やはり俺の女性関係は色々とまちがっている。 (四季妄)
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始まってほしくない物語
『……なにそれ、全っ然ウケないんだけど』
人は必ず過ちを犯す。何故なら、人は完璧ではないからだ。
『結局、あなたはそうやって逃げ続けるのね』
だから、人よりもずっと欠けている俺は、必要以上の過ちを犯し続けたのだろう。
『どうして、そうなるのかなぁ』
間違いを、犯す。
『なん、ですかそれ。ふざけないで下さい』
間違って、間違って、間違って。
『面白いねぇ、君は。まぁ、それとこれとは別だけど』
間違い続けて、辿り着いた場所には。
『お兄ちゃんのそういうとこ、嫌い』
一人で傷付いて、全部背負ったつもりになって、格好悪くも取りこぼした馬鹿が一人だ。なんとも醜くて、なんとも救いようのない。だけど、でも。
「……それでも、俺は」
良かったと、心のどこかで思っている。思ってしまっている。あれだけ派手に
「お前らに、苦しんで欲しくなかった」
誰も信じたことのない自分が、誰かのために動ける筈など無かったのだ。故に、それが褒められた行為でないと分かっておきながら実行する。
「俺の居ない所で笑えるなら、それで良かった」
本気で、そう思っていた。
『俺とお前じゃ、つり合わないだろ』
間違えて。
『元々、そんな仲が良い訳でも無かったしな』
間違えて、間違えて。
『無理に付き合う必要ねぇよ。むしろ一人の方が楽だ』
間違えて、間違えて、間違い続けて。
『むしろここまで続いたこと自体がおかしいんだよ』
ぼろぼろに傷付いた心と体を、誰にも見えないように必死に隠して。
『それだけですか? じゃ、俺はこれで』
そうして、俺は。
『悪いな。……これしか、知らねぇんだよ』
◇◆◇
「なぁ、比企谷。私が授業で出した課題を覚えているか?」
「たしか、『高校生活を振り返って』というテーマの作文だったと思いますが」
「あぁ、そうだな。そうだったな。で――」
もみもみと、眼前に座る国語教師の平塚静は眉間をつまみながらギロリと睨んで来た。やだ怖い。
「どうしてそれが一人である事の良さを証明する作文になるんだ……」
頭が痛い、とでも言うように次はこめかみへと手を持っていく。はぁ、と漏れ出たため息が冗談じゃないくらい重そうに見えた。誰が先生をこんな風に追いやったんだ。年齢か。いや、俺か。
「いや、基本俺の高校生活はぼっちであることから始まり、ぼっちであることに終わるので」
「まだ終わってないだろう……」
「明確な未来のビジョンがあるって素晴らしい事じゃないですかね」
「はぁ……」
気持ち平塚先生のテンションが一段階、いや二段階くらい下がった気がするが、何もそこまで負のオーラを撒き散らさなくてもとぼんやり考える。自分としてはかなり出来の良い作文だと思うのだが。
「こういう場合、普通は普段の自分の生活を省みるものなんだが」
「省みたところでぼっちに変わりありませんよ」
「君は……いや、もういい。とにかく、この作文は駄目だ。それに、読んでいると、こう、なんとも言えない気分になった」
「あぁ、平塚先生たしか独身で――」
ぞっと、寒気が背筋を這い上がった。見れば平塚先生が目力だけで人を殺せそうな程に睨んでいる。気のせいか殺気を伴った風も吹いているような。おかしい、ここは室内でそう強い風は通らない筈なんだが。
「ははは、すまないな比企谷。少しぼうっとしていた。――何か言ったか?」
「いえ何でもないですすいません書き直してきます」
反省と謝罪の意を込めたそれを一息で言い切る。とにかく早く言わなければ死ぬという直感が働いていたように思う。なんなの、最近の教師って生徒に殺気とかぶつけてくるの。というか殺気を放てる教師ってなんだよ。
「よろしい。……ところで君は、部活か何かをやっていたか?」
「いえ、特にそういうのはやってませんけど」
「友達は……いないよな」
作文をちらりと見ながらそう言われる。
「ええ、まぁ、自慢ではないですが」
「本当に自慢じゃないぞ。……彼女は、いるのか?」
彼女、ねぇ
――あは、なにそれ、ウケるっ。
「……いませんよ、そんなもの」
「ほう? そんなもの、ね。君のような年代の男子は、少なからずそんなものに憧れると思うのだが」
「彼女とか、恋人とか、居ても良い事無いので」
本当、良い事なんて一つもない。友達も同様。と、自分の中で再度結論を出して納得していれば、ビキリと何か嫌な音が聞こえた。
「それは、私が独り身だと知っての言葉か?」
あ、やべ、地雷踏んだ。
「い、いえ、そっ、そのようなことはないです、いや本当平塚先生なら彼氏の一人や二人くらい――」
「出来ないから嘆いているんだろうがァッ!!」
がづん、と机に思い切り拳が叩きつけられた。やべぇ、ちょっと凹んでるよ。あれを人体にやられたら間違いなく殺られる。
「ちょ、ひ、平塚先生、お、落ち着いて」
「……すまない。少し、あぁ、少し取り乱した。そうだな、比企谷。君のせいだ」
「えー……あ、いや、すいません」
あれこそが野獣の眼光というやつだろうか。
「少し、ついてきたまえ。部活に入っていないならちょうど良い。君に良い部活を紹介してやろう」
「いえ、遠慮しておきます。面倒ですし」
「君の心無い言葉により私は大いに傷付いた。その罰だ」
「……言っときますけど、俺、集団行動とか出来ないんで」
「そんなものアレを読めば分かる」
人の作文をアレ呼ばわりとは。結構頑張って書いたのだからもっと高評価を貰っても良いだろう。なんて下らないことを考えながら、すたすたと歩いていく平塚先生の後を追う。後ろ姿から漂う孤高の
◇◆◇
「着いたぞ」
そう言って平塚先生が立ち止まったのは、特別棟なのに特に変わった様子もない教室だった。設置されてあるプレートを見てみれば真っ白で、何も書かれていない。不思議に思ってぼんやり佇んでいれば、先生はからりと戸を開けて中に入っていく。ちらりと覗き込んでみれば、椅子や机が置物のように積み込まれている。
「平塚先生。入るときにはノックを、とお願いしていた筈ですが」
瞬間、心臓が止まったかと錯覚するほどの衝撃を受けた。声を、その声を聞いたから、聞いてしまったからだろう。ずきりと、隠していた傷が開き始める。やめろ、勘違いだ、聞き間違いだ、何故、どうして、だって、そうだ、彼女が――こんなところにいる、わけ。
「ノックしても君は返事をした試しがないじゃないか」
「返事をする間もなく、先生が入ってくるんですよ」
懐かしい、と感じる。少しの冷たさと温かさの混じった声音は、その主が先生に対してそこまで悪い印象を抱いていないことを伝えてくる。嫌な気分だ。それだけで読み取れてしまう自分に、とても嫌気がさす。最早半ば、確信しているようなものだった。
「それで、今日はどのような用で?」
「あぁ、入部希望者だ。おい、何をして――」
「っ」
逃げた。いや、無理だろ常識的に考えて。初対面ならまだマシだった。というよりも初対面の方が良かった。初対面の誰かなら嫌々ながらも顔を合わせること
「どこに行くというのだね?」
「ぐげっ」
後ろ襟を思いっきり引っ張られて首が締まり、潰れたカエルのような声が上がる。おい、やめろよ。昔ヒキガエルとか呼ばれてた
「い、いや、無理です。先生、すいません。す、少し急に腹痛が襲ってきまして」
「何をそんなに……君は、雪ノ下を知っているのか」
――知っているなんてもんじゃない。とは口が滑っても言えないが。
「そ、そりゃあ、有名人ですし」
「意外だな。君はそういうのに興味を示さないとおもっていたが。……とにかく、それなら話が早い。彼女が君の入る部活の部長だ」
「それは勘弁していただけませんかね……?」
ふむ、と平塚先生は手を顎に当て、ちらりとこちらを見てくる。どうやら俺の必死の様子に何かを感じ取ってくれたようだ。頼む、お願いします、ゴッド平塚。
「何か君にとって問題があるのか?」
「いえ、問題というか、気まずいというか」
「なんだ、そんなのはぼっちの君にとって慣れたようなもんだろう。往生際が悪い」
「ちょ、あの、確かにそうですけど違ッ」
ずるずると引き摺られて元の場所までリターンし、教室の中へと無理矢理放り込まれる。ちょっと、これ体罰じゃありませんか。なんて言えるような雰囲気ではない。ちらりと
「彼が入部希望者の比企谷だ。こいつの捻くれた孤独体質を更生してやってほしい。私からの依頼だ」
先生、知ってますか。その捻くれた孤独体質の基盤に少なからず関わっている人間が目の前にいるんですよ。それを頼むのはちょっと違いますよ。
「……そうですか。先生からの依頼でしたら、仕方がありません。承りました」
「そうか、なら、後のことは頼む」
そう言うや否や、平塚先生はさっさと教室を後にして帰っていった。ぽつりと取り残される俺。そうすると自然、沈黙が訪れる訳であって。二年J組、国際教養科というエリートクラスに所属し、学年トップの成績と学校一とまで言われる容姿を携えた美少女、雪ノ下雪乃。正直、彼女とここで過ごすのは、まずい。主に俺の精神的に。
「……そんなところに突っ立ってないで座ったら?」
「あ、あぁ」
俺の、精神的に。
何かと因縁のあるヒロインっていいよね、という気持ちから生まれた作品です。
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捻くれた彼と拗れた関係
「……えっと、だな」
椅子に座ってからしばらくして、そう切り出した。ぴくりと反応した彼女は、読み止しの本に栞を挟んでぱたりと閉じる。次いでキッと、冷たく鋭い視線がこちらを射抜く。初見なら確実にビビってるくらいには怖い。というか見慣れていても未だに怖いんだが。
「なにかしら」
「その……悪い。俺から言っておくから」
「なにを?」
「なにって……部活、入らない方が良いだろ」
とん、と硬い床を靴で叩く音が響く。
「そうね、その方がお互いのためでしょうね」
「あぁ、だから平塚先生に――」
「けれど私は依頼を受けているのよ、逃げ谷くん」
とんとん、と連続して床が叩かれる。珍しい、あの雪ノ下雪乃が貧乏ゆすりをしている。彼女自身貧乏とは無縁の大金持ちな家庭環境だというのに。というか、このやり取りも久々か。いや、そんなことは今どうでもよくてだな。
「あなたをここで野放しにするのは、私のポリシーに反するわ」
「でもだな、俺はそんな更生する気も無ければ、必要なんて」
「本当にそう思っているのかしら?」
雪ノ下の語気が少し荒くなる。
「あなたの
「そんなのは自分が一番よく分かってる。今さら、直せないことだって」
「いいえ、直せないのではなく、直そうとしていない、直す気がないのよ、あなたは」
「そんなこと……」
「無いと言い切れるの? 現にあなたは、同じ過ちを何度犯したのかしら」
数えるまでもなく、何度もだ。これまでも、そして下手すればこれからも。だから俺は、そうならないようにしているのだ。人と深く関わっていいことなど無い。何事も適度が一番で、俺にとってその適度が少し薄かっただけである。
「……仕方が無いだろ。俺は、それ以外の方法を知らなかった」
「それも間違いよ。知らないのではなく、知ろうとしなかった。それが一番だと疑わなかったのでしょう」
「ああ、だから俺は」
「人のことも考えずに自分の考えを押し付けて、
しん、と前よりも嫌な静かさが教室を包む。続々と掘り起こされる記憶が、雪ノ下雪乃はこういう少女だったと肯定していく。別れを告げるその瞬間まで、彼女は一切変わらなかった。芯の強いやつだ。その分、一部に関しては酷く脆いのも知っている。
「あなたの行動は無駄ではなかった。けれども、決して正しくはない」
「正しくなくても、間違っていても、それが結果を出したんなら、それで良いだろ」
「――あなたはやっぱり、何も分かっていないじゃない」
ぼそりとそう呟いて、雪ノ下が唐突に立ち上がってズカズカと歩いてくる。顔が整っているだけに妙な迫力があって、思わず椅子ごと少し後退る。伸ばされた右手が逃がさないとでも言うように胸ぐらを掴み――っておい、ちょっと、近い。近いんだけど、あの、雪ノ下さん?
「私は、あなたの――」
「雪ノ下。邪魔するぞ」
ガラリと神がかり的なタイミングで扉を開け入ってきたのは、先ほど俺をこの教室へ連れてきた平塚先生だった。雪ノ下は口と動きを止めてくるりと振り向き、若干不機嫌そうな声音で一言。
「……先生、ノックを」
「悪い悪い。まぁ、気にせず続けてくれ。気になって様子を見に来ただけだ。にしても……」
じっと観察するように見て、ふむと頷く。
「君たちは随分と仲が良いようだな」
どこをどう見たらそう見えるんですか。俺、現在絶賛雪ノ下に胸ぐら掴まれて詰め寄られてるんですけど。男同士だったら完全に喧嘩だよ? 大して強くも無いからボコボコにされること確定ですね。
「いえ、今はそんなに仲良くありません」
「今は、ということは昔は仲が良かったのか?」
「訂正します。今も昔も、そんなに仲良くありませんでした」
「……あー、そうか」
ちら、と向けられる視線。どこか憐れみが込められているようなそれを受け止めながら、ちゃっかりと目を逸らしておく。
「比企谷、君は一体何をやらかしたんだ」
「いえ、別に、特に何も」
「へぇ。特に? 何も? 取るに足らぬ事だと? あなたはそう言うのね」
「いや、あの、だからな……」
えっと、なんだ、この板挟み的な状況。明らかに俺が経験するようなものじゃないんだが。そもそもぼっちの俺がこうして色んな人と話している今日が間違っている。普通じゃない。どうしてこうなった。
「そうだったわね。仲が良くないと、そう言ったのも」
「お、おい、雪ノ下。ちょっと待て、落ち着け」
「本当に、人の気も知らないで……っ!」
「……二人とも、特に雪ノ下、落ち着きたまえ」
平塚先生が止めに入る。雪ノ下はというと……どうも、まだ止まらないらしい。
「いつもいつも逃げてばかり。そろそろ変わるべきでしょう」
「変わるのも逃げることじゃないのか? 本当に逃げないなら、そこで踏ん張るんだろ」
「……そんなやり方で、本当に誰かを救えたと思っているの。私はそう思わない」
「少なくとも、マシな状況にはできた筈だ」
「何がマシなのかしら。あの時よりも、今の、何がマシだと、あなたは言っているのかしら」
「そんなの――」
「落ち着けと言っただろう。雪ノ下、比企谷」
パンパン、と大きく手を叩く音が室内に鳴り響いて、同時に口を噤んだ。それをした平塚先生は呆れたように息を吐きながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「君たちは本当に。何があったのか知らないが、このままでは埒が明かない。そうだな、こうしよう」
平塚先生は良いことを思い付いた、という風に指を立てて。
「勝負だ、勝負をしよう。雪ノ下が卒業までに比企谷を更生させることが出来れば雪ノ下の勝利。逆に卒業まで比企谷が捻くれたままであれば比企谷の勝利だ」
「いや、何言ってるんですか……」
言ったところで聞いちゃいない。平塚先生は楽しそうに、それもう実に楽しそうに笑いながら宣言する。おいこの人絶対楽しんでるんだけど。確かにそういうの好きそうだなとか思ってたけど。
「あぁ、後はお互いが全力を尽くすためにも報酬が必要だな。ふむ……勝った方が負けた方に一つだけ『なんでも』命令をできる、というのはどうだ?」
「なんでも?」
静かに反応したのは雪ノ下だ。目を細めて考え込む様子に僅かな危機感を覚える。いや、俺別にそういうの興味無いんで、本当、マジで。だから勝負とかそういうのは却下で、棄権で、未出場で。……いや、待てよ。なんでもというのは、かなり使える範囲が広いのでは……。
「……いいでしょう。その話、乗りました」
「そうか、雪ノ下はやる、と。比企谷はどうする?」
まさかやらないわけないよなぁ、という声が聞こえてきそうな顔で問いかけてくる平塚先生。
「……やりますよ。どうせ、そう答えないと面倒くさそうですし」
「そうかそうか、いやぁ、物分りが良くて助かるな」
と、そこでいかにも合成音声っぽいメロディが流れ始める。たしか、完全下校時刻を告げるチャイムだった筈だ。そんな時間まで学校に残ったことが無いからよく知らないが。よし、と仕切るように平塚先生が言うと、くるりと踵を返す。
「今日はここまでだ。明日からそれぞれ、まぁ、適当に、適度に頑張りたまえ」
「分かりました」
「明日から、ね……」
なんというか、上手いことタイミングを外されたというか、そういう雰囲気では無かったというべきか。なあなあで結局入部してしまったわけだ。うん、俺って結構流されやすい人間だよな。ぼっちなのに。ぼっちなのに。大事なことなので二回言いました。
「それでは比企谷くん、また明日」
「…………おう」
いつの間にやら離れて帰る準備を整えていた雪ノ下は、それだけ言うとさっさと教室を去っていった。残された俺は一人肩を落とすのみ。なんだか今日は、酷く疲れた。ぶっちゃけ過去の割り切れてないそれをぐちゃぐちゃにかき混ぜられたのだ。
「……鍵、返しに行かないとな」
なんだかこれからの自分の高校生活に、酷く不安を覚えた。
◇◆◇
「じゃあね、また明日ー」
「うん、また明日ー」
「……ふぅ。んーっ、疲れたぁ……」
「あ、誰か帰って……は? いや、え?」
「……あ、れ? もし、かして」
「せん、ぱい?」
書き忘れていましたが基本不定期更新です。
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妹は兄のことが心配である
「ただいま」
ガチャリと自宅の扉を開けてそう言えば、奥から最愛の妹の声が帰ってくる。しばらくしてぱたぱたという足音が響き、ちょうど俺が玄関から上がる時になってその姿を見せた。特徴的なアホ毛、兄とは似ても似つかない綺麗な髪、これまた兄とは違って純粋な瞳。彼女こそ我が妹、比企谷小町である。……あれ、本当に兄妹なのか不安になってきた。
「遅かったねお兄ちゃん。なにしてたの?」
「あぁ。ちょっと……な」
詳しく話すと面倒くさい。それだけ言ってさっさと自分の部屋に行こうとしたのだが、不意に袖をぐんと引っ張られる。犯人はヤス、ではなく小町。ぐるっと顔だけを向けてじとっと睨んだ。
「なんだよ……」
「お兄ちゃん、ステイ」
「俺は犬か」
「いいから、ほら、こっち向いて!」
はーやーくーと急かす小町にぼりぼりと頭をかきながら、仕方なく折れて体を向ける。一体なんだというのか。一応最低限の身嗜みとかは……うん、まあ、整えていないこともないこともないかもしれないので、多分恐らく大丈夫だとは思うんだが。あやふやすぎてやべぇな。俺の将来の夢くらいあやふやだ。
「すんすん」
なんてことを考えていたら、いつの間にか密着した小町が胸のあたりの匂いを嗅いでいる。なに、お兄ちゃんそんなに臭かったの? ちゃんと毎日体洗ってお風呂入ってるよ? 今日は体育も無かったし汗臭い訳でも無いだろうし。
「おい、なにやってんだ」
「……女の匂いがするよ、お兄ちゃん」
「お前は俺の嫁か」
てかなんで分かんだよ、怖えよ。そこ確かちょうど雪ノ下が掴んだ辺りだぞ。将来小町と付き合う野郎は浮気できないな。いやまぁそんな野郎にうちの可愛い妹はやらんが。
「そういうのいいから。で、どういうこと?」
「……だから、なんだよ」
「とぼけないでよお兄ちゃん」
ずいっと詰め寄ってくる小町に、一歩足を引いてしまう。真っ直ぐにこちらを見詰める目には、濁った瞳を当社比三割増しで濁らせた己の顔が映っている。まぁ、この状況の殆どが俺の自業自得だからなぁ……。
「少し、懐かしい奴と会っただけだ」
「……もしかして、またなの?」
「小町……って」
予想外に真面目な声音で言われて驚けば、しかし小町はニヤニヤと笑いを堪えきれていない。雰囲気の割に口元がゆるっゆるである。ちなみに小町は頭の方も若干ゆるめなようで、そこら辺きちんと受験勉強しましょうね!
「なんで笑ってんだ」
「ふ、いや、ごめん。でも、ふふ、そっかぁ。またかぁ」
にこにこにこぱーっと満面の笑みを振りまきながら小町はとててっと距離をとる。今にも鼻歌でも始めそうなくらい上機嫌な様子に、こちらとしては只々困惑するばかりだ。いきなりの妹の奇行にお兄ちゃん付いていけない。
「お兄ちゃん、まだ諦めてないんだ」
「――」
本当に嬉しそうに、そう小町は言った。悪意も同情もなく、単純に嬉しくて幸せだからという風に。いつもなら微笑ましいはずの光景は、けれどもこの時ばかりは違っていた。突き刺さる。真っ直ぐなその想いが、酷く歪んだ自分に突き刺さって、抉っていく。
「……は、そんな訳ないだろ」
「え?」
「言ったろ。懐かしい奴と会っただけだ。――そういうんじゃねえよ」
「お兄、ちゃん……」
俯く小町の横を通り抜けて階段へ向かう。なんだか無性にベッドへ飛び込みたい。あぁ、そうだ、今日は色んなことがあって疲れたんだ。一晩じっくり寝て休めば、明日にはいつも通りの
「悪い、小町。ちょっと今日は食欲がない。飯はいいから」
「……うん、分かった。ごめん」
「なんでお前が謝るんだよ。……悪いのは、俺だ」
そうだ、いつも悪いのは、間違っているのは俺の方なんだから。
「……お兄ちゃん。小町、信じてるから」
◇◆◇
始まりは本当に、小さなことだった。取るに足らぬくらいに些細なことが、大きくなる要素もないほどに小さかった筈のものが、おかしくも膨れ上がったのだ。
『ん? あ、えーっと、たしか……ヒキガヤ、だっけ?』
『……え? あ、あぁ、うん』
『ぷふっ、なにその反応』
どこで狂っていたのか、どこから正史と違っていたのか。そもそも正史があるのならどうだったのか。そんなこと俺には分からないけれど。
『おいーっす、比企谷』
『あ、お、おぉ。うっす』
『ちょ、吃りすぎでしょー、比企谷マジやばい』
多分、彼女に想いを寄せてしまったのだけは、変わらないのだろう。
『比企谷ー? 次移動教室だけどー?』
『あ、あぁ、おう』
大した切っ掛けも運命的な出来事もなく、平凡な日常の中でふと湧いて出たそれを、最初は非常に持て余していた。近付けば動悸が激しくなる、声を聞けば体が熱を持つ、言葉を交わせば口が上手く回らない。尤も、人と話し慣れていなかったのが一番の理由かもしれないが。
『比企谷っていつも一人じゃない? なんで?』
『あ、それは、なん、つーか。……一人の方が、楽というか』
『へー、それ超つまんなくない?』
『いや、別に……』
人間何事も慣れてしまえば大丈夫だという。その時の俺としては、そんなに早く慣れる訳ねぇだろお前の頭が大丈夫かなんて気持ちだった。
『え? なに? 比企谷の家ってこっち?』
『まぁ、そう、だけど』
『なにそれ、ウケる』
『……いや、ウケねーから』
『ふーん。なんだ、ちゃんと喋れるじゃん』
『へ? ……あ』
ついいつもの癖というか、その時も少なからず存在していた捻くれた考えがふと出たというか、そんな感じの一言が引き金だったと思う。結果、俺は彼女とそれなりの会話が出来るようになった。
『でさー……って聞いてる? 比企谷』
『あぁ、聞いてる聞いてる』
『うっわ、それ絶対聞いてない奴の言葉でしょ』
『いや聞いてるから。大丈夫だから』
気持ち悪さは、まぁ、自分なりに頑張ったと思いたい。
『比企谷のくせに車道側歩くとか、やばい』
『……妹がいるからな。なんつうか、当たり前になってるんだよ』
『なにそれ、ちょっと似合わないんだけど』
『うるせぇ……』
ただ、一度抱いたそれだけが手放せなくて、ずっと内側から圧迫していた。だから。
『へ? 好きって……それ、マジ?』
馬鹿なことを、した。
『比企谷が? 私と? うーん……』
本当に、本当に。
『……ん。まぁ、そこまで悪い奴じゃないけど』
本当に、本当に、本当に、思い返せば思い返すほど。
『比企谷、かぁ。……うん。ぷっ、く、ふふ、あ、あははっ……』
酷く、酷く。
『――良いよ、比企谷』
馬鹿なことをしたのだ。
◇◆◇
「……暗っ」
ほんと、今の心境くらいに部屋の中は暗かった。いつの間にか寝てしまっていたようで、寝汗の滲んだ下着と制服が気持ち悪い。がさごそと探って取り出した携帯の画面に、ちょうど九時半頃と表示される。いやそんな捻くれた表示実際にはされてないけどね?
「小町に飯いらないって言ったのは、ある意味正解だったな……」
駄菓子菓子もといだがしかし、腹はすっかりと減っているようで食べ物を寄越せと汚い悲鳴を上げる。本人がこんなんだというのに、体はなんと正直で素直なことか。ぐいっと起き上がって体を伸ばし、適当な服に着替えてから財布を片手に部屋を出た。
「……あ、お兄ちゃん」
「……おう。ちょっと、飯買ってくる」
「簡単なものなら作れるよ?」
「いや、いい。お前にばっかり負担かけさせる訳にも」
「別にそんな負担じゃないけど」
「……いいから。中学生は早く寝なさい」
「またそんなこと言う……」
たったったーんと階段を降りて玄関へ向かう。近くのコンビニにでも行けば弁当とまではいかなくてもパンか何かは置いてあるだろう。靴を突っ掛けてドアへと手をかければ、後ろからぽつりと声がかけられた。
「いってらっしゃい」
「……あぁ、いってきます」
最近、お兄ちゃんとして色々と自信を無くしそうになってるどうも俺です。
◇◆◇
「あざっしたー」
店員の絶妙にやる気のなさそうな台詞を聞きながらコンビニを出る。本当にパンしか無かったので腹を満たせるのか不安だが、まぁ何も食べないよりかはマシだろう。さっさと帰ってMAXコーヒー片手に味わいたい。たまにはこんな夕食も悪くないな。うわっ、私の食生活、酷すぎ……? なんて考えて余所見をしていたのがいけなかった。どん、と不意に体へ衝撃が来る。
「あたっ、あ、す、すみません」
「あ、いや、別に。こちらこそすいません」
実際不注意だった俺が悪い。人とぶつかるなんて、ぼっちとしてあるまじき不覚だ。ぺこぺこと頭を下げて直ぐその場を去ろうと思ったが、おかしい。足が地面にくっ付いたように動かない。声に聞き覚えがあったから? それとも、見た目がそう変わっていなかったからか?
「え……」
あぁ、改めて、今日は厄日だと認識した。
「……久しぶり、だな」
自然とそんなことを言っていた。一体どの口がそんなことを言えるものかと思いながら。
「――折本」
「比企、谷……」
俺は、中学時代の……
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同じく違って落ち着かない
いつか彼女に言われたことがある。
『ねー、比企谷、なんで名前呼ばないわけ?』
『……は? いや、お前もだろ』
『だって比企谷が呼ばないし。一応さ、うちら、恋人なわけじゃん?』
『あー……まぁ、な』
その時の俺はたしか、下らん理由でそれを突っ撥ねた。
『いや、なんつうか、恥ずかしいだろ』
『ヘタレてるし、ウケる』
『なんでだよ。ウケねーから』
『私は別に良いんだけどなー?』
ちらちらと視線を向けながらそう言う彼女に俺は苦笑して、恥ずかしさを誤魔化すために顔を背けながらぼそりと呟く。
『……まぁ、なんだ。気が向いたらな』
『ん、期待してる』
にやっと笑ってそう返されると、余計恥ずかしくてがりがりと頭をかいた。こんなことをしていたなと、なんとなく思い返す。
『あ、昼休み終わった』
『……教室、戻るか』
『それあるー』
『適当だな……』
結局、最後まで彼女の名前は呼ばなかったけれど、結果的にそれで良かったのだろう。その事だけは、過去の自分を褒めてやりたかった。
◇◆◇
往々にして、気まずい人間関係というものは発生するものだ。例えば昔にちょっとやらかしていたり、変な関係を築いていたり、繋いだ関係を壊していたりと種類は様々である。つまり何が言いたいかといえば、俺と折本かおりの関係はそれらに当てはまっていた。
「ひ、久しぶり、だね。あはは……こんなとこで、何してんの?」
「お前の方こそ何してんだ。こんな夜遅く」
「えっと、なんていうか、小腹が空いて、買い物的な? うん、そんな感じ」
「……あぁ、そう」
いやほんと気まず過ぎて思わずダッシュで家に帰りそうになるレベル。てかなんでこの子はこんな時間帯に一人でコンビニまで歩いて来てるの? 危機感とかそういうものが皆無なの? 最近の女子高生って大体こんな感じなの? だったら怖いわ。
「……家、確かあっちだったか」
「え、あ、うん」
くっと顎で方向をさしながら問えば、途切れ途切れに肯定が返ってくる。実に彼女らしくない態度だが、まぁ十中八九俺のせいなので何も言えない。言うべきではないだろう。というか、会うこと自体が避けるべきなんだがな。疲れ過ぎてそこら辺の警戒心まで抜け落ちていたのか、反省だ。
「買い物」
「へ?」
「いや、帰り道とか、一人だと物騒だろ。終わるまで、待ってる、けど」
「……えっ、と。うん、じゃあ、その……お願い」
「……お、おう」
正直断られる前提で言ってみただけなんだが、驚くことに折本は頷いた。そんな俺の様子に何を思ったのか、不意に彼女がじっとこちらを見てくる。じとっと変な汗が吹き出る懐かしくも少し違った感覚に嫌悪感を覚えながら、少し目を細めて口を開く。
「……なんだ」
「あ、いや、ごめん。あ、あはは……す、直ぐ戻ってくるから」
「あぁ、いや、別に……」
そこまで急がなくても、と言い切る前に折本はコンビニへ入っていった。女性の買い物は長いということはよく聞くし、実際にそうなのも知っているが、今回の場合はどうなのだろう。スタスタと落ち着かないように歩いている姿を横目に、ふと空を見上げた。
「……何がしたいんだろうな、俺は」
ぽつぽつと輝く星が、今は少しだけ羨ましかった。
◇◆◇
時折通る車の音だけが、響いては遠ざかっていく。完全に日の落ちた公園には不良が溜まっているなどのこともなく、不気味なくらいの静けさが漂っていた。俺と折本はそこのベンチへと、間にお互いのレジ袋を挟んで座っている。帰る途中にふと見かけて、少し話さないかと切り出したのは折本だった。
「……」
「……」
そうして現状、一言も発さない沈黙が続いている。普段はこういう空気に耐えられずあれこれ色々と考え込んでしまうのだが、どうやら考え込むことが大きすぎると逆に頭が働かないらしい。何分か、それとも何時間か、なんて表現は些か陳腐かもしれないが、実際そんな風に感じていた。
「……ひ、比企谷は、さ」
口火を切ったのは、折本だった。
「たしか、総武……だっけ」
「……あぁ、まぁ、な。折本は、海浜か」
「うん。まぁ、ね。……そっち、どう?」
「どうって……どうもなにも、俺は基本ぼっちだからな。よく分からん」
「何それ、ちょっと、ウケる」
言いながらくすりと笑って、若干空気が軽くなる。半ば彼女の口癖みたいなものであるそれを聞いて、やはり彼女は折本かおりなのだと今更ながら実感した。似合わない空気というのは、人の印象を酷く変えるものだ。
「……彼女とか、できた?」
「――いや、いない。つーか、作る気がねぇな」
「……そっ、か」
小さく零した声に、とても複雑な感情が込められていたように思う。まるで安堵するような、けれどもどこか寂しそうなようでもあった。そんなもの、本人である折本以外には分かる訳がないというのに。馬鹿か、俺は。……いいや、馬鹿だったな、俺は。
「折本の方は、どうなんだ」
「……それ、比企谷が聞くんだ」
「……だな。悪い、忘れてくれ」
今日はよく口が滑る。油物はそんなに食ってない筈なんだが、明らかな不具合なので早く修正して欲しい。と、思考へと意識が向きかけたところで、ぽつりと。
「そんなの、いないに決まってるじゃん」
「――」
彼女の言葉に、俺はどんな反応を返せば良いのだろう。
「……あ、あぁ、そう、なのか」
「そう。……意外、とか?」
「まぁ、意外っつーか、なんつーか、な」
「……ねぇ、比企谷」
雰囲気が、変わった。直感的にそれを把握して、ポケットに突っ込んでいた手がじんわりと汗ばむ。無意識のうちにぎゅっと固く拳が握られ、喉がカラカラと乾いていく。嫌な予感がした。駄目だと、脳内で必死に警鐘がかき鳴らされる。
「私、まだ、変わってないから」
「……っ」
「まだ、比企谷のこと――」
と、そこまで言っていた折本の言葉を、軽快な電子音が遮った。みれば偶然持ち歩いていた俺の携帯が珍しくも鳴っている。画面に表示されているのは、当然というか何というか小町だ。
「わ、悪い、折本」
「……それ、妹ちゃん?」
「あ、あぁ」
「……早く出てあげなよ」
無駄だと知っておきながらもう一度悪いと呟いて、通話ボタンを押しながら耳に携帯を当てる。
「おう、小町、どうし――」
『遅いよ、なにしてるのお兄ちゃん、もう十時半になるんだけど』
「……は? いや、マジか」
『マジだよ。早く帰らないと補導されちゃうから。お兄ちゃんただでさえ怪しいのに』
「いやその一言余計だから――って、切りやがった」
俺が家を出るまでしんみりしていた妹はどこへ行ったのやら。ころころと表情が変わる奴なので、そこら辺はもう慣れているんだが。女心と秋の空とはよく言ったもので、むしろ秋の空どころか迷走してるアイドルのプロフィールくらい変わる。迷うのって怖いなぁ。
「……ここからどのくらいだっけ、お前の家」
「ううん。もう少しだから良いって、別に」
「それなら、いいんだが……」
「それにもう、ちょっと、そんな感じじゃないかな」
あはは、と力なく笑いながら折本は立ち上がる。そっと自分の袋を持ちながら、少しだけ顔をこちらに傾けて。
「おやすみ、比企谷」
それだけ言うと、ゆっくりと歩き出した。それに俺は。
「あぁ。……じゃあな、折本」
『またねー、比企谷』
『おう、また』
あの時とは違って、別れの言葉だけを紡いだ。
◇◆◇
――ねぇ、比企谷。
「っ……」
――私、まだ、変わってないから。
「……いや、ほんと」
――まだ、比企谷のこと――。
「ウケないよ、比企谷」
好きだよ。
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結局彼は収まる所に収まる
悪夢みたいに最低な一日も過ぎ、既に時間は翌日のホームルームが終わるまでに差し掛かっていた。がっつりと机に突っ伏して寝たふりをしながら、しかしいつでも動けるよう力を入れておく。ぼっちは素早い行動に関して他の(主にリア充)追随を許さない。そしてそれが一番発揮される時こそがこれから待ち受けるもの――そう、帰宅である。つまり何が言いたいかというと、俺は早く家に帰ってゴロゴロしたかった。……いや、他の理由とかそんなのさっぱり無いからね? 本当にね?
「――」
来た。チャイムが鳴る。だらだらと立ち上がり礼をするクラスメイトに合わせながら、ぎろりとただ出口だけを睨む。最速で、最短で、真っ直ぐに、一直線に。この帰りたいという想いを成就させるために。いざ行かん
「でさー、あいつったらさー」
「マジ? 超やばくない?」
「マジマジ。いやーほんとないわー」
「かーっ、つれーわー部活」
「それな、ほんとそれ」
わいわいがやがやと騒ぐ人達の間を決してバレないように掻い潜り、気付かれないように素通りし、見えないように避けていく。これぞステルスヒッキーの独壇場っすよ! がっしと教室の扉に手をかければ、最早勝ったも同然だ。がらりと開けて一歩足を踏み出し、全身を包み込む開放的な気分が――。
「あら、意外と早かったわね」
「は?」
開放的な、気分が。
「あなたの事だから、もう少し掛かると思っていたのだけれど」
「あ、いや、そんなの……じゃなくて、お前。なんでここに……」
「部長として部員を導くのは当たり前でしょう?」
「部長って……あぁ、いや、だがな……」
全然開放的な気分に包まれなかった。廊下の壁に背を預けていた雪ノ下はふわりと長い髪をたなびかせながらこちらを向き、さも当然のように俺と話し出した。というか君クラス違うよね? なんでこんなに早く来てるの? なんなの、俺のこと好きなの? いやまぁそれについては万が一どころか億が一にも無いだろうが。
『まだ、比企谷のこと――』
そうだ、そんなこと、無いに決まっている。
「? なにを固まっているのかしら」
「……いや、なんでもない。それよりも、だ」
何はどうあれ、こういうのは普通に不味い。雪ノ下はそんなことも忘れてしまったのか、一切危機感を持たずに自然体でいる。長引けば長引く程確率は上がり、ついには偶然見かけた誰かが言い出すのだ。そう、正にこのように。
「あれ? 雪ノ下さんじゃね?」
「ほんとだ。珍しー。てか近くに誰かいんじゃん」
「ん? あいつヒキタニじゃね?」
「いや誰それ。え? 同じクラス?」
「もしかしてあいつが雪ノ下さんと話してんの?」
ざわざわと、嫌な雰囲気が広がり始める。何度味わっても慣れないと思いながら、次第に慣れていった空気を肌で浴びる。これ以上は駄目だ。本当に、
「……はぁ。本当に、変わらないわね……」
うるさい。聞こえてんぞ、あんまり言うと嫌になって直ぐに帰るからな。てかもう今から帰りたい。なんなんだ、普通は
「少しは待ちなさい、猫背谷くん」
いやほんとうるさいから。待たないから。ていうかあなたと並んで歩いたらさっきの俺の行動全否定だから。そこら辺気付かない奴じゃないだろうに、どうしてそんな事が言えるのか。
「そっちは玄関とは違うのだけれど?」
「……帰っていいんならそうするんだが」
「特別な用事でも無い限り駄目よ」
「……あぁ、そう」
自然と足を特別棟へ向けていた俺は、やはり人生の選択肢という選択肢を全て間違っているような気がする。ぶれぶれな気持ちと脆い信念、支えているのはボロ過ぎて崩れかけの心だ。風が吹けば傾き、指で突けば壊れ、上から踏めば木っ端微塵。きっと、違う道筋を辿った比企谷八幡ならば、もっと強くあれたであろう。それこそ、理性の化け物だなんだと言われるくらいに。
◇◆◇
「……で、結局、ここはなんの部活なんだよ」
「あなたまさか、知らなかったの?」
「ろくな説明も無しに連れて来られたからな」
どこぞの独身国語教師に。いかん、今凄い背筋がゾクってした。ゾクって。ははは要らんことを言うな殺すぞげふんげふん怒るぞ的な何かを感じる。めちゃくちゃ具体的なんですけど。
「……そう。では、ゲームをしましょう。ここが何の部活か当てるゲーム。さて、ここは何部でしょう?」
「そんな唐突に言われても、な……」
しかしながら、ゲームか。あの雪ノ下がゲームとは、なんとなく似合わない。そう感じながらも、ぽつぽつと思考を巡らしていく。教室の中を見渡して、何か手掛かりになるものは無いかと探してみる。
「他に部員は……」
「いないわ」
それって部として大丈夫なのだろうか。かなり疑問だが、そこら辺は今気にしないことにした。はっきり言ってしまえばヒントが無さすぎて推理の余地もない。とりあえず適当にぽんと出た答えを口にする。
「文芸部か……?」
「へぇ、その心は?」
なんだか特に興味無い感じなのが気になるが、そっとスルーして頭の中でまとめた考えを出していく。
「この部屋、特に何も無いだろ。あとはお前が本を読んでることからだな」
「比企谷くんにしては上出来ね」
ふふんと鼻を鳴らしながらそんな事を言ってくる雪ノ下。にしては、は余計だろ、にしては。がりがりと頭をかきながら、ぶっきらぼうに問い掛ける。
「で、どうなんだ」
「おめでとう、はずれよ」
はずれなのかよ、じゃあなんでおめでとうとか言ったんだよ。
「じゃあ何部なんだよ」
「では、最大のヒント。私がここでこうしていることが活動内容」
ついに出てきたヒントも全く持ってヒントの役割を果たしていない。むしろそれによってもっと分からなくなった感じだ。答えが遠ざかったようにすら思える。いや待て俺、落ち着いて考えろ。……いや分からねぇよ普通に考えて。
「降参だ、さっぱり分からん」
息を吐きながら白旗を上げる。
「比企谷くん。誰かとこうして下らない話をしたのはいつ以来かしら?」
それ振ってきたお前が言うのな、なんて思いながら過去の記憶を探る。正直、一切無い訳でない。ないのだが、どれも一つ手を掛けてしまえば芋づる式に黒歴史も付いて来てしまうので精神的に辛いものがある。
『……この人形、良い感じね』
『は? いやお前、どこが?』
『ほら、この、あなたによく似た世界を呪っているような目とか』
『俺の目はそんな酷くねえよ、多分、うん多分』
『自分ですら自信が無いのね……。心配しなくても、そんなに悪くはないわ』
『……え、それどういう――』
『さっさと次の所へ行きましょう比企谷くん』
……あー、なんだ。これって、下らない話、か?
