荀シン(何故か変換できない)が恋姫的世界で奮闘するようです (なんやかんや)
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前編
WAFUKUチート


どこかの中国三国志っぽい世界、具体的には恋姫的な外史的な世界に一人の赤子が生まれた。

名は荀シン(何故か変換できない)。字は友若。

ただの赤子ではない。

転生者であった。

テンプレ的にトラックに轢かれ、テンプレ的な神との出会いなどがあったが、ここでは省略する。

そして、友若はやはり幼い頃からテンプレ的にその才能を示し、そして挫折した。

この世界の英雄は10代から20代程度で国家を樹立するほどの才能を持っている。

長年、宮廷や各地で勢力拡大に明け暮れてきた老練な実力者達をたやすく蹴散らす彼女達を前に、前世のチート知識(笑)など欠片も役に立たない。

当然ながら、非凡な彼女達は10代においても圧倒的な才覚を示す。転生者たる友若すら圧倒するほどに。

友若の妹、荀彧。彼女もまた凄まじい才能を示した。

プライドの高い友若は自らの優位を示そうとあがき続けた。

だが、12歳の時、7歳の妹相手に議論で叩きのめされた際に、友若はとうとう己の才能を見限った。

自分が選ばれた存在だとか、そういう類の中二病を卒業したのだ。

 

友若が三国志関係の未来知識を殆ど持っていないことも彼が賢者モードになることを後押しした。

歴史なんてものにさしたる興味もなかった友若の前世の人。彼の知る三国志関係の人物といえば、劉備と関羽ともう一人の義兄弟(名前は忘れた)、公明先生、曹操、あと孫なんとかくらいであった。

これはひどいと言わざるを得ない。

三国志のメインである三国の一国の国王名すら覚えていないのだから。

三国志演義では後半やたら影が薄い国家ではあるが、赤壁とか関羽の殺害とか、色々と見せ場もあったはずである。少しでも三国志を知っている人間なら孫堅と、孫策、孫権くらいの名前は知っているはずであろう。

だが、友若はまるでそんな事を覚えていなかった。呂布や董卓といった名前も知らないくらいだ。

唯一覚えている逸話は、曹操が29歳の時に黄巾党を打ち破ったというものだった。30引く1の年齢である。

啓蒙書で読んだどうでも良い知識に限って友若は覚えていた。

何の役にも立ちそうにない、と友若は嘆いた。

 

ともかく、己の才を見限った友若は今後どう生きるかを決めなければならなかった。

とりあえず、年齢を経る事に罵倒の激しさを増していく異常なレベルで優秀な妹がいる家からはさっさと離れたかった友若。

自尊心に傷を付けた妹と同じ屋根の下で暮らすということは、プライドの高い友若にとってストレス以外の何物でもなかったのである。

という訳で、友若は母に願い、洛陽へ留学することにした。

 

幸いにして友若の生まれたゆとり三国志たるこの世界において、食べるだけならそこまで困りはしない。

正史におけるこの時代、黄巾の乱は詰まるところ食い詰めた民の反乱であった。

ところが、この世界では違う。

アイドルの追っかけとかワンダーな集団こそが後漢を滅亡へと追いやる原因となった黄巾党なのである。

基本的に、芸役者などの娯楽は衣食住にある程度の余裕がなければ存在できない。

特に、衣については明らかにオーパーツとしか思えない衣服が辺境まで広まっているこの世界、ある程度の階級に属している女性ならば相当なものを身に纏うことが出来る。

ともかく、大人しくさえしていれば、生き延びること事態は十分に可能なのだ。

 

ではどうするか、と友若は考えた。

神的な何かから、この時代が三国志ベースであると知っている彼にとって、今後起こるであろう黄巾の乱と、その後の戦乱は重大な情報だ。

戦乱とはつまり弱い人間は簡単に死ぬということだ。

命が何より大事とはっきり叫ぶほど生に固執しているつもりはない友若であるが、戦火の中で死にたくはない。

その時点で、学問を修め、官僚として就職して、栄達を目指すといった選択肢は友若にとって微妙なものであった。

三国志的な世界だということは、漢という国家は近いうちに消失するのである。

再就職の道が殆ど無い就職氷河期で散々苦労した記憶を持つ友若にとって、先のない会社や組織への加入は避けるべきことであった。

寄らば大樹、将来安泰の所に身を寄せたい。

さらに、現在の帝によって千を超える官僚の首が飛んだことも友若に官僚としてのライフ設計を躊躇させた。

ドロドロの政争とかを勝ち抜くだけの実力があるという自信はトラウマたる妹にいびられ続けた友若には殆ど存在しなかった。

賄賂を貰えば相当に稼げると入っても、それは道義上の弱みとなってしまう。

漢に代わって立つ三国が人気取りのために民草から富を搾取したという名目で漢帝国の官僚を人気取りの生贄に使う可能性もあるのだ。

上手く立ち回ればいいのかもしれないが、妹のような天才相手にそれが出来るとは友若には思えなかった。

 

ならば、今後勝ち組となる曹操や劉備、もしくは孫なんとか辺りの所の部下になるのはどうか、と友若は考えた。

残念なことに劉備と孫なんとかに関しては、一介の書生にすぎない友若の力ではどこにいるかさえ突き止めることができなかった。

だが、曹操に関しては洛陽で有名だったこともあり、その姿を目にすることができた。

 

「うん、あれはないな」

 

妹と同じように10代にも及ばない年齢で孫氏を暗記して、注釈本まで書いたとか、友若からすれば妹同様に意味不明な逸話を無数に持つ曹操の姿を見て彼はそう呟いた。

トラウマである妹を強く連想させる人間の下に付くなど、何のために洛陽に来たのか分からなくなってしまう。

 

「とりあえず、黄巾の乱まで20年はあることが分かったのは収穫だけどなあ」

 

曹操の年齢から黄巾の乱が大分先の話だと判断した友若はそうぼやいた。、

戦乱の時代がだいぶ先だと分かった友若はかなり心の安定を取り戻した。

30代で死んでいいなどと思うほどに友若は生き急いではいない。

だが、危機が当分先であり、今は黄巾党の問題を考えずに済むということは、友若にとって心の重荷の一つが取り除かれた気分であった。

 

とりあえず、この20年で金を貯めて、黄巾の乱が起きたら安全そうな所に逃げよう、と友若は最終的に決めた。

後ろ向きこの上ない決断であるが、凡人の自分が何をやった所で天才、というかバケモノに勝てるわけないし、命あっての物種だよね、と友若はヘたれにへたれていた。

 

さて、金を貯めるにあたって何をするべきか、と友若は考える。

ちなみに、金稼ぎの元手は母から渡された学費である。

官僚生活に興味のない友若は学費を使い込む気満々であった。最低である。

なるべく楽に稼ぎたい友若にとって肉体的な労力を必要とする農業というのは選択肢に入るものではなかった。

 

「なるべく楽に大金が稼げるような仕事……やはり、あれだな」

 

洛陽を見て回り市場調査を済ませた彼は決断する。

 

「服屋……いや、和服屋をやろう」

 

こうして恋姫的な世界で友若のWAFUKUチートが幕を開ける。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

さて、恋姫的な世界で何故友若が和服屋をやろうと考えるに至ったのか。

その背景を一言で説明すると、衣服市場の巨大さである。

恋姫的な世界の有力な女性たちは特徴的かつ高価そうな衣服を身にまとっている。

それらの構造や配色は勢力ごとにある程度類似はしているものの、細部を見れば全員が異なったデザインの物を着こなしている。

つまり、彼女たちの服は全てオーダーメイドで作られているということになる。

その上、紋様や絵が描かれた生地や、縁取りが別配色になっている構成など、相当に手間暇がかかっている。

男性の服は何故か適当な事が多い気がするが。多分、女尊男卑の恋姫世界において女性の化粧や衣装というの正史を遥かに超えて重要視されているとかそんなところだろう。華陀などは毛皮と思われる高級な服を着ているし、男性も衣服に全く投資しないというわけではないだろうが。

ともかく、彼女たちの服装には相当の金――日本円にして本当に安いもので数万円相当から、高いものでは1000万円相当くらいはかかっているはずである。宝石とか貴金属があしらわれた曹操の服とか1億円相当を超えていたとしても驚きはしない。

もちろん、彼女たちが一張羅とかそんな馬鹿なことはあるわけがないし、よほどずぼらな女性でも年に数回、人によっては毎日新しい服に買い換えるとかだろう。

それがどれほどの市場を生むか。

とりあえず、漢帝国の服を変える経済力を持った女性達一人辺りの平均として年間100万くらいを服に費やすと仮定しよう。

かなり安めに見積もっているつもりだ。

もちろん、こうした服を購入可能なのは中流から上流層のみだろう。ここに中流層を含めたのは裕福とはいえないはずの劉備などが普通にオーダーメイドと思しき服を身にまとっているからである。自らの贅沢よりも貧しい民草を優先する劉備がこうした高価な服を身にまとっているということは、貧民でない女性はそれなりに着飾ることがマナー、常識となっていると考えられる。

まあ、後述するが、これは決して悪いことではない。

ともかく、中流、上流階級の人口をここでは10%と仮定して、女性の分としてその半分、総人口の5%が毎年100万円相当の金銭を衣服に投じるものと考えよう。

黄巾の乱が起きる前の漢の人口は5600万くらい。

 

ちなみに、三国時代にはこれが800万くらいまで落ち込むという、どうしてこうなった的な煉獄が発生する。

そんな事をまるで知らない友若は気楽なものだが、金を持っていたとしても、戦乱の時代を生き抜くことは難しいのだ。

まあ、これは戸籍管理ができなくなったために生じた人口減少であろうが、それでも少なからぬ人間が戦火に死んでいったことは疑いようもない。

 

話を衣服の市場に戻そう。

上記仮定から人口5600万の5%が年間衣服に100万円相当を費やすと仮定した。

その仮定を元に計算すると、漢の衣服市場は日本円にして年間2.8兆円相当の超巨大市場ということになる。

五銖銭の価値を日本円にして100円とすると年間売上高280億銭である。

当時の漢帝国の歳入が11億銭くらいであることを考えると国家予算の25倍。

超がつく巨大市場である。

そして、これはあくまで比較的『安い』衣服で物事を考えた場合である。

超富裕層が衣服に対して年間に費やす金額を計算に入れると、市場は更に大きくなるだろう。

 

そして、この巨大市場のために恋姫的な世界では漢王朝が腐敗した中でも民が餓死するまでは至っていないのである。

正史では、豪族が自らの荘園で自給自足して貨幣を貯めこんだ結果、この時代深刻なデフレが発生していた。

税金額は固定制だったため、デフレはすなわち増税を意味する。

さらに官吏に払う賃金が現物支給になったりと、色々と問題を引き起こしていた。

ところが、恋姫的世界では衣服市場によって豪族達が一定の資金を市場に流している。

そのため、正史と比較してデフレの進行が抑えられ農民達の生活もそこまで追い詰められていないのである。

 

とまあ、色々述べてきたが、よくよく考えると矛盾が出てきてしまう。だが、このssではこうした方向性で進めていくことにする。

主要キャラクター以外、基本的に服が地味だとか、そんな事実はないのである。

 

まあ、そんな事は友若にはどうでも良かった。

彼にとって重要なのは、衣服市場が非常に大きいという事と、個性的な衣服に対して大枚を叩く物好きがいるという事である。

多くの商品の価格が国家によって規定されている漢帝国で唯一といっていいほど活発かつ自由な衣服市場。

商売の伝やノウハウを持たず、アイデアだけの新参者が参入するに適した市場であるはずだった。

 

友若はこの巨大市場にチート知識(笑)を利用し作成したWAFUKUを持って戦いを挑む……!

 



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崖っぷち婚活戦士(29)現在15代目彼氏と交際中

オリキャラ、オリ設定ばかりです。


友若が販売を始めたWAFUKUは当初全く売れなかった。

友若のWAFUKUは余りに斬新すぎたのだ。

もちろん、市場では斬新なデザインが持て囃されているが、斬新さにも限度というものがある。

あと、友若は市場のトレンドを外していた。

一応狙いはあったのだが、上手くは行かなかったのだ。

 

この時代のトレンドはセクシャルで露出度の高い水着のような服であった。太ももを隠すスカートのような布はひざ上20cmとか、そんなもんである。

階段下から見上げれば確実に見える。

このような服が流行している背景は結婚率の低下であった。

 

女尊男卑の恋姫的な世界ではやたらと気の強い女性が多い。

男性兵士を力で真正面から圧倒する武将もいれば、男性に対して圧倒的な能力差を示す文官もいる。

そのため、この恋姫的世界における男女関係の多くは現代風に表せば、ヒモとバリバリの企業戦士とかそんな感じになる。

それがこの世界の普通であった。

この世界の女性達にしてみれば、女子の理想とは偉大なる将軍や行政官のように強く賢く美しくなることである。

もちろん、そうしたタイプが好みだと言う男性は一定数存在する。彼らは結婚後主夫として、こうした女性たちの縁の下の力持ちとして活躍している。

だが、一方で庇護欲を誘うようなタイプが良い、と強く主張する男性もいる。というか、こんな世界にも関わらず、そうした男は多かった。

劉備がやたらとモテるのもそうした理由である。アイドルが異常に流行ったのも同様の理由であった。

不幸なことに、この世界において、多くの男性の理想は小動物系女子や可愛い系女子であり、一騎当千系女子やチート軍師系女子では無かったのである。

結果として、この世界では女性が理想とするタイプのマジョリティー、『強く賢く美しく』と、男性の女性に求めるタイプのマジョリティー、『か弱くアホ可愛く純真』との間で不一致が生じていた。

売り手側と買い手側の悲しいミスマッチである。

 

え? 気の強い女性のほうがいいに決まっている? それについては強く同意するが、この作品ではこうした方向性で進めていくので、あしからず。

 

また、男性としては本能的に女性を独占したいものだが、女性としては条件が悪ければよりよい男子に乗り換えたいと思うものである。

自分の遺伝子を可能な限り残す戦略として最適化すれば自然とそうなる。

正史では基本的に男性が女性に対して全体的に優位であったために、女性は男性に独占されるものであった。

ところがこの外史においては女性が全体的に優位であるため、正史のようには行かない。

種馬というものは、より良い種馬がいれば簡単に切り捨てられるのである。

儒教的に離婚や浮気というのは悪とされてはいたが、この世界で妻の浮気を防ぐにものはせいぜいこうした道徳精神程度しかなかった。

各方面から怒られそうだから、一応補足しておくと、もちろんこの世界には一途で決してNTR等起こらない素晴らしい女性も沢山いる。ある外史で北郷が関係を結んだ女性達は皆一途で貞淑であるし、それ以外にもそうした女性は多くいる。

とは言え、全体としてみた場合、浮気をする女性というのはある割合で存在し、その際にその不純を罰するだけの力が夫の側にないのである。

 

するとどうなるか。

種としての本能として男性は、浮気しなさそうな一途な女性を選びたいのである。

さて、ある男性が3名の女性から交際相手や結婚相手を選択する場合を考えよう。

それぞれの女性のタイプは一騎当千系、チート軍師系、小動物系である。

この中でどのタイプが最も一途な女性である可能性が高いだろうか。

男性としては最後のタイプが最も浮気とかしなさそうだと考えるのである。もしくは清楚系。

ただの偏見であるが、この偏見というものは社会的に見て馬鹿に出来ない。

結果として、婚活市場で早々と売れていくのは小動物系や清楚系となる。

強く賢い女性という理想を体現したかのような女性は、婚活市場では売れ残り易いのである。

 

ところが、女性たちは結婚をしないと済ませる訳にはいかない。

この恋姫的な世界でも儒教は人々の考えの根底を形成している。

その思想に依れば、結婚をして子供を産まないことはそれだけで罪である。

何としてでも結婚相手を見つけて子供を産まなければならない。

結果として、婚活系女子達の多くは露出度の高い服を身にまとうようになる。

その色香につられてふらふらと近づいてきた男性の中から有望そうなのを食虫植物のようにぱくりといただくのである。

けしからん事この上ない。

 

とはいえ、多くの男性にしてみれば、いつ浮気されるかも、捨てられるかも分からない相手と結ばれたくはない。

恋姫的な世界でもNTR属性の無い男子の方が多いのである。

正史でもそうだが、多くの男性にとって昼間からセクシャルな相手とは一夜の関係で済ませるべきものであって連れ添うべき相手ではないのだ。

 

もちろん、男性側のそうした心理を心得た一部にはあたかも可愛く小動物系であるかのように装う女性もいる。

彼女たちは流行から一歩引いた露出度の低い衣服に身を包む。

友若としては、こうした女性たちを対象として、外面が非常に清楚に映えるWAFUKUを売りだした。

こうした男性に媚びを売るタイプの女性は多数派ではなかったが、一定数存在することは確かである。

友若のWAFUKU商売は、市場への新規参入ではニッチな需要を満たす商品を提供すべしという経営戦略にも叶った判断のはずであった。

 

しかしながら、先にも述べたように残念なことにWAFUKUというものは余りにも斬新にすぎた。

友若が顧客として想定した猫被り系女子にとって、斬新すぎるというのは決して良いことではない。

彼女たちは自らを小動物系や純真系と見せかけたいわけであり、奇抜な格好を好む変人などと思われたい訳ではない。

猫かぶり系女子が好む衣服は今どきのトレンドに沿いつつも露出を控えめにした衣装であった。

友若の市場調査ミスである。

 

見切り発車で商売を始めた友若は学資として渡された資金の殆どをWAFUKUに変えていた。

結果として友若は処理に困る大量の不良在庫を抱え込んだのである。

資金難に喘ぎ、食うものにも事欠いて、あわや餓死しかけた友若。

そんなどうしようもない友若を救ったのは、洛陽で憲兵をしていた崖っぷち婚活戦士(29)現在15代目彼氏と交際中であった。

強く、気高く、生真面目であった婚活戦士(29)は餓死しかけていた友若(自業自得)に対して食事を提供するどころか、当座を凌ぐ資金を渡した。

女神のような婚活戦士(29)に感激した友若はせめてものお礼にと、彼が不良在庫として抱えていたWAFUKUを一着差し出した。

婚活戦士(29)は最初、礼を期待して助けたわけではないと友若の申し出を断ったが、根気強くお礼がしたいという友若に根負けして、彼がデザインしたWAFUKUを受け取った。

この時の友若は人の優しさというものに触れて、日ごろのプライドを失っていた。

そして、それが功を奏する事になる。

 

婚活戦士(29)は当初友若から貰ったWAFUKUを持て余した。

もう後がない婚活戦士(29)にとって奇抜に見えるWAFUKUを身にまとうということは相当な賭けであった。

しかしながら、今までの涙ぐましい努力が一向に成果を上げていないことや、最近彼氏との関係が微妙になりつつあること、同僚に何ヶ月で別れるかを賭けの対象にされていることに焦っていた婚活戦士(29)は、日本風に言えば清水の大舞台を飛び降りる覚悟でWAFUKUを着込んでデートに出かけ、ものの見事にゴールインしてみせた。

普段着慣れていない和服に戸惑ったり、いつもの様に大股であることができず、つんのめってあわわとなりかけたり、友若のWAFUKUには下着を着けないという言葉に従った結果として羞恥心で顔を真赤に染めたことが交際中の彼氏の心の琴線にビンビンと触れたのだ。

 

婚活戦士(29)改め、幸せな新婚憲兵(29)がひと月で別れると賭けていた同僚(28)は結果として、結婚まで至る事に賭けていた純朴な新人に給料の半分奪われた。

不幸な事件であった。

同僚(28)は腹いせとばかりに友若に文句を言いにやって来た。

そして、数時間にわたって愚痴り続けた後、同僚(28)は友若の抱えていたWAFUKUの在庫を買い占めて去っていった。

一週間後、友若のWAFUKUには注文が殺到する。

WAFUKUを着た女性が立て続けにゴールインしたという噂が洛陽の女性たちの間に広まったのだ。

 

何故WAFUKUを着込んだがこれほどまでに成功を収めたのか。

その答えはギャップ萌えである。

 

前提としてこの恋姫的世界の武人がどのような存在かを説明しよう。

基本的に恋姫世界の女性の武人は男性に比べて圧倒的な性能を誇る。

何しろトップ層は人を切るのではなく吹き飛ばすのだ。

例えばこの世界のとある呂布的なチート武将である誰とは言わないが奉先は人間を楽々と10mは殴り飛ばす。

ここで人間の体重を70kg、身長を170cmで殆ど水平に吹き飛ばされると仮定すると、その初速度は17m/s。時速に直すと60km/hを超える。

簡単な物理法則から考えると、拳の接触時間を0.01秒とすれば、奉先のパンチ力は12トンである。

あのボブサップは210kgだ。奉先さんのパンチ力は60倍ということになる。

なにそれ怖い。

ともかく、恋姫的な世界の武人というものは、男性にとってなかなか近づきがたい相手なのである。

奉先さん程ではないにしても、きゃーエッチとかそんな感じでビンタを食らったとすると、当たりどころが悪ければそれだけで死にかねない。

 

というわけで、男性は武人と相対する際は常に極限の緊張を強いられる。

相手が真面目なタイプであれば尚更だ。

例として、匿名希望の崖っぷち婚活戦士(29)現在15代目彼氏と交際中(元)の交際事情について考察してみよう。

なんだかんだ言って見目麗しく真面目で思いやりのある匿名希望の婚活戦士(29、元)はそれなりに男性を惹きつける。

例えば、婚活戦士(29、元)の下に配属された新人の兵士とかは結構な確率で彼女に惹かれるのである。

婚活戦士(29、元)の名誉のために言っておくと彼女には若いツバメとかそんなゲスな考えはない。

ともかく、婚活戦士(29、元)に憧れた若いツバメは精一杯の勇気を振り絞って付き合ってくださいと告白するのである。

婚活戦士(29、元)もにくからず思っている真面目な部下に今度こそはと応じるのである。

そして、交際を初めて、清く正しくデートとかをするわけなのだが……

婚活戦士(29、元)は武人であることにそれなりに誇りを持っているわけだから、デートの時も常に凛とした態度を崩さない。

自分のアピールポイントを全面に出す戦術である。

若くて真面目なツバメ君が婚活戦士(29、元)に惹かれたのもそれが理由であるから、彼女としてはその前提を崩さないように必死なのである。

もうそろそろ、本当に後がないわけであるし。

そして、この優位な点で戦うというのは戦術の基本である。あるのだが。

しかし、誰とは言わないが婚活戦士(29、元)の真面目であるという特徴は男性から見た場合、必ずしも優位点とはならないのである。

男性としては甘酸っぱい体験とかAとかBとかCとかがしたいのだ。本音を言えばもっと先までしたいのである。

三大欲求の一つである性欲に男性は逆らえないものなのである。

女性優位な社会であるため、娼婦とかが不足気味な社会情勢もそれを後押ししていた。

ぶっちゃけ溜まっている。

ところが、真面目一辺倒を必死にアピールする婚活戦士(29、元)はとてもじゃないがヤろうとか言える雰囲気ではない。それどころかキスや手を繋ぐといったデートの基本すらも中々できないのである。

その結果男性はデートの最中、ずっと悶々とした気持ちに苛まれることになる。

甘酸っぱい思い出を作るはずのデートでさえこれなのだ。結婚なんかしたら気の休まる時がないじゃないか。

若いツバメ君がそう思ったとしてもおかしくない。

確かに、若いツバメ君は婚活戦士(29、元)の事を尊敬しているし、憧れている。

でも、健全な男子としてはなんというかイケナイコトをしたくてしたくてたまらないのだ。

終わりの見えないお預け状態には耐えられないのだ。

そして、婚活戦士(29、元)と若いツバメ君の関係はだんだんと冷めていき、焦った婚活戦士(29、元)がもっと生真面目に、凛としてと振る舞うも、それはむしろ逆効果で……

実際、そんな感じの理由で、婚活戦士(29、元)、現在15代目彼氏と交際中だった幸せな新婚憲兵(29)は連敗につづ連敗を重ねていた。

 

ここで、こうした生真面目系がWAFUKUを来てデートにやってくるとどうなるか。

WAFUKUというのはやたら歩幅が狭い。

普段足元が開放的な恋姫世界の女性たちにしてみればちょっとした拘束レベルである。

着慣れていない女性たちにしてみればWAFUKUは歩きにくくて仕方がない。

バランス感覚に優れた武人とは言えど、いや、だからこそ、普段と異なる歩幅に躓いたりするわけである。

どこかの誰とは言わないが奉先という呂布のような人ならそれでも問題なく歩いてみせるのだろうが、そこそこの武人である憲兵にとってはそれは不可能だ。

結果、つまずいでおでこあたりを地面にぶつけ、涙目になるのである。

慣れないWAFUKUを着た婚活戦士(29、元)が躓くのは一度や二度ではない。

そして、婚活戦士(29、元)が転びそうになれば、若いツバメ君としても彼女の体を支えるべく体に直接触れることができるのだ。

長い間、触ることも出来なかった婚活戦士(29、元)の体、そして、日頃見せない醜態に湯気が出そうなまでに顔を赤らめて恥ずかしそうにする様子。

普段の毅然とした完璧超人的な様子とのギャップはYAMATONADESHIKO的な雰囲気も相まって凄まじい破壊力を持っていた。

倦怠期から一瞬で結婚まで行くのも無理は無い。

 

友若は予想もしていなかったことだが、そんな訳でWAFUKUは生真面目武人系女子の婚活における最終兵器として漢帝国に知れ渡り、莫大な売上をもたらしたのである。

 



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荀シン(何故か変換できない)の栄光ある転進

友若がWAFUKUを商い始めて1年が経った。

 

「いや、儲かる儲かる。しかも有名になったもんだ」

 

友若は上機嫌だった。

かつて、使えると思っていた各種チート知識、鐙や火薬、レンズといったそれはまるで役に立たず、妹にボロクソに言われて終わった。

その経験からイタい中二病を完全に卒業した友若であったが、思わぬ転生チート知識(笑)であるWAFUKUでかなりの財を成したことで調子に乗っていた。

婚活に縁起が良いという噂が広まったことで、WAFUKUは売れに売れた。

資本金の都合で、当初は綿製のWAFUKUを作っていた友若であるが、売れ行きに一定の目処がたった彼は高価な絹を使ったWAFUKU、KIMONOを売りだした。

肌触りや質感の良いKIMONOは購買力のある女性たちに飛ぶように売れた。

更に、友若はMIKOFUKUとか西洋風ドレス風の何かも作ったが、残念なことにこれらはそこまで注目を集めなかった。

基本的に友若の店を訪れるのは男女のお付き合いにおいて苦闘を強いられている婚活戦士である。

彼女達にしてみれば婚活において効果を発揮することが第一なのである。

某婚活戦士をたった一回のデートで大勝利へと導いた実績のあるWAFUKUしか婚活戦士の眼中になかった。

WAFUKUの評判を聞きつけた他の呉服屋も似たようなそれを売りだしたが、友若の店舗は元祖であるという事と、模造品の作りの悪さも相まって相変わらず大きな売上をあげていた。

 

評判も上々で、狭い店ながら、上流層と思われる女性すら友若の店を訪れるようになっていた。

高笑いが印象的な金髪縦ロールの女性からは自分専属の呉服職人にならないか、と誘われたほどである。

将来的な勝ち組が曹操と劉備、孫なんとかとかいう名前の三名しかいないと思っている友若はその誘いを丁重に断った。

雰囲気が如何にもやられ役っぽい感じで、ワンシーンでいつの間にか倒されたことになりそうな袁紹とかいう女性に仕えることは、友若にはタイタニックに乗り込むことと同義であるかのように思えたのだ。

いくら今豪華に見えるからと言って、沈没する船に理由もなく乗り込むつもりなど友若には無かった。

正史における袁紹は曹操を後一歩まで追い詰め、病死しなければ打ち破っていたかもしれない人物である。そんな人物と同名の女性を前にして散々な事を友若は考えていた。

ただ、恋姫的世界では友若の判断は間違っているとは言い切れないのだが。

しかし、自分の呉服屋としての評判の高まりは友若にとって嬉しいものだった。

散々妹にプライドをへし折られた友若にとって、他人に認められるというのはなけなしの自尊心を満足させるものだったのである。

 

「望月の欠けることなきとはこのことだ」

 

調子に乗った友若はフラグとしか思えない言葉を呟いた。

そして、そのフラグは即効で回収される。

 

「ちょっと、あんた! 母上があんたのために出した学資を使い込んで何やっているのよ! このグズ! あんた何のために洛陽に来たのよ!」

 

妹の襲来である。

犬耳っぽいフードがトレードマークの妹は友若に向かって冷たく言った。

 

確かに、友若の店は有名になった。

有名になり過ぎたのである。

実家に話が届くほどに。

友若が実家に送っていた洛陽で勉学に励んでいるという嘘八百の手紙と、聞こえてくる友若の店の噂とのギャップに実家は疑念を抱いた。

そして、それなりのコネを持つ実家が本気で洛陽の様子を探れば、友若が一体何をやっているかはすぐに判明した。

結果として、二度と目にしたくないと思っていた友若のトラウマが再び目の前に現れたのである。

因果応報である。

 

妹である荀彧に学問で大敗してからすっかり覇気を失った友若が、再び洛陽で勉学をしたいと言ったからこそ、彼の母は安からぬ学資を出したのである。

時は就職氷河期の後漢末期。

妹に並ならぬコンプレックスを持ちながらも、かつては神童と謳われた優秀な友若は官吏となって身を立てるべきではないかと彼の母親は考えていた。

ちなみに、この母親、友若の妹に関しては全くといっていいほど心配していない。

優秀な荀彧ならどこでも生きていけるだろうと思っているからだ。

しかし、友若は違う。

幼いことは優秀と言われたにも関わらず、勉学をサボり、年を経る事に凡人となっていく友若を彼の母親は心配していた。

馬鹿な子ほど可愛いというやつである。

だからこそ、母親は安からぬ学資を友若に渡し、更に洛陽の有力者達に賄賂を送って友若の官吏として登用してもらうように画策していた。

 

にも関わらず、友若は勉学に見向きもせずに商売――儒教的には卑しいこと――にうつつを抜かしていた。

実家はその不義理な振る舞いに怒っていた。

特に、妹である荀彧は激怒していた。

テンプレ的に微妙なニコポ、ナデポ的要素を持っていた友若の存在を荀彧は強く意識していた。

友若のなけなしのプライドをへし折ってレイプ目にしてしまったことは荀彧にとって後悔を覚える出来事だった。

かつて、幼い荀彧は自分を優秀だと見せつけようとした友若の虚勢を真実だと思い込んだ。

そして、兄が自分よりも優秀だと思い込んだ荀彧は持てる力の限りを尽くして友若にぶつかり、ものの見事に友若のプライドを粉砕してみせた。

虎の子を猫の子と見誤った友若。そんな友若を信じて自分は猫の子だと思い込んだ荀彧。

猫の子のつもりでじゃれついた荀彧の牙は超一流には届き得ない友若の自尊心に深々と突き刺さったのだ。

それで、素直に敗北を認めればよかったのだが、プライドの塊である友若はそれを認めようとしなかった。

そして、真っ向勝負では分が悪いと判断するだけの頭脳はあった友若は転生チート知識を使った挽回を試みた。

だが、友若の利用しようとした転生チート知識は実を結ぶことなく、却って荀彧に馬鹿にされる結果に終わった。

この時、荀彧は奇行に走りだした兄を止めようと必死であった。

荀彧にしてみれば、自分に匹敵するだけの才能を持っている兄がそれを溝に捨てようとしていようにしか思えなかったのだ。

そして、破局が訪れた。

 

もっとも、この不幸な出来事は、仕事が辛ければすぐ止めるとかそんな感じのゆとり系であった友若の打たれ弱さに多分の原因があったのだが。

そもそも、女性が普通に男性に対して優位な恋姫的世界では年下の幼女に学問や武芸で負けるなど良くある事だ。

普通の男性はその現実に折り合いをつけて生きていくものだが、下手に前世の知識を持っており、プライドも高い友若はそれが中々にできなかったのである。

 

しかし、家族思いである荀彧は兄を追い詰めてしまったことを後悔していた。

プライドをへし折られた友若は野糞を畑に入れようとして作物の芽を踏んづけたり、そろばんとか言う計算補助具を大枚をはたいて作ったものの、それを使っても計算時間と正確さで荀彧に圧倒的な差を付けられたりと、まるで成果を上げられなかった。

荀彧は友若のその姿が痛々しく思えてならなかった。

そのため、友若が己を取り戻し、洛陽という恵まれてた環境へ勉学のために行くということになった時、荀彧はそれを内心で応援した。兄と離ればなれになることに一抹の寂しさを覚えながら。

そして、自分もまた故郷で一生懸命絶対に勉学に励み兄に恥じないよう努力を続けると誓ったのである。

それほどに荀彧は友若を意識していた。

それがこのザマである。

家族の期待を完全に裏切って金稼ぎに没頭している。

怒るなという方が無理であった。

なまじ期待していただけに。

 

怒れる妹を前に友若にできることは何もなかった。

俺は官僚なんかに興味はない、商売をやりたいんだ、等と言える雰囲気ではなかった。

友若は涙目になるまで荀彧に詰問された後、妹の監視の下で私塾に通わされる羽目になったのである。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

妹の罵詈雑言と強制的に入塾させられた私塾での勉強生活は友若に多大なストレスを与えていた。

WAFUKUの販売は学費を稼ぐという名目で細々ながら何とか継続を容認されたが、今まで勉強をサボりまくったツケを友若は払わされていた。

一応言っておくと、転生チートである友若は幼い頃、フライングによって優秀と認められていた。

神童とすら呼ばれていた。荀彧が産まれるまでは。

妹にガラスのハートを粉々にされてから、友若は勉学を嫌うようになったが、同年代の平均から客観的に見れば彼の能力はかなり高かった。

偏差値で表せば76ぐらいだ。まあ、トップ層は余裕で100を超えているのだが。

だからこそ、家族は友若が洛陽で勉学すると言った時、大きな期待を寄せたのである。

実際、友若がまじめに励めば、ブランクがあったとはいえ、実家のコネと相まって官吏としてそれなりに出世できるだろう。

だが、友若にはまるで勉強する気がなかった。

というか、彼自身が長年サボっていた事も相まって友若の教養は私塾における同世代の平均を若干下回っていた。

幾ら転生チート知識の持ち主とはいえ、数年間のブランクがあっては当代最優秀の人間が集まる洛陽で無双できる訳がない。

特に、漢における勉強では暗記物が重視される。

妹である荀彧の様におかしいレベルで優秀でなければ、計画的にコツコツ勉強することが重要になるのだ。

つまり落ちこぼれたのだ、と友若は思った。

片田舎であれば、友若はまだ優秀な人物として評価されたかも知れない。

しかし、漢帝国全土から才媛が集結する洛陽は今まで勉強をサボっていた友若が評価されるほどぬるくはない。

そして、プライドだけは一人前な友若にとって落ちこぼれた状態というのは我慢出来るものではない。

当初から圧倒的な才能を示していた荀彧だけではなく、嘗て内心で見下していた類の人間達の後塵を拝する屈辱に友若は怒りに震えた。

ここで、まともな主人公系なら必死に勉学を重ねて好敵手を見返したりするのだろう。

だが、ゆとり流され系男子である友若はそうした粘り強さは持ち合わせていなかった。

むしろ、一度実家から逃げ出したことで逃げグセがついていた。

 

「逃げるか」

 

友若は逃げ出すことに決めた。

普通なら、実家に対して将来商売で身を立てるとかそんな感じで説得を試みるはずだが、友若はそんな事を思いつきもしなかった。

友若は己のなけなしの自尊心を思うことで精一杯だったのである。

どうしようもない。

ここらへんが妹からダメ人間扱いされる最大の原因であることに友若は気が付いていなかった。

 

幸いにして、袁紹本初とか言う金持ちからの誘いは未だに有効だった。

店の営業時間を短縮し、商品も大幅に削減せざるを得なかったにも関わらず、袁紹本初は時たま友若の店舗を訪れていた。

袁紹にしてみれば元祖WAFUKUを購入するということにはそれなりに意味があった。

生産量が減ったことで友若の元祖KIMONOにはプレミアが付いたのである。

上流階級の社交の場においては珍重なものが喜ばれる。

友若のKIMONOは社交の場においてすら価値を持っていた。

いわばカリスマ(偽)デザイナーのデザインしたブランド服というわけである。

そのデザイナーを独占するということは価値のあることなのである。

友若を専属として雇えば、純正のKIMONOが欲しければ袁紹に頼み込んで作ってもらわなければならなくなるのだから。

 

まあ、袁紹としてはそこまで考えていたわけではないのだが、彼女のお目付け役である田豊からみても、この誘いはそう悪くない話だった。

そもそも、煽てられれば何だかんだで頼みを断れない袁紹はかなりの浪人、無職不定の連中の面倒を見ていた。

それと比べれば、友若はまだましな物件と言えたのだ。

 

「黄巾はだいぶ先だし、適当に金を稼いだら辞めてどっかの片田舎にでも隠居しよう。逃げまわっていれば多分なんとかなるだろう」

 

戦乱の世を舐めている友若はそんな風に楽観的に考えた。

正史では人口が7分の1にまで減少した修羅の世界を前にあまりも楽観的であった。

正に知らぬが仏である。

 

「大丈夫、大丈夫だって。黄巾の乱まで20年近くは余裕があるんだ。まあ、適当にやられそうなモブ(袁紹)の下で黄巾の乱を迎えるのは危険過ぎるから、戦乱の世になる数年前にはモブから離れておく必要があるだろうけど、逆に言えば、それでなんとかなるはずだ。昔の下っ端を態々殺そうとする奴なんかいないだろう」

 

友若は自分を説得するように言った。

かくして友若は袁紹に仕えることになる。

正史とは異なり呉服職人として。

 



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田豊のクソジジイ

袁紹に呉服職人、デザイナーとして仕えることになった友若は冀州にて数年を過ごした。

その日々は友若にとって満足の行くものだった。

 

袁紹は金に糸目をつけない。

そのため、友若は無駄に金糸と染料で絵柄のついた超高級シルクの布を湯水のように使ったり、北方の遊牧民から流れてきた毛皮でフードを作ったりと、相当好き勝手をしていた。

原価だけで10万銭、1銭100円とすると1000万円もするFURISODEとか、趣味の悪い成金が好みそうなWAFUKUを作ったこともある。

何しろ、友若の作った服を着る袁紹は見た目だけなら最高の素材なのだ。

プラモデルを完璧に作り上げる事に情熱を燃やす子供のように、友若は自身のデザインした服で袁紹を輝かせることに喜びを見出していた。

また、裕福な袁家は金払いも良い。

流通貨幣の減少が原因のデフレ状態にある絶賛大不況であるにもかかわらずだ。

同じ袁紹配下で付き合いのある洛陽の元役人がぼやいていた給料の少なさや、穀物の現物支給に対する不満を考えれば、高給取り且つ現金支給というのは天国みたいな環境だった。

 

という訳で、友若は日々袁紹を着飾るWAFUKUのデザインに頭を悩ませながらも、来るべき黄巾の乱に備えていた……そんなことはなかった。

友若は袁紹の下で働くと決めた時、それを黄巾の乱が発生するまででのものと心のうちで決め込んでいた。

そして、袁紹の配下である期間に戦乱の世を生き抜くための資金を蓄えようと考えていた。

しかし、袁紹から結構な額が給料として支払われると、友若は物欲を抑えきれなくなる。

 

「あの刀剣かっこいいなあ~。俺、剣は使えないけど。刀身と刃の間の模様がなんとも言えない味を出している……1万銭……俺の手持ちに伯求の姉貴に金を借りればなんとかなるな。どうせ黄巾の乱は大分先の話なんだ。大丈夫。黄巾の乱の十年くらい前から金を貯めて2、3年くらい前に袁本初様の下を御暇させていただければ大丈夫だろう」

 

友若は目の前の人参に釣られて、計画通りに物事を進められないタイプの典型であった。

しかも、友若は自分が使えもしないものもどんどん購入していくのだ。

芸術品は普通に資産だから大丈夫、と友若は気楽に考えている。

資金が貯まるわけが無かった。

夏休みも遊びに遊んで8月31日、いや、9月に入ってから宿題を始めるタイプである。

それでも、袁紹の金払いを考えれば十年で十分な財を稼ぎ上げることはできたはずだった。

呉服職人としての雇用形態が続くのであれば。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「あれ? 俺、何やってんだろう」

 

ふと我に返った友若は呟いた。

彼の目の前には無数の書簡が積み上がっている。

冀州で政務を司る官僚たちの部屋に友若はいた。

呉服職人として袁紹に雇われたはずの友若は、何故か袁紹配下の文官になっていた。

 

どうしてこうなった、と友若は思う。

友若としては、いずれ三国時代の覇者となるはずの曹操か劉備か、もしくは孫なんとか――集めた情報から判断するに恐らく孫堅だと友若は思っていたが――に敗れるだろう袁紹との関係を一定以上に深めるつもりはなかった。

袁紹の忠実な部下となることはないだろうが、親しい配下ということになれば、袁紹が敗れた際に連座させかねられない。

だからこそ、友若は戦乱の世が始まる前に金を蓄えて、予め袁紹との関係を切っておくつもりだった。

……その割に金は全く溜まっておらず、むしろ借金ができていたが。

少なからぬ収入があるにもかかわらずこのザマであった。

ともかく、友若は袁紹のお抱えデザイナーとなったとしても、彼女の配下となるつもりは全くなかった。

 

では、どうして友若が袁紹の配下なんかをやっているのか。

その理由は話すと長くなるのだが、端的に表すと自業自得となる。

一応、周囲の状況が急変したことが直接の原因で、友若は袁紹の配下となった。

だが、それは友若がしっかりとしていれば回避できたはずのものであった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

袁紹、字を本初、真名を麗羽。彼女はプライドが高く、高飛車で頭の足りない女性として知られている。

そして、自らのプライドを傷つける相手に対しては執念深く容赦をしない。とある外史で董卓に対するデマを流し、連合討伐軍を組織した事は、その一例である。

一方で、彼女は自分のプライドさえ満足する状況ならば、極めて面倒見の良い女性でもあった。

要は自分が一番でないと我慢できないが、逆にその条件さえ満たされれば他の物事には執着しないのだ。

 

例えば、以下は袁紹が洛陽にて失業中の張バク孟卓に出くわした際の会話である。

 

「! 本初様、こんな所でお会いするとは……相変わらずお美しいですね」

「オーホッホッホ! そういう孟卓さんは随分と疲れているように見えますわ。いけませんわ、いけませんわ! この漢の忠臣ともあろう貴方がそんな有様では!」

「いやはや、私はもう漢の臣下なんかじゃあないよ。顔色が悪いのはまあ、ちょっとね。実は少し前に官職を去ったんだけど、残念なことに中々次の仕事が見つからなくてね……ちょっと節約しているんだよ」

「まあ!? それならそうと言ってくださいまし。ちょうどいいですわ。私もお昼にしようと思っていたところですの。しばらく行くと私の行きつけの料亭がありますの。是非孟卓さんもご一緒してくださいまし」

「……いや、遠慮するよ。私は官職を追われた身だし、私と一緒にいれば君にも迷惑がかかる」

「何をごちゃごちゃ言っていますの!? 私は袁本初! 私がお友達の孟卓さんと一緒にいようと誰にも文句は言わせませんわ!」

「……君ってやつは。分かった。では一緒に行こう。久しぶりにお腹いっぱい食べられそうだ」

「全く、この国にさんざん貢献した貴方がこの有様とは! 高祖や光武帝がこの様子を見たらなんとおっしゃることかしら!」

「いや、本初。みだりに今の帝の批判につながりかねない事を言うのは……」

「いーえ、言いますわ。私は袁本初。何者であっても恐れはしませんわ! それよりも、孟卓さん。もし、お仕事が見つからないのなら私の所に来なさいな。帝が孟卓さんのこれまでの功績に報いないというのなら、この袁本初が! 孟卓さんの功績に報いるのですわ! オーホッホッホ!」

 

袁紹は若干、というか、かなり人の話を聞かないところがある。

更に、根拠のない自身に満ち溢れているという所謂KY系女子であり、真面目一辺倒なタイプの人間とは相性がとことん悪かった。誰とは言わないがどこかの凡人ハムなどがその代表例であろう。

一方で、袁紹の扱いを心得て対応出来るだけの能力――要は彼女を持ち上げてそれに満足しておけば良いのだが――の持ち主であればそれなりに円満な関係を築けるのだ。

そして、袁紹は金を持っている。

お目付け役として長年仕えてきた田豊などは苦々しく思っていたが、袁紹の周囲には彼女の財を当てにした人間達が集まっていた。

遊侠の面倒を見るだけの心の広い人間であるという評判は対外的に役立つため、田豊はその状況を黙認していたのだが。

 

それに、袁紹の周囲に集まった人間達の中にはそこそこ名声があったり、能力があるものもいた。

帝、霊帝がうっかり大粛清の命令書に判子を押した結果として、半壊に追いやられた清流派。

その煽りを受けて失業した張バク孟卓など清流派の名士達が袁紹の下に集ったのだ。

これにより、袁紹は霊帝とそれを裏で操る宦官ら現政権との関係を悪化させる。

だが、田豊はそれを問題にならないと判断した。異民族討伐の大失敗などで失政を重ねる霊帝はそう長くはないというのが田豊を始めとした当時の知識人達の判断であった。

霊帝崩御の後に反動的機運が高まる可能性が高い事を考えれば、霊帝とはむしろ距離をおいておいたほうが良いと考えられるのだ。

そもそも、袁紹の家柄と権勢を考えれば、霊帝が幾ら彼女のことを苦々しく思った所で余程の理由がない限り、袁紹の討伐命令など出せないのだから、多少帝に楯突くことになったとしても問題はない。

それを考えれば、当初の状況は田豊にも許容出来るものだった。

 

だが、しばらくして田豊の忍耐は限界に達した。

袁紹の下に集った大部分の人間がニート化して態度ばかりが大きくなったからである。

洛陽で失業して袁紹の下に集った元官吏などの清流派達は当初借りてきた猫のように大人しくしていた。

洛陽では宦官の意向を反映した憲兵達から睨まれ、ろくに仕事もなく飢えていたところを袁紹によって拾われたのである。

袁紹の事を裏でバカ女だとか、虚栄心の塊だとか、あんなの清流じゃねえ濁流だとか散々言っていたにも関わらず袁紹によって救われたのである。

袁紹の下に集った連中としては何も言えない状況だった。

 

とりあえず、人心地ついた後、今まで裏で散々なことを言って済まなかったとか、そんな感じで清流派たちは袁紹の事を褒め称えることにした。

袁紹としては悪い気はしない。

裏で自分がさんざんボロクソに言われていたなど思いもしない袁紹は彼らが本気で自分の事を褒め称えているのだと信じこみ、増長した。

袁紹の望むことを言う清流派達は彼女の意向によって相当の好待遇を受ける。

 

元清流派達は調子に乗った。

袁紹を褒め称えているだけで多額の金が手に入るのである。

逆に言えば、それくらいしかすることがない。

 

洛陽での学業を終えて冀州へ向かった袁紹であるが、彼女の下で冀州を運営する人員は既に足りているのだ。

田豊としても、当初はせっかく現状で上手くいっている統治機構に無理に人員を加えるつもりはなかった。

下手に名声のある元清流派達を登用すれば、現状の家臣から袁紹への不満が出るだろうからであった。

 

