ビフォア・ゴールド (Yuki_Mar12)
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【1】

 春というのは気強い季節である。それまで長いあいだ冬の厳しい寒さに苦しんでいた人は、青く小さな新芽や、太陽のぽかぽかした暖かさに励まされる気持ちになり、ともすれば、何か達成しがいのある困難なことに挑戦しようと意気込むものだ。

 太陽を高みにいただくネオ・ヴェネツィアの空は晴れ渡っており、随所には幾つかの綿雲が浮かび、その青い面の上をのどかに滑っている。

 列となって並ぶ桜が、時折吹く風に貝殻のような花びらを散らす水路を、一艘の豪奢なゴンドラが緩やかに前進している。その上には漕ぎ手であり水の妖精(ウンディーネ)であるアリシア・フローレンスと、その客らしい青年が乗っている。

 へらのような形の長いオールを捌くアリシアは船尾に立って微笑を湛え、柔らかな物腰で街の歴史や観光名所の詳細をガイドとして説き、客席に座っている青年は慣れた口振りの彼女の話にじっくりと聞き入っている。

 彼女の透き通るような清潔な肌がまとう、青のラインの入った白のセーラー服とその帽子は、陽気で爽やかな日和と周りの風光に似合っており、彼女のいる辺りを遠くの視点から見れば、あたかも聖女を描いた一幅の絵画のように見えるに違いない。

 時に、アリシアを見た者は、きっと彼女を美人と称えるだろう。安寧を象徴するような弓なりの口元の笑みと、春の光を宿した穏やかな瞳と、それ単体でもう美しいと言える複雑に結われた日色のロングヘアーは、一人の乙女を、美を司る神の子のように、神々しいくらいに輝かせている。いわばアリシアは生きた一つの宝石であり、容易に得がたい可憐な花であった。彼女に惹かれずに済む男などいようものか。いるとすれば、それはよほどひねくれた男だろう。

 客の青年はそうではなかった。彼はいつしか水の妖精に惚れ込み、その姿に魅惑され、目を奪われ、最初は打っていた相槌を、彼女への憧れのためにもう打たなくなっていた。

 ゴンドラはやがて水路を広大な海へと移動し、『ARIA COMPANY』という看板を掲げた水上の施設に着こうとした。ネオ・ヴェネツィアでささやかな水先案内業を営むその会社では、アリシアと同じ服と帽子を身に付け耳の下まで桃色の髪を伸ばしている彼女の後輩が、桟橋近くの露台に立ち、笑顔で手を振ってゴンドラを迎え入れようとしている。水無灯里だった。その様子を見て微笑むアリシアの大人びた表情と、灯里の無邪気そうな表情とは、それぞれ19歳と15歳である彼女らの姉妹のような年の差と、その性格の違いをくっきりと表していた。

 水平線のすぐ上に掛かる太陽は、夕方の黄色い輝きを放っていた。すでに夜と同じ闇が底より浮かびあがってきている黒い海は、夕凪の頃で、水面が静かだった。ゴンドラが桟橋に着くと、ウンディーネの水先案内は終わり、アリシアと客の青年はゴンドラを降りた。

「ありがとうございました」とアリシアは青年に向かって頭を下げ、来店への謝意を示した。別離の時間だった。アリシアのガイドはそつなく、客は満足して帰るだろう。しかし青年はすぐに去ろうとしなかった。彼はしばらく物言いたそうに呻くと、人差し指で頬を掻き、火照った顔で、アリシアに対しストレートな表現で好意を表白した。青年の顔は、夕焼けと同じ色になっていた。

 ――こういうことは、頻繁にあることではない。アリシアに恋する者は多いが、大抵はその思いを胸に秘めて帰っていく。彼女の眩しいまでの美しさは、男達を魅了し引き付けると同時に、彼らに卑小の念と罪悪感を抱かせるのだ。多くの男達はアリシアの目の前ではすっかり自信を失ってしまい、それゆえに青年のようなことはしないのだ。彼らにとってそれは僭越なことなのである。

 しかし彼はした。それは、やはり春の陽気に助けられたお陰だろう。自分の胸に萌した恋心という新芽を、彼は軽視するわけには行かなかった。それは告白され、回答を得ることを切に求めていた。青年は勇気を奮い、アリシアにその言葉を投げかけた、「好きです」と──。

 そばで傍観している灯里は驚き、両手で口を覆って瞠目した。突然のプロポーズなので、無理もなかった。がしかし、アリシアはくすりと余裕を思わせる微笑みを見せた。そよ風が彼女の長い髪を微かに揺らし、バラバラになった髪の一本一本が、空中に金色に輝く線のカーブを描いた。

 春はあまねく生き物に始動のためのエネルギーを与えてくれるが、そのエネルギーで行うチャレンジの成功の保証までは、どうやらしてくれないようだ。

 アリシアは眉を下げ、困ったような面持ちになると、「ごめんなさい」と申し訳なさそうに言い、青年のプロポーズを断った。

「お気持ちは大変ありがたいんですが、わたしには……」

 アリシアはそう言って青年に、すでに自分に好きな人のいることを教えた。それを聞いた青年は苦笑いをこぼし、恋を諦めた。相手が飛び切りの高嶺の花なので、諦めを付けるのは造作もないことのようだった。

 青年はしょんぼりと礼を言い、ARIAカンパニーと、二人の水の妖精のもとを去って行った。涼しい風が吹き、それはどこか青年の心境を暗示しているようだった。熱の冷めた恋の余韻に浸っている彼は、しばらく憂鬱だろう。敗北した挑戦者は悔しい思いを嘗めるだろう。しかし彼は不幸だろうか? 好意を裏切ったことが後ろめたいのか、しめやかな微笑みをたたえるアリシアの隣で、青年の哀愁に染まった背中を仮面のような顔でじっと見つめている灯里は、いいやそうではないと思った。灯里は彼が卑屈になり切らず、恋が成るか否かという懸念や、差し出がましいという引け目などの高いハードルを越えて、おのれの意を伝えきったので、幸せとは言えないにせよ、達成感を得てある程度は満足しているだろうと量った。勇気を奮うというのは、一つの激しい、劇的な経験である。そういう経験は激しいゆえに、ある種の快感をその後経験の主にもたらす。彼は大丈夫だろう。そう思って青年の背中を見つめる表情は、安堵のために、アリシアと同じ表情へと段々と和らいで行った。

 その後灯里は、横目でちらりと先輩の横顔を、何かを確かめるように、興味がある様子で見た。

 彼女は、意外の念を持っていた。灯里には、さっきアリシアの言ったことは、長く一緒にいるのに露も知らないことであった。彼女の言葉は――すなわち、彼女に好きな人がいるというのは、本当だろうかと、灯里は、いささか胸をドキドキとさせて訝った。

 青年の背中が見えなくなる頃には、辺りはもう寒いと思うくらい気温が下がっており、空には黒い夜の帳が下り始めていた。二人のウンディーネは頷き合い、一緒に社屋の中へと入って行った。

 

 

 真っ暗な夜のドームの下で、窓を照明で明るくしているARIAカンパニーのダイニングでは、アリシアと灯里がテーブルに付いて夜食を取っていた。適度に交わされる話が、食事を円滑に進めるよい潤滑剤となった。ダイニングの大きくまるい窓には、外の、弱く波立つ海の景色が切り取られている。

 やがて全てを食べ終えて落ち着いた頃、灯里は気になっていたことを考え、テーブルを挟んで目前にいるアリシアに向かって、俯きがちに、上目遣いをして、「あの、アリシアさん」と呼びかけた。彼女は小首をかしげ、その後を促した。

「あのお客様に言った話は、ホントですか? つまり、アリシアさんに好きな人がいるっていう話は」

 問われた彼女は、テーブルに両肘を突いて手で頬を持つと、にっこり笑い、「どうかしらね」といくぶんいたずらっぽく答えた。それは問いに取り合おうとする懇切な態度ではなかったが、後輩はかまわず追及の手を伸ばし続けた。

「そんな話、わたし初めて聞きましたよ。ARIAカンパニーに来てからずいぶん経ちますけど、ぜんぜん知りませんでした」

 そう灯里が言うと、柔和な二本の曲線で灯里に微笑んでいるアリシアは、目を開いた。表情が変わらない彼女のその眼差しは、灯里ではなく、彼女よりずっと遠くを眺めているようだった。そんなぼんやりした様子のアリシアには、灯里がその様子を気にして首を捻っている姿が見えなかった。

「昔ね」、とアリシアは言った。「わたし、ある男の人と出会ったの。とっても素敵な人でね、その人のことは、今でも時々思い出すのよ」

 灯里はしんみり納得するように頷いた。

 そう語るアリシアの昔を懐かしがる顔の目は、彼女が言った男を見ているようだった。灯里はその目から、先刻アリシアに思い切って告白した青年の情熱的で、それでいて怯えた眼差しを思い起こし、ある知覚に打たれた。アリシアの今の遠くへの眼差しは、恋する者のそれであり、彼女は、思い出の中の恋人を、まるで雄大な景色を見つめるように、夢中になって見つめていた。そう悟った灯里にとって、先輩は一人の女の子であり、恋のとりこであり、甘い苦悩の森の冒険者であった。今や彼女はウンディーネの先輩ではなく、親しい友達であり、また、自分が未だ経験したことのない恋の先駆者であった。今まで見たことのない先輩のそんな珍しい様子に、灯里は魅惑され、彼女ににわかに興味を起こした。

 アリシアは、眼差しを思い出から現実に戻すと、目前の後輩を見、「ねぇ灯里ちゃん」と呼びかけた。

「その人の話、聞きたい?」

 問われた灯里は間を置かずに、まるでずっと以前より期待していたかのように、首を縦に振った。まばたきするのも忘れている興奮気味の後輩がおかしくて、先輩は思わず「うふふ」と上機嫌そうな笑いがこぼれた。

 熱心な聴き手を得て、アリシアは思い出話の一つをぶつことにした。灯里の注意と関心を一手に握る、黄金に相当する若い淑女の恋の逸話が、語られ始めた。アリシアの過去の日々が、今より若いその姿が、背の低い、まだあどけなさの残るその雰囲気が、追想のビジョンとして、彼女の口よりとうとうと流れてきた。

「それはね、わたしがまだ見習いのウンディーネだった頃のことで……」

 明るい部屋の外では、段々と夜が深まっていた。



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【2】

「それじゃ、この湖の周りを巡って戻ってくるんだよ、いいね」

 ARIAカンパニーの創設者であり先輩でもあるグランマは、やんわりとした調子でそう問うた。水際に浮かぶ小舟に乗り、オールを手に携えているわたしは「はい」と頷いて答えた。満々と張る湖の水面は、初夏の麗しい晴天を反射し、きらきらと眩しいくらい輝いている。

 わたしは、水の妖精(ウンディーネ)の研修のため、ネオ・ヴェネツィアのある島とは違う島へと遠征していた。そこは山野が広がるのどかなところだった。

 小舟を漕いで湖の周囲を巡るのが、ウンディーネになって間もない未熟な訓練生に課される研修であった。小舟はゴンドラのように華麗ではなく、至って質素で、湖に気晴らしに来る人達が、ちょっとした非日常を楽しむために借りるような造りだった。研修はしかしそんな人達のように悠然と出来るものではない。湖の周りは数キロもあり、かなり長い。ゴンドラ漕ぎの練習は、たっぷり時間が掛かりそうだ。そういう予測のため、小舟にはお昼に食べるお弁当と幾らかの荷物が載っている。黄色の大きなハンカチにくるまれた四角い数段の弁当箱と、水筒と、小さなナップザックを見ると、どうにも自分が研修ではなく、レジャーに来たような錯覚を覚える。が、やっぱりそうではない。

 ぐずぐずしていても仕方がない。そう思ったわたしはためらうのをやめ、小舟に乗ると、オールを水に差し、進めだした。いくぶん怯えがにじむ「行ってきます」というわたしの言葉に、グランマは送別の言葉ではなく、「ちゃんと戻ってこれるかい」という問いで返した。どうやらわたしの怯えは感付かれたらしい。気弱なところを見抜かれ、恥ずかしい感じを覚えるが、率直に言って、感付いてもらえて嬉しかったことは否めない。わたしは無事にこの地点へと帰ってこられるか疑わしかった。ゆっくり行けば、変に急いだりしなければ大丈夫と思う。だが、所詮そんなものは推測に過ぎず、実際無事に今日の行程を終えられるかは不明だ。

