クリア後のその先で (一葉 さゑら)
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超序編
プロローグ【SAO全記録より抜粋】
〜〜〜〜【第四章 黒の剣士】幕間 より抜粋〜〜〜〜
黒の剣士の話を締めるために、もう一つ、書かなければならないことがあるとすれば【
彼の通り名は黒の剣士に負けず劣らずなほど多く、そのネーミングの特徴としては【狂目】に始まり【
黒の剣士がゲーム攻略者というなら、彼はゲーム解析者。
どこからともなく現れてはあっと言わせてくれるある意味痛快なプレイヤーであった。
性格は通り名から受けるであろう印象とは真逆で極めて温厚。最初期、忌み名として名高かった【βプレイヤー】とも分け隔てなく接し、役に立たないと蔑まれていた初心者には決して怒ることなく一から丁寧にノウハウを教えた。公正で好青なプレイヤーだった。
身体的特徴は平均的な身長に中肉中背、爽やかで整った顔立ち。そして、それを全て壊すような禍々しい瞳だ。
ナーヴギアにおける身体認証を利用して、現実に準拠したアバターがSAO内で用いられたのは有名な話だが、彼の目は、遺伝と環境によるストレスから重度の疲れ目であったらしく白目が著しく濁っていた(なお、ナーヴギアの起動条件の一つに十分な睡眠があり、他のSAOプレイヤーの初日におけるコンディションはいつもより調子が良かった)。その上、角膜と白目の光の複雑な反射をアバター、一つ一つに適用するには多大なリソースを食ってしまうため、プレイヤーには一律で一定の光がハイライトとして与えられていたのだが、彼の目は上記の通り異常なほど濁っていたため、ゾンビの目がテカテカと光っているかのような名状しがたい奇天烈さがあった。
その結果、彼の目は否応なく初対面の人に『あ、こいつはやばい』と思わせるようなものとなってしまったのだ。
仲の良かったであろう黒の剣士などは彼の目を冗談交じりに【呪いの目】などと称していたが、それを信じていた者は少なからずいただろう。
さて、【黒の剣士】の章と【閃光】の幕間に当たるこの章では彼の功績について述べるとしよう。
───中略───
こうした下層に対する手厚い補助は彼の名声を高める一つの助けとなった事は言うまでもない事実だが、彼には別の一面があった。
狂気じみたまでの献身だ。
下層に対するソレも見ようによっては狂気じみたものだと言えるだろうが、その真価は攻略組に対して現れることとなる。それはつまり、【攻略期間を半分にした男】と呼ばれる所以である。
彼の献身は24層を過ぎた辺りから始まる。事の始まりは、それまで下層の治安維持に心血を注いでいた彼の行動が24階層踏破と同時に掴めなくなった事だった。本来ならばプレイヤーの行方不明、ましては下層の治安構築の最功労者の行方不明になれば、即刻、誰かによって捜索隊が組まれ、行動に当たることになるのだが、驚いたことに件の隊は組まれることはなかった。というより、組むことが叶わなかった。
というのも、当時、下層の治安維持に当たっていた彼の腹心達が他のプレイヤー達にその異常を知らせない、悟らせなかったのだ。今までと全く変わることなく下層を統率して見せたことでその異常を隠し通したのだ。
(因みに、かつての腹心は後に『あの人が、探させるな知らせるな悟らせるなと言ったのだ。それを遂行しない理由はない』と語る。一体どこの秘密組織だ。)
して、下層を去った彼は25階層でまごついていた攻略組のチーム一つ一つに面会を申し出て、『これからは新階層解放後1週間後に迷宮前に集合してくれ』と言って回った。
筆者である私は当時、攻略組ではなく単なる一中堅プレイヤーであったためその交渉を目の前にすることは叶わなかったのが、驚いたことに、そのお願いは全プレイヤーによって了承されることとなった。攻略ギルド戦国時代とも言われたほど、ラストアタック至上主義に陥っていたあの時において、これらの了承はいかに大きかったのかは押して図るべし。
1週間後、約束の日。攻略組全プレイヤーを集めた彼は自己紹介を手短に済ませると全プレイヤーにあるアイテムを配って回った。
「迷宮のマップだ。全部踏破したから渡しておく。あと、ボス情報についてわかる限りまとめた紙も同封しておいた」
禍々しい目で攻略組を見つめる彼はそう言うと去っていった。黒の剣士曰く、第一回定例会議は僅か10分だったらしい。
25階層攻略においてこの情報は余りにも懐疑的だとして用いられることはなかったが(ただし、黒の剣士と閃光を始めとした一部プレイヤー達は遠慮なく用いた)、25、26階層と立て続けに同じことが起こると、彼の証言はもしかしたら本当なのではないかと囁かれ始める。しかしそれでも彼は攻略組ではないとして頑なに非難し、拒むものがいた。
そして、狂目の登場から120と数日後にたどり着いた50階層。転機が訪れる。
アインクラッドの折り返し地点となるこの階層のボスは今まででは考えられないくらい凶悪だった。
倒すまで出られない、回復結晶の使用不可。5分に一回ランダム判定で起こる2秒スタン。凶悪に凶悪を重ねたこのボスはさらに最悪なことに謎解き型であった(謎解き型とは、ボスに致命的な弱点があるが、そこを突かれない限りボスは倒れることはないというものである)。
それだけに、誰もが自分の死を覚悟して階層主に挑もうと意気込んでいたのだが、50階層解放後一週間経った日のこと、なんだかんだ定例となった会議の中で彼はことなさげに集まったプレイヤーに告げる。
「迷宮のマップだ。あ、あとマッピング中で分かった事だけど、このボス多分背中にある武器を奪わない限りHPにまともにダメージ入んないかもしれないから。後注意するべきなのは回復結晶が使えないところだな」
結果、50階層は攻略組の快勝であった。死者0名。ラストアタック、黒の剣士。
───狂目の情報のおかげで50階層は被害者0人だった。
───狂目の情報は有益かつ正確だ。
───定例会議に出ればいい情報が手に入る。
───定例会議に出なければ攻略組ではない。
───定例会議に出なければ。
そこから情報は加速的に正しくもねじ曲がり、世論は彼へと傾いていく。(腹心達が情報操作に手を加えていたことが【情報屋】こと【ネズミ】が調べ上げていたがしかし、なによりも彼女が進んでその捻じ曲げの助長をしたことがクリア後の調査で分かっている。)
51、52、53階層とその後も定例会議が開かれる内にいつしか、『攻略組はレベル上げに専念し、他のことは全て狂目とそのギルドが行う』というなんとも歪で偏った役割の振り分けが完成していた。
そして、狂ったことに、その振り分けはゲームクリアまで変わることがなかった。流石に最後の方は【ネズミ】を始めとした情報屋達に街中の調査などは一任していたそうだが、迷宮のマッピング及び、ボス攻略のメンバー選出などは殆ど彼一人でこなしていたらしい。ギルド単位で行われるあまりの効率的すぎるハードワークは凄まじく、黒の剣士も手伝おうとしたがその調べた範囲は三日前に調査済みだった、という笑い事ではない笑い話が出来た程だった。その速さについて詳しくは、巻末のSAO内カレンダーを見てもらうと分かるだろう。
【攻略期間を半分にした男】
私は彼に頼ってしまった事を深く自責の念を持ちつつも、最大の賛辞を送ろうと思う。ゲームクリアの道は彼が作ったのだと。
私達が彼にこのレッテルを貼ってしまった罪は、重い。
プレイヤー名:【《自主規制》】
【狂目】【凶眼】【攻略期間を半分にした男】【賢者】【叡智】【参謀】【不寝】【不触】【5千人を救いし者】【救世主】【腐り目】【リビングゾンビ】【歪ハイライトお兄さん】【虚言少年】【犠牲者】【漢】【根食系男子】
主な功績
・下層の援助(武器・防具・アイテム関連・戦闘技術関連・治安関連)
・義務教育課程の児童の保護及び1階層の治安構成
・攻略組への情報援助
・ボス攻略に際する人員の選出及び隊列の決定
・情報ギルドの結成及び運営
注釈。
他にも彼の功績は多く存在するが、中には、彼のこれからの生活を脅かしてしまう可能性がある物もあるため、他の項のプレイヤー達同様にプレイヤー名を始めとするいくつかの情報を掲載することを控えさせてもらった。
また、彼はあくまでも情報提供を主としており、ボス攻略に参加することはなかったため、【及び腰】といった不名誉な通り名もあるにはあったが、私自身を始めとするトッププレイヤーの総意として、棄却及び不載とさせてもらった(一部ふざけた物は所謂愛称である)。
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入院編
1【例えばこんな再会】
物語は、SAOからの帰還から始まる。
「……っ!」
ツン、と鼻に付く匂いで目を開ける。その普段通りの生理的行動に対して過剰なまでの不和と億劫さを感じることに不思議な喜びを感じた俺は目をぐるりと動かす。凝った筋肉を動かすとパキパキとなるように目の筋もミシミシと鳴るかと思ったがそうでもなく、ぬるりと目の淵に伝わる感触とともに視界にはあまりにも細部まで描写された風景が映し出された。
消毒液の香りに宙を舞う埃。絹を擦る感触にに髪がおでこに張り付いたジメッとした感覚。
(……俺は、ようやく)
戻ってきたのだ。
ふと、すとんと胸の中に深い実感が腰を下ろしたような気がした。
それからしばらくして、病院内を騒がしく動き回る看護師達の足音をバックミュージックとして、俺は自身の今の状況を把握していた。今いるのが高校一年生の時も入院していた、あの懐かしの病院であること。体は動かさないほうが良いだろうこと、というか動かせないこと。しかし、思ったよりも体の調子が悪くないこと。特に目の調子が良い、ともすれば今となっては忌まわしいあのゲームに囚われる前よりも好調な気さえするくらいには良いこと。
そしてなにより、俺の寝ている布団の上に一人の女性が被さっていること。
(……雪ノ下、なんでここにいるんだよ)
「……八、幡くん……」
なぜここにいるのか。
なぜ下の名前で呼んでいるのか。
なぜ寝ているのか。
分からないことはたくさんあったが、今のコンディションでは昔のように悪態をつきながら彼女を起こしてやることもできない。小声でムニャムニャと自分の名前で呼ぶ彼女に対してむず痒さを覚えないこともなかったが、これも現実に帰ってきた証だと甘んじて受け入れることにした。
しばらくして、ガラガラと無機質な音を立てて扉が開く。
ジロリと見やってみれば立っていたのは、なんて事はない。マイラブリーシスター小町だった。
ただ、小町の体はなんて事ないなんて事はなく、随分と大きく成長しており(親父的な意味でもオヤジ的な意味でも)、成る程長い間あっていなかったことを実感させられた。
「……ょ」
よう、なんて声をかけてやりたかったが、声が上手く出ない。乾いた風が口内を急激にカピカピにしていく。痛い。
しかし、俺が掠れた声を出したところの意味、つまり俺が起きたという事は伝わってくれたようで、新品のスクールバッグを小町はポスンとてから滑らすと直立不動に固まった。ぴしり、と擬音語が聞こえて来るようだった。
喚くのか、飛びかかってくるのか。どちらにしてもメンドくさいなぁ、などと捻くれた照れ隠しを懐かしながらに内心ながらにしてしまった俺に対して小町は、意外なことにはらはらと静かに涙を流し始めた。
「……
泣くなよ、せっかく頑張って帰ってきたんだからさ。なんて、お兄ちゃんポイント(懐かしい!)の高いことを言おうにも、いっそもどかしくてどうにかなりそうな程に声は出ない。手を覆ってしゃがみこんでしまった小町に対して俺は口元を緩めることしかできなかった。
その涙につられたのか、懐かしい顔を見たことによってなのか。自分の中で今まで封をしていた記憶が堰を切ったように溢れ出す。それは、ゲームに囚われる前の記憶。
自宅・家族・飼い猫・マッ缶・学校・先生・クラスメイト・先輩・後輩。
そして、奉仕部。
湧き出た想いは遂には涙となって俺の目からも溢れ出す。
これまでの頑張りは無駄じゃなかった。報われたんだ。会いたかった。喋りしたかった。軽口を叩きたかった、叩いて欲しかった。遊びたかった、遊んで欲しかった。抱きしめたかった、抱きしめて欲しかった。
情けない感情と願いが手に届くことの嬉しさと、達成感が胸いっぱいに膨らんで、えも言えぬ寂寥感と混ざり合う。
「……八幡、君?」
いつの間に起きたのか、黙って涙を流す俺を見た雪ノ下。苗字で呼ばないのはどういう心境の変化のなのかは分からないが、数回目をパチクリとさせていた雪ノ下は静かに一筋涙を頰に伝わすと再び俺の眠っていた布団に伏せってしまった。そして嗚咽を堪えることなく咽び泣き出す。
普段騒がしい奴ほど静かに泣き、おとなしい奴ほど盛大に泣くのは感情のキャパシティのバランスを保つためだと何処かで聞いた気がするが、どちらにせよ、自分のために泣いてくれるというのはなんというか、こう、心に来る温かいものがあった。
静かで、閑としていて、それでいて、暖かい。
嬉しい涙が部屋を包み込む世界が、俺の目覚めを祝福してくれていた。と、いうのは些か言い過ぎか。
まあ、なんにせよ俺は、いろいろ変わる所はあったものの、無事に、この世界へ舞い戻る事が出来たのだった。
ー・ー・ー
小町が泣き止み、ナースコールを押してくれたのはそれから何分も経った後のことで、ナースを待つ間、赤い目をこすりながら小町はずっと、それからね、それからね、と俺のいない間の話をしてくれていた。総武高に無事入学したこと。一色が2年連続で生徒会長を勤め上げていること。奉仕部は、今や10人の部員がいる大所帯となっていること。
部室には俺と、雪ノ下と、由比ヶ浜の3人の写真が崇めるように飾られていることなんて聞きたくなかった事も教えてくれた。
雪ノ下はまだ泣き止まず、俺の手を抱え込んでグズっている。その仕草は、彼女が絶対に見せてくれなかった少女的な部分で、介護される身分ながら保護欲が掻き立てられる。
「それでね、それでね……。色々あったんだよ」
「……」
「お兄ちゃんがいなくてもね、みんなで話し合ってね、この場所を守ろうってね、頑張ってね、喧嘩もしたけど仲直りもしてね……小町だって色々とね」
「……ぁぁ」
「うん!そうなんだよ!」
会話の内容なんてどうでもよかったのかもしれない。
そこに愛する妹がいて、大切な仲間がいて、喋り合って。
そんな、いつまでも続いてしまいそうで尊い行為が何よりも嬉しかった。小町はまた泣きながらも、嬉しそうに笑って話しかけてくれる。お兄ちゃんのせいで泣き虫になっちゃったんだよ!なんて言いながら笑ってくれる。
嬉しくて泣いて、嬉しいから笑って。
看護師さんが医師を連れて入室するまでの間、あまりにも繊細なこの空間は、やはり現実だからこそなのだと、流れる大河の中に身を鎮めるような気持ち良さを体感していた。
ー・ー・ー
「ふむ、身体検査は後日精密にやるとして、しかし随分と無茶をしていたようだね」
「……」
ドクターが来てから数分。大まかなメディカルチェックを終えたであろう医師は滔々と説教を始めていた。
「1週間寝ずほぼ食わずで動き回り、休むのは攻略組がボスを倒すまでの僅かな間。ナーヴギアの解析班が最も危うい生活をしているプレイヤーとして君のことを何回も教えてくれたよ。監視してみれば心拍数を始めとするバイタル値は総じて上下上下の天変地異だ。そのうち左右にも動き出すのかと思うくらいに君のバイタル値は不安定だった」
俺よりもっと神経をすり減らしてレベリングに勤しみボスを倒してくれた皆がいる。頭を悩まして下層の統率を図ってくれた仲間がいた。そう思えばなんの苦でもなかった生活だった。
そんな訳で俺が不安定だとしたら攻略組はどうなるのだ、と思っていたら医師は首を振ってさらに言う。
「他のプレイヤーに聞いたよ。君は、『実際、睡眠を必要としているのは体だけで脳自体はほとんど休息を必要としていない。だから7徹位どうってことない』と言っていたそうだね。医師として言えば、よくもまあ、そんな暴論を振りかざしてくれたな、と怒り狂いたい気分だよ。そもそもこんなに脳のリソースを割くゲームをぶっ続けでやるなんて事自体が狂気じみていると言うのに、7徹だって?君はアホなのかい?確かに君の功績はあまりにも大きいし、多大なる賞賛を浴びるべきなのかもしれない。けどね、君のその危うさがどれだけの人を不安にさせてきたのかを考えたことはあるのかい?」
なかった。あるわけがなかった。
帰りたい。その一心で動いていた俺にとって名も知らない医師の言葉は自責を促すには十分だった。
「君にはこんなにも泣いてくれる人がいる。お見舞いだって毎日絶えることはなかった。それどころか見舞客は僕が不安を煽らないようにと隠していた君のバイタル値を見せろと言う。『せめて、八幡君と同じ気持ちでいさせてほしい』。健気だよね。けど、響くよね」
「……」
「これからの君の人生はお世辞にも穏やかで平凡とは言えないだろう。けど、君の周りは踏ん張って、頑張って、自分の人生の失敗を君のせいにしたくないと未来に進んでいってくれたんだ。……君の不幸は周りを巻き込むことはなかった」
それは、どれほどに幸せなことなのだろうか。
俺なんかのせいで。
もし、彼女たちの人生になりがあったりしたら絶対に自分を責めて責めて、身をボロボロにしていた自信がある。そう言う意味では、小町のさっきの報告は本当に心が軽くなったのだと今更ながらに気づいた。
医師はもうそろそろ次の覚醒者を診る時間だ、と残念そうに告げるとあぁ、そうだ。最後に言っておくけど、と口を開く。
「八幡君。ゲームクリア、おめでとう。そして、たくさんの人を助けてくれてありがとう。人を救うと他称される医者であることが恥ずかしくてたまらない一年だったけど、君の頑張りを聞くたびに嬉しく、頼もしく思っていたよ。情けない僕であることは変えようのない事実だけど、これからのことは全て任せてくれ。医者として、全力で君たちを現実に戻すと約束しよう」
それでは、お大事にね。
点滴の交換が終わったのを見計らって医者は出て言った。
泣き虫な自分を隠すことなく、俺は心の中で深く、一礼をした。
目を開けると、医者とすれ違うようにして入ってくる人影が見える。
霞む目を凝らして扉の方を見る。
「八幡……!」
「八幡!ううううゔぅ!!」
両親だった。
母の乱れた髪に、俺が受け継ぐこととなった父の死んだ目。懐かしい両親の顔は、二人とも前よりも一回りやつれていた。
父と母の顔を見て、嗚呼、言わなければならないのだと強く思う。
すると、不思議なことに動かないと思っていた顔はぐるりと2人に向き、ビクともしなかった自分の下顎は静かに開く。乾いた風が口内を触っていき、ヒリヒリと痛む喉に思わず顔を顰めてしまう。それでも俺は、言わなければならない。言いたい。会いたかった。見たかったんだ。俺は!
「…、っ、……た……だぃ。ま」
くしゃり、と調節の聞かない表情筋を無理矢理くしゃくしゃにして俺は言う。笑ったつもりなのだが、溢れ出る涙のせいで伝わったかは怪しいところだ。
次の瞬間、2人も俺と同じ
なんとなしに、あぁ、かぞくだなぁ。なんて思った。
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2【例えばこんな再会⒉】
泣き疲れてフラフラとした雪ノ下とも一言二言話したが、いまいち現実を受け入られないようで(というよりも、もしも現実じゃなかったらどうしようという気持ちが先行しているようで)、明日また落ち着いた状態でお見舞いをしますと俺の両親に頭を下げて退室していった。
ありがとう、饒舌になった俺の口でそう告げたのは伝わってくれただろうか。……伝わっていたら嬉し恥ずかしい。
「生きててくれてありがとう」
口を揃えて言った2人は恥も外見もなく泣いて、俺の頭を撫でて、優しく抱いて、小町に暗くなる前に帰るように告げると仕事に戻っていった。年度末という、時期的に考えて
こちらこそ愛してくれてありがとう。心配をかけてごめんなさい。と前よりも素直になれるのは皮肉にも、あのゲームのおかげなのだろう。とはいえ、あのゲームを好きだとは到底思えないが。
両親がパレードに復列しにいった後も色々な事を話した小町は無駄になっちゃったね、と笑いながら千羽鶴をかばんから出してベッドに引っかけると(驚くことに既に4本の千羽鶴がベッドにはかけられていた)帰っていった。
しんしんと降り積もる雪の中、SAOで仲の良かった仲間達を思い出す。1階層にいたクソガキども。下層で怯えながらもSAOに抗い続けた人達。中層でいつか攻略組を手伝うんだと息巻いて着実に腕を上げていた冒険者達。何も言わず俺の情報を信じて戦ってくれた攻略組。自分の身を削ってでも攻略組を助けようと踏ん張ってくれた生産組や情報屋。そして、特に仲の良かったギルメンの仲間達。
どいつもこいつも、いつか元の世界に戻るのだと思い続けた一本芯の入った奴らだった。あいつらがいたからこそクリアできたし、俺もあのゲームを耐えきることができたのだと改めて思う。
1層攻略時に、いつかリアルでも共に飯を食おうと約束したことは今でも覚えている。……約束しあった奴の中にはもう飯を食うことができなくなった奴がいることも、またそれがキッカケで再起不能になった奴がいたことも覚えている。だけど、それでも俺らはこの世界に戻ってきた。祝賀会を開く時がついにきたのだ。あいつらのぶんも飲んで食って祝って喜んでやろう。
誰もいなくなった病室で、名前もわからない機械が───ブゥン───音を立てるのを聴きながら、この日最後の涙を流すのだった。
俺らを残し、思いを遺していったあいつらへ。
ー・ー・ー
次の日。早い時間に寝て、遅い時間に起きた俺は痛い喉をさらに痛めつけるかのようにスープを無理やり腹のなかに流し込んだ。流動食すら食わせてもらえないほど衰弱しきった自分の身体を恨めしそうに睨む俺に昨日の医者(小林と名乗っていた)は、ため息をついて言った。
「ギャグ漫画じゃないんだからそう簡単に筋力が、食道が元に戻るわけないじゃないか。こっから何週間もかけて器官と筋力を元に戻していくしかない。取り敢えず、自力でベッドから起き上がれるようにならないとね。……いや、ちゃんと喋られるようになってもらうのが先かな。政府の役人さんも話を聞きたがっていたし。雪ノ下さん曰く、君の特徴は尖った思考と歪んだ口調らしいから僕としても話す日を少し楽しみにしているよ」
もうそんなに捻くれてねえよ。悪態を心の中で叫ぶも哀れ八幡、相手に伝わることはなく診察を終えた医者はさっさと出ていってしまった。
……寝るか。
時刻は午後3時。
診療後、結局寝てしまった俺が再び起きた時間はこれから数週間は食べることの叶わないおやつの時間。病院内は今日も今日とて騒がしい。
現在、耳の調子すらも悪い俺にとってこのつんざくような騒がしさはどこかきついものがあった。
ガラガラ!!!
「ヒッキイイイイィィィ!!!」
うるせぇ!と開いた扉に立つ来訪者を睨む。
まるでジョジョに出てきそうな効果音を口に出しながら入って来たのは、かつて俺が『ビッチ』と毎日のようにバッサバッサと切っていた大切な仲間の1人。
せわしなく動く看護師なんかよりも余程騒がしくて、心地よい彼女は目を開けてただ見ることしかできない俺にずんずんと近づいてくる。
「ヒッキイイイイィィィ」
いや、もうそれは聞いたから。というか俺の名前を呼んでたのかよ。
「ヒッキー……心配したんだからね!!」
ぎゅっ。と彼女に包まれる。下世話な話、柔らかい。また一段と大きくなったな。しかし今の俺にとってそのご褒美は同時に呼吸困難を招く凶器でもある。苦しくてもがもがともがいていると彼女は『……ぃや』と呟いた。ど直球に言い直そう、彼女は喘いだ。
えぇ……。
「もう!ヒッキーのエッチ!……ってあれ?もしかしてヒッキーまだ動けない?というか体細っ!」
馬鹿なのかお前は。
……いや、馬鹿なんだろうな。相変わらず馬鹿で馬鹿でどうしようもなく愛される。俺の知ってる彼女、由比ヶ浜結衣という人間はそんな人間だった。そんな彼女がいたからこそ、かつての俺は本物を掴みとれたのだろう。って、マジで息苦しい死ぬ。幸せに殺される。
必死に由比ヶ浜の腕をタップするとそこでようやく俺の異変に気付いたのか、バッと巻きつけていた両腕を由比ヶ浜は離した。
「ご、ごめん!つい嬉しくて!!」
平に謝る由比ヶ浜。
「けど、本当に心配したんだからねー」
そう言って半泣きになる彼女。
喜んだら泣いたり忙しいやつだ。
「けど、こうして見るとなんだかまだ目覚めてる気がしないね。なんだかこう、まだ眠ってる感じ?っていうのかな。ヒッキーが話してくれないからなんだと思うんだけど、なんか、こぅ、今だからこそ言いたいこと言いたい放題言えそうな感じっていうのかな?……言っちゃっていい?」
ポーチからハンカチを取り出して涙を拭く。
開けてもらった窓から漏れた風がヒュルリと頬を撫でた。
「あのね、ヒッキー……昨日のうちにもう聞いちゃったと思うけどね。私、ううん、私達はヒッキーのバイタル値をずっと見てたんだ。それで、ずっとずーっとハラハラしてたんだ。『まだ起きてるの?なんで無理するの?』って。……でもね、私、ちょっと悪い子だからさ、少し嬉しかったんだ。ヒッキーが戻って来てくれるためにこんなに頑張ってるんだって思えたから」
由比ヶ浜は悪いやつなんかじゃない。そんなことを言ったら俺は情報だけ与えてあとは引っ込んで震えて待つことしか能が無かった根性なし、【及び腰】だ。
それに実際そう思って頑張ってきた。
「だからね。私も頑張ったんだ。頑張って頑張ってそれで、ヒッキー、ううん。八幡君に胸を張って会えるように」
そう言って微笑む由比ヶ浜は大人びていて妖艶で、これまた下世話な上に、上からな話だが。つい俺は良い女になったな、なんて思ってしまった。
「八幡君、私、大学に合格したよ。ほんとは留年でもなんでもして八幡君と卒業したかったけど、一足先に卒業してさ。───私、看護師になろうと思うんだ」
ぽつりぽつりと紡がれる彼女の言葉はいつも誰かのことを気遣って流されていた彼女とは思えない程力強くて───ともすれば攻略組よりも芯が通っていて───それでいて、彼女らしい優しさに溢れていた。由比ヶ浜は、ろくに洗われもせず脂ぎっているであろう俺の髪の毛を嫌な顔一つせず撫でる。
「……髪、結構伸びちゃったね。これって本当は家族の人たちが切ろうとしてたんだけど、小町ちゃんが、『少しでも前のお兄ちゃんを残しておきたい』って言って譲らなかったんだよ。……私も、譲りたくなかったけど。
「やっぱりさ。こうやって色々な出来事があって私達は少し離れちゃったけど、また再会できたらそれで良い、なんてことはなくてさ。今までがあったからこそこれからがあるんだと思うんだ。だから、八幡君のこの髪の毛の先10センチは今までの私達の証なんだ。……って寝ちゃった?」
「……ぉき。……ぇぅ」
「喋った?! って声、出せたんじゃん。まだ大変そうだけど」
ありがとう。ごめん。俺が昨日からいっぱい繰り返して来たこの言葉が、彼女に対しては少しだけ変化していた。
即ち、『やっはろー』。
今までは決して使ったことのない単語だったし、ありがとうでもごめんでもないただの奇妙な挨拶だったのだが、割と綺麗に言えたそれは目論見通り彼女の瞳を揺らす。
「え?……え?」
「ぃいたせ、たがっ、てたじゃ……ないか」
ちょっとした意趣返しのつもりであった。
それだけに由比ヶ浜が再び泣き始めたのは意外であった。
啜り上げた彼女は髪の毛をふさり俺の胸元にかけるようにして布団に覆いかぶさる。その姿は昨日の雪ノ下を見ているようで、俺は愛しさを感じられずにはいられなかった。
後日、ことの真相を聞いてみると、彼女は俺のあの言葉を聞いて初めて『実感』が出たそうなのだ。
テレビを見て、雪ノ下に話を聞いて衝動の赴くままに駆け出したは良いけど、どこかふわふわとしていた彼女はかすれかすれの俺の言葉を聞いて『ああ』と。
結局これまた昨日の雪ノ下のように由比ヶ浜が眠ってしまうまで俺は彼女を眺め続けた。
眠る彼女の頭に手を当てたくて体を起こす。といっても実際に体を起こすのは今の俺にとっては至難なことなこで、ベッドを操作して無理やり体を上げただけなのだが。
ベッドを起こすと、さっきは頰を撫でるだけの冬の風がどうにも心地よく俺の体を通っていった。
おそらく、嬉しいことに今日はまだ他にも見舞いの客が来てくれるだろう。誰が来るのか、また泣いてくれるのか、それとも叱られるのか。そんな贅沢な想像をしながら窓を眺めていると、ガラリ、とお馴染みドアの開閉音とともに来客者の声が聞こえて来た。
「……先輩」
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3【例えばこんな再会⒊】
その姿を見て声を出す。
「……い゛っじ!!ごほっ!ごほっ!」
「ちょ!先輩大丈夫ですか!?」
むせた。
後輩との再会はちょっぴり切なかった。
ー・ー・ー
「……全く、先輩は変わらなすぎです」
起き上がらせた俺の上半身に寄り添うように、一色いろは は椅子に座った。そして最後に見た時の髪型とは違う、セミロングのぱっつんを揺らしてぷりぷりと怒る。
「……かみ、がた」
「あぁ、これですか?生徒会長に再選した時に切ってもらってから、なんとなくずっとキープしてます」
くるりと人差し指でサイドの髪を一房まるめる。巻いたそばから漏れていく髪の毛は絹のような艶があった。
なんとなく?と不思議に思ってその様子を見続けてみると一色は観念したように笑って教えてくれた。
「……願掛けだったんですよ、コレ。私は一つの髪型をキープするのが苦手、というか嫌だったので、それを高校卒業まで続けたら先輩は起き上がってくれるってね。まあ、実際は卒業前に起きちゃったんですけど。……もしかして私に告白するために聞いたんですか?ごめんなさい、せめて元気になってから出直して下さい。なんちゃって」
真ん丸な瞳を曲げて彼女は笑う。
筋肉の硬直が溶け始めた右手をそっと彼女の頭に置いた。
「ありがと、な」
精一杯の囁き。精一杯の感謝を、彼女に。強がりな彼女はきっと俺の前では泣いたりしないだろう。ずっと笑っておちゃらけて。それこそが自分の役目だといって道化を演じる。
その姿勢は正に昔の俺と同じだった。だからこそ、判る。手に取るようにわかってしまう。
彼女の思い、それに彼女がしてもらいたいことが。
俺も、彼女も本来甘えたがりなのだから。
だから、精一杯伝えて、撫でる。
それが、俺にできる唯一のお礼なのだから、と。
「先輩はっ、やっぱり……ズルいですっ!」
こら、まだ飛びついてくるな。身体がヒョロヒョロなんだよ。背中に回された腕はもう離すものかと言わんばかりにきつく俺を締め上げてくる。嬉しい痛みが体を走った。しかし、それでも痛み以上に腕と体から伝わってくるじんわりとした温もりはゲームでは決して味わうことのできないもので、俺もついつい甘えるかのように彼女の背中に手を回してしまった。
完璧に雰囲気に流されていた。
「先輩っ、先輩!……会いたかったんですよ!」
「……ははっ、こほっこほ。あざ……とい、な」
「あざといのは先輩です!ズカズカと人の心の中に入ってきて!急にいなくなって!気を引きたいなら素直にそうやって言って下さい!」
いや、別に気を引きたくてこんなに長時間ゲームをやってたわけじゃないんだけどな。
ひとしきり言いたいことを言いたい放題言い終えた一色は、小声で「すみません」と呟くと椅子に座り直した。どうやら急に恥ずかしくなったようだ。
「先輩」
「ん?」
「私、葉山先輩の卒業の時に告白しました」
……。晴れ晴れとした表情から推測するならば、無事成功したのか、それとも失敗したけど吹っ切れたのか。
「……がんばっ、た。な」
「はい。頑張りました。葉山先輩の卒業式の後、部室棟に呼び出して『好きです、付き合って下さい』って言おうと思ってたんです」
「ん?」
「けど、実際には、『恋に恋させてくれて、ありがとうございました!』と言ってしまいました」
「……ぉい」
呆れた目で一色を見つめる。彼女はいたって真剣な表情だったが、その裏からはえへへ、となぜか照れた表情も読み取れた。ただ、やはり後悔してる、とは程遠い態度だったので口を挟むのは一言だけにする。
しょうがないじゃないですか。口を尖らせて拗ねたふりをする彼女の話は続く。
「先輩に言ったじゃないですか。『責任とって下さいって』。私、先輩のこと、本気で好きになっちゃったんですよ?」
続く、と思ったがどうやらそれは違ったらしい。一色の口から飛び出したのは、俺にとって青天の霹靂の告白。
「……ぅえ?───え?」
ニヤァと小悪魔のような笑みを浮かべた一色は俺の右腕を抱え込んだ。
「ふふ、いーちゃった、いっちゃったー!わーたしったらいっちゃったー!ふふふ」
あざとい。だが俺にはクリティカルヒットした。
「ごほっ、ごほごほごほ!!んんっ!ごほっ!」
「あぁ、そんなに動揺しないで下さいよ。後輩の告白ごときでそんなんにならないで下さいって。単なる挨拶みたいなものですからっ」
お前はどこのイタリア人だ。
「ごほごほっ!……ぃ、んんっ!いや、それは……ちがう、な」
カサカサの喉が恨めしい。けど、一色。挨拶ってのはあまりにも悲しすぎるだろ。そんなことを言わせてしまった俺が恥ずかしいまである発言だ。
「俺と、お前は、同じだ」
「……はい」
「だから……『本気』なんて、ごほっ!軽々し、く。言えないことくらい判る」
俺の言葉に対して、むっとして一色はこちらを睨むように見てくる。俺はその目線から目を背けることなく相対する。しばらく続くこの勝負に勝ったのは、俺だった。
「……はぁ、参りました。そんでもって参りましたね……先輩、成長し過ぎです。ガチかっこ良くなりすぎです」
「そ、そうか?」
「その聞き方は相変わらずの先輩って感じですけど……まあ、いいです認めます!私は先輩にガチでゾッコンアイラブユーです!そしてこれはもう振られるまで、いえ振られても数年間は絶対に揺らがないレベルです」
「……そうか」
「大好きですっ!いや、違いますね。……好きです、先輩。……これも違いますね」
「何をやっているんだお前は」
突然百面相かというくらい雰囲気を変えた告白を連発する一色。そんな一色にカスッカスの声ながら突っ込まずにはいられない。
「何って、振ってもらうための準備ですよ」
そして事もなさげに彼女は言い切る。
告白がどれほどの覚悟を以って行われることか位、俺も彼女も分かっていることすら分かっているはず。
つまり、分かりきっているはず。
それなのに、一色という奴は飄々として振られてあげると言い放つのだ。
「もういいや。言葉なんて言葉でしかないですし。先輩、愛してます」
「そうか」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……先輩?答えは言ってくれないんですか?」
部屋に降りた沈黙に耐えられなくなった一色が尋ねる。その目はヘタレを見るかのような目であったが、ちょっと待ってほしい。そして俺の言い訳を聞いてほしい。
「応えてやりたいのは山々なんだが、そろそろ由比ヶ浜の狸寝入りも限界らしいから日を改めてからまた来い。とりあえずの返事は誰もいなくなった後ですぐにしてやるから」
「わ、私は起きてなんかいないんだよ!!」
「へー、ソーナンデスカー。ユイセンパイサスガデスー。コーハイノコクハクヲジャマスルナンテサスガデスー」
「本当にごめんねぇぇぇ!!!」
せめて黙って目を閉じていてくれたなら答えることもやぶさかでもなかったが、流石に『ぐぅぐぅ』と寝息の再現までされては些か応えづらいものがあった。
後輩にケーキバイキングおごりの刑に処されていた由比ヶ浜が手を胸の前でふりふりと振って扉からたったったっと去っていくのを聞き届けた後、少し気まずそうに一色はこちらを見る。
「あの、先輩。まだ見舞客が来るとかはないですよね?」
「……わからん。こほっこほっ。けど雪ノ下は来ると思う」
「そうですか。じゃあ簡潔にお願いしますね」
「……付き合えというなら、悪いがノー、だ。何にしても自分の将来が見えない今、俺は誰とも付き合うつもりはない」
「付き合いたくない、お前のことが嫌いだ、とは言ってくれないんですね。予防線のつもりですか?」
「……怒るぞ?俺がお前を嫌いになれるわけがないだろうが」
「っ!ずるいっ!ズルいですよ!先輩」
「大人なんてのはズルい生き物なんだよ」
「掠れ声で言われても説得力ゼロです。……そんなんじゃ私、諦めつきませんよ……」
トントンと俺の肋骨を弱々しく叩く。情けない返答をした身としては受け入れるしかない痛みなのだが、俺は彼女のあまりの悲痛さに思わず言ってしまう。その一言が余計火に油を注いでいるなんて思いもせず。
「諦めをつけたいなら何度でも言ってやるから、いつでも来い。俺はお前をいつでも受け入れてやるから」
「……!!!先輩の、バカー!」
カバンをガッと掴むと一色は走り去って言った。
「罪な男ね、八幡君」
そして、その全てを聞いていた雪ノ下が入室する。
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4【例えばこんな再会⒋】
雪ノ下雪乃の変化を一言で言うならば、大人になった。その一言に尽きるだろう。
化粧っ気のなかった高校時代とは違い、薄く口紅を侍らせた雪ノ下はただでさえ美人顔だったのに、更に見違えるほどに艶やかだった。雪ノ下しかり、一色しかり、由比ヶ浜しかり。周りが急に成長したことにある種の恐怖がないといえば嘘になる。しかし、同時に、こんなにも成長したのかという一種感慨深いものもあった。
我ながら、ジジくさい考えをするようになったものである。
「聞こえなかったかしら?罪ヶ谷八幡君?」
「……聞こえてるよ。あと比企谷、な」
「あら?随分と喉の調子が良くなったのね。昨日とは見違えるようだわ」
「今さっき急に良くなったんだよ。まだかすれかすれだけどそこは容赦してくれ」
「当たり前じゃない。容赦も恩赦もなんでもするわよ。……それより、いつの間に一色さんとあんなにも密な関係になったのかしら?」
「さあ?……あ、いや、事の始まりに心当たりはあるんだが、まさかなって感じだ」
動揺しないのね、雪ノ下は意外そうな目で俺を見つつ一色が座っていた椅子に着席した。時計を見れば面会時間はあと30分ほど。小町は今日はこれないと言っていたから、どうやら雪ノ下が最後の見舞客となりそうだ。
鞄の中から何かを取り出す雪ノ下。
「……なんだそれ?」
「ノートよ。授業の写しと私の考える要点を書いたもの。奉仕部の方針的にはアウトかもしれないけど私はもう大学生だからあげるわ。ちょっとした餞別ね」
「マジか。それは助かるな。ありがたく活用させてもらう」
忘れてはいけないが、俺は学生であり学生の本分は学勉だ。
こんなにも長い間ゲームなんかにうつつをぬかしおってと言われても仕方ない身分故、この申し出は非常にありがたいものだった。感謝のあまり、いっそ数学にもチャレンジしてみようかななんて思う程である。
「ありがたく活用しなさい。あ、そうだわ。本来なら私が帰った後に見なさいと言うつもりだったけれど、この際、今少し確認して見たらどう?もし合わないなら持ち帰ってしまうから」
雪ノ下は積み重なられたノートの中から一冊、黄色のノートを取り出す。俺は『国語①』と書かれたノートを手に取ると、筋力がなさすぎて震える指ながらも1枚表紙の堅紙をめくった。
ぱっと見白紙だったので、一ページ目は使わない派なのかと思っていたら、中央に何か書いてあるのを見つける。
『好きです』
整った明朝体で書かれた文字。
それは、雪ノ下雪乃という少女がひた隠しにしていたとある一つの感情だった。
思わず雪ノ下を見れば、彼女は耳まで赤くして下を向いている。
「雪ノ……下?」
「……い、一色さんがあんなに速攻するとは思わなかったのよ。ち、ちがうのよ!もしもあの印象が残っていて、最後に一色さんを選ぶなんてのは嫌だっただけなのだから、勘違いはしないでよね」
何が違うのか。頭のどこにある冷静な俺が突っ込む。
わたわたと雪ノ下はその後もツンデレのようなデレデレのようなセリフを吐いていたが、固まる俺を見て冷静に帰り、こほん、と一つ咳をした。
「……で、あなたという男は私の告白に対してどんな返事をしてくれるのかしら?一年以上も温めてしまった私というどうしようもない女の告白にどのような返事をしてくれるのかしら?」
「……悪いな。俺は、雪ノ下と付き合えない」
じっと、目を見てそう告げる。まさか30分と経たない内に2人の美少女から告白を受けて、しかもそれを断ることになるとは思わなかったな。これがモテ期か……。
「これは驚きね。一色さんの告白にあんな返事をしたのはてっきり、私の告白を受け入れるための方便なのだと思ったのだけれど……ま、まさか、結衣さんが本命なの?!」
「まず最初に何故そんなに自意識過剰なのか。そして、もしも俺が由比ヶ浜のことを好きだったとして何故それが意外なのか」
由比ヶ浜に失礼だろうが。
「それに、一色にあの理由で断ったんだ。雪ノ下なら尚更だって事くらい分かっていたはずだろ?」
雪ノ下にはあいつにはない枷がある。
家柄という、どうしようもない枷が。
「……ええ、分かっているわ。分かっていたことだったわ。───全く、ここでも雪ノ下という家系は私を邪魔するのね。……けどね、八幡君。私はちょっと驚いたのよ。あなたがこんなにも冷静で居られることに。そんな態度を取られると私が馬鹿みたいじゃないの」
俺が動揺していないように見える理由。自分としては十分驚いて、動揺して、慌てふためいているつもりだったのだが、彼女がそう見えなかったというなら、そうなのだろう。いつだって雪ノ下雪乃は正しくあったし、正しくあろうとしていたのだから。その見解はきっと正しいはずだ。
───しかし。
「もしも、俺の態度が冷静に見えるというのなら、その理由は多分、打ち消されたからなのだと思うぞ」
「打ち消された?」
「ああ。【好き】という種類に違いはあるものの、俺とお前が両想いだったという安心感によって、動揺が打ち消されたんだと思う」
「その発言は罪ね。貴方はそれを分かって言っているのだからタチが悪いわ」
「すまん」
謝るしかない。
ダメよ。雪ノ下は俺の鼻を軽くつまんで微笑んだ。微笑んだ彼女の目は慈愛と優しさに満ちていたけれど、なぜたろうか。その口元は目と反してキュッと一文字に引き締められていた。俺は彼女の突然の行動に告白された時よりもずっと呆けた表情をしていたのだろう。思わず、といった調子でクスリと笑った雪ノ下は、俺が一色にしたように俺の耳元に口を寄せると口を開いた。
「私、三ヶ月後にお見合いをするの」
ぞくっとするような湿っぽさを持った彼女声は俺の脳内にリフレインしていった。
ー・ー・ー
「……誰と?」
短く聞き返す。
「この人」
彼女のスマホに写っていたのはそろそろ三十代半ばになりそうなメガネ姿の好青年の姿。シャキッとしたスーツ姿にきちんと整えられた髪型は彼の誠実さを表すかのようにビシッと決まっていた。雰囲気は葉山達に近い物を感じるし、若い頃は、さぞかしモテていたのだろう。
俺はスマホに映し出されたその姿をして目を閉じる。
1、2、3。
ゆっくりと数字を数える。
それは、冷静になるための行為であり、熟考の構えでもあった。
はっきり言おう。
嫌な感じがした。
子供の独占欲に似た嫉妬から来るような感想ではなく、反応が告げる危機感にも似た嫌悪。俺は変な確信を以ってこいつはダメなやつだといつの間にか断定していた。そしてその考えは、いくら数字を数えようとも変わることはないものだとすら思えるほど凝固なものだった。
「名前は?」
「八幡君が知っているわけがないでしょうけど、まあ今の世の中では有名な人よ。とても立派なことをした人」
「名前は!」
「なによ?そんなに必死にならなくてもいいでしょう?それともなにかしら?……ひ、引き止めてくれるの?」
「……頼む、教えてくれ」
こうべを垂れて雪ノ下に頼み込んだ。雪ノ下の可愛い発言を無視したことが表すのはつまり、なにも聞くなということなのだが、彼女はそれを分かった上でため息をつき、一言。
「須郷さん」
と呟いた。
俺は、ありがとうと呟いて、再び目をつぶった。
須郷、心の内で小さく呟いて。
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5【リハビリ】
後日、戸塚や川崎、材木座と共に再会を祝いあった、さらにその翌日。
ついに俺は流動食を許され、リハビリを開始することになる。
することになったのだが……。
「なんでお前がここにいる。由比ヶ浜」
「えっと、実習……的な?」
まさかのマンツーマンレッスンだった。サマーレッスンなら大歓迎なんだけどなぁ……。
ー・ー・ー
「はい、いっちにーいっちにー」
「ちょ、ちょっと待て!テンポが早えって。俺の生まれたての子鹿のような足がお前には見えねぇのか!」
「折れかけのマッチ棒みたいだね。あと全体的に痩せてて、あれだね。スケルトンだね」
「詳細に実況するな、お前には気遣いの心がないのか。そもそもゾンビ属性があるのにスケルトン属性を足したら動くホラー映画になっちゃうじゃないか」
ちなみに、幽霊要素は影の薄さ。やかましいわ。
足を酷使してることを分かった上でまだやらせるとは、千葉県民の風上にも置けないやつめ。
千葉から離れすぎて千葉県民に対する記憶の美化が起こってる気がしないでもなかったが、それはどうでも良い。問題なのは医者もいない、看護師もいない。いるのは明らかにノウハウも持ってなさそうな実習生1人だけ、という状況でリハビリを受けなければならないこの状況だ。いくら
医者に何かあったのではないか? ひいひいと情けない声をあげながらへたり込んだ俺は由比ヶ浜に聞いてみることにした。
「おい、由比ヶ浜。なんで医者がいないのか知ってるか?」
「うーん……ちょっと分からないかも」
「心当たりとかは?」
「……心当たりといえば、この病院のVIP室にSAOサバイバーのお嬢さんが入院していたこと位かなぁ?」
「バリバリあんじゃねえか。……けどまぁVIPなら仕方ねえか。高い金払ってるわけだしな」
「ヒッキーもVIPじゃん」
「は?」
耳を疑った。
由比ヶ浜が知らなかったのかと驚きつつ教えてくれたことによると、この病院は雪ノ下家かかりつけの病院であり、以前俺が轢かれた時に入院した場所と一緒だという。しかも俺が入院していた部屋は、その中でもほぼ雪ノ下家専用となっているとんでもないくVIPな病室であるそうだ。
「おいおい、いつの間に俺はそんな身分になったんだよ。……というか、よくそんな部屋を雪ノ下の両親が貸してくれたな」
雪ノ下の雰囲気から鑑みるに、雪ノ下家の人達は家族以外には排斥感が強いという印象があったのだが。そうでなかったとしても、自分達の居場所を全く関係ない人に譲るとは思えない。
不思議に思っていると、由比ヶ浜は何かを思いだしそうな様子で頭に触り、うーん、と唸った。数秒後、閃いた!と言わんばかりに顔を輝かせた。
「あっ!そういえば、ゆきのんが条件付きで許してもらったって言ってたような気がするよ。なんだったっけなぁ……やんわりと教えてもらったんだけど、なんか抽象的で、私バカだからよく分からなかったんだよなぁ……」
「まぁ、馬鹿なら仕方がないな」
「むむむ!これでも医学部看護学科生なんですけど!」
「それが目覚めてから出会った中で一番の不思議だわ。初め聞いた時は、正直並行世界に生まれ直したんじゃないのかと世界を疑ったぞ」
総武高は確かに進学校だが、まさか由比ヶ浜が医学部とはな。専門学校とかじゃなくて、れきっとした国公立医学部だと聞いた時は「ほぇっ」って可愛い声が出ちゃったわ。嘘です、かすれ声でした。
「……まぁ、三年生の時は、ゆきのんとはるるん先輩に勉強みて下さいって頼んだばっかりに、とんでもない一年になっちゃったんだけどね」
「うわぁ……」
容易に想像つく。頭に手を当ててため息をつきならがら「こんなのもできないの?」という雪ノ下と、強化外骨格のような笑みにヒビを入れながら毒を吐く陽乃さんが。
「うん、絶対にあの姿はヒッキーには見せられない!」
「その心は?」
「ノーメイク、ノーヘアメイク、ノー生気!女子として終わってたよ!」
「そんなとこを威張るな。……けど、由比ヶ浜が看護師かぁ」
「もう馬鹿になんてさせないんだから!今ならヒッキーに数学教えられるまであるし」
3年次の思い出を思い出したらしく、遠い目で由比ヶ浜がそう言った時、リハビリ室のドアが開き、俺担当の医師がリハビリトレーナーと一緒に入ってきた。
「由比ヶ浜くん、八幡くん。遅くなって悪かったね。少し揉め事が起きてしまって遅れてしまった」
「あぁ、いいですよ。この病院のVIPに何かあっては困りますからね」
「……明日奈くんを知って……って、聞かなかったことにしてくれ」
「アスナだと?!」
俺の鎌かけに医師がうっかりこぼしたその名前はSAOサバイバーのほとんどが知っているであろう超有名人の名前だった。
【閃光】のアスナ。
細剣の達人にして【黒の剣士】の嫁であるプレイヤー。その美麗さは女っ気が少なかったこともあり、三倍増しに見え、男性プレイヤーなら一つ以上彼女の良いところを挙げられるとさえ言われていた。ちなみに俺としては、茶色いロングの髪の毛をかきあげる仕草がたまらなく好きだった。……何を言っているんだ俺は。
いかんな。思わぬ友人の情報に動揺しているようだ。
「……というかあいつ、本名プレイしてたのか」
「ここに入院している事はオフレコで頼むよ?由比ヶ浜くんもSNSで拡散とかは勘弁してくれ。もしそんなことになったらこの病院も君の将来もパァになってしまうからね」
「そんなにいいとこの嬢さんなのかよ……。キリトも大変だな」
「キリト君というと、【英雄】くんだね?八幡くんは随分とビックネームとの面識が広いようだね」
そりゃあ、攻略組を相手取る事は多かったので。答える代わりにそんな言う必要もない言葉を心の中へと押し込むと、整ってきた息を確認し、俺はヨッコラセと体を持ち上げた。
「疲れは取れたかい?それじゃあトレーナーを付けて改めてリハビリといこうか。リハビリできることの幸せを噛み締めながら励みなさい」
医師はトレーナーによろしく伝えると部屋から出ていった。
「なんか感じ悪いね。好きでリハビリしてるわけじゃないのに。ゆきのんにお願いして担当を変えてもらう?……ってヒッキーどうしたの?そんなに怖い顔して」
「……ん?ああ!なんでもない。いや、医師はあの人がいい。適度な厳しさも治療には必要だからな。それよりもリハビリをしよう。早く元の生活に戻りたいからな」
由比ヶ浜に対して隠すことの叶わなかった引きつった顔を見せながら、垂れる冷や汗をこっそり拭う。
医師は言った。『励めることの幸せ』と。
つまりそのことを意味するところは……。
ー・ー・ー
「はい、じゃあ今日はここまでね。ゆっくり柔軟とマッサージをしたら風呂……はダメだから体を拭こうか」
「じ、地獄だった……」
「ヒッキーがアンデットからデッドに!」
失礼なことを言うな。今の俺はアンデッドなどではなく日々の勤めによってやつれていく『社畜レベル3』だ。由比ヶ浜の言い分が正しいなら、日本各地に羽ばたく社会人全員アンデッドになっちゃうだろ。そう考えると日本終わってんな、T-ウイルスに自主感染してんじゃねえの? 日本。
難儀な世界に戻ってきちまったものだ。名称のわからないバカでかいゴムボールに背中を預けて窓の外の景色を見る。羽ばたく黄色と白の蝶とその下で蜜を吸うアゲハチョウが今ばっかりは社会の縮図に見えて仕方がなかった。
「あっ、私、柔軟の手伝いくらいならできるよ! バランスボールを使った柔軟習ったんだよね! やってみる?」
「おー、お願いするわ。……いや、ちょっと待て。それ、なんていう柔軟法だ?」
「え?『これで痩せる!美尻・くびれ作成バランスボール柔軟法』ってのだけど。先月号の雑誌に載ってたやつ……あ」
「あ、じゃねえよ」
危ねえ。この体にダイエットって、最早美尻もくびれもあったもんじゃねえぞ。今でさえ目の窪みが酷くて目に光が入っていないというのに、さらにシェイプアップしたらオールマイトになっちゃうよ。
結局、トレーナーさんの指導のもと、柔軟をした。上体倒しの記録は10センチだった。硬くなりすぎだろ……。
「あー、風呂入りてえ」
「そんな鶏ガラみたいな体でわがまま言わないの。ほら、体拭くから後ろ向いて」
「あの、由比ヶ浜さん? なんか、俺に対して遠慮がなくなってません?」
ぞんざいというか、子供に対する態度というか。一応幾多もの死線をくぐり抜けて精神的にはひとまわりもふた回りも成長したつもりだったんだけど、もしかして勘違い?
「ヒッキー、痩せちゃってたから目立たないけど、身長伸びた?」
「え?まじ?足何センチ伸びた?」
「足の長さ気にしてたんだ……」
墓穴掘っちゃった。
けど、ズボンのサイズが上着よりも一つ下だとなんか心にくるものがあるんだよな。なんというか、服屋に馬鹿にされているような。特に外国産だと、155センチのがピッタリとかザラだからな。ZARAだけに。
「あー、出汁がとられるー」
「妙なナレーションは止せ。いや、どうせなら『垢のそこからは黄金の塊が……!』位やってくれ」
「それは嬉しいの?」
ああ嬉しいね。嬉しすぎて涙がでるね。
「あ、トレーナーさんに聞きたいことがあるのですけど」
「ん?どうした、鶏ガラ少年」
お前も言うのか。
「全国の痩せ型の男にいつ謝るのかというのが一点。もう一つは、俺以外のSAOサバイバーのリハビリはサポートするかどうかが一点です」
「ふむ。……まぁ、個人名は出せないが、することにはするぞ」
「そうですか……。そしたら、その人達に一言『ウイスキーと煙管』と伝えてくれませんか?」
「良いだろう。八幡君の名前は出していいのかな?」
「いえ、必要ありません。むしろ言わないでもらいたいぐらいです」
「分かった。必ず伝えよう……と、言っても私が担当するのは10人にも満たない人数だけれどね」
それでも良ければ、トレーナーさんはにかっと爽やかに笑った。
由比ヶ浜は、よく分からないというのが見え見えな顔をしていたが、拭いてくれてありがとう。と今までの俺では絶対言えなかった言葉を掛けると嬉しそうに笑った。
ここまで来て、由比ヶ浜相手に何かを誤魔化さなければならない自分が少し、嫌いになった。
時間は飛び、午後2時。
今日の面会相手は、尊敬すべき我が師。平塚先生だ。
そして、俺が久しぶりにあった先生に抱いた印象は、
誰だよ、この人。
だった。
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6【例えばこんな再会⒌】
整えようという意思が感じられないボサボサの長髪を無理矢理大きなキャップでまとめ上げ、黒地に紺のラインが入ったジャージを着こなす。そして化粧も前よりも控えめ。
タイトルをつけるなら『ニートのお出かけ(深夜・コンビニ編)』といったところだろうか。或いは一昔前のストリートダンサー。平塚先生は俺の視線に対して恥ずかしそうに身じろぎした。
そんなに気恥ずかしいといった顔をするなら、せめて格好くらい整えてくればいいものを。
できる教師からだらしない大人へと驚異の退化を遂げたように見える平塚先生を前に、俺は少し目を閉じると深呼吸した。
「リストラされました?」
「あー、いやぁ実は……って相変わらず上の身分に対する態度がなってないな!というか、どっちかっていうとヘッドハンティングなんだが……。まぁ、その話はおいおいしていくとして。取り敢えず、SAO最大の功労者を労るとしようじゃないか。小林医師に黙認してもらった差し入れも持って来たからな。……比企谷はこれが好きだっただろう?」
怒涛の勢いのセリフであった。
それに差し入れだと?手渡された紙袋を覗いた。
……こ、これは!
「マッ缶!!!」
ー・ー・ー
「あー、今なら死んでもいい」
「縁起でもないことを言うな。ましてやここは病院だぞ」
先生の箴言が耳に入らないほど舌に集中する。ああ、この五臓六腑に染み渡る暴力的なまでの甘さがたまらなく好きだっんだよ!これがなくてどれだけゲーム内で泣き寝入りを決め込んでいたか……!
もう離さないよ、マイベストフレンド。
「そこまで飲料缶に熱い眼差しを向けられると、元教師として見ていて悲しくなってくるから止めろ。……この椅子借りるぞ」
「どうぞどうぞ、お好きにしてください。元教師、と言いうと、やはり教師は辞めちゃったんですか?」
リストラじゃないって言っていたし寿退社、な訳ないよなぁ。こんな格好しているし、何かあったのだろう。俺は猿でもできそうな予想を立てながらマックスコーヒーを啜る。うん、美味い。
「ああ、辞めた。それにしても比企谷。少し痩せたところはあるが、いい目をするようになったなぁ。こう言っちゃ悪いが、前とは段違いだぞ」
「そうですかね?自分では分からないものですが、といいますか、目の窪みのせいで、光の入らない具合に限って言えば、より酷くなったような気がするんですけど」
「ふふ。元の体型に戻れば分かるさ」
平塚先生は笑って答える。俺からすれば先生の方がよほど変わったと思うのだが、そこに突っ込んでも誰も得しなさそうなので、敢えて先生が話してくれるまで指摘するのは止めておく。
俺は気遣いのできる男だからな。……またはファーストブレッドを恐れたとも言うが。
「寒いとか熱いとかっていうのは向こうにもあったんですけど、やっぱりこっちに帰ってくるとなんというか、そういうのを『体感』しますね」
「感じるまでのプロセスはゲーム内の方が手数を踏むから、VR中での感覚の享受というのは現実と比べてしまうとどうしても鈍ってしまうしな。だから、実の所、痛みを感じる事よりも感じさせない方がゲームリソース的には幾分も得なんだよ」
「へぇ……なら、SAOが痛み無しの仕様だっていうのは、そういう意味では合理的、というかリアルに沿っていたたのかもしれないっすね。……というか平塚先生詳しいっすね」
「まあ、この一年色々やって来たからな。……不思議そうな顔をしているがつまり、君の思っている以上に世の中も周りも変わっているということさ」
それは寂しくもあり、怖くもある話だった。平塚先生はいつの間にか教師の顔になっており、なあに、心配するなと俺の心配を笑い飛ばす。
「よっぽどお前の方が変わったよ。周りも変われば自分も変わる。前後の振り幅が少し大きいだけで起こったことは君のいた世界となんら変わらない。若者特有の柔らかな頭を使って未来の世界に適応したまえ。勿論力を抜いて程々にな」
「……そういうものですかね?」
「そういうものさ。ほら、飲み終わった缶はこの袋に入れたまえ。あくまでも私が飲んだ
「不謹慎です」
「すまない。口が滑った」
カランコロン。平塚先生の飲んでいたコーヒーとマッ缶が袋の中で音を立てる。
面会時間はまだまだある。囚われる前とは互いに変わりすぎていて、いまいち距離感が測れていない
数秒の沈黙の中で、『先生』という単語から素朴な疑問が生まれる。
「そういえば、俺は来年からどうなるのですか?総武高で留年っすか?」
「……あぁ、思いの外感慨深いものがあって忘れていたが、その話もして来いと言われていたな。……そうだな、プリントにしてまとめたのも一応あるにはあるが、直接伝えた方が楽そうだから要点だけまとめて話すとしよう。細かいことは後でプリントを読んでくれ」
平塚先生はどさっと、1センチはありそうな紙束をベッド隣にあるテーブルに置き、説明を始める。え?これ全部読まなきゃいかんとですか?
「まず、来年からの君の進路についてだが、早い話、総武高校三学年に進級してもらう」
「な!ちょっと待ってくれ!」
「いや、待たない。というか、君こそ少し待って話を聞け。時系列から説明するから。えっとだな。そもそも、君がSAOに囚われたのは一昨年の
「その節は、ありがとうございました」
「ほお?悪口を言わせたというのにラグタイムなしでお礼とは、随分成長したものだな。先生として嬉しいぞ……っと話が逸れたな。そこから比企谷は約1年と2ヶ月の間ゲームに囚われていた。つまり、つい先日、
「まぁ、目立つ目立たないとか考えず、帰りたい一心でがむしゃらにやっていましたからね。今から考えれば随分とでしゃばったものです」
俺らしくもなく。
そのせいで、いらぬリスクをどれだけ増やしたのだ。と平塚先生の質問に苦笑いでやり過ごそうとすると頭をグリグリとされ懐かしい言葉を頂戴する。
「だから、それで君が救われなかったらなんの意味もないと再三言っていただろうに」
「……すんません」
「『彼の行動は5千人以上の人を救った』『彼のお陰で大切な人を失わずに済んだ』。昨日のワイドショーでのコメントに免じて許してやろう。まさか現実でも同じようなことはしないだろうしなぁ?」
「しないっす」
「ふっ。そうかそうか。あはは。そんなに縮こまってくれるな、影の英雄。まだ本題に入ってないんだから」
ぽんぽんと頭を叩く先生。
なんだかんだ言って最後には認めてくれる平塚先生のノリに感謝しながら、俺はなされるがままに頭を動かした。しばらく弄ばれたせいで頭がグワングワンするがそんなことには構わず先生は本題に入る。
「つまりだな、あまりにも早い帰還のせいで、君達を迎え入れる準備がまだ整っていない。本来ならば学生のSAOサバイバーは一塊にまとめようとする手はずだったのだが、その一まとめにするための学校がまだできていないんだよ。だから、取り敢えずは通院しつつ、元の学校に通ってもらって、一年か半年後かSAOサバイバー用の学校ができ次第移行してもらうことになる、ということだ」
「まあ、なんとなくは分かりました。けど、よく俺進級できましたね」
国語以外の成績、特に理数科目なんて塵芥のグラム数ほどの点数しかなかったというのに。
「出席単位が足りていたからな。それに総武高は3年次のカリキュラムの殆どが受験勉強に当てられるから総復習期間には丁度いいと思ってね。まぁ君の成績は国語以外見れたものじゃないから構わんだろうとの判断だ」
「教師にあるまじき酷い言い草だな」
「もう教師じゃないからな。……っとその話もしなければ、か」
そう言って彼女がダボダボのジャージ(胸だけはぴったりしている。八幡ポイント高い)のポッケから無造作に出したのは革の四角いケース。殆どの学生にとっては無縁な代物であるそれは社会人にとってのエチケット。とどのつまり、名刺入れであった。
ピッ、と慣れた動作で一枚引き抜いた先生は俺の掌の上に乗せる。
『平塚静』
と、素っ気ない文体で書かれていた。
「名前なんぞどうでもいい。もっと下のところを読め」
指摘が入る。つうっと下に視線を下ろせば、見たことのない社名と『義務教育及び高等学校生担当』の文字。
どういうことだ?
「見慣れない社名だと思うが、そこが私の現在の務め先だ。VR事業を始めとした幅広い分野に関わる会社だが、その中でも私の今いる部署は、現在政府とその他いくつかの民間企業が連携して成り立っている少々特殊な部署だ」
「ということはつまり、SAOサバイバーの中で、学生に焦点を当てたサポートを行っている所で働いてる、ということっすかね?」
「概ねそれであっている。とは言ってもつい先日までは手続き待ちだったから、別の部署の事務作業の手伝いに回されてたのだがな。加えるとすれば、今来ているこのジャージはその作業着で、社泊して起きたら『君に伝えること』という指令書と共に病院の前にいたわけだ」
「なんだそのブラック企業」
ブラックを通り越して闇なんだけど。どんな経緯があってそんなどん底のような社会の闇に身をひそめることとなったのかは分からないが、平塚先生もまた、俺と似たようにハードな毎日を送っていたようだった。
そうなってくると先生の体調が気になるところだ。
「進路については了解しました。この際、自分の進路についてはとやかく言いません。その代わり先生もどうかご自愛して下さいね。もうそろそろ婚期も終わりなんですから」
「……まぁ、そうだな」
え?なにその反応。怒るわけでもなく慌てるわけでもなく叱るわけでもない。なんというか言いづらいことだからいうに言えないみたいな反応。
もしかしてついにゴールインできそうなんですか?もしもそうだったら三日三晩飲み明かしの大宴会なんですけど。……いや、なんでだろう。喜ばしことのはずなのに、それよりも先生が彼氏に騙されていないかの方が心配になってきた。
「他には何か聞いておきたいことはあるか?」
「他の知り合い───SAOサバイバーと連絡を取ることって可能ですかね?」
「……難しいだろうな。直接連絡を取ってもらうくらいしか私には提案できない。すまないな」
「いえ、それはプライバシー的にしょうがないですからね。……あ、じゃあ、『須郷』について知っていることを教えていただけませんか?」
「須郷……。今話題の須郷というならそれは、須郷信之氏のことだな。確かレクト社のフルダイブ技術研究部門の研究員で、同社のCEOの腹心の息子だ」
「息子……なぜそんな人が有名に?」
「そうだな。私からすればだいぶキナ臭い話になるのだが、レクトというのはもともと電機メーカーで、現在はVRMMORPGの運営を行なっている会社なんだ」
SAO事件が起きたというのに、というか起きてる最中に別のVRMMORPGが流行ってたのかよ。思わず突っ込む。しかも電機メーカーがVR産業に介入ってのも、このご時勢では大分違和感があるな。
「そして、SAO事件勃発後、賠償責任によって解散したアーガスのSAO運営を引き継いだ会社でもある。SAOを運営しながら別の【アルヴヘイム・オンライン】というVRMMORPGを運営していたことからしてキナ臭いんだが、ここでの最大のキナ臭いポイント、つまり比企谷の質問の答えに帰着するんだが、そのSAOの運営引き継ぎが
「それを行なったのが須郷信之氏だ、と」
「そうだ。会社の印象を上げたかったのか、はたまた腹心の息子の出世を確実なものにしたかったのかは分からないが、彼の名声はいまや【SAOを現実から最も支えた】として非常に高いものとなっている。必要のない情報かもしれんが、それなりに清潔で整った容姿をしているためウケもいいらしいな」
「成る程、ありがとうございます。参考になりました」
「役に立ったならよかったよ。……さて、私はそろそろ戻るとするよ。お大事にしてくれ。もう君の国語を担当することができないのは寂しいが、分からないことがあったらメールでもしてくれ。元教師としてしっかりと教えるからな」
「はい、今までありがとうございました」
「お前と会えて良かったよ。教師のしがいがあって、それにお前は応えてくれる生徒だったからな」
またな。ハードボイルドに決めたダボダボジャージ先生は空き缶の入ったコンビニを片手に提げて病室から去っていった。
ダボダボでも、ジャージでも、頭がボサボサでも。最後までかっこいい、俺にはもったいないくらいの先生だった。
『平塚静』
『義務教育及び高等学校生担当』
そして、『特例有限会社 ラース』
たった三文がシンプルに配置された名刺がいかにも平塚先生らしいなと思うと自然に口元が微笑むのを感じた。
時が進むのに身を任せること数分。
一しきり思い出に浸った俺は、やることと時間のすり合わせを頭の中でする。
それは、幾度となくSAOで繰り返してきた行為だったが、その行為を今度は大切な人のために使えることに、俺は大きな喜びを感じていた。
ー・ー・ー
時はたち、リハビリを終えた俺は無事に退院し、新しい生活を迎えることになる。
四月四日の入学式の日。
その日は、俺の門出を祝う始まりの日であり、雪ノ下のお見合いの日まで残り2ヶ月を知らせるカウントダウンの日でもあった───。
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閑話【久し振りの自宅はやはり自宅】
「……え、だれ?」
退院時に迎えに来た親父の一言がやけに印象的だった。
息子じゃい。
ー・ー・ー
「お兄ちゃ〜ん、お兄ちゃ〜ん。ふふふん、お兄ちゃ〜ん!」
「随分とご機嫌だな、小町」
約1年振りに帰って来た我が家は、逆に驚く程変わっていなかった。家具の配置も、本棚に並ぶタイトルも覚えている限り何もかもが同じだった。恐らく、模様替え好きな小町が気を回してくれたのだろう。お兄ちゃん的に超ポイント高い。
「あったりまえだのクラッカーですよ!いい?お兄ちゃん。女の子はみんなイケメンが好きなの!それが例え血の繋がったお兄ちゃんであったとしてもね!しかも、一年も離れ離れになってお兄ちゃんが英雄で高身長でイケメンになって帰って来たんだよ!これが歌わないではいられないでか!」
「落ち着け、小町。キャラがぶれぶれになってるぞ」
英雄はともかくとして、高身長でイケメン。そしてついでにロン毛。
今の俺を余所から見た評価がこれらしい。正直言って、自分ことながら前より随分と進化したものだと思う。しかし、小町が飛んで喜ぶほどかといえば、それは違うだろう。自己評価が低いとかではなく、本当にそう思う。思うのだが……。
「新学期からは一緒に通うんだからね!」
こうもはしゃいでもらえると、なんだかそんな事どうでもいいように感じてくるから不思議だ。自信持っちゃって良いんですか? ではない、妹の言うことは絶対! だ。
あと、余談になるのだが、入院中ある日を境に小町以外誰もお見舞いに来なくなったから、理由を聞いて見ると『思った以上にカッコよくなってきてるから、サプライズ的にニューお兄ちゃんをお披露目しようと思うの』と言っていた。
ニュー八幡。明日、解禁です。
「そ、そういえばさ。お兄ちゃん」
「ん?なんだ?」
「私、最近料理やるようになったんだけど、食べる?」
「あー、もらおうかな」
本当は『イエスマイラブリーシスター!』とか言って土下座してでもお願いしたい所なのだが、なんとなくシスコンと思われるのが嫌なので、いたって平々凡々に返答する俺。だがよく思い返せば、小町に面と向かってそんな言葉を吐いたことはほとんどないので、いつも通りといえばいつも通りだ。
小町は緊張半分嬉しさ半分といった様相でキッチンへとスキップしていく。可愛いからお兄ちゃんもしようかな?