金はあってやることがない元清流派達。

小人閑居して不善を為すという言葉の通り、当初は大人しかった元清流派達は昼間から酒を飲み宴をして、遊びふけるようになった。

高等遊民、今風に言えばニートである。

もっとも、これだけなら問題はなかった。

田豊としては元清流派達に仕事を与えない選択をした時点で、この程度は織り込み済みであった。

 

問題であったのは、元清流派達が自らの主として袁紹を誘い、彼女もそれに満更ではなかったことである。

公務をサボり、日中からおべんちゃらを言う取り巻きと饗宴に耽る袁紹。

何というかダメ君主や暗君の典型であった。

元々、頭がよろしいとはいえない袁紹であるが、以前は少なくともこの状況よりはましだった。

田豊は日々袁紹に小言を言ったが、彼女は態度を改めなかった。

 

そして、とうとう田豊は我慢の限界に達した。

ぶちきれた。

持っていた書簡を握りつぶすと、田豊は取り巻きに囲まれて酒盛りをしている袁紹の下へ赴いた。

剣呑な田豊に袁紹達はたじろいだ。

つまり、ビビっていた。

袁紹達も昼間から宴会を開くという行動に問題があることは自覚していたのだ。

田豊に正論で持って攻められれば反論のしようがない。

 

「昼間からこの様に酒盛りに耽り遊んでばかりでは麗羽様の評判を貶めます。もう、そのようなことをなさってはいけません。そもそも、麗羽様はこのような乞食どもと一緒にいてはいけません。士というものは家畜と戯れることはありません。麗羽様は付き合うべき相手を選ばなくてはなりません」

 

案の定、田豊の口から放たれたのは理路整然とした正論であった。

 

「な、ななな、なに言うてんねん、このクソジジイ! うちらは清流派の第一人者たる麗羽様の親衛隊や! それにうちらは遊んでるわけやない。陛下を誑かしてこの国を思うままにしとる宦官共をやっつけるための計画を練っとんねん!」

 

審配が顔を赤くして答えた。

その顔を冷たい視線で見つめた田豊。

 

「……ほう、なるほど。ならば、その計画とやらを聞かせてもらおうか、審正南殿。一ヶ月も散々計画を練っていたと言うのなら、具体的ではなくてもある程度の概要くらいはあるのだろう」

「うっ!? そ、それは、その、つまり、つまりやなあ……」

 

田豊はろくに反論もできない袁紹の取り巻き達を汚物を見るような目で見下すと、袁紹へと視線を移した。

真名をこのような者に教えたのですか、と冷たくつぶやく田豊。

袁紹は視線を左右に彷徨わせながら焦ったような声で、私のお友達ですわよ、と答えた。

田豊は呆れた様子を見せた。

 

「本初様の周りにいるこの者達は口でこそ麗羽様を讃えておりますが、それは本初様が彼らに金を渡しているからです。畜生共は彼らと同じ様に餌を与えてくれる人間の好意を引こうとしまが、つまり、この者達は畜生共と変わりありません。しかし、畜生共は人間が餌を与えなくなれば、たちまち人の手に噛み付くものです。麗羽様の周囲に集まった連中は畜生と同じであり、麗羽様が苦楽を共にすべき相手ではありません。この者達は本初様が窮地に陥ったとしてもそれを助けようとはせず、むしろ石を投げ打つでしょう。何れにしても、麗羽様。自分の聞きたい言葉しか言わない者達を信じてはなりません。古の偉大な王は自らの悪口を言った者に褒美を与えました。その王は悪口により自らの不足を知り、より偉大になることができたのです。麗羽様、願わくば甘言を弄すものに心を許してはなりません。過去、多くの国が滅んだ理由は外敵の脅威が原因ではなく、王が佞臣を重用し、快い言葉ばかりを聞いて、諌言を退け、国家の災難に何ら手を打たなかったからです」

「なっ!? うちらが信用出来ないって言うんかい!?」

「そうですわ! 元皓さん、その言い方は怜香さん達に失礼ですわよ! 怜香さん達は私の親衛隊なのですから!」

 

田豊に対して袁紹は胸を張った。

根拠はまるでないが自信に満ち溢れている。

取り巻き達は袁紹に同調して田豊を叩こうとして、彼の顔を見るとすぐにその選択肢を放棄した。

ものすごい顔だった。人間とはここまで怒れるのかと関心すら覚える形相であった。

たまたま袁紹の集団に同席していた友若は夢に見そうだと思った。

そして、袁紹の集団になんとなく加わったことを猛烈に後悔した。

くそ、タダ飯に釣られなきゃよかった、と友若は心のなかで呟いた。

袁紹からそこそこの給料を得ている友若は金に困ることなど無かったはずであるが、浪費癖のために借金を抱えていた。

金を稼ぐために袁紹に仕えたはずなのに、残念極まりない有り様であった。

 

「ほら、元皓さん、黙っていないで怜香さん達に謝ってくださいまし。私としても元皓さんには……」

 

空気を読めずに、謝罪を求めるという蛮行に及んだ袁紹もようやく田豊の様子に気がついた。

世にも言えない恐ろしい表情を前に、傲岸不遜の袁紹もさすがに何も言えなかった。

 

「なるほど、本初様、本初様のご友人に無礼な物言いをしたことを許してください。皆様も申し訳ございませんでした」

「え、えっと、そうですわね。謝れば万事解決ですわ。ほ、ほら、私のことは麗羽とお呼びになってくださいまし。本初様だなんて他人行儀な……」

 

袁紹の言葉は尻すぼみに小さくなった。いつもの自信満々な様子が嘘のようである。

助けを求めるかのように袁紹は周囲の取り巻き達に顔を向けたが、彼らは袁紹から目を逸らすばかりであった。

袁紹の親衛隊はどうやら火中の爆弾を拾うつもりはないらしかった。

図らずも、取り巻き達が袁紹の窮地にあって救いの手を差し伸べないという田豊の言い分が正しかったことが証明された瞬間である。

因みに、顔良と文醜は近づいてくる田豊を発見した時点で申し合わせたように二人一緒に厠へと向かっていた。付き合いが長いだけあって、怒れる田豊の対処方法を確立しているらしい。

どちらにしても袁紹の味方はいなかった。

田豊は必死に弁明する袁紹からその取り巻き達へと視線を移すと、静かに、恐ろしいほど静かに喋り始めた。

 

「私としては本初様の親衛隊である皆様に、是非とも実際に本初様のために尽くして貰いたいのです。本初様は冀州州牧。この広大な地を治めるためには皆様の力が必要です。皆様は本初様に多大な恩を受けているでしょう。そして、犬ですら恩人には恩を返すと言います。恩を返すということは五徳の一つ。信として重要視されています。しかし、私の不手際故に今まで、皆様に恩を返す機会を提供することがありませんでした。もちろん、皆様としては本初様から恩を受けるばかりで恩を返せないことに悔しさや、憂い、悲しみを感じていた事でしょう。ならばこそ、本初様の配下として州牧を支えるという事は皆様の喜びに違いないとこの愚老は思いますがいかがでしょうか」

 

袁紹の自称親衛隊たちは何も言わずにわずかに頷いたりといった動作で消極的な賛意を示した。

とても反論できる雰囲気ではなかった。

 

「それでは、皆様には書類整理や租税の徴収の確認といった仕事をお任せしたいのです。とても簡単なものですが、本初様への恩を返す一歩として頑張っていただきたい。幸いにして、幾つかの部門で人員に空きが出来ましたので、皆様にもちゃんと仕事があります」

 

田豊の言葉に袁紹の自称親衛隊たちは慌てた様子を見せた。

 

「ま、まってください。我らは司隷において警邏を担当したり、行政を担当した身です。今更そのような新人のやるような事を任されても……ても……」

 

田豊の笑顔を見た許攸はたちどころに沈黙した。

 

「ほう、なるほど、経験豊かな皆様にしてみれば、私の用意できたこの程度の仕事に不満を覚えるのも分かります。ですが――」

 

田豊の口が開いて三日月を描いた。

友若は引きつった顔に涙を浮かべた。

笑顔というのは本来攻撃的な、というフレーズが友若の脳裏を過る。

 

「ですが、本当に本初様に恩を感じているというのならどんなことであろうとできるはずなのです。そう、それが例え路端の泥を掬う様な奴隷の仕事であろうとも……そう、例え灼熱の鉄板の上であろうとも」

 

ぶちきれた田豊にそれ以上文句を言える人間はいなかった。文句を言えば本当に焼き土下座をさせられそうだと友若は遠い目をしながら思った。

 

ちなみに、袁紹は彼女の親衛隊達が顔を暗くして去っていった後、数時間にわたって田豊の小言に付き合わされることになる。流石の袁紹もぐったりとした様子を見せていた。

袁紹はその日の夕方、田豊を前に逃げ出した彼女の親衛隊や腹心に恨めしそうな目を向けた。

 

「……私を置いて立ち去るとはどういうことですの?」

 

だが、次の日には袁紹はいつもの様子に戻っていた。

喉元をすぎれば熱さを忘れるというとはこういうことか、と友若は思った。

ここらへんの切り替えの良さはある意味袁紹の強みといえるかもしれない。

それでも、流石に袁紹も懲りたのか、昼間から宴会を開くようなことはなくなったのだが。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

さて、袁紹の下でニートをしていた連中は袁家の下っ端として働くことになった。

なったのだが、この連中は何かと理由をつけて仕事をサボろうとした。

袁紹を称えるだけの簡単なお仕事で結構な収入が入っていた時から一変して、面倒くさい雑用を押し付けられる上に給料が安いという状況になったのである。

かつて洛陽でエリートコースに乗りブイブイ言わせていた事と比べれば、どうしても自らが落ちぶれたことを意識させられる。

士気が上がらないのも無理はなかった。

人間、一度楽を覚えると、なかなかそこから復帰できないのである。

だが、さすがに田豊に面と向かって文句を言える人間はおらず、仕方なしに元袁紹親衛隊の面々は下っ端仕事に励むことになる。

流石に、洛陽で官吏をしていた面々は優秀で、瞬く間にそれなりの仕事を任せられるまでになったことで、状況は改善を見せるのだが。

元から袁家に仕えていた者達にとって見れば面白く無い話ではあったが、田豊のキレ具合を知っていた彼らは不満を表に出すことなく飲み込んだ。

 

とは言え、ずる賢い人間はいるものである。

田豊に論破されたことを逆恨みしたとある似非関西語を操る審配という女性はちょっとした路地商売を始めた。

そして、その商売が忙しいという理由で審配は田豊から渡された下っ端仕事を拒否した。

審配の言い分は、清流派と深い関わりを持つ友若が服商売をしていて雑用を免除されているのだから、路地商売が忙しい自分もまた雑事を免除されるべきというものだった。

田豊としてはこの言い分を認めるわけにはいかなかった。

審配の屁理屈がまかり通るのならば、他のニート志願者共がそれを真似しだす危険があったからだ。

 

かと言って、友若を特別扱いする事も田豊には躊躇われた。

友若は清流派として周囲から一目置かれていたからだ。

清流派の中で友若だけ雑事を免除することは他者の不満を招くと思われた。

 

ちなみに、何故、私塾を中退した落伍者友若が一目置かれるかというと、彼の妹こと荀彧が清流派の顔役となっていたからである。

友若が逃げ出してからも洛陽にとどまり続けた荀彧はその凄まじい才能を発揮して、事実上洛陽における清流派指導者の一人となっていた。

血のつながりが重視される時代である。

妹が清流派のトップである以上、友若もまた清流派であると見なされるもの無理はなかった。

そして、妹の高い評判によって周囲の友若に対する見方には色眼鏡がかかる。例えば、友若は勉学ができないわけではなく、宦官が思うままに権力を振るう世の中を憂いて、自らの能力を低く見せているのだとか、友若の本当の能力は妹である荀彧を超えているとか、そんな噂が流れたりした。

その過大な噂を友若は否定しなかった。

友若のことを評価する噂に友若は気を良くした。

特に、妹を超えるという噂に、友若はその自尊心を大いに満足させた。

もっとも、流石の友若といえどもその噂を積極的に肯定することはなかった。

周囲の人間は友若が妹を超えるかどうかは別としても、只の落伍者ではなく能力を隠した人間だと思い込んでいた。

 

因みに、洛陽での荀彧の様子を許攸からこの話を聞いた友若はあのバケモノめ、と本人に聞かれたら明日の朝日を拝めそうにないような事を呟いた。

 

ともかく、そんな背景があったため、田豊は友若にも雑務を任せることにした。

実力がどの程度かは分からないにせよ、皇帝に仕えようとしなかったあの荀彧の兄である友若が袁紹のもとでその才を振るう、という事は袁紹を着飾る話の一つくらいにはなるだろうという気持ちで。

 

何度も繰り返すが、友若に袁紹に仕えるつもりなど毛頭なかった。

なので、本来であれば袁紹の配下とならなければいけなくなった段階で、友若は袁紹の下を去っていただろう。

だが、友若は去るわけにはいかなかった。

その理由は単純で金がなかったのである。むしろ、借金があった。

浪費が原因である。完全に自業自得だった。

他人に辛く自分に甘い友若は審配が悪いと決めつけたが。

 

い、いや、まだ慌てるような時間じゃあない。

大枚を叩いて買った刀剣とかツボとか色々あるじゃないか、と考えた友若は断腸の思いで自分がコレクトした骨董品類を骨董商へ持っていった。

手放してしまうのは残念でしょうがないが、背に腹は変えられない、と友若は思った。戦乱の炎に焼かれることなく、美術館あたりで何時までも輝いていて欲しいなと思いながら。

なに、骨董品は値下がりしない、数万銭も使ったんだから、そんな事を考えながら骨董商が買取価格を提示するのを待っていた友若に対して、骨董商は冷たく言い放った。

 

「偽物だね、これ」

「…………ぇ?」

 

かくして、彼の数百万銭はがらくたに化けたわけである。

 

「やばいやばい、このまま袁紹に仕えるとかやばすぎる」

 

友若は頭を抱えた。

だが、他に選択肢はなかった。

不景気な世の中である。そこそこの給料が貰える職を得るために子女は勉学に励んでいるのである。学業を途中で投げ出した落伍者がコネもなしに就くことの出来るまともな職などあるわけがなかった。

そして、実家に帰ることもできない。

学資を使い込んだ挙句に勉強を投げ出して洛陽から逃げ出した友若である。実家に帰ればそれはそれは凄まじいお仕置きが友若を待っているだろう。

トラウマである妹に会う可能性すらもあるのである。

友若は絶対に実家には帰りたくなかった。

絶対に。

 

「……だ、大丈夫だって。曹操だか劉備だか孫堅だか知らないが、誰が袁紹を倒したとしても、ただの下っ端まで一網打尽にするようなことはないさ。うん、多分……」

 

若干の震え声で自分に言い聞かせるように友若は呟いた。

 



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転生チート知識おねだんなんと100万銭

さて、袁紹の下で雑務を行うことになった友若であるが、当初全くといっていいほど仕事ができなかった。

当たり前である。

学業を途中で投げ出した上に、数年の間遊び耽っていた友若。彼の脳みそは転生チート知識でも挽回が効かないレベルで腐りきっていた。

一応、WAFUKUやKIMONOのデザインに友若はその脳細胞をフル活用していたが、そんな経験が下っ端仕事とは言え、行政に役立つわけがない。

田豊によって袁紹の下に集った元清流派達の風あたりが強くなった状況において、友若の仕事の出来なさは致命的だった。

この程度の仕事ができない様ではクビにされても文句は言えない。

服職人として雇われたはずの友若であるが、妹の名声のために彼をただの服職人として扱うことが袁紹達にはできなかったのである。

友若は妹を恨んだ。

荀彧は普通に頑張っているだけである。

血縁関係上にある友若が迷惑を被っているとはいえ、彼が妹を恨むのは筋違いもいいところだった。

というか、友若の方が妹や家族に対して非があるはずだが、友若の頭は都合の悪いことを思考の外に追いやっていた。

 

ともかく、友若は何らかの成果を上げなければならないと焦っていた。

現状のままでは給金が少なすぎたのである。

金を貯めるために友若は将来潰れると思っている袁紹の下に赴いたのである。

低賃金しかないというのなら何のために快適な洛陽を離れたのか分からなかった。

ちなみに、友若が洛陽を去る決心をした最大の理由は妹から逃れたい一心であったが。

 

幸いにして、冀州へ来てから親交のあった許攸や審配、張バクといった面々の協力によって友若はノルマを達成していた。

しかしながら、持ち前の才覚を発揮して順調に出世していく彼女たちと異なり、友若は何時までも下っ端のままだった。

彼女たちと飲みに行った際、友若は愚痴りに愚痴った。

 

「妹の所為で散々だ。何なんだよ、俺は清流派とか知らねえぞ。加わったこともない連中のメンバーにいつの間にかされているとかどうなってるんだよ。詐欺か、これは何かの詐欺なのか。畜生め」

「あっはっはっはっは。災難やなー」

「怜香、友若の事は貴方にも大分責任があると思うのだけれど」

「そうね。怜香、貴方のせいで私が友若に頼んでいた新しいMIKOFUKUの話が無期延期になったのよ。田豊に一泡食わせたいからといって、勝手に巻き込まれた友若にしてみればとんだ災難だわ」

「えー? でもあのクソジジイに一方的にやられたままなんて悔しいやんか」

「だからと言ってそこに他人を巻き込むのはどうかと思うの。少しは反省したらどうなのかしら」

「そうよ、私のMIKOFUKU、どうしてくれるのよ? 紙面上でのデザインはかなり良かったし、相当期待していたのよ!」

「そうだそうだ、子遠さんや孟卓の言う通りだ。謝罪と賠償を請求する」

「お、それはうちに体で払えっちゅうことか?」

「……仕事手伝って下さい」

「……友若、貴方もどうしてそんなに情けない有様なのかしら」

「と言うか昔は荀家には優秀な長男がいるとか聞いていたのよね。と言うか、友若は優秀だって言う噂を聞いていたのだけれど? 貴方それを否定しなかったわよね。まあ、服のセンスは認めるけど、もう少しどうにかならないの?」

「うちが言うのもなんやけど、もう少し何とかならないんか? 下っ端仕事なんて対したことないで」

「いや、まあ、日々の仕事なら何とか慣れたけど……給料を上げたいんでもう少しでかい仕事をしたいなあ、と」

「友若……」

「身の程知らずは身を滅ぼすわよ。できることからやって行きなさい。日々切磋琢磨すれば自ずと周りにも認められるようになるわ。物分かりはいいんだから地道にやるのが一番よ」

「そうそう、地道が一番や」

 

審配達が友若を諌める。

だが、友若は焦っていたのである。

下積みなど友若には興味がなかった。兎に角手っ取り早く稼ぎたかったのである。

そのためにはやはり商売だ、WAFUKUだ、と友若は思っている。

しかし、冀州で呉服屋を営むにしても準備金は必要だった。

冀州で黄巾の乱まで金を稼ぐとしても、無駄な下積みなんかに時間を欠けている暇などないと友若は考えていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

ここらへんに友若の勘違いというか、欠点がある。

友若は行動に対してすぐにでもリターンが欲しくてたまらないのだ。待つことができないのである。

例えば、実家で友若がそろばんを作った時に、それが受け入れられなかったのもその辺に理由がある。

そろばんは確かに熟練者が使えば素早く正確に計算が出来る。

しかし、逆に言えば、そろばんをまともに使うためにはランニングコストを払わなければならない。

前世ではそろばんなどやったこともなかった友若がものだけ作ったからといって、それを使いこなせるわけがなかったのである。

結果として荀彧に計算速度で負けるのも仕方のない話であった。

そもそも、友若がいくらそろばんを習熟したとしても、荀彧に計算速度で勝つことは不可能であろう。

三国志の英雄となるべく生まれた荀彧はそろばんの玉を弾くよりも暗算したほうが速いくらいなのだから。

むしろ、荀彧は道具を使ったほうが計算速度が遅くなるという稀有な能力の持ち主である。

 

だが、そろばんを使っても荀彧に計算速度で劣るというのはそろばんの持つ可能性を傷つける様な本質的な問題ではない。

そろばんや友若の持つチート知識の本質的な強みは、既存の方法と比べてより効率的に物事を進められるということなのだから。

そろばんを使ってもなお天才に勝てない、そろばんを使うと天才はむしろ効率が下がる――それは仕方のない話だ。

だが、大半の人間達はそろばんを使うことで計算をより正確且つ高速に行うことが出来るようになる。

そもそも、天才という正規分布から大幅に外れた存在にチート知識が当てはまらないのは仕方のない話だ。

三国志の逸話として、弓矢で持って岩を貫通するとか、そんな感じの胡散臭い話があるが、これを現代の自動小銃で再現することは難しいだ。

しかし、超一級の武将の使う弓矢が自動小銃を上回るという話は、銃火器に対する弓矢の優越を意味しない。

確かに、一部の天才は銃火器を上回る威力を弓矢で持って実現するかもしれない。

だが、銃火器は殆ど誰でも使うことができる。それは武将の持つ弓矢には決して持つことのできない特徴だ。

世界は大多数の人間が使うことの出来る手段を選択するのである。

そして、友若の持つ転生チート知識は、人口の殆どを占める普通の人間達が物事を行うにあたっての効率を大幅に改善することが出来る可能性を秘めているのだ。

 

もちろん、友若のチート知識をそのまま現実に当てはめる事はできない。

個人個人の家まで電気が送られ、簡単に飯を炊いたり照明を点けたりといったことが可能な世界の知識を直接実現することなど不可能だからだ。

だが、友若の持つチート知識と現実とのギャップはトライアンドエラーを繰り返し、問題点をフィードバックしていくことで十分改善することが可能であものだ。

仮に、友若が荀家でギャップのすり合わせを行なっていれば、もしかしたら彼は妹以上の天才として周囲に評価されていたかもしれない。

頭の回転速度で友若は妹に対して勝ち目がないが、その妹ですら思いつくことのできない上に画期的なアイデアを無数に生み出すことができるのである。

後はそのアイデアを現実にすり合わせていくだけで友若は大きな称賛を浴びることができただろう。

そもそも、妹である荀彧がチート知識と現実とのギャップをすり合わせる手段を提示していたのである。

 

だが、実際には友若は勉学では妹に劣り、妙なことばかりする変人と周囲に評価された。

友若がアイデアをただ口で述べ適当に作る程度で、一度たりともそれを現実に合わせて実用化するところまで持って行かなかったからである。

友若の持つ転生チート知識は恋姫的世界の一般常識から余りにも飛躍しているため、周囲の人間にはそれが役に立つのか理解できなかったのである。

そもそも、友若の転生チート知識は穴だらけであり、本人もよく分かっていないものを説明しているのだ。友若が理解されないのも当然であった。

天才である荀彧にしてみても、友若の所々間違ったチート知識に基づいたアイデアは欠点ばかりが目についてとても使えるとは思えなかった。

荀彧にしてみれば、友若の言う問題の多い方法を取るよりも今までのやり方で自身が指揮をとったほうがずっと多くの成果を出せる事が明らかだったのだ。

そして、アイデアに対して問題点を指摘しても頑なにその改善を拒否する友若に荀彧は苛立っていた。

 

何かを変えようとする際は、変革を意図する者がその正当性を周囲に示す必要がある。

変革というのは常にコストを伴うのである。

だから、変革した結果はそのコストを十分に上回る利益にならなければならない。

そして何よりも、人々が変革による利益を信じなければ新たな事というのは実現できないのである。

だからこそ、現代社会ではプレゼン能力というものが重視されるのであるし、逆説的に変革に成功した者達は周囲を説得する能力に長けているのである。

 

友若はそうした事を重視していなかった。転生チート知識は常に正しいのだから、それを理解しようとしない人間が愚鈍なのだ、というスタンスを貫いたのだ。

友若は周囲を納得させる事を考えるだけの余裕を持つことができなかった。

その最大の原因はやはり友若の妹、荀彧であった。

幼い頃から満ち溢れる才能を示した荀彧は如何なる事もただの一度で成功してみせたのだ。

例えば、荀家の所持する田畑において人々を指示して農作業に当たらせるという仕事を荀彧は初体験で何の問題もなく完璧にこなしてみせた。

その様子は明らかに、その仕事を何度か経験していた友若を遥かに上回っていた。

そうした荀彧の優秀さは、転生者であり周囲の土人どもとは違うと内心で思っていた友若のプライドを大きく傷つけた。

まだ、荀彧が幼かった頃に一生懸命面倒を見ていた友若がその妹から距離をおくようになったのはこの時期からであった。

 

日に日に成長を重ね、友若を遙か後ろに置き去りにしていく妹に友若は内心焦った。

だから友若は荀彧を越える成果を出そうとして、転生チート知識から利用できそうなものを片っ端から提案していった。

友若は妹に追いつこうと焦っていたのである。

しかし、友若は自らが出したアイデアを実用的なレベルまで昇華することを怠った。

友若はひとつのアイデアに腰を据えてとりかかるのではなく、すぐに成果が出なければすぐさまそれを何の未練も見せずに捨ておいた。

そんな変人が無数に捨ておいた戯言としか思えないアイデアを一々吟味するような物好きは友若の周りにはいなかったのである。

 

そして、いくらアイデアを提案しても成果を上げられなかった友若は遂には逃げ出した。

それは自分のアイデアが受け入れられなければすぐにそれを捨てて別のアイデアにすがりつく様とよく似ていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

だが、ここに来て友若は逃げ出すわけにはいかなかった。

正確には逃げる場所がなかった。

友若にとって来るべき黄巾の乱に備えて金を貯める事は絶対である。

そして、そのためには割の良い稼ぎを手にしなければならない。

その日暮らしで過ごしていては、蓄財など夢のまた夢だ。

そして、何の力も持たなければ、黄巾の乱が起きた時に翻弄されるばかりになってしまう。

だが、漢帝国は絶賛大不況である。

稼ぎの良い仕事はまずないし、あったとしてもそう簡単に私学の中退者、落伍者がありつけるわけがない。

過去にやらかした事を思えば実家にすがりつくという選択肢もなかった。下手をすれば殺されるかもしれないとすら友若は思った。

金のある袁紹のもとで大金を稼ぐという選択肢は友若の今の能力では難しかった。

袁紹が日中から宴を開いていた事にぶちきれてから、田豊は袁紹の下に集った清流派達が好き勝手しないように目を光らせていた。

以前と比べると清流派達へ渡される資金も大幅に減らされていた。

そして、友若はそのとばっちりを受けた格好である。

 

「あの偏屈者のクソオヤジはうちらの価値が分かっとらん! うちらはこんなちっぽけなことをする人間やない。こんなつまらない仕事ばっかり押し付けくさって、何考えとるん!」

 

田豊嫌いの審配は酒の席でよくそんな事を言った。友若も言葉にはしないもの内心では彼女に同意していた。審配の後ろに立つ田豊を前にしてそんな事を口にする勇気はなかったが。

ともかく、袁紹の下で行政官をした所で稼げる額はたかが知れている。

もちろん、生きていくには十分以上で、嗜好品を購入することも十分可能なのだが、かつてWAFUKUデザインで得ていた賃金を思うと友若は馬鹿らしくてやっていられなかった。

人は環境の劣化に拒絶反応を示すが、プライドの高い友若は特にそれが強かったのだ。

 

かと言って、呉服屋を再会することも難しかった。

呉服屋をやって十分に稼げると期待できるのは莫大な資金を持っている袁紹の膝下か、同じく袁術の治める荊州、そして洛陽くらいである。

衣服の市場は恋姫的世界の漢帝国において巨大なものであったがそれでも限度がある。

国が乱れつつある状況下において、既存の衣服と比べ割高かつ奇抜なWAFUKUを好き好んで購入しそうな消費者が多く住む土地は限られているのだ。

だが、袁紹のお膝元での商売は妹が清流派の顔役であることから難い。

また、友若は荊州に知己を持っていなかった。

コネや知人の紹介が重視される漢帝国。流石の友若といえど見ず知らずの土地で商売をしようと思えるほどは呑気ではない。

そうすると、消去法的に呉服商売で稼げそうなのは洛陽となる。

洛陽は、以前WAFUKUの商売に成功した実績もあり、友若としては収入が期待できる土地ではあった。

だが、妹が未だに洛陽に居るという情報が友若に洛陽という選択肢を放棄させた。

 

「くそっ! 考えろ。俺はチート知識を持っているんだ。今まではあのバケモノの所為で上手くいかなかったが、ちゃんとやればなんとかなるはずだ……なんとかしなくちゃ後が無い。今までが上手くいかなかったのは問題があったからだ。それをちゃんと解決すれば上手くいかないわけがない……!」

 

友若は考えに考えた。

どうすれば楽に稼ぐことが出来るかを。

友若としては労働の対価などさして期待していなかった。

世の中真面目に働くものほど馬鹿を見るのだ、と友若は思う。

妹にあらゆる面で負け続けてきた友若は自身の能力など大したものではないと思っていた。

どうあがいたところで妹のような存在相手と競っても勝てるわけがない。

だからこそ、能力とか才能とかそういうものとは関係のない収入を得られないかと考えた。

労働を対価としない大収入。

つまるところ友若は不労所得が欲しいのだ。

 

「不労所得……そうだよ。俺には不労所得をどうすれば得られるかという知識がある。マネーゲームだ。要は金を投資してその利回りで暮らしていけば仕事ができなくてもいいわけだ。まあ、全部を利回りで賄えなくても、その他は稼げばいい」

 

どうしたら、そんなに楽観的になれるのかというレベルで友若は物事を簡単に考えた。

ある意味、友若の長所と言えるかもしれない。

大丈夫、まだ大丈夫と自分に言い聞かせて破滅まで突っ走りかねない事を考えれば容易に短所にもなるのだが。

 

「だが、普通に金を貸すと回収する手間がかかってしょうがない上に、俺は大した金を持っていない。利回りを次の投資に当てるにしても十分な資金を貯めるまでにどのくらいの時間がかかるか分かったもんじゃない。そもそも、金融で金を稼ぐならチンタラ貸して回収しているんじゃダメだ。積極的に稼がなければ……そのためには……株だ! そうだ、株をやればいいんだ!」

 

友若の愉快な脳みそはそんな感じの結論を導き出した。

もちろん、友若に株式を制度として実現するだけの能力はない。

だから、友若は彼に負い目のある審配やよく仕事を手伝ってくれた許攸や張バクに助力を頼み、拝み、頭を地面に擦り付ける勢いで拝み倒した。

 

「頼む、正南さん! 田豊のジジイに一杯食わせたいんだ」

「しゃーねーなー。いっちょ協力したるわ」

「ちょろすぎるんじゃない、怜香」

「私としてはMIKOFUKUを作ってもらえるならそれでいいわ」

 

かくして、友若は協力な助っ人の助力により株式制度の草案をまとめあげ、袁紹と田豊に提出した。

どや顔で。

ちなみに、草案を作成するにあたっての貢献度は友若3、審配3、許攸2、張バク2であった。

しかし、友若に協力した彼女たちは株式なんて上手くいくとは思えない制度の提案者になることに魅力を感じなかったため、この草案の提出者は友若単独という名目となった。

後に審配は叫んだ。

 

「どうしてあん時、うちは友若と連名にしとかなかったんやーー!!! あのクソジジイをギャフンと言わせる絶好のチャンスだったやないか!!!」

 

株式制度の草案は荒っぽいところもあるが、そのまま運用が可能なレベルの完成度を持っていた。

ある意味、この草案こそが友若がこの恋姫的世界で初めて示した転生チート知識と言えたかもしれない。

少々大規模であったが。

 



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株式はじめました

友若から株式制度の草案を見せられた田豊は無言で考え込んだ。

草案は荒削りではあったが、ほとんどそのままで運用が可能と思われる程度には体裁が整えられていた。

そして、その内容は田豊の理解の範疇にはなかった。

これは、田豊の理解能力が劣っているというわけではない。

この漢帝国において友若の提出したその草案の意味を理解できるのは極々少数だろう。

むしろ、大半の者は考慮にも値しないとしてその草案を切り捨てるに違いない。

土地と農業に主軸を置く漢帝国にとって商業とはあくまでお菓子に付いて来るおまけのようなものである。

商業きらびやかさは数多くの人間を惹きつけるが、それでもおまけはあくまでおまけなのである。

 

だが、田豊は友若の提案をすぐに下らないと切り捨てることはしなかった。

凡人とは言わないまでも、あくまでそこそこでしかなかった田豊にとって他の天才が彼の理解を越える事など良くあることでしかなかったからである。

転生チートである友若が自分よりも年若い妹にボコボコにされる世界では、無数の凡人の努力の結晶が一人の天才に覆されることなど珍しくない。

そして、田豊の強みの一つはそれをよく弁えていることだった。

 

友若を否定することは容易い。

田豊が友若の草案を握りつぶしたとしても誰もそれを疑問におもうことはないだろう。

それ程に普通からかけ離れた奇抜なアイデアだ。

 

「有若さん、これは一体何なんですの」

「? 株式制度の草案です」

「その株式とは一体何なんですの」

「え、えーっと、本初様なら分かると思ったんですが……えーっと、株式は株式です」

「ぇ? お、おーっほっほっほっほ! も、もちろん、この袁本初、友若さんが何を言おうとしているかはわ、分かりますわ。ですが! 元皓さんや他の皆さんには少しばかり難しい話のように思いますわ。ですから、友若さん、他の皆さんにも分かりやすいように説明していただけないかしら」

「……え? 本初様が理解できるなら他の皆さんも問題ないんじゃ――」

「いや、荀友若殿、是非とも説明を願いたい。この愚老にも理解できるように最初から頼む」

「ほ、ほら、元皓さんも友若さんの説明を必要としていますわ」

「え、えーっと、つまり株式というのは商売を始める人達が簡単にお金を集めるための制度で――」

 

しかし、もしかしたら友若には凡人には見えていない世界が見えているのかもしれない、と田豊は考えたのだ。

その可能性がある以上、友若の草案をそのまま握りつぶすつもりは田豊にはなかった。

あの天才であることが疑いようもない荀彧の兄である友若だ。

田豊の理解もよらない未来を見据えている可能性は十分にある。

 

漢帝国はもはや長くない。現皇帝と先代の時代の無数の失策により、皇帝の権威は失墜している。

代わりに帝国を牛耳っているのは宦官たちであるが、それも長くは持たないであろう。

宦官の専政は豪族や知識階級の強い反感を読んでいる。

宦官たちはそれを宮廷力学を駆使して何とか収めているが、それは帝国の権威を押し下げ続けている。

本拠地というものを持たない宦官たちはそうするしかないのだが、いずれ彼らは息詰まざるを得ない。

漢帝国という名前は続くかもしれないが、その実態は今後変わらざるをえないだろう。

 

常人ではあったが、長年の経験は田豊に漢帝国の未来が潰えていることを示唆していた。

現状を続ければいずれ破綻せざるを得ないと。

指導力を喪失している皇帝、自らの権益と命を守ることに必死な宦官、宦官憎しで動いている清流派のいずれの勢力も現状を変える指導力を持つことはできないだろう。

 

だが、漢帝国が破綻するとして、その先がどうなるかと言う事は田豊には分からなかった。

彼の経験から幾つかは予測ができる。

洛陽が相対的に権威を喪失し、地方に土地と人員を持っている豪族が台頭などは自然な流れとして起こるだろう。

それは半ば必然だ。

しかし、群雄の乱立する世において袁紹が覇者となるためにはどの様に動けばいいのかという見通しが田豊には持てなかった。

もちろん、田豊は袁紹のために最善を尽くすつもりである。

更に、袁紹には顔良や文醜、歴代にわたって袁家に仕えてきた忠臣達が居るのである。

袁紹の下に集った清流派の名士たちもまた彼女のために尽くすだろう。

溢れんばかりの富でもなく、生産性の高い豊かな土地でもなく、この忠実な部下たち袁紹の持つ最大の資産であった。

 

しかし、それだけで他の群雄たちに勝てるのか。勝ち抜くことができるのか。

決して口にだすことはないが、田豊は内心で疑問に思っていた。

なるほど、田豊も含めて袁紹の部下たちは優秀である。

これだけの規模と粒を兼ね備えた家臣団を有している者は劉表など極々僅かである。

しかし、袁紹の部下達はあくまで『優秀な程度』でしかない。

本物の天才が相手になった時、常人とは次元の異なる最適解を導き出す彼らに勝つには優秀なだけではだめではないか。

論理的な根拠があるわけではなかったが、過去の経験から田豊は現状に危機感を覚えていたのである。

 

田豊はその生涯において過去に凄まじいばかりの才能を持った歳若い女性たちを何度か見てきた。

田豊にしてみたら孫程度の年齢でしかない彼女たちはたやすく彼以上の成果を叩きだした。

その度に、若かりし頃の田豊は惨めな気持ちになったものである。

田豊が天才たちの存在を冷静に受け入れられるようになったのは、老年に差し掛かった頃だった。

彼女たちは天才なのだから仕方がない。悪く言えば凡人の域を出ない田豊は他の無数の凡人たちと同様にそう諦めた。

 

だが、主である袁紹が敗北する可能性を相手が高々天才であるという程度で諦める訳にはいかない。

何としてでも勝たなければならない。

それが、田豊の役目である。

 

――そして、そのためには、優秀なだけではだめなのだ。現状を打破する革新的な考えが出来る人間が、天才が必要なのだ……!

 

「――つまり、商売を始めようと思う人達にしてみれば、万が一失敗することがあっても奴隷にされたりする危険がない。だからこそ、より踏み込んだ事業展開ができるという訳です。それに対して、株式を購入する側にしてみれば商売が上手くいっている限りにおいて――」

 

田豊は袁紹に対して説明を続ける友若から、その奥にあるものを見ようとしているかのように目を細めた。

友若の説明は田豊の心には響かなかった。

そもそも、商人を援助することに田豊は意味を感じなかった。

商人は勝手に現れて好き勝手に商売をする。時と場合によっては為政の邪魔にもなる連中、というのが田豊の商人に対する印象だった。

 

「友若さん、どうして私が商人なんかを助けなければいけませんの。彼らは勝手に物を売って勝手に儲けているじゃありませんか」

「し、しかしですね、経済の発展には投資家の存在が必要なような気がしないでもないのですが」

「もう! さっぱり分かりませんわ! 別に商人なんか助けなくても、何も困らないじゃありませんか。何をごちゃごちゃ言っているのかわかりませんが、私はそんな事をするつもりは――」

「――麗羽様」

 

田豊は友若の提案を拒否しようとした袁紹に声をかけた。

 

「なんですの、元皓さん」

「荀友若殿のご提案、受けるべきかと」

「どうしてですの? 何で私が商人なんかを助けなければいけないのですか?」

「麗羽様、この草案はそのまま実行できるほどにまとまっております。そして、荀友若殿は麗羽様の為を思えばこそ、このような提案をまとめ上げたのです。もちろん、荀友若殿の提案が必ず上手く行くという保証はどこにもありません。ですが、麗羽様、仮に上手くいかなかったとしても貴方の為を思い一所懸命に努力した配下の者を無碍に捨ておいてはなりません」

「……分かりましたわ」

「そ、それでは!?」

「ええ、友若さん、この案の通り株? とやらをやりますわ。やるからには華麗に! 全力で! 友若さんの私を思っての献策に答えないわけには生きませんもの! おーっほっほっほ!」

 

田豊は友若の底を見極めることにした。

幸いにして、友若が今回持ってきた献策は失敗したところでさしたる害はない。

袁紹の将来のためには天才が必要だった。

もし、友若がそうであるのなら、そして彼が袁紹に心から仕えてくれるのであれば、それは今後訪れるであろう動乱の世を田豊の主人が勝ち抜くために役に立つだろう。

田豊はそう思った。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

なんだか分からなかったがあの田豊が味方してくれた結果、献策が認められたことに友若は素直に喜んでいた。

 

「おい、友若! お前、田豊のクソジジイに助けられたんやって?」

「え? あっ、正南さん。そうなんですよ。なんだか知らないですけど本初様の説得を手伝ってくれて助かりました」

「おま、お前な~。うちはあの田豊のクソジジイを出し抜きたかったからあんたに協力したんやで。それがその田豊に助けられてたら世話ないっちゅうねん」

「もう、怜香ったら相変わらず元皓さんを嫌っているのね」

「怜香の田豊嫌いは筋金入りだからねー。まあ、私はそれよりも報酬のMIKOFUKUが欲しいのだけれど。まあ、すぐにとは言わないから明日までに準備してよ」

「ちょっ、ちょっと待って下さい! 明日までなんて無理ですよ」

「えー!? じゃあ、今晩まででいいわ」

「あ、それなら……って期限短くなっているじゃないですか!?」

 

草案の取りまとめに協力してくれた同僚とそんな会話をしながら、友若は進んでいった。

かくして、漢帝国に市場初めての株式会社が誕生する。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「うーん、中々上手くはいかないものだなあ」

 

友若は悩ましげに呟いた。

株式制度が制定されると殆ど同時に、ちびちびと貯蓄していた金と同僚たちから借りた金を合わせて友若は新たに立ち上がる服屋の株式を大量購入した。

そして、その服屋に対して友若はWAFUKUなどの衣服作成手法を渡したのである。

友若以外の服屋もWAFUKUを取り扱って履いたが、彼のそれとは所々で違っていた。

友若としては正統派WAFUKUという看板があれば十分に戦えると思っていたのである。

そして、実際に友若が出資した服屋はそれなりに成功を収め、その利益の一部が友若に還元された。

具体的には出資金額の半分程度の回収に友若は成功したのである。

一年でこれだけ回収できたため、このままであれば株を買って三年目以降は毎年大きな収入が期待できた。

 

「ただ、なあ……」

 

冀州において株式が制定されて一年、最も多く株を購入したのは実は当初株式に乗り気でなかった袁紹である。

友若の肝いりで始まった株式は当初殆ど誰も手を出さなかった。

多くの資産家は株式という全く未知のものに手を出したがらなかったのである。

袁紹がポシャりかけていた株式という制度を何とかしようと手当たり次第に株を買い漁らなければ、友若が初めてまともな形で提案した異世界チート知識は単なる失敗として処理されただろう。

ともかく、袁紹の豊富な資金力と彼女自身の協力があったからこそ、当初はその存在理由すらも疑問に思われていた株式は大きな成功をおさめることになる。

あと、政務から逃げてきた袁紹がどこの株を買うかをサイコロを転がしながら決めなければここまで大きな成功はなかったに違いない。

ここ一年、株式の投資による配当によって袁紹の資産は2割ほど増加していた。

 

「今度からは本初様の選んだ株を買うようにしよう……」

 

そして、友若は自分の選んだ投資先がサイコロなんかに負けたことに凹んでいた。

 



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ドキッ☆凡人ばかりの冀州統治労組はないよ

株式制度――友若により提案されたそれは当初殆ど知られないままに始まった。

この時代の支配階級はの思想は儒教を基本としていおり、商売というものは軽視される傾向にあったのだ。

この要因の一つとして漢帝国が農業生産に立脚していたという事が上げられるだろう。

それぞれの土地で基本的に全てを自給自足している以上、生産能力向上に貢献する人員が最重要視さる。

土地から土地へ物を運ぶ商人というものもまた必要ではあったが、何よりも重視されるのは生産者の人員なのである。

株式制度というものが商人への援助を目的としているという題目もあって、友若と審配が周囲に株式の購入を呼びかけても冀州の豪族たちはそれに興味を示さなかった。

 

しかし、その一年後、株式により袁紹が莫大な収入を得つつも冀州の税収増大を実現したことで周囲の評価は一変する。

株式への投資は資産を増大させる有力な方法として見直されたのである。

帝国の権威が低下し、政情が不安定になっている状況下において、自分自身を守るためにも豪族たちは財をなすことを強く望んでいたのである。

豪族たちは挙って株式を買い集めた。

彼らの全てが成功した訳ではない。

株式会社の運営に失敗した結果として、投資した資金をそっくり失うケースは後を絶たなかった。

更に、悪質な詐欺師が株式を安く売るといって資金を集め、そのまま夜逃げするといった事件も何度か起きた。

だが、全体として、多くの豪族たちが短い期間で投資額を回収し利益を得ることに成功したのである。

 

そして、続けざまに友若の提案によって銀行制度が冀州に導入される。

これによって直接現金を動かさず、口座上で取引が可能になった。

これは、金銭や金塊を運びその安全を保証するためのコストを押し下げ、豪族等、資金を持つ人間達は積極的に投資を行うようになった。

また、友若の銀行では豪族から預かった資金の一部を市場に流す信用創造を行い、行政側もインフラ整備などに積極的に投資を行った。

結果として、冀州の市場における流通貨幣が増大した。

 

この時代の漢帝国は緩やかながらも慢性的なデフレに苦しんでいた。

これは資金を持っていた豪族たちが社会不安と不況を理由に金銭を貯めこむばかりで使わなかったからである。

これは流通貨幣の減少を招いた。

この恋姫的世界では衣服という巨大市場が存在していたが、異民族の侵攻及び政情不安によって市場の冷え込みは深刻な状況にあった。

資金を持つ権力者たちにしてみれば、デフレは溜め込んだ自らの資産価値の向上を意味していたため、この流れを止めようとする動きは起こらなかったのである。

だが、友若の立案によって始まった一連の政策は冀州の流通貨幣を数倍にまで持ち上げ、結果としてインフレへと導くことになる。

貨幣価値の低下が起こるインフレでは貯蓄はすなわち資産価値の減少を意味する。

資金を持った者達は積極的に株式を購入し、その資金は市場に流れて経済を流動させた。

 

株式制度の大きな成功はその立案者である友若の名を広く知らしめた。

友若は当時は卑しいこととされていた商売について非常に明るく、魔法のように冀州の税収を増大させた有能な行政官としての名声を得たのである。

そして、友若の奇抜な献策を採用し、支配下の領土を大きく発展させた袁紹の名声と冀州の噂は漢帝国全土に広まった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「冀州の話を聞いたか」

「ああ、あそこは相当景気がいいらしいな。流民でもその日のうちに仕事にありつけて飯もたらふく食えるとか」

「本当か? このクソッタレな世の中にそんなうまい話があるかよ」

「いや、本当らしいぞ。俺の親戚が一家で田畑を捨てて冀州に行ったんだが、親父と息子がすぐに仕事にありつけたらしい。何でもあそこの袁州牧様が河の堤防を造る為に人を集めていたらしくてな」

「おい、それは本当かよ。俺たちを騙してるんじゃねえだろうな」

「いや、騙してなんかいねえよ。ここだけの話だが、俺達の家族も近いうちに冀州に行くつもりだ。あそこなら賊に怯える心配もねえって言うしな」

「だが、最近官吏様が脱走に厳しくなっているって言うじゃないか。何でも税収が落ち込んでいるとかで」

「だからだよ。連中は税収が減ったなんて諦めるようなお行儀のいい連中じゃねえ。出て行った連中の分、残った奴らから搾り取ろうとするさ。俺はそんなの真っ平御免だね」

「そ、それは確かにそうかもしれんが……だが、冀州だなんて俺達には何のツテもないんだぞ」

「それでも死ぬよりはマシさ。どのみちこんな村に留まった所で将来はねえんだ。俺は行くぞ。冀州へ」

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「このままでは商売なんてやってられねえぞ! あの強欲太守め! 何が人頭税を払え、だ! 税はこの前払ったばっかりだろうが!」

「全くその通りだ。今までも酷かったが、これじゃあどうにもならないぞ」

「どうやら、太守様とその上の州牧様は焦っているみたいだな。最近冀州が調子いいっていう噂は聞いているだろう。皇帝陛下とその取り巻きの宦官たちは冀州の袁州牧様みたいに税収を増やせって他の州牧達をせっついているみたいだぜ」