 背後のグランマの親切な問いに答えない間に、小舟は徐々に陸より遠ざかっていく。確かな足場と、親のような指導者よりどんどん離れていく。わたしはまだ不安だった。オールの捌き方がうまく定まらず、またぐらぐらする感じがまだ慣れず、気持ち悪く、船体が転覆することを恐れる。実際そんなトラブルが起きたことは前に何度かある。もしもそうなると、服や髪はすっかり水浸しになって恥ずかしいし、舟は流れて行ってしまうし、大変だ。何より漕ぎ手のくせに小舟から落ちてしまうというのがものすごく無様に思う。わたしはまだ半人前の漕ぎ手で、操船においては拙い。そのため、いかなるトラブルが起きても不思議ではなく、注意深く研修に挑む必要がある。果たしてわたしは、そつなく今日の航路を行き切ることが出来るだろうか? 不安だった。

 あまりにも不安なため、わたしは段々と姿が小さくなっていくグランマを、半ば無意識の内に振り返ってしまった。そうしてしまった理由には、他に、彼女に甘えたいという思いもあった。励ましが足りない、出来ればそばに付いていて欲しい。自信に乏しい迷子のようなわたしは、色々と思い惑った。

 振り返って見た、背の低い小柄の彼女は、柔和な微笑みでわたしの今日の出発を見守ってくれている――あぁ、あの表情だ。わたしは改めて悟る。あのグランマの慈しみに満ちた表情は、いつでもわたしの不安な心を癒してくれ、落ち着かせてくれる。その恵みに浴すれば、どんな不利な心境もたちどころによくなってしまうものだ。

 わたしは、堅い表情を和らげ、グランマに習った、水の妖精としての、普通よりなお柔和な笑顔を浮かべ、ちゃんと戻ってこられると答えた。すると彼女は、その笑顔より更になお柔和な笑顔で、後輩を送り出してくれるのだった。

 わたしは気を持ち直して、オールを握る。そして恐怖でいくぶん震える手に、しっかりと力を込め、堅くオールの柄を握り、その震えをしずめる。すると、それまで倍くらい伸びてしまったように思えていた不自由な手が、鋭敏な感覚を取り戻し、髪をそっと撫でてその潤いの具合を確かめる時や、寒い時に息を吹きかけてその温もりを感じる時のように、ごく身近なものになった。

 調子が整ったようだ。乱れていた神経は調律され、わたしの意識は、不安のために落ち着きを失うことがなくなり、一定の強度を持って、研修として行うべき課題へと集中することが出来た。そうして、研修生としての自覚と、早く一人前の水の妖精になってやるという意気ごみを含む、堅固な心境は、わたしとグランマの間の距離を、どんな感傷さえ起こさずに広げていった。やがてグランマの姿は見えなくなった。が、わたしは別にもう不安には思わなかった。

 すいすいと順調に小舟を進めるわたしは、気持ちの余裕があり、航路を行きながら、湖を囲う周りの景色を眺めた。辺りに立ち並ぶ木々は、季節に相応しく、青葉を豊かに茂らせている。それらは、明るい日差しを浴びてエメラルドのような光彩を放っている。朝と昼の間で燦々と照る太陽は、気温をぐんぐん高めており、辺りは初夏の割に暑かった。最初は手汗しかかいていなかったわたしは、すぐに背中に、首に、額に、汗を浮かべた。水の妖精として働く場合、汗をかくのは、建設現場で鉄柱を運ぶ場合や、ランナーとして競技場のトラックで駆ける場合のように、よいことではない。お客様と直接接し、その人をもてなす立場の人間の汗は、きっと疲れとか体調不良を思わせ、些少の心配を負わせるだろう。そのため、水の妖精の肌は、常に乾いていなければならない。何より、汗は不潔をも思わせるため、神聖さや純潔さをそのイメージに含む水の妖精には、まったく相応しくないのだ。冷涼な雰囲気を心掛けていなければならないのだ。

 そのことを、頭ではちゃんと理解しているつもりだったけど、まだ見習いのわたしには、ほとんど防ぎようのない生理現象の制御は、未だ難しくて出来なかった。

 出発より数時間過ぎた頃、わたしは疲れと、手と腰の痺れを覚えたので、近くの岸に小舟を漕ぎ付け、そこより陸に上がった。ほんの数時間だけど、陸に足を付ける時の、土の柔らかいような堅いような感触は、じんわりと身体中に染み、懐かしいという感慨が起こった。水の妖精になり切れていないわたしには、まだ陸の方が好ましいようだった。

 小規模な木立の中を歩き回るわたしは、その中の長と言える、恐らく最長寿であろう立派な大樹を見つけると、涼しそうだったので、その木陰へと向かい、そこで綺麗な草地にシートを敷き、腰を下ろした。そうして持ってきたお弁当の包みを解き、箱を開け、昼食を始めた。自然の中で空腹を満たすのは、飛び切り幸せなことだった。それまでの労は溶けていくように癒えていった。加えて、木陰は本当に快適で、身体中にかいていた汗は、木立へと吹いてくる、恐らく遠方にそびえる山からのものだろう颪のお陰で、すっかり乾き、そして、その風は程よい涼感を持っていたので、わたしはお弁当を食べ終えた後、つい横になってしまった。そうするのは、ずいぶん心地よく、大樹の地上に剥き出しになった根が、少々堅かったものの、うまい具合に枕になってくれた。

 わたしは、上の群葉の隙間に隠れる青空を見つめ、くつろぎつつ、水の妖精という一風変った仕事の苦難をしみじみ感じた。まず覚えなければいけない舟漕ぎの技術は、してみる前は、簡単と思っていたが、実際はそうではなく、それは先入見に過ぎなかった。イメージと現実の間に差異があったのだ。水を掻いて舟を前へ進めるだけと思っていたが、実地でやってみると、水に浮かぶ舟をきちんと思い通りに前に進ませるのは難儀で、舟はわたしを侮るかのように、不随意に動いて困らせた。わたしは甘く見ていた水の妖精の仕事に、鼻っ柱をへしおられたのだった。仕事は一筋縄では行かなかった。舟漕ぎの他にも、覚えるべきことは盛り沢山である。ガイドの話の説き方、その時の適切な仕草や表情、常に涼しげな面持ちを保つこと、ゴンドラを清潔に長持ちさせる手入れの仕方、ネオ・ヴェネツィアの地理、その歴史、等々。挙げれば切りがない。新人のわたしには、学び、修行し、こなさなければいけないことばかりだった。まだ、坂道の途中だ。何かある者になろうとし、それで一人前に認められるまでの道は、険しいものだ。

 木漏れ日が眩しい。将来への展望にあふれる難題を考えるわたしが、何度かため息を吐くのは止むを得ないことだった。

 ふと、草を踏む乾いた音が聞こえた。誰かいるらしく、わたしはハッとし、胴体を起こしてその方に目を向けた。

 隣の木陰に、一人の男の人が立っている。白いシャツを着てジーパンを履くラフな格好の彼は、わたしより年上だろう。たぶん、そんなに年齢差はなく、二つか三つくらいだけ年上と思う。

 その男の人を見た時、何だか不思議な感慨の波が、わたしの中に湧き起こった。それは、こんな人気のない環境で人に出くわしたということが主因と思うが、別にその感慨は、幽霊を見た時のようなものではない。何と言えばいいのか分からず、少し悩む。明らかなのは、ある種の嬉しさを、わたしが感じていることだ。それは、ずっと会っていなかった親しい友人と再会するような感覚に似ている気がする。そうだ。わたしが覚えているのは、そんな感覚なのだ。わたしは、まるでもうすぐ楽しい遊びが始まるのを予感する子どものような、心臓を弾ませるような、そんな大きな興奮を、今胸に抱いているのだ。

 男の人は、わたしの方を見ている。彼は会釈し、暑いと、にこやかな表情で、社交辞令的に言ってきた。それが彼の挨拶のようだった。わたしはそれに言葉ではなく、首を縦に振って頷くことで応じた。何だか焦っていることが自分ではっきりと分かっていた。そんな様子は彼を笑わせる原因となった。

 男の人は、わたしへと近付いてきて、隣に座ってもいいかどうか尋ねてきた。わたしはぎょっとし、恐らく素っ頓狂な声だったと思うが、「えっ」、と呆れたように発した。が、わたしのそんな様子にかまわず、彼は話した。

「何だかあなたのそばにいる木が、この木立の中で一番大きいように見えるんです。僕、昼食を取れる場所を探してて。ほら、大きい木のそばにいると、安心するでしょう?」

 男の人は、わたしがその陰に憩っている木の上を見上げて言った。わたしは頷いて納得する振りをしたが、実際のところ、彼の言い分はよく分からなかった。人間の心境に木の大小がどの程度関わるかなんて、宇宙の辺境にある惑星の生態と同じだった。

 男の人は、アキヒトと名乗った。わたしと同じく「ア」で始まる名前に、何となく親近感を覚えた。わたしは礼儀に即して彼に名乗り返した。

 アキヒトさんは、自己紹介を終えるとわたしの隣に、まだ容認していないのに、どっかと無遠慮に座り、手に持っている丸いアルミホイルを剥いて、中のおにぎりを食べ始めた。わたしは急いで身体を起こし、木陰にぴったりと背を付け、三角座りの姿勢で座った。ダンゴムシのように小さくなり、両手で膝を抱え、胸と膝小僧の隙間に顔をうずめた。

 彼のために、すっかり間が悪くなってしまった。親しい友人との久しぶりの再会のような、アキヒトさんとの出会いへの感慨と、イニシャルの同じ彼の名前への親近感。その二つを覚えたのは、確かなことだが、わたしは、どうしても彼への引け目を拭うことが出来なかった。というのは、その頃のわたしがまだ異性に慣れておらず、うぶだったせいだ。髪のじょうずな結い方さえ知らない14歳のわたしにとって、男の人というのは、前は身近に感じていた存在のはずなのに、いつからか、急によそよそしく、そして怖く感じる相手となってしまった。その原因には、いわゆる思春期の問題があったのだと思う。 

 わたしは、肩身の狭い思いに苛まれつつ、遠くの水際に浮かぶ、近くの木にロープで繋がれた自分の小舟を見た。小舟は、湖の波に従って小刻みにぐらぐらと揺れている。水面に浮かぶあらゆるものを運ぼうとするその水の力に、小舟は、ロープを通じて木にすがることで、あらがっている。わたしは、じっとその様子を見て、そこに意識を注ごうとしたが、その大半は、完全に隣の異性へと引き寄せられていた。

 アキヒトさんは、米粒を頬張りながら、わたしに尋ねた。

「アリシアさんは、レジャーに来られたんですか?」

 それは、見当違いだった。わたしは訂正した、緊張気味に。

「いえ、実はわたしは船乗りなんです。水の妖精と呼ばれている、ネオ・ヴェネツィアという街の、ちょっぴり変わった職種なんです」

 そう答えると、アキヒトさんは感心したように頷いた。

「聞いたことありますよ、水の妖精。ネオ・ヴェネツィアにはまだ行ったことがありませんけどね。何でもマンホームの古都を移設して出来た街だそうですね」

 わたしは頷いた。

「水の妖精とは言っても、わたしはまだ半人前で、修行中の身なんです。色々と難しいことが多くて、さっきまで、考え込んでたんです。自分から望んでこの道を選んだけど、本当に最後まで歩き続けられるのかなぁ、って」

 それは、率直な気持ちだった。わたしは怪訝に思った。どうしてそんな気持ちを、見ず知らずの異性に吐露出来るのだろう? だが、あんまり怪訝に思わなくてよかったかも知れない。アキヒトさんとの出会いは、親友との再会のようだったのだ。親友には、率直な気持ちは打ち明けられる。それだけのことだった。難しく考えなくてよかった。実際、こんな回答が彼から得られたのだし。

「僕にもそのお気持ち、分かりますよ」

 だけどそれは、少し意外で、わたしはまた、さっきと同じ様子で、「えっ」と発した。

「……と言うと、恩着せがましい男みたいで、ちょっと気持ち悪いですかね? でも、僕もあなたと似たようなことを、しょっちゅう考えますからね」

 彼は苦笑いを混ぜて、そう言った。

 目を下に向けていたわたしは、少し顔を上げ、彼を見た。

「アキヒトさんも?」

 彼は「えぇ」と言って頷いた。もうじき昼食は終わりそうだった。

 会話はそこで途切れた。わたしは、残り少ない昼食を取っている彼の隣で、静かにぼうっと湖の水面を眺めた。小舟は、今も揺れていた。

 木立の中に初夏の涼やかな風が、子どもを寝かせる子守歌のように、やさしく吹いてくる。徐々に、眠気が高じてくる。と同時に、隣の人への親近感も。わたしは、日差しのせいなのか、もしくは他の何かのせいなのかよく分からない、あたたかく快い気分で、ひどくリラックスして、微かに揺れる小舟を見つめている。ゆりかごのようなそれを囲う視界のふちは、どんどん中心へと迫ってくる。

