しん 恋姫†無双 く~ずの一代記 (ポケティ)
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悪しき役人を撃滅せんとす我らが張大公
八尺の大漢、六寸の幼虫


 国が倒れ、また新たな国が生ずる。異民族に天誅を下し、意気揚々と復活を果たさんとした後漢は、民の反乱により呆気なく終わりを迎える。龍の眼から眺めればその終わりは短いが、そこで生きていた人間にとっては一生をゆうに凌駕するような長さである。

 これは、その激動の時代を生きんとした一人の若者の物語である。

 

 上下厚手の、ゆったりした布で身を固めた男は、何も持っていなかった。齢は二十弱、背丈は六尺前後、虫も潰せないほどの細身であった。男がふと目を下方に転ずれば、そこには緑が広がっていた。目をうろうろと動かしても、どこの地も緑で埋め尽くされていた。

 男は久しぶりの休みを得たため、家で日頃の疲れを癒そうと床の上で横になっていた。それがいつの間にか、背で受ける感触が柔らかいものに代わり、次いで草々が眼中に飛び込んできた。

 すわ何事ぞ、と思ったが、一人大草原(おおくさばら)に放り込まれて何ができようか。周りは緑で満ちているが、裏を返せばそれは緑しかないということを意味する。近代文明の象徴たる電柱、電線が影も形もないのである。人影もない以上、どんなに狼狽えようとも、誰かが来るはずがない。自力で何とかするしか方法はあるまい。

 

 近代文明の恩恵を享受し続けていた人間が、突如それを失えば、どうなることだろう? 死神との追いかけっこが始まるに決まっている。

 それでは、何の心構えもなくこの地に放り出された、着の身着の(まま)の男はこのまま飢え死にするのだろうか。幸運なことに、そうはならなかった。一重に男が幾分か常人より冷静であったためである。何が起こったのかはわからなくとも、何をしなければならないのかはわかる。男は周辺を調査すると共に、食料と水を求めて大地に繰り出した。

 

 男は緑だけでなく、茶色も散らばっている森の中に入り込んでいった。川のせせらぎと鳥の鳴き声が木霊(こだま)する。呼吸するたびに清涼な空気が飛び込んでくる。太陽はまぶしいが、一面に広がる緑が目を癒してくれる。こんなにも自然は良いものだったか。素足のため時々痛く感じたが、血は出てこなかった。むしろ、男には石ころや木のかけら、そして土といった種々の感触が、代わる代わる足に伝わるのが楽しかった。

 

 そんな時、男は足元の石が転がったせいで体の重心を崩してしまい、木に体をぶつけてしまった。そしてすぐに顔をしかめた。果物を潰したような音が聞こえたからである。男が肩に目をやると、そこは青と緑で塗られていた。そして六寸はあるかと思われる幼虫が八の字に体を震わしていた。叩き潰され、横から汁が噴き出ているにも関わらず、原型を留め、地べたでも痙攣を続けていた。

 男は叫び声を挙げ、無我夢中で走り出した。転んでもすぐに起き上がり、顔に蜘蛛の巣がついてもその足を止めることはなかった。一刻は走っただろうか。男は疲労困憊していた。体はいつの間にか黒くなっており、所々葉で緑になっていた。男は水を求め、川に向かった。

 川に着くと、男は喉の乾きを押し殺してその様子を観察した。水は澄んでいるように見える。川には多くの動物が訪れる。そしてそれらの糞などにより寄生虫が川を流れる。もしここで腹を下しでもしたら、もう生きることは叶わないだろう。水をすくってみると、微かだが半透明の粒が舞っているように見える。光の加減や泡のせいかもしれないが、それが男が水を飲むのを躊躇させた。

 

 そんな時、川の向こうの茂みから誰かの声が聞こえてきた。男はつい叫び出そうと一歩川に足を進めたが、すぐに思いとどまった。不可解な現象がこの身に起こった以上、果たして周りにいるものは本当に安全なのだろうか。先の芋虫も、通常より遙かに大きかったような気がする。

 茂みからせわしなく音が鳴っている。それが次第に大きくなっている。男の右足は川の直中にあった。冷たい感触が足に染み入っていた。一歩たりとも動けなかった。

 果たして、茂みから出てきたのは、身をぼろ布でまとい、腰に刀剣をつけた三人の男であった。真ん中の男は八尺もある巨漢であった。黒い髭が顔を覆い、目は顔の窪みに埋没していた。

 

「何だ、てめぇは! こんなとこで何してやがる! お頭、離れてくだせぇ」

 

 お頭と呼ばれた男は、後の二人を牽制して言った。

 

「いや、待たねえかおめぇら。おい! そんな川でぼーっと突っ立てて寒かねぇか?」

 

 男は声が出なかった。何を言えばいいのかわからなかったからである。ただ腰の刀に目を転じた途端、すぐに首をニ、三回縦に振り出した。現実感はまるでないが、あれはどうみても本物だ。これが夢であれ、現実であれ、相手の機嫌を損ねるのは止めておこう。

 

「そうか、そうか。そしたら(うち)に来ねぇか? 丁度帰ったら飯でも食おうと思ってたんだ。おめぇも来ねぇか?」

 

 側にいる二人の男は互いに顔を見合すと、肩をすくめて構えを解いた。お頭と呼ばれた男は、こちらに近づいてきた。男は堪らず声を挙げた。

 

「すいません、此処はどこなんでしょうか。道に迷ってしまったみたいなのです」

 

「ここは雒陽から南に三ヶ月程行ったところだ。それより、おめえさん、名前はなんて言う? 俺は張任だ。何を隠そう、泣く子も黙る張任ってのは、俺のことだ」

 

 大男は胸を右手で大きく叩いて言った。

 男は言葉に詰まった。雒陽という言葉には覚えがあった。かつての中国王朝で都が置かれた場所である。ということはつまり、自分は途方もない程昔の世界にいることになる。北京でも、南京でも、長安でもない。雒陽。記憶が正しければ、それは漢という王朝の時代だ。

 

 張任の眼が険しくなった。名乗りをしないことで怪しまれているのかもしれない。男は咄嗟に嘘をついた。

 

「あの、えっと、信じられないかもしれませんが、名前がないんです」

 

「名前がない? その格好といい、ますます可笑しな奴だな」

 

 張任の指摘は最もであった。男は動揺は見せまいとし、言葉を続けた。

 

「実は貴族に囲われていたんです……幼少の頃から。それで呼ばれるときも、それやこれと呼ばれていたんです」

 

 最早男は自分で何を言っているのかわからなくなっていた。しかし、張任の方は顔を下に向けて考え込んでいた。

 

「貴族っちゅうのは、豪族のことかいな。それにしても名前がないのは不便なことやな。わかった、俺が何とかしよう」

 

「え、何とかって何を? え、ちょっと、あのっ」

 

 二人の男はまたもや肩を竦めてお互いを見ると、踵を返して茂みを掻き分けていった。張任はその後に続くと、男について来い、と言ったきりこちらに背中を見せたのだった。

 

 

 男が着いたのは、山奥にある集落であった。木の柵を越えれば、そこでは人々が衣服を干したり、薪を割ったりと快活に動き回っていた。張任が近づくや否や、一人の子供が、

 

「じっちゃんだ! じっちゃんが帰って来たよ!」

 

 と声を張り上げた。じっちゃんじゃねぇ、親分と呼べ、と張任は子供の頭に拳骨を食らわせた。子供は目を細めて笑っていた。その声を聞いた周りの大人たちは手を止め、こちらに近づいてきた。

 

「お帰りなさい、親分。それで今日はどうしました? こんなに早く帰ってくるなんて」

 

 張任は一人一人に声をかけながら、仕事を止めるように指示を出していた。 

 

「詳しいことは後で話すから、食事の準備をしてくれ。おい、みんな聞こえるかー! 今日はもう仕舞いだ! さっさと飯にするぞー!」

 

 それから子供たちは歓声をあげて走り回り、女たちは両手で籠を手に持ちながらすぐに大きな建物の中に入っていった。何人かの者が男の方を見たが、にこりと笑みを浮かべて去って行った。男共も方々に散っていった。

 

 張任は先導しながら、男をあばら家に連れて行った。

 

「その服は目立つから、これに着替えろ」

 

 張任は箱の中から古い衣服と布切れを取り出した。

 

「そこに茶色い水がめがある。それとここにある盥をつかって体を洗いな。黒い水がめは飲み水だから絶対に無駄にするんじゃねぇぞ」

 

 男は首を縦に振って頷いた。とにかく従った方がよいだろう。

 

「洗い終わったら、俺たちがいるところに来い。一番大きな建物だからすぐわかる。何か質問はあるか?」

 

 男はたまらず話し掛けた。

 

「えぇっと、あの、どうしてそこまで親切にしてくださるんですか? こんな怪しい身なりなのに」

 

 張任は頭を掻きながら言った。

 

「このご時世お前さんみたいな奴は珍しくねぇよ まぁ、さすがに名前もないっちゅうのは初めてやけどな」

 

 歯を見せて笑い、張任は男を残して出て行った。男は、家の中を見回した。木の板をつないだだけの簡素な壁で、すきまが顔を覗かせている。衣服が入っていた箱の他に、隅には藁が敷いてあった。土手には大きな茶色の水がめと、小さな黒い水がめがある。それ以外何もなかった。

 しかし、それでも、ここではそれが普通なのだと男は理解した。何もない男がここに(あずか)れること自体、本来ありえないことなのだ。男は服を脱ぎ捨て、水を体にかけ始めた。凍るように冷たかったが、それが逆に心地よかった。思わず鼻歌を歌いそうになったが、知らない歌を聞かれては、無用な警戒心を煽ってしまうだろう。

 男は静かに、体を手ぬぐいでこすった。手ぬぐいに色がうつり、時折ぴちゃ、ぴちゃと水が落ちる音だけが響いた。

 

 先の風景を、男は今まで見たことがなかった。まず電気が通っていない。そして服も全て手縫いなのだろう、酷くみすぼらしい。何か近代を象徴するような物など、何一つ見いだせなかった。余程の後進国、最貧国であれば、このような光景は、ひょっとしたらあるかもしれない。だが、単にその国に瞬間的に移動したようには思われなかった。もっと、より想像もつかない事がこの身に起きたのだと、男は直観した。

 

 体を清め終わると、それを見計らっていたのか一人の男が入ってきた。白い髭を三尺も蓄えていた。男は襟を正して言った。

 

「それがし、姓を丁、字を程と申すものです。昔は官職を奉じておりましたが、宦官により追い出されてしまいました。ですが、名前をつけられるものは程以外おるまいと、張大公が仰られたため、僭越ながら私が執り行いいたします。何か好きな字はありますか?」

 

 宦官というのは、確か去勢された男性で、皇帝に仕える者のことだ。

 

「いえ、特には……。でも秀とかどうでしょうか?」

 

 男は何となしに言った。

 

「秀は光武帝のいみなですから、避けたほうがよろしいでしょう。そうですね、名は伯にしましょう。字は白でどうでしょうか。非常に縁起がよい字です。姓は……」

 

 丁程は白い髯を手で触りながら言った。

 

「待ってください。姓ですが、張がいいのです」

 

「張ということは、大公の……」

 

 丁程は少し戸惑っていた。

 

「そうです。お願いできないでしょうか」

 

 男は、失礼に当たるのかもしれないが、それを承知で頼んだ。実を言えば、新しい名前など、どれでもよかった。ただ強いて言えば、親分と呼ばれた男の名がよかった。その程度の勢いであった。だから、次に丁程から、難色の意を示した言葉が飛び出てきたら、すぐに諦めるつもりでいた。

 

「いえ、わかりました」

 

 丁程は正面に相対した。その後暫し思案に耽っているように目をつむっていたが、面を上げてゆっくり男に話しかけた。

 

「これよりそちは姓は張、名は伯、字は白である。名に恥じない働きをし、徳を磨くことを怠ることなかれ」

 

「はい、わかりました。謹んでお受けします」

 

「ではこれより真名をつけましょう」

 

 男は大層驚いた。いみなはもう決めているのだから、真名はまた何か別のものなのだろうか?

 

「真名? それは何でしょうか? 名とは何が違うのですか?」

 

「む、これは……。そういえばあなたはこの地のことを殆ど知らないそうですね。よろしい、説明しましょう。名を呼ぶことができるのは目上の者だけです。それに対して真名というのは、自分が心を許した者にのみ呼んでもよいと許可を与えるものです。ですので、許されていない者が真名を呼ぶのならば、その者は切り殺されても文句は言えません」

 

 男はぎょっとした。こんな風習が、古代中国にあるとは思いもしなかった。そして、鳥肌が立った。もしこれを知らずに、どこか適当な者に話しかけたら、切り殺されていただろう。

 

「それはまた注意を要する名なのですね。今すぐ決めなければならないものなのでしょうか?」

 

 丁程はまた髯に手を当てて思案した。

 

「そうですね……。本来であれば生まれたときにつけられるのが普通です。ですが真名は親しいもの以外が使うこともありませんし、その名が書に残るわけでもありませんから、そうそう困ることはありません」

 

 であれば、真名など使わなければ良い。必要になった時、考えればよいだろう。

 

「わかりました。ではまた機会を改めてつけることにいたします」

 

「親しいものに聞かれて答えない、ということはその方との友誼(ゆうぎ)を否定するということですから、なるべく早くにつけるようにしてください。では一緒に向かいましょう」

 

 丁程と、新たに張伯と名づけられた男は集落の中を歩いていった。周りには誰もいない。いつの間にか暗くなっていた。空にはかすかに白い煙が窺えた。最初に見た時よりも家屋の様子がはっきりとわかった。どの家も張伯がいた家と遜色ない程度であった。

 

 畑が時折見えるが、どの葉も少し端が黄ばんでいた。おまけに身ぶりもかなり小さかった。薄色の畑に、黄緑がぽつん、ぽつんと鎮座していた。村落の中心には井戸もあり、立て札がかかっていた。

 

「あの立て札には何と書いてあるんでしょうか」

 

「あれには、一日に汲んでよい水は一人桶四杯までと書いてあります。飲み水でなければ、向こうの川から当番の物が運んできます」

 

 男ははっとした。昔であれば、字を読める者は一部の者に限られていたはずだ。

 

「ここでは文字が読める者は多いのですか?」

 

「いえ、私だけでしょう。あの立て札の文面を書いたのは私ですから」

 

 その答えは男をがっかりさせた。

 

「え、でもそれだと何の意味があるんですか?」

 

「例え文字が読めなくとも、こうしてあそこに置いてあると、それを破るのが悪いことだと思うのです。恐らく、これは字が持つ不思議な力のためでしょう」

 

「はぁ、そういうものなのですか」

 

 二人は皆が集まっている会堂に着いた。そこでは、いくつもの卓があり、それらの上には料理が所狭しと並んでいた。獣を丸焼きにした肉が置いてある卓もあった。

 

「おい、こっちにはやく来い!」

 

 張任が手招きをしていた。卓の上には何かの肉が積みあがっている。他の卓では木の器の上に料理が載せられていたが、張任の卓では磁器の上に置いてあった。

 

「いいだろう。こいつはついこの間役人の倉を襲って手に入れたんだ。といっても、もろいもんですぐに割れちまうんだけどな」

 

 それはお頭が乱暴に扱ってるからですよー、という野次が飛んできたが、張任はうるせぇと言って料理に箸をつけはじめた。

 

「張大公、そのようなことを新入りに言うのはあまり……」

 

「だから大公って呼ぶなと何度言わせるんだ。俺のことは親分と呼べ! こいつも元の場所に戻りたいですっていう顔なんかしてねえよ」

 

 張任は男を見て言った。男は顔をそらした。こうも真っ直ぐみられるのは、何だか照れくさい。しかし男は、自分が話すなら今しかないと思い、口を開いた。

 

「あ、あの。一ついいですか?」

 

 会が、急に静まり返った。冷や汗が額に浮かんだが、そんなものに気を配っている余裕はなかった。男はえいやと早口に言った。

 

 「私の姓は張、名を伯、字を白と言います。助けてくださってありがとうございます!」

 

「なんでぇ、もう決めたんかい。おい、程! おめぇ急かしたりしてねぇだろうな。俺が頼んでからってすぐ動きやがって……。張白と言ったな、いい名じゃねぇか。顔つきも違ってやがる。それでおめぇさん、これからどうする?」

 

 張任は身体を張伯に傾け、にやりと笑って尋ねた。

 

「あの、どうする、とは?」

 

「決まってんだろ。この後何をするんだ? 俺らを官憲に訴えるかい?」

 

「そ、そんなことは勿論いたしません! 私は、親分と同じ姓を貰いました。ここで一緒に暮らしたいです」

 

「いい返事だ。だがおめえに何ができる? そのひょろっちい体じゃぁ、何もできねぇだろう」

 

 張伯は逡巡した後、こう答えた。

 

「確かに私は力比べでは誰にも勝てないでしょう。字も読めません。しかし、私は算術と易が得意です。失礼ながら、この集落ではあまり野菜が育てられていないようです。そこで土を入れ替えることを具申します」

 

「土を替えるっちゅう馬鹿なことは滅多に言うんじゃねぇ。だが算術ができるのは本当なんだな? そしたら程を助けてやってくれ。字も学びたいんだったら程から教えてもらえばいい」

 

「張大公、そ、それは私にこの若者の世話を任せるということではないでしょうか?」

 

「だからそう言ってるんだ。ちゃんと聞いてたか? それと若者じゃねぇ、他ならぬ程がつけた立派な名前がある。なぜ名付け親のお前がそれで呼んでやらない?」

 

「(張大公と言い過ぎた仕返しでしょうか……)わかりました。張白、二人で倉の管理や計理をいたしましょう。私のことは丁郎官と呼びなさい」

 

「わかりました。今後ともよろしくお願いいたします」

 

「話が終わったてんなら、宴にするぞ。 みんな、聞いてくれ! 今日から新しい奴が入ってくる。張白っていうんだ。前まで豪族のやろうに捕まっていたせいで、なんも知らない赤子みてぇな奴だ。これから程を手伝うことになった。みんな、意地悪すんじゃねぇぞ!」

 

 張伯は辺りを見渡した。多くの人が光った目でこちらを見ている。一様にその顔は上気している。部屋には熱気がこもっていた。汗が一筋流れた。

 

「親分に助けられてここに来ました。みなさん、よろしくお願いします!」

 

 歓声がわっと挙がる。額が熱かった。次々と注がれる酒を飲み干しながら、張伯は今後のことを考えていた。いつの間にか、自分の前の名前が何だったのかは思い出せなくなっていた。それが少し気になっていたが、ここでは使うことのない名であるため、必要ないと考え直した。

 

「よぉ、張伯っ! ここはいいぞぉ。明日からよろしくな!」

 

 いろいろな者が、代わる代わる張伯に話し掛けた。張伯は、一つもまともな返事ができなかった。背中を叩かれたり、器に食べ物が盛られたり、酒瓶が増えたり、腕をつかまれたり、袖を踏まれたり……。いろいろなことが起こり、訳が分からなくなっていた。けれども笑い声だけは途切れることが無かった。

 

 張伯は、今朝この地に来る前に何をしていたのかも、もやがかかっているかのように忘れていた。酒が忘れさせているのか、それとももうとっくに思い出せなくなっていたのか。どちらなのかはわからなかった。ただ今まで身につけた知識や常識は覚えていたため、さして気にすることは無かった。

 張伯はまた一杯、今度は自分で酒を注いだ。

 

 こうして一人の若者が後漢の地に降り立った。その姓を張、名を伯という。この後彼を待ち受けているものは何か。それは天だけが知っていることであろう。

 

 

 

 




何の後ろ盾もない奴が異国の地を訪れても、アウトローが精々に決まってるんだよなぁ。

更新
 名称訂正。


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張大公の信篤き丁郎官

 張伯は自分の住処となったあばら家で、独りごちていた。

 

「今日は上手くいった。貴族の側仕えをしているなんて、口からとんでもない出任せだったが、結果的にこの国のことをよく知らない理由にはなった」

 

 張伯は天井――明かりがないので何も見えないが――をじっと見ていた。漸く自らのおかれている状況に、頭が追いついたのである。となれば、今後のことを考えるのが人の性だろう。だが残念なことに、その見通しは明るくなかった。

 

「光武帝ということは、後漢の時代だ。首都も雒陽だから、多分間違いはないだろう」

 

 張伯の推理は、所々穴があるとはいえ、結論は間違っていなかった。

 

「そうだとすれば、その内乱が起きて滅びるはず。太平天国、だったかな。いや、それは違うか」

 

 太平天国の乱は、確かもっとずっと後のことだ。それに乱が起こるといっても、そんなのはしょちゅう起こっているはずだ。張伯の中国史の知識では、これが精一杯であった。

 張伯はじれったそうに、頭を右手で抑えながら言った。

 

 「最も重要なのは、今は後漢の何時だ、ということだ。もし最初期だったら、官職にでも就ければ死ぬまで安泰ということになる。いや、でも宦官が幅を利かせているらしいから、もう終わりが近いのかもしれない」

 

 そのようなことを考えて、張伯は結局、今は後漢が崩壊しようとしている時期だろうという結論を下した。なぜならば、宴会での雑言を思い出すに、どうも余りにも長く漢が続いているようであったからである。歴史の区分上では前漢と後漢に分かれているが、当時の人はどちらも漢と呼んでいたのだろう。

 だとすれば後漢が終わり、三国志の時代が訪れ、多くの人が死ぬはずである。確か三人に一人は死んでいたはずだ。国の維持が危うくなってもおかしくはない。というよりも後漢は滅ぶのだ。

 

「おいおい、嘘だろ……」

 

 男は頭を力なく下げた。どう考えても、訪れた時期が悪い。これがどこかの時代の黄金期であれば、生きているのに事欠くことはなかっただろう。けれども今は、これまでの推理が正しければ、どう考えても衰退や滅亡という表現がぴったりと当てはまる。

 

「立ち回りが重要になる……」

 

 市井(しせい)の人間では何もできないまま殺されてしまうだろう。国が滅ぶ時に、無力な人間は傷つかずには居れない。何の力もない人間は、国の滅びと共にその身を焼くのである。

 かと言って身分の保証のない人間が、どこかの勢力に恭順できるかと言えば、そんなことは望めない。誰が好き好んで無法者を雇うだろうか? いや、待て! 無法者こそ、国の衰亡の時期に最も輝くのではないだろうか? 駄目だっ! ただの一介の犯罪者では、その内追い詰められて殺されるだろう。犯罪者であっても、影響力を持っている必要がある。ならば。

 

「とにかく名を揚げよう。でなければ轢き潰されるだけだ」

 

 だかその方法が問題だ。無法者が有名になるには、乱を起こすしかないだろう。乱を起こして洪秀全に成れれば良いが、失敗すれば斬首が待っている。そもそもこの集落では三百もいれば良いところなので、どの道乱を起こすのは無理だろう。乱を起こさなければ、単なる無法者として処刑への道が開かれる。かといって乱を起こせば、殺される……。

 

 堂々巡りの末、己が生き残れる確率は低いだろうという結論だけが残った。

 

「どうやって生き残ればいいんだ」

 

 張伯は顔を藁に埋めながら一晩中頭を悩まし続けた。

 

 

 

 翌朝、張任が張伯の家の表に顔を出した。

 

「おーい、生きてるか? 生きてるんだったら返事しろ!」

 

「死んでたらどうするんですか?」

 

「そりゃ死んでたら何もできねえだろうがよ。馬鹿なこと言ってるんじゃねぇ、辛気臭い顔しやがって。それより、今日は飯でも一緒に食わねえか?」

 

 張任はそういうと懐から藁の袋を取り出した。

 

「こん中には、粟や稗なんかが混ざってやがる。上手いぞー」

 

そう言って器を二つ取り出すと、藁の袋を開けて慎重に雑穀を器に入れた。その後、竹筒からお湯を入れた。

 

「ほら、飲むときはこれを使え」

 

そう言って匙を渡すと、張任は黙って此方を見た。張伯は多少の気恥ずかしさはあったが、匙を口に持っていった。

 味は美味しくはないが、密度が濃かった。一つ一つの粒の味がはっきり舌の上で主張しているようだった。実際お湯に浸しただけであるので、柔らかくはなかった。張伯の顔に一筋の涙が浮かんだ。宴会の時は味が感じられなかった。そもそも何を食べたのかも定かではないのだ。張伯はこのとき初めて後漢の地で食事をしたのだった。

 

「美味しくはないんですけど、涙が出てきます。何故でしょうか」

 

「そりゃ生きたいからじゃねぇのか」

 

 張任はにやりと笑うと、一気に飯を掻きこみだした。その後、水がめから水を掬い取り、口に含んで吐き出した。

 

「それじゃあ、俺はこれから見回りに行ってくるからな。朝日がもう少し高くなった頃に程の奴が来るはずだ」

 

 しっかりやれよ、と言い含めて張任は去って行った。張伯は一礼をすると、すぐに立ち上がった。迎えに来るのを待っているより、こちらから出向いた方が好印象を与えると考えたからである。

 

 

「丁郎官殿、おはようございます」

 

「おや、早いですねぇ。まだ寝ていて良いのに。それでは朝も早いので、まずは字を習いますか?」

 

 張伯の読みは正しかった。丁程は顔をほころばせながら文房四宝を用意した。すなわち、硯、墨、筆、紙の四種である。

 

「都で使われている紙は大変高価ですので、竹紙を使いましょう。破れやすいのが玉に瑕ですが、文字を書くのにもってこいです」

 

「ありがとうございます」

 

 張伯は思案していた。言葉は通じるのに、字は読めない。もちろん見たことがあるような漢字が多いのだが、当然言語は異なっている。それなのにその字を話すときは母国語になっているのである。今更だが、話し言葉が通じること自体、異様という他にない。これらは当然怪奇極まるものであるが、そんなことを気にしている暇は張伯にはなかった。丁程が叱咤したからである。

 

「筆遣いがなっていません。墨をつけすぎです。それともっと心を込めて書いてください」

 

丁程は、張伯が一つの動作をする度に五の小言を言った。これにはさすがの張伯も辟易としたが、黙して師事したのであった。それは張伯が字の読み書きができることの重要性を知っていたからである。もし字が読めぬのであれば、どの勢力も雇ってはくれないであろう。また張伯は人が鉛玉一つで簡単に死ぬことも知っていた。しかもこの()()な体では兵として生きるのは無理だと考えていた。

 しかし、字が読めれば、どこかで下級の役人か何かにはなれるかもしれない。身分が不確かでも、登用されるような状況。そんな状況はどんな時に現れるのだろうか。張伯は背筋を走る冷たいものに急かされて、腕を動かしていた。とにかく、文字が読めるのは悪いことではない。

 

「ところで張白、どうして私の家がわかったのですか」

 

「師の家でしたら、どこかに字が書かれた札か何かが張ってあると思ったからです。また、師の家は他の家よりも大きく、集落の中心の近くにあると推測しました」

 

「それは何故ですか。なぜ中心ではなくその近くにあると考えたのですか」

 

「賢者(賢なる者)は周りをよく見るため、少し離れたところに居を構えると聞いたことがあるからです。師は正しく賢なる者です」

 

 丁程は努めて平静を装っていはいたが、笑顔のほころびを隠しきれていなかった。

 

「あなたは将来偉大な師になるやもしれません。さて、まずは自分の名をきちんと書けるようになりましょう」

 

 張伯が言ったことは間違いではなかった。三つ付け足すとすれば、一つに張伯は道行く途中で人を捕まえ、程の家に来るよう言われているのだが、どこへ行けばいいのかと尋ねていた。大きい家というだけである程度絞れるのだから、目的の家はすぐに見つかった。

 二つ。札が張ってあるのは見たが、それは他のいくつかの家にも張ってあった。何かの呪いの一種であるようだった。これも丁程の、字が力を持つという信仰の賜物であろう。

 三つ。賢なる者は、という下りは全てその場で考えたことであった。張伯はばれないだろうかと、内心冷や汗を流しながら丁程の講に耳を傾けていた。

 

「筆を握るのは初めてでしょうか?」

 

「いえ、ほんの数回握ったことがあります。字も少しだけみたことがあります」

 

 嘘ではない。そして本当のことを全て話した訳でもない。

 

「それにしては学びが早いです。この分だと三ヶ月も過たぬ内に読み書きができるようになるやもしれません」

 

「お褒めの言葉、ありがとうございます。ですがこの字と筆運びを次の日にどれだけ覚えていられるでしょうか。明日には全て忘れているやも知れません」

 

「ではそうならないように、体で覚えることにいたしましょう。頭では忘れていても、筆を一度握れば見ずして論語を書き写すことができるようになります」

 

 丁程は快濶に言った。

 

「それは何というか、ええっと、その、無理ではないでしょうか?」

 

 張伯は、正真正銘の汗を頬に流した。

 

「いえ、そういう訳ではありません。現に私は数十篇は諳んじることができますし、世には一目見ただけで全て記憶できてしまう人もいるようです」

 

「それはその人が特別だからではないでしょうか……」

 

 

 

 ぐぁーん、ぐぁーんと鐘の音が鳴り響いた。

 

「これは夕餉(ゆうげ)の鐘です。昔は朝にも鐘が鳴っていたのですが、ある時酔った張大公がその音に驚き、怒って取り止めたのです。酒が抜けてないのに鐘の音が頭の中で響く程辛いことはないでしょうから」

 

丁程は笑いながら言った。

 

「さて、今日はこれで終わりにしましょう」

 

「え、もうですか。まだ何もしていませんが」

 

 張伯は、黒で汚れた紙を積み上げた以外、何もしていなかった。

 

「十分私の話し相手になったでしょう。元から今日はそのつもりでした。明日はこの近辺を散策してみましょう」

 

「それだと丁郎官のお仕事を邪魔してしまうのではないでしょうか」

 

「その日までに終わらさなければならない、という仕事はほとんどありません。焦らなくともよいのです。地道に修練を積んでいくことが後の功につながります」

 

 そう言うと丁程は足早に私宅を後にした。張伯は硯を片付けながら急いで師の後を追った。

 

 二人がたどり着いたのは、倉であった。四隅の柱で底を高くしていた。

 

「では、手伝ってください」

 

「手伝うって、何を」

 

 丁程は落ち着いて言った。

 

「これから倉の中の食料を人々に配分します。男一人につき枡三つ分です。女子供は二つ分です。いいですか、くれぐれも間違えないでください。少しでも多く配ったら、私達は一週間後には餓え死んでいるでしょう」

 

「わかりました。一粒も過不足なく配ってご覧にいれましょう」

 

 そう言うと張伯は枡に雑穀をはみ出すほど入れると、平たい木の板を取り出して枡の淵ぎりぎりに納まるように整えた。

 

「本当は顔色が悪い人には少し多くするなどした方がよいのですが……。人との交わりにより大きく左右されるものなので、いっそのこと均一に渡すのも一つの良策でしょう」

 

「良策というのは一つしかないものなのではないでしょうか」

 

「いえ、無数にあります。何を重視するか、その時の状況がどうかによっていとも簡単に取りうるべき策は変わるのです。軍師としての資質は、策を編み出すことではなく、どのように世情が変わるのかを見極めることに存すると聞きます。この場合、新しく入った張白には、ここの人々の性質を解するのは難しいですから、これでよいのです」

 

「大変勉強になります。ここの人々にはどのような性質があるのでしょうか?」

 

 丁程はにこりとして言った。

 

「それは自分で見極めることです。さあ、作業に戻りましょう」

 

 張伯はその後、師の言葉を頭の中で繰り返しながら、人々の顔を見比べた。皆薄汚れていたが、笑顔を絶やさなかった。張伯が器に配賦(はいふ)する度に気さくに話しかけてきた。中には色々と要りようだろうというので身の回りの品々を持ってくる者もあった。

 気が付くと、夜の帳が降りていた。電燈がないこの集落では、夜の訪れが早かった。丁程は張伯に言った。

 

「いつの間にか(ひつ)の中身がほとんどなくなっていますね」

 

「えっ? ええ、そうですね。また補充しないと」

 

「これはここの人々の食料の二日分に相当します。つまり明日の分はこれしかないということです」

 

「ええっ! そんな、これじゃ足りませんよ!」

 

「きちんと分量は守りましたか?」

 

 丁程はそう言って隅に置いてある平らな木の板に目を転じた。

 

「あっ、いえ、あの……」

 

 張伯は言われた分量を守っていなかった。人々と話しているうちに、知らず知らず配る量が多くなっていた。

 

「それだけではありません。後半になるにつれ、少し配る量が減っています。櫃の底に近づくにつれてつい整えんとしたがためでしょう。張白、何か言うことは?」

 

 張伯は顔を赤くして言った。

 

「弁解の仕様もございません。私は自分で言ったことも忘れ、流されるままになっておりました」

 

「その通りです。あなたは人々の温かみのある言葉に絆されて、自分で考えようともせず、為すがままになっていたのです。上に立つ者はそんなことをしてはいけません。上に立つ者の浅慮な行動で餓えるのは彼らなのです」

 

 丁程はそう言うと櫃を指差した。

 

「罰として、これを私達の二日分の食料とします。よろしいですね」

 

「そんな、なぜ師が?」

 

「(弟)子の責は師にあります。それと私の言には、意見を求められた時以外異論を挟んではなりません。いいですね」

 

「……わかりました、張郎官殿」

 

 

 こうして張伯と丁程は会堂の中で鍋をつつくこととなった。すでに人々は各々の家に帰っていた。どこからか子供の笑い声が聞こえた。丁程は匙で汁を啜ると、一息ついてしばらく目を閉じた。

 

「少し私の来歴を聞いてください」

 

 張伯は丁程の身に纏う気が変わったのに気付くや否や、すぐに背を伸ばした。

 

「私は涿(たく)県の出です。ここからは馬を乗り継いで十五日ばかりでしょうか。当時――今も貧しいですが、昔はもっと貧しかったのです。周りでは小さい子はどんどん消えていきました。人買いに売られる者もいたでしょうし、十分な食料がなく倒れた者も多くいたでことしょう」

 

 丁程の口調からは、哀しさや悔しさは読み取れなかった。最早、そんな感慨さえ通り越した境地にいるからだろう。張伯は何も口を挟めなかった。

 

「父は病で早死にし、私と母で生きていくしかありませんでした。私は農作業の傍ら勉学に努め、とうとう孝廉の資格を得ることができました。ところがその時既に母は亡くなっており、私は独りで村を去ったのです」

 

 孝廉というのは、役人になるための、地方からの推薦の一種らしい。

 

「都についてからの私は使命に燃えておりました。父や母のように苦しむ者がこれ以上出ないようにするためです。ですが世は思い通りに行かず、夢破れて私は今ここにいます」

 

 張伯は丁程を弁護した。

 

「全ては宦官のせいです。師は何一つ悪くありません」

 

「いえ、私は(まつりごと)を余にも知らなかったのです。もし故郷の村を救おうと思うのならば、どんな手を使おうとも官職に居座るべきだったのです」

 

 丁程はこぶしを握り締めて言った。

 

「都は清流派と、宦官を中心とする濁流派に分かれていました。ですが、清流だからと言って、彼らが本当に徳のある人かと言えば、それは疑わしいものでした。清流派の中には孝廉の資格を金で買った者もいるのです。私はそのどちらにも(くみ)そうとせず、それでいて多くの人を必要としていました。宦官に追い出されたのは確かですが、清流派も私のことを疎んでいたでしょう」

 

 丁程は虚空を睨みながら言葉を出していた。張伯はその気勢に押され、話に入ることができなかった。

 

「思うに、儒などというものは、この世ではすでに廃れつつあるのかもしれません。私は儒の教えを守って今まで生きてきましたが、それで何を得たというのでしょうか」

 

 丁程には明らかに諦念の臭いが漂っていた。

 

「落ち逃げ同然に都を離れ、餓え死のうとしていた時、張大公が私を助けてくださいました。(しか)してここで役に立ったことと言えば、物品の記録や配膳、計理といった、凡そ儒に似つかわしくないものばかりなのです。そもそも儒の礼というのは、叔孫通(しゅくそんとう)太常の教えなのです。一人の人の教えが正しいなどと誰が言えるのでしょうか。()してや光武帝が立て直されてから、既に二百年は過ぎ去っているのです」

 

 

 遠くで鳩の鳴き声が響きわたった。鍋を煮る火につられて、具材が音を立てていた。丁程は一しきり話し終わると、しばらく張伯が顔を器に近づけて啜っているのを眺めていた。張伯が食べ終わると、丁程は明日は倉にあるものを監査する旨を伝え、去って行った。

 張伯は今までここまで人の心情が込められた言葉を聴いたことがなかった。この地に来る前の自分の経歴はとうに思い出せなくなっていたが、それでも、言葉で心が震えた経験というのはないと断じることができた。そして張伯は考察した。

 

 丁程が、赤裸々に己が思いを張伯に語ったのには、少なくとも三つの理由がある。一つに、話せる相手が他にいなかったということ。この集落で唯一字が読め、教養がある丁程は、裏を返せば孤立しているとも言える。周囲の人々に本心を吐露できなければ、(いは)んや張大公に言うことなどできようか。

 二つに、張伯が新参者だったこと。今まで一緒に暮らしている人と、その関係を変えかねないようなことは言うことができない。しかし、新しく入った者であれば問題はない。

 三つに、張伯が(弟)子であったからである。師の言うことを聞くのが(弟)子であるから、その立場が彼に話すことを許したのであろう……それは、余りにも矛盾を孕んでいる。儒を疎んずるにも関わらず、儒の中に居る。それが丁郎官であった。

 

 何にせよ、丁程は自分のことを誰かに話したくて仕方が無かったのだろう、と張伯は当たりをつけた。人は自分のことを話さずにはいられない。それは認めて欲しいからというのもあるが、寂しさのためでもある。張伯は師の半生を思い描きながら、床についたのであった。




*郎官は今で言う省庁の課長みたいなものです。

 更新
 後漢と判断した理由。


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張任、叫びて穀物庫を襲わんとす

 次の日、張伯が丁程の元に赴くと、彼は書を(したた)めているところであった。張伯に気がつくと、手を止めて膝を正した。

 

「おはようございます、丁郎官。何を書いていらっしゃるのでしょうか?」

 

「え、えぇ、おはようございます。新しく(弟)子を取ることになったので、そのことを友人に伝えようと思っていたんです」

 

「ここから書が届くのでしょうか?」

 

 張伯は疑問に思った。郵便制度に似たものは大都市にならあるのだろうが、この辺鄙(へんぴ)な集落では望むべくもない。

 

「ここから二十里程離れた村にいる男に頼んで届けてもらいます。届くまでに少なくとも三ヶ月はかかるでしょう。さて、それでは倉に向かいましょう」

 

 丁程は文を卓の上に置いて立ち上がろうとしたが、すぐに丸めて自身の懐に入れた。

 

「まだ墨が乾いていないのではないでしょうか」

 

「いえ、これは書き直します。出来がよくなかったので。どうしても字には拘りたいのです」

 

 丁程はそう言うと膝を立てて立ち上がった。背は張伯よりもやや低く、頭には白が多く混じっていた。

 

「さて、行きましょうか」

 

 二人は集落の中を通って倉に向かった。人々は相も変わらず動き回っていた。時折ちらりとこちらを見る者もいるが、すぐに目をそらした。

 

「張白、どうしましたか?」

 

「いえ、少し考え事をしておりました。私はもう集落の一員と認められたのであろうと」

 

 ここから問答が始まる。丁程は、こういった話し方をとてもよく好んでいるようだった。

 

「なぜそう考えたのですか」

 

「一昨日も昨日も多くの人が私に話しかけてきました。それは、私がどのような性格なのか、どうやって付き合っていけばいいのか知るためでしょう。しかし今日は誰も話しかけてきません。それはつまりもう私について知る必要がなくなったからではないかと」

 

 ある程度性格がわかり、危険が無いのであれば、そして有力者のお墨付きであるのならば、わざわざ話しかける必要はない。

 

「なるほど。確かにその通りです。ここの人々は今日を生きるのに精一杯ですから、一度脅威ではないと判ずればもう話しかけることはしないでしょう」

 

「なぜここまで貧に(あえ)いでいるのでしょうか?」

 

 貧しい者に、なぜあなたは貧しいのですか、と尋ねるのは無礼だろう。聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。張伯は、大きい家を持ち、文字が読める丁程だからこそ、この問いを発することが出来た。そのことを張伯は自覚していた。

 

「今年が不作というのもありますが、元々この地は土が瘦せていて畑作に不向きなのです。ですから今までは山にある獣を狩って生活していたのですが、それももう難しいでしょう」

 

「それはなぜでしょうか?」

 

「張伯、それは己で考えることです」

 

 そう言うと丁程は道の脇にある岩に座り込んだ。張伯は師に試されていることに気付き、下を向いて長考した。不作。瘦せた土地。山。山の中腹にある森では張任らと会ったが、それは彼らが食料となるものを探していたからなのだろう。

 宴会と聞いて皆が喜ぶのは普通のことだが、あそこまで顔が上気していたのは、久々のご馳走だったからなのかもしれない。張伯が新しく来たからというのはただの口実で、人々の不満を和らげるために元から開くつもりでいたのだろう。

 

「どうですか? 考えは纏まりましたか? その様子だと余計なことを考えていますね。落ち着いて私の問いを思い出しなさい」

 

 張伯は考えを改めた。今師が問うているのは、なぜ山で獣をとるのは難しいのか、ということだ。今まで問題はなかったはずなのだ。なぜなら、それで生きてこれたのだから。であればなぜ今は難しいのだろうか? 

 張伯はその時ある考えに辿りつき、思わず手を握り締めた。顔面は白くなり、顔は固まってしまった。それでも師に(こた)へて言った。

 

「不作ということは他の村も餓えているということです。食料を求めて山に入るものが増えたため、もう獣がいなくなってしまっているのではないでしょうか」

 

 山の恵み、山菜や木の実も望むべくも無い。

 

「その通りです。ですが気が付いたのはそれだけではありませんね」

 

「はい。丁郎官は朝にこの集落から二十里離れたところに村があると仰りました。ということはその村は十里離れた山にまで出かけなければならない程餓えているということではないでしょうか」

 

「その通りです。この集落の近くには三つの村がありますが、どれも餓えて困っております。ですが本当に怖いのはこれからです。何せ冬が来るのですから」

 

「いま餓えているのにどうして冬など越すことができるのでしょうか!」

 

 張伯は驚きのあまり声を挙げた。あまり収穫が芳しくないのはわかっていたが、よもやここまで餓えに苦しんでいるとは思ってもみなかったためである。一日中何も口にしなかったことはあったが、張伯は餓えというものを知らなかった。今その怖さの淵にようやく近づいたのであった。

 

「このままでは何人もの人が死ぬでしょう。ここの人々もそれを免れることは難しいでしょう」

 

 そう言う丁程は落ち着きを払っていた。それは昨夜下々(しもじも)の人々を助けたかったと言っていた姿とは対照的であった。

 

「何か策がおありなのですね」

 

「いえ、簡単なことです」

 

 丁程は立ち上がると、張伯の目を見て言った。

 

「あるところから貰えばよろしいのです」

 

 丁程の目には皺が寄っていたが、目は丸く、力強かった。

 

 

 

 二人が倉につくと、そこでは張任が一人立ち尽くしていた。

 

「遅かったじゃねぇか」

 

「張大公、なぜこんなところにいらっしゃるのですか!」

 

「そりゃおめえ、決まってんだろ。()()()に来たんだよ。あんな重いもんひょろっちいてめぇらだけで持てるわけねぇだろうが」

 

 そう言うと張任は明かりを持ってさっさと倉の中に入っていった。丁程はその後ろを黙って進んだ。張伯は更にその後に続いた。

 

「それで、何か不足してるもんでもあるのか?」

 

「いえ、一応書類では特に問題はありません」

 

「紙なんて信用できないからこうして見回ってるんだろうが。少しは頭使え」

 

 張任は奥に進んで入った。長い木棒が多く置かれていた。どうやら武具のようだった。丁程は一通り辺りを見回った後、

 

「特に減っているものはありません」

 

と張任に報告した。張伯は長い棒を一本持ってみることにした。前方が鉄で打ち付けられ、片手ではつかめないほど太かった。

 

「おい、危ねぇんだから触んじゃねぇ! おめえみたいな奴に持てるわけないだろ!」

 

「わ、わかりました。すぐ下ろします」

 

 しかし腰をかがめたことで更に腕に負担がかかり、張伯は棒を床に打ち付けてしまった。ばだん、と音が鳴り、棒は手元から三分の二を残して折れてしまった。

 

「す、すいません。こんなに重たいと思わなくて」

 

 張伯は震えながら答えた。足に落としたら、確実に足の骨が折れていた。つまり、ここでは二度と歩くことが叶わなくなっていた。事の重大さに気付き、張伯の足は固まった。

 

「いや、怪我がなかったんならそれでいい。どの道そんなんで折れるようじゃぁ、戦いの時にも役に立たなかっただろう」

 

 張任は顔をしかめて折れた棒を手に取った。

 

「武具はどんどん使えないのが増えてやがる。あっちのやつなんか見てみろ、赤錆だらけじゃねぇか」

 

「親分、それは武器の手入れが悪いからです。きちんと刃についた汚れをふき取って、こんな湿った倉ではなく、もっと乾燥した場所に置いておけば長く持ちます」

 

 倉を支える木には皹が入り、苔と黴の臭いが漂っていた。

 

「そうかい、それじゃあこれからはお前が武器の管理をしろ。当然全部磨き上げろよ」

 

「え、いえ、それは」

 

 張伯はたじろいた。これだけの武具を点検、修理、保全するのは、並大抵の苦労では済まない。

 

「できもしねぇことを言うんじゃねぇ。全く、()()()っちゅうのは口だけの奴の集まりなのかい?」

 

「い、いえ私はー、そのー、儒家というわけでは……

 

「自分がやらないで誰かにやらせよう、なんてせこい考えじゃぁ誰も着いてかねえよ」

 

 張任は呆れたように言った。

 

「それより張大公、そろそろ動くべきかと」

 

 丁程が張任に耳打ちした。

 

「もうそんな時期か? 宴会で使いすぎたか?」

 

「このまま座して死を待つ訳には参りません。ここから三十里程離れた場所に、税を納めるための穀物庫が置いてあります。警備する者も少ないため、すぐに勝てるでしょう」

 

「それは確かかい?」

 

 張任の持つ刃に光が灯った。松明の反射で赤くなっている。

 

「すでに人を遣って偵察しております」

 

「よし、わかった。俺が皆に伝えておこう」

 

「少し待ってください」

 

「ん、なんだ張白、怖気づいたか?」

 

 張伯は親分に尋ねた。

 

「税を納めるためということは、そこは官の役人が守っているのではないでしょうか?」

 

「その通りだ。よくわかってるじゃねぇか」

 

「それはさすがに不味いでしょう! すぐに軍が送られてきますよ!」

 

 白磁を奪ったということからわかってはいたが、張任は役人を襲っていた。要するに罪人であった。

 

「じゃあ俺たちに死ねっていうのか? もうこれしか道はねぇ。それに今までも散々襲撃してきたんだ。今更一回増えたところで変わりゃしねぇよ」

 

「え、そうなのですか……。でしたら何の問題もありません。一刻も早く攻めましょう!」

 

 どうやら後漢の威光は既に地に落ちているようであった。ここは雒陽のすぐ近くにあるというのに、それさえも討伐できていのだ。張伯はほっと胸をなでおろした。

 

「てっきり天子に刃を向けるのはよくない、とでも言うかと思っていたが、なんだい、自分が襲われなければそれでいいんかい」

 

「そりゃあ、もちろん。だって、誰だって自分の命が大事でしょう?」

 

「おまえなぁ……。まあいい、別にお前は襲撃に参加しなくていいからな」

 

 張伯はぐいっと顔を寄せて言った。

 

「え、なぜですか! 丁郎官の一番弟子であり、愛弟子でもあるこの張白が、軍師としてかならずや必勝の策を講じてみせます!」

 

「その策は俺たちでも実現できるのか? まぁ、そこまで言うんだ。お前の策とやらを見せてみろ」

 

 張伯は元気よく答えた。

 

「はい、是非ともご照覧ください!」

 

「その自信の源はどこから来るのでしょうか? というか、一人しか(弟)子がいないのであれば、一番弟子になるのは必定ではないでしょうか……それに愛弟子とは……」

 

 丁程が何かぶつぶつと呟いていた。

 

「細かいことは気にするべきではありません。ちなみに親分はどのくらい強いのですか?」

 

「俺が一番得意なのは呉鉤(ごこう)だ。俺は揚州の生まれでな。初めて手に持った武器がこいつなんだ。腕を振り回して力を入れれば人の首は軽く落とせる」

 

 張任は腕を横に振りながら言った。張伯はそれに水をさした。

 

「でも武器が強いからといって、親分が強いとは限りませんよね?」

 

「そうか、そうか。張白、お前はそんな生意気な口を利ける程でかくなったんだな。じゃぁ、一遍この場で闘おうじゃねぇか」

 

 張任は腕まくりしながら言った。

 

「私には武器を持つほどの力はありません。ですが代わりに私には口があります。私はこの口で親分に天下をもたらし、末代まで親分の栄光を語り継ぐでしょう」

 

「いらねぇよそんな口。俺はここいる奴らが安心して暮らせるならそれでいいんだ。わかったな?」

 

 張任は張伯の前に来ると、その目を見て言った。張伯と丁程は息を止め、顔を見合わせた。そんな奇妙なやり取りが暫らく続いた。親分は本気なのだろう。それはわかっていた。ただ、それに何を言えばよいのかわからなかった。沈黙が、どれ程続いただろう。張任が口を開いた。

 

「さて、それじゃぁ闘おうか」

 

