試用期間は打ち切りで (TTP)
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10月16日 雨と黄昏
いつの間にか、しとしとと雨が降り始めていた。麻雀椅子に深く腰掛け、京太郎はぼうっと窓の外を眺める。薄暮にはまだ早いが、雨霧のせいで外の様子は掴めない。しかし彼は構わず、そのままの体勢でいた。――今、この清澄高校麻雀部の部室には、彼一人きりだった。
彼の手元にあるのは、麻雀の教本。高校に進学したこの春から麻雀を始めた京太郎は、夏を過ぎてようやく初心者を脱したところであった。とは言っても、学ばなければならないことはまだまだ多い。周囲のレベルも圧倒的に上だ。少しでも距離を縮めようと今日もこうして勉強しているのだが――雨に気を取られ、集中の糸が切れてしまった。
休憩時間とも言えない、僅かな間。
ほんの少しの、虚ろな時。
「だーれだ?」
その隙を突いて、彼女は京太郎の背後に忍び寄っていた。ひんやりとした手で視界を突然塞がれ、京太郎は一瞬肩を震わせる。だが、それ以上の動揺はなかった。微かに溜息を吐いてから、彼は呆れた声で返事をする。
「何か御用ですか、竹井先輩」
「むー。淡泊なリアクションね」
目隠しを止めて、彼女は――竹井久は、ひょいと京太郎の前に回り込む。不満気に口を尖らせる彼女は少し幼げに見えるが、これでも京太郎の二つ年上の先輩である。そして、清澄高校麻雀部の前部長でもあった。
「もっとうろたえてもらわないと、悪戯のしがいがないじゃない」
「ご期待に添えなくて申し訳ないですけど、そういうことなら咲あたりにやって下さい。たぶん理想通りの反応を見せてくれますよ」
「咲にはもうやったわ」
悪びれもせずにんまり笑う久を前に、京太郎は今一度溜息を吐いた。――この人は、出会ったときからずっとこの調子だ。
大人なようで、けれども茶目っ気があって、それでいて捉え所のない先輩。どこかアウトローな雰囲気を振りまきながら、制服は折り目正しく着用し、学生議会長も務めていた。相反する要素を幾つも持ち合わせ、そして不思議なカリスマを発揮する――それが、京太郎にとっての竹井久という少女だった。
彼女と向き合い、京太郎はもう一度訊ねる。
「で、何の用ですか」
「あら。用がなかったら、引退した先輩は部室に来ちゃだめなの?」
「用がなかったら受験勉強して下さい」
「たまの休みも必要なの。リフレッシュよ、リフレッシュ」
「そう言って一昨日も来たじゃないですか。先輩が部室に来る度、俺は心配――」
「嬉しい癖に」
いつの間にか近寄って来ていた久が、京太郎の耳元で囁くように言った。それだけで、京太郎は顔を赤らめ黙り込んでしまった。やり込めたはずの久は、しかしそれに拘る様子ひとつ見せず、話題を転換する。
「まこたちはどうしたの? 須賀くん一人?」
「今日は染谷先輩のところでバイト兼練習です。人手が足りないらしくて」
「それで須賀くんはお留守番なの? 一緒に行けばいいじゃない」
「俺にメイド服着ろって言うんですか」
「案外似合うかも知れないわよ?」
「似合っても着ませんよ」
それ以上の軽口には付き合わず、京太郎は教本を開く。久は気にする素振り一つ見せず、雀卓を挟んで京太郎の向かいに座った。
「二人打ちでもしない? 折角だから鍛えてあげるわよ」
「竹井先輩が来たら勉強の見張りをするようにと、染谷先輩から言い付かっています」
「む。何、須賀くんはまこの命令に従うって言うの?」
「部長命令ですから」
教本に視線を落としながら、京太郎は詰め寄る久をはね除ける。つんとした彼の態度は、一見取り付く島もない。しかし久は、構わず雀卓へと身を乗り出した。突然間近に先輩の顔が迫り、流石にこれには京太郎も慌てふためく。
「わっ、な、なんですか急にっ。近い、近いですってっ」
「部長命令は聞くのに、前部長命令は聞けないんだ」
「いやそりゃあ部長命令優先でしょうっ。大体前部長命令ってなんですか、そんなものに拘束力があるとでもっ?」
「酷い、須賀くんは私よりまこをとるのね!」
「今そういう話してないですよねぇっ?」
「そういう話なのよ!」
ずずい、と久がさらに顔を近づけてくる。京太郎は頬を染めて顔を背けながら、けれども椅子を引くことはなかった。
「でもまあ、板挟みになる須賀くんも可哀想よね」
「え……」
しかしここで意外にも、久は椅子に腰を下ろした。このまま押し切られるかと思った京太郎は、困惑に眉を潜める。ただ、当然このままで彼女が引き下がるわけがなかった。
「半荘一回だけ打ちましょ。私が勝ったら須賀くんは私の言うことを聞く。須賀くんが勝ったらちゃんと勉強するわ」
「あんまり俺に得がないルールな気がしますけど」
「まこの言い付けは守れるじゃない」
「そうだとしても、俺が竹井先輩に勝てるわけないじゃないですか」
あら、と久は心外と言わんばかりに肩を竦める。