 うとうとして、わたしは、自分がいつしか眠っていたことに気が付かなかった。我に返ったわたしは、木の幹に預けているやや熱くなった身体を離し、うんと伸びをした。うたた寝をした割に、時間はそんなに経ってはいないようだった。そのため、堅い幹のせいで身体を痛めるようなことはなかった。

 わたしは気になって、辺りをきょろきょろ見回した。アキヒトさんを探したのだが、さっきまですぐそばにいた彼は、もういなくなっていた。彼のいないことを知ったわたしは、何となく、寂しい気持ちに駆られた。が、いないものはいないのであり、認めるほかなかった。

 わたしは、乾いた喉を水筒の水で潤すと、立ち上がり、小舟へと向かって練習を再開した。

 練習中、わたしはずっと陸にアキヒトさんの姿がないかと、常に視覚を研ぎ澄ませて見張っていた。そのため、練習にはあまり身が入らなかった。



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【3】

 思い出話に区切りが付いたところで、灯里は感慨深そうに頷いた。

「アリシアさんにも、見習いの時期があったんですねぇ」

「えぇ」、と彼女は相変わらず、手で頬を持った、リラックスした状態で答えた。「もう、ずいぶん前のことだけどね、あの頃のわたしは、本当、青かったわ、いい意味でも、悪い意味でも」

 アリシアは灯里の方ではなく、そっぽを向いて、窓の外に広がる海景を、しっとり見惚れるように眺めている。彼女の目は、海の果てのように遠い、過去の記憶を見つめている。初夏の風景や、慣れない研修や、アキヒトとの出会いが、彼女の脳裏を駆け巡っていた。

 そんな彼女に、灯里は言った。

「男の人に不慣れなアリシアさんなんて、想像出来ないです」

 そう言われて、くすりと無声に笑む彼女は、窓を向く顔の目だけを灯里に向け、「本当のことなのよ」、と答えた。

 灯里は、手に支えられた頬を正面にする先輩のその面差しに、伝説として語り伝えられる、絶世の美女の面影を認めた気がして、陶然とした。少し気だるそうに机に肘を突くアリシアの姿に、灯里は、普段知っている水の妖精(ウンディーネ)とは違う、別のパーソナリティの彼女を見た。それは、お酒を飲んで陶酔し、上機嫌である時といくぶん似ていたが、それとはまた異なるようだった。その時よりは、しめやかだった。

「アキヒトさんは」、とアリシアは言った。「わたしが初めてしっかり接した異性と言ってもいいくらいの人なの。アキヒトさんには、不思議と、他の男の人とは違って、気を張らずに済んだわ。どうしてかしらね?」

 アリシアはそこまで言うと、少し沈黙し、その後顔を灯里の方に俯けた。

「話の中で言ったように、アキヒトさんは、初めて偶然出会った人のはずなのに、親友じみた感じがあった。そのお陰でわたしは、彼と難なく打ち解けることが出来た。でも、実際はそうじゃなくて、赤の他人だった。不思議ね。どうして彼には、そんな親しみやすい感じがあったのかしら?」

 アリシアは顔を上げ、問うた。

「灯里ちゃんには、その理由は分かる?」

 問われた灯里は、首を傾げた。まだうぶだったので分からず、彼女は、飼い主に話しかけられたが、言葉を理解出来ないせいで答えられない小動物のように、オロオロした。その様子は、どこか昔の自分と似通った部分があるように見え、アリシアは懐かしい感じがして、頬を緩めた。

 灯里は、「どうしてなんでしょう」と尋ね返した。

 アリシアは考え込むように唸り、答えた。

「たぶん、わたし達の間には、緩衝材のようなものがあったんでしょうね。それは、あるいは縁と言うべきものなのかも知れない」

 灯里はにこりと笑んで、目と口の合わせて三本の曲線を作り、「縁ですか。すてきですね」、と素直そうに述べた。

 アリシアは「ふふ」、と息を弾ませるようにきみよく笑み、逸話の続きを話すことにした。灯里は、目を開いて耳を澄まし、楽しみなその話に対し、静聴の態度を取った。

「その縁はね、その日で終わりじゃなかったのよ。その後の日にも、わたしはアキヒトさんと会ったのよね……」

 

 

 修行中とはいえ、たまに休日がある。毎日毎日すべきことに従事しなければいけないというのは、ひどく息苦しいので、わたしは、そのたまの休日が非常にありがたかった。

 アキヒトさんと出会い知り合った後のある休日、わたしは、グランマと宿泊している旅館を出て、外をぶらぶら散歩していた。わたし達の泊まる旅館は、少し古いということ以外とりたてて特徴のない、低い丘のふもとにあるものだった。

 天気は曇りだった。先日は青く晴れていた空には、灰色の雲がみっちり満ちており、ある種の混雑状態を成していた。遠くの、わたしが研修を行った湖は、天気の影響を受けてどんよりしている。せっかくの休みなのに、そんな天気なので、わたしは、所在ない思いにふて腐れていた。

 あまり車の通らない、田舎の道路のわきを歩きつつ、わたしは、何となくアキヒトさんを頭に思い描いていた。そうして、彼にまた会ってみたいというような気分になった。

 わたしにはあまり自覚はなかったが、その気分は、知らない内に段々と強まり、わたしは自然と、先日アキヒトさんと出会ったのと似たような木立へと足を向けていた。

 木立の中には、人がいて、それは男の人だったので、わたしはすぐにハッとし、胸のときめきを覚えたが、他人と悟った時は、心底がっかりした。

 わたしは少し遠くまで歩くと、近くの木陰に腰を下ろし、考え事をした。それは勿論、アキヒトさんについての考え事だった。目の前には鉄のような色をたたえる湖の面がある。湖は不規則に波を立て、その波は岸に打ち寄せ、快い水の音を立てていた。

 アキヒトさんの素性について、考えをめぐらした。彼の服装や、髪型や、顔付きなどの特徴から、彼がどんな人で、どんな生活を送っているのか、色々と当て推量してみた。それはどこかゲームじみた面白さがあった。しかしそうするのは、わたしにそこはかとないバツの悪さを感じさせた。わたしはこの島へ一体何をしに来たんだろう? 水の妖精の研修のためではないのか? 問うまでもない。そうである。なのにわたしは、恋愛感情に(うつつ)を抜かしている。そんなのは、他の無邪気な女の子達のすることだ。わたしは、そうではない。ネオ・ヴェネツィアの水の妖精になりたいと志願し、許しを得、見習いとなり、今こうして研修に来ているわたしは。そうだ。研修に来ているのだ。恋愛などしに来たのではない。

 しかしそう言い聞かせたところで、葛藤は止まなかった。苦悩でわたしは、耳を塞ぐようにして、両手で頭を抱え、俯いた。

 休日なので、何をしようが任意なのに、その日その時のわたしは、どうしてか、自分の恋愛感情を、毛嫌いするように嫌悪し、汚らわしく、また鬱陶しく感じていた。その感情は、わたしの夢に干渉し、そのための努力を妨げ、破ろうとするように、侵略者的に思えた。それがひどい思い過ごしだということに、その時のわたしは、ある種の妄想にとり付かれていて、気付けなかった。そんな状態だったのは、ひとえに、わたしがその感情に慣れ親しんでいなかったせいだ。その感情に、どう接していいのか分からなかったせいだ。

 ――でも、わたしには、その感情を抱くことがしょっちゅうある気がする。いや、間違いなくある。そんな経験は、事実、何度も繰り返してきた。その経験は、一つ一つ、遺漏なく、全て今も覚えている。そうして、毎度わたしは、今と同じように、対処法に惑い、苦悩していたことも覚えている。

 ということは、ひょっとすると、その、ある男の人と出会い、彼に恋愛感情を抱き、苦悩するという経験は、実は経験ではなく、わたしの習性、ないしは習慣なのかも知れない。

 そこまで考えが到ると、わたしは「そうだ」と、あることを思い出して呟いた。そうして立ち上がったわたしは、きびすを返して、旅館へと戻った。

 古風な門をくぐり、建物の中に入り、自分の部屋へと向かった。隣のグランマの部屋は、扉にロックが掛かっており、外出しているようだ。

 わたしは畳の上の座椅子に座ると、漆塗りのぴかぴかした黒い低い机のパソコンを付け、スクリーンに向かった。

 電子メールを書こうと、思い付いたのだった。わたしは少し文面を練った後、ぽつぽつと書き出した。宛先の名は、晃・E・フェラーリ。今ネオ・ヴェネツィアにいるだろう、いくぶん気性が荒く、その性質が険しい目付きに現れているが、よく気遣ってくれる優しい、わたしの同僚の名だった。彼女はARIAカンパニーではなく姫屋という水先案内店に所属し、そこでわたしと同じように、見習いの水の妖精として、日々修行にいそしんでいる。晃ちゃんとは、同僚のみならず、古い友達でもある。彼女とは、お互いに幼い頃から付き合っている。気の置けない彼女には、何でも話せる。恋愛感情が生じ悩みがちになった時、わたしは決まって、彼女に相談していた。それは別に、そういう決まりがあったわけではなく、自然の流れで、いつもそうなった。塞いだ面持ちでいるわたしが、晃ちゃんに悩みを感付かれ、問い質され、話し合いが発生するという成り行きで、その相談は行われる。晃ちゃんは結構勘が鋭い。しかし、電子メールのやり取りでも、果たしてその相談はうまく行くだろうか? 分からなかったが、とにかくわたしは自分の気持ちを画面につづって行った。

 スクリーンに映る箱の中に言葉を重ねていくわたしは、最初は訥弁だったが、段々と熱が入り、雄弁に変わっていった。すると、自然と笑みがこぼれた。わたしの書いた文章には、わたしのいる状況と心境が透けて見えることだろう。晃ちゃんは、わたしがまた、飽きもせず、恋煩いに罹り、それに悩んでいると知って、呆れることだろう。そして文面に濃密に漂う、わたしの14歳という年齢に相応しい、青春の香を嗅いで、半ば軽蔑し、半ば羨ましがることだろう。それは強情で、それでいてひっそり繊細な晃ちゃんらしい反応だ。そんな反応が反映された返事を、早く読みたいものだ。

 メールをつづりながら、わたしは改めて、自分に恋の経験の多いことを、どうしてか、異性との印象的な出逢いがたびたび起きることを、しみじみと感じた。

 恋。異性を恐れる心のあるわたしにとってそれは、その心ゆえに、きっと無縁であるべきはずのものだ。なのに、無縁どころか、わたしはよく、色んな出逢いをして、そこで迷路のような時間に迷い込む。中々すっきりと、朗らかな気持ちで、生きていけない。しょっちゅう男の人と知り合い、別れるが、また後に新たな人と出逢い、知り合い、その人のために思い煩い、自分のすべきことを疎かにしてしまう。あるいは男の人に慣れていないからこそ、惹かれてしまうのだろうか? よく分からないからこそ、よく分かりたいと思って、近付こうとして、心を寄せようとするのだろうか? ひょっとすると、そうなのかも知れない。アキヒトさんに対して抱いた感情は、これまで彼以外の人に対しても抱いたことがある。何度も、そうだ。でも、彼は少し特別だった。その他大勢の男の人とは違う成り行きを、わたしは彼と共に経た。それは少々滑稽で、だけれども劇的なものだった。少なくとも、わたしにとってはそうだった。

 晃ちゃんは返事をよこす時、きっと、説教の口調で、わたしを小馬鹿にしてくるだろう。わたしの頭に、晃ちゃんの、眉間にしわをよせた、般若ほどではないけれど、それに似たような、むっつりとした表情で、わたしを睨み付け、そうして小言をぶつける姿が思い浮かぶ。晃ちゃんは、わたしの欠点を挙げ、注意し、戒める。でもそうしてくれてもよい。こういう感情を持つのは、胸苦しいし、集中力が散漫になったりするけれど、ぞんがい悪いことではない。むしろその逆で、喜ばしいことのような気がする。

 最後までメールを書き終えて、何度か見直しをして、誤りのなさそうなことを確認すると、わたしは晃ちゃんへと送信した。

 長い文章を書いたと思う。少なくとも、わたしにとっては長かった。たったの一日、それも、昼食の時間しか接さなかった男の人のことを、こんなにも豊かに語れるということは、やっぱりわたしが、アキヒトさんに対して、好感を持っているということの証だろう。文書を書くことで改めて、わたしは彼への好感を確認した。

 あふれるような勢いで文書をしたためたものだから、少し疲れた。わたしは座椅子の背を倒すと、身体を横にして、目を休めるつもりで瞑った。瞑っている目の中の暗闇には、アキヒトさんの姿をした光が光っていた。快く思うと同時に、甘すぎるくらい甘い感情が、少し胸にひっかかって、いささか胸やけに似た気分をもよおした。

 あの人の魅力は、晃ちゃんもそうだが、恐らく他の人にも、伝わりにくいと思う。それは、わたしにしかはっきりと認識出来ないものだと思う。でも、そうであるからこそ、つまり、惚れた者自身にしか相手の魅力が分からないからこそ、恋というものは存在し、成立出来るのではなかろうか?



