ニーベルンゲンの星 (つぎはぎ)
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最初の逸話





  これは、ありえなかった一つの叙事詩。

 

  存在せず、だがありえたかもしれない一つの可能性。

 

  存在せず、いない筈の英雄が生まれ紡がれた物語。

 

  存在せず、辿り着けなかった星と月と太陽の愛憎劇。

 

  その物語はとある小さな寺院の地下から発掘された外史とも外典とも言われる神話の一片。

  大英雄も生まれ、悲劇の乙女も生まれ、悲劇も生まれ、変わらない運命を辿る。

 

  しかし、その物語には

 

  何処にもいない筈の英雄が存在した、唯一無二の叙事詩。

 

  名を『ニーベルンゲンの星』

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

  ライン川、名を付けれた巨大な川の近くに国が建てられていた。王が民を統治し、法を敷き、生活を約束された民衆が集う土地。他国と変わらぬ方法で大した繁栄も、約束された勝利を身に宿す英雄もいない普遍の国。

  人々がその日の糧を得る為に田を耕し、商人が馬の尻を叩き、王の兵が町を闊歩する変わらぬ日常。そんな日常の片隅に、なんでもないような悲劇はいつものように起こっていた。

 

「でていきな! この役立たず!!」

 

  王が住む王宮が中央にあるとしたら、最も王宮から離れた位置にある貧困層の民が住む寂れた家の扉から女の怒号と一緒に小さな少年が放り出された。

  勢いよく投げ出されたにも関わらず少年は一度地面に叩きつけられたが、すぐになんでもないように立ち上がり扉からこちらを見下ろす女を見上げた。

 

「・・・・・」

 

「…ちっ! さっさと何処にでも行きな穀潰し!」

 

  扉を閉められ、少年は晴れた空の下に一人。遠くから聞こえる人々の喧騒がやけに響く。少年は閉められた扉の前からすぐに歩き出す。躊躇いもなく、目的地が決まっていると言わんばかりにその場を去っていった。

 

 

 

「ん? よう、坊主。今日はやけに早いな」

 

「今日もすてられたから」

 

「…捨てられたを、も、という奴はお前ぐらいだよな」

 

  町の大通り、この大通りは人が集まり様々な職種が通り過ぎる人々に声を掛け、自慢の品物を売る商いの通りだった。農民、町民、貴族や仕事終わりの兵士、多くの人々が道に並べられる異国の品や食料を珍しそうに眺めたり、機嫌良さそうに手に取る光景が広がる。

  その大通りの一角、止められた馬車の前で布を広げ、その布の上に剣や盾、鎧を置いている商いの装いをした中年の商人の前に、少年は立っていた。

 

「それで? お仕事はどうなんだ」

 

「すでに終わっている。家の掃除も済んだ。瓶の水も交換したし、やる事はない。あとは」

 

「あとは俺からの報酬まちな。ほれ、駄賃だ」

 

  商人は路銀を少年に渡し、少年は不機嫌そうな表情を緩めた。少年の表情を見て、商人は笑い、そして路銀の他に皮袋の中からパンを取り出し、少年に投げ渡した。

 

「これは?」

 

「追加だ。これからもよろしくってわけで」

 

「…ありがと」

 

  顔を背けながらパンを食べる少年に商人は「素直じゃねえなぁ」と苦笑し、商人は腰かけていた木箱から立ち上がり、腰が痛むのかトントンと叩いた。

 

「坊主と会って一年弱、か。か〜、歳をとると時間が早く過ぎて困るな」

 

「じぶんは、アンタと出会ってそんなに経ってないけど?」

 

「おっさんのように男臭さが女を惹きつけれるようになると、美女との夜もあっという間なのさ」

 

「…“そうろう”ということか?」

 

「ぶっ!?」

 

  商人は噴き出し、その様子を見た少年は首を傾げる。そのやりとりを見ていた町娘達が商人をくすくすと笑いながら、通り過ぎていった。

 

「おい! そんな言葉どこで覚えた!?」

 

「ババアがこの間連れてきた男と呑んでいた時、女と早く夜がおわる男はそうろうっていっていた」

 

「違う。早いのは女の方だ。おっさんは決して自分だけ先に満足して寝るような男じゃない!」

 

「どうでもいい。とりあえずおっさんみたいおっさんになると時間が早くなるんだろ」

 

「どうでもいいって…、まあそうだな」

 

  興奮を静め、商人は頭をかきながらパンを美味しそうに頬張る少年の顔を眺めた。

 

「商いとして働きはじめたが家を空けることが多くなって、部屋が片付かないと悩んでいた時に自分から働かせろと言い出した時には心底驚いたぞ?」

 

  それは商人が商人となって日がまだ浅い時のこと。他国と自国とを行き来することが多く、家にいることが少ない。商人として生きるならば、家など無いようなものだがこの男は元来住み着いた家を手放すのを惜しみ、この国を中心として商いを続けた。だが家を開ける日は多く、長ければ長いほど家の埃は募り、帰ってくるたび掃除で休みを潰されていた。

  掃除で疲れ、どうしたものかと通り過ぎる犬に愚痴を呟く商人の前に。

 

『じぶんをやとえば掃除してやる』

 

  と、少年が現れたのだった。

 

「あの時は頭がイカれたおっさんが犬に話しかけていると思った」

 

「そのおっさんに雇えという坊主も大概だよな?」

 

  そのあと、商人はほんの好奇心で少年を雇った。正直家の物を盗まれるのではないかと疑心暗鬼だった。身なりは貧しく汚い。良い家の出身ではなさそうな少年は盗み目的で近づいてきたのではないかと。盗まれていいものだけ家に残し、商いから数日後家に帰ると其処には何も盗まれておらず清潔に整えられた我が家があった。その出来事から約一年、この商人は少年を雇い続け、小間使いとして活用しているのである。

 

「それにしても坊主は頭がいい」

 

「…なんだよ?」

 

「坊主の家の事情は後々知ったが、それでもその歳で働こうと動きだすことはおっさん驚きだったよ」

 

  少年の歳は十を過ぎたか、それよりも下ぐらいだ。この年頃の子は親に育てられ、同世代の子供たちと遊ぶだろう。だがこの少年は。

 

「親がじぶんを育てる気がないからな。しかたない」

 

  この少年は、親から愛されていない。

 

  商人は少年を雇って数ヶ月経って知った。この少年の母親は、行きずりの男と夜を過ごし、この少年を身籠った事を。最初は少年を愛し、育てようとしていたらしい。

  だが少年が育つにつれて、少年の父親となる男の顔立ちに似てきたことから母親は少年を憎みだした。周りからふしだらな女と罵られ、子供一人を育てる為に精一杯に汗水垂らして働くことに辟易する。結果として母親は少年を愛さなくなった。

 

  身勝手な女、商人は少年の母親を心底侮蔑し、そんな母親を侮蔑した己にも侮蔑する。

  今はこうやって少年を雇って、少年がその日を糧を得る為に協力しているがそれだけだ。養子として迎えるほどの余裕もないし、ただこうやって協力してやっているだけマシと己自身を納得させているだけ。

  己の心境が複雑なものになりかけ、商人は頭を振って思考を振り切った。

 

「まあ、そうやって自分で働こうとするのはいいことだ。何もしない奴は死ぬだけだからな」

 

  そう、その通り。この時代、何もせず生きていけれるほど甘くない。親がいない子供は餓死するだけ、糧を得れないものは何も食べれないが常識のこの時代、親に愛されていない子供に仕事を与えているだけでも慈善的だ。

  だからこそ商人はこの少年の行動力に驚く。なんせ幼いその身で自分を雇えと売り込みにいく心の強さは周りの子供にはないものだ。そうやって少年は母親の助力がなくても生きていけている。

 

「ん、そうか」

 

「興味ないのかよ…」

 

  そんなふうに少年を評価するが少年はそんなことどうでもいいようだ。それよりもパン、食料。少年はパンを食べることに必死だった。

 

「…けぷっ。ごちそうさま、次は何時ぐらいに家に向かえばいい?」

 

「まー、そうだな。あと四日ぐらい家でゆっくりするから、八日後ぐらいに掃除してくれや」

 

「分かった。…んじゃ、これくれ」

 

「あ?」

 

  先ほど渡された路銀を商人に渡し、疑問顔の商人を前に並べられていた商品の一つ、新品の小剣を少年は手に取った。

 

「この剣をくれ」

 

「え? 坊主買うの? それを?」

 

「ああ。ほしい」

 

「お、おう。そうか」

 

  少年は剣を取り、マジマジと見つめ、そして掲げた。丁度太陽が真上に差し掛かり、陽光が磨かれた剣に反射され、まるで剣が少年を勇者だと認めるように輝いていると錯覚してしまう。

 

「それにしても、急にどうした剣なんか買いたいなんかよ」

 

「小間使いだけで食っていけるとは思っていない。ちょっとは剣でも振って、兵士になれるようにきたえようと思った」

 

「ああ、そうかい…」

 

  子供の考えそうな事だと商人はため息をついた。まあ結局は自分も商人だと、素直に路銀を受け取り少年に剣を譲った。嬉しそうに剣を掲げるあたり、少年もまだまだ子供なんだと改めて思う。

 

「んじゃ、じぶんはいくから」

 

「はいはい。また頼むよ〜」

 

  剣だけを握りしめ、少年は走り去っていった。その後ろ姿を商人は見つめ、思わず呟いた。

 

「…あ、鞘渡すの忘れてた」

 

 

 

 

 

「ふんっ、はぁ!」

 

  上から下、右から左、下から上へと剣を振るう。町から少し離れた平野に少年は剣を振るう。精一杯振るう姿はとても逞しくは見えず、愛嬌がある。それでも少年は剣を振るう。闇雲に、ただ剣を振るう。

 

「…ふう、なんか、違う」

 

  少し振って、少年は何となく分かった。

  ただ剣を振るだけじゃ強くなれない。

 

「強く、なれんのか?」

 

  思わずそう思って、少年は忘れようと剣をいきなり振るった。ただ連続でがむしゃらに、狙いも定めず、己の頭に浮かんだ淀む不安を切り刻まんとするばかりに剣を振るった。

 

  生まれて、母から愛されず、一人で生きていけるようにと強くなろうと決めた。

  母から愛されようと思ったことがあるがすぐに諦めた。母は自分を愛してくれない。何度も“いいこ”にしてみたが、何も変わらないから母に頼ることはないようにした。

 

  強くならなきゃ、じゃなきゃ母の元にいた頃と変わらない。強迫観念に似た思いが自分を押しつぶそうとする。それを払拭しようと大振りに振ったが。

 

「あっ!」

 

  剣に腕が振り回されてしまい、転んでしまった。派手に転んでしまった為、背中から受け身も取れずに転んでしまった為、痛みが身体中に広がり思わず目尻に涙が溜まってしまう。

 

「いっつ…」

 

  仰いだ空はとても青い。どこまでも澄み渡り、吸い込まれそうな程だった。このまま暫く見上げていてもいいのかもしれないと、思っていた。

 

「くっ、くくく…」

 

  そう思っていたのに、笑い声が聞こえた。少年は咄嗟に立ち上がり、笑い声をした方向を見ると複数人がこちらを見て笑っていた。

 

「ぶ、無様だ! 平民の奴はこんなにも剣を振るうのが下手なのか!? はははっ!!」

 

  少年を大声で笑うのは、少年と同い年ぐらいの身なり良い少年だった。身につけている服や装飾品はどう見ても平民ではなく、貴族や王族のものだ。少年を指差して笑う少年───仮に、王族の少年と呼ぶとしよう。その王族の少年に笑われた事に少年の顔を真っ赤になった。

 

「なんだおまえ!」

 

「く、くくっ。ああ、すまんすまん。あまりに酷い姿に思わず笑いが抑えられなかった。なあ、お前たち?」

 

  王族の少年の後ろに控えていた大人達、鎧や剣を持っている辺り護衛なのだろう。護衛達はそれぞれ苦笑いや少年への同情の視線を向けるが、護衛のうち中年の兵士が王族の少年の言葉に肯定した。

 

「ええ坊っちゃま。あの様な平民の腕ではあれが精一杯。坊っちゃまのように賢く、逞しき者とは程遠いというものでございます」

 

「ふん、そうだろう。あんな汚い奴の剣など剣術など言えない。子供のお遊びというやつだ」

 

  ニタニタと笑う姿に少年の怒りが沸騰する。今すぐ殴りにかかりたいが───相手は身分が高い。

  少年でも分かることであるが、平民が王族に手をあげることは不敬と見なされ殺されることもある。

  商人が言ったように少年は賢い。ここで衝動に任せて殴りにかかったら周りの兵士に取り押さえられ、殺されてしまうかもしれない。

  だからこそ少年は耐えるしかなかった。明らかな侮辱に拳を握りしめ、耐え抜くしかない。

 

「ふん、何も言い返せぬとは勇気もないのか。これだから卑しい身分の奴は嫌いなんだ」

 

  何も言い返してこないことに興味を無くしたのか、馬鹿にしてそのまま王族の少年は護衛を連れて去ろうとした。だが、厄介なことに王族の少年は、少年の剣に目が止まってしまった。

 

「おや…それは」

 

  少年の剣、つい先ほど商人から買った剣は美しかった。兵士が持つ剣とはかけ離れた輝きと美しさを放ち、刃は鋭く岩さえも二つに分かちそうなほど。

  王族の少年は剣に近づき、手に取ろうとしたが。

 

「…ふん」

 

  持ち主の少年が剣を取り、そのまま去っていった。

 

「おい、待て!」

 

「…なんだ、何か用なのか」

 

「それを何処で盗んだ!」

 

「…はあ?」

 

  美しい剣を持つには似つかわしくない程、少年の身なりは汚い。母から与えられた服は少なく、滅多に交換しないから汚くなるのは当然のことだ。だから滅多に見ることのない美しい剣をその少年が持つとしたら盗んだと考えても可笑しくない。もっとも、王族の少年が本当にそう考えているかは別だが。

 

「お前のような卑しい者がそんな剣を持つなんて怪しい!何処で盗んだ!」

 

「これはじぶんが買ったものだ。盗んでなんかいない」

 

「嘘つけ! 金のないお前にそんな剣買えるはずがないだろう! お前ら捕まえろ! この盗人を捕らえろ!」

 

「…何言ってんだおまえ!」

 

  王族の少年の命令に皮肉なほどに兵士達は動いた。少年は抵抗しようと剣を向けるが相手は大人。あっという間に抑えられ、組み伏せられた。

 

「くそっ、離せ!」

 

「まったく盗人が…、こんな剣を持つなど身不相応な事を」

 

  そう呟き、少年の剣を奪った王族の少年は剣の美しさにため息を漏らす。刃が持ち主の顔を映し出す鏡のようになるまで磨き上げられたそれは、少なからず審美眼がある王族の少年を満足させた。

 

「坊っちゃま、この盗人はどういたしましょうか?」

 

「ん? …ああ、適当に牢に入れておいてよ」

 

  ───冗談じゃない。

  いきなり笑われたのはいい。だが、折角買った剣を盗まれた挙句ぬすっとまでにされるのはいくらなんでも酷すぎる。

  理不尽さに少年は唇を噛み締め、口の端から血が流れる。願うことなら剣を取り戻し、あの傲慢な奴を切ってやりたいこととさえ思った。

  そのまま少年は連れて行かれそうになる。その時だった。

 

「おい! どうした!?」

 

  こちらへ走ってくる人影があった。その人影の正体は、少年に剣を売った商人だった。

 

「おっさん!」

 

「なんだお前は…?」

 

  機嫌がいいところに乱入してきた商人に王族の少年は顔を顰めるがそんなこと知らんとばかり商人は少年を取り押さえる兵士達へと近づく。

 