「こっちは既に引退した身よ。須賀くんは現役で毎日練習してるじゃない。それにただ本読んでるよりも私と打ったほうが練習になるわよ。――それとも、こてんぱんにやられるのが怖いのかしら?」
あからさまな挑発に、京太郎もむっとする。ここまで言われて引き下がれるほど、彼は大人ではなかった。教本を片付け、真剣な眼差しで久の瞳を射貫く。
「分かりました、分かりましたよ。打てば良いんでしょう」
「やったっ」
その瞬間の彼女の笑顔は年齢よりも幼く見えて、京太郎はどきりとしてしまう。誤魔化すようにそっぽを向くが、それを久に悟られていたのは明白だった。
「……絶対勝って、勉強させますよ」
「そうこなくちゃ」
京太郎に二人打ちの経験はほとんどなかったが、気合は充分だった。この一回だけでも勝ってみせると意気込み、難敵に挑む姿は勇ましい。
――しかしながら。
「はいツモー。私の勝ちー」
「ぐ……っ、ちくしょう……!」
終始久が優勢を維持したまま、あっさりと決着は着いた。半ば分かっていた結果とは言え、悔しいものは悔しい。これで終わりと納得できない京太郎は、当然再戦を申し込む――
「もう一回勝負です!」
「え? だめよ、私勉強しなくちゃ」
あっさりと断られてしまった。
「ちょ、何言ってるんですか! 先輩が勝ったらコレ続けるんでしょっ?」
「私、受験生だし。須賀くんの言うとおりちゃんと勉強しないとね。それにあくまで約束は『私が勝ったら須賀くんが私の言うことをなんでも聞く』だったし」
「なんでもとは言ってません!」
「細かいことは気にしない、気にしない」
そう言って久は立ち上がると、席を移して本当に参考書を開いてしまう。ぐぬぬ、とイマイチ納得のいかない京太郎だったが、当初の目的通りにはなっているため深く突っ込めない。
「須賀くんもしっかり練習に励んでね」
「かき乱すだけかき乱しといてこの人は……」
呆れを通り越して感心すらしてしまう。仕方なく京太郎は部のパソコンを立ち上げて、ネト麻を始める。
しばらくの間、部室にはマウスのクリック音と、ノートの上をシャーペンが走る音、そして外の雨音だけが木霊していた。
何気ない、いつもの日常。
穏やかで、緩やかな時間。
京太郎にとってそれは――とても、居心地が良かった。
気が付いたときには、最終下校時刻がすくそこまで迫っていた。
うーん、と伸びをする久は、一仕事終えた後のように清々しい。
「そろそろ帰ろっか」
「そうですね。キリもいいですし」
「んー、須賀くんに何お願いしようかな。グラウンドで裸踊りとか?」
「罰ゲームの方向はやめて下さい! というか社会的に死ぬ! あの半荘一回重すぎでしょう!」
「冗談よ、冗談」
貴女が言うと冗談に聞こえないんです、とは言えなかった。怒らせたら本気でやらされそうだ――というのは過ぎた考えだろうか、と京太郎は自問する。
「あー」
そんな彼をよそに、久が間延びした声をあげる。それはどこか、白々しい色が混じっていた。
「今日、傘忘れたんだった」
「朝は降ってませんでしたからね」
「そう! 寝坊して慌てて出てきたから、天気予報見てなくて。失敗しちゃった」
「それなら――」
「だから、お願い」
京太郎の言葉を遮って、久は微笑む。
「須賀くんの傘――入れてくれる?」
すぐに返事ができなかった理由を、彼は誰にも語れない。けれどもそれが、久には筒抜けだということは分かった。
――敵わない。
初めて出会ったときから朧気に感じていた予感。――この人には、どうあがいても敵わない。わざとらしく顔を覗き込んでくる久を振り払いながら、それでも精一杯の抵抗を試みる。
「……でも、竹井先輩の家、俺ん家とは逆方向ですよね」
「送ってって!」
「…………」
「グラウンドで裸踊り」
「分かりました、分かりました! 鍵かけますから早く出てって下さい!」
「まだ帰る準備終わってないのに、慌てないでよ」
今日一番の大きな溜息を吐いて、京太郎は部室の片付けを始める。平時より、自分の心拍音が大きく聞こえる気がしてならない。
戸締まりをして、すっかり人気の少なくなった廊下を渡り、靴箱に辿り着く。傘立てから傘を抜き出し、久と肩を並べながら、京太郎は校舎を出た。
「あ」
「お」
そこで、二人はぴたりと足を止めた。
予想外の光景が、広がっていた。
いつの間にか雨は止み、傾いた陽が空を赤く染め、虹の橋が架かっていた。その様はとても美しく、二人はしばらく呆けて眺めていた。
「止んでますね」
「止んでるわね」
ようやく発せられた二人の声は、揃って間が抜けていた。たまらない、と言った様子で噴き出したのは、久だった。
「あははははっ」
「何がそんなにおかしいんですか」
「ん、だって須賀くん、残念なんじゃない? 私と相合い傘できなくなって」
「……別に残念でもなんでもないですよ」
「嘘ばっかり」
嘘ばっかりなのはそっちでしょう、と京太郎は言いたかった。言えなかったのは――図星だと自覚していたから。
これで、一緒に帰る理由はなくなった。なくなってしまった。肩透かしを食らった京太郎は、仕方なく、久に別れの挨拶をしようとする。