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【4】

「そういうものなんですねぇ」

 しみじみ納得するように、灯里はそう言った。恋についての観念的な推測は、彼女によい夢を見た時のような甘美な感覚を与え、それに浸らせた。

「灯里ちゃんにも、分かるかしら?」

 アリシアが尋ねると、灯里はのぼせたようなぽかんとした表情で唸るだけで、何も答えなかった。アリシアは、どうやら後輩が同じ経験をするには、当分待たないと行けないようだと考え、微笑んだ。

 アリシアは、天井を見上げてまだ唸っている灯里のそばを離れ、キッチンへと行き、軽食とドリンクを机に用意した。灯里は先輩の気遣いに気付くと、不毛な思案をやめ、礼を述べた。アリシアは、灯里と小腹を満たし、喉を潤した後、逸話の続きを始めた。

 

 

 晃ちゃんにメールを送ったのは、昨夜のことだ。夜が明けて朝受信ボックスを確かめてみたが、彼女の返事は来ていなかった。晃ちゃんも日々お勤めに精を出している身で、他のことにかかずらう余裕はあまりない。休日はあるにはあるが、そんなに多いわけではないので、わたしと合致するということは、ほとんどない。たぶん、彼女は昨日ゴンドラ漕ぎをしたりガイドの訓練を受けたりしていたと思う。わたしの電子メールは、彼女に読んでもらえたとは思うが、返事の早く来ることは、そんなに期待しないのがよいだろう。大体、晃ちゃんはアウトドア派とか体育会系とか、そういったタイプの人間で、読書とか手芸などの、細やかな技術の必要なことは、得意でないのだ。ただ一つ、料理だけは、ずば抜けてじょうずで、例外だけど。そういうわけで、彼女は文通も同様に得意でなく、筆まめでないのである。返事は、気長に待とうと思う。

 今日の空は、昨日と違い、からりと晴れている。朝の空気は新鮮で、爽快で、時々吹く、強く涼しい風は、木々の青葉で、快い音楽を奏でていた。

 わたしは、湖で小舟を漕いでいて、一日ぶりの練習に励んでいる最中だ。扱えば扱うほど重くなっていたオールは、一日の休日というインターバルを挟んだことで、すっかり軽く戻っており、わたしの手に、すっと馴染む。わたしは今、箸で食べ物を持ったり、団扇で微風を起こしたりする時のように、慣れた風に、オールで舟を漕いでいる。オールの水に浸かった、平たい部分で、水を掻く。握力や、腕力など、結構な力が必要だ。以前はよく舟がおかしな方へと進んだものだが、今は板に付いてきたようで、聞かん気だった舟は、手懐けて、だいぶん思う通りに動かせるようになった。調子がよいだけかも知れないが、グランマの指導と、積み重ねてきた練習の賜物であろう。もうそろそろ、自分の操船術には、自信を持ってもよいのかも知れない。

 上機嫌でそんなことを考えつつ、ウォーミングアップを終えようとする頃、わたしはふとある人影を陸に見つけ、ハッとした。幸運な発見だった。それは、アキヒトさんだった。彼は、誰かと共に、木立の中で並んで歩いており、和気藹々とした雰囲気で、何かを話している様子だ。わたしは、何となく会いたいと思っていた彼を再見し、嬉しくなった。そうして、練習中のため、本当はいけないのに、小舟を陸に付けて降りると、抜き足差し足で、適当な木陰に忍び込んで、そこから、アキヒトさんと誰かのやり取りを、こっそり窺った。

 わたしは、ショックを受けた。というのは、彼の話している相手が、若い女の人だったせいである。今までアキヒトさんに意識が集中し、注意が偏っており、こうして接近するまで、相手がどんな人なのか、まるで眼中になかった。アキヒトさんと睦まじく話す相手は、悔しいけれど、綺麗であることは否めない。それは、飾り気がなく、生来の、天然の綺麗さのようで、わたしはますます彼女に対し、悔しい思いを高めた。

 二人の間柄は、どういうものなのだろう? やきもちを感じるのは、ずいぶん久しぶりのことだ。心の中に、もやもやした生ぬるい霧が立ち込め、刺々しく、熱をもった何かが、お腹の中で転がり、わたしを内側から傷付ける。次第に、気分が悪くなってきた。やきもちの、胸をむかつかせるような、イライラさせるような感じは苦手だ。不信と憎しみで、心臓がぎゅっと締め付けられる。

 二人は仲良さげに話しているが、その内容は風と、湖の波の音に紛れていて、曖昧だ。また、彼らが歩いており、声が遠ざかるので、それは、時間が経つごとに、どんどん聞き取りにくくなって行った。そうして、気になって注視している人達の話は、それが曖昧であるために、わたしの興味をいよいよ高じさせ、同時にまた、苛立ちを募らせた。更にその状況は、わたしの想像力を働かせもし、そしてそれで浮かび上がるビジョンは、すこぶる不快なものであった。

 しかし、それはあくまでビジョンに過ぎず、わたしが気付かれないように近付いて行って、アキヒトさんと綺麗な女の人の話を盗み聞きすれば、何もかも、わたしの知りたがっていることは、疑いの余地のない情報として、手に入るのだ。

 そのことは、確かに理解していた。理解していたけれど、わたしは、及び腰で、一本の木の陰から、たった一つの歩みさえ運ぶことが出来なかった。怯えていた。わたしは、自分のした、嫌な想像を、ほとんど現実と受け取っていたので、それを、確かな現実として、知りたくなかった。それを知ろうと試みるのは、どれだけ勇気を振り絞っても、臆病で、怖がりのわたしには、出来ないだろう。

 わたしは、悲観的な想像を、思い描いている。出来ればそれは、否定して消し去ってしまいたい。このままそう出来ず、その想像を負担し、旅館へと持ち帰り、夜まで、不眠状態になるまで、それに苛まれたくない。でも、もしその想像が、現実だった場合、わたしは結局、同じ状態、いや、それよりひどい病的状態になり、悶々と苦しむだろう。そうだ、違いない。そうしてわたしは今、自分の想像を、現実と思い込んでいる。

 状況は八方塞がりだった。励ましや元気や活発さのある方面は、すっかり塞がれていた。

 もしも、アキヒトさんの一緒にいる女の人が、彼の恋人だったら、どうしよう? もしもそうだった場合、わたしの彼への好意はどうなるのだろう? どうすればよいのだろう?

 そういう風に思い詰めて、わたしはもう、我慢が出来なかった。二人の間柄が気になって、でも真実は突き止めたくなくて、わたしは、自分のすべきことと、すべきでないことが、一体何なのか分からず、混乱した。冷静とか、正気をぎりぎり保てる限界まで、精神は追い詰められていた。その場に佇んでいることは、もう出来なかった。

 結局わたしは、自分の悲観を持ち帰ることにし、現実より逃げだして、急いで小舟に戻ると、慌ててオールを手に取って、漕ぎ出した。その時のわたしは、怯え切って、諦め切って、弱い小動物が猛獣より逃げる時そっくりだったろう。実際その時のわたしは、弱っていたし、それに、怯えていた。

 しばらくして、周りの陸からだいぶん離れた、湖の中ほどまでやって来ると、そこで舟の速度を落とした。

 ゆっくりと水面を進みながら、わたしは憂いを覚えていた。まだ、そばに、アキヒトさんと彼の恋人らしき女の人がいる気がした。その映像が、執拗に目に焼き付いて、消えようとしなかった。

 練習に身は入らなかった。昼食を取ることさえ、わたしは忘れてしまった。何もかも億劫だった。今日の研修の行程もそうだった。

 わたしは、えんえんゆっくりと小舟を漕ぎ続けて、もうすっかり暗くなり、空気のひんやりとしている遅い夜に、ようやく出発点へと帰着した。本当は、もっと早くに着いていなければならなかったのに、何という失態だろう。わたしは不届き者の水の妖精(ウンディーネ)であった。

 しかし、グランマは、仄明るいランプを提げて、何か事故を起こしたかも知れないと危惧されるくらい、帰りの遅い後輩を、じっと待ち焦がれてくれていた。彼女は、「遅かったね」と言うだけで、怒りはしなかった。それがどうしてか、怒られるよりも、ずっと身に沁みた気がする。わたしは、ある程度の小言を覚悟していた。グランマは元より温厚な人柄だが、今日のようなまずい行程の終え方には、そんな彼女でも、多少の苦言を呈すはずだ。

 変に思って、わたしはグランマの顔を見てみた。ところが、彼女の顔は、ランプの照明がぎりぎり照らせる範囲の外だったので、よく見えなかった。妙に静かだった。それはどこか、彼女が全てを悟っているようだった。実際、彼女はそうだったのだ。グランマは聞いた。

「こんなに遅れて帰ってくるということは、アリシア、何か足止めを喰らったんだね」

 わたしは、こくりと頷き、「実は」と言って、事情を明かそうとした。するとグランマは、わたしを制し、詳しいことは旅館で聞くと言った。

 そういうわけで、わたしはグランマと共に旅館へと戻り、グランマの、落ち着けるような香煙の漂う部屋で、話し合いをした。わたしは座布団の上に、グランマは小高い椅子の上に、それぞれ座って、わたしはじっくりと、順を追って、アキヒトさんとの出逢いと、彼に惚れ込んだことと、今日幻滅を味わったことを説き明かした。グランマは、親身になって、話を聞いてくれた。わたしは、彼女のその態度と、部屋の雰囲気に助けられて、すっかり、胸中に溜まっているわだかまりを、全て吐き出せたような気がする。

 長々と話し込んで、話し合いは終わった。とは言っても、話したのは主にわたしで、グランマはもっぱら傾聴するだけだった。その後わたしは、自分の部屋へ移ると、遅れた夕食を取ったり、シャワーを浴びたりして、就寝すべく、布団にもぐりこんだ。仲居さんが敷いてくれた、新しい、ふかふかの、少し冷たい布団を温めながら、わたしは、終わったばかりの、グランマとの対話を思い起こしていた。彼女は、わたしの悩みを聞いて、それはひどく幼稚で、いかにも女の子じみた、甘ったるいものだったが、納得するように、頷いてくれた。

「成るほど、それはあなたらしい悩みね」

 今回、わたしの慣習的な悩みは、通例とは違い、晃ちゃんでなく、グランマに聞いてもらうことになったわけだが、わたしは、今までそんなに砕けた関係を彼女と持ったことがなかったので、間が悪かった。「恥ずかしいです」、と、わたしは率直に述懐した。

「恥ずかしがらなくてもいいのよ。アリシア。あなたの悩みは、若い女の子には、よくあるものだもの。わたしにも、昔あったわ。だけど、あなたの場合は、その悩みを抱えることが、ことによくあるわね」

 わたしの習性は、グランマにはすでに知られているようだった。

「本当、わたしは自分のことが、ひどく愚かしいと思います」

 そう卑下すると、グランマは目を瞑って、首を左右に振った。それは、しずしずとしていたが、力強く、また優しい、気遣いのこもった所作だった。そうして、彼女は目を開けた。彼女の二つの目は、穏やかな光をたたえ、澄んでおり、わたしは、もう一人の自分を――すっかり意気阻喪した不憫な少女を、その中に見出す気がした。

「そうじゃない。決して、そうじゃないのよ。アリシア、むしろあなたは賢いの。それも、賢過ぎるくらいにね。そうして、賢い人ほど、よく悩むものなのよ、あなたのようにね」

 その言葉は、わたしの心に染み入り、わたしの全身を満たして、そして揺すぶった。

「だからね、自信を持ちなさい。自信を持って、うんと悩みなさい」

 そう言われて、何だか、涙が出そうになった。わたしは顔を俯けて、視線を、座布団の上の、膝の上に落とした。

「わたしは、本当に同じ悩みを抱えることが多いですよね。しょっちゅう男の人に恋をして、楽しい想像をして、やきもちをやいて、幻滅して、わたしは、落ち着かないですよね」

