少子高齢化と核家族化が進む今の時代、祖父母やその他の家族の手を借りることもままならい共稼ぎ家族の家の子は、放課後は何らかの校外学習へ行かされるのが常だ。
しかし、公営の放課学童などは低学年が対象で、時間稼ぎにと入れた私塾も長い時間をつぶすことはままならない。
当然と言えば当然な成り行きで、特に金に困っていないらしいウチの場合は、大手企業が母体の自習塾に小さいころから放り込まれていた。
小さい頃、
その私塾は同じビルに同じ企業が有料の会員制の私設図書館を併設していて、俺はその図書館に行くのが好きだった。
塾生は無料でその施設を使うことができるため、俺は入った頃から塾のない日でもその図書館に通い詰めていて、高校生の今、自宅より長い時間をそこで過ごしていた。
一番奥の隅の小さい自習スペースはいつの間にか俺の指定席のようになっている。
まあ…、もともと賑わっているとは言えない図書館で、俺が行く時にそこに誰かがいるということはなかった。
日が暮れる。
都会のビルの隙間からでも日は等しく落ちて、ネオンで照らされ暮れることなど無いように見える空にもまた等しく暗闇は訪れる。
さすがに小さい頃は遅くまではいられなかったけど、中学、そして高校生になると閉館となる時間までは何時間でもそこにいることが可能になっていた。
それにしても私設の図書館は儲かっているのかどうか疑問だ。あまり人の出入りはないので無くなってしまわないかが心配になる。
別ビルにある漫画やメディアを使ったネットカフェのような所は賑わっているようだから帳尻があっているのだろうか?
さすがに教育を担う会社の系列なので、普通の漫画喫茶やネットカフェのようなモノではないらしいが、本当にそちらの収益のおかげだとしたら図書館がなくならないのはありがたいことだ。
と…、どこかの母親が噂話をしていたのを聞いたことがあった。
俺としても居場所が無くなるのは寂しい。
一生ここにこもっていられるわけでもないけど今だけモラトリアムは許される。
筈だ…。
▽
それは、珍しく空がきれいに澄んだ日だった。
隣のビルはこちらビルより高さが低く、最上階が視線の少し上に見えていた。俺はいつもの場所に座らず反対側の窓際に座ったから見えた景色で、その席に座ったのは…、本当に意味などない、まさにでき心だった。
しばらく読書に没頭していたのだけどふと顔を上げると目の端に白い物が見えた。
夕方と夜の境目ぐらいの曖昧な時間だった。
いつもと違う窓から見える色彩の落ち始めたくすんだ空には、すでに大きな三日月が吊られたように浮かんでいる。
隣のビルの屋上にある柵からつながっている螺旋の非常階段のてっぺんで、その子は俺に背を向けたまま月を眺めているようだった。
月の弧の真ん中にいるその子が、まるで月を抱いているように見えて、ひどく幻想的に思えて、その童話の表紙のような映像に俺は見とれてしまった。
ビル風にあおられてその子の白い服が、髪が、ストールがふわりと舞い上がる。
螺旋階段の薄い鉄板は霞んで見えなくて、細い脚はそこを踏みしめているとは思えないほど重力を感じられなくて、今にも飛びそうで…。
『落ちる!?』
その瞬間背中を冷たい金属でさすりあげられるようなひやりとした感触に襲われた。
発熱の兆候のような鳥肌が背中から腕までゾクゾクとドミノのように順に立って行って、恐ろしさに目がくらみそうになった。
目の前のはめ殺しの窓は開くことはなく、慌ててどんどんと強く叩くとその人物がクルリと後ろを振り向いた。
ビルとビルの間は5メートルもないだろう。
月明かりに対して逆光になっているために風に揺れる色素の薄い髪が逆立って透けて光り、中性的な顔立ちは女子にも男子にも見えた。
あわてて手元にあるノートいっばいに『落ちるぞ!』と殴り書きをして掲げて見せると、その子はにっこりと笑ってバイバイというように手を振って消えたのだ。
何だったんだろう?
不快そうな顔はしていなかった。
なのにいなくなった。
ひょっとして妖精?
いい年をした自分がそんな思いにとらわれるのが可笑しかったのだけど、それでもいいかもしれないと思い、緊張していたのかホッと肩の力を抜くと再びその子は手に大きなスケッチブックを抱えて現れたのだった。
『落ちたら死ぬだけだから大丈夫』
笑顔とは裏腹に物騒なことを書いてあってあわてて
『大丈夫じゃないだろ』
と書いて見せると
『そうかな?』
と返事を書いて見せた。
『痛いぞ』
ニコニコしたまま表情を崩さないその子に心配したのだという気持ちを込めて書いて見せると
『死ぬほど痛いね』
とまたふざけた返事が来たのだった。
『用心しろ、こっちが気になる』
そう返すと
『気をつける』
と今度は目を少しだけ月形に細めて返事を見せてよこしたのだった。
変な子だ。
年齢はいくつぐらいなんだろう?
見た目からは自分よりは年下に見え、サラサラの髪の毛と光の加減で緑に見える瞳は対面してからも印象的だった。
服も白いけど肌もひどい白く、唇は少し紫に見える。
その子は続けて
『何の本読んでるの?』
とスケッチブックに書いて見せるので本の表紙を掲げて見せると嬉しそうに『オレもファン』と書いて見せた。
『名前は?』
『リツ。君は?』
『サガ。そこ家?』
『yes』
そんな他愛もないやり取りは、リツが
『もうじきお手伝いさんが来る。外にいると叱られる』
と部屋に入るまで20分程続いた。
季節は春になったばかり、外は寒かったんじゃないかとその時初めて思い当たり、同時にリツはコートを着てなかったリツが心配になった。
そして、纏ったストールのようなものがずっとひらひらと舞っていたのを脳裏に思い出していた。
変な奴だった。
そう思いながらも短い間のやり取りを思い出すと少し頬が緩むのがわかりまた一層変な気持ちになったのだった。
遅い時間に外に出ると、俺を待っていたのは名残雪だった。
冷たい黄昏時の出来事は、あの子が雪の妖精だったのではないかと思ってしまうほど薄ぼんやりとした印象で、そしてその子は俺の胸にハラハラと何かを積もるほど散らした。
▽
次にリツにあったのはあの日からずいぶん日が過ぎた週末だった。
リツは今度ははじめからスケッチブックを持っていた。
『こんにちは。サガ』
リツはスケッチブックにあらかじめ書いてあったらしい文字を早速とばかりに俺に見せた。
『こんにちは』
その妙に改まった挨拶に俺もつられてそう返した。
あれから姿が見られなかったからどうしたのかと聞いてみたかったけど、筆談ではなかなか思うように会話は進まない。
いままで姿を見たことが無かったということは、リツは新たに引越しをしてきたのだろうか?
そんなことを聞いてみたかったけど、まだ面識のない律にそこまで聞くのもためらわれ、結局その日もあまり意味を持たない話に終始したのだ。
『寒くない?』
『寒いよ』
『部屋に入らなくていいの?』
『サガと話がしたい』
『こっち来ればいいのに?』
『家から出られない』
『過保護な親?』
『そうかも』
そして窓越しに30分ほど話をしているとリツはまたあっけなくサヨナラと部屋に戻って行く。
名残惜しい…。
そう思うのは俺だけなんだろうか。
心臓が痛む。
上と下から大きな手でギュッと握られて、真ん中では行き場の無くなった血がたまり続けて膨張して風船のようにはじけそうな気がする。
こんな気持ちは初めてだ。
動悸が止まらなくて顔が熱くなる。
そんな不安定なままに、その後もリツはたまに外に出て来て俺と文字だけのやり取りをつづけた。
決定的なことを聞きたいと思うけどなぜかリツの瞳を見ていると踏み込んだことは聞いてはいけないような気がして、結局季節の話題や本の感想程度の事しか聞けない。
意を決して携帯電話を持ってないのか?と聞いたことがあったが、持っていないとあっさりと言われてしまった。
もうリツとのやり取りはかれこれ1ヶ月以上になる…。この間にあるガラスが鬱陶しい。傍に寄れないのがもどかしい。
リツはどう思っているんだろうか。
もう少しリツと近づきたい。
声を聞いて話をしたい。
その華奢な身体に触れて腕の中に収めてしまいたい。
そんな風に思う自分が変だった。
オレと言っているからには目の前の子は男なのだろう。
だけど自分はこの子を友人とは思えない。
家族でもないし、ましてや単なる隣人扱いはしたくないしされたくない。
もう少し距離を近づけたいと思い始めてしまった俺は、何とかリツとの接触を試みようとし始めていた。
リツは今は学校には行っていないがもうすぐ行く予定だそうだ。
学校に行くようになれば外で会うこともできるだろうか?
