史上最強の弟子ベル・クラネル (不思議のダンジョン)
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第一話

 チチチ、と鳥の鳴き声が梁山泊に朝の訪れを告げる。

 東の空には赤い太陽が昇り始め、その光によって暖められた風は早朝であっても体温を奪うことはない。

 そんな穏やかな朝、朝日に照らされた梁山泊の縁側で一人の老人がお茶をすすっていた。

 

「平和じゃのう」

 

 老人と形容したが、その姿は老人という言葉から一般的に連想するイメージからかけ離れている。

 身長は優に2メートルを超え、その肉体はゆったりとした服に凹凸ができるほどに発達した筋肉に包まれている。

 彼の名は風林時隼人。武術の世界において無敵超人と呼ばれる正真正銘最強の武術家だ。

 そんな彼はこの穏やかな日常を一人静かに噛みしめていた。

 

「おや? 長老、こんな所におられたのですかな」

 

「む……? おお、秋雨君か」

 

 そんな彼に一人の中年の日本人男性が近づく。

 外見からして型破りな隼人と並べば、何の変哲もない恰好をしているように見えるが男のそれも現代日本の常識に照らし合わせると十分に奇抜である。

 身長は隼人ほどではないにせよ、日本人としては珍しい180センチメートルの大柄であり、その身にまとう衣服は柔道着だ。加えて、見るものが見ればその衣服の下には隼人に匹敵するほどの重厚な筋肉が眠っていることが分かるだろう。

 彼の名は岬越寺秋雨。哲学する柔術家という異名を持つ、最強の柔術家である。

 

「朝日を見ながらのお茶を楽しまれたいのであれば私に仰ってくだされば、最高の緑茶をご賞味いただけたのですが……」

 

「ホッホッホッ! なあに、君にそこまでしてもらう必要はないのじゃよ。いや、むしろわしはこのありふれたお茶こそ楽しみたいのじゃ」

 

「ふむ……?」

 

 秋雨の入れたお茶ではなく、平凡なお茶の方がいいという隼人の言葉に秋雨が訝しげに声を上げる。

 自慢ではないが、秋雨の入れるお茶はとてつもなく美味い。なにせ、茶道においても秋雨は達人級の腕前なのだ。その味はいかなる人間も感動し、詫び寂びの極致の一端に触れるという。そんな最高のお茶よりもありふれたお茶の方がよい、と隼人は言ったのだ。

 そんな秋雨の様子に、隼人はからからと笑いながら謝る。

 

「ああ、スマンのう。少し言い方が悪かったわい。わしはな、このありふれた日常の風景を楽しむのであれば、君の特別なお茶ではなくどこにでもあるこのお茶こそがふさわしい、そう思ったのじゃよ」

 

「なるほど、そういうことでしたか」

 

 隼人の言葉に、秋雨は合点がいったと首肯する。

 先日までこの梁山泊は戦争状態にあった。敵は武術界を二分する「闇」と呼ばれる者たち。彼らの目的は世界中に戦乱を巻き起こし、武術家がその力を存分に振るえる戦乱の世を作り出すことであった。

 幸いにもその計画は梁山泊と大勢の協力者の手によって未然に防がれ、世界は平和を取り戻したのだ。だが、その勝利は紙一重のものであった。何か一つでも歯車が狂っていたら勝敗は逆転していたであろうと確信できるほどに。

 故に隼人はこのありふれた、だからこそ掛け替えのない日常を噛みしめたいのであろう。今日がそうであるように明日もまた平和である。平和であることが当たり前であるということがいかに尊く、そして儚いかをあの戦いの中で再確認したが為に。

 なるほど、それには特別に美味いお茶など無粋だ。むしろありふれたお茶の方がより当たり前の日常の尊さを実感できるだろう。

 

「それでは、私もご相伴にあずかってもよろしいですかな?」

 

「おお、もちろんじゃとも」

 

 隼人の了解を得て、秋雨はその横に座る。

 

「……」

 

「……」

 

 親子ほどに年の離れた二人の間に会話はない。これは、両者ともに言葉を交わさずとも相手の気持ちが分かるからだ。

 こうして穏やかな日々を送れることへの感謝、それを守ることができたことへの安堵、そしてそれを分かち合うことのできる親友に出会えた自らの巡り合わせ。

 それらに思いをはせながら二人は声に出すことなく、この日常を守っていくことを誓い合うのであった。

 

 

 

 

 

 

「きぃぃぃやあああああああああっ! こ、殺されるうぅぅぅぅっ!!」

 

 そんな二人の横から少年の魂の叫びが飛び込んでくるが、両者はそれを黙殺する。なぜならばそれが聞こえるのは二人が話していた日常の一コマであり、二人はその日常を守っていくと誓い合ったばかりだからだ。

 

「ホッホッホッ……秋雨君、これからも守っていかなければいかんのう、この太平の世を」

 

「ええ、勿論ですとも。頑張っていきましょう、長老」

 

「そこの二人! 平和よりも前に可愛い弟子の命を守ってくださ……ぎいやああああああああああああああああっっ!!!」

 

 少年の声が巨大な破砕音に遮られると同時にドップラー効果を伴いながら遠ざかっていきやがて聞こえなくなっていく。数秒の後、今度は腹の底に響くような落下音が聞こえた。二人が視線を向ければそこには地面にめり込む少年の姿があった。

 一般人が見れば目を疑うだろうが、この少年は今しがたものすごい衝撃によって空高くまで打ち上げられたのだ。

 泡を吹く少年の下にその衝撃を生み出した張本人が駆け寄る。

 

「アパパ! だめだよ、ケンイチ! よそ見なんかしていちゃ危ないよ!」

 

 その男を一言で表現するならば巨漢という言葉が一番しっくりくるだろう。2メートルを超える体格とタンクトップから覗く鋼のような筋肉。究極の肉体美を誇る彼こそは裏ムエタイ界の死神、アパチャイ・ホパチャイ。物理的に地獄に落とされる、と数多のムエタイ選手から恐れられた豪傑の一人だ。これだけ聞くと恐ろしい人物を想像してしまうが、実のところ本人の性格は人畜無害にして善良であり、この梁山泊において一番純真無垢な性格をしている。

 ただし、本人の力が強すぎるせいでこうしてちょっとした事故を引き起こすことが非常に多いのだが。

 

「全く……何やってんだ、オメエらは……」

 

 アパチャイと少年の醜態に虎の唸り声のような重低音で毒づくと、アパチャイに負けずとも劣らない大男が二人に近づき、無造作に少年を引っ張り上げる。

 男の顔には鼻の上に大きな傷が横一文字に走っており、狼のように鋭いその瞳と相まっておとぎ話に出てくる鬼を連想させた。大男の名はケンカ百段の空手家、逆鬼至緒。国内だけでなく国外でもかなりの武勇伝を持ち、その名を聞くだけで震え上がるものは数えきれないという空手界きっての武闘派だ。

 もっとも、彼に近しい者たちは彼の粗暴な振る舞いが見せかけのものであり、彼の本当の性格は優しいということに気が付いており、実際今も少年を乱暴に扱っているように見えるが、その実では細心の注意をはらって少年の体に異常がないかを確認している。

 やがて少年は気絶しているだけだと判断した至緒は傍らの中国人に少年を放り投げる。

 

「ほれ剣星、いつものようにやってやれ」

 

「仕方ないね。おいちゃん特製の秘薬をこうして飲ませてやれば……」

 

 中国人は少年の体を受け止めると、取り出した瓢箪を少年の口につけると強引に中身を飲ませていく。

 怪しげなこの中国人は馬剣星。あらゆる中国拳法の達人であると同時に鍼治療や漢方医の達人でもあり、秋雨にも劣らぬ万能の天才である。

 彼の技術はこうして少年がノックアウトされたときに重宝がられており、少年が故障と無縁でいられるのは彼の功績が大きい。

 逆に言えば、彼が最高の技術で少年を治療してしまうせいで、少年は故障の可能性を考えない限界以上の修行を毎日させられているとも言える。

 しかしながら、今日はいつも通りとはいかなかった。

 

「……おい、剣星。ケンイチの奴、目を覚まさねえぞ?」

 

「おかしいね……? 分量は間違っていないはずね……?」

 

「アパ……? どうしたよ、剣星。早くケンイチを起こしてよ?」

 

 通常ならば、飲ませてから数秒ほどで飛び起きる筈の少年がどういうわけか、今日は意識を失ったまま目を覚まさないのだ。いや、それどころか徐々に呼吸が小さくなってきている様子だ。

 流石の三人もこの事態に動揺し、一瞬少年から注意を逸らす。

 その瞬間――

 

「戦略的撤退!」

 

 少年は飛び起きると、一目散に逃げだした。

 突然のことに呆気に取られる三人だが、すぐに自分たちが一杯食わされたことに気が付くと凶暴な笑みを浮かべ、少年を捕まえるべく動き出す。

 

「へっ! あの野郎、俺たちの目をごまかす程の死んだふりをかますとはなかなかやるようになったじゃねえか!」

 

「あれは内功の応用ね。内功を練ることで自身の代謝を徐々に落としていったね。ケンちゃんもようやく基礎を使いこなすことができるようになったみたいね、おいちゃんはうれしいよ」

 

「アパパ! よく分からないけど、ケンイチが無事でよかったよ! さあ、スパーリングの続きを始めるよ、ケンイチ!」

 

「うおおおおおっ!! 捕まってたまるかあああああっ!!」

 

 達人三人との鬼ごっこという、結果の見えた戦いを始めたこの少年は白浜健一。この梁山泊唯一の弟子であり、空手、柔術、中国拳法、ムエタイをそれぞれの達人から教示を受けた史上最強の弟子だ。

 ひょんなことから武術の世界に入った彼は激流のような事態の変化に流されるまま戦い続け、遂には世界の行く末を決める戦いの台風の目となり、その勝利に大きく貢献することとなった。

 そんな経歴だけは前途有望な男が何故、こうして修行から逃げ出すという醜態をさらしているのか。それは彼の才能にある。

 実のところ、ケンイチの才能は決して恵まれたものではない。むしろ、皆無と言ってもよい。そんな人間が一定以上の水準にたどり着こうとするにはどうすればよいか。

 ケンイチの師匠たちが下した結論は、限界一杯……いや、限界以上の鍛錬を積めばよい、というものであった。その苛烈さは凄まじく、殺人を是とする「闇」の人間たちですらドン引きするほどである。

 結果、ケンイチはほぼ毎日生死の境を彷徨うほどの修行を行うこととなっており、こうして彼はあまりのつらさに修行から逃げ出すという行為を度々行っていた。

 しかしながらその結果はいつも師匠たちに軍配が上がっており、実際今日もまたそうなった。

 

「ったく……変な小細工ばっかり上手くなりやがって。手間かけさせんじゃねえぞ」

 

「いやだあああああっ! 死にたくない! 僕はまだ死にたくなあああああいっ!」

 

「ケンちゃん、いい加減覚悟決めるよろし。おいちゃん達、いつも言ってるね。武術家は長生きを競い合うものじゃないね。どうせ人間いつかは死ぬんだし、遅いか早いかの違いだけよ」

 

「アパパ! 大丈夫よ、ケンイチ! アパチャイ、沢山手加減するよ! だけどムエタイは相手をぶっ殺すための技だから、下手すりゃ死ぬよ! でも、ケンイチならきっと大丈夫! アパチャイは信じてるよ!」

 

 逃げ出して1分ほどで取り押さえられ、縄で簀巻き状態にされたケンイチを前に三人の達人は好き勝手なことをのたまう。知らない人間が見れば、犯罪現場にしか見えないのだが少年も含めその様な認識はない。もはや彼らにとってこれは恒例行事のようなものだ。

 そんな、殺伐としながらものどかな日常にまた一人姿を現す。

 

「ケンイチ達、楽しそうだ……な」

 

 スルリ、とどこからともなく秋雨と隼人の後ろに一人の女性が現れる。

 一見すれば、一振りの日本刀を彷彿とさせる女性だった。こう表現すればさも恐ろしい似姿をしているのかと勘違いさせるかもしれないが、そんなことはない。寧ろ町中を歩けば老若男女全員が振り返りそうな程に女性は美しい。では何故日本刀の様な、などという印象を与えるのか。それはおそらく女性の隠しきれない本性に、人間の本能は否が応もなく気づいてしまうからであろう。

 そう、この達人が集まる梁山泊にいる以上、女性もただ者ではない。

 彼女は剣と兵器の申し子、香坂しぐれ。東洋最強の武器使いと評される武術家である。

 

「おや、しぐれ。君もケンイチ君の様子を見に来たのかね?」

 

「ああ、そう……だ」

 

 自分の後ろに突如人が現れたというのに秋雨の声に驚きの色はない。むしろ、梁山泊に来た当初は誰にも心を開かなかったしぐれがこうして他人に関心を寄せることへの喜びが感じられた。

 それが分かったのだろう、返答するしぐれの声にはわずかながら気恥ずかしさが見受けられる。

 

「ホッホッホ、それではそんなところに立っとらんでこっちに来なさい」

 

「うん、分かっ……た」

 

 しぐれは隼人の誘いにうなずくと、その隣に座りケンイチ達の修行を面白そうに見物し始める。

 当のケンイチはと言うと、彼もようやく諦めたのか不承不承ながらもアパチャイの前でファイティングポーズを取ったところだ。

 

「安心するよ、ケンイチ! アパチャイ、沢山手加減するよ! だけど、スパーリングは真剣にやらなきゃ駄目だからぶっ殺すつもりで行くよ!」

 

「すみません、アパチャイさん! それ、全然安心できません!」

 

 何とも間の抜けた師弟の会話とともにスパーリングは再開される。

 一般的にボクシングを始めとした打撃系の格闘技のスパーリングは肉体へのダメージを考え、軽いものを行うものだ。しかしながらそれは一般論であり、魔境である梁山泊ではそのような常識は通用しない。

 

「アッパアアアアアアッッ!!」

 

「ヒイイイイイイイイッ!!」

 

 開始の合図とともにアパチャイの剛腕が空気を撹拌しながらケンイチを襲う。ケンイチは悲鳴をあげながらも体幹をひねることでそれを躱す。

 瞬間、破裂音が鳴り響き周囲に突風が巻き起こる。手加減したとはいえ、アパチャイの豪拳の威力により周囲の空気が弾き飛ばされ、局所的な嵐が引き起こされた結果だ。

 ごくりと思わずケンイチは生唾を飲み込む。だが、緊張に固まるケンイチに容赦なくアパチャイは追撃を加える。

 

「アパパパパパパッ!」

 

「うわあああああっ!!」

 

 あんなものは序の口だと言わんばかりの激しい連撃。肘打ち、膝蹴り、ボディーブロー。そのどれもが速く、巧く、そして何よりも重い一撃である。まともに喰らえばケンイチの意識など一撃で持っていかれると確信できるほどに。

 故にケンイチはそれを必死に捌く。ある時は足を使って的を絞らせず、またある時は拳でいなすことで直撃を避けていく。しかしながら、全てを躱すことはできず対処のできない一撃がどうしても出てきてしまう。そんな時は肩を使うことで被害を最小限にしているのだが、その度にケンイチの動きは鈍くなっていく。

 

「どうしたよ、ケンイチ!? 殴られたら殴り返さなきゃダメだよ! さもなきゃ一生相手に殴られっぱなしよ!」

 

「くっ! まだまだああっ!」

 

 アパチャイの言葉に負けん気が刺激されたのだろう。ケンイチの目に力が宿る。だが、気持ちだけではどうにもならない。連撃の中に隙を見出すことができず、依然として防戦一方だ。

 一方的に攻めるアパチャイとなすすべもなく殴られ続けるケンイチ。それはスパーリングとは名ばかりのワンサイドゲームである。

 一見すれば不甲斐ないことこの上ない戦いぶりである。しかし、その場にいる達人たちは皆全く別の感想を抱いていた。

 

「ほお……! ケンちゃんもだいぶやるようになったのお……!」

 

「うん。ケンイチの体、重心が全くぶれていな……い」

 

「ええ、彼には足腰を重点的に鍛えさせましたからな」

 

 感心する三人の前で必死に戦うケンイチ。目まぐるしく動き続ける彼の体だが、その体にはブレがない。体の軸が鉄骨のごとく強固である証拠だ。これにより、ケンイチの体幹は濁流のような拳撃の中にあってなお安定している。それが動いた後の隙をなくすと同時に無駄な力みをなくしている。結果、それが次の動きを素早くさせ、未だ膝を屈せずにすんでいるのだ。そうして稼いだ時間を使い、ケンイチはアパチャイの隙を伺っていたのだ。

 ともすればリンチにしか見えない応酬。だが、その実においてケンイチは着々と反撃の牙を研ぎ続けていたのだ。

 そして遂にその牙をむく瞬間が訪れた。

 

「アッパアアアアッッ!」

 

「っ! ここだああっ!!」

 

 永劫に続くかと思われた連撃に一瞬の途切れが現れる。千載一遇の好機を見逃さず、そこに合わせてケンイチは渾身の一撃を放つ。狙いは肝臓。あばら骨で守られていない唯一の場所であり、避けることの難しい箇所だ。

 だが——

 

「遅いよ!」

 

「っ!? しまった!」

 

 周囲を震わす程の破裂音が響く。それだけでいかに強力な一撃であったかと推察できるケンイチの拳はしかしアパチャイの大きな拳で止められていた。

 全力で一撃を放った肉体はわずかに泳いでおり、これでは次の動作に遅れが出てしまう。それはあまりにも大きな隙だ。

 硬直するケンイチの目の前でアパチャイが拳を握りしめると真っすぐに突き出す。

 意識だけが先鋭化され、まるでスロモーションの様にゆっくりと迫ってきているように見えるが自分の体はそれよりもさらに鈍重であった。ケンイチにはそのまま、拳が向かってきているのを眺めることしかできない。

 そして遂にその拳がケンイチの顔面をとらえようとして——

 

「はい! スパーリングはここでお終いよ!」

 

「わっ! あ、あれ……?」

 

 そこでアパチャイはケンイチの顔面ギリギリの所で拳を止めるとスパーリングの終了を告げた。スパーリングの終了という言葉にヘナヘナとケンイチは座り込む。先ほどの二の舞になるかと覚悟を決めたところで九死に一生を得たのだ、気が抜けてしまうのも無理はなかった。

 とは言っても、いつまでもそうしているわけにはいかない。修行の後にある最も大事な作業がまだ終わっていないのだ。

 ゆっくりと腰を上げるとケンイチは姿勢を正し、アパチャイに向き合う。二人の目が合うと、同時に両者は深々と礼を行う。

 修行が終わった後の互いの一礼。梁山泊の修行が本格的に始まって以来一度も欠かしたことのない日課である。これを終えてようやく修行は終了となるのだ。

 修行が終わり、ホッとするケンイチにアパチャイはにこやかにスパーリングの感想を伝えた。

 

「ケンイチ、最後の一撃は力がこもっていてなかなか良かったよ! だけど、ああいう時は無理に強い一撃を出そうとするんじゃなくて素早くコンパクトに打つようにするべきよ!」

 

「ハイ! ありがとうございました!」

 

 注意付きとはいえ、珍しく自身の一撃が褒められケンイチはうれしくなる。と、そこに至緒と剣星も加わってくる。

 

「へへへ……最後の一撃だけじゃなくその前の防御もほめてやったらどうだ、アパチャイ?」

 

「そうね、荒削りな所も多かったけどおいちゃん、感心したね。少し前とは比べるまでもなくバランスが良くなってきているね」

 

「もちろんだよ! ケンイチは防御に関しては最近特に成長してきているね!」

 

「そ、そうですか! いや~それほどでも……」

 

 まさか、全員から褒められるとは思わず、ケンイチは照れてしまう。そんなだらしなく笑うケンイチを見て、秋雨はかぶりを振る。

 

「やれやれ……ケンイチ君にも困ったものだ。褒められる前に注意を受けたことを忘れているのではないのかね? あの三人にもケンイチ君をあまり甘やかさないように言わなければならないね」

 

「……そう言っている秋雨も口元が笑っている……ぞ」

 

「なんと!?」

 

「ウソ……だ」

 

 慌てて口元に手をやる秋雨に、してやったりとばかりにしぐれは唇を歪めた。弟子を思い、あえて厳しい態度を取ろうとしていたようだが、これでは形無しだ。

 

「ホッホッホ! これは秋雨君も一本取られたようじゃな! 君も観念して弟子の成長を素直に喜んだらどうかね?」

 

「コホン……まあ、確かに褒めるところは褒めなければいけませんな。……フム、修行も終わったことですし、そろそろ朝食の時間ですかな?」

 

 不承不承ながらも弟子の成長を認めると、秋雨は露骨に話題を変え始めた。形勢が不利と見て、逃げの一手を取ったことは明白であったがまるでそれを聞いていたかのような少女の声が届く。

 

「皆さーん! 朝ごはんの用意ができましたわよー!」

 

 快活な声と共に母屋から少女が姿を現す。少女の名は風林時美羽。隼人の孫娘である。

 無敵超人の孫というだけあり、美羽もまた達人ほどではないにしてもかなりの武術の使い手だ。しかしながら、笑顔で皆の食事を用意する家庭的な彼女の姿からはそれを感じさせることはないだろう。

 日ごとに武術家としてだけでもなく女性としても成長している孫に隼人は目を細める。

 

「おお美羽よ、もう朝食かのう。今日はずいぶんと早いのう」

 

「ええ、今日は少し早めに目が覚めてしまって……ひょっとして、いけませんでしたか?」

 

「いやいや、そんなことはないぞ。むしろ秋雨君には助かったぐらいじゃろう」

 

「は?」

 

「オホン!」

 

 隼人の揶揄する声に思わず、秋雨は咳ばらいで答える。と、そこに美羽の声を聞いてきてケンイチ達がやって来る。すると秋雨はケンイチを美羽の側に押し出すように立たせる。

 

「美羽君、長老の言葉を気にする必要はないよ。さあ、君はケンイチ君と一足先に食事を取に行ってきなさい」

 

「へ? 私たちだけで?」

 

「師匠たちはどうするんですか?」

 

 何か話し合いでもあるんですか、と問う二人に軽く手を振り、秋雨は何でもないと言わんばかりの口調で答えを告げる。

 

 

 

「いやあ、何。ちょっとそこにいる失礼なお客さんのおもてなしをしようかと思っていたのだよ……いい加減、出てきたまえ!」

 

 秋雨の怒声が放たれた瞬間、その場の空気が一変する。背筋が凍りつくような寒気を感じながらも全身を炎で舐められたかのように焼けつくような痛みを発する。ケンイチにとってなじみ深い感覚、殺気である。

 そして、どういうことであろうか。つい先ほどまでそこには誰もいなかったはずなのに、庭の片隅にある一本の木に見知らぬ男が立っていた。

 男の外観を形容するならば異様の一言であろう。全身を漆黒の衣類で覆い隠し、容姿は一切わからない。しかし、その身のこなしや弟子とはいえケンイチや美羽たちでは存在を察知することすらできなかった技量を見れば男が相当以上の腕前であることは分かるだろう。

 

「見事だ……梁山泊の達人たちよ……私の隠形を見破ったのはお前たちが初めてだ」

 

 男は、唯一全身を漆黒で覆い隠していても視認が可能な眼球を殺気でぎらつかせながら達人たちを褒めたたえる。

 態度と言動が全くかみ合っていないが、隼人はそんなことを気にするそぶりもなく軽快に笑い飛ばす。

 

「ホッホッホ! そんなに褒められると照れてしまうのお。それで、お主はいったい何者じゃ? 闇の残党かのう」

 

「フッ……これからこの世からいなくなる者が知る必要はあるまい?」

 

「へっ! たった一人で俺たちをまとめて殺すとは言ってくれるじゃねえか!」

 

 世界最強クラスの達人集団を前に傲慢とも言える男の発言に至緒がいきり立つ。だが、男はうっすらと笑うと至緒の発言を否定した。

 

「まさか。いくら私でもお前たちを一度に相手取ることなどできんよ」

 

「ああ? お前、何を言ってるんだ?」

 

 男の奇妙な言い分に至緒のみならずその場にいる者たちは皆困惑する。いきなり現れて物騒な発言をしたと思ったら、突然の敗北宣言である。男の考えが全く分からない。

 自然と皆、男を警戒し距離を取ってしまう。そう取ってしまったのだ。もしこの時、男の言葉を意に介さず、全員で取り押さえに行けばこの後に起こる事件は未然に防げたかもしれなかった。

 

「この世から消す、とは言ったが何も命を奪うだけがこの世界から消す手段とは限らぬであろう? 『セキイダ・イオウ』」

 

 男が奇妙な文言を唱えた瞬間、文字通り世界が一変する。

 周囲から色という色が失われ始め、実体の輪郭がぼやけはじめる。地面が揺れたように感じられ、とても立っていられない。思わずケンイチと美羽はへたり込んでしまった。

 

「な、なんですのー!?」

 

「美羽さん! 早く逃げてください!」

 

「止すね! ケンちゃん、美羽! 下手に分散すれば飛ばされた後で合流できなくなってしまうね!」

 

 混乱し、這ってでもその場から離れようとする弟子レベルの二人に剣星が鋭い声で制止する。その声にいつもの様なお気楽な色はなく、それが否が応にも事態の深刻さを物語っていた。

 

「テメェ! 源術師か!? 俺たちに何をしやがった!?」

 

「ククク……言ったであろう? お前たちをこの世から消す、と。お前たちにはここではない何処か、に行ってもらうぞ!」

 

 勝利を確信したのであろう。笑みを抑えきれないまま、男は無防備に勝ち誇りを上げる。だが、そんな男に冷や水を浴びせる男がいた。

 

「ほう……ここではない何処か、と来たかね。それは、ずいぶんと大きく出たものだね?」

 

「フン……強がりはよせ、哲学する柔術家よ。いくらお前でもこの状況はどうしようもあるまい?」

 

「ふむ、まあその通りだね。しかし……」

 

 男の嘲笑に一旦うなずくと、秋雨は冷たく切り捨てる。

 

「それが、いったい何だというのだね?」

 

「何?」

 

 秋雨の言葉に男は自失する。そんな男など眼中にないとばかりに秋雨は言い放った。

 

「ここではない何処かに飛ばされる。その程度で我々をどうにかできると、本当に君は思っているのかね?」

 

 はったりとしか思えないような言葉だった。だが、気負いのない平坦な声がそうではないと気付かせる。そう、秋雨は本気でこの事態をちょっと面倒なことになったなとしか、捉えていないのだ。

 渾身の秘術をその程度と言われ、プライドを傷つけられた男は忌々し気に眉をしかめる。

 

「負け惜しみを!」

 

「そう思いたいのならば、そう思いたまえ。もっとも、すぐに後悔することになるだろうがね」

 

「ホッホッホ! 秋雨君、そこまでにしておいてあげなさい。どうやら、そろそろ時間切れの様だしのう」

 

 隼人の言葉に応えるように、いよいよ異変は激しくなり始めた。もはや周囲の輪郭線はぐちゃぐちゃにのたうち回り、色彩は様々な色が混ざり合って極彩色に輝いている。やがて上空に漆黒の穴が浮かび上がり、そこから渦を巻くようにして周囲の全てが吸い込まれ始めた。

 

「ではさらばじゃ、名も知らぬ源術師よ。この場ではあえてこう言わせてもらおうかの……また会おう!」

 

 その言葉を最後に周囲に轟音と一際まぶしい光が迸る。

 一瞬の視界の断絶の後、残されたものは主たちがいなくなったことを除けば先ほどまでと何も変わらぬ梁山泊の屋敷、そして言いようのない敗北感に震える男の姿だけであった。

 

 

 

 







 へっぽこ冒険者の続きを待っている御方には申し訳ありません。執筆が思うように進まずに気晴らしに書いていたケンイチとのクロスオーバーの一話が出来上がってしまったため、折角なので投稿させてもらいました。
 遅筆ではありますが、両作品とも完結できるよう頑張っていきたいと思います。




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第二話

 深夜のダンジョン六階層。日中は駆け出し冒険者たちで賑わうこの場所も日が沈んでから短くない時間が経った今となっては人影などほとんど見られない。

 そう、ほとんど、だ。

 

「アアアアアアアアッ!!」

 

 ダンジョン全体に響くような怒声を上げてベル・クラネルはフロッグ・シューターにナイフを叩きつける。

 反撃されることなどまるで考えていない力任せの一撃だが、その分勢いだけは十分にあり、見事フロッグ・シューターの頭蓋を叩き割った。

 だが、所詮は捨て身の一撃である。攻撃の勢いに乗せられ、体勢は前方に大きく泳いでしまい隙だらけだ。これが一対一の試合ならばそれでもよいであろう。しかし、ここはダンジョンであり、ルール無用の殺し合いの場所である。その様な道理など通用しない。

 

「ギャオオオオオッ!」

 

「っ!? グウッ……!」

 

 無防備となったベルの横っ腹に腕の様に太い舌がしたたかに打ち据えられる。見れば、もう一匹のフロッグ・シューターが殺意を隠すことなく距離を詰めようとしていた。

 ダメージを受けるまでベルはその存在にまるで気づいていなかった。それはつまり、それだけ視野が狭くなっていたという証左である。これは非常に危険な兆候である。いつ、どこで、どこから、どれだけの敵に襲われるか分からないダンジョンにおいて周囲への注意がおろそかになるということは、いつ致命的な事故に遭遇してもおかしくないということだ。

 ましてや今のベルはソロ活動だ。そう言った事態に陥っても打開する手段は皆無と言ってもいい。

 常識で考えるのであれば一旦態勢を整えるなり、撤退するなりして冷静に対処するべきであった。

 ベル自身もそうするべきだと理性で分かっていた。だが、あえてベルはそれを無視し目についたフロッグ・シューターに特攻する。

 

「うおおおおおっ!」

 

「ギャアアアアッ!」

 

 ナイフを中段に構えての突撃は見事体の中心にある魔石を貫き、即死させることに成功する。ただし、引き換えに頭部への一撃をもろに喰らってしまい、軽い脳震盪を起こしてしまう。

 激しいめまいと吐き気に崩れ落ちそうになるが、意地でそれを押さえつけ更なる獲物を探しに一歩ずつ歩き始める。

 自身の体を顧みずに暴れるその様子はまるで、子供の癇癪であった。いや、事実子供の癇癪なのであろう。ベルは怒っていた、かつてないほどに。温厚な彼はその生まれて初めての怒りを持て余し、こうして外界にぶつけることで発散しているのだ。

 

——雑魚じゃあ、アイズ・ヴァレンシュタインには釣り合わねえ——

 

 頭の中で声が聞こえた。自然、先刻の豊穣の女主人亭での一幕が思い起こされる。

 縁あって新人冒険者には少々不釣り合いな其処でベルは食事をしていたのだが、幸運にもそこに自身の命の恩人にして憧れの女性、アイズ・ヴァレンシュタインが来店してきたのだ。

 初めベルは望外の幸運に喜んだ。これを機に仲良くなれば知り合いになれるかもしれないと。だが、それはあまりに愚かしい妄想であった。浮かれきっていたベルに現実は容赦なく突き付けられた。

 アイズが今日、豊穣の女主人亭に来店したのは遠征の打ち上げの為であった。当然、一人で来るわけはなく、仲間とともにやって来た。

 途中まではごく自然なものであった。流れが変わったのは宴もたけなわとなった頃であった。仲間の一人である狼人が余興で笑い話を所望したのだ。笑い話の内容は新人冒険者の失敗談。駆け出し冒険者がミノタウロスに襲われて逃げ惑うのを面白おかしく話すのは悪趣味が過ぎたが、酒の席というのもあって一部の人間を除けば概ね好評であった。

 そして、ベルはその一部の人間の筆頭であった。何故か、それはその話の新人冒険者とはベル本人だったからだ。

 憧れを抱いている女性の前で、自身の無様さを笑われる。それは十と余年しか生きていない少年の心をズタズタに引き裂いていった。

 そして、遂に狼人の口から決定的な一言が放たれる。

 

——雑魚じゃあ、アイズ・ヴァレンシュタインには釣り合わねえ——

 

 その言葉を聞いた瞬間、ベルは店を飛び出した。恥も外聞もなく悔し涙を流しながらダンジョンへと転がりこみ、こうして怒りの赴くままに自分を傷めつけていく。

 ベルには声の主への怒りはない。ベルの怒りの行き先はベル自身だからだ。甘かった、という言葉ですら生ぬるいほどに己は愚かであった。

 彼我の間にある隔たりはもはや言葉で言い表すことも出来ぬほどなのに、自分は運が良ければどうにかなるかもしれないと、無邪気に信じていたのだ。そんなわけがない。彼女たちは元々からして輝かしい程の才能に恵まれ、それをロキ・ファミリアという最高の環境で研磨し続けてきた選ばれた者たちなのだ。そんな人間の隣に立つのであれば、手を届かせるしかないのだ。彼らが今まで積み上げてきたものに、それもこうしている間にもより高くなっているものに。

 

「ハア……ハア……!」

 

 すでに体は限界。視界は霞み、足は震え、体は鉛の様に重い。されど、眼を輝かせながらベルは歩き続ける。

 そして、それはベルが広間についた瞬間、起こった。

 周囲の岩肌から軋むような音が響いた瞬間、一斉に蜘蛛の巣の様にひび割れが走ったのだ。ひび割れはやがて真っ黒な穴へと広がり、そこから漆黒の人影たちがあふれ出す。

 ウォーシャドウ。6階層において最強の存在だ。それが10匹。ベルが消耗していることも考えれば絶望的な状況だ。

 だが、ベルの目の中の闘志に衰えはない。重い体に叱咤の鞭を入れ、手近なウォーシャドウに躍りかかる。

 

「ハアッ!」

 

 まさか、10対1で向こうから仕掛けてくるとは思わなかったのであろう。不意を突かれたウォーシャドウは無防備にナイフの一撃を受けその体を灰に変え、返す刀でもう一匹もベルは仕留めていく。だが、奇襲の効果はここまでであった。

 未だ、8匹もいるウォーシャドウは数の利を生かし、ベルを中心に半円状に囲むと一斉に自慢の長い手を振りかざして襲い掛かる。

 それは、駆け出し冒険者のベルにとって嵐のような暴力だ。避けようとしても都合16本の腕による攻撃は逃げ場所などどこにもなく、ならば受けようとしてもこちらの腕は2本しかなく、必ずどこかが手薄となる。攻撃しようとしても他のウォーシャドウの牽制によりそれも潰されてしまう。

 もはやそれは戦いではない。決められた手順をなぞるだけの狩りでしかない。

 確実に血と体力は削られていき、そして遂にその時は訪れた。

 

「ぐっ! あ、ああああああっ!!」

 

 体力の限界に足がつられ、一瞬ふらついたところをウォーシャドウの鋭い爪が容赦なく切り裂いた。わき腹が深くえぐられ、激しい痛みに思わずベルは屈みこむ。

 勝利を確信したのであろう。ウォーシャドウたちは焦る様子もなく、ゆっくりと近づき始める。

 これはだめだ、助からない。

 死を前にしてベルは冷静に思った。体力は限界を迎え、依然として戦力差は絶望。逃げることは不可能に近く、仮にこの場を切り抜けてもここは6階層。地上まであと5階層を登らなければならないのだ。生きて地上に帰るのは不可能と言ってもいい。

 自身の状況を再確認した途端、自身の体が急激に重くなるのを感じる。今まで動けたのは精神によるものが大きかった。であるならば、それが折れればこうなるのは自然と言えよう。

 刻一刻と近づく自身の死を前にし、ベルは呆然とする。あまりに膨大な疲労は少年の頭から思考力というものを奪い去っていた。朦朧とする少年の頭に飛来するのは今までの人生の走馬燈である。

 優しかった父と母。その二人が死んだ後でも寂しさを感じさせないでくれた祖父。代り映えがなく退屈な、しかし穏やかな農村の暮らしとそれとは対照的なオラリオの短くとも刺激的な日々。ダンジョンでの苦労と達成感。ミノタウロスに追いかけられた恐怖、そしてそれを助けてくれた憧れの女性とその人の前で笑いものにされた屈辱。そして、なにより——

 

——ベル君——

 

「!!」

 

 その声が聞こえたとき、少年は立ち上がった。その体は未だ血を流し続け、すでに死に体の様子だ。だが、その目は死んでいない。むしろ、先ほどの自暴自棄になっていた時よりも力強く輝いている。彼をここまで立ち直らせたのはたった一つの約束だ。

 

「そうだ……僕はこんなところで死んではいけないんだ……神様と約束、したんだから……!」

 

 そう、ベルは自身の主神ヘスティアに約束したのだ。彼女を一人にはしないと。であるならばここであきらめるわけにはいかない。石にかじりついてでも生還をもぎ取るのだ。

 突如として気力に満ちたベルの気迫にウォーシャドウは気圧される。そして、今のベルはその隙を見逃す程甘くはない。

 

「うおおおおおおっ!」

 

 一体、傷だらけの体の何処にこれほどの力が眠っていたのだろうか。先ほど以上の速度で肉薄すると一息に一匹を両断する。すかさず傍らの二匹が殴り掛かる。だが、それに負けじとベルは防御を捨て、あえて攻撃に転ずる。殴られても、切りつけられてもひるむことなく手を出し続けた。だが、それも数秒のことであった。残った五匹が加勢に加わり勝負はあっさりとついた。後ろに回り込んで背中に一撃を見舞う。それだけで限界をとうに超えたベルの体は崩れ落ちた。

 今や、ベルの体は血だらけで息をすることも億劫だ。だが、それでもその目は今なお闘志に燃え上がっている。そう、ベルは諦めていないのだ。無駄なあがきになろうとも力の続く限り戦い続けると、心に誓っているのだ。

 その姿に恐れを抱きつつも今度こそとどめを刺さんと、ウォーシャドウは手を振り上げ、その腕を振り下ろそうとする。

 

 

 

 だが、それはあまりに遅すぎた。あと数秒早く、そうベルがあのまま生きることを諦めていれば間に合っていたはずだった。

 

「チェストオオオオオッ!」

 

 瞬間、ベルの前からウォーシャドウが消え去った。数舜の後、背後の壁から破砕音が響く。振り返れば、壁にめり込んだウォーシャドウが灰に変わっているところであった。

 何者かの一撃によりウォーシャドウが吹き飛ばされ、壁に叩きつけられたのだ。そう理解すると同時にその何者かとウォーシャドウの戦いが始まる。

 霞む視界と、何者かとベルの間にいる多数のウォーシャドウの為姿かたちが見えないが、どうやら何者かはベルとそんなに年の離れていない少年のようであった。

 だが、その戦闘力はベルのそれとは比較にならない。

 ベルにとっては嵐の様な猛攻であったウォーシャドウたちの攻撃を少年は簡単に捌き、それどころかその合間に一撃を加えていく。その一撃も重く、正確で一撃でウォーシャドウを消し飛ばしていく。戦いは十秒にすら満たなかった。少年の体には傷は一つもなく、息の乱れすらない。

 圧勝。そうとしか言いようがなかった。

 少年の強さに目を丸くするベルに少年は慌てて近づく。

 

「君! 大丈夫だったかい!? 話せる!?」

 

「は、はい。お陰様で……うっ……!?」

 

 血を流し過ぎたのだろう。ベルの視界が急激に暗くなっていく。

 

「ちょっと、君!? し、師匠ー! 岬越寺師匠! まずいです、この人意識が……!」

 

「ふむ……これは、少し面倒だな……仕方ない、この場で処置をするしかあるまい。剣星、手伝いを頼む」

 

「任せるね。あたら若い命、違う世界のものであっても失うわけにはいかないね」

 

 遠くなる意識の中、ベルは先ほどまで影も形もいなかったはずの人物の声を聞き、その意識は闇に包まれるのであった。

 

 

 

 







 ルーキー日間ランキングにランクイン、ありがとうございました!
 友人に教えられ、嬉しさのあまり写真に写してしまいました!
 テンションが上がったせいか今回は今までにないほどに筆が進み、3日で書き上げられました。次はへっぽこか最強の弟子かは分かりませんが次回もこれくらいの速度で書けるよう頑張りたいと思います。
 それでは皆さんのちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。






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第三話

「小さい小さい。儂なんか目標にするくらいなら、もっとでかいものを目指せ」

 

 そう照れくさそうに笑うと、目の前の祖父はやや乱暴にベルの頭を撫でた。

 目元に深く刻まれた皺、老人とは思えぬがっしりとした体格、思慮深さと優しさを含んだ瞳。目の前の祖父はベルの記憶と寸分違わぬ姿であった。

 だからこそ、これが夢なのだとベルは瞬時に悟る。ベルの祖父はとっくに亡くなっているからだ。

 懐かしさと侘しさがベルの中で入り混じる間、ベルはこれがいつの記憶かを思い出した。

 これは、オラリオに来る数年前の記憶。ゴブリンに襲われたベルが祖父に助けられた時の光景だ。

 その日、ベルは祖父の言いつけを破り一人で村の外に出てしまった。何故そんなことをしてしまったかはもう覚えていないが、結果としてゴブリンの群れに遭遇し襲われてしまったのだ。最弱の魔物、それも弱体化したダンジョン外の個体ではあるが、子供がたった一人で太刀打ちできるはずもなく、一方的に嬲られるだけであった。

 そのままであれば命運が尽きたであろうベルを救ったのは祖父であった。ベルの悲鳴を聞きつけた祖父は疾風の如くゴブリンの前に姿を現すと、力いっぱいに鍬を叩きこみ、死闘を始めたのであった。

 もっとも、死闘とは言っても農夫と最弱の魔物のそれはお世辞に言っても見ごたえのあるものではない。

 攻撃は双方ともに力任せの大振りなものばかりで、狙いは甘く空振りに終わるものが多い。防御も同様で攻撃にばかり意識が向いているせいで足がふらついておりまともな回避行動など皆無だ。酔っぱらいのケンカの延長、そうとしか言えないものであった。

 だが、ベルにとっては違った。

 自分はここで死ぬのだと絶望したときに颯爽と現れ、助ける。その時のベルにとって祖父は物語の中から飛び出してきた英雄の様に思えた。

 だから、祖父がすべてのゴブリンを追い払ったとき泣きながらこう言ったのだ。

 あなたの様になりたい、と。

 すると、祖父は先の言葉を言ったのだ。自分など大したものではない。どうせ目指すなら自分よりも大きな人間になれ、と。

 その言葉を受け、幼いベルは祖父に尋ねたのだ。

 自分が英雄になれば、自分を誇りに思ってくれるかと。

 祖父はその問いに満面の笑みで答えた。

 

「ああ、頬が落ちるくらい喜ぼう。あいつは儂の孫なんだと、他の奴らに自慢して、大声で笑って、いつまでも誇りに思おう」

 

 その言葉こそが、ベルの原点となった。その言葉があったからこそ、英雄になりたいと思ったのだ。祖父の誇りになりたい。それこそがベルの始まりだったのだ。

 それを思い出した瞬間、急速に視界が暗くなっていく。目覚めが近いのであろう。漠然とそう感じ、この光景を忘れぬよう目に焼き付ける。目覚めた後、祖父がいない現実の中でも歩き続けられるように。

 

「じゃあね、お祖父ちゃん。僕、英雄になれるよう頑張るよ」

 

 視界はすでに暗闇に包まれ、祖父の姿はもう見えない。だが、最後に励ますような祖父の声だけが聞こえた。

 

「お前ならできる。なにせ、お前は儂の自慢の孫だからな」

 

 

 

 

 

 

「ん……?」

 

 ベルが目覚めて、最初に認識したのは暖かい人の体温、それから鋼の様に鍛え上げられた背中の感触だった。寝起きの為に上手く働かない頭でも自分が今誰かに背負われているのだと分かった。

 なぜ、自分は背負われているのだろうか。いや、そもそもここはどこであろう。

 気を失う前後の記憶が曖昧なベルはぼやける視界に難儀しながらも周囲を見渡す。昼でも薄暗く狭苦しい岩肌の通路、暗がりに見え隠れするモンスターの影。これは見知ったダンジョンの通路だ。

 そこまで、思考が働いたところでようやく気を失う前の記憶を思い出す。そう、自分は無謀なダンジョン探索を行い、ウォーシャドウの群れに殺されかけたのだ。そこを誰かに助けられたのだが……

 ベルは改めて自分を背負っている人物の背中に視線を向ける。

 大きな背中であった。身長は2mを優に超えるであろう。しかもただ大きいだけではない。こうして背中に触れるだけでも隆起した筋肉の存在を感じる。間違いなくただ者ではない。この人が自分を助けてくれたのであろうか。いや、はっきりとは見なかったが自分を助けてくれた人物は自分とそう年恰好の変わらない少年であったはずだ。では、この人は一体何者なのだろうか?