 そう自嘲するわたしの目は、少し潤んでいた。

「それでいい」、と、グランマは、わたしを肯定するように答えてくれた。「あなたはそれでいいのよ、アリシア。わたしには分かる。恋多き女の子は、きっと将来、素敵な淑女になれるのよ」

 一滴だけ、わたしの目元にたまった涙が、グランマの言葉の後、頬を伝って流れた。一滴だけだったので、温かいそれが肌の上を滑る感覚は、きわめてはっきりと伝わった。その一滴をきっかけに、溜まっていた涙があふれだし、鼻水が流れだし、わたしの頬は、しとどに濡れた。わたしは、グランマのお陰で、悩んでいる自分を認めることが出来たし、恋患いが多いという習性を納得出来たし、嬉しかった。安心することが出来た。しかし、何より嬉しかったのは、グランマが、わたしにそうさせてくれたことだった。悩みの暗闇から、救いの明るみへと、脱け出せるよう導いてくれたことだった。

 わたしは、晃ちゃんを思い出した。二人共、恋の相談の相手であるが、グランマは、晃ちゃんと違った。その違いは、明らかなものだった。晃ちゃんには、同じ水の妖精として、また幼馴染として、信用出来るし、頼れもするが、彼女は、わたしの打ち明ける悩みに、あまり共感はしてくれなかった。ちゃんと耳を傾けてくれるし、頷いてくれるが、性格のくっきりした違いのせいか、晃ちゃんは、わたしの悩みの一部は理解出来ても、全部までは、難しかった。それは、仕方のないことだと思うし、別にわたしは、そのことについて、ぜんぜん不満ではない。彼女は、わたしの悩みを経験しておらず、そのせいで、よく知らないのだ。彼女は、それでよい。晃ちゃんは、好きな友達だし、水の妖精の仲間だし、きっとこれからも、わたしは、悩みを抱えた時、彼女を頼りにすると思う。

 グランマは、わたしの悩みを知っていた。そうしてわたしの悩みに、共感してくれた。過去にわたしと同じ経験を持ち、同じく苦しんだようで、わたしの悩みに対して、理解力を持っていた。

 彼女は椅子を降りて、哀しむわたしを、正面よりそっと抱擁してくれた。

 グランマの励ましの言葉は、わたしの耳にずっと余韻を響かせ、その温もりは、まだ冷めずに、全身に生き生きと残っていた。わたしは、グランマの言ったように、素敵な淑女に、立派な水の妖精になろうと思った。早くそうなりたいと焦がれた。

 布団の中のわたしは、窓の外の夜空に散らばる星あかりを、ぼんやり眺めた後、さっぱりした気持ちで、明日の練習も頑張ろう、グランマのために精進しようと、そう意気込んで、安らかに眠りに就いた。



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【5】

 そんなもったいない言葉を、果たしてグランマはわたしなんかに、本当に言ってくれただろうか? よくよく考えると、分からなくなってくる。彼女の言った素敵な淑女というのは、確かにわたしの目指したい目標ではあるし、それに向かって努力しているけど、今の野暮ったくて、不器用で、ようやく操船が出来始めたばかりの、小奇麗なおてんばに過ぎないわたしとは、目指すことがおこがましく思えるくらい程遠い。そんな存在にわたしがなれると、グランマが予想し、嘱望してくれたというのは、やっぱり信じがたい。彼女の言葉は、思い上がったわたしの思い込みかも知れない。ひょっとするとでも、わたしの疑いは、仕方のないことなのかも知れない。グランマとの話し合いは、とても恵まれた時間で、その間わたしは、涙を流すような感情に染まっていて、感覚が色々と鈍っていたのだ。本当に、夢のような時間だった。そうしてその時間は終わった。

 朝になっていた。今日の天気は、一昨日と同じく曇りである。パソコンの受信ボックスを見てみたが、晃ちゃんからの返事はまだ来ていなかった。

 わたしは、洗顔と朝食を済ますと、寝間着を制服に着替え、部屋を出た。外では、風がすっかり凪いでいる。今日は曇りだが、前日よりも、辺りに漂う空気に、湿った、重たい感じがある。わたしは、もしかすると雨が降るかも知れないと考えながら、前と同じ岸へと小舟漕ぎの練習のために向かった。

「天気が崩れて来たら」、と岸にいるグランマは言った。「手頃な場所で雨宿りするんだよ? たぶん、雨が降るとしても、そんなに強くはならないだろうから、降り出したら、木の下にでも隠れて雨宿りしなさい」

 わたし達のやり取りは、いかにも主従関係を思わせる、師とその弟子のそれだった。昨夜のことは、わたし達は気にする素振りはなくて、二人共淡々とした態度で、相手に臨んでいた。

 わたしは同じ態度で「はい」と答えると、雨の時のために傘を積んだ小舟に乗り、気が進まなかったが、練習の中止は出来ないので、消極的に漕ぎ出した。水辺の湿った空気は、少し苦いにおいがして、オールで水を、掻き交ぜるように掻くと、それはますます強まった。

 出発より二時間くらい過ぎた頃、予想通り、雨が降り出した。ポツポツと水の粒を肌に受け、雨の降り始めを感じ、空を見上げたら、間もなく本降りになった。

 雲より落ちて来る雨粒を、目をしばたかせて見つめ、わたしは、やっぱり降って来たと呟くと、敏捷に小舟を近くの岸に漕ぎ付け、陸に降りた。そうしてわたしは傘を差し、舟に載せた、弁当などの荷物を手に持った。その後雨宿りをするため、岸辺に広がる木立に入ったのだが、あまりよい木陰が見当たらず、また、下草の辺りより、不快な靄がもわもわと立ち込めだして、しかも、油をかぶったように身体がテカテカとしていて、気持ち悪く、あまり好きでないカエルを見かけたので、逃げるように、国道へと木立を抜けた。

 遠くにそびえる山は、所々、白い霧に覆われ始めている。コンクリートの道路は濡れ、元々の黒色が今はすっかり濃くなっており、また、濡れているため、甲虫のような光沢を放っている。

 手頃な雨宿りの場所を探すわたしは、ちょうどそれに相応しい場所を、付近に見つけた。木で出来ているかなり陰気臭いそれは、物置の小屋のような形をしており、とても小さかった。そして古びていた。どうやらそれは、今はもう使われなくなった、廃れたバス停の待合所のようだった。老朽化し、隅に埃が溜まり、薄暗い闇を抱える待合所は、何だか得体の知れないものが出てきそうな雰囲気があるが、このまま雨下をぶらぶら散歩したくもなく、また、よそにそこより具合のよさそうな場所が見当たらないので、わたしは止むを得ず、そこで雨が上がるまでの時間を潰すことにし、傘を閉じて入った。高い板の椅子に腰を下ろしたわたしは、そばに張られている、暗くてほとんど見えない、黄ばんだ紙の時刻表を見てみた。時刻の隣に、停留所の名前が書かれているが、土着の人間でないわたしには、読めなかった。しかしその名前のことは、どうでもよかった。わたしは何気なく見ただけであり、それにここは、前は使われていたが、今は放って置かれた、用なしの、寂れた廃屋なのである。

 わたしはぼうっと、待合所の入り口に切り取られた、外の景色を眺めた。時々道路を車が通り、わたしの視界を横切って、コンクリートを流れる雨水をはねていく。車が通ることは、本当に稀だった。

 雨が降りしきる景色の遠くには、わたしの抜け出してきた木立があり、その全体は霧に包まれて、不明瞭である。一番高い木のてっぺんまで到ろうとするほど、霧は育っていた。そのため、奥の湖は、濁った白色の中に隠れてしまい、ほとんど見えなかった。

 雨脚は、グランマの言った通り、強くはなかった。ところが雨は地雨らしく、一定の強さで降り続け、中々止もうとする気配を見せなかった。群雲は少しも動かず、空にはびこっていた。雨が上がるまで、時間が掛かるのだろうか。もしもそうなれば、今日の行程は省略しなければならなくなるだろう。

 そんなことをいくぶん憂鬱に考えつつ、わたしは、段々と所在ない思いを覚えてきた。椅子に掛けた傘の先端に集中する水が、地面に流れて、小さなまるい水たまりを成している。

 ふと、目の前の道路を、一台のオートバイがエンジン音を立てて通った。わたしは、そのオートバイになぜか関心が向かい、妙に思った。誰か知っている人が、それに乗っている気がした。しかしそれは、いい加減な直感に過ぎなかった。その音は少し行った所で途絶え、その後、ある男の人が、ひょっこりと待合所に陽気な顔を覗かせた。屈託ない微笑みをたたえている彼は、アキヒトさんだった。驚きのため、わたしは「あっ」と発して目を見開いた。

 運転時に目に着けていた、黒い頑丈そうなゴーグルを首元に下ろしているアキヒトさんは、「どうも」と言って軽く会釈した。ゴーグルには、彼の着ているジャンパー同様雨粒がびっしりと付いていて、スパンコールのような光を放っている。

 アキヒトさんは自分を指差し、「僕のこと、覚えてます?」、と尋ねた。覚えているとわたしが肯定すると、彼は、「よかった」と、ほっとしたように答えて、また、前と同じように無遠慮に、隣にどっかと座った。わたしは、アキヒトさんと再会出来て嬉しいような心地になったが、前日彼が彼のパートナーと思しき女の人といる場面を思い出し、翻然と不愉快になり、むっつりとした。

 アキヒトさんはしかし、わたしの気分などにはお構いなしで、勝手にしゃべり出した。

「嫌ですね、雨。こんなにしっかりと降られちゃ、たまらないですよね」

 わたしは思った。ひょっとすると彼は、わたしの不機嫌そうな表情を見、気遣ってそうしゃべり出したのかも知れない。話せる機会をくれたのかも知れない。とすると、その気遣いは無駄だった。雨ではない別のもので機嫌を損ねているわたしは、背筋をぴんと伸ばし、座禅の時の、一個の石ころにでもなったような、極めて冷静で、不動で、静粛な気分で、「そうですね」、と、さらりと答えた。そうしても、アキヒトさんはわたしのそんな気分には無関心らしく、しゃべり続けた。

「またお会い出来るとは思いませんでしたよ。奇遇ですね。あ、もしかしてアリシアさん、この辺りに住んでるんですか?」

 事実を見抜いたつもりなのだろう、彼はまるで、妙案を閃いたかのように、自信満々に言った。

水の妖精(ウンディーネ)は」、とわたしは淡々と返した。「ネオ・ヴェネツィアにしかいません。前に言ったはずですよ。わたしは見習いの水の妖精で、研修のためにこの島に来たんです。ここの住人ではありません」

「あ、そうでしたね」、とアキヒトさんは苦笑して答えた。「それじゃ、あなたはその研修のために、旅館かホテルに、お泊りになっているわけですね」

 わたしはこくりと頷いた。不機嫌そうな態度でそうした。

 疑問があった。わたしはどうしてその時、そんな態度でアキヒトさんに接したのだろう? 理由は分かっていた。それはわたしが、彼にすでに恋人がいると思って、やきもちを焼いていたせいだ。しかしそれは、勘違いである可能性があり、そう断定するためには、確証を得なければならなかった。にも関わらずわたしは、不確かな情報を真実と思い込み、彼を邪慳にし、ぶっきらぼうに接していた。それはきっと、不当なことではなかろうか? その通り、不当なことだった。気遣ってくれたアキヒトさんの話に、そんな意地悪な態度で受け答えするのは、あまりにも不当なことであり、更に言えば、冷酷で、非道なことだった。だから、彼が気遣うのをやめ、わたしと同じような態度になることは、当然のことだったと言える。彼は、やや不機嫌そうになって尋ねた。

「何だか虫の居所が悪そうですね。一体どうしたんですか?」

「別に。雨のせいですよ」

 ――嘘だった。

「成るほど。では雨が止めば、あなたのご機嫌は治って、その眉間のしわはとけるんですか?」

 眉間のしわ――元々平らだったはずのわたしの眉間には、いつしかそれが出来ていた。優美で高雅でもある水の妖精に、甚だしく不似合いな、陰険な感じを持たせるそれが。ゴンドラに乗っていなくても、オールを携えていなくても、わたしは常に、水の妖精でいるべきだったのに、そんなものを眉間に作ってしまった。