「おい、そいつが何をしたんだ!」

 

「この小童がさぞ名のある剣を盗んだ。その容疑で連行中だ。邪魔をするではない」

 

「はあ!? 剣っていうのはそこの小僧の手のあるやつか? それは俺が売って坊主に売った奴だ!」

 

「なに!?」

 

  兵士達が商人の言葉に驚いているうちに、商人は少年へと近づき取り押さえる手を払いのける。自由になった少年はすぐに王族の少年へと近づき、剣を取り返した。

 

「おい、貴様! それは」

 

「じぶんの、剣だ!!」

 

  取り返した剣を持って商人の元へと帰ると、商人は少年を守るように前へ立った。

 

「嘘をつくではない! そんな小僧が持つほどの剣ではあるまい!」

 

「嘘じゃない! それは俺が造り、そして売っていた剣だ! こいつが金を出して買った剣だから、持ち主はこいつの物だ!」

 

「ならばなぜ剣が剥き出しであった! 持ち主であるならば鞘を持っていなくてはおかしいではないか!」

 

「俺が鞘を渡すのを忘れていたからだ! ほれ、証拠の鞘だ!」

 

  商人の手には鞘があった。その鞘を少年へ渡すと少年はすぐに剣を鞘へとしまった。ストンと隙間なく収まった剣を見て、商人へと問い詰めていた中年の兵士は口を閉ざしてしまった。

 

「おっさん、ごめん」

 

「…俺も鞘を渡し忘れていたのも悪かったよ」

 

  誰も今更、少年が盗人とは思わなかった。剣を売った本人もいるし、鞘もある。これが少年の剣だという何よりの証拠である。落ち着いた周りを見て、少年も商人もさっさと立ち去るべきだと考え、二人はこの場を去ろうとした。

 

「お前たち、あの剣を奪え」

 

  ボソリと呟かれた言葉がやけに大きく響いた。

 

「坊っちゃま、あの小僧は盗人ではなく…」

 

「うるさい。あれは僕のものだ」

 

  王族の少年は怒っていた。顔を真っ赤にし、瞳に涙を溜めて怒っていた。

 

「なんであんな奴が僕よりも立派な剣を持っている!? おかしいだろう! 僕はこの国の次の王だぞ!? あんなやつに劣っているなんてありえない! 殺してもいい! 奪え!!!」

 

  それは、間違いなく癇癪だった。温室で大事に育てられ、自分が周りよりも大事な存在だと教えられ、傲慢にもそうである筈なのだと刷り込まれていた。

  自分の思い通りにならないなんて認めない、自分より優れているものなんていない。だからこそ、自分に逆らう奴らが許せない。

  そんな子供の発言に兵士達は逡巡するが───やがて従うことに決めて、剣を抜いた。

 

「嘘だろ!? ガキの癇癪に従うのかよ!?」

 

「…これが命令だ。大人しく従え」

 

  ゆっくりと近づいてくる兵士達に商人は露骨に舌打ちする。

  少年を守りながら、逃げるわけにもいかない。聞けばあの癇癪持ちの少年は王族ときた。商人と少年は詰んでいる。このままでは殺されてしまうかもしれない。

 

「くそが!」

 

  どうすべきなのかわかっている。だが、正直腹立たしい。こんなにも一方的なのは納得いかない。子供の癇癪に振り回される自分とその周り。見事に無力である。どうしようもない展開に、商人は諦めて───

 

「ほらよ」

 

  少年が、剣を地面へ放り投げた。

  商人が自分の横へ見ると心底悔しそうな顔で剣を投げた少年がいた。

  一瞬驚いたが、兵士はすぐに剣を拾い、王族の少年の元へと剣を持っていった。

 

「ふ、ふん! それでいいんだ! お前なんかの手にあるよりも、この剣は僕の手に───」

 

  そこで王族の少年の言葉は途切れた。

  それは音もなく突然降りかかった。王族の少年に飛び、鈍い音と共に王族の少年から鮮血が舞った。ぼとり、と飛来してきたものは地面に落ち、全員の目が集まる。それは何処にでもあるような、石だった。石にはぴったりと血が付着しており、それが何なのか気づいた瞬間。

 

「あ、ぐうあああああああああああああっっ!!?」

 

  激痛、額に走る痛みに王族の少年は蹲って、地面に転げ回る。

 

「逃げろ!」

 

  いきなりの展開に兵士達と商人が固まるが、一人だけ動きだした者がいた。それは、剣の持ち主の少年だった。少年は商人にだけ聞こえるように呟いた。

  少年は駆け出し、兵士達の間を走り抜けて王族の少年が落とした剣を拾い上げて、そのまま走り去る。

  やがて、意識を取り戻した商人が少年とは逆の方向の町へと走り去り、兵士達が王族の少年へと駆け寄った。

 

「坊っちゃま!? 大丈夫ですか!?」

 

「う、ぐあ! 痛い、痛いよおおおおおおおお!!!」

 

  痛みで転げ回る王族の少年は兵士の言葉など聞こえない。だが、中年の兵士は周りの兵士達に命令した。

 

「追えええええ!! あの小僧を捕まえて、坊っちゃまの元へ引きずってこい!!!」

 

 

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

 

  あれから、何日経ったのだろうか。

  少年はひたすら走った。ただ、走った。

  あの時、あの傲慢な王族の少年に石を投げつけたことを後悔していない。どうあれ、あいつは自分の剣を盗もうとした。当然の報いだと今でも思っている。

  だが、こうなるとは思ってもいなかった。

 

『探せ、探せえええええええええ!!』

 

『情報だとこの周辺に潜んでいる筈だ! 探しだし、王子の元まで引きずるのだ!』

 

  草木の陰に隠れ、息をひそめる。これも逃げているうちにいつの間にか習得した。ただ、隠れるだけでも簡単ではない。自分を追う兵士達の気配が薄くなったら、移動する。そして近づいてきたら隠れる。子供の小さな体躯でよかった。見つかりにくく、未だ誰一人にも見つかっいない。

 

「…けほ」

 

  だが、体の中はボロボロだ。動きすぎたせいで筋肉も骨も悲鳴をあげ、空っぽの胃や腸が栄養を求めている。何日も食べていないし、眠っていないから少年の体力も限界だった。

 

『こちらで声が聞こえたぞ!』

 

  でも、逃げる。

  体も心も限界だが、それでも捕まりたくない。あの傲慢な少年に頭を下げたくないし、悪いとさえ思っていない。死にたくもないし、生きたい。

  後ろから聞こえる怒声を無視し、少年は傾斜が段々とキツくなりつつある森の奥へと進んでいく。

 

 

 

『おい、こっちだ! 何をしている、さっさと来い!』

 

『お、おい止めようぜ…、これ以上進むのはよ』

 

『何を言っている! 逃すと俺たちが罰を受けるんだぞ!』

 

『お前、この先が何かわかって言ってんのかよ!? この山が、ここが何処だかよ!?』

 

『何だというのだ!? さっさと言え!』

 

『こ、ここは…人外魔境の山───ヒンダルフィアルだぞ!?』

 

 

 

 

 

  少年は進む、進む、進む。

 

  ただ進むことだけ考えた。もはや、歩くことしかできていないのかもしれない。

 

  後ろから迫る兵士達の声も届かない、森の奥深くに足を踏み込んでいた。

 

  時折聞こえる獣の唸り声も無視し、首筋を這うよう視線も振り切り、ただ歩いた。

 

  怖い、というよりも助かりたい。その事だけを考えながら歩き続けた。

 

  やがて、森を抜けて山頂近くまで足を踏み入れた。履いていた靴も壊れかけで、汗のせいで服が張り付く。やけに先ほどから汗が流れる。体も熱く、まるで炎の中にいるようだ。

 

 

 

  いや、違う。炎の中ではない。

 

 

 

  蒼い、炎。

 

  かつて見上げたあの青い空よりも深い蒼色をした焔が目の前に燃え盛っていた。

 

  山頂付近へと燃え盛る、蒼い炎の壁。その炎は山頂全体を囲むように轟々と熱気を解き放っている。

 

  少年は立ち竦んだ。まるで神と対峙したような緊張と緊迫を覚える。これ以上進んではならない。決して、触れてはならない領域であると魂が語っている。

  引き返すべきか、そう思って一歩引き返すと、鼓膜に声が届く。

  兵士達の声、自分を探す大人達の怒声に───引き返した足をさらに後ろへと下げた。

 

  歩数として二十、その距離だけ元の道へと引き返した。

 

  徐々に聞こえる声達がもうすぐ終わり自分に手が届く。

 

 

 

  だからこそ、少年は駆け出した。

 

 

 

  目の前の炎の壁は灼熱である。人の肉を、骨を全て等しく塵へと返し、魂すらも焼き尽くす。

  無謀で、蛮勇で、無意味なのもしれない。それでも少年は駆け出した。

 

  ただ、負けたくないと思った。

 

  生まれた環境、力、運命。そんな無力な自分に負けたくないと心の底から思った。

  戦い、諦めずに抗い、そして生きてみたい。惨めになりたくない、誰よりも強くなってみたい。そんな我儘を、叶えてみたい。

 

  だからこそ、目の前に炎の壁があろうと突き進むしかない。

 

  少年は飛んだ。まだ何も成さない、小さな生命は原初の熱へと挑んだ。

 

 

 

  その後ろ姿を見てしまった大人達は絶句し───炎の先へと消えてしまった子供へ、何もできず立ち竦んでいた。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

「……う」

 

  目覚めたのは、冷えた地面の温度の所為だった。

  頬から感じる冷たさと砂利の触感は深い眠りを妨げ、やがて痛覚を刺激してくる。

  少年は体を起こし、周りを見渡す。目の前には大きな館があった。館の周りには無数の盾で構成された垣根ができており、要塞のようにも見えた。後ろを振り返ると、少年は驚く。

 

「炎…」

 

  自分の前を立ちはだかっていた、蒼い炎の壁が燃えている。つまり、自分が飛び越えた炎の先には盾に守られた館があったということだ。

  己の状況がどういうことなのかを悟り、とりあえず安堵する。これならばあの兵士たちは追ってこないだろう。そして、悩む。

 

「これから、どうしよう…」

 

  兵士たちは振り払った。だがこれからどうする。炎の中にある自分は再び炎の外へと戻れるのか。考えたら考えるだけ鬱屈しそうになる。

  とりあえず、少年は館へと目指すことにした。盾に囲まれた館、あの館にたどり着くのは盾の垣根を越える必要がある。見れば盾は綿密に組み立てられており、隙間など一切ない。ならば。

 

「けずれるのか…?」

 

  剣を鞘から引き抜く。城塞を思わせる盾の垣根、それを切れるとは思えないが削れるぐらいはできるだろうと思い、盾の表面へと切っ先を突き立てる。そして勢いよく、剣に体重を乗せて───

 

  パキン

 

  あっさりと、一枚の盾を斬った。

 

「なんだこれ?」

 

  やけにあっさり斬れたことに拍子抜けしてしまう。斬れた盾は、どう見ても鋼鉄でできている。それをなんの抵抗もなく斬れてしまったことに、少年は異常を感じてしまう。その異常は盾ではなく、己が持つ剣。この剣はあの商人が造ったと言っていた。鋼鉄を子供の自分でも簡単に切ってしまえるほどの切れ味を誇る剣、それを造った商人とは、どういうことだ?

 

「…いや、今はそれよりも」

 

  先に進むこと。館の奥には何かあるかもしれない。もしかしたらこの状況をなんとかしてくれる、何かがあるかもしれない。少年は希望を持ちながら盾を幾つか切って、自分が通れるほどの穴を開けて、館へと向かった。

 

 

 

 

 

  館の奥は不思議と冷えていた。

  炎に囲まれているのにも関わらず熱が届かず、むしろ過ごしやすいほどの温度であった。少年は恐る恐る警戒しながら館の奥へと目指す。今まで入った部屋はすべて無人で何もなかった。井戸はあったが、食料はない。これらが一番少年の心をかき乱したが、少年は心を落ち着かせながらも最後となるであろう館の一番奥にある部屋の前へ立った。

  何も物音もしない、部屋の前でそれを察した少年はため息をつく。

 

「何もないのかな…」

 

  落胆が隠せず、扉の前で膝を崩しそうになる。このままだと死ぬかもしれない。次に炎を超えられるとは限らない。もしかしたら焼き死ぬかもしれない、何もしなかっら餓死するかもしれない。だからこそ少年は、部屋の奥に何でもいいからあってほしいと願った。

 

  少年は部屋の扉を開いた。

 

  そして、見つけてしまったのだ。

 

 

 

  部屋の中にあったのは───眠る女だった。

 

  その女は鎧を身体中に纏い寝台の上で、死んだように眠っていた。

  最初は屍か、と疑問に思い近づいてみると、少年は息を飲んだ。

 

  ───綺麗だ。

 

  幼く、まだ心も体も未熟な少年でも分かってしまうほどの、美しさ。蒼銀の髪は夜空の星の輝きのようで、顔立ちは今まで見てきた女性たちとは比べ物にならないほどの秀麗な、幻想的な魅力を兼ねていた。

  女は近づいてきた少年にも気づかず、死んだように眠っている。ちょっとだけ手を伸ばし、頬を突くも目覚めない。もう一度恐る恐る手を伸ばし首元に触れて、暖かいと感じる。

 

「生きて、いる?」

 

  でも、死んだかのように肌が白い。元々白いのか、死んでいるから白いのか。分からずに少年は女が眠る寝台の前を彷徨った。

  どうするべきか、何をすべきなのか。少年の頭を混乱を極めていた。限界に近く、戸惑いは最高潮に達しようとしていた。

 

 

 

『……貴方は、誰ですか?』

 

 

 

  だからこそ、咄嗟に剣を抜いたのは間違いではないと思った。

 

「だ、誰だ!?」

 

  後ろからか前からか、部屋全体から響く声に恐怖を覚えながらも少年は震える剣を構えて吼えた。

 

『落ち着いてください、…小さな勇者様。私は、貴方の後ろに』

 

「う、後ろ?」

 

  ゆっくりと振り返ると、そこには眠ったままの女がいた。先ほどから変わらぬ、氷のような女神。何も変わっていないのに、響く品のある高潔な声が何故か彼女の声だと理解させてしまった。

 

「お、おまえ誰だ?」

 

『私の名は』

 

 

 

 

 

『───ブリュンヒルデ。大神の娘にして、ワルキューレが長姉たる私の名は、ブリュンヒルデと、申します』

 

 

 

 

 

  これが序章。長い旅路の一歩目にしか過ぎない開幕の福音。

 

  小さく、誇りもなく、血筋もなき一人の少年の物語。

  やがて悲劇の末路を辿る戦乙女と戦士の王たる竜殺しとの邂逅を待つ英雄の叙事詩の始まりでしかない。

 

 

 

  英雄の名は、フェーデ

 

 

 

 

 

 

 

 

 




よろしくお願いします


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歩みのきっかけ

 朝露が葉に滴る夜の終わり、朝の始まり。陽光が山の向こうから顔を出し、朝露が光を反射して森の中は光の粒で満たされていく。

 その森の中、疾走する二つの影があった。いや、詳しく言うと()()()を疾走しているのは一つ。もう一つは、森を()()()()()()()()疾走している。

 虚空を舞う十数の木々、同時に大地が削られ、地形が変わっていく。先行する影を追うために障害物を全て粉々にしていく所業に声を荒げる者はいない。

 影はやがて互いの距離を詰め、そして交差させる。交差する度に火花と血が散り、影が通った後には血が残る。幾度の交差が重なり、やがて先に走っていた影が反転した。反転した影は追いかけてくる影へ突進する。迫りくる影は唸りを上げ、踏み込みと同時に大地に亀裂を走らせる。