 そんな風にダンジョンで見知らぬ人間に背負われ運ばれているという、常識的に見れば危険な状態でベルがのんきに考え込んでいると件の人物がベルの視線に気づいたのか、足を止め、ゆっくりと振り返った。

 振り返った顔は老人のものであった。顔の隅々にまで刻まれた皺の数と目の奥に見える理知的な光が長い年月を物語っている一方で、体から沸き立つような生気は若者以上のものだ。

 一瞬驚くベルに老人はニッコリと笑うと前を歩く誰かに呼びかけた。

 

「ん? おお、気が付いたかのう、少年よ? どれ、皆の衆。少年が目を覚ましたぞ!」

 

 老人の声は深い海のような穏やかさと優しさを含んだ声であった。先の夢のこともあったのだろう、ベルは祖父を思い出してしまったことで目元が潤み始めるのを感じる。

 ベルは涙を零さぬことに苦心しながらも老人に問いかける。

 

「あ、あの……! 貴方は一体どなたなのですか?」

 

「うん? 儂らが何者か、か……さて、どこから話したものかのう……?」

 

 ベルの当然の質問に老人は困ったかのように眉を顰める。今の状況と合わせて考えるのであれば人さらいと怪しまれかねないが、不思議と老人からは後ろ暗いものを感じなかった。

 そして、老人の困惑に助けは意外な方向からやって来た。

 

「長老! さっきの人が目を覚ましたって本当ですか!?」

 

 その声にベルは、はっとする。その声には聞き覚えがあった。ベルが力尽きたとき、助けに入った少年のものだ。

 老人の巨体の影から一人の少年が顔を出す。

 一見すると、いや、じっくり見ても十人並みの容姿だった。強いて特徴を上げるとすれば極東の人間特有の黒い髪と瞳を持っているが、世界中から人が集まるオラリオではそれほど珍しいものではないだろう。善良な一般市民、それ以上の印象を与える要素は皆無であった。

 だが、ベルは一度この目で見たのだ。目の前にいるどこにでもいそうな少年が7体のウォーシャドウを圧倒した所を。

 その時の少年の強さに、命の恩人相手とはいえベルの体に自然と緊張が走る。

 

「いやー、驚きましたよ。何か争っている音がしていると思って駆け付けてきたら君が血だらけになっていたんですから! どうですか、どこか痛むところはありませんか?」

 

「あ、はい。お陰様で何も問題はありません、その節はどうもご迷惑をおかけしました。ええっと、それで、その……?」

 

 だが、少年の方はそれに全く気付くことなく、気さくな様子でベルに話しかけてくる。少年の予想外の態度にベルは目を白黒させた。

 基本的にダンジョン内では見知らぬ冒険者同士がこのように友好的に接触することはあり得ない。

 何故ならば違うファミリアの冒険者というのは、いつ抗争が起こってもおかしくない潜在的敵対者であり、ダンジョン内にいる魔物の魔石から収入を得ている商売敵だからだ。ましてや冒険者という人間は荒事を生業としている以上その性格は好戦的なものが多く、一度問題がこじれた場合、穏便に決着がつくことは稀である。

 結果としてダンジョン内では不干渉という文言が不文律として成り立っている。それこそ、命がかかっている状況で見殺しにしても非難されることがないぐらいには。

 今回の場合、舌打ちとともに法外な謝礼を求められるのが普通なのだ。

 だからこそ少年の友好的な態度にしどろもどろになるベルだったが、老人は別の意味に受け取った。

 

「これこれ、ケンちゃん。この少年はつい先ほどまで死にかけておったんじゃぞ。そんなに勢いよく話しかけたらびっくりしてしまうじゃろう?」

 

「あっ……! そうですね……ごめんね、君。驚かせてしまって」

 

「えっ!? い、いえ……! そういう訳では……!」

 

 友好的に接するだけでなく、頭まで下げ始める少年にベルの狼狽ぶりはいよいよ最高潮に達する。と、同時に自分が老人に背負われたままであったことをようやく思い出した。

 命の恩人を前に、背負われたまま頭を下げさせているという状況に平然としていられるほどベルの神経は図太くない。

 すぐに老人の背中から降りるとベルは勢いよく頭を下げた。

 

「す、すいません! 助けてくださった方なのに、失礼をしてしまって……!」

 

「そんなこと気にする必要ありませんよ! 困ったときはお互い様ですから!」

 

「うむ、儂らにとっては当たり前のことをしただけじゃ。かしこまる必要はないぞ」

 

「で、でも……」

 

 なおも食い下がるベルに少年は最初困り顔であったが、はたと何かを思いつくとニッコリとベルに笑いかけた。

 

「それに謝られるより『ありがとう』と言われる方が僕たちはうれしいですね!」

 

「ホッホッホッ! そうじゃな、儂らにとってはそれが何よりの報酬じゃな」

 

「あ……」

 

 こう言われて、ベルは自分が最初に言うべき言葉を未だに言っていないことに気づいた。ベルは緊張で赤くしていた顔を羞恥でさらに赤く染めながらもようやく少年へ言うべき言葉を紡いだ。

 

「あの……命を助けていただいて、ありがとうございました!」

 

「どういたしまして!」

 

 ベルの真っすぐな感謝の言葉を少年は快活に受け取る。すると、その場に笑い声と共に数人の集団が姿を現した。

 

「へっ! ケンイチも言うようになったじゃねえか!」

 

「うむ。ケンイチ君も活人拳の心構えができるようになってきたようだね。結構結構」

 

「これも、おいちゃん達の教育の賜物ね!」

 

「アパ! これもアパチャイがケンイチに相手のぶっ殺し方を教えてきたおかげだよ!」

 

「あら? ケンイチさんは元からこんな方でしたわよ?」

 

「そうだ……な。ケンイチは自分よりも他人の心配を先にする男……だ」

 

「あれ!? 皆さん、聞いていたんですか!?」

 

「なんじゃ、ケンちゃん。皆の気配に気づいておらんかったのかな?」

 

 突然現れた集団に少年が素っ頓狂な声を上げた。様子を見る限り、どうやら少年の仲間の様だがベルにとってはまたしても見ず知らずの人間が現れた形となった。自然、ベルの視線に疑問の色が強くなる。

 すると、その視線に気づいたのか、集団の中にいた少年と同じ人種と思われる中年男性が軽く頭を下げた。

 

「ああ……すまないね、君。弟子の成長につい浮かれてしまって、君に対する気遣いを忘れてしまったようだ。私の名前は岬越寺秋雨。君を助けた白浜健一君の師匠の一人さ」

 

「いえ、お気遣いなく! 僕は全然気にしてませんから!」

 

 秋雨と名乗った男の物静かな空気にベルは気圧されながらも、努めてそれを見せない様に率直な態度で応えた。先ほどのやり取りで分かったが、目の前の人物たちはそういった態度を見せるより、素直な気持ちを示す方が喜ぶ様である。

 実際、秋雨はベルの言葉に満足げな表情でうなずき、ベルも自分の考えが間違っていなかったことを確認できた。

 と、そこでベルは男の声にも聞き覚えがあることに気づいた。それも、つい先ほどのことだ。

 

「あれ? その声、ひょっとして僕の治療をしてくださった方の一人ですか?」

 

「おや? あの時、まだ意識が残っていたのかね?」

 

「それじゃあ、やっぱり……! あの時は本当にありがとうございました!」

 

 秋雨の肯定の言葉にベルは大きく頭を下げ、お礼を言った。

 ベルの謝辞に秋雨は軽く手を振って応える。

 

「ハハハ……! 長老やケンイチ君が言っていただろう? 我々にとって当たり前のことをしただけさ。そこまで、大仰な振る舞いをする必要はないよ」

 

「それでも命を救っていただいたんですから、お礼だけはさせてください!」

 

「ふむ……そう言われるとこちらとしても断りにくいね」

 

 ベルの真摯な態度に秋雨は困った様な視線を老人に送る。

 面白そうに二人の会話を見ていた老人はそれだけで秋雨の言いたいことを理解すると、大きな両手をベルの肩に手を乗せ、振り向いたベルに笑いかけながら一つの提案をした。

 

「さて、少年。お礼を言うのも結構じゃが、まずは自己紹介といかんかのう? わし等はお主の名前すら知らんのじゃ。ここはお互いの素性について知り合うべきだと思うのじゃが?」

 

 

 

 

 

「なるほどのう……お主ら冒険者は神より恩恵を受け取り、ファミリアという徒党を組んでダンジョン探索を行って生計を立てておるんじゃな?」

 

「はい! その通りです、隼人様!」

 

「あー、ベル君。別に儂らのことは様付けする必要はないんじゃが……?」

 

 隼人の質問にベルははきはきとした声で答える。

現在、ベルはダンジョンの地下一階にて隼人たちを先導するとともに地上の常識に疎い隼人たちにここでの常識について逐一説明を行っていた。

 隼人たちに説明をするベルは、顔を隼人たちへの敬意で染めながらも自分で思いつく限りの知識を矢継ぎ早に披露する。しかし、隼人たちは様付けまでするベルのその態度にやんわりと止めるよう促すのだが、ベルはとんでもない、とばかりに首を振る。

 

「そんな! 神様を相手にそんな無礼はできません!」

 

「いや、ベル君。何度も言っておる通り、儂らは神様ではなく、君と同じ人間じゃぞ?」

 

「え? でも、先ほど天界から降りてきたと……?」

 

「いや、天界ではなく、異世界じゃ」

 

「??? それは、どういう違いがあるのでしょうか?」

 

 自己紹介をしてからもはや何回行ったかもわからないやり取りに隼人は大きくため息をつく。

 そう、敬意で満ち溢れたベルの態度に隼人たちが困惑している理由、それはベルが隼人たちのことを神と勘違いしてしまっているからだ。

 なぜ、このような事態に陥ってしまったのか。それは隼人たちの自己紹介にあった。

 お互いの名前を交換し合ったベルと隼人たちは続いて、お互いの素性とここにいる経緯について話すこととなった。

 ここで最初に困ったのがベルである。自身がダンジョンで魔石を集めることで生計を立てている冒険者であることを明かすのは構わない。しかし、高嶺の花に懸想した事と酒場での一件については流石に初対面の人間に話すのは躊躇われた。結果、そこら辺のことは誤魔化し、単に目標としている人に近づこうと焦って強くなろうとして無謀なことをしたと嘘をつくことにした。命の恩人を騙すのは少し気が引けたが、ベルにだってプライドはある。進んで恥は晒したくはない。

 しかしながらお人好しなベルの嘘など、あって無いようなものであり、ケンイチですら、目標の相手はきっと女性なんだろうなあ、と察することができてしまった。

 そうして、本人の知らないところでベルの事情がつまびらかになった所で、困ったのが今度は自分たちの事情について説明しなければならない隼人たちであった。

 なにせ、異世界から来たと言われてそれをすんなりと受け入れられる人間などいる筈がない。十中八九、気が触れたと思われるのがオチだ。ならば、上手く作り話をすればよいのだが、隼人を筆頭に梁山泊の人間は虚言の才能は皆無と言ってもよい。

 悩んだ末に隼人が出した答えは正直に全部話すということであった。博打と言うのも憚れる行動であったが、もとよりそれしか選択肢がないのだから仕方がない。それに、考えてみればここは異世界なのだ、元の世界の常識など当てはまらない。ひょっとすると異世界から人が来るということはこの世界ではそれほど珍しいことではないのかもしれない。

 そんな風に一縷の望みをかけてベルに真実を打ち明けたところ、事態は思わぬ方向に転がっていった。

 隼人たちの告白を聞いたベルは開口一番こう言い放ったのだ。

 

「つまり、あなた方は神様なんですね!」

 

「は!?」

 

 ある意味、隼人たちの望みはかなった。この世界、特にオラリオにおいて異世界とそこからの来訪者の存在は一般常識として周知されている。しかし、その常識において異世界と言えば天界のことであり、そこからの来訪者と言えば神を意味するのだ。

 ならば、この世界の常識に染まっているベルが異世界からやって来たという隼人の言葉を受け、神と勘違いするのはごく自然の流れであった。

 当初は隼人たちもベルの勘違いを正そうと躍起になっていたのだが、今ではもう半ば諦めている状況だ。なにせ、この世界には隼人たちの世界で意味するところの異世界という概念が存在しないのだ。存在しない概念を一から説明するだけでも一苦労であるのに、ここにはややこしいことに天界という別の異世界が存在しているのだ。誤解を解くには相当な労力が必要だ。それを行うのに魔物が徘徊するというダンジョンは不適当であろう。

 そう判断した隼人たちはこの問題は一旦棚上げすることにし、ベルの拠点についた後、彼の主神を交えて誤解を解くことにしたのであった。

 

「まさか、おいちゃん達が神様と勘違いされるとは驚いたね……」

 

「やはり異世界。我々の世界の常識で考えるのは危険だということだね」

 

 剣星のぼやきに秋雨は同意する。秋雨の言葉は正しい。確かに両者の世界の常識には大きな隔たりがある。

 しかしながら秋雨の言う『我々の世界の常識』において秋雨たちも大概な常識外れであることに秋雨を始め誰も気づいてはいない。

 そんな風にある意味身の程知らずなことを秋雨たちが考えながら歩いていると、先導していたベルの足が止まった。目的の場所にたどり着いたからだ。

 

「皆さん、つきましたよ。こちらが地上への階段です!」

 

「ほお、これがそうなのかね?」

 

「はあー、ようやく一息つけますよ」

 

 ほっと息を吐く一行の目の前には上へ上へと続く長い階段があった。数多の冒険者によって踏み固められた階段を見て、ようやく生きて帰ってこられたのだとベルは実感し気が抜けそうになる。が、すぐに頬を叩くと気を引き締めた。

 ファミリアの本拠地に戻るまでが冒険である、馴染みの冒険者ギルドの受付に教えられたアドバイスだ。

 周囲を見渡し、辺りに魔物がいないことを確認するとベルは階段に足をかけた。

 

「では皆さん、僕についてきてください。是非、僕たちのファミリアでお礼をさせてください!」

 

「すまないね、ベル君。わざわざ我々の為に歓待までしてくれて」

 

「気にしないでください。こちらは命を助けていただいたんですから。それに、こういう時はありがとう、ですよね?」

 

「ふむ……確かに、そうだったね。ありがとう、ベル君」

 

「いえいえ、どういたしまして」

 

「なあ、ベル! 地上には美味い酒はあるのか!?」

 

「そうですね、オラリオは世界の中心と呼ばれる街ですから世界中から美味しいお酒が出回っているそうですよ?」

 

「逆鬼さん。お酒が好きなのも結構ですけど、ここでは私たち一文無しですわよ?」

 

「ベルちゃん、おいちゃんはお酒よりも綺麗なお姉さんとお話がしたいけど、そういうお店はあるかね!?」

 

「えっ!? え、えーと。そう言えば、何処かのファミリアがその手の事業を一手に引き受けているって聞いたことがある様な、ない様な……?」

 

「剣星……ベルに変なことを吹き込む……な」

 

「ひゃああっ! ちょっと、時雨さん! 僕が上っている間に剣を振り回さないでくださいよ!」

 

「ホッホッホッ! これしきのことで慌てるとは修行が足りておらんぞ、ケンちゃん」

 

「アパパッ! 大丈夫よ、ケンイチ。修行ならここでもできるよ! アパチャイ達ケンイチの為に頑張るよ!」

 

 本来ならば静寂に包まれている筈のダンジョンに賑やかな歓談が響く。地下であるがゆえにその喧騒は共鳴し、人によってはうるさく感じるかもしれないが、ベルにはそのうるささが逆に心地よかった。

 冒険が終わった後、帰路につきながら仲間との無駄話。それはずっとソロでダンジョン攻略をしていたベルがひそかにあこがれていたものであったからだ。すれ違いになる冒険者のグループを羨ましそうに見たことは一度や二度ではない。

 出来ることならばもっとこの時間をすごしたい。それがベルの偽らざる本心であった。しかし、ベルの本心とは裏腹に楽しい時間はすぐに終わることとなる。

 階段を上るにつれ周囲の空気が変わり始めた。冷たくじめじめとした空気が徐々に暖かくなり、時折芳しい匂いが混じるようになったのだ。

 顔を上げてみれば、周囲をごつごつとした岩に囲まれた中で前方の一か所だけくり抜かれた様な大穴が開き、そこから地上の空気が流れ込んできていた。

 

「おっ! ひょっとしてあれが出口なんじゃねえか!?」

 

「ええ、そうです。皆さん、今までお疲れさまでした!」

 

 喜色をにじませた至緒の声にベルは肯定する。いつもはダンジョンの入り口を見れば、喜んだものだが不思議と今日はそのような気持ちがわかず、むしろ寂しさすら感じずにはいられなかった。

 そんな内心を押し殺しながらもベルは最後のもうひと踏ん張りとばかりに痛む体を動かし、そして遂にベルと一行はダンジョンから地上へとたどり着いた。

 

「ほう……これがオラリオの街なのかのう」

 

「話には聞いていましたが、本当にダンジョンを中心にして街が作られているとは、驚きましたな」

 

 地上についた途端、隼人と秋雨がベルを除いた全員の気持ちを代弁した。

時刻は夜明けの少し前だろうか。東の空がやや薄紫に染まり始めている頃で流石にこの時間となると街には昼間のような活気はない。されど、周囲に漂うアルコールや料理の残り香が昨晩の賑わいを思い起こさせた。

 また、昼間ほどではないにせよ少し目を凝らせばちらほらと人通りができ始めている。その種類も豊富で開店の準備をしている者も、逆に閉店の準備をしている者もいれば、冒険者のような者までいる。こんな時間でも人があるのだ、明るくなれば目の前の広い大通りも人込みで一杯となるであろうことは想像に難くない。

 オラリオの街に感嘆の声を挙げている隼人たちにベルは初めてオラリオに来た時の自分を思い出し、苦笑する。

 しかし、いつまでも懐かしさに浸っているわけにはいかない。自分には彼らを拠点まで案内しなければならないのだ。

 

「それでは、皆さん。僕についてきてください。神様の所へご案内します」

 

 そう言って、ベルは混雑に巻き込まれない様に急ぎ足でケンイチたちを教会へと案内し始めた。

 

 

 







 遅くなりましたが、ようやく第三話が完成いたしました。今回もかなりの難産でしたが何とか形にできました。これも、感想を書いてくださった皆様方のおかげでございます。
 おそらく次はへっぽこ冒険者の方を投稿することになると思います。こちらの方を楽しみにされている方は申し訳ございません。
 最後になりましたが誤字報告をしてくださった方々、ありがとうございました。つい先ほどマイページを開いて初めて気づきました。これを投稿した後、修正しようと思います。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。





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第四話

 

 

 

 時刻はすでに早朝。ダンジョンから出たときには暗かった空には日が昇り、気持ちのいい青空が広がっていた。

 ダンジョンから帰還し、歩くこと一時間と少し。ベル達は目的の教会へとたどり着いた。

 

「ここです! ここが僕たちのファミリアの拠点です!」

 

 ベルは張り切りながらそう言って一行を振り返る。

 だが、後続にいたケンイチたちの顔はベルとは対照的に困惑に包まれていた。

 

「えーと……本当に、ここに神様が住んでいらっしゃるんですか?」

 

「ふむ……何というか、君の神様は随分趣のある教会を住処に選んだものだね……」

 

「そこは、ぼろいってはっきり言ってやれよ、秋雨。かえって傷つくぞ」

 

 気を使って迂遠な表現をした秋雨に逆鬼が突っ込みを入れる。

 実際、目の前の教会はいささか以上に見苦しい外観をしていた。苔むした壁はボロボロにひび割れ、ガラス窓は無残に砕け散り、雨風を防ぐ役割を放棄していた。とてもではないが人が住める状況とは思えなかった。ましてや、神の住処としては甚だ不適当である。こんなところに住む神とは一体どんな存在なのだろうか。

 そんな変な空気になりはじめたのを察したケンイチが慌ててフォローを入れる。

 

「で、でもあれですよね! 神様が教会に住んでいるってなんて言うか、とても神様らしいって感じがしますよね! そう思えば、この教会もどことなく神秘的に見えてきませんか!?」

 

「そ、そうですよね! 神様は性格もすごく優しい方で、毎日バイトをして家計を支えてくださっているんです!」

 

 ケンイチのフォローに合わせてベルがヘスティアの頑張りを伝えるのだが、それを聞いた者たちはますます困惑を深めていく。

 

「か、神様がバイト……? え? ひょっとして人間のお店で雇われているのですか?」

 

「……おいちゃん、その神様とは話したこともないけど流石に心配になって来たね……」

 

「アパパ! アパチャイ知ってるよ! そう言うのを金でプライドを売ったって言うんだよね!」

 

「お金に関しては、ボク達も人のこと言えないと思う……ぞ」

 

「あ、あははは……」

 

 どうやら、ベルの渾身のフォローは藪蛇であったようである。ケンイチたちの顔がますます暗くなっていくのを見て、自分はやはり口の上手い人間ではないのだと再認識したベルはこれ以上口を開かないで済むように急ぎ足で教会の扉に近づく。

 

「神様―! ただいま、帰りま——」

 

「ふぎゅっ!」

 

 ベルが力いっぱい扉を開けた瞬間、鈍い音と何か軽いものがぶつかった感触が伝わる。

 驚き、扉の隙間から中をのぞくとそこには件の女神が顔面を抱えてうずくまっていた。

 

「い、痛たたた……」

 

「か、神様! だ、大丈夫ですか!?」

 

「うう……ひどいよ、ベル君……」

 

 悶えるヘスティアにベルは慌てて駆けよる。どうやらベルが扉を開けた瞬間、運悪く扉の前に立っていた彼女は顔面で扉の直撃を受けてしまったらしい。

 ベルの声に気が付いたヘスティアは赤く腫れてなお美しい顔を不機嫌そうに抗議の声を上げる。

が、すぐにベルの恰好がボロボロになっていることに気づくと飛びつくようにベルの体に縋りつく。

 

「……って、ベル君! 一体どうしたんだい!? その恰好は!?」

 

「えっと……実はダンジョンで夜通し戦っていました、すみません」

 

 信じられないベルの言葉にヘスティアはヒステリックに叫ぶ。

 

「ダンジョンにだって!? 一人で、それも防具もつけずになんて危ないことをするんだ、君は! 怪我とかはしていないのかい?」

 

「ええ、そこの方々に助けていただいたおかげで、大したことはありませんでした」

 

「へ? そこの方々?」

 

 後ろを指すベルの声にようやくヘスティアはケンイチたちの存在に気づいた。

ベルの影に隠れていたために見えなかったのだが、確かに教会の外には見知らぬ8名の男女たちが立っていた。

 ケンイチたちの姿を認めたヘスティアの動きは速かった。先頭に立っていた、一行のリーダーであろう偉丈夫に深々と頭を下げ、心からの感謝を伝えた。

 

「ありがとう! 君たちはボクの家族の恩人だ。ありがとう……本当に、ありがとう……!」

 

 涙交じりに感謝を述べるヘスティアに一行は安心した様にほっと息をつく。

 こんな所に住む神と聞いて、一体どんな性格をしているのかと不安に思っていたが、話してみれば何ということはない、自分の家族の為ならば人間相手に頭を下げることも厭わない心優しい女神であった。

 

「ホッホッホッ! 顔を上げてくだされ、神ヘスティア。儂らは人として当然のことをしたまでですじゃ」

 

「そう言ってもらえると、助かるよ。それと申し訳ないのだけど、お礼の方は……」

 

「いやいや、その様な気遣いは結構……と言いたいところなのじゃが……」

 

 言いにくそうに口ごもる隼人にヘスティアは分かっている、とうなずく。

 

「ああ、わざわざ言葉にする必要はないよ。ボクだって神のはしくれだ。任せてくれ、多少時間がかかっても必ずや君たちが満足できる金額を用意してみせるよ!」

 

「いやいや、儂らの望みは金銭ではなく、神ヘスティアのお知恵を借りる事ですじゃ」

 

「む? ボクの知恵?」

 

 隼人の思わぬ提案にヘスティアは眉根を寄せる。

 訝しむヘスティアに隼人は本題から切り込む。

 

「実は儂らは、この世界の人間ではないのですじゃ」

 

「は……?」

 

 思いがけぬ隼人の言葉にヘスティアは開いた口が閉まらない。一瞬、からかわれているのかと憤ったが、すぐに神の権能の一つである人間の嘘を見抜く力により隼人が嘘などついていないことに気が付く。

 しかし、だからと言ってすぐに、はいそうですかと納得できるような内容ではない。自然、その視線は感謝の物から胡散臭そうなそれに切り替わっていく。

 そんなヘスティアの様子に隼人は納得するようにうなずく。

 

「まあ、そう思われるのも無理のないことですのう。しかし、儂が申し上げていることは全て事実。よろしければ、こうなった経緯を一からお伝えしたいのですがよろしいですかのう?」

 

 探る様なヘスティアの視線に気づいているだろうに隼人の笑顔に陰りはない。その態度は丁重でありながらも卑屈ではない。

 神であるヘスティアに対し、人間としてするべき敬意を払いながらも決して遜らないその振る舞いはヘスティアにとって好ましいものであり、若干視線が柔らかくなる。

 同時に目の前の老人たちが自分の家族の命の恩人であったことを思い出し、そんな人物に不躾な視線を向けた自分に羞恥心が沸きあがって来た。

 

「あ……すまない。ベル君の命の恩人に対する態度ではなかったね。うん、まあ……君たちの話はにわかに信じられないけど、話を聞くぐらいなら別に構わないよ。……よし! それじゃあ、ついてきてくれ。こんな隙間風が入ってくるような場所じゃあ、落ち着いて話ができないだろう?」

 

「ホッホッホッ! 感謝いたしますぞ、神ヘスティア。どれ、皆の衆。家主の許可が下りたぞ。入ってきなさい」

 

 ヘスティアの理解が得られたことに胸を撫でおろし、隼人は外にいる自分の家族に声をかける。

 こうして、ようやくケンイチたちはこの世界で一息をつくことができたのであった。

 

 

 

 

 

「ふーん……魔法で異世界に飛ばされた、か……」

 

「正確には魔法ではなく源術と、儂らは呼んでおりますが概ねその通りですぞ、神ヘスティア」

 

 あれから、地下室に案内された隼人たちは早速今までの経緯についてヘスティアとベルに話していた。

 その内容はベルは勿論のこと神であるヘスティアにとっても荒唐無稽なものにしか聞こえなかった。

 

「ええと、つまり、隼人様……じゃない、隼人さんたちは物凄い辺境の地方からやって来た、ということなんでしょうか?」

 

 案の定、ベルには隼人の説明を完全には理解できなかったらしい。何とか自分の語彙から異世界人という概念に近いものをひねり出したが、的を外したものであった。

 ヘスティアは軽く首を振り、ベルの間違いを指摘する。

 

「違うね。単に辺境なだけなら頑張ればいつかは帰れるけど異世界は通常の方法じゃあ、どれだけ時間をかけてもたどり着けないよ」

 

「そ、そうなんですか……って、えっ!? それじゃあ、隼人さんたちは元の場所に帰れないってことじゃないですか!?」

 

「うむ、そうなんじゃ。そこで、神であるヘスティア殿ならばよい知恵をお貸しいただけるのではないかと期待したわけなんじゃが……」

 

 ちらり、と隼人を始め梁山泊の人間たちはヘスティアに期待の視線を向ける。

 8人の視線を受け止めるヘスティアは難しい顔で隼人たちに応えた。

 

「まず、結論から言おう。ボクには君たちを元の世界に戻す力もその知識もない」

 

「フム……まあ、仕方ないのう……」

 

 予想はしていたとはいえ、ヘスティアの回答に流石の隼人も言葉に力がなかった。だが、それも次の言葉を聞くまでのことであった。

 

「だけど……異世界という存在とそこで生きていた人間の話なら以前、聞いたことがある」

 

「なんと!?」

 

 思いがけないヘスティアの言葉にその場にいた者は全員、身を乗り出した。

 興奮した空気の中、ヘスティアの声が響く。

 

「ボクが天界にいたころ、輪廻転生を司る神の下にこの世界の物ではない魂がどこからか流れ着いたことがあったんだ。それで、一時期天界ではこの話で持ちきりでね。その魂がどこから来たのか調べようと暇を持て余していた神たちは躍起になっていたんだ」

 

「そ、それで、その調査の結果は……!?」

 

 興奮のあまり、ケンイチが二人の会話に口を挟む。

 横やりを入れられた形であったが、ヘスティアは気を悪くしたような素振りを見せずに、しかし沈痛そうな顔で首を振る。

 

「残念だけど、何も分からなかった。この世界とは別の場所から来たことは確実だったんだけど……そこがどこにあるのか、どうすればそこに行けるのかといったことは何も分からなかった。その異世界からの魂も結局この世界に転生させることでこの話は幕引きとなってしまったんだ」

 

 残酷な事実を告げるヘスティアの声は暗い。有力な手掛かりを一瞬期待させておきながら、それが裏切られたのだ。きっと、目の前の人物たちも落胆するであろう、そうヘスティアは予想した。

 

「そうなんですか? それじゃあ、仕方がありませんよね」

 

「まあ……一朝一夕で帰還できると考える方が虫が良いというものね」

 

「さて、そうなると……明日からは情報取集も兼ねて行動しなければならないね」

 

 だが、その予想は外れた。

 ケンイチを始め、梁山泊の面々の顔に悲壮感は微塵ない。残念そうな顔はしている。だが、決してそれに足を引きずられることはない。それどころか今もこうして明日からの予定を相談している始末だ。驚くほどに前向きである。

 薄々気が付いてはいたが、目の前の人物たちのメンタルはヘスティアの想像を超えるほどに図太く、そして強固な様だ。

 呆れ半分、感心半分にヘスティアはそう評価した。

 

「なんというか……君たち異世界人はなかなかに強かだねえ……」

 

「ホッホッホッ! 嘆いたところで何も変わらぬからのう。ならば、何かしら動いた方がよほど建設的じゃろう?」

 

「まあ、確かにうじうじするよりかはずっとマシだよね……うん、よーし! ねえ、君たち! さっきから明日からのことを話しているようだね! その話、ボクたちも参加していいかい?」

 

 そう言ってヘスティアはケンイチたちの話の輪に加わる。突然、神に話しかけられたケンイチはやや緊張した様子で承諾する。

 

「もちろんですよ、ヘスティア様。実は今、これからの活動拠点について話していたんです。ここら辺に安い宿ってありますか?」

 

「様なんてつけなくていいよ、ケンイチ君。それにしても安宿の場所だって? なんで、そんなことを聞くんだい?」

 

「いや、実は僕たち、ここのお金を持っていなくて……」

 

 恥ずかしそうに、ケンイチは自分たちの窮状について話す。聞けば着の身着のままで異世界に飛ばされた為、金目のものなど持っておらず、衣食住の目途は立っていないとのことなのだそうだ。

 一応、かろうじて持っていた元の世界の貨幣がここでは変わった細工がされた紙と珍しい金属として換金できるそうなので、それを当座の生活資金にするつもりだという。

 そんなケンイチの言葉にヘスティアは小首をかしげて言う。

 

「いや、そうじゃなくて……ここに住めばいいんじゃないかい?」

 

「ええっ!? そんな事できませんよ! 貴重なお話をしていただいた上に住む場所まで世話していただくなんて!?」

 

 ヘスティアの提案にケンイチは固辞する。

 ケンイチたちは8人の大所帯だ。こんな古ぼけた教会にそんな人数が入れば、元からいたヘスティアとベルには窮屈な思いをさせることになるだろう。ましてや、ケンイチたちは現状、一文無しに近い。貨幣の換金の具合で上下するだろうが、生きる上での必要な金額に不足分が出た場合、経済的に困窮しているであろうヘスティアたちに捻出させることになるのだ。そう言ってヘスティアたちの負担を理由に断ろうとするケンイチの言葉にヘスティアは笑って答える。

 

「いやいや、貴重な話って言っても、大したことなんて何も分からなかったじゃないか。それに君たちはベル君の命の恩人なんだ、むしろこれぐらいのことをしないとこっちが申し訳ないくらいだよ。まあ、もっとも……」

 

 ヘスティアはそう言ってぐるりと辺りを見回した後、意地悪そうに笑って言う。

 

「こんなボロ教会に住むぐらいなら安宿の方がマシだと言うんならボクも引き下がるしかないけどね?」

 

「う……」

 

 言葉に詰まるケンイチ。簡単にやり込められてしまった弟子の姿に剣星はため息をつく。

 

「やれやれね。ケンちゃんはどうにもこういった駆け引きに関しては一向に上達の兆しが見えないね」

 

「えっと……ケンイチさんらしい、と私は思いますわよ……?」

 

「美羽、それは多分フォローになっていない……ぞ」

 

「まあ、ヘスティア殿がそう言って下さるのならば、我々はその好意に甘えるべきだと私は思うよ。皆はどう思うかね?」

 

 秋雨は一同に賛否を尋ねるが、ここに至って反対の声を上げる者はいなかった。

 

「うむ、では。反対意見もないようだし、ヘスティア殿、これからもよろしくお願いしますぞ」

 

「ああ、こちらこそよろしくお願いするよ」

 

 そう言って、ヘスティアは秋雨と握手をする。

 新たに8人の同居者が入ることが決まると、ヘスティアの動きは素早かった。気合を入れる様に両頬を叩くと、元気な声でこれからの予定を告げる。

 

「さて、そうと決まれば、早速みんなを向かい入れる準備をしなくちゃだね! よし、ベル君、早速外出の準備だ! みんなでこの街の案内がてらに必要なものを買いに出かけるよ!」

 

「はい、わかりました! 待ってて下さ……い?」

 

 元気よく返事をした瞬間、ベルの視界が歪み、膝が笑い始める。

 たまらず、ベルは床に跪く。

 にわかに動揺が広がっていく。

 

「ベル君!?」

 

「秋雨君! 頼む!」

 

「任せて下さい! ……フム、これは……」

 

 ヘスティアが叫び、秋雨が駆け寄るとすぐに診察を始める。先ほどの明るい空気が霧散し、重苦しい空気に支配される。

 時間にすれば5分とかからない短い間であったが、全員にとっては何倍にも長く感じられた。

 やがて、診察を終えた秋雨はわずかに顔を安堵に緩ませて診察結果を告げた。

 

「どうやら、ただの過労だね、これは。ダンジョンで血を流したことも相まって溜っていた疲労が緊張が抜けたことで一気にやって来たみたいだね。少し休めばすぐに元気になるさ」

 

「そうかい……良かった……」

 

 大事には至らない、という秋雨の言葉にヘスティアは胸を撫でおろす。

 

「すいません、皆さん。皆さんの案内をしなくちゃいけないのに」

 

「そんなことを言う必要はないよ、ベル君。彼らの案内はボクに任せて君はしっかり休むんだ」

 

「はい、分かりました。それでは、皆さん案内をすることができなくて申し訳ありませんでした」

 

 ベルは案内が出来なかったことを謝罪すると、のろのろとベッドに向かう。

 そんな頼りなげに歩くベルを隼人は呼び止める。

 

「ふむ、しかし病人を一人きりにするのは気が引けるのう。よし、ケンちゃん、美羽。お主らは二人でベル君の看病をしなさい」

 

「はい、分かりました」

 

「承知いたしましたわ、お爺様」

 

「えっ!? いや、僕のことはお気になさらずに……うっ!」

 

 思いがけない隼人の提案に反対しようとした瞬間、再びベルの体が傾く。今度は踏みとどまれたが、ベルを一人にするべきではないのは誰の目から見ても明らかであった。

 

「ダメですよ、クラネル君。君の気持は分かりますけど、今は体を休めることを考えるべきです」

 

「そうですわ。街の案内なんて別の機会に行けばよろしいですし、また今度三人で行きましょう」

 

「す、すいません。それじゃあ、お二人ともよろしくお願いします」

 

 人の良い笑顔で近づく二人の好意にベルはようやく観念すると、大人しくベッドにもぐりこんでいく。

 布団をかぶるベルにヘスティアは安心した様に微笑むと扉に手をかけて愛する家族とその家族を看病してくれる二人に声をかけた。

 

「それじゃあ、ボク達は買い物に行ってくるからお土産を待っていてくれ、三人とも」

 

「気を付けてくださいね、神様」

 

「皆さん、ヘスティアさんにご迷惑をお掛けしないようにお願いしますわよ」

 

「行ってらっしゃい、皆さん!」

 

「留守は任せたね、三人とも」

 

「アパパ! 大丈夫よ! アパチャイは迷子になんてならないよ!」

 

「うむ、アパチャイと逆鬼君のことは任せたまえ」

 

「オイ! なんで俺がアパチャイと同列に扱われるんだ!?」

 

「逆鬼は、喧嘩っ早いから……な」

 

「ホッホッホ! この年で未知の土地に来るとは夢にも思わなかったのう」

 

 三人の声に見送られながら、梁山泊の達人はヘスティアと共に本格的な異世界交流の第一歩を歩み始めたのであった。

 

 

 







 ようやく、第四話が完成しました。今回はヘスティアとの顔合わせとなりました。ベル君の弟子入りはもう少しだけ先のことになりそうです。期待している方は今しばらくお待ちください。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。




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第五話

 

 

 

「……どうですか、ケンイチさん。クラネルさんの様子は?」

 

「ぐっすり眠っていますよ。よほど疲れていたんでしょうね」

 

 梁山泊の達人たちとヘスティアが外出して数十分の間、ケンイチと美羽は寝込んだベルの為に汲んできた水で濡れタオルを作ったり、汗をふいたりして過ごしていた。その間に既に体力の限界を迎えていたベルは眠りに落ちていた。

 静かに寝息を立てるベルにケンイチと美羽はこれで一安心と胸を撫でおろした。

 

「それでは私は上の教会の掃除をいたしますので、ケンイチさんはこちらの寝室をお願いしますわ」

 

「任せて下さい、美羽さん」

 

 残った水が入った桶とボロボロになった布切れを持ちながら上がっていく美羽を見送るとケンイチは寝室に向き直る。

 ヘスティアとベルの二人だけで暮らしてきたその部屋は二人だけで使用していたとあって家具も少なく、散らかってこそいないが、ダンジョン探索とバイトに忙しい二人だけしか居なかったために掃除まで手が回っておらず、所々に埃をかぶっていた。健康な時ならば問題はなかったかもしれないが、過労で眠っているベルにはこの埃っぽい空気は毒になることに違いない。

 

「さて、やるぞおお!」

 

 ケンイチは気合を入れると、雑巾で棚やテーブルを手際よく拭いていく。埃を落とすときは掃除した所に落とさない様に高い所から低い所への順番で行い、床掃除をするときは吹いたところを踏まないよう奥から手前へと行っていく。

 一般的な高校生男子ならば知らないであろう効率的な掃除の仕方は梁山泊での生活の賜物である。部屋自体が小さいこともあり、もう三十分もあれば上の教会で掃除をしている美羽の所へ手伝いに行けそうだ。

 家事のコツというものは異世界であっても役に立つのだな、とケンイチが感慨深げにうなずいていると後ろからか細い声が聞こえた。

 

「白浜さ……ん? 何をしているんですか?」

 

「あ、クラネル君。起こしてしまったかい?」

 

 ケンイチが掃除している物音で目が覚めてしまったのだろう。ベッドに横になりながらベルがケンイチを見つめていた。

 ケンイチはばつが悪そうに頭をかく。

 

「ごめんね、折角眠っていたのに、起こしてしまって」

 

「いえ、お気になさらず。こちらこそ、お客様である白浜さん達に掃除をさせてしまって……」

 

 ベルは一瞬起き上がろうとしたが、かろうじて自分の状況を思い出したらしく、すまなそうに頭を下げると再び枕に頭を下ろした。

 

「気にする必要はありませんよ。今日から僕たちもここで暮らすんですから。これくらい当然ですよ」

 

「そう言っていただければ幸いです。僕はもう少し休ませてもらいます……」

 

 ケンイチに礼を言うとベルは再び眠りにつこうと目を閉じ、布団をかぶりなおす。

 膨らんだベッドを一瞥すると、ケンイチも掃除を再開する。

 雑多に散らかった小物を一つずつ片付け、汚れた衣服と綺麗な服を分別し、食器も洗いなおそうと手を伸ばそうとしたところで、ふと、視線に気づいた。

 振り返れば、眠っていた筈のベルと目が合ってしまった。

 

「ええっと……僕に何か御用ですか?」

 

「あ……いや、その……」

 

 まさか、自分の視線に気づくとは思わなかったのであろう。ケンイチの姿を盗み見していたベルはやや慌てた様に意味不明なうめき声を上げる。

 その姿に、ケンイチはああ、と合点がいったとばかりにうなずく。

 

「あ……ひょっとして、掃除の音がうるさかったですか? それじゃあ、僕は上にいる美羽さんの手伝いに行きますね」

 

「い、いえ! そういうことじゃないんです! その、実は……」

 

 掃除用具を持ち、上に行こうとするケンイチにベルは今度こそベッドから飛び起きると思い切った様に自分が盗み見ていた理由を白状した。

 

「どうすれば、白浜さんみたいに強くなれるんだろうって思っていたんです!」

 

「え! 僕みたいに!?」

 

 思いがけないベルの言葉にケンイチは驚きの声を上げた。

 

「はい! だって、あれだけいたウォーシャドウを一蹴するなんて、並みの冒険者じゃまるで不可能なことを、まして白浜さんは恩恵も受けてないのに……! まるで神様たちが降臨する前にいたっていう古代の英雄みたいですよ!」

 

「い、いやーそんな英雄みたいだなんて……僕なんて全然大したことないよ?」

 

 英雄の様であったと、目を輝かせるベルにケンイチは困惑を隠しきれない様に頭をかく。

 ケンイチにとって英雄と言えば、師匠たちや友人たちの様に才能に溢れ、泰然自若とした者たちを指す。未だにチンピラや不良を前にすると挙動不審になる自分など英雄という言葉から世界で一番ほど遠いものだとケンイチには思えた。

 

「そんなことありませんよ! 謙遜なんかしないでください!」

 

「うーん……謙遜じゃなくて本当のことなんだけど……僕よりも強い人なんて元の世界に一杯いたよ?」

 

 ケンイチの言葉は正しい。闇との壮絶な戦いを乗り切ったとはいえケンイチは未だ達人どころか妙手の領域にすら至っていない。

 しかし、それは達人という遥か格上の存在を日常的に目の当たりにしてきたケンイチだからこその見解である。先ほど自身の神と出ていったケンイチの師匠たちがケンイチよりも強いということは分かっていてもどれほどのものなのかすら知らないベルは疑問の声を上げた。

 

「本当ですか……? 僕から見たら白浜さんってオラリオでもかなりの使い手だと思うんですが……まあ、僕もオラリオ有数の強者と言えばアイズさんぐらいしか知らないんですけど……」

 

「アイズさん……?」

 

「あっ……!?」

 

 何気なく呟かれた名前にケンイチが疑問符を浮かべるとベルの顔色が急に変わりだす。その様子を見て、この手の話に疎いケンイチも瞬時に事を察した。

 

「ひょっとして、その人が洞窟で言っていたクラネル君の憧れの人ですか?」

 

「うえええええっ!? ど、どうして分かったんです!?」

 

「あはは、そんなに慌てれば、そりゃ分かりますよ。それで、そのアイズさんってどんな方なんですか?」

 

「ええっと……実は僕もあんまり知らなくて。この間までは名前しか知らなかったんですが、一昨日ダンジョンで……」

 

 そう言って始まるアイズとの出会いにケンイチはしばし掃除の手を休めて、耳を傾けた。ダンジョンの中で怪物から逃げ回り、最後は憧れの人に助けられるという内容は年頃の男子ならば少々語りたがらない類のものであった筈だが、アイズがいかに強かったか、いかに美しかったかを夢中で語るベルの顔はうれしくてうれしくて仕方がないとばかりに輝いていた。

 例え、それがどんなにみっともない思い出であったとしても好きな人が関わっているのであれば瞬時に輝かしい情景となる。それは、ケンイチにも心当たりのあることであった。

 

「それでですね! アイズさんは華麗にミノタウロスを切り倒した後、何とこの僕に……あれ? どうしたんですか、白浜さん。そんなにニコニコと笑ったりして?」

 

「ん? いや、クラネル君は本当にアイズさんのことが好きなんだな、と思ったんです」

 

「!?!? な、何故分かったんです!?」

 

「いやー、実は他人事じゃありませんからね。僕には」

 

「そ、そうなんですか……あれ? ひょっとして……お相手の方って、美羽さんですか?」

 

「そうだよ」

 

「へー、そうなんですか……」

 

 あっさりと、美羽への気持ちを肯定したケンイチにベルは感心した様に声を上げる。好きな人を好きだと言える。簡単なようであるが、それができるのは自分にそれだけの自信がある人間だけだ。

 果たして自分は目の前の人間の様にアイズの事を好きだと言えるだろうか。

 そう考えたところで昨日の豊穣の女主人亭の一件を思い出し、一気に顔色が暗くなった。言える筈がない。いや、本来であれば懸想すること自体非難されても仕方のない程に彼我の差は大きい。せめて、目の前の人間程の力があれば話は違うのだろうが。

 ため息をつき、羨ましそうに自分を見るベルにケンイチは不思議そうに問いかけた。

 

「ええっと……どうかしたんですか、クラネル君?」

 

「いえ、やっぱり僕も白浜さんみたいに強くなりたいな、と思いまして」

 

「? なぜこの話の流れで……ああ、そういうことですか。そのアイズさんと自分では釣り合いが取れないから、ですか」

 

「ええ、その通りです。本当によくお分かりになられますね……」

 

 またしても自分の気持ちを言い当てるケンイチにベルは最早驚かない。

 

「その気持ち、痛いほどわかりますからね。僕も一年前は武術なんてやったこともない素人で、とても美羽さんにふさわしい男じゃなくて随分悩んだものでしたよ。まあ、今でも美羽さんには敵わないんですけどね」

 

「ええっ!? 美羽さんってそんなに強いんですか!? というか、白浜さんって武術を始めて一年しかたっていないんですか!?」

 

 恥ずかしそうなケンイチの言葉にベルは二重の意味で驚愕した。ケンイチの強さを目の当たりにしたベルだからこそ分かるが、ケンイチの強さは間違いなく上級冒険者の域に達している。

 上級冒険者と言えば上はレベル7から下はレベル2まで幅広い差があるが、共通する点が二つ存在する。一つはレベル1である下級冒険者とは隔絶した力を持つこと、そしてそしてもう一つはそこに至るまでに相応の時間が必要であるということだ。