しかし、それよりも早く、
「それじゃあ、お願いは変更ね」
「っ」
きゅ、と。
気が付いたときには、京太郎の右手は久の左手に握り取られていた。ふっくらとした柔らかな感触が、掌を通して伝わってくる。まるで隙間を埋めるように、指と指が絡められた。
「このままうちまで送っていってね」
他に、生徒の姿が見えなくて良かったと京太郎は心の底から安堵した。今の自分の顔を、他の誰かに見られるのは断固として許されない。
久に手を引かれる形で、京太郎は歩き出した。やっぱり、どうあってもこの人には敵わない。京太郎は改めて思い知らされる。平気でこんなことをしてくるのだから。自分の場合、恥ずかしくてとてもできやしない。
「ふふふっ、須賀くんは意外と純情よね」
「放っといて下さい」
――けれども。
やはり、やられっぱなしというのは癪である。
少しでも良いから、この人をやりこませたい。そんな願望が、ふつふつと湧いて出てくる。
「竹井先輩」
「ん? なあに?」
繋げた手をぶんぶん振りながら、久は屈託なく笑う。
「さっき俺、一つ嘘吐きました」
「嘘? 何の?」
「実は、今日俺も染谷部長の家に呼ばれてたんです。手伝ってくれないかって」
「そうなの? なんで行かなかったの、そっちのほうが練習になるでしょ」
「竹井先輩が来るかも知れないと思ったから」
二人の歩みは、急に止まった。正確には、久が固まってしまったのだ。
「……待つにしたって、もっと上手いやり方あると思うけど。連絡の一本も寄越せばいいじゃない。私がRoof-top行っていたかも知れないし、下手したらすれ違いよ」
「真似したんですよ」
「真似?」
ええ、と京太郎はできるだけ平坦な声を作って頷く。
「先輩の、悪待ち」
言ってから、後悔した。恥ずかしい。あまりにも恥ずかしすぎる。顔から火が出そうだ。手が汗ばむのが分かる。――気持ち悪いと思われていないだろうか。いや、さっきから何も返答がない。既に呆れられてしまったのだろうか。
恐る恐る、京太郎は隣の久の様子を窺おうとした。しかし、
「っ、今こっち向かないで!」
「痛ぁっ?」
思い切り手を握りしめられ、京太郎は悲鳴を上げた。油断していたのもあったが、存外久の握力は強かった。
結局、京太郎がそのときの久の表情を見ることはできなかった。どれだけ訊ねても、答えは終ぞ返ってこなかった。
それからの帰路、二人の間に会話は少なかった。気まずそうにぽつぽつ言葉を交わすだけで――しかし、傍から見ると仲睦まじげな男女のシルエットであったろう。きっと、誰しもがそう思っただろう。
◇
竹井久と須賀京太郎。
清澄高校麻雀部前部長と同麻雀部員。
二人は、初々しい恋人同士――
ではない。
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08月28日 コーラと暮夜
きっかけは、夏の終わりに。
◇
清澄高校麻雀部は、今年度初頭の時点で、全国はおろか長野県内でも全くの無名校であった。長野には名門風越女子と天江衣擁する龍門渕、全国屈指の強豪二校が存在し、いずれかが全国出場を果たすのだろう、というのが大筋の見方だったのだ。
しかし長野予選決勝戦、その二校をまとめて屠ったのが清澄高校である。さらに清澄は、初出場ながら全国大会でも優勝を決め、全国でもその名を轟かせた。
白糸台を初めとする全国の強豪校すらも退けた原動力は、二人のルーキー――原村和と宮永咲と目されている。原村和は前年度インターミドルチャンピオンであり、長野予選の時点でもある程度有力視されていた選手である。一方で宮永咲は、当初はそれこそ清澄高校と同様無名の存在だった。しかしながら、長野予選決勝で天江衣を激破、全国でも数々の猛者と互角以上に渡り合い、最強の大将と評されるようになった。インターハイチャンピオン、宮永照の血縁が発覚してからはさらに注目を浴びることになる。
話題性に事欠かない二人の少女が清澄の顔として表に立つのは、自然な流れであった。
一方で、コアな高校麻雀ファンや対戦校の面々は、彼女たちとは違う選手を高く評価していた――宮永咲らとはまた異なる尺度で。
それが清澄高校の中堅にして部長――竹井久だった。
全国大会決勝において、清澄の評価は決して高いとは言えなかった。無名ということを差し引いても、清澄は他校と比較し不利な要素があったのだ。
それは、指導者の不在。
戦略を練り、選手を管理する監督も、技術的な指導を行うコーチも、対戦校の研究をする参謀役もいない。名目上の顧問は存在するが、麻雀に関しては素人だった。
それらの役割を一手に引き受けていたのが、竹井久という少女である。
選手兼監督としての奮闘振りは、競技麻雀をよく知る者であればあるほど高く評価するであろう。無論、選手としての実力も一定ラインを上回っていた。
――遅れてきた高校麻雀界の新星。
――後一学年下であれば、清澄の連覇は盤石だった。