「なんだそれは!? ふざけるな。連中は俺達を金の成る木だとでも思っているのか!」

「それでだ、俺は冀州へ行くつもりだ。あそこはまともなコネがなくても商売ができるらしいからな」

「大丈夫なのか? あそこの税収が増えたってことはそれだけ州牧殿が税をむしり取っているってことじゃないか」

「いや、俺もそう思っていたんだが、どうやら違うらしい。むしろあそこの官吏は商人に寛容で税率もきっちり守っていて、賄賂の要求もないらしい」

「はあ!? 賄賂を要求しない!? そんな官吏がいるなんて信じられないね! そもそも、連中の給料は雀の涙だ。賄賂を受け取らずにやっていける官吏なんているわけないだろうが」

「どうにも、荀シンとか言うお偉方が冀州の官吏への給料として穀物ではなく株式を配給する制度を提案したらしくてな。聞いていると思うが、株式ってやつは商売が上手く行けば行くほどそれを持っている奴に金が入る仕組みだ。官吏たちにしてみても、下手に商売を邪魔して混乱させるよりも、俺達商人がやりやすいようにしたほうが儲かるのさ」

「なるほど、それなら確かに官吏達も俺達の邪魔はしないのかもしれないな」

「それで、だ。俺達も冀州へ行かないか。向こうで成功するには株式会社ってやつを作らなくちゃいけねえが、その認定を受けるためには結構な資金がいる。だから、俺たちが各々資金を出しあって共同で株式会社を作ろうと思っているんだが、お前たちは乗るか」

「それは……随分といいはなしに聞こえるな。他に誰がお前の話に乗っている?」

「おう、俺の嫁の実家の酒屋だな。魯子敬様は残念ながら不参加だ。まだ、他の連中は誘ってねえからそれだけだが」

「おいおい、あそこが参加するのかよ? じゃあ、俺も冀州へ行くぜ!」

「俺もだ! 冀州で俺たち呉人の力を見せてやる!」

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「どうしてこうなったし……」

 

日々増大していく書簡の山を前に友若は呟いた。

既に涙目である。

現在、冀州には成功の噂を聞きつけた人々が漢帝国全土から集まっている。

流民を放っておけば暴徒や盗賊となる可能性があったため、袁紹を始めとした官吏たちはその流民対策に追われていた。

州境で流民の立ち入りを制限しようとした試みは既に失敗に終わっている。

行商人に扮して、野獣の住む山を強引に越えて、河を泳いでまで冀州へと入ってくる流民を止めることは不可能だったためだ。

流民問題に仕事が増えた袁紹などは自らの治める冀州に薄汚い流民が入ってきたことに怒りを隠さず、流民を出した州の州牧へ文句の手紙を送っていたが、結局人々の流れを止めることはできなかった。

むしろ、民の流出に頭を悩ませている州牧などは袁紹に対して流民を受け入れないように抗議してくる始末である。

 

「んなの知らねえよ。てめえらが民の管理をしっかりやっていれば問題なんて起きねえだろうが。山岳地帯にまで見張りの兵を配置するとかできるわけ無いだろうが。どこぞの無能のところからは数千単位の集団で流民が来るし。連中、冀州に受け入れられなかったらそのまま暴れだしそうな雰囲気だったぞ」

 

書簡を前に友若はブツブツと呟いた。

その目の前には誰もいなかったが友若は気にもしていない。

割りと末期だった。

株式制度が袁紹に認められ、初期から投資を積極的に行なっていた友若はそれなりの財を成していた。

だが、資金面での成功とは裏腹にそれ以上の問題ばかりが友若に襲いかかっていた。

 

友若は株式制度の成功によって袁紹から田豊に次ぐブレーンとして扱われるようになった。

田豊が袁紹に対して友若を強く推薦したのである。

田豊は内心で袁紹には偏りはあるにせよ天才と思しき友若が必要であると考えていたのだ。

だが、友若にしてみれば罰ゲームにしか思えなかった。

 

友若の穴だらけの知識によれば、三国志の覇者は曹操と劉備、孫……堅?のはずである。

それ以外の連中はいずれこの三者に敗れる事になるはずだ。

実際に曹操を見た友若はその可能性が極めて高いと踏んでいた。

友若よりも年若く、彼と異なりチート知識も有していないはずの曹操は既に孫子の注釈をするとか訳の分からないレベルでの優秀さを示しているのである。

妹と同じような存在――人の皮をかぶったナニカに違いない、と言うのが友若の未来の覇者に対する感想である。

かつて友若は妹に完膚なきまでに叩きのめされた。

いくら友若が努力しても、転生知識というずるを使っても妹の足元にさえ手が届かなかった。

 

もちろん、友若は優秀な人間が存在することは知っていた。

だから、一度本を読んだだけで全てを完全に暗記してみせるという程度であれば、まだ友若は納得できただろう。

完全記憶といった能力を持つ人間がいることを友若は知っていたからである。

一瞬で正確に計算をしてみせるだけなら、友若は受け入れることができたかもしれない。

そうした能力を持つ人間がいるという話を友若は知っていた。

だが、殆ど前知識なく人々を指揮して農作業の所要時間を半減させるとか、駒の動き程度しか知らないはずなのに経験者に将棋で勝つとか、そうした事ができる存在は人間といえるのだろうか。

あれは人間などではない。それが友若の結論だった。

 

そして、その妹と曹操という存在が同じ種類のものであるならば――三国志の最終的な勝者であることから恐ろしいことに妹以上の存在であることが示唆されているそれに人間が勝てる訳がない。

大河の流れを人間が塞き止められないのと同じだと、友若は判断した。

ならば、友若が今仕えている袁紹も10年後に訪れる黄巾の乱とその後の戦乱に敗れ去って消えていくだろう。

友若の中でそれは必然だった。

 

だからこそ、友若は袁紹に近づきすぎることなく、精々そんな部下もいたよね程度の距離で金をためて戦乱の世の前に出て行こうと考えていた。

当初はあぶく銭と時間的余裕を前に趣味の骨董品収集に傾倒していたが、失敗から学んだ友若は積極的に投資を行い――と言っても、最近は袁紹が相変わらずサイコロを振って決めている銘柄に全てをつぎ込んでいるだけだが――資金を増やしているのだ。

順調だったはずである。

袁紹の腹心みたいな扱いになっていることを除けば。

 

「いやいや、まだ大丈夫。俺はただの新参者だし……新参だし……」

 

既に手遅れ状態ではないかという気がしないでもなかったが、友若は努めて無視した。

 

「黄巾の乱を前に若隠居すればなんとかなるはず……服商売をもう一度始めるのもいいかもしれないし……」

 

ついでに、目の前の書簡の山も無視しながら友若は呟いた。

 

「何遊んでるんですか。とっとと仕事しやがってください」

 

配下となった沮鵠から筆が止まっている友若に文句が飛んでくる。

絶え間なく流れ込んでくる流民の管理、その流民たちに仕事を与えるために始まった道路整備や共同施設の建設計画の執行管轄、取りこぼしの結果野盗となって暴れる賊達を倒すための州軍強化計画とその執行管理等、冀州の官吏の管轄する仕事はここ数年で数倍になっていた。

まともに休む時間すら無いのである。

袁紹の下をいずれ去るつもりの友若であったが、そのための計画を考えられる時間があるのか分からなかった。

 



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俺の妹は断じて可愛くない

「どうしてですか、母上!」

 

荀彧は母親である荀コンに向かって叫んだ。

その荀彧の様子に荀コウは驚いた。

兄である荀シンに対しては激しい気性を示していた荀彧であるが、母親である荀コウに対してその様に振る舞うことは今までなかったからである。

 

「どうして私を袁州牧の下へ推挙してくださらないのですか! あの友若ですら部下となっているのです! 私の能力に不足があるわけがありません!」

「……貴方の能力はよく知っています、桂花。もちろん、貴方が袁州牧の下で働くにあたって不足しているとは思いません。洛陽での清流としての名声もあるのですから州牧としても悪い扱いはしないでしょう」

 

荀コンは憤る荀彧を見た。

洛陽の私塾で学び、清流派の面々と議論を酌み交わして、その顔役と目されるまでになった娘を。

その顔は自信に満ち溢れているようにも見えたが、どこか危ういものを感じさせた。

――あるいは不憫な子なのかもしれない。

最近になって娘を見る度に荀コンはそう思うようになった。

 

荀彧は優れていた。

荀彧が生まれるまでは麒麟児と呼ばれていた荀シンすらはるかに凌ぐ才能の持ち主である。

荀シンが時たま見せる奇抜な発想だけは荀彧に優っているかもしれないと荀コウは思っていた。

そう、優れすぎているのだ。

あまりにも容易に彼女は生涯を飛び越えてしまう。

空を舞う鳥が大地の険しさを知ることもないのと同じように、荀彧にとって凡人にとっての試練とはただの日常と何の変わりもないものでしかない。

鳥として生きることができるのならばそれで問題はない。

しかし、荀彧は鳥でありながら大地を這いずる獣、凡人と共に生きなければならないのだ。

 

それは荀彧にとって幸福といえるのだろうか。

荀コウはそう問わずにいられない。

自らと比べてはるかに劣っている相手に傅き、付き合って生きていくことが娘の幸福であるかと。

 

荀彧は常に正しい答えを導くことができる。

それは天から愛されたと言っても過言ではない才能だ。

だが、言い方を変えれば、常に正解を導き出してしまい、間違えることが無いのだ。

だからこそ、荀彧を相手にすると誰もが自らが劣っていることを当たり前に思い知らされる。

何しろ、荀彧の言葉は常に正しいのだ。上辺でどれだけ否定したとしても内心では自らの誤りを思い知らされずにはいられない。

筍コウ自信、自分の娘によって自らの才能の限界を思い知った。

母親として荀コウは娘の優秀さを素直に喜んだ。

かつて学を極めんとした若き日の夢を娘に託せるだろうと思った。

だが、その裏で才能の塊と言っても過言ではない荀彧に嫉妬するところがなかったと断言できる自信は荀コウにはなかった。

 

荀彧の兄である荀シンは自らの誇りを傷付けられることに耐えられず、彼女から去っていった。

洛陽で荀彧が学んでいた際も同様の事が何度かあったと聞いている。

荀彧が学んだ私塾でかつて最も優秀だった学生が出奔したという話があった。

これについて私塾は何も言って来なかったが、荀コウは娘の存在が原因だったのではないかと思っている。

もちろん、このことについて荀彧に否があるわけではないだろう。

荀彧はただ正しいだけだ。そして、それだけで周囲を傷つけてしまうのだ。

 

――あれはバケモノなのではないでしょうか。

かつて荀シンが愛していたはずの妹を指して言い放った言葉が今でも荀コウは忘れられなかった。

あの時はきつく荀シンを叱ったが、荀彧が普通の人間と大きく異なっている事は荀コウも認めざるを得なかった。

荀彧の才能は比類ないものだが、それ故に彼女を殺しかねない。

正しいというただそれだけに、平凡な人間は耐えられないのだ。

 

この子にはその才能に相応しい王が必要だ、と荀コウは思う。

王佐の才、人物鑑定家からその様に評されたように、荀彧は主よりもその腹心という立場の方が向いているだろう。

だが、荀彧の主となる者にはそれ相応の資質が必要だ。

荀彧という巨星を受け止めてなお余りある器を持った王でなければ、彼女を使いこなすことはできないだろう。

 

――その点で言えば、残念ながら袁州牧は明らかに器が不足している。この子はただその器から溢れ出るだけだ。

 

――いや、そもそもこの子の主となれるような人物は存在し得るのだろうか。もし、もし存在していなければこの子は……

 

荀コウは自分の娘を見つめながらそう思った。

以前会った時の印象から言って袁紹では荀彧の主足り得ないと。

いや、現状、漢帝国を見渡しても荀彧の主足りえる器を見つけることは荀コウにはできなかった。

優れすぎているが故にそれに値する主が居ないのだ。天才ゆえの孤高であった。

 

――そして、おそらくこの子もまた内心では袁州牧が主足り得ない事に気がついているはず。それでも母親である私にここまで強く袁州牧への推薦を求めるのはあそこに友若が居るからでしょう

 

幼い頃から荀彧は荀シンに執着を見せていた。

荀シンだけが荀彧に真っ向から挑んでいたからだろう、と荀コウは思う。

思い返せば、才能に満ち溢れた荀彧に挑もうとするのは荀シンしかいなかった。

荀コウ自身も含め、荀彧の姉達や、子供たちの家庭教師として雇われた学者達、その全員が荀彧の才能が自らのそれをはるかに上回っていることを認めた。

そんな中で荀シンだけが妹の才能を否定して挑み続けた。

荀彧が生まれるまで麒麟児と持て囃された荀シンのプライドがそうさせたのだろう。それは愚かな事だった。

荀シンでは荀彧に及びもしないのだから。

傍から見ていて、荀シンの様子は巨山を動かそうとするかの如くであった。

 

だが、荀彧にとって見れば荀シンだけが自らに挑んでいたのだ。

他の誰もが荀彧の才能を認め、畏れ、彼女を特別だと扱っていたのに対して、荀シンだけが荀彧という個人に真っ向から立ち向かっていたのだ。

そう、荀シンだけが荀彧と対等な立場に立とうと挑み続けていたのだ。

荀シンだけが荀彧という個人を見ようとしていたのかもしれない。

きっと、だからこそ、荀彧は荀シンに罵倒を浴びせつつも兄に付きまとっていた。

 

荀彧は母親である荀コウに対して従順な態度を示すし、姉や父親、家庭教師に対しても礼を尽くす。

幼い頃から――それこそ感情のままに過ごすはずの幼少期から荀彧はそうであった。

圧倒的に早熟な荀彧は儒教などの社会規範を瞬く間に修めて見せたのである。

荀コウを始めとした周囲は荀彧が才子であるとそれを喜んだ。

だが、ただ想いのままに甘えるべき年齢をその様に過ごしてしまった事は荀彧にとって良かったのか、今更ではあるが荀コウは疑問に思う。

思えば、荀コウは娘が自分に対して感情を顕にする様子を今日まで見たことがなかった。

そんな中で幼い荀彧が唯一感情をむき出しにしたのが荀シンであった。

 

荀シンが洛陽で勉学をサボり商売にうつつを抜かしていたと知ってから、荀彧は兄に対して怒りを隠さなかった。

そして、荀彧はその勢いで洛陽まで駆け込むと、荀シンの首根っこを掴んで彼が私塾に行くよう監視をした。

これが荀シンではなく他の姉であれば、荀彧はそこまですることはなかっただろう。

本人は口では否定するが、明らかに荀彧は他の誰でもなく兄である荀シンに強い執着持っている。

それは心折れた荀シンが荀彧を避けるようになってからも変わっていない。

 

「ならっ! どうして母上は私のことを認めてくれないのですか!」

「桂花、漢帝国は今皇帝の権威が失墜し、混乱の最中にあります。清流と宦官、どちらも漢帝国に必要とされて存在してました。しかし、彼らは互いに激しく憎み合いっています。彼らの間を調停していた袁周陽殿や袁次陽殿といった先見の明ある方々がこの世を去った以上、どちらかが果てるまで彼らは止まらないでしょう。この先どうなるか……どの勢力が台頭するかは混沌としていますが、我が荀家は暗雲垂れ込める中でも生き残らねばなりません。どの勢力が最終的な勝者になるか分からない以上、一つの勢力だけに肩入れすることが危険な事は党錮の禁を見ても明らかでしょう。荀家はどの勢力が勝利したとしても決して侮られず、且つ恐れられないように立ち回らなければなりません。袁州牧の下には既に友若がいます。……あの子は貴方が生まれるまでは麒麟児と持て囃された様に才能があり、事実、袁州牧の下でもよく活躍していると聞いています。そうである以上、我が家と袁州牧の関係は十分です。分かりますね」

「しかし、母上、あれは当家を奔出した身です。もう十年近く当家とは何の連絡も取っていないあれを持って我が家との繋がりができたとは思いません。それに袁州牧の下で活躍しているという話も怪しいものです! あれは母上や私を騙し、洛陽で勉学をせずに商売なんかに傾倒していました。あれは当家の恥でもあります。何としてでも当家に連れ戻さなければなりませんし、それが叶わないのであれば、当家のものがあれが余計なことをしないように見張らなければなりません! ただでさえ、あれは袁州牧の下で商人の保護など漢王朝のあり方と大きく異なる政策を主導して、あちこちから睨まれています。更に、冀州への流民を止めるどころか積極的に受け入れる政策を行い、流民元の州牧を始めとした豪族からの憎悪を買うことになるでしょう。袁州牧へはその名声故に非難の声が向かっていませんが、その分、政策立案の顔とすらなっているあれにはこの帝国中の権力者が憎しみを向けることでしょう。そうなってからでは遅いのです。あれには自らに向けられた剣を躱す能力もないどころか、その存在にすら気がつけないほどの鈍感です。結果として、刃はあれどころか当家にまで向けられかねません。ですから早急に対処しなければならないのです」

 

荀彧の言葉を荀コウは目を閉じて聞いた。

なるほど、それは確かにもっともだ、と思う。

だが、荀コウは自らの言葉を曲げるつもりはなかった。

今のまま荀彧と荀シンが再会してもかつてと同じ様になるだろう。

2人共互いの感情が変わっていないのだから。

 

時々思い出したように送ってくる荀シンの手紙からは彼が未だに妹のことを忌避していることが読み取れる。

荀彧の話だと、彼女の手紙を荀シンは完全に無視しているらしい。

どうやら、荀彧は荀シンが荀家自体と音信不通になっているものと思い込んでいたらしく、兄が実家と連絡を取っていると知ると、その日は部屋に引き篭もった。

次の日、使用人から聞いた所によるとズタボロになった人形が荀彧の部屋の隅に転がっていたらしい。

その人形はどことなく荀彧の兄の面影があったと使用人は言っていた。

ちなみに、それと似た人形が小箱の中に幾つか入っていたとも使用人は証言した。

 

――随分と難儀な子……実の兄相手にこれでは結婚相手にはどうなるのかしら

 

荀コウはそう思う。

ともかく、今のままの荀彧と荀シンを再開させる訳にはいかない。

荀彧は彼女なりに凡人との付き合い方を学ぶ必要があるし、荀シンは妹へ抱いている強烈な劣等感から立ち直るための時間が必要だ。

お腹を痛めて生んだ2人の愛しい子供たちを思い、荀コウは決断する。

 

「桂花、これは荀家当主である私の決定です。貴方の話は参考として聞いておきますが、決定を変えるつもりはありません。貴方は曹孟徳殿の下へ行きなさい。彼女は貴方と同じ様に幼い頃から非常に優秀であったと聞き及んでいます。貴方としても学ぶところがあるでしょう」

 

荀コウは荀彧に向けて言い放った。

荀彧は耐えるように肩を震わせている。

 

「……私に、宦官の孫の下へ行けとおっしゃるのですか?」

「そうです。曹孟徳殿は皇帝陛下の信も厚く今後出世する可能性の高い人物です。ですが、彼女は宦官の孫であるために部下を集めることに苦労するでしょう。洛陽で清流との幅広い繋がりを得た貴方を曹孟徳殿は喉から手が出るほどに欲しいはずです。貴方が行けば歓迎されるでしょう。つまり、恩を売る相手としてとても有望なのです」

「……分かりました」

 

荀彧はそう言うと荀コウに頭を下げて部屋を退出していった。

荀シンの下へ向かうつもりだろう、と荀コウは確信にも似た思いを抱く。

荀コウはそっと目を伏せた。

 

――この子はやはり私の手の中に収まるような子ではない。

 

結局のところ、荀コウが何をしようが本気になった荀彧を止めることなどできないのだ。

 

荀コウの想像は正しく、荀彧はこの後、袁紹に仕えるべく動き始める。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「ぇ!? ぶっ、ぶんっ、文若がこっちへ来る!!!???」

 

妹である荀彧が袁紹の下で働きたいと伝えてきたという話を聞いて友若は引きつけを起さんばかりの様子で叫び声を上げた。

友若にしてみれば、袁紹の配下であるということは高い収入を得られる機会が多いものである。

仕事は決して楽とは言えず、将来的には消滅するという事が予測されるという問題はあるものの、戦乱の世に備えて高収入が得られるということは魅力的であった。

だが、それは決して妹が側にいる事によって受けるストレスに見合うものではない。

 

「ええ、そういう話だそうです。友若の妹さんは優秀と聞いていますし、私としても期待しています」

「だっ、ダメです、ダメです!!! あんなのを本初様に仕えさせてはいけません!!!」

「なんや、ごっつう焦っとるなあ。どうしたんや?」

「あっ、えっ、ええっと、……えっと、そ、そうだ。妹は当家の恥なのです。本初様にはふさわしくありません!!!」

「え? 洛陽での評判ですと非常に学識深く聡明な方だと聞き及んでいますが」

「え、あ、で、ですが、妹は人に言えない趣味を持っているのです。具体的には服の下に《――検閲削除――》していたり、厠で《――自主規制――》をしたりとんでもない《――放送禁止用語――》なのです!!!」

「え、あ、そ、そうですか……」

「え、うん、そうなんか」

 

泣きそうな顔で公共の場に相応しくない言葉を叫ぶ友若に許攸はドン引きだった。

普段友若と悪友といった感じで悪ふざけや金儲けに興じている審配は両手で真っ赤な顔を覆っていた。

そして、そんな様子にも気が付かないほど、友若はパニックを起こしていた。

トラウマである荀彧とは無縁の生活を長年過ごしていたことで、精神的に緩みのあった友若の心を許攸の何気ない話が強烈に抉ったのだ。

友若は折角冀州で築き上げたはずの名声を台無しにしかねない様子で泣きわめいた。

 

「友若殿が妹君と不仲であるという噂は聞いていたがこれほどとは……」

 

荀彧を受け入れることに積極的だった田豊は友若の様子を見てそう呟いた。

とてもではないが、荀彧が来るという話を聞いて取り乱す友若の様子からはこの人物がこの冀州を急速な発展へと導いた優秀な政治家とは思えなかった。

最終的に田豊は荀彧を諦めた。

現状で袁紹と冀州になくてはならない友若を切り捨てるリスクと未だ見ぬ荀彧の可能性とでは全く釣り合っていなかったのである。

 

「いやー、妹さんの話を聞いた時の友若の慌てっぷり、私も見たかったなあ」

「うっ、い、いや別にそんな」

「いやいや、あん時の友若はすごかったで。むっちゃ恥ずかしい言葉がばんばん飛び出てくんねん。うちめっちゃ恥ずかしかったわ。と言うか、テンパった時にあんな言葉が出てくるとか、友若ってそういう趣味でもあるんかいな」

「そ、そんな訳ないじゃないですか。も、もうこの話はやめておきましょう」

「そうね、妹さんの話を聞いて前後不覚に陥った誰かさんが帳簿を墨汁の中に落としたせいで今大変なことになっているんですものね。取引が不可能になった株式会社から賠償請求が来ているし、とんでもない損害が発生したわね」

「……誠に申し訳ありませんでした。損害は私の方で補填させて頂きます」

「ほーっ、こんだけの賠償額をポンと出せるんか。友若ってうちが飲みに行こうって誘っても何だかんだ断ってくれてるけど、金持ってるなら付き合わんかいな。こんな美女放っといて罰があたるで。今度一緒に飲み比べしようやないか」

「いや、俺は大して飲めないから正南さんと飲み比べなんて出来る訳ないじゃないですか」

 

ともかく、荀彧が袁紹の下へ来るという話は多額の犠牲を出しながらもなくなったのである。

こうして、荀彧はまさかの不採用通知を受け取ることになる。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「不採用……ですってえ!? 巫山戯んじゃないわよ。あいつが働いてるのに私がダメとか連中どんだけ見る目がないのよ! どうせあいつが変なことを周りに吹き込んだに違いないわ! 今度あったらこの人形と同じ様にギタギタにしてやる!」

 

袁州牧から知らせを受け取った荀彧は怒りに燃えていた。

怒りのままに手に持った人形――どこか友若に似たそれ――をぐにゃぐにゃと変形させる。

明晰な荀彧の頭脳は自分が不採用となった理由を正しく導き出していた。

というか、清流としての荀彧の名声を考えれば、濁流や宦官の派閥以外ならどこにでもいけるはずなのである。

 

「~っ! まあ、しょうがないわ。しょうがなくはないけどしょうがないわ……取り敢えず母上の言う通り曹孟徳とやらのところに行くとしましょうか。もし、大したやつじゃなかったらボコボコにしてやるわ」

 

一通り怒りを発散させた荀彧は人形を片手にそう言った。

こうして、荀彧は自らの仕えるべき王に出会うことにある。

 

だが、荀彧は知らない。

荀彧を遠ざけようと冀州で友若がとんでもないことを言っていたことを。

それを知った時、荀彧は己の尊厳をかけて友若をボコボコにすることになる。

 



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冀州金融道

「あのぼんくらはどこだっ!」

 

沮鵠は怒りの声を上げる。

白髪を短く切りそろえた小柄な少女の叫びは部屋一面に響き渡る。

だが、周囲でそろばんをひたすら弾いている文官たちはその様子に何の反応も示さなかった。

顔すら向けない。

当初は周囲を脅かせていた沮鵠の怒声も毎日繰り返されればただの日常になる。

友若が何かと理由をつけて公務……友若の提案により始まった銀行の会計処理をサボるのはもはや毎日のことになっていた。

最初は職員全員が一丸となって怒ったものである。

だが、友若の業務能力は平均程度のそれしかなく、職員全体としてそろばんに慣れてきたため一人抜けたくらいでは業務に支障が出なくなったことも相まって、今では友若のサボりぐせに怒りを示すのは沮鵠位なものであった。

問題が発生した際には友若の発想力が役に立つことは確かだが、ルーチンワークと化した日々の業務では友若の能力などワンオブゼムでしかないのだ。

 

「相変わらずですね。友若はまたサボりですか」

 

地団駄を踏んで憤りを顕にする沮鵠の下へ許攸は近づきながらそう言った。

 

「き、きたーっ!」

「子遠さんきた!」

「これで勝つる!」

「今日も早く上がれる!」

「夕餉はどこで食べるー?」

「倒食亭に行こうぜ! あそこが新メニューを始めたって話だ」

「ああ、あの荀大老師が何やら色々やってたって話だ」

「それはいい! あの人仕事はしないけど発想は天才的だからな」

「発想だけは凄いよな」

「むしろ発想しかないよな」

「おいこら、お前ら! そんなことよりも子遠さんに感謝しないと」

「子遠さん毎日ありがとうございます!!」

「子遠さんも業務が終わったら一緒に倒食亭に行きませんか。俺奢りますよ」

「あ、ずるいぞてめえ。子遠さん、こんなギャンブルに金をつぎ込んで今月もカツカツの男なんかに近寄っちゃあいけませんぜ。ここは俺と一緒に」

「てめえ、こら! ふざけんな!」

 

許攸の姿に職員たちは一斉に騒ぎ出した。

そのあんまりな発言に荀彧の代わりに彼らの取りまとめをしている沮鵠は顔を真赤にした。

 

「お、お前ら! 子遠さんを当てにするのもいいかげんにしろ! それと、子遠さんはお前らみたいな連中とは吊り合わない! 子遠さんにはもっとふさわしい人じゃなきゃ駄目だ」

「うるせーよちっぱい」

「なに子遠さんの夫ぶってんだ、男女」

「この若白髪」

 

一部の職員が勢いのままにやじを飛ばした。

沮鵠は業務机を持ち上げる。

 

「貴様ら表に出ろ!」

 

どちらかと言うと圧倒的武官と言える沮鵠の筋力は優に成人男性を凌駕する。

職員たちは慌てて沮鵠を宥めにかかった。

 

「い、いやだなー。軽い冗談ですよ、冗談」

「そ、そうですよ。いやー、文武両道に通じているなんて凄いですねー」

「か、かっこいいなー」

「あこがれちゃうなー」

「よし、それが貴様らの最後の言葉でいいんだな」

 

沮鵠は据わった顔で机を振りかぶった。

 

「そのくらいにしておきなさい、白凰。貴方の怒りはもっともですが、むやみに武を振り回すのは感心できません」

「あ、ありがとうございまず!」

「子遠さんマジ天使」

「子遠さん、結婚してくれ―!」

 

許攸の言葉に職員が歓声の声を上げる。

 

「し、しかし、子遠様! この連中は子遠様にも無礼な物言いを。と言うか現在進行形でとんでもないことを言っています。見せしめに一人や二人――」

「問題ないですよ、白凰。私は気にしていません。それと私のことは黄蘭と読んでくださいと言ったはずですよ、白凰。それとも私と真名で呼び合うというのが嫌なのですか? それは悲しいです」

「そそそっ、そんなことはありません、子遠さっ、お、黄蘭様! ただ、私なんかがお、黄蘭様と呼ぶなんて恐れ多いとっ――!」

「そんなに緊張しないでください。貴方の方こそ母の代から麗羽様に仕えているのです。『様』なんて付ける必要もありません。むしろ、私こそ白凰の名を呼ぶのは恐れ多いくらいです」

 

許攸はそう言うとニッコリと微笑んで軽く首を傾げてみせた。

ゆったりとしたウェーブがかかりフワフワした長い金髪がその動作に合わせて広がる。

ふわー、とかそんな感嘆の声が上がった。

ちなみに声の主は男だ。

低めの地声のため、気持ち悪いことこの上なかった。

 

「キマシタワー」

「それ最近言ってるけど、どういう意味だ」

「うむ、荀大老師に依れば女性同士の親密な関係を称える言葉だそうだ。親愛関係から性的な関係まで幅広く使えるそうだ」

「せっ、せいてっ!!!???」

 

沮鵠は顔を真赤にした。彼女はそうした話が苦手であった。

尊敬する許攸を巻き込んでとんでもないことを言った男たちを沮鵠は睨む。

周囲の職員たちは面白いものを見るような表情で沮鵠を見ていた。

 

「そんな言葉、聞いたことないな。と言うか儒教的に拙いだろうそれは。それに、ほら、嬢ちゃんがまた怒ってるぞ」

「だがこれは荀大老師の言葉だ。あの人は田豊殿と共に袁本初様の指導役の立場にある。つまり、この冀州でもっとも偉い人間の師である荀大老師が言ったのだから、ただの木っ端役人たる俺達はそれに従うしかない、という訳だな」

「……それはそうだな。俺達はそもそも荀大老師の推薦があったからこそこうして袁本初様の下で働いているわけだし」

「きっ、きっ、貴様らはっー!」

 

明らかに沮鵠の様子に気が付いた上でからかうような物言いをする職員に彼女は腰に手をやった。

 

「あ、あれ? っ! そうだ、今は持っていないんだった」

 

袁紹の治める冀州が今のように訳の分からない状況になる前、沮鵠が武官を目指してひたすらに修練に励んでいた頃、常に腰に下げていた剣は帳簿管理に役立たないため、だいぶ前から自室に置きっぱなしになっている。

自分が長いこと剣を握ってもいないことに気が付いた沮鵠は少し寂しさを感じた。

 

「あ、あれ、嬢ちゃんどうしたんですか」

「ちょ、ちょっとからかい過ぎちゃいましたかね」

「……っ!? い、今、からかってるって言ったな! やっぱい私のことを馬鹿にしているんじゃないか! 誰がそろばんを使えるようにしたのかもう忘れたのか!? 私は決して馬鹿なんかじゃない」

「あ、大丈夫そうですねっって、い、痛いですってば! 叩かないで下さい」

「そうですよ、俺達は決して嬢ちゃんを馬鹿になんかしていません。からかっているだけですってば」

「ふ、ふざけるなあ! っていうか、俺達ってどういうことよ!? もしかして貴様ら全員――」

「怒るのは分かりますが、取り敢えずそのくらいにしておきなさい、白凰。追求は後で、です。取り敢えず、今日の分の帳簿付けを終わらせておきましょう」

「え、あ、はい、黄蘭様! ……貴様らは後で覚えておけよ」

「様は要らないですよ。それでは終わっていない分を幾つか私に回して下さい」

「あ、はい! 何時もありがとうございます、子遠様!」

 

職員たちは御礼の言葉とともに幾つかの帳簿書類を許攸に渡していった。

それを受け取った許攸はそろばんを手元に引き寄せると凄まじい速度で珠を弾いていく。

荀シンが持ち込んだそろばんを冀州においてもっとも上手く使いこなすのがこの許攸という女性であった。

瞬く間に未処理の帳簿は消えていき、半刻もするとその日の業務は全て無くなっていた。

 

筆記具などを沮鵠が片付けていると、許攸が近くにやってきた。

 

「白凰、これから一緒に食事でもいかがですか」

「え? あ、はい! はい! 行きます! ご一緒させて頂きます!」

 

他の職員たちが、『俺の子遠ちゃんが~』とか、『ちゃん付けしてんじゃねえ! さんを付けろ!』とか、『むしろ嬢ちゃんと子遠ちゃんの絡みこそ至高』とかふざけた物言いをしている。

これがあの歴史ある袁家の家臣かと思うと沮鵠は涙が流れるのを禁じ得ない。

人員が足りないため友若の提案によって商人や傭兵、はたまた奴隷など生まれの卑しい者どもが職員として袁紹の配下となった。

彼らの存在は袁紹に長年仕えてきたこころある譜代にしてみれば噴飯物だ。

連中ときたら品性のない下劣な会話に乗じ、適当な忠誠心しか示さないのである。

 

――あの荀シンとかいうぼんくらが本初様に妙なことを吹き込んでから全てがおかしくなった

 

沮鵠はそう思う。

なまじ友若の提案が大きな成果を上げてしまったがために表立って文句をいうものはいない。

それどころか、袁紹の重鎮たる田豊や沮鵠の母である沮授などは荀シンを積極的に押している。

長年袁紹に仕えてきた人間達にしてみれば面白くない。

沮鵠もその一人だ。

もっとも、沮鵠は新参者が気に入らないというわけではないのだが。

 

――田豊も母上もあんなぼんくらではなく、能力も人格ももっと素敵な黄蘭様みたいな人を推薦するべきじゃあないのか。

 

沮鵠にしてみれば、能力が優秀で、品性の美しい許攸の様な人間が袁紹に取り立てられるというのならば文句はなかった。

沮鵠は心から尊敬していた。

友若とか言うぼんくらなんかではなく許攸こそが袁紹に認められるにふさわしいと思っていたのだ。

だが、冀州の官吏においてサボり四天王の一人に数えられる友若なんかが許攸よりも認められている現状というのは沮鵠にとって我慢のならないものだった。

 

「随分と思い悩んでいるみたいですね、白凰」

 

他の職員たちの同行の誘いをやんわりと断った許攸に連れられて沮鵠はこじんまりとした料亭で座席に座っていた。

 

「もし相談に乗れることがあれば話してみてくれませんか」

「え!? い、いや、何も……」

「そうですか、私に相談できないというのなら仕方ありません。しかし、私でなくても誰か他の人に悩みを話したほうがいいと思いますよ。抱え込んでいるだけでは解決しないこともあるのです。母君の沮授殿も心配されていましたよ」

「え? 母上が……大丈夫です。私には悩みなんて――」

「こらっ」

 

悩みなんてない、と言おうとした沮鵠の鼻の頭を許攸が指で軽くつついた。

困ったような微笑みを許攸は浮かべていた。

 

「貴方も含めて誰も信じられないような言い訳をするものではありません」

「それは……」

「……」

 

沮鵠は言い淀んだ。

何に悩んでいるのかは沮鵠自身よく分かっている。

だが、それを言葉にすることは沮鵠としては避けたい事だった。

自分が惨めに感じてしまうからである。

しかし、それでも沮鵠は決心して許攸に話しだした。

 

「私は……私には才能がありません。あのサボってばかりのぼんくら、荀シンに日々文句を言っていますが、麗羽様の役に立っているのはあっちの方です。悔しいですけど、あのぼんくらの発想力には私はとても敵いません。だから、私はせめて教務で麗羽様の役に立とうと思っているのですが、その処理能力も私の下にいる他の職員たちと大差ないです。わ、私は許攸さんみたいに何でも完璧にこなせる様な人間になりたいのですが……才能のない私はどうしたら良いのでしょうか」

「……」

 

許攸は沮鵠は話を終えると考えこむように目を閉じ、しばらくしてゆっくりと話し始めた。

 

「白凰、貴方は十分やっています。そろばんの使い方を調べてまとめたのは間違いなく貴方の功績です。大変、沮授殿も喜んでおられました。私が今日のようにそろばんを使えるのも貴方がいなければできなかったことです。もっと自信を持って良いと思いますよ」

「でも、それは……私じゃなくてもできた仕事です。多分、誰でもできたことです。算木の使い方はだれでも知っているのですから」

 

沮鵠は許攸の言葉に反駁した。

許攸は静かに微笑んだ。

 

「それを言ったら、私の仕事も他の方が行うことができるものばかりです。他の人ができるから自分の仕事は意味が無いなんて、そんなに心配してばかりでは疲れてしまいますよ。そして、貴方のしたことは誰もが認めるだけの価値が有るのです」

 

許攸の言葉に沮鵠は唇を噛んだ。

そろばんを使えるようにしたという功績は本当は許攸が得るべきものだと沮鵠は思っていたからである。

そんな様子の沮鵠に許攸は微笑んだ。

若いな、と許攸は思う。

 

天才を前にした時に感じる無力感を沮鵠は味わっているのだろうと許攸は感じた。

それはかつて許攸もまた感じたことのあるものである。

理不尽なまでの天才というものがこの世界には存在する。

それを前にした時、凡人はそれをただ認めることしかできない。

 

沮鵠が思い悩んでいることを知っていた許攸としては彼女が折れてしまわないかが心配だった。

真面目な者は天才を受け入れられずに大きな挫折を味わうことが多い。彼らは天才という不条理に耐えられないのだ。

だが、沮鵠は不条理を感じながらも、友若のことを認めていた。

愚直で、不器用で、どうしようもない位正直な沮鵠の様子に、余計な心配だったかしら、等と許攸は考えた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

株式制度が一定の成果を見せ更にその拡大が予想された頃、友若は袁紹と田豊に対して新たな草案を提出した。

この時、友若は袁紹のご意見番と教師と軍師を兼務した大老師とか言う訳の分からない役職に付いている。

株式制度の成功を見た田豊の計らいであった。

新参者であり侮られ易かった友若に箔をつけようと言う狙いである。後、友若をキープしておくためでもある。

袁紹のもとで戦乱の世を迎えるつもりはない友若は必死にこの大任を固辞しようとした。

曰く、私にはそれほどの能力はない、大任にすぎる、もっとふさわしい人物がいる、等と友若は主張した。

だが、田豊に押し切られた。

大老師就任が決まってしまった時、友若は虚ろな目で『まだセーフ、ギリギリセーフ……ギリギリギリギリ』等と呟いていた。

 

結果として、友若は地位に固執しない無欲な人間であるなどと言った事実とは異なる評価を受けることになった。

この時点で大量の人材を抱え込み、莫大な資産を有し、名門袁家の事実上の当主である袁紹の権勢は漢帝国のトップクラスである。

清流と濁流の地を交えた対立により漢帝国と皇帝の権威が揺らいでいる事を考慮すれば、袁家はある意味皇帝以上の力を持っているとも言える。

党錮の禁により廃された清流達を大量に抱えながらも皇帝が手を出せないのもそのためである。

正直な所、先が暗い皇帝の下に付くよりも、政情不安定な洛陽で清流として官吏になることよりも、袁紹の下に付くという事の方が人気がある程である。

その袁紹のご意見番ともなれば絶大な権力を振るうことも不可能ではないのである。

友若はその誰もが垂涎するであろう地位を田豊に押し切られるまで固辞したのである。

その袁紹がいずれ滅ぶと友若が思っている等とは考えもつかない他の人間にしてみれば、荀シンという人間が清廉な人物であると誤解してしまうのも無理はなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「なるほど、謙虚な姿勢を見せるとは麗羽の好みをよく分かっているわね。……荀友若、桂花、貴方の兄なのよね?」

「はっ、はい、華琳様! しかし、私の愚兄は決してその様な優秀さは欠片も持っていません!」

「あら、そういう決め付けは良くないわ、桂花。思い込みは考えを硬直化させてしまう。最初、貴方が私の時に来た時の失敗も、ふふふ、それが原因だったじゃない」

「ふぁ、ふぁい」

「ふふふ、可愛い子ね……」

 

――それにしても荀友若……株式制度、あれはとても興味深かったけど、あれだけではいずれ行き詰まる。次の一手が楽しみだわ。

 

ちなみに、袁紹の事をよく知っている曹さん家の孟徳さんと2コマ即落ちシリーズ並みの速度で華琳ちゃん大好きっ子になったどこかの妹はそんな事を言っていたらしい。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「銀行……友若さん、これはなんですの?」

 

袁紹は友若によって提案された銀行制度の説明を求めた。

一応教育係も兼任している友若に対して袁紹は躊躇せずに質問をするようになっていた。

 

「はい、この制度は資金を持っている豪族達から金を集めることを目的にしています。本初様も知っての通り、株式制度で袁家が大きな利益を上げたことで、豪族達から自分達も株式制度に参加させて貰えないか、と要請が来ています。現在、株式の取引はこの地で行われていますが、豪族たちの多くは普段、自らの地元にいます。彼らの持つ貨幣もまた彼らの本拠地にあるため、彼らが株式制度に参加しようとすると、大量の貨幣をこの地まで運び、株式の配当をこの地で受け取って自らの領土へと運んでいく必要が出てしまいます。また、株式会社は株を売ってその金を元に商売を始めますが、この地から離れた場所で商売を行おうと思うとここで大量の貨幣を受け取って商売をする場所まで運ばなければなりません。しかしながら、町から町へ移動する際の道というのは安全とはいえず、多くの貨幣を運ぶともなれば、欲に目が眩んだ盗賊たちに襲われる可能性も高くなります。そこで、豪族たちなど、株式をしたいと言う者達から資金を予め集めておいて、帳簿上で株の売買を行うのです。これにより――」

 

友若は訥々と語った。

何にもやましいことはないですよ、袁紹様の役に立ちますよ、と友若はアピールしているつもりである。

 

もちろん、友若が銀行制度を提案した最大の理由は自分のためである。

と言うか、ただでさえ株式制度の創案者として注目を集めている状況で、いずれ離れるつもりの袁紹のために全力を尽くすつもりは友若にはなかった。

 

この時、友若は株式で稼いだ金の置き場に困っていた。

節約のために友若は長屋に住んでいたが、株式で稼いだ金をそこに保管しておくことは精神衛生上よろしくない。

まともな戸締りができないため、人目を気にしなければ誰でも入れるのである。

友若は床下に貨幣を隠していたが、考えられるだけの頭の持ち主ならば容易に見つけられてしまうだろう。

さらに、貨幣は嵩張る。

友若の部屋の床下は既に空き場所がなくなりかけていた。

そういう場合、普通の人間ならもっと良い家を購入し、奴隷や召使に管理させるのだが、友若はその金をケチっていた。

袁紹の下で根を張るつもりのない友若はこの地で固定資産を購入したがらなかったのである。

だが、貨幣の保管場所を確保することは急務であった。

悩んだ末に友若の出した結論が袁紹に貨幣の保管をやってもらおうというものだった。

そこに友若は前世の銀行に関する知識を組み合わせたのである。

 

思い立ったら吉日とばかりに、友若は株式制度によって生じた問題解決のために奔走している同僚を横目に銀行制度の草案を作り上げた。

株式制度の運用で散々苦労した友若は結果としてそこそこの業務能力は身についていた。

 

「――以上により、この銀行制度は袁紹様にとっても豪族たちにとっても良い結果をもたらすものと確信しております」

「な、なるほど、分かりましたわ! よろしいですわ、友若さん。この銀行制度とやらを華麗に実行しなさい!」

 

これはろくに分かっていないな、と思いながら友若は袁紹に頭を下げた。

田豊は友若の説明から銀行制度に大きな利点があると感じたので何も言わずに袁紹に同意した。

もちろん、新たな試み故に無数の問題は生まれるだろうが、なんとかなるだろうと田豊は楽観視していた。

株式制度の導入で生じた問題を友若が騙し騙しでも表面上は何とかしてきたことと、袁紹のサイコロによって莫大な利益が出たことで、田豊は友若の才能を相当に評価していた。

かくして、冀州に銀行が誕生する。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

銀行制度は株式制度の成功もあって、当初からそこそこの注目を集めていた。

田豊の提案によって株式制度へ参加するためには事実上銀行口座の開設が必要だったからである。

しかし、その初期において豪族たちは中々銀行を利用しようとはしなかった。

一つには、未知の制度である銀行とやらに自分の資産を預けることには不安があった。

加えて、銀行を運営するのが袁紹であるため彼女に逆らえなくなるのではないかという危機感があったのである。

実際、田豊は地元勢力である豪族たちを袁紹の傘下に置こうと画策していた。

 

友若は自分の資金を預金出来ればよかったため、銀行口座を作るための保証金は比較的高額となっていた。

庶民にも利用できるようにしてしまうと、仕事が増えて面倒だと友若は思っていたのである。

かくして、株式制度への参加を熱望する豪族は多かったものの、銀行口座開設のハードルが高かったため、銀行制度はゆっくりと普及していくことになった。

 

「めんどくせー」

 

友若は書類を見ながら呟いた。

自分で提案した制度であるが、日々生じる問題対処に追われるというのは果たして割に合っているのか、等と友若は思った。

 

「何サボっているんだ、このぼんくらが!」

「いやだって、まだ連絡の早馬が全部来ていないし、することがないからしょうがないじゃないか。全部揃わないと仕事にならないんだから」

 

友若の提案した銀行制度は本店と支店によって構成される。

前世での銀行のように、友若の提案では支店で預けた資金は本店や他の支店で引き出すことが出来る様になっている。

送金や口座上での取引も可能となっている。

友若にしてみれば、銀行という名前を冠する制度である以上当然の事だった。

だが、当然ながらそこで様々な問題が生じた。

 

もっとも重大なものは支店で貨幣を預けた場合、その情報をどうやって本店や他の支店と共有するかという問題である。

これが上手くいかないと、他の店舗で預けたはずの貨幣が引き落とせなくなる。

銀行に口座を開設する際に発行する通帳の内容は信用出来ない。

番号が振られた冊子状の通帳は特殊な紋様と塗料を採用することでそれそのものの偽造を困難にしていたが、書き込み自体は難しくないからである。そのため、通帳を信じると貨幣を他の店舗で預けたと記載して詐欺を行うことが可能となってしまう。

 

友若は銀行間で情報共有を行うために、銀行の取引時間を午前のみとして午後いっぱいを会計処理に当てるようにした。

自分自身が利用する目的で銀行制度を提案した友若に他の人間にとっての便利を求めるようなサービス精神は皆無である。

そして、各支店でまとめた会計処理の結果を翌日の午後に本店へと早馬で情報を送る。

本店では各講座の会計処理をして、整合性を確かめた上で翌日の午後に各支店へとその情報を送るのである。

また、会計情報を元に数日に一回の割合で護衛を付けた上で貨幣の運搬を行う。

これにより、本店または任意の支店で貨幣を預けてから3日後には他の場所で金銭を引き落とすことが可能になる、と友若は目論んでいた。

 