 そして、交差し───盛大に血飛沫が舞った。

 影は唐突に止まり、血飛沫を上げた影、いや巨大な魔猪は地面へ横たわった。死骸と変わった魔猪へと近づいたのは先ほど魔猪に追われていた影。いや、青年。

 

「朝飯調達、完了」

 

 鍛えられた肉体は細くはあるが、ひ弱さなど一切感じさせない逞しさがあった。色素が薄い髪と銀色の瞳が剣のような鋭さを帯びており、手に持った無骨な槍は歴戦の戦士の雰囲気を醸し出している。

 

 青年の名はフェーデ。

 

 このヒンダルフィアル───人外魔境たる牝鹿の山嶺に生きる唯一の人間であった。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 フェーデは狩ったばかりの魔猪を担ぎ、ヒンダルフィアルの山頂へと登った。山頂には今も昔も変わらぬ、蒼い炎が山頂を塞いでいた。人を簡単に炭へと変える灼熱を前に、フェーデは顔色変えずに告げた。

 

「“去れ”」

 

 指を僅かに文字を綴るように動かし、それと同時に呟くと炎の壁は縦に別れた。

 人一人分が通れる程の道が分かたれ、そこを悠々とフェーデは通る。彼が炎を通り過ぎると何もなかったように炎はまた山頂を囲む。

 山頂には炎と同じように変わらず館がそびえていた。炎に囲まれている山頂の内部は驚くほどに涼しい。そこだけ世界が違うと思ってしまうほどに空気が澄んでいた。けれどフェーデはそれを気にしない。既に十年近く住んでいる館なのだから、それが当たり前と認識している。

 館の周りは盾の垣根がかつてあった。けれど今は全て無くなり、館は炎にしか囲まれていない。

 フェーデは館の外に猪を置き、一人中へ入っていった。

館の中は何もない。あるとしたらフェーデが自室として使っている部屋にある小物と、この館の主である彼女だけである。

 館の中を歩き、やがて一番奥にある部屋へ辿り着いた。部屋の前に立ち、軽く息を吐いてフェーデは立ち入った。

 

 部屋の中には寝台に死んだように眠る女と、その女を囲むように咲き誇る花々だった。色彩溢れた部屋に入ったフェーデは小さく笑って、眠る彼女へ口を開いた。

 

「目覚めたか、ブリュンヒルデ」

 

『ええ、おはようございます。本日もヒンダルフィアルに朝が来たのですね、フェーデ』

 

 何処となく響く声は眠る彼女───ブリュンヒルデの声。未だ眠り続ける戦乙女は、声だけでフェーデに微笑んだ。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 その昔、ワルキューレであり自動機械であった大神の娘がいた。その娘の役割は勇猛たる戦士の魂を見定め、館へ導き、そしてもてなすことであった。

 全てはいずれ来る神々の終焉(ラグナロク)の為、大神の元に戦士達を集める。それが彼女が生まれた意味であり、意義であった。

 

 しかし、彼女の役割は無くなってしまった。

 

 それは父である大神が定めた勝利の約束を反故にしてしまったからである。父が祝福した戦士は本来ならば勝つはずであった。だが大神の娘はその戦士の敵に加担してしまい、その戦士を敗北させてしまった。

 大神である父は、娘に罰を降した。まずその身に宿る神性を剥ぎ取り、死に近い眠りを齎す戒めのルーンを刻み、ヒンダルフィアルの山頂にある『炎の館』へと閉じ込めた。

 

 戒めのルーンは呪いと同様に絶大だった。

 

 永劫に近い眠りと永遠に燃え盛る炎に囲まれた館。その中にいる己が娘に大神は予言を託す。

 

 ───恐れを知らぬ男がお前を目覚めさせ、愛を告げにくる。

 

 正直な話、娘は永遠に眠り続ける運命なのだと覚悟していた。愛を告げにくる戦士がこの館へ来れるのかどうかすら怪しい。きっと神々の終焉(ラグナロク)が訪れるその日も、この身は眠り続けることになるのであろうと戒めのルーンに絡まれ続けていた。

 

 

 

 だが、目覚めは突然のことだった。

 

 館へ訪れたのは幼い少年だった。

 少年は目覚めた私の声に怯え、必死に剣の切っ先を見えぬ敵に定めようと震えていた。

 

 これは、違う。恐れを知らぬ戦士ではない、ただの子供で剣を持っただけの幼子だ。何故この館にいるのか分からなかったが彼が訪れたことによって私の肉体は目覚めず、意識だけ目覚めた。

 神性は薄れたが父より授けられた原初のルーンを使い、会話を交わして少年はようやく落ち着いた。話を聞くと、少年は王族を傷つけてしまいここまで逃げてきたようだった。

 この時の私は思わず苦笑を隠せなかった。まさか一流の戦士でさえ辿り着けることが困難なこのヒンダルフィアルを逃げ場とし、しかも炎を超え、盾の垣根を突破してくるのだからこれは数多の戦士を見定めた戦乙女として驚きを超えて笑うしかなかった。

 

 そして、少年はこの館へ住み着いた。

 

 帰る場所も帰るべき家族もいない。外は敵しかおらず、安全な場所はこの人外魔境のみ。

 普通の少年ならば死ぬしかなかっただろう。だが少年には盾の垣根を切った剣と、私がいた。

 私は彼に原初のルーンを教えた。教えたのはただ、少年が生きていけるようにと同情の念があったから。原初のルーンを覚えた少年はこの館とヒンダルフィアルの山を行き来できるようになった。

 そして、少年は山からその日の糧を得れるようになると。

 

「ブリュンヒルデ、狩りを教えてくれ」

 

 私に狩りの仕方を教えてくれと頼みにきた。どうやら木の実や水だけで物足りないから、技を覚え狩りをしたいらしい。

 だが私は悩んだ。狩りを教えるのは簡単だ。しかしこのヒンダルフィアルの獣達は麓の獣とは違い、世から切り離された神秘を濃く継ぐ魔獣だらけだ。彼が狩りに行けば、逆に狩られるのが目に見えている。

 

 だから私は彼に槍や剣、弓に魔術と様々な知識を教えた。生半可な技がダメならば一流の戦士に近いものにすれば良いと考えた。

 

 眠る私は口伝でしか技術を教えられない。

 だが、彼は口伝だけで私が教えた技を習得した。この時に、いや、前から彼の才覚が並々ならぬものだと気づいていた。原初のルーンを口伝で、しかも僅か数日で発動させた。この時点で、彼の才は破格のものだと理解した。彼の才覚は多岐に渡り、私が教えられる限りのことを習得し、さらに教えられた以上のものへと昇格させた。

 

 年月が幾星霜と流れるに連れて少年の背は高くなり、背中は逞しくなる。たどたどしかった槍の腕も今は必殺となり、剣の腕も館を囲んでいた盾の垣根を全て両断するに至る。

 最初は脅威であったヒンダルフィアルの獣も、今ではただの食料としてしか見ていない彼は、いつの間にか少年から青年へと成長した。

 

 彼の名は、フェーデ

 

 英雄となり得る破格の才を持つ私の小さな英雄であり、私の───

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

「ブリュンヒルデ、しばらく麓に降りようと考えている」

 

 今朝狩ってきたばかりの魔獣を捌き、朝食として頬張るフェーデは意識だけ目覚めた眠れる戦乙女、ブリュンヒルデに話しかけた。

 眠る女に話しかける姿はいようとしか見えないが、彼等を見るものは誰もいない。フェーデが此処に住み着き、十年以上に経った今では当たり前となった光景である。

 

『ええ、構いませんがどうしたのですか?』

 

「一応、狩ってきた獣の皮が不必要なほど溜まってきているからな。町までいって売りさばいてこようと考えている」

 

 ちなみに獣といっても魔獣である。ヒンダルフィアルの獣は等しく魔獣である。

 

『何日ぐらいで帰れそうなのですか?』

 

「…早くて、二日だ」

 

『そう、なのですか。貴方ならば大丈夫かもしれませんが。…お気をつけて』

 

「ああ、分かっている」

 

 そうしてフェーデは食事に意識した。獣の肉を頬張る姿を眺めながら、ブリュンヒルデは彼に声をかけず、いや、かけれずに見つめることしかできなかった。

 それは彼を苦手意識を抱いているのではない。むしろ好意を抱いているといってもいい。だが、その好意は女が男に向けるものではなく、姉が弟に向けるものだった。

 

「終わった。片付けてくる」

 

『ええ、いってらっしゃい』

 

 すぐに食事は済んだ。器を持って部屋を出て行くフェーデの背中が見えなくなると、ブリュンヒルデは物憂げに吐息をついた。

 

『…ああ、お父様(大神)。どうか、お願いします』

 

 花によって鮮やかに彩った寝台に眠る戦乙女は眠り続ける。父より授けられた予言により目覚めるその日まで、眠ることしかできないが、彼女は祈る。

 

「どうか、私を目覚めさせてくれる人が…フェーデ()ではないように」

 

 

 

 

 

 最近、どうも会話が続かない。

 フェーデは鬱屈とした息を漏らしながら山を下っていく。彼の背には大量の獣の皮が入れられており、手には槍、腰には剣を吊るしていた。

 幼少の頃、この剣を手に入れたことから全てが始まったと言っても過言ではない。王族の少年に奪われかけ、幼少の無鉄砲が原因で故郷を離れ、この人外魔境こそが第二の故郷となった。

 

 振り返れば、あの時の選択に全くと言っていい程に悔いはない。

 

 確かに兵士たちの追跡で疲れ、死にかけたがあの時の苦しみなど今と比べれば大したことなどない。

 

「ふっ!」

 

「きゃがっ!?」

 

突然死角から襲いかかってきた狼を、避けながら腰の剣を抜き、斬り捨てる。狼の体躯は熊と互角であり、毛並みなど重圧で矢を通すことが難しいと思わせるほど毛深い。そんな獣達が跋扈するこの山は人が住むには難しすぎる。

 最初は一匹狩るだけでも一年の時間が必要だった。獲物の行動を一から知り、気配を悟られないように息を殺し、罠の準備に余念なく手間を惜しまなかった。

 

 そんな獣達を今では一太刀。呆気なさすぎるほどに、簡単に切り裂く。

 

「…全て、ブリュンヒルデのお陰だ」

 

 そう。麗しくも儚い主神の娘、戦乙女ブリュンヒルデ。

 父より下された呪いにより来る日まで炎に囲まれた館で眠り続ける女。

 フェーデはブリュンヒルデにより授けられた知識により、今日まで生きてこれた。

 原初のルーン、狩りの基本、槍や剣の振るい方、料理の作り方、多岐にわたる知識を眠り続ける彼女により与えられ彼は成長した。

 それに対し感謝の言葉にすれば尽きることなどなく、行動にすれば深く強く終わりの時まで抱きしめ続けるだろう。

 

「本当に…困る」

 

 そう、本当に困るし、ままならない。何故自分には力がない。

 

 

 

  何故お前は、自分を求めてくれない。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

「お前を目覚めさせるにはどうしたらいい」

 

 その一言は、何気なく発していた。

 フェーデは自身の力に過信していた。

 かつてのありえないほどの豪運に恵まれてこの魔境に踏み入れなんとか生き抜いたものの、今では魔境の獣達に遅れをとることなどなくなった。

 風の様に駆けるものも。鋼の様な肉体を持つものも。大火の様に攻め立てるものも。全てこの手で屠って来た。

 自信を持ち、敵無しだと思い始めた時ふと思い出した。

 

『私を目覚めさせられるものは、恐れを知らぬ者です』

 

 まるでその事を避けたい様に、ぼそっと短く語った師であり、姉であり、家族である戦乙女から語られた事を。

 恐れを知らぬ者。如何なる脅威をそよ風の如く流し、勇猛果敢と立ち誇る勇士。

 その者こそが死んだ様に眠る彼女を目覚めさせられる者と聞き、今の自分ならどうだと胸を張った。

 幼少の頃自分ならまだしも、今ならば不可能ではない。力ある自分になら彼女の瞼を開かせ、世界を彩ることができると思った。

 

 その自信は見事に打ち砕かれた。

 

 

 

『いえ、貴方にはできません』

 

『私は一生このままでいい』

 

『その様なことは二度と仰らないで』

 

『私、困ります』

 

 

 

 暖かな声音、あやす様に、咎める様に。そんな母のような彼女からは考えられない拒絶の波長。

 呆然とししばらく硬直したあと、震える唇で聞いた。なぜだと。

 ブリュンヒルデは答えてくれなかった。拒絶の理由を、それだけは決して話してくれることはなかった。

 

 自分が勇敢ではないからか? 自分の中に恐れがあるからか? 力が足りないからか?

 

 自問自答は終わらない。いくら考えても彼女の心中を察することなど彼にはできなかった。

 

 

 

 それが半年前、半年経った今でも彼の自問自答は続く。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

「どうしたんだい、お兄さん。浮かない顔だねぇ」

 

「なんでもない、気にしないでくれ」

 

「といってもねぇ、そんな女に振られたような顔でぶすっとされても困るんだがねぇ」

 

「・・・・・」

 

 ライン川より南にあるニヴルング族の国。そこはかつてフェーデがブリュンヒルデに出会う前の故郷であった国。この国には山で狩った獣の皮を売るに来る時だけ訪れるようにしている。

 幼少の頃の思い出もあり、あまり長居はしたくないしそまそも足を踏み入れたくもなかったが他の国に訪れるにも距離がありすぎる為、仕方なく最初の故郷へとこうして戻って来ているのだ。

 現在、昔から獣の皮を売っている衣服屋の女主人の元に訪れ持って来たものを鑑定してもらっているのだが、フェーデはずっとしかめっ面で待っていた。

 

「あら、正解かい」

 

「振られてはいない」

 

「なら相手にしてもらえなかったんだね。御愁傷様。ほらよ、今回の分さね」

 

 不承不承と渡された布袋を受け取ると、思いの外ずっしりと重かった。その重みにフェーデは首を傾げる。

 

「多いな、目利きはある方では?」

 

「ああ、あんた知らないのかい」

 

 女主人が指を指す方向に首を曲げると、フェーデが僅かに眉を顰めた。指差す方向には国の王が住む場所、すなわち城が見えた。

 

「城がどうした」

 

「ギューキ王が御触れを出したのさ、巨人を討伐する為のね」

 

「…巨人?」

 

 日常では聞き慣れない単語に聞き間違えたのかと思ったが、ああと頷く女主人の姿に間違えではないと理解した。

 

「ああ、この国を出てライン川を上流へと沿って上がり、最初に見える山の麓にね巨人が現れたんだよ。その巨人が旅人や近くの村々を襲うもんだからね王が宣言したのさ。無辜の民を救う為に勇気ある者よ、山の麓にある古い砦に集え、如何なる身分を問わず、討ち果たした者は後世へと永遠に語られるであろう、とね。殺した者は体重と同じだけの金を与えるんだとさ」

 

「…気前がいいことだ」

 

 名誉と富、巨人を殺す事で得られる魅力は大きい。

 周りをよく見渡すと、それらしい連中がよく見える。武装を整えた柄の悪そうな連中が意気揚々と騒いている。

 

「寸鉄も十分だがいい毛皮はそれだけで身を守る鎧となる。だから、あんたが持ってくる毛皮は貴重なのさ」

 

「いい時に売りに来たということか、感謝する」

 

「あら? 行っちゃうのかい?」

 

 受け取った革袋を懐へしまい、さっさとフェーデは去っていく。

 

「兄さん腕っ節強そうなのに! 一攫千金だよ〜!」

 

「金に興味はない」

 

 そうして止まることなくフェーデは去っていく。

 街の中央にある人だかりができている大通りを縫うようにフェーデは進んでいく。

 

  ───巨人殺し

 

 思い浮かぶのはそれだけだった。神話の時代から神々と幾度と争い、時には交じり、語られる人ならざる者。腕を振るうだけで人の身を二つと裂く膂力は想像にしづらい。そんな相手を越えたならば、それは間違いなく英雄。

 

 恐れを知らない、英雄だろう。

 

 フェーデの足が止まる。

 

「ライン川の上流を上がり、最初に見える山の麓」

 

 そこで英雄となるべく猛っている戦士達が集っている。一度瞳を閉じると浮かばれるのが眠り続ける戦乙女の姿。

 

 次に目を開けた時、映ったのは自身の手のひらだった。

 

 

 

 ───巨人を殺した、その事実はあいつの心を動かせるには充分じゃないのか?