そう囁かれることも珍しくない。
しかし残念ながら、彼女は今年で三年生。誰しもに等しく訪れる、引退の年だったのだ。
「いやー、なんだか悪いわね。やっぱり手伝ったほうが良い?」
少し照れ臭そうに頬をかくのは、清澄高校麻雀部部長、竹井久。――その肩書きも、今日までだ。
「大した手間じゃぁないわ。あんたは座っときんさい」
麻雀椅子から立ち上がろうとする久の肩を抑えたのは、彼女と最も付き合いの長い染谷まこだった。
「そうですよ。今日は部長が主役なんですから」
「ゆっくりしてて下さいね」
「私たちに任せるじぇ!」
咲、和、優希の一年生トリオがオードブルを運び込んでくる。閉店後のRoof-topに、かぐわしい香りが広がった。
「こうして部長って呼ばれるのも今日で最後かぁ。何だかもの寂しいわね」
言葉とは裏腹に、久の声色は明るい。「こんな日」でも、彼女はいつもの調子だった。
咲や和が出場するコクマが秋に開催されるが、インターハイが終わった時点で久は引退して引き継ぎを行う予定となっていた。そして八月も終わりに近づいてきた今日、Roof-topを利用して引退式を執り行う運びとなったのだ。
「はいどうぞ、部長」
「お。ありがと、須賀くん」
京太郎からジュースが注がれたグラスを受け取って、久は少し困り気味のはにかみを見せる。
「須賀くんもお疲れさま。今日も準備のため色々働いてくれたんでしょ?」
「そりゃあ俺も部員の一人ですから」
「ん、まぁそうなんだけど……」
「それより、始めましょうか」
久が立ち上がり、まこが一歩前に歩み出る。全員にグラスが行き渡ったのを確認してから、開始の音頭を取った。
「お疲れさまじゃ、部長!」
「お疲れさまでしたー!」
たった六人の部。全国を制した実績と比べ、あまりにも規模は小さい。それでも重なる声はどこの部よりも大きく、明るかった。
まだ卒業まで時間があるためか、はたまた久自身の気質のおかげか、引退式は湿っぽい空気にはならなかった。ささやかな料理とお菓子をつまみながら、六人は談笑する。
小一時間ほど経ったところで、立ち上がったのは優希だった。
「ここでスペシャルイベントだじぇ!」
「すぺしゃるいべんと?」
小首を傾げる久に、したり顔で優希は答える。
「今から部長と私たちで対局するんだじぇ。そこで部長に私たちが振り込むか、部長がツモ和了したら――咲ちゃん!」
「はい」
呼ばれた咲が部屋の隅から取ってきたのは、小さな紙箱だった。
「部長にはここから一枚クジを引いてもらいます。そして、ここに書かれている命令を部長相手にする――という流れです」
「なるほど。つまり麻雀で勝って咲たちに奉仕させるというわけね」
「何だか目付きが怖いんですが……」
和の突っ込みを、久はスルーする。
「どうせなら無条件でお願い聞いてくれてもいいのに」
「私たちはそんなに安い女じゃないじぇ!」
「まあレクリエーションみたいなもんじゃ。手は抜かんが」
いずれにせよ、これからは久と卓を囲む機会はぐっと減ってしまうだろう。それも考慮しての、「遊び」であった。
久以外の面子が入れ替わりながら、罰ゲーム付きの対局が行われる。こういうときだからこそか、久は無類の力を発揮した。
「あー、そこ、気持ち良い。もっと力入れてー」
「後輩使いが荒いじぇ……」
クジの結果により、優希からマッサージを受ける久。さらにうちわで扇がせたり、お菓子の献上を受けたりとさながら女王の様相を呈していた。
「まさかここまでとは……」
「部長の勢いが止まらない……」
感心半分、呆れ半分の視線が久に注がれる。しかし久自身は全く気にしていない様子だった。さらに勢いを増すばかりで、
「はい須賀くんそれローン!」
「あぐっ? う、嘘でしょっ?」
「残念ながら本当よ!」
卓に入ったばかりの京太郎も、あっさりと餌食にかかってしまった。
「さーて、須賀くんの罰ゲームは何かな?」
意気揚々と久は紙のクジを引いて――ぴたりと動きを止めた。それから、くすりと笑みを零す。
「……何書かれてたんですか。凄い嫌な予感がするんですけど」
「自分の目で確認してね、須賀くん」
「はぁ……って、何だよコレ!」
久からクジを受け取った京太郎は、素っ頓狂な悲鳴を上げる。隣にいた咲が、「わっ」と肩を震わせた。
「おいコラ優希! お前なんてもの書いてんだ!」
「お、もしかしてアレを引いたか?」
「京ちゃん、何だったの? ……って、これは……」
京太郎の手元を覗き見た咲もまた、戸惑いを隠せなかった。そこに書かれていたのは――
「『愛の告白』ってなにするんだよっ」
「言葉通りだじぇ。部長に告白するんだじぇ!」
優希の言葉は力強く、有無を言わせない迫力があった。京太郎が縋るようにまこや和へ視線を送るも、「諦めろ」と言わんばかりに首を横に振る。最後に久と向き合うと、
「さあ須賀くん、どんと来なさい!」
ノリノリだった。京太郎に残された道は、観念することだけだった。
「ここでやるんですか」