口頭で聞けば何でもないことも筆談はもどかしい。お互いのことを語り切れない。
俺がリツのことが気になってもっと親密になりたいと告げたら、リツはどう答えるのだろうか。
▽
寒かった外気が緩み、少し過ごしやすくなったある日、
『そっちの非常階段を降りられる?』
と俺は必死で考えた計画をノートに書いて見せた。
外に出ることは禁止されているいうリツと直接言葉を交わしたい。
俺だけが思ってるの?という気持ちを込めて、俺は見開きいっぱいに書いた文字を広げていた。
『わからない。降りたことない』
返事を書いたスケッチブックを見せながらリツが困った顔をした。
このビルは通りに面していて、回りにも雑居ビルが多い。
しかし隣のリツの住んでいるビルは住居用のようで、螺旋階段はセキュリティの関係か、何階かごとに途切れていて下からずっとは上がれない。
しかし、その螺旋階段の途中とこのビルの非常口のせり出したところが隣接している部分があって、リツがそこまで来れれば直接話をすることができることに来た継いだのだ。
『リツが下りて来てくれれば俺も行く』
そう書いて告げるとリツが口を一文字に結んだまま頭をこくりと一回上下させたのだった。
浮足立つ自分を何とか収めながら、一足先に図書館のある階から二階分を降りたそこにたどり着いた俺が、非常口のドアを開けると外はやはりかなり風が吹き上げていた。
ビルとビルの間はトンネルのように強い風が通り抜けていく。
このドアが外からはあかないけど内側からは開くことは知っている。
非常口だから、いざという時に開かなければそれは何のための防壁かわからないからという原理だという事も。
一旦出てしまえば入れなくてもいい。
ちょっと大変だけど俺はそのまま階段を下まで降りればいいだけだ。
10階分は結構大変だけど決して無理な事でもない。
▽
風に吹かれながら螺旋階段を見上げると、リツが手すりにつかまりながらポツポツとまるで数でも数えるように行くりと一段一段を踏みしめるように降りて来ていた。
相変わらず風が吹き上げていて白いストールがビラビラとフラッグ競技の旗のように横に流れている。
「リツ!大丈夫か!?」
大声を上げると強張って青ざめて見えたリツだったけど、すぐにニコリと笑ってコクンとうなづいた。
たったの二周の螺旋なのにゆっくりとした動きはそれがどこまでも果てしなく続いているような錯覚さえ起こさせる。
誰かに邪魔されないうちに、見つかって連れ戻されないうちに、
待ち時間は今まで生きて来た中で一番長く感じたのだった。
階段同士は一番近い所では50センチもない距離だった。
胸の位置ほどの高い柵があるけどこちらから飛び越えてそちらへ行ってしまいたいとさえ思うほど気持ちが逸った。
やっと手の届くところに来たリツは相変わらず青ざめた顔色をしていたけどすぐに手を俺の方に差し出した。
なに?と思ってみると、その手の中にはひもで編んだらしいミサンガが握られていた。
「サガに会ったらあげようと思って、教えてもらって作ったんだ。」
リツの初めての肉声は俺の名だった。
リツの腕にも色違いでお揃いのミサンガが結わえてあった。
何だかくすぐったいような照れくさいような気持が湧いてまっすつにリツの顔が見れない。
「じゃあさ…。」
やっと言葉を発することができて、
「つけてよ。」
とそのまま腕を差し出すとリツは冷えた細い指でゆっくりと俺の腕にそのミサンガを結んだ。
夕日に透けてキラキラと編み込まれている緑と黒の石が光って綺麗だだった。
「願いが叶うと切れるんだって。」
りつが小さい小さい声でそう言った。
そうだな、俺もそれは聞いたことがある。
だけどそんなことは言わずに俺は
「なにをお願いするの?」
とそう聞いた。
そしてリツは少しだけ首をかしげて
「これから考える。」
と言う。
そしてりつが何か言いにくそうに
「本当は…、」
というので
「何?」
と促す意味で手を伸ばして頬を摩ると
「サガに会った日、落ちてもいいかもって本当に思ってた。」
と驚くようなことを言った。
「自分から死んだりするのは無理だと思ってたんだけど、うっかり落っこちたならだれも俺を責めないかなって…。」
「死にたいのか?」
「死にたくない。」
「ならなんで?」
「ふふ、そういうことってない?」
リツが言うことがわかるようなわからないような、そんなちょっと困った状況になって、でも俺は「次に死にたくなったら言って。」とリツに言った。
「止めてくれるの?」
「わかんない。一緒に死にたくなるかもしれない。」
その時のことなんてその時にならないと分からない。
今までの人生で死ぬなんてこと自体を考えたことも無かったから。
でも俺が知らないところでいつの間にかリツがこの世界から居なくなるのは嫌だ。そう言いたかった。
「わかった。」
せっかく会ったのに、もっといろいろ喋りたいのに、そう思うのに案外言葉は出てこなくて、柵を挟んで二人で座り込んで結局そのあと俺たちはあまり喋りもせずに残りの時間をぼんやりと手だけは繋いだままで過ごした。
でも、リツに会えてよかった。
直接声を聞けてよかった。
そして…。
その日俺たちは足元の見えるうちにさよならをした。
「サガが落ちないように最後まで見ててあげるから。だからまっすぐ降りてね。」
リツがそう言うから俺は後ろを振り返ることなく下まで一気に降りた。
最後の階段をダンっと踏みしめて、アスファルトの地面に足をつけるとすぐに後ろを振り返り見上げるとリツはまだそこにいた。
暗くて表情まではわからなかったけどパラパラと手を降ってくれているのが見えた。
きっとまたいつものようにニコニコ笑っているんだろう。
俺はもう一度大きく手を振ってそのままその場を離れそのまま家に戻ったのだった。
▽
めんどくさいな・・・。
3年生に課せられている職場体験の実習要領を見て俺はため息をついた。
これはある種の学校行事のようなもので、この私立の学校では勉強ばかりではだめだというアピールなのか、主に福祉関係の団体に毎年それぞれの学年が季節を変えて3日程行くことが決まっていて、3年生は受験がひっ迫してくる前に行われる。
一応そういう項目のある学校は願書にも書けるらしく、保護者からは案外好意的に受け入れられているようだ。
希望も取るけど人気のある団体に集中してしまうので俺は白紙で出した。
学校が適当に振り分けた先は場所的は学校からはそれほど遠くない国立の病院だった。
ちょっとした散歩の補助や軽作業、セラピーの助手とのことだ。
散歩の補助か、男手は欲しい所だろうな・・・。
俺が振り分けられたことにちょっと納得した。
▽
このところリツの顔を見ていない。
家政婦さんの来る日は叱られるからここには出られないと言っていた。
たまに家政婦さんの交代の隙がある日があって、その時だけ少しテラスに出られる。
螺旋階段はテラスの端にあるのだそうだ。
テラスにも出ちゃいけないってさ、ガキでもないのになと思わなくもないけど、この間の死んでもいい発言は少しだけ衝撃で、ひょっとしたらそういう部分をリツは孕んでいるために親が配慮しているのかもしれない思い当たったりした。
そして、螺旋階段で会えたことで油断していたのかもしれないけどリツは2週間ぐらい前から姿を見せなくなった。
この職場体験は午後の早い時間に終わるから、長い時間図書館にこもっていられる。そうすればよりリツが出てくる可能性が増えるかもしれないと期待をしているのだ。
▽
「嵯峨君って循環器外科の嵯峨先生の息子さんよね?」
今日お手伝いをするために振り分けられた場所で看護師長さんがが俺にそう声をかけてきた。
何年か前に一度やはり学校のボランティアで来たことを覚えていたようで、知らん顔を決め込みたかったのにちょっとバツが悪い。
「はい。でも今日は学校の授業のようなものですから父は関係ありません。」
あくまでもあまり折り合いのいいとは言えない父とは関係ないと牽制のつもりで言うと「以前来てくれた時に本を読んであげた子いたでしょ。今日はあの子のお散歩をお願いできないかしら?年も近いし話も合うと思うの。」と言った。
以前ここに来たのは今と桜がきれいな時期だった。今年は少し桜が遅れていたから葉桜がまだ少し残っている。
学校が勝手に保護者のところがいいだろうって振ったんだ。
今回だってそんなところだとは思ったけどここだけは嫌だと言うのもまたかっこ悪い気がして空欄で出したんだ。
「別にそれでいいです。」
「よかった。きっと喜ぶわ。ずっとあの時の事楽しそうに話をしてたから。」
師長さんはそう言って去って行った。
俺はとりあえず一度集まることになっている場所に移動することにした。
同年代か・・・。
軽く了承をしたものの、健康な俺が散歩の間何を話せばいいのだろうかと、少し戸惑いを感じた。
▽
「ごめんなさい。さっきお願いした件だけど・・。」
師長さんが申し訳なさそうに振り分けられた集合場所の俺に声をかけてきた。
「何だか今日はお散歩したくないって言うから・・・。ごめんなさいね。」
「具合が悪くなったとか?」
「う、ん・・・。あんまりわがままを言う子じゃないんだけど。以前本を読んでくれた人って言ったら急に恥ずかしくなったみたいで・・・。」
要するに俺が嫌だってこと?
