こちら、つごもり眼鏡店 (みょん!)
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こちら、つごもり眼鏡店

 とある町の、とある駅前に。

 小さな眼鏡屋さんがありました。

 歩道から見えるショーウィンドウには、修理用の工具と、古ぼけた展示用のマネキンと、ケースに入ったいくつかの展示用の眼鏡。

 

 そこは、どの町にもひとつはある年季の入った眼鏡屋さん。

 ただひとつだけ、他と違っているところがあるとすれば――――。

 

 『あなたの価値観、直します』

 

 見慣れない文句の張り紙が、入り口に張られているくらいでしょうか。

 

 

 

 【こちら、つごもり眼鏡店】

 

 

 ちりりん

 

 [営業中]と札が掛けられている扉は、力を入れずともするりと動いた。鈴の音が中に響き渡るのとその同時。

 

「あら、いらっしゃい。お客さん?」

 

 耳に入ってきたのは、フランクな物言いに落ち着いた女性の声。予想していた声とはまるっきり違う声に、あいの足は動きを止めた。

 

「…………?」

 

 眼鏡をずらして目を擦る。店の中は想像以上に暗く、夏の日差しからの変化に目が追いつかない。あいの目には視界の全てに緑色のもやが掛かっているように見えた。

 声がした方向に人が居るのだろうとは分かっても、その目はぼやけてうまく像を結んでくれなかった。そもそも――今の状態ではたとえ目が慣れたところで見えるかどうか、と言ったところだけれど。

 

「どうしたの? 修理? それとも新品の購入かし――あら、手で抑えてどうしたの、壊れたばかり?」

 

 再び降ってきた声はやはり女性の声。目がやっと暗さに慣れてきたのか、声がした方向でぼやけた何かが動いて、少しずつ近づいてきているのが分かった。

 

「あっ、えと……ちょっと近くの電柱に頭をぶつけちゃって、そしたらレンズが片方無くなっちゃって、あと全体的に曲がっちゃって……」

「あらあら、じゃあ今はあまり見えていないのね。ちょっとそのままで居て。椅子を持ってくるわ」

 

 ぱたぱたとスリッパが床を擦る音が聞こえる中――それにしても、女性の声だったなぁ。こういうお店は、大体男性がやっているイメージだったけど、店の人は居ないのかな? などとぼんやりと考えていると、ふとすぐ後ろの方でがたんと木がぶつかる音がした。それから背中に温かいものが触れたかと思うと、

 

「椅子を準備したから。そのまま、ゆっくり腰を下ろして大丈夫よ」

 

 耳元で、優しい声がした。

 

 

 ◇

 

 

 ――ことはほんの数分前。

 なんと言うことはない。いつものように学校帰りに本を読みながら道端を歩いていて、ふと誰かにぶつかりそうになったからいつものように逆方向に避けたら、ちょうど避けた先にあった電柱にごっつん。目の前に光が走ったかと思ったら眼鏡がその反動で体から離れて、かしゃんと軽い音を立てて。手探りで足の下にあったのを見つけたのはいいけれど片方のレンズが無くなっていた上、手で支えないと勝手にずれ落ちるようになった。端的に言えば眼鏡が壊れた。ただそれだけのこと。

 あい自信、周辺視野は広い自信はあったし、小中学校と続けていた行動でもあったし。駅前といえど通るのは自分も含めて通学の学生さんくらいだからそうそうぶつかるような人通りの多さでもないからへーきへーき――と高をくくっていたらこの有様。

 眼鏡を片手で支えながら周りを見渡したところ、『眼鏡屋』という看板が目に入ってドアを押して――。

 そして今に至る。

 

 

「ちょっと前失礼するわね。度数、これで合ってるかしら?」

 

 目に添えるようにして持っていた眼鏡を手に持ち、もうひとつの眼鏡を掛けられる。何度か瞬きをして、店の全体が見えるようになったあいは――。

 

「わ、ぁ……」

 

 眼鏡の数――――よりも。店内の壁一面を覆う本棚と、本の背表紙に目を奪われた。

 壁という壁、床から天井まで至るところに本、本、本。

 テーブルには白い布地にいくつかの眼鏡は置いてあるし、ショーケースのようなものもある。しかしそれ以上に、壁という壁は本棚で埋め尽くされていて、よく見れば、眼鏡が置いてある机事体も、ミドルサイズの本棚の上に天板を敷いているだけの代物だと分かる。

 

「わぁ……。……え、と。ここは……眼鏡屋さん、……です、よね?」

 

 自分が入った店は本当に眼鏡屋なのか――不安な気持ちが言葉に現れているように、言葉が先細っていく。首を右にかしげると、右に一本に結った髪がふわりと揺れる。

 

「ええ、ようこそ、つごもり眼鏡店へ。そんな反応をしてもらえると、ディスプレイしている甲斐があるわ」

 

 隣でしゃがみこんでいる女性は、その様子を見て満足げに笑いかけた。

 

 

 ◇

 

 

 『(つごもり) 朔希(さき)』と胸に付いた札には、『店長』の肩書きが付いていた。

 栗色を明るくしたような髪色で、腰にまで届くほど髪は長く、文学を嗜む女学生がそのまま大人になったような、整った顔立ちをしている赤いフレームの眼鏡が似合う大人の女性。あいには目の前の相手にそんな印象を覚えた。数秒固まって、店長の名前札を見て、もう一度その顔を見て――。

 

「――えぇっ!? 店長さん、ですか?」

「そ、店長。――店員も一人だけど、ね」

 

 そう言ってから、朔希は鈴が鳴るようにころころと笑う。

 

「……こういうところ、男性がやってるものかと思ってました」

「ん、よく言われる。でもちゃんと出るところは出てるし、持ってるものは持ってるから、依頼をいただければ仕事はしっかりとするわよ?」

「え、あ、いや、そういう訳じゃないんですが……すいません」

「そこは謝る所じゃないわよ。で――持ってるもののことなんだけど」

 

 その話題を出した瞬間、あいはとたんに不安げな表情を見せる。えと、と朔希の顔と手元の眼鏡との間を何度か往復するのを見て、朔希の手があいの頭に乗る。安心して、と言葉で伝えるよりも効果があると思ったのだろう。せわしなく動いていた視線は朔希の目の一点で止まった。

 

「パッと見、フレームが歪んじゃってるから落ちちゃったんだと思う。どうする? 直そうとすれば直せるけど」

「直せる、んですか?」

「ん、時間は少し貰うけど、普段使いするには問題なくできると思うわ」

「よかったあ~……」

 

 やっと、あいの目から不安の色が消える。先ほどの本たちを眺めているときの、きらきらとした目に戻る。

 

「えと、お値段の方は……」

「手間賃込みで三千円くらいになるけど大丈夫? 親御さんに出してもらうことになると思うんだけど」

「えっ、そのくらいでいいんですか?」

「いいよいいよ。予約が立て込んでいるわけでもないし、暇してるから」

「あっ、はい。それだけなら、――怒られないでもすむと思います」

「そう。じゃあ後で領収書書いておくから、親御さんにお願いしてね」

「はい」

「それじゃ、作業の方に移るわね。――あ、そこらへんの本は好きなのを勝手に読んでていいからねー」

 

 そう言って、朔希はおそらく最初に座っていたであろう番台――銭湯に行ったときに番頭が座っているような形をしているのであいはそう名づけた――に向かい、工具やらをその上に乗せ始めた。

 

 

 それにしても――あいは綺麗になった視界で改めて店内を見渡す。

 この場所は、どちらかというと眼鏡屋というよりも――本屋かブックカフェと言ったほうがいいんじゃないかと思えるほど、本媒体の占める割合が多い。

 右を見れば、壁一面の本棚。左を見ても、壁一面の本棚に、そこだけくりぬかれたような窓がある。下を見れば机の脚の代わりになっている本棚が見えて、流石に上にまで本は無いけれど――文字通り至る所に本がある。

 ぎっしりと詰め込まれた本段の中には、ハードカバーから新書、文庫本から絵本のようなサイズまで。ありとあらゆる本が、この空間にあるように見える。背表紙とタイトルだけを見ても、ファンタジー小説からミステリ小説、戦記物からここ数年で流行っているライトノベルまで、知っている本、知らない本、数々の本が所狭しと並べられていて、ちょっとした異空間に迷い込んだような錯覚を覚えた。

 三度のご飯よりも本が好きな当人にとっては、まるでそこは宝の山――。しゃがみこんで本棚に並ぶ背表紙を眺めては、気になるタイトルの作品を手に取り、中をぱらぱらと捲り、次の本へと視線を移す。ある程度見たか、と思えば自分が先ほどまで座っていた椅子がすぐそばに見える。 どこまで広いのよ……と独り言を呟きながら、次の本棚、ラノベ棚と思われる本棚に目を移して――。

 

「――――ん?」

 

 見慣れないデザインの背表紙が目に入った。

 自慢じゃないけど、文庫本くらいだったら背表紙のデザインだけで出版社とレーベルくらいまでは正確に言い当てる自信がある。けれどその一角にあった数冊の本だけは、自分の頭の中にあるデータベースには無いものだった。本を手にとると、とあるネットゲームのキャラクターが表紙に映っていた。確か、これは、艦――――。

 

「えっと、て、店長さん」

「朔希でいいわよ」

「じゃあサキさん。この本って、どこの本なんですか?」

 

 下を向いていた朔希は、眼鏡を眉の上にずらしながら顔を上げて――その表情が一瞬固まった、ようにあいには見えた。

 

「……ああそれね。んーと、いわゆる自費出版ってやつよ。本屋では売ってないわね。――――ところで、なんでその本に興味を持ったの?」

「え? いや、なんというか……目を引いたので」

「ふぅん」

 

 そっけない言葉が返ってくる。その口元には少しだけえくぼが見えた。

 

「作者の方は? 見慣れないお名前ですけど」

「…………わたし」

 

 外からの音で掻き消えてしまいそうな大きさで。しかしあいははっきりとその言葉を聞いた。

 わたし、わたし……。……目の、前。の?

 

「――――えぇぇっ!? サキさんも、じゃない。サキさんが書いたのですか!?」

 

 どうしてその中でそれを見つけちゃうかなぁ、とはにかみながら呟くその顔は、言葉以上に迷惑がっているようではなく、逆に少し嬉しそうな、そんな表情が見て取れた。

 

「これ、読んでもいいですか?」

「――好きなの読んでーって言った手前、ダメっては言えないわよね。いいわよ」

 

 眉を下げて手をひらひらとさせる。目はもうあいの方は向いておらず、自分の手元の方に向いていた。

 表紙のカバーを見て、とりあえずいつものようにカバーを外してカバー裏を見て、そして一ページ目を捲る。本のタイトルと、作者名、そしてもうひとつの名前が並んでいた。エピローグが始まって、第一章が始まったとき。

 

「――――ね、ところでさ」

 

 本の向こうから、声が聞こえてきた。

 

「……はい?」

「あなたも書くんでしょ? 作品」

 

 あいが顔を上げる。手を止めて、様子を伺うような目が自分に向いているのを見た。

 

「そ、ん――…………」

 

 その両目で頭の中を覗かれているのかと思った。

 ――そんなこと、この店に入ってから一言も口にしてもいないはず。いやそれは間違いない。なのに、どうして――。

 あいはそれ以上の言葉を発することができずに、つばを飲み込む音だけが耳に響いて。――くすくすと笑う声がした。

 

「なんで分かったかって顔してるわね」

 

 いたずらをする子どものように、仕掛けた罠の種明かしをするように、子どものような笑みを浮かべて、こっちを見る。

 

「目の輝かせ方が違うもの。本を読んでるときとか、本棚を眺めている顔がね、本を読むのが好きーって以上に、こんなのつくりたい! ってオーラが体全体から出てるから」

「オー、ラ……?」

「そ、小説書きだけが通じ合えるのかもね」

「……分かるもの、なんでしょうか……」

 

 あいの視線が自分の手のひら、腕、肩と視線が移っていく。最後に両方の手のひらをまじまじと見て、首を傾げる。サイドテールがその動きに合わせてゆらりと揺れる。その瞬間に前方から笑い声。

 

「なーんてね、う、そ。あなた『も』って言ってるのを聞いちゃったらもしかして同じことやってるのかなぁって。それだけよ。深い意味は無いから気にしないで」

 

 作業用なのか、ライトがついた眼鏡を眉の上にずらして、ころころと笑う。

 ――あ。そういえば言ってた。間違いなく言った。……なんだ。その時から分かってたことで、オーラとかそんなお話の中で聞くようなことじゃなかった。おちょくられていた、だけ?