 わたしは、彼が不機嫌になったと知ると、ますます強情っぱりになって、不機嫌の度を高めた。実際はしたくないはずなのに、そうしてしまった。どうしてそんな風に、喧嘩腰で、排他的な態度に、わたしはなってしまったのだろう? 分からなかった。とにかくわたしは、その時することの出来た接し方の内で、最もまずいものを選んでしまったのだ。

 彼の問いに、わたしはすげなく答えた。

「恐らくそうでしょうね。確言は出来ませんけど」

 するとアキヒトさんも、わたしに対抗するように、同じような態度で、「そうですか」と答えた。そうなると、もうわたし達が口論を始めるまで長く待つ必要はなかった。わたしとアキヒトさんは、険しい目付きで見つめ合い、そうして馬鹿馬鹿しい小競り合いを始めた。

「残念ですけど、雨は止みませんよ」

「そんなこと、簡単に分かることじゃないです。天気のことを熟知しているわけじゃないでしょう?」

「それはそうですけど、雲の様子を見れば、何となく分かりますよ」

「勝手なことを言うのはやめてください。あなたの予報が当たるなんて思えません。大体、あなたのは予報ではなくて、単なる勘に過ぎません」

「当たりますよ。僕は何遍も、色々な土地で天気を見て来ました。晴れと、曇りと、雨を見てきました。台風も雪もそうです。オーロラだって見たことがあります。そういうわけで、僕には豊富なデータがあります。そうしてそのデータは、とても信頼出来るものなんです」

 彼が言い終わると、わたしは目を逸らし、呆れて、鼻でフンと息を吐き出した。

 結局雨は上がった。その確信をしていそうな物言いのせいで、一瞬信じてみようかと思ったけど、アキヒトさんの言葉は、当てにしてはいけない妄言であった。天気の好転がそれをはっきり明かしてくれた。

 わたしは、勝利を得たような気分になり、すっと立ちあがると、アキヒトさんに別れを告げ、待合所を去った。背後より「気まぐれだな」という言葉が聞こえたが、それはきっと、天気に対してのものであって、理解しがたいわたしの不機嫌に対してのものではないだろう。

 わたしは雨上がりの、まだ雲がたくさん残っているが、すぐに消えていくだろう空のもと、木立を通り、池辺へと戻った。

 そうして水際に着き、愕然とした。小舟が、なくなっているのである。陸に上がる際、しっかりと近くの低木にロープで繋ぎ止めて置いたはずなのに、小舟はなかった。恐らく、雨で増えた水に、流されてしまったのだと思う。

 わたしはにわかに焦り出すと、辺りを走り回り、小舟を探したが、一向に見つからなかった。水面へ出てしっかり探そうとしても、近くに他の小舟がなく、出来なかった。

 小舟を失うなんて、それを操る水の妖精としては、決して犯してはならない過失だった。それゆえにわたしは、水の妖精として失格だった。わたしは、しかるべき罰と戒めを、甘んじて受けなければいけないわけだが、それは運命がわたしに誂えてくれているようだった。

 わたしはしょんぼり落胆し、旅館へ帰る方法を案じたが、何も思い付かなかった。さっきの待合所へと歩いて戻り、バス停を調べたが、そこはやはり、もう使われていないバス停であって、役に立つ見込みはまるでなかった。バス停のそばの道路には、バスはおろか、一般の車さえ通らなかった。待合所には、もうアキヒトさんはいなくなっていた。彼のものらしきオートバイもなかった。ただ、彼が落としたものであろう雨粒の跡はあった。

 わたしはもう一度、待合所の椅子に座り、ほとんど困惑の砂煙に満ちている、重い頭を、低く垂れた。

 日は暮れかけており、空は段々と暗くなろうとしている。

 わたしの頭の中では、どうしようという、焦りを帯びた問いが、答えを求めて何度もループしていた。その問いは、戻ってくる度に不幸で嫌なビジョンを見せ、現下、夜が夕方を逐っているように、わたしを徐々に、追い詰めていた。



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【6】

 そうしてとうとう夜になった。日の光は完全に失せ、真っ暗闇が辺りを覆った。

 わたしはまだ、待合所の椅子にしょんぼりと座っていた。それはしかし、わたしが雨宿りをし、アキヒトさんと会ったのとは違う、別の待合所であった。作りは同じ木造で、中の壁には朽ちかけた時刻表の紙が、画鋲で貼りつけられている。元は金属の色だっただろう画鋲は赤色っぽく錆びていた。小舟を失ったわたしは、無謀と知りつつも、湖の外周に沿って歩いて帰ろうとしたのだが、やはり湖が広大過ぎるため、あまりにも長い距離に疲れ、途中で足が棒になってしまった。歩くことと休むことを繰り返して進んでいる内に、時間は進み、夜が訪れた。また、湖には何本かの支流があり、それには橋がなく、外周に沿って行こうとするわたしの行く手を遮り、阻んだ。

 まるで洞窟か土の中の生き物が好むようなぞっとするような暗闇と、じめじめした空気の中に、今のわたしはいる。待合所に、照明などの気の利いたものはなかった。辛うじて、国道に沿って何本かの照明が立っていて、暗がりにあかりを投げていたが、それだけではまるで心許なかった。しかし、田舎なので仕方ないことだった。

 帰る手段をなくしたわたしには、更なる不運がのしかかって来た。再び雨が降り出したのである。アキヒトさんの予報は、妄言ではなく、ある程度信用の置けるものであり、当を得ていて、的中したわけである。わたしは雨がすっかり上がったと思い違いをしたのであり、実際雨は、一時的に止んだに過ぎなかったのだ。天気に関して述べた彼の意見は正しくて、一方でそれを頭ごなしに、強情に否定したわたしは、誤っていたのだ。そう考えると、何だか気持ちがくさくさしてくる。面白くなかった。

 わたしはぼんやりと、また、待合所の入り口に切り取られた景色を見ていた。ほとんどはっきりとは見えない、夜陰のせいで普通よりなお黒いコンクリートの面に、雨粒が踊るように跳ねており、砕けた水はガラスの小破片のように儚い輝きを放った。

 素直にアキヒトさんの予報を聞き入れて置けばよかったと、今更わたしは後悔する。聞き入れて、そうしていつ雨が止むのか尋ねて置けばよかった。そうすれば状況は、いくぶんかマシになったと思う。しかし後悔したところで、現況の何も改善されることはなく、それは時間を浪費するだけの、不毛な思い悩みに過ぎなかった。

 時に、アキヒトさんは、何をしている人なのだろう。あの口振りから推測すると、一所に留まって生活している人ではない気がする。彼は、色々な天気を見てきたと言っていて、オーロラまで見たと言っていた。ということは、彼は、ずいぶん遠くまで行ったことがあるわけだ。ひょっとして、旅人でもしているのだろうか? 放浪しているのだろうか?

 くたびれた身体を壁にぐったりと預けつつ、夜の暗闇に染められた、昏々とした心境で、妄想的に、そして非現実的にそんなことを考えていると、わたしは突然ぎょっとした。

 何かが、待合所の入り口に顔を出した。そんな気がした。しかしそれは、闇に溶け込んでしまっていて黒く、くっきりとは確認出来ず、何か分からなかった。シルエットは丸かった。わたしは人間の頭を想像した。そうして恐らくそれだろうと直感した。人間……わたしは誰かの来たらしいことに、にわかに怖気付くと、覚束ない身体を強いて起こし、待合所を勢いよく出た。そうして道路を覆う雨の膜を蹴破って、一散に、死ぬ気で駆け出した。衰えた身体に鞭打って駆けているので、わたしの恰好は無様だったに違いない。だが、四の五の言っていられる暇はない。人影の出現に驚倒して怯えたわたしが、待合所に傘を忘れてしまうのは無理もなかった。あるいはその人影は、わたしがくたびれ果てて、頭の回転が悪くなっていたので、それは大いにあり得ることだが、空目である可能性がある。あの黒いシルエットは、実際には人ではなく、別のものかも知れない。もしくは、わたしが目にしたと思っているものは、そもそも存在していないのかも知れない。しかし、わたしはもう冷静な判断を付けられるための十分な体力を失っていて、自分の思い過ごしに気付くことが出来なかった。その時の慌ただしくて怖がりで、また孤独で惨めなわたしにとって、安心出来ることは、唯一、走ることだけだった。脅威をひしひし感じていたわたしは、逃げること以外に取れる選択肢はなかった。

 駆け出して、かれこれ十分以上は走り続けたと思う。それ以上は、もう足が動かなかった。活力は尽きかけていた。わたしは、細い道路のわきに広がる木立に入ると、速度を落とし、止まり、膝に手を置き、ぜえぜえと息をした。身体と制服は、共々汗と雨とでぐっしょりと濡れ切っており、不快で仕方なかった。袖が、襟が、べったりと、ナメクジが壁にそうするように肌に張り付いた。靴は水がしみ込んで重く、またぬるくて同じく不快だった。早くなった心臓の音を胸に聞くわたしは、木のそばで制服の水気をぎゅっと絞ったが、そんなことでは不快さはなくならなかった。

 ところで、わたしは一体どこへ来たのだろう? 這う這うの体で、得体の知れない何かより逃げてきたわたしは、方角を定めず、危機感に従って、無闇に走ったので、どこに自分が移動したのか、皆目見当が付かなかった。とはいえ、歩き回ってわたしのいる地点が分かるしるしを探すのは、疲れと、あの人影への恐怖との遭遇とを恐れて、気重だった。何もかも、わたしは分からなかった。自分のいる場所も、今の時間も、心配しているだろうグランマの動向も、何もかも。体温が高いのか低いのかも、今の衰弱し切ったわたしには分からなかった。雨は冷たいが、汗をかく身体は燃えるように熱くて、何だか、お腹の中に大きな氷と熱湯とが混在しているような感じだった。

 迷ってしまったわけであるが、わたしはもう、どうにでもなれと思って、やけくその気分になっていた。グランマは、もしかするとわたしを心配し、捜索してくれているかも知れないが、この天候と時間帯では、うまく行きはしないだろう。救援は望めない。追いつめられた人間というのは、窮地を生き抜くためなのかどうしてか、失笑してしまうものだ。その傾向に即して、わたしは乾いた笑いをこぼした。笑える要素など一つとしてなかった。何も楽しくなかったし、面白くなかったし、嬉しくなかった。全ては逆であった。わたしは不愉快で、うんざりして、そして悲しかった。運命が誂えた罰と戒めは、どうやらこういう状況のようだ。段々と、雨がわたしの体温を奪って、身体を冷やしていき、その内わたしは、凍えと不安とで、笑うのを止めた。その後涙が出てきた気がするが、顔が雨で濡れていたので、実際どうだったのかは不明だ。

 ふと、強い光が、背後より差してきた。わたしは衝動的な恐怖に身をすくめると、そばの木に隠れた。光は、そばの細い道路を照らしている。何だかうるさい音が聞こえる気がする。その光は、どんどん近付いてき、強くなると、いつまでも震えているわたしのそばで止まった。

「あれ」、と怪訝そうに発する声が聞こえた。わたしは振り向いた。その時のわたしの目は、大層くぼんでいたと思う。

「猫でもいるのかと思って調べてみましたけど、あなただったとは、驚きましたよ」

 世の中には、妙な縁があるものだ。そばにいるのは、オートバイに乗ったアキヒトさんだった。彼はゴーグルを頭に上げ、そう言った。

「今宿へと帰るところなんですが、帰り道をショートカットしようと思ったんです。まさかアリシアさんと出くわすとは、思いも寄りませんでしたよ」

 アキヒトさんと、暗い雨の森で再会して、そうして、奇妙な偶然に牽引されて来た彼が、飄々として軽い、ジョークの口調で話す姿を見て、その時わたしは、どんな風に感じていただろう? その記憶は、ひどくおぼろげで、鮮明に思い返すことが出来ない。しかし、おぼろげであるのは、わたしの意識が疲労でかすんでいたせいでも、眠気が深刻だったせいでもなかった。

 彼の出現は、鮮烈だった。それは大げさに言ってしまえば、奇跡だった。奇跡というのは、実際に起こりはしたが、本来は起こり得ないはずのことであって、要するに、わたしは自分の状況が、自分の力のみでどうにかしなければいけない状況が、アキヒトさんの出現によって、すっかりひっくり返されてしまった気がしたのだ。それまで満ちていた重苦しく暗澹たるわたしの周囲の雰囲気は、その後光明が差して、いくぶんコミカルで滑稽なものに変わった。