何だかちょっと面白くない。
さっきは自分も戸惑ったくせに・・・。
あの日、本を読んでやった時のことはうっすらと覚えている。
お兄さんお兄さんと可愛く慕ってくれていたようだったのに。そう思うと急に昔の自分全部を否定されたような気がして「一度お話できますか?」とらしくなく言ってしまったのだ。
普段だったらこんな面倒なことなどしない俺なのに・・・。
「このところ小野寺君ちょっと調子が悪かったから気持ちが落ちてたのかも。」
師長さんがリフレッシュスペースでソファーに座る人物を指さしてそう言った。
「リツ君、さっき言っていた嵯峨君が少しお話をしたいって。」
その言葉にハッとしたのは俺だけではなくその人物もだったようだ。
「り・・・、つ?」
あのビルで妖精のように白い服をなびかせていたその姿と同じリツがそこに居た。
「なんで!嫌だって言ったのに!」
リツが叫ぶようにそう言って勢いよく立ち上がると、顔についていたチューブがパシリと外れ、キッとした瞳が次の瞬間にはグラリと揺れて身体ごと崩れるようにしゃがみこんだ。
肩が激しく上下しているのが見えて師長さんが慌ててその身体を支えて背をさする。
「ごめん嵯峨君、またにして。」
バタバタと人が集まってきてはじき出された俺は結局理由も分からず終いで早々に立ち去ることになったのだった。
何年か前に本を読んだ子がリツ?
俺はにわかには信じられなかった。
あの時に本を読んだ子は重度の心臓病で、何度も手術を繰り返しているけど根治的な治療はできていないと言っていた。
螺旋階段のリツは病気だなんて思えないほどいつもにこにこしていたじゃないか・・・。
しかし。
はじめに見たときのことを話した時に落ちてもいいと思っていたと言っていた。
あれは本当に本音だったんだろうか。
遊歩道の立て看板をつける手伝いをしながら俺はずっとグルグルとそんなことばかりを考え続けていた。
「嵯峨君。ごめんね。本当は絶対安静なんだけどリツ君が少し話をしたいって言うのだけど、時間ある?」
師長さんが時間が終わった俺にそう声をかけてきた。
もとより俺はリツと話をしたいと思っていたので了承の意を伝え師長さんに連れられてリツのいるという部屋に行った。
リツの部屋はその階のナースステーション近くの個室で、ドアから中に入ると部屋の中は衣服同様白かった。
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天堂の楽園
「リツ君、嵯峨君が来てくれたけど?」
師長さんがそう言って静かにそこに置かれているベッドの近くに寄って告げるとリツが目だけ俺の方を向けた。
そこに居たのはやはりリツだった。
その視線があまりにも弱々しくて喉がつまって吸った息を吐けない。
「ごめんなさい。来てもらって。」
リツの口元には透明の酸素吸入器がついていて、いつもにも増して悪い顔色で、俺の方に顔を向けるだけでも苦しそうだった。
ハッとして急ぎベッドサイドに駆け寄り手をぎゅっと握るとリツの指先が少しだけ震えていて、そして初めて触れたあの日より冷たく感じた。
「ごめん。びっくりさせた?」
その姿が痛々しすぎてそう言うとリツはいつものように笑おうとしているのがわかった。
でもその表情は口角をきゅっと締めただけでいつもとは違って笑えてなくて息苦しさだけが伝わる。
師長さんが俺たちを見て安心したのか「少しだけね。」と言って部屋から出て行った。 俺は後ろ姿を視線で追って見送っていると 「いつばい嘘つきました。」 とリツが弱々しい声で言う。
嘘・・・、どれが嘘でどこからが本当だったんだろう。
リツとは多くを語り合っていない。リツの嘘はむしろ俺にではなく自分自身に対してだったのではないのだろうか。
「俺があの嵯峨だっていつから知ってた?」
そう聞くと「かなり始めの方で。」とリツは仰向けのま小さくため息を吐きながら眉間に皺を寄せて言った。
「別にいいんだ、それは。でもびっくりしたから。病気だなんて・・・。」
いつもやわらかく笑っていたから、妖精のようにフワフワとした足取りだったからそんなことは夢にも思わなかった。
「サガ・・・、さんの前ではふつうの子みたいにしたかった・・・。」
リツがわざわざ『さん』を付けるのでどきりとした。そんな改まった言い方をするなんて距離が出来たみたいでイヤだ。
「さんなんて付けなくてもいい。いつものリツがいい。」
苦しくなって、少し強めにそう言うとリツは少しだけうれしそうに今度こそ本当に笑った。
「螺旋階段···。」 気になったことを言い出そうと唐突に話を始めるとリツがパチパチと瞬きをした。
俺が普段何も考えずにしている単なる会話、それさえも今の律には負担なのだと解る。リツは俺の言葉の続きを待っている。
筆談でも言葉は途切れ途切れだったけど律の瞳はいつも雄弁に語ってくれていた。だから俺たちは直接会ってさえも言葉を交わさずに時間をすごせたのだ。
そして、今の律の表情はいつものリツと変わりがなくて少しだけホッとした。
「蝶旋階段を下りたりして大丈夫だった?」
そう聞くと、とたんにリツの表情が曇って泣きそうな顔になる。俺はあの日からリツの姿が見えなくなったことが気になっていたんだ。
「降りるのは・・・、でも上るのは無理だった・・・。」
口元を覆っている透明の柔らかいカバーのような酸素を補助する器具を外したから少しだけ声が聞こえやすくなった。
しかし表情は懺悔するようで、眉間に皺を寄せていた。
「あそこから、あのあと動けなくて・・・、もうこれでやっと・・・、終われるかなって・・・、思った・・・。」
途切れ途切れだったけどリツが自力では上に戻れなかったことがそこから分かった。
独りよがりにリツを誘って俺がそのまま放置して帰ったあの時、薄暗い螺旋階段で俺が下りていく姿を見ながらリツはきっといろいろなことを考えていたのだろう。
生きることと死ぬこと、誰かに重荷を背負わせないような居なくなり方・・・。
何だか苦しい。なんで俺は蝶旋階段にリツを誘ったんだろう。
きっとそんな風に俺が思うことがリツへのプレッシャーになるのだろう。
リツが息をするのも辛そうだったからもうあまりしやべらないほうがいいのだろうと思って「明日も来ていい?」と聞くとリツは柔らかい笑顔で「きてくれるの?」と言う。
時々見せるこのやわらかい笑顔は『期待をしない』笑顔なんだな・・・。
拒絶ではなく受容。
何もしなくても、されなくても自分は大丈夫という無償の思いだ。
「来るよ。決まっているだろ。リツの事好きだから。一緒に居たい。」友達だもんと言おうとして言葉を止めた。だって俺はリツと友達のつもりじやないから・・・。
この想いの名前を俺はまだ知らない。知らなくてもいい。そう思ってリツにただ好きだからと、そう告げた。
▽
職場体験の三日の間、リツと散歩をしたかったけど座るというのは案外体力を使うようで、名残の枝垂れ桜を見たいなと思ったけどだめだった。
リツの熱は指先を温めなかったけど身体からは引かず。、不整脈がひどくて些細な刺激も良くないと言われた。
仕方がないので俺は手伝いが終了してからの夕刻、毎日リツを見舞った。
お年寄りの車椅子を押しての散歩で見つけた花や葉を携帯で写真に撮って来て見せたり、綺麗な画像の本を持ち込んだりした。
リツは青い海の写真が気に入ったようで、俺はそれをリツにプレゼントした。
何度も何度もそのツルツルの紙を撫でて、いつか本物を見たいとリツが目をキラキラと輝かせたけど、その些細な夢が切なくて俺は泣きたくなった。
俺が力ある大人だったらリツをそこに連れて行ってあげられるのに。
大人と子供の間の二人は夢しか語れない。
そしてリツにはその語る夢こそが本当にうたかたのような儚い想いなんだ・・・。
俺のリツへの想いとは裏腹に、俺とリツとの距離は相変わらずで、ポツリポツリとしかお互いのことを話せなかった。
リツの世界はあまりにも狭く、俺の世界は無機質だったから。
リツの祖父は学者で父も同じ。母親は俺の父親と同様に心臓血管外科の医師だったにも関わらずリツは心疾患を抱えて生まれて来てしまった。
その時の最良の医療を施されたけど、結局もう現在の医療ではできることのほとんどをやりつくしてしまった。現在は最後の治療のために準備を進めているという。
「最後の?」
「移植・・・。」
「心臓?」
「そうかな・・・。」
リツの表情からはそれを喜んでいるとは思えず不思議な気持ちをしていると
誰かが死んで俺が助かるって、治療をしたいって望むことって人の死を願ってるみたいでいやなんだと、りつがポツポツと言った。
「わざと人を殺めて奪うわけじゃないんだから、その人もリツの中で生きるって思えば。」
きっとみんながリツにそう言ったであろうことを俺はリツに言う。
だって、そう言うしかない。リツに生きて欲しいから。
「そうだね。それにドナーが現れるまで身体が持つかもわからないし・・・。」
りつが笑う。
なんでそんなに簡単にあきらめてしまうようなことを言うのかと思ったら少し腹が立った。
居なくならないで欲しいってみんな思ってるって言いたい。
でもきっと毎日俺にはわからないくらい痛かったり辛かったり苦しかったりするんだろう。
だから言えなかった。
このところ比較的安定していたので海外のその方面に持化した病院で治療を行ったほうがいいと言われていたこと。
リツの親はそのためにあちらとこちらをいったり来たりしていること。
海外に行ってしまったら治るまで日本には戻れず、それ故に安定していた今自宅に週末だけ帰宅することが赦されていたことなども話をしてくれた。
今が良いと言われていても自分の容態がその治療に耐えることなく終わる可能性の方が高いことをリツは知っていた。
このまま生まれてきた意味も見つけられないまま消えていく自分って何だろう?