「えっ! その話はもう終わったではありませんか! いくら何でも勝負になりませんって!」

 

「ばっきゃろ。勝負にならなくても闘わなきゃいけねぇ時があるだろうが。早くそこにある中から一つ武器を持て」

 

 張任は呉鉤を灯りに当てながらその刃の切れ味を確かめていた。張任がそれを振り回すたびに空気の切れる音が聞こえた。張伯はその風音を聞きながら、闇の中で煌く白き刃を目で追いかけた。

 

「張大公、それはさすがにお戯れが過ぎるのではないでしょうか。張白の腕を見てください。あの腕では石ころはおろか箸さえ持つことはできないでしょう。あの脚を見てください。あれでは少し歩いただけで倒れてしまうでしょう。このような弱き者と一対一で闘うのは恥ずべきことではないでしょうか」

 

「丁郎官、さすがに私はそこまで虚弱ではありません!」

 

 丁程も、もちろん年老いた元文官であり、虚弱そのものであった。鍬さえ持てるのかどうかも怪しい。

 

「うーむ、確かに武器も持てねぇこいつじゃあ、こっちが勝った気になれねぇな。闘いはやめだな」

 

「そこは勝つ前提なのですか!」

 

「じゃぁお前さんは俺に勝てるっていうのかい?」

 

 張任は何気なく呉鉤を張伯に向けた。ひゅっという音が聞こえただけで、張伯は頭をそらした。

 

「く、口の力なら……」

 

「口の力ねぇ……。そんなものに頼るよりも鍛えたほうが何ぼかましじゃねぇかな」

 

「張大公、そのお言葉は私にも突き刺さります……」

 

 こうして一行はその場で解散となった。

 

 

 数刻後には、張伯は己の家に戻っていた。前の家のことをすっかり忘れているためか、この家が馴染みの場所となっていた。長板が立てかけてあるだけの玄関口を通ると、自然な足取りで藁の上に寝転がった。

 

 初めての戦とあって、張伯は高揚としていた。この時代最も優れた者は誰だろうか。何せ人間とは思えぬ偉業を築いた英雄達の時代である。張伯はそのいくつかを覚えていた。誰もが一番にその名を口にする曹操、何度負けてもその徳で人を惹きつけて止まない劉備、それを補佐する天才軍師孔明。同じく劉備配下の忠義の豪傑、関羽。それと対照的なのが裏切りと武勇の呂布。他に呉の地盤を築いた負け知らずの孫堅。

 

「あと各地を放浪してた趙雲なんていうのもいた。いや、それよりも張遼が防御に優れていたはずだ。だとしたらこの七人、いや()()に注意してれば大丈夫か」

 

 張伯はふと張任の実力が気になった。あの巨躯であれば、丸太でさえ悠々と持ち運べそうだ。あの様子を見るに、剣技も相当優れているだろう。

 

「関羽になら親分でも勝てるかな。でもかなり強かった気がするから無理かな。待てよ、関羽と呂布はどっちが強いんだ? 忠孝を褒められてる関羽じゃあ、武力一辺倒の呂布には勝てないか? とすると親分は関羽と呂布の間かな」

 

 張伯はいつか相見えることになるかもしれない、歴史に名を残す英傑たちに一晩中思いを馳せたのであった。

 

 

 

 まだ日が昇らぬ頃、集落の前には多くの人が集まっていた。男共はみな鎧はつけておらず、軽装であった。しかしその手には様々な剣が握られていた。後ろには背嚢があり、雑多なものが入っていた。張伯は腰に袋をいくつか下げるだけで、何も持っていなかった。丁程はその脚では走れないということで家に留まっていた。

 女たちが男共に奮起をさせようと、そんなへっぴり腰でいるな、上手い飯作って待ってるよ、帰ったら伝えたいことがあるんだ、などといった言葉を投げかけていた。

 

 そんな中、齢五、六の小さな女の子が張伯に話しかけてきた。

 

「あの、すごい人だってききました! あ、あの、お、お兄ちゃんをまもってください、おねがいします!」

 

「君の名前は?」

 

 張伯は尋ねた。

 

「あ、兄は久遠、です………………わたしは、陣冬です」

 

「真名を言われても私にはわからないよ。ただ、安心しなさい。私の策を用いれば、君の兄が死ぬことはない」

 

「ほんとう、なんですか……?」

 

「ああ、約束しよう」

 

 張伯は右手の小指をさしだしたが、相手はそれを見もしなかった。

 

「じゃぁ、なまえをおしえて!」

 

「私は姓は張、名を伯という」

 

「そっちのなまえじゃない!」

 

 陣冬と名乗る女の子は、手をあたふたさせながら言った。

 

「ということは私の(あざな)かい? いや、それとも私の真名かな?」

 

「しんめいをおしえて!」

 

「すまない。真名は私にはないんだ。私は遠くの地で生まれたからそのような風習がなかったんだ」

 

「やくそく! した!」

 

「だからそれでもういいだろう。他に何を言いたいんだい?」

 

 すると女の子は見る間に顔を赤くして、

 

「うそつき!」

 

と叫ぶや否や、張伯が声をかける間もなく、右腕を両眼にあてて走り去って行く……

 

「おう、大丈夫かい、お嬢ちゃん」

 

 とはならなかった。張任が女の子の目の前に立ちふさがっていた。腰を低くし、顔を横に広げて話しかけた。

 

「何かあったのかい?」

 

 女の子は黙って顔をうつむけていた。

 

「久遠の兄ちゃんは好きかい?」

 

 すると女の子はびくっと肩を震わし、ちいさく頷いた。

 

「そうかそうか。実はな、おじさんは久遠兄ちゃんにいっぱい助けてもらってるんだ」

 

「そうなの?」

 

 女の子は顔をあげて呟いた。やや目が赤い。

 

「ああ、そうだ。この前なんかすごかったぞ。山に出かけたはいいが、おじさんがどじって足を滑らしちまったんだ。当然痛くて歩けねぇもんだから、俺のことはいいから置いて行けって言ったんだ。そしたらあいつ、絶対にいやです。ここで置いていったら、妹の陣冬に合わせる顔がありませんって言って、おじさんを背負って山の中を歩いて帰ったんだ」

 

「お兄ちゃん、すごい!」

 

「そうだ、すごいんだ。それにお兄ちゃんは優しいってことも知ってるかな?」

 

「うん!」

 

 女の子は誇らしげに張任に返事をした。もう沈鬱な面持ちはなくなっていた。

 

「そんなお兄ちゃんがやられるわけないだろう? むしろ悪いやつをこ~んな風にやっつけちゃうよ」

 

 張任は大きく両腕を動かした。心なしか、その腕は自分に向いているかのように張伯は感じた。

 

「うん!」

 

「ただ帰ってきたらお兄ちゃん、すごく疲れているかもしれない。だから陳冬は、久遠兄ちゃんが帰ってきたらゆっくりできるように、家のことを手伝ってあげなさい」

 

「は~い!」

 

 そう言うと女の子はぱっと駆け出し、人々の中に紛れていった。

 

 

 張任は張伯を見ると、大きなため息を出した。

 

「お前なー、もう少し上手くやれよな。相手はまだ子供だぞ」

 

「親分、真名ってそんな軽々しく言っていいんですか? きちんと許可をもらっていたのですか?」

 

「だから相手はまだ子供だって言ってんじゃねぇか。全く、お前は点で駄目だなぁ」

 

 張伯は身を乗り出して答えた。

 

「いえ、親分がすごいのです」

 

「そりゃ当たり前だ。何せ俺は泣く子も黙る張任って言われてるんだからな」

 

「ああ、それってそういう意味だったんですね」

 

「他にどういう意味があるんだよ?」

 

「いえ、親分の顔が怖いので、子供はみんな黙ってしまうという意味かと」

 

 張任は肩の力を抜きながら言った。

 

「はぁー。お前は口の力だの何だの言ってる割には、余計なことばっかり言うなぁ」

 

「それこそが三寸の舌の妙技でございます。話しているうちに相手はいつの間にかこちらの術中に嵌まるのです」

 

「お前の場合、自分の口で掘った墓穴に嵌ってるよ……」

 

 張任は更に脱力しながら尋ねた。

 

「それで、期待はしていないが、必勝の策とやらはできたのかい?」

 

「はい。耳をお貸しください」

 

 張任はじとっとした目で張伯を見たが、渋々顔を近づけた。

 

「いいですか、私の策は夜襲です。夜に敵を襲うのです。さすれば敵にはこちらの数がわからず、どこから攻撃されているのかもわからず、味方の位置もわからず、右往左往するばかりでしょう」

 

 夜襲。単純だが、それ故に効果は絶大で、何より対策も難しい。これが張伯の答えであった。張任は黙ったまま張伯を見ていたが、大きな、大きなため息を一つ出した。

 

「それで、帰りはどうするんだ」

 

「帰りとはいったい?」

 

「夜に襲うってことは夜に帰るっていうことだろうが! それで俺たちはどうやって、何も見えない暗闇の中ここまで帰るんだよ!」

 

 張伯には、行きと帰りの計画は初めからなかった。

 

「えぇっと、途中で休憩をすれば」

 

「休憩をすれば無駄に食料を使うじゃねぇか! それに軍に追いつかれたらどうする?」

 

「それでは、えーと、そうだっ! 人を道中一定の間隔で灯りを持たせて置いておくのです。さすれば帰る時に目印になります」

 

 親分は睨みをきかせながら言った。

 

「そうか、わかった。じゃあお前が一番穀物庫に近い灯りを持て」

 

 張伯はその様相に否定できず頷いた。

 

「え、えぇ、わかりました」

 

 会話を終えると張任は人々の中心に歩いていった。方々で話し合っていた者たちは、親分に気が付くと皆黙り、視線で親分を追った。一歩地を踏む度に人々が静かになった。終に全く静かになった時、張任は大きく息を吸い込んだ。

 人々の誰もが言葉を待っていた。出立の言葉を。敵を打ち倒すのに、景気の良い言葉を。

 

「よし、野郎ども! 出発だ! 俺たちはこのままだと食い物がなくて冬を越せねぇ。なのに役人どもは相変わらず俺たちに税を要求している。奴らに人の情けなどない! だからこそ、俺たちは官の穀物庫をこれから襲う! でなければ死ぬだけだ! 野郎どもっ! 覚悟はできてるか! 今が出発の時だ! この張任の後に続けー!」

 

 こうして張任は六十余の男共を従え、一路官の穀物庫を目指したのであった。一部の男たちは、警備のためなどで集落に残っていた。張伯は、意気揚々と周りを見渡した。女たちは皆、気丈な顔を被り、元気よく送りだしていた。

 

 

 

 偶然にも、時を同じくして張伯が称した七傑の一人が洛陽北部尉に任ぜられたのであった。その姓は曹、名は操、字は孟徳という。弱冠であった。張伯と七傑が一人が顔を合わさんとする日が近づいていることは、この時はまだ誰も知らなかったのである。

 

 




更新
 人名の呼称
更新
 題名変更。以前は、「張任、己が義を示さんとして、穀物庫を襲わんとす」です。


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闇夜に煌く一つの明かり、敵を誅する

 張任らは官の穀物庫を目指し、暗闇の中を歩いていた。先頭の者だけが松明に火を灯していた。他に灯りはなく、暗闇の中、一行はその小さな灯りを追いかけ続けた。張伯はふと、まるで自分たちが百鬼夜行であるかのような気がした。なにせ見ると死ぬと言われている妖怪の御一行である。今の張任らの列と何が違うのであろうか。どちらを見ても人が死ぬことに変わりはない。張任が張伯に話しかけてきた。

 

「絶対に離れるんじゃねぇぞ」

 

「彼はなぜあんな小さな灯りで道がわかるのでしょうか?」

 

「そりゃ何回も通っているからだ。俺にはよくわからんが、草や石を見ればどこにいるのか大体わかるそうだ」

 

「ここの人たちって、結構すごい人多くないですか?」

 

 妖怪みたいに、と付け加えなかったのは、張伯の思慮による。

 

「そりゃそうだ。でねぇと生き残れねぇからな」

 

 そう言うと張任は張伯を残し、列の前方に消えていった。ただ道を踏みしめる音だけが耳に入った。僅かばかりの月影に照らされて、刃が青白く光っていた。張伯はふと、己が何の武器も持っていないのが恥ずかしくなった。他に松明を手に抱える者たちも、短刀ぐらいは腰に着けているのである。中には右手に剣を、左に松明を持つ者もいた。

 

 張伯が持っている物と言えば、丁程から譲り受けたお古の文房四宝と若干の食料のみであった。当然これで戦えるわけはなく、張伯は丁程の、文人たるもの必ず四宝を離さず、常にこれを携行すべしという言葉に従っただけであった。お古といえど、きずや汚れは見当たらず、その扱われ様は推して知るべしであった。

 武器となりそうなものには、竹の切れ端と己が腕以外何もなかった。列はいつの間にか張伯を置いて行っていた。松明の先は小枝を結び合わせただけの簡素なもので、脂の匂いが鼻についた。

 

「どうされましたか?」

 

 息をやや切らしながら一人の青年が走ってきた。背には弓と矢筒を負い、壮士であった。

 

「私、伍倉と申します。張伯殿とは川で一度会っております」

 

 そう言われると、そうであったかもしれなかった。張伯は張任の側にいた二人の男のうちのどちらかだろうと思ったが、その特徴は当に忘却の彼方にあった。

 

「それで、何ゆえこのように列から離れているのでしょうか? 一度離れればまた遇うのは難しいでしょう」

 

 張伯は腹をくくって言った。

 

「これから戦いに赴くというのに、私は何の武器も持っていません。こんなに恥ずかしいことがあるでしょうか?」

 

 伍倉は信じられないものを見るかのような顔をした。

 

「張白殿のやるべき事は、穀物倉に最も近くの灯りを持つことです。これは最早死地にいるのと変わりはありません。それなのに武器を持っているかどうか気にして何の意味があるのでしょうか? むしろいつでも逃げられるように荷を軽くすべきです」

 

 張伯は伍倉の言葉を聞いて色を失った。そこまで危険だとは思ってもみなかったためである。張伯は、子が親のお使いをするかのような気楽さで、官の穀物倉をたちどころに襲えると信じて疑っていなかった。

 張伯の心情に気が付いたのか、伍倉は脅迫に近い念押しをした。

 

「念のために言っておきますが、逃げたり裏切るような者は斬首と決まっています。ゆめゆめ安易な手段を取ることのないように」

 

 伍倉はそう言うと、しばらく張伯を見たまま視線をはずさなかった。ふと頭を列の方に向けると、また張伯に振り返って言った。

 

「これを渡しておきます。振り回したりせず、突き刺すように使ってください」

 

 伍倉は小さな短刀を張伯に渡した。本来人を刺すためではなく、木を削ったり、皮を剥ぎ取るのに使うものであった。こんなもので敵と立ち向かえるはずがない。その意味がわからぬ張伯ではなかった。

 

「ありがとうございます。ご安心ください、必ずや任を全うしてみせます」

 

 しかし、張伯は決して自決の意を口にしなかった。そんなことをする者は口先だけで、実際は生の汚い者として信用されないことを恐れたのだ。

 張伯は、今が一里先も見渡せない暗闇であることに心から感謝した。もし伍倉が張伯の顔を明かりの元で見ていたら、すぐに見捨てられるか切り捨てられてもおかしくはなかったからである。脚が震え、松明を持つ手は白くなっていた。

 

 張伯は今にも逃げ出したい衝動にかられながらも、列に歩みを合わせた。それは張任への恩義や怖いもの見たさではなかった。この列から離れればすぐに死んでしまうと思ったがためであった。

 

暗闇に消えたが最後、もう戻ってはこれまい。横にいる者が誰かもわからず、どこにいるのかもわからず。ある時には列の歩みが亀のごとく感ぜられ、またある時には張伯を遥か彼方に置くような速さで歩いているように感ぜられた。

 

「張伯殿、最後はあなた様の番です」

 

 伍倉が訝しげに張伯を見ていた。張伯は跳ね上がった。今にも自分が死ぬのではないかという思いで胸がいっぱいだった。後ろを見ると、わずかだが小さな灯りが点々と闇の中に落ちていた。列から一人、また一人と抜けていたことに張伯は全く気が付いていなかった。

 

「はやく松明に火を灯してください。それを合図にして、我々は攻め込みます」

 

「わ、わかりました」

 

 そう言うと張伯はすぐに背嚢から竹筒を取り出した。中には火種が入っており、これを使えばすぐに火を灯すことができた。

 

「随分便利なものですね。これは張伯殿が考えられたのですか?」

 

「えぇ、えぇ、そうです。竹は意外に丈夫です。この中に火を入れても、空気がないので、焼けてしまう心配もありません」

 

 上手く二重構造にしてやり、内側の筒に小さい穴をいくつか空けておけば、それを出すだけで空気が入り、少し振るだけで種が真っ赤になる。

 

「へぇ、そうなのですか……おいっ! そこの者! 親分にすぐに伝えろ! 戦の時だとっ!」

 

 伍倉は剣を手に取ると、すぐさま前に走り去った。木造の建物がいくつかあった。どれも四方には松明が置かれ、警備の者が三、四人いた。するとたちまち張任が踊りかかり、叫び声を挙げるまもなく彼らは切り伏せられた。それを見た他の人々がすぐに武器を手に雪崩れ込んだ。

 

「うおおおーっ!」

 

剣戟の音が聞こえる中、張伯は松明を手に立ち尽くしていた。見られていないか気が気でなかった。灯りを持っているのだから気付かれて当然なのであるが、張伯はそれでも敵に見つかっていないという願望を捨て切ることができなかった。

 こんなことは早く終えて、自分の陋屋に戻り、藁の上で横になりたいとも考えた。体は痒くなり、寝心地は良いとは言えない代物であるが、その草の匂いが懐かしかった。多少(たくさん)の警備の者が地に伏せていた。張伯はなるべくそその周辺を見ないようにし、松明を右手に掲げていた。首から汗が滴り落ちた。

 

「殺されるはずがない……松明を持って突っ立っているんだ。実際に剣を持って戦っている人間のほうが、よほど脅威だ」

 

 張伯はやや早く呼吸しながら言った。

 

 ふと一人の男と目があった。簡単な鎧で身を包み、手には大刀を持っていた。張任でさえ鎧は着ていなかった。とすると、今目の前にいる男は敵である。乱闘の末、張伯の元にまで辿りついたのであろう。

 

 来るなよ、来るなよ……。張伯はそう思いながら、背を見せずに下がり始めた。あまり刺激してはいけない。ところが、動くたびに松明の光もふわふわと揺れた。男はそれを目で追っていた。だんだん男はいきり始めた。男は暫鬼気迫る形相をし、しばし張伯を睨んでいた。

 突然、男が襲い掛かった。張伯はあはやというところで刺されそうになったが、なんとか避けることができた。張伯は松明を振り回し、男が近づけないようにしたが、それは大刀より短く、振り回すほど火の勢いは弱くなった。つまり、全くこの勢いを止めることは能はなかった。

 

 男が太刀を振り下ろした。危ないっ! 咄嗟に張伯は横に飛んだ。大振りで隙があったため、何とか難を逃れた。張伯の心臓と頭は警告を発していた。これを何度もかわせるほどの力があると思うほど、張伯は自惚れていなかった。

 

 男は力任せに、太刀を横に振った。張伯はほとんど転ぶようにしてそれをかわした。風で吹き飛ばされそうだった。だがこれで反撃の機会が生まれた。今だっ!! 張伯は松明を勢いよく男に突きつけた。

 男は松明を顔に受けた。火が小さかったため、顔を焼くには至らなかったが、思いもよらぬ反撃を受けたため、男は顔を手で抑えて膝を屈めた。

 

「ううぅ!、殺してや――」

 

 鳥のように張伯は、飛び上がって短刀を手に握ると、それを男の胸に突っ刺した。張伯は馬乗りになった。びくん、と男の体が一瞬揺れた。男は顔を上げて張伯を見た。何かを言おうとしていたが、それが口から出ることはなかった。男は張伯に向かって崩れこんだ。

 

「口だけの臆病者かと思ってたが、中々どうして、やるじゃねぇか」

 

 張任が隣に立っていた。右手は血で汚れている。地面に赤い水滴が垂れていた。

 

「親分……」

 

「顔は見ねえ方がいいぞ、ずっと頭に残るからな。おっと、もう遅かったか」

 

張伯には、戸惑いと、腹の奥に冷たいものがあった。

 

「親分、どうして」

 

 それ以上言葉は出なかった。

 

「どうして、ってのは何のこと言ってんだい?」 

 

 張伯は口をつぐんだ。何を聞こうと思って言ったのか、わからなかった。何かを考えて発した言葉ではなかった。

 

「まぁ、俺は最初切り込んでからはお前の近くにいたよ。お前は気が付いていなかったみたいだけどな」

 

 張任は薄く笑った。

 

「それで、どうだい。調子は? ん?」

 

「もう脚が震えてねぇじゃねぇかよ。随分と落ち着いてやがる。案外肝っ玉が太ぇんだな」

 

 親分は、張伯に凭れかかった男を蹴飛ばすと、張伯に言った。

 

「そら、さっさと行くぞ」

 

 張伯は黙ったまま座り込んでいた。張伯の闘いを張任は黙って見ていた。いよいよという時は助けに来てくれるのだろうが、果たしてそれが間に合うのかどうかは疑問だった。けれども張任の意図はわかっていた。〝戦の空気”というのを張伯に知って欲しかったのだ。

 

 口だけの人間を張任は必要としていなかった。丁程の補佐が彼の仕事だが、それは必ずしも必要ではない。丁程は補佐などいなくとも何年も集落の運営をしていたのだ。むしろ張伯に教えることがある分、彼に負担となっていた。だからこそ張任はもっと張伯に別なものを求めたのだろう。

 

 もちろん初めは張任は、張伯を戦に連れて行こうなどと思ってもいなかったに違いない。しかし、他ならぬ張伯が策士として名乗り出たことから、考えを変えたのだろう。やや否定的ではあったが、張伯の意見は張任にとって新鮮なものだったに違いない。だからこそ、その才をもっと使えるようにするために、実戦に張伯を投じたのだ。

 しかし、張伯の心は暗澹としていた。張任の意図はわかったが、不満は募るばかりであった。助けてくれてもよかったのに。あるいは死ぬかもしれないということをあらかじめ教えてくれれば。理由を知っても、それに納得できるかどうかは別問題であった。

 張伯は座り込んだまま、ぼんやりと転がった松明の火を眺めていた。

 

「親分、大変ですっ! 倉に食料がこれぽっちもありません!」

 

 倉からある者が飛び出してきた。

 

「何だとっ! おい! それは本当か!」

 

 張任はその者に詰め寄った。

 

「は、はい、どの倉も空です! 麦一粒も見当たりませんっ!」

 

 張伯はそれを聞いて思わず立ち上がった。何かまずいことが起こっているのは容易に想像がついた。いくら食料を洛陽に届けるための中継地点と雖も、何も倉に残っていないはずがない! 

 

「これは罠ですっ!」

 

 張伯が叫ぶか叫ばない内に、たちまち矢が処処から飛んできた。何人かが地面に倒れこんだ。張伯の近くにも矢が飛んできたが、どこから飛んできたのかはわからなかった。矢は全て闇の中から放たれていた。

 その時ぱっと倉から火の手が上がった。途端に張伯らは灯りのただ中に立たされた。警備の灯りだけでなく、倉まで燃えたとあれば、闇夜でも狙いをつけるのは簡単だ。

 

「親分っ! ここは逃げましょうっ! 敵は明かりの中にいる私たちを容易に狙うことができますが、反対に私たちは敵がどこにいるのかすらもわかりません!」

 

 張伯は頭を低くして、転がり回りながら言った。

 

「わかってるっ! 野郎ども! 撤退だっー! 火の近くによるなっ! 家に戻るぞ!」

 

 張任の怒鳴り声を聞き、皆撤退を始めた。しかし敵がこの隙を逃すはずはなかった。張任は闇の中目掛けて、地面に転がっていた矛を投げつけた。ぎゃっ、といううめき声がした。

 しかし哀しいかな、敵の勢いは止むことなく、矢の雨の中、張任と張伯は走り回った。張任は何本もの矢を手の武器で叩き落した。何人かの敵が張任に切りかかった。しかし張任はこれを全て弾くと、近くの者がこれらを切り伏せた。矢はひっきりなしに飛び、張任らは動き続けなければならなかった。

 

「おい、おめぇら! 俺が殿を務める。お前たちはさっさと帰れっ!」

 

 伍倉が何処からか叫び声を挙げた。

 

「親分、その任はこの倉に任せてください!」

 

「ばかやろぉ! お前には妹がいるじゃねぇか! さっさと帰れっ! 帰らねぇとこれだぞ!」

 

 張任の剣幕に伍倉は押され、急いで近くの者どもを引き連れて一目散に野原に向かった。張伯もその後を慌てて追いかけた。

 

「待ってくださいっ! 私も、私も連れて行ってください!」

 

 何度か矢が脇をかすめ、背にも刺さったが、背嚢のために無事であった。張伯は矢を抜き取った。矢じりは鈍く光っていた。わずかだが油のようなものが塗られていた。恐らく毒なのだろう。もしこれがかすりでもしたら。張伯は思わず矢を投げ捨てた。背後には何人もの官の兵が追っていた。

 

「追っ手がいるぞ!」

 

 伍倉は槍を手に持ち、身を翻すとたちまちニ、三人の追っ手を蹴散らした。他にも剣を手に、官の兵に斬りつける者たちもいた。後退しながら剣を打ち合うこと十合を越え、決着がつかずにいるうちに、隙を狙って伍倉が突き殺した。

 張伯を殺さんとする三人の官の兵がいた。張伯は敵の戟を回避し、地面を転がった。すぐに手に収まるほどの石を拾うと、これを敵に投げつけた。防御すること能はず、一人は腹を押さえてうずくまった。一人は走っている途中で体勢を崩し、たちまち味方に切り伏せられた。

 最後の一人は意に介さず張伯に襲い掛かって来たが、伍倉が横から突撃した。赤と銀色の穂が、張伯の目の前に突き出た。顔に水滴が飛んだ。

 

「お前たち、全員いるかっ!」

 

 伍倉が皆に呼びかけていた。地面に転がった松明が、その苦虫を噛み潰したような顔を照らしていた。

 

「いいか、よく聞けっ! 俺たちはこれから船に乗って川を上って帰る! 準備はいいかっ!」

 

「残って戦っている者もいるのに、おれたちだけで帰るのかっ!」

 

「黙れっ! これは親分の命令だっ! 俺だって残って戦いたい。だが、もしここで全滅したら、だれが家にいる妻子を守る? もしかするともう襲われているかもしれない! 今すぐ戻るぞ!」

 

 伍倉はそう言って川に走って行った。舟というのは、恐らく奪った物資を運ぶために用意していた船なのだろう。三艘もあった。これなら全員乗れるだろう。張伯は後ろを振り返った。大きな灯りがいくつもあった。時折悲鳴が木霊した。あそこでいままさに張任らが戦っているのだろう。いまここにいる者たちは若い顔ぶれが多かった。とするとあそこで戦っている者たちは……。

 

「どうしたっ! 早くお前も乗れっ! 死にたいのかっ!」

 

 伍倉の言葉が耳に届き、張伯は翻って舟に飛び乗った。ゆっくりと舟が岸から離れ始めた。誰もが口を開かず、必死に舟を漕いでいた。親分は大丈夫なのか? そんなことを口に出すのは憚られた。誰もが手を動かすことで、胸中の不安を追い出そうとしていたのだ。

 するとまた追っ手が現れた。七、八人だろうか。各々が弓を構えている。彼らはすぐに張伯らに向かって矢を放った。更に後ろからも、明りが何本も大きくなっているのが見えていた。

 

「身を伏せろっ!」

 

 張伯は背嚢を上にして舟板に突っ伏した。他の者は身を伏せながら、手には梶を握っていた。幸いにも船に飛び乗ってくる者はいなかった。後ろから声が聞こえた。

 

「畜生っ! やられた、いてぇよ、いてぇ……」

 

 張伯は後ろを振り返った。そして見てしまった。背中に何本もの矢が刺さっているのを。一番後ろにいた彼は、一番矢を受けたのだ。この傷ではもう助からない。

 

 こっちも矢で応戦しろっ! ばかっ、そんなことより早く舟を漕げっ! 舟の中は阿鼻叫喚であった。揺れる舟の上から敵を狙うのは難しい。反対に、揺れない陸からなら簡単だ。

 

「川を逆に上っているとはいえ、敵に追いつかれるのはこの舟が重いからです」

 

 張伯は男と真正面から対峙した。男は何のことだか呆然としていた。だがその意を察したようだった。驚愕の顔を向けた。

 

「戦ってくれませんか?」

 

 逆上して殺されるかもしれない。張伯は胸の中で、短剣を右手に持っていた。男は視線を下に落とした。その時、松明の明かりが、足元を照らした。男の顔はどうしてだか、真っ赤になっていた。それに何処かからかさび付いた臭いがする。男は意を決したように顔を上げると、

 

「親分のために、負けるなよ」

 

 と言った。そして、舟から飛び降りると、岸にすぐさま這い上がった。張伯はあっ、と声を漏らした。まさか男がこれを受け入れるとは思ってもいなかった。男は敵に切りかかった。一人倒れた。他の敵も気が付いたのだろう、矢の矛先が男に向いた。そして、暫らくして、男は闇に消えた。

 

「張伯っ!」

 

 伍倉が怒鳴りかけた。見ると、伍倉の左肩に矢が突き刺さっていた。肩に手を当てながら、伍倉は敵が来ないか目を凝らしていた。

 

「もし俺が死んだら、お前が指揮を取れっ! 忌々しいが、お前が一番親分に目をかけられている! みんなもそれでいいなっ!?」

 

 張伯は黙って頷いた。何度か舟を漕ぐと、たちまち手が熱くなった。もしかすると血が出ているかもしれない。しかし張伯は手を一度も見ることなく舟を漕ぎ続けた。矢はいつの間にか来なくなっていた。

 

 

 

 集落に着いた時には、誰もが疲労困憊であった。正確には、家族の身が安全だとわかった途端に皆崩れ落ちた。各々家族、親戚、兄弟、あるいは故人(親友)らと抱き合い、互いの命あることを喜んでいた。

 ただ一人、張伯だけは立ち尽くしていた。その眼は遥か遠くに見えるかすかな明かりに向いていた。近くでは多く見えたが、遠くからでは一つの明かりに見えた。戦いはどうなったのだろう? 張任は生き残っているのだろうか? ここからでは到底わからない。

 張伯は伍倉を探した。果たして伍倉は、陣冬と名乗った女の子に話しかけていた。伍倉は彼女の兄であった。陣冬は伍倉に抱きついて離れなかった。伍倉の左肩は布で覆われていた。

 

「敵は追撃してくるでしょうか?」

 

 張伯は伍倉に話しかけた。伍倉は顔だけ張伯の方に向けて言った。

 

「わかりません。一応親分の指示で、松明の灯りは途中で、この集落から離れたところに続くように置いておきました」

 

 落ち着いたのか、口調が丁寧になっている。

 

「えっ、そうなのですか。あれ、でもそれだと帰ってこれないじゃないですか」

 

 伍倉は呆れ顔に言った。

 

「それは張伯殿、あなただけです。ここは私たちの住処です。途中まで灯りがあれば、どこへ行けばいいのかは何となくわかります」

 

 その時張伯は、伍倉の脚の間から覗いてこちらを睨みつけている者がいるのに気が付いた。張伯は何も言わなかった。否、言えなかった。彼女も何も言わず、ただただ睨んだままだった。

 

「それでは私はこれで失礼します。これから万が一の襲撃に備えて見張りを立てなければならないので」

 

「わかりました。私も用事があるので、これで失礼します」

 

 女の子は張伯を目で追いかけながら、伍倉にしがみついていた。最後まで一口も言葉を発っしなかった。

 

 

 

 家に戻り、張伯は藁の上で寝転がっていた。今回の襲撃は完全な失敗に終わった。次は、敵の襲撃に備えてこちらが守る番だ。伍倉はこちらの居場所が判明していないかもしれないと考えていた。

 しかし、それは最も危険なことだと張伯は思った。希望的な見方こそが味方を敗北に向かわしめる。悲観論との謗りを受けようとも、軍師は必ず最悪の状況に陥ることを念頭に置いておかなければならない。それができるのは、自分だけだろう。

 張任にそこまで考えている暇はない。彼は人々を統率しなければならない。おまけに今は連絡さえつかない。丁程は軍事にはからっきしだ。伍倉もその様子を見るに武人肌だ。張伯は決意を新たにし、眼を閉じるのだった。

 

 

 ……張伯の頭には、敵を倒した後に出てきた親分、恨み言一つ言わずに舟から飛び降りた男、ただただじっと睨んでくる女の子の顔が渦巻いていた。



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忠を主とする凡人伍倉

 男が松明を持っている。男はこちらを襲わんと、短刀を取り出して踊りかかった。寸でのところで身をかわすが、敵の追撃は止まない。松明をこちらに投げつけたかと思うと、短刀を胸に突き刺した。刺されたのは張伯であった。

 

 張伯はまぶたをゆっくり開いた。あちこちから光が差し込んでいた。張伯はゆっくりと身を起こした。昨夜に戦があったばかりであったが、眠気はすっかり取れていた。水がめで顔を洗った。冷たい水が顔に染み入った。

 ふと、水がめが茶色くなっていることに張伯は気付いた。己の腕を見ると、砂が濡れて黒くなっていた。昨夜は風呂にも入らず、そのまま横になっていた。また体を洗わなければならない。ここに来る前は毎日風呂に入っていた。しかしそれはもう、遠い日の出来事に過ぎなかった。家の外が騒々しい。

 

 集落の広場には人だかりができていた。誰もが騒然としていた。男が輪になって口々に議論しあい、それを更に女たちが取り巻いていた。張伯はその人の波を押しのけた。

 

「おっ! 張伯さん! 丁度よかった。こいつを見てくだせぇ」

 

 外に出ると若い男が一人話しかけてきた。三人の男が縄で縛られ、胡坐をかいていた。顔には青あざがない者はいなかった。地面には武器と防具が並べて置いてあった。

 

「この近くを警戒してたやつらが、こいつらを見つけてふん縛ったんです。こいつらどうしましょう?」

 

「伍倉はどこにいますか?」

 

「あいつはこのことを聞いた瞬間飛び起きて、すぐに仲間がいないか探しに行っちまいました」

 

 飛び起きた、ということは、この知らせを伍倉は寝床で聞いたのだろう。張伯は、己がまだ信頼されるに足るものとして知られていないことを知った。今から駆け回ったところで、部下もいない張伯では何の成果も得られないだろう。

 幸いにも今は目の前に、逃げられないように好機が縛られている。簡単に成果が得られる好機が。

 

「わかりました。彼らには、仲間が他にいないか聞きましたか?」

 

 男は手で頭をかきながら言った。

 

「それが、いくらどやしつけても口を割らないんです。どうしましょう?」

 

「なぜ口を割らないのかわかりますか?」

 

「へっ? あ、いえ、それはあっしにはわかりません」

 

 張伯は三人の男を見た。みな張伯を睨みつけていた。彼らに忠誠心はあるのだろうか? 後漢が滅びるのはまだ先のことだ。盗賊どもへの恐れよりも、漢帝国への忠誠が上回っているのだろう。あるいは、すぐに助けが来ると踏んでいるのかもしれない。そちらの方がずっと、張伯には恐ろしかった。張伯は彼らに歩み寄った。

 

「どうでしょう、みなさん。みなさんの他にここの集落のことを知っているのは、他に誰かいますか?」

 

 皆押し黙っていた。張伯は膝を屈し、一人一人真正面から向かい合った。目をそらし、隣の仲間を見ていた。中にはつばを吐きかける者もいた。張伯はぬぐいもせず、話しを続けた。

 

「もし話してくださるのであれば、このまま開放します。帰った時には、偵察に赴いていたが、敵に捕らわれてしまった。何とか隙をみて命からがら逃げ出したと言えば許されるでしょう」

 

 無礼な男が言った。

 

「そんなことが信用できるかっ! この場所をおれたちは知っているんだ! どの道殺すつもりだろうっ」

 

 張伯は心の中で喜んだ。策が思いついたのだ。

 

「どうも他の二人はそうは考えていないようですが……。まあいいです。ちなみに、逃がすのは一人だけです」

 

 張伯はそう言うと、彼らを別々の小屋に閉じ込めるように指示を出した。彼らは屈強な男たちに連れられて行った。その間、張伯は敢えて彼らの様子を見ることはしなかった。背後からでも、彼らがお互いの顔を見合っているのが、手に取るようにわかった。

 

 

 

「一人が、張伯さんを呼んでおりやす!」

 

「わかりました。ところで、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか? これまでの働きと共にその名を刻んでおきたいのです」

 

「小っ恥ずかしいことを言わんといてください。あっしは王才と言います」

 

 張伯は悠然と朝食を摂っていた。あれから二刻も経っていなかった。卓の隅には白い皿が置かれ、食事が盛り付けてあった。酒も一本置かれていた。

 

「こっちの方は食べねぇんですか?」

 

 王才が腹に手を当てながら話しかけた。

 

「いえ、私は食べません」

 

 王才はやや期待をこめた眼差しで言った。 

 

「じゃ、じゃあ、あっしが……」

 

「これは此度の策にどうしても必要なものです。……食料がまだ袋に残っています。それなら自由にしてかまいません」

 

「や、やったぁ。ありがとうございます!」

 

 そう言うと王才は袋から穀物を取り出し、器を満たし、そこに湯を入れると、一気に掻きこんだ。

 張伯はその様子に苦笑しながら、隅の食事を持ってその場を後にした。

 

 

 小屋に入った時、張伯は弛緩した。予想が的中したからであった。つばを吐きかけた男。この男は、他の誰よりも生きたいという意志が強かった。だからこそ、真っ先に、殺されるという考えが浮かんだのだ。他の者はただ怯えていただけであった。全てに怯える彼らの口を開かせるのは、意外と時間がかかる。何せ口を開くのにさえ、恐怖を感じるのだから。

 

「それで、私に何か話したいことがあるそうですが、それは何なのでしょうか?」

 

 張伯はゆったりと話しかけた。

 

「そ、その前に、本当に放してくれるのですかっ!」

 

「――もしあなたが話すのであれば、放しましょう」

 

 張伯は一番に、と付け足すかどうか迷った。捕虜に多くのことを言うのは好ましくない。それを言うとまだ誰も口を割っていないことが明らかになる。張伯はそう考えて、これ以上何も言わなかった。

 

 それっきりめっきり口をつぐむ男に、張伯は男に食事を勧めた。男は初めは警戒していたが、すぐ食べ始め、止むことはなかった。張伯は酒を何度も勧めた。夜の間張伯らの後を追い、何も食べていなかったのだろう。食べ終わると、男は暫らく下を向いていたが、顔をあげて言った。

 

「お、おれたちは三人だけであなたたちを追うように言われたんです。だからここのことを他に知るやつはいません!」

 

「たったの三人で偵察したのですか?」

 

「は、はい! そうです! 誰も夜中に偵察になんか行きたくなかったんですけど、おれたちは嫌われていたんで、行くよう命令されたんです」

 

 張伯は彼は嘘を言っていないと感じた。

 

「頭領がどうなったのかはわかりますか?」

 

 男は唇を嚙んで言った。

 

「い、いえ、それは知りません。すぐに追ったので」

 

「私たちは待ち伏せされていました。なぜわかったのですか?」

 

 男は少し考えた。

 

「おれは、洛陽南部尉の李然の兵です。ただ、ある日突然準備するよう言われて、ここまで来たんです」

 

「その李然というのはどのような人なのでしょうか?」

 

「よくわかりません。特に何かがすごい、っていう話は聞きません」

 

 もう十分だった。男から聞けることは全て聞いた。

 

「わかりました。ありがとうございます。疎まれているのであれば、何か手柄となるようなものも必要でしょう。少し待っててください。すぐに倉から何か持ってきますので」

 

 張伯はその場を後にした。張伯が最後に見たのは、男が感謝の意を示し、頭を下げる姿であった。やるべきことは多くあった。だが男を助けることはな、それではなかった。

 

 

 

「伍倉のやつが戻って来たぞー!」

 

 遠くに人々に囲まれている伍倉らが見えた。張伯は手を止めて、その声に耳を澄ました。伍倉たちは何も発見できず、徒に体力を消耗して戻ってきた。張伯の予想通りであった。

 はぐれた味方は、敵に捕らわれているか、殺されている。探したところで、死体を見つけたところで、こんな山の中にまで運べるはずが無い。途中まで舟で運ぶという手もあるが、あの舟は昨夜の無茶で大分軋んでいた。

 

「お兄ちゃんっ!!」

 

 伍倉の脚に近づく少女がいたが、これを伍倉は手で払いのけていた。伍倉は焦りの余り、余裕を見せられなくなっているようだ。

 王才が慌てて張伯の元にやって来た。伍倉は今後について話すために、至急集まるように王才を遣わした。張伯は王才にねぎらいの言葉をかけ、遅れる由を伝えるように言った。

 

 

 

 張伯は歪に膨らんだ袋を持って、真っ直ぐ会堂に向かった。張伯にはやるべきことが山積みであった。生き延びるために。

 

「これからおれたちはどうしたらいい!」

 

 伍倉は周りに当り散らしていた。伍倉は五、六人の仲間だけで集まっていた。王才もその場にいた。皆その若さとは裏腹に、顔は深く沈んでいた。

 張伯はそっとその中に入ると、壁にもたれかかって立っていた。伍倉の目じりには隈が浮かび上がり、目には赤が何本か入っていた。肩には黒く染まった布が巻かれたままだった。

 

「このまま引きこもるべきか? それとも打って出るか! どうすればいい!」

 

 伍倉は仲間の一人に詰め寄ったが、その者はおどおどとするばかりで、何も答えなかった。いや、答えられないというのが正しい。

 

「敵に居場所はばれているのか? もしばれているのなら、一刻も早くここを移動しないとっ!」

 

 伍倉は足元に置いてあった壷を蹴り飛ばした。壷は足に当たった瞬間に、蹴飛ばされずにばらばらと砕け散った。周りの者はその音にひるんで顔を背けたりしていた。張伯は冷やかにその様子を見ていた。

 伍倉はこの期に及んで、つまり張任が帰って来ず、誰かが人々を統べなければならない状況で、自身の役目を何も果たしていなかった。物を壊し、いたずらに仲間の焦りを募らせ、不安を煽るばかりであった。およそ人を率いる者、指導者として相応しくはなかった。しかし、張任がいない今、人々の宗(中心)にいるのは彼であった。張伯は慎重を期して、暫らく何も言わずにいた。

 

「他に意見がないなら、みんなを避難させるぞっ!」

 

 伍倉は怒鳴り声をあげていた。ややかすれている。この剣幕の中で発言するものは、一人だけいた。張伯は、言を発するなら今しかないと思った。

 

「お待ちください。それは愚策です」

 

 急に場が静まり返った。

 

「この場所のことは敵に知られていません。それは断言できます」

 

「あんな末端の兵の言うことなど信用できるかっ!」

 

 伍倉は頭を振って言った。

 

「いえ、彼らは全員同じことを言いました。別々の部屋に入れてのことですので、信じてもよろしいでしょう」

 

「全員殺しているじゃないか! 徳のかけらもないやつめ! 丁郎官が嘆いていたぞ!」

 

「伍倉殿、あなたは敵にこの場所を知られることを恐れていました。だから私は彼らを殺したのです」

 

「なんだとっ!」

 

 伍倉は張伯に掴みかかろうとしたが、王才と二人の仲間に止められた。

 

「今やるべきことは、親分の行方を捜すことです。もし捕まっているのであれば、すぐに救出に向かいます」

 

 張伯は周りを見渡しながら言った。

 

「また、たとえこの場所が知られているとしても、人々を移動させるのは良くありません。移動すれば助かる、逃げれば助かる、この場から離れれば助かる。本当にそうでしょうか? 逃げた先の私達を誰が守ってくれるというのでしょうか。そんなことをしても益する所は何もありません。そんな考えでは、勝てるものも勝てません」

 

「勝てるだとっ! 何故お前がそう言い切れる! 親分のお気に入りだからといって、出しゃばるなっ!」

 

「敵は今、散々煮え湯を飲まされた雪辱を果たしました。とすると、そこにはもう勝とうという意はありません。これこそ私たちが勝てる道理でなくて何なのでしょう?」

 

 伍倉は言葉に詰まった。張伯はそれを見て素早く畳み掛けた。

 

「あなたは舟で、己が死んだ後は、私に指揮を委ねると言いました。しかしあなたは本当はそんなことはしたくない。今の様子でそれが分かりました。それでもなお、そんなことを言ったのは何故ですか?」

 

「……それは…………」

 

 伍倉は葛藤していた。張伯は、伍倉が次の言葉を出す前に、自分がその言葉を言うことで、その場を己のものとした。

 

「親分がそう言っていたから、そうですね」

 

 図星であった。親分が張伯に任せるように言った、ということを張伯はわざと強調した。伍倉は血気盛んな勢いを削がれた。

 

「しかし、今おれは死んでいない! 生きている! だから――」

 

「その通りです。ですからお願いがあります」

 

 張伯はすっと顔を上げた。

 

「私の策を集落のみなさんに伝えてください」

 

 伍倉は顔を真っ赤にした。張伯が自ら伝えるより、伍倉の方が皆が納得しやすい。最も、自分が唯の伝達役になるなど、親分の右腕ぶる伍倉にとっては恥でしかないだろう。

 

「私の策を親分は採りました。なぜあなたは親分と違ってそうしないのでしょうか?」

 

 伍倉は張伯を睨んだ。張伯は決して狼狽の色を見せなかった。ここで引いたら負けだ。

 

「……わかった。だが、もし失敗したら」

 

「その時は腹を切りましょう。ですが、一つ約束してください」

 

 張伯は身を乗り出して、伍倉の顔すれすれまで近づいた。

 

「もし私の策に皆が従わないのであれば、その時はあなたが腹を切ると」

 

 互いの視線が交差した。伍倉は今にも切りかからんとしていた。張伯は、自分が切り殺される()()とこれっぽっちも考えていなかった。伍倉は左肩に矢傷を負っている。張伯の側を掠めた矢には毒が塗られていた。とすれば、伍倉が射られた矢にも毒が塗られていない、と言うことはできまい。

 張伯には自信、闘志、智恵があり、伍倉には焦り、不安、そして疲労があった。果たして、伍倉は張伯から目をそらした。

 

「みなさん、聞いてください。先ほども言いましたように、敵は勝利に酔いしれています。いますぐ襲えば我らが勝利することは確実です」

 

「しかし、親分はどこにいるんだ? 親分がいなかったら、俺たちは何もできねぇ」

 

 仲間の一人が話しかけた。張伯はあらかじめその質問を予期していた。

 

「もし親分がどこかに隠れているのであれば、私達が襲ったのを知ればすぐさま駆けつけてくださるでしょう。もし敵に捕らわれているのであれば、そのまま助けてしまえばよいのです」

 

 張伯の言葉に一同はとらわれていた。張任を助けたいという思いは誰もが同じであった。張伯はそれを利用した。その気持ちに訴えかけたのである。

 

「昨日は親分の指示があり、私達はここまで引き上げました。そして今日攻めないのは腰抜けのやることです。親分の恩を忘れていないのであれば、今すぐ戦うべきです」

 

 沈黙が続いていた。張伯はまだ言葉が必要になるのかと思い、辺りを見回した。すると、一人の仲間が握り締めた右手を挙げた。

 

「お、おれは、親分を助けたい! みんなもそうだろう!?」

 

 皆互いの顔を見回し、その思いを確認した。

 

「それでは、出陣の用意をしましょう。日が昇る前に出発します」

 

 各々その場を後にした。伍倉は俯いたまま座っていた。張伯からはその表情は窺えない。

 

「それでは、人々を率いてください」

 

 何も反応がなかった。

 

「この策は急を要します。今すぐ動かなければ私たちに勝ちの目はありません」

 

「聞こえていますか? 集落の人々を集めてください」

 

 伍倉の目の前の床に短刀が突き刺さった。刃に伍倉の顔が写りこんだ。伍倉はのろのろと面をあげた。恐らく、いもしない敵を探している間、伍倉は仲間に当り散らしていたのだろう。何の成果も得られなかったのもまずかった。伍倉はたまたまその求心力を失っていた。

 しかし、張伯の言うことが信用されたのは紙一重の差であった。新参者の言うことなど誰が信用するだろうか? もし王才に会っていなかったら、もしかすると伍倉が押し切っていたかもしれない。張伯はここで、政治というものを無意識に身につけつつあった。

 

「……お前は、なぜ戦うことができる? お前だって昨日は死ぬ寸でのところだった。何故だ?」

 

 張伯はわずかな間固まった。

 

「それは、なぜなのでしょうか。私にもわかりません。ただ、一つ言うのならば、私は自分が死ぬとは思えないのです」

 

 伍倉は信じられないものでも見る眼を張伯に投げかけた。

 

「昨日は確かに死にかけました。しかし、痛い思いはしていません。どうも、死ぬという感覚が私にはないのです」

 

 これは張伯にとって新たな発見だった。生の危機に遭えば、誰だってその命を知るであろう。しかし張伯にはそれがなかった。伍倉に脅された時はあれ程震えていたというのに、いざ殺し合いをする段になったら、そんなことは頭から吹き飛んでいた。張伯にとって死は恐ろしいものではなかった。あるいは、もうそうではなくなっていた。

 

 