当初は、それで問題はなかった。

銀行制度を利用するものは少なく、結果として会計処理自体は割とすぐに終わったのである。

それに、まともに動いている支店が存在していなかった。

豪族にしてみれば銀行の支店という存在が近くに来るというのは袁紹の手先が喉元に居ることに等しい。

支店を作ろうとすると関係する豪族たちが、利権を寄越せ、賄賂を寄越せ、業務に関わらせろ、むしろ金だけだして俺達に全部やらせろ、等と主張した。

対して、友若はじゃあ支店作らねえよと対応した。

支店の存在は友若にしてみればあくまで袁紹を説得するためのものであって、友若自身が行くつもりのない場所へ苦労してまで支店を作るつもりはなかった。

支店が少ないほうが業務が楽だった訳であるし。

 

しかし、豪族たちとしても大きな利益の見込める株式制度への参加をしないわけには行かなかった。

不承不承であるが、豪族たちは友若の言い分通りに支店を作ることを最終的には認めた。

それは冀州において袁紹の統治機構の下に豪族たちが組み込まれることを意味していたのである。

まあ、その後も、色々と問題はあったのだが。

例えば、河の氾濫で道が通行不可能になり早馬が飛ばせず業務が止まったり、豪族が式典のために道を占拠していた結果早馬を飛ばせずに損失が発生したり、支店の職員が豪族と結託して不正に支店の金を使い込んだり、ストライキが起きたり、貨幣運搬の際に護衛がいるにもかかわらず何故か盗賊が襲ってきたり、その際、たまたま護衛が貨幣運搬を行なっている職員の側を離れていたりといったものである。

その度に、友若達は道路の舗装を行ったり、迂回路を整備したり、職員の首を物理的に飛ばしたり、酒屋で知り合った豪族とは繋がりの無さそうな人間を雇ったり、賊の討伐をしたり、賊と裏で結託していた豪族を断絶したりした。

 

結果として袁紹の支配力を強めることになったため、田豊達にしてみれば万々歳であった。

友若にしてみれば散々苦労した挙句、冀州の方方の豪族から睨まれる結果というのは罰ゲームとしか思えなかった。

 

ともかく、そんな感じで友若にとては残念なことに銀行の支店は増えていき、利用者も増大した。

それにともなって急速に銀行の業務は急増した。

 

友若は職員の臨時募集を度々行い、増やしていたが、どうしても仕事量の増大速度が速すぎた。

脳筋系に属する少女である沮鵠や新参の職員などの能力が友若と比べて低かったことも大きな問題だった。

優秀な許攸などに友若は泣きついて、何とかその日その日をやり過ごしていたが、友若はその破綻が近いことを感じていた。

そこで、友若は職員の能力向上を目指すことになる。

 

具体的には経理能力の向上を目標にした。

この時代の計算は算木と呼ばれる計算補助具を使用している。

この時代、10進法の概念を利用した計算術が既に完成しており、和算、減算、乗算、除算程度なら十分に可能である。平方根の数値解計算すら出来るのだ。

ただし、この計算方法は棒を並べる事により行うため、時間がかかった。

 

ここに、友若はかつて荀彧からダメ出しを受けたそろばんを持ち込んだ。

残念なことに、そろばんをまともに使ったことなどない友若に分かるのは和山と減算のみであった。

とは言え、算木とそろばんは似ているため、少しやれば乗算と除算方法についても問題なく求められるだろう、と友若は考え、めんどくさかったので沮鵠に丸投げした。

友若殿、友若殿、等と友若を尊敬している様子の沮鵠であれば、多分上手くいくだろうなどと考えて。

 

「という訳で、優秀な沮鵠にはこのそろばん、算木よりも計算を高速且つ正確に行うための道具の使い方についてまとめて欲しい」

 

最低限の数の数え方だけを説明した友若は沮鵠にそろばんの使い方をまとめて他の職員に教えるように命じた。

当初、沮鵠は、どうして自分が、とか、私には難しすぎます、等とバイタリティの欠如した受け答えをした。

 

「君なら出来るよ……いや、君しかできないんだ」

 

友若は適当に沮鵠を誤魔化すと、袁紹の元へと去っていった。

袁紹が出すサイコロの目の情報は万金の価値が有るのである。

他の職員たちは酒屋へ行った。

 

一人残された沮鵠は必死にそろばんの使い方を調べた。

この時点では、沮鵠は母親や田豊から一目も二目も置かれる友若のことを尊敬していた。

幸いにして、そろばんと算木は同じ計算方法が利用できるため、頭脳明晰とは言い難い沮鵠であってもそろばんを使って一通りの計算はできるようになった。

最初は慣れていなかったためひどく時間はかかったが。

 

ともかく、沮鵠は連日半ば徹夜してそろばんの研究を行った。

そして、そろばんの使用方法をまとめた資料を作成して友若に差し出したのである。

 

「ん? なにこれ?」

「そろばんの使い方をまとめたものです」

「……あっ!? あれか……あれかあ……」

「頑張りました。ところでそれは何ですか」

 

沮鵠は友若が紙に書いているラクガキのようなものを指さして訪ねた。

鉛筆と友若が命名したそれを使って書かれた模様は沮鵠の知っている文字ではなかったが、一定の規則性があるように見受けられた。

 

「……これは筆算と言って素早く計算を行う事が出来る方法さ。どうだ、凄いだろう」

 

どや顔で自慢してくる友若に対して沮鵠は全力のグーパンを叩き込んだ。

きりもみ状態で漫画のように吹き飛んでいく友若。

そんな感じの出来事が繰り返され、沮鵠の友若に対する尊敬の念は急落していった。

 

同時に、何でこんな奴がこんな凄いことを思いつくんだ、等と沮鵠は思い悩むことになる。

 



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友若ピー

その日、友若は悪友である審配と共に歩いていた。

時は夕刻。

仕事を終えた2人は居酒屋へと向かっていたのだ。

 

「疲れたー」

「毎回思うんやが、裏方は大変やなあ」

「まあ、その分稼ぎは大きいからいいんだけど」

 

友若は最近銀行業務から袁紹傘下の株式会社の相談役みたいなことをやっている。

今で言うコンサルタントに近い。

友若の仕事は転生チート知識を活用して株式会社の売上向上に貢献することである。

袁紹の重鎮が商売をするということは色々問題があるのだが、直接商売をせず意見だけを出すという名目で友若はこの仕事をしていた。

何だかんだで地味な銀行業務と比べて友若は仕事に張り切っていた。

自分の知識が大きな成果を上げるというのは結構な快感だったのだ。

それに、この仕事は色々と副収入が期待できる。

 

「役満シスターズ四十九の株買っといて良かったわ」

「だろう? ここだけの話だけど、本初様のあれ、前は4だったのに昨日やったら6だったしな。と言う事は半年後には投資額を回収できるってわけだ」

「え!? ほんまかいな。麗羽のサイコロで6が出るなんて最近殆ど無かったやん」

「ちょっ!? 声が大きい、如何にアイドル商売が儲かるかってことだな」

 

一つは、どこに投資すれば良いのかが分かるということである。

当初は袁紹の振るサイコロの出目を元に投資先を決めていた友若であるが、それがおおっぴらにはできなくなった。

袁紹のサイコロの出目は株式投資で思うように利益を上げられずに苦しんでいた豪族たちにとって喉から手が出るほど欲しい情報である。

まあ、豪族たちはまさか袁紹がサイコロで投資先を決めているなどとは思っていもいなかったが、彼女がどこが成長すると思っているかという情報は大金を払ってでも知りたい情報だったのである。

 

そこで、田豊や沮授、そして嫌々ながら友若が協力して『華麗なる投資信託』という株式会社を創設した。

命名は袁紹である。

豪族たちにはこの投資信託に資金を預けさせてその金を元に袁紹がサイコロを元に投資するというシステムを構築したのである。

長期の定期預金の利率を高額にしたことで、豪族たちの多くは多くの資金を投資信託に預けることになる。

これでまた袁紹の豪族に対する支配が強まった、等と田豊たちは喜んでいたが、友若は非常に残念に思っていた。

袁紹のサイコロの出目が明確に重要な情報となり、袁紹配下の者達にはその情報を元に投資したり漏洩したりすることが禁止されたのである。

代わりに投資信託の株式が袁紹の配下達に配られたりしたが、かつてのような収入は見込めなかった。

これでは今までの様にローリスク・ハイリターンで稼げない、と友若は危機感を抱いた。

かなりの額を稼いでいた友若であるが、冀州におけるここ最近物価上昇を見るに、稼げるだけ稼いでいたほうが良い、と思っていた。

 

そのためには市場の情報に精通していなければならない、と友若は考えた。

銀行の業務に日々追われる毎日である。どこの会社が調子がいいかは分かっても、これからどこが伸びるかは分からない。

何も考えずに袁紹のサイコロの通りに投資してばいいという考えから、友若の現行市場の情報は皆無に近かった。

という訳で、友若は袁紹にコンサルタント業務をやらせてくれと直談判した。

幸いなことに、この時市場の情報を熟知している者が必要だという友若の主張は高い説得力を持っていた。

 

この直前、大規模な株式会社が幾つも潰れてかなりの株式が紙くずになるという事件が起きていた。

袁紹にとっては幸いな事に、潰れた会社は全てが袁紹傘下の企業ではなく、そのライバルであったため、その被害を直接被ることはなかった。

だが、このことは投資マネーの萎縮させたり、大量の失業者を発生させて治安を悪化させたりした。

その影響は少なからず、袁紹傘下の企業の行政にも影響したのだ。

 

さらに、株式投資で大損を出した者達の多くが銀行まで文句を言いに来たりした。

宋典とか言うどこかの富豪の使いは随分偉そうな態度で損害の補填を求めていたな、と友若は思い出した。その使いは銀行本店の受付で喚いていたが、たまたま近くを通りかかった荀シンに気がつくと、彼に金を返せなどと要求してきたのだ。友若が無理だと拒否すると、守銭奴め覚えておれ、などとよくある捨て台詞を吐いて去っていった。

どこの誰かは知らないけど金持ちに恨まれるとか勘弁してほしいな、などと友若は考えた。

まあ、投資額が多かっただけに、それが全部無くなったと言われれば切れるのも無理は無いのだろう、と友若は思う。

制度上、大損をすることは明記してあったはずだが、袁紹がやたらと稼いだせいで、株式がローリスク・ハイリターンだという誤解が広まっていたのだ。

 

その対策として、袁紹の持ち株を売りに出して投資気運の向上を目指したり、大量の人員を雇って田畑の灌漑をしたり、私兵として雇って軍事訓練をさせたりと結構な対策を講じる必要に追われていたのである。

袁紹傘下の企業でなくても潰れるということは周囲に悪い与える影響を及ぼす。

その様に袁紹のブレイン達は認識しており、事前に市場調査をして問題が生じない内に解決を目指すという友若の意見に賛成したのである。

許攸を始め優秀な人員が銀行の運営を引き継ぐことができたということも彼らの判断を後押しした。

かくして、友若はコンサルタント的な仕事をすることになった。

 

「そう言えば、最近は鉄の価格も上がってきたし、多少矢の生産は減らしてもいいかもしれないな。後で本初様に伝えておこう」

「ああ! それははよう言うてくれへんと! 今、生産過剰の矢の置き場所に困ってるんやから! そもそも弩も多すぎや。一応麗羽の配下の兵隊は1万やのに、弩の数が3万とかどういうことや!」

「い、いや。でも鉄の値が下がりすぎるとまた会社が潰れかねないし、潰れた場合の対処法も確立していないから、この前みたいに面倒な事態になるかもしれない。増えた生産量の分だけ消費して値崩れしないようにしておかないと」

「猪々子のやつもぼやいとったで。訓練が多いのは構わへんけど、弩ばっかりになって、突撃とか全然できてないって」

「でも弩だと訓練すれば一定の割合で矢を消耗するからなあ。消費を作るという観点から見るとやっぱり弩がいいんだよ」

「農村に鉄製の農具を配るっちゅうのはダメなんか。ほら、先の別れた桑とかめっちゃ使いやすいんやろ? あと、しゃべる……やったっけ? あれも中々便利だって聞くし」

「うーん。無料配布は価格破壊にもつながりかねないし、北部の豪族なんかは隙あらば本初様から利益を掠め取ろうとしているからなあ。銀行の普及を目指した当初とか、強欲な豪族たちの酷いこと酷いこと。賊と内通して銀行の支店を襲わせるとかどうしようもない連中もいたからなあ。正直、碌な事にならない気がするよ。それに、一応、本初様は荘園にも投資しているわけだから、その競合相手を態々作るのもどうかと思うし。結局、鉄を上手いこと消費するのは軍事で、矢はその中でも消耗が前提となっているから仕方ないさ」

「布とかはうまいこと価格が上がっているみたいやけどなあ」

「それについては役満シスターズ四十九に感謝だな。ファンクラブの会服は最近では一番のヒットだ。多少高くても、連中は買っていくからな。女性服の需要が伸び悩んでいたけど、男性側もこれでかなりの金を衣服につぎ込むようになったことは大きい」

「で、それを提案した友若、あんたはそんなものには手を出さずに強欲に金をためてるっちゅうことやな。友若はアイドルには興味ないんか。天和ちゃんみたいな可愛い子と恋人になりたいとかそういうのはないんか?」

「まあ、それほどは。と言うか、俺はマネージャーとして舞台裏の彼女たちの姿を知っているんだ。輝かしい表舞台の裏でどんな事が起きているかを知れば百年の恋も冷めるさ。と言うか、アイドルっていうのは遠くから眺めるものだと思うぞ」

「……じゃあ、友若はどんな女性が好みなんか? ……身近な女性とかで例えると」

「うーん……やっぱり子遠さんかな。やっぱり、何よりも包容力のある人がいいよなあ」

「そ、そうなんか。一応、うちも面倒見が良い事で有名やで」

「あと、フワフワした髪とか好みだし」

「う、うちも髪の毛伸ばそうかなあー」

「まあ、でも当分結婚するつもりはないけど」

 

袁紹がいずれ敗れて消えていくと思っている友若としては袁紹支配下の冀州で身を落ち着けるつもりは更々なかった。

下手に袁紹の勢力が大きい以上、今後現れるはずの三国志の覇者と彼女が共存できるわけがない、と友若は考えていた。

 

「あら、友若さんと怜香さんじゃあありませんか」

「本初様!? それと文将軍に顔将軍じゃないですか!」

 

目当ての居酒屋で友若と審配は思わぬ人物に出会った。

 

「おう、荀大老師のアニキ! 久しぶりだな!」

「お久しぶりです、友若さん」

「ちょうどいいですわ。隣の席をくっつけて一緒に食事をしましょう」

 

袁紹の鶴の一声であれよあれよという間に友若達は袁紹達と同席することになった。

 

「……しかし、本初様がこのような居酒屋まで足を運ぶとは驚きました」

「あら、友若さん、この冀州は隈なく私の家のようなもの。であれば、私がどこにいようと可笑しくはありませんわ。おーっほっほっほ!」

「いや、麗羽様ったらあたいと斗詩のやつがさっきこの居酒屋の飯が美味いって話していたのを聞いてここに来たのさ」

「ちょ、ちょっと猪々子さん! それではまるで私が食いしん坊みたいではありませんか!」

「だ、だめだよ猪々子ちゃん! そんなこと言ったら失礼だよ」

「……あー、それよりも早く注文しちゃいませんか。ここって確か友若が新レシピを提供したんじゃあなかったっけ?」

「え!? 荀大老師のアニキのレシピ!? なるほど、だから美味かったのか」

「そうだったんですか!?」

「えーっと、あー、うん。まあ、そう言えるかな」

 

顔良の問に対して友若は口切れ悪く答えた。

 

「何好き勝手なこと言ってるんだ。その大老師様は大量の食料をダメにしただけじゃねえか!」

 

友若達の話を聞いていた店主が厨房から顔を出して叫んだ。

 

「え!? 私は上手くいったって聞いていたけど」

 

審配が驚きの声を上げた。

 

「そいつのやったことは大豆にカビを加えて大量に腐らせちまっただけだ! 良い感じのカビを使うと美味しくなるとか、適当なことを抜かしやがってな! それで、こいつは上手くいかないと見るとすぐにどっかに行きやがった。大量の大豆をダメにされた俺は呆然とするはめになったよ!」

「でも上手く言ったんやろ? 大豆を使った新料理とか品書きに書いてあるやん」

「ぐっ! ああ、上手く行ったよ! 最終的にはな! だが、それはこいつの成果なんかじゃねえ!」

 

憤りの声を上げる店主。

そこに袁紹が声をかけた。

 

「よく分かりませんけど、兎に角ここの料理は変わったものが出てくるということですのね?」

「おっ、へえ! その通りです、袁州牧様! この私めが作り上げた絶品の数々を是非とも堪能していって下せえ」

 

店主の自信満々な様子に袁紹達は小さく歓声を上げた。

彼女たちはかなり楽しみにしているらしい。

そんな様子を茫洋と友若は見ていた。

 

「おい、あいつはあんな事言っとるで。ほっといてええんか?」

「別にいいよ。まあ、間違ってはいないし」

 

審配の言葉に友若は答えた。

 

料理を待っていると見せに新たな客が入ってきた。

許攸と沮鵠であった。

 

「あら、麗羽様ではありませんか。それに友若まで」

「ああ! このぼんくら! 麗羽様に何をしている!」

「い、いや何も……ってお前らもいるのか」

 

友若は許攸の後ろに他の客達に声をかける。

銀行本店における職員たちが店内に入ってくるところだった。

 

「おっ! お久しぶりでーす。友若さん」

「って、袁本初様もいらっしゃるじゃありませんか!」

「おいおい、どうすんだ。流石に州牧の前で嬢ちゃんをからかう勇気は俺にはねえぞ」

「ふっ、まだまだだな。権力なんぞに屈するとはっ! いいか、人には決して引けない状況というものがある。そうなった時にどうするか……戦うしかないではないか!  そして、そう、今がその時! 結果として死にゆくことになったとしても、俺は闘い抜いてみせるぞっぶべらっ!」

 

顔を真赤にした沮鵠に殴り飛ばされる職員に友若は思わず敬礼をした。

何者にも屈しないという強い意志に友若は敬意を表さずに入られなかったのだ。

 

「こう……ですの?」

 

友若の様子を見ていた袁紹が何となく真似をした。

そのまま流れで許攸と沮鵠を除くその場の全員が殴り飛ばされた職員に向かって敬礼した。

 

「……何をやっているのですか?」

 

許攸が尋ねる。

袁紹が友若の方を見た。

友若に説明しろという合図である。

友若自信、どうしてこういう状況になっているのかよく分からなかったが、取り敢えず説明をすることにした。

 

「これは敬礼と言って敬意を評しているのです。一人の漢に対して。彼の行いは褒められたものではありません。多くの者は下らないと彼を笑うでしょう。しかし、確かに彼には覚悟が有った。そして、私はこの状況下で無数の危険をものともせずに信念に殉ずるその姿には敬意を表さずにはいられません。それは確かに美しいのです。彼が死んでしまったとしてもその勇姿は永遠に私たちの心に残り続けるでしょう」

「いい話ですわ!」

「……そうですか?」

 

袁紹は涙ぐんだ。

何だかんだで情に厚い女性である。頭の出来は残ね……微妙だったが。

友若の芝居がかった解釈に感動した様子を見せる袁紹に許攸は困ったような顔を見せた。

ちょうどそこへ店主が料理と酒を運んでくる。

気を利かせて店を訪れた全員分に盃が渡される。

友若には盃と一緒に請求額が書かれた木管が渡された。

 

「ちょっ!? 何で俺に請求すんの? っていうか、まだ注文もしていないのにこの額は何!?」

「なんや、友若。女に奢らせるつもりか? さんざん稼いでるんだから、うちらみたいな見目麗しい女性に貢ぐのは当然やんか」

「なるほど、今日は友若さんの奢りですのね」

「ホントか!? アニキ、ありがとう!」

「あ、えーっと、すいません、麗羽様と猪々子ちゃんが」

「「「荀さん、ゴチになります! あざーす!」」」

「ふんっ! 貴様の投げ出した銀行業務をやっている黄蘭様や私達に感謝を示すのは当然だ!」

「友若、困っているようなら私も出しましょうか?」

「きっ、貴様っ! 黄蘭様に金を出させるというのか!!」

「いや、まだ何も言ってないから。もういいよ。今回は俺が出すよ。あと、子遠さん、結婚して下さい」

 

友若は冗談を言いながらも自分が金を出すことにした。

毎日の稼ぎを考えればこのくらい大したものではない。

居酒屋の平均価格はここ最近で5倍くらいになってるが、それ以上に収入を増やした友若にしてみれば十分に払える額だった。

友若はため息をつきながら財布を出す。

その向かいで許攸がテンパっていた。

 

「えっ!? そ、その、そんないきなり言われても……こ、困ります!」

「ちょっ、ちょっと待ちいや! 友若、何いきなりふざけたこと言うてんねん!」

「そうだぞ、ぼんくら! 貴様、図々しくよくもそんな妄言を!」

「え? 何のこと」

「何って、け、結婚してくれってあんた言うたやないか!!」

「いや、それ、ただの冗談だけど」

「……え?」

「……え?」

「ふ、巫山戯るなあ! ぼんくら! 貴様はどうしてそうなのだ!?」

「ぼんくらはどうしてぼんくらなのか、か。随分と哲学的な問だな」

 

怒りの声を上げる沮鵠に友若は渋い表情で答えた。

 

「おまっ! 冗談ってどういうことや!?」

「え? 俺結婚とか考えたことないし。お付き合いしたことすらないんだぞ。どう考えても冗談じゃないか」

「そ、そんなの知らんわ! 付き合ったことがないっちゅうのはええが、いきなり結婚してくれだとか言われても冗談とは思えんやんか!」

「俺には冗談にしか思えないんだがなあ」

 

憤りを見せる審配に友若はぼやいた。

 

「一応、元皓様は友若さんは是非とも麗羽様に、とか考えていらっしゃる様ですけど」

 

顔良がポツリと発言する。

友若にとっては聞き捨てならない事だった。

 

「え? そんな話聞いたことがなかったけど」

 

友若は思わず袁紹の方を見た。

他の人間達もほとんどが袁紹の方を見ている。

 

「私もそんな話聞いたことがありませんわ!」

「……なるほど、元皓殿が考え過ぎているだけですか……」

 

取り敢えず、友若は今までの不吉な話を無視することにして、袁紹に声をかけた。

 

「さて、では気を取り直して……散っていった勇士の死を悲しみつつも、その気高き精神を讃えて乾杯しましょう。本初様、お願いします。」

「分かりましたわ。では、この袁本初、乾杯の音頭を取らせて頂きます!」

 

どんな無茶ぶりにも対応可能な袁紹であった。

対応するだけで、それが最善とは限らないのだが。

 

「「「おおおおおお!」」」

 

銀行の職員たちが叫び声を上げた。

ちなみに、先程沮鵠に殴られた職員も雄叫びに参加している。

 

「あれ……?」

 

沮鵠は呆然とした様子で呟いた。

真面目一辺倒故の苦悩である。

だからこそ、職員たちに散々からかわれることになっているのだが、沮鵠はその事に気づいていなかった。

 

「一つの信念に殉じ、散っていった勇士の栄光に、そして、未来へと羽ばたき続けるこの冀州に乾杯!」

「「「乾杯!」」」

 

そんな感じで酒盛りが始まった。

 

「ちょっと、猪々子さん、それは私の肉ですわよ! 猪々子さんはこの野菜を食べていなさい! 肉ばかりだと太りますわよ」

「えー? あたいは今日も軍事訓練で腹が減っているんですっ! 麗羽様こそ肉ばっかりは太りますよ」

「キーッ! よくも私にそんな口のきき方を! 悪い猪々子さんの口はこうしてやりますわー!」

「ちょっ、ちょっと麗羽様! それに猪々子ちゃんもやめてー!」

「子遠さんの婿としてふさわしいのが誰かを考えるとやっぱり俺しかいないと思うんだ」

「てめー、何ふざけたこと抜かしてやがる! 子遠さんは俺の嫁に決まっているだろう!?」

「黄蘭様、黄蘭様に無礼な口のこいつらは今すぐ黙らせますので」

「白凰ちゃん、そんなに殺気立たないでください。今日は無礼講という話でしたわよ」

「ちょっと、友若聞いとるんか! うちは一途なんやで。麗羽様以外の主に仕えるつもりは毛頭ないし、その、け、け、結婚についても同じや」

 

友若は冀州でできた仲間たちの騒がしい様子を眺めていた。

近いうちに別れるつもりの仲間である。

そう遠くないうちに三国志の覇者に敗れ消えていくのだろう、と友若は思った。

そして、友若はそれを知り、彼らから離れ一人安穏と生きながらえようと画策している。

そう思うと、心がどこか震えるのは友若は感じた。

 

――今更何を……

 

友若は自らの浅ましさをあざ笑う。

荀彧、妹で散々思い知らされたではないかと。

友若がどれだけ努力しても、転生チート知識を駆使しても天才の足元にも及ばないことは十分に思い知ったことである。

 

――もう、いい。

――どう足掻いてもあれに勝てない。

――だって、あれはバケモノなのだから。

 

その妹と曹操や劉備、孫堅が同類であるのならば、友若がいても居なくても袁紹の敗北は変わらないだろう。

あれらに勝つことはできない。

袁紹の下で仲間と一緒に生きようとするのは不可能なのだ。

それはただの自殺と変わりがないだろう。

 

――それじゃあ、何のために生きるんだ。仲間を見捨てて、一人だけで……くそっ! 妙な情が移っちまった。

 

友若は自問した。

このまま、ただ逃げて構わないのかと。

友若にとって袁紹はさんざん世話になった相手であるし、その配下には長年苦楽を共にした仲間や部下がいる。

 

――だからって、大河の氾濫を俺一人がいれば止められるって居るのか? どうあっても勝てないと思い知ったはずじゃないか! どうしようもないことだ!

 

友若は心の中で叫んだ。

 

「あら、友若さん。一体どうしましたの?」

 

涙を流していた友若の様子に気がついたのか、袁紹が尋ねた。

余計な所で感の良い女性だ、と友若は思う。そして、空気を読まない女性だとも。

袁紹達を見捨てることを考えていた姿を見咎められて、自分勝手であるにせよ友若は良い気がしなかった。

他の面々も心配そうな様子で友若を見ている。

その裏のない視線が友若には辛かった。

 

「い、いえ! 何でもありません」

 

友若は笑顔を作って誤魔化した。

自然な笑顔になっている自信は無かったが。

 

友若の生まれた家では得ることのできなかった関係があった。

生家では皆が荀彧ばかりを見ていたのだ。

凡人しかいない袁紹陣営。

そこに友若の居場所は確かにあった。

それは友若が本当に欲しかったものなのかもしれない。

 

――負けるにしても殺されずに生き残る事くらいなら可能かもしれいない。

 

友若はふとそう考えた。

自分がいたからといって勝てるなどと友若は思わない。

それでも、上手く立ち回れば死ぬことなく生き残ること位は出来るかもしれない。

敵対勢力は皆殺しにしたほうが良いのだから、その望みも薄いだろう。

だが、天才の足元を掻い潜り、何とかその慈悲を得ることが出来ればあるいは。

友若はそう思った。

 

――くそっ! 本初様を始めとして深く付き合いすぎた!

――こんな分の悪い事に挑戦しようとするなんて、無理に決まっているだろうが!

――と言うか、露骨な死亡フラグみたいじゃねえか!

 

内心で毒づき、恐怖に震えながらも友若はその日決心した。

幸いにして、黄巾の乱まではまだ10年ほどの時間がある。

その間に、三国志の覇者と顔をつないでおき、慈悲を請えるくらいの関係を築いておいてやる。

それなりに親密なら命くらいは助けてもらえるかもしれない。

ダメだったらその時は逃げればいい。

何もしないで袁紹達の破滅を見ているだけの自分に友若は耐えられなかった。

友若は決心した。

友若なりのやり方で未来を掴み取ることを。戦うことを!

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

そして、友若が内心で決心を固めてから一ヶ月程後、皇帝の勅が漢帝国全土に激震を引き起こす。

 

――天下の逆賊袁紹並びにその佞臣荀シン討つべし

 

黄巾の乱は未だ起こらず。

しかし、この勅をきっかけに三国志の群雄たちが動き出す……!

 



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呂布は俺に任せて先に行け

袁紹 字を本初、真名を麗羽。

彼女は一族から幾度も三公を輩出した漢帝国でも比類なき名門の生まれである。

庶子の子と言うハンデを背負いながらも、持ち前の才能により袁術以上の出世を果たし、冀州の州牧に叙せられた。

名士との幅広い付き合いを持ち、党錮の禁で弾圧された清流派の多くを匿っている。

冀州では荀シンの奇抜な献策を採用し、株式制度や銀行制度を策定。

その制度の有用性について当初は疑問を持たれるものの、投資によって財力を激増させながらも、冀州を大きく発展させた。

家柄、名声、資金力、そのいずれをとっても一級たる人物である。

さらに、袁家を受け継いだ袁紹は幅広い人脈を持つ。

余程の理由がなければ、逆賊などと貶められる人物ではない。

そもそも、皇帝が権威を失い、清流を自称する豪族たちと濁流と呼ばれる宦官派に別れて争っている状況である。

余程の危機を前に取り敢えずでも彼らが手を結ばねば袁紹討伐の勅などあり得るはずがなかった。

 

だが、ここ最近の袁紹の言動は余程のことを引き起こした。

まず、商売に傾倒する政策は仁を失うと当初から強い批判を受けながらも断行した事で、儒学者や清流急進派との関係を悪化させた。

もとより、彼らからは袁紹の事を濁流寄りではないかと批判する声があったのである。

多くの有名な清流派を匿っていた袁紹の影響力を削ごうと、清流急進派は強烈に袁紹を糾弾した。

中立派や濁流派もこれ幸いと袁紹を批判した。

袁紹は皇帝に賄賂を送り冀州州牧に本来の任期を超えて居座り続けていた。

官吏達は莫大な収益の望める冀州州牧の地位を望んでいたのである。

 

また、袁紹の冀州統治が成功したことにより、職にあぶれた多くの人員が自らの故郷を捨てて冀州に集まった。

流民の多くは地方で荘園などを営む豪族たちの奴隷や農民である。

流民を受け入れたことは、豪族たちにしてみれば袁紹が彼らの財産を強奪したに等しい。

この時代、国力、権力とは人口だ。

必要な税収は変わらないため、流民として抜けた人員の分の税負担は他の構成員にのしかかる。

当然ながら、そんな負担に耐えられない民草は流民となり冀州を目指す。

豪族たちにしてみれば死活問題である。

彼らは団結して袁紹に流民受け入れを止め、民を返還するように求めた。

しかし、袁紹はこれに応じなかった。

実状としては応じられなかったというのが正しい。

道無き道を通って冀州へと来る流民を統制する術を袁紹は持たなかったのであるから。

そして、株式制度及び、銀行制度の肥大化に伴う経済発展が都市の出入り制限を難しくしていた。

流民をそのままにしておけば、盗賊となって冀州で暴れまわる。

袁紹とその配下は否応なしに流民に仕事と住む場所を与えなければならなかった。

だが、民を失った豪族たちにしてみれば袁紹が故意に流民を受け入れているように思えた。

 

宦官を始めとする都市部の富裕層も面白くない。

袁紹の経済政策は漢帝国に緩やかなインフレーションを引き起こした。

自己資産の多くを貨幣として所有している彼らにしてみれば、インフレーションは資産価値の低下を意味するのである。

そのため、彼らは袁紹を強く非難した。

同時に、背後では株式市場に投資して自己資産の増大を目指したが、彼らの多くが大規模な株式会社が破産したことをきっかけに始まった連鎖倒産により、投資資金を失った。

その一方で莫大な利益を出し続ける袁紹。

袁紹の投資信託を利用すればほぼ確実に利益は見込めるものの、それは袁紹に従属することに等しい。

実際、袁紹はその制度を利用して冀州における絶対的な権力掌握に成功していたのだ。

それを嫌った富豪たちは歯噛みをしながらも、袁紹の成功を指を咥えて見続けるしかできなかった。

彼らが何かと理由を付けて袁紹を廃するべしと求めるようになるまで時間はかからなかった。

要は、袁紹だけ儲けていて妬ましくてしょうがないという事である。

 

こうして、皇帝に漢帝国を構成する支配者層である清流急進派を始めとした官吏、豪族、宦官から袁紹の批判や、その勢力を削ぐべしといった意見書が提出された。

積極的に改革を推し進めながらもそのほとんどが失敗に終わり、権威を喪失していた皇帝はこれに飛びつく。

皇帝は袁紹を恐れていた。

反皇帝であることが疑いようもない清流を袁紹が大量に匿っていたからだ。

 

着任して間もない頃、300銭あげるからと宦官に言われてついうっかり玉璽を押したせいで、党錮の禁が起こった。

そのせいで、清流は現在の皇帝を憎んでいる。憎しみまでいかなくても、白い目で見られている。

その清流でも特に反皇帝である連中を大量に匿っているのが袁紹である。

更に、冀州州牧となってから袁紹は自分自身の支配力増大に努めている。

数万を超える私兵を雇ったという話もあった。

その兵士たちに厳しい訓練を課して、精鋭部隊を育て上げているとも。

ぶっちゃけ、何時袁紹に反乱を起こされるかと怖くてたまらない。

反乱が成功すれば間違い無く皇帝の首は飛ぶだろう。

袁紹配下の清流は嬉々として復讐に乗り出すはずだった。

袁紹は皇帝に忠義を尽くすと言っているが。

 

「何でだろ……私、麗羽ちゃんのこと信じたいのに。嘘つきだなんて思いたくないのに。どうしてだろ……私には麗羽ちゃんの言ってることが本当だって思えないの……」

 

不幸中の幸いというべきか、漢帝国で一人勝ち状態である袁紹に対して清流、豪族、宦官は手を結んだ。

衰えた現在の皇帝の権力では以前は名門袁家を敵に回すことができなかったが、今なら出来る。

むしろ、率先して彼らは袁紹排除を皇帝に勧めている。

 

やられる前にやれ。

 

「孫子も先制攻撃を薦めているし仕方ないよね」

 

そんな考えから皇帝は袁紹討伐を命じた。

 

ただし、袁家そのものを逆賊と認定することは拙い。

袁術など袁紹以外の袁家も大きな力を持っている。

下手に袁家を逆賊と認定すると彼らが一斉に皇帝に反旗を翻しかねなかった。

という訳で、逆賊認定をするのは袁紹のみでなくてはならない。

儒教的禁忌を散々に犯している袁紹であるから、批判することはたやすいが、それを袁家と結びつけるわけにはいかなかった。

と言うか、袁術から強烈な反発があった。

 

ということで、皇帝とその取り巻きは袁紹の下で経済政策を推進した荀シンに目をつける。

荀シンという天下の佞臣を重用して冀州から仁を喪失させた、といったストーリーにすれば良い。

袁紹の罪状を荀シンと折半させることで、袁家との繋がりをないものと出来るのだ。

おあつらえ向きに荀シンは袁家の譜代ではなく新参者。

荀シンを非難した所で袁家への非難には当たらない。

そんな論理である。

 

王朝終演時に宦官が散々批判されるのと似ている。

いくら失政を重ねたとはいえ、皇帝を全否定することは難しい。

何だかんだで人間は高貴な血に弱い。

そこで、宦官を槍玉としてあげるのだ。

悪の宦官を重用している皇帝はけしからん、とかそんな感じである。

 

ともかく、そんな提案が出された。

何故か十常待からの強烈な後押しもあった。

 

「荀シンと言う者は天下を食い物にし、他者の富を盗み、その財を成しています。かの者の蓄えた財は天下から盗んだもの。決して許してはなりません」

 

親の敵とでも言わんばかりの宦官の態度に若干引きながらも皇帝は答えた。

 

「じゃあ、最大の戦犯は荀シンとか言う奴で、麗羽はその暴走を止められなかったから罰すると。そういう感じでよろしく」

 

荀シンは天下の大悪人になった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「どういうことですの!」

 

袁紹は叫んだ。

円卓の上座から立上り、激しく机を叩く。

激怒していた。

田豊や沮授、友若を始めとした袁紹の重臣たちが列席している。

 

「この私! 三公すらも輩出した名門中の名門の当主、この袁本初を逆賊ですってえ! こんな屈辱初めてですわ!」

「その通りや! 麗羽様! これはきっと宦官共が能無し皇帝を誑かした結果に決まっとるで!」

「実際、その通りなようですね。まだ情報を集めている途中ですが、この一件は宦官が主導したようです」

 

審配が憤り、許攸が冷静に現状知り得た情報を伝達する。

列席している人物達の表情は様々だ。

主君と同様に激しい怒りを示す者。

苦々しい顔で黙りこむ者。

冷静な表情を保つ者。

そして、友若は固い表情こそ崩さなかったものの、内心では真っ白だった。

 

――どうしてこうなった。

 

その一言に尽きる。

確かに袁紹の成功はここ最近の漢帝国では抜きん出ていた。

事後判断だが、その事を妬ましく思った小人が良からぬことを企むというのはまだ理解できる。

だが、友若までが名指しで逆賊指定されると言う事態は何故そうなったのかすら理解できなかった。

 

――そもそも、何で皇帝は俺なんか小物の名前を知っているんだ

 

大きな成果を上げた友若に対して袁紹が漢帝国から爵位を叙勲されるように取り計らおうかと尋ねて来たことが幾度かあった。

だが、友若はそれらを全て拒否してきた。

袁紹の部下として名声が広まることは友若にしてみれば自殺行為としか思えなかったからである。

 

――それなのにどうして! ……いや、確かにやりすぎたかもしれないけど……

 

とは言え、友若にはちょっとばかり大きなことを引き起こしてしまったという自覚はある。

そんなつもりは全くなかったとはいえ、結果として冀州の税収を十倍以上にしたのだ。

漢帝国から何らかの反応があるということは多少覚悟していた。

いきなりの逆賊扱いは想定していなかったが。

むしろ、漢帝国を復興させた名臣とかそんな感じで持て囃されたらどうしよう、等と友若はお花畑的な妄想して悦に入っていた。

 

「一応、朝廷は荀友若殿の首を差し出して、麗羽様がその財を全て国庫に『返還する』ならば、その生命は保証すると言っておりますが」

「冗談ではありませんわ! どうして何の否もないこの私と友若さんがそんなことをしなければなりませんの!! これは強欲な宦官共の謀略なのでしょう!?」

「では、朝廷軍と事を構えるということで話を進めます。よろしいでしょうか」

「ううう~ぎぎぎっ! 仕方ありませんわ。名門中の名門たるこの袁本初がやむを得ずとはいえ皇帝陛下に弓をひく形になろうとは……亡き母さまに何と言えばいいのでしょう」

 

袁紹は先程の激昂が嘘のように俯いた。

 

袁紹にとって漢帝国とは絶対的に存在するものだった。

なるほど、この時代の漢帝国は傾きかけているが、袁紹は漢帝国が滅亡するなどとこの時は考えてもいなかった。

高祖に始まり、光武帝により再興された漢帝国は袁紹には絶対的存在と思えてならなかった。

 

袁紹だけではない。

この時、ごく一部の人間や転生チート知識を持っているどこぞのオリ主を除いて近いうちに漢帝国が滅亡するなどと思っている者はいない。

むしろ、北方で異民族が大暴れしていた少し前の方が漢帝国滅亡の可能性が濃厚だった。

北方の遊牧騎馬民族が有力指導者の死がなければ漢帝国が滅んでいたと思う者は皇帝を始めとして多かった。

だが、かつての脅威はもはや存在しない。

これで漢帝国は一息つけたと人々は考えた。

 

更に、袁紹にしてみれば漢帝国の前途は盤石と思えてならなかった。

何しろ、袁紹の治める冀州が凄まじい勢いで発展を遂げ、税収を大幅に上げているのだ。

自分の手によって漢帝国はかつてを超える栄光を手にする、と袁紹は考えていた。

袁紹にとって、自らの栄光とは漢帝国という組織における立身出世、栄達である。

 

その漢帝国に名門袁家の当主たる袁紹が反旗を翻すという事態である。

袁紹は歯噛みした。

 

「麗羽様、この度の皇帝陛下の勅は陛下を背後で操る宦官の企みでありましょう。天下を私物化し欲望の限りを尽くす宦官を苦々しく思っている者はこの天下に多く居ります。しかしながら、今回の勅が宦官の陰謀と知っているものは多くありません。忠義あふれる漢帝国の臣下達は皇帝陛下の勅が宦官の企みによるものと知らず、麗羽様を討ち取ろうと動き出すでしょう。麗羽様、何よりも天下に宦官の悪逆を知らしめるべきです。そして、麗羽様の御身の潔白を。そして、皇帝を宦官の手から救うよう諸侯に呼びかけましょう」

 

田豊の言葉に袁紹は顔を上げた。

 

「そう、ですわ! 私が逆賊だなんて根も葉もない戯言を認めるわけにはいきませんわ。そして、このような巫山戯たことをしてくださった宦官共を討ち取らなければいけませんわ! 元皓さん。そして皆さん。華麗に宦官共の悪行を世にしらしめるのですわ!」

 

袁紹の断固とした言葉に部屋の緊迫していた空気が和らいだ。

取り敢えず目的が定まったことで袁紹の配下達の議論は活発になる。

 

「宦官の悪行は我々の人脈と商人を使いましょう」

「我々の人脈はともかく、商人は信用できるのか? 連中には宦官相手に莫大な利益を上げている者も居るのだろう?」

「洛陽の商人は宦官と付き合いのあるものが多いですが、ここ冀州ではそうではありません。むしろ、麗羽様との付き合いのほうが多いです」

「まあ、連中としても麗羽様統治下の冀州で散々稼いできたはずや。統治者が変われば今までのようにやれない可能性の方が高いんやから、連中も必死で協力するやろ」

「それに、最近彼らは近隣の州へとその活動範囲を広げています。つまり、彼らは近隣の豪族や官吏とも付き合いがあるのです」

「ふむ。近隣の州牧や豪族の動きにはとりわけ注意が必要ですね。麗羽様の華麗なる投資信託や銀行を利用している豪族たちは損きりを嫌って朝廷に与しようとはしないでしょう。しかし、冀州にも未だにこれらの利用を拒んでいる豪族たちがいます。彼らの警戒をするに越したことはありません」

「まあ、連中は明らかに反麗羽様やからな。敵、少なくとも味方でないと分かっているだけ対処は楽や。問題は、現在麗羽様に従っている豪族たちの中に裏切り者がいないかっちゅうことやな」

「それには商人を使いましょう。彼らの情報網はかなり正確で有効です。幸いに友若殿が作られた情報収集制度があります。これにテコ入れして、商人たちへの報奨金を増やすなどすれば、豪族たちの動向はかなり把握できるでしょう」

 

張バクがその様に締めくくった。

田豊が口を開く。

 

「ふむ。足元の冀州に関してはそれで良い。少なくとも一先ずは戦えるだろう。だが、それよりも先に差し迫った問題を対処せねばならない。官軍の情報は?」

「今回の勅と前後して、麗羽様と関係のある何進は大将軍を解任されています。恐らく皇甫嵩を中心とした官軍及び皇帝陛下がこの度組織された直属軍が動きを活発にしているとの情報が入っております。更に、恐らく一月後には動員を完了して冀州へ攻め入るでしょう。……それと、袁豫州州牧も軍を集めているそうです」

「そんな……私の可愛い美羽まで敵となるというのですの!?」

 

袁紹が再び怒りの声を上げた。

ちなみに、袁術の参戦に驚き嘆いているのは袁紹のみである。

他の人間は袁紹を嫌っていたあの袁術がこの機会を逃すはずがないと思っている。

 

「しかし、皇帝の常備軍、常備軍のくせににやけに遅いなあ」

 

審配が露骨に話題を変えた。

 

「既存の官軍の配備に時間がかかっているようです。常備軍だけなら恐らくすぐにでも攻めてくることが出来るでしょう。数は1万程度と少ないですが、指揮官である曹孟徳、麗羽様のご学友であった方ですが、かなりの俊英と聞いております」

「ブフッ!?」

 

許攸の言葉に友若は吹き出した。

曹孟徳。

あの三国志の覇者の一人である曹操の事である。

友若の脳裏にかつての洛陽で曹操を見た時の光景が蘇った。

妹と同じ年齢でありながら常軌を逸した覇気を感じさせた少女である。

確実に妹の同類、つまりバケモノだと友若は曹操を評価していた。

 

――冗談じゃないぞ!