 やっと頭にそのことが伝わってきたところで、入っていた力が抜けたように頭がかくりと落ちた。

 登場人物が相手のペースに乗せられる――物語の中ではよく聞くフレーズではあるし、そう簡単に乗せられるほうが悪いでしょう、と読みながら思わなくもなかった。そうなのだけれど――いざ体験してみるといつの間にか乗せられていた、というのがよく分かる。やはり外から見るのと体験するというのとは違うのだと思うのと同時に、私は乗せられやすいのかなぁ、と。あいは少しだけ顔が温かくなるのを感じた。

 

 

 ◇

 

 

「ん、これで大丈夫」

 

 その言葉を聞くまで、あいは本から顔を上げるどころか身動きひとつしないで本に没頭していた。

 顔を上げたとき、窓の外はすでにオレンジ色をしていて、入ったときから大分時間が立っていることが分かる。その間、あいは夢中になってその本を読んでいた。文字通り時間が過ぎるのを忘れて。

 

「ん、元通りに出来てると思うよ。確認してもらってもいいかしら」

「はい。ん……うん。まったくの元通りです。ありがとうございます!」

 

 おずおずと手渡された眼鏡を手にとって、おそるおそる耳に掛ける。鏡越しに自分を見て、右を向いたり左を向いたり、きょろきょろと首を動かしてから、笑顔がはじけた。

 

「ん、よかった。じゃあ、これ請求書ね。あ、前金とかは特にいらないから、親御さんによろしくって伝えてね」

「はい! ……あ、それとお願いがあるのですが」

「何?」

「この本、お借りしてもいいですか?」

「えっ? え、えぇー……と」

 

 あいは表紙で自分の口元を隠しながら、まっすぐにその作者に向いて問いかけた。修理している間に読ませてもらったその本は、実際のところ面白かったのだ。そして終わっていない話の続きを読みたかった。けれどそれを直接、それも作者に、口に出すには憚られて。ただお願いの言葉だけがあいの口から飛び出した。

 自分の本というものもあるのだろう、返事に渋っているように思える。実際、自分が朔希の立場だったらどうだと考えると、確かに二つ返事でOKは出せないと思う。自分の作品を見てもらいたいというのはあっても、やはり、恥ずかしさだったりいろんな気持ちが混ざり合ってしまうだろうから、と。

 

「まだ読み終わってなくて。……続きが読みたいので」

「……いいわよ。ただし、読んだら感想聞かせてね」

「やったー! ありがとうございますっ!」

 

 最後の言葉がとどめになったのか、朔希は観念したように両手を挙げ、それを聞いて万歳をして喜ぶあい。大事に本を胸に抱えるのを見て、朔希は恥ずかしそうに、けれど満足そうに微笑むのだった。

 

 

 ◇

 

 

「ただいま!」

 

 あいは家に帰るなり自分の部屋に飛び込んだ。目的はかばんの中に入っている借りてきた本。帰り道の途中でも読みたくて読みたくて仕方が無かったが、同じ日に同じ理由で眼鏡を壊すわけにはいかない、と。本の読み歩きをこらえて家に帰ってきたのだった。

 飲み物、お菓子、準備よし。愛用のクッションを背もたれ代わりにして、いざ、続きを読もうとして――。電源が入れっぱなしになっていたデスクトップパソコンから呼び出し音が流れた。音声通話が出来るアプリがアクティブになり、表示されている名前を見て。

 

「うげ」

 

 年頃の女の子らしからぬ声が口から飛び出した。

 めんどくさい。一刻も早く本を読みたい。でも、出ないと結局面倒なことになることをあいは知っているから。

 

「はいはいなんですかー。あいさんは忙しいのですけれど」

 

 緑色の通話ボタンをクリックして、通話を開始させた。

 

「はいはいこちらも忙しいので手短にお話するわね」

「っていうか隣なんだから直接来てもいいじゃん」

「やだよめんどくさい」

「うん、あんたはそう言うわよねぇ……」

 

 ハスキーがかった声の主は隣の家に居る。画面表示されているハンドルネームは『カナ』、本名もそのまま。同い年で学校はもちろんクラスもなんだかんだでずっと一緒の腐れ縁のような存在で、唯一、自分が作品を創っていることを知っている人物だった。

 

「これから借りている本を読むんだけどー、何かあった?」

「あ、そうそう、あんたがこの間見せてくれた短編なんだけどねー?」

「ん、それなりに自信作だけど」

「あいってさー、◇×○って本、読んだことある?」

 

 パソコンの前で、自分の目が見開いたのを感じた。その本の名前にはとても聞き覚えがあったから。

 

「う、うん。っていうかつい一ヶ月前くらいに全巻一気読みしたけど?」

「や、なんかさー、あい、影響されてるなぁって思って」

「そんなに?」

「うん、とっても。――やー、影響されるってのは良くあることだからいいんだけどさー、ここ最近の読んでると今までのあいっぽさが無いっていうか。なんかあいらしくないっていうか。違和感があるんだよねー?」

 

 作品に、違和感。あい、らしさって? どういうもの?

 胸の中にもやもやとしたものが湧き上がってくるのを感じる。なんだろう、これは。

 

「ん、気になったから伝えてみた。そんだけ。ほいじゃーねー」

 

 何も言えずにいると、ぴこん、と軽い音がして、通話は途切れる。画面には可奈のハンドルネームと、つい最近交わしたチャットログが表示されていて、暗くなった画面の向こうには変な顔をしている自分があった。

 作ってるものに、違和感。

 ――いわかん。

 言葉は音としてしか頭に入ってこなくて。その通話以来、その一言がずっと頭にこびりついて、それがぐるぐるとして離れなくて。

 その日、借りてきた本は一ページも読み進められなかった。

 

 

 ◇

 

 

 ちりりん

 

 放課後、丸一日ぶりに店のドアを押し開ける。朔希は昨日と同じ番台に座り、文庫本を読んでいた。

 

「あら、あいちゃんいらっしゃい。今日は――壊したわけじゃなさそうね」

「そう毎日毎日壊しませんよぅ……」

「いやごめん。分かってるわよ。なんだかしょんぼりしてたからもしかして――って」

「ちがいます。お代と、あとお母さんがこれ持ってってって。近所だからって」

 

 拗ねているような口調になったからか、朔希はころころと笑ってから指の腹で目じりの涙を拭う。本当に気にしなくてもいいのに……と箱を受け取った朔希は、名案を思いついた、とばかりに人差し指を立てて、あいの前にしゃがみこんで視線を合わせた。

 

「――せっかく来てくれたんだし、お茶でも飲んでいく?」

「いいの?」

「うん。お客さんが来るまでは自由時間みたいなものだし。話し相手が欲しいなぁ、なんて……」

「じゃあ、お願いしてもいいですか?」

「ん。じゃあ作業机の前に座ってて」

 

 これ、作業机、っていうんだぁ。とあいの小さなつぶやきを背中に聞きながら、朔希は番台の奥にある給湯室に向かう――フリをして、そこからあいの様子を覗き込んだ。

 朔希があいを呼び止めたのは話し相手が欲しかったから、というのももちろんあったのだけれど。入店したときのあいの表情に気になるところを見つけて、観察したいと思うところも同じくしてあった。

 給湯室の中で紅茶の準備をしつつ、扉の影からあいの様子を眺める。かばんの中から見慣れた本を取り出して、読み始めるのかと思いきや、本の表紙を食い入るように見つめたまま動かなくなる。唇を噛んで、眉の間には皺が寄っていて、朔希には、あいがこれから本を楽しむというようには見えなかった。

 自分の本がつまらなかった? との思考が頭をよぎったけれど、そうだったなら本を早々に付き返してくるはず。だとすれば、今机に座っている少女が苦しんでいるのは、本自体というよりも、本から思い起こされた何かではないか、と。

 暖めたカップに紅茶を注ぎ、お茶菓子が乗った皿をまとめてお盆に載せて、店へと戻る。

 声をかけずとも、紅茶の香りが漂ってくるのが分かったのか、鼻をひくつかせた後に上げた顔は、先ほど見せたものではなく少女特有の明るいものだった。

 

「鼻がすぅっとする感じの匂いがする」

「ミント系のものだからね、落ち着くでしょ」

「ですねぇー…」

 

 あいは借りていた本を大事そうに膝の上において、出された紅茶に口をつける。飲んだ後に息を付いて、目を細めた後。ふと一瞬だけ、またあいの表情にかすかに影が落ちた。

 お茶菓子のクッキーを食べるように勧めても、その瞬間はおいしそうに頬をほころばせるし、本についての話をしても、まだ途中までだけどという前置きの元、面白かった、想像力が止まらなかった、などと興奮気味に話す。

 けれどその端々に、何か別の色が見えたように、朔希には思えた。

 

「ね、あいちゃん」

 

 名前を呼んで、こちらを向かせて。一呼吸を置いて。

 

「もしかして――何かあった? たとえば、本のこととか。――作ってるもののこと、とか」

「――――」

 

 あいの、せわしなく動いていた手の動きが止まった。少しの静寂の後、外でトラックが通り過ぎる音が店内に響いて、あいは苦いものを食べたような顔をしてから、ゆるゆると顔を上げる。

 

「……サキさん」

「ん」

「……昨日といい、今日といい、なんで分かっちゃうのかなぁ」

 

 あいは大きくため息をついて、両手を上げる。昨日の万歳とは違う、降参のポーズろ。

 ――分かりやすいもの、とは朔希は言えなかった。もちろん、それも答えのひとつだったけれど、それよりも的確で、伝わりやすいほうの言葉を選んだ。

 

「……ふふっ、あいちゃんの年頃はね、色々あるものだから」

「いろいろ」

「うん、色々。それと、文字を書く人ってね、感覚的な人が多いから。――――私みたいに」

 

 私みたいに、を聞いて、初めてあいの表情が和らいだように見えた。私も一緒、と伝えることで、自分だけの問題ではないと思ったのだろう、あいはぽつりぽつりと今日のことを話し始めた。

 

 本を読むことは好きだということ。

 話を想像して書いちゃうのも同じくらい好きだということ。

 あいには子どものころから一緒の知り合いがいること。

 その子の名前は可奈ちゃんということ。

 作品の見せ合いっこをしていること。

 昨日帰ってからその子から連絡があったこと。

 最近の作品が自分らしくないと言われたことがもやもやとしていること。

 そもそも自分らしい作品ってなんなの? 

 って考えてたら手が進まないし本も読めないしもやもやもやもや。

 

「可奈ちゃんは、何が言いたいのか分からないの。自分としてはいい出来してるって思うのにさー。そうやって足を引っ張ろうとしてさー?」

 

 ふん、と荒く鼻息ついて、ずず、と紅茶を飲む。皿の上に乗ったクッキーを口の中に放り込んで、数回咀嚼したあとにまた話し出す。口の中にものが入っていても、その言葉は止まらない。

 

「◇×○は面白かったし衝撃を受けたわよ。あんな書き方があるんだーって。そんなゲームの世界のお話書きたいなーって。でも丸パクリってはいけないのは分かってるから自分なりに頭の中で想像して創造してのにさー?」

 

 もうひとつ放り込む。左手はぐーの形のまま、机の上に乗っていた。

 

「自分らしくない? じゃあどんなのがわたしらしいってのよ! むしろ教えて欲しいの。でも可奈ちゃんは教えてくれないからもやもやしてるの」

「なら言ってみればいいじゃない」

「言うまでもないわよ。私が何も言わなくてもああ言うんなら、言ったところで変わらないわよ!」

 

 皿に手が小さな手が向かう。その手は何もつかめずに空を切った。

 

「可奈ちゃんはいっつもいっつもそう! 言うことは言って、でも解決したことはひとっつもないの!」

 

 ばし、と机が音を立てた。一回では腹の虫が収まらないのだろう、二回、三回と乾いた音が鳴る。怒ってるんだから! と行動で起こっている様子を表しているあいに、朔希はその様子を静かに見守るだけ。

 数回その音が続いて、話すことが無くなったのか、怒りのボルテージが少し収まってきたところで、朔希が口を開く。

 

「ね、あいちゃん」

「なに」

 

 朔希は肘を突いて、ほほを膨らませているあいに向かって、少し困ったように微笑んだ。

 

「ちょっと、外の天気見にいこっか」

 