 この策が成功しなければ、伍倉の手によって張伯は殺されるだろう。伍倉は張伯のことをよく思っていない。今は一時的に気を落としている伍倉も、いつか張伯のことを疎んじるだろう。そしたら、あの男のように、危険な場所に赴く羽目になるかもしれない。

 張伯は罵詈雑言を撒き散らしていた男の最期の姿を思い浮かべた。五人がかりで押さえても暴れることを止めることはかなわず、何とか王才が首を切り落としたのであった。伍倉はもう何も言わず、張伯をじっと見ていた。

 

 

 

 太陽が真上に昇っていた。張伯は広場に立っていた。周りの視線が集まる。張伯はしばらく何も言わなかった。静かになった。

 

「みなさん、知っての通り、私たちは負けました。敵の卑劣な待ち伏せにあったからです。しかし、私はみなさんが一度の負けでその意を失ったりはしないと信じています! 私たちは今まで勝ち続けてきました! であれば、次の戦いでも勝つでしょう! 親分を助けるため、今一度立ち上がりましょう! 親分の恩は山よりも高く、海よりも深いのです! 今度は、我々が親分を助けるのですっ!!」

 

 張伯は力の限り声を震わした。突然、その口調を静かにした。周りもつられて沈黙する。

 

「私は、着の身着のまま彷徨っていたところを、親分に助けられました。親分は、こんな得体の知れないよそ者にも慈悲をかけてくれたのです」

 

 張伯は涙ぐんだ。みな張伯の言葉に聞き入っていた。聞き入っている、ということは、得体の知れないよそ者だと、誰もがが薄々感じているということでもある。

 

「私は、親分を助けたいっ! みなさんもそうでしょう!? いえ、みなさんの方が私よりも親分の恩が多いのではないでしょうか!」

 

 張伯は言葉を継いだ。

 

「であれば、いま立ち上がらないでどうするのですかっ! 私たちは親分がいないと何もできないでしょうか? いいえ、そんなことはありません。私たちは親分に恩を返すことができます! 今こそ戦の時です!」

 

 張伯は言葉を言い切った。みな言い知れようのない感情に震え、涙を流していた。伍倉は人に紛れて立っていた。ここからでは、その顔を窺うことはできなかった。

 張伯は親分の演説を参考に、自分の演説を竹紙に書いていた。しかし、一字一句同じことを言ったわけではなかった。張伯の涙は全く嘘ではなかったのだ。 

  

 張伯は、今、初めて人の上に立ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 




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仁義なき戦いの序幕 詭計

「それで、どうしてあっしらはこんなところに寄り道するんですかい?」

 

 王才が張伯に尋ねた。王才は若くはあるが筋骨隆々、人に尋ねるのを恐れることをしなかった。張伯は言った。

 

「見て分かるとおり、()っているんです」

 

 張伯らは近くの村々を廻っていた。張伯は村に着くと、代表者を呼び、武器と農具を交換してくれないかと頼み込んだ。皆これには大層驚いたが、不作が続いているため、使い道のない農具よりも()()()の時の備えとなる武器を持つことを選んだ。それ程までに食料が不足していたのである。

 

「でも、伍倉の奴は別に行動しているじゃないですか」

 

「彼には、血気盛んなものを集めて武器を持たせ、しかるべき時まで隠れてもらうことになっています。彼には彼の、私たちには私たちの役割があるのです」

 

 そう言うと張伯は、村の人々に目をやった。張任らの集落は近くに山や川があるために、餓死者を出すことなく何とか凌いでいた。しかしこれらの村では、荒れ果てた田畑を歩き回り、稲穂や何かの草などを拾って食べている者がいたのである。

 聞けば、税の取立てで倉にある食料を全て持っていかれてしまったのだという。村の中には、壁にもたれて動かない者もいた。それらはみな例外なく手足から骨が浮き出ていた。

 

「これは酷い……」

 

 張伯はふと言葉を漏らしたが、それが意外と大きかった。粗相をしたと思い周りを見たが、こちらに目を向ける者は村の代表者を除いては誰もいなかった。仲間は張伯になど目もくれず、村の中を睨みつけたまま、何も言葉を発しなかった。

 

「それで、どうして農具なんかを……? まさか来年のために耕すわけでもないじゃろう?」

 

 代表者が聞いてきた。白い髭を生やした初老の男性で、杖を握る手は角ばっていたが、それが餓えのためかそれとも老いのためなのかは、張伯には見当がつかなかった。

 

「その前に私の方から一つお伺いしたいことがあります。あなた方は武器を得て、何を為そうというのですか?」

 

 張伯はぎろりと老人をにらみつけた。王才が張伯を宥めるように言った。

 

「まあまあ、張伯さん。あのー、武器っっちゅうのは、いろいろと要り用ですから。ええっと、ほら、例えば狩りをするのに。素手っていうんじゃぁ、困っちゃうでしょう」

 

 剣や槍や矛が、狩の道具というのは笑いものであった。まさか、猛獁を狩るわけでもあるまい。張伯は老人から目を離さなかった。張伯は老人が何と答えるのか、それが知りたかった。老人はわずかの間目を閉じていたが、やがてゆっくり開けて言った。

 

「近いうちにまた取り立てが来ます。まだ税を納めきれていないからです。ここまで言えばわかるでしょう。黙ったまま私たちは死にたくないのです」

 

 老人の杖がかたかたと音を立てていた。張伯には、それが衰えのためだとは思えなかった。

 

「いまあなたがたは瘦せ細っています。時期になっても、()が出せないのではないでしょうか?」 

 

 張伯は続けた。

 

「ですが、もし()が出せるのであれば、その時は私たちと一緒になって()を挙げませんか?」

 

 老人は黙っていた。目の奥には光が見えるが、それがどんな感情なのかはわからない。

 

「……それは、あなたたちの下になって、ということかな?」

 

 張伯は目を細めた。王才がまた宥めようとしたが、これを手で制して言った。

 

「その通りです。張の親分に従ってもらいます」

 

 張伯の首を汗が伝った。老人の髭で口元は見えなかった。

 

「上は、税を取り立てて何もしない。じゃがお前さんたちは違うかもしれない。じゃからそれを証明して欲しい」

 

「わかっております。吉報をお待ちください」

 

 交渉は終わった。張伯は王才を仲間の管理に向かわせた。仲間が誰もいなくなったのを見て、張伯は老人に尋ねた。

 

「ところで、一つお尋ねしたいのですが……」

 

「何でしょうか?」

 

「この近くで一番大きく、人が住んでいるところは何と呼ばれていますか?」

 

「それは朗陵国でしょう。ここから南に何日か歩かなければなりませんが」

 

「ありがとうございます。あともう一つだけお伺いしたいことがあるのですが――」

 

 

 かくして、張伯らは武器と農具を替えることに成功した。これは張伯にとって一石二鳥の策であった。村々は武器を持っていないが、その心には闘志がある。今は餓えのために押さえつけられているが、食料を与えればそれは膨れ上がり、ついには破裂するだろう。武器を持つ者がいつまでも唯唯諾諾とする訳がない。立ち上がった時、必ずや張伯らを頼るであろう。

 

 そして代わりに農具を持つことは、これもまた張伯の策であった。唯一気がかりなのは、演説をしてから大分時間が経っていることだった。交渉に付き合わされて村々を巡りまわるのは、交渉の当事者でなければ退屈で仕方ないことだろう。張伯はこのことを王才に尋ねたが、返ってきたのは意外な答えだった。

 

「とんでもありやせん! あっしらは他の村に行くことなんてまずありません。でも、今日こうして見て、ますます怒りが増してきやした! もう、何て言っていいのかわかりやせん!」

 

 みな演説の後に、村々を見て回ると聞いた時に肩透かしをくらったが、その分怒ること甚だしかった。張伯は、何も言わないということも、感情を表す有効な手であることに気付いた。仲間も村の惨状を見て怒っていたし、老人も怒っていたのだ。

 張伯から見て王才は、とても使()()()人間であった。単純に素直であるし、こちらの言うことをよく聞く。あまり頭の回転は早くないが、かえってわかりやすく従順な人間であった。

 

「それで、そろそろ策っちゅうのを、教えていただけないでしょうか?」

 

 王才が話しかけた。王才がこう言うということは、転じて他の人たちも同じように考えているということを意味する。王才を見れば周りの反応がわかるのだ。それも王才が使いやすい人間である理由の一つであった。

 

「ふむ、そうですね。ではお話しましょう。みなさん、心して聞いてください。これはみなさんの協力なしに成し遂げることはできません」

 

 張伯は辺りを見渡した。みな緊張した面持ちで立っていた。

 

「これから、私たちは農民として、李然の元に向かいます」

 

 次に言葉を言うのに勇気が必要なのは、あらかじめわかっていた。

 

「そして、その農民というのは、賊の略奪を何度も受けて、その賊を殺そうと考えている農民です」

 

「ちょっと待ってくれ!」

 

 仲間の誰かが声を挙げた。

 

「親分はそんなことはしねぇ!」

 

「もちろんそんなことはしません。ですが、大事なのは、わたしたちが賊を殺そうと思っているということを、敵に示すことです。これができなければ、親分は助からないでしょう」

 

 張伯は周りを牽制しながら話を続けた。

 

「私たちが賊をこの手で殺したいと言うのです。そうしておいて、敵が引き渡してくれるのであればそれでよし、そのまま攻撃します。渡してくれないのであれば、これもまたそのまま攻撃します」

 

「それじゃあ、どの道攻撃するんでないですかい?」

 

 王才が張伯に問うた。

 

「その通りです。しかし、この策で一番大事なのは、警戒されずに敵の喉下にまで近づくということです。攻撃すれば、敵は慌てふためきますから、そこを別に動いている伍倉らが追撃します」

 

 張伯は、策の目的や細かい内容まで話さなければならなかった。そのようなことまで言わなければ皆動かないことに、張伯は今更ながら気付いた。

 

「ですから、みなさんには、敵になぜ賊を殺したいか聞かれた時のために、言い訳を考えてもらいます。畑の野菜を取られただとか、逆らったら殴られたとか、そういった感じのを」

 

 仲間は少し戸惑っていた。一種のだまし討ちに当たるというのが気がかりなのだろう。張伯は言葉を継ぎ足した。彼らの心に訴えかけたのである。

 

「みなさん、この村を見てください。みなさんはこれを見て、何の感情も抱かないような冷酷な人間なのですか? このようなこと、例え天が見逃しても、私たちは――親分は、決して見逃さないのではないでしょうか?」

 

 怒りが燃え上がっているのを、張伯は感じた。

 

「わたしは、みなさんはとても勇敢で、仲間思いだと考えています。ですから、最初は敵を目の前にしても堪えていただきたいのです。どうかよろしくお願いします」

 

 張伯はそう言うと頭を下げた。そのせいで誰が気を走らせて、親分はそんなことはしない!、と叫んだのかわからなくなった。張伯の首に汗が浮かんだ。皆が必ず張伯の言う通りに動いてくれるとは限らないのだ。

 張伯は己の策に一抹の不安を感じながら、村を後にしたのであった。

 

 

 

 

「やはり宦官から恨みを買いすぎたか……」

 

 洛陽南部尉の李然は頭を悩ましていた。というのも、彼の職分は洛陽の治安を守ることであったからである。それがまさか外に出て、賊を討つことになるとは、思いもよらなかったのである。これには、諸々の()()が働いている。

 まず、李然は職務を果たすことに忠実であった。それは美徳であると同時に、厄介な問題を引き起こしかねない因もはらんでいた。本来であれば宮中から外に出ることを許されていないはずの宦官らが、都内に赴くことがあった。李然はこれを見逃すことはしなかったが、同時に厳しく処罰することもなかった。宦官の力が強かったためである。

 

 少し前まで、都では外戚と宦官が争いを繰り広げていた。しかし宦官の勢い抑々(いよいよ)押さえがたく、ついには外戚と清流派官僚が手を結び、宦官に対抗しようとしたのである。外戚と清流派官僚の関係が水と油であることに疑いようはないが、そこは敵の敵は味方と考え、宦官を倒すために協力したのである。その外戚というのが(とう)氏であり、清流派官僚(の代表)は陳蕃(ちんはん)であった。

 しかし、宦官を一気呵成に絶滅せんとしたがために、それが宦官の知るところとなり、たちまち両者共に殺された。宦官が勝利したのである。これを党錮の禁と言う。その禁の対象が仕舞いには、清流派党人(党錮の禁で罪に処せられた者)の一族郎党にまで拡大していた。

 

 李然は当然それを知っており、宦官の不興を買わないよう、慎重を重ねて行動していた。しかし生来の気質は抑えがたく、宦官の罪を軽くすることはあれど、見逃すことは決してなかった。一度厳しく取り締まれば、さしもの宦官でもむやみやたらには動かなくなるはずである。ところが李然は曖昧な態度をとり続け、それがために多くの宦官から酷く不興を蒙ることとなった。当然、生き残った文官からの評価も悪い。

 

「頼みの綱の援軍も来ないのではな……」

 

 そして第二に、賊の跳梁跋扈する所が問題であった。何せ奴らの拠点は豫州の汝南群と荊州の南陽群の間の山々のどこかなのである。これだけでもそれがもたらす問題が予期できるというものである。

 同じ州内であれば、刺史(その州の監察官)がその州内の郡太守や相の折衝を行うという奇策を使うことができる。しかし州が違えば、お互い兵を出すことを嫌がるか、あるいは己の領分(権利)を主張し、協同しての討伐は望むべくもない。そしてここに汝南群特有の事情が絡んでくる。

 ここ汝南群は名門袁氏の拠点であり、他にも多くの豪族らが集まるところである。そして彼らも賊の早期討伐を一応は願っていた。一応というのは、彼らにとって辺境の山々の賊など、どうでもよかったからである。とは言うものの、目の上の()()()ぐらいのものではあったので、取り除けるのならそうしたいと考えてはいた。しかしそこは豪族の寄り合い、出すのは兵ではなく、口ばかりであった。

 

 ここに李然を疎ましく思う宦官と、賊がいなくなることを願う汝南群の豪族が手を取り合い、果たして李然は張任という輩を首領とする賊を討って出る羽目になったのである。李然が死んだところで宦官が喜ぶだけであり、それでもし失敗したとしても、また別の誰かを送ればよいだけなのである。まさに討ってくれたら儲け物、という扱いであった。

 李然は汝南群の豪族らに協力を求める文を送ったが、その返事は美辞麗句で彩られ、協力するといってもその内容は()()()れていた。また兵が送られて来ることもあったが、浮浪者や罪人、病人や怪我人といった、およそ戦に使い物にならない奴ばかりであった。

 

「まぁ、仕事をこなすしかあるまい」

 

 常人であれば気力を失うところではあるが、そこは李然、そういった事態は何度も経験済みであり、いつものように仕事をこなそうとしたのである。洛陽北部尉の曹操に銃後を預ければよいため、李然は自身の兵を全て持ち出すことができた。といっても所詮はただの洛陽の警察であり、大罪を犯す者を捕縛することはあれど、戦の経験はほとんどなかったのだが。

 李然は己が兵の様子を見た。みな洛陽からの遠出に浮き足立っていた。緊張した面持ちでいるものの、どこか気楽さを感じさせるような笑顔を見せていた。中には山を歩いたために足を痛め、引きずりながら歩く者もいた。いつの間にかいなくなっている者たちも多くいた。無論汝南群からの者であった。李然は沈鬱とした面持ちで、深くため息を一つついた。

 

「これではだめだ。とてもではないが、勝てる筈がない」

 

 

 ここまでが、雒陽を泳ぐのに不慣れな、不器用を体現した男の物語であった。

 

 これが実際に戦ってみれば、一度の夜戦で首領の張任を捕らえるという大手柄を立てたのである。これこそがまさに戦の妙であった。戦の前までの暗い顔はどこへいったのやら、李然はにこやかに陣中を歩き回っていた。

 

「李洛陽南部尉殿! 少しお話が……」

 

 兵の一人が話しかけてきた。

 

「む、どうした? 何があった」

 

「それが、近くの農民たちが、賊に略奪されたのを恨みに思っていて、今回我々が捕らえたというので、是非とも殺したいと」

 

「何だと? それは、本当なのか?」

 

 李然はそれに食いついた。周りは敵ばかりであるため。彼は農民の支持でさえ欲しかったのだ。それが物語の結末を決めた。

 

「はい。もう陣の前にまで来ております。みな農具を持っております」

 

「とにかく一度様子を見よう」

 

 そう言うと李然は幕屋を出ると、供の兵を引き連れ、農民の元へと向かったのであった。

 

 

 

 張伯らは、否、張伯を除いて、みな緊張を隠しきれていなかった。つっかえるように、私は恨んでます、殺してやりたいです、などと何度も言う者が後をたたなかった。 張伯は早まったことをしたと悟った。あまりにも怪しすぎる。まさかここまで仲間が機転が利かないとは予想だにしていなかったのである。王才もそこまで流暢という訳ではなかった。張伯は文字通り己に全てがかかっていることに気付き、固唾を呑んだ。

 

 張伯は敢えて何も武器を持っていなかった。兵の注目は張伯に注がれていた。張伯が率いていたから当然のことであった。張伯が、()()が来た訳を告げてから、すでに一刻がたっていた。兵たちのざわめきが聞こえてくる。

 張伯はゆっくりと身体を動かし、辺りを確認していた。ちらりとだが、兵を挟んで反対側で、黒い影がゆらめいているのが見えた。あれが伍倉たちであろう。兵たちがそれに気付いた様子はない。喉が渇いて仕方がなかった。唇は乾ききっていた。張伯は、紫色でなければそれでよい、と思ったが、自分でその色を確認することはできなかった。

 

 ふと兵たちが騒がしくなった。ついに李然がその姿を現した。流石に護衛の者が何人も取り巻いていた。張伯は一歩前に進み出た。

 

「貴殿は?」

 

「某は姓は高、字は元公と申します。朗陵国の下役を務めております」

 

 張伯は恭しく礼をした。倉にある中で一番よさそうな服を着てきたが、これが地方役人の装束なのかは見当がつかなかった。あまり露骨にならないように、少しだけ目を上にやった。逆光のせいで、表情は伺えなかった。

 

「ふむ。それで、こんなところまで何用か?」

 

 張伯は頭を下げたまま答えた。

 

「私どもは賊に何度も煮え湯を飲まされてきました。此度、李南部尉が賊を打ち破ったと耳にして、居ても立ってもいられなくなり、参上した次第です」

 

 張伯は頭を上げた。李然はやや訝しがっているようだった。

 

「それで、後ろにいるのは?」

 

「彼らは賊に長い間虐げられていたのです。それで、此度の快報を耳にし、駆けつけてきたのです」

 

 張伯はやや下を向き、少し戸惑いを見せ、また前を向いた。

 

「それで、彼らなのですが、その……、どうしてもこれまでの仕返しのため、賊たちを殺してやりたいと」

 

 張伯はそこで、少し顔を歪めて泣き顔を作った。李然を見る余裕はなかった。

 

「私は何度も抑えるように言ったのですが、彼らはそれに従おうとせず、それで……」

 

「相わかった。高元公」

 

 李然は張伯に歩み寄った。張伯の心臓は飛び上がった。

 

「そなたも苦労されているのだな」

 

 李然はそう言うと、うんうんと頷いた。張伯の首から汗が落ちた。つかみは良好だった。しかし、張伯は已然警戒を解かなかった。

 

「ところで、賊どもは官の倉ばかり襲うと聞いていたのだが、どういうことなのだ?」

 

 それがよかった。張伯は一瞬だけ顔を引きつらせたものの、すぐに元に戻した。

 

「とんでもございません! あやつらは、何度も民を襲っています! 確かに初めは食料などを要求するだけです。しかしそれを断わった途端、切りつけてくるのです!」

 

 張伯は語勢を高めた。後ろの仲間を気にしている余裕はなかった。恐らくはむっとした顔をしているのだろう。頼むから先走らないでくれ……! 張伯は全神経を李然に集中しつつ、それが気付かれないように心を配った。

 

「ふむ、そうなのか……。確かに、民の被害が上にまで伝わることはそうそうないだろう」

 

 心当たりがあるのか、李然は顎をなでた。そして、もっと近づくよう、手をこまねいた。李然が手を動かした瞬間、それが殺しの合図なのかと思い、張伯の心臓はまたも跳ね上がった。しかしその意を察すると、ゆっくりと近寄った。

 

「実はだな、賊なのだが、頭領以外みな殺してしまったのだ。ただその頭領も、首を都に持っていかなければならないから、傷つけるわけにはいかんのだ」

 

 李然がひそひそと話しかけた。張伯は、張任が死んでいないことを知り、安堵した。

 

「わかりました。それでは、死んだ賊らを此方に引き渡していただけないでしょうか?」

 

 李然の顔色がさっと変わった。

 

「なんと。なぜそのようなことを? まさか、辱めるつもりではおるまい」

 

 李然の頭に浮かんだのは、太史公の著した『史記』に出てくる伍子胥であった。

 

 伍子胥求昭王。既不得、乃掘平王墓、出其尸、鞭之三百、然後已

 (伍子胥は昭王を求めたが、見つからなかった。そこで平王の墓を堀ると、屍を晒し、これに鞭打つこと三百。其の後にやっと止めた)

 

 張伯は己の失策を悟った。死んだ賊などどうでもよいと、すぐに引き渡してくれると考えていたのだ。都からはるばる来たのなら、むしろこちらの歓心を買おうと、積極的に渡してくれると信じていた。しかしながら、後漢の時代と言えども、死者に対する尊厳は()()あまりあるようだった。

 

「そうではありません。死した賊を見れば、彼らも留飲を下げるだろうからです」

 

 そう言うと、李然は納得したようであった。張伯はほっと胸をなでおろした。このまま続けていたら、いつかぼろが出るかもしれない。死体が現れた時こそ、仲間は一番奮起するだろう。だからその時を戦の時にしようと張伯は考えていた。

 李然は兵に指示を出している。傍らには李然の剣を持った兵が仕えていた。隙を突けば、剣を渡す暇など、とてもではないがないだろう。李然が仲間を横目で見ながら、張伯に話しかけた。

 

「しかし、そなたも大変であったろう。たった一人で、農民をここまで宥めすかして連れていかなければならないのだから」

 

「いえ、そんなことはありませんでした。私もこの度の知らせを聞いた時は、体が震え上がりました」

 

「ははは、そう褒めるでない。本当に楽であったよ。なんせ――」

 

敵襲! 敵襲!

 

 突然陣中に怒声が響き渡った。張伯の頭には伍倉が浮かんだ。まさか、そんなことは。張伯は、すぐ隣りに立っている李然から目を離すことができなかった。戦が始まった。

 

 



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あゝ哀しき李将軍

規約が変更されたため、「転生」タグをつけました。


  

  李將軍然者、隴西狄道人。除洛陽南部尉。

  (李将軍然は、隴西郡狄道県の人である。洛陽南部尉に徐せられた)。

 

 李然は、『史記』を敬愛して止むことなく、夜更けまで読むことが数々(しばしば)あった。其の中でも一番好きなのは、七十篇ある列伝のうちの、李將軍列伝であった。

 けだし李広は李然の祖先というわけではなかった。しかし同じ姓を持ち、同じ郡出身ということもあり、いつしか己の理想の人として、李然の脳裡に刻まれていた。

 列伝を暗誦できるようになった後も、何度もその書に目を通すようになったのである。小役人の侮辱を受け、自ずから首を刎ねる箇所に差し掛かると、そこに入る前からすでに目から涙が落ちている有様であった。誇りを持ち、武芸に秀でながらも不遇の人生を送った李広。彼こそが李然の最も尊敬する人であった。

 

 それだけではなかった。李然にとって、李広は己であった。閨閥(けいばつ)(妻の一族らを中心とした集団)、宦官、そして金で孝廉を買うような腐敗した"清流派"。李然は常に彼らの足元に甘んじてきた。どのような功績を立てようとも、歳が上であろうとも、彼らが李然に敬意を払ったり、帝に恩賞を与えるよう具申することは一度もなかった。そればかりか、李然の功は他人のものとなり、他人の責は李然のものとなった。

 李然は生き延びるためにあらゆる手を講じてきた。そのために李然の家は官に就きながらも(賄賂のために)衰えていた。李然には三人の子がいた。長男は親戚の元に身を寄せ、下の子の二人は満足に食べさせることができなかったために、既に死んでしまっていた。今回の出陣は、宦官らが己の勢力を拡大するがために、邪魔な李然を追い出そうと画策したものであった。李然には勝利が必要だった。誰もが――宦官でさえ――文句をつけられないような勝利を。

 

「敵襲ですっ! 賊がすぐそこまで迫っています!」

 

 李然はしばしの間あっけに取られていた。急な大勝を得たため、心の中で油断が生じていた。李然はしかし、槍を手に取ると、それを大きく振りかざした。

 

「よしっ! 今すぐこれを迎え撃つぞ!」

 

 李然は近くにいる、うだつが上がらない地方の小役人のことを振り返った。名は、確か高元公といった。李然が彼を見ると、彼は農民に向かって切迫した様子で話しかけていた。

 

「今すぐこの場を離れましょうっ! 私たちがいても邪魔になるだけです! ここは官の兵たちに任せて、私たちは早く避難しましょう!」

 

 しかし、高元公の言葉は余り聞き入れられていないようだった。農民は不満の顔を浮かべ、手には力が入り、赤くなっていた。

 無理もない。李然は 今まで散々賊に虐げられてきたのだ。その憎むべき敵が目の前にいて、しかも此方にはその敵を打ち破った心強い味方がいるのだ。これで戦いの衝動を抑えられるわけがない。

 しかし李然には、これは受け入れられないことであった。民を戦わせて賊を打ち破ったとあれば、それを理由に死刑に処せられる恐れがある。その罪を減じるために金をはたいたとしても、平民に落とされるかもしれない。そもそもその金が払えるかどうかも怪しい。

 それに李然には、別に民の力を借りなくとも、勝てる自信があった。当然である。何せ首領を捕らえているのだから。今襲い掛かっている賊は、ただの烏合の衆である。李然は高元公に話しかけた。

 

「高元公よ、そなたにお願いがある」

 

「はいっ! 何の御用でしょうか?」

 

 高元公の声はわずかだが震えていた。血気のある農民、更には破れかぶれの山賊に挟まれているとあれば、生きた心地がしないであろう。李然の、高元公への憐れみの情はますます大きくなるばかりであった。

 

「私の兵を一部そなたに預ける。それと民を率いて、山に向かって欲しいのだ」

 

李然の言葉に、高元公はうろたえた。

 

「や、山ですか? それはどうしてでしょうか?」

 

「うむ、実は今襲っている賊の他にも、どこかに隠れている者がいるようなのだ。戦っている間に、横から襲われたら目も当てられないことになる。そこで、山に隠れていないかどうか探して欲しいのだ」

 

 李然には、隠れている者がいるかどうかなど知る由もなかった。そのような偵察をする時間がなかったし、また首領さえ何処にいるかわかれば何の問題もないと思っていたからである。今言ったことは、民を戦場から引き離すための、高元公についた嘘であった。民を偵察させるだけであれば、宦官も強くは批難できないであろう。

 もちろん、高元公だけでは民を抑えることができないことがわかりきっていたため、幾ばくか兵を貸したのである。さしもの官の兵の前では、いくら奮っていたとしても、下手なことはしないであろう。

 高元公は考え込みたいが、それを我慢しているようだった。賊がどこかに隠れている、という言葉を聞いてから、それは一層酷くなっていた。これでは、まともに兵を率いれられないかもしれない。彼には大事な使命がある。そのために李然は高元公を激励した。

 

「よいか。朝廷から賜った兵を預かる以上、必ずやその任を全うするのだ! ……上手くいけば、褒美をもらえるやもしれん」

 

 残酷な言葉であった。褒美など、李然でさえ貰えるかどうか怪しいところであった。もし褒美がもらえたとしても、その褒美を()()()()()の根回しがそれを上回るであろう。李然は高元公の目をまともに見ることができなかった。

 

「かしこまりました。その任、たしかに承りました。直ちに山へ向かいます」

 

 高元公はそう言うと、すぐに兵を率いて、民を説得した。民には不満の色がうかがえるが、兵を見るとすぐにおとなしくなった。先ほどまで見せていた気弱な姿は、もう見られなかった。土壇場では、この男、意外と肝が据わっているのかもしれない。李然はその様子を見て、戦が終わった後には、彼を部下にするのもよいだろうと考えた。

 

 

 後顧の憂いはこれによって断たれた。

 

 

 賊の勢いは激しかった。右肩に黒い包帯を巻いたものを中心として、何度も陣中に切り込んでいた。ここまで気付かれずに接近されたのは、民に気をとられていたせいであろう。

 今や李然らは同士討ちを恐れて、弓を使えなかった。李然はすぐに弓を捨て、槍を手に取り防御に徹するように言った。剣と槍とでは、槍の方が長い。往々にして、長い得物を扱うほうが有利である。特に防御に専念するのであれば、そうそうやられるようなことはない。

 李然の指揮は的確であった。賊は今は何度も突撃を繰り返しているが、やがて息切れするであろう。それは正しかった。一刻もしないうちに剣戟の音は次第に弱くなっていた。

 潮時であろう。李然は部下に兵を与え、賊の横から奇襲するように命令した。これで止めを刺すつもりであった。賊の残党にしては士気が保った方であったが、自分と戦ったのが一番の不運であろう。李然は髭を撫でた。それを見て、一人の兵が話しかけた。

 

「李洛陽南部尉、ここは我らが捕らえた賊の首領を殺してしまうのはどうでしょうか? 死んだとあれば、彼らにはもう戦おうという意はなくなるでしょう」

 

「いや、それはしない方が良い。もし死んだとあれば、その敵討ちを果たさんとして、賊はたちまち息を吹きかえすだろう」

 

 李然は賊らを見た。皆服は汚れ、疲れが伺える。顔には既に覇気がない。それでも何度も切りかかってくるしつこい男がいるが、彼さえ倒してしまえば、もう終わりであろう。李然は部下に、自分の弓を持ってくるよう命じた。李然は弓を取ると、よどみない動作で矢を番えた。何本もの槍を突きつけられようとしているのにも関わらず、男は果敢に切りかかっていた。

 

 矢が放たれた。たちまちそれは男の右肩にあたり、その勢いのまま後ろに倒れ込んだ。それを見た賊は、驚き慌てふためいている。李然は弓の使い手であった。

 

「流石のお手前でございます!」

 

 いつかあの李広のように岩に深く矢を突き刺すことを望み、何度も練習をしていたのだ。一度もそんなことは起こらなかったが、自然と弓を扱うのが上手くなっていた。李然は、岩などに突き刺さることなどあり得ないことを、その身を持って知った。李然は何度も石に向かって矢を放ったのである。虎と思うことが必要だと思い、石を黄色く塗ったことや、酒を飲みながら射ったこともある。しかし、石には決して刺さらなかった。

 

廣出獵,見草中石,以為虎而射之,中石沒矢,視之,石也。他日射之,終不能入矣。

(李広は狩りに出て、草の中に石を見た。虎だと思って弓を引いたが、矢は石に刺さった。これをよく見ると、石であった。後日この石に矢を放っても、また刺さることはなかった)。

 

『史記』にあるこの小話は、恐らく嘘であろう。しかし、岩を突き刺すことはできなくとも、人を突き刺すことはできる。李然は己の弓の腕が誇らしかった。黒い繃帯に突き刺さった矢が、男の右腕を動けなくさせていた。

 

「よし、いまだ! 勝ち鬨を挙げろー!」

 

 李然は幸せであった。ここまで己の策が上手くいったのは初めてであった。この勝利は、あの李広でさえ成し遂げられたなかったことであろう。悲劇の将軍、李広。その孫の李陵も禍に遭い、それによって太史も武帝の怒りを買い、結果『史記』が生まれた。 しかし李然は、彼らと同じ轍を踏む気はなかった。名を遺したいという気持ちはもちろん持ってはいるが、先ず今のこの姿を賞賛されたいという気持ちがあった。宦官らにおもねる度に握りこぶしを作っていた李然には、賞賛を欲する気持ちが人一倍強かった。

 

 

 李然は、勝利を疑っていなかった。

 

 

 あと一押しで賊を壊滅できるというまさにその時、高元公が()()として駆けつけるという知らせが入った。この時点で、李然は特に何も考えていなかった。あんな少数の兵では、戻ってきたところで、大した助けにはなるまい。ただ、ここまで大勢が決した以上、農民が戦場にいても文句は言われないだろう。そう考えていた。李然の兵は、援軍がくると聞いて、ますます浮ついた気になった。

 李然の周りには、偶々兵が少なくなっていた。必死の奇襲に対応するために兵を割いていたからである。そして、李然は弓を持っていた。近くでは使うことのできない弓を。

 

「偵察していた兵が、戻ってきました!」

 

 高元公と一緒にいた官の兵が、農民より先に陣中に入って来た。農民らは、何も言わずずかずかと歩いて入ってきた。警護の兵が押し留めようとする。すると突如叫び声をあげて、農民らが周りの兵を襲い出した。それを防ごうと指示を出そうとした兵は、鎧を着た兵に切り殺された。

 

 そこからはてんやわんやの連続であった。。対応がままならぬうちに、山賊たちも雄たけびを挙げながら突撃してきたのである。

 李然には何が起こったかわからなかった。李然の軍は砂のように崩れた。混乱の中、誰が敵なのかわからず、思う存分戦えない中多くの兵が殺された。李然は兵をまとめようとしたが、既に農民が迫っていた。李然の目論見は崩れ落ちていった。

 

「ここは囲まれています! 李将軍は早くお逃げになってください!」

 

「しかし、ここで私だけが逃げるわけには……」

 

 李然は、今のこの有様を認めることができなかった。李然を殺そうとする者が前から走ってきているのを見ても、腕が動かなかった。頭の中は、なぜ、という疑問で占められていた。李然が殺されようとするまさにその時、兵の一人がその身を呈して李然を庇った。兵はそのまま口から血を流して倒れた。それを見て、李然の体はやっと動き出した。

 

「逃げなければ……何とかして……」

 

 李然は何よりも先ずこの窮地を脱することが重要だと考えた。すなわち、周りにいる兵を呼び、彼らだけでこの戦場から離れようとしたのである。しかし、それは残りの兵を見捨てることになる。将のいない兵で賊に勝てるわけがない。李然は兵を見捨てられなかった。

 そんな時、李然の頭にある人物が浮かんだ。苦難にある中いつも思い浮かぶ顔は、ただ一つだけであった。あの唯一崇拝する将軍が、頭をよぎったのである。彼は一度だって己が兵を見捨てるようなことをしただろうか? 李然は彼に恥じるような振る舞いをしたくなかった。しかし、だからといって、どうすればよいのか李然にはわからなかった。兵同士で戦い合っている中、どうしてまとまることができるだろうか? そうこうしているうちに、李然を取り囲もうとする農民の数が増えていった。

 

「李将軍っ! はやくっ、こちらに!」

 

 血だらけの兵が李然を呼んだ。李然の足は思わずその兵の元に向かった。少し前に聞いたことがある声だった。歩み寄っているうちに、李然はその兵がどこかおかしいことに気付いた。その兵は手に何も持っていなかったのである。そして、李然はその兵の顔を見た。高元公であった。李然は呆然と立ち止まった。

 高元公は腰につけた短刀を両手に持つと、体を低くして真っ直ぐ李然に飛び掛った。短刀は李然の着けている鎧によって阻まれた。高元公に動揺は見られず、短刀を右手に持ちかえて追撃をかけた。思わず手でそれを払いよけた。

 

「お、お前は……」

 

 高元公はじっと李然を見ていた。何の感情も伺えなかった。李然は恐怖のあまり叫び声をあげた。そして背を向けて逃げ出した。李然はほとんど四つんばいになりながら、陣の中を逃げ回った。例え見知った官の兵が側にいても、周りにいる誰もが敵のように感じた。李然は後ろを向いた。

 高元公は立ち尽くしたままだった。両手をさげたまま視線をこちらに向けていた。李然は慌てて矢を放った。その矢は、李然に背を向けている兵に当たった。兵はうめき声を一つあげると、地面に倒れ込んだ。

 

 この時の李然の動揺は計り知れなかった。ただでさえ混乱しているというのに、自分が味方を殺してしまったのである。咄嗟に、このまま帰ったら、(味方を殺した廉で)殺されるという思いが浮かんだ。李然の脚は震え、もう起っていられなかった。膝を地面につくと、そのまま悲鳴ともつかぬ叫び声をあげた。李然は弓を放り投げた。そして、手は自然と腰にのびた。李然の目には、戸惑い、倒れていく兵がうつっていた。そして、李然は――

 

 

――――遂引刀自剄。

 

 

 戦いは終わった。降伏する官の兵を見ながら、張伯はため息をついた。張伯は伍倉の独断専行により、危うく死に掛けた。もし機転を利かせて、皆に避難するよう言わなかったら、どうなっていたかわからなかった。

 彼らには、伍倉らと一緒になって、今すぐ攻めたいという気持ちがとても強かった。王才など隣に立っている兵を睨み殺さんとするばかりであった。李然が兵を一部貸してくれたからこそ、張伯は助かったのである。憎むべき官の兵が隣にいるというのは、彼らに戸惑いの念を起こさせた。気勢がわずかだが削がれたのである。張伯は山の麓で眠っている兵たちに、感謝の言葉を述べた。ここからでは、彼らがいるところは見えなかった。

 

「やりましたね、兄貴」

 

 王才が話しかけた。張伯はいつの間にか兄貴、と呼ばれるようになっていた。王才と会ってからそこまで時はたっていないはずなのだが、それがいつからなのかわからなかった。意外と、人に付け入る才があるのかもしれない。最も、それは()()()ではないだろう。

 

「ええ、これも皆のおかげです。よく辛抱してくれました」

 

 張伯は鎧を脱ぎ捨てた。初めて着る鎧は重く、血の臭いがした。しかし勝利した今、もうこれは必要ない。

 

「辛抱したために、官の兵に偽装することができました。そのおかげで、彼らも油断したでしょう」

 

 王才はやや引いていた。策が受け入れられなかったのだろうか? 率先して山で兵を殺したのは、王才であった。確か、四、五人は殺していた。あるいは――張伯は一つの可能性に思い至った。あるいは、兵をだまし討ちで殺してしまったことを、後悔しているのかもしれない。そして、その後悔の念が逆恨みとなって、張伯に向かっているのかもしれない。あるいは、自分が殺したことを認められず、張伯を恨んでいるのかもしれない。張伯は王才に問いた。

 

「私が憎いですか?」

 

「へっ? いえ、とんでもありません」

 

 王才はへこへこしながら言った。

 

「では、私が怖いですか?」

 

「え。えっと、それは、兄貴のことなんか、これっぽっちも怖くなんかありやせん!」

 

「ほう、それは面白いことを聞きました。私には威がないようです。これからはもっと精進しないと」

 

 張伯は安堵した。王才は別に張伯を殺そうなどと考えてもいなかった。むしろ、怖がっていた。王才が、兄貴のことが怖くって、でもそこまで怖くなくって、などと支離滅裂なことを言っているのを横目に見ながら、張伯は陣の中を歩き回った。

 

 ふと、大きな幕屋が目に入った。ここが、李然の執務を行う場所だろう。中には、大きな地図が壁に張ってあった。張伯はその地図をはがして、手に持った。机の上には、多くの竹簡と書が置いてあった。書の中には、竹でてきているものもあった。張伯はそれを懐の中に入れた。

 張伯は額の汗を拭った。戦のせいか、体が熱く感じられた。今回は誰一人も殺さなかったが、やはり戦の空気というのは、そこにいるだけで体を疲れさせる。本当だったら全ての文字が書かれたものを持って行きたいが、竹簡は嵩張って持ち運びしにくい。かといって字の読めない者に運ばせたら、何をするかわからない。張伯は名残惜しく机を見ながら、幕屋を後にした。官の陣であれば、どこかに馬くらいいるだろう。その背に乗せて運ぶとしよう。

 

 張伯が幕屋を出ると、王才が駆けつけてきた。口を大きく開けている。

 

「兄貴っ、大変です!」

 

「何があったのですか?」

 

「あ、兄貴。気付いていないんですか? 兄貴の後ろを見てください!」

 

 張伯は後ろを向いた。手に持っていた地図が地面に落ちた。張伯が先ほどまでいた幕屋には、火が広がっていた。

 

「なぜ火が……。火をつけろなどと、私は命令していません!」

 

 張伯は王才をにらみつけた。他の幕屋には火はついていない。他ならぬこの幕屋で、張伯が入っていたこの幕屋だけが、燃えているのである。

 

「兄貴、誰がやったのか、あっしにもわかりやせん。ここは早く逃げましょう」

 

 王才はびくびく背を丸めて言った。張伯の体は動かなかった。ただ、大きくなっていく火を見据えるばかりだった。




更新
 誤植訂正。


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信を主とする丁郎官

 炎に舐め回されている天幕を前にして、張伯はただ立ち尽くしていた。他は燃えておらず、この天幕だけが燃えている。余りにも露骨だ。王才が恐る恐る口を出した。

 

「兄貴、これをやったのは……李然の兵でしょうか? どっかに隠れてて、火をつけたんでないですか?」

 

 張伯は口を真一文字に結んでいた。李然の兵などということはあり得ないことを、張伯は()()知っていた。李然の軍は混乱をきたしていた。とてもではないが、文(字が書かれたもの)を全て燃やすよう指示を出せる者がいたとは思えない。そんな者がいれば、むざむざと李然は討ち取られはしなかっただろう。張伯は王才に冷静に話しかけた。

 

「これをやったのは、恐らく伍倉の手の者でしょう」

 

 王才は縮みあがった。一瞬周りを見てから、肩を丸めた。

 

「そ、それは、何でですかい?」

 

「単純な話です。私を疎んじていて、私を害することで己の利益を欲しいままにすることができ、それを行うだけの実力があるのは、彼ただ独りだからです」

 

 伍倉はなぜ、命令を聞かずに突撃したのだろうか? 上手くいけば、自分は功績を立てることができ、なおかつ邪魔者を敵が排除してくれるかもしれないからだ。

 

「私に協力してくれますか?」

 

 王才はただ首を動かすだけであった。敵はどこにでもいる。そして、内患の敵こそが、最も危険なのである。口だけの人。指示を聞かない人。不和をばらまく人。これらは見つけ次第、早急に除かなければならない。

 

張伯は、(へつら)うばかりの王才を冷ややかに見据えた。王才はどうだろうか。王才の行動はわかりやすい。餌を与えれば、それだけ従おうとする。ただし、恐怖を覚えた時は、その限りではないかもしれない。

 また王才という小人なら、後のことを考えもせず、目先の利益に飛びつくぐらいのことは平気でするであろう。王才がそのような人だからこそ、新参者の張伯に従っているのである。張伯が使える手ごまは、その王才しかいない。張伯は頭を手で押さえながら、陣を後にした。

 

 

 野原には、多くの()()が集まっていた。仲間は輪になっていた。こんな風景を、どこかで見たことがある。張伯はその時のことを思い出そうとしながら、輪の中心に真っ直ぐ向かった。中心にいる人が見える前に、張伯は話し掛けた。

 

「親分、生きていますか?」

 

「ん? おうとも。……ったく、お前は相変わらずねちねちしてやがるなぁ」

 

 張任が、頭に白い繃帯を巻きながら、あぐらをかいて座っていた。頭の傷以外、それらしい傷は見当たらない。

 張伯はほっと胸をなでおろした。張伯は、親分は首を刎ねられてしまっているかもしれないと危惧していた。親分のことなのだから、仲間を売り飛ばしたりはしないだろう。何も話さぬ首領など、首がない方が都合が良い。

 張伯が早く救出に赴いたおかげで、張任は助かったのだ。もしあとニ、三日後であれば、少なくとも厳しい尋問を受けていたであろう。

 

「それでよぉ、さっきその辺の奴から聞いたんだが、今回の作戦、お前が立てたんだって?」

 

 張任は右手に持った酒に口をつけようとしたが、近くの若者にそれを取り上げられた。

 

「ええ、其の通りです。これも親分を助けたいという、強い思いを成就させんとしようしたがためです」

 

「かっ。何言ってるんだか。まーた調子のいいこと言いやがって」

 

 張任は若者を拳骨で殴ると酒を奪い返し、一気に傾けた。そして、にかっと歯を見せた。

 

「でもよぉ、今回は本当に助かった。ありがとよ」

 

 張任の顔はやや赤かった。酒を飲んだにしては、あまりにも早すぎるだろう。

 

「親分からまさか感謝の言葉をいただけるなんて……感激です!」

 

「おいそりゃどういう意味だぁ? あん? もう一回言ってみろぉ」

 

 張任は張伯の頭を小突きまわした。張伯は痛みを感じながらも、笑ってうけながした。周りの者も、昨夜とは比べ物にならないほど柔らかい、ほっとした顔を見せていた。張任は酒を捨てると、すくっと立ち上がった。

 

「よしっ! お前らっ! 帰ったら宴会にするぞ!」

 

 張任の言葉を聞き、皆荷物をまとめ始めた。といっても一部の者は陣に残っていて、そこにあるものを運び出しているのだという。この場には伍倉はいなかった。すると、当然陣の方にいるのだろう。あそこまで張任への忠誠心が高い伍倉が、この場にはおらず、陣の方でめぼしい物を探し集めている。

 

 張伯は少しそのことが気になった。不自然だ。記憶が正しければ、伍倉は肩を怪我していた。とてもではないが、重たい荷物を運ぶことなどできはしないだろう。何せ剣を振り回していただけでも驚きだったのだ。

 もし略奪をしていないのなら、一体何をしているのだろう? もしかすると、探しているのは本当なのかもしれない。最も、それは普通の探し物ではないだろう。もしかしたら黒焦げた死体を探しているのかもしれない。

 

「おやぶぅん、生きていてほんとに……本当によかったです!」

 

 周りの者は皆、お互いに声を掛け合って、喜びの声をあげながら移動し始めていた。中には脚を怪我したのか、肩を支えられながら歩いている者もいた。張伯の周りには誰もいなかった。王才はいつの間にか姿を消していた。親分の近くにいるのかもしれないが、でなければ周りの者を手伝っているのかもしれない。

 張伯は短刀に手を触れながら、今後のことに頭を回らせていた。李将軍を破ったというのに、張伯の心は暗澹としていた。時折歓びの声が張伯の耳に届いた。張伯は誰とも喜びを分かち合わなかった。ただ一人、宙を見据えながら歩いていた。山に近づくにつれ、だんだんと雲が厚くなっていた。

 

 

 集落から白い煙が見えた。一瞬どきりとした。張伯は先の体験からか、それを火事だと思った。しかし、それは杞憂であった。ただ宴の準備がなされていただけであった。足の速いものが勝利を伝えたのであろう。会堂、と張伯が便宜上呼んでいる建物では、多くの女たちが集まって、飯を作っていた。一人の女が張伯に気付き、周りの者に話しかけた。ここからでは声が聞こえない。

 

 しかし、彼女たちは好意的な、そして好奇心に満ちた目を向けてきた。手を振って、小さく笑みをみせる女性もいた。張伯は何も応えで、会堂を後にした。女たちの中に一人だけ男がいるのは具合が悪いと考えたからである。正確に言えば、それを誰かに見られるのは、敵を増やすことにしかならないと見たからである。張伯の胸には、女に囲まれることによる気恥ずかしさは全くなかった。

 

 集落の中を張伯は歩いていた。目的地は決まっていたが、自然と遠回りするように歩いていた。盛大に食料を使い果たしても、軍の糧食を奪って運んでいるのであるから、問題はないのであろう。そして、その前にどれくらい食料が残っていたかについて、知っている者はいないはずだ――自分を除いて。張伯はふと、知っているかもしれないもう一人のことを頭に浮かべた。彼は昨日と今日、一体何をしていたのだろうか。張伯は確かめなければならなかった。

 

 

 

 ぽつぽつと、雨が降り始めた。少なくとも今日は止みそうにない。茶色い土に雨が落ち、土を黒く染めている。作物は茶色いままだった。育たないのは、雨が足りないせいではない。土がよくないのだ。といっても、今から土を入れ替えたとしても、育つ頃には厳しい冬が訪れる。そう、厳しい冬が。

 張伯の恐れは益々強くなるばかりであった。何せここに来て初めての冬なのである。満足に食べ物がなければ、真っ先に死ぬのは自分だろう。張伯は、己の弱さを誰よりも自覚していた。だからこそ、訪ねないではおれなかったのであった。

 

 張伯は家の門についた。木造の、大きな家だ。前に来た時とは違って、閉め切られていた。門の木骨から滴り落ちる雨粒が、まるで張伯を通さんとしているように流れ落ちていた。

 張伯は扉を叩いた。雨のせいで聞こえなかったのかと思い、もう一度叩いた。自分が来た旨を大声で告げたが、何の返答もなかった。中から小さな明かりが見えるため、人がいるのに間違いはない。

 

「子(先生)よ、どうか扉を開けてください。どうか、私を許してくださらないでしょうか?」

 

 張伯は跪いた。それが許しを求める作法なのかどうか張伯にはわからなかった。張伯は相変わらず木の扉を前にしていた。明かりが何度か揺らめいていたが、それだけであった。

 一刻が過ぎた。過ぎた、とは張伯がそう感じているだけであるため、もしかするともっと短いのかもしれない。だが張伯は、扉が開かれるまでずっと待っているつもりでいた。

 宴会に参加する気は最初から無いのだろう。思えば前の宴は、張伯の歓迎会であり、その名づけ親だからこそ彼は参加したのであろう。そして、今夜の戦勝の宴は、穢れを避けるために参加するつもりはないのだ。または穢れというよりも、単に争いごとに関わるのを好んでいないだけかもしれない。最も、穀物庫の場所を調べているのだから、それが本当かどうかも怪しい。