 

友若は内心で絶叫する。

バケモノ相手に勝つことは不可能だと割り切っている友若にとってそのバケモノと向かい合わなければならない状況というのは断じて避けるべきものだった。

 

「どうしたんや、友若。いきなり吹き出して」

「い、いえ、何でもないです。ただ、曹孟徳殿は昔洛陽で色々と噂を聞いていたもので、驚いてしまいまして」

 

友若は審配の問をごまかした。

曹操相手に勝ち目なんてあるわけ無い、等と言えるわけがない。

 

「というか、曹孟徳に仕えている荀彧は友若、貴方の妹ですよね」

 

許攸が思い出したようにその様な事を言った。

曹操にあのバケモノ妹まで居るのかよ、と友若は心の中で天を呪った。

袁紹が納得したように言う。

 

「なるほど。友若さんは妹の事が心配なのですわね。肉親同士で争わねばならないとは悲しいことですわ。私も可愛い美羽と戦わねばならないかと思うと気が滅入ってしょうがありませんわ」

「いえ、それはないです」

 

真顔で友若は即答した。

 

「そ、そうですの」

 

袁紹が若干引いた様子で答えた。

 

「そのようなことは今考えるべき問題ではない。何よりも対処しなければいけないのは北の公孫賛だ。辺境を守る奴の騎馬隊は強力。更に、南と北から同時に攻められては守ることも難しくなってしまう」

 

田豊が脱線した話を元に戻す。

 

「それと西の董卓も中々の武を持つと聞き及んでおります。天下の飛将軍呂布などの豪傑を抱えているという話ですし」

「まあ、敵が来るなら倒せばええ。ただ、南西から来るであろう官軍と北の公孫賛に同時に攻められるのだけは避けなきゃあかん」

「その通りです。董卓も公孫賛も辺境の武将。どちらも強力であることは疑いようもありません。そして、位置関係から何よりも優先するべきは公孫賛です」

「分かりました。公孫賛に使者を送りましょう。万金を積んででも公孫賛の参戦は阻止しなければなりませんから」

「ちょっとお待ちなさい、張バクさん! それは白蓮さんに頭を下げるということですの? 私は何ら恥じることがありません。今回の件は全て宦官の企みなのですからその通り伝えればよろしいではありませんか!」

 

張バクの言葉に袁紹が噛み付いた。

 

「ごもっともです。しかし、公孫賛の参戦は絶対に避けなければなりません。袁紹様が頭を下げる必要はありませんが、資金援助くらいなら約束するべきです。麗羽様とは異なり、多くの人間は金に目を眩ませるものです」

「……分かりましたわ」

 

田豊の言葉に袁紹は渋々頷いた。

田豊は会議に参加している人員を見回した。

 

「使者ですが、麗羽様の快刀として有名な友若殿を筆頭に構成するべきだと思うが、他に意見はあるか」

「……」

 

田豊はしばらく間をおいたが意義を唱えるものはいなかった。

 

「それでは、――」

「お待ちください」

 

既に決まりかけた空気を読まずに友若が言葉を発した。

 

友若はどのようにしたら生き残ることが出来るかを必死に考えていた。

曹操がいる以上、官軍には勝てない、と友若は思う。

同僚や主が必死に勝つ方法を考えている最中、友若は必死に降伏して命を全うする方法を考えていた。

ではどうするか。

皇帝から今回の件について恩赦を獲得すれば良い、と友若は考えた。

そのためには何らかの方法で皇帝、漢帝国中枢と話し合いの場を設けなければならない。

現状では直接皇帝と話す場を設けることは不可能に近いだろう。

名門の袁紹を討伐せよと勅を出した以上、皇帝も簡単には引けないはずだ。

と言うか、佞臣扱いされている自分は問答無用で殺されかねない。

漢帝国中枢とつながりがあり、なおかつ友若にいきなり斬りかかったりしないだろう相手に仲介してもらうしかない。

友若はそう思った。

 

「お待ちください。公孫賛との交渉は私が行く必要があるとは思えません。私は董卓との交渉を行いたいと考えております」

「何を言っているのだ、友若。何よりもまず公孫賛だ。北のあれを動かせなければ他の諸侯をいくら寝返らせた所で意味は無い」

 

田豊が疑問を投げかけた。

 

「公孫賛の領土の商人の殆どが既に銀行や株式制度に組み込まれております。公孫賛が彼らを切り捨ていることは難しいでしょう」

「確かにそうや。公孫賛の治める幽州の商人らはうちらとの公益で相当儲けとるはずや。やっこさんもそう簡単にうちらを見捨てることはできへんとちゃうか」

 

公孫賛が商人寄りの政治をしていると聞いていた友若はそう答えた。

審配が気楽な様子で同意する。

田豊は苦い顔をした。

 

「公孫賛は真面目なことで知られておる。例えこれまでのやり方を台無しにすると分かっていても、皇帝の権威に従う可能性が高い。そもそも、公孫賛は異民族との公益が活発になっている現状に度々不満を漏らしている、と言っていたのは荀友若殿、貴殿ではないか」

「だとしても、公孫賛が皇帝に従うことはないでしょう。必ずや、公孫賛は袁紹様の側に付きます。ですが、董卓はそうではありません。彼の者を味方とすることが出来れば本初様の勝利は盤石となりましょうが、それに失敗すれば勝敗が分からなくなるのです。董卓は呂布を始めとした有力な武将を多数抱えているのですから」

 

田豊の疑問の言葉に友若は断定的に答えた。

友若は朝廷側に曹操が居る以上、公孫賛が参戦するかしないかに関わらず、敗北は必至だと考えていた。

なるべくなら戦わないうちに何とか朝廷と講話するべきだと友若は思っている。

 

だが、逆賊となってしまった友若相手に交渉の席に付きそうな有力者はかなり絞られる。

袁紹の敗北によって不利益を被る人物でなければ話し合い自体が成立しないだろう。

幸いにして、冀州は他州との交易が盛んである。

その利益が失われる事を嫌う者も少なくはないはずだ。

最近冀州で毛皮を利用した衣服が流行したため、異民族との毛皮交易が活発化している。

その中継交易によって辺境の豪族たちはかなりの利益を得ている。

辺境の諸侯であれば話し合いくらいはしてくれるに違いない。

友若はその様に信じた。

 

そして、朝廷との講話の渡りをつけるための相手として友若は董卓が最も相応しいと判断した。

軍人として異民族を打ち破ってきた名声と皇帝と縁戚関係を持っている董卓ならば朝廷に話を通すこともできるかもしれないと思うからである。

公孫賛では洛陽から遠ざかってしまうし、皇帝に話を通すだけの人脈も持っているようには見受けられない。

だから、友若は何としてでも董卓の下へ行くべきだと考えていた。

 

もちろん、友若はこれが袁紹を始めとした冀州指導部に受け入れられるとは思っていない。

そこで、友若はでまかせを言った。

公孫賛との交渉がどうなるかは微妙だと友若は判断していたが、それを言っては意味が無い。

 

「ふむ。荀友若殿がそこまで言うのならば董卓との交渉を任せよう。公孫賛との交渉は張孟卓殿、許子遠殿に任せるとしよう」

 

田豊は友若の言葉に自らの意見を翻した。

冀州の大発展の第一人者である友若の事を田豊は一人の天才だと思っていた。

そして、これまでの田豊の経験によれば、天才というものは凡人の理解を超えた最適解を導き出すものである。

天才である友若が断定するのであれば、自らの疑念など意味は無いだろう。

田豊はそう判断した。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「頭の痛いことになったなあ……」

 

公孫賛はぼやいていた。

 

「あの麗羽の奴が宦官なんぞにいいようにやられるなんて……朝廷工作とか得意だったと思うんだがなあ」

 

袁紹はこれまで朝廷に対して強い影響力を発揮してきた。

清流の有力者とも親しく、幅広い人脈を持ち、多数の名臣を抱えている。

本来であればこのような自体になる前に収拾をつけられるはずであった。

それができなかったのは、冀州の異常な速度での発展に伴い生じる問題を対処するために忙殺されていたからである。

まあ、ちょっとした不幸であった。

公孫賛にしてみればたまったものではないが。

 

「幽州も折角税収が増え始めていたのに……」

「白蓮ちゃん、愚痴を言っていてもしょうがないよ。これからどうするかを考えなくちゃ」

 

愚痴り続ける公孫賛に劉備が声をかけた。

 

「その通りです、白蓮殿。事は一刻を争いかねません。何よりもまず今後の方針を決めなくては」

「ふむ、確かに誰に私の竜牙を誰に向けるべきか決めぬことには戦うことすら出来ませんからな」

 

関羽と趙雲が劉備に同意した。

趙雲は面白そうな様子だったが。

 

「うううっ、どうすればいいんだ……まさか天子様に弓をひくわけにはいかないし、かと言って麗羽のやつがいなくなると折角回復してきた幽州が台無しになってしまう」

「がっ、がんばろう! がんばって一番いい方法を見つけないとっ! いい方法、いい方法……朱里ちゃん、いい方法は無いかな?」

 

悩みに悩む公孫賛を励ました劉備は諸葛亮に解決策を求めた。

 

「は、はわわ、桃香さま、ここは袁紹さんの側について戦うべきです」

「そ、それでは皇帝陛下と事を構える形になってしまうではないかっ!」

 

諸葛亮の言葉に公孫賛が泣きそうな声を上げる。

 

「ふむ。確かに天子様に矛先を向けるというのはやはり思うところがありますな」

「ええ、確かに。袁紹も潔白とは言い難い。他州から人を攫っている等悪い噂にも事欠かない。天子様に歯向かってまでして袁紹に味方するべきなのか」

 

趙雲と関羽が公孫賛に同意した。

 

「それでも袁紹さんに味方するべきです。冀州の発展により集まった富を横から掠め取ろうという宦官たちの意図のもとに今回の一件は起きました。朝廷側に味方するということは他人の富を盗む側に与するということです。さらに、朝廷側は幾つもの勢力が袁紹さんの財を奪おうと協力しているに過ぎません。彼らが勝利すればそれぞれの勢力がそれぞれ最大の利益を得ようと画策するでしょう。そうなれば、冀州が遂げた豊かな発展は台無しになってしまうでしょう」

「そ、それは確かにそうだが。しかし、異民族と商売をしなければいけないほど落ちぶれるとは……」

 

公孫賛が嘆きの声を上げる。

対異民族においては超タカ派に属する公孫賛にしてみれば異民族と商売をするという状況は理性では大事だと分かっていても感情的には納得しがたいものである。

とは言え、公孫賛は劉備の頭脳である諸葛亮に説得され異民族との交易を疑問に思いながらも認めた結果、幽州の税収が増大して景気自体も回復した様子を目の当たりにしている。

異民族達との交易が有用であることは認めざるを得なかった。

納得できるものではなかったが。

諸葛亮は淡々と話を続ける。

 

「それは現在冀州と異民族の中継交易の利益で多くの人が暮らしている幽州にも影響します。いえ、それだけではありません。防衛費が削減されている今、袁紹さんの治める冀州と異民族の交易中継によって軍を賄っている方々は多いのです。仮に、これらがなくなれば国境線を守る軍の維持が難しくなります。目先の欲望に駆られた朝廷が勝利すれば漢帝国そのものを危機に陥れかねないのです。ここで朝廷の側につくということは多くの人々を殺し、漢帝国中興の種を潰し、引いては漢帝国の滅亡へとつながりかねません。たとえ朝廷に弓引く形になったとしても、ここは袁紹さんに味方しなければなりません」

 

内心を隠しながら諸葛亮はそう言い切った。

 

「なるほど、ここは天子様に逆らってでもその間違いをお諫めしなければいけないというわけか」

「ふむ。それで白蓮殿はどうなさるおつもりですかな」

「ううっ、で、でもなあ。いや、確かにそうかもしれないけど! それじゃあ私も逆賊になっちゃうじゃないか!」

「だ、大丈夫だよ。私も一緒にいるからね」

 

苦悩する公孫賛。劉備が肩をたたいて励ました。

 

「いえ、白蓮さんが直接天子様に歯向かうのは問題が多すぎます。それにここ最近は大人しくなっているとはいえ異民族の脅威はなくなったわけではありません。袁紹さんと朝廷の戦いに彼らが動く可能性があります。この幽州から異民族と戦えるだけの白馬隊を持っている白蓮さんが離れるのは拙いです」

「それでは、袁紹に与するという話はどうなるのだ」

「そうだよね。袁紹さんが負けちゃったら拙いんだよね」

「桃香様、私達が義勇兵を集って参戦しましょう。これならば、白蓮さんは反逆という形にはなりません」

「わ、私だけ仲間はずれなのか」

「はわわ、すいません。幽州の防衛戦力を余り動かす訳にはいかないので、異民族とまともに戦える白蓮さんにはここに残っていただかないと」

「ううっ、分かったよ。仕方ない。私は一人寂しく幽州を守っているさ。ははは。うん、私は真名を呼んでもらえただけで満足さ。もう思い残すことはない」

「は、白蓮ちゃん落ち着いてー!」

「そ、そうですぞ。幽州を異民族の脅威から守る。公孫賛殿にしかできない立派な役目ではありませんか」

「た、確かに、馬を自在に操る騎馬民族に対抗できるのは幽州において白馬隊を率いる白蓮殿」

「幽州を守るのも大切な役目なのだー、公孫のお姉さん!」

 

一行で死んだことにされそうな様子で虚ろに笑う公孫賛を劉備が慰める。

趙雲と関羽も慌てて公孫賛を励ました。

張飛はいつも通りの気楽な様子である。

そんなほのぼのとした日常を眺めながら諸葛亮は覚悟を決めた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「この様に話し合いの場を設けていただきありがとうございます、公孫殿。私は許子遠と申します」

「うちは審正南や」

「うむ、よくぞ参られた。私が公孫伯圭。今現在幽州の統治を陛下より委任されている」

 

許攸と審配の自己紹介に公孫賛は答えた。

そのまま公孫賛は横に座った人物たちを指し示す。

 

「彼女たちは私の客将という立場になる。手前から順に劉玄徳、関雲長、張翼徳、諸葛孔明、趙子龍だ」

「なんや、客将風情を同席させるなん、いてっ!」

「正南が大変失礼しました」

 

場を弁えない審配の足を思いっきり踏みつけた許攸は笑顔で謝罪した。

非の打ち所のない笑顔だった。

ゆったりとしたウェーブを描く長い金糸とよく似合っている。

そこはかとなく迫力がある。

 

「う、うん。大丈夫だ。気にしていない」

 

公孫賛は若干怯えた様子で答えた。

許攸はありがとうございますと答える。

 

「もうお分かりかと思いますが、私達がこうして公孫殿と話し合いの場を設けていただいたのは先日の天子様の勅について話したいことがあるからです」

「おう、あれはとんだ言いがかりや。どうも宦官の企みみたいやな」

「そのことについてだが――」

「麗羽様――袁本初様のことですが、あの方は税の横領などしておりません。むしろ、困難にある人々に自らの財を投げ打つ大変徳のある方です。また、民を攫うという噂ですが、その様な事実はありません。むしろ、麗羽様は流民に対して故郷へ帰るよう勧めています。この様に朝廷の言い分は全て事実無根のものです。かつて、宦官は天子様に対して清流が反逆すると事実と異なる話を伝え、党錮の禁を引き起こしました。あれから年月がたちますが、党錮の禁により失われた人材に代わる人間達を漢帝国は未だに用意できていません。そして、今日、宦官はまた白を黒と言い張る道理に通らない事を強行しております。これを座視すれば漢帝国の基盤自体を揺るがしかねません。何卒、公孫殿には徳にかなった決断をしていただきたく――」

「そ、そのことなんだがな! す、済まない、随分と一生懸命話してくれたようなんだが――」

 

許攸の言葉を遮って公孫賛が言う。

その不吉な内容に許攸と審配は身構えた。

予め予測していた事態である。

公孫賛が朝廷の側につくという可能性は。

それは何としてでも回避なければならない。

何としてでも公孫賛の意見を翻させなければならない。

2人は覚悟を決めた。

 

「元々、私たちは麗羽の奴に味方するつもりだったんだ」

「「………………え?」」

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

許攸と審配が飛んだ肩透かしを食らっている頃の話である。

 

「なんですって!? あの荀シンと名乗る者が会談の席を求めているですって!?」

 

賈駆が部下の言葉に驚きの声を上げた。

 

「如何いたしましょう」

 

部下の言葉に賈駆は俯いて数瞬思考した。

 

「……取り敢えず、話し合いの席を設けるわ。屈強なものに武器を持たせて潜ませておきなさい。私の合図があったらすぐに荀シンを刺し殺すように」

 

賈駆は冷たい眼差しで答えた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「呂布って奴の話は結構聞くけど、どうせ三国志の覇者には敵わないんだろうなあ」

 

友若はそんな事を呟いていた。

 



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水軍の才

急速な経済発展を遂げる冀州においてもっとも大きな市場はやはり衣服市場である。

人口が倍増し、平均収入も数倍になったことで、それまで衣服を買えなかった中間層や下流層の女性たちにもおしゃれに興じることが可能となったのである。

株式会社の大規模な投資によって麻や綿、染料の生産量が増大し、麻布や綿布の価格がインフレにより実質的に価格が下がった事も一大服飾流行を後押しした。

こうして、冀州では華やかな装飾文化が発展する。

こうした流れに対して、冀州において上流層の女性達の衣服は高級化の一途を辿る。

以前と同様に中間層や下流層との差別化を図る為には必然であった。

 

高級化する上流層の衣服用素材として主に使用されたのは主に絹であるが、それ以外の高価格且つ珍妙な素材も好まれた。

その代表例が毛皮である。

特に、北方位民族が狩る獣の毛皮が冀州では喜ばれ、羽織モノや襟巻きとして利用された。

当初は一部の愛好家の間で広まっていた毛皮品であるが、冀州州牧である袁紹がそうした装飾品を身にまとったことで人気が爆発した。

と言っても、異民族経由で手に入れるしか無い珍妙な毛皮等は中流層程度では手の出しようのない高価な物だったため、一部の人間しかそうしたものを手に入れることは出来なかったが。

しかし、貴重であるという事が上流層の女性たちの自尊心をくすぐった。

そして、彼女たちは数十万銭を超える毛皮製品を買い漁ったのである。

 

毛皮の需要増大に伴って、冀州の商人や株式会社が異民族との交易拡大を試みた。

服飾関係の株を大量に保有していた友若の積極的な後押しもあり、彼らは辺境の官吏や将軍と話をつけて異民族から毛皮を購入する機会を得た。

 

辺境の官吏や将軍たちにとって冀州の申し出は天から金貨が降ってきたようなものだった。

異民族との大規模な交易許可を得る際に、友若はかなりの譲歩をしていた。

交易には多大な税が課されており、その収入は資金不足にあえいでいた辺境に一息つかせるだけのものだった。

 

辺境が資金不足に苦しんでいたのは皇帝の方針転換によるものである。

異民族国家の有力な王が死んだことで辺境が安定すると見た皇帝はそれまでの軍事費を削減した。

 

「異民族のやばい奴も死んだんでしょ? 漢帝国復興の改革のために予算はいくらあっても足りないのよ。と言うか、身を守るためにも私の軍を持たないといけないし。正直、今まで辺境に予算つぎ込みすぎちゃったよね。いくら不正に着服したかしらないけど、大分蓄えたでしょ? なら、少しくらい減らしても大丈夫だよね」

 

この時代、宦官と官僚の権力が肥大化し、漢帝国は汚職の歯止めがかからない状況である。

皇帝はこれを打開するべく様々な改革を打ち出していたが、常に予算不足が問題として付きまとっていた。

対異民族の脅威が減ったという話を聞いた皇帝は辺境に投じていた莫大な戦費削減を行った。

宦官や洛陽の官僚にしてみれば、この決定は洛陽に回される予算の増大を意味していた。

新たな利権確保のため彼らは積極的に皇帝を後押しした。

結果的に辺境の軍事費はちょっとどころか大幅に削減されることになる。

 

だが、異民族の有力な指導者が死んだからといって、その脅威が消失したわけではない。

洛陽からの予算削減により、辺境の防衛は困難になり、必然的に異民族の略奪を許すことになる。

この当時、遊牧騎馬民族に勝つことは難しい。

まして、予算が減らされて武装も満足に整えられない以上、まともな防衛など出来るわけがなかった。

 

「漢帝国は、皇帝は我々を見捨てたのか!」

「我々が長年洛陽を異民族の脅威から守ってきたのだぞ!」

 

民草や豪族は皇帝に恨みを抱くようになる。

 

そうした状況下で、辺境に資金をばら撒いたのが冀州であり、自らの保有する株式価値を上げる目的で毛皮交易拡大を望んだ友若であった。

一応、経済発展を持続させるという名目もあったため、友若は袁紹の名前を使って辺境の豪族や将軍と交渉を重ねて交易圏を確保した。

かなりの税を取られることになったが友若は気にしなかった。

急速に増大する需要に足して供給が追いつかない毛皮の価格上昇を考慮すれば、税によって毛皮の原価が数倍程度になったとしても問題なかったためである。

 

こうして、辺境は財政を皇帝ではなく袁紹に依存することになった。

 

さらに、冀州との交易を活発化させたことは結果として異民族の脅威を減らす方向に働いた。

異民族は毛皮の他に酪や毛糸などを財力のある冀州商人に売ることで貨幣を得た。

その貨幣を使って異民族は漢帝国から穀物を購入することが可能になった。

 

もともと異民族が漢帝国を襲う最大の理由は食料の不足である。

生産能力の乏しい異民族にとって生きるために他の動物の命を奪うというのは極々当たり前の行為であった。

そこに食料を抱えた人間が含まれるのも当然の道理である。

何も財を持たず生きるために襲ってくる異民族は多少の犠牲に躊躇しない。

基本的に馬を自在に操る異民族に対抗できない漢帝国は彼らが暴れる度に食料を渡したり、和解金等を支払ったりして領土を保ってきた。

土地に執着しない異民族は物資さえ手に入れることが出来れば満足して去って行くのである。

 

ここで、冀州との交易により異民族は安定的な貨幣収入を手にした。

これによって異民族は商業取引により食料を恒常的に入手できるようになった。

交易の関税などによって莫大な税収を得た辺境軍の軍備強化を目の当たりにした異民族の多くは戦いよりも取引によって必需品を入手するようになったのである。

 

もちろん、漢帝国に対して断固として敵対視性を崩さない異民族もいた。

だが、商取引を行うようになった異民族の協力もあって、辺境は安定を取り戻していった。

 

ここで効果を発揮したのがやはり衣服であった。

この恋姫的世界における漢帝国の服飾技術は当時の世界水準を遥かに凌駕している。

冀州の商人たちが辺境へ運んできた衣服――冀州において流行を外した下流、中流層向けの不良在庫を買い叩いたもの――を見た異民族達は驚愕した。

そして、異民族達はこぞって冀州の衣服を買い求めるようになったのである。

たちまちの内に、異民族達にとって冀州の衣服を持っていることは権力の証になった。

……冀州では周回遅れの二束三文の扱いである衣服ばかりだったが。

 

これに目をつけた諸葛亮は公孫賛に進言して、冀州の商人たちが運んでくる衣服を買い占めさせた。

そして、漢帝国に協力的な異民族のみに衣服を売ることで、反漢帝国的な態度を取る勢力の排除に成功した。

幽州のこの成果に関する情報は劉備の意向もあってたちまちの内に他の辺境に伝わり、辺境における異民族対策の基本戦略として広まっていくことになったのである。

 

この流れに直接関わったこともあり、友若は辺境の安定が袁紹の統治する冀州の安定に依存していることを何となく理解していた。

冀州の購買力を基点として安定を維持するようになった辺境にとって、その冀州の政変は望ましくないはずである。

だからこそ、辺境の政治家や軍人であれば、袁紹と皇帝のとりなしを名乗りでてくれるかもしれない。

友若はその様に考えていた。

 

そして、辺境の有力者の中で友若が目をつけたのが董卓であった。

交易制度を確立するために動いていた際、友若は董卓と何度か出会っている。

その時の董卓の様子から、友若は彼女の説得にはそれなりの自信を持っていた。

少なくとも、いきなり逆賊として殺しにかかってくる性格ではないだろう、と友若は判断していた。

さらに、冀州との交易によって莫大な利益を董卓は得ている。

どの程度の税が支払われているかは株を保有している株式会社からの情報で知っているのだ。

だからこそ、董卓たちは朝廷に現状をかき乱されたくないはずである。

一方で、董卓は弱小勢力とはいえ、実態はどうであれ名将を抱えていると評判があり、皇帝の外戚であり、洛陽と距離の近い并州の軍人である。

様々な観点から見て、董卓が皇帝との橋渡しに最適だと友若は考えていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「ボクたちは袁紹の治める冀州から大きな利益を得ている。袁紹が逆賊と認定された今、ボクたちはただでさえ朝廷から睨まれ易い。今回の冀州討伐には異民族対策を理由に不参加を決め込むつもりだったけど、だからと言って朝廷と事を構えられるわけがない。態々袁紹と一緒に逆賊と認定された荀シンを見逃す訳にはいかないわ」

 

賈駆は急遽集められた并州の重鎮たちに自らの意見を述べた。

 

「あー、もう! 折角、今回の騒動に無関係を決め込めると思っていたのに! あのアホ共のせいで散々だわ!」

 

ひと通り発言を終えると、賈駆は冷静な様子から一変して怒鳴り散らす。

 

「え、詠ちゃん、落ち着いて……」

「とは言え、朝廷が勝ったら不味いんとちゃうんか、賈駆っち。冀州の商人がいなくなったら税収が半減どころやないで」

「ええ、そうよ! どうしてこうなるのよっ! そもそも、名門の癖に逆賊認定なんかされてんじゃないわよ! 馬鹿なの!? 折角、異民族がおとなしくなって并州が安定してきたのにそれを台無しにするなんて洛陽の連中は何を考えているのよ!? 袁紹の勢力を削りたいのは分かるけど、もっとうまいやり方があるでしょうが! 自分の足を食ってどうするのよ! と言うか、どうしてこう問題ばかり湧いてくるのよ!」

 

なんかもういっぱいいっぱいな様子の賈駆に気圧されたように他の面々は黙り込んだ。

 

「ふー、ふー」

 

息を荒げる賈駆。

 

賈駆の半生は基本的にろくでもない事ばかりだった。

異民族の暴れる辺境に生まれ、略奪に怯えた幼少期。

そんな中で親友となった董卓を守ろうと必死に努力するも周囲の状況に翻弄されるばかりである。

異民族に優秀な王が生まれたことで、辺境軍は敗北に敗北を重ね、歴戦の戦士たちが次々に死んでいった。

ぶっちゃけ、漢帝国の対策はひたすら頭を下げて金を払い異民族に去ってもらうくらいしかない。

見た目の良い董卓などは度々異民族に女性として差し出されそうになった。

そうしたふざけた輩の局部を潰したり、脅しをかけたりしながら、必死に親友を守り戦っていると、異民族の王が死んだ。

ようやく一息つけると思ったら、皇帝がこれ幸いにと軍事費を大幅削減。

異民族の指導者がいなくなった訳ではないため、防衛戦力を維持できなくなったことで余計に辺境の状況は悪化した。

冀州との交易拡大を認めたことで何とか軍を維持できるようになり、ようやく一息ついたと思ったら冀州を治める袁紹が逆賊となってその財源存続が危うくなる状況。

賈駆本人は最善を尽くしているのに、周囲の状況変化がどうしようもない方向に進んでいく。

 

「と言うか、并州は朝廷に味方するのですか? 今回、朝廷の言い分は横暴すぎるのです」

「……そうかもね。だから何? 朝廷としてはこれ以上袁紹の権勢拡大を容認できるわけがない。儒教とか既存の勢力とかガン無視の袁紹がこれ以上力を持てば、漢帝国が滅びかねない。やり方はともかく、袁紹の排除は朝廷の存続のためにも必要よ」

「むっ! それでは朝廷の不義を認めるということですか!? 間違った事に加担するなんてとんでもないのです!」

「あのね、正しいとか、正しくないとか、そんなことはどうでもいいの。ボク達が考えなければいけないのはどっちが勝つかよ。どちらが正しいかを決めるのは勝った方。ボク達みたいな弱小勢力は勝ち馬に乗らなければ瞬く間に潰されて消えることになるわ」

 

憤る陳宮に対して賈駆は冷たく告げた。

幼少の経験によって賈駆は大義というものに虚しさを感じていた。

例え間違ったことをしても、賈駆に敗北は許されない。

親友董卓を守ることを第一に考える賈駆はそう誓っていた。

 

「だからといって――!」

「まあまあ」

 

賈駆の様子に納得出来ないと反論する陳宮。

対立をやめようとしない2人を取りしたのが張遼であった。

 

「ともかく、今回の件は朝廷と袁紹のどっちにも問題があるっちゅうことや。だから、軽々に袁紹やんに味方するわけにはいかん。そうゆうことやな、賈駆っち?」

「……まあ、間違ってはいないわ」

「むむむっ、ならばそれを先に言うのです!」

「あんたが話を聞かないんでしょうが!」

「だから、2人共喧嘩はやめいっちゅうねん」

「ふ、2人共落ち着いて」

「……喧嘩はダメ」

 

張遼と董卓、ついでに呂布の仲裁もあって2人は対立をやめた。

 

「ともかく、どちらが正しいとも間違っているとも言えない以上、ボク達は勝つ方に味方しないといけないわけよ。どっかの誰かさんが堂々と并州をねり歩いてくれたおかげで、中立を保つことができなくなっちゃったんだから」

「なんや、面白うないわ。折角なら負けそうな方について逆境を跳ね返してやるっちゅうほうが面白そうやんか」

「そうですぞ。呂布殿が味方すればどっちであっても戦いに勝てるのですから問題ないのです!」

「……現状ではボク達は朝廷側に味方するべきだと思うわ。理由は二つ。一つは今回の出来事が袁紹にとって想定外の事態だと思われるからよ。ボク達の治める辺境と違って異民族の脅威もなく長年平和を享受してきた冀州にまともな兵なんて居るわけがないわ。まして、袁紹は逆賊。正当性がない以上、即興で集めた兵士の士気が簡単に上がるとは思えない。もちろん袁紹はそれなりの私兵を持っているでしょうけど、諸侯が平時に保持できる兵力は1万まで。十万以上の兵力を動員するであろう官軍相手に冀州の兵が勝てるとは思えないわ」

「うーむ。ですが、そこにねね達が味方すれば十分勝機があるのではないのですか?」

「それだけならね。ただし、もう一つの理由、公孫賛がいる以上、袁紹の勝利は危ういと言わざるをえないわ。冀州の北、幽州を治める公孫賛と朝廷の官軍に同時に責められれば冀州の勝利はないでしょうね」

「公孫賛が朝廷に味方する保証はあるのですか?」

「公孫賛は真面目で皇帝に忠義を持っている。正直、その融通のきかなさはどうかと思うけど、だからこそ皇帝にもそれなりに信頼されているわ。それに公孫賛は袁紹と不仲よ。まだ確定したわけではないけれど、皇帝に味方すると考えるべきね」

「なるほどなあ」

 

賈駆は袁紹が苦しい戦いを強いられると断じる。

張遼が相槌を打った。

統治で手一杯で、洛陽や他州の情報に手が回らない賈駆の情報は若干古かった。

こんなんだから、洛陽の政治家にいいように扱われるということに賈駆はまだ気がついていなかった。

 

「むむっ! 断定は危険ではないのですか。公孫賛も辺境の将軍。冀州との交易はねね達と同じく重要な財源ではないのですか?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない……可能性の低いことに一々怯えている暇はないわ。情報が足りなくても状況の変化する速度は変わらないわ。なら、ボク達は今持っている情報を最大限に利用して最善手を探り当てなければならないじゃない」

「賈駆っちの言いたいことは分かった。で、一つ聞きたいんやけど――」

 

陳宮と賈駆の話し合いを聞いていた張遼が問を発した。

 

「賈駆っち的にはどっちが勝ったほうがええんや」

「……それは袁紹ね。正直、今の朝廷じゃあ、折角安定してきた辺境を台無しにしかねないわ。ただ、袁紹の勝率は限りなく低い以上、朝廷の側に付くしかないと思うわ」

「ほんなら、勝ち目があるようなら袁紹に味方したほうがいいっちゅうことか」

「……そうね」

 

賈駆は張遼の言葉に同意する。

冀州との交易は今の并州には欠かせない。

 

「ほんなら、これから来る荀シンと話してみて、もし勝ち目がありそうやったら、うちらは袁紹に味方すればええんとちゃうか」

「その可能性は限りなく低いと思うけど。でも、まあいいわ。もし、荀シンが袁紹に勝利の可能性があることを示せれば袁紹に味方してもいいと思う。だけど、今回の件が完全に袁紹にとって予想外の出来事で、何の対策もないならば、会談の席で荀シンを殺して朝廷に忠義を示す……月、辛いかもしれないけれど」

「うんうん、私は大丈夫。だから、詠ちゃんも無理しないでね」

「分かっているわ」

 

かくして、董卓とその配下達は荀シンとの会談に備えた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「こうして話し合いの場を設けて頂き、感謝の念でいっぱいです。ありがとうございます、董仲穎殿」

 

友若は董卓に頭を下げた。

董卓側は董卓を筆頭にメガネを掛けた賈駆、晒しがむき出しの張遼、ちびっ子にしか見えない陳宮と天下の飛将軍と名高いらしい呂布が並んでいた。

 

「態々、逆賊が皇帝の臣下の前に姿を現すとはね。どうせなら、自分と袁紹の首を切り落として持ってきてくれればよかったのに」

 

しょっぱなから話し合う気を見せない様子で賈駆が皮肉を言った。

 

「貴様……れ……本初様を指してその口の聞き様は何だ!」

 

友若の隣に座る沮鵠が憤りの声を上げる。

 

「お、落ち着け! 沮鵠!」

 

友若は沮鵠を必死に宥めた。

内心では董卓側の予想以上に辛辣な様子に戸惑いを隠せない。

 

――あれ、これやばいんじゃね。もしかしていきなり斬りかかられたりしないよなあ……

 

友若はビビりまくりながらそう思った。

 

「友若さん、私は皇帝陛下の臣下です。逆賊になってしまった荀友若さんを見逃すわけには行きません」

 

董卓は小さい声でありながらも毅然とした態度を見せて言う。

 

――だだだだだだだ、だ、だ、だめじゃねえか! 誰だよ、董卓なら話し合いに応じてくれるとか言った奴! 無能もいいところじゃねえか! 董卓はどう見ても俺を問答無用で殺す気だぞ!!

 

友若はパニックを起こした。

 

「貴様ら……」

 

沮鵠が腰に下げた剣に手を伸ばした。

会談の場に帯刀を許されたことで油断してしまった、と沮鵠は思った。

だが、鍛えあげられた自らの腕を持ってすれば呂布や張遼といった有名な武人を出しぬいて董卓を人質にとることも不可能ではないはずだ、と沮鵠は考える。

天下に名高いからといってそれが絶対ではないことを思い知らせてやる。

沮鵠はそう決意して機を伺った。

 

――血の気の早いやっちゃな―

 

張遼は内心で呆れていた。

そこそこ腕は立つようだが自分や呂布ならば沮鵠に先手を取られたとしても素手で無力化できると判断した張遼は何も行動するつもりはなかったが。

どの道、背後の刺客に気がついていない以上、全ては無駄なのだから。

 

「……しかし、袁本初殿は漢帝国の名門中の名門。今回の件も何かの間違いではないかと私たちは思っています」

 

董卓は話を続けた。

 

「そこで、お聞きしたのですが、荀友若殿、袁本初殿は今回の件についてどのように振る舞うおつもりなのでしょうか」

 

――え? え? 今何を言った? 完全に聞き逃していたぞ!?

 

董卓の質問に友若はようやく我を取り戻したが、何を聞かれたのかもさっぱりだった。

もちろん、董卓の言葉の不自然さにも気が付かない。

 

――どうするかって言っていたよな。それで大丈夫だよな。聞き返せるふいんき(何故か変換できない)じゃないし。っていうか、メガネの娘、めっちゃ睨んでるよ!?

 

「え、ええっと……董卓殿には陛下に袁本初様及び私が忠実な臣下であることを伝えていただきたいのです」

 

皇帝の味方に付くという董卓の言葉を信じた友若は必死に自分たちが皇帝に歯向かうなんて事実無根ですと言い募る。

天子様と戦うなんて考えてもいません、自分たちは決して天子様の脅威ではない、弁明の機会を与えて欲しい。

友若は必死だった。

そもそも曹操なんかに勝てるわけがないのだから、土下座外交でも適わない、と友若は考えている。

沮鵠は呆れた視線を友若に向けている。

そんな友若の様子に賈駆の目が冷気を放った。

 

「ですから、袁本初様と私は決して――」

 

もういいだろう。

賈駆はその様に判断し、刺客へと合図を飛ばそうとした。

 

「え、ええっと、荀友若さん、官軍に攻められれば袁本初さんはどうされるおつもりですか」

 

賈駆の様子を見た董卓は友若に助け舟を出した。

 

「え!? も、もちろん、そうなれば皇帝に忠実な本初様や私は降伏します」

 

友若は助け舟を蹴飛ばして転覆させた。

 

「いや、でも官軍とはいえ勝った際は略奪とかするやろ。それに、皇帝は冀州の商売を否定しとるし、冀州の繁栄と民を守るために戦ったりはせえへんのか?」

「? いや、そんなことはしません。あくまでも、私たちは天子様に忠実な家臣ですから」

 

友若が張遼の助け舟の竜骨を一撃で叩き折った。

獅子奮迅の立ちまわりである。

友若には水軍の才能があるかもしれない。

 

――もう、十分でしょうが。

 

賈駆がそういう感情を込めた視線を張遼に送る。

朝廷側に付く事を考えている状況であまり変なことは言えない。

 

賈駆が刺客に指示を出そうとした瞬間、会議の場に伝令が駆け込んできた。

伝令は驚いている賈駆の元に駆け寄ると耳打ちした。

公孫賛が袁紹の味方についた、と。

 

「……少し、休憩しましょう」

 

賈駆は周囲にそう言った。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「そうして辺境の軍人風情にあんな卑屈な態度をとったんですか」

 

休憩のために充てがわれた控え室で、沮鵠は友若に詰問した。

 

「あのなあ……皇帝の側に付くって董卓は言っているんだ。下手なことを言ったら董卓に殺されちまうだろうが」

「だからといって宦官の言いがかりにどうして麗羽様が頭を下げないといけないのですかっ!」

 

沮鵠は憤る。

 

「いや、董卓はただ陛下に仕えているだけだ。宦官とは関係ないだろう」

「関係なくなんかありません! 宦官の専横を許す皇帝にも十分否があります! そもそも、麗羽様は十分な訓練を積んだ私兵を大量に抱えています。猪々子様、斗詩様といった優秀な武人も沢山います。宦官の手先なんかに負けるわけがありません!」

「いや、皇帝の臣下の前でそんなこと言えるわけがないだろう。最悪、この場は適当にごまかして冀州に帰ればいい。董卓にはもともと戦力は期待していないからな。皇帝陛下に取り次いでもらいたいと思ったからこそ俺は冀州に来たんだ。本初様も逆賊という立場を大層悲しまれていた。皇帝陛下と話して逆賊指定を解除してもらわなくちゃならない」

「……」

「それに、何よりも大事なのは2人揃って生きて帰ることだ。生きて帰れれば董卓陣営の様子を麗羽様に伝えることもできる。それはこんな所で自分の自尊心を守るために命を捨てるよりも大事なことだ」

 

友若は偉そうにそんなことを言った。

つい先程、船を2槽程撃沈しただけのことはある。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「お待たせしました」

「いえ、問題ありません」

 

会談を突如中断したことを董卓は詫びた。

友若はそれに気にする必要はない応える。

 

「先ほどから友若殿も言っておられましたが、今回の袁本初様への朝廷のやり方は私も強引すぎると思います」

「え?」

 

先ほどとは打って変わった董卓の様子に友若は驚きの声を上げた。

 

「当然だ」

 

沮鵠がしたり顔で頷いた。

賈駆が何も言わずに歯噛みした。

友若は沮鵠に黙るように合図する。

いきなりの董卓の豹変。

何を狙っているか分かったものではないと友若は気を引きしめた。

最初に威圧して、次に懐柔を試みるのは交渉の基本である。

 

「ええ、ですから、先程も言っている通り、董仲穎殿には皇帝陛下に私達の主張を伝えて貰いたいのです」

「……しかし、既に勅が下っています。まずは、官軍の対処が先では?」

「ですから、官軍との戦闘になる事自体を回避したいのです」

「しかし、漢帝国の名門中の名門の当主袁本初様に皇帝陛下は喧嘩を売ったのです。ある程度、官軍が負け越さないことには対話は無理だと思いますが」

 

官軍に勝利するためには協力する必要があると考えている董卓達。

官軍に勝利することなど欠片も考えず、朝廷と和睦して袁紹と自分の命を安堵することだけを考えている友若。

両者の間には目的意識の点で大きな隔たりがあった。

 

「ふん。異民族ごときに苦戦している貴様らの力など必要ない、ということです」

 

沮鵠が辛辣な言葉を吐いた。

カチンと来たのか董卓側の表情が硬くなる。

え、こいつ何いってんの、と友若は驚いた。

 

「えっ? そうなんですか」

 

董卓だけが純粋に驚いた様子だった。

 

「何を抜かしやがるですか! この呂布殿は天下無双! それに、こっちの兵は異民族の相手をこっちに押し付けて安穏と過ごしてきた冀州のお前らとは格が違うのです!」

 

我慢できないとばかりに陳宮が噛み付く。

 

「そうやな。子供の強がりとはいえ、うちらも武人の誇りっちゅうもんがある。あんまり舐め腐った口聞いてんじゃねえぞ」

「こっ、子供扱いするなあ!」

 

沮鵠が吠えた。

そういえば、銀行では職員に散々からかわれていたなと友若は現実逃避気味に思い出した。

 

「ええっと、先ほどの沮鵠の言葉は大変無礼でした。監督者として謝罪させて頂きます。しかし、やはり董仲穎殿に援軍を出していただく必要はないと思っております。それよりも、皇帝陛下と外戚関係にある董仲穎殿には皇帝との仲裁をしていただきたいと……」

 

敵に曹操がいる時点で多少の増援など焼け石に水だと思っている友若は相変わらず董卓に皇帝との取次を求めた。

 

「そこまで言うなら、官軍相手に勝算があるんでしょうね。一応、あんた達の味方に付く以上、あんた達だけで勝てる見込みが無いなら、ボク達としては援軍を送らない選択肢はないわ。でも、数万の兵に鎧から武器まで全部揃える官軍に対抗するだけの兵を袁紹は揃えられるのかしら」

 

賈駆が冷たく言う。

対して、沮鵠が自信満々に答える。

 

「ふん! 麗羽様の配下の兵たちは官軍なんかよりも軽くて頑丈な鎧を着ています! それに、現在麗羽様が保有している弩の数は3万を超えています! 官軍だろうがなんだろうが麗羽様が負けるわけがありません!」

「はあ!? 弩が3万!? 冗談も程々にしなさいよ!」

 

歩兵最強の武器である弩を3万も保有しているなどという戯言に賈駆が噛み付いた。

 

「あ、いや、確かに……交換用に準備してある部品の分を含めると本当は弩は6万程だ。一ヶ月後位までに頑張れば後1万は追加できると思う」

「え?」

「は?」

「へ?」

 

賈駆がその程度の数の弩では不十分だ、と言いたいのだろうと判断した友若は慌てて沮鵠の言葉を訂正した。

態々冀州まで負けに来るのも可哀想だな、と思った友若は董卓に参戦させたくなかった。

守ってあげたくなるオーラが出ている董卓に友若はデレていた。

 

友若の言葉には嘘はなかった。

弩の生産量も十分可能なレベルである。

鉄の価格維持を目的に生産を始めた弩であるが、友若が下手に入れ知恵して生産効率が上がってしまったため、冀州には大量の弩の在庫があった。

矢の方も弩の数に合わせて増産したため、袁紹の保有する弩の数はすごいことになっている。

具体的には袁紹の抱える私兵――経済的に依存させた豪族に名目上の私兵を預けている分を含む――合計3万ほどよりも弩の数のほうが多いのだ。

因みに、通常の軍における弩兵の割合は1、2割である。

 

「あんた、ボクを馬鹿にしているの!?」

 

我を取り戻した賈駆が怒鳴った。

諸侯の保有する私兵が1万であることを考えれば、普通そんな数の弩を持っているなどありえない。

弩というのは生産コストや維持費の高い武器なのである。

市場経済というものを間近に見たことのない董卓達にしてみれば、価格調整のために軍事物資の納入を増やすなどという発想は考慮の外であった。

 

「いや、本当だけど」

「……なるほど、そういうこと」

 

自然な様子で答えた友若に賈駆は確信した。

袁紹はもともと朝廷との戦いを予定していたのだと。

そうでもなければ、異常な量の弩を準備していたということに説明がつかない。

実際の数は友若の言葉よりも少ないのだろうが袁紹が万を超える弩を準備していたということはそういうことに違いない、と賈駆は判断した。

 

――それなのにひたすら朝廷との和平を口にするなんて、とんだタヌキ野郎じゃない!