病院の送迎に来てくれた親父はデスパレードへと再び復列しに行き、母親も年度末の忙しさに奔走されているため、せっかくの退院というのに今夜は小町と2人きりだ。あんな親父に抱くのも悔しいが少しの淋しさを覚えるのも正直なところ───あ。
そうか。そういえばそうだった。
俺は、そんなことも忘れて小町と接していたのか。
……忘れていた、約束。
「小町」
「んー?なぁに、お兄ちゃん。いま玉ねぎ切ってるんだけど」
「そのままでいい、少し言いたかったことがあってな。……あー、その、なんつーか」
頭をガシガシとかく。照れ臭い、というより情けない。今の今まで忘れていたこともそうだが、こんな簡単なことすらさらっと言えないことが。
「悪いな。約束破っちまって。『小町が帰るときには必ず家にいるようにする』……一年もできなかったから」
小町が家出をするという比企谷家最大の事件の後にした約束。ただでさえ奉仕部に入ったことで破ってしまう日が増えて来ていたというのに、まさか、ゲームという戯けた理由で、しかもすっぽかしたことすら忘れてたなんて、兄としてやっぱり恥ずかしい!
内心悶えているとカタカタと小町の全身が震え始めた。
え、何? 怖可愛い。
カンッ、サク。
小町の手からポロリと落ちた包丁がシンクで跳ね返り床へと刺さる。危ないだろ、そう注意する間もなく小町は、
「お、お、おおおおお」
と、聞き取れない程度の声で唸りながらフラフラと俺の元へと近づきはじめた。その様子はまるでホラー映画のワンシーン。ソファに座っていた俺が身構えようとした瞬間、小町に抱きつかれた。
「お兄ちゃわん!」
「待て、俺の事をそんな食器とくっつけた名前で呼ぶな」
「お兄ちゃんちゃんこ!」
「だからといって、その中身とくっつけて欲しかったわけじゃない!」
ぎゅっと柔らかい感触が体全体に伝わってくる。
それでもあったかいなぁくらいにしか思わないから、うん、兄妹である。なすがまま、されるがままになること数十秒、いつの間にか妹に慈愛の目で見られながら頭を撫でられていた。めまぐるしい展開の変化に目を白黒させていると小町がもう!と抱きついて耳元で囁く。
な、なんだこの天国は!やはり俺は死んでいたのか?!
「お兄ちゃんが素直に育ってくれて小町は嬉しいよ、あっ、今の言葉は小町ポイント高いかもっ」
「どっちかっていうと婆さん的な意味での小町ポイントだな、それは」
どこに兄の成長を嬉しく思う妹がいるんだよ。まして、俺は非行少年でもなんでもない、ただの一般的な高校生だというのに。……いや、SAOに巻き込まれた時点でもう一般的とは言えないか。そう考えるとなんというか、厨二心が疼く境遇になってんだな、俺。どうりで材木座が不謹慎ながら羨しい!とか言うわけだ。あの時はぶん殴って悪かったな。
花が咲いたような笑顔を見る限り、約束については許してもらえたっぽいので、張り付いてくる小町をぺりぺりと剥がしてキッチンに戻す。そして、何事もなかったかのように会話を再開する。
「そういえば小町。ずっと聞けなかったんだが、俺以外にも身近な奴がSAOに囚われていたとかいう話は聞いたか?」
「……うーん、お父さんの会社の人が1人なったって言ってた位で、その他のことはあんまり聞かないなかったなぁ。知ってる限りだと同年代でβテストに受かったのお兄ちゃんだけだし、自費でナーヴギアを買える学生はなかなかいないからね」
「なら良かった」
話しながら持ち帰った鞄の中身を整理していると、今まで気づかなかったが、ポケットの奥にスマートフォンが入っていた。1年越しの再会だが、充電は幸いにも残っていたので、なかなか思い出せないパスコードを脳汁出してひねり出しながら画面を開く。……げ。
久しぶりに触ったスマートフォンにはメール受信数、ライン通知共に999件の表示がなされていた。Amazonと数人のしか登録してないというのにこの量とは何ゆえに。開いてみると、驚いた事に、奉仕部2人からの受信が合わせて5分の4くらいを占めていた。囚われている時にも受信しているので、何事かと思えば毎日の出来事を綴ったメールが大量に……。社会情勢の把握には丁度いいんだけど、普通に怖いわ。
けど、雪ノ下のものなんかは文章としても中々面白いので暇つぶしも兼ねて流し読みをしていると、トントンと野菜を切る音を立てながら小町が尋ねてきた。
「お兄ちゃんはさ、来年は総武高だけど、その後はどうするの?」
「あぁ、えっと……なんかSAOにいた学生を集めた学校に行く事になるらしいな。そこを卒業してからのことはまだ分からん。というか、考えてない」
「一箇所に集めちゃって、身バレとかしないのかな?」
「知らん。けど、俺なんかは前とは全然容姿が変違うらしいから特に気にしてないな。気づかれることはなさそうだし」
「(別の意味で目立つと思うんだけどなぁ。我が兄のことながら、貫禄もなんか出てきてるし)……まぁ、おいおいだね!」
「んぁ、そうだな。取り敢えずは久しぶりに家族の作ってくれた飯に舌鼓を打つとするわ」
そんな、事を話して、夜遅くまで退院祝いをしたのが、1週間前。
入院していて買うことのできなかった三年用の教材と、身長がこの歳で伸びちゃったので新調した制服の一式が届いたのが三日前。
小町の春休みの課題ついでに習いながら復習に励んだ二日前と昨日。
そして、小鳥がけたましく鳴き、カーテンの間から漏れた朝日が顔面に当たっている今。
なんだかんだ久しぶりに学校に行くのが楽しみな俺はよっこらせ、とベッドから起き上がるのだった。
「お兄ちゃん、ごはんー!」
「今行く」
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復学編
7【登校初日⒈】
てー、てっててってー、てってててー。
頭の中で安いっぽい、それでいて奥深い某始まりのテーマが流れる。
玄関に揃えてある、一年前にも履いていた革靴に足を入れる。つい先日磨いたばかりなので、その靴は目立つシワが数本あるものの一年の老化を感じさせることはなく綺麗に光を反射している。ナイスミドルって感じだな。
「お兄ちゃーん、早く行こー」
俺のチャリを引っ張り出してきた小町が呼んで来た。
「ちょ、おま、その歳で二人乗りする気かよ」
「いいじゃーん。そんな変わんないって。寧ろお兄ちゃんの背が伸びたから安定感ましましかも。あ、今の小町的にポイント高い」
「基準がいつにも増して謎いな。……今日先生見張ってたりしないよな?」
登校初日にして問題児認定とか、初日にしてぼっち認定されたあの時並みに辛いものがあるから絶対に避けたい。
「荷物検査は明日」
「……いつの間にそんな制度が」
一色が反対しそうなものなのに。
手提げの鞄を小町のものと纏めて自転車のカゴに放り投げ、後ろに乗るよう伝え、小町が自分の胴にしっかり掴まった事を確認しペダルを踏み込んだ。
「行けー、お兄ちゃん号!」
「気の抜ける名前だな。……んじゃあしっかりと捕まってろよ」
「あいあいさー!」
四月の陽気な日の下でお兄ちゃん号が走り出したのは始業式が始まる、実に一時間以上も前のことだった。
ー・ー・ー
それが、どうしてこうなった。
市立総武高に着いたのは始業式まで残り20分と、事前に職員室へ寄らなければならない俺にとっては結構な時間。本来ならギリギリ一時間前には着いて小町と一緒に校舎の思い出しも兼ねて散歩と洒落込むつもりが、今となってはじんわりとした汗をおでこに貼り付け駐輪場で荒い息を吐いている。
「あははは。まさかどっちも気づかないとは思いもしなかったね」
「ホントだよ。揃いも揃って公衆の面前でアホヅラ晒しちまったし……」
何を隠そう、2人を乗せたママチャリはあろうことか、小町と俺の母校である中学校へと行ってしまったのだ。
「ぐわぁああ、あっちぃ……」
「小町は涼しいけどねー」
そりゃ後ろに乗ってるだけだからな。パタパタとカーディガンの裾でこちらを仰いでくれる小町を恨めしそうに見ながら、自分もワイシャツの襟を掴んでボフボフと腹の方に空気を送る。
始業式の日だというのに校庭からはサッカーに励む声や、自己タイムに一喜一憂する陸上部の声が聞こえてくる。元気な事だと揶揄るように思った俺は、余程自分の方が揶揄される立場だと気づいて改めて落ち込んだ。
やがて誰かがゴールを決めた歓声を聞きながら、籠から二つの鞄を取り出し片方を小町に渡しす。
「もういいの?」
「時間がない。そういえばプリントに30分前までに職員室に来いと書かれていたのを思い出した」
「えぇ……しっかりしてよねー。まだ学校生活始まってすらないんだからね」
「まあ、なんとかなるだろ」
編入予定のクラスの担任、前の数学担当教師だったし。授業を受けた感じ優しそうな人だったからな。とはいえ、あまりにも遅れすぎても向こうの予定があるので、少し急ぎ足で歩く。
「小町の歩幅に合わないなら無理しなくていいからな」
「お兄ちゃんとせっかく来たのにここで別れるのもなんかもったいないじゃん。というか、周りに隠してる初々しいカップルみたいで気持ち悪いし」
「そんなもんなのか」
「そんなもんなの」
急ぎ足のおかげで、一分とかからないうちに昇降口に着いた俺は一旦小町と別れ、持って来た上履きに履き替え革靴を3533と書かれた下駄箱に放り投げた。
「それじゃ、2年D組25番、比企谷小町行ってまいります!」
「おう気張って楽しんで来い」
そうか、2年は逆方向だったな。小町がたたたっと駆けていくのを見送り、職員室に足を向けた。
職員室までの道中で、この校舎、全く変わってねえなと思う。長い間いなかったように思えても、実際はたった1年間と少しだからそう変わるものでもないのだが、雪ノ下雪乃がいなくても、由比ヶ浜結衣がいなくても、学校の本質は変わる事なく機能し続けていると思うと、不思議な気分だ。特別だと思っていた毎日は普遍的に続いているし、かつてクラスメイトが傷つけちまったと騒いでいた壁には、見知らぬ人がもたれかかっている。
余りにも変わらないので、ともすれば、確かに歴史を刻んだあいつらの足跡はまだ残っているんじゃないかと探してみるが、取って代わったように全く知らない人が居座っているばかりで、当然だが同学年の生徒は誰もいない。諸行無常を文学的に感じた俺は、所在なさげに伸びきった自身の髪のえりを人差し指と親指で擦り合わせるように捻った。
廊下を歩く事1分前後、職員室の前に立つ。俺からすれば職員室は、平塚先生にお仕置きされる場所としての印象が強いが、本来は職員が事務仕事や授業計画を立てるのに使う場所である。平塚先生も、もういなんだなぁ。
変わってないのに、変わっていることもある。
俺にとっては寧ろ、本質が変わっているのかもしれなかった。
鞄を扉脇におき、ノックして入る。数学科の区画は入室後直進して大股2、3歩の位置。国語科に続いて最も近い位置だ。扉を開けて直ぐ見えた見慣れた
「お久しぶりです。先生。比企谷です」
「……んぁ?おぉ、久し振りだな、比企谷、ってうぉおおお?」
「いきなり人の顔見て悲鳴あげるとかクラインかよ……」
小声でツッこむ。あいつもよく叫ぶ奴だった。
相変わらず調子の良い顔にハゲ頭がトレードマークの先生は目をまん丸にして挨拶もそこそこに、様々な角度からこちらを身始める。
「お前誰だ?」
観察の結果がそれかよ。捻りも何もない突っ込みを心の中で入れる。そういや親父も同じような反応だったな。
「比企谷八幡です。2-Dの小町の兄で今日から先生のクラスに編入する予定の八幡です」
「おいおい、比企谷といえば、俺の授業中毎回寝てる目の腐った、『俺、世界嫌いっす』みたいなやつだろ?間違ってもお前みたいな甘いマスクの好青年じゃねえよ」
どんな印象持たれてたんだよ俺……。今まで捻くれてるだとか、斜に構えているとか言われても特に気にした事なかったけど、これはストレートすぎて逆に普通に心にくる。
「……ほら」
先生に生徒手帳を渡す。
生徒手帳を受け取った先生は証明写真を見た途端に大声で笑い出す。
「あははははは!!これもういっそ別の撮り直したほうがいいだろ!全然ちげえじゃん!目と髪の毛でこんなに変わるのかよ!」
「おいこら教師。失礼なのは貴様もか」
第二の平塚先生か。いや、どっちかっていうと陽乃さんだな。遠慮ないけど、憎めない感じ。
「ちょっと、佐久間先生に渡辺先生。これ見てくださいよ!」
あ、ちょっと!
抗議する間も無く先生の笑い声につられた先生がぞろぞろと群がってくる。見世物じゃねえんだぞ。先生相手に一喝する勇気もなく俺は、職員室は笑いの渦に巻き込まれていくのを呆然と見守るしかなかった。
笑顔の溢れるいい職場だな。爆発しろ。
「いやぁ、悪い悪い。ほら、チョコやるから許せ」
英語科の先生がそう言ってザクザクとした食感が特徴のチョコを一つくれる。すると、俺も私もと先生たちが俺にお菓子を渡し出す。右手のひらから両手のひら、両手のひらから腕の中。アレヨアレヨと増えていくお菓子は結局ポケットパンパンになるまでに膨れ上がった。
「……先生」
「ごめんごめん。煎餅いるか?」
いるか。
煎餅の代わりに生徒手帳を取り上げ胸ポケットに……入らない!飴がすでに我が物顔で居座ってやがるだと!おい、というか、
「いやぁ、随分と変わるもんだなぁ。事情は聞いたが色々あったんだろ?」
「いや、まぁ……はい」
「俺は元気そうな顔が見れて嬉しいぞ。お前の授業態度は最悪だったが、なんだかんだ言って平塚先生とのやりとりは職員室の名物だったからな。あ、もう平塚先生はいないのか」
「アハハハ」
ギリギリのジョークを飛ばしてくる数学教師は笑いながらそうだそうだと一枚のプリントを渡してくる。何かと思って見れば、どうやら俺の境遇の設定集らしい。どういう事だ?
「いや、流石に比企谷があのゲームに囚われていたってことが大っぴらに知られるわけにはいかないからな。色々と大人の事情も絡み合って、比企谷は今日までの1年間と少しフランスのとある田舎の老夫婦の元にホームステイしていた事になった」
なんだその設定。プリントに目を通すとフランス留学を目指す経緯から、フランスまでに使った航空機の名前までしっかりと記述されている。
休日の過ごし方まで書かれているというガチ加減に少しばかりの恐怖を覚えつつも、せめての抵抗として先生に抗議することにした。
「……もう少し前に伝えておいて欲しかったです」
「詳しいことは学校組織の末端にいる俺には伝わってきてないが、噂だと手続きに手間取ってたらしいぞ。悪いが諦めてくれ」
組織、末端。おおよそ学校では聞かなそうなスケールの大きい話だ。しかし俺は大きいものには巻かれる事なかれな日和見主義。ここは大人しく引き下がっておくことが吉だと判断して抵抗を取り消した。
「しょうがないですね。……あ、もうそろそろ始業式が始まる時間ですけど、行かなくていいのですか?」
「比企谷の紹介が始業式後のホームルームだからそれまでは俺と職員室で待機だな。ほら、佐久間先生も行っちゃったからこの椅子使っていいぞ」
「すみません、お借りします」
それからは、当たり障りない程度にSAOのことを聞かれたり、労われたりして過ごした。あと、何故か会話のつまみとして、俺のもらった菓子が使われた。別に良いんだけど、なんだろうか、この釈然としない感じ。
ー・ー・ー
始業式が終わりホームルームが始まる。廊下に待機していろと言われたのでドアにもたれかかっていると、先生が俺の紹介にする声が聞こえた。
『今日はみんなにサプライズがある。このクラスに転入生が来る事になった』
『えー!!!』
おきまりの会話だ。しかし、その会話は徐々にあらぬ方へと飛んでいく。
『せんせー!その子女の子っすか?』
『残念だが、男だ。しかも高身長のイケメンだ』
『『『キャーーーーー!!!』』』
ハードルを上げるな。……大丈夫だよな?期待外れとか言われて虐められるとかないよな?もしそうなったら取り敢えず先生は密告する。絶対する。どこにすれば良いかわからないがとりあえずしよう。そうしよう。
『その転入生は、去年まで1年間留学生としてフランスに行っていたから、分からないことを聞いてきたら教えてあげるんだぞ』
『はーい、先生!!ていうことはその子って、フランス語バリバリ喋られるんですか?』
は?余計な質問するんじゃねえ。
ボンジュール以外分かんねえぞ?
『……あー、フランス語……。……ちょっとその辺先生分かんないや。けど、ホームステイだからそこそこ話せるんじゃないかな?それは直接聞いて見て下さい!じゃ、じゃあ入ってきてもらおうかな!ほら、もういいよー」
信じられねぇ、丸投げしやがった!つーか、ボロが出ないようにしすぎて展開を早めすぎだ。どんな顔して入って言ったら良いんだよ……。
……くそっ、ここで待ち続けてもハードルは高くなる一方だ。……い、行くしかないな?ないよな。
なるようになれっ!
ガラガラ
否が応でも集まる視線の数は左右両目合わせて60あまり。
緊張のあまり無言で教卓まで歩く。い、いや、喋りながら歩いてたらそいつは変な奴か。いかんな、緊張で思考が麻痺してる。
大丈夫。SAOで幾度となく繰り返したミーティングを思い出せば大丈……ばない!無理だ、種類が違い過ぎる。
ゲーム内では注目は注目でも、殺気立った注目だったから逆にやりやすかった。主役はあくまで俺の持っている情報であり、俺自身じゃなかったから。しかし、今は違って、かつてない程興味の視線が俺自身に降り注いでいる。
その注目はぼっちには猛毒で、既に脳は重度の感染状態。
戸惑って、焦って慌てて。何か言おう何か言おうとパニックになった頭が弾き出した答えは───、
「ぼ、ぼんじゅぅる」
見たこともないフランスに住む見たこともない老夫婦の下で培った、聞いたこともないフランス語だった。
「「ブホォ!」」
おいこら、クソ教師。誰のせいだと思ってやがる。俺の言葉に吹いた2人のうちの1人をで毒づく。くそぉ、どうすればいいんだよ。いっそ全員笑ってくれよ。何か期待してんのかよ……。
……ん?
ちょっとまて、吹いたのが2人だって?
恐る恐る、記憶をたどってもう一つの音源に視線を這わす。プルプルと震えるその身体は自分の予想よりも近く、教卓から二列目、窓から一つ離れた場所。
……な、なんでいるんだよ、一色。
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8【登校初日⒉】
一色いろはは不機嫌だった。
というのも、彼女はここ2、3週間オヤツのお預けをくらった犬のような状態だったのだ。
(小町ちゃんのいぢわる)
言うまでもなく、お預けの内容は自分が恋する相手である比企谷八幡。水面下で結ばれた、乙女的独占禁止条約により毎日1人ずつ彼のお見舞いをしていたのだが、やっと自分の番が来たと思ったら小町直々にお見舞い禁止令をくらってしまったのだ。
勿論ただ黙って受け入れるなんてことは一色いろはの恋心が許すはずもなかったのだが、猛反発したところで小町の有無を言わさない語調と態度に敵うわけもなくあえなく撃沈。
その構図はやはり、犬と飼い主であった。
しかも、気合を入れて半年に一回の席替えに挑むも狙っていた窓側の席は欠席者にとられてしまう始末であり、まさに弱り目に祟り目。
思わず、相変わらず調子のいい顔で軽快に話す担任の話を余所に頬杖をついてしまった。
他人から見たその姿は、アンニュイな顔で何かを憂う、妖艶さと小悪魔的な可愛さが重なった非常に絵になる姿だったがしかし、その内心は年下の後輩に対する愚痴と年上の先輩に対する飢えが渦巻いているという、とても子供っぽいものであった。
(うぅ……八幡先輩)
なによりも、自分の順番の前でお見舞い禁止をくらったというのが来るものがある。他の人よりも一回少ないという不公平さが彼女の不満を増長していたのだ。
「えー、今日はみんなにサプライズがある。このクラスに転入生が来ることになった」
(……なんですと?)
生徒会会長である一色の元には通常、校則により転入生や留年生の話は全て事前に来ることになっている。しかし、この話は寝耳に水であった。
そんないかにも怪しい話題に対して乙女特有のセンサーが反応する。無論、ま、まさか八幡先輩?!といった具合だ。
クラスのノリの良い反応と共に男であることが分かると一層大きく彼女の心臓は脈打つ。自然とついていた頬杖はなくなり、身を乗り出して先生の話に耳を傾けるようになる。
見たところ今日の空き机は隣のここだけ。つまり、欠席者のものと思っていたコレはまだ見ぬ転入生のものとなるだろう。イケメンであるという情報に色めく女子とは別の理由に一色の心もまた色めき立つ。
こい、こい、こいこい!
情報を待つ彼女の心情はさながらサマーウォーズのラストシーンのよう。
しかし、先生の言葉は無情にも彼女の期待を真っ向から裏切ることになる。
先生曰く、転入生はフランスに一年間行っていたため、
(八幡先輩じゃないし……)
しゅぼぼぼーん。自分の中の色めきが穴の空いた風船のようにしぼんで行くのを感じた。少し前だったら高身長・イケメン・留学経験有りという、三種の神器のような好条件に舞い上がるあまり叫び出していたに違いないが、先輩を知ってからは他の男が随分とみすぼらしく見えており、どんなイケメンも、どんな口達者も、あのこじんまりと肩をすぼめながら、世界に対して毒を吐く小心者に劣っているように感じてしまうのだ。恋は盲目とはよく言ったものだ。自覚していても直せないとかが特に。
我ながら難儀な人に恋をしたのだと思う。けど、それでもやっぱり好きなのだからしょうがない。
自分とは真逆にテンションのボルテージが最高潮に達しつつある女子達に合わせるように、一色いろはは手を上げて先生に聞いた。
「はーい、先生!!ということはその子って、フランス語バリバリ喋られるんですか?」
ー・ー・ー
「あはははは!うひー!お腹いたいですー!」
もう泣きたい。
ホームルーム終わり、俺は机に撃沈していた。一年前もよくしていた懐かしの伏せ寝ポーズだ。あの教師はあの教師で、すまんすまんとか軽く謝るなりどこか行くし。スタートダッシュに失敗した生徒のフォローくらいしてくれたっていいだろ……。
「はふ、ふ、フラ、フランス語……あはははは!!」
「お前は笑い過ぎだ」
「だって、先輩があんなに可愛く『ぼんじゅぅる』とか言うんですもん───!」
「もうやめろ、いや、やめて下さい!」
もう八幡のライフポイントはゼロよ!遠慮なくバシバシと背中を叩く一色の笑い声を聞きながら俺は頭を抱えた。
八幡が頭を抱える一方、一色は一色で頭を抱えたい気持ちを必死で我慢していた。
(な、なんなんですかこの可愛いカッコいい人は!!本当に八幡先輩なんですか?!さりげなく八幡先輩って名前呼びするつもりが、先輩の顔を直視すらできないんですけどーー!)
さっきまで悶々と悩んでいた対象が自分の想像の何倍も魅力的になって再会した時の動揺といえば、下手したらSAO帰還時を超えるのではないか。
伸びてはいるがもっさりとしているわけでもなく、さりげなく整えられた髪にリハビリによって前よりもがっしりとした体格。少女漫画から抜け出したような王子様然とした甘いフェイスマスクは自分に縋るかのような不安げな表情でこちらを見ている。
SAO帰還後から、思わず頼ってしまいそうな風格が出てきた彼が、自分に助けを求め縋っているような錯覚を覚えた一色は『大丈夫だよおぉ』と八幡に抱きつきなでなでしたい衝動と必死に戦っていた。
(そして、なによりもこの目ですよ!!)
元々日本人にとって最も感情の現れる部位である目が『極度の濁り』と言う形で隠れていた八幡は、周りの人たちにとって何を考えているのかよく分からない存在であった。それ故に異端認定され、排斥されていた面もきっとあったはず。というか、そうでないと、そこそこイケメンで行動力もあり相手の心の機微を的確に読んで気配りが出来る人間が嫌われるはずがないのだ。
そんな男の数少ない欠点が、今やなんということだろうか。普通、いや、それ以上に感情を表しているのだ。
おそらく、彼にとって目に現れる感情など今まで隠す必要も無かったため、感情を隠す術を知らないのだろう。目まぐるしく変わる表情は実によく彼の両目に現れていた。まるで、無垢な赤ちゃんのように。純粋な子供のように。
一色からしてみれば、先程の彼の自己紹介も実はといえば面白い、というよりは(勿論面白さもあったが)萌えていた側面の方が強いのだ。ビクビクとした小動物を見ているような気がして、そう考えると今までのつっけんどんな態度もハリネズミの針のような気がして。
あー、もう、辛抱たまらん!なわけであった。
当然、他の生徒も予想以上にオーラのあるイケメンに色めき立っている。そして、『比企谷八幡』という名前にざわついてもいた。
なんせ、比企谷八幡は悪い意味で名を馳せた男であるのだから。
一年の頃の学園祭。
比企谷八幡は、実行委員では問題発言を繰り返し当日の最終日には実行委員長を泣かせた、そんか意地の悪い男として2・3年から語られていた。その上、しばらくして登校する姿が見られなくなってからは、耐えきれなくて転校したとか様々な噂が立ってもいた。
そんな人物が高嶺の花のような容姿だと知った時、人はどんな反応をしたらいいのか。
愕然とすればいいのか、ざわめけばいいのか、詰めかけたらいいのか。そんな訳で、一色いろは以外のクラスメイトは遠巻きに見るだけに留まり彼との距離感を見計らっていた。
SNSで、イケメンが転入なう。と書き込みながら。
「ねえ、先輩。今どんな気持ち?ねえどんな気持ち?」
「帰れ。つーか、空気読めよ。周り誰も話しかけてこないだろ。俺はこの一年間の立ち位置は決まったんだよ!……くそぅ、小町にかっこよくなったって言われたから頑張ろうと思ったのに。ごめんな、小町。お兄ちゃん、中学に続いて高校でも迷惑かけちゃいそうだわ……」
いっそ卑屈な笑いが出てきそうだけど、かつての友人に絶対するなと言われているのでなんとか我慢する。おそらくクラスのトップカーストに君臨するであろう一色に、現状打破はできないのかと相談してみれば、ふむふむ、と顎に手を当てると仰々しく頷いて彼女は言った。
「まぁ、なんの問題もないと思いますけどね。それよりも先輩!その姿どうしちゃったんですか?」
超適当にあしらわれた。そんなことよりだと?社会復帰を目指す社会不適合者にとって人間関係以上に気を使うことなんてねえんだよ!
「どうしたもこうしたもねえよ。リハビリして筋肉つけただけだよ」
「いや、顔顔。その目ですよ。普通にカッコよくて困るんですけど!……はっ!まさか前に私が目が腐ってるからって告白を断ったことを気にして綺麗になって出直して来たとかそういうことですか?!すみません、役所は今日は休みですのでまた明日にしてください!」
告白してないのにまた断られ……断られてない?!
「というか、告白からプロポーズに格上げされてる?!……というか目?多少疲れ目が取れた気がするけどそう大した変わりはないはずだぞ?」
せめていうならクマが取れた。
「イヤイヤイヤ!変わりましたから。月とスッポンですよ。泥と宝石とも言ってもいい位です!」
え?それ褒めてるよね?過去の自分が貶されすぎて、褒められているはずなのに悲しくなってくるんだけど。
「身長も伸びましたね!何センチになったんですか?」
「確か177はあった気がするけど、詳しい値はよく覚えてない。つーか、マジで一色のクラスかよ……」
「しかもお隣ですよ!これはもう勝ったも同然ですね!」
何に?俺が聞き返そうとしたら横からすっと女の子が現れた。
「い、いろはちゃん。ちょっといい?」
「む?なんでしょうか、私の友達にして名簿番号12番のサイドテールが印象的な快活系ボーイッシュ女子こと、
おお、一息で言い切ったな。
「うん、あのね。いろはちゃんが転入生について詳しいみたいだから紹介してもらおうと思って。ほら、他のみんなも色々聞きたいって言ってたしさ」
「……惚れましたね?」
「ギギギクゥ!!!」
ギギギクゥ!じゃないよ。本人の前でそういう分かりにくい上に紛らわしいやり取りはしないでくれ。なんて反応したらいいかわからないから。
一色は「これはまずりましたね……」とボソッと呟くと、いつもの笑みに戻って俺の紹介をしてくれた。
「えーと、比企谷八幡先輩は私達の一個上の先輩で、さっきっから気にしてるようだから言っちゃうと、学園祭の比企谷先輩で間違いないよ!あとは去年の会長選挙で私の、私の!応援をしてくれた人だねっ!クリスマスの少し後から向こうに行っちゃったんだけど、今年の春から復学したんですよね?!」
「ん?ああ、そうだ。まあ一個上ってこともあって緊張し過ぎてさっきの自己紹介でも少し失敗しちゃったけど、これから慣れるように頑張るからよろしくな」
上手いことさっきの失態のリカバリーをしつつヘラっと笑う。友人に禁止された『八幡微笑53次』の一つ、『初対面の章。薄ら笑い』だったが、文字通り初対面の人相手だからつい出てしまった。
「はぅっ」
「ちょちょちょっと先輩?!なんでそんな緩い笑み浮かべちゃってんですか?私にはほぼ無表情だったのに!」
「んだよ。つい出ちゃっただけだろうが」
え?何?目が綺麗だと薄ら笑いって緩い笑みになるの?なんというか、壁ドンに似た
「つい……つい……。こ、これってもしかして私の前だと気を許しちゃう的なやつ……?」
「百川さん?!違いますよ?ただの愛想笑いですよ?!」
いや、確かにそうだけどお前が言うな。
一色が本格的に騒ぎ出したのを皮切りに様子見をしていた人達がどっと押し寄せて来た。そして、質問責めにあう。フランス留学のことや学園祭の事。果てには部活勧誘までくる。あと、さりげなくスリーサイズとハヤハチとか言ってる奴は後で詳しく話を聞かせろ。負の遺産ならぬ腐の遺産を感じる。
ぼっちには大概捌き切れそうにもない質問責めに俺は静かに一色の肩を掴みちゃんと聞こえるように耳元で貸し一つで頼むと言うと、新しいクラスメイト達の目の前に差し出した。
頼むぞ
結局、人生で今後絶対にないだろうと断言できる位の俺への詰めかけは一時限目が始まるまで続いた。
良いクラスでよかったです。
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9【登校初日⒊】
昼。
チャイムが鳴ると同時にすくっ、と立って屋上を目指す。
不思議なもので、今日はどの道を辿れば極力人に会わずに屋上へ行けるのかが四時間目終わり3分前にふと頭に浮かんでくる。特殊能力でもなんでもなく、日々の虚しい研鑽の賜物なのだが、今日の復帰初めてのチキチキ屋上レースには挑むことができなかった。
教科書を机に入れ腰をあげようとしたその瞬間に隣からガンッ! と鋭い音がする。椅子から立ち上がりかけのまま隣を見れば一色がにっこりと笑って机をくっつけていた。
「……先輩?お昼一緒に食べましょ?」
「お、おう」
逃げようにも窓と彼女に挟まれた俺はどうすることはできない。有無を言わさない彼女の笑みに押されるがまま俺は着席し直した。そして、周りの好奇の視線を集めながら俺は鞄から弁当を取り出す。
出てきたのは小町の手作り弁当。
「……あ〜、やっちまった……」
「どうしました?」
「弁当箱小町のと間違っちまった」
ワクワクしながら取り出したのは黄色のワンポイントの刺繍がなされた可愛らしい包みだった。
ケータイを取り出して小町にその旨を伝えると一分と経たずに届けに来いとのお達しが。そうか、同じ高校だからそういうことが出来るのか。めんどくさい。
「あらら。ここから2Dは地味に距離がありますね」
一色が空で地図を描きながら言う。確かに地味にあるんだよなぁ。階をまたぐから余計に地味に長いという印象が強い。
……まぁ、高校にいても小町の姿が見られると思って我慢するしかかねえか。ご褒美があるだけ労働として破格だしな。それに、めんどくせえとか思っていたがこれいいチャンスなのではないのか?
そう、よく考えればこれは、小町に悪い虫が付いていないかチェックできるまたと無いチャンスじゃないか!
「うわぁ、先輩が悪どい顔をしてます」
「聞こえてるからな、一色後輩」
「で、2Dに行くんですか?」
「ああ。ちょっくら(小町の生活を見に)行ってくる」
ついでにマックスコーヒーを買おうと財布を持ち、俺は席を立った。
「先輩!弁当!弁当箱忘れています」
教室から出る直前で一色が手を振って教えてくれる。危ない危ない、小町の送る高校生活に想いを馳せすぎて本筋を忘れてた。
「あ、悪い。すっかり忘れてた」
「いったい何しに行くつもりだったんですか……。あ、いや予想はつきますけど、顔は変わってもそういうとこは変わらないんですね」
「当たり前だろ。クラスの男子全員が霊長類ヒト科オトモダチだと確認が取れるまで帰れま10スペシャルだ。一色も来るか?」
「……いえ、遠慮します。昼休みがなくなりそうなので。あ、いや、先輩が戻って来るの待ってますんで早く帰ってきてくださいね。いいですか?小町ちゃんに迷惑かけちゃいけませんからね」
「分かった分かった。お前は俺の母ちゃんか」
「母ちゃん……つまり嫁ですか?」
「なわけないだろ……」
俺が不安定になれば彼女が諌め、彼女が阿呆になれば俺が突っ込む。グラグラと揺れる天秤のようなやりとりだった。その後もグダグタとあーだこーだ言いながらも弁当の入ったカバンを持って教室を出た俺は、2年のある教室を目指す。
廊下を歩いていると、ふと視線を感じた。
……懐かしいなこの感じ。
露骨に感じた視線にそう思う。
一瞬葉山にかつて向いていた類の注目かと思ったが、なんてことはない。周りのこそこそ話から時々聞こえてくる『文化祭』の単語でどんな視線かは想像がつくというものだ。前までの俺だったら過剰に卑屈になっていただろうが、流石にもう高校卒業しているはずの年齢となると、禍根が残っているんだなぁとしか思わない。
まるで見世物のように、あるいはモーゼのように俺の半径50センチは人が近寄らないので、ついに、現実世界にもATフィールドが実装されたのかと思ったが、精神的成長をほぼ終え切った自分がそんなものを張れるわけがなく、ただ単に避けられているだけだった。
そんなこんなで三年の教室が並ぶ非常に居心地の悪い廊下を抜けると次に現れるのが2年エリア、ではなく国際教養科であるJクラスのエリア。女子が元々多い科だが、普通科に比べて可愛い女子が多いことで有名な科だ。
とはいえ雪ノ下クラスの美人が早々いるわけもなく、友達がほぼ美少女という高校生活の中で感覚がおかしくなった俺は大した感情を抱くわけでもなく、廊下を進む。
「こんにちは」
国際教養の生徒が挨拶してくれる。見知らぬ先輩に挨拶してくれるなんて、なんと礼儀正しい子なのだろうか!感心2割、感動8割で挨拶を返すと表情は一転、体をばっと翻したその子はぴゅーっと向こうへと走って行ってしまった。
……礼儀がなっちゃいねえな。
そんな出来事も挟みつつ2Dへ到着。
大した時間歩いていたわけではないが集める視線に辟易していたせいか、8割り増しで疲れたな。
その精神的疲労から、普段ならするであろう他クラスに対する緊張もろくに抱かないまま教室の扉を開けた。
「小町いるか?」
「あ!お兄ちゃん!こっちこっち!」
ふむ、周りに男はいないようだな。安心した俺は手を挙げると小町に近づく。
周りの喧騒がさぁーっと引いていっようなが気がしたが、小町はいつもと変わらない笑顔で手を振っているので気のせいだろう。小町に笑いかけひとなでしつつ俺は鞄からお弁当を取り出したのだった。
ー・ー・ー
「こちら、お兄ちゃんです!」
「ども」
「こちら、私のお友達です!」
「よよよよ、よろしくお願いします!!お兄さん!」
小町に弁当を渡して自分のものを受け取った俺は、一色が教室で待っていることもあり、さっさと退散しようという心づもりでいたのだが、小町から制止がかかり何故か強制的に椅子に座らされていた。
「……んで? どうしたんだよ引き止めて。早くメシ食いたいんだけど」
「お兄ちゃんが今日から復学するって話を友達としてたから紹介しようと思って」
「はぁ?」
「す、すみません!私なんかのためにお時間割いてもらっちゃって!」
「……大丈夫だがらとりあえず深呼吸しようか」
「はいっ!」
現在の配置は俺の隣に小町がいて、机挟んで向かい側に2人の女生徒がいるというものだ。小町はお弁当を広げると俺に弁当食べないの?聞いてくる。いや、食べないって。なんで妹のクラスでお弁当をつつかなくちゃいけないんだよ。中学の時でさえそんな惨めなことしなかったぞ。惨め度で例えると、個人的には便所飯以上のヤバさがあると思う。
「教室で人待たせてるから止めとく」
「へ?!お兄ちゃんもう友達できたの?……明日槍降られるとシーツの洗濯の日だから困るんだけど」
「いろいろ失礼だな。……いやまぁ、期待してるとか悪いが、待たせてるのは一色だよ」
「なんだ、いろは先輩かぁ……って、いろは先輩?!お兄ちゃん同じクラスになったの?」
「なんの運命の巡り合わせかなっちまったよ。しかも隣席。あいつ授業中ずっとそわそわしてて集中できないから勘弁して欲しいんだけど」
「いや、それどう考えてもお兄ちゃんのせいだから」
なんでだよ。と思っていたら、『なんでだよとは言わせないよ。』と小町に言われる。……あぁ、そういうことか。
「小町も知ってたのか」
「当たり前でしょ!というか、お兄ちゃんが本気で気づいてなかった方が驚きだよ!雪ノ下さんからも聞いたんだからね!」
「いやまて!その話は帰ってからにしよう。なんなら夜通し話し合ってもいいから」
「よ、夜通し?!」
おい、目の前の女子よ。兄妹の会話で出てきた夜というワードに反応するでない。初めて買ったマーガレットを読んでいるときの俺みたいな顔してるから何を想像しているかはなんとなく分かるが、あり得ないから。
「んじゃ、俺はそろそろ行くぞ?」
その後、数回のやりとりがあってお暇する準備をする。と言っても取り上げられていた俺の弁当を取り返すだけなのだけれど。
「んー、分かった。今日は2人とも固まっちゃってて、ろくにお兄ちゃんの顔も見れてないから、また来た時にお話ししてね」
「いや、お兄ちゃん流石に妹に友達を紹介してもらうほど友達に飢えてないから」
妹同席の元で友達作りに励む兄とか情けなすぎてお兄ちゃん的にポイント低過ぎだから、ありえないから。
なんだか、珍しく、まだ話したそうな顔を小町がしているので、最後にと廊下での出来事と朝に抱いた疑問を聞いてみる。
「なぁ、小町。本当に俺ってかっこよくなったのか?廊下を歩いてたら凄え見られてコソコソ話されたんだけど」
「お兄さんはかっこいいですよ!」
ありがとう、マーガレットさん。もとい小町の友人さん。コクコクとその隣で同意するように頷いてくれるもう一人にも心の中でお礼を言う。
「うんうん、取り敢えず、コショコショ話の全てが陰口だっていう固定観念から抜け出そうよ。ほら、もしかしたらお兄ちゃんがイケメンだって話してたのかもしれないよ?」
「けど、さっきも挨拶返したら無視された上に速攻で逃げられたし。あれってピンポンダッシュの亜種だろ?」
「いやそれは……まぁいいや。今日は帰ったら小町とお兄ちゃんの認識のすり合わせをしようか。とりあえず視線はあんまり気にしないこと。なんだったらいろは先輩に相談してもいいから。あの人も超人気だし多分良いアドバイスしてくれると思うよ」
きっと笑われると思うけど。小町は箸でビシッと俺を指して言った。行儀が悪いと嗜め、時計を見るとそろそろ五分近くもお邪魔していることに気づく。そろそろ一色がキレる時間だな。
「あ、そういえば小町。お前奉仕部入ったって言ってたけど、今日もあるのか?」
「んー。今日は休む。お兄ちゃんは奉仕部どうするの?もう雪ノ下さんも由比ヶ浜さんも居ないけど」
「あぁ、そのことなんだけどな……ちょっと考えてもいいか?これからの事とかも考えたいから部長さんにはお前からよろしく伝えといてくれ」
「勿論おっけー。……なんてったって私が部長ですから!」
「はぁ?!お前がか?」
「その言い方ポイント低い!」
箸で人を指しちゃいけません。ポイント低いです。
いやしかしなるほどそうか。小町が部長になったのか。……うん、ありえなくもないよな。いや、寧ろならない方がありえない。
小町は人あたりが良くて、可愛くて、優しくて、信じられないほど可愛くて、気遣いができて、人の長所も短所も見た上で判断できて、天使のような可愛さで、人に着いていきたいと思わせるカリスマ性がある。
そして何よりも、人を導く才能がある。ソースは俺。
それにしても部長ねぇ……。奉仕部の面々が今、どのような面々なのかは分からないが相変わらず癖の強い奴らが集まっているのだとしたら、その中で部長を務めるというのはやはり、並大抵のことではない凄いことなのだろう。なんせ、その部活の性質上、部長に間違いはあってはならないし、常に正しくなくてはいけないのだから。有能すぎる初代というプレッシャーもあるだろうしな。
やっぱ小町って天使だわ。
小町の背負う重圧を少しばかり慮りつつも、それを日常生活で一切感じさせないことに敬服の念を払って、軽い口調でふーん、と言った。……お兄ちゃんとしても夜に話したいことができたな。
「そいじゃあ部長。放課後はまた駐輪場の方で待ってるから適当に来いよ」
「あいあいさー」
小町の友達に向き直る。
「小町の友達になってくれてありがとう。こんな不出来な兄がいる妹だけど今後共々仲良くしてやってほしい」
せめて、中学校のような悲劇が起きないようにと願わずにはいられない。二人が真っ赤な顔で頷いてくれたのを見届けてから俺は教室に戻った。……真っ赤?
来た道を戻って教室へ帰る。
「先輩おそーい。遅すぎてお腹ぺこぺこなんですけどぉ」
「悪ぃ、ちょっと小町に捕まった」
「…む。なら仕方ないですね。小町ちゃんの気持ちも凄い分かりますし。大好きなお兄ちゃんが周囲に認められたら舞い上がっちゃいますもんね」
「どういうことだ?」
「こういうことですよ」
ぐいっと一色は両手を使って俺の顔を挟み、後ろへ向けた。
「
後ろには数人の女子。そして更にその後ろには恨めしい目でこちらを見る男子諸君。
「お、お昼!ご一緒していいですか?!」
「……俺と?」
思わず頰をつねる。……夢じゃ、ない、だと?信じられない目で思わず一色を見ると彼女は、悪戯が成功した時のような笑いを浮かべた。
「ね?分かったでしょ?先輩は今、かっこいいんですよ。仲良くなりたいと思うくらいには」
「……マジ?」
「マジです。まぁ、中身は変わってないみたいなので、会話の方は頑張って下さいね。横から見てるんで」
なんとか話しかけてくれた女子に了承の意を示したものの呆然と佇む俺を傍目に、一色はテキパキと場を整え始めた。
その後、ちゃっかりと隣をキープした一色に連れられて挑んだお昼は、緊張のあまり味がわからなかった。
しかし何故か、キャーキャーと場は盛り上がっていた。
……なんで?
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閑話【授業中】
五時間目は得意科目である現代文の授業なのだが、非常に退屈だった。いろいろ原因はあるだろうが何よりも、担当教師が妙齢ということもあり、非常にモゴモゴとしていて、言ってしまえば話を聞き取ることがほぼ不可能だったのだ。例え面白い話であっても聞こえなければそれは雑音と変わらない。五時間目の雑音ほど眠気を誘うものはなく、そういうわけで俺は退屈していた。
ですからでして、と言葉始めだけはやけにはっきりと聞こえるのが逆に耳について、眠気が眠りに移行することすらできなく、自分の苛立ちは募っていく。
遂に『陰翳礼讃』の解釈を放り投げた俺は、いっそのこと寝てしまおうかと頬杖をついて右を見ると、今まで頑なに見ようとしてなかった一色と目があってしまった。
ニヤニヤと笑いだす一色。それみたことか、絶対余計なことを言いだすぞ。マッ缶一本賭けてもいい。
「先輩、もしかしておねむですかぁ?」
「集中しろ」
ほらな。
数学の時も落ち着きがないと注意されてただろうが。あの時の先生、普段あんなに穏やかな人なのに半分切れかけてたぞ。
一色はここぞとばかりに話しかけてきたがロクなことにならないことは目に見えていたので極力無視する。すると何を思ったか一色は鞄を漁りだした。
「先輩先輩っ」
一色は「じゃーん」と教科書に隠してスマホの画面を見せる。何を漁っているかと思ったらスマホかよ。丁寧に、見えやすいように限界まで上げてくれたらしい光量によって映し出されたスマホのスクリーンには、ラインのトーク画面が写っており、『先輩と隣の席になりましたぁ(はぁと)』の文字とともに俺が頬杖をついて目を閉じている写真が乗っけられていた。
いつの間に盗撮したんだ……というか。
「……おい、これなんだよ」
「えへへ。我慢できなくて雪ノ下先輩と結衣先輩に送っちゃいました!」
「怖いことするなよ!後でなんて馬鹿にされるか分からないだろうが」
あいつらなら平気で『あら、ダブったの?』とか言ってくるぞ!……い、いや、さすがに言わないか……言わないよね?
「ふふふ。と思うじゃないですかー?見てくださいよ、この慌てた反応」
スルスルとフリックしてラインについたレスポンスを見ると、確かに慌ててる。一例を挙げるならば、こんな感じ。
『ちょっと待ちなさい。そして彼から離れなさい』
『いろはちゃん?!ずるはいくないなー!』
『(刃物を持ったパンダのスタンプ)』
メールでは素直に感情を表すのか、とどこかずれた感想を抱きながら一色のスクロールに合わせてやりとりを流し読みする。初めのうちは一色を責める流れだったが、一色の煽りもあってか、いつの間にか俺を責める方向へ行きつつあった。
「おいっこれどうにかしろよ。せっかく戻ってきたのに知らぬ間に起きたもつれで関係がこじれるとか嫌だぞ。糸じゃねえんだからそう簡単に絡まってたまるか」
「何ちょっと上手いこと言ってんですか。割と余裕じゃないですか」
「とにかく!早くそのやりとりをなるべく穏便にすませるようにしろお願いします!」
「格好がつきませんねぇ……」
仕方ないと恩着せがましく呟いた彼女はぽちぽちと何事かをラインに打つ。そして、スマホを机に伏せて嗤った。笑うではなく、嗤う。それは厳密には嘲笑ではないのだがそれに近い。なんというか、愉悦な笑いだった。
「先輩、なんて書いたか見たいですか?」
「は?」
「見たいですかー?」
当たり前だろうが。小声で先生に気づかれないように伝える。まぁ、見た目結構なご老体だから聞こえてないだろうけど、そう言う容姿の人に限って地獄耳だったりするからなぁ……。
そんなご老体が「しかるに白熱灯と伝統産業とは……」と喋っているのに対して一色は非常に辛い影の落ちた笑顔を浮かべながら俺の気分を逆なでしていく。
「見せてあげなーいっ」
「……コロス」
割と大人気ない俺だった。年上?知らねえな。同学年だろうが。
「ふふふ、そんな怖い顔しても無駄ですよ!なぜなら私は、先輩にナニされようが嬉しいのですから!」
「……厄介な生き物だなぁ、おい」
それに何をされてもいいと言いつつも彼女の要求は彼女の中で決まりきっているという。タチが悪いこと限りなかった。
……しょうがない、白旗だ。両手を先生に見えないよう軽くあげた。
「参った。何が目的だ?」
「えへへ。……名前で呼んでください。あと放課後デートですねっ」
名前呼び、デート。えらくど直球な要求がきたな。受けるか受けないか。斜に構えた考えも直球勝負には滅法弱く、俺はにへ〜っと笑う一色を前にして思わず黙りこくる。
告白を断ったという負い目がある分、断りにくいという心と、告白したのだから断るべきだという心がせめぎ合う。しばし葛藤の渦に身を任せたが特に出口が見つかるわけでもないので、
「俺はお前のことを振ったのを覚えてて言っているのか?」
と絞り出すように口にした。それは、苦し紛れの言葉にしたってあまりにも意地の汚くて、性根の腐った逃げ言葉の投げ言葉だった。しかし、一色はそんな質問に対してカラッとした表情で答える。
「ええ、勿論です。先輩が私のこと嫌いじゃないと言ってくれたことも覚えてます」
「……お前のことなんて嫌いだ……」
「目をそらさず、照れた表情を隠して言えたなら多少は信じてあげますよ」
くそっ。だめだ、小悪魔相手に腹探りの知恵比べ口比べをするなんて無理だ。無謀だ。いや、そもそもの話、だからこそ白旗を上げたのだ。つまり、俺は敗者であり敗者は勝者に従うしかないのでありそして、俺自身もまた自分の心に従うしかないのだ。
つまり、『俺はこの後輩と遊びたい。そして少しばかりのゆとりを取り戻したい』という目を逸らしたくなるような自分の欲望に従うしかないのである。
けどこればっかりはご褒美だからとか、負けたからとか、そんな甘言と逃げ道に誘導されるのではなく、自身の意思で言わなければならない。
俺は、本物の青春ラブコメを突き進みたいのだから。
「……分かった、
「……はひゅ。と、とちゅぜんの名前呼びはどうなんですか?どうなんでしょうか?だめですよ!」
「声がでけえ、先生が気づくだろうが」
「す、すみません。……けど、言質はとりましたよ?私のターンはまだ続かせていただきますよ?いいのですか?」
「あぁ、その代わり帰りの約束をしちまった小町を説得するの手伝ってくれよ?」
「まかせんしゃい!」
シャァオラァ!と言わんばかりにガッツポーズを決めたいろはは早速デートスポットを調べますねとスマホをいじりだした。いじるなとは言わないが、交換条件なんだからやり取りをまずは止めてくれ。
「あぁ、忘れてました。こんな感じに収束しました」
見れば確かに、いろはの発言を最後に二人は沈黙をしている。自分のことながら、あれだけ騒いでいたのに急に静かになった理由が気になりふと最新のレスを見ると、一文。
『今日は、先輩に名前呼びしてもらってデートするので、邪魔しないで下さいね』
「……いろはさん?」
「なんですか?先輩」
「ふぁっきゅー」
「ぷりーず」
俺は、頭を抱えた。
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10【登校初日⒋】
「さぁーっと授業は終わりですよ先輩!さっきの言葉、言ってなかったなんて言わせませんよ!」
「わかった、わかったから引っ張るなって。せっかく買い換えた制服が伸びちゃうだろ」
まぁ、政府からの補助金で購入したものだから伸びちゃっても俺の懐は全く痛くないんだけどな。俺がモタモタと六時間目の授業の片付けと帰る準備をしてると、いろはが急かす急かす。分かったから、と言って落ち着かせても一分後には元に戻る。
「はい、準備できましたね!行きますよ!」
「待て待て、いろはがどこに行きたいのかは分からないが、というか分からないこと自体が分からないが、その前にやることがあるだろう」
「……手を繋ぐことですか?」
「万が一やるとしてもそれはその後だな。そうじゃない、小町の説得だ」
一緒に帰る約束をした時の笑顔を思い出すと胸が引き裂かれるような思いだ。……つーか、どう考えても小町といろはだと明確な不等号があるわけだから、これもしかしてどうするべきか答え出ちゃってんじゃね?つまり、ドタキャン。
「おい、いろは」
「はい、なんでしょう?あ、小町さんには今電話で断りました。今度先輩と買い物に行ってもらうことで合意になりましたので」
「おい、いろは」
一言目は呼びかけ。二言目はツッコミ。
あまりにもトップギアの対応に、俺のセリフが変化球のダジャレみたいになっちゃったじゃん。早いよ、いろはさん。できる女筆頭かよ。
「さて、行きますよ?門限とかないって聞いたんでのんびり行きましょうね?」
「はいはい」
ちょっと視点の高くなった世界で、俺はちょっと小さくなったような気がするいろはに引っ張られて校舎から出るのだった。なお、生徒会長と留学生という面識のないはずな二人の仲睦まじい様子は周りの人にとって、とても不思議なものであったらしく、一人で廊下を歩いている時の三倍は視線を感じた。
ー・ー・ー
自転車は小町が持ち帰ると言っていたので、鍵だけ渡して謝罪しつつ、その後大いに惜しみつつ別れる。クッパに連れ去られるピーチ姫の気分だぜ。
「あの先輩?さすがにデート前の女の子の前で他の女にあれほど執着するのは男としてどうなんでしょうか?」
「お前はとりあえず自分の胸に手を当てて自分と小町の立場を思い出してみろ」
「義理の姉妹、ですかね?」
意外!それはノータイム!!
そして、正解にかすりもしていない。
「……それでどこに行くんだ?」
「それがですね、先輩の時間を独占するに値する場所が私のデートアーカイブになかったのでノープランです。よって、駅前に行きます」
「無難っちゃあ無難だな。駅前の方は退院してから行ったことないし、地味に楽しみだな」
「ふうん、先輩、デート楽しみにしてくれるんですね」
「そりゃそうだろ」
曲がりなりにも、美少女とのお遊びだからな。捻くれようが捻くれまいが嬉しいもんは嬉しい。ただ、それがデートだとは絶対に認める気はないが。男女二人で遊ぶ?普通っしょ、普通(リア充感)。ドリクラで大人の女性からネットアイドルまでを落としてきた俺にことデートに関しては不可能という文字は存在しないと言ってもいい。
そんな事を考えていると隣でいろはが黙り込んでいることに気付く。
「おい、いろは。どうしたんだよ」
「……あっさり肯定したから、びっくりしただけです」
「感情を捻くり返してもあのクリスマス前のやり直しだからな。……今の行為がどれだけ本物から遠いものであっても、なぁなぁのものであったとしても真剣な奴相手に嘘は付けないと思っただけだ」
「……先輩らしくないですね」
「まぁ、そう思うよな。実際ほとんど受け売りだからな」
「それは、SAO出会った人のですか?」
「……ああ」
そして、もう会う事のできない人。人生最後の余興としてSAOを始めたという93歳の老人だった。あの人がいたから、あの人のおかげで俺は───。
靴の中でうまくはまり合わない靴下が気になり足の裏をムズムズと動かす。ローファーに制服の後輩は、言葉の続きを待っているのかこちらの方を向いて神妙そうな顔をしていた。遠くで夕方を知らせるカラスが鳴いた。
「───ま、この話はまた今度にしてくれ。話し出すと止まらねえと思うから」
「……そうですね。なら、先輩の冷や汗が止まらなかった数学演習の話でもしましょうか」
「勘弁してくれ」
拒否も虚しく、数学の話をされながら歩く事しばらく、駅前の広場に到着した俺達は休憩も兼ねて、設置されたベンチに座ることにした。そして、座っても尚、数学の話をされていた。なんの拷問だよ。愚痴らずにはいられない。
「なんだよ余弦定理って、どこも余ってねえじゃねえか」
「先輩って本当に数学弱いんですね……。あっ、そうだ! 今度教えましょうか?」
「情けなくなるから嫌だ。……いや、補習食らったら頼むわ」
「そっちの方が情けないことに気付きましょうよ……」
良いんだよ。どうせ新設の学校に移ったら高1からやり直しさせられそうだしな。主に理系教科のせいで。高校における英語と国語ができてても結局は数学で学年の学力が決まる風潮、あるよね。その癖なんだかんだ言って、ほとんどの職種で高校数学のほとんどの知識が必要ないってばっちゃが言ってたし。
「てか、いろはす近くね?もしかして俺に惚れちった?」
「戸部先輩のモノマネうまいですね……」
「いろは。付き合ってもいないのにあんまり近づくと誤解されちゃうし。そういうのはお互いのために良くないよ」
「今度は葉山先輩ですか? 今の先輩だと結構様になっているので一瞬わかりませんでした」
そう言いつつも離れる様子はない。近い距離感に照れて、モノマネで意思表示をしてしまったがそれが仇となったか。それでいてやられた方は大して動揺も見せないのだから、リア充という生き物は凄い。
「ほんっとリア充ってのはビッチかパーリィピーポーばっかかよ」
「それは、単に先輩の目につくリア充がそうであるだけです。分かっているとは思いますが、もっと一般的で楽しい日常を送る人達の方が多いですからね?」
やだ!八幡信じないし!そんな完全俺の上位互換みたいな人種がいるなんて絶対信じないし!
「まあ先輩は幾らか一般的ではないとはいえ、お友だちにも恵まれて楽しい生活を送っていたのですから、そんな人達を見たとしてもだからといって別に? といった感じでしょうけど」
いいこと言うじゃん。あとはもう少しだけでいいから俺とのプライベートスペースにゆとりを持つことだけだな!
しかしいろはは俺にぴったりとくっついたまま話し続ける。こちらの意を一切介することはなかった。立ち上がる時は俺の手を掴んで引き上げた。握られた手を半分放心状態で見下ろしていると、いろははこれまた意に介さないといった様子で俺をリードして歩き始める。
なんだこの美少女、童貞絶対殺すウーマンかよ。
「クレープ食べに行きましょう!」
クレープ。なんて恐れ多い響きだ。あの店の風貌からして女子、もしくは男女専用みたいな雰囲気の店に俺は今から行くというのか?こんな美少女をはべらせて、行くというのか?
なんというかそれは、俺にとって一種の大罪のような気がしてならなかった。
まぁ、行くんですけどね。
なんだかんだ祭りくらいでしか食べたことのなかったクレープに対して興味があるのはまぎれもない事実だ。それによく考えてみれば、がっつりと甘いものを食べるのは向こうの世界を含めたとしても数ヶ月振り。これが嫌々と行けるだろうか。
いつの間にか浮き足立ついろはと同じような歩調で歩いていた俺はまだ見ぬ甘味に夢を膨らませるのだった。
クレープ屋、というかそれ系統のスイーツを販売する飲食店は駅店内にあるということで、いろはと共に歩いているのだが駅構内には中々人が多い。帰りのラッシュ時間と被ってしまったこともあり、ある程度くっついていないとはぐれそうな程度には人で溢れていた。
「いろは、もっとくっつけ。はぐれるだろ」
「そ、それ以上はっ」
なんてやりとりもさっきから結構している。ギャグの様だが、いろはは真面目に照れている様で、事故にも近い形の判明ではあったが彼女は攻めには弱いことがわかった。
無論、攻めるつもりは毛頭ない。地雷原に足を突っ込むのとなんら変わらない行為を平然と行えるほどぼっちは強くない。
「着きました!丁度席が余ってますね。運がいいですよ!」
「そんな人気店に帰宅時間真っ只中に連れてくるとかマジいろはすパネエっす」
「む!帰り道デートの定番だというのに……先輩は分かってませんねぇ!女心の分かっている容姿のくせにそういう所は相変わらずなんですから。いつか刺されても知りませんよ?」
「余計なお世話だ」
それにしても女性誌に載りそうな店に来たのは人生で2回目だが、ここは先に行ったカフェに比べると匂いがすごい。クラクラしそうな位の混沌とした空気が店の外にも漏れ出している。甘ったるいような艶っぽいような、所謂女子の薫りがこれでもかと立ち込めていた。慣れない匂いにやられた俺は思わず顔をしかめていろはに尋ねる。
「いろははよくこういう店に来るのか?」
「まぁ、友達とは割と行きますね。……あ、もしかして匂いにやられました?男性が初めて来店した時はよく匂いにやられて注文前に帰ってしまうことがあるそうなのですが」
「ああ、まさにそれだ。……なんなんだ、この匂い」
「スタッフも客も女子が多いですし、香水とかコンディショナーとかが混じっちゃうんじゃないですか?ここはスイーツの匂いも混じって甘い匂いがするそうですけど、女子の身からするとよく分かんないんですよね」
さ、席を取られる前に行きましょう。いろはがさっさと店の扉をくぐっていくので、置いていかれてはたまらないと俺は足早にそれに追随する。
店内はまた一段と濃い。ふらっと、立ちくらんだ俺はいろはに支えられる。
「もう、しっかりしてください。まだ席にすらついてないじゃないですか」
「悪い悪い。……もう大丈夫だ。いろはが近くにいてくれればなんとなく緩和されるからな」
「……え、えっとそれは?」
「……」
いろはの匂いが強くなるからだけど。と口から出そうになるのをすんでで止める。どさくさに紛れて危うく、ど直球の変態発言をするところだった。危ねえ、下手すればまた振られるところだったな。
痴態回避に成功した俺は、いろはの言葉を黙殺しつつも悟られない範囲でいろはを近くに置いて案内を待つことにした。
「案外カップルはいないんだな」
「まぁ、こんな混んでいる時に来たら高確率で長時間待ちですからね。ディスティニーランドが身近にある千葉県民として、デートのなんたるかが別れるきっかけになるのか、よく分かっているのでしょう」
「待ち時間での沈黙か……」
よく聞く話ではある。同時に、縁の遠い話でもある。
近くて遠いというと、ほのぼの系妖怪ファンタジー映画の文句のようだが、実際は結婚できるか否かの人生の勝負を決める、生臭い話だ。
リアルここに極まれりと行った感じだな。
「そりゃあ注目も浴びるってものか」
「なんの話ですか?」
「いや、やけに他の客が俺たちを見てるだろ?だからもしかしたらこの店は男性禁止なんじゃねえかと思ってたんだよ。今となっては自分の顔がイケメンだとかどうとかはあんまり言うつもりはないが、それにしても集まり過ぎだろ?」
昔の俺の様に、そこそこイケメンだと自負するのはまだいい。ただ、客観的に見てイケメンと言われる様な面になったというなら、そこの所は言わずに心に留めておくというのが礼儀だと思ったのだ。残念ながらイケメンが自分のことイケメンと言う面白くねぇ映像は見たことはないが、だからといって自分でやろうとは思わないし、思えない。
「(まぁ、イケメンってだけならばそれでいいんですけれどね。先輩はもう完全に少女漫画の住人に近いですから、そんじょそこらの女子はそりゃもう釘付けですよ。私には店内の彼女たちのスマホの画面が今ばかりはSNSに統一されているのがわかりますよ。イケメンを見たら呟く。それは女子のルーチンワークですから)……今夜、小町さんと話し合うそうですから、その時に聞いてみればいいと思いますよ。私としては本当に気にしなくてもいいと思いますが」
「いや、気になるだろうが。男性禁制だったらどうすんだよ。俺だけとんだ赤っ恥じゃねえか」
「や、それはほんと大丈夫ですから。ほら、案内が来ましたよ。行きましょう!」
いろはは俺の腕を抱え込むと案内された席へとずんずん歩いて行くのだった。
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11【登校初日⒌】
「先輩どれ食べるか決めました?」
「……なぁ、いろは後輩」
「なんですか、その呼び方」
「こいつら、俺の知ってるクレープとなんか違うんだけど」
クレープ生地上にでかいソフトクリームとフルーツが乗っかっているソフトフルーツクレープはじめ、どのクレープも明らかに包めない量の食材が積まれていた。いや、これクレープの生地をランチョマットにしただけじゃん。
「これ、クレープの生地は好みで食べるの?パセリみたいな扱いなの?」
「何言っているんですか、先輩。周りをみてください、きちんと食べているでしょう」
言われてみれば確かに隣に座る女性は行儀良くナイフで生地を切り、ソフトクリームと絡めて冷たく甘い感触を楽しんでいる。ちなみに、隣、というとあたかも相席の様に聞こえるが、実際はシート席と椅子席の二人席に案内されただけだ。
向かいの椅子に座ったいろははむぅ、と頬を膨らませて文句を垂れる。
「せんぱい〜?なんで他の子に目を向けているのですかぁ。デートですよぉ〜」
「それはおかしい」
お前が見ろと言ったんだろうが。デートでもないし。
結局、いろははメロンとソフトクリームの乗ったパンケーキを頼み、俺は無難にチョコと旬の果物乗せのクレープを注文した。無難というのは、量のこと。かろうじて巻けそうな気がする。
「先輩は春の果物にしましたか」
「春の果物といえばイチゴになるのか?まぁ、見た感じまだ巻けそうな気がしたからそれにしただけなんだけどな」
「随分巻くことにこだわりますね」
だって、巻いて食べるのが1番うまいと思うし。あの小籠包の皮を破いた時みたいに溢れ出す甘味がたまらなくない?想像しただけで幸せだわ。俺にとってのSAOのスイーツといえばケーキかクリームパンだったからな。
来る前から垂涎ものの妄想を繰り広げていると、やけに穏やかな笑みを浮かべるいろはがこちら見ているのに気付く。
「……なんだよ?」
「……今の先輩は可愛いですからつい慈母のような気分になっちゃいます」
「はぁ?このグッドダンディを捕まえてよくそんなことを言えるな。フランス語で自己紹介してやろうか?」
「私の中のダンディはイタリアのイメージが強いですからそっちでお願いします。あと先輩がダンディズムを語るなら、まずはその少年のようなキラキラとした目をどうにかしないとですけどね」
「キラキラした目だと?お前はこと俺を捕まえて何を言っているんだ?」
「あれ?自覚薄だったりします?」
「……あー。いや、腐れと疲れが多少取れた自覚はある。けど、だからといってキラキラしたかといえば、さほど変わってないだろ?目の大きさが変わるわけでもあるまいし」
「いえいえ、目は人の全てを語りますからね。目の腐りが取れた先輩はとっても、分かりやすいんですよ?もし陽乃さんに会ったら、今の先輩の心の中なんて、すぐーにバレちゃいますから気を付けてくださいね」
陽乃さん。そういえば、まだ会ってないなぁ。と、人生で出会ってきた人達の中でも1、2を争う強烈なキャラを思い出す。
彼女は雪ノ下のお見合いについて何も言わなかったのだろうか。あんだけ妹を猫可愛がりしているなら、速攻で破談にさせそうなものなのだが。
「お待たせいたしました」
茶髪のお姉さんが器用にも俺といろはが注文した物を片手に持って登場する。片手空いてるんだから両手で持ってこいよと言いたい所だが、厨房が作り上げた塔のようなパンケーキのプロポーションを見事に維持して運ぶその技術は見事としか言いようのない美技である。思わずどうやって皿を降ろすのかとまじまじ観察してしまったが、そんな不躾な視線に動じることなく二つの皿を並び終えた店員さんはまじ店員さん。
「それじゃ食べましょうか」
「いただきます」
疾風のようにやって来て、疾風のように去っていった店員さんを見送りいろはの音頭でスイーツに手をつける。
やはり、旬の果物はいちごだったようだ。ラズベリーなどのベリー各種が生クリームとチョコレートソースの上に点々と、有機的に鎮座している様子はまさに芸術。最近の若者がSNSにこういった写真をあげたくなる気持ちがなんだかわかる気がした。勿論、気がしただけなのだが。
「なんだかこうも飾りつけられると食べにくいな。いろはは平然と食っているがインスタとかに上げたりはしないのか?」
「……私って、どうもそういうの向いてないらしくて。すぐに炎上しちゃうんで、インスタとかツイとかはやらないようにしてるんですよ」
「ああ、分かる」
「なにをっ!」
だって、無意識の内に煽りそうだし。自覚している可愛さを生かして写真をとった結果、あざといと炎上しているのが眼に浮かぶわ。
まあ、ネット上にはありふれた炎上の仕方だけど、よく考えたら見知らぬ他人にあざといとか、デリカシーがないにもほどがあるよな。
「先輩、今、私にはものすごく精度の良いブーメランが見えます」
「あ、クレープ美味いな。けどこれ、やっぱ生地で巻かない方が圧倒的に食いやすいわ」
「……露骨に話を逸らしましたね。そして、そんなことはお皿と一緒にナイフとフォークが出てきた時点で察しましょうよ」
これ以上手で食べているとチョコで手がベトベトになりそうなので、クレープの体を保っている内にナイフとフォークで食べるように切り替える。バカにしていたがこれはこれで趣があって美味。
「……先輩のクレープ一口くれません?そんなに美味しそうに食べられると気になってきました」
む、このザ・クレープといったチープな味が逆に美味いことが伝わってしまったと言うのか。
だがそれもまた良し、と古典随筆のようなクレープを俺はいろはにおすそ分けすべくナイフで一口サイズ切り出した。あーん、の姿勢だ。
「ほら、口開けろ」
「……要求しなきゃやってくれないと思ったのですが」
「お前がそう思ったように俺もお前が要求してくることに気がついていただけだ。他意は断じてない」
「えへへー、そうですかぁ?他意が無ければ断ることを考えると思うんですけどねー」
なんて言いながらいろはがあーん、と小さな口を開ける。
生地の上からいちごを刺すようにして持ち上げたフォークをクレープが落ちないように食べさせる。きっちりフォークについたチョコまで舐めとったいろははニコニコと幸せそうな笑みを浮かべてクレープを味わう。
「……んっ、んー、んっ!美味しいですね!」
「そりゃよかった」
フォークを見つつ応える。
このフォークどうすっかなぁ。あんまり意識しすぎるのも変な感じだが、だからと言って使い続けるのもどうかと思うんだよなぁ……。
「はい、先輩っ!お返しです」
「いらね」
「えぇ!なんでそっちの方の考えは汲んでくれないんですか!!」
唖然、といった表情でいろはがこちらを睨む。
「いやだって、間接キスとか恥ずいし」
「乙女か!というか私には平然とやらせといてその言い草はないでしょう?!」
「いや、お前ならヤリ慣れてるだろ?」
「ビッチ扱いしないで下さい!恋に恋してた乙女ですよ?!」
「声がでかいわ」
「だれのせ───むぐっ」
大きく開いた口にクレープを再び放り込む。
すると黙って二口目を楽しみだしたので呆れ気味に肩を揺らして俺もクレープを食べる。この際いろはがくわえただとかは考えないことにする。考えてもドツボだしな。
もっもっ、とクレープを咀嚼する俺といろは。怒鳴り声からの沈黙により妙な空気感の漂う今この場所は、互いに互いの距離を見計らっていて、西部劇の決闘前のようだった。コイントスは口の中のクレープがなくなるまで。
「やっぱり食べてくれませんか?先輩」
いろはが先に弾を撃つ。
飲み込みが遅かった俺は甘んじて弾を受けた。
「……一口だけな。こうも怒鳴られてちゃ、1をとるために10を捨てているのと変わらない」
「……どういうことですか?って言ってもなんだか考えていることはなんとなしに想像がつくので聞かないでおきます」
「助かる」
「……こほん。ではっ。……は、はいっ、あーん」
「あーん」
少し自分が食べる時よりも大きめにカットしてくれたパンケーキが差し出される。悔しいことに自分の頰が熱くなるのが分かった。無心だ無心。ただ自分の手を使わないで糖類と炭水化物を摂取するだけだ。身を乗り出しているのも食道が口から少し伸びただけだと思え、思うんだ!