 そう言って朔希は立ち上がると、まっすぐに歩いてドアの外へ。鈴の音が止んで、店の中にひとりきりになったのに気づいたあいも慌ててドアを引いた。

 朔希は入り口の隣の柱に背を預けて、視線を上に向けていた。あいもそれをまねて上を見る。憎たらしいほどに青々とした空が、どこまでも広がっていた。

 外が大雨強風で雷でも鳴っていようもんなら、私の気持ちをあらわしてるんだろうなぁ――とあいは思うけれど、空はあいをあざ笑うみたいにどこまでも青空だった。

 

「空、青空ね」

「嫌んなるくらいはね」

「じゃあ、これを掛けてみよっか」

 

 朔希が取り出したのは、眼鏡の形はしているけれどレンズが深い緑色の、眼鏡のようで眼鏡じゃない、限りなく眼鏡に近い何か。遠くを見るためというよりも、芸能人が空港で付けているようなもの。

 

「……サン、グラス? 何で?」

「そ」

 

 朔希は一つ目の質問には答えたけれど、二つ目の質問には答えない。差し出されたものをまじまじと見つめていると、「掛けて」と言わんばかりにずい、とそれをあいの方へ近づけてきた。

 

「度数はあいちゃんに合わせてるから、見え方はそんなに変わらないはずよ」

「んー……」

 

 自分の眼鏡をケースにしまって、差し出されたものを手に取る。

 訳は分からないけれど、あんなことを言った後だから何か理由があるのだろう、とは思いながらも、あいは半信半疑と言った様子でサングラスを耳にかけた。

 

「……うわ」

 

 瞬間、あいの口からうめき声が漏れた。

 ――なにこれ。掛けた瞬間から周りが薄暗くなって、空もなんだか気持ち悪い色に変化して、白かった地面は苔のような色に、目の前の人物は写真のフィルムをそのまま見たときのように緑色の肌になって――あいは一気に変わった視界に、なんだかくらくらとするのを覚えた。

 

「ね、あいちゃん」

 

 そんなことを知ってか知らずか、朔希は外へ出るときと同じくらいの口調で、話しかける。その視線はあい本人ではなく空を向いていて、手を目の上にかざしていた。

 

「空、何色に見えるかしら?」

「深い緑……いや、灰色、みたいに見える」

「そう、ね。空は澄み切っていて、蒼々としてる。けれど、あなたには蒼じゃなくて灰色に見えてるのよね」

「当然でしょ? これ掛けてるんだもん」

 

 朔希さんは今更ながら何を言うんだろう。サングラスをつけていれば見えてるものは変わる、同然のことじゃない。あいは内心でだけ反論をしつつ、ずれないようにフレームを抑えながら、口を尖らせる。

 

「そうよね。当然よね」

 

 そう、当然。あいの言葉に、朔希は同じ言葉を返す。

 空から、あいへ。

 視線を移した朔希は、眩しいものを見るように目を細めて、ひとつ、息を付いて、言葉を紡いだ。

 

「――――あなたが感じていることって、そういうことだと思うの」

 

 

 

「――――」

 

 目をしばたたかせる。

 朔希から言われていることの意味が分からなかった。

 サングラスが、何だって? さっきは知り合いとのことを話ししていたはずで――。

 何度も瞬きをしているのを見てか、朔希はもうひとつくすりと笑って、声を遠くへ投げかける。

 

「さっき、空を見てどう思った?」

「――えっと、暗くて、汚くて、狭い?」

「じゃあ、それを取ってもう一度空を見てみよう?」

 

 朔希はそう言って、あいに掛けていたサングラスを取り外す。

 

「わっ……まぶ、しぃ……」

「最初はまぶしいけど、時期に慣れるわよ」

「うぅ~……」

 

 やっと光に目が慣れてくる。車に乗って、トンネルの中から外に出たときのような感覚を覚えて――ゆっくりと目を開く。さっきよりも鮮明な映像があいの目に映った。

 

「そのまま、上を見てごらん?」

「上?」

 

 朔希が指を刺す方向を見る。青々とした、雲がひとつもない空があった、緑色じゃない、灰色でもない、ただただ蒼い空があった。見比べてみてはっきりと分かる。空はこんなにも青くて深くて広くて、そして――綺麗だってこと。

 

「空ってね、青い時はこんなにも青くて、広いの。その時によって、いろんな表情を見せるの。時には曇り空だったり、雨降りだったりもする。でも、さっきあいちゃんが見た空って何色だったかしら?」

「…………灰色」

「もしサングラスを付けたままだったら、青空も、曇り空も、雨降りの空も、全部同じ色に見えちゃうの。でもそれはもったいないわ。だって、空ってこんなに青いんだもの。いろんな色を見せるんだもの。広いんだもの。それを感じないのは、もったいないわ」

「え、と……つまり?」

 

 分かるようで分からないような。でもどこかすとんと落ちてきたような、不思議な感覚があいの胸の中にあって。けれどそれを口にすることが出来なくて、ただ次の言葉を促す聞き方しかできない。

 

「心にね、サングラスをかけている状態――って言えばいいのかな。『色眼鏡』って言葉、知ってる?」

「意味、くらいは」

「ん。心にも《目》みたいなものがあってね、その《目》で物事を感じとるの。綺麗とか、美しい、とか。そういった感覚ね。それをね、知らず知らずのうちに、その目が曇っちゃうことがあるの。さっきのサングラスをかけたときみたいに、自分で視界が狭まったり、色が見えなくなっちゃう」

 

 何かが胸にちくりと刺さるような感覚を覚えた。けれど、目を逸らしちゃいけない、と何かがそう胸に告げていた。

 

「想像する力って、やろうとすればどこまでもどこまでも広がっていくの。それこそ空みたいなものだから、自分で『どこまで見る』って制限をかけなきゃ、どこまでも広がっていくわ」

「今は、私がこれをかけている状態――ってこと、なんですね」

 

 あいは朔希の手元にあるサングラスを見ながら、眩しいものを見るように目を細める。

 

「自分がこうだって思いこむのは大事。でもね、それだけに縛られちゃいけないと思うの。それこそ、気がついたらサングラスをかけてることになるかも。――私も、だけどね」

「朔希さんなら。……朔希さんならそういうとき、どうしますか?」

「私なら……気分で眼鏡を変えてみるわ。そうするとね、視界が変わったように見えるの。違った目で世界を見ている気になって、そうしたらまっさらな状態で頭が働くようになるの。……まぁこれは私の家が眼鏡屋さんだからってのもあるかもだけど。だからあいちゃんはそれこそ――お友達が言うことを参考にしてみる、ってのはいいかもね。別の目で見る、って感覚、私は大事だって思うわ」

 

 ――他人の意見を聞き入れるって、なかなか出来ないけどね。朔希はそう言って、頬をかいて、歯を見せて笑った。

 

 

 その話を聞いていたとき、聞き終わったとき、自分は、どんな表情を浮かべていただろう。あいは思う。

 鏡を見たわけじゃないし、聞いたわけではないけれど――きっと、すっきりとした顔をしていたんだろう、と。根拠のない確信が、その胸にあった。

 

 

 胸に手を当ててみる。少しだけ早くなった鼓動を確かに感じて。

 気が付けば。この店のドアを開けた時に抱いていたもやもやは、いつの間にかどこかへ消え去っていた。

 

 

 ◇

 

 

 ――ねー、サキさん。聞きたかったことがあるんだけど。

 

 ――年齢とスリーサイズ以外なら。

 

 ――それは興味ないからいいわ。

 

 ――あら残念。

 

 ――表に張ってある張り紙って、あれ何? 『あなたの価値観直します』ーっての。

 

 ――ああ、あれね、私の先代の先代が張ったものらしいの。だからね、飾ってる言葉の意味は、実はよく分からないの。

 

 ――サキさんが張ったものかと思った。さっきのアドバイスとか、さ。そうなのかなぁって。

 

 ――残念ながら違うのよね。――ただ、ね。ここで眼鏡を変えた人がお店から出るとき、すっきりとした顔をして出ていってくれたらいいなぁって――私はそう思ってるわ。

 

 

 

 

 

 エピローグ

 

 

 ちりりん

 

 ドアベルの音と共に、店の扉が勢いよく開かれる。

 

「サキさーん、こんにちはー!」

「あら、今日はどこを壊したの?」

「壊してないです。いや、修理も何もないんだけどね?」

 

 あいは手を後ろで組んで、はにかむような笑みを浮かべる。

 

「サキさんのところに来たくなって」

「あらあら、じゃあお茶でも入れましょうか」

「わぁい!」

 

 

「この本、ありがとうございました」

「あらお粗末様でした」

「で、ね……その。…………これ」

 

 かばんから取り出したのは、紙束。

 

「あら」

「あの、もう一度まっさらになって書いて、みたから。えっと」

「読ませてもらっても?」

「――っ! もちろん!」

 

 

 

 今日も町の眼鏡屋さんは本と書く人と一緒に営業中。

 

 

 

 ちりりん

 

 ドアベルが鳴る。

 

「「はぁい!」」

 

 二つの声が重なって、店の中に響いた。

 



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古本のいたずら

これは、本を中心としたなんでもない日常の中に込められた、ほんの小さなひとつのいたずら。

三度のご飯より本が好きな眼鏡屋の店主と、本を読むことが好きでたまらない少女のお話。『こちら、つごもり眼鏡店』の番外短編。


「…………しんじらんない…………」

 カウンターの近く、『お得意様専用席』――と言う名の読書用椅子――に座って文庫本にかじりついていた少女は、絞り出すように一言発したあと、両手で顔を覆った。

 いつもなら、本を読み終えたあとは幸せそうな顔をして紅茶をすするか、目をきらきらと輝かせて次の巻にすぐ手を伸ばすか、読後でテンションが上がったまま朔希(さき)に話しかけてくるか、のどれかの反応を示していたけれど、今日の彼女は違った。

 半月ほど前からこの店に本を読むために通い始めた少女、あいは両肘を机に付けて、顔全体を手で覆ったまま、ぴくりとも動かなくなった。

 一分が経った。動かない。

 二分が経った。動かない。

「…………ね、あいちゃん」

 流石に心配になった朔希は、あいの肩をぽんと叩く。じろりと朔希を見るあいの目は、怒っているようでもあり困惑しているようにも見えた。

「その本、なにかあったの?」

 あいの肘近くに置かれている本。大事そうに紙のブックカバーが付けられていて、タイトルは見えない。ある程度の厚さはあり、読み応えはありそうなものだった。

「…………ほんと、しんじらんない……」

 先ほどよりも強調された言葉が、あいの口から漏れる。朔希はそのまま言葉が続くかと思い口を挟まずにいたが、言葉はそこで止まって、店の中はまた静かになる。表情は手で隠されて見えず、かといって言葉で聞こうにも言葉は続かない。さてどうしたものかしら、と思いながらも、朔希は手元の作業を再開させた。目は手元へ集中させ、けれど耳だけはちゃんとあいの方にそばだてながら

 それからしばらくして、はぁ、と大きく息をつく音が部屋に響く。朔希が再びあいの方を向いたときには、その両手は顎の下にあった。ふてくされたような顔をして、目の前に置かれている文庫本を怪訝な目で見つめている。

「朔希さん、この本なんだけど」

「『信じられない』本?」

「……その本、4ページ目開いてみて」

 片方の手は顎の下に置いたまま、顔は正面を向いたまま文庫本を持った手だけを突き出す。空いた方の頬が膨らんでいて、朔希はくすりと息を吐いてからページをめくった。描かれているのは登場人物たちだろうか、カラーの口絵が目に入ってくる。次のページ、タイトル。その次のページは、目次。そして次のページ。冒頭には『登場人物』と書かれていた。

「……あら」

 登場人物のうちのひとり――先の方に書かれているからおそらく主要人物だろう――の名前に赤い蛍光ペンが引かれていて、その下には――――

「本に落書きするとか、本当信じられない。しかもよりにもよって冒頭からネタバレとか……本当、タチが悪いわ…………」

 朔希がその部分を見つけたのを分かっているようなタイミングで、あいの方からふてくされた声が聞こえる。

 その蛍光ペンが引かれた人物紹介の下には、鉛筆で大きく『死ぬ』と書かれていた。

「あらら、これは、また……」

「私だってねぇ、新品で買いたいわよ。でもお小遣いが足りないからしょうがなく中古で買ってるけど。結局お気に入りは新品で買い直すこともあるからなんとも言えないけどね。でもね、でもよ?」