リツはだからいつも妖精のように儚げだったのだろう・・・。
「学校に行くって嘘をついたのはサガと一緒に学校に行きたかったから。ごめんなさい。」
リツがつつつと涙を流す。
その横顔があまりにも綺麗で俺は思い切り抱きしめてしまった。
きっと行けるとか、必ず良くなるなんて気休めは言えない。誰よりもリツがそれを知っていたから言えない。
『今はここに居るだろ?』って感じてもらうことだけが俺にできる精いっぱいだと思いながら・・・。
「学校に行こうか。」
俺はまた壮大な計画を立てて実行することをリツに伝えた。
風がなくて雨ももちろん降ってない日がいい。
リツの体調がもう少し良くなったほうがいい。
そして俺が散歩の手伝いをすると申し出なければならない。
学校までは徒歩でも15分ぐらいだ。きっと1時間あれば少しなら見て回ることも出来るはず。
このやわらかい季節の今でなければそれはきっと出来ない・・・。
▽
その日は、あれから2週間ほど過ぎた連休前の穏やかな日だった。
学校の授業が短い火曜と木曜日、土曜と日曜は俺がリツを見舞える日だった。
そんな日曜日、いくつかの注意点をぎっちりと叩きこまれて俺はリツと散歩に出かけた。
リツの専用の車椅子は少しもたれかかれるように深くなっていて、呼吸を補助する器具もつけられていた。院内の遊歩道をぐるりと回るだけだと告げていたのにそれを俺たちは破るのだ。
でも不思議と疚しさはなくむしろ冒険にドキドキしていた。
学校や病院のある大通りは騒々しくて車の往来も激しい。
少し前まで締麗だった桜の街路樹は今は青々とした葉を広げていて、ハナミズキに主役の座を譲っている。
程なくしてすぐのところにある俺の通う学校に着き、門の横の小さい入り口から中に入った。
校舎、グランド、体育館、球戯場、比較的締麗な私立の学校にリツは目をきらきらと輝かせる。
リツは中学までは院内教室で勉強していたそうだけど年齢が高校生の年に達し、今はインターネットを使った通信制の勉強をしているのだそうだ。
しかし学校とは勉強を学ぶだけのものではない。友人とたわいない話に興じたり運動を楽しんだり・・・、しかしリツにはそのどちらも経験をすることは叶わなかった。
まあ、その環境に置かれている俺とて、その状況を享受できているわけではないのだけど、やれるのにやらないのと、やるやらないの選択肢がそもそも与えられていないのは別問題だろう。
リツの憧れはやはりささやか過ぎて胸が痛んだのだ。
リツがひどくはしやいでいる。
激しく身体を動かしたり大声をあげたりは体調の関係でできないけど身体から出る気が喜びで溢れていたようだ。
良かった。
リツがこんなにうれしそうにしているなんて、本当に良かった。
俺は満足感でいっばいで、病室に戻ったあとも冒険の余韻に浸った。
そしてリツがそれから少し変わってしまった。
▽
冒険を思い出す度に嬉しそうにはじけるような笑顔を見せてくれるのに、少しするとひどく苦しそうに沈んだ表情を見せるようになった。
今まで手に入れることの無かった憧れを目の当たりに見せられて、はっきりと自分がどんな位置にいるのかを知ってしまった。
今まで自分がいるこの場所しか知らなかったりつが自分に絶望するのはあっという間で必然だったのだ。
「ねえ、サガ・・・、青い海を見たい。」
りつがぽつりとそうつぶやいた。
夏が近いある日のことだった。
「母さんが準備が整ったら別の病院に俺を移すと言ってる。」
「準備?」
「ドナーを待つ・・・。」
それはリツの嫌っていた人の死を望む行為の具現化だった。
「もうサガと会えなくなる。」
俺が考えないようにしていることをリツが口にした。
「げ、元気になればいくらでも会えるよ。」
気休めだと、今まで言わなかったことを口にするとリツが目を伏せた。
「もう辛いのも痛いのも嫌だ・・・。どうせ手に入らないのに・・・。離れたくない・・・。」
リツが弱音を吐くのを初めて聞いた。
不整脈に、梗塞に苦しんで自分の唇を噛み切ることがあってもそんなことは言わなかった。
だからこれが本当にリツの本音だと分かった。
「死にたくなったら言ってって、前に言ったよね・・・。」
それはあの螺旋階段で初めて触れ合った日のことだ。
俺はそれを片時も忘れてはいなかった。
いつかリツがそれを口にするとどこかで感じていたから・・・。
「死にたい?」
「わからない。」
「ずっと思ってたことだけどあえて言わせてもらうと、リツが死ぬなら俺も行くよ、一緒に・・・。」
妙に気持ちの落ち着いていた俺は淡々とリツにそう告げた。
そして俺の言葉にリツは少しも驚く風でもなく「そう言ってくれると思ってた。」と久しぶりに晴れやかに笑ったのだった。
リツが私物を入れてあるポーチをベッドの横の引き出しから取り出し、中から小さい巾着を取り出して中身を見せる。
そこにはジャラジャラとしたタブレット錠剤が銀色のプラスティックの入れ物に整然と並んでいた。
「血圧を下げる薬なんだ・・・。」
「血圧?」
「前にね、認知症のおばあさんが毎日捨てるのをこっそり拾って溜めておいた。」
それはリツがずっとずっと前からそう思って計画をしていたことなのだろうか?
「消費期限とかあるのかもしれないけど沢山飲めば多少効きが悪くてもいいかもって・・・。」
「睡眠薬とかじゃないんだ?」
「管理が厳しいから。それに今のは死ぬには向かないって。」
「じゃあ行く?」
そう聞くとリツがこくりとうなづいた。
俺はリツの身体を抱き上げていつもの車いすに座らせて静かに病室を出た。
海が見たいと言ったリツを病院の裏手にある小さな神社の雑木の奥の池に行く。
「海とは程遠いな。」
「風になったら海に連れてって。」
「どれくらい飲んだらいいの?」
「残しても仕方がないから半分こ。」
神社のベンチで恋人たちのように寄り添いながら、パツパツとタブレット状の薬を手の平の上に押し出してあげると、ラムネ菓子でも食べるように一粒二粒と少し微笑みながらリツが口に入れる。
途中で買ったペットボトルの水で流し込むとラムネほど甘酸っぱくないタブレット錠剤が少し抵抗しながら喉の奥に流れて行った。
「巻き込んでごめんね。」
りつがそう言ったような気がした。
「巻き込んだのは俺の方かもしれない。」
俺はそう返したような気がした。
海に行ったら何をしようか?とか話をしていたような気がするけどだんだんと身体が冷えて目がかすんでくる・・・。
きっと丈夫な俺より先にリツの方が逝くのだろう。
ならリツはもう腕の中の不完全だった器から解放されたのだろうか?