 

 

 

 拳を握りしめ、フェーデの足は早くなり、やがて駆け出した。

 

 



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邂逅

ゆっくりとやろう、ゆっくりと




 

 血豆が潰れて手が痛かった。

 冷たい水は染みるし、槍を握るだけでも痛くてとても振るう気力が起きない。

 でも、やらなければ空腹が満たされることはない。そう思い、フェーデは槍を持ち上げた。

 鬱蒼とした森、天には日が真上に位置するというのに此処だけは日の祝福がないように暗かった。

 探るような足運びで森の奥へと進む。耳をすませると少し奥で肉を貪る音が聞こえる。それを無視し、さらなる奥へ。また耳をすませると獣の絶叫が聞こえる。それも無視してさらなる奥へ。

 

 ここは魔境、人ならざる者が住み着く獣の楽園。平野に住む獣とは違い、みな何かしらの力を宿し、それ単体で人間の大人達数人がかりでやっと狩れる程の膂力がある。

 その魔境に身を置き、早一年。この食物連鎖の中で組み伏せられることなくフェーデは生きてきた。

 

 背中に剣、両手には槍を持ち息を潜めて森を進む。時折溢れる日の光が目を細くするが決して閉じることはない。瞬きは極力避けている、いや避けたい。少しでも気を緩めれば淘汰される運命だと理解している。震える心に火を灯し、前へ前へと突き進む。

 

「っ!!」

 

 突如影が顔を過ぎった。フェーデは駆け出し、近くにあった木の陰へと隠れたが、その木の幹が中腹が真っ二つに割れた。

 

「ふざ、けるな…!」

 

 それは冷風と同時に現れた。爆ぜる土と砕け散る木の破片。その隙間から見える敵の正体は───狼。

 灰雪色の肉体に生える毛皮は針金の束のようだ、口から見える牙は剣山だ。爪は鎌で、尾は鞭のよう。

 ただの狼であるはずなのに、そいつは魔獣だ。こんな連中が蔓延る山嶺こそが牡鹿の山嶺(ヒンダルフィアル)だ。

 

「しぁっ!!」

 

 槍を突き、心臓を狙う。しかし、いとも容易く避けられた。

 狼の瞳はこちらを値踏みするように見ている。フェーデのその槍さばきを見て、ふ、と嘲笑ったかのように鼻を鳴らした。

 槍を持ち直し、再び狼と向き直す。次は横へと移動し、横腹へと狙おうとしたのだが。

 

「───がはっ!?」

 

 真正面から殴られつけられるような衝撃。体が跳ね飛び、木を数本折ってからようやく地面へと転がる。

 激痛に悶え苦しみ、顔を上げた瞬間、横へと転がる。わずか数秒悶え苦しんでいた場所が()()()

 それは狼の疾走、突進による余波。あの魔獣となり得る獣はそれだけで地面を削ったのだ。

 

「…っ!!」

 

 フェーデは撤退を選ぶ。

 あれに勝てるわけがない。自分を弾き飛ばしたアレは()()だ。こちらを本気で狙っていない。遊んでいる、遊んでいるのだあの獣は。

 駆け出すと同時に森の中へ飛び込む。視界はより狭まり、見えづらくなるがそうは言ってられない。とにかく早く移動することに念を入れる。

 後方から感じる敵意にフェーデは一度たりとも見逃さない、あの感覚を失った瞬間自分は死んでしまうと理解しているから。

 

「らぁ!!!」

 

 森を抜け出し、すぐそこに見えた崖に躊躇いなく飛び込んだ。だがフェーデは知っている。そこほど安全な場所はない。

 崖から飛び降りる寸前、首を回し、後ろへ振り向く。

 

 

 

 すぐそこに、狼の牙が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

『…それで、なんとか首を逸らして致命傷は免れたのですね』

 

「…ああ」

 

 蒼い炎に囲まれた山頂の屋敷、その屋敷の再奥にある部屋には美しい女が眠っていた。魔銀の鎧に身を包み、死んだように眠っているが魔術によりその意識のみを周りに伝えている。

 その女の名はブリュンヒルデ。眠れる戦乙女は帰ってきた少年にことの詳細を聞いていた。

 フェーデの側頭部は皮が剥がれたように傷ついていた。わずかな傷跡だが、血が溢れて顔半分を真っ赤に染めていた。

 

『治癒のルーンは』

 

「教わった通りかけた。血は止まったから水で洗い流した」

 

 頭に包帯を巻くフェーデ。そのフェーデは若干俯き、ブリュンヒルデに顔を背けていた。

 

『…フェーデ、恥じる必要はありません。あなたはまだ幼子。本来ならば親に庇護される存在なのです』

 

「そんな言い訳通じるわけない」

 

 擁護も跳ね除けた。それに対しブリュンヒルデは彼に聞こえないぐらいのため息をついた。

 

『フェーデ』

 

「・・・・・」

 

『フェーデ』

 

「………なんだ」

 

『弱きことは恥ではありません』

 

「っ」

 

 負けて悔しかった。負け続けで悔しかった。未だに勝てずにいることがとても悔しかった。

 下唇を噛み締め、零れ落ちそうになる涙をフェーデは堪えた。

 

『誰もが最初から強者ではありません。皆、最初は弱く脆い者。時と共に経験を糧とし、皆弱さを克服するのです。あなたの環境はとても良きものとはいえません。ですが、あなたは生きて帰りました。この魔境で、食物連鎖に飲まれることなく生還しました』

 

 この魔境に身を置き、彼は未だに敗者であった。どの獣よりも弱者であり、勝ったことなどない。食事は木の実や魚であり、肉を食らったことなど未だない。

 飢えているし、勝てない無力感が彼の心を押し殺していく。孤独で、冷たい森はとても少年が生きていくには過酷すぎる。

 

『だから、私は嬉しいです。あなたがこうしてまた私の前に来てくれることが』

 

「……!」

 

 でも、少年には戦乙女がいた。眠り続けているが、死人のように冷たいが、少年にとっては唯一無二の帰る場所が。

 

『フェーデ。智慧を求めれば授けましょう。力を求めるならば導きましょう。居場所ならば、既にここにあります。だから、帰って来てください。悔しさや痛みならここで幾らでも吐き出してもよいのです。幾らでも、何度でも。そうやって…強くなりましょう。あなたはまだ、あきらめるつもりはないのでしょう?』

 

「………あぁ」

 

 フェーデは立ち上がった。目元に溜まっていた涙は拭って落とした。少しだけ目元が赤いのをブリュンヒルデは見て見ぬ振りをした。

 

「鍛錬、してくる」

 

『ええ、いってらっしゃい』

 

 それだけ言い残し、フェーデは部屋を出た。その背中をブリュンヒルデは見送った。眠り続けるこの身ではそれしかできないが、きっと彼は今よりも強くなって再びこの部屋へと現れるだろう。弱音を一切吐かず、でも何処か無理をしているのが分かってしまうあの少年を、彼女は眠りにつきながら待つことにした。

 

『不器用な子』

 

 未来の英雄の成長に微笑ましく思いながら。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

「……夢か」

 

 パチパチと薪が弾ける音と温もりで目が覚めた。辺りは夜、闇が大地と空を覆い、太陽が身を隠す時間帯。月も厚い雲に覆われてしまい、姿を見せず漆黒が世界を塗りつぶしていた。

 

 巨人の討伐に参加すると決め、二日が経っていた。一度ヒンダルフィアルに戻りブリュンヒルデに暫く山を離れる事を告げた。ブリュンヒルデは反対こそしなかったが再考してほしいということを言葉の節々に込めていた。だが、それでもフェーデが行く事を決めていると言うと、無事帰ってくることを祈ってくれた。

 

 ヒンダルフィアルを出て、徒歩にてライン川の上流へと向かって行く。

 馬という移動手段もあったが、ヒンダルフィアルで普通の馬など飼育すれば一日で獣達に食われる自信があるのでフェーデは馬の一頭も持っていない(もっとも馬より早く走れるため必要ないと思っていた)

 自分が着いた頃に巨人が討伐されていたら元の子もない、そう思うと馬の一頭でも持っておけばよかったと今更ながらフェーデは思っていた。

 

「早くて、あと三日か」

 

 距離を考えればあと三日ほどで例の砦へと辿り着く。無駄足にならなければいいと考えながら、フェーデは焚き火に新たな木の枝を放り込んだ。

 木が火の粉を巻き上げながらも、闇の中を照らす光を見つめながら再び瞳を閉じようとした。

 

 耳がこちらへ駆けてくる音を聞きつけ、すぐに目を開かせた。

 

 側へ置いていた槍を手に取り、立ち上がる。光源が焚き火だけという状況にフェーデの心は乱れることはない。幼き頃ならまだしも、あの頃よりも幾千と積み重ねた経験は恐怖に怯えることなどなくなったのだから。

 

「───シッ!!」

 

 闇の中から飛び込んでくる敵に、一閃。

 一太刀で飛び込んで来た、狼は両断された骸となって地面へ勢いよく転がって行く。

 

「…よりによって狼か」

 

 聞こえてくる足音は集団だ。短く、疾い足音は四足歩行のそれだ。集団で狩りを行う事に長けている獣達に囲まれたとすぐに理解した。

 焚き火という本能的な恐怖がすぐそこにあるというのに仕掛けてくるその度胸にフェーデは覚えがある。

 

「ヒンダルフィアルからの()()か」

 

 魔境より産まれ、魔境を出た外れ者。強き者が生き延び、弱き者が食われる社会構造から抜け出し、新境地を目指す獣達を彼は外れと呼んでいた。その言葉に裏はない。蔑みや見下しなどではなく、単純に行動特徴を便宜上にそう呼んでいたのだが。…心なしか獣達の殺気が高まったような気がした。獣に人の言葉を理解するなど…いや、あの魔境の出ならあり得るかもと囲まれている状況だというのにフェーデは的外れなことを考えていた。

 

「他の奴らと出くわす前に自分と当たったことが幸いか、不幸か」

 

「ガアッ!!!」

 

「…迷惑で、困るな」

 

 同時に攻めてくる二匹を一つは槍で、もう一つは足で対処した。大口に槍を捻じ込み、踵を落とすことで鼻を潰す。どちらも怯んだ隙に急所へと素早く突きこみ、さらに追い込もうとする多数を同時に相手する。

 縦横無尽、明らかに獣とは思えぬ統率された動きに調教師がいるのではないかと勘ぐってしまう、常人なら。だが魔境の山を生き延びたフェーデにとってこれぐらい序の口に過ぎず。単純作業のように淡々と迫りくる牙と爪を掻い潜り、一撃をもって絶命させていく。

 

「本当に、困るな!」

 

「キャンッッッ!?」

 

 槍の石突きを狼の背中に叩き込み、背骨が折れる音を確認すると背後から来た次の狼を片腕で首を掴み、勢いよく回して首を叩き折った。

 狼の大口から漏れた断末魔が闇に響き、感じていた気配が揺らぐ。今殺した狼がリーダー格だったのか、傘下である獣の群はたじろいでいる。

 このまま去ってくれると楽、と思っていたが動揺はすぐ収まり、こちらへの殺気が高まってきた。多くの仲間が死んだことが彼らの闘志に火を付けてしまったのだろう。

 

「ちっ」

 

 舌打ちして、穂先を闇へと向ける。焚き火の明かりが獣達の瞳に吸い込まれ、無数の双点が闇に浮かぶ。全て捌ききるのに骨が折れることを覚悟し、こちらから彼らの領域に入ろうとした時。

 

 新たにこちらへと駆けてくる音源がある事に気付く。

 

 狼の足音とは異なり、軽快で重厚な響き。大地を弾むような疾走は素早くこちらへと向かって来ている。前の連中とは違い、敵意など一切ない。

 狼達もそれに気づき、幾らかの数匹が新たな侵入者へと向かったが───その結末は全て、骸となって闇から飛び出した。

 

 血と土が弾け飛ぶ最中、()()()は現れた。

 

 その正体は───駿馬に跨る戦士だった。

 

 一目見ただけで、フェーデはそいつが戦士だということを感づいた。

 それは本能だったのかもしれない。駿馬の肌からは凡百とは思えない覇気を纏っていた、瞳には知性、吐息は豪胆、蹄から発せられるその音は剣の刃の如く鋭い。

 その駿馬に跨る男は───英雄、だと思った。

 フェーデは英雄になど出会ったことがない。寝物語で聞く、古今無双のあり得ざる人でなしになど見たことがない。でも、そいつを見た瞬間、ああ、こいつがそうなのだろうと胸に収まるような納得が訪れた。

 冷たさと重厚さ、肉体そのものが鋼で、纏う神秘は火山の如き灼熱。

 手に持たれた()()は、それ単体で生きているような脈動を放つ。迸る魔力が死を招いている。あの剣の鋒がこちらへと向けられた瞬間、脊髄反射で斬りかかってしまうようほどに恐怖を掻き立てる。

 

「問わせてもらおう」

 

 その男は聞いて来た。

 

「当方の手は必要か?」

 

 狼達を牽制するように唸る駿馬と尋常ならざる魔剣を持つ英雄はこちらを気遣った。

 

「…迷惑ではないが、困ってはいる。正直助かる」

 

「そうか。ならば当方は助太刀させてもらおう」

 

 馬から降りて、英雄は剣を構える。その姿だけで目が惹かれる。一つの芸術として完成された動き。一つの窮極に達したその動きに、フェーデは不覚にも見惚れてしまった。

 

「どうした?」

 

「いや……場違いなことなことを考えただけだ。気にしないでくれ」

 

 フェーデは槍を構えなおし、一歩前へ出た。

 

「厄介だが全員ここで潰す。これほどの数、他に被害が出るかもしれない」

 

「肯定だ。無辜なる民の血を流させるわけにはいかない」

 

英雄も剣を構え、闇へと鋒を向ける。闇の奥に潜む狼達がたじろぐ。だがそれが致命的だった。

 

「「ふっ!!」」

 

 英雄とフェーデが同時に闇へと飛び込んだ。

 一歩先に何も分からない、障害物が邪魔をするかもしれないという未明の領域だというのに暗き奥底からは血に濡れた音が響く。風を切り、肉が爆ぜ、悲鳴が溢れる。一方的な蹂躙が見えない場所で繰り広げられている。絶対的な自然の摂理がそこで行われている。厳しい、だが絶望的ではなかった。

 

「終わったか?」

 

「問題ない」

 

 消えかけになった焚き火、其処に新たに薪が放り投げられる。暗闇に再び灯った光が映し出すのは二人の男と駿馬。それ以外は全て、狼だった骸だけ。

 

「強いな」

 

「貴公こそ。比類無きほどに鋭敏な槍捌き、感服した」

 

「あの闇でよく見えたもんだ」

 

「貴公もだろう」

 

 焚き火近くにフェーデが腰掛けると、英雄も腰を下ろす。

 

「夜は深い。急ぎでなければ休んでいけ」

 

「お言葉に甘えさせてもらおう」

 

 煌煌と燃える焚き火を中心に囲うように座る二人。しばらくの間、二人は何も話さなかった。その沈黙が嫌というわけではなかったが、あまりにも無味だった為フェーデは声をかけた。