「持つものが持たざる者に慈悲の心をもってこれを与える。人はそれをボランティアと呼ぶわ。途上国にはODAを、ホームレスには炊き出しを、性根の曲がった男子には普通にするような軽い会話を」
最後だけ妙に例えが細かいんですけど。どうりでいきなりゲームだのなんだのと言い出した訳だ。初対面ならまだしも、俺と彼女の間でまともな状態ならあんな会話が成立する訳もない。ぶっちゃけ黙ったままの方が適当なんですがね。
「ようこそ奉仕部へ、歓迎するわ」
次いで雪ノ下は、何か決意か覚悟の籠った瞳をこちらに向けながら、堂々と真正面から宣言した。
「比企谷くん、卒業までにあなたを更生させる。覚えておきなさい」
そんなことをしてお前になんの利益があるんだよ、と言ってみるべきだろうか。
◇◆◇
「そんでさー……って、ユイ? 聞いてる?」
「……」
「ユイ」
「――っと、あ、うん。な、なに?」
「なんかあったん? そんなぼーっとして」
「いや、なんでもないん、だけど」
「そう? ならいーんだけど」
――なんで、雪ノ下さんとヒッキーが?
おまけ
進路指導アンケート
総武高等学校 2年 F組
出席番号29 男
あなたの信条を教えてください
如何なる時も常に一人で何事も対処する
卒業アルバム、将来の夢なんて書いた?
俺だけ書くスペースなかった
将来のために今努力していることは?
一人で出来る事を多くすること。
過去のトラウマを忘れること。
先生からのコメント
実に君の人間性が出ている内容で安心しました。
けれども人間一人ではできることが限られてくるので、他人と協力することを覚えましょう。
トラウマに関しては忘れようとして結局忘れられないのが君だと思うので、適度に頑張るか諦めましょう。
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相手の気持ちは
『例え世界を敵に回したとしても、俺だけは君の味方でいるよ』
多少の差異はあれど、そんなニュアンスの言葉は小説やドラマでよく見聞きする。とてもロマンチックで素敵な台詞だ。現実に格好良い奴が言ったのならば、さぞ様になるだろう。まぁそうじゃない奴が言ったら確実に痛い人認定なんだけどね!
『絶対に、君を一人にはしない』
心に響く言葉としては、タイミングと状況によるが最高位にあると思う。実際に、物語で盛り上がるシーンには多い筈だ。あぁ、実に良いよな、憧れる。健全な男子ならそんなことを一度は言ってみたくなるよな。
『俺が君を守ってみせる』
言うのは簡単だ。けれども、本当にそう出来る奴は何人いるだろうか。そう出来てしまう人間は、この世にどれだけ存在しているのだろうか。そんなことすら出来ない奴は、一体どうすれば良かったのだろうか。
「例え世界を敵に回そうが、俺だけはお前の味方でいる?」
いいや、違うだろ。そうじゃいけない。そのやり方では何も解決しない。全部が全部、どうにかするためには何かを切り捨てなければいけなかった。使える手札は非常に少ない。悩んで悩んで悩み抜いて、結果があいつらにとって一番であると言い聞かせて、全身全霊を持って挑んだ。
「例え世界を敵に回そうが」
だから、結果と結び付けた。
「俺が、お前らを守ってみせる」
そんなこと、出来る筈もないくせに。
「迷うな、悔やむのは後にしろ。今は、ただやり切ることだけを考えろ」
元々一番優先度が低かった。故にこそ、躊躇いなくそれを切った。僅かな手札の一枚である、“自分”という札を捨てていく。己の身も心も削っていく。自身の何もかもを殺して、何でもないかのように装ってその場だけを乗り切るために。
『もう、俺に関わるな』
切って。
『一緒に居て楽しいか? 俺はそう思わない』
切って、切って。
『俺とお前じゃ、過ごす場所が違うだろ』
切って、切って、切って。
『いい加減迷惑だろ、だからちょうど良い』
まだ残ってる、まだいける、だから切り続けて。
「あぁ、そうか、これで良いのか」
結果は自然と付いてきた。その時から、俺にとっての正解はずっと決まっている。足りなければ何かで補えば良い。それこそ、自分というカードを切って足していくだけだ。
「だから、そうだ。こんなのは」
だって、そうだろう、一度自分で落とした物を拾ってどうするというのか。
「絶対にまちがっている――」
俺はずっと、孤独であるべきだろうに。
◇◆◇
「とりあえず、一つあなたに言っておく事があるわ」
「……なんだよ」
盛大な宣言のあと、胸を張った雪ノ下がすっと目を細めながら言葉を続ける。正直なところ、何を言われるか分かったものじゃ無いので若干怖い。というか帰りたいし帰りたくもあるし帰りたいとかだよなぁ。なんて思いながらぼーっと聞き流してた。
「人の話はきちんと聞きなさい余所見谷くん」
「っ、お、おう……」
気付けば雪ノ下が直ぐ近くまで迫っていた。いや、うん、分かったから一旦座ろうか。いつの間に立ってここまで歩いて来たのか知らないけど。なに? 瞬歩? お前死神か何かだったの? まぁ単に俺が気付かなかっただけだけど。
「そ、それが言いたいことか?」
「そんな訳無いでしょう。……比企谷くん」
「お、おう」
「私、あなたの事が嫌いよ」
……分かってはいた事だ。自分からそうなるような事をしたのだから、それくらいの覚悟は出来ている。だから別にどうということはない。雪ノ下は俺のことを嫌っている。それで良い。そうでなければおかしい。だからこれは、当たり前のように普通のことなのだ。
「人の気持ちを考慮しない考え方も、自分を真っ先に外していくやり方も、それで間違えながら成功することも、嫌いだし、認めない」
「――」
「一人で救った気になって、勝手に傷付くあなたが嫌いよ」
「……そうか、で、話は終わりか?」
「そうやって、逃げてばかりなところも」
容赦なく突き刺さって抉る言葉に、ぐっと拳を握りながら必死で堪える。実際、返す言葉も無いことは自分自身が一番良く分かっていた。理解しながらも実行したのだ。分かっていなければ、そいつは本物の馬鹿だろう。残念なことに、俺は本物の馬鹿になれていない。
「私の気持ちを考えた事がある?」
「……そんなの」
「無いでしょう。だから教えてあげるわ。あの時は答えられなかったものね」
一つ息を吸う間を置いて、雪ノ下は言った。
「楽しくない相手を、買い物に誘う訳が無いでしょう」
反射的に、俯いていた顔を上げて目を見張る。一瞬だけ脳の機能が停止したように固まって、それから焼け付くように残る声を噛み砕いた。揺れる、揺れる、脆くて弱い大事な何かがぐらぐらと揺れ動く。
「本当に仲が良くなければ、下らない話をしてくすりとも笑う筈が無いでしょう」
正しく、真っ直ぐに、偽らず、雪ノ下雪乃は静かに熱くぶつけてきた。ふと気付けば指先が震えている。なんて酷いことをしてくれるのか。……阿呆か、酷いのは、俺だろう。知っていても、それしか選べなかっただろうから。
「――よく知らない誰かとなんて、比べるまでも無いでしょう」
「っ……」
雪ノ下、それは。
「例え世界を敵に回しても」
それは、無理だったんだ。
「あなたが味方であれば、良かったのよ」
俺じゃあ、足りなかった。届かなかった。どれだけ手札を上手く使っても出来ない方法だった。だから切り離してやり過ごすしか無くて。
「……は、なんだそりゃ」
「分からないでしょうね。それを否定して、切り捨てて、離れていったのはあなただもの」
「分かってないのは、お前もだろ」
やらかしたと、気付いた時にはもう遅かった。
「気持ちだ何だと、分かってないのはお前も同じだ」
「同じ? 何が同じだと言うの?」
「お前は俺の気持ちを考えたことがあるのかよ」
馬鹿か、やめろ、汚いだけだ。全く持って格好悪い。好き勝手しておきながら偉そうに気持ちを考えろだなんだと、吐き気がする。ふざけるな、今すぐその口を閉じて死んだ方がマシだ。
「あなたの気持ち? あれだけのことをやっておきながらよくそんなことが言えるわね」
本当にその通りだ。
「俺は俺のやれる全力で、最高の結果を出した。どうしてそれにケチを付けられる」
「本当に最高の結果なら、こんなことにはなっていない筈よ」
「ならこれ以下になるのが良かったのか? 違うだろ。
ピクリと、雪ノ下のこめかみが引きつった。
「やっぱり、あなたは何も分かっていない」
「そうかよ、お前だってそうだと思うがな」
じっと、無言でお互いを睨み合う。最近では気まずい事の多かった空気が、今はとても刺々しいものへとなっていた。恐らく俺も彼女も引く気は無い。何だかんだと言いながら結局は冷静さを欠いている。比企谷八幡という人間の中途半端さだ。独りであるには割り切れない程の
「……っ」
「……、」
そんな雰囲気を壊したのは、コンコンと響くノックの音だった。鋭敏になっていた感覚が直ぐ様音の方へと振り向き、教室の扉が目に入る。平塚先生はノックをしない、では誰なのか。答えを出す間もなくからりと、遠慮がちに開きながら入って来たのは。
「ぁ……」
「……」
肩までの明るめに脱色された茶髪。
「……ヒッキー」
ボタンが三つほど開けられたブラウス、そこから覗いた胸元に光るネックレス。
「……あなたは」
短めのスカートに、ハートのチャーム。
「……っ」
あぁ、連日でこれは、本当に最悪だ。
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お前と、あなたと、もう一人
『あの、えっと、比企谷くん、だよね?』
『……あぁ、そうだけど』
初めて話し掛けられた時は、一体何事かと思った。何せ俺自身は全然顔見知りでも何でも無かったし、というか何このビッチっぽい女子やべぇなちょっとあまり近付かないでくれます? とさえ思っていた。正直あの頃は女子と話すなんて状況だけで嫌なモノが続々と湧き出ていたから、仕方が無いだろう。
『その、なんていうか、ありがと』
『は? なにが?』
ぼそっと呟かれた言葉に反応して返してみれば、あたふたとし始めるビッチっぽい女子。なんかアレだな、この子は若干アホっぽいな。初対面の女子に我ながら酷い評価を内心で付けながら、ぼうっとその様子を眺める。何してんだろなぁ、俺もこの子も。
『えっと、あの、あれ、サブレ!』
『は?』
え、なに? サブレ? ビスケット的な洋菓子のあれ? ちょっと何言ってるのかよく分かんないですね。と目の前の女子に懐疑的な視線を向けてみる。余計にわーわーとあたふたし始めた。結構真面目になんなのこの子。
『だから、その、さ。入学式の日に、うちの犬のこと……』
『……あぁ、そういうことか』
その一言でやっと合点がいった。ちょうど入学式の日に早起きして通学途中、らしくもなく犬を庇って車に轢かれたのだ。おかげでこうして校内ぼっちは確定するわ、周りからの目が突き刺さるわで、何とも素敵な高校生活である。どうせ事故にあわなくてもぼっちだったろうがな。
『あ、あたし由比ヶ浜結衣。結衣って呼んでくれて良いから』
『おう、由比ヶ浜。まぁ、なんだ。俺の好きでやった事だから、あんま気にすんな』
『あ、あれ……?』
てか関わるな話し掛けるな触るな一緒に歩くな同じ息を吸うなまである。主に俺が。どんだけ卑屈なんだよ。
『結衣ー』
『……お前、呼ばれてるぞ』
『あ、うん。今行くー! ……またね、比企谷くん』
『おう』
その挨拶は間違ってるぞ、とはあえて言わなかった。言わずとも彼女は分かっているだろう。ああいう奴等は自分の立場をしっかりと理解している場合が多い。見たところ友達が多く、クラスの中心的立ち位置に近い由比ヶ浜結衣という少女は、決して俺と関わるような人間じゃない。お互いに分かり合っているのだ。
『……もう、ああはなりたくないだろ』
うっすらと重なる一度手放した影が、優しく微笑んでくる。もう二度と見れないだろう脳裏に焼き付いた表情が、未だ塞がりきらない傷痕を抉った。決めたのだ、中学の時のような過ちは二度と犯さないと。
『どうせ、またなんて無いからな』
後に、その台詞がフラグだったかと頭を抱えることになるなど、この時の俺はまだ知る由もなかった。
◇◆◇
「……ヒッキー」
若干震えている声は頼りなさげに、しかし瞳は揺れながらも強く、由比ヶ浜結衣は確かにそこに立っていた。どうして彼女がこんな所にいるのか。混乱する頭がぐるぐると空回りして、目の前の光景を正しく認識出来ているかも自信がなくなる。
「……あなたは」
雪ノ下が驚いたように言いかけて、すっと目を細めた。意外なことに由比ヶ浜を知っているような態度だ。俺の記憶では、二人がお互いのことを知っているような話は無かった筈だ。ちらりと由比ヶ浜の方を見てみれば、じっとこちらを見詰めている。
「……っ」
驚いて反射的に目を逸らした。や、あんまりそんな見ても何もないから。精々変な気持ち悪い汗くらいしか出てこないから。大体マジでどうしてお前がここにいるんだよ、タイミング悪いし空気も悪いし雰囲気も悪い。これ作った原因誰だよ、俺だよ。
「っ……そう、だよね。ごめん、ヒッキー」
それは、何に対する謝罪なのだろう。
「――雪ノ下さん、だよね」
自分から視線が外れたのを感じて、僅かにそちらの方を向き直す。雪ノ下へと視線を移した由比ヶ浜は、ぎゅっと胸元を小さく握りながら答えを待つ。
「……えぇ、そうよ。由比ヶ浜さん、よね?」
「うん。あたしのこと、知ってたんだ」
「……まぁ、一応、かしら」
「そうなんだ。……あの、さ」
真っ直ぐに雪ノ下を見ながら、由比ヶ浜は言った。
「なんか、よく分かんない、けど。ヒッキー……比企谷くんのこと、あんまり悪く言わないで欲しい、かなぁ」
「……よく分からないのに意見するのね」
「うん、分かんない。でも」
そっと目が伏せられる。少しばかり俯いてしまった由比ヶ浜の表情は見えない。紡がれる言葉の声音だけが感情を伝えてきた。詰まるところの、彼女の気持ち。由比ヶ浜結衣という少女の気持ち。
「……やめろ」
俺の知ろうとしなかった気持ち。
「ヒ、企谷くんは、悪くないよ」
知りたくもなかった、他人の気持ち。
「……あなたは、そう思うの? 本当にこの男が悪くないと?」
「ううん。悪いかもしれない」
「言っている事が違うのだけれど」
「でも、ヒッキーが、比企谷くんだけが悪いってことは、無いんじゃないかなぁ」
馬鹿だ、阿呆だ、お前は何を言っている。なんてことを口走っている。誤解だ、間違いだ、勘違いだ。全てが全て根本から別だというくらいに異なっている。だからやめろ、やめてくれ。これ以上は何も言わないでくれ。
「ヒ企谷くんは、優しいから」
「――」
「だから、全部押し付けるのは、違うんじゃないかなぁ」
「由比ヶ浜」
ぴくりと、明るい色の髪と共に肩が揺れる。ふと血が滲みそうなくらい握り締められた拳に気付いて、かなり己が酷い状態なのだと認識した。ゆっくり、ゆっくりと、慎重に力を抜いていく。
「お前、なんでここにいる」
「ぁ……えっ、と。平塚先生から、聞いて……」
「――わ」
それは嫌に響く、小さな鈴の音のようだった。
「え?」
「……おい……雪ノ、下?」
「そんなこと」
すぅっと息を整えながら吐かれた台詞は、今度こそ凛と室内へ響く。
「
かつんと、雪ノ下が一歩前へ出た。黒くて艶のある長い髪の毛がふわりと揺れて、燃え盛る炎を彷彿させる。それはさながら、現在進行形で彼女の胸にめらめらと灯る怒りのようで。
「その上で言っているのよ、彼が悪いと」
「っ、それは」
「由比ヶ浜さん」
詰め寄る雪ノ下の迫力にやられたのか、由比ヶ浜はただ押されるばかりだった。彼女とまともにやり合って勝てる人間は少ない。俺の知る限りでは片手で足りる程に、雪ノ下雪乃という人間は強い。そうして俺の知る由比ヶ浜結衣という人間は、その中に入っていない。
「あなたは悪くない。悪いのは彼」
「違っ――」
「彼のやり方が、考え方が、間違っている彼が悪い」
貶されているのに、否定されているのに、ついさっきよりも心は軽かった。結局、そういう人間なのだ、俺という奴は。
「あなたも私も、彼がやり方を間違えなければこうはなっていなかった」
「ッ……ち……ぁ、知ってる……の?」
「……知ってしまった、というべきかしら」
「……雪ノ下、さん」
……知っている? 何を? まさか、雪ノ下が由比ヶ浜とのことをか? だとすれば、そうだ、彼女の態度にも納得がいく、いってしまう。
「結局この男は学ばなかった。変わりもしなかった。変わろうともしなかった。だから、私が変えるのよ」
「ヒッキー、は……」
「だって、そうでもしなければ」
――救われないじゃない。
「……あ?」
「……っ」
「……ぇ」
ピキリと、一瞬空気が凍った。
「雪ノ下、お前」
「私の気持ちを忘れたつもりかしら」
「雪ノ下さんの、気持ち……」
この短時間で忘れていたら、さぞおめでたい頭だったに違いない。
「言わなければ分からない? なら言うわ」
「待て、やめろ、分かってる。分かってるから」
「いいえ分かっていないでしょう。私は――」
「ゆ、雪ノ下さん……?」
強く、強く、嫌な予感に警鐘が鳴っていた。
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安定しない曲がり方
「あなたの」
雪ノ下雪乃は、強い人間である。例え一人だろうが彼女は自分を強く持ち、正しくあり続けることが出来るのだ。一人でいながら一人になり切れない自分とは大違いの、完成された存在。同時に弱さを抱えている、不完全な存在。
『あなたが比企谷八幡くん?』
『あ?』
だからこそ、だろうか。自然と俺は彼女に惹かれていて、共に過ごすのもまぁ悪くないと思い始めて、己というちっぽけな奴がもたらす不幸を忘れていた。どこまでも比企谷八幡は、弱かった。
「あなたの隣に、居たかったのよ」
人の心が理解できない訳では無い。何故なら俺も悩んで間違えて失敗を繰り返す人間だからだ。むしろ悩みに悩み、間違いに間違いを重ねて、失敗という失敗を繰り返している。そういう部分だけ見ればぶっちゃけ俺ってそこら辺のリア充より人間してるんじゃね、なんて錯覚しそうになるくらいに。
『……や、えっと、なに?』
『……犬を庇って事故に遭い入院していたのは、あなたで合っているかしら』
『あ、あぁ。そう、だけど、なんで知って……』
『そう』
故にいつも言われるのはそうではない。俺は人の心が分からない訳では無い。人の気持ちが分からないと、理解できないと言われるのだ。その度に何度も思い、考え、結論を出し、次こそはと自分なりに間違いを正してきた。結局はそれも間違っていたが。
「な、んで……だよ……」
「だから言っているでしょう。あなたがやり方を間違えたのよ」
比企谷八幡には芯がない。心を強く保つための何かが足りない。力を十全に出し切るためのスイッチが存在しない。芯が形成される以前の時点で、既に空っぽの状態だったのだ。何も無いところから、何かが生まれて来る筈もなかった。
『見たところ、そんな人間には見えないわね』
『……人を見た目で判断するなよ。見たところ性格キツそうだけど』
『あなたも見た目で判断してるじゃない……』
ならばもし、仮にでもなんでもその芯が出来たとすれば。曲がりすぎて曲がらない芯を持ち、捻くれた考え方と妙に回る頭を駆使し、少ない手札を上手く切り、他人の気持ちを考えずに最良の結果を出す。――比企谷八幡は、結局のところ比企谷八幡だ。
「あなたのやり方を通すには、長く過ごしすぎたのよ」
土台は完成されていた。器も形まで整えられていた。その時だけは全てが変わる。ただ真っ直ぐに突き進む気持ちに、強く組み立てられた心。従って行動にも一貫性が出てくるほど、簡易的に比企谷八幡は完成していた。
『私は雪ノ下雪乃。あなたを轢いた車、覚えている?』
『そんなの、覚えてる訳――』
『それに乗っていたのが、私よ』
『な……』
自分と接した誰かを救うために、俺は正しく間違いを犯した。
「そう簡単に繋いだ縁を切れると思わないことよ」
それを芯として、一時的に比企谷八幡は本来あるべきものとなっていた。
『……そうか、……悪かったな』
『……どうしてあなたが謝るのかしら』
『好き勝手やって事故ったのは俺だ。全部俺が悪い。お前に謝られるのも同情されるのも心配されるのも御免被る』
『……そう』
だから、そう、これは。
「あなたの行動の意図を読み取れないほど、私は馬鹿ではないのよ」
どうやっても回避しようのなかった、俺の間違いなのだろう。
◇◆◇
「あ、おかえりお兄ちゃ……ん?」
こてんと首を傾げる小町の横を通り過ぎて、鞄を放り投げながらソファーへ座り込む。最早言葉を返す気力すら残っていない。何かを見ているのも辛くなって、すぅっと目を閉じた。
「……」
瞼の裏に映る先程までの光景が、じくじくと胸を締め付ける。あの後、ほどなくして鳴った完全下校のチャイムに解散をしたが、雰囲気はお察しである。正直どうやって家まで帰ってきたのかさえあまり覚えていない。特に体で痛むところは無いので、怪我などはしなかったのだろうが。
「……もう、しかたないなぁ」
ぱたぱたと、近付く足音が聞こえる。気付いたとして、何か言うのも億劫だった。ただ黙って過ごしていれば、やがて足音の主はぽすんと俺の隣に腰を下ろし、ひとつ小さく息を吐く。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「……別に、何でもねぇよ」
「嘘だね、隠す気ないくらい露骨だし」
隠す気がないんじゃなくて、隠せないんだよ。
「……なぁ、小町」
「なに、お兄ちゃん」
「どうすれば、良かったんだろうな」
掠れそうなくらいに小さく、ぽつりと呟いた。漏れ出た声が予想以上に弱々しくて、気分が更に落ちていく。落ちた気分はまたいつもとの些細な変化を敏感に察知し、気付いてもう一段階下へ。見事なまでの負のスパイラルだ。
「本当に、どうすれば、良かったんだ」
「お兄ちゃん……」
「俺は……俺は……、ただ」
「……うん」
ただ、こんな自分と接してくれた奴に嫌な思いをして欲しくなかった。
「だから、考えて、悩んで、やり方を見つけて」
「うん、うん」
「そんな簡単に割り切れる訳、ねぇだろ。迷って、でもそれしかないから、やったんだろ」
「そうだね、お兄ちゃんは、そうだもんね」
他に良い方法があったのなら、一も二もなく飛び付いていた筈だ。成功する確率が高ければ、誰も被害に遭わずに済む解決法があったなら、そっちの方が良いに決まっている。でも、どう考えたとしても、その解決法は一番酷い己の策のことで。
「今更、だろ。終わったことだろ。だって、そうじゃないと、俺は――」
一体何のために自分を犠牲にして、何を守ったというのだろう。独り善がりなのは分かっている。何故なら俺は何をする時も独りであるからだ。善し悪しを考える時でさえ他人を頼らなかった。ならば真に、それは独り善がりな行為と言える。でもそれで救えたならと、そう思い続けてここまで来た。
「お兄ちゃん」
ぎゅっと、優しい感触に包まれる。割れ物を扱うように当てられた手が、ちょこんと制服を掴む。突然の状況に驚いて固まっていれば、次いでするすると頭を撫でられ始めた。やっとのことで、声を出す。
「……何してんだ、小町」
「ん? んー、なんかこういうの新鮮だよね。昔は小町がやってもらってたし」
「やめろ。いらん」
「まぁまぁ」
言いながら小町はよーしよしと俺の頭を撫で続ける。あの、ちょっと? マジでやめてくんない? お兄ちゃん色々となけなしというか殆ど無いプライドとか存在すら確認されているかあやふやな尊厳とかが完全に消えちゃうから。もう消えてるか、やべぇ手遅れだった。
「お兄ちゃんは、頑張ったんだね」
「――」
「頑張って、一生懸命やったんだよね」
「……こま、ち」
「精一杯やって、でも」
ぴたりと、動いていた手が止まる。
「お兄ちゃん、間違えちゃったんだよね」
「……っ」
今度は両腕、ぎゅうっと抱き締められる。妹にハグされるのなんて久しぶりだ。小学生の時には「お兄ちゃんのお嫁さんになるー!」とか言ってよく抱きつき、俺が親父から酷く睨まれていたというのに。
「らしくないよ、お兄ちゃん」
「……そう、かもな」
「うん、そうだよ。だってお兄ちゃん、何回も間違えてるじゃん」
「おい……」
そこ言っちゃうの? という風に視線で訴えてみれば、くすりと小町は笑う。口元は緩めながらも、腕の力は緩めない。逆にほんの少しだけ強くなった気がした。
「その度にこんなことなってたらお兄ちゃん今頃引きこもりだよ。それならさ、多分だけど」
「……」
「それだけ大事なこと、だったんじゃないの?」
「……そうだな」
大事なこと
「まぁ、大丈夫だよお兄ちゃん。ほら、人間間違えることはあるし、仕方ないんだよ」
「いや、でも……」
「いいじゃん、間違っても」
軽く放たれたその言葉に、ゆっくりと顔を向ける。小町はにこりと優しく笑いながら、恥ずかしそうに顔を赤らめて。
「間違ってもいいんだよ、大丈夫。小町を信じなさい。あ、今の小町的に超超ポイント高い!」
「最後のが無ければ八幡的にポイント高かったわ……」
なんだ、一瞬でも妹を女神と見間違えた俺が馬鹿だった。全くやれやれ、これが血の繋がった妹で無ければ惚れていたところである。だかまぁ、しかしだ。
「まぁ、でも、あれだ。……サンキューな」
「……うん。それじゃあ小町、ご飯作るから」
「おう」
それだけ言い切ると小町はぱたぱた駆けてキッチンへ向かう。やはりうちの妹は、兄より余程しっかりとしている。
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とある兄妹の朝模様
夢を見た。
「青春とは嘘であり、悪である」
夢を見た。
「なので、君には奉仕活動を命じる」
少しだけ変わった夢を見た。
「あなたの問題を矯正してあげる。感謝なさい」
ほんの僅かに幸せな夢を見た。
「なんか……楽しそうな部活だね」
変なこともなく自然と始まる夢だった。
「結論を言おう。
リア充爆発しろ。」
夢の中の俺は、現実の俺とは比べものにならないほど強かった。
「それでも」
どこかで何かを選択していれば、俺もこうなれていたのだろうか。こんな風に何かを望み、己の意思を強く貫くことができていたのだろうか。そんなことを考える。
「それでも、俺は」
恐らく、そうなれていた筈だ。何故なら辿った道筋や結果は違えど、比企谷八幡という人間に変わりはない。周りとの関係や精神の強さは異なる。でも、作り上げるための土台は同じだった。
「俺は、本物が欲しい」
だとすると、俺もそう思っているのかもしれない。独りで居たい独りが一番と声高に叫びながら、本心では形すらあやふやな何かを求めているのかもしれない。なんて、有り得ない事だと自分では分かっているのに。
『……俺はどこから、間違えたんだろうな』
もしも別のルートを歩く自分がいたとしたら、一度聞いてみたいと思った。正しい俺とは、どんな存在なのか。
「そんなもん決まってるだろ」
でも多分、期待する答えは返ってこないだろう。
「ぼっちじゃなくなった時からだ」
どこまでいってもどこに居ても、俺という人間は捻くれている筈だから。
「お前みたいなファッションぼっちがぼっち語るんじゃねぇよ。ぼっちなめんな」
そんな風に、夢を見た。
「比企谷くん」
夢を見た。
「ヒッキー」
夢を見たら、次は覚めなければ。
◇◆◇
「おはようお兄ちゃん」
「……おう」
だらだらと寝起きの体に鞭を打ちながらリビングへと向かえば、朝からにこやかな笑顔を浮かべる小町に出会った。え、なんでこいつこんな良い笑顔なの? 昨日のこともあり若干恥ずかしく、ふいと目を逸らしてしまう。
「え、なんで今小町塩対応されたの?」
「馬鹿お前。俺はいつでも誰でもどこでも塩対応だぞ。むしろ塩が余りすぎて人生までしょっぱくなってる」
「うわぁいつもの
小町的にポイント低い、とかなんとか呟きながらパンを咀嚼する妹をよそに俺も朝飯を掻っ込む。コーヒーに牛乳を少々(個人の感想です)入れて、ふと砂糖の入れ物が無いのに気付いた。と、そこへ。
「はい」
「ん」
ひょいっと渡された白いさらさらとした粉末状のそれを、スプーンで掬って少し(個人の感想です)投入する。やはりコーヒーは甘いのに限る。人生とか人間関係とかそういうのが苦いからな、飲み物くらいは只管甘くて宜しいのだ。ぐいっと飲んで――噴出。
「ぶふぉっ!?」
「あ、ごめんそれ塩だった」
てへぺろ☆と可愛いく作った握り拳を頭にコツンと当てて舌を出す小町。たしかにお兄ちゃんちょっと塩対応だったけどさ、だからと言って本当の“塩”対応することは無いんじゃない……? ねぇ、ちょっと? 非難の視線を向けていれば、はぁと一つため息を吐いて小町は言う。
「大丈夫とか聞くまでもなく分かるから良いけど。それでもお兄ちゃんの口から小町は言って欲しいかな」
「……悪い。もう、大丈夫だ」
「……そっか」
頷くと小町は俺のコーヒーカップを引ったくり、ぐいっと一気に呷った。あ、馬鹿、そんなことしたら。
「ゔっ、しょっぱぁ……」
「いや何してんのお前」
「お兄ちゃん塩入れ過ぎなんだけど……」
「うん、お兄ちゃん砂糖だと思ってたからね?」
ちゃっかりスプーンまで入れ替えやがって。普通はそんなトラップがあるかもとか疑うわけねぇだろ。うえうえと何とも言えない表情で小町は台所まで歩いて行き、水をじゃっと出してコップに注ぎ、飲む。
「っはぁ。ぺっぺっ。不味い不味いこれ不味いよ」
「小町、それ俺のコップなんだけど」
「知ってるよ、全くもうお兄ちゃんは……」
え? なに? なんで俺今唐突にdisられたの? パンを齧りながら適当にぼんやりとしていれば、その間も小町はせっせせっせと動き回る。なにやってんだろーなーうちの妹。そう考えたところで、コトリと近くにコップが置かれた。中には良い塩梅(個人の感想です)に甘い香り漂うコーヒーが淹れてある。
「ほら、お兄ちゃん、甘いの好きでしょ」
「……お、おう。なんか今日のお前おかしくない?」
「おかしくないよ。小町お兄ちゃんのこと好きだからね。あ、今の小町的にポイントやばい」
「はいはいやばいやばい」
「うっわぁ酷い対応……」
今日のお兄ちゃんはしょっぱいとか言う呟きは全くもって聞こえない。そもそも俺がしょっぱいとかどういう意味だ。舐めたことあんのか。日常的に嘗められて生活する俺だが、流石に日常的に舐められた経験は無い。ウソをついてる味とか言われたことも無い。
「てかお兄ちゃん、良いことあった?」
「は? そりゃ、なんでだよ」
「んー……なんか、いつもよりお兄ちゃん
と言われてもだ。特に俺としてはそんな朝から良いことがあった訳でも無くいつも通りに「学校行きたくねーなーサボろっかなーもう死んじゃおっかなー」くらいのテンションだった。いつものテンションひっく。特に美少女な幼馴染みに起こされるとか綺麗なあの子に耳元で囁かれるとか可愛い彼女とイチャイチャしたということもない。つーか先ずそんなヒロイン的な人間がいないわ。
「……あぁ、そういや、なんか良い夢を見た気がするわ」
「へー、それってどんな?」
「内容は忘れた。でも良い夢だった、筈だ」
「ふーん、そっかー」
まるで興味ない感じに返されてそのまま黙る。おかしいなぁ、話振ってきたのそっちの筈だったんだけどなぁ。俺何か悪いことしたか。悶々とした気持ちを抱えながらも無事朝飯は食べ終わり、がたりと席を立った。
「ごっそさん。じゃ、行くか」
「はいはい。ごちそうさま」
気付けばかなり時間が迫っていたので、食器を適当に洗い桶へ入れてさっさと家を出る。遅刻をするとどこぞの教師に殺意の波動を向けられる気がするので是非とも生活態度はきちんとしていきたい。
「お兄ちゃん大丈夫ー? 忘れ物ない?」
「おう」
「ハンカチ持った? ティッシュは? 携帯は? あ、もう寝癖たってるよ。目も濁ってるし、洗わなきゃ駄目じゃん」
「お前は俺のおかんか。あと目は元々だ」
妹からの気遣いがマジ余計なお世話すぎて叫びながら走り出すまである。何それただの変態過ぎて通報不可避だな。もしくは知り合いに見つかって黒歴史コース。まぁ俺の場合はその知り合いがいないんだけどね!