 嬉しいとか、救われたとか、その時のわたしは色々としんみり感じたが、その時の感情を逐一挙げようとすれば、それはかなり手に余る厄介な作業になるだろう。であるから、その時のわたしは、どんな感情をも、明確なものとして感じなかったのだ。ゆえに記憶がおぼろげであるわけだ。しかしそれは、豊富な感情を一時に、ラッシュ的に、一緒くたに感じたということと同義である。たった一つの明らかな、言明し得る事実は、わたしが救われたということであった。

 アキヒトさんは怪訝そうに、まことに怪訝そうに、わたしが夜どうして奇異な場所にいるのか尋ねた。そんな様子になるのは当然だった。

「こんな天候と場所と時間帯で、よもや散歩しているわけではないでしょう? 傘をお持ちでないようですし」

 わたしは苦笑いを我慢出来なかった。それは自虐と、恥じらいと、反省とを込めた笑いだった。

 アキヒトさんは、グローブをはめた手を差し伸べてくれた。わたしはその手を取り、引いてもらい、オートバイの後部に乗せてもらった。小舟の二人乗りは、晃ちゃんとか他の水の妖精(ウンディーネ)の友達としたことがあっても、オートバイの二人乗りというのは、したことがなかった。わたしはヘルメットを借りて被り、少し堅いシートの端に座り、両手をアキヒトさんのお腹まで回し、おへその辺りで組んだ。

「手はしっかりと組んでくださいよ。知らない場所に落っこちて、また同じ羽目になります」

 わたしはこくりと頷いた。声は出さなかったが、その応答は、アキヒトさんに通じたらしい。

 わたしは自分が、安心の出来る、雨に降られない、暖かで乾いた場所へと、徐々に、だけれども確実に、回帰しようとしていることを確信した。その確信は、わたしに途方もなく大きな喜びを与え、また、わたしがついさっきまでそこにいて、困惑し切っていた窮境の救い主への信頼感を起こした。晃ちゃんへの電子メールをつづる時は、彼への好意を確認したが、今は、その好意が高まるのを感じた。寒かった身体は、今は温かく、いや、むしろ熱くなっていた。

 オートバイが走り出し、わたしは凄まじい勢いでそばを通り過ぎる風と、なお降り続ける冷たい雨を肌に感じて、未だ旅館に着いていないのに、もう無事に帰ってきたような、そんな錯覚を抱いていた。



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【7】

 とはいえ、帰って来たのが自分の知らない旅館では、流石に戸惑うのも無理はなかった。

「着きましたよ」とアキヒトさんは、傍らで半ば唖然としているわたしの様子に構わず言った。

 今もまだ降り続く雨を防いでいる車寄せの下で、わたしは彼に、ここは自分の泊まっている旅館でないと伝えた。それを伝えるのは、仮にも悪天候の中で虚無感を抱えつつさまようわたしを見つけ、助けてくれた彼の恩義をないがしろにするようで、気が引けた。わたしが後ろ髪を引かれる思いで言うと、彼は呆れたように目を細めた。

「わがままな人だなぁ」と彼は言った。「仕方ないじゃないですか。オートバイで走ってる最中、僕は旅館の場所を聞いたのに、アリシアさん返事をくれなかったんですもん。僕の後ろであなた、お休みにでもなってたんですか?」

 わたしは我を主張したつもりなど毛頭なかったので、そう呆れられてむっとし、いくぶん険しめの応酬をしばしの間アキヒトさんと交わした。

「寝てなんかいませんでしたよ。あんな体勢で、しかも風が吹いて雨が降る中で、寝られなんかするもんですか」 

「それじゃあ何ですか。風の音で僕の声が聞こえなかったんですか」

 そう言われると、わたしは腕組みして頬を膨らまし、「知りませんよ」と返した。アキヒトさんは困惑するように眉を下げ、後ろ頭を掻いた。やれやれと言わんばかりの様子だった。しかし救援を受けた身で、どうしてわたしはその時、そんな驕慢で偉そうな態度を恩人である人に対して取れたのだろう? 今その時を思い返すと、自分が不適当な振る舞い方をしていたことが明白で、わたしはほとほと遺憾に感じるし、反省したい気になりもする。だが、その時のわたしには、思春期の段階へと成長し、一定の知識と分別を持っていたとはいえ、幼稚な子ども特有の無自覚で無反省な、生意気な性分が残っていたのだ。加えて、アキヒトさんのお陰で失っていた元気を回復したことも、そんな態度を取ってしまった原因だったと思う。

 アキヒトさんに言われたように、きっとわがままだったに違いないわたしは、子どもじみた振る舞いをしたせいで、彼を困らせて、こう言わせてしまった。

「それじゃ、もう一度移動しますか?」

 そこでようやくわたしは、遅すぎた感じがあるが、意地をはることをやめ、慎ましくなろうと心掛け、恩人に対して配慮出来るようになれた。

 時間がもう遅く、夜で暗いので、彼が問うたようにするのは躊躇われた。もし出来れば自分の旅館へと帰りたいが、それを申し出るのは、たとえ親切心で問うてくれたとしても、彼にとってきっと迷惑に違いない。また、時間が遅いだけでなく、天候が悪くもあるので、それを考慮すれば、正しい旅館へと彼に改めて送ってもらうのは、やはり遠慮するべきことと思う。そういうわけでわたしは彼に、気遣いはしてくれなくてよいと言った。

 その後アキヒトさんが教えてくれたが、わたしが連れてきてもらったのは、彼が泊まっている宿らしかった。彼は以前別の島におり、最近この島を訪れ、そうしてまた近々別の島へと向かう予定だと教えてくれた。わたしは彼の根無し草のような生活を知ると同時に、わたしの意識を乱し落ち着かなくさせる一つの懸念を抱いた。わたしはひょっとして今夜、アキヒトさんの部屋で、彼と一緒に泊まることになるのではないか? 

 そう予測すると、わたしは自分の顔が熱く火照るのを、見てもいないのに確かに知った気がする。もし今鏡を目の前に置いて、自分の顔を映せば、鏡面では、間違いなく、リンゴのように真っ赤に色付いたわたしの顔が、燃えていることだろう。

 わたしが懸念していることは、ずいぶんまずい、危ぶまれるべきことであった。わたしは14歳であり、うぶであると自覚しているが、男と女の事情について、全くの無知というわけではない。若い男と女が、それもそれなりに親しい、打ち解けた関係にある二人が、一所で一晩過ごすことになった場合に、どういう成り行きを経るのか、見通せないくらいのねんねではない。ある程度は分かるつもりだ。わたしには、情事に詳しい好色の友達がいて、彼女がわたしに、色々と入れ知恵をしてくれる。その子は水の妖精(ウンディーネ)ではなく、わたしが好きでよく通うパン屋さんで働く、見習いのパン職人だ。彼女は筋金入りの噂好きで、パン作りに精進する傍ら、しょっちゅう井戸端会議をして新しい噂の聞き込みをする。パンの材料の買い出しに行く際には必ず寄り道をして、彼女の広大なネットワークを構成するたくさんの知り合いの内の誰かと話し込む。その子はそれゆえ、身の回りの人達の交際についての噂を豊富に知っていて、びっくり仰天するような、どんな表情で聞けばよいのか迷うような、色っぽく熱っぽい、スキャンダラスな出来事の秘話を、わたしや晃ちゃんに、こまごまと説いてくれる。

 その女の子の友達に、不倫だの駆け落ちだのといった噂話をよく吹き込まれたお陰で、わたしは、別に知らなくてもよいような大人びたことを知らされた。そのように、どこか被害者的な立場で言いはするものの、わたしはその話に無関心どころか、うんうんと熱心に相槌を打って秘話の先を促したり、大口を開けて驚いたりし、興味津々に聞き入ったものだ。それゆえ、今夜アキヒトさんとの間にあり得ることを、わたしは色々と予想出来る。今夜起き得ることは、わたしの好色の友達を驚かし、彼女の新しく面白い話の種になるようなことであると、はっきり推知出来る。すっかり無関係な他人の話として聞く時には、情事の内容がどれだけ修羅場的でも泥沼的でも結構だったが、自分がその主要人物になるかも知れないと思うと、どうにもそわそわとしてくる。

 わたしは清楚な水の妖精として、そのコンセプトに準じ、おのれの純潔性(ヴァージニティ)を死守しなければいけない。それが侵され破られるような危うい状況には、決して近付いてはいけない。とはいえ、ここまでその過程が進行してしまっては、最早わたしには引き返す手段など残っていないのではなかろうか。わたしは目下焦っているが、そうしたところで、今更どうにも出来ないのではなかろうか。

 そんなことをおろおろ考えていると、アキヒトさんは言った。

「大丈夫ですよ。余計に部屋を一つ借りますから」

 それを聞いて、わたしは安堵する前に、彼は一体何について大丈夫と言ったのか訝しく思った。ひょっとすると、わたしが描いていた変な、恥ずかしくて言葉に出来ないような想像は、わたしの表情に如実に現れてしまっていたのではないか? そんな気がしないでもない。わたしは先んじて自分があり得ると思った事の成り行きを脳内で経験して、狐につままれたような、ぽかんとした表情をしてしまっていたかも知れない。もし本当にそうだった場合を思うと、わたしは、早合点してしまった無分別な自分が、急に恥ずかしくなった。その後アキヒトさんの顔を直視出来なくなった。

 気詰まりなわたしは、歩き出した彼の後ろを、肩をすぼめ、意識して、あえて遅れて歩いていった。彼は受付で手続きをし、廊下を進んで、一つの部屋へとわたしを導いた。そこがわたしにあてがわれた部屋のようだった。アキヒトさんとわたしは、夜食のため少し後で会うことを約束すると、別れた。彼は自分の部屋と向かった。

 わたしは部屋の中に入ると、単身用のベッドに大の字に倒れこみ、ふかふか柔らかいそこでゆったりと休んで、身体を温め、孤独な彷徨や、好意を持っている人への気後れなどで、ずっと不安に苛まれていた心を、柔らかくほぐした。ぐったりと疲れ果てていたので、一人になったわたしは、それまでの緊張が解かれ、張り詰めていた意識がたゆみ、朦朧とした。意識がたゆんだその勢いで、わたしは目がとろんとし、思わず寝てしまいそうになったが、アキヒトさんとの約束があるので、頑張って意識を明瞭に保とうとし、つらつら考え事をした。今となっては、その時のわたしが何を考えていたのか、はっきりと覚えていない。明らかなのは、大きな安心感がわたしの身と心とを満たしていたということだ。平穏とか平和というものを、その時わたしは初めて確かに知れたような気がする。

 ふとわたしは、ある大事で緊要な用に気付き、はっと跳び起きた。グランマにまだ連絡をしていない。わたしは急ぎ部屋の電話を使い、彼女に繋いだ。彼女はいつまでも帰ってこないし連絡をよこしもしない後輩を怪訝に思って、大層心配しているだろう。物々しい事態を想定して、焦ったり、イライラしたりしているだろう。わたしも同じで、呼び出し音が鳴っている間、早く自分の無事息災を彼女に伝えなければいけないという使命感にじりじりした。やがてグランマは電話に出た。彼女の声はわたしが予想したような、心配する時のいたわるような声だった。グランマはわたしの容態と状況を尋ねた。わたしは苦笑し、自分はぴんぴんしていて問題は一つもなく、行程の途中で小舟がなくなったので、今夜は別の宿に泊まると伝えた。そうすると、グランマは納得してくれ、わたしは彼女と共に安堵した。

 その後わたしはアキヒトさんと再び行動を共にし、広いホールへと行って夜食を取った。一つのテーブルに座り、わたし達はおしゃべりをした。元気を回復したわたしは食欲をもよおしたので、旺盛に食べた。

 話の中でわたしはアキヒトさんに、彼が前日一緒にいた女の人について、いくぶん逡巡しつつ、問い質した。すると彼は、彼女は最近知り合った人であり、あの時は偶然出くわしたため軽く立ち話をしていたに過ぎないと言った。わたしはそれを聞いて、溜飲が下がる思いがし、自分のこれまでの不信が単なる取り越し苦労だったとようやく知ることが出来た。

 わたし達は食事中、和やかに話し合い、笑い合った。その時間は、どれだけ愛おしかったことだろう。わたしは自分が水の妖精であり、ネオ・ヴェネツィアとは別の島へと研修で来ていることを、すっかり忘れてしまっていた。羽目を外すという感じではないが、わたしはもう恋愛めいた時間の歓楽に、快く浸っていた。その時のわたしは、水の妖精ではなく、一人の人間であり、女性であり、アキヒトさんを相手に、かりそめに、恋人の感覚を試しに味わってみるという、稀有で貴重な体験の中に身を置いていた。