 気がつけばあいの手は顔にはなく、拳の形で机の上にあった。

「古書店でまとめ買いセールやってるようなところで買った私も私よ? でも、流石に本に落書き、しかもネタバレを含むものがあるとか思わないでしょうよぉ!」

 はぁぁぁ、と大きく息を吐いて、がっくりとうなだれる。息を整えているのか深く呼吸を繰り返して、「しかも。」とあいは低い声を発した。

「話はそこで終わらなかったの」

「……と、言うと?」

 呪詛のような諦めのような、様々な感情がこもった声。朔希はどんな言葉が飛んでくるのかと身構えて――

「さっきその本を読み終えたんだけどね。……………………その人、死ななかった」

「…………」

 ――言葉を返すことができなかった。

「この本、宇宙戦記ものだから、まぁ人はよく死んじゃうわけなんだけど。なら知っちゃったら知っちゃったでどこでどう最期を迎えるかってのを楽しみに読むしかないじゃない。なのに!」

 ばん、と机が音を立てる。

「なのに! なのになのに! ネタバレらしき落書きをしておきながらっ! その巻の最後までその人はのうのうと生き延びるって、一体どういう了見なのよぉ! もぉーっ!」

 息を荒くして言い切った後、また「しんじらんない……」と呟いてあいは机に突っ伏す。

 額を机に擦りつけ手のひらで机に何度も叩く様子は、怒っているというよりも、むしろ。

「――そのいたずらをした主の思惑通りになっちゃった、ってわけ、ね」

 あいは頭の動きを止めて、「ん」と机から声が漏れる。そしてまたごろごろと机の上で頭が揺れる。

 ――引っかかっちゃった自分が悔しいって思ってるのかしらね。

 目の前でいじけている少女がほほえましくて可愛らしくて。吹き出してはいけないと思っているとなおさらおかしくてたまらなくて。朔希の口から吹き出すような声が漏れる。

 少しの間を置いて、机から犬のようなうなり声が響いてくる。

「……ふふっ」

「うぅ……笑った」

「ごめんなさいね、あいちゃんの反応がかわいくて」

「…………うぅ~」

 今度こそこらえきれずに笑うと、あいの方からまたうなり声が聞こえてくる。

 ――あいはこうなるとなかなか機嫌が直らない、とここ最近で朔希は学んでいる。

 こうなったら最終手段、とカウンターの下から取り出したインスタントの粉をカップに入れる。あいの鼻先近くでお湯を注ぐと、ふんわりと甘い匂いが店の中に広がっていった。

 お湯を入れ終わるかどうかのうちに、あいは顔を上げて鼻をひくつかせる。とどめとばかりに、そのカップの中に白くて丸い物を投入。それは薄茶色の液体の上に浮かんだと思うと、やがてじんわりと溶けていく。

 目の前で作られたココアのマシュマロ乗せに、あいの目はきらきらと輝き始めた。先ほどのふてくされた顔はどこへやら、幸せそうな顔をして両手で持ったカップに口を付け始めた。

 

 

 

「ところであいちゃん」

「んー」

 ココアをおかわりして三杯目にさしかかったあいは、機嫌を取り戻したのか今は顎を両手を乗せて、にこにこと朔希の作業を見守っている。

 朔希の問いかけから返事まで多少の間があり、その声も幾分間延びしている。ココアの力は想像以上のようだった。

「その本、何巻まで読んだの?」

「ん、この本? まだ二巻よ」

「ふぅん、なるほど」

「――あ、何か知ってる顔だ」

 目ざとく朔希の反応を感じ取ったあいは、目を細めて朔希をじぃ、と見つめてニヤリと笑う。

「私は何も言わないわよ。その後の話ははあいちゃんが自分の目で見てちょうだい」

「意味深だー」

「さて、どうでしょう?」

 あいちゃんが読んだ時点の人物紹介なら、誰に線が引かれていようとも大体は――。なんて無粋なことは言わないし言えないわね。朔希は心の中でだけあいに語りかける。

 

 元の持ち主は、本が嫌いだったのだろうか。と朔希は考える。

 これは想像でしかないけれど――本を手放した人のちょっとしたいたずら心ではないか、と思う。

読んだ人はこの本の結末まで、もしかしたらこの人物が次の巻であっさりと死ぬところまでも知っているのだと思う。だからあえてこの人に線を引いて、意味深な言葉を書き込んだのだと。初めて読んだ人が『騙された!』と頭を抱える様子を思い描いていたのかもしれない。

 朔希個人としては本は綺麗に読みたいと思っているから、この行動は賞賛されるものでもないけれど。このように『仕込み』をすることは楽しみ方のひとつではないかと思う。この店の本は全部綺麗だし、決して自分からすることはないだろうけれど。

 

 ――それと。

 今日のあいの様子を見ていた朔希の頭の中に、いつからか別の考えが浮かんでいた。

 

 あいちゃんにトリック性のある本を読ませたら、どんな反応をするだろう?

 悔しがるだろうか、笑うだろうか、それともだまされたと怒るだろうか。きっと、面白い反応をしてくれるに違いない、と朔希は確信めいたものを感じていた。

 

 本を読んだ後の反応は人によって違う。だからこそ、読む本によってころころと表情が変わって、本当に本を楽しんでいるあいが読んだなら――――

 

 幸せそうな表情でカップを傾けるあいを見ながら、朔希はカウンターから立ち上がり、店の中へ。

 眼鏡を置く台の下から一冊の文庫本を取り出して、あいの目の前にそれを置いた。

 

「ねぇ、あいちゃん。あなたに読んでみてほしい本があるのだけれど――」




10月01日で「眼鏡の日」とのことで、眼鏡屋のふたりの短編。

なお、作者の実体験済みです。やられた作品は銀○伝。まさか本当にあるとは思いませんでしたよね……。

個人的に、本は綺麗に読みたい人でありますので、書き込みなどはほとんどしないです。(付箋は貼りますが)
なので、そうでない場合を好意的に考えてみました。

古本で買う場合はちゃんと中身を確認することが大事ですね。うんうん。


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風邪とゲームとサブクエスト

「こちら、つごもり眼鏡店」の短編。
風邪を引いたあいと、あいの親友、ゲーム好きな茉莉(まつり)の日常話。


作者も咳風邪を引いてはや四日。よくはなりつつありますが完治にはほど遠い模様。
皆様も風邪にはご注意ください。


「げっほげほごほごほっ、っ、かっ、ごほごほっ!」

 6回。本日新記録。

「っはぁー…………だるぅ」

 咳の風邪と診断されて、お医者さんに薬を貰って飲んだはいいものの、三時を過ぎてもまったくよくなる気配は見せない。というよりも、むしろ悪化している節すらもある。

「ん……熱は、……分かんないか」

 手の甲でおでこを触ってみるけれど、手そのものが熱くなっていておでこが熱いのか手があるいのか分からない。体が熱くて、布団から出ている顔だけがひんやりと気持ちいいのからすると、きっとそれなりに有るんだろうなぁと思う。

 咳は止まらないし、鼻水はずっと出続けているからティッシュが手放せない。頭の働きはちゃんとしている、と思う。食欲は……お昼に桃の缶詰とプリンを食べたくらい。

 学校が休みとならばさっさとパソコンの前に座って一太郎を立ち上げるか、布団に潜り込んでる体勢のまま絶賛積読中の本に手を伸ばすところなんだけど……。

「うぅ…………鼻噛みすぎて頭いたい……」

 文字に目を通そうとすると頭に痛みが走って、ついでに何かが喉の奥からこみ上げてきそうになる。書きたいものも書けない。読みたい本も読めない。となれば寝ているしかない。でも咳が止まらないから寝られる気がしない。八方塞がりとはこのことか、と自分を呪いたくなった。

「一体、私が何の悪行を働いたって言うのよぉ……」

 どこかで見ているであろう八百万の神さまに呟いてみる。もちろん答えなんて返ってくるわけも無く。

「………………はぁ、だるい……」

 結局、遙か遠くに見える天井をぼぉっと見ながら、眠気がやってくるのを待つしか無かった。

 

 

 

 カチッ、カチカチカチ、カカッ

「ん……ぅ……?」

 いつの間に眠っていたのか、窓の方は白く薄暗くなっていた。部屋の電気は付けたままだったから付いているままなのはいいんだけど、何やら物音が背中の方から聞こえてくる。

 何か硬い者が触れる音のような――でもキーのタイプ音とも違う音。

 熱のせいかしらと思って耳に手を当てようとしたら、急に喉が締め付けられるのと肺が急にしぼむような感覚があって――――

「ごっほごほ、げっほ、ごほっ! うー……」

 背中の辺りが突っ張る痛みと喉の奥の痛みが同時にやってきて、言葉の変わりにうめき声だけが口から漏れた。

 痛みは少しの間続いて、気がつけば背中から感じていた音は聞こえなくなっていた。やっぱり幻聴かと、そのまま眠りに入ってもいいな、と思って目を瞑ったその時。

「だいじょーぶー? ……やっぱり辛そうだねぇ」

 声が、耳に入ってきた。

 それはお母さんの言葉じゃなくて、もっと年が私に近いくらいの声。というよりも、その声は、私の――

 横向きから仰向けに。体勢を変えるだけなのにそれなりの気合いと勢いと体力が必要で、それだけで体から汗が出てくる。体の熱はまだあるようだった。

 そこから横向きにするのも同じくらい時間を使って、見えたその人は予想通り私の親友の茉莉ちゃんだった。

 しかも、その体はテレビの方を向いていて、その手には黒色のコントローラーが。

「な――――ごほっごほっ、んで――」

「お邪魔してまーす。あーそうそう、あいん家に着いたときにちょうどお母さんとすれ違いになったんだけど、『あいが好きそうなもの、何か知ってるかしら?』って言ってたから、ナタデココとプリンって答えておいたよ」

「じゃなくて、……そうじゃ、なくて!」

 声はがらがらで、ちゃんと言葉として伝わっているかも分からないけれど。

「なん、で…………あん、た、が。いるっ、の、よ?」

「んー?」

 プレステ2のコントローラーを握りながら、茉莉ちゃんは首をかしげる。「なんでそんなことを言われているのか?」と言いたげに。

「最初はね、あんたにノートのコピーとプリントを届けるだけの予定だったんだけど」

 といいながら、床に置いてあった茶色い封筒を私の目の前に持ってくる。学校の校章が大きく印刷されているもので、どこかよれよれになっていた。

「ついでに上がらせて貰って、あいの寝顔を見て、つらそうだなーって思ったらどうにもこうにも帰れなくなっちゃってね。風邪の時は寂しくなっちゃうでしょ? まして冬の時期はね。寂しくなっちゃうものだから」

「…………それ、だけ?」

「あとゲームしに来た」

「あんたの、家でも……できる、じゃない」

「まぁまぁそれは言わないお約束。ちゃんと私のメモリーカード持ってきたから、あいのセーブデータには手ぇ付けないよ」

「風邪、移っちゃうよ?」

「インフルじゃないんでしょ? じゃあ大丈夫よ。病弱っ子の風邪に私が負けるもんですか」

「びょ…………」

 その言葉には言い返す余地は無かった。いや、それでもかからないようにしなきゃって言おうと思うんだけど、茉莉ちゃんは一度言ったら曲げない子だし……。

 無言は肯定の印と取ったのか、茉莉ちゃんは「じゃ、そういうことで」と言ってテレビの前に座り直してボタンを押すと、また小気味よくコントローラーの操作音を響かせはじめた。

 やっているのは、ているずのかなり前のもの。私も同じものを茉莉ちゃんに遅れてやり始めた。プレステが4まで来ているこの時期にプレステ2のソフトなんかやってるものだから、古さは言うまでもなく。けれどあまりゲーム慣れしていない私から見たら、それでもやっぱり綺麗には思えるもので。

 茉莉ちゃんは私の隣で1P側を操作しながら「映像とか戦闘システムだけじゃなくてね、ふたつの人種が織りなすストーリーがまたいいんだよ。うんうん」とか熱っぽく語っているのを何回か聞いてわくわくするのを覚えたし「きっとあいの創作意欲ももりもり湧くやつだよ?」と太鼓判を押されれば、じゃあやってみてもいいかなって思っちゃうのは、やはり影響されやすいのかもしれないとも思う。

 画面に見えるのは、船を入手した直後あたりのイベントシーン。ちょうど私が一週間くらい前、茉莉ちゃんに手伝って貰ってこなしたところだから記憶に新しい。そしてその後に繋がるサブクエストが屈指の難易度で――――