苦しいとか辛いとか、そういうことから解き放たれ、出会った日のイメージのまま地球の重力からも解放され、その細い足で地面を蹴って浮かんでるのだろうか・・・。
やがて俺は深淵に引きずり込まれるように意識を手放して、境界の無くなったリツとの逢瀬ために夢の世界に旅立ったのだった。
ずっとどこかでは騒ぎ声が聞こえたり身体を思い切り苦しい何かをされたりしていたような気がしたけど、その波が去るとふわふわと浮かんだ俺の魂は、リツと海の上をカモメのように飛んで帆船の先端にとまったり、南の島のヤシをつついたりして過ごし、リツはゲラゲラと元気に声を出して笑って俺の背に乗ったり頬にキスをしたりしてはしゃいでいた。
天堂の楽園?
やっとリツとこんな風にできたんだ。そう思ってしばし俺はその蜜月に浮かれて過ごしていたのに、急に嵐が来たように強い何かにつかまれて、地面にたたき落され重力から解放されていた俺の身体はずしっと思いものに押しつぶされて・・・。
驚きに目を開くと・・・、
そこはかつてリツがいた白い部屋によく似た場所だった。
身体中張り巡らされている戒めは、それがバイタルを図る機械から伸びているのだと瞬時に悟った。
俺たちは、いや俺は?
慌てて身を起こすけどなぜか身体に力が入らない。
邪魔をする線を引きはがすと計測するものを無くした機械は悲鳴のような音が激しく響かせた。
人のほとんどいない夕刻のベンチのはずだったのに、そこには運悪く(運よく)池を管理する業者が翌日からの洗浄の段取りのために訪れたのだそうだ。
恋人同士の逢瀬かとしばらくは気にもしなかったのに俺の腕に居たリツがぐらりとベンチの下に落ち、追うように俺の身体もリツの上に倒れ込んだのだそうだ。
その異様な光景に初めて業者は異変に気付き俺たちは再び病院に戻された。
ただし俺も今度は治療される側として・・・。
目覚めたのはあれから一か月も経ったあとだった。
病院の医師の息子のしでかした不祥事に、薬が患者の隠し持っていたものであることを考慮しても騒ぎの範囲は計り知れず、激しく糾弾されたそうだがリツの両親が俺たちを責めることをしなかったそうだ。
むしろあの時リツの言っていた言葉と同じ「巻き込んで申し訳ない」だった。
俺自身、目覚める保証もない不安定な状況だったため父親が辞職をし、不仲だった両親はそれを機に離婚。
俺は設備の整った遠い町の病院に移されていたのだった。
リツは?と聞けば、付き添ってくれていた祖母は「残念ながらお亡くなりになったそうだ。」と俺に告げた。
俺はそれを聞いても悲しいとは思えなかった。
あの昏睡の間に見た夢は、きっとリツのいる世界で、リツはそこで幸せに暮らしているのだろうと思ったからだ。
苦しいことのない世界。
やがて俺も行く世界。
リツはきっとそこで俺を待っていてくれる。
そして俺は大事な何かを全てリツに持っていかれたような気持になっていた。
祖母が俺の横で泣くのでリツのあとを追うこともできず、やがて月日だけが流れて行った・・・。
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桜貝の舞う浜で
[高野]
共に逝くはずだったのにリツだけを失ったという現実は、俺にひどい後悔と悲しみをもたらすことはなかったが、嵐のように行為を責められる続ける中で、唯一俺のことを心配して泣く祖母にだけは申し訳ない気持がしてリツのあとを追うこともできなかった。
「人様に顔向けできないことをしでかしたのだから、きちんと生を全うすることが償いだ。」
信心深い祖母は繰り返し俺にそう言った。
それは俺がリツに言っていた数多くの気休めの言葉に近いと感じなくもなかったけど、それでも俺が風になった時に健康な人間だったら当たり前にできたいろいろなことを、リツへの土産話にできるかもしれないと思いなおして、俺は死ぬまでは生きよう。リツに話をして聞かせるためにせめて真っ当に生きようと思ったのだった・・・。
あのあと、結局俺はスキャンダルを恐れた学校と騒ぎをこれ以上大きくしたくない両親とで、もともと知り合った原因が校外学習にあった点をもとに今回の事を不問にする代わりに俺はもとの学校には戻らないことになっていた。
退学や放校という厳しい措置ではなく、あくまでも任意の転校という形を取る事になったのだ。
その結果、祖母のいる県の単位制高校に数か月在籍し、その学校の進路指導の教師に勧められるままに東京の大学を受験した。
祖母はそのまま地元の学校に進学をすることを望んだが、人の口に戸は立てられないとばかりに噂が噂を呼び、俺は東京で殺人を犯して逃げているとまで言われた。
それは決して間違いではない。俺はリツをこの手で殺めたのだ。
おめおめと一人生き残ってリツの骨を拾うこともせず今生きている。お互いに二度と交差しないことを両親同士は誓約したのだと言っていた。
だから俺はその噂を否定することも肯定することもなく、ただ息を吸って吐いて一日が終わるのを待つような毎日を送った。事実はそうではないと知っている教師は見かねて遠い学校を受験するように勧め、俺は祖母をこれ以上苦しめたくなくて結局元の巣の近くに戻ることになったのだった。
人であふれる東京の大学では俺ごときに注目するようなやつもなく、当たり前の大学生のように生活して、当たり前の大人になった。
そして今、俺は丸川書店の少女漫画エメラルド編集部で編集長という仕事をしている。
夢見るような恋愛をした俺が夢見る乙女のための雑誌を作っているということが必然にも思えた。
どんなに否定されようともあれは俺の初恋だった。
螺旋階段で風に吹かれて笑うリツ・・・。
俺の恋心はあの日リツにささげたのだから。
▽
そのサイトを見つけたのは本当に偶然だった。
前にいた会社で、作家が参考資料として美しい海の画像を探していて、俺も当時サブ担当だったので手伝いに駆り出され、ネット上を探していてたどりついたサイトだった。
小さい写真と詩のような短い文章が書かれているそのブログはひっそりとしていて、多くの人に見てもらいたいというより自分の日記に近いものだと感じた。
鮮やかな色の景色は南国を思わせる。
蕾のままの花にとまる天道虫。
波間に遊ぶ小さい蟹。
くちばしに巣材を咥える小鳥
その写真すべてに必ず「
誰かへの手紙のような文章はいつだって少し寂し気で俺の心に染みた・・・。
しばらくはロムのみで過ごしていたが、そのうちにコメントを書きたくなってそのために会員登録をしてブログの読者になった。
俺のハンドルネームは「
それは花をそっと吹き開かせ、柳の芽を割きそよぐ春の風の意を持った言葉だった。
そのブログの「
なので俺もハンドルネームも自然にちなんだものにしようと思ったのだ。
俺は読者としてたまにコメントを付けていた。
その人物「
今回は断崖絶壁の写真だ。
落ちたら怖いな。よくこんなに覗き込んで写真が撮れるもんだ。
仕事の合間にサイトを閲覧すると4日ぶりに更新がされていた。
何年も見てきたサイトだ。
以前は泣きたくなるような雰囲気が伝わって来たが最近は少し明るくなったような気がする。
と言っても、もともと数行しかない文章だ。単なる思い込みかもしれないけど。
「
春とは名ばかりのまだ寒さが行ったり来たりする季節は、ウキウキとがっかりを繰り返すような錯覚を持つ。
どうやら「
都会にいると何もかもが鈍感になる。
「
帰宅後、俺は久しぶりに「
自分ではあまりミルクなど飲まない。いつも苦いコーヒーばかりの毎日だ。
これはリツのために入れたミルク。
自分のためにコーヒーを入れ、同時にミルクを沸かしてカップに入れた。
俺の部屋にはリツとの思い出の写真一枚さえもない。周りの人々は俺からリツの想いを引きはがすように思い出の品さえも強制的に別離をさせた。
今にして思えばそれは俺がりつを追わないようにという配慮だったのだろうと解る。
しかし当時は周りのすべてを恨めしく思ったものだった。
だから俺はリツからもらったミサンガだけを思い出の品として誰にも言わずに持っていた。
そして今チェストの上にクリスタルの天塩にのせて置いてある。
時々『リツ』と語り掛けながらミルクをいつもそっと置く・・・。
リツは心臓が悪かったからコーヒーなどのカフェインの多いものは飲まなかっただろう。