 

「なぜ、私が扉を開けないのかわかりますか?」

 

 小さな声が聞こえた。張伯は慎重に言葉を選んだ。

 

「私が、正の道に則るとはいえない方法で、官の軍を襲ったらからでしょうか?」

 

「良くないと思っていることは、それだけですか?」

 

 雨が冷たかった。

 

「……食料を、一部の者だけに多く渡しました」

 

 やはり、帳簿通りにものがあるのか確認していたのだろう。問題は、なぜそれをわざわざやったのか、ということにある。すでに官の穀物庫を襲わなければならない程、食料が切迫していることを知っていたのだから、もう一度確認する必要はない。もしする必要があるというのなら、それは……。

 

「私には、あまり関係が上手くいっていない者がおります」

 

 張伯は正直に言った。

 

「私は、その者のことがあまり好きではありません」

 

「……子曰、惟仁者能好人、能悪人。(子の言う、ただ仁者のみよく人を好む、よく人を悪むと)。張白よ、あなたには私心があります。だからこそ、本当はその者を好むことができないし、また悪むこともできないのです」

 

 張伯は問いかけた。

 

「私は、私心があるがために、小人(つまらない人)なのでしょうか?」

 

「仁者になるのは、とても難しいことです。ですが、決してできないことではありません」

 

「師よ、もう一度私に万の事を教えて頂けないでしょうか!」

 

 張伯は切れるような声をあげた。雨が張伯の顔をうった。膝から下は泥に浸っていた。張伯がそれを気にすることはなかった。ここが分水嶺であった。

 もしこれが受け入れられなければ、自分はますます悪い立場に置かれるだろう。そうなると、やや分の悪い()()をするしかない。泥がべったりと、脚にへばりついていた。服はとうに意味をなしていなかった。(泥の重みで)脚だけで立つのはもう無理だろう。

 

「私には多くの後悔があります。子曰、君子坦蕩蕩、小人戚戚。(君子はおだやかだが、小人はくよくよしている)。私には、この言葉が真に迫っております。お願いします。私は、親(したしむべき人)を失いたくないのです」

 

 張伯は己をさらけ出した。

 

 雨はますます強くなっていた。張伯の体はかちかちに冷え切っていた。張伯は、それ以降、口を開かなかった。扉のすぐ後ろに、人の気配を感じた。

 

「わかりました。張白、あなたの意気込み、しかと受け取りました。これからも、あなたに教えを授けます。三日後に、またいつも通り屋敷に来るように」

 

 張伯は、恭しく礼をした。何か言葉をはさむのは無粋であると感じたため、そのまま屋敷を離れていこうとした。張伯が背中を見せると、丁程が話しかけた。

 

「そう言えば、ここからでも戦勝を伝える声が聞こえてきました。張白よ、敵の指揮官はどうなりましたか?」

 

 張伯は何の躊躇いや気取りを見せることなく、つまり自然な調子で答えた。

 

「その者は自刃しました。敗北したことに耐えきれなかったのでしょう」

 

「そうですか。敵ながら、節を守ったようですね。他にその者について知っていることはありますか?」

 

 張伯は、様子を見るために、先回りして言った。

 

「いえ、それはわかりません。李将軍の天幕に入ったのですが、誰かが火をつけたため、何も得られませんでした」

 

「なんと……火を。張白よ、どこか火傷を負いましたか? 無事ですか?」

 

 その音色は、張伯を本当に心配しているように聞こえなくもなかった。この雨音では、細かい声の調子がわかりにくい。

 

「ええ、変わりありません。それよりも、文が全て燃えてしまったことが、口惜しくてたまりません」

 

「何と……それは……。いえ、張伯よ、そなたが無事で何よりです。文よりも、生きている我々の方が大事であるのに何ら疑問はありますまい」

 

 そう言う丁程の声は震えていた。丁程の家には多くの書物があった。書を愛する者の性として、文が燃えてなくなることに耐えられないのかもしれない。張伯は重い脚を引きずりながら、屋敷を離れていった。

 

 

 

 帰り際、歓びの声が聞こえてきた。会堂の方を見ると、一際明るかった。中では親分が真ん中の席にいて、皆を楽しませているのだろう。

 伍倉はいるのだろうか。伍倉が丁程に、告げ口をしたのに間違いはない。ただ、先の様子を見るに、お互い親しいわけではないようだ。伍倉は張伯を非難する時に、丁郎官とは言ったものの、嘆いていたぞ、と乱暴な物言いをしていた。もちろん、伍倉の気が立っていたためというのもあるだろう。

 

 しかし嘆いていたのが親分であれば、そんな風には言わないだろう。丁程も、もし伍倉と親しいのであれば、もっと突っ込んだことを聞いてきたに違いない。それをしなかったのは、彼にとって、己が正道に恥じる行いをしたからであろう。いくら弟子とは言え、他者からの指摘で疑念を抱くというのは、余り良くはない。早い話、親分を信奉する伍倉より、一番弟子である己の方に気が向いているのだ。

 張伯には自信がみなぎっていた。元の関係に戻っただけではない。今や、自分は策を立て、その策で親分を救出するのに成功したのだ。伍倉でさえ、そうやすやすと己を害することはできないであろう。張伯には笑みが浮かんでいた。重たい脚のことなど気にはならなかった。張伯は会堂には寄らずに、そのまま家に戻った。

 

 

 

 張伯は家についた。いつの間にか、この陋屋を気に入っていたようだ。今にも潰れそうなおもてをしているが、張伯は中に入るのを厭わなかった。特に物が動かされた形跡はない。水瓶も、そのままにある。どうしてなのかはわからないが、不思議なことに雨が滴り落ちてはこなかった。

 この家は、他の家とは少し違う。少し前まで、この家には誰も住んでいなかった。それなのに、雨漏りしないように点検されているどころか、水瓶まで用意されていたのである。誰が好き好んで、いつ来るともわからない人のために準備しておくだろうか。

 

 張伯は改めて親分の気持ちを知り、深く感謝した。親分がいなければ、自分はとっくに死んでいただろう。張伯は今後のことを考えようとしたが、大きなくしゃみを一つした。このままでは風邪をひくだろう。

 飲み水用でない壷を急いで盥に入れると、張伯はすぐに服を脱ぎ捨てた。熱いお湯につかりたかった。しかし、それはこの世界では贅沢過ぎる。張伯は凍えるような水をすくい、身体にかけた。冷たさが骨に沁みいるようだった。鳥肌が全身に立っていた。

 

「これくらいなら、風邪を引くだけですむ」

 

 唯一幸運なのは、どこにもけがをしていないことだろう。不治の病はごまんとあり、少しのけがが命取りになるこの世界。虫歯で死に至ることもあるだろう。敵は人だけではないのだ。

 張伯はいまさらながら、己の浅慮を憂えた。安心して眠れる日など来ることがあろうか。そんな日は、この世界にいる限り決して訪れない。

 張伯は何度も何度も、冷水を身体にうちつけた。悪態をつきたかった。しかし、あまりの寒さのため、もう口を開ける気がしなかった。冷え切った体が、眠りがほしいと訴えていた。

 今日は激動の日であった。自分は前日に睡眠を十分にとっていたため平気であった。しかし、他の人――例えば伍倉は睡眠をまともに取れたとは到底思えない。そうとう疲れているだろう。

 

 ――だとすれば、今が好機だろうか。

 

 張伯に、ふと冷酷な考えが浮かんだ。敵を取り除くのに、早いにこしたことはない。ともすれば、こちらから仕掛けるのも一つの手であろう。張伯は、傍らに置いてある短刀を見た。これで、あの武闘派に立ち向かえるとはとても思えない。それに、伍倉には仲間も多くいるであろう。ばかばかしい。やはり自分にも疲れが溜まっている。

 張伯は、うつろな目で短刀を眺めた。この短刀がなければ危なかったことも何度かあった。そういえば、この短刀は伍倉が自分に与えたものだった。ということは、この短刀には何か罠が仕掛けられているのかもしれない。

 

「馬鹿馬鹿しい……」

 

 自決用とはいえ、そこに毒を仕込むほど悪辣ではないだろう。毒の管理には注意を要する。何も知らずに持たせていたら、何かの拍子でそれで怪我をして死んでしまうかもしれない。いや、それこそが伍倉の狙いなのだろうか?

 そこまで考えると張伯は、思いっきり顔を盥に沈めた。働かない頭では、何を考えるのも害だ。顔を沈めても、眠気はますます強くなるばかりだった。張伯は体を拭くと、床の上に置いてあった寝間着を身に着け、そのまま寝ころんだ。明日になれば、また何かが変わってくるだろう、そう思って。

 

 張伯の脱ぎ捨てた衣服から、油紙の包みが顔を出していた。

 

 

 



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新たな隣人

 あの大立ち回りを演じてから、風邪を治すために休養すること三日、張伯はすっかり元通りになっていた。その間仔細変わりなく、張伯はただ横になっているだけだった。  病を押して無理に物事を進めても上手くいかないことを、けだし張伯は知っていたからである。食べ物は、丁程が人を遣って張伯に届けさせていた。その人は別に丁程の部下というわけではないだろう。ただ手すきの者に、張伯に届けるよう頼んでいるだけだろう。毎日人が変わるのを見ながら、張伯は漠然と考えていた。

 

この集落で、張伯が一番知っている人間は丁程であった。伍倉は妹がいるようだし、親分に忠実であること以外、特に知らなかった。親分、張任は、()()()()()ということ以外、出身地くらいしか知らなかった。王才は論外である。必然、張伯がよく知る人物は、丁程であった。

 ただ、その丁程でさえ、張伯が知らないことがいくつも存していた。伍倉との細かい関係、今置かれている状態への感情。そして親分に対して持つ気持ち。張伯はこれらを知ることなしには、苦しい状態になった時、ますます苦難に陥ることになると確信していた。

 

 

 子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉瘦哉、人焉瘦哉。(その人のなす所を見、その人の過去を知り、その人の心を落ち着けるところを調べたのなら、その人は人柄を隠すことはできない)。

 

「子(孔子)は何故このようなことを言われたのかわかりますか?」

 

「はい。人の人柄というのは、なす所、経歴、落ちつきどころを見ればたちまちわかると子はおっしゃっております。これはつまり、これらの要素により、人柄が自然と形成されていくということかと愚考いたします」

 

「ええ、其の通りです。子の弟子の中には、人は生まれながらにして善であるなどと虚妄も甚だしいことを主張する輩がいますが、それは全くのでたらめです。人というのは、諸々の要因によりて、善にもなるし、また不善にもなりえるのです」

 

 丁程は高調して釈義を垂れた。張伯にとって、その是非は気にすることではなかった。張伯は、漢に仕える者たちには、どのような知識を身につけていることが求められるのか、それが知りたかったのである。

 ただしそのためには、文字が読めることが不可欠だ。張伯は筆に墨をつけた。その後筆を慎重に運ぶ。暫らくして後、たどたどしくはあるが、孔子の言を筆写するのに成功した。一文字ずつ区切って書けばいいため、その点は楽なのであるが、字(漢字)を美しく書くのには骨が折れる。少しでも墨をつけすぎたり、手が震えたりすると、すぐに字が潰れてしまう。張伯の卓の横には、紙が張伯の胸の辺りにまで積まれていた。張伯も丁程も座して、向き合っていた。

 

「丁郎官、一つお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

 張伯は、物事に一区切りがついたのを見計らって話しかけた。

 

「ふむ、聞きましょう」

 

「子(先生)は伍倉とはどのような関係なのでしょうか?」

 

 丁程は、途端に難しい顔になった。そして何も言わず、お茶を淹れる用意をした。それは隠しているというよりも、答えに窮しているようだった。

 

「私は、あまり好意を抱かれていないでしょう」

 

 茶器に丁程の顔が映りこんだ。目は虚ろに見えた。

 

「子ほどの高人物が、なぜ……」

 

 丁程は右眉をぴくりと動かしたが、話を続けた。

 

「それは、恐らく私が何の労もしていないからでしょう」

 

 張伯の思わず反論しようとしたのを、丁程は手で制した。

 

「彼にとって、直接体を動かすこと以外のことは些細なことなのです」

 

「そんな、子は常に帳簿を管理し、人々が餓えることなく食料を配賦しております! 彼にはそれがわからないというのですか!?」

 

 張伯の発言は、そこに自身の地位が貶められるが故の不安が隠れていたとはいえ、正鵠を射ていた。

 

「いえ、彼の言うことにも一理あります。私はこのような商人まがいのことをしているのです。彼がそう思うのも最もです」

 

 次の丁程の発言は、更に張伯を驚かせた。其の言葉は、己の職に対して、何ら誇りを持っていないことを暴露していた。そしてまた、弟子のことも貶している。

 

「子よ、おやぶ……張大公に助けられてから、子は今までそれによって生きてきたのではないでしょうか? どうして、そのことを侮るのでしょうか?」

 

 丁程には張伯の謗りが届かなかった。丁程は何も言わなかった。丁程は、もし帳簿係もせず、戦いといった体を使う作業をしないのなら、一体どうやって生きるつもりであるのだろか? この質問に、丁程は答えなかった。恐らく、丁程はそれ以外に生きる道がないと考えたからこそ、こうして今も()()()いられるのである。

 丁程は――正しく――儒に縛られた人間であった。例えそれへの疑念が心をかすめていると雖も、丁程の体は動かない。ならば、弟子である自分が子を批難するのはまずい。儒には、忠孝の教えもあるからだ。

 

「申し訳ありません。言葉が過ぎました。ですが忘れないで欲しいことがあります。丁郎官は立派な方です。ここで一番君子に近いのは、子に他なりません。私は、そんな子を誇りに思っております」

 

 張伯は真っ直ぐ丁程を見た。丁程もやや顔を上げたが、すぐに目をそらした。やや耳が赤くなっていた。弟子が引き下がれば、この場は丸く収まるのだ。

 

「ええ、ありがとうございます。それでは、張大公が何か申し付けたいことがあるとのそうですので、今日はこれで終わりにしましょう」

 

 丁程はにこりと張伯に笑いかけた。寝耳に水とはこのことであった。張伯は、丁程に何か言いたかったが、彼の顔を見てやめた。丁程が張伯の問いかけに答える気がないことがわかったからである。それは照れ隠しのせいなのかもしれないが、張伯からしたら、何か知っていることがあるならば速やかに知らせて欲しいところであった。

 

 

 

 張伯は、例の会堂についた。まだ昼をようやく過ぎたところだというのに、またあの宴会の匂いが立ち込めていた。この一週間で一体何回宴会を開いたのだろう? 張伯はげんなりと肩を落とした。だが張伯の目はすぐに、会堂にいる異質な人間たちを発見した。周りの人々は、何となく彼らから距離を取るように動いていたから、それに気付くのは容易であった。何せそれは、張伯がよく身に沁みて感じていることなのだから。明らかに彼らは外来者であった。

 

「ふむ……。なぜ皆さんはどこかよそよそしい態度を見せるのでしょうか? 彼らは客人です。もしかしたら私たちに対して含むところがあるのかもしれませんが、それでもこうしてお越しになったのです」

 

 張伯にとって、この言説は手馴れたものであった。

 

「客を歓迎しないのは、手に刃を持つのと同じことです。同胞に害を与えることなどどうしてできるのでしょうか?」

 

 周りの者は、皆手を止めて張伯を見ていた。張伯が見ると、彼らはすぐに目をそらした。顔がうっすら赤いのは、恥を感じたためであろう。張伯は己の影響力がますます高まっているのを感じた。張伯はうっすらと笑みを浮かべた。

 

「おう、張伯! いたんだったら、早くおれのとこに来い!」

 

「今参上したばかりでございます、親分」

 

 張伯の冷静な指摘にも、張任は動じなかった。

 

「言い訳しねぇで、さっさと来い!」

 

 張任はまたも酒を手に持ちながら、奥に胡坐をかいて座っていた。

 

「いいか、お前、よく聞けよ」

 

「はい、何でしょう」

 

 率直な言葉を言う親分にしては、少しまどろっこしい言い方だった。そして、張伯は次の言葉で仰天することになる。

 

「嫁をもらうぞ」

 

 

 

 いつものように騒がしい宴会だった。違うのは、やや顔ぶれが変わったことと、張伯があっけに取られていたことだけであった。

 

「いいか、今回将軍を討ち取ったっていうんで、朗陵国が俺たちに同盟を持ちかけたんだ」

 

「はぁ、それはまあわかりますが」

 

「話は最後まで聞け。お前、武器を隣村の奴らにあげたそうじゃねぇえか。てなもんで、普通だったら、隣村から嫁を出すのが普通だが、今回はそれに朗陵国の奴らが絡んできた、っちゅうことだ。わかったか?」

 

「いや、何を言っているのか、存じません、親分」

 

 張伯には、親分の言っていることが、全く、頭に入らなかった。朗陵国と言えば、張伯がそこの役人の名前を騙ったことが思い出された。聞くところでは、それなりに大きい国なのだろう。張伯は、そのくらいのことしか知らなかった。

 

「隣村には確かに武器を渡しました。ですが、それは農具と交換したのです。もう取引は終わっております!」

 

 張伯はわずかに声を荒げた。余りに突然な事態に、張伯は戸惑っていた。

 

「お前さんはただ武器を渡しただけじゃねぇか! そんな自分勝手なことがあるもんか!」

 

 張任の答えは、張伯を納得させるものではなかった。正当な取引をしたはずなのに、なぜここまで話が広がっているのか、全く見当がつかなかった。第一、なぜただ武器を渡すことが自分勝手なのだろうか?

 

「いいか、もう一度言うぞ。本当だったら、交易を受ける側の隣村の奴らが、嫁を出すはずなんだ」

 

 張伯にはその理屈は理解できなかったが、張任の言葉をおとなしく聞いていた。

 

「それで、ただ嫁を出すんじゃなくて、もっといいところから嫁を出せばいい、そういう話になったんだ」

 

 なぜそうなったのか。張伯の疑問は、誰も口に出さなかった。だが聞かれずともわざわざ言うということは、これは異例の処置なのだろう。当然のことであれば、先のように張伯が指摘しない限り、さらりと流されるか、省かれてしまう。

 

「それで、偶々朗陵国の奴らが、俺たちと同盟を結びたいっていうので、その仲介を隣村の奴らがやることになったんだ」

 

「はぁ、随分面倒なことになっていますね」

 

 張伯は平凡な感想しかいえなかった。

 

「元はといえばお前のせいだからな! 最初のうちにもらっとけば、向こうも、わざわざ別のとこから嫁さん引っ張らなくても済んだんだからな」

 

 張伯は頭を押さえた。酒を飲んでもいないのに、痛くてしょうがなかった。

 

「隣村の長老、これはお前も会ってるだろう、そいつが朗陵国とかなり大きなつながりがあってな、いいか、ここまでわかるか?」

 

「えっと、とにかく、同盟を結ぶということですから、それはいいことなのでしょうか?」

 

 張任は少し黙ったが、またいつもの調子で話し出した。

 

「まぁ、そうだな。単純に、官に立ち向かう奴らが増えたっていうことだからな。良いことだ」

 

 張任はそう言うと、張伯の背中を叩いた。親分の手は痛かったが、それは褒めるときの癖なのだと、張伯は今更ながら気付いた。

 

「そうですか。それはよかったです。朗陵国と同盟を結びましょう。嫁はいらないので、断わって置いてください」

 

 張伯はここに来てから、嫁が欲しいと思ったことなど一度もなかった。特に、必要を感じていなかった。見ず知らずの他人、それも常識が大きく異なっている人間と一緒に暮らすのは、面倒でたまらなかった。

 

「お前、何言ってるんだ? 嫁をお前がもらうから、同盟が結ばれるんじゃねぇか。馬鹿なこと言ってんじゃねぇ!」

 

 親分は張伯を怒鳴りつけた。張伯は、頭を手で押さえながら、これは褒めての行為ではないと思った。

 

「いや、悪かった。こいつはここの習慣に疎くてな。これさえなければいいんだが」

 

 張任は横にいる、異質な者に話しかけた。よく見ると、着ている物で二種類に分けることができる。一つは、少しよさそうだが、古臭い服を着ている者だ。もう一つは、かなり上等な衣服を着ている。一番上等な物に間違いはないが、明らかにこの中で浮いている。恐らく、前者が仲介をする隣村の者で、後者が朗陵国の者なのだろう。張伯は、先の会話からそう推理した。

 

「ああ、本当にごめんな。こいつはとんでもないところで抜けてるんだ。愛嬌だと思って、ゆるしてやってくれ」

 

 張任の目は、朗陵国の者の中に向けられていた。正確には、人と人の間に話しかけていた。張伯は、体をずらした。そこには、赤い簪をつけた、小さな女の子が正座して、人に埋もれていた。

 

「まさか、嫁っていうのは、ここにいる、この――」

 

 張伯が言おうとした言葉を、張任はわき腹を殴ることで叩き潰した。張伯の腹からは、代わりにうめき声が出た。張伯が地面に突っ伏している間にも、夜の歓声はやむことを知らなかった。

 

 

「それでは、婚約の儀を始めます」

 

 いつの間にか、丁程が段取りを進めていた。慣れたものか、全く淀みがなかった。張伯は言われるがままに、時には張任に引きずられながら、儀を進めていた。

 目の前の女の子は、俯いていて、その表情は全くうかがえなかった。しかし少なくとも、張伯のことを愛していたり、あるいは宴会を喜んでいるとは思えなかった。張伯でさえ、幾分か愛嬌を振りまいているというのに、この女の子は無言こそが己の役割だと考えているようだった。

 

 隣村の、あの杖を持った老人が、間に座って、何かを唱えていた。何を言っているのかは、聞かなくても問題ないことであると張伯は思った。このような婚約は、恐らく戦国時代のような、嫁を交換して同盟するという、よくあるやつだろう。それに結婚式は、長ったらしいものと相場が決まっている。そして、こういうのは得てして周りのものが勝手に進めるのだ。

 親分や丁程は、婚約することは事前に知っていたのだろうが、そのことを一切張伯に伝えなかった。それはそういうものなのだろう。つまりこの集落では、自由に結婚することができないのが普通なのだ。そして別に練習などをしなくとも、つまりいきなり儀をやることになっても、当事者は何とかなるようになっているのだろう。張伯の推察は半分当たっていた。

 

 一つだけ問題があった。それは、暇でしょうがないということであった。食事も自由にとれず、話すこともできず、ただ正座しているだけなのは苦痛であった。張伯はぼんやりと女の子を見つめた。こちらのことを一度も見向きもせず、黙って下を向くのは、なぜだろうか。これから嫁ぎに来るというのであれば、少しくらいは此方の印象を良くしようと思うはずである。女の子の前の御座だけ色が変わっているような気がした。

 

「それでは、名を拝借いたします」

 

 そこで、話が止まった。張伯は、ぼーっとしていたが、張任に小声で、いや周りにも聞こえる声でどつかれた。

 

「おい、早く名前を言えっ!」

 

「はい、私の姓は張、名は白、字は伯と言います」

 

 張伯は頭を下げた。すると、周りからひそひそと声が聞こえてきた。何かに驚いているような印象がした。

 

「おいっ、真名はどうした! 早く言えっ!」

 

 親分が思わず怒声をあびせた。

 

「えっ、真名ですか? えぇっと、それは、まだ決めていません」

 

 またどよめきが起こった。今度はさっきよりも大きかった。張任が張伯の髪を引っつかんだ。

 

「おい、お前、まだ真名がなかったのかっ!」

 

 張伯は頭を振り回されながら、頷いた。頷く際に髪が何本か抜けた気がする。それが伝わったかどうかは定かではなかったが、張任は張伯を投げ捨てた。そして、すぐに頭を床にこすり付けた。

 

「すまねえっ! こいつは今まで、豪族に酷使されてたもんで、そんで名前を持っていないんだ! ゆるしてやってくれねぇか。どうか!」

 

 張伯は、ここまで悲痛な声を聞いたことがなかった。丁程は、どうしたらよいのかわからず、うろうろと身体を動かしていた。ざわめきは最早抑えられないほど大きかった。

 すると、突然泣き声が響き渡った。女の子の声であった。件の、張伯の嫁となる女の声であった。隣には顔を真っ赤にして、張伯を睨みつけている、朗陵国の男がいた。

場は混沌としていた。怒鳴り声も聞こえてきた。張伯は、何をすればよいのかわからなかった。あちこちから罵声が聞こえてくる。

 混沌とした場をおさめたのは、果たして張任であった。張任は皆に謝り、いろいろな言葉を投げかけ、そして酒を出していた。張任行くところはどこでも、さっきまでの剣幕は嘘のように、笑いが巻き起こった。流石に顔が険しい者も何人かいたが、溜飲は下げたようだった。張伯は、その様子をぼぉっと眺めていた。

 

 親分のすごいところは、親分の言うように、()()()()()()ところだろう。あの女の子まで、何といつの間にか泣き止んでいた。張伯にはわからないことが多かったが、己が信じられない失態をし、それを親分が尻拭いをしたことはわかっていた。

 

 

 

 気が付くと、朗陵国の者や、隣村の者はいなくなっていた。先の女の子を除いて。女の子は、張伯を見ていたが、その目は赤くはれていた。張伯は何も言う気がしなかった。後片付けをしている女たち。眠りこけている男。扉の前には、多くの履物が脱ぎ散らかされていた。扉からは暗闇が忍び込んでいた。張伯は横になった。酔いなどないが、なくとも夢見が悪いことは知っていた。それでも、寝ようと思った。それを妨げたのは、伍倉の声であった。

 

「大変ですっ! 親分!」

 

 その言葉に、張伯は跳ね起きた。嫌な予兆であった。

 

「何だ、どうした!」

 

「曹操とかいう女が、今度は十万の大軍で攻めて来るそうです!」

 

 場は静まり返った。卓を運んでいた女は、卓を床に転がした。皆固唾を呑んで伍倉を見ていた。張伯はそのことに驚いたのではなかった。張伯は、曹操が女だという伍倉の言葉に驚いたのでもなかった。張伯は、親分が、卓の上の陶磁器の皿を叩き割ったことに驚いたのでもなかった。張伯は、親分の顔に驚いたのであった。

 親分は、今までに見たことがない程、先の宴会でさえ見たことがない程、苦渋の表情を浮かべていた。張伯は、それが恐ろしいと感じると同時に、親分がそんな顔をするのが悲しかった。張伯は思わず言葉を繋いだ。

 

「えっと、みなさん、もしかして、曹操のことを知っているのですか?」

 

 誰も何も返さなかった。張伯は、目をせわしなく動かし、体を揺らしながら言った。

 

「えぇっと、曹操という名前は、聞いたことがあります。でも、大したことはありません。冷たい人間で人望もないですし、そんなに強くもありません。安心してください」

 

 張伯の言葉に、いくらかの人は顔をあげた。だが、その顔は物憂げであった。

 

「お前は、曹操が女だって知ってるのか?」

 

 張任がいつもとは違う、剣呑とした口調で話しかけた。

 

「いえ、それは全く存じませんでした。男だと思っていましたから。でも、女だったら、ますます大したことはありませんよ」

 

「ふざけてるんじゃねぇっ!」

 

 張伯は壁に叩きつけられた。しかし、張任はすぐに張伯の胸倉を離した。張伯の目に涙が浮かんだ。

 

「いいか、張伯。お前は知らないんだろう。女は、確かに力は弱いし、頭も弱いかもしれない。でもな、例外っちゅうのが必ずある。女で偉いやつは、人間じゃねぇ。化け物なんだ」

 

 張任は、全身に悔しさをにじませていた。張伯は何も言えなかった。張任が嘘をついているとなど思ってもいなかったが、信じられなかった。

 

「その、化け物というのは、どれほどなのでしょうか」

 

 張伯はつぶやいた。張任は目の前にいたが、うつむいて床を睨んでいた。

 

「私は、洛陽で何人かに会ったことがあります」

 

 丁程が、いつの間にか隣に立っていた。

 

「彼女たちは、本当に天才です。私は、彼女たちの足元にも及びませんでした」

 

 丁程は、悲しみを目にたたえながら話した。

 

「武芸が優れる者であれば、人を文字通り跳ね飛ばすことができます。智に優れた者であれば……もしかすると、道に到達することもできるかもしれません」

 

 張伯は、信じられなかった。いや、信じたくなかった。あれ程意気揚々としていた親分が沈んでいるのは見たくなかった。女の将軍が攻めて来るというだけで、これほど沈鬱になるとは考えられなかった。彼らは、曹操を知らずに、女の将というだけで恐れているのである。

 

「朗陵国は……どうするでしょうか?」

 

 張伯は言葉を濁した。朗陵国の同盟が、薄氷の上に築かれていることは、派遣された妻を見ればわかる。

 

「もし、私達の敵になるのであれば、彼らを、先に――こちらが」

 

 張伯は、女の子を横目で見ながら張任に、しどろもどろに話し掛けた。張任はじっと張伯の方を向いていたが、すぐに怒鳴りつけた。

 

「おい張伯! こうなった以上、ますます嬢ちゃんを手厚くもてなさなくちゃならねぇぞ。なんたって、もしおめぇの言うように朗陵国の奴らが裏切ろうっていうんなら、まず嬢ちゃんへの扱いに対して文句を言うに決まってるんだからな!」

 

 張伯は、その言葉に恐れ慄いた。自分の振る舞いに、全てがかかっている。もし、この女の子の不興を買ったら、朗陵国は敵に回る。そうしたら、そうしたら――――。

 

 張伯は、女の子をちらりと見た。その表情は、やはり窺えなかった。




誤字報告機能を失念しておりました。申し訳ありません。


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曹操

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 軍事史に名を遺す人間、文学史に名を遺す人間、そして歴史に名を遺す人間。全てを満たすような人間がいるだろうか? しかし、物事には例外というものが必ずある。曹操は、その例外であった。何度も敗北したからといって、誰がその功を否定できるだろうか。長城で詠まれなかったからといって、その詩が辺塞詩の傑作などではないと、誰が言えるだろうか。曹操は、いや曹操こそが歴史に名を遺すに足る人物であった。……蓋しこの時点では、曹操は市井の人間の一人に過ぎない。まだ一人しか殺していない。だが、曹操の、才の片鱗は、すでに現出しつつあった……。

 

「華琳様、何をなさっていらっしゃるのですか?」

 

 夏候惇は、曹操を真名で呼ぶことを許されている。しかし、真名で呼ぶということは、逆に言えば敬称をなくすということでもある。役職名や字を虚として退けるのが真名である。

彼女はそれを受け入れられなかった。真名で呼ぶと、なんだか敬意が失われるように思えたのである。これは全く、彼女の感覚に拠るものであった。ともあれ、だからこそ彼女は、真名に様をつけるという、何とも矛盾するような奇称を用いたのであった。

 

「春蘭、堅苦しい言い方は止めるようにいったはずよ」

 

「申し訳ありません。以後気をつけます」

 

 曹操は、ため息をついた。春蘭の振る舞いはいつものことであった。それでも直らないのは、自分に対して、胸の内でどこか引け目を感じているからだろう。主に対して、それに恥じぬ振る舞いができているかどうか、常に考えているのである。それだからこそ、曹操は春蘭が愛おしかった。

 

「これを見なさい」

 

 曹操は春蘭に文(書かれたもの)を手渡した。春蘭は、それがほぼ真っ黒に見えることに内心顔をしかめたが、それをおくびにも出さずに文を見た。

 

「これは……李然の業務記録ですか」

 

「外れ。これは朝廷に出すものではなくて、私事のものよ」

 

 曹操は悪戯気に微笑んだ。

 

「えっ! こんなにびっしり……」

 

「でなければ簡単に手に入らないわ。これを見るに、李然はとっても几帳面な人間だったようね」

 

 曹操は、李然の文を見た。兵の様子、敵の軍容、朝廷の催促……。あらゆることを書き留めておくその頑固さには舌を巻くが、それだけであった。ただ記録するだけなら、そんなものは部下に任せればいい。それをしないのは……。文を持つ手に力が入った。

 

「李然は、自身の兵を信用していなかったようね」

 

「しかし、すぐ逃げ出してしまうような軟弱者、信じることなどできますまい」

 

 春蘭は骨の髄まで武人であった。そう、その言葉が自身の敬愛する主の言に逆らっていることに気付かないほど。

 

「それは違うわ。兵は、将が信を置いていないことがわかると、その力を充分に発揮することは絶対にない」

 

 曹操は、確信を持って答えた。孫子曰く、視卒如嬰兒、故可與之赴深谿、視卒如愛子、故可與之俱死。(兵を見ること嬰児の如くすれば、兵とともに深い谷に行くことができる。兵を見ること愛子の如くすれば、兵とともに死ぬことができる)。

 

 この後の句は、愛しむだけであってはならないと続いている。李然はしかし、余りにも兵を信じていなかった。

 

「兵が軟弱なら、鍛えれば良いだけ。それを怠って嘆いてばかりでいるのは頂けないわ」

 

 曹操は続けた。

 

「ただ、李然にはそんな時間はなかった。となれば、目先の多くの兵に釣られず、自分の最も信用する兵だけを連れておけばよかったのよ」

 

 曹操はそう結論付けた。李然は兵の量に気をとられ、質を見失った。それが李然の敗北につながった。それだけではない。善用兵者、修道而保法、故能爲勝敗之政(善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ。故に勝敗を自由に決することができる)――李然がもし己の亡くなることを想定して兵に指示を出していれば、(軍が)負けることはなかっただろう。

 

「流石は華琳様です! 凡百の将では、単純な数の差に気をよくしてしまうでしょう!」

 

「そうね。でも、私が一番気になるのはそこじゃない」

 

 曹操は文に鋭い眼を向けた。

 

「李然は、己の敗北を予見していた。なのに一度は勝利を手にできたのはなぜかしら?」

 

 曹操は、春蘭を試すように言った。春蘭は頭をひねっていたが、日頃の教練の賜物か、正解を言い当てた。

 

「それは賊に間者が潜り込んでいたからです!」

 

「ええ、そうね。でも間者といっても、内閒と呼ばれる、敵の内側でそれなりに地位のある者よ」

 

故用閒有五、有因閒、有内閒、有反閒、有死閒、有生閒、五閒俱起、莫知其道、是謂神紀、人君之寶也。

 

因閒は郷閒であり、その郷閒には郷人を用いる。そのため、(内閒ではなく)郷閒と言ってもよいかもしれない。併し曹操は違った。一介の山賊に内閒、まるで官位を持つ者がいるかのように扱った。ただの山賊ではなく、漢には及ばずとも、その様相はかなり整っている(秩序だっている)と見なしていた。

 

 春蘭は考え込んでいた。それが何を意味するのか、まだつかめていないようだった。やはりまだ兵の指揮に不安が残る。ただし、間者がいたおかげで首領を捕らえられたことに気がついたのは評価できる。

 

「少し聞き方を変えるわ。李然は、首領を捕らえたけども、その後に己が負けると考えていた?」

 

 春蘭は即答した。

 

「いえ、そんなことは露ほども思っていなかったでしょう。むしろ、錦を飾る準備を考えていたはずです」

 

「ええ、そうね。じゃあ、内閒は、負けると考えていた?」

 

 春蘭は少し考えたが、同じく「否」と答えた。

 

「負けるとわかっていて、首領を売るようなことはしません」

 

 ここまで考えられれば、正解まではあと一歩だ。曹操は更に質問した。

 

「ええ、その通り。わかるかしら? 李然も内閒も負けるとは考えていなかったのに、負けたのよ。もちろんそこには油断があった。でもそれだけかしら?」

 

 曹操は春蘭に顔を近づけた。春蘭は目を白黒とさせていた。

 

「彼らが予期しないことが起こったのよ。それが何なのか、確かめる必要があるわ」

 

「しかし、それでしたらわかります。首領の右腕の勇腕によるものです」

 

 曹操は、李然が戦うと聞いた時から、賊の仲間を金で買収していた。つまり、間者に仕立て上げていた。それは決して自身が戦うことを予期したためではなく、李然の動静を知るためであった。宦官に与さないといえども、張り合う必要のある人物である。調べるに越したことはない。それが、今回は大きく役に立った。

 

「……私は、そうは思わないわ」

 

 春蘭は逡巡した。答えは絞られていた。

 

「まさか、最近首領に拾われたという人でしょうか?」

 

 曹操は何も言わなかった。それによって、肯定の意を示したのだった。春蘭は、当然納得していなかった。

 

「しかし、()()は、最近拾われただけですし、何もできないようなやつです! なぜ、そんな大事を為しえる人物となれるのでしょうか!」

 

 曹操には予感があった。

 

「彼はとても嫌われているみたいね。でも春蘭、考えてもみなさい。もし何もできない人間なら、どうしてそこまで嫌われるの?」

 

 ある予感。

 

「私の母は、かなり陰口を叩かれたわ。金で官位を買っただとかね。でも、もし母が金を持っているだけだったら、彼らはそこまで言わなかったはずよ」

 

 そう、彼こそが自身の敵だという感覚。

 

「嫌われるというのは、それだけ注目を置かれているということよ。ただ単に首魁の男妾というだけでは、そこまでならない」

 

 曹操は思わず舌なめずりをしたが、それを春蘭に見とがめられた。

 

「華琳様……。まさか、その者が白い肌を持っていて、容色に恵まれているということだからというのでは……」

 

「あら、だから何なのかしら?」

 

 曹操の目が妖しく光る。

 

「春蘭、今晩寝所にいらっしゃい。可愛がってあげるわ」

 

「な……華琳様」

 

 春蘭の顔がぱっと赤くなった。曹操は春蘭の手を取ると、真っ直ぐ寝台に向かった。卓の上に置かれた李然の文。その端も、薄っすらと赤くなっていた。

 

 

 

 曹操は天才であった。己が殺した者のことなど気にせずにいられるくらいに。春蘭もそうである。主人のためなら何をしようとも意に介さなかった。命乞いをする者など、曹操にとっては醜悪で、みすぼらしさの体現者であった。彼は権威を傘にして、いや、権威を借りて脅そうとした。それが通じないとわかるや、たちまち糞尿を垂れ流しながら、助命を請うた。

 造五色棒縣門左右各十餘枚……。曹操は、自身の監督する門に、警告の棒を掲げていた。不幸なことに、彼にはそれらが見えていなかったのだ。有犯禁者,不避豪彊,皆棒殺之。(だからこそ、その身に何度も(それらを)こすりつける羽目になった)。

 

 狐は死んだ。問題は、虎であった。蹇碩という名の虎は、京師でも大きな権力を持っていた。それに宦官でもあった。

 今まで曹操は宦官の仲間だと思われていた。今やその宦官の叔父を殺した曹操は、宦官にとって敵であった。身内だと思っていた者に対しての怒りの方が、敵に対するものよりも激しさを極める。曹操が李然の後任として、賊の退治に赴くよう勅命が下ったのも詮無きことである。肝腎なのは、曹操はその全てを予期していたということである。

 

「華琳様……」

 

 春蘭がぽつりと声を漏らした。春蘭は目を手で隠しながら言った。

 

「なぜ、殺したのですか?」

 

 曹操が殺したのは、まだ一人しかいない。

 

「それが必要だったから。それ以外にないわ」

 

 曹操の即答に、春蘭が答えるまで暫しかかった。

 

「華琳様のお考えはよく承知しています。ですが、忌々しいとはいえ、宦官と手を組んだほうがより早く栄達を望めるのではないでしょうか?」

 

 これは、春蘭にとって、できれば受け入れて欲しくないことだ。今から宦官と手を結ぶのが不可能なわけではない。やりようはいくらでもある。春蘭は、主のためを思い、口に出したのだった。

 

「それはないわ。私の目標はわかっているでしょう」

 

 曹操は春蘭の手を持ち上げた。

 

「今の漢は、余りにもゆがんでいる。私は、それを正したい。でも――」

 

 曹操は手のひらを上に向けて言った。

 

「宦官と一緒になっていては、そんなことはできない」

 

 曹操は天蓋を見ながら、つぶやいた。

 

「閹豎之官古今宜有、但世主不當假之權寵使至於此。旣治其罪當誅元惡一獄吏足矣」

 

 曹操の手は、赤く汚れていた。手が赤くなったのは、文を読んでからであった。春蘭には、それがもっと前からついているような気がした。春蘭は曹操の親戚であり、生涯仕えることを誓っていた。曹操のために働くには、曹操の考えを知らなければならない。だが、春蘭にはそれがよくわかっていなかった。しかし春蘭は未来について、今の漢について、曹操が何を不満に思い、変えようとしているのかは知っていた。

 

 ただ、曹操が宦官についてどう思っているのかは、よくわからなかった。曹操の祖父は宦官であった。曹操は、自然宦官であるはずはないが、それでも宦官の一員として見なされていた。そのことを曹操が不満に思っていることを、春蘭は知っていた。

 では曹操が宦官を敵だと思っているのか? それについてはわからなかった。今の言葉を聞くに、好むと好まざるに関わらず、必要だと考えているのは確かだろう。では、他ならぬ華琳様は、どうお思いなのだろうか。果たしていつかその思いを、自分に打ち明けることはあるのだろうか。春蘭は曹操の胸をぼんやりと見ながら、眠りについた。

 

 

 

 一方で、曹操は、(まなこ)を大きく開けていた。賊のことが瞼に引っかかっていた。曹操は賊の何が引っかかるのか、ずっと考えていた。これがわかるまでは眠れないと思ったのである。一刻はとうに過ぎただろう。ふと、隣に眠る春蘭を見た瞬間に、曹操は答えを見つけた。

 

 賊には、賊で力を持つものには、男しかいない。

 

 もし女が一人でも居るのなら、間者が知らせるだろう。あるいは戦の時に、誰かが見ているはずだ。李然は男だったのだから、あの戦は男たちの戦いであった。それにたまたま賊が勝っただけである。

 もし官の将軍が女であれば、将軍として取り立てられるような女であれば、決して敗れはしなかったであろう。男だったから、敗れたのだ。では結局、何が引っかかっているのだろうか?

 

「何かが、何かがおかしい……」

 

 いや、そもそもなぜ自分は男妾を敵だと思ったのだろうか? 賊で権力を持つものに、男しかいないのは不自然ではないのだ。 ……その答えは、既に自分が言っている。一度奇襲を受け敗北したのに、それを覆すような大戦果を収めたからだ。しかも来て間もない、春蘭に言わせれば()()()()()()()()()()がである。

 

 曹操ははたと気付いた。この話は、それが女であれば何の疑問も抱かない。男だからこそ大事なのである。普通の男に、首魁のいなくなった賊を率いて勝利をもたらすことなどできるだろうか? そもそもそのような判断を下すことができるだろうか? 否、そんなことはできはしない。捕らえられた首領を取り返し、ついでに敵の将軍をぶっ殺す。こんなことができるのは、普通は女しかいない。

 

 

 曹操の分析はそこに終わらなかった。今度は、なぜ自分がそんな簡単なことに気が付かなかったのか、ということを考え始めた。男同士の戦い……李然……奇襲……。

 

「なるほど。私は、知らぬままに、男同士の戦いというので、戦に対する注意を失っていた」

 

 曹操は独り言を言った。

 

「おまけに自分が()()()女であるせいで、賊の奇策を、大したことのない、自分でも容易に実行できるものだと考えていた。それは正しいけども、それを男がやったということを充分に認識できていなかった」

 

 曹操は反省したのである。反省というのは、自分の今までの行動を省みることである。それができるものは少ない。なぜなら、自分の行いなど、自分の性質など、誰も注視したくないからである。自分の知らない面にどれだけの人間が自力でたどり着けるだろうか。それこそ、天才でもなければ不可能であろう……。

 

 曹操は女性に注視する余り、男たちの戦いを、無力な者同士の争いだとおざなりにしていた。戦う兵は、圧倒的に男性の方が多い。しかし曹操は、それを率いる将は、兵を蹂躙できる人間は、女しかいないと考えていた。

 

 だが今回の戦いは明らかに、女性の将と同等の働きを、男がしているのだ。これを見逃していては、いつか足をすくわれていただろう。男だからと軽視して。

 曹操はこの日、()()()男もいることを知った。また、己の目が曇っていたことも知った。

 

 李然が破れてから、わずか一週間後のことであった。



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彗星

 張伯は、李然をやぶった後、ついに朗陵国と同盟を結ぶこととなった。そこで張伯は手痛い失態をおかしてしまう。面子を潰された張任に対する罪悪感を抱え、張伯は家へと戻る――小さい女の子を連れて。


 張伯の後ろを、一人の女の子が小走りにつけていた。張伯はさらに歩を進めるが、女の子も負けじと追いすがった。張伯は独りになりたかった。親分の名誉を汚してしまったこと。それだけが張伯の頭にあった。

 以前から真名を早く決めろと、言われてはいた。しかし、張伯はそれをすっかり失念していたのだ。名前など、他人と区別さえできればどうでもよいと考えていたからである。張伯は己の至らなさを悔いていた。それは、誰にも見られず、独りでやるべきことだと信じていた。自分が間違っていたと、他人になど絶対に告白するべきではない。それは他人からの自分への評価を失墜させるに過ぎない。張伯は、これ以上己が蔑まれるのを恐れていた。

 張伯は既に家を三回通り過ぎていた。それは女の子に、自分の家が知られないようにする張伯の努力の賜物であった。初めに口を開いたのは女の子であった。

 

「ねぇっ!」

 

 張伯はびくっと身体を震わせた。いきなり後ろから大声で話しかけられれば、誰でも焦るに違いない。だから、怯えた挙動をとっても不思議ではない。

 

「一体、いつになったら家に着くの! さっきから回ってばっかり!」

 

 張伯は答えたくなかった。何も言わず別れたかった。だが女の子は腕を組んで、赤い頬を膨らませて、仁王立ちしていた。可愛らしい、桃色の履物が足を包んでいた。地面に落ちた影は、暗闇と区別がつきにくくなっていた。

 

「ねぇっ!」

 

 張伯は、また体を震わせた。もう一度怒るだろうと思って身構えていたにも関わらず、女の子の声はそんな構えを一砕きにした。張伯は何も言わず、指でさした。それは自分の家であった。

 すると女の子は、はっと息をのみ、しばらく動かなかった。張伯はその隙に逃げ出そうかと思ったが、体がこわばって動けなかった。しばらく、沈黙が流れた。女の子は顔を手で隠し、膝から崩れ落ちた。泣いているのだろう。袖で隠した泣き声を張伯の耳は聞き取った。張伯は何も聞きたくなかったが、何か聞かなければならないような気がした。

 

「何か、ご不便がありますでしょうか?」

 

 そう言って、張伯は己の家を見た。他の家と変わった様子は見られない。

 

「どうして……どうして……」

 

 女の子は張伯の質問に答えなかった。張伯は狼狽した。女の子が何を疑問に思っているのかわからなかった。そのことについて聞く気力は、もう残っていなかった。張伯は、丁重にもてなすよう、親分に言われていたことを思い出した。

 

「この家は、ひどいものでしょう。ですが、安心してください。必ずや、もっと壮麗な家をご用意いたします!」

 

 張伯は空手形を切った。女の子はまだ泣いていた。張伯はますます焦りをつのらせた。

 

「私は、この家に住みません。ですから、ご安心ください。私はあなたに対して、何か求めたりはいたしません。むしろ、ここでの暮らしが快いものになるように、ここが第二の故郷になるように、誠心誠意努力いたします!」

 

 女の子はまだ顔を下に向けていた。気のせいでなければ、さっきよりも泣き声が大きくなっている。張伯は、これ以上何を譲歩すればよいのかわからなかった。張伯は黙って家に入った。そして、中にある、汚れた衣服などを全て出すと、女の子に言った。

 

「家の中は少しだけ汚れておりますが、食料もありますし、水もこの壷に入っています。もし何か御用がありましたら、手近な者にお尋ねください」

 

 張伯はこれ以上長居したくなかった。張伯は荷物を全て手で抱えると、女の子を置いて飛び出した。女の子の機嫌を損ねるのはよくないと張任が考えているのだから、周りの者も自然と助けるだろう。

 

 

 

 集落の外れには、やや開けたところがあり、その真ん中には大きな岩が一つあった。張伯は独り、岩の窪みにもたれかかっていた。横には荷物が置いてあった。張伯の私物は、片手で持ち運べる程度のものしかなかった。張伯は膝を抱えて俯いていた。星々のきらめきで、岩の周りの、緑色の草々が照らされていた。家にいて気が付いたら、草の上に横たわっていた。であれば、また横になっていたら、戻れるのだろうか。

 

 草を踏みしめるが聞こえた。張伯はそれが誰なのか、たちまちにわかったが、何も言わなかった。

 

「お~い、生きてるか?」

 

 張伯は何も言わなかった。彼に対しては、初めてのことであった。彼は張伯の隣に座った。また酒を飲んでいた。石の硬い感触で、背中が痛かった。

 

「…………なぜ、私のところに?」

 

 しばらくして、張伯は言った。

 

「ようやく口を開いたと思ったら、それかい。そりゃぁ――」

 

「私の居所がわかったということは、人々に聞いて回ったということでしょう。それでしたら、女の子の様子についても知っているはずです。であれば、真っ先に女の子のところに行くべきです」

 

 張伯は親分にだけは会いたくなかった。どの面を下げればよいのかわからなかったからである。帳簿係としての顔、勝利の立役者としての顔、丁程の弟子としての顔。それら全てが、この失態の前には役に立たなかった。

 

「お前、いつから俺を命令できる立場になったんだ? うぅん?」

 

 親分が張伯の胸倉を持ち上げた。会談の時ほどは痛くなかった。

 

「いいか、俺はなぁ、ここの奴らが安心して生きられるんだったら、それでいいんだよ」

 