 気分を満ち足りたものにし、更にお腹を膨らしもしたわたしは、食事の後、アキヒトさんに就寝の挨拶を告げ、部屋に帰ると、シャワーを浴びて消灯し、ベッドに戻った。その夜は、島での滞在の日々の中で、最も充実した夜だった。そのせいでわたしは、疲れていたのに中々眠りに付けなかった。もし仮に、あの夜を今取り戻せるなら、わたしはどんな対価をも惜しまないだろう。しかし時間というものは、一回限りで尽きてしまう儚い消耗品であった。

 そういうことを当時のわたしは、未熟ながらもちゃんと理解していた。だからその夜は、眠りにくいことを利用して、すぐに寝ようとはせず、その日あったことを――不運な苦難の起こりから、救いまでの一連の記憶を、全部はっきりと思い起こし、心に刻めるようじっくり味わい尽くし、夢へと、明日へと、もし出来れば、永遠の未来へと、保存しようとしたのだ。そうしたのは、きっと正解だったと思う。なぜならわたしは、数年経った今でもなお、当時のことをきちんと、日記を書きもしなかったのに、詳しく思い出し、その時と同じ感覚で、その記憶が再現する現実を、追体験することが出来るのだから。



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【8】

 興奮とそれによる覚醒のため中々明けず長引いたわたしの夜が、とうとう明けた。闇が統べていた空には鮮明な朝日が差し、胸がすくような青色がその黒い面を覆って行った。

 わたしはアキヒトさんと会って朝の挨拶を交わすと、彼に事情を説明し、恐らく雨に流されたためになくなってしまったであろう小舟を探すのを手伝ってもらった。彼が寛大に頼まれてくれたので、わたしは大層ありがたく思った。

 湖まで向かい、二人で手分けして辺りを歩き回り、広い湖面のどこかに漂っているはずの一艘を求めた。湖の水面が初夏の陽光を燦々と反射してまばゆく、隅々まで見渡そうとする目がしょぼしょぼと痛み、そのせいで小舟探しは難航した。

 が、幸い小舟は見つかった。失っていた水の妖精(ウンディーネ)の必需品を見つけて取り戻し、そうして注意の浅かったうっかり者のわたしは、ようやくみずから潰してしまった面目を回復することが出来たわけだ。

「万事解決しましたね」、とアキヒトさんは言った。

 わたしと同じように安堵してくれているらしい彼に、「本当に」を付けて感謝を述べたわたしは、彼との別離をはっきり予覚し、物寂しい感じを覚えた。

 オールを携えて頭を下げているわたしは、別離を悟った瞬間急に、何かに身体を堅く拘束されたように、窮屈に、不如意に感じた。どうしようかという迷いが、わたしを拘束したのだった。アキヒトさんは間もなくわたしのもとを去ってしまうだろう。それは別に何も疑問に感じる必要のないことであり、そうなるのは自然の成り行きであった。わたしは昨晩迷子のような身柄を彼に助けられ、迷惑を掛け、世話になり、今朝も小舟を探し出すためその力を借りた。そうしてわたしは彼に対し、感謝を述べた。だが、述べるべきことは、感謝だけではないはずだ。他にも述べるべきことが、感謝と同じか、あるいはそれ以上に重要で、言い忘れてはいけない切なる何かがあったはずだ。それはわたしにとって、あえて言うまでもないくらい明白だ。わたしは自分の心中にある伝えるべきそれを――アキヒトさんへの好意を、把握しており、いつでもそれを明言出来る。帰りかけているアキヒトさんを引き留めて、その関心を寄せ、告げさえすれば、それでわたしが彼に対し負っている、感謝とそれ以外のものは、一切彼の前に打ち明けてしまえるわけだ。しかしわたしの喉は、詰まっていた。何か堅くて除けられそうにないものが、わたしの胸にわだかまる思いを喉でせきとめ、外に出ないようにしていた。わたしは知っている。それは怯懦であった。わたしがもし勇気という徳を養っていて、その徳でもって、今内面で行われている怯懦との戦いを制し、それを奮い起こせば、そんなものは乾いた空気の霧のように、簡単に消えてしまう。なのにわたしは、どうしても勇気が出せなかった。怯懦は頑なにわたしの思いの表出を阻んだ。わたしは好意の告白を拒んではいなかったが、怯懦は強力で、その実行を食い止めた。諦めの苦笑が、微かに漏れた。その苦笑は、怯懦との戦いにわたしが破れたことを意味した。

 わたしが頭を上げると、アキヒトさんはオートバイにまたがってエンジンをふかし、「それじゃ」とだけ短く言って、走り去って行ってしまった。エンジンの轟音は、彼が行く時に強くぶわっと吹いて来た朝の風の音と相殺し合って、余り大きくは聞こえなかった。その清爽な風は、わたしの胸に燃え、わたしに告白を推奨し、強いていた火を弱め、更に言えば、吹き消してしまった気がする。その後わたしは魂が抜けたように放心し、それまで何を思い考えていたのか、また望んでいたのか、ほとんど忘失してしまった。

 意気消沈したわたしは、仕方なく小舟に乗って水面を進み、グランマが待っている旅館へと帰って、彼女と再会した。彼女は無事なわたしの帰来に安心して喜び、いたわって、本来あるはずの今日の小舟漕ぎの研修を取りやめにしてくれた。そうしてくれて、わたしは助かった。もしも研修があったとしても、しょんぼりしているわたしは力が入らず、実力の半分さえ出すことは出来なかったと思う。

 その日のわたしは旅館に帰ると、部屋に閉じこもり、布団にずっと寝込んで、途切れ途切れの惰眠に、呆れかえってしまうくらい長い時間を費やした。その間、別にわたしは物思いに浸るということはしなかった。単純に気だるくて、何もかもが億劫で出来そうになかったので、そうしたのだ。

 そのお陰か、翌日わたしは少し元気に活発になった。研修の時、わたしは前の日々よりずっと高い速度で小舟を漕ぎ進め、まだ記憶に新しい、アキヒトさんに連れて行ってもらい、一晩だけ泊まった旅館へと向かった。そうしてそこで受付の人に彼の所在を尋ねたが、その人は、彼はもう宿泊を終え、朝出かけてしまったと教えた。わたしは彼との再会を断念せざるを得なかった。

 旅館を出て、わたしは虚脱感とか、喪失感というものを味わった。帰りの航路を進む時、わたしの小舟の速度は、行きは高かったのに、悄然としたわたしの感情により、その半分にも満たない牛歩の速度へと落ち込んでしまっていた。

 だが、グランマが待ち構えている岸へと付く前、遠くの山並みのそばに掛かる鮮やかな夕日の輝きを見て、わたしは何となく、これでよかったのだと感じた。何も問題はなく、全ては正しく起こり、済んだのだと感じた。何かを諦めるということを、14歳というまだ我意の強い年齢にも関わらず、その時のわたしはすんなりと出来た。ひょっとすると、アキヒトさんとの出逢いと、彼との間に起きた色々な出来事を通じて、わたしは成長出来たのかも知れない。そう思うと、何だか嬉しくなって来て、手でひさしを作って眺めているまるい夕日が、何だかわたしに微笑みかけてくれるように見えてくる。夕日が、しゃべるはずなどないのに、わたしの楽天的な思い込みに過ぎないかも知れない推測に対し、その通りだと言って頷いてくれているように見えてくる。わたしは安心し、円満な気持ちで岸に着き、その日の行程を終えた。

 旅館の部屋に帰ると発見があった。パソコンに晃ちゃんの返事が届いていた。彼女はわたしに、彼女にとっては日常茶飯のわたしの今回の恋愛も、いつものようにまた、実りなく終わってしまうだろうという予測を、いくぶんの嘲りと友情をこめて伝えた。実際わたしの恋はその通り、成就せずに半端なところで絶えたので、わたしは苦笑を禁じ得なかった。わたしはぶきっちょな馬鹿者であった。せっかく自分の気に入る男の人と親密になれ、しかも、彼との関係を進展させられる見込みがあったのに、あえなく別れてしまったのだ。実に虚しく悲しいことだ。しかしその結果に、不思議と涙は出なかった。涙が出ないどころか、むしろわたしは、満足に微笑むことが出来た。

 

 

「それ以来、アキヒトさんとは会ってないんですか?」

 灯里が尋ねた。アリシアは両手に載せるように持つカップの中身をすすると、「えぇ」と答えた。その後彼女は、まだ中身が残っており、その表面に自分の姿が揺らめいて映るカップの中を、遠くを見つめる時のように、目を細めて見つめた。

「彼が好きだったはずなのに」、と彼女は言った。「こんなに簡単に別れてしまうことがあるのね。わたしの話したのは、物悲しい話かも知れないけど、不思議と未練はないのよね」

 アリシアはそう言うと、「ふふ」、と目で優雅な曲線を二本作って微笑んだ。14歳の時の面影が、19歳である今の彼女の表情に潜んでいるようだった。灯里はその表情を不思議がるように、見惚れるように見つめた。

「でもね」、とアリシアは言った「その話はまだ終わっていないと、わたしは思ってるの。ひょっとするとアキヒトさんは、いつかネオ・ヴェネツィアを訪れて、ARIAカンパニーに、水先案内を頼みに来てくれるかも知れない」

 そこまで言うと、アリシアは目を開き、淡い青色をたたえる瞳を見せた。

「もし本当にそうなったら、わたしの話は、長いブランクを閉じて、その続きを始めるのよ」

 未来を楽しみに夢見る彼女の姿に、灯里は柔和に微笑みかけ、しみじみする様子で「素敵ですね」と答えた。「アキヒトさん、早くアリシアさんに会いに来てくれるといいですね。」

 後輩の言に、アリシアは嬉しげに頷いた。

 灯里は小首を傾げ、「でもアリシアさん」、と彼女に呼び掛けた。「もしアキヒトさんとまた会えたら、その時はどうするんですか?」

 そこまで言って、灯里は「あっ」と何かを思い出したように発した。「先に言って置きますけど、水先案内という答えはなしですよ。それは当然することなので。問題はその他です。アリシアさんにとってアキヒトさんは、水先案内だけで済むお客様じゃないですよね?」

 恋の話となると、男もそうだが、特に女は、好奇心が高じるゆえ、核心に迫るような突っ込んだことを聞きたがるものである。灯里はまったくのうぶではなく、ある程度事に通じており、彼女が聞いたのは、そのような鋭い問いであった。しかしアリシアの方がうわてのようで、彼女は「それはあんまり分からないわね。寝る時に考えてみるわ」、と、後輩の追及をいなすように答えた。期待していたものと違う答えを聞いて、灯里はがっかりするような顔を見せた。

「さぁ灯里ちゃん」とアリシアは言った。「そろそろ寝ることにしましょう。もうずいぶん遅くなってしまったわ」

 そう言われ、話を締めくくられそうになると、灯里は「エ~」と発し、露骨に幻滅を示した。「アリシアさんずるいです。今考えて教えて下さい~!」

 しかしアリシアは「ふふ」、とふくよかに笑うのみで、答えてはくれなかった。

 彼女は軽食で用いた食器類を片すと、寝間着に着替えた、まだ不服そうな様子の灯里に就寝の挨拶と別れを告げた。アリシアは灯里が、寝るまでにしばらくは自分の真意について、悶々と考えあぐねるだろうと予測し、彼女に対し、いくぶん意地悪な満足と、小動物や健気な子どもに対して感じるような、信頼感や愛着を含んだ好意とを覚えた。

 ARIAカンパニーの外に出たアリシアは、夜更けの空を見上げた。曇っていて、星が一粒もなく、まったく暗かった。そして、辺りの空気がじっとり湿っていた。もしかすると雨が降るかも知れないと彼女は考えた。傘は持って来ていなかった。彼女はARIAカンパニーに戻って傘を持って来ようかと思ったが、少し考えて、結局そうはしなかった。雨に降られても別によいという安心めいた思いを抱いて、彼女は家への道のりを歩き出した。

 アリシアは思っていた――もし雨が降って来て濡れてしまったとしても、別によいのだ。わたしはきっと、雨に降られることを受け入れることが出来る。なぜと言うに今は、さっき思い出したばかりの、甘くもあり苦くもある、かつて焦がれた彼との思い出が――その内の、雨にそぼ濡れ、さまよい、彼に救われた日の記憶が、わたしの雨への嫌悪と懸念とをすっかり打ち消し、懐かしいあの日の、まだ若く恋にまみれていた青臭い自分へと、かりそめに返るすべとなってくれているのだから。

 

(完)



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