 現在、レベル2に至った最短期間はアイズの1年だ。天才剣士の名をほしいままにしているアイズでさえ1年という時間が必要であったのだ。

 1年かかってレベルアップ、と聞くとずいぶん時間がかかっている様に聞こえるが、これでも驚異的な早さである。

 何せ、レベルアップを果たすにはただ漫然と経験値をためるだけでは不十分であり、果たす為には身の丈に合わない、自らの殻を打ち破り、神々すら賞賛するほどの偉業を成し遂げねばならないのだ。その為、冒険者の街であるオラリオでも上級冒険者は少数派であり、その少数も十年単位の活動の結果ようやく、という人間も多い。

 だが、その分、成し遂げた見返りも大きい。レベルアップをした魂は一段階上の存在へと押し上げられ、それに伴い肉体もまた、上位存在にふさわしい性能となるのだ。その上昇ぶりはステータス向上によるものとは一線を画し、神はこのことを存在の昇華、神への接近とまで表現するほどだ。

 それ程の力をアイズは僅か一年で手に入れたのだ。天才という言葉だけではもはや表現することも出来ない程に常識外れである。

 だが、その非常識を目の前の少年は成し遂げたのだ。いや、神の恩恵という、人間の潜在能力を引き出す要因を得ていないことを加味すれば、もはや同列に語ることすら見当違いか。

 何せ、恩恵を受けていない以上、ケンイチはレベルアップによる器の昇華もステータスによる能力向上すら得ていない。ただただ、愚直なまでに己の力を高める事だけで神の恩恵を受けた天才に並んでみせる。一体どれほどの才能が有ればそんなことが可能なのであろうか。

 

「白浜さんって、すごい天才だったんですね……」

 

 ベルの体からヘナヘナと力が抜けていく。ここまでくれば最早、羨ましいという感情すら起きなかった。あまりに自分と違う存在にベルはただただ感服するほかなかった。

 

「へ? 僕が天才? 冗談でしょう? だって僕、今まで戦った相手からは全員、師匠たちからも才能なしって言われてきましたよ?」

 

「ええ……いくら何でもそれは信じられませんよ」

 

 だが、そんなベルの言葉に対するケンイチの返答は思いがけないものであった。

 そんな筈がない。あのアイズですら手に入れるのに一年かかった強さを恩恵なしで手に入れることができる者が無才など謙遜が過ぎる。

 

「いや、本当なんですって。一年前の僕は典型的ないじめられっ子でしてね。その時、美羽さんに紹介され、師匠たちに鍛えられて今の力を手に入れたんです」

 

「あの人たちに……ですか……?」

 

 半信半疑のベルの脳裏に先ほど出ていった人たちの姿が映る。確かに筋骨隆々とした体格や泰然自若とした態度といい、ただ者ではない雰囲気をまとっていた。しかしながら、実際にその力量を見ていない以上、ベルにはその話を鵜呑みにすることはできなかった。

 昨日のダンジョンで、戦う姿を見れていたら話は別だったのだろうが……

 と、そこまで考えたところで気が付いた。

 

「あれ?」

 

「どうかしましたか、クラネル君?」

 

「あ……いえ、何でもありません……」

 

 突如、声を上げた自分に怪訝そうな視線を送るケンイチにベルは慌てて何でもない様に取り繕いながらも先ほど浮かんだ疑問について思考を張り巡らしていた。

 昨日のダンジョンからの帰還中、ケンイチの師匠たちが戦う姿を見ることができなかった。

 新人とはいえ日常的にダンジョンに潜っていたベルにだって分かる。そんなこと、あり得ないのだ。

 魔物たちを無限に生み出す工場であると同時に住処でもあるダンジョンには当たり前の話だが、魔物たちが大量に生息している。ましてや、時刻は深夜。昼間の様に沢山の冒険者がおらず、間引きがされていないため日中以上にその数は多かった筈だ。

 そんな場所に十人近い集団が忍ぶことなく移動していれば間違いなく発見された筈なのだ。

 だが、そうはならなかった。どういう訳かベル達の前に魔物たちの姿はおろか、声や足音すら一つも見当たらなかったのだ。まるでベル達一行に戦う前から怯え、逃げ出したかのように。

 他人に話せば誰もが一笑に付す話だろう。

 野生の動物ならば不利と見れば決して人を襲わないが、魔物にその様な理屈は通じない。

 多種多様な種を持つ彼らだが、どのような種であっても一度人間を見つければ、人間が憎くて憎くて仕方がないとばかりにたとえ数で負けようと力量で劣っていようともわが身を省みずに襲い掛かってくるのだ。

 唯一の例外が先日のロキ・ファミリアが出くわしたミノタウロスの集団逃走ぐらいのものだが、それも一度は戦い、力の差を見せつけられた上で起こったのだ。戦う前から魔物を遁走させるなど眉唾物としか思えない。

 思えないのだが、今のケンイチの話を聞いた後ではもしやという考えがベルの頭からぬぐい切れなかった、いや、そうであって欲しいと本心では願っていた。もし、あの人たちにそれ程の力があるのであれば、彼らに師事することで自分も強くなれるかもしれない。そんな考えがちらつき、気が付けば声が喉から飛び出していた。

 

「あの……白浜さん」

 

「ん? なんですか、クラネル君?」

 

「もし僕も弟子入りすれば、僕みたいな人間でも強く、なれるでしょうか……?」

 

 真剣なベルの表情にケンイチは一瞬気圧されたが、すぐに満面の笑みで答えた。

 

「勿論ですよ! クラネル君ならすぐにでも強くなれるに決まっています!」

 

「本当ですか!?」

 

 その言葉を聞き、ベルは決心した。自分もまたあの人たちに弟子入りすることを。当たり前のことだが、故郷に帰る手段を探している最中の彼らに指導を求めることが如何に非常識な事かはベルとてわきまえているつもりだ。だが、それでもいつか必ず憧憬へと手を届かせると覚悟を決めた少年にとって偉大な先達の教えを受けられるかもしれない好機を逃すことはできなかった。

 たとえ、断られても石にかじりつく勢いで頼み込み、手の空いた時だけでも教えを受けられるようにしよう。隼人たちが帰って来た時に向けて、ベルは固くそう決心した。

 そして、そんなことを考えていたためにベルの耳にはケンイチの最後のつぶやきが届くことはなかった。

 

「……まあ生き残れば、の話ですけどね……」

 

 

 

 隼人たちが帰って来たのは日も沈みかけ、そろそろ暗くなり始める時間帯であった。

 そのころにはベルの体調は起きて歩けるほどまで回復しており、ケンイチ達の反対を押し切り、掃除の手伝いまでできるようになっていた。

 三人の手によって上の礼拝所の片づけが一段落し、さて夕食はどうしようかと考え始めたとき、入り口の扉が勢いよく開かれ、そこから見覚えのある者たちが入って来たのだ。

 

「ホッホッホッ! 今帰ったぞ、三人とも」

 

「長老! お帰りなさい……うわっ! どうしたんですか、それ!?」

 

 そう言って入って来た隼人に目を移すや否や、喜んでいたケンイチの顔が驚愕に染まった。その後ろにいる二人も同様に、隼人たちが運んできた物に目を丸くしていた。

 隼人たちが持っている物、それは袋一杯の穀物や牛一頭を丸々使ったかのように巨大なブロック・ハム、動かすたびに水音がしていることから察するに大人一人が余裕で入る樽一杯に入った酒等々、およそ貴族のパーティーでも使いきれない程の食料であった。

 初めて見る御馳走を前にして呆然とするケンイチたちに至緒が得意げに自分たちの成果を見せた。

 

「ヘッヘッヘ……どうだ、すげえだろ。何せ今日は俺たちがこの世界に来て初めて屋根の下で過ごす夜だからな。景気づけに宴会でもやることにしたのさ」

 

「いや、確かにすごいですけど……一体この食べ物はどうやって……?」

 

「勿論買ったのさ、この世界の金を稼いでな」

 

「稼いだ? 一体どうやって?」

 

 ケンイチの至極尤もな疑問。それに答えたのは意外な人物だった。

 

「賭博場で稼いだのさ……」

 

「神様!?」

 

 ふらふらと隼人たちの後ろから現れた自分の主神にベルは驚愕の声を上げた。朝に別れてから数時間程度しか経っていないというのにその顔色は疲労により土気色になっていた。ベルは慌てて駆け寄り、ケンイチと美羽はおそらくはこうなった原因であろう人物たちに詰め寄った。

 

「な、ななな何をしたんですか、一体!? その稼いだお金、真っ当なんですよね!?」

 

「当たり前だろうが! むしろこれでも控えめだったんだぞ。もうちょっと頑張ればこの倍ぐらいは稼げたのに秋雨の野郎がそのへんにしとけって止めやがったんだ」

 

「仕方あるまい。あまり目立ちすぎるのは良くないからね。ああいう所では稼ぐのはほどほどにしておかないと刺客を差し向けられるからね。実際、ここに来るまでにもう30人ばかり返り討ちにしたじゃないか」

 

「し、刺客……? あの、本当にどうやって稼がれたんですの……?」

 

 聞こえてきた物騒な単語にケンイチと美羽もドン引きであった。

 

「アイヤー、三人ともそんな怖い顔する必要はないね。おいちゃん達は賭け試合をしてきただけね」

 

「賭け試合……?」

 

 そう言ってケンイチの頭に思い浮かべるのは一つの場所。以前、梁山泊の家計が苦しいと知り、至緒に相談した結果、ほぼというか完全に拉致監禁され連れていかれた裏格闘場であった。そこでは、夜な夜な腕に覚えのある者たちがルール無用の真剣勝負を行い、その勝敗で違法ギャンブルが執り行われていたのだ。

 このオラリオは冒険者の街だ。荒くれ者たちが集うこの街ならばそういう賭けが行われていたとしてもおかしくはないだろう。

 

「ヘスティア殿から、この街では外国資本の大きなカジノがあると聞いてのう。そういう場所ならばそういった趣向のものもあるのではないかと思ったら、案の定でな。ここは一つこの世界の冒険者とやらがどれほどのものか腕試しも兼ねて全員で参加してみたのじゃよ」

 

「え゛っ!? 師匠たちだけでなく、長老まで参加したんですか……!?」

 

「そう……だ。レベル4とやらが何人か出てきたが、正直ケンイチと同等かそれ以下だった……な」

 

「アパパ! アパチャイも頑張ったよ。アパチャイ、こういった場所で戦うのは久しぶりだったから、いつもより頑張ってたくさん相手を物理的に地獄に落としたよ! なぜか最後の方は皆逃げ出したけど!」

 

「うわあ……ですわ……」

 

 特A級の達人である師匠たちだけでなく、その上の超人レベルの長老までもが参加し、しかも相手はいい所で弟子クラス最上位程度という賭け試合。一体どのような惨事になったかは想像すらしたくない。

 賭場を開いていた胴元はさぞ肝を冷やしたことだろう。ケンイチはあったこともないその賭場の胴元に心の底から同情した。

 

「あー、ケンちゃん。どうやら胴元に同情しているみたいだけど、その必要はないね。こういった事態は賭場を開く以上起こり得ることとして覚悟してしかるべきだし、何より……」

 

「何より?」

 

「先ほど秋雨どんが言ってたでしょ、刺客を30人ほど返り討ちにしたって。あれ、儲けを奪われた胴元が奪い返そうとして差し向けたものね」

 

「ええっ! 刺客ですか!? だ、大丈夫だったんですか!?」

 

「あ、ああ大丈夫だったよ。ケンイチ君、君の師匠たちは強いんだね。30人もいた刺客だったけど全く歯が立っていなかったよ」

 

「え……?」

 

 30人の暗殺者に襲われたと聞き、焦った様子を見せるケンイチの姿にヘスティアは安心させようと師匠たちの無事を伝える。

 だが、ヘスティアの言葉に当のケンイチはその意図が分からないかのように首をかしげると、すぐにヘスティアの勘違いに気づき、訂正した。

 

「あ、いえ。僕が心配しているのは師匠たちじゃなくて相手の方です。師匠たちが30人程度の刺客に後れを取るとは思えませんし」

 

 きっぱりとした口調に神の権能を使うまでもなく本心だということがヘスティアは理解できた。きっと目の前の少年は元居た世界でもこういった騒動に巻き込まれていたんだろうなあ、と会って数時間の少年に同情を禁じ得なかった。

 

「ああ、そう。大丈夫かってそういう意味だったのかい……うん、まあ……死んではいないと思うよ、死んでは」

 

「そ、そうですか……」

 

 死んではいないということをやたら強調するヘスティアの口ぶりにおおよそのことをケンイチと美羽は察してしまった。

 そんな二人の心情などつゆ知らずとばかりに大人たちは和気あいあいと宴会の準備を始めていく。

 

「おい、秋雨。今日ばかりはパーッとやってもいいんだろ!?」

 

「やれやれ、まあ今日ぐらいは羽目を外してもいいだろう」

 

「アパパ! ハンバーグ、ステーキ、食べ放題! 食べ放題よ!」

 

「今日は久しぶりにおいちゃんも腕を振るって見せるね!」

 

「切るのはボクに任せ……ろ」

 

「ホッホッホッ! それでは皆の衆、早速宴会の準備を……」

 

 始めるかのう、と言いかけたところで隼人はピタリと動きを止めるとキョロキョロと自分たちの買ってきたものを見渡し、ようやく自分たちの失敗に気が付いた。

 

「しまったのう。食料を買ったのはいいが、肝心の食器を買い忘れてしまったわい」

 

「おお、そういえば確かにそうですな。我々としたことがついうっかり」

 

「ええっ!? 本当ですか。だとしたら急がないといけませんよ。もうすぐ冒険者がダンジョンから帰って来る時間と被りますし、そうなったらすごい人込みになってしまいますよ!」

 

 あっけらかんとした様子の隼人たちとは対照的に夜のオラリオの混雑ぶりを知っているベルは焦った様子で空をうかがう。

 空からは既に日が姿を消し、うっすらと白い色を帯びた月が顔を出そうとしていた。耳を済ませれば、寂びれたこの教会付近でも徐々に賑わいが起こり始めていた。

 この様子では一時間もすればベルの言葉通りとなるのは明らかであろう。

 

「なんと、それはいかんのう。それでは、ここはワシがひとっ走りしてしてくるかのう」

 

「ちょっと待ってくれ、隼人君。君は昼間の街並みを歩いただけだろう、夜のオラリオは初めてだし、ボクもついていくよ」

 

 飛び出そうとする隼人をヘスティは呼び止めると自分もついていこうとする。そして、隼人についていこうとするものはヘスティアだけではなかった。

 

「それでしたら、私もご一緒したいですわ。当分この街で暮らすことになりそうですし、物価の相場も知っておきたいですわ」

 

「あっ! 美羽さんも行かれるのなら僕も行きます。荷物持ちは必要でしょう!」

 

「まあ、それもそうじゃのう。ではワシらは行ってくるから留守番は任せたぞ、皆の衆」

 

「お任せください。長老」

 

 家計を預かる美羽とそんな彼女との夜のデートができるチャンスを逃すまいとするケンイチもヘスティアに続いた。

 隼人としても特に申し出を断る理由もなく、三人を連れて教会を出ていった。

 あとに残ったのは、達人たちと彼らに師事することを望むベルだけとなった。

 それは、つまりベルの弟子入りを止める、止めてくれる存在がいないということだ。

 

「やれやれ、長老にご足労をかけてしまうとは、どうやら我々は知らないうちに浮かれてしまったようだね」

 

「まあ、いいじゃねえか。おかげで美羽とケンイチも保護者同伴付きデートができたしな」

 

「ケンイチはともかく、美羽はそんなこと微塵も考えていなさそうだった……ぞ」

 

「そもそも、保護者同伴付きでデートと言えるのかね……?」

 

「アパパ……そんなことよりおなか減ったよ……じじい達早く帰ってきて欲しいよ」

 

「あの、皆さん!」

 

 突然のベルの大声に達人たちは虚を突かれたように振り返る。ベルの顔は緊張で真っ赤になっており、ただ事ではないということが見て取れた。

 しかし、当のベル本人は自身の状態など気にも留めない。何せ、今から自身の運命が決まるのだ。

 ごくりと生唾を飲み込み、そして遂にその言葉がベルの喉から飛び出した。

 

「僕を……僕を弟子にしてください!」

 

 

 

 

「ふー、やっぱり人込みに巻き込まれてしまったね」

 

「ですけど、良い買い物ができましたわ」

 

「ウム、そうじゃのう。これで当面はここでの暮らしに困ることはなさそうじゃわい……おーい、ケンちゃん。お主もそう思うじゃろう?」

 

「は……はいいいい……!」

 

 相場よりもずっと安い値段で生活用品を買うことができた隼人たちはうれしそうな顔で帰路についていた……約一名を除いて。

 その一名……息も絶え絶えといった様子のケンイチは三人からやや遅れた位置でふらふらとしながらもついてきていた。その背中には見上げるばかりの荷物が乗っかっており、今にもケンイチを押しつぶそうとしている。そんなケンイチを美羽は心配して話しかける。

 

「あのーケンイチさん。やっぱり私も持ちましょうか?」

 

「いいえ! 荷物持ちに来ると言ったのは僕ですから。美羽さんは心配しないでください! この程度! 普段の修行と比べればなんてことはありませんよ!」

 

 ほうら、この通り! と美羽の申し出をきっぱりと断ると、ケンイチは勢いよく走り出し三人に並ぶ。足はガクガクと震え、笑顔は引きつっており、誰が見てもやせ我慢だと分かるのだが、それを指摘するものはいない。当事者の二人と保護者の隼人は勿論、今日出会ったばかりのヘスティアも強引に美羽の分の荷物まで持ち始めたケンイチの姿に好きな子に荷物を持たせまいとする彼の心情が理解できたからだ。

 

「なんというか、男の子だねえ……ケンイチ君は」

 

「ホッホッホッ……まあ、美羽を任せるには最低でもワシを超える必要があるがのう。さあて、ケンちゃん。教会までもう一息じゃぞ」

 

「はっ……いっ……!!」

 

 あまりの重さに下がっていた視線を上げてみれば、いつの間にか教会まで数百メートルの所まで来ていた。

 あと少しで到着できる。そう考えれば体の底から力が沸きあがってくる。

 腰を持ち上げ背筋を伸ばし、足を振り出していく。教会まで百メートルを切り、数十メートルの所で膝が笑い始め、数メートルの所で体が崩れ、そして遂に倒れこむようにして教会にたどり着いた。

 

「つ、着いた……」

 

「お疲れ様ですわ、ケンイチさん」

 

「頑張ったのう、ケンちゃん」

 

「やったね、ケンイチ君。君の頑張りは神であるボクが認めてあげるよ」

 

 ケンイチの頑張りに各々が賞賛していると、教会の奥から大きな影が近づいてきた。

 

「あ、ケンイチよ! お帰りなさいだよ。おーい! 秋雨、ケンイチ達が帰って来たよ!」

 

「おお、そうかね。いや、すまないね、ケンイチ君。我々の不手際で随分迷惑をかけたみたいだ」

 

 アパチャイに呼ばれ、奥からやって来てニコニコとした表情でケンイチを労う秋雨。普段と変わらない様子であったがその右手に握られているものにケンイチは目を丸くした。

 

「あれ!? それってお酒ですよね? 岬越寺師匠ってあまりお酒を飲まれない方では……?」

 

 うっすらとだが顔を朱に染める秋雨の手には赤ワインの入ったグラスが握られていた。ケンイチは梁山泊で暮らして一年以上が経っているが、秋雨が酒を嗜んでいる所を見たことなど数えるほどしかなかった。

 

「ああ、これかい? 何、今日は実にめでたい日なのでね。たまにはいいかと思ったのだよ」

 

「ああ、成程ですわ。今日から私たちはここで暮らしていくことになりますものね」

 

「ああ、もちろんそうだが、実は君たちが出ている間にもう一つ喜ばしいことが起こってね。今、皆で喜びを噛みしめていたのさ」

 

「喜ばしいこと?」

 

 ケンイチが疑問の声を上げたところで教会の奥から至緒が酒瓶を片手に歩み寄って来る。その顔色は秋雨のそれよりも赤く、息も酒臭い。酒臭さに秋雨が眉を顰めるが、全く気付かない様子だ。完全に出来上がっているようだった。

 

「おい、秋雨! 早くケンイチに弟弟子を紹介してやれよ!」

 

「は? 弟弟子?」

 

 思いもよらない言葉に思考が停止するケンイチの前に至緒に続いてベルがやって来ると、ケンイチに深々と一礼した。

 

「どうも、白浜さん! 今日からよろしくお願いします!」

 

「へ? あ、ああ……うん、こちらこそ……? ええっと……クラネル君。弟弟子っていうのはどこのどなたなんですか?」

 

 まだ状況が呑み込めていないケンイチの言葉にベルはうれしくてうれしくてたまらないとばかりに告げた。

 

「僕です! 僕も白浜さんみたいに強くなりたくて! 僕も白浜さんの師匠たちに弟子入りしたんです!」

 

 ガシャン!

 その言葉を聞いた瞬間、ケンイチの手から荷物が落ちる。それだけでなく、顔面は蒼白になり、手が、足が震え出す。尋常ではないケンイチの様子にベルが慌てだす。

 

「うわっ! どうしたんですか、白浜さん!?」

 

「し……」

 

「し……?」

 

「正気かい! クラネル君!? この人たちに弟子入りするだなんて!?」

 

「えっ……!?」

 

 きっと、ケンイチも喜んでくれると思っていたのにまさかの言葉にベルも言葉を失った。

 

「この人たちの修行がどれだけ過酷か分かっているのかい!? 僕なんか一体何回死にかけたことか! いや、むしろ死なせてくれと何度願ったことか!」

 

「えっ……!? えっ……!?」

 

 混乱するベルの肩をつかみ、必死にケンイチは説得する。事態の展開の速さにベルはついていけていないのだが、それに気づく余裕すらないのか、ケンイチは雪崩の如く言い募る。

 

「いいですか! 今ならまだ間に合います。ここは一つ誠心誠意謝って無かったことに……ぐえっ!?」

 

「白浜さん!?」

 

 ベルの目の前で突如として崩れ落ちるケンイチ。その後ろにはいつの間にか小柄な中年男性が佇んでいた。

 

「おやおや、突然眠っちゃうなんてケンちゃん、ずいぶん疲れていたみたいね。ここは師匠としておいちゃんが責任もって見ておくから後は任せるね、みんな」

 

「へ、任せときな! 久しぶりの弟子候補、絶対に逃さねえよ!」

 

「う……ん。脅迫……じゃなくて説得は得意……だ」

 

 明らかに眠ったのではなく、眠らされたケンイチの体が下手人の手によって運ばれていく。

 哀れな犠牲者の姿をまるで隠すようにしてベルを取り囲む達人たちの姿に、ベルはようやく、しかしあまりにも遅まきながら恐怖を感じた。

 

「あの……皆さん? なんか、白浜さんが恐ろしいことを言っていたような……? あの……大丈夫なんですよね?」

 

 恐怖のあまり、抽象的な物言いとなる。案の定、秋雨はそれを都合のいい解釈をする。

 

「はっはっはっ! 安心し給え、ベル君。先ほどのあれはケンイチ君の悪ふざけさ。我々に任せてもらえれば、達人の世界に転がり落ちること間違いなしさ!」

 

「いや……僕の言っている大丈夫と言うのはそういう意味では……というか転がり落ちるって、なんか不穏な響きなんですけど、普通そこは上り詰めると言うべきでは?」

 

 当然のベルの疑問に答える秋雨の口調は優しい。しかしなぜだろうか、ベルにはそれがまるで罠にかかった獲物を逃がすまいとする猟師を連想させた。

 

「いいかね、ベル君。上るという表現は途中でやめることができる場合に使うものだよ。しかし、我らに任せた以上は中途半端などあり得ない。見事転がり落ち切って見せるか、もしくは命を落とす……いや、死ぬことも許さないからやはり落ちきるしか道はないね」

 

「えっ……!? えっ……!? えっ……!?」

 

 話の端々にちりばめられた危険な単語の数々がベルの生存本能に最大級の警鐘を鳴らす。これと比べれば先日のミノタウロスからの逃走など子供の鬼ごっこみたいなものである。

 自分のやらかした失敗とそれが引き起こした事態にベルの血の気が引いていく。このまま自分は若き命を散らしてしまうのか、そうベルが絶望しかけたとき、救いの手が差し伸べられた。

 

「ちょーと、待ったああああっ!」

 

「神様!?」

 

「む、ヘスティア殿。何か問題でも?」

 

 自らの眷属の危機にヘスティアが秋雨の前に立ちふさがる。その小柄な体を精一杯広げベルを秋雨から隠すようにして睥睨する。

 

「問題も何も、さっきから僕のベル君にやれ死ぬだの転がり落ちるだの物騒極まりないことを言ってくれたじゃないか!?」

 

「成程、確かに少々不安がらせることを言ってしまったようだね。これは確かに我々の落ち度でしたな、申し訳ない」

 

 怒りで顔を赤くするヘスティアの弾劾に秋雨は素直に自分たちの非を認める。だが、そこで引き下がる様な男が特A級の達人になどなりはしない。

 

「しかし、安心してもらいたい。我々も鬼ではない。弟子入りしてすぐのベル君にいきなり無茶などさせはしませんよ」

 

「……本当に? 言っとくけど神であるボクには君たちの嘘を見抜く能力があるんだからね」

 

 秋雨の言葉にヘスティアは疑り深そうにしながら自らが持つ神の権能を説明する。

 地上に降り立ち、不自由さを満喫するために自らの力のほとんどを封印した神々だが、いくつかの力は権能として残していた。嘘を見抜くというのはその中の一つだ。これにより、神を謀ることは確かにできないのだが……

 

「ええ、勿論ですよ。明日からの修行はベル君の体が出来上がるまでは(我々の基準において)軽いものにしますし。怪我、ましてや命に関わるようなことは(修行を続けさせるためにも絶対に蘇生させるので)ありません」

 

「むう……どうやら嘘は言ってないようだね。安心していいよ、ベル君」

 

 しかし、それは嘘を見抜くというだけであり、真実を見抜くわけではない。相手がそれを嘘と認識していなければ嘘として感知できないのだ。

 秋雨の『嘘だけは言っていない』言葉にヘスティアは納得し、ベルも胸を撫でおろした。

 

「ほ、本当ですか!? ふー、びっくりしました。すみませんでした、岬越寺師匠。弟子入り初日から疑うようなことをしてしまって」

 

「ははは……それはお互い様さ。こちらも誤解させるようなことを言ってしまったからね。お互い今日のことは水に流そうじゃないか、ベル君。今日から我々は師弟なのだから」

 

「はい、よろしくお願いします!」

 

「頑張りなよ、ベル君。僕も応援しているからね!」

 

 和解し笑いあう師と弟子、そして保護者。一見すれば微笑ましい光景であろう。しかし……

 

「何故でしょうか、お爺様。私は今、時限爆弾を見ているかのような気分ですわ……」

 

「ホッホッホッ! 若いころは苦労をしとく者じゃぞ、美羽」

 

 こうして、異世界からの闖入者が混じって最初のオラリオの夜が更けていく。その夜が明けたとき、なにが起こるかは誰も分からなかった。

 

 

 

 







 遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
 ようやく、今回ベル君の弟子入りが決まりました。次回からは皆さんお待ちかねの修行パートへと移ります。このSSではケンイチの強さは大体レベル4ぐらいとしています。美羽でレベル5で達人以上からは測定不能です。異論はあるかもしれないですが、どうかご了承ください。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。





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第六話

 お祖父ちゃん、いかがお過ごしでしょうか。

 お祖父ちゃんと別れた後、僕はお祖父ちゃんに言われた通り、オラリオに来て英雄を目指しています。

 オラリオには何でもある、世界の中心だと言っていたお祖父ちゃんの言葉に嘘はありませんでした。見たこともない食べ物に娯楽、そして何よりたくさんの冒険者たち、あの小さな村の中だけが全てであった僕には見る物全てが新しい発見ばかりでした。

 その全てを語りつくすには一日では終わらないでしょう。しかし、ここで一つ報告したいことがあります。

 もう当分の間ないと思っていたお祖父ちゃんとの再会ですが、

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ゛ああああああああぁぁぁっっ!!」

 

 どうやら思ったより早く叶うことになりそうです。

 背中に走る激痛が現実逃避をしていたベルを強制的に現実へと引き戻す。

 薄い霧がかかった早朝のオラリオの街のメインストリート。昼間は多くの人で賑わうこの道もこの時間帯ならば人はまばらで、ほとんど見かけない。

 しかし、いざ人と出会えば皆一様にベルとその後方にある物体を凝視し、すぐにかかわりを避けようとそそくさと姿を消していく。

 人のいなくなったメインストリートにベルの小柄な体躯が疾走する軽い音が鳴る、と同時にガラガラという重苦しい車輪音、そして鞭の唸る音とベルの叫び声の三重奏が響き渡る。

 

「遅い! もっと速く! これでは亀に抜かれてしまうぞ!」

 

「ぎゃあああああっ! 鬼! 悪魔!」

 

 怨嗟の声を上げるベルの体には腕程にも太い縄が巻き付けられており、それが後方の荷車とベルを結び付けていた。

 その荷車の上には師匠である秋雨が座っており、彼が重し兼監督役をしていた。これだけならばまだ常識の範囲内なのだが、彼の手には鞭が握られており、ベルの走る速度が落ちるたびに叱咤の鞭を入れていた。誰がどう見たって拷問である。

 これを見て、かかわりを避けようとした先の人間たちは流石冒険者の街オラリオの住人といった所であろう。

 

「う、嘘つきぃぃぃっ! 師匠、昨日あまり厳しくしないって言っていたじゃないですか!」

 

「うむ、言ったね」

 

「無茶苦茶厳しいじゃないですか!?」

 

 目を血走らせるベルの言葉に嘘はない。既にこうして荷車を引いて一時間が経とうとしている。100人がこれを見れば99人が苛烈極まりないどころか殺そうしているとしか思えないだろう。

 

「はっはっはっ……厳しくないよ~全っ然!」

 

 しかしながらここにいるのは100人の中の1人だった。ベルの反論を秋雨はこんなものなどまだ序の口と一笑に付す。

 普通に考えれば秋雨が適当なことを言っていると考えるべきなのだが、ベルは知っている。昨日、厳しくしないという秋雨の言葉にヘスティアは嘘を言っていないと断言したのだ。神であるヘスティアには人間の嘘を見抜く能力がある。

 そんな彼女が嘘はないと言った以上、指し示される事実は一つだ。

 恐ろしいことに秋雨は心の底からこの仕打ちを優しいと思っているのだ。

 軽い準備運動でこれだけのことをさせる男が本気になれば一体どんな修行が待ち受けているのか。想像しただけでベルの背筋が寒くなる。

 結局、ベルが解放されたのはそれから一時間後、眼窩から一切の光が失われた状態で教会に帰って来た時であった。

 

「あ……あ……ああ……」

 

 崩れ落ち、青色吐息となったベルの口から洩れる言葉は既に言葉の体を成していない。心臓は破裂するのでは、とばかりに鼓動を打ち続け、汗は一滴も出なくなって久しい。

 半死半生とはこのことであろう。普通ならば病院に連れていくなりなんなりするのだが、秋雨は倒れるベルを一瞥するとこうのたまった。

 

「はっはっは……ベル君、早起きして眠いのは分かるが、流石に修行初日から居眠りとは感心しないね。さあ、顔を洗って目を覚ましてくると良い。準備運動も終わったし、早速修行を開始しようじゃないか」

 

 この人、目がおかしいんじゃないだろうか。

 死にかけの自分に更なる修行を課そうとする秋雨の姿にベルはそう思った。

 

「む……無理……で……す。おねが……少、しだ……休ま、せ……て」

 

「何を弱気なことを言っているのだね、ベル君。時間は有限なのだよ。その様な弱音を吐く暇など君には残されていないのだよ?」

 

「まあまあ、秋雨どん。いくら何でも初日から飛ばし過ぎね」

 

 尚もベルを地獄に叩き落とそうとする秋雨に剣星から待ったがかかる。

 

「ベルちゃんはこの間まで素人同然だったね。そんな人間にいきなり何でもかんでも詰め込むのはかえって効率よろしくないね。適度に休憩を挟む方がかえって効率いいね」

 

「むう……剣星がそこまで言うのなら仕方がないね」

 

「あ、ありがとう、ございます……!」

 

 理路整然とした剣星の物言いに、さしもの秋雨も不承不承ながら引き下がる。その姿にベルはこの時だけは、在りし日のヘスティアと同じ視線を剣星に注いだ。そう、この時『だけ』は

 

「それじゃあ、ベルちゃん。休憩する前にこれを頭の上に乗せるね」

 

「は? これは……」

 

 教会の壁にもたれかかるベルに剣星は果実を一つベルに手渡す。

 不思議そうにしながらも素直なベルはそれを頭の上に乗せると慎重にバランスを取る。

 

「うんうん、そのままね。それを乗せたまま動かないね……おーい、しぐれどん。出番ね!」

 

「う……ん。任せ……ろ」

 

 満足そうに剣星は頷くと、離れたところにいたしぐれを呼ぶ。呼ばれたしぐれは刀を片手にベルの前に立つ。

 とてつもなく嫌な予感がベルを襲う。

 

「あの……馬師匠、これは……?」

 

「いやね、折角だし休憩と同時に恐怖を克服する訓練も一緒にやってしまった方が効率いいと思ったね」

 

「は? それは、一体……」

 

 ベルが問いただそうと腰を浮かした瞬間だった。

 

「ふん!」

 

「ほああああああああああああああああああっっ!?」

 

 しぐれの一閃がベルの頭上の果実を両断し、ベルの頭ギリギリの所で寸止めされる。刀の冷たい感覚が頭皮から感じられる。あと少しでもズレていたらベルの頭も果実同様に二つに断たれていたに違いない。

 

「成功ね。流石しぐれどん。ベルちゃんぐらいの子でも何をされたか分かるぐらいの速度で斬りかかることで最大限の恐怖を与えたね」

 

「それ程でもな……い」

 

 剣星の賞賛にしぐれは謙遜しながらもまんざらでもない様子であった。が、被害者のベルにとっては果てしなくどうでもいいことである。

 

「な、ななな、何をするんですかああああっ!?」

 

 飛びつきたくても頭に刀が乗せられている故に動くことができないベルは硬直した状態で剣星に涙声で抗議する。

 しかし、剣星もしぐれもきょとん、とした様子で何故自分たちを非難しているのか分からないという様子で答える。

 

「何って……休憩ね。精神修行も兼ねた。体を休ませると同時に精神を鍛える。まさに一石二鳥ね」

 

「何故、怒るん……だ? かすり傷どころか痛みも無いようにしたの……に?」

 

 そうか、おかしいのは目じゃなくて頭だったのか。

 トンデモ理論を提唱する剣星としぐれの姿にベルはようやく真実にたどり着いた。こうなったら自分以外に常識を持っているであろう人物は兄弟子しかいない。

 

「白浜さん! ちょっとこの人たちに……」

 

 ベルはケンイチの方へと振り向き

 

「熱っ! ちょっと、逆鬼師匠! 少し火の勢いが強すぎますよ!」

 

「ん、そうか!? 悪い、悪い。なんせこれをやるのは初めてだからな、つい加減を間違えちまった」

 

 そして、固まった。

 振り向いたベルの目の前ではケンイチが逆さづりにされた挙句に下から火あぶりにされていた。ひょっとして処刑されているのだろうか。

 

「あ、ベル君。頑張ってる? 最初はきついと思うけど僕も以前やったことだし君なら何とかなると思うから頑張ってね!」

 

「ええっと……はい、ありがとう、ござい……ます……?」

 

 困った。助けを呼ぼうとしたら助けを求めた相手の方が悲惨な目にあっていた。しかも平気そうな顔で逆に励まされてしまった。

 こういう場合、自分は何と言うべきなのだろうか。助けに行くべきなのだろうか、それともそちらも精が出ますね、とでも返すべきなんだろうか。

 ベルが十と余年の生涯で一番頭を悩ます前でケンイチは腹筋と背筋を交互に使うことで背と腹どちらか一方だけが火に当たり続けることを避けていた。

 おそらくは処刑ではなく、腹筋と背筋を同時に鍛える訓練なのだろうが、果たして火あぶりにする必要があるのだろうか。

 

「さて、休憩もこれぐらいでいいだろう。さあ、早速修行を開始しようじゃないか。ふむ、始めが肝心だからね、さて……誰が初日の修行を担当しようか……?」

 

「……っ!?」

 

 秋雨の言葉にベルの体が反応する。そうだ、悠長に他人の心配をする余裕など自分にはなかったのだ。これから自分もこの非常識の塊のような人間たちの嵐の様な修行を受けさせられるのだ。

 唯一助けてくれそうな自身の主神も今日は神々の会合に出かけると朝早くから出かけており、この場には存在しない。

 そう、今の自分は孤立無援の状況。このまま事態の流れを傍観していれば待っているのは確実な死である。

 大げさかもしれないがベルは本気でそう考え、事態の打開に向け高速で頭を回転させる。修行を誰が担当するか考えている今ならば自分の希望が通る公算が高い。ならば慎重にそして迅速に選ばなければならない。

 まず、秋雨。却下である。鞭打ちランニングが準備運動と考えている人間とか絶対ヤバい人である。

 続いて剣星。却下である。精神修行と休憩を同時にやろうとか発想がヤバい人である。

 次はしぐれ。却下である。見た目麗しい女性だが表情一つ変えることなく斬りかかるとか、絶対ヤバい人である。

 そして、至緒。却下である。弟子を笑顔で火あぶりにできるとか絶対ヤバい人である。

 以上のことから考えた結果、ベルは消去法から一人の人物へとたどり着く。

 

「うむ、そうだな! 今日は初日だしここは至緒にでも……」

 

「あの! それでしたら、僕是非修行をつけていただきたい人がいるんです!」

 

 秋雨の言葉を遮る様にしてベルは叫ぶと、消去法で選んだ人物を指さす。皆の視線がその人物に集中する。

 瞬間、四人の達人がほう、と感心した声を上げ、ケンイチだけがげっ、という声を上げた。

 

「僕、アパチャイさんに修行をつけてほしいです!」

 

「アパパッ! やったよー! ベルはアパチャイを選んでくれたよ! アパチャイ、頑張ってベルに人のぶっ殺し方教えるよー!」

 

 手を振り上げ快哉を叫ぶその姿はまるで子供の様な純真さである。これならば他の人間たちの様な無茶苦茶な修行などさせないだろう。ベルは冷静に地雷の選択肢を外していった自身の判断に会心の笑みを浮かべた。

 だがベルは知らなかった。消去法とは時に最悪の選出方法となる可能性があるということを。

 

 

 

 

 

 

 時刻は正午。昼食を食べにごった返すオラリオのメインストリートの一角にある服屋。

そこでヘスティアは自身の古くなった服を片手に店員と押し問答を繰り返していた。

 

「頼むよ、この服を仕立て直してくれ! 確かにここで買ったんだ!」

 

「し、しかし女神様、当店ではそういった奉仕は扱ってはなく……」

 

 ぴょんぴょんと二つに縛った黒髪を飛び跳ねながらヘスティアは古着を店員に押し付け、店員はそれを受け取るまいと四苦八苦していた。

 あまりの騒ぎに周囲の注目を集めているのだがヘスティアはそれを黙殺して店員に頼み込んでいた。

 ヘスティアがここまで食い下がる理由、それは握りしめられた服を今日どうしても着る必要があるためだ。今日は神の宴という神々の会合が執り行われる。

 普段であればヘスティアはそういった催しには参加しないのだが、今回そこにいるであろう神に頼み事をする為、急遽参加することにしたのだが、そこで気づいたのである。

 自分にはそういった会合に参加するための服を持っていないということに。

 慌ててふさわしい服を探してみたところ、唯一着て行けそうな服は長年ほったらかしにされた為にボロボロになっていた。その為、仕立て直してもらおうと買った店まで服を持ち込んできたわけだが……

 

「ケチ臭いこと言わないでくれよ! 今日は宴があるんだ、ほつれてるところだけを直してくれれば、みっともなくなくなればそれで構わないからさ!」

 

「そ、そうは申されましても……」

 

 店員はちらりとヘスティアが押し付けてくる服に目を落とす。

 デザインを見る限り、元は神が着るにふさわしい一品であっただろうそれは、押し合いによりもみくちゃにされ、皺だらけになっている。しかし、それ以上にほつれがひどい。破れこそないが仕立て直すには少々手間がかかる。しかもそれを今夜までというと半ば店の業務を放り出してこれに掛かり切る必要があるだろう。

 それなのに、目の前の女神は一般的な仕立て直し代しか払わないというのだ。いくら何でも横暴だ。

 とはいえ、相手は女神。あまり粗雑に扱うのも気が引ける。だからこそ、何とか翻意にさせようと頑張っていると……

 

「……ん? やれやれ……またかい」

 

 突如、ヘスティアはキョロキョロと辺りを見回し、ため息をついた。

 

「女神様、どうかされましたか?」

 

「ああ、いや何でもないんだ。気のせい、気のせい」

 

 不思議そうな店員にヘスティアは軽く手を振ってごまかす。

 そう、何てことはない気の迷いである。一瞬ベルに授けた恩恵が消え去る様な気配がしたのだ。勿論、恩恵が消え去るなんてことは通常あり得ない。だから、これはヘスティアの勘違いに違いないのだ。もしあるとすれば、それはベルが死亡した時ぐらいだが……

 思い浮かんだ己の馬鹿な考えにヘスティアは肩をすくめる。

 

「まさかね。この時間帯ならばまだ修行を続けている筈でまだダンジョンに潜っていないし、それに……」

  

 そう、ベルが死亡したなんてありえない。何らかの手違いによりダンジョンに潜りそこで奮戦むなしく敗北したという所までならあり得るかもしれない。

 しかし、実はヘスティアの気のせいはこれが初めてではないのだ。どういう訳か、今朝から『何回も』恩恵が消えかかった様な気配がしているのだ。当たり前だが、ベルは人間であり、超越存在である神の様に複数の命を持っていない。何回も死ぬなんてことは物理的に不可能だ。だから、これはヘスティアの勘違いに決まっている。

 まあ、心臓が止まっては蘇生し、止まっては蘇生するを繰り返したならばこの奇妙な状態になるかもしれないが……

 

「……って、そんな事よりも。なあ、頼むよ。一生のお願いだ。キミとボクの仲だろう?」

 

「いやいや! 私は今日初めて女神さまに会いましたよ!?」

 

 再び交渉に入るヘスティアと素っ頓狂な声を上げる店員。奇妙なやり取りはこれから一時間後、ヘスティアの粘り勝ちとなるまで続けられ、その頃にはヘスティアの頭の中からはこの勘違いの事はとっくに消え去っていたのであった。

 

 

 

 

 






 第六話、完成しました。
 ようやく、このSSを書く上で書きたかった修行パートにたどり着けました。ここまでたどり着けたのは読者様たちのおかげです。本当にありがとうございました。これからも頑張っていきますのでよろしくお願いいたします。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。





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第七話

「はっ! 今、何時……って、うわっ!? もうこんな時間!?」

 

 ベルはベッドから飛び起き、傍らの時計に目を向けると目を見開き驚く。いつもよりも一時間以上遅い起床であった。己の愚かしさにベルは悪態をつく。よりにもよって今日の様な特別な日に寝坊をしてしまうとは。

 

「あわわ……大変だ! はやく上がらないと!」

 

 慌てて、準備を始めたときだった。

 

「ベル君! 目が覚めたのかい!?」

 

「あ! 白浜さん、おはようございます!」

 

 ドアを吹き飛ばさん勢いで入って来たのは自身の兄弟子であるケンイチであった。寝坊してしまった自分を心配してきてくれたのだろう。その表情には焦燥の色が濃ゆい。

 兄弟子を心配させてしまったことに申し訳なさを感じながら頭を下げる。

 

「すいません! 寝坊をしてしまいました! 師匠たち、怒っていますよね!? 今、行きますので!」

 

「い、いやいや、何を言ってるんだい? 昨日、あんなことがあったんだからもう少し寝込んでいたって大丈夫さ。それよりも、体は大丈夫なのかい?」

 

 そう言って、ケンイチはベルの体をあちこち触ったりして異変がないかを確認しだす。寝坊をした自分に怒りを露わにすることもなく、それどころかこうして気遣ってくれるケンイチにベルはありがたさと恥ずかしさが入り混じった様な顔をする。

 

「ああ、もう大丈夫ですよ。全然平気です。それよりも、早く師匠たちの修行を受けたいです!」

 

「そ、そうなのかい? それにしても昨日はあれだけ生死の境を彷徨ったのに、修行を受けたいだなんて、ベル君は肝が太いんだね」

 

「あはは……生死の境を彷徨ったなんて、白浜さんは大げさですね。高越寺師匠も言っていたじゃないですか、ただの過労だって」

 

「………………え?」

 

 昨日と言ったのに、一昨日にダンジョン帰りに倒れたことを持ち出すベルにケンイチは凍り付く。まさか、ベルは……

 ベルの言葉に固まるケンイチの前でベルは朝の支度を終えると、地上にいるであろう師匠たちの下へと地下室から飛び出していく。

 

「それではケンイチさん、僕はお先に失礼します! さあて! 今日は師匠たちの初修行の日です! 張り切っていきましょう!」

 

「やっぱり、昨日の記憶が……! ま、待つんだ! ベル君! 行っては……行っちゃだめだあああっ!!」

 

 頭部への過度の衝撃によるものか、あるいは強すぎる恐怖体験に心の防衛機能が働いたのか。昨日の惨劇を完全に忘却したベルに戦慄するケンイチの声が轟く。

その大きさは近隣住民全員が驚く程であったが、その五分後、アパチャイの姿を捉えた瞬間に記憶がフラッシュバックしたベルの叫び声はそれを上回るものだったという。

 

 

 

 

 

 

 