 親分は張伯から目を離さなかった。

 

「その中にお前も入ってるに決まってるだろう!」

 

 親分の声が張伯の耳に木霊した。張伯は知らず涙を流していた。本当であれば、女の子の元に行くのが一番だろう。もし不興を買えばまずいことになるのだから。自分でそう言ったにも関わらず、張伯は、親分が来てくれたことが嬉しかった。気付けば、張伯は親分に勧められて酒を飲んでいた。

 

「おれはなぁ、前にも言ったかもしれなねぇけど、貧しい出なんだ。だから、何とかして這い上がろうと、必死に勉強したんだ」

 

 親分は、確か益州か揚州の生まれだったはずだ。ここからだと遥か南に行かなければならない。

 

「でも、ある時、大きな星を見たんだ。あんまり上手く言えねぇけど、本当に綺麗だった。尻尾みたいなのがあって、泳いでるみたいだった」

 

 張伯は親分の声に耳を傾けていた。

 

「その星が落ちてったんだ。誰に聞いても知らねぇって言うけど、俺は絶対に見たんだ。その星が気になってな。それを追っかけてるうちにここに着いたんだ」

 

 意外だった。親分が、まさかそんな幻想の出来事に惹かれてきたというのが。だがこれも、ここでは普通なのかもしれない。なにせ仙人が山を動かすような国だ。このくらいのことはまだ可愛い方だろう。

 

「お前を見た時、俺はこう思ったんだ。あの星はお前だと」

 

「えっ?」

 

 張伯は思わず親分に聞き返した。いきなり星が自分だと言われたのも衝撃的ではあったが、親分の言が正しいのならば、星が現れたのは何十年も前のことだ。

 

「信じられねぇよな、こんなの。でも、本当にそう思ったんだ。だから、お前は、天の子分かもしれない」

 

「いやいや、何ですか、天の子分って」

 

「天から来たんだから、天の子分に決まってるだろうが」

 

 その子分はどこから来たのか、張伯は聞きたかったが、その機会を逸した。

 

「でもよぉ、そんなに間違ってはいないはずだぜ。何てったって、お前、とんでもないようなことばっかしてるからな」

 

 張伯の顔は一気に暗くなった。ここは、余りにも違いすぎる。張伯は頭をつかまれ、もみくちゃにされた。

 

「そう下を向くな。お前は変わってるが、俺たちを大事に思ってのことだろう。だったらいいさ」

 

 親分は張伯の背中を叩いて言った。

 

「武器を渡すなんて、とんでもねぇことだ。でも、お前がやるんだったら、何かそれが必要なことだったんだろう?」

 

 張伯はまだ涙を流していた。今日一日で、親分の名誉、評判はどれだけ変わっただろうか。弟子の不始末は子の責任だ。子分の責は、親分に降りかかる。

 

「一つ質問があります」

 

 張伯は赤い目で、親分を見据えて言った。

 

「親分が私を助けたのは、私が、星だったからでしょうか?」

 

 親分のことは、星明りがあるにも関わらず、よく見えなかった。

 

「そんな訳ねぇだろ。俺はなぁ、はぐれて、浮かない顔をしてる奴は放っておけねぇんだ。丁程だってなぁ、酷いもんだったぜ。今にも死にそうな面してなぁ、山の中を這いずってたんだ、こんな風にな」

 

 不謹慎だと思ったが、張伯は親分の身振り手振りに思わず笑ってしまった。腹の中が熱かった。酒を飲みすぎたのかもしれない。

 

「だからなぁ、お前は俺の子分だし、星なんだから、これからはもっと上手くやれよ!」

 

 親分が張伯の肩をたたいた。

 

「いえ、なんですかそれは。子分で星って、意味がわかりませんよ」

 

 親分は大きく笑っていた。張伯の笑いも大きくなった。

 

 

 

 

 一しきり笑った後、張伯と張任は草むらに寝そべっていた。

 

「泣く子も黙る親分に、一つ聞きたいのですが」

 

 張伯はいつもの調子で言った。

 

「あの女の子は、なぜ泣いていたんですか?」

 

 張任は右手を枕にして張伯の方を向き、二本の指を立てた。

 

「お前には、二つ間違いがある」

 

 張伯は思わず息を呑んだ。

 

「一つ。まずあの女の子は今も泣いている。そして二つ。こっちが肝心なんだが、お前はまだ女の子の名前を知らない」

 

 図星であった。妻となったというのに、その妻の名前を張伯は知らなかった。恐らく何度か名前は出たはずだが、気にも留めていなかった。

 

「ええと、それじゃぁ、名前を教えていただけ――」

 

「そりゃだめだ。張白、お前が自分で聞くんだ。そうじゃなきゃ意味がねぇ」

 

 親分の言う意味とは何か、張伯にはわからなかった。しかし、赤い表情が真剣になったのを見て、その必要があることはわかった。

 

「では、なぜ今も泣いているのか、教えてくださいますか?」

 

「本当だったら、お前が自分で知るのが一番なんだけどな。できそうにないから、教えてやる。お前が頼りないからだ」

 

 できそうにない、という言葉に一瞬張伯はつまったが、それもそうだと納得した。

 

「いいか。そりゃあ、あの女の子にとっては不本意な結婚かもしれねぇ。でもそれを夫であるお前が支えてやれば、不満はなくなるだろう」

 

「しかし私は食料や水を与えましたし――」

 

「要はほったらかしにしたんだろ?」

 

 さしもの張伯も、親分に詰め寄られれば、告白するしかなかった。張伯はうなだれた。親分の前では、素直になれた。

 

「仰る通りです」

 

「あの女の子は、とんでもなく嫌だったかもしれないが、期待もしていたはずだ。戦で大きく勝利した、すごいやつだってな。

 でも来てみたらどうだ。軟弱で、どんくさくて、何も分かってない、赤子みてぇなやつで、人の言うことは聞かないし、そんで」

 

「すいません、もう勘弁してください」

 

 きっとこれは、親分が常日頃から思っていることなのだろう。

 

「まぁ、だから、碌に案内もしてくれないし、家もぼろいしってんで、嫌になったんだろう」

 

 親分は言った。

 

「でも、家については我慢してもらうしかねぇ。ただでさえ人手が足りねぇからな。だから、それ以外のところを何とかするんだ」

 

「はいっ! わかりました。誠心誠意努力いたします!」

 

 親分はため息をついた。

 

「いいか、お前、それあの嬢ちゃんに言ってないよな?」

 

 張伯は何も言えなかった。一瞬戸惑ってしまい、それで張任には十分であった。張任は長いため息をついた。

 

「やっぱり、お前は、何というか、駄目だなぁ」

 

 張任は頭をかいた。張伯も頭がかゆくなった。

 

 

 

 

 朝日が昇っていた。張伯が目を覚ますと、張任はおらず、水と食料が残されていた。張伯はまず川に行って体を洗った。張伯のやることは、もう決まっていた。張伯は荷物を全て持つと、集落に向けて真っ直ぐ歩いて行った。

 

 張伯は家に着いた。中では、女の子が正座していた。泣きはらしたのか、目の周りはすっかり変わっていた。

 

「おはようございます」

 

 張伯もまた、荷物を隣に置くと、正座した。

 

「私の姓は張、名は伯、字は白といいます。真名は、持っておりません。是非とも張白とお呼びください。名前を教えていただけますか?」

 

 張伯は女の子が応えるまで黙っていた。じっと此方を見ていたが、案外早く答えた。

 

「名が伯だなんて変なの。おまけに真名もないなんて」

 

 女の子は鼻を鳴らした。

 

「私の姓は劉、名は瑛、字は恵蘭……真名は教えない」

 

「いえ、ありがとうございます。ところで私は何とお呼びすればよろしいでしょうか?」

 

 張伯は、もしかしたら失礼に当たるのかもしれないが、正直に聞くことにした。それが何も知らない自分には一番だろう。劉瑛は戸惑ったが、やや顔を歪めて、

 

「劉瑛でいい」

 

 と言った。真名を交わすというのは、相当慎重になされなければならない。だが逆に、それがなされないことも問題の元である。恐らく普通であれば夫婦は真名を交わすのだろう。ということは、真名を交わさないのは……。張伯は無理に真名を聞こうとはしなかった。代わりに、別のことを聞いた。

 

「それでは劉瑛、一緒に朝食をとりませんか?」

 

 そう言って張伯は、隣にある荷物の中の袋を指差した。

 

「……朝食を運んでくるっていうの、あなただったの」

 

 張伯の元に置かれた食事は、一人分にしては多かった。張伯はその意を察していた。

 

「親分って言われている人、すごく優しかった」

 

「ええ、そうでしょう。なんせ親分は、『泣く子も黙る親分』なんて言われていますから」

 

 劉瑛は黙って張伯を見た。張伯は突然会話が中断したことにうろたえた。

 

「これから一緒に住むの?」

 

 劉瑛が尋ねた。張伯は、少し押し黙った。

 

「ええ、そうなります。昨晩は、私が突拍子もないことを言いましたが」

 

「もし私が、一人で住めるんだったら、故郷には悪いことは言わない、って言ったとしたら?」

 

 張伯は固まった。劉瑛は、己の置かれている状況を、よくわかっている。

 

「…………例えそうであったとしても、私と劉瑛が夫婦であることに変わりはありません。ですから一緒に住むということが必要であるということに、賛同の意を示しては下さらないでしょうか?」

 

 劉瑛はそれ以上何も言わなかった。張伯もである。

 張伯は鍋に火をかけた。熱くゆだった水に、穀物をいれた。それを器に移し、二人で黙って食べた。日の光に、食べ物が照らされていた。

 

「おいしかった」

 

 劉瑛がぽつりとつぶやいた。だいぶ気を許しているようだ。張伯は尋ねた。

 

「ところで劉瑛に一つ聞きたいのですが、劉備という名を耳にしたことがありますか?」

 

 劉瑛は眉をぴくりと動かして、張伯を見た。

 

「知らない。劉なんて姓の人はたくさんいるから……どんな人なの?」

 

「人をひきつける才があります。誰もが彼……彼女のために命を捧げることを惜しまないでしょう」

 

「女性? 会ったことはあるの?」

 

「会ったことはありませんがよく知っています。恐らくですが女性です」

 

 張伯は片づけをしながら答えた。曹操が女性であるのなら、劉備も女性であろう。とても不思議な論理だが、それがここでは正しいのだろう。

 

「どうしてその女の人が気になるの?」

 

 劉瑛の口調にはやや棘があった。張伯はここで、己の選択が誤っていたことを悟った。女性の前で他の女性の話をしてはいけないというのは、古今共通のことなのかもしれない。それに今聞く話題でもなかった。

 

「……怖い人だからです。彼女は多くの人を従えます。その中には才ある人も多くいるでしょう」

 

「曹操よりも?」

 

 張伯の手が止まった。張伯は、己が曹操について知っていることを話すかどうか、換言すれば嘘をつくかどうか、選択を迫られた。自分がある程度曹操について知っている、ということはすでに知られている。

 

「彼女はまだ多くの人を従えてはいません。ですから、曹操の方が、軍を率いている分、強いと言うこともできるでしょう」

 

 劉瑛は皿を洗う手を止め、張伯を真っ直ぐ見た。

 

「張白。あなたって、誤魔化す時は言葉を飾ったり、曲解したりするのね」

 

「……それは多くの人がすることです。劉瑛、あなたは黙るのかもしれませんが」

 

 張伯は心のどこかで劉瑛を侮っていたのかもしれない。小さい女の子だと。だが劉瑛の観察は鋭く、そして自分よりも遥かに常識をわきまえている。張伯は……恐れ始めていた、この小さい女の子を。もしかすると、才ある女性とは……。

 

「言っとくけど、私は曹操みたいな化け物じゃないから」

 

 劉瑛の指摘に張伯はうなずけなかった。その観察眼を脅威に思ったからである。

 

「こんなの、誰でもわかるから。あなたが、できないだけ」

 

 張伯は言葉に詰まった。劉瑛はそれを冷たい目で見ると、

 

「弱虫」

 

 と舌を出し、遊びに行くといって、家を出て行った。張伯は、怒る気にもなれなかった。何はともあれ、劉瑛とは少なくとも敵対関係にあるわけではない。まだこの集落のために動いてはくれないだろうが、それでも今の現状を良しとしよう。

 それに考えてみれば、どうしてこの集落のことを悪く言えるのだろう? 手紙を届けるにしても、誰かに頼む必要がある。であれば、悪口など、とてもではないが書けないだろう。

 

 一人張伯は、家の中で横になっていた。考えることは山ほどある。まさか曹操が女性だなんて、誰が考えるだろうか? それに同盟を組んだにしても、それが有効に働くかどうかはまだわからない。己は考えなければならない。それが、弱虫の青虫にできる唯一のことなのだから。

 

 

 

天文中:

 彗星見東方、長六七尺、色青白、西南指營室及墳墓星。彗星在奎一度、長六尺、癸未昏見,西北歷昴、畢、甲申、在東井、遂歷輿鬼、柳、七星、張、光炎及三台、至軒轅中滅。營室者、天子常宮。墳墓主死。彗星起而在營室、墳墓,天下有大喪。

 

 




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遊撃戦

 曹操が洛陽を出てから三ヶ月、賊が敗れることはなかった。曹操が勝利をつかむこともなかった。汝南郡陽安県に着くまで、賊の襲撃は一度たりともなかった。そしてそれは着いてからも同じであった。

 

「結局、戦いを恐れる腑抜けだったということか……」

 

 夏侯惇は鼻を鳴らした。張任とかいう奴も、その愛妾も、一度も攻めてくることはなかった。此方を恐れて、近くの県史や官史を度々悩ますように襲っているだけであった。此方が軍を率いても、水をつかむかのようにすぐに逃げてしまう。弱い者を襲い、強い者に立ち向かわない腰抜けは、夏侯惇の最も唾棄するところであった。

 

「いえ、彼らは賢いわ。私と戦わずして、私を倒そうとしている」

 

「なっ! そんな馬鹿な! そのようなこと、ありえるはずがありません!」

 

 夏侯惇は、またも主に対して大声を上げた。この性格は一生直らないかもしれない。曹操は、それに愛おしささえ感じていた。曹操らは官吏の家を借りて、そこから兵に指示を出していた。

 

「春蘭、考えてもみなさい。私たちは一度も戦っていないわ。そして、私の味方はそのことについてどう考えているでしょうね」

 

 夏侯惇は頭をひねった。こうした問答は苦手であった。しかし、主である華淋様は、最近このような問いかけを多く発っしていた。もちろんそのこと自体、頼ってくださるというので、寧ろ歓喜するところではあったが、夏侯惇の頭がそれに悲鳴を上げていた。

 

「……恐らく、偏屈な彼らは、華淋様に良い思いを抱かれないでしょう」

 

「戦いを恐れる腑抜けだと思うでしょうね」

 

「な……そんな!」

 

 現実は、賊が逃げているだけだ。しかし、それを信じる者がいるだろうか。いや、そんなことを信じて得となる者はいるだろうか。そんな者はいない。宦官は、嬉々として華淋様の失態を作り上げるだろう。

 

「私たちは、味方に殺されるのよ」

 

 曹操はあっけらかんと言った。

 

「で、でしたら、今こちらの全軍で持って、直ちに賊を打ち倒しましょう!」

 

 夏侯惇は自身の得意武器である七星餓狼を手に持つと、いきり声をあげた。

 

「待ちなさい春蘭。焦る必要はないわ。彼らは何もわかっていないの。誰を相手にしているのかさえ、ね。故曰、知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼、不知己、每戰必敗」

 

 曹操の目には失望がありありと浮かんでいた。

 

「私が堵陽(しゃよう)県、あるいは舞陰邑に軍を置かなかったのは何故かわかるかしら?」

 

 どちらも洛陽の南にあるが、益州に属している。今いる陽安から見ると、西の山々を超えた先にある。賊はこの山々を転々として、神出鬼没に襲撃を繰り返している。洛陽を出る前、曹操には二つの選択肢があった。

 一つは、これらの地域のどこかに陣を構えること。もう一つは、陽安に進駐することである。前者であれば、山に囲まれているため、糧食を充分に手に入れることは難しい。また山は賊が良く知るところである。しかし、朝廷からの煩い文が届かないという大きな利点がある。後者であれば――

 

「陽安であれば、いくらでも糧食を手に入れることができます」

 

「えぇ、その通り。汝南や潁川ほど人が多いところはない。私の小さな軍ぐらい、養えない道理はない」

 

 曹操は、精鋭兵しか連れていなかった。糧食の必要を、できるだけ抑えたかったのである。

 

「しかしこのままでは……」

 

「それもあり得ないわ。私の母は三公の一つである大尉まで上り詰めたのよ。どれだけ後ろ指をさされようともね。そう簡単に引き摺り下ろされることはないわ……それに袁家も味方よ」

 

 袁家というのは、四世三公の名門であり、汝南と潁川に大きな影響力を持っている。その袁家を味方にしている以上、宦官の嫌がらせなど瑣末なことに過ぎない。

 

「では、彼らは何を狙っているのですか?」

 

 春蘭は疑問に思った。我々はそう簡単には、味方によって殺されることはない。であれば、賊は何を……。

 

「さっき言ったとおりよ。彼らはどちらが長く持ちこたえられるか、それを競い合うことにした。でもこの勝負は私の方が有利。むしろ彼らの方が危ないんじゃないかしら?」

 

 曹操は鋭い笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 密議は、朝廷においては厠で行われている。狭く暗いところに、謀議を張り巡らす臭い人間がいるのである。張伯らもその例に漏れなかった。全ての窓にボロ布が当てられていた。幾筋もの光が布から飛び出ていたが、それらが彼らに届くことはなかった。

 

「やるべきことはただ一つ。奇襲を繰り返し、敵の士気を挫くことです」

 

 張伯は自信を持って答えた。決して正面から戦わない、それが曹操との戦いへの答えであった。夜襲、不意打ち、騙し討ち……。どんな策を用いてでも、敵の戦力をじわじわと減らしていく。(敵と正面からぶつかって)一気に減らすことは、今の戦力では無謀。そのことを張伯は誰よりも知っていた。

 

「それは何べんも言われたからわかってる。確か遊撃戦、っちゅう言うんだろ?」

 

「その通りです、親分。効果的なのは、敵の前衛を殺すことです。それを繰り返せば敵は前衛をやりたがらなくなり、軍として崩壊していくのです。無理して後衛を殺さず、前衛だけ殺して撤退し、隙を見てまた奇襲する。それがこの戦いの肝になります」

 

 張伯は、山賊を長年やっている親分たちであれば、すぐにこの戦法になれると予想していた。張伯は曹操を恐れていた。何せ、七傑――張伯が便宜的に名づけた、この時代において警戒を要する人物――の中で最も優れているのである。これを恐れずして、何を恐れるというのだろうか? そんな人間とは、張伯は戦いたくなかった。だからこそ、戦わずとも勝てる策を選んだのである。

 

「それで、おれたちを戦うよう仕組んで、お前はこそこそと何をしているんだ? 逃げる準備か?」

 

 張伯はその質問にはすぐには答えなかった。答えたくはなかったが、図星だと的外れに笑われるのが嫌で、しぶしぶ返した。

 

「他の村や国とも、同盟を結ぼうと話を持ちかけているのです。それぐらいのことは、すでにご存知かと思っておりましたが」

 

 伍倉は、張伯の言うことに一々食って掛かった。張伯は面倒でたまらなかった。伍倉は更に詰め寄った。

 

「それで、上手くいったのか?」

 

「まさか。どこも日和見を決め込んでいます。食べ物が手に入るだけでも、ありがたいと思った方がよいでしょう」

 

 張伯は家を後にして外出することが多かった。そうしなければ――死ぬと思ったからである。

 

「まぁ、張白。敵にならねぇっていうんなら、それは悪いことじゃねぇ。そうへそを曲げるな。後これはお前さんの妻のお嬢さんのおかげでもあるんだからな。それは感謝しろよ」

 

 張任は張伯に笑いかけた。酒を手に持っているが、流石に話題が話題のためか、最初から一口もつけていなかった。張伯は、親分が酒を飲まないことができるということに、新鮮な驚きを感じていた。

 

 張任の言は正しかった。他の村や国と同盟を持ちかけるとき、自分がその証に嫁を貰ったことを話すと、すぐに彼らは思い悩むようになった。単純な口約束だけの同盟では効力が低いのだろう。証文を交わすのも一つの手ではあるが、それよりも大きいのが婚姻なのだ。

 張伯にとってそのような同盟の違いは、朝に吐く息と夜に吐く息の違いと同じくらいであった。一方にとって不利益となれば、容易に破棄されるのは同盟の常である。もし自分たちが負ければ、同盟というものは――例え婚姻していたとしても――たちまちにして破棄されるだろう。 

 

「みなさん、お茶をお持ちいたしました」

 

 丁程が部屋に入ってきた。

 

「何度も襲ってはいるが、特に役に立っている気はしねぇ。そこんとこどうなんだ、張白」

 

「それは曹操に戦う気がないからです。彼……彼女の本軍は陽安から一歩も出ておりません」

 

 張任は酒瓶を揺らしながら言った。

 

「だが食料は町から運んでいるはずだ。それを襲っちまえばいいんじゃねぇのか?」

 

「その通りです。ですが、場所がよくありません。陽安よりさらに東には人が多い町がいくつかあるようです。食料はそこから運ばれているのです。よって攻めることができない理由は三つあります。

 一つは、我々がそんな人の多い都市に出向くと、下手をすれば町民が敵に回る可能性があるということ。もう一つは、敵は此方がどこを攻めに来るのかわかっているということ、そして最後に曹操がいるということです」

 

 張伯にとって、曹操がいるということが、奇襲をためらわせる唯一の理由であった。女というのも気味が悪かった。張伯はまだ信じられずにいた。曹操が女! 張伯の記憶が正しければ、曹操は男であった。となれば、ここは張伯の記憶にある、過去の大国ではない。限りなく似ているが、どこかが違う世界なのだ。

 このどこか、というのが懸念の種であった。単に性別が変わっているというだけではない。一部の女性には信じられない程の力を持つものがいる――もし人が文字通り吹き飛ぶという言を信じれば。

となれば、他にも違うことがいくつかあるかもしれない。そして生き残るためには、それらを見つけ出すのが不可欠だ。けれども、張伯は未だに見つけられていなかった。そもそも、記憶にある過去の国というのも定かではない。過去の人々がどのように暮らしていたかなど、考古学者や歴史学者でもなければ知ろうとさえ思わないだろう。

 

 得体の知れない恐怖が張伯の心に影を落としていた。敗北は許されない。曹操とまともに戦っても勝つことは望めそうにない。奇襲では相手の戦力を落とすのが関の山。だが張伯は、そのような難局にあろうとも、決して揺るがなかった。

 

「時間は私たちの味方です。時がたてば立つほど、曹操は不利になるのです。なぜだかわかりますか?」

 

 張伯は伍倉だけを見て言った。答えられないと踏んだからである。実際、口を開かず、ただ眺めるだけだった。

 

「聞けば、曹操は宦官の身内の一人を殺したそうです。であれば、曹操は宦官からはこのことで嫌われ、周りの者には祖父が宦官であるということで嫌われているでしょう」

 

 加えて天才への嫉妬。嫌われている者が、その才を余すことなく発揮したら、周囲の者はどうするだろうか? 直に打ち倒すに決まっている。丁程が宦官という言葉を聞き、わずかに顔を歪めたのを張伯は見逃さなかった。敵の敵は味方、という論説は彼には通じないだろう。

 

「彼を知り己を知れば、百戦危うからず、という諺もあります。私は曹操のことを良く知っています。しかし、曹操は私の名さえ知らないでしょう。それと伍倉」

 

 張伯は冷めた目で伍倉を見た。

 

「あまり人を殺さないようにしてください。降参する者は見逃すようにお願いします」

 

言っても聞かないとわかっているのに、口を開かなければならないのは、疲れることだった。

 

「ふんっ、そんなことはわかっている。ただ奴らが抵抗してくるから、(仕方なく)殺しているだけだ」

 

 敵は、捕まったら必ず殺されるとわかれば、必死に抵抗する。当たり前である。逆に捕まっても開放されるのであれば、怪我をしても味方と同じ治療を施されるのであれば、そのことを周囲に喧伝するだろう。これが続けば、敵も味方になるだろう。苛烈な見せしめは敵の士気を上げる。それだけではない。中立する者にも良くない影響を与える。張伯はそのことをうんざりするほど知っていた。同盟が新しく結ばれないのは伍倉にも責がある。

 

 張伯はだからといって、そのことを恨みに思ってはいなかった。むしろ、もっと人を殺して欲しいとさえ思っていた。親分や自分、あるいは他の者が率いる隊では、敵に対して慈悲が施されていた。だから何も問題はなかったのだ。

 

「とりあえず、このまま奇襲を続ければいいんだな?」

 

「その通りです。では、今日の会合は終わりにしましょう。親分と伍倉は、襲撃の準備を」

 

 遊撃隊は、主に親分と伍倉が率いていた。一度集落を出ると、戻るまでに五、六日かかった。そうなるよう張伯は指示を出していた。張任と伍倉らが出立したのを見送った後、張伯は家に戻った。家には誰も居なかった。だがそれを張伯が気にすることはない。いつものように横になった。

 

 妻は、刺激を求めてどこかで遊びに耽っているようであった。何処に行っていたとしても、皆彼女が重要であることを知っているのだから、手厚くもてなすだろう。張伯にとって、問題は、如何にして曹操を追い詰めるかということ一点であった。言うことを聞かない伍倉も、何処に居るとも知れない妻も、どうでもよかった。

 

 

 

 

 曹操と張伯。両者は、己の持てる才覚を発揮していた。が、しかし、張伯はこの地のことをあまりにも知らなさ過ぎた。味方のことも充分に知っていなかった。もし張伯が洛陽の輝きを、あるいは集落のことをもう少し知っていれば、また違った結果になったであろう。代償の取立ては、鐘の音と共に訪れた。

 

 張伯が跳ね起きたとき、既に悲鳴が巻き起こっていた。張伯が家を出ると、誰もが動き回っていた。張伯は、その中で走り回って、皆に逃げるよう怒鳴っている者をつかまえた。

 

「何があったのですか!」

 

「敵が攻め入りやした! もう門が持ちません! すぐに裏門から逃げてくだせぇ!」

 

 その者はそう言うとたちまち闇の中に消えた。

 

 張伯は慌てて裏門に向かって走ろうとした。しかし、考えるより先に体が止まった。敵はこの襲撃を入念に計画していた。でなければこうも簡単に混乱に陥るはずがない。見張りが気付いたときには手遅れであったからこそ、ここまで醜態を晒す結果になっているのだ。逃げた先に伏兵がいるというのも、容易に考えられる。

 張伯は周囲を見回した。この集落には出口が二つある。その内の一つに今敵が攻め込んでいて、反対側のもう一方に皆逃げようとしている。当然反対側にも敵が待ち受けているに違いない。かといってどこかに隠れるとしても、いずれ見つけられてしまう。

 張伯の視線は、自然と集落を囲む柵に移った。木でできていて、その表皮は丹念に削られている。おまけに先は削ってあり、きれいに尖っている。張伯の背丈の二倍ほどあった。越えられないわけではないが、簡単に越えることは難しい。足場になりそうなものは何もない。 

 

「助けて――!」

 

 女の絶叫を後ろ耳で聞きながら、張伯は家に戻った。現実逃避のためではなかった。焦りこそが死を招く。張伯はそのことを知っていた。手首に人差し指と中指を当て、心臓が落ち着くのを待った。落ち着いたのを確認してから、考え始めたのである。

 思考するのは敵の追い詰め方だ。敵は一方の門から攻めている。そして、隠れている人を探しつつ、反対側から逃げる人々を迎え撃つ算段でいる。逃げる側は必死なのだから、敵は迎え撃つとなれば悠長に探している時間はない。となれば敵から上手く隠れきり、それから柵を超えるのが、自分が取れる唯一の方法だ。

 張伯の考えは纏まった。後は、実行に移すだけである。隠れるのなら、柵に近いところがいい。柵のところどころには明りが設置されている。張伯はその明りを見た時、体が硬直した。そして何も聞こえなくなった。突拍子もない、しかしそれでいて、それしかないと信じられるような策を思いついたのである。

 

 普通であれば、人は明りがないところに隠れる。

 

 当然探す側もそれはわかっているのだから、暗く、見つけづらいところを探すに決まっている。まさか明りのすぐ近く、明りによって生まれる濃い暗闇の中に人が潜んでいるなど、誰が思うだろうか。

 張伯は、この考えが、一歩間違えれば笑いものになることを承知していた。一体誰が逃げ場のない壁にはりついて、しかも明りの側でじっとしているというのだろうか。見つけられれば一環の終わりのこの状況、足が震えずに、逃げ惑えずにいられようか。考えは纏まった。後は実行するのみであった。張伯は――――己の考えに身を委ねた。

 

 

 

 悲鳴が響き渡っていた。家から引きずり出されている者がいた。命乞いをする者もいた。槍を持ち、抵抗しようとして後ろから斬られる者がいた。張伯は、それらを見ても微動だにしなかった。人は、動くものに対しては敏感だからである。声が大きくなった。

 

「様子はどうだっ!」

 

 女の声が聞こえた。太ももを見せつけるような、開けた青い服を着ていた。弓を背負い、兵に囲まれ、井戸の側に立っていた。明らかに高い地位にある人間だ。

 

「抵抗はほとんどありません! あと少しで鎮圧できそうです!」

 

「死不再生、窮鼠嚙貍! 決して油断するなっ!」

 

 指揮を取っていたのはこの女であった。張伯はこの時初めて、敵を認識した。そこにいるだけで兵の士気が高くなっているのが、遠目からでもよくわかった。

 張伯は知る由もなかったが、女の名を夏侯淵と言った。夏侯惇の従兄である。張伯は女から目を離せなかった。この女によって、ここの人々が殺されている。命乞いをしていた女が地に伏せた。無抵抗の人間にも、女は容赦しなかった。いや、そもそも興味がないのか、視線をくれることもなかった。

 

 

 響き渡る悲鳴と怒鳴り声が大きくなった。反対側に逃げた者が、敵に追われて戻ってきたのだろう。人は逃げられないとわかれば、死に物狂いで戦う。女も矢を放っていた。今だっ! 張伯の動きは素早かった。柵にぼろ布をかけると、すぐにそれをたよりに両手で柵にしがみついた。足を木と木の隙間にかけようとしたが、なかなか上手くいかなかった。首から汗がつたって落ちた。張伯は、一旦登るのを止め、足を地面につけた。手は既にしびれていた。この様子ではそう何度もできないだろう。

 

 張伯はちらりと後ろを振り返った。丁度女性が、兵に殴られて倒れるところだった。その後女は髪をつかまれ、胸を剣で刺され、がっくりと首から力が抜けた。どうやら敵は、女性であっても容赦しない、一時の快楽を得るのを惜しまずに殺せる精鋭のようであった。あるいは、女が指揮官となれば、そのような暴行も行えないのかもしれない。

 

 張伯の顔に血が飛んだ。いや、飛んだと思ったのだが、触ってみても何ともなかった。極度の緊張で幻覚を見ているのかもしれない。張伯は、力を抜いた女が井戸に落とされるのを見た。それは、敵に見つかれば張伯も辿りうる道筋であった。

 張伯はもう振り返らなかった。忌々しい、聳え立つ柵が見える。いつ見つかって、あの女に撃たれるかわからない。しかし、そんなことを気にしていては逃げられない!

 

 張伯はもう一度挑戦した。生きるために。ぼろ布を折りたたんで歯で噛むと、思いっきり力を入れて、柵にしがみついた。そのまま、腕の力で体を持ち上げたのである。視界が一気に暗くなる。張伯は、上半身を柵の外に乗り出していた。このまま体を横にして降りようとしたが、腕がもたなかった。張伯は地面にたたきつけられた。

 

「うっ……ぐ…………」

 

 どすっ、という鈍い音がした。張伯は地面に倒れ伏した。暗闇のため受身を充分に取れなかった。張伯の体は悲鳴をあげていたが、声は極力漏らさなかった。歯に布をかませていたためか、うめき声を出さずにすんだのである。痛みが引くまでしばらく動けなかった。悲鳴の中、今のうめき音は敵に漏れ聞こえただろうか。敵は此方を見つけるだろうか。そんなことばかりが頭に渦巻いていた。

 張伯は這いずって移動し始めた。前にある茂みを手でよけるだびに、裾がぶち、ぶち、と音を立てた。張伯はその音さえ聞かれるのではないかと気が気でなかった。終いには、とっとと立って逃げるべきではないかと思い始めていた。

 

「おい、そっちはどうだ? 誰かいるか?」

 

 張伯の心臓は跳ね上がった。だというのに、体はすっかり固まっていた。

 

「いいや、誰もいない……柵を超えてくる奴なんていないだろう」

 

「まあそう言うな。楽でいいじゃないか。あいつらは村の中を尻に火をつけて走り回って、こっちはこうして立ってるだけでいいいんだから」

 

 張伯の左に二人の兵がいた。張伯は声が聞こえるまでその存在に気付かなかった。もし立っていたら見つかっていただろう。張伯は全く動けなかった。兵の会話はまだ続いていた。それが終わったら見つかるかもしれない。ここで殺してしまおうか。張伯は素早く思考をめぐらせた。敵は余り強そうには見えない。背丈も張伯とそう変わらない。武具をつけているのは厄介だが、上手くいけば助けを呼ぶ間もなく殺せるかもしれない。

 いや、駄目だ――。上手くいけば。その考えが命取りとなる。確実に始末できなければ、不用意に挑むことは危険である。兵法の鉄則、いや人生の鉄則を張伯は改めて認識した。張伯はひたすらじっと伏せていた。

 

「誰か逃げようとしているぞー!」

 

 その機は、案外に早く来た。集落から怒号が響く。誰かが逃げようとしている。その者は、張伯が残した、柵に縛り付けられた布を見て、これを登ればよいと思い至った。その者が柵を登った時、既に柵のどちら側にも兵が待ち受けていた。張伯はその者を見たことがあった。あの日、張伯が初めてこの地に降り立ったとき、張任、伍倉と一緒にいた者だ。張伯はその名を知らなかった。

 その男は、柵の上を器用に走って逃げようとしたが、槍で振り落とされて、串刺しにされた。張伯はそろそろと動き出した。敵はみな必死にもがく男に目がいっていた。これも、張伯が辿りうるかもしれない道筋であった。張伯は柵を超えた最初の者だったからこそ助かったのであった。

 

 

 

 もう、仏暁であった。這いずり回ったおかげで、服は泥だらけであった。追っ手が来ている様子はない。張伯はため息をついた。服は泥だらけであった。腕もところどころ血が流れていた。酷い格好であった。ここに川があれば、親分ら三人が来るかもしれない。いや、その内の一人はもう死んでいる。とにかく、そんなことを考えるくらい、張伯は落ち着いていた。

 張伯の胸にあったのは怒りであった。いいように女に敗れたのが気にくわなかった。己が敗れたということは、眼前にある事実であった。そして、張伯はその後の困難も充分認識していた。一人皆を見捨てて逃げたのであれば、下手をすると殺されるかもしれない。どこかに、逃げ切った者はいないだろうか。張伯は、集落の方を見据えていた。煙が上がっていた。女子どもでは、あの柵を超えるのは難しい。助けがあればできなくもないが、そんな暇があっただろうか。ああ、誰かいないだろうか。あの惨劇から逃げ出したものが、誰か――。

 

 果たして張伯の願いは通じた。それは、天が張伯に微笑んだのだろうか? 張伯は、そうは考えていなかった。少なくともこの時点では。

 

 張伯から二里ほど離れた場所に、白い髭を蓄えた男が歩いていた。身なりの良い、汚れ一つない服を身に纏っていた。懐には、文房四宝があるのだろう、大事そうに手を当てていた。



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忠信を主とする異邦人

 

 

 遊子猶行於殘月 函谷鷄鳴 (旅人なお殘月に行く、関所に鳥は鳴く)

 

 

 影が追いやられ、色が浮かび上がりつつあった。たまに鳥の鳴き声が聞こえる程度で、静かであった。張伯は丁程に先行して、道中の安全を確かめていた。集落に残っていた者は全て殺されただろう。ここにいる自分と丁程を除いて。昨晩の悲鳴はまだ耳から抜けなかったが、張伯の心は穏やかであった。

 張伯と丁程は、有事の時の避難場所を目指していた。山を三つも越えた先、といっても抜け道を使えば楽にたどり着ける場所だ。張伯が自分でこの場所を見定めたのだ。それは攻められにくいという点を最も重視した拠点であった。

 あの集落は山奥にあり、見つけられにくいという点で優れていた。しかし、柵と門がある程度で、防御には特に優れていなかった。だからこそ負けたのだ。敵の動きは見事という他はなかった。夜襲によりできるだけ隠れて近づいてから、鮮やかに門を封鎖。それからゆっくり此方をなぶり殺しにしたのである。あの青い女の的確な指揮、そしてそれに従う優秀な兵、敵地の詳細な情報。それらが相互的に作用し、勝利の栄光がもたらされたのだ。もしあの集落にもっと防備施設があれば、あるいは()()()()()を過信しなければ、むざむざと殺されることはなかった。

 

 

 だが最大の懸念は、誰が集落の場所を漏らしたのか、という事にある。そう簡単には探れないはずの場所に、敵はそこにいると予め知っていたかのように真っ直ぐ向かっていた。いや、前もって知っていたのだ。もし偵察を出して慎重に探しているのであれば、いつぞやの李然の兵の時のように、此方も気が付いたはずである。となればやはり誰かが裏切ったのだろう。

 だが、張伯にはそれが誰なのかわからなかった。集落に住んでいる者は当然自分たちの居場所を知っている。それを敵に伝えることができた者は誰だろうか? それができる者は何人か浮かぶ。では肝心な、その目的は何だろうか? 集落の皆が死んでもなんとも思わない人間、そんな者がいるとは考えにくい。一体何のために羊の場所を知らせたのだろうか? 

 

 張伯はその疑問を、後ろを歩く者には尋ねなかった。代わりに別のことを聞いた。今しか聞く機会はないと思ったからである。

 

「子(先生)よ、道とは何なのでしょうか?」

 

 短刀で草や木々が跳ね飛ばされた。パキッ、と短く木が悲鳴をあげた。

 

「道というのは、以前私が婚姻の儀の時にもらした言葉ですね」

 

 丁程はさして気にすることなく、ゆっくりと答えた。

 

「その通りです。智の優れた女性でもたどり着けるかどうか、という道のことです」

 

 曹操は智も優れていた。すると、彼女も道にたどり着けるのだろうか。どんな道であれ、最終的にはたどり着けるだろう。張伯にはそんな確信があった。

 

「道というのは、最高の徳のことです。この世の真理のことです。子(孔子)でさえ、たどり着けたかどうかは定かではありません。況してや他の人間となれば、その道を見つけることさえ叶わないでしょう」

 

 張伯には、最高の徳と真理の道が並列で語られることが理解できなかった。そのようなものを目指す必要性も感じなかった。好奇の色は急速に失われつつあったが、更に突っ込んで聞いた。

 

「その道というのは、人によって異なるのでしょうか?」

 

「仁であれば、人によって異なると言えます。ですので仁の道に則る場合は、一つしかないでしょう」

 

「他の道には、どのようなものがあるのでしょうか?」

 

「それは……わかりません。そんな物があるのかどうかも」

 

 会話は終わった。この時代では、君子には礼を修めた人、あるいはそれを目指している人という意味がある。むしろそちらの意味が強調されてさえいる。人格の優れた者でなければ国を治められない。そんな観念が浸透している。どちらも、張伯にとってはどうでもよかった。仁がなかろうと人は道に到達できるだろうし、君子でなくとも国を治められるだろう。少なくとも後者は歴史が証明している。話している間、張伯は常に先導し、後ろを振り返ることは一度もなかった。

 

 

 

 

 張伯と丁程は拠点についた。誰もが動いていた。動かずにはいられないようだった。襲撃があったことを既に知っているのだろう。その中で一人だけ、此方を見下ろしている者がいた。張伯は何も言わず跪いた。

 

「報告いたします。昨晩私たちは曹操の軍の襲撃を受けました。逃げ延びた者は私と丁郎官のみで、他の者は恐らく全員殺されました」

 

 張伯は白い刃を見た。陽射しの中にあるにも関わらず、前に見た時よりも更に冷たい光を発していた。

 

「…………それで、お前は何をしていたんだ?」

 

「皆と一緒に戦わず、一人逃げ出しました」

 

 張伯に突き刺さる視線が、さらに強くなった。周りの者は、張伯らを逃がさないように囲っていた。

 

「そうか」

 

 親分はそう言うと、丁程を見た。

 

「丁郎官とは途中合流いたしました」

 

 張伯も丁程を見た。白い髭を生やし、綺麗な装束であった。そう、何の汚れもない服装であった。

 

「私は、敵に捕らわれました。その後、何故か敵に解放されたのです。何故なのかはわかりません」

 

 丁程は殺気立った様子にやや気おくれしていたが、落ち着いていた。

 

「……多分、お前は文官かなんかだと思われたんだろう」

 

 親分はそう言うと、張伯をじろりとにらみつけた。首筋の一部分に、冷たいものが押し当てられた。

 

「張伯、何か言い残したことはあるか? もし俺たちがお前の言う策で家を離れていなかったら、大切な仲間が殺されることはなかった」

 

 正念場であった。このままでは自分は殺されるだろう。唯一の救いは、張伯は事前にその備えを怠っていなかったということである。

 

「申し開きもございません。ですが、一つだけ許してくださりませんでしょうか」

 

「何を許せっていうんだ」

 

 親分の腕に血管が浮かび上がっていた。親分は、怒りを寸でのところで止めていた。親分が動かない以上、周りの者も動くことはない。死ぬまでには、まだ時間があった。張伯は真っ直ぐ親分の目を見詰めた。

 

「私が、これから犯す罪のことです」

 

 

 

 

 

 静謐であった。大勢の人間がいるというのに、誰も言葉を発していなかった。誰もが呆気に取られていた。動くまで、まだ時間があった。

 

「順を追って説明いたします。親分を助け出した後、私は李然の幕屋を調査いたしました」

 

 張伯は息を吸った。それだけの動作がじれったく感じた。少しでも話への興味を失わせてしまったら、あっという間に殺されるからだ。

 

「そして、幕屋には火がつけられました。私は命からがら逃げ出しました」

 

 張伯は周りの者には目もくれなかった。

 

「その時手に入れた文が此方になります」

 

 張伯はゆっくりと懐に手を入れ、竹紙を取り出した。その後、見えるように慎重に開くと、頭よりも高く持ち上げた。親分は少しの間その文を見た。それだけで十分だった。少しでも文に目をあててくれれば。張伯は喉から力の限り声を吐き出した。

 

「親分、いや張任、あなたは読めるはずです。仕官しようと努力していたあなたなら!」

 

 場を支配したのは驚きであった。学がない人間が字を読めるはずはない。一体誰が、山賊の首領が字を読めるなどと思うだろうか? 

 

「この文にはなんと書いてあるんですかい、親分?」

 

 張伯が聞こうとしたことを、仲間が代弁してくれた。よい徴候だった。

 

「……ここには、賊の襲撃を知らせてくれた褒美として、其の者と俺の助命を認めるとある」

 

「其の者とは、一体誰ですか! 俺たちを裏切ったのはっ! 親分、教えてください!」

 

 ここまで来れば一先ずは安心だ。張伯はほっと一息ついた。後は何もせずとも、勝手に皆が踊ってくれる。

 親分は口を重々しく閉じていたが、やがてぽつりと答えた。

 

「………………丁程だ」

 

 皆の視線が集まった。丁程は張伯が文を取り出してから、下を向いていた。今もそうだった。それが、親分の言葉が事実であることを雄弁に物語っていた。

 

「張伯。お前の言う、これから犯す罪っていうのは、これのことか?」

 

「その通りです、親分。弟子が子(師匠)を告発するなど、本来はあってはなりません。儒の教えに全く背いた、外道の行いでございます」

 

 逆説的だが、だからこそ、大きな説得力を持つ。張伯は言葉を続けた。これだけではまだ足りない。

 

「私は、この文を手にとってから、毎日悩んでおりました。いっそのこと捨てようかと考えたほどです。何かの間違いであって欲しい、そう願っておりました」

 

 張伯は懐から、白い紙を取り出した。

 

「これは、曹操からの文です。ここにも、子と親分の助命を確約する旨、また子に官位を与える約束が示されております」

 

 またも驚きが広がった。張伯は一気に畳み掛けた。

 

「私が火あぶりにされるだけであれば、それでもよかったのです。ですから曹操の文を手に入れても、黙っておりました。しかし、そのせいで先の惨劇が起こったのです!」

 

 張伯は頭を地面にたたきつけた。意外と痛かったが、張伯がそれを気にすることはなかった。

 

「申し訳ありません! 私がもっと早く、このことをお伝えしていれば……そうすれば、子はこれ以上罪を重ねることも……」

 

 丁程は茫然としていたが、はっと頭を上げた。

 

「いえ、違います! 私は、曹操には文など出しておりません!」

 

 親分はその言葉を一刀両断に切り捨てた。

 

「だが、李然には出したんだろう」

 

 そうだ、そうだ、という声がそこかしこから聞こえた。丁程は何か言おうとしたが、黙って下を向いた。表情は見えなくなった。

 

「襲撃があった時、私は戦おうとしました。ですがもし私が死んだら、このことを知る者は誰もいなくなってしまう。ですから、私は何としてでも、たとえ地面を這ってでも、逃げなければならなかったのです!」

 

 張伯は安堵した。心は晴れやかだった。張伯の、一世一代の賭けは成功した。陽射しが祝福しているかのように照らしていた。全てが、全てが自分のためにある気がした。

 怒声の中、親分はしばらく何も言わなかった。だが、涙を流す丁程に近づくと、低く、透き通った声で言った。

 

「なぁ、丁休。俺は一度だって、俺の命を助けてくれなんて言ったか?」

 

 丁程は何も言わなかった。口が開くのを忘れているかのようであった。誰も、何も言えなかった。誰も、そこには立ち入れなかった。張伯は、丁程の名は、休というのだと初めて知った。親分しか知らなかったのだろう、皆が一瞬止まったのを張伯は見逃さなかった。

 

「俺はなぁ、皆が生きてられるんなら、それでいいんだ!」

 

 親分に胸倉をつかまれても、何も言わなかった。

 

「そこには、お前も入ってるんだっっ!」

 

 親分は手をはなした。丁程は膝をついて倒れた。親分は雄たけび声をあげて、涙を流していた。誰も動こうとはしなかった。倒れたまま、丁程は小さい声で、張伯の方に頭を向けて尋ねた。なぜ、裏切ったのですか、と。張伯は、それに対してこう返した。

 

 子が始めて会ったときに仰っていた通りです、と。

 

 

 

 

 太陽は頂上に登っていた。丁程はぼんやりと空を見ていた。裁きの時間が迫っていた。誰が決めたわけでもないが、その時間に近づいていることは誰もが感じていた。親分は、丁程を殺さなければならない。もし許してしまったら、自分の命が助かるのなら仲間を見捨ててもよいと認めることになってしまう。そうなればこの集団は崩壊する。親分は暫らくの間腕を目に当てていたが、ついに覚悟を決めた。

 

「何か、言い残したことはあるか?」

 

 丁程は何も言わなかった。ただ体を起こし、首を伸ばして、待っていた。

 

「何か、何かねぇのか!」

 

「…………私は、貧しい者を救いたかった。ですが、月日が流れ、いつの間にかその思いを失っておりました」

 

 これは、本音だろう。そしてまた、敵に官職を求めたのには、京師に返り咲きたいという思いが、丁程になかったことは否めない。

 

「っつ、そうかい……」

 

 親分は、ゆっくりと呉鉤を上に持ち上げた。影が、丁程に差し込んでいた。丁程は静かに目をとじた。親分は、その手を、振り下ろした。

 

 

  ――――――腕を振り回して力を入れれば人の首は軽く落とせる

 

 親分の言は、正しかった。

 

 

 

 

 死は、集落の皆の後に、一人の哀れな帳簿係りを連れて行った。どこまでも孤独な男であった。漢を離れてからも、心の中では漢にしがみついていた。墓守は死んだ。漢に執着せず、今に注力していたら、こんなことにはならなかったであろう。墓守が死んだらどうなるだろうか? 墓が荒らされるに決まっている。

 張伯は、簡易的な木の家で横になっていった。それは簡易的ではあるが、張伯の家とさほど変わらなかった。違うところといえば、少し隙間が広く、天井が低いくらいだろうか。他の者はたいていは、地面にそのまま寝ている。張伯は疲れていた。昨晩は眠ることが能ず、這いずり回ったせいで体中が痛かった。もう、泥のように眠りたかった。だが其の前に、一つだけやらなければならないことがある。それをすることなしには、眠るわけにはいかなかった。ザッ、ザッという、短い周期の音が聞こえる。あまり大きくはない。体重が軽いのだろう。張伯はのろのろと体を持ち上げた。

 

「お帰りなさい。生きていてくれて、本当によかった……」

 

 夜になってから、一つ嬉しい知らせがあった。張伯の妻と、その友人が見つかったという知らせだ。だがその知らせにはじくじくとした疑義が含まれている。だからこそ、向こうが出向くのを張伯は待っていた。

 

「もうご存知かとは思いますが、昨晩は大いなる悲劇が私たちを襲いました。ご無事でなによりです」

 

 張伯はそう言ったが、少女に近寄ることをしなかった。武器も持っていないのに、どこか剣呑とした様子を読み取ったからである。少女は、かなり複雑な表情をしていた。いろいろな感情が浮かんでは消えていた。感情を隠す意図はないのだろうが、このような隠し方もあることに、張伯はやや驚いた。張伯は少し突いてみた。

 

「ご友人の兄は私のことを酷く憎んでおります。ですが、だからと言って私は、あなたが友人と付き合うのを止めたりはいたしません」

 

 何の反応も示さなかった。別にこの程度のことは、叱咤されることではないと考えているのだろう。敵対関係にある伍倉。その妹と遊んでいることが、夫にとって愉快なことではないにも関わらず。張伯はそれ以上何も言わなかった。少女は、感情を溜め込んでいた。それが発露することなしには、どんな言葉も用をなさないのだろう。

 

「…………どうして、殺したの?」

 

 小さな、それでいて問い詰める声だった。

 

「必要なことでした。あのまま野放しにしておけば、更に多くの禍根を引き起こさずにはいられなかったでしょう」

 

 何の返答もなかった。

 

「私がもっと早くに子の裏切りを告発していれば……。いえ、こんなことを今言っても無意味でしょう」

 

 張伯の言葉に、少女はやっと耳をぴくりと動かした。

 

「丁郎官はあなたの子というだけでなく、名付け親でもあったはずよ!」

 

 張伯はただ哀しそうに首を垂れた。

 

「裏切り者は、別の誰かよ!」

 

 張伯はまっすぐ少女を見た。此方をにらみつけていた。今日は、よく睨みつけられる厄日なのだろうか。

 

「なぜそう思われるので?」

 

「だって、紙が違う! 李然の文はすぐにでも破れそうなのに、曹操の文は白くて硬いわ!」

 

「私たちが文を送る場合、竹紙を使うしかありません。ですが、敵は何を使っても良いわけです。特に不思議ではありません」

 

 少女は真っ赤になっていた。

 

「字を書けるのは、丁郎官とあなたしかいないじゃないっ!」

 

 少女は、親分が字を書けることをまだ知らないようだった。無理もない。少女が気軽に話すことのできる人間は、二人しかいないのだから。最も、それも一人減ったのだが。張伯はそれを訂正する気はなかった。それよりも優先すべきことがあった。少女の言葉は暗に、裏切り者は夫であると指摘していた。

 

「なぜそこまで子を弁護するのでしょうか? 今の口ぶり。子が曹操と通じていないことを確信する物言い。何か、わたしに隠していますね」

 

 張伯はわざと一拍置いて、話しかけた。

 

「とても、とても気になります」

 

 少女は目の震えを抑えながら言った。

 

「……丁郎官は、ある日膝を折って私に告白したわ。張大公を裏切ってしまったと。でも、そんなことはもうしないと言っていたわ!」

 

「あなたが実際丁程と何を話していたのか、といったことはどうでもよいのです。肝心なのは、あなたは子の元を度々訪れていたということ。それを知る者も探せばいることでしょう。それで十分なのです、私にとっては」

 

 彼女は多くの教育を受けている。であれば、同じく智を磨いた者と話すのを好むのは当然のことだ。どちらも孤立していたのだから、相手を求めたのも自然の理である。少なくとも、張伯は皆にそう信じさせることが可能であった。

 死人には、何の弁解も与えられない。何せ生きていてさえそれが与えられるとは限らないのだから。彼女の言を誰が信じるというのだろうか? 他ならぬ自分の言でさえ、信用を得るのに多くの労苦を必要とするのだ。小さな、居候の言うことなど、誰が聞くだろう? 暇人か、友人しか聞きはしない。

 

「私は、あなたは曹操に集落の場所を伝えるような人ではないと信じております」

 

 張伯は穏やかに言った。思わぬ副産物であった。張伯は殺されるのを回避されるばかりか、脅しに使える材料までも手に入れた。彼女を守る者は誰も居ないのだ。故に、張伯にしがみつくほかはない。

 

「ですから、それを私が信じ続けられるように振舞ってください」

 

 張伯の顔には笑みが浮かんでいた。こちらの真意をすぐに理解してくれる。それだけで、かなり有望である。

 彼女は体を後ろにそらして、目からは涙が伝っていた。最初見せた、いきり立った様子はどこかに飛んでいた。顔を小刻みに震わして言った。

 

「あなたは……あなたは、一体誰なの?」

 

 張伯はその質問にやや戸惑った。彼女が聞きたいのは、名前だとか、他の人との関係だとかではないだろう。

 

「その質問は茫漠としすぎていて、答えることができません」

 

「平気で恩人を裏切って、人が死んでも平気で、いや、生きていても何とも思わない!」

 

 張伯は彼女の髪をつかむと、思いっきり引き寄せた。きゃっ、という悲鳴が張伯の耳を通り抜けた。

 

「私は絶対に、絶対に、恩人を裏切りません。それだけは覚えておきなさい」

 

 赤い目で、何度も頷いた。脅しすぎるのはよくない。少しは飴も必要だ。張伯は息をついて言った。

 

「私が何者か、ということですが、親分に忠実なただの臣下に過ぎませんよ」

 

 女の子は小さく頷いた。

 

「しかしまあ、これで私たちは同罪というわけです。何と言っても、丁郎官の罪を見過ごしていたわけですから」

 

 張伯は朗らかに笑って、少女の頬に手を伸ばした。少女はまたもや後ろに身を引いてかわした。

 

「同じ罪人として、これからは仲良くなれませんか?」

 

 少女はこくりと、首を傾けた。張伯は少女の名前をすでに忘れていた。だが、何の問題もなかった。少女が生きていさえいればそれで良いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 主忠信、無友不如己者(忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ)

 

  *信=嘘をつかないこと     

                      『論語』学而第一

 

 



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欺瞞・裏切り、それに血讐 一

 命というのは、人間の究極の価値であり、決して金品で賄われるものではない。そのことは誰もが暗に知っているのだ。だがそれを実感するのは、誰かが死んでからである。

 残された者たちは、如何にしてその悲しみを癒せばよいのだろうか? そんなことは不可能である。ただ、温かい血のみが、その悲しみをやわらげるのだ。そう、血だ。我らは、血を求めている! 