ぱくり。長い一瞬を経て口に入るパンケーキ。
メープルの香りが、口の中に広がり、暖かいパンケーキとソフトクリームがいい塩梅で味に深みを出している。マッ缶ソムリエとしては、甘さがいまいち足りないが、店で出されるには十分に充足感のある美味さがそこにはあった。
「……美味い」
思わず口から言葉が漏れる。
「でしょでしょ!実はもうお腹がいっぱいなところもあるんでまだまだ食べていいですからね!勿論あーんが条件ですけど!」
どんだけやりたいんだよ。ただでさえ周りの注目で穴があったら入りたいというのに、それを未だ半分近く残っているパンケーキ全部終わるまでだと?羞恥でゆでダコになるわ。
「今の状況、よく考えたらマズイくね?俺がどんだけデートじゃないと思っていても、周りからしたらどう考えてもただのバカップルじゃねえか」
「あ、やっと気付きました?おめでとうございます。はい、お祝いのパンケーキです。あーん」
「やめんか」
言いつつも食べてしまった。やっぱ美味え。
「むぅ、あの頃の先輩と違ってあんまり動じないので、からかいがいがあんまりないです」
「……成長しておいて良かったわ。危うく後輩に翻弄された挙句、知らぬ間に入籍とかいうシャレになんない事態に陥るところだった」
「そんなことしませんよっ!……多分」
怖いよ、いろはさん。
恋に恋してたって言ってたけど、まだその頃の方が分かりやすいものがあったよ。今のいろははなんというか、一歩間違えれば、デンジャラス・ビーストって感じ。
つまり、肉食系。ゾンビ的な意味で絶食系の俺をとって食おうっていうのだから余程の偏食家のようだが。
俺が成長しようとしまいが彼女にとっての俺は、扱いやすい先輩でしかないらしく、なんだかんだでその後も食べさせあいっこ(言葉にするとこれ程アホらしい響きはない)に興じさせた。
彼女は皿が空になると満足といった様子で吐息を漏らした。
「美味しかったですね、量も丁度良かったですし」
「いや、半分以上俺に食わせてたじゃん」
忘れたとは言わせないぞ。あの羞恥プレイを。SAN値がガリガリ減ったあの過去を。
注文したコーヒーに砂糖を入れてお腹に流し込む。
「そういえば、この腹にたまる感じも現実ならではなんだよなぁ」
「そうなんですか?じゃあご飯とか食べた時はどうなるんです?」
「口で味を感じて空腹感がなくなる。だから様々な感触の飴を舐めてるような気分だったな」
「そうなんですか」
いろはは「あっ」というと身を乗り出して俺の頰に細い指を這わせた。ぬるっとした感触に、自分の頰に付いていたクリームに気付く。
「はいっとれました」
指を可愛らしく咥えるいろは。あざとい。しかし、そのあざとさは一年前と違い、危ういあざとさだ。
「お弁当とは中々姑息な萌えを使ってきますね」
「いや、どう考えてもお前の方があざといから」
危うく惚れちゃうところだったわ。何なんだよ、この可愛い生き物。騙されてると分かっていても、今回ばかりは騙されてやるかと思わせてしまう魔性があるのだ。言い換えれば、男を無意識下で立たせながらも自分の要求を知らず知らずの内に通してしまう才能。将来が空恐ろしいな。特に、それに思い当たっても尚、気を許してしまう所が。
痴人の愛かよ。
「さてさて、まだ少し休むとして、この後はどうしますか?」
「俺に聞いちゃっていいの?」
「マックスコーヒー専門店とかはやめて下さいよ?」
「そんなパラダイス知ってたらお前とデートしてねえよ。毎日一瞬でも長くそこにいられるように努める自信があるわ。……あ、そうだ」
「どうしたのですか?」
「小町と出かける週末に着ていく服がない……。いろはって最近の男物の服の流行とかってわかるか?小町に恥をかかせたくないから買いに行きたいんだけど」
特にズボン。下手したら足首まで出る気がする。
「何というか、シスコンここに極まれりって感じですねぇ。……いいですよ。その代わり、私にも何か選んでくれませんか?」
「ん?センスに自信ないけどいいのか?」
「はなから期待してないから構いません」
じゃあなんで頼むんだよ。湧いた疑問を口に出そうか迷ったが言ったことでヘソを曲げられても困るので、男にはわからない何かがあるのだろうと無理やり自分を納得させた。
「んじゃそろそろいくか。なんか冷房効き過ぎてるのか知らんが、寒気も感じ始めたし」
「あ、先輩もですか?実は私もさっきから体の芯に来るような冷えを感じていたんですよね」
なんというか、課題の締め切りまで2時間を切った時のような薄ら寒さのような。出会ってはいけないものに出会った時に感じる、そんなタイプの寒気だった。いろはの言ったように、雪の下に埋まった時のような体の芯に来る冷え。風邪を引く前にお日様の陽気にあたらないとな。
ケータイと財布がポケットにあることを確認して、と。
「さあ、行こうか、いろ「ちょっと待ってもらってもいいかな〜?」
で す よ ね。
「イケメン君には少し悪いけれど、少しいろはちゃんとお話ししたいことにあるんだ〜。イケメン君、少しだけでいいから少し待っててね」
やたらイケメンと少しを強調させて現れたのは嗚呼、この人。さっき話題に出た時からなんとなく会いそうだなと思っていたこの人。女傑、才女、才色兼備。褒め言葉が大体似合う女性と名高い美女筆頭。
雪ノ下陽乃。
その人が俺といろはのあるテーブル席の前に立っていた。
「あらあら?いろはちゃん。隼人、八幡くんと続いて手を出したのは2人を掛け合わせたような王子様ということ?随分とまぁ尻が軽くなったのね」
いつもの陽気は鳴りを潜め。
雪の日の朝のような固い冷たさを全開にした彼女がそこにはいたのだった。
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12【登校初日⒍】
「……はるるん、先輩」
「今ばかりは陽乃先輩、もしくは雪ノ下先輩でお願いしたい所だけど……イケメン君、隣いいかしら?」
ずいっと陽乃さんが隣に来る。触れそうで触れない距離。
「それで、いろはちゃんは八幡くんを、諦めたの?」
突然現れて、喧嘩腰でいろはに絡むもんだから何事かと思えば、随分と俺の口出しのしにくい理由だった。というか、陽乃さん、どストレートすぎませんかね?本人いるんですけど。
どうしたもんかね、と思いつついろはに目をやれば、表面こそ真っ青な顔してるけど、口の端やこめかみがピクピクと動いている。これは面白がっている……いや、怒っている?
どちらをどう止めようか少し迷った俺は、戸惑った顔で頷くだけに留め、様子を見ることにした。どちらを止めるにしろ、被害が広がる未来しか見えなかったのだ。ある意味最強の二人だからな。雪ノ下や由比ヶ浜なんかとは次元が違う。
「……どうも、お久しぶりですね、陽乃さん」
「久し振り、再選祝いで八幡君の病室でお祝いした時以来だったかな?」
俺が寝ている間に何してんだよ。やりたい放題か。
横目に見た陽乃さんは、前までとは変わらない容貌。相変わらず可愛らしさと、大人らしさ、そして所謂イイ女の雰囲気が滲み出ており、隠しきれないカリスマ性を纏っている。ただ、最後に会った時よりも少し強化外骨格から愛嬌のような無駄が抜け落ちて表情が大人っぽくなっていた。それだけに静かな怒りが際立っているのがマジ怖い。
「それで、陽乃先輩はどうして私のデートを邪魔するのですか?明らかに、そしてどう見ても今の陽乃さんの行動に道理と常識がない事は分かっていますよね?」
「ええ、だから私は彼に断りを入れたのよ。……事実、受け入れてもらえたようだし」
入れてないです。
今までも何回か話をしたことがあるが、今日の陽乃さんはいつにも増して鉄仮面で、目がぞっとするほど笑っていない。手にしたお冷を飲む仕草は流石の流麗さといった感じだったが、そこまで気を抜かない姿勢が逆にこちらにまで緊張を要しているかのような気さえする。
場が凍る、まさにそんな状況だった。
「……まぁ、この際乱入してきた事はどうでも良いとします。
「……あきれた。心底呆れたわ、一色さん。これでも私は貴方のこと、そこそこ買っていたのに」
陽乃さんは、淡々と告げる。いろはは、そんな陽乃さんをしばらく見つめると、あたかも昔の俺のような目で陽乃さんから目を逸らして言った。いろはの見せた、怒りの表情の理由を。
「私は元々自分を売ってませんでしたけどね。それにですね、陽乃先輩。呆れたのは、私の方なのですよ。まさか、まさかあれ程可愛がっていた妹に全てを押し付けるなんて、私は思いもしませんでしたけどね」
楽しいはずのデートは、様々な人を巻き込んだ複雑怪奇な人間模様と、感情の渦によるサイクロンによって形を変えて周りをボロボロにしていく。
あえていろはが俺のことを彼と呼んだあたりから、勘弁してくれという気分でみていたが、その次のいろはの言葉で頭を横殴りされたような感覚を覚えた。
いろはが一通り楽しんだところで俺の正体バラして終わりー!みたいなのを想像していたが、2人の関係はこの一年間で思ったよりも悪化していたらしい。
俺は会計のために浮かせた腰を下ろし、じっと陽乃さんの横顔を見つめ直す。男性からの視線には慣れっこなのか、陽乃さんは気にすることなくいろはをじっと見つめていた。変わらぬ微表情で。
「随分と自由を満喫している様子で安心しました。その、微妙に染めた髪の毛、ホットパンツにストリート系のブカブカのシャツ。マグネットピアスも普通のピアスに変わっているじゃないですか」
「……何が言いたいのかな?」
「実家の拘束が緩くなってよかったですね。お陰様でこんなに頭の緩い店に来れるようになったんでしょう?」
頭の緩そうなってお前がこの店誘ったんだろうが。それでいいのか。……いや、そうじゃないな。
いろははどうやら、俺にもわかるように話を回りくどく言っている節がある。だとすれば、これから繋がるのは、陽乃さんの拘束の有無ではなく、なぜ、拘束がなくなったのか。……そして、その結果の話だ。
「……雪乃先輩のお見合い。元々陽乃先輩のものだったそうですね」
つまり、雪ノ下雪乃の話。
ー・ー・ー
雪ノ下雪乃は、須郷という男とお見合いを控えている。
相手は、少なくても10は離れていそうな男だ。恋愛に年は関係ないとはいえ、一年間の内に0からお見合いにまで発展するというのは一般家庭においてはまずありえない話。それこそ、突発的な年齢の関係ない愛によってしか成り立たない話だ。
ただ、雪ノ下家は、良くも悪くも一般家庭とは程遠い。
議員の父を持ち、いくつもの不動産を抱える雪ノ下家は、VRゲームを始めとする近未来的世界においてもなお、未だに財閥のような家庭環境にあった。小さい頃から施される英才教育に、泥の中を駆けずり回るような少年少女には考えられないような厳格な家庭内ルール。
それら全てが悪いと言うつもりはない。
しかし、彼女たちの人生の要所要所で降りかかる制限が、それはとても無垢な悪意にあふれていた。親切高じて枷となる。彼女達は、親に捕らえられた小鳥であった。
主だってそれを課してしまったのは、誰よりも家庭のことを考えている雪ノ下家の母であったといえよう。小さい頃より大和撫子を女性としての至上であるとして教育し、家の発展を願う姿勢を至上としていた。
彼女にとって、それが女としての幸せであり、娘たちの幸せになると信じて疑わなかったのだ。それは、子供達に不自由させたくないという一種の家族愛であったとも言える。娘もそれを分かっている、分かってしまっている。
だからこそ、憎めども、嫌いになれない。
と、ここまでが俺の知っている話。
そして、ここからが、空白の一年に起こった話。
「……いろはちゃんには関係のない話よ。この話に関係するのは、私達雪ノ下家と、須郷さん達。後は」
「……八幡先輩、ということですか?」
「ええ、そうなるかな」
名前が呼ばれた。これは名乗り出るチャンスではないのか?……いや、どんな顔をして出たらいいんだよ。つーか、なんか2人の会話が妙にすれ違っているな。
第一、雪乃の婚約の条件は、俺がSAOクリアのための補助を最大限病院で行うことだった筈。……だとすれば、陽乃さんは何も悪くないのではないのか?大して親しくもない男の為に今まで避けてきた婚約を結ぶなんて方がおかしいことは、いろはも分かっているはず。
実際の筋道として考えられるものとしては、元々あった陽乃さんと須郷氏の婚約という既定路線を雪乃と須郷氏の婚約に変えた、というのが1番わかりやすくて合理的だ。家族としては、少しも望まない婚約よりは、娘の意を汲んだ婚約にしたかったのかもしれない。
例え、それが餌で釣った猿芸のようなものだったとしても。自分の罪悪感が消えるならば、それで良いと。
考えれば考えるほど反吐がでるような偽善に感情が高ぶるが、これはあくまでも俺の勝手な妄想に過ぎない。
ゆえに、自分の推論が正しいのかどうかを判断するために、俺は改めて陽乃さんの横顔を見るのだった。
「陽乃さん、雪乃さんの婚約のことどう思っているんですか?」
「……望んだ婚約なら私はとやかくいうことじゃないと思っているよ。逆に一色さんは何をそんなに怒っているのかな?」
「何を?『何を怒っているか』ですか?そんなの!そんなの!!」
やばい、いろはが爆発する!
そう思って慌てて止めようと思ったが、その後に続いた言葉は、そんな焦りとは縁の遠い、ポツリと垂れた一滴の水滴のような脆く、弱いものだった。
「……泣いて、いたんですよ」
「……っ!」
息を飲んだのは、俺の方か、それとも陽乃さんの方か。
「雪乃先輩。病室で、1人でいるときはいつも、静かに泣いていました。……それはもう、絵になる光景でした。静かに好きな人の手を取って涙を流す先輩は」
けど。といろはは一息吸う。
「けどそれは、絶対に絵になっちゃいけない光景でした!絵になるっていうのは、それはもう!それは、それはもう……絵になっちゃう程に、儚くて、感情が漏れ出して……消え行く途中じゃないですか……」
支離滅裂とも言われかねないいろはの発言。しかしそれは充分に、十全に陽乃さんの心を揺さぶった。俯いた陽乃さんの表情は今までに類を見ないほどに歪んでおり、その顔は、漏れ出す感情に蓋をする、俺もよく知った悔恨と、無力の証のようなもので、それに当てられた俺も思わず下を向いた。
沈痛で、音のない悲鳴にも近い感傷模様が3人に広がるのを感じる。
「──なら」
隣からいろはの言葉につられたように陽乃さんの口からも一言漏れた。
「──なら、いろはちゃんがそこまで分かっているなら、なんでそんなに簡単に八幡くんのことを忘れられるのか教えてよ……。イケメンだから心が移ったの?似ているから移せたの?……今の心境をお姉さんに教えてくれないかな?」
陽乃さんは、苦笑いでいろはに問う。
その質問は、雪乃に俺のことを忘れさせてあげたいがためのものなのか。それとも、(陽乃さんから見て)俺をスパッと切ったいろはに対する責めなのかは判断つかない。しかし、彼女は、100人が見て100人がそう判断しそうな位、彼女はそのカジュアルな格好に比べて、心がだいぶ弱っているようだった。
その様子に、先の乱入に見せた彼女らしからぬ激昂に少し納得する。
と、同時に俺が席を空けてしまった1年間に何が起きたのか。そして、何が起こるのかを知ることの必要性を訴えかけられているかのような気分になる。
いつの間にか飲んでいたコーヒーは空になっており、手持ち無沙汰になった俺は、質問の答えを慎重に探すいろはに向かって手を挙げた。
そろそろ、潮時で、まとめ時だ。
「───いろは、もういい。お前も、陽乃さんも、すれちがっていることが多すぎる。正直、あんまりにも綺麗にすれちがうもんだから、思わず車道線が2人の間に引かれているのかと思ったぞ」
「……む、それは是非とも、ご教授願いたいものですねぇ、
「……え?」
ナイス反応です、陽乃さん。
シリアスをシリアルにしたくて。俺はそんなシリアルにミルクを注ぐため、店員さんに3つアップルティーを注文した。
案外、いろはがここまで俺を隠したのは、これをして欲しかったからかもしれなかった。
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13【登校初日⒎】
「……え?あ、いや。……え?」
雪ノ下陽乃、ここに崩壊する。
金剛石よりも硬く、ゴムよりも柔軟な表情筋で覆う強化外骨格はトロイ戦争のようにいとも簡単に崩れ、彼女の表情は分かりやすく、ぶれていた。
雪ノ下陽乃の困惑。まるでライトノベルのタイトルのようだが、その内容はかの本よりもとても容易で、稚拙で、愉快だ。あれほど彼女を責めていた筈のいろはも今ばかりは肩を若干震わせて「わぁ〜っ」とした顔をしている。八幡は陽乃を見るいろはを見て、「初めてヘラクレスオオカブトを見た時の俺みたいだな」などと考えていた。
わぁ〜。
結局、シリアスからの開放感も合わせて2倍ドンに浮ついた雰囲気は結構長いこと続き、店員さんが水を差す、もといお茶を差すまで止むことはなかった。どうでもよいが、その時来てくれたのは例の美技を持つ店員さんで、相変わらず片手に全ての食品を持っていた。
砂糖とミルクを入れて八幡はお茶を啜る。仲介しようと思って口を出したはいいが、陽乃さんが予想外に大きな反応を示してくれたおかげで次に進めない、待っているうちになんだか萎えてきた。といった心境の一啜りだ。
お茶、もとい水を差されたというのに再始動したのは八幡だけのようで、彼が二口甘ったるいお茶を口に含んだあたりでようやく、2人の時は動き出した。
面白がっているいろはは臆面もなくニヤニヤと笑い出す。ふわふわ系非天然小悪魔は絶好調だった。
「……は、八幡くん?」
「はい、なんでしょう、雪ノ下さん。いえ、陽乃さん」
今までとは違い、比企谷くんではなく八幡くんと呼ばれたから、こちらも名前で呼ぶべきかと思い言い直す。元々、隣り席ということで、とても近い距離にいた陽乃はにわかに信じられないという目で八幡を凝視し始めた。
いろはと学校で再開した時はまず笑われたから、知り合いにじっと見つめられるのは陽乃さんが初めてか、と呑気に彼は考える。
狼狽し、恐る恐る
「き、気づいていたけどねっ!」
「「ブホォァ!!」」
2人して口に仕掛けていたアップルティーを吐き出す。テーブルに飛び散ることはなかったが、汚いカップ内で渦が起こる。静かに、それでいてプルプルとした手つきでティーカップを置いたいろはは必死に爆笑したい気持ちを抑えながら、陽乃さんに向かって聞く。
「それは、いつからですか?」
やめてやれよ、お前は鬼か。八幡はいろはにジト目を送るがしかし、彼も彼で、こういうところは姉妹そっくりなんだなぁ、と両名に失礼なことを思っていたりした。
「最初からだけど」
負けず嫌いか。陽乃さんに呆れ目を向ける。
陽乃さんはやや頬を赤らめて見返した。
「先輩、私ってそんなに尻軽に見えますかねぇ?」
さらに追い打ちにかかるいろは。どうやら、デートを冤罪で邪魔されたのが、しかも邪魔したのが思うところのある陽乃だったのが、だいぶ頭にきているらしい。基本的にさっぱりとした性格のいろはが根に持っているということは、だいぶボルテージも上がっている証拠である。対して陽乃さんは、いろはについての誤解が解けた今、気まずさだけが残っているらしく、今までに見たことのないくらい借りてきた猫状態になっていた。
どうやら、小悪魔対魔王の対決は、総合的には小悪魔の下克上となったようだった。ただし、小悪魔の機嫌としては勝った嬉しさなど微塵もないようであったが。
放っておけば陽乃が見えなくなる位に縮こまるまで煽り続けそうだと察した八幡はいろはを宥めることにする。借り一つですよ、と何故か八幡に言って渋々黙るいろはを見届け、次に隣に視線を向けた。
オロオロとしたその様子は、まるで、浮気現場のモテ男のようであり、それを見ていた(八幡を除いて)店内唯一のスイーツ男子斎藤くんは、『イケメンの醜態で今日も飯がうめぇ』と自身のブログに綴ることになる。
「……は、八幡くんが悪いんだからねっ」
「それは横暴ってもんでしょう、陽乃さん。確かに原因を辿っていけば俺に辿り着きそうですけど」
「あ。そういえば、わたしったら余計なこと結構言っちゃったかも……」
余計なこと。雪ノ下といろはの俺に対する好意のことだろう。やっちまったといった表情でいろはをちらりと見た陽乃さん。いろははため息を一つ。そして応えた。
「ま、別にいいですよ。私も雪乃先輩も告り済みですし」
「え?じゃあ、八幡くんは今いろはちゃんと付き合っているってことなの?」
「あれ?一色さん、じゃないんですか?」
「いろは」
「……むぅ。デートを邪魔されたんだから然るべき天罰だと思うのですが」
「後でなんか買ってやるからチャラにしろ……陽乃さんが」
「わ、わたし?!まあいいけど……」
いや、俺関係ないし。
とはいえ、陽乃さんの疑問はもっともなものだろう。事実、俺もさっき思ったが、ここにいる人に聞いたら一部のひねくれ者を除いてほぼ全員が俺といろはをカップルとみなすはず。
いろはは、わざとかどうかは不明だが陽乃さんの質問に答える気が無いようなので代わりに俺が答える。
「恋愛的な意味では付き合ってませんよ。ただ、放課後の遊びに付き合ってるだけです」
「告白っていうのは?」
「……あー、その。断りました」
「断られました。ついでに言うなら、多分雪乃先輩も断られてると思いますよ」
陽乃は眉を寄せて困ったような顔をした。
雪ノ下陽乃、告白はされたことしかなく、断った後は告白した人と関係が続くというものが想像がつかない非常に初な乙女であった。
「そ、そう。……そう、なの」
八幡といろはの関係が分からないながらも陽乃がそう呟いた、その時だった。
短く連続したチャイムが陽乃さんのポケットから鳴り始める。彼女は2人に断りを入れてその場で出て短い会話をしたと思ったら、今度は身を乗り出して入口の方に向かって手を振り出す。
そして、さっきまでと比べるといくらか元気のある声で陽乃さんは声を出した。
「こっち、こっち〜!」
どうやら、陽乃は待ち合わせをしていたようだ。考えてみれば、陽乃程の人が1人でこんな場所に来るわけがなく、当然といえば当然なのだが。
気落ちした少女の突然の行動に八幡は推測する。
(俺といろはと話している最中なのに構わず呼ぶと言うことは、今からここに来る人は俺らの知り合いか?……入口はシート席の後ろ側なので見ることは出来ないが、訝しげに入り口を見ていた筈のいろはがハッとした表情で陽乃さんを見た。つまり、いろはと陽乃さんの知り合いという可能性が高い……)
「「……まさか」」
八幡といろは。2人が同時に、各々の理由から声を上げる。
八幡は心当たりを見つけて。
いろはは、その人物と陽乃さんの関係を疑って。
「……いろはちゃんの想像とは違うと思うけど、そうだね。八幡くん曰く、わたしといろはちゃんには大きなすれ違いがあるそうだから、その事も改めて擦り合わせたいかなぁ……なんて思うんだけど、どうかな?」
「は?良いわけないじゃないですか。わたしと先輩は只今楽しいデート真っ最中なんですから。……けどまぁ、今後のために仕方なく、ほんっとうに不本意ではありますが、その話に乗らせていただきましょう。……隣は代わってもらいますけどね」
先程から陽乃の席を羨ましそうに見ていたいろはは恥ずかしそうに付け加えると、直ぐに憮然とした表情をした。可愛げはないが、可愛い。安心安全のいろはクオリティだった。
八幡は来訪者について、大方予想がついたのか、嫌そうな顔をしながら注文票を確認して、メニューを見る。さらなる長丁場を覚悟したため、追加の飲み物の検討をしていた。
落ち着いた規則正しい足音はタッタッタッとテーブルに近づく。
「……すみません。中々法学部の教授が捕まらなくて遅れました……って、あれ?いろは?なんでここに?……そして、君はいろはの同級生かい?」
シュッと伸びた背筋に綺麗なシルエット。カジュアルに着崩した春物のジャケットがよく似合う、反吐が出るほどのイケメン。髪も過剰になりすぎない程度に染め、それをしっかりと見栄えがするように整えたその男。
「……お前、法学部に進んだのかよ」
「その声は、比企谷か?!」
運動もでき、頭も良ければ顔もいい。3高確実の将来有望男。
葉山隼人、大学1年生。法学部期待のモテ男である。
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14【登校初日⒏】
さて、このテーブルの顔面偏差値たるや東大理3も裸足で逃げ出しそうな高さになっており、店員や隣テーブルの客のざわめきは一層大きくなっていた。そのオーラに限って言えば、福山雅治2人分はありそうな勢いである。
2福山雅治のテーブルに誰がお冷の継ぎ足しをするのか厨房で揉めている最中、0.35福山雅治の葉山隼人は0.50福山雅治の比企谷八幡に話しかけた。
「そっか……戻ってこられたんだね。おめでとう。比企谷」
「どうも。……ん?ちょっとまて。『戻ってこられたんだね』ってことは死んでたと思ってたってことかよ?」
0.50福山雅治はガンひねくれを飛ばした。イケメンに対する条件反射レベルの防衛反応は、実にせせっこましい口撃だった。
対して葉山は、「相変わらずだなぁ……」と苦笑いを顔に貼り付け、赤面する1.00福山雅治こと陽乃に促されるがままに着席する。ちなみに、有言実行とばかりに八幡の隣にはいろはが座っていた。
かつて好きだと公言していた男の登場に今度はいろはの方が居心地が悪くなって来たらしく、ソワソワとしている。かと言って陽乃が得意げに座っているかと言えばそうではなく、まだショックが抜けきっていないようなので、この場において通常の判断能力を有するのは八幡1人となっていた。
「八幡くん主導で本題に入ってもらいたいところだけど、やっぱり突っ込ませてもらってもいいかな?」
陽乃に整形してもこうはならないんじゃないのか、と思われてあるとはつゆ知らず八幡は惚けた質問に惚けた質問を返す。
「何についてですか?」
((君の容姿についてだよ!!))
2人の心の叫びが響く。
「あの、いろはちゃん」
「自覚極薄です」
「……あっ」
察した一色による援護射撃。撃たれたはずの八幡はさして変わらない様子で、不思議そうな表情を浮かべている。
「ひ、ヒキタニくん」
恐る恐る先陣を切る葉山。
「比企谷、な。今度間違えたらその鬱陶しい跳ねた髪束引きちぎるぞ」
「うん、その感じは比企谷だな」
苦笑いの葉山。そんな所も様になったいる流石のイケメンである。イケメン八幡も負けず劣らずの様になった嫌そうな態度で話を進める。目の腐りが治った今、その感情はとても分かりやすく葉山に伝わり、葉山は
「なんだ?」
「えーっと、身体の調子はどうかな?一年以上も寝たきりだと、大分凝り固まったりしたんじゃないのかい?」
「ああ、体は寧ろハイスペックになったぞ。俺のリハビリ担当の奴が、見せ筋なぞ言語道断、魅せ筋を目指すべしって人でさ。魅せ筋ってなんだよって思いながらリハビリしている内にいつの間にかやけに体が柔軟になって、しなやかな筋肉がついたわ。あと、身長のことも聞きたかったんだと思うが、それに関しては俺もわからん。寝て起きたら伸びてた」
「へぇ、そうなんだ……」
「え?先輩もしかして腹筋割れてるんですか?!触らせてくださいよ!!」
戸惑う葉山と、我が道を行く空気を読まない0.15福山雅治。びしっと、己の腹筋を弄ろうとしてくる後輩のデコにチョップをかました八幡は隙あらばぼうっと見てくる陽乃に茶を勧めた。
「冷めますよ」
「あ、ありがとう!」
「……というか、陽乃さんと葉山はなんでここに来たんだよ。もしお邪魔してんだったら、さっきの事はまた日を改めるけど」
幼馴染の2人とはいえ、男女2人で遊びにくるというのは、友達だからで通用しないものがある。ましてや、八幡といろはのようなケースは極めて稀。とあれば、八幡の邪推は至極真っ当なものであるといえるだろう。
しかし、葉山と陽乃は構わないと揃って手を振る。
そして、折角だからと各々の注文も決め、店員さんを呼んだ。八幡といろはもお代わりを頼むことにする。
「は、はひぃ!!ただいまマイリィマシタァ!!」
日本生まれ日本育ち純日本製であることを疑うような発音で、とある大学生アルバイターは注文を伺う。こんな調子だが、厨房で突発的に開催された『誰が伺いに行くのかジャンケン』に先輩アルバイターを押しのけ権利を勝ち取ったツワモノだ。
いざ来て見れば、福山2人分には敵わなかったよ……と内心すでに撃沈気味な彼女ではあったが、女としての格の違いを比べるなどおこがましい、これはロイヤルパーティなのだと己を奮い立たせ、何を言ったのか判らず呆然としている4人に再び向き合った。
もう一回、注文を伺うのだ。
ただいま伺います、お客様。
心の中で一言唱える。
「たでゃあ!」
少女は、赤面した。
ー・ー
葉山になだめられ、陽乃といろはに煽てられルンルンと去っていったアルバイターを見送った後。
話題は、本題へと移って行く。
「隼人は事情を全部知っているから大丈夫だよ」
と陽乃さんが懸念を解いたため、話への導入は割とスムーズに行われた。やがて、なぜ陽乃さんが葉山と2人でこの店に来たのかという過程を話し出す。
「私が隼人を呼んだんだ。遊ぼうって」
「ただ、本当の所は相談したかったんだよね。隼人には取り繕う意味がないからさ。ちょっとばかし、人生に迷子になった私を助けてもらおうと思ったんだよ」
「と、言うのも、話はやっぱり雪乃ちゃんに戻るんだけどね。というよりも、いろはちゃんも言っていた、その……私の婚約者の話、なんだけど……」
いろはが目に見えて噛み付こうとするのを止める。段々ストッパーとして慣れが出始めていた俺はその慣れに気づき、哀しくなる。
この時の俺はまだ知らなかったのだ。
何から話していいかな、と口ごもる陽乃さんの言葉を継いだ葉山の話が、どれほど重要なものだったのかを。
その話は俺の知らない
「この際だから話しておこうと思うけど、そもそもの話、須郷さんと婚約する予定だったのが陽乃さん。……そして、雪ノ下さんと婚約していたのは……俺だった」
「比企谷君も多分気づいていた話じゃないのかな? 雪ノ下家はそうする事で、雪ノ下としての権力を自らの元に集中させようとしていたんだよ。それが悪いかどうかは判らないし、もしかしたら、雪ノ下さん達のご両親は少しでも2人には楽をさせてあげたかっただけなのかもしれない」
「真相の所は俺も分かっていなかった。けど、事実を見れば、そういう話だったんだ」
「それが拗れたのが去年の冬。SAO事件から数日経ったある日の事だったよ。雪ノ下さんが母親に申し出たそうだ。要約すると、『君が無茶するだろうから、須郷さんに頼んで少しでもいい環境にしてあげてくれないか』という願いだったらしいよ。俺は、彼女らしい見えない所での奉仕だと思ってその話を聞いていたよ」
「その条件として、須郷さんが雪ノ下さんに婚約を申し込んだと聞くまではね」
「ご両親は俺に遠慮したのか、条件付けでそれを許した。一つは、雪ノ下さんとの合意。もう一つは1ヶ月後のお見合いだ。それまでに2人が互いに相応しいことを確かめ合うこと、ということらしいね」
「呆然としたよ。当たり前だろ?当然のように思っていた許嫁が突然いなくなったと思ったら、その人は想い人の為に人生を無駄にしようとしている」
「Your time is limited so don't waste it living someone else's life」
「俺のモットーは、今、酷く踏み荒らされている」
いつぞやの激昂状態の一歩手前。表情こそ変わらないが、明確な怒りを提示した葉山を俺は何を言うこともなく見ていることしかできなかった。
知りもしなかったこと、知りたくもなかったこと。
なぜ知りたくなかったのかも知らない。
分からないし、判らない。
少しパニック状態に陥った俺に代わっていろはが質問する。
「葉山先輩、雪乃先輩と婚約してたんですか?!というか、葉山先輩って雪乃先輩のこと好きだったんですか?」
噛み付く勢いの可愛い後輩に対して、怒りを収めた葉山は笑って応える。
「どちらも、元、ね。今となっては元婚約予定者だし、好きだったのも中学までの話。いつしか彼女は高嶺の花になって、僕の手元から飛んで行ってしまったからね。……追うのに疲れて、諦めてしまったよ」
軽い吐露。しかしそれは、誰も聞いたことのない彼の真相。いろはは見たことのない憧憬の的の憂いに動揺する。口を閉ざして葉山の話を聞いていた陽乃さんも話に加わり、自虐した。
「私も今となっては元婚約予定者。隼人のモットーを基にしていえば 、"I'm who is one of the who are wasted the root of their lives." といった所ね。私達2人の処遇は、取り敢えずは保留。雪乃ちゃんと須郷さんの件が片付くまでは待機、だってさ。娘の人生をなんだと思ってるんだか」
陽乃は力なく、カラカラと笑ってアップルティーを飲んだ。
とどのつまり、2人の関係は友達でも、カップルでも、ましてや婚約者などではない。
婚約予定破棄被害者の集いだった。
縁の遠い話だから言えますが、これほど不憫で不毛な会合はないですね、といろはは独りごちた。
全くだ。頭の働きがいまいち戻っていない八幡は混乱の最中の同意の言葉を脳内に浮かべた。
ー・ー・ー
雪ノ下の婚約について。
その真相を聞いたいろはは今までの誤解を陽乃さんに謝罪した。陽乃さんはデートの邪魔をしたのだからお互い様だと笑って応えた。多少無理のある笑いだったが、誰もそれには突っ込まず、葉山は目を見開いて見当違いの方向にツッコミを入れた。
「お、おい、八幡君!いろはと付き合っているって、どういう事だよ!!」
「うるさいよ、やかましいよ、落ち着けよ。いろはに付き合わされてんだよ」
「付き合っているんじゃないか!しかもいつの間にか下の名前で呼んでいるし!」
いつの間にかお前も俺のこと下の名前で呼んでるけどな。いろはのオカンと化した葉山を店内の時計の方に顔を背けながら適当にあしらい、俺はさっき教えてもらった情報を整理する。
まず、雪ノ下の事情は、呑み込んだ。
これまでの事情も、これからの事情も。
彼女の感情も理解している。
ただ、それだけに問題はややこしい。
好きな男が自分を助けに来てくれる。
そんなことが出来るかどうかは別として、その話は超王道的で憧れのシンデレラストーリーだ。
例えばシンデレラとは、雪ノ下雪乃であり、自惚れでなければ、王子とは俺になる。
悪者のお姉さんはご両親だろうか、それとも須郷さんだろうか。判別はつかない。今の状態の関係のままそれが成立するだろうか。判別つかない。そもそも、悪者とは即ち俺のことではないのだろうか。判別つかない。
つまり、結婚する意思の無い王子様が、姫を探し求めるというのは、余りにも非常識かつ非現実的ではないのかという迷いが俺にはあった。
判別の呪い。言い換えれば、本物と偽物の狭間を探るクエスチョン。
限りなくグレーに近いホワイトを探求する話。
助けるなど傲慢。
助けられたのだから、お礼をいって引き下がるべき。
会計が足りなくて見知らぬ人に300円もらった、とかいう美談と比較するには余りにも大きい話。
人生を貰った俺は、彼女に何をしなくてはならないのだろうか。
高校生だから、子供だから。
それで、終えてはいけないし終わらない。
脳髄を取り出して一つ一つの事象を整理しても納得いかない、分からない。判別つかない。
是と否。正と負。
出来ること、出来ないこと。
迷い、葛藤。冷や汗。
脂汗。荒い呼吸。
迷い。
「先輩!!!」
……はっ。
いつの間にか俺を覆っていた目の前の暗がりが弾ける。
「……いろは」
「大丈夫ですか?!物凄い汗と顔色でしたよ!」
「ああ、大丈夫だ、問題ない」
「あ、ダメなやつですね」
どうやら、思考のドツボにはまっていたようだ。時計を見れば3分ほど経っている。
見れば心配そうな美形の顔が目の前にも二つ前にも並んでいる。
「大丈夫か?八幡君」
「ごめんね、一気に話しすぎちゃったかな?」
「あ、いえ。寧ろ話してくれてありがとうございます。知らずに後悔しないで済みました」
知らぬが仏が唱えるアホンダラ経。
無知の恥。
知らないとは、即ち、文句の言えないと言うことだ。
覚悟があろうがなかろうが。
それは、今の俺にとって最低条件を分ける分岐点だったのだから、そう考えると、今日この場所に誘ってくれたいろはには一つ借りを返すどころか、百以上の借りを作ってしまったような気分だし、葉山と陽乃さんが自らを隠すことなく晒してくれたことには頭が上がらない。
SAOで強く実感した、人との繋がりが最良の未来に繋がるという事実を改めて実感した気分だった。
「あー、けど。今日のところはこの辺で抜けさせてもらいます。……良いか?いろは」
「はい!そろそろ急がないと服屋もしまっちゃいますしちょうど良い時間です!」
「……おい、それってやっぱりデ───」
「───あー、ごめんね。隼人は私が押さえとくから行っちゃっていいよ。……今日は本当にごめんね、いろはちゃん」
「いえ、良いですよ。はるさん先輩には貸し一つで許してあげますっ」
調子のいい後輩はそう言うとウインクを一つ決めた。
参りました、と笑顔の陽乃さんもウインクを一つ。どうやら、なんだかんだ和解は済んだようだった。
俺も2人に改めてお礼を言って席を立つ。
その後のデートも、小悪魔による擬似カップルイベントが繰り広げられたのだが、それはまた、今度語るとしよう。
ただ一つ、言うとするならば、いろはを送り届けて、疲れ果てた俺が玄関を開けた時に小町が見せた笑顔は、ラスボスのそれであった。それだけだ。
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15【小町相談室】
「なるほどねー、つまりお兄ちゃんは自分が助ける権利があるのか、って悩んでいるんだねー」
「あ、いや、別にそんな優柔不断系主人公のような悩みを抱えているわけじゃないんだが」
比企谷家。今日も今日とて二人飯。両親二人は新人教育。
そういう訳で、時刻は午後8時。
今日の夕飯は小町手作りのコロッケを始めとした4品だった。テーブルの上に並んだおかずの量は明らかに二人のキャパシティを超えている。気合入れ過ぎだろ。
「結局ね、お兄ちゃん」
小町は箸を置いて言う。
「お兄ちゃんは、自分には助ける気がないって思う事でその先に思考を向けてないだけなんだよ」
「その先?」
「そう。その先、つまり、どうやって助けるか。なにをどうすることが助けたことになるのか。雪乃さんとお兄ちゃん自身の現状把握に精一杯でそれが見えてないんだよ」
「……じゃあ、どうすれば良いんだよ」
「そんなの決まってんじゃん」
小町はあっけらかんと笑って応えた。
「疲れてるからごちゃごちゃ考えちゃうの。寝ればいいんだよ」
ご飯を食べて風呂に入って時刻は午後9時半。
そんなこんなで、俺は現在、自室のベッドで寝ることを強要されていた。今時、野球男児やサッカー男児もこんな早くに寝ないだろうという時間帯だ。しかし、俺は寝ている。
小町の目の前で。
ベッドの前で茶を啜り正座で見守る小町。入院しているわけでもなく、日常生活で、よもや妹に見守りながら寝る日が来るだろうとは想像だにしていなかった俺は、しばらくこそ黙って布団に入っていたものの、やがてこの雰囲気に耐えきれなくなり口を開いた。
「……なにこれ?」
「うん、ちゃんとできたね」
カタン、と木製のコースターに湯呑みを置いて小町が笑った。何の話だ?
「やっと普通の表情ができたねって言ったんだよ。さっきまでのお兄ちゃんの表情、酷かったんだからね。『世界の終わりだー。もうダメだー』って、そんな感じ。小町が何の話してもそんな顔してるし。小町的にポイント低かったよ?」
「……あぁ」
確かに言われてみればそうかもしれない。終わりの見えない迷路に迷い込んだような気分に沈鬱としていた気がする。未だに迷い込んだままだし、沈鬱としているけど。
「けど、少しは他ことも考えられるようになったんじゃない?これが、おふとんぱわーなのだ!なんてね」
「……そっか。ありがとな」
「いいんだよ、大好きなお兄ちゃんのピンチなんだから!あ、これ小町的にポイント高い」
「お兄ちゃん的にも高いぞ」
小町の言う通り、少し気分が軽くなった気がする。病室よりも狭い自室の明かりをしばらく見つめていた俺に小町はそれじゃあ、と前置きを入れて話し始めた。
「お兄ちゃんの頭の整理をしていこうか」
「いや、小町がそんなことに付き合う必要はないぞ。十分によくしてもらったし」
「いやいや、こう見えて、奉仕部ですから。それに、私はお兄ちゃんの妹ですし?」
胸を張ってドンときなさいと力強く頷いてみせる小町。そうはいってもなにをどう話せば整理されるのか分からないしなぁ、と俺はその事をそのまま小町に伝えると、小町は呆れたように笑って返した。
「お兄ちゃん、寝ることの役割って何だと思う?いや、筋力の休息みたいな事を聞いているんじゃなくてさ、頭と心の話だよ。そうそう、それそれ。1日の記憶の整理。大正解、満点の回答だよー。つまり、それをここでやろって言うんだよ。頭を使って整理するんだから、きっと沢山の数日分の整理ができると思うんだよね。そう思わない?」
要は、そんなことどうでも良いから今まであった事すべて話してみろ、ということらしかった。とは言っても、今日の放課後のことはすべて話してあるんだけどな。
それよりも、取り敢えず布団から出て良いかと聞いてみるが、にべもなく却下されてしまう。
「あのねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの振り返るべき時は今日じゃないよ。全く、そうやってわざと鈍感になっちゃうとこは相変わらずなんだから」
「いらんとこまで察しがいいお前よりはマシだわ。……じゃあいつの話をすればいいって言うんだよ」
まさか、今日の自己紹介か?あんなに恥ずかしいこと話すのなんてゴメンだぞ。断固として拒否する。
そんな分からん様子を顔全体で表現しているのが小町にも伝わったようで、ワザとらしくため息をつかれた。そんなに冷たい態度取るなよ、お兄ちゃん泣いちゃうぞ?必殺の泣き落とししちゃうぞ?
「……ソードアート・オンライン。教えてよ。私はお兄ちゃんにこの一年のこといっぱい話したのにお兄ちゃんってば全然自分のこと話してくれないんだもん。教えてよ、この一年のこと」
ー・ー・ー
ソードアート・オンライン。ゲームクリアから約1ヶ月経った現在もお茶の間を騒がせている今世紀最大の事件。主犯である茅場は長野の山荘で死亡したのを確認。囚われたプレイヤー達も徐々に回復して社会復帰を果たし始めている。今日のニュースでもまとめられていた情報だ。
「……そんなに話すことなんて無いんだけど」
「ふふふ、そんなこともあろうかと思って不肖小町、こんなものを用意してきたでござるよ?」
じゃじゃーん!と腑抜けたトーンの掛け声とともに小町が何やら本を、それも新書を取り出す。
「【SAO全記録】です!」
「3秒以内に売っぱらえ」
なんて恐ろしい物をこの愛らしい妹は出してくるんだ。
SAO全記録と銘打ったそれは、あるプレイヤーが暇な入院期間に驚異のスピードで書いたことによって電撃出版された新書であり、つい先日ベストセラー入りした本でもある。
俺がその存在に初めて気付いたのは材木座が何やら興奮した目でその本を抱えて持ってきたのが最初だった。訝しげながらも内容に目を通そうとして、目次に書かれた【黒の剣士の章】【閃光の章】の文字を見た時点でほとんど読む気をなくし、ちらっと見えた【狂目】の文字で投げ出したのを覚えている。材木座が興奮したということは、そういうことなのだろうなぁ、とあたりをつけて、俺が店頭でポップ広告を見る度に嫌悪感丸出しの顔をし続けているという、ある意味因縁の相手でもあった。
「ありゃりゃ、もしかしてもう読破済みなの?小町はこれ、結衣さんに教えてもらって買ったんだけど、もうびっくりしちゃったからさー、雪乃さんにも是非読んでって昨日薦めたんだ」
「……おぅふ」
撃沈。天井を仰ぐようにして嘆く俺。身内だけならばともかく、身近にまで波及しているとは。いや、腐ってもベストセラーなのだからそりゃあ持っている人が身近にいたってなんら不思議ではない。いたって普通のことだ。けど、実際に知ることでダメージが倍増するのは何故なのだろうか。
「……小町、ちなみに聞くが、俺の事、書いてあるよな?」
「もっちろん!寧ろこれはお兄ちゃんが主役といっても過言でもないまであるね!だって、お兄ちゃんの話、幕間って書いてあるのにすっごく詳細に書いてあるもん。お兄ちゃんって、この【狂目】って人でしょ?」
「……黙秘権を主張する」
いや、ほんと勘弁して下さい。恥ずかしい。オンラインゲームでロールプレイしてたら目立ち過ぎてリアル開催の公式イベントに呼ばれちゃったような恥ずかしさ。なまじ自分でも大それた仕事をしていた自覚があるからなお一層恥ずかしい。つーか、この本書いたのって俺の知り合いか?
「恥じらいの表情が可愛いお兄ちゃんなんてお兄ちゃんじゃない……」
悶えているとボソッと小町が呟く。
「妹に可愛いなんて言われている時点でもうお兄ちゃん失格だわ……」
顔に手を当てて返す。
「ま、お兄ちゃん。私が質問して行くから軽い気持ちで答えてみてよ。私の奉仕部の方針は雪乃さんよりも、もうちょっと理想を目指して【魚を取る方法を自分で見つけさせる】だからさー」
そう言うと彼女は黒歴史をパラパラとめくり始めた。所々に付箋が貼ったかられている辺り、俺がこうやって悩んでいようが悩んでいまいが聞く気でいたことを窺い知れる。知りたくないけど分かっちゃう。
一年間心配かけ続けたんだ、どんな問題にも答えてやるさと格好つけて答えてみせると小町は笑って、んじゃあさ、と俺に顔から手を離すように促してきた。
すんません、それだけは無理なんでもう少し待って下さい。
ー・ー
小町が知りたがったことは俺の日常生活からゲームの風景、人間関係など多岐に渡ったが、どれもこれも大したことのない、言わば、一人暮らしの息子に母親が尋ねるような当たり障りのない質問ばかりだった。しかし、そんな普遍的な質問などの中にも意外と答えづらいものも多く結構どもることもあった(どもる原因の一つには、少しの生活の乱れであってもいちいち怒られたため言いにくかったこともあるだろう)。
しかも、話の節々にやれ雪乃さんが心配した、結衣さんが涙目だったなど、痛い所をつかれるので、俺の居心地の悪さといったら小町の手に持つ本と相まってまさに、シン・バベルガ・グラビドン。思わず発狂して魔物になれるレベルであった。人民が養ってくれるような王様になりたいです、なんてな。
「じゃあさ、お兄ちゃん。テレビとかでも黒の剣士さんが、75階層で茅場を倒したって良くやってるけどさ、何で【黒の剣士】さんが茅場さんの正体を知ったのかって知ってる?本とか読んでも『黒の剣士が強い違和感を覚えて』云々カンヌンとしか書いてないんだよね」
「……それを聞くと、大分ゲーム内のイメージが変わるけど、それでも聞くか?」
「うん」
「……分かった」
ゆっくりとベッドから起き上がる。流石に小町も空気を読んだのかそれを止めることなく見守っていてくれた。浅い吐息が口から漏れるのを止め、何から話そうかとあの時を思い出す。75階層。アインクラッドの4分の3番目の前階層。ムカデのようなバケモノが階級主だったあの場所。暗くて、ジメジメしていて、感じるはずのない冷や汗と悪寒がゾクゾクと本能に空気のヤバさを伝播していた空間で、キリトがヒースクリフと斬り結んでいたのが閉じられた眼前に浮かびあがってくる。
劇的な展開に劇的な展開を重ね、劇的に幕を降ろすことになったあの時あの空間のこと。
俺は、今でも思い出せる。あの、地獄を。
「小町の質問とは少し遠い場所から話が入るけどまあ、少し聞いてくれ。
「先ずは、あの時の最前線の話をしようか。俺は当時、恥ずかしながら情報ギルドを束ねるギルド長として、また、最前線の脳みそとして働いていた。例えばそれは、ボスに関する情報の収集だったり、その情報を元にボス攻略の人員を選出したりしていたわけだ。
「当時の環境として、最前線のメンバーに加え、中間層にいたプレイヤー達もゾクゾクと最前線の仲間入りをしていて、後半戦としては、ステータスだけ見れば最高の状態にあった。破格、と言っても良い。
「ステータスだけは、な」
「70階層を過ぎた辺りからだったか、SAOには、デスゲームならではの牙にして、最悪の爪である、とある伝染病が蔓延し始めたんだ」
「最悪の伝染病。それは噂だった」
「『後少ししか現実の世界の体は持たない』という噂を何処かの誰かが放ちやがったんだ。前線メンバーは口ではその噂を一笑にふしていたが、その噂が広まった70階層以降、明確な焦りが見えるようになっていってな。それは作戦会議での貧乏ゆすりであったり、ボス戦闘での凡ミスだったりと一見分かりにくいものではあったが、それがバカにできなくなるということは目に見えて分かるミス群だった」
その焦りは自身の命の危険から来るものであった事もあり、日に日に焦りの程度は増加し、ペースを落とさないで攻略を続けるということ自体が異常だというのに、さらにペースを上げてくれという狂気じみた提案が出たほどだった。
「問題が起きたのは74階層。当時最大規模の人数を保有していたギルド【軍】がボスエリアに単独突入した。60人規模の大規模な編成だったと伝え聞いている。勿論知っていたら全力で止めていたが、運の悪いことにその時は攻略会議前日で、俺が74階層のボス情報をまとめるのに追われていた時間だった。いや、多分その時間を狙ったんだろうな。突入を知ったのはもう日が傾き始めた時だったよ」
「それじゃあ、その軍って人達は全員死んじゃったの?」
「その本には書いてなかったのか?……【黒の剣士】が双剣スキルを初めて見せてボス討伐したんだよ。たしか【閃光】も同行してたんだったっけか?」
「あ!それ知ってる、【双剣乱舞の様子はまるで鬼神の如く】って書いてあったよ!」
「……やっぱその本見なくて正解だったわ」
げんなりしながら息を吐く。小町が材木座みたいに感化されないことを祈りながら続きを話す。
「んで、そんなこともあったからどうにかしねえといけねえってなったんだよ」
「それで75階層の変になるの?」
「そんな変テコな名前が付いているのかはさておいて、言っちゃえばそうだな。ただ、随分と回りくどいやり方で探り探りやって、9割9分9厘こいつが茅場だって分かってからだけどな」
「……へえ。けど、よく茅場を見つけて倒そうって案が出たよね」
不思議そうに首を倒す小町。
「あー、それは順番が逆だ。分かったから倒したんだ」
「うん?どういうこと?」
「つまり、茅場が身近にいるかもしれないという事が分かったから秘密裏にあぶり出したって事だ」
きっかけは、またしても根も葉もない噂。『前線メンバーの中に茅場がいる』というもの。今となっては70階層でくだらない噂を流した奴との一致を疑うが、当時は状況が状況なだけに、そんな特定をしている余裕もなく噂は70階層の時とは比較にならないほど早く広がり前線の状態は混迷を極めた。
そもそも続いていた噂に74階層での軍の独立行動。それに加えて明らかになったボス戦闘での結晶アイテムの使用不可。そして最後の一押しとばかりに茅場に背中を預けているかもしれないという噂。信ぴょう性のあるなしに関わらずそれらはプレイヤー達の不安を煽るには十分だった。
命を賭ける前線ともなれば、尚更のことでもあった。
やってられっかと辞退する前線メンバーも現れる中、キリトとヒースクリフが(厳密には違うが)痴情のもつれで決闘することになる。この時点で俺の頭はすでにパンク寸前で、ボス情報を集めるのもギルド運営も投げ出して釣り人になってやろうかと本気で悩んでいた。決闘後、キリトが妙なことを言い出したので、それが叶うことはなかったが。
『ヒースクリフが茅場かもしれない』
当たり前の事だが、初めはキリトの話を信じることはせず、与太話は他所でやれと追い払おうとしたが、キリトはすべての装備を賭けてもいいと言い出した。装備コレクターとしても地味に名高かった女顔がそこまで言うなら何か感じるものがあったんだろうなと、例の噂の存在という後押しあり、俺は久し振りにオカルトを信じるという、あまりにも合理性に欠いた判断をした。
結果としてファインプレイだったが、よくもまあ、あんな選択をしたもんだと今なら思う。
「ふうん、そんな運命のような勘が働いたってことは、じゃあこの【黒の剣士】さんと【閃光】さんのシステムの限界を超えた動きっていうのも本当の話なんだ?」
「……まあな」
多少のインチキがあったものの、確かにあれは、あいつらの意思のなせる技であったと言えるだろう。端から見ていてもあいつらの表情と意思には思わず鳥肌が立つような感覚を覚えたからな。誰から見ても、剥がしても剥がれそうにない、お似合いの二人だった。
「そうなんだ。そんなにお似合いの二人だったんだ。……じゃあこれもまた、きっと乗り越えられる運命なのかもね」
「……なんの話だ?」
「なんのってそれは───」
「───【閃光】さんの意識が戻ってないことだよ?」
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16【登校2日目】
翌日、俺はどこか浮ついた気分で登校していた。
昨日一緒だった小町は奉仕部の活動で朝早くに出て行ったため、一人寂しい登校となっている。一人チャリを漕ぐ中で思い出すのは、昨日の小町の一言から分かった事。
『アスナを始めとした一部のSAOプレイヤーが囚われている』
あの時は動揺していたが、思い出してみれば俺は頭の片隅でそのことを知っていたのだ。
『リハビリできることの幸せ』
のらりくらりとした小林医師の言った皮肉にも聞こえる一言。あれこそアスナの容態を暗喩していたに違いなかった。
だとすれば、彼女をはじめとした意識不明の人々は初めから現実に戻って来ていないことになる。小町との会話を終えた後にネットで調べてみると、未帰還の理由として囁かれている噂には、大きく分けて三つあることが分かった。
一つ目は、脳の酷使による防衛反応。一年間に及ぶ膨大な情報処理の連続にほとほと疲れきった脳を休めるため、一時的に仮死状態に脳がしているというもの。
二つ目は、意識不明の者たちが既に死んでいるというもの。あまり可能性として目を向けたくないが、なんらかの理由で植物状態になってしまったというものだ。
三つ目は少しオカルティックだが、脳が迷子になっているというもの。オカルティックなだけあって要領の掴みにくい話だったが、簡単にまとめると、長時間の仮想空間へのダイブによって、自分の体へ戻る方法を魂が忘れてしまったという説だった。
1番嬉しい可能性は一つ目、最悪のパターンが二つ目、どうしようもなくて、どうしようにかできそうなのが三つ目といった印象だがいかんせん、判断するには証拠も情報も不足している上に、俺にとってあまりにも力不足過ぎる話だ。運命に導かれるように解決に向かわない限り、どうしようもない話。
悔しいが、俺にできるのはのうのうと学校生活を送ることだけだった。
アスナとキリトが笑い合う場面を思い出し、悶々とした感情を抱きながら自転車を漕いでいると、前方で誰かが手を振っているのが見える。後ろを向いても誰もいないので、俺を呼んでいるのかと思い、自転車にブレーキをかけた。
「どうしました?」
「ご、ごめんなさい!実は病院への行き方を調べてて!スマホを使おうと思ったら電池切れちゃったんで教えてもらおうと思ったんです!」
中高生くらいの女子が充電マークの浮かんだスマホを片手に涙ぐんでいる。今日は土曜日。新学期始めの週末でセミナーを入れてくるようなブラック高校は辺りを見回しても総武高くらいなもので、近所は専ら休日モードであった。……それにしても、病院か。
「……えーと、駅から来た?」
「は、はい!いつの間にか住宅街にいて……もしかして、登校途中でした?迷惑ですよね?すみません!」
申し訳なさそうな少女に言う。
「言いにくいんだが、病院は駅に向かって逆向きだ。駅から徒歩10分辺りだな」
「え゛!」
絶望の擬人化のような表情をする少女。その表情の豊かさに、何処か既視感を覚えながらも俺はつい漏れそうになった笑いを噛み殺しながら喋った。
「駅までの道のりはわかるのか?」
「……あー、いえ、はい」
「歯切れ悪いな。どっちだよ?」
「あえ、わ、わ、分かります!分かりますはい!」
「……?」
なら良いんだが。スマホでも一応地図で示してやりながら改めて伝えるとものすごいお辞儀をされた。いちいち大げさなやつだとまた、つい笑いたくなるが、やはりそれを噛み殺す。
「……あ」
呆けた声を出して少女が止まった。思わず漏れたとあった声に対してどうしたのかと聞くと、かぶりを振ってなんでもない、と応える。しかし、しばしの間があって苦笑いを浮かべて一言彼女は漏らした。
「初めてあった人にこんなこと言うのもあれなんですけど、今の表情、私に昔良くしてくれた人に似ているんですよね。……あ、いえ、別にお兄さんに対してナンパなんてしてないんですけど!ええ、はい!恐れ多いですし!」
わたわたと手を振る少女。快活そうな顔の裏に見える憂いと『よくしてくれていた』と言う過去形、それに前日聞いた終わっていないSAO事件とその犠牲者の話を思い出してつい俺は関連付けてしまう。顔を少しかめて軽く頭を下げる。
「……悪いこと聞いたな。すまん」
「いえ、別に良いんですよ。私から話したことなんで!というか、多分、いや、絶対にあの人なら生きていますから。死んでも死なない。寧ろすでに死んでいるような人でしたから!きっとどこかで元気にしてます!」
「なにそれこわい」
というか酷い。少なくとも、仮にも優しくしてくれたお兄さんにかける言葉じゃない、仲の良い友達を小馬鹿にするような調子じゃなくて、マジな感じなのが薄ら怖さを増長している。どんな関係性なのか少し興味も湧いたが、そこを特に追求するわけにもいかず俺は彼女との会話をまとめに入る。
「まあ、やぶ蛇じゃなかったなら良かったわ。えっと、その、病院に行ったらお大事に伝えといてください」
「あはは、はい。ちゃんと伝えておきます。まぁ、お兄さんがいくらイケメンでもあの子には決めた彼がいますから、何にも言わないと思いますけどね。いや、何か言ってくれたらそらはそれで、というか、寧ろ……」
わたわたからわちゃわちゃへと移行した彼女をさておいて自転車にまたがる。あの調子なら大丈夫だろう。というかそろそろ行かないと着いてすぐ授業になってしまう。俺はせめて15分前について一息つきたいタイプの人間なのだ。どうせ行っても話す相手なんかいないのにな。……なんてね!