「ちょ、っと、ちょっと。なんで、ふな、大工の人に、話かけない、のよ。サブクエ、あるんでしょ?」

「あー………………パス」

「パス?」

 数秒考えた後、茉莉ちゃんは建物の出口へと操作キャラを移動させた。さっき見たステータス画面を見る限り、私のよりも相当レベルも上がってるし装備も整ってるから行けなくはないと思うんだけど……。

「2Pプレイの方が楽だもん、後回し後回し」

「その、レベルとっ、まっちゃんの腕、ごほっ、ならよゆ、ごほごほっ」

「ああもう言わんこっちゃ無い」

 コントローラーを置いて、頭のてっぺんをがしがしとかきながら茉莉ちゃんが近づいてくる。ベッドの前に立ち膝になって、ずれた布団でも直してくれるのかなぁと思っていたら。

「ていっ」

「ったぁ!?」

 額にデコピンが飛んできた。額が一気に熱くなるのが分かる。

 マットレスに両手を乗せて――きっとこれ以上はしないのアピールのつもりだろうか――「いーい?」と顔を近づけてくる茉莉ちゃん。私はその顔に向けて咳をしないようにするのが精一杯で、何を言われるのか予想も何も付かなかった。

「いいから、あんたは、さっさと、風邪を、治しなさい、っての」

 一言ひとことを言い聞かせるように、茉莉ちゃんは言葉を句切ってはっきりと言う。

「この場所は、いつでも戻れるんだから。できるできないの問題じゃないの」

 ――じゃあここでやればいいじゃない。なんて言葉は、たとえ熱で頭がおかしくなっていたとしても、私の口からは出なかったと思う。

 それはゲーマーな友人の、遠回しな「遊びましょ」だったんだから。

「早く、治さなきゃ、だね」

「まったく、分かってるんだったらさっさと目を閉じる」

「もう寝られないよぉ」

「じゃあ寝たまま目だけテレビ向いてなさい。少なくとも、起きあがっちゃだめ」

「はぁい」

 ずれた布団を直して、布団越しに胸をぱふぱふと叩く。ふと掛け布団から感じる風が気持ちいいって思う。

「ともあれ、さっさと治しなさい。期末テストだって近いんだから」

 そう言って、くしゃくしゃと頭を撫でる茉莉ちゃんの手は温かくて。

「――――」

 これは、熱のせいじゃなくて、部屋の暖房のせいでもなくて。

 体の奥が、ほっと温かくなっていくのを感じた。



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ヤマモト・ヨーコになれなくても

「こちら、つごもり眼鏡店」の短編。

あいはちょくちょく朔希の元に遊びに行くようになりました。
あいと朔希が、ココアを飲みながら、机を挟んで本を手に感想を言い合う。そんな温かい風景っていいなって思います。


 晦朔希は、全神経を指先と目に注ぎ込んでいた。

 目の前にあるテレビ画面は紫色で染まっていた。遠くから見るとただの紫色の画面にしか見えないが、近く――テレビ画面からきっちり一メートル離れた朔希の位置――から見ると、その紫色は規則的に動いている紫色の球形をしたものの集合体であることが分かる。

 正座の姿勢を崩さない朔希の体は微動だにしない。いや、体の一箇所だけ、指先だけは小刻みに動いていた。

 カカッ、カカッ、カチッ。部屋の中にはレバーの操作音と、朔希の浅い呼吸の音だけが響く。

 紫色に染まっている画面の中を、緑色をした何かが動いている。その緑色はしばらく画面の中央部にとどまっていたものの、紫色に追いやられるように少しずつ下方へ下がっていく。画面の一番下まで下がりきったその瞬間――――

「――――あっ!」

 ひゅぅぅん、とSEが鳴ったと思うと、画面が紫色からグレーへと色が変わる。

 

 CONTINUE? 10

 →YES  NO

 

 画面に白い文字で表示された数字は、秒を追うごとに数を減らしていく。カウントが0になった瞬間、重々しい効果音と共に画面が完全に黒く染まり、画面からは軽快な音楽が流れ始めた。

「あぁ――――もう、もう少しだと思ったのに……」

 レバーから手を離し、机の上にある麦茶に口を付ける。プレイ中は気づかなかったが、頬を汗が伝っていた。思った以上に体からは水分が抜けていたようで、一口だけ飲もうと思っていたところを半分以上飲んでしまった。

 心頭滅却すれば火もまた涼し、とはよく言ったもので。朔希が集中できる瞬間――本を読むか、このようにシューティングゲームをしている間だけは、夏の最中であったとしても、その暑さを感じずにいた。

「やっぱり、難しいわね」

 正座の姿勢を崩して、床へと背中から倒れ込む。「難しいったらありゃしない」と呟いて大きく息を吐き出すその顔は、しかし満足げな笑みの形をしていた。

 

 ちりりん。

 

 ふと、扇風機の音に混じって鈴の音が部屋の入り口から聞こえてきた。

 朔希が居るのは、自身が経営している『つごもり眼鏡店』の、従業員用の休憩スペース。従業員が一人しかいないこの店では、朔希の個室と言っても差し支えはない状態だった。 

 ――おや、今日はもう開店休業かと思っていたのに。

「朔希さーん、いらっしゃいますかー? ……あれ、留守、かなぁ? でも、準備中の札は無かったし……。さきさーん?」

 それから聞こえてくるは可愛らしい声。最初の呼びかける声は張っているものだったが、次第に迷い子のような、そんな声色へと変化していく。

 この声は――。朔希は立ち上がりながらその声の主を頭に浮かべる。ふとしたきっかけで知り合い、このお店に通うようになってくれた、私の小さなともだちの姿。

 ――ともだちを待たせる訳にはいかないわね。

 朔希は従業員用のエプロンを頭から被りながら、店の中へと戻っていった。

 

 ◇◇◇

 

 胸の辺りを右手で押さえ、入り口できょろきょろと辺りを見回していた朔希のともだち――あいは、作業場兼受付の奥から人が出てきたのを見て、ほっと安堵した顔を浮かべた。

「もー、朔希さん、いないのかと思ったよ」

 拗ねているのが5割、安堵したのが5割といった声色で話すその少女は、声は作れても表情までは隠すことができない。口元は尖らせていても、その顔はニコニコとしていて、口元にはえくぼが見える。

「ごめんね、ちょっと席を外してて」

「朔希さんが出てこなかったら、勝手に椅子に座って本を拝借してたのに。ざんねん」

 それは普段やってることと変わらないのでは――と指摘しようとして喉元まで出かかった声を飲み込む。ゲームに夢中になっていたのは自分なのだし、客が来ないと思って休憩室に向かったのは自分なのだから。ここはちいさな友人の顔を立てることにする。

「待っててもらったお詫びにココア入れてあげるから。いつものところに座ってて」

「わぁい! 朔希さん大好き!」

 朔希の作業場兼受付台に慣れた足取りで向かったあいは、丸椅子に飛び乗る。鞄から慣れた手付きで文庫本を取り出すと、台の上にそれを置いた。

「ねー早くー。借りた本の感想、いつまでも言えないじゃない」

「はいはい、急ぐわね」

 あいは歓声を上げて、足をぷらぷらと動かす。

 

 眼鏡店には、いつもの光景が広がっていた。

 

 

「……あれ、朔希さん、そんな眼鏡してたっけ?」

 マシュマロが溶けたココアを手に話し込んで数十分、あいは朔希の顔に違和感を覚えた。

 普段、朔希が掛けているのはアンダーリムのレンズが小さいもので、その優しそうな瞳がはっきりと見えるものだった。

 しかし今日掛けているのは、もっと台形をしたもの。瞳の上部分がフレームと重なっていることに、今更になって気づいたのだった。

「熱心に私を見て話すものだから、もう気づいているものかと思ったけれど」

「昨日読んだ感想は今日の内に話しとかないと忘れちゃうもん。話すことに集中してたら目から入ってくるものなんて分かんないよ」

「それもそうね」

 朔希もあいの言うことには思うところがあるのか、否定はしないで小さく頷くだけ。

「あと色も付いてる。サングラスー……じゃ、ないよね」

「うん、ブルーライトカットって言ってね。目が疲れにくくなるものなの。画面を見続ける人は楽よ」

「うん、知ってる知ってる私のもそうだし……え、朔希さんが、画面、を?」

 うんうんと頷いていたかと思うと、その首の動きがぴたりと止まる。

 ぎぎぎ、と壊れたブリキ人形のようなぎこちなさで朔希の方に顔を向けるあいの表情は、驚愕に満ちていた。

「私をなんだと思ってるのかしら」

「え、本ばかり読んでて、てっきり私とおんなじ紙の本至上主義かと思ってた……」

 自分が持ってきた本を口元近くまで掲げ、朔希に見せつける。上目遣いな視線は、どこか困惑したような、そんなようにも見えた。

「違うわよ、私も本は紙派。そうじゃなきゃ店の中はこんな風にはなりません」

 ふん、と鼻息一つ。それから店の中――壁一面が本棚と化している――を見回す。あいもその視線に合わせ振り返り、ほぉ、と嘆息を打つ。

「だよね。下手したらiPadにここの本全部入っちゃうもん」

「そういうこと。ただゲームをしているだけよ。その時に掛けているだけ。あいちゃんが来たから、そのままで出てきちゃったの」

「ゲームって何々? ロープレ? ADV? アクション? それとも朔希さんだからクイズとか?」

 机に両手を付いて、あいの体勢が前のめりになる。目をきらきらさせているのを見ると、おそらくあい本人もそれなりに嗜んでいる側なのだろうと簡単に予想が付いた。――そして、あいがやっているであろうジャンルも。

「残念ながらどれも外れ。あいちゃんの年代は知ってるかな、シューティングって」

「動画でよくあるアレのこと? たまがばぁーって出てくる」

「それそれ。最近は画面が縦のものが主流なんだけど、それより前の、横に画面が進むものを知ってからなんだかハマっちゃったのよねぇ。で、今に至る」

 朔希はぽーっとした視線で、店の天井付近を見る。しばらく頬杖を付いて視線を遠くにやって、「懐かしいなぁ」とぽつりとこぼした数瞬ではっと我に帰って視線をあいに戻す。

「ね、ちょっと昔話をしていい? 私が、あいちゃんよりもちょっとだけ年が上だったころのお話し」

 普段、ここでのやりとりはあいが話し、朔希がそれに返すのが普通だった。朔希の方から話すなんて珍しい――とあいは思う。優しい笑みをして「どう?」と聞いてくる優しい声に、あいは首を縦に振るだけだった。

 ふぅ、と一つ息をついて、朔希は話し出す。

「そのゲームを知ったのも、結局は本からなのよね。『それゆけ! 宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』ってシリーズ、古本屋で一気買いして、わくわくしながら読んでたなぁ」

 その目は、あいと似て、きらきらとした少女の目をしていた。

 

 ◇◇◇

 

 そのシリーズの主人公。山本洋子は生粋のゲーマーで、特にシューティングゲームにおいては男子顔負けどころか、男子でも早々果たせないであろう記録が、作中で何度もたたき出される。その結果、横シュー、引いてはシューティングゲームというものに対して前知識を持たずとも「なんだかとてつもなくすごい人」という印象が植え付けられる。

 そしてその知識が、技量が、作中の操船技術として遺憾なく発揮されるのを目の当たりにすると、新たに知った知識が、まるで実際に体験をしたような錯覚を覚える。

 その本をきっかけにシューティングゲームというものを始めたのが朔希だった。

 家にあったゲーム機で『グラディウス』をし始め、ちょうどそれから数年後にとある個人が頒布した縦シューティングゲームが話題になったことをきっかけに、実際にゲームセンターの筐体で――コインを入れて――行うようになる。

「あの頃は、ただレバーで自機を――自分の戦闘機ね――を動かして、自分で弾を撃って、相手を倒すっていう流れだけで楽しかった。それでね、自分より遙かに大きいボスを倒した時なんか、嬉しいのと爽快感でたまらなかった」

 それは子どもがお人形を与えられて、その人形の手足を動かすだけで日が暮れるようだった――と朔希は語った。

「それが次に『いつもやられちゃう場所で、どうやったら先に進めるんだろう』って、そう思い始める。……当然、100円で長くプレイした方がお財布にも優しいし、楽しいからね。

 そして考えて考えて、仮説を立ててやってみて――それがうまくいった時は、やっぱり嬉しかった。

 そこでこう思ったの、こうやって少しずつ進めていけば、本の中で読んだような、山本洋子みたいな、そんな世界が見えるんじゃないかーって。……一つの自己投影ってものね」

 そこまで言って、朔希は恥ずかしそうに舌を出した。

「ちょっとずつ上手くなって、家でも練習したりしてね。そしてあるときにね、偶然に偶然が重なって、通しでクリアできちゃったの。最初なんて一面で終わってたのにね。我ながら奇跡が起きたなんて思ったわ」