 

 演説が張伯の頭の中で泳いでいた。これでは少しわかりにくい。反語は強く印象に残るが、使いすぎると理解できなくなる。聴衆が掛け声を挙げられるように、露骨なまでに単純な字句を繰り返す必要もある。誰の血を求めているのか、といった諸点も明確にすべきだ。

 

「いや、血では足りない! それを苦悶や懇願が彩らなければならない!」

 

 家の片隅で、少女が口を結んだまま口述を書き取っていた。字を書くというよりも、筆が踊っているようにしか見えない。硯で休むことがほとんどない。休むにしても烏のように、すぐ飛び出てくる。気が付けば、文ができあがっている。

 

「兄貴っ、郎陵国が曹操の一部隊をおびき出すのに成功したようです!」

 

 王才が駆け込んできた。

 

「そうですか。これで準備は全て終わりました。ここまで走って疲れたでしょう、今は休んでいなさい」

 

「そういたしやす!」

 

そう言うと王才は、来るときよりも早く此処から走り去っていった。

 

 張伯は彼らに、曹操の兵をひきつけるよう指示を出していた。偽の賊の被害をでっちあげ、彼らが調査に向かうところを一緒に挟撃するという策だ。その策に彼らが快く応じた。そしてその謀略の結果が出たのだ。

 曹操の兵を、一部とはいえ動かすことができたのは評価するべきだろう。いきなり背後から襲われ、また助けに来たはずの味方にも襲われれば、たちまちにして曹操の軍は瓦解するだろう。この作戦は成功しなければならない。少しでも損害を出さなければ、誰もが軽んじて、親分の火は消えてしまう。

 

「まったく、随分と()()()()()同盟国です。そうは思いませんか?」

 

 張伯は同盟の要の少女を見たが、うつむいて顔には影が差していた。

 

「不思議なようですね。大敗したにも関わらず、目の前の男はなぜ、自信を持って次の戦いに挑もうとしているのだろうか、と」

 

 少女は頭をわずかに上げたが、何も言わなかった。

 

「まず私たちは負けてなどいません。非戦闘員、それも銃後で安全を享受している者たちが殺されただけです」

 

銃後……?」

 

 集落が襲撃されたからといって、女子どもが全て殺されたわけではなかった。あの化け物めいた女でなくとも、戦うことはできるのである。剣や槍を振るうだけが戦いではない。

 連絡役、諜報、物資調達、治療……。張伯はそれらの役割を全て女性に割り振っていた。だから、集落に暴漢が足を踏み入れた時、外で活動していた女性も多くいた。男女比は確かに偏ったが、死んだのは本当の意味で戦えない者たちだけである。

 

「私たちの拠点は灰塵に帰されましたが、それは逆に言えば、私たちはどこにでも行けるということです。敵が苦労するのはむしろこれからですよ」

 

 集落から立ち上る黒い煙。暗いため此処からでは薄っすらとしか見えないが、ここからでも見えるということ自体、其処での火の強さを物語っている。襲撃から三日、燃やしたということは、もう長居するつもりはないのだろう。つまりはもう移動している。

 

「…………まるで、足手まといがいなくなったから強くなった、って言っているみたい」

 

「その通りです。事実そうなのです。そういったことから目を離してはなりません。現実を見るのです。多くの人間はそれができない。余計な感情に目を曇らされるからです」

 

 此方の足しか引きずらない者はみな死んだ。そして今、味方は身軽になったばかりか、敵への憎悪で燃え盛っている。殺敵者怒也。(敵を殺す者は怒なり)。『孫子』の言葉だ。今は亡き丁程は、軍事を学ぶのにその本を薦めていた。張伯は怒という文字を見たため、たまたまその箇所を覚えていた。

 士気は非常に高い。最早、不利だとか有利だとかを気にしたりはしない。敵を見つけたら真っ直ぐに突っ込む、鬼武者である。いつかの百鬼夜行の再演だ。

 

「この戦い、私たちが勝ちます」

 

 張伯の断言に、能面の少女は驚きを隠せなかった。それは、張伯らが負けると信ずることによる。張伯は、この頑なに心を開かない少女を少し試してみようと考えた。

 

「いいですか。戦いとは、その勝敗が決する前に、決まっているのです」

 

「……夫未戰而廟算数勝者、得算多也」

 

 少女は孫子の言らしき一節をぽつりと呟いた。恐らくそれが、戦う前にその勝敗は決している、という有名な言葉の典拠なのだろう。だが張伯にとって、その内容は気にすることではなかった。

 

 張伯には、豪族、あるいは有力家に嫁に行く者が身につけるべきとされている教えに、それが含まれているのかどうかは皆目わからなかった。もし戦が男の物だと考えられているのであれば、それを学ぶことはむしろ害となるであろう。だが、ここは、張伯の知る国とはいささか異なっている。女の弓で逃げる者の頭蓋骨が貫通するなど、御伽草子にだってありはしないだろう。 

 だが張伯は現実に、己の眼でそれを見た。額から鏃が飛びゐ出、角のようであった。それをやったのは青服の女である。もしかすると弱い者の頭蓋骨は格別軟いのかもしれないが、あの鋭い羽音を聞くに、それはないだろう。張伯の疑心は膨れていた。

 この少女は『孫子』を知っていることをなぜ明かしたのだろうか? それとも、実は孫子の一節というのは嘘で、逆に自分の智を計ろうとしているのだろうか? 表情がほとんどないこの少女の内面を推測することは、張伯には不可能であった。張伯は続けて言った。

 

「託宣だとか、星見ではわかりません。短期的戦い、会戦、決戦の場合、次の四点により決まります。即ち地形、天候。そして自軍、敵軍の情(実情)です」

 

 わずかだが耳が動いて見えた。そこに隠されている感情は、全く読み取れなかった。ぴくりとも眉を動かさない少女に対して、実は感情など存在しないのではないだろうか。そんな疑問が頭をもたげた。いや、それはないだろう。張伯は即座に否定した。初めて家に来た時は、もっと表情がころころと変わっていたはずだ。あの時は少女の幻想が砕けたせいで、たまたま激怒を表したのだろうか? 

 もしかすると。張伯にある予想が浮かぶ。張伯は慎重に、威圧と取られないように言った。

 

「孫子の言うこととどこか異なっていますか?」

 

 沈黙。だがそれが、少女の答えを雄弁に物語っている。

 

「これは忠告ですが――」

 

 張伯は、純粋に思いやりの気持ちを働かせた。常に打算あり気の言葉を身に纏っていた張伯は、今初めて親切心から言葉をかけた。何が張伯をそのような気にさせたのだろうか? 張伯はいつもと話す調子が違うことに気が付いてはいたが、なぜそのように話しているのかまではわからなかった。

 

「過去の人の言葉を信ずるのは止めておいた方がよいでしょう。なぜなら、昔の人は、今生きているのではないのですから」

 

 黄河の流れだって時間をかければ変わるのだ。戦い方であれば、時代と共に、人と共に大きくその姿を変えている。

 

「文(書かれたもの)を重視する人間は非常に多い。丁郎官もまさにそうでした。ですが、文になりそれを私たちが読む時点で、既に大分時間が経っているのです」

 

 この少女は、余りにも盲目的なのだ。有力者の妻として、そうあるよう、育てられている。その教えや生き方に間違いがあるなどと微塵にも思わない。だからこそ、その有力者の家があばら屋であったことに、あれ程深く動揺したのだろう。

 

「今生きている者の言葉でさえ汚泥に塗れているというのに、なぜ過去の人の言葉など信ずることができるのでしょうか? なぜなら私たちは、(過去の人の言には)どんな泥が纏っているのかさえ知らないのですから」

 

 張伯の言葉に、少女は顎に手の甲を当てて考え込んだ。目を下に向けている。

 

「今生きている人の言葉を、信用できると判別するにはどうしたらよいですか?」

 

 中々良い質問だ。

 

「死の淵にある時、あるいはそれに類するような危機的状態にある時、人は着飾るのを止めます。心の底から言葉を振り絞るのです。それこそ、最も信用に足る言葉です」

 

 まさに、今際の丁程の言葉は真実であった。これから死ぬというのに、誰がその後のことを気にするだろうか?

 もし明日にでも死ぬとわかっていれば、今日隣人に優しくする必要などどこにもない。後は野となれ山となれというわけだ。

 

「逆に言えば、死に瀕しでもしない限り、人は着飾り続けなければならないということです」

 

 生きている者は、全く持って自由ではない。死に極限まで近づいたときこそ、自由になれるのだ。

 

「中には自由に暮らしている人もいらっしゃるようです」

 

 張伯はその言葉にも動じることはなかった。少女が、此方を窺うようにちらりと見ていたからだ。張伯は目をあわさず、飄々として受け流した。

 

「余計なしがらみが、人を殺すのです。そのようなものは捨てなければ、生きていけないでしょう。曹操を見ればわかります。あれ程の才がありながら、それでも味方に足を引っ張られる。悲しいことです」

 

 もし曹操が軍の全権を任されていれば、つまり自由に税を徴収したり、外交権を持っていたり、あるいは人の生死を欲しいままにできる権限があれば、張伯らは一ヶ月も経たないうちに蹴散らされていただろう。

 曹操はある種の制限を受けながら、敵と対峙しなければならないのだ。まさしく、天子の機能を侵犯してはならないのだ。

 

「曹操のことを、どう見ていらっしゃるのですか?」

 

 ここまで質問されるのは、久しいことであった。優しい張伯はそれに正直に答えてやることにした。

 

「彼女の名は、二千年の時を経ようとも忘れられることはないでしょう」

 

 正確には、曹操が亡くなってからまだ千八百年も経っていないわけではあるが、そんなことは些細なことであった。

 

「勝てるの?」

 

「勝つのです。彼女さえ倒せれば、最早何の敵もいません。むしろ早いうちにあえてよかった。手勢が大きくなる前に倒すことができるのですから」

 

 もし曹操が一国の主にでもなったら、もう手はつけられないだろう。それを思えば、一軍の将に収まっている今が絶好の機会である。

 

「そも、私以外誰一人として、曹操の脅威を認識していなかったからこそ、あのような悲劇が起こったのです」

 

「……どういうことですか?」

 

 一歩間違えれば、誤解を招きやすい表現だ。言ってからそのことに気付き、張伯は補足する必要にかられた。

 

「名のある女が恐ろしいことは皆知っていました。ですが、その中にさえ彼女は収まらないのです。才女、英雄、天稟。彼女を縛り付けるどのような言葉も無意味なのです」

 

「どうして直接戦っても、見てもないのに、曹操のことがわかるのですか?」

 

 張伯にとっては答えにくい質問であった。彼女、いや彼のことが書かれた本や雑誌は巷に溢れている。ところが、それは今ではない。人間の一生のはるか先である。

 

「……私は確かに見たことも聞いたこともありません。ですが、私は彼女がこれから何を為すのか、何ができるのか、何を遺すのかを知っています。…………彼女がいつ死ぬのかも」

 

 唯一つ、張伯の記憶に存する以外は、何の根拠もない言葉であった。自分のみが知る世界の真実。それこそ己と他人とを決定的に分かつものなのだ。決して教えるわけにはいかない。

 少女は何も言わなかったが、張伯がこれ以上話すつもりがないのを知ったのだろう、膝の近くに置いてある、細長い白い布を手に取った。何か堅い物がくるまれている。

 

「これを渡すように、張大公から申しつけられておりました」

 

 張伯は、初めはそれが何なのかわからなかった。訝しげに白い塊を見つめた。なぜ親分は直接渡さず、わざわざ迂遠な方法をとったのだろうか? 張伯は恐る恐る布の片隅を、親指と人差し指とで持ち上げた。するりとほどけて、ごと、と鈍い音がした。

 

「これはっ……」

 

 やや曲がった刀であった。呉鉤(ごこう)である。張伯はそれをよく知っていた。何回も振るわれるところを見ていたからである。白光りする刃。だがその柄は血で黒く染まっていた。刃の血が拭われているのは、劣化してしまうからだろう。では、わざわざ柄の血を残した理由は? ――理由はひとつしかない。その刀がつい先日誰の血を浴びたのかを知っていれば。

 

「……ありがたく受け取りましょう」

 

 張伯は無表情でそれを手に持った。手の内で転がすと、少女の顔が刃に映った。何かを問い詰めるように、こちらをじっと見ていた。張伯はすぐに刀を動かした。

 

「とにかく、これで準備は整いました。後は戦あるのみです」

 

 そう言って張伯は立ち上がった。少女はどうするだろうか? もしこのまま逃げ出しても、少女には先があるのだろうか? 親元に帰れば、多少肩身が狭くとも生きていけるのだろうか? 何にしても、此方に不利益なことがないようにしなければならない。

 

「敵であれば誰でも殺すのが彼らのやり方なのでしょう? 私もついていきます」

 

 意外なことに、少女は乗り気であった。

 

「わかりました。では、後方で隠れていてください」

 

「いえ、私も戦います」

 

 張伯は驚いて振り返った。少女の眼は強かった。才のない女でもいくらでも戦える、と張伯は信じていた。そして、そのことは誰もが知ることであった。

 そんな張伯でも、実際に少女をどう使えばよいのかわからなかった。箸でさえ持てなさそうなこの貧弱な女に何ができるというのだろうか? 頭が多少なりとも他人より良かったからといって、それがいくさ場でなんの役に立つというのだろうか?

 

「あなたに何ができるというのですか?」

 

「この姿なら、兵を油断させることができます。それで何人か刺し殺せるでしょう」

 

 張伯は身じろきひとつしないでかたまっていた。どうも、この少女の内面がわからなかった。少し脅してからは口答えは減ったが、代わりに別の面倒くささがあった。

 

「敵は残忍です。裸の女の方が、まだ敵を殺せるでしょう」

 

 張伯はため息をつき、言った。

 

「あなたの役目は、見届けることです。張大公の勇姿を」

 

 張伯はそう言いながら、少女の頬を撫でた。これが初めての触れ合いであった。隙間から差し込んだ星明りに照らされ、青くなっていた。けれどもその頬は張伯の手よりも温かかった。

 外から短い足音が聞こえる。その音からして、背丈の低い女の子だろう。張伯は家から出る気は無かった。招く気もなかった。

 

「それまでは、お友達と一緒に居なさい」

 

 張伯を除いて、誰も居なくなった。張伯は仰向けになり、天井を眺めた。小さい無数の隙間から明りが入っていた。天井全体が、まるで星空のようであった。張伯は、その中でも一番大きい明りを見ていた。曹操。彼女を倒さない限り、未来はない。だがそれは不可能ではない。()()、彼女は何度も負けている。違うのは、その負けを最初に刻むのが、自分たちだということだけである。勝たなければ。どんな手を使ってでも。

 

 

 二千年後にも名を残すかもしれぬ女は、来るべき襲撃に備えていた。 

 

 

「敵が郎陵国に向けて移動しているのを発見しました!」

 

「それは確かなのね?」

 

「はい。武器を背負って、こそこそと移動する輩が彼ら以外いないのであれば、ですが」

 

 夏侯惇は言った。

 

「それより、どうして秋蘭を洛陽に向かわせたのですか?」

 

 そのせいで、曹操の戦力は半減したと言ってもよい。ただでさえ少ない軍が分かれたら、ますます弱くなるのは自明の理だ。

 

「宦官らが、天子を交えて祝会を開くためだそうよ。功労者がいないと、祝会は開けないそうだから」

 

 そして、天子のおわす会を欠席することは誰もできない。

 

「なっ! そんなの、罠に決まっております!」

 

 曹操も参内するよう申し付けられていたが、残党の狩りをするため、という理由で辞退していた。それが通ったのは、宦官らが本気で招こうと思ってなどいなかったからである。とにかく、それだけの力が曹操にはあった。だがさしもの曹操も、誰も送らないでいるということはできなかった。

 実際、これは罠であろう。下手な者を送れば、厄介な問題を背負うことになる。例えばその者に褒美を与え、離心の心を植えつける、といったことが考えられる。だからこそ、親愛している身内を送らなければならなかった。

 

「そうね。でも、そうでもしなければ彼は動かない」

 

 曹操の意図は、その罠さえも利用することにあった。

 

「まともにやりあう気がないのだから、自分から出てくるこの絶好の機会を狙うしかないわ」

 

 曹操は、己を囮にする気であった。

 

「彼は迂遠な手で敵を倒すのが好きみたいだから、私も真似しただけ。こんなにも上手くいくとは思ってもみなかったけど」

 

 夏侯惇はすぐに飛びついた。

 

「しかしこのままでは奴らの罠にかかります!」

 

「その罠というのは何を指しているのかしら?」

 

「決まっております! 郎陵国が知らせた、我らを殲滅する策のことです。全く、我らも舐められたものです」

 

 夏侯惇の言うことは正しかった。かの国が賊とつながっていることは、足の報告からとっくに知っていた。そしてその国は裏切って、此方についた。

 誰も敗北している、落ち気味の山賊などに付き合いたくなどはないからだ。この策が実行されれば、逆に今度は賊の方が挟撃されるだろう。最も実行されれば、の話だが。

 

「彼は果たして、彼らの裏切ることを予測していないのかしら?」

 

 曹操の問いかけに、夏侯惇はたじろいた。

 

「彼の本当の狙いは、同盟国との挟撃ではないわ。その間の狭い山道での奇襲よ」

 

 曹操の眼は鋭かった。卓の上には、黒で覆われた地図があった。高さ、位置、距離。他にも天候までも記載されている。

 曹操は、すでに三点計測法を知悉していた。それだけではない。秘密裏に部下を育成し、測量を可能にし、あまつさえ地図を作らせていた。曹操は人知れず感謝の念を覚えていた。東観(後漢の宮中図書館の総称)に残されていた、名前さえ忘れられた技術士の製図法。これがなければ――

 

「事前にこのことも知らなければ、私たちはここで殺されていたでしょうね」

 

 同盟国を信用せで、その裏切りを利用する策。曹操の智勇、そして詳細な地図。どちらかが欠けていたら、死んでいただろう。罠に罠を重ねる策。人は一度罠に気が付くと、安心してしまう。それを、この男は利用していた。曹操は、冷静に安心の末路を思い浮かべていた。

 

「裏切りのおかげで、私たちは敵の動きが読めて、安心してしまう、というわけですか……」

 

 夏侯惇はぽつりとつぶやいた。

 

「さて、それじゃあ、引導を渡すことにしましょう。私も前に出るわ」

 

 夏侯惇が何か言おうとするのを、曹操は手で制した。

 

「将が前に出なければ、兵は着いて来ないわ。それに、彼は随分と私に入れ込んでいるようだから、姿を見せるくらいは良いんじゃないかしら?」

 

 兵者詭道也、怒而撓之也――。曹操は目を瞑ったまま、高々と唱えた。怒った彼らを、姿を見せることでかき乱そうというのだ。

 

「しかし、あの男が、他にも何か奇妙な策を用いるのではないでしょうか?」

 

 夏侯惇は尋ねた。

 

「軍師には指揮官よりも多くの責が課せられているの。もし軍師が予測していない事態が起きて、それで何かしらの被害を受けるのなら、それは軍師の責に当たるわ」

 

 曹操の表情を、夏侯惇は前に一度見たことがあった。いつか、叔父を罠にはめたことを自慢した時の顔であった。彼は曹操の行いを悪くとることにかけては誰にも劣らず、母に告げ口ばかりしていた。そのため、ある日曹操は目の前で苦しんでみせて、「卒中惡風」と言ってやったのだ。それを信じた叔父は、手痛いしっぺ返しを食らうことになった。

 信用がなくなると、人は例え事実を言っても信じられることはない。それは曹操が予測を立て、そして実践を通じて身につけたことであった。

 

「彼が罠に気が付いて何か言ったとしても、もう誰もそれに着いていこうとはしないわ」

 

 曹操の手には力がこもっていた。だが、それはすぐに消えうせた。自身が敵と認めたはずの者が、こうもあっけなく翻弄されているのは、安堵と同時にどこか物足りなさを感じさせた。

 

 敵の襲撃などいくらでも予測できるはずだ。襲撃を受けるのは仕方ないとしても、その被害を和らげる程度のことはあらかじめできたはずなのだ。物質的な側面で言えば、門を二重にしたり、堀を深くしたり、見張り台を立てることがそれである。そういった対策を怠ったつけを彼は払うことになった。それだけである。

 

「彼は襲撃が予測できず、そして独りだけおめおめと逃げたのよ。殺されて当然。むしろ死んでいないのがおかしい」

 

 曹操は左ひじを卓につけ、手を頬に当てながら考えていた。曹操の興味の炎は消えていた。目はどこにも向いていなかった。どこか遠く、あるいは虚空を見つめていた。

 

「きっと、彼はそれでも生きているからこそ、私の敵足りえるのでしょうね」

 

 曹操のため息を、夏侯惇は立ったまま見守っていた。

 

「でもそれももう終わり。春蘭、彼らを全員殺しなさい」

 

 陽射しが曹操の卓に置いてある、一枚の紙を照らしていた。そこには、散々逃げ回っていた男のことが、余すことなく書かれていた。




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欺瞞・裏切り、それに血讐 ニ

 血の犠牲には、血で以って償うべし――

 

「つまり、親分のために働きたくない、ということでしょうか?」

 

 張伯は冷たい目で言った。侮蔑を含ませる必要はなかった。彼らが、勝手に補ってくれるのだから。

 

「そういう訳ではありませんっ! ただ、こんな方法を取らなくとも……」

 

「今っ! 私たちの仲間は必死になって、私たちが相手しているよりももっと多くの者を相手にしています」

 

 張伯は語気を強めた。そして、すぐに抑えて言った。

 

「あなた方は、何もせず死ぬより、何かをしたことで責められるのを恐れているのです。そういう者のことを何と言うのか! ……あなたでしたら、わかりますか?」

 

 張伯は尋ねた。小さな女の子に。

 

「……弱虫」

 

 沈黙が流れた。後は、どちらがより長く耐えられるかの勝負であった。張伯は絶対の自信を持っていた。女の子に蔑まれて、奮わない男がいるだろうか? ここにいる単純な男たちであれば、直ぐに立ち上がるはずだ。張伯は両手を枕にして寝そべった。丘のためか草はあまり生えておらず、茶色い地面がむき出しだった。

 

「ここで動かなければ、私たちは死にます……親分も」

 

 張伯は誰も見ずに言った。皆押し黙っている。そして、焦りが芽生え始めていた。張伯は目を瞑って風の動きを感じながら、悠然とそれを眺めていた。

 

「他に方法はないのか?」

 

 何度も同じ事を言う気にはなれなかった。しかし、答えないのも面倒であった。

 

「私たちの士気は高けれど、敵は行軍すること雲霞の如く。これ以外に有効な方は、私には思いつきませんでした」

 

 張伯は目を開けずに答えた。

 

「それをやれば、俺たちは勝てるんだな?」

 

「その通りですよ。できればですがね」

 

 自分が思いつかなかったことは、他の者も思いつかない。そんな傲慢な考えを、伍倉は受け入れた。つまり代案を出せなかった。なまじ剣を握っているため、彼我の戦力の差がまじまじと感ぜられるのだろう。体で感じたことを誤魔化すのは難しい。

 伍倉は、卑劣な策を用いなくとも勝てる、と言う事ができなかった。できるはずがないと、体が思っていたからだ。頭では否定しても、口が動かなかった。おまけにこの問題は人の命を左右するのだ。嘘など、なおさらつけるはずがない。

 

「わかった。俺がやる! だが勘違いするなよ」

 

 張伯は開ける気がなかったが、影が邪魔だったので、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。

 

「決してお前のために、お前の策に乗るわけじゃない! 全ては、親分のためだ!」

 

 伍倉は剣を張伯の首元に突きつけていた。張伯は流石にそこまでやるとは思ってもみなかったが、特に動揺することはなかった。以前小刀を目の前に突き刺した仕返しだろう、とただ判断しただけであった。

 

「その通りです。私たちには共通点が二つあります。一つはお互い嫌いあっているということ、そしてもう一つは全てを親分に優先させているということです」

 

 張伯は剣に触れた。ひんやりと冷気を纏っていた。刃は、人をその身に写すほど研ぎ澄まされていた。指が触れた途端、その周りに雲がかかった。

 

「誰でも構いません。とにかく、その剣にできるだけ血を吸わせてください」

 

 地面の一点が赤く染まった。

 

 

 

 傾いた日が、隠れて進む曹操らを睨んでいた。曹操らは鬱蒼とした山道を歩いていた。敵が待ち伏せる以上、山に入らなければ逆包囲は完成しない。既に敵の潜む場所はいくつかに絞られていた。

 いつ襲われてもおかしくないと身構えているのと、奇襲の来る時期を知っているのとでは、発揮できる武力に差が出る。常にびくびくとしている鼠は疲れきってしまい、十分に力を出せない。反対に予め奇襲に備えているのであれば、十全以上の力で敵をたたき出すだろう。敵は奇襲を知らない。自分たちが襲う側だと信じて疑わない。よって、こちらが有利なのは言うまでもない。

 だが、曹操は、更に詰めの一手を指すつもりでいた。それは、兵にまず弓で射させ、敵が近づいてきたら応戦するというものだった。木々の隙間から目標を射る錬度を、彼女の兵は持っていた。敵をわずかでも近寄らせず、囲んで殺す策。曹操はわずかな犠牲を出すのも惜しんだのだ。

 

 死不再生、窮鼠嚙貍――死して再た生きずとなれば、窮鼠猫を嚙む。

 

 曹操は、弱兵の命の瀬戸際の蛮行で、愛する兵を失うのは耐えがたかった。必要とあらば愛する兵も犠牲に供する覚悟ではあるが、今はその時ではないと考えたのだ。楽に勝てるのであれば、犠牲もなるべく少なく抑える。それが曹操のもう一つの覚悟であった。

 

「さようなら、かつて敵だった者よ」

 

 鋭い羽音が何度も響いた。遠くから悲鳴と怒声が聞こえる。曹操はゆっくり歩を進めた。剣戟の音は聞こえない。緑と茶色の世界に、赤が点々と降っていた。予想以上に敵は脆弱であった。地面にうつぶせになる者を剣で突き殺しながら、曹操はため息をついた。反対側に潜んでいた夏候惇に追い立てられ、(曹操の元に)逃げてきた者に対処する段取りであったが、意外なことにほとんど誰も来なかった。春蘭の、敵に踊りかかる様子が想い起こされた。

 

「曹孟徳、ここに在り! 誰か戦いを挑む者はおらぬか!」

 

 曹操に向かう者は誰もいなかった。侍者も曹操の名を大声で触れ回っていたが、何の効果もなかった。誰もいないのは予想外なことであった。己の名を知らぬ者はおらぬはずであるし、この絶好の機会、罠だと思っても飛び込まずにはおれまい。それだのに、誰一人として訪ねる者はいなかった。

 曹操はどうしようもない嫌な予感がした。ひょっとすると、自分は何か大きな勘違いをしていたのではあるまいか。そう、何か見落としているのでは……。曹操はこのとき初めてあせりを覚えた。

 しかしながら、戦の最中に余所見をすることなど曹操にはできなかった。いや、誰だってできはしない。常に周りを警戒し、敵の出方を探る。そして味方を統率する。これらを疎かにして、頭を働かせることはできないことを、曹操は誰よりも理解していた。曹操は舌打ちをしながら、戦の早く終わることを願った。

 

 日が半分、地平線のかなたに沈んでいた。

 

「華淋様、敵の将を捕らえました!」

 

 この言葉を聞いたとき、曹操は安堵した。不可解なことがあるにしても、これで峠は超えたと思ったからである。将がいないのに戦い続ける兵は存在し得ない。だが、曹操は、その者を見たときに戦慄した。

 

 

 杖をついた、髪と長い髭が白い、頬が腫れた老人。憎悪の目で此方を射抜いている。曹操はこの者を知らなかった。一瞬間者ではないかと思ったが、それもすぐに否定した。余りにも年をとっているし、学もなさそうに見えたからである。であれば、この者は一体――――?

 

「何者だっ! 名を名乗らんか!」

 

 春蘭が老人の髪を掴み上げて、どやしつけた。だが相変わらず睨むだけであった。春蘭も焦っていた。彼女も何かしらの違和感を見つけたからこそ、こうして敵を捕らえて少しでもその正体を見極めようとしているのだ。

 

「この者は、先ほどまで周りの者に逐一指示を出しておりました。こうして捕まえたために、敵にはもう戦意がありません!」

 

 春蘭の言葉は正しい。将がいないのだから、敵は逃げるか、立ち尽くすことしか考えていない。大勢は決した。彼らの負けは既に明らかだ。それなのに、曹操は己の勝ちを確信できずにいた。

 

「私たちが憎いのはわかるわ。もし投降するのなら、あなたたち全員の解放を約束するわ」

 

 次に曹操が起こした行動は、英断であった。すなわち、英雄のみにしか為しえない行為であった。曹操の言は、負けた者であれば誰もが舞い上がるような魔力を持っていた。それなのに、そのはずなのに、この老人は一向に何も喋ろうとしない。曹操の頬に汗がつたった。

 

「春蘭、他の者をいくらか捕らえて、彼の目の前で殺しなさい」

 

 老人はかっと目を開いた。そして、筋肉隆々な兵が三人がかりで抑えているのにも関わらず、起ち上がろうとした。

 

「お前たちのせいで何人死んだと思っている! わしの息子も飢えで死んだっ!」

 

 老人は怨念、憤怒、悔恨。そういった雑多なものを撒き散らした。喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。

 

「絶対に、殺してやるからなっ! わしが殺さんでも、あいつが、張のやつが殺してくれるっ!」

 

「今、そいつは何処にいる!」

 

 春蘭が老人に詰め寄る。老人は途端に口を閉ざした。地面に抑えつけられても、目だけは上を向いて、此方を睨んでいた。

 

「答えろっ!」

 

 春蘭が野太い声で威嚇した。

 

「……もう遅い。もう手遅れだ! 死ね、死んでしまえ!」

 

 春蘭は愛刀を構え、周囲を見渡した。だが、特に敵が奇襲を仕掛けようとする様子はなかった。この周囲は曹操が既に、伏兵がいないか調べさせている。

 

「おいっ! 今のはどういう意味だ!」

 

 春蘭はもう一度問いかけた。今度は手を切り落とすことも辞さないつもりだった。だが、返事はなかった。春蘭はどすを利かせて言った。

 

「吐けば、命だけは助けてやる」

 

 春蘭がいよいよ斬ろうとするまさにその時、主人が口を開いた。

 

「無駄よ。もう、その者は死んでいるわ」

 

 老人は目を開けたまま、動きを止めていた。強く抑えすぎたためか、老人が酷く興奮していたためか、そのせいで喉をやったためか。それともどこか怪我をしていたのか。いずれにせよ、やせ細った老いた男は死んだ。

 

「私たちは勝ったのよ」

 

 勝利を喜ぶ兵たちの叫びが響いていた。曹操は物言わぬ骸をじっと見詰めていた。何の表情もなかった。

 

 

 数刻後、答えは早馬とともにやって来た。曹操は皆に下がるよう伝え、夕餉も食べず、部屋に引きこもっていた。夏候惇は部屋の前で直立不動し、誰も入ることを許さなかった。どのような言葉も、慰めも、励ましも、主の重荷にしかならない。夏候惇は誰よりも、真っ先に入りたくてしょうがなかった。だから部屋に入らなかった。

 

 

 

 

 宴会のことを思うと、胸が重かった。脂ぎった食事。扇をただ動かすだけの舞。賛美の気持ちが一片もない祝辞。宦官らの、賤しい視線、嫉みの視線。行きたくないと思うあまり、何度も補給のために立ち止まることにしていた。最初の休憩地は呉房県であり、もうすぐであった。

 全く、げにこの世で最も憂鬱な公事は、参加したくないのに主役として顔を出さなければならない宴会であろう。朝廷から命令を拝命するのであれば、此方のほうから何か働きかけることはほとんどない。しかし散々煮え湯を飲まされてきた賊を退治した立役者ともなれば、ある程度皇帝の無聊を慰める必要がある。愛想よさ、礼儀正しさ、そして見世物となる覚悟。とてもではないが、姉者には任せられないだろう。

 

 そう考えていた時、夏侯淵は"不意の一撃"を喰らったのである。始まりは、列の後ろが騒がしくなったことであった。夏侯淵は喧嘩か何かが起こったのだと思った。しかし、馬のいななきが轟いた時、攻撃を受けているのだと確信した。列の後ろの喧騒を聞いて、前を歩く馬が何頭も嘶くはずがない。何せ何度も戦を経験した、かけがいのない仲間なのだ。となれば、答えはただ一つ。騎手が殺されたのだ。

 

「敵襲っ――!」

 

 夏侯淵は兵に素早く指示を出した。兵は素早く各々武器を取り、連携をとって敵に対した。だが、今夏侯淵らがいる場所は、周囲をやや高い丘に囲まれた、くぼ地であった。敵はどこに潜んでいるのかわからなかった。どこにでも潜みうるからだ。夏侯淵は、自分たちがかなり不利な地形にいること、同時に罠に嵌ったことを悟った。

 

「絶対に陣形を崩すなっ! お互いが背中を守れ!」

 

 弓矢がそこかしこから飛んできた。既に包囲されている! 夏侯淵の顔は、その服と見分けがつかないくらい青ざめた。だがそれも数秒のことであった。すぐに怒鳴り声をあげて己を鼓舞すると、弓を手にとって、一人の賊の頭を打ち抜いた。

 何頭かの馬が、弓に当たったのか、自軍を駆け巡っていた。これこそが敵の狙いだったのだ! 最初に馬を殺したのは。

 これを仕組んだ敵は、どこまでも冷静に此方を殺そうとしている。そして、敵は此方がこの道を通ることをあらかじめ《《知っていた》》。鉄がぶつかり合う音が、鋭い羽音が、其処彼処から聞こえてくる。敵もいくらか倒れているのだろう。だがこの奇襲を、此方はまったく気が付いていなかった。仲間を残して宮中に赴くのだから、敵とは当分戦わないだろうと、高をくくっていたのである。

 

 違う、そうではない。夏侯淵は倒れた兵士に声をかけた時、気が付いた。仲間を置いていく罪悪感。それが、警戒心を鈍らせたのだ。もし士気が低い兵であれば、例え凱旋の道であろうとも、異変には気が付いただろう。

 敵と戦わねばならぬまさにその時、主に直接従う兵たちが剣や槍をその手に握り締めているとき、自分たちは宴会の余興や作法について話を詰めていたのだ。堅い結束に結ばれた兵たちが、引き裂かれていた。無論、そのことさえも主は、華淋様は利用なさっていた。敵の行動を操るために。だが、それは敵も同じであった!

 

「おのれ下郎っ! 思い通りになると思うなよ!」

 

 夏侯淵の髪は逆立ち、弓からはきしんだ音がしていた。矢を番えると、そのまままた放った。一人が吹っ飛び、その後ろに立っていた者も巻き込んだ。二枚抜きには至らなかったものの、敵を畏怖させるには十分であった。だが敵は怯むことなく突撃を仕掛けている。その姿は、紛れもなく精鋭であった。その顔は、憤怒に染まっていた。

 

「殺してやるっ!」

 

 一人の敵兵が、夏侯淵に襲い掛かった。しかし、すぐに周りの者たちの槍によって串刺しにされた。それでも猶、手を虚空に動かし、目で射抜いていた。戦況は明らかに不利であった。夏侯淵にはもう一つ懸念すべきことがあった。目の前には呉房県があるのだ。そして、そこには城壁がある。それが不気味であった。奇襲にしても、なぜ賊はわざわざ此処を選んだのだろうか? これではたちまち城壁の中に逃げられてしまう。

 だからこそ、夏侯淵らは油断をしていたとも言える。そんな単純なことを、これほどまでに利口な策を練る者が見逃すはずがない。何か、何か罠があるのだ。

 

 夏侯淵はこの時、大きな選択を迫られた。このまま逃げ込むか、それとも戦うか。逃げ込めば、明らかに有利だ。城があるのだから、敵も容易には攻められないはずだ。かといってこのまま戦っても、勝てるかどうか夏侯淵にはわからなかった。今までこんなことはなかった。難しい判断は、全て主が下していた。この時初めて、夏侯淵は己の真価を試されることとなった。

 

「転進だっ! 陣形を崩さぬまま、城壁に進むぞっ!」

 

 夏侯淵は前者を選んだ。どちらを選んでも、後悔からは逃れられないだろう。だがそれに囚われるのは、生き残ってからだ。夏侯淵は親衛隊、自軍の中で最も優れた者たちに包囲を突破させた。敵はすんなりとそのままに任せた。無理に包囲を維持する必要がないと知っているからだ。完全な包囲では、敵は死に物狂いで戦う。

 だが、もしそこに穴があれば、敵は無理に戦おうとはせず、そこから逃げようとする。そうなれば、ただの的になるだろう。夏侯淵は殿を務めながら、転進を開始した。夏侯淵には覚悟があった。絶対に、陣形を崩さない――何としてでも、凌ぎきる――

 

「あそこに、首領がいますっ!」

 

 夏侯淵はその言葉に気をとられた。見れば、赤い旗が一本だけ立っていた。張と書いてある。旗を持つ者の隣りには、剣を持った男がいた。兜はつけていないが、簡単な防具を身につけていた。そして、斬りかかろうとはせず、周りの者を鼓舞していた。

 

 あいつだっ! 夏侯淵は思わず弓を構えた。しかし、それが罠であることは一目瞭然であった。此方が後退しようというまさにその時、都合よく首領が姿を見せるだろうか? 否、そんなはずはない! こうしてあと少しで勝てる、という期待を抱かせ続けたまま絞め殺すのが、賊の策なのだ。

 

 夏侯淵は激情する体を押しとどめながら、後退し続けた。敵が恐ろしかった。どこまでも此方を殺そうという、冷酷な意図があった。敵の怒りも、此方の罪悪感も、全てが計算されている。全てを策に織り込んでいる。夏侯淵は底知れぬ悪意に身震いしながら、門を潜り抜けたのであった。

 

 

 

 

 雲から陽射しが抜け出ようとしていた。今日は多くの人が死ぬことになる。けれども、それは序幕に過ぎない。まだ重要な人間が死ぬわけではないからだ。

 

「正直に言えば、敵が一人も死ななくても良いと、私は考えています」

 

 張伯は唐突に口を開いた。

 

「私たちは血を欲しています。必要なのは、血がそこにあるということです。血というのは出てきた途端、最早それが誰のものだったのかは関係なくなるのです」

 

 張伯は真っ赤な地面を、事も無げに見下ろしながら言った。さながら多くの人間が織り成す交響曲、いや単旋律と言ったところだろうか。歩く場所が制限されるのを、張伯は苦々しく思った。

 

「病気になるので、触れてはいけませんよ」

 

 忠告にもかかわらず、女の子は膝をついて、倒れ伏したものの顔に手を当てていた。女の子が動くたびに、血溜まりに波紋ができた。衛生観念というものを知らなければ、こんなものであろう。手を洗うという発想さえないのであれば、疫病がやたらめったら這い回るのも自然の理だ。張伯は血の側には近寄らなかった。

 

「敵は壁の中に逃げ込みましたか。まぁ、予定通りです」

 

「……どうなさるおつもりですか? このまま城攻めを敢行なさるのですか?」

 

 女の子は倒れた兵の目を閉じながら言った。

 城の中に篭る敵兵を倒すのは至難の技だ。一介の山賊では、攻める体勢を作ることさえできはしない。城攻めは度々失敗するが、城攻めをするために包囲すること自体難しいのだ。であれば、それを利用しない手はない。敵将がそう考えるのも最もだ。だからこそ、都合が良かった。

 

「私たちは、より有利になっているのです。理由は三つあります」

 

 張伯は言った。

 

「第一に、彼らはこの国の駐屯兵ではありません。第二に、県の中には邪魔者がいます。第三に、彼らは身を寄せ合って閉じこもっています」

 

 火の手が中からいくつか上がった。張伯の指示通りであった。壁の外からは火矢が降り注ぎ、中からは誰かが火をつけまわっているように敵には見えるのだから、堪ったものではないだろう。

 

「……いつの間に、内通者を用意されたのですか?」

 

「彼らは皆、困窮しているのです。私は彼らのことを思いやっていると、同じ仲間だと思わせただけです」

 

 皆が貧困にあえいでいるのならば、怒りを抱くことはない。精々、たまに訪れる官吏、徴税人をにらみつけるだけだ。しかしもし、自分の娘を売らなければならない程借金を抱えていて、豪族の畑で必死に働かなければならないのなら、その豪族が娘を(債務)奴隷にしていたのなら、その怒りは凄まじいものになる。そして、その感情は()()できる。

 

「なんと素晴らしい! あれ程までに精美な軍が、いまや稚児のように右往左往しています。間抜けなものです」

 

 張伯は快活に笑った。彼らが共同して立ち向かえるはずがないことを、張伯は確信していた。今まで守ってきた者からすれば、突然軍が押し寄せ、戦う羽目になったのだ。余計な荷物を持ち込んだ余所者。嫌悪を抱かずにはおれまい。そして軍からすれば、慌てて逃げ込んだ先が安全とは限らない。事実安全ではないのだ。両者が不信を抱けば、行き着くところは反目に決まっている。

 

「やはり私の思っていたとおりだ! 軍などというのは近代以前では、鼻つまみ者に過ぎない! 嫌われて当たり前。来なければいいと誰もが思っている」

 

 張伯は自然と高笑いをしていた。この世で一人しか理解できない言葉を言うくらい、気分が良かった。数日前は囲んで叩く側だったのが、今では逆転しているのだ。これほど皮肉なこともないだろう。後ろにいる女の子は、食い入るように炎を見つめていた。

 

「炎から逃げ惑う女の悲鳴が聞こえます」

 

 女の子は、張伯の脚を見ながら言った。

 

「私にも聞こえていますよ。それがどうかしましたか?」

 

 張伯には、少女が何を言わんとしているのかわからなかった。まさか己の聴力を自慢したいわけではないだろう。となれば、何か皮肉や比喩を使っているのだろう。

 

 ……もしかすると、女の悲鳴が聞こえるというのが、この女の子にとっては看過しがたいことなのだろうか? 戦うならまだしも、逃げようとしてむざむざ焼け死ぬのは女にとって恥ということなのだろうか? 