 早朝のオラリオのメインストリート。いつもの如くダンジョンに向かう冒険者でごった返す代り映えのない光景であったが、今日は一つの変化があった。

 足場の踏み場もない程に込み合っている筈のメインストリートの一角にそこだけ不自然な隙間が出来ていた。

 

「シル、別にあなたが来る必要はなかったのですよ」

 

「そうはいかないわ、リュー。ベルさんを呼んだのは私だもの。なら、最後まで私が責任を持たなくちゃ」

 

 その隙間の中心にいたのはエルフとヒューマンの少女たち。彼女たちが身に着けているのは薄緑と白を基調としたエプロンドレス。知る人ぞ知るオラリオの隠れた名店、豊穣の女主人亭の制服であり、それはそのまま彼女たちがそこの従業員であることを示していた。

 なぜ、飲食店の店員が冒険者が闊歩するメインストリートにいるのか。それは周囲にいる者たち全員の共通した思いであり、見目麗しい少女二人を荒くれ者揃いの冒険者たちの誰もが遠巻きに見ているだけの理由でもあった。

 

「何を言うのです、シル。無銭飲食をしたのはあの少年であって、貴女はただうちの店を紹介しただけです。責任の全ては彼にあり、そしてその落とし前は必ずつけさせるべきです」

 

 周囲の怪訝そうな視線など意に介することなく、リューと呼ばれたエルフの女性がヒューマンの少女に力説する。

 冒険者でもない彼女たちがこんな時間に出歩いている理由。それは三日前の夜、彼女たちが勤める豊穣の女主人亭で食い逃げがあったのだ。犯人は十代半ばの少年。見るからに都会慣れしていないお上りさんで、シルがいつもの手段で巧みに客寄せした哀れな被害者、と見えていたのだがその実、とんでもない食わせ物であったようだ。

 本来であればおそらくはレベル1の駆け出し冒険者であろうその少年の逃走など無駄に戦闘力の高い店員と店長たちによって取り押さえられていた筈であった。

 しかし、生憎とその時は最も混雑する時間帯であり、加えて少年の敏捷はレベル1にしてはなかなかのものであったらしく、店長のミアが気づいた時には少年の姿は夜の闇に隠れてしまっていた。

 結果、不埒な食い逃げ犯を懲らしめてやろうと店の中でも腕こっきのリューに、少年を店に呼んだ自分にも責任があると言って強引についてきたシルの二人は少年が所属しているというヘスティア・ファミリアに向かうことなったのだ。

 友人の好意を裏切った少年に対し憤りを隠せないリューとは対照的に裏切られた筈のシルに怒りはなくむしろリューを宥める方に回った。

 

「それはそうなんですけど……ベルさん、あの時泣いていたんですよね。多分何か理由があったと思うの。だからリュー、出来ればあまりひどいことをしないであげてほしいの」

 

「シル……」

 

 この期に及んでまだ食い逃げ犯のことを思いやれる親友にリューは驚嘆とも感心ともとれるつぶやきを零す。

 この甘さを愚かと断ずるのは容易い。過去に様々な悪と戦ってきたリューの経験にしてみれば無制限な思いやりなど、騙してくれと言っているようなものだ。

 だが、時にはそれによって救われる者もいるのだ。そう、例えば自分やおそらくは同僚の者たち。

 ならば、自分はその甘さを決して否定すまい。肯定し、その上で何かしらの不都合がシルの身に降りかかったのであれば自分がそれを振り払えばよいのだ。

 そんな風にリューが決意を新たにしていると

 

「だって……」

 

 一転していたずら気に目を輝かしながらシルはリューの顔を覗き込む。

 

「リューがやりすぎてしまって、暴行罪で捕まってしまったら大変ですし」

 

「シル!」

 

 顔を真っ赤にしてリューは叫ぶ。突然叫び出したエルフに周囲の視線が集中する。

 怒りとは違う意味でリューは顔を赤くすると、シルをにらみつける。

 

「シル、今のはひどい侮辱です。早急に撤回と謝罪を求めます」

 

「ごめん、ごめん。でも、リューってばいつもやりすぎてしまうでしょう? だから、私が監視役に行かないと」

 

「くっ……」

 

 レベル4冒険者の剣幕もそよ風の様に受け流す友人の言葉に、思い当たる所があるのかリューは悔し気に呻く。

 実際、いろいろなことをやりすぎてしまうという点は自他共に認めるリューの悪癖の一つであった。しかし、それにしたってシルを守って見せると決意したタイミングで揶揄うことはないのではないか。

 言葉では勝てないと分かるとリューはそのままこの話は終わりだとばかりに顔を背けて早足で歩いていく。その耳は根元から先っぽまで真っ赤に染まっている。

 まるで子供の様に拗ねるリューにシルはくすくすと忍び笑いをしながらついていく。

 そして、歩くこと十数分。ようやく目的地に着いた。

 

「ようやく、着きましたね。ここがあの少年の住処ですか」

 

「うわあ、何というか。ベルさん、本当に苦労してるんですね……」

 

 騙して連れてきたの悪かったかしら、と三日前の己の行動を少し反省するシルとリューの前に建っているのは朽ちかけた教会であった。神の家として敬虔なる信徒が暮らしていたのは今や昔、ここで暮らしているのは野良猫ぐらいのものであろう。

 

「いえ、ここに暮らしているのは猫は猫でも泥棒猫でしたか」

 

「リ、リュー……?」

 

 ボキボキ、と拳を鳴らし始めるリュー。その表情には怒りの色はなかったが、無表情なのがかえって恐ろしい。こうなったリューの頭には自重の二文字はない。

 単に不埒ものに天誅を加えるだけならばここまで不機嫌になることはない。どうやら先ほどの悪ふざけはエルフの中でも特に生真面目な親友の機嫌を思った以上に損なわせていたらしい。

 目が完全に据わっていた。

 

「えっと……本当に後ろ手に回る様な事をしちゃ駄目よ? 私、ベルさんもそうだけど貴方とも会えなくなったら悲しいから」

 

「何ですか、その言い方は? まるで私が捕まることが前提の様な物言いではないですか。安心しなさい、ちょっと脅かすぐらいですから」

 

「本当に? 本当にちょっと脅かすぐらいで済ませるのね? 暴力とか振るわずに」

 

「…………」

 

「ねえ! 何故、無言になるのリュー!? あ、ちょっと!」

 

 必死に語り掛けるシルを黙殺し、リューは足音を荒くし教会の敷地へと入っていき、教会の扉の前に立つ。

 

「頼もう! こちらは豊穣の女主人亭の者だ。先日、そちらの眷属が代金を払わずに逃げた件について話がしたい!」

 

 リューの凛とした声が辺りに生い茂る草花を揺らす。

 首の長い草花が一回、二回と揺れ、やがてその振れ幅も小さくなり、遂に止まった所でリューは短く息を吐く。

 

「成程、あくまで居留守を決め込みますか。それならばこちらも考えというものが……む?」

 

「どうしたの、リュー?」

 

「向こうから、何やら声が……」

 

 すたすたと、中庭の方へと移動する。移動するにしたがって声は大きくなる。おそらくは複数人。少年の声も聞こえる他、少女、男性、女性、老人の声も聞こえてくる。

 居留守を決め込むのであれば、静かにするはずなのにその様な素振りも見せない様子にリューとシルは首をかしげながら歩き、そして角を曲がり中庭へと入った。

 

 

 

 

 

「いいいいいいいやああああああああああっっ!! やああああああめええええええてええええええええっっ!!!」

 

「「……え?」」

 

 そこでは、件の食い逃げ犯の処刑が行われていた。少なくともリューとシルにはそうとしか見えなかった。

 身動き一つできない様、十字架に括りつけられた白髪の少年に、黒髪の女性が次々と斬撃が振るわれるが、何れも薄皮一枚で少年の体を避けていく。いっそ惚れ惚れとする技量だが、実際に行われている少年にとってはたまった物ではないだろう。

 あまりに想定外の事態に言葉を失う二人の前で恐怖のショータイムはいよいよクライマックスを迎える。

 

「いく……ぞ、ベル、これが香坂流短刀術の基本の型……だ」

 

 そう嘯くと、女性の斬撃は勢いを増していく。同時にさらに増していく少年の悲鳴。結局、女性が短刀を納め、少年が解放されたのはそれから五分後の事であった。

 

「ヒュー……ヒュー……」

 

「ほう……この修行方法はなかなかいいね。ただ斬りかかるのではなく、覚えるべき基本の型で斬りかかることで、休憩と精神修行を兼ねるだけでなく、見取り稽古による技と目を鍛える効果も狙うとは、一石二鳥どころか一石三鳥といったところか」

 

「ああ、全くだな。これなら恩恵とやらの効果も合わせれば思った以上に修行が捗りそうじゃねえか」

 

「アパパー、本当か逆鬼! それじゃあ、アパチャイもすぐにベルの修行に参加できる?」

 

「ホッホッホッ! 焦ってはいかんぞ、アパチャイ。今は我慢してそうしてケンちゃんとのスパーで我慢しなさい」

 

「分かったよ、ジジイ! アパチャイ、我慢してケンイチをブッコロスよ! ……あっ、隙だらけよ、ケンイチ! チャイ・キック!」

 

「ヒギャアアアアッ!!」

 

 地獄絵図の様な光景でありながら、半死半生の食い逃げ犯と今しがた上空へと吹き飛ばされた少年の二名を除けばそこにいた者たち全員の表情は自然体であった。まるで、この程度のことなど日常茶飯事であり、ドン引きしているリュー達の方がおかしいのだと錯覚してしまうほどに。

 

「ええっと……よ、良かったわね、リュー。どうやら貴女がしたかったことは既にやってくれたみたいよ」

 

「い、いえ……流石にあそこまでやるつもりはなかったのですが……いや! そんな事よりも早くあの少年を助けなければ!」

 

 自分が今日ここに何をしに来たのか、頭の中から完全に失念したリューは少年を助けようと一歩踏み出す。

 その瞬間——

 

「いえーい! 隙ありね!」

 

「なっ!? ……っ!?!?」

 

「リュー!?」

 

 突如、軽薄な声と共に何者かが後ろからリューのお尻を撫でまわした。ぞわり、と生理的な嫌悪感からリューに悪寒が走る。

 たまらず、その場から飛びすさり、抜刀と共に戦士としての警戒心と女性としての憤怒を込め、下手人をにらみつける。

 未だ二十を過ぎたばかりとはいえ、いや、二十過ぎにしてレベル4にたどり着いた天才剣士の怒気。上級冒険者であったとしても震え上がる筈であった、しかし……

 

「怒らない、怒らないね。かわいい顔が台無しになるね!」

 

 だが、下手人である小柄な中年男性はリューの怒気もまるで意に介した様子もなく軽口を叩く。その様子からは反省の色は一切ない。そのことがますますリューの神経を逆なでしていく。最早、リューの頭からは少年を助けようという考えはどこかに吹き飛んでいる。今、頭を占めるのは一刻も早く目の前の不届き者を叩きのめすことだけだ。

 

「覚悟なさい……! この痴漢魔!!」

 

「ちょっ!? リュー!!」

 

 本気で斬りかかるリューにシルが思わず制止の声を上げるが、頭に血を昇らせたリューの耳には入らない。

 一足で間合いを詰めると力一杯に木刀を振り下ろす。上級冒険者であっても見切れるものはそうはいない、恐るべき速度と威力が込められた一撃が中年男性の目前へと迫る。

 

「甘いね!」

 

「な!?」

 

 だが、男はその一撃をギリギリまで引き付けたところで体を半歩ずらすだけで回避すると同時に、木刀を振り下ろし伸びきってしまった腕をひねり上げることでリューの動きを束縛する。

 自分をたった一動作で封じてしまった男の技量にリューの空色の目が見開かれる。

 思えば、男が自分に破廉恥行為を行うまで自分は男の存在に気づくことも出来なかった。それ一つとってみても男が卓越した技量の持ち主であるということは明白であった。

 それに対し、自分はと言うと怒りに我を忘れ、冒険者にとって一番大事な技と駆け引きを放棄して大ぶりの一撃を放ち、こうして隙をさらしてしまっている。

 己の不甲斐なさに臍を噛む気持ちでリューは距離を取ろうと足に力を籠める。

 だが、それを許す程男は甘くはなかった。

 

「アイヤー、そうはさせないね!」

 

「う、動けない!?」

 

 後退しようと後ろに下がった瞬間、それに合わせるようにして男の足が絡み、捕まえ、そして地面へと縫い付ける。その様子はあたかも水流に足を取られてしまったかのように滑らかで、そして地面へと縫い付ける力は巨人に足首を掴まれたかのように強固であった。

 腕を極められ、足も潰されてしまったリューには身動き一つ許されない。完全な無防備をさらすリューに男が遂に攻撃へと転ずる。

 

「喰らうね! 震脚を利用したおいちゃん自慢の頭突きを!」

 

「くっ!」

 

 まるで爆発したかのような強烈な踏み込み。そして、それによって得られた推進力が足から腰、腰から胸へと移動するにしたがって全身のバネにより増幅し、猛烈な勢いで男の頭が突っ込んでくる。

 

……リューの胸部に向かって

 

「……え?」

 

「お~、生き返るね! うふふ……服越しからでもわかるすべすべした肌の感触、たまらないね~」

 

 リューは目の前の現実を理解できなかった。というか理解したくなかった。

 すりすりと男がほおずりする度に自分の胸部が形を変えていく。その様子を他人事のように呆然と眺めることしかできない。その状態が続いたのは僅か数瞬、されど男がリューの柔肌を堪能するには十分な時間が経過して、ようやくリューは適切な行動をとった。

 

「……!!? ————っ!?!?!?!?」

 

声にならない叫びを上げると、リューにセクハラするのに夢中となっている男の無防備な頭を張り倒すと今度こそ離脱に成功する。

 

「オチチ……おいちゃんとしたことがついうっかりしたね」

 

「はあっ……! はあっ……!」

 

 呼吸を荒げながら、もんどりうつ男から守る様に体を掻き抱く様子はまるで年頃の少女の様だが、その殺意に満ち溢れた眼はどう見ても堅気の人間ではなかった。かつて闇勢力と戦っていた時でもこれほどの怒りを覚えたことなどなかったのではないだろうか。

 吹雪もかくやという冷たさを讃えながら、リューは桜色の唇を開く。

 

「今は遠き森の空。無窮の……」

 

「リュー! ダメ! それはダメ!!」

 

「放しなさい、シル! この男にはこれぐらいしなければ!」

 

「そうじゃなくて、周り! 周りを見て!」

 

 その言葉に、ようやくリューは周囲の状況に気づくことができた。

 

「あー、我々の身内が随分失礼をしてしまったようだね」

 

「剣星がすまな……い。責任をとって、ボクが斬ってお……く」

 

「オイ、しぐれ。お前たちが本気でやりあったらそれこそ大惨事だろうが」

 

「アパパ! お客さん、お客さんよー! お客さんが来たからお菓子出してよ! アパチャイの分は多めにお願いよー!」

 

 いつの間にかリューとシルの二人の周囲は四人の男女に囲まれていた。

 男性三人に女性一人。背格好も違えば服装にも統一感はない。共通点は全員、ヒューマンであることだろうか。いや、もう一つ共通点があったか。リューの唇が焦燥に歪む。

 

「シル、急いで逃げなさい。彼らは私よりもいや、おそらくだが第一級冒険者よりも、強い!」

 

「え? 第一級冒険者よりも強いって……嘘でしょう?」

 

 リューの言葉をシルは流石に冗談としか受け取れない様であったが、残念だがリューは本気だった。

 長年、冒険者として戦い続けたリューの長い戦歴の中には第一級冒険者との戦闘もあった。レベル4であるリューにとって当然格上の存在である。しかし、リューはその優れた技と駆け引きはこれを打倒することは叶わずとも一定の拮抗状態に持ち込むことをかろうじて可能としていた。

 しかし今、リューは目の前の人間たち一人一人に対して、それを成せるビジョンすら思い浮かばなかった。

 一合。いや、そもそも自分は打ち倒されるその瞬間まで敗れたことに気づくことすらできないのではないか。そんな弱気にも似た疑問が思い浮かぶほどに彼我の戦力は隔絶している。しかもそれが五人。

 ふざけるな、と怒鳴り散らしたくなる。なぜ、無銭飲食なんてことをやっている人間の近くにこんな規格外な存在がいるのだ。

 いら立ちと怒りを叩きつける様にねめつけながらリューはシルを背で庇いながらじりじりと後退していく。

 そんなリューの様子に先頭にいた着物姿の男が口を開いた。

 

「ふむ……まあ、警戒されるのは仕方がないが、少しは我々のことを信じてもらえないものだろうか。これでは、お詫びを言うことも出来ないではないかね」

 

「ぬかせ。無銭飲食や破廉恥行為に及ぶ連中に心を許すものがいるものか」

 

「無銭飲食? 何のことだね?……はっ! もしや!?」

 

 吐き捨てられたリューの言葉に男の瞳がわずかに揺れる。と同時に、まさか、といった表情で傍らにいる二人の大男たちを振り返る。

 

「アパ? どうしたよ、秋雨? アパチャイの顔、何かついている?」

 

「……おい、秋雨。なんでそこでアパチャイだけでなく俺まで見やがるんだ?」

 

「む……すまないね。いや、君のことだからてっきり無理やりツケで飲んだのではないかと……」

 

 着物姿の男と同じ人種の大男は恨みがまし気な表情でにらみ、浅黒い肌をした大男は何故自分が見られたのかすら分かっていない様子である。

 ばつが悪そうに咳払いをすると着物姿の男はリュー達に向き直る。

 

「どうやら、我々の中には心当たりのあるものはいないようだが、何かの間違いではないだろうか?」

 

「ええっと……お金を払わずに帰ってしまったのはあなた方ではなく、そちらのベルさんですよ?」

 

「何……ベル君が、かね……?」

 

 シルの言葉に着物姿の男が驚きの声を上げる。他の者たちもシルたちと見比べる様にしてベルに困惑の視線を往復させていた。

 未だ、出会って数日しか経っていないのだがベルがその様な犯罪に手を染める様な人間ではないとその場にいる者たち全員が理解していた。

 当の本人はズタボロにされ気を失っており、自身に食い逃げの容疑がかかっていることにすら気が付いていない。これでは、詳しい話を聞くことも出来ないだろう。さて、どうしたものかと着物姿の男が悩み始めたとき

 

「あ、あの……! まずはその時の話を聞かせていただけませんか!?」

 

「む、ケンイチ君……」

 

 男たちの後ろから新たに少年が姿を現す。少年はにらみつけてくるリューの前に立つと深々と頭を下げる。

 

「お願いします! お金は勿論お支払いします! 僕はクラネル君と会ってまだ三日しか経っていないけど、彼がそんなことをする人間だとは思えません! 何か、理由があったんだと思います!」

 

 だから、その時のことを詳しく教えてくださいと再度ケンイチは頭を上げることなく頼み込む。

 誰もが一言も発しない中、じっとリューは冷たい視線でケンイチを見下ろす。そんな状態が数秒続いた後。

 

「はあ……分かりました」

 

 根負けした様にため息をつくとリューは友人の方へと向く。

 

「シル、あの時彼の傍にいたのは貴女だ。その時のことを彼らに話して欲しい」

 

「ええ、それは勿論構わないけど……」

 

 突然自分に話が回って来たことにうろたえるがすぐにシルはあの日のことを自分の記憶にある限り、鮮明に話し始める。

 朝に来店の約束をして、夜に約束通りベルが来店し、注文した料理を楽しんでいたが、突然表情を一変させると、涙を流しながら店から飛び出した。何かが起こったとは思えるが、飛び出した経緯が唐突過ぎてまるで要領を得ない。

 

「あの……クラネル君が表情を変えたとき、何か変なことありませんでした?」

 

「変な所ですか? うーん……あ、そういえば、その時ロキ・ファミリアの方が冒険の打ち上げをされていましたね」

 

「ロキ・ファミリア?」

 

 思わぬ名前にケンイチが驚きの声を出す。その名前は昨日ベルの口から聞いたばかりだ。このオラリオで一二を争う最大手のファミリアで、ベルの命の恩人であり、憧れのアイズ・ヴァレンシュタインが参加しているファミリアだったはずだ。

 そこまで考えた所でケンイチの脳裏に雷光が走った。

 

「あの……もしかして、その時アイズ・ヴァレンシュタインさんという方がおられませんでしたか?」

 

「『剣姫』ですか? ええ、確かにおられましたよ」

 

「ケンイチ君? どうかしたのかね?」

 

 ドクンと、胸が高鳴る。

 突如、険しい顔をしたケンイチに秋雨が疑問の声をかけるがそれがケンイチの耳に入ることはない。

 ケンイチは知っている。ベルがどれほどアイズという女性に思慕の念を抱いているのか。彼とそのことについて話した時間はわずかであった。それでも、理解できてしまうほどにベルの気持ちは強く、純粋だった。

 そんな思い人の前で、泣きながら走り去った。

 ケンイチの頭の中で何かが一つの糸で繋がった気がした。

 

「あの……! ロキ・ファミリアの人が来ていたとおっしゃってましたけど、ベル君が飛び出した時、どんな話をしていたんですか!?」

 

「え!? そ、それは……その……あまり、気持ちのいい話題ではなかったのですが……」

 

 シルの顔がみるみる曇る。数秒間、言うべきかどうか悩む様子を見せたがすぐに隠しても仕方がないと悟ったのか若干声のトーンを落としながら話し始めた。

 

「何でも、ロキ・ファミリアの方々がダンジョンから帰還の最中、ミノタウロスの集団と遭遇してしまったらしいんです。勿論、ロキ・ファミリア程の力があるファミリアならば苦も無く蹴散らすことができたらしいのですが、敵わないと悟った生き残りのミノタウロス達が一斉に逃亡したらしいんです」

 

「逃亡? それがどうしたんですか、野生の動物なら勝てないと分かったら逃げるのが普通じゃないですか?」

 

「まさか! モンスターが逃げ出すなんて聞いたこともありませんよ。それに、逃げ出した場所がまずかったんです」

 

「まずい場所?」

 

「ふむ……察するに上層に向かったのではないかね?」

 

 秋雨の言葉にシルは頷く。

 

「ロキ・ファミリアは帰還の最中だった。つまり、下層域に続く道に陣取っていたわけだから、彼らから逃げ出そうとすれば自然、上層へと向かうだろうね」

 

「なるほどね。だとしたら、それは大変な事ね。聞けば上層に行くほどモンスターの強さは弱くなっていくと聞いたね。当然、それを狩る冒険者もそれに応じた強さになる。つまり、上層にいる冒険者は決して強いわけではない。そんな所に中層域のモンスターが集団で突っ込めば、どうなるか火を見るよりも明らかね」

 

「ええ、そして実際そうなりかけたらしいんです。まあ、追いかけていったロキ・ファミリアの方々の頑張りで何とか犠牲者は出なかったらしいんですが」

 

「良かったじゃない……か。なんで気持ちのいい話じゃない、なんて言ったん……だ?」

 

「その……その時助けられた新人冒険者の方の様子を狼人の方が笑い話として話し始めまして……」

 

 自分には関係のない話であるというのにシルは悲しそうに眼を伏せた。

 酒の席とはいえ、他人の失敗談を嬉々として話すという光景はシルにとって愉快なことではない。

 

「ケッ! 手前のヘマを酒の肴にするたあ、良い趣味してんじゃねえか……ん? どうした、ケンイチ? 顔、真っ青じゃねえか」

 

 ロキ・ファミリアに助けられた。新人冒険者。本来いる筈のないミノタウロス。全ての事実が符合し、ケンイチにその日何が起こったかを伝えていた。

 

「僕……分かりました。クラネル君が逃げ出した理由」

 

「何と!? 本当かね、ケンイチ君?」

 

「ええ、実は昨日クラネル君と話しまして……」

 

 そして、ケンイチは地下室でのベルとの会話と今の話を照らし合わせ、浮かび上がった真実を話し始めた。

 ベルの憧れの人間はその時その場にいたアイズだったこと。そして、その笑い話にされた新人冒険者とはベルの事であったということ。恐らくはベルが飛び出したのは憧れの人の前で貶されたことにショックを受けたからであろうということ。

 皆が黙ってケンイチの話に耳を傾ける。師匠たちも、シルも、リューも皆が一言も漏らさずに聞いていた。

 

「……そういう訳で、クラネル君が出会ったとき、彼が防具すらつけてなかったのはそういう理由だと思います」

 

 時間にすれば数分の事であった。しかし、ケンイチの話が終わった時、辺りには重くのしかかった様な空気が流れていた。

 

「アパ~、ベルが可哀そうよ~」

 

 涙ぐみながら言うアパチャイの言葉はその場にいる全ての人間の代弁であった。皆が、その時のベルの気持ちを思い、やりきれない気持ちとなる。

 

「う、うーん……あれ? 皆さん、どうされたんですか?」

 

 そして、ベルが目を覚ましたのはそんな瞬間であった。

 目を覚ましたベルはキョロキョロと状況が分からないのか、見回す。そして、その視線がシルとリューに止まった瞬間、顔を真っ青にして勢いよく立ち上がると土下座せんばかりに頭を下げた。

 

「す、すすすすいませんでした! 代金の事ですよね!? 今、お支払いしますので!」

 

「え、ええ……まあ、払って頂ければこちらとしても文句はないのですが……」

 

 ベルから代金を受け取るリューは何ともばつが悪そうであった。

 確かに、どのような理由があろうともお金を払わずに飛び出したベルに非がある。

 しかし、エルフらしい生真面目なリューにしてみれば、本来くつろいでもらうはずの店内で逆に不愉快な思いをさせてしまっておきながら、一方的に謝罪を受けるというのは不公平ではないかと考えてしまう。

 いつも笑顔を絶やさないシルも一応は笑顔であるが、そういった機微に疎いリューですら愛想笑いであると見て取れてしまった。

 そして、それはベルにとっても同じであった。

 

「あの……どうかしたんですか、皆さん? なんか、へんな空気ですけど……」

 

「んんっ……!? あー、そうだなあ……なんつーか……」

 

 不思議そうなベルの視線に至緒は必死に誤魔化そうと頭をひねる。だが、何も思い浮かばず、ただ視線を明後日の方向に向けるだけである。基本的に梁山泊の人間に嘘をつけ、というのは下級冒険者にミノタウロスを狩ってこいというぐらいに無茶な話である。

 子供でももっと上手く誤魔化せるのでは、というほどに下手くそな腹芸にベルが何があったのだろうかと不安になり始めたときだった。

 

「いや、スマンのう、ベル君。実は先ほど君が眠っている間に三日前、女主人亭であったこと、それから君がどうしてそんなことをしてしまったかの背景を全て聞いてしまったんじゃよ」

 

「え……」

 

 サッとベルの顔が青くなると同時に恥ずかしさで瞬時に真っ赤に染めあがる。思わずうつむく。とてもではないが誰とも目を合わせることが出来なかった。

 知られてしまった。あの日の自分の愚行の数々を。

 自分の弱さを直視して、そこから泣きながら逃げ出した挙句自殺まがいの無茶をして見ず知らずの人に助けられる。あまりにもみっともなさ過ぎる。それを、師匠や兄弟子、他人同然の人間に知られるなど消えてなくなりたかった。

 そんなベルに、隼人は慎重に言葉を選んでいく。

 

「のう……ベル君。何故、君はそんなに恥ずかしがっておるのかのう? 確かに、先日の君の行動はあまり賢い物とは言えぬが、それでも生き残れたわけじゃし、こうして許してもらえたんじゃ。そんなに思い詰める必要はないんじゃないかのう?」

 

「で、でも……僕は、全然弱くて……師匠や他の皆さんの好意に甘えることしかできない自分が情けなくて……」

 

 涙がこぼれそうになる。劣等感と羞恥で頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感覚がした。泣くのを我慢したのが最後の意地であった。

 

「弱い、か……のう、ベル君。君は武術において一番大事なものは何か知っとるかのう?」

 

「へ……?」

 

 選ばれた言葉は唐突なものであった。

 脈絡などまるでない言葉に思わずベルは顔を上げる。

 そこにはようやく自分と目を合わせてくれたことに喜ぶ隼人の顔があった。

 

「力じゃろうか……? それとも技じゃろうか……? いいや、違う! それは、勇気じゃ! 勇気がなくば、相手の隙を冷静に見抜けぬ! 勇気がなくば力はすくみ、勇気がなくば技は決してかからないじゃろう! そして、ベル君。君にはその勇気がある!」

 

「勇気……? 僕に、ですか……?」

 

 力も技も自分にはないが、勇気などもっと自分には縁遠いものと考えるベルにとって隼人の言葉には首をかしげる。

 普通に考えれば隼人の言葉は自分を元気づけるための虚言としか思えなかった。しかし、隼人の真っすぐな瞳が、力強い口調がそれは違うのだと雄弁に語っていた。

 

「ワシらが君を助けたあの日、君は今にもとどめを刺されそうな窮地に立たされておったのう。だが、君は決してあきらめていなかった! それはあの場にいた者全員が見ておる!  死を目前にしながらも決して心を折らず、目の前の敵をにらみつける生気に満ちた君の目を!!」

 

 あの光景を隼人たちが忘れることは決してないだろう。

 七体のウォーシャドウに囲まれながらも決してあきらめることなく、ルビーよりも光輝く瞳を。

 現時点においてベル以上に強い人間はそれこそ数えきれないほどにいるであろう。だが、果たしてベルの様に避けようのない死を前にして、尚も絶望しない人間が果たしてどれほどいるのであろうか。

 決して手放さぬ生への渇望、そしてそうさせるほどに大切な何か。

 それは、間違いなく隼人たち活人拳に属する者たちの力の源だ。

 

「才能のある者など、世の中にはいくらでもおる! 才能のある者がみな大成するかといえば、答えは否じゃ! だが……技を極めた達人に、共通するものが一つだけある! それは……強い意志!! 君にもそれがある……まあ、今はそれでよしとするかのう」

 

「……はい!」

 

 隼人の言葉にベルは満面の笑みで答える。心の中に残っていた黒い影が消え去っていくような感じがした。

 あの日の思い出は今でも苦い思い出だ。だが、それに捕らわれることはない。純粋に夢へと走らせる燃料となっている。

 

「クラネル君、大丈夫ですよ。僕だって昔は君よりも弱かったですけど、今ではこうしてそれなりに強くなりましたし、君ならずっと強くなれますよ!」

 

「隼人さん……白浜さん……」

 

 それだけでなく、こうして励ましてくれる人たちがいる。ついこの間までずっと独りぼっちだった自分に、だ。

 それを思うと、ベルの胸の中に熱いものが灯る。

 そんなベルの姿にシルはほっと胸を撫でおろした。

 

「良かったですね、ベルさん。一時はどうなるかと思いましたけどこれなら大丈夫そうですね」

 

「そうですね。どうやら丸く収まった……いえ、結果だけを見ればむしろ彼は望外の幸運に恵まれたと言えるかもしれません」

 

 恐らくは六人全員がヒューマンの集団。その中の誰一人としても経歴上、冒険者の情報に耳聡いリューですら寡聞にして聞かない。しかしながらその実力は第一級冒険者をもしのぐ、どころか凌駕しているだろう。

 余りに怪しい集団である。しかしながらその腕前は本物である。これほどの使い手に師事できるなど冒険者ならば誰もが羨む幸運であろう。

 リューも既に現役を退いて久しいが、長年染みついた冒険者としての本能が鎌首をもたげ始めている。

 もし良ければ自分も弟子入りを頼み込んでみるべきだろうか。

 そんな下心を持ちながらリューはベルとケンイチ、隼人の三人から、彼等を見つめる達人たちへと視線を移す。

 

 

 

 

 

 

「それはそうと、秋雨どん。気づいていたかね? 修行中もベルちゃん、ずっと何かに怯えていたね。あれはきっと……」

 

「うむ、おそらくはミノタウロスとの遭遇によるトラウマであろうね。武術家にとって恐怖とはコントロールするもの。その為にもベル君は一度トラウマを克服せねばならないだろう」

 

「トラウマを克服するなら、その原因となったものに打ち勝つのが一番早い……ぞ」

 

「ああ、トラウマって奴は時間が経てば経つほどに厄介なことになるからな。明日の予定はミノタウロス相手の組み手に決まりだな」

 

「アパパー! いつ殺るよ! 今でしょ! ってやつだね!」

 

 なんか、とんでもない話が聞こえてきた。

 

「ねえ、リュー。あの人たち、ベルさんをミノタウロスと戦わせるとか言っているけどあれって冗談、よね……?」

 

「ええ、流石にそうだとは思いますが……」

 

 レベル1、それもつい最近冒険者になったばかりの人間を修行と称してミノタウロスと戦わせる。

 ミノタウロスという怪物がどういうものか知っている人間が聞けば、冗談としか取れない話を当たり前の感性で嘘と断じる二人の口調はしかし歯切れが悪かった。

 思い起こされるのは先ほどまでの修行風景。あのような荒業をやってのける様な人間たちならばやりかねないのでは、という疑惑が頭から離れない。

 とはいえ、それを差し引いてもやはりミノタウロスとの組手など現実味が薄く、二人がそれを真実とも嘘とも判断がつけられず、煩悶としていると後ろからカサリと草を踏み荒らす音が聞こえた。

 

「只今帰りましたわ、皆さん……あら?」

 

 姿を現したのは一人の少女であった。年の方はシルと同じぐらい。同性のシルですら見惚れてしまうほどに美しい顔立ちと女性らしい豊満な肉体は一見すると全員例外なく美形である女神かと見紛うほどだ。

 こんな寂びれた教会に来るぐらいなのだからケンイチ達の知り合いだろうか、と辺りを付けるとシルは頭を下げる。

 

「あっ、これは失礼しました。私、シル・フローヴァと申します。あちらのエルフは同僚のリュー・リオンです。本日はベルさんにお話させていただきたいことがあってこちらに伺わせていただきました」

 

「あら、そうでしたの。私は風林寺美羽と申しますわ。折角いらっしゃったのですからお茶の一つでも召し上がって欲しいですわ。今、荷物を片付けますので」

 

「荷物?」

 

 礼儀正しく頭を下げる美羽の言葉にシルは美羽の傍らに抱え込まれた小箱に視線を移す。と同時に目を見開く。

 

「あら……!? それって、ひょっとしてエリクサーですか!? それも、そんなにたくさん!?」

 

 少女が抱えている小箱。わずかにズレた蓋からは特徴的な七色の光を放つ液体が納められた7つの小瓶が覗かせていた。

 実際に目にするのは初めてだが、その特徴的な見た目からすぐに思い当たる。

 その希少性からシル同様に手に入れるどころか見たことのある者も極僅か、という有様でありながらその絶大な効果から万人に知られている魔法薬の最高峰、エリクサーだ。

 思わぬ高級品との邂逅にシルはやや興奮気味になり、冷静なリューもこの時ばかりは目を見張る。そして、それはその場にいる全ての人間も同様であった。

 

「エリクサーですか!? すごい! 一本50万ヴァリスは下りませんよ!」

 

「美羽さん。お買い物、ありがとうございます」

 

「ほお……これがエリクサーか。まるで宝石みたいじゃのう」

 

「アパパ! きれいだよ! ピカピカ光ってるよ!」

 

「ふむ……確かに美しいが……これを飲むのは中々勇気がいるではないかね?」

 

「いや、説明書を読んだけど……飲むなくても、患部にかけても効果があるらし……い」

 

「流石、魔法のお薬ね。おいちゃん、薬には詳しいけど飲んでも掛けても効果を発揮するお薬なんて初めてね」

 

「ケッ、薬なんて効けばいいんだよ、効けば」

 

 静かであった裏庭が一転、喧騒に包まれる。リュー達の後ろからケンイチ達が近づき、皆が初めて見るエリクサーに思い思いの感想を零し始めた。

 そして、その中の一人、秋雨がぽつりと言葉をつぶやく。

 

「ふむ。これだけあれば後顧の憂いはないね。おかげでようやく明日からは万全の態勢で臨めそうだ」

 

「ほう……」

 

 秋雨の言葉にリューは目を細めた。

 エリクサーを大量に用意してのこの言葉、その意味が分からない程愚かではない。

 

「それって……いよいよ明日からは師匠たちもダンジョン探索、それも数日間にわたるほどの大規模遠征を行うんですか!?」

 

 ベルの声には隠しようもない程に興奮の色があった。

 レベル7を超える力量を持つ六人によるダンジョン・アタック。

最大手の両雄ロキ・ファミリアやフレイヤ・ファミリアですら不可能な前代未聞の布陣である。

 それが成されれば、その戦果は疑いようもなくオラリオを震撼せしめることとなるだろう。いや、それどころかかのゼウス、ヘラ・ファミリアが打ち立てた最深到達階層の記録すら塗り替えることも夢ではないだろう。

 歴史的な瞬間を目にしているかもしれないとベルは勿論、捨て去った筈の未知に対する期待と興奮がリューの中でも膨れるのが分かる。

 しかし、期待に満ちたベルとリューの視線を受けながら秋雨は不思議そうに首をかしげる。

 

「ん……? ダンジョン探索かね? いや、我々は生活費を稼ぐために日帰りでダンジョンに入ることはあっても、当面は数日間にわたる本格的なダンジョン探索はしない予定だよ?」

 

「そうなのですか? では、何のためにそんな大量のエリクサーを用意したのです?」

 

「何の為って……決まっているじゃないか」

 

 リューの質問に、秋雨は今度こそ驚いた様子で答えた。

 

「ベル君とケンイチ君の修行に使うために決まっているじゃないか」

 

「……は?」

 

 この人は今、何と言った? エリクサーを、修行に使う?

 言葉の意味を理解できないリューとベル。しかし、その横ではその言葉の指し示す意味に気づいたケンイチの目から光が消えた。

 

「いやあ、昨日は流石に肝が冷えたよなあ……ベルの奴、心臓が止まっちまった上に瞳孔まで開きっぱなしになっちまったからなあ」

 

「アパパ! アパチャイ、沢山テッカメンしたよ! いつものケンイチならすぐに起き上がれるぐらいの力でぶっ飛ばしたのに、どうしてベル死にかけたよ?」

 

「はっはっはっ、アパチャイ君。いくらケンイチ君が才能がないとはいえ、我々の下で一年以上も修行をしていたのだよ? そんな彼ならばギリギリで生き残れる力で殴り飛ばせば素人同然のベル君が耐えられるわけないじゃないか!」

 

「全くね。ギリギリの所でおいちゃんと秋雨どんの処置が間に合ったから良かったものの、あと少しでアウトだったね」

 

「ホッホッホッ、なあに、誰でも初めては上手くいかぬものじゃ。アパチャイ君もこれからはケンちゃんだけでなく、複数の人間それぞれに見合った手加減ができる様に頑張れば良いのじゃ」

 

「がんば……れ。エリクサーがあれば、即死しない限り大丈夫……だ」

 

「「「…………」」」

 

 お通夜の如く、凍り付くベル、リュー、シル。

 そう、秋雨たちは死んでさえいなければどんな怪我も治す霊薬をあろうことかケンイチとベルの修行中での負傷した際の保険に使おうとしているのだ。

 実戦ではなく、ただの訓練に霊薬を用意する。一見すれば過保護に見える話だが、これを言っているのが梁山泊の面々となるとその意味合いは180°反転する。

 ベルはギリギリとネジの切れた玩具の如くケンイチを振り向く。その目が語り掛けていた。

 昨日のよりも厳しくなるって……冗談ですよね?