「…………すごい」

「で、ゲームが終わったときにスコアが高いと名前を入れられるんだけどね、私のイニシャル、S・Tって名前が5番目に表示されたの。努力が報われた気がしてね、嬉しかった」

 あいに見せる笑みとは違う、自分の中から喜びが浮かんでくるような、そんな笑みを浮かべる。心の底からの笑みに、あいはふと胸が高鳴るのを感じた。

「そしたらね、私の名前が載っているランキングの一位の人の名前が、Y・Yだったの。――偶然でしかないし、その人が山本洋子な訳はないんだけどね。それでも何か縁みたいなのを感じて、それからはその人のスコアを目指して、頑張った」

 ――で、話は今に戻るだけどね。

 人差し指を立てた朔希は、歯を見せて子どものように笑う。

「結局そのゲームセンターは無くなっちゃったし、通える範囲にそのゲームが無くなっちゃったから、今は時間があるときに家で少しずつやってるってわけ」

「……朔希さん、もしかしてさっきまで――」

「そういうこと。

 私は、その本に出会って、ゲームを始めて。それから結構な年数が経ったけれど、その時にみたY・Yさんのスコアに届くこともなければ、横シューをハードモードで周回するような、ヤマモト・ヨーコにもなれてない」

 ふぅ、と息をついた朔希は、満足げな笑みを浮かべてマグカップの中のココアを啜る。

「これで私の話はおしまい」

「……あれ、ここで? そこからY・Yさんとの恋物語とかそういうのは?」

「無いわよ」

「なぁんだ。そこから心がうきうきわくわくするような、青春小説みたいなお話しになるかと思ったのに」

「期待に添えられなくて残念ね。現実は小説ほどよく出来てないのよね」

「ね。異世界にも行けないし」

「特殊能力を神様から貰えないし、ね」

 そう言って二人はくすくすと笑う。話の途中で冷えてしまったのか、冷めてしまったココアを啜って、「ところで、朔希さん」と先生に発言を求めるような仕草を見せる。

「なぁに?」

「朔希さんは、その、作中の人に憧れてゲームを始めた、んだよね?」

 何か推理をするかのように、あいは顎に指を当てて目を細めて朔希の方を見る。

 追求する、というよりも、素朴な疑問を問うような、そんな声色をしていた。

「そうねぇ、それで大体合ってる、かしら」

「いっぱいやって、頑張って、名前が載って、嬉しかった」

「うん。嬉しかった」

「そのY・Yさんと朔希さんの差って、どのくらいあるの?」

「うぅん……私が10人で束になってかかったらちょうど互角くらい、かな?」

「ひぇぇぇ、じゅうにん……」

 あいは、自分の分野に置き換えて考えてみる。小説サイトの数字で十倍という数イメージした瞬間、ずん、と頭が重くなるのを感じた。

 十倍という数字は、果てしなく高い差で、それは自分の力だけでは追いつけないほどのものではないか、と。

「もしかしたら、このままやり続けたとして、Y・Yさんの数字には生きている間に追いつけないかもね」

「……えと、朔希さんは、憧れている人を目指してる。でも、追いつけないかも、しれない。

 …………それでも、やっぱり、憧れるし、続けるの?」

 ぽつりぽつりと、たどたどしく紡ぐ言葉に、朔希は話の相手が言葉を選んでくれているというのが手に取るように分かる。きっと、自分を傷つけないようにしてくれているのだろう、と。

「あら、相手に憧れて、それを目指したいって思うのっていけないこと?」

 あいが精一杯考えた言葉に対して返ってきたのは、そんなあっけらかんとした言葉。

 ――なんで。

 なんで朔希さんは、そんなに即答できるのだろうか。

 だって、十倍だよ。十倍だなんて――同じくらい努力してそのくらいの差が付いちゃうとして、それなら、どれくらいのがんばりを自分はすればいいのだろうって逆に思ってしまうし。それくらい壁が高いのだったら、それは憧れない方が――――

 頭の中で言葉を選んでいるうちに、気がつけばあいの頭に朔希の手が乗っていた。

「憧れる相手がいて、その人みたいになりたいって気持ちを持つとね、胸の中があったかくなって、やるぞって思えるようになる気がしない?」

「……それは、分からなくもない、けど……」

「でしょう? 前向きになれる何かって大事。車が燃料が無いと走れないのと一緒でね。

 それにね――頑張ったことに意味が無いことなんて、無いと思うの。十年くらい、知らない人の背中を追いかけ続けた私が、あいちゃんに保証する」

 あいの髪の毛をくしゃくしゃとなで回して、朔希は笑う。

「あ、でも今のところシューティング力が役に立ったことはないわね……。でもいつか、役に立ったって思えるんじゃない? たぶん、きっと」

 朔希は少し屈んで、おずおずと顔を上げたあいと視線を合わせる。

 自分を映しているその目は、次第にしっかりとしたものへと変わる。

 にひっと笑いかけてやると、目の前のともだちも笑顔を見せた。




目指すものに向かって歩んだとして。
たとえ目指すものになれなかったとしても、目指した方向に歩いていたその過程には意味があるものなんじゃないかって思います。


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今日のうちの勇者サマ

あいと、その友人の茉莉の日常譚。

スキルポイントとか、レベル数とか。ロープレの概念がそのまま現代にあればなぁ、などと考えながら書いた話です。


 ぽりぽり。ぱり。ぱきっ。

 コンソメ味のポテチを箸でつまみつつ、あいと茉莉の二人は隣り合ってモニタに流れるイベントシーンを眺めていた。

 自分の秘めたる力を見いだされた凡庸だった主人公が、勇者適性の高い武器を手に取り巨大な敵を一薙ぎで討ち滅ぼす――簡潔にまとめると、そんなよくあるストーリーイベント。

「――――ロープレはいいわよね。ロープレは」

 アニメ映像のイベントシーンが終わり、画面が暗転してフィールド画面に戻ったその時だった。茉莉の隣から、そんな呟きが聞こえてきたのは。

 視線を隣に移す。クッションを抱いた親友は、目線はモニタにまっすぐに向きつつも、視線はどこか遠くを見ているようだった。

 そしてその声はまるで、可愛い服を見つけたはいいものの、手が届く値段じゃなくてそれを眺めるしかできないときのような、そんな声で――いや、こいつの場合は服じゃなくてプレミアの付いた本か、と胸の中だけで修正。

「うん?」

 親友がこんな声を出すときは、大体決まっている。目にした情報が、自分の中の何かに反応していじけているか、もしくはゲームの空想世界そのものが羨ましく思っているかのどちらかだけれど――。茉莉は続きを促して、反応を見てみることにする。

「そのこころは?」

 視線は画面に向けたまま、胸の位置まで持っていたコントローラーを床にそっと下ろして、あいはふぅ、とため息をひとつ。

「ロープレってさ、自分のレベルが数値で一目で分かるし、どのくらいでレベルアップするかも分かっちゃうじゃない? 町の周辺でエンカウントする敵を何回倒せばいいかって計算もできちゃう。…………いいなぁって」

「あー、そういうこと?」

 ――そういえば。さっき『詰まってるからちょっと気分転換』とか言ってたなぁ。

 操作していたキャラがレベルアップしたとき、小さく息を付いていたのはそういうことか、と茉莉は納得する。足踏みしているのだ、この親友は。そして目の前の主人公パーティが敵を惰性で倒していてもレベルが上がると言うことに、どこかうらやましさのようなものを持ってしまったのだろう。

 この子、定期的に抱えちゃうからなぁ、と半分の慰めと半分の同情を込めた視線を親友に向けつつ、相づちを打つ。

「それでさ? キャラごとにステータスが設定されてるし、見えるじゃない? 得意属性も苦手属性も早わかり。……いいわよねぇ」

 その声はテレビに向かっている。しかし本当に声が向いているのは――きっと自分自身なのだろうと茉莉は思う。

「しかも自分の得意な属性とか、武器の適正が分かるって本っ当素敵。そっちにスキルポイントを振っていればいいだけだもの。うまく活かせないところに振る必要も無いしさー? 得意なもの、客観的に自分で分かるって、いいよね。数値化されてたらもっといい」

 胸に抱いたクッションに顎を埋めて、もうひとつため息。――結構重傷だなぁ。

 ステータス、数値化、適正。

 それをリアルの世界にもあったなら、すごく楽だなぁとは思う。だって将来のことを考えるときだって、自分のステータスが高い所をそのまま活かせる所を選べばいいだけだし、自分の弱い所からは逃げちゃえばいいだけだから。

 ロープレをしている側からしてもそう。バランス型はバランス型で強いけど、やっぱり一点特化は強い。特化した強みを活かせる場所に投入して、そうじゃないところでは出さなきゃいい。

 ――でもそれはゲームの中であって、リアルじゃそんなことありえないんだよねぇ。

 やれやれ、うちの勇者サマはなんというか、お悩みが多き年ごろなようでありますなぁ。

 隣に悟らせないよう、心の中だけでため息をついて。そして茉莉は親友へなんて伝えようかと頭を巡らせる。

「……あんた、どらくえの一番最初のやつやったことは?」

「見たことも聞いたことも」

「じゃ、他のシリーズは?」

「……6を、少しだけ」

「そ、」

 ならいいわ、と言って、茉莉はモニタの近くにあった本棚を物色し始める。

「これ見てよ、これ」

 ぽんとあいの手の上に渡されたのは、ノート大の下敷き。そこには世界地図のようなイラストが描かれていた。

「あなたは勇者。ロトの勇者よ。そう言われてこのゲームは始まるの」

 茉莉は広げた手のひらをモニタに向けて、勅命を言い渡す王のごとく語り出した。

「『勇者よ! 魔王を倒してくるのだ!』そう言われて、あなたは町から一歩踏み出すの」

 そう言って指さしたのは、地図の中央部。砦のようなアイコンのすぐ右下の方には、別の島があり、同じように砦のアイコンがあった。そちらの方は紫色の地面に囲まれた城だったけれど。

 そして茉莉は、指を右下にそっとずらす。紫色に囲まれた城を指差して、声を低くする。

「希望に満ちあふれた勇者。しかし町を出た勇者は、その倒すべき魔王の城がそびえ立っているのを目にするの。高くて禍々しくておどろおどろしくて、見るからに旅立った直後(レベル1)の勇者じゃ、行っても即死亡ってのが一目瞭然。そんな島よ」

 ま、最初からいけるわけもないんだけどね、と笑いながら言って、そしてあいを指差す。

「目の前に、今のままでは到底、勝てない敵がいる城がある。旅立ちを志した勇者よ、これからあなたはどう動く? ――目の前の敵が強大すぎるからって、そこで冒険を終わらせる?」

 鼻の頭を指差されたあいは、ぽかんとしたまま指先を見続ける。何を言われているのか要領を掴めないと言ったような、そんな顔。

「あんたは、目の前が見えちゃって、尻込みしちゃう勇者なのかって話。

 ちょっと視点を変えれば、ちょっと歩き出せば、その目の前に乗り越えるのにちょうどいい(スライム)がいるのに、あんたは今見る必要がない相手を見て冒険は無理だと諦める?」

「そういう――」

「そういうことよ。レベルが分かって経験値を稼いでいればレベルが上がるからロープレはいい? ロープレなめんな。甘いこと言ってんじゃないわよばーか」

「ば」

 あいに言い返せたのはそれだけだった。茉莉の勢いに一瞬だけひるんでしまったのがひとつ。そして――その言葉は、違う世界の話をしているはずなのに、やけに胸を射貫かれてしまったような気がしたから。

「どんなロープレだってねぇ、最初はレベル1なの。そして最初は弱い装備で弱い敵と戦うの。それがセオリーってもんでしょ。最初からはぐれめたるなんて存在しない、最初からレベル100なんてあり得ない。勇者は、ひとつひとつ敵を倒し、ひとつひとつダンジョンを突破し、町をめぐり、イベントをこなし、仲間を増やし、そしてまた町を巡り、成長していくの。どんな勇者だって、敵を倒そうとしなければ、レベルは1のまま」