「あ! そうだ小町忘れてたよ」
「何をだ」
「そりゃもちろんお兄ちゃんとの行ってきますのキ――」
「置いて行くぞ」
「もう冗談だってばー! どうどう? ドキッとした?」
「いや全然」
「酷っ! そこはお世辞でもときめいたとか言っておくべきだよ!」
たしかに俺達は千葉の兄妹だが高坂さん家のように特殊な訳ではない。流石に十数年一緒に暮らしてきた妹に劣情を抱くというのは兄として何かが引っ掛かるというか親父の目がやばいというか。後者の方が説得力ありすぎじゃね。
「それじゃしゅっぱーつ」
「自転車走らせるの俺だけどな」
「いいからほら、早く早く」
急かす小町に呆れの息を吐きながら、ゆっくりと愛車に跨ってペダルを踏む。まぁ、なんだかんだ言っても妹は可愛くて仕方ないものなのだ。時々うざったくはあるが。こうして使われるのも悪くないと思う。故に、小町と楽しい会話をしながら登校を始めた俺は、知らない。
『From ☆★ゆい★☆
TITLE notitle
ヒッキーと二人で、話したいことがあるんだけど』
最近は専らメールよりLINEですよね……。
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故に彼はぼっちじゃなかった
「あれ、ユイ、どっかいくの?」
「うん。ちょっと約束してて、ごめんね」
「へー、なに、五限まで帰ってこない感じ?」
「んー……多分そうなると思う」
がやがやと騒ぐ教室の空気はあまり好きではない。けれどもどちらかと言えば、こういう状況が嫌いな訳では無い。何故ならば俺が誰にも認識されず誰とも関わりを持たず誰からも話しかけられないからだ。いや本当ぼっち最高だな、人間一人で何でも出来たら一番なんだよ。と歌でも歌いたくなるような実に良い気分で机を立とうとした時だった。
「――待ってるから」
ぼそりと側を通る際に呟かれた言葉が耳に入る。瞬間的に俺の最高だったテンションが五段階中五段階下がった。詰まるところ最底辺までまっしぐらである。おいふざけんなどこで待ってるっていうんだお前はどこぞの漫画家目指す漫画のヒロインなの? 配役違くね? なんて言えたなら良かったんだが。
「……はぁ」
通学途中にふと気まぐれで開いた携帯に来ていた二通のメール。どちらも送信者は同じであり、一通目は会って話したいとの旨、二通目は昼休みに屋上という場所を指定する内容だった。正直行きたいか行きたくないかで言えば、即答するくらいに行きたくない。ただでさえ最近は
「待たせるのは、悪いしな……」
まぁでも結局、そうやって何かと理由を付けて足を運ぶのだ。元々彼女自身から動いた時点でこの結果は決まっていた。それさえも見抜いての行動であれば……いや、ないな。それこそマジでありえない。あの由比ヶ浜がそう頭を使うことなんて想像するだけでおかしくなる。……まるで友人みたいに馬鹿らしくそんなことを考える自分が。
「……お前、分かったんじゃ無かったのかよ」
最後に吐いた言葉は一体、誰に対してのものだったのか。俺自身へのものか、それとも――。
◇◆◇
『綺麗だね、ヒッキー』
『……そうだな』
夕日に照らされた辺りが、真っ赤に染め上がる。日常的に見られながらも不思議と幻想的な光景は、今の自分達をどう映しているのだろうか。周りからの視線。ぶつけられる感情。敏感なそれらを察知して、息を吐く。例え適当に見て感じてそうしたのだとしても、それに困る奴がいるのだ。――彼女には、そんな思いをして欲しくなかった。
『なぁ、由比ヶ浜』
『ん? なに?』
『もう、やめよう』
くるりと、驚いた様子で由比ヶ浜がこちらを見る。
『あ、帰る? たしかにもういい時間だよね。でもあと少しだけ――』
『由比ヶ浜』
言葉を遮っても言いたかった。己の舌を噛み千切ってでも言いたくはなかった。
『……もう、やめよう』
『っ……やめる、って……』
『俺とお前が、こうやって会うことだよ』
ぎゅっと、視界の端で由比ヶ浜の手が固く握られたのが分かった。あぁ、今お前、辛いのか。だったらそのまま全部投げ捨てちまえ。俺ごとそこら辺にほっぽり出せ。そうしたらお前は、楽になれる筈だから。
『……なんで、なの?』
『元々、あの事故が無けりゃ関わりなんて一切なかった筈だろ。それを無理して続ける方がいらんお世話だ』
『違っ、無理なんて……』
『そういうのは別にいいぞ』
びくりと由比ヶ浜の肩が跳ねる。思ってもいないことをさぞ思っているように吐ける口が憎たらしい。しかし今だけはそれが随分と頼もしく感じた。嘘や欺瞞が嫌いだと宣いながら、偽る事は得意な自分が嫌になる。
『由比ヶ浜は、優しいよな』
『ヒッキー……?』
『だから、事故の負い目とかそういうのを感じて、優しさでやってんのなら……いらねぇよ、そういうの』
嫌になる、嫌になる、嫌になる。でも、投げ出す訳にはいかない。
『別に俺の事なんか気にするな。大体一人でいる方が好きだしな、事故らなくてもぼっちだったろ』
『……ッ』
『それにほら、なんだ。俺とお前じゃ、過ごす場所が違うだろ』
由比ヶ浜結衣は優しい女の子だ。対して比企谷八幡は、愚かで捻くれて腐っている野郎だ。つり合いが取れているか否かなど、秤にかけるまでもない。彼女が俺とこうして
『そういうんじゃ、ないよ』
『だから、別にな……』
『そういうんじゃ、ないんだよ……』
声に、震えと何かが混じっていた。ズキズキと痛みを訴える頭を無視してそのまま由比ヶ浜を見続ける。決して揺らがず、決してぶれず、最後まで自分の信じた比企谷八幡であるために。
『ヒッキーは……なんで、っ……』
『――』
『どうして、そうなるのかなぁ』
今にも泣き出しそうな酷く悲しい表情で、由比ヶ浜はそう言った。返答はしない。言ってしまえば無言というのが解答だった。しばらくして彼女もそれを悟ったのだろう。ぐしぐしと無理矢理目尻を拭って、これまた明らかに
『……分かった。ごめんね、比企谷くん』
由比ヶ浜結衣と俺は、関係を絶った。
◇◆◇
「……来たぞ」
「あ、うん。あはは、ごめん。ぼーっとしてた」
屋上の扉を開けて声をかければ、由比ヶ浜はゆっくり振り返って苦笑いを浮かべた。ひゅうと吹く強い風が髪を揺らし、制服を揺らし、スカートを揺らす。だからと言ってそう必死にえっちな事を考える訳では無い。どうでもいいけどこの子凄い一部がでかいのよね……。
「久しぶり、じゃないよね。昨日も、会ったし」
「……あぁ、そうだな」
なんて、下らん事でも考えていなければ落ち着いていられない。ざわざわと風で揺れる木々の音に隠れて、心が波を立て始める。最近はよく働くようになった敏感どころか過敏なセンサーが反応を示し、がんがんと急かすように危険だと音を掻き鳴らす。
「……雪ノ下さんと、仲、良いの?」
「お前、あれが仲良いように見えるのか」
「あ、あはは、だよね……」
もしそうなら良い眼科を紹介してやろう。大丈夫だ、Go〇gle先生なら何でも知っている。流石にこんな状況での的確な対処法は教えてくれそうにないが。
「でも、さ。前は違ったんじゃない?」
「……それは」
「言ってたじゃん。こうはならなかった、って」
まぁ、あれで勘付かないという俺にとってのご都合展開はある筈もなく。ましてや雪ノ下雪乃が自分と同じような経験をしていると知った今、由比ヶ浜がどう思うのかなんて分からない。でも、嫌な予感だけはしっかりと察知している。
「ねぇ、
「……なんだよ」
「あたしと居るの、楽しくなかった?」
ドクンと心臓が跳ねて、喉が干上がった。
「お、おい、由比ヶ浜……」
「あたしと話すの、退屈だった?」
答えられるか、馬鹿か、答えられる訳が無いだろう。タイミングの問題だ。心の整理がついているかいないかの話だ。俺はあの時みたいに割り切ることを、即座に判断できる強い人間ではない。
「あたしは楽しかったよ、ヒッキーと居るの」
弱くて、惨めで、愚かで、最低で。
「ヒッキーと話すの、凄く楽しくて、全然つまらなく無くて、時間が経つのすっごい早くて……」
馬鹿で、馬鹿で、馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿で馬鹿で。
「あたしだって、ヒッキーと居たかったよ……っ」
「……っ」
本当に何度繰り返しても学ばない馬鹿だった。まさかその結果だけでなく、その後のことまで引っ張っているとは誰が想像できただろう。全くもって盛大な間違いを犯している。どうして皆、俺を切り捨てない。
「……ねぇ、ヒッキー」
どうして。
「奉仕部、って言うんだよね。依頼、受けてくれるんだよね」
「……そう、らしいな」
「じゃあ、私の依頼、受けて欲しいかな」
目が合った彼女の顔は、いつかを彷彿させるような泣きそうな表情で。
「仲直り、したい」
でも、貼り付けた感じなんて微塵も見受けられない笑顔を浮かべながら。
「昔、別れちゃった友達と、仲直りがしたい」
由比ヶ浜結衣は、真摯にその想いを伝えてきた。
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由比ヶ浜結衣という少女。
「……お前、は」
馬鹿なのか、馬鹿なのだろうか、彼女は。こう考えた時にいつも出る結論は同じだ。馬鹿なのは、俺だ。放っておいてくれれば、それで良いのだ。嫌って憎んで完全に関わりを絶ってくれれば、心置き無く過ごすことが出来たのだ。
「なんで……」
「分かんないの?」
回りくどい言い方はしない。普段は下手に誤魔化したり流されたりするくせに、時々こんな風に圧倒されるほどの強さを見せる。もしくは、俺がそう見えるほどに弱くなっているからか。
「――ヒッキーのこと、好きだからに決まってるじゃん」
比企谷八幡は人の心が分からなくはない。けれども人の気持ちは理解できないと言われ続けた。誰かを好きだと思う気持ちを知らないという事はない。むしろ、その心地良さも辛さも知っている。俺だってそんな感情を、
「分かんねぇよ……」
「っ……」
「なんでだよ、おかしいだろ、だってあの時、俺は」
「おかしくないっ!」
由比ヶ浜が涙混じりの声で叫ぶ。反射的に俯かせていた顔を上げれば、女子としてそれはどうなんだと言わんばかりにぐしゃぐしゃになった由比ヶ浜の顔が、直ぐ目の前まで迫っていた。距離が、近い。
「おかしくないよ、だって、楽しかったよ。嬉しかったよ。嫌じゃなかったよ」
ぎゅっと、由比ヶ浜の手が俺の制服を緩く掴む。その力は少し身を捩れば簡単に振り解けてしまうほど弱い。だからこの行動自体には、何の抑制力もないのだ。俺が本気で抵抗すれば容易く逃げ出せる。そんな簡単なことにすら気付いていないのか、それとも。
「嬉しいんだよ……っ」
「由比ヶ浜……」
決して俺が逃げ出さないと、逃げ出せないと、逃げ出す気がないと知っているからか。
「今もそう。あたし、こんな状況で、こんな風になってて、でも」
ぐいっと、少しでも動けば鼻先が付くほどの至近距離まで引き寄せられて、由比ヶ浜の瞳が目に映る。潤んで霞むそこにぼんやりと漂うのは、ぐらぐらに揺れている自分の姿だ。なくなっていく。否、元から少しも残さずなくなっていた。比企谷八幡を構成する大事な何か。
「ヒッキーと話せて嬉しいって、またこうして顔を合わせられて幸せだって思ってるんだよ……!」
「……ぁ」
遂にはぼろぼろと涙を流しながら、由比ヶ浜はただ只管に
「たしかに、最初は違ったかもしれない。ちょっとした罪悪感とかで、接したのかもしれない、けど」
あぁ、そのままだったら、どれ程幸せだったか。
「今は違うよ。絶対に、違う。だって嫌々付き合ってたらこんなに嬉しくないよ。楽しくないよ。――悲しく、ないよ」
ぐいっと袖口で乱暴に涙を拭い、すんすんと鼻を鳴らしながら、されど決してこちらから目を離さずに。じっと見詰められて、思い浮かぶのは疑問ばかりである。どうして、どうして、どうしてと、半ば思考停止した心が悲鳴を上げていた。時間にして言えばたった数ヶ月の付き合い、それこそ一年にも満たない終わった仲だ。どうして今更、蒸し返すのか。どうしてそこまで、俺に好意を抱いてくれているのか。どうして――俺は、あんなことをしたのだろう。
「っ……俺は、お前に……由比ヶ浜に、迷惑とか、そんなもん、掛けたくなくて……」
「迷惑なんかじゃなかった。全然、そんなの」
「違うんだよ……お前、周りの奴等がどんな反応してたのか覚えてるか?」
似合わない、つり合わない、趣味が悪い、何か弱味でも握られているんじゃないか、むしろ弱味を握って奴隷扱い。人の悪意というものは簡単に膨らむ。俺という存在がそれを加速させる要因だというのも知っている。だから学んで、距離を取って、諦め掛けた先で希望を見つけて、今度こそはと挑んで――繰り返し、繰り返し。
「俺はどう言われようと慣れてる。でも、俺のせいで由比ヶ浜がなんか言われるのは……違うだろ」
「は……、な……に、それ」
「だから俺は、そうならないように」
「どうしてっ」
怒っている? 泣いている? 動揺している? 笑っている? 分からない、分からない。何が何だか、全てがあやふやになっている。
「どうして、そうなるのっ!」
晴れた。何もかもが、明瞭に視界に映る。怒気を携えた由比ヶ浜がより詰め寄って睨んで来た。以前は酷く悲しんだ様子で鋭利に突き刺さってきた台詞が、衝撃を叩き付ける暴力的なものに変わっている。あまりのそれに一歩下がれば、由比ヶ浜は一歩こちらへ近付く。
「周りがどうとか関係無いじゃん! あたしはヒッキーと居たかった! そんでヒッキーも嫌じゃなかったら、それで良いでしょ!」
「そんな、簡単に……」
「それとも、……っ」
――おい、馬鹿。……お前、なんて顔をしてんだよ、由比ヶ浜。やめろ、やめてくれ、頼むから。
「……ヒッキーは、あたしのこと、嫌だった……?」
「――ッ!」
馬鹿が、馬鹿が、馬鹿が馬鹿が馬鹿が馬鹿が馬鹿が。
「……嫌じゃ、ねぇよ」
「だったら!」
頬を思いっきり挟まれて、無理矢理目を合わせられる。抵抗する暇も与えない。直後に由比ヶ浜は息を吸い、まるで校舎中に反響するくらいの大声で。
「勝手に決め付けて一人でどこか行かないでよ! あたしだってそんなの気付いてたよ! でも、それでも、あたしはヒッキーと居たかったよ!」
響いて、轟いて、鳴り渡り。
「……それくらい、ヒッキーのこと好きなんだよ」
その一言と、昼休み終了のチャイムが鳴ったのは同時だった。
◇◆◇
好意を直接伝えられたことは、何度かある。
『いやー、あたし、比企谷のこと結構好きだよ?』
好意を向けられるのが嫌ということではない。ただ純粋に慣れていないのだ。
『そうね、あなたのことは嫌いではないわ』
いつも悪意を受けているから、それ以外の純粋な感情を受け取ると酷く戸惑って、対処出来なくなる。
『まぁ、悪くはない、ですかね』
同時に、自分が好かれて良いような奴ではないと理解しているから、複雑な気分になる。
『意外と気に入ってるんだよ? 君のこと』
俺は誰かを信じたことがない。
『お兄ちゃんのこと好きだよ。あ、今の小町的にポイント――』
既に諦めてしまった。他人を信じて何かをしたところで、何が出来る訳でもないから。故に、比企谷八幡が信じられたのは自分だけだった。最初に決めるのは己であり、最後に決めるのも己である。
「……」
認めてしまえば、今までの自分を否定する事になる。今の自分をも否定する事になってしまう。俺が信じて辿って来た道が間違いだと、そう決定させるのだ。自然と握られた手は、爪が食い込む程に力んでいた。
「由比ヶ浜」
「……」
彼女は黙ってこちらを窺う。表情なんて、言うまでもないだろう。
「っ、ぁ……ぅっ」
言え、早く、時間はとっくに過ぎた、ゆっくりでいい。もう、俺の
「――悪、かった」
ごめんと、彼女は言っていた。自分も悪いのだと、俺にだけ押し付けるのは違うと。違っているのはその考えだ。俺が悪い。俺に押し付けて構わない。それでもきっと比企谷八幡は大丈夫だから。
「俺が、悪かった。だから、その、なん……だ」
駄目だ、拒否反応が凄まじい。一体今更どの面下げてとかそんなレベルではない。……でも。
「由比ヶ浜、俺と」
彼女は、最後まで想いを伝えてくれたから。
「俺と」
元々、原因を作ったのはこっちだった。別れを切り出したのは俺の方なのだ。ならば、それを元に戻す時もこっちからでなければいけないだろうに。
「……仲直り、してくれ」
「ヒッキー」
結局、また、こうなるのか。
「友達ってね、ごめんって言ったらなんて返すと思う?」
「それは……」
「いいよって、そう言うんだよ。だから」
希望に手を伸ばして、今度こそはと意気込んで。
「――いいよ。仲直り、しよっか。
「……あぁ」
比企谷八幡は何度でも繰り返す。
「その、あれだ、いいんじゃねえの」
「なにそれ、捻くれんなし」
その先に、何があるのかも分からないまま。
なんだこの告白シーンと書きながら思いましたが特に気にしないで下さい(タグを見ながら)
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どこまでも彼女が苦手なもの
四度目になるチャイムの音を屋上で聞きながら、隣に座った由比ヶ浜は少し困ったように笑う。
「あはは……、結局五六限サボっちゃったね」
「そうだな……」
なんとなしに返しながら考える。あー、やばい。これ後で平塚先生に殺気ぶつけられる奴だ。下手したら拳で語り合おうなんてこともあるかもしれない。やばい、超やばい、ウケる。むしろ俺のテンションがやばかった。
「まぁ、なんだ。お前はともかく、俺は居ても居なくても特に気付かれないからな」
「またそんな事言う……。てか、一応メールで伝えてあるから」
「……は?」
メールで? 伝えてある? 一体この子は何を言っているのだろうか。信じられないと言った目で由比ヶ浜をじっと見てみれば、彼女は少し焦りながらもこてんと首を傾げる。
「えっと……優美子にさ、ヒッキー連れて保健室行くからって……」
「……二時間連続とかどんな重病人だよ俺は」
「大丈夫大丈夫。ヒッキーいつも顔色悪いし」
全然大丈夫じゃないんだけど。え、というか俺ってそんな顔色悪いの。なんて自分で気付かなかった意外な事実に驚いていると、すくっと立ち上がった由比ヶ浜がぱんぱんと手でスカートをはたく。おい、あまり近くでそういう事をするなよ、変に意識しちゃうだろ。
「よっし、じゃあ行こっか」
「おう、行ってこい」
「何言ってんの? ヒッキーも行くでしょ?」
当然のようにそう言いながらこちらを振り向いて、まるで「この人の頭大丈夫かな?」みたいな視線を向けてくる。これが雪ノ下だったら「なんなのこの人死ぬのかしら」的な酷く冷たいものだったに違いない。全くもって、こういう想像をする自分は、本当に浮かれているのだと自覚した。
「……行くって、どこにだよ」
「えっと、奉仕部? の部室的なところ?」
部室的なところってなんだよ。あそこは多分正真正銘の部室だと思うぞ、恐らく。確実性がまるであるようで無い己の思考に、まぁ入部して数日だからなぁとぼんやり考えながら腰を上げた。
「お前、依頼とかあるのか」
「あー……うん。まぁ、とにかく行くっ」
ほらほらと後ろから由比ヶ浜に押されて、さっさと屋上を後にする。ふと、彼女はこんなにも強引だったろうかと疑問が浮かんだ。未だ忘れていない記憶を引っ張り出してみると、確かに他の誰かと居る時よりかは自分を出していたように思う。しかしながら、それでもここまでのものでは無かった。だとすれば、そう変えてしまうほどの事が、彼女の中であったのか。
「……由比ヶ浜」
「ん? なに、ヒッキー」
自惚れでなければ、それを引き起こしたのは一体誰なのだろうか。
「本当、悪かった」
「……いい。良いよ。
にへらっと笑って由比ヶ浜は答える。その顔は正に、幸せの最中に居るというような表情だった。対する俺はどうだろうか。自分の顔は見ることができない。けれど、もし近くに鏡があって偶然目に入ったとすれば。
「……そうか」
それは大層、気持ち悪い表情をしていただろう。
◇◆◇
がらりと扉を開けて中を覗けば、既に雪ノ下は椅子に座り本を読む体勢であった。ぴくりと反応して顔を上げた彼女と目が合い、しばしの沈黙が訪れた。会うまではそこまででも無かったが、こうして実際に顔を合わせると普通に気まずい。パタンと本を閉じる音で、それが破られる。
「……教室に居ないから、もう帰ったのか来ていないのかと思ったのだけれど」
「あー……まぁ、ちょっと、な」
がしがしと頭をかきながらそう言って誤魔化す。あれをきちんと説明するのはちょっとどころじゃ無いくらいに恥ずかしい。最早羞恥プレイの域である。すっと目を逸らして詳しく話す気は無いと言外に伝えれば、雪ノ下はそれ以上追求はしてこなかった。のだが。
「由比ヶ浜さん?」
「う、うん、えと、あはは……」
「……そう、あぁ、なるほど」
どうやら追求するまでもなく答えを導き出したらしい。うんうんと一通り頷いた後、きっと鋭い視線がこちらを射抜く。思わず肩が跳ねた。や、お前のそれ本当怖いから、慣れる以前の問題だから。とは言え怖さだけなら
「ええ、大体理解したわ」
「雪ノ下さん凄い……」
由比ヶ浜が純粋に驚いている。そんな反応が予想外だったのか、こほんと咳払いをしながらふいっと雪ノ下はそっぽを向いた。
「……ところで、どうしてあなたがここに?」
「あ、えっとね。ここって、生徒のお願いを叶えてくれるとこなんだよね?」
「少し違うかしら。奉仕部はあくまで手助けをするだけ。願いが叶うかどうかはあなた次第」
彼女特有の冷たさが言葉に籠る。しかし由比ヶ浜は気にした様子もなく怪訝な表情で問いかけた。
「どう違うの?」
「飢えた人に魚を与えるか、魚の獲り方を教えるかの違いよ。ボランティアとは本来そうした方法論を与えるもので結果のみを与えるものではないの。自立を促す、というのが一番近いかしら」
たっぷり三秒ほど。由比ヶ浜はぽけーっと話を聞いた状態で固まっておきながら、はっとして口を開いた。
「な、なんかすごいねっ!」
駄目だこいつ、絶対今の話の半分も理解出来てない。目から鱗で納得しましたっ! なんて表情をしている由比ヶ浜を横目に息を吐く。元々彼女の頭が残念だというのは知ってはいたが、こうして期間をあけた後に体感するとより酷くなっているように思えるから不思議だ。
「必ずしもあなたの願いが叶うわけではないけれど、できる限りの手助けはするわ」
「あの、じゃあ……クッキー、作りたいんだけど」
ちらっと俺の方へ視線が向けられる。別に俺はクッキーではない。クラス内で空気扱いだから語感似てるよね、なんてことを由比ヶ浜が考える訳もない。語感という言葉自体を知っているかも怪しいからな。
「えっと、
あぁ、そういう事ね、だから俺の方を見たのか。確かにこれは少し恥ずかしい。周りの空気に敏感なぼっちのくせに読み取れなかった俺の失態だ。あ、由比ヶ浜と関係修復したからぼっちじゃなくなったのか。だが長年鍛え上げたぼっちスキルがこの程度で失われる筈がないと信じたい。
「料理とか、その、あまり得意じゃなくて……」
「そういう事なら構わないけれど」
はぁ、由比ヶ浜が料理。思い返してみればたしかに彼女は手作りのものを振る舞ったりはしなかったし、何かそういうことを言いもしなかった。バレンタインとか来る前にああなってしまったから、チョコレートや何かがどうだったのかも知らないのである。……どうしても今、由比ヶ浜のことを考えると行き着く先が黒歴史になるのは不具合かなにかかな?
「なら、家庭科室を借りるのが良いでしょうね」
「あ、うん。だってさ、ヒッキー」
「あ? お、おう。そうだな」
流れで肯定すれば、じろっと二人から一気に視線を貰う。感じからするにどちらも良いものでは無い。なんとなく、悪くも無いのは分かるが。
「あなた、話を聞いていたかしら」
「……聞いてたから、睨むな。クッキー作るんだろ」
「それなら良いわ。家庭科室へ行きましょう」
栞を挟んだ本を机に置きながら、雪ノ下が立ち上がって言う。続くようにして由比ヶ浜もさっと腰を上げ、たたっとこちらに近寄ってきた。え、なに、唐突に何のよう? と困惑していれば、目の前まで来た由比ヶ浜にだらんと下げていた右手をがっしと掴まれ、ぐいぐいと引っ張られる。
「おい、ちょ、待っ」
「ほら、ヒッキーも行くよ!」
「分かった。分かったから、引っ張るなよ……」
教室を出れば先頭に雪ノ下、後を追うように由比ヶ浜、最後尾に俺がつく。ところであの、由比ヶ浜さん? 自然となってるけど手を繋ぐ必要性とかありましたかね。俺分かったって言ったんだけど。……結局、そう思いながらも自分から振り解かない俺も俺だ。
「……本当、何がしたいんだろうな、俺」
ぼそりと呟いた言葉は、けれども、ずっと気楽に吐けていた。比企谷八幡は人として弱い。一人になろうとしてなり切れないくらいには弱い。だから、こうして居たいと思える相手と過ごす時、心に刻み込むのだ。
今度こそは、上手くやる。
そう、今度こそは。
――今度こそは。
少し間をあけて申し訳ありません。以下言い訳ですので読み飛ばしてもらって構いません。
元々拙作はさっさとヒロイン全員出して適当に終わらせようとペンを走らせていたのですが、ふと見てみれば予想以上の方に読んでもらえていることを知り「このままではやべぇ」と。
流石にこれで原作一巻打ち切りendでは不味いので、プロットを書き換えて終わりまでの構成がなんとか完成しましたので、こうして投稿を再開した次第です。
正直だらだらと長く続けてしまうとエタるのかもしれないので、気力のあるうちに書いて完結まで持っていきたいと思います。
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彼と彼女らの始まり
「これでよしっと……」
エプロンを着けてそう言い、由比ヶ浜はふんすとやる気に満ちた表情で袖を捲る。その姿をちらりと見て小さくため息を吐いたのは雪ノ下だ。やれやれとでも言いたげに首を振りながらすたすたと近付き、由比ヶ浜のエプロンを優しく掴む。
「曲がっているわ。あなた、エプロンもまともに着られないの?」
「エ、エプロンくらい着られるよっ! ……ごめん、ありがと」
何だかんだ言って、雪ノ下雪乃は優しい。態度や言い方は厳しいが、相手を思いやる気持ちが無い訳ではないのだ。そうでなければ、こんな性根から腐ってそうな自分と進んで関わらないだろう。加えるなら、そんな馬鹿の幸せを願うことすら無いだろうに。
「な、なんか、雪ノ下さん。お姉ちゃんみたいだね」
「私の妹ならこんな出来が悪いわけないのだけれどね……」
だろうな、と一人胸中で納得する。雪ノ下と聞いただけで優秀そうだなーとか思うくらいには、優れた者という印象は強い。しかしながら妹である雪ノ下をして姉っぽいとは、果たしてどうなのだろうか。そう、妹だ。雪ノ下雪乃には、印象通りに
『無理だよ、君は。一人でなんて、そんな人間じゃないんだから』
不意にその言葉を思い出して、不思議なくらいに軽くすとんと飲み込めた。結局のところ、あの人の言った通りになったというのにだ。下手すれば出会った時から、俺の本質を見抜いていたのかもしれない。存外分かりやすいとか言われてますし。
「ねぇ、ヒッキー」
「あ?」
ぼうっとその光景を見ながら考え事をしていれば、由比ヶ浜に呼ばれて意識を戻す。案外近くまで寄っていた事実に驚きながらも問い返せば、視線を左右に泳がせ、恥ずかしげに頬をかき、つんつんと胸の前で人差し指を合わせる動作を三セット。なにそれ、悪魔かなにかを召喚する儀式?
「か、家庭的な女の子って……どう?」
「……別に、良いんじゃねえの。料理が出来て損する事は無いだろうし」
「そ、そっか……」
それを聞いた由比ヶ浜は緩く、安心したように微笑んでから、ぐっと握り込んだ両の拳をふんすと構える。
「よっし、やるぞー」
随分と気合いの入っているようで、これなら雪ノ下もスムーズに教えられるだろう。やる気があるのはいい事だ。そんな中で大体やる気の無い俺は事実思考回路もぼっち化している。うん、やはりこれはそう簡単に無くなるものではない。変な安堵感に包まれながら、黙って椅子に座り待つことにした。
◇◆◇
結果から言うと、由比ヶ浜の作ったクッキーは最早クッキーとは呼べない代物へと変貌していた。
「あ、あれー……?」
なんで? という風に皿の上の物体X(黒色)を見つめる由比ヶ浜。そんなに視線を浴びせても魔法みたいにぽんと変わるなんて事はないぞ。
「どうしてかしら……普通、あれだけのミスを重ねに重ねられるわけが……」
小さくぽつりと雪ノ下が呟く。小声なあたりが本気の本気でやばいということをしっかりと伝えてきた。恐る恐るもう一度、まるでホームセンターに売ってある炭のように黒い
「……一つ、貰うぞ」
「えっ!? あ、うん。良い、けど、ヒッキー……?」
「……まぁ、食べてみなければ分からないものね」
「雪ノ下さん……」
「何が問題なのか知らなければ対処できないし、知るためには危険を冒すのも致し方ないことよ」
「……じゃ、じゃあ、私も」
三人がそれぞれ一つずつ黒いクッキーをつまみ、口の近くまで運んでからお互いを見やる。こくりと頷いてから、一斉に食べた。
「「「……苦い」」」
初めて心が一つになった瞬間だった。
◇◆◇
雪ノ下の淹れた紅茶を一気に飲み下し、口の中の苦味を流していく。紅茶自体の美味しさが中中なもので美味さ半減だが、今はそれで十分だ。由比ヶ浜の作ったクッキーは絶妙な苦味と不味さを携えており、漫画のように気絶することはないが、むしろ気絶した方が幸せなんじゃないかと思わせるモノだった。結論、劇物。
「うぇ、苦い……不味い……」
「なるべく噛まずに飲み込んだ方がいいわ。劇薬みたいなものだから」
ずばっと言っているが正にその通りである。これ原材料何使ってんだ木炭とかじゃないの? と思考するくらいにやばかった。一通り落ち着いてから集まり、雪ノ下が切り出す。
「では、どうすれば良いか考えましょうか」
「……由比ヶ浜、料理、やめないか?」
「全否定!?」
「比企谷くん。それは最後の解決方法よ」
「それで解決するんだ!?」
がっくりと肩を落として深いため息をつく由比ヶ浜。いやこれ本当一種の才能かもしれない。お米研ぐ時とか洗剤入れちゃいそう。料理下手な奴でももっと上手くやれるぞ。
「レシピ通りにやれば上手くいく筈なのだけれど……」
「うーん……隠し味とかあった方が美味しいと思ったんだけど……」
「気持ちは分かるが基礎が出来てないのにアレンジ加えるなよ……」
「うっ……」
すっと俺の指摘に由比ヶ浜が目を逸らす。まぁ結果を見る限りではそれだけじゃ無いんですけどね。めっちゃ焦げてるし。仕方なしと息を吐いて、ぼりぼりと頭をかく。
「まぁ、なんつうの。お前のそういう気持ちは十分伝わるし……余計なもん無くても、良いと思うぞ」
「……そっか。うん、そうなんだ」
あ、やばい超恥ずかしい何これらしくないし何よりなんか気持ち悪い。今すぐ自室の布団に包まって叫びながらごろごろと転がりたい。脳内で激しい羞恥心に襲われていれば、気を取り直したのか立ち上がった由比ヶ浜が今一度よしっと呟いた。
「もう一回。今度こそ」
――今度こそ。
「……おう、頑張れ」
「うん、頑張る」
にこっと笑ってそう答えながら、由比ヶ浜は雪ノ下へと頭を下げていた。若干戸惑った様子でそれを見ていた雪ノ下だが、こめかみに手を当てて本日何度目か分からないため息を吐いたことで決着したと思われる。厳しいが優しいあいつなら、本気の由比ヶ浜を断る事はしないだろう。
「軽くやり方を教えるから、その通りにして」
「……そ、それで大丈夫なんだよね?」
「ええ、レシピ通りにやれば」
少し前までの由比ヶ浜結衣という少女は、ここまで自分を出せる人間では無かった。誰かと合わせて、流されて、揺らぎやすい普通の女子高生だった。それを歪めてしまったのは、一体どこのどいつなのだろうか。
「……それは流石に自惚れすぎだな。馬鹿だろ」
はっと自嘲して窓の外を眺める。調子に乗るな、俺はどこまで行っても俺でしかない。それを忘れてはいけない。二度と間違えないと決めて、必死に歩んできた比企谷八幡だ。ならば、希望を持つと決めたのなら。
「気を張らなきゃ、な」
大丈夫だ、周囲に気を配るのは慣れている。ぼっちとして身に付けたスキルは未だ健在だ。現状に甘えて繰り返すなど、そんなことはしない。絶対に。
◇◆◇
「で、出来た……」
都合三度目の焼き上がり、二回の失敗を経て由比ヶ浜の
「やっとね……」
おぉっと目を輝かせる由比ヶ浜とは反対に、雪ノ下はげっそりと気力を持っていかれたような顔をしていた。確かに作業中の彼女の大変さは傍から見ていても分かるくらいで、何かと失敗しそうになる由比ヶ浜のフォローは見事なものだったと言える。
「えっと、その、ど、どうぞ、ヒッキー」
「あ、お、おう」
そっと差し出して来る由比ヶ浜の言葉は歯切れが悪く、思わず俺まで吃って返事をしてしまった。だが気にしては進まない。そっとクッキーを摘んで、さっさと口に放り込む。一度、二度と咀嚼しながら舌で味わってごくりと嚥下した。
「……あぁ、うん。良いんじゃねぇの、多分」
「えっと、それは駄目だった的なカンジ……?」
「あ、や、違くてだな。その、なんつうの、普通に上手いから心配すんな」
「ほ、ほんとにっ!」
答えを聞いてばっと顔を上げた由比ヶ浜が一つ、見守っていた雪ノ下が断りを入れて一つ、食べてから顔を見合わせる。
「確かに最初と比べれば随分良くなったわね」
「うん! なんか美味しい! ありがと雪ノ下さん!」
「ちょ、ゆ、由比ヶ浜さん? 抱き着かないで貰えるかしら」
がばっと感極まった由比ヶ浜に抱き着かれ、雪ノ下が嫌そうな顔で対応する。その割に無理矢理離れようとはしてないので、放っておいて大丈夫だろう。俺はもう一つクッキーを手に取り口へ放った。味わう。しっかり、しっかりと。これが俺と由比ヶ浜の仲直りの味であり、恐らくは何度目になるかも分からないリスタートの味だ。そう思うと、不思議と先程よりも美味しく感じられた。
◇◆◇
それから暫くして時計を見れば完全下校時刻まであと少しであり、俺たちは家庭科室から部室まで戻って来ていた。ちなみに鍵を返しにいくついでに教室に置いたままだった荷物を持って来た訳だが、由比ヶ浜はそれをすっかり忘れていたらしく、入れ替わりで教室に走っていった。去り際の台詞は「ヒッキー待っててよ! 一緒に帰るんだから」とのこと。いやそんな約束したつもりないし廊下は歩きなさい。とまぁ、結果として、ここには雪ノ下と二人っきりになったのだが。
「比企谷くん」
「なんだよ」
「また繰り返すのかしら」
唐突に、そんなことを問い掛けてきた。
「……違ぇよ。今度こそは、な」
「上手くいくとでも?」
「いや、上手くいかせ――てお前、なに笑ってんの」
ふと違和感に気付いてちらりと見れば、くすくすと雪ノ下は唇を歪めて静かに笑っていた。物凄いデジャヴだ。最近妹にも同じ反応をされた記憶がある。一体なんだというのか。俺の周りの奴等はそんなに俺が誰かと接するのが面白くて堪らないの?