 いや、間違いなく本気だよ。

 目で語り合う兄弟弟子。出会って数日でありながら以心伝心の様を見せる二人はその頭の中を支配する考えも一緒であった。

 これから自分たちにはエリクサーを必要とする程の……つまりは昨日までの修行をはるかに超える過酷な修行の日々が待っているのだ、と。

 そして、その予想が外れることは決して、ない。

 

 

 






 第七話完成しました。
 遂にエリクサーの解禁となりました。ここからさらに修行の過酷さは加速していくことになります。有料地獄めぐりと評された梁山泊の修行風景を的確に描写出来るよう頑張っていきたいと思います。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。




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第八話

「おい、ベル。格闘において一番の安全地帯はどこか分かるか?」

 

「えっと……相手の手の届かない後ろ、でしょうか?」

 

「なるほど、確かにそいつは安全だな。だけど、相手から逃げ回っているだけで勝てるんなら誰も苦労はしねえよ。正解は相手の側面、それも息がかかるほどの超近接距離だ。この距離まで懐に潜り込まれちまえば自分の体自体が邪魔で思うように攻撃がとどかねえ」

 

「なるほど……確かに」

 

「というわけで、今日の修行は相手の懐に入る訓練だ。ルールは簡単、組手をして相手の懐に入って一発かます! 簡単だろ?」

 

「はい、分かりました! いやー逆鬼師匠の修行は初めてですけど、説明も分かりやすいですし、理にかなっていますね!」

 

「がっはっはっ! まあな! 秋雨や剣星の修行は分かりにくい上にチマチマしたものばかりだからな! 俺みたいに分かりやすくシンプルなものの方がいいと常々言ってるんだがなあ……」

 

「本当ですよ! 鞭でたたくわ、剣で斬りかかるわ。あの人たち、常識という物がありませんよ!」

 

「おっ! ベルも中々言うじゃねえか! ま、安心しな。俺の修行はあの二人よりも常識的だからな!」

 

 

 

 

 

 

 以上の会話が行われたのが今から一時間前の事だ。

 そして、現在。

 

「……というわけで、これが今日のお前の組手相手のミノタウロスだ。頑張れよ!」

 

「ヴオオオオオオオオオッ!!」

 

「嘘つきいいいいいいいいいい!!」

 

 常識的という言葉に心を躍らせていたベルは現在、獲物を見つけていきり立つミノタウロスの前で縄に縛られ転がされていた。

 先の会話の後、組手相手はダンジョンにいると聞かされ瞬時に事態を悟ったベルが逃げ出そうとした瞬間に捕まり、至緒の手によって身動き一つできない様に縄で拘束されてしまっているためだ。

 連れてこられたのはダンジョン地下14階。

 レベル1の冒険者が来ることはまずあり得ぬ、それも修行目的で来るなど前代未聞の場所である。間違っても『常識的な』修行が行われる場所ではない。

 

「師匠! 師匠! ミノタウロスが! ミノタウロスが近づいてきてますよ!」

 

「そりゃ、組手するんだから近づいてもらわなきゃダメだろうが。ちょっと待ってろ、縄をほどいてやるからな」

 

「ちょっと!? だから、逆鬼師匠! 今、目の前にミノタウロスが!?」

 

 そう言って凶暴なミノタウロスの目の前で屈みこみ、無防備に縄をほどき始める至緒にベルは焦りと驚きの声を上げる。その様はまるでミノタウロスなどいないかのような無警戒ぶりであった。

 そして、その様な無謀なことをする人間を前にして魔物がとる行動は一つだけである。

 

「ヴオオオオオオオオオッ!!」

 

 案の定、目前で獲物の無防備な姿を見逃さないとばかりにミノタウロスが二人に襲い掛かる。みるみると近づいてくるミノタウロスの姿に顔面を蒼白に染め上げながらベルが走馬燈を幻視する。

 しかし、その瞬間――

 

 

 

「ああっ……? テメエ……少しぐらい待てねえのか……?」

 

 至緒の視線でミノタウロスが吹っ飛んだ。

 誇張表現抜きにミノタウロスの巨大な肉体が勢いよく後方に引き倒され、ベルの目の前で指一本も動かせぬまま無様に仰向けに倒れ伏す。

 2mを超える肉体が地面にたたきつけられたことで洞窟の中で騒音が轟きそしていつまでも共鳴し合い、土埃が煙る中で至緒はようやくベルの縄をほどき終わる。

 

「おしっ! これでほどき終わったな。まったく……折角、俺が常識的な修行という物を見せてやろうというのに余計な手間をかけさせやがって。最初の威勢のよさはどこに行きやがったんだ?」

 

「ええっと……何処から突っ込みを入れれば分からないんですけど、とりあえず今、何をされたんですか……?」

 

 ちらりと倒れているミノタウロスに視線を移す。

 その顔は当たり前のことだが魔物らしく無表情であったが、何処か恐怖の色を映しているのはベルの気のせいであろうか。

 

「ああ、今やったのはにらみ倒しという技でな。強烈な気当たりで相手を圧倒する技だ」

 

「気当たり……? 何ですか、それは?」

 

 聞きなれない言葉にベルは首をかしげる。

 魔法の一種であろうか? しかし、詠唱もなしにミノタウロス程のモンスターを無力化させるなんてことが出来ればさぞ便利であろうな、とは思う。

 

「そうだな……たしか、ベルはこの間アイズ・ヴァレンシュタインとかいう女戦士にあったんだよな?」

 

「はい、そうですけど?」

 

 突然憧れの人の名が出てきたことに驚きながらも肯定する。

 

「どうだ、その時になんつーか、近寄りがたいオーラみたいな、威圧感……? まあ、そんな感じみたいなものを覚えなかったか?」

 

 どうやら、至緒にとっても説明しづらいものであったらしい。ややしどろもどろな上に多分に感覚的な表現を多用した説明であった。

 が、かえってそういった本能に訴えかけるような説明の方がベルには合っていたらしい。今までに計二回あったアイズとの遭遇時を思い出し、ベルは合点がいったようにうなずいた。

 

「ああ、そういえば……」

 

 思い起こせば、アイズとの初めて顔を会わせた時のことだ。血しぶきすら浴びることなくミノタウロスを両断したアイズには近寄りがたい空気というか、気迫、そんな感じのものがあった様な気がする。

 

「そいつはお前の生存本能がアイズっていう女戦士の強さを感じ取り、危険を察知していたからだ。本来、生き物は例外なく危険を察知する本能があってだな。それを刺激する様に殺気を飛ばすことで相手の機先を制することができるってわけだ」

 

「な、成程……」

 

 至緒の説明に納得した様にベルは頷く。

 言われてみれば先日の豊穣の女主人亭で見かけたロキ・ファミリアの面々も他の者たちとは一線を画す雰囲気を持っていた。

 あれが強者のオーラという物なのだろう。

 

「まあ……今のお前の力量じゃあ、相手の力量を感じ取ることもできねえから多分、それは気のせいだけどな」

 

「……って、嘘なんですか!?」

 

 あっさりと前言を翻す至緒にベルは憤慨した。

 

「嘘じゃあないぜ? ただ、今のお前には全く関係のない雲の上の話ってだけだ。ま、知りたいのなら早く強くなるんだな」

 

「うう……やっぱり、それしかないんですよね……」

 

 折角、手っ取り早く強くなる方法が見つかったと思ったら、それを習得するには腕を上げるしかないという現実にベルは打ちのめされた。

 

「ガッハッハッ! まあ、そんなに気を落とすことはねえぜ。要は強くなればいいんだし、それに通常よりも早く習得する方法がないわけじゃねえしな」

 

「本当ですか!?」

 

 泣いた子供が何とやら。

 先ほどまでしおれていたベルの顔が期待で輝く。

 

「おう! この方法を使えばあっという間だ。お前よりも才能のなかったケンイチも数か月で最低限の所まで行ったからな!」

 

「へえ……! それは、すごい……! 一体どんな修行法なんですか!?」

 

「ああ、それはな……」

 

 瞬間、至緒の体がぶれる。

 と同時に後ろから体に衝撃が走り、前へと体が投げ出される。

 

「……へ?」

 

「ヴォッ?」

 

 蹴り出されたと分かったのは身を起こしたミノタウロスと対面した時であった。

 

「…………」

 

 見つめ合うこと数秒の沈黙。まるでこの瞬間、時が止まっているかのように誰もが身じろぎも言葉も発しない。

 

「生存本能を繰り返し刺激することで危険察知能力を研ぎ澄ましていく。ま、これが一番手っ取り早いだろうな」

 

 その言葉が合図であったかのように、凍り付いていた時間が動き出し、事態は正常に働きだす。

 つまり——

 

「ヴオオオオオオオオオッ!!」

 

「ヒアアアアアアアアアッ!!」

 

「オイ、逃げるんじゃない! 逃げたら修行にならねえだろうが!!」

 

 先日の焼き増しの様なミノタウロスとの鬼ごっこが始まる。

 ダンジョン地下14階にミノタウロスとベルの叫びが響き渡るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「さて……これで完成よ」

 

「おおっ……! これが、ベル君の新しい武器なのかい……!」

 

 ベルがダンジョンで死にかかっていることも知らず、ヘスティアは差し出された一振りのナイフに歓声を上げた。

 数日前、神々の会合の席で親友であるヘファイストスと出会ったヘスティアはベルの為に武器の製作を依頼していたのだ。

 無論、依頼したと言っても、はいそうですかと気軽に了承してもらえるものではない。ヘファイストスといえば天界の名工と名高い鍛冶の神だ。下界に降りたときに権能を放棄したことで超自然的な力は使えなくなっているが、逆に言えば修練によって得られる人知の及ぶ域においては往時のままなのだ。

 その腕は下界に降り立って幾年が経った今でも並び立つ者がいない程だ。

 そんな地上最高の名工に駆け出し冒険者の武具作成の依頼をする。友人の頼みでなければ即座に蹴り出される案件である。

 実際そうなりかけたのだが、日をまたいで懇願するヘスティアの根気にヘファイストスが折れる形でこうして前代未聞の依頼は果たされることとなったのだ。

 

「全く……こんなことは二度とやらせないでよ? 数十年単位のツケで払うなんてことも、鍛冶師にとっては邪道極まりない武器を打たせることも」

 

 こんな仕事は不本意極まりないという言葉とは裏腹に、その表情は穏やかだ。

 それは無邪気に喜ぶ親友の姿を好ましく思っているからであろうし、正道ではないにせよ成し遂げた仕事の充実感からくるのであろう。

 破顔するヘスティアに握られた黒色の短刀。一見すればただ一つの特異な点を除けば何の変哲もない、普通のナイフだ。

 ただ一つの特異な点、それは黒光りする刀身に刻み込まれた神々が使用する神聖文字。これこそがこのナイフを凡百の武具とは一線を画すものとしていた。

 下界に降り、人々と生活する上で神々の神聖文字の使用率は高くない。されど、決してなくなることはなかった。なぜならば神々が人々と契約し、恩恵を与える際に使用するのがこの神聖文字だからだ。

 その神聖文字が武具に刻み込まれている。これが意味することは一つ。この武具は文字通り『生きているのだ』。

 人々がそうであるようにこのナイフもまた恩恵を受け、主人と共に試練にさらされ、経験値を貯めることでステータスを上昇させることができるのだ。

 勝手に強くなる武具。鍛冶師としては成程確かに不本意な物であろうが、初心者の駆け出し冒険者が持つにはふさわしい一品であった。

 

「さて……折角武器を打ったんだから早くその武器を貴女の眷属に見せに行ってあげれば? きっと、喜ぶんじゃない」

 

「うん、そうするよ! ありがとう、ヘファイストス!」

 

 挨拶もそこそこにヘスティアは愛するベルの下へ急ごうとドアノブに手をかける所でふと思い出した。自分がヘファイストスに会いに来たのはベルの事だけでない、もう一組の新しい同居人たちの為でもあったことを。

 

「あ、そういえば。もう一つお願いしたいことがあったんだ。ねえ、ヘファイスト……ヒイッ!?」

 

 振り返り、絶叫するヘスティアの前に現れた者、それは先ほどと何も変わらない様子で微笑むヘファイストスの姿であった。

 だが、その笑顔の持つ意味が完全に違う。先ほどまでの笑顔が未熟な友人の成長を微笑ましく思う母性に満ちたものならば、今浮かべる物は厚かましい願いをした挙句、この上まだお願いをしようとする不届き者に対する般若のそれであった。

 

「へえ……もうこんなお願いはしないと言ったくせに、舌の根も乾かぬうちにそういうことを言う訳だ、アンタは……」

 

「ち、ちち違うんだ! これはベル君のこととは関係ないし、それに本当に大したことじゃない! ただ、ちょっと話を訊きたいだけなんだ!」

 

「話を訊くだけ……? それならまあ、聞いてあげてもいいけど……」

 

 どうやら、武具だけでなく防具も作ってくれなんて無茶ぶりではない様だと分かり、ヘファイストスも一応は聞く姿勢を見せる。

 縁を切られるような事態は避けられたことにヘスティアは胸を撫でおろすと、質問する。そして、その内容はヘファイストスにとって意外なものであった。

 

「実は……異世界について君、何か知らないかい……?」

 

「は……異世界……? それって、あの……?」

 

 思わず質問に対し、質問で返してしまったヘファイストスの声には困惑の色合いが強い。それも当然だ。

 何せ、異世界のことが話題になったのはヘファイストスとヘスティアがまだ天界に居た頃、つまりは一世紀以上が経過しているのだ。

 当時こそ、神々がこぞって探っていたが結局何も分からず、それから何も起こらなかった既に終わった話題であったのだ。そんな話を持ち出すなど、どんな風の吹き回しであろうか。

 

「それって、タナトスの所に来たっていう出処不明の魂の事? なんだって、そんな話を……?」

 

「う……そ、それはだね……その……えーと、そう! ベル君が興味を持っちゃってさー! ここは、一つ土産話でも、と思って……」

 

 余りにも分かりやすすぎる嘘である。

 神々が持つ、人々の嘘を見抜く権能では同じ神の嘘は見抜けないが、権能とは別のものでヘファイストスはヘスティアの嘘を見抜いた。

 再び、ヘファイストスの顔が微笑む。

 

「ヘスティア……? 貴方、私に嘘を言ってるわね……?」

 

「いいっ……! う、嘘なんてつくわけないじゃないかー! 全く、もー! ヘファイストスは冗談が好きだなー!」

 

「ヘスティア……? これが、最後通牒よ? いいから、早く本当のことを喋りなさい……!」

 

「す、すいませんでしたああああっ!!」

 

 笑顔のまま、しかし圧倒的な威圧感にあっけなくヘスティアは屈する。奇しくもそれはダンジョン内で話題に上がった気当たりという現象に酷似していた。

 そうして、それから十数分の間にヘスティアはケンイチ達に関する全てのことを白状してしまっていた。

 それを聞くヘファイストスは驚きに目を丸くしながらも納得したかのようにうなずいていた。

 

「異世界からの闖入者……それも生きたままで、それが8人も……成程ね、確かにあまり軽々しく話せる内容じゃないわね、これは……」

 

「わ、分かってくれたかい……? あ、それとこの話は……」

 

「内緒にしてくれ、ってことでしょ? 分かっているわよ」

 

 ヘスティアが危惧していた通り、このことが暇を持て余した神の耳に入れば余計なちょっかいをかける者は必ず現れることだろう。

 心得ている、と首肯するヘファイストス。その顔に映る表所は複雑であった。

 

「それにしても、異世界人とはね。下界に降りて以来、未知と触れ合う機会は多かったけど、これは特大級ね」

 

 ヘファイストスも良識を持ち合わせていれど、元々は退屈を嫌って下界に降りてきた口だ。異世界人という最高の娯楽となりそうな存在には大いに好奇心を刺激されるが、同時に寄る辺のない者たちを下種な好奇心で振り回すことを良しとしない善性の持ち主であった。異世界人の来訪を喜ぶ気持ちと哀れむ気持ちがせめぎ合い、感情の整理がつかなかった。

 

「そうなんだよね。だから、ボクとしては一刻も早くケンイチ君たちを元の世界に戻してあげたくて、それで異世界について君が何か知ってるんじゃないかと思ったんだ」

 

「うーん……そうね……」

 

 私利私欲ではなく、純粋に人助けの為の願いとあってはヘファイストスも全力で頭を捻り出す。しかし、知恵や知識を司るわけでもないヘファイストスの頭では見事な名案など逆さに振っても出やしなかった。

 

「悪いけど、私もアンタが持っている以上の情報はないわよ。私に訊くぐらいなら知識神とか空間を司る神、もしくは当事者であったタナトス……ってあいつは邪神になっちゃったんだっけ……まあ、そういった連中に訊いた方がいいと思うわよ」

 

「うーん、それもそうだね……分かったよ、このナイフの事もそうだけど、ありがとうね、ヘファイストス!」

 

 そう言って、今度こそヘスティアは外へと飛び出す。よほど慌てていたのだろう。開けっ放しになったドアを見つめ、ヘファイストスはため息をついた。

 

「全く……こんなにそそっかしくて秘密なんて守れるのかしら……?」

 

 まあ、それでもその人格は善良そのもので、面白半分に下界の子供たちを振り回すような連中よりかはマシであろう。

 そう苦笑し、ヘファイストスはドアを閉めようと腰を上げた。

 

「あ、そう言えば……」

 

 そこで、ヘファイストスは気づいた。

 先ほどヘスティアの話において、一つだけ抜けていた情報があったのだ。

 尤も、抜けていたと言っても単に言い忘れていただけ、よしんば忘れていたとしても思い出す価値があるかも怪しい、そんな些細な情報である。

 

「そういえば、あの子。転生した魂の名前のこと、言ってなかったわね……まあ、今更名前なんて何の意味もない、か……」

 

 ヘファイストスの言葉に誤りはない。

 転生した魂というのは徹底的に洗浄され、前世で得た記憶、技術は一切合切を漂白されてしまうのだ。

 当然、この世界に転生した異世界の魂も同様の処置をされ、今頃は自分の前世が異世界人であったとは露知らず、新しい名前と共にこの世界を謳歌している筈なのだ。

 そんな本人自身からも忘れ去られてしまった名前に今更価値などあろう筈がない。

 

「けど……それは、ちょっと寂しいわよね?」

 

 どんな英雄もどんな貴人もやがては死に、どんな喜びもどんな絶望もやがて本人からも忘れ去られる。それが例外など一切認められない命の理であった。

 それを、自分たちとは違う下界の子供たちの諸行無常さを、寂しいと感じるのは神の傲慢であろう。

 だけど、それでもヘファイストスは自分だけは、この時だけは本人からも忘れ去られてしまった名前を思い出してやろうと、記憶の奥底を探る。

 

「ええっと……名前は、なんて言ったかしら……」

 

 思い出されるのは天界での出来事。

 当時の神々の多分に漏れず、異世界人に興味を持ったヘファイストスは幾多の幸運に助けられながらも何とか件の魂と相対することができたのだ。

 その時、神である自分を前にして、あの魂の持ち主は何ら遜ることなく傲岸不遜にも己が名を上げてみせたのだ。

 

 

 

 ああ。そうだ、そうだ思い出した。

 あれは、確か……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「確か……シルクァッド・ジュナザードとか言ったかしら?」

 

 

 







 第八話、完成いたしました。
 遂にこのSSにおけるラスボスが話の中だけとはいえ、姿を現しました。
 ちなみに、ケンイチ世界とダンまち世界は時間の進みが違うという裏設定があります。このため、ケンイチの世界ではつい最近死んだジュナザードはこの世界では一世紀以上も前に転生しています。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。




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第九話

 

 

 太陽が天頂に位置する頃、正午。最も明るく、そしてランチタイムであるこの時間は街が最も活気づく時間帯であり、それは世界の中心であるオラリオであっても例外ではない。

 日夜、世界中から集まって来た商人たちが魔石産業で潤うこの街の繁栄におこぼれを預かろうと、服や宝石、業物の武具に未知なる美味など世界中から集めてきた品々を飾る店が鎬を削る。この街の地下にあるダンジョンが冒険者たちの戦場ならば地上は商人たちの戦場なのだ。

 そして、その戦場に今日、一人の兵がいた。

 

「いらっしゃい! ドワーフ名物、若鳥の焼き鳥はいかがですか!」

 

 猥雑な人込みに若い男の声が響く。

 昼時のオラリオの中でも特に人通りの多いメインストリートの一画、通行人の多さに比例して多くの出店がひしめき合う中にドワーフ流の味付けを持ち味とした焼き鳥屋があった。

 そこの店主は炭火の上で鶏肉が突き刺さった木串をくるくると素早く、それでいて十分に火が通る様にじっくりと焙っていく。

 年の頃は成人を迎えて数年といったばかりか。ヒューマンであるがその体格はエルフかと見紛う線の細く、荒くれ者の多いこのオラリオで店を開くことは無謀に思えた。

 案の定、与しやすいとみた不心得者が現れる。

 

「おいおい、兄さん。誰に断ってここで商売してるんだ?」

 

 肩を怒らせ、やって来たのは店主と同じヒューマンの男であった。身の丈は2mよりもやや低めであろうか。ヒューマンの成人男性の平均を大きく上回る長身と盛り上がった筋肉、そして体のあちこちに付いた傷が否応なしに威圧感を与える。同じヒューマン、と言ってもここまで来るともはや店主とは別の人種だ。

 大男は大股で店主の前に立つと胸元にかけたメダルをこれ見よがしに見せびらかす。

 そこにはファミリアのエンブレムが描かれており、すなわち大男が神と契約し、恩恵を得た冒険者であることを示していた。

 

「ここは俺たち、ソーマ・ファミリアの縄張りだぜ? ここで商売するんならショバ代を払ってもらわなきゃなぁ……」

 

「……なるほど……」

 

 横柄に金をよこせと言う男の言葉に店主は苦虫を噛み潰したように、しかしながら首肯する。

 考えるまでもなく大男の言葉は嘘である。街を管理しているのはギルドであり、申請して承認が得られれば誰でも店を開くことができるのだ。

 一ファミリア、それも中堅所の一つでしかないソーマ・ファミリアがメインストリートを支配するなどあり得ない話だ。

 だが、それを言った所でどうにもならないだろう。断ったが最後、目の前の大男は恩恵の力で店主を殴り飛ばし、売り上げの全てを持ち逃げしていくだろう。それがいやならば大人しく幾ばくかの金銭を渡すか、最初から目の前の大男よりも強い用心棒でも雇うべきであったのだ。

 ここは冒険者達の街、オラリオだ。腕力であれ、財力であれ、より強い力を持つ者の意見がまかり通る場所である。

 これもまた勉強代の一つであろう。そう自嘲気味に売り上げが仕舞っている袋に手を伸ばしたところで。

 

「おいおい……ここは金を支払って食い物を買う場所だぜ? お小遣いが欲しけりゃ、家に帰って母ちゃんにでも泣きつい来いよ」

 

「ああっ!? 誰に物を言っ……て……」

 

 馬鹿にしたような物言いに大男がいきり立ち、声の主に振り返った所で怒声が尻しぼみになる、ばかりか無意識であろうが声の主の姿を見た瞬間に腰が引けていた。

 先ほどまでの威勢のよさから一転、あまりに情けない姿であったがそれを笑う者はいない、というよりも話しかけられていない店主もまた完全に気おくれしていた。

 身の丈は大男よりもわずかに高い2mの大柄な肉体。しかしながら、大男の何倍も発達した筋肉が一回りも二回りも大きく見せる。だが、それ以上に圧倒的なのは身に纏う格の違いだ。

 あまりに強すぎる。圧倒的な力は何かをするまでもなくただそこにいるだけで大男のそれを遥かに上回る圧力を叩きつける。これを前にすれば先ほどの大男の何とか威圧感をだそうともったいぶった振る舞いが滑稽に思えてくる。

 新たに現れた絶対強者は顔面に走った横一文字の傷を歪ませ、鋭い犬歯を光らせながら凶笑を浮かべる。

 

「なんだぁ……? よく聞こえなかったのかぁ……? 俺は金が欲しけりゃ家に帰んなと言ったんだぜ? なんか、文句があるのか?」

 

「くっ……! お、覚えていやがれ!」

 

 馬鹿にされていると分かりながらも、彼我の実力差は分かるのだろう。捨て台詞を吐きながら大男は逃げ去り、やがて人込みへと消えていく。

 

「チッ……根性なしがっ! 負けるのが怖けりゃ最初からやるなって話だろうが!」

 

 弱いものにはとことん強く、強いものにはどこまでも卑屈な大男の背中に絶対強者は不機嫌そうに吐き捨てた。

 その姿は、先ほどの大男など目ではない程に暴力性を感じさせる。正直、一般人でしかない店主としては怖くて仕方がないのだが人としての礼儀的にも、そして何よりも身の安全の為に勇気を振り絞って話しかける。

 

「ええっと……助けて、頂いたんですよ、ね? あ、ありがとうございました! あの……お礼の方ですが、これで一つ……」

 

 そう言って、店主は大男に渡すはずだったお金から幾分か抜いた量の貨幣を渡す。

 触らぬ神に祟りなし。この男も血と暴力が支配する世界の住人なのだ。少しでも気に食わなければ途端に暴力を振るうに決まっている。ここは、歓心を買うためにも、金銭を握らせるのが一番だ。口では礼を言いつつも脳裏では冷めた考えの元で自己保身に走る。

 長年、とまでは言わないけれどもそれなりの期間、オラリオの住人として冒険者という生き物を身近に見てきた店主はその性質を熟知していた。

 こう言った場合、冒険者は大きく分けて二つの行動に移る。一つは笑顔で金を受け取ると同時についでとばかりに商品にまで手を出した後、まるで自分が物語の英雄であるかのように高笑いをしながら去っていくか、そしてもう一つは……

 

「ああ……? なんだ、これは……?」

 

 そら来たぞ。

 怪訝そうな声に店主は声に出さず、内心で舌打ちすると大仰に悲嘆の声を上げる。

 

「ああ……! 私としたことが! これは、申し訳ありませんでしたな! あのような荒くれ者から助けていただいたというのにこれでは感謝の気持ちが足りませんでしたな!」

 

 店主はそう言うと、売り上げの入った袋に手を伸ばし、中に入った金を数えながら頭の中で算盤を弾く。

 店主の想定したもう一つの行動。それは、報酬の上乗せである。

 自分は縁も所縁もない人間を助けたのだから報われて当然だろう。用心棒代だと思え。方便は色々あるけれども、更に金をせびるのは同じである。そうして、初めに渡した以上の金を……ほとんどの場合は最初に絡んできた者以上に金を脅し取っていくのだ。

 そのことに、怒ることは最早ない。そういうものだ、という達観しかない。

 程なく先ほどよりも大量の、それでいて大きな痛手とはならないギリギリの額の金銭が男の前に差し出される。

 

「さあ! どうぞ、冒険者様! 遠慮はいりません!」

 

「いや、だから。俺は、これが一体何なんだ、と聞いているんだが……?」

 

 これでも、まだ足りないというのか!? この業突く張りめ!!

 笑顔の裏で店主は悪態をつく。

 とは言え、身の安全には変えられない。諦めて再び袋に手を伸ばそうとする。

 

「おい、コラ。いい加減俺の話を聞け。俺は謝礼なんていらねえって言ってんだ」

 

「は?」

 

 あまりに意外な言葉に思わず、店主は素面で聞き返す。

 それほどまでに男の言葉は意表を突いたものだったのだ。

 

「あ、あの……本当ですか? 本当にいらないのですか?」

 

「ああ。いらねえよ。別に金が欲しくてやったわけじゃねえしな」

 

「は、はあ……」

 

 何処か、納得しかねるように曖昧なため息をつき、店主は金を手元に戻す。

 金など要らないと言われてしまえばこちらにとやかく言う権利はない。

 

「それよりも、だその焼き鳥を二本くれねえか。連れが待ってるんだが……どうにもご機嫌が斜めの様子でな。美味い物でも持って行かねえといけねえんだ」

 

「は、はい! かしこまりました! 二本で50……いや、30ヴァリスです!」

 

 嘘である。焼き鳥は一本25ヴァリスである。

 半額に近い値段で、それもわざわざ悟られない様に誤魔化してまで売ってしまったことに店主自身が驚いた。

 自分はもっと打算的な男であり、謝礼を渡そうとしたのも感謝してのことではなく、いらぬリスクを避けるためであった。であるならば相手側からいらないと言われた以上、決して自分に損になる様な事をしない筈なのだ。

 理解できぬ己の行動に首をかしげながら、手慣れた手つきでタレと滴る脂で照る焼き鳥を男に手渡す。

 

「おっ! こいつは随分と美味そうじゃねえか! こうなって来ると冷えたビールが欲しくなってくるな! お前、なかなかいい腕してんじゃねえか!?」

 

「は、はあ……それは、どうも……?」

 

 店主の心中の葛藤など微塵も気づいた様子を見せず、男はやや乱暴にバシバシと背中を叩くと意気揚々と背を向け歩き出す。

 と、数歩歩いたところで

 

「ああ、それとな」

 

 突如、首をこちらに向ける。

 店主の体が蛇ににらまれたカエルの如く、緊張で金縛りになる。

 なんだ、まだ何か言いたいことがあるのか? まさか、急に気が変わって金を受け取ることにしたのか。

 緊張に顔を青くする店主の顔に男は破顔して言う。

 

「お前はもう少し他人の善意ってモンを素直に信じてみたらどうだ? お前が思う程世の中捨てたものじゃあないぜ? 次、礼を言うなら、裏でこそこそと考えるんじゃなくて、素直な気持ちで言いな。そんなお面みたいな笑顔で礼を言われてもちっとも嬉しくねえよ。まあ、それはそれとしてありがとな、値引きしてくれてよ! 値引きされた分、また食いに来るからよ!」

 

 自分の内心が全てバレていた。男への不信感やその他諸々の感情が他ならぬその男自身に。

 恥ずかしさやら恐怖やらで顔を赤くしたり青くさせたりする店主を愉快そうに一瞥すると、今度こそ男は——逆鬼至緒は、その巨体を人込みに紛れ込ませていくのであった。

 

 

 

 

 

「まったく……なんつーか、この街は色々と荒んでいやがるなあ」

 

 先ほどの一件を至緒は一言でそう纏めた。ぼやく様な至緒の言葉であったがしかし、その声音に嘆きの色は少ない。

 野獣の如き外観から想像しにくいが、実は梁山泊の中でも彼は一番の国際派である。

 というのも、かつて武者修行の一環で世界を飛び回っていた経験があり、その過程で様々な国に訪れていた。その中には政情不安定な国もあり、暴力が法律なんてのは珍しくない、むしろそうでない国の方が珍しいぐらいだ。

 自然、そういった国の、力を持たない者が自分をどういった目で見るのか、よく理解できていた。理解はできているのだが、ついつい愚痴の一つでも出したくなるのも当然であった。

 

「にしても……だ」

 

 ぐるり、と至緒は辺りを見回す。

 場所は未だ人でごった返すメインストリート。世界の中心という名前に偽りはなく、様々な人種、様々な職業の人間が同じ場所を歩き、同じ空気を吸い、同じ光景を目の当たりにしている。彼等の顔には暗い影の様な物はなく、極々、平凡な真昼の繁華街といった光景である。

 その所々で先ほどのならず者と店主の焼き増しの様な諍いが起こっているのに、だ。

 

「オラッ! 店をぶっ壊されたくなけりゃ……グヒャッ!?」

 

「あ、兄貴!? テメエッ! 一体、何しやが……ヒギャアッ!?」

 

「チッ……! つい手が出ちまった……! 悪いが、こいつらの片づけはそっちでやっといてくれ!」

 

 気がついたら、武器をチラつかせ店から金を脅し取ろうとしていた二人組を速攻で片付けてしまっていた。

 突然絡んできていたならず者が瞬く間にのされてしまった事に目を白黒させる店主に至緒はそう頼むと、逃げる様にその場から走り出す。

 しかし、恐喝と暴行の現行現場だというのに相変わらず、通行人たちは店主にも、至緒にも目を向けない。まるで、その様なこと気にする程ではないと言わんばかりに。

 

「なんつーか……この街の奴等、肝が据わりすぎじゃねえか?」

 

 呆れ半分に呟く至緒の顔には複雑な表情が浮かぶ。

 誰もが注目しないというのは余計な騒ぎが起きない分、日本にいた頃よりもやりやすいのだが、それを喜ぶ気にはなれなかった。暴力沙汰が騒ぎにならないということは、つまりはそれだけ暴力という物が一般人にとって身近な物となっている証左なのだから。

 まあ、冒険者という荒事専門の人間が中心となって作り上げられた街なのだから暴力がある程度身近になることは避けられないだろうが。それでも、堅気の人間に迷惑をかけないようにするぐらいの分別はつけてもらいたいものである。

 そんな、至緒にしては珍しく武人と一般人との関係について思いを馳せていると、目的の人物を見つけた。

 

「おっ、待たせちまったな、ベル! おーい、土産の焼き鳥だ! どうだ、美味そうだろ!」

 

「…………」

 

 相好を崩し話しかける至緒を、ベルは黙殺する。

 その姿をよく知るものが見たら驚くであろう。

 話しかけられた人間を無視するなどという無礼を生真面目な彼がしたことに、ではなく、ベルのあまりに変わり果てた姿に。

 まず目につくのは、装備の惨状だろうか。初心者向けの胸当ては傷だらけのへこみだらけで防具としての機能を放棄し、その下にある服も擦り切れきっている上に泥だらけで元の色がどのようなものであったか判別できる者は皆無であろう。初雪の様に真っ白な髪は泥埃に塗れくすんでしまっている上に汗と脂でぎらついた光沢を放ちながら膠の如く固まっている。そして何よりも変わり果てているのは、瞳であろう。紅玉の如く輝いていた瞳が今や、生命無き深海の様に淀み、その瞳には何も映していない。屍の様に眠っている、もしくは眠っている様な屍か。

 暴力沙汰に慣れたオラリオの住人といえどこれをよくあることと捉えることはできず、遠巻きに怪訝な視線を送るだけであった。

 非好意的な衆目を集める中、至緒だけは我関せずとばかりにずかずかと座り込むベルに近づく。

 

「おい、いつまで寝ていやがるつもりだ? いい加減、起きろっての!」

 

 そう言って軽くデコピンする。

 鋭い音ともにベルの首が軽く傾げる。その衝撃により気が付いたのかゆっくりと死んだ魚の様であった瞳に弱々しい光が灯る。

 すると——

 

「あああああっっ!!? ミノタウロスが! ミノタウロスがああああぁぁっっ!!」

 

「うるせええええっっ!!」

 

 フラッシュバックした悪夢に絶叫しながら飛び起きたベルに拳骨を落とし、強制的に落ち着かせる。

 頭を抱えてうずくまりながらもベルは恨めし気に自分を見下ろす至緒に抗議の声を上げる。

 

「うううぅぅ……痛いですよ、逆鬼師匠……」

 

「お前が、いきなり大声を上げるからだろうが! こんな街中で大声出しやがって……見ろ、周りの奴らが見ているぞ」

 

「え……街中……?」

 

 キョロキョロと辺りを見回す。確かに、多くの人が行きかう大通り、肌を温める日光。どれも地下のダンジョンではあり得ないものであった。

 しかし、ベルの最後の記憶はダンジョンの中で途切れており、そこから地上に出るまでの記憶がごっそり抜け落ちていた。

 

「え……あれ……? 何でだろう? 僕はさっきまでダンジョンにいた筈なのに……? あれ、ひょっとして逆鬼師匠が運んで下さったんですか?」

 

「まさか。俺がそんな事するわけないだろうが。ダンジョンからここまでしっかりとお前の足で歩いてきたぜ。まあ、その間、半分意識が飛んでいやがったが」

 

「意識が……飛んでいた……? 僕が……?」

 

 至緒の言葉にベルは目を丸くする。ベルの好きな英雄譚に出てくる英雄の中にはあまりに苛烈な戦いに、戦いの最中に意識を失いながらも戦い続けた者がいた。まさか、自分に同じことが起きるとは夢にも思わなかった。

 じわり、と喜びが胸に広がる。

 

「えへへ……意識を失いながらも動き続けるなんて、まるで英雄みたいですね、僕……」

 

「ん? 意識飛ばされて喜ぶなんて変な奴だな? 意識飛ぶなんてこれから毎日起こるだろうに……」

 

 それは、つまりこれから毎日意識を飛ばされるような修行が続くということなのだろうか?

 胸に広がっていた喜びが一瞬で拭い去られた。

 暗くなるベルの顔を勘違いしたのか、至緒はニヤリと笑うと手に持った焼き鳥を押し付ける。

 

「なんだ、腹が減ったのか? お前、なかなか肝が太いじゃねえか! よしよし、修行も無事にクリアしたわけだし、褒美にこの焼き鳥はおごってやろう!」

 

「いえ、別にお腹が減っているわけでは……って、待ってください。今、何と言いましたか?」

 

「ん? だから、この焼き鳥食っていいと……」

 

「そうじゃなくて、その前です!」

 

 驚きと興奮に唾を飲みこみながらベルは至緒に食って掛かる。

 

「僕、修行を……ミノタウロスに一撃を与えたんですか!?」

 

「ん? そうだが……なんだ? お前、あの時から既に意識飛んでいやがったのか?」

 

 あっさりと首肯する至緒にベルは信じられないという風に首を振った。

 

「嘘……でしょう……そんな、だって僕……ついこの間まで逃げ回ることしかできなかったのに……」

 

「実際、一発喰らわしてたんだがなあ……本当に覚えてねえのか? 最後に残った記憶はどこまでだ?」

 

「ええっと……ですね……」

 

 聞かれ、必死に頭を捻って記憶を絞り出す。

 そう、確か自分は始め、トラウマの象徴であるミノタウロスに恐怖で頭が一杯になり、何も考えずにただただその場から離れることしか考えられなかった。

 そうして始まる以前の焼き増しの様な逃走劇。その果てにあったのはやはり焼き増しの様に袋小路に追い詰められるという結末だったのだ。

 訳も分からず半狂乱に壁を叩き続ける自分。背中越しに聞こえる足音と漂ってくる血なまぐさい獣の匂い。全てがトラウマとなったあの瞬間を思い出させ、現実と恐怖の思い出の境目があやふやとなり、ぐちゃぐちゃにねじ曲がっていく視界にミノタウロスの姿が一杯に広がって……

 

「ううっ……! あ、頭がっ!! 頭が……! 頭が、痛い……!!」

 

 その先を思い出そうとした瞬間、ベルの頭を締め付ける様な痛みが走る。どうやらここから先には心の防衛機能が働く程に恐ろしい記憶が眠っている様である。

 この数日の間に命の危険を味わい、研ぎ澄まされた危険察知能力が言っている。

 これ以上先のことを思い出そうとするな心が壊れるぞ、と。

 

「全く……だらしねえなあ。折角、トラウマを乗り越えたのにその時の記憶を覚えていなけりゃ苦労した甲斐がねえじゃねえか。うーむ……そうだな……」

 

 やや考え込むと、至緒は頭を抱えて転がるベルの懐から得物の短刀を取り出すと鞘から刃を抜き出し、翳すようにしてベルに見せる。

 

「ほれ、よく見てみろ。刃の所を」

 

「あっ!? これは……」

 

 至緒の分厚く、大きい手とはアンバランスに小さい短刀。その刀身はうっすらとだがミノタウロスの血と脂の、ぬめり気を帯びた光を放っていた。

 伝聞ではない、確かな証拠にベルは震えと共に事実を受け入れた。

 あのミノタウロスに一矢報いた。その事実にベルの体が震える。

 

「ぼ、僕……やったんだ……」

 

「おうよ! まあ、ちょっとばかしへっぴり腰だったけどな! ……ところで、だ」

 

 打ち震えるベルを微笑まし気に見ていた至緒だったが、突然思い出したように口調を改めて尋ねる。

 

「なあ、ベル。ひょっとして、お前ケンイチから何か教えられたのか?」

 

「へ? どうして、それを……?」

 

 ベルは至緒の質問に首肯しつつ、驚きを隠せなかった。

 昨日、ベルは休憩時間の際、ケンイチに呼ばれ、そこである技を一手教わったのだ。師匠たちには内緒という話だったのだし、ケンイチが話したとは思えないのだが。

 それを聞き、至緒は納得した、とばかりに頷いた。

 

「まあ、覚えていないのは仕方ねえんだが……お前がミノタウロスに一発くらわした時、その技を使ったんだよ。まだお前に技を教えるのは早い、ってことで誰も教えていない筈だから、もし教えたやつがいるとするならケンイチぐらいなものだろうと思ったのさ」

 

「へえ……そうなんですか……って、僕に技を教えちゃダメなのに、教えちゃったということは、まさか、ケンイチさん、何か罰を受けるんじゃ……!」

 

 己の迂闊な発言でケンイチの行為がバレてしまった事に遅まきながらベルは顔を青くさせる。

 目の前の人間たちの非常識っぷりはこの数日で嫌という程知らされている。ただの修行ですら死ぬと思ったのに、懲罰となれば如何ほどであろうか。

 顔面蒼白となるベルであったが、至緒は心配するな、と笑って見せる。

 

「ガッハッハッハッ! 安心しな。その程度で目くじらなんざ立てねえよ! まあ、口うるさい秋雨辺りの耳に入れば予定が狂ったと愚痴るかもしれねえが、俺様は寛大だからな! それに、兄弟弟子同士お互い教え合うのは両方にとっていいことだからな、大いに結構!」

 

「あ、ありがとうございます! 逆鬼師匠!」

 

 そう言って笑う至緒にベルは頭を下げると同時にその評価を大いに改めていた。

 初めは顔が怖い上に、ミノタウロスの前に放り込むような人だから粗暴で適当な人なのだと思っていたが、こうして話してみれば決してそれだけの人ではないのだ。

 こうして、弟子のやんちゃを見ても大目に見ることもあるし、やり遂げた弟子を労うことも惜しまない。実の所面倒見の良い人間の様である。

 と、ベルは思っているが一般常識で言えばミノタウロスの前に素人を放り込むのは断じて優しい人の所業ではない。出会って数日だがベルの常識も徐々に梁山泊に侵食されてきている様であった。

 

「……あっ!! いたぞ! ザニスさん、あいつです! あいつが突然因縁をつけてきやがったんです……!」

 

 男の怒声が二人に浴びせかけられ、複数の荒々しい足音が近づいてきた。

 振り向けば、そこにはこちらを指さす大男、その横にいる細面のヒューマンの男性を先頭とした十人近くの男たちがいた。

 見知らぬ男たちと彼らが放つ剣呑な雰囲気にベルは怪訝そうに眉根を寄せた。

 

「あの……なんか、あの人たち僕たちのことを指さしているような気がしますけど、知り合いってわけじゃないですよね」

 

「ん? 知り合いじゃねえよ」

 

「ですよね! はあ……良かった。それじゃあ、僕の気のせいか、もしくは人違いなんですね!」

 

 人の悪意に対し、慣れていないベルは何かの間違いだと分かり胸を撫でおろす。

 しかし……

 

「知り合い、ではねえよ。ただ、あの野郎がさっき恐喝していやがったから脅かしてやったが……」

 

「何やってるんですか、あなたはあああぁぁっっ!!?」

 

 明らかに殺気立っている男たちの目的が自分たちだと分かり、ベルは絶叫する。最早、男たちとの距離は目と鼻の先であり、逃げ出すことは不可能である。

 あっという間にベル達を取り囲む男達。周りにいた通行人はとばっちりはごめんだとばかりに蜘蛛の子を散らかすようにして離れていく。

 やがて、男たちの中から細面のヒューマンの男性が現れる。

 

「いやはや、探しましたよ。貴方が我々の同胞に一方的に絡んできたというならず者ですかな?」

 

「あ? 誰だ、テメエ?」

 

 至緒の凄みを効かせた誰何に細面の男はおお、怖い怖いと小馬鹿にするように身震いをして見せると厭味ったらしい笑みを浮かべながら慇懃無礼に一礼をして見せる。

 

「私の名はザニス・ルストラ。ソーマ・ファミリアの団長を務めさせている者で、レベル2、つまりは上級冒険者の末席を汚させて頂いております。実は先ほど我がファミリアの者が知り合いの店主と冗談を言い合っていたら横から貴方がしゃしゃり出て来て乱暴を働いたと聞きまして。少し『お話』をさせていただきたいと思いましてね?」

 

 丁寧であったが、負の感情を隠そうともしない口調であった。『お話』とやらが言葉通りの物ではないとベルでも分かった。

 慌てて、周囲を見回す。隙間のない包囲網は突破することは不可能に近く、あれほどいた通行人は今や人っ子一人おらず、これでは助けを呼ぶことも出来ない。

 視界が真っ暗になる様な感覚に頭を揺さぶられながら、ベルはこの場で唯一頼りとなる自身の師匠に目を向ける。

 

 

 

 

 

 

 

「コイツ今、自分の事をソーマ・ファミリアの人間だと言いやがったな……確か、ソーマ・ファミリアは美味い酒を造ってるということで有名だったよなあ……」

 

「ヒイッ……!」

 

 ニヤリ、という至緒の禍々しい笑みにベルは悲鳴を上げた。

 そうだった。目の前にいる人間はミノタウロスを視線だけで倒す恐ろしい生き物であったのだ。高々レベル2冒険者が集まった所でその結果は高が知れている。

 ガクガクと震えるベルに勘違いしたザニスは愉快そうに嘲笑を浮かべた。

 

「フッ……! どうやら、そこの少年は上級冒険者の恐ろしさが分かっているようだ。安心しなさい、私は温厚だ。何の関係もない人間に危害は加えません。まあ、そこの男は別、ですがね?」

 

「へー、そうかい。そいつは悪いな……というわけだ、ベル。お前は先にファミリアに帰ってろ」

 

「フフフ……覚悟は決まった、ということですか。いいでしょう、着いてきなさい。我がソーマ・ファミリアにて団員全員でおもてなしをさせてもらいますよ」

 

 そう言ってソーマ・ファミリアの本拠地へと連れだって歩く至緒とザニス、そして二人を取り囲む男達。

 男たちは全員、何もできないベルに嘲りの視線をくれた後その場から去っていく。

 その様は本人たちは勝利の行進だと思っているのだろうがベルからしてみれば絞首台に向かう死刑囚に思えた。

 

「あの人……オラリオに来て数日しか経っていないのに、僕よりも馴染んでいるような気がします……」

 

 ため息を一つ、つく。

 出会って数日だが今更あの人たちの無軌道っぷりに驚いていたら身が持たない。

 さて、予期せぬとは言え自由時間を手に入れたわけだが、どうしたものか、と首を捻っていると。

 

「ベール君! 見つけたよ!!」

 

「わっ、神様!? どうしてここに!?」

 

 ぼふんと、背中に軽い衝撃と親愛に満ちた、慣れ親しんだ声が包み込む。

 振り向けば、案の定そこには敬愛している神、ヘスティアがしがみついていた。

 

「うふふ……偶然君を見つけてね! 折角だから、このままデートとしゃれこもうと思ったのさ!」

 

「そうでしたか……あ、そう言えばお知り合いの神様への用事はどうなったんですか? あれからずっと家に帰ってこないから皆さん心配していましたよ?」

 

 そう言った瞬間、ヘスティアは笑っていた顔を更に破顔して、そのまま躍り出しかねない程に上機嫌となる。

 

「よくぞ聞いてくれた! うふふ、もうばっちりさ! しっかり、お願いを聞いてくれてその成果もほら、この通りさ!」

 

 そう言って懐から風呂敷に包まれた小物らしきものを誇らしげに掲げてみせる。

 中身の知らないベルにはその成果とやらがどういうものか見当もつかなかったが、ヘスティアがこんなに嬉しそうにしているというだけで自身もまた嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。

 

「そうですか! それじゃあ、みんなでお祝いしないといけませんね! 今ならケンイチさん達も教会にいるでしょうし。早速、帰りましょう!」

 

「あっ! それは、ちょっと待って欲しいんだ!」

 

 手を引っ張って教会に行こうとするベルにヘスティアは待ったをかける。

 思わぬ言葉に振り返ったベルにヘスティアはもじもじと身じろぎをしながら、傍らの店先に張られた壁紙を指さす。

 そこには巨大なドラゴンの前に立つ調教師の絵が描かれている。この街の者ならば当然知っているオラリオの祭り、怪物祭のポスターだ。

 

「その……今日は、怪物祭だろう? だからその……二人で一緒に見に行かない、かい?」

 

「えっ!? それは、構いませんけど……? どうせなら皆さんで行った方が楽しいと思いますよ?」

 

「くっ……! 分かっちゃいたけど、全く意識されていないと改めて思い知らされるのはキツイものだねえ……!」

 

 この唐変木めえぇ、と悔し気に歯ぎしりするヘスティアにベルは目を白黒させる。

 その様が益々ヘスティアを苛立たせ、怒髪天をつく。

 だが、その怒りもベルに手を差し出された瞬間、雲散霧消する。

 

「ええっと……よく分かりませんけど、僕と怪物祭に行きたいんですよね。それじゃあ、はぐれない様に手をつないで行きましょうか?」

 

「手をつなぐだって!? 勿論さ! ……ああ、この感触。ボクは今まで生きていた中でこれ程の感動に包まれたことがあっただろうか……!」

 

「あはは……オーバーですよ、神様」

 

 どうして怒っていたかは分からないまでもこうして簡単に機嫌を直すヘスティアにベルは苦笑する。

 そうして、見かけは朴訥な少年とおしゃまな少女のカップル、その実は十四歳と数十億歳という超年の差カップルは怪物祭に賑わう雑踏へと紛れていくのであった。

 

 

 

 






 第九話、完成いたしました。
 恐らくはこれが今年最後の更新になるでしょう。来年はもっと更新速度を上げられるよう頑張りたいと思います。
 さて、おそらくは次回か次々回あたりで一巻の内容は終わると思われます。梁山泊の介入でどれほどの変化が現れるのか、楽しんでいただけたら幸いです。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。




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第十話

 

 

 

「うわあ……これが、怪物祭の会場ですか……!」

 

 その建造物を一目見た瞬間、思わずケンイチの口から驚嘆の声が零れた。

 口をだらしなく開けたまま突っ立ているその姿はおのぼりさんそのままだが、それを笑う者はいなかった。もし、彼が周りを見るだけの余裕があれば、あちらこちらで自身と同じように口を開けて驚嘆の声を上げるか、もしくは声を上げることすらできない者たちの姿を見たであろう。

 円形闘技場。ローマのコロッセオを代表としたケンイチの世界でも存在したという、その総合娯楽施設はその岩肌に多くの者たちのため息を弾けさせながら今も、数えきれない人間たちを飲み込んでいた。

 その姿は日本の最先端技術を駆使した建築物とは完全に異なる趣と威容を兼ね備え、またその周りにいるエルフ、ドワーフ、獣人、パルゥム等々、元の世界では決して見ることのできなかった存在も相まって、此処は異世界であるということを強烈に印象付けた。

 改めてここが異世界なのだと意識すると、未知なる世界での冒険に胸を躍らせる男児の本能が疼くとともに、未知なる物への怖れと恐怖が胸の中でむくむくと鎌首をもたげるのが分かる。

 

「うわあ……大きいですわね……!」

 

「ですよね! いやー、あんな大きい建物を機械も使わずに作るなんてこの世界の人たちはすごいですよね!」

 

 が、その怯懦も傍らの美羽の声を聴いた瞬間、霧散する。

 だらしなく口元を緩め、何とか美羽と仲良くなろうと必死に話題を盛り上げようとするケンイチ。

 その姿はとても、オラリオの中でも有数の武人とは思えぬ年頃の男児である。

 しかし、その姿を咎める者はいまい。少なくとも男子には。

 いつの時代においても男児にとって、一番の勇気の源は未知なる物への冒険心などという実態のあるものではなく、意中の女の子という即物的なものなのだから。

 

「それじゃあ、早速入りましょうか! 美羽さんは先に入っていてください。僕は飲み物でも買ってきますので!」

 

「ありがとうございますわ、ケンイチさん。ふふふ、剣聖さんには後でお礼を言わないといけませんわね」

 