なぜかこのブログを見るとリツのことを思い出す。
実際に一緒に居たのは数か月、しかもリツは病気だったからお互いのことはほとんど知らずに過ごした時間だった。
でも何かあるとこうやってリツのことを思い浮かべてリツだったらと思うことが癖になってしまっている自分がいる。
いつまでたっても女々しいままの、そんな自分がここに一人いるのだ・・・。
しばらくして「
飲んだんだね。
ちょっと笑った。
「
「
「
「
寂しそうなブログにも楽しそうなブログにも一度も返信らしきものはない・・・。
「
入り江の美しい砂浜と白いハンカチの上にのせられたトゲトゲの貝と爪のような桜貝の写真があって、人の指先も一緒に映っていた。
「
「
「
画像は縞のある白身の魚とエビや貝の入ったブイヤベースが白と青の深い皿によそわれていた。それは暖かくて上品な魚貝のダシのしっかり出たスープを連想させる。
「
そして俺は残念な今夜の食事、シーフードのカップヌ ードルの写真を撮って添えた。
「
「
短い文章に部屋の窓から見える空の写真がついていた。
少し風に揺れる白いレース のカーテンの向こうには白い雲も見える。
締麗な写真なのになんでこんなに悲しい気持ちになるんだろう・・・。
「
短い文章は不調だとは言ってはいないのに、なぜか俺は疑うこともせず、見舞いのつもりでなでしこの花の画像を添えた。
「
と言って透明の切り子の グラスと小さい錠剤が写った写真が送られて来た。
小さいタブレット状のその薬にドキリとする。
未だに俺は糖衣を含めてタブレット状のクスリを見ると背中がゾクリとして全身に鳥肌が立つのを止められない。
忘れたふりをしていてもいつだってあっという間に俺がりつを死なせてしまったという罪悪感に浸って震えてしまうのだった・・・。
▽
ブログでのやり取りは大体が一往復半になる。
「
俺のサイトではないので俺に向けたような書き込みも中にはあったが、直接名指しされなければそちらの対応は「
多くを語れないのはwebサイトのルールなので、俺が何者で「
個人情報など書きようもない。
始まった時からほとんど変わらない俺と「
お互いに相手がどこに住んでいるのかさえ知らないのだ。
▽
「高野さん、ご相談が。」
副編集長の羽鳥が俺の横に立ってちょっとだけいつもより神妙な顔をしていった。
普段もきちんとしているが今日はさらに丁寧ということはよほどの何かかといぶかしく思っていると、
「実は吉川先生がモデルにしたいという人がいまして、そちらに連絡を取りたいんですが。」
と言った。
「漫画にするってこと?」
パソコン画面から目を上げてそう問うと
「許可が出ればですが、吉川先生はかなりイメージが出来上がっているので、できれば多少強めでも許可していただけるように話を持っていきたいんです。」
と言った。
「どんなものなの?何か難しいことがあるってこと?」
「いえ、絵本を書いてらっしゃる方なのですが私的なところはオールNGで、絵本以外では話題になるのを好まないんです。」
「絵本を使いたいならそっちから申し出するしかないんじゃない?丸川ならルートあるだろ?」
「いえ・・・。絵本の事ではなくて吉川先生が描きたいと言っているのはその方のブログでして・・・。」
羽鳥があまりにも困ったように遠回しに言うので「俺にどうしてもらいたいの?」と聞くと「何とかアポイントメントを井坂さんにお願いできないかと思っています。」と言った。
▽
その人の絵本は丸川から出版されているのだそうだ。
井坂さんの知人の息子さんで、学者の父親の出版関係の手伝いをしながら趣味で絵本を描いていたところを井坂さんにその絵本を出版しろと勧められて今に至っているという。
まだ発行された冊数は少ないものの、すでにその方面ではかなりの注目を集めているらしい。
その人のブログ?オフィシャルとかじゃないのか?
そんな風に思ったもののとりあえずとそのブログを羽鳥に聞くと、なんとそれは俺がたまにコメントを書くあの「
「先生はこれになんのシンパシーを感じたわけ?」
動揺を悟られないようにそう聞くと
「読んでいただければわかると思いますがこれは
と言う。
「
ブログの中ではたまに「
しかし「
しかし、確かにそう言われてみればいなくなった恋人に向けて語っているという解釈はしっくりする。
「
何より何年も何年も架空の想い人に語り続けるその姿は、そうでなければありえないと思えるほどに悲しげだったのだ。
「っで、吉川先生はその二人を描きたいのか?」
「
そう思うとなんとも複雑な気持ちだった。
リツを想って見ていたブログだけに・・・。
「いえ、最近コメントでやり取りをしている人との関係が素敵だなって言ってました。」
「コメントでやり取りしている人?」
「ほら、この人ですよ。」
少ない読者だがコメントをするのは俺だけではない。しかし羽鳥が指さしたのは俺のコメント欄だった。
「なんで?」
この話題はまずい。とにかく動揺しまくりだ。なのになんで俺はさっさと話しを終えないんだろうか。井坂さん預かりにしてしまえばいいものを。
「最近「
「文通?」
「顔も見えないのに短い文字だけでやり取りしているのが素敵だと。このブログは知る人ぞ知るという感じではありますけど、作家のモノだと知って遠巻きにしている方は多いんです。だから吉川先生もめったにコメントは書かず見守っているっていう感じです。」
そうだったのかと今回は知ることが多かった。
ひっそりとしたブログだと思っていたけど実はそれなりに閲覧者はいたということなのだろう。
「わかった。井坂さんに話をしてみる。」
俺はそう言って話を閉めた。
このブログの主「
そう思うと気持ちが揺れるのを最後まで止めることができなかった。
▽
「カゼハナに会いたい?」
会議の隙間で時間をもらい井坂さんにそう言うと井坂さんは眉間に深く皺を寄せた。
「井坂さんのお知り合いで絵本を描いていると伺いました。吉川先生が何やらブログからシンパシーを受けたらしくて作品にしたいそうです。」
そう簡潔に言うとさらに眉間の皺が深くなる。
「絵本ならいざ知らず私生活となるとおそらく絶対にダメだな。」
ケンモホロロ、井坂さんは顔の前で手をまるでハエのを追っ払うようにフルフルと振って俺にそう言った。
あの井坂さんがそう言うからにはそれなりの理由があるのだろう。それでもはいそうですかと簡単には引けない。一応うちの売れっ子作家のご要望なのだ。
「吉川先生はかなりのイメージが出来上がっていて、細かい所などを聞きたいらしいです。」
俺の言葉に井坂さんは少し考えて「とりあえずアポだけは取ってやるからあとは好きにしな。俺もこのままじゃだめだろうとは思ってたから。でも無茶するなよ。」と言った。
「いきなり吉川先生連れてくとか無しな、あの先生暴走しそうだし。」
一応クギを刺された俺は、とりあえず羽鳥と二人で指定された場所に指定の日時に向かうことにした。
▽
都心から新幹線に乗って30分。それからローカルな電車に乗って着いたのは海沿いの入り江のある小さな町だった。
「この辺りは別荘とかが多いそうですね。」
羽鳥があらかじめ用意していた観光用のマップを手にしてそう言った。
入口の町は観光地でもここまで奥まるとここもまた知る人ぞ知るという感じになるだろう。
ブログの写真を見てもどこか皆目見当もつかなかったのはそういうこともあったのかもしれない。
白い壁の家が多いのはこの辺り独特なのだそうだ。
指定された家は少しだけ南国を漂わせるようなシュロの木があったものの、想い人の名前「
確か生垣はオリーブとリンゴ・・・。アップルパイを作ってもらったとか書いてあったことがあったと思い出す。
リンゴの白い花は見事でそれを写真にのせていたこともあったな。
そんなことを回想しながら呼び鈴を押すけど返事がない。
羽鳥と二人、お互いとぼけた顔を見合わすけどやっぱり返事がない。
「約束の時間は間違えてないですよね?」
「うん・・・。井坂さんからはそう聞いているけど。」
困ったなと玄関の向こうに広がる入り江を見下ろすと、白い服の人がバケツを抱えて砂浜を背を向けてトボトボとおぼつかない足取りで歩いていた。
あれ?あのバケツはムール貝の写真の時に写っていたものか?