 

 

 

「フェーデだ」

 

「ん?」

 

 

 

「自分の名はフェーデだ。とある山から降りて来たフェーデだ」

 

「そうか」

 

 

 

「当方の名は───シグルドだ」

 

 

 

「ヒーアルプレクから来た、シグルドだ」

 

 

 

 偶然か、必然か。

 二人の出会いはこうして迎えられた。

 やがて、戦乙女の嘆きを以って終わるこの叙事詩の始まりは小さな焚き火の囲いからだった。

 

 厚い雲は払いのけられた満天の星空の頂点には、満月が浮かんでいた。

 

 

 



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巨人の砦

皆様、感想と誤字修正ありがとうございます。




 荒波のように高低差が激しい平野を越え、速くに過ぎる雲の下を歩き、早三日が過ぎた。

 

「・・・・・」

 

「・・・・・」

 

 時には森の中を進み、時には川を進み、時には襲ってくる野盗達を突き破り、穏やかな時間を過ごしながら歩み続けた。

 

「・・・・・」

 

「・・・・・」

 

 有難いことに、この旅には頼もしい相手が増えた。それゆえ、退屈することなく時間を消費することができた。

 

「いやぁ、それは無理があり過ぎるでしょう」

 

「どうしたグラニ?」

 

 今、其処には二人しかいないにも関わらず、第三者の声が聞こえた。それは幻聴ではなく、二人と共に旅するもう一頭、つまりシグルドが乗馬している馬から発せられた。

 並外れた知恵と人語を理解する頭腦を有する灰色毛の駿馬、グラニ。彼が喋ったのだ。

 

「お二方、もう少し会話という娯楽を楽しんでみては? この馬の身でも貴方は些か寡黙すぎると分かる」

 

「…当方に、洒落た会話は難しい」

 

「右に同じく。苦手ではないが、困るな」

 

「馬の私が一番のお喋りとは泣けてくる話ではありませんか」

 

 やれやれと首を振るグラニに対しシグルドとフェーデは沈黙でしか返せなかった。

 互いに話すことが少ないのだ。フェーデは狩りでしか、シグルドは武人肌の人間であるために剣でしか物を長く話せない。ここ三日で話したことをピックアップすると。

 

『槍が獲物なのか?』

 

『槍が一番得意だ。だが、剣も扱える』

 

『見事な剣だな』

 

『昔、とある商人から買い取った』

 

『そうか』

 

 

 

『お前の剣も見事なものだ』

 

『父が手にし、とあるお方に折られたのを当方が打ち直した』

 

『鍛治師か?』

 

『養父が鍛治職人であった』

 

『なるほど』

 

 

 

『名のある剣士なんだな』

 

『鍛錬を怠らず、皆の期待を応えてきただけだ』

 

『お前程の男、自分は見たことがない』

 

『当方も、貴公ほどの槍捌きを繰り出せる者を見たことがない。名のある武人と見たのだが』

 

『唯の狩人だ。功名心に駆られてはいるがな』

 

 と、まあ無味な会話が繰り返されている。一度話せば、しばらく長い間が続くために沈黙が苦手な者にとってこの二人といれば心が折れてしまうことが目に見えてしまう。

 そもそもフェーデとシグルドが共に移動しているのは、互いに巨人の噂を聞きつけたからだ。

 

「功名心に駆られたことに自らを卑下することはない。戦士として、より強大な者に挑むことは本能であり、矜持でもある」

 

「それは昔、よく言い聞かされた。だが、自分の場合は」

 

 チラリと、女の顔が過ぎる。

 

「…お前もそういうことがあったのか?」

 

「以前、乞い願われてとある()()()()に挑んだ。勿論、功名心が無かった訳がない。高揚感もあった。乞い願われた者には悪いが、その時はその敵と当方のことしか頭になかった」

 

「それは、当たり前じゃないのか?」

 

 殺しあいにて、他所の心配などできるはずがない。それこそ余念に気を逸らしていてはすぐに死んだとしても文句など言えない。

 

「そうだ、当たり前だ。敵は強大、命を賭けるからこそ自らが得た栄光は何よりも輝きに満ちる。功名心とはそれすなわち、空想だ。空想に貴賤がないように、功名心にも貴賤はない。恥じることがあるとすれば、栄光に身を浸した後の振る舞いに、傲慢が生まれることだろう」

 

 だからこそ、戦士は高潔であらんとしなければならない。そう語るシグルドは会って数日であるフェーデにも流暢になっていることに気づけた。

 

「随分と、こだわっているんだな」

 

「……こだわり?」

 

「いや、悪い」

 

 言い方が悪かったと頭を下げる。

 

「自分には、お前のような思想はない。あるとしてもそれは全て受け売りに過ぎない」

 

 今から昔に繋がる全ては常に生きる為にあったものだ。生きる為に強くなる、弱いままではいけない、常に強くなる事を忘れるべからず。それがフェーデの思想、いや、掟だった。

 ブリュンヒルデに教わった礼儀は自律。例え憤怒に身を燃やしても相手を辱めることだけはしてはならない。その振る舞いは自らを堕落させる。だからこそ感情を自ら律し、己を見失ってはならないという認識にしか過ぎない。

 

「だからこそ、お前のように長く語れるものがあるのは、すこし羨ましい」

 

 自分にはない、その無いものこそがブリュンヒルデを拒絶させたのではないか。

 そう思うと、欲しくなってくる。自らの思想を。

 

「……そうか、こだわりか」

 

「? どうした」

 

「いや、貴公の言葉に少し納得しただけだ」

 

 小さく笑うシグルドにフェーデは首を傾げた。フェーデの目には入ってはいなかったが、グラニも沈黙と口を閉じていた。

 

「当方は戦士だ。生まれた時から此れ迄も戦士と生きてきた。そして、これからも戦士として生きていくだろう。ならばこそ、こだわっているのだろうな。戦士の在り方というものを」

 

 グラニの手綱を握り直し、表情をいつもの鉄面皮へと戻した。

 

「あともう少しで目的の砦へと着く。少し早足で行こうと思うが、大丈夫か」

 

「問題ない。あと少しならば、自分は走ろう。それこそグラニを超える勢いで」

 

「というわけだグラニ。お前は?」

 

「ほほぅ? この私に挑むとは面白い。父に恥じぬ疾走をご覧あれ!!」

 

 嘶きと共にグラニは疾走を始めた。それと同時にフェーデは並走を開始する。

 風を追い抜く駿馬の走りを負けじとついていくフェーデ。凹凸が激しい平野を息乱れずついていく彼にシグルドはほぅ、と感嘆の息を吐いた。

 

「見事」

 

「……ふ!」

 

 短く笑い、走るスピードを上げる。そんな彼を見て、グラニもまた足を早めた。どちらが先にバテるか、と思い始めた時。

 峻険な山々とその麓に朽ち果てた砦が見えてきたのだった。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

「人が多いな」

 

 第一印象はそれだった。かつては隣国の王が建てたとされる砦は戦争により崩れ、今では無人の廃墟と化していたと聞くが、砦内部は賑わい立っていた。

 屈強な男達があちこちでテントを建て、テーブルを持ってきてそれぞれ料理や酒で楽しんでいた。また、商人までも出張ってきているようで武器や防具、また食材を売り出している。

 

「死人が出ていると聞いたが?」

 

「聞いた話だと巨人は夜に姿を現わすそうです。見渡す限り、此処には非戦闘員はいないようなのであの商人達も自ら戦えるものか、もしくは傭兵を雇っているのでしょう」

 

 フェーデの疑問に答えたのはグラニだった。自分よりも馬の方が見る目があるとはどうなのだと自らの至らなさに若干凹んだが顔には出さなかった。

 

「まだ日の入りには早い。夜に戦いが待っているため、今のうちに腹を満たしているのだろう」

 

 比較的に朽ちていない馬小屋にグラニを入れ、彼用の食事である干し草を用意するシグルドは周りを見渡していた。

 

「この様子だと、まだ巨人は姿を現していないようだ」

 

 敵の襲撃があれば、このように騒いではいない。敵に備え、武器を点検しているか、罠を設置しているだろう。

 

「…改めて思うが、巨人か」

 

「おや、信じられませんか?」

 

「そうじゃない。神秘の色濃い存在に疑いはしていないが」

 

「脅威がどれほどのものかということか」

 

 巨人。種類によっては神よりも先に産まれ、世界が大神により造られる前に人間に代わりこの世を闊歩していた生命だ。原初の巨人(ユミル)から産まれた霜の巨人達は神族と多くの争いを繰り広げてきた。

 時に神と混じり新たな神を産んではいるが、気性は荒いと聞く。

 背丈は、体重は、皮膚の硬さは、急所は。それを考えていくと目の前にいる男達の陽気さはあまりいいものだとは思えない。

 

「…大丈夫なのか、こいつら?」

 

「ああん、なんだてめぇ?」

 

 呟いた一言は偶然にも近くにいた大男に聞かれてしまった。

 

「てめえ、人に難癖つけるとはいい度胸じゃねえか?」

 

「…悪かったな、つい口に出た」

 

 例え、騒いでいようと彼らを貶した一言を放ってしまったことに謝罪したのだが、目の前の大男はそれで怒りを収まり切らなかった。

 

「ちっ! 見ねえ顔だがどこのもんだ!? 俺は長い間いろんな戦争に顔だしているがてめえの顔は見たことねえぞ!」

 

「山で、獣を狩っていた者だ」

 

「あん? なんだ狩人かてめえ!? ぐはははははっ!!」

 

 正直に話した瞬間、大男は笑い出した。それに釣られ、みんなの目も集まった。

 

「おいおい、ひよっこかと思えば剣もまともに振るえないお坊ちゃんかよ!! なんだ!? お嬢ちゃんの気を引きたくてこんなところまでおつかいにきたのか!? ぐははははっ!!」

 

  「くっ!」「ぷはっ!!」

 

「・・・・・」

 

 明らかな嘲笑に周りにも失笑が広がる。

 

「いいかお坊ちゃん。剣の振り方を教えてやろうか? まずはな、腰の剣の柄をしっかり握ってな?」

 

「───待て」

 

「あん? なんだてめ」

 

 失笑と嘲笑が集まる最中、凛とした声が響いた。

 その声に眉を顰めた大男だったが、すぐに口を閉じた。

 大男の顎の下、そのすぐ直下にフェーデの拳があった。慌てて後ろへと下がると、その拳を掴む手もあった。

 

「止めるな、シグルド」

 

「貴公の憤りは正しきものだ。それを当方が止めるのは貴公を侮辱していることと同じになるだろう。だが、堪えてくれ」

 

 顎を割り、侮辱の報復をしようとしたフェーデの瞳は極めて暗い炎が灯っていた。その瞳に透き通るような氷の瞳が見通す。

 

「此処は戦場の場となる。如何なる身分、出自だろうと戦場では皆平等の戦士。不和は敵の刃よりも身に入り込む」

 

「なら、こいつの嘲笑は不和の種とならないとでも言いたいのか。自分の怒りは過ちで、こいつは正しいと?」

 

「最後まで聴け。確かに戦場では皆平等の戦士。しかし、それはあくまで立つ者としてだ。しかし、()()はまた別。強く、誇り高きものこそが勝者となる。卑しき振る舞いは、もってのほかだろう」

 

 つまり、実力は戦場でこそ示せ。

 ここで安い挑発に乗っても要らぬ恨みを買うだけだ。なら、本来力を示す場で見せつけてやればいい。自らの価値を。

 

「…ふん」

 

「すまないな」

 

 怒りを一旦収めた。理不尽な罵声に落ち着いて返せるほど、彼もできていない。だが、それでも収めてくれたことにシグルドは感謝する。

 

「おい、てめえ!! 勝手に話を…!!」

 

「どけ、貴様ら!!」

 

 集まっていた者達を掻き分け、立派な鎧をつけた兵士がやってきた。周りと比べると、明らかに整った装備に国に従事するものだと分かる。

 

「おお、貴方様はまさか!!」

 

「…貴公は?」

 

「も、申し訳ありません! 私はこの度の巨人討伐の指揮を申すようにギューキ王から命じられた者です! まさか、このような些事に貴方様が赴かれるとは…!!」

 

 指揮官である兵士はシグルドの姿を見ると感動したように体を震わしている。シグルドは変わった様子もなく、淡々と兵士の話を聞いていた。

 

「嘆く民あらば、我が剣を振るうのが使命。そこに大小など関係ありますまい」

 

「おぉ…流石『戦士の王』! 悪辣なる魔獣の頂点を殺した()()()のシグルド殿!!」

 

 ───竜殺し?

 周りがざわめき、熱が篭り始める。皆が先ほどまで喧嘩になりかけの様子に注目していたが、そんなことも忘れて全員がシグルドを見つめていた。

 だが、フェーデだけが違う意味でシグルドを見ていた。

 

「おいシグルド。竜殺しとは───」

 

「ささ、こちらへ。貴方のようなお方がこのような場所は不相応でしょう」

 

 フェーデの声を遮り、指揮官がこの砦で唯一整い、綺麗な天幕へと誘った。だがシグルドは首を振り、拒否の意を示した。

 

「否、先ほど当方が言葉にした通り、戦場では皆同等の戦士。この身は常に戦いに挑む姿勢にならなければならないため、控えさせてもらおう」

 

「そ、そうなのですか。ですが不都合があればいつでも言いつけてください」

 

 ペコリと頭を下げると、そそくさと下がっていた。けれど、指揮官が去ると次は周りの男達がシグルドへと群がってきた。

 

「あ、あんたがあのシグルドなのかよ!」

 

「まじか! 生きる伝説、最強の英雄に会えるなんて…!」

 

「お、俺あんたを目指して戦士になったんだ!」

 

 シグルドに集まる戦士達、その熱狂にフェーデは味わったことのない近寄りがたさを体験した。これは違う意味で近寄りたくない、というか近寄ってはならないという感覚だ。

 竜殺し、その意味を聞こうと思ったのにシグルドは集まってきた者達の対処で忙しそうだ。ならば、違うものに聞けばいい。

 

「グラニ」

 

「まあ、気になりますか」

 

 静かに干し草を食べていたグラニは、慣れた様子でシグルドを見ていた。

 

「最初にあなたのシグルドの対応を見て、そうなのかなと思ってたのですが本当に知らなかったのですね」

 

「シグルドのことか」

 

「ええ、彼の名はこの土地で知らぬ者がいないほどですから」

 

 知らないのは辺境の地に住む者か、さらなる遠い土地に入るものだけだろうと、補足した。

 

「聞いて名の通り、シグルドは『竜殺し』。幻想種の頂点たる生命体、竜を殺せし最強の戦士。そして、竜の心臓を喰らい神々の智慧を手に入れた大英雄ですよ」

 



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シグルドという英雄

 シグムント、フンの国、ヴォルスング家の長男。

 かの英雄は義理の弟に裏切られ、兄弟と国を失った。しかし妹とその息子の助力を経て、復讐を果たした。

 その後、彼は戦火の中でその命を散らすこととなる。そのシグムントの腰には常に最強の魔剣が差さっていた。

 

 魔剣グラム

 

 それは、シグムントの妹シグニューの婚姻の儀の夜だった。薄汚れた外套を身に纏う老人が暗闇から姿を現した。その老人は館の広間にあったリンゴの木に剣を突き刺すとこう言い放った。

 

  ―――この剣は、引き抜いた者の手に委ねよう

 

 数多の勇者がその剣に挑んだ。だが、誰も抜けなかった。あまりに深く突き刺さった剣は地面と一つになっているのではないかと錯覚してしまうほどに強固だった。

 

 こんなの誰にも抜けれるはずがない。

 

 誰かがそう言い放った。

 

 無理だと思った。

 

 シグムント以外。

 