俺は涙目でペダルを踏む。
「あ!ありがとうございましたイケメンのお兄さん!」
「気にするな」
そうだ、俺も放課後アスナのお見舞いに行こう。
唐突にそんな考えを思いついた俺は、手を振る少女を後ろに学校へ向かうのだった。
ー・ー・ー
「せんぱぁぁい!助けて下さいぃぃ!!」
「んだよ、朝っぱら騒がしいな」
教室を開けると同時にいろはが突っ込んでくる。勢い余って俺にぶつかると周りから色めき立つ声が上がった。
ギョッとして周りを見ると明らかにクラスの人数を超える人達の目がこちらを向いている。なにが起こったのかは分からないがとりあえずくっついているいろはを剥がして事情を聞くことにする。
「……なんなんだよ、一体。またなんかしでかしたのか?」
「またとは失礼な!勝手に人をトラブルメイカーみたいにしないで下さい!ってそうじゃなくて、これですよこれ!私も今日知ってびっくりしました!いろはちゃん大勝利ですよこれは!」
はあ?聞き返す前に差し出されたのはオシャレにデコられたいろはのスマホと、そこに映し出されたツイッターの画面。
そこには苦笑いを浮かべる美男子と満開の笑顔を浮かべる美女。済まして紅茶を傾ける少年に疲れた表情で机につっ伏せる美少女の写真が乗っけられていた。
というか、まんま俺達だった。
具体的には、葉山と陽乃さんと俺といろはだった。
『別世界過ぎてワロタwwwどこの少女漫画だよww』
『これはスカウトまったなしですねぇ』
写真と共に書き込まれた呟きには4桁代後半の拡散を示すマークが付いている。
「……は?」
「昨日取られてたみたいで、モザイクがかかってるけど、やっぱりわかる人には分かるみたいで集まってきちゃったみたいなんです……」
思わず頭をガシガシ搔く俺。どうしようもない現実にどうしようもない現実を叩きつけられ、なんだか踏んだり蹴ったりな気分だった。不幸中の幸い、よほど近くの人間でもない限り分からない程度にはモザイクがかかっているので、クラスの奴には保存するな消せ消させろと言って、とりあえず解散させる。皆は先輩の言うことともあり、まあまあ従順に解散してくれた。
別クラスがの奴らがいなくなるのを見届けて俺は思わず机につっ伏せる。奇しくもそれは、あの写真のいろはのようなポーズだった。
「……あー」
特に意味のない声が漏れる。
「人気者は辛いですねぇ。どうですか?今の気分は?」
いち早く回復したいろはがおちょくるような口調でほれほれーと頰をつついてきた。べしっと指をはたき落として気だるげに声を出す。
「どうしたもこうしたもねーよ。過剰に反応されるわ面倒臭いことは起きるわで良いことが何一つねえよ。つーか、俺、実は別の体に憑依したんじゃねえよな?こんなに持て囃されるとかマジありえないんですけど。ぶっちゃけありえない……」
「うわぁ、相当やさぐれてますね。……ふむふむ。しかし、もう大丈夫ですよ。これで名実ともに八幡先輩は私の彼氏ですから、いつでも頼ってくださって結構ですから!」
「名も実もそんな事実もねーから。そんな事起こるのは少し不思議を通り越してすごく不思議でSFだから」
それこそぶっちゃけありえない。
今この状況で誰かと付き合うとかどんな胆力の持ち主だよ。攻略定例会議前夜は毎回緊張で寝られなかった男には出来ない相談だな。
はぁ、とため息を一つ。やれやれ系にはなるつもりは無いが、こればっかりはため息をついてやれやれと言わざるを得ない。まさか、『つれぇわぁ、マジつれぇわぁ。注目浴びすぎてつれぇわぁ……』とか本気で言えそうな日が来るとは思わなかったが、それを本心から言う日が来るとも思わなかった。
いろははそんな俺の気など知らずパシャパシャと俺を撮ってくる。鬱陶しいから止めろ。
「そういえば、ネットニュース見ました?ALOで撮れた面白い写真があるそうなんですよ」
「ALO?なんだそれ?」
「アルヴヘイムオンラインですよ。リリース当初は物凄い話題になったんですけど知りません?目覚めてから聞いたことないですか?SAO事件中に1番槍として発売されたVRMMORPGなんですけど」
「……あー、聞いたことあるような気もするなぁ……」
この国も遂に平和ボケで頭がおかしくなったのかと、かつて幽閉されていた身ながらに思ったのを覚えてる気がする。つまりあやふや。
「……ん?いろはがサブカルに、しかもネットニュースを見るほどに興味があるとは意外だな」
「先輩が閉じ込められちゃったからVR系のニュースがあるとつい見ちゃうようになったんですよ。それで特にプレイしていると言うわけではないですけど、知識だけは詳しくなっちゃって……えへへ」
あざとい。けど、ありがたい話だった。
不覚にも感動した俺は、俺らしくもなく素直にお礼を彼女に伝える。しかし分かりやすく調子に乗るのでデコを軽く叩いて面白い写真ってなんだよ、と疑問を投げかけた。
「……あー、これなんですけど……」
見せてくれた写真に思わず目を剥く。
明らかに仮想現実のものであると分かるような色合いとライディングの写真。かなり引き伸ばしたものであるソレは画素こそたしかに荒かったが、驚愕の風景が映し出されていた。見間違いようのないその人物は、昨夜知った現在意識の戻っていない彼女。
「……アスナ」
下から無理やり覗いたかのような構図の写真。金の格子模様の奥に写し出された如何にも王室のような部屋の中で椅子に腰掛ける栗色長髪の少女。
透明な羽にとんがった耳など、多少の違いこそあれ、彼女は確かに【閃光】、アスナだった。
百合のような繊細さと、菊のような満開の笑みを浮かべていたあの表情は、写真内では何かに耐えるように口を一文字にした、見ている人に否応なく悲痛さを感じさせる表情になっている。
突っ伏した体を思わず起き上がらせいろはの肩を掴んで問い詰める。
「おい、これは一体なんだ!」
「ちょ!落ち着いてください!逆にどうしたと聞き返したいですよ」
「す、すまん」
ぷりぷりと起こった彼女はスマホを見ながら概要を教えてくれる。読まないでいいから見せろよとは思ったが、それで機嫌を損ねられても困るので、ありがたく拝聴することにした。このパターン何回しているんだか……。
「えっとですねALOには、中心地に世界樹というのがありまして。今回の写真はなんかの企画で、その世界樹の上を覗こうというプロジェクトの中で撮られたそうです」
「と言いますのもですね、ALOはプレイヤーが数種類の妖精の中のどれかになるという特徴があるんですけれど、その全種族共通の特徴として、飛べるんですよね。時間制限付きで」
「そこで今回は、正攻法もあるのですがそうではなくて、こう、ロケット鉛筆みたいに肩車して順々に切り離し飛んで、切り離し飛んでとやって、世界樹の中を撮影したんですよね。ダメ元の方法だったのですけれど、それがこんな写真が撮れたので、今はALOはお祭り状態ですよ」
「一時期は世界樹の攻略は元々させる気がなくて無理ゲーなんだと言われていた位ですから、その成果があるという確証が得られた今、どこの領土でもいち早く攻略しようと血気盛んに活気付いているらしいです」
と、いろはは説明した。
さらに言うと、どうやらその種族が持つ飛行制限が世界樹のクエスト攻略の報酬として解けるらしい。そして、そのクエストというのが無限popかつその量も関数的に増えるという鬼仕様だとか。殆ど攻略に参加などしてこなかった俺からすると、無限湧きなら経験値得放題じゃんとか思ってしまうのだが、そう簡単な話でもないんだろう。
……しかし、キリトはこれを知っているのだろうか。
ともすれば、通学中にも悩んでいた、未だ抜け出せないプレイヤー救出の手立てになるかもしれない話を頭の中に刻み込みながら俺は【英雄】の姿を想起するのだった。
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17【心労パンク】
「おはようございますっ。せ、ん、ぱ、い」
眼前のいろは、後頭に窓辺。
特に意味はないけれど、そんなフレーズが頭をよぎった。時刻は12時45分過ぎ。四時間目の数学演習の疲れを補うべく机に倒れ伏していたら、隣から声がかかった。
「……お前、友達いないの?」
「いるわいっ!ばりいますわいっ!先輩の100倍はいますよ!」
「んじゃあ、そっち行けよ。俺は寝てるから」
「んもう、折角平穏な日常を取り戻したんですから学校生活をエンジョイしましょうよ。年下の可愛い後輩ちゃんと友達になっちゃいましょうよ」
ゆさゆさと肩を揺らすいろは。
平穏な日常、か……。
「お前と違って友達ごっこはしない主義なんだよ」
「本物ってやつですよね?分かっていますとも、先輩の言いそうなことは。ただ、偽物の関係を踏んでからこそ本物の芽生えってものがあるんじゃないですか?」
「一理ある。だが、ぶっちゃけめんどい。つーか、話題が合いそうにない」
合わせる気もない。無い無い尽くしのやる気のない奴は光合成でもして静かに過ごすに限るんだよ。とはいえ、前のクラスと違って戸塚が居ないのが辛い。……せめて、名前で呼びたかったなぁ。
「手強い奴め〜」
それそれ、と頰を執拗につついてくる。会話するたびにつつかれてるせいでそろそろ穴が空くんじゃないのかと適当な心配をしてみる。1分もやられているとチラチラと目の端に移ったり消えたりを繰り返す指が鬱陶しくなってきたのでしぶしぶと体を起き上がらせた。
「……分かった、分かったから止めろ」
「分かればいいんですよ」
「んで、何の用だよ。まさか母ちゃんのようなこと言いにきた訳じゃないだろ?」
実際の母ちゃんはそんなこと言ったことないけど。
すると、急にモジモジとし始めたいろは。なんだか嫌な予感しかしなかったが、ここは眼前のいろは、後頭に窓辺なので俺は露骨に嫌そうな顔をするというささやかな抵抗に全力を注いで彼女の返答を待った。
「あの、私達が付き合っているという噂が流れていまして……それで、その、どうしようかなぁって思いまして」
「……メンドッ」
予想以上に面倒くさい話だった。
希望的観測から胡乱げにいろはを見つめる。
「……そういうの、いろはの方が詳しいんじゃねえの?」
「いえ、それがですね、私って先輩の事好きだったりするので、この噂ばっかりは野放しにしておいた方が良いんじゃないかと思いまして。ほら、そうすれば先輩も恥ずかしがらずに私と付き合えると思いません?」
「なにが、ほら、だよ。思わねえよ。というか、消せるなら早く消してくれ。……まさか、また貸し一とか言うのか?」
「あはは、そんなこと言いませんよ。チュー1です」
「頭が中一?そんなの知ってるぞ」
「……ほほぅ?先輩はこの噂の放置をお望みと?」
「すみませんでした」
やだこの小悪魔。勝てるビジョンが全く見えないんだけど。例えるとフリーザに出会ったクリリンみたいな感じ。あがが……って奴な。
「わかった。じゃあこうしよう」
「マックスコーヒーはいらないですよ」
「……打つ手なし、か」
「そんな陳腐なアイデア一つの否定で黄昏るのはやめて下さい。情けなさ過ぎです。幻滅、はしません」
なんなんだよ、もう。この後輩デレデレかよ。デレ100%かよ。調子狂うわ。
そうこう言い合っている内に、昨日に続き机ロックを喰らい、あっという間に彼女はお弁当を開き始めていた。
「おい、やめろ。やっぱり周りに誤解させる気満々じゃねえか」
「うーん?いろは分かんなぁい」
はっ倒してやりたいあざとさ。しなを作って、口に指を当てて上目遣い。正直見た瞬間、『俺が落ちるのも時間の問題だな』と思うレベルのあざと可愛さだった。無論、そんな感情おくびにも出すつもりもない。
「おー、動揺してるしてる」
「してねえし」
「いやバレバレですよ?目は口程に語りますからね。『あー、マジいろはと付き合いてえな。こいつ、超良い女じゃん』とか思ってるのバレバレですからね」
「いやねえよ」
とも言い切れないことを思っていたのも事実なので、俺はそっと目線を彼女から外すのだった。
しかし、ヤバイぞこの状況。登校2日目だと言うのにこの有様というのは非常にマズイ。早急にどうにかしなければならないと煩悩が、いや、本能が叫んでいる。
もう、限界、と。
「……な、なぁおい」
「どうしたんですか?手作り弁当でも欲しいのですか?」
「着々と外堀を埋めようとするのをやめろ。いや、そうじゃなくてだな。その広まっている噂の話だが、真面目な話どうにかできないのか?」
いろはのパッチリとした目を見て尋ねる。
数回瞬きを繰り返したいろはは持っていた箸をケースに置いて吐息を一つ漏らした。
そして、俺の目を見て一言。
「私のこと、そんなに嫌ですか?」
彼女の目はどこから不安げに揺れているような気がした。
前にも言ったような返しを俺はする。
「いや、嫌いなわけがないと前にも言っただろ?ただ、今の俺は───」
「あのですねぇ!先輩!」
いろはが大きな声を出す。
彼女
教室の音が止まる。
「私がっ!私が、そんな程度こと気にする」
「そんな程度じゃねえだろうが!」
あ、やべ。と思った時にはこちらも大きな声を出していた。この二日間。ぼんやりと過ごしていたように見えていたため、そこまで快活な男に見られていなかったのだろう。数人の女子の方がびくりと震えたのが分かった。
「……ちょっと来い」
いろはの手を引く。
黙って引かれるいろは。
教室の扉を引いて外に出る。
落ち着いて寝るはずだったの昼間の時間。
転校2日目にして俺は、やはりぼっちルートへ進んでいるような気がしてならなかった。
ー・ー・ー
着いたのは屋上。
ありがたいことに外には誰もいなかった。
陽気な天気にも関わらず誰もいないのは、多分、今朝も出ていた花粉注意報のせいだろう。
掴んでいたいろはの小さな手を放す。
「悪かったな、さっきは大きな声を出して」
「いえ、私も焦って変なこと言ってしまってすみません」
焦って。頭の中に反芻される。
「この際だから俺の悩みを聞いてくれないか?」
「……悩み、ですか?」
「ああ。小町にも言えなかった、しょうもない悩みなんだが、ああいや、別に聞きたくないなら」
「聞かせて下さい」
いろはが食い気味にそう言ってくれた。
いや、そう言ってくれると思って言ったのだろう、と心の何処かが俺に向かって叫ぶ。そう自責することで何かが許されるわけでもないのに。そもそも彼女は何も思っていないだろうに。ループする考え。
どこまでもせせこましい自分が嫌になる。
悩みについて悩み始めると、いつもこんな気分になる。
陰鬱として、自分も、他人も嫌いになる。救われるのを待つ棒立ちの人間のようになってしまう。
助けなど、誰も来なかったのに。来てくれるはずがなかったのに。
だから悩むのが嫌になり、面倒が巨大化してしまう。
吐露しない自分を責めるくせに、それを言う勇気を持たない、いじらしい自分。俺は、そんな自分が好きで嫌いでもう、なんだかどうしようもない気さえしてきていた。
自分の性格も、悩みも、これからも。
「……俺は、怖いんだ」
話したいことすらまとまらず、ままならない口調で言葉を捻り出す。ズルズルと貯水タンクに背中を預けて座る。
なんだその行動は?可哀想に思われたいのか?
捻くれた感性はいつしか自分にも牙を剥くようになっていた。
「お前も、雪ノ下も、由比ヶ浜も、戸塚も、材木座も、葉山も、陽乃さんも、小町すらも……!」
「先輩?」
「俺自身にすら恐怖を覚える。現実が怖くてしょうがないんだ」
思い出すのは、成長した彼女たちの姿。
変わりきった自分の姿。
妥協を覚えた雪ノ下。
未来を見据えた由比ヶ浜。
背が高くなった小町。
本心を言えるようになった陽乃さん。
余裕が出た葉山。
そして、本物を求めるいろは。
その誰もかれもが俺の知らない誰もかれもで、その誰もかれもが俺の知っている誰もかれもだった。
他人が変わり、自分が変わり、環境が変わる。
何一つ違ってなくて、何一つ同じでないこの世界にいることが不安で、怖くてしょうがなかった。なぜ、こんなにも普通に暮らしていられるのかと狂いそうだった。
もしかしたら、俺は別の世界に来てしまったのではないか。そんな風に思った日だってあった。
夢じゃないのか?頬をつねったことは数え切れないほどある。
「皆、俺が変わったと言ってくる。皆、俺の容姿が良くなったと話す。それを聞けば聞く程俺は、誇らしさよりも、嬉しさよりも、なによりも。底知れぬ怖さが募っていったんだ」
変わったのはお前らの方だ。叫びたかった。
精神も成長しているだろ?気づいて欲しかった。
まるで、自分だけが世界に取り残されているような感覚。
持て囃されるたびに感じる空虚感。自分を否定されているかのような痛み。
それはともすれば、考えすぎで穿ち過ぎなだけなのかも知れない。捻くれた捉え方だ、素直に喜ぶべきだと言われるのかも知れない。
突然黄色い声と視線を送られる。結構じゃないか。享受しておけよ、これまでの一年のご褒美だよ。
思えるはずがない。
俺が追い求めていたのは、紛れもない本物であって、そんな薄っぺらい偽物じゃないのだから。
四苦八苦して、青春にもがいていた仲間達はいつの間にか大人になり、俺の帰りを喜んでくれる。かつてできなかったことをいとも簡単に行ってしまう彼らは独り苦心する自分を慰めてくれる。
やり直すために戻ってきたはずだったのに。アレだけ待望してきた夢の続きは知らずのうちに終わっていて、新しい青春は、とても怖くて。
たかが一年。されど一年。
人生の19分の1。割り切るにはあまりにも大き過ぎる時間だった。
急激な変化に対する戸惑い。
誰かと再開すればするほどソレは、巨大な壁となって俺を喰らおうとしていた。
「……こんなにも、いてもいなくても変わらないなら俺は、多分、戻ってくるべきじゃなかった。こんな気分になるなら向こうで」
「ダメです!!!」
いろはが叫ぶ。
駆け寄ってきて、かかんで、両手で俺の頰を挟む。至近距離で俺を覗き込む。
「先輩がそれを言っちゃダメです!」
「……『俺に構わず成長してくれて嬉しい。俺のせいで誰かの人生を壊さなかった』 そう思えって、担当の医師が言ってくれた。思おうとした。でも無理だった!」
「それでも」
「お見舞いに来てくれた。泣いて喜んでくれた。リハビリに付き合ってくれた。ありがたくて、申し訳なくてしょうがなかった。けど、無理だった」
「それでも先輩は」
「社会復帰した。皆ちやほやしてくれた。帰って来てよかった。マックスコーヒーも美味い。これからの人生頑張ろう。思えなかった。ダメだった。俺は、外に出るのが怖くて仕方なかった。……俺は、最低な人間なんだよ」
「……それでも先輩は、戻って来るべきだったんですよ」
「……自分の脳ミソ以外の全てが怖いんだ」
一年前と雰囲気も、髪型も、メイクだって変わった彼女が怖くて仕方がない。好意一つ伝えるのに一生懸命だった彼女とは明らかに変わっていた。
「俺は、あの場所を通して成長したって思ってたんだ。……戻って来て、あっと言わせてやる。そう思ってたんだ」
「……」
「実際は、この様だよ。『容姿は良くなった』 つまりは、そういうことだったんだ」
「……」
「お前とは、付き合えないよ」
容姿しか見ないような奴とは付き合えない。なんて意味ではない。いろはは、俺の内面の変化に気付いているのだろうし、そもそも好きになってくれたのは囚われる前の話だと言っていた。
だから、これは、彼女の問題ではなく俺の問題だ。
周りの変化を認められない、どうしようもない俺の、どうしようもない問題。
故に、どうしようもなく、いろはは諦める他なかった。
「なんて、言うとでも思っているのですか?先輩は」
「……」
「『私達の変化が怖い。急に変わっていた世界が怖い。見えない将来が怖い。思っていたのとなんか違かった』……あのですね、私達を、乙女を舐めてるんですか?私達が聞いているのはただ一つ、『私達のことが嫌いか好きか』の二択の何ですよ?そこにそれらの主張は入る隙間はないんです!」
「俺は」
「それにですねぇ先輩! 私達は先輩でないのですから、先輩の不安が分かるはずないのです。だから、それならそうと言って下さい。私達は、もう『本物』なんですよ?」
「どこがだよ。俺とお前の関係は、なあなあの『偽物』だろうが!」
「だったら、早く先輩が答えを出して下さい。どんな答えでも私達がそれで本物になれるのなら私は構いません!」
抑えていた両手を離したいろはは立ち上がる。
「悩みは聞きました。次は私の番ですよ。本物になった暁には、精々先輩の悩みをたくさん聞いてあげます」
振ってくれても構わない。けど、側にはいる。
そんな、
決意にも似た宣言を彼女はしたのだった。
……こんな、成長も見られない男に。
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18【帰還】
俺は、いろはのことが好きなのだろう。
当たり前だろう。こんな奴を嫌いになれるはずが、いや、好きにならないはずがない。
なのに、口の奥から素直に出てこないのは……いや、これこそがいろはの嫌った考えなのだろう。
渦巻く感情から選び取るのは好きか嫌いかの単純な二択。……ならば、
「俺は、いろはのことが好きだ」
発した声は、何者にも遮られることなく屋上に響く。目と目を合わせて伝えた言葉が彼女に伝わった時、いろはの目が開かれるのが目に見えて分かった。そうしてしばらく目があった状態で沈黙が降りる。
数回のゆっくりとした瞬きの後。目の前の光景が変わった。
つう、といろはの頰に一筋の涙が流れた。
喜ぶわけでも笑顔になるわけでもなくただ涙を流す。
嬉し泣き、いや、彼女は悲しくて泣いていた。
「……私じゃ、ダメなんですね」
俺の胸元を掴んだいろはが喘ぐ。悲痛なまでに引きつった彼女の笑顔は次第に、それすらも保たなくなっていく。しまいには、俺の肩に頭をグリグリして、『すみません、もう少し待って下さい。もう少ししたら先輩の話を聞かせてもらいますから……』と呟いて静かに顔を埋めた。
慟哭にも似た声を受けた俺は、いろはの髪をそっと触る。力なくもたれかかる後輩の震える頭。塩水に湿っていく自分のワイシャツが肌に吸い付くのを感じた。
小さくまとまるいろははとても脆く感じる。力を入れれば壊れてしまいそうな程繊細な彼女。いつもの生意気さのなの字もない姿。
そうしてようやく俺は悟る。
彼女の強さは一重に意志の強さ、言い換えれば決意の強さにあったのだと。そして、それは雪ノ下、由比ヶ浜を始めとした多くの人の『成長』だと勘違いしていたものの正体であることを。
「小悪魔のようにあざとくて、小悪魔のように蠱惑的。小悪魔のように鬱陶しくて、小悪魔らしくちょこざい奴……だったはずなのになぁ」
小悪魔のように感じていたこの温もりは、天使のように俺の心に暖かく染み込んでくる。予鈴の音が学校全体を覆うのを感じながら俺は目を閉じた。
良い加減腹をくくろうと、決意をしよう、と彼女の表情を見てそう思った。
故に、俺は振り返る。今までの人生の全てを。
早熟した小学生時代に、周りとの精神年齢の差に苦しんだこと。
暗黒の中学時代に、辛いことが沢山あったこと。虐められたこと、告白したこと、振られたこと。
鬱屈とした高校時代に、平塚先生の言葉をきっかけとして青春に色彩が加わったこと。奉仕部のこと、クラスのこと、後輩のこと。
突然デスゲームに囚われたこと。初めのうちは何をすれば良いかも分からず右往左往していたこと。優しい老父に助けられたこと。治安形成のために下層を走り回った日々のこと。最前線への祝福を祈りながら待ったボス攻略日の夕暮れのこと。
ゲームクリア後からの日常のこと。自分の帰還を喜んでくれたあいつらのこと。あいつらとのギャップに悩み続けていたこと。自分が自分であることの確証すら持てない日々を送って来たこと。
そして、今日。それをこんなにも、か細くて、泣きじゃくっている後輩に向かってぶちまけてしまったこと。
そのどれもこれもが恥と後悔にまみれていて、そのどれもこれもが俺の糧となっていた。苦しんだ日常も、悩んだ超常もその全てが俺の経験した、れっきとした自分の過去であった。
我思う、故に我あり。
自分の人生がいくらあっても足りない位人生経験を積んだ人が悟った端的で簡潔な事実。自分に疑いを持っているその心は確かに自分である。だとすれば、俺は、比企谷八幡という人間は、比企谷八幡の他ならない。
自分の顔と性格に満足して、決して易しくはない人生を歩むことに充足する。そんなありふれた人間。
彼女達の成長を喜ぶ、僻むのではなく、自分の成長を尊ぶ。それを感じて悦に浸る。非常に道徳的でありながら背徳的。単純なようでいて引っかかる。そんな捻くれを許容した人間。
比企谷八幡は、今、ここに居た。
それを、今、見つけた。
腑に落ちる。とはまた違った感覚。
まるで、『魂が自分の体を見つけたような』実感。
チューニングのあった楽器を鳴らしたような感動。
目を開ける。
いろはの髪の毛を撫でた俺は、溜息をついて、一言放った。
「……これが夢なら良かったのに」
「?!」
現状の否定。最低に捻くれていて、最悪に終わるようなセリフに彼女の頭が上がる。彼女の決意を踏みにじるような、自ら失望を誘うような物言いに彼女は何を思うのだろうか。
俺は、その答えを待たずに口を開く。
「とか、前の俺なら言っていたんだろう」
それでいて、その次には『なんだっけ?告白の続きだったか?』とか相手を煽って。悪者であることとは、どのようなことなのかも分からず、ただ皮肉屋を演じるために無理矢理心を抑える。それも大根役者もびっくりの演技だということにすら気付かず。もっと言えば、それが演技であることにすら気付かず。
ポカンとした彼女の肩を掴んで、俺はつい、笑いを漏らす。心から笑ったのは本当に久しぶりかもしれない。嚙み殺す事なく自然に出た笑みは、これからする自らの宣誓を後押しする。
「俺はもう、絶対にお前から逃げない。この、クソみたいな現実にも、やるせない現状にも、どうしようもないこれからにも、正面から向かい合ってみせるとここで誓ってやる」
俺は俺でいい。
一年間に及ぶ迷子によって見失った、そんな簡単な答えを俺はもう無くす気はなかった。俺は宝物を見つけた子供のように、漏れる笑みを止める事が出来ずに口を開く。
「せ、先輩?」
「いろは、お前のことが好きだ」
「ひゃいっ?!」
「小悪魔のようなかつてのお前も、俺を好きだと言ってくれるお前も全部好きだ」
「ひゃぅ……しぇんぱい、無理してましぇん……?」
「だから、俺と、『本物』になってくれ」
雪ノ下と由比ヶ浜のような、そんな本物。
そんな本物をいろはとも築きたいと心底そう思った。
いろははじっと俺を見つめて嘆息を一つして微笑んだ。
「……んじゃあ手始めに彼氏彼女に……って訳にはいかないんでしょうね。全く、本当に、ほんっとうに先輩はメンドくさい性格ですね。戸部先輩なら即了承してるはずですよ?」
赤い目を隠す事なく彼女は俺の頰をつねって、笑う。
「───ただ、私、そんな先輩、嫌いじゃないですよ」
その笑いは、言いようもなく、ただひたすらに、美しかった。
かくして、二人の笑顔が至近距離で咲いた頃。
晴れた屋上には大きく五時間目の始まりを告げる大きな音が響くのだった。
ー・ー・ー
五時間目の終わり、化粧を直したいろはと、乱れた服装を直した八幡が並んで教室に入った時、二人の少女が駆け寄ってくる。
八幡は見覚えのない少女に困惑し、いろははクラスに多数存在する中でも、特に仲の良い二人の尋常ではない表情にギョッとする。
「は、八幡くん!」
「はい」
屋上でも一幕と、心情の安定により今まで常に張っていた緊張が取れてどっと疲れの出ていた八幡は淡白に返事を返す。対して少女は相手が先輩であろうがなんだろうがという気概を以って八幡に告げた。
「い、いろはちゃんは悪くないんですっ!」
「うぇっ?」
突然の指名にびっくりするいろは。
「いろはちゃん、凄い良い子なんです!生徒会長としての評判も前会長に負けないくらい良いですし、先生からの評価もびっくりするくらい高いんです!」
「おう」
「今はこの一年間ずっと私達に話しているくらい慕っていた先輩が」
「ちょちょちょっと待って下さい!ちょいちょいーっと」
嫌な予感、というより恥の予感を感じていろはが慌てて制止をかけるが暴走する彼女達は止まらない。
「帰ってきて舞い上がっているだけなんです!だからそんなに邪険に扱ったりせず、寧ろ、サービス精神を見せてあげちゃって下さい!」
どうやら、この二人の少女。先ほどの教室での二人の様子が、口喧嘩の末に少女が拉致されたように見えていたらしい。親友が酷い目にあって欲しくないと一言物申しにきたようだった。
赤く震えながら先輩に生意気きいてしまったという悔恨と達成感に震える女子2人に対して、八幡、普段ならしどろもどろに弁解をしているところだったが、疲れによる思考停止が為されていたため普段の彼ではありえない事を口走る。
「ああ、大事(な本物)だからな」
イケメンスマイル付き。
わざわざありがとな、と2人の頭を撫でる出血大サービスをして、席に戻っていった。
「……」
「……いろはちゃん。手強い人、好きになっちゃったね」
「うん」
そんなやりとりが交わされたという。
尚、上記のやりとりを疲れ切った八幡は覚えているはずもなく、妙なハイテンションさと疲労感を抱えたまま、アスナヘのお見舞いも忘れ放課後家に帰り、泥のように眠った。
四月の第1土曜日。キリトと須郷の初邂逅の日の出来事であった。
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邂逅編
19【つかの間の平穏事変⒈】
「さあ、起きるのじゃー」
「ぐえ」
どむん、突如腹に強くのしかかった圧力で目が覚める。
残念ながら、『SAOを経験したことで眠っている最中も気が尖るようになりました』とかそんな変化は無かったため、その一撃は(当たり前だが)俺にとって不意打ちだった。つまり半端なく痛い。
「あはは、ぐえ、だって、お兄ちゃんカエルみたい、ヒキガエル君だね!」
「おい、朝っぱらから兄のトラウマをほじくり返してなんのつもりだよ」
「あの時は大変だったなぁ、小町も蛙の子は蛙とか言われたし」
「……」
なんかすまん。俺の悲鳴は兄妹のトラウマを引き出してしまったようだった。
当時の俺が聞いたら半狂乱で小町の教室に突撃しそうな事実を知りショックを受ける。ベッドで2人身動きせずに目を合わせていると、いつの間にか互いに互いを気遣って気まずくなってしまっていた。
……この光景、B型H系で見たことあるぞ。いや、それとはまたちょっと違うか。
「うん、違うね。天と地ほど違うね。お兄ちゃんのヘタレ具合だけで言ったら確かに似てるかもしれないけど」
「失礼な。そんな男も女も傷つける程ヘタレてないから」
「……昨日の話、いろはちゃんから聞いたんだけど」
「俺はこれ以上にない位、心身ともにヘタレでございます」
いろはすよ。青春の一ページを相手方の妹に暴露しちゃうのはどうなんだ……。やっぱあいつ、小悪魔だわ。
「まあ、義姉ちゃんを増やした所は小町的にポイント高いけどね。……というか、早く着替えて降りて来てね!もう9時だよ?」
「休日9時の起床は帰宅部学生にとって早すぎるくらいだけどな」
そんなぼやきが聞入られる筈もなく。
ごちゃごちゃ言ってないで早く来てね!と言い残して、たたたーっと部屋から出ていった小町。久し振りの学校で疲れが溜まってるしもう少し寝たい。体がだるい。だかまぁ、ここで二度寝なんてしたものなら小町が拗ねるのは確実。ここは小町ポイントを稼ぐため、のろのろと起き上がる事にした。
いつの間にかひっついていたカマクラを引き剥がしてパジャマを脱ぐ。
背丈が変わってしまったから着るものも迷うほど無い。いろはと買った服の中から適当にイージースラックスに長袖を合わせて部屋から出る。そういえば、最初の頃は服の着替えも一苦労だったなー、とリハビリ生活を思い出しつつ洗面所に入り顔を洗った。
そういえば、目の隈も取れたことからも分かると思うが、肌の状態が過去最高に良い。目の下の張った感じが、無くなってなんだか別の体を動かしている気分になる。
だるい体にスイッチを入れるために頭を濡らしてタオルでゴシゴシ拭いていると、後ろから誰かが近づく気配がした。両親は例によって休日返上系会社員になっているのでその気配は必然的に小町だと推測できる。
「どうしたー、小町?」
ちょっかい出される前に牽制の意味も込めて名前を呼ぶと、彼女は動きを止めて言った。
「あら、八幡君。まだお寝坊さんなのかしら?それともなに?背が多少伸びた位で、私の事を小町ちゃんと間違えても良いような人間だと、そんな塵芥にも満たない人間だと思うようになった……ってあばばばばば」
「……は?」
振り向けばそこには俺の本物の一人。雪ノ下雪乃が凛とした佇まいで相変わらずの雪乃節を効かせていた。
え?なんでいるんだよ。ていうか、
……あばばばばば?
ー・ー・ー
「い、いえ、別に動揺なんてしていないけれど?寧ろ動揺したのはあなたの方でしょう?ほぼ人妻と言ってもいいような女が婚約者でも無いような男が住んでいる家に忽然と立っていたのだから。しかも、あなたからしたら美少女が見たこともないようなメイクをして、おめかしも普段の10割増しでしているような格好で佇んでいたのだから。いくらあなたの身長が伸びて、目が澄んで、顔全体の印象が文句の付け所のないようなイケメンになっていたとしても私は決して動揺していないしこれからも動揺しないわ。つまり、私はあなたと平常心で向かい合っているってあわわわわわ」
……。
……色々言いたいことはある。大いにある。しかし、もしも1番言いたいことだけを彼女に言うのならばこれだろう。
「落ち着け」
話はまずそこからだった。
面倒な事に今の俺はそれなりに長い髪の毛を持っているので、ドライヤーをかけずに放っておくことができない。だから彼女の頭を冷やす時間を取る、という意味でも少し時間をもらう事にする。一瞬、俺の頭は熱くなるんだけどな、とか言いかけたけど、よく考えると(よく考えなくても)クソほどにつまらないジョークだったので特に口に出すことなく、コードをつないでドライヤーをかけ始めた。
そして、数分後。心なしかふわふわした髪の毛を触って湿っていないことを確かめ、彼女に声をかける。
「……待たせて悪かったな」
「いえ、動揺はしていなかったけれど、整理はできたのだし、ここはフィフティフィフティにしましょう」
全くもって動揺が解けていない物言いだったが、彼女の反応がどことなく陽乃さんとの邂逅の時に似ていてやはり姉妹なのだと実感し、思わず口が綻んだ。
「つーか、俺の写真をいろはが送っていただろう?勝手に。そんなに驚くなよ」
「あの時の八幡君は目を閉じていたからこんなになっているとは予想もしていなかったのよ。……通りで小町ちゃんが貴方との面会を禁止したわけだわ」
最後にぼそっと雪ノ下が呟いた。羞恥を覚えたのか雪ノ下の頰は仄かに赤く染まっていたが、野暮に触ることはせず話を続ける。見舞いの時にも気になっていたがズルズルと引き伸ばして聞けていなかったことだ。
「……そういえば、お前、前まで八幡君って呼んでたか?」
「いいえ、ただ、あなたが起きたらそう呼ぼうとと思っていただけよ。私のことも雪乃と呼んで良いのよ?どうせ来月には雪ノ下が通じなくなるのだし」
「……お、おう」
「大学卒業を待たずに人妻になる私の言うことを憐れんで言うことを聞く気概はないのかしら?」
雪乃は表情を変えずにグイグイとナイーブなジョークに踏み切ってくる。余りの積極性に、もしや雪ノ下雪乃は須郷とやらとの婚約に対して割と前向きなのではないのか、と推測しそうになったほどだ。
それもまあ、次の彼女の一言が否定してしまったけれど。
「須郷雪乃。語呂が悪くて反吐が出そうだわ。どうせなら漢字3文字の苗字が良かったのだけれど。……あら、そういえば比企谷くんの苗字はなんだったかしら?」
「……なんつーか、お前、逞しくなったな」
いろはとは別ベクトルの強さを身につけている気がする。どちらにせよ、俺が敵うような範囲を軽々と飛び越えた成長だった。
「いいじゃない、どうせこんなことをできるのももう少しなのだから」
変わらぬ調子で、なおざりに雪ノ下が言う。
その様子で分かったが、彼女は逞しいというよりかは吹っ切れた、もしくは、自暴自棄になっているようだった。
ともあれ、この話題を続けるのは両者の精神衛生上良くないと思い、俺はやや強引ながらも俺は話題を変える事にする。あくまでも戦略的撤退であり、雪ノ下の問題から向き合うのをやめたとかそんな理由でないことは分かって欲しい。昨日の誓いは依然、心に留まっている。
「そういえば、なんで雪ノ下はここに来たんだ?」
「ふふ、頭の回転は変わらないようね、遅々ヶ谷くん」
「どストレートに俺という人間性をスローにするのはやめろ。というか流石になんでいるのかは予想はついているが、聞きたいのはそこじゃねえんだよ」
「あら、それじゃあ何か当ててもらおうかしら?」
正解も何も、雪ノ下が既に正解を言っていた。つまり、ついこないだ小町が話していたその日が来たんだろう。
『お披露目会』
それはつまり、リハビリ後の俺を披露するというなんだかよく分からない会だ。普通に退院おめでとう会とかやってくれた方が何万倍も嬉しいのだが、小町も中々に俺の性格が移っていたらしい。
まだ雪ノ下の問いに答えていないのに「正解よ」と告げられ、自分の考えに確信を持った俺は、これからを思い体のダルさがぶり返して来たのを切に感じながら雪ノ下に問う。
「……他の奴らも揃ってるのか?」
「ええ」
「お兄ちゃーん、まだー?」
リビングの方から小町の声が聞こえてくる。雪ノ下は楽しそうに笑って、『行きましょう』といって俺の腕を引っ張った。あー、と声にならない声を出した俺は、やるせない気持ちを手荷物タオルに込め、それを洗濯カゴに渾身の力で投げ入れた。
ー・ー・ー
「……マジで勢ぞろいかよ」
リビングには小町は勿論、由比ヶ浜、いろは、戸塚、川崎姉弟がいた。勢ぞろいといいつつも材木座がないない事に涙を禁じ得なかった。ハブられたとかではなく小町がただ単純に連絡先を知らなかったらしい。より涙が溢れる話だった。
「あ、先輩おはよーございますっ」
「ああ、おはよう帰れ」
「早い!挨拶から命令までがノータイムすぎますっ!せめて句読点くらい入れて欲しかったです」
「おう、帰れ」
「それはそれで嫌です!」
買った服きてくれてるんですね!とはしゃぐいろははさておいて、まあ予想通りというかなんというか、固まっている来客の皆様の体を解くとする。
「まぁ、なんつーか、ほらアレだな、久し振りだな」
ソファは来客に占拠されているため、テーブルの椅子について挨拶ともいえないような挨拶をする。すると、いち早く自我を取り戻したのは最も接点のなかった川崎弟こと、川崎大志だった。
「お、お兄さん、めっさイケメンになったっすねぇ!一瞬誰だか分かんなかったっす」
「まず、お兄さん呼びとメッサとかいう頭の悪そうな単語を使うのをやめろ。お前は関西人の若者か」
「……この感じ、確かにお兄さ、比企谷先輩っすね!」
眼力に押し負けて言い直す大志。制服的に総武高では無ようだが、川崎姉の方の繋がりもあったためか、未だに小町とどこかで通じているようだった。手を出してねえだろうなと殺意に満ち溢れそうになっていると続いて覚醒したのは川崎。誰が先に戻ってくるかレースの最下位が由比ヶ浜に決定した瞬間だった。どうでもいいな。
「ひ、比企谷なの……?」
目が見開いて信じられないと、分かりやすい表情で川崎が尋ねる。彼女も一回けーちゃんと見舞いに来てくれたが、改めて見ると、印象が大分変わっていた。腰まで伸びたロングの髪を綺麗にまとめて凛とした表情で座るその姿は、まさに気の強いおかん気質の大和撫子といったよう。心なしか、スタイルも良くなっておりサイズの小さい服で正座されると非常に目のやりどころに困るものがあった。
「まあな、スカラシップ生。ちゃんと国公立いけたか?」
「お陰様で……と言いたいところだけど、優秀者の学費免除使って私立行ったから。ま、どっちにしてもあんたのおかげみたいなもんだけどね。って、ほんとにほんとに比企谷?」
「しつけえよ。言っておくけが、俺の変化なんて、川崎のその髪の色が地毛だと信じるよりかは全然受け入れられる範囲だからな」
「んな!気にしてることを!」
「こっちだって気にしてんだよ!」
一触即発。そこになるのは争いの幕開けを告げる銅鑼の音。あるいは意識が戻って来た由比ヶ浜の声。
「ヒッキイイイイイイイイイイイイイイイイイ!」
「うるせえ!」
お前は情緒不安定の動物か。
ドタバタと駆け寄ってくる由比ヶ浜。身長差が大きくなったこともあり、入院の時とは違って彼女は小さく見えた。
「えええええええ」
「……なんだよ」
「ヒッキー!カッコよくなりすぎ!!もう別人じゃん!!」
「さらりと失礼だな」
「いやいやいや、だって、目も髪も背も全然違うって……あぁー!」
大きくのけぞった由比ヶ浜。
「……今度はなんだよ」
「ヒッキー、ツイッターに載ってたでしょ!陽乃さんといろはちゃんと葉山君とのヤツ!!」
あー、あの写真だいぶ出回ったらしいからなぁ。そりゃリア充バリバリやってます系の由比ヶ浜だったら当然知ってるわな。
「ちょ、なによそれ。私知らないのだけれど」
雪ノ下も俺に詰め寄る。
俺は2人に返答を返すことなく静かに指をさして一言。
「あのいろはとかいう後輩が悪いです」
いろはの顔がみるみるうちに白くなるのを見てほくそ笑みながら初代奉仕部達に伝えた。再び(今度は雪ノ下も)石のようになり、ギギギと錆びついた機械のような動作でいろはの方を見る。表情は見えないが、いろはの絶望した顔を見るに相当な修羅顔になっているらしい。
「いろは、俺トイレ行ってくるからあと頼んだわ」
俺は一足先にこの場所から逃げ出した。
寝起き30分の激動は1日を飾り立て、逃げた先では眠気などとうに晴れていたことを自覚させられた。
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20【つかの間の平穏事変⒉】
当然トイレに目的などない。
リビングを出てすぐ見えるトイレを早足でスルーして駆け足で自室に入ると、待ってたよとニコニコ笑う超絶美少女がいた。
戸塚彩加ちゃん。もうすぐ19歳になる男の娘である。
「やあ。そろそろ来る頃だと思ってたよ」
「探偵社に入社でもしたのか?」
そういえば俺がリビングに入って川崎姉弟を話し始めた後、戸塚を見なかったな。成る程、誰が1番初めに現実に戻ってくるかレースの優勝者は戸塚だったのか。
「ふふ。そんなとこに立ってないで八幡座ったら?」
「あ、ああ。そうだな」
妙にこなれたように席を勧めるなぁ。一応、この部屋の主は俺なんだが。戸塚が机の椅子に着いているので、ベッドに腰掛ける。
「……可愛くなったな」
ツヤツヤの髪も高校時代に比べて大分伸びて、昔の由比ヶ浜のようにお団子のようにしている。顔もあどけなさが少し抜けて、妖艶さが増した。そんな美人に流し目なんか使われた日にはもう、口調が戸部化する自信があるね。
ふわりと、花が舞うような笑みを湛えさせた戸塚は口を可愛らしくすぼめる。
「ぼくは男だよ?というか、八幡がカッコよくなりすぎなんだよ。髪の毛とかもチャラチャラさせちゃってさー?」
「んなこと言ったら戸塚はふわふわさせてんじゃねえか。というか、え、何?男辞めたの?」
「だから男だってば」
何がツボにハマったのかクスクスと笑い出す戸塚。
「ま、何はともあれ、退院おめでとう八幡」
細っそりとした指がついた手を差し出して、彼女、もとい彼はそう言ったのだった。
ー・ー
「そっかぁ」
しばらく他愛のない適当な話に花を咲かせていると、唐突に戸塚は納得の言葉を口にする。トイレには少し長すぎる時間が経っていたので、この話に区切りがついたら戻ろうと思っていたが、その不意の言葉が気になり聞き返す。
「何がだ?」
「いや、ね。高校生の頃の八幡にはもう会えないんだなーってなんとなく思っちゃって。……ねえ、なんでぼくが八幡と仲良くなろうと思ったかって知ってる?」
上目遣いの戸塚。試しているような悪戯な気持ちから親愛の念までがありありと感じられる純白な表情。いろは曰く、俺もこのように無防備な目をしているというのだが、実際に戸塚の目を見てしまうと、やはりそれは無いだろうと思ってしまう。穢れを一切知らないのではないかと思わせるその目は強烈に人を惹きつけるから、やはりこの目は戸塚の特別なものなのだ。……まあ、今の戸塚はその目をどこか恣意的にコントロールしている節もあるのだが。
戸塚なりに成長しているのだろうが、どこかそれが女性的な成長な気がするのは俺だけなのだろうか。
「出会いっていうと、テニスの以来の時のことか?俺の素振りのフォームが良いって言ってくれたのは覚えてる。授業中に材木座以外に話しかけられるとは露ほどにも思ってなかったからな。しかも、美少女だし」
体育後の戸塚のうなじはローマの休日時のヘプバーン級である。
「男ね。あと、残念ながらそれは違うんだよね。フォームも一つのきっかけだったけど、今思えばそれは単なる口実にしか過ぎなくてさ。ホントはぼくにとってもっと大切なことがあったんだよ」
「ぼっちだったことか?」
「ぶー」
「そこそこイケメンだったこと」
「ぶーぶー」
「国語が苦手で、たまたま俺の国語の成績を知った」
「残念賞ー」
手をパタパタと振って俺の答えを全て切り捨てる。
「……あー、分からん。降参だ。なんだよ、その出会いって?」
「まぁ、出会いと言っても、勝手にぼくが八幡のことを見てただけだから知らないのも無理はないんだけどね」
ふふ、と笑われる。まさか、知らぬ間に作っていた黒歴史ではあるまいな、と聞けば戸塚の笑みは一層深くなる。罰ゲームでした、なんて言われないことを祈りながら彼の答えを待つ。
「あはは、そんな怯えなくてもいいって。えっとね、初めてテニスの授業があった日も八幡が葉山くん達にボールを返した時があったんだよね。ぼく、その時初心者のクラスメイトに教えながら見てたんだけどさ、こう、ビビッときちゃったんだ。それが出会い」
「……どういうことだ?」
「つまりね、『あ、この人と仲良くなろう』って思ったんだよ。やっぱり決め手は目だったんだけどね」
だから、八幡の目が変わっちゃって少し悲しいんだ、と戸塚は笑って言った。戸塚が空気を茶化すように椅子をガタガタと揺らすのに合わせて彼の髪がふわふわと揺れ動く。それをぼうっと眺めながら、こいつ可愛いな、なんて思った。
「腐った目、なんてよく言われてるけど、遠くから見たら目なんて誰もそう変わらないし、八幡の八幡らしいところはやっぱり雰囲気なんだよね」
「え?」
「オーラ、っていうのかな?テニスとかやってると、強者のオーラはやっぱり違うなって思うんだけど、八幡も普通の人とは違うんだよ。別に優れてるっていうわけじゃなくて、ただ違う。……ううん、なんて言えばいいんだろう?難しいや」
「いや、知らねえよ」
「……うーん、そうだね、雪ノ下さんは優れた令嬢のオーラ、由比ヶ浜さんは人を安心させるような優しいオーラ。川崎さんだったら勝気だけど一本芯の通った健気なオーラかな?じゃあ、八幡は?八幡のオーラは?ってなった時にぱっと浮かばなかったんだよ」
「つまり、戸塚にとって俺はまだ出会ったことのない男子Xだったってことか。いやけど、聞いてる限りその八幡とやらは得体の掴めない、少なくとも交友関係を築くには値しないような人間だけどな」
「むぅ、拗ねないでよ。というか、だから仲良くなりたいって思ったんだから。……分からないなら仲良くなって知りたいと思うのが普通でしょ?」
普通、な訳がない。
普通の人間はそこまで良くできてない。よく分からなければ見えないように、臭いものに蓋をする。もしも普通に臭いものに蓋をしないなんて選択を選べる人がいたらそれは、俺みたいな奴だけだ。つまり、そうする相手がいないクソぼっち野郎な。
それをなんだ。この外見王子中身天使はシンプルだけど出来ないのトップを突っ走るような事を平然と行ったというのか。普通の心を以って普通にソレを行う。どうしてそれが普通と言えようか。
つまり、戸塚は天使。
「で、目が決定打だったっていうのはどういう事だ?」
きっかけが罰ゲームだった、と言われることを地味に心配していた俺はその心配がなくなったことでグイグイと戸塚に攻めていく。俺の頭の半分くらいは既に『戸塚にもっと褒められたい』で埋まっていた。実際は、よくわからない奴だと言われただけなのだが、なんか特別認定されたみたいで嬉しかった。
俺、戸塚が大好き過ぎかよ。
「うん、その目が腐ってなかったからだよ」
「……は?」
素で聞き返す。
腐っているのに腐っていない。100人に聞いて100人が矛盾していると答えるだろう答え。今の俺から見ても、高校2年初めの自分は腐っていた自負がある。それもただ腐っていただけでなく、舐め腐っていた。目も性根も腐っていたのだ。
はてなマークを浮かべた俺のちんぷんかんぷんだという視線に気づいたのか、戸塚は説明をしてくれた。
「ほら、八幡って目が腐っているってよく言われてたけど、それって単にクマとか疲れ目とか遺伝とかその他諸々で目のハイライトが見えなかっただけの話でしょ?だから、その実八幡の内心は色んなことを穿ってみて斜に構えて反骨精神丸出しだった訳じゃん。あはは、そういえばぼく、八幡が平塚先生に提出した作文見て笑いが止まらなかったよ。『高校生活を振り返って』だったっけ?ふふ、あんなの常人には書く勇気もないよ」
「……悪かったな」
あの時は色々フラストレーションとストレスが溜まっていたんだよ。主にクラスの内情的に。
「戸塚は俺の目が反抗的だったから話しかけようと思ったってことか?」
「違うよ」
違うんかい。
「ぼくは単に面白い人がいるなぁって思って話しかけただけだよ。なによりも、良い人そうだったし」
朗らかにそう結論付けるのだった。その理由は確かに戸塚らしい優しいものだったが、俺がその対象になると考えると腑に落ちちないものがあったが、それを言うとただの自虐になるだけでなく、戸塚にも失礼なのでなんとなく控えることにした。
「……それで、その話がどうしたんだ?」
「えっとね。八幡、急に人気者になっちゃったからぼく心配になっちゃって」
俺が戸塚から離れると心配してくれたのだろうか?
「いや、戸塚と離れられるとか考えられないから。逆に俺がすがる勢いだから」
「そうじゃなくて」
そうじゃないんかい。
ことごとく考えが当たらない。恥ずかしいわ。
「八幡が潰れちゃうんじゃないのかなって。ほら、八幡のキャパがどれ位なのかは分からないけど、SAO事件があって、帰ったら帰ったで急激な環境変化があってって、当たり前に考えて精神的に限界だし。……その辺、大丈夫なのかなって。入院してる時も顔色悪かったから」
「……」
素直に驚く。
戸塚がこんなにもよく俺を見てくれていたのか、と。昨日のことがなかったら本気で惚れていたかもしれないと考える程にはその心配は俺の心を打った。そして、誰にも悟られなかった内心をスッカリ見抜かれていたことを知り俺は思わず信じられない。といった表情をする。戸塚と会ったのは入院中のたった数回のはずなのに。繰り返すようだが、まさか、といった気分だ。
「……もしかして、ぼくの杞憂だった?なら良かったんだけど」
「あ、いや。逆だ。そこまで筒抜けになってるとは思わなかった。……凄えな、戸塚。小町すらも気づいてなかったのにな」
一言目の話ではないが、名探偵にあった気分だ。
「まぁ、身近な人よりも一歩遠い人の方がよく分かることもあるしね。そう考えると八幡の周りは友達以上の友達、いうなら『本物の友達』かな?が一杯いるようで羨ましいよ。同時に、寂しくもあるけどね」
気付いちゃったぼくが。なんて戯けたことを言うので俺は先の戸塚のように手をパタパタと振った。
「……それは、お前もそうだろ。お前以上の男友達なんていねえし」
ちなみに材木座は、どっちかというと、戦友。中二病という戦場を第一線で貼り続ける偉大なる大戦士だ。
「そう言ってくれると嬉しいよ。……でも、杞憂の逆って事は結構大変ってことだよね?」
「まあな。正直しんどいを通り越して最早何が何だか分からない時もあった。けど、色々あって整理はしたから、今は心配無用ってとこだな」
「……うん、ならよかった。雪ノ下さんも、由比ヶ浜さんも皆高校卒業したら急に女子から女性になったからね。ぼくが八幡だったら10年後にタイムスリップしたって言われても信じていたよ」
「違いねえな」
戸塚に釣られて俺も笑う。
ついでに終わりかけていた会話の勢いも再燃していた。
そうして気がつけば、トイレに行くにしてはあまりにも長すぎる時間が経っていた。
「……そろそろ戻るか」
「そうだね。あと少しでも遅れたら八幡の未来がなさそうだし」
切り上げて部屋を出ようとする。
「あ」
戸塚が声を上げた。
「……座り直さないぞ」
「いや、別に何か話したいことを思い出した訳じゃなくて。八幡が初めの方でこの部屋の勝手知ったらといったぼくの様子に疑問を持ってそうだったから言っておこうと思ってね。この一年間、ぼくがこの部屋掃除してたんだよ。小町ちゃんに頼まれたね。よかったね、押入れの板の下の隙間、見られなくって」
「……」
お礼を言おうとして、口を閉じる。
目を閉じて考える。
再び口を開ける。
「お前、やっぱり名探偵だわ」
俺の疑問を推測したこと、怒るに怒れないタイミングでカミングアウトしたこと。そして、宝物探しの能力。
名探偵戸塚ちゃんの誕生を確信して俺は早くのだった。
時計の長針が、実に半周する程の時間の末、リビングへの帰還する。
戸塚と共に入れば、ばっと女性陣プラス大志の顔がこちらに向く。主役がいないっていうのはどうなのさと小町がブーブー言ってくるのをなだめながら先ほどと同じ席に着いた。
「さて、まず貴方にはある一つの義務が芽生えたわ」
タイミングを見計らって口火を切ったのは雪ノ下だった。いろはがしきりに手を合わせて無言の謝罪をしているので事情はなんとなくは察せられるが黙っておく。
「私のことを雪乃と呼ぶ義務よ」
「そして、私のことも結衣と呼ぶ義務があると思うな」
「ついでにぼくのことも彩加と呼ぶ義務もね」
やはり、いろはから色々と余計なことを聞いたようだ。とはいえ、そのあたりの事は承知の上。いろはから欲求があった時から覚悟していた事だ。最後の1人は予想外だったけど。まあ、名探偵とは他人の予想を裏切るのが仕事だからしょうがない。
となれば、やることは一つ。
「……はい」
白旗を上げる事だけだった。
「姉ちゃんはいいの?」なんて聞いて殴られているバカは見て見ぬ振りをする。
「んで、小町。お前がこいつら集めたんだよな?」
「雪乃」
「結衣」
「彩加」
「いろは」
「姉ちゃんは?」
あ、また殴られた。
「……雪乃と、結衣と彩加といろはと川崎2人を集めたんだよな」
「うん」
「こんなに集めて何するんだよ」
リビングに対してやや多すぎる人数。かと言って部屋に分けては集めた意味がない。お披露目会とは言え(そもそもお披露目会とはなんだよという話なのだが)余りに杜撰な日程に思えて仕方ない。俺に至っては起きるまで知らないという始末。いい加減朝ごはんが食べたい。
ソファに座る小町は、雪乃と結衣に挟まれてニコニコとして言った。
「そりゃあ、お披露目会といったらあれでしょう?」
「……なんだよ」
「写真撮影」
顔面から血が引いていき蒼白になるのがありありと感じられた一言だった。
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21【つかの間の平穏事変⒊】
下品な話、吐きそうな気分の末、俺は解放された。嫌な気分だった、というわけではなく周りの圧がすごかったのだ。気分としては動物園の檻の中だ。今夜からはパンダに足を向けて寝られないな。
小町の指示通りに動き、小町の指示通りの場所に立ち(あるいは座り)、小町の指示通りのポーズと表情をとる。そして点滅する眩しい光に晒されるわけだ。それを数回も繰り返していると、俺の姿が各自のデバイスに入っていくのがなんだか、自分が分散していくような気分になってくる。
そんな嘔吐ものの写真撮影でもとりわけきつかったのが、時折そっと忍び寄ってきては耳元で何かしらを囁いていく戸塚の存在だった。よもや、戸塚を邪険に思う日が来るとは一ミリたりとも予感をしていなかった俺であったが、それもまあ今日までだ。
今日の戸塚は可愛いが悪辣かつ、暴虐であったというほかなかい。天使イズデッド。戸塚は死んだ。あれは最早戸塚ではなく、手塚である(意味不明)。
何かしらを囁くその何かしら。それはつまり、マインドブレイクを企んだ彼による言葉攻めであり俺は、フラッシュとフラッシュの合間にやってきては『カッコいいよ』『ノリノリだねっ』とゾクゾクするウィスパーボイスを戸塚により右耳に押し込められていたのだ。しかし、『ご褒美です!』と体勢を崩そうものなら小町から手厳しい言葉が飛んで来る。
言葉攻めから逃げても言葉攻めが待っているという、その他の愛好家にとって垂涎ものであったとしても、それがご褒美には到底感じられない俺にとってはただの苦行だった。修行、と言い換えてもいいだろう。
無様に妹に懇願することでやっとのこと解放された俺は、精神的な疲れからソファにもたれ込む。そしてちゃっかりと隣に座った戸塚を睨むのだった。
「……なんか、もう何かをいう気力もないから言わないけど、なんつーか、逞しくなったな」
「その学年2位には大凡思えない語彙力の低下を鑑みるに、相当疲れたようだね」
「大半はお前のせいだけどな」
「あはは。うん、ごめんごめん。お詫びと言ってはなんだけど、この写真を送ってあげるから帰ったらちゃんと読んで保存しておいてね」
そういうって見せてくれたのは誰かが撮ってくれたらしい恋人も真っ青の距離でぴったりとくっつく戸塚と俺の写真。……こんなんで誤魔化せられますねぇ!ご飯3杯は軽くいけるわ」
「漏れてる漏れてる」
思考が垂れ流しになる程度には、俺の脳味噌は疲弊しているようだった。
「そういえば、さっき八幡が言ってたこと、逆に返したかったんだよね。それ、若干ブーメランだよ。って。まぁ、どっちかっていうと、生粋の方は悔しいことに、八幡の方だけどね」
「なんの話だ?」
「さあ?」
ニコニコと戸塚は笑っている。周りを見れば川崎2人は帰るようで、小町に抗議の声とともに引き止められていた。まさか大志に気があんじゃねえだろうな?と殺気立ったが小町の視線が明らかに姉の方にしか向いていていなかったので思わず弟の方に憐憫の目をあげてしまう。
哀れ大志、お前の大志は確かに大志だったよ。叶わない類のな。
「んじゃあ、僕もそろそろお暇させてもらおうかな?」
「戸塚もう帰るのか」
「うん、ちょっとイベントの準備があるからそろそろ行かなきゃいけないんだよね」
バイトか?聞いてみるとやはりバイトらしい。四月半ばと言えば大学に入り余裕が出てくるから頃だから、まぁ、そう不自然なものではなかったが、設営系のバイトに手を出すなんて体力がないと嘆いていた戸塚にしては珍しいと思った。イベントのバイト=設営と思っていたが、もしかしたら受付のバイトなのかもな。可愛いし、大いにありえる。
「笑顔は忘れるなよ」
「うん。……ん?笑顔?」
「イベントの受付をやるんじゃないのか?」
「ああ、そういうことね。うん、まぁそうだね。いやけど、どっちかっていうとコンシェルジュみたいなものかなぁ。ゲストの案内をするみたいな、ね」
「難しいことやってんだな」
様わかったように頷きつつも内心では俺の一生のコンシェルジュになってくれ。と思っていたのは内緒だ。
そうこうしていると、川崎が靴を履きに行ってしまったため、戸塚も慌てて部屋から出ていく。そういや、川崎と話せてねえなとか考えながら俺も追いかける。
玄関の外に出てみれば、まだ少し肌寒い気温だった。例年より何度も低いとお天気お姉さんが言っていたから、多分、気温は10度台だろう。小町と話す川崎に手をあげる。
「見舞い、ありがとな」
「……」
「なんだよ?」
「い、いや、唖然としただけだよ。あんたがお礼を言える日が来るなんて思いもしてなかったから……」
「ハハッ、失礼な奴め」
空笑い。そして今までの自分に対する評価にテラショック。ちくしょう。お、親の教育のお陰で謝罪と謝礼はどんな相手でも完璧にこなせるようになってたから!48をも超える第二の日本伝統体位(礼儀編)を修めた男として親父に不名誉に褒められたことありますから!(因みに親父の得意な体位(礼儀編)は23の型『床舐位』だそうだ。無論俺も得意)
「まぁ、なんつーかあんたも大変だと思うけど、踏ん張って頑張りなよ?周りが潰れなくても本体が潰れたら意味ないんだからね」
「あいよ」
「……わかってんの?」
「ああ」
「ならいい」
ぷいっと、そっぽを向いてさっさと言ってしまう。耳が赤いし、余計な世話を焼いたと思って恥じているのだろう。小町が隣で世話焼き系義姉ちゃんか……と不安なことを呟いていた。物悲しいまで小町をみる大志を無視しつつ軽口を川崎と数回交わし別れると、戸塚もいつの間にか帰ったようなので、部屋に戻る。そして、今度こそソファでダラダラしてやると無駄な方向に無駄な気合を入れてリビングに入る。
「やっときたわね、八幡くん?」
「ヒッキー、おそーい!」
「……ファイトです、先輩」
座ろうと思っていたソファに空席はなく、そこには見る者全員に対して否応無くゾクゾクとした寒気を与える雪ノ下と、笑顔の下に見え隠れする不明な黒さが垣間見える由比ヶ浜。そして、先ほどと同じように、しかし先ほどよりもかなり萎んだいろはが座っていた。
「雪乃よ」
「……そういえば、そうでした」
心を読むな。
ツンドラ気候も真っ青になって冬将軍と裸足で逃げ出すような氷点下のリビングの中、奉仕部2人にホールドされたソファの真ん中に座る俺。
一見両手に花のこの状況で、今、ララクラッシュとこんにゃくゼリーなら確実にこんにゃくゼリーの方に軍配があがる事について小一時間語ってもらった方が(精神的にもくだらなさ具合についても)まだマシなレベルのお話が始まろうとしていた。
ー・ー・ー
「随分と輝かしい青春譜を奏でていたようね」
「……」
ぶっ込んだ一言で始まるOHANASHI。奉仕部2人は既にガールズトーク(醜悪)によってあけすけに昨日の出来事を知っているようだった。尋問とかいうアナログな方法のくせにSNS社会もびっくりの情報収集速度だった。
おこぼれを預かったらしく「やるねー!」と脇腹を突いて来る小町を見てため息をつく。
これは、また目が死ぬのも時間の問題だな。
口を開かない俺をみて雪乃はむっとする。悔しいが可愛い。
「黙秘権、というわけね。……まぁ、いいわ。別に私は八幡君に嫌われたいわけじゃないから、強制的に思い出をほじくり返す気もないし。それよりも、私が聞きたいのはもっと別のことよ」
「別の事?」
「あなたが一色さんの隣に座っていることよ!偶然にしてもおかしいじゃない!」
「いや、それこそ知らねえよ!」
黙秘権を使うことなく黙るわ!理由が分からないからな!強いていうなら運命の悪戯だよ。
横に座ってたわわに実った双丘を以って我が左腕を挟み込む御方もこくこくと頷いている。2人の好奇の対象はどうやら本当にそこらしい。そこかよ。
「知らん」
「ダメよ!」
「ムリよ。……つーか、何がダメなんだよ」
なぜとは言わないが左とは逆に、痛い右腕に耐える俺。雪乃はキッと口をへの字にして言った。
「羨ましいじゃない!」
素直か。2年の時と比べるとツンデレの采配が真逆になってんじゃねえか。あの頃の猫みたいな彼女はどこに言ったんだよ。デレ100%か。反応に困るわ。
結衣の方も、さすがに驚いたらしく口をパクパクとしている。言葉が見つからないようだ。
「ほぉー!」と目を輝かせる小町を再び見て2回目となるため息をつきつつ応える。
「……どうしようもないんだから落ち着けって。これに関しては本当に俺もいろはも知らなかったんだって。なぁ、いろは?」
「はい!知りませんでした!」
萎んだ様子から一転、シャキッとした返事をする。
「……じゃあ、八幡君は転入してから誰とお昼を食べたのかしら?まさかそのナリでボッチやってるなんてことないでしょうし」
ブーメランですよ、雪乃パイセン。
「……いろはだけです」
「ほう?」
こ、怖いよゆきのん!このまんまだと俺の体感温度が雪ノ下だよ!雪ノ下八幡になっちゃうよ!あと、由比ヶ浜。締め上げるように俺の腕を抱え込むことで痛がらせようとしているのは分かるが、何故とは言わないけどノーダメージイエスマシュマロになってますよ?
素直に、幸せです。
いや、そうじゃない。思考が脱線しすぎているな。
「いや、考えて見てくれ……下さい。中身のナリが変わっていない以上、俺にそうそう友達ができるわけねえ……ないですよ。それはもう昼は自然とええ、いろはさんとのランデブーにもなりますとも、はい。寧ろ人と食べていること自体俺からしたらレアなんすよ、マジで」
ランデブー!?と一層目を輝かせる小町にものの表現な、と付け加えた。聞いていた雪乃は取りつく島もなく違うわ、と否定する。
「いえ、八幡君のことは一理あるわ。嘆かわしいことに大いにあると言っても過言ではないわ。ただ、違うの。あなたがいろはさんと食事をとっていることが、ではなく、いろはさんが連日八幡君と食事していることが、おかしいのよ。だってそうじゃない?彼女、友達多いのだし」
チラリと目線だけでいろはの肩を震わせた雪乃は、『まあ、実際の所、大半は妬み嫉みなのだけれど』と付け加えた。ここで、『ははっ、メンヘラかよ』と心にもないことを言おうものなら現在の因果も何も関係なく何故か雪ノ下八幡(戸籍的に)になりかねないため口をつぐみつつ、『言ったれいろは』と小さくうなづいた。
「それは、私が先輩を落とすためですね」
君もぶっちゃけるのか……。
好意のドッヂボールとキャラ崩壊著しい会話にSAN値が悲鳴を上げていくのがわかる。小町は神妙そうな顔で黙っているし、もはや癒しは意外な事に結衣ただ1人である。
サスペンス映画でも味わったことのないはらはら感を持って成り行き見守っていると、数瞬間の沈黙の後、雪乃はけろっとして微笑んだ。
「……なら仕方ないわね。恋路に王道も外道も非道もなにもない、とは調子に乗った姉さんが言っていたけれどこの歳になってそれを実感するとは思わなかったわ」
「……いいのか?」
「言ったでしょう?私はあなたに嫌われたいわけではないのよ。……それに、今の関係上、ここで2人を糾弾したところで私はただの勘違い女じゃない。八幡君が心の中でメンヘラ呼びしそうな女になりたくないわ」
そう言って雪乃は俺の頰を妖しい手つきで撫で上げる。美少女耐性がお世辞にも平均的とすら言えない俺はその所作にドキッとする。そのドキッにはさっきの思考がまるっきり読まれていたのではないかという恐れも多少入っていたが。
「こらー!私が隣にいるんですけどー!」
「あら、いつからいたのかしら?」
「いるよ!いつでもどこにでもいるよ!」
「耳元で騒ぐな」
ゆきのん!ゆいゆいと、互いの呼び方が一部変わったもののギャーギャーと懐かしいやりとりをしている2人にしばらく身を任せていると、いろはがおずおずと手を挙げた。
「あ、あのー、お話はもういいですかね?」
「ゆいゆいがないなら。私はもうなにも言う気はないわ」
「私もないよっ!ごめんねいろはちゃん!帰っていいよ〜」
帰すのかよ。散々責め立てといて帰しちゃうのかよ。
「いや、帰さないで下さい。……私も先輩に聞きたいことがあったんですよ。お二人は何故か気づいていないようなので、私が聞いちゃいますが」
「……なんだよ?」
「……SAOで、彼女作りましたか?先輩やけに余裕(と貫禄)が出てきているので、そこの所気になってたんですよね」
「「「あ!!」」」
あ、じゃないが。
このあとの追求は割愛させてもらうが、一言言うならば、俺が飯にありつけたのはカラスが鳴き出す頃だった、ということくらいだな。
恋する乙女は怖いと思いました。
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22【黒の剣士⒈】
のどかな日差し。五月までもう片手で数えられる程となったある日。
慣れてきたクラスの雰囲気と、隣でガヤガヤと騒ぎ立てる後輩を程よいBGMに健やかな眠りについたそんな午後2時。
「相変わらず数学の時間はお眠ですなぁ……」
「……この時間は勘弁してくれ」
にへらー、とサラサラと栗色の髪の毛を揺らした彼女は今日もご機嫌そうに笑っていた。ふっと意識が途切れそうになった瞬間の言葉に少しばかり目が覚めてしまい、しょうがなしに顔を上げた俺は、いろはを恨みがましく見つめる。どうせ、無駄なんだろうけど。
「自習なんだから別にいいだろ」
演習にしたってしばしば夢の中に逃げ出すことがあるがそれはそれ。最近は数学の自習がそこそこあるから何故かと思えば、どうやら数学教師の嫁さんがおめでた間近なそうだ。公務員、ましては教職がそんなんで休んでいいのかと思うが、なんだかんだ中間テストの範囲は終わるそうなので問題ないらしい。公立であるはずなのに私立のようなガバガバ授業管理である。自習が続くせいか、見渡せばクラスの人もいつもの三分の二位しかいない。
「そういえば、もうカーディガンの奴が増えてきたな」
「そりゃ気温は既に五月中旬並みですからね。下手したら30度超えるかもしれませんし、これは脱がなきゃやってられない、というものです。……はっ!まさか、言外に夏は下着で登校することを求めてるんですか、ごめんなさい私にはそんな勇気ちょっとありません」
「俺にもねえよ」
実際に身を引いておちゃらけながらも、るんるんと自習プリントを解いていく一色さんは成績上位者さん。ちょっと前の進級お祝いテストを比べれば、俺が勝てる分野が国語以外なかった。なんとかセンターのためにも頑張らなきゃと思うものの、中々伸び悩んでいるのが現状だ(しかし、数学に関しては触っていない)。
「そういえば、昨日の深夜番組でSAO特集が組まれていたんですけれど」
「SAO特集?」
今更か?SAOクリア当初はともかく、2ヶ月も経てばそんな特集も鳴りを潜めて今のホットな話題はSAO
「まあ、私達からしたら中で何が行われていたのかは未だに関心の高いことの一つですし。……それであの、先輩って【狂目】って人なんですよね?」
「いや、チガウゾー」
「誤魔化し方が雑の極みですよ。というか小町ちゃんから聞いてますし」
「なら聞くな」
「それはそれ、会話のワンクッションです。それで、昨日の深夜番組でやってたのが、事件のあらましと世論の紹介みたいな堅い話じゃなくて、もっとバラエティ的な感じだったんですよね」
「バラエティ的?」
いろはがプリントに走らせていたシャーペンを机に置く。そしてこちらを向き そうなんです、と頷いた。
「SAOのプレイヤー紹介です」
「……それは随分とまた、グレーなところを攻めて来たな」
相当気を使わなければプライバシー的にも、デリカシー的にもひょいひょいっと超えてはいけない線を越える話だ。下手したら親族遺族から苦情殺到間違いなし。
いろはが話すには某トークバラエティ番組の一枠『ゲーム大好き芸人』とかいう企画で出て来たらしい。ひな壇にずらっと並んだお笑い芸人がここに持ち寄ったSAOの話をするという聞いただけでお腹いっぱいな内容なんだそうだ。
AR技術を駆使し、ソードスキルを再現するなんてものもあったらしくて、芸人が見せるコミカルな動きと安っぽいARが面白かった、とのこと。
「んで、それと俺が何の関係があるんだ?」
「んー、黒の剣士って知ってるかなぁって思いまして」
「そいつは知らない方が不思議なくらいの大物だな」
黒の剣士、双剣を自在に操る真っ黒なコスチュームに身を包む文字通りのトッププレイヤー。SAOという先進的かつ超・現実的な
……そして、俺のありたかった一つの理想、いや───。
「そんな有名人のことなら俺に聞かなくてもネットを漁れば嫌という程出てくるだろう?」
「まあそうなんですけど。先輩との話の種に一つどうかなと思いまして」
「あのゲームを話の種にしようとするのはお前くらいだよ」
「嫌でした?」
「……ま、程々にな」
と、軽く諌めたものの、結局俺から見た黒の剣士の所見を話すことになった。とはいえしかし、実の所、俺が彼と直接的に接点を持ったことは数える程しかない。彼とのパスは大概《鼠》に任せていたためだ。とはいえ、彼の生活・戦闘スタイルは個性的な前線組でも群を抜いて特徴的であったため、良い意味でも悪い意味でも印象に残っている。
個人的な感想を言えば黒の剣士、つまりキリトというプレイヤー程主人公然としたプレイヤーはいない、というのが1番であろう。
アインクラッド随一のスピードを生かした高速戦闘と、そのスタイルに気味の悪いほど適合した双剣捌きはまさに一流。現実世界の機動に囚われないゲームだからこその動きは前線組全体の戦闘に好影響を与え続けていた。
加えて、容姿。終始聞くことは叶わなかったが、彼は未だ第二次性徴期が抜けきっていないのだろう。幼さの残る女顔と成長により見え隠れする絶妙な程度の男の面が両生する彼の甘いマスクは、幾度となく、初な少女達(一部お姉様)を誑かせていた。
絶対的な強さとは孤独を生む。
確か打ち切られたとある漫画のセリフだった気がする。キリトもその例に漏れず絶対的な強さを背景に小さな不運の連続でソロプレイを続けており、俺も迷った挙句にボス戦闘でも主として遊撃に当てていた覚えがある。そのせいで、俺が彼を故意にラストアタックから遠ざけていると思われて、アタッカーをさせろと閃光に一時期詰め寄られたこともあった。
総合すると、実力は確かだが協調性を至上とする階層主戦では扱いにくい、ジョーカーにも似たプレイヤー、といったところだろうか。王道の強さを誇ったヒースクリフと真逆の存在だったといえよう。
先も言ったように非常にモテていたため、閃光とのお付き合いだとかその他の女性関係だとか、まるで歌舞伎俳優のような噂も絶えないプレイヤーでもあったが俺個人の所見としてはこんなところだろう。
しかし、こんな事をいろはに伝えたところでどうしようもないし言いにくい。だから、俺は、
「ああ、物凄く強くてモテたプレイヤーだったな」
と答えるに留まるのだった。つまり、朴念仁だとか無自覚だとかをぼやかしたわけだった。
「モテたんですか?顔がイケメンだったって事です?」
「それにプラスして強かった。まるでローマ時代みたいな話だけど、あの世界において側にいて安心できることはそれだけ力強いことだったからな」
つまり、自分本位な自分が生き残ることだけを考えたようなステータスをしてる奴はダメということだ。そう、俺のように。
「ほぅ、イケメンと言いますと、先輩程ってことはないでしょうが葉山先輩レベルですか?」
現代人のいろはは強さよりも色らしい。
「分かっていると思うけど、世間一般からしたらどう考えても葉山の方がいい男だからな。……そうだな、誤解を恐れずにいえば、戸塚と今の俺を足して二で割って幼くしたような顔だな。あの感じ、年も多分中学生だろうしな」
「え? そんな小さい子がトッププレイヤーだったんですか?!」
「だからこそ、ってとこもある」
若ければ若いほど、年を重ねる毎に多く絡みついてくる世界と自分を繋げる鎖が少ない。つまり、死を恐れる感覚か大人よりも薄い。それもあってトップ、セカンドは成人未満の男女が張っていたのだろう。或いは、大人よりも子供の方が世界に対する執着心が強かったとかも理由としてあるのだろうけど、そうやって掘り下げていけば、赤子は未だ神に近いとかいうオカルチィックで神話的な話と繋がってくるし、それを今話すのは余りにも冗長だろう。
「それじゃあ、昨日テレビやってた壁走りとかその子はできたってことですか?」
「ああ、システム外スキルとか呼ばれてたな。レベル40までのステータス全てを敏捷に捧げるとできるようになるんだったっけか?他にも武器を壊したりスキルを繋げたり色々器用なことやってたぞ」
「すごっ」
勿論俺にはできなかったんですけどね。情けない言葉は言わぬが花。あたかも自分ができましたと言わんばかりの、今となってはキモいと言われることはなくなったドヤ顔を披露しているといろはは「ん?」と声をあげた。
……気づかれたか?