「ええ! 全くです!」

 

 美羽の言葉に力強く同意すると、ケンイチは一時間前の出来事を思い起こしていた。

 

 

 

 

「ケンちゃん、これあげるね。こいつで美羽と一緒に怪物祭に行くヨロシ」

 

「怪物祭?」

 

 そう言って、ケンイチは目の前に渡された二枚のチケットにキョトンとした目を落とすのであった。

 ベルが至緒に連れられて、と言うよりも連れ去られてから数時間、朝の日課である朝練を終えたケンイチに剣星が近づいてきて二枚のチケットと共に先の言葉を送ったのだ。

 聞きなれない単語に喜ぶよりも先に不思議そうに尋ねるケンイチに剣聖は信じられない、という顔をする。

 

「まさか……知らないね!? 街のあちこちに壁紙があったね! ほら、鞭持った女の子が龍と相対した絵柄の奴よ!」

 

「うーん……そう言われればあったような……?」

 

 今一つ、はっきりしないケンイチの態度に剣星は嘆かわしい、とばかりに首を振る。

 

「やれやれね……ケンちゃん、それでもおいちゃんの弟子かね? おいちゃんならこんな美羽との距離を縮めそうな絶好のチャンス、絶対に逃さないように仲良くできそうな情報には目を光らせるというのに……」

 

「いや、そんなことで弟子として疑われても……って、今何とおっしゃいましたか? 美羽さんと仲良くできるチャンス……?」

 

「ほほう……! ようやく、乗り気になったね……?」

 

 美羽と仲良くできる、というフレーズに目の色が変わったケンイチに剣星はまるで悪事の片棒を担がせるかのようにニヤリと笑った。

 

「いいかね、ケンちゃん。多くの書物で言われている通り、環境の変化は人を開放的にさせ、異性間の仲を急速に進めるね」

 

「確かに……前に読んだ『女の子と仲良くなれる百の方法』という本にも同じことが書かれていました……!」

 

 ごくり、と生唾を飲み込む。

 奥手な上に恋愛の機微にも疎いケンイチもようやく、剣星の言わんとしていることが分かってきた。

 

「加えて、ここは異世界。そんじょそこらの変化とはわけが違う。武術家とは言え、女の子である美羽もその胸の中はきっと不安で一杯よ……さて、そこで……ね」

 

 剣星は再び、二枚のチケットをケンイチに突き出す。

 怪物祭、と書かれたしわだらけの紙切れ二枚。当然ながら先ほどとは何一つ変わっていないのだが、ケンイチの目にはまるで黄金に輝いているような気がした。

 

「ケンちゃんがさり気なく、こいつを差し出して不安で一杯の美羽をいたわる様にデートに連れ出し、さらにはそこで頼りがいのある男性としてリードしてあげたら、開放的になった美羽との関係は一体どうなってしまうだろうね……!?」

 

「馬師匠……! やっぱり、あなたは最高だ……!」

 

 がっしりと、ケンイチは剣星の両手を掴むと感涙にむせび泣いた。

 そんな愛弟子を、剣星は慈しむ聖人のような笑顔を浮かべながらサムズアップし、そして、ド外道なセリフで弟子を送り出した。

 

「さあ、ケンちゃん。今こそ男を見せるときよ。美羽の心の隙に付け込んで本懐を遂げるヨロシ」

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございます、馬師匠。師匠のご厚意は絶対に無駄にはしませんからね……!」

 

 美羽と一旦別れ、ケンイチは二人で怪物祭を見ながら取る昼食を買いにメインストリートを歩いていた。美羽はどんな物を買ってくれば喜んでくれるだろうかとキョロキョロと周囲の店を見回すその手にはずっしりとした重みを感じさせる袋が握られている。軍資金だと剣星が持たせたお小遣いである。何から何まで世話をしてくれる剣星には本当に頭が上がらない。

 ケンイチは美羽との最高のデートを演出してくれた剣星に感謝の気持ちを改めて口にしていた。

 その足は持ち主の気持ちを表すかのように多くの観光客で賑わう人込みの中を軽快に進み、やがて一つの屋台の前で止まった。

 

「よーし……! 折角ここまでこぎつけたんだ。絶対に失敗しない様に美味しい昼食を買わなくちゃ!」

 

 意気込み、財布からお金を確認するケンイチの前にある屋台では店主のドワーフが熱い鉄板の上で牛のものと思しき肉を焼いていた。

 ケンイチの足音に気が付いたのだろう、ドワーフはちらりとケンイチを一瞥すると徐に傍らの瓶を取り、一息に中身を肉にぶちまける。

 途端、鉄板から炎が吹き上がる。

 少し離れた距離を取っているケンイチですらやけどしそうな熱気を感じるというのに、燃え上がる鉄板の目前にいるドワーフは涼し気な顔で肉を焼き続ける。

 ようやく炎が収まって来たところで焼いた肉をトングでパンの上に乗せ、赤色のソースをたっぷりと肉にかけて、さらにその上にパンで挟み込む。

 その様は元の世界のハンバーガーとサンドイッチの親戚といった所だろうか。

 懐かしい故郷を思い出させるその外観と焼けた肉と焦げたソースの香ばしい匂いにケンイチの喉がごくりと鳴る。

 

「す、すいません! それ、二つお願いできますか!?」

 

「……一つ30ヴァリス。二つで60ヴァリスだ」

 

 必要最低限の事だけを、不愛想な口調でドワーフは言う。とても接客業とは思えない態度なのだが、不思議と不快感を与えない。むしろ、恰幅の良い体格といかにも頑固そうな顔から、まるで味にしかこだわらない職人気質の料理人みたいだと好感を抱いてしまう程だ。

 もどかし気に財布から小銭を取り出すと、ケンイチはドワーフから商品を受け取る。

 中のソースがこぼれない様にするためだろうか、分厚い紙に包まれたそれはただの紙束に見えるが、ずっしりとした重さと厚い紙越しでも分かる熱がケンイチの手に伝わってくる。

 こうして手に持ったことで益々ケンイチの食欲を刺激する。

 

「一口だけなら、良いですよね……?」

 

 そう、誰にしているのかも分からない言い訳をして、ケンイチは一口かぶりつく。

 そして、目を見開く。

 

「うわっ!? 美味しい!!」

 

 あふれ出す肉汁とソースで口元を汚しながら歓声を上げる。ただ漫然と肉を焼いていてはこの味は出せまい。肉の焼き加減、パンの硬さ、ソースの染み込み具合など様々な要素が計算されて出来る味わいだ。

 どうやらあのドワーフはまるで、ではなく、本当に味にこだわっている料理人だったらしい。

 二口目をかぶりつきたい誘惑を何とか振り払い、ケンイチは包装紙に戻す。

 

「これなら、美羽さんも喜んでくれるはず……!」

 

 運よく当たりの店を探し出せた自分の幸運にケンイチは今日のデートの成功を確信する。

 だが、そんなケンイチの絶頂に水を差す言葉が放たれる。

 

「いやいや、多分女の子にそれは幻滅されちゃうと思うよー?」

 

「え?」

 

 驚き振り返れば、そこにいたのは一人の少女だった。

 年はケンイチと同じかやや年下だろうか。外観は褐色の肌とやたらと際どい服装が特徴的である。

 突然話しかけられ困惑するケンイチに気づいた様子も見せず、少女は心底おかしそうに笑いながら今しがた購入した昼食を指さす。

 

「ミウという名前って東方の、女の子の名前でしょ? それ、その子と食べるつもりなの?」

 

「ええっと……そうですけど……?」

 

「うーん……さっきも言ったけどそれは止めといた方がいいよ? 多分、その子すごく困ると思うよ?」

 

「え? 困るって……こんなに美味しいのに……?」

 

「いやいや、美味しいか不味いかの問題じゃないんだって! ほら、そこ……!」

 

 そう言って少女はケンイチの口元を指さす。

 一口しか食べていないのに、その口元は肉汁とソースで汚れていた。

 

「女の子にデートでそんな口元が汚れる食べ物を渡しても困るだけだよ。それどころかデリカシーがないって嫌われちゃうかも」

 

「あっ……! 確かに……!」

 

 少女の言葉にケンイチは自分の迂闊さにようやく気付いた。少々浮世離れしているとはいえ、美羽とて年頃の娘だ。口元を肉汁やソースでみっともなく汚した姿など人前に見せたくはないだろう。

 

「しまったなあ……全然気づかなかった」

 

「しょうがないよ。女の子の気持ちなんて男の子には分からないものだし。次につなげればいいんだよ!」

 

「そうですね……ああ、お礼を言うのが遅れてしまいました。ありがとうございました、おかげで恥をかかないですみそうですよ……ええっと……?」

 

 剣星から与えられた折角の好機を潰さずに済んだことに礼を言おうとするも、少女の名前が分からず、言葉に詰まった。

 口ごもるケンイチに、少女は一瞬キョトンとした顔になるがすぐに自分が名乗っていなかったことを思い出したのか、すぐに納得したというような顔をする。

 

「ごめんごめん。そう言えば、あたし名前を言っていなかったね! あたしの名前はね……」

 

「何してんの、ティオナ?」

 

 横から新しい少女の声が聞こえた。

 振り返ればそこにはまたしても新しい少女がいた。年は目の前のティオナという少女よりも年上だろうか。浅黒い肌と整った容姿という点ではティオナと共通しているが、スレンダーな彼女に対し、より豊満な体格をしている。そんな女性的な肉体を煽情的な服装で晒しているのだからたまらない。思わず頬を染めながら目を反らしたケンイチを責める者はいまい。

 が、件の少女はそんな少年の純情な反応など見飽きてきたのだろう、特に興味を示さずティオナに呆れた様に話しかける。

 

「全く……美味しそうな匂いがする、って突然横道にそれたかと思えばこんな所で逆ナン? アンタ、いつからそんな色気づいたのよ?」

 

「むう……違うよ、ティオネ。この人がデートで失敗しそうになっていたから女としての助言を与えていたんだよ」

 

「女としての助言? アンタが? 冗談でしょ?」

 

「ひっどーい!! どういう意味よー!」

 

 鼻で笑うティオネと呼ばれた少女にティオナは憤慨の声を上げて掴みかかる。その速度はケンイチの目を以てしても相当なものであり、瞬く間に両者の距離をゼロにしてしまった。

 ティオネの胸倉を掴んだ、と思った瞬間ティオネの体が一瞬でぶれる。

 

「うおりゃああっ!!」

 

「なっ!? 危ない!!」

 

 ケンイチが気づいた瞬間にはティオネの体が上下反転し、そのまま重力に導かれるまま、だけでなくティオナのその小柄な体格に似合わぬ剛力によって加速したまま石畳の地面に叩きつけられようとしていた。

 他愛ない口喧嘩から死につながりかねない大事故に発展したことに頭がついていけないながらも体が反射的に動いた。

 尋常ならざる脚力により最初の一歩からトップスピードに乗り、ティオナの体を横からすり抜ける様にしてティオネと地面の間に体を滑り込ませる。

 すぐにでも自分を襲うであろう衝撃に備え、歯を食いしばる。

 しかし……

 

「え?」

 

 果たしてその声は誰の物であろうか。

 無警戒の後ろから突如人影が飛び出してきたティオナか、視界一杯に予想外の人物が滑り込んできたティオネか、それとも

 

「え? え? ええぇっ……!?」

 

 目前に浮かぶ少女の姿を捉えたケンイチの物であろうか。

 ふわり、とティオネの艶のある黒髪がケンイチの顔を撫でる。女性特有の甘さを含んだ香りが鼻腔を通り抜けた。こんな状況であるが、カッと血液と熱が顔面に集まるのが分かった。

 

「驚いた……私たちの動きに反応できるなんて。ティオナ、一体この子何者なのよ?」

 

「分かんないよ、そんな事。あたしだって通り掛けに話しかけただけなんだから」

 

 眼前にティオネの整った顔が面前に迫り、ドギマギしているケンイチとは対照的に件の張本人であるティオネは相も変わらず否、先ほどよりかは幾分興味を持ったようにケンイチを眺めていた。

 そんな彼女の体はケンイチの体から指先一本分上空に浮かんでおり、それを可能としているのは地面に触れている彼女自身の折れそうな程に細く、瑞々しい一本の腕であった。

 傍目から見ればそれは異様な光景であろう。単なる手弱女にしか見えない少女が、その細腕で以て片腕逆立ちを微動だにせず成しているのは。

 恥ずかしがっているのか、混乱しているのか最早分からぬケンイチの目の前でティオネは軽く一息を吐くと

 

「ふっ! よっと……!」

 

「わわっ……!?」

 

 ふわりと重力から解き放たれ、その肢体を舞わせると今度は両の下肢で地面を踏みしめる。地面を押し、その反動で飛び上がったのだと分かるのだが一連の動作には力という物が感じられず、まるで魔法の様な軽業であった。

 目の前で行われたティオネの見事な技量に感心とも呆然とも言える様に眺めるケンイチであったが、見下ろす少女たちもまたケンイチに感心した様にうなずき合った。

 

「へー、その年にしては随分と絞り込まれた体をしているわね、この子。まるで才能なんてなさそうなのに、ここまで鍛え上げるなんて大したものよ」

 

「いやいや、ティオネ。肉体的にすごいのは確かだけどさ、あたしはそれよりも精神的な所がすごいと思うよ? あの一瞬で見ず知らずのティオネの為に躊躇なく自分の体をクッションにするために動けるとか相当に場慣れしてなきゃできないって」

 

「ああ、そう言えばそうね。この子がいなくても大丈夫だったけど、アンタ、よくも私を投げ飛ばしてくれたわね……!」

 

「え? いや、あんなのいつものことじゃな……いったあああっっ!?」

 

 その細さではへし折れてしまうのではと危惧する腕はしかし、ケンイチの目を以てしても霞むほどに素早く、そして周囲を震わせるほどの破砕音を届かせるほどに重くティオナの腹にめり込んだ。

 たまらず崩れ落ちるティオナだが、すぐにお腹をさすりながら立ち上がり、抗議の声を上げる。

 

「ひっどーい! 何すんのさ、ティオネ!? 可愛い妹の悪ふざけにそんなに怒んなくてもいいじゃない!?」

 

「可愛いって、それを自分で言う!? つーか、姉を石畳に叩きつけようとする奴が可愛いわけねえだろーが!! 冗談はその貧相な体だけにしなっ!」

 

「ああっ!?」

 

「アアッ!?」

 

 自身の最大のコンプレックスを揶揄された妹と、徐々に本性を明かし始めた姉は凶暴な面持ちでメンチの切り合いを始める。二人の怒気に圧せられ、怪物祭で賑わっていた筈の大通りからいつの間にやら人が引潮の如く去って行く。これから始まる姉妹喧嘩と言うには生易しい死闘から逃げ去る為だ。

 実際、そのままであればそうであっただろう。

 

「あのー、ちょっといいですか?」

 

 二人の殺気を誰よりも間近に受けてなお、平然としている少年がいなければ。

 

「へ?」

 

「あ?」

 

 思わず、二人の声が重なる。二人とも少年のことを意識していなかった、もしくは周りの人間と同様にとっくに逃げ出していると思っていたからだ。

 驚く二人を気にした様子もなく、ケンイチはゆっくりと腰を上げると服についた埃を落としながら困ったように笑う。

 

「どうやら、お二人は姉妹で先ほどまでのあれもじゃれ合いの一つだと思ってもよろしいんですよね?」

 

「え、ええ……」

 

「そうだけど……?」

 

 思わぬ闖入者に、ティオネも本性を引っ込め、ティオナも普段の明朗さが嘘のように歯切れ悪く返事をする。

 

「それじゃあ、ボクから言うべきことではないのかもしれませんけど……どんなにお二人にとっては何でもない事であったとしてもやっぱり急にあんなことをされたりしたら何も知らない人間はびっくりしちゃいますよ? 折角のお祭りの日なんですから怒ったりしないで皆で楽しんだ方がずっといいですよ」

 

「あー、うん……そりゃあ、まあ……そうね、その通りだわ……」

 

「うんうん、確かにそうだよねー」

 

 自身よりも強い二人をまるで近所の困った子供の様に話しかけられるケンイチの言葉にティオネ、ティオナの両名は何処かばつの悪そうな顔で頷く。

 ちらりと視線を横にずらせば、依然として大通りは賑わっていたが、どういう訳かティオネとティオナを中心にぽっかりと開けた空間が出来上がってしまっていた。間違いなく、自分たちの仕出かしのせいであろう。

 本来であればこうして周囲の人間に迷惑をかける様な真似はしないのだが、どうやら知らず知らずの内に祭りの陽気に当てられ、浮かれきっていたようである。

 この街に来て、本性を隠せるようになってから久しく晒さなかった醜態にティオネは居心地悪く身じろぎする。

 

「悪かったわね、私たちの悪ふざけに巻き込んじゃって」

 

「気にしないでください。こういうのはよくあることですし、慣れていますから」

 

「あはは! なにそれ!? キミの周りには第一級冒険者同士の喧嘩がよくあるの!? そんなわけないじゃ……いったああっ!?」

 

「はあ……全く、アンタは……」

 

 自分の謝罪に、気遣うためとはいえあからさまな嘘に爆笑するティオナを今度は鉄拳ではなくデコピンで黙らせる。ティオナも先ほどの話のこともあり、鼻を抑えティオネを恨めし気に睨むだけであった。

 尚、ティオネもティオナもケンイチの言葉を嘘だと決めつけているがケンイチは嘘を言ったつもりはない。彼にとって絶対的強者のじゃれ合いという名の一般人にとって天災は日常茶飯事であり、それが自分に矛先が向けられるまでがいつもの流れである。

 

「本当……こういうことはよく、ありますからね……」

 

「ええっと……どうしたの、キミ? なんか、すごく実感がこもった様な遠い目をしているけど……?」

 

 己が普段身を置いている環境の異常さを再確認し、自分の世界に入り込むケンイチにティオナは少しだけ戸惑うがすぐにそうだ、とばかりに手を叩いて大声を上げた。

 

「あっ!? そう言えばさ、あたし達自己紹介してなかったじゃない! ねえねえ、君の名前を教えてよ!」

 

「ちょっと、ティオナ。アンタはどうして初対面の人間に馴れ馴れしいの!?」

 

「別に気にしませんよ。ええっと、ティオナさん、ですよね。僕の名前は白浜健一と言います」

 

「シラハマケンイチ、ねえ……あはは、ごめーん。聞いたことも無いや! うーん、おっかしいなあ、キミぐらい強い人なら嫌でも耳に入ると思うんだけどなあ……?」

 

 しばらくうんうんと唸っていたが、まあどうでもいいか、と気を取り直すとティオナは仰々しく胸を張る。

 

「こほん。それじゃあ、次はアタシの番だね。ふっふっふっ……! 驚かないでよ。何を隠そう、アタシはあの有名な……」

 

「いや、さっきケンイチがティオナって確認していたでしょうが。私はティオネ。ヒリュテ姉妹って言えば聞いたことがあるかしら?」

 

 一応は疑問の形をとったティオネの質問。しかしながら、ティオナとティオネにとってこれは質問ではなく、ただの確認作業に過ぎなかった。

 アマゾネスのヒリュテ姉妹、その名は誇張表現抜きに世界中に轟いている。単身で一軍を凌駕する第一級冒険者というだけでも衆目を集めるというのに、姉妹揃って容姿端麗となれば膾炙するのは自然な流れである。

 目の前の少年もこの名を聞いた瞬間に驚愕するであろう、そう二人が確信を持つのは驕りでも何でもなく当然のことであった。

 

「ヒリュテ姉妹……? あの……すみません不勉強なもので……」

 

「あ、あれ? ひょっとして、知らない? アタシ達、結構有名だと思ったんだけどなあ」

 

「嘘でしょう……? どれだけ世間知らずなのよ……?」

 

 しかし、目の前にいるのは昨日の今日でこちらの世界にやって来たケンイチである。

 申し訳なさそうに頭を下げるケンイチに自分たちの予想が外れたと知り、ティオナ達は目を丸くする。第一級冒険者として名を連ねて以来、自分たちの名前を知らない相手など見たことがなかったからだ。

 同時に、二人の胸中にようやく不審の芽が育ち始めた。

 おそらくは第二級冒険者相当の実力を持ちながら、全く聞いたことのない名前。そして、自分たちのことを知らないという極端なまでに無知な点。一体どういう環境に置かれればこのような人間になるのだろうか。

 

「うーん……」

 

「ええっと……」

 

 疑惑の視線に晒され、ケンイチも自分が不審に思われているということに気づく。このまま根掘り葉掘り聞かれれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。そう思い、必死に頭を捻って話題を変えようとする。

 

「あっ! そ、そう言えばお二人はどうしてこちらに来られたんですか? やっぱりお二人も怪物祭を見に来られたんですか?」

 

「ええ、そうよ。先日ダンジョンの遠征から帰ったからちょうどいいタイミングだし、同じファミリアの仲間と待ち合わせして一緒に行くことにしたのよ……って、もうこんな時間?」

 

「あらら、これじゃあ急いで待ち合わせの場所まで行かないと遅刻しちゃうね」

 

 広場の中央に立つ時計台を見て、呟く二人にケンイチはしめたとばかりに瞳を輝かす。

 

「そうですか! じゃあ、早く行かないといけませんね! いやー、残念だなあ! 折角第一級冒険者の方とお近づきになれると思ったのになあ!」

 

「はあ……まあ、いいわ。悪人には見えないし」

 

「あはは、そうだね!」

 

 あまりに見え透いたケンイチの演技に二人は苦笑と共にこの胡散臭い少年を見逃すことにした。

 考えてみれば冒険者となれば脛に傷の一つや二つ抱えているものだし、この少年にも複雑な事情という物があるのだろう。明らかに良くない物を抱えていれば話は別だが、見ての通りとても腹芸などできそうにない善良な人間である。

 ならば、ここで見逃しても問題はないだろう、それが二人の判断であった。

 となれば、長居は無用だ。

 

「それじゃあ、私たちはお先に失礼するわね。色々と悪かったわね、ケンイチ」

 

「じゃーねー! 彼女さんと上手くやれることを祈ってるからー!」

 

「ありがとうございます! ティオナさん、ティオネさん!」

 

 優雅に後ろ手に手を振るティオネと元気一杯に両手を振るティオナ。対照的な二人にお礼を言うとケンイチもまた別れを告げ、当初の目的を果たすため歩き出す。

 その時であった。

 

「……っ!!」

 

「……っ!?」

 

 多くの会話が飛び交う喧騒の中で、日常会話ではあり得ぬ焦燥と恐怖の混じった会話が聞こえてきた。

 自然、足が止まり声の出処を確かめるべく周囲を見回す。一見すれば先ほどと何も変わりない祭りの一風景にしか見えない。だが、数々の死線を潜り抜けてきたケンイチは五感ではなく第六感によって瞬時に悟る。

 ここから北の方角、そちらで何かが起こっている、と。

 

「ケンイチも気が付いたみたいね?」

 

「あはは、どうやら待ち合わせは遅刻みたいだね」

 

「ティオネさん、ティオナさん……」

 

 そして、この場にはそれに気が付いた人間は他に二人いたようだった。

 顔を険しくさせ『何か』がいる方向を睨むケンイチのすぐそばにいつの間にかティオナ達が立っていた。その様はまるで近所へのお使いに行くような気楽さであったがその身にみなぎる闘志を見れば、彼女たちもケンイチと同じことをしようとしているのだとすぐに理解できた。

 三人は声もなく頷くと、周りの人間たちを驚かせない様に静かに、そして俊敏に『何か』が待っているであろう場所へと向かっていくのであった。

 

 

 







 遅くなりましたが第十話完成いたしました。
 エスコン7にハマってしまいました。自分は初めてのエスコンシリーズでしたがフライトシミュレーターがあんなに面白いとは知りませんでした。寝食を惜しむぐらい熱中してやっています。同時に構想だけですがエスコンのクロスオーバーが出来上がってきているのでひょっとすると次回の投稿はそれになるかもしれません。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。




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第十一話

 

 

 

「ガアアアアァァッ!!」

 

 轟、と自身のそれとは二回りも太いシルバーバックの腕がベルの前髪を数本散らしながら視界一杯に横切っていく。

 

「ベル君!!」

 

「大丈夫です。神様。僕は大丈夫ですから、こちらに近づかないで危ないです!」

 

 人々の悲鳴が飛び交う中、はっきりと聞こえる自分の主神の悲鳴にベルは心配ないと駆け寄ろうとするヘスティアを押しとどめる。強がりとしか思えない言葉であった。

 華やかな祭典は怪物の襲撃により突如として終わりを迎えていた。

 その切っ掛けは通りすがりの人間の呟きだった。

 

「ん? おい、なんだあれ?」

 

「ったく……どこの馬鹿だ? あんなところに登りやがって、危ないじゃないか」

 

 その怪訝な声は鐘楼に向けられていた。より正確に言うならばその屋根に立つ人型の影に向かって。

 鐘楼は元々オラリオの街中に鐘の音を届けるための建物であり、それ故にその高さは周囲の建物の中でも一際目立っている。そこから足を滑らせれば大けがでは済まされないだろう。

 今日は怪物祭だ。羽目を外した人間が目立とうとして馬鹿なことをするのは珍しいことではない。

 これも、その一つなのだろうと誰もが思った瞬間だった。

 件の人影が躊躇うことなくその身を投げ出したのだ。

 声なき声が大通りを支配し、皆が次の瞬間訪れる惨劇を幻視する。

 果たして、人影は地面に轟音と共に叩きつけられ、惨劇が巻き起こった。

 

「う、うわああああああっ!!」

 

「モ、モンスターだ!? ガネーシャ・ファミリアからモンスターが逃げ出しやがった!!」

 

「逃げるんだ!! 早く!!」

 

「お、おい!? 押すな!! 危ないだ……うわああああ!!」

 

 しかし、その惨劇は周りの者たちの予想と違っていた。人影は人ではなかったのだ。

 全身を覆う白い体毛と発達した筋肉と刃物の如く鋭い爪牙。

 シルバーバック。ダンジョン上層域に生息する猿型のモンスターだった。

 本来であれば地上で目にすることなどない筈だ。それがこうして姿を現した理由はその両腕に架せられた壊れた手枷が物語っている。

 今日は怪物祭。ガネーシャ・ファミリアによってモンスターを民衆の前で調教し見世物にするという催しだ。その為に今日だけはダンジョンからモンスターが連れ出されていたのだ。無論連れ出されたモンスターは逃げ出さないように厳重に拘束されているのだが、どうやら不測の事態が起こり、脱出に成功した様であった。

 

「ウオオオオオオオオォォッ!」

 

 シルバーバックは憤っていた。ある日突然、住み慣れた地下にやって来た人間どもによって自分は狭い檻の中に押し込められ、手枷によって自由を奪われてきた。

 憎い人間に捕らえられるという屈辱と自分はこれからどうなるのかという恐怖。暗闇の中で生まれて初めての感覚に苛まれていた彼に転機が訪れたのは今から十分前の事であった。

 何者かが、自分を含めたダンジョンの住人たちが閉じ込められていた場所に入り込んできたのだ。

 初めは自分を閉じ込めた者たちの仲間かと思ったが、その予想はすぐそばにいた見張りの者が突然倒れこんだことで裏切られた。

 途端に色めき立つ見張りたちだったがそれも数秒の事だった。その人物が手をかざすだけで、視線を合わすだけでどの見張り達も腰砕けとなり、恍惚とした表情のまま大の字に倒れこんでしまったのだ。

 自分の想像をはるかに超える事態に困惑と混乱に沈むシルバーバックの入っている檻の前にその人物は立つ。

 美しい、美しすぎる女だった。怪物であるシルバーバックには本来美醜の概念は存在しない。だが、その存在を目にした瞬間、彼は理解した。

 美しいという事の意味、そして同時にこの存在に奉仕することこそが自分の生まれた意味なのだと。

 陶然と自分に見惚れるシルバーバックを前にし、侵入者は神秘的な美しさを湛えた笑みと共に命令した。

 

——お願い。子兎の様な男の子とそんな彼よりも可愛らしい処女神を追いかけて——

 

 牙を打ち鳴らし、血走った眼でシルバーバックは人の波から目的の人物たちを探す。

 神の匂いは独特だ。人でごった返す街中であっても正確にその居場所を特定できる。少なくともこの場には数人の神がいる。その中に目的の神がいれば、自分はあの方の願いを叶えることができる。

 一人目は、すぐに見つけた。男神だった。眷属と思しき女性に恐怖のあまり抱き着いている体を装っていたが、その表情はだらしなくにやけている。

 二人目は女神だったが、妙齢の姿をしている。美しいが可愛いとは違うだろう。

 そして、三人目は……

 

「神様! 大丈夫ですか!?」

 

「ボクは大丈夫だよ! それよりも君はどうなんだい。ボクを庇って瓦礫が直撃していたじゃないか!?」

 

 にいぃ、と口角が上がる。直感で分かった。彼等こそが自分の標的なのだと。

 その肉体を引き裂き、その脊髄を折り砕き、その血を啜った時どれほどの快感を得られるだろうか。そして何よりもそれを成し、あのお方からお褒めの言葉を賜った時どれほど魂を震わすだろうか。

 血に飢えるモンスターらしい獣性と色欲に酔う人間らしい俗欲。二つの異なる衝動に命じられるままシルバーバックはヘスティアたちに襲い掛かる。

 

「っ!? 神様、危ない!!」

 

「ベル君!?」

 

 だが、その蛮行は女神の傍らにいた少年の手により防がれた。

 あともう一息で女神に手が届くという所でベルは力一杯ヘスティアを引き寄せるとそのまま自分の背中に庇う。

 空を切る剛腕。目の前で獲物を取り逃したことに怒り狂うシルバーバックはその激情の赴くままに不届きな邪魔者に鉄槌を食らわせる。

 

「ガアアアアアァァッッ!!」

 

「チェストオオオオオオォォッ!!」

 

 腹の底から声を絞り出し、ベルは渾身の力で短刀を振りぬく。

 耳障りな破砕音が舞い上がる砂煙を吹き散らし、火花がベルの網膜を灼く。

 

「ぐうっ……!」

 

「ベル君!?」

 

 右腕ごと持っていかれそうな衝撃にたたらを踏む。ヘスティアが背中から支えてくれなかったらそのまま背中から倒れてしまっていたかもしれない。

 取り落としてしまいそうになる短刀を慌てて左腕で支え持ちながら、ベルはちらりと自分の右腕を確認する。あまりの衝撃により右腕の感覚がなくなっており、ひょっとして右腕が取れてしまったのではないかと不安になったからだ。

 幸い、自分の右腕はしっかりと肩についており裂傷の存在もなかった。しかしながら短刀の方は無事とは言い難く、衝撃で大きな刃こぼれが目立つ他、刀身の根元の部分がぐらつき始め、何よりも刃の先端部分がすっぱりと斬り飛ばされてしまっていた。たった一合打ち合っただけで窮地に立たされてしまっていた。

 一方、相手の方はと言うと、シルバーバック側も打ち合いの衝撃に驚いた様子こそあれど、未だ襲い掛かる姿勢を解かず、恐ろし気な唸り声でベル達を威嚇し続けている。手傷を負わせるどころかひるませることすらできていない様子である。

 

「これが、11階層の魔物の力か……!」

 

 普段、ベルが戦っているモンスター達と同じ上層の怪物ではあるが、シルバーバックの生息階層は上層最深部の11階。

 下級冒険者といえどその最上位の者たちが戦う様な相手だ。冒険者になって一か月も経っていないベルではあまりに格上の相手であった。

 彼我の実力差を理解したヘスティアは素早かった。

 

「ベル君! 逃げよう! このままじゃあ、君は……!」

 

「……すみません。神様、それはできそうにありません」

 

 自分の衣服を引っ張るヘスティアにベルは構えを解くことなく、緊張に震える声で拒否する。

 ヘスティアの言う通り、シルバーバックはベルにとって敵う事のない格上の相手だ。戦っても勝つ見込みは薄い。しかし、それ以上にこうまで狙いをつけられてしまった上で身体能力で上回る相手から逃げることは不可能であった。ましてや、ベルの後ろには神の力を封印し、見かけ通りの能力しかいないヘスティアがいるのだ。

 二人そろって助かるには目の前の怪物を打倒するしかない。ベルは冷たく、固い声でそう告げる。

 だが、ヘスティアはそんなことなど知らぬとばかりに首を振って叫ぶ。

 

「だからって……! 駆け出し冒険者の君が勝てる相手じゃないんだよ!? 無理だ!」

 

「いえ……そうでもないかもしれません。先ほど打ち合っただけですけど、ひょっとしたら……」

 

 物凄い剣幕で言い募るヘスティアを宥めようと視線を外した瞬間だった。

 

「ウオオオオオオオオォォッ!!」

 

「っ!? 神様、離れて!!」

 

「んきゅうっ!?」

 

 それを隙と見たシルバーバックが今度こそ本懐を遂げようと、ベル達目掛けて飛び掛かって来たのだ。

 ベルよりも二回りも大きいその体格に見合わぬ速さにベルはヘスティアを突き飛ばすようにして助ける他なかった。

 潰れる様なヘスティアの声に内心で謝罪しつつ、真っすぐにシルバーバックをにらみつける。

 獰猛な雄たけびに足がすくみ、涎を垂らしながら牙をむく恐ろしい面様に口内が干上がる。だが、その後ろにいるヘスティアの存在がベルに決して後退を許さない。

 

「ガアアッ!!」

 

「くっ……!」

 

 初めは振り上げた右腕の打ち下ろしだった。右に躱すベルに追撃の左腕による薙ぎ払いが迫る。

 バックステップで射程から逃れると同時に短刀を相手の顔目掛けて振るうことでヘスティアに注意が向かないように牽制する。

 

「ギャアオッ!?」

 

「よし! いいぞ、ほら、こっちに来い!!」

 

 ベルの目論見は成功し無事にヘスティアから引き離すことができた。

 自分の鼻先を刃物がかすめていったことに興奮したシルバーバックは完全にヘスティアへの興味を失い、ベルを血走った眼で睨みつけると徐々にヘスティアから離れていくベルに猛然と襲い掛かるのであった。

 

「グルアアアアァァッ!!」

 

「ふっ……! くっ……! はっ……!」

 

 まるで、嵐のような猛攻であった。シルバーバックの強靭な四肢の力は目まぐるしい動きでベルの視界から外れようとし、両腕両脚それぞれから致命的な一撃が次々と放たれる。

 目の前で右腕を突き出したと思ったら次の瞬間には上空から飛び蹴りが飛び込んでくる。猿型のモンスターらしい、高い運動量に物を言わせたトリッキーな戦法にベルは翻弄され、反撃することなくただただ避けることしか叶わない。

 

「ベル君!! そんな……ダメだ!! 死んじゃダメだ! 誰か……誰かを呼ばなくちゃ! 誰でもいい、誰かを呼んでこなくちゃ、ベル君が……!」

 

 攻撃に晒され続けるベルにヘスティアが悲痛な叫びを上げる。

 ヘスティアの前で次々と繰り出されるシルバーバックの攻撃は何れも必殺の威力を持っており、それがベルの体すれすれを通過していく。

 まるで、サーカスのナイフ投げの様だと場違いにもヘスティアは思った。当たれば死につながる刃がかすめていきながらも決して当たらず、それ故に何度も何度もヘスティアの精神を恐怖により削り落としていく。唯一の違いは一方はあくまでショーであり、生還が約束されているのに対し、此方は一切その様なことがない点だろう。

 半狂乱になって辺りを見回すが、周囲には力になってくれそうな冒険者はおろか、一般人すらいない。

 皆、ベルとヘスティアが襲われているのを見て幸いとばかりに見捨てて逃げ出したのだ。冒険者でもない一般人ならば当然の行為であったがヘスティアはこの時ばかりは怒りと恨みで視界が真っ赤に染まる。

 

「ふ、ふざけるな! 皆、ベル君を一人置き去りにして……! くそっ! こうなったらボクだけでもやってやる……!」

 

 そう言ってヘスティアは自分も戦おうとして何か武器はないかと辺りを血走った目で見まわす。その顔は焦燥に彩られ、その頭脳は冷静の対極にあった。今の彼女の頭の中にはベルの事しかない。自分が加勢した所で何の力にもなれないどころかかえって邪魔になることも、ベルがどうして危険を冒してでも戦っているのかも完全に焦燥によって塗りつぶされていた。

 

 

 

 

 

 

 だからこそ、ヘスティアはそれを疑問に思えなかった。

 怪物に一方的に攻め立てられて既に一分近く経過しているベルの体には未だ傷が一つとして存在していない事に、そしてその顔には苦悶の色も悲壮な覚悟もない事にも。

 今の彼の表情にある物はただ一つ、困惑であった。

 

「確かに、速い。速いけど……」

 

 それだけじゃないか? この程度が上層最強位なのか?

 ベルは追撃の一撃を躱しながらそう呟いた。

 ただ力任せに振るわれる一撃は速さと破壊力だけはあるが直線的で避けやすい。

 予備動作は大きく、何処にどのタイミングで振るわれるかまで丸分かりだ。

 力配分も考えずに力一杯に振り回すものだから体力の消耗が大きく、今こうしている間にも肩で息をするようになってきている。あれではこちらに呼吸を読んでくださいと言っているようなものだ。

 直撃すれば恐ろしいが、そんなことは『いつものことだ』

 そう呟き、ふと自分の言っていることの可笑しさにベルはこんな時だというのに笑いがこみ上げてきた。

 そんなベルの笑みを馬鹿にされたと勘違いしたのだろう。シルバーバックはいきり立ち、益々攻めの勢いを増していく。そして、それは詰まる所さらに大きな隙を見せるという事に他ならない。

 

「フッ……!」

 

 大振りの一撃にかぶせる様にして遂にベルが反撃に転ずる。手本とするのはこの数日間、目に焼き付けた香坂流短刀術の型。隙のないコンパクトな動作で振りぬかれた一撃は本家には遠く及ばないまでも、腕力頼みのシルバーバックのそれよりも速く、そして正確に急所に食らいつく。

 しかし……

 

「ガアアアアアッ!!?」

 

「っ!? 浅い……!!」

 

 痛みと混乱で滅茶苦茶に振り回されるシルバーバックの腕をベルは咄嗟に飛びすさることで回避する。

 苦虫を噛み潰したかのようなベルの目の前には首元からしとどに血を流しながらも未だ二本の足で大地を踏みしめるシルバーバックが立っていた。

 人間が相手であったならば頸動脈を切り裂き、決め手となった筈の一撃はシルバーバックの剛毛と分厚い皮膚により深い裂傷を負わせることに成功はしたものの命を奪うには至らなかったのだ。

 折角の好機であったが物にするにはベルの筋力では足りなかったのである。

 これは手こずることになりそうだと、ベルは密かに覚悟を決める。

 命を落とす覚悟ではない。長期戦になる覚悟を、だ。

 

「グルアアアアァァッ!!」

 

 手負いのシルバーバックは戦意を衰えさせることなく、寧ろ手負いになったことでより凶暴になってベルに襲い掛かる。

 咆哮がベルの鼓膜を叩き、可視化できるのではないかという殺意が肌を突き刺す。荒事に慣れていなかった数日前ならば体がすくんでいただろう。

 しかし、ベルもまた躊躇うことなくシルバーバックに向けて踏み出す。

 

「うああああああぁぁっっ!!」

 

 小柄な体の何処から出たのかという程の怒号と共に自らシルバーバックの攻撃に身を投じる。

 その顔にはもはや怯懦の色はない。当然だ。既にベルの頭からは命の心配は存在していない。時間はかかるだろう。ひょっとしたら手傷を負わされることもあるかもしれない。だが、目の前の怪物に敗北する光景は微塵も思い浮かばなかった。

 これから始まるものは命を懸け合う、死闘ではない。狩るものと狩られるものに分かれた一方的な狩りである。

 猛然と立ち向かうベルにシルバーバックの渾身の一撃が迫る。

 

「格闘戦において、一番の安全地帯は……!!」

 

 怖気づき、止まりそうになる足を叱咤するかのようにベルは逆鬼から教えられた格闘戦の極意を思い出す。

 速い、だがそれだけのシルバーバックの一撃を見切り、一気に懐へと飛び込む。

 臭い、生暖かい呼気がベルの顔を撫でていく。自分を殺そうとしている敵と文字通り息がかかる距離まで接近する。距離を詰めたことでより強く感じる殺気に体中の産毛が逆立つ。だがベルは知っている。この危険そうな距離こそが最も安全な距離なのだ、と。

 

「でりゃあああああぁぁっ!!」

 

 短刀を振りぬき、突き刺す。息もつかさぬ連続攻撃により次々とシルバーバックの肉体に傷が刻まれていく。自慢の剛毛と筋肉の鎧により何れの傷も浅いものであったが攻撃の機会を見いだせず、防戦一方に追い込まれる。

 それはまるで先ほどまでの攻防の焼き直しの様であった。違うのはただ一点。攻めかかっているのがベルで守勢に回っているのがシルバーバックという事だけだ。

 

 

 

 

 

「す、すごい……! ベル君、君は一体いつの間にこれほどの力を……!」

 

 周りから人がいなくなり閑散となった広場にて、ヘスティアは完全に攻守の入れ替わったベルとシルバーバックの戦いに目を奪われていた。

 白刃が煌めき、鮮血が舞う。

 彼女の視線の先では今もベルがシルバーバックを追い詰めていた。

 シルバーバックは苦悶の唸り声を上げ、苦しみ紛れに腕を振り回すがそれをベルは紙一重で避けると同時にわき腹の剛毛の薄い部分を切り裂く。

 後退と前進をめぐるましく切り替えるヒットアンドウェイ戦法を行うその姿は既に一端の冒険者だ。一体どこの誰が今のベルの姿を冒険者になって一か月も経っていないド素人だと分かるであろうか。

 ベルの急成長にヘスティアは感激する。

 しかし、同時に戦慄を禁じ得なかった。

 彼女は知っていた。何故ベルがこれほどの力を手に入れたのか。わずか数日で駆け出し冒険者を一端の冒険者に変身せしめた奇跡の正体を。

 畏怖と共にヘスティアはベルを変貌せしめたそれの名を呟いた。

 

「これが……これが、『憧憬一途』の効果……!!」

 

 尚、それは大きな勘違いだった。

 

 

 

 

「ギャアアアアッ!?」

 

「浅い……! だけど……!」

 

 最早何度目かも分からない肉を切り裂く感覚と同時にシルバーバックの叫びが鼓膜を叩く。

 しかし、飛びすさり、反撃を躱したベルの前には体中の至る場所から血を流しながらも依然として戦意を隠さないシルバーバックが立っていた。握りしめる短刀も刃先をわずかに血液で濡らす程であり、幾度となく斬りつけて尚命を奪うにはほど遠いことを告げていた。

 自身の攻撃がほとんど効いていないことを目の当たりにしたベルの顔はしかし、明るかった。

 確かに、自分の攻撃は殆ど効いていない。しかし、全く効いていないわけではないのだ。現に目の前の怪物は未だに立っているがその動きは当初と比べ明らかに鈍ってきている。対してこちらは全くの無傷。戦場を支配しているのはこちら側なのだ。このまま時間をかければ決定的な機会が訪れるのは間違いなく、そしてそれはもうすぐそこである。

 後は、それをつかみ取るだけだ。そう、言ってベルは疲労が溜まる自身の体に鞭を打ち、シルバーバックに向かい合う。

 そして

 

「――あ」

 

 固まった。肉体と思考が。

 

「ガアアアアアァァッ!!」

 

 その好機を逃さず、シルバーバックの逆襲が襲い掛かる。寸での所で回避が間に合った。代償に左頬がパックリと割れ、流血と焼けつくような痛みがベルを苛む。

 だが、今のベルにはそんなことを気にする余裕はない。今の彼の意識を占めるもの。それは自身の負傷でもなく、それを成した目の前のシルバーバックでもない。その後ろにいる壊れた屋台にあった。

 

「ひっく……! う、うううぅぅっ!!」

 

 初めにシルバーバックが飛び掛かって来た際、吹き飛ばされた屋台の残骸。車輪が折れ、横倒しになった屋台にヒューマンの子供が下敷きになっていたのだった。

 遠目から見た限りでは派手な流血などはない様子だが、安心はできない。内臓出血などを起こしていたら見かけ上は平常と何も変わらないのだから。

 早急な救助が必要なのは火を見るよりも明らかだ。

 

「ガアアアアアッ!!」

 

「ええいっ! 一体どうすれば!?」

 

 その為には目の前の怪物の打倒が必要不可欠である。しかし、今までの様なヒットアンドウェイ戦法で体力を削る様な消極的な戦法を取っていれば手遅れになる可能性がある。

 初めて自身に手傷を負わせられたことに高揚し、更なる勢いを見せるシルバーバックの猛攻を捌きながらベルは先ほどまでと一変した現状を理解する。理解はするのだが、肝心の打開策が見当たらない。

 先ほどまでは技と駆け引きにより優位に立てたが本来ならば自分にとってシルバーバックは格上の存在。人と怪物という生物としての肉体面の差は隔絶しており、腕力、敏捷性、反射神経、全てにおいて目の前の怪物はベルを上回っている。唯一の打開策は魔物の共通の弱点である体内の魔石を破壊することだが、シルバーバックの筋肉と剛毛の鎧の前ではベルの腕力でそれを成すのは不可能だ。

 八方塞がり。少年の体力がもってくれるのを願って、大人しく先ほどまでの様な消極策を取るしかないのではないか。ベルの頭にそんな弱気にも似た声が聞こえる。

 だからこそ、そんな弱音が口をついて出た。

 

「こんな時、逆鬼師匠がいてくれた、ら……?」

 

 そして、その弱音が奇しくもベルに気づかせてくれた。

 一つだけ、一つだけ今のこの状況をひっくり返す手が存在していることに。

 ベルと別れる前に、至緒が教えてくれたのだ。今の自分は目の前の怪物以上の化け物、ミノタウロスに一撃を加えたことを。

 本来であれば、その様なことは不可能だ。それを成功させられたのはベルが兄弟子から伝授された技のおかげである。

 あの技が決まれば、シルバーバックといえど一撃で葬り去ることも夢ではないだろう。

 しかし

 

「失敗すれば……」

 

 不安が口から零れる。

 あの技は相手の攻撃を引き付ける必要がある。タイミングを誤ればシルバーバックの一撃をもろに喰らうことになるだろう。そして、彼我の身体面の差を考えればそれが致命傷となることは想像に難くない。

 ごくり、と生唾を飲む。

 馬鹿な真似は止めろ、という声が聞こえる。声は暗く、陰鬱で何よりも自分と全く同じ声だった。

 何を悩む必要がある、このまま時間をかければ助かるのに見ず知らずの人間の為に命を懸けるなんて馬鹿馬鹿しい。自分と全く同じ声でそれは吐き捨てた。

 その声に全く同意しなかったと言えば嘘になる。

 ベルとて命は惜しい。先日、ウォーシャドウの群れに殺されかけた体験は今もベルの心の奥底に燻っている。冷たくなる体と全身を苛む痛みとそれが消えていく喪失感。何よりも大切な人と会えなくなるという恐怖は筆舌に尽くしがたい。だからこそ、ベルが自分の身を優先するのは当たり前のことであった。

 そうはならなかったのはただ逡巡するベルの耳にその声が聞こえたからだった。

 

「死に、たくないっ……! 死にたく、ないっ……!!」

 

 目の前にいる怪物への恐怖、自分を押しつぶす痛み。今まで経験した事のない濃厚な死の気配に晒されながらも少年は絶望することなく生きようとしていた。

 おそらくは両親から愛情を注がれて生きてきたであろう少年にとってそれらは全くの未知なる悪意であったであろう。それこそ、そのまま全てを諦め死を受け入れるか、それとも思考を放棄して喚き怪物に気づかれ殺されるかしてもおかしくない程に。

 だが、少年は諦めることなく、内なる恐怖に戦っていた。今、こうしている間にも必死に嗚咽を押し殺して助かろうとしているのだ。

 その姿はウォーシャドウの群れに殺されそうになる瞬間まで生きることをあきらめなかったベルと全く同じであった。

 そして、同時に思い出す。自分が誰の弟子なのかという事を。出会ったのはほんの数日間。されど、その圧倒的な力はベル如きでは計り知れない程に強く、その奔放さはベルを振り回すことこの上ない。

 だが、何よりも人を助けることに何一つ躊躇しない人たちだった。

 その人たちの弟子を名乗るのであるならば、自分は何をするべきか。

 あまりに分かり切った疑問にベルは行動を以て答えた。

 

 

 

「——来いっ!!」

 

 咆哮と共にシルバーバックが突進してくる。

 相も変わらず直線的で分かりやすい軌道である。これならば少し進路上から避けるだけで回避は可能であろう。

 実際、その様にすることでベルは今までシルバーバックの突進を回避してきた。しかし、今は敢てその進路上から退くことを止める。

 その姿を見てシルバーバックは獰猛に歯を剥き出し嗤った。

 ちょこまかと鬱陶しく逃げ回っていたが、最後の最後で逃げそこなった。恐らくは恐怖で足がすくんだのだろう、何と情けない奴だ。もし、今の彼の心情を言葉にすればこの様なものになるであろう。

 だからこそ、彼は気づけなかった。ベルの足がゆっくりとその形を変えていくことに。

 両足のつま先を内側に向け、腰をゆっくりと落とす。横っ飛びができなくなるが、構わない。

 

——え? この体勢だと素早く動けない? 別に構いませんよ、この技は速さではなく巧さによって避ける技ですから——

 

 兄弟子の言葉を思い出すベルの前で遂にシルバーバックが間合いの内側に入り込む。この距離では今から横に飛んでも避けることは不可能であろう。最早、助かる道は技を成功させる他ない。

 

「ガアアアアアァァッ!!」

 

 目の前で振り上げられる剛腕。数瞬後には死がもたらされるであろうにベルの心は水面の如く穏やかであった。死を受け入れたのではない、焦る必要を感じなかったからだ。

 

——いいですか、ベル君。攻撃されたからといって焦る必要はないんです。攻撃の当たる場所よりも当たらない場所の方が圧倒的に広いんですから。その当たらない場所に移動するだけでいいんです——

 

 振り下ろされる剛腕。受け止めることは不可能な程に速く、しかし手加減しているとはいえ達人の動きに慣れたベルの目から逃れることはできない程に遅い。軌道も読みやすく、どこに移動すれば避けられるか丸分かりだ。

 だが、ベルは動かない。極限状態の集中力によりスローモーションの様に振り下ろされるシルバーバックの腕を前にしながら、すぐにでも動こうとするのを我慢し、その瞬間を待ち続ける。

 

——回避するときはできるだけ、相手の攻撃を引き付けるんです。引き付ければ引き付けただけ安全となりますから——

 

 イメージするのは円。今までの様な直線的ではなく、曲線による移動。動きは最小限、そしてその最小限の動きで回避できるタイミングまで引き付ける。その瞬間はもうすぐ……いや、今だ!

