笑い、こっちを向く。
「やるじゃんプロデューサー。ちょっとドキっときたよ」
「俺もやられっぱじゃないからな」
私と杏は二人、傘の中で小さな声で歩き始める。
雨が嫌いな私だが、杏と歩くこの傘の中だけは好きになれそうだった。
ああ、この雨が止むときに、どんな空になるのかが楽しみだ。
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怠惰な飴と本の虫
ふみふみの言葉遣いは難しいですね、もし違うと思った方は、どうか教えてください・・・。
みなさま、デレステのシンデレラフェスはいかがだったでしょうか?
私は7人当てました(60連)
Little POPSのメンバーはいいですね。飛鳥くんと杏のふたりは特に好きなので嬉しいです。コミュの水着も可愛かったですね。
「杏さん・・・この文はこちらに・・・」
事務所にカリカリ、とペンがノートを走る音が微かに聞こえる。そちらを少し覗くと赤い足跡が黒い足跡を上書きする。赤ペン先生をここで見ることになるとは思わなかった。
「うぅぅぅ・・・」
ここ、事務所の休憩室には様々な機能が備わっている。これはアイドルの年齢の幅を広く取る、という方針の関係上。様々なアイドルからアイデアをもらい休憩室をプレイルームへと改造していったのだ。アイドルのニーズに答える。それは並大抵のことではなく結果として事務所の私たちプロデューサーの作業場よりも大きくなったほどだ。そんなプレイルーム兼休憩室には大きく三つの分類に部屋が分けられる。ひとつは元々の休憩室の意味通り、ベットが数床ある休憩室、ひとつは主に中高生組が使うテレビが一台(85インチ)が置いてあるテレビ部屋、そしてもう一つが、こちらも中高生組が使うことがある勉強部屋だ。
「文香の教え方は上手いんだけどさぁ・・・」
今私たちはその勉強部屋にいる。仕事に優劣を付けるつもりはないが、元々は今日は大した仕事もなく。午後からは暇になる土曜日だった。というのも杏も受験期に入り少しずつ仕事を減らしている影響だった。それに加え、杏は数日前まで高校のテスト週間だった。大学受験を決めてからの杏は勉強を少しずつだが頑張って来た。その結果が報われるといいが・・・。そして今日は暇が出来たので、その復習をしようとしていた。まぁ私は要はこの部屋を使うためのお目付け役だ。
「確かに、わかりやすい説明とゆっくり伝わる速度で話してくれるからな。わかりやすいだろうな」
「あ・・・、どうも、、ありがとうございます」
そして事務所にたどり着いたとき、出会ったのが鷺沢文香さんだった。この人は有名国公立大に入学している方なので杏に何か得意科目でいいから教えてあげてくれないか?と頼んだところ、快諾してくれたので今に至るのだ。実際鷺沢さんは教えるのが上手く、杏の苦手科目である文系科目をカバーしてくれた。
鷺沢さんが杏に何かを言う。すると杏は少しだらっとしだした。
「それにしても・・・杏が文系科目苦手とは思わなかったな」
私の言葉に鷺沢さんが同意の言葉を述べる。
「そうですね・・・。私の杏さんのイメージは、勝手ながら、何でも出来る方だと思っていたので・・・」
私と鷺沢さんの言葉に杏は眉をひそめる。まぁ私の中でさえ、勝手なことに杏は文系人間のイメージがあるのだ。勉強もしないニートのイメージが強いが。
「杏は元々勉強そこまでしなくてもそこそこの点数は取れるはずなんだけどさ・・・」
杏の言う通り、学校の定期テストの点数は悪くはない。杏の通っている高校はなかなか偏差値が高かったはずだが、その中でも仕事を嫌々ながらこなし、きちんと二桁代の順位に入っているあたり、杏の詰め込み力というか、底力の強さを感じられる。あまり詰め込みは褒められたことではないが、アイドルの仕事をさせている以上、私の方からも強くは言えないのだ。しかし、杏は天才型に見せかけた努力型なので、もしかしたら私の知らぬところで勉強しているのかもしれない。
「確かにそうだな。俺もそれは知っている」
私の同意の言葉に、杏は私の方をチラ、と見てから、はぁ、とため息をつく。何か変ことを言っただろうか、と思い鷺沢さんの方を見ると、少し困った顔をして、首を傾げた。
「プロデューサー・・・。いやなんでもないや」
「なんだよ、気になるな・・・」
杏は回転椅子でくるくると回り私と目線を合わせようとしない。私の言葉を無視する気か。
鷺沢さんが腕の時計を見て、杏に声をかける。すると杏がまた机に向かい、勉強を再開する。私も腕時計を見ると15分ほど経っていた。おそらく今のは休憩時間だったのだろう。となると私は二人の休み時間を邪魔してしまったわけだ。次からは気をつけると同時に謝っておく。
「それにしてもさぁ・・・。今日暑くない?まだ夏本番には早すぎると思うんだけど」
杏の言葉に同感なのか、鷺沢さんはハンカチで額の汗を拭い、ふぅ、と一息つく。杏は下敷きでパタパタと仰ぎ、とてもファンには聞かせられない声をあげる。ほんとにこいつは最悪だ。だが、今日が暑いのは同感だ。杏と鷺沢さんは私の方を見て、少し嫌な顔をする。おそらく私のスーツを見てそう思ったのだろう。私でも客観的に自分を見たら最悪の格好だと思う。
「二人ともそんな嫌そうな顔をしないでくれ。結構傷つくんだ」
「あ・・・。申し訳ございません・・・」
鷺沢さんの申し訳なさそうな態度を取り、なるべく暑そうな態度を出さないようにしていたのとは違い、杏は露骨に暑がり下敷きでは満足できなかったのか、下敷きをしまい、シャツの襟元をバサバサとする。・・・アイドルってなんだよ。
「おい杏、あまり襟をバサバサするな。胸が見えるぞ」
私の言葉をセクハラだと思うかもしれないが、私は杏に遠慮しないで言うように言われているし、逆に杏も私に対して遠慮せずに言うように言ってある。杏はシャツをバサバサさせる手を止めると口を、うの形にして尖らせる。思ったよりも勉強部屋は暑いのかもしれない。壁に掛けてある温度計を見ると部屋の室温が30℃を超えていた。これでは暑いはずだ。
「よく見たら30℃超えてたのか。そりゃ暑いわけだ。扇風機でも出すか」
「その判断遅いよ!プロデューサー」
「私も・・・溶けてしまいそうです・・・」
おおう、アイドル二人に無理させていたとは私もプロデューサー失格だな。私は二人に、ちょっと待っててくれ、と言い扇風機を倉庫から持ってくる。少しホコリを被っていたが雑巾で綺麗にして、扇風機のスイッチを入れると、生ぬるい風がむわっと流れ出した。が、それでも先ほどのムシムシとした不快感が少しは和らいだ気がした。
「さぁ、これでいいか?頑張ってくれ。すまんが鷺沢さんもう少し杏の勉強に付き合ってくれ」
「はい、任せてください」
「文香ー、ここ教えてー」
杏のhelpに鷺沢さんが向かう。案外仲が良いのかもしれないな。
「そういえば―――」
鷺沢さんの声に私はハッとする。どうやら少し寝落ちしてしまったようだ。私は持っていた本を挙げたまま、腕の時計を見ると短い方の針が2から4へと移動していた。2時間も寝てしまっていたのか。小説で顔を隠しながらも杏たちの方を見ると、どうやら勉強を中断し雑談に入っているようだ。二人は真剣な顔をしているので声を掛けずに聞き耳だけ立てることにした。
「杏さんは・・・どうして、国公立を目指しているんですか・・・?」
それは私も気になっていたところだ。確かに私は大学へ行け、とは言ったが国公立へとは言っていないので不思議に思っていたのだ。なにか心の中で変化でもあったのだろうか。杏は顎に指を当てて、うーん、と言って、回転椅子でくるくると回る。
「逆に文香はさ、なんで今の大学に行ったの?」
杏の問いに、今度は鷺沢さんが、うーん、と唸る。
「何故・・・と言われると困ってしまいますが・・・。本が好きだからでしょうか。もちろん、他にも様々な理由はあるのですが・・・。主な動機としては、これですね」
なるほど、本が好きというだけでそこまでたどり着けるとは素晴らしいとしか言いようがない。杏も納得したのか、うんうん、と頷いている。
「じゃあ、なんでアイドルになったの?」
「アイドル・・・ですか。それは・・・」
ここらへんはアイドルごとに色々だが、デリケートな部分だ。私と杏の出会いくらいサッパリしてるならいいが、人によっては担当とアイドルだけの秘密ということになっていることもある。だから私は鷺沢さんが話すときは耳をふさいだ。
「―――――――――――、――――。――――――」
「―――――――――――――――」
「――――――、――――――――――――――――」
何を言っているかはわからないが、そろそろ大丈夫だろう。
「――うなんだ。杏はさ、プロデューサーに騙されたんだよね」
おい、あいつは何人聞きの悪いことを言っているんだ。だがどうやら話を聞き直すタイミング的にはバッチリだったようだ。ああいうのは聞かない方がいいのだ。しかし、杏のアイドルの話はなんども聞くが面白い。
「最初はさ、印税で楽できるから、みたいことで釣られてアイドルを始めたんだけど。蓋を開けてみたら全然違うんだよね。レッスンは辛いわ、仕事で夜遅くなるわでさ。杏は何回もやめようとしたんだよ?」
杏は、最初はまったくこっちの話を聞く気がないし、働きたくないの一点張りだった。確かに怪しい人物が急に声をかけて来て、『アイドルにならないか?』は怖すぎる気もするが。それを考えると杏は話を聞いてくれただけありがたい方なのかもしれない。とんでもない精神力なのか、危機管理がないのか。
鷺沢さんはクスリと笑い、すいません、と謝る。
「私のときとは全然違うんですね」
「そりゃそうだよ、でもさ、やっていくうちになんやかんや楽しくなってきてさ。今ではこうやってアイドルとしてやっているんだけどね」
「・・・そうでしたか」
「それでさ、やっていくうちに気の合う友達も出来たんだよね。ユニットまで作って、曲まで出してさ。杏の世話までしてくれんの」
私にはそれが誰なのか想像が付いている。確かにあの娘にはとてもお世話になっている。
「アイドルってさ、みんないつかは引退すると思うんだよね。そいつも杏も、文香もさ。そのあと何をしようか杏は全然考えてなかったんだけど、冷静になってみたら杏もいつかは引退するんだよ」
私も、鷺沢さんも何も語らない。ただ杏の話を聴いている。
「そのとき、私はやりたいことが見つかってさ。つい数か月前なんだけどね。そこからは将来のために、とりあえず大学には行こうかな・・・ってね。・・・あー、杏らしくない」
「いえ、そんなことなかったです・・・。とても・・・とても、素晴らしい動機ですよ」
私も同意する。さて、そろそろ杏も鷺沢さんも帰らなくてはならない時間だ。
「二人とも、話は終わった?送っていくよ」
私が急に声を掛けたからだろう。二人はビクッとしてこっちを向く。鷺沢さんは筆記用具を急いでしまって、バックを更衣室に取りに行った。杏もゆっくりノートや筆記用具をしまっている。こっちを向かないのは、聞かれていたかもしれないという気持ちからだろう。仕方ない、ここは聞かなかったふりをしてやろう。
「杏、まだ外は暑そうか?」
私の言葉で、杏は私と目線を合わせないように振り向き、そろっと窓の外を見る。
「うーーん・・・、暑そうだね、まだ」
「そうか、ならアイスとか奢ってやろう。その代わりテスト頑張れよ」
杏はやった!と言い、鷺沢さんのところに走っていく。私は財布を確認してお金があるのを確認してから少しずつ沈んでいく太陽を見ながら、明日からの仕事を考えて一人笑った。
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怠惰な飴の合計一日オフ 前編
急に暑くなったり雨が降ったりで・・・。九州の方は気をつけてください。
アイドルとは日本語に直すと『偶像』だ。アイドルは日々過酷なレッスンをして、ファンのためにLIVEを行ったり、笑顔で握手会をしたり、サイン会をしたり、様々なメディアに出ている。しかしアイドルは、『偶像』の言葉通り宗教のようなものだ。アイドルという信仰対象に向かってファンという信者がお布施という課金をしてくれる。課金というか、様々な形でお金を取っているだけだが。信者であるファンは経典のように様々なメディアからアイドルの情報を手に入れる。
しかしそれはあくまでファンが知れる範囲での情報だ。
こういうことを言うのはあれだが、とんでもないプロデューサーになると、超有名なメディア記者と知り合いになっていて、いい様にメディアを使い、ファンへの印象を本来とは違う形に操っている方もいる。もちろん忘れてほしくはないが、うちのプロダクションではアイドルには出来るだけ素で居られようなプロデュースをしているし、アイドルにも出来るだけ素でいても何か光るものがある者をアイドルに受かるようにしている。
まぁ、結局は何が言いたいのかと言うと、ファンが知っている偶像としてのアイドルなんぞ、人間としてアイドルに比べると、本人の十分の一にも満たないということだ。
悲しいことに私にも言えるのだが。私もファンの一部だからだ。
私はコンビニの駐車場に停めている車の中から、店の中でアイドルの雑誌を手に盛り上がっている高校生男子らしき二人組をぼんやりと眺めながらそんなことを考えていた。彼らはアイドルの何を知っているのだろうか。雑誌を読み、テレビを見て、握手会などでアイドルと会い、Liveを楽しむ。これで得られる知識は私とそこまで変わらないだろう。
雑誌を見ていた男子たちはあるページで捲るのを止めてさらに盛り上がっている。あの雑誌の今月号は確か袋とじがあったはずだ。私は車の助手席に置いてある雑誌を取り、中を見てみると、やはり袋とじがあった。夏の暑さにみな耐えかねて涼しさを求める。他に漏れず、車の中はクーラーが効いている。おそらくコンビニの中もクーラーが効いているのだろう。しかし彼らと私の間には雑誌を見ている熱量の差が違うのは何故なのだろうか。
一口お茶を飲むと、冷えていたはずのお茶はフロントガラスからの太陽光でぬるめになっていた。先ほどの男子たちはどうやら購入を決めたようだ。ありがとう。
彼らは話しながら私が乗っている車の横を通りすぎる。そのとき彼らの話し声が聞こえた。
「双葉のやつ、アイドルのときでもあんな感じなんだな。なんかキャラ作ってんのかと思ってたわ」
「そうだな。今日久々に最後までいたの見たわ。あれなのかな、受験休みでアイドル活動自粛ってホントなのか」
「いやー、あいつのことだし。サボってるだけかもよ」
それ以上は聞き取れなかったが、おおよそのことは分かった。まず彼らは杏と同じ学校の生徒だ。よくみたら彼らの制服は杏の学校のだ。杏は北海道出身だが、ある事情により東京の高校に通い、一人暮らしをしている。か弱い女の子、しかも華のjkが一人暮らしなのに関しては、アイドルになり、しばらくしたときに女子寮に入れるから、そちらに入らないか、と私は勧めたこともあったが、杏には断られた。理由は、今のアパートはコンビニの位置と駅の位置がそこそこ近いから、らしい。そんなこと気にする人間だったか・・・?