「モテたって……黒の剣士には可愛い彼女がいたんですよね?」
「そんなことまで放送したのかよ」
いや、本も出ているから別に不思議なことではないか。
いろはは不思議がっているが、その答えは単純明快。俺も理解はしているつもりで分かっていない事だけど、多分こういうことなのだろう。
「俺が言うのもあれなんだが、お前だって今も俺にアピールしてるんだろ?」
「……ああ!つまり振られたけど未だ好きなんですね!」
「あんまり大きい声で言うな」
俺が恥ずかしいのだ。烏滸がましい発言も相まって余計に、な。
あと、正確には彼女達は言外に振られたのだ。
アスナと結婚したことによって。まあ、当の本人は振られた彼女達の想いにすら気づいていないって線も十分にありえるが。【朴念仁】。頂点の君の数ある異名の一つは伊達ではない。
目の前に置かれたやりかけのプリントに目を落とす。
「なあ、三角関数の合成ってなんだ?」
「二つの三角関数を合わせることです」
「成る程なぁ」
分からん。
「というか、プリントやるなんて珍しいじゃないですか。眠り姫らしくもない」
「ちょっと待て、なんだその不名誉なロイヤルネームは」
「数学の先生が前に言ってましたよ。『彼は眠り癖が抜けない眠り姫だから〜〜〜』って。それ以来先輩の陰口ネームは眠り姫ですね」
陰口ネーム。なんというパワーワード。前に寂れた駄菓子屋で見かけた『おせんべえ餅』よりも心に残るワードじゃねえか。衝撃のあまり思わず、比企ヶ谷菌、比企蛙、ドグサレキモ目玉野郎、比企谷のお兄さんの役満陰口ネームが脳裏を駆け抜けていったわ。
「何泣いてんですか?」
「いや、少しな。……俺、この歳になってまだ陰口叩かれてるのかと思うとほろり涙が一筋漏れ
「あー、まぁ大丈夫だと思いますよ?陰口って言っても悪口じゃなくてただ褒めてたり話題になったりしているだけですから」
「悪口じゃない陰口とかあるのか?」
「……」
「何泣いてんだよ」
失礼な奴だな。
何となくでといた整式を解答欄に書き込みながらいろはを睨む。微笑み返された。器の違いに惨めになった。
「あ、そこ間違ってますよ?」
「止めろ、惨めになる」
「もうなってるから関係ないですね」
「悲しくなったわ」
つまり、悲惨。
というかなんなの、この後輩。好意の欠片も感じない言葉の暴力を振るってくるんだけど。こんなんじゃどれだけHPがあっても足りないんだけと。
「さて、そろそろ授業も終わりですけど、今日の放課後は何か予定があったりしますか?」
「あれ?今日5時間だっけ?」
「はい、確か東京の姉妹校との打ち合わせ会議があるとかなんとかで5時間終わりです」
だから、クラスの人が少なかったのか。
「特には無い……いや、一つあるな」
「えぇー!今作りましたね?!私と遊びたく無いからって今作りましたよね、先輩!」
「いや、違うから。違うから首元を掴んで揺らすのは止めろ。八幡君のオシャレワイシャツにシワができる」
「さっきタグに打たれたユニクロの文字が見えてましたよ。……して、その用事ってなんですか?クレープ屋さんよりも大切なんですか?」
腰に手を当てて上目遣いで尋ねるいろは。言って良いものかと一旦口を閉じて逡巡し、結局まあいいか、と結論付ける。途中からプリントやりながらの会話をしていたため、提出しなければならないプリントも(合っているかは別として)半分以上埋まっている。あとは分からなかったことにすればいいやとプリント上部に名前を書き込んで俺は答えるのだった。
「見舞いだよ」
「見舞い?」
「……まだ、目が覚めてないのがいるからな」
そして、その人が黒の剣士の恋人にして妻のアスナである事は言わずに黙っておこう。プライバシー的に不味そうだし。
なら、仕方ないですね。としょんぼりとして引き下がるものだからつい明日な、と答えたところで5時間目を告げるチャイムがなった。
ー・ー・ー
代理の先生が授業終わりの挨拶を終えた後。
調子づかせたせいで、『デレたっ!』とはしゃぐいろはをグリグリとしていると、とある生徒がクラス内に飛び込んでくる。快活そうな茶髪で短髪のスカートの短い子だ。
どうやらいろはに用があったようで、扉付近の女生徒に書き込みをした後こちらに駆け足でやってきた。
「せ、生徒会長っ!……って、わっ!噂のイケメンくんだ!」
見た目通りの元気さである。
グリグリしていた手を離していろはを少し前に押してやると、女生徒もそうだそうだ!といろはに向かってこう言った。
「生徒会長!大変なんです!!生徒昇降口の前にバイクに乗った黒ずくめの男が立っているんです!!」
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23【黒の剣士⒉】
桐ヶ谷和人は茫然自失としていた。
それは、文字通り自失。感情の飽和が引き起こした一種の錯乱だった。
脳内に反響するのは先ほどまで会話をしていた相手の粘った声。自身の心にこびりつくかのような彼の言葉群は心内反響の度に心の内壁を侵食していく。壁が喰われ切ったその先にあるのは諦観と絶望だけだと知っていても、桐ヶ谷和人にはそれを止める術を見失ってた。彼はデスゲーム培ったはずの、不屈の精神も、与えられた立ち上がる勇気も、喪失していた。
彼の両目からは意味もなく涙が溢れている。
否、意味は確かにある。しかし彼には分からなかった。
何故流れるのか。何故、止まらないのか。とめどなく滴り落ちる涙が自らの情けなさからくるものなのか、あまりにも辛く暗い未来に対する悲しみからくるものなのか彼には判別つかない。
自失の中、微かに生じては消えるのは最愛の彼女に対する謝罪と、奴に対する憎悪の感情だけだった。
たった1人のためとしては過剰なまでの空間を持つ病室。徹底的にまで消臭されているお陰で、病院にこびりついた消毒液の匂いは全くせず、ただ、痛いまでの沈黙と、その沈黙をわずかに緩和するが如きの寝息と嘆きが病室全体を包んでいる。
結城明日奈(asuna yu-ki)
目の端に移るベッドに取り付けられたプレートが彼をより一層悲愴の谷底へと沈め混んでいた。
どれくらいの間彼女にかかった毛布を濡らしていただろうか。
窓の外の景色は皮肉なまでの青から、心の弱さを引き出す赤紫色へと変化していた。和人は涙こそ止まったが、崩れた体を起こす気力は湧かずただ呆然と崩れたマリオネットのように佇む。その構図は果てしなく続くかと思われたが、はっ、と意識を取り戻したのは意外にも早く、1分ほど後に鳴った扉の開閉音が聞こえた時だった。
「桐ヶ谷くん、そろそろ今日の面会時間は終わりますよ?」
「……小林先生」
はっ、と小林医師も又、息を飲む。和人の尋常ではない思いつめた表情に。精神科専攻でありつつもなんやかんやでスポーツ医に転向した小林医師は少し目を伏せた後、余裕のない表情で俯く少年にこう告げた。
「……マックスコーヒー、奢ってあげる」
その時の小林医師の頭に浮かんでいたのは、取り敢えず気分を変えてあげようとする医者としての考えと、ふと浮かんだとある青年について話してみようとする小林としての考えだった。
ガランと空いていた待合室に移動した2人はコーヒーを片手にどちらからかともなく話し始める。その話は、初めは天気がいい1日だったというありふれてありきたりな世間話。次いで最近のVR事業に絡めた医療事情について話、和人の身辺話を経て、本題へと移っていった。
和人が本題に入ってしばらくは、随分と遠回りな道のりだったなぁと小林が内心苦笑いで話を聞いていたが、話が進むにつれて内心だけでなく目に見える表情まで強張っていく。
「……と、いうわけなんです」
話し終える。
和人は勿論全てを話したわけではない。しかれども、頭の良い小林医師は彼の話で十分理解が及ぶ。それどころか脳内で和人がショックを受ける映像が再生される程度には想像される。これは、小林が今まで数え切れない人の数え切れない種類の表情と行動を見て来た経験の賜物であるが、もしそうでなかったとしても和人の話は100人が聞いて100人が顔をしかめる類の話であった。小林医師はしかめた表情で考える。手元で暑さをじんわりと伝えるコーヒーを一口啜ると無意識のうちに、ふぅむ。と声なのか息なのか判別つかない音が漏れた。
「……明日奈さんと会えなくなる、ですか」
言葉を選びながら小林は話す。
「確かに彼女はVIPでありそれ相応の家柄の娘であると言えますが、私にはどうもその、君と彼女が離れる光景がイメージできませんね」
「……けど」
「そもそも、明日奈さんのお父さんは和人くんのことを大変感心した様子で話していましたし。ゲーム内での関係はさておき、友人としてはまず持って問題ない立派な少年だともおっしゃってました」
「そう、ですか」
沈んだ表情は変わらないまま鬱々と相槌を打つ。
それを見ていた小林医師はふと話そうとしてた彼についてのある一言を思い出した。
「ウイスキーと煙管」
たった10文字にも満たないこの言葉は、彼───比企谷八幡担当のリハビリトレーナーづてに小林が聞いた言葉だった。また、担当患者である明日奈が起きた際に伝えようと思っていた言葉でもあった。
唐突な言葉に反応したのか、はたまたこの言葉に心当たりがあったのか。和人は伏せていた顔をあげ小林を見る。
「ある患者さんがいってた言葉なんだけどね」
「……その言葉」
「ふむ、聞き覚えがあるのかい?」
「……【参謀】の」
ぼそりと呟いた和人の言葉は尻すぼみだったが、小林は【参謀】という単語を捉えてニヤリと笑った。それはつまり、八幡が望んだ言伝を与えるべき人だという証拠の他ならなかったからだ。笑みを湛えた彼は医者として0点な発言を決心する───とはいえ、小林の心に後悔はなかったのだが。
「……彼に会いにいってみればいい」
「でも、どうやって?」
和人は当然の疑問を投げかける。
小林医師はそれに答えることなく手荷物コーヒーを屑かごに入れると立ち上がって、手を振って去っていった。突然の行動に和人はしばし呆然とする。
そして、こんなところで話を切り上げられても困ると和人が腰を上げた時だった。
「私は立場上、それ以上の情報を与えることはできないけれどね。……あっ、明日奈さんの病室に『明日奈さんのためのリハビリ参考データ』として残しておいた、『とあるSAOサバイバーの資料』を忘れてきちゃったかも……なんてね。まぁ、あったとしても年齢はともかく『所属』なんて書いてなかった『気がする』し、確認するのは明日でいいか」
小林があっけらかんと後ろを向いたまま
本来であれば記憶にすら残らないほど辛い思い出である須郷との邂逅の日。
桐ヶ谷和人に降って湧いたこの小さなイレギュラーはやがて大きく未来を左右することになる。
ー・ー・ー
時は変わって、というか戻って四月末の放課後。
「……おい、なんで俺まで行かなきゃいけないんだよ」
「私が怖いからに決まっているじゃないですか」
「いや、放っておけよ。その黒ずくめの男、教師は不対応だったんだろ?なら誰かと待ち合わせしているだけなんじゃないのか?」
「先輩には好奇心がないのですか!!」
ビックリマーク二つ付けてまで強調する程殊勝な心掛けではない。人間としても、生徒会長としても。どちらかというと下衆な部類に入るであろう心づもりを抱いていた生徒会長(笑)は『俺だって怖いし、お前と違って見たくない』と嫌がる俺を引っ張っていく。面会時間が分からない以上、アスナの見舞いに行きたい俺としてはこんな所で無駄な時間を費やしたくないのだ。
廊下の中を遠慮なく俺の左手をとって歩いていくものだから尋常じゃなく視線を集める。その上、いろははそんじょそこらの男児ならたまんねえ!と悶えるような笑顔を浮かべてあるものだから尚更視線を集める。
慣れない視線と手汗が滲んだ左手に羞恥を覚えた俺は、繋がれたいろはの右手を弾くように解く。指を絡まされた。
「おいっ!」
「嫌です!」
先回りした彼女はツンとして断る。デレのためにツンとする。ツンデレの新解釈の誕生だった。
所謂恋人繋ぎによって、俄然湧き上がる黄色い視線に勘弁してくれと目線をやりながらも廊下を進み、2分と経たず下駄箱に到着する。
教室を出る際に持たされたいろはの鞄を渡しながら靴を履き替える。その際に手は離したものの履き替えるや否やいろはが注視してくるので、しょうがねえなぁと言いながらポッケに手を突っ込んだ。これなら意識しないで済むだろう。
「そうじゃないですぅ。違いますぅ。先輩は早く手を出すべきですぅ。出さないと殺しますぅ」
「後輩が物騒すぎる件について」
「先輩がヘタレスケコマシすぎ」
そこで切ったらただの罵倒だ。
さて、総武高校は校舎の構造上下駄箱から校舎を出れば直ぐに校門が見える。
「……あっ、あの人ですかね?」
つまり、件の人物はすぐ見つかる運びとなる。
青のバイクに寄りかかる黒のジャケットを着た身長170センチ位の黒色短髪の男性。確かに手袋ヘルメットを黒で統一しているようだし、黒ずくめと言われれば黒ずくめだ。
「てっきり黒ずくめと言っていたのでどんなバイクに乗っているのかと思ったのですが、青じゃないですか」
「本当に野次馬精神丸出しだな」
カラーリングとフォルム、そしてナンバープレートから察するにヤマハの原付二種。二輪は中二の頃にすでに予習済みだから多分間違いない。ア-0930とよく磨かれたナンバープレートがバイクの整備がきちんとなされていることを主張していた。
スタイルのそこそこいい痩せ型筋肉質な体型からもう嫌な予感がしていたが、案の定横顔は精悍なイケメンだった。通りで遠巻きに女子が立ち止まっているわけだよ。彼女のお迎えですってか?吹き飛べ。
「……話しかけないんですか?」
「お前が行けよ、生徒会長」
言い出しっぺが俺の腰を肘打ちをする。なんだかんだ言って職員が対応取っているわけでもないため、俺もいろはも黒ずくめの彼に干渉する気はあまりなく、かと言って彼の前を素通りしたらしたで校門周りでたむろっている生徒達の(生徒会長を見る)目が痛いので、必然的に俺らも立ち往生する。あれ、俺関係なくね?
どうしたものかと思っているとすぐ近くで『話しかけられちゃった〜』と話し合う女生徒が居たので、これはしめたものだと聞き込みをすることにし、いろはと女生徒に近づく。
「あの、彼について聞いてもいいですか?」
「へっ?生徒会長?」
一年生らしい彼女は分かりやすく動揺する。適当に宥めつつ聞き出した話によると、彼は人探しをしているらしい。
「人探し?待ち合わせじゃなくて?」
「多分、ですけど。……えっと、『目が怖い俺くらいの身長の男子知ってる?』って私には聞いて来ました」
「目が怖いって、うちの生徒にそんな見てくれからして怖い人なんていましたっけ?」
「いや、俺に聞かれてもな」
強いて言うなら腐っている少年ならいたけど……ってやかましいわ。
「……うーん、よく分からないなぁ」
女生徒と別れた後にいろはが呟く。そして何を思ったのかずんずんと彼の方へと歩み始めた。
「お、おいっ!戻って来いっ」
「なんか面倒臭さくなってきたのでダイレクトコネクティングしてきます」
「言い方が卑猥だな」
「先輩の頭が卑猥なんです」
そんなやりとりをしつつ、いろははすらすらと校門脇に立ついけてる面子に話しかけた。俺も気になったので野次馬程度に近づく。
「あのぅ、すみません。この学校の生徒……じゃないですよね?」
ー・ー・ー
いろはの声にイケメンは分かりやすく狼狽した。目を左右に動かして「あー、うー」と声を詰まらせて手をワタワタと動かした。
ティン!と俺の脳みそはコイツが他人とのコミュニケーニョンに不慣れな哀れな人間だと気付いたが、「俺もそうなんっすよ!」と半笑いで察し始めようものならイケメンだけでなくいろはにもドン引きされること間違いない。助け舟を出そうかとも思ったがなんとなく困った顔もイケメンなのが癪に触ったので放置を決め込むことにした。
「あ……っと、えと」
「あのー?」
イケメンをのぞき込むようにするいろは。いろはのあざとさはコミュ障を例外なくどもらせる毒になる。つまり黒男も同様。
「あっ!ご、ごめんなさい!人を探してまして!」
「人?うちの生徒?」
「はい!目が人間離れしていて俺と同じ位の背の高さなんですけど!」
男の背の高さは大体170と少し。……つーか、人間離れしてる目ってどんなんだよ。いろはも悩んだのち、そんな人いないと思うと答えた。
「そ、そうですか……。あの、俺、桐ヶ谷和人って言うんですけど、もし見かけたら『キリトが呼んでた。小林経由で連絡求める』って伝えてくれませんか?」
「!!!」
「……どうしたんですか、先輩?そんなに目を開いて」
「……」
……キリト……小林……。
小林……。
……小林医師?
……あ。
「すまん、桐ヶ谷。1つだけ教えて欲しいんだが」
「先輩?」
「……なんですか?」
「……【ウイスキーと煙管】」
「!!!」
口を上下に開け、目を見開く和人。……やっぱりそうか。
「……お前、【kirito】か?」
「はあああああああああ?!」
アバター詐欺だろ?! キリトが叫ぶのを傍目に俺は、そうか、こいつも成長してるんだよな。と合点がいった。
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24【黒の剣士⒊】
「こんな貧相なバイクで二人乗りできんの?」
「失礼な奴だなぁ」
そんな会話を挟みつつ二人乗りバイクで千葉街道を爆走すること1時間近く。俺とキリトは東京上野近くまでやってきた。
今日も見舞いができなかったなぁ、とキリトにしがみつきながら思う。見舞いが妨げられたのはこれで2度目だ。二度あることは三度あると言うし、もしかしてこのままずっと見舞いができないんじゃねぇの?
キュッと音を立てて止まったのは知らない駅。知らないといえば、校門でもなんだかんだと言ってたらいつの間にかいろはと別れて、いつの間にかキリトにヘルメットを被せられ、そんでもっていつの間にかこんな見知らぬ場所に連れてこられていたんだったな、俺。全く、飴の誘惑なしに誘拐されるとかチョロすぎだろ。
「バイクしまってくるから」
そう言って俺を置いて駅のバイク置き場に消え去っていくキリト。時計は既に5時過ぎ。休憩にと止まったコンビニで遅くなる旨を一応小町に連絡したが、果たして俺は無事に帰れるのだろうか?
そもそものところ。つーか、ここどこだよ。
携帯で調べてみると東京の御徒町とかいう場所らしいけど……うん、どこ?
自動販売機にマッ缶がなかったり、やけに狭っ苦しい路地ばかりが目立つ住宅街に地元との差異を感じていると、キリトが「悪い悪い」と手を振りながら帰ってきた。
「いやぁ、この辺初めてきたんだけど意外と駐輪場が小さくてさ」
「お前は俺を始めての土地に連れてきてどうしたいんだよ。……つーか、お前、本当にキリトなのか?」
「それはこっちがそのまま返したい質問だな」
笑ってキリトはライダースジャケットから免許証を取り出した。
「……な?桐ヶ谷和人。苗字と名前から少しずつ取って『キリト』だ。……単純とかいうなよ?」
写真付きの二種免許には確かに言った通りの名前と16歳の記述。
「……お前学校とかは?」
「う……行ってない。というかしょうがなかったんだよ中二に捕まって起きたら卒業間近だし。というかそもそも……」
ブツブツと虚ろな目で早くキリト。成る程な、随分と複雑な時期に捕まったもんだ。どうせこいつのことだから中弛みして「ラッキー、ずっとSAOできんじゃん!」とか思ってたんだろうな。いや、どの歳でもなんだかんだやってそうだな。
「それじゃあキリトは新しい学校できるまで自宅待機か」
「通信教材は毎月送られてくるけどな。……というか、あ、えと、なんて呼べばいい?」
「比企谷でも八幡でもすきなように。プレイヤーネームは勘弁してくれ。リアルとゲームは分けたいからな」
「ばっちし俺のことキリトって呼んでるけどな!」
キリトはツッコミながらも俺の方を見ることなく、道の左右を見ては手に持った携帯端末と見比べるを繰り返す。一見初見の地でイマイチ道が分からない一般男性に見えるが俺には判る。こいつは俺と目を合わせるのを避けているだけだ。その証拠に携帯端末に表示されているのはホーム画面だし、そもそも左右を見たところで一本道だからまるで見る意味がない。
(それにしても、こいつでかくなったな)
目線の高さにおでこが見えるキリトを観察する。
身長も172、3はありそうだし、体もアバターに比べると随分と筋肉質だ。年齢的に、第二次性徴を迎えたのだろうが、寝たきりの栄養不足になりがちな環境でよくもここまででかくなったなと思う。
「キリト、随分と成長したな」
会話のタネにと口に出してみた。相変わらずこちらに目を向けることはなかったが、
「八幡に言われたくない」
即答された。
事実だった。
数分もすると時間帯も相まって人気の少ない路地に着く。キリトはスマホをしまうと(今度はちゃんと画面に地図が表示されていた)、小さく「よし」と呟いて小さな路地裏へと歩を進める。年下に負けてはいられないと謎の対抗意識を持って、それでもおそるおそると彼についていくと路地裏に突如として木製の扉が現れた。
「ここに入るから」
「はぁ?」
短くそう告げたキリトは扉を遠慮なく開けた。え?なに?もしかして秘密結社的なアレですか?もしかして俺、改造されちゃうの?
ショッカー系男子とかもう流行ってないだろ、なんてヤバそうな雰囲気に押されて意味不明なことを思う。要は現実逃避なのだが、そんな俺も「ほら」とかけられた言葉に「あ、あぁ」とどこかとぼけた返答をしてふらふらと扉をくぐってしまった。
扉を抜けるとそこは、雪国……なんてことはなく。
ただ、雪国にいそうなマッチョメンでダンディズムとワイルド味に溢れるガタイのいいおっさんがエプロンを着て立っていた。声をかけようとキリトを見れば、初対面なはずの相手に気楽な調子で声をかけている。
……俺と同じで内弁慶のコミュ障だと思っていたのに。失礼にも少しショックを受ける俺。
歓談を楽しんでいた2人はややあって1人佇む俺にやっと気づいたのか、軽い謝罪とともにキリトが中心となって紹介を始める。
「こっちが、この古ぼけた喫茶店の店主であるアンドリュー・ギルバート・ミルズだ」
おどけるキリト。それに答えたのか額に手を当てて「おいおい」と大男は外国然とした彫りの深いマスクを口角を上げた。気障っぽい態度が嫌に様になるヤツだ。
そして、どいつもこいつも単純なアバターネームをつけてんな、とアンドリューの変わらない顔を見て思う。
「調子いいこと言いやがって……と、悪いな放っといちまって。ダイシー・カフェのマスターやってるアンドリューだ。……ようこそ、《
「……もう店主はお前だと何回言ったら分かるんだ、《エギル》」
ましてや自治長でもないのだが。
もう1人いたのなら、そう続くはずの、所謂お約束のやりとりを2ヶ月ぶりに口にして、俺は寄ってきた190センチの大男に手を挙げた。
キリトはそれを見て「本当に【参謀】だったんだな……」と呟いた。まだ疑ってたのかよ。
ー・ー・ー
ブレンドコーヒーを使ったというミルクコーヒーの味を楽しむこと10分と少し。ジンジャーエールを飲み干したキリトがエギルにも同席を促した。
「───なぁ」
キリトを呼びかける。
「なんだ?」
「あ、いやなんでもない」
やけにそわそわとした様子のキリトを見て口をつぐむ。どうせ後で分かることだろうし、キリトが何か言いたそうにしていたためだった。キリトはちょっと怪訝な目を向けてきたがすぐにエギルを見やる。
「で、あれはどういうことなんだ?」
キリトが険しい目線をエギルに向ける。エギルもなんかキリッとした視線を交わしているし、なんか俺をそっちのけでハードボイルドをやっているような感じだ。さっきから問答無用の勢いで誘拐してきた相手を放置することがしばしばなんだけど、どうなってんの?20センチも離れていない距離の会話なのに1メートル以上の距離を感じる。例えるならテニスの授業中に葉山と戸部と大和の中に入れられた俺の気分。
別にいじけたわけではないが、コーヒーの入ったグラスを弾いて甲高い音を立てる。
しばらくむさっ苦しいお見合いをしていた2人だったが、おもむろに店長がテーブルの上に長方形のパッケージを置くことでそれは終わった。見たことのないサイズのものだが、どうやらそれはゲームソフトの入ったパッケージのようだ。
キリトと俺がパッケージを覗き込むと、そこには巨大な満月をバックに妖精が剣を持ったイラストと下部に飾られた《ALfheim Online》の文字。
なんて読むんだこれ?
「アルフ……いや、ALO───あぁ、そういうことか」
口の中で小さく呟く。そして、気づく。
というか、繋がる。
思い出したのはいつかのいろはとの会話。
『ALOの世界樹の中にアスナ似の女性がいた』
つまり、エギルはこれを知った時にキリトに連絡をしてキリトは詳しく聞きにここにきたということなのだろう。
……マジで俺必要なくね?とは思うが。
「……アミュスフィア?」
1人納得しているとキリトがボソッと呟く。
「あぁ、オレたちがSAOにいる時に発売された新しいハードだよ。ナーヴギアの後継機で今度こそ安全だからと結構普及したみたいだな」
「俺がそれを聞いたときはおもわず笑ったな。現在進行形でSAOが行われてるっていうのにのうのうと好景気発売してしかもバカ売れしちゃうとか、日本の平和ボケはどうなったんだってな」
しかも、平然とVRMMOが横行しているときたもんだ。捕まった身で何を言っているんだと思われてもしょうがないが嘆かずにはいられない。それが実際に安全だったかはともかく、当時に購入した奴はどれだけリテラシー面で阿呆なのかと。
「妖精か……。パステルな雰囲気だし、剣が一応書かれているけどスローライフメインのまったり交流系なのか?」
「それがそうでもなさそうで、どのつくスキル制度、プレイヤースキル重視、PK推奨のハード系らしい」
ニヤリと笑ってエギルは続ける。
「簡単にいうとレベルの排除されたSAOで、各種スキル数値が使用度に応じて上昇するって感じだな。違うのはソードスキルが魔法スキルに、プレイヤーの背中には翅がつくってトコだ」
グラや精度もSAO並らしいぞ。肩をすくめるエギル。
スペックを聞いたキリトはマジかよと言った感じで口笛を吹くかのように口をすぼめる。よもや、天才茅場明彦の手を一切借りずにそのレベルのゲームが作れたとは到底信じられないが、 俺は俺で気になることがあり聞いてみることにした。というか、話を進めることにした。
「飛べるってのは、どういうことなんだ?あと、これを見せたってことはつまり、あの画像が本題か?」
「ああ、そうだ。フライト・エンジンによって飛行を可能にしたらしいが、オレもまだプレイしたことはないからよく分からないな。───そして、本題はご察しの通りこいつだ」
スッ───。
ALO同様机上に滑り置かれたのは予想通りの一枚。
鳥籠に囚われた1人のアバターの姿。
ギリ。キリトが歯噛みした音がする。小さく「……野郎」と呟いていたのを俺は聞き逃すことはなかった。
「アスナだ」
しばらく沈黙していたキリトが断定する。随分と擦れた荒い写真であったがやはり彼もその結論に至ったらしい。そこまで話が進んだのなら後は早い。俺は残り少なくったミルクコーヒーを一気に飲み込むと「んで、」と一人ごちるように呟く。……俺にとっての本題を。
「それで、キリト。お前はなぜ俺をこの場に呼んだんだ?」
ー・ー・ー
キリトは比企谷八幡という青年について抱く印象はどうしてもSAO内でのものが強く反映されている。様々な印象と出来事と要因とをごちゃ混ぜにした結果、出てくるものは《いい奴》というものに落ち着くのだがキリトにはどうもその結論に腑に落ちないものを感じていた。
それは、比企谷八幡が持つ自己犠牲を選ぶことができるという理性を端的に捉えようとした結果のモヤモヤであるのだが、SAOでそんなに関わりを持ってこなかったキリトにとってソレを理解するというのは不可能に近いことであった。
五月をそろそろ迎えようというこの日、キリトが比企谷八幡をエギルが経営するカフェに連れてきた理由は主に2つあった。
1つはエギルに合わせたいというもの。
1つは明日奈の救出を手伝って欲しいというもの。
片方はともかく、彼は八幡に依頼をしたいと考えていたのだ。
須郷と初めて会ったあの日は、ただなんとなく会ってみようと思っていたキリトだったが、つい先日エギルから情報をもたらされた時からは、もう一回あの【参謀】の力を借りたい、そう考えるようになっていた。多少の美化が入っていたが、彼に相談しておけばいい結果に繋がると経験則から思考した結果だった。
だからこそ、アスナであろうと思われる写真を見た後の問いには素直に、
「八幡の力を貸して欲しい。明日奈を助ける手立てを考えて欲しい」
と答えた。
無論、現時点の情報では明確な助ける手立てが出ることなどはなから期待もしていなかったし、彼ができるとも思っていなかった。
しかし、もしもこれからの情報次第で何か任せたいことがあったら助けて欲しい───例えばMMOでパーティに誘うような軽い気持ちで依頼しよう───とキリトは考えていた。
ただ一度の依頼も断らず、ただ一度たりとも完遂しなかった依頼のない情報ギルドの総本山、そのマスターにたった1つの依頼をしたい。
明日奈に対するいっそ切ないまでの献身と未来に対する思い。
キリトは縋る思いで彼に依頼をした。
「断る」
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25【黒の剣士⒋】
八幡は顔色一つ変えることなく断言する。
場を覆う言い表しようのない異様な沈黙。対照的な表情で黙り込むキリトと八幡とは違い、エギルは何か思うことがあったのか口を何度か開いたが結局自分の声帯を揺らすことはなかった。
意志を持って沈黙を貫いた八幡とエギル。
対してキリトは何か言おうとしたが何も出てこない様子で口をパクパクと開けては閉じてを繰り返す。
何故、と呈しかけては口を閉じ。
何で! と怒りかけては口を閉じた。
無責任とも取られかねない無表情で八幡が甘ったるいコーヒーを4口啜った所で、遂にキリトは声を出す。
「……理由を教えてくれ」
それは、疑問の声でも怒りの声でもない、諦観の響きだった。
ー・ー・ー
やっと喋ってくれた。堪え難い空気感に呑まれて震える手で掴んでいたカップをお皿の上に置く。アスナの話をし出してから明らかに情緒不安定な状態であったキリトは躁鬱で言うところのダウナー状態になったようで、ALOの話を書くときの鼻息の荒さはどこへ行ったのか縮こまってうなだれている。
まあそれも、アスナを小町に置き換えれば想像できるし、それも無理のないことなのだろうが。
……いや、こればっかりはキリトのみぞ知るなのだろう。
「キリトがどの程度の力を俺に求めているのかは分からないが、それがピンであれキリであったとしても俺はやっぱりノーと言わせてもらう」
「やってもいないのにか?」
「やってもいないのに、だ。これは放棄でも諦めでもない。ただの確信からくる答えなんだが」
あるいは核心からくる答えでもあるのだが。
「俺は、何もできないんだ」
「なにも、できない……」
キリトが分かりやすく「なにを言っているんだ、こいつは」といった目で見てくるが、俺からすればキリトの方が『何を言っているんだ』である。
こいつは、主人公が過ぎるのだ。
過ぎるが故に、見失う。分かりやすい解答もそこまでの道のりも。
「そう、できない。脅されているからできない、立場があるからできない、所用があるからできない……じゃなくて、
「そんなことないだろ!」
「いや、ある。お前だってSAOから戻って来てから一回は感じたことあるだろう?向こうで味わった全能感。そしてここで味わうことになった無力感。いや、無気力感を」
容姿がどれだけ改善されようが、背がどれだけ伸びようが感じたのだ。成長しきった大人予備軍が泣きわめくほどに感じたのだ。ましてや多感な時期であるキリトが感じないはずがない。
事実、キリトもやはり思い当たることがあったのか奥歯を噛み締めて俯く。
「自慢じゃないが俺は向こうの世界で色んなことをして来た。周りで人が精神的に参っているところを助けて、支えて、睡眠を惜しんで努力した末にあそこまで上り詰めたんだよ」
攻略を円滑を進めるのに最も適した地位に。
まるで金融会社のエリート街道を進むシュミレーションゲームを一人でやってる気分だったあの頃を思い出す。ろくな思い出がない上にその殆どが卓上業務であることに絶望して思い出すのを中止する。
今から考えると文化祭なんて屁でもなかったな。……だって、仕事に終わりがあるとかどんなホワイトだって話だよ。
「……俺がそこにたどり着くために必要なことは三つあった。一つはあらゆる立場のリセット。一つは繋がりを広めていくこと。そして最後が運、だ」
そしてそれを掴もうとしていた俺がこうして手に入れることができたのは奇跡でしかない。天文学的な数字が導いてくれた結果でしかないのだ。
「だが、現実世界ではどうだ?……分かるだろ?地位はごく平凡な両働の家庭の長子でしかなく、繋がりだって自慢じゃないが10にも届かないと言う自負がある」
「それは本当に自慢じゃねえな」
やかましいわ。その蓄えた顎髭引きちぎるぞ。
まぁ、運だけに限って言えばそこそこあるのだろうけれど。やたらと美人に縁があるしな。戸塚とか戸塚とか戸塚とか。
……それはともかく。
「それはALOだって同じ……いや、ALOの方がもっと難しいと言ってもいい。こんな状況で俺がお前に何をしてやれる?プレイヤースキルか?いや、俺がそれがないことはお前らがよく分かっているはずだ」
「……それでも第三者的な知恵なら」
キリトの言葉に苦笑いを浮かべそうになる。食い下がってくれるキリトの気持ちは嬉しいが、それが一番できないことは俺が一番よく分かっていた。自嘲を抱きながらコーヒーに映った自分の顔を見て、未だ無表情を保ってくれていることを確認した俺はこれ見よがしにため息をつく。
「『この人員でこの役割をしてもらおう。ボスはこんな感じって情報が集まったからこの対策ができているこいつはキーマンだな』ってな調子でか? ……お前はそんな誰にでもできる仕事をやっただけの男に期待をしすぎなんだよ。……いいか、キリト。俺はお前に貸してやれる力はない。情けないことにそもそも0の力を貸すことは絶対にできないからだ」
そもそもの話、そういった指揮や立案の仕方ですら真似っこの付け焼き刃。だからこそ、その偽物に限界を感じたからこそあんなことになったのだが───。
まぁ、それはおいといて。つまりは、この世界で理不尽に対抗できるのはどう足掻いてもキリトだけなのだ。ゲームというフィールドにおいては最強たりえるこいつしか成せないことで、主人公でもモブですらない俺ができるのはその背中を押してやるだけだ。
「……そんなに項垂れるなよ」
下げてから上げる。物語や信頼構築においての常套手段であるが、実際会話の持って行き方としてはひどく合理的な手法。
それを何の感情も抱くことなく友達に利用するという、相変わらず最低な自分を愛でながら俺は不出来な笑みを浮かべる。自嘲じゃなく、苦笑いじゃない。最大級の安心させる笑みを。俺の表情筋も豊かに動くようになったものだった。
「キリト。お前はゲームクリアの英雄なんだろ?大丈夫だって。なんだかんだ新たな仲間と出会ってなんだかんだたってアスナを助け出してめでたしめでたし。それで十分な話じゃないか。なにも、難攻不落な城を攻略しろって言われているわけじゃないんだ。ゲームシステム上攻略可能なダンジョンをたった一回攻略するだけだ」
だから、大丈夫。
そう、幸いアスナは雪ノ下のように社会と大人に手垢と欲で雁字搦めになっているわけじゃない。これはたまたま帰還中に魂を迷わせた少女を助けるだけの話。むしろ、アスナが助かることで他の未帰還者の行方も分かるかもしれない大団円への第一歩にもなりうる希望の道なのだから。
だから、英雄が迷うに値する現状などではないはずなのだ。
「タイムイズマネー。使い古された言葉だが金言だ。焦る気持ちもはやる気持ちも分かるから、とりあえず、行動できることをして落ち着いてこい」
最後にそう締めくくって俺はALOのパッケージをキリトに渡した。
あとは、キリトがナーヴギアに対してトラウマを発症させていたとかいうオチがない限りこいつは解決に走るだろう。悔しいが、こいつにはその力がある。
運命力なんてちゃちなものじゃない、もっと明確に手段として成り立つ力───ゲームの才能がこいつにはあるのだから。
「……ごめん、八幡」
帰り支度をしようとしていた俺の耳に届いた小さな悲鳴。
隣に座るキリトは「ごめん」と再び呟くと今度はエギルを見た。
「エギル。この店に誰も入らないようにしてくれないか?」
「これからが儲けどきなんだが……って、なんか事情があんのか」
「ああ。他言無用の世間を揺るがす胸糞悪い、俺が絶対に許さない奴の話がある」
「……」
エギルは無言で席を立って入口の方へ歩いていく。
数分後、戻ってきたエギルの手には二つのカップがあった。
「サービスだ」
ホットミルク。
「ありがとう」
お礼。
「んじゃ、聞かせてもらおうじゃねえか。その胸糞悪い話ってのをよ」
着席。
「ああ───」
承諾。
メンタリストは一挙一動が千の情報をもたらすと言うが、こればかりは心理学には疎いズブの素人でも分かる。
キリトは、明確に誰かに対して本気の殺意を抱いてた。
エギル同様今のキリトはどうこうできるものじゃないと判断して掴みかけた上着を再び膝の上に置き直した俺は、今日3杯目となるカップの中身を一口。
温かく甘い。
なるほど場の空気と余りにもかけ離れた味だった。
そいつを思い出すのすら嫌ならしいキリトはカップを持つ手の力を調節できずわなわなとミルクを揺らす。はぁ、と漏れる息すらどこか迫力を醸し出している気がする。ぶっちゃけ切れた雪ノ下並みに怖い。本物な殺意がある分こちらのほうがシャレにならないのだが。
そうして、シャレにならないキリトが話した情報はシャレにならないどころのものではなく、
俺は奴を知る。
初めてその名前を聞いた時の違和感と、雪ノ下の事情と、マスメディアの報道、そしていろはの話が全て噛み合った社会の闇、その最先端を知る。
くしくもそれは、考えうる限り最悪の情報であり、俺らが遺してしまったSAOの裏ステージ、その攻略の挑戦券となるのだった。
糞ゲーである
ー・ー・ー
「んじゃ、気をつけて帰れよ」
「ああ、俺は帰ったら早速ログインしてみるよ」
俺も適当な挨拶を交わして店を出る。
「……なぁ、キリト」
「なんだ?」
「さっきの話……マジなことなんだよな?」
「……っ!…… やっぱり、信じてくれないのか」
何を誤解したのかキリトは残念そうに呟く。見られるのが後ろ姿だけで顔を見ることは叶わないがおそらく失望の目をしているのだろう。
「嘘を一つもはいてないよな?いい漏らしたことは一つもないよな?」
「……ねえよ。俺はさっきの話で隠した事も言い忘れた事もなにもない。あれが全部だよ。お腹いっぱいなくらいだけどな!」
「そうか……なぁ、キリト」
「なんだよ!……!!!」
その日のことをしつこく問われたせいか荒れた調子で後ろを振り返ったキリトはなにを見たのかハッとした表情をする。
少し思うところのあった俺は心内すでに決まりきっているくせに理性で身の振り方を考えていたため、キリトがなにに驚いたのか問いただす余裕がなかった。葛藤していたのだった。
「……これ」
しばらく足を止めていたキリトはポケットから携帯を取り出す。
「連絡先だ。交換しようぜ」
「……ああ」
赤外線が恋しいな、と思いつつ違う機種なのでポチポチと互いの連絡先を入力する。少ない電話帳の中に新しく『桐ヶ谷和人』が加わったのを見て俺は「さんきゅ」と言った。キリトもお互いさまだと返して携帯をしまう。
携帯の画面は7:00を指していた。
「依頼は結局断られたけど」
歩きながらキリトは話す。
「連絡くらいはするから返せよ」
切れかけた街灯が点滅する。
「……わかった」
自分らしくもない。面倒いから気が乗ったらな、と普段なら答えていただろう。
そこから先のことはよく覚えていない。
ただ、その日の深夜。雪乃に一通のメールを送った事だけは覚えていた。
『須郷と繋いでくれ』
その日の夢で、動き出した歯車を空目した。
怒りに任せて振り返った時に見えたあいつの顔には俺以上の怒りがあった。
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閑話【クリアのその前に】
「……なにやってんだか」
勝手に胸に乗っかってきたカマクラの憮然とした表情を見て自嘲する。俺も、カマクラも、といった具合だ。
にゃーお。カマクラが声をあげて欠伸をする。
あーあ。俺はいつものようにため息をついた。
やさぐれとも恥じらいとも違った感情。
断じて後悔などはしていないものの、なんだか心をくすぶる気持ちがあった。ケータイを無意味に何度も見てしまうくらいには、人生に集中できていない。
日付はキリトとの邂逅の日からしばらく経ってゴールデンウイークに突入し土曜日を迎えていた。
あの時の怒りも送ったメールも全て覚えているし、忘れることなどありえないと断言できるくらいには明白に、鮮烈に、確固たる記憶となって俺の中に存在している。
だというのに俺は、どうやら特大のブーメランをいつの間にか放っていたようで、それが自身の頭をぶっ叩いた時からずっとえもいえぬかゆさを感じていた。
いつからそんな違和感に蝕まわれてきたか。
送ったメールに対する返事を目にした時からだ。
『急に言われてもちょっと無理』
ですよねぇ!
高校の教室で思わず声を大にして言ってしまったのを覚えている。いろはの怪訝な表情も印象深い。
まさしくブーメラン。冷静になれば直ぐに判ったことだったのに一時の感情に浮かれ、らしくもない短絡的な行動に移ってしまった。文化祭の時のように、修学旅行の時のように後先考えない行動だった。そう考えるといつも通りの行動を起こしただけのような気がするが、それは気のせいだろう。気のせいであってほしい。
それはともかく。
そりゃあ俺だってただの一般人だし『無力感』だって『無気力感』だってありますとも。いっそ『感』を取ってしまったって過言でない、いや、そんな風に言うまでもなくあの返信はただ単に妥当である。
当たり前のことだが、俺はただの一般家庭に育った一般的な長男であるのだ。
そりゃあ、リアルに超巨大会社のエリートに突然メールしただけで会えるわけがない。どんなコネを使ったって会おうものなら1ヶ月はかかるだろうし、そもそも会ってもらえる可能性だってそう大きくない。
そりゃあ、無理ってもんよ。
言葉遣いも乱れるってもんよ!
「……はぁ」
感情の波にもまれて三千里。
そんな訳で、俺は頭の中であらゆる感情をぐるぐるとさせていた。らしくない自分語りをしてしまうくらいには混乱していた。
しかれども、本日は年に7分の2しかない貴重な休みだし(長期休暇など除く)、去年ならたびたび部活で呼び出されたものだが今年はそれもない。ついでに言えば受験も政府支援を糧に2年計画にするつもりなので勉学を過剰に勤しむ必要もない。
そんな訳で、考えなくてはいけない事も見据えなくてはいけない問題も沢山あるが、今日のところは荒波の心境を凪へと変えるために読書に勤しもうと思う。
実はと言えば、眠っている間に積んだ本や出版された新刊が沢山あるのだ。あれもこれもと良いところで終わっていたので何とかに渡橋。グッドタイミングでべりーべりーはっぴー。感動でヨダレが出るとはこのことである。
……まぁ、まだ未帰還で刊行未定な本もあるのだけれど。
はあ。
……どんな思考をしたところで、どんな行動を起こしても終ぞ頭から離れることはないようだ。あの冗談みたいなデスゲームから始まり今まで続く社会問題は。言ってしまえばその真相にすらあと3歩程度でたどり着きそうな話を聞いた身からすればそれはもう、やってられない。の一言に尽きる。
それでいて、手の出しようがない。
出せそうな奴は大人の都合で行動不能だし、全くもう、やってられない。
結局本を手に取るも棚地戻すを数回重ねたところでベッドの上へととんぼ返り。さっきの決意はなんだったのか、俺は貴重な午前を二度寝に費やすことに決めるのだった。
そんな時、携帯は鳴き声をあげる。
"YOU GOT A MAIL"
ガシ。
手にとって液晶をに指を滑らせる。
スワイプスワイプ、タップアンドスワイプ。
「……」
今日の予定が決まった瞬間だった。
ー・ー・ー
隠す事もない、メールの内容はただの呼び出しであり、その場所は千葉県のの誇る巨大駅の中にある店名の読めないオシャレな名前の店であった。
念のため小町に出かけるとのメールを送り、つい先日(小町が)買ってきた服を着込む。退院祝いの時に着たようなラフな格好とは違い、少しフォーマルの入ったカジュアルなコーディネート。小町は「爽やかさを演出したよ!」とか親指立てて言っていたが、姿鏡を見るにどうも服に着られている感が拭えない。
小町がいればワックスかなんかで頭までセットされていただろうがそれもないので支度はものの3分で終わる。
最速支度のプロ、比企谷八幡を自称できるかもしれない。
いってきます、と小声で告げてポケットに財布と携帯を突っ込み道を歩いていると向こうから誰かが手を振って駆け寄ってくるのが分かる。
「おーい!はちまーん!」
「ととと、戸塚?!」
げ、げきかわわわわあわわわわ。
ホットパンツにピッタリとしたアンダーウェアにスポーツTシャツだとぉ!……俺を殺す気か。
「よよよ、よう」
「……?どーしたの?」
「いや、頭に血が上って鼻の奥がツンとして、ついでに脳がパーになっただけだ。なんの問題もない」
「ありすぎたよ?!」
お前は可愛すぎだよ。その若草色を基調としたボーイッシュ激かわコーディネート、俺じゃなくても見逃さないね。
「どうしたんだ?戸塚の家こっちの方じゃないだろ?」
「さいか」
「はい?」
「彩加って呼んでっていったじゃん」
「……あれ本気で言ってたのか」
「うん!あたぼーよ」
ぐっと、力こぶを作ろうとする彩加。かわいい。というか、かわいい。なんかこう、ふふってなる。
「さ、彩加はなんでこっちの方に来たんだ?」
「八幡に会うためだよ!」
「……」
さてはこの天使、やはり俺を殺しに来ているのか。
いいだろう、語ってやるよ、そのかわいさを。文庫1冊にはまとめてやるからよく聞けよ?
「別に語らなくていいから」
「……口に出てました?」
「そんなところ。というかぼく、男だから」
知っている。
知ってなお、受け入れているのだ。彩加とならゴールインするのもやぶさかではないと。
「立ち話もなんだし、ちょうどそこに見える公園に移動するか。……とは言っても待ち合わせしてる所に向かっている最中だからそんなに時間とれないけどな」
「ああいいよいいよ。ぼくはコレを渡したかっただけだから」
「コレ?」
背負ったバッグから戸塚が取り出したのは小さな封筒だった。はい、と渡してくる様子に告白を幻想する。もしラブレターだったら、喜んで騙される自信があるな。
「なんだ、これ?」
「ほら、前撮った写真。昨日まだ送ってないことに気がついてそのことをバイトの人に話したらさ、無料で現像してもらえたんだよね。まあ、それ用の紙を使ってプリンターで刷っただけらしいからそう大したことはないんだけど、お詫びってことでさ。あとでデータも後で送るから安心してね」
「お、おう。ありがとな」
確かに封筒からは厚紙特有のしなりを感じる。写真といえば退院祝いの時の奴だよな、俺と彩加のツーショット。
……へへ。
「サトシのような鼻を人差し指でさすった『へへっ』と比べると随分と醜い『へへ』だなぁ」
「彩加がかわいいのが悪い」
「……まったく、そのセリフは雪ノ下さん達に言ってあげなよね」
「それは……それということでお願いします」
元ぼっちにはまずもって無理なことをおっしゃる。
いやそもそも歯の浮くセリフを女子に向かって放つ男は総じてクソだって決まっているからな。俺はそんな男にはなりたくない。断じて言えないからそう思っているのではないから。そう思っているから言わないのだ。
八幡だってやろうと思えばできるから。やらないだけで。はい。
「まあ、雪ノ下さん達にそんなこと言ったものならマイナス5度の視線と口撃が待っていると思うけど」
「よく分かってるな」
「八幡より1年くらい長く一緒にいたからね」
そういうこと言うなよ。
俺が凹んで傷ついちゃうだろ。
「……そ、それよりもこのあと戸塚はどこに行くんだ?」
「彩加」
「彩加はどこ行くんだ?」
「うーん、特にこれといった用事はないけど。……強いていうなら予定のない休みとカロリーの消費を兼ねてジムに行こうと思ってたくらいかな」
ジム……運動……汗だく……はっ。
「閃かないから」
「んじゃ一緒に来ないか?今からお前にとっては懐かしい面子に会うんだけど」
「平然と流したね八幡……って、懐かしい面子?」
「ああ、今のままだと俺のアウェー感が凄いから一緒に来てくれると非常に助かる」
「と、いうわけで、一緒に来たんです、
「んー、なるほどねー。……オッケー!6人席とっといて正解だったね!」
1行で分かる現状。
あの日の放課後再び。
「あー!彩ちゃん先輩久しぶり!」
「退院祝い以来だね、いろはちゃん」
「さっきメールできた友達というのは戸塚ことだったのか」
「突然お邪魔しちゃってごめんねー、葉山くん。久しぶりだけど元気そうで良かったよ」
隣ではわいわいと楽しそうに会話を弾ませている。彩加も楽しそうで安心した。これでつまらなそうに座っていられたら罪悪感で死にたくなるしな。
「んで、こんな所に俺といろはと葉山を集めて何がしたかったんですか?」
「まーまー、それは注文の後ということで」
意味深に笑ってみんなにメニューを配り始める陽乃さん。
なんだか嫌な予感がしないでもなかったが、それはずっと感じていたため今更感もあったし、ここまで来て帰ることはできないため大人しく渡されたメニューを手に取った。
……相変わらずクレープの体をなしていねえな。いや、クレープ生地に物が乗っていればそれはもうクレープなのか?どうしても屋台やなんかで売られている印象があるせいかしっくりこないんだよな。っと、……ん?こ、これは……。
「マックスコーヒーだと……!」
「おー、さすが気付いたねー。ゴールデンウィークの特別メニューの一つだよ。それにする?」
「是非とも」
「おっけー。そこのお三方も決まった?」
「あれ?そういえば陽乃さん達もまだ注文してなかったんですか?」
メールが来てからそれなりに経ってるしもう注文済みだと思っていたが……そんな殊勝な人だったか?
……いや、そんな人だったわ。この人はこういうところでギャップ萌え……とはちょっと違うけど、そう、逆手に取った気遣いが得意な人だったな。今だって俺の言葉に対して何も言わず微笑んでるし。
先日にも増してガチガチなバイトさんの注文を陽乃さんが笑顔でこなした後。「さて」と一息置いた陽乃さんはいい笑顔で言うのだった。
「金を稼ぐぞ!」
「いきなり何いってんすか」
昼前の陽乃節は早くも嫌な予感の的中を知らせてくれていた。
ー・ー・ー
いやに迅速に届いた飲食に舌鼓を打ちながら改めて話を聞いたところ、陽乃さんのさっきの発言は少し前に流行ったらしい俺たちを撮ったという例のツイッターに起因するらしい。
「……分かるかしら?雪ノ下陽乃としてこれほどの屈辱はないわ!」
「口調が雪乃なのは突っ込んでもいいとこですか?」
「じゃあ私はその『雪乃』呼びに突っ込んじゃおうかな?婚前の女性に随分と軟派じゃない」
「……黙秘で」
葉山も席を立つな。というかこの人、今のカウンターを決めるだけのために口調を変えたな……。
屈辱、ねえ……。
よほど俺の中学生活の方が屈辱にまみれているけど、そんなことを言っても「不幸自慢乙」で切り捨てられるのは目に見えているから黙っておこう。俺は成長したのだ。
「つまり」
彩加が、人差し指を立てて要約する。
「前に撮られた写真が勝手にツイッターにあげられた上に、俗に言うまとめサイト、つまりアフィブログにこれまた無断掲載されたのが気にくわない。ってこと?」
「その通りよ、彩ちゃん!私をダシに金儲けとは片腹痛し!しかもチンケな小遣い稼ぎに使われるなんて!」
てしてしとテーブルを叩いてぷんすかと怒る陽乃さん。そんな彼女に対して葉山はそういえばと口を出す。
「そのことなんだけど、俺も気になって大学で調べてみたけど、全部のブログ収入と広告収入合わせて100万位は普通に稼いでる計算になったよ。写真に写る人物の正体の考察と称して結構深いところまで特定しようとしてるところもあったし」
マジかよ。一人に割ったとしてもいい25万。マッ缶に直すと1本150円のお徳用として約1700本。20本入りダンボールにして85箱!
すげえな、アフィブログ。
「今でも定期的に話題になってるらしいからね」
「……んー、けど一体なにがそんなに話題になったんでしょうか?私SNSやらないしでスマホもパソコンもあんまりですからこの拡散のされよう戸惑い半分なんですよね」
「それな」
有名人でもない、ただの一般人が話題なるとも思えん。まるで恣意的に誰かが流行らせたかのような話題のなり方だ。
「あー、それはね。ツイッターならではの拡散だね。比企谷くんもいろはちゃんもツイッターやってないらしいからイマイチぴんとこないかもしれないけど、ツイッターには呟くだけじゃなくて、リツイートとか、お気に入りとかの機能もあるんだよ」
「……はぁ」
リツイートくらいは知ってるけど……まさか。
「それで、その写真が有名人にリツイートされてちゃってねー。私の本垢の友達だから、その話したらモザイクなしを私がダイレクトメールで送るまで保存しとくだけって言ってたけどねー」
「自業自得かよ!」
というか有名人と友達ってさらっと言ったな。
「なんでも、『陽乃ちゃんがここまでいい笑顔って凄いレアだよー』って話だよ?」
「知りませんよ、そんなこと。……つーか、葉山。この見事なまでの自業自得な因果をなぜ止めなかった。ツイッターお前やってるなら知ってただろう?」
「俺が止められると思うか?」
「無理だな」
断定まで実に1秒。まさに即答だった。
男2人、ため息2つ。合わさってため息1つ。
隣でほっぺを抑えてパンケーキを美味しそうに食べる彩加を見て気力を回復させていると、視線に気づいた彩加が一口サイズのパンケーキをフォークに刺す。
「あーん」
「いいのか?」
「いいよー」
多分、彩加は『(パンケーキをもらって)いいのか?』と聞き違えたんだろうなぁと思いながら『(食べさせてもらって)いいのか?』という問いに対して了承を得たので遠慮なくパクついた。ああ、こんな近くに彩加の顔が。
……こいつほんとに男か?思わず素になる可憐さだ。
「おいしい?」
「天使級」
「ならよかった」
呆然と呟いた言葉をいい風に解釈される。
「あー!先輩ずるい!」
「うるせえぞ後輩。俺ガイル内に彩加に近づけると思うなよ」
「……戸塚に対するその好感度は相変わらずなんだな」
「は?当たり前だろ?」
ガチトーンである。
やはり俺の青春ラブコメは間違っている?上等だよ。
「話戻していいかな?」
「あ、すみません。……えっと、そのリツイートした人って誰ですか?」
「ん?超人気アイドルちゃん」
「そりゃやべえ」
「あと超有名なお笑いタレントさん」
「やはりヤバイ」
そりゃ、話題になるよ。美形の一般人の集まりがそんな人達にリツイートされたら誰かのお忍びかプライベートの付き合いを疑うだろうし。疑問が疑問を読んであら不思議って寸法か。考察記事も出るわけだ。
「リツイートの内容はなんだったんです?はるちゃん先輩」
「『陽乃ちゃんがこの中にいる!』って感じ。ほら、私もネットでは有名人だから。謎につながりの多い覆面アカウントとして」
実際はお家経由で繋がった人たちとか、大学の繋がりで自然と増えただけなんだけどね。と言って見せてくれた画面にはそれなりのフォロー数に対して数百倍のフォロワーの数字。俺にはイマイチ凄いのか分からないけど戸塚が驚いて「これ、陽乃さんだったの?!」と言っていたから凄いのだと思う。
「……ん?やっぱりどう考えても陽乃さんのせいじゃないのか?」
「リツイートしたのはこの人達なのに?」
「どうせ、許可したんでしょう?狙いは分かりませんが」
「ま、そうなんだけどね!」
陽乃さんは、ばちっとウィンクを決めて堂々と言い放った。そうだけどね、じゃねえよ。
葉山はもはや何か言うことすらも諦めたらしく、同じく静観を決め込んだいろはに進路指導をしている。
たまらず頭をガシガシとかく。
「まぁ、その辺はとりあえず置いておくとします。いちいち引っかかっていたら今日どころか明日も無くなってしまいそうですし。……それで、陽乃さんは俺たちに何をさせたいのですか?」
「ん?さっき言ったじゃん。金稼ぎだよ」
「言い方が悪かったですね。その為の道筋を知りたいのですよ。まさかバイトで稼ぐなんていうことではないでしょうし」
ノープランでもないことは確実なはず。事実、その質問をした時から「よくぞ聞いてくれた!」と言わんばかりに彼女はウズウズし出したし。
「ゆー、ユーチューブやっちゃいなよ、ゆー」
「嫌です」
嫌な予感は今もなお、高鳴るばかりである。
ー・ー・ー
さて、ここからの話しは進路相談から俺の悪口へと移行しだした2人にも協力してもらうとする。
勿論、ユーチューブへの出演協力ではなくそれを止める協力だ。
「絶対嫌だ。そんな情報リテラシーのない頭のすっからかんな中学生みたいな思いつきの行動はやめて下さい」
「だって悔しいんだもん!」
「もん!じゃないです」
成人後の人が言っていい言葉じゃねえだろ。
「絶対あのサイトよりも稼ぐんだから!んでもって自分の力でこのくらい稼げって言って記事削除のメールを送るの」
「性格悪っ」
「……陽乃さんはこうなったらテコでも動かないからな……」
苦虫を噛み潰したような思案顔をする葉山。
「というか顔にモザイクかかってるんですからどうせ分かりませんし他の出てもいい人集めてやって下さいよ」
「捻くれてるなー、比企谷くん。ほんとは出たいのにそんな捻くれなくてもいいんだよ?」
「俺の性根を逆手にとっていいように曲解するのはやめて下さい。揚げてもない足を取られた気分です」
バタバタと足を振るな、子供か。
「まあ、とにもかくにも、絶対に嫌ですよ。特に目立つのは死んでも嫌です。しかも悪目立ちとか、就職活動に影響が出たらどうするんですか?」
「そしたら私が養ってあげるよ。ちょうど婚約者もいなくなったし」
「……」
ナイーブな問題を軽口に使うのはBG。この調子だと前回の落ち込みからはもうすっかり回復してるんだろうな。逞しすぎか。
「というか、そもそもの話、削除依頼すればいいだけじゃないですか。金稼ぎが気にくわないならそこの弁護士志望と裁判でも起こして下さい」
ついでに、利益出たらたからせて下さい。戯言だけどね。
取りつく島もなく断る俺に対してちゅー、と面白くなさそうなオレンジジュースを吸う陽乃さん。しばらくジト目を向けてきたが無視を決め込んでいると不意にペロリと下唇を舐めるとニヤニヤとし出した。
「……ま、そうだよねー。目立つのが嫌すぎて後輩に抱きついて号泣しちゃうくらいだもんねー。比企谷くんは全く日陰者の鏡だよ。陽が当たらないから機能してないけど」
「いろは貴様ッ!裏切ったな!」
ブンブンと首を振るいろは。
……そうか、雪乃経由か!
「ふふふ。この状況じゃ仲違いなんてしてられないからねー。それに雪乃ちゃんの成長なんてもう待ってられない状況になっちゃったし、そもそも雪乃ちゃん、私より大人っぽくなっちゃったしー」
「はは、分かる」
「あ?」
「すみませんでした」
真顔はやめてくれよ、漏らしちゃうだろ。……コーヒーには利尿効果もあるっていうし、多少はセーフか?
「いや、アウトだよ」
「今のは絶対に口に出してない自信があるぞ、彩加」
「顔に出てた」
「なら俺は彩加に手も足も出ないな」
尿は出るかもしれないけど。
なんてくだらないことをかんがえていると、手に持つコーヒーを飲んでいるといろはが声を上げた。彼女は別アプローチを仕掛けた陽乃さんを牽制するように話を本筋に戻した。
「はるちゃん先輩。そのユーチューブってことは動画の広告収入で稼ぐってことですよね?」
「うん」
「なら結局はそれをまとめられるんじゃないですか?今時無断転載禁止の文字がどれだけ通用するかわかったものじゃないですし」
お、いいぞ、もっと言ったれ。
「それならもっと別の方法───例えば生放送とかにしたらどうですか?」
「おい、助長するような意見を言うのはやめろ」
「それよ!」
杜撰な提案になに目を輝かせてるんだ。
「いや、たとえ生放送であってもキャプチャして他の人にあげられることだってあるし、むしろそっちの方が他人に行く収益が多くなるんじゃないのか?やはりここはユーチューブ───」
「葉山よ、お前もか。お前ら陽乃さんに甘々か」
というか、揃いも揃ってノリノリかよ。
陽乃さんが目立たせるものを作るって言ってるんだぞ。何が起こるかわかったものじゃない。逸般に片足突っ込んでいるような一般人の怖さを知らないのか。いや、葉山あたりは知った上でのってそうだな。事勿れ主義の筈なのになに考えてんだ?
「簡単なことだよ。こうなった陽乃さんは止まらない。なら、落とし所を見つけるだけなのさ」
「葉山……」
苦労してんだな。心中察するわ。察するだけだけど。
しかしそろそろお開きの時間だ。
この話もそろそろ潮時というものだろう。
なら俺はここで逆転の一手を打たせてもらうとしよう。
「陽乃さん」
「なに、比企谷くん?」
「こうしましょう」
ー・ー・ー
「……さて、帰るか」
話がひと段落してとりとめのない雑談を一通り交わした後、嬉々としていつまでも溜まっていそうな女子2人と、空気を読みすぎてお開きの言葉を切り出せない男2人に変わって俺は言う。
時計を見た男子2人の同意もあり、会計をすることになった。
「あー、ちょっと待って待って!」
「……なんですか、陽乃さん」
「実はあの素敵な提案をしてくれた比企谷くんにお礼がしたくてさ」
「はあ」
「大丈夫だって!そんな嫌な顔されちゃうと帰っちゃうぞ?」
各々のお金をテーブル上に出し合っている最中、陽乃さんが俺の耳元で囁く。囁くにしたってやや大きい声なのはご愛嬌だろう。
「……何ですか?」
「須郷さんに会いたいんだって?」
それから3日後。
俺は須郷と面会する機会を得た。
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26【会交】
借りた親父のスーツはどうも馴染まなく、つい袖についたボタンを触ってしまう。ぼさっとした髪の毛をまとめ上げ、今だけは枝毛も跳ね毛一つない自信がある(アホ毛を除く)。綺麗に磨かれた革靴は無骨に光を反射させている。
「すぅー、はぁー」
大きく深呼吸を一つ。
腕時計を最後に確認して俺は高層ビルに入る決意をした。
ー・ー・ー
「比企谷八幡様ですね。承っております。申し訳ありませんが、須郷は現在、急遽開催されることとなりました株主総会に出席しておりますので、今しばらくお待ちください。先ほど届きました連絡によりますと15分ほどでこちらに到着するそうです」
「わかりました。ありがとうございます」
株主総会?このタイミングで?
この訪問だってたまたま空いていたからと2日前に決まったんだぞ。2日の中で株主総会が開かれるなんてことがあり得るのか?
経営や経済に関しては全くと言っていいほど無知であるが、それでも素人ながらに株主総会が決算から3ヶ月以内に行う必要があることくらいは知っている。であれば、五月の初めに開催するのは何ら不思議ではない……そんなわけがない。3ヶ月以内であればギリギリまで引っ張るのが普通のことだ。
それに急遽開かれることになったと受付けは言っていた。
それはつまり、行われたのは臨時総会の方。であれば株主への通知は1週間前には行き渡ったはず。なのに須郷は俺との面会をこの日に選んだ。
それに世論的に絶大な信頼があるラクト社が本ちゃんの総会前にわざわざ臨時を開く理由はあるのか……。そもそも開いた理由は何だ?