 そうシグムントは見事その剛腕で木から剣を引き抜いたのだ。

 その剣の威光はまさに神威のような獰猛さを潜めていた。振るだけで敵を両断し、突くだけで山をも穿つ。

 神々しさと禍々しさを併せ持つその鋭き鋼鉄は―――魔剣だった。

 大神の試練(バルンストック)。この剣の本来の持ち主の名は、オーディン。戦士たちの神にして、神々の王。勇者の前に現れ、時に恩恵を、時に試練を与え、その勇者の死後、自分の娘たちを遣わせ自分の館へと迎えいれる。

 オーディンより授かった魔剣を手に、シグムントは戦場を駆け抜けた。幾たびの戦場で不敗、無双、最強の名を欲しいままに暴れつくした。

 

 そのシグムントの死後、魔剣グラムは息子の手に渡った。

 

 息子の名はシグルド。父の息子たちの中でも最も優れ、強く、賢き、戦士の王として崇拝されし英雄。父同様にオーディンに期待された稀代の勇者。

 

 母の元から離れ鍛冶師レギンの養子として幼少期を過ごした。レギンの元で多くの武術と学問を学んだシグルドは戦場へと赴いた。敵は父の敵であるフンディング家の者たち。彼は魔剣と卓越した剣術で勝利を勝ち取り、父の敵を討った。

 

 シグムントを超えし、最強。魔剣に相応しき益荒男。そんな彼に、新たな試練が待ち受けていた。

 

 それが竜。最強の怪物を殺すことだった。

 

 

 

 

 〇 〇 〇 〇 〇

 

 

 

「それで…? あいつはやり遂げたのか?」

 

「ええ、まあ。あのお方は見事竜を殺してみせました」

 

 気づけば陽は落ち、あたりは篝火の光で満ちていた。昼とは打って変わり、周りの戦士たちは各々武器の点検に勤しんでいる。グラニとフェーデは馬小屋で英雄シグルドについて語っていた。

 

「竜を殺し、その心臓を喰らったあのお方は神々の智慧を手に入れました。永らく仕えてきましたが、もう褒める言葉がないぐらいに難行を越えてきたところを目にしましたよ」

 

 もはや呆れると苦笑いするグラニ、まあ馬の表情など分からないからそんな雰囲気がするだけなのだが。

 

「あいつはそれほどの大物だったのか」

 

「怖じ気つきました?」

 

「いや」

 

 たしかにすごい。最初の夜に見たあの剣の瞬きが、今でも忘れられないほどだ。あれ程の男そうはいない。

 だからこそ、語られた英雄譚は嘘偽りがないことを理解できる。

 

「本音を言えば、感謝している」

 

「感謝?」

 

 だが、萎縮するのとはまた別だ。

 幼き頃に幾度ともなく味わった敗北感と苦渋の味。あの思いがあったからこそ自分は強くなることに貪欲になれた。

 今は、嫉妬と羨望を味わっている。

 なぜそれほどに強いのか、なぜそれほどに覇気を纏えるのか。羨ましい、ほしい―――強くなりたい。

 

「自分は、振り向いてほしいから名誉を欲した。しかしそれは()()()()()()()()()()という慢心にほかならない」

 

 力と名誉があれば英雄。それが最低条件だとフェーデは思っていた。だが違う。

 シグルドは力、名誉とはまた違う部分で英雄として君臨している。竜殺しという異名に恥じぬあり方を確立させている。

 

「自分は、未だ何かを見失っている。あいつが自分を拒むのは見えていない何かがある。…それを、多分気づけた」

 

 ないから拒まれた。だから得るために求める。しかし得たものが決して正解なのだとは限らない。それは不要なもので、逆に足枷になりうるものになる可能性もある。その可能性への配慮が全く頭に入っていなかった。

 これならばブリュンヒルデが拒むのも当然かもしれない、と重い息を溢れる。

 

「…ずっと思っていたのですが、あなたはもしや、女性絡みでこの討伐に参加を?」

 

「そうだが」

 

「…ほほーーーん?」

 

「…なんだその顔は」

 

 馬面のくせにやたらいやらしい顔をしている。まあ、馬だが。

 

「いやあ、あなたも存外俗物なんですねぇと、思いまして」

 

「…………いやあいつとはそういう関係じゃない」

 

 この馬がなにを言っているか理解した瞬間、即座に否定した。

 だがグラニはその反応が面白いのか鼻をわざと鳴らした。

 

「恥ずかしがることはないですよぉ? 人間なんて年がら年中発情期になってるもんでしょうに。馬でもたまらん!と思うときもありますし、むしろガンガン発情しましょう。というかそんなにいちいち相手に気遣っているから振り向いてもらえないんじゃ? ヘタレですか? ヘタレ」

 

「よしコロす」

 

「あ! まって!! そんな長いものヒトの大事なところに突き刺そうとしているんですか!? いくら欲求不満だからってそれはないんじゃ!? …ちょちょちょ!!? 冗談ですってだから下げて、それ下げて!! 熱した石は普通に拷問!!」

 

「…何をしているんだ」

 

 木の枝を器用に使い、焚き火の囲いとして使われている石を掬ってグラニに押し付けようとしていた。そこにシグルドが帰ってきて、呆れたように一人と一匹を見ていた。

 

「あ! 助けてください! 私けっこう危機的!?」

 

「…どうせフェーデをからかったのだろう。たまには罰を受けろ」

 

「そんな!? っあつ!?」

 

 喜劇のように戯れる彼らを見て、ひっそりと笑うシグルド。フェーデはじりじりとグラニに熱した石が近づけるが、ある程度仕返しが済むと石を捨てた。

 

「それで、話は聞き終わったのか」

 

「ああ…、全くわからない」

 

 この砦の警備を務める指揮官に巨人の話を聞きにいっていたシグルド。巨人の出現は耳にしたがことの詳細に詳しく知らない為に情報を集めたのだが。

 

「夜に現れて、暴れる。それぐらいしか聞けなかった」

 

「…なんだそれは」

 

 フェーデも眉を顰めた。山で生きてきた者にとって、獲物の動向はまず知るべきことだ。巣から餌場、動き回る範囲に相手の足跡から位置の特定など知るべきことで先手を打てるのだから。

 

「相手は何処から現れ、何処に去ることも分からなかったのか?」

 

「突然現れた、しか語らなかった」

 

「・・・・・」

 

 口を固く閉じ、空を見上げ始めたフェーデ。呆れて何も言えなくなったかとシグルドは思ったが、フェーデは地面へと膝をつくと指で地面に文様を描きだした。

 

「それは?」

 

「ルーン魔術だ」

 

「…! 魔術師だったのか?」

 

「違う、生き抜くために教えてもらった」

 

 ルーンを刻むと適当に散らばっていた石を集め、山になるように積み始める。

 

「相手は巨人。伝承では馬鹿でかい図体に短気な性格、極めて図太い生命力に剛力。それが、痕跡も残さないとはおかしすぎる」

 

 尤もだ。だからこそシグルドも頭を抱えた。自身が打ち倒した竜もあまりにも大きすぎる存在感ゆえに目を離せられなかったというのに、ましてや巨人という存在が何処にいるのかも分からないというのは不可思議すぎる。

 

「このルーンは探索のためのもの。砦の中に人間以外の生物が侵入してきたら、この石がそいつに張り付き追尾する」

 

「便利だな」

 

「上手くかかることを祈れ」

 

 ふぅ、と息を吐くと白い息が広がる。夜になるにつれ、辺りは凍えるほどに冷たくなる。もうすぐ春になるというのに、未だ気温は暖かくならない。この夜の冷たさは未だ慣れるとは思えない。

 

「…で、しばらくは哨戒か」

 

「相手はいつ姿を現わすか分からない、気を抜くことは…」

 

「おい、竜殺し!!」

 

 

 

 

 会話を打ち切ったのは数人の男達を引き連れた大男だった。その男はフェーデをわざわざ人前で嘲笑った男であり、フェーデはそいつの顔を見た瞬間顔を顰めた。

 

「何用だ?」

 

「まさかお前みたいな奴がここにくるとはな、そいつはそれほどの大物ってわけか?」

 

「…それは分からん。少なくとも多くの民が犠牲になっているとは耳にした。ゆえに、当方はここに赴いただけのこと」

 

「はっ、さすがかのシグムントの御子息様ということか」

 

 一言一言が頭にくるような口調にもシグルドは表情は変えない。相手に対し侮蔑する視線も、媚びるような視線も送らず毅然と相対する。

 

「再度問おう、何用だ」

 

「特段用ってわけじゃない、かの竜殺しの面を拝もうって思っただけだ」

 

 ───大男は、俗にいう傭兵という部類にあたる者だ。

 戦士であることに間違いないし、腕にも覚えがある。幾度も戦場へと赴き、事情背景関係なく目の前に迫る敵を葬り去ってきた。

 長年死線を潜り抜け、自信もある。ある程度の名を売り、今では手下もでき、傲慢に命令を下せるほどだ。尤も手下達は金払いがいいから付き添っているだけで、大男も了承済みでそれを容認している。

 

 そんな自分の前に、自分より強く、名がある戦士がいるとなると見定めておきたいと思うのは必然だった。

 名のある英雄の息子達の中でも最も優れた男、神に目をかけられた戦士、この時代において誉れある名を残すであろう竜殺し。

 

 大男が実際シグルドを目にして感じたことは、その名に恥じぬ覇気であった。

 なるほど、これならば竜を殺したという大言壮語は真実であろう。そう思うほどの圧倒感が無条件に押し寄せる。

 

「俺と組まねえか?」

 

「・・・・・」

 

 だからこそ、手を組むことを提案した。確かに目の前の英雄は自分より遥か格上だ。持って生まれた才能は羨ましいが、いずれ超えてみせると野心の牙が震える。

 戦士として育ち、多くの強者を殺してきた。この先も、さらに敵を打ち倒し、名を挙げる。それが大男の夢であり、野望だ。

 竜殺しを利用し、巨人を打ち倒した暁にはさらなる名誉を承り、それを踏み台にさらなる名誉を。

 なんて明るい未来予想図。その為にも是が非でも巨人を殺そうと心が震える。

 

「どうだ? 隣の狩人のお嬢さんより俺の方が役に立つ。あんたも竜殺しなんて立派な名があるんだ、取り巻きは選んだ方がいいぞ」

 

「・・・・・」

 

「…おい、聞いているのか」

 

 話しかけているのに、目の前の竜殺しはこちらを目にかけていなかった。今気づいたのだが、竜殺しの目は下へ向き、地面に()()()()()()石ころに注視している。

 一気に頭に血が昇る。巫山戯るな、自分は石ころよりも価値がないと言いたいのか?

 

「おい!!!」

 

 叫ぶと同時に白い息が()()に吐き出される。竜殺しの肩を掴み、頬をぶん殴ってやろうと拳を握り締める。

 

 

 

 その前に、竜殺しに腹を蹴られた。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 最初に気づいたのはフェーデだった。

 からり、からりと崩れ落ちる石の山。何かに引き寄せられるように落ちていき、周りへと散らばり始めた。

 幾つあったはずの石は一定方向に転がるのではなく、フェーデ達の周囲に広がるように転がり、動きを止めた。それはまるで、()()ように石は止まった。

 

 

 

 フェーデのすぐ後にシグルドは気づいた。

 相手の大男が口を開くたびに、濃い白い吐息が吐き出されている。今宵は寒い、だがそれは珍しいことではない。

 この季節では珍しいことではない。だが、今宵は()()()()()()

 その事実に気がつくと同時に足元に気配を感じ、見下ろすと石が転がっていた。その石に覚えがある。さっきの会話だ。フェーデが先んじて張ったルーンによる探知だ。

 横にいるフェーデも気づいたのか、周囲を見渡していた。

 

 壁は僅かに湿っている。棚に置かれている槍の切っ先に雫が垂れている。周りの人達が呼吸する度に白い息が充満する。雑草には霜が張り付き、誰かが雑草を踏む度に薄い硝子が割れた音がする。

 

 ()()だ。何かが起きている。

 魔剣を握る。前の男はまだ気づいていないのか、未だ喋っていた。

 感覚を最大限に広げ、その範囲内に感じる全てを拾いとる。

 

 

 

 頭上に、巨大な何かが堕ちてくるのを感じた。

 

 

 

 咄嗟の判断で目の前の男を蹴り飛ばし、後方へ飛び去る。その直ぐ後に、鉄槌の様なものが振り落とされる。地面が揺れ、大地が隆起する。

 

「な、なんだ!?」

 

「何が起きた!?」

 

 衝撃により皆が目覚め、騒ぎ始める。

 その喧騒に目をくれず、鉄槌の正体を見上げた。

 

「…本当に突然現れたな」

 

「ああ」

 

 隣に立つフェーデだけが、自分と同じくらい落ち着いている。自分と同じように()()を見上げている。

 

 あまりにも巨大で、かの邪竜よりも身の丈は遥か巨大。肌は青白くも、太い血管に流れる黒い血が不気味さを引き出している。むき出しの汚れた歯も、充血した目も、全てが敵意と殺意を宿している。

 

 

 

 城の中心に現れた者は、霜の巨人だった。

 

 

 

 



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霜の巨人

 巨人の名は───アウルゲルミル

 

 元々、この名は彼のではなかった。

『霜の巨人』と呼ばれる者達の名であった。

 かつては彼も彼だけの名を持っていたが、既にそれは忘れていた。

 激しい怒りと喪失感、長年に渡る眠りが名前を忘却の闇へと沈めてしまったのだ。

 

 ユミル、という巨人がいた。

 全ての巨人の祖がいた。全能なる神の祖がいた。

 今ある世界が作られる前、ユミルという巨人が誕生し、あらゆる命を肉体から産み落とした。

 熱気と冷気より作られた毒の雫が形となった原初の巨人だ。その肉体は世界そのものであり、最果てなどあるか分からないほどに巨大であった。

 父はアウルゲルミルを、兄弟達を多く生み出した。偉大とはこの事。父は万能であり、原初だった。全ての拠り所であり、きっと死ねばやがて父に還るものだと彼らは信じていた。

 

 だが、ユミルに死が訪れた。

 殺されたのだ。ユミルから産まれし女巨人、その子である、のちに傲慢にも神と名乗る者達

 

  ───ヴィリ

 

  ───ヴェー

 

 そして───オーディン

 

 あの三人がなぜ、全ての祖であるユミルを殺したのか、いまだ定かではない。だが、奴らは殺したのだ。殺してしまったのだ。

 

 我らが、全ての父を…っ!!!

 

 怒り狂い、復讐に燃えるアウルゲルミルはあの三人を殺すことができなかった。

 巨大な父の死体から洪水のように溢れる血液がアウルゲルミル達を飲み込み、皆を溺死させたからだ。

 殆どの兄弟が死んだ。ユミルを慕う者達は皆、父の血によって無に帰る。

 彼もそうなるはずだった。だが、彼だけは助かった。ただの偶然だ。流れる血の奔流の中に硬質な白の塊が彼を血の中から救い出したのだ。それは骨だった。ただの骨、だがユミルの骨。その骨にしがみつき、血の洪水が収まるまで彼は耐えきった。

 

 洪水が終わり、彼は世界の果てに辿り着いた。

 洪水を生き延びた彼には体力が残っておらず、眠気に勝てず、死ぬように眠りについた。

 

 

 

 彼が目覚めた時には、全てが終わっていた。

 オーディンは父の遺体で世界を作った。

 

 肉体は大地、骨は岩山、歯と顎からは石、血は海、頭蓋は天に、脳は雲にした。

 

 なんと、なんということだ。

 なんて、醜態極まる…っ!!!

 

 あまつさえ父を殺し、遺体を解体し、それらを自らが支配するための楽園として踏み躙る。

 奴らは神ではない、神を名乗った畜生共だ!!!