余談だが、杏の家から私の家は割と近いのだ。
私はスマホの電源を入れる。予定の時間は15分は過ぎている。
最近、杏はとても働き者だ。いや、だった。杏は知っての通り怠け者だ。アリとキリギリスで言うところのキリギリスだ。最近の絵本だとキリギリス楽器を演奏していて冬に向けて何も貯えずにいたから、冬に死ぬ思いをした、という話だった。しかし杏は怠けるために働くという思想の下で働いているから、サボるところと働くところの分別は分けている。
それは杏のレッスン着を見ていれば分かる。杏のレッスン着にドラクエのコマンドのようなものがプリントされたTシャツがある。「ねる」「にげる」「だらける」「がんばる」の四つのコマンドだ。実はこのTシャツ、きちんと4種類あり、最近だとよく「だらける」のTシャツをよく着ていた気がする。それは杏の仕事へ対するモチベーションを表していて、分かりづらいが上のコマンドに行くほどモチベーションとしては最悪だ。
私がこの仕様に気が付いたのは最近で、私が宣伝のための写真を探していたところ、レッスン中の杏の写真が何枚か出て来て、その中のTシャツがすこーしだけ変わっていることに気が付いたのだ。Little POPSのときとあんきらでCDを出したときのやる気、つまりは自分で言い出したかどうかだが、杏のモチベーションに関わることなので、一応頭の中にいれておこう、と思った。
あと、どうでもいいが杏のフェス後のインタビューは酷かった・・・。
だからといって杏がLittle POPSのときにサボったかというとそうではない。むしろ楽しんでやっていたと思う。杏はなんやかんやで年下の子たちには優しいし、頼まれれば断れない質なのだろう。Littele POPSのときもだが、杏がサボらない理由は信頼感だ。杏の中で『こいつならだらけてもいいか』という線引きがされていて、杏が本当にすべてを任せてだらける人間なんて本当に一握りだろう。――――私もその中にいると信じたいが。
だからこそ最近の杏はとても働き者だった。いや、まだ全国ツアー公演が残っているので、サボってもらっても困るのだが、本当に、先ほどの男子たちが言っていたように受験期の中、よく働いてくれたので、金曜、土曜二日オフ、といっても土曜の午後は仕事だが、オフを入れてやったのだ。偶のオフくらい自由にさせてやろうとしていた。
さて、話を戻して車の中。私は炎天下の中、スーツを着て歩いているサラリーマンの方々に同情の念を送りつつ、外を見る。すでに約束の時間を過ぎたのに来ないのは予想通りなので別にいいのだが、杏は大丈夫だろうか。背が低い子供は、アスファルトで反射する熱を大人より受けるので、少し心配なのだ。杏の身長だとすぐに茹りそうだ。そんなことを考えていると、杏からメールが送られてくる。どうやら暑いから迎えに来てほしいそうだ。仕方ない、行くか。そのために車にはエンジンをかけっぱなしだったんだしな。
杏の通っている高校は、共学の制服校だ。その話を杏から聞いたとき私はホッとした。何故なら、あの杏のことだ。ダルダルのTシャツで登校をしてきそうだからだ。恐ろしや。
杏の学校に近づくにつれて制服を着た学生がちらほら歩道を歩いているのが目に入った。こんなときでも仕事を感じられるのがこの仕事のいいところだろう。制服姿の女子高生を見てもアイドルとしてだったらどうなるか、としか考えられなくなってきていた。軽いワーカホリックだ。おかげで欲情などはしなくなったが。
杏の高校にたどり着くと、駐車場に車を停める。私は駐車場から見える範囲の校庭を先ほどと同じようにボーっと見ている。照り付ける太陽の中、黒く焼けた四肢を振り回し走る者や、黒くなった顔から大声をあげる者もいる。私もあのような時代があったものだ。しかし見ていて思うがやはり褐色の肌というものは素晴らしい。どことなくエロさが出るのは何故なのだろうか。もちろん男女問わずだが。
10分ほど眺めて、私は炎天下の中で外を歩きたくないので杏にこっちにくるように連絡する。今回のコールは久々に長く、7コールくらいでつながる。
「おい、杏何してるんだ。はやくしろ」
私の声に電話の奥の声が戸惑う。あれ、これ杏じゃないな。
『え、えっと。私、杏の・・・じゃなくて双葉さんの友達なんですけど・・・」
「あぁ、申し訳ありません。双葉のお友達の方でしたか。すいませんが、双葉杏はどこに行ったかわかるでしょうか?」
私の疑問の言葉に電話の向こうの女の子の声が少し遠ざかる。これは杏に何かあったのか?ただ、申し訳ないが杏のスマホはよく周りの音を拾うので会話が聞こえるんだなこれが。
(どうしよう、杏が呼び出されたこととか言った方がいいのかな?)
(やばいんじゃない?電話の相手、プロデューサーって書いてあったよね?杏、解雇とかあるのかな)
(とりあえず誤魔化しておこ!)
なんか申し訳なくなってくるな。だが気になることを聞いた。
『杏は、今、そのぉー・・・』
「あぁ、聞こえてたんでいいですよ。どこに呼び出されていたかだけ教えてもらえますか?」
電話の奥から、やばいやばい、とかいう声が聞こえてくる。まぁ、あちらも堪忍したようで、杏は校舎裏に呼び出されたと教えてくれた。今時珍しいな。・・・というかこれ私が悪いことしたみたいになってるな?
はじめに言っておこう。私はかなり空気の読めない失礼な人間だし、性格が捻じ曲がった人間だ。そのことを留意してもらいたい。だからこそ今、こうやって杏が告白されているらしい現場へ向かうのだが。聞いた話によると、この学校の校舎裏は、あまり人が通らず、告白とか、その他諸々の良いスポットらしい。
スーツで炎天下を歩く地獄があるとしたら、それは地獄も現代風にリニューアルしたということだろう。私は今、その地獄を味わっている。なんてことだ、現世は地獄だったのか。いつ間に地獄と現世が繋がったんだ、終末か。週末のラッパか。いや、宗派が違うが。これを毎日味わっているサラリーマンはおそらく地獄の獄卒にも勝てるだろう。毎年、私もこれからの季節にこれをよく味わうのだが。
ようやくたどり着き、物陰から覗くと。丁度杏に告白をしていたタイミングだった。しかし中々の美形だ。あれで杏を好きなのだから、相当好者なのだろう。残念なイケメンというやつか。さて、杏の返事や如何に。
「うーん、ごめん。杏は好きじゃないや。ほんとごめんね?」
そういうと杏は逃げようと後ろを向く。その背中に男子は声をかける。なんでか理由を聞いてきた。すごいなあの子、もしかして罰ゲームか?それにしては顔が必死すぎるな。仕方ない、杏も面倒くさそうな顔を一瞬だけみせたし、入ってやるか。
私は物陰から顔を出す。杏を偶然見つけたかのように振る舞い、声をかける。
「お、杏。ここにいたのか。探したぞ。これから仕事だ」
私の「仕事」というワードで感づいたのか。後ろを振り向き、男子に謝る。
「いやー、ごめんごめん。仕事だったのを忘れてたよ。それじゃ、また来週ね」
杏は手を振り、男子を一人その場に残す。私たちはその場を後にする。
杏は荷物を取りに行き、戻ってきて車に乗り込む。今日は実は杏の高校は午前授業だったので今はまだ13時ほどだ。それでも約束の時間から30分ほどが経っている。なんて日だ。私は車を走らせて事務所に向かう。理由は私の荷物を取りに行くのと、社用車であるこの車を置きに行くのだ。途中でパンを食べ終わった杏が声をかける。
「いやー、プロデューサーナイス!!あの男子には悪いんだけど面倒だったからさ」
「まぁ、俺も面白いものが見れたからな。あの子がなんて言ってたかは・・・聞かないでおいてあげるか」
「うんうん、そうしてあげてよ。いやー、同級生に告白されたのなんて初めてだけど、面倒だね」
「そうだなぁ、あの子も物好きなもんだなぁ」
笑いながら、杏は私から顔を背けて窓の外を見る。見えはしないが、杏の顔はガラスにうっすら映り、これからの学校生活のことを考えて不安になっていることだろう。まぁしょうがないだろう。一応あれほど美形を、特に嫌われやすいアイドルが振った、となれば陰口を言われてもおかしくはない。もしかしたら何か問題が起きるかもしれない。けど、私は、個人的に、ファンの一人として、そんな杏を見たくはないのだ。
「杏、後のことよりこれからどこに連れて行ってくれるかは考えているのか?」
杏はハッと顔をこちらに向けて、笑みを漏らす。やはり杏はこうではなくてはな。
「ふふん、期待しててよ。絶対楽しいからさ!」
私は、楽しそうにしゃべる杏を横目に、今日の忙しさを思うと、ため息をついた。
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怠惰な飴の合計一日オフ 中編
今回の話は半分くらい最近私が面白いと思ったことに使っています。エアホッケーの道具ってスマッシャーとパックっていうらしいですよ。知ってましたか?
私は新人のころ、先輩の荷物持ちのような役割をしていた。基本的にうちのプロダクションは先輩プロデューサーから、様々なことを教えてもらうのではなく、先輩プロデューサーのお付きを———要はアシスタントだが、手伝いながらふと、疑問を思ったことを質問してみた。その疑問は今考えれば、答えるほどでもなく、今の私が新人に教えるとすれば、出来れば担当を持って実感してほしい質問だった。
『先輩、プロデューサーの仕事でこれだけは辛いってことはありますか?』
私がアシスタントをした先輩は、そこそこ人気アイドルたちを担当していた上に、私にもフランクに接してくれていたので、質問をしやすかった。私が質問をすると、先輩は運転をしながら私と目を合わせずにだが、答えてくれた。
その答えは今でも心の中にしかと刻みこまれていた。何故なら嫌というほど実感していたからだ。
答えはシンプル。『担当のお願いを聞くこと、叶えること』だそうだ。
カカカン、カン、カカン、ガシャン!