 ロープレの話をしているはずなのに、あいはやけに胸がじくじくと痛むのを感じていた。これはゲームの中の話。その、はずなのに。

「さて、ここで質問です」

 茉莉はやけに大きく、明るい声を上げて指を一本立てる。その指をあいへと向け、問いを投げかける。

「旅だって道半ばの勇者は、とある中ボスに苦戦している。たったひとりの勇者は、ここからどうやって危機を切り抜けるのがいいでしょうか? 仲間を見つける、という選択肢は有りだけど、実際に中ボスと戦うのは勇者ひとりとする」

 突然指差されたあいは目をきょろきょろさせながら、それでもなんとか答えを出そうとし。

「…………周りの敵を倒して、レベルを上げる?」

 おどおどと、茉莉が欲しかった答えを口にした。

「分かってるじゃない。なんでしないのよ」

「?」

 自分で導き出したはずの答えに、あいの表情はきょとんとしたまま。

 茉莉は口元はにやけさせつつ、ため息ひとつ。髪と髪の間で広く開いた額に向けて、人差し指と親指で輪を作り、弾いた。

「ったぁっ!?」

「敵を倒して、積み上げてレベルを上げる。それだけのことじゃない。なんでしないのよ」

「いきなりなにすんの……。ゲームの、こと?」

「いいや、あんたのこと」

 これでも言って分からないようなら、もう一回かましてやる。そう胸の中で思いながら、言葉を投げかける。

 あんたがいろいろと悩んでる答えの解法を一つ教えてあげたんだけど、と。

 結局のところは、それしかないんじゃない? と。

「中ボスを前にした勇者がすべきことは何か。あんたは分かってる」

 指を立てて、そして行き先を示してやる。ちょくちょく自分で薄暗い路地に迷い込みがちな親友に。面白がって全力で走り回って、ちょくちょく息切れをする親友に。

「はぐれメタルを探すことじゃない。かといって宿屋で何もせず何泊もしていることでもない。勇者(あんた)がすべきことは、敵を倒して経験値を詰むこと。あんたのやってるゲームの経験値の積み方はあんたが一番分かってるでしょ」

 それ以上はもう言ってやんない。茉莉はゲームの中の話をする。それはあくまで茉莉がやっているゲームの中の話。

 それでは、あいがやっているゲームは? その主人公は?

「…………そう、だね。うん、そうだよね!」

 床に置いたコントローラー。スタートボタンが押されて、コマンド画面が現われる。

 [セーブしますか?]

 ▼はい  いいえ

「――ごめん、今日は帰るね!」

「あいあい」

 帰るね、の後も。

 あいあい、の後も。

 言葉にはしない。けれど二人の会話の中には、言葉が隠されている。

 ありがとう、も。

 どういたしまして、も。

 二人の中にだけ。



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あなたの言葉で聞きたくて

 午後四時を過ぎ、窓にオレンジ色の光が差し込み始める頃、つごもり眼鏡店店主である晦朔希は、座る場所を変える。

 来客応対用の正面の机ではなく、店の北西角。作業机スペースへと。

 客側からは朔希の手元が見えないようになるその机は、本業としての眼鏡の修理・加工をする場所である。と同時に、そこで読書をしていても、端から見れば作業をしているように見えるという一石二鳥の場所でもあった。

 本業は大事。しかし読書も大事。朔希は二つの机をうまく利用しつつ、本業と趣味との両立を図っていた

「……そろそろ、かなぁ」

 この時間になると、時々決まってドアベルを慣らすお客さんが増えてから、朔希はこの時間が楽しみになりつつあった。

 

 ちりりん

 

 夕陽が刺すガラス戸が押し開かれ、ドアベルが店内へと鳴り響く。

 髪を後ろで一本に結った少女が、近所の中学校の指定鞄を背負って、店の入り口に立つ。

 いつもの場所に朔希を見つけると、その口元を三日月の形に広げて。

「朔希さん、こんにちは!」

 後ろ髪を跳ねさせつつ挨拶をすると、朔希の方も柔和な笑みそのままに、優しく返す。

「はい、あいちゃんいらっしゃい。ご覧の通り、お客さんはいないから独り占めよ」

 

 

 ◇◇◇

 

 

 午後四時から五時にかけての時間は、朔希の経験上客は来ない。来るとすれば、あいが最初に来たときのように何か緊急の事があったときくらいで、社会人は五時を過ぎないとやってこない。

 つまるところ、あいが来る時間帯はちょうど暇を持て余す時間帯で、朔希にとっても話し相手ができる貴重な、そして心安らぐ時間でもあった。

 朔希はいつもの作業机に座り、あいはその向かいに座る。座る席の構図はまるで、バーテンダーとその客のよう。ただし客に出されるものはミルクココアで、持つものはシェーカーではなく文庫本なのだけれど。

「あー、朔希さんまた本仕入れたの? 早いなぁ」

「発売されてから一週間くらい経っちゃってるけどね。買った新刊の宣伝紙に掲載されてた本、気になったから買ってみたの」

 あいがこの店に通い始めて――入り浸り初めて、と表現した方がいいかもしれない――一月以上が経った。最初こそ、至る所に詰め込まれているある本たちに目を丸くしていたあいも、

今となってはどこにどんな本があるのかは、もはや勝手知ったる実家のようなものになっていた。だから、展示用机兼本棚の中身が変わっていることに気づくのも、朔希以外ではあいがいつも最初。

 主に買ったばかりの本を入れる棚の前にしゃがみ込んだあいは、ふんふんと鼻を鳴らしながら背表紙を眺め、見知ったタイトルを見つけると声を上げた。

「朔希さんの読むジャンル、ごった煮だもんね。私なんていくつかの出版社を追うのが精いっぱいで――あ、この本買ったんだ!」

 あいが目を輝かせて手に取った本は、半月前ほどに販売された文庫本。本の表紙を眺め、愛おしそうに表紙を眺めた後の、ふとその目を細める。

「この作者の本が出るってリーフレットで見たときはすごく嬉しかったし、今月のお小遣いが入ったら買いに行こうーって思ってたんだー、この本」

 本の背表紙部分を指でなぞりつつ呟いたあいの声色は、数秒前には無かった憂いの色が混じっているように朔希には感じた。

「……過去形?」

「うん。買うかは、まだ半々って感じでね。……いやー、ね。その本、どくしょメーターとか、あまぞんのレビュー見ると賛否両論真っ二つでさ。二の足を踏んじゃうっていうか、なんというか……」

 そう言って本を持ったまま小さく息を吐く。その表情には、嬉しさの中に、ほんの少しの困惑が見て取れた。

「あー、色々書かれちゃってるんだ」

「そーなの。『良かった』って声ももちろんあるんだけど、『文章が稚拙』だとか『話の割に文が幼稚』だとか、そんなレビューが結構な数あってねー」

 まだ本のリーフレットも取られていない本を両手で持って、表紙をじぃっと眺めるあいに、朔希は優しく声をかける。

「じゃあ、その本読んでみる? 私はまだ積んでる本あるし」

「いいのっ!?」

 音が聞こえそうなほどに勢いを付けて振り向いたあいが、きらきらとした目を見せる。本好きだけが見せる、本を手にしているときの嬉しそうな顔。朔希はそれが見たくて、この所本の仕入れが多い傾向にあった。

「もちろん。そうしたら、感想聞かせてね?」

「うんっ、うんっ! 分かった! 読んだら真っ先に朔希さんに伝えに来るから!」

 うずうずとして、今にも読みたくて堪らない。そんな様子を見せるあいは普段よりも機敏な動きでいつもの指定席に戻り、机の上にあったミルクココアに幸せそうに口を付ける。

「……ねー、ここで少し読んで行っていい?」

「もちろん。ゆっくりしていって」

 あいは「やた!」と嬉しそうに鳴いて、自分の鞄から漆塗りの栞を取り出して本をめくり始める。口元は嬉しそうに横に広がり、目はわくわくとした眼光をたくわえている。

 少し高めの椅子に座っているあいは、気分よさそうに話をするときは楽しげに足をぷらぷらとさせる。しかし本を読んで集中しているときは、足をまったく動かさない。

 あいはしばらく本に没頭し、外が暗くなっているのに気づくと――もちろん、朔希が声をかけるまで気づくことはなかったけれど――慌てつつも大事そうに本を鞄の中に入れる。

「続きは帰ってから、じっくり読ませていただきますのでっ!」

「はい、楽しんでね」

「はいっ!」

 普段よりも足音軽く、あいは店の呼び鈴を鳴らして店を出て行った。

 

 

 

 翌日、午後四時過ぎ。

「朔希さんこんにちはっ!」

 昨日店を出た時の勢いそのままに、あいがつごもり眼鏡店を訪れた。いつもの作業机に朔希がいるのを見つけた瞬間、軽快な足取りで仕事机の方に近づくと、開口一番。

「本、読了しました! ありがとうございました!」

 朔希に本を差し出しつつ、勢いよく頭を下げた。本の上には個包装――ちゃんとした値札が付いていて、どこかで買ってきた事が分かる――のチョコレート菓子が載っていた。

 あいが昨日帰ったのが午後五時過ぎ。家に帰ってから読むにしても、一冊を読み切るにはそれなりに時間がかかるはず。あいはそれでも翌日に読了報告をしたと言うことは――家に帰ってからもその本を読み続けたのだろうと思う。それこそ、かじりつくように。

 本が気に召さなければ、借りて一日で読み終えることは無いだろうと思うし、返す時にこんな勢いで来ないだろうと朔希は思う。――となれば、この本はきっと、あい向けだったのだろう。

「ゆっくりでいいって言ったのに」

 そう言う朔希自身も、眉の形こそハの字を描いていたものの、その声は嬉しそうな色をしていた。

 本を受け取ると、朔希が言うより早く、椅子に飛び乗ったあいの方から矢継ぎ早に感想の言葉が飛んできていた。

「予想通りに、うぅん、予想以上に、話が面白かった! 全体としてみると主人公の成長物語なんだけど、その周りの人物がね、またいい味出しててね!」

 拳を握りしめて、目をきらきらと輝かせて、頬を喜色に染めて、嬉しそうに楽しそうに、あいは語る。

「レビューで言われてるとおりに、確かに文章だけを見れば難しい言葉回しとかしてないのは確かなんだけど、この話に限ってはそれはもう野暮! この話あってのこの文章だもん。レビュー書いた人はちゃんと本の全部を見てレビュー書いたの? って感じでね? 私としてはもーーー大満足! すっごく満足! 二度読みしたいけど、まずは朔希さんに返さなきゃって思って、二度読みは私の本でやるね!」

「そ、よかった。あいちゃんが楽しんでくれたなら何よりよ」

「うんっ! とっても、とってもよかった! この本、やっぱり買います! 家にも置いておきたいもん!」

 机に乗り出して顔を近づけてくるあいに、朔希は笑みを隠しきれない。

「そこまで喜んでもらえたら、買った甲斐があるわ。――今日もいつもので?」

「飲む!」

 昨日の憂いの表情はどこへやら。唇の上にマシュマロのせココアの泡を付けながら、あいは更にあい自身のレビューを語り始める。

 文体についての説明から始まり、登場人物の台詞回しから情景描写に至るまで、熱量のこもったレビューが続く。朔希はその勢いを受け止めつつ、嬉しそうにそれを聞いていた。

「でね! 中盤の盛り上がる所で持ってきたのが、一番最初に詳しく語られなかったところでね――」

 あいが外の評価(レビュー)を見つつも、自分の判断でそれを読むことを決断し、そしてその目で見たものを語ってくれたことが、朔希には嬉しかった。

 周りの声がよく通って聞こえる昨今、現代っ子のあいが触れる情報量は、朔希が本を愛するようになった頃とは段違いなのだから。

「ってな所で、やっぱりそこはね、続刊で語られてほしいと私は思うわけで――あ、つい話しちゃっただけど、ネタバレとか、大丈夫、だった?」

「うん、そっちはいいの。むしろ嬉しくてね。レビュー見て尻込みしてたあいちゃんが、読んだ生の感想をあいちゃんの声で聞けたのが嬉しかったの」

 朔希の言葉に少しきょとんとし、それから恥ずかしそうにはにかんだあいは、ココアのカップを両手で持つ。そして嬉しそうに口を付けては満足げに吐息を付いた。

 

 

 

「それにしてもさぁ?」

 ココアを飲みきって、何度目かの幸せそうな息を吐いたあいは、心底素朴そうに一つの疑問を口にした。

「あの本、なんであんなに真っ二つになったんだろうなぁって。そんなに好き嫌い分かれるようには思えなかったんだけど……。昨日見たんだけど、やっぱり綺麗に星3つだったよ」