「いえ、ごめんなさい。……やはり、嬉しいものね」
「意味分かんねぇ……」
「そういうものよ。大体、人の心を完璧に理解することなんて不可能だわ」
人の気持ちを知れと言ってきたのはお前だったと思うんだが。
「結局まだ諦めてないのでしょう?」
「……らしいな、俺は」
「なら、いいわ。その方がずっと」
分かったように言ってくれる。どれだけの苦悩の末にこうなったのかも知らないで、とは言えない。どうせ彼女なら
「以前までのあなたの目、見るに耐えなかったもの」
「じゃあ、なんだ。今はそうでも無いのか」
「……そうね」
夕陽に照らされた教室では、雪ノ下の顔を鮮明に窺うことはできなかった。所々影がさしていて暗くもあり、光が当たって眩しくもある。ただ、それでも。
「――今のあなたは嫌いではないわ」
その時の雪ノ下は、微かに優しげな表情をしていたように思えた。
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眠気と気分と通話中
「でさー、本当面白くてねー」
「あの、えぇ、それは分かったから。その、由比ヶ浜さん? 近いわ、距離が」
「えー、そんなことないって。ゆきのん」
「ゆき……? ちょっと、その呼び方は何なのかしら」
楽しげに話す雪ノ下と由比ヶ浜の後ろを、ぼうっと虚空を見つめながら歩く。あれから数日、何故かというか本人の要望により奉仕部へと入った由比ヶ浜は瞬く間に雪ノ下と打ち解け、二人で微妙な空気の漂っていた部室はほんのりとした穏やかさを持ち始めていた。
「いいじゃんゆきのん。可愛いし」
「いえ、気持ち悪いからやめてくれるかしら」
「ちょ、ゆきのんひどっ! ねぇ、ヒッキーはどう思う?」
「あ? ……あー、まぁ、なんだ、良いんじゃねえの」
唐突に話を振られて適当に返す。雪ノ下からのどうにかしろとの視線はスルーしておいた。分からない分からない、こんな凍える様なものなんて分からない。しかしながらその生返事を由比ヶ浜は感じ取ったようで、あからさまに息を吐きながらじとーっとした目を向けてくる。
「ヒッキーてきとー過ぎるし……」
「諦めなさい由比ヶ浜さん。この男は元々適当さもとい人間的に駄目な要素を詰め込んでいる人間よ」
「そこまで酷くねぇよ……」
我ながら恐らくそんなにでは無いだろうと希望的観測をしておく。俺だって駄目じゃない要素がどこかにはある筈なのだ。例えば、そう、つまり、あの、なんだ、えっと。……あれ、思い付かないんだけど。
「まぁ、ヒッキーはなんだかんだで優しいよね」
「そのなんだかんだに問題があると思うのだけれどね」
「なんだかんだって何だよ」
好き勝手言ってくれる女性陣の横をスタスタと通り抜け、見えてきた部室の扉まで早歩きで進んでいく。なんだか余計な傷を作りそうだと本能が囁いたのだ。ならば従っておいて損は無い。がらがらと無造作に開いて中へ足を踏み入れば――
「うぉっ……」
不意に風が吹いて、ばさばさと大量の白いプリントが宙を舞う。この海辺に立つ学校特有の風向きで、潮風特有の匂いだった。まるで手品か何かのように白い紙が撒き散らされた教室の中、妙に見覚えのある出来るだけ視界に収めたくない男が居るような気がする。
「ふ」
にぃと、口元が引き攣る。
「ふふ、ククク、まさかこんな所で会うとはな。――待ち侘びたぞ、比企谷八幡」
「……矛盾してるからな、材木座」
まぁ、こんな大胆でボス的な登場を実際にやってのけて痛い奴、つまるところの中二病患者がこいつ――材木座義輝だ。はは、俺も若い時はあれくらい痛かったのかなぁ……なんて心を抉られそうになるのは経験した者にしか分かるまい。折本に爆笑されたのは今となっては思い出したくない良い思い出だ。
◇◆◇
材木座の依頼は、要約すると「小説書いたので読んで感想ください。ネット? 怖いからやだ」とのことだった。絶対ネットよりも雪ノ下の方が厳しい評価を下すだろう事は分かっていたが、何事も経験だ。一度あいつの毒舌にズタボロにされていれば以後叩かれても強く在れるだろう。というのが今適当にでっち上げた流されるがままに流された自分の思考である。
「やべぇ……眠ぃ……長ぇ……つまんねぇ……」
絶賛徹夜で材木座の小説を読んでいるのだが、もう限界が近い。無理。これあと半分くらい残ってるんだけど……。ペラペラと適当に捲ってそのままばーっと投げ捨てたくなる気持ちを抑えながら一枚一枚読んでいく。何はともあれ一生懸命書いたものなのだろうから、読まなくては失礼……いやでも材木座だしなぁ、大丈夫かなぁ。なんてぐらっぐらに体も心も揺れ始めた時だ。
「ん? ……電話、誰だ……」
普段ならば絶対に鳴らないであろう携帯が着信のサウンドを奏でる。小町は家に居る、というかもう寝てる。だとすれば俺へと電話をかけてくる知人なんて数える程もいない。言ってしまえばゼロ。ゼロから始めるぼっち生活、なんつって。と深夜の変に高いテンションで携帯を引っ掴み通話ボタンを押した。
「うす」
『もしもし、今、大丈夫かしら』
電話越しの声はどこか、というか最近随分と聞き覚えのある声だった。
「……雪ノ下か」
『ええ、そうだけれど』
「お前、俺の電話番号どこで……あぁいや、そういや教えてたな……」
『それすらも忘れていたの?』
はぁ、という溜め息が聞こえてくる。本当にすっかりと頭から抜け落ちていた。大体あれから電話もメールも何も連絡は取らなかったのだから、とっくの昔に消して忘れているだろうと。予想に反してこの通り残しておいたようだが。
「で、何の用だよ。俺は今材木座の小説を読んでるんだが」
『まだ読み終わって無かったの?』
「……お前は終わったのかよ」
『えぇ、つい、さっき……ね……ふぁ』
眠そうにあくびを漏らす雪ノ下は普段なら考えられない。本気でお疲れモードみたいだ。ちらりと時計を見てみれば既に時刻は夜中の二時を回っている。ニートにとってはここからが本番だ。学生はとっくに床へついておくべき時間である。
『ごめんなさい。……あとどれくらいなの?』
「半分くらいだな」
『そう……頑張りなさい』
「お前は……お疲れ様、だな」
俺もなかなか疲れているのだが、一応労いの言葉くらいはかけておいた方が良いだろう。思えばこの時の俺は眠気と深夜のアレな気分でおかしくなっていた。気付いたのは勿論翌日になってからだ。
『あら、やけに捻くれていないわね。電波が悪いのかしら』
「それはどういう意味だ」
『ふふ、冗談よ。……ねぇ、比企谷くん』
「なんだよ」
携帯を耳に押し当てながら原稿用紙をぺらぺらと捲っていく。眠気の方は雪ノ下のお陰でなんとかなっているが、つまらなさはどうしようもない。材木座が実力を上げる他ない。
『私はいつでも構わないわ』
「……」
ぴたりと、手が止まる。
「雪ノ下、それは……」
『あなたから折れるのであれば、それもまた良しということよ。いつまでも意地を張ってはいられないもの』
「……なんか、変わったか、お前」
『誰のせいなのかを考えてみなさい』
珍しく、本当に珍しく、雪ノ下雪乃は答えをそのまま叩き付けてきた。優しいということは知っている。だが彼女は同時に厳しくもある人間だ。答えへ繋がる道筋を示そうが、その先の答えを自分から告げることは殆ど無いと言ってもいい。
「らしくない、な」
『少し疲れているの。これくらい良いでしょう?』
「そういうもんかね……」
『そういうものよ』
由比ヶ浜だけではない。雪ノ下のこの変化にも、少なからず関わっている。自分はそんな大層な人間ではない。本当にそう、誰かに変化を促すほどの人間ではないのだ。むしろ誰かから変化を促されていた。近くあった例でいうなら、由比ヶ浜がそれだろう。
『それに今のあなたもらしくないでしょう』
「いや、それは、あれだ。眠気とかでな」
『なら私も同じよ』
「……お前な」
くすくすと、雪ノ下が笑う。それに俺は苦笑で返して、止めていた手を再度動かし始める。不思議なものだ。夜に部活動関連のことをしながら、その部活仲間と電話など、ぼっちには考えられないくらい青春をしていると言えるな。人間強度が著しく下がっていた。元々そんなに強い訳ではないが。
『っ……、そう、ね。もうそろそろ、寝るわ」
「おう、そうか。じゃあ、な……おやすみ」
『えぇ、おやすみ』
プツン、とそこで通話は途切れ、ふと静寂が訪れる。僅かに感じた寂しさを誤魔化すように欠伸を一つしながら、意識を材木座の小説に戻した。結局全て読み終わり布団を被ったのは、四時を過ぎた頃だった。
◇◆◇
「で、これなんのパクリだ?」
「ぐふぉっ」
「あなたがトドメをさしているじゃない……」
「ヒッキー」
気持ち悪い声を上げながら崩れ落ちる材木座を見ながら少し言い過ぎたかと思うも、どうせ材木座だから良いかと切り捨てた。俺と奴の関係なんてそんなもので、特別仲良くしている訳でも絶対に裏切らないという確信があるのでもない。そういうのは、
「……? なにかしら、比企谷くん」
「いや、なんでもない」
それでも結局裏切ってしまっては元も子もないのだ。
「……悪い」
「それは何のことを言っているのかしら」
「色々だよ」
「ならもっときちんと謝ることね」
そりゃそうだ、と自嘲しながらそっぽを向く。いつか雪ノ下とも、きちんとやらなければならない。それは理解している。けれども、まだ。
「……また、読んでくれるか」
このぬるま湯に浸かっていたいと思うのは、間違っていない。行動自体は間違っているけれど。
「あぁ、読むよ」
覚悟を決めなければならない。
――俺の生涯で一人の親友相当にあたる彼女と、距離を戻す覚悟を。
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彼女みたいな彼の事情
誰かの顔色を窺って、ご機嫌をとって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情は、本当に友情と言って良いのだろうか。俺はそう思わない。そんな面倒臭い過程を青春と呼ぶのなら、俺はそんなもの要らない。故にこそ、思う。
『まるで死んだ魚のような目ね』
『うるさい残念毒舌雪女』
顔色なんて気にもせず、機嫌はむしろ悪化させることが殆どで、連絡もぼちぼち、話はドッヂボールじみた殴り合い、それで繋ぎとめられていた友情は果たして真の友情なのだろうか。
『あら? こんなことも出来ないの?』
『むしろお前は俺に出来ると思ってたのか?』
『いえ、全然』
『そこはお世辞でも少しとか言えよ』
『私、暴言も失言も吐くけれど、虚言だけは吐いたことがないの』
『嫌なセリフだなおい』
マジ四六時中こんな感じだった。もうノーガードで殴り合ってる状態。ただし人間的スペックの差で俺が一方的にやられていたような気もする。仕方ないね、男子と女子が言い合いになって勝てる訳もない。相手が雪ノ下雪乃なら尚更だ。
『……あ』
『……っ』
『や、すまん。これはマグレだ。マジで。ほら、俺が雪ノ下に勝つなんてのは』
『えぇ、えぇ。分かってる、分かっているわ。だからさっさとラケットを構えなさい比企谷くん……?』
『目が本気だよ怖ーよお前テニスで殺意向けんなよ……』
時折負けず嫌いな彼女に勝ってしまった場合は本当に大変だった。否定する気もなくなるくらい必死の形相を向けてくるのだ。怖くて怖くて仕方なくもう一度。結果として俺はフルボッコにされ、雪ノ下は小さくガッツポーズをとる。その光景を見る度に、思っていた。
こんな風に過ごすのも悪くない、と。
『……なぁ、雪ノ下』
『なにかしら、比企谷くん』
『お前、友達とかいるのか?』
『先ず友達という定義がどこからどこまでを言うのかを決め――』
『あー、もういい。なんとなく分かったから』
出会い方からしてあまり良い印象は持たなかった。態度を見て一切の好意を持たなかった。口調からして仲良く出来る訳がないと思った。性格を知ってこいつとは馬が合わないと確信していた。
『でも、そうね』
『あ?』
『一人、友達と思ってもいい人間ならいるわ』
『……へぇ、そうか』
実際に接して、こいつならと思い始めていた。
『そういうあなたはどうなの?』
『俺はほら、孤高を極めしぼっちだから』
『いいからさっさと答えなさい』
『……一人、いるよ。友達みたいな奴が』
雪ノ下雪乃は、俺の人生にして初の友人である。
『――』
『――っ』
『……お前は違うのか?』
『……そう、なら、もういいわ』
『あぁ、もういいだろ』
同時に、数少ない俺という人間の理解者であった。
『――馬鹿ね』
『……、』
馬鹿でいい。実際に俺は、大馬鹿野郎だったのだから。
『……これで、いい』
雪ノ下雪乃に、下手な誤魔化しが通用する筈がないということを忘れていた大馬鹿野郎だ。
◇◆◇
昼休み。いつもの昼食スポット、特別棟一階の保健室横、位置的に購買の斜め後ろが俺の安息の地即ちベストプレイスである。いやーまじ安らぐ。世間の荒波とか社会の厳しさとか現実の辛さでぼろぼろになった体がとても回復する。ぼうっとなんでもない景色を眺めながら、購買で買った適当なパンを食んで咀嚼した。
「……なんつーか、なぁ」
ぽつりと言葉を漏らしてから、瞬時に嫌気がさしてがりがりと頭をかく。駄目だ駄目だ、あの一件以来着々とぼっち
「これもあれだな。由比ヶ浜のせいだな」
「へっ!?」
返ってくる筈のない反応が返ってきた。驚いて後ろを振り向けば、由比ヶ浜が吹いてくる風で捲れそうになるスカートを抑えながら立っている。
「な、なんでヒッキー分かったの……? 変態?」
「いや馬鹿違ぇから。ただの偶然だから」
「え、そ、それは、えと……ひ、ヒッキーがあたしの名前を偶然言ってたって……こと?」
確かにそうだけれど何か言葉に語弊があるようなのは気のせいだろうか。とにもかくにも一先ずそれは置いておき、残っていたパンを口に放り込んでから由比ヶ浜に問いかける。
「んぐっ……。で、なんでここにいんだよ」
「あ、うん。実はね、ゆきのんとジャンケンして罰ゲームって奴でね」
「……俺と話すことがですか」
なにそれちょっと昔の黒歴史掘り起こしそうなんでやめてもらえますかごめんなさい。おいふざけんなこれも歴とした黒歴史なんですけど? と一人脳内負のスパイラルを繰り広げる俺に、ぶんぶんと由比ヶ浜は手を振って言ってくる。
「違うって。もう、ヒッキーはそんなだからゆきのんに色々言われるんだよ」
「別にいいだろ、それは。てかじゃあなんだよ」
「ジュース買ってくるってやつ。ついでにヒッキー居るかなーと思って来たらほら、あんじょうの?」
「案の定な。あんじょうのってなんだよ」
「わっ、分かってたし! ちょっと言い間違えただけじゃん!」
いや絶対分かってなかっただろお前、とは言わなかった。言ってもどうしようもない。由比ヶ浜の頭は由比ヶ浜自身がどうにかするか雪ノ下にどうにかしてもらうかしないとなぁ……それでも駄目ならもう無理だ。やべぇ由比ヶ浜さんマジぱねぇ。と内心友人にビビっていると近くまで来た由比ヶ浜がほえっと声を上げた。見ればテニス部であろう女子がラケット片手にこちらに歩いてきている。
「おー、さいちゃん。練習?」
「うん。うちの部、すっごい弱いから……。お昼も練習させて下さいってお願いしてて、やっとOKでたんだ。由比ヶ浜さんと比企谷くんは?」
「ん? ちょっとした、なんてーの? 世間話?」
言いながらちらっと由比ヶ浜はこちらを見る。さっきまでの会話に世間的な要素は無かったと思うんですが……。むしろ馬鹿話といった方が近い。由比ヶ浜の受け答え的にも、というのは流石に酷いか。
「そうなんだ」
さいちゃんと呼ばれる女子がくすりと笑う。
「さいちゃん授業でもテニスやってるのに大変だねー」
「ううん、好きでやってることだし。そう言えば比企谷くん、テニスうまいよね」
突然話を振られて思わず戸惑う。は? 俺? どうしてこの子がそんなことを知っているのだろうか。不思議に思いながらも無視するのは忍びない。
「あ、おう、さんきゅ。……で、誰?」
最後の方は由比ヶ浜だけに聞こえるよう小さく呟いておく。
「……そういうところだよヒッキー。同じクラスでしょ。てか体育一緒じゃん。覚えてないの?」
「は? お前女子と男子じゃ体育違うだろ」
「あはは……やっぱりぼくの名前覚えてないよね。戸塚彩加です、一応、男子なんだけど……」
……マジか。驚きで頭の天辺から爪先までジロジロっと見てしまう。綺麗な髪、可愛げのある顔、華奢な体躯、若干高めの声――だが男だ。そんな俺の視線を受けた戸塚はというと。
「あ、あんまりそんな見ないで欲しいかな。ちょっと、恥ずかしい」
「……あー、すまん。不躾だった」
「う、ううん。大丈夫」
なんだこの天使。大天使。もっと早く彼女げふんげふん彼と出会えていれば、さぞ素敵な関係を築けていたかもしれない。くそっ、神様の馬鹿野郎。俺が希望を持ち続けた廃れていないあの時期に何故戸塚と出会わせなかった……ッ!
「てか、ヒッキーってテニス上手いんだ」
「うん。こう、フォームが綺麗なんだよ」
「……まぁ、ちょっとやった事あるからな」
こう言ってはなんだが、ある程度上手いのは当たり前である。何故ならばテニスは彼女直々に教わったのだ。そこそこになっていなくては許されない。尤も今はそうでも無いだろうが。いや本当テニスとか最近まともにやってないもんなー相手がいないからなー。
『その程度かしら比企谷くん。男子として恥ずかしくないの?』
『うるせぇ……経験者が、手ぇ抜けよ……』
『私、自分で言うのもなんだけれど負けず嫌いなの』
『んなこと知ってるわ……』
あれは、やばかった。雪ノ下はSだ。スパルタのSでありサディスティックのSでもある。こんなことを目の前で言ったらそりゃもうどうなるかは彼女のみぞ知る。下手なことは言えない。今だと余計に。
「そうなんだ。やっぱり経験者?」
「言っても遊びみたいなもんで、部活とかそういうしっかりした奴じゃないけどな」
「ヒッキーがテニス上手いの意外かも」
俺がテニスとか本当想像が難しすぎてレイトン教授の謎解きに抜擢されそう。どっちかって言うとマリオテニスの方がやってて不思議じゃない。なんて考えていたところに、昼休み終了を告げるチャイムが鳴る。
「戻ろっか」
「そだね」
戸塚が言って由比ヶ浜が続く。こういう時に自分が付いて行って良いのかどうか悩むのは、まだ俺の精神がぼっちである証拠だろう。すくっと立ち上がってぼうっとする俺へ、くるりと振り向いた由比ヶ浜が笑いながら声をかけてきた。
「ヒッキーもほら、行くよ」
だからこういう彼女の気遣いに、ほんの少し嬉しくなってしまうのも仕方ないのだ。代わりと言ってはなんだが、一つ言っておこう。
「由比ヶ浜。お前、雪ノ下のジュースは?」
「へ? ――あっ!」
その日の放課後、雪ノ下の機嫌が少し悪く感じられたのは気のせいではないだろう。
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彼の依頼は庭球
それは数日後の体育の時間だった。テニス選択者である俺はいつも通りに壁と向かい合ってぽんぽんとボールを打ち続ける。ははっ、よう壁。今日は随分と調子が良さそうだな。なんて一人芝居状態の己に悲しさがあるかと言われれば気にしてないので大丈夫である。むしろぼっちとしての精神力を鍛えるのに良いトレーニングだ。ぽんぽんぽぽぽぽーんと挨拶するたび笑顔が増えそうな音を響かせていると、不意に右肩をつつかれる。
「……ん?」
一体誰だ、俺に話しかける奴なんて居たか。考えてみたが生憎一人も思い浮かばない。唯一ほんの少しミジンコ程度の可能性を持つ材木座は他の種目を選んでいるので居ないだろう。とすれば、こんなぼっちに話し掛ける物好きか人違いか。その場合非常に面倒臭い。違いますよー俺はあなたの探してる人じゃないですよーとくるり振り向いてみたところへ、右頬にぷすりと指が突き刺さる。
「あは、ひっかかった」
そう言って可愛く笑うのは戸塚彩加だ。やべぇ、予想外に顔見知りだった。こういう時にどんな対処の仕方をすれば良いのだろう。分からない分からない、ぼっちの俺には分からない。むしろ分からないことだらけで分かることなんて殆ど無い。それが俺という人間である。と流れで暗いオーラを垂れ流しそうな思考を打ち切って、ゆるく戸塚へ話しかける。
「どした?」
全然ゆるくなかった。むしろ威圧感を発している気すらする。俺の脳内イメージでは「どうしたんだい戸塚、そんな可愛い顔をして」ぐらいのものだったんだが。やだ全然キャラに合ってなさすぎる。もうちょっと自分に似せる努力をしろよ。
「うん、今日さ、いつもペア組んでる子が休みでね……だから、その、よかったらぼくと……やらない?」
正直キュンとした。仕方が無いと思う。ぶっちゃけ俺の周りに居た女子はこんな可愛い反応を示したことなんてない。思い返して、思い返して、思い返して――。
『あっはっは! マジウケる!』
『あなた大丈夫? 頭とか目とか
『ヒッキー、それはちょっとキモい……』
『すいませんそれは無理ですごめんなさい』
『比企谷くんつまんなーい』
……やっべ、俺もしかして周りの人から日常的にボコられてる? そう思ってしまうくらいの記憶だった。言ってしまえば抽出した台詞がだめだった。しかもどれが誰だか分かってしまうから余計に質が悪い。いや大丈夫最後二人は暫く顔も合わせてないから。フラグとかじゃないから、大丈夫な筈だから。
「あぁ、いいよ、俺も一人だったし」
おぉ、今度は少し爽やか気味に言えた。無論似合わないのは百も承知だが。雪ノ下に見られてたら酷い言われようだろうなぁ……、なんて考えながら戸塚と向き合って打ち始める。雪ノ下直伝テニス術は既に影も形もないくらいになまっているが、それでも一度はマグレで彼女相手に一セット取ったのだ。そこそこは出来ていると思いたい。
「やっぱり比企谷くん、上手だねー」
「そうか? なら良いんだけどなー」
「うんうん。自信持って良いと思うよー」
間延びした声と共にぽーんぽーんとラリーを続ける。時折こちらのミスで若干逸れながらも、戸塚は上手くそれを拾っていた。俺は特に苦労することなく打ち返せているところを見るに、流石はテニス部員である。本当戸塚マジ天使。などと思ったところでぽーんと跳ねたボールを戸塚がキャッチする。
「少し休憩しよっか」
「おう」
息を吐きながら座る。と、戸塚は態々俺の横まで来て腰を下ろした。え? ちょっと近くない? 最近の男子高校生ってこんなものなの? スキンシップやばくない? こりゃ腐女子が大量生産される訳だと我ながら酷いやっつけをしながら力を抜く。
「あのね、比企谷くんに相談があるんだけど……」
「……相談、ねぇ」
「うん。実は――」
◇◆◇
戸塚からの相談とは、俺にテニス部に入らないかという勧誘だった。なんでもうちのテニス部は大層弱く部員も少ない、今いる三年生が抜ければ尚更とのことで、是非ともどうかということである。勿論のことながらぼっちの自分が集団行動なんて出来ないことくらい知っているし、何より奉仕部に所属済みなので丁重にお断りした。が、その時の俺は何か別の方法でも考えてみるとか抜かしてしまっており。
「……いや、そう思い付かないだろそんなの」
「何をぶつぶつ言っているのかしら根暗谷くん」
「レパートリー多くね……。いや、ちょっと、な」
あと根暗というのは強ち間違いではないので否定しづらい。実際周りから見た俺は本当根暗感半端ない。滅多なことで喋らないし、普段ラノベばっか読んでるし、目とか超腐ってるし。いや目は関係無いな。
「テニス部を強くできないか、って相談されてな。どうにかならないもんかと」
「珍しい。あなた、相談されるような人が居たのね」
「ついこの間知り合ったばっかだけどな。それでまぁ、考えてるんだが」
がりがりと頭をかきながら、意を決して雪ノ下に聞いてみる。いや答えはなんとなく分かっているけれど。
「……試しに聞くけど。お前ならどうする?」
「私?」
すっと顎に指を当てながら考える姿勢で数秒、固まっていた雪ノ下がこちらを見ながらにこりと微笑んで、こりゃろくなもんじゃないと察した。この笑顔はどちらかと言うと駄目な方の笑顔である。無駄に綺麗なのが少し腹立つ。
「全員死ぬまで走らせてから死ぬまで素振り、死ぬまで練習ね」
「お前に聞いた俺が間違ってたよ……」
やー良かったー、あの時の俺に対する練習って雪ノ下にしてはまだ甘い方だったんだなー、んなもん耐え切れる訳ねぇだろという感想は心にしまっておく。はぁと息を吐いたところで、がらりと部室の扉が開いた。
「やっはろー!」
気楽な調子の挨拶で入ってきたのは奉仕部三人目の部員由比ヶ浜結衣である。見るからにアホっぽいとか思っても言ってはいけない。何故なら面倒なことになると学習しているからだ。でも由比ヶ浜はアホの子。と、その後ろにまだ誰か居るのに気付いた。ちょうど今話していた、テニス部員にして顔見知りの彼女げふんげふん彼だ。
「あ……比企谷くんっ」
暗い顔をしていた戸塚がぱぁっと明るい笑顔を咲かせてこちらに歩いて来る。うん、お前が女子だったら俺今頃絶対に勘違いしてる自信があるよ。流石にもうそれは無いと思いたいが。主に過去の黒歴史的に。
「ここでなにしてるの?」
「いや、ここの部員なんだよ、俺。そういう戸塚は?」
「えっと、さいちゃん困ってたっぽかったから。依頼人として連れて来たの」
なるほど、そういうことか。ナイス判断である由比ヶ浜。アホの子もたまにはやる。ふふんと無駄に大きな胸をそらして自慢する彼女は一旦スルーしておくとして。
「戸塚彩加くん、だったかしら。依頼、というのは?」
「あ、えっと……テニス強く、してくれるん、だよ、ね……?」
最初は雪ノ下の方をしっかり見ながら、けれど次第に俺の方へ視線を移しながら戸塚は言った。いやなんで俺の方を向くのか。こっちじゃなくてあっち見とかないと色々言われるからね。マジで、俺だったら。
「由比ヶ浜さんがどんな説明をしたのか知らないけれど、奉仕部はあくまで自立を促すだけよ。強くなるもならないもあなた次第」
「そう、なんだ……」
落ち込んだように肩を下げて俯く戸塚。なんともいたたまれない。ちらっと由比ヶ浜の方を向けば、こてんと首を傾げている。
「へ? え、なに?」
「なに、ではないわ。あなたの無責任な発言で一人の少年の淡い希望が打ち砕かれたのよ」
相変わらずの容赦ない罵倒は、しかし由比ヶ浜にとってあまり効果を発揮しない。良い事なのか悪い事なのかは分からないが、んーんーと首を傾けたまま彼女は言った。
「でもさ、ヒッキーとゆきのんならなんとかできそうだし」
「あ、おい馬鹿」
あっけらかんと、躊躇いなく由比ヶ浜はそう言った。それが何の問題もない一言であれば良かったのだが、そうもいかない。受け取り方によっては小馬鹿にしたようにも聞こえるそれを、そう受け取ってしまう奴がいるのだ。ここに、一人。
「……へぇ、由比ヶ浜さん、あなた、言うようになったわね。私を試すような発言をするなんて」
「あー……」
「あれ……?」
雪ノ下雪乃は極度の負けず嫌いだ。そしてどんな挑戦も真っ向から叩き潰す。むしろ真っ向からじゃなくても叩き潰しに来る。果てには無抵抗でも叩き潰す。主に俺がその例である。仕方が無いけどな。
「――いいでしょう。戸塚くん、あなたの依頼受けるわ。テニスの技術を向上させればいいのね?」
「は、はい。ぼくが上手くなれば、みんなも一緒に頑張ってくれるかもしれない、から」
雪ノ下の威圧感を前に戸塚が縮こまりながら答える。まぁ、正直学校で噂の氷の女王様に手伝ってもらうとか言われて良い予想はつかないだろう。俺ですら良い予感がしないのだから、雪ノ下雪乃の表面しか知らない人間はもっとか。そういうお前は表面以外知ってんのか、と言われたら返す言葉に苦労するが。
「放課後はテニス部の練習があるのよね? なら昼休みに特訓しましょう。コートに集合で良いわよね?」
「りょーかい!」
てきぱきと明日からの段取りを決めていく雪ノ下に、由比ヶ浜が肯定の返事をする。次いできっと俺の方へ目が向けられた。
「……俺も行かなきゃ駄目だよな」
「当然。ついでに、久しぶりにあなたの腕前も見ておきましょうか?」
「勘弁してくれ、分かりきってるだろ」
「それならそれで
……うわー、やべぇ。明日から学校行きたく無くなってくる。死ぬまでは本当やめてほしい。切実に。
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辛く厳しく怖いので
翌日の昼休み、テニスコートへ行く途中に戸塚が同行したり材木座が仲間になったりしたが、特にそれらをを気にすることもなく特訓は始まった。
「まず、戸塚くんに致命的に足りていない筋力を上げていきましょう。上腕二頭筋、三角筋、大胸筋、腹筋、腹斜筋、背筋、大腿筋、これらを総合的に鍛えるために腕立て伏せ……そうね、とりあえず死ぬ一歩手前くらいまで頑張ってやってみて」
尚特訓内容については一切の責任をとらないようなものだった。聞いているだけで逃げたくなってくる。大丈夫だよね? 俺も一緒にやれとかそういう流れにはならないよね? 勘弁してくださいお願いします雪ノ下さんと心の中で祈っておく。さん付けすると俺の中で思い浮かぶ人が変わるな……姉の方に。
「おぉ、ゆきのん物知り……ん? 死ぬ一歩手前?」
「えぇ、筋肉は傷めつけたぶんそれを修復しようとするのだけど、その修復の際に以前よりも強く筋繊維が結び付くの」
人それを超回復と呼ぶ。つまるところ死ぬまでやって一気にパワーアップさせようという腹積もりらしい。しかしながらその内容は少しばかりキツすぎるような気がしてならない。
「……流石にちょっと厳しくないか?」
「えぇ、たしかに一人でやったのなら途中で投げ出す可能性が高いかもしれないわね」
「だろ? ならもっと――」
「簡単よ、
がっしと雪ノ下が俺の肩を掴みながらそう言う。にこりと微笑む表情は穏やかなのに恐怖を感じていた。脳内で必死に逃げろと訴える俺がいる。駄目だ、これは不味い時の雪ノ下だ。三十六計逃げるに如かず。しかし掴まれていて逃げられない!
「ふっ、雪ノ下。お前にしては珍しく明確な間違いを犯しているな」
「……へぇ。それは?」
「俺がこの練習を誰かとやっても放り出すといういだだだだだっ」
「決定ね。あなた、何だかんだ言って結局はやる人間だもの」
やばいめっちゃ肩ミシミシいってるから骨に響いてるから。変わらず微笑む雪ノ下の表情は怖いままだ。仕方が無いので妙に艶っぽい声を上げながら腕立て伏せをする戸塚に並んで手を付いた。ふと見れば材木座も由比ヶ浜もやっている。ちらっと雪ノ下の方を見てみれば、ん? という風に首を傾げていた。
「なにかしら」
「……どんな言葉を使ったんだよ」
「さぁ? なんのこと?」
綺麗だけど可愛くない。そんな言葉が脳裏を過ぎったのは気のせいではあるまい。大方材木座は睨まれて一発、由比ヶ浜はダイエット的なあれだろうが。昼休みは全て腕立て伏せで潰れ、俺は深夜に筋肉痛でのたうち回ることになった。
◇◆◇
そんなこんなで日々は過ぎ、遂にラケットを使っての練習へと入った。今日も元気に戸塚はぽかんすかんとボールを打っている。いやぁ可愛いマジ天使。けれども一つだけ疑問に思うことがあるのだ。とてもとても重要な、聞いておかねばならないことが。
「なんで俺もやってるんだ……」
言いながら戸塚の返してきたボールをまた打ち返す。俺と戸塚の息が合っているのか戸塚の実力が凄いのかラリーはなかなか終わらない。相性抜群とかだったら良いなぁ、戸塚男だけど。なんてどうでもいいことを考えていれば、俺の疑問へ雪ノ下がずばっと切り込んだ。
「一年も経っていないのに技術がさっぱりだからよ比企谷くん。あの時はもう少しやれていたでしょう」
「そりゃあこの数ヶ月、運動という運動をしてなかったからな」
「自慢げに言うことではないわね……」
唯一それっぽい事と言えば通学時にチャリを漕いでいることくらいである。体育とか基本やる気なくて適当に手を抜いてたし。だから団体競技は嫌なんだよなぁ。我ながら酷い思考回路だった。
「心配しなくても、ラリーを手伝ってもらうだけよ。それからは戸塚くん一人で特訓かしら」
にやぁ、と唇を歪めながら雪ノ下が言う。正直ドン引きした。うん、いや、知ってたんだけどね? 唐突にこういうのが出ると少し驚くよね? 一般的に、一般的にな、そう普通だよ普通。普通からかけ離れてるぼっちが何を言うかとかそんな声は聞こえない。
「あは、は……ぼく、大丈夫かなぁ……」
「安心しろ戸塚。雪ノ下は本当に無茶なことは言わない。……多分、大方、恐らくな」
「安心できる要素がないよ比企谷くん……」
気落ちしながらもしっかりとボールを打ち返してくる戸塚。ここ数日でよくもここまで俺との会話に慣れたもんだと何様な評価を内心で下す。ぶっちゃけ人と仲良くすることが少なすぎて経験ゼロなのだ。今まで接して来た奴ら同じく捻くれ対応をした訳だが、戸塚はそんな俺を優しく受け入れてくれた。マジ大天使トツカエル。
「……いや、そう考えると
嫌になるくらいに笑えてくる。思い返せば当然のことだった。こんな自分と話してくれるだけでなく、時間を作ってまで接してくれた優しい奴等だ。そんなところにすら目がいかず、ただ切り離すことだけを考えていた自分に笑えてくる。笑えてくる、笑えてくる。嫌な笑いだ。……あー、不味いな、数日経ったらもうこれだ。何のために由比ヶ浜と仲直りしたのか分からなくなる。
「? なんか言った比企谷くん? ごめん聞こえなかった」
「なんでもないよ戸塚。っと、ここまでか」
雪ノ下と由比ヶ浜がボールの入った籠を持ってきているのを視認して、ぽすんと態と自分で打ち上げたボールをぱしっと掴む。これから件の特訓に入るのだろう。やっと御役御免だ。ぐぐっと体を伸ばしながら近くまで来た雪ノ下へ問うた。
「次は何をするんだ?」
「特に変わったことはしないわ。こちらが投げたボールを打ち返して貰うだけよ」
「ほーん……」
「……一体なんだというの、その反応」
じっと見られながら言われて、思わず頬をぽりぽりとかく。顔が近い体が近い距離が近い位置が近い座標が近い――! という混乱を押し殺しながら答えた。
「や、お前のことだから、また死ぬまで何たら言うのかと」
「……やる気があるのなら追加練習もあるわよ?」
「悪かった、すまん。疲れで変なことを口走った」
はぁ……と額に手を当てながら雪ノ下は溜め息をつく。本心としては一切変なことではないと思うのだが、長年の人生で培われた危機察知能力が全力で警鐘を鳴らしているので誤魔化すことに徹した。雪ノ下雪乃は真っ直ぐで正しい。故に、怒らせると後々面倒臭くなるのだ。ソースは現状の俺。
「……いや、ちょっと違うか」
「? なにかいった?」
「いいやなんでも。そこら辺で休んでくる」
「あら、体力が無いのねヒキニートくん」
「体力無いのはお前だからな……」
彼女の数少ない欠点の一つだ。なんでも卒なくこなしてしまうからこそ長続きがしない。故に継続をしてこなかった雪ノ下は致命的に体力が無かった。俺が一回テニスで勝ってからは持ち前の負けず嫌い根性で少し体力を上げていたが。うん、やはりあいつの機嫌を損ねるのは得策じゃないな。せいぜい何事もないことを祈っておこう。
◇◆◇
今になってあの時のアレがフラグだったかと思い返して気付いた。意図せずして、トラブルというのは起きてしまうものだ。傍目に見て超ドギツイ特訓で戸塚がちょっとした怪我をして、雪ノ下がちょうどどこかへ行ってしまった時のことである。
「あ、テニスしてんじゃん、テニス!」
声の方を向けば、如何にも面倒臭そうな輩がぞろぞろとこちらへ来ていた。と、その中に一人見知った顔がある。爽やかな笑顔を振り撒きながら歩く男。
『気を付けなよ、君は彼女に相当気に入られているようだからね』
忠告かどうかも分からないそんな言葉を刻み付けて、それから一切関わらなかった奴。言ってしまえばよく知らない他人であり、今更ながらクラスメートだったのを思い出した。
「――やぁ、比企
「……葉山、隼人……か」
『好きなものを構いすぎて殺すか、嫌いなものを徹底的に潰すかしかしない』
結局、構いすぎて殺される前に逃げ出した俺を、こいつはどう思っているのかなんて考えながら。
「……何のようだよ」
俺はひしひしと、面倒事の予感を感じ取っていた。
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その結果は変わらず、されど関係は変化する
そんなこんなで始まった、始まってしまった葉山曰く部外者同士の男女混合ダブルステニスコート争奪戦。言い分としては自分達もテニスがしたいから勝負しようぜ! ということだが正直頭が痛い。ぶっちゃけその場に雪ノ下が居たらと思うが、生憎席を外していたのだ。仕方ないと割り切る他ないだろう。あいつがいたら
「HA・YA・TO! フゥ! HA・YA・TO! フゥ!」
異様な盛り上がりを見せるコートは、既に終わりが近付いていた。相手はその葉山と金髪ドリル――たしか三浦とかいう――のゴールデンコンビだ。髪の色的に。最初は俺と由比ヶ浜で応戦するも、経験者だった三浦とサッカー部で身体能力の高い葉山に押され、その後戻ってきた雪ノ下が由比ヶ浜と交代しぽんぽんと点数を取り返すも体力が尽きた。
「……いやまぁお前にしては
「分かっているのなら、言わないで良いでしょう……!」
きっと雪ノ下が睨んでくる。その目に力強さが足りないあたり、彼女は本気で疲れているのだ。勝負事に手を抜かないのは美点だと思うが、少し疲れる生き方だとも思えた。上手く手を抜くってことが出来ないのか。とはいえ、出来たらそれは雪ノ下雪乃ではない。
「……まぁ、お互いよく頑張ったってことで、引き分けにしないか?」
「ちょ、隼人何言ってんの? 試合なんだからマジでカタつけないとまずいっしょ」
爽やかに言った葉山へと三浦が突っ込んだ。カタつけるとか怖いこと言うんじゃねえよ……。しかしながらあのイケメンの意見は素直に受け入れるべきだろう。お互い引き分け、どちらも傷を最小限に抑えられるのなら良い事である。思わず転がってきたチャンスに手を伸ばそうとして――。
「少し、黙ってもらえるかしら」
――雪ノ下は、それを冷たい声音で粉々に砕いた。
「この男が試合を決めるから、大人しく敗北しなさい」
「…………は?」
その言葉に誰もが耳を疑った筈だ。無論一番疑ったのは俺自身だが。お前正気か? という風に雪ノ下の方を見るとがっつり視線が合う。言葉はない。ただじっと五秒ほどこちらを見つめてから、ぽいっとボールを放ってきた。ぐるりと、周りを確認してみる。材木座、親指をたてるな。戸塚、そんな期待した目で見てもどうしようもないぞ。由比ヶ浜、恥ずかしいからそんな大声上げて応援すんな
「比企谷くん、覚えている? 私、暴言も失言も吐くけれど――」
あぁ、なんでか覚えてるよ、ちくしょう。
「虚言だけは吐いたことがない、だろ。……これが虚言になったらどうするんだ」
「あなたがそうさせなければ良いのよ」
薄く微笑んで雪ノ下はそう言った。おいおい、流石に俺程度に期待かけすぎじゃないか。全く持って応えられる気がしない。天下のぼっちには他人の期待を裏切ることには長けていても、応えることに慣れていない。例え向けてきた微笑が純粋なものだとしても難しいのだ。
「……なぁ、葉山」
「なんだい、比企谷くん」
「一つ良い事を教えてやるよ。……必死で逃げれば、何とかなるらしいぞ、
「っ……それは」
動揺? 狙っていない。ただ自分から余計な力を抜くために、どうでも良い話をした。ひゅっとボールを高く放り投げる。頬を撫でる風から最高のタイミングを予測して、ここぞという時にぶちかます。あの人らと葉山の間に何があったのかは知らない。そもそも知る気もない。向こうから話してこないなら、そういうことだろう。
「……っ、青春の馬鹿野郎ォ――っ!」
すぱーんと、気持ちの良い音が響いた。
◇◆◇
「それにしても、傑作だったわね」
クスクスと、雪ノ下が笑う。あれから数日経った放課後、由比ヶ浜は三浦達と遊びに行くやらで休みのため、部室には俺とこいつのみだ。結果から言うと、俺達は無事にコートを守りきった。我が秘策・潮風に乗った魔球~運要素アリアリ~によって勝利をもぎ取った。のだが、その後の展開がかなり酷い。
「笑うなよ……悲しくなってくるだろ……」
「えぇ、試合に勝って勝負に負けた、という風だものね」
ボールを打ち返そうと後ろに下がる三浦、その勢いであわやフェンスにぶつかるかと思われたところを葉山が飛び込んでまさかの
「……けれども、きちんとやってくれたじゃない」
「あ? そりゃあまぁ、たしかにコートは守ったが」
あの後戸塚からめちゃくちゃ感謝された。ありがとうありがとうと握手しながらぶんぶん振って抱きついてきた時はマジ天使結婚しよなどと思ってしまった。いかんいかん戸塚は男だから。
「それもあるけれど……もう一つよ」
「……なんか、あったか?」
「虚言にはしなかったでしょう?」
その一言で、あぁと思い出した。記憶を掘り起こしてみればそんなことを言っていた気がする。その後の事が印象に残りすぎてすっかり忘れていたのだ。はは、本当葉山さんマジパネェっすわ。なんて考えながらがりがりと頭をかく。
「あー、なんだ。もう、裏切れねぇし、な」
「……えぇ、そうね。一度目をそのままに二度目なんて、流石に少し
いや本当良かったマジで。うん、もしも負けていた場合の想像なんてしたくもない。色々と面倒臭くなっているのは確定として、下手すると俺がかなり追い詰められている可能性すらある。
「……なぁ、雪ノ下」
「……なにかしら、比企谷くん」
パタンと、読みさしの本に栞を挟んでから閉じて、雪ノ下はこちらに真っ直ぐ視線を向けてきた。いつもならそのまま聞き流すようにしているというのに、一体どうしたというのか。……なんて、誤魔化すのは馬鹿のやることだろうな。こいつは変なところで鋭いし。
「全部、分かってたのか」
「逆に、分からないと思っていたの?」
お互いがお互いを理解していた。
「……そうか」
「でも」
いつか心のどこかで望んでいた
「分かっていても、信じ切れなかった」
「――っ」
言葉で伝えずとも理解できる、そんな関係だと思い込んで疑わなかった。
「それくらい、あなたの投げ掛けた言葉は効いたから」
「……っ、ぁ」
誰かの気持ちなんて、他人の思っていることなんて、誰も正確に知り得ることなんて出来ないのに。
「ゆ、……っ、雪ノ、下」
「――えぇ、えぇ。なに? 比企谷くん」
膝の上で握った拳が震える。唇が上手く言葉を紡ぎ出せない。心臓がばくばくと無駄に大きな音をたてる。うるさい、黙れと言いたくなるくらいだ。一度経験したというのに、この体たらく。どこまでいっても弱くて、愚かで、屑みたいな人間だ。
「お前に、……謝らなきゃいけないことがある」
「そう、言ってみなさい。聞くわ」
それでも。
「勝手に、やらかして、離れて……っ、いや、違う。そんなんじゃなくて、だな。俺は、俺はっ」
それでも、そうだとしても。
「そんなのは、ああいや、良くないけど、今は違うんだ。だって、あれ、俺、俺は……」
「比企谷くん」
こんな奴に、彼女は。
「
彼女は、信頼を預けていたのだ。
「……ぁ」
ならば、言うことは決まっているだろう。
「だな、俺らしく、ない。……っ」
「……、」
行動を謝るべきか、それしか出来なかったことを謝るべきか。比べるまでもなく、どちらも否だ。
「雪ノ下。俺は……」
ぐっと、力を込める。
「俺はお前に、嘘を吐いた。居ても楽しくないとか、だから、今更なんだって話だし、でも――」
酷い嘘だった。己も相手も傷付けるような優しくない嘘だった。吐いてはいけない類のものだった。自分のエゴを突き通すために、仕方なく吐いて後悔した一言。
『一緒に居て楽しいか? 俺はそう思わない』
悪かっただとか、すまんだとか、そんな風に言うのは卑怯だろう。少なくとも俺は、そう思って。
「――ごめん」
その単語を、選択した。
「ずっと、謝りたかった。他の奴が違うって事じゃ、なくてだな。お前は特に……あぁ、駄目だ、上手く言えねぇ」
そこからは、目も当てられないゴミっぷりだったが。
「……ふふ」
「ゆ、雪ノ、下?」
「ん……大丈夫よ、言いたいこと、分かるから」
あぁ、なんか、凄いダサいのが自覚できる。
「なら聞くけれど、本心はどうだったの?」
「あ、や、まぁ……時間を忘れるくらいには、楽しかった、んだが……」
「……そう、それなら、そうね」
そうして、彼女は――
「……良かった」
滅多に見せないような顔で、そう言った。
◇◆◇
なんだかんだで、彼女とのそれに言葉は少なかったように思う。いつもは長々と色々喋るというのに、大事な時に限って口が回らないのだ。俺も、彼女も。それで満足していない訳では無い。心残りがある訳でもない。予想以上に、身勝手にも心は軽くなっている。ただ、心残りがあるとすればそれは。
『なんだよ、こんなところに呼び出して』
『いや、ちょっとした事だよ。時間はとらない』
少し前に、態々人気のないところまで連れていきやがったあいつの言っていたこと。
『あまり、彼女を嘗めない方がいい』
『は? お前、それは……』
『泳いでいる魚は、自分が泳いでいるのか、泳がされているのか分からないものだろう?』
『……つまりなんだ、何が言いたい』
あの目は、こちらを心配するようなそれとは少し違っていた。
『君は逃げ切れていない。逃げられないんだよ、比企
言ってしまえば、あれは。
◇◆◇
「うわぁー……葉山先輩カッコイ〜……」
「……」
「いいなぁ、私もあんな風にしてもらいたいなぁ」
「…………」
「……って、あれ? 話聞いてる? おーい?」
「………………やっぱり」
「へ?」
「あ、ううん。ごめんごめん、なんでもない」
「そう? いやーでもやっぱ葉山先輩カッコイイよねー? テニス、見に来て良かったかも」
「だよねー、うん、本当に見に来て良かったなぁ」
「……なんですか、やっぱり、居るじゃないですか」
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緩やかで柔らかな日常
ぼっちにとって教室とは牢獄のようなものだ。ひたすらに息苦しく、逃げることも出来ず、ただ憂鬱な気分にさせられる。最近脱ぼっちし始めたとは言え、それはごく一部の関係性を持った人間のみである。俺自身の考えとしては依然変わらず無理して付き合うくらいなら最初から接さない、関わらない、話さない。ぼっち根性ここにあり、というやつだ。だからなのか、
「まぁ、クラスに居場所無えしなぁ」
自分から言っておきながら酷く悲しい事実だった。当たり前と言えば当たり前なのだが。大体俺が周りに上手く溶け込める訳もない。雪ノ下とは別方向で異色のオーラを放っているのだ。つまるところマイナス方向もとい
「雪ノ下……ね」
結局どちらもはっきりとは言わなかった。ただ言いたいことだけ叩き付けて、片方がそれを受け止めて、なんだかんだでそんな雰囲気が流れた。それでも分かる事と言えば、あの日から雪ノ下の態度は軟化している。ほんのちょっと、たった少しのちっぽけなくらいだが、毒舌のキレが柔らかい。いやまぁ普通に聞いたら全っ然変わってないんですけどね!