 

賈駆は内心で毒づいた。

 

――袁紹は官軍を打ち破ったという名声を独占したい、ということ。恐らく、北の公孫賛を敵に回すことはできないから、袁紹と公孫賛で名声の山分けを狙っているということね

 

賈駆は決心した。

 

「まあ、いいわ。董卓が援軍に行くのは不味い、ということね」

「? あ、ああ」

「なら、呂布と張遼を送るわ。客将という扱いにすれば文句は無いでしょう? ボク達に譲歩できるのはここまでよ」

 

今後の事を考えれば、名声はできるだけ得ておきたい。

本来の能力の割に散々苦汁をなめさせられてきた賈駆としては容易に名声を手に入れられそうな状況に参加しないという選択肢はない。

それに、官軍相手に袁紹がどのように戦うかも知っておかなければならない。明日は誰が敵になるかわからないのである。

大量の弩を保有する袁紹がどう戦うかは詳しく知っておかなければならない。

だが、袁紹としては、必要がない限り自分たちだけで手に入れられる名声を他の人間に分け与えるつもりはないだろう。

沮鵠などは明らかにそうした雰囲気を漂わせている。

ならば、客将という形で呂布と張遼を送り込めばいい。

こうすれば表向き、両者の戦果は袁紹のものになる。

ただし、呂布と張遼個人の武将としての名声はそれぞれのものだ。

彼女たちが董卓のもとに帰参した際もこの名声は消えない。

さらに、呂布を向かわせるということは陳宮も同伴させることが可能ということだ。

賈駆にしてみればまだまだ幼い陳宮であるがその頭脳は一級だ。

下手な人物を送るよりも袁紹の戦い方を分析するためによっぽど役に立つだろう。

董卓自身が名声を獲得できないことは残念だが、ここは諦めるしか無いだろう。

この形なら袁紹が負けた際も董卓は無関係を言い張れるし、決して悪い選択ではない。

もちろん、立場は悪化する事は間違いないが、今回の一件で幽州の公孫賛を失った漢帝国にこれ以上辺境の有力武将を排除する余裕はないはずだ。

賈駆はそう考えた。

 

「これでいいかしら?」

「あ、ああ」

 

詰め寄る賈駆に気圧された友若は頷いた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「よろしくなあ、荀シンやん」

「あの、字で呼んで貰えませんか」

「おう、分かったで、荀シンやん」

 

冀州への帰還する道すがら、友若と張遼はそんな会話を交わした。

結局、賈駆に押し切られた友若は呂布と張遼と4000の騎馬隊の動向を渋々容認した。

戦ったらどの道勝ち目がないんだからそんなことよりも逆賊指定を何とかしてくれと思う友若であったが、董卓に協力を渋られてはどうしようもなかった。

 

「なるほど、お前も随分と苦労しているのですね、沮鵠」

「白凰でいいわ。貴方とは何故か他人のような気がしない」

「ねねのことも音々音と呼んでいいのですぞ、白凰」

 

友若と張遼の後ろには呂布と陳宮、沮鵠が馬を並べている。

何故か陳宮と沮鵠は気が合うらしく、真名を交換するほど親しげに会話をしていた。

 

「何時も何時も子供扱いを受けるねね達は団結してこれと戦わなければならないのです」

「その通りね。どこかのアホも黄蘭様の十分の一でもいいから真面目で優秀だったら良かったのに」

「賈駆のやつは呂布殿の爪の垢でも煎じて飲めばいいのです」

 

後ろのからかわれ要員の会話を聞きながら友若はため息を付いた。

 

「なんや、折角うちらが付いて来たのに辛気な顔しくさって」

「いや、いくら張将軍や呂将軍がいるとはいえ、相手には曹操がいます。勝利は難しいでしょう」

 

流石に負けるとは言わなかったがそれに準ずる友若の言葉に張遼は獰猛な笑顔を見せた。

 

「ほう、荀シンやんはその曹操とやらの方がうちよりも強いっちゅうんか? まあええわ。武人は戦場で語るもの。うちら辺境の軍人を馬鹿にしくさっているあんたの頭を叩きなおしてやるわ」

「いや、馬鹿にしているとかそういうわけではなくて、曹操がずば抜けすぎているというだけで――」

「こう言っちゃあなんやが、うちもめっちゃ強いで。その曹操とか言う奴にも負けるつもりはあらへん」

 

張遼はそう言うと不敵に笑った。

友若も張遼に釣られて笑った。

勝てる、とは友若には思えなかったが、善戦くらいは出来るかもしれない。

戦いは避けられなくても簡単に倒せないと朝廷が判断すればなんとかなるかもしれないと友若は前向きに考えることにした。

 

因みに、この後冀州についた友若はあの『劉備』が公孫賛の下から援軍としてやって来るという話を聞いて狂喜し、同行していた張遼と呂布を始めとした并州からの援軍にモヤモヤとした感情を抱かせる。

こっちの援軍には対して期待していないのに、公孫賛の方は凄い喜びようじゃないか、と。

幽州にも異民族はいるかもしれないが并州でも長年強大な異民族と戦いを重ねてきたのである。

あからさまに差を付けられていい気はしない。

并州の兵士たちは官軍との戦いで自分達の武を示さんと決意した。

 



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この戦争、俺達の勝利だ

袁紹討伐の当初の戦略は南から攻める官軍と北の公孫賛による同時攻撃を基本としていた。

袁紹側の兵力がどの程度かは不明であったが、ここ数年で人口が倍になった冀州であれば20万程度の大軍を組織することも不可能ではないというのが大将軍として官軍全体の指揮を任された皇甫嵩の判断だった。

もちろん、袁紹が数を揃えた所で練度の低い兵ならばたやすく打ち破ることが出来るだろう。

反乱討伐によって鍛え上げられた官軍を率いる皇甫嵩はその様に考えた。

だが、練度の優位は時間とともに消失していく。

戦いの中で兵士というのは鍛え上げられるものだからだ。

更に、戦いが長引いて不利になるのは財政に余裕のない朝廷側だ。

辺境軍維持にも十分な資金を送れないほど財政が弱体化している朝廷に長期の戦いに耐えられる体力はない。

だから、皇甫嵩は袁紹討伐に時間をかけてはいけないと判断した。

 

そのために、皇甫嵩は戦いの基本を短期決戦とし、豪族諸侯の援軍が揃わなくとも公孫賛との同時攻撃を断行して、時間をかけずに袁紹の首を上げて戦いを終わらせるという戦略を練り上げた。

漢帝国の余力の無さを強く実感している皇帝は皇甫嵩の案に喜んだ。

漢帝国復興のためには莫大な財源が必要である。

もし、袁紹を素早く討伐出来れば、莫大な収益をもたらす冀州がそのまま皇帝の手に入ることになるだろう。

豊かな冀州侵攻に一口噛みたいと思っている豪族諸侯や彼らから賄賂を受け取った一部の宦官などはこの案に反対したが、皇帝の強い意向もあって、皇甫嵩の案が袁紹討伐の戦略として採用された。

 

だが、皇甫嵩の戦略を土台から覆す問題が発生する。

当然ながら朝廷に味方すると思われた公孫賛が袁紹に与したのである。

普通であるとはいえ、野心が少なく皇帝に忠実だと思われていた公孫賛のまさかの反逆に漢帝国は驚愕した。

そして、公孫賛が袁紹に味方するなら、と袁紹の味方となる豪族諸侯が増大した。

特に、辺境を守る豪族諸侯のほとんどが袁紹に付いた。

異民族相手に鍛え上げられた兵士たちを袁紹が味方に付けたことで官軍の練度面での優位すら危うくなった。

 

この状況変化に皇甫嵩は戦略の練り直しを余儀なくされた。

練度面での優位が確保できない以上、勝利を確実にするためには兵力的優位が必要となる。

だが、のんびりと兵力を集めている余裕は無い。

逆賊とまで名指しした袁紹を野放ししたまま放置するようなことになれば、漢帝国の権威が崩壊しかねない。

かと言って、官軍だけで十分な兵力を揃えるには徴兵から一通りの訓練を行う時間が必要になる。

皇甫嵩は漢帝国全土の豪族諸侯に派兵を求める必要があると判断した。

皇帝はこの案を嫌がった。

 

「豪族諸侯に派兵を求めたりなんかしたら、官軍に逆賊を討伐する力がないって思われちゃうじゃない! それに、戦いに参加した連中が冀州の権益を寄越せって騒ぎ出すに決まっているわ! そんな事はお断りよ!」

「しかし、そうしなければ勝つことすら危ういのです」

「何!? 麗羽ちゃんは今回の事が全く予想外だったんでしょう? 今の冀州に官軍を迎撃するだけの備えはないはずだわ。辺境軍の派兵前に、今までの案の通り速攻で潰せばいいじゃない!」

「公孫賛がいればその芽もあったでしょう。ですが、一方面からのみの進撃では弾き返される可能性が高いのです……陛下に反感を持つものが多い状況で官軍が負けるような事態になれば御身の生命にもかかわりかねません」

 

皇甫嵩は官軍が負ければ皇帝の命に関わると脅した。

 

「うううっ、どうしてこうなるのよ! 麗羽ちゃんと荀シンとか言う奴の首をサクッととって終わりになるはずだったのに……」

 

皇帝は嘆きの言葉を発した。

現在の皇帝はお飾り皇帝が欲しかった有力者が後見人となって至尊の座に座った。

その後、うっかり判子を押したことで後見人は死亡。

後ろ盾のいなくなった皇帝は危うい立場に立たされる。

この状況を何とかしようと色々と試みるもののどれもこれも失敗ばかり。

宦官や清流急進派、豪族の圧力もあって袁紹を逆賊認定したら、何故か自分の命に関わりかねない状況になっている。

 

「……陛下」

「わ、分かったわよ。豪族たちに武曲とかを送るように命令しなさい」

 

決断を求める皇甫嵩に皇帝は嫌々ながら同意した。

かくして漢帝国中に逆賊袁紹を討伐する軍に参戦せよとの勅が下った。

結果として、袁紹討伐の勅は華中及び華南を中心とする官軍側と華北を中心とする袁紹勢側とに別れた大規模な戦争へとつながっていく。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「なんじゃ、これは? 何が書いてあるのかよう分からん」

「やーん。楷書体も読めないなんて暗愚ですぅ。さっすが美羽様!」

「わはは、褒めてたも、褒めてたも。で、これにはなんと書いてあるんじゃ?」

「えーっとですねー、悪い悪い麗羽様とその下僕をやっつけるからみんな兵を送れ、っててなことが書いてありますね」

「む、よう分からんが麗羽のやつを妾がボコボコにすればいいのだな」

「うーん、まあ大筋では間違ってないですねえ。まあ、最初予定したよりももっといっぱいの人に参加して欲しいなっていう話ですね」

「おお、それならば孫堅の奴を連れて行くのじゃ。あ奴は前々から妾に戦いに連れて行けと煩かったからのう。じゃが、下々の願いを叶えるのも妾の役目。孫堅の奴をこき使ってくれるのじゃあ」

「おー、あの孫堅が大人しく美羽様に従うと思っているなんてお花畑ですぅ。さっすが美羽様ですぅ」

 

袁術と張勲は呑気そうにそんな会話をしていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「公孫賛が麗羽の味方についたのがやはり痛いわね。これで勝負の行方が分からなくなってしまった……いえ、辺境をここまで素早く味方に付けられるだけ影響力を拡大し続けた麗羽が優勢、と言うべきね」

 

曹操はそう言って不敵に笑った。

面白い、と。

 

「全く、あの馬鹿兄はっ!」

「いい加減に落ち着いたらどうだ。華琳様の計らいで荀シンの血族である事は問題とされなかったのだから」

「落ち着ける訳無いじゃない! 私が散々こうなるからとっとと袁紹の下を離れてこっちに来いって手紙を送っていたのに!」

 

荀彧は地団駄を踏んで激しく憤っていた。

荀彧は友若に向けて幾度も手紙を出して警告していた。

それを全て無視されていたことでフラストレーションが溜まり続けていたのだ。

 

因みに、友若は荀彧の手紙を読みもせずに捨てていた。

どうせ、自分に対する罵倒しか書いていないに違いないと思っていたからだ。

読んでも気落ちするだけだし、忙しいからしょうがないよね、といった感じで。

確かに荀彧の手紙は9割を罵詈雑言で占められていた。

だが、朝敵となる危険性についてなど洛陽で手に入れることのできる重要な情報も荀彧の手紙には含まれていた。

もし、荀彧の手紙をしっかりと読んでいれば友若はこの状況を予め予期できただろう。

予期できたからといって何かが出来たわけではないのだが。

 

「そもそも、何であの馬鹿兄は袁紹なんかの所にずっと留まっているのよ! とっとと華琳様に跪きなさいよ! 発想力だけしかないあいつを使いこなせるのは華琳様ぐらいだわ!」

 

荀彧は相も変わらず怒り散らしていた。

荀彧にしてみれば、自らをも超える発想力を持つ友若が話を聞く限りアホっぽくてしょうがない袁紹に従っている状況は豚に真珠か猫に小判だと思えてならない。

友若にはその類まれな発想を実用化する能力は欠けている。

昔、実家で色々試みていた友若であるが、そのどれ一つとしてまともなものに仕上げることが出来なかったのである。

だからこそ、荀彧は友若の行動を苦々しく思っていた。

荀彧程でなくても優秀な兄が勉学を放り出して結果のでない事に没頭していることには憤りすら覚えたのだ。

そんな無駄な事にその才を浪費するのか、と。

あるいは、実家で友若にもっとも期待していたのは荀彧だったのかもしれない。

 

冀州での成功を見た荀彧は、友若のその発想は本物だ、と素直に認めた。

友若には荀彧の見えていないものが見えていたのではないか、と思うようになったのはこの頃である。

そして、その考えは、友若が試みていた様々考えを政務の片手間に実用化する毎に強くなっていった。

その幾つかは非常に革新的なものである。

余りにも革命的ですらあった。

この漢帝国を根本から変革することすら可能なレベルで。

悔しいとは思うが、発想という点で友若に遙か及ばないと荀彧は認めざるをえない。

もちろん、実際に成果を出すという実現力において負けるつもりはないが。

だからこそ、友若の主には曹操の様なその発想を汲み取って使えるように出来る人物が必要だ、と荀彧は思う。

 

話に聞く限り、袁紹にその才能はない。

袁紹は友若の草案を採用して冀州を大きく発展させた。

 

だが、その程度しか出来なかった。

 

袁紹が元々持っていた名門としての名声、地位、財力。

そこに友若という稀代の天才を採用しての成果が冀州のみである。

衰退の一途をたどる漢帝国そのものを立て直すことも出来ず、漢帝国に代わる新たな支配を築くこともできなかった。

 

この漢帝国において曹操の他に友若の才を十全に発揮させることが可能な人物はいない。

荀彧はそう確信する。

だからこそ、腹が立ってしょうがない。

 

――あの馬鹿兄は何で袁紹なんかに時間を費やしているのよ!

 

「落ち着きなさい、桂花」

「は、はいっ!」

 

曹操の言葉に荀彧は素早く返答を返した。

 

「さあ、出撃の準備をしなさい」

 

そう言って曹操は立ち上がった。

曹操は自身の心が高揚していることを感じた。

 

「荀シン……我が覇道に立ちふさがる敵として相応しい……!」

 

曹操は己の全てを尽くして打ち破るべき敵として友若を認識した。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「りゅ、劉備殿! あ、すいません、興奮して失礼しました。劉……玄徳殿、貴方の参戦に感謝します」

 

あの劉備が冀州にいるということを知った友若は政務を投げ出して、未来の覇王に会いに行った。

長い黒髪をポニーテイルで結んだ女性の発言から劉備を特定した友若は、その手を握らんばかりの勢いで挨拶する。

 

「貴様、何者だ!」

 

黒髪の女性、関羽が劉備を庇うように前に出て友若に誰何した。

同じく劉備に付き従っている孔明と張飛も若干警戒した様子を見せていた。

袁紹統治下の冀州は外部からの人間が容易に侵入できる。

流石に、官軍との戦いを控える現在は多少の制限はあるが、それでも頭のおかしい人間が入ってくる可能性はある。

劉備たちと打ち合わせをしていたらしい顔良と審配は驚きの表情で友若を見ていた。

 

「あ、名乗りもせずに大変失礼しました。私は荀シン、字を友若と申します。友若と気軽にお呼びください」

 

そう言って友若は深々と頭を下げた。

 

「そ、そんな態々ご丁寧にありがとう御座いますっ! 私は劉備、字を玄徳、義によって袁州牧殿の旗下に付きます。よろしくお願いしますっ! えーっと、玄徳と呼んで下さい!」

 

劉備が元気よく挨拶を返した。

 

「え? 荀シン? ……まさかあの荀友若、殿なのですか!? あの袁州牧殿の名臣と名高い!?」

 

関羽が驚きの声を上げた。

友若の異常な様子から関羽は気狂いか不審者か何かと思っていた。

まさか袁紹の快刀と名高い名臣だとは思いもしない。

諸葛亮も唖然としている。

張飛は不思議そうにしていた。

 

顔良と審配も驚いていた。

友若が目を輝かせて挨拶をしにくる等、初めての光景だった。

 

友若はそんな周囲の様子を気にもしない。

 

「では、玄徳殿、と。貴方がいれば千人力、いや万人力です。この度の参戦、感謝します」

 

口説き文句の様な発言を重ねる荀シン。

関羽が再び劉備の前に進みでた。

劉備の美貌に荀シンが口説いている、と思ったためである。

袁紹の下で実績のある荀シンならば劉備と結ばれても良いかもしれない、と思わないでもない関羽であったが、相手の人柄を見極めていない状況で劉備への急接近を許すつもりはない。

劉備と純愛関係を築くならまだ関羽は許容できる。

だが、もし遊び程度の感情で荀シンが劉備に手を出そうというのならば武力を使ってでも排除する、と関羽は内心で決心した。

第一印象がナンパ男そのものだったための不幸であった。

 

「愛紗ちゃん?」

 

荀シンとの間に割って入った関羽に不思議そうに声をかけた。

関羽は努めてそれを無視する。

 

「はじめまして、荀大老師。私は関羽、字を雲長と申します……雲長とお呼びになって結構です」

 

劉備が字を許した以上、自分がそれを許さない訳にはいかない、と言う判断から関羽はそう言った。

 

「関羽!? あ、いや、失礼……関雲長殿ですか!?」

 

友若が興奮冷めぬ様子で叫んだ。

関羽はその様子に普通に引いた。

 

「お会いできて光栄です! しかし、本当によく来てくださいました! 助かります! そうだ、昼食はもう済まされましたか。よろしければおすすめの店を紹介します――ぐえっ!」

 

ドン引きする関羽に気が付きもしない友若の襟首を審配が掴んで引いた。

不機嫌な顔をした審配が劉備を睨みつける。

 

「おい、でかいだけが取り柄の芋女。てめえは大人しく兵の訓練でもしておけや。おい、友若、さっさと行くで!」

 

審配はそう言い捨てると友若を引きずって去っていった。

気道を締めあげられたことで、友若の顔は酸欠で白くなっていた。

 

「す、すいませーん! 後で正南さんにもよく言っておきますから!」

 

審配の罵倒に顔をしかめた関羽達に顔良が頭を下げる。

 

「いや、大丈夫だよ。それにしても、正南さん、友若さんの事が好きなんだね」

 

劉備は笑顔で答えた。

普段、フォローに回ってばかりのであった顔良は劉備にフォローされたことに感動した。

周囲にいるのが冀州の問題児たる袁紹や文醜、審配、友若であるだけに。

劉備の言葉に彼女の配下達も渋々ながら納得した様子を見せた。

 

「よろしければ、食事処に案内いたしましょうか。普段、麗羽様――袁本初様と一緒にいますので、この辺りの美味しい食事処を紹介出来ますよ」

 

顔良は劉備たちにそう提案した。

 

「袁州牧と行動を共にして食事処に詳しくなるとはどういう意味だ?」

 

関羽が小声で諸葛亮に尋ねた。

普段から袁紹が町中を練り歩いてあちこちで物を買いあさっているという事実は関羽の想像を超えている。

州牧なら商人を自分の元に呼び寄せるというのが普通ではないか、と関羽は思い込んでいた。

まあ、仮に街を練り歩くにしても、高級店舗が立ち並ぶ一画から外れたこの場所に袁紹が度々来るとは思わない。

 

「はわわ、顔将軍様。袁州牧様は普段からこうした場所の食事処にもいらっしゃるということでしょうか」

 

袁紹が街中で莫大な額の買い物をするという噂を聞いていた諸葛亮も関羽と同様に驚いていた。

兵士たちがたむろするような場所である。

私兵に厳しい訓練を課す事で知られるようになった袁紹が視察に来ることはあり得るだろう。

だが、食事などは別の場所でするのが普通ではないか、と諸葛亮は思う。

冀州を発展させたことで名を上げる一方、その発展の恩恵に預かれなかった豪族達や宦官達からは恨まれている袁紹である。

こうした場所で食事をする等、暗殺者の格好の標的になりかねない。

護衛も大変ではないか、と諸葛亮は考えた。

 

「え? 麗羽様はこの辺りでも割と食事をされますよ」

 

顔良が何を言っているのか分からないといった様子で答えた。

謎の行動原理を持つ袁紹の配下もやはりどこかずれていた。

 

「そ、そうでしゅか」

 

諸葛亮は若干引きつった様子で相槌を打った。

 

「それにしても、長らくまともな戦いもない平和な土地だと聞いていたが、兵の練度はかなりのものですな。日々戦いに明け暮れていた幽州の兵士達よりも優れている様に見受けられますな」

 

趙雲が話題を変えるようにそんな事を言った。

確かに、と劉備配下の武将や軍師が内心で同意する。

 

「ああ、あそこに見えるのは麗羽様の私兵です。文ちゃんや私が日頃から訓練していますから、結構強いと思いますよ」

 

顔良がそう言って微笑む。

 

袁紹配下の私兵3万は友若の発案した鬼畜訓練により平和な州の兵とは思えないほどに鍛え上げられていた。

毎日、鎧を着た上に体重と等しいだけの荷物を背負い20里を越える距離を行軍訓練に加えて槍や弩の実地訓練をこなすのである。

下手をしなくても練度においては漢帝国で最優の部類に入る。

その厳しさに新兵などは一日が終わると立ち上がる気力さえ残らない過酷な訓練である。

力を持て余した兵なんてはゴロツキと変わらんだろう、という偏見を持った友若が、ならば力を持て余さないようにすればいいんじゃね、と考えて作った制度であった。

 

――朱里の言った通り、袁紹とその配下は朝廷との戦いを予期していた、という訳か。

 

関羽は内心でそう呟いた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「おかしい。よく考えるとおかしい事この上ないぞ」

 

友若は会議用の議席が並べられた部屋の中でそんな事を呟いていた。

袁紹勢力内において友若は大老師などという謎の役職を任されている。

友若のために特別に用意されたものである。

具体的な仕事は新制度の草案作製、実行された新制度の運営監督、種々の問題解決や新事業の発案などなどである。

要はなんでも屋さん的な立場である。

実際は、要点だけを伝えて後は部下に丸投げというのが友若の基本的スタンスであり、イメージとしてはコンサルタントに近いかもしれない。

まあ、それはいい。

問題は友若の職務に軍師が含まれていたことだ。

 

「行政官が軍事まで担当するとかどうなってんだ。人材が豊富なはずの袁家で軍人じゃない俺がどうして戦場に来ているのかとか訳わからんぞ。戦いとか専門家に任せろよ専門家に。そもそも孫子とか忘れかけている俺に軍師とか無理に決まってんだろ」

 

恋姫的世界では基本的に文官イコール軍師である。

まあ、戦乱の世であるから主要な武将が出払った際の反乱対処などが文官にまで任されるということも無いわけではない。

だが、その道の専門家、田豊や沮授を始めとした有能な軍師がいる状況下にも関わらず自分が戦場に出ている意義が友若には理解できなかった。

恐ろしいことに、友若は筆頭軍師的な立場に立っているのである。

 

「いやいや、文官の仕事って軍事関係じゃないほうが多いじゃねえかよ。兵法とか知らねえよ。というか、優秀な文官なら軍師として優れているはずとかそんな馬鹿なこと言い出したのどこの誰だよ! 知力イコール軍師としての能力とかそういう馬鹿な考えはすぐに捨てろよ。巫山戯んな。どうすんだよ、俺」

 

戦乱の世であれば軍事が全てに優先するというのも分からない話ではない。

だが、未だ黄巾の乱は起こっていない。

平和なはずの世の中で軍事を中心にした物事の考え方が何故広まっているのか友若には理解できなかった。

平時における統治者の業務は大半が徴税とその再分配であるはずだ、と友若は嘆く。

 

しかし、嘆いても状況は変わらない。

友若が袁紹軍と官軍が対峙する最前線に立つという状況には。

 

「あら、友若さん。随分と早いですわね」

「なんだよ、荀のアニキ、こんな所にいたのかよ。随分と探したんだぜ」

「お待たせしました」

 

完全武装の袁紹が文醜と顔良を引き連れて天幕に入ってきた。

その後ろには田豊や沮授を始めとした軍師や将軍が続いている。

 

「すいません、少し考え事をしたかったので」

 

友若はそう言って頭を下げた。

各人がそれぞれの席に座る。

友若は上座に座る袁紹の右隣に腰掛けた。

 

誰か代わってくれないかな、と軽く現実逃避をしている友若に袁紹や田豊が視線を送る。

友若は仕方なしに音頭を取ることにした。

 

「これより、軍議を始めます。今回の議題は明日の戦いについてです……」

 

既に袁紹と友若討伐の勅が下ってから一月半が経過している。

官軍の動きは鈍重で少し前の情報になるが、本体は未だに洛陽を経っていなかった。

南部諸侯の援軍集結を待っている、というのが袁紹側の分析である。

 

今回の戦いにあたって友若は田豊や沮授と同じく持久戦を推した。

田豊と沮授の主張の根拠は補給線の乏しい官軍と華南豪族の連合軍は長期戦に耐えられないというものだった。

相手の将は皇甫嵩などの名将が揃っており、他にも友若が矢鱈と警戒している曹操や孫堅を始めとした粒が揃っている。

これと正面から戦えば大きな被害を被る可能性がある、と田豊達は判断した。

漢帝国から逆賊と指定された袁紹が軽微であっても敗北すれば、彼女の側に味方している豪族たちに動揺が走りかねないという危険もある。

ならば、持久戦に持ち込んで、軽装騎馬部隊で相手の兵站を破壊して敵軍を追い込んだ後にこれを大破する事が理想である、と田豊達は考えた。

 

劉備がいるとはいえ他の2人の覇王を同時に相手取っては勝てないと判断した友若は田豊と沮授の意見に賛成した。

持久戦で一気に負ける事のないように闘いながら董卓を通して朝廷と交渉する、というのがこの時の友若の考えであった。

もちろん、それを正直に言う訳にはいかないから友若はただ田豊と沮授に賛成すると述べただけであったが。

 

これに対して文醜や顔良、審配を中心とした者達は強行に短期決戦を主張した。

 

文醜の主張は敵が目の前にいるのに戦わないなどあり得ないという脳筋丸出しのものだった。

戦わなければ逆賊と指定されている袁紹軍は士気が下がり続けてしまう。

華麗に戦って勝てば士気が上がる、というのが文醜の主張であった。

 

審配とその賛同者は戦争の長期化が冀州の経済に打撃を与えることを問題視した。

袁紹の収入源は農民等が納める税金ではなく株式市場で得られる莫大な利益である。

もし、この莫大な利益が失われれば、それを前提として動いている冀州行政が立ち行かなくなってしまう。

戦いが長引けばそれは袁紹の実質的な敗北だ、というのが審配の主張だった。

 

「今回の不愉快な件は宦官とそれに踊らされた皇帝のアホが引き起こしたもんや」

 

皇帝に対する罵倒の言葉に唖然とする連々を無視して審配は話し続けた。

 

「麗羽様はこんなくだらんことに屈するわけにはいかへん。この戦いで冀州の経済がめちゃくちゃになったら、それはうちらが道理の通らんことで大損こかされたっちゅうことやないか」

「戦いになった以上、損失というものは避けられん」

「だから、その損失を限りなく小さくするように努力するのがうちらの務めやろ。友若がこんな事もあろうかと大量の弩を準備している。異民族と日々戦っている歴戦の戦士たちもうちらの味方に付いた。対する官軍はまともな装備もないしょぼい反乱を鎮圧したくらいしか経験を積んどらへん。豪族連中は自分らの被害を避けて冀州を略奪して濡れ手で粟を掴もうっちゅう魂胆やろ。日頃から散々訓練を積んだ麗羽様の兵が負けるわけあらへん!」

 

審配はそう言うと田豊を挑発的に睨んだ。

両者の不仲、と言うよりは審配が一方的に田豊を敵視している事は袁紹配下にとって有名な話であった。

 

「私も審配の意見に賛同します。現状で日々訓練を積んできた麗羽様直轄の3万は官軍を凌ぐ練度を有しています。更に、冀州の義勇軍もまたここ一ヶ月で訓練を積んでいますし、その武装も決して官軍に劣りません。また、騎馬民族と日々戦っている辺境軍が味方となったことも大きいです。しかし、時間が経てばこの優位が失われる可能性は十分にあります。ここは一気に勝負を決めてしまうべきかと」

「そうだ、そうだ! ここはやるっきゃないでしょ!」

 

審配に賛同する許攸に文醜が賛同する。

友若は焦った。

審配達の主張は余りに袁紹の好みと合致している。

更に、下手に袁紹私兵の武装化を行い、厳しい訓練を重ねたことで、審配達の意見はそれなりの説得力を持ってしまっていた。

実際の所、武装化――鎧の刷新や大量の弩の配備――は布材や鉄材の価格調整を目的としたもので、厳しい訓練は失業対策で増やした私兵を遊ばせておくと治安問題が発生する可能性があったからである。

 

「なるほど、皆さんの考えはよく理解出来ましてよ! そして、私の結論は唯一つ! 冀州の全軍に命じますわ。華麗に前進し前進し前進して憎き宦官共の手勢を打ち破るのです!」

 

案の定、袁紹はそう決断した。

 

「……麗羽様のご命令とあらば」

 

田豊達が袁紹に頭を下げた。

この後、若干の修正を経て、袁紹側の基本戦略が決定される。

 

作戦1. 袁紹側の味方に付いた冀州近隣の豪族に物資援助等

作戦2. 作戦1.と同時並行で袁紹配下の私兵3万及び冀州の義勇兵、辺境軍の増援を速やかに冀州南部に集結する

作戦3. 全戦力を持って冀州を攻めようと進軍してくる官軍と南部豪族の連合に攻勢をかける

 

要は敵の進路に兵を集結して打ち破るという作戦であった。

戦力の集中と言う孫子の基本原則に従ったものであり、特段変わった点はない正攻法である。

 

――終わった……い、いや、まだだ、こっちには劉備がいる! 孫堅と曹操がなんぼのもんじゃい!

 

対官軍の作戦が決定された後、友若は必死にまだ大丈夫だと自分に言い聞かせた。

袁術軍の配下に武名名高い孫堅がいると聞いた友若は怯えに怯えていた。

 

――大丈夫、こっちには最新鋭の弩が8万も揃っているんだ。旧式のあれも引っ張り出せば10万。これだけの戦力があって負けるわけがないって。

 

友若は内心でそんな事を呟いた。

 

その日の夕方、冀州に衝撃が走る。

曹操の率いる騎馬隊1万が冀州国境線沿いの要塞を電撃的に2つ陥落させたと言う凶報が袁紹の元に届けられた。

袁術配下の孫堅も大いに活躍したという。

これにより、冀州の味方に付いた豪族たちに動揺が走る。

これを見逃さなかった皇甫嵩は彼らを脅し、買収し、朝廷側に寝返らせることに成功した。

 

袁紹側の防衛線は崩壊した。

袁紹側当初の案である要塞で敵を足止めした間に兵力を戦線に送るという基本戦略の見直しを余儀なくされる。

 

――い、いざとなったら本初様を引きずってでも逃げよう。

 

友若は悲壮な決意を固めていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

曹操の成し遂げた快挙により、官軍は当初の予想を裏切って破竹の勢いで冀州へ攻め入った。

曹操の会心の勝利によって短期決戦の可能性が見えたことで、皇甫嵩は強行軍を選択した。

 

対する袁紹側は大急ぎで兵を編成して、官軍に向けて進軍を行う。

そして、大河を渡った所で両軍は衝突することになる。

皇甫嵩率いる官軍にとって、袁紹側の進軍速度は予想を超えていた。

官軍側の予想をはるかに上回る兵士の練度と、銀行制度を円滑に運用するために冀州の道路や連絡網がよく整備されていたからこそ可能な芸当であった。

 

袁紹側が河に筏を組み合わせて作った橋を渡り終えた所で両軍は対峙した。

官軍側は官軍10万及び豪族勢力の総数10万の合計20万。

袁紹側は袁紹直属の私兵3万及び冀州内の義勇兵12万、辺境からの援軍が計3万の合計18万。

両軍の兵力は官軍がやや有利であり、補給線では袁紹側が有利であった。

 

この状況を見て春愁時代の故事を思い出したらしい袁紹は河に架けられた筏の橋を完全に破壊させた。

友若や顔良は必死に反対したが、袁紹は耳を傾けない。

 

「おーほっほっほ! 背水の陣ですわ! これで私の勝利は揺るぎませんことよ!」

 

――タラッタラッタ!? な、何やってんだこのアホ姫は! 背水の陣って思いつきで河を背にするもんじゃないだろうが! 相手には曹操とか孫堅がいるんだぞ!?

 

後退が不可能になったことで友若は色々いっぱいいっぱいだった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「いよいよね」

 

曹操は楽しみを堪え切れない様子でそう言った。

 

「全く、業突張りの豪族どもめ! 華琳様がバカ袁紹とつながっているなど言いがかりを!」

「そうよ! あの馬鹿兄、何華琳様に失礼なことをしているのよ!」

 

夏侯惇と荀彧が背後で憤る。

 

曹操が配置されているのは右翼後方。

戦功を上げるには微妙すぎる配置であり、これまでの戦いで最大の功を上げた人物に対する処遇ではなかった。

因みに孫堅は左翼後方である。

友若の工作の成果であった。

曹操と孫堅への病的な恐怖に突き動かされた友若は両者へ莫大な賄賂を贈ろうとしたのだ。

 

賄賂の総額は1億銭であり、全て友若のポケットマネーであった。

漢帝国において最高位の官職に就くために必要な金額をポンと出せる辺り、友若が天下の財を不当に溜め込んでいるという宦官の言い草にも一理ある。

 

苦し紛れの友若の行動は立ち所に官軍側に露見したが、これに南部の豪族たちが騒ぎ出した。

彼らは豊かな冀州の財宝を手に入れようと考えており、そのための有力な競争相手を排除しようと一致団結したのだ。

凄まじい剣幕で詰め寄る豪族たちに皇甫嵩は曹操及び孫堅を後方に配置せざるを得なかった。

 

「まあ、いいわ。取り敢えず、貴方の初手を見せてもらうわよ、荀シン」

 

曹操は笑みを浮かべながらそう呟いた。

 



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何故か勝っている

袁紹軍と官軍、両軍の戦端は袁紹軍側の弩弓によって始まった。

両軍の距離は1里程度。

袁紹軍の左右それぞれ1万が放物線を描いて官軍に振りかかる。

それに合わせるように袁紹軍はゆっくりと前進を開始した。

戦いに慣れていない新参者は一斉に降ってくる矢にたじろいだ。

 

「落ち着け。大したことはない」

 

熟練の兵士たちがそう言って味方を励ます。

構造上弩に使われる矢というのは弓と比べて短く、軽い。

弓以上の射程を持つといっても曲射の殺傷能力は低い。

まともな鎧を着用していれば完全に防げる。

鎧がなかったとしても木の板程度の盾があれば良い。

そして、袁紹軍の放った矢は通常の弩と比べて小型であった。

流石に皮膚には突き刺さるが、それでも深く食い込む恐れはない程度のものでしかなかった。

もちろん、直接狙いを定めることで弩の威力は高くなる。

強力な弩ともなれば薄めの鉄板等をたやすく貫く。

とは言え、放たれた矢の形状から見るに、袁紹側の使用している弩は小威力のものであることが予想された。

軽装な鎧程度しか身に纏わない野盗程度なら倒せるかもしれないが、鉄板の小片を組み合わせることで作られた重装鎧を貫くだけの威力は無い、と皇甫嵩は判断した。

 

「袁紹は弩というものの扱いを知らないようだ」

「奴らがここで無駄射ちしてくれるのは助かりますね」

 

副官に話をするだけの余裕すらある。

 

「折角敵が有効射程外から矢の無駄射ちをしているのだ。連中は近づいてきているようだが、こっちも合わせて接近する必要はない。両軍の距離が半里を切ったらこちらも動き出すとしよう」

「豪族共の私兵の一部が騒いでいますがいかが致しましょう。一方的に射たれるというのは士気に関わります」

「ふむ、連中には落ち着くように伝えろ。適当な盾さえあれば被害を受けることはない。落ち着くように伝えておけ」

 

皇甫嵩は自分勝手な豪族たちを思い浮かべながらうんざりした様子で副官に答えた。

 

「それにしても、あの小娘め。無駄だと分からんのか、射ちまくっておる」

 

皇甫嵩は袁紹軍をあざ笑った。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「この距離で射っても対して効いていない様子ですね」

 

筒状の遠見鏡を構えていた許攸がそう言った。

 

「まあ、多少でも怯んでくれれば良いな、という程度のものだから」

 

友若が緊張を隠せない様子で答えた。

 

「むっ! いや、中央の連中は気にしていないみたいやけど、両翼の連中は結構慌てとるで。あいつらは豪族やな。まともに鎧を来ていない奴もいるみたいやし、案外あの失敗作も役に立っとるなあ」

 

審配が遠見鏡を覗き込みながらそんな事を言った。

 

恋姫的世界にはメガネレンズが存在する。

レンズ形状理論や測定能力のないため、こうしたメガネレンズは現物合わせによって作られている。

レンズの材料は当然、クリスタルであり、その研磨は熟練の職人にしかできないため、メガネとは高級品である。

 

ともかく、メガネの存在を知った友若は望遠鏡を作ろうと試みた。

屈折率の簡単な原理を覚えていた友若は複数のレンズを組み合わせることで、より遠くを見通すことが可能であると知っていたのだ。

だが、かつて実家で望遠鏡を作ろうとした時、友若は挫折を味わった。

現物合わせで作られるレンズを複数枚組み合わせて任意の場所に虚像を作ると言う事は困難極まりなかったのである。

こんな感じのレンズを作ってくれと言っても、それを上手く伝える図面技術もなければ検査する方法も確立されていない以上、うまくいく訳がなかった。

 

レンズの研磨職人が実家にいるわけでもなかったため、友若の望遠鏡開発は、

1.複数枚のレンズを遠方の研磨職人に発注

2.届けられたレンズを組み合わせて何とか上手い動作ができないか試行錯誤

3.2.で判明した問題を解決するために新たなレンズを発注

以下のループを繰り返し、瞬く間に資金が尽きた。

 

母親から大金を借りて何の成果も上げられなかった友若は荀彧に散々なじられた。

 

「何でこんなくだらない妄想ばっかりやっているのよ! いくら母上があんたに甘いからって、私の目の黒いうちはこれ以上妙なことはさせないわよ!」

「い、いや、でも、メガネで遠くのものがよく見えるなら、それを組み合わせることで、ほら、屈折率とか全反射とか――」

「その結果がこのがらくたでしょうが! もう少し、自分が何を出来るのか考えてから行動しなさいよ! 何時も何時も、あんたのやることは地に足がついていないじゃない!」

 

こうして望遠鏡を作ろうという友若の最初の試みは大失敗に終わった。

 

その後、冀州で財産を蓄えた友若は再度望遠鏡の開発に着手する。

緊急情報の伝達のために望遠鏡が有用であると期待されたからである。

友若は最初と同様のプロセスで望遠鏡の開発を試みた。

ここで、以前と異なっていた点は、莫大な財源を友若が保有していたことと、研磨職人の元に直接友若が赴いてレンズ開発に関われたということだ。

そして、友若は作業効率の大幅な向上と無数の失敗作の積み重ねによってまともに利用できる望遠鏡を完成させることに成功した。

さらに、友若はこの望遠鏡に利用されたレンズの型を取り、型とクリスタルのすり合わせによって同等品を生産できるようにした。

この望遠鏡は収差が激しく、長時間の利用に耐えられなかったため、手信号と組み合わせた通信網は結局見送られた。

しかし、肉眼よりも遥か遠くを見通せる望遠鏡は軍事を始めとした分野に幅広く利用されるようになったのだ。

 

数里先の人間達の様子すら視認できる望遠鏡は袁紹軍に官軍の状況を容易に伝えた。

 

「……袁紹様、取り敢えず、今利用している弩の攻撃目標を敵方の両翼に集中するべきです」

 

望遠鏡から視線を袁紹に向けた許攸が進言する。

 

「分かりましたわ。友若さん、田豊さん、敵方の両翼を叩くのです」

「畏まりました」

「了解です」

 

田豊と友若が袁紹の命令に答える。

 

「旗による伝令を。標的を両翼に集中させろ」

 

友若は伝令官に命じる。

伝令官は敬礼をすると、伝令用の旗手の元へ向かった。

黄色の旗と赤色の旗が掲げられ、赤色のものが左右に振られた。

暫しの時間をおいて、袁紹側の曲射は官軍の左右に集中することになった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「見誤っていたのか……?」

 

皇甫嵩は苦々しげに呟いた。

袁紹側は一向に矢の射出をやめようとしない。

 

「く、くそ! 一方的にやられるだけじゃないか!」

「落ち着け! 冷静に対処すれば被害はない!」

 

数千の矢が絶え間なく降り注ぐことに兵士たちは同様を見せ始めていた。

 

しばらくすれば袁紹側も射程ギリギリの曲射に意味が無いことを悟るだろう、という皇甫嵩の見立ては外れたのだ。

これだけ射てば、曲射が意味をなしていない事など明白に分かるはずだ、と皇甫嵩は思う。

しかし、現実には袁紹側は愚直に曲射を止めなかった。

 

「応射しますか? 袁紹軍との距離も近づいております」

 

副官が皇甫嵩に尋ねた。

 

「豪族共が五月蝿いし、仕方あるまい。袁紹軍の矢が尽きる様子もないしな。しかし、これだけの矢を用意できるとは、連中元々官軍と戦うつもりだったのかもしれんな」

 

皇甫嵩はこの程度の矢に陣形を乱す豪族連合軍を横目に入れながら、渋々、応射を認めた。

士気を落とさないためとはいえ、この距離では弩は十分な殺傷力を持ち得ない。

矢の持ち合わせが十分とは言えない事と、装填に時間がかかることを思えば、有効射程に入るまで皇甫嵩は弩を温存しておきたかった。

だが、それ以外の要因は皇甫嵩に応射を要求した。

 

「射て!」

 

指揮官の号令の下にやられっぱなしだった官軍は応射を開始した。

とは言え、それは殺傷力を持つものではない。

 

「こんな攻撃が効くか!」

 

袁紹側の兵士たちは全員が軽い円弧を描く鉄片を布地に組み合わせた鎧を着込んでいる。

生産量の拡大の伴って価格の下落した麻や綿、鉄を買い支える必要があると判断した友若が率先してこの鎧導入に踏み切ったのである。

動機は経済政策であったとしても、袁紹兵の鎧は曲射による矢程度はものともしなかった。

 

そして、両軍の距離が半里を切った時、袁紹側の中央の兵士たちが一斉に弩を構えた。

 

「射て!」

 

号令とともに水平方向に放たれた矢は息をつく間も与えずに官軍の中央に到達した。

 

「ぐわっ!?」

 

その威力は凄まじく、重装鎧をたやすく貫き、中央に布陣した官軍の精鋭の命を奪っていった。

 

「馬鹿な!? この距離から重装歩兵を射ちぬくだと!? いかん! これでは一方的に射たれるばかりだ! 様子見はしてられん! ドラを鳴らせ! 全軍前進させよ!」

 

その様子を見た皇甫嵩が慌てて叫んだ。

袁紹軍の弩は官軍のそれの有効射を上回っている。

このまま座視すれば、一方的な展開になってしまう。

そうなる前に袁紹軍との距離を詰めて弩の応射及び、白兵戦に持ち込まなければならない。

距離さえ詰めてしまえば、連射に時間のかかる弩の脅威は半減する。

ここは多少の被害を覚悟してでも距離を詰めなければならない。

皇甫嵩はそう判断した。

 

伝令が届き、官軍側のドラが打ち鳴らされる。

兵士たちは一斉に吶喊の声を上げて前進を始めた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「いよいよ始まったか……」

 

友若は恐怖に震えながら呟いた。

20万もの兵士たちが一斉に叫ぶ様子は大地が割れたかと感じられるほどだった。

 

――こうなったらやるしかない!

 

友若は自らに言い聞かせた。

この期に及んでやり直せるとは思わない。

ならば、後は戦いぬくしかない。

退路が断たれた以上、進むしかないのだ。

 

幸いにして、こちらの袁紹直属の3万が使う弩の有効射程は官軍側のそれを凌駕している。

官軍側の弩が有効射程に入るまでは一方的な攻撃が可能だろう。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

今回、袁紹軍で使用されている弩は大きく分けて3種類に分けられる。

 

一つが、最初に曲射を行った小型の連弩である。

予め矢を装填しておく構造になっており、背筋力で弦を引くことで、既存の弩とは比べ物にならない連射性能を誇る。

弩兵という兵科の問題点が連射にあるという話を聞いた友若が開発したものである。

転生チート知識にある自動弾込め機構を参考にしており、弦をひく必要性はあるものの、弓と同等レベルの連射性能を保有させることに成功した。

友若にとって自信作であった。

だが、これは現場で運用した際に致命的な問題があることが発覚した。

威力の欠如である。

友若の開発した小型連弩は弦を背筋力のみで容易に引けるように張力が通常の物と比べて小さい。

簡単な講習のみで誰でも使えることを重視した友若の連弩の張力は弓よりも少し強い程度であった。

当然ながら弩の威力は小さくなる。

張力を小さくしたことで威力が下がり、連弩は十分な飛距離を稼げなくなった。

そこで、友若は連弩に使用する矢を小型化した。

これにより、通常の連弩と遜色のない飛距離と弓並の連射性能を持つ友若の連弩が完成した。

後に、李典はこの連弩を次のように評価する。

 

「矢を放った瞬間の衝撃で次を装填する構造は画期的や! 足で先端を押さえて、取っ手を使うことで簡単に弦を引けるっちゅうのもポイント高い。正に革命的な絡繰や!」

 

……李典には武器として認識してもらえなかったらしい。

銀行の金銭輸送部隊に襲いかかる野盗を迎撃しようとした際、護衛部隊に配備されていた友若の連弩はその平和主義的性能を万全に発揮した。

つまり、大量の金銭を野盗に強奪されるという事態に陥ったのである。

厳しい訓練を課す友若の事を嫌っていた袁紹の私兵達は口々にこの連弩を馬鹿にした。

 

「木の板で防げる」

「木の葉で防げる」

「布の服で防げる」

「全裸でも防げる」

「刺さっても倒せない」

「殺傷力ゼロ」

「これって武器ですか?」

「相手の剣が届く距離なら殺傷力あるかも」

「でも、それって矢を討つより殴りかかったほうがマシじゃね」

「むしろ素手のほうが強い」

「私のほうが強い」

「すぐ壊れる」

「整備面倒くさすぎ」

「九七式57mmの再来」

 

自信満々の連弩を散々馬鹿にされた友若は逆ギレした。

 

「うるせー! ばーかばーか! この素晴らしい連射性能と飛距離を両立させるためにどれだけ苦労したと思ってるんだ! そんなにヘボいヘボいって言うなら、超高威力の弩を作ってやんよ! あと、チハたん馬鹿にすんな! あれは画期的なディーゼル車だぞ!」

 

ともかく、友若の開発した画期的な連弩はお蔵入りとなり、量産されていた弩とその予備分合わせて3万は完全に無駄になった。

しかし、袁紹軍は官軍との戦いにあたって、この失敗作を引っ張り出してきて義勇兵達の一部に装備させた。

ないよりはマシだろう、という判断である。

幸い、訓練も殆ど無く使えるように開発された連弩であるから射つだけなら難しくない。

戦闘が始まれば使いものにならないが、長距離射撃で相手の士気を下げられないかな、という考えによって袁紹軍側の曲射は実行された。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

2つ目の弩は袁紹の私兵3万に配備された弩であり、先の物よりも大型であり、弦を引くための巻き上げ機が取り付けられている。

連弩の開発失敗で周囲から白い目で見られるようになった友若が次に開発した大型の弩であり、兵士達には『真弩』と呼ばれている。

巻き上げ機が付いているものの、前回のものと比べて構造が単純化されている。

 

「散々威力がないって俺の連弩を馬鹿にしやがって。俺が威力の高い弩を作れないとでも思っているのか!」

 

そんな友若の言葉とともに開発された連弩は弓に鉄材と木材を組み合わせてあり、その張力は漢帝国の一般的な連弩を大きく上回っている。

矢も通常の弩に使われるものと比べて長く、径も太く、重い。

連射性能や扱いやすさを排除して、兎に角高威力を追求した結果である。

巻き上げ機の採用により、てこ式よりも発射準備時間が伸び、大きな張力に逆らって巻き上げ機を回すにはかなりの力が必要となる。

筋力の足りないものには扱えないという、それって弩としてどうなの的な武器であった。

そんな弩の試作機を作った友若は袁紹私兵の中でも精鋭部隊に渡して試射させた。

 

「ほーら、ほら。お前らの言う通りの弩を作ってやったぞ。これで文句はないだろう」

「く、っくそ!」

「あれー、満足に弦も引けないんですかー? へなちょこな弩なんぞ何の役にも立たないって言うから、強力なやつを準備したんですけどー」

「……」

 

巻き上げに大きな力を必要とするこの弩を初めて渡されて連射するのは鬼畜訓練に耐えてみせる精鋭達といえども厳しかった。

普段からさんざん走りこまされているが、腕の筋力を酷使する事が少なかったためでもある。

と言うか、友若は精鋭たちでも連射が難しくなるような張力で弦を張ったのである。

ただの嫌がらせであった。

最低である。

悔しさに涙を滲ませる女性の横で、どんな気持ちどんな気持ちと飛び跳ねている友若様子はア熊を思わせた。

 

「……一週間だ」

「ん?」

「一週間でまともに使いこなしてみせる!」

「……えー? 本当?」

 

精鋭兵士の言葉に友若は嫌そうに答えた。

友若としては、自信作をボロクソにこき下ろしてくれた生意気なゴロツキどもの鼻をへし折ろうと、この強力な弩を作ったのである。

これで、袁紹の私兵達を大人しくさせてから、例の連弩を張力向上により実用的に改善することを考えていた。

友若としては開発に苦労した自動装填機能を捨てるつもりはなかった。

下手にこの強力な弩を使いこなされると小型連弩の出番がなくなってしまう事を友若は嫌ったのである。

とは言え、さすがにこの弩を使いこなせるわけがない、と思った友若はいやらしい顔を浮かべた。

 

「ふーん、そこまで言うなら構わないけど。でも、もしさっきの言葉を守れなかったら今後は俺に文句を言わずに従えよ」

「……いいだろう。だが、もし私達がこの弩を使いこなしてみせたら、今後はその不真面目な態度を改めて、死ぬ気で袁本初様に尽くせ……それと、貴様の収集しているというぶどう酒を全て頂こうか」

「んな!? ちょっと待て! そうして俺がそんなもの賭けなきゃいけないんだよ!」

 

精鋭兵士の言葉に友若が慌てて言い返す。

友若はぶどう酒を愛しており、数年前に購入した自宅にの地下室にはぶどう酒の保管庫まで用意されている事は有名であった。

シルクロードが半ば崩壊しているため、ぶどう酒の流通は極めて限定的で、その価格は凄まじいものになっている。

実際、友若がぶどう酒に費やした資金は数千万銭に及ぶ。

それを賭けろという精鋭兵士の言葉にそう簡単に頷けるはずがなかった。

精鋭兵士は友若に詰め寄る。

友若は一歩引いた。

断固としてあのぶどう酒達は賭け事の対象にしない、と友若は決心する。

 

「あら、よろしいんじゃありませんの?」

「ほ、本初様!?」

 

だが、決心から僅かの間もおかずに友若は諦めざるを得なかった。

いつの間にか友若の元へやってきた袁紹に賭け事の話を聞かれたのである。

袁紹はサイコロ遊びから賭け事にはまっていた。

 

「私の兵士たちがこの弩を使いこなせるかどうか、という訳ですわね。面白いですわ。私も一口かませなさい」

 

そして、事あるごとに他人の賭け事に参加するのである。

袁紹が合法、非合法を問わず冀州にある賭場から出入り禁止指定されてから、増々その傾向が強くなった。

 

「私は精鋭たちを信じますわ! 賭けるのは袁家秘伝の酒。私が勝ちましたら友若さんのぶどう酒を頂きますわ」

「ううああ……」

 

友若は絶望とともに崩れ落ちた。

イカサマなどまるで考えもしないのに賭場から出入り禁止の指定を受けるほどの豪運を持った袁紹である。

賭け事で勝った例など一度も無かった。

こうして、友若は溜め込んだぶどう酒を全て失い、深い悲しみに包まれた。

もっとも、賭け事での勝利に上機嫌の袁紹に誘われて一緒にぶどう酒を飲めたため、友若は割とすぐに復活した。

ただ、この出来事で袁紹がぶどう酒の味を知り、買い求めるようになったせいで、ぶどう酒の入手が困難になった。

いくら稼いでいるとはいえ、袁紹と友若それぞれの娯楽に使用出来る金額上限は文字通り桁が違う。

具体的には二桁くらい。

その圧倒的な資金力により袁紹が買い占めへと動き出した結果、ぶどう酒の価格は急騰し、友若では手の届かないものになってしまった。

そのため、友若は事あるごとに袁紹と酒の席を伴にしてただぶどう酒を楽しむことにした。

見た目は美人で、なんだかんだで性格も悪くない袁紹と伴にぶどう酒を飲むのは友若にとって癒しの時間であった。

因みに、袁紹にぶどう酒の買い占めを進言したのは田豊である。

話は逸れるが、袁紹の買い占めで価格が高騰したことにより、これを好んでいた皇帝もぶどう酒を口にすることができなくなった。

皇帝が袁紹討伐を容認した理由はこのぶどう酒の価格高騰を止める狙いがあったのではないか、などとも噂されている。

 

弩に話を戻すと、兵士達が思いがけずも使いこなしてしまったことで、友若が適当に作り上げた弩が袁紹私兵の正式武装として採用されることになった。

訓練をつみ、ある程度の連射が可能になると、この大型の弩は凄まじい威力を発揮した。

友若としては全力を持って開発した小型連弩ではなく、兵士達の鼻っ柱を折るために適当に作った弩が採用されたことには複雑な気持ちだった。

何しろ、兵士達は技術の粋である小型連弩を『弱弩』、大型の弩を『真弩』等と呼称したのである。

小型連弩の採用を目指していた友若への嫌がらせであった。

実際、その破壊力と飛距離は兵士たちに大好評だった。

 

「木壁ごと敵を貫いた」

「重装鎧を半里の距離から貫いた」

「野盗の弓が届かない範囲から攻撃できる」

「真弩の殺傷率は15割。最初の敵を貫通してその後ろの敵を絶命させる可能性が5割りと言う事」

「あまりの殺傷能力に真弩を見た野盗は逃げ出すようになった。もちろん、追撃の矢で絶命させた」

「真弩は頑丈で整備も楽。どこかの戦いを知らない奴が押している弱弩とは比べ物にならない」

「接近すれば矢は放てまいと近づいてきた敵を殴り殺す鈍器としても使える」

「あまりに真弩が殺傷能力を持つので豪族から使用を控えるよう要請が来た」

「豪族に弩を突きつけて野盗と裏で結託していたのかと聞いたら泣いて白状した」

「真弩を使うようになってから彼女ができた」

「真弩を使うようになってから彼氏ができた」

「真弩を使うようになってから他人の幸福は毒の味だと思うようになった」

「真弩の威力は癖になる」

「火力最高!」

「私の真弩はさらに2倍の張力なの」

 

現場の人間から大型弩についてこれだけの好意的な発言が出てきては、さしもの友若も連弩を諦めるしかなかった。

こうして、袁紹の私兵に採用され、この戦いでも袁紹直属の精鋭3万が利用しているのが『真弩』であった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

『真弩』によって半里の距離から放たれた矢は官軍の精鋭を容易く射抜いていった。

 

「前進せよ! 弩は装填に時間が掛かるから連射できない。敵が打ち終わった今が前進の好機だ!」

 

官軍側の小隊長達が兵士を励ます。

しかし、袁紹軍は間を置かずに次の矢を放った。

 

「ぐわっ!?」

 

指揮棒を振り上げて周囲の兵士達を鼓舞していた小隊長に矢の狙いが集中する。

 

「お、落ち着け! 前進するのだ」

 

全身を射抜かれて倒れる小隊長に代わり副隊長が兵士達に指示を出す。

 

「どうしろっていうんだよ! あいつら絶え間なく矢を射っているぞ」

「好機なんてどこにもないじゃないか!」

 

しかし、隊長たちの言葉と異なり、弩とは思えない間隔で矢を放つ敵に兵士達は動揺を隠せなかった。

 

「だとしても、今更止まれん! 全力で前進せよ!」

 

いくら予想外の出来事が生じたといっても、経験豊富な兵士達はすぐに状況を判断し、ただ前進を続けた。

多大な犠牲を出しながら。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「拙い」

 

皇甫嵩は歯噛みした。

袁紹軍側は兵士達の鎧の色を複数に分けて、色ごとに運用していた。弩兵部隊は3色の兵士で構成されており、それぞれの色の兵が弩の弦を引くこと、矢を装填して前方に進むこと、進み出て矢を放つこと、の3つの動作を分担して行なっている。

これにより、一度に放たれる矢の本数は減っているが、絶え間なく矢が射ち出され続けていた。

官軍の保有する弩と比べて大きな飛距離と威力を持つ袁紹軍の弩は次々と官軍の兵士達を打ち倒していく。

すぐ隣や前で死んでいく仲間たちに、官軍側の攻勢速度は低下していた。

 

「こちらの弩兵に敵の弩兵部隊を叩くように命じろ! 連中を何とかしなければ戦いにすらならずに負けてしまう!」

 

皇甫嵩の命令に官軍側の弩兵部隊は袁紹側の弩兵を狙って射撃を始めた。

距離が足りないため曲射となってしまうが、他に選択肢はなかった。

これに対して袁紹軍の後方部隊が一斉に弩を構えて曲射を開始した。

文字通り雨とすら思えてしまう程の矢が官軍側に振りかかる。

皇甫嵩は知らなかったが、これは袁紹軍で力のある義勇兵や豪族の兵に貸し出された3つ目の弩であった。

袁紹軍の『真弩』に使われている弦の張力を小さくして、扱いやすくする代わりに、威力を失ったものである。

『真弩』程の威力と飛距離はないが、曲射によって官軍の弩と同等程度の飛距離は得られる。

こちらに関しては練度が十分とはいえないが、4万の数を準備したことで莫大な矢が官軍をに降り注いだ。

 

「ぐっ! あれだけ射てば直ぐに矢が無くなりそうなものを!」

 

官軍側は想像もしていなかったことであるが、袁紹軍はこの戦場に全部で4千万に達する矢を持ち込んでいた。

作りすぎて余っていた矢が大量にあるから戦場に持って行こう、という友若が提案したのである。

 

――ひたすら矢を射っていれば曹操とか孫堅も簡単には近づいてこれないよね、そうだよね、そうだと言ってよ!