 相手はわかっているのに、自分には分からない。それは恐怖を生む。そんなことは策士には、軍師には、あってはならない。張伯は目を細め、頭を働かせた。

 

「ふむ……」

 

 今一度考えてみよう。こうして話すことができることは、科学の枠組みを一蹴している。今まで日の本で暮らしていたのに、どうして突然古代蛮族の世界に訪れ、あまつさえ言葉を話せるのだろうか? 字は読めなくとも、話が通じるというだけでおつりが来る。だが本来、会話というのには、文脈、つまりはお互いの文化的背景、知識が共通していることが必要不可欠だ。

 張伯は当然母国語を話しているつもりでいる。そして、相手も母国語を話している。その母国語は同じではない。ならば一見話せるように見えても、どこかで齟齬が起きないはずがない。となれば、これがその齟齬なのだろうか? いずれにせよ、早いとこ解決したい問題ではあった。

「私は、実は異国、海を超えた遥か先の生まれです」

 

 張伯は正直に白状した。

 

「ですから、ここのことを余り知らないのです」

 

 張伯は懇願のまなざしを向けた。

 

「この身浅学菲才なれば、お教えするのは恐れ多きことでございます」

 

 何も教える気がないのだろう、女の子は淀みなく言った。そして丁重に頭を下げた。

 

「それはあなたが女だから、あるいは妻だから教えられないということでしょうか?」

 

「いいえ、そういう訳ではございません」

 

 張伯はゆっくりと近づいた。瞳孔が、ほんの少しだけ大きいようにも見える。

 

「私は嘘を言ってはいません。旅人に対して、寛容さを見せ付けるべきではないでしょうか?」

 

「……あなたは既にここに根付いていらっしゃいます」

 

 女の子は一歩も譲らなかった。張伯はそれ以上何も言わなかった。不穏な空気を破ったのは、腰ぎんちゃくであった。

 

「まぁまぁ、難しいお話はこれくらいにして、今は戦に集中するのはどうでしょうか、兄貴」

 

 王才は、肩に矢筒を背負っていた。五、六本しか入っていなかったが、張伯は王才が一度も矢を放っていないことを看破した。声がいつもとあまり変わらない。もし火矢を放つことに抵抗があったのなら、何かしら心の疲れや動揺が表れているはずだ。そしてもしそれがないのであれば、この場には来ないで味方を大きく助けているはずだ。そうすれば、虚栄心を満足させることができる。

 こうしてここに来たのは、指示を仰ぐためではない。撃ちたくないという、臆病に端を発している。

 

「弦が、少したわんでいますよ」

 

 たわんだ弦で矢を放つのは、手綱のない馬車を操ることぐらい難しい。

 

「えっ。あ、いえ。これは使ってたら、緩んじまったんです」

 

 張伯は王才の嘘のつき方を既に熟知していた。王才は黒であった。にも関わらず、張伯はそれをおくびにも出さなかった。

 

「それ程までに弓を使い続けるとは。流石です」

 

「何でも任せてください、兄貴」

 

 王才はそう言うと大げさに胸を叩いた。そして、二度と手を胸から離すことはできなくなった。愛の矢により、二つは繋ぎとめられたからだ。

 

「がっ…………!」

 

 王才は目を一瞬大きく開けた。そして、胸に視線を向けた。右手を動かそうとしたが、血が吹き出ようとしたためか、動作を止めると、ゆっくりと横向きに倒れた。張伯は素早く女の子を見た。驚いているのだろう、倒れている王才を見つめていた。だが、何も声はかけていない。そして、助けるそぶりも見せていなかった。

 

 数瞬後、張伯は慌てて何処から矢が放たれたのかを確認した。矢の刺さり方を見れば、どの角度から放たれたのかが分かる。そしてそれを元にすれば、距離もたちまちにしてわかる。青色の何かが、ちらっとだけ動いて消えるのが見えた。あれだけの距離から――。張伯の全身につめたいものが走った。そしてそれはもう、抑えることができなかった。

 

「何と、何ということだっ!」

 

 張伯は顔を右手で抑えながら、叫び出した。手を当てた途端、首筋から汗が噴出した。そしてついには腰をかがめた。

 

「やはり、やはりそうだった!」

 

 張伯は体を震わしながら叫んだ。手ががくがくと動き回っていた。

 

「私には、例えるならそう! 天が味方している!」

 

 そこからは、張伯の独壇場だった。

 

「万物が、私に味方している! いつだってそうだ。死んでもおかしくない状況を、私は何度も乗り越えてきた! 如何に私が優れていようとも、危ない時はいつでもあった! いや、違う、私には天が、神が味方している!―――私が特別だからだっ!」

 

 張伯は肩で息をしながら、王才を見下ろした。

 

「王才、あなたは私以外の頼みも聞いていたはずです。よく私の側を離れていましたからねぇ。それは誰ですか?」

 

 張伯は王才に近づいた。その表情は此処からは見えない。

 

「教えてくださいよ」 

 

 張伯は肩を蹴飛ばした。仰向けになった。右手が動いたが、それは背中から突き刺さった矢が地面に当たって動いたためであった。王才は、引きつった表情で固まっていた。

 

 張伯はやや目を大きく開けたが、鼻で笑った後、ゆっくりと門に向かって歩を進めた。矢が掠めても、張伯は気にも止めなかった。それが刺さらないことを、確信していた。自分には天がついている。天子行何畏――――




 8/15に、匈奴に勝った記念に作られた石碑が発見されました。
「历经近2000年班固所撰《燕然山铭》摩崖石刻找到了」(http://history.eastday.com/h/20170816/u1a13197569.html 2017年11月3日閲覧)に詳しい解説が載っているので、是非お読みください。


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欺瞞・裏切り、そして血讐 三

 陰謀、怨恨、復讐。全ては前哨戦に過ぎなかった。然し、骸が積みあがるには十分であった。

 

 張伯らは呉房県を攻める準備を、曹操らが訪れるよりずっと前から怠っていなかった。その近くでの武器の隠蔽。内通者の確保。それだけではない。呉房県の防備、兵力は筒抜けであった。そして、肝心の夏侯淵らも丸裸にしていた。兵馬の数、荷物の量、行軍経路、補給地、出発の日時。それらを全て知られていては、勝つのは難しい。優秀な者は、それでも惨たらしく敗北を喫っしはしなかった。

 

「三十人から四十人。それが限界でしたか……」

 

 張伯は気を落としはしなかった。喜びもなかった。ただ、予測したとおりであった。奇襲による混乱。もつれ込んだ防衛戦での不和。だが、それでもこの程度の損害を与えるのが精々であった。城壁を黒くした後、張伯らは撤退していた。城の中から立ち上がっていた赤は、もう消え去っていた。

 

「初めから見捨てるつもりだったのですか?」

 

「そんな訳ないでしょう。私たちのために、その身を危険に晒して、敵陣の真っ只中で戦ってくれたのです。私は……彼らを、助けたかった…………」

 

 張伯は顔を右手で隠しながら言った。こんなやり取りもお互い慣れたものであった。女の子に怒りや悲しみの声はなかった。もしあれば、もっと強く問い詰めていたであろう。

 

「私たちが(呉房県を)落とせたとしても、その前に殺されることは予想できたはずです。それなのに、なぜ彼らは戦ったのでしょうか?」

 

 女の子は張伯に頼った。張伯はその答えを持っていた。それは他の者には気付きにくいことだろう。

 

「もし、私たちが拠点にて、妻や子どもを失うことがなかったら、彼らはどうしていたでしょうか?」

 

 張伯は尋ねた。

 

「やはり、此方の方が有利だと思って、もっと勢いづいていたのではないでしょうか?」

 

 女の子は口元に右手を当てて答えた。張伯は幼子のような、可愛らしい返答に鼻を鳴らした。女の子は少しだけむっとした表情を見せたが、大人しく答えるのを待った。

 

「彼らは裏切りましたよ」

 

 女の子は怪訝な表情を浮かべた。張伯はゆっくりと、女の子を答えに導いた。

 

「私たちは、今まで虐げられてきました。彼らもそうです。しかし、違いもあります。何だかわかりますか?」

 

 返答は早かった。

 

「戦っています。命を賭して」

 

 両の眼は、真っ直ぐ張伯を射抜いていた。張伯は思わず顔をそらした。

 

「その通りです。私たちは彼らにとって、仲間でもありながら、同時に羨望の的でもあるのです」

 

 張伯は続けた。

 

「彼らが抱くのは、非常に複雑な、倒錯した感情です。私たちが負ければ残念に思い、勝てば、表面上は祝っていても、内では嫉妬の蛇が渦巻いているのです」

 

 自分たちも立ち上がっていれば、こんなことにはなっていなかっただろう。だが今から合流したとして、受け入れてもらえるだろうか? 活躍できるだろうか? ……そんな考えが腸に詰まっている。

今まで農作業と豪族に黙々と従事していただけの彼らに、何ができるというのだろうか。けれども彼らは、活躍できると、錦を飾れると信じて疑わない。

 

「そして私たちが妻と子を失ったことで、初めて彼らは私たちよりも上にいると感じたのです」

 

 死んだ者は甦らないという真理が、彼らを勇気付けたのだ。例え娘を豪族に差し出していたとしても、息子が一生を畑の上で終えるとしても、死ぬよりはましに違いない。そして上手くいけば、自分たちのちょっとした助力でそれらから解放されるかもしれない。大した苦労はしたくないが、賞賛はされたい、快適な生活を送りたい。まさしく甘えの権化である。

 

「私は、弱き者たちの心の奥底に訴えかけたのです。一歩間違えれば、反対の結果を生んでいたでしょう」

 

 他人の畑を耕して、娘と息子は奉公しても、借金は増えるばかり。そんなことで、一生を終えたくない。そんな屈折した体だからこそ、能天気な思考ができるのだ。

 

「恐らく放火以外に、私怨による殺人や、人を嬲る行為も行われたでしょう」 

 

 張伯は炎を見るまで、実際に行われるまで、彼らが反旗を翻すかどうかわからなかった。

 

「なぜ、(彼らは)急に立ち上がったのですか?」

 

「官軍が慌てて逃げ込むことを伝えておきましたから」

 

 予言どおりに事が進めば、勝てるという確信を人は抱く。そして、今まで負け犬であったならば、この機会に勝ち組になりたいと思うのは自然なことだ。

 張伯は、自分たちが勝てるかどうかは皆目見当がつかなかった。だが張伯は、彼らに勝てると思わせたのだ。そしてそれは成功した。

 

「逆に言えば、彼らはここまでお膳立てしなければ、動かないような弱者だということです」

 

 外から火矢を降り注ぐことで、内から火をつけても気付かれないと、張伯は説得していた。これがもし火をつけるのではなく、人を殺すのであれば、彼らも賛同しなかっただろう。

 だが火ならば、いざとなったら敵のせいだと言い逃れができるため、彼らとしてもやりやすかったのだ。火が消し終わるのを待つまでもなく、そんなことはすぐに発覚するにも関わらず。彼らは、全く日和見主義の弱者であった。

 

「ではなぜ彼らは人を殺したのですか?」

 

「あれはただの私の予想です。まぁ、当たっているでしょう」

 

 張伯はそれ以上続けなかった。説明するのが難しかったからである。一歩踏み出せば、二歩目も踏み出せると言う説明もできる。軍が逃げ込んだことによる異常事態により触発された、と言う事もできる。

 何が原因となったのかは、当人でさえわからないだろう。弱者であろうとも人殺しはできるのだ。だが、こんなことは言う気にはなれなかった。

 

 張伯は質問に答える代わりに、別なことを言った。

 

「私は、他の者とは違うのです。考え方や物事の見え方だけではなく、その在り方自体が常人のそれとは異なっているのです」

 

「……曹操ともですか?」

 

 張伯はわずかに顔を歪めた。

 

「彼女は、恐ろしい敵です。今回勝てたのも、敵の将が夏侯淵とかいう青服の女だったからでしょう」

 

 張伯は素直に認めた。曹操の脅威を。そして、相変わらず質問には答えなかった。

 

「全ては、あの女を、戦から引きずりおろすための策です」

 

 張伯は女の子をにらんだ。

 

「あの女は、全てが異常です。今回の敗戦は、彼女の敵が必死になって触れ回るでしょう。そして彼女の首さえ代われば、私たちは勝てるのです」

 

 もちろん曹操がいなくなると、そこで奇妙な関係は終わりを迎えるだろう。だが、曹操がいなくなるだけで良いのだ。そうすれば、勝てる。この国の建立は、ほとんどを農民反乱に端を発している。だからこそ、その資格が自分たちにはあるのだ。

 だがこんなことは、言っても誰にも聞き入れられないことだ。千八百年の年表から国を見通せる者は、他なし、己唯一人。

 

「張という国を作るのです。私たちにはそれが可能です」

 

 張伯の言を、女の子は黙って受け止めていた。張伯が張国の正統性と正当性とについて話し終えた後、やっと口を開いた。

 

「……国を興した後は、何をなさるおつもりですか?」

 

 張伯は少しだけ詰まった。だがすぐに答えた。

 

「これまでと委細変わりありません。私は常に親分を支え続けます」

 

女の子は、目をぱちくりと動かした。表情は、言葉より勝れて物語る。張伯は、己の妻でなければ殺していただろう、と思いながら続けた。

 

「国を治める以上、丁程のような小人が親分に纏わりつくことになります。それを駆除するのが私の役割です」

 

 張伯は当て擦りながら言った。能面と張り合うことの多いこの女の子は、挑発に対しても決して怒りを見せなかった。まるで胸のうちを曝すことが、心だけではなく体も、手にとられることをわかっているかのようだった。

 いや、事実わかっているのだ。でなければ、どんな言葉にも冷静に対応できるはずがない。

 

「私は特別な人間ではありますが、親分の上に立つ気など毛頭ありません」

 

 張伯は臆面もなく言った。 

 

「あなたは、やがて私の妻であることを幸運に、そして誇らしく思うことでしょう」

 

 張伯は女の子に自信を持って語りかけた。女の子は仮面を被ったままだった。

 

「わかりました…………私も、張大公の治世が輝かしいものとなるよう、精一杯この身を粉にして働く所存でございます」

 

 女の子は丁寧にお辞儀をした。両者は何も言わなかった。お互い話すべきことを既に知っていると感ずるのであれば、どうして何か話す必要があるというのだろうか? 蓋し、これも一つの真理であった。

 女の子はしばらく張伯の所作を見ていたが、やがて家から出て行こうとした。

 

「また、友人に会うつもりですか?」

 

「ええ、あなたの言う友人が誰を指しているのかはわかりませんが、ともかく友人に会いに行きます」

 

 張伯はあけすけに依頼した。

 

「伍倉がなぜあそこまで奮闘したのか、尋ねてみてください」

女の子は、一度煙たそうな目を向けた。そして、

 

「あなたは悪鬼とは正反対の、とんでもない美貌の持ち主です」

 

 と謎の言葉を言い、去った。張伯はなぜ美貌がどうのこうのと言われたのか、わからなかった。張伯は頭を使った。褒めるために言ったのではないのは、直感的に解することができた。

 もし本当に賛美の意があるのなら、相手に伝わるように、遠い国から来た旅人にもわかるように、言うはずである。何かの諺か、故事を踏まえた発言なのだろう。

 

「悪鬼……鬼の反対ということは、人? それも美人。というよりも、美人の反対が悪鬼……?」

 

 いくら考えても分かりそうにない。張伯は、恥を忍んで誰かに聞こうと思い立った。真っ先に頭に浮かんだのは王才であった。しかし、昨日死人の仲間入りを果たしていたことを思い出した。死人の口を開くことはできまい。それに、王才が知っているとも思えなかった。

 文に体を沈めていた丁程も、既に世を去っている。自然、ここにはその答えを知る者は、謎かけをした当人を除いて誰もいないということになる。

 

 謎が解けないのは悔しいが、特段悪いことではない。別に全知全能である必要はないのだから。少しは知らない事があるほうが、驚きや好奇心を満たし、人生を豊かにするだろう。張伯はそんな風に考えた。それにそういった皮肉でしか、相手が翻弄できないのを見るのも楽しかった。

 

 肝心なのは、女の子が、それ程同年代の友人に入れ込んでいるということである。多くの人間と同じように、女の子もまた、できの悪い者に足を引っ張られる存在に陥っている。人の悪口しか言えない、人の背に負ぶさることしか知らない者を友人としているようでは、この先が思いやられる。己の妻である以上、悪友と袂を分かつこともそろそろ学ぶべきだろう。

 張伯は家中を見回した。前の陋屋に劣らない萱葺きの家。だがこれが貴族の家であれば、周りに粗野な人間が徘徊することはない。この家を捨てる時だ。軍事上の必要に迫られたからだけではない。弱虫と手を切るためにも。

 

 

 日が真上から照らしていた。丘の上には、一人の大男が立っている。その足元には、一人の老人が丸まって眠っている。

 

「出立の時間です、親分」

 

 こんなことは百も承知であろうが、それでも張伯は話し掛けた。手には剣を持ち、目を下にやっていた。親分は下を見たまま言った。

 

「王才が死んだのを見て笑っていたそうだが、それは何でだ?」

 

 張伯は動揺した。死んだ者のことが出てくるとは思わなかったからである。もっと、聞くべきことがあると思ったのだ。

 

「あれは違います。あの時、私が死ななかったのが、摩訶不思議に感じられて……」

 

 張伯の答えは要を得なかった。

 

「いえ、えーと、これも違います。えぇっと、私は、死ぬことはないのに、死ぬかもしれないと考えていた自分が可笑しく思えたのです」

 

 張伯はようやく考えをまとめた。自分が選ばれた者などと、普通に言っては信じられまい。少しずつ、証明を積み重ねていくしかないだろう。親分は特に顔を見せずに、

 

「そうかい」

 

 と一言つぶやいた。それだけであった。風の音、草がこすれあう音の中、張伯は離れたくてたまらなかった。突如、張伯の心の中では、いきなり足首を筋張った手で掴まれるのではないか、という馬鹿げた恐れが生まれた。それはどんどん強まっていた。

 張伯は地面を見た。他と比べると少し茶色い。そして盛り上がっている。火葬もせずに埋めたのだから、今頃は虫がたかっているだろう。筋肉もないのに、土を掻き出すことがどうしてできるだろうか? まさか、例え超人の女が跋扈していたとしても、僵尸が実在することはないだろう。

 ならば心配することはない……ないはずだ。

 

「お渡しした地図の、一と書いてある道を辿ってください」

 

 張伯は恐れを脇に置くように言った。

 

 道は三まである。つまり、張伯は味方を三つに分けた。一つ。張伯の言うことに最近従い始めた者たち。張伯の部下というよりも、伍倉に不満を抱く者が多い。二つ。今度は伍倉の言うことに従う者たち。当然伍倉が率いる。地図通りに彼らが行動することは決してない。なぜなら、その地図を作ったのは、道を描いたのは、他ならぬ自分なのだから。そして最後。親分の率いる者たち。僅かに残った無力な女子供の全てがここにいる。親分の隊の両側をはさむようにして、張伯と伍倉が率いている。

 

「それではまた、一週間から十日後に」

 

 張伯は親分の通る道選びに、慎重に慎重を重ねた。なるべく楽に、安全に通れる道。それは山の尾根の東側を通る道であった。敵がもし来たとしても、伍倉の兵に当たるだろう。そして、彼らは命がけで時間を稼ぐはずだ。

 

 親分が、張伯にぽつりと尋ねた。

 

「なあ、張白。お前は、俺に何をして欲しいんだ?」

 

「何度も申すように、国を、親分には国を作って頂きたいのです。国と言っても、そんじょそこらのみすぼらしいものではありません。この四海すべてを含むような、巨大な国です」

 

 親分は刀を磨きながらつぶやいた。

 

「国か……そうか、国か」

 

 張伯は我が意を得たりと大きく頷いた。

 

「ええ。親分には、その資格があります」

 

 親分は手を動かしたまま尋ねた。

 

「お前は、俺のために命を捨てるのか?」

 

 親分は、仲間に命を捨てさせるような真似は決してしない。であれば、今自分は覚悟を試されている。

 

「ええ、捨てます。この命、価値はありません」

 

 張伯は瞬きをしなかった。親分も同じであった。親分を助けられずして、己の命に何の価値があるというのだろうか? 

 親分は今までで一番大きなため息をつき、言った。

 

「まぁ、何にせよ、お嬢ちゃんは守ってやるんだぞ」

 

 その後、張伯の手に持つ刀を一瞥した。そして、

 

「頑張れよ」

 

 と張伯の肩をたたいた。肩をたたくのは、期待の表れだ。張伯は意気込んで頷いた。親分の期待に答えられずして、のうのうと素面を晒せるだろうか?

 

 

 こうして、彼らは各々の道に進んだ。張伯は、地図を見ることさえしなかった。すでに頭に入っていたし、三の道に進もうなどと微塵も思っていなかった。どうせ伍倉もニの道など歩んではいまい。張伯ら三十数名は、山の西側、尾根に近いあたりの山道を黙々と進んでいた。山道と言っても、獣道と大差はない。以前の自分であれば、一刻もしないうちに音を上げていただろう。

 山の気候は変わりやすいが、太陽もまた変わりやすいのだろう。既に日が沈み始めていた。

 

「敵は追いついてこないのですか?」

 

 不安の声もあった。

 

「追いつけませんよ。なぜなら、青服はあそこまで手痛い失態を犯した以上、独断行動はできないからです。必ず曹操の許可を仰がねばなりません」

 

「ですが……その、もし曹操が来たら……」

 

「曹操は天子から朝廷で事の次第を明らかにしなければなりません。つまり、遠出をしなければなりません。来れませんよ」

 

 張伯は足を止め、女の子に言った。二人の女の子だけは、親分の隊から外れていた。

 

「お別れは済ませましたか? 次に会うのはかなり後になりますが」

 

 女の子は何も言わず、後ろを歩いていた。目が少し赤いのは、陽射しのせいではないだろう。

 だが張伯は穏やかであった。斜めの陽が頬を黄色に照らしていた。ここさえ凌げば、国が作れると信じて疑っていなかった。それだけではない。張伯は、己は死神を操る力を有していると考えていた。その真価は、死神が傍をうろついた時に試された。

 

 

 隣に立っていた男が突如吹き飛んだ。一瞬、胸に青が見えた。きれいな矢羽だった。

 

 ――そう、矢だ――――、矢なのだ。

 

 そしてこんなふざけたことができるのは、青服だけだろう。男が吹っ飛んでいった向きを考えれば、どこから射抜いたのかは明白であった。張伯は己が狙われているのに気が付いた。そこからの行動は俊敏であった。張伯はすぐに妻を掴むと、自身の胸まで持ち上げた。敵がそんなものに躊躇しない外道だとわかってはいたが、矢の威力を軽減できると考えたのだ。

 

 ひゅっ、という短い音がした時には、女の子の右腕を矢が掠めていた。張伯は冷や汗を流しながら、皆に森の中に逃げ込むよう檄を飛ばした。落日は、すぐそこまで迫っていた。張伯は仲間のことなど構わず逃げ出した。皆がばらばらになって逃げれば、己が助かる確率も上がる。だがすぐ近くの男が射殺されたのを見ると、敵の狙いは己だろう。

 

「全員、森の中へっ! 矢が通らないよう、木々に身を――――!」

 

 張伯は身をかがめながら、森の中に飛び込んだ。怒声と弓の音。そして悲鳴。奇襲を受けるのは、これで三度目であった。一度目は親分と一緒だった。二度目は、多くの的と一緒だった。そして、三度目は、人数も少なく、敵の標的は己であった。

 

 ――いや、違う。ここで潰えるのではない。まだ、此方には戦える兵がいる。生き残れるかどうかは、己の采配にかかっている。すなわち、一つでも間違えれば死が大口を空けて飲み込むだろう。

 

「決して散開してはなりません」

 

 張伯の頭は冷え切っていた。逃げ遅れた者が悲鳴と贓物をぶちまけていたが、一度たりとも意に介さなかった。敵は逃げたのを見て、焦ってはいたが、直に距離を詰めることはなかった。恐らく、青服が止めているのだろう。では、なぜ青服はそのような指示を出しているのだろうか?

 

「張さん、敵は随分と寡兵のようですっ!」

 

 ぶっきらぼうな物言いも、戦場では許される。敵は確かに少ない。あれだけ手ひどく叩いたのだ。そう多くの兵が付き添っているとは考えられない。しかし、今見える兵は、此方の兵を僅かに上回るくらいだ。つまり、敵はいくつかに部隊を分けて、索敵していたのだろう。敵が森の中に入ってこないは、将が弓が使えないということだけではなく、兵数の問題もあるからだろう。

 

「遭遇戦ですか……将は青服。そして、時間が経つほど此方は不利になる」

 

 此方に援軍が来るとは思えない。伍倉は山の反対側にいるのを口実に、絶対に助けには来ない。親分には、助ける程の余裕がない。一方で、敵は将を救おうと、わんさか集まってくるだろう。全くもって、忌々しい青だ。

 

「ここで青鬼の腕をもげたら楽なのですが……仕方ありません。このまま撤退しましょう」

 

「し、しかし、敵は我々を追っています! どうやって逃げるのですか?」

 

 最もな質問だ。張伯もこれには少し悩まされた。偽りの使者を出したり、敵を人質にするような策では、効果が薄いだろう。足音と声が、少しずつ大きくなっている。張伯は自然と木に触れた。茶色く、毛羽立っている。指でつまむと、ぱきっと、小気味良い音が聞こえた。樹齢五十年は軽く越えているだろう。だが、そんな距離では測れないほど、自分は遥か遠くから来た。

 

 ここまで来たのだ。負けるわけにはいかない。

 

「夜になった時のために、明りの種を持っていますね?」

 

 松脂の入った袋が掲げられた。

 

「森に火を放ちます」

 

 息を呑む声が聞こえた。だが、敵の声も大きくなっている。張伯はもう一度木を振り返った。葉が全て落ちていた。細いのが心配だが、敵をひるませるには十分だろう。

 

「し、しかし、もし味方が巻き込まれたら……」

 

 張伯は刃を突きつけた。耳を切り裂くつもりであったが、突然のことであったため、逸れて木に当たった。

 

「ならば、ここで敵と戦いなさい」

 

 死ねなどという言葉は軽々しく使うべきではない。使ったところで意味はない。逆に、相手にそれを想像させる言葉に意味がある。

 

「何をぼさっとしているのですか? 松脂は全て使ってかまいません。どうせ夜に使う必要はないでしょうから」

 

 また悲鳴が聞こえた。どうやら、森に逃げ遅れた者たちの必死の抵抗が、いま費えたようだ。張伯は、更に足を運んだ。森の奥へ。

 

 

 

「……どこへ逃げるおつもりですか?」

 

 女の子が張伯に問いかけた。幸いなことに張伯は答えを用意していた。

 

「絶対に安全な道があります」

 

「道? 敵に見つかりやすいのでは?」

 

 確かにそうだろう。通りやすければ通りやすいほど、敵はそこを通るだろうし、警戒もする。普通ならば。

 だがすぐに種明かししては面白くない。驚きこそが力を生むからだ。張伯は黙って皆を先導した。しばらくして、一同は森を抜けた。そして、草木はだんだん少なくなっていった。曇ってはいるが、もう夕方になっているだろう。

 

「この道は……まさか」

 

「ええ、三の道です」

 

「なぜですかっ! 敵がこの道を例え知らなかったとしても、必ずや警戒して兵を置いているでしょうっ!」

 

 女の子の怒声は張伯には心地よかった。

 

「逆ですよ。敵は熟知しているからこそ、ここには兵を置かないんです」

 

 果たして、張伯の予言通りであった。見晴らしの良い道だというのに、誰もいなかった。自身に賞賛の目が集まるのを、張伯は背中で感じていた。理由がわかっていないがために、超人と見ざるを得ないのだ。

 

「ほ、本当に大丈夫なんですかい? 今からでも、下に降りた方が……」

 

 だが、この女の子はそうではいけない。凡百の人間と同じであることは、己の妻という立場が許さない。張伯は歩きながら、女の子が考えを開くのを待っていた。下唇に左手を当てて、やや伏し目がちだった。

 

 こうして、張伯らは、最も安全な道を通った。道であるため、移動するのも早かった。煙の臭いは常に漂っていたが、炎に巻き込まれることはなかった。散っている敵は大変だろう。何人死ぬだろう?脇に生えている木々が光を発するのを見ながら、張伯はぼんやりと郷愁に曝された。かつていた場所では、冬になると街路樹に装飾が施され、銀色の絨毯が二枚続いているのかと見間違うほどだった。

 後ろを振り返れば、見よ! 赤い光が敷き詰められている。道のところだけ何も無いのだから、赤はない。埃のような霧が漂っているのが景観を損なっているが、そのお陰で光が拡散され、幻想的な光景になっている。

 

「二つ道があるので、好きなほうを選べますね」

 

「え、えぇっと? 張さん、それはどういう……?」

 

 これだから教養のない者と話すのは疲れる。あの女の子は沈黙と一緒だった。

 

「ただの比喩ですよ」

 

 前哨戦は終わった。だが次の戦いが隣に立っている。張伯は呉鉤を握る手に力を入れた。

 

「……裏切りに」

 

「へっ?」

 

「裏切りに必要なものは何かわかりますか?」

 

 張伯は上を向いたまま言った。

 

 

 

 

 

 夕陽の切れ端に、男が飛びついていた。服は乱れ、所々血がついている。剣を左手に持っている。続いて、三人の男が駆け寄った。

 

「大丈夫ですかっ!」

 

「問題ない。まだ動ける」

 

「いえ、すぐに動けなくなりますよ」

 

 男が剣を振り上げるよりも早く、三人の男は拘束された。そして男自身も、槍を突きつけられた。

 

「何をするっっ!」

 

「相も変わらず怒鳴ることしかできない。だから人がついてこないんですよ」

 

 張伯が闇から姿を現した。決して近づこうとはしなかった。伍倉は形勢が不利なことを悟ってか、弁術に賭けた。

 

「なぜ味方を裏切るっ! こんなことをして、親分が何というかっ!」

 

 伍倉を囲むものたちは、何も言わなかった。むしろ怒気を強くした。

 

「その通りです……本当に残念ですよ、伍倉。まさか私たちを裏切るとは」

 

「何だとっ! お前こそ、親分を裏切りやがって!」 

 

 張伯は隣の者から槍を掴むと、柄を伍倉の鳩尾に突きつけた。そして、

 

「首を刎ねなさい」

 

 と指示を出した。だが、残念なことに、率先して動く者はいなかった。躊躇いと戸惑い。まずはそれらが取り除かれなければならない。

 

「なぜ三の道は安全だったのか。それは、私たちがその道を通らないことを、敵は知っていたからです」

 

 張伯は伍倉が息を整えられない間に決着をつけるつもりでいた。

 

「敵は地図を秘密裏に入手したというよりは、内通者を得たのですよ。丁程と同じような、ね」

 

 つまらない嫉妬や恨みから、味方の足を引っ張ることしかできない無能。それを、伍倉と言う。敵に行路を教えるなど、百害あって一利なしであることがわからない。感情の檻に捕らわれ、正常な判断ができない。

 

「し、しかし、伍倉の奴も敵に襲われているんじゃ――」

 

「その通りです。敵には見逃す理由がありませんから」

 

 そんなこともわからない屑なのですよ、と張伯は付け足した。伍倉は抵抗しようとはせず、ただ睨むだけであった。抵抗すれば、槍で心臓を貫かれるのを悟っている。張伯は、このまま殺せる流れに持っていけるだろうか、確信がなかった。挑発すれば激高するだろうか? わずかな逡巡。その隙に、邪魔者が頭を下げた。

 

「お待ちください。いま伍倉を殺すべきではありません」

 

 張伯は頭を右手で抑えた。

 

「伍倉の兵は私達よりも多かったのを思い出してください。そんな彼らが敗れたということは、必然的に敵の総数は想定よりも多くなります」

 

 反論するのは難しい。敵も精兵だが、此方も山賊である以上、優劣は簡単につけられない。となると戦力の違いは数から生まれる。それに、伍倉の兵が軟弱であることを主張するのは、危険を伴う。伍倉が傲慢だからといって、その兵まで嫌われているとは限らない。

 だが女の子が仄めかしていることにも目を向けなければならない。この場合の想定というのは、張伯の想定である。それを暗に当ててみせ、そしてそれを否定しているのだ。

 

「敵の様子について、ご教授願えませんか?」

 

 女の子は膝をついて尋ねた。今ここで殺したら、確実に不興を蒙る。伍倉はひどく汗を流しながら答えた。

 

「突然、奴らが襲ってきたんだ。数はわからない。三十か四十くらいだ」

 

「おや、あなたの兵と同じくらいではないですか? なのに無様に負けたのですか?」

 

 伍倉は無視して続けた。

 

「一人とんでもなく強い奴がいたんだ。奴は次々と……仲間を、切り殺したんだ。赤い服を着ていた」

 

 女の子は、汗を布で拭いてやりながら言った。

 

「それは本当ですか?」

 

「ああ、そうだっ! あいつは化け物だ! あいつさえいなければ、勝てたんだ!」

 

 本来であればここいらで、見苦しい言い訳だと言うつもりでいた。だが張伯は驚きで体が止まっていた。そして震わし始めた。

 

「赤鬼が来ている……? 馬鹿な、来れるはずがない」

 

 歩いて優に一週間はかかるだろう。張伯はぶつぶつと呟いていた。ふと、ささやき声が耳から入った。

 

「馬であれば、使い潰すのであれば可能です」

 

 張伯は驚いて顔を上げた。女の子が、丸い目で此方を見ていた。張伯はすぐに顔をそらした。

 

「…………問題はありません。馬は限られますから、援軍の赤服の兵は少数です」

 

「ですが、赤鬼と青鬼がいる以上、少しでも多くの兵で親分を守る必要があります」

 

 女の子は言った。

 

「それに、赤鬼がいるのなら、曹操も」

 

 張伯は岐路に立たされた。ここで女の子もろとも伍倉を殺すことは可能だ。丁程との密会を指摘すれば良い。しかし、ここで伍倉を殺すのは不味い。曹操もこの山に来ているのであれば、伍倉の手も借りる必要がある。とにかく、数を集めなければ話にならない。ただでさえ少ない味方を更に分けたのでは、敗北は必至である。

 

「それで、別れた時のための集合場所はどこですか?」

 

 女の子が伍倉に尋ねていた。此方の意図を察知している。今は夫を支える貞淑な妻を演じているが、いつ牙を現すとも知れない。劉という姓を持っているのだから、何かしら歴史に名を残していたのではないだろうか? 

 

「この次の丘の向こうですね?」

 

 闇の中で、いつ敵が襲いかかるともしれない中、友好的でない人間たちを取りまとめる。肝っ玉が太いだけでは足りない。折衝、交渉の力がなければらない。皆さっきまでの殺意はどこへやら、腑抜けている。場は、この少女に支配されている。

 

「とにかく、できる限り仲間と合流するのを優先しましょう」

 

 もしや、この少女こそ、劉備ではないのだろうか。そんな突拍子もない考えが浮かんだ。実は劉備は、劉備となる前に名を変えたのではないだろうか。それが己の行動により、己の妻となり、名を変える機会を逸したのではないだろうか。そう考えれば辻褄があう。

 劉備。草履売りの賤民。類まれな人望、人をひきつける力を持つ。当然、人を見る目もある。どこか似ていないだろうか? 恐らく、婚姻がなければ、この少女は没落を続け、靴売りに転職していたのではないだろうか?

 

「……いかがなさいましたか?」

 

 女の子が張伯に問うた。

 

「いえ、あなたの言う通りにしましょう」

 

 少女に従うというのは、己の存在意義を脅かすものであるが、今は仕方がない。あの曹操が来るかもしれないという、緊急事態なのだ。劉備という、曹操の好敵手を使わぬ手はない。できれば孔明も欲しいが、特に見当たらない。まさか、伍倉の妹がそうなわけではないだろう。

 

「そう言えば、伍倉、あなたの妹はどこにいるのですか?」

 

 場が静まり返った。特に聞いてはいけないということはあるまい。

 

「…………敵から逃げている途中にはぐれた」

 

 伍倉は搾り出すように言った。

 

「そうですか。見つかると良いですね」 

 

 伍倉は一瞬ぎょっとしたような顔を見せたが、すぐに

 

「あ、ああ」

 

 と言った。決戦のときは近い。曹操はいないのが望ましい。だが、もしいたとしても、ここで倒してしまえば天下が手に入る。張伯には迷いはなかった。

 此方は何年も山を歩いた歴戦の山賊である。一方、相手は曹操率いる精兵。どちらが勝利するかは五分五分だ。そして、その勝利は誰によって決まるだろう? 当然、天の手により決まるのだ。

 

 明日は、長い一日になりそうだ――。

 

 張伯は、そんなことを思いながら、眠りに就いた。寒い、冬のことだった。闇の中、煙の臭いがわずかに漂っていた。

 

 

 

 

 盜蹠日殺不辜、肝人之肉、暴戻恣雎、聚黨數千人橫行天下、竟以■終――

 

 

 

 




 次話が第一章最終話になります。


先日ご紹介した、新発見された石碑の日本語版記事です。
「モンゴルの岩壁に2千年前の銘文 「後漢書」と同じ内容」
(https://www.asahi.com/articles/ASKDT56MZKDTPTFC00Q.html)
 日本で紹介されるまで大分時間が経っていますね……。

 此方は、2002年に古井戸で発見された木簡の研究の続報です。
「「不老不死の薬探せ!」 始皇帝の命令、木簡から確認」
(http://www.afpbb.com/articles/-/3156672)


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国破山河在

 問題なのは、その場所だった。伍倉は口を滑らせた。緊張を解いていたのだろう、迂闊にも避難場所について漏らした。

 

 普通、山の反対側を、緊急時の合流場所にするだろうか? 

 

 見晴らしの良い尾根を超えようなどと、避難するときに想定するだろうか? 決っしてしない。だが、もし既に山の反対側にいるのを前提とするのであれば、話は変わってくる。伍倉は指示された道を通らず、山を越え、何を為すつもりだったのだろう? そんな危険を冒すのは、それ相応の見返りがなければならない。

 山の向こうには、日頃からの怨敵がいた。

 

 だが、今はそんなものに構っている暇はない。まずは目下の敵を倒さなければならない。

 

「こうして隣を一緒になって歩くというのは、初めてですね」

 

 伍倉は頭をぐっと動かした。さっきから、少し様子が変だった。

 

「悪い気はしないでしょう?」

 

 伍倉は戸惑ったまま足を動かしていた。目の前では、あの女の子が先導していた。一番前を歩く者が一番死に易いという法則を踏みにじる存在だ。

 

「時間がありません。その場所に立ち寄ったら、すぐに親分と合流します」

 

 女の子は言外に、そこに辿りつけていない、まだ生きているかもしれない伍倉の仲間を見捨てる決断を下した。ともあれ、これは必要なことだ。悠長に迷子の死体を捜していたのであれば、いつの間にか敵の本隊に追いつかれている、という羽目になりかねない。

 

「何人集まっていると思いますか?」

 

 酷な事かもしれないが、今のうちに覚悟させるべきだろう。

 

「ん? ああ、信頼できる仲間には全て避難場所を伝えてある」

 

 ……楽観的なのか、それとも目を背けているのか、判断がつかない。それともそんなことも、仲間が殺されているかもしれないことも想像できない馬鹿なのだろうか? 張伯は、桃色が目の前で動くのを眺めていた。

 

 

 意外なことに、一行は大過なく避難場所にたどり着いた。森林の隙間といったところで、川が近くにある。伍倉にしては、中々考えられている。つまり、伍倉はこの場所のことをよく知っていたのだ。それを知ったのは、地図を受け取る前、恐らくは、張伯が逃げる国を伝えた後にすぐ。であれば、彼には地図など無用、むしろ害であっただろう。

 

「よかった……生きていたか!」

 

 伍倉が、両腕を広げて、仲間と抱き合っていた。死んでいたかもしれない、ということには流石に頭が回っていたようである。伍倉の側によくいた七、八人の男はその場にいなかった。女の子は、辺りをきょろきょろと見渡していた。

 

「伍倉、妹は見つかりましたか?」

 

 張伯は言った。伍倉は、顔を背けると、

 

「いや……見つかっていない。恐らく、どこかで迷っているのだろう」

 

 と言った。そして、顔を両手で抑えて、座り込んだ。女の子は、伍倉の背中にそっと手を触れた。伍倉は何の反応も示さなかった。すすり泣きが聞こえる。今伍倉がへたれるのは不味い。張伯は、伍倉に発破をかけた。

 

「これだけ時間が経っても見つからないということは、彼女は生きています」

 

 伍倉はいぶかしむようにして顔をあげた。

 

「曹操は女には目がないと聞きます。あなたの妹は、彼女が戦利品として捕らえているでしょう」

 

 張伯は胸倉を掴まれた。女の子が、伍倉の左腕を両手で押さえ込んでいた。女の子の腕は、服が斜めから切れていた。裂け目が広がり、白い皮膚が露になっていた。真っ直ぐの赤い線が見えた。張伯は言い聞かすように言った。

 

「だからこそ、私たちが助けないで、どうするというのですか?」

 

 

 

 それから親分たちを見つけるのは、もっと早かった。

 

「親分、戻ってまいりました!」

 

「おう、お前たち、生きていたのかっ!」

 

 張任はいきなりこんなことを言ってきた。気が立っていた皆も、これにより毒気が抜けた。全ての者が呆気に取られ、次に発する言葉を失ったのだ。張伯だけは、笑顔でこう答えた。

 

「はい! 親分とこうしてまたお会いすることができて、嬉しい限りです!」

 

 

 そこからは、ちょっとした会談であった。襲われたというのに、空気は弛緩していた。

 

「煙が上がっているのを見た時は、もう駄目かと思ったよ」

 

 張任は酒を飲みながら言った。

 

「それで、俺たちはどうしたらいい?」

 

「とにかく、逃げるべきです!」

 

 伍倉が叫んだ。その意見は、皆の思いを代表している。もともと、自分たちだけは当分の間、曹操の首が変わるまでの間は、雲隠れする算段だったのだ。

 

「お待ちください。逃げ切れるかどうか、定かではありません」

 

 女の子が言った。親分たちに着いていた者たちは、少し驚いているようだった。無理もない。今まで何も言わなかった女の子が、突然己の存在を示しているのだから。女の子は伍倉を見ていた。伍倉は、うなだれながら言った。

 

「そうだ。俺と張伯の隊は襲われた。となると、ここも危ない。逃げ切れる保証はない」

 

 伍倉までも、少なくとも一回剣を交える事無くして、逃げ切ることは不可能だという結論であった。逃げるには、敵の数が余りにも多く、此方の足は余りにも遅い。

 親分の前で、愚鈍な足を切り捨てることはできなかった。何せもう子どもなど、隣村に預けていたり、出かけていたのだけが生き残り、もう六、七人しかいないのだ。これを捨てると、間違いなく仲間の連携に亀裂が入る。

 

「とにかく、戦うしかねぇってことか」

 

 親分が吐き捨てた。酒瓶の中に視線を落としている。

 

「その通りです。戦いこそが、私たちに勝利をもたらすのです」

 

 張伯は女の子に視線を送った。女の子は張伯を見て、少ししてから言った。

 

「敵と戦わねばならない以上、速やかに敵を破る方策を立てる必要があります」

 

 伍倉は言った。

 

「対策といっても、何がある?」

 

「敵が寡兵でしたら問題ありません。敵が多い場合、どうするか、です」

 

「どうすると言っても……結局、戦うしかないんじゃないのか?」

 

 伍倉は戸惑っていた。張伯は黙って聞いていた。

 

「いえ、敵が多ければ、そこには将がいる可能性があります。将と戦う方策を、考えなければなりません」

 

 流石である。女の将がいるかどうか、で戦いの質が変わることを見抜いている。張伯はやや上気して言った。

 

「最も警戒すべきなのは曹操です。赤鬼と青鬼とは、金魚の糞に過ぎません」

 

「鬼に二回も襲われてなおその言葉が吐けるとは、大物だな」

 

 伍倉の言葉には皮肉がこもってはいたが、けんか腰ではなかった。不思議と、毒気が抜けていた。ここでは誰もがそうであったのだ。親分がいるからというのもあるが、それだけではないだろう。

 

「まぁ、みんな俺たちでやっつけちまえばいいんだろう? 簡単な話だ」

 

 親分が目を剣に写しながら言った。刃の煌きが、何度か親分の顔を照らした。皺の多い、渋い、黒い顔だった。右には、酒瓶が転がっていた。

 

「張大公。大切なのは、相手の長所を潰すことです。相手が満足に動けないようにして、一気に討ち取ることが必要となります」

 

 この小さな女の子。劉という姓を持つ女。今はまだ、男にも負けるひ弱な人間にしか見えない。しかし、どんなに負けようと必ず生き残り、従う者は多く、拠点を持たずに転戦した人間である。現に、彼女の声に耳を澄ます者は多い。いや、今もなおその数は増えているのだ。

 

 これは果たして偶然かや?――――

 

 否。山賊の真似事をしている現状、根無し草として生きている現状、彼女こそが救世主足りえる資格を持っているのではないだろうか? 

 

「――――ですので、真っ先に赤鬼を倒すことが求められます」

 

「それで、どうやって倒すんだ?」

 

 伍倉が尋ねた。

 

「親分に、赤鬼の一太刀を防いでいただきます。その隙に横からあなたが」

 

「親分を危険に晒そうというのか!」

 

 伍倉は立ち上がった。それを、張任が抑えた。

 

「俺のことはいい。勝てるんだったらな」

 

「しかし……!」

 

「鬼を倒すためには、複数で当たるのが最良です。赤鬼の剣技に対抗できるのは、親分しかおりません」

 

 女の子は、伍倉の左肩を撫でながら言った。伍倉は、しばらくその様子を眺めていた。そして、

 

「……まぁ、上手くかち合えたらになるが、それしかないだろう」

 

 と言ったきり、口をつぐんだ。

 

 そうだ、そうに違いない。でなければ、何もしていなかった小娘が、どうしてここまで威風堂々と話すことができるのだろうか? 以前に、こんなにも屈強な男たちに向かって話す機会があったとは思えない。

 

「最悪なのは、どこかの将の軍と戦っている間に、挟撃されることです」

 

 最悪、最悪負けたとしても、劉備ならばいくらでも仲間の命を繫ぐことができよう。何せ歴敗の将軍である。負けても死なないのだ。どんなに負けようとも、戦えるだけの兵が常にその傍にいる。勝てば言うことなし。負けても次がある。ただ強いだけの曹操よりも、決して負けない、死ぬ事がない劉備の方が勝っているのは明々白々だ。

 

「だがよぉ、その、青鬼だか何だかを倒した後はどうすんだ?」

 

 親分は言った。

 

「親分、青鬼ではなく赤鬼です」

 

 女の子がすばやく訂正した。ここいらで援護をした方がよいだろう。

 

「みなさん、泣いた赤鬼という古話をご存知ですか?」

 

 皆、呆気に取られて此方を見た。

 民衆から石礫を投げられる青鬼。本来であれば、誰も知るはずのない昔話。今から見れば未来話というのも、不思議な話だ。

 

「赤鬼は、己のために死んだ青鬼に涙を流すのです」

 

 そこには、彼女の優しさが込められている。同時に致命的な隙も隠れている。

 

「最初に死ぬのが赤であろうと青だろうと、何の違いもありません」

 

 

 古話とは違い、再び一緒になれます――――

 

「それで、あー、今の策について、お前は特に何かないのか? 言うことは?」

 

 伍倉が尋ねた。

 

「ありません」

 

 伍倉はつっかえながら話し掛けた。

 

「いや、いつもなら、自信満々に……こう、何かあるんじゃないのか?」

 

 張伯は揺るがなかった。

 

「妻の意見に全面的に従います」

 

「だが、その、信用できるのか?」

 

 伍倉は確実に女の子を信用している。もし伍倉自身、女の子を信用していないのであれば、彼女の口を開かせてはおかなかっただろう。伍倉は、いやここでは誰もが女の子を信用しているのだ。そして、夫が妻を信用しないことなどあり得るだろうか?

 

 女の子は服を整えて言った。

 

「私の名前を、ここにいる者全員に、お預けいたします」

 

 女の子の目は茶色く、丸かった。それには、見ている者を引き込むような力があった。虹彩の文様を見ていると、自然と離れられなくなる。

 

「私の真名は、小香と言います。私は決して、張郎官の意志に違えません」

 

 姓は劉。字は備。真名が小香。七傑の一人。曹操の、永遠の好敵手。曹操に唯一立ち向かえる英雄。

 

 

 

 

 雲が空を覆っていた。いやな色であった。だが、逃げるのに適した天気だ。鬼退治の後すぐに姿を隠すこともできだろう――――そうだ! あの女の子は桃色の服を着ていた。そして、その仲間には三人のお供がいる。であれば、鬼に負けることなどありはしない! そうではないだろうか? 張伯は己に何度もそう言った。

 

 その時、得も知れぬ不安が燻ぶった。その正体が何なのかはわからなかった。何か見落としている、そんな思いが今更巻き起こったのであった。一体、何を見逃しているのか? 全ては順調に進んでいるのではないだろうか?何を恐れる必要があるというのだろうか? 全ては順調に進んでいるように見える。同時に、何かを忘れている。 福音は、恐れの中に舞い降りた。

 

 

 張任、蜀郡人、家世寒門。少有膽勇、有志節、仕州為從事。

 (張任は蜀郡の人にして、家世は寒門であった。少くして膽勇を有し、志節を有し、州に仕えて從事と為った)。

 

 任厲聲曰、「老臣終不復事二主矣」乃殺之。劉備嘆惜焉。

 (張任は厲聲して曰く、「老臣は二主に復た事えずして終える」劉備乃ち之を殺し、嘆惜した)。

 

 

 ――――今のは、何だ? 頭に、突如として文字が浮かんだ。しかも、漢文であるにも関わらず、その意味が精確に取れた。いや、少なくともそう思えたのだ。勿論、丁程に師事していたため、この程度の文に迷うことはない。しかし、己は初めてこの文を見たのだ! だのに、どうしてこんなにも意味が鮮明なのだろうか?

 

 続けて、酷い頭痛に襲われた。立つこと叶わず、両手で頭を抱え、座り込んだ。汗と痛みは止まらず、ますます増え続けた。だが、息をつくのが辛くとも、頭は回っていた。見たこともない文章が頭に浮かぶ。そんなことがあり得るだろうか? しかも、それは、母国の言葉ではないのだ。諸々の疑問は一先ず置いておこう。耐えるので精一杯の頭痛も、何とかどけておこう。その意味を、考えるのだ。

 ……張任とは、親分のことだ。そして、蜀郡出身というのも当たっている。だが、間違いもある。從事になど、なっては、なってはいないのだ。そして、劉備が之を、つまり親分を、殺す……

 

 もし、本来は從事となるはずが、例えば流れ星を見たせいで、山賊になるとしたらどうであろう。全くばかげた考えだ。こんなことを話しても、誰も聞く者はいない。だが、それを信じる者が、それを否定できない者が、一人だけいた。

 

 ――――その星が気になってな。それを追っかけてるうちにここに着いたんだ

 

 考えようによっては、流れ星のお陰で、親分の命が救われたとも言える。だが、ここには劉備もいる。もしかしたら、万が一のことだが、親分が從事にはなっておらずとも、劉備は之を殺すのではないだろうか? 