ゲームセンターの騒音の中でも種類のまた別な、甲高い、プラスチックがぶつかる音が私の耳には届いていた。ゲームセンターの中でこの独特の音を出すゲームはエアホッケーくらいだろう。というか、今私がホッケーをしているのだが。背広は脱ぎ卓の横に掛けて、ネクタイを軽く緩めて、目は真剣そのもので、ネットの向こう側でドヤ顔を決める杏を、親の仇のような目で睨む。私の額からは、普段の運動不足からくる脂汗が滲んでいる。
何故私がゲームセンターで本気のエアホッケーをしているのかは事務所での会話に遡る。
私は杏を連れて、杏の高校から事務所に向かっていた。本来は私の荷物を取りに行くだけのはずだったのだが、杏が着替えてから出かけたいと言ったので、事務所で一休みをすることにしたのだ。そこで間違いだったのが二つある。
一つは、杏の制服姿を写真に収めなかったことだ。杏の通っている高校は公立高校にしては珍しい、制服制あり、とてもシンプルで私は気に入っていたのだ。グレーの地に赤のラインが入ったスカートに、襟に校章が刺繍されたシャツ、さらに女子は選択でネクタイとリボンも選べるというおまけ付きだった。もちろん杏はリボン派だった。私は杏の制服を見たことが数回しかない。理由は・・・まぁ、杏が何故か、杏には似合わない。と言い張って見せてくれないからだ。
だが、こちらの話はどうでもいい。本当にどうでもいい。
もう一つはお昼ご飯の問題だった。今日は高校のテスト後の振り返りの日だったので、午前授業で帰宅となっていた。だから午後から遊ぶ・・・という話だったのだが、杏がお昼ご飯を少し豪華にしたい、と言い出したのだ。私としてはファミレスで済ましておきたかったのだが、杏は定食とか、ラーメンとかの気分だったらしい。
そこで私と杏は言い合いになった。元々ご飯に無頓着な私たちだったので、今までそこで揉めたことがなかった。だからどこで話に折り合いをつければいいかわからなかった。しかし、結論は案外簡単だった。古来より揉め事は勝負で決めるのが常識だ。そこで二人が平等で、且つ短く決まるゲームはないか、と考えた。
そこで杏が、ゲームセンターに行く予定だったのを前倒しして、お昼ご飯の前にゲーセンに行って、そこで何か二人が平等なゲームを探すのはどうか、と考えた。確かに、少し前に杏と仕事をさせるかどうかで勝負したところもゲーセンだったので、私は二つ返事でokと言ったのだがそれが不味かった。杏はそもそも、ことゲームに関しては、私より上手い。私もゲームで杏に勝てる種類はあるが、それはゲーセンにあるものではない。私がそのことに気が付いたのが歩きながらゲーセンに向かっている最中だった。
やけに杏が自信ありげに、今回の勝負を何にしようか話しているので、思い出したのだ。このままだと私は負けてしまうことに。そこで、私は何か特殊なゲームを選んで勝負をすることにしたのだ。UFOキャッチャーしかり、パンチングゲームしかり。しかし、UFOキャッチャーは私が苦手だし、杏も苦手・・・なのだが運が良い杏は、何故かたまに上手く獲ることが出来てしまうので却下。パンチングゲームは肉体的に差があるのでダメなので却下。となると私に勝ち筋があるのは以前勝ったことがあるエアホッケーしかない、ということで、断られること前提でエアホッケー勝負をしかけたところ、それで良い、ということになった。
カッカ、カン、カカカン、カッカカン、ガコン、ガシャン!
「な、なかなかやるじゃないか。流石の俺も負けそうだぜ・・・」
話は戻り、現在に至る。杏は、私の提案、ホッケー勝負を受け入れる際にハンデを提示してきた。一つは、体格差を考量したうえでのハンデ、もう一つは点数のハンデだ。そのほかのルールとしては最初の一発目は交代で打つということくらいだろう。
点数のハンデは文字通り、先に杏に点数を何点か上げてから勝負を開始するというものだ。このゲームセンターのホッケーは7点先取だったので、ハンデは1点となった。そして体格差のハンデだが、ここで杏は驚きの提案をしてきた。なんと、スマッシャーを二つ使っていいか、と提案してきたのだ。スマッシャーとは、エアホッケーで使う打つやつのことだが、私はその提案を即座に了承した。何故ならスマッシャーを二つ使うという行為は、有利に見えるが、実は台を抑えて打つというプレイが出来ないために、不利になるのだ。だから私は勝利を確信していた。
しかし、ここで忘れてほしくないが、杏は凡人よりは天才の部類に入る人種だ。努力型ではあるが、天才だ。それは手先の器用さや、容量の良さに起因している。そしてそれはエアホッケーという、アイドルとしては、どうでもいい分野にも発揮されていた。今考えれば、1点のハンデはスマッシャー二つの練習用の1点だ、と今更ながら気づいた。
真ん中にある、二人のフィールドを分けているネットの上方にある電光掲示板には2-5の文字が表示されていた。もちろん、2が私だ。何故杏はここまで強いのだろうか。もしかして杏は急に両利きになったのだろうか。たしか右利きだったはずなんだが・・・。
「私に勝とうなんて100年早いよねぇ~ 」
杏はスマッシャーを持ち上げて裏側を胸の前で合わせて、カンカンと鳴らす。一人称をきちんと変えるのはプロ意識が高くていいことだ。だがなぜここまで上手く二つのスマッシャーを使っているんだ・・・。私はとりあえず一発目を打ってみることにした。
私の打ったパックはネット設置されている部分の壁に当たり、カン、カン、と壁で跳ね返り良い角度で杏のゴールに向かって高速で進んでいく。杏はそれを左手のスマッシャーで抑え、少しパックを前に出し、右腕を振りかぶって思いっきり打ってくる。打ったパックはそのまま真っすぐ私のゴールに飛んでくる。私はそれを何とかスマッシャーに当ててやり過ごす。しかし弾かれたパックはそのまま杏のフィールドに向かい、それを待っていた杏が身を乗り出して打ってくる。その弾道は先ほどと異なり壁に一回だけ当たってゴールに向かってくる。体勢を崩していた私はそれに反応できずにパックの侵入を許してしまう。
ガシャン、と音が鳴る。私は肺から息を吐きだし、しゃがみこんで、本日6回目の私のパック拾いを見せる。台から目から上だけを杏の方に向けると、杏はピョンピョン跳ねて喜ぶ。おいおい、やめろやめろ。目で追ってしまうだろ。杏は健康的・・・とはいえないような細い足で飛んでいる。
「なるほどな・・・。次は勝つ」
私の言葉に杏はひゅー、と口笛を鳴らす。
「やってみなよ。ま、勝てないだろうけどね」
音が消える。先ほどまで騒音だと思っていた店内の音がどこか遠く聞こえるのだ。私は杏にパックを渡して、杏の動きに集中する。杏は左手を振りかぶり横なぎに渾身の左手を決める・・・ことはなく、パックの目の前で止まり、代わりに右手が飛んできてパックを打つ。しかし飛ばされたパックは私のフィールドに来ることはなく杏のフィールドで左右に振られ、私の目を惑わす。そして2,3周したときに杏は両手のスマッシャーを台の上で横に並べて、左右に揺れるパックにタイミングを合わせて二つの間で打つ。
結局その後、私はラーメンを食べることになった。
ラーメン屋を出ると時刻は16時を廻っていた。事務所から出てゲーセンに向かおうとしたときに確認した時間が13時前だったので、およそ2時間ほどゲーセンで遊んでいた計算となった。このクソ暑い時期にラーメンとか頭がおかしいんじゃないかと思うし。杏のやつここぞとばかりに替え玉も注文しやがって・・・。あの体のどこに替え玉が入ったんだよ、まったく。杏の体重管理をしているのは基本的にトレーナーだが、私も情報を共有はしている。しばらくは節制に努めさせなければ。
———思えば、これもファンの知らない杏か。
「ねーねー、次のところ行くよ」
杏は私のシャツの袖をくいくい、と引っ張る。かわいい。
「そういえば次はどこ行くんだよ。俺はなんも聞いてないぞ」
私は今回のオフの日の予定を聞かされていないので、全て杏に任せてしまっている。この後って言うと・・・何時になるんだ帰るのは・・・。
「今からの一応の予定は、あn・・・私の家に行って水着を取ってプール行くよ!」
「は?」
こいつはなんて言いましたか?今からプール?バカなの?
「いやいやいや、ちょっと待てよ。今からってどこに行くのかわからんが、夜になるじゃねーか」
「え、そうだよ?あと花火も持ってこーよ。場所は桃華の敷地を貸してもらえるってさ」
はーーー、桃華ちゃんのところか・・・。あとで桃華ちゃんのプロデューサーと桃華ちゃんに菓子折りを持っていかなければなぁ。私は手帳にメモして杏の方を向く。杏は相当楽しみなのだろう。さっきから歩きながら私の手を握ってぶんぶん振っている。一応変装はしているのでバレはしないと思うが、もしもがあったらどうするんだよ。それに後で櫻井家にもあいさつをしに行かねばならないし・・・。
でも、この楽しそうな顔を見るとそういう考えもどっかに行ってしまう。
先輩、私はこの担当の願いなら叶えてあげたいです。
私は杏の手に引かれて前へ進みだした。
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怠惰な飴の合計一日オフ 後編
この話は私がずっと書きたかった話です。特に杏とPの関係性的な意味で。
女性とプールに行くのは何年ぶりだろうか。まぁ、相手は杏なのだが。
高校時代には体育の授業でプールに入ったことがあったが、何しろ私は女性と縁がなかった。男子校というわけではないのだが、まぁ、その、察してほしい。
だが今日は水着姿でいるというのは不可能だった。何故なら急な話だったから、水着も持ってきてない。このバカでかいプールを泳いだりできないのはとても残念だ。嗚呼、残念でしょうがない。
そんなことを言っているから、杏がここのプールの管理者に『男用の水着を貸してほしい』なんて言ったのだろう。これ以上櫻井家に迷惑をかけると、私の心労が・・・胃が痛い・・・。
その上、ここのプールを貸して頂いた櫻井家の方にとりあえず挨拶をしに行ったときにまず、門の大きさに驚かされ、助手席に杏を座らせている私を見て守衛の方が通報しようとしたり、一応近くに人を配置するが、男女二人きりでプールを利用することについて軽く櫻井家の別荘の管理者が言及してきたので、そのことのついて弁明をしたりなどで心が休まらなかった。
まぁ、一緒にいる相手は良い意味でも悪い意味でも杏なのだが。
私は自分の腕時計を見る。時計の短針は7を指し、陽は半分ほど遠くに見える山の中に沈もうとしている。
隣にいる杏はフリルの付いたオレンジの水着を着て、デッキチェアで何やら飲み物を飲んでいる。その姿を見て、私ものどが渇いたな、と思い私の寝そべっているデッキチェアの横にあるテーブルから飲み物をとりストローに口をつける。・・・何故杏は私とここまでデッキチェアを近づけたのか?考えてはいけない。
「男の人とプールかぁ・・・。何年振りだろ。でも楽しまなきゃ損だよね!」
そんな私の心の中を読み取ったかのように、私と考えていたことと似たようなことを言うと、杏はデッキチェアから勢いよく立ち上がる。座っていたデッキチェアにお気に入りのウサギのぬいぐるみを置くと、25mプールを4つほどくっつけたような大きさのプールの飛び込み台まで歩いていき、深呼吸をする。飛び込み台の高さは水面から1mもないほどだが・・・杏は勢いよく飛び込んだ。
水しぶきがこちらまで飛んできたので、私は咄嗟に横のデッキチェアを守った。バカなのか杏は、このぬいぐるみにスマホも財布も入ってるのにこっちまで水を飛ばしやがって。私は濡れたパーカーを脱いで自分のデッキチェアに投げる。
「おい、杏!危なくうさぎに水がかかるところだったぞ!」
私は自分にかかった水を手で拭いながら杏の方を見ず叫ぶ。しかし私の叫びも虚しく、杏は無視をする。杏には私の言葉は届いていないようだ。杏を見るとプールにプカプカと目を瞑りながら浮かんでいる。夕日を反射した水面はキラキラと輝き、杏のブロンドの髪をも反射して一枚の絵画のようだった。
・・・少し見惚れてしまった。
私はブンブンと頭を振り、見惚れてしまった恥ずかしさを払おうとする。顔が熱くなってくるのをプールに顔を突っ込んで冷ます。4,5秒経ってから顔を上げると杏が驚いた顔でこちらを見ている。私は不思議そうな顔をしている杏に手でしっしっ、と手で視線を払う。そう言えば杏はさっき男とプール行くのが久しぶりとかどうか言っていたな。それに関して詳しく聞くとしよう。
「・・・男と行ったことあるのか?それって誰とだ?」
杏は私の言葉に驚いたのか、浮いていた体勢から溺れだした。恐らくだが、杏はプールの底に足が着かないのだろう。私は焦ってプールに飛び込み、溺れかけている杏を下から抱きかかえて自分の体の方に寄せる。杏は私の首の後ろに手を回して抱き着いてくる。杏の小さな顔が私の横にくる。このテのイベントは胸がふにっと当たってドキドキするのがテンプレだが、凹凸の少ない杏の体を抱きかかえると、失礼な話だが、子供を抱きかかえているような気分になる。
「プロデューサー!驚かさないでよ!」
杏が私の顔の横、耳のそばで大声をあげるのでキーンという音がする。
「俺のせいかよ・・・」
横暴だ。まぁしかし私が驚かしてしまった事実には変わりないので杏には謝っておく。
この体勢のままでいると急に杏がもじもじしだした。どうした、お花でも摘みに行きたいのか。と思ったが私も冷静になって考えてみると、傍から見たらこの光景は杏とただただプールで抱き合っているだけだ。そんなことを考えていると、私の顔の横にある杏の顔が真っ赤になっているの気づいた。どうしたんだ?