「……分からなくは、無いけどな」
そうだ、分からなくは無いのだ。ならば、無駄な言葉は要らないだろう。そういう意味でも雪ノ下は俺を信用してくれた。もう下手を打つことは許されない。比企谷八幡としてのやり方を改めなければ、先に進めない。なんて妙に真剣なことを考えながら、屋上へ続く扉を開いた。瞬間。
「うぉっ」
ぶわっと、激しい風が吹く。部室での材木座の演出なんて比べ物にならない自然の暴風だ。ふと緩めていた手から、スルリと滑り落ちるものがある。白い縦長の四角形、ぐにゃぐにゃと風に煽られ形を変える強度、薄い薄いペラペラの髪――いや違う紙。禿げるな禿げるな。
「……まぁ、新しいの貰えばいいか」
どこかへ行ってしまったそれを早々に忘れて中へ足を踏み入れる。所詮どうでも良いことしか書いていない盛大な資源の無駄遣いをしたプリントだ。将来のための職場見学調査だと言うが、今を生きるのに必死な俺にそこまで頭が回る筈がないだろう。いやマジマジ、将来とか考えられねーわ。専業主夫? ないな。結婚とか出来る気がしねぇ。と、くだらないことを考え始めたその時だ。
「これ、あんたの?」
声が聞こえた。ややハスキーな、どことなく気だるげに思える声だ。きょろきょろと辺りを見てみるが、人っ子一人見つからない。やべぇ、なにこれ、心霊現象か幻聴か? と混乱していれば、声の主は馬鹿にしたようにハッと鼻で笑いながら。
「どこ見てんの?」
なんとなく、それで居場所が分かった。どうりで周囲を見渡しても見つからない筈である。そいつは、その女は、屋上からさらに上へ突き出た給水塔に寄り掛かり、俺を見下ろしていた。
「……お前」
青みがかった黒髪は長く、後ろで一つに纏めているのに背中まで垂れている。着崩した制服が実に可愛いというより不良っぽい印象を与えるも、ところどころのアクセサリーは普通の女子高生らしい。何より覇気のない瞳が実に好印象だった。俺的に目がまともじゃない奴は総じて好印象だ。まぁ、俺には適わないが。
「これ、あんたの?」
ひらひらと紙を振るいながら、変わらぬ調子でもう一度彼女が言う。
「あぁ、そうだけど」
「ん、ちょっと待ってて」
意外にも対応は優しい女子そのもので少し驚く。てっきり返して欲しければ財布寄越せとかそんな感じの人間かと。いや不良って怖いですし。丁寧に梯子を降りてすたっと着地しながら、ちらりとそいつは俺の職場見学希望調査票を一瞥した。途中で吹いた神風によりパンチラして黒のレースが見えたのは言わない方が良いだろう。
「……バカじゃないの?」
「勝手に読むなよ……。大体、将来なんて明確に考えてる奴の方が少ないだろ」
「まぁ、そうかもね」
くすりと笑う。その顔が予想以上にちょっとアレで、俺の心が酷くアレする。つまりあれだ、なんだ、それだ、どれだ。非常に混乱している。何故ならパンツを見てしまった女子の笑顔を見てしまったからだ。やべぇ我ながら最低に訳が分からん。とりあえずひょいっと紙を取り返した。
「それ、なんて読むの、名前。ヒキタニ?」
「
「なにそれ、よく間違えられるんだ」
あぁ、うん、今更だけど俺、初対面の女子となんでこんなスムーズに話せてんの? 自分で自分が怖くなってくる。これも雪ノ下との仲直り効果略して雪ノ下効果か……と勝手に戦慄していると、目の前の女子が笑うのをやめてこちらを見た。
「川崎沙希。一方的に名前知ってるの、なんか気分悪いし」
「……比企谷八幡。別に、気にしなくても二日で忘れる自信がある」
「それ、あんたが人の顔覚えるの苦手なだけじゃない?」
「おい、嘗めるな。むしろ人と関わること自体苦手だ」
「自慢になってないし」
後で知ったことだが、俺達はやはりというかなんというか同じクラスだという事実を知らなかった。似たもの同士とは少し違った、なんというか、やる気ないもの同士という奴である。
◇◆◇
その後、当たり前のように平塚先生からお説教を受け、早く来いとの旨を綴ったメールを由比ヶ浜から受け、雪ノ下からの早く来なさいとだけ書かれたメッセージを受け、マジ今日の俺受け身過ぎない? と思いながらも無事部活に参加してダラダラしていた。
「やー、もうすぐ試験だねー」
「えぇ、そうね」
由比ヶ浜のてきとーな一言に雪ノ下が適当に答える。そう言えばそうだと、俺は思い出していた。もうすぐ夏休み前の修羅場と言っても過言ではない(過言です)中間試験の時期である。試験は大事だ。今回も現国学年三位という不動の立ち位置を守らなくてはならない。てか上二人誰だよ、大体想像出来るけど。
「あたし勉強とか無理。ゆきのんはどんな感じ?」
「予習復習をしておけば特に苦労することもないでしょう?」
「うっわ……超真面目じゃん。流石ゆきのん」
うっわ……超堅物。流石雪ノ下。それで出来るお前が凄いということは言った方が良いのだろうか。いや、言わなくても自分で分かってるだろうな。暗記力や思考力は人それぞれであり、誰もが己みたいにできる訳がないのだ。馬鹿にする奴は結局誰かから何かしらで馬鹿にされる運命にある。はは、ざまぁ。人を馬鹿にするのはやめよう。由比ヶ浜はアホの子なんだけどね。
「じゃあヒッキーは?」
「心配すんな、お前ほどじゃない。むしろ国語で学年三位だぞ俺は」
「え、マジで……ヒッキーって、もしかして頭良い?」
「そこまででも無いから心配しないで由比ヶ浜さん」
ニコニコと実に
「この男、理数系を捨てているから」
「そうなの?」
「あぁ、何しろ前回の期末試験で数学が最下位だったからな」
鼻を鳴らして胸を逸らしながら言えば、二人が一斉にガタッと椅子を鳴らして反応する。なに? なんなの? 俺の天才さにようやく気付いたの? たしかにぼっちとしての捻くれ思考は我ながら誇ってもいい才能だと思う。自分で捻くれって言っちゃったよ。
「あたしより下ってヒッキーのことかぁ……」
「有り得ないわこの男、その無駄に良く回る頭を一体何に使っているというのかしら……」
どちらにも突っ込みたい部分があるが、今はそんなことどうでもいい。いやぶっちゃけ次も赤点とったらヤバイって先生に言われたしどうでも良くないんだけど、うんやっぱりどうでも良くないな。
「ところで雪ノ下。頼みがあるんだが」
「なにかしら」
「次の試験で数学に赤がついたら夏休み補習とか言われてな、率直に言う。教えて下さい」
「嫌よ」
即答だった。聞いた瞬間に答えが決まったと言われても信じられる速度だった。
「あ、ならさ、みんなで勉強会しない?」
「由比ヶ浜さん、今の話聞いていた?」
「へ? ゆきのんとヒッキーが勉強するんでしょ?」
「私今即刻断ったのだけれど」
「えー、なんで? 良いじゃん」
純粋な気持ちに対して雪ノ下は酷く弱い。そこら辺俺らはなんだかんだ似通っているも、決定的に違っている。いや俺も純粋な好意とかそういうのめちゃくちゃ苦手だけど。押しに押され、三人での勉強会が決定した。
職場見学希望調査票
総武高等学校 2年F組
比企谷八幡
1.希望する職業
未定
2.希望する職場
未定
3.以下に理由を記入
今を生きている自分には明確な未来というものが見えてこない。故にこそ、不確定な要素は書くべきではないと結論を出した。誰かに伝えるのなら、それは確定した明瞭な物事であるべきだ。なにもかもが不明瞭で不確定で曖昧な自分の将来のことを書いても無意味である。だが決めないという訳では無いので、今回は未だ決定していないという意味を込めて未定とさせていただきました。
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勉強会は特に勉強をしない
学校帰りにファミレスに寄った俺は、手の中でペンをくるくると回しながら問題集とにらめっこをしている。思い切って苦手分野な理数系から片付けてやろうと意気込んだわけなのだが、ふむ、さっぱり分からん。仕方ないので意識を問題集からペンへと変えた。くるくるくるりんみらくるんと回せるのはぼっち故、教室でやることが無く身に付けた技術だ。ふはは、見るがいいこの鮮やかなペン捌きを。
「ヒッキーなにしてんの……」
そんな俺を目の前に座る由比ヶ浜がじとっとした目で見つめてくる。なんだ、人がペン回してたらいけないのか。というかそういうお前もさっきから全然手が動いてないからね? 心外なことにこの場において勉強に集中出来ていない二人である。
「て、うわ。ペン回しうまっ! きもっ」
「きもいとかそういう人を傷付けるような言葉を気軽に言うんじゃねえよアホビッチ」
「あ、ごめん……、んっ!? 今ヒッキーも結構傷付けるようなこと言ったよ!?」
この通り事実なので別に良いんじゃないですかね。つまり俺がキモイというのも事実なので由比ヶ浜に非は無い。由比ヶ浜がアホの子なのは事実なので俺にも非は無い。これぞ正にWin-Winの関係というやつだ。え、違うの?
「大体あたしビッチじゃないし。まだ処――」
「え?」
「っ!! や、違っ! いや違くないけど! あ、う、ええっと、だからぁ……っ!」
俯いてぷるぷるとしだす由比ヶ浜。僅かに見える耳は林檎のように真っ赤で、正真正銘恥ずかしがっているのだと理解出来た。あー、うん、今のは完全に口がすべってたよなぁ。恥ずかしいよなぁ。俺まで顔が熱くなってくるから思い返すのはやめておこう。結論、由比ヶ浜はビッチではなかった。
「ヒッキーの、馬鹿……」
「いや自業自得だろ」
「……ふぅ」
と、そこでそれまで黙っていた最後の一人、雪ノ下雪乃が耳にかかった髪をかきあげながら顔を上げる。今まで集中して解答を書いていたペンを持つ手には、その代わりとでも言うように携帯電話が握られていた。そうしてそっと耳元に当て、彼女は――。
「目の腐った男性が女子高生にセクハラを。えぇ、場所は……」
「おいやめろ。社会的に俺を殺す気か」
「あら、殺すまでもなく比企谷くんは社会的に死んでるも同然よ?」
「残念だがこれでもぎりぎり生きている範疇だ」
「返しがネガティブだ!?」
由比ヶ浜のツッコミが冴え渡る。お前、ネガティブなんて言葉知ってたんだな。なんて思いながら見てみれば、はぁと盛大にため息をつかれた。ため息をつきたいのはこっちだよ本当。人生というのは辛いもので、マジ生きてるだけでしんどいし死にたくなるしそれでも仕事はしなければならない。人生の3Sである。しんどい、死にたい、仕事。なにそれブラック企業すぎる。
「というかあなた達、勉強はどうしたの?」
「雪ノ下。お前は俺を嘗めすぎだ。そんなものとっくの昔に見切りをつけた」
「あたしも全然分かんない!」
「由比ヶ浜さんはともかくあなたはもっと努力をなさい……」
ナチュラルに諦められる由比ヶ浜に同情の念を禁じ得ないが、まぁこいつの頭は一体何が詰まっているんだ夢と希望かというレベルなのでしょうがない。ちなみにこれはどこぞの誰かさんから聞いた話なのだが、俺の頭の回転の早さはかの氷の女王様に勝るとも劣らないという。ただそれが妙に捻くれていて思考回路にバグがあるため無駄にしているのだとか。余計なお世話だ。
「……うわ」
「あ? なんだその声。俺の顔見て気分悪くしたんなら謝る」
「違うし。……ちょっと、変なメールが来ただけだから、なんでもない」
その顔はどう見ても何でもないようには思えないが、どれほど酷い内容のメールなのだろうか。あれか、普段はあまり喋らない男子となんとなく会話しちゃってメアド交換しちゃってマジでメール送ってきて困惑してんの? はは、相手俺か? やばい黒歴史掘り起こしすぎて死ぬ。
「比企谷くん」
「なんだよ」
「そういう卑猥なメールは色々と学校で問題になるからやめなさい」
「いや俺じゃないから。そもそもそんなメール送らないから」
純粋無垢な俺は本当に純粋な内容しか送らない。そうかとかああとか分かったとか了解とか。世間ではそれらを塩対応というらしいが、なんとも甘い。しょっぱくない。本当の塩対応とは我が妹のように塩振り撒いてくることである。今も鮮明に思い出せる塩分MAXコーヒーはなかなかやばかった。
「さっきのは由比ヶ浜さんの自爆としても、それらは確実なセクハラになるわ」
「ゆきのんあたしのフォローになってないよ……」
「だから俺じゃない。大体、由比ヶ浜に送る内容の大体は十文字以下だ」
「まさか写真を……恐ろしいわね、この男」
「俺はお前の想像が恐ろしいよ」
この比企谷八幡、今まで女子にキモイと言われることはあれど、本気で変態的な行動をしたことは無い。特に中学三年生辺りからは一切なく、むしろ女子と話すだけで心臓が高鳴り息をするのが苦しくなって狂いそうになるほど無垢だった。真実はただ単にトラウマスイッチ(自主制作)が入っていただけである。人生初の恋人を自ら切り捨てるのは結構やばかったという事だ。
「や、ヒッキーじゃないよ、これ。だってうちのクラスで最近あるチェーンメールだし」
「そう、なら違うようね。よかったわ」
「ちょっと、俺もそのクラスの一員なんですけど」
どうも、2年F組比企谷八幡です。思わず脳内で自己紹介をしてしまうくらいには傷付いた。言ってしまえばそれほど傷付いていない。そもそも、自分と関わってる他人以外は大抵どうでもいいのが人間というものだ。クラスで浮いてるのは百も承知だし、何を今更という感じである。
「つーか、なんだそれ。マジで初耳なんだが」
「や、まぁでも、こういうのときどきあるんだよね。あんまり気にしないことにしてる」
「それがいい。もしくは特定して潰すくらいか」
「発想がアレだよヒッキー……」
「そうでもないわ」
さらりと髪を撫でながら腕を組み、静かに雪ノ下は言った。
「実際その手の輩には有効的な方法よ」
「でも、特定とかその、無理じゃない?」
「佐川さんや下田さんくらいのものなら一晩も要らないわ」
「ゆきのんカッコイイ……」
「そこの男くらい徹底していたら難しいかもしれないけれどね」
そう言ってちらっと視線が向けられる。そうだろうか。雪ノ下なら俺がどれだけ上手く隠しても三日くらいで暴かれそうな気がしてならない。そもそもの前提として俺がチェーンメールを送る必要性が皆無なのだが。
「なんでヒッキーなの?」
「リスクリターンの計算と自己保身だけは上手いのよ。……肝心な時に限って自分を切り捨てるくせにね」
「それ褒めてんのか、貶してんのか」
「どちらもよ」
雪ノ下が笑って、俺は盛大に息を吐いた。しかしながら彼女の弁には少し誤りがある。自分を切り捨てるくせに上手いのではない。上手いからこそ自分を躊躇いなく切り捨てられるのだ。でなければ比企谷八幡はただの馬鹿であり、どうしようもない自己犠牲精神の持ち主になっている。誰も自分が傷付きたくないし、でも他人を傷付けるのもどうかと躊躇う。だからこそ容赦なく捨てられる己の方を捨てたのだ。
「そんなことよりさ、勉強教えてよゆきのん」
「学ぶのはあなた自身よ由比ヶ浜さん」
「諦めろ由比ヶ浜」
「ヒッキー……」
さて、話は変わるがこういう時、彼女にやる気を出させる魔法の言葉を知っているだろうか。誰もが言えて誰もが言えない、恐怖のスイッチが入る言葉だ。
「――雪ノ下は上手く教えられる自信が無いんだろ、察してやれ」
「……ふぅん」
ぴくりと、こめかみが反応する。
「言ってくれるわね。良いでしょう。その安い挑発にあえて乗ってあげるわ、比企谷くん」
「あぁ、そうか、ならさっさと由比ヶ浜に……」
「ただしあなた、次の中間試験の数学で20位以内を取らなければ――分かっているわね?」
「……は?」
由比ヶ浜に綺麗なパスをしてやろうと考えていたら思いっきりボールを叩きつけられた気分だ。あぁ、うん。たしかに今のは言った俺が悪いけれど、でも俺よりか由比ヶ浜の方が絶対勉強するべきだろう。多分。
「由比ヶ浜さん」
「は、はいっ!?」
由比ヶ浜がビビっている。実際今の雪ノ下は何か得体の知れないオーラを放っていた。
「あなたも、本気でやるわよ」
「……は、はい」
そうして俺達は、決して軽い気持ちで雪ノ下を挑発するべきではないと心に刻む事となる。由比ヶ浜は初めて、俺は都合にして四度目くらいだろうか。刻みすぎだろ少しは学習しろよ。
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血の繋がった彼女
職場見学の同行者が葉山隼人と戸塚彩加になった。加えて葉山に皆がついて来るため自然とクラスの大半が一緒の職場見学となった。このことにさして怒る訳では無いが、少しばかり不服に思うのは仕方ないだろう。戸塚はいい。天使だし、可愛いし、純粋だし、可愛いし、天使だし。戸塚はいい。戸塚はいいぞ。とつかわいい。獣はいてもなんとやら。ただし
「そう嫌な顔をするなよ、比企
「いや、マジでなんなんだお前。俺はたしかに解決方法を教えたけど、態々ここに来いとは言ってないんだが」
「まぁまぁ、比企谷くん。葉山くんも名前間違えてるよ」
「悪い悪い」
何が悪いだ、お前の場合わざとだろうがという突っ込みは言っても無駄な気がしたので心に留めておく。ことの発端はつい先日、俺のクラスで回っているというチェーンメール問題を解決するためにこいつが奉仕部を訪れたのだ。いきなりイケメンが何事かと思っちゃったわ。そんなこんなで我ら奉仕部員はチェーンメールの解決にあたった訳なのだが。
「……お前も大変だな」
「そうか? 俺はむしろ君の方が大変だと思うけどな」
「実感が無いんだよ。長い事会ってねぇし」
「そう思っていられるのも今のうちだろうね……」
原因がなんというか、この葉山隼人自身が築いたグループなのだからなんとも言い難い。葉山を中心として回っていたがために起こった不幸な出来事だ。今回の職場見学は三人一班、対して葉山グループは四人である。誰か一人ハブられるのは自明の理。チェーンメールなんてものを使ってあれこれやらかした奴はさぞ良い性格をしているだろう。とは言え、それもこのように解決した事だ。
「? 二人で何話してるの?」
「いや、なんでもないよ」
「そうだぞ戸塚。本当何でもないから」
「そう? ……なんか仲良くなって無い?」
葉山自身が抜けて、他三人を一つの班に纏める。無論葉山はそれでことが落ち着くのならという姿勢だし、至極まっとう且つ誰も傷付かないやり口だった。俺が偶然考え付いたにしてはなかなかのものだろう。雪ノ下にも合格点を貰えたのだ。てかなんでお前が採点してんの?
「ま、とにかくよろしくな」
「うん、よろしく」
「……あぁ、よろしく、な」
嫌々と軽い挨拶をしながらため息をつく。テストが間近に迫っていた、職場見学のグループ分けで憂鬱な気分だった、葉山の話をまともに聞く気がなかった等、理由は多くあれ彼の忠告を俺は綺麗にスルーした。故にこそまだ知らない。既に歯車は動き出していたということを。平凡で平和な日常を謳歌していた自分への鉄槌は、遠からず下されることを。
――雪ノ下陽乃との遭逢が刻一刻と迫っていることを。
◇◆◇
ペンを動かす手を止めて時計を見れば、いつの間にやら日を跨いでいた。確かに試験勉強は大切だが、熱中すぎるのもどうなんだろうな、なんて思いながら部屋から出てリビングへ向かう。少し眠気がある、コーヒーでも飲んで吹き飛ばそう。ちなみにカフェインの効果が出るのは飲んでしばらく経ってからっぽいので、眠い今に飲んでもあまり効果が無い。まぁ気分的にマシにはなる筈だ。
「て、お前なんでまだ居んだよ……」
いつもなら部屋に入っているだろう時間帯に、色々と際どい服装をした妹がソファーで寝ていた。着なくなった俺のTシャツに、それ以外は多分下着のみ。色々と女性に夢を持つ童貞が見たら殺されそうな光景だった。だからというか何というか、無駄に理想を高くするのはやめた。女の人だって人間である。完璧ではない。それこそ雪ノ下だってだらしの無い部分が……ある……の、だろう、か。全くもって想像出来なかった。
「うぅん……? お兄ちゃ……ん……」
「おう」
ぴたっと、うっすら目を開けながら体を起こした小町の動きが急に止まる。じいっと俺を見ること二秒。がばっと跳ね起きてカーテンの外を見ること三秒。かっと目を見開いて部屋にかけられた時計を見ること五秒。総じてしっかり十秒かけた後、がくりと小町が崩れ落ちた。
「しまったぁ! 寝過ごしたぁ! 一時間だけのつもりが五時間も寝るなんてっ!」
「あー、あるある。……いやよく考えたら寝すぎだろお前。なに、帰ってからずっと寝てたのかよ」
お兄ちゃん勉強するのに必死で気付かなかったよ。なんせ今回は雪ノ下プロデュースゼロ(点)から始める高校数学だ。いやそんな酷くないけど、
「むっ、失礼な。ちゃんとシャワー浴びてから寝たよ」
「そうか、すまん。……ん、待て俺今なんで誤ったんだ……?」
「それよりなんで起こしてくれなかったの」
一瞬混乱しそうになったところへ、唐突に小町からそんな声が飛んでくる。随分と身勝手に思うが、大体世の妹なんてこんなもんだろう。我儘で横暴で、そのくせ親の愛情はしっかりと受けて、いつかはお兄ちゃんと結婚する。いや、ねぇわ。
「あー、悪い。試験勉強に手一杯でな」
「うわぁ……お兄ちゃん、絶対将来社畜になるよ」
「ばっかお前、俺はなんなら毎日定時退社するからな」
サービス残業とかありえない。本当に社会ってやつは辛く厳しいものなのだろう。体験するまでもなく、話を聞くだけで嫌になるのは当たり前だ。親父の背中を見ていると尚更サラリーマンって大変だなぁと思わせられる。頑張れ親父、負けるな親父、主に毛根。
「……ん? ふんふん。ほほぅ?」
と、小町が何やら怪しい顔をしていた。じろじろとこっちを見ながら擦り寄ってきて、身じろぎ一つで触れるほどの距離でスンスンと鼻を鳴らす。
「お兄ちゃんから女の匂いが――」
「いやそのネタもう良いから」
「むぅ、小町的にその反応はポイント低い」
大体制服から着替えてるし風呂も入ったのに匂いが残っている訳もない。というか匂いで判断できたら最早小町は人間じゃない。犬かお前は。
「……マジで冗談だよね?」
「んー? どうだろうねー?」
にこにこと笑いながら小町は答える。やだ、小町……恐ろしい子! と内心不安になりながら戦慄していると、とてとてっと小町がリビングから廊下へと向かっていた。もうそろそろ寝るのだろうか、起きたばかりだと言うのに。まぁ、寝る子は育つって言うしなぁ、寝る分だけ小町の女性的なものも育つと思うようん、なんて頷いておく。
「お兄ちゃん、待ってて。小町も一緒に勉強するから」
あ、違うのね。
◇◆◇
「ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「変わったね」
ふと、小町がそんなことを言った。
「……だから、なにがだよ」
「んふふー、照れてる照れてる」
「う…………、うぜぇ……」
なんとなくイラッと来たので溜め息を一つ吐いた後にこつんとシャーペンでおでこを突いておく。勿論蓋の方なので悪しからず。だかそれでも痛さを与えるには十分だった。さすさすと額を擦りながら小町は唇を尖らせる。
「むー……。今のは小町悪くないと思う」
「勉強しなくていいのか、受験生」
「いやするけど。……でも、ね」
かたりと握っていたペンを机の上に起きながら、ゆるりと小町がこちらを向いた。自然と俺もちらりと目をやれば、いつもの巫山戯た態度はどこへやら。優しく微笑む妹の姿に、思わず困惑してしまう。
「……おい、小町?」
「お兄ちゃん」
「だから、なんだよ」
「やっぱりまだ、諦めてないじゃん」
「――」
言葉が上手く出なかった。いつもなら変な方向に回る思考回路も口もぴたりと固まる。ぱきんと、無理矢理止めたシャーペンの芯が折れてどこかへ飛んでいく。さながらそれは、今の俺の冷静さのようにも思えた。どうしてこう、妹には隠し事ができないのか。
「……なんで、だ?」
「分かるよ。だって小町、お兄ちゃんの妹だよ?」
その一言に全てが込められていて、その一言で十分なくらいだった。それはこの世界で唯一、正真正銘こいつだけが持つ肩書きだ。比企谷八幡の妹。俺の妹。十数年を同じ屋根の下で過ごしてきた家族。ならばこそ、なのだろう。
「……そう、か。お前、妹だもんな……」
「うん。だから、分かるよ。……分かるんだよ、お兄ちゃん」
「……分かる、のか」
「そう、辛いのも、苦しいのも、嬉しいのも、幸せなのも、分かるから」
こてんと、肩に頭が乗っかってくる。静かに目を閉じて緩く口の箸を吊り上げた表情は、中学生がしていいものじゃないだろう。これじゃあまるで妹ではなく母親だ。お前ちょっと生まれる年を間違えてないか? なんて言える雰囲気でもない。力を抜きながら、小町の言葉に耳を傾けた。
「嬉しいよ、小町。お兄ちゃんがまた、そんな顔見せてくれて」
「……そんな顔ってなんだよ」
「知らないだろうけどね。お兄ちゃん、
「ねぇ、それ最後の台詞いらなくない?」
だからいつも一言余計なんだよ、お前は。兄妹揃って面倒臭い部分は同じなのだろう。それさえ無ければ本当に可愛い妹だというのに。……それがあってもいい妹ではあるんだけどな。なんというか、マジで兄貴としての色々なものを捨てている気がする。
「だから、ね。お兄ちゃん」
ぎゅっと、弱々しく袖を掴みながら。
「もう、諦めないでね」
「……あぁ」
それに対する答えは決まっている。大丈夫、大丈夫だ。次こそは次こそはと繰り返した、その果てに辿り着いた次こそはだ。故にもう次はない、そう思っていい。ここで終わらせる、片付ける、もう終わらせない、片付けさせない。ずっと、ずっと。
「しっかし兄妹って大変だよ、本当。最近仲良くなった川崎大志くんって子もお姉さんのことで悩んでてね」
「小町、その大志クンとやらとはどういう関係だ? 仲が良いとはどういう事だ?」
「え、なにお兄ちゃん目が怖いんだけど……」
川崎という名前に少し引っ掛かりを覚えながら、妹に近付く男には容赦せんと覚悟を決める。そんな馬鹿げた話をしながら、夜は更けていった。
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関わり合いの空気
寝坊した。
「はぁ……」
もう一度言う、寝坊した。それはもう言い訳の余地もないくらいに綺麗な寝坊だった。ちょっと起きるのが遅れたとか通学途中に色々あってなんて理由は勿論効果は発揮しない。何故ならば、既に時計の針は午前十時を回っている。完全な遅刻である。昨日妹と一緒に勉強をしている途中で落ちてしまったというのに、そのまま迎えた朝に妹の姿はない。代わりに「小町は遅れたくないから先に行くけどお兄ちゃんも学校遅れないようにね!」という書き置きがテーブルに置かれていた。うん、なんで起こしてくれなかったの?