「折角だしみんなに見て貰いましょう!」
何が折角なのか理解できなかったが、あくまでこの会は部長のためのもの。彼女が望んでいるのに、ここでゴネて空気を壊す訳にもいかなかった。
「部長」
「はいはい、何かな須賀くん」
頬が紅潮するのを自覚しながら、京太郎は意を決する。今は、咲たちの視線は無視するしかない。
「その……俺、ずっと前から部長のこと……」
最早、久の顔を直接見ることは叶わなかった。ぎゅっと握りしめた手が痛い。
「す……好きだったんです。付き合って、下さい」
Roof-topの中が、静寂に包まれる。京太郎の背中を、冷たい汗が流れた。これは罰ゲームであり、あくまで遊び――のはずが、いつの間にか空気が変わっている。大真面目なものに、変貌してしまっている。どうなってんだこれ、と京太郎は戸惑う。
「あははははっ」
沈黙の後、響き渡ったのは久の大きな笑い声だった。彼女は京太郎の背中をばんばんと叩き、
「ほんとに告白してくるなんてっ。部長への敬愛かと思ってたのにっ」
「あっ、えっ、いやいやっ」
「しかもずっと前からって、初めて会ったのついこの間じゃない」
「そ、それはっ」
「あー笑った笑った。続き打ちましょ」
京太郎をからかうだけからかって、久は卓に戻っていく。しばらく京太郎は顔を真っ赤にしていたが、楽しげな久を見ていると文句を言う気力も湧かなかった。小さく溜息を吐いて、彼女の後に続いた。
それからも、引退式の騒ぎは中々収まらなかった。普段物静かな咲や和も、今日ばかりははしゃいでいた。
もうそろそろでお開き、という時刻になってまずうとうとし出したのは、優希だった。彼女に続いて咲と和も、さらに珍しくまこも椅子に座ったまま眠りに落ちてしまう。
「あらあら。みんな寝ちゃったわね」
「インハイ終わってからも、色々忙しかったですからね。今日の準備もありましたし。ちょっと寝かせてあげましょう」
残ったのは、久と京太郎の二人だけ。静かに寝息を立てる咲たちから少し離れて、二人は声を潜めて言葉を交わす。
「部長、もうコーラしか残ってませんけど、飲みます?」
「それで良いわ、ちょうだい」
「はい」
先ほどの告白のせいで、京太郎はどうにも居心地は悪い。しかし久はまるで何もなかったかのようにいつも通りなので、京太郎もそれに倣うよう努めた。
「あー、このコーラ炭酸抜けちゃってる。しかもヌルい」
「優希が蓋開けっ放しにしてたみたいですね」
「それを勧めるとは、まさかさっきの仕返し?」
「そ、そんなわけないでしょう」
言いがかりだった。けれども納得しない久は、コーラの入ったグラスを京太郎に突き付ける。
「須賀くんも飲んで」
「えー、なんで」
「この微妙な味を共有したいと思って」
「微妙な味と言われて飲むと思います?」
「須賀くんは引退する部長のお願いも聞いてくれないのね」
「この人は、もう」
よよよ、とわざとらしく嘘泣きする久を前に、京太郎は折れた。久からひったくるようにグラスをひったくると、ぐい、と一気にそれを呷った。
「……甘。確かにこれは微妙ですね」
感想を述べるも、久からの反応はなかった。
「部長? どうしました?」
「あっ、いや、なんでもないわ。うん」
逃げるように久は椅子に座って、京太郎へと背中を向ける。何かマズいことをしたのか、と京太郎が疑問に思うも、深く考えるよりも早く久から声をかけられた。
「須賀くんにはさ」
「なんですか?」
「いやー、色々甘えちゃったなって」
「……どうしたんですか、急に」
急に真面目な語調になった久に、京太郎は眉を潜める。
「インハイで優勝してね、白糸台の部長――弘世さんとか、辻垣内さんとかからね、これでも結構褒められたのよ」
「そりゃ部長、決勝でも活躍しましたからね」
「そっちもだけど……そっちじゃなくて、部のマネジメントのほう。監督がいないって言ったらびっくりしてた」
「ああ……うちはそういうの、部長が一手に引き受けてくれてましたからね。でもあの人たちから褒められるなんて、凄いじゃないですか」
京太郎の素直な賞賛に、しかし久はいまいち納得していない風に口を尖らせる。
「でも、私が監督もどきに集中できたのも、須賀くんが裏方で働いてくれたからよ」
「俺だって部員だから働くのは当たり前じゃないですか」
「だけど、その須賀くんは評価されないじゃない」
――まさか、久がそこを気にしているとは思わなかった。京太郎は驚きと喜び両方入り混じった感情が生まれるのを自覚しながら、返す言葉を探す。
「……でも、裏方以外は応援してるだけでしたし。麻雀部員なら、麻雀で結果見せないとって俺は思います」
「須賀くんが納得できても私が納得してないって話よ」
不満というよりも、怒りに近い想いが久から湧き立つのを京太郎は感じ取る。けれども、だからといってどうして良いか分からない。彼女に対して、何と答えれば良いのか分からなかった。
「言わなくても仕事してくれるから、私も甘えてばかりだったしね。須賀くんも、一つくらい報われて良いと思うんだけどな」