「ぷ、ぷろ・・・ぷろでゅーさーぁ・・・。」
「あん?どうした」
私が聞き返すと杏の表情が変わった。これは・・・怒りかな?
「お尻!触ってる!!」
私は、ぱっと下を見ると私の右手がガッチリと杏の小ぶりな桃尻を鷲摑みしていた。触っている感覚がないな。脚もほっそいし、ふとももでも握っているのかと思っていた。とそんなことを考えていると杏の平手打ちが飛んできて私の頬を打ち抜いていった。
「プロデューサーにキズモノにされた・・・」
「杏、それを事務所で言うなよ。言うんじゃない。言わないでください」
「えー?・・・飴ね」
杏はボソッと交換条件を提示してくる。ちっ、まぁ仕方ないか。セクハラをしたのはこちらだしな。逆にそれで黙っていてもらえるのだからいい、ということにしておこう。
私たちはプールから出てデッキチェアに再び座っている。杏は濡れた髪をタオルで拭きながら、私に背を向けて話す。私は何も考えずに杏の後姿を眺めていた。
最近、私はどこか変だ。先ほどのように無意識に杏を目で追ってしまったり、杏の男関係が気になったりしている。もしかして杏に恋をしているのだろうか、とも考えたが、どうにもそういう気持ちではないのだ。ではこのモヤモヤは何なのだろうか。
私はデッキチェアに横たわって空を見上げる。先ほどまで暮れかけていた空は、既に星空が広がっている。時計の短針は8を指している。もう一時間もここにいるのか。杏と今日いる時間もそろそろ終わりだな。
「杏、そろそろ帰るぞ。暗くなってきたし、櫻井さんに迷惑をかけちゃいかん」
杏はこちらに振り向き、タオルで髪を拭く手を止める。
「えぇ~。もう終わり?」
杏はぶーぶー言うが、私はそろそろ帰りたかった。大人になり、海水パンツを履くのが恥ずかしくなってきたのだ。・・・お腹周りがちょっとね。まぁ、杏には言わないのだが。
私たちはプールの管理人にお礼の言葉を述べて帰路につく。ここまでは車を使ってきてないので、歩いて帰ることになる。しかし歩いて帰るとなると杏が文句を言うので、タクシーを呼んで、杏の家まで送ることにした。
タクシー待っている間暇だったので、櫻井家の別荘の近くの公園のベンチに座りながら先ほどの悩みについて考えていた。しかし私はかなりの不器用なので、疑問があったら聞いてしまう癖があった。だから今考えていることも杏に聞いてしまえば答えが出るかと思ったときには既に口に出していた。
「俺さぁ、最近悩みがあってよ」
杏は持っていたスマホをポトッと自分の膝の上に落とした。
「プロデューサーが杏に相談・・・?頭おかしくなったの?」
「お前が普段俺のことをどう思っているのかが、よーーくわかったよ」
杏はスマホ拾ってポケットにしまった。
「いや、でもさ本当に珍しいじゃん。嫌なわけじゃないよ?」
「そうか?・・・そうか、そうだな」
杏に今まで相談事をしなかったのにはもちろん、私自身のプライドの問題もあったが、事務所の方針として、アイドルにあまり弱みを見せるな。という方針があるのだ。何故だかはわからないのだが、先輩に聞いた話だと、アイドルが弱みを握ってプロデューサーから色々搾取していた・・・らしい。それ故なのだが、あまりアイドルと密接になるな、という話なのだ。まぁ、私は全然気にしてないのだが。
「で、悩みとは何ぞ。この杏様が聞いて進ぜよーう」
杏がうっすい胸を張って聞く体制に入った。
「そうか?なら言うんだけどよ。最近杏のことが気になって仕方ないんだよ。どうすればいいと思う?」
ふー、なんか言ったらすっきりするな。さて、杏の反応は・・・おおう、顔を真っ赤にして口をパクパクしてやがる。なんか最近多いなぁ、杏の赤面。とりあえず、杏の反応を待とう。
「え、えーっとぉ・・・。それってどういうこと?」
私は最近の私の行動について説明する。杏は少し引いた顔をしているが受け入れてくれているようだ。
「いやぁ・・・。メンヘラみたいだね・・・。」
「それを言うな・・・。で、なんでだと思うよ、杏は」
「えぇー・・・。でも、普通に考えたら、杏のこと好きなのかな、ってなるんじゃない?」
だよなぁ、そうなるんだよな。でもなんか違う気がする。それに私にはそれはありえない理由があるしな。私たちの間で沈黙が訪れた。こういう問題が起きたときに解決するのはいつも杏だ。だから今回もあてにしている。思考が詰まったときに杏があっ、と声を上げた。
「親心・・・とか?」
親心。親心か・・・。そういわれるとそんな気がしてきた。そう考えるとこの気持ちも納得がいく。
「もしくは、友達としてとか」
「友達ってどういうことだ?」
「例えばさ、親友くらい仲良くしていた友達が、急に他の人と仲良くなったらさ、むっ、ってなるじゃん」
「そ、そうか・・・?うーん。俺にはわからん」
これが価値観の違いかぁ。杏も私も再びの沈黙についにはアイデアも出なくなってしまった。すると公園の入り口の方に向かってタクシーが走ってきた。恐らく呼んでいたタクシーだろう。丁度いい、もう今日は帰ってしまって明日じっくり考えるとしよう。
「杏、タクシー来たから帰るぞ」
「・・・おっけー」
私たちはタクシーで杏のマンションから徒歩10分付近のお店で降ろしてもらい、歩き始めた。5分ほどして杏が急に口を開いた。
「杏もさ、たまーーーにプロデューサーと似たようなことを考えるんだよね。でも結局考えが纏まらなくてさ、プロデューサーと会話すればどうにかなると思ったけど、ダメだったね」
杏は力なく笑った。杏のこの表情は嫌いだ。・・・こういう考えに至る所がダメなのか?
「でもわかったこともあるんだよね。結局杏とアイドル、プロデューサーはプロデューサーなんだから親子のようで友達のようで、恋人のようでもあるんだよ」
「なるほどなぁ・・・」
杏は、ただ、と付け加えて話す。
「この関係が終わったとき・・・どうなるんだろうね」
それは考えないようにしていたことだった。杏が引退したら、私が杏の担当ではなくなったら等々。色々理由は考えられるが、どうしてもその日はやってくる。そのとき私たちは、私はどうなるのだろうか。ただ、こういうときに私が杏に返す言葉は決まっている。
「そう言ってアイドルを引退して印税生活を送ろうって魂胆か?ダメだダメだ。まだ働いてもらうぞ」
誤魔化す。杏の疑問を先延ばしにして、考えないようにする。
「・・・ちぇー。まだダメかー」
杏もそれを察しているのだろう。だから話を無理やり変えても乗ってきてくれる。杏のマンションが見えてくる。しかし私たちは考えなければならない。杏がアイドルを引退するのも、この関係性が変わるのも。今、こうやって杏のマンションが見えているように、その結論が出る未来も、すぐ目の前に差し掛かっている気がするからだ。
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怠惰な飴にファンレター
一回も直接杏が出ない回です。
LIVEといのはいつになっても緊張するものだ。それは、私にとってもそうだ。だが、その私以上にステージに立つアイドルは、私の想像も及ばない不安を感じ、私とは比べ物にならないほどの準備を重ね、私には100%は理解出来ない喜びに包まれるのだ。そうして達した領域はアイドルにとって至上のものなのだろう。だからこそ、その到達した領域には、ただステージを用意するだけの私が立ち入ってはいけない神聖な場所となっている。
では私たちにとっての喜びは何なのか、どこにあるのかというと、非常にシンプルである。ステージから帰ってきて、『アイドル』から普通の人に戻るあの瞬間だろう。先ほどまでステージの上で踊って、歌って、笑っていた存在が掻き消えたかのようにふっ、となる瞬間。私の顔を見てほっとしたような顔を見た瞬間、逆に泣き崩れる顔を見た瞬間。あの瞬間に私は、もちろん良い意味でだが、してやった、と思えるのだ。
ではそんなアイドル達を支えるファンにとっての喜びとは何なのだろうか。これに関しては私にはわからない。
「あっつ・・・」
私は段ボールを胸の前で両手で持ち上げながら呟く。段ボールの上面は開いていてそのせいで視界が遮られていて見え辛い、その上、この事務所の倉庫からデスクが置いてある部屋までの廊下は狭い上に窓がないので蒸し暑い。さらに暑さから、汗が額から零れ落ちてまつ毛にかかる。その二つの不快感を同時に払うために頭をブンブンと振り風を感じると同時に汗も落とせるし一石二鳥だと考えたが、この暑さで頭が茹っていたのだろう。立ちくらみが起きて廊下の壁に肩が激突する。
「っっ~~」
「なにやってるんですか・・・」
私の悶絶の声——実際は声には出してないのだが、その様子を見ていたちひろさんが呆れたように後ろから声をかけてくる。ちひろさんには段ボールをもう一つ持っていてもらっている。今の私の後ろを振り返る余裕はないのでわからないが、この狭い廊下では二人が通るスペースはないのだから早く行け、みたいな目をしているのだろう。
ようやく、といった具合でデスクにたどり着き、段ボールをデスクの上に乱暴に置く。そのせいで段ボールから中身の紙が一枚、はらりと落ちる。後ろからよたよたと追いついてきたちひろさんが私と同じく乱暴に私が先ほど置いた段ボールの横に置く。ちひろさんは肩で呼吸をし、顔を真っ赤にしながら私に向かって怨嗟の言葉を呟いている。
「ツブス・・・、ゼッタイキュウリョウサゲテヤル・・・」
「そういうこと言うのは止めてくださいよ・・・。今度奢りますから」
私がそう言うと先ほどの表情が嘘のように晴れて、笑顔を向けてくる。これが千川スマイルか。
「それで、この量のファンレターを一人で検閲するおつもりですか?私はあなたの頑張りを認めているつもりではいますけど、それは流石に無茶ではないんですか・・・?」
確かに、ちひろさんの言う通りこの段ボール二つ分、一つの箱に1、200枚のファンレターが入っているとしてそれが二つか・・・。確かに難しいかもしれない。
「そうですね・・・。でも今日の業務はほとんど終わっているので大丈夫だと思うんですよ」
私は壁に掛けてある時計を指差す。すでに外回りを終えて、業務をすべて終えて4時、後は来月のスケジュール作成くらいだったので一週間ほど貯めてしまったファンレターを消化しようとした次第だ。本当は毎日確認するのが理想なのだが、杏が毎日読みたくないと言うのだ、仕方ない。
「それに杏も今日はレッスンが終わったら暇だって言っていたので・・・。もしかしてちひろさんが手伝ってくれたりしますか?」
私が軽口を叩くとちひろさんは自分のデスクから零れ落ちそうな書類の山を指差して言う。
「あの山を削るのを手伝ってくださるならお手伝いしますが?」
にっこり。つられて私もにっこり
「お断りします」