 両足で大地に立つ行為こそ、父に対する辱めに他ならない!!

 

 だが、立たなければ前に進めない。自身に最悪の嫌悪感を感じながらも、彼は立ち上がる。

 眠っていた彼を保護したのは、ヨーツンヘルムに生きる父の末裔達だった。彼同様に血の洪水から生き延び、オーディンに慈悲という名の傲慢に許され、人が住む大地の外れに息を潜め生きていた。

 

 創世の時から、既にいく数千年。

 オーディンの血を引く人間共が文明を気づき、神の恩寵の元命を育む時代。

 彼は誓った。オーディンへの復讐を。父に行った所業を、倍にして返す。

 苦痛と嘆きの元、厚顔無恥なる神々の王を大地に叩きつけ、遺体となったユミルに許しを請わせる。

 

 

 

 その為に、彼はまず人間を殺す為にヨーツンヘイムを飛び出した。

 

 

 

 まずは人々を絶望を。オーディンが愛している戦士達を骸にする。

 だからまずは、この時代で最も優れた戦士を殺す。その為に餌を撒く。餌に食らいついた時こそ、嬲り殺しにする。

 

 

 

 優れた戦士の名はシグルド。

 

 

 

 シグルドが、やってきた。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 

「「「オ、オ、オ、オ、オ、オオオオオォォォォォッッッ!!!!!」」」

 

 

 

 咆哮。それだけでまず数人が死んだ。

 砦の高台で突然現れた巨人に対し、弓を構えていた兵が音の衝撃で肉体の内部から破壊された。

 その衝撃で砦の一部が破壊され、参加していた戦士達が吹き飛んだ。

 大地がめくれ、石が大砲のように飛び散る。それにあたり絶命した者も数名。

 顕現された暴力の化身。それを正確に確認できぬまま亡くなった戦士達。なんとか生き残った者達は、放心していた。

 

「アウル、ゲルミル!?」

 

「…霜の、巨人か!?」

 

 放心する戦士達の中で、たった二人だけが正気を保ち、巨人を警戒し距離を保っていた。

 言わずもがな竜殺しのシグルドとフェーデだった。

 

「あいつらはユミルが死んだ時に起こった血の洪水で途絶えたはずだ!」

 

「…例外はある。ベルゲルミルは妻と共に生き残った」

 

「後の巨人の先祖か…」

 

 咆哮を放つ寸前、明確な死を感じた。それはシグルドとフェーデが共通に感じていた。即座にその場を離れ、咆哮の死の脅威から抜け出したのが幸いだった。

 シグルドとフェーデに絡んでいた大男は死んだ。巨人が現れた時の踏み込みは救えたのだが、咆哮が放たれた時には足元であったため、即死だった。

 

「そもそも、あれは本当にアウルゲルミルか?」

 

 ブリュンヒルデにより教えられた創世の物語を覚えているフェーデにとって、それは嘘のように思えた。

 ユミルより直々に産まれた神と同格の巨人、『霜の巨人』(アウルゲルミル)

 今こそ世界のどこかに生きているとされる巨人はそのアウルゲルミルの子孫だ。

 存在自体が原初、最大級の神秘。それがなぜ、ここにいる。

 

「そうだ。当方の()()がアレの正体を教えてくれた。ならば間違いない」

 

 言い切った、シグルドの瞳は仄かな光を宿していた。

 曰く、シグルドは邪竜の心臓を喰らい神々の智慧を得たという。

 シグルドには神の智慧がその血に流れている。如何なる難題も知りたいと願えば(智慧)はシグルドに答えを導き出してくれる。

 如何なる魔法だろうが、見たことのない怪物だろうが、その正体を神の智慧が相手を分析し、検索し、解答へと導いてくれる。

 

 あの巨人を眼にした瞬間、その智慧が答えを出した。

 

 

  ───憎悪を感知、対象:神族及び人類種

 

  ───目的への解決手段、殺戮

 

  ───対象の殺戮を完遂した時のみ、和平交渉可能

 

  ───優先対象:シグルド

 

 

 視覚より与えられた情報のみで、対象の正体と行動を看破。

 必要なことだけを導く智慧を停止させ、シグルドは魔剣に意識を集中させた。

 

「…ひとまず、お前を信じよう。で、どうするつもりだ」

 

「斬る。アレは放逐できぬ。此処で打ち倒さねば、大地が血で満たされる」

 

 それこそ、ユミルが死んだ時のように。

 

「…元々そのつもりで来たが、あれほどのデカブツだ。弱点を突かねばならんだろう」

 

「ああ、その通りだ。奴の肉体は他の巨人と異なり、作りが違う。弱点を突かぬ限りまともに傷をつける事もできぬだろう」

 

 その手段について問おうとした時、冷えた夜空に幾つもの曲線が描かれた。

 

「撃て、どんどん撃て!!」

 

 巨人の咆哮に固まっていた兵士、巨人討伐に参加していた戦士達が動き始めていた。

 あの巨体に直接攻撃するのは不利と判断したのか、遠距離からの矢で攻撃し始めた。この砦の指揮官が命令を出し、惜しみなく矢を放っている、のだが。

 

 全ての矢が、巨人の身体をすり抜けていく。

 

 まるで煙の中に石を投げ込んでいくように、矢は肉体の中に一度姿を隠してすぐに反対側へと飛び出していく。

 

「巨人の肉体は()()で形成されている。どれだけ矢で射ろうとも、剣で凪ごうとも意味を介さない」

 

「…それで霜の巨人か」

 

 肉体は冷気により形成されており、その冷気の中には並外れた魔力と神秘が含まれている。人が、物質がその冷気に触れれば実際に実体があるように硬質化する。

 そこに実在するようで、そこに無い。生命の活動を妨げる冷気によってできている人外。それこそが霜の巨人の正体である。

 

 突然現れて、消えれたのは自身の肉体を()()()()()だけのこと。肉体が実質気体でできている巨人だからこそ、できた手段だ。

 

「ここで何時迄も話している暇はないな。───出るぞ」

 

 シグルドは相手の正体を見破った上で、前へ出た。

 巨人は近づいてくるシグルドに対し、睥睨していた。

 矮小な身で、自分に何の策もなく突貫してくるその様子を完全に呆れた様子で見ているように見えた。

 

「オオオォォォッッ!!!」

 

 だが、完全に仕留めるために渾身の一撃を振り下ろした。隕石の如き拳の襲来をシグルドは完全に回避してみせた。

 一刀が巨人の足へと振り切る。

 斬られた場所はすぐに霧散し、傷がない状態で元通りとなる。

 

 巨人はニタリと嗤った。

 

 無駄なことを。どれだけ斬られようとも自分を傷つけることなどできない。

 浅はかな無駄な足掻きと巨人はシグルドを目で捉え、足を持ち上げ、踏みつけた。

 シグルドは再び回避し、また斬りつける。

 馬鹿なことをと、再び踏みつけてやろうかと思い

 

 斬りつけられ、斬りつけられ、斬りつけられて

 

 斬、斬、斬、斬、斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬

 

 何度も、息絶えぬ速度でその魔剣を振り続けた。

 形成しようと集めた冷気が、足を作り直される前に散らばっていってしまった。

 愚直の乱れ斬り。無意味な足掻きなどではなく、確かな意味を持って披露される演舞。一太刀振られるごとに風が舞い、二太刀で豪風、三太刀と続き、無限に続けばそれは嵐だろう。

 冷気によって肉体が構成されている巨人、一瞬体の部位が失っても近くに冷気があればすぐに修復されるが、冷気は尋常ではない力技により散ってしまった。

 

「オ!?」

 

 片足がなければ立つこともままならず、片膝をついた状態で倒れてしまった。

 

  ───この自分が、屈した?

 

 その事実に、巨人の怒りは一瞬にして頂点に達した。

 矮小なる人間の身でこの体に土をつけられるという屈辱に喉が震えた。

 殺してやると、両の眼を開かせた。

 

 

 

───(グラム)

 

 

 

 その眼に、眩い光が迸った。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 先に飛び出したシグルドの背中と、両手に構えた魔剣の極光が巨人の肉体を塗り潰した。

 禍々しく、けれど壮麗で無尽の魔力の刃は冷気の巨人を一瞬で吹き飛ばしたのだ。

 

「…これが、竜殺し」

 

 改めて、その実力と魔剣の神秘に舌を巻く。

 剣の腕はまだ測れていた。経験の差も理解していた。だが、神に与えられた魔剣を握った大英雄の真なる英雄性を自分はまだ測りきれていなかった。

 

「は、ははは…」

 

 なるほど、本当に自分は慢心していたらしい。

 魔境に育てられ、戦乙女に鍛えられた。それだけで、自分は強いと勘違いしていた。まさに井戸の中の蛙、大海を知らないわけだ。

 あれこそが頂点、あれこそがブリュンヒルデが求めていた男なのだろう。

 

 

 

 ならば、ならば…!

 

 

 

「此処でこそだろう…!」

 

 負けていられない。ここで立ち竦んでいる暇などない。

 負けていると完膚なきまで教えられたのなら、越えるべきだ。挑むべきだ。勝つべきだ。

 自分は戦える。戦って、戦って、戦って鍛えるべきだ。自分が未だ何もなし得ていないなら、ここで、為すべきだ!

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 肉体の形成に、時間がかかった。 あの光に覚えがある。あの光、あの魔力。あれは正しく我が怨敵の匂い。

 あの男、オーディンに愛されているな!?

 怒りが頂点に達した時、さらに怒ると逆に冷静になる。巨人は冷えた頭脳で敵を見据える。

 侮るべきではない。必ず殺せ。

 胸にあった侮蔑は捨てる。必要なのは単純な殺意と殺意を行動に移せる技能だ。

 

 魔剣に肉体全てを吹き飛ばされたとしても、アウルゲルミルに死は与えられない。

 

 冷気、即ち気体によってできている怪物だ。殺すなら、気体ごと消し去らなければならない。

 シグルドの魔剣は、あらゆる魔剣の頂点に達している。巨人を吹き飛ばした際、後ろにあった砦の外壁を()()も吹き飛ばすほどのなのだから。

 今の魔剣の極光は、あくまで()()()だ。

 ここで魔剣の全種解放の一撃を見舞うとなれば、周りにいる戦士達に巻き添えが出てしまう。シグルドの本気は、ただの戦士では耐えきれない暴力の化身と成り果てるのだ。

 

「オオオオオオオオッッッ!!!」

 

 肉体が完全に修復し、立ち上がる。眼下に広がる群がる人共。シグルドを除き、殆どが怯えた目で巨人を見上げていた。あの雄々しい眼が気に入らん。

 崩れていた砦の一部を掴み、天へと振りかざす。この一撃は石の雨となって、皆に襲うだろう。

 さあどうする、英雄? 力を込めて、振り下ろす。

 

「???」

 

 手に違和感を感じた。

 その感覚には、覚えがあった。生まれた時から、今までで何度も味わった。しかし、あまりにも久方振りの感覚に脳が処理しきれていない。

 

 鮮烈でいて灼熱の鋭い肉体の防衛機能。生物である以上、逃れられないこの感覚の名前は───

 

 痛み、という。

 

「オ、オオオ、オオオオオオオオ!!?!」

 

 手首から流れる黒い血流。間欠泉のごとく噴き出す、ソレに巨人は瞠目した。

 

「こちらだ」

 

 肩から、声がした。

 人と巨人にはあまりの対比さがある。似たような臓器の配置があるといえ、その規模はあまりにも桁違い。身長のみならず、体重もだ。それゆえに人間の体重など綿みたいなものだろう。

 肩に人が乗っていても、巨人は気づくはずがない。

 

 肩にいた男は槍を持っていた。腰には剣。軽い身のこなしができるように軽装だ。

 

 その男の槍は───真っ赤に()()()()()

 

 煌々と冷夜に灯るその炎は星のように輝いている。

 その炎の中心には、記号のような文字が刻まれていた。

 

 巨人は知るはずもない。

 

 アウルゲルミルが眠りにつき、目覚める永き間。彼が最も憎む神が知り得た知識の結晶。

 それは劣化しようとも未来にも名を残す、魔術において一つの大家として成立している秘術。

 

  ルーン魔術の原典、原初のルーンだと。

 

 

 



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巨人殺し


更新速度が遅くてすまない…。




 

 

 唯の単純な計算だった。相手が冷気によって形を保っているのなら燃やせばいいだけのこと。フェーデには幸いにも相手を燃やす手段がある。源初のルーンを使い、槍に火を灯せばいいだけのこと。神秘の火は、神秘の冷気を簡単に断ち、不死身と思われていた肉体に血を流させた。

 

 滴り落ちる血を見て、巨人は吼えた。シグルドのみが自身の敵だと思っていた。しかし、虫けらの一人だと思っていた人間の一人は、オーディンの匂いを漂わせる魔力を宿らせている。肩を叩き、払い潰そうとした。

 

「しっ!」

 

 フェーデは巨人の肉体を垂直に駆け下りながら、胸から腹筋にかけて斬り傷を刻み込んだ。

 途中で大きく飛翔し、僅かに残っていた砦の上へと着地する。

 

「燃えろ!!」

 

 空中に指を走らせ、炎を点火する。最初に傷つけた手首の傷を燃やし、傷に追い打ちをかける。

 

「ガアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!?」

 

 痛みに悶え、巨人は叫び続けた。

 

「―――そのような手段があったか」

 

 気づけば、シグルドが隣に立っていた。

 

「お前もやるか?」

 

「頼む」

 

 差し出された魔剣の上を指が滑るようにルーンを刻む。

 魔剣にもルーンの炎が灯された。一度、試すように剣を振るうとシグルドは満足したように頷いた。

 

「あの巨人に奥の手とかないな?」

 

「もし、そんな素振りを見せようものなら我が智慧が悟ってくれる」

 

「なら」

 

「思う存分戦うだけだ」

 

 その言葉をもって、二人は同時に飛び降りた。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 偉大なる父、偉大なるユミル。

 

 その直系たる我ら巨人ならば如何なる敵をも討ち滅ぼせると確信していたはずだった。

 

 

 なのに、なぜこんな醜態を晒しているのだろうか。

 

 

 

 まず、両の踵を同時に貫けられた。次に膝を傷つけられ、大腿を刻まれた。

 

 剛力の一太刀と疾風の乱斬。異なる技術にも関わらず、二種類の猛攻は息が合っていた。

 

 間と間を縫い合わせるような拍子に、どちらを先に潰すべきなのか迷う暇はない。止まっている間にも、炎は己の身を焼き斬る。

 

 交差する脅威は同時に腹部を刻んだ。徐々に上へと向かってくるというのに、何もできないもどかしさに叫んだ。

 

 細かな砂利は浮かす音波に刃達の猛攻は一時止んだ。

 

 悔しい。自然とこみ上げくる怒りにまた我を忘れそうとなる。流れる血潮を見て、かつての敗北を思い出す。あの時の絶望、父を失った

 

 胸の傷は未だ癒えていない。負けるわけにはいかない。だからこそ、如何なる手段でも使うのだ。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 シグルドと同時に攻め込み、軽傷であるが十分な傷を与えたとき、巨人は叫んだ。あまりの衝撃に、一度引くことを躊躇わないほどだ。荒い息遣いではあるが、余裕がある姿にその身に見合った体力を有しているらしい。

 

「なんだ?」

 

 巨人は一度、身を大きく震わした。恐怖で震えるにはあまりにも仰々しい。すると、巨人の肉体から煙が吹き出し始めた。

 

「―――む。いかん!」

 

 シグルドが叫んだ。彼の智慧が本人に何かをつげたのだろうか。

 巨人の肉体から吹き出した煙が周囲に満たされていく。それと同時に巨人の姿が見えなくなっていく。いや、違う。あの巨体が薄くなっていく。

 