 

「シイィッ!」

 

 シルバーバックの側面に足を滑り込ませ、そのまま股関節を内外に円転させることでベルの体は安全地帯へと吸い込まれるように移動する。

 瞬間、ベルの横合いから轟音と細かい瓦礫が吹き付ける。

 避けれたとベルは思い、シルバーバックは外したと思った。あまりに自然かつ流麗なベルの動きは回避されたという事実を理解することすら許さなかったからだ。

 攻撃を外してしまった事にシルバーバックはいら立ちを隠せなかった。折角忌々しい人間を捻る潰せるチャンスをみすみす見逃してしまった事に。しかも、目の前の人間は自分の真横、それもくっつく程に近い場所に立っている。これでは上手く攻撃することができない。

 攻撃するにも防御するにもまずは一旦距離を取らなければならない。そう判断し、シルバーバックは後方へと下がろうと足に力を込める。

 それこそが、ベルの思惑通りだとも知らずに。

 

——優れた技っていうのは、攻撃と防御が一体になっているものですよ——

 

 ぱん、という軽い音が足元から聞こえた。足を払われたのだと分かったのは視界が上下逆さまになった後だった。まるで突風に晒された木の葉の如くシルバーバックの巨体が空を舞う。

 小柄なベルの脚力では不可能な芸当であった。それを成したのは誰でもないシルバーバック自身によるものである。シルバーバックが後方へと移動しようとしたあの一瞬、ベルは正確にシルバーバックの力のベクトルを読み切り、シルバーバック自身の力で転倒するように力の方向を逸らしたのだ。

 

——だけど、なんだか感慨深いなあ。実はこの技は僕が最初に覚えた技で、美羽さんから教わった思い出の技なんですよ——

 

 これこそがベルがケンイチより伝授された、初めての技。敵の攻撃を回避すると同時に相手の側面へと回り込み、空間を、力を支配する歩法。

 円の動きにより、相手から見れば消え去り、自身の側面に突如現れたかのように感じさせる攻防一体の技法。その名も——

 

——では、一度実演するのでよく見ていてください。これが中国拳法の一つ、八卦掌の基礎にして究極。その名も——

 

 

 

 

 

「扣歩・擺歩!!」

 

 頭から無防備に硬い石畳へとシルバーバックは叩きつけられる。衝撃が体内を駆け巡り、軽い破砕音が響く。喉から鮮血が飛び出し、呼吸が止まったことから首と頭蓋骨に致命的な骨折が起きたのが分かる。

 文字通り怪物染みた生命力により即死こそ免れたがそれも数秒ほど命数を伸ばしただけに過ぎない。

 息苦しさと激痛、そして暗くなっていく意識。苦しみ悶えるシルバーバックが最期に認識したものは短刀を振りかざしながら飛び掛かってくる白髪の少年の姿と、自身の急所である胸の魔石が砕かれる感覚であった。

 

 

 

 

 

 

「あらあら……これは、いろいろな意味で予想外の展開ね……」

 

 子供を瓦礫から助け起こし、周囲の人間たちから歓声を浴びるベルを路地裏から見つめる人影があった。

 その姿は黒いローブで全身をすっぽりと包み込んでいるため、余人ではうかがい知ることはできない。だがその姿は見えなくとも、そこにただ立ち、吐息を漏らすだけでその人物の周囲には匂い立つかのような色気が立ち上り、甘く蠱惑な匂いが漂ってくるようであった。

 その姿を隠そうとも、その存在だけで周囲を魅了して止まない絶世の美貌。皮肉にも、彼女のその美しさが折角の変装を無意味な物にしていた。

 

「フレイヤ様」

 

「あら、オッタル。わざわざ様子を見に来てくれたの?」

 

 何処からともなく人影——女神フレイヤの後ろに男が現れる。

 男は巨大であった。種族は猪人。身の丈は女性としては長身のフレイヤですら肩に届くか否かという程で、横幅となれば優に三倍はあろうかという程に大きく、逞しい。

 街を歩けば二重の意味で皆が彼を凝視するに違いない。その雄々しさと、そしてその名声から。

 彼の名はオッタル。目の前の女神フレイヤの従者にして、オラリオ唯一のレベル7冒険者、つまりは世界最強の男である。

 

「貴方様のお傍こそが自分の居場所なれば……」

 

 その身に秘める圧倒的な暴力性を微塵も感じさせることなく巨漢の従者は主人に一礼する。その様はまるで王侯に仕える執事の様であった。そして、それは大きく間違っていない。

 最強の名を欲しいままにしながら、ここ最近のオッタルは冒険者としての活動よりもフレイヤの従者として働く時間の方が長い。気まぐれな神の傍仕えなど下界の子供たちにしてみれば責め苦も同然のはずだが、彼の顔に不満はない。オッタルにとって、いや彼に限らずフレイヤの眷属にとって、フレイヤへの献身とは喜びであり、権利でもある。

 今回もフレイヤの希望に沿うため、その能力を駆使してきた所だ。

 

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ。それで、避難の方はどうだったかしら?」

 

「既に、逃げ出した怪物はほぼ全滅。先ほど剣姫も姿を現したので十分かと。死者は勿論、逃げる際に転倒したというような怪我を除けば重傷者もないかと……」

 

「そう、それは良かったわ。別に私は子供たちを傷つけるために魔物たちを解き放ったわけではないし、被害が少なかったのは重畳ね」

 

 自分の所業により死者はいない、と聞き安心したとフレイヤは鈴の様な声で呟く。その声に嘘はない。

 自分で魔物を街中に解き放つ暴挙をしておきながら人々の安全を喜ぶという矛盾。しかし、それは神であるフレイヤにとって矛盾ではない。

 彼女は間違いなく人間を愛している。しかし、それ以上に目の前の純白の魂を特別に愛しており、その魂を研磨する事と見ず知らずの人間の生命を天秤にかけたら前者に傾くというだけだ。

 人のそれとは明らかに異なる倫理観。故にそれを持つ彼女はどれほど美しい似姿をしていてもどこまでも人間とは違う存在なのだろう。

 

「それで、あれが例の彼ですか……?」

 

「ええ! そうなの!」

 

 感情を交えないオッタルの声に一転、フレイヤは花がほころびるかの様に笑顔でベルを指さす。 

 

「見なさい、あの子を! うふふ、照れちゃって可愛いわ。でも、あんなに可愛いのにシルバーバックと戦っている時はとっても雄々しかったのよ!」

 

「ほう、シルバーバックを……」

 

 熱を含んだフレイヤの声にオッタルの巌の様な顔が感嘆に歪んだ。

 あの少年はつい先日冒険者になったばかりの駆け出し冒険者のはずである。とてもではないがシルバーバックに太刀打ちすることなど不可能に思える。

 ましてや、とオッタルはベルに視線を移す。

 下級冒険者でもシルバーバックを倒せるものは一定数いる。しかし、それらの多くは恩恵による力のごり押しによってなされた事がほとんどでその場合、多かれ少なかれ手傷を負うものだ。

 一方、ベルの体には大きな負傷は見られず、彼の略歴を考えればそもそもごり押しできるほどに高まった恩恵など得ていない筈だ。これはつまり、あの少年は力によるものではない、技と駆け引きによって格上の相手を討ち果たしたという事に他ならない。

 わずかな冒険者生活でそれを獲得したというのならばまさに驚嘆に値する。

 オッタルの中でベルの評価がフレイヤのお気に入りから有望な冒険者へと切り替わる。

 

「あら、やはりあなたから見てもあの子はすごいのかしら?」

 

「はい。特定の師にもつかずに独学でその技術を身に着けたのでしたらまさに天才と呼ぶほかないかと」

 

「そうね。確かにそうよね。そうなんだけど……?」

 

 意中の相手を褒められ、喜色満面の笑みを浮かべるフレイヤだったがすぐにその笑顔が困惑に曇る。

 思い浮かぶのはほんの数日前の穢れを知らず、挫折を知らず、それ故に虚弱であったベルの姿だ。

 

「私の知っているあの子はあんなに強くなかった筈なのだけど……?」

 

「男ならば切っ掛け一つでそうなることもあるでしょう……む、フレイヤ様。そろそろ参りましょう、人が来ます」

 

 もう怪物がいないと分かり、あちらこちらから逃げていた人々が集まって来る。ただでさえフレイヤの容貌は目を引いてしまう。大丈夫だとは思うが、こそこそと物陰に隠れている姿から怪物とフレイヤを結び付ける者が出るとも限らない。

 恭しく主人に差し伸べられるオッタルの手を取り、フレイヤは名残惜しそうにベルの姿を一瞥すると歩き出す。

 その足取りは軽く、上機嫌なのが分かる。一部不可解な所があるものの、おおむね自分の目的は果たせたのだ。思い浮かぶのはベルの姿、そして彼の魂をどうやって磨き上げるかであった。

 

「次はミノタウロスと対峙させてみようかしら?」

 

 冗談を多分に含んだフレイヤの独り言を最後に二人の姿は路地裏の闇に消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、フレイヤは知らない。既にベルがミノタウロスと一戦を交えていることに。

 そして何よりもミノタウロスとの闘いなんぞよりも余程危険極まりない修行を毎日やっていることを。

 

 

 

 







 お待たせいたしました。第十一話完成いたしました。
 ようやく、ベル君にも見せ場を作ることが出来ました。久しぶりの戦闘描写でしたがご満足いただけたら幸いです。
 ちなみに今後のフレイヤ様の試練ですが、お察しかもしれませんが今回の様にちょっと驚くかもしくは簡単すぎて試練だと認識すらできないという感じになると思われます。比較対象の梁山泊の修行がおかしすぎて。そこも楽しんでいただけたら幸いです。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。





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第十二話

 

 

 

「二時の方向にハードアーマード二匹、十一時の方向にシルバーバックが三匹。ティオナは二時の方に、ケンイチは十一時の方に向かってちょうだい!」

 

「うん!」

 

「分かりました、ティオネさん!」

 

 見晴らしの良い建物の上からのティオネの声にティオナとケンイチは了解すると各々の相手に向かって走り出す。そんな二人を視界の端に捉えるとティオネは軽快な身のこなしで手近な建物の屋根に飛び乗り、周囲の様子を伺う。

 三人の中で最も身軽なティオネが索敵し、それを基にティオナとケンイチが魔物を排除する。急造のチームワークであったが現状上手く回っている様子であった。

 あれから騒動の中心へと移動していた三人の前に現れたのはガネーシャ・ファミリアから脱走した魔物たちの群れであった。詳しい経緯は分からないが、魔物の見張り番をしていた者たちが全員無力化され、何者かが魔物が入っていた檻を開け放ったらしい。

 その場にいたギルド職員から話を聞いた三人の決断は早かった。簡単な役割分担などの取り決めを行うと三人は街で暴れまわっている魔物たちの討伐に向かったのだった。

 

「あっ! 分かれ道だ。それじゃあ、ケンイチ。そっちも頑張ってね!」

 

「はい。ティオナさんも頑張ってください!」

 

 分かれ道でケンイチはティオナと別れ、目的の魔物が暴れているであろう場所に向かう。しかしながら、普段から多くの人で賑わう大通りは今や突如として現れた魔物に皆パニックを起こし、ただでさえ歩くのに難儀する道はもはや人の洪水の様な有様であった。

 一刻も早く魔物の元へ駆けつけようとするならばここは別の道を探し、迂回するべきであろう。しかし、ケンイチは躊躇うことなく、一直線に皆が逃げ惑うその中に突っ込んでいった。

 一気に高まる人の圧力。その様子は最早人の壁に見えた。しかし、そんな中でケンイチはまるですり抜ける様に駆け抜ける。

 一瞬で消える人一人が入り込める隙間に見逃すことなく体を滑り込ませ、まるで足に目がついているかのように足の踏み場もない地面のわずかな空白地帯を踏みしめる。

 それを可能とするのはケンイチの人並外れた足腰の強さの賜物である。

 強靭な足腰は単純に瞬発力を上げるだけでなく、重心を安定させることで体幹の動揺を抑え、瞬時の体勢の変化を可能とさせる。これによりまるで荒れ狂う激流の様に姿を変える人の流れに瞬時に対応することができていた。

 

「このまま人の流れに逆らい続ければ……!」

 

 そして人込みに入ってから数分、遂に人の流れがまばらになっていき、遂にケンイチは人っ子一人いない開けた空間へと躍り出る。恐らくは大道芸人たちが芸を見せたりする広場であったのだろう。周囲にはカラフルなボールやら瓶やらが散乱し、無惨に破壊された屋台などが打ち捨てられていた。

 そして、その中心に目的は立っていた。

 

「グルルルッ……!」

 

 一人やって来たケンイチに気づいたのだろう。三匹のシルバーバックが毛を逆立てながら歯をむき出し威嚇する。

 その手には屋台の残骸から奪ったのであろう肉と穀物が滅茶苦茶にかき混ぜられたらしき物体が握りしめられていた。周囲を見れば犠牲になった人間はいない様である。恐らくはあの三匹のシルバーバックは屋台の匂いに釣られ、真っ先に屋台の料理に飛びついたのだろう。おかげで人々が逃げ出す猶予が生まれ、こうして犠牲になった人間がいなかったのだ。

 そして現在、粗方料理を喰らいつくしたところにケンイチという恰好の獲物がやって来たのだ。

 べろりと、三匹のシルバーバックがソースと涎でべとべとになった舌で口元を濡らす。

 彼らの頭の中にはケンイチをどのように仕留め、どこから噛り付くかしかないのだろう。

ひ弱な人間、その中でも特に弱そうな少年などシルバーバックにとって獲物でしかなく、自分たちの勝利を確信していた。

 どちらが獲物なのかなど微塵も疑問に思うことも無く。

 

「グルルラアアアアアァァッ!!」

 

 他の二匹に先んじられてはたまらないと一匹が雄叫びを上げてケンイチに襲い掛かる。奇しくも相手と状況は先刻のベルの死闘に酷似していた。違うのはベルは一匹が相手だったのに対しケンイチは三匹であること、そして

 

「シィィッッ!!」

 

 ベルが戦いであったのに対し、ケンイチの場合は戦闘ですらないという点だろう。

 飛び掛かってきたシルバーバックの顔面にケンイチの掌底がめり込む。シルバーバック自身の速度が加わり威力が増した一撃は断末魔一つ上げさせることなく、その首をへし折った。

 シルバーバックの体が瞬時に灰化する。獲物でしかなかった少年が自分たちの仲間を葬った。一目で分かる事実であったが、あまりに予想外の事態に残されたシルバーバック達は現実を理解できず、呆然と立ち尽くす。

 

「フッ!」

 

 一息でケンイチが距離を詰める。シルバーバックが正気に戻った時には既に目と鼻の先にいた。

 

「ガアァァッ!」

 

 咄嗟に腕を振るう。無論、そんな苦しみ紛れの攻撃に当たらない。そうでなくとも当たらなかっただろうが。

 

「よいしょおおっ!!」

 

 腕を取り、足を払ってシルバーバックを投げ飛ばす。同時に不意打ちを喰らわない様に最後のシルバーバックに意識を向ける。ケンイチと後方を交互に見比べている。逃げるべきか戦うべきかこの期に及んでまだ迷っている様子だ。

 後ろで巨体が地面に叩きつけられ、灰に変わる音を聞きながら逡巡するシルバーバックに襲い掛かる。

 顔面に左腕の一発、と見せかけて本命の右腕の一撃を腹に叩き込む。シルバーバックの分厚い毛皮と筋肉は衝撃を吸収し殴打に高い耐性を持つのだが、ケンイチの豪拳は防御を貫いて体内の魔石を粉々に砕け散らせた。

 接敵から十秒も満たない、鬨の声の余韻が未だ残る勝利であった。

 

「……ふうぅぅっ」

 

 残心を解き、一息つく。正直手ごたえらしい手ごたえのない相手であったがやはり命のやり取りはいつもの組手とはまた違った緊張感があった。

 肉体的ではない疲労が重く感じる。しかし、ケンイチはそのまま座り込みたくなる欲求に抗い、すっと手を合わせて三匹のシルバーバックに祈りをささげる。

 時間は数秒。今も襲われている人間がいる状況ではこれが精一杯だった。

 閉じていた目を開け、ティオネ達の元へと向かおうとした瞬間、不思議そうな声が掛けられた。

 

「何してんの、ケンイチ?」

 

「あれ、ティオネさん? どうしてここに? 他のモンスターを探していたのでは?」

 

「目についたのは全部倒しちゃったみたいだよ? あたしもさっき教えられたの」

 

 振り向けばヒュリテ姉妹が立っていた。

 魔物は全て倒された、と聞きケンイチはホッとため息をつく。

 そんなケンイチにティオナは不思議そうに尋ねた。

 

「それよりもさ。さっきまでケンイチは何をしていたの? なんか死んだ魔物を祈っていたみたいだったけど……?」

 

「はい、そうなんです。襲われたとはいえ、死んでしまえば皆仏と言いますし。冥福を祈るぐらいはしておこうかと思いまして」

 

「え゛っ……!? 本気で言ってるの、それ」

 

 まさか、というような顔つきでティオナが尋ねるがケンイチは何の臆面もなく頷いた。途端にティオネが正気を疑うかのように凝視する。

 

「相手は魔物なのよ、ケンイチ。別に罪の意識を感じる必要なんかないのよ?」

 

「そうそう、魔物は人類共通の敵! 同情する余地なんて一切なし!」

 

「ええっと……別に罪悪感なんか関係ないのですけど……ただ、僕は命を持つ者が亡くなったことに祈りを捧げているというか……彼らの命を頂くことで生きられることへの感謝と言いますか」

 

 先ほどまでの快活な二人の態度から一変。声高に魔物への憎しみを主張するティオネ達に驚きながらケンイチは自分の気持ちを口にする。

 

「そこがおかしいって言ってるんじゃない! ひょっとして、アナタ。魔物趣味ってわけじゃないでしょうね?」

 

「いやいや、流石にそれはないと思うよ? だってケンイチはミウっていう子とデートしていたし」

 

「ええっと……何を言われているのか分からないんですけど、僕のいた所では死んでしまったのなら相手が誰であれ祈るのが普通だったんですけど、ここではそうではないんですか?」

 

 自分のいた所の風習と聞き、ティオネは未だ不快感を残しつつも納得した様に頷く。

 

「一体何処の辺境よ、それ……? けど、そういう風習ならまあ、仕方がないのかしら?」

 

「うーん……言ってることはまだ分からなくもないんだけどねえ……少なくともあんまり人前でやらない方がいいと思うよ。オラリオの街には魔物に仲間を殺されたっていう人間が沢山いるし。余計な恨みを買うことになるかも」

 

「そうなんですか……うーん、やっぱり常識という物は場所によって大きく変わるものなんですねえ」

 

 未だ不満げながらもこちらを気遣ってくれる二人にケンイチは理解に苦しみながらも頷く。どうやら自分が思っている以上に魔物と人類の仲は悪い様だ。この様子ではもう少しベルにこちらの世界の常識を教えてもらうべきだったかもしれない。

 そう思った瞬間、ぐらりと視界が揺れた。

 立ち眩みかと思ったが、ふと見ればティオネ達もたたらを踏んでいた。地面が揺れたのだ。

 

「今……何か揺れなかった?」

 

「ひょっとして、地震ですか!?」

 

「まずいわね……このタイミングで起こったらパニックよ」

 

 最悪のタイミングで起ころうとする災害に三人は焦燥に駆られるが苦々しく顔をしかめることしかできなかった。集団パニックの恐怖はある意味それを起こした元凶その物よりも恐ろしいものだ。そして、それは単純な腕力で防げるような物ではない。如何に実力者を集めようとも自然の猛威に対してはその暴威に耐える他ないのである。

 だが、現状を知るだけでも大きな違いがある筈だと、せめて様子だけでも把握しておこうとティオネが建物に飛び乗り、周囲を見回す。すると一転、その顔が驚愕と困惑に染まる。

 

「うん? 何かしら……あれ?」

 

「どうしたの、ティオネ? なんかあったのー?」

 

「なんか、変な魔物がいるのよ。私も知らない奴で蛇形、なのかしら? 大きさは10m近いかしら?」

 

「え? でも先ほどもう魔物はいないっておっしゃってましたよね? そんな大きさの魔物がどこから……あっ! ひょっとして、さっきの揺れって……!?」

 

「ええ、きっとあの魔物のせいなんでしょうね」

 

 地震ではない、と分かり安心半分、未知の魔物が街中で暴れていることに危機感半分といった表情でティオネは頷く。自分たちの力の及ばない天災でこそなかったがそれでも未知の魔物が危険極まりないという事に違いはない。急がなければそう遠くないうちに人的被害が出てしまうことだろう。

 とは言え完全に未知の魔物に武器もない状態で立ち向かうのも危険すぎる。ここは自分が先行し、時間を稼いでいる内にティオナにファミリア本部まで武具を取りに帰らせるべきかと思案していると、視界に映る怪物の鎌首が斬り飛ばされた。

 巨大な魔物に目を奪われ、気づかなかったが魔物はしきりに体を振り回し、何かと戦っている様子であった。

 巨大な魔物の体格に比してちっぽけな体。同じ人間の中でも決して屈強とは言い難い華奢な体と遠目からでもはっきりと映る鮮やかな金髪。その持ち主をティオネはよく知っていた。

 

「ん? あれは……アイズじゃない」

 

「え! アイズさんって『剣姫』ですか!?」

 

 思いもよらない名前にケンイチは驚愕する。その名前はこの世界にやって来たばかりのケンイチが唯一知っているベルたち以外の人間の名前であった。

 押すに押されぬ第一級冒険者にして、ベルの窮地を救うと同時にベルの窮地に追いやる遠因となり、そして何よりもベルの初恋の人物。

 まさかこんなにも早い段階で顔を会わせることになるとは夢にも思わなかった。果たして自分は件の人物と相対した時に自然に振る舞うことができるのだろうか。

 そんな不安げに思案するケンイチにティオナは恨めし気に睨む。

 

「ふーん……私たちのことは知らなかったくせにアイズの事は知ってるんだ……」

 

「えっ!? いや……! その……実は知り合いがそのアイズさんっていう人に助けられたらしくて……」

 

「いいよ、いいよそんな見え透いた嘘つかなくたって。ケンイチも男の子だもんねぇ……アイズみたいな綺麗な女の子なら嫌でも覚えちゃうよね。フンだ。こうなったらミウっていう子に言いつけてやろうっと」

 

「誤解ですよ、ティオナさん! 僕は本当にって……ああああっ!? しまった! 美羽さんを置いてけぼりにしてしまった! ど、どどどうしよう! きっと美羽さん怒っている……!」

 

「ちょっと二人とも! こんな時に一体何の話をしているのよ!? 馬鹿話は……」

 

 後にしなさいよ、と言おうとするのとティオネの視界でアイズの剣が砕け散るのはほぼ同時であった。

 

 

 

 

「アイズさん!」

 

 焦燥に満ちた声がアイズの背中に重くのしかかる。

 その声にいつもの様に大丈夫と返すことがアイズにはできなかった。

 

「……ッ!!」

 

 正体不明の魔物の一撃を紙一重で避ける。ため息をつく間もなく、上空から叩きつける様に巨体が降って来る。

 先ほど唯一の攻撃手段である剣が破壊されてから、反撃の心配がなくなった魔物の攻撃は一層の激しさを増していた。

 これまでは卓越した戦闘技術のおかげで魔物の攻撃がアイズを捉えることはなかったが、このままでは遠からず無傷というわけにはいかなくなるだろう。そうなれば防具もつけていない今のアイズではじり貧となることになるだろう。臍を噛む思いでアイズは冷静に今の戦況の不利を悟った。

 だが、それはこの場にアイズが一人だけであった場合だ。この場にはもう一人、頼りになるアイズの仲間がいるのだ。

 

「誇り高き戦士よ、森の射手隊よ。押し寄せる略奪者を前に弓を取れ。同胞の声に応え、矢を番えよ」

 

 緊迫した戦場にそぐわぬ、鈴を転がすような歌声がアイズを包み込む。振り向かずとも後ろにいるエルフの後輩の、魔術詠唱だ。レフィーヤは気弱な所もあるが、オラリオでも有数のレベル3冒険者。それも魔力特化の魔導士で、その瞬間火力はアイズすらしのぐ。

 きっと、この場面でも魔力操作を完璧にこなしながらも、その顔を緊張で真っ青にしているのだろう。

 どうにも、締まらない。それでいて頼りになる仲間の姿にアイズは苦笑交じりの笑みが抑えられなかった。同時に、萎えかけた戦意が燃え上がるのが分かる。

 剣を失った自分には目の前の怪物に有効打を与えられない。ならば自分の役割は一つ。後ろにいるレフィーヤの詠唱時間を稼ぐことだ。

 

「目覚めよ」

 

 レフィーヤの様な圧倒的な威力を誇る魔法の詠唱とは違う、一語で発動する短文詠唱。アイズが使える唯一の魔法、風の付与魔法だ。

 うっすらと緑色に色づく風が全身を包み込む。本来は剣に纏わせ威力を高めるそれが剣を失った今は四肢に絡みつく。あまり使ったことない用法であったがこれで身体能力の底上げが可能だ。これから行う陽動では心強い味方となってくれるだろう。

 

「……いくよ」

 

 静かに呟かれた掛け声を残し、アイズは魔物向けて疾走する。第一級冒険者、その中でも最強格の速力は文字通り疾風に匹敵する。瞬きの間もなく魔物の鼻先に達すると、暴風が渦巻く右腕を叩きつけた。

 

「……ッ!?」

 

 魔物の皮膚に接触した瞬間、アイズは驚愕半分、やはりという諦観半分の声が漏れる。

 並の魔物ならば衝撃で粉砕するであろう第一級冒険者の拳打、それも風の付与魔法で威力を底上げした一撃はしかし、魔物の分厚い皮膚をわずかに陥没させただけにとどまった。

 信じがたい程の硬度と衝撃を逃がす柔軟性を両立した皮膚の賜物である。

 

「——————!!」

 

 アイズの一撃を受けた魔物は無言。されど苦しみ悶える様に体を荒々しく振り回すその様は怒りに燃えているのは一目瞭然。

 その怒りを叩きつけるかのように魔物は苛烈に攻め立てる。

 その巨体に見合わぬ素早さで体を叩きつける。アイズの一撃は相手に痛痒を与えることに成功はしたが、実質的なダメージを与えることには失敗した。これでは徒に怒らせただけである。だが、今のアイズの目的には十分である。

 ちらりと、後ろのレフィーヤを見やる。

 既に詠唱は八割がた終わっており、魔法の発動はもうすぐであろう。レフィーヤに敵の注意が向かないようにするためには今の状況はむしろ好都合であったと言えよう。

 そして、遂にレフィーヤの魔力が臨界点を超える。

 

「雨の如く降り注ぎ、蛮族どもを焼き払え」

 

 後は最後の発動呪文を唱えるだけとなり、レフィーヤは眦を吊り上げ目の前の怪物に狙いをつける。

 一瞬が無限に引き延ばされる様な感覚であった。魔力を最も励起させる魔術発動は最も魔力暴走を起こしやすい。全ての神経を目の前の怪物と自身の内部に集中させる。

 故に。自分の真横に突如として盛り上がる地面に気づけなかった。

 

「……ッ!? レフィーヤ! 右!!」

 

「えっ!? ……っ!! きゃああああああっ!?」

 

 真っ先に気づいたアイズに遅れること数瞬。しかし、あまりに致命的な遅れであった。

 アイズの声に反応したかのように盛り上がった地面が破裂し、中から魔物の一部である触手が弾丸のようにレフィーヤに迫る。

 避けようとしても避けられない。魔術発動の直前は最も暴発の危険性が高い。並行詠唱を習得していればいざ知らず、ただの魔術師であるレフィーヤが魔力の制御を放棄し、回避行動を取ればそのままアイズを巻き込んで魔力暴発を引き起こすに違いない。

 なすすべもなく、自分を貫くであろう触手をただただ見つめることしかできない。

 目を恐怖で見開き、最後の瞬間を待つレフィーヤ。そんな後輩を助けようと間に合わぬと知りつつも手を伸ばすアイズ。哀れなエルフが串刺しを皆が幻視した。

 

 

 

 

 

 ケンイチが飛び込んだのはそんな場面であった。

 

「いりゃあああああっっ!!」

 

 レフィーヤと触手の間に割り込むと、怒声と共に触手の攻撃をいなす。触手の横に手を添え、手首を捻ることで横合いから外力を加える。ケンイチと魔物、両者の体格を鑑みれば無駄な足掻きにしか見えないが、たとえ僅かな力であっても横合いから最適なタイミングで加えることで、止めることはできなくてもその向きを逸らすならば僅かな力で十分だ。

 触手の軌道が横に逸れ、服の肩口が千切れ飛んだ。だが、被害はそれだけ。重傷を負ったケンイチも串刺しとなったレフィーヤも存在しない。

 

「大丈夫ですか!? エルフさん!」

 

「あ、あなたは……?」

 

 突如として現れた見知らぬ男性にレフィーヤは困惑する。状況を見れば魔物と戦っている自分たちを見かねて助けに来てくれたに違いないのだが、つい先ほどまで生死の境を彷徨ったことで未だに冷静な判断力が戻っていないのだ。

 そんなレフィーヤの言葉に答える影が二つ、上空から飛び降りてくる。

 

「援軍よ。手こずってるみたいだし、加勢してもいいかしら?」

 

「やっほー! レフィーヤ、アイズ。間に合って良かったよ」

 

「ティオネ、ティオナ……」

 

 やや驚きながらアイズは更なる加勢の名を呟いた。ヒリュテ姉妹。アイズと同じ、レベル5の冒険者でオラリオ屈指の実力者だ。

 思わぬ援軍に驚くが、すぐに気持ちを切り替える。

 

「助かります。あの魔物の皮膚、打撃が効き難い様なので剣や槍などの武器か魔法による攻撃が有効なのですが……」

 

「武器か魔法かあ……うーん、武器はファミリアに置いてきたし、あたしは魔法使えないし」

 

「言っとくけど、私の魔法も拘束魔法だから攻撃力なんてないわよ」

 

「そうですか……貴方は、どうですか? 魔法の習得は……?」

 

「えっ! ぼ、僕ですか!?」

 

 突如、話しかけられケンイチは狼狽する。ある程度覚悟を決めて飛び出したのだが、やはり、弟弟子の思い人と相対するというのはどうにも緊張する。

 失礼がないか不安になりながらもぎこちなく答えた。

 

「いやあ……僕は、魔法なんて使えませんよ」

 

「そうですか……それじゃあ、やっぱりレフィーヤに頼るしか……」

 

「は、はい! 頑張ります!」

 

「あっ! でも、もしかしたらなんとかできるかもしれません!」

 

「えっ? でも、どうやって……?」

 

 アイズは詳しく聞こうとしたが、それはかなわなかった。

 

「————!!」

 

 件の魔物の鎌首が空を仰ぐようにしてもたげる。

 すると、その先端が刃物を入れたかのように割れる。中から見えた色彩は毒々しいまでの真紅。それが獲物を捕食し咀嚼するための口腔だと分かったのは無数に生える牙と滴り落ちる唾液の存在だ。

 蛇ではなく、凶暴な肉食植物の魔物だった。一行がそう認識したのと同時に件の魔物——食人花は食事を始めるのだった。

 

「オオオオオオオオオオオォォォッッ————!!」

 

 花弁が開き、先ほどまでとは打って変わって存分に雄叫びを上げると、何本もある触手を鞭のようにしならせ襲い掛かる。そればかりか、その声に引き寄せられたかのように地面から新たな食人花が何匹も生えてきたのだった。

 

「チィッ! 何なのよ、この魔物は!? こんなモンスター、ガネーシャ・ファミリアは何処から連れてきたのよ!」

 

「今は、この魔物を倒すことだけ考えましょう。とりあえず、レフィーヤの魔法で攻めて、他の人間はその援護を!」

 

「うん、分かったよ! さあ、レフィーヤ、掴まって!」

 

「は、はい! 分かりました!」

 

 一匹でも手こずりそうなのにそれが複数となってはたまらない。一同は散開し、食人花の猛攻を避ける。

 アイズは風の魔法で避け、ティオネは軽い身のこなしで舞い、ティオナはレフィーヤを庇いつつ持ち前の剛力で攻撃を殴り返す。

 皆、走り、避け、的を絞らせないことで猛攻をしのぐ。だが、その中で一人、防御にも回避も取らず、ただ食人花の前にたたずむ人間がいた。

 

「ちょっと! ケンイチ! 何やってるのさ!?」

 

 ティオナの悲鳴の先、涎を垂らす食人花の前にケンイチは構えを解くことなく一人対峙していた。鎌首をもたげ、威嚇する食人花と比べ、あまりにも矮小な体格。それはそのまま実力の差でもあった。確かにケンイチは十把一絡げの雑魚とは違う、ティオナ達実力者から見ても感嘆するほどの強者である。

 だが、食人花はその更に上を行く。速度、体力、威力。あらゆる点において食人花は圧倒的している。こうしてレベル5冒険者が三人集まって尚守勢に回らなければならないのがその証拠だ。ましてや、食人花は打撃に対し、驚異的な耐性を持つ魔物だ。格闘戦を主とするケンイチにはあまりにも分が悪すぎる。

 

「ケンイチ!」

 

 ティオナの叫びが合図であったかのように食人花はその凶暴な大口を開け、ケンイチに殺到する。最早ケンイチの命は風前の灯。誰もがそう思った。

 

「ふっ!」

 

 食人花の突撃をギリギリまで引き付け、身を翻し、先ほどと同じ要領で受け流す。違うのは今度は避けた際にひたり、と手掌を食人花に合わせたことだった。とても攻撃には見えない、ただ撫でるかのような愛撫。その場にいた者全員が眉を顰める。当然だ、ケンイチの行動はまるで敵に対する物とは思えない。

 だが、これこそが攻撃の前準備。謂わば、これは相手の首根をつかみ取り、後は握りつぶすだけなのだと、誰が知ろう。

 成程、確かに食人花の皮膚は分厚く、強靭で打撃攻撃に対し、強い耐性を持っているようだ。こうして触っているだけでもその皮膚が鋼の鎧をも上回る防御力を持っているのが分かる。

 だが、強靭なのは外殻の話。果たして、その内部まで強靭なのかは別の話だ。

 

「ヒュウッ!」

 

 短く呼気を吐き出し、地面を踏みしめる。

 字の如く、地面を震わすかのような震脚が石畳の地面を踏みぬく。

 生み出された爆発的な推進力を膝の力で増幅し、腰の捻りで水平方向へと導く。

 肩、二の腕、前腕。荒れ狂う力が衰えることなく、むしろ増しながら腕の先へと迸る。

 最後に、手掌へとたどり着いた瞬間、ねじりこむようにして全身の力を食人花の体内へと解き放つ。

 

「ッッッッ!?!? アアアアアアアアアァァァァッッッ!!??」

 

「ヒューッ! やるじゃない、ケンイチ!」

 

「何あれ! 何あれ!? 一体何をどうやったの、あれ!?」

 

「……すごい」

 

「う、うそでしょう……魔物の首が……」

 

 内側から弾け飛び、絶叫と鮮血をまき散らしながら食人花の首がくるくると回転しながら落ちていく。

 後に残されたのは頭を失い、混乱と激痛に苛まれながら首を振り回す食人花の姿——それも分と経たずに灰へとその姿を変貌させてしまった。

 にわかに信じがたい光景である。食人花の首は成人男性どころか子牛一頭を丸飲みしてしまえる程に太く、その皮膚は名工の太刀すら歯が立たない。その首を引きちぎらんとするならばおよそ巨人並の怪力を要することだろう。よもや、ケンイチの小柄な体格にそれ程の怪力が宿っているのだろうか。

 そうではない。それを成したのは力ではない、技だ。

 当然ながらケンイチの世界にも鎧は存在する。種類や質にばらつきはあるものの、それらは着用者に多大な防御力を付与するという点は共通する。

 そんな物を装備した人間を相手取ろうとするならば、どうすればよいのか。

 ある武術は鎧の防御すら打ち砕こうと圧倒的な破壊力を鍛え上げた。

 ある武術は鎧の間隙を縫う正確さを追求した。

 ある武術は鎧の防御力など無視できる組み技に活路を見出した。

 そして、ある武術は鎧を無視し、内部を直接攻撃する技法を編み出したのだった。

 ケンイチが行ったのはその一つ。

 密着した状態で衝撃力を生み出すことで効率よく相手の体内を破壊する技。発剄と呼ばれる中国拳法の代表的な打法である。

 その威力たるや、この世界最高峰の人間たちですら一目置く程の破壊力である。

 しかし、この技の神髄はその威力にあるのではない。

 

「ガアアアアアアアァァッ!」

 

 弔い合戦というわけでもないのだろうが、残された食人花の一匹がケンイチの後方から襲い掛かる。

 死角となる後方からの完全な形の奇襲であった。食人花のポテンシャルも相まって並の冒険者であれば反応すらできずにその大口に飲み込まれる筈の一撃だった。しかし、ケンイチはまるで背中に目があるかのように足を踏みかえるだけの動きで完全に食人花の動きを避けるのであった。

 そしてトン、とその背中を食人花の首に預けた。

 その瞬間、先ほどの焼き増しの様に食人花の首がはじけ飛ぶ。

 

「—————ッ!?」

 

 今度は断末魔すら上げることが出来なかった。

 もし上げることができ、そして人の言葉を喋れていれば食人花はこう言っただろう。何故だ、手に触れていないのに、と。

 この技の真に恐ろしい所はその威力にあらず。真に恐ろしいのはその奇襲性にある。

 普通の打撃が拳を振り上げ、その運動量を相手に叩きつけるのに対し、この技は衝撃を生み出し、それを密着した相手の体内に伝達することで成立する。その為、技の起点という物が、隙という物が無い。格闘戦においてその恩恵は計り知れない。

 間断なく攻め立てられることも可能となるばかりか、牽制と見せた一撃が必殺の一撃に変貌し、変幻自在の攻め手となるのだ。

 それどころか達人ともなれば相手の攻撃にカウンターで発動し、攻撃を受け止める防御をそのまま攻撃の機会に変えてしまうという。

 まあ、流石に今のケンイチではそこまでの地平には遠く及ばないが、それでも我武者羅に突撃するだけの猪突猛進の類を手玉に取ることぐらいはできる。

 

「フッ……!」

 

 短く呼気を切り、襲い掛かる触手を手首の返しを利用することで受け流す。続いて迫り来る食人花の大顎は膝を折ることで回避する。

 後ろ髪のたなびきと風を切り裂く音で食人花が物凄い速さで自身の頭があった場所を通り過ぎたのが分かる。地面に接吻するかのような低頭の姿勢から一転、脚力により背中から食人花へと間欠泉の如く伸びあがる。

 湯ではなく、灰の水柱が立ち昇った。

 

「グルルルルルッ……!」

 

 襲えば襲う程に仲間が減っていく状況に業を煮やしたのか、残った食人花達は警戒しつつケンイチをぐるりと包囲する。

 今度は安易に飛び込み、危険に晒すなどという事はしない。触手を戦慄かせ、一斉攻撃で仕留めようとする。

 しかし、ケンイチ一人に戦力を集中させるという事は、つまり彼女たちを自由にするという事だ。

 

「うおりゃあああっ!!」

 

 一匹の食人花の上空からティオナが裂帛の気迫と共に拳を振り下ろす。

 轟音と共に食人花の頭が硬い石畳に叩きつけられ、反動で浮かんだところをティオネとアイズの追撃が迫る。

 ティオネのしなやかな足から繰り出さる凶悪な蹴撃が食人花の首をねじらせ、脆くなった部分をアイズの一撃が刎ね飛ばす。

 ケンイチの様な技によるものとは違う、怒涛の連携による討伐は、あまりの鮮やかさに先ほどまでの苦戦が夢か幻ではないかと錯覚させる。

 一瞬にして灰へと変わっていく食人花を背にして立つオラリオ最高峰の冒険者たちにケンイチは瞠目する。

 

「へっへーん! 無防備な所を狙えばこんなもんだよ!」

 

「ちょっと、ケンイチ。手柄を独り占めにする気?」

 

「……手伝います」

 

「皆さん……ありがとうございます!」

 

 頼りになる仲間の存在にケンイチは体の底から闘志が湧き上がる。自分一人だけではない。背中を任せられる人間が、それも自分以上の力量を持つ者が三人もいるというのは戦力的という意味でも精神的にも安心感を齎してくれる。