そうわかるとその人物がカゼハナだと直感して、腕にかけていた上着を羽鳥に押し付けてそのまま壁になっている海との境目を駆け下りた。
『また漁師さんに魚をもらったのか?』
足元の砂がさらさらと綺麗で、いつかのブログにあったように桜貝が散っているのが見て取れる。
ああ、初夏に近い今だけど浜は桜吹雪の真っ最中だ。
そう思いながら後ろから声もかけずにバケツに手を触れるとその人物がびっくりしたように振り向いた。
あの頃と変わらない白い肌。茶色いサラサラの髪、緑にも見える瞳・・・。
馬鹿な。そんな・・・。
あの頃と変わったのは紫ではない桜貝と同じ色の唇。少しラインは長くシャープになり、ふっくらとした頬。血色のよさそうな色の指先。
「り・・・、つ・・・。」
塩水に浮かんだ魚がバケツごと転げて足元にバシャリとこぼれたのがわかった。
目の前のリツは俺の襟をその手でグイッとつかんで顔を間近に引き寄せて、声も出さずに顔を見つめた。
その目からは真珠のような涙がコロコロと零れ落ちていた。
「うそ・・・。」
頬を摩るとリツが小さくそうつぶやく。
「温かい。本当のリツ?」
「サガ?」
「今は高野だ。」
「高野?」
ギュッと抱きしめあい、砂浜に座り込んで、訳のわからない展開に恐る恐るかけてきた羽鳥の声で我に返るまで、
二人はしばらくそのままで夢で見た世界を浮かんでいたのだった。
[リツ]
はじめに睡眠薬をサガと二人で2個ずつ飲んだ。
あなたが眠っている間にすべてが終わるように、そう思っていた。
サガが飲んだ薬の多くは風邪薬だった。
サガが俺の手のひらに出していく薬の中で血圧が低下する薬は本当に少量で、俺がほとんどを拾って飲んだつもりだった。
一緒にと言ってくれたことがうれしくて道連れにするみたいに巻き込んでしまった。
ごめんね一人では寂しすぎて・・・。
サガの優しさに甘えてしまった。
なのになんで・・・。
なんで・・・。
俺は今ここに居るんだろう。
今も昔もずっと問い続けている。
▽
あのあと、俺を助ける準備をしていた母は死にかけている俺をそのまま移送し、計画のままに延命のための処置を実行したのだそうだ。
うとうとと夢の世界を漂う俺は、その夢の中で長い時間空に浮かび、風のように自由に飛びまわった。
サガの背にじゃれて乗り、引き寄せあって頬をすり合わせ、いつまでもいつまでも笑っていられた。
確かにあの時俺は、もう苦しいことも辛いこともない楽しいだけの世界に二人でいたのだ。
しかし目覚めた世界は冷たかった。
自覚のないままにすべてのことは終わっていて枷が外れた身体はありえないほど軽く、一定のルールさえ守ればある程度普通の生活ができると言われた。
生まれてから一度も苦しくない時など無かった俺にはこれこそが夢ではと思えるほどだった。
そして、今までの闘病を思えば俺が絶望するのは理解すると前置きをされながらも、現在生き延びているのは他人の力によって救われた命なのだ。
あなたが自らを殺すのはその命を分けてくれた人に対する冒涜だと母は俺の胸の傷を指さして強く言う。
頼んだわけじゃない・・・。
言いたい言葉が喉の奥で止まる。
そして母は俺が道連れにしようとしたサガがもうこの世界のどこにも居ないことも冷たく告げた。
知らなかったんだ。
風邪薬の中成分に、多く服用すると死に至るものが含まれているなんて。
生まれたときから病院しか知らない俺はそこで聞きかじったことがすべてだった。
だからその中途半端な知識のままにサガを引きずり込んでしまったのだ。
血圧の低下する薬と風邪薬の中のとある成分、睡眠剤の成分、それが混じって、薬に耐性のあった俺よりサガはひどい症状を起こしたそうだ。
自分を無くしていた時間は長い長い夢のようだった。
なのに現実の世界にはサガがいない・・・。
俺は厳しい監視下でサガの後を追うこともできず今ここに居る。
サガは俺を恨んでいるだろうか・・・。
いや、恨んでもいい。憎んで殺したいと思ってくれていい。
だから俺のところに来て・・・。
連れて行って・・・。
▽
「
初めて会った時、俺に柔らかく笑ってくれたあなたの顔はその時に咲き乱れる桜の妖精そのものでした。まぶしくて綺麗で欲しくてたまらない憧れでした。
「
今日は海が荒れています。
怒ってますか?怒ってていいから会いに来てください。
「
帆船が遠くを通りました。
海鳥が飛んでいるのも見えます。帆船のマストに二人で摑まって遊んだのを覚えていますか?
夢の中で。
「
また桜の季節がやってきました。
でも私は花に近づくことができません。
それが私への罰なのでしょう。
夢でもいいから
逢いたい。
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さくらとゆきとかぜのおはなし
ポーカーフェイスの羽鳥は俺とリツのことを詮索することはなかった。おそらくこのまま仕事の話に入るのだろう。
これが木佐あたりだったら『なになに?』と根堀葉堀聞かれていただろうと思うと、今日の同行が羽鳥で良かったと心から思った。
俺自身、まだなにがどうなったのか分からないのに説明を求められても返答できない・・・。
あのあとリツは俺たちが約束の時間に到着したにもかかわらず不在にしていたことを丁寧に詫び、部屋に通されソフアーを勧められ、現在ふかふかのそこに座ってリツを待っている。
リツは、ワンルームの広い部屋の隅にある台所スペースで、お湯を沸かしてお茶を入れてくれようとしているらしくすぐにはソフアーの方には来なかった。
背筋をシヤンと伸ばして落ち着いた様子の羽鳥と違って、身の置き所のなかった俺は、ソファーからすぐの手の届くところにある背丈の低いラックからウチで出版したリツの絵本を引き出していた。
「これがウチから出ている本ですね。」と中身をパラパラと見ると「雪の子が別れ別れになった桜の若木と再会するまでの3冊があります。」とリツは後ろ向きのまま言った。
▽
今年はもう出番がないのかなと思っていた雪の子が、空からちらちらと下界に降りたのは少しだけ寒いお日様がいなくなった夜だった。
雲の上で出番を待っていたときに風が嬉しそうに「もうすぐ桜の花が咲く。それはそれは見事に吹雪のように花びらを散らして咲き誇る。」とつぶやいたことを思いだして、自分が溶けて消える前に桜の花を見ることが出来るのかなとわくわくとしていた。
本当は、雪の子は自分たち雪がお花とか芽吹きとは仲良しではないことを知っていた。
でも風の言った言葉がいつだって気になっていた。
みそっかすの雪の子は小さすぎて真冬に下界に降ることができなかった。
立派な兄さんたちは将軍様と冷たい季節に大群でもって立派にその役目を果たした。大勢で勢い良く飛び出して行って世界中を真っ白に雪で覆って将軍様の御代を作り上げたのだ。
たけど自分は少し残った他のぼったりとした雪の子たちとだいぶ温かくなってきた今日、ボツリポツリと残り物のように寂しく下に降りて行った。
多くの雪の子たちは本当はそれにちょっと不満だった。
もっともっと積もるぐらい大勢で降りたかったと思っていた。
でも桜の花が見えるかもしれないと思った雪の子は少しも悲しくはなかった。
途中ではらりと消えてしまう仲間の中で、自分はどうにか一本の木の上にたどり着いた。
でも・・・、お花はどこにも咲いていなかった。
「桜のお花はまだかな・・・。」
そうつぶやくとその木が「冬将軍の子どものくせに変な雪の子だな。」と笑った。
「俺は桜だ。桜はみんな天帝の命で一斉に咲くことが決まりだ。まだ寒いから咲くのはもう少しあとになる。だからもう少し待つことだな。」
桜の木は自分の膨らみ始めたつぼみを誇らしげに揺らした。
雪の子はちよっと寂しくなった。
「きっと明日お日様が昇ったら僕は消えてしまいます。だからあなたの咲かせるお花を見ることは出来ないんです。」
雪の子がそう言うと桜は
「俺は今年初めて花を咲かす若木だ。誰よりも綺麗な花を咲かすつもりだからもう少し頑張ったらどうだ?」
と言った。
雪の子は桜の若木が自分を励ますのがうれしくて「分かりました。頑張ります。」
とほほ笑みながら答えて、桜の若木と色々な楽しいお話をした。
雪の子は下界は初めてだったけどお空の上のことはいっばい知っていた。
お日様がお空の上でどんな風に寝ているかとか、雲は自分たちのベッドでどれほどふかふかなのかとか。