 

 膝をついた男に、声をかける者はいなかった。皆、各々の準備のため出払っていた。

 がやがやと、何か声が聞こえる。何かの喧騒だ。怒鳴り声だ。張伯は、徐に立ち上がった。戦の準備がもう終わったのだろうか? 頭の痛みはもう収まっていた。劉備が親分を殺す? 馬鹿馬鹿しい。言い方は悪いが、親分は、今はまだ山賊の首領に過ぎない。殺す理由は無い。そもそもあの女の子に、何ができるというのだろうか。そうならないよう、他ならぬ夫が、見張っていれば良いのだ。上手く使いこなせれば、天下はもっと楽に取れるだろう。蜀とかいう、山奥の小国しか築けなかった劉備だが、国づくりには比類ない才能を発揮するに違いない。

 

 騒ぎがますます大きくなっていた。再開を分かち合うだけで、こんなにも騒がしくなるものなのだろうか。いや、そんなことはないだろう。何か喧嘩でも起こっているのだろうか? 張伯は、争いごとの調停をすることを思い、ため息をついた。

 

「助けてくれーー!」

 

 小男が一人走ってきた。その様子はただ事ではない。背中には何本か矢が刺さっていた。襲撃されたのだ!

 

「どうしましたか。何があったのですか!」

 

 張伯は小男の目の前に立って、彼を止めた。張伯についていた者の一人だった。小男は今にも逃げ出しそうであったが、張伯は両肩を抑えながら尋ねた。

 

「敵が、敵が襲ってきたんだ! とんでもない数だ!」

 

 小男が張伯の腕を振りほどいた。

 

「曹操はいましたか?」

 

 張伯は尋ねた。小男はその瞬間固まった。恐らく、いたかどうかわからないのだろう。だが、これで聞けることはすべて聞いた。

 

「あなたは、何度も私のことを助けてくれましたね」

 

 張伯は笑いかけながら言った。張伯は小男に背中を見せて、指差した。

 

「いいですか、ここから逃げるには、あの道を通るのが最も安全です」

 

男は体を前のめりにして言った。

 

「どこ、どこですかい? どの道をっ…………ぐっ……ぁ……」

 

 小男は、死への道を通った。ここなら、もう死ぬことは決してない。なんと安全な道だろうか。張伯は悲鳴の元に駆け出した。頭痛のせいで戦に遅れるなんて、どうかしている! 

 

 

 戦場は、張伯が思っていたよりも広かった。敵が多かった。此方の三、四倍はいるだろう。張伯は顔を青くしたが、そんなことでは止まらなかった。敵が先に攻撃してきたが、此方がやるべきことは変わりない。想定よりも、少し数が多いだけだ。

 

「俺たち山賊が、山で負ける訳がないっ! 二人がかりで一人を殺せっ!」

 

 伍倉が駆け回りながら叫んでいた。ああして目立つことで、囮も兼ねているのだろう。軽業のように足を踏み出し、襲い掛かる矢を避けていた。だが、青鬼ならば、こんな小細工をものともしない!

 

「伍倉、青鬼が狙っているぞっ!」

 

 その瞬間、伍倉は飛び跳ねて、一間余り離れたところに着地した。そして、そのまま這って岩に身を潜ませた。別に青鬼の姿を認めたわけではなかった。ただ警告しておこうと言っただけだった。それが功を奏した。

 

 伍倉の右肩には、矢が突き刺さっていた。けれども、もし咄嗟に跳ねていなかったのなら、心臓に穴が空いていただろう。ここまで敵味方入り乱れた中、精確に将を射抜く芸当ができるのは、この場には一人しかいない。

 

「助かった!」

 

「どこからっ! どこから射抜かれましたっ!」

 

 伍倉はうめき声をあげつつ答えた。

 

「向こうの、左奥の木々が密集しているところだ!」

 

 細かな位置まで知る必要は無かった。どうせ向こうも動くに違いない。やるべきなのは、敵に動揺を与えることだ。

 

「と、とにかく、火をつけるのですっ! 青鬼の軍であれば、必ずひるみます。例えどんなに小さな火であろうともっ!」

 

 幸いなことに、火種はまだ残っていた。物持ちの良い兵士というのは、どこにでもいるものだ。すぐにぱっと炎が燃え広がる。心なしか、向かってくる敵兵が少なくなったような気がする。忌々しいが、それに助けられた手前、文句は言えまい。

 

「炎の中で戦うのです! そうすれば、敵は近づいてきません! 炎と共にっ!」

 

 怒声の中、どれだけこの声が響いたのか予測がつかなかった。それでも、口を動かさないよりはましだろう。張伯は指示を仰ごうと、後ろを振り返った。そこには、鬱蒼とした木々があるだけであった。張伯は思わず叫んだ。

 

「劉備っ! いや、違う。えーと、確か…………誰かっ! 妻を知りませんか! 私の妻は何処にっ!」

 

 だが何の答えも返ってこなかった。張伯の背筋は凍りついた。この乱戦の中、小さい人を探すのは至難の業だ。それにそんな暇もない。だがそれでは駄目だ! 何としてでも、見つけ出さなければならない! 劉備がいなければ、何ができるというのだろうか? 劉備なしで、曹操を打ち破れるというのだろうか? 否! そんなことはない! 張伯は敵味方そっちのけで、女の子を捜し始めた。

 

 そんな時、張伯は木の根っこに足をとられ、転げ落ちた。そのすぐ後ろを、風が横切った。

 

「赤鬼です! 赤鬼がここにっ!」

 

 張伯は数瞬後に叫んだ。顔が見えなくとも、色がみえなくとも、敵が何者かは直に分かった。警戒の外から突然切りかかる実力があるものは、一人しかおるまい。

 張伯は必死になって、味方の元に、なるべく騒ぎが大きいところに這い転がった。後ろを振り向きたい衝動にかられたが、そんな悠長なことをしたら殺されるだろう。張伯にできることは、なるべく狙いをつけられないよう動き回り、背を低くすることだけであった。

 

「張伯、よく引きつけた! 伍倉、ここであいつをぶっ殺すぞっ!」

 

 頼もしい声が聞こえた。張伯は、その顔を見る時間が無かった。余りにも早く、鬼に向かって走りだして行ったからである。張伯は後ろを振り返った。親分の大きい背中が見える。更に奥に、赤色の何かがちらりと見えた。何時間も睨みあっているように感じた。だがそれはほんの数秒だったのだろう、赤鬼が大きくなった。そして、親分が剣を振りかざした。

 

 

 何の音もしなくなった。赤鬼が、ゆっくりと、幅の広い刀を横に振った。そして、頭と胴体の間に隙間ができ、それはゆっくりと大きくなった。緑や茶色が一瞬見えた。その後、すぐに赤が広まった。親分の右手から、白い刀がきらめきながら抜け落ちていった。

 

 赤い両眼が、じろっと動いた。その目は、明らかに此方を向いていた。口を開けて何か言ったが、聞き取れなかった。音は全て消えていた。そして、赤鬼は歩を進めた。此方に向かって。だが、すぐに男が飛び掛った。伍倉が、まるで弾丸のように、鬼に突っ込んでいったのである。周りの者も、それに呼応してか、わらわらと敵に押し寄せて行った。

 

 

 だが、男は、ある男だけは、踵を返すと、一目散に駆け出した。余りの速さに、奥から様子を窺っていた青鬼でさえ、咄嗟に指示を出すことができなかった。こうして一人の男だけが、戦場から離れて行った。

 

 

 

 男は、足を動かし続けていた。止まったら死ぬと考えていた。心臓の高鳴りが煩かったが、後ろから、草木を通り抜ける音が聞こえてきた。

 

「ひっ、奴らが、奴らがっ――」

 

 死神の足音は近づいていた。このまま逃げていても、いつか追いつかれるのでは? それとも逃げ切れるか? 頭の中では諸々の考えが走っていた。だが、肝心の精神は限界を迎えようとしていた。男はでたらめに走り、何度も転びかけていた。

 

「負けるはずはない、負けるはずはっ……!」

 

 何度頭を振り払おうとも、心は叫んでいた。だがそのたびに、目に、首が自然と浮き上がる様子が浮かんだ。違う。違うっ! 少し怪我しただけだ。そう! あの時、咄嗟に首をそらして鬼の槍を回避したのだ。今頃、意気揚々と賊を屠っているに違いない。呉鉤、いや刀を使って、力を入れて、一太刀で、頭を……

 

 駄目だっ! 今このことに固執するのは不味い! 男は頭を振った。今は親分のことを考えるのは止めるべきだ。もっと、他のことを考えなければ。……それにしても、伍倉の猪突猛進ぶりには本当に驚いた。今頃は何人も、ばったばったとひき殺していることだろう。だとすれば戻らなければ不味い。伍倉に手柄を取られれば厄介なことになる。彼だけが功を得るのは良くない。それに敵前逃亡は死罪だ。帰らなければ――

 

 早く帰るんだ、という声が何度も聞こえていた。だというのに、足は反対の方向に動き続けていた。男の顔は蒼白を通り越して、真っ白であった。今は敵を引き離せているが、それは相手が、此方が動けなくなるまでゆっくりと待っているからだ。これは狩りの常套手段だ。獲物は初めは徒に抵抗するのだから、疲れるまで付かず離れずの距離を保てば良い。

 

「帰らなければ、早く帰って……」

 

 ――――だがどこへ? 皆のところへ。だが、もう皆は殺されているだろう。だとすれば、帰る場所など、どこにも、どこにもありはしない。これでは戦えない。このままでは、待ち受けるのは……。急に体が冷えてきた。さんざん走って、息を切らしているというのに、寒くて仕方がない。吹き付ける風のほうが暖かい。

 

 少しずつ、足が重くなっていた。矢鱈滅多に手を振り回したため、手も痺れていた。張伯はついに膝をついた。身体中から、汗が吹き出ていた。もう、ここで死ぬのだろうか? もう戦意は消散していた。息も絶え絶えに、男は死を受け入れ始めていた。だがそんな時だった。どこかからか声が聞こえた。

 

 殺せ……殺せ……

 

 鈍い、低い声だ。下の方からだ。見れば、右手はずっと刀を握り締めていた。そして、信じられないことだが、刀から声がしている。この声は、そうだっ! 紛れもない親分の声だ! これはかつて親分が持っていた呉鉤だ。その呉鉤が、喋っているのだ。

 

「何だこれは……?」

 

 声はたちまちにして消えてなくなった。これは十中八九幻聴だろう。だがそうとわかっていても、その怨嗟の声は、自然と身体に染み入った。男にふつふつとある感情が沸き起こった。それは怒りだった。なぜ、どうして、殺されなければならない……!

 どこがいけなかったというのだろうか? それがいけないなどと、誰が決められようか。確かに食料も奪い、人もそれなりに殺しはした。だが、そうしなければ確実に死んでいた! それでもなお、飢えに苦しみながら野垂れ死ねとでも言うつもりか! 生きるということが、そんなにも罪だとでも言うつもりかっ! 

 

 呉鉤が、小刻みに揺れている。それは、だんだん大きくなった。ついには、山を動かすほどになった。

 男はその時、初めて後ろを振り返った。それが良かった。

 

「あれは…………男……?」

 

 男は背後を追う者が、赤鬼や青鬼だと、魑魅魍魎の群れだと、勝手に勘違いをしていた。果たして男の目に映ったのは、兵具を身につけた三人の男であった。遠目からではよくわからないが、あの女の兵なのだから訓練を受けているのは間違いない。だが、そんなことは男の気にするところではなかった。

 

「男だ……女じゃない…………女じゃないっ! 女じゃないっ! 女じゃないぞっ!」

 

 男は歓喜と殺意の混じった声をあげた。もう囁き声はいらなかった。何をなすべきか、心で理解したからである。敵の姿はちらりと見えるが、準備する時間は十分にある。

 

「こっちは山で生きてきたんだ。三人で勝てると思うなよ……」

 

 男は呉鉤をちらりと見た。そうだった。この呉鉤は親分から託されたのだ。その呉鉤から訓示を授かり、そして今、己は親分の思いを受け継いでいるのだ。であれば、どうして負けることなどあり得るのだろうか?

 男の目が、今までになく鋭くなった。

 

 

 

 

「それで、結局あの男は逃げたのかしら?」

 

「申し訳ありませんっ! 部下に追わせたのですが、その内三人が殺されているのが発見されました!」

 

 兵が死ぬのは慣れない。こんなところで死なずに、その命をもっと別なことに使って欲しいと思う。だが、兵が死ぬことに尻込んではならない。彼らの犠牲を忘れないこと、無駄にしないことこそ、英雄に、いや将軍に必要な資質である。これが曹操の考えであった。

 

「そう。ここの後始末は春蘭に任せるわ」

 

「はっ!」

 

 戦いは終わった。蓋を開けてみれば、大勝であった。突撃しか繰り返さない山賊など、脅威ではなかった。曹操は、怪我をした者をあつく労うように指示し、死体場を離れたのであった。

 

 山の中は、冷気が漂っていた。護衛の秋蘭は、弓を握り締め、手が白くなっていた。無理もない。手塩にかけた三人もの兵が殺されたのだ。曹操はその現場が見たかった。どうやって殺されたのか、気になって仕方がなかった。それは、ともすれば不謹慎と言われるかもしれないが、曹操は意に介さなかった。

 

 

 大木が見える。その下は踏み荒らされ、骸が横たわっていた。うなじを後ろから切られている。苦しむ間もなく死んだことは、一つの救いだろう。

 

「足跡をわざと乱して、そこに気をとられるようにしたようです」

 

 人を追跡する時、最も重要なのが痕跡、中でも足跡である。足跡を見れば、相手が疲れているのか、怪我しているのか、背丈はどのくらいか、どれくらいの重さか、そしてどこに行ったのかがわかる。命令を受けた三人は、絶対に逃がすわけにはいかないと考えていた。そして、危険であるため、慎重に動くように指示を受けてもいた。

 

 曹操は木の後ろに回った。この大木の周りには草木がない。だからまさか追っている敵が潜んでいる訳はないと、油断したのだろう。兵の一人が腰をかがめて、どこに足跡が続いているか見ようとした時、刃が煌いたのだ。

 あの男は、油断を誘うためというよりも、素早く殺せるようにこの場所を選んだのだろう。

 

「向こうで二人やられたようです」

 

 大木の少し先だった。曹操は頭を働かせた。ここで突然、追う側から狩られる側になったのだ。味方は動揺しただろう。では、敵は、あの男は何をしたのだろうか?

 味方の一人は、仰向けに倒れていた。首の正面を下方向から、横に切られている。

 

「不自然ですね」

 

 そう。不自然だ。同じ男同士で、そこまで身長差がないのであれば、普通は上から切られているはずだ。あの男は刀を持っていたのだから。死体が槍を持ったままである以上、技量にもそこまで差があったとは思えない。

 曹操は更に観察した。首を切られては、声も出せない。最期は、無残なものだっただろう。右手に持った槍には、真新しい傷は見当たらない。更に視線を下にやると、足に草がついているのが見えた。草と言っても、ほとんど枯れていて、少し引っ張っただけでは千切れなかった。

 

「草を結んで、罠を作って置いたようね」

 

 つまり罠で転びかけたところを、下から切りつけられたのだ。味方を殺されても、追跡を止める訳にはいかない。だから、逃げる敵を追いかけようとしたのだろう。ところが味方を殺された動揺は、やはりあったのだ。もしもう少し時間が経っていたら、罠にも気が付いただろう。敵はどこで誰を殺すのか、周到に考え抜いていた。

 

「最後の一人は、砂玉を投げられて、目が見えなくなったところを殺されたようです」

 

 秋蘭が悔しさをにじませながら報告した。これで全容がわかった。配下の兵が殺されたにも関わらず、曹操は敵の手腕を認めていた。敵は、三人とも奇襲や不意打ちで殺したのだ。もし木の後ろに隠れているのが見つかったら。罠に足をとられなかったら。砂玉が当たらなかったら。

 普通の軍師は、その綱渡りな策を非難するだろう。けれども、どれか一つでも失敗したら上手くいかない策を、敵は全て成功させたのだ。穴だらけな策を誹るより、それをやり遂げたことに注目すべきだ。

 

「残りの三人の行方は?」

 

 追っ手は七人だった。三人で二つに分かれ、残った一人は連絡のために後ろから着いていた。敵は三人仕留めたが、依然として三人が追跡していた。

 

「まだわかっておりません」

 

 普通であれば、こんな運任せに頼るような敵が、また勝つはずがないと思うであろう。だが曹操は普通ではなかった。曹操は、もう三人とも殺されているか、動けなくなっていると直感していた。

 

「敵の追跡はもうしなくて良いわ。連絡のつかない三人を探しなさい」

 

 軍は、決して味方を見捨てない。いや、見捨てられない。例え死んでいることがわかっていたとしても、できる限り故郷に返してやるのが、軍の本務でもある。

 

「なぜですか? 今こそ、奴を仕留める好機ではございませんかっ!」

 

 秋蘭が叫んだ。だが曹操には、もう戦う気力がなかった。

 

「いえ。もう終わりよ」

 

 曹操は上を向いて言った。秋蘭はややたじろいた。

 

「あの男にはもう何もないからよ」

 

 曹操は遠い目をしていた。

 

「誰があの男のために戦うというのかしら? 負けた山賊の一味を、誰が助けるというのかしら?」

 

 あの男は、もう敵ではない。

 かつて、あの男は敵だった。あの用兵術には、見るべきものがあった。宦官といつの間にか手を結ぶ交渉力。指揮官としての決断力。だが、それは既に昔のことであった。

 

「不利な状況からの足掻きは、まさに私の敵足るに相応しいものだったわ」

 

 曹操はため息をついた。それは、敵を倒したことによる安堵だろうか? 曹操にはわからなかった。秋蘭は何を言ったものか、迷っていた。

 

「まぁ、あの男も、いずれは山賊狩りに殺されるでしょう」

 

 口に出た言葉が、果たして本当に主君の求める言葉だったのかは、わからなかった。何となくそうではない気がした。

 

 この日、曹操は、勝利の王冠を手に入れた。同時にそれは、敵を失ったことを意味した。

 

 

 

 

 

 男は馬に乗り、逃げようとしていた。騎乗は今までしたことがなかったが、そんなことを気に留めることはなかった。馬の蹄が、横になっている御者を何度も蹴飛ばしていた。男は物のついでで骨を砕かれないよう、慎重になりながら、勢いよく飛び乗った。馬は、手綱を握った途端走り出した。どこまでも、どこまでも。

 

「曹操、私は決して許さないっ! 必ず、必ずだっ! 必ず戻って、息の根を止めてやるからな――っ!」

 

 怒号は、山河に吸い取られた。こんなところで倒れるわけにはいかない。まだ何も為していないのだ。ここで死んだらどうなる? 誰が、誰が親分の勇姿を伝える? このままでは、曹操の引き立て役にもなれず、史書に名を遺すこともない。況してや国など――

 

 突然、馬はでたらめに動き回り、前脚を上げ下げした。突然乗ってきた者を、振り落とそうというのだろう。馬の首に寄りかかりながらも、男は決して手綱を放さなかった。直感として、馬を自由にさせれば死ぬとわかったのだ。男は手綱を思いっきり引いた。馬は嘶き声を一つあげると、また力強く走り出した。

 

 

 あの高潔な生き方を。あの笑顔を。あの力強さを。 

 それを知る者は、もう一人しかいない。だが、だからこそここで死ぬわけにはいかない。

 

 

 

 

 男は、この日、初めて生きる理由を見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 これにて、第一章終了になります。番外編の後、第二章となります。一年間お付き合いしてくださって、ありがとうございました。

 曹操の墓の新発見です。

「曹操陵地上建筑曾被有计划拆除 并非“不封不树”」
<http://news.sina.com.cn/o/2018-03-02/doc-ifyrztfz6337299.shtml>

「曹操墓考古发掘取得新进展 存在“毁陵”行为」
<http://www.ha.xinhuanet.com/hotnews/2018-02/26/c_1122451865.htm>

日本語版
「曹操高陵は計画的な墓荒らしに、考古調査で判明―中国」
<https://news.infoseek.co.jp/article/recordchina_RC_576407/>
 日本語版だと、三行になるようですね……。


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脂が乗った董卓、魔都雒陽に打ち上がる
野獣と美女


 

 男は逃げ続けていた。地面が白くなろうとも、人目を避け、潜行し、目を光らせ、しぶとく生きていた。腹が減った時は、屈辱を噛み締めた。そんな生活は、女の声に際会した時、終わりを迎えた。

 

 さて、男が木々の隙間から覗いて見るに、背の低い女の子を、三人のがらの悪い男が取り囲んでいた。女の子はその背中しか見えないが、どうも服が貴人の、何か地位を持った人間のそれであった。対照的に男たちの服装は、己は山賊であると豪語していた。

 

 普通の人間であれば、この光景を見たら、どうするであろうか? 真っ先に助けに向かうだろうか? それとも、恐怖を感じてただ縮こまるだけであろうか? あるいは同じ意味だが、見なかったことにするだろうか?

 

 男は違った。男は自分も標的にならないよう、強く念じていた。それというのもこの男、賊として官憲から追われる身分であったからである。残念なことだが、敵の敵は味方、という関係が成り立つのは、力が拮抗している時に限られる。男は一人であったため、あの山賊たちと仲良くなるのは不可能であると考えていた。むしろ見つかったら何処かに売り飛ばされるかもしれない。

 だがこの点について、男は微塵も心配していなかった。男が唯一恐れていたのは――――今見える非力そうな女の子が、自分をも敵と見定めることであった。

 

 実はこの男、先日女から痛い目にあっていたのだ。ばっさばっさと快刀乱麻の音が響き、男たちは四肢を空中に投げ飛ばす羽目になったのである。そんな惨状を目の当たりにした男は、女に対して、底知れぬ恐怖を抱いていた。その恐怖は、地面と一体化しようとも、木の根っこを掘って齧ろうとも、消えることなく体に染み付いていた。

 

 女の子は、手に何の武器も持っていないように見える。だがそれは裏を返せば、武器などなくとも勝てる自信があるからではないだろうか? 山に一人でいるのも、それだけの実力があるからではないだろうか? 圧倒的な実力に裏付けされた傲慢が、どんなに恐ろしいだろうか!

 極めつけは、服である。上質な服を着ている以上、それだけ優秀だということである。その逆もまた然りである。優秀であれば、高貴な絹がその者を放っておくはずがない。

 

 優秀な女は、化け物。

 

 この法則は決して忘れてはならない。男は歯軋りし、拳を強く握った。これは、男が夥しい血と引き換えに手に入れた、唯一の真実であった。この女は、どう見ても只者ではなかった。

 

「あなたたちは、何故こんなことをするのですか?」

 

 それはこれを聞けばわかる。明らかに脅されているというのに、なぜこんなにも綽綽としていられるのだろうか? 絶望もせで、逃げることもせで、対話を試みている。それは、いつでも山賊どもを殺せる自信とそれを行える確かな実力があるからだ。相手が路端の石ころにしか見えなければ、どんな恐怖も覚えはしない。そして彼女は事実、相手をくず石に変える魔法の杖をその身に持っている、いや埋め込んでいるのだ。

 

「嬢ちゃんよぉ……こんなとこにいるんだ、覚悟の上だろっ!」

 

 山賊がすごんで言った。刃をもう片方の手に乗せて、弄り回していた。光が散漫した。男は内心ため息をついた。わざわざこんなことを言うのは、己の感じる罪悪感を紛らわすためだ。人を襲う時、相手が悪いと思うことで、心の安定を無意識に図っている。そう思わなければ相手を害することができない。つまりは弱者の戯言だ。手慰みに刃をいじるのもそうだ。敵と対峙するまさにその時、遊んでいる暇など存在しない。そのような無為な、危険な時間を作り出すこと自体、この山賊の弱さを語って止まない。次の言葉は、男の更なる失望を招いた。

 

「俺は知ってるぜ……あんたのことをよぉ。護衛も連れずに、領地を見回る心優しいお偉いさんだってな! ちょっとはっ! おれたちにも優しくしてくれよぉ!」

 

 本当に優しいのなら、既にこの世にはいない。または今もなお、官服を身につけてはいないだろう。厳しい判断も下すことができる人間だからこそ、ここまで上り詰めたのだ。鷹と鴨の区別もつかない賊は、ここで殺されなくとも、どのみちどこかで死ぬだろう。男は合掌した。冥福を祈るのではなく、あの女の子が三人の生き血をすするだけで満足してくれることを祈った。

 

「そんな……誰か、誰か助けてください!」

 

 賊が下卑た笑いを浮かべながら、女の子に近づく。女の子は、一歩、また一歩と後ずさった。男は戸惑った。こんなにもべたな場面は見たことがなかった。この女の子は、なぜわざわざ山賊らに付き合ってあげているのだろうか? そんな理由があるとは思えない。一思いに殺してあげるのが、優しい領主の務めではないだろうか?

 

 男の疑問は、すぐに恐怖にかき消された。

 

「そこの、木の陰にいるお方……どうか、どうか助けて……助けてください」

 

 その言葉は、全ての男を戦慄させるのに十分であった。どの男の心臓も高鳴っていた。山賊の一人が、指差された方向に視線を向けた。女の子は、相手の注意を逸らすのではなく、本当に助けを信じる眼をしていた。真っ直ぐな眼で、木を射抜いているのだ。そして、それ以外には注意を全く払っていなかった。山賊らは剣を何度も光らせた。山賊らがざわざわと動く音以外、無音であった。

 

「お、おいっ、なぁ……」

 

 一人が顔と眼をきょろきょろと動かして言葉を漏らした。

 

「は、はったりに決まってる!」

 

 山賊は、剣を前に振りかざしながら、ごくりと唾を飲み込んだ。木漏れ日におかしな影がないか、少しでも違う色が見えないか、目をぐるぐる動かした。そうしながら蝸牛の歩みで前に進んだ。木の後ろを、たじたじと窺った。

 

「へへっ、驚かせやがって。誰もいないじゃねぇか!」

 

 山賊が振り向いた時、仲間が首をぱっくり開けているのが見えた。

 

「は……?」

 

 二人の仲間は、地面に倒れた。そして、男が迫ってきた。ぼろぼろの服を着た、自分たちと同じ薄汚れた男が。最期に、白い光が見えた。

 

 

 

「助けてくださって、ありがとうございます」

 

 女の子は拱手しながら言った。他方、男は完全に落ち着きを失っていた。顔には生気がなく、足は異様なほど震え、すぐに崩れ落ちた。

 

「どうか、どうか命だけは助けてください! お願いします!」

 

 男は額を何度も地面にこすりつけた。この女は、間違いなく此方に気がついていた。だからこそ、見当違いの方向、賊たちが男に背中を見せる方向を指したのだ。そしてその意味するところは明白だ。

 

「指示のとおり、あいつらは殺しました! 信じていただけないかもしれませんが、私はあの賊とは何の関係もございません。名も知らないのです!」

 

 賊と敵対するかどうかの踏み絵。あるいは、自分で殺すのは面倒だから、他の者にやって欲しかったのである。

 

 もし仲間でないのなら、あるいは仲間と同じように死にたくないのなら、今すぐ殺しなさい―― 

 

 男にはそんな声が聞こえた。この女は生殺与奪の権を握っているのだ。いつ気まぐれで殺されるか分かったものではない。男は寒気の中、粟を生じていた。こんなところで、死ぬわけにはいかない。何としてでも、強者の気まぐれな慈雨を引き出さなければならなかった。殺す価値も無い、そう思わせる必要があった。

 

「落ち着いてください」

 

 そう言うとその女の子は、男の右手を両手で包み込んだ。そのあまりの滑らかな挙動に、男は居を突かれた。そして驚いたことに、それをゆっくりと己が腹に当てた。男は呆気にとられていた。女の子は男の手を動かし、あちこちを触らせた。柔らかい絹と、わずかばかりの熱を感じた。

 

「な、何を……」

 

「どうですか? 私はどこかに武器を隠していますか?」

 

 なるほど確かに、女の子は懐剣すら持っていなかった。だが男には、奇妙千万なことばかりであった。なぜ、わざわざ男の手で探らせたのだろうか? そのせいで、官服が血で汚れてしまっている。それに武器は確かに有用だが、別に武器はなくとも人は殺せる。一体どこに安心する要素があるというのだろうか? そもそも、こうして汚れた男を説得しようとすること自体、理解に苦しむ。

 

「武器を持たないというのは、徳を表します」

 

 女の子はにこりとして言った。それは男をさらなる疑問の渦底に誘った。徳が有るから、何だと言うのだろうか? 徳が有るのを誇示したかったのだろうか? だが、ここには二人しかいない。そんなことを示す意味があるとは思えない。ここで起きた、あるいはこれから起こることを知る者は、一人だけでも特段構わないのだ。

 

 男が困惑した顔を貼り付けている中、女の子は続けて言った。

 

「もしよろしければ、お礼をしたいのですが、私に着いてくださいませんか?」

 

 男は逃げようかと思ったが、右手は今だつかまれていた。男の顔は白くなった。もしやこのためにこんな回りくどい手を取ったのだろうか? 

 男の不安をよそに、女の子は男を引っ張ろうとした。

 

「少しお待ちいただけないでしょうか?」

 

 男は慌てて言った。すると意外にも、女の子は自然に手を離した。男は下を向きながら、一番遠くにある死体まで歩いて行った。男は黙祷しながら、頭を忙しなく働かせた。この女の子に、今のところ殺意は見受けられない。今も生きていられるのがその証拠だ。そして恐らくだが、このまま逃げても殺されることはないだろう。何せ相手はわざわざ放してくれたのだから。

 ここから逃げることはできるだろうか? できる。 ――――だが、逃げてどうするというのだろうか?

 

 

 ふと前を見ると、大木が見えた。女の子が先ほど指差したものであった。真ん中に穴が小さく空いていて、虚ができていた。男は何となしに覗いてみた。すると、茶色い塊が奥に嵌まっているのが見えた。明らかに木が産み落としたものではない。

 

「それは蝶の蛹です」

 

 突然、隣から声が聞こえた。男が後ろに引くと、女の子は体を震わせながら、虚を覗いていた。必死に爪先立ちをし、ぴょんぴょんと体を動かしている、無防備な背中が見えた。男の手には、いまだに刀が握られていた。

 

「もう少し暖かくなれば、羽化するでしょう」

 

 女の子は、どこからか拾ったのか、枯れた草木を手に持っていた。

 

「このままだと、穴が大きすぎて鳥に見つかってしまうかもしれません」

 

 女の子は手を上に大きく伸ばし、虚の周りに草木を引っ掛け始めた。ぽろぽろと、顔に枯れ枝が落ちていた。少し赤みのかかった頬に緑と茶のまだら模様ができた。この女の子はそれには構わず、額から少し汗を流しながら小さな手を動かしていた。

 男はまた刀を見た。未だ声は聞こへず。いや、この刀はあの日以来、沈黙を貫いていた。女の子は、足を滑らせつつも、木にへばりつこうとしていた。男はふと言った。

 

「蝶は、美しく飛び立ちますか?」

 

 女の子は横目に見ることもなく、相も変わらず虚に視線を注いでいた。

 

「え? えぇ、それはもう、きっときれいな白い羽をひろげるでしょう」

 

 突然男は、刀の先を虚に突き刺した。

 

「蝶になるためには、十分な広さの出口が必要です」

 

 男は言った。そして決意した。

 

 

 

 

 女の子の名前は、董仲穎と言うらしい。当然董が姓で、仲穎が字だ。七傑ではないため外れではあるが、優秀であることに変わりはない。どうも涼州刺史という職を奉じているらしく、節々の会話から判断するに、その職は相当偉いようだ。彼女は非常に期待できる人間であった。二人は、人目をできるだけ避けるような道を通りつつ、それでいて官の、つまり彼女の館に向かうという不可能なことに挑戦していた。

 

「董仲穎様、こんにちは!」

 

 無駄に元気な子供が飛び出してきた。その能天気な面を見るに、才のある者の対極にいるのだろう。

 

「こんにちは。今日はお母さんのお手伝いですか?」

 

「うんっ! これを届けるよう言われたんです!」

 

 そう言うとこの男の子は、籠から真っ黒の筍を取り出した。

 

「いいでしょうっ、これ! はつものですよ!」

 

「まぁ、とても美味しそうです。お母さんにも、喜んでいたと伝えておいてください」

 

「うん、わかった!」

 

 そう言うと男の子は、風のように走り去って行った。男は荷物を持とうとしたが、

 

「これは彼が私に渡したものです。他の者のお手を煩わせるわけにはいきません」

 

 とにべなく断られた。

 

「董仲穎様、今日は論語を読みました!」

 

「そうですか。大変良いことです。親への孝行を忘れずに、これからも勉励を欠かさないようにするのですよ」

 

 他にも色々な者が董仲穎の元を訪れ、いつしか彼女がいつの間にか背負っていた籠から、赤い人参がはみ出ようとしていた。男はその様子をぼんやりと眺めていた。他の者は男を見ると一瞬警戒するのではあるが、それだけであった。それは明らかに隣に立つ彼女のお蔭であろう。そしてこの光景は、男にはどこか懐かしい感じがした。

 

 やがて二人は、館の門の前にたどり着いた。

 

「董涼州刺史様! 今日は如何なされましたか。お召し物が、汚れておいでです」

 

 門番の男は、やや驚いたようではあったが、特に警戒している様子はなかった。隣に刀を持つ者がいるのだ。主の服に血がついているのなら、須らく警戒すべきである。門番失格であろう。

 

「彼に、案内を」

 

 それだけで、全てが伝わったようであった。門番の男は、男に隣にある、こじんまりとした家に入るよう言った。一見するに、牢屋ではなさそうだ。

 

「そこで体を清めるように」

 

 男は安心した。民が警戒心とは別に嫌悪感も表すのは、この臭いの影響が大きいと秘かに気になっていたからだ。

 

 

 

 

「お疲れのところ、失礼します。お話したいことがあるのですが、よろしいでしょか?」

 

 そう声をかけられたのは、男が着替え終わり、晩御飯を食べた後であった。断る理由も力もない。董仲穎が入ってきた。先ほどとは違い、軽装をしている。董仲穎は男の顔に何かを見つけたようであった。

 

「お顔が……」

 

「私の顔がどういたしましたか?」

 

「いえ、髭が生えていないなんて、珍しいことだと思いまして」

 

 そう言えば、きれいな顔を見せたのはほとんどなかったような気がする。あったとしても、ここに来た最初だけであろう。

 

「生まれつきのものです」

 

 そのような手術をしたと言っても、到底理解はされまい。

 

「失礼いたしました。それでは――」

 

 董仲穎は尋ねた。

 

「あなたのお話を、聞かせていただけませんか?」

 

 十分に考える時間はあった。今は、それが試される時だった。男は言った。

 

「初めに、私の名前は張任と言います」

 

 男は冷静に言った。

 

「洛陽の賊魁、という言葉に聞き覚えはありませんか?」

 

 董仲穎は目を丸くして驚いた。

 

「ええ。ですがその者は、その、殺されたはずです」

 

「それは偽物です。曹操という者は、宦官の孫娘らしく、手柄を捏造するのに長けているのです」

 

 董仲穎はやはり固まったままだった。男は落ち着きを見せながら言った。

 

「少し落ち着かれた方がよいでしょう。その間、私はここでお待ちしております。安心してください。私は逃げも隠れもいたしません」

 

 正直に言えば、もし廊下から聞こえてくる足音が多いのであれば、不可能であっても逃げるつもりでいた。その想定が堪らなく恐ろしかったが、男はそれがないことに賭けたのであった。董仲穎という女は、助けられたという恩を感じている。けだし優秀なこの女は、鉄の心で処分するかもしれなかったが、その恩にしがみ付いたのは分の悪い賭けではなかった。

 

 董仲穎は、男にとっては意外なことに、賊を発見したにも関わらず兵を呼んだりはしなかった。そもそも席を立ち上がることなど一度もなかった。そのまま正座を続け、黙考していた。この場では、蝋燭の火だけがちらちらと動いていた。やがて口を開いた。

 

「曹洛陽南部尉の軍との戦いは、どのようなものでしたか?」

 

 これは、本当に男が件の賊なのか確かめようとしているのだろう。

 

「初めはお互いに兵を差し向けて、小競り合いを繰り返すだけでした。しかしある時、曹操は卑劣なことをしました」

 

 男はじっと董仲穎を見据えた。

 

「彼女は夜襲をして、私たちの妻や子どもを、皆殺しにしたのです。一人たりとも、村から逃げることはかないませんでした」

 

 男は卓を力強く叩いた。手の痛みが、声に震えをもたらした。

 

「家は全て焼かれ、妻子はみな凌辱された後、井戸に投げ捨てられました」

 

 男はしばらく下を向き、うめき声とも嗚咽ともつかない声をあげた。

 

「私たちは、復讐を望みました。そして、彼女の軍と正面から戦ったのです。ですが、ですがっ! そこでも、彼女は鬼にも劣る所業をしたのです!」

 

 男は手を震わせていた。これはきっと彼女に効くだろう。

 

「民を盾にして、国の中で戦おうとしたのです!」

 

「なんとっ……」

 

「無論、私たちはすぐさま攻撃をやめ、引くことにしました。敵が無辜の民を傷つけたからといって、私たちがそれをするのはとんでもないことですから」

 

 男は悔しさを募らせながら言った。

 

「私たちはこの時、これ以上民に犠牲を広げるわけにはいかないと考え、逃げだすことにしました」

 

「逃げる……?」

 

「ええ、そうです。どこか遠くへ。危険がないところへ」

 

 男はかわいた笑いをしながら言った。

 

「ですが、その時突如曹操は襲いかかってきたのです! …………それにより、皆殺されました」

 

 男はうなだれたまま言った。

 

「ここまでが顛末です。曹操が吹聴することとは、大きく違っているでしょう」

 

 その後もいくつか質問があったが、男はその全てに完璧に答えてみせた。当然である。当事者であるのだから、答えられないことなど何もないのだ。一通りの疑問に男は答えた。

 

「なぜ私が、今もこうしてのうのうと醜い生き様を晒しているか、わかりますか?」

 

 時期を見計らい、男は質問を返した。

 

「一生のお願いです、生きてください、そう言われたのです。それも一人ではありません。何人もの仲間が、一生に一度だけの願いを、死ぬ間際に頼み込んだのです」

 

 男は拳を握り締めた。仲間を失いたくなどなかった、という悔しさ。これを表現するためには、下を向いて目を閉じ、過去を思い起こす振りをすれば良い。

 

「それが親分にとって、どれだけ受け入れられないことか、どれだけ恥になるかは分かっています。それでも生きてください、そうあいつらは言ったんです」

 

 自然と頬に熱いものが流れた。董仲穎は息を呑んで聞いていた。

 

「私は……ともすれば、死にたいと思っていました」

 

 あえて意外に思うことを言う。相手の興味をひきつけるためだ。

 

「何をしても死ぬとしても、皆と肩を並べて死ぬことができるのなら、それは悪いことではないでしょう?」

 

 そしてここで語調を強くする。ここでも、まだ釈然としない感情を抱えているはずだ。

 

「私は、皆が生きていればそれで良かったのです……それ以上は、何も望みませんでした」

 

 最後は気落ちするように。

 

「それが叶わないのならば、いっそのこと、皆で散りたかった……」

 

 賛同するのも、否定するのも難しい。そんな言葉を投げかけてやれば良い。

 

「ただ、親分だけは生きてくれと、そう言われました。だから、私の望みは唯一つです」

 

 ここが正念場だ。相手が目を逸らすほど、力強く見るのだ。

 

「私は生きたい! 生きたいのです!」

 

 何度も同じ言葉を繰り返せば、それだけ響いてくれるだろう。董仲穎の目は震えていた。男の言葉のどこかが、琴線に触れたのだろう。男はほくそ笑んだ。涙を流すほど共感する人間を、普通殺しはしない。

 

「質問したいことが、あと三つあります」

 

 男が安心するのは、まだ早かった。

 

「あなたは、私に殺されることを恐れていました。であれば、そもそも私を助けなければ良かった。それなのに助けたのはなぜですか?」

 

 仮に董仲穎が賊を倒すまで隠れていたら、心証ははなはだ悪いだろう。何せ、彼女は元から此方に気が付いていたのだ。最も、それは不意の言葉で知ったことであったが。

 

「私に従う者には、子供も多くいました。恐れながら申し上げますが、私は彼らと重ねてしまったのです」

 

 追われている者が、大切な人間のことを思い出して、危険を顧みず襲われている女の子を助ける。何という感動譚だろうか! だが、暗に背丈の低いことを指摘されているせいか、董仲穎は特に何の反応も示さなかった。

 

「二つ目の質問です。なぜあなたはあの場所にいたのですか? あなたは先ほど、山賊たちとは仲間ではないと言いました。では、なぜあなたはあそこに?」

 

 男は顔色を変えることなく言った。これも想定済みだ。

 

「ここは、非常に治安がよい場所です。民はみな勤勉に働き、罪を犯す者など一人もおりません……そこに私の居場所はありません」

 

 治安が悪ければ、人の多い街に身を潜ませることは簡単だ。

 

「嘘、というよりも、それだけが理由ではありませんね」

 

 董仲穎は、ゆっくりと顔を近づけた後、言った。部屋の隅の灯がわずかに身じろきした。

 

「ここからは私の推測ですが……」

 

 推測と確信の違いは、ここではあまりない。

 

「あなたは、彼らの財を手に入れようと、後を着けていたのでしょう」

 

 男は黙って聞いていた。

 

「同時に、二度と口を開くことがないようにするつもりだったのでしょう」

 

 朝起きた時に、物を盗られているのに気が付いたらどうするだろうか? 運が悪かったと諦める? 罪人がそんなことをする訳がない。泥棒が死ぬまで追い詰めるに決まっている。舐められないためにも、面子にかけてそうする必要があるのだ。それをされないためには、占有者の口を利けないようにする必要がある。

 

「私にそんな大それたことができるほどの力はありません」

 

 男は空言を言ったが、こんなものに説得力はまるでなかった。他ならぬ己が、彼らを黙らせたのだから。

 

「私には、一つ謝らなければならないことがあります」

 

 董仲穎は続けて言った。

 

「私は、初めからあなたが罪人だと知っていました」

 

 男は何も言わなかった。わずかな言葉も命取りになる。相手の反応を見逃すと、死への道に突き落とされる。罪人であることなど、服を見れば一目瞭然だ。その真意を、見極めるのだ。

 

「だからこそ、私はずっと考えていました。どうして、あなたが私を助けたのかを」

 

 こんなことをわざわざ言うのは、先ほどまでさんざん情熱を持って語ったことが、あまり心に響いていないということだ。男は殺しか、あるいは殺される準備をした。賭けの成否は、まだわからない。

 

「あなたは、どうしても私と会う必要があった。そして私に助けて欲しいことがあった。といっても、あなたに恩赦を与えられることがおできになるのはただ御一方のみです。恐らく私に匿って貰うのも一考したのでしょう。ですがそれよりも、あなたにはどうしても欲しい物があった」

 

 董仲穎は、男の横に仕舞われている刀を、ちらりと見た。

 

「あなたが欲しいものは、小刀でしょう。それも高い地位にあることを示す」

 

 男の右手が一瞬だけ動いた。男はつられて其処に目が動いたが、すぐに董仲穎を見た。視線は全く動いていなかった。

 

「そんなものを手に入れて、何ができるというのでしょうか? ちょっと調べれば、私が何の功績も残していないことぐらいすぐにわかります」

 

「調べられなければどうでしょうか」

 

 男は口を閉じた。ここまでの一連の質問は、答えがすでに彼女の胸の内にあるのだ。であれば男の返答に意味などない。

 

「これは質問ではありませんが、あなたはここより北の民の元に行くつもりなのではないでしょうか?」

 

 特別な知識、技能を持つ者、あるいは高い地位にある者を受け入れる土壌が、異民族にはある。

 

「あなたの手八丁口八丁であれば、恐らく彼らも信用するでしょう。彼らと共に暮らし、将になり、仲間の無念を晴らす。それが目的なのではないでしょうか?」

 

 危険だ。この女は危険だ。男の狙いの七割、いや八割方は見抜いている。そして、非情な決断も下すことができる。将来敵になる人間を逃がす道理はない。おまけに、男の口の上手さを牽制している。武に優れていても、智に優れる。簡単で、それでいて理不尽なことであった。

 男が選んだのはまたもや沈黙であった。それしかなかったのだ。

 

「やはりそうなのですね……」

 

 考えろ、考えろ、考えろ! もしここで違うと言っても、聞き入れられなかっただろう。だから、肯定だと受け取られるのは仕方がない。問題は、いつ謝罪と共に死刑の言葉が出るのか、ということだ。誰が殺す? 誰が殺しに来る? そこまで考えて男は、周りに兵がいないことを思い出した。男は目を見開いた。兵どころか、ここには男と董仲穎しかいない。これは……この意味するところは……

 

「私は、民が本当の意味で、笑顔で暮らせる国を作ろうと思っています」

 

 男は思わず顔を上げた。この世界において、国というのは遙かに多く存在する。街や村と同じくらいの規模でも、王が治めているのであれば、そこは国と呼ばれるのだ。だが、この場合の国とは、国とは……

 

「その民というのは、宇内の民を指すのですか?」

 

 男は、国についてではなく、わざとそこに含まれる民について尋ねた。董仲穎は男の眼を見つめて尋ねた。

 

「最後の質問です」

 

 優しく、それでいてかすかに震えた声色であった。

 

「それに協力して頂けませんか?」

 

 これを断わることはできない。そうした途端、この場で殺されるか、運が良ければ罪人として処刑されるかだ。だがすぐに飛びついたのであれば、命欲しさに適当なことを言っていると見做されるだろう。

 

「仲間をすべて失った某に、何ができるというのでしょうか?」

 

 肝要なのは、謙虚さを見せることだ。そうあるのではなく、そう見えるように振舞うのだ。

 

「私は、あなたのことを知っています。決して民に被害を与えない、義賊であると」

 

 男は、何も言わなかった。

 

「私は、あなた程仁侠と呼ぶに相応しい者を、他に知りません」

 

 男は、何も言えなかった。

 

「私はあなたの評を、民への愛を信じています」 

 

 男は何度か瞬きをした。

 

「それに確かに曹操には敗れたかもしれませんが、あなたには、人を率いる才があります」

 

 男の目から涙がこぼれた。

 

 だがしかし、上っ面の美辞麗句だけでは、共謀はできまい。

 

「民に優しい国を作る、そのためには邪魔者を殺すことも必要です。その覚悟がおありですか?」

 

「あります。ですが、できるだけその選択を取ることはしません。それに慣れたら、人ではなくなってしまいますから」

 

「その言葉が嘘にならない限り、この命にかえてでもお仕えいたします」

 

 長い沈黙があった。お互い、信じたものか、疑心暗鬼なのだ。何か、何かもう一押しするような、保証が欲しいのだ。董仲穎がぽつりと言った。

 

「お名前を……」

 

 そんな時に出るのが、真名であった。真名を聞くというのは、失礼に当たる行為なのだろう。何せそれは友情を、信頼を、人間を、試す行為なのだから。

 

「それはもう捨てました。私はもう、それを二度と名乗ることはないでしょう」

 

 だからといって、ここで真名を言わないのは不味い。

 

「確か久遠……そう呼ばれていたことが、あったような気がいたします」

 

 男は、何処かで聞いた真名を披露した。

 

「他言はいたしません。あなたを呼ぶ時は、張任、いえ、それも呼べないのですね……」

 

 董仲穎は右手を顎に当てながら考え込んだ。その目の奥には、何か感情が隠されていた。

 

「それではこうしましょう。これからは、あなたは私の遠戚ということにいたしましょう。そうすれば、周りの者も特に疑問を抱かないでしょう」

 

「それでしたら、董仲がよいです。名は白です。仲を字に」

 

「字に仲を? いえ、わかりました。それでは董仲、これからは私のことを仲穎様と呼ぶようにしてください」

 

 こうして、共謀の儀は終わりを迎えた。張伯は辛くも生存を獲得した。今ここに、張伯は蔑まれる山賊などではなくなった。董仲という、立派な刺史の親戚になったのだ。

 

 張伯がかような幸福にありつけたのは、ただ単に幸運だったからというだけではない。二人とも、臭いを感じていたからこそ、契ることができたのだ。その臭いとは、貧困、病、戦争。張伯は感謝していた。何せそれがなければ、とっくのとうに殺されていたのだから。山賊の親分をわざわざ保護する理由は何か? 決まってる。利用するためだ。何に利用するためか? ――そんなもの当然、戦争に決まっている。

 

 

 張伯は、木の壁があり、そして木の床で出来ていて、更には大人十人が優に寝られるくらいの家で、寝転がっていた。久々にありつけた、安住の家であった。逃隠の時代は既に終わった。

 この最果ての地。これ以上何もせず逃げたら、もう何もできないのではないだろうか? そう、何もできないのだ。敗北は許されない。一手でも間違えれば死を招く。だが、張伯はどことなく昂揚していた。今度は間違えない。今度こそ勝利を手に入れるのだ。

 そして、そう! 忘れてはいけない。あの曹操をこの手で殺してやるのだ。国を作るのに邪魔な王。邪悪な王。何としてでも、決着をつけなければなるまい。張伯は刀を強く握りしめ、そのまま眠りに落ちた。




 番外編はありません。
 誤植訂正


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