ファンレターの種類はたくさんある。本当の手紙のように閉じられて、中身が数枚もあるものや、一枚だけのもある。さらにほかにもあるのだが・・・それは後で持ってくるとしよう。では、どこに検閲する要素があるのか。中身にもよるがまずは内容だろう。誹謗や中傷は良い方なのだが、中には・・・うん、アイドル、というか女性に対して向けるべきではない言葉やアイドルに見せたら、気持ち悪がってしまう内容もある。過去に、ファンレターを検閲をせずにアイドルに見せて、売り出し中だったアイドルが数人辞めてしまう、という出来事があった。他にも何とは言わないが、謎の液体が付着しているものもある。それを見せないが故の検閲なのだ。
だが、量が量なので超人気アイドルのファンレターは週に1000枚を超えることもあるそうだ。その量では発狂するだろうが、私の目の前にある量だけでも発狂しそうになるのにあの方々はどうやってあの量をさばいているのか不思議である。
一枚一枚確認するのは、きつい上に精神的にクるものもあるが、中には励ましの言葉や感謝の言葉を述べているものある。そういうファンレターを見ていると自然と頬が緩んでしまうのは仕方のないことなのだろう。しかし、杏はコンセプトがニートなだけあり、他のアイドル達より批判が多いのだ。そのことを杏も理解しているので、もちろん、言われることを覚悟しているのだろう。
では誹謗や中傷などのファンレターは全て見せないのかと言われるとそうではない。ここはプロデューサーによるのだろうが、私はある程度は見せる派だ。例外として12歳以下のアイドル、つまり小学生組は絶対に見せないことになっている。中、高の学生などの中学生より上のアイドルにはプロデューサーの判断に任せることになっているので、私はある程度は見せることにしている。流石に劣情をぶつけてきているものや言葉が激しすぎるものは除いているが。というかそれはファンレターではないだろう。ただの迷惑だ。
さて、ここらへんで一枚紹介しておこう。
『杏ちゃんへ
僕が杏ちゃんを初めて知ったのは、あんきら狂騒曲!?です。
もともと僕はきらりちゃんのファンだったのですが、あの曲を聞いて以来は、杏ちゃんのファンにもなりました。自由で、歌詞とは言えないような歌詞なのですが、聞いているだけで二人の仲の良さが伝わってくるようで思わず口が緩んでしまいます。
私は杏ちゃんやきらりちゃんと同じく高校3年の学生なのですが、高校3年の受験で忙しい時期にアイドルとして活動をしている杏ちゃんときらりちゃんはすごいと思います。僕には勉強をしながら他のことをすることが出来ないので、少し羨ましいです。杏ちゃんは勉強が出来そうなので国公立などを目指すのでしょうか?それとも大学に行かずにアイドルを続けるのでしょうか?それがわかる日が楽しみです。
ゲームやお菓子のことに詳しく、ニートな杏ちゃんを応援しています。』
このファンレターはかなり良い部類だ。短く纏められていて、誹謗や中傷もない。私としては見ていてうれしいし、短くて楽だ。そして、このファンレターで最後の検閲だった。
この一枚を検閲クリア、とかかれたカゴに入れて一度伸びをする。ポキポキと心地の良い音が鳴る。体に悪いとは知っているが、これだけは止められそうにない。伸びをしたときに確認したが、検閲開始からすでに3時間が経過していた。そろそろ杏のレッスンが終わる時間なのでスマホを見て、杏から連絡が来てないかを確認する。最悪迎えに行かなくてはならないからだ。杏からのメッセージは・・・なしだな。帰った可能性もあるし、事務所に来る可能性もある。見られるとダメな方のカゴを持ってデスクを立ち、ちひろさんのデスクに向かう。この時間まで仕事をしているのは事務員くらいだろう。
「ちひろさん、これ検閲でのやつです。処分お願いします」
私が声を掛けると、ちひろさんは眼鏡を外してこちらを向く。ちひろさんはコンタクトだがたまにこうやって眼鏡を掛けている日がある。とても似合っているので眼福である。私から処分、と書かれたカゴを受け取ったちしろさんは中身を見て数を数える。
「今回は・・・ひぃ、ふぅ、みぃ・・・結構多いですね。ざっと四十枚くらいですか」
「全部で38枚です。恐らくですけど少し前のユニット効果ですかね。良くも悪くも杏らしさが出たので」
「確かに・・・まぁおおよそ予想は付きますけど、他のアイドルのファンの方々からですか?」
ちひろさんの言葉に私は思わず苦笑いをしてしまう。
「そうですね・・・。結構言われてました。でもその分、他のファンの方々からの激励の言葉とかも多かったんですよ。それに元からファンだった方の激励も多かったですし」
「ふふ、それはよかったですね。・・・最近はSNSを利用するアイドルも増えたのでファンレターも減りましたね。もちろん、SNSを利用しているアイドルの元にもアナログなファンレターは届くんですが・・・。数はやはり減ったと見るべきでしょうね」
ちひろさんは愛用のマグカップを置いてしみじみと語る。確かに城ケ崎姉妹のように積極的にSNSを利用するアイドルの元にはリプライという形でSNS上でファンレターが届くが、あの子たちも大事にはしてるのは紙で送ってくるファンレターらしい。手に残るし、見ようと思えばいつでも見れるからだ。あの子たちらしい。
「・・・まぁ、そのような話は今度の飲み会でしましょうか。とりあえずこれは預からせていただきますね」
「はい、ありがとうございます」
タイミングを計ったかのように事務所のドアが開く。そこには気だるげに歩くアイドルがいた。そのアイドルは私に飴を要求してくるだろう。だから私は笑顔で飴とファンレターを手渡すのだ。
ファンがなにを喜びとしているのかはわからない。こうやってファンレターを読んでいてもわからないのだ。
だが、アイドルの一挙一動に対して、一喜一憂しているのは紛れもなくファンの人間であり、私のようなプロデューサーはファンとアイドルをつなぐ架け橋であり、関所でもあるのだ。
すべてのファンを喜ばすことは出来ない。だから私に出来ることは、ファンのニーズに合わせてアイドルが働いてくれるように、アイドルとして長引かせることくらいだろう。
・・・だから印税生活はまだ、お預けだ、杏。
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怠惰な飴と普通
①
・高校3年生
・今年で18歳
・アイドル二年目
というパターンと
②
・大学4年生
・今年で24歳
・アイドル六年目or???
みたいなイメージをもってください。
今回の話は①です
「島村卯月。頑張ります!」
卯月ちゃんは胸の前でダブルピースをして、満面の笑顔を咲かせる。
「いや、卯月ちゃん、これは頑張らなくていいよ?」
この娘は本当にいい子すぎて心配になるなぁ・・・。いつも卯月Pが心配しているのも頷けるな。
「流石は卯月だなぁ・・・」
「お前は10%でも卯月ちゃんの姿勢を見習え」
私の言葉に卯月ちゃんは少し顔を赤くしはにかんで、えへへ、と照れる。杏は私と卯月ちゃんを尻目に、私の膝を枕に横になって新作のゲームをしている。その表情はゲーム機に隠れて見えない。まったくこいつを見ていると卯月ちゃんの芸能人としての素晴らしさと姿勢に感動させられる。真夏の暑い日によく人の膝を枕で平然としていられるな。
「いやいや、プロデューサー。この仕事は受ける方が間違ってると思うよ」
杏がゲームをスリープさせる。ゲーム越しに杏と目が合う。
「まぁ・・・それはそうなんだが」
杏は私の膝から頭を上げて私の横に座り直す。近くに寄るから結構暑い。そんな私と杏、そして卯月ちゃんは目の前のテーブルに置かれている企画書を見て各々考えるのであった。
そもそもの原因は幸子ちゃんPにある。あいつは普段は真面目なのだがどこか抜けているところがあり、書類の誤字脱字はしょっちゅうであり、ひどいときは先輩であり、後輩にとても厳しいことで有名な未央ちゃんのプロデューサーにタメ口を使ってしまい、揉めたこともあった。ただし有能な点として何か国語かを喋れるらしいので海外での仕事を取ってくるのが誰よりも上手なのだ。
それでは今回は何もしたかというと、プロデューサーとしては致命的なミスであるダブルブッキングをしてしまったのだ。もちろん私たちプロデューサー陣は呆れる、社長は苦笑いをする、おn・・・仏のちひろさんも陰のある笑顔で幸子ちゃんPを呼び出していた。我々プロデューサー陣は怒らせるとヤバい人ランキングのTOP3に入っているちひろさんは怒らせないようにしようと決めているのだ。だからこそ呼び出されて泣きそうな目でこちらを見るあいつにも皆が静かに合掌をして、静かに各々の仕事に戻る。哀れ。
しかし、取ってきた仕事というのは当たり前だが、そう簡単になしにしてくださいとは出来ないのである。ではこういう場合どうするのか。簡単な話であるが代役を立てるのである。もちろん他のアイドルたちも仕事やレッスンなどの外せない予定があるので、代役を頼まれるのはオフの日になっているアイドルたちだ。だが仮にも仕事やレッスンでで疲れていて、偶の休日を満喫しようとしているアイドルたちだ。普通に頼んだところで、承諾してくれる人はいないだろう。
その上、今回は幸子ちゃんの代役だ。最近ではよくバラエティの過酷なロケに駆り出されることが多いあの幸子ちゃんの代役となれば頼みを聞く者もさらに減ってくることだろう。誰もがオフの日を削ってまで、しかも先の話とはいえ夏のクソ暑い日にバラエティに出たくはないだろう。そこをうんと言わせるのはプロデューサー側の手腕にかかっている。
しかしそんな中、白羽の矢が立ったのがうちの杏と卯月ちゃんだった。卯月ちゃんは普通にオフの日で、丁度ダブルブッキングが発覚したときに事務所にいたからだ。では杏はというともちろんオフの日であった。しかも二日オフの週だったので予定をぶち込めるかもしれないと考えたわけだ。もちろん杏には出来るだけ無理はしてほしくはないが、プロデューサーの観点から見るとこれはチャンスなのだ。
普段はやらない仕事をしたおかげで、新たなジャンルの仕事が舞い込んでくるようになった、などという話はよく聞く。私はそれを狙ってのことだったのだ。まぁ杏がうんというわけないので、ここも私というプロデューサーの手腕の見せ所だが。
すでに話し合いは30分が経過しようとしていた。卯月ちゃんは緊張による水の飲みすぎでお花を摘みに行ってしまっていた。何故この場に卯月ちゃんPがいないのかというと、彼はこのプロダクションの中でもかなりのポストにいるので、重大な会議に出ることができ、今はそれに出ているため私にこの場を任せているのだ。彼は卯月ちゃんにすべて任せていても大丈夫という自信があるのだろう。私は杏をそこまで信用することができない。
だが私には杏を制御する必要することが出来る。それを見せてやらねば。
「杏ぅ・・・、お前に幸子ちゃんに借りがあるよなぁ・・・?」
横でいつの間にかゲームを再開していた杏の方がビクッと震える。
「な、何の話かなぁ~」