「あいつ……帰ったらしばく……」
密かにそんなことを心に決めながら廊下を歩く。誰一人居ないのは今が授業中だからであり、その事実がより一層憂鬱な気分を引き立てた。やべぇ、このまま帰りたいんだけどいいかな。平塚先生に絶対怒られるんだけど。本日早くも二桁を更新した溜め息をついたところで、ふとさらさら髪の毛の揺れる背中を見つける。
「……川崎?」
「ん……って、なんだ。あんたか」
くるりとこちらを振り向いた川崎は、相も変わらず覇気のない目をしていた。ややトーンの低い声もあって、寝起きで機嫌が悪いようにも見える。人によっては眠そうな状態というのは柔らかくなりそうなものだが、川崎沙希は纏う雰囲気が些か鋭い。自ら人と接するのをやめているような態度は、まるでどこぞの誰かを思い浮かばせる。……俺と彼女では、そもそもの根元からして違っているだろうが。
「あんたも遅刻?」
「あぁ、まぁ、そんな感じだ。川崎もか」
「……まぁ、ね」
ふいっとそっぽを向きながら、まるで何かを隠すように川崎は歩き出した。これ以上余計なことを聞くなという圧が出ている。下手に空気を読めてしまう人間なら即決で離れていくタイプ。空気の読めない奴なら向こうから離れていくタイプ。言ってしまえば、川崎沙希は少々怖かった。
「……行かないわけ?」
「あ、いや、行くけど」
ちらっとこちらを見ながらそう言われて、かつかつと後ろをついて歩くことにする。となると当然、なんとも言えない沈黙が訪れるのだが。元々俺にはそんな雰囲気を打破するコミュニケーション能力もやる気もない。川崎だってそんなに気にするとは思えない。お互いに気まずい筈なのに自然体で居られるこの状況は、ともすれば心地良い静寂、というものなのだろうか。……いや、普通に気まずくて辛いんですけど。なんて思い始めたところで、がらりと川崎が教室の扉を開けた。
「川崎。と……君もか、比企谷。二人して遅刻とはどういうことだ?」
「別になんでもないですよ……」
何故こうもピンポイントで平塚先生の授業なのだろう。神の悪意を感じながらスタスタと先に席へ着いてしまった川崎の代わりにも返答しておく。たまたま合流して一緒に教室に入っただけで何かを言われるのは、俺も川崎も面白くない。尤も、俺自身は知名度補正で数日もすれば忘れ去られる。おいおいマジかよぼっち最高だな。
「……はぁ。君らは後で職員室に来るように」
だがまぁ、お叱りは免れなかったようだ。仕方ない、と割り切ってそっと川崎の方へ視線を向ければ、気にしていないのか気にする程でもないのか、彼女はぼうっと窓の外を眺めていた。話しかけてくるなオーラ漂わせる姿はベテランぼっちの俺でさえ惚れ惚れする程である。ちなみに比企谷八幡はあんなものが無くたって話し掛けられない。むしろ話しかけてオーラを出したって話しかけられない。極一部の物好き共を除いて。
◇◆◇
今日も今日とてテストが近付いているため部活は一旦停止し、ファミレスに集まって勉強会である。メンバーはいつもの三人に加えて大天使が降臨した。間違えた、戸塚がやってきていた。ばったりと出会した折に誘ってみれば、ちょうど暇だったとのことで無事参加。まじえんじぇー。
「じゃあ次、ゆきのんが問題出す番ね」
「では国語から出題。次の慣用句の続きを答えよ。風が吹けば?」
「えっと……京葉線が止まる?」
「惜しいな、由比ヶ浜。最近は止まらずに徐行運転の方が多い、だ」
「あなた達馬鹿なの?」
雪ノ下の心底見下すようの視線を受けて、俺と由比ヶ浜は一斉に目を逸らした。千葉県横断ウルトラクイズ的な切り返しは彼女のお気に召さなかったらしい。頭が痛いとでも言うようにこめかみを抑えながら、雪ノ下はゆっくりと溜め息をつく。そんな光景を見ながら、にこにこと微笑んで口を開いたのは天使だ。間違えた戸塚だ。
「桶屋が儲かる、だよね」
訂正。間違ってなかった、天使だった。
「正解。二人は彼を見習いなさい。特に比企谷くん」
「おい、なんで俺なんだよ。由比ヶ浜はどうした」
「あなた腐っても三位じゃない」
腐ってもは余計だ、腐ってもは。確かに俺は目とか性根とか性格とか考え方が腐ってはいるが、これでと歴とした現在進行形で生きている人間である。例え無言で妹からファブリーズをかけられることがあろうとも、ゾンビではないのだ。ねぇ、小町ちゃんなんなのアレ。お兄ちゃんちょっとトラウマなんだけど。
「では次の問題。地理から出題。千葉県の名産を二つ答えよ」
「みそぴーと……ゆでぴー?」
「この県には落花生しかねぇのかよ。正解は千葉の名物、祭りと踊りだ」
「名産と言ったでしょう。大体、千葉音頭の歌詞なんて誰も知らないわよ……」
雪ノ下がマジでドン引きしていた。ていうかお前知ってるじゃんちょっと引くわ……と逆にドン引いていると、くいっくいっと顎でこちらをさされる。なんなのかと思って首を傾げれば、とんとんとテーブルに置いた教科書が無言で叩かれた。あぁ、次は俺の出題番でしたね……とだらだら適当な教科書を持ってぺらぺらとページを捲っていく。まぁ、こんなんでいいんじゃね。
「あー、問題。以下の四字熟語の意味を答えよ。不撓不屈」
「ふとーふくつ?」
「比企谷くんやめなさい。由比ヶ浜さんが困っているでしょう」
「むしろこいつが困らない問題なんてあるのか」
「むっ! ヒッキーもゆきのんも酷いよっ! あたしだってちゃんと入試受かって総武入ったんだからね?」
「まぁまぁ、二人も悪気がある訳じゃないし」
「さいちゃん……」
今更ながらその事実を聞いて、思わず感動してしまいそうになった。そうか、こいつが試験合格したんだよな……。もしかすると人類最大級の奇跡ではないだろうか。そうでなければぶっちゃけ小町くらいなら余裕で受かりそうじゃね。うちの妹もなかなかなものだと思う。
「――あれ、お兄ちゃん?」
と、そんなことを考えていたところにその声を聞いて、自然ぴくんと肩が揺れた。すっと振り向いて声の主を見やれば、特徴的なアホ毛に普通の瞳を持った美少女中学生が居る。総合的な見た目だけなら本当に良いんだよなぁ、俺とは違って。
「小町か。どうしたんだ、こんなところで」
「いや、こんなとこって、まぁ、ちょっとね」
「なんだそ……れ…………は」
言葉を区切る。力を入れる。見付けた、小町の後ろに若干肩を落としながら立っている野郎の姿を。この比企谷八幡、容赦せん。頭を回せ、口を慣らせ、油をさしたように滑らせろ。全身全霊をもってこの男を二度と小町に近付けないようにしてやる。雪ノ下から直に見て、聞き、受けてきた毒舌、とくと味わうがいい。
「……なぁ、おい、そこのお前」
「え、あ、はい。えと、比企谷さんのお兄さんっすよね」
「てめぇにお兄さんと呼ばれる筋合いはねぇ」
「何を頑固親父みたいなことを言っているの……」
雪ノ下が呆れたように言う。うるさい、ちょっと今妹を持つ兄として大事な話をしてるんだ。
「前言ってた川崎大志くんだよ。どうしたら元のお姉さんに戻ってもらえるのかって話してて……あ、お兄ちゃんも手伝ってよ。困ったことあったら手伝うとか言ってたし」
「お前な……」
「お願いします、お兄さん」
「だからお兄さんって呼ぶな。お前を義弟とは断じて認めん」
「やれやれだよお兄ちゃん……」
川崎大志を名乗る男にうっすらと殺意を覚えながら、しかし俺の中でその名字がしっかりと引っ掛かっている。川崎沙希。それは決して、無関係ではなかった。
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ファースト・ネーム
覇気のない目、青みがかった黒髪、黒レース。それらから構成されていく女子を俺は知っている。
「姉ちゃんが総武高の二年で……あ、姉ちゃんの名前川崎沙希って言うんすけど、なんか、不良になったっていうか、なんていうか……」
「……やっぱりか」
ぼそりと漏らして、ふとしんと静まり返ったことに気付いた。顔を上げてみれば雪ノ下ら周りの知り合い全員がこちらを向いている。いや弟君お前は違うよ? 知り合いでもないし出来ればお知り合いになりたくもないよ川崎弟。だからこっち見んなお兄さんとか言うな。
「なんだよ」
「いえ、あなた、知っていたの?」
「や、違ぇよ。あれだ。ちょっと面識があるだけでな」
「……あ、そういやヒッキー今日川崎さんと来てたじゃん。しかも二人とも遅刻して」
「あぁ、うん。そうそう、確かに来てたよ」
「え?」
「え」
由比ヶ浜と戸塚の言葉に中学生組が固まる。ここで情報を整理してみよう。不良になった姉、男女が一緒に登校、しかも遅刻と来た。はてさて、ここから導き出される答えがなんなのか。俺は分かる。俺には分かる。性欲盛んな男子中学生がここから何を連想するのか、手に取るように分かってしまう。何故なら俺も同類だったから。
「ま、まさか
「だからお兄さんって呼ぶんじゃねえ。違う。お前の考えているような事実は一切無い。あいつとはただの知り合いだ。それ以上でも以下でもない」
「不純異性交遊……駄目ね、弁護のしようが無いわ」
「雪ノ下。やめろ、そんな哀れな目を向けるな。勘違いだ」
「あれ? よく考えたらヒッキーマジでダウトじゃん。一緒に遅刻してるし」
「だからそれは偶然だ。そもそも――」
話がややこしくなりそうだったので、びしぃっと思いっきり妹を指差す。にやにやと「おやおやお兄ちゃんも隅に置けませんなー」とかなんとか言っていた顔から一転、ぽかんと呆けながら首をかしげた。
「遅刻したのは半分くらいこいつの責任だ」
「いやいや、小町そういうの良くないと思うなー。起きなかったお兄ちゃんが悪いでしょ」
「そうだ。思い出した。小町、お前なんで起こしてくれなかったの?」
「んふふー。お兄ちゃんの寝顔が素敵で起こすのが躊躇われちゃってー」
あ、今の小町的にポイント高ーいなんて言いながら笑う
「……小町」
「なに? お兄ちゃん」
「ちょっと、顔寄せろ」
「え、なにそれどうい――ったぁ!?」
渾身のでこぴんが小町の額に刺さる。完全に隙をついた一撃はかなり効いたようで、俯きながらおでこを押さえる妹に無言でジト目を向けた。昨日はシャーペン、今日は指。しかし威力は後者の方が圧倒的に上だ。ぼっちな兄だからと高を括っていたのが仇となったな。
「とまぁ、なんだ。つまり、俺は無実だ」
「証拠がないのにここまで説得力があるのは何故かしら……」
「ヒッキー容赦ないね……」
「えっと……小町ちゃん、だっけ。大丈夫?」
「お兄さんマジぱねぇっす」
うるさい、お兄さんって呼ぶな、ぶっ殺すぞ。あと戸塚マジ天使。
◇◆◇
思っていた以上に、川崎大志は参っていた。
「帰りとか五時くらいっすよ。朝の。うち両親共働きなんで滅多に顔合わせないし、たまに顔合わせてもなんか喧嘩しちまうし。俺がなんか言っても『あんたには関係ない』の一点張りで……」
困り果てたように肩を落とす大志は、本気でどうにかしたいと思っているらしい。家族で雰囲気が悪いと色々気を遣われるし、気を遣ってしまう。小町には一時期酷く苦労をかけた。現在進行形でも苦労をかけている。むしろ開き直って未来永劫苦労をかけよう。小町ちゃん養って。
「家庭の事情、ね。……どこの家にもあるものね」
ふと、雪ノ下が小さくそう呟いた。ちらりと覗いた顔色は酷く陰鬱なもので、今にも泣き出しそうなくらいだ。この手の話題が自分に帰ってくることくらい分かっていた筈だろうに、何をしているのか。ひそりと、横に座る雪ノ下へ声をかける。
「首を突っ込むようなことはしねぇけど。無理とかすんなよ。お互い、分かってんだろ」
「えぇ、そうね。……私もいつか、前へ進めれば、良いのだけれど」
「俺だって前になんか進めてねぇよ。行って戻っての繰り返しだ」
「だとしても、よ。私は行けないから」
ふっと、諦めたように微笑んだ雪ノ下は、見ている俺がむしゃくしゃしてしまう程にらしくない。がりがりと頭をかきながら、もやもやする気持ちをコーヒーと一緒に流し込む。雪ノ下雪乃は雪ノ下雪乃だ。どこまでいってもそれは変わらないし、変えようがない事実だ。俺に言えるのは、それくらいのことだろう。だから、そう、これは。
「……まぁ、なんつうの」
「比企谷くん?」
「お前は、雪ノ下……あぁ、いや……その、悪い」
「え?」
ちょっとした、気まぐれだ。
「
「――」
言ってから即座に後悔の念に駆られる。似合わねぇ、絶望的に似合わねぇ。俺が雪ノ下のことを下の名前で呼ぶのがここまで似合わないとは思わなかった。これは由比ヶ浜も戸塚も下の名前で呼ばない方が懸命かもしれない。……だが、まぁ、ここでその羞恥心に負けてやめる訳にもいかないだろう。
「あなた、今……」
「俺にとってのお前は、そうなんだよ」
「……っ」
「だから、なに、上手く言えねぇけど」
なんだよこれ恥ずかしいし恥ずかしくもあるし恥ずかしすぎる。
「……初めて、かしら」
「は、ぁ?」
「あなたに名前を呼ばれたことよ」
「……あー、や、悪い。嫌だったか」
うん、自分でもちょっと気持ち悪かったからね。仕方ない、というかこれで否定されない方がヤバイ。主に俺の精神的に。
「別に、その、嫌とは言ってない、でしょう?」
……主にッ、俺のッ、精神的にッ。
「あの、これ、俺の相談確実に忘れられてません?」
「しーっ。今ちょっとお兄ちゃんが凄く頑張ってるから」
「良いなぁゆきのん。あたしだって名字なのに」
「そういえば僕も名字呼びなんだよね」
外野ちょっと黙っててくれ。俯きがちに答えた雪ノ下の顔は見えない。ただ、さらりと流れる黒髪の隙間から見えた耳は、少しいつもより赤いように見えた。本気でどうすれば良いのだろう、はっきり言って無理。恥ずかし過ぎて死ぬ。あの雪ノ下を? 名前呼び? たしかにあの人としっかり分けられるとは言え、代償がでかすぎる。そう、主に、俺の、精神的にだ。
◇◆◇
結局、川崎沙希の件は奉仕部で取り持つこととなった。決定的になったのは、あの後微妙な雰囲気の中提示された新たな情報。
「エンジェルなんとかって店から電話かかってきて……や、絶対やばい店っすよ! だってエンジェルっすよ、エンジェル!」
激しく同意した。分かるわ、という風に頷いて予想外の意気投合を俺達がしている間、雪ノ下や由比ヶ浜ら女性陣は逆に分からないわという反応だった。こういうのは理論や理屈ではない。男の感性もとい中二エロセンサーが訴えているのだ。エンジェルの付く店はやばい。
『全くもって分からないわね』
「つーか、分かられても困るんだがな……」
そうして現在、絶賛雪ノ下との通話中である。かれこれ一時間は携帯を耳に当てている。長電話とかぼっちであるこの俺がするとは思わなかった。世の中分からないわ。
「特に
『あら、そういうそちらは随分な根性無しじゃないヘタレ谷くん』
「ぐっ……否定出来ねぇ」
いやだって言えませんし。言えてないですし。
「……初めて、なんだよ」
『初めて、って』
「その、妹以外の奴を、下の名前で呼ぶの……っ」
『――っ』
そう考えると俺の人間関係がどれだけ狭いのかがよく分かる。名字で十分に通じる範囲の人間しかいない。というか居るには居るが呼び捨てとさん付けで分けるという非常に面倒臭い方法だった。名前呼びも同じくらいに面倒臭いのだが。
「……あ、あー、もう、寝る時間、だな」
『え、えぇ、そうね』
だから、まぁ、率直に言って限界だった。
「そ、それじゃあ、な」
『そ、そうね。おやすみ、比企谷くん』
「あ、あぁ。――ゆ、雪乃」
『ッ!?』
通話を切る。そのままぽいぽいぽーいとソロモンの悪魔ばりにスマホを放った。ぼふんとクッションの上に落ちたそれを拾う気は無い。だから嫌だったんだ、下の名前で呼ぶのは。
「……友達なら、普通、だよな……?」
口から出たそれは、俺が言ったとは思えないような内容だった。
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リ・ファースト・ネーム
これは俺だけではなく、殆どの人間に言えることだろう。何か変化があった翌日、もっと言ってしまえば恥ずかしいことがあった次の日。その関係者たちと顔を合わせるのが気まずかったり、嫌で嫌で仕方が無いということはある筈だ。そんな訳で学校に来た俺は、昼休みにベストプレイスに行くのが
「……誰も居ないか」
「居るんだけど?」
斜め後ろ上方から降ってきた声にビクつきながら、すっと振り向いて確かめる。やはりというか運良くというか、何はともあれ川崎沙希はそこにいた。やる気が無さそうにだらんと力を抜いて給水塔にもたれながら、紙パックのジュースを握りつつ飲んでいる。と、そこで自分も昼食を食べていないことに今更気付いてしまう。
「川崎か」
「見りゃわかるでしょ。他の誰に見えんの」
「……なぁ、物は試しなんだが」
さて、ここで一人の男の話をしよう。悲しみと苦しみを合わせて煮詰めてぐつぐつのシチューにしたようなどうしようもないほど救えない馬鹿な男の話である。そいつは昔から一人で居ることが多かった。気付けば自然と一人だった。他の誰かと一緒に過ごすことのない毎日。今思えばあの頃からプロボッチの片鱗を見せていた。
「なに?」
「あー、いや、あの、なんつうの?」
「……はっきり喋れば?」
「あ、あぁ、悪い。だから、な」
「……飯、一緒して良いか?」
「…………別に、好きにすれば」
え、なに今の間。ちょっと怖いんだけど。ぶっきらぼうに答えた川崎だが、しかし驚くことに俺が近付いても嫌悪の反応を見せない。それどころか普通に座る場所を空けてくれた。なんだか良い人過ぎて中学の頃の自分なら一も二もなく惚れて告白して振られるまである。振られちゃうのかよ。
「……、」
「……、」
菓子パンの袋を開けてかぶりつく。もぐもぐと食む咀嚼音と、ちゅーちゅーとストローで啜る音が場の雰囲気を作り出した。要するに無言、無言、無言。言葉など要らない訳ではない。言葉が無いのだ。人間とは悲しい生き物で、こういう状況になると非常に気まずく感じてしまう。あれ、昨日から俺の周り気まず過ぎ……?
「……川崎、は」
「ん……?」
「あ、いや、部活とか、してたかと思ってな」
「……してないよ」
このように、少し前より明らかに弱くなってしまった俺では、ぼっちの意地を張り続けることもできない。前ならば何が何でも沈黙の中でやり過ごそうとしていた。無理に繋げた関係に、何もないと分かっている。今でもそう思っているし、間違いだと疑ってもいない。そんな自分が必死でこうしているのは、結局そうじゃなく繋がった奴等のためなのだ。
「じゃあ、バイトとか、か」
「――うん。まぁ、少し、ね」
目をそらしながら川崎が言い淀んだ。分かりやすい隙だ。
「……なぁ、それは」
「ごちそうさま。じゃ、あたし行くから」
「…………あぁ」
嫌な予感を感じ取ったのだろう。さっさと会話を切り上げて立ち去るというのは、川崎にとってこれ以上に無いくらい最良の選択肢に違いない。ぼっちというのは人より人の作る雰囲気に鈍感でありながら、自らに迫る危険には人並み以上に敏感だ。そうでなければどこかで折れている。ここまで来れているというのなら、つまりはそういう事だろう。俺の見立てに狂いはない。川崎沙希は、生粋のぼっちだった。
◇◆◇
扉が重い。部室の扉がとても重い。重すぎてマジ開かずに帰っちゃうレベル。廊下に立ち尽くして息を吐きながら、何度目かにならない決意を固める。それが崩れ去るのは直後だ。いやいや、無理だろこれ。この中に
「何をしているのかしら」
「うぉっ」
がらりと目の前の扉が開いて、雪ノ下が顔を見せる。っべー、マジビビったわ。やーほんと雪ノ下サンばり半端ないっすね。そんな下らない考えを見抜いたのか、ジト目でこちらを睨んできた。体の芯から凍える気分とはこういうものか。予期せぬ嬉しくもない新体験に戦慄していると、ふぅと雪ノ下が息を吐く。
「遅かったのね。もうあなた以外は集まっているわ」
「あ、あぁ。悪い。ちょっと、な……」
「ちょっと、何かしら」
「……なんでもねぇよ。遅れて悪かった、
自然と、その呼び名が口にされていた。まるで何を思うこともなくするりと出てきた事実に驚きながら、内心ではグッジョブ俺と親指を立てる。これで指摘されても気付かなかった、間違えたという大義名分が手に入ったのだ。完璧だな、やはり雪ノ下は雪ノ下が一番雪ノ下らしい。すたすたと彼女の横を通って部室に足を踏み入れ――、
「……ヘタレ」
ぴたりと、止まる。
「っ……」
別に良い、ヘタレでも良い。俺自身の評価など最初から落ちるところまで落ちている。最早これ以上は余程の事でもない限り受け入れる所存だ。だから気にしなければいい。そうだと胸を張ればいい。つまらん意地などとっくのとうに捨て去った。けれど、でも、なんとも言えない気持ちが、
「……ゆ」
下手に付き合いが長かったのもある。知らぬ間にどちらも相手を探っていたからというのもあるだろう。だが一番は、妙なところで合っているからこそこうなってしまうのだ。立場も、考え方も、在り方も、やり方も、環境も。何もかもが決定的に違うのに、どこか重なる部分が散りばめられていた。
「雪ノし――っ、あぁッ」
がしがしと頭をかく。頬が熱い。背中に嫌な汗がじとりと吹き出てくる。ポケットに突っ込んだままの空いた片手も同じだ。面倒臭い、本当に、あんなこと言わなければ良かった。言わなければ、言わなければ。でも――
「……ゆ、雪乃。遅れて、悪かった」
「――っ、え、えぇ。全くね」
――でも、こいつにこうして受け入れられて、悪い気はしない。
「またヒッキーとゆきのんがイチャイチャしてる……」
「仲良いよね、あの二人」
「やー、小町としてはこれだけでここに来た甲斐がありましたよー。お兄ちゃんファイトっ!」
え? なんでこいつら居んの? あ、いや、由比ヶ浜は部員だから当たり前として、見知った顔が二人追加されている。大天使もとい戸塚もまだ良い。戸塚は彩加で最高だからな、仕方ない。とつかわいい。だが小町。俺の妹。我が同胞。お前はたしかもなにも俺がタイムトラベルとかしてない限り中学生だろ。
「では、揃ったことだし、始めましょうか」
と、いつも通りの雰囲気に戻った雪ノ下違う違ういや合ってるけど違う
「……良いかしら? その、は、八幡?」
耳を疑った。
「――ッ」
「お、お前、何言って」
「いえ、黙りなさい。その、忘れて、お願いだから」
真っ赤な顔で俯く雪ノ下を見ながら、そう言えばそうだと頭が回り始める。俺だけというのは、些か不平等だ。
「……忘れろ、つってもな」
恥ずかしい気持ちは平等に、なんて。
「……俺は頑張ってお前の名前呼んだんだがな」
「……っ!」
「そうか、そうか。あぁ、残念だ」
「くっ……!」
あ、とそこでふと気付いた。なんか偶然にも雪ノ下の上に立てているのだ。それでいて圧倒的にこちらが主導権を握っている。こんな経験は初めてだ。
「〜〜っ、は、八幡。こ、これで良いでしょう?」
「ぁ、あ、あぁ、おう」
「……あ、あなたも呼びなさいよ」
「う、わ、分かってる、ゆ、雪乃」
なんというか、これは、予想以上に。
「むぅ……順番的にあたしの方がゆきのんより先なんだけど……」
「うわぁ……、雰囲気が凄いなぁ、比企谷くんと雪ノ下さん」
「はっ!? こ、これはお兄ちゃんのお嫁さん候補案件では――!?」
お互いが恥ずかしくなって、どうしようもねぇよ。
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大抵の物事は上手く進まない
奉仕部部員プラスアルファ、総勢五名による川崎沙希更正計画は難航を極めた。やり方を捻り出すこと自体に苦はない。ピンと来たものをとりあえずは試してみるだけだ。当初は気楽に進めていた俺達だが、まさかここまで手強いとは想定していなかったのである。
「大志か、なんだ」
『さっき猫とか聞いたんすけど、姉ちゃん猫アレルギーっすよ』
「……お、おう、そうか」
我が家の飼い猫であるカマクラを使ったアニマルセラピー案、川崎自身の体質により失敗。
「君は親の気持ちを考えた事はないのか?」
「……親の気持ちなんて知らない。ていうか、先生も親になったことないから分からないだろうし。そういうの、結婚して親になってから言えば?」
「ぐはぁっ!」
平塚先生に事情を話して説得してもらう案、本人の心がばっきばきに折れて失敗。あの女、なんと卑劣な。やめろ、ちくしょう、なんか涙が出てくるじゃねえか。もう誰かもらってやれよ……。
「どうしようもないわね……」
「おい、平塚先生泣いてたんだけど」
「そこも踏まえてどうしようもないのよ」
「……さいですか」
実際打つ手なしなのは本当だ。尽く、といってもたかだか二つの案を潰されただけだが、それでも川崎の鉄壁
「……流石のぼっち力、だな」
「ヒッキーがまた何か変なこと言ってる……」
「お兄ちゃん頭大丈夫? 病院行く?」
「先生、可哀想……」
ぼそりと呟いた一言にそれぞれが噛み付いてきた。由比ヶ浜と小町はとりあえず放っておきながら、一人まともな反応をしている戸塚へ目を向ける。戸塚、お前はそのままでいてくれ。そのままでいい。そのままが一番だ。変わらないことを恐れないでくれ、変わることを恐れてくれ。優しい君が大好きです。
「……? 比企谷くん? どうしたの」
「いや、なんでもない。にしても、どうする」
ちらっと雪ノ下雪乃の方を向いてそう問えば、彼女はそっと顎に手を当てて考え始める。手詰まりに近い現状は、確率の低いアイテムのドロップを狙っている時のような気分だ。物欲センサーとか確率の壁越えとか妖怪イチタリナイとか。
「後は
「――それね」
凛と、透き通った声音が響いた。
◇◆◇
川崎はバイトをしている。しかも朝方まで帰ってこない。エンジェルなんとかの店長を名乗る人物からの電話。これらの情報をまとめ上げ、千葉市内にある『エンジェル』と付く
「お待たせいたしました、ご主人様」
「ああ、カプチーノを二つお願いします」
「ご主人様がお望みでしたらカプチーノに猫ちゃんなど描きますが、いかがいたしますか?」
「いや、大丈夫です」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ♪」
注文を聞いていたメイドさんは、オプションを断っても嫌な顔一つせず素敵な営業スマイルを浮かべた。居酒屋風にするなら「はい喜んで!」という感じだ。これがプロかと思わず感動しそうになる。サービス精神溢れる接客は実にこちらとして気分が良い。なるほど、どうりでみんな何度も足を運ぶ訳だなぁと一人納得した。
「……比企谷くんって、慣れてるの?」
「ん? そんなことはないぞ。初めてだからな」
「にしては堂々としてるよね……」
あぁ、戸塚、違うんだ。俺だって入った瞬間は結構緊張していた。大体自分は人の多い所や初めての場所というのが嫌いな人間である。故にこそ基本家から出ないのだが、そうすると余計に加速してしまうという負のスパイラル。とまぁ、それらは今どうでも良くて、何を言いたいかというと。
「……あれを見てみろ」
「あれって……というか、目の前の材木座くん……」
「む、む?」
今回、ここに来るにあたってこういう類の店に強いと思われる材木座を呼び出した訳なのだが、現在水をハイペースで飲みながらかたかたとコップに超震動を与え続ける存在と化していた。曰くこういうのは好きだが、いざ入ると恥ずかしくて上手く喋れないとのこと。役に立たねぇ。
「人はな、自分より焦っている奴を見ると逆に落ち着くんだよ、戸塚」
「そ、そうなんだ……」
「八幡。我のことをそんな目で見るな」
男三人、特に意味のある会話もせずにぼうっと過ごす。他の人員はといえば、小町はカマクラと共に帰宅させてある。中学生をあまり遅くまで出歩かせては危険だ。小町になにかあっては我が家の一大事になるのは確定的に明らか。大人しくしていてくれ、マイシスター。それはそれとして残り二人はというと――。
「お、お待たせしました。……ご、ご主人様」
言うのが余程恥ずかしかったのだろう。そいつは顔を真っ赤にしながらカップを置いた。そっと顔を見てみれば、メイド服を着た由比ヶ浜だった。つまるところ、この店のサービスでメイド体験中。着ているのは黒と白を基調としたふりっふりの、スカートがやけに短く胸元が強調されたものである。
「…………」
「に、似合うかな?」
持っていたトレイをテーブルに置いて、赤くなった頬をかきながら由比ヶ浜は言う。似合うかに合わないかであれば、迷わずどちらか答えは出ている。けれど、声に出すのが些か恥ずかしい。
「わぁ、由比ヶ浜さん可愛いね。ね、比企谷くん」
と、そこへナイスなタイミングで戸塚からのパスが送られてきた。やはり俺の天使が戸塚なのは間違っていなかった。
「あぁ。うん。……似合ってる、んじゃねえの」
「っ……い、いやいや、なんでそんな曖昧だし……」
「あ、や、悪い。似合ってる」
「ぅ……そ、そっか……」
ふいっと由比ヶ浜がそっぽを向く。僅かに見える顔はいつもより気持ち赤くなっているように思えた。果たしてそれは恥ずかしさか、それとも怒りからか。なんて、殆ど分かりきっているのにはぐらかすのは自身の心の弱い証拠だろう。
「待たせたわね」
そう声を掛けてきたのはここに来た最後の一人雪ノ下雪乃だ。こちらはロングスカートに長袖、さながら大英帝国時代のメイドさんを彷彿とさせる。分かりやすいように分かりにくい時代的なネタで例えればロッテンマイヤーさん。
「うわ、ゆきのんやばっ! めっちゃ似合ってる。超きれい……」
はぁーと息を吐きながら由比ヶ浜が絶賛する。確かにこいつの言う通り、
「だな。なんだ、すげぇ似合ってる」
「……そう。まぁ、どうでも良いのだけれど」
素直じゃない、とでも言ってやろうか。
「とりあえず、ここに川崎さんは居ないわ」
「見てきたのか」
「えぇ、シフト表に名前が無かったもの。自宅に電話がかかっているのだし、偽名の線もないでしょう」
きっちりかっちりと仕事をこなしていた雪乃に感心しながらカプチーノに口を付ける。いや本当、こいつがメイドとかしたら徹底的にやりそうで怖い。メイドは少しドジなくらいがちょうど良いのだ。主に萌え的な要素を考えて。……や、別に由比ヶ浜のことじゃないからね?
「とりあえず、今日はここまでか。収穫はなし……と」
「仕方ないわ。これ以上は遅くなるから」
今更ながら一日をふいにした事で、若干の不安が募る。これでもう一つの方にも居なかったら目も当てられない。どうか、川崎がそこで働いているよう祈っておこう。……バイトを辞めさせようとしているのに、バイトをしているように願うとか、ちゃんちゃらおかしいな。
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川崎沙希という人物。
最終手段の前に一つ、由比ヶ浜立案の作戦を実行することになった。その名も『女の子が変わる理由? やっぱり恋っしょ! JK力アップだし!』である。俺の中の第六感的な何かが
「……で、葉山か」
「やー、なんてーの? 隼人君なら何とかなるかなーって。ほかの男子は、まぁさいちゃんはモテるけどちょっと違うし、中二は中二だし」
「おい、俺のこと忘れんなよ」
「ヒッキーはちょっと磨けば光り……ひか、光る、かなぁ……?」
やめろ、首を傾げるな。せめて光る鉱石でないのなら磨けば光る原石でもいい。それすらも否定されたら最早路傍の石である。なんだそれ超似合ってんな。俺ってば本当路傍の石とか道端の雑草とかコンクリート脇の苔くらい存在感薄いし。
「磨く……あなたの目って磨けるの?」
「いや普通に考えて無理だろ」
「そうよね。結論として由比ヶ浜さんの言い分は間違っていないわ」
「おい……」
女子二人から磨いても光らない石ころ判定を下される。男としてこれほどプライドを傷付けられたことは人生で両手両足の指を使っても足りない。大体一日に一回は大なり小なりプライドが傷付いているくらいだ。やべぇな、毎日がズタボロじゃねえか。
「バイトかなんか? あんまり根詰めない方がいいよ?」
「お気遣いどーも。じゃ、帰るから」
そんなこんなでふと葉山の方を見てみれば、当たり前のように袖にされていた。なんとなく予想していた通りである。というよりも確信に近い。川崎沙希は葉山隼人に靡かない。もっと言えばそこらの男というものに靡かない可能性すら考えられる。当然だ、葉山で駄目ならリア充(笑)なんぞ以ての外、戸塚も靡くという点では難しく、俺や材木座に至っては「戦闘力たったの5……ゴミめ」だろう。
「あのさ……そんなに強がらなくても、いいんじゃないか?」
「……あ、そういうのいらないんで」
まぁこうなるよな、と自転車を押しながら去り行く川崎を眺めた。葉山はその場で数秒立ち尽くした後、くるりとこちらを向いて照れ笑いを浮かべながら帰ってくる。
「なんか、俺、ふられちゃったみたい」
「……おう、ご愁傷さま。なんか、悪かったな……」
「いや、いいよ、そこまで謝らなくても」
流石にクソイケメンガチリア充葉山さんと言えど俺の良心が責めるのを躊躇わせた。もしも俺なら自宅へ直行して、枕に顔を埋めながら「うおぉぉぉ――ッ!?」と叫んでいる。ふぶぉっと吹き出した材木座は知らない。お前は空気を読め。読めないからこそ材木座なのだが。
「これも失敗、ね。……今夜、もう一軒の方に行ってみましょう」
「だな……」
当たっていれば、良いのだが。
◇◆◇
エンジェル・ラダー天使の階。そこは予想以上に高校生である俺たちにとって場違いな雰囲気の場所で、一般人である人間には到底縁の無いものだった。一目で分かる高級感、うっと声を漏らすほどのアウェー感、キョドりそうになるくらいの不安感。結論、ぼっちにはハードルが高いようだ。当初は全員で来る予定が、衣装の関係で奉仕部員以外はアウト。女子二人を侍らせて冴えない男のご登場となった。着慣れないジャケットが妙に心地悪い。
「……由比ヶ浜」
「な、なに? ヒッキー」
話し掛ければ彼女もまた動揺していた。あぁ、なんだかとてつもなく安心する。今だけはこいつが鎮静剤であり清涼剤と言えよう。メントール由比ヶ浜爆誕の瞬間であった。なんてどうでもいい事を考えるくらいには落ち着いたところで。
「頼むからいつも通りのお前らしさを出すなよ……」
「い、いやいや、馬鹿じゃないのヒッキー。いつも通りとか、そういうの無理だってこれ」
「二人共遊んでないで」
ふと、右肘に雪乃の手がそっと添えられる。細く形のいい指がきゅっと絡み、ほんの僅か心臓が跳ねた。肉体的接触には未だ慣れない。誰かと近い距離で長く過ごしてこなかった代償だ。それらをどうにか抑え込んで、小さく雪乃へ話し掛けた。
「……エスコートは任せていいか?」
「あら、男としてのプライドが無いのかしら」
「ねぇよ。んなもん、うちの猫に食わせた」
「あなたのプライドを食べた猫が可哀想ね……」
いつも通りの会話でやっと平常心だ。平常心平常心、と強く念じる時に限って焦りが強くなる。変わった環境の中でも変わらない対応というのは、何とも己の心にゆとりをもたらしてくれた。雪乃に指示された由比ヶ浜は逆の左手側を掴み、そのまま歩き始める。開け放たれた木製のドアをくぐると、ギャルソンらしき男性が脇にやって来てすっと頭を下げた。
「……、」
「きょろきょろしない。胸を張りなさい」
「っ……あ、あぁ」
ぼそっと雪乃に呟かれる。こういう所で格好が付かないのは俺自身の意識の低さからだろう。葉山なら完璧にやってのけるに違いない。昼間の公開処刑もどきのせいでやけに葉山が頭に残っていた。
「……ぉ」
と、通されたバーカウンターで見知った顔を見付けた。きゅっきゅっとグラスを磨く女性のバーテンダー。すらりと背は長く、顔立ちは整っており、長い髪を纏め上げている。いつもの雰囲気など感じられない。殆ど別人に思われるが、それにしては類似点がやけに多い。つまるところ、当たりだった。
「川崎」
「……申し訳ございません。どちら様でしたでしょうか」
声をかければ、少し困ったような表情でそう返される。
「同じクラスの知り合いなのに顔も覚えられてなかったの、あなた」
「や、今日は服とか違うし、仕方ないんじゃない?」
言いながら雪乃と由比ヶ浜が座る。二人の間には空いた席が一つ。ナチュラルに嵌められた気分になりながら、そっとそちらへ腰かける。これオセロならひっくり返ってるよ。はさみ将棋でも取られてる。
「捜したわ、川崎沙希さん」
「雪ノ下……」
一言で彼女の顔色が変わった。そこから読み取れるものに好意的な解釈のできる要素はない。あるのは親の仇にでも向けるような敵意ばかりだ。雪ノ下雪乃は完璧で正しく美しいが、その性格と考え方故に敵を作りやすい。有名人なのだから、純粋に快く思わない人間も出てくる。
「ど、どもー……」
「由比ヶ浜か……、一瞬分からなかったよ。じゃあ、彼も総武の人?」
「つい先日、昼飯を一緒に食べたんだが」
「……比企谷? へぇ、馬子にも衣装、じゃない?」
どうしよう、俺に対するコメントだけ辛辣すぎる。雪乃は精神的圧力、由比ヶ浜は普通に驚き、俺へは直接的な罵倒。なんか、こう、泣きそうなんだが。
「……そっか、ばれちゃったか。……なにか飲む?」
「私はペリエを」
「あ、あたしも同じのをっ!」
「なら俺はMAXコー」
「彼には辛口のジンジャーエールを」
頼もうとしたところで思いっきり遮られた。いや確かに雰囲気的にミスマッチなのは分かっている。けれども時にはこういう場所で飲むMAXコーヒーも良いと思うのだ。
「……MAXコーヒーがある訳ないじゃない」
「嘘だろ、マジで? 千葉県なのに?」
「……まぁ、あるんだけどね」
ぼそっと川崎が呟く。あぁ、これだからそりの合わない奴らを近付けると良い事がない。特に雪乃相手なら尚更なのだ。真っ向から叩き潰しにいってしまう。巻き添えを喰らうのは勘弁願いたい。
「で、何しに来たの。まさか
「言われてるわよあなた」
「態々教えてくれてどうもお前」
「夫婦漫才だ……」
いや使い方間違えてますよ由比ヶ浜さん。夫婦漫才っていうのは夫婦で漫才をするから夫婦漫才であってだな、俺と雪乃は別に夫婦でもなければカップルですら無いんだが。
「お前、最近家帰んの遅いんだろ、弟が心配してたぞ」
「……あぁ、どうりで。そういうことね、大志が何言ったのか知んないけど、あたしから言っとくから気にしないでいいよ。……だからもう関わんないでね。大志にも、あたしにも」
スバズバと、容赦なく突き返し跳ね返す。他人を拒絶することに躊躇いがない。今の俺には無い強みにたじろいでいると、ふぅっと小さく息が吐かれた。隣に座る氷の女王が臨戦態勢に入った音だ。
「止める理由ならあるわ」
ちらりと、腕の時計を確認しながら一言。
「十時四十分。シンデレラなら一時間と少し猶予があったけれど、あなたの魔法はここで終わりよ」
「魔法が解けたなら、後はハッピーエンドなんじゃないの?」
「どうかしらね。あなたに待っているのはバッドエンドかもしれないわ、人魚姫さん」
洒落た言い回しは、しかし滲み出る敵意と鋭さを隠し切れていない。ばちばちと火花が飛び散る幻覚すら見え始めた。こいつとは合わない、絶対に仲良くできないと思う人間はどうしても居るが、それにしても喧嘩腰過ぎる二人である。矛を収める様子はなく、ただ嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
「やめる気は無いの?」
「ん? ないよ。やめるにしても、他のところでまた働けばいいし」
川崎はしれっとそう言いながら、クロスで酒瓶を綺麗に磨く。雪乃は彼女の態度に苛立ったのか、ペリエを軽く煽った。空気が不味い。ギスギスとしたその中で、恐々と声を出したのは由比ヶ浜だ。
「あ、あのさ……川崎さん、なんでこんな時間までバイトしてんの? や、あたしもバイトとかたまにするんだけど、流石に年誤魔化してまではやらないっていうか」
「……別に、お金が必要なだけだよ」
「いや、それは分かるけどよ……」
「分かるわけないじゃん」
声音だけで素早く感じ取る。顔をうかがい見れば、川崎の表情は硬いものへと変化していた。しくじったな、これは。
「あんなふざけた進路を書くような奴には分かんないよ」
「……まぁ、たしかにふざけた内容だけどな」
「だから分かんないっての。あんたには……いや、雪ノ下も由比ヶ浜にも分からないよ。別に遊ぶ金欲しさでやってる訳じゃない。そこらの馬鹿と一緒にしないで」
泣きそうでありながら本気の怒りが込められていて、瞳は必死に邪魔をするなと吠えていた。目は口ほどに物を言う。俺の根底が腐っていることも、雪ノ下雪乃が冷徹な性格であることも、由比ヶ浜結衣が優しい女の子であることも、目を見ればなんとなくは感じ取れる。理解されることを諦め、それでもなお理解されることを期待している。……どこかの馬鹿のように、甘くも希望を捨て切れていない。
「で、でも、話さないと何も分かんないし……その、もしかしたら力になれるかもしんないじゃん? 話すだけで、気が楽になることも……」
「言ったところで分かんないよ。力になるとか、気が楽になるとか、馬鹿馬鹿しい。ならあんたら、あたしのためにお金用意出来んの? うちの親が用意出来ないものをあんたらが肩代わりしてくれるわけ?」
「そ、れは……」
困ったように顔を俯かせて、由比ヶ浜は悔しそうに口を閉じた。俺はそれをじっと見ていながら、心に釘を打ち込んでいる。中途半端に諦めた人とは、こうも痛々しく見えるものか。どうりでこの数ヶ月、小町が優しかった訳だ。こんな奴に正面切って叱責できる人間は、隣のこいつくらいなものだろう。
「そのあたりでやめなさい。それ以上吠えるなら……」
「っ……ねぇ、あんたの父親さ、県議会議員なんでしょ? そんな余裕ある奴にあたしのこと、分かる筈、無いじゃん……」
あ、駄目だ、川崎、それは。
「――」
「おい、雪乃」
「……ぁ、え、えぇ、ごめんなさい」
かしゃんと、横倒しになったシャンパングラスが割れていた。知らないというのは怖い。彼女の中で相当に不釣り合いな立場を貰っている俺でさえ踏み込めないそこに、川崎は思いっきり突っ込んだ。
「ちょっと、今ゆきのんの家の事は――」
「由比ヶ浜」
「っ……ヒッ、キー?」
ここで俺はどんな反応をすれば良いのだろう。正義感溢れる主人公宜しく立ち上がって反論するのか。それとも皮肉に嫌味を混ぜ合わせた
「今日はもう帰ろう。……これ以上は俺らも無理がある」
「あなた……いえ、そう、ね。今日は帰るわ」
「ゆきのん……」
今まで問題を正面から解決しようとしていた事自体が似合わなかった。正攻法こそが一番遠回りであり、確率が低くなるのが捻くれ者の運命である。目の前のことに囚われず、現状確かな情報から根本を叩き出す。やり方の是非は…………少し、自重するくらいで。
「川崎、明日の朝、五時半に通り沿いのマック。大丈夫か?」
「……はぁ、なんで?」
「大志のことで少し、な」
「――何それ」
冗談なら殺す、冗談じゃなくても殺す、とでも言わんばかりの視線だった。
「それはまた明日話す。じゃあな」
っべー……怖かった。マジ怖かったわあいつ。なんなの、鬼か悪魔か取り憑いてんじゃねぇの。
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決着
「で、話って何?」
朝のマックで二杯目になるコーヒーを啜っていると、正面に座りながらそう話し掛けてきた女がいた。俺の目が眠気で狂っていなければ川崎沙希に間違いない。うとうとと船を漕ぎそうになる体に鞭打ち、ぐっと気合を入れて頭を回す。駄目だ、眠かった。レッドブルでも飲むべきだろうか。
「まぁ、落ち着け。みんなもうじき来る」
「みんな?」
怪訝な顔を川崎が浮かべていると、やがて自動ドアの開く音がして雪乃と由比ヶ浜が入ってきた。時間よりか少し遅れているのはまぁ、しょうがない。こんな朝っぱらから来いと指示した俺に非がある。昨日由比ヶ浜へとメールを送り、伝えた用件は三つ。雪乃の家に泊まること、その旨を両親に連絡しておくこと、そして朝五時にマックへ来ること。
「おはよう比企谷くん」
「おう、雪ノ下」
……ん?