……駄目だ、まったく想像がつかん。
とりあえず情報をメールで報告しつつ、待ち時間を利用して資料の確認をすることにする。須郷がなにを企んでいようが今はこれからに集中しなければならない。相手は腐っても日本を代表する企業の超重役。ここで生半可なことは一切できない。
そしてきっちり15分が経った時、ついに受付に呼ばれる。
「比企谷八幡様。準備が整いましたので案内いたします。申し訳ありませんが念のためボディチェックはさせていたただきますのでご了承のほどよろしくお願いします」
そう言って彼女は俺からペンと持ってきた資料、そしてプレゼンをさせてもらえた時のためのUSBを除くあらゆる所持品を取り上げた。
いやに厳重ですね、と尋ねると素っ気なく、規則ですから、と返答される。
規則なら仕方がない。長いものには巻かれる系男子かつ日和見主義者である身としては非常に納得のできる理由だ。念のためにと持ってきたICレコーダーを取られてしまったのが痛いが、大して重要でもない執務の空き時間にたまたま入れたような会談にすら規則を適用するその周到さを事前に実感できただけ良いとしよう。
ないことの証明より存在することの証明の方が容易いのは今回も同じ。目標への道はなんら変わらない。ただ、託されたことを授けられた方法に則って言われた通りにすれば良い。そう考えれば、奉仕部より余程簡単な活動なのだから。
だから、大丈夫。
「では、須郷がいるのはこちらの部屋になります」
ー・ー・
「やぁやぁやぁ!待っていたよ!」
待っていたのは意外にも積極的な歓迎だった。
そう狭くない応接間の入り口近くで待っていたのは、以前雪乃の携帯で見た写真通りの顔。人の良さそうな、それでいて知的な印象を与えるいかにもエリートです、という顔立ちだ。
今となってはあいつの携帯の中に存在することすら唾棄したい事実なのだが、俺はその歓迎に意気揚々と乗ることにした。
「いえいえ、こちらこそ会えてとても嬉しいです!前から一度でいいからお会いしたいと思っていました!今日はよろしくお願いします!」
未だ嘗ておれがこんなにもエクスクラメーションマークを付けて話したことがあっただろうか。知り合いに見られたら恥ずか死する自信があるな。
彼と同等か少し速いくらいのスピードで近づき、大事なものを扱うかのようにそっと相手の肘に左手を当てて右手を以って握手する。すると須郷はやや面を食らったかのような表情を見せながらも握手を積極的に交わしてくれた。
「……ああ、こちらこそよろしく」
須郷の後ろに控えていた秘書と思われる男性が「お茶をお持ちいたします」と告げたのを合図に須郷は俺に席を勧める。見るからに高級そうなソファとガラステーブル。ソファの差がやたら低い理由の一つには帰らせないようにするため立ちにくくなっているためだと聞いたことがあるが本当なのか気になるところだった。
「その前に、こちらを」
過剰にならない程度に背中を曲げて彼に手渡したの2日前に完成した名刺。
「アポイントメントを取らさせていただいた際にも紹介させていただきましたが改めて。この度はご多忙の中面会の機会を与えて下さりありがとうございました。私、
「ああ、これはどうもご丁寧に恐れ入ります。ははは、随分若い人だと思っていたからこれは一本取られてしまったかな?……では僕もこれを。レクト・プログレスのALO部門取締役の須郷信之と申します」
名のある書道家のデザイナによる名刺なのだろう。名刺に書かれた文字は、整然とした止め跳ねの痕跡と文字の崩しとかすれが美しく調和している。決めるところはカメラが、臨機応変に、柔軟に、大胆に行動する彼を体現したかのような文字だった。
もっとも、須郷がそうであるならば、の話であるが。
受け取った名刺をテーブルに置き、着席した後にカバンから三つの資料を須郷に手渡す。
「シンプルな概要をまとめた資料、データ分析を詳細に掲載しました資料、現場の意見とこれにより上がるであろう成果についての意見をまとめた資料の三つをご用意させていただきました」
用意したのは陽乃さんだけれど。出来た上がったの見たけど、どれもえげつないほどよく出来てました、はい。
一方俺はといえば、プレゼンのための演技指導を受けていました。こっちはえげつないほど拙いと専らの評判でした。
「これまたご丁寧に。……随分とプレゼン慣れ、というか営業慣れしてそうだね。練習でもしてきたのかい?」
「はは、そう見えたなら幸いです。その実それはただの若造の虚勢ですからね。内心では初めての経験だということと『鋭勇』である須郷さんの前にいるということで緊張しっぱなしですよ」
「いやぁ……その名前を聞くとこしょぼったい気分になるなぁ。一応三十路のおじさんだし僕としてはそういう二つ名みたいのは勘弁してほしいんだけどね。根からしてそんな目立つキャラじゃないしさ」
「いやいや何を言っているんですか!ALOの方も須郷さんがチーフプロデューサーに変わってからは環境がとても良くなったとプレイヤーに好評じゃないですか。まさに、『鋭い思考と勇断的な実行力を兼ね備えたカリスマ』の名にふさわしいじゃないですよ」
「いやいや……」
照れたように須郷は頭をかく。
まだ一言二言しか交わしていないというのにこの薄ら寒いやりとりに早くも嫌気がさしてきた。厚い面の皮と調子の良いベロを駆使して世間を渡り歩く社会人のすごさをこんなところで知ることになるとは。
そんなげんなりとした気持ちとは裏腹に会話は無情にも止まることなく流れていく。というか、立場の都合上こちらから切り出していく。お腹のキリキリを抑えながら。
「実は何を隠そう私もあのSAOに囚われていた身でしてね。言ってしまえば私は、須郷さんの英断によって助けられた命の一つなんですよ」
「……ほう、それは災難だったね。君がこうして出てきてくれたことを嬉しく思うよ」
「ありがとうございます。まぁ、情けないことに、そんな恩人の前にいることもあって、緊張と張り切りがあいまってもう胸のところがドキドキしっぱなしなんですよね」
「ほんとかな?」
「本当ですよ!」
そう言ったところで秘書がお茶とお菓子を運んでくる。「どうぞ」といった彼の顔はゾッとするほど無表情で俺は見当違いにも、営業上がりじゃないのかな、なんて考えていた。サッサ、となれた調子で須郷と俺の前にお茶を並べた彼は一礼すると部屋から出ていった。
「……本当はもう少し親睦を深めさせていただきたいのですが」
ずず、と茶を啜った須郷を見る。数秒後カタンと、湯呑みをコースターに置いたのを確認して俺はついに、本題に入ることにした。
「どれでもいいですので、お手元の資料を適当に見ながら聴いていただきたいなと思います」
「では、概要から説明します」
ー・ー・ー
大丈夫、と心に言い聞かせただけあって、何事もなくプレゼンは終了した。プレゼンの内容はこの会談の企画者にして最大の功労者である陽乃さんが骨を立て、ラースの優秀な皆さんが肉付けをしたものとなっている。なので、そんな背景もあって、
「成る程、言いたいことはまぁ、分かったよ」
「ありがとうございます」
今の説明で分からなかったら逆にそれが分からないわ、という位には良く出来たものとなっていた。
もっともその内容は、要は、おたくらについて広がりつつある醜聞を消すために良い人材を貸してやるから引続きSAOサバイバーのための支援を頼みます、というだけの話なのだけれど。プレゼンしてると普通だが、なんかこう書いてしまうと、まるでいちゃもんにかこつけたふっかけみたいな気がするなぁ。まぁ、そうなんだけど。
役員である須郷もその違和感は感じ取ったようで、内容の把握はしたものの優れない顔をしている。
「ただ、難しいと思うよ」
「……と、言いますと?」
「まず、僕達に対して今殺到しているこの手の問い合わせは【閃光】に酷似した人物がALOの世界樹の頂上に映り込んだという噂についてのものが殆どだから、そんな事実がない、レクト社のしては無視すればいいだけの話だからね。それに、ラース社としては、ネットでまことしやかに囁かれているレクトの黒い噂とかを見て今日来てくれたんだと思うんだけど……やっぱりこの内容じゃあ正直、悪いけど一考にも値しないと言わざるを得ないよね。あまりにも前提条件が軟弱過ぎるよ」
資料をトントンと叩いて須郷は苦笑いでそう言った。声の調子は攻めるというよりかは嗜める。眼中にないレベルで俺を下に見た物言いだった。
しかし言い方はともかくとも、俺としても「まぁ、そう思うよなぁ」と言ったところだ。いくらプレゼンの内容がよくても、そもそも交渉に来た理由がこんな『週刊誌にもならないようなゴシップにかこつけてきました』みたいな奴がいたら俺だったらキレている。
恐らく、須郷が話に聞いたほどの100分の1も頭に血を登らせず、余裕にあしらっているのは俺が学生であると改めて確信したからだろう。
やはり社会の酸いも甘いも知らないような若造だったのか、と。
足と腕を組んで時計を見だした須郷を観察して俺はそう思う。
つい、口角の一端をあげて、そう思う。
───だからこそ、それでいい。
舐めてくれるなら舐めもらった方が良い。
舐めてもらった程度でこいつがお縄につくなら上々と言ったものなのだから、と。逆にこんな適当なプレゼンをしてどういうつもりなのかと見当違いに訝しみ始めたらそれはそれで儲けものだったのだが。
つまり、彼と俺とは勝負のしどころが全く違うため(そもそも彼からしたらこれは小休憩のレクリエーションのようなものだから)負けがないのだ。
どう転んでも勝ち。陽乃さんさまさまなプレゼンだ。
俺はこまったなぁと言わんばかりに笑って見せる。
「……うーん、やっぱり難しいものですね、商談というのは」
「まぁ、よくできていたと思うよ。予め雪乃からはインターン志望の学生による交渉のマネとごと程度に聞いて欲しいと頼まれていたからね。大事な会議の後なだけあって息抜きにもなったよ」
やはりか。まあ、そうだよな。雪乃ならそう言うだろう。
話半分でいいから聞いてあげてくれないかしら?と高圧的懇願を約一回り上のおっさんにも遠慮なく決めているのが容易に想像できる。
ただ、お前が雪乃を呼び捨てにするな。俺の雪乃呼びと同価値に思われたらどうする。『明らかにあなたの方が下だけれど?』 とか言われた日には1週間はふさぎ込む自信がある。
「……とはいえ会社所属ということで参りました故、何か成果が欲しいのですが……お土産程度でいいのですが……ダメですかね?」
秘技、学生の身分を盾にした身もふたもないベーベ的要求法!良い子の社会人は真似しちゃダメだゾ!
流石に拙いだろ……と先生、もとい静パイセンが首を振っていた陽乃さんの太鼓判押しのこの方法。実際に使うことはなんだかんだないと思っていたが、使っちゃいました。ポイントは唐突にキャラを崩すことだそう。
類い稀に見る拙い方法だったけれど、須郷に受けが良かったようで見るからに態度が柔和した。
「はははっ!そこの商談は上手いじゃないか。いいだろう、何が欲しいんだい?」
「では、この資料を1ページめくって下さい」
プレゼン用として自分が持っていたまるで別の資料だったものを須郷に手渡す。ここまで来たら彼にとってはもう余興のような時間なのか、特に何を言うでもなくめくってくれた。
めくる際に見えた紙のたわみ。心の中の俺の笑み。
そして、一直線に結ばれた須郷の口。
「……これは、一体どういうことなのかな?」
なんて事はない。キリトとインターネットと、あとはチョロチョロと漏れていた情報をネットで結びつけてそれらしいデータと写真で偽った、レクトの真っ黒な、ある種の捏造記事のようなものだ。もっとも、ハッタリを効かせるために雪ノ下陽乃と葉山隼人を始めとした幾人かの協力が入った極めて信ぴょう性の高いものに仕上がってはいるが。
ー・ー・ー
「───随分と面白い記事が出回っているようだね」
さもありなんといった調子で須郷は紙束をノックする。先ほどとは違って気持ち強めなノックだった。顔に表情を出さないのは流石の貫禄である。
「はい、救ってもらった身としては大変心苦しい誤解記事だと思っています。少量の真実を絡めているのがなおのことタチが悪い」
「真実?レクトの醜聞は全てと言っていいほどに法螺話であると思うのだがね。それよりも、この記事は一体どこの出版のものなのかな?」
「色んなところからの切り抜きですので一概にはどこからとは……。あと、真実だと言ったのはこの部分ですよ」
指をさしたのは『未帰還者』に関する一文。
須郷もああ、と頷いた。
「そしてこの部分が、どの記事も全ての根拠はここが源だとして捉えられるのですよ」
大げさに首を振って答える。その方が帰って信頼性が増すとの演技指導による行動だった。
「うんうん、君の複雑な心境はよく分かるよ。全くの誤解であることは大前提だけれど、そして僕が言うことではないかもしれないけれど君にとって僕は命の恩人だ。しかしこの記事を鵜呑みにするとしたら、信じられないことに命の恩人が戦友の命を質として閉じ込めていることになるのだからね」
その通りである。二つの意味で、その通り。
「話してみた後だから申しますが、初めはそのような猜疑心が確かにありましたが、今は全くないですよ。むしろ、なんでこんな記事を信じたのか不思議なくらいです」
「それは良かった」
「……だからこそ、今回聞いてみたいことがあるのです」
語尾を少し小さく、口と眉をへの字に曲げて意気消沈とした表情を作る。ここ数日で仕込まれた陽乃さん直伝の表情筋はここぞという時に役に立つ。
「レクト最高の知能を持ち、最良の判断力を備える『鋭勇』に聞きたいのです。この未帰還者の現象の正体を。例え藁のような情報でもいい。私は、少しでも戦友の一助になりたいと思うのです!」
「……なるほど、ね」
須郷が端的に呟くとすっと立ち上がった。そのまま奥に鎮座する黒光りする机の引き出しへと向かいその中から何やら髪を取り出す。
「……これは社外秘なのだけれど」
差し出された紙には密のマークが印されている。
「未帰還者について独自調査をしたその結果なんだ」
嘯く彼の表情はともすれば安心させるかのような慈母の如きの笑み。
「本当ですか?!」
「うん。ほんとに特例だけどね、熱意に負けたから、それにはちゃんと応えようと思ったんだ。……それかどんなに悲しいものであったとしてもね」
驚き喜色満面の表情を浮かべる俺がどれほど滑稽に見えていたのだろうか。思わず浮かんだ奴の笑みの奥、舌を出して嘲笑う彼の心を幻視しながらも俺は震えさせた手で紙を受け取った。
「……は?」
恥辱で止まらないその震えは調査結果を記したプリントに目を通しているうちに止まっていた。それは一重に、最悪を想像させる文面のせいであった。
【未帰還者に関する調査】
(中略)
『調査として反射が起こるかどうかを検査。結果、反応なし』
(中略)
『脳機能について調査。結果、脳の活動は健常者と同じように行われている』
(中略)
『生理的行動の有無。結果、SAO稼働時より推定1.5〜2.0ほどの低下の確認』
(中略)
『うわ言、寝言等が調査期間中全ての患者に見当たらないことから深いレベルでのリンクがなされていると考えられる』
(中略)
『以上のことから未帰還者に対する処方は健康の維持のみが有効であると判断される』
(後略)
ようは、打つ手なし。しかし、キリトから聞いている身からしては何つらつらと戯言を連ねてやがるで終わる話
───などではない。
「これ、事実ですか?」
「残念ながら。……残酷なことだが、君が未帰還の戦友に対してできることは恐らく設備維持のための寄付、もしくは祈ることくらいだろう」
「そう、ですか……」
相槌はかろうじて打ったものの、俺の頭の中を占拠するのは別のことだった。
こんなところで正直に現状を渡してくるとは考えにくいが……それでももしもこれが本当のことなのだとしたら、こいつの行なっていることは、キリトに聞かされた以上に残酷な所業であるはず。
もし反射が起きていないとしたら、もしうわ言すらないとしたら、もし、それでいて、脳機能が健常であるとしたら。
それは、恐らく最低最悪に、醜悪な───、
「比企谷くん?」
「……すみません、ぼーっとしていました。少しショックで」
「無理もない。僕も三月には自分の無力に打ちひしがれたからね。未帰還者の中にはこのレクト社の仲間だった奴もいたんだ……」
「それは御愁傷様です。……この資料、持ち帰ってもよろしいですか?」
「いや許してあげたいのはやまやまだが、社外秘だから悪いけど断らせてもらうよ」
「駄目元でしたから気にしなくても大丈夫です」
突然、須郷は腕時計を見て声をあげる。
「ああすまない!本当に悪いと思うのだがもうそろそろでミーティングが始まってしまう!」
「あぁ、そういえば結構な時間が経っていますね。では、続きは日を改めてにしましょう」
「次……ね。うん、機会があったら是非とも。君には未来がありそうだからね。先行投資として受け取ってもらってもいいよ」
「ははは、光栄です」
今時そんななまっちょろい事を善意で打診してくれる奴がいるか。悪態を心の中で吐きながらも鞄に持ち帰るものを全て仕舞い、挨拶をする。別れ際の動揺を誘うような挨拶をしろというのもまた、陽乃さんのアイデアだった。曰く、気の緩みを狙う王道とも言えるこの作戦は王道なだけあって成功率が極めて高いとか。
そして、流石は陽乃さんというべきか、その作戦は功を奏すことになる。
ただ。
「今日は本当にありがとうございました。親友と結ばれる予定があるということでしたのでどんな方かと思いましたが、とても良い人そうで、安心しました」
途端、瞬間、刹那、同時。
「───親友。それは明日奈のことかい?それとも、雪乃のことかい?」
交渉の真似事は、終わる。
ただ、その功は、毒に見れた蜜のようなものであった。
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27【邂逅⒈】
「須郷さんに会いたいんだって?」
ゴールデンウィークのあの日の帰り際。
面白いものを見つけたかのような表情を見せた彼女の目は、反して有無を言わさない視線で俺を見ていた。
そんな一言を投げかけられて、日を置いて。
日を改めてやって来たのは旧雪乃邸。つまり高校時代に雪乃が借りていたマンションの一室。本人は婚前だからと実家に戻されているらしいが、陽乃さんはその隙にちゃっかりマンション契約を自分の名義で更新していたらしい。
「座って座って〜」
そんな現陽乃邸のリビングの入り口で俺は、由比ヶ浜程とは行かないまでも魅力的な胸を弛ませて自分が座るソファの隣を叩く陽乃さんを前に佇んでいた。
失礼します、と陽乃さんの向かい側に座る。対面にソファはないため床に直座りだ。
横に座らなかったのが不満ならしく、何か言いたげに頬を膨らませる陽乃さんを華麗にスルーして問いかけた。
「……で、昨日の話はなんだったのですか?」
そこから始まる話は余計なボケや茶々が多々挿入されたため大胆にカットさせてもらうが、纏めると、須郷と会談するための計画を練ったげるっ!ということだった。無論、一般人である俺らがどうこう言い合ったところでそんなことが実現するとは思えないから、と初め俺はそれを拒絶した。良くも悪くも現実世界の無力さを受け入れていためだ。
諦めていた、と言い換えてもいい。
「……けどそれは、私達だけの力じゃ足りないってことだよね?ならそれはまだ、ゲームオーバーには程遠いよ。八幡くん、私はあの日、望んでもいない婚約を一方的に断られた時決めたの。もう、私の人生は私が決めるって」
「だから、私の人生として、雪乃ちゃんには雪乃ちゃんの人生を歩んでもらうの」
「わかる?私の人生を私の人生として歩くためには雪乃ちゃんがあんな男との結婚するなんて未来があってはいけないの」
「だってそんなの、私が押し付けたみたいじゃない!」
だが、そんな諦観の構えも、悟ったかのような態度も
のちに「ひねくれた言い方だ」と某アラサーには笑われることになるのだが、そんなことがあったのだった。
某アラサーが何故そんなことを知っているのかと言われたらそれは、特例株式会社ラースにこの件について頼ったから他ならない。なぜラース社に行き着いたのか。それは、そもそも陽乃さんが何故『須郷と会える』と言わんばかりの態度だったかという疑問に関係する。
彼女は知っていたのだ。
ラースがVRという新境地に対するストッパーにしてリアルとのチューナーたりえん存在だということを。それも三権のうちの一つ、内閣と密接に繋がった機関であることを。
そして、彼女は既にツテを構築していたのだ。
聞けばそれはもう、あたかも須郷は既に蜘蛛の巣の上のハエと言わんばかりの周到さだった。
俺が計画に賛同した瞬間に須郷が逮捕されるまでのレールが構築される程度には周到だったのだ。
「では、これより打倒須郷計画を発表します」
まず初めにラース社をSAO事件をはじめとしたVRに関する事件の相談及び対応をとる特異的な存在だと世間的に周知させる。これはサバイバーのために特別学校を開校すると発表したおかげもあって達成済み。
その次にレクト社、とくに須郷がチーフプロデューサーを担っているALO部門に関する致命的な噂を立てる。そしてその噂を手掛かりにラース社とのつながりを作ってそこから犯罪行為をリークして終了。
初めて聞いた時は周到さに感激した自分を殴りたくなった。
二つ目からしてガバガバじゃねえか、噂ってなんだよ、犯罪行為ってなんだよ。そんな事実一切世に出てねえよ。出てないけどあるかもしれないから企業と結託しました!なんて話があるわけないしどうするつもりだったんだこのヤロー。御都合主義の後付け設定みたいなガバ計画建ててんじゃねえよ。そもそも完璧主義な陽乃さんがそんな計画披露するわけねえだろ。
などなど思うことはあった。
だから、いや、無理っすよ、と素で言った。なじられた。
しかし聞いてみれば知らぬ間にラース社はキリトと太く繋がっていて、彼から赤裸々に須郷の所業が漏れ出していたらしい。キリトのちゃんと報連相のできる優秀さを褒めるべきか、ラース社がSAOクリア後に速攻キリトとつながりを持ったことに感心するべきか。どちらにせよ、人の噂に戸は立てられないことを改めて実感した。
加えて、上記の通りラース社は政府の方との繋がりもあるらしく、詳しくは言えないがそこの複雑な絡まりもあるらしい。
時間を整理すると、まずキリトからの報告があって、ラース社の思惑があって、そこに俺と陽乃さんが乗っかった形になる。
「そこで、八幡君にはやってもらいたいことがあります」
「……なんですか?」
「須郷さんと適当に話して立件できそうな証拠を掴んできてほしいの」
「例えばどんなものですか?流石にそこらへんにポイポイとまずいものは置いてないと思いますが……」
「録音ね。スマホでもICレコーダーでもなんでもいいわ。須郷さんの声だと断定できるレベルの明瞭さの自白録音を、撮ってきてほしいの。少なくとも会談を3回は取れるように掛け合ってもらうつもりだから、頑張ってね」
おそらく俺に頼むのは学生という身分と、須郷との面識がゼロに近いというメリットがあるからだろう。なので、その役割を追うことにはなんの反対もないのだが……。
「あの……肝心のその会談の取り付けは誰が行うんですか?」
「私……とあと、雪乃ちゃん。流石にそれなら断れないでしょ?」
「まあ、そうですね」
ここでふと疑問が浮かんだ。
どうしようもなく基本的で、一番初めに考えるべきこと。
何故、俺は須郷と会いたいのか。
衝動的な行動で会いたいと言ってしまったが、果たして俺は何をするべきなのか。幸せになることは決してないから雪乃を助けたい?あるいは単なる正義感から?
結局その疑問は当日あっても解決することはなかった。
もしかしたら、いや、絶対に。
自分の行動理念を明確にしなかったこと。
それが、いけなかったのだろう。
だから、足元をすくわれたのだろう。
ー・ー・ー
「それは明日奈のことかい?それとも、雪乃のことかい?」
ドアノブにかけた手が動きが止まる。口調は一転、知的系悪役のようだった。
「ふふふ、あはははは。いやいや、いやはやぁ……」
目を閉じて一回深呼吸をして振り返ると、そこには須郷がいた。
須郷信之その人が立っていた。
「うぅん?はぁ……いい顔をするじゃないか、【影友】」
「……」
愉快だ。愉悦だ。愉しくて仕方がない。
醜悪な表情を隠すことなくありありと須郷は浮かべている。先ほどまでとこちら側。どちらが本性なのかは問うまでもなかった。
「だんまりかい?せっかく僕から話を振ってあげたというのに。……あぁ、もしかして僕が君のことを調べてないと思っていたのかな?順調にボロを出してやがるぜとか勘違いしてしまっていたのかな?」
「……」
須郷はソファの向こうに配置されていたデスクに座るとやれやれと言わんばかりに大げさに肩をすくめる。
「全く。どいつもこいつも度がすぎたバカばかりで嫌になるよ。【英雄】はゲームしか能がない甘々の愚図だし、かと言ってSAOの頭脳として名高い【影友】も良くて凡人、見たところは凡人以下で話にならない。どいつもこいつも所詮この世界においてはただの一般アカウントを所持してるにすぎない群衆の1人だった」
「……お前を逮捕する用意がある、と言ったらどうする?」
今だけは、心で行動してはいけないと、心を刺し殺して無感動にただ淡々と言葉を返す。一言の間違えが蜘蛛とハエを一転させる。
「逮捕?逮捕と言ったら、あの逮捕かい?」
自分の額を手のひらで打って須郷は爆笑する。カンに触る掠れた引きのある笑い。
「何がおかしい?」
「『何がおかしい?』 ふん、おかしくない。額を打って頭が狂ったかのように笑う程度にはおかしくない。まあ、打ったんだけどね」
「……逮捕状が出るまではほぼノータイムで行われること位分かっているはず。貴方が笑ってられるのも今の内だ」
「まるで君自身が警察であるかのような物言いじゃないか。そんなに連呼されるようじゃ警察の名も安くなるってものだね。……それに、社会的弱者が何を言ったところで彼らが動くことはない。例え、君のバックに政府協力の特例株式会社が付いていたとしていてもね」
「!!」
「もう一度言おう。僕が何も調べてないとでも思っていたのか?君の考えも、君の後ろの思惑も全て分かった上で僕はこう言っているのだよ。『無駄だ』とね」
心底楽しいと言った笑みを浮かべた須郷はガララ、と乱暴に引き出しから乱雑にまとめられた紙束を無造作に卓上に投げる。
そして彼は顎で俺と紙をつなぐ。取りに来い、ということらしい。恐る恐る近づいて紙束を手に取った。表紙は何も書いてない白紙。
「……なんですか、これは?」
「君達は愚かだ」
答える気は無い、と。
「君達は実に愚かだ。ここまで来るのに何工程かかった? 何日かけた? 何をして来た? そう、一々指摘するのが面倒なくらいに手順をかけてきたのだ。まるで足し算しかできない赤ん坊のようにね」
ページをめくる。
「僕はかけ算を知っている。引き算を知っている。割り算を知っている。……君達の四倍、いや、四乗は才能に溢れ才気に満ちている。【影友】である君はこのことが理解できるかい?」
「……これは」
「『これは?』ふん、見てわかることを口に出さないほうがいい、馬鹿に見える。大人しく聞いていられる分【英雄】の方がまだ利口だな。……躾けられているという意味ではね」
さぁ乗ってきたと言わんばかりの口汚い軽口が耳に入るのを感じながらも俺はまくったページから目を話すことができない。それどころが続く罵倒に反応する間も無く勝手にページをめくる手を止めることができない。
……だって。
だって、これは。
これは、
嘘だろ?
これだけは、こんなことが許されるはずがない。
これは明らかに、どうしようもなく、コトワリを踏み外している。
人道を逸脱している。
常軌を逸している。
あり得てはいけない、非道にして終わりすぎている事実じゃないのか?
ぐにゃり、須郷信之が笑う。
ぐにゃり、視界が乱れる。
文字列が乱れる。
自分が乱れていった。
資料①『雪ノ下建設との私的協定』
⒈
……雪ノ下建設(以下甲)と協定を結ぶ者(以下乙)は下記に従うことを契約した。
・木箱計画の最高責任者に乙、組織運営を甲に任命する。
・木箱計画における損失及びその保障は甲が持つ。
・木箱計画の外部協力として、米政府に所属する研究機関を要請する。木箱計画の施行後乙の所属は其れに置かれる。
・木箱計画はSAOクリア後一年以内に可及的速やかに実地される。
⒉甲乙における婚約関係
・甲は長女(以下丙)と乙の婚約を認知する。これは要項1の良質化に努める決意として行うものとする。
・乙は自らの意志を以って離婚することはできない。甲は丙にいかなる危害を加えることはならない。
・契約二項は甲乙丙全ての統一意志によってのみ変更される。
⒊金銭関係
・雪ノ下建設は木箱計画の先行資本を須郷へ提供する。乙は甲にかかると予想される金銭を除く障害の除去に努める。尚、障害の排除はいかなる機関に対しても適用される。
・木箱計画による純利益の3割は甲乙によって8:2に分割される。これは他機関との合意の上でのものである。
ー・ー・ー
資料②『木箱計画』
木箱計画(WOODEN BOW)とは、日米を始めとした10の企業を中心として行う全く新しい形の不動産ビジネスに関する世界的展開の活動の総称である。
⒈概要及び注釈
・木箱計画の発足はSAO事件を受けて須郷氏が自らの研究成果と合わせて発案された物であり、不動産会社Yからの投資を資本として計画された。現在(12/31)の進捗状況はSAO事件の終結を待つのみとなっており、また本計画は極めて実現性の高いものとされており今現在も計画への参加企業は増加中である。
・木箱計画とは、木箱。つまり人工的に作り出した土地(電子世界)を全人類向けに割譲・販売する革新的な不動産業及びその関連事業である。
⒉経過報告兼第32回中間報告
・木箱構築 ───完了
・人体の情報化プロセスの発案・監修・成立 ───完了※
・事業展開の為の事前準備 ───限定的に完了
・各機関への報告、意思統一 ───完了
※人体の情報化の副産物として、感情コントロール・魂のクローン化・完全証明物体Xが発見された(別資料)。
平等性の観点から、別資料は須郷氏とその所属先のみが所有を許可されることと相成った。
ー・ー・ー
別資料
【精神と肉体の乖離に関する報告】
(省略)
【感情プロセスと精神と脳細胞の活性化について】
(省略)
【シンイ、及び完全証明物体の有無による精神の破壊性】
(省略)
【木箱内におけるクローンの複製】
(省略)
・
・
・
【SAO帰還者と一般人の相違に関する実験及び被験者を用いた感情コントロール実験・電子クローンの精製実験に関する報告書】
(省略)
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28【邂逅⒉】
「感情のコントロール。魂レベルで行うそれは最早洗脳ではない。人格の恒久的改変と言っても過言ではないものとなってる。……そしてそれはもう殆ど実践段階に入った」
「……」
「全く茅場先輩も馬鹿だよなぁ!こんな金のなる木を作り出しといて放って逝くんだから!まるで初めて発見した阿片に溺れた哀れな航海士のようだと思わないか?その点僕はやはり天才だった!これからの主流となる産業の中核を抑え、まるで王のごとき力をこの手に宿したのだから!」
「……お前は、狂っている」
捻くれているとかクラスのすみっこぐらしとかそんなレベルの話じゃない。コイツは性根が腐って、ズレて、崩れている。
そうでなければこんな、核とさして変わらない力を平然と手元に置いていられる筈がない。ともすれば茅場よりもコイツは終わっているとすら思える。
しかし須郷は指を振って俺の言葉を否定する。
「狂う? その考えは君の怠慢だよ。理解の放棄を意味した只の戯言でしかない。だって僕は王なのだから。王と違う方向を向いている君の方が異端で狂っているんだ」
「なら、それならお前は一体、何をしたいんだ」
震える体を隠すこともできなくなった俺は、せいぜいのあがきとして目の前の狂人を睨む。俺の未知に対する恐怖なんて知ったことではないと言わんばかりに笑う須郷はいかにも不思議そうな口調で俺の言葉を繰り返した。
「何をしたいか?」
小首を傾げ、「あぁ、そうだ」と口にした。
「そういえばもうそろそろ五月の中頃だね」
「……は?」
気味が悪い。気味悪くて仕方がない。なぜこうも話をコロコロと転がす。なぜ、余りにも気楽な口調で話せる。
不安で仕方がない。
「話を盛り返すようで悪いと思うのだが、比企谷八幡くん。君がさっき言っていた『親友』って誰のことだい?」
ー・ー
「ああいや、明日奈の事でも雪乃の事でもある事は分かりきっているのだが、君の意思としてどう思っているのか知っておきたくてねぇ。ほら?知りたいだろ?なんてったって僕は【英雄】と【影友】の花を両手に持てるんだからさ」
やれやれ、と肩をすくめてそう付け足す須郷は穏やかな笑みを讃える。
「……あり得ない。そう思っていますよ。アスナであろうと、雪乃であろうとあいつらが貴方と同じになるなんて事はない。そう思っています」
「人の嫁を名前で呼ぶなよ。『須郷夫人』と呼んでくれて良いのだよ?」
スーツの内ポケットから須郷は紙を取り出した。
「
下の方へと指が向いているので目で追って見ると須郷と雪乃、その両名が互いの筆跡で記されている。
言っていた見合いは既に行われていたのか。
ギリ、と奥歯を噛んで思考する。引き出さなければならない、雪乃を狂気の中に埋もれさせるわけにはいかない、と。
「そうだ。君がトロトロと下らないお遊びの計画をえっちらおっちらと粘土遊びのようにこねくり回している間にできた誓約書だよ。ははは。だから君は愚図だと言ったのだ。未来を見過ぎていてまるで本質が見えていない。やるべきことをやるのが遅過ぎるのだ」
「……数日後には警察のお世話になる。そうなれば、」
「だから無能だと言っているんだよ」
「いいかい、比企谷八幡くん。君は根底から間違っている。……一体いつから僕はそんな犯罪人になったんだい?僕はただ単に世界規模のビジネスを見据えて動いていただけだ。婚約もしっかりと互いの同意を得て成り立っているし、警察が動く理由なんてないじゃないか。そうでなかったとしても僕は、今となっては警察をお世話する立場なんだよ?」
ほら、と奴の声に合わせて壁を見やればポスターが貼ってあるのが視界に入った。どこかの小学生が書いたであろう夏休みの課題のような防犯ポスターに安っぽいフォントが乗っかった、ごくありふれた注意喚起のポスターだった。
最近よく目にするナーヴギアとアミュスフィアに関するポスターだった。
「あれは君達が寝ている間に始まったキャンペーンでね。VRゲームに関する犯罪の防止ポスターなんだよ。僕はそのキャンペーンの特別委員長を担っている。……つまり、君のように警察と友達の友達のような関係ではないんだよ。正当に対等な関係なんだ。君達がどのように如何やって何処の行政権力に頼るのかはないけれど、そんな僕を捕まえて数日以内に逮捕なんていうのは、証拠もなしじゃぁ難しいんじゃないのかなぁ?」
感情コントロール云々だってあくまで副産物。たまたま木箱の構築中に見つかったにすぎないのだ。
須郷は嗤い、手に取った誓約書に頬ずりをした。
いい加減、限界だった。
「なら、どうやってお前はそんな外道な発明がパソコンと向き合っているだけで行われるわけない!どう考えたって人体実験以外にあり得ないだろうが!」
感情のコントロール法も、魂のクローン化も、怪しげな物体についても。どれもこれもがてんで俺の日常から程遠い、ともすればSFの領域の話だ。だけど、それでもこれらが誰かの人体を弄ぶことなしに発見されるはずがないことくらいは、俺でも分かる。こいつの本性が現れる前に見せられた社外秘だという文書からしても、どうみてもそれは明らかなのだ。
ただ、自分の口から言っていない。それだけのせいでとぼけられるのがどうしても許せなかった。
こんな奴に雪乃の人生を奪われると思うと我慢がきかなかった。
だから俺は問う。前に進むために。
逃さぬために。
「須郷。数日の猶予ができたとして、あんたは一体何をするんだ?」
「亡命」
「……ッ!!」
だがしかし、一方で俺は分かってもいた。
追い詰めたハエは、その自慢の羽根で、
他人の用意した巣で構えた俺は、どうすべきなのか。
いつの間にか見えなくなった道を問うこどもだったのかもしれない。自分のキャパシティを超えた話に俺は限界を振り切った脳みそに疑問を投げかけるしかなかったのかもしれない。その中に蜘蛛の糸があると信じて。
懇切丁寧に亡命までの手順を説明した須郷はこう言葉を結ぶ。
「1週間以内に雪乃と共にアメリカへ移住するんだ。今頃雪乃は実家で最後の週末を楽しんでいるのだろうね」
雪乃と共に行く。
その話はつまり、アスナと結婚するとキリトに言った言葉とは決定的に矛盾する。
「……もし、その話が本当だとしたらアスナはどうするんです?まさか現実から王子様のように掻っ攫うなんてことはできないでしょう?」
「何のための木箱計画だと思っている?何のために魂のコントロールを確立したと思っている?」
ゆらゆらと中身の入ったコーヒーカップを片手で揺らして須郷は軽蔑の笑みを浮かべる。
『
俺は、この問いかけ
そのせいで、障害で通常出会う事のない純然たる狂気と向き合うことになったから、と。
そして、痛感させられたから、と。
どんなに話しても相容れない人は、存在するのだと。
───そして、須郷は宣言した。
「明日奈の肉体は破棄する」
ー・ー・ー
「明日奈の肉体を脳死扱いにする」
須郷は言い直した。
「……何を言っているんだ、お前は」
漏れ出た言葉の最後に?マークが付くことはなかった。
ありえない。ありえて欲しくない、ありえてはならない!
今日何度目かの心の叫び。
それはひとえに俺が、須郷の言った意味を『正しく』理解してしまったせいだった。
今までのやつの言動と、見せられた資料がまるで国語のテストを解くかのように繋がったのだ。
「亡命に際してALOはサービス停止する。そして『ありがとうキャンペーン』として飛行制限を解除する。ネットが最近騒がしいし、こんなところで不安因子を作っても仕方がないからね。サービス停止の理由はSAO時に行っていた支援がたたってしまったことにしよう。というか、そうなっている。今日の臨時株主総会でそうやって説明したからね。そして、サービス停止と同時に未帰還者の8割を解放する。残り2割は明日奈を脳死扱いにするための方便として脳死してもう。まあ、不運だったと思ってもらおう。そうすれば、───ほうら、計画達成だ」
「どこがだよ!死んでいたら結婚も何もないだろうが!」
「キリトくんに聞いたのかい?全くオフレコだと言ったのだが、彼も口が軽いな。……あと、八幡君。分かりきったことを質問するのは馬鹿に見えるから止めろと何度いえば分かる。それは怠慢だと何度告げれば理解するんだ?」
「……!」
「たが、僕は今最高に機嫌が良い。だから、教えてあげよう。どうやって、明日奈を可愛がってあげるのかをねぇ……」
どこか血走った目で攻撃的に笑う須郷を見て、思わず自分の肩を抱いた。
腕を組むことは自分の中に籠ることと同義だという。なるほど俺はもう、何も聞かずに閉じこもってしまいたい気分だった。これ以上の狂った感情に晒されたくなかったのだ。
耳を塞がんばかりに顔をしかめる俺を見て嗜虐心を一層くすぐられたのか、彼の声のトーンが一つ上がり、須郷はついに、聞きたくなかったその言葉を口にするのだった。
「魂の乖離。都市伝説的に茅場が死ぬ間際に行ったと言われているそれを僕は確固たる技術として成立させたのだ!あの天才が公表するに至らなかった技術を僕は!僕が開発したのだ!」
後に知る、ラース内
ここで、注目すべきことはその実験におけるある一つの失敗である。
電子クローンに現実に存在する本人と会話させるとクローンの方が自己同一性を失い、自失してしまうというおぞましい失敗があった。そのアイデンティティの崩壊は、育ちきった知性が原因とされラースではその解決策として新生児のクローンを用いたのだが、須郷はここに一つの仮説を立てた。
即ち、自我は思考外のナニカに存在するのではないか、というオカルティックな仮説を。
それはすぐに実験の移される。
やることは単純、一つの対照実験である。
まず、現実で数時間の被験者に数百の質問を記した台本を読ませそれを撮影する。その後、被験者はフルダイブし、電子世界上で自ら撮影した問答に応対する。
それをランダムに数回こなした後、被験者に無断で問答の応対者を被験者から被験者の電子クローン(クローンにはフルダイブ直前までの記憶を与えておく)と入れ替える。
それを数回繰り返す。
ただ、それだけのこと。
しかし、ただ、それだけのことの結果は須郷に狂喜乱舞させた。
ランダムに無断で作成された電子クローンは、すべて自我崩壊を起こしたのだ。その問答が、撮影映像とであっても、本人とであっても関係なく自己破綻したのだ。
それは、明確にクローンでない本来の自分の中にしか存在しないナニカがあることの証明であった。
須郷はそのナニカに『完全証明物体』と名付け、その証明体へアイデンティティの保持を働きかけるものに『シンイ』の名を与えた。
彼はラースと同じ失敗から魂を発見してしまったのだ。
どうやってそもそもの失敗までたどり着いたのかは知りたくもない話だが、須郷の研究はその発見により飛躍的に伸びていくことになる。
魂レベルのフルダイブ。完全自立型UI(ラース開発の自己進化型UIの完全上位互換のようなもの)。感情コントロール技術。
その研究は大凡、人の持つ矜持と権利を著しく踏み躙る技術のオンパレードであった。
つまり、須郷の先ほどのセリフを補完するならばそれは、『アスナの魂と精神を体から切り離して電子世界に閉じ込めて、会いたい時に会える次元を超えた現地妻にする』という反吐を出したくなるような最低なものであった。
「ふふふ、君は『そんな技術があるならばバレないようにクローンを持ち去ってしまえばいいだろう。本人に合わせなければ感情を操り放題の性奴隷の完成じゃないか』とは言わないのだね。まぁ、そんな味気ないことをするわけないと踏んでいるのかもしれないが」
味気ない?何を言っているんだこいつは。そういうレベルの発想じゃないだろう。言わないんじゃない、思いつきさえしないんだ。
俺は捻くれてはいるが、少なくとも狂っても捻じ曲がってもいない。
こんな所にいるのが異常なくらいには普遍的な1人の千葉県民でしかないのだから。だから、一緒に、するな。
「まぁ、僕としてはそれでもよかったのだけれどね。どうも、限度を超えるとクローンの方だと勝手に自我崩壊してしまうのだよ。やっぱり、精神の強度が足りないのかな?」
限度を超える。クローンの方
「ちなみに、そこに突っ立ってる秘書は既に弄くり回された後だよ。もはや忠誠心以外残ってないんじゃないのかなぁ」
後ろをむけば、何食わぬ顔、素知らぬ顔、普段通りの、何事もない日常を今の今まで過ごしてきましたといった顔で軽く微笑み会釈する、秘書がいた。
あ、これダメなやつだ。
強化渦巻く一室で。
比企谷八幡は嘔吐した。
鼻を押さえて笑う須郷が印象的だった。
ー・ー・ー
そこから先の話はよく覚えていない。というか、思い出すのを心が拒否してしまう。
気付けば、胸ポケットに入れていた撮影機能付きのボールペンも没収され、資料も抜き取られ、財布とケータイのみがいれられたカバンを持って俺は帰宅の路についていた。
なんてこともない、俺の敗けだった。
まぁ、今から考えてみればさも当然のことだったのかもしれない。相手は社会的強者で海外とのパスも持っており、バックには失敗できない共同事業がある。
頭の中にあった婚約に関する疑問も最早どうすることのできないものとなってしまった。
意識を失う前に聞かされた言葉が頭の中に反射する。
「君との面談の条件に一つだけ雪乃に僕の願いを聞かせるというものがあってね。僕はそれを一緒に『一回電子世界に来る』事を願おうと思っている。その時が明日奈と雪乃が本来の意味で手中に収める時だ。楽しみにしていなよ?動画を添えたメールでも送ってやるからさ」
俺は、どうするべきだったのか。
溢れていった水はもう二度と手の平には戻らない。
───涙も出ない。
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終結編
29【兄妹⒈】
「今日は休むこと!いいね?」
「……はいよ」
「私も今日は部活休むから、もしも帰ってきた時にベッドにいなかったら怒るからね」
「分かった」
「……キツかったら電話してね?」
そうひとしきり言い残すと小町は登校した。
日付はあの悪夢のような会談から1日遅らせた火曜日。タイムリミットまで5日程しかなく、何をするにも時間が足りない現状だ。
……ただ。
それにもかかわらず、俺は。
何もする気にならなかった。
勿論、陽乃さんに報告はした。
迫られ、責められる覚悟での電話だったが、逆に謝られて困惑した。何を言ったか正直記憶があやふやだったが、陽乃さんの声色が印象的だった。それが昨日の玄関での出来事。
電話後、俺は気付けば倒れていたらしく目覚めた今はベッドの中で休養中。恐らく著しく精神が摩耗したせいだと思うが、頭の中は靄がかかり、身体は磔にあったかのように動かない。
心身ともに最悪な状態にあった。
それをどうしようとか思えない辺りが特に。
キリトから来たメールも開ける気になれず、放置している。ラースとの繋がりがあるならキリトもきっとこの理不尽な現実を知るだろう。砂上の楼閣のような猿知恵から生まれた馬鹿げた計画が、ただ権力のみによって奇跡的なバランスを保っているという、そんな現状。……もしかしたら、そんなやる瀬無い未来が待っていようが彼ならばきっと乗り越えてくれるのかもしれない。
なぜならあいつは、主人公だから。
俺の憧れた、主人公だから。
そんなことを考えて、俺は再び目を瞑った。
嫌な1日が始まりそうな予感がした。
ー・ー・ー
私には少し有名なお兄ちゃんがいる。
名前は八幡で、苗字はお揃いの比企谷。
現在高校三年生の高長身美形男子で、
あと、SAOサバイバーです。
「ぶちょー、聴いてますー?」
「んわっ!……き、聞いてた、よ?」
「うわぁ、分かりやすい嘘だぁ」
ごめんごめん、と謝りながら手元の資料をめくる。
今日は大事な部活の中でも特に大事な活動をやる週初めの日。
題して、『奉仕部大報告会』の日だ。
……そのまんまだね……。
「ほっときなよ。どーせ、愛しのお兄ちゃまのことでも考えていたんでしょう。新学期始まってからずっとこの調子じゃない」
「ぐぬぬ」
「あー、噂の彼ねー。たしか留学してたんだっけ?」
「まぁ、専らSAOサバイバーだって噂だけどね。……そこんとこどうなの?小町ちゃん」
「んー?そんな特別な人は身近にはいないかなー。幸いなことにね」
危ない危ない。動揺したそぶりを見せすぎて逆に自然に答えられた。初めに驚かされて助かったよ。変なとこで鋭いからなぁ、皆。
それにしても……お兄ちゃんといえば、今日は私の方が先に出てきたけど、ちゃんと起きたのかな?ずっとなんだか張り詰めた雰囲気がばりばりだったからなぁ……なんかあったのかな?
「部長!いい加減にして下さい!」
「んわっ!……き、聞いてたよ?」
「天丼はいいです。というか、天丼をするにしても前のボケの時との間が短すぎます!ちゃんと集中して下さい!」
「うひゃぁ、副部長ってば、ガチギレじゃん」
「うぅ……ごめんなさい」
もうっ、お兄ちゃんのせいなんだからね!これはもう、帰ったら30分ハグの刑に処すしかないやい!……でも、それだったらお兄ちゃんにとってはご褒美だよね。えへへ……。
「部長!」
「……はい」
すみません。
ー・ー
「……はぁ」
やっと終わったよ……。奉仕部って他校に比べて部活動の時間が長いんだよね。他の文化部が6:00位には自主切り上げしてるのに何故か奉仕部だけ体育会系と同じように7:00解散だし。依頼がない日なんてもう、時間をドブに捨てた気しかしないよ。
まぁ、そんな時は勉強してるんだけど。なんで真面目にやっているかだって?いやぁ、三年生の時の結衣先輩を見てると……ねぇ?
やっぱ勉強って継続が大事だよね!(震え声)
そんな話はさて置いて、やっとこさ帰れる。
お兄ちゃんの元へと帰ることができる。
私のお兄ちゃん。
もしも、そんなタイトルの作文を書くことになったら私はきっと困るだろう。
だって、書ききれる気がしないし。
別に、『生涯かけて側にいたとしても他人なんか理解することができないのに、家族だからって理由だけでそれが例外になることはない』 なんてお兄ちゃんみたいなことを言うつもりはない。ただ単に、私にとってお兄ちゃんと言う存在があまりにも大き過ぎるせいなのである。
さっきの言葉に習うなら、『生涯序盤にして書ききれない』ってところかなぁ?うまく言い表せないけど。
しかし、お兄ちゃんが昔から私にとって大きな存在だったかと問われるとそれは違うと思う。特に中学生活とかお兄ちゃんのせいでどれだけ私が苦労させられたか。あの時ばかりは上手く学生社会を立ち回れないお兄ちゃんを恨むところだったね。
ともかく。
昔は変な考えしてるなー、とか、そんな考えしてると損しそうだなー、とか。他には目をなんでそんなに細めてるのかなぁ?とか思う程度でしかなかった。お兄ちゃん子よりかはお母さん子よりだったと言うのもあるのかもしれないけど。
じゃあ、いつからそんなに大きな存在になったのか、と聞かれたらそれはもう、こう答えるしかないだろう。
『分かんない』ってね。
だって、いつの間にか大きくなっていたんだもん。
というか、『この時はもう大きくなってたなぁ』を繰り返しているといつの間にか私が生まれた日にまで遡っちゃうんだよね。お兄ちゃんの中学時代であろうとも、だ。矛盾してるけどね、矛盾しないんだよね。
パッと過去の一地点を思い出した時はそんな感じしないのにね。
結論を言うと、とりあえずお兄ちゃんは偉大なのだ。
さて、そんな偉大なお兄ちゃんと私が今の今までずっと一緒に過ごしてきたかといえばそうじゃない。お兄ちゃんはなんてったってSAOサバイバーなのだから。
ここ一年間、テレビでも新聞でもラジオでも話題の注目を集めてきたSAO事件。その渦中にいたのがお兄ちゃんらしいのだ。実際に見たわけでもないし、SAOサバイバーの友達がいるわけじゃないから本当かは知らないけど、世論を読み取るとどうもそうらしい。事実、いつかは閃光さんの名前を呼び捨てにしてたし。
SAO事件に振り回された、私やお義姉ちゃん候補達は揃って何か情報が出るたびに一喜一憂していた気がする。例えばそれは政府支援が決まった時だったり、肉体寿命が2年で終わるとかいうガセ情報だったり。今から思えば、植物状態の患者さんが世の中に沢山いるのにたった2年程度で専門治療を受けている人が死んじゃうはずがないというのに、それを信じちゃうってことはあの時の私達はやっぱり心の疲労が溜まっていたんだと思う。
まったく、1年も振り回すなんてお兄ちゃんは罪作りなんだから。……帰ってきてくれたから許すけど。
んぅ……なんか長々お兄ちゃんのことを考えちゃった気もするけど、たまにはそんな日もあるよね?ほら、うちも見えてきたし、お兄ちゃんもスーツなんか着て倒れてお見迎えしてれている。
……ん?
倒れてる?
「お、お兄ちゃん?!」
ー・ー・ー
火曜です。
お兄ちゃんがぶっ倒れて居ました。
不謹慎かもしれませんが、小学生の頃に読んで少しトラウマになった金色のくじらを思い出して心底取り乱しました。
何事もなくて安心……いや、何事かあったらしくて心配です。
「……」
「あら、今日は今日とてお兄ちゃんに想いを馳せてるのかと思ったけれど、ずいぶん難しい顔してるじゃない」
お昼。
いつもならお兄ちゃんの分も作るけど、今日はそれがないから少し手を抜いて焼きそばオムレツ。冷えると麺が固まるのが少し難点かな?
「……小町? 何かあったの?お姉さんに話してみなさいよー」
やたらお姉さんぶる同級生を傍目に1啜り。卵の甘味と焼きそばのしょっぱさがいい感じに口内調味されて美味しい。
……お兄ちゃん、ちゃんとおかゆ食べてるかなぁ?
「小町?」
「なんですか?お兄ちゃん相手にどもりっぱなしだった乙女Aさん。よくそんな精神構造でお姉さんを名乗れましたね」
「いや、あれは八幡先輩の容姿が悪い」
マジ顔、即答の少女A。まぁ、それも仕方のないこと。だってお兄ちゃんは実際かっこいい。
贔屓目を外してもかっこいいのだ。妹としては若干複雑な程に。
中学の頃は散々私と比べてお兄ちゃんが貶められていたけど、まさかその逆が行われそうな程にお兄ちゃんがかっこよくなるとは思わなかった。サラリとした髪。美丈夫で足長な高身長の体型。キラキラした目にシャープな輪郭。
紛うことなき王子様フェイスだ。
思い返せばヒキガエルだのなんだなと言われていたおにいちゃんだけど、その原因大元を辿っても結局のところそれは辛気臭い目とおどおどとした態度の、2つしかない。つまり、どちらも治せる範疇のものだ。だから、身長はともかく、こうしてお兄ちゃんが人気になったのはある意味必然的なもの。妹としてはこれまでの分も合わせていい思いしてくれることを願うばかりです。
「んで?その愛しのお兄ちゃんになにがあったわけ?あ!彼女ができたとか?!」
「ありそう!」
……うーん。話していいのかなぁ?当たり障りない感じならいいのかな?
「いや、そんな浮ついた話じゃなくてさ。お兄ちゃん、昨日倒れてたんだよね。玄関先でさ」
「え゛ガチヤバいやつじゃん。大丈夫だったのそれ」
「お兄ちゃん曰くただの熱だって。たださぁ、なんかこぅ、あんまりいい予感がしなくって。色々心労とか溜まっていると思うし」
事実、私の考える心労とはちょっと違うがお兄ちゃんの異常はストレス性のものであったため、この推測は割といい線いっていたのだが、それをわたしが確信するにはまだ材料が足りていなかった。
その言葉を聞いた大事な友達ま「ううん……」と悩んでくれるが、うまいこと原因が判明することはない。文殊の知恵など幻やはり想だというのだろうか。哀しい。
「……失恋、とか?」
Bちゃんはポツリと漏らす。失恋ねぇ……。
ないな。
お義姉ちゃん候補があれだけいる中で失恋することは天地がひっくり返ってもない。事実、最近ヤンデレに片足踏み込んでいるのではないかと私の中で話題のいろは先輩は何か勘付いたのか、お兄ちゃんの欠席を知った時からしきりにメールをしてきている。半日で50件て……怖いよ。
「うーん、それはないと思う」
「じゃあ、友達と喧嘩したとか?」
「それもない」
友達いないし。
「あ、勉強の成績が悪いってのはどう?」
「どうと言われてもね……」
今年一年はやる気ないっていってたしなぁ、お兄ちゃん。その代わり青春を取り戻すとか言ってたけど、その成果を聞く勇気がなかなか出ません。妹にもできることとできないことがあるのです。
「じゃぁもう、嫌なことがあったんだよ」
「えぇ……」
漠然、そして適当になった友達の言葉に思わず呻く。
嫌なことって。そりゃそうでしょう。嫌なことなくてあんな顔してたらびっくりだよ。
……けど。
「嫌なことがなきゃ、かぁ……」
「お?なんか思いあたるトコあったりするん?」
「んん……ま、言いにくいことだから言わないけどね」
私なりの候補として2つほどあるにはあるのだ。
ただ、そのどちらも私が手を出せる範囲を超えちゃってる。容姿云々の話なら私が手を貸せる部分もあっただろうけど、この2つが原因だとしたら、私にはどうしようもない。
1つは、SAO関連。もう1つは雪乃先輩の事情。
特にそうではないかと思うのは雪乃先輩の方。
つい先日のお披露目会のあの日。雪乃先輩が私にだけ言った言葉があった。
『……八幡君を責めないで下さい』
正直、雪乃先輩が私に敬語を使うことは(ほとんど)なかったからこの時点で嫌な予感がしていたのだが、その勘にに従ってちょっと探りを入れてみればとんでもない事実が明らかになった。婚約。今更どうこう言う気は無いけれど、雪乃先輩にはお兄ちゃんのいない一年間の間に厄介事を抱えてしまったようだった。
私が思うに、お兄ちゃんがそれを知ってしまったのではないか。あるいは、それに関して何か嫌なことがあったのではないのか。
心当たりといえばそんなものしかない。
そう、漠然。そして適当。
ただ、その適当が、テキトーなのか、適当なのか。
それが問題であるのだろう。
弁当の隅に転がる枝豆1つ。
掴みにくいその緑の一片がどうにも、私の現状と被っている気がした。だから、
ぶにょり。
お兄ちゃんの幸を願って潰してみる。
薄皮から漏れた果肉が気持ち悪かった。
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30【兄妹⒉】
「ってなことがあったわけですよ」
私は電話の相手にどこまでもぶっちゃけた話をする。
私の言葉に対して返ってくる声は、電話独特のノイズがあるにも関わらず心地よく私の耳へと歓迎されていく。彼女はいわゆる聞き上手なのだ。私もお兄ちゃんに幾度となく聞き上手だと言われてきたけれど、電話の君のソレに比べてしまえば数段劣ると言わざるを得ない。流石それを職にしようと言うだけはある。よっ、先生!なんて思わず言ってしまいそうだ。
「それで、なんとか言ってやってくれないかなと思って電話したわけなんですよ……え?ああいや、そんな謙遜しなくてもこれ以上なく適切ですから!寧ろ私の中には他に候補がないくらいです!だから……やった!お願いしますね!」
と、こんな調子で約束をとりつけた。
後に思うのです。
この時私は世界を救ったヒロインになったのだと。
報酬はささやかなものだったけれど。
「なーんてねっ!」
「……はぁ?」
お兄ちゃんの部屋は五月なのに何故か寒く思えた。
それは多分、お兄ちゃんの生気が死んでるせい。
久し振りに目が腐ってるなぁ。
(……ん?)
「お?まてまてー?これはー?もしかしてー?」
「……なんだよ。俺の顔をじっと見て。俺の格好良さに見惚れたのか?」
そう言った後にお兄ちゃんは悶えた。お兄ちゃんに俺様系の才能はなさそうだ。
「いや、そんな照れながら言われても。……というか、兄の頰染めとか誰得なのさ?」
「妹が冷たい」
「兄が痛いからしょうがないね!……はいはい。ま、実際その通りだから別に照れながら言う必要ないと思うけどね」
「痛いって酷くない……ってはい?何言ってんの?」
いや、まじまじ。
目が腐ってる、にも関わらず格好良いのだ。
「?」
小首を傾げるお兄ちゃん。
これまでもしお兄ちゃんに対して『小首を』なんて書いたものなら、私は躊躇なくお兄ちゃんと自分を殴っていただろう。ゾンビに可愛い表現ってどんな特殊性癖だよ、と。
しかし、現在のお兄ちゃんはぶっちゃけ、目の腐りなど関係なく格好良い。小首で良ければ死ぬまで傾げてくださいと言えるくらいには。
王子様系からニヒル系へ。
皮肉屋気取り野郎がモノホンの皮肉屋になってしまっていた。
「……まぁ、いいや。あと10分でご飯炊けるから降りてきてね」
「了解」
くらりとするような笑みでお兄ちゃんは笑うのだった。
くらりとしていたのは多分、お兄ちゃんの方だけど。
「本日のメニュー。カレーライスです」
「いただきます」
「召し上がれ」
先日変えたばかりの電球は今までの白光とは違い、食卓を暖色に照らす。テラスを照らすなんてギャグが思いついたけど、それが口から出る前にカレーを頬張った。もぐもぐ。
「あのさ、お兄ちゃん」
テレビのボリュームを下げて話しかける。
「ん?なんだよ」
「昨日のことなんだけど」
「……」
頭に浮かぶのは、玄関にぶっ倒れたお兄ちゃんの姿。顔色は真っ白を通り越して土色になりそれこそホンモノのゾンビのよう。
そして、その光景をスルーするほど私は薄情でも(ある意味では)お兄ちゃん思いでもなかった。
「何かあったの?ううん、どんな嫌なことがあったの?」
私は昼に友達と話したことを思い出して言い直す。
大事なことは何があったのかではなく、何がお兄ちゃんを落ち込ませたのか、だ。
お兄ちゃんは聞かなかったふりをしているのか黙々とカレーを食べ続けているけれど、私はカチャンとお皿にスプーンを置いて言葉を待つ。話してくれなければ私はてこでも動かない所存だ。1分くらいむー、とお兄ちゃんの目を覗き続けると根負けしたのかお兄ちゃんはスプーンを置いて1つため息をついた。
「……なんでもないし、お前に言ってもしょうがないことだ」
「SAOのこと?」
「違う」
人の表情は言葉を聞いて0.2秒間本音を語る。お兄ちゃんもまた人である。
分かりやすく狼狽えたなぁなんて思いながらもう一歩踏み込むことにした。
「じゃあ、雪乃先輩のこと?」
「違う!」
お兄ちゃんはノータイムで返答すれば嘘をついていないと思われると考えているのだろうか?そんな風に分かりやすく右上を向いて、片口端を上げていれば心理学やメンタリズムを知らない人だって嘘だと思うよ。
やっぱり、お兄ちゃんって表情を隠すのが下手になったんだなぁ。……可愛いけど。
「じゃあなんで、あんな吐いた後みたいな表情と顔色で倒れていたの?私の心配なんてドブに捨てられたゴミ以下の無価値なものだって言いたいの?」
「それも違う! そもそもお前が考えているような事は起こってないし、もし落ち込んでいるように見えたのならそれも気のせいだ!俺が落ち込んだ時は小町と話そうなんて思わないのは知っているだろう?」
確かに普段はそうだね。私にばれるのを恐れて話したがらない。
でも、お兄ちゃんは知らない。
本当に辛い時のお兄ちゃんは、それを逆手に取って私と話して隠そうとすることを。
「そして、そのほとんどが、私を巻き込む可能性がある時だったね」
「は?」
「こっちの話。……お兄ちゃんって本当に妹不孝だよね」
「いや、兄のことをポイント評価する妹よりは兄妹想いだと思うぞ」
「軽口を叩かない!」
「理不尽!?」
「理不尽も貴婦人もなにもない!大体お兄ちゃんは全然分かってないよ!分かってなさすぎて無知の知すらないレベルだよ!お兄ちゃんはそんなんだからいつまで経っても子供で厨二で高二で大ニなんだよ!」
閑話出題。
大二病。厨二を嫌う高二のひねくれ具合を嫌悪して、厨二病を一歩引いた心持ちで好む人種を指す病気。その実、高二病を嫌う俺カッケーみたいな高二病とどんぐりの背比べ的なアレである。
閑話終題。……休題だっけ?
お兄ちゃんは私の剣幕に目を白黒させる。
何を怒っているのかよく分からないようだ。
「あのさぁ、お兄ちゃん!私がいつ巻き込むなって言ったの?いつお兄ちゃんにSAOを引け目に思えって言ったの?いつ!私が!お兄ちゃんに雪乃先輩の事情に付き合わせるなって言ったの?!」
「小町お前、知って───」
「とっくに知ってるよ!須郷さんとかいう人と婚約したことも、お見合いしたことも!今週末結婚式を挙げることも!」
バン!とお皿の隣に二枚の封筒を叩きつけた。
「……今日、届いていた」
『結婚披露宴出席願』
雪乃先輩の直筆で書かれた住所の上に小さく記されたどうしようもない現実の言葉。
中身などどうでもいいことしか書いていないのだろうがお兄ちゃんは反射的に封筒を手に取ると震える手でそれを開封した。
「……はは」
乾いた笑いがお兄ちゃんから漏れる。その目は、腐った目に無理やり光を入れたような、乱雑な輝きを放っていた。
自暴自棄な気持ちが目に見えて表れていた。
「実はな───」
話されたのは、つい先日の惨状。
ー・ー・ー
侃々諤々。
私はついこないだまでこの言葉を『愕然』や『ガクブル』といった言葉が混合した『ちょーびっくり!』を表す言葉だと思っていたことを今告白したい。
そして、私はまた告白したい。
それでもなお思うのです、と。
侃々諤々。
兄の話にこれ以上に相応しい言葉はない。
「……」
カレーを一口頬張る。気分的にはお兄ちゃんの頬を張りたい気分だったけど。
「して」
ゆっくりとした動作で水を飲んで、ゆっくりとした動作でコップを置いて。
ゆっくりとした動作で口を拭いて私は、前置きを発言前に一単語置くように呟いた。さして変わりもしないいつもの食卓はなにもお兄ちゃんだけの独壇場じゃない。10分以上もお兄ちゃんに話させ続けるのはなんとなく気が引けたのだ。だから、仕方なく私は口を開いた。
とはいえ、まぁ、その十数分の間に事情は全て聞いたんだけどね。相槌を一切打つことなく、鬱々と語ってもらった。
侃々諤々と。或いは、喧々囂々と。
ただし、独りで。
それを聞いたからこそ私は仕方なしに尋ねてみる。
「それがどうしたの?」
ガツン!と食卓に悲鳴が上がる。
お兄ちゃんが小皿にフォークでヒビを入れた音だった。
「……悪りぃ、感情的になった」
「いいよ。質問に答えてくれたら」
おおよそ仲の良い家族同士の会話には見えない。捻った紙は自立しやすいというが、今の兄はまるでシワひとつない紙だ。ただし、素材はトレーシングペーパーの。
「……お前はまだ高校2年生だから分からないかもしれないが、社会にはどうしようもないことが沢山ある。否応無く増えていく残業とか、どう足掻いても増えない給料とか」
「うん、知ってる」
両親を見ていれば、特に。
「ならわかると思うが、というか今の話で分からなかったのが驚きだけれど、今回の事情もそれに当たるんだよ。なんの関係もない一般家庭のクラスメイトがどうして、お見合いなんて時代遅れな慣習を大真面目にやるような家庭の事情に首を突っ込めるというのか。……いや、時代遅れだと言ってしまうところが俺が一般である所以なのかもしれないな」
「……まあ、そうかもしれないね」
お兄ちゃんの話からは須郷さんと何らかの勝算をもって話したけれど失敗したということしか分からない。だから私はその深刻さについてお兄ちゃんよりも数段鈍感でいられる。
しかし、だからこそ分かることもある。
「それで、それがどうしたの?」
それが、鼻で笑えることとかね。
「いい加減しろ!」
お兄ちゃんは空になった大皿を揺らしてそう言うけれど、それでも思ってしまうものは仕方がない。仕方がないからそう言うのだ。
「だから、いい加減にしているんだよ。好い加減に、良い塩梅にしてあげたんだよ。お兄ちゃんに燻るその問題を」
「は?」
「確かにお兄ちゃんの話を聞く限り、須郷さんとの仲が劣悪になったことで雪乃さんを諦めてもらうのは絶望的になったよ。もっと言えば結婚披露宴の招待状は既に多くの人の手に渡っちゃったからそれを止めるのも絶望的」
こんな風に電撃的に私達の家に配られたことは常識はずれだとしか思えないが、どうせ須郷さんが何らかの事情で郵送を控えていたか、嫌がらせをしたかったのだろう。
「もっともっと言っちゃえば、そもそもの前提として、お兄ちゃんがSAOに囚われた時点で8割方雪乃先輩の婚約の進行を止めることは不可能だったと思うよ」
「……!」
「だから私はこうやって問いかけるしかできることがない。『それで?』『それが?』って。急かすように、背中を押すような気分で問いかけるしかないんだよ」
今までのような、ごく限られた人間関係についての問題だったなら私がどうこう言うことはできた。けど、この問題はお兄ちゃんの問題で、お兄ちゃんが考えるべき問題だ。だから、やっぱり私がこうしたらいいんじゃない?ああしたらいいんじゃない?と言うのは違うと思うのだ。
お呼びじゃないというか、及びじゃないというか。
事情を聞く前ならいざ知らず、聞いてしまった今、私のやれることはただ笑い飛ばしてお兄ちゃんの背中をぐぐっと押してやることくらい。
だから、もし。
「……悪りぃ」
お兄ちゃんがそう言うならば、私は。
「なら、仕方がないね」
こう言ってまた笑うことしかできないのだ。
ー・ー・ー
「……」
自己嫌悪に陥るほどの気力すら湧かない。
陰鬱だとか沈鬱だとか鬱蒼とした言葉を並べたところで今の気分には及ばないだろうと確信できる位には無気力状態。全身を舐めるように這う黒々とした負の感情は昨日以来1秒たりとも途切れることなく自分を取り囲んでいる。
まさか小町に当たってしまうなんて。
兄失格だ。兄として、とかもう言えないな。お兄ちゃんなんて呼ばれるだけで恥を覚えそうだ。
あぁ、恥ずかしい。一体何をやっているんだ俺は。時間がもうないと言うのに何故俺はベッドなんかで寝そべっているのだ。助けるんじゃないのか、救うんじゃないのか、あいつの人生に少しの奉仕をするのではないのか!
なぜ、俺はこんなにも無感動で無感情でいられるんだ!
心の表層、つまり理性は自分の堕落を幾らでも責め立てることができる。しかし心の深層、本能はどうしても震えて立つことができない。
分かっているのに、叫ぶことはできても動くことがどうしてもできない。
こんな心、幾らでも殴ろう、恣に嬲ってやろう。
それでも動かない。
詰った。動かない。
責めた。動かない。
諭した。動かない。
願った。動かない。
終いには泣いたが動くことはなかった。
一度でも寝たら次起きるのは全てが終わった後になりそうで寝ることすらできない。
一体なんで俺は動かないんだ。考えるうちになぜ助けたいのかと本能に問いかけられるようになった。
好きだから助けたいのか。助けてもらったから助けたいのか。友達だから助けたいのか。調子に乗って言ってしまったからなのか。図に乗って助けられると思ったからなのか。
なら、それなら別にいいではないか。助ける必要などないじゃないか。
そもそも、助けなど求められていないじゃないか。
手を出すなとすら暗に言われたじゃないか。
甘えればいいじゃないか。諦めればいいじゃないか。
穿って見る必要はない。捻って捉える必要はない。勘繰る必要はない。
助けなくていいと言ったのだから、助ける必要はない。
諦めればいいだけの話なのだ。例えば中学生活を諦めたように。
人生は繰り返しだと言う。なら、今がその時なのだ。
諦めを繰り返すだけ。俺は何も悪くないし、悪いのはひとえに境遇と社会だけだ。
だから、俺は、泣いて、忘れて、しまえばいい。
此処でも、彼処でもそうだったように。
そうすればいいだけの話だった。
「……ははっ」
口から笑いとは思えない声色の笑いが漏れる。
ここに帰ってきてからの俺はこんな感情ばっかりだ。
喜んだのは初めのうちだけで、あとはずっとこんな調子な気が来る。困って苦しんで戸惑って。少し慣れたと思ったら寄せては返す波のように困って苦しんで戸惑って。
入院した時のように。復学した時のように。キリトと再会した時のように。
そしてこれからも、諦めては災害にぶつかるを繰り返していくのだろうか。
こんな思いをし続けなくてはいけないのだろうか。
SAOで味わった苦しみよりもリアルで、SAOで与えた苦しみよりは軽いと思わなければいけない苦しみを。
報いのように。助けられなかったプレイヤーからの呪詛だと思い続けていくのだろうか。
自分が原因だとわかっていても、動かなくては解決しないとわかっていても。
俺は、あいつらにそれを押し付けて勝手に耐久していくのだろうか。
……。
そういえば。
雪乃はこれからどうなるのだろうか。
須郷が言ったように、あの会談の対価として電脳世界に連れ込まれるのだろうか。
そして、洗脳でもされて、幸せに暮らすのだろうか。何をされても幸福を感じるように弄られて、幸福のみを享受して生きてしまうのだろうか。
アスナもきっと同様に弄られるのだろうか。世間的には死んだことにされて電脳世界に閉じ込められて、ある意味幸せな現地妻になるのだろうか。
そうなれば、
須郷も雪乃もアスナも幸せな未来になるのだろうか。
───なら。
───ならそれは。
────そうならそれは、全員がしあわ───
ピロン!