「うーん……そうねぇ」

 朔希は少しだけ悩んでから、自分のマグカップをあいの目の前に置く。あいと同じ、ミルクココアが入っているマグカップは、半分ほどの量が入っている。

「例えば、マグカップに入っているココア、あいちゃんなら何て答える?」

「え? ……『まだ半分残ってる』?」

「そう、あいちゃんはまだ半分もココアが飲める。――それとは別に、これを『もう半分も飲んじゃった』と言う人もいるってこと、かしら」

 空になったあい専用のマグカップにココアを入れ直しつつ、朔希は自分のカップを指差す。自分だったらどっちでとるだろう、と頭の隅で考えながら、愛する友人へと話を進める。

「同じものを見ていても、捉え方一つで真逆になっちゃうものだから。それこそ、まったく別の話をしているのかって思えちゃうくらい」

「んー、それと、本とって何か関係あるの?」

 あいは素直な疑問を浮かべながら朔希からカップを受け取り、両手で持ち挙げる。ホワイトブラウンが立てる波を見ながら、頭の中で出てこない答えに首を横に傾げた。

「実はあるのよねぇ、これが。

『固すぎて読みにくい』、『語彙力豊富なのは分かるけど作者の自己満足感がすごい』

『言葉の選び方が綺麗で詩を読んでいる感覚』、『ラノベらしくない台詞回しが心地いい』

これ、同じ本に対してのレビューなの」

「固すぎて、語彙力豊富……あぁ、なるほど。良く言うかそうでないかってだけで、言ってること、みんな一緒」

 得心を得たと何回か頷いて、ココアを啜る。

「そうなのよ。私はこの文体が好きだから後者の印象だったけど。本への感じ方って、そんなものなのよねぇって。だからね」

 朔希が言葉を一度途切れさせる。あいをまっすぐに見た後、柔らかい笑みと共に口を開いた。

「あいちゃんには、そのままでいてほしいなぁって。さっきみたいに、嬉しそうに本を語るあいちゃんが好きだから」

 両手を組んだ指に顎を乗せて、微笑んだ朔希にあいは。

「……、…………、そう、いうの…………ずるい」

 目を上に向けたり下に向けたり、まっすぐに朔希の顔を見ることができないまま。ココアが入ったカップでその視線を遮るしかできなかった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 それから数十分後。

 

「そんなかわいいあいちゃんに、つい最近私が読んだ、『私向け』だった本があるんだけど――」

「――! 読む!」

「そう言ってくれると思った。これなんだけどね?」

「この本は、すごく綺麗な言葉で描かれた友情の話。優しくて温かくて、そしてその温かさ故に涙する、そんな物語。この本の主人公は、図書館にすむ一体のドラゴンで――――」

 

 

『あなたの価値観、直します』

 そんな張り紙が貼られている、入り口のガラス扉。

 そこから見えるは、少女と店主の二人の姿。

 つごもり眼鏡店の中からは、とある日から声が絶えない。



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それを鑑るための度数は

 とある町の、とある駅前。大通りに面した小さな眼鏡屋さん。

 そこはなんの変哲もない、どこにでもあるような眼鏡屋さん。

 ただひとつ。

 『あなたの価値観、直します』

 眼鏡屋らしからぬ張り紙が入り口に貼ってあること以外は――。

 

 

   それを鑑るための度数は

 

 

 ちりりん。

 つごもり眼鏡店の来客を知らせるドアベルが鳴る音で、店主の晦朔希は顔を上げた。

 彼女は大絶賛曲がった眼鏡のフレームを矯正するための作業中で、すぐに立ち上がって接客ができる状況ではなかった。

 彼女が経営するつごもり眼鏡店は個人経営であり、バイトを雇っていないこともあり、接客から修理まで、全てを彼女一人で行っていた。

 

「いらっしゃいま……あぁ、あいちゃん、いらっしゃい。今日は眼鏡の相談? それとも別の方?」

 

 時計を見ると午後の16時30分すぎ。店の入り口に居たのは、この店の常連客となっているあいだった。――常連と言ってもいつも眼鏡を壊す常習犯ということではなく、この店にある本が目当ての時が大半なのだけれど。

 

「うぅん、今日は借りてた本を返しに来たの」

「そう、じゃあいつものところに座って待ってて、こっちはちょっと手が離せなくて」

「ん、大丈夫。朔希さんは本業の方に集中してて」

 

 接客が必要な客でないと分かった朔希は、再び手元の作業へと集中し直す。納期まではまだ時間はあったとしても、本人曰く「締め切りに追われると上手く集中できなくなる」とのことで、早めに終わらせたい性分なのだ。

 あいはあいで勝手知ったる店の中。展示用の眼鏡置きを兼ねている本棚から、一冊の本を持ち出し、朔希の作業テーブルの前に座ってその本を読み始めた。

 ――かと思うと、10分もしないうちにふぅ、と息を吐き、本をパタリと閉じてしまった。三度の飯よりもお菓子と本が好きなあいらしからぬテンションに気づいたのか、朔希は作業の手を止め、向かいのテーブルに座っている悩み多き年頃の少女に声をかける。

 

「あらそれ。ちょっと前に神田の古本市で仕入れたシリーズだったんだけど、ノットフォーユーだったかしら?」

「うぅん。そうじゃない、そうじゃない、んだけど……」

 

 ――何か訳ありなようね。

 朔希は、頬杖を付いてふぅ、と再度ため息を付く若き執筆者の聞き手に回ろうと、休憩室に向かいマグカップを二つ取り出した。

 

 

 

 あいが深い深いため息をつく理由はこうだった。

 

 最近本屋に行くたびに文芸の大賞や賞を取った作品が文庫化されている。それに応募したけれど一次選考で落ちていたもののコンテスト名を見て胸が痛くなった。

 ではその大賞を取った物とはどれだけのものかと買って読んで見たものの、面白いのは確かに面白いけど、少し前の自分と違ってなんだか本が楽しめてない気がしてどうにもこうにもストレスがたまってそれでお菓子を食べる量が増えて体重が……嗚呼……。

 

 話をまとめるとこのようなものだった。

 

「食欲の秋だもの……秋味のお菓子とか一杯出てるし……」

 

 等と言っているのは、きっと話の本筋から気を反らせたいためだろう、と朔希は感じた。

 では話の本命は、と言えば。

 

「最近、本が楽しめてない、と」

 

 朔希がマシュマロ入りココアを飲むのを促しながら言うと、あいは唇を少しだけ尖らせて、ココアに口を付けながらこくりと頷いた。

 

「なるほどねぇ……」

 

 朔希は考える。あいは趣味で小説を書いているのは知っていた。しかし賞に応募するところまで行っているとは思っていなかった。とすると、あいが感じているのは……。

 

「ねぇ、あいちゃんって、本を読む時蛍光ペンとか使ってたりする?」

「――――! そんなとんでもない! 本は大事な宝物、本を読む時は汚れ一つ付けないようにポテチも箸で食べるよ!」

「そう、私はね、実は蛍光ペンで線をたくさん引いて、たくさん書き込みをした本が何冊かあるんだ」

「え…………」

 

 朔希は、あいが引いているのを感じた。

 それもそのはず。本好きであれば本は命の次にとは言わないけれどそれに近いくらい大事なもの。それに書き込みや線を入れるなんて普通の人がすることじゃ無い、普通の感性を持つ人だったらするはすがない、と。

 

「一応弁明するけど、汚してもいい用の二冊目よ、それ。一冊目の読む本の方は大事に大事に、傷一つ付けないように読んでるわ」

「あっ……そうなんだ。よかった。こっちにある本もそんなのだったらどうしようかと思った」

 

 ほっとした様子で再びココアに口を付けるあい。それから優しくテーブルの上にマグカップを置いたあいは首を傾げる。その顔は、「でもなんでそんな話をしたのだろう」と、言わずとも顔がそう語っていた。

 

「ね、あいちゃんって普通本を読む時って眼鏡を掛けてるよね?」

「うん、眼鏡がないと、私はまっすぐにも歩けないからね」

「うん、じゃあ、この眼鏡を掛けて、さっきの本を読んでみて?」

 

 朔希はつい先ほどまで掛けていた、作業用の、ゴーグルにも似た眼鏡を手渡す。

 本を開いて、その眼鏡を掛けた瞬間――「ぅわっ」と一言あげて、目を強く閉じた。

 

「何これ、度強すぎ……。タイトル文字の『宝』しか見えなかったよ……」

 

 あいから眼鏡を受け取った朔希はにっこりとほほえんで、そしてあいに言い聞かせるように、言う。

 

「あいちゃんは今、度が強すぎる眼鏡で本を読んじゃってるんじゃないかなって」

「…………どういうこと?」

 

 あいは朔希の例えがよく分からなかったようで、思わず首を傾げる。先ほどの一連の流れに意味があったのか、と頭にハテナマークを浮かべていた。

 

「あいちゃんは、その賞を取った作品の、物語全体じゃなくて、一字一句、構成や表現、キャラクターの語尾、そういった細かい部分を見て、『どこが賞をとったものなんだろう?』って思っちゃってるんじゃないかって思うの。それこそ、さっきの眼鏡で見たようにね、大きい文字で、一文字一文字ずつ」

「…………それは……」

 

 マグカップを持つ手。あいの視線はココアの水面に向いている。

 

「同業者は、物語、じゃなくて、作品、として見ちゃう節があるから、きっとあいちゃんはその状態なんだろうなって。自分と違うところはなんだろう。優れているところはなんだろう。そういう風に見ちゃうんだろうなって」

「…………じゃあ、もう……」

 

 ――今までみたいに本を楽しめないの? あいはがばりと顔を上げて、朔希の顔を覗き込む。悲痛な顔は、きっとここのドアをくぐったときにも浮かべていたのだろうな、と朔希は想像し、黙って首を振る。

 

「いいえ。あなたが掛けてる、強すぎる度の眼鏡を取っちゃうの。そして、自分にあった眼鏡で、本全体を、物語として『楽しめば』いいのよ」

 

 ――そして、ね。朔希はあいの額をつん、とつついて。

 

「分析をするなら、徹底的にすべきよ。それこそ、本がアンダーラインで一杯になるまで、ね。本を読むなら、自分に合った眼鏡で物語を楽しむ。もしくは、度を思い切り強くして作品として機械みたいに分解してみる。二つの眼鏡を使い分けるのがいいと思うよ」

「二つの……眼鏡……」

「そ。大賞を取るような話だもん、きっとそれだけの理由があるはずだよ。そして物語として面白い、フォーユーな話ならめっけもんだし、ノットフォーユーでも分解すればあなたの身になるものがあるかもしれないよ? ただね、二つをごっちゃにするといまのあいちゃんみたいになるから、物語を楽しみたいのか、分解したいのか、自分に言い聞かせてから読むといいんじゃないかな。私はそうしてるよ?」

 

 過去に体験して、乗り越えた人生の先輩として、悩み多き後輩ににっこりと笑ってアドバイスをしてあげる。

 マグカップを持つ手はそのままに。けれどその目には、さっき見たときとは違う、輝きが見えた気がした。

 

「…………ん、私……その作品読むの怖かったけど、まずは物語として読んでみる。いろいろ考えるのはそれから、だね!」

「そ。本は楽しい。それを忘れないようにね」

「うん、朔希さんありがとう! 借りてた本置いてくね。そんで、大賞取った本、面白かったら朔希さんにも貸してあげるからー!」

「うん、まってるよー」

 

 ココアをぐいっと一気飲みして、会いは少しだけ高い椅子を降りて、店の出入り口へと掛けていく。

 ちりりん、とドアが開く音がして、「おじゃましましたー!」と元気な声と共にドアがしめられる。

 午後五時。夕焼けをすぎて夜の帳が降りてくる頃合い。

 朔希は表通りに面した窓の前を走って行く若き創作者を見て、一人、ぽつりと呟く。

 

「色々見えちゃうのも、考え物だよね」

 

 朔希は店の外の電灯のスイッチを入れて、再び作業机へと戻る。

 今日の作業は、マシュマロ入りのココアと一緒に。




創作活動をしていると、他の作品と比べちゃう事って、誰にでもあるんだと思います。
本になったり、たくさんの評価をもらったものを見て、羨ましがったり、自分の実力と比べて悔しがったりして、その作品を楽しめなくなることがあるかもしれない。
そんな時は一度立ち返って、自分が掛けている眼鏡がどっちなのかを確かめてみるといいかもしれません。
作品を作品として楽しむか。
はたまた作品の良いところを分解して自分のものにするか。
「作品鑑賞は楽しい」その原点だけは忘れないように、していきたいですね。


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