「ヒッキーおはよー……」
「おう、由比ヶ、浜……?」
若干違和感を覚えながら、由比ヶ浜の挨拶に返答してふと気付いた。妙に顔がげっそりとしている。まさに寝れていない、寝不足です、私眠りたいですと言わんばかりだ。一体何が、と首をかしげたところでひょいっと二人の間から何かが生えてきた。……あれ、俺の妹じゃね?
「お兄ちゃん気が利かないなぁ。結衣さんにメールしたんなら雪乃さんにもメールするのが普通でしょ?」
「いや、別に業務連絡だけだから良いだろ……」
「いえ、良いの小町さん。別に、気にしてないわ」
にこっと微笑んで雪乃が言う。意外なことに彼女は水に流してくれるということか。なんだ、意外と優しいなと思いながらコーヒーを口に含んだ。
「むしろこの男に利かせられる気があるとは思えないもの。ほら、見てみなさい。覇気がないでしょう」
「うるせぇよ……なに、拗ねてんの?」
「別に拗ねてはいないのだけれどあなたの目はモノを正しく映すことさえ出来ないほど腐りきってしまったのかしら気の毒ねええ実に気の毒よ」
「…………拗ねてんじゃねえか」
早口で言い切った雪乃は大きく肩を揺らしながら呼吸を整える。しかしこれがこいつ特有の照れ隠しだ。実に可愛くない。その口の回り具合はどこかちょっと前に関わっていた中学生を思い出させる。いや、あの時は受験だなんだと言ってたから今は高校生か。恐らく海浜とかそこらに行っているだろう、多分。……もしそうならあの学校の地雷率が上がっているのだが。
「まぁ、なに、今度の休みに荷物持ちでもなんでもしてやるから、尤も俺でよかっ――」
たらだけどな、と言おうとして途中で口を閉じた。ずいっと雪乃が詰め寄って来る。近い近い、顔が近いんだよ。なんなの、お前近眼とかだったっけ?
「自分の言葉には責任を持ちなさい、八幡」
「え、あ、おう」
「あーあ……これはお兄ちゃんやっちゃいましたなぁ」
「ヒッキーが外出……まぁ、良いんじゃない?」
周りがなんだかんだと言うも意味が分からない。とりあえず置いておき、今は場を回すことだけを考える。
「それで、小町。連れてきてくれたか?」
「うん」
そうして小町が指差した先には――。
「……大志」
もうそろそろ、この一連の厄介な依頼も終わりが近付いていた。
◇◆◇
「大志が言ってたろ、姉ちゃんは昔から真面目で優しかったって。つまりそういうことなんだよ」
大体ぼっちになる奴は俺みたいに性根から腐りきっているか、俺みたいに性格がひん曲がっているか、俺みたいに不器用な生き方しか出来ない奴である。なんだか俺が全てのぼっちの祖的な立ち位置になってしまった。実際は全くもって違うのだが。
「大志、お前、中三になって変わったことあるか?」
「はぁ……塾に通い始めたこと、くらいっすかね?」
「あ、弟さんの学費のために……」
「違うな」
由比ヶ浜の意見を否定する。そもそもとして大志が塾に通えている時点で学費の問題は解決している。逆に言ってしまえば、それしか解決していない。
「……なるほど、そういうこと」
「大志の学費については問題ない筈だ。元々中三なんて分かりやすいそういう時期だしな。でも、俺らだってもう高二だろ?」
本格的になっていないとは言え、この時期から進路を意識し始める人間は少なくない。
「川崎、お前、進学希望だろ」
「……」
「姉ちゃん……お、俺が塾行ってるから」
「…………だから、あんたは知らなくていいって言ったじゃん」
川崎沙希は不器用だ。されど不器用なりに生き方がうまい。覇気のない目も、やる気のない態度も、疲れと眠気から来ているものだとすれば納得がいく。それらを怖い雰囲気に見せていたのはなかなか地のぼっち力が高い。俺もすっかり騙されていた。
「けど、やっぱりバイトはやめられない。あたし大学行くつもりだし、そのことで親にも大志にも迷惑かけたくないから」
「あのー……ちょっと良いですかね」
と、そこへ割り込んできたのは意外な事にうちの妹だ。
「なに?」
「やー。うちはほら、こんな面倒くさい兄を飼っていまして」
「おい」
その一言に突っ込みたいところが凝縮されていた。面倒くさいとか飼っているとか凡そ喧嘩を売っている言葉に頬を引くつかせていると、ちらっと小町がこちらを見る。
「本当の事じゃん。ほら、お兄ちゃんって大体面倒くさいこと抱えてくるし、そうなるともうくさいから消臭するっきゃないなって」
「くさいの意味違うからな。なに、お前そんな理由でファブリーズしてきたの?」
「やだなぁお兄ちゃんリセッシュだよ」
いやお前の消臭剤のチョイスなんて知らねぇよ。
「とまぁ、こんな風に昔から面倒くさい兄でして」
「どんな風になのか分からないんだけど」
「うーん、ちょっとお兄ちゃん黙ってて」
そう言われて、仕方なく口を噤むことにした。一体どんな酷いことを言われるのかと小町の話に耳を傾ける。
「それでまぁ、こんな兄ですから色々とあるのは分かります。機嫌が良い時も悪い時もありましたし、それで
あ、駄目だこれ。一番辛いの出されるパターンだ。
「急に死んだような顔で戻ってきて、それから数ヶ月ずっと同じ調子ですよ。食欲はない、会話も殆どしない、何言っても怒らないし笑いもしない。……本当、酷い兄ですよねー……」
そこまで酷かったのかと記憶を掘り返してみる。まぁ、たしかにちょっと飯とかあまり食べなかった。喋る気力もちょっと無かったし、相手の言葉に反応するのもちょっと怠かった。ちょっと、そうちょっとだ。ほんの少し程度である。だよね?
「で、そっから少し経って、また良くなったんですよ。これには小町もハッピーって思ってたらまーた突然ゾンビみたいな顔で帰宅しやがったんですよこのごみいちゃんは……」
うんうん、それは多分こいつらのことだから。やめような? 頷いてる雪乃とか複雑な表情の由比ヶ浜とか色々と察しちゃってるから。後のことを考えると気まずくて仕方ないから。
「ご飯は食べない。会話はしない。何か言っても空返事。もうこれはどうにかしないとって原因をつついたら――まさかの大爆発で。そこでやっとお兄ちゃんが抱えたものの大きさを認識しちゃいました」
そんな事もあった。あったけどな、昔のことは水に流してさっさとこの話題をやめよう小町。なぁ、頼む、お願いだよマイシスター。
「まぁ、こんな兄でも根は優しくて、次の日には謝ってきました。まだ死人状態のくせに。そんなんされたら、こっちだってなにかしてあげなきゃって思うじゃないですか。もう限界近いお兄ちゃんを支えるくらいしかできませんでしたけど」
……、……。
「……つまり、何が言いたいわけ?」
「迷惑かけたくないし、重荷にもなりたくないんですよ、下の子も。上だけじゃないんです。そこら辺分かってもらえると、下の子的に嬉しいかなー、なんて」
「……まぁ、俺もそんな感じ」
マイラブリーエンジェル小町の言葉に大志が同意する。や、もうほんとやめて。お兄ちゃん泣きそう。涙腺が緩いのは歳のせいだろうか。くそう、俺はまだぴちぴちの十代だというのに。
「――」
「ひ、ヒッキーが死にそうになってる……」
「仕方ないわ。今の話で精神をタコ殴りにされたようなものでしょう」
マジそんな感じ。やべぇ語彙力の欠如がぱない。
「……なぁ、川崎」
「……なに?」
だからまぁ、こうして良い弟妹を持った兄姉の仲だ。元々教えるつもりだったそれを、惜しげも無く伝えてやろう。
「
◇◆◇
「きょうだいって、ああいうものなのかしらね」
「……さぁな。人によるんじゃねえの。俺も、川崎も……お前も。同じように接してる訳じゃないだろ」
「そうね……少し、羨ましいわ」
「隣の芝生は青いっていうしな」
「ならあなたの目から見て私の芝生は青く見える?」
「見える見える。超見える」
「良かったわね。その目はたしかに腐っているわ」
「全然嬉しくねぇよ……」
◇◆◇
そうして翌日、未だ片付いてない一つの問題に決着を付けるため、俺は昼休みの屋上のドアを開けてそこへ足を踏み出した。
「よう」
「ん」
パンと缶コーヒーを持っていることから察したのだろう。川崎はそれだけ反応すると座る場所を開けて食事を続ける。手作りであろう弁当はかなりの出来栄えで美味しそうに見えた。まさに隣の芝生は青い。菓子パンを貪る己が惨めに思えるのだ。
「……なんかよう?」
「ああ、ちょっと、な」
こういう時の言葉選びに関して、俺の経験則は全く役に立たない。そもそもの経験が無い。故に、ただ只管に言葉を漏らしていくしかなかった。似合わないと分かっているから、自己満足という心を盾にして。
「これは別にお前を――いや」
切り出そうとして、
「これはお前を責めるために言うんだが」
「……ふぅん」
なにやら意味ありげな反応が若干怖い。そのふぅんにどれだけの感情が込められているのだろう。想像したくもない事実に震える体をしっかり支えた。
「お前の苦労は誰にも分かんねぇよ。お前はお前で、他の奴らはお前じゃないんだ。理解なんて出来る訳がない」
「……」
「でも」
歪みきったこの性根は、恐らくまともな行為すら気持ち悪く映し出す。
「苦労してるのはお前だけじゃない」
「……、」
「誰でも、俺も、由比ヶ浜も……雪乃、雪ノ下だって苦労してる。だから、まぁ、なんだって話でもあるが」
すっと川崎の方をしっかり向いて、頭を下げた。
「雪ノ下のこと、あまり言わないでやってくれ」
「あんた……」
「今はまだ、なんつうか、時期じゃねんだよ」
余計なことだ、恐らくこうして下げた頭すら無駄の極みである。故にこそただの自己満足だ。比企谷八幡が動く理由に他人のためを追加して、上手くいった事例はない。俺は俺が満足できるようにこんなことをするのだ。
「……なら、その時期が来たら好き勝手言っていいわけ?」
「あぁ、そりゃあな。言ってみろ。……多分、十倍くらい濃くした正論過ぎる反論が返ってくるぞ」
「なにそれ。……信頼、してるんだ。雪ノ下のこと」
信頼。信頼、だろうか。いや、これは――。
「信頼じゃねえよ。ただの押し付けだ」
「は?」
「俺の知るあいつなら大丈夫だって押し付けてるだけだ」
そうしてあいつは、俺がそう考えている事をしっかりと気付いている。
「……ほんと、なにそれ」
「世間では親友とか言うらしいぞ、こういうの」
「いや違うでしょ、絶対」
雪ノ下雪乃は必ず何とかすると押し付けて、比企谷八幡ならどうにか出来ると押し付けられた。雪ノ下雪乃にも出来ないことを知って、比企谷八幡にはどうしようもないことを教えた。雪ノ下雪乃には要らないからと思って――比企谷八幡が必要であるとする思いを受けた。そうして今は大丈夫だと押し付けて、大丈夫だと押し付けられている。
「やっぱ違うか……」
「そりゃあね」
雪ノ下雪乃ならいつか大丈夫だと押し付けて。
「……そうか」
比企谷八幡ならもう大丈夫だと押し付けられて。
同時に、どちらもどこかで駄目だと分かっていた。
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猫派と犬派と無派閥ぼっち
『ふぅん。そうなんだ、そんなことしちゃうんだ』
その目が俺をじっと見つめて来る。一体どんな感情が向けられているのかさっぱり理解できない。恐怖が体を微かに震わせた。下手すれば心すら根元から折れてしまうくらいに、途轍もない重圧をかけられている。人として次元が違うのだと、再認識した。
『君はまるでピエロだね』
『……なにが、ですか』
『ん? そのまままの意味だけどー?』
なんでも見透かしているように振舞って。何も見透かされないように仮面を付けて。吐き気を覚えるほどの違和感は今でも覚えている。理想と現実が合わさった不気味な完成度。それは決して、本物の人物とは言えない。
『そうだねぇ、今回ばかりは少し、頭に来てるとか言ったら、どうする?』
『別に、勝手にすれば良いじゃないですか』
『……面白いねぇ、君は。まぁ、それとこれとは別だけど』
強がりだった。隙を見せないためだけに作ったハリボテの嘘偽り。嘘や欺瞞を嫌いながら、けれど必要であればそんな信念すら捨てて行動する。よく言えば柔軟な対応、悪く言えば芯がブレてる糞野郎。己の中でそう結論が出たのなら、良い方と悪い方のどちらを取るかは分かりきったことだろう。
『無理だよ』
比企谷八幡は、自己評価が低いどころか腐った人間だ。
『無理だよ、君は。一人でなんて、そういう人間じゃないんだから』
けれどもある一転において、他者を軽く凌ぐほど高い自己評価を持っている。
『……それだけですか? じゃ、俺はこれで』
それこそが
『比企谷くん』
『うるせぇよ』
思い上がっていた。当たり前のことを当たり前に出来ると信じて疑わなかった。疑うという考えすら出ていなかった。当たり前のことを当たり前のように出来ないからこうだというのを忘れていた。
『あんたと俺はただの他人だ。所詮どんなこと言われようが、その程度なんだよ』
誰かと別れを切り出す時に、胸へ飛来するのは締め付けるような痛みだ。辛くて、泣きたくて、悲しくて、でもそれらを出してしまってはいけないから必死に閉じ込める。誤魔化して誤魔化して誤魔化して、比企谷八幡はそこまで来ていた。
『んじゃ、本当にこれで。――雪ノ下さん』
今となっては懐かしい、過去の記憶。
『……馬鹿だね、笑えないピエロなんていらないのに』
いらないならそれでいい。あんたもあいつも他の奴等も、全員が俺を要らないと言うならば。それこそが比企谷八幡の願いだと、我ながら過去最高の捻くれっぷりを発揮していた時期でもある。
◇◆◇
東京わんにゃんショー。それは動物好きがこぞって集まる我らが千葉のイベントである。東京なのに千葉とはこれ如何に、なんてのは某夢の国が千葉にある時点からそうだろう。つまり東京=千葉であり千葉=日本の首都である。やだ、千葉最強。
「あ、ちょ、こら、サブレ。ってヒッキーにめっちゃ懐いてる……!?」
「ゆ、由比ヶ浜さん? その、リード、長くないかしら? いえ長いわ。長いのよ。だからちょっとやめていえ別に苦手という訳ではないのだけれどね?」
「言い訳しなくても知ってるから。ほら、うん、お前は飼い主と違って賢いなぁ……えと、サプリ?」
「それどういう意味だし! あとサブレ!」
そんな場所で偶然会したのは総武高等学校奉仕部部員一同計三名。少ねぇ……と思うかもしれないが、これが通常営業の体制なので間違いない。川崎の件は色々と追加されていただけだ。ちなみに俺は小町と仲良く一緒に来た筈なのだが、いつの間にやら姿を消している。と、そこで俺の携帯が震えた。
「もしもし」
『あ、お兄ちゃん? やー小町ちょっと急用入っちゃってさー、先帰ってるからね』
「あ? なら俺も」
『お兄ちゃんは楽しんできてね! 雪乃さんとか結衣さんとかと!』
「ならそうするけど……ん? 俺お前にこいつらと居るの教え――」
そこでプツリと通話が切れる。大体状況は分かった。犯人はまたもやヤスではなく小町。ちくしょう、嵌めやがったな……っ! と携帯を握りしめながら怒りの炎を猛らせていると、背後から冷えた声がかけられる。
「は、八幡? その、ちゃんと抑えているかしら?」
冷えているからとはいえ、震えていてはその声音も普通の怯える女の子だ。雪ノ下雪乃としては圧倒的に似合わないが、素直じゃないこいつの珍しい態度は見逃せない。折角なので、少しちょっかいをかけてみるとする。
「……別に大丈夫だからな。なんならお前も触るか」
「いえ、遠慮するわ」
「だと思ったよ。まぁ、怖いだろうしな……」
仕方ないか、という風に言えば由比ヶ浜があっと声を漏らし、ぴくっと雪ノ下のこめかみが動いた。目敏くそれに気付きながら、何でもないように振舞ってサブレを撫でる。よしよし、お前は良い子だな。うちの猫とは大違いだ。犬の恩返し。思えば紆余曲折の末ではあるが、こうしてこいつらと縁を結ばせたのはこいつが要因だった。そう考えると、まぁ、悪くはない。のほほんとした思考回路に耽るのは、背中に当たる誰かさんの吹雪で凍えないようにするためである。
「――良いでしょう、そこまで言われては引き下がれないというものよ」
「無理しなくても良いぞ」
「無理とは誰も言ってないじゃない。――私だって、何時までも苦手なことを克服できないわけではないの」
さっと膝を曲げて、雪乃が隣に屈み込む。それからそうっとサブレに触れようと手を伸ばして、不意に視線が交差した。
「……っ」
びくっ、と雪乃の肩が跳ねる。なんだろう、やけに今のこいつが可愛く思えるのは気のせいか。あれか、ギャップ萌えとかそういうのだな。成る程、つまり普段冷静沈着な俺もおどおどしていたら萌えるのか。……ねぇな、むしろ気持ち悪くて引かれる。
「…………だ、大丈夫、よね?」
「おい無理してんじゃねえか」
「幻聴よ、あなた遂に耳も腐り始めひゃっ」
ひゃっ。ひゃっ、だと。あの雪ノ下雪乃がひゃっ、なんて声を漏らしただと。俺と由比ヶ浜は硬直し、瞬時にその原因に思い当たる。少し下を見てみればはっはっと舌を出すサブレと、驚いて盛大に手を引っ込めている雪乃。
「……お前、そんな反応するんだな」
「五月蝿い、黙りなさい。酸素の無駄よ」
「おい、この地球上にどれだけ酸素があると思ってんの?」
「あ、それ知ってる、三十五億ってやつでしょ?」
「違うんですけど……」
「あれ?」
それ男は何人いるのか云々。あと五千万。完全に検討外れな返しに首をかしげる由比ヶ浜をよそに、未だびくついて逃げ腰になっている彼女の手を掴む。
「ちょ、なにをするのかしら、八幡?」
「ほれ」
「あ、や、やめなさいちょっとやめ――」
さっきの罵倒の仕返しである。ちょいっと引っ張ってサブレの方へと手を持っていく。まぁ、賢いこいつなら大丈夫だろう。というか俺に懐いている辺りから大抵の人間に敵意を向けない気すら感じた。基本動物に避けられるからなぁ、俺。
「……ぁ」
「まぁ、なに。大丈夫だろ」
「…………えぇ、そう、ね」
さわさわと、雪乃がサブレを撫でる。多少強引だったが、嫌いなものを克服するとはそういうものだ。うちの妹とか本当容赦ない。ある日突然朝飯に出てきて理由を聞いたら「お兄ちゃんそれ嫌いでしょ? だから入れた」とか言ってくるし。……いや意味分かんねぇよ。と、ぎこちなさが取れてきたところで雪乃の手をそっと離す。
「ぁ……」
「……あ、いや、悪い。つい掴んで、な」
「……いえ、あなたが謝ることではないでしょう」
すくっと雪乃が立ち上がる。さらりと髪を手ではらって、その後に服装をさっと直した。俺もそれにつられるように立ち上がって、ぱんぱんと手を叩く。
「あ、ヒッキーもゆきのんも一緒に回るでしょ?」
「まぁ、妹から言われたしな」
「シスコンね。まぁ、一緒でも構わないわ」
「うるせぇ。……じゃ、行くか」
「うん、そうしよっか」
「えぇ、そうね」
奉仕部。部員数総勢三名。そこはまだ、ぬるい。
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気付きは仮の平穏
「……、」
「ゆきのん超可愛い……写メりたい……」
「あぁ、うん。すれば良いんじゃねえの?」
もふもふと猫を撫で回す雪乃を見て呟き、由比ヶ浜はそのままパシャパシャと携帯で写真を撮り始めた。撮られている本人が一切気づいていないのは、果たして言った方が良いのかどうか。ため息を一つ吐いて、足元に寄ってきたサブレを構ってやる。
「お前は優しいなぁ……人間の女の子だったら恋してるわ」
惨めにも勘違いして恋心を燻らせて特攻して振られる。結局は何が何でも振られる。今までの人生経験上、俺の告白が成功した試しはたったの一度しかない。かなりの回数やらかしたというのに、上手くいったのがそれだけでは自信も無くした。捻くれた。だからこそぼっちになった。実際はそれ以前から生粋のぼっちだったけどね!
「……ね、ヒッキー」
「あ? なんだよ」
と、握った携帯をポケットにしまいながら近付いてきた由比ヶ浜は、たたっと地面を踏んで隣に立つ。身動ぎすれば肩が触れ合うくらいの近さだ。なんだよこいつビッチかよ近ぇよ……と鬱陶しく思いながら視線を向けていれば、そうっと見上げた由比ヶ浜と目が合った。
「ゆきのんって、強いよね」
「……そうだな」
雪ノ下雪乃は強い。一目見れば誰にも理解できる。彼女はどこまでも正しくて、どこまでも強くあれて、どこまでも勝てる人間だ。そんな奴を見て弱いだとか守ろうだとか考えるのは傲慢だろう。自分より弱いから守ってあげないと、なんて勝手に人のことを下に見る。優しさは嫌いだ。どんな人間であれ優しいと、何が本当の優しさなのか分からなくなりそうで。
「あたし、カッコイイと思う。ゆきのんの、その、なんていうか……振る舞いとか、そういうの」
必死に言葉を探ったのだろう。あたふたとしながら紡がれた言葉は、たしかに同意できるものだった。ぼうっと雪乃の背中を見ながら、あぁとだけ答える。
「あたし、やっぱり人に合わせちゃうし。……自分から何かしないと変わんないって、知った筈なんだけどなぁ……」
「……別に、気にすることないだろ」
そうだ、本当に、気にすることなどない。本来なら俺の方から動くべきだったのを、偶々彼女の方が動いてくれただけなのだ。今更由比ヶ浜が変わっていようとも変わりなくとも、気にはしないというのに。
「気にするよ。……もう、あんな思いしたくないし」
「……しねぇよ。もう」
「本当に?」
間髪入れず、由比ヶ浜はそう返してきた。ばっとそちらを振り向けば、じぃっと見上げるような目が小さく揺れている。ふざけているわけではない。冗談の類でもない。真剣な問いかけを前に、思わず何故という疑問を浮かべる。そもそも、俺をそうして引っ張りあげてくれたのは、誰でもなく――。
「あぁ、しない。もう二度と、な」
「……それなら、良いんだよ。うん。良いん、だけど、ね……」
歯切れが悪い。何をそこまで躊躇う必要がある。俺としては全くもって分からない。あの日二度目を、再スタートを押してくれたからこそ、こうして比企谷八幡はいつも通りの自然体で居られている。小町との会話も着々と増えていて、以前のような気まずさはなくなった。
「無意識、っていうのかな」
「なにがだ」
「……ヒッキーは、さ。一番大切な所で、自分を勘定に入れないから」
何を、言っているのだろうか、こいつは。
「そんなことないぞ。むしろ俺ってば自己保身っつーか自分の身は自分で守るっつーか、絶対に保険とかかけるタイプだし?」
「ヒッキー」
誤魔化しはいらない。そんな意味の込められた一言に、無理矢理皮肉げに吊り上げていた頬の力を抜く。不気味に引き攣りながら元に戻ると、何とも言えない空気が漂っていることに気付いた。周りはお祭り騒ぎ。誰もここだけ異質なことなど感じ取っていない。当事者である俺達以外は。
「…………大丈夫だ」
「……」
「俺は。――俺はもう、大丈夫だ」
そうだ、
「だから、由比ヶ浜。心配しなくてもいい」
「……そっか」
「あぁ、そうだ」
故にこそ、もう十分に学び尽くした。大体あの人の言う通りだったのだ。誰かと居ることを知った俺に、一人であることなんて出来やしなかった。必死に以前の様子を装って、自分らしく生き続けて、周囲の人に迷惑すらかけて。結局は必死に足掻いてもがいて苦しんで、どうにもならなくなる。
「じゃあ、いい。――うん」
「……おう」
俺から孤独を捨てたら、一体何が残るというのだろう。とは言え絶賛学校のクラスではぼっち継続中なのでどうということは無い。俺から孤独を捨てれば、残るのは孤独だ。いや捨てきれてないんだけど。
「ところで話は変わるけどさ」
「あ?」
「ヒッキーってゆきのんの事好きなの?」
「――」
マジで話が変わりすぎじゃね。
「……そりゃあ、まぁ、嫌いな奴と態々一緒には居ねぇだろ」
「そういうんじゃなくてさ」
きゅっと、弱く何かを掴む音が聞こえた。ほんの少し俯いた由比ヶ浜の顔は、垂れてきた髪の毛に遮られてよく見えない。だが、何を言いたいのかは薄々理解していた。好きという意味。好意というもの。そんな時に思い浮かべる顔はいつも同じで。――あいつ以上に未練があるのだと、思い知らされる。
「まぁ、なに、好き、と言えばそうなんだが」
「じゃあ」
「……違うんだよ、どうしても」
どうしても重ねてしまう。どうしても結び付けようとする。どうしても忘れられない。あの時から、あの瞬間から、特別な存在はただ一人になってしまった。
「違うって……なにそれ」
「……お前らには言ってない。小町なら、何処かから仕入れてそうだな……」
「ちょ、それ、どういう――」
「いや、悪い。なんでもない」
そこで話を切り上げた。折角の雰囲気を散々なまでにぶち壊しておいて今更だが、これ以上は流石に駄目だとぼっちセンサーが告げている。言わば生きる上での直感だ。
「なぁ、結構な時間経ってるぞ」
「あら、そう」
「……えっと、あの、雪乃さん?」
「もう少し」
いっそ嫌いだと、二度と顔も見たくないと言ってくれれば楽だった。関わるな話しかけるな見るな聞くな視界に入るなと徹底的なまでにこっ酷く嫌われたなら、割り切ってスッキリ出来ていた筈だ。
「…………名残惜しいけれど、これくらいにしておくわ」
「これでまだ名残惜しいのか」
「当然でしょう。あなたは猫を飼っているのに何も知らないのね」
「いや、今回ばかりは訳が分かんねぇよ……」
それを、どうして。
『まだ、比企谷のこと――』
どうして、どうして、どうして――。
「っ……」
「……八幡? 具合でも悪いのかしら?」
「ねぇヒッキーさっきの……ってどしたの?」
「……あぁ、大丈夫だ。何でもねぇよ」
知らず握り締めた拳が皮膚に食い込み、じくりと痛みを感じた。どうでもないように喋れているのが奇跡と言ってもいい。由比ヶ浜結衣は交友関係にあった。雪ノ下雪乃は信頼関係にあった。そんなものとは桁違いのそれは、俗に言う恋人関係なのだ。
「本当に、何でもない」
もう大丈夫に見えるのは、隠されたそれらが見えないからだ。年上の先輩にあたるあの人も、年下の後輩にあたるあいつも、同い年の元カノにあたる彼女も、二人は知らない。
「……あぁ、くそ」
大丈夫だ、大丈夫だ、俺は、もう――
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不穏の足音
週末の夜、MAXコーヒー片手に参考書を読んでいると、ヴヴッと机の上に置いていた携帯が震え始めた。メールかと思っていればどうやら違うようで、これがなかなかやまない。しつこい。誰だこんな時間に、俺は主に勉強で忙しいというのに。尚、こうして勉強している理由が暇だからなのだが。画面を見れば、雪ノ下雪乃の文字。やれやれ、僕はペンを回しながらタップした。唐突な村上春樹テイストを考えるくらいには余裕だ。
「……もしもし」
『十七秒。少し長くないかしら?』
「気のせいだ。つーかなに、お前コールの時間数えてんの?」
なんだよそれ……ちょっと怖えじゃねえか。ぶるっとして感じた寒気を冷たいMAXコーヒーで誤魔化す。誤魔化す気が感じられなかった。ごぐっと気持ち悪い音をたてながら嚥下して、ふぅと一息つく。正直な話、もうそろそろ止めようと思っていたからちょうどいい。手に持ったシャーペンをぽいっと投げ捨てて、椅子から立ち上がってベッドへ腰掛けた。
『今日はたまたまよ。いつもはそうね……開口一番あなたにどんな事を言うのか考えているわ』
「あぁ、皮肉ってんのか。皮肉ってんだな」
『自意識過剰ね。ただの悪口よ』
「より酷いじゃねえかおい」
くすくすと笑う声が電話越しに聞こえた。全くもって面倒臭い奴である。一々人に嫌味を言わないと気が済まない姑か。尤も、面倒臭いという部分においては俺も言えた義理ではない。というか俺の周りって面倒臭い奴多すぎじゃね? あれか、類は友を呼ぶってことか。
「……で、何のようだよ。まさか、そんな事のためだけに電話してきたんじゃないんだろ」
『そのまさか、と言ったら?』
「は? 何? もしかして俺のこと好きなの?」
『…………嫌いではないわね』
「あの、ネタにマジ
やめてくれ、俺が優柔不断な鈍感糞ラノベ主人公みたいだろうが。強ち間違ってないのが怖い。優柔不断なところとか、糞的な部分とか。
『まぁ、その事は後でしっかり議論しましょう』
「流してくれねぇのかよ」
しかもしっかりとか、それはもう精神へ負荷がかかること請け合いだ。ああ、鬱だ、死のう。そんな簡単に死ねたら人間苦労しない。若干気分を下げながらも、雪乃の話に耳を傾ける。
『それで……その、八幡』
「あ?」
んっという咳払いと、小さく聞こえる身動ぎの音。いつもとは違ったそれらに眉を顰めながら、感覚を研ぎ澄ませて傾聴する。違和感というのはおかしなことに、重大な何かに直結するものだ。いや、だからこその明確な違和感として表れるのだろうか。
『もともとあなたに拒否権は無いし、聞くまでもないのだけれど』
「なんだ、そりゃ」
『……つ、付き合ってもらえないかしら』
――ヒッキーってゆきのんの事好きなの?
「……突然だな」
『えぇ、でも、
軽いように雪乃が言ってくる。意図的に隠していた俺が全面的に悪いとは言え、こうもクルとは思わなかった。良くない、未練があり過ぎて拗らせて、一つも割り切れていない。単純な己の弱さから、過ぎたことを何時までも引っ張る滑稽さ。笑いたければ笑えばいい。俺でさえ笑えて来る。
「別にって、お前は……良いのか」
『考えてもみなさい。あなた以外に誰が居ると言うの?』
「――」
かっと、耳まで赤く染まるのを自覚した。熱が首から上に集まってくる。あぁ、くそ、熱い。まだ六月になったばかりだぞ、夏休み前の修羅場(過言)である中間考査を乗り切ったとは言え、まだまだその楽園への道のりは遠い。この時期は蒸し暑い筈なんだが。
「……そう、か」
『ええ、だから、良いでしょう?』
今ここで決めるべきなのだろうか。思っていた以上に早い決着だ。まさかこうも早く、こうも簡単に、こうも意外な方法で済むとは予想もできないだろう。未だ内心の葛藤は治まっていない。けれど、答えは今出すべきだと、出さないといけないと、俺は――。
『買い物くらい、別に』
「…………」
ぽかんと、間抜けに口を開けて呆けた。一拍、二拍、三拍。たっぷりと間を取ってから、息と共にゆっくりと体を倒す。ベッドが優しく体を受け止めてくれた。
「……あ、あぁ、そう。買い物ね、うん、それならまぁ、別に、良いぞ」
『そう? なら明日、時間はおって伝えるわ』
「お、おう」
『……あなた、何か動揺してない?』
「
それはもう思いっきり、言い訳の余地もないほど綺麗に噛んだ。
『噛んだわね』
「……
この後電話を切ってからめちゃくちゃ布団に包まってごろごろした。うわぁぁあーあーああーああああー!! 恥ずかしい死にたい恥ずかしい死にたい恥ずかしいぃぃぃいい!! こういう勘違いって普通はヒロインとかがするもんだろうがよぉ!! 俺はキレた。
◇◆◇
「ここは左かしら?」
「いいや右だ」
翌日、つまるところ盛大な自爆をした次の日の昼前。俺は雪乃と一緒にららぽーとへと来ていた。理由は至って単純で買い物の付き添い謙手助けである。なにしろあと一週間もないうちに由比ヶ浜の誕生日なのだ。言われて思い出して、すっかり忘れていたのは気にしない。ぶっちゃけ「え? マジ? あー、そう言えばそうだったような気がしなくも無いような気もしなくも無いような(以下ループ」とかそんな感じ。
「方向音痴、治ってないんだな」
「……仕方ないじゃない。昔からなのよ」
意外なことに、雪乃は初めて来た場所でよく迷う。それはもう迷う。安心して任せていたらいつの間にか見当違いの場所に着いているなんてざらだ。真逆は当然、過ぎるのもあり、遠ざかるのはしょっちゅうのこと。数少ない弱点の一つに数えられる。
「と、ここね」
「服か……」
なんというか、こいつならもっと実用性に溢れたものを選ぶと思ったのだが。と雪乃の方をちらり見てみれば、偶然にも視線がぶつかった。それだけで俺の言いたい事を察したそうで、ふっと微笑みながらさらり髪を撫でる。
「由比ヶ浜さんに万年筆や工具セットを渡しても喜ばれないでしょう?」
「お前そのチョイスは……いやまぁ、確かにそうだろうけど」
「私なりに考えた結果よ。……どうせなら、喜んで貰いたいでしょう」
ぼそっと、付け足すように雪乃が言った。なんだかんだ言って、こいつも由比ヶ浜のことが嫌いではないのだ。恐らくは初めて純粋な好意を向けてきた同性に違いない。俺は未だ同性からそんなもの向けられた事がありませけどね!