徹夜明けの意識が吸い取られるように消えゆく最中、甲高い電子音が耳を打つ。
滅多に聞くことのないその電子音。
「……メール」
陽乃さんとの電話以来触ってなかったことを思い出して枕元に手をやる。
いろは辺りだろうか。
「……ははは」
スマホを開いて口から再び笑いが漏れた。
なぜなら、メールの差出人は俺が会いたくない二人の内の1人。
奉仕部No.3。由比ヶ浜結衣だったのだから。
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31【───として⒈】
例えば、比企谷八幡という青年がいた。
彼には現実を受け入れるだけの理性があった。しかし同時に、ある才女に化け物とまで称されたその理性をいとも容易く決壊させる程のストレスもあった。結果、彼は一度泣きわめくこととなったのだった。
理性はもとより、本能すらもない。
ただ、ひたすらに慟哭を後輩に向けることとなったのだ。
そして、同種のストレスを桐ヶ谷和人も味わうことになる。彼もまた、義妹に嘆くことになる。
そんな彼らの違いは2つある。大切な人の存在と、ストレス負荷のかかり方だ。一方は大切な人が現実に存在し、ストレスも日に日に、徐々に増えて行った。対してもう一方は大切な人は未だ眠っており、ストレスも0から100へ降って湧いたかのようにのしかかった。
比企谷八幡には拷問のように、桐ヶ谷和人には処刑のようにストレスがもしかかっていった。
この際どちらの方が悲惨なのかという議論は必要なく、どんな行動をとったのかを語るべきであることは言うまでもない。
比企谷八幡は現実で戦い、桐ヶ谷和人はゲームを戦場に選んだ。
結果、比企谷八幡は敗北し、桐ヶ谷和人は未だ争い続けている。
それはやはり、主人公力、運命力の違いなのだろうか。
やはり俺の青春ラブコメは間違っていたのだろうか。
そんな考えを断ち切って、俺は前を見るのだった。
なぜなら───、
夕日の沈む公園に犬を片手に佇む美女を見たから。
遠くから見てもわかるパッチリとした目と綺麗に整えられたサラサラの髪。スマホをいじるわけでもなく犬と遊ぶわけでもない。ただ単に佇むという行為を真摯に行うその姿は何者にも変えがたい美しさがあった。
故に、美女。なのだが。
「……由比ヶ浜」
「結衣、でしょ?八幡くん」
「……久しぶりだな、結衣」
名前呼びに妙な羞恥を覚える。
名前呼びに顔を綻ばせる彼女。その笑顔はどうしようもなく由比ヶ浜結衣だった。
ー・ー・ー
近くのベンチに座る。ベンチは一日中、日に当てられたお陰なのか妙に暖かかった。
結衣はリードをベンチの淵に括り付ける。犬は元気にベンチを相手に綱引きを始めた。
「サブレ、だったっけ?」
「うん。相変わらず可愛いでしょ?カマクラちゃんも元気してる?」
「おう、夜な夜なベッドを襲撃して来るから俺がほとほと困っている位には元気だぞ」
「あはは。カマクラちゃんが羨ましいよ」
たははー、と結衣は頰をかいて笑う。自分の顔がどうなっていたか分からないが恐らく目は泳いでいたのは間違いない。……相変わらず反応に困ることをぶっ込んで来やがる。
「そういや、大学はもう慣れたのか?」
そっと目を逸らして問いかける。
「……うぅん。予想はしてたけどやっぱり勉強がね……。生半可な覚悟のつもりはなかったけど、現実の辛さを身をもって知ったよ」
医学部など夢のまた夢である俺にはわからない悩みだな。
肩を落とす結衣は「テスト……単位……」と虚ろな目でつぶやいていた。
「解剖とかやっぱりしたのか?」
「それは医学部のお医者さん目指す方が優先だね。私は看護の方だからまだそういうのはないよ。いずれはやるんだろうけどね。血とかやっぱりドバドバでるのかなぁ?ふぅ、提供者さんのためにも頑張んないとだ……」
いかにも血とか苦手そうだからぶっ倒れないといいのだが。もし倒れたら確実に死体に顔を突っ込むだろうし。容易に想像がつく。
そういえば、俺が雪乃の車にはねられた時も血とか出たのだろうか。だとしたら雪乃にとっても結衣にとってもとんでもないトラウマものだよなぁ。解剖時に思い出さないといいんだけど。
「その、ヒッキー、じゃなかった。八幡くんはどうなの?いろはちゃんと同じクラスになったって聞いたけど。付き合っちゃったり……ってわわわー!そんなわけないよね!ないよね!?」
「百面相かよ。付き合ってない。それにヒッキー呼びがよけりゃ、別にいいんだぞ?」
「いや、八幡くんって呼ぶ!呼びたい!呼ばせて下さい!」
「顔が近い」
相変わらずリア充の距離感が分からない。
グッと結衣のおでこを押しながら俺はある懸念を持つ。
「お前さぁ、大学でもそんなんなのか?」
「ん?」
「そんなにプライベートスペースが狭いのかってことだよ。医学部なんてこれまで恋愛してこなかったような奴らの巣窟なんだからもうちょっと気を付けろよな?」
我ながらものすごい偏見で物を言ったと思う。しかも自分を棚に上げて。葉山みたいのがそう何人もいるとは思いたくない。……いたとしたら俺が嫉妬死するわ。
……ん?嫉妬?ちょっとまて?
だけど今のセリフなんだか嫉妬する遠距離恋愛中の彼氏みたいじゃねえか?止めろ!そんなつもりで言ってない!断じてない!
そんなニンマリと笑うな!
「……さぁね?」
「違うぞ?」
「なにがー?」
ちくしょう。笑うな、悟るな、その立派な胸を揺らすな。
俺は一ミリたりともそんな考えをしていない!
「ともかく、だ!」
「うんうん!」
「……」
あー帰りて。精神状態も相まってもっと帰りてぇ。
「……えっと、結衣からのメールを読んできたわけだが」
そう言って俺は右手に持ったスマホをプラプラと動かした。なんだかものすごく疲れたけどようやく本題。
入りたくもない、本題の時間が来た。
「あー、うん。それね」
結衣は髪の毛をいじりだす。いじいじと。
『話したいことがある』
そうメールで呼び出された俺は今、ありふれた遊具がちんまりと置かれている公園にいる。そして、呼び出した彼女もまた隣にいる。
実は、なぜ呼び出されたのかには心当たりがある。
恐らく、元気付けてほしいと妹が頼んだのだろう。俺はこんなにも元気だというのに。それはもう、嫌になるほどに。現時刻、17:30。肩を叩かれて叱咤激励されるのにこれほどまでに適した時間はない。
夕焼けで影が伸びる地面から徐々に光景は上がって行きやがて、俺が由比ヶ浜結衣に肩を抱かれるシルエットが映る。シルエットの先に見えるのは公園の木々から見える真っ赤な太陽。伸びる光の筋が煌びやかな未来を指しているかのようだ。
そして、そんなら景色の中抱かれた俺は決心するのだ。どんなことをしてでも雪ノ下雪乃を取り返す、と。その上、その後にちゃっかり都合よく劇的なアイデアが思いついちゃったりしちゃってな。視聴者なら『今までの時間なんだったんだよ』と思うようなあっけらかんとした、それでいてこれしかないと思わせる名案。
……ははぁ、成る程確かに俺の未来は安泰なようだ。
とでもいうと思っているのか、あの妹は。
俺はこう見えても、いや、どう見ても最低だ。やることなすこと全て中途半端。その半端さはあろうことか行動ばかりか自分の思考にまで及んでいる。大事な仲間は取られたまま、妹に八つ当たりもするし、今こうして面を拝むのさえ恥じるべき相手とのうのうと会話をしている。笑ってさえもいる。しかも、笑って何が悪いと心の中では逆ギレしている。
これ以上ないくらいに最低。
一般市民の限界をこれ以上ないくらいな煮詰めた人間。
それが俺だった。
そんな相手に彼女は何を慰めようというのか。
いかにして俺を立ち直らせるというのか。
折れているのが元々の人間をどうして直せるというのか。
俺は、俺の物語はもう、終わっているというのに。
───そう、思っていた。
「あー、えとね。八幡くん。今日は来てくれてありがとう。あのね、私。……今から告白します!」
「……へ?」
ー・ー・ー
やはり、俺の青春ラブコメはまちがっている。
主に、TPO が。
いや、時も場所も場合もあっている。
ただ、明らかにタイミングが間違っていた。
つまり、俺は虚を突かれていた。放心状態だった。
ここ最近は何かと告白に縁のある俺だけれど、ここでもまた告白されるなんていうのはあまりにも青天の霹靂。びっくらこいた、どころではない。俺はクラップスタナーもびっくりな頭真っ白状態だった。
「あ、え……え?」
ぼっち特有のどもり濃度を三倍にしたかのような呟き。それは返答されることなく宙に溶けていく。さっきまで普通に見れた結衣の顔はもう見れなくなってしまった。俺は今、中学二年生かよってくらいのウブさを晒していた。
こうなれば最早夕焼けも何もあったものではない。沈鬱も憂鬱もあったものではない。
俺はただ、彼女の声を逃すまいと唇の動き、声帯が作り出す空気の振動を一回の瞬きなく追うしかなかった。
「……は、はちみゃんきゅん!」
しかし、目をグルグルさせているのは向こうも同じようだった。下げっぱなしだった目線をチラリと上にやれば真っ赤な顔が見える。噛んでからはリンゴを通り越してトマトの如き赤さになっている結衣の横顔が見える。
「す、す……〜〜!」
目をギュッと詰まった結衣は突然ガバッと抱きついて来た!
「ちょ!おま!「好きです!大好きです!」
後先を全く考えていないど直球な告白。
あまりにも純粋な好意の伝達。
それは俺の顔が熟れるには十分な言葉。
「結衣、お前小町に慰め……って、えぇ?」
情けない声。ここまでくるといっそ自分は情けなさでできているんじゃないのかとすら思えてくる。
頰を真っ赤に染めた結衣は俺の態度がツボに入ったのかクスリとその頰を緩めた。
「小町ちゃんがどうしたの? 私は八幡に想いを伝えてなかったと思ったから伝えに来たのに酷くない? そうやって告白の最中にも別の女の子の名前を出す悪い人にはこーだ!」
「や、やめ!小町は妹だ!というか、お前もうすぐ成人だろうが!どこに子供要素があるってわぷっ!」
豊満な彼女の胸が押し付けられる。
なにするんだ!と口を開けようにもそもそも息ができない。……こいつ、また一段と成長したな。
うーりうり、とさらに頭を撫でられた俺はこんなとこ見られたらどうするんだと手をわちゃわちゃと無我夢中で動かした。
「あはは!くすぐったいよぉ!」
「……」
撃沈。
もうどうにでもなれって感じだ。
「私、今から最低だし忘れて欲しいこと言うよ」
「……」
「雪乃ちゃんは忘れて私と付き合おうよ。私、なんだってしたげるよ。八幡くん、ううん。ヒッキーにならなんでもしてあげるから!だから!」
「……」
「だから、そんな顔しないでよ」
結衣の甘い香りが全体を包む。ともすれば、このまま結衣に溶けてしまえそうだ。
『今から最低なことを言う』とおきまりのセリフを言う所を彼女は『忘れて欲しいこと』とあえて改変した。偶然でないならそれは多分、『最低』という脅迫で俺に選択の幅を狭めたくないからなのか。あるいは、忘れて欲しいのは雪乃のことを指していたのか。
どちらにせよ、どちらかを選ぶことのできなかった優柔不断な結衣らしいセリフだった。そして、成長した結衣にしか言えない言葉でもあった。
『溺れたかった!その言葉に甘えられたならどんなに良かったか!』などと言うつもりもない。だって、そんなことを言える位なら俺は、諦めていないのだから。
「……だけど。そんな諦めた俺だけど。そんな諦めた俺だからこそ!お前と付き合うことはできない!」
今でもヒモになれるのならなりたいし、主婦だって将来の夢の1つとして俺の中に残っている。もしもそれを望めば結衣は喜んで叶えてくれるし、やがて雪乃のことを『忘れて欲しい』ままに忘れていくだろう。
千載一遇のこのチャンス。
けれど、彼女を諦めた俺は、彼女を忘れることまで許容してはいけないのだと思うのだ。例えそれが偽善だとしても、ただの執着だったとしてもそれだけはあってはいけない。
記憶を書き換えられるであろう彼女の本心は、せめて俺の中だけには残しておかなければないないのだから。
それが、俺が1日と少し悩んで出した結論。
彼女の未来を、俺の意思を捨てた俺が得ることのできたたった1つの冴えない考え方だった。
俺が雪乃のことを好きなのかはこの際関係ないし、そもそも今となっては考えることもない。ただそこにあるのは一般人のできる供養にも似た贖罪。カッコつけないで言えば、せめてもの抵抗。負け犬の遠吠え。
俺を好きだと言う結衣やいろはには申し訳ないが、俺はこの選択を取ることにしたのだ。
おれは、人生のために人生を捧げる。
「……そっか」
「すまん。『本物』が欲しい。そう言っておきながら俺は、それを手にすることを諦めた」
「……しょうがないよ。それがヒッキーの『願い』なんだから。ゆきのんは須郷さんと結婚して暮らしていく。それがヒッキーの『願い』なんでしょ?」
「違う。あいつのことを忘れないことが俺の『願い』なんだ」
妙な誤解を訂正する。
「じゃあ、ゆきのんが結婚することは?」
「願ってもいないことだ。良くない意味でだが。ただ、俺はもうそれを阻止する機会を逃した。細い糸のような可能性を俺がバカなばっかりに千切ってしまった」
地獄の誰かのように他人を蹴落とそうとしたわけでもない。ただ、神様がなんとなくで垂らした糸を神様がなんとなくで千切っただけ。そこに悪い奴は居たけれど、最も悪かったのは俺の運であっただけの話。
だから、どうしようもないし、どうにもできない。
「なら、私が元気付けてあげるよ」
「どう言うことだ?」
「つまり、ヒッキーは元気がないってことでしょ?」
「……なんで今の会話からそんな話になるんだよ。医学部生としてその文脈判断はどうなんだ?」
風邪っぽいですと伝えたら、捻挫ですね。と返された気分だ。
「だって、今でもゆきのんが結婚するのは嫌で、だけど『八幡くん』はそれを止めるのは無理だって諦めちゃったんでしょ?」
「……含みのある言い方だな」
夕日はそろそろ姿を消す。慰めの時間は終わる。結局はこの物語はあっけなく終了する。後は適当に結衣がそれらしいことを言ってエンディングだ。二期に続けば良いけれど、人生において二期とは転生を指すし、転生してしまったら記憶も関係性も何もなくなる。
やっぱり、人生はクソゲーだ。
ろくな人に関わるから絶望するし、泣くし、こんなに惨めになる。たった一人の人を失うだけでこんな気分になる。
なら、それならいっそ、俺はあの時先生の手を振りほどくべきだったのだ。職員室から無理にでも出て言ってしまえば良かったのだ。
彼女達とも、出会わなければ───。
「だから、『八幡くん』が諦めなら、今度は私達がそれをやればいい!」
「……そっか。第1部、完結だな」
明日に向かって出発だ。二期は3年後から始まりますってか。
って、はい?今こいつなんて言った?
「だから、今度は、私達『奉仕部』の出番だよ!!」
元だけどね、結衣は笑って言った。
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32【奉仕部として⒉】
「あのなぁ、結衣!」
「うっさい!ヒッキーは黙ってて!」
碌でもなことを言うなと思わず結衣に怒鳴り返してからというものの、彼女はずっとこんな調子だった。ノートを勝手に取り出して丸っこい字で『ゆきのんを救え!大作戦!』と大きく書く。そして、彼女は一人でうんうんとそこに何かを書いては消してを繰り返す。
そんなこんなで五分経ったのだった。
俺も我慢の限界だった。
「いや言わせてもらう!いいか!雪乃の事は俺と、陽乃さんと、その上企業を巻き込んでもなお無理だったんだ!それが俺とお前だけの部活動でどうにかできると本当に思ってんのか!」
「で、できるもん!やる気ないからヒッキーは黙っててって言ってんじゃん!」
聞く耳持たずとはことか、とため息をついた。
しかし、どうもきまりが悪い。俺達は告白した・されたばっかりだというのに、それをそっちのけで喧嘩をしているのだからそれも当然といえば当然だが。こいつは何故こんなにも平然として居られるのか。
告白と救出。どちらが大事なのかは明らか。
そんなことは分かっている。だというのに、もっと大事なことがあるのに目先の事態に囚われてしまう俺は、いかにも凡庸で俗的な奴だと言われている気がしてならなかった。
「……なぁ結衣」
「なに?」
「もし、俺が雪乃を諦めてお前と付き合うからお前も諦めろって言ったらどうするんだ?」
「んー、ヒッキーと付き合う」
「はぁ?」
期待と違う答えに困惑する。
勝手に期待して勝手に困惑するというのはなんとも愚か。またひとつ自分の嫌な所を見つけて歯噛みする。俺が愚かなのか、俺らしい愚かさなのか。
……。
「そして、多分すぐ別れてまたゆきのんを助けようとする」
「……なるほど」
これまたどちらも捨てられない結衣らしい選択。
誰々らしい。
雪乃らしい、結衣らしい、いろはらしい、小町らしい。どれも言われたらこれだとパッと思いつく。八幡らしいと言われたら、多分、ひねくれ者と言われるのだろう。
だけど、誰々らしい選択。と言われたらどうだろうか。
もっといえば、比企谷八幡らしい選択。
半端な捻くれ者の選び方。
現在の俺は選択というよりかは末路。俺らしさと自分の嫌いな所を同一視してしまう俗人の成れの果て。
では、俺はどんな選択をしてきたのだろうか。今までは考えようとしなかった自分の奇跡。自分の後悔。
俺らしい選択。
結衣にあてられたせいか、少し考えてみようと思った。
ー・ー・ー・ー・ー
「今日も今日とて腐った目を社会に晒しているのね」
「そう言うお前はやけにご機嫌だな」
かつてのある日のとある時間。
曖昧な関係による具体性のない会話。
誰でも過ごせるような、どうとでも過ごせるような空間に身をやつしていた時代。
端的にいえば、高校二年生の放課後の忘備録。
俺は片手に持ったマックスコーヒーをいつも座る椅子近くの机に置いた。
「……それで、何かあったのか?随分元気じゃねえの?」
「いえ、特になにもないわ。強いていうなら、部室にゾンビが出現したことくらい?」
「もしもそれが俺のことを指しているなら、今夜の俺の予定は『まくらを濡らす』に決定だな」
「そんな飲み物を飲んでいるあなたの涙は、さぞかし甘いのでしょうね」
彼女の言葉に涙を流した。
しょっぱかった。
「その笑顔から察するに」
「察するに、何?」
発言に噛み付くような口調の雪ノ下。
「怖えよ。……あー、察するに、今回のテストの点数が良かったのかって言いたかったんだよ」
「まぁ、あなたに比べたら良かったわ」
「お前は学年最下位に近い順位の俺に勝って嬉しいのか?!」
「別に。それで喜んで居たわけじゃないわ」
「ふぅん。なら、別の何かで喜んでいたんだな」
「……えぇ、そうよ」
この世の苦いものを全て煮込んだ汁。それを口にしたかのような表情。苦渋でもそんなに長くはないんじゃないのかとすら思える。
……俺に失言一つしただけでそんなに悔しいのかよ。
「とても悔しいわ。比企谷君相手に失言するなんて。この失態は子々孫々と受け継ぐべきね」
「雪ノ下の中での俺の立ち位置がゴミ以下ってことはよく分かったよ」
俺は頭を抱えてガタン。と音を立てて座る
続いてため息ひとつついてコーヒーを啜る。マックスコーヒーをコーヒー、などと称したものなら雪ノ下から100の暴言を交えながらにマックスコーヒーはコーヒーに非ずと講釈垂れるに違いない。
そう思いながら二口目を口に含んだ。
「……ねぇ、比企谷君」
「なんだ?」
「何を読んでいるの?」
「御伽草子。太宰治の」
何回読んでも面白い、まさしく名作だな。雪乃も流石の名作に「なるほど」と感慨深く頷いた。
「あぁ、比企谷君が鈍臭い役で出演しているやつね」
「鈍臭い? 俺? ……あっ! 雪ノ下! お前今俺のことを亀に例えたな! 確かにネチネチと浦島を責め立てるところは俺に似てなくもないが、だとしても亀に例えるいわれはないぞ!」
「あるじゃない。というか今あなたが言ったじゃない。それで亀ヶ谷君、奉仕部のことなのだけれど」
「比企谷だ。ちなみに中学生の同級生がストレートに俺のことを亀野郎と呼んで居たことから、やはり雪ノ下がご機嫌であることは明白だ」
「なんて哀しい推論なのかしら……」
パタン、と珍しく新書を読んでいた雪ノ下。彼女は新書をしまうと、紅茶を入れ始めた。珍しく俺の分も。
俺を憐れんでいることがありありと伝わってくる一連の所作だった。
「さて、比企谷君。あなたに話さなくてはならないことがあるわ」
「なんだよ、改まって。まだ短い仲だがそれでも遠慮しぃなお前なんて初めてじゃないか?」
「うるさいわ、ゴミ」
「そんなド直球な罵倒も初めてだな」
「捨てるわよ」
「そしたら呪うからな」
最後のやりとりだけ聞けば、彼氏彼女のやりとりに聞こえなくも……ないな。少なくとも、俺はそんな彼氏彼女はごめんこうむる。
……しかし、珍しく依頼人がこない日だというのに俺との会話をしようというのか。
なんだか嫌な予感がする。
「……それで、話したいことってなんだ?」
「これよ」
ぱらりと一枚のプリントが渡される。
「えっと、『雪ノ下雪乃と比企谷八幡によるご奉仕対決その中間報告』?。……どうしたんだこれ。先生から渡されたのか?」
「ええ。点数はまあ妥当なものだからしげしげを見る必要はないわ。話したいのは、ここのこと」
そう言って身を乗り出した雪ノ下がプリント下部を指差す。そこには先生が書いたのであろう解決した悩みと未解決の悩みが小さなゴシック体で書かれていた。
「これがどうしたんだ?由比ヶ浜とか川崎のことが書いてあるが別に間違っちゃいないだろ」
他にも日常頼まれる細々とした事柄が多く書かれている。パッと見た所、特に不審に思うことも不思議に思うこともなかった。
雪ノ下はそんな俺に業を煮やしたのか更に俺に寄ってくる。そして、耳元で「ここよ」と囁くと彼女の細い指で一箇所を示す。とてもくすぐったいので是非止めてもらいたい。
『未解決』
「未解決ねぇ。……勝手に化学の先生の荷物運びだとか社会科室の掃除だとか未解決でもなんでもないだろ。俺に行ってこいってことか?」
「……違うわ。その下よ。雑用ごとの下。あなたの性格改変依頼の側を見なさい」
「ええと、これか?『青春謳歌』。確かに余計なお世話だな」
そんな心配している暇あったら自分の婚期の心配をしろという感じだ。先生に言ったら普通に殴られそうだけど。
「その下よ。亀ヶ谷君」
「察しが悪いことは謝る。その代わりお前はその呼び方を謝れ」
亀ではない。むしろ運動神経はいい方だ。連携は取れないが。いっそ陸上でもやろうかな?リレーじゃないやつ。
雪ノ下の怖い視線から目をそらしてあらためてプリントを見ると、小さく雪ノ下雪乃の文字が目に入った。
「『雪ノ下雪乃の救済』?なんだこりゃ?」
「分からないわ。少なくとも私は依頼していない。となればやりそうなのは由比ヶ浜さんか先生。……あるいは」
「陽乃さん。ってことか?」
「えぇそうよ」
誰が頼んでも雪ノ下が怒りそうな面子だった。
カーテンが風に揺れる。
「んで、それがどうしたんだよ。まさか救済の依頼か?辞めろよ俺はキリストでもブッダでもないただの高校生だわ。荷が重い」
内容は分からないが面倒くさいことは容易に分かる。
「誰があなたに助けを求めるのよ。せめて世界1つを救ってから出直しなさい」
「お前は世界よりも上位対象なのかよ」
世界救済って。
雪ノ下エンドまでのフラグ管理が大変そうだな。ユキノシタルートだけゲームディスク5までありそう。そしてそのうちディスク5までは世界救済編で埋まっているのだ。
ユキノシタ編はダウンロードコンテンツ。
「それでね、比企谷君。私があなたにこれを見せたのは思い出したことがあったからなのよ」
「なんだよ。記憶喪失でもしていたのか?優等生のお前が」
もしかして救済編への伏線か?記憶の檻に閉じ込められた私を救えってか?なら、これからエンディングだな。雪ノ下思い出しちゃったし。
……なんてな。
冷たい目線に耐えきれなくなり、俺は「なんだよ?」と再び尋ね直す。
「……はぁ。私がこの部に入れられたのもまた、理由があったのよ」
口を開いて、鈴を転がすような声でもって雪ノ下は言った。
その後の会話には意味はないので省略する。とはいえ、今までの会話にもさして意味はないのだけれど。
けれど、この会話は雪ノ下が自ら見せた貴重な自嘲を捕えた会話だった。
文字に起こせば一千と少しの会話。口に出したセリフだけ数えればもっと少ない文字数。
その中でさえ、雪乃は雪乃らしい口調で雪乃らしいことを話していた。無論俺だって俺らしい口調で俺らしいことを口にしていた。
雪乃が思う雪乃。比企谷八幡が思う比企谷八幡。
その会話の間、俺たちはある種のペルソナを作り出していた。自分が持つ合わせて2つの
俺たちはいつだって、自分らしさを知覚して会話をしていのだ。
そう、確固たる自分らしさをもっていた。
俺だって、半端なひねくれ者としてのキャラクターを自覚して話していた。つまり、選択していた。まるでゲームのように。有りもしないフラグを気にして、セーブ機能を夢見て会話を楽しんでいた。
高感度を気にして、談笑していたのだった。
ゲームのような世界からゲームの世界へ移り、ゲームのような世界へ戻ってきた。
それが良いことか悪いことかは分からないが、どの世界でもそこそこ楽しく生きていた。幸も不幸も好き嫌いせず食べていた。
今回は不幸だった。
今回は幸だった。
前回はよく考えれば不幸だった。
そんな風に可変的に幸不幸を捉え直しながら俺は自分の人生を歩んできていた。
俺らしい選択の末に俺があるのではなく。俺だからこそこの選択を取る。そう思って生きてきていた。
だから、今それを逆転しようと思う。
気まぐれに逆さにしてみようと思う。
もう一度頑張るとかそういうのではなくて、ただ、捉え直してみようと思う。そう、捻くれてみようと思う。
俺らしく。
自分だから諦めた選択をするのではなく、諦めた結果が自分であるのだと確かめてみる。
字面上、捉え直した結果の方が立ち直るには程遠い。
だけど、結衣は言った。
今度は、『奉仕部』だ。
『比企谷八幡』では無理なら、『奉仕部』として助けよう。
そう言ったのだ。
諦めた結果が奉仕部である。
その事象は正しいのか。
「それは、やはり間違っている」
だって、比企谷八幡が諦めていても、雪ノ下雪乃がどうしようもないと思っていても。
由比ヶ浜結衣は、諦めていないのだから。
「……あぁ、そうか」
俺は諦めたし、もう立ち上がらないだろう。
なら、今度は。
「俺は、奉仕部として、お前を助けよう」
俺が入院したあの日の言葉。
『引き止めてくれる?』
精一杯のSOS。彼女なりの依頼。
奉仕部員3人による互助活動。その最後の活動として俺たちはお前に奉仕する。
ー・ー・ー
「結衣」
「う、うきゃっ?!ひ、ヒッキー?!突然何するし!」
思わず抱きついた。
「……って、ヒッキー、泣いてるの?」
「泣いてない。……ただ、少しこのままでいさせてくれ」
目から水が止まらないのだ。
悲しいわけでもないし、嬉しいわけでもない。だというのに何故か涙が止まらない。泣いていないのに、涙が出るのだ。
「ヒッキー……。も、もー、しょーがないなー。貸し一だからね!」
「すまん……ありがとう……ありがとう」
何にお礼を言ったのか。自分でも分からなかった。
「いいんだよ。泣き止んだら計画立てんだからね!一緒に!」
「あぁ……ああ!」
ははぁ、と震え声が口から漏れる。
怖かったと今なら声に出して言える。
須郷のことも未来のことも。雪ノ下の行く末も、自分の行く末も。何もかもが不安で不安でしょうがなかった。
怖くて恐くてこわくてコワくて。
なにをしたらいいのか、どうしたらいいのか考えるのがこわくてたまらなかった。トラウマだとかPTSDとかではない。ただひたすらに何かをするのが怖かった。
須郷とあったせいで雪乃がよりひどい目にあうのが怖かった。
小町に何か話したせいで被害が及ぶのが怖かった。
陽乃さんとこれ以上付き合って迷惑かけるのが怖かった。
自分が行動するのが怖かった。
比企谷八幡が存在するのが怖かった。
いるだけで不幸を撒き散らす害悪であるという観念に囚われていた。
今でもそれを乗り越えたとは口が裂けても言えない。
「……結衣」
「なに?八幡くん」
「感謝している。……だけど」
言葉に詰まる。
結衣は不思議に思ったのか首を傾けて、俺の言いたいことに思い当たって手を打った。
「告白のこと?なら、保留でもいいんだよ。こんな状況だし」
「……いや、言わせてくれ。俺に、応えさせてくれ」
深呼吸して、結衣から離れる。
「やっぱ泣いてんじゃん」と結衣は笑った。
彼女がこんなにも悲しそうに笑うのは恐らく、なんて答えられるか予想がついているのだろう。
「……結衣。俺はお前とは付き合えない」
「うん、知ってた」
一瞬顔を強張らせた後の返答。彼女が無理をしているのは明らかだ。
「……じゃあ、ゆきのんを助けたらゆきのんと付き合うの?」
「いや断る。俺は、誰とも付き合わない。少なくとも、大人になるまでは。まぁ、その時に俺と付き合ってくれる奴があるとは思っていないが」
「理由を聞いてもいいのかな?」
悪戯っぽい表情で結衣は言う。
サブレが俺を威嚇していた。
「……決めたからだ。俺は、好きな女性を守れるようになりたいって」
小っ恥ずかしいことを言ったものだと思う。今までの俺なら死んでも言わないだろうセリフ。
けれど、それでも結衣には死んでも伝えなければいけないと思った。
「でもそれは、好きじゃないから助けないってこと、じゃないよね?」
「当たり前だ。……ただ、付き合う女性にはそもそも助けなきゃいけない状況になんてしたくない。俺は勇者でも英雄でもないからな。魔王と対決なんてごめんだ」
「……じゃあ、何になるの?」
「彼氏、夫、そして、父親。あと爺さんにもなりたい。俺は好きな人とそこまで歩んで行きたい」
俺の人生に冒険も探検もなにもないとはもう言えないのかもしれない。だけど、一緒に歩む女性には平和の中にいて欲しい。
それが、俺の思う守ることであり、護ることだ。
諦めた俺が、もう一度だけ立てる小さな目標。
「……そっか。なら、仕方ないかな。とりあえずは諦めたげる」
「……ありがとう」
「もういいって!さ!計画立てよ!さっさと奉仕部復活して卒業打ち上げ及び第一期奉仕部お疲れ様会するんだから!」
「……しょうがねえ、か」
解決策もなにもない。
ただもう一度。
そう思えただけの時間。
未来は未だ真っ暗だ。
だけど。少しだけ俺は、「助けられるかもしれない」そう思ったのだった。
ピロン!
ケータイから音がした。
「悪い、電話だわ」
小町からだろうか。
そう思って電話にでる。
「もしもし比企ヶ谷」
「『どーも、もしもしお元気ですか?』」
「はあ、どちら様でしょうか?」
ん?電話の調子がおかしいな。声が二重に聞こえる。
「『いや、オレだよオレ。ほら、オレだよオレ』」
「詐欺なら切るぞ?」
相変わらず不調な電話。スピーカーがいかれているようだ。しかもおかしいのは電話の主も同じ。思わずいらっとしてぞんざいな返しをしてしまう。
しかし、次の言葉で俺はその意外な電話の主を知ることになる。
そいつは、なんというか、かけがえのないやつだけど信頼も置いているけれど、心配だけは絶対にしないような相手。信用もあるし、仲だったよかったけど喧嘩ばかりしていた相手。
有り体な言葉をつかうなら、大切な仲間。
もっと簡単に言えば、それは───。
「『だーれだっ!』」
目に突然手が当てられる。
俺は驚いて思わずケータイを落とした。突然の目隠しに驚いたというのもある。しかし、その驚きの大半の理由はその声の主。
「……な、なんでここにいるんだよ!アルゴ!!」
かつて世界で釜飯を共にした仲間。
簡単に言えば相棒。
手を振りほどいて後ろを見れば、そこには少し痩せたもののゲーム内で見たあの顔があった。
「ニャハハハ!ネズミヒゲはないけど確かにそう!オレッチはアルゴだゾ!おひサー、色男。そして、朗報ダ相棒」
ニヤリ、と不敵な笑みでアルゴは笑った。
「一転攻勢ダ、影友」
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33【SIDE-B⒈】
かくして比企谷八幡は最終局面へと突入していく。
だが、忘れてはならない。
クロスオーバーならではの別視点。
カッコ良く言えばアナザーサイド。
桐ヶ谷和人の存在を。
比企谷八幡よりも余程主人公で、比企谷八幡よりも余程異質なキャラクター。
成熟していない精神から来る常識はずれな行動。
電脳世界に寄りすぎた魂の性格。
うつらうつらとした思考回路。
一歩間違えればサイコパス。
間違えていないが故の英雄。
【黒の剣士】キリト
もう1人の主人公の活躍を。
忘れてはならない。
ー・ー
「ねえ、キリトくん」
「なんだ?」
アルヴヘイム・オンライン。その
満場一致で文句なしにゲームの看板名所の麓。
紆余曲折と二転三転を繰り返したドラマの末、兄妹は雑談に花を咲かせていた。なんの解決もしていないけど、それが今の状況を否定する何かになることがない。それを悟った結果だった。
リーファは
そんな2人が何故世界樹に今すぐ特攻しないのか?
それには事情があるのだった。随分と私情に近い事情ではあったけれど。
「キリトくんと【狂目】って仲良かったの?」
直葉ことリーファはキリトに問いかける。
キリトは手に持ったソーダを傾け、それに答えた。
「【狂目】……?あぁ、【狂目】な!いや、特に友達だとか仲間だとかそういう関係じゃなかったよ。敵対していたわけでもないけどな」
「ん?どういうこと?【SAO三大エイユウ】なんだよね、キリト達は」
【英雄】の桐ヶ谷和人。
【影友】の比企谷八幡。
【叡勇】の須郷信之。
【叡勇】に関してはSAO事件をまとめたとある本で【英勇】と記述されてしまったので、文字の当て方はそちらの方が主流かもしれない。まぁぶっちゃけ、彼が英断と叡智と勇気の【エイユウ】だからこの当て字がされただけなので、その辺のことはどうで良い。
それが本当のものであったならば、の話ではあるが。
ともかく、リーファの疑問は一般市民からすれば至極当然のものである。W主人公とネットで評判な二人が、実はそんなに繋がりがない、という方がおかしな話なのだから。
キリトは頰をカリカリと掻いて「うーん……」と言葉を選んで話を続ける。
「そうだなぁ……SAOの時、【狂目】にはよく【正常組】なんて呼ばれてたな」
「正常組?どういうこと?」
「最初から説明するとそれこそSAO全てを話すことになっちゃうから、結論以外をバッサリ割愛しちゃうけど、ぶっちゃけ【狂目】は勘違いされていたんだよなぁ」
「……もしかして、本当の【影友】は別にいたっていう話?」
リーファは世界の真理を見たかのような口調で尋ねる。
こくり、と小さく喉を鳴らしての問いかけだった。
「いいや、そうじゃない。確かにあいつは【影友】だし、れきっとしたギルド長だったよ。ただ……そうだな。今考えれば本当に、それ以外が全部勘違いだったのかもしれないな。特に周りからの評価とかが」
一時期流行ったライトノベルや群青劇のマイナージャンルをリアルでやっていたのだとキリトは笑って言った。
勘違い。
そう書いてしまうとなんだか大変な事のように聞こえるが、要は【影友】が周りから過剰な持ち上げを食らっていたということ。
石を拾ったことがゴミを拾ったことになり、ゴミを拾ったことが他人の無くし物を拾ったことになる。そうこうしているうちに良家のお嬢さんから感謝状が届く。そんな感じ。
まるでわらじべ長者。まさにわらじべ長者。
「しかもタチの悪いことに、勘違いの発生源が【狂目】じゃない事の方が多いんだよ」
「……へぇ」
リーファは興味深そうにキリトを見る。というのも、彼が珍しく頰を緩めていたからだ。
アスナに関する事情に加えて、最近アナウンスされた『アルヴヘイム・オンライン配信停止のお知らせ』や須郷信之から送られてきた結婚式の招待状によって尋常じゃないストレスを抱えたキリト。彼がこれまでに笑った回数は数えられるを通り越して、寧ろ(少ないと言う意味で)数えられないくらいだった。そんな兄の浮かべた笑顔。
リーファはすかさずスクショを撮るのと同時に、更に耳を傾けるのだった。
「正常組で語り継いでいる笑い話の一つに【狂目信仰事件】というのががあるんだよ。リーファのイメージ以上に優秀なあいつが、あまりにも有能な情報を集めてくるものだから攻略組の一部がある時、ふざけて影友をヨイショしたんだよ。『ははーっ!』ってな調子で。そしたら、その1週間後には中層でブームのように崇拝の気風ができちゃってて俺たちがそれに気付いた時はもう手遅れ。【狂目】のギルド内でもガチ信仰が始まっちゃってた」
それを知った時の彼の顔とはなんたるや。
引きつったのか苦笑いをしているの半泣きなのか。正常組に笑いと憐憫の嵐を巻き起こすには充分な表情であった。
ただまぁ、ラフコフで
プライベートピクシーのユイもその話は知っており(というか必殺の顔を見ている)、その時を思い出して小さな手を口に当てて、ぷぷぷと声を漏らしていた。
「それで、それが正常組の由来となんの関係があるの?」
「簡単な話だよ。俺たちが【狂目】の所業を正しく認識していたから【正常組】なんだ」
キリトは笑って、しかし冷や汗も内心たらしながらリーファにおしえた。
冷や汗。それは、無事にクリアがなったからこそこうして笑って話せるが、よく考えたらこれほど恐ろしい話はないからこそ出るもの。
もし勘違いがバレてしまったら。
それにより色々なギルドの結束が緩んでしまったら。
もし信仰が途絶えてしまったら。
それどころか派閥としてギルドが分裂してしまったら。
宗教社会という、ハイリスクハイリターンな領域にSAO社会が突入した時、比企谷八幡はバッドステータス【胃潰瘍】がないことを感謝したという。
身から出したわけでもない錆が自分を模した仏像を作り始めたのだ。これほど迷惑なことはないだろう。
「うん、そういうこと考えたらやっぱ1年で攻略できたのは不幸中の幸いだったな、うん」
何事もなくてよかった。キリトはどこかずれた感性でそう思うのだった。
ピリリリリリリ!!
突如、けたたましく電子音が鳴り始める。それはキリトのかけておいたタイマーの終了を知らせる音。
そして、キリトを少し落胆させた音だった。
「……ま、そうそう上手い話もあるわけないか」
「時間だね」
「あぁ……もう少し待っててくれ、アスナ」
リーファの右手が少し強張る。手に食い込んでできた爪痕には、彼女の理解と納得の差異が表れていた。ユイも二人を励ましながら父親に乗る。
パイルダー・オン!
キリトの頭にそんなセリフがよぎった。
厳密には、彼女が乗ったのは頭上ではなく肩なのだが、どちらにせよ頭上からのドッキングだから良しとしよう。
リーファはキリトの顔を見てそう思案した。
2人は最早、以心伝心の関係だった。ラスボス前の関係性としては最高クラスと言ってもいいだろう。
「俺、この戦いが終わったら、結婚するんだ」
「頑張れ」
ただし、以心伝心故に、無謀さの自覚も以心伝心していたことを除けば。
ー・ー・ー
世界樹の中は思ったよりも簡素だった。
キリトとしては、『外見とは打って変わって内観が神殿だった』位の意外性をイメージしていたため、このような『大きな木をそのまんまくり抜きました』と言わんばかりの光景は拍子抜けもいいところだった。
そうはいってもやはり、世界樹でポップする敵は第一線級のプレイヤーを難なく屠るAIを積んだバケモノ。直ぐに油断なく大剣を構えたキリトは流石元攻略組と行ったところだろう。バカみたいにプレイヤースキルと経験値を貯めてきただけはある。
「……ユイ、ゴールはどこだ?」
「あそこです!」
指をさした先の天蓋付近に見えたいかにもな扉。
やっとここまできたかとキリトは大剣を握る手を強めた。
「リーファ。迷惑をかけるな」
「はぁ、そんなの今更でしょ?」
絡んできた悪質なプレイヤーを退治してからというものの、リーファはそれはもう濃い時間を過ごしてきた。パーティ脱退や洞窟での一件もそうだし、よもや領主とあんな事件を起こすなんて思いもしなかった。
(……お兄ちゃんは向こうでもこんな日常を送ってきたのかな?)
だとしたら、それはリーファ、直葉にとってこれ以上寂しいことはない。離れていた時間はたった一年などとは口が裂けても言えないな、と思わざるを得ない。
SAOサバイバー。
SAO社会。
リーファは先日見たニュースをふと思い出す。
ねじ曲がる倫理観。
新たに生まれる彼ら独特の流儀と文化。
二つ名という荒唐無稽が大真面目にまかり通ったその社会心理。
内容は残念ながらSAOに対して過激的で批判的、かつ偏向的だったが一つ、そのニュースが正鵠を射っていたものがあった。
それはSAOが新部族として成り立つ可能性。
首切り族日本や、
そして、SAO。
良くも悪くも、電脳世界に世界を築こうとした茅場明彦の努力は社会に認められつつあるのかもしれなかった。
だが、その事実はまたある一つの最悪を意味している。
言うまでもない。須郷信之の悲願の達成だ。
彼が意識しているのかしていないのかは分からないが、彼の行いもまた社会の創造、文化の創造と同義。だとすれば、歴史が示してきたように電脳世界にも文化の象徴ができるだろう。
例えばそれは街並みであったり、名物だったり、名産だったり。
著名人だったり、議員だったり、大臣だったり。
党首だったり、王様だったり、独裁者だったり。
教主だったり。独自神だったり。教義だったり。
創始者だったり。
須郷の願い【世界の神になること】は最悪の結果として、しかし確かに実現しうる未来として着実に一歩一歩現在に向かって足を進めていた。
リーファは考える。
この時間が終わったらゲームはもう辞めよう、と。元々は兄のことを知りたくて飛び込んだ世界。生来の性格と、剣道の経験のおかげでここまで来れたがそろそろ潮時なのかもしれない。
分からないことが分かった。
ありふれた表現だが、彼女はそう考えた。
実際には、SAOの経験を知ることが叶わないことを知ったのだが、それは些細な言い回しの違い。『そこへ行く』と『そこに行く』のような間違いとも言えない程の違い。
嘆息して、彼女も背中から得物を引き抜いた。緑のバトルドレスをはためかせて前を睨む。
引退の場としてこれ以上ない挑戦だった。
「出たぞ!」
キリトが叫ぶ。
宙に浮かぶ小さなモザイクが徐々に鎧と翅を構築していくのが見える。徐々に現れ始めたのは、市販で買おうとしたら100万は下らないような装備品の数々をまとったエネミー達。
まだ構築も終わっていないというのに目を赤に光らせたネミー達はキリトの元へと殺到した。
「どりゃあぁ!!」
気合い一閃。
キリトの剣先が半円を描く。エンジェル型のエネミーが真っ二つになる。
「まだよ!」
「ああ!」
死角から現れた新しい個体は形が形成される間も無くキリトに切り刻まれた。
(おそらくこいつらは繁殖型。そして進化型。なら、敵が弱い今の内になるべくドアの近くへ行く!)
「リーファ、突入!」
「うん!」
世界樹の根元からロケットスタートを切る二人。
守護騎士達は捨て身の様相で妨げようとする。しかしキリトはそれらを避けることなく突き進んだ。
(進化型の弱点があるとすればここしかない!)
剣を使うことなくドアに接近したキリト。彼はここで敢えて斬撃のみで守護騎士を破壊した。エネミーAIの学習過程に異物を投げようとしたのだ。
SAOの無限
高い攻撃力と保有経験値。そして紙装甲。
そう、紙装甲。
そりゃあもう狩られた。
枯れることがないから、狩られ続けた。
ある一つのポイントを押さえながら狩られ続けた。
そのポイントというものは打撃と斬撃、斬撃と刺突といった具合にランダムを意識した攻撃を与えるのだ。ランダムに攻撃する理由はさっきの通りなのだが、ここで大切なのは、また別のこと。
その戦法が通用したのは、茅場明彦という天才がジャイアントアントを『意図的に』ランダム指数の学習を怠らせたためだということだ。
なぜなら、本来、ランダムな攻撃であったら、その攻撃群を『斬撃・打撃・刺突から重複を許して二つ選んだ組み合わせの繰り返し』とジャイアントアントに捉えさせればいいだけの話なのだから。
つまり、現在応戦している守護騎士は、ランダム攻撃を既に『学習していた』。
「なんだと?!」
キリトの大剣の軌道にピッタリと合わせて振るわれたエネミーの剣。思わぬ反撃にキリトは大剣を手放してしまった。剣を吹っ飛ばしたエネミーは、どこで学んだのか、自身の剣を舐めるような動作をして、とどめの一撃を繰り出す。
「させない!」
キリトにヒットする直前、横から差し伸べられる直剣。リーファはお返しと言わんばかりに騎士の剣を弾くと刺突でとどめを刺した。
「助かった!」
キリトは急降下して再び大剣を手にする。
そして吠え、空を薙いだ。重厚な音と感触。心地の良いヒットストップとともに眼前に広がるゴールへの道筋。
彼は視界斜め上に表示された『残り500s』という飛行制限を見つつ再加速する。
『エネミーパターンを再構築します』
脳内に響く無機質なアナウンス。
横から放たれた炎の玉。下から襲いくる黄金の矢。目の前には無骨なモーニングスター。
SAOにはない攻撃手段。
「ちぃっ!」
念のため背後に向けて剣を振りつつ体を捻る。こめかみを通る矢と脇を温めて行った炎の玉に冷や汗を垂らし、キリトはモーニングスターを持つエネミーを返し手で叩き斬った。
窮地を潜り抜けたら別の窮地が待っている。そんな妄想に囚われそうになる程の連続の激戦に2人の顔が歪む。エネミーが増えてきたせいでユイの指示も曖昧なものが増えてきた。
即座に応戦しても帯は減るどころか増える一方。
たまらずリーファは叫んだ。
「ダメ!キリがない!!」
「キリトはいるけどな!」
「お願いだから斬られて!」
本当のピンチには軽口も出てこないというが、それすらも行き過ぎれば軽口も出るもんだとキリトは笑う。獰猛に嗤う。どうせチャンスはこの一回きりしかないのだ。頭だけになってもたどり着いてやると奮起した。
「ダアアアあああああ!!」
一匹倒せば三十匹湧き出してくるような地獄。
黄金と白金の騎士の集団が集まれば綺麗なものかと言えば、そうでもない。実際に見てみれば、襲いかかる光景といいその鬱陶しさといい、アタマ虫のようにしか見られないのだった。
リーファはドアにたどり着くのを諦めたのかキリトの背後だけを守るのに専念するようになる。三本目の剣も遂に耐久値を潰しきり、数ヶ月ぶりに元愛剣を取り出すことになった。
「キリト!もう武器がない!!」
「俺もあと一本だ!……突っ切るぞ!」
突っ切れないことはキリトにもわかっていた。しかしそうでも言わないとやってられないのだった。
「くそっ……!畜生!あと少しなのに!!あと少しで!……須郷ォォォオ!」
二刀流スキル、大剣スキル、体術スキル、片手剣スキル、短剣スキル、二刀流スキル。ソードスキルがないことを利用し、体に覚えこませた擬似スキルコネクトを行う。
ヒットポイントが尽きるのが先か、飛行制限に阻まれるのが先か。
守護騎士も最初とは段違いに強くなっており、明確に対キリト用に確実にチューニングされていく。SAOになかったあらゆる魔法・武器・戦法を駆使してくるようになっていた。
「……パパ」
「なんだ?」
ユイが囁く。
「……その、あの」
本来にAIなのか、と言いたくなるほどリアルにどもりつつユイは話す。絶望を教える。
「前方から100体のエンジェルナイトです。どうやら討伐数が500を超えた時点から、繁殖率が討伐数%プラス50体になるようです」
「……リーファ!」
キリトは情報の共有を図るため名前を呼んだ。
「……」
返事が返ってこない。
それが示すことは一つ。
戦場における沈黙とは、これこのこと。
「……はぁ」
キリトは苦悶の表情を一瞬浮かべ、微笑んだ。
『仲間は殺させない』
啖呵を切っておいて成せたのは有象無象を500体倒したというアリの巣に水を流したのと大差ない、しょうもないこと。右手で一個集団を屠る片手間にユイを一撫した。
「……結局、こなかったな」
思い出すのは決戦前に聞いたタイマーの音と【影友】の姿。
キリトは一方的ではあったが、世界樹の突入について連絡を送っていた。そしてそれは、語ることのないSAOの最終局面と同じ構図で、キリトは少しの期待をしていた。
もしかしたら。
あの時は突入前に来てくれた。
残念ながら、今回は突入後も来てくれなかった。
あいつが須郷と会ったことも知ってるし、そこで何があったのかも雑多ではあるが把握していた。だから、仕方ないとは思っていた。思っていたけれど、願わずにはいられなかった。
SAO攻略の大黒柱の降臨を。
都合の良い登場を。
「……ユイ」
先程の言葉を発した後沈黙を貫くプライベートピクシーにして愛娘な彼女を呼ぶ。
「……アスナ」
最愛の彼女。
夢も希望もなく期待できない。
須郷の言葉が蘇る。
『現実では無力な虚構の少年』
言い得て妙だ。そして今、彼は、
『ここでも無力な虚構の少年』となった。
涙が出てくる。目尻が下がり唇は震える。下唇は持ち上がり、口端は横に伸びていく。花は膨らみ声帯が下がる感覚がした。
嗚咽こそ漏れないものの汚い泣き顔だった。
英雄は、泥臭くも大剣を持つ手に力を入れる。
不器用。とてつもなく不器用で、鈍感。
状況によっては大胆不敵にもなるキリトの性質は今ばかりはただの悪あがき。
「……ぅわ」
漏れる声。
「ぁぁぁああぁあ」
震える吐息。
「嗚呼あああゝああああぁぁああ!!」
最後の一撃は、四方を取り囲むエンジェルナイトを一掃する。無骨な大剣は淡く破壊エフェクトを撒き散らす。しかし、こんなにも近くにゴールがあるというのにそこへつながる道は見られない。前を見れば既にエンジェルナイトが詰め寄っていた。
リーファがもし生きていて、なおかつキリトを見ていたなら、おそらく、キリトは守護騎士に比べたら小さな黒点にしか見えなかっただろう。ドアの見える天蓋にまで後少し。あと、ほんのわずかなところまで肉薄している。
しかし、その少しが縮められない。
キリトは思う。
なす術なし。
しかし、噛み付くくらいはできるだろう。
ああ、いや、まて。その前に。
「ユイ、アスナ」
「ごめん」
最後に彼は目を閉じた。
口を開けて、噛む準備をして。
騎士の振るう大剣の音が大きく響いた。
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34【SIDE-B⒉】
目を閉じてどのくらい経った頃だろうか。
ユイが突然叫んだ。
「パパ!目を開けてください!!」
おかしい。
いくら待っても衝撃が来ない。
「……どうなっているんだ?」
目を開ける。
目の前には大きな背中。漆黒の鎧に大斧。
比企谷八幡ではない。
この雰囲気と風格は、
「エギル!?」
「……いよぉ、キリ坊。元気そうじゃねえ……かっ!」
大斧を振るう。
もう見られないと思っていたドアへの道が一瞬だけだが現れた。
「なんでお前がここに?!」
「大丈夫?!お兄ちゃん!」
「リーファ!」
横から襲って来たエネミーを切り刻んだのは死に戻ったと思っていた金髪碧眼の妖精。なぜか全ての得物を失ったはずなのに剣を手にしている。目に涙をためた彼女は思わずキリトに抱きついた。
「ああらよっと!俺も忘れてもらっちゃあ困るぜ?」
「お前は!……誰?」
「うおおおおい!俺だよ俺!クラインだよ!ってか結構余裕あんじゃねえか!」
片手間にバッサバッサ敵を切り倒しながらツッコミを入れる赤髪に、キリトは歪んだまま固まった顔が少し緩むのを感じる。
「いや、本当に何が起きたんだ?!……まさか、夢?」
「パパ!あれを見てください!」
ユイが再び叫ぶ。指をさしたのは遥か下。
「ドラグーン隊! ブレス攻撃用───意!」
「シルフ隊!エクストラアタック用意!」
「「撃て!」」
世界樹のど真ん中。そこにいたのは、絶対に交わらないはずの他領による連合大隊。シルフの精鋭部隊と冗談みたいなデカさを誇る竜騎士が肩を並べあっていた。
飛龍の溜め込んだ劫火と縦横無尽に駆け巡るメイジの魔法が合わさって最強に見える。とはクラインの証言。だがそれもあながち間違いではない。
レッドクリムゾンの火線が空を切ったかと思えば、極太の白雷が宙にヒビを入れる。
この世の終わりのような絵面ではあったが、宙を彷徨うキリトに被害が及ぶことはなく、周りでせわしなく動く白騎士達を的確に焼いて、砕いて、破壊していった。
10本の火柱が立ったかと思えば豪雷が巻き起こる、味方に回ればこれほど力強い光景はない。
「3番から7番は密集隊形を崩すな!」
「1、5番隊はドラグーンに従って行動しろ!たなびく尻尾から厳つい牙まで覆う鎧を生かす時だ!」
大連合隊隊長の支持によってせわしなく動いていくプレイヤー達。鎧に隠れて見ることができないが皆が笑っている。
リーファはその景色に戦慄とも感動ともつかぬ感情で胸が一杯になり、涙ぐむ。種族間の超えた交流の難しさを誰よりも知っていたからだ。ルールやマナーや常識なんてなにもない。そんな普段からしたら無茶苦茶もいいとこな目の前の景色に思わず言葉を失った。
「嬉しいのさ。このゲームを派手に終わらせてやることができて」
「いヤー、レプラコーンの鍛治職人を総動員して装備やら武器やら龍鎧やらと用意していたらこんな時間になっちゃたヨ〜。お陰様で金庫はすっからかン!」
「全滅したらと思うと今からお腹が痛いよ」
キリトは思わず振り向く。
そこでは高下駄に着流しのシルフ領主、サクヤとケットシー領主、アリシャ・ルー両名が笑っていた。
「きてくれたのか!」
「……ありがとう、二人とも」
兄妹揃って涙ぐむと領主達は思わず頰の笑みを深めた。
しかし、状況は好転したとは言いにくい。良くて均衡状態だ。サクヤは「お礼は全てが終わってからにしろ」と多少微笑みながらではあったものの、屹然といった。
「さあ、行こ「司令確認!!」
「聖歌隊!第238番2楽章用意!」
「サラマンダー隊は遊撃に回れ!」
「インプとスプリガンは拘束に専念しろ!倒しても一時しのぎにしかならん!!」
「回復部隊はドラグーンに魔力供給を!!」
「さぁ───行こう!」と言ったサクヤをかき消さんばかりに大きく響く声。
キリト達はおろか、サクヤとアリシャも目をキョトンとして下を見る。どうやら領主2人も知らない声らしい。
そうして、状況を把握した時、ケットシーとシルフは大きな声で驚きの声をあげた。
「嘘だろ!!」
「ゆ、夢カ?!」
火妖精サラマンダー、音楽妖精プーカ、闇妖精インプに影妖精スプリガン。そして水妖精ウンディーネ。
ケットシーとシルフのように同盟を結んでいるわけでもない、他領の、それも秘蔵部隊の勢揃い。もしも動画撮影が行われていたとしたら、リアルマネートレードできるほどの機密情報の集合体がそこにはあった。
シスターのような制服に身を包んだプーカの秘匿聖歌隊。
燃えるような真紅の鎧に身を包んだサラマンダーの華龍隊。
黒フードにつぎはぎの制服に身を包んだインプの泥沼隊。
何故かなんの変哲も無い冒険者の服を着ているスプリガンの影縫隊。
薄い羽衣を身にまとったウンディーネの
どれもこれもが
それが、ゲーム終了間際にてそろい踏みしたのだ。
「……一体なにがあればこんなことが可能なんだ……?金?いや、ありえない……」
「プーカの領主って確か現役歌手だロ?なんでこんなところにいるんだよ!」
我に戻った二人が騒ぎ出す。
キリトは何か思い当たったのか小さく「あ」と呟いた。
「……粋な真似しやがる」
脳裏に浮かんだのは、やはりあの男。
「粋なわけないだろ。【英雄】」
上から聞こえる声に領主二人と兄妹は顔を上げる。
そこには仮面をつけたフード姿の男。
リーファはすぐにその装備があまりにも貧相なことに気づいた。まるでニュービーが無理して行った仮装のような装備だ。
「二人はケットシーとシルフの領主か。この度の世界樹攻略には感謝する。ありがとう」
「……ああ、こっちのセリフだ。……ってそうじゃない!」
「そうだヨ!いつの間に半分以上の領土が同盟を結んでいたんダ!そしてお前はだれだヨ!」
「ケットシーの方の喋り方は知り合いを思い出すな……」
仮面の男は小さく呟いた。
そして、下を見るとキリトに向かって言った。
「早く行け。そろそろ須郷の修正が入る」
「え、あ。お前はどうするんだよ」
「囚われているのはアスナだけだ。俺が行くのも変な話だろ?……それに、物語としてもそれが順当だ」
「物語って……相変わらずだな」
「うっせー。……早く行け!」
仮面の男はキリトに剣を投げ渡す。持っていけということらしい。
「……分かった。サンキュ、影友……ユイ、行くぞ!」
「はい、パパ!」
キリトは振り返ることなく天蓋へと飛び去って行った。
「エイユー……エイユウ……【英雄】?」
「いや、その英雄はキリトの方だな」
「はい?!キリトが英雄だと?!」
ALO編でキリトの正体に気付いているのはリーファのみなのでサクヤの驚きは当然のものだったりする。
「……俺は【影友】の方。SAOサバイバーに少し顔の広いだけでPSゼロの男だ」
唖然として声が出ない二人。
思い出したのかのように仮面の男、八幡は突然合図するように手を叩いた。
瞬間、大轟音が鳴り響く。
「な、なにが起こっタ?!」
「……本物の、影友……」
呆然と天蓋を見て言うサクヤ。
夥しい数の守護騎士は蔓延っていたはずのそこに敵影は一つもなく、代わりに相当数の目の前の男と同じ、チグハグな格好をしたプレイヤーがいた。
「……まさか、あれ、全部」
SAOサバイバー。
キリトを見送ったリーファが目を見開く。
それは天蓋からとてつもない量の光が降り注ぐ。キリトが無事ドアをくぐったことの証。
「……行ったか」
仮面の下で八幡は目を細めて言った。
そして、八幡は領主二人に会釈をすると、SAOプレイヤーのいる上空へと舞い上がって行く。
「……はは、あの量のエンジェルナイトを瞬殺か」
「なんか竜騎士部隊なんて作ってるのが馬鹿らしくなってきたヨ〜」
グランドクエスト攻略が世界樹の下の方にも伝わったのか。所々で勝鬨が上がる中、丁度天蓋からの光が逆高となりシルエットしか見えないSAOプレイヤーを二人は眩しそうに見るのだった。
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35【クリア後のその先で】
「それで?それからどうなったのですか?」
ほらほら言うべきことがもっとあるでしょう──と、いろはが急かすように訊いてくる。
けれど、むっすー、とした表情でそんなことを言われた所で出てくるものはもう何もない。
ない袖は振れないのだ。
「……どうなったもなにも、後はニュース見りゃ分かるだろ。つーか、お前の頭にも、もう一連の流れはできてんじゃねえの?」
ALOの激戦から数日経ったある日の昼休み。交わされる何気ない会話。
「というか、お前はなんでそんなにむくれてるんだよ?」
そっと彼女の頬を撫でる。……いや違うな。そんなキザな動作ではない。むにーっと摘んだ。
それは前にやられた仕返しのつもりだった。
みるみる内に頰を染めた(つねったせいかもしれないが)彼女は俺の手をはたき落とし、口早に言葉を紡ぐ。
「え?なんですか?いつの間にか彼氏気取りですか?ちょっと非日常を潜り抜けただけでモテモテハーレム系の勇者気取りですか?ごめんなさい、ちゃんと告白してから出直して下さい。というか今して下さい」
「また振られて……ない?! いや、断るけどな!」
告白するのを断る。
相変わらず可愛げのない、カワイイ後輩だった。
妙な睨み合いの末、小さく前習えの構えをアーチを描くように横にずらしたいろは。
「して、どうなったんですか?」
「……話した通りだよ。キリトがグランドクエストをクリアしてアスナを助けたって話だよ。ネットの掲示板とかでも話題になってただろ?それを見た上で聞いてきたんじゃないのか?」
今、ニュースなどでは須郷の汚職騒動がバンバン放映され、追求されている。またネットではALOでのグランドクエスト攻略が数日経った今でも話題になってた。多くのプレイヤーを集めるために有名実況プレイヤーとかも集めたので、クエスト中の映像もバッチリ残っているのがその一因だろう。
ちなみに、箱舟計画に関しては、その後の動向は分からない。しかし、VRを用いた洗脳に関しては、ナーヴギア以外では行えないということで、世間でそこまで騒がれることはなかった。もっとも俺としては、ナーヴギアを用いるとできちゃうというなら、それはもう一種の脅威なのだと思うが……まぁそこはあんまり詰問が行われていないらしいし、もっと頭が良くて権力の強い方々が色々対策を練ってくれているのだろうと思うことにした。
「……ふうん。ま、良いですけど。そう言えば先輩。先輩は今回随分と活躍したそうですが……コレ、どの位貰ったんですか?」
いやらしいなお前。親指と人差し指で輪っか作ってんじゃねえよ。当たり前だけど、一銭も貰ってません。
無言で頭にチョップする。いろはは「いったぁ」とか言いながらなぜか笑っていた。
「何笑ってんだ?」
「いえいえ、なんでもないですよ?ただ、先週のしゅんとした先輩も中々可愛かったなぁ……なんて思っていただけですともいたいたいたいたいたい!ぐりぐりしないで!私の小顔がひょうたん顔になっちゃう!」
「先輩に悪いこと言う口はこいつか?」
いひゃい……いひゃいぃぃ!なんて情けなく喘ぐ後輩はしかし、未だ笑っていた。そして終ぞ笑い続けた。
多分心配してくれてたんだろうなぁ、と思ったが気恥ずかしいのでお礼を言う代わりに力を強めた。
いろはさんが大好きな捻デレだよ、と免罪符的に思いながら。しばらくするといろはが我慢の限界に達し『だああぁ!』と俺の手を跳ね除ける。
「まったく、先輩はしょうがない先輩なんですから、先輩は!」
「ややこしい言い方するなよ」
「やかましいです!」
机をバンバン叩いてぷんぷん、そしてなにを思ったのかトンチンカンなことを言い出した。
「よし! もうここは名探偵いろはちゃんが全て明らかにしてやりますよ! 万事解決はいろはちゃんにお任せですね!」
ぷんぷんではなく、ドヤドヤって感じだった。言葉の並びが気になったが、別のことを突っ込むことで指摘にかえる。
「いや、もう解決してるから、ばり解決してるからな。事件のあらましは全て語ったも同然だよ」
「馬鹿野郎!」
えぇ……。こわいよ、名探偵。名探偵というよりも(情緒)不安定だよ。
お弁当を丁寧に机からどかし、いろはが机を更に叩く。そして叩いたはいいけれど、叩いた手が痛いのかあざとく「ふーふー」と両手を吹き始めた。
「先輩が語ったのはあっちの世界の話でしょうが!視点が足りてないんですよ!こっちの世界のその後を私は知りたいんです!クロスオーバー舐めんなこの野郎!です!いいですか? 私はそんな原作を読めば事足りるような事を聞きたいんじゃないんです。私達はまだ伏線を回収しきってないんです!鴻島三郎さんのこととか、NIKAさんのこととか!」
「いや、そんな登場人物の登場伏線は張ってねえよ。……はあ、訊きたいのは雪ノ下のことか?」
「いえ、どちらかというとサブちゃんとNIKAっちについて教えて欲しいです」
「親密度を上げるな」
あっちにもこっちにもそっちにもそんな人は出てこない。
ヒートアップしすぎたといろはは再び、『それ置いておいて』のポーズをした。
「ま、とにもかくにも、私の読みでは未だ語っていないことがいくつかあると思うのですが、そこのところどうなんでしょうか?」
「だから『どうなんでしょうか?』と言われても俺としてはもう吐けるだけ吐いた気分なんだよ。雪乃のことじゃないっていうなら、むしろお前はなにが訊きたいんだ?」
「そうですねぇ……やっぱまずはアルゴさんが何故あんなグッドタイミングで現れたのか、とかですかね。他にはアルヴヘイム・オンラインのグランドクエスト前に先輩が何をやったかとか」
「……あー」
まぁ、だよなぁ。
そもそも意図的に隠していたし、話すつもりもないし。
なので、適当に適当な箇所を抜粋して伝える。
「アルゴの件は、アルゴが現実世界でも探偵業を営んでいて、戸塚がアルゴの探偵事務所でバイトをしてたからそのツテで俺のトコに来たんだよ。あと、ALOでの出来事は忘れた」
思い返せば戸塚が探偵事務所でバイトしてるフシはあったしな。それこそ伏線の話じゃないが。
運命的な巡り合わせを感じた瞬間だった。
あと、ALOについては忘れたのではなく、正確には思い出したくない。あんな恥ずかしい扱いはもうこりごりだ。
……あの時あの場所に、正常組が悪ノリしたがるアルゴしかいなかったのがなによりも最悪だったな。また変な事件を起こされたらと思うと、過ぎたことなのに胃が痛くなってきた。
「ほーほー。つまり、結衣先輩といい感じになったところでアルゴさんに最善案をもたらされ、そのままALOへ行き、他種族の皆さんを説得して攻略の手伝いに行ったということですね」
「……」
本当は見てたんじゃないのかね、ホームズくん。あらかた正解だよ。
「ふふ、簡単なことだよワソトン君」
「ワトソンな」
「ワトトン君」
「噛むな」
うがー、といろは。
大丈夫か、迷探偵。
「なんで分かったかと言いますとね、私こと一色いろはは世を凌ぐ仮の姿。本当の私はALO超有名実況者の『SC』なのです!」
「B級映画独特の終盤に出てくるクソ設定並みに唐突なバラシはNGだ」
「……む、つれないですねぇ。確かに嘘ですけど、もう少し乗ってくれてもいいじゃないですかぁ」
「そもそもヘッドギア自体まだ高いからな。お前みたいなリア充が趣味だけのためにアレに手を出すとも思えないし」
現世代のヘッドギアであるアミュスフィアは10万円を割るまでにあと4年はかかると言われている。ソフトの方は、SAOは2万円、ALOは8500円プラス月額500円プラス課金(ベースのデータがSAOの流用なため、この値段が実現している)。
まだまだVRMMOは大人用のゲームなのだ。
「それで、説得とかはなんで分かったんだ?」
「ネットに上がってたからです」
「───は?」
「ようつべ、ツイ、インスタ、FBを始めとした大体のSNSやサイトでホットな動画らしいですよ」
ほら、といろはが見せてくれたのはようつべの1ページ。
あいつら、動画として上げたのクエスト中だけじゃねえのかよ……。関連動画合わせて5000万再生に迫る勢いじゃねえか……。
「いやぁ、けど、今回の事件は第二次SAO事件とみなされてますから仕方ないですよ。しかも、世間的の皆様からすれば驚異度は今回の方が数倍増し。それにVRは今や全世界の新しい市場になりうる金鉱脈といっても過言でもないですから、こうなるのもまぁ必然です。ドンマイです」
「……まじかぁ」
「ふふっ、かっこよかったですよ。『楽しまないのか?この──』」
「もういいです! いろはさんまじ勘弁してください!」
自分の顔が真っ赤になる前にいろはの口をふさいだ。モゴモゴと『やだ、大胆……』なんて言っているがこの際無視。
とりあえず空いている左手でアルゴと陽乃さんに動画の差し止めを要請しなければ。あの人達ならなんとかしてくれるだろう。
「まぁ、そんなこんなで先輩も肩の荷が降りたんじゃないんですか?SAOについてはもう流石にクリアと言ってもいいでしょう?」
「……まぁそうだな。よく考えればSAOにしろALOにしろ、最後はキリトが持って行った訳だし。俺はいたかもしれない1プレイヤーとして隠居できそうだしな。ゲームにはさすがにもう懲りたし」
これからはスマホゲーで課金する程度にしよう。
「君子危うきに近寄らずというやつですね」
「もしもおれが君子ならまずお前と距離をとるけどな」
「さもありなんですね!」
意味分かって言ってんのか、こいつ。
俺はマックスコーヒーを啜りつつ哀れみの目を送る。
成績について国語以外にこいつに負けているのがなんだかとんでもなく恥ずかしい気がしてきた。
───それにしても。
「……気が抜けるというか、緩むというか。不覚なことだが、お前と話してると日常に帰ってきた気がするぜ」
「なんですか突然口説き始めて。断りますよ?『〜するぜ』とか黄昏ちゃって──ぶっちゃけ痛いですよ?」
お前の言葉が痛いですはい。
「一回お前は俺に謝ってもいいと思う。……いや、なんつーか、上手いこと『食卓にビールを』の旦那さんポジションに収まったよなぁ……お前」
それはつまり、日常で主人公の後日談を聞くだけの美味しい役割。騒動や危険には一切巻き込まれず、ただ主人公を癒す、そんな役割。
自分のことを主人公だとは思わないが、今回色々と揉まれて疲れ果てた俺にとって、非常に恋しいポジションにいろははいた。
「やはり妻として娶るしかないということですね!……ってやっぱり口説いているんじゃないですか!油断も隙もない野獣先輩ですね!」
「いやな言い方をするな」
キスをされたら王子様になるの?イケメンになっちゃうの?もしくは……。
「そんな肉食系な先輩にこれをどーぞ!」
「なんだこれ?」
手渡してきたのは一枚のプリント。
日付的には来週配布される筈のもので、恐らく生徒会長の強権によってもたらされたもののようだった。
「ふふふ、もう5月も中盤。ならば、もうすぐ文化祭の季節がやってきますからね!そうなれば男女の心はもう接着剤ですよ!むしろ糊ですよ!これはもう、現役JKの私の一人勝ち決定ですな!がはは!」
キャラがブレブレだ。
それに文化祭って、まだ二ヶ月くらい先じゃねえか。
「俺、文化祭に良いイメージ一つもないんだけど」
ブラック企業のインターンかと錯覚させられた書類作業。気の弱い新入社員の演劇をさせられたのかと思うほどに押し付けられた雑用。無能上司の代名詞であった手のかかる委員長。
そして、奉仕部に生じた亀裂。
ああ、八幡トラウマで吐いちゃう。
「バカですねぇ、先輩。愚かすぎて思考がおろそかになってるんじゃないんですか?」
「お前は思考がピンクになってるけどな」
「確かに一昨年の先輩はボロい痛い見てられないの酷い有様でしたよ」
言い過ぎだよ。
「だかしかし! 今年の先輩は違います!イケます、イケてます、いけるに違いありません! 彼女も作ろうと思えば1秒で作れるレベルでイケてます!」
それも言い過ぎだ。
「それはもう、ご所望とあらば過去最高に幸せな文化祭ライフを送った男子高校生として日本中に名を轟かせてあげますよ!───っていうことで、先輩。文化祭実行委員の委員長やりません? そうすれば文化祭の相談として生徒会室で思う存分イチャコラできるんですけど」
妄想がダダ漏れだった。
「……あー、まぁそれも昨日までだったらやぶさかじゃなかったんだが……」
そうもいかない事情がある。
気まずい顔でそっといろはから視線を逸らしてしまった。
(なんだかんだ、俺はこいつと喋るのを楽しんでいたからなぁ)
心の中でため息をつく。
ぎゅっと目を瞑っていろはの方へ向き直り、俺は頭を下げた。
「悪ぃ、多分文化祭の前にまた転校になるから、その依頼は無理だ」
「……へ?」
というのも、これに関しては自業自得というか、回り回ってきたというか、業として巡り巡ってきた事情がある。不可抗力なのだ。
建築会社のご令嬢を世紀の犯罪者から助けだした報酬、といえば分かるだろうか。
ここら辺の経緯は俺もあまり把握しておらず(というか、事後に簡単にメールつてで伝えられた)よく分かっていない。しかし、分からないなりに噛み砕いて理解する所によると、今後、雪ノ下建設主導で急ピッチにSAOサバイバーのための学校建設が進められることになったらしく、驚いたことに、それは6月末には受け入れ態勢が全て整う手筈になったらしいのだ。
雪ノ下の両親が方舟計画が衆目の前に晒される前に一手打ったということなのか、あるいは、ただ単に感謝してこのような事業を始めたのか。
そんなわけで、俺は6月半ばのテスト明けに転校となる次第となったのだった。
「……雪乃先輩ぃ……図りましたねぇ!」
ガン泣きのいろはをあやす。もっとしろと言わんばかりにいろはがチラチラとこちらを見てくるが、こちらも妙な罪悪感があるので、今日のところは甘んじて甘やかすことにした。つるっつるなのにサラッサラな髪の毛だった。
「ついでに言うと、今日から雪乃との面会が解禁だから今日の放課後はお前に付き合えない」
「雪乃せんぱぁい……!」
図りましたねぇ!