杏が顔を逸らしてへったくそな口笛を吹く。まぁわざとだと思うが。白を切るなら仕方ない。
「俺が付いて行っていないロケで、ほとんどの仕事を幸子ちゃんに任せてたらしいなぁ・・・?」
「い、いやあれは幸子が自分から・・・」
「はい、ダウト。あと昨日、卯月ちゃんに教えてもらった国語を復習しとけよ」
「マジで現国と古典は鬼門なんだって・・・」
頭を抱えて受験勉強に悩む杏を放って置いて、私はテーブルで裏向きになっている企画書を手に取り、表紙に書いてある企画のタイトルを読み上げる。
「『白坂小梅と行く! 心霊スポット5連発!!』ねぇ・・・」
何度見ても頭がおかしいとしか思えない。この企画を採用したTV側もおかしいが、この企画を幸子ちゃんに平然とやらせようとしていた方もどうかと思う。ちなみにこの企画を小梅ちゃんに提案したところ、目を輝かせてマップを開いてオススメを語りだしたそうだ。不安だ・・・。
「お話は進みましたかねー?」
卯月ちゃんが戻ってきた。
「おう、おかえり。さて話を再開させようか。ほら杏もそろそろ真面目に参加しろ」
「くそー、納涼だか何だかしらないけど、杏はそんなことじゃビビらないから良い画が撮れないよ」
杏の言葉に卯月ちゃんがあれー?と首を傾げる。
「でも杏ちゃん、前に『家に幽霊がでた!』って言ってきらりちゃんに電話かけてませんでした?」
卯月ちゃんの天然なツッコミに杏は焦る。もちろん私はそこを見逃さない。
「ちょっと卯月!それは秘密って話だったじゃん!」
「そ、そうでしたー・・・。あ、あはは・・・」
「ほほーう、杏め。また嘘を吐きおったな。罰として今回の仕事はお前がやれ」
「お、横暴だぁーー!!」
杏はソファに倒れこみ、悔しがるふりをする。ふりというのは、まぁ言葉の綾というか、悔しがっているのは本当なのだが、何分このままだと杏は再びゲームを始めるから、結局は悔しがる瞬間は十秒もないのだ。そして卯月ちゃんは申し訳なさそうにしている。
「えへへ、ごめんなさい杏ちゃん。心霊スポット巡り頑張ってくださいね!」
「卯月めー、やってくれたね・・・。まぁ今回は卯月に免じて仕事をするかぁー」
二人の間でも話はまとまったようだ。これならいいだろう。
「うんうん、じゃあ杏は今からレッスンだよ。さっさと行け」
杏はぶつぶつ文句を言う。今日は粘るなぁ。私は仕方ないとばかりに寝ている杏のお腹の上にカバンからそっと飴を取り出して置く。杏はそれを見ると急に黙り、無言で飴を受け取り、立ち上がって荷物を取りに行った。私はそれを見て満足して頷く。
卯月ちゃんはまるで感心したかのような声を上げる。私がその声に卯月ちゃんの方向を見るとあわわ、と慌てだす。というか今の一連の動きに感心するようなところがあったんだろうか。
「どうかしたの?もしかして飴ちゃんほしかった?」
私はカバンからもうひとつ飴を取り出して卯月ちゃんに差し出す。
「あ、ありがとうございます!」
卯月ちゃんが飴を口に含む。場に沈黙が流れる。助け舟を出してあげよう。
「それで、言いたいことがあったんじゃない?」
「は、はい!杏ちゃんのプロデューサーさんは杏ちゃんと仲良しなんですね!」
仲良し・・・?まぁ確かに仲は良いが他のアイドルとプロデューサーもこんな感じのような気がするが・・・。私は杏とオフの日に一緒に遊ぶことは少ないが、他のプロデューサーはオフの日に朝から夜まで遊んでいる者たちもいるらしい。そっちの方がすごいと思うが。
「そうかな。ありがとう。でも卯月ちゃんたちも仲良しに見えるよ?」
私がそう言うと、卯月ちゃんらしくない陰のある笑顔をする。
「ありがとうございます。でも私たちは多分そこまで仲良くないんだと思います」
「そうかな?結構仲良かったイメージがあったんだけどね、オフの日も遊んでなかった?」
「えへへ、昔は二人とも忙しくなかったのでオフの日に気晴らしにお洋服を見に行ったり、ご飯を食べにいったりしてたんですけど、最近は忙しくて顔を合わせることも少なくなってしまって・・・。もちろん忙しくってお仕事があるのは嬉しいことなんですけど・・・。どうしても寂しくなってしまって・・・」
「・・・それって」
私の言い淀んだ言葉に卯月ちゃんは顔を真っ赤にして腕をブンブン振る。
「あ!別に恋愛感情とかじゃないですよ!? ・・・ただ、私の目標というか、プロデューサーさんとの目的を目の前にするとどうしても・・・」
それだけ言うと卯月ちゃんは俯く。
なるほど、忙しくなった故の悩みか。二人の目的とはトップアイドルだろう。NGとしても忙しい上に最近はソロでの仕事も多くなっている卯月ちゃんは恐らくプロデューサーと一緒にいる時間が少なくなったことそのものよりも、がむしゃらに突っ走っていたころは遠くにしか見えていなかった『トップアイドル』が、近づいてきたことにより鮮明になった『トップアイドル』の険しさや複雑さの不安を打ち明ける、話し合う時間が欲しいということではないのではないだろうか。
「卯月はさー、難しく考えすぎなんだって」
いつの間に戻って来たのか。杏が口をはさんでくる。名前を呼ばれたことにより卯月ちゃんが顔を上げる。
「自分のプロデューサーと話すのに卯月は遠慮しすぎなんだって。自分のプロデューサーなんだから迷惑を少しくらいかけてもいいし、そのための時間くらい作ってくれるよ」
「・・・そう、なんでしょうか」
「卯月はみんなになんて呼ばれてるの?」
卯月ちゃんが困惑の顔をしている、杏の問いに答えられないのだろう。・・・また助け舟を出すか。
「『普通のアイドル』か・・・」
「そそ、ついでに卯月のプロデューサーも癖のない普通の人なんだから大丈夫だよ」
正直、何が大丈夫かわからないが、卯月ちゃんが納得しているようなので良しとしよう。
「でも、大丈夫です。私はアイドルなので。島村卯月、がんばります!えへへ」
そういっていつもの笑顔とダブルピースを見せる。
私と杏は顔を見合わせる。そうして同じことを思う。これにはまだ勝てないな、と。
「あ゛あ゛ぁぁ・・・疲れたぁ・・・」
「おう、お疲れ杏。ほらよ」
ありがとー、と言って私が手渡したドリンクを飲む。そうだ、この際先ほどのセリフをぶつけてみよう。
「杏も、俺に相談事があったら何でも話していいぞ」
「んー?杏はねー、プロデューサーに話す悩みはないよ」
「そうか、なら信頼されるために今度の休みにでも出かけるか?」
「ほんと!?ならお願いしようかなぁー」
もちろん卯月ちゃんに負けてはいられない。あの娘のプロデューサーにも。私たちはいまだトップアイドルは見えない。そのためにも私たちはまず、二人の目的を定めるところからだ。
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怠惰な飴(?)とミツボシ☆☆★
今回は先週言ったようなくくりで言うところの②です。
ではよろしくお願いします。
「あぁーー!!」
事務所の給湯室の奥で大きな声が響き渡る。私はその声に驚いて持っていたスプーンを落としてしまった。この事務所にいる以上、声で誰なのかは判断できるがこの声の主の肉声を聞くのは久しぶりだった。私は落としたスプーンを湯気が立っているコーヒーの中に落として、コーヒーをかき混ぜながら給湯室の奥へ進んだ。ずいぶん前にアイドルの誰かが掛けていた暖簾を潜り、その大声の主に話しかけた。
「どうしたんですか、本田さん」
「私の大事に取って置いたケーキがなくなっている!!」
私はちらと壁に掛けてある時計を見た。時刻は夜の9時。・・・お腹がすくのも無理はないか。それにこっちも事務仕事を終えたばかりだ。いつもなら軽くあしらって終わりにするが今日は付き合ってあげることにしよう。
それにしてもケーキ、ケーキねぇ・・・。昨日まではあったはずなのだが。
「ケーキですか・・・。昨日までありませんでした?」
私がそう言うと、本田さんは顔を冷蔵庫からこちらに向けてぷりぷりと怒る。
「そうなんだよチミィ!あーちゃんがせっかく買って来てくれたやつなのに!」
そう、ケーキは高森さんが買って来てくれたものだった。アイドルを引退してしまった高森さんだが、今でも年に数回は事務所に遊びにきてうちのアイドル達と親交を深めているようだ。そして昨日来た時に余ったケーキを何個か冷蔵庫の中に置いて行ってくれたのだが・・・。
「しかも、そのケーキに一応名前書いて張っておいたんだよぅ」
ふむ、しかも名前付きだったのか。それに気づかずに間違えて食べてしまうとは、間違えたものはよほどのバカなのだろう。しかし犯人探しも出来ないので私はここで退散するとしよう。私が本田さんに背を向けたそのとき。
「もー、私のチョコケーキがぁ・・・」
その言葉に私の動きが一瞬止まった。チョコケーキだと?
私はてっきりモンブランが本田さんが残していたケーキだと思っていたが、チョコケーキかぁ・・・。どうやら間抜けな犯人は見つかったようで、この私だった。それに何を隠そうチョコケーキを食べたのはさっきだった。そして甘くなった口の中が気持ち悪かったのでコーヒーを飲んで中和しようとしていたのだ。
うーむ、ここは正直に言うしかないだろうなぁ・・・。
「あー、そのー、なんていいましょうか。・・・チョコケーキ食べたのは私です、申し訳ありません」
正直どんな罰も受ける覚悟だった。しかし本田さんは私の胸にぽすん、と正拳を喰らわせてニカっと笑った。
「仕方ないなーチミはぁ。コンビニのケーキと冷蔵庫の中のモンブランで許してあげるよ」
・・・何事にも確認作業は大事だな。たとえそれがケーキに付いている名前であっても。
アイドルたるもの変装はとても大事だ。ストーカー、パパラッチなどを防ぐことにも繋がるし、何より変装をした方が有名人らしい、というのが本田さんの意見らしい。まぁ概ね同意なのだが中にはその変装自体を楽しむ者もいるようで宮本さんなどが最たる例だろう。というあの人は普通の変装をしても目立ちすぎる。
さて、では実際に有名人である本田さんの変装はというと。
「さて、準備終わったよ!」
私がホワイトボードに明日の予定を書き終わると同時に本田さんも着替え終わったようだ。その姿は上下ジャージに眼鏡を掛けただけの申し訳程度の変装だった。というかこの姿はどっかの誰かさんと姿が被る。
「・・・うーん。アイドルバレよりも女子力を気にしてほしいですね・・・」
私の一言に本田さんが笑った。
「それ、どっかで聞いたことあるセリフだね」
思わず私も噴き出して笑う。
「そうですね。では行きましょうか」
『おーねがいシーンデレラー 夢はゆーめでおーわれーなーい』
コンビニに入ったときに中では『お願いシンデレラ』が流れていた。超有名なコンビニでも流されるほどになったと思うと少し涙腺が緩んでくる。このコンビニで流れているのを歌っているのはNGのようだ。さて、これを歌っている本人である本田さんはどういう気持ちなのだろうか。まぁ本田さんのことだし喜んでいることだろ・・・う・・・?