「これとかどうかしら」
「はぁ、まぁ、どうだろうな」
「ならこれは?」
「てか俺に聞くのか。役に立たねぇぞ」
「あなたの方が私より由比ヶ浜さんのことを知っているのだから、聞くのは当然よ」
……まぁ、そう言われるとそうなのだ。なんせ目の前のこいつとほぼ同じくらいの期間接していた。色々と分かってくるし、態々教えてきたし、なんとなく掴めるものもある。それらを踏まえて、少し頭を捻ってみれば。
「……あー、駄目だ。さっぱり分からん」
「使えない……」
「馬鹿お前、なに、由比ヶ浜とか、あれだ。ほわほわぽわぽわしてアホっぽい事くらいは分かってるぞ」
「酷い言い草のくせして、妙に的を射ているのよねこの男……」
同意するあたりが実にこいつらしい。そうして居ない場所でナチュラルにディスられる由比ヶ浜は悲しい。ポロロンと弦を弾きたくなる気持ちになりながら、自分なりに考えを巡らせてみる。
「……下手に相手の分野に踏み込むより、逆を突いた方が良いかもな」
「逆?」
「半端な情報で知ったかぶられても腹が立つ。素人は黙っとれ、にわか乙的な感じだ」
「意味が分からないのだけど……」
ネットスラングはTPOを弁えて使いましょう、というアナウンスが聞こえた気がした。通じないってのは案外辛いものだ。こう、残念って気持ちとなんだ知らねぇのかって落胆が凄い。幸いこいつに通じるとは思っていなかったため、ダメージは少ない。
「わかりやすく言うと、ソムリエに半端な知識でワイン送るみたいなもんだ」
「なるほど、一理あるわね」
ふんふむと雪乃は顎に手を添えて考え込む。二人揃って誕生日プレゼント一つにこうも迷っているあたりから、かなりのぼっち力が窺える。そういや、何だかんだで誕生日を祝うのは初めてか。あいつも、こいつも、そいつも、どいつも、全員そんなことすらせずに関係を断っていた。
「そうね、そういうことなら……」
と、何かを思い付いたのか次なる店へ向けてそそくさと歩き出す。服屋を出て斜向かい横、ランジェリーショップの横にあるキッチン雑貨のお店へと入っていった。たしかに由比ヶ浜の弱点ではある。……余談だが、女子と買い物に来た経験が少ないからよく分からないが、
「八幡、こっち」
ふと呼ばれて、自然と顔をそちらに向ける。振り向いた先に、エプロンを着けた雪乃が居た。薄手の黒い生地で、胸元に猫の足跡のようなマークがあしらわれている。腰で結ばれ紐はリボン状にきゅっと結ばれ、それが余計に彼女の引き締まったくびれを強調していた。予想以上の破壊力に、意識せずおぉと声が出る。
「どうかしら?」
「いや……すげぇ似合ってるよ、本当」
「……、」
と、俺にしては珍しく素直に褒めた訳なのだが、雪乃は鏡の方を見てしきりに袖口や紐を触っていた。どんな表情をしているのかは見えない。
「……そう、ありがとう。けれど、私ではなくて、由比ヶ浜さんにどうか、という話よ」
「それなら……合わないだろ。由比ヶ浜とは、ちょっと違う気がする」
「となると……この辺のものかしら」
それから数分後、最終的に雪乃が選んだのは薄いピンクを基調とした割とシンプルなエプロンだった。レジへ向かう手元に黒のそれも紛れていたのは、特に気にしないことにした。
◇◆◇
そんな日常が、終わりまで続くと思っていた。
「ん?」
俺の分のプレゼントも買い終え、暇潰しに回った中でパンダのパンさんのクレーンゲームに雪乃が夢中になり、どうにか上手く回る頭と舌を使って代わりに取って渡してやって、なんて。
「あれー? 雪乃ちゃん?」
何気無い彼女との時間が、ずっと続くものだと信じて疑わなかった。
「やっぱり雪乃ちゃんだ!」
「……姉さん」
まさかこんな場所で遭遇するとは、警戒心を怠っていた俺の落ち度か。いいや、そもそも、こうして雪乃と居るだけで避けられない事態だった。
「それと――」
強化外骨格に包まれて、隙間から覗く本性。
「久しぶりだね、比企谷くん」
雪ノ下陽乃は、にぃっと微笑んだ。
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晴れ後曇り、時折「陽」
「……雪ノ下、さん」
「うんうん、覚えてくれてたんだね、いやーお姉さん嬉しいなー」
けらけらと笑う顔は、しかしどこか嘘くさい。他の人間からしてみれば何ともない表情だとしても、父親からの英才教育を受けた俺にはお見通しだ。主に美人局とかそこら辺のリアルな女性事情に関するものである。親父は何度その毒牙にかかってきたのやら。
「でも本当、久しぶりだよね。何ヶ月ぶり?」
ずいっと雪ノ下さんが近寄ってきて、反射的に仰け反った。片足が後ろに引かれ、上半身を斜めに保ちながら、なんとか余裕だけは崩さないように気を張る。尤も、あっちからしてみれば今の動作だけで十分だろう。警戒するくらい、過剰評価するくらいが適当な加減だ。雪ノ下陽乃を甘く見ることは許されない。誰が許そうとも、彼女自身が許さない。
「あはは、全然変わってないね」
「ちょ、あの、やめ」
「懐かしいなー、もう、だって――」
ひたりと、彼女の両手が俺の頬にそっと触れる。
「――それ、二度と見れないと思ってたから」
ぞくりと、背筋に凄まじい悪寒が走った。言葉では表せられない恐怖感。説明し難い不気味な雰囲気。垣間見た、雪ノ下陽乃という人間の底の深さ。正しく深淵を思わせるようなそれに、耐えられる訳が無い。
「ッ!」
「わっ」
ばっと飛び退いて側を離れ、二メートルほど距離をとった所で身構える。余りのことに、さっと触られた頬を撫でた。見ようによっては意識しているような行動は、この人相手に何てことはない。今更それくらいで何か変わるような性質じゃないのを知っている。
「そんな驚かなくてもいいのに。比企谷くんてば初心なんだから〜」
「……あ、あぁ、いや、すいません」
「別に気にしてないけど、うーん、でも、そうだなぁ」
そのまま雪ノ下さんは顎に人差し指をちょこんと当てて、悩むように斜め上を向きながらうんうんと唸る。それから思い付いたのか、最初から思い付いての行動だったのか。あっと声を上げて態とらしくぱんと手を叩いて、彼女はにっこりと微笑んだ。
「うん、折角なんだし、少し話すってのも良いね。避けられるような対応されて、お姉さんちょっと傷付いたから」
「いや、あの……」
この程度で傷付くほど柔であればどれだけ楽だったことか。ありえない話だ。むしろ笑う所だと言われた方が信用できる。もう昔の俺ではない。全てを捨てて自分だけが引き受ける覚悟は無用の長物となった。過去の対応は過去のこと。雪乃が見ている前で、そんなことをやらせばどうなるかは分かりきっている。
「……姉さん」
「ん? 雪乃ちゃん、どうしたの?」
と、後ろに下がった俺とは反対に雪乃は前へ進み出た。ちょうど雪ノ下さんと向かい合う形、都合の良い解釈で言い換えると俺を背にして庇うように。
「何か用でもあるの? 無ければ私達はもう行くのだけれど。……そちらだって、都合はあるでしょう」
「あー、うん? あの子達?」
ちらっと雪ノ下さんが視線をやった方には、数人で固まって歩く一団が見えた。如何にもリア充と言った奴らの集まりだ。先程先に行ってと断りを入れていたのを見ている。数名が名残惜しそうに振り返っていることから、あのグループの中心は――もっと言ってしまえばサークルや学校の中心にまで、雪ノ下陽乃はなっていてもおかしくない。それだけのスペックと世渡り術を持っているのだ。
「いいよいいよ、正直話つまらなくて退屈してたし。なんならほら」
とんっと、一足であけていた距離を詰められる。濁って透き通って綺麗で歪な瞳とかち合う。多量のそれらを含んでいるからではない。分か
「比企谷とのお喋りは、凄い楽しいと思うんだよね」
巫山戯んな、こっちは何も楽しくない。断固として拒否の姿勢を崩すつもりはなかった。かなり本気で御免こうむる。
「それくらいにしてちょうだい。……彼は今、私と行動しているの」
「え、なに? まさか雪乃ちゃん、比企谷くんとデートとか?」
「えぇ、そうよ。だから、邪魔しないでくれる?」
いやお前何言ってんの。ねぇ、何言ってんの。ちょっと、あまりにもナチュラル過ぎて意味を噛み砕いてから内心飛び跳ねる思いだ。ああちくしょう、こんな時だっていうのに昨日のアレを思い出してしまう。やめろ、やめてくれ、ストレートに心に来る。
「へぇ! そうなのそうなの? どうなの比企谷くんっ!」
「っ、あ、あー、その」
「しつこいわ姉さん。私がそうだと言っているのだからそう。それで良いでしょう?」
「……ふーん」
瞬間、刹那の間だけ。剥げた、剥がれた、剥がした。どれに当てはまるのかは分からない。ただ明確に、雪ノ下陽乃はその仮面を取っ払っていた。理由はなんだ、動機はどこにある、リスクリターンメリットデメリットの全てを考えたのか。探るなんて無理だ、分からない。
「……あは、雪乃ちゃんってば。ちょっと見ない間にそんなになっちゃって」
「そこまで……いえ、強いて言えば、そこの男と居るから、かしらね」
「おぉーっ、愛されてるねぇ、比企谷くんっ。このこのー」
「なっ……」
すうっとすり抜けるように雪乃の横を通り抜けて、態々人の頬に指を突き刺すために雪ノ下さんは近寄って来る。そこまではない、軽い筈だと高を括っていた。彼女達と同じくらい重い訳が無いと。大して特別な関係性でも無く、すぐに切れて忘れるようなものだと。実際はどうだ。全くもって違っている。雪ノ下陽乃に興味を持たれた時点で、十分に特別な関係性だ。
「ふふっ」
ふわりと、甘い香りが鼻先を掠める。唐突に顔を近付けてきた雪ノ下さんと、意図せず抱き合うような体勢になっていた。耳元で息遣いすら鮮明に聞こえるほど近い。そんな状態でぼそりと小さく、けれど確かに言葉は呟かれた。
「……ほら、私の言った通り」
にちっと、肉の動く音が笑ったことを教えてくれる。じわっと背中に汗が滲み始めた。どうしてこうも上手くいかない。この人とは何も無かった。他の奴等みたいにそこそこ良い関係性にすら届いていなかった筈だ。何度か二人で話す機会はあったとは言え、俺は終始警戒していたし、あちらも本当の顔をそうそう出しては来なかった。時折たまに見えたくらいだろう。
「やっぱり君は面白いね、比企谷くん……♪」
だというのに、上手くやれない。
「やめなさい」
凛と、鈴のような冷たい声が響いた。どうしようもない現状を打破する一言。絶対零度のそれが、陽気に振る舞う彼女へ向けられる。
「嫌がっているでしょう、彼」
「……強くなったね、雪乃ちゃん」
「っ、どうでもいいわ、そんなこと。――全ては優先順位の問題よ」
急速回転、悪い状況ほど頭はよく回る。それが比企谷八幡の編み出した処世術の一つだ。今まで自分のことしか頭になくて気付かなかった。愚かな手前に呆れて怒りすら湧いてくるというもの。堂々と接しながら、雪乃の足は微かに震えていた。
「……ま、今日はここまでかな。あまり待たせても悪いしね。じゃ、また今度ね雪乃ちゃん。比企谷くん」
ふりふりと手を振って、にこにこ笑顔を浮かべて。
「――今度また、お茶でもしよっか。ね?」
意味深な表情と言葉を交えて、まさに嵐は過ぎ去った。
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雲間から差し込んで
『あっれー? 雪乃ちゃんだ! こんなところで会うなんて奇遇だねぇ』
果たして、初対面の印象はどうだったか。一番初めに思ったのは、よく表情を変える人だということ。次々と様変わりしながら話す彼女は、それだけでコミュニケーション能力の高さが伺えた。正しくリア充の権化と言ってもいい。
『……姉さん』
『はぁ。え、お前、
『……聞かれなかったから、答えなかっただけよ』
そう言う雪乃の顔はそれだけではないと伝えているようなもので、ちらりとその姉の方へ視線を向けた。流石は姉妹である。全体的な雰囲気や印象は真逆だというのに、所々のパーツは酷似している。俺と小町はそこまで似てないというのに。
『で、なにしてるの? ――まさかデート? デートだな、このこのっ』
『…………』
うりうりと肘でつつく姉を前に、雪乃は隠す様子もなく鬱陶しそうにじろりと睨む。そこだけ切り取っても大分仲が悪いであろうことは察せた。あちらからずんずんと迫っているのを、雪乃が一方的に突っ撥ねているという風にだ。実際は、さて、どうなのだろう。
『で、そこの彼、まさか雪乃ちゃんの彼氏?』
『違うわ。ただの……同級生よ』
『またまたぁ! 別に照れなくてもいいよっ?』
睨む。超睨む。普通の人間なら震え上がるほどの圧をかけられながら、その人は軽く受け流していた。
『雪乃ちゃんの姉の陽乃です。雪乃ちゃんと仲良くしてあげてね』
『はぁ、比企谷です』
ニコニコと笑いながら自己紹介されて、慣れない名乗りを返した時だ。
『比企谷……へぇ……』
一瞬だけ考え込むような間を置いて、その目が頭の天辺から爪先までをざっと見た。ぞっと、背筋に得体の知れない寒気が這い上がってくる。今すぐ飛び退いて離れたいのに、体が言うことを聞かない。金縛りにあったみたいに動かない。
『うん、覚えた。比企谷くんね、よろしく♪』
そうして、彼女の微笑みと同時に解ける。この時点から何かがおかしいと感付いていた。長年の中で培った危機察知能力と親父からの対女性英才教育により鍛え上げられた直感が、けたたましく警鐘をかき鳴らす。雪乃と雪ノ下さんのふざけた会話がしばらく続いて、雪乃の方が決定的な拒絶を示したところで、そっと俺に近寄って来た雪ノ下さんは耳元で呟いた。
『ごめんね? 雪乃ちゃん、ちょっと繊細な性格の子だから。……だから、比企谷くんがちゃんと気を付けてあげて、ね?』
理解、想像、拒絶、嫌悪、退避。ぐるぐると回り回った思考回路が最終的に出した結論は離れること。その時やっと気付いて、確信へと至る。猫や皮なんて安っぽいものではない。――雪ノ下陽乃は、強固な
◇◆◇
「あー……」
意味もなく声を漏らして、だらりと座り込んだベンチへ体重を預ける。雪ノ下さんとの遭遇から三十分ほど。俺も雪乃も精神的に疲れており、両者一致で一休みすることに決めた。情けないことに、彼女よりも俺の方がこうして参っている。
「はい」
「ん? あぁ、サンキュ」
と、そこに戻ってきた雪乃から飲み物を渡される。女子をパシるとか普通に見ると最低だ。ちょっとした罪悪感を感じながら、缶であるそれのプルタブを開けてぐいっと煽った。瞬間、口の中一杯に広がる愛おしい甘さに、ばっと缶の表示を確認せずにはいられない。
「MAXコーヒー……だと……」
「それ、好きでしょう。ちょうど売ってあったから」
「……なんだ、マジで、悪い」
「いいわ、それくらい」
こくこくと自分の分である方を飲みながら、雪乃はなんでもないように言った。彼女にここまで気遣われるとは、今の俺はどれだけ分かり易いのだろう。昔は「比企谷って何考えてるのか分かんないよねー」とか散々言われたもんだ。小町には「お兄ちゃんほど分かり易い人も居ないよ?」とか言われてたが。
「……」
「……」
周りは喧騒に包まれている。俺達のいる場所だけが切り離されたような静寂を伴っていた。ざわざわと騒がしい音が絶え間なく耳に入るというのに、うるさいとも思わない。ただ静かに、それぞれが飲み物を嚥下する音だけが響く。
「……やっぱり」
口火を切ったのは、案の定雪乃だった。
「あの人から、何か言われていたのね」
「や、別に、そんなことは……」
「あれだけ揺さぶられておきながら、尚そんな事が通じると思っているの?」
「…………そう、だな」
たしかにあれほどの醜態を見せておきながら、何も無かったとは言えない。ぐっとMAXコーヒーを持つ手に力が入る。胸の辺りにモヤがかかったようでスッキリとしない気分だ。一瞬の邂逅をここまで引き摺れるのは一種の才能かもしれないな。下らない考えを振り切って、ふぅっと一つ息を吐き、意識して全身から適度に力を抜く。
「別に大した事じゃない」
「なら、言っても問題ないのよね」
「……あぁ、まぁ、要するにだ」
関係の無い所に居るくせに、こいつよりも俺を見抜いていた。心の根本なんて
「お前と、その、……ああなった時に、な」
「……続けて」
「こうなることを、予言されたっつーか」
「予言?」
こてんと雪乃が首を傾げる。不思議に思うのは仕方ないが、本当に予言紛いの事だった。
「……無理だ、俺は一人でいられるような人間じゃないって、断言されたんだよ」
「――」
「そん時は時期が時期だったし突き放せた。まぁ、結局、あの人の言った通りになったってことだろ」
今更になって後悔が押し寄せてきた。あぁ、もっと葉山の忠告をきちんと聞いていれば、警戒心を高めていれば、もしかするとどうにかなったかもしれない。例えば無理矢理こいつを連れて逃げていれば、会うのだけは遅らせることが出来た筈だ。
「だから、本当に大した事じゃねぇんだ。ただ、なんか、こう、あれだ」
「……、」
「いや、やっぱりあの人、苦手だしな……」
「そう…………気に入らないわね」
冷たさの増した、低い声。大量に怒りを孕んだその一声に、思わず肩が跳ねる。現在進行形で雪ノ下雪乃は間違いなくキレていた。怖っ、寒っ、いやマジで怖い。なんだお前ちょっと髪の毛とかふわふわ漂ってきてんだけどおいどういうことだよ。
「あ、あの、雪乃さん?」
「精々数回程度話して知ったつもりなのかしら。全くもって気に入らない」
「ちょっと、おい、お前何を……」
「――いいかしら
「たしかにあなたは馬鹿で、捻くれ者で、愚かで、どうしようもないくせに頭の回転だけは早い、そんな人間だけれど」
「おい……」
「最後まで聞きなさい。……けれど」
ふっと、柔らかく微笑みながら。
「――あなたは強いわ」
揺らぎは微塵もない。偽りの様相は欠片も見えなかった。ただそうであることをそう述べたと、雪ノ下の表情がうるさい程に語っている。
「な……んだよ、それ……」
「あの人の言ってるような、弱い人間じゃないということよ。それくらい分かりなさい、本当に馬鹿ね」
「お前な、俺が強いって……そんなの」
信じられる訳が無い、と。
「少なくとも私の知っているあなたはそう。……苦しみも、悲しみも、憎しみも、その辛さを全部背負って、潰れないくらいには強いのだし」
「……いや、実際は潰れそうだったぞ」
「いいえ、恐らくあなたはやり遂げた。それがこうしているのは、あなたの問題ではないのよ。……誰かさんが、こじ開けてくれたのでしょう」
そう、ちょうど、今日買ったプレゼントを渡すような奴に、気持ちを叩き付けられて再起した。
「……そういや、そうだったな」
「ええ、だから、安心して信じなさい」
ふわりと、揺れる黒髪を押さえながら、雪ノ下がそっと告げてくる。
「私、これでもあなたのこと
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ハッピー バースデー ディア
「由比ヶ浜」
「……うぇっ!?」
放課後、教室でそっと声を掛ければ、予想以上に大きな声で驚かれた。周囲の人がばっとこちらを向く。俺もばっと反射的に仰け反る。やだ、なにこのちょっと不味そうな雰囲気。なるべく面倒にならないようにステルスしていたというのに台無しだ。まさに忍び。ちくしょう、ニンジャ死すべし慈悲はない。
「や、えと、なんでもないなんでもない〜、あはは」
無理があんだろ……と思いながら静観を貫いていると、意外なことに直ぐ様ざわざわとした喧騒が戻ってくる。はぁっと知らず貯めていた息を吐いた。いやマジで助かったわ。もうちょっとで、その、ほら、アレ。なんかこう死にたくなるところだった。ともあれ原因の一端を担った彼女と対面して話す。
「おい……必死に隠れて来た俺の苦労をどうしてくれる」
「ご、ごめんごめん。その、ヒッキーが教室で話し掛けてきたの、初めてだし……」
「あ? ……あぁ、そうだったっけ」
返しながらちらりと教室の端へ目を向ける。三浦や葉山らを筆頭としたグループのそいつらは楽しそうに談笑しながら、けれど何人かは時折ちらちらとこちらを窺っている。直接来られていないだけ、まだセーフラインという事だろうか。さっぱり理解できないが、リア充にはリア充独特のルールがあるのだろう。面倒くせぇなこいつら……。
「で、なんかようでもあるの?」
「いや、その、だな」
だがこっちもこっちで譲れない。なにしろ今日は俺達にとって大切な日である。詳細に言うならば俺達というよりこいつにとってだが、そこら辺の細かい部分を気にする男はモテないので気にしないことにした。気にしなくてもモテないと理解するのに時間は掛からなかった。
「……部室まで一緒に行かないか?」
「な」
がたっと由比ヶ浜が椅子から立ち上がる。今度は周りも注目しない。さほど大きな音が出なかったのが幸いしたのだろう。ぷるぷると小刻みに体を震わせながら、まるで恐ろしいものでも見たかのように目を見開いて、彼女はぼそっと呟いた。
「ヒ」
「は?」
ヒ、なに? ヒアルロン酸?
「ヒッキーが変だ――!?」
「おい」
なに、俺が人を誘ったらそんなに変なの? 脳内で軽く現在の行動をシミュレートしてみる。うん、変だな、十分におかしかった。なるほど、確かにそう言いたくなるのも頷ける。でも態々そこまで大きな声で言う理由なくね。やめろよ、くそ、泣いちゃうだろ。
「……別に嫌なら先に行くんだが」
「ちょ、や、あの、ほら! 別に嫌じゃないから!」
待ってて! とだけ言ってがたがたと由比ヶ浜は鞄へ荷物を仕舞い始める。合間にたたっと走って三浦達のところへ行き、二三言会話してからまた帰り支度。
「お、お待たせ。それじゃ、い、行く?」
「……おう」
別にそこまで焦らなくても俺は逃げませんよ?
◇◆◇
「誕生日、覚えててくれたんだ……」
「いえ、ただアドレスから推測してそこの男に確認しただけよ」
「ぶっちゃけ俺もその時になって思い出したわ」
「感動的なシーンが台無しだ!?」
がーんと衝撃を受ける由比ヶ浜だが、仕方ない。生憎と長年キング・オブ・ボッチだった俺は自分と家族以外の誰かの情報を覚えることに慣れていないのだ。そもそもとして他人と親しく接したのは中学三年からであり、それもたったの一人。つまるところ経験値皆無。
「思い出したのは結構なファインプレーだろ」
「そうね、基本名前すらまともに覚えようとしないあなたにしては上出来よ」
「ばっかお前、名前だけじゃなく顔も覚えようとしてない」
「自慢できることではないわね……」
どうであろうと大多数の人間は己と関係の無いところで生きるものだ。その中で人は自分と接する人間を見付ける訳だが、例えるなら俺の場合その領域が少し狭いのであって、数えるだけなら両手の指で事足りる。
「なにはともあれ、誕生日おめでとう、由比ヶ浜さん」
「あ、ありがとう……ゆきのん」
ストレートに言われたのが恥ずかしかったのか、由比ヶ浜がぽっと頬を赤く染めながらぼそぼそと返す。面倒くさく拗らせているように見えて、実際雪乃は正しく真っ直ぐな生き方をしている。捻くれて歪んだ生き方の俺とは真反対だ。だというのに意外と反りが合うのだから、世の中分からない。
「ほら、次はあなたでしょう」
「……あぁ、おう」
「ぅ……」
すっと由比ヶ浜と向かい合いながら、恥ずかしさを誤魔化すようにがりがりと頭をかく。言葉一つ発するのにこの心境だ。どこかの誰かさんが言った強いの意味が理解できない。俺が強いというのなら、世界中の人間が強いことになるだろう。
「まぁ、なんだ」
「う、うん」
「……おめでとさん。また一つ歳とったな」
「うん、ありが――いや予想以上に酷いよ!」
やべぇ、不味った。つい何時もの癖で捻くれてしまった。くそっ、こんな時に発揮されてしまうぼっちスキルが憎い。三菱のCMくらい憎い。ニクイねぇ、三菱。
「冗談だからな。……おめでとう、由比ヶ浜」
「……うん、ありがと、ヒッキー」
小さくそう言って、由比ヶ浜は微かに笑みを浮かべた。ふざけてばかりでは伝わるものも伝わらない。はぐらかすだけでは何も手に入らない。結局はどうであれ、何かをしなければ何も始まらなかった。だから今日、ここから始める何かがあっても良いだろう。
「という訳で、渡してしまいましょうか、これ」
「うわぁっ、これ、ゆきのんから?」
「えぇ、似合うと思うのだけれど」
「そうかな? えへへ、ありがと」
ぎゅっと雪乃に抱き着いて由比ヶ浜は溢れ出る嬉しさを伝えにいく。対する極寒の女王は暑苦しい鬱陶しいとでも言いたげな表情で受け流していた。されど無理に抜け出そうとしないあたり本気で嫌がってもいなさそうだ。なんだかんだで仲が良いんだよなぁ……。
「んじゃ、俺か。ほら」
「これって……」
「俺からのプレゼント、犬の首輪な」
「うわぁ……チョイスがヒッキーだぁ……」
なにそのヒッキーにどんな意味があんの、俺超気になるんだけど。とまぁ、一々気にしていてもいけない。だって由比ヶ浜だし。大方ノリと勢いと雰囲気と感じですぱっと言ったのだろう。そのくせ確信を突いていそうな部分がなんとなく怖い。
「それと、その……な」
「ん?」
もうそろそろ、というか。雪乃の方は名前で呼んでいるのに、同じ部活であるこいつの事を未だに名字呼びなのは違和感があるようで無かったようで結局無かったけどなんとなくスッキリしないというか。
「まぁ、なんつーの……」
「ヒッキー?」
踏み出すならばここだろうと、今日のこいつの誕生日を思い出してから考えていた。誰かの好意を受け止めるということを教えられて、誰かと一緒に過ごす事をまた夢見させてくれた。そんな彼女との距離が一定のままというのは、些か寂しいだろう。順番なんて関係無いが、始まりは誰でもない由比ヶ浜だ。だから。
「これからも、よろしく頼む……
「へ――」
彼女のを名前で呼ぶのは、間違っているだろうか。
「ヒ、ちょ、えぇ!? 嘘、え、え? ヒ、ヒヒヒッキーが名前で呼んだっ!?」
「動揺しすぎだろ。……マジか、そんな嫌だったのか」
「違うよっ!? むしろあの、イイと言うか、嬉しいというか……っていや、うん、そうだけどっ!?」
とりあえず落ち着こうな。わたわたと慌てふためく由比ヶ浜結衣を一旦押さえる。頭の中が暴走しすぎで熱とか出てるんじゃないかこいつ。
「あ、あたしも変えた方がいいかな……?」
「……別に、どっちでも良いぞ、俺は」
「じ、じゃあ………………ハ、ハッチーとか?」
ねぇそれどこのみなしご。
「却下で」
「えぇっ、なら……うーん。やっぱり、ヒッキー?」
「……まぁ、お前はそれが一番らしいかもな」
そう言って話を片付けようかと思ったところで、急に由比ヶ浜結衣がもじもじと人差し指を合わせながらチラチラとこちらの顔を窺い始めた。何をしているのかと不思議に思っていれば、ぼそっと。
「それとも……は、八幡、とか」
「……名前呼びってハードル高いよな」
「そ、そっちだってそうしたじゃん!」
こうして、由比ヶ浜の誕生日に、たったの三人の奉仕部は楽しい時間を作り出し、過ごしていた。
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流れ流れて夏休み
待ちに待った夏休み。だらだらと過ごす毎日。今日もここに生きていることを、真夏の暑さに実感する。しかしながら本当に暑い。暑すぎて思わず歩くことが億劫になるレベル。地球温暖化だのなんだのと言われているが、これ以上暑くなったら人類死んだな。適当にそんなことを考えながらぱたぱたと団扇で扇ぐ。
「あ、いたいた、お兄ちゃん」
「小町か……お兄ちゃん今溶けそうだから後にしてくれ」
「やだなーもう、お兄ちゃんは溶けるんじゃなくて腐るでしょっ」
物凄くナチュラルに罵倒された。まぁたしかに、俺としては暑さで溶けるというよりも暑さで腐るといった方が説得力がある。特にこの目とか。そうか、夏に生まれたから俺の目は腐ったのか……と新たな事実に驚愕していると、小町はたたっと目の前まで歩いてきてこちらを覗き込んでくる。
「ほら、この目とか」
「やめろ、考える事が一緒でお前との兄妹を越えた深い繋がりを感じちゃうだろ……」
「うわぁ、やめてよ恥ずかしい。このシスコンっ」
言い方に悪意しか感じない。全くもってこいつという妹は可愛げがねぇな。もっとお兄ちゃん好き好き愛してる絶対ダレニモワタサナイんだからねくらい言ってみろ。大体千葉の兄妹は愛し合うって相場は決まっている。例えが愛し合うどころかヤンデレていた。
「で、なんだよ」
「やー、小町さぁ、夏休みの宿題で読書感想文書かなきゃいけなくって。お兄ちゃんが書いたの写させてー」
「あぁ、それなら……」
と、一旦自分の部屋に戻って去年に書いたそれを引っ張り出す。著者比企谷八幡、監修雪ノ下雪乃である。捻り捻って捻くれた感想文をなんとか読めるというものにまで落とし込んだ最高傑作だ。今年は一人で書いたのだが、色々と文を書くのに慣れてしまった今よりも出来が上という事実に驚いた。あいつ本当高スペック過ぎるだろ……。
「ほら、これ」
「ありがとー。……ん? んん?」
ぽいっと渡すと同時に目を通し始めた小町が、一分も待たずに変な声を上げる。なんだろうか、別に変なところなど無いと思うのだが。何せあの雪乃直々に叩き直された代物だ。その粗を探すなんて頭の出来が天と地の小町には無理な話だろう。なんとなく気になって聞いてみることにした。
「なんか駄目な部分でもあったか」
「いやー……小町的には殆ど駄目っていうか参考にならないんだけど……」
「マジか」
どんだけ酷いんだよ俺の作文。いやまぁほぼ毎回平塚先生に呼び出しくらっている時点でお察しだが、それでもそこそこの文章力があるとは思いたい。
「でも、なんか、お兄ちゃんじゃないくらいソフティーだよこれ」
「……あぁ、そう」
どうでも良いが、ソフティーは柔らかいって意味じゃないからな。仕方が無いのでその読書感想文の題材とした本を小町に渡す。そうして読み始めてから寝落ちするまで、一時間はかからなかった。頑張れ、受験生。
◇◆◇
「あら」
「あ?」
既に七月も終わり、しかしうだるような暑さはより酷くなっていた。同じくして妹の勉強に対する姿勢にも熱が入る。お兄ちゃんと一緒の高校に行きたい、という進路理由はとても心に響いたが、それが一人にするとやらかして自爆しそうという実に心にクルものだったのがショックだ。事実だから何も言えねぇ。
「久しぶりね、八幡」
「……おう、久しぶりだな、雪乃」
そんな妹のためにと本屋まで足を運んで自由研究やら感想文やらに役立ちそうな冊子を選ぼうとしたところで、珍しい奴と遭遇した。目の前の彼女こそがそれである。夏だというのに涼しそうな表情は、雪ノ下雪乃という名前に関係があるのかないのか。多分ない。
「珍しいわね、買い物?」
「妹の宿題の手助けだ。ほら、あるだろ、自由研究とか感想文とかポスターとか」
「そう。……感想文、といえば」
ぽつりと雪乃が呟く。思い起こすのは俺だけかと思っていたが、どうやら向こうもしっかりと記憶していたらしい。あぁと返して、がりがりと頭をかいた。
「去年のアレ見せたら、役に立たねぇって言われたんだが」
「当たり前よ。アレ、とても酷いもの」
「文が問題か」
「内容がよ」
そりゃそうだ。正しくできないほど性根を捻じ曲げた内容は最早修正しても曲がっている。雪乃の力は強大だったが、俺の捻くれ力の辛勝だ。ヒッキー大勝利ぃ! 自分でヒッキーとか言うとマジでヤバいな、主にキモイ。
「……そういえば、今年もあるわよね?」
「あぁ、まぁ、今回は自力で書いた」
「ちょっと見せなさい」
そこではっと察した。これは非常に面倒臭い。生憎ともう二度と夏休みの読書感想文程度でほぼ一日を使い切るなど御免だ。こいつ何かと厳しいんだよ……高校生の作文なんだから誤字脱字誤用は少しくらい見逃してほしい。ここは一も二もなく断っておこう。
「いや、なに? 今回は真面目だからな。本当、お前に読んでもらうまでもないくらいまともなんだよ。だからほら、心配すんな」
「なら見せても大丈夫ではないの?」
「あー、なんつーの? この程度でお前の貴重な時間を奪うのは気が引けるというか、なんというか」
「ちょうどいいわ、私暇だったから」
ばっさりと切ることが出来ない優柔不断系ぼっちのどうも俺です。これはもう諦める以外に選択肢は残されてなさそうだ。どんな理由を見付けてもこいつから逃げない限りは叩き潰されて終わる。はぁと一つ溜め息を吐いてから、がっくしと肩を落とす。ついでに腰も曲げておいた。やる気の無さは全開。
「……分かった。あー、つうことは、あれか。うち来るのか……?」
「…………え、えぇ、そういうことになるわね」
はて、人を家に呼ぶのはもしかして人生初ではないだろうか。過去の記憶を探ってみても誰かを誘った覚えはあるが、誰かがその誘いに乗ってくれた覚えがない。なんだろう、気温高くて暑いしな、目から汗が出てきた。こんな所でダメージを負うとは思わなかったが、ともあれこれは一大事である。
「あ、あぁ、なら、ちょっと本買ったら行くか?」
「えぇ、そ、そうね」
お互い納得の気まずさにそっと目を逸らした。俺は勿論こうして誰かを招いたことがない。恐らく雪乃は誰かに招かれたことが無い。両者筋金入りのぼっち体質だ。理由や本質は違うとはいえ、その共通する一点においては同じ。
「……選ぶの、手伝うわ」
「……おう」
結局二人で適当な本を見繕い、道中若干ぎこちなくなりながらも、無事に俺達は家へと辿り着いた。
◇◆◇
「書き直し」
「冗談言うな、雪乃。……冗談だよね?」
「いやーこれは小町的にもないって言うかー」
「てかお前自分の宿題は……」
ふいっと小町が目を逸らす。雪乃を家に連れ込んでから何かとちょっかいをかけてくる辺りもう本当こいつ可愛くねぇ。……いや待て、連れ込むという言葉は些か語弊がある。そう、ただ友達を遊びに誘っただけと解釈しよう。ガールフレンドを家に誘っただけなのだ。駄目だ、なにかイケナイ雰囲気が紛れない。実際は色気のいの字すらないが。
「とにかく内容が最低ね。学校に提出するものとして恥ずかしくないの?」
「あぁ、平塚先生ならどんな小さなネタでも拾ってくれるから安心だ」
「あなたのコレにネタ要素は恐らくないでしょう……」
当然、俺が一番得意とするやり方で書き上げたものだ。皮肉った言い回し、悪い方から見た印象、捻じ曲がった解釈の仕方、およそ嘗めているとしか言えない結論。これぞ比企谷八幡の真骨頂。
「小町さん、少し遅くまでこの人を借りるけれど」
「ええっ、どうぞどうぞ! もうそりゃ随分と遅くまで借りてっちゃって下さい! むしろ引き取ってくれても良いんですよ?」
「…………考えておくわ」
「おい……」
考えちゃ駄目だろ……てか引き取るってなに、俺養子かなにかに出されるの? 雪ノ下八幡になっちゃうの? 語呂悪いだろ比企谷でいい。もっと言えば比企谷が良い。
「さぁ、やりましょう?」
「…………はい」
その日、俺は腱鞘炎一歩手前だったと思う。
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夏季休暇奉仕部活動記録
小町に嵌められた。俺の目の前に広がるのは青々と茂った草木に、ちょうど自分の半分より上ほどの身長でわーきゃーと騒ぐがきんちょ。突然の平塚先生からのラヴコールをひたすら無視し、外には出ない何も知らないという鉄の意志と鋼の強さで保っていれば、千葉行くよーという妹の言葉に騙されてやって来たのがここ、千葉村である。あぁ、働きたくねぇ。
「やる気が無いわねダル谷くん」
「仕方ないだろ……夏休みだぞ今は……休みは休むもんだろ……」
「ヒッキーは通常運転だね……」
「やー、本当お兄ちゃんですよねー」
「まぁ、比企谷くんらしくて良いと思うよ?」
唯一戸塚だけが優しい言葉を返してくれた。やはり戸塚が天使なのは間違っていない。こんなにも心も体も綺麗な存在が居るだろうか。目の前に居るというのに信じられない。戸塚最強。天使、天使すぎる。
「さて、君たちはここに何をしに来たのか知っているか?」
と、話を切り出したのは平塚先生だ。
「泊まりがけのボランティア活動だと伺ってますが」
「うん、お手伝いだよね」
「え? これって合宿じゃないの?」
「小町、キャンプするって聞いたんですけどー?」
「そもそも何も知らないんだが、俺」
答えが多すぎてどれが正解か分からない。伝言ゲーム下手かお前ら。恐らくはたった二人共通している戸塚と雪乃のそれが正しいのだろう。ボランティア、お手伝い。いい言葉だと思う。さぞ素敵な響きで、正しく清い行動に違いない。けれど、自分でやるとなると一気にやる気をなくす言葉でもある。報酬なしとかマジかよサービス残業かよ。ブラック企業ならぬブラック部活だ。
「俺は内申がもらえるって聞いて」
「え、なんかただでキャンプできるっていうから来たんだけど?」
「それな、マジ。ただでキャンプとかやばいっしょ」
「わたしは男の子同士がキャンプするって聞いてhshs」
あえて今まで触れておかなかったがここで触れておこう。というか触れておかないと後々怖い。主に最後。海老名さんマジやべぇ……。今回の奉仕活動、メンバーは奉仕部に加えて小町&戸塚、葉山に三浦に戸部に海老名さんという異質な人員構成だ。なんとなく嫌になってくるんだよなぁこれが。
「まぁ、おおむね合っているからよしとしよう。君たちにはこれからボランティア活動をしてもらう。詳しく言うと小学生の林間学校のサポートだな」
「先生、お腹が痛いので帰っていいですか」
「比企谷。ちょっと来い、なに、不具合は大体叩けば治る」
「一昔前の考えですよそれ。いえ、なんでもないです。はい、腹痛はおさまりましたからっ」
威圧感と殺気と悲しみの篭った瞳には勝てなかった。くそっ、もう駄目だ、耐えきれない。お願いだから誰か貰ってあげてぇ!
◇◆◇
なんだかんだ些細なことはあれど、林間学校は滞りなく進んでいった。オリエンテーリングから始まり、見た雰囲気楽しそうな一日と言った感じだ。そこに明確な悪意や嫌悪はない。誰もがここで過ごす状況を楽しんでいるように見える。けれどもそれは、傍から見ているからだろう。見えないのは隠されているだけで、密かに紛れてそれらは潜んでいる。ぼっちとは自然と、そういうものに気付きやすい。
「カレー、好き?」
「……」
飯盒炊爨に野外調理、今晩のカレーの準備を皆でせっせと
「……別に。カレーに興味無いし」
それだけ答えて、少女はたたっと葉山から離れる。悪い方向へと傾いた印象はそう良くならない。人間とは解釈の仕方でがらりと変わり、変えられる生き物なのだ。例えるなら俺と葉山なら、ボランティアを慈善事業と褒め称え、片や無銭労働だと貶し貶める。ちょっと変わった奴を個性的と捉え、片や社会不適合者だと判定する。つまるところ、そいつの印象も人間性も在り方も何もかも、受け取る相手によって変わる。なればこそ、彼女が悪感情を向けられるのは必然だ。
「……じゃあ、せっかくだし隠し味入れるか。隠し味、なにか入れたいものある人ー?」
べっとりと少女に貼り付いていた
「はいっ! あたし、フルーツとかいいと思う! 桃とか!」
ふと聞こえてきた声が誰なのか分かるも、誰なのか分かりたくない気持ちに駆られた。由比ヶ浜、お前何やってんだ……。小学生に混じって挙げた意見が小学生よりちゃんとしていないのは正直やべぇ。流石の葉山もアレだったようで、一言二言話をしたかと思うと由比ヶ浜はとぼとぼとこちらに歩いて来た。
「あいつ馬鹿か……」
「ほんと、馬鹿ばっか」
鶴見瑠美は冷えた声でそう言う。だがしかしその冷たさは物足りない。精々が冷蔵庫レベルだ。雪乃くらいになると氷点下余裕のマイナス二桁くらい。冷たすぎて凍死するぞ、言葉で。
「まぁ、世の中大概そんなもんだ。馬鹿しかいねぇし、そう思う自分も馬鹿だって気付く」
「さすが、筋金入りの馬鹿は言うことが違うわね」
出た、氷点下余裕マイナス二桁さん。
「頭の出来はそこまで悪くないんだけどなぁ……」
「学ばないし捻くれているし修正のしようもないあなたの脳みそは果たして正常と言えるの? 逆説的に馬鹿で良いでしょう?」
「お前にしては凄い暴論な上に論理性の欠片もない適当な言葉だな」
「あなたと話すのにそこまで気を張る必要がないもの」
「あぁ、そうですか……」
その言葉に喜ぶべきかどうか真剣に悩んでいると、鶴見瑠美は静かに近付いてきて口を開いた。
「名前」
「ん? 名前がどうかしたか」
「名前聞いてんの。普通今ので分かるでしょ」
ふっ、甘い。MAXコーヒー並に甘い考えに思わずニヒルに口元を歪めてしまう。俺を普通という定規で測れるとは思わないことだ。普段ぼっち放課後非ぼっち休日ヒッキーな俺を普通とは言わないからな。
「……人に名前を尋ねる時は先ず自分から名乗るものよ」
や、だから怖いってお前。見ろ、鶴見怖がってんじゃねえか。ビビって逃げるぞ、と事前に溜め息をつく準備をしていれば、意外なことに彼女は目をそらしながらもぼそっと答えた。
「…………鶴見瑠美」
「私は雪ノ下雪乃。そこの彼が比企谷八幡」
「で、こいつが由比ヶ浜結衣な」
「なに? どったの?」
近くまで来ていた由比ヶ浜が反応する。偶然にも奉仕部員だけが綺麗に揃ってしまった。しかも問題の中心である鶴見瑠美にだ。この林間学校で大きな問題はない。常時であれば適当にやり過ごして手伝いだけして帰れば十分と言えよう。しかし鶴見瑠美の抱える問題が小さい訳でもない。これは巧妙に隠されて見えなくなった、大きさの分からないものだ。
「……なんか、そっちの二人は違う気がする。あのへんの人達と」
「だとよ、雪乃」
「あなたと同列というのは少し気になるけれど、まぁ、そうなんじゃないの?」
恐らく、これがここでの目的になる。
「私も違うの、あのへんと」
鶴見瑠美は、まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。
私事で少し間を開けます。
六月一週には復帰しますのでしばしお待ちください。
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