「清澄が優勝したってだけで俺にとっては充分ですよ」
「そういう優等生的回答は嫌い」
そんなこと言われても、と京太郎は困り果てる。その隙を狙ってか――いつの間にか椅子から立ち上がっていた久が、ずい、と顔を近づけてくる。
「わっ、な、なんですかっ」
「ねぇ、須賀くん」
彼女の瞳に曇りはなく、京太郎は吸い込まれそうになる。彼女のぷっくりとした唇が、ゆっくりと開かれた。
「さっきの告白なんだけど」
「は? あ、あぁ、罰ゲームの」
ここで、先ほどの恥ずかしい記憶を掘り返されるとは思っていなかった。相変わらずこの人は読めない――しかし京太郎が真に驚くのは、ここからだった。
「まだ返事、してなかったわよね」
「へ、返事?」
「そ。付き合ってみない? 私たち」
まるで朝食のメニューを答えるような気軽さで、久はそう言った。一瞬、京太郎は彼女が何を言い出したか理解できなかった。言った久は、少しだけ早口になって、
「須賀くんにもご褒美があっても良いでしょ? だからさっきの告白に答えてあげようと思って、ね?」
「いや、さっきのは罰ゲームの告白でっ」
「酷い、私を弄んだのねっ」
「弄んでませんっ! 風評被害っ!」
力一杯否定するが、久には暖簾に腕押しだった。彼女は余裕たっぷりに笑って、
「私と付き合うのは嫌?」
「い、嫌では……ないですけど、その……」
今の気持ちを、京太郎は自分でも言葉にできなかった。からかわれているのか。冗談なのか。――本気、なのだろうか。久の意図が読めず、そして自分の気持ちも分からない。何と答えれば良いか、分からない。
そんな彼に助け船を出すように、久は一つの案を持ち出した。
「じゃあ、こういうのはどう?」
それは――二人の関係を運命付けるもの。
二人の間の、契約だった。
「ひとまず、お試しで」
「お試し……?」
「そ。お試しで、付き合ってみましょ」
先輩の屈託のない笑顔に――京太郎は、抗う術を持たなかった。
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08月31日 お弁当と昼中
「お試し期間って、つまり結局何をするんですか?」
「デートしたりいちゃついてみたり、恋人っぽいこと全般ね」
「……それって普通の恋人と何が違うんですか?」
「だからそれで本当の恋人になれるか試してみましょう! ってことよ。そうね、まずは一ヶ月でどうかしら」
どうかしら、と言われても――少年は困り果て、しかし少女は容赦なく顔を近づける。まるで、二人の間に隙間があるのを許さないかのように。
「それとも須賀くんは、私とじゃお試しでも嫌かしら?」
たった二つの年齢差。無論、下級生と上級生として明確な差があるのが高校生である。だが、それでも大差はない――そう思っていた。
けれども目の前に迫る先輩は、そんなもの軽く飛び越していて。
奇妙な関係を運命付けるその提案を、彼は受け入れるのだった。
◇
残念ながらと言うべきか、須賀京太郎の十六年足らずの人生において恋人ができたことはなかった。中学生のとき、何度か二人きりで出かけた女友達はいたが、それ以上の発展はなかった。それ以外で気の置けない仲と言えば咲や優希だが、当然彼女たちとも特別な間柄になったことはない。
故に。
お試し期間とは言え、竹井久と恋人関係となったことは彼にとって青天の霹靂だった。
この週末、彼は悶々としながら自室で過ごした。元々部長はその気があったのか、本当に恋人になってしまうのか、あるいはやはりからかわれただけなのか――悩みは解消されず、思考もまとまらない。もしかしたらどこかに遊びに誘われるのかと待機したが、久からの連絡は一切なかった。京太郎から久に連絡をとるのも、小さな矜持が許さなかった。
お陰様で、月曜日の朝から寝不足気味での登校となった。顔色も悪かったのか、廊下で会った和にも心配される始末。当たり前のように、授業は半分眠ったまま過ごした。
ようやく訪れたお昼休み。食い気よりも眠気が勝っていた京太郎は、この時点で久とのことは頭から抜け落ちていた。友人からの誘いにも生返事で、机に突っ伏すばかり。
「須賀くん」
「んー……」
そんな折、降ってきたのは女子の声。しかし京太郎は顔を上げない。上げる気力が湧かなかった。
「すーがーくーんー」
「んー、なんだよ、もう……寝かせといてくれよ」
「だめよ。お昼はしっかり食べなくちゃ」
肩を揺すられ、流石に無視するわけにもいかず、京太郎は顔を上げる。
そこにいたのは――予想外の人物。彼女がこの教室を訪れるなんて、初めてのことだった。
「ぶ、部長っ?」
そのにやにや笑いを見間違えるはずもない。先ほどまで自らの思考を支配していた、竹井久であった。
「ちょっと、私はもう部長じゃないわよ。いつまで寝惚けてるの」
「えっ、いやっ、ぶちょ、じゃなくて、た、竹井先輩っ?」
「うーむ。ひとまずはそれでいっか」
「な、なんで急に、こんなところにっ?」
京太郎の質問に、久はあっけらかんと答える。