 

そんな考えの元、大量の矢が運ばれることになったが、その輸送手段構築に友若とその部下たちは四苦八苦した。

数千万銭もの大金を日々運ぶ銀行制度により蓄積された輸送ノウハウが無駄に発揮されなければ、これだけの矢を一回の会戦のために使うことはできなかっただろう。

平均して一分間に2発の矢が放てると仮定すると5時間半はひたすらに矢を射てる計算になる。

袁紹軍は矢の温存など考えもせずに有効射程外からひたすらに矢を射ち続ける。

 

「豪族たちの陣形が崩れかけています!」

「っ! 腰抜け連中め! 袁術に命じて、孫堅を動かせ! それと曹操にも攻撃を開始するように命じろ!」

 

皇甫嵩は後悔した。

欲に目の眩んだ豪族を前方に配置するべきではなかったと。

 

――初戦の勝利で油断してしまった……!

――袁紹は初めから官軍との戦に備えていたに違いない!

 

無数の弩と矢を袁紹軍が保有していたことで、皇甫嵩はそう確信した。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

時は少し遡る。

 

「おー、凄いものだなっ!」

 

一方的に犠牲を重ねる官軍を見やった孫堅は気楽な様子で笑った。

 

「感心しとる場合か! このままでは儂達もまとめて押し切られるぞ」

「うむ、その通りだ! おい、袁術に伝えて来い。私たちは好きに動くと!」

「ま、待てい! 勝手な行動をしては袁術や皇甫嵩が黙っていないぞ!」

 

命令を無視して行動すると言い放った孫堅を黄蓋が慌てて窘めた。

 

「今、動かなければ確実に負ける。勘だがな」

 

対する孫堅は平然と言い返した。

 

「勘、か。お主ら親子の勘はよく当たるからな。だが、儂達だけではどうしようもないぞ。率いている兵は1万しかいない」

「なあに、皇甫嵩は負ければ後がないことを理解している。要は袁紹軍を突き崩せばいいだけだ。遠距離から弩を射つばかりの連中など、近づいてしまえば大したことない。そして袁紹軍を撹乱すれば、直ぐに官軍が動き出すさ」

「……致し方ないの」

「まあ、私とお母様が接敵出来ればなんとかなるわね」

 

黄蓋は溜息とともに孫堅に従った。

孫堅軍1万が動き出す。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「砲で耕し兵が前進する、だったかしら、桂花?」

「は、はい。昔、兄が言っていました。大砲で耕し歩兵が前進する、と」

「見事なものね。弩を全面に打ち出した戦闘方法。正攻法そのものだけどその分、生半可な奇策では対抗できないわね……あら、孫堅に動きがあったわ」

 

そう言って曹操は双眼鏡から顔を外した。

荀彧が李典と供に開発した成果の一つであった。

曹操の配下となった荀彧は、冀州での成功を見てかつての友若の発言には理があったのではないかと思うようになっていた。

型にはまらない思考の持ち主である曹操の後押しもあって、荀彧はかつて友若が実家で行なっていた無数の試みに再び脚光を当てたのだ。

幸いにして、荀彧は兄の発言を一字一句過たず覚えていた。

失敗に終わった無数の試みは何らかの不足を抱えていたが、一を聞いて十を知る荀彧であれば、その不足分を補うことができる。

政務の片手間のに友若がかつて失敗した望遠鏡の開発にも荀彧は取り組んだ。

荀彧は就寝前に横になりながら友若から聞いた実像、虚像や屈折等の話を思い出して必要なレンズ形状を暗算し、干渉縞を利用したレンズ形状測定を李典に説明して実用化し、さらに、ふと思いついた全反射を利用したプリズムを利用することで双眼鏡を発明した。

同様に、荀彧は空いた時間を使ってかつて荀彧が失敗したアイデアを次々と現実のものしていった。

さすがに、内燃機関や飛行機などは作製できていないが、多くのアイデアの実用化に成功している。

これらの開発費は曹操が冀州で秘密裏に行なっていた投資による利益が当てられた。

袁紹ほどではないが、曹操は漢帝国や各勢力の動きから今後伸びしろのあると判断した分野に投資して、多額の利益を得ていた。

 

「こちらにも命令が来るでしょうか?」

「いえ、どうかしら。皇甫嵩ならば。私達よりも先に孫堅を単独で動かそうとは考えないはず。恐らく孫堅の独断ね。江東の虎という肩書きは本物だったということかしら」

 

曹操はそう呟いた。

友若が名指しで曹操とともに賄賂を贈ろうとした孫堅との面識は残念ながらない。

曹操としては友若が自分と同じく脅威と考えたであろう孫堅に興味があったが、官軍内部で余計な疑いを避けるためにも、無関係を貫いていた。

 

「さて、皇甫嵩もそろそろどうしようもなくなったわね」

 

曹操がそう呟いた直後、伝令兵が曹操の元を訪れた。

 

「曹西園八校尉! 皇甫左中郎将より中央の官軍と共に袁紹軍への攻撃を開始せよとの命令です!」

「押されている状況で何の策もなく数の多い敵主力に攻撃をして何の意味があるか! 我ら天子様直属の近衛部隊! 我々騎兵1万は右より袁紹軍を叩く! 皇甫左中郎将に伝えよ! 我々が袁紹軍の弩を止めると!」

 

曹操はそう言い放つと絶を高く掲げた。

 

「漢帝国に忠実なる者どもよ! 今この時が漢帝国存亡の分水嶺だ! 存分にその武を発揮せよ!」

 

曹操軍配下の1万の騎兵が動き出した。

 



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友若は逃げ出した

「進め! 敵を蹴散らせ!」

 

孫堅が兵士達を叱咤する。

 

「おい! 弩兵の小隊長と思しき奴らを射るが、儂にできるのはそこまでじゃぞ!」

「十分よ!」

「行くぞ、雪蓮!」

「はい! お母様!」

 

馬に乗った孫堅とその娘である孫策は袁紹軍の右翼に少数の騎兵のみで突撃していく。

孫堅軍のほとんどは歩兵である。

弩兵を大量に配備し、合間なく矢を放ちながら前進する袁紹軍に闇雲に接近しては予想される被害が大きすぎる。

そこで、孫堅は弓兵の援護の下、少数の騎兵で接敵し、敵を撹乱した後に歩兵を前進させるという作戦をとった。

無数の問題を抱え込んだ作戦である。

少数の騎兵が接敵する前に弩兵の攻撃集中に耐えられなければ、作戦の前提が成立しない。

騎兵が弩兵を十分に弩兵を混乱させることができなければ、後続部隊の接敵が不可能となる。

接敵できた所で孫権軍は寡兵であり、友軍の追撃がなければ数の暴力を前に浅草の露と消えるだろう。

歴戦の名将である孫堅は当然ながらその事を弁えていたし、黄蓋もだからこそ忠告をした。

しかしながら、無数の危険を理解してなお、孫堅はこの作戦を強行した。

 

袁紹軍の正面に配置された兵士達が相手であれば、孫堅はこの作戦を採ろうとはしなかっただろう。

口にだすことはなかったが、孫堅は袁紹軍正面の兵士達の練度が孫堅軍のそれよりも高い、と判断していた。

流石に距離を詰めれば孫堅軍が有利であろうが、そう簡単に倒せる相手ではないし、そもそも、距離を詰めること自体が難しい。

だが、右翼に配置された兵士達は違う。

右翼にもまた無数の弩兵が配備されていたがその練度は低く、接敵さえしてしまえば容易くこれを混乱の渦中に叩き落とすことが出来る、と孫堅は判断した。

 

馬に跨り風になる孫堅達少数に対して袁紹軍右翼は慌てて弩を構える。

数名、他とは違う格好をした袁紹兵が手を振り上げている様子が見えた。

 

「あれが兵士長か!」

 

叫ぶ孫堅の横を高速で数本の矢が駆け抜ける。

黄蓋の放ったそれであった。

常人をはるかに超えた才覚と能力を持つ黄蓋の矢は袁紹側の弩よりも速く、正確であった。

その矢は過たず指揮役と思われる兵士達を射殺した。

 

「よし! 祭、よくやった!」

 

孫堅が叫ぶ。

黄蓋の矢で指揮役と思われる兵士達が射止められた事に、袁紹兵は動揺を見せていた。

幾人かの兵士が慌てて孫堅達に向けて矢を放つが、ろくに狙いも定められていないそれらの殆どはかすりもしない。

それでも数本の矢が孫堅に突き刺さらんと突き進む。

 

「無駄だ! そんな腰の引けた矢が何万と来ようがこの江東の虎が倒せるものか!」

 

孫堅は南海覇王を振るって矢を叩き落とし、声高らかに叫んだ。

一騎当千、いや、一騎当万とすら思わせる貫禄と覇気に袁紹軍右翼は明らかに怯んだ様子を見せる。

その隙を逃さず、孫堅率いる騎兵は袁紹軍との距離をゼロにした。

 

「はああああ!」

 

覇気に満ちた掛け声とともに孫堅達の刃が振るわれる。

白刃が瞬く毎に首が飛び、鮮血が舞う光景に袁紹軍右翼は混乱状態に陥っていた。

 

「落ち着け! 相手は高々十数だ! 一斉に攻撃を――っ!!」

「させる訳無いでしょうが!」

 

孫策は混乱を収めようと動く兵士を的確に仕留める。

天性の勘が孫策に敵を冷静にさせてはいけないと告げていた。

そして、どの兵士が周囲をまとめ上げる危険があるかを孫策は勘で察知していた。

とは言え、20にも満たない騎兵で万を超える兵士達を混乱させ続けることは難しい。

 

「陣形を崩すな――っ!」

 

離れた距離で崩れた陣形を元に戻そうとする兵士に向けて、孫策は敵から奪った剣を振りかぶる。

高速で飛来した剣は周囲をまとめようとしていた兵士の眉間を貫き、即死させた。

だが、遠距離攻撃の十分な手数を持たない孫堅や孫策である。

やがて限界が訪れた。

 

「落ち着け! 弩兵は陣形を崩さず、弩を構えよ! 矢を放つと同時に槍兵で敵を串刺しにせよ! 相手は寡兵だ!」

 

袁紹軍は混乱から立ち直りつつあった。

 

「――っ!」

 

孫堅に付き従った騎兵の一人に袁紹軍の矢が集中した。

全身をハリネズミ状態にしたその騎兵は力なく落馬して果てた。

悪鬼を思わせる奮迅をしていた孫堅軍の最初の死者であった。

 

「ちいっ!」

 

孫堅が舌打ちを打った。

 

「弩を集中させろ!」

 

相手が不死身の化物ではなく殺せば死ぬ存在であると認識した袁紹軍は急速に立ち直りつつある。

 

「半壊くらいはいけると思ったんだがなあ」

 

孫堅はそう呟いた。

その背後から放たれた矢が袁紹軍をまとめていた兵士を的確に射抜く。

同時に、距離を詰めた孫堅軍の本体が袁紹軍右翼に攻撃を開始した。

 

「なに無茶を言っておるんじゃ。お主らは十分時間を稼いだわ」

「五斗米道の連中なら半壊までは持って行けたぞ」

「それは連中が碌な装備もしとらんからじゃ。愚痴を言っていないでさっさと動かんか!」

 

戦場であることを忘れたかのように愚痴を言う孫堅を黄蓋が叱りつける。

 

「うむ、そうだな」

 

孫堅は素直に答えると息を吸い込む。

 

「孫呉の同胞よ! 敵は混乱して烏合の衆と化した寡兵だ! 存分に打ち破れ!」

 

その声は孫呉の兵を大いに励まし、袁紹軍を大いに怯えさせた。

一騎当千を容易く成し遂げる英雄の声だった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「……え? なにあれ?」

 

友若は震えながら呟いた。

友若の覗く望遠鏡の先には倍以上の袁紹軍を食い破ってなお勢い衰えることなく突き進む孫堅軍の旗が翻っていた。

早い段階から友若は孫堅軍の動きに注目していた。

だからこそ友若は思う。

あれは本物のバケモノだと。

 

なにより恐ろしいのが、孫堅軍の戦術が極々普通のものにしか見えなかった事だ。

冷静に考えれば、この戦いにおいて袁紹軍は優位に立っている、と友若は判断している。

遠征により疲労している官軍と異なり、袁紹軍は本拠地が近く、補給が容易である。

この差は大きいと友若は判断していた。

多くを他人に押し付けたとはいえ、銀行の金銭輸送で散々苦労した友若は、この時代に物を遠くまで運ぶという事が如何に困難かを身にしみている。

さらに、官軍側は弩に対して袁紹軍の精鋭3万が使う弩は飛距離と威力共に優位に立っている。

これを上手く運用すればかなりの打撃を官軍に与えることが出来るはずだと友若は思っていた。

友若が恐れに恐れている曹操にしても孫堅にしても、直属の兵は1万である。

互いに20万の兵が衝突する大戦においてさしたる力を発揮できるとは思えない。

 

だからこそ、友若は曹操や孫堅の奇策――桶狭間の様な事態を何よりも恐れていた。

奇策を持って数倍の兵を打ち破ったという話ならば友若はいくつか聞き覚えがある。

例えば、袁紹の行動の元となった故事、背水の陣は数倍の敵を壊滅させた画期的勝利であると知られている。

三国志の覇者に至る曹操や孫堅ならば、当然袁紹軍の僅かな隙を突いて大敗に追い込むに違いないと友若は思っていた。

妹の異常さをよく知るからこそ、友若はこの世界の知恵者は未来予知とか妖術くらいやってのけるだろうと信じていた。

 

だからこそ、友若はこの戦いに大量の矢を持ち込むことを進言した。

取り敢えず、矢を射ち続けて敵を一切寄せ付けないようにしている間は、流石の曹操も孫堅も奇襲を仕掛けることは出来ないはずだと考えたからだ。

いくらなんでもビームを撃たれることはないだろうから、距離がある内は曹操や孫堅も大したことは出来ないはずだと友若は判断していた。

その程度の小細工で三国志の英雄をどうにか出来るとは思えなかったが、何とか逃げる時間くらいは稼げるのではないか、と友若は自分に言い聞かせた。

しかし、孫堅軍は無数の矢をものともせずに袁紹軍右翼に接敵し、暴れに暴れている。

それは弩をひたすら射って時間を稼ぎ、その間に何とか逃亡方法を定めるという友若の密計の根底が崩壊したことを意味していた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

この戦いにおける友若の戦略目標はひたすらに逃げ延びて、時間を稼ぎ、董卓を通して皇帝から恩赦を勝ち取るというものである。

劉備軍が味方となった際には歓喜した友若であるが、曹操に加えて三国志の覇者と思わしき孫堅までもが敵にいると知った友若は早々に勝利を諦めた。

曹操に仕えている妹の異常さが骨身にしみている友若にしてみれば、現状がいくら有利でも、それが勝利につながるとは到底思えない。

友若独自の尺度である三国志の覇者の分布は官軍が2人を抱えているのに対して袁紹軍は1人である。

倍の差がある上に野戦では孫子的にどうしようもない、と友若は考えた。

劉備に袁紹軍全体を率いさせればなんとかなるかも、と言う袁紹配下の武官にしてみれば絶対に受け入れられない提案が無難に冗談として流された時、友若は戦略目標を皇帝の恩赦と定めた。

それでも、劉備が大兵力を率いればそれなりに時間は稼げるはずだと友若は必死に劉備を推薦した。

だが、審配を始めとした勢力が強烈に反対した。

 

「何で公孫賛の所のぽっと出にそんな兵を任せなあかんのや! おかしいやろが!」

「優秀な人間に大任を任せるというのは基本だ!」

「その優秀っちゅうのがどないして分かるんや! ちっと胸がデカイからってふらふらしくさって! 大体、うちはあの髪の色が気に食わへん! 桃色は淫乱って昔から言うやないか」

「何の話だ!? 今は官軍との戦いについて話し合う場だろうが! と言うか、正南、その発言はあちこちを敵に回すぞ!?」

「そない煙に巻こうたって、うちの目は誤魔化されへんで! 友若! あんた随分とあの牛乳をガン見しとったやないか!」

「いやそれは気のせいじゃあ。あの時、俺にそんな余裕なかったし……でも思い返してみると確かに大きかったな、うん」

「ほ、ほら、やっぱり! 認めたやないか! このスケベ!」

「い、いや、今のはただの感想で、ってスケベちゃうわ! い、いやだなあ、本初様、そんな目で見ないでくださいよ。何というか、さっきの発言はどうしようもない不可抗力で――」

 

迂闊な発言の結果、多くの場合に友若に味方していた田豊が中立の立場を採った。

結果、劉備の率いる兵力が袁紹配下の将軍や有力豪族の兵力を超えないよう1万5千に制限された。

その内訳は劉備が幽州から率いて来た歩兵6千、騎兵4千に冀州における義勇兵5千である。

因みに、袁紹の配下武将二枚看板の1人である文醜が率いる兵が3万、顔良が1万8千であり、普通の豪族が率いる兵力の上限が1万である。

公孫賛の下で客将をやっていたとはいえ、幽州が冀州の経済圏に組み込まれてからは戦い事態が減少し、目立った戦果のない劉備。

その能力未知数の人物にこれだけの大兵力が任されるというのは異常もいいところであり、友若の発言力の強さを示していた。

友若はちっとも嬉しくなかったが。

曹操と孫堅が率いる兵力がそれぞれ1万である。

覇王の数で劣勢な上に、その覇王が率いる兵力でも不利な状況になってしまったからだ。

しかも、劉備の指揮下に加わった兵士達は鍛え上げられた兵士ではない。

普段は農民や商人をやっている一般人である。

冀州を守ろうというスローガンや絶大な支持を誇る役満シスターズ四十九の慰安によって彼らの士気は高く、鎧や槍、弩等の武器は十分に支給したため武装の点でもそうそう遅れを取るとは思えない。

しかし、練度の不足はいかんともしがたい差になる、と友若は思っていた。

平素から徹底的に鍛えあげられた皇帝の常備軍1万を率いる曹操や宗教勢力の反乱討伐を重ねた歴戦の勇士を率いる孫策に対向することは難しい、と。

 

――何で三国志の覇者にこんな中途半端な兵力持たせるんだよ! あほなのか、こいつらは!

――孫子でも戦力の集中は大事だって言っているだろうが!

 

友若は内心で毒づいた。

他の人間が三国志の知識を持っているわけがない、という常識は友若の頭から滑り落ちていた。

 

唯一の救いは、呂布と張遼が存外強いらしい、ということだ。

手合わせした関羽が2人が非常に強いと発言したのだ。

特に呂布については自分以上だと関羽は述べた。その言葉はでしゃばることのない関羽の謙遜に違いない、と友若は聞き流したが。

しかし、あの『関羽』が言うのならばそれなりに信じても良いのではないか、と友若は思う。

 

――もしかして、呂布と張遼は将来的に劉備に付き従ったりするということなのかな。

――覇者に付き従った武将は多いはずだ。関羽ほどではないとしても呂布と張遼はそれなりに強い武将なのかもしれない。

 

とは言え、一介の武将がいくらいた所で、三国志の覇者相手に役立つとは友若には思えなかった。

何しろ、あの曹操はあのバケモノ、荀彧を支配下においている。

いくら個々の能力が高くても覇王を前には意味を成さないに違いないと友若は思う。

 

状況を俯瞰すると、袁紹と自分自身が生き残る術は皇帝に許しを請って三国志の覇王を大人しくさせて貰うしかない、と友若は信じた。

 

だから、やる気満々の袁紹のために戦いが避けられなくなった時、友若は如何に被害を抑えて逃げ延びるべきかを考えた。

他の幕僚が如何に官軍を打ち倒すか苦悩している真横で友若は真剣に如何に降伏するべきかと思考を重ねていた。

その末に、友若は弩を基本とした戦術を提案する。

取り敢えず、官軍との距離を稼いでおけば、逃げやすいだろうと思ったからだ。

袁紹軍が大量の弩を抱えていること、その弩が賊の討伐などで凄まじい戦果を発揮していたため、袁紹配下の武将たちはこの案に賛成した。

 

――後はどうやって本初様を説得するかを考えておかないと

 

そう簡単に自分を曲げない袁紹にどうしたら早い段階で退却を認めさせることが出来るかを考えた友若は、ふと絶望的な気持ちになった。

喉元に剣を突きつけられるまで袁紹が敗北を認めるとは思えなかった。

そして、喉元に剣を突きつけられた状態はそのまま剣を突き刺される状態と紙一重だ。

友若はそんな危うい状況を何としてでも回避したいと思っていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

最初は少数の兵力だと孫堅軍の動きを無視していた袁紹軍中枢は事態の変化に頭を悩ませていた。

中央前方では文醜率いる袁紹私兵3万と、その両脇に配置された弩兵部隊合計2万の弩によって官軍距離を詰められず、一方的な戦況を示している。

一方で、袁紹軍右翼は孫堅軍の勇猛果敢な攻勢に陣形を崩し、無様な体を晒していた。

 

「中央から大幅に部隊を引き抜くべきです。幸い中央には余裕があります。右翼の孫堅軍のにこれ以上暴れられれば右翼が崩壊しかねません」

「なにを言うか。中央を薄くすれば、その隙に官軍の精鋭が盛り返しかねん。右翼を指揮する韓馥殿は歴戦の武将だ。江東の虎だか知らんが、高々1万の兵程度、抑えてみせるだろう」

「あの様子を御覧ください! 我々が不毛な議論を交わしている今まさに友軍が死んでいるのです!」

「だからと言って右翼に兵を向ければ敵の思う壺だと分からんのか! あんな少数の兵だけで大軍に立ち向かうわけがない! 敵の狙いは我々に兵力の分散を強要し、一斉攻勢をかけることのはずだ!」

「しかし、中央の精鋭は予想以上によくやっています。中央官軍は未だに距離を詰めることすら出来ていませんし、予備を引きぬいても良いのではないでしょうか」

「ここの予備兵力を引き抜いたら他に回せる兵が無くなってしまうぞ!」

「そもそも、孫堅軍が大暴れしていることは確かだが、右翼にはまだ手付かずの友軍が連中の3倍はいる。寡兵相手にそんな対応を取る必要があるのか」

「その寡兵に右翼は大きく陣形を崩されているのです。友若が警戒していた孫堅軍を侮るべきではありません」

「ぐっ……貴様は韓馥殿が南方の蛮人に敗れるというのか!」

「現実として右翼は今、大きく崩れています」

「だが、兵の損失は大したものではない。韓馥殿ならば時間をかけずに混乱を収めてみせるだろう。寡兵を相手に兵を動かしていては話しにもならん。大体、右翼が孫堅軍に良いようにされているのは前方に弩兵ばかりを配置したからだろうが」

「中央、左翼共に弩兵を全面に押し出す作戦は成功を収めています。右翼の状況は作戦の問題ではなく、孫堅軍の精強さが理由であると考えるべきでしょう」

 

袁紹の幕僚達は右翼に援軍を送るべきか否かを議論する。

両者は激しく対立していた。

感情的な理由が強かったがために容易にまとまる気配を見せない。

多くの部下を抱える袁紹配下には複数の派閥が存在する。

その中でも冀州の急速な成長にともなって勢力を拡大したのが田豊派閥と元清流派閥である。

当初、袁紹の下での立身出世に興味のなかった友若はこうした派閥と距離を置いていた。

金さえ稼げればいいとかつて友若は思っていたのだ。

現在、袁紹達に情を絆された友若は、彼女たちを生き残らせたい、と考えている。

ともかく、どの派閥にも属していない友若であるが、周囲はそうは思わない。

友若の異常な出世と田豊や元清流の人間達と関係の深い友若はこれらの派閥に属しているものと思われていた。

これらの派閥は現在袁紹配下において主導力を握っているが、それだけにかつて権勢を誇っていた旧来の豪族勢力や名士勢力の派閥からは敵意を向けられている。

色々と話題にも事欠かない友若は田豊もしくは元清流派閥を嫌う人間達から格好の標的として認識されていた。

特に武官には軍事的な功績を一切上げていないにもかかわらず軍事作戦の最高責任者の1人となった友若を嫌う者が多い。

そのため、武官の多くは孫堅の脅威を大したものでないと切り捨てた。

彼らの思考の根拠は袁紹軍右翼にはまだ余裕があったことにあったが、その判断の裏には孫堅の脅威をひたすらに煽っていた友若に対する反感が存在していたことは否めない。

 

――あの荀シンとかいう小僧、大した度胸もないくせに出世しやがって

 

好意的に見れば丁寧な、悪く解釈すれば卑屈な友若の日頃の態度はそんな風に解釈されていた。

さんざん機会がありながらも袁紹政権内部で強権を求めなかった結果、中途半端に高い地位を得た友若の自業自得であった。

 

ただ、派閥争いを考慮の外においたとしても、この状況は袁紹軍首脳部にとって悩ましいものだった。

 

袁紹軍中央には予備兵力7万がある。

一見、十分な予備兵力があるように思えるが、これには前方の弩兵に官軍が接近した場合に弩兵に代わり、敵と戦うことを期待された兵力5万を含んでいる。

つまり、当初の作戦通りに動くのであれば袁紹軍が右翼に動かせる兵力は最大2万程度である。

そのため、武器は接近戦において強力な威力を発揮する槍が多い。

その実態は義勇兵であり、訓練が十分とはいえないことから前方に配置されている弩兵精鋭部隊5万との入れ替わりにはかなりの時間を必要とすることが予想された。

槍兵を前に出すタイミングを誤れば、今現在の戦況とは逆に大きな損害を出しかねない。

 

袁紹軍の弩兵の多くが利用している『真弩』、もしくはその亜種は極めて頑丈で、接近戦にも耐え得る。

高い剛性を達成するために『真弩』の重量は相当のもので、鈍器としての殺傷能力は高い。

中央の精鋭部隊では『真弩』の先端に槍の穂先を取り付けて、敵を突き殺せるように改良してある。

これは実際、賊退治において効果を発揮した。

 

これについて兵士達の評判は非常に良かった。

 

「これでいつでも真弩が仕えるぜ!」

「これはもはや真弩ではない。神弩だ!」

「来た! 神弩来た! これで勝つる!」

「それに引き換え、ちょっと衝撃を与えただけでまともに動かなくなるどこかの連弩……プククッ!」

「おいおい、それを言ってやるなよ。ちょっとばかり威力が低くて賊をろくに殺せず、衝撃に弱くて手から落とそうものならすぐに使えなくなり、整備がやたら面倒臭い上に、矢の装填作業はやたらと時間がかかり、何のために連射機能をもたせたのか意味不明な弩だが、いい所も無いわけじゃあないさ。多分な」

「その通りだ。これをネタにいけ好かない荀老師様を馬鹿にできるんだ。最高だろうが」

 

靴の裏にこびり着いたガムのようにしつこい袁紹の私兵達の皮肉に、その日の晩、友若は浴びるように酒を呑むことで答えた。

 

「せいみつききのあつかいにきをはらうのはとうれんらろがー。あのやばんいんどもめー、いまにみれろ」

 

酒に飲まれて戯言を垂れ流し続ける友若の様子に、同席していた審配は我慢の限度を超えた。

 

「いい加減黙らんかい! 男らしくしゃきっとせい!」

 

怒りの声と共に振るわれた拳が負け犬友若の意識を刈り取った。

この時の様子はいつの間にか袁紹配下の精鋭たちの知るところとなったのである。

そんな友若にとっての不幸がかつてあった。

 

話が逸れたが、まとめると、袁紹軍の精鋭が操る『真弩』は接近戦も可能なのである。

 

しかし、袁紹軍の軍師たちはこの弩で官軍との接近戦まで行うつもりはなかった。

所詮弩は弩という意識がある軍師たちにしてみれば、賊退治程度に効果を示したからといって真っ当な装備に身を固めた槍兵などを相手に弩兵が戦えるとは思えなかった。

『真弩』は槍よりも重く、一方でリーチが短い。

一般人に槍と真弩を持たせた場合、接近戦では槍のほうが明らかに強い。

実際の賊討伐を目にしていない友若や軍師は、鍛えあげられた兵士が『真弩』持ったの戦闘能力の高さを見誤っていた。

だから、友若や軍師を始めとした袁紹軍首脳部の予想を大幅に超えて戦果を上げる弩兵に、軍師たちはどのタイミングで弩兵を下げて槍兵と交代させるべきか、と頭を悩ませた。

 

――とにかく、まずは逃げないと……!

 

その横で友若は必死に逃亡手段を考えていた。

矢の雨の中を駆け抜けて、数倍の敵を蹴散らしている孫堅軍と剣を交える勇気は友若には存在しない。

今後のことを考えればなるべく被害は抑えなければいけない。

孫堅軍がこれ以上暴れない内に逃げ出さなければと友若は考えた。

 

――で、でも、ど、どこに逃げればいいんだ!?

 

背後は河である。

どこかの考えの足りない姫、誰とは言わないが袁紹が渡河のために渡していた筏橋を壊したため、退路は存在しない。

友若や袁紹等の少数だけならば馬に乗り逃げることは可能だ。

しかし、それでは官軍が追いすがってきた時に身を守る兵がいなくなってしまう。

流石にそれが拙いことくらいはテンパっている友若にも理解できた。

味方を見捨てて逃げるのはデメリットが大きすぎる、と友若は判断する。

朝廷と話し合うためにも多少の力はあった方が良い。

場合によっては、軍事力そのものが取引材料にもなる可能性もある。

もちろん、いよいよ危なくなったら当然ながら友若はアホ姫の尻を叩いてでも少数で逃げ出す気満々だったが、まだその時ではない。

 

――しかし、後退はダメとかどう考えても詰んでるわ! 右では孫堅が暴れているし、左の曹操も動きを見せている。中央の官軍が何とかなっているのがせめてもの救いだけど……あれ?

 

頭から煙が出るほど考えに考えた友若はふと気が付いた。

 

――もしかして、正面の官軍ってすげー弱いのか?

 

友若は転生チート知識からあと十年もすれば黄巾の乱が起こり、その結果、漢王朝が滅ぶと思っている。

そして、そのすぐ後に、曹操、劉備に孫堅が台頭するのだと考えていた。

因みに、正史では黄巾の乱の発生から漢帝国の終焉まで36年ほどあったりする。

とは言え、そんな事を知らない友若。

 

――十年後くらいに反乱で滅ぶ帝国だ。正直、今も大したことない。

 

冀州の税収のほうが漢帝国の歳入よりも多いし、と友若は考える。

 

――武器だってこっちのほうが上みたいだ。そもそも、官軍には曹操や孫堅みたいなバケモノはいない。と言う事は、官軍相手なら勝てるんじゃねえか!?

 

友若は雷に打たれたかのごとく固まった。

突如として脳裏に湧いた考えが友若には神の啓示のように思えた。

 

――いや、これは神の啓示に間違いない! 神は言っている。官軍を打ち破って逃げろ、と!

 

何より素晴らしいのが、中央を突破して前進を続ければ、孫堅とも曹操とも戦わずに済む可能性があるのだ、と友若は考えた。

敵官軍の大義名分は皇帝勅令だ。

つまり、皇帝の勅が覆れば官軍は戦う理由を失うのである。

如何に、曹操や孫堅と言えども皇帝の勅が無ければ戦闘を継続することはないはずだ、と友若は思う。

ならば、中央突破しても孫堅と曹操が追撃を仕掛けてきたら、洛陽まで逃亡して皇帝に覇王を止めるよう命令させればよい、と友若は考えた。

中央突破は曹操と孫堅の脅威から逃れると同時に、皇帝の元まで逃げ延びるための退路を切り開くことが出来る一石二鳥の作戦だ、と友若は内心で自画自賛した。

余りにも酷い戦略だった。

友若を批判する武官達を全くもって正しいと断定しなければいけないレベルである。

そもそも、何の準備もなく、20万の大兵力を洛陽との距離を踏破するだけの兵站を確保することは不可能である。

さらに、戦争において最も死傷者が多いのは追撃であるなど、友若の考えは突っ込みどころ満載であった。

どう考えても、皇帝のところまで逃げられるわけがない。

だが、読心術の使えない他の幕僚たちは友若に突っ込むことができなかった。

 

「本初様!」

 

友若は叫んだ。

それまで沈黙を保って自分の世界に没入していた友若の言葉に視線が集中する。

武官達の表情は苦々しげだった。

 

袁紹は友若を信頼している。

友若の才覚を評価した田豊などがそうなるように仕向けた。

ここで、友若が直接袁紹に意見すれば、それがそのまま採用される事が多い。

 

幕僚達の多くはそれができない。

基本的に優柔不断な袁紹に自分の意見を採用してもらおうと思えば、ほかの幕僚を説得してそれ採用するべきだという雰囲気を形作らなければいけない。

つまり、袁紹配下の派閥を味方につけてまとめ上げなければいけないのである。

結果として、袁紹の統治は行動が遅くなりがちである。

利害関係を調整する必要から大胆な献策は難しい。

献策の内容が如何に優れていようが、袁紹の配下はまず派閥をまとめ上げなければいけないのだ。

そして、派閥を上手くまとめあげた者こそが出世を重ねていく。

そのため、袁紹配下で出世を目指すものは、利害関係の調整に腐心していた。

 

だが、友若は違う。

当初、袁紹配下としての出世に欠片も興味のなかった友若は、とにかく、自分が手っ取り早く金を稼げる制度を作ろうと考えて株式制度を提案した。

その株式制度はあまりにも大胆であったため、それがいかなる意味を持つのか正しく理解できた者はいなかった。

通常なら、棄却されていたはずの案である。

だが、友若の出世を顧みない大胆な献策を評価した田豊の強い勧めによって、袁紹はこの株式制度を採用した。

袁紹配下はこの決定に賛成も反対もしなかった。

大々的に失敗したら友若を後押しした田豊を追い落とす材料に使えるだろう、という程度の認識であった。

得にも害にもなりそうにない株式制度に強いて関わる意味を見出せなかったのである。

その結果、株式制度の発足から銀行制度の確立に至る成功の名声は友若が独占することになった。

 

この成功により、袁紹は友若の意見に全面的な信頼を寄せるようになる。

袁紹の信頼を利用した友若は次々と大胆な献策を行った。

その献策はかつて有能な袁紹配下の能吏が派閥の壁に阻まれて実現できなかったものの流用が多く、ほとんどが大きな効果を上げた。

それによって袁紹の友若への信頼は益々高まり、その信頼故に友若は派閥を無視した大胆な献策を行える、というループが発生したのである。

旧来の袁紹配下にしてみれば面白いわけがない。

特に、友若に無断で献策をパクられた能吏等は怒り心頭であったし、派閥をまとめ上げていた者達にしてみれば権勢を奪われた格好だ。

友若にしてみれば訳の分からない話である。

友若にしてみればただ今まで採用されて来なかった意見を拾い上げただけである。

袁紹配下の派閥関係に最初から関わっていない友若は、そんなものが存在していることさえ知らなかったのだ。

かくして、友若は田豊と元清流を除いた袁紹配下の各派閥勢力から強烈な敵意を向けられていた。

それでも、友若が力を持ち続けているのは袁紹の信頼があるからだ。

仮に、友若が失策を重ねて袁紹から信用されなくなれば、袁紹配下の各勢力は喜んで友若を亡き者にしようと動き出すだろう。

敵意を向けられていることくらいは認識していた友若。

だが、そんな大変な事態になっているとは考えもしなかった。

 

「本初様、今直ぐに全軍を前進させて官軍中央を打ち破るべきです!」

 

いつも通りに冀州内部における権力闘争など知りもしない友若は、曹操と孫堅の脅威のみを恐れて袁紹に献策する。

 

「なっ!? 何を馬鹿なことを言っているのだ、荀大老子殿!」

 

友若の突飛な意見に幕僚が驚きの声を上げた。

 

「弩兵と槍兵の入れ替えにどのくらい時間がかかるか分かっておられるのか!」

「大老子殿の策を採用したがために、我々は槍兵を前に移動させる時間が必要なのだ!」

 

まっとうな非難であった。

だが、三国志の覇者の恐怖に視野狭窄に陥った友若はそんな批判などものともしなかった。

 

「本初様配下の精鋭達の持つ『真弩』は接近戦にも耐えられます。弓射によって大きく動揺した官軍など敵ではありません。そして、敵が怯んでいる今こそ攻撃の好機。今直ぐに全兵力を持って攻勢をかければ容易に官軍を打ち破ることができるでしょう。本初様、ご決断を」

 

友若には確信があった。

袁紹が友若の提案を採用すると。

もともと我慢強くない袁紹は距離をおいて弩をひたすらに射つ状況に退屈し始めていた。

そもそも、袁紹は華麗に進撃し敵を蹂躙すればよい、と考えていたのだ。

にも関わらず、弩兵を全面に押し出すことを認めたのは友若が強硬に主張したからであった。

当然、その友若が意見を翻したとなれば、袁紹の結論はただひとつだ。

 

「おーっほっほっほ! 私は最初から華麗に突撃すれば良いと思っていたのですが、ようやく友若さんも私と同じ意見になったのですわね。皆さん、聞きましたか。これよりこの袁本初全軍を持って全面攻撃をかけるのです! 宦官の手先にこの袁本初は屈さないということを天下に示すのですわ!」

 

幕僚たちは軽く絶望的な顔をした。

本来袁紹軍の陣容は歩兵に守られるべき弩兵が最前面に出ているという異様なものである。

その愚形のまま攻めれば、莫大な犠牲が予想された。

 

――これで、孫堅と曹操から逃げられるはず……!