もう一度、クラスに彼女の声が響くのだった。
ー・ー・ー
「それで、そのあとはどうなったのかしら?」
「どうなったもなにも……って天丼やめろ」
不貞腐れるいろはを宥めるために必要ない事話させられたり理不尽な約束を取り付けられたりして、やっとの思いで見送られた俺は雪乃の所へ面会に来ていた。
面会というからには彼女は閉じ込められているわけで。とはいえ、危ないトコへ幽閉されているわけではなく入院しているだけで。
雪ノ下雪乃は須郷が捕まった後、ナーヴギアを装着したことがあったことが発覚したため、念のため検査として入院していたのだ。
そして、無事に検査も終わって今日から面会が可能になったのだった。
「検査や入院といっても私はこの通り元気なのだけれど」
「らしいな。検査はどうだったんだ?」
「安心なさい。特に何もなかったわ。脳味噌も貞操も無傷よ」
「……そすか」
それを聞いてなんと答えろと言うんだ。
最近わかったことだが、雪乃のこういった発言は天然である確率が非常に高い。結衣と初めて会った時も『処女は恥じるべきことではない』だとかなんとか、かましていたが結局あれも天然だった。こうなってくると、子供はコウノトリがキャベツ畑から運んでくるとか言い出すのではないかと不安になってくるレベル……ってそんなわけねえか。
「あ、そうだ。SAOサバイバーの学校のことを聞いたんだが」
「学校……あぁ、昨日父さんがなにか言ってたわね。父さんの会社が何か支援するって話だったかしら?」
「そうそれ。いろはの奴が血の涙を流してお前の名を呼んでたぞ」
「……今度何か奢ってあげましょう」
どうやら雪乃はこの件には関わっていないようだ。
いや、一企業の決定に関わっている方がおかしいか。
そんなことを考えつつ俺は雪乃の後ろに配置された大きな窓を見る。そして気付く。どこか見覚えがあると思ったら、この病室。自分が入院していた部屋なのだ。そんなことをすら忘れるなんて密度の濃い日々だったのだと改めて感じた。
当時早めに咲いていた白桃色の桜は既に緑葉へと変貌している。密が濃い、なんて言っていても、あんだけ長く感じた先週も過ぎてしまえばあっという間だったなぁ、と感じるから不思議なものである。
雪乃に向き直ると彼女は、少し考えるように下を向いている。
「そう……そうね。貴方には言っておくべきかもしれないわね。須郷さん、いえ、須郷と雪ノ下建設の関係について」
唐突に駆り出された言葉。
けれど、彼女にとっては一生にも感じる長さの葛藤の中から出てきた告白。言いたいのに言えないもどかしさを身を以て知っている俺は、それを察し、彼女の話に耳を傾けるのだった。
以下少女独白。
ー・ー
「私たちはこう見えても、両親から無償の愛情を注がれて生きて来たのよ
「なに不自由ない生活に恵まれた交友関係。小さい頃からさせられて来た習い事も、今になってみればやっていて良かったと思えるし、その経験を積んで来たことは今の私にちゃんと繋がっていると確信してる
「父は一言で言えばおおらかな人。贔屓目なしに、大きな器持ってる凄い人よ。私はファザコンではないけれど、それでも尊敬している人を書きなさいと言う作文が出たならば真っ先に名をあげざるをえない、そんな人
「対して母は厳しい人だったわね。どこからともなく習い事を持って来ては私たちに否応なく従事させる、そんな人。ただ、それでもそれ以上に私たちに向ける愛情の深い人だったわ。私と姉さんに何かあればすっ飛んで来て心配してくれるくらいにはね。……まぁ、随分と不器用な心配の仕方だったけれど
「父は自由に生きろと言って、母がその為の術を叩き込んでくれた。残念ながら私は姉さん程の要領の良さはなかったけれど、それでも姉さん以外の人より優れた成績を出せる程度には、そういった術を持たせてもらった思う
「なんでこんな話をするかと貴方は疑問に思っているかもしれないから、はっきりと言わせてもらうとね、
「私の両親は『変わらされた』。いえ、『替わらされた』のよ。これからの話を言うと、あなたならひねくれて『御都合主義』なんて言うのかもしれないけれど。けれど、この話は紛れもなく本当の話。秘話にして悲話なのよ
「きっかけは方舟計画の元となる計画のさらに元。かの計画がただの思いつきレベルだった時代の話。……と、いってもSAOの製作が発表された頃だからそう遠くない頃の話
「お父さんが須郷さんと関係を持ち始めたの。きっかけは父さんが依頼された起業セミナーだったらしいわ
「それから色々あって父さんと須郷がVR空間を仮想土地として売り出す計画を立てたのがSAO発売と同時くらい。不謹慎かもしれないけれど、父さんはあの事件があって計画の現実性を確信したらしいわ
「理想の土地に理想の空間を作れることが証明されたのだからそう思っても仕方のないことなのかもしれない、なんて言ったら怒るかしら?
「……そう、ありがとう
「それで、去年の今頃お父さんはお母さんと共に【方舟α】と呼ばれた仮想土地として分轄想定されたVR空間を訪れた
「下見として、
「ナーヴギアを使って、
「須郷と共に
「それがどのように利用されてお父さんがどんな風になってしまったのかは貴方の想像に任せるけれど、その下見の日から、わずか2日後には私に縁談が持ちかけられたとだけ言っておくわね
「……あぁ、いえ、別に謝って欲しいわけじゃないのよ。……提案を受け入れたのは、結局は私の意思だったのだし
「お母さんは元からあの通り厳しくて、だけど過保護で、どのくらい過保護かと言うと婚約者を勝手に用意するくらい過保護だったけれど、そんなお母さんさえも知らぬ間に須郷さんへの信頼度が天元突破していったわね。彼との婚約を勝ち取った私は家族にとっての宝で、姉さんは要らない子。そんな捻じ曲げがあの時に行われていたの
「正直、耳を疑ったし、目も疑った。それに何よりも怖かったのを覚えている
「『勝手に人生を決めやがって』 私は常々思っていたけれど、あの時の両親を見てしまうと普段の彼らがとてもまともな両親に見えてくるから不思議よね。だからこそ、今こうやって育ててくれた両親に対して感謝できるようになったわけなのだけれど
「だから、そんな崩壊寸前の家庭だったから、八幡君に今回救ってもらったことはとても感謝してる。人生かけてお礼をさせて欲しいくらいに
「……どうかしら?」
ー・ー
以上少女独白。
もとい、
そんな雪ノ下雪乃の告白だった。
二重の意味で告白だった。
片方の告白は置いとくとして、俺は雪乃の言葉を咀嚼する。
雪ノ下建設はヤクザとの関係はないものの、街の議員にも顔が効く大きい会社で、レクト本社との距離も近い。須郷からしたら確かにパートナーとして好条件な相手だろう。
そうなれば雪乃の出来すぎた話も、なる程、もっともな真実であると言えるかもしれない。真実はいつだって小説よりも奇なり、だしな。
ただ、縁談の話がまだ分からない。
なぜ上がったのか、ではなく、
なぜ、須郷がアスナがいたにも関わらず、雪乃を欲しかったのか、その理由がわからない。
それに元々陽乃さんの婚約者でもあったはず。それなのに乗り換えたと言うことはよっぽどの理由があったはずなのだ。
容姿が優れている、好みである。
確かにそうかもしれない。
ただ、本当にそれだけなのだろうか?
「……なぁ、須郷ってお前に対してどんな感じだったんだ?」
「さっきも聞いたじゃない。何もされてないわ」
「いや、そうじゃなくて。明らかに好意を持っていた、とか憎悪の目線だったとか」
「……そうね。うぬぼれでなければ好意はあったと思うわ。けれど、それ以上に私を通して何かを見てるような感じもあったと思う。それがお父さんなのか姉さんなのかは分からないけれど」
『誰かを見ている』……。
確か、キリトが須郷は非常に嫉妬深いやつだと言っていたな。それに、それは茅場を慕う女性に恋していたというのが原因だとも。
だとしたら、ALOを通してSAOを模倣していたように、その女性を通して茅場に嫉妬していたように、アスナを通してキリトをみていたとしても不思議じゃない。
つまり、雪乃を通して俺をみていた……のか?
……。
「……ま、神のみぞ知るか」
「告白されといて神のみぞ知るってどういうことなのかしら?応える気どころか答える気すらないということなの?」
「……」
ミス!
黄昏るつもりが命の危険を晒してしまった。
「いや、それは、その……」
こうなるとどうしようもない。目がぐるぐるするのを自覚しながら必死に言葉を紡ぐしかない。
とりあえず誤魔化そう、とワタワタと自分でもなにをいっているかわからない位のどもり具合で、一方的に話していると雪乃が噴き出した。
自分の顔がより一層熱くなるのを感じた。
「……八幡くんは変わらないのね」
「人はそう簡単に変わらない……けど、まぁ、一年半前に比べたら変わったはずだ」
簡単じゃない出来事があったからな。
「そうね。……でも、八幡くんは八幡くんよ」
「そりゃそうだろ。お前だって雪ノ下雪乃のままだろう?」
「後一歩で須郷雪乃になるところだったわ」
そう言えばそうだった。
そして、俺はそれを止めるために全身全霊を駆使した。
なんで、あんなに必死に動いたのか。最後まで結論を出すことなく動き続けた。
「なぁ、雪乃」
「何かしら八幡くん、そんな『俺、お前のこと助けても良かったのか?』なんて聞きたそうな顔をして。もし貴方がそんなこと言ったら私は助けられたことを後悔するわよ」
「……なんでもねえよ」
「あらそう?」
ああ、そうだ。そうだった。
雪ノ下雪乃のそんなところを見て俺は、昔、望んだのだった。
捻くれることを止めて、信条を曲げて、背を伸ばして、顔の作りが変わって。環境も変わり生活も変わった俺だけど、全てが終わった後に帰ってきてしまった俺だけどもう一度言ってもいいのだろうか。
いや、言うべきなのだろう。
終わりに相応しいこの言葉を。
そして、始まりに相応しいあの言葉を。
もう一度、始めるために。
クリア後のその先で。
「……俺と、友達になってくれないか?」
ようやく、止まった時計の針が、進んだ。
そんな気がした。
読了ありがとうございます。
本編はこれにて完結になります。
ただの一発ネタが完結まで漕ぎ着けたのは全て皆様のおかげです。
本当にありがとうございました。
今後の更新についてですが。
・ALO回(数話)
・気力が尽きなければ解説も兼ねた後書き(一話)
を、不定期更新する予定です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
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追録編
32.5 【漏れ話⒈】
ある日放課後。
いつものようにいろはに拗ねられたため、宥める代わりにアルゴと出会ってからの話をすることになった。
「ほらほら早く話して下さいよ。聞き上手の私に聞かせて下さいよ。どうせ劇的な展開があったのでしょう?」
「お前は俺の人生をなんだと思ってるんだよ」
言っといてなんだが、多分喜劇だと思われているんだろうことは予想がつく。ニッコニコで俺の言葉を待ついろはを眺めて一つ深く息を吐く。
「あー」と前置きならぬ前声を出し、首をかくのだった。
やっぱ笑顔ってずるいわ。
そんなことを考えながら。
ー・ー・ー
「一転攻勢だ、影友」
世界樹攻略より二日程前。
俺はかつての盟友と再会した。
「ヤッホー。おひサー、元気してター?俺っちは元気してター」
「……」
その時俺は、呆然と彼女を見ることしかできなかった。
【情報屋】アルゴ。【鼠】とも呼ばれていた、かつての仲間筆頭といってもいい存在である彼女。
神出鬼没な彼女はいつもこのように俺を驚かせて遊んでいた。曰く、『律儀にリアクションとツッコミを入れてくれるからやめられない』とのこと。
おのれは関西人か、と思ったりしたがついぞ彼女のリアルの住所を知ることはなかった。
知りたくもなかったけど。
そんな彼女のプレイスタイルにしてプレイロールはその二つ名が指す通り『情報屋』。つまり情報集め。繰り返すが、アルゴはそれを生業にしていた。
つまりはそう、俺と同じ分野を専門としていたのだ。
出会った当時は俺が下層の治安形成に携わっていた(というか半ば巻き込まれていた)こともあり接点は少なかったが、やがて攻略組に情報提供をし始めるようになると彼女との接点も次第に増えていった。
そして、ひょんな出来事から俺が作ることになった情報ギルド。その副団長に抜擢されたのがこいつだったのだ。当たり前だが、団長は俺。
ギルドでどんな扱いされていようが、俺ったら俺だ。
そういうこともあり、わりかし仲の良かったこいつがいつか現れるのではないかと思っていたことがない、と言えば嘘になるが、まさかこのタイミングで(しかもこの状況で)来るとは露ほどにも思ってもいなかった訳で。
俺の心は様々な疑問で飽和寸前だった。
「おっ、驚いて声も出ないってカ?……ええと、比企谷八幡だから『ヒッキー』カ?なんだか引きこもりみテーで、ニャハハハ、お似合いダナ!」
なんなのこいつ。一瞬で地雷を踏み抜いてきやがった。俺はこいつの軽口に慣れているから特に何も思わないが、横で聞いてる結衣の表情が面白いくらい引きつっちゃっている。俺のために怒ってくれるのは嬉しいが、こいつに対していちいち突っかかるのは逆効果だぞ。
「そんデ、こちらの嬢さんは誰?まさか、間女!? 酷イ! オイラとは遊びだったのネ?!」
「黙れ年増。いつまでそのロールプレイを続ける気だ──つーか、何しにきたんだよ」
「ヒッキー、今貴様は言ってはいけない言葉を言った」
「口調のことか?ロールプレイしたいならネズミ髭はともかく、せめて金髪フードくらい再現はしてから出直してくるんだな」
「にゃはは。そんなこといって、こっちのオイラはオイラで好きなんだろ?」
「……否定はしない」
今のアルゴは大学生が好みそうなカジュアルな春服に茶髪だ。顔も整っているため、なんだかそこらへんでモデルのバイトしながらリア充してそうなオーラが出ていた。
「……ねぇ、八幡くん。この人誰?いきなりヒッキー呼びとかメッチャ失礼じゃない?」
「ははっ」
つまらんブーメランギャグはよせ。
鼻で笑うと小声の結衣はむぅ、と頬を膨らませた。
「それで、アルゴはなんで俺のリアルの顔と居場所を知っているんだ?まさか現実世界でも【情報屋】やってた訳じゃねえだろうな?」
だとしたら、それなんて漫画?と言わざるをえないんだが。
「んー、まぁいい線いってる。呑気に……かは知らないけど、普通の高校生やってるヒッキーには分からないかもだけど──」
一旦言葉を区切り、口調を崩したアルゴは笑う。
片方の口角をニッとあげる彼女の仕草はSAOでのニヒルな笑いと寸分違わず、目の前の女性がかつての相棒なのだと確信させられた。
「──私、現実世界では【探偵】、やっているんだよね」
ピシ、とおそらくバックパームの要領だろう。どこからともなく名刺を取り出す。
書かれていたのはアルゴのリアルネーム、事務所名であろう文字列、電話番号などなど。
事務所のロゴマークはネズミではなくシルクハットでだった。
「……なるほどな」
しかし、その名刺が示すことはもっと別のこと。
一般人には(というか俺以外には)伝わらないであろう別の
ただ、これは……
「分かりにくすぎだろ」
「そのくらいの方が丁度いいんだよ。分かりづらければ分かりづらいほど、そこに何か感情を持つ者が気付く。簡単なメンタリズムさ」
名刺の裏面に描かれていたマーク。それはメチャクチャ怒った手書きのミッキー。
恐らくネズミはアルゴであることの証明。
怒りは英語変換の伝言ゲーム。
「つまり、
「ついでに言えば、そのまま私が激怒していることを表している。君と同じようにね」
そんな感情をおくびにも出さずに彼女はキメ顔を作る。
……探偵、ねぇ。
よれたベージュのコートを着たイメージが強いが、本当にこんな美少女がやっている所もあるのか。それこそ漫画の話のようだ。
横から名刺を見ようとぴょんぴょんする結衣にソレを預け、俺はアルゴに尋ねてみることにした。
「ちなみに、俺の所在を調べたのは名探偵のごとく推理でもしたのか?」
「……そうとも言えるし、そうとも言えない。確かに推理の結果、見事君の居場所をつかんだのは間違いない、ただ、その推理というのは───」
「あーーー!!」
結衣が大きな声をあげた。
アルゴはそれを見て笑みを深めた。
「にゃはは、そっちのお嬢さんに聞いた方が話は早いと思うよ」
「……?結衣、どうしたんだ?」
「ここの事務所ってもしかして!」
結衣が目を見開いて言葉を続けようとした時だった。
「だーれだ」
再び目の前が真っ暗になった。
あからさまな天丼ネタ。
そして、耳鼻を打つ甘美な存在感。
(え?) と、心の中に疑問が上がるよりも早く、本能は答えを導き出し、無意識はそれを口に出してしまう。
「……戸塚?」
後ろで分かりきった誰かが笑う気配がした。
ー・ー
なるほど聞けば単純明快な道筋だった。
「……要は、戸塚が大学生でバイトを始めた先がアルゴのトコの探偵事務所で、お前は戸塚経由で俺のこと、しいては小町のことを知った訳か」
「ピンポンパンポーン!」
「それは場内アナウンスだ」
アルゴが現れてから約30分がたった。
場所は移って公園近くのファミレス。
残念ながらサイゼではない。席順は俺の隣に結衣。目の前にアルゴ。アルゴの隣に戸塚となっている。
戸塚は勝手に俺の所在を喋ったことを後ろめたく思っているのか胸の近くで小さく手を合わせた。クソ可愛い。
「アルゴ」
「どうしたの、ヒッキー」
「事情は分からないながらも分かった。……それで、お前は何をしに来たんだ?」
「んー、その前に注文と質問タイムを取ろうか。君たちは奉仕部として彼女を救うのだろう?だとしたら、そこのお嬢さんもついてこれなきゃだからナ」
結衣を見てアルゴはそう言った。
「あ、そーそー、ハーちゃんから伝言あるんだった」
ハーちゃん?川崎妹……はないから多分陽乃さんのことだな。ラースと繋がってるって言ってたし。
「『君って、本当に面白くないよね』だとサ」
「なにが、『だとサ』だよ。全く伝言として意味のない伝言だな、おい。いや、どういうことだよ」
「オネーサンにはよく分からないけど、ヒッキーが立ち直ってたらそう言えって言われただけだよ」
「……一応聞くが、立ち直ってなかったら」
「『いいことしてあげるから私を呼んで』だって。よかったね、命拾いしたじゃん」
アルゴはおもむろに俺の鼻をつついて笑った。
……笑えねえ。
「はいはいはーい!」
由比ヶ浜が手と声をあげる。声に反応してアルゴと同じ動きで結衣を見る。結衣は頬をぷくっと膨らませて俺とアルゴを引き離した。
「私、付き合ってもないのにそういうの、いけないと思うなっ!」
「あざてー嬢さんだナ」
「あざとくないしっ!というか、誰?!ヒッキ、じゃなかった。八幡くんにやけに馴れ馴れしいし!私を差し置いてどういうことなのヒッキー!」
どういうことなのって。付き合ってないだろ。
それにアルゴのヒッキー呼びに釣られかけたと思ったら、最後普通に釣られきっちゃったし。
もぉー、と怒った結衣を見たアルゴは、意地悪そうな表情を浮かべた。
「ヒッキーとはSAOでイロイロな初めてを奪って、奪われた仲だヨ。そして、少なくとも嬢さんよりはヒッキーと長い時間2人きりで濃密に過ごしてた仲なのサ」
言い方言い方。
ギルド運営のの関係で長くいただけだろうが。
「そうなの八幡くん?」
うるうると見上げるようにこちらに視線をやる結衣。
言い方はともかく、確かにアルゴの言う通りだ。初めてを(ギルド運営などの)経験しあった仲だし、(役職の関係で)2人きりになっている時間もあった。それでいて、特に険悪でもなくむしろ仲が良かった。
だがしかし、ここで「はい」なんて答えたものなら誤解を招くことは必至。もっとも、「いいえ」と答えたところでアルゴのさらなる追求が行われるだろうからそちらも選択不可。
前門の虎、後門の狼だ。
……。ここは、適当に誤魔化そう。
「そ、そんなことよりも、結衣に説明をしてやる方が先じゃないのか?」
「なら説明してよ八幡くん?!」
「アルゴ」
「よしきた。オネーサンにまかせんしゃい!」
うまくごまかせたようだな(当社比)。
通りかかった店員に夕飯も兼ねて注文をする。結衣への説明はアルゴに任せ、俺は戸塚と会話することにした。
「……やっほー、八幡」
「まさかこんなところで会うとはな」
「それはこっちのセリフだよ。まさか八幡が【影友】だったなんてびっくりだよ」
「お前が探偵事務所に入っている方がビックリだよ」
「そう?けど、八幡言ってたじゃん。『お前、名探偵みたいだな』って。当たらずとも遠からずだったし思わず『八幡こそ名探偵』って言っちゃったよ」
「あれそういうことだったのか……」
お披露目会だか退院祝いだかよくわからない会のときのやりとりを思い出す。確かにそんなことを言った記憶がある。
「それで、戸塚は今の状況をどの程度把握してるんだ?」
「んー、言っても僕は平の平の平だからね。大体のことを抽象的かつ婉曲的に伝えられただけだよ。……雪ノ下さんのピンチだったことは知ってるから十分だと思うけど」
「ああ、十分過ぎるな」
解決策こそないけれど、課題はブレることなくただ一つ。
『雪ノ下雪乃の依頼の解決』
それただ一つなのだから。
「ヒッキー、こっちは説明終わったよー」
「八幡くんの不潔!」
「……お前はなにを説明したんだ?」
「オネーサンにナニ説明させる気なの?!」
いや、本当にナニ説明したんだよ。
アルゴとの間にそんなイベントは決して起きていない。
「……アルゴがなんでここにいるかは分かった。が、なんのためにここに来たのかが全く分からん」
「言ったじゃん、一転攻勢だって。ヒッキーはここに来て遂に逆転の一手をさせるんだよ。私という視野狭窄矯正装置の出現によってね」
「俺が視野狭窄だったっていうのかよ?」
「ううん、今も視野狭窄だよ」
アルゴは語尾がカタカナになるようなあるような口調ではなく淡々と答える。素の言葉遣いなはずなのにむしろこちらの方が腹がたつな。
「じゃあ早く教えろよ。俺のどこが視野狭窄で、どんな解決策があるのかを」
「この時間の解決すべき課題を未だに『雪乃ちゃん、或いはアーちゃんの救助』だと思っているところが視野狭窄だって言ってるんだよ。ヒッキーがSAOで散々言ってたことだよ?『SAOは所詮ゲーム。そもそも人生自体クソゲー』だって」
「はあ?」
確かに時々そんなようなことを言っていたがそれとこれとは全く別の話だ。というか、そもそもこんなところに持ち出してくるような言葉じゃない。日常の中のただの戯言である。それを鬼の首を取ったように言うのはいささか度が過ぎているというか、ズレているというか、穿ち過ぎのようである。
「それともなんだ、この事件があのゲームの続きだとでもいうつもりかよ?」
「うん。もっといえば、ヒッキーはこの
コップに立てかけられたストローをピンっと弾いてアルゴは口角を上げる。イタズラに琴線を触れてくる口調と態度は相変わらずだった。
いつもだったら適当に流すか話を促すところだが、ただ、今回ばかりはどうにも我慢ならなかった。
俺は、自分の琴線が音を立ててキレていくのを感じ、はっと気づいた時には大声を出していた。
「いい加減しろ!」
店にいるあらゆる人の視線が俺に巻くのを感じる。結衣と戸塚は二人揃って上目目線で見つつ俺の袖を引く。
俺は、しかし、言葉を止めない。
止められない。
こんな俺にも譲れない一線があった。譲れないだとか、こんな事考えるのがそもそも『俺らしくもない』ことは自分自身が一番わかっていたけれど、その一方で、アルゴの言い分を許してしまえば自分の中の『本物』が揺らいでしまうと悟ってもいた。
そして、なによりも、アルゴにはそんな風に思って欲しくなかった。あの狂おしいまでに現実だったデスゲームを駆け巡った仲間にそんなこと言って欲しくなかった。
俺は、無性に虚しくて、悲しかった。
だからこそ、声を荒げた。
「なら、それなら一体俺は何をしていたというんだ!」
悲しみの原動力が自分の行動に対する後悔からなのか、アルゴに対する失望からなのかすら分からず言葉を吐き捨てる。
しかし、アルゴは飄々とした態度を崩すことなく肩をすくめたて唇をさらに歪めた。
「そんなの決まってんじゃん。ヒッキーは『フラッシュ』なしで洞窟の中にいたんだって。ヒッキーはまだ、スタートラインにすら立ってなかったんだよ。──らしくもない、他人の土俵で相撲をとろうとするからそうなるんだよ」
「当たり前だろうが!俺みたいな社会的弱者が解決するためにはそうするしかないだろうが!」
「……ばかだなぁ。オイラはお前よりも社会的強者を知らないっていうのにヨ」
口調を変えてアルゴはおどける。
「……はぁ?皮肉のつもりか?」
「ヒッキーは一体全体何年前、何世紀前に生きてんダ?今の社会は、階級社会なんかじゃないんだヨ。……現代は情報社会ダ。お前の戦場はいつだって
「そんなの屁理屈だし、世迷い言だろ。結衣のおかげで俺は確かにもう一度やってみようと再起した。だけどそれはあくまでも現実的な範囲での話だ。それともアルゴはそのフラッシュとやらでこの状況をまるっきり打破できるって豪語するつもりかよ?」
「──そう、できる。だからこうしてきてやってんだヨ。いい加減覚悟決めロ。……お前にできることはいつだって限られているし、いつだって同じことだっタ。そうだロ?」
諭すように彼女は唱える。
「扇動。そして、遂行。今まで変わらず、これからを切り開くための行動。それは私達がソードアート・オンラインで繰り返し繰り返し死に物狂いで行ってきたこと」
つまり、
「ヒッキー、いや、オレッち達がやる事は単純明快ダ」
『正面突破』
「幸いにも敵さんはワザワザでっけぇ木なんか目印にしてくれているんダ。ちゃっちゃとプレイヤー使って攻略しようゼ?なぁに、いつも通りの話サ」
ー・ー・ー
「それでそれで!その後はどうなったんですか?」
「どうもこうも……ってさっきもこんなやり取りしたな。いや、特になにもないよ。後はお前が知っている通りだよ」
「そういってて、さっきもこの話が出てきたんじゃないですか!ちゃんと最後まで話してくれるまで離しませんからね!」
「あー、もう分かったよ!話せば良いんだろ!話すから、離してくれ」
掴む、というよりもしがみ付く、あるいは抱きついてきたいろはを引っぺがす。
「あんっ」なんて無駄に色っぽい悲鳴をあげていろはは自分の席に座り直した。
「んで、あとはなにを話せば良いんだよ。もう話せることなんてないぞ」
「あるじゃないですか。もっとおっきくビッグなイベントが!」
「言い回しが完全にバカだな」
「むぅ、素直に話しなさいっ」
「あっ、こら。ひっつくな。……このヤロっ!く、くすぐるな!」
「まさぐってるんです!」
「尚悪いわ!」
一悶着あったものの、話は進む。
あくまで蛇足的で補足的な話。
そんな笑い話な過去話。
俺は今度はため息を前説に話し始める。
黒歴史の図書館である俺が所有する特大の黒歴史。
『復活の凶目』とネットで謳われたあの話を。
「……なあ、やっぱ話さなくても良い?」
「ダメ!」
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A1Y、そして再開
その後の話を少ししようと思う。
語らなかったこと、そして語り漏れた話。
その内容は一辺倒にVRMMOについて。
別に理路整然と事細かく全てについて話し尽くすつもりはなく、事件後からの大まかな変化をざっくばらんに説明しようと思う。
──その大まかな変化は大きな変化だった。
第二次SAO事件終結からそう遠くない日。とある男子高校生が政府共同の元『ザ・シード』を発表したのだ。
『ザ・シード』とはつまり、簡単に言ってしまえば全くもって新しいインターネット体系であり、もう少し詳しく言えば、よりVRMMO分野に特化したインターネット体系だった。
『誰でも簡単に超安全なVRゲームがつくれます』
なんて聞こえはいいけれど、第二次SAO事件を知っている人からすればそれはもう──とんでもない代物だ。
なぜならそれは、須郷という紛れもない天才が根強く根深く長年の計画の末に発動しようとしていた目論見を『無料で、しかもあらゆる人に配布したも同然』の話なのだから。
それは事件に振り回された身からすればもうやってられない話で、まるで狐につままれつつ手のひらの上で踊らされた気分になる。中途半端にそれがどの程度、天才的な所業なのかが分かってしまうだけに、尚更、自分が滑稽に感じてしまう。
そんなわけで一時は下火を一足飛びし、鎮火も近いと囁かれていたVR事業は現在、より一層の大火を上げることにあいなった。数あれば当たるの精神でポコポコとクソゲー神ゲー大小様々なゲームが多く誕生し続けているせいか、最近では新着ゲームを漁ることに命を燃やす『スコッパー』なる猛者も出てきているらしい。
そしてその無数のゲームの中には今も『アルヴヘイム・オンライン』というタイトルが並んでいる。
……ただし、その様相を少し変えて。
SAOを元々運営していた会社が潰れ、それを引き継いだレクト社もまた潰れてしまった。二度あることは三度あるというが、その事象が会社の倒産とあっては誰も引き継ぐ意思を示す訳がなく、本来、ALOはひっそりとサービス終了を迎えるはずだった。
が、しかし、ALOのサービス終了とタッチの差で現れたザ・シードの存在がその運命を変えることになった。
『レクト社が反省の意を表明して、それが世間に受け入れられて……』なんて都合の良いことはなかったけれど、その代わりにALOを運営したいと表明した組織がでたのだ。
それはどこか?
日本政府である。
正確には、かの事件の裏方としてお世話になりまくったVR対策課だ。
前代未聞の国家主導型ゲームへの昇進を果たしたALOは、国からの援助を湯水のように使うことで凄まじい発展を遂げていた。
新ALOキャンペーンとして飛行制限が撤廃され、
1000万ユーザー突破記念として空に新SAOが爆誕し、
祝1年キャンペーンとして新種族が誕生した。
破竹の勢いで世界観を広げるVRMMOの金字塔になったこのゲーム。
雄大な自然と壮大な物語を渡り歩けるこのゲーム。
さぞかし、楽しいのだろう。
が、しかし。
俺こと、比企谷八幡はかれこれ一年間プレイすることはなかった。
あの事件以降、ゲームに一切手を触れていなかったのである。
ー・ー・ー
『でね、先輩! ここからがマジ最悪なんですけど、その男が言うんですよ!』
「そーか、そーか」
文字通りゲロを吐くような日常から解放されて、早一年。
桜と花粉の降り注ぐ賛否両論な季節と、本好きに親の仇のような念を送られる悲しみを体現したかのような土砂降りの時候を乗り越えて。
世はまさに炎天下を記録した猛暑の夏を迎えていた。
とはいえ、去年サボったツケがきたのか、エーコラヒーコラと勉強に勤しむ受験生な八幡くんには、夏という季節に浮かれる余裕はないわけで、しかしそれでもまあ、そんなことお構いなしに電話をかけてくるどこぞの後輩には妙に感心してしまうわけで。
そして、番外編とはいえ、プロローグにのうのうと居座っているあたり相変わらずおいしいキャラクターだなあ、とも思う。
きっと、彼女は雪ノ下と良いポジションを巡って過酷な争いを繰り広げているのだろう。知らんけど。
『……聞いてます?』
「受験を終えて頭が軽くなったよな、お前」
『軽いのは件の男ですぅ』
どうやらこの小悪魔系後輩先輩大学生(属性てんこ盛りだ)、チャラい雰囲気イケメンに魅惑のビーチへ誘われ大層お冠らしい。
なんでまた、と聞かされてみればどうやらその男、頭がスポンジな誘い方をしたらしい。
マジ卍、メッサなどとイタく気色の悪いスラングを交えつつ、後輩先輩のいうことには、
『壁ドンですよ!壁ドン!先輩みたいなイケメンならともかく、鼻がひん曲がったような雰囲気イケメンにやられてもテンション上がるわけないじゃないですか!しかも口臭いですし、私の鼻がひん曲がりそうでしたよ!』
「お、おう」
とのことらしい。
口臭についての陰口は我が身を振り返って不安になるからやめて欲しい。先輩ならともかく、の一言が救いだ。
『聞いてます?先輩』
「聞いてる聞いてる。……そういえば、俺って実は受験生なんだけど、いろはさんさ『実は』とか言うまでもなくそのことを知ってるよな?つまり、そろそろ切っていいか?天王山が俺を待ってるんだよ」
『えー、つまら、悲しいこと言わないでくださいよ。……あ、そういえば先輩の狙ってる大学って私と同じところですよね?』
「ああ……というか、俺が狙ってる大学にお前が入ったんだろ?」
『ふふ……卵が先か鶏が先か、ですね』
「確実に俺が先だよ」
どうでも良いけれど、彼女は経済学部。
俺の志望は文学部。
彼女は推薦入学で、俺は一留中である。
『──まあ、私の最近はこんな感じですね。それで、先輩の方は珍しく、電話の掛け直しを要求する程に切羽詰まっているようですが、何かあったのですか?天王山へ登山したい、だなんてそんな殊勝な心掛けだけが理由なわけがないでしょう?』
「その嫌な信頼を裏切ることができないのが悔しくてたまらないよ……。どうもこうもない、この際ぶっちゃけるとアドレスを教えたはずのない陽乃さんからメールが来たんだよ」
『へえ、どんなのです?』
「……いやな。なんか海に行くからついて来いとのことらしいんだが」
俺を殺す気だろうか。
受験生として殺し、男子高校生として生殺し。
俺は一石二鳥の鳥かよ。
『断れば良いじゃないですか』
「そうもいかないから切羽詰まっているんだよ」
『鳥だけにですか?』
「『羽』だけの印象でいらんことを言うなって。切羽は刀の一部分だ」
正確にはさやの方。
そこが詰まると刀を抜くことができなくなる。
『ふうん。それで、そうもいかないと言いますと?』
「いつぞやの借りを返せってな。あと、いろはと葉山と彩加と会った時に話してたアレ(参照『クリアのその前に』)、その時にやるって……ちょっと、待て。それなら、お前とか彩加もくるってことになるじゃん」
「あはははは、ようやく気づきましたか。実はですね、その話もあって電話をかけたんですよ」
借りというのは憎っくき須郷とのお見合いのセッティングをしてくれたこと。一年も経ったら無効だろと言いたいところだったが、ケータイの向こう側の陽乃さんを想像すると断るに断れなかった。それに恩義も多分に感じているというのもある。
しかし、なんとも素直に同行するのは癪で、『受験生』を盾になんとか断れないだろうかと模索しているのが現状だ。
『明日ですか。随分とまあ通告を伸ばしましたね。……まあ、私も参加するんで、ほら、あれですよ。良かったじゃないですか、可愛い後輩の裸を見るチャンスですよ』
「なにもよくないよ。つーか、水着のこと裸って言うな。たしかに下着と大差ないけどさ……。太平洋の汚ねえ海にわざわざ、花の女子大生がこんな暑い中、砂浜に行くだって?……おいおい、常識を疑うよ」
「あ、違います。行くのは海ですけど、外出の心配はしなくていいですよ。下見もしましたけど、透き通るような綺麗な海でしたし」
「あ?」
どういうことだ?
要領をえない、はぐらかしているのかと勘ぐりたくなる言葉に俺は間抜けに首をひねる。
「んー、私が教えちゃってもいいんですが、多分これは、小町ちゃんから聞いたほうがいいと思いますよ」
「……なにを「お兄ちゃあああああん!」」
ナイスタイミング、と後輩が呟いた。
バタン、と大きな音を立てて扉が開く。
「海だよ!海だよ!海に行くぞぉ!」
「耳元で叫ぶな。電話中だ」
「いろはさんでしょ!知ってる!」
なんで知ってるの?
もしかして俺の携帯、家電話の親機と子機みたいにどこかで繋がっちゃってるの?
「お兄ちゃん!海!」
「だからどうしたんだよ。行くならいってこい。お兄ちゃんは小町の分も勉強しといてやるから」
「うっ」
比企谷小町。高校三年生。
天王山のロープウェイを探す日々を送る17歳である。
自室に積み上がった課題の山を思い出し、しばし、顔面を蒼白に染め上げた小町だったが、かぶりを振って『それはそれ』とアホな開き直りをし始める。
「たかが一日海で遊んでいたとして、誰が諌めようか」
「俺が諌めるわ、この阿呆」
「むぅー!」
胸をポコポコ叩いても駄目なものは駄目。
いくら放任主義で有名なウチの親と言えども、海に行くくらいなら山に行けというだろう。ロープウェイを探している暇があったら一歩でも多く登れとしかり飛ばすだろう。
自由には責任が伴う。
学生の責務とは勉学の他ならない。
「……けど、お兄ちゃんは行くんでしょ」
「それなんだよなぁ。一歩も外にでずに海に行けるなら別に良い。ただ、ポータルもどこでもドアもない現実でそんなの望める訳ないしな」
「それは移動時間が勿体無い、という話でしょうか?」
「いや、それもあるけどなにより、移動中に陽乃さんが絡んでくるのが目に見えているから気後れする。そもそももっと早く教えてくれたら覚悟決めてつべこべ言わずいったっつうの……前日って、おかしいだろ」
「当日じゃないだけ良かったじゃないですか」
「そんなことしない人だ、とはとてもじゃないが言えないな」
妹が成人してからというもの、陽乃さんは年々手がつけられなくなっている。かつて俺が強化外骨格と評した彼女の外面はついに一周してしまい、随分とフレキシブルに変化した。能面であったり、喜色満面であったり、真面目だったり。コロコロと変わる表情で本心を隠すという、数年前に比べたら数段面倒でややこしくて、大人的だ。そのくせ浮かべる笑みは生まれたての赤子のようなのだから手に負えない。
それでいて、釣り合う男になったとだとかなんだとかいって頻繁に俺を連れまわすようになるのだからタチが悪い。
どうせ、今回もその一貫なのだろう。
『あ、なら移動時間がなければ先輩は来てくれますか?』
「どんな条件だよ。寝てる時間はノーカンだから深夜バスでいこう、なんてのは絶対に認めないからな」
『そんなこと言いませんよ……』
「お前が言わなくても、陽乃さんが言うんだよ」
この一年で、もう嫌という程味わったよ。
「じゃあさ、お兄ちゃん。この部屋から出ることなく海に行けるならいい?」
「小町までそんなことを言うのか……」
「ふふん。言っちゃうのですな」
うちの妹が何を言っているのかわからない件。
とりあえず、コアラのように巻きつく小町をペリペリと剥がす。
そして、トンチンカンなセリフを脳内で噛み砕いて溶かして解釈しする。
「この部屋から出ることなく海ってったって、なんだ、その、映画でも見ようってことか?いや、それとも僕夏よろしくゲームでも……ははあ、得心行きましたで候。つまり、そう、お前らは」
一旦区切る。
ちょっと賢い表現をしたら、随分と間抜けな口調になってしまったが、まあいい。二人の後輩が何を言わんとしているかは理解した。
この場合は、推測が及んだというべきか。
「つまり、お前らは俺をVRMMOの海に連れて行こうとしているんだな?」
「『ざっつ、らいと!』」
「しかも、おそらくはALOに復帰させようともしているな?」
『「おーらいっ!」』
「……やっぱこの話はなかったことに」
『なりませんよ』
「諦めるんだね、お兄ちゃん」
ふむ、確かに、陽乃さんの目論見を考えるとこれ以上ないくらい適したイベントだ。叶えるべき条件も、解決すべき問題も全て満たしている。
そう考えると時期もいい気がするし、なにより用意がいい。
俺に通達が来るのが遅かったのも、なるほど、そう考えると納得がいく。僕になんの用意もさせないことが彼女にとってなによりの用意であったことは想像にかたくない。
だとしたら、この要求、このイベント、このお誘いを蹴るのは諦めるしかなさそうだ。
今俺にできるのは粛々と事実と要求を呑み込んで、来るべき災難と晒すだろう痴態に身と心を震わせることだけ。
『それじゃあ、明日の午前中9時に向こうで待ってますから』
「ったく、向こう行ったら覚えてろよ……」
力無く憎まれ口を叩くしかない俺は、小町やいろはがいつALOを始めたのかなどという、真っ先に思いつくような疑問も持つことなく、カクンとうなだれたのだった。
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A1Y、そして再臨
SAOサバイバーがもしもう一回VRMMOに触れようと思ったら、取るべき選択肢は主に三つある。
一つは、完全にまっさらな状態で始めること。新しいアミュスフィアを買い、再び身体をスキャニングし、アバターをつくる。つまり、もう一度初心者としてゲームを始めると言う選択。
二つ目は、SAO時代のキャラクターを完全に受け継ぐという選択。アバターも経験値もスキルレベルもSAO時代のまんま。ALOに関しては一部アイテムの引き継ぎまで可能だ。
そして、三つ目。部分的に、SAOのキャラクターデータを使う方法。これは俺が選んだ方法だ。どのような選択肢かというと、二つ目と殆ど同じだ。ただ、アバターがランダム生成としてやり直しになり、名前も再設定が可能になる。
キリトは『SAO時代のキリトはもういなくなったんだ』とかなんとかいって、心機一転、新しいキャラデータで遊んでいるらしいが、俺に言わせたら『知ったこっちゃない』という話だ。
経験値もスキルレベルも捨てるには惜しい。一年以上もの努力を捨てる気にはならない。
そんな俗物的な自分を誰が責めようか。
というわけで、キャラクリエイトの時間だ。
といっても、やることといえば、引き継ぎコードの発行とキャラネームを決めることぐらいだ。ALOでは体型から顔立ちまでランダムに決まってしまうのでやることが少ない。
名前は変に捻ることなく『ひきがやはちまん』の真ん中をとって『ヤハチ』、転じて『Yahachi』とした。昔は弥七みたいなプレイをしていたので丁度いい。
パララララ、と軽快な重奏のSEと共に、次に現れたのは種族選択。
それぞれの種族の特徴を表すような字体で書き表されることには、以下の10通りから選べるらしい。
風妖精 シルフ
火妖精 サラマンダー
影妖精 スプリガン
猫妖精 ケットシー
水妖精 ウンディーネ
土妖精 ノーム
工匠妖精 レプラコーン
闇妖精 インプ
音楽妖精 プーカ
光妖精 アルフ
ALO一年祭で新しくできた種族とは、『光妖精アルフ』のことであり、その特徴は貧弱なステータスと光属性魔法を使えることとなっている。
この種族はタイマンや前衛に全く向かない、アニバーサリー導入キャラに相応しい完全支援特化型で、その防御力の低さから『紙の使い』だとか『ドードー』だとか散々な言われようをされている。また残念なことにここに属するプレイヤー人口は一番少ない。
ただ、強力で範囲型のヒールやバフデバフを行使できる種族ということもあり、あくどい廃人プレイヤーなんかは新人プレイヤーにオススメすることの多い。
俺がこうも長々と話してきたのはつまり、そう、この種族を取るためだ。鈴を転がすような音を立てて、金の鱗粉を撒き散らし自分が飛ぶ姿を想像すると吐きたくなるが、この際しょうがない。なぜならSAO時代のステータスを活かすためにはこの種族に属するしか道がなからな。
敏捷力が高く、攻撃力が低い。所持スキルも殆どが補助スキル。それがSAOにおける俺のビルドだった。それならもう、否が応でも支援系のキャラビルドにしなければならないというものだろう。
すくなくとも、向こうで待っているあいつらと遊ぶならば。
自身に浮かぶ苦笑いを噛み締めて、『光妖精族アルフ』を選択する。
頼むから、まともなアバターにしてくれ。
そんなことを祈り続けること数分、ワールド読み込みとアバター生成が完了した旨がアイコンに表示される。
右瞬きで規約やプライバシーポリシーに同意のサインを入れる。
《WELCOME TO YOUR NEW WORLD!!》
仰々しいファンファーレがひびきわたり、虹色の閃光が浮かび上がった文字列から放たれる。
思わず目を覆いたくなるような光量は視界を塗りつぶしやがて真っ白になる。
そうして、目を閉じて、開ける。
瞬きの動作。
そして、目の前には──。
ー・ー・ー
森が広がっていた。
見渡す限りの木々は、絶対存在するはずのギャップを隠し鬱蒼とした暗さを演出きている。ついでに言えば、周りが暗いせいか、木々のわずかな隙間から漏れる光線がなんとも幻想的である。
俺はこうした風景に『暗いなぁ』とも『懐かしい景色だ』とも思う事なく立ち上がり、パッパッと膝を払った。
ALOに限らず、『シード』を利用したVRMMOは基本的にキャラ生成がランダムで行われる。どうやらそれはシードのプログラムがキャラメイクに適用していないというのが原因らしい。しかし、その理由が茅場明彦による恣意的なものなのかそれともただ単純にし忘れたのか、はたまたなんらかの事情によるものなのかは未だわかっていない。
視覚や聴覚に異常がないことを確かめつつメニュー画面を開く。
日付、プレイヤーネーム、バイタル値、そしてログアウトボタン。
世界樹を攻略した一年前とは違うのはメニューの端に『ALO一周年アニバーサリー』と書かれているくらいだ。SAOから復帰してもうなんどもVRにはきているけれども、やはりログアウトボタンを確認せずにはいられないのは染み付いたトラウマなのだろうか。
ほっ、と一息つく前にキリトが言っていたことを思い出し、俺はアイテムを上から下までゴミ箱にぶち込んだ。
別に思入れ深いものはなかったけれど、空っぽのストレージはなんだか寂しげに見える。同様に空っぽのフレンド欄を見て尚のこと思う。
「翅は、やっぱり金色なのな」
アルフのビジュアル的特徴の一つは多種族も共通して持つ翅にある。
アルフの翅は金色で、翅というにはやや大きく翼に近い形をしている。つまり、とんでもなく薄い翼の形をした翅だ。
ビジュアル面でいうとこれまでの種族にない特別感を煽るフィルムだが、実はというとこれもアルフという種族を『紙装甲』と言わしめる要因である。
ALOは一年前、飛行制限が撤廃され完全自由に飛び回れるようになった。しかしそれと同時にとあるシステムが新たに導入された。翅の部位破壊判定の導入だ。つまり、アバターの翅を斬りつけると飛行制限が付いてしまうのだ。そして、制限の判定は欠損した翅の面積の割合に比例する。
ここまで言えばもう分かるだろう。アルフは翅の面積が大きい。要するに、飛行制限がかかる可能性が高いのだ。自慢の翅の端っこを切られたが最後、ただでさえ足手まといがさらに足を引っ張る存在になってしまう。
そりゃあ、
自嘲気味に自分の翅を手でしならせて離した。鈴を転がすような音が響いた。
「翅自体に感触はないのか。……けど、背中には付いてる感覚がある──うおっ、意識するだけで動くのか」
バタバタと空気を掬う感覚が翅の付け根を通して伝わってくる。翅は小刻みに動くだけで浮く気配はない。どうやら翅を意識しただけで飛ぶことはなさそうだ。
「そして、こいつがアルフの最大の特徴の『
薄い金色の半透明の尻尾がふさりふさりと揺れているのを見る。
スコットランドかどっかの伝承を基にした姿らしいが、これが男女問わず付いていると思うと(実際に自分についていることもあり)なんだかげんなりする。
ALOがこの一年で行った大きなアップデートの一つに『妖精の特徴付け』がある。
ケットシーには猫耳と猫尻尾が与えられている。しかし、他の種族には翅の色の以外の差異がない。そのことに不満を感じた幾人かのプレイヤーの声に応える形で実装されたアップデートだった。
まとめると、
風妖精シルフには常時3センチ浮遊の恩恵
火妖精サラマンダーには感情が高ぶると体の周りに火が散る恩恵
影妖精スプリガンには影を踏むと身体にペイントが浮き上がる恩恵
水妖精ウンディーには感情が高ぶると体の周りに水が浮遊する恩恵
土妖精ノームには鉱石を持つと手がその鉱石になってしまう恩恵
工匠妖精レプラコーンには金属のように硬い髪の毛とプラスマイナスの形の瞳孔。
闇妖精インプには背中の窪みとヤギのような角
音楽妖精プーカには歌を歌うと体の周りに音符が舞う恩恵
光妖精アルフには背中の窪みと牡牛のような尻尾
が与えられたのだ。
どれもこれもなんの効果も持たないエフェクトだけのもので、なんならオンオフも可能だ。
自分のぴよんぴよんと揺れる尻尾は翅と同じく金色の鱗粉をその軌道に撒き散らす。りぃんりぃん、と音を立てながら。
側の木に体を預ける。翅が自動的に畳まれる。
無意識に動いて状況に適合するなんて、まるで昔から自分の体の一部であったかのような挙動だな、なんて考える。
「……帰ってきたんだなぁ、この世界に」
剣だけじゃなくて、翅も魔法もある世界だけど、確かにこの世界は俺が濃密に生きていたあの世界だ。酸いも甘いも、善も悪も、幸も不幸も、生と死すら経験したあの世界がまた目の前にある。
正直にいうと、それは目眩がしてしまいそうな事実だ。正気を疑うと言ってもいい。けど、そうであってくれることに納得してしまう自分もいることに納得する自分がいることもまた事実だ。
破茶滅茶な理論で生まれて、滅茶苦茶な時間を経て、それでもなお存続するVRMMO。人がそれだけこの世界を待っていた証左そのもの。
なら、俺はそれに従おうと考えてしまう。
その理由は比企谷八幡がもとよりそんなスタンスで生きてきたということもあるが、なによりも、それが一番もっともらしく納得できそうな理由だったから。
世界が望むなら、それでいい。
世界と自分を同化させることで納得するなんて、そこまでしなければ納得できないならむしろゲームなんてする必要がない、なんて考える人がいるかもしれない。けれど、そうもいかないんだ。
後輩が誘ってくれた。先輩に借りを返さなくちゃならない。
確かにそうだ。けれど、そうじゃない。
なによりも、俺、つまり、比企谷八幡がこのゲームをプレイしたがっている。
その事実、その正直を認めるためには、SAOと同ジャンルであることを認めなければならない。その為には、先の理由が最も都合が良かった。ただそれだけの話なのだ。
言ってしまえば、僕はどうやら絶対になるまいと誓っていた馬鹿になる決心をしたのだ。信じて、やって、失敗して、原因を解明して、同じ轍を踏まぬように封印した事をそのリスクを承知の上で、そのリスクが解消された
君子であろうと決め、危きを踏み抜こうというのだ。
それも、まるでウブな子供のように期待に胸を躍らせて、笑みを抑えきれずに。
1人しかいない森の中でその可笑しさに喉を震わせる。結衣あたりに『ヒッキーの引き笑い』なんて頰が引きつりそうなギャグを言われてしまいそうな笑い方で。
一しきり笑い切り、俺は吹っ切れた調子でふう、と息を吐いて前を向いた。
「───よしっ、そろそろ連絡取るか」
我ながら、清々しい口調だった。
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A1Y、そして再見
「かあいい!!かぁいいよ!先輩。否、ヤハチくん。いないな!やーちゃん!ほうら、かわいいかわいい後輩のいろはですよー。おいでおいでぎゅっとして、ぎゅっとさせてだっこさせてー! かあいいよー、かーあーいーいー!!」
ああ、キレそう。
満面の笑みを前に、端的にそう思った。
ステータスやアイテムを色々弄ってから、まもなく迎えは来た。迎え、といっても例によって一色いろはなのであったが。なんだかここ最近、いろはとしか話していないかのような錯覚を覚えるぜ。別にそんなこと全然ないのに。
「ちょっとは控えようとか思わないの? 先輩相手に尊敬と尊重の思いをもって、少しは遠慮しようとか思わないのか?」
「きゃーっ! ちょっと拗ねてむくれた表情もかわいい!かわいいですよ!」
「……はぁ」
もういっそ、ずっぱし諦めてログアウトしたい気分だ。
だれて萎えてしおれた俺を前に、ヨダレを垂らしそうな顔の彼女は手を合わせてスリスリする。その度に彼女の指輪が擦れあってジャラジャラと音を立てる。右人差し指に二つ、両中指に一つずつ、左小指と人差し指にも一つずつ。一歩間違えば成金ファッションになってしまうところを如才なく着こなしてしまうあたり、やはり彼女はカワイくない。
「随分と立派な装備だな」
「かわいいなぁ……えへへ、割とやり込んでますからね。これ全部A級以上の魔道具ですよ」
そういって、彼女は両手を広げてアクセサリを披露した。どうやら指輪だけでなく手首にもつけているらしい。魔道具なんてものはSAOにはなく、その代わりにアクセサリとして2枠用意されていたくらいだったっけ?少なくともこちらのような自由度はなかったなぁ。
へんな感傷に浸りつつ俺は続けて問いかける。
「いろははケットシーなのか」
「そうですよー?ほら、ネコミミですよー、ぴこぴこ。……あ、今『流石あざとい』って思いましたね」
「よく分かってるじゃん」
「好きですから。それと、私のことは『イロ』でよろしくお願いしますね。わたしもハチくんって呼びますから。……ふふ」
ニコニコというよりかはニヤニヤニマニマという擬音が似合う笑みを浮かべるいろは。じゃなくてイロ。アクセサリーこそジャラジャラと付けているものの、彼女の服装は臙脂色を基調にしてシンプルに纏まっている。基調となる色が臙脂色なのは多分、彼女のケモミミと髪の色が黒だからなのだろう。
「別に俺はお前のこと好きじゃないけど、いまお前がどこを見て笑ったかくらいはわかるぞ」
「へえ……いったいどこでしょうか?」
「──俺の、俺の体格だろ?」
「だいっせー!かい!!」
イロは叫ぶと、遂に「我慢できなません」といった調子で俺に抱きついてきた。暴れようにも俺の脆弱なSTRではとてもじゃないが叶わない。不甲斐なさを嘆き、俺は不承面で自身の体を睨んだ。
RS7500型。
それが俺のアバターの型番だ。RS系列7000番代のアバターは特に目新しいアバターではないのだが、その性別が男となると話は変わる。
RS系列のアバターの特徴は小さいことにあり、7000番代のアバターの特徴は極度の童顔。そして7500番は特にそれが顕著で細身のアバターになる。要するに、比企谷八幡は今、第二次性徴を迎える前の可愛らしい細身の男児の姿になっていたのだ。
当たり判定が小さいという意味では評価が高いものの似合う装備が限られてしまうこのアバターは、男性プレイヤーにとってすこぶる不評で、もしこのアバターが当たっても大体はコンバートし直してしまう。そういった意味で、RS7500型のアバターは非常にレアなのであった。
「うへへ、ショタ八幡だー。顔も先輩に似てるしー」
「ええい!頬擦りをするな、頬擦りを!」
我ながら小さな手でイロを押しのける。
アバターの話に戻るが、このゲームを初めて始める人ならいざ知らず俺はSAOを通してこのゲームをやり込んでいる。つまり、コンバートするには惜しすぎるステータスをもっている。
ゆえに、侘助。じゃなくて、このアバターを使うしか他はないのだ。この小さな身体を使ったとしても。
「イロにゃんのパフパフをくらえー!」
「やいやい、いい加減にしろやい!」
そんなことをされたらたまったもんじゃない。とジタバタと翅まで使って抵抗する。
抵抗する悪い子にはこうだー!とイロうりうりされかけたその時。
「そうね、イロさん。そろそろその手を離したらどうかしら?」
俺とイロの後ろから、体の芯が底冷えするような声が聞こえてきた。というか、実際に体が身震いした。
「あ、あれ? なんでここにいるんですか? ──ユキ先輩?」
「貴女がソワソワして飛び立っていくのが見えたからよ。……どうりで文字通り飛んでいったわけね」
交わされたやり取りの後、ミシミシと背後から聞こえ始めた異音が気になって俺が恐る恐る振り向くと、がしっとイロにアイアンクローを決める何者か──否、雪ノ下雪乃の姿が見えた。
「あら、久しぶりね。随分と間違えたわ……ショタヶ谷くん?」
「……そういうお前は何で向こうと同じ姿なんだ? 雪乃」
ここではユキと呼んで頂戴、彼女は笑って薄い青の髪を書き上げた。
そしてドス、と手放されたイロが地面に顔をぶつけた音が響いた。
ー・ー・ー
雪ノ下雪乃、19歳。大学生。
ALOでの一件が足を引きずり一年休学扱いの一留生となった女子大生。一年の猶予のお陰で彼女は学業には余裕があり、良い大学に行っているにもかかわらずゲームにそこそこめり込んでいるとは聞いていた。が、しかし。
「その剣……15階層のボスのラストアタックドロップだろ。
「あら、この剣についてよく知っているじゃない……というのは流石に白々しいかしら?」
「白々しいなんてもんじゃないですよ。明白ですよ」
地面に伏したままのイロのぼやきを聞く限り、やはり確信犯なのか。
俺は地面につけていた尻を手で払い立ち上がる。
「んじゃあ、その剣を携えていたのは必然っつうことか」
「ええ、この剣。貴方の愛剣だったらしいわね」
その通りである。
15階層のボスの名前は【メデューサ】。ラストアタックドロップは短剣【クリュサオル】。石化『小』を持つ唯一の武器だったということで、かつて俺がキリトに頼みこんで買い取った剣だ。幾度となく俺の命を救ってくれた一振りなのでチラッと見ただけで分かった。
「え、なに? 俺にくれんの?」
「あげるわけないでしょ。乞食野郎」
「ちょ、お前。それじゃあただの悪口だろうが。俺を罵倒する時は『〜ヶ谷』形式だって約束しただろうが! 暗黙のうちに!」
「それ、してないじゃないですか。あと、先輩はその形式なら罵倒されても良いんですか?」
相変わらず倒れ伏したままイロがツッコむ。
それを無視して「ともかく」俺は咳払いをしてイロと雪乃を睨む。
「お前らがなぜ俺の体をソワソワした目で見ているのかはなんとなく分かる。だがこれ以上俺の身体的特徴を弄ってみろ。俺はこのアミュスフィアをぶっ壊す覚悟ができている」
「自分を盾にして情けなく無いんですか?」
「自分が盾になれると思っているのかしら」
「辛辣!」
あれ、君たち俺のこと嫌いだったっけ?
……もういいや。
りぃん、りぃん、と俺は自分を翼を動かし少し浮いた。
シィン!!
は?と声を漏らすのと、立ち上がったイロが小刀を鞘にしまうのは同時だった。なんで、小刀? なにを切ったんだ?
唐突に起こった出来事に疑問符を浮かべる。
「おい、いろは。なにを──うわっ」
「
「……なにしてくれてんの?」
素の声が漏れる。
イロは戸惑う俺に構わずずんずんと近づいてくると、彼女のその、装飾品がバランスよく配置された手を伸ばしてそして、
俺を抱き上げた。
そう、20近い男を、まるで10歳そこらの児童を扱うかのように「よいしょ」と抱っこした。
俺は、後輩に、抱っこされたのだ。
「おま、ちょ。は? へぇ?!」
「こらこら、そんなに暴れなーい。ジッとしてて下さいね。抱き運びにくいんで」
ニコニコした彼女の顔まで3センチとない。
そして、柔らかい。SAOでは決して感じなかった豊かな感触表現が俺の脳内を支配していく。
これはマズイ。年上の尊厳的にマズイ。必死にジタバタ暴れていると、どうにか背中に回された手を解けたのか一瞬な浮遊感が俺を襲い、そして、再び柔らかい感覚が。
「あらあら、ヤハチったら。やんちゃなんだから」
「ユキノサン!?チョット、ナニシテルンデスカ?!」
「抱いているのよ? あと、ユキね」
「だから、なんでそないなことしてるんですかい?!」
顔を覗き込む彼女から逆に俺は顔を背け、離せとイロにしたようにジタバタする。ユキは香水アイテムを使っているらしく、フルーツを混ぜ込んだシャボン玉のような爽やかな匂いが暴れるたびにフワッと鼻をつついてくる。その匂いに思わず俺は暴れるのをやめてしまった。
「イロさん。どうやらヤハチは私の方がいいみたいね」
「はぁっ?! どういうことですか、先輩!」
「いたたたた、腕を引っ張るな! 肩が取れる!」
「私が抱く」「いや、渡さない」なんて中学生の頃だったら3日に一回は妄想したようなやりとりが数度行われて、結局俺の翅が生え治ったことで事態は収束した。
「ちぇー」とつまらなそうにつぶやくイロを小突いて俺は再び浮かび上がる。今度は切るなよ、と釘を刺して。
アルフとインプはアップデートから腰あたりに翅が配置されることになったので、浮かぶ時には腰の後ろにある架空の関節を動かすイメージしなければならない。
こんな位置に翅があったら飛んだ瞬間に体が逆さまになってしまいそうなものだが、そこはファンタジーの世界。ファジーに動く翅の挙動は俺を正対したまま宙へと運んだ。
運営が変わり飛行制限が廃止されてから早1年。俺が降り立ったのは薄暗い森のギャップだったが、空へ来てしまえば太陽が一面の明度を上げて清々しい景色を作り出していた。
「結構人がいるんだな」
「このゲームはある種、VRMMOの登竜門的な位置にいますからね。それに、今となっちゃあALOには同時にSAOという伝説のゲームもありますし。そりゃあ人もいるっていうものですよ。全盛期パズドラみたいなものです」
「例えが古い」
「いやいや、モバゲーのタイトルを出さないあたり若者感があるでしょ」
ねえよ。例えで数世代前のスマホ向けアプリを出すなんて、ゲーム年表を見たてのレトロゲーム初心者か、それかただのおっさんだよ。モバゲーの方がまだ『年表見たてなんだな』って分かりやすいから。
「それじゃあ、そろそろ行きましょ。時間もあまりないことですし」
「時間? ちょっと待て、海かどっかにいくって聞いていたんだが」
集合時間にはまだ数時間の余裕がある。
念のため早めのログインをしたからな。
「ええ、だから集合時間前に買い物を終わらせないといけないじゃない」
「どこに? なにを? なんのために?……え? 何? 念のために聞くけど、いくのは海なんだよな──ああそうか。水着か、水着なんだな! 水着を買いに行くんだよな」
ユキの言葉に不吉な予感を覚え、それをかき消そうと声を張り上げる。
「ソウヨー……あ、ところでイロさん。リズベットさんはもう準備できてるのかしら?」
「あ、はい。『いつでも連れてこい!』だそうです」
リズベットって、やっぱり武器屋じゃん!
買うの水着じゃないじゃん!
これから行くの絶対海じゃないよね。たとえ海だったとしてもそこに安全性は確実にないよね!
「嫌──!!」
だ!と叫ぶ前に俺は、二人に両側から抱きしめられそして加速した。空高く、おそらく、リズベットの元へ。
それはまるでロケットのようだった。俺が本体で、彼女たちが途中で取れていく多段式のブースター。途中で離されては堪ったもんじゃないと必死でしがみつくと、なんの嫌がらせか更に加速した。ゴウゴウと耳元で唸りを上げる風の音の大きさが今の俺たちの速度を物語っている。
「はやっ!飛ぶのはやっ!」
「なに言ってんですか。空中戦ならこの速さでステップを刻むのが基本ですよ。ほら、右左に動いてみましょうか」
「うわ、なんだこれ。気持ち悪っ! 胃の中っていうか脳みそがひっくり返ってるみたいな気持ち悪さが俺の全身を巡るべく巡り尽くしてなんというかひたすらに酔いそう」
「それならもっと強く抱きしめてなさい。そうすれば密着度が上がって重心が安定するわ」
「それって、このジグザグ飛行をやめればいい話じゃないですかねー」
金と青とオレンジの軌道が1束になってジグザグと高速に動いているなんて、地面から見たらUFOかなんかと間違えられそうだな。
「「あ、ヤバ」」
なんだか、風邪を切る音も嵐の夜のような不思議な安心感を覚える音に感じてきたその時だった。
左右の耳から別々の音声が聞こえてきたのだ。また、不思議なことに二つの音声は同じ意味に聞こえた。それになぜだろうか。その声を最後に浮遊感と両側から感じていた柔らかい感触が消えてしまった。
まるで重力に引っ張られているかのようなかんかくだなぁ。
飛行という道の恐怖から目をそらすために閉じていた目をそろりそろりと開けると両隣に二人はいないことがわかった。上を見れば申し訳なさそうにこちらを見る二つの顔。
ははあ、二人揃っててを滑らせたな。まあ、俺が自力で飛べばいい話だけど。
気にするな、と合図するように俺は手を振る。すると、二人は慌てたように地面のある下を指差す。なんだよ、と思い下を見るといつの間にやら俺たちは深い森を抜け、草原を抜けて街中に来ていたことがわかった。つまり、眼下にはレンガ調の街が広がっていたのだ。
そう。眼下、10メートルには。
「は──ふげぶっ!!」
飛ばなきゃ、と再び思った頃には既に地面と額がくっついていた。
ものすごい衝突音が脳内と街中に響く。
身を襲うとんでもない衝撃とモニュリとした気持ち悪い感覚。ダメージを受けた時に感じるこの麻酔をかけた身体に思いっきりハンマーを叩きつけたような感覚はSAO時代と変わらないのか。
HPを見ると残り数ミリしか残っていない。
「ちょっと、ちょっと! おおよそ普通に過ごしていたら聞こえないレベルの衝突音が聞こえたんですけどー?!」
空から落ちたとあっては流石に家の中にも衝突音が響いたらしく、近くの家からプレイヤーも出て来たようだ。
こんな形で目立つのは俺の本望ではないので、さっさと起き上がり去ることにする。ぐぐっと力を入れて起き上がり、路地に出て来たプレイヤーに謝ろうと声のした方向に体を向ける。
「わ、悪い。意外と地面と空が近くてな」
「そんな詩的な言い訳されても……」
「ごめんごめん。まさかユキ先輩も離すとは思わなかったものですから」
「ごめんなさい。まさかイロさんが離すとは思わなかったものだから」
「いや、そもそもどっちも離すなよ」
空から二人が降りてくる。
涼しげな口調と態度とは裏腹に、ユキの体の周りには水がせわしなく動いていた。どうやら、俺の墜落に相当焦ってくれたらしい。
「あれ? ユキにイロじゃん。……ということは、アンタ。もしかして」
家から出て来たプレイヤーには少し声を震わせて俺を指差す。俺はそれを無視して彼女の出て来た家を見る。
家、というにはやや物々しいイラストが描かれた彼女の工房を。
『鍛冶屋【Elizabeth】』
女王の名を冠するには少々荒っぽいな、なんて思った。
「よぉ、リズベット」
「しゃ、社長……」
誰の影響だろうか。
別に雇用関係にもないのにSAO時代から『社長』と慕ってくれた鍛冶屋の少女。
墜落の先、それは、SAO影の率役者との再会だった。
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