桜の若木は雪の子の言うことに一つ一つ感心して、ヒヨドリやメジロの噂する街の話を雪の子に聞かせてくれた。
お互いの違った世界のことは、二人にとってそれはそれは楽しいお話だった。
そしてだんだんと明るくなって、朝が近づいてくるとお日様に温められた地面から夜とは違う熱が感じられた。
桜の若木は気持ちよさそうに枝を震わせお日様をいっばい浴びたけど、雪の子はその熱に締め付けられるように身が縮むのを感じていた。
「頑張るお約束でしたが、やっばりお日様にはかないそうにありません。」
雪の子が弱々しく言う声に桜の若木は驚いたようにまた枝を振るわせる。
「俺の初めての花を見るんだろ?」
「見たいです。」
「じやあ頑張らなきゃ。」
「そうですね。」
しかしどんどん弱くなる雪の子の声に、桜の若木は耐えられずとうとうその身についていた堅いつぼみを思い切り開かせてしまったのだった。
雪の子はそのすばらしさに息を飲み、どんどん身体が解けていく苦しさも忘れて美しい桜の花が揺れるさまをうっとりと見つめ続けたのだった。
桜達はみんな一斉に咲く決まりになっている。それは天帝がお決めになった桜が絶対に守らなければいけない決まりだった。
怒った天帝は桜をお空の月の牢屋に送って幽閉して、雪の子は溶けて無くなることを赦されず、六角の結晶のままその桜の森に暑い真夏も風の強い秋も囚われる罰をうけることになった。
そして・・・。
今日来るにあたって、俺が読んだのはこの始めの一冊だけで残りは丸川の書庫になかった。
きっと誰かが借りてしまったのだろうと残念に思いながらも、深く探すこともなく今日ここに来ている。
ただそれを読んだだけでも雪の子は
だから
桜の若木と雪の子は最後はどうなったのだろう・・・。
そんなことをぼんやりと考えていたら、銀のトレイに乗せられた湯気の立つお茶をリツが運んできた。
俺はそれを見て複雑な気持ちだった。
昔のリツは食事さえ介助がなければ出来ない事だってあった。
立って歩いてお茶を入れるなんて・・・。不思議だ・・・。
俺たちの前に、香りの良いお茶がコトリと置かれる。
釉薬の変化のきれいな貫入の桃色の器が、葉の形の茶たくに乗ってかわいらしく少し揺れた。
そして、「このあたりで評判の水菓子です。どうぞ。」とあらかじめカットしてあったメロンのような果物もそっと置く。
やっとリツは、にこりと微笑んで俺たちの座るソファーとは素材の違う籐の椅子に腰掛けた。
「先日は弊社井坂がお電話で失礼しました。丸川書店のエメラルド編集部 編集長の高野です。」
俺があらためてと名刺を差し出し名乗ると、隣の羽鳥もそれに次いで「副編集長の羽鳥です。」と同じく名刺を差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます。私は名刺を持っていないので・・・。小野寺律です。」と名刺を受け取りながらリツは頭を下げた。
昔と変わらない茶色い髪がさらりと類を撫でるように落ちた。うつむき加減の控えめな視線は宝石のような瞳を長い睫毛で隠す。
「実は・・・。」 ここからはと、主担当の羽鳥が説明を始めるとリツは穏やかな顔でその話を聞いていた。
しかし俺はそんな話をしたいのではないと心で思っていた。平静な顔を装いながらも俺の中では『なんで』『どうして』が押し寄せていた。
羽鳥の説明にリツが少し困った顔で「どうでしよう・・・。匿名で済む程度の内容ならわざわざここまで来たりはしませんよね?」と、やはり俯き加減で言った。
きっと井坂さんの仲介でなければそもそもの訪問さえも断っていたのだろう。リツの表情は晴れない。
「できれば文そのものを使わせていただきたいのです。その・・・。やり取りを・・・。」 そう言われて曇っていた表情が余計に鈍る。
表に出たくないという気持ちの裏には俺たちの過去があるからだと分かる。
「私の一存では・・・。相手のあることですから。」それは
「もし小野寺さんがよければお相手の方の許諾はこちらで。」 羽鳥が段取り良く話を進める。
あ?相手の方ってさ、俺か?
急に当事者であることを思い出した俺が「いや、不要だ。」と言葉を発したので、二人は同時にハッとした顔をした。
今更許諾だとか許可とかまどろっこしい。さっさとこの話を終えて俺はリツと話をしたいのだ。
「でも
「偶然だ。見つけたのは。リツだとはもちろん思いもしなかったけど、リツのようだと感じてつい話かけてしまった。」 そう言うと羽鳥はホッとした顔をしてリツはなんとも言いがたい複雑な表情をしたのだった。
「あのやり取りは・・・。」リツが言葉を詰まらせる。
自分の心情の説明がうまく出来ないようで、俺たちは続きを少し待ったが、それでも続く言葉は出てこなかった。
羽鳥が俺とリツの顔を交互に見てから話もまとまっていないのに「俺はそろそろ失礼します。じゃあ高野さん後はきちんと許可を得てください。」と言う。
リツがあわてて「食事でも。」と引き止めようとしたのだけど羽鳥はにっこりと笑って「馬にけられたくないので。」と言った。
▽
羽鳥がいなくなり二人っきりになった俺は何を話をしていいのか分からず途方に暮れていた。
静かな部屋にいると急に不安が襲う。これが夢だったらどうしようか。
リツを抱きしめようとして目が覚めて全部夢だった、そんなことが今までも何度もあった。
そしてこれが本当に夢だったら今度こそ立ち直れない。
グルグルとそんなことを考えていたら目の前にコトリとカップが置かれた。
青磁のような透明感のある、青磁より少し濃い青色の安定のよさそうなカップには香りの良いコーヒーが注がれていた。
リツはもう一つの白色の丸い厚手のカップに白い液体、おそらくホットミルク、を入れてあり、コーヒーの横にこつんと置いて、俺が座っているソファーの横にチョコリと腰掛けた。
そしてもたれかかるように俺に体重をかけて「高野さん・・・。か・・・。なんだか別の人みたい。」と言いながらフフフと笑った。
「このところ
リツの笑う顔が昔のリツと変わらなくて、緊張した自分が馬鹿みたいで、どうして?なんで?と聞きたいことがいっばいあったはずなのに、なんだかそんなことはどうでもよくなった。
夢ではない重みと、息遣いに浸る。
「楽しい話を聞かせてください。10年分。」
リツがホウっと息を吐きながらそう言う。
そうだな。辛かったこととか悲しかったことより楽しいことが聞きたい。
探さないといけないくらい少ないかもしれないけど、それでも楽しかったことをリツに話したい。
「リツは?」
そうですね・・・。
やはりリツも探さないとないらしいけど、それでもポツリポツリと好きな食べ物や読んだ本の話を始めたのだった。
▽
長い旅を終えた雪の子は、天帝の許しを得た桜の若木と月のお城の庭で末永く幸せに暮らしましたとさ。
リツの作った絵本の最後はこんな風に終わっていた。
俺たちもこうやって、暮らすのだ。
二人の魂が消えるその日まで。
そう、俺たちの物語の最後も同じ、
末永く幸せに暮らしましたとさ。
おしまい。
持病の心臓は良くなったとはいえ、律は相変わらず弱かった。
そもそも移植した心臓だっていつまで持つかは分からない…。
頻繁に熱を出して寝込む。
そのたびに命の木が削られていくようだった。
そう言えばブログでも体調が悪いことをにおわせることが多かった。
普通の会社員なのに不規則な俺の都内での仕事では律に寄り添って暮らすことは難しく、律は環境の悪い都会での暮らしにはなじめそうになかった。
そんな中で俺と律のブログでのやり取りを題材にした漫画は思いの他評判を呼びなんと映画化にまでされた。
当然俺たちのなれそめやその後の話も(羽鳥によって詳細に取材されて…。)美談のように称賛されたり心中のように二人で自殺を図ったことをバッシングされたりもしたが、出来上がった物語は二人の子どものように思えてうれしかった。
単身赴任の夫婦のように週末のみ二人で過ごし、俺たちは少ないながらも濃い時間を過ごしたある年の冬、ちょっとした風邪がもとで律は今度こそ本当に手の届かないところに行ってしまった。
でももう俺は嘆くことはしない。
もう後を追うこともしない。
律は必ずそこで待っていてくれていると信じているから。
律が先に永遠を手に入れた。
そして俺もいつか永遠を手に入れる。
妖精の時間はそこから始まる。
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