「・・・本田さん、何が食べたいんですか?」
「あ・・・。えーーっとね!まずはまるごとバナナかな!」
本田さんが逃げるように歩き出す。さて、本田さんはスイーツ系を物色するようなので私は他のものでも覗くとするか。なんとなくだが、今日は酒が必要になるような気がする。私は酒を何本かカゴに入れて、おつまみとして適当なものも入れて本田さんのところに行く。どうやら本田さんはまだ悩んでいるようで、うんうん唸っているので、本田さんを呼び、酒類が入ったカゴと万札を一枚、渡しておいて私は雑誌コーナーへ向かった。
雑誌コーナーに並んでいる顔の中には私が事務所で見かける顔もちらほら見受けられた。ファッション誌やゴシップ誌など多岐に渡るが、中でも私の目を引いたのは、雑誌類の手前にちょこんとかわいらしく置いてある絵本だった。そこには可愛らしいリスが森でクマと遊んでいる絵と、作者の名前がひらがなで書いてあった。どうやらあの娘も大きくなったようだ。いやもうあの娘なんて呼べないが。
その中から『月間シンデレラ』を一部取り中をぺらぺらと流し読みする。今年ブレイクする新人アイドルたちの情報や、先月のオリコン情報などが載っていた。そして私はあるページで流し読みをストップし、少し顔を近づけて書いてある文字を読んだ。
「「来年のシンデレラガールは誰だ」」
後ろから声が重なり驚いて振り向く。そこには本田さんがいろんなものを入れた大きめのビニール袋を持って立っていた。私は申し訳なさそうに顔を逸らす。すると本田さんはいつもの笑顔で冗談を飛ばしてきた。
「ほら!こんなにキュートな女の子が重い荷物を持ってるんだから代わるくらいしてくれよぉ」
「・・・本田さんはキュートでなくパッションでは?」
「あちゃー、これは一本取られたね。それじゃ私を論破した報酬としてこの重ーいビニール袋をあげよう」
「どうも。あ、お釣りは返してくださいよ」
私たちは軽い冗談を言い合いながら店を後にする。
あの雑誌、『月間シンデレラ』は私たちのプロダクションの系列で販売している。だからあそこに書いてある予想は全部私たちのプロダクションの主観的なものにどうしてもなってしまう。そう、だからこそあの雑誌の次のシンデレラガールの予想が本田さんであろうとも最後に決まるのは来年のことだ。
「ていうか酒買いすぎ」
・・・これは確かに反省かもしれない。
「それじゃ!私、本田未央が音頭を取らせていただきます!カンパーイ!!」
「かんぱーい。本田さん、音量を下げてください。結構うるさいですよ」
乾杯をして一口ビールを口に含む。事務作業で疲れてバキバキになった体にビールが染みわたる。すでにスイーツ類をあらかた食べ終えていた本田さんも10分ほどまでは、カロリーとレッスン、としか言わないポンコツ本田ロイドになっていたが、酒でも飲むかと持ち掛けたら一瞬迷った後に小さく飲むといった。今まで本田さんとサシで飲んだことがなかったからわからなかったが、どうやら本田さんは酒に弱いようで、小さく乾杯して飲んだと思ったらすぐに大きな乾杯をしてきた。
「本田さんは明日も仕事があるので飲みすぎないでくださいよ」
「大丈夫!なんたってスーパースター未央ちゃんだからね!」
そうやって飲み進めること一時間、私も中々出来上がってきてしまいついつい口を滑らせてしまった。
「そういえば、なんでさっきコンビニに入ったときに複雑そうな表情をしていたんですか?」
私の言葉に本田さんが力なく笑い、テーブルに酒の入ったグラスを置いた。
「うーん、まぁチミならわかってくれるかな」
本田さんは静かに語り始めた。私はなんとなくだがスマホを弄り、ある男に連絡をしておく。
「私さぁ、これでもアイドルを6,7年間やってるんだ。最初のLIVEはすっごい楽しかったのを覚えてる!NGの三人で必死にレッスンして、トレーナーに怒られてながらも喰らいついてさ。LIVE当日は三人ともガチガチで、もうがむしゃら!って感じでさ。大きい会場でもないし、お客さんもすくなかったんだけど終わった後は三人とも泣いちゃってさ」
その当時はまだ私がプロダクションに在籍していないころだった。ある悪魔曰く、そのころの事務所はとても静かだったが暖かい空間だったらしい。今も暖かいらしいが。
「それからいろんなことがあったなぁ・・・。ドームを使ってのLIVEとか全国公演とか、果てはアメリカでのLIVEもやったりさ。あのころのがむしゃらだったころの私に今の姿を見せたいよ」
本田さんは楽しそうに思い出話をする。
「でもさ、やっぱり私はどこか違うな、って思ってた。だって私たち三人の目標はトップアイドルだから!確かにNGは有名になったけどさ、それってトップ。だから私たちNGは一か月前に解散したんだ」
そう、NGは一か月前に解散した。今でも三人は仲が良いが、解散当時はかなりのニュースになったものだ。
「私の目標はトップアイドル!そのためにはまずシンデレラガールを目指してたんだけど・・・」
そこまで言うと本田さんの目から雫が数滴テーブルに落ちた。それは止まる気配を見せなかった。
「ヒグッ、しまむーも、しぶりんもさ・・・。グスッ、しん、シンデレラになったのに、わたし、私だけ成れてなくてさ。それが悔しくて、NGに負い目を感じちゃって・・・」
「本田さん」
私は本田さんの名前を呼び、本田さんの後ろを指差す。
「そのあとの話を聴くのは私ではないですよ」
本田さんが振り向くとそこには、本田さんがよく見知った男と、さきほど話に上がっていた二人が立っていた。その三人の顔も涙でいっぱいになっていた。そこで耐えきれなかったのか、本田さんは立ち上がって三人にかけよった。私は自分の酒を煽り満足げに微笑んだ。
「いやー、ごめんね!愚痴に付き合わせてさ!」
「いや、これも私の仕事ですよ」
「じゃあ、これ。渡そうか迷ってたんだけどあげるよ」
私の目の前に置かれたのは綺麗に包装された瓶だった。コンビニで包装を頼んだのだろうか。それだけ渡すと本田さんは私にいつものような笑顔を見せてくれた。
「ありがとう。しまむーとしぶりん、そして私のプロデューサーと話せたのもチミのおかげだよ。それはお礼・・・というか仕返しかな?じゃ、まあ明日ね、事務員さん」
それだけ言うと、本田さんは入り口で待っていた三人と一緒に夜の街へと消えて行った。
私は目の前にある瓶の包装を解き、中身を取り出した。そこに杏酒、と書かれた酒が入っていた。
これは私が買ってカゴに入れたものではない。意図的に避けていたのだから。とするとおそらく本田さんの独断のものだろう。たく・・・。
「杏・・・どこで何してんだろうな」
それだけボソッと呟くと私は杏酒をバックの中に入れて、タイムカードを切ろうとする。すでに23時を回っていたが気にしない。私はプロデューサー列のタイムカードに手を伸ばしかけて、引っ込める。そのあと事務員列のタイムカードから自分のものを取り帰路についた。
アイドル双葉杏を失った私はまるで抜け殻だった。もちろん死んだわけではないが。プロデューサー業にも疲れ、気づいたら事務員として仕事をしていた。これから先、私はどうなるのだろうか。都会の空には星が見えない。その中でホシとしてきらめているあの子たちのためにも私は抜け殻の体を引きずって明日もここに来るのだろう。
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怠惰な飴の誕生日
杏の誕生日に間に合った・・・。
さて、突然ですが今回の更新をもって『怠惰な飴』シリーズは一旦休載にします。理由は忙しくなったことと、落単したことが原因です。
それではやっていきましょう。
・・・なまけものフェアリー、当たらなかった。(2万円)
誕生日。それは全ての人に一年に一回だけ訪れる・・・、いや唯一一日だけ四年に一度しか訪れないのか・・・。まぁその日が誕生日の人以外は一年に一回だ。その日は皆が一喜一憂する日になる。ある者は自分の欲しいものを手に入れられる喜び、ある者は自分の年齢が一歳増え、お酒を合法的に飲めるようになることへの喜びを、またある者はこれ以上年齢を重ねていくことへの憂鬱を口にする・・・等々、人によって反応は様々であるが、絶対に訪れる運命なので諦めてほしい。
そして今日、9月2日に誕生日を迎える者が一人いる。双葉杏。私の担当しているアイドルは今日誕生日を迎えて、18歳となった。杏の誕生日パーティーは一日違いである諸星きらりちゃんと合同で、というか日を跨いで催された、らしい。
らしい、というのもパーティーが行われた場所が事務所ではなく、女子寮で行われたことに原因がある。我がプロダクションが所有する女子寮。その男子禁制っぷりは住んでいるアイドルが全員女性なのは元より、寮長、警備員に至るまでが全員女性で構成されている。それは私たちプロデューサーであっても関係ない。だが私たちはギリギリ玄関までは許されている。ちなみに女性プロデューサーはどこまでもオッケーらしい。解せぬ。
と、まぁこんな具合だったので私は杏の誕生日パーティーに参加できませんでした。まる。
夏も終わる。今年の夏は例年にないくらいの雨が続いていた。そのせいだからだろうか、秋の訪れを微塵も感じなかった年になってしまった。去年は秋が始まったと同時に杏の誕生日を祝ったが、今年は杏と一緒に誕生日パーティーをすることが出来なかった。それに私と杏はどこか不器用だ。だからSNSや電話を使って軽々しく言葉にしたくないし、されたくない。少なくとも私はそう感じているので電話での言葉がけはしないことにしていた。
私は一人、既に部屋の灯りを消したホテルの一室で思案に耽る。こんなことなら電話でもすればよかった。私が横たわって寝ているベットの横に置いてある電子時計は23時30分を闇の中でも無機質に映し出している。その下には9/2の文字。
私はバっと勢いよく起き上がり、スマホの電源を入れる。部屋の暗さに目が慣れた私はスマホの灯りに目がくらむ。少し期待していたが、着信履歴にも、SNSの履歴にも、どこにも『双葉杏』の文字はない。それはそうか、自分の誕生日にわざわざ仕事のパートナーに連絡するバカはいない。しかも杏は今日、オフの上、アイドル仲間たちとパーティーをしていた。疲れているだろうしなぁ・・・。
そもそもこのようなことになったのも、社長の一存のせいだ。9月は何かと忙しい時期を乗り越え、アイドルも裏方も少し気が緩んでしまう。そこで9月の初めから一週間ほど、どこかへ出張して、そこで色々なことを調べて何かアイドルプロデュースに役立ちそうなことを探してこい、というまるで小学生の研修旅行のようなことをさせられる。今回はそれに私が選ばれてしまったということだ。難しいことではないのだが、その出張先で新たなアイドル候補と出会う可能性があるので、気は抜けない。
しかし、私は杏だけで良いというか、杏で手一杯というか・・・。まぁスカウトが成功しても私が担当するとは限らないのでスカウトをしないというわけにはいかないが。この出張の唯一の利点は移動費だけは会社持ちということだけだろう。
私がうーんうーん、と唸って、結局何もせずにポイとベットに投げ出す。すると突然私のスマホがブーブーと音を出して震える。杏かと思って、私は慌てて画面を見るとそこには千川ちひろの文字、私はがっかりした顔でスマホを耳に当てる。
「もしもし、ちひろさん、どうかしましたか?」
『あ、お疲れ様です。一応明日からの予定に変更があったので連絡しました。夜遅くに申し訳ありません。』
「変更ですか・・・。少し待ってください」
私はバックを漁り、中からメモ帳とペンを取り出してスマホにイヤホンを差してちひろさんに声を掛ける。
「お待たせしました。予定変更を教えてください」
私はちひろさんの話を聴きながらメモを取っていった。メモ帳の一ページの下まで書き終わったところでちひろさんの話が終わる。私が電子時計を横目で見ると次の0時まで残り15分となっていた。私は少し焦ったが、もう仕方ないので諦めている。
『プロデューサーさん?聞いてますか?』
「っ、はい。すいませんボーっとしてました。もう一回お願いします」
『はぁ。だから杏ちゃんに誕生日のお祝いを言いました?さっきまで杏ちゃんが事務所にずっといたので、不思議に思ってたんですけど、もしかしたらお祝いしてないのかなぁ、と思ったんですけど』
私は息を飲む。
『その反応から察するにまだしてないんですね・・・』
「はい・・・」
『私はあなたのプロデュースの腕を疑ってはいません。あのサボり魔だった杏ちゃんが嫌々言うとはいっても仕事に向かうようになりましたし、前任の杏ちゃんのプロデューサーはすごい苦労していたそうですし』
杏が仕事に向かうようになったというが、本当にそうだろうか?確かに前よりはだいぶプロデュースが楽になったが言うほどだろうか。まぁ私はアハ体験のように杏の変化を見ているのでわからないのだろうか。
『だからこそ私は杏ちゃんとの信頼関係を築けているのだろうと確信しています。しかもあなたが変に頑固なところがあることも知ってますから。でも杏ちゃんとの信頼は信用とイコールではありませんよ。そこだけを忘れないでくださいね』
そういってちひろさんは電話を切る。
わかりました。ならあと10分、電話をしてやろうではないか。
プルルル、となるスマホを見ているとなぜか気恥ずかしさが沸々と湧いて出てくる。まぁ出なかったら出なかっただし、大丈夫か、と思っていると杏はすぐに出た。私は最初に言う言葉は決めている。というかそれを言ったら切りたいくらいだ。
「誕生日おめでとう杏、じゃあな」
『えっ、ちょ』
ぷつ、つーつー・・・。うーむ気恥ずかしさのあまり通話を切ってしまった。通話の切れた画面を見ているとすぐに杏から着信が飛んできた。私は出るか迷ったが電子時計の時間を見て出ることにした。
「はい、もしもし」
『ちょっと!今のは酷すぎるぞ!!』
「ははは、悪い悪い」
私は杏に謝る。そしてしばし無言。先に口を開いたのは杏だった。