「もちろん、お昼ご飯のお誘いよ。須賀くん、学食派よね?」
「そう、ですけど……」
「というわけで、お弁当のない須賀くんのために私が用意してきました」
彼女が掲げるのは、巾着に包まれた四角い箱。まだ状況に理解が追いつかない京太郎は、うまく言葉を紡げない。
「えーっと……なんですか、それ?」
「お弁当に決まってるじゃない。一緒に食べましょ」
「……俺が? 部長と?」
「だから、部長じゃないってば」
困惑から立ち直れない京太郎に業を煮やしたのか、久は彼の腕をとって強引に立ち上がらせる。京太郎は引き摺られる形で、連行されてしまう。背中に突き刺さるのは、クラスメイトたちの視線。彼らもまた、唐突な学生議会長の登場に驚いていた――久と京太郎が同じ麻雀部に所属していることは、周知の事実だが。
混乱の沈黙に包まれた教室を後にして、京太郎が連れて来られたのは麻雀部の部室だった。お昼休みに部室に入るのは珍しく、他の部員の姿もない。二人きりの、空間である。机を挟んで久の対面に座らされた京太郎は、なおも戸惑いを隠せない。そんな京太郎をよそに、久は包みから二人分のお弁当箱を取り出していた。
「早起きして腕によりをかけて作ったんだからね、味わって食べてよ?」
「そりゃまあ、ありがたいことですけど……でも、本当に良いんですか? 貰っちゃって」
「だから、須賀くんのために作ったんだってば。食べてもらわないと困るんだってば」
お弁当の中身は、オーソドックスながら食欲をそそられるものだった。一段目に詰められたのは、ふんわり黄色の卵焼き、白身魚のソテー、ポテトサラダにミニハンバーグ。二段目には梅干しを添えた白いご飯が敷き詰められていた。大小二組のお弁当の内、京太郎に渡されたのは大きいほう。
「いただきまーすっ」
「……いただきます」
久の明るい声に釣られて、京太郎は手を合わせていた。
「どうぞどうぞ、召し上がれ」
さらに促される形で、おかずに箸をつける。まずはハンバーグをぱくりと一口。
「どう?」
期待に満ちた瞳を向けられ、京太郎は、
「……美味しいです」
搾り出すように、そう答えた。
しかしながら、彼の表情は硬い。――美味しくないわけでは、ない。だが、美味しいかと問われると、回答は難しい。ただそれを正直に伝える勇気が、京太郎にはなかった。仮にも相手は先輩なのだ。
ただ、卓上で百戦錬磨の久を相手に、中途半端な取り繕いは通じなかった。
「……無理にお世辞を言わなくても良いわよ」
「お、お世辞ではなく…………ああ、いえ。すみません」
結局圧力に負け、京太郎は正直な感想を認めてしまう。怒られるかと危惧したが、久の反応は存外淡泊であった。
「やっぱり? むー。確かにコレ、微妙ね」
「あの、部長――」
「だから、部長じゃないってば」
「竹井先輩」
ようやく平静を取り戻した京太郎は、至極当然の疑問を口にする。
「なんですか、コレ?」
「コレって、なにが?」
「このお弁当っていうか、この状況ですよ!」
拉致されたかと思えば、女子の先輩が作ってきたお弁当を二人で突き合う。京太郎にとっては理解の範疇外の出来事――正直言って、清澄の全国制覇よりも現実味のないシチュエーションだ。しかし、目の前に座る久は幻でもなんでもない。小首を傾げて、
「嫌なの?」
「い、嫌というわけではないですけど」
「じゃあ嬉しい?」
「え……あ、その……」
その問いに、口ごもる京太郎。期待に満ちた瞳を向けてくる久は、子供のようにわくわくしている。
「いえ、そういう話をしてるんじゃないんです」
ひとまず、京太郎は話をはぐらかす。久の不満気な顔は無視した。
「急にどうしたんですか。その、お昼に誘われるのなんて今までなかったじゃないですか。しかも、ぶちょ……竹井先輩の手作り弁当なんて」
「須賀くんこそ何言ってるのよ」
唇を尖らせ、久は心外だと言わんばかりに主張する。
「お試しだけど、今の私たち恋人なのよ? 恋人っぽいことをするって言ったじゃない。イチャつくって言ったじゃない!」
「……あれ、マジだったんですか?」
「冗談だと思って返事をしたの? 酷いわね。オッケー出してくれたじゃない」
「い、いまいち信じられなかったんですよ。あれから一度も連絡ありませんでしたし、からかわれたって思うのも当然でしょう」
「……週末は色々あったのよ。とにかく、恋人っぽいことをするわよ!」
久は卵焼きを箸で掴むと、ごく自然な動作でそれを京太郎の口元に持っていく。何だその日本語は、と突っ込む暇もなかった。
「はい、あーん」
「…………あの」
「あーん」
無視することなど、許されなかった。「食べろ」という圧力に、勝てる要素は微塵もない。観念した京太郎は、ぱくりと齧り付いた。
「どう?」
「……微妙ですね」
「やっぱり修行不足かー。練習しないとダメね」
軽く放たれるその言葉は、しかし真剣味を帯びていた。一方の京太郎は、羞恥心で胸が一杯だった。二人きりでまだ助かった。こんなところ、誰かに見られていたらたまったものではない。