 しかし、対峙するのは五匹の食人花。既に半数近くを倒したが、頭数は向こうに分がある。

 加えてこれから先は今までの様に上手くはいかないだろう。これまで食人花が倒されたのは不意を突かれたり、無警戒であった所が多い。

 半数近くを討たれた食人花にそれらの油断は最早ない。今度こそ同じ轍は踏まぬと、目の前の四人に最大限の警戒を以て戦わんとしていた。

 だが相手は四人だと、そう考えている時点で彼らは同じ轍を踏んでいたのだった。

 

 

 

 

「ウィーシュの名のもとに願う」

 

 ケンイチ達と食人花の戦いを視界に映しながらレフィーヤは詠唱を開始する。

 その視線には隠しようのない憧憬にあふれていた。羨ましかったのだ、憧れのアイズと肩を並べて戦える彼らが。

 

「森の先人よ、誇り高き同胞よ。我が声に応じ草原へと来たれ」

 

 レフィーヤはオラリオでも数少ないレベル3冒険者だ。オラリオの外ならば一国の要職に就き、オラリオでも中規模のファミリアの団長に収まれるぐらいに有能な魔術師である。

 しかし、それもオラリオ最強のロキ・ファミリアの中、とりわけアイズ・ヴァレンシュタインの隣に立てば霞んでしまう。

 

「繋ぐ絆、楽宴の契り。円環を廻し舞い踊れ」

 

 レフィーヤが朗々と詠唱を続ける中、アイズたちの戦いはいよいよアイズたちに天秤が傾き始める。

 アイズが囮になった所をティオネとティオナの二人が食人花の頭を地面に叩きつけ、無防備なその首をケンイチが吹き飛ばす。

 お互いがお互いの動きを理解し、それぞれの役割を十全に果たした、即席のパーティーとは思えぬ見事な連携である。

 ただ守られていた自分とはまるで違う、あれこそが真に背中を預け合う仲間なのだとレフィーヤは思った。

 

「至れ妖精の輪」

 

 ケンイチに助けられた時、レフィーヤの胸中に過ったもの、それは助かった安堵でもケンイチへの感謝でもない。アイズに背中を任せられたというのにその役目を果たせなかった己への怒りであった。

 

「どうか力を貸し与えてほしい」

 

 レフィーヤは理解している。自分がどれほど追いかけようともアイズとの距離が埋まることはない。自分が近づけば、かの天才はそれ以上に遠のいていくからだ。

 だが、それでも諦められないというのならば追い続けるしかない。

 

「エルフ・リング」

 

 最後の詠唱を終えたとき、山吹色の魔法陣が展開する。

 すると食人花が一斉にこちらを振り向く。夥しい量の殺気と圧力が襲う。

 

「終末の前触れよ、白き雪よ。黄昏を前に風を巻け」

 

 食人花が殺到する。あれほど手痛い目に合わされてきたアイズたちに目もくれずに、何かに駆り立てられるようにレフィーヤを喰らおうとする。

 華奢な体格の自分とは対照的な、怪物と呼ぶに相応しい巨体の群れが大挙してなだれ込む光景は笑ってしまう程に現実感がなく、そして何よりも恐ろしかった。

 

「こんのおぉぉっ! あたし達を無視するなっ!」

 

「オラッ! テメエらの相手はアタシらだ、ってんだろうが!!」

 

 詠唱に入り、無防備となったレフィーヤを庇おうとティオナ達が食人花に飛び掛かる。

 しかし、無防備に殴りつけられ、蹴り上げられるようとも食人花はまるで痛痒を感じないかのように一顧だにせず、ひたすらレフィーヤへと直進し続けた。

 先ほどまでの無秩序に暴れる様子とはまるで違う、明確なレフィーヤへの殺意に満ちた様子に二人は困惑する。

 

「なんなのよ、コイツ……? 何でそこまでレフィーヤを狙うのよ。魔法使いを集中して狙うなんて人間じゃあるまいし、知恵のない魔物なら手近なアタシらを狙う筈でしょ……?」

 

「待って、ティオネ……そう言えば、さっきレフィーヤに攻撃しようとしたときもちょうど、魔法を発動しようとしたときじゃなかった?」

 

「チッ……! 成程、そういうカラクリか……!」

 

 魔法を発動しようとした瞬間に襲い掛かる、その事実からティオネはこの魔物の習性にようやく気付いた。

 

「レフィーヤ、今すぐ魔法を中断しなさい! コイツ等は魔力に反応するわ! 後はこっちで何とかするからアンタは早く逃げるのよ!」

 

 特殊な目でも持っているのか、あるいは別の感覚器官を持っているのか。どうやら目の前の怪物は魔力を知覚する能力を持ち、それに激しく反応する性質なのだろう。

 結果、魔法を撃とうと魔力を放出している魔法使いに集中して襲い掛かる習性を持っているのだ。本人は本能に従っているだけなのだろうが、防御の薄い後衛を狙われるこちら側としては厄介極まりない性質である。

 しかしながら、裏を返せばそれは魔法を止めれば目標を見失うということでもある。幸いにも怪物とレフィーヤの距離は未だ離れており、今詠唱を止めて逃走を図れば離脱は容易であろう。

 先のティオネの言葉はその習性に対する的確な指示であった。

 レフィーヤもきっと、その指示が正しいのだと理解した事であろう。

 しかし

 

「閉ざされる光、凍てつく大地」

 

「レフィーヤ!? どうしたの! 早く逃げなさい!!」

 

 しかし、レフィーヤの詠唱は止まらなかった。

 すらりと真珠色の肌を見せる両脚でしっかりと地面を踏みしめ、自分に襲い掛かる怪物の群れをねめつけながら、朗々と詠唱を続ける。

 勿論、恐ろしくないわけがない、恐怖を克服したのでもない。ただ、今はそれ以上にこのまま逃げることの方が恐ろしかった。

 足手まといのまま、何もできないまま逃げ帰る。その様な醜態を晒すことを良しとする様な者に剣姫の隣に立つことなど、いや、それ以前にその背中を追いかけることすら許されない。今ここで立ち上がらなければ、自分は一生そこから脱却できないだろう。

 恐怖で喉は引きつり、眩暈と頭痛で視界が霞む。急く心中とは裏腹に、呪文を紡ぐ唇は呆れるほどに遅々としている。

 だが、それでもレフィーヤは逃げなかった。たった一人で死の恐怖に対峙しながらも、あの憧憬に追いつくために、一人で何処までも遠くへと走り去ってしまいそうな彼女を一人にしない為に。

 そして、その戦いも終わりを迎える。

 

「吹雪け三度の厳冬——我が名はアールヴ」

 

 遂に詠唱が終わる。後は魔法名を解き放つだけ。

 そう思った瞬間。

 

「あっ」

 

 ぐばり、とレフィーヤの鼻先で食人花の大口が開かれた。

 血よりも赤い口内と、そこに無数に生える象牙色の牙。

 ひゅう、と喉から短い息が零れる。あと数瞬あれば魔法を放てるだろう、しかし食人花が自分を飲み込むのは一瞬だ。簡単な数術の問題だ。数瞬と一瞬、どちらが早いかなど考えるまでもない。

 間に合わないという事を理解した。そして、その後に待ち受ける運命も。

 自分はこのまま魔法を撃つことなく、魔物の牙に晒され、そして——

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「——させない」

 

 また、彼女に助けられてしまうのだろう。

 食人花の姿がぶれ、横合いの建物に叩きつけられる。

 諦観に濁るレフィーヤの瞳に鮮やかな金髪が翻った。

 

「ああ……」

 

 感嘆とも、安堵とも、絶望とも言える声が漏れた。

 レフィーヤを背に守り、瓦礫に沈む怪物を睨むアイズの姿は美しく、頼もしく、そして何よりも悔しかった。

 結局自分では彼女の助けになることはできなかった。覚悟を決めようとも、命を懸けようとも、自分は決して彼女の庇護から抜け出せないのだと、改めてその事実を突きつけられてしまった。

 きっと、これからアイズは振り向き、そして優しく微笑みながらこう言うのだ。

——ありがとう、もう大丈夫。あとは任せて——

 その言葉は暖かく、人をいたわる言葉だろう。だが、それは同時に決して隣に立つことを許さぬという拒絶の言葉でもあった。

 違う、とレフィーヤは言いたかった。自分が望んでいるのはそんな言葉ではないのだと。レフィーヤはアイズに守られたいのではない。隣に立ち、支えたいのだと、そう言いたかった。

 だが、現実は非情であった。実際のレフィーヤはアイズに守られなければ何もできないお荷物でしかなく、そんな体たらくで隣に立つなど大言壮語も甚だしい。

 だからこそ、レフィーヤはただ立ち尽くす他なかった。何も言えず、ただただ何もできない自分の不甲斐なさを噛みしめる他なかった。

 そして、そんな彼女に対し果たして、予想通りアイズはレフィーヤに振り返り、優しく微笑むと言った。

 

「頼りにしている。頑張って」

 

「えっ……!?」

 

 驚くレフィーヤにアイズは微笑み一つ残すと、颯爽と食人花に飛び掛かる。いつの間にやら周囲を食人花に囲まれ、ケンイチ達は何とか包囲網を突破してこちらに来ようと躍起になっている様子だ。

 しかしながら、アイズは周囲を囲まれているというのに前方の敵に集中していた。まるで、そう、後ろは大丈夫なのだと、頼りになる仲間がいるのだと、そう言っているように。

 じわり、と心だけでなく視界が歪むのが分かった。

 憧れの人に頼られる。彼女の力の一つに成れた。自分はお荷物などではなく、隣に居ていいのだと言われたのだと、その事実に歓喜と興奮で恐怖が塗りつぶされていく。レフィーヤは喉を詰まらせ、うつむき目を閉じると、次には。

 

「うわッッ! 何ですか、あれは!?」

 

 膨大な魔力が立ち昇る。制御を失い、霧散していくだけであった魔法陣が光を取り戻し、今やそれ以上に力強く輝きを放つ。そのあまりの眩しさにケンイチの目がくらむ、その様はまるで地上の太陽の如しであった。

 

「アアアアアアァァッ!!」

 

 当然、目の前でそれ程の魔力を浴びせかけられた食人花達が黙っているわけがない。先ほどまで以上の魔力だというのならば、先ほどまで以上の勢いで暴れ出す。涎を滂沱に垂れ流し、自身の体を鞭のように振り回すその様は完全に我を失っているのは自明の理だ。

 そしてその予想は正しかった。

 

「アアアアアアアアアァァァッッ!!」

 

 食人花は一斉に沸騰した。自身の体が傷つくのも気にせず、レフィーヤの元へと殺到する。

 アイズ達が止めようと迎撃するが、自身の被害も省みない自棄染みた突撃は瞬く間に並み居る実力者を押し込んでいく。

 これでは、数秒もしないうちにアイズ達は食人花の群れに飲み込まれてしまう、だというのにレフィーヤとアイズの心中は凪の様に穏やかであった。

 

「レフィーヤ、いけるね……?」

 

 疑問ではなく、確認。それにレフィーヤは僅かに頷く。

 すると

 

「皆、散って! レフィーヤがやってくれる!」

 

 アイズの声に弾かれたように四人が散開する。

 阻むものが無くなり、食人花が一気に詰め寄る。まるで先ほどの焼き直しの様な光景。しかし、レフィーヤの心中は今なお凪いでいた。制御を失っていた魔力は最早完全に制御を取り戻し、引き金を引く瞬間を今か今かと待ちわびていた。

 恐ろしい雄叫びが、身を突き刺す殺気が、しかし嫋やかな少女の顔色一つ変えることができない。

 体の芯から滾々と勇気が湧いてくるのが分かる。体は燃える様に熱く、頭はその熱量に振り回されることなく冷静に魔法を制御する。

 最早、食人花はレフィーヤの敵足りえなかった。

 たったの一言。憧憬からの肯定がレフィーヤを脆弱な獲物から強者へと変貌せしめたのだった。

 そして、遂に食人花の牙が突き刺さらんとした瞬間、少女の一撃は解き放たれる。

 

「ウィン・フィンブルヴェトル!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、魔法ってすごいんですね! 僕、魔法なんて初めて見ましたけど、こんなにすごいものなんですか!?」

 

 先ほどまでの死闘が嘘のように静まり返ったメインストリートにケンイチの歓声が響いた。

 感嘆の声を上げるケンイチの前には氷漬けになった食人花があった。

 あれほど暴れまわった食人花も今では身じろぎ一つできず、外側だけでなく内側まで完全に凍り付いているのは間違いない。迫力がありすぎることを除けばその姿はよくできた氷像にしか見えない事だろう。

 巨大な魔物たちを一瞬で完全に凍結させる。今まで達人の絶技を見てきたケンイチにとってもこの光景は度肝を抜かれる程に衝撃的であった。

 

「ふふーん! 確かにすごいけど、魔法がすごいんじゃないよ! 使用者のレフィーヤがすごいんだよ!」

 

「なんで、アンタが偉そうなのよ、まったく……」

 

「でも、レフィーヤがすごいって言うのは正しいと思う……」

 

「ア、アイズさん……!? そ、そんな、私なんて皆さんと比べれば全然……!」

 

「なーに言ってるんだか! 一番倒したのはレフィーヤじゃん! このこのー!」

 

「ひゃああっ!? 何をするんですか!?」

 

 ぐしゃぐしゃと髪を乱暴に撫でまわすティオナと抗議の声を上げるレフィーヤ、そんな二人を微笑ましそうに見つめるアイズとティオネ。

 傍目から見ているケンイチにも四人がただの知り合いではないという事が分かる。果たして、この四人の関係は何なんだろう、と考えたが、すぐにティオナ達と会った時の会話を思い出した。

 

「いやー、それにしてもティオネさん達が言っていた同じファミリアの仲間ってあのアイズさん達の事だったんですね! まさか、あのロキ・ファミリアの方々とこうしてお知り合いになれるとは夢にも思いませんでしたよ」

 

「えっ?」

 

 途端、四人は怪訝な声を上げると一斉に顔を見合わせる。そして今の自分たちの状況とケンイチの言葉を見合わせ、その意味を理解すると。

 

「あっははははっ!? おっかしい! あたし達とアイズが同じファミリアって……!」

 

「ええっと……? 確かに二人とは仲良くさせてもらっていますけど……」

 

「ああ、そう言えばケンイチはアタシたちのことを知らなかったもんね……」

 

「ええ……ティオネさん達を知らないって、どんな世間知らずなんですか……?」

 

「いやあ、あはは……」

 

 きまり悪げに笑ってケンイチは誤魔化しつつ、内心ため息をつく。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 では、一体彼女たちはどのような関係なのだろうか。そう問おうとした瞬間、新たな声が聞こえた。

 

「あっ! 見つけたよ。ティオネ、ティオナ」

 

「一体何をやっているのだ、お前たちは?」

 

 若い女性の声が二つ。振り返ればそこには二人の女性が立っていた。浅黒い肌に煽情的な民族衣装。アマゾネスだという事だけが分かる。

 

「あっ! セルダス、バーチェ!」

 

 ティオナが喜色満面とばかりに二人に飛びついた。その様は先ほどまでのレフィーヤとのそれと似ているようで、それ以上の親密さを感じさせた。

 そのことから、ケンイチは彼女たちこそがティオナ達の仲間なのだと理解した。

 バーチェと呼ばれた女性はやや億劫そうにティオナを引きはがす。

 

「まったく……時間になっても待ち合わせ場所に来ないから何かあったのかと心配していたら魔物の脱走騒ぎが起こって、その上巨大な魔物が暴れていてそこでお前達らしき人物が丸腰で戦っていると聞いて私たちがどれだけ心配したか分からなかったのか?」

 

「い、いやあ、だってあのまま放っておいたら被害がすごいことになりそうだったからさあ……」

 

「だとしても、二人のうちのどちらかだけでも連絡するとかできたんじゃない?」

 

「う……ごめんなさい」

 

 二人の安堵と若干の怒りを含んだ声音から真剣に心配させたのだという事が分かり、ティオナは素直に謝る。

 一方、ティオネの方はというと不審げに二人のことをじろじろと見まわし、首を傾げた。

 

「まあ……そのことについては謝るけどさ、なんでアルガナの奴がいないのよ?」

 

「む……それは……」

 

「あ、あはは……」

 

 すると途端に二人のアマゾネスはきまり悪そうにし、言うべきかどうか悩んだ末に

 

「実は……アルガナは魔物脱走の報を聞いた途端、この騒動はロキ・ファミリアと協同して解決すべきだと言いだして、だな……」

 

「つまりは今回の事を出汁にしてフィンさんに突撃しちゃった」

 

「ああああああああっっ! あのオンナアアアアアアッッ!!」

 

 ティオネは爆発した。怒りで血走らせた目を真円に見開き、犬歯を煌めかせるその容貌は先ほどまでの手弱女ではなくもはや狂戦士のそれである。

 ティオネの持病にアマゾネスの三人はため息をつく。と、そこで呆然と事態の変化に置いてけぼりのケンイチに気づく。

 

「ん? そこにいるのは、ロキ・ファミリアの二人だな。それと……そこにいる男は誰だ?」

 

「あっ、どうも。自分は白浜健一と言いまして、ティオナさん達とは道中でお会いしまして、それで魔物退治をご一緒することになりまして」

 

「そうそう! ケンイチってばすごいんだよ! あたしらでも手こずる花の魔物を一撃でぶっ飛ばしちゃってさ!」

 

「へえ……それは、すごいわね!」

 

「確かに……ティオネ達が手こずるというならばかなりのものだが。しかし、シラハマ・ケンイチ……うーむ、聞いたことがないな」

 

「あはは、先日オラリオに来たばかりですから、仕方がありませんよ。ところで、失礼ですが、あなた方は……?」

 

 ケンイチの言葉に二人のアマゾネスは、自分たちが自己紹介すらしていなかったことを思い出す。これでは、ティオネ達を叱れんな、とぼやくと二人は名乗る。

 

「私はセルダス。二人のまあ、姉替わり兼友人ってところかな」

 

「バーチェだ。セルダスが姉だとするならば私はティオナの師匠と言った所か。ちなみに先ほど話題に上がったアルガナは実の姉で、まあ……ティオネの師匠兼恋敵と言った所だ。ああ、後はアルガナはカーリー・ファミリアの団長で、私は副団長をやらせてもらっている」

 

「カーリー? それがあなた達の主神様なのですか?」

 

 聞きなれぬ神の名前にケンイチは聞く。

 

「うん。見た目はちっちゃな女の子なんだけど、中身は闘争を司る蛮族の女神で、強い戦士と戦いが大好きという血の気の多い神様で……」

 

 それにティオナが笑って答える。

 

「あたしたち、カーリー・ファミリアの主神様だよ!」

 

 

 

 







 お待たせしました。第十二話完成しました。
 レフィーヤの内面描写にかなり手こずってしまいました。外伝一巻の山場でしたし、軽く扱うわけにはいきませんでしたが、出来栄えはどうだったでしょうか。
 さて、ヒリュテ姉妹の立場が原作と大きく乖離していますが、これに関しては次回の閑話で取り扱います。八割がたできているのですぐにお見せできると思いますのでお待ちください。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。




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閑話

 

 

 

「……以上が昼間に起こったことの全てです」

 

「……そうか。ご苦労であったのう」

 

 跪くバーチェが月明かりによって照らされる。場所はオラリオのどこかの屋敷。巨大な、名工たちの手によるものでありながら、それでいて文明を否定する野性の色を濃くする異色の屋敷のそのまた奥にある一室。主神が住まうその部屋は屋敷の中でも特に広く、豪奢で、そして何よりも野卑であった。

 部屋の床は大理石で占められながらも十分な研磨がされておらずザラザラとした岩肌をさらし、その上に敷かれた虎の毛皮の絨毯は加工が杜撰だったのだろう、血生臭さと獣臭さが立ち込め、それを打ち消すために最高級の香がむせ返る程に炊きつけられている。

 調和も洗練さも何も考えられていない。ただ高価なものを手当たり次第に集めて放り込んだ。豪奢さと物欲を流し込み、人間の欲望がギラギラとした光を放っている様であった。

 そんな部屋の主であり、この屋敷の主つまりはカーリー・ファミリアの主神カーリーは昼間の騒動の顛末を目の前のバーチェから聞いていた。

 自身の眷属の活躍を聞きながらも、カーリーの顔にはなんら興味の色を示すことはない。淡々とした声音で労うだけであった。

 

「そんなことよりも、じゃ」

 

 カーリーは傍らの盃に並々と注がれていた酒を一息で呷ると酒臭い息を吐きながらバーチェに尋ねる。

 

「あの男の情報は見つかったかのう……?」

 

 ギラついた光が仮面越しの眼に映った。その様子は先ほどまでの機械的な物とはまるで違う、粘つく様な執着心がはっきりとしていた。正体不明の魔物が街中で暴れたという大事件をそんなこと呼ばわりするカーリーにバーチェは内心ため息をつきながらも短く首を振るう。

 

「残念ですが、今日も特には……」

 

「そうか、ならばよい。下がってよいぞ」

 

 バーチェの言葉に遂に完全に興味をなくしたらしい。にべもなく話を打ち切ると、眷属に一瞥もくれずに酒瓶から盃に酒を注ぐ作業に従事する。

 あまりにあからさまな主神の態度に今度こそため息を零すとバーチェはスタスタと部屋から出ていった。

 バタン、という扉を閉じる音ともに部屋には酒が注ぐ音と酒を呷る音以外はない、完全な沈黙に包まれた。

 

「ンッグ! ンッグ! プッハー!」

 

 できるだけ多くの酒を注ぎ、一気にこれを呷る。味わうことなど考えない、ただ酔うためだけの作業。

 常人ならば忘却したいことがあった時に行うそれだが、カーリーにとってはそれは日常行為。あの日から毎日欠かさずに行っている儀式の様な物であった。

 やがて、酒精が十分に回ったのだろう。視界も思考も霞み始め、現実と夢が曖昧となっていく。これでようやくあの日の思い出に浸れると、思ったのを最後にカーリーは大の字に眠りこけ始めたのであった。

 

 

 

 その日、カーリーは頭を悩ませていた。

 悩ます彼女の前にあるのは一つの名簿。自身の眷属の数名が記録されたその名簿はそれ自体、何も変哲はない。大規模のファミリアならば眷属を管理する為に名簿の一つでもあるのが自然だ。

 異常であったのはその名簿を眺めるカーリーの呟きであった。

 

「さて、何奴と何奴を殺し合わせれば盛り上がるかのう……?」

 

 そう言って、掴み取った果実にかぶりつく。くつくつと抑えきれぬ笑みに歪む口元から鮮血の様に赤い果汁が零れ落ちた。

 カーリーは破壊と殺戮を司る神だ。その性格も残忍かつ無慈悲で流血を好む野蛮な質である。そんな彼女であるからして、まともな文化、良識のある場所に留まる筈がなかった。

 カーリーが自分の居場所と定めた場所、そこは数多の強者が鎬を削り合うオラリオではなく、それ以上に血と暴力に彩られた場所、テルスキュラであった。

 オラリオの南東に位置する半島国家であるこの国の大きな特徴の一つにアマゾネスのみで構成されているという点が挙げられる。

 アマゾネス。世にある6つの種族に置いて、この種族の特に特徴的な特性として女性しか生まれないという点がある。ヒューマン同様に他の全ての種族と子を設けられながらもそこから生まれるのは必ずアマゾネスの娘だけだ。

 それ故にこのテルスキュラという国には国として致命的な矛盾がある。すなわち、男がいない為にこの国単独では次代を担う者が生まれないという点だ。その為の解決策としてこの国では古来ある一つの政策を推し進めた。

 それは最強の戦士を作り、そしてその力で周囲の国から男を奪うということだ。

 あまりに常軌を逸した考えであった。強奪した男のみで子孫を作るという発想も異常であるが、そもそも全方位に戦争を吹っ掛ける様な真似をし続ければ国はやがて疲弊し、袋叩きにされ滅亡の憂き目に遭うのは自明の理だ。そう時を待つことなくテルスキュラという名前は古代の内に歴史の波に消え去る筈であった。

 しかし、そうはならなかった。アマゾネスという種族が戦闘に秀でた種族という事もある。だが、それ以上にテルスキュラの妄執がその理を覆した。

 全身を血で染め、嗤いながら兵士を引き倒した後に戦場の真っただ中で男に跨り始めるアマゾネスの姿に周囲の国々は恐怖に慄いたという。

 そして、その妄執は時が経つほどに薄れるどころか狂気を増していった。

 より強い戦士を作る為にと行われていた国民同士の手合わせは命を奪い合う殺し合いに変化し、弱者や年老いた者は同胞であっても容赦なく奴隷身分へと落とされる。

 最早、より強い戦士を作るということは戦争の為にという手段から目的その物へと変わっていたのだ。

 そしてその狂気はカーリーがやって来たことで完成を見ることとなる。

 人の可能性を効率よく引き出す神の恩恵もそうだが、それ以上にこの残虐なる女神はどうすればより人間を狂戦士へと加工できるかをよく知っていたのだ。

 これは、その一環。幼き日から同じ部屋の者たちと共同生活を送らせ、気心が知れた所でそうとは知らせずに殺し合わせる。親しき者を自らの手で殺させることで特別な経験値を積ませ、恩恵を高めさせると同時に人としての倫理観を完全に破壊するという悪辣極まりないカーリーの悪意の発露である。

 その日もカーリーは名簿を片手に誰と誰を殺し合わせようかと悩んでいたのだ。

 

「カーリー様! 侵入者です!」

 

 そこに飛び込んできたのは侵入者が現れたという報せだった。それに対し、初めカーリーは名簿から視線を外すことなく一言。

 

「殺せ」

 

「はっ!」

 

 テルスキュラにおいてちょっかいをかけてくる人間など日常茶飯事だ。義憤に駆られた者、腕試しに来た者。いちいち気にしていたらキリがない。だからこそ、カーリーは初めそれもいつもの事だろうと思ったのだ。

 しかし

 

「カーリー様!! 侵入者は迎え撃った者たちを薙ぎ払いながら都市部に侵入を続けています!」

 

「ならば、その3倍の人間を差し向けい。器の昇格を果たした者でもそれだけおれば討ち取れるじゃろう」

 

 続く報にも名簿から視線を外すことなく、しかしわずかに声にいら立ちを交えながらもカーリーは吐き捨てた。

 どうやら侵入者は中々に骨のある相手だったようだ。だが、それもこれでお終いだ。すぐにでも討伐完了の報を聞くことになるだろう。

 

「カ、カーリー様っ!! 敵、全ての者たちを撃破しこの城への進撃を開始しています! どうか、ご指示を!!」

 

「ええいっ! 妾は忙しいというのにっ……! こうなれば器の昇格を果たした者たちも動かすのじゃ!!」

 

 今度こそ名簿から視線を外し、カーリーは吠えた。これ程まであがく者など、ここしばらく現れていなかった。平時であればその健闘ぶりに拍手の一つでもくれてやっただろうであろうが、テルスキュラを運営する上で重要な職務でもあり、何よりも自分の趣味の時間を邪魔されれば話は別だ。

 器の昇格、すなわちレベルアップを果たした者たちをただ一人に差し向け、今度こそ息の根を完全に止めることにした。

 これでこの不愉快な騒動は終わりだとその時カーリーは確信していた。

 

「カ、カーリー様……ええっと……その……侵入者は依然健在……で、す。い、一体あれは何者なのでしょうか……?」

 

 最早、恐怖や焦燥すら突き抜け、困惑と諦観すら漂わせる報告にカーリーは一言で答える。

 

「闘技場に通せ」

 

 そう命令するカーリーは最早無関心でも苛立ってもいなかった。穴が開く程に眺めていた名簿を踏みつけ、狂笑を浮かべながら居室から出ていくのであった。

 

 

 

 

 

「ヒヒヒッ! 来よったわ! 来よったわ!」

 

 我慢できないとばかり体をしきりに揺らしカーリーは目を輝かせた。

 爛爛と輝く彼女の瞳は未だ誰も姿を見せていない眼下の円形闘技場の入り口、より正確にはそこに近づく強大な気配に釘付けとなっていた。

 これほどの強者の気配を感じたことなど下界に降りてから一度としてなかった。ひょっとすると今なおオラリオ最強と称されるゼウス、ヘラの両ファミリアでもこれほどの猛者はいなかったのではないか。

 そんなことを考えている内に見物客の一人が闘技場の入り口を指さし、叫び出した。

 

「来たぞおおおっっ!!」

 

 怒号で揺れる闘技場に現れたのは一人の男らしき人物。

 らしき、というのはその顔を覆う仮面のせいだ。カーリーがつけている物よりも更に面積が広く、それは頭全体を覆い隠しており、体格からでしか男性であることを確認できなかった。その体格も筋骨隆々とは程遠く、鍛えているという事は分かるがとてもカーリー・ファミリアの精鋭たちを蹂躙できるようには見えなかった。しかし、カリーは見抜いていた。男にとって巨躯というのは余計な重しであり、極限に絞り込まれたこの肉体こそが男にとっての最高の武器なのだと。

 仮面の男は懐から果実を取り出し一口かぶりつくと闘技場をねめつける。

 

「カカカッ! こいつは随分と歓迎されたものじゃのう!」

 

「気に入ってくれたようで何よりじゃ、侵入者よ……ふむ、それにしても随分派手に暴れてくれたみたいじゃな」

 

 そう言ってカーリーは男の果実を掴んでいるのとは逆の腕に掴まれている物に目を向けた。

 

「おーい、アルガナ。生きとるかー?」

 

「カッ……ハッ、ハアッ! ハア……!」

 

 血まみれのまま髪を掴まれてここまで引きずられてきたアルガナは絶え絶えの息で自身の生存を伝えた。四肢は不自然な方向に折れ曲がり、瑞々しい肌は泥と血で塗れている。

 並の良識を持っているものならば義憤に駆られるか、そうでなくても眉の一つでも顰める光景だが、この場にいる者でまともな感性の持ち主などいなかった。

 

「カッ……! アマゾネスの聖地、戦士たちの楽園というから期待してみれば、とんだ期待外れじゃわい。技の実験をしようとしても技をかける前にこの有様じゃわい」

 

「おおっ……! そいつはすまんかったのう。そやつはこの国の中でも特にお気に入りの奴だったんじゃが……こいつはとんだ失敗作じゃ、スマン、スマン」

 

 死力を尽くしてまで戦った人間に対し労いの言葉一つかけることなく人外の者たちは満身創痍の少女を詰り、侮蔑し、やがてすぐに興味を失う。

 

「それで、こんな場所に誘導しておいて一体何がしたいのじゃ?」

 

「なんじゃ、自分がおびき出されているという事に気づいておったのか、つまらんのう。それよりも部外者でこの神聖なる闘技場まで案内された者はいないんじゃぞ? なにか、感想の一つでも言ってみぬか」

 

「無駄口を聞くつもりはないぞ、女神」

 

 空気の軋む音がした。男としてはカーリーの軽口に冗談で答えたつもりで凄んでみただけなのだろう。だが男の冗談の殺気、それだけで周囲は今にも血生臭さが匂ってくるような戦場の如き空気に包まれた。たまらず、観客の中でも気弱な者たちが卒倒する。

 

「ヒヒヒッ! スマン、スマン。お主ほどの男は今まで会ったことがなかったからのう、ついつい興が乗りすぎてしまうわい……ふむ、それにしても……」

 

 まじまじとカーリーは男のつま先から頭の天辺まで見下ろす。

 されど、自身が最初に感じた違和感に変化はない。確定的な事実にしかし未だに疑問を抱きつつ、それを口にした。

 

「お主……神の恩恵を受けておらぬのか? 全く神の気配を感じぬぞ?」

 

 男を一目見た瞬間、神であるカーリーは分かった。男がどこのファミリアにも参加していない、つまりは神の恩恵を受けていないことに。

 神の恩恵。人間の持つ可能性を引き出し、器の昇格を果たせば魂、つまりは存在としての位階を上げられるという下界における最大級の奇跡。これの優劣がそのまま実力の優劣につながり、これを持つ者と持たざる者では絶対的な境界となるという、下界における理。その匂いがこの男からは全く感じられなかった。

 にわかに信じがたい事実であった。これまでこの男がなぎ倒してきた者たちは皆カーリーの恩恵を受け、中にはレベルアップを果たした者もいた。それなのにこの男はそれら全てを打ち倒してきたというのだ。ただただ自身が磨き上げてきた武のみで。

 そんな驚きを隠せないカーリーに男は下らぬ、と吐き捨てる。

 

「カカカッ……! 当たり前じゃ、神の恩恵なぞ結局はその人間の潜在能力を引き出しやすくしているだけに過ぎんわい。なぜ、その様な物の為に頭を下げねばならんのじゃ?」

 

「ヒヒヒッ! 確かに、確かに。言われてみればその通りじゃ。戦士たるものそう易々と首を垂れるというのはふさわしくない」

 

 神たる自分に神に首を垂れるなど下らんと言い切る男の豪気にカーリーは愉快気に笑った。

 神が降臨して久しい今でも神の眷属にならない者は多い。しかし、それは気まぐれな神の放蕩に振り回されたくないからで、目の前の男の様に下らぬから、という傲慢極まりない考えで拒むものは皆無だ。

 かつて神が降臨する前、人間たちはこの男の様に神の恩恵を受けずにモンスターと戦っていたという。

 だとするならば、かつて地上にはこのような無頼漢が溢れていたのだろうか。それなら随分と勿体ないことをしたものだな、とカーリーは思った。

 

「さて、本題に移ろうかのう。何故お主をここに誘ったか、じゃったな。答えは簡単じゃよ、お主、妾の眷属にならんか?」

 

「カッ! お断りじゃ!」

 

 カーリーの勧誘に男はにべもなく断った。考える素振りも、取り繕うとすらしなかった。神たる自分の誘いに対し、あまりに不遜、無礼な振る舞いだった。

 だが、カーリーは気分を害さない。むしろそうでなくては、とすら思ったし、加えて諦めるつもりもなかった。

 

「ヒヒヒッ! そうじゃな、そうじゃな! お主はそうでなくてはならん。しかしのう、そこではいそうですか、とあきらめる程に妾は諦めが良くはないんじゃよ。だから」

 

 お主には神と人間の埋めることのできぬ、絶対的な差という物を教えてやろう、とカーリーは呟くとゆっくり目をつむり、そして——

 

『——跪け』

 

 神威を開放した。

 神威。神が下界に降りる際、全知全能の力のほぼ全てを封印するのだが、その数少ない例外の一つ。人間に対する絶対的な命令権とも言うべき神の威光。これに晒された人間は老若男女、どのような種族であろうとも、どのような英傑であろうともただただひれ伏し、その身命を捧げるという。

 事実、闘技場にいた見物客たちは皆一様にひれ伏し、首を垂れていた。若いものも老いたものも強者も弱者も、四肢を砕かれ半死半生のアルガナですら首を垂れんと傷ついた体を捩っていた。

 これこそが神の持つ権威。神は聳え、それに人はただただひれ伏すしかないのだと万人に示し理解させる、絶対的な覇気。

 最早この闘技場に立つのは神であるカーリーただ一人だけ——

 

「カカカッ! もう一度言うぞ、お断りじゃ!」

 

「なっ——!?」

 

 ——の筈であった。尚もカーリーを挑発的に見上げる、目の前の男がいなければ。

 あり得ぬ、という言葉が口から漏れた。

 前述の通り神威とは神の威光。普段、下界の強者たちが纏うような威圧感とは次元が違う。

 絶対的な存在力の差とも言うべきそれは、最早魂をも握りつぶす呪詛に近い。

 カエルが蛇の前で凍り付く様に、蟻が巨龍を前にした様に。彼我の差も分からぬ程の存在としての大きさの違いにただただ心がへし折られるのだ。

 それを前にしてどうして目の前の男は立っていられる。あまつさえ、薄笑いを浮かべ、この程度か、と侮蔑できるのか。

 理由は一つだ。

 この男は意志の力などではどうしようもない絶対的な現実、それを他ならぬ意志の力でねじ伏せたのだ。

 パクパクと言葉を失ったカーリーを愉快そうに見上げながらも男は嘲笑う。

 

「どうしたんじゃ? 何も言わぬのか? 人間一人に断られたぐらいで」

 

「……むっ!? ああ、すまぬすまぬ。流石に予想外だったんでな、自失してしまったわい」

 

 あからさまにこちらを見下した態度をとる男の姿にカーリーは臍を噛む。神たる自分が人間に見事にしてやられたことに、そして何よりも目の前の男を諦めるしかないという事に。

 

「ヒヒヒッ! 口惜しいのう。どうしても手に入れたいのに、手に入らず。そしてだからこそ、それが欲しくて欲しくて堪らんというのは」

 

「世の中なんぞ、そんな物じゃわい……さて、見世物もこれで全部お終いかのう。だとしたら儂は帰らせてもらうわい。全く、ここならば存分に死会うことができるかと思ったがとんだ無駄足じゃったわい」

 

「ハッハッハッ!! お主、妾が言うことではないが少しは礼儀という物を弁えるべきじゃぞ?」

 

 いきなりやって来て国中を滅茶苦茶にしておきながらのこの物言いにカーリーも呆れ半分に苦笑し、閲覧席からここまでの男の道程である城下町を見やる。

 街には死屍累々とばかりにアマゾネスの戦士が転がっており、建物の破壊や切断も目立つ。事情を知らなければ戦争の後か魔物の襲撃でもあったのかと見まがうばかりだ。

 これは後始末に苦労しそうだ、とカーリーが考えている内に男はスタスタと歩き出していた。

 全く、どこまでも勝手な男だとカーリーは呆れ、そこでふと思い浮かんだ。

 

「おお! そうじゃ、そうじゃ。戦士よ、お主に一つ聞きたいんじゃが!」

 

「……」

 

 しかし、男は無言。完全にカーリーのことなど眼中にないのだろう。

 流石のカーリーもこれにはカチンときた。

 

「おーい!! 妾が聞いとるんじゃ、こっちを見ぬか! これだけ、暴れてくれたんじゃ。お代のかわりに質問の一つでも答えるぐらいかまわんじゃろうが!」

 

「……なんじゃい?」

 

 心底、面倒くさそうに男は振り向いた。この男にも一応は神への敬意があったのだろうか。いきなり襲い掛かって来るなんてことはなく、無礼極まりないもののカーリーの質問に答える様子ではあった。

 

「フン! 本当に傲慢極まりない男じゃわい。それ程の強さが無ければ極刑に処す所じゃ。まあ、よいわ。お主に聞きたい事というのはの、理由、じゃ」

 

「理由、じゃと……?」

 

 女神の言葉に男は訝し気に問いかける。

 

「うむ、理由じゃ。お主は強い。誰よりも、じゃ。じゃからこそ、聞いてみたいのじゃよ、一体、どうしてそこまでの強さを身に着けようと思ったのかをな」

 

「何じゃ、どうすればそこまで強くなれるのか、なんてつまらんことを聞くかと思とったが、随分変わったことを聞くんじゃな?」

 

「強さの秘訣か……確かにそれも興味があるがの、そんなもん詰まる所は研鑽を積む以外ありえんわい」

 

 カーリーは自分に傅く眷属たちに目を向ける。傷だらけの敗者の彼女たちに向けるその目には隠しようのない失望が浮かんでいた。

 

「結果には必ず、原因がある。人が強さを極めんとするにはそれ相応の理由が必要じゃ。妾はそれを最強の戦士になるという目標以外の全てを切り捨てさせることで成し遂げようとしたんじゃが……まあ、結果は見ての通りじゃ」

 

「なるほどのう……儂の原動力の正体を知ればこやつ等も少しはマシになるかと思ったという訳じゃな」

 

 うむ、と頷くカーリーに男は一瞬考えこんだ後に一言で言い切った。

 

「手ぬるい」

 

「なに?」

 

 カーリーは聞き返した。

 

「お主の目標は手ぬる過ぎると言ったんじゃ。最強の戦士じゃと? そんなもん結局は人間という枠組みも超えられぬ、敗北者ではないかのう」

 

「待て、お主は何を言っとるんじゃ?」

 

 言っている言葉が分からなかった。いや、意味は分かる。この男は人間の枠に収まることなく、その限界を超えろと言ってるのだろう。しかし、超えられないからこそ限界は限界なのだ。それを成せる人間がいるとするならば、それはもう人ではなく——

 

「ワシの目標、それは人の領域を超え、神の領域へと達すること」

 

「なに——?」

 

 あり得ぬ言葉に今度こそカーリーの思考は止まった。

 今、この男は何と言った——? 神に至るだと——?

 何という傲岸だろうか。何たる不遜だろうか。

 そんなことは不可能だ。人間如きが身の程を知れ。

 カーリーの常識が、神としての矜持がその内側で大声を上げていきり立つ。

 だというのに、その口から飛び出たのは全く異なる、歓喜の狂笑だった。

 

「クククッ……! イヒヒッ!! ハーハッハッハッ!!」

 

 神の玩具にしか過ぎなかった者たちが自分たちに反旗を振りかざすという光景を想像しカーリーは腹を抱えて笑い転げた。

 それは何と屈辱的な光景だろうか! そして、なんという甘美な光景だろうか——!

 

「……汝こそが真の戦士」

 

 大瀑布の如きカーリーの爆笑だけが響く闘技場に、雨だれの一滴の様な一人の呟きが聞こえた。

 それはテルスキュラにおいて偉大な戦士を讃える祝詞である。

 戦士の偉業を讃え、そしてまたいつか自分もと己を鼓舞する祝福であり、挑戦の言葉。

 降り始めの小雨の様なそれはやがて呼び水となり、さざめきとなって周囲へと伝播する。気が付けばカーリー自身も喉を枯らしながら、笑いながら、大合唱をしていた。

 そして遂には闘技場を、城を、そして遂には国をも揺るがす大合唱となる。

 

「汝こそが真の戦士! 汝こそが真の戦士! 汝こそが真の戦士!」

 

「……フン」

 

 男は自分を讃える言葉を背に受けながら歩き出していく。

 そんな男をカーリーたちはいつまでもいつまでも、男の姿が見えなくなっても讃え続けるであった。

 

 

 

 

 

「ん——朝、か」

 

 窓から差し込む朝日にカーリーは目を覚ました。苛む頭痛に顔を顰めながらも慣れた手つきでポーションを棚から取り出し呷る。

 一息をつくとすぐに効力を発揮し嘘のように頭痛が治まる。

 この一連の流れも最早何度繰り返したか分からない程に慣れ親しんだものだ。つまりは、それだけの年月が経っているというわけだが。

 

「——はあ」

 

 再びため息をつき。何とはなしに窓から外界を除く。

 既に日は登り始めており、街には多くの人間たちがそれぞれの日常を始めていた。

 きっと皆、新しい一日の始まりに心を躍らせているのだろう。あの日から時間が止まったままの自分を置いて。

 あの日を境にカーリーは変わった。あれ程までに戦いと流血を楽しんでいたのにぱったりとその様な催しを楽しめなくなったのだ。

 無論、博愛精神に目覚めたという事ではない。理由は明白、自分の理想像、真の戦士を目の当たりにしまったからだ。

 一度でも完璧なる戦士を目にした女神には今更まがい物の戦士の闘争を見た所で何の感慨も抱けなくなってしまったのだ。

 その事実に気づいたカーリーの行動は早かった。眷属たちを集めると、人や物、情報そして何よりもあの男が求めるであろう強者が豊かなオラリオへと拠点を移し、男の情報を集め続けてきたのだ。

 しかしながら、成果は未だにゼロ。恩恵を受けずに上級冒険者をも屠り、神威をも撥ね退ける人間の話なぞ影も形も無く、聞いた者は皆一様に鼻で笑い飛ばす。

 最近ではファミリア内でも諦めてオラリオの冒険者としての人生を謳歌している者が現れる始末だ。

 月日が経つにつれてあの日の記憶も刻一刻と色あせ、あの出会いは白昼夢か何かだったのではないかとの疑問が鎌首をもたげ始める。

 

「だが、妾は諦めぬぞ……!」

 

 ぎしりと、握りしめる窓枠が軋む。妄執と焦燥に瞳を燃やす。

 その瞳は眼下の下界ではなく、この地にいるであろう男に向けられている。

 あの男を今更手に入れようなどとは考えていない。手に入れられる様な戦力など無いし、そもそもあの男は神の下につかせるのではなく、そこから解き放つことで輝く存在だ。

 おそらくは、この地上で最も強者が集まるこのオラリオで今も人間の枠を飛び越えんとしているのだろう。

 見てみたいと、カーリーは切に願った。

 人類最強の力を手に入れて尚、足りぬとほざく男がどこまで至るのか。

 有り余る力と無謀極まりない野望が合わさった時、いかなる事象が引き起こされるのか。

 全知全能たる神で以てしても未知なる存在、人間の可能性。その究極の行く末に誰よりも戦士を尊ぶこの神は高揚し、高ぶってしまうのだ。

 

「カーリー様。お食事の用意が出来ました。食堂へお越しください」

 

「うむ。少し待っておれ、今準備をするのでな。それから、食事が終わった後で今日の指示を出すぞ。今日こそはあやつめの尻尾を掴むからな」

 

 だからこそ、今日も彼女はあの男の行方を捜しつつもオラリオ有数のファミリアの主神として、その職務に励む。

 いつか、自身のファミリアを大きく、そして強大にし、最強に至った時あの男は必ずや姿を現すであろうから。

 その時が来た時のことを想像し、カーリーは笑みを浮かべながらあの日の思い出に浸る為の自室を出ていくのであった。

 

 

 

 







 というわけで閑話も終わり、1巻の内容も終わりました。
 次回からはオラトリア2巻の内容に移ります。外伝はあまり出番のなかったベル君も積極的に関わって来ると思われますので楽しみにしていただけたら幸いです。
 それでは皆様のちょっとした楽しみになれたことを祈って筆を置かせてもらいます。





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