『・・・杏にも出張の話、ちゃんと聞かせてほしかったよ。何も言わずに行くからさ』
「そこに関しては悪かったと思ってるよ。俺も言おうと思ったんだけどなぁ」
『嘘ばっかりだなぁ。杏ビックリしたんだけど、急にきらりの担当が仕事についてくるからさ』
「あー、そういやあいつに頼んだんだったな」
私が出張中仕事できないので、いや仕事はある意味ではしているのか。杏のプロデュースが出来ないのできらりちゃんのプロデューサーに頼んだのだ。しかしここ2日はきらりちゃんと杏の誕生日が続いたので仕事が少ないのだろう。そのことを嘆く姿が目に浮かぶ。
「で、誕生日パーティーはどうだった?」
『へ?なんの話?』
「え、お前の誕生日パーティーだよ。女子寮でやったんだろ?」
『プロデューサーが何を言ってるのかわからないんだけど、杏はパーティーなんてしてないよ?いやまぁ確かにきらりの誕生日パーティーはやったけどね?』
「そのまま杏のパーティーやったのかと思ってたんだけど、やらなかったのか。なんでだ?」
私が質問すると杏は少し口どもる。なんだろうか、まさか虐められているとかだろうか。でも杏の性格的にそれはなさそうなんだが、うちのアイドルたちはみんな優しいしな・・・。しかし返ってきた言葉は意外なものだった。
『・・・だって、ぷ、プロデューサーいないじゃん・・・。』
what?今何か可愛い言葉が聞こえた気がする。もしかして私がいなかったからパーティーをしなかった、と言ったのだろうか?そんな可愛い生物だっけか?私の顔がみるみる赤くなっていく。
『あ、あれだよ?ほら、プロデューサーがいないとプレゼントがもらえないみたいな意味だよ!?』
「おう、そうだな」
『プロデューサー絶対にやにやしてるでしょ!』
「いや、してないぞ」
嘘である。めちゃくちゃ嬉しいから口元がにやけるのを止められない。スマホ越しの杏が憤慨する。
『くっそー!むかつくな!』
「ははは。悪い悪い。ところで杏、今どこにいるんだ?」
私は杏の誕生日に出られないことを知っていた。それに電話で誕生日を祝いたくない。だがそれとプレゼントを用意していないのは別だ。私はちゃんとプレゼントを買っていたし、それを渡す気が満々だった。
『え、事務所にさっきまでいたんだけど、今は近くのコンビニだよ』
「ほーかほーか、そんなに俺のことを待っていたのか」
『違うって!ただちひろさんが私にプレゼントくれるっていうから待ってたんだよ!』
「ちひろさんが・・・?」
『そう!でもなんでか私をパしらせるし・・・』
「そうか、なるほどな」
つまり杏を外に出してから私に連絡をしてきたんだろう。ここでいうプレゼントは私のこととみて間違いないだろう。わざわざ遠回りなことをする人だ。
「まぁなんでもいいさ。事務所に戻ったら俺のデスクの引き出しの下から二番目を開けてくれ。その中身をお前にやるよ」
『プレゼントあったんだ・・・。最初から言ってよ』
「悪いな、じゃあと5分、急げよ?」
『はいはい、ありがとね、プロデューサー』
私が通話を切ろうとすると、杏が私を呼び止める。
「なんだ」
『来年は一緒に祝おうねー。約束だぞ。』
そう言って杏は通話を切る。これは・・・告白かな?というか来年も担当をしてるかわからないし、もしかしたら杏は引退してるかもしれないのに。させないけど。などと色々頭を巡ったがひとまずそれを置いておいて、私は事務所に戻った杏がプレゼントを手に喜んでいる姿を頭に浮かべながら次の日を迎えるのだった。
おそらく杏がプレゼントを見る時間は誕生日に間に合わないのだろう。でもいいのだ。
何故ならその時間はシンデレラの魔法が解ける時間。つまり私のシンデレラがただの女の子に戻る時間だった。
・・・まぁ、それなら一日前にやれよ、という話なのだが。
次の日、ちひろさんからプレゼントを手に笑顔の杏の写真が送られてきて私は満足だった。
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怠惰な飴のアプローチ
最近、やっと自動車学校に行き始めました。運転怖い。
不用意に運転の描写が出来なくなりました・・・。
数秒、いや数十秒だろうか。私は口を開けて呆然としていた。持っていた毛布を地面に落として。
呆然としている私の視線の少し下をぼさぼさのブロンドの髪があくびをしながら通り過ぎていった。
「おい、杏。ひとつだけ聞かせてくれ」
「たぶん答えられないと思うけどいいよ」
私は目の前の惨状に思わず疑問を口にした。
「今日って・・・誰かの誕生日だっけ?」
私の問いに杏は首をすくめた。
お酒とは恐ろしいものである。
飲んだことのある者なら尚更だが、飲んだことのないものでも恐ろしさを目にしたことがあるだろう。
お酒の恐ろしいところとして自制が効かなくなるところがある。
「お酒を注がれるのを避けられない・・・ふふっ」
「あっはっはー、楓さん飛ばしてますねー!もっと飲みます?あ、片桐さんこれレシートです!」
「レシートがなければもっと嬉しーと・・・ふふっ」
楓さんと彼女のプロデューサー。
「はぁ、なんで私は結婚できないのかしら・・・。結婚してれば今ごろ・・・」
「そ・れ・は! 世の中のオトコの見る目がないのよ!」
「そうですねー、だからって僕のグラスの下に婚約届を置かないでくださいね」
「いっそのこと結婚したらどうだ!和久井さんとお前で!」
「あら!いいじゃない!」
片桐さんと和久井さんwith彼女たちのプロデューサー。
「・・・あなたが見えている私は本当の私かしら。人は誰しもが心に仮面を被っているものよ。そして人が見ている他人はその仮面の一部・・・。私には本当のあなたがどれかわからないわ・・・。宙に浮いてるもの・・・」
「のあさん、それ酔っぱらってるだけです」
高峰さんと彼女のプロデューサー。
正直目に見えるだけでもっと多くの人たちがいるのだが、全員分見ているとあたまがおかしくなりそうなのでここいらでそちらを見るのを止める。
杏はバカ騒ぎをしている集団の横を通り過ぎて給湯室に向かったので、私もそれに付いて行く。
・・・夢だな。まさかアイドル事務所で酒盛りをしているバカがいるわけない。というかしてたとして誰か止める人がいるは・・ず・・・。
「杏、今日ちひろさんは?」
「プロデューサー寝ぼけてるの?今日はちひろさんが休暇を取ってていない日だって朝言ってたじゃん」
そうだった。今日はアイドルたちのお目付け役のちひろさんがいない日だった。
昨日確かに『・・・日ぶりの休暇ですね・・・』という声が聞こえていたので間違いないだろう。ちなみの何日ぶりだったかは怖くて聞けなかったのはここだけの話である。
先ほどまで仮眠をとっていたのでこの惨状に気が付かなかったのだ。私のばか!何時間寝てたんだ。そう思い給湯室の小さな置時計に目をやると、私の最後の記憶から40分ほどが経っていた。
ということはあの人たちはものの40分ほどで出来上がったということだろうか。いや、そうに違いない。少なくとも私の最後の記憶ではこうなっていなかった。
私はどうにかこの状況から逃げる方法を考える。このままここに居座ればそのうち私も飲まされることだろう。そしてそうなった場合、明日のちひろ天気予報は頭上注意、雷模様になること間違いなしだ。
幸いなことに荷物は仮眠室なのであとは逃げる口実だが・・・。とそこでヤカンが口笛を鳴らす。私はビクッとする。見ると杏がココアにお湯を注いでいた。・・・杏を使うか。
「杏、今日は何時に帰るんだ?」
「いや、さっきのプロデューサーの考えている様子見てたらわかるよ。どーせ、杏を口実にこの場から逃げだそー。って考えてるんでしょ?」
バレバレだったか。まぁそこは織り込み済みよ。
「まぁな、でも杏も帰れるうちに帰っておきたいだろ?今日はもう何もないはずだしな」
「・・・一応杏、受験生なんだけど?」
「え゛、じゃあさっきまで勉強してたのか。そりゃ悪かったな」
そこで杏がニヤリと口角を上げる。しまった罠か!
「まぁープロデューサーがねー、どうしてもー、帰りたいっていうならー、考えてあげるけどー」
わざわざ杏は棒読みで言う。ちくせう。今回は私の負けだ。私は両手を上げて降参のポーズを取る。
「ふっふっふー。帰りに一つお願い聞いてよねー」
「なるべく高くなくて現金で済むものな」
「敗者に口無しだよ、プロデューサー」
どうやら釘刺しも駄目のようだった。安く済めばいいんだが。
杏から提案された条件は意外なものだった。『プロデューサーに勉強を教えてほしい』というものだった。私は二つ返事で引き受けたのだが、場所の指定もしてきたのだ。
「はい、プロデューサー。ココアだよ」
「お、おう」
杏は二人分のココアと、勉強道具を持って部屋に入ってきた。ココアをテーブルに置き、クッションの上に座る。
「・・・なんで緊張してんの?」
ソワソワしているのがバレたようだ。
「いや、杏の部屋に入るの久しぶりだったから、ちょっとな」
「前はよく入ってたじゃん」
「玄関までな!リビングどころか寝室にまで入ったのは初めてだわ」
「もー、うるさいなぁ。あ、ちょっと着替えるから部屋から出てて」
私は杏が言われるがままに部屋から出て行く。確かに少し緊張しすぎているのかもしれない。相手はjkとはいえ杏だ。しかも担当アイドルなのだから。うん、大丈夫ダイジョウブ。平常心。
横を見ると杏のリビングが見える。前に来た時よりも小物が増えているようだ。杏も色々なユニットに参加して様々なアイドルと関わってきた影響だろう。特にきらりちゃんの影響が大きい小物が、リビングのあらゆるところに散らばっている。
「プロデューサー入っていいよー」
こうやって杏にもアイドルとして影響が出ているのは喜ばしいことなのだろう。
「とりあえずここから見ていけば・・・」
「へー・・・。あぁ、確かにわかりやすくなった」
簡潔に言うと杏へのプチ勉強会はスムーズに進んでいた。杏の呑み込みの早さで私の少しの説明でも理解してくれるのでとんとん拍子で進んでいく。
「とりあえずここは自分でやってみな」
「りょーかい」
私は長い説明を終えて一息つく。先ほどまでと違い、この状況に慣れてきたのか周りを見渡す余裕が出来た。こちらの部屋はリビングよりさらに多くの物があった。こちらの寝室はきらりちゃんよりも他のユニットメンバーの影響が大きいのだろう。年下と組むことが多い杏はこういったものは寝室に置きたくなるのだろう。
今の杏の服装もそうだ。先ほどちらっと見えた杏のモコモコのショートパンツは別として、上に着ているパーカーは胸のところにデビキャットがプリントされている。このパーカーをもらったのか、買いに行ったのかはわからないが、仲良くしているところをよく見るのでほほえましいものだ。
「プロデューサー、見すぎ。出来たよ」
どうやらキョロキョロしているのが見つかったようだ。
「出来たか?ほれ見せてみい」
私は持っている答えと、杏の答案を見比べる。うーむ、流石だな。さっきまで出来なかったところだけじゃなくて少し応用的なところもできている。
「プロデューサーどう・・・?」
「ここはな・・・!?」
杏が身を乗り出して私の手元を見てくる。少しぶかぶかのパーカーのせいで杏の胸元が大きく空いたので私の視線は吸い込まれるようにそこに集中した。さらに近づいてきた杏の頭が私の顔の近くにやってくる。女の子特有の甘い匂いが私の鼻の中に飛び込んでくる。
この香りを嗅いでいると意識が遠のいていく気がする。
「プロデューサー・・・?」
杏の言葉に私はハッとする。慌てて取り繕うように説明を続ける。そのときの杏の表情が悔しそうだったのは気のせいだと思いたい。
結局その日、私が家に帰る時間は0時を回っていた。
次の日、私の目の下には隈が出来ていた。
理由は、昨日の杏から香っていた匂いのせいだ。あれが私の脳を興奮状態にしたので眠れなかったのだ。しかもあのとき杏が呼びかけなければ私は確実に杏を襲っていただろう。
と、ここまで推察して犯人がなんとなくわかった。
「おはよう志希ちゃん」
絶対こいつだろう。私はそう思いソファで寝転がって雑誌を読んでいる志希ちゃんに話しかけた。
「ん、にゃはは~ 眠れなかったのかなー?隈すごいよー」
と、志希ちゃんはおどけて見せる。
「なんか俺に言う事ない?」
「んー・・・・。杏ちゃん、襲っちゃった?」
志希ちゃんは舌を出す。
「やっぱりか・・・。残念ながらそんなことにはならなかったよ・・・」
私がそう言うと志希ちゃんの表情が固まる。そしてこちらを向いた目は輝いていた。
「嘘嘘!?どうやって!!!」
昨日の杏のように身を乗り出してくる。
「おおーう近い近い、わかんないけど杏の声を聞いたら意識が戻ったんだよ」
そう言うと、志希ちゃんはバッグからメモ帳を取り出して私の言葉をメモする。
「なるほどなるほど・・・。うーん、まだまだ実用的じゃないなぁ・・・。わかった!杏ちゃんにお礼言っといて!」
そう言うや否や、志希ちゃんは荷物を持ってピューとどこかへ行ってしまった。
「お、プロデューサーおはよー。隈すごいよ?」
杏の出勤だ。昨日の香りはしないのでおそらく今日はしてないのだろう。
「杏、昨日志希ちゃんに何かもらっただろう」
「げ、聞いたのね。うーん、あのまま襲われれば一生慰謝料で暮らしていけると思ったのに・・・」
こいつなんてリスキーなことを・・・。まぁ、今回は許してやろう。真面目に勉強をしているのがわかったしな。それに・・・。
「何バカなこと言ってんだ。お前はまだまだ働くんだよ!」
「・・・プロデューサーと?」
杏は不安気に覗き込んでくる。
「・・・?当たり前だろ。何言ってんだ」
私はそう言って杏に一枚の毛布を投げつける。すると杏はぶーたれながらも笑顔になる。
それに、私が仮眠している間に毛布を掛けてくれる怠惰な妖精もいることだしな。
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