「おい、これは」

 

「フェーデ、横だ!」

 

 視線を横にずらすとそこには巨大な拳が迫っていた。

 

「くっ!?」

 

 岩のような拳を衝突間近で躱した。拳はフェーデを捉えきれないと、すぐに()()()()()()()()。煙のように存在そのものが霧散し、残ったのが拳が殴ったあとの砕けた大地だ。

 耳が風を切る音を拾う。上を見上げると足の裏が降ってくる。それを躱すと、次は後ろからまた拳が。それを捌くと正面から。次は右、左斜め、正面、上、飛んで躱すと下から。

 

「おい!」

 

「奴の肉体は冷気だ! 身体を切り離すという曲芸を繰り出せる!」

 

「本当に化物、か!」

 

 両手両足からの四方八方の打撃はまさに変則的。幾ら鈍重な攻撃でも予測が困難ならば対処が遅れる。しかし、そこは流石とうべきかシグルドとフェーデはなんとか攻撃をくぐり抜けている。経験と知識が初見の攻撃をカバーしてくれている。やがて慣れてきたのか、二人の行動は最初と比べると流暢となってきていた。今では煙となり、姿をくらました巨人の本体を探していた。

 

 ぅわあああああああああ…

 

 煙の中、声が響いてきた。情けない鼻声がシグルド達に向けて、近づいてくる。目を凝らしてその正体を確認すると。

 

 何かに投げられたように、戦士風の男が飛んできた。

 

「「なっ!?」」

 

 グシャ。

 

 飛んできた男は二人から離れた位置にあった瓦礫の壁にぶつかり、壁の染みとなった。

 再び、声がする。次は一つだけではない。二つほど、声が響いてくる。見ると先ほどの男同様に戦士たちがこちらへと飛来してきた。

 

「―――っ!」

 

 次はシグルド達めがけて、正確に飛んでくる。シグルドは魔剣を片手に持ち直すと飛んできた一人を掴んだ。だが、それと同時にシグルドの後ろでは空気が固まるように集まり、巨人の拳になっていた。

 

「シグルド!」

 

 原初のルーンで飛んできた男を救っていたフェーデは彼に叫ぶ。だが、少し遅かった。

 

「グッ!!?」

 

 巨大な拳を背中から受けたシグルドは大きく弾けとんだ。崩れた砦の一部に当たり、ガラガラと瓦礫の中に埋まっていく。シグルドに助けられた男は目の前で吹き飛んだ大英雄を見て固まっていたが、すぐに巨人の拳が現れ潰されてしまった。

 

「ひっ!?」

 

「くそっ…!!」

 

 あの巨人は砦の中にいる人を次々にフェーデ達を殺すために囮として投げつけてくる。シグルドの様子を見て、うまくいくと判断したのか、フェーデに集中的に投げつけてきた。数はおおよそ、十数人。それぞれが別方向から来るため、意識が別々に持っていかれる。

 

 即座に指を空中に走らせ、ルーンを刻む。空気を密集させ、それをクッションにし速度を殺す。それをすべての人へと飛ばすが、下から

 

 突如全身を殴られる感覚が襲う。

 

「カハッ…!?」

 

 目の奥に火花が散ったような幻覚を見た。現れた拳に殴り飛ばされ、空中に舞う。悠長にしている暇はなかった。目の前で再び足が現れたのだ。

 槍を盾にするように構えると、拳が振り下ろされる。まるで虫になった気分だ。頭上からやってくる人間の脚を自力で潰されないように足掻く感覚。ギチギチと槍の柄が鳴く。そして、槍は無惨にも折れてしまった。

 

「ちっ!!」

 

 槍が折れると同時に、横へ転がり踏みつけを回避する。無くなった武器に感傷する暇はない。もう一つの武装である剣を鞘から引き抜き相手を探す。

 

(何処だ…)

 

 煙が一帯に広がり、濃霧の中にいるようだ。あれほどの巨体が見えない。相手の能力だと知っていても思わず歯噛みしてしまう。

 

 人を投げてくるのはいつの間にか止んでいた。投げる人がいないのか、こちらを様子見しているのか。どうするかと思案し始めたとき、一部の瓦礫が吹き飛んだ。

 

 敵の攻撃かと構えたが、それは違った。吹き飛んだ瓦礫の中心、そこに一人の男が立っていた。

 

「すまない、遅れてしまった」

 

「よく無事だったな…」

 

 頭から血を流しながらも、しっかりとした足取りでこちらへと戻ってきたシグルドだった。

 

「先ほどの戦士は?」

 

「・・・・・」

 

「そうか…」

 

 フェーデの反応でどうなったか察したシグルドは一度黙り、すぐに目を開いた。

 

「どうする。このままだと狼の群れに囲まれた羊だぞ」

 

「ああ、そうだ。このままだと嬲り殺されるだろう。その前に決着をつけなければいけない」

 

「考えがあるのか?」

 

「ああ、だがそれには人手が足りないな…」

 

 シグルドの智慧が、巨人の殺し方を既に提案してくれている。しかしその方法には数人の助けが必要であり、フェーデ単体では難しい。

 

 そうするべきかと考えるシグルドとフェーデの耳に新たな音が入ってきた。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 弾が去ってしまった。あれほどに散り散りに群れていた人間たちは自分たちの同胞が無残に死んでいくのを見て、我先と逃げていった。

 

 情けないと一瞥すると、すぐに興味を無くす。

 

 今の巨人は体を煙へと変えて周りへと散っている。この状態だと目が見えないが、己の煙の中にいるものなら手に取ったように居場所を

 

 把握できる。まさに腹の中にいるような感覚なのだろう。あの人間どもを殴りつけた感覚は堪らない、嬲り殺してやろうと意気込む。

 

 だが、変化は起きた。煙の中にいた一人が瞬時に煙の外へと飛び出していった。

 

 なにがあった? こちらが意識を思考に奪われている間になにをしたのだ。あの二人の他に何かがいた気がしたが、把握しきれていなかった。

 

 捉えようにも煙の外に逃げてしまったなら、一度体を集めなくてはならない。この好機を逃す手はない。煙の中に残った一人を先に始末

 

 するべきか。

 

 

 

 そう考えていた時、再び肉体が焼ける感覚が襲ってきた。

 

 

 

 ○ ○ ○ ○ ○

 

 

 

 シグルドの提案は最初耳を疑ったがすぐに賛同し、フェーデは一人煙の中に残っていた。

 

 手に持った剣にはルーンの炎が纏っており、その炎を避けるように煙は退いている。その様子を見て、作戦は上手くいくと確信した。

 

 

 

 一人、フェーデを置いて煙の中から脱出したシグルドは今も尚、駆けていた。

 

 逃げるためではない。勝つために、懸命に()()を握り締める。

 

「馬遣いが荒い御方だ…!!」

 

「お前なら容易いだろう!」

 

 シグルドは俊馬グラニに跨り、崩れた砦の上を駆けていた。悪路としか言えない道を速度を落とさず、風と一体化してグラニに乗ったシグルドは颯爽と煙の周囲を回っていた。

 

 巨人が砦に襲来したとき、グラニはフェーデ達よりその襲来を察知していた。動物の本能という優れた防衛機能が警鐘を鳴らしたのだ。

 

 とある幻馬から生まれたグラニは知性は元より、膂力も桁外れであり、自分を馬小屋に繋いでいた紐を力任せに引きちぎり、逃げていたのだ。主人を置いて、というより主人が死ぬとは一切考えず、邪魔にならないように遠くより見守っていたのだが、主の危機を感じ、煙の中へ飛び込んだのだ。

 

 グラニと再会したシグルドはフェーデに策を伝えると、悟られぬうちにグラニに飛び乗った。

 

 

 

 駆けるだけで風をも置いていく疾さで走るグラニの上で、シグルドがルーンの炎を纏った炎を掲げ、煙へと近づけた。

 

 煙は炎を嫌がってか、遠ざかるように退いていく。それを見て、シグルドは微笑んだ。

 

 そのままグラニの手綱を操り、煙へと接近する。煙は逃げるために、炎と反対方向へと散る、それが悪手となるとは考えず。

 

 円を描くように走るグラニはさらに速度を増していく。一周が百メートル以上になるというのに未だ衰えを見せない。炎が残した光が疾さを増すごとに伸びていき、やがて光が繋がった、それは天から見れば、炎の輪が煙を囲んでいるように見えた。

 

 嫌う炎を避けるために煙は中心へと逃げる形になってしまう。炎の輪も徐々に大きさを狭めていった。

 

 逃げ場を失い、煙は集まっていく。すると、煙の形が人の形となっていった。

 

 

 

「オオオオオオオオオオオオオッッッ!!!」

 

 

 

 人の形は鮮明となり、やがては完全に霜の巨人と戻った。

 

 炎に炙られ続けた巨人は完全に激昂している様子だった。目は血走り、額には蜘蛛の巣のように血管が浮かんでいる。それを前にしても

 

 シグルドは焦らなかった。

 

「オオオオオオオ、オ、オ、オォォォ???」

 

 どれだけ叫んでも、時は既に遅かったのだ。

 

 煙の時に火を当てられた巨人の痛みは、神経そのものに火を当てられているほどの激痛に等しかった。

 

 だから反撃の策を考えれず、逃げて元の姿に戻ったのだろう。

 

 

 

「オ、オオオ―――ガアアアアアアアアアアアアアアッッ!!??」

 

 

 

 元の姿に戻る前、煙を、冷気を肉に戻す際、確認などしていなかったのだろう。自らの肉体である煙の中に、()()()()()()()()ことを。

 

 絶叫する巨人の腹部、その中心がやたら盛り上がっていた。異物が入っているような違和感、そこが蠢いていた。

 

 激しい流動、波打つように皮膚から―――剣が飛び出した。

 

 

 

「アアアアアアアアアアアアッ、ガアアアアアアッッッ!!?」

 

 

 

 剣は皮膚に戻ると再び巨人の肉体から飛び出した、それが数十と繰り返されると、大量の血と肉片と共に人が飛び出してきた。

 

 鋭い瞳と髪を巨人の血で濡らしたフェーデだった。

 

 

 

「―――あああああああっ!」

 

 

 

 血の海から抜け出したフェーデは息絶え絶えとしながらも、確実な痛手を与えられたことに獰猛に笑っていた。

 

「くそ!…シグルド、次はもっとマシな案を出せと自分の知恵に言っておけ」

 

「ああ、すまないな。だが、上手くいっただろう?」

 

 シグルドが煙を集め形を元に戻し、煙の中にいたフェーデが肉体の中に潜み、内部から切り刻み致命傷を与える。この策には煙を逃がさないように火で囲む必要があった為、人手が必要だったがグラニという俊馬がいたことにより実現した方法だった。

 

 シグルドはグラニから降りると、巨人を見上げた。そこには風穴が空いた腹部を手で押さえている巨人が。出血を抑えようとしても溢れる血流を防ぐには至っていない。決定的な一撃だった。これで放逐しても、いずれ死は免れないだろう。だが。

 

「万が一だ。ここで終わらせる」

 

「異論は、ない」

 

 魔剣と剣が死にかけの巨人に向けられる。

 

 巨人はここで悟る。こいつらには勝てない、と。どうあがこうとこのままでは終わってしまう。

 

 まだ何もなしていない。復讐の序盤なのに、オーディンの顔も見ていないのに。死んでしまう。

 

 

 

「アアアアアアアアアアアアアッッッ」

 

 

 

 巨人は立ち上がった。そして、踵を返して逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 駆けた。ただ、後ろを振り返らず必死に走った。ヨーツンヘイムへと帰還し、傷を癒そう。そしてまた復讐を始めるのだ。

 

 時間ならいくらでも、自分は巨人、不死に近い永き時間があるのだ。次は上手くいく、必ず成功させる。

 

 そんな前向きな考えと共に、腹部から溢れる血を見ないようにして、走った。

 

 だが、そう上手くいくほど世界は上手くいってなかった。

 

「ッ!?」

 

 突如、足が軽くなった。まるで羽になったように軽い。しかし妙に軽すぎる。片足に視線を向けて見れば。

 

 足がなかった。

 

 片足を無くなったと認知した瞬間、派手に転ぶ。平地を削るほどの転倒は爆音を生む。地に伏せる巨人が転んだ状態で見たのは、剣に付いた血を振り払っている片割れの男だった。その横には自分のものだった、斬られた足が転がっている。

 

「そこまで傷を負っていては、冷気に変わることもできないのか」

 

 その男はこちらを淡々と見ていた。これからこちらがどうなるのか悟っているのか。静かに見据えていた。

 

 やがて、その男が現れた。オーディンに匂いを漂わせる、まっとうな英雄。

 

 その手には煌々と光を滾らせる魔剣があった。その光は一度喰らった。だがあの時とは比較するには烏滸がましいほどの魔力が暴れていた。

 

 

 

「魔剣よ、起きろ」

 

 

 

 声に反応し、一層と黄昏の光は呼応する。空気を焼く匂い、膨大の熱が撒き散らされる。命の輝きすらも飲み込む、暴力の権現。純粋無垢な力は渦を巻く。

 

 魔剣の光を受けた英雄の後ろの影は―――竜の形となった。

 

 

 

「是れよりは粛清の刻である」

 

 

「暴虐は死に絶え、邪知は潰える」

 

 

「黄昏を超え、黎明に捧げるは生命の鼓動」

 

 

「大神の試練を超えし、窮極を此処に」

 

 

 

「飲み込み果てよ―――『竜の死(グラム)』!!!」

 

 

 

 迫り来る、竜をも斬り伏せた一撃が下される。免れぬ魔力の息吹は、憎々しいほどに美しかった。

 

 そう思う自分を嘲笑し、巨人は瞳を閉じた。

 

 巨体すらも容易に呑みこんだ一撃に、巨人は痛みもなく死を迎えた。

 

 

 

「…終わった、な」

 

「ああ、終わった」

 

 広がるは更地と化した大地。大地の上には何も残されていなかった。死にかけた巨人の姿も、平坦な平原も綺麗に無くなっていた。

 

 気づけば夜は明け、新たな日の出が昇っている。

 

「まさか、巨人退治が霧の巨人だったとは誰も思わないだろう」

 

「そうだな、当方も肝を冷やした」

 

「嘘をつくな、そう思うならその氷のように固まった表情を崩せ」

 

「生まれつきだ。ならばお前も、嬉しそうな顔の一つぐらいしてみろ」

 

「疲れているんだ、察しろ」

 

「…そうだな、疲れたな」

 

 二人は同時に座り込んだ。はあ、と出るため息も同時だった。そこからはただあてもなく、青くなっていく空を黙って見上げていた。

 

 フェーデの心中はただただ平穏だった。巨人を殺した。人々を脅威から救った。その功績からくる高揚や達成感は…不思議となかった。

 この心境をなんと語ればいいのか、自分には理解しきれなかった。ただ、安堵に似た何かを得た気分だった。

 心地よい風が頬を撫で、胸の中にも入り込んでくるようだ。

 

 体は疲れているし、血塗れで身体全身が臭うし、痛い。

 

 それでも、それを超える何かが悪感情をも上回った。

 

「なあシグルド」

 

「どうした」

 

「…いや、悪い。何も考えていなかった」

 

「なんだそれは」

 

 色々と考えさせられ、英雄という輝きを教えてくれた男は何を考えているのだろう。この男なら、答えを知っているのかもしれない。そう考え、静かにその考えを否定した。

 

 これは自分の問題で、自分が気づけなければならない。

 

「帰るか」

 

「ああ、帰ろう」

 

 二人が立ち上がると、空は完全に青へと変貌していた。雲一つない青空の下、英雄と青年は巨人殺しの名を残したのだった。

 




意訳、一寸法師大作戦


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