「……マジで恋人ごっこ、する気なんですね」
「ごっこじゃないわよ。お試しでも、本当の恋人なんだから」
「お試しで本当って矛盾してません?」
「良いから! とにかく今、須賀くんと私は恋人同士! 分かったっ?」
「分かった、分かった、分かりました! だからちょっと離れて下さい!」
身を乗り出してきた久から漂う香りに、どぎまぎしてしまう。――今までは、こんなことはなかった。竹井久という人間は、麻雀部の部長であり学生議会長であり先輩であった。失礼な話、その肩書きと姉御肌な性格のせいで、女子であることを失念していた。出会って半年近く経って、ようやく、本当にようやくその事実に気付いたのだ。あるいは、気付かされたと言うべきか。
「本当に分かったのかしら? また適当に返事してない?」
「大丈夫です、分かりました、了解しました!」
「じゃあ、今から私が言うことを復唱してね。『僕は竹井先輩のことが大好きです、喜んでお付き合いします』。はい、どうぞっ」
「言わねーよ!」
思わず敬語も吹っ飛んでいた。先輩に対してとるべき態度ではなかったが、このときばかりは別だった。
「えー。恋人よ恋人。須賀くんは恋人にそんな態度をとるの?」
「仮です! お試しです! まだ試用期間中です!」
「仮でもお試しでも使用期間中でも恋人よ」
「あんまり恋人恋人言うの止めてくれませんか。恥ずかしいんですけど」
「あら。須賀くんって意外と純情なのね。和の胸、あんなに見てたのに」
「ぐうっ?」
痛いところを突かれ、言葉に詰まる京太郎。というより、久にバレていると気付いていなかった。頬は朱に染まり、久の顔もまともに見られなくなる。
「男の子なんだから仕方ないわよ。あの子の胸には、私だって視線を引き寄せられるもの」
「いまさらフォローされても嬉しくないです……」
意気消沈する京太郎の肩を、久はばんばんと叩く。
「良いじゃない、今は彼女がいるんだし! あ、でもえっちなことはダメよ、私たちまだ高校生なんだから」
「初めから期待なんてしてませんよ!」
「ほんとに? ちょっとは期待してたんじゃないの?」
「……っ、してませんってばっ! なんですか、結局先輩は俺をからかいたいだけなんですか」
嫌疑から逃れつつ、京太郎は胸に溜まっていたものを吐き出す。「もちろん」と笑って返されるとさえ思っていたが、しかし。
久はすっと表情を消し、一転して落ち着いた声色で、
「須賀くん、目を閉じて」
「え? ど、どうしてですか」
「良いから、閉じて。お願い」
唐突で、理解不能の要求。しかし真摯な態度で先輩に頼まれると、京太郎は逆らえない。言われた通りに、目を閉じてしまう。
すると、あれだけやかましかった久がぱたりと黙り込んだ。静まり返った部室に、男女が二人きり。
――あれ、なんだ、なにこの雰囲気。
戸惑う京太郎の口元に、何かが近づく気配があった。久の吐息が、漏れ聞こえる。同時に、自分の心臓が高く跳ねるのを自覚した。まさか、そんな、いきなりおかしい――混乱が頂点に達したとき。
唇に、柔らかい感触が伝わってきた。
「っ!」
思わず、京太郎は目を開ける。
そこにあったのは――
「目は閉じてって言ったけど、口は開けて貰わないと」
お箸で摘まんだ卵焼きを、京太郎の唇に押し付ける久の姿だった。久は、実に満足気な笑顔を浮かべている。とても、嬉しそうだった。
京太郎は、それ以上何も言わなかった。久の箸を払いのけ、自分の弁当をがつがつと食べ、弁当箱を閉じてしまう。その勢いを、久も止められなかった。
「ご馳走様でした! お弁当箱は洗って明日お返しします!」
がたんと椅子を鳴らして立ち上がり、さっさとその場を退散しようとする。
「ちょっと待って」
だがその腕を、久が絡め取る。それも振り払いたい衝動に駆られる京太郎だったが、思いの外強い力で捕らわれていた。
「怒った?」
「……怒っては、いませんけど。やっぱりからかいたいだけなんですよね」
それは、偽らざる本音だった。どちらかと言えば、妙な期待をしてしまった自分が恥ずかしいだけだった。
――けれども。
けれども、久は。
「からかいたいだけ、というのは心外ね」
京太郎の腕を引き、彼を屈ませ。
自分は、爪先立ちになり。
――二人の唇を、重ねた。
時間にして、五秒にも満たなかっただろう。だがしかし、間違いなく、疑いようもなく、しっかりと、繋がっていた。
「ん」
ひょいと、久は京太郎から距離を取る。そして少しだけ恥ずかしそうに、
「ちゃんと、本気でもあるんだから」
と、微笑んだ。
京太郎は動かない。動けない。返事の一つも出来やしない。そんな彼をよそに、久は食べかけのお弁当箱を片付け、いそいそと部室から出て行く。
「それじゃ、午後の授業も頑張ってね」
そのエールが、京太郎の耳に届いたかどうかは、彼自身にしか分からない。
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