 

同僚達が悲観的予想に前途を憂いている中、友若は無邪気に自分の策が採用されたことを喜んでいた。

 




俺、戦争編が終わったら誤字訂正と感想返信をするんだ……


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これはチートではない、仕様である、繰り返す、これは――

残酷なシーンも普通にある気がします。
注意!
それと、今回色々ひどいです。


今に乗った伝令が袁紹軍を駆け巡り、本陣に掲げられた旗が次々と入れ替わり、ドラが激しく打ち鳴らされた。

袁紹軍の兵士達は鬨の声を上げて一斉に前進を始めた。

 

「なっ、なんだと!?」

 

官軍の将兵は驚きの声を上げた。

何しろ、袁紹軍の最前面に配置されているのは弩兵である。

絶え間なく矢を打ち続ける袁紹軍に対して、官軍は一方的に被害を出しながらも何とか距離を詰めようと四苦八苦していた。

その袁紹軍が配置を変えることもせずにそのまま前進を始めたのである。

これでまともに戦えると喜ぶ者。

馬鹿にしやがってと思う者。

袁紹は狂ったのかと思う者。

なにか奇策があるのではと思う者。

官軍の将兵の感想は様々であったが、その誰もが完全に虚を突かれたのは確かであった。

 

「夢を見ているのか」

 

歴戦の将軍である皇甫嵩ですら最初何が起こったのかを理解できなかった。

袁紹側の弩兵に距離を詰めることもできず、崩壊しつつあった官軍精鋭。

戦況の変化に日和見を決め込んだ袁術を始めとする豪族たち。

諸々を考慮した結果、断腸の思いで撤退すら考慮し始めていた皇甫嵩である。

袁紹軍が自らの優位を投げ捨てるような暴挙に出たことに呆然とした。

とは言え、皇甫嵩は歴戦の名将。

予想外の事態など戦場では珍しくない。

また、皇甫嵩は袁紹軍の攻勢を侮るわけにもいかないと判断した。

仮に、中央を突破されれば、河を背に追い詰められるのは官軍となる。

だが、袁紹軍を抑えることが出来れば、それは官軍側にとって絶好の機会となる。

 

「迎撃態勢を採れ。槍兵を全面に出すのだ! 及び腰の豪族たちも動かせ! 袁紹軍の攻勢を食い止めれば勝利だ!」

 

皇甫嵩は命令を下した。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「ちいっ! 袁紹め、逃げ出しおったか!」

 

袁紹軍右翼の前衛を切り崩した孫堅が弩兵を切り捨てながら舌打ちをする。

冴え渡る孫堅の勘は真実を大体言い当てていた。

 

「なにアホな事を言っとるんじゃ! 袁紹め、儂らの陽動を無視して、中央突破を図るとは!」

 

黄蓋が馬鹿なことを、と孫堅のぼやきを切り捨てる。

 

「それよりも消耗が想定より多い! ただの弩兵と思ったが、連中接近戦にもできているぞ! 勢いに乗っている今は損害が少ないが、このまま戦い続ければ兵達の疲労が限界を迎える! 儂は一旦撤退を勧めるぞ!」

 

黄蓋は矢を放ちながら叫ぶ。

袁紹軍右翼は混乱から立ち直りつつあった。

直接刃を交えている弩兵部隊は孫堅や孫策の天才的な攪乱戦法によって十分な連携ができていないが、後方部隊に配置されている槍兵部隊は突撃陣形を整えて、行進を始めていた。

孫堅軍は袁紹軍弩兵と入り乱れているため、相手を選べない密集攻撃を受けることはないだろう。

だが、危険な状況であることは変わりなかった。

 

「いや、我々はこのまま袁紹軍本陣を攻めるぞ!」

「なっ!? なにをバカなことを言っておるんじゃ! たった1万で5万を超える本陣を攻めるなど自殺行為以外の何物でもないわ! 連中は官軍本陣へと進撃を開始しておる。態々火中に突っ込む必要などないはずじゃ」

 

孫堅の想定外の決断に黄蓋が噛み付く。

 

「だからこそだ! 連中は強引に攻勢をかけたことで陣形を崩している。これは袁紹の首をとる絶好の好機だ! 雪蓮! 道を切り拓け!」

「お母様! 考えなおしたほうがいいんじゃないのかしら。嫌な予感がするの!」

「……お前の勘はよく当たるからな」

 

孫策の反対に孫堅は瞠目した。

しかし、孫堅は言う。

 

「だが、ここは危険を犯してでも進むぞ!」

 

南海覇王を高く掲げた孫堅は配下の全軍向けて大声を上げた。

 

「同胞たちよ! 奮え! 袁紹は愚かにもこの江東の虎、孫文台に脇腹を晒している! 我らはこれより袁紹本陣へと攻め入る! 狙いは袁紹の首唯一つ! 成功すれば、孫呉復活も夢ではない! 同胞たちよ! その真価を天下に示すのだ!」

 

英雄の声に鬨の声を上げて答える兵士達。

孫策が袁紹本陣へと向けた道を切り開いた。

 

「続け!」

「ええい! こうなったら何としてでも成功させるぞ!」

 

連戦の後であるにもかかわらず、名将に率いられた孫呉の兵達は疲れを知らぬかのように駆け出した。

その進撃の先頭に立ったのが孫堅と孫策であった。

馬を並べて駆ける武の天才2人を前に袁紹の弩兵や槍兵達はたちまち切り崩されていった。

孫堅軍は袁紹軍右翼の陣形を抜けて無人の地帯へと駆け出す。

狙いは前進を開始した袁紹軍本陣。

 

孫堅は背後を振り返り、彼女の兵士達の無事を確認する。

弩兵を相手とした接近戦闘にも関わらず、孫堅軍は1割程度の損害を受けていた。

生き残った兵士達も疲労のためか、当初の機敏な動きが失われつつあった。

一旦速度を落として一旦兵士達の息が整うのを待つべきか、と孫堅は一瞬悩み、すぐに破棄した。

時間をかければ袁紹側が迎撃態勢を整える。

なにを焦ったのか、陣形を無視した攻撃を仕掛けようとした今を逃す訳にはいかない。

そう思い、前方を見やった孫堅の目に1人の武将の姿が映った。

 

その瞬間、孫堅は自分が総毛立っている事を自覚した。

弓を引いているその背後には呂の旗が掲げられている。

 

「雪蓮、避けろ!」

 

とっさに孫堅は隣を並走していた孫策を突き飛ばした。

手加減一つなく突き飛ばされた孫策は悲鳴を上げる間もなく落馬する。

それが孫堅の見た最期の光景であった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

時は少し遡る。

袁紹軍に全軍前進の命令が下った時、陳宮は袁紹の元へと馬を進めていた。

 

呂布や張遼率いる并州の騎兵たち及び劉備率いる兵士達は袁紹軍中央の後詰めとして配置されていた。

この様な配置になったのは端的に言えば友若に対する嫌がらせである。

更に、友若がその嫌がらせをあっさり認めたためであった。

 

友若は冀州に味方した群雄諸侯の中でも明らかに劉備、そして関羽の推薦があってからは呂布達を特別扱いしていた。

寄らば大樹、三国志の覇者に擦り寄るのは弱者として当然の行為だと友若は思っている。

しかし、友若の同僚達は転生チート知識の基づくとっぴな考えなど理解できるわけがない。

 

この時点で劉備の戦功は小規模な異民族を倍以上の兵力で撃退したという程度である。

辺境の軍人として比較すれば然程のものでもはない。

異民族との交易を推し進めることで幽州の安定を達成したといった功績は殆ど評価されていなかった。

この時代、漢帝国は国是として異民族を対等な相手と認めていなかったため、異民族と講和することは評価されにくかったのである。

何れにしても、劉備以上の戦功を上げた軍人は他に幾らでもいた。

 

友若が周囲に劉備を特別扱いする理由を説明できないことも良くなかった。

同僚達は友若が劉備の色香に惑わされたと考えた。

友若が劉備に対して行った口説き文句と捉えることが可能な言動は彼らの判断を後押しした。

何としてでも未来の覇王の機嫌をとって置かなければ、と考えたが故の行動だったのだが。

ともかく、友若の事を嫌う豪族勢力及び名士勢力、友若が劉備になびくことを恐れた田豊勢力、個人的理由から劉備を敵視する審配らが劉備に戦功を上げさせないように後方へと追いやった。

友若もそれほど強く反対しなかった。

劉備が本陣の近くにいれば、万一――と言っても友若は十分ありうることだと恐れていたが――曹操や孫堅が迫ってきても対抗できる、と考えたからだ。

曹操と孫堅がそれぞれどこに配置されるかわからない以上、柔軟に対応できる中央付近に劉備を配置しておくべきと友若は考えていた。

その配置はどう考えてもただの遊兵になるだけですと友若に突っ込むものはいなかった。

 

呂布と張遼は劉備の後方配置のとばっちりである。

関羽が両将軍を評価したことで、友若は彼女達も特別扱いをしていた。

さらに、呂布と張遼が実力の関係上、訓練の相手として劉備配下の関羽や張飛、趙雲ばかりを選んでいた。

そのため、袁紹の配下達は呂布や張遼を劉備と同じ勢力のように考えていた。

一応、呂布と張遼は異民族討伐で多大な功績を上げており、天下無双とすら謳われていた。

だが、審配らが呂布と張遼を前方に配置しない様積極的に進言した事や、豪族や名士達の友若憎しという感情、付き合いの少ない董卓への不信感等が相まって、呂布と張遼を本陣の後ろに配置する事になった。

友若は関羽も認める武人が本陣近くにいればより安全だよね、と思っていた。

豚に真珠とはこの事である。

三国志ファンが激怒したとしてもおかしくない。

当然、この決定に張遼や陳宮は強く反対した。

 

「うちらが率いているのは騎兵や! こんな場所じゃあうちらの戦い方ができへんやろが! なに考えとるんや、あんたらは!」

「そうです! 天下無双の武人である恋殿をこんな場所に配置するとは何を考えているのですか!? 騎兵というものは十分な速度を持ってこそ無敵の力を発揮するのですぞ!」

 

だが、天下無双を遊兵にしてどうするんだ、と言う彼女たちの言葉に友若は答えた。

 

「もう決まったことだから」

 

呂布や張遼の武を考慮に入れないとしても、騎兵を動きの取れない本陣後ろに配置することは馬鹿げている。

だが、友若は一度決められた決定を覆すための手間を惜しんだ。

そもそも、友若は官軍に勝とうと思っていない。

自分と袁紹達の命を護るためにはこの布陣が良い、とすら友若は考えていた。

 

「何を言っているのですか! お前は袁紹の軍師なのでしょうが!? 天下無双の呂布を戦わせることすらしないこの滅茶苦茶を容認するというのですか!」

 

当然ながら陳宮は猛り狂った。

だが、どうしようもなかった。

 

「~っ!! 思い出すと腹が立つのです!」

 

それ以来、友若の朴然とした返答を思い出す度にイライラしてしょうがない陳宮。

行き先を思うと少し気が滅入った。

それでも、陳宮は并州の代表として、呂布の軍師として職務を放棄するつもりはなかった。

袁紹の援軍として冀州へ向かうに当たり、陳宮は賈駆から命令を受けた。

 

「いい? 今後のことを考えればボク達はこの戦いで存在感を示さなければならないわ。袁紹が勝った場合はそこで存在感を示して置かなければ埋もれかねないわ。そして、万一朝廷が勝った場合、ボク達は犠牲を覚悟しなければ倒せない相手であると認められなければ返す刀で切り捨てられない……まあ、幽州が味方に付いた以上、そう負け越すことはないでしょうけれど」

 

呂布とともに冀州へ向かおうと準備をしていた陳宮を自室に呼んだ賈駆が言う。

 

「本来だったら勝利に万全を期すために万を超す援軍を送るつもりだったのだけど。昔なら余程の事態でもない限りそんなことできなかったけど、異民族が大人しくなった今なら余剰戦力はあるしね」

「その通りなのです」

 

賈駆の言葉に陳宮は同意した。

いくら呂布が強いといっても万軍を制圧するには数がいる。

并州の騎馬隊は官軍と戦う際に力になるはずだった。

そして、騎馬隊を送るだけの余裕が并州にはあった。

 

かつて并州は異民族の略奪が横行していた。

農業などまともに出来るわけがない。

兵士くらいしかまともな仕事がなかった。

兵士戦わなければ生き抜くだけの稼ぎを得ることさえできない。

異民族とて貧しかった。

彼らは奪わなければ飢えて死ぬ。

だからこそ犠牲を省みず并州を襲った。

并州において漢民族と異民族は血みどろの争いを繰り広げていた。

だが、冀州から資金が流入するようになったことで状況は変化した。

その頃たまたま毛皮に凝っていた袁紹の買い占めもあり、并州に莫大な貨幣が流れ込んだ。

漢民族も異民族も戦うことなく生きていく道が開けたのである。

そして、長きに渡る戦いに嫌気が差していた両者は平和を選択した。

戦争によって利益を得ていた官吏達は賈駆の示した商売の利に惹かれかつての権益を手放した。

并州はかつてと比べて信じられないほど平和になった。

そのため、并州は多くの兵を派兵できるのである。

しかし、それは不可となった。

 

「ただ、あのアホがそれを認めない以上、最善の策は採れないわ……」

 

董卓の大規模な援軍を友若は断固として拒んだ。

袁紹の兵のみで官軍に勝てると友若は思っているのだろう、と賈駆は判断した。

 

「あのアホには言いたいことが幾らでもあるけど、それをしていたらいくら時間があっても足りないわね……ともかく、次善の策として呂布張遼に精鋭2千を付けて送る。2人がいれば袁紹にとって大きな力になるわ。袁紹としても武名を馳せた呂布と張遼が一時的とはいえ配下になることに満足するでしょうしね」

「当然です」

 

賈駆の言葉に陳宮は強く同意した。

呂布……と張遼は単騎で千どころか万の兵に匹敵すると陳宮は信じた。

当然、呂布と張遼の武勇を耳にしているだろう袁紹も十分な待遇で持って迎えられるであろうと陳宮は思っていた。

 

「だから、絶対に戦功を上げなさい」

「もちろんです」

 

賈駆に自信満々で答えた陳宮。

古来より、援軍や傭兵というものは最も苦しい場所に配置されることが多い。

軍を率いるものにしてみれば自らの手勢の消耗は可能な限り抑えたいものだからだ。

武名名高い呂布と張遼であれば最前列での戦いを強いられることもあるだろうと陳宮は思っていた。

そして、そうなったとしても問題ないと賈駆も陳宮も考えていた。

かつて并州で体験した地獄のような戦場に比べれば大したものではないと。

だが、まさか本陣の後ろというどうしようもない場所に配置されることになるとは想像もしていなかった。

 

「恋殿を後詰めとか絶対おかしいのです! 袁紹と荀シン、あいつら頭がおかしいのではないですか?」

 

袁紹と友若の正気を疑い、頭痛すら覚える陳宮。

冀州を発展させ、辺境を平和へと導いたのは袁紹と友若の才覚によるものが大きい、と陳宮は判断している。

だが、これまでの言動を見る限り、両者が軍事に対して造詣が深いとは思えない陳宮だった。

 

「まあ、いいのです。あの様子ならば、戦場において恋殿の武が必要になるのは間違いないのですから」

 

陳宮はお花畑思考回路の袁紹軍が苦戦を強いられるに違いないと判断した。

軍事訓練を視察した陳宮は袁紹の私兵3万が精鋭である事を知っている。

だが、それを率いる人物がいまいちぱっとしない文醜である以上、そう簡単に勝利を得ることはできない、と陳宮は思っていた。

 

だが、袁紹軍は予想をはるかに超えて優位に立っている。

圧倒的な数の弩と矢を揃えることで、一方的に損害を出しているのは官軍であった。

并州での友若の言動も合わせれば、陳宮は袁紹に嘲笑われている錯覚さえ覚えた。

呂布や張遼の武威等大したものではない、と言われている気がしたのだ。

そんなことはない、呂布の武は天下無双であると陳宮は心の中で叫ぶ。

 

「とは言え、このままではいくら恋殿でも戦功を上げることなど不可能なのです」

 

だからこそ、陳宮は袁紹に直訴しに馬を進める。

友軍の不幸を幸いと言うのは不謹慎に過ぎるが、孫堅が袁紹軍右翼を荒らして回っていた。

これを討ち取れば、袁紹軍では手も足も出なかった相手を呂布と張遼が蹴散らしたということで大きな名声を得ることが出来るだろう。

 

――圧倒的な武を前に弩をいくら射っても無駄なのです。恋殿ならば右翼だけでなく中央まで粉砕してのけますぞ。

 

心の中で、呂布であればそのまま袁紹軍を粉砕してみせる、と呟いて、先程傷つけられた自尊心の回復を図る陳宮。

そんな陳宮に袁紹本陣を守っている兵士が声をかけた。

本陣の天幕からは人間の出す慌ただしい動きの音が聞こえる。

孫堅軍に対する対策を決めるべく動き出した可能性もある。

出遅れた可能性を陳宮は恐れた。

 

「そこで止まれ! 貴様は何者だ!」

「并州義勇軍呂奉先飛将軍が軍師陳広台。袁冀州州牧に申し上げたき事があり、推参したのです」

「そこで待っていろ」

 

見張りの兵士は陳宮に待機を命じると天幕の中に入っていった。

時間を置くことなく、天幕から大人数が進み出てきた。

袁紹もその集団に含まれている。

 

「袁州牧殿!」

 

陳宮が声をかける。

袁紹が振り向いた。

 

「なんですの? 私はこれから全軍前進の号を発する準備で忙しいのですわ」

 

袁紹がこのタイミングで全軍を動かそうとしている事に陳宮は内心で驚いた。

右翼を除けば官軍を圧倒している状況を袁紹の側から変化させるとは思いもしなかったからだ。

しかし、後方に配置されていた陳宮と異なり袁紹はより多くの情報を握っている。

陳宮達の知り得ない情報を元に袁紹は攻勢をかけることを判断したのだろうと判断した。

どの道、陳宮の目的は一つである。

 

「右翼で暴れている孫堅撃滅を呂布率いる騎馬隊に任せて貰いたいのです」

「……右翼? ああ、孫堅とか言う成り上がりのことですわね。よろしいですわ。私に代わりあの跳ねっ返り共を叩きのめしてしまいなさい」

「なっ!?」

 

袁紹の言葉に陳宮は一瞬圧倒された。

右翼で暴れている孫堅軍などまるで敵ではないという態度であった。

心の底から孫堅を大した存在ではないと思っているかの様だった。

遠目に見て孫堅の動きは抜きん出ているにも関わらずである。

袁紹が個人の武など大した存在ではないと言外に述べているようにすら陳宮は感じた。

 

陳宮は戦慄を感じた。

株式等奇抜な政策を次々採用し冀州を漢帝国で最も豊かな土地へと発展させた稀代の政治家、袁紹。

ただ運がいいだけ、荀シンがいたからこそ、本人は大したことをしていない、等といった袁紹を貶す類の噂もある。

しかし、陳宮は袁紹を侮るつもりはなかった。

運がいいとか、部下に恵まれた等という程度で冀州の発展が成し遂げられたとは思わないからだ。

 

――これが袁紹本初っ!!

 

決して侮って良い相手ではない、と陳宮は判断した。

それでも、呂布の軍師としての誇りが陳宮に後退を許さない。

 

「感謝するのです、袁州牧殿。呂布の武が孫堅を打ち破る所をご欄になるのです!」

 

陳宮は胸を張った。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

前進の合図に袁紹私兵の精鋭達は不敵に笑った。

 

「官軍の連中、俺達に近づけば何とかなるとでも思っていそうだな」

「その思いあがりを正してあげなくちゃね」

「新参者は当てにならんから、我々だけで官軍を打ち倒さなければならんな」

 

軽口を叩き合う兵士達。

賊の討伐に度々駆りだされている彼らにしてみれば、『真弩』を持って的に突撃するというのは日常的な戦闘方法だ。曲射による遠距離、突きによる近距離、そして中距離と距離を選ばないのが袁紹軍私兵の持つ弩の最大の強みであった。

袁紹の私兵3万は、自慢の槍兵が全て弩兵になってしまい鬱憤が溜まっていた文醜に散々弩を使った白兵戦を仕込まれている。

槍と比べてどうしても違和感の拭えない文醜は常々愚痴をこぼしていたが。

 

「打ち方やめろ! 青部隊は矢の装填を急げ!」

 

袁紹軍精鋭を指揮する文醜が叫ぶ。

小隊の隊長がその命令を復唱した。

絶え間なく射たれていた矢が止まる。

青い鎧に身を包んだ兵士達が巻き上げ機を使って弓を引き上げる。

白兵戦では矢の装填をする時間がない。

必然、矢を打てるのは一度だけになる。

それでも、矢を装填してあるのとないのでは大きな違いがある。

 

「青参隊、全員装填完了しました!」

「青伍隊、同上です!」

 

小隊から次々と準備完了の報が文醜に伝えられる。

全ての小隊から装填準備完了の報を受け取った文醜は叫んだ。

 

「よーし、全隊、あたいに続けー!!!」

 

中央に配置された弩兵が一斉に駆け出した。

両脇の弩兵も遅ればせながらそれに続く。

対する官軍は矢によって倒れた兵士達の穴をふさぐように密集陣形を取り、隙間なく槍を構えた。

両者の距離は急速に縮まりつつあった。

官軍の付き出した槍と距離が十歩ほどまで縮まった時、袁紹精鋭は一斉に歩みを止めた。

 

「白偶の隊、矢を放て!」

 

袁紹側の行動に慌てて前進を開始しようとする官軍。

しかし、その槍が袁将軍に届くよりも前に矢が一斉に放たれた。

至近距離から放たれた矢の多くは最前列の兵士達の体を貫き、その背後の兵士達に突き刺さって止まる。

官軍の前衛は大きく崩れた。

 

「槍を構えろ! 陣形を崩す――っ!」

「よーし、いいぞお前ら! 突撃いいぃぃぃ!」

 

陣形を崩す官軍を統制しようと指示を飛ばす指揮官を弩で射殺した袁紹軍精鋭は一斉に突撃を開始した。

 

「くそっ! 槍がっ!?」

 

官軍の兵士達は悲鳴を上げた。

槍先が弩の弦に弾かれるのである。

自慢の連弩を馬鹿にされた友若が、兎に角威力が高ければ満足なんだろう、と言って作った『真弩』。

高い張力を達成するために重量やサイズ等の使いやすさが犠牲にされている。

ただ、部材に鉄を組み込んで剛性を高められた『真弩』は極めて頑丈だった。

重量差もあり、袁紹軍の弩は官軍の槍を弾き飛ばしていく。

訓練の不十分な兵士にしてみれば『真弩』で白兵戦をすることは難しい。

だが、鍛えあげられた兵士がこの弩を使うとき、その突撃力は凄まじい威力を示した。

個々では太刀打ち出来ないと認識した官軍側は何とか密集陣形を立てなおそうとするが、その度に矢の一斉掃射を受けて瓦解していく。

 

「距離があった時と違って連中は矢の装填ができない! 兎に角陣形を整えろ!」

 

官軍を励まそうと指揮官が声を上げる。

陣形さえ組むことが出来れば、と官軍側の指揮官は考える。

同じ陣形の白兵戦ならば、リーチで優位に立つ槍兵の方が有利となるだろう

そして、袁紹軍の矢による撹乱はこの状況において手数に限りがある。

更に、白兵戦で官軍側が陣形を食い破られているのは中央のみであった。

袁紹軍中央の突破力があまりにも高かったためにそうなったのだ。

一方、中央に対して袁紹軍の両翼は動きが遅い。

特に孫堅軍が暴れていた右翼は未だに混乱しているのか前進の速度が遅かった。

見方を変えれば、中央の部隊が突出した形になっている。

官軍側は両脇を固める豪族たちに中央への援軍を要請。

豪族たちの部隊が動けば、寡兵を包囲殲滅し各個撃破が可能となる。

最大戦力であるはずの中央さえ打ち破れば、袁紹軍の士気も大いに下がるはずである。

袁紹側の中央の猛攻を耐えしのげば、先程までの絶望的な状況から一転して勝利を掴み取れるはずであった。

だが、この時、中央官軍を圧倒していたのは袁紹軍であった。

そのため、官軍側の指揮官達は必死に味方を鼓舞して回る。

 

「両翼は何をやっている! 遅すぎるぞ!」

 

官軍中央の兵士達は何とか袁紹軍を止めようと必死に戦い続けた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「うーん。拙いですねえ」

 

張勲はそう呟いた。

視線の先には袁紹軍に圧倒されて後退する官軍の様子があった。

 

「弩兵に白兵戦で押されるほど官軍が弱いなんて完全に予想外ですぅ! 美羽様の所まで矢が飛んできましたし。まったく。美羽様に当たりでもしたらどうするんでしょうか。袁本初様にはもっとそこら辺を考えて貰いたいものです!」

 

頬を膨らませて文句を言う張勲。

目下の所、袁術軍は戦闘に参加していないが、戦場にあって驚くほど呑気な言葉だった。

 

「な、七乃~、妾はもう帰るのじゃ。ううう~」

「か、可愛いいい! な、七乃はもう死んでもいいかもしれません! こんな可愛い美羽様が見られるなんて! 袁本初様もいい仕事しますね! ありがとうございます! ありがとうございます!」

 

絶え間なく降り注ぐ矢に危険を感じた袁術は張勲の馬に乗り、顔を張勲の背中に押し付けていた。

小動物のようにビクビク怯えながら、怖いものから目を背けることで恐怖に耐えようとしている袁術。

張勲はいっぱいいっぱいだった。

ついつい本音が口から漏れる。

……いつもの事だったが。

 

「な、七乃、聞いておるのか! さ、さっさと帰る準備をせんか!」

「んーっと……」

 

怯えつつも、強気な様子で張勲を詰問する袁術。

新たな一面を発揮している袁術。

その存在以外の物事に思考を割くことを勿体無いと感じる張勲だった。

だが、張勲はそろそろ色々考えなければ拙いと判断し、嫌々ながらこの戦いについて思案する。

 

――『袁本初様相手に逃げてもいいのですか』という美羽様必殺の言葉もだんだん効き目が無くなって来ましたし、そろそろどうするか決めなければいけませんね。

――この可愛い美羽様を何時までも見ていたい気もしますが、あんまり怖がらせるのは良くないですし。

 

張勲はざっと袁術にとってのこの戦いの意義を吟味した。

袁術勢力が袁紹討伐に参加した理由の一つは袁術本人の袁紹に対する感情である。

 

「妾の兵士達よ! 麗羽のやつをボコボコにしてやるのじゃー! 妾は、はちみつ水を飲みながら応援しておるのじゃ!」

 

戦いの前に元気よく兵士達に発破(?)をかけていた袁術の勇士を思い出すだけで張勲は色々と滾ってくる。

 

――っ! おっと、いけません、いけません。本当に残念ですが、美羽様とは関係のない雑事を先に済ませておきませんと。

 

袁術の個人的な感情以外にも袁術勢力が袁紹討伐に参戦した理由がある。

朝廷に対して袁術の存在感を示しておかねばならないという政治的な要求である。

袁術の姉である袁紹が逆賊として指定されたことで袁術は微妙な立場に立たされた。

名目としては反逆者の一族であり、通常ならば連座されてもおかしくはない。

だが、朝廷も流石に漢帝国最高の名家たる袁家全体を敵に回す事はできなかった。

そのため、荀シンを主犯として身代わりにすることでその罪を袁紹に限定するものとした。

しかし、袁紹がこの様な事態になった以上、今後袁家への風当たりが強くなることが予想された。

ただ座視していれば、袁紹討伐後に今度は袁術が槍玉に上がる可能性も否定出来ない。

 

だから、張勲は袁術、袁家の庇護下にある豪族達をまとめあげ、袁紹討伐に総勢5万もの兵力を持って参戦した。

朝廷に対して袁術はこれだけの兵を用意する能力があると示すことで、袁術への手出しを牽制する事が狙いであった。

つまり、参戦した段階で張勲がこの戦いに参加した目的は既に達成されているのだ。

後は、袁術が満足するまで戦った振りをして適当に流せば良いと張勲は思っていた。

朝廷が信用出来ない以上、袁術の手勢をこんな戦いで消耗させるつもりは張勲にはなかった。

理想としては袁紹勢力と官軍が良い感じに潰し合う状況である。

袁紹と朝廷の両者が互いに消耗した頃合いを見計らって、仲介を行えば袁術の名声も高まるだろう。

残念ながら戦況は袁紹勢力の一方的な優位で進行している。

それでも、朝廷が一方的に勝つよりはましだ、と張勲は考える。

袁術の名声を高める機会が手に入らないのは残念だが、これで朝廷に対する袁家の権勢は他の追随を許さないものになるだろう。

それはつまり、袁紹に加えて、袁家の正統後継者を自負する袁術の権勢が増すことを意味している。

張勲は、袁紹が勝利した場合の袁術の処遇については欠片も心配していない。

何だかんだで優柔不断で身内に甘い袁紹が袁術に手をかけるわけがないと張勲は思っている。

もちろん、討伐軍に参戦した袁術を袁紹は快く思うことはないだろう。

 

――でも、美羽様がごめんなさいって言えば袁本初様なら一発で許しちゃいますよねー。美羽様の可愛らしさに勝てるわけなんてないんですからー! きゃー、美羽様、傾城傾国の可愛らしさですぅ!

 

雑事を考え続ける事に限界を迎えた張勲。

思考は袁術の可愛らしさへとそれていく。

一応、この時官軍からは応援要請が入っていたのだが。

 

「んー、つまりもう帰ってもいいってことでしょうか?」

「もう帰るのじゃー、クスッ、七乃ぉ、さっきから妾は何度も言うておろうが」

「か、可愛い過ぎますぅ!」

 

――敵前逃亡の事を問題視されたら孫堅さんに罪を押し付ければいいですしね。

――待機命令を無視した上に相手の攻撃を許しちゃあだめですよーって。

 

張勲は状況的に孫堅に責任を擦り付けられそうだと判断し、すぐさま退却の指示を出した。

端からやる気のなかった袁術率いる4万の兵は素早く退却を始めた。

袁紹軍からひょろい矢を打ち込まれた以外何もしていないのに、である。

お前ら何しに来たんだ、と周囲の兵士達は心の中で突っ込んだ。

 

突如として撤退を開始した袁術。

官軍左翼の4万の兵力がいきなり消えた影響は大きかった。

この様子を見ていた官軍右翼に配置されていた豪族たちも戦意を喪失し、次々と撤退を開始。

空白地帯となった両翼を前進していく袁紹軍に中央の官軍精鋭も総崩れとなった。

 

「袁術め……」

 

陣形を維持できず、潰走を始めつつある官軍を見ながら皇甫嵩は呟いた。

早速勝利など不可能だ。

官軍の圧倒的敗北。

それは皇帝の権勢失墜を意味していた。

 

「撤退だ! 撤退しろ! 殿は私が務める! 前兵を撤退させろ!」

 

目を閉じ、開いた皇甫嵩は命令を下す。

官軍はまだ壊滅してはいない。

壊滅していない以上、まだ足掻く余地があった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

呂布は弓を引いた。

顎を噛み締め、全身全霊を込めて。

巨大な弓である。

一個の鉄塊を熱し、叩き、その繰り返しの果てに造形された弓。

神話を再現したような黒塗りの弓は見る者を圧倒させる。

その弦と矢もまた鉄により構成されている。

引き絞られた弦はその力が開放されるのを今か今かと待ちわびていた。

 

呂布達一行は一ヶ月近く、冀州に滞在した。

その間、袁紹の抱える私兵精鋭や、同じく辺境から義勇兵を引き連れて袁紹側に参戦した劉備達等を相手してに訓練を行なっていた。

訓練では剣や槍、戟、弓等の実戦で使用する武器を使う。

使えば武器は消耗する。

当然、整備が必要となる。

自分達で整備できる箇所は自分達で対処するが、歪んだ剣や槍を叩きなおしたり金具の交換には専門の技術者が必要となる。

そこで、配下の兵士達の武器の消耗が目立ってきた頃、呂布達は袁紹配下の鍛冶師の元を訪れた。

 

「凄いもんやな。并州とはえらい違いや」

 

張遼が感心の声を上げた。

并州のちっぽけな鍛冶場と比べ、冀州のそれは全くの別物だった。

まず、大きさが違う。

無数の炉が並んでおり、それぞれの炉では無数の鍛冶職人が金槌で熱された鉄を叩いて加工していた。

その大半は弩の部品である様だ、と張遼は判断する。

 

「どんだけの弩を作っとるんや?」

「今は月に5千程。これでも冀州最大の鍛冶場だ。もっとも、普段はそんなに作っちゃいないがね」

 

そう言って鍛冶職人が笑う。

馬鈞と名乗った若い女性は、自分が武器の修繕の面倒を見ると言った。

 

「普段はもっと暇しているんだがね。生憎、今は忙しくてね。何しろ、なるべく早急に弩を7千納めろと発破をかけられている。しかも、普段はやっていない細かい組立まで要求されているんだ。みんなてんてこ舞いだよ」

「そういうあんたは気楽そうやな」

「何、さっきまで死にそうだったよ。ちょうど骨休めに良さそうな依頼が来たからこれ幸いにと抜けだしたのさ」

 

張遼の言葉に馬鈞は楽しそうに笑った。

 

「……あれは?」

 

張遼と馬鈞の会話に何の興味も示さずに静かにしていた呂布が突然問を発した。

呂布の指の先には黒塗りの巨大な弓が鎮座していた。

 

「あ、ああ……あれにはあんまり触れないでほしいなあ。連弩と並んでちょっと思い出したくない仕事なんだ」

「弓なんか?」

 

顔を若干引きつらせる馬鈞に張遼が尋ねる。

恨めしそうに張遼を見やった馬鈞はため息を付いて話しだした。

 

「あれは私が作ったものさ。最強の弓を作れと袁州牧に言われてね。弓の強さっていうのは、まあ言ってみれば弦の張りがどのくらい強いかで決まる。鉄で弓を作り弦にも鉄を用いれば、最強の張りを持ったせることが出来る、と簡単に考えた昔の私はこの弓を作ったんだよ。連弩の開発で弱い弓を作ることに嫌気が差していたってのもあったしね。ただ、――」

 

馬鈞は首を振った。

 

「ただ、結果としてこの弓を引ける者は誰もいなかった。引ける人間がいない弓なんてものは何の役にも立たない。威力がなくてもまだ連弩の方がましだった。最前列で戦う勇者たちの武器を私達鍛冶職人は作っているんだ。当然、武器って言うものは役に立たないと意味が無い。まあ、いい戒めだよ。今でもあそこにおいて、あれを見る度に自分の失敗を思い出すようにしているんだ。って、おい!」

「ん」

 

馬鈞の言葉を途中から聞き流した呂布は、台の上に鎮座した弓に無造作に近づくと、片手で掴んで持ち上げた。

 

「んな!? 大の大人が数人がかりで持ち上げる重さだぞ」

「恋殿ならば当然なのです!」

 

外野の声を聞き流して、呂布は弓を構えるとゆっくりと弦を引いた。

 

「お、おい……私は夢でも見ているのか?」

 

呆然とした様子の馬鈞が呟く。

陳宮が親切心を発揮して馬鈞の頬を抓る。

夢でもなんでもなく、呂布は巨大な弓を引いていた。

腕の限界まで引いた呂布は手を離すことなくゆっくりと弦を戻した。

 

「……」

「これ、ちょうだい」

「……え? あ、ああ。構わないさ。やはり、武器は使われてこそだからな。あんた以外にこれが使える人間なんて早々いないだろうし、構わないよ……しかし、まさかこの弓を使える者がいるなんてな」

 

馬鈞は呆然と呟いた。

 

そんな経緯で手に入れた大弓を呂布は引いていた。

矢もまた全てを鉄で作られている。

時間を置かずに袁紹軍右翼が横に割れた。

食い破るようにして右翼を飛び出し、袁紹軍中央へと向かう孫堅軍。

その先頭を走る騎兵に呂布は狙いを定めた。

 

放たれた弓は音すら追い越し、一瞬で孫堅に迫った。

孫堅の上半身を吹き飛ばした矢は勢いを減ずることなく、後ろの孫呉の兵達を突き抜けて地面に刺さって周囲の土をえぐり飛ばした。

空気を切り裂いた矢の轟音が兵士達の鼓膜を叩く。

矢の発射と同時に呂布の足元は爆発したように土を巻き上げた。

反動を支えきれずに呂布の足元がえぐり取られる。

音を超える自身の速度に耐えられなかった弓の弦が真ん中から千切れている。

何とか体を静止させた呂布は地面に大弓を突き立てた。そして、その横に突き立てられていた方天画戟を手に取る。

眼下では張遼率いる騎馬隊千が指揮官を失い混乱状態にある孫堅軍に襲いかかっていた。

孫堅の突然の死が理解できないのか、超音速の矢の威力に愕然としたのか、迎え撃つ体制を整えることもできない孫堅軍を張遼達が蹴散らしていく。

 

「皆の者、張将軍に続くのです!」

「突撃……」

 

勇ましく声を上げる陳宮。小さく呟く呂布。

呂布直属の精鋭騎馬隊が動き出した。

 

「敵は頭を失った烏合の衆! 呂布の前に立つということがどういうことなのか教えてやるのです!」

 

正史では孫権のトラウマになった張遼に続き、三国志最強の武、呂布が孫堅を失い呆然としている孫堅軍に襲いかかった。

それでも、孫堅軍はよく戦った。

 

「ッ!! 撤退ッ!!」

「孫伯符様を守れ!」

 

袁紹軍に完全に包囲された形になり、援軍もなく、精神的支柱であった孫堅を一瞬で射殺され、張遼と呂布の騎馬隊に蹂躙されたにも関わらず、孫呉の兵士達は勇敢だった。

結果を見れば、間違いなく孫呉の兵士達は最善を尽くしたと言える。

 

孫策を含む100名余りが生還に成功したのだから。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「申し上げます! 呂飛将軍が孫堅を討ち取った模様です!」

「いや、誤報とかいらないから。そんなことより前進を急がせろ」

 

伝令の言葉に友若はそう言葉を返した。

三国志の覇者が死亡とかそんな訳ないだろう、と友若は考えた。

もちろん、それが真実であるならそれに越したことはない。

だが、希望的観測を信じることの危険を友若は身にしみて知っていた。

袁紹軍の討伐隊が動き出してから今の今まで曹操や孫堅は友若の想像を常に上回り続けていた。

いくら三国志の覇者でもそう簡単に要塞を陥落させることなどできないだろうという予測は曹操に崩され、矢を射ち続けていれば近づくことはできないだろうという予想は孫堅に覆された。

呂布や張遼が多少強いからといっても、そもそも率いる兵力が違う。

孫堅があっさり討ち死にするなど信じられるわけがない、と思う友若。

そんな偽報に踊らされるよりも、今は兎に角逃げることだけを考えるべきだと友若は考えた。

 

何しろ、劉備軍の動きが若干不穏なのだ。

友若は劉備軍に孫堅軍の動きを伝えた上で最善をつくすようにとフリーハンドを渡したが、後方の劉備軍は何故か孫堅軍の方に動こうとしない。

劉備は何やっているんだよ、と心の中で文句をいう友若。

まさか、裏切るつもりじゃあないか、という最悪の想像が脳裏をよぎる。

実際、背後から攻撃をかけられれば袁紹軍は壊滅するだろう。

だからこそ、友若は一秒でも速く官軍中央を破って逃げ出したかった。

 

幸いにして曹操の旗は官軍右翼後方に翻ったままだ。

孫堅の討ち死には誤報としても、呂布達が上手く時間を稼いでいるのか孫堅軍の動きは止まっている。

背後の劉備軍もまだ動きは見せていない。

今なら逃げ切れるに違いない、と思う友若。

問題は中央官軍の粘りだった。

さっさと退けよ、俺達は逃げないと行けないんだよ、等と友若は内心で叫び声を上げる。

 

「報告します! 敵が退却を始めております! 官軍右方向……袁術の旗が後退を始めています!」

「なんだと!」

 

友若の願いが天に通じたのか、袁術軍、つまり官軍の右手が全面的な後退を始めた。

奇跡だ、奇跡に違いない、と友若は呟いた。

思わず普段は信じてもいない神や仏に祈る。

 

「麗羽様!」

 

顔良が袁紹に馬を寄せて、喧騒に負けじと叫んだ。

 

「なんですの!?」

「勝鬨を!」

「何を言っているのです!?」

 

顔良の言葉に袁紹は意味が分からないと叫び返す。

田豊が進み出た。

 

「麗羽様! 敵は左翼の突然の退却に驚いております! 今ここで我らが勝鬨を上げれば、敵は大いに我らを畏れるでしょう!」

「なるほど! 斗詩さん、始めからそう言いなさい!」

「は、はいぃ!」

 

田豊の言葉に顔良の意図を理解したらしい袁紹。

取り敢えず袁紹は顔良を叱りつけると、声高らかに叫んだ。

 

「皆さん! 華麗に勝利の叫びを上げなさい! 天下にこの袁本初と宦官の犬共のどちらに正義があるかを知らしめるのですわ!」

「「「「うおおおおおおおぉぉぉ!!!」」」

 

天を衝く叫び声が上がり、広がっていく。

袁紹軍はこれに大いに奮起し、官軍は大いに動揺した。

両翼の弩兵が隊列を立てなおして中央の官軍を射ると、もはや袁紹軍に抵抗できる者は居ないかのように思われた。

 

――もしかして……勝てる?

 

友若は目の前の光景が信じられなかった。

しかし、少し前まで猛威を振るっていた孫堅軍はもはや見る影もなく、袁紹軍が官軍中央を壊滅させつつある。

曹操の旗が未だに動いていないことは気がかりだが、流石にいくら曹操がバケモノだとしても1万の兵で20万近い袁紹軍を打ち破れるとは思えない。

そうなると、論理的帰結として袁紹軍は勝っているということになる。

おかしすぎる、異常事態だ、と友若は思う。

しかし、手元に入ってくる情報は友軍の勝利を告げるものばかりだ。

先程まで苦戦していた右翼からも続々と敵を撃滅したという報告が上がってくる。

 

――いやいや、油断するな。何よりも今は中央を破って逃げ道を確保することが先決だ!

 

友若は馬の手綱を引いて馬の歩みを遅くすると、前を見定めた。

懐から望遠鏡を取り出して官軍の様子を見る。

中央官軍は必死の抵抗を見せているが、陣形が崩壊している。

袁紹軍が官軍を破るのも時間の問題だろう。

 

――助かった……

 

万感の思いとともに心の中で呟いた友若。

官軍中央を抜いた以上、さしもの曹操と言えども退却を選択するだろう。

仮に攻めてきたとしても、逃げ出した官軍を追いかけるふりをしながら逃げることが可能だ。

 

その時、友若の視界の横に白い線が走った。

慌ててそちらを見やると、袁紹軍に向かって駆けて来る騎兵隊の後方から白い煙が上空に上がっていた。

兵士達の叫び声。馬の鳴き声。

戦場の無数の音に混じって破裂音が友若の耳に届いた。

 

「そ……ま、まさか……」

 

掠れた声を友若は上げた。

それと似たものを友若は知識として知っている。

転生チート知識として、友若はその煙が意味するものに心当たりがあった。

だが、そんな訳がないと友若は思った。

あっていい訳がないと。

 

不意に上空に影が過ぎった。

影に追随する煙の軌跡は放物線を描いている。

袁紹軍の数カ所でほぼ同時に爆発が発生した。

轟音を上げ、土と兵士達を吹き飛ばし巻き上げる。

大音量に驚いた馬が暴れ、呆然としていた友若は抵抗もできずに落馬した。

背中から地面に叩きつけられた友若は一瞬意識が飛んだ。

呼吸にも苦しさを感じる。

 

「あ、あ……ああああっ!!」

 

友若の口から声にならない声が漏れた。

諦めが。

苦しさが。

絶望が。

それら全ての感情が相混ぜになった声だった。

 

「あああっ! ……ふ、ふ、ふざっ!」

 

――巫山戯んな! こんな三国志があってたまるか!

 

恐怖はやがて憤怒へと変化した。

内心で怒りの声を発する友若。

 

――誰だ! 曹操に銃火器なんて物を渡した奴は!

 

落馬した友若を助けようと兵士や同僚が駆け寄って来た。

残念ながら彼らは鏡を持っていなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

硝煙立ち込める戦場を切り裂くように曹操軍が駆け抜ける。

 

「雑魚は捨ておけ! 狙いはただひとつ! 袁紹の首だ!」

 

曹操は高らかに叫んだ。

 




――三国志がログアウトしました。
孫呉ファンの方々、ごめんなさい。
次で戦争編、最後になるといいなあ。
(※当初は2話の予定でした)


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ヘェーラロロォールノォーノナーァオオォー

誤差の範囲ですが、今回少しだけ長めな気がします。
(25kも超えていません。短いです)


莫大な数の矢を用意していた袁紹軍。

一介の義勇兵でしかない劉備たちに詳しい作戦は伝えられなかったが、諸葛亮は現状で知ることのできる情報から袁紹軍の作戦を推測していた。

諸葛亮の推測によると、袁紹軍の布陣はただの背水の陣ではない。

戦いが始まる前、諸葛亮は自分の考えたことを関羽達に話した。

 

「背水の陣とは漢建国の名武将韓信が用いた策です。河を背に布陣することで兵を追い詰め決死の兵にすると同時に、敵が拠点を離れた隙を突き、遊兵で拠点を陥落させるというものでした。これにより、韓信は寡兵で敵に勝利したのです。袁州牧さんが筏を壊して退路を断ったのはこの古の戦いにあやかったからでしょう。ただ、袁州牧軍の作戦はより凄まじいものだと思います」

「しかし、白蓮殿の話だと袁州牧は何というか、その、あれだという話だが」

 

関羽が諸葛亮に尋ねた。

袁紹が諸葛亮をして凄まじいと言わしめる作戦を持っているとは関羽には思えなかった。

そもそも、袁紹軍の布陣はめちゃくちゃもいい所である。

本来ならば最前線に配備されるべき槍兵や騎兵が後方に追いやられ、後方支援を行うはずの弩兵が最前面に出ているのだ。

特に、劉備や呂布など辺境からの援軍として来た騎兵達が身動きの取れない本陣の背後に配属されているという事に至っては擁護しようがない、と関羽は考える。援軍として最も苦しい場所で使い潰される事は覚悟していたが、戦いようのない場所に送られるとは思っていもいなかった。

袁紹軍は孫子の『そ』の字も知らないのではないか、と思えてならない関羽。……『背水の陣』といった言葉は知っているようだが。

公孫賛から袁紹についての話を聞いた時は、まさかそんな人間が州牧をするわけがないだろう、と笑い飛ばした関羽。

だが、実物を見た感想として、関羽は公孫賛が正しい可能性を否定できなかった。

 

「その可能性も無いわけではありません。多分、袁州牧はそう深く考えていないでしょう。しかし、この布陣は非常に攻撃的なものです」

 

諸葛亮は関羽の言葉を一部認めつつ答えた。

 

「どういうことですかな? 前方に弩兵を配置したのは官軍を何としても近づけたくないからだ、と思っていたのですが。河をせにしたことで回り込まれる心配もありませんし」

 

趙雲が不思議そうに尋ねる。

 

「いえ、袁州牧軍の布陣は防御的なそれではなく、官軍を文字通り殲滅することも睨んだ極めて攻撃的なそれです。と言うより、背水の陣そのものが本来攻撃的な陣形なのです」

 

諸葛亮が説明を続ける。

 

「作戦の基本は弩の雨を降らせて官軍を十分怯ませた後、精鋭弩兵で中央突破を図るというものでしょう。精鋭の練度と弩の性能を見る限り、それは可能だと思います。そして、中央突破すれば時間をおかずに官軍を背後から騎兵と槍兵で攻撃出来ます。この時、前方に河がありますから官軍には逃げ道がありません。上手く行けば本当に官軍を全滅させ得るでしょう。そう考えれば私達や呂奉先といった辺境の騎兵が後方に配置されていることも説明がつきます。私達に期待されているのは、官軍中央を破った後、両翼を逆襲する際に素早く展開して両翼を包囲することでしょう」

「な、なんと!」

「それは……凄まじい、と言うほかありませんな」

「凄いのだ」

 

諸葛亮の説明に関羽、趙雲、張飛が感嘆の声を上げた。

一見愚形にしか見えない兵の配置。その裏に必殺の意図が隠されていたことに彼女たちは武将として驚きを隠せなかった。

そして、高揚も。

諸葛亮の予想した袁紹軍の作戦通りに事が進めば、この戦いは歴史に類を見ないものとなるだろう。

武人として生まれた彼女たちにしてみれば、歴史に残る戦いで名を残すと言う事は興奮を覚えずにはいられないものだった。

 

「この策を考えだしたのは恐らく、荀友若さんでしょう。袁州牧の配下、特に旧来の名士や豪族と清流は互いに主導権を握ろうと諍い合っていると聞きます。彼らが一貫した作戦を立てても必ず横槍が入るでしょう。これだけ大掛かり且つ一貫した作戦を袁州牧に認めさせる事ができるのは荀友若さんを除いていないと思います」

 

諸葛亮が推測を述べ終えた。

 

「ふむ、なるほど。友若殿はやはり袁州牧の快刀と呼ばれるだけありますな。最初に出会った時の印象ではそこまでの人物とは思えませんでしたが。関羽殿など悪漢を相手にするような振る舞いでしたから」

「あ、あの時のことは混ぜ返さないで貰いたい! そもそも、荀友若殿の態度は悪漢か何かと間違えてしまうのも無理は無いものだっただろう!」

「確かに変な人にしか見えなかったのだー」

「……そこが荀友若さんの恐ろしいところかもしれません」

 

趙雲、関羽、張飛と諸葛亮が若干興奮しながら話し合う。

 

「そう、なんだ……」

 

ただ一人、劉備のみが顔を曇らせていた。

劉備たちは漢帝国に逆らい袁紹に味方するためにここにいる。

200万にもなる幽州の民を守るためだ。

冀州の現状維持はようやく平和に暮らせるようになった辺境の民にとって死活問題である。

彼らを守るために、劉備たちは袁紹を勝利へと導かねばならない。

だから、袁紹に十分な勝算があることは喜ぶべきことであり、憂う必要など無いはずだ。

 

しかし、劉備はどうしても官軍の兵士達を思わずにはいられない。

だが、敵である官軍の兵士達にも守るべき家族がいるはずだった。

袁紹軍の圧倒的勝利は彼らの明日を奪うことだ。

戦う以上、勝つために全力を尽くさなければいけないとは理解している劉備であったが、素直に袁紹軍の作戦を喜ぶ気にはどうしてもなれなかった。

 

「桃香様……」

 

関羽が恥じ入ったように顔を伏せた。

相手は同じ漢の民である。相手を殲滅する様な作戦を喜ぶべきではなかった、と関羽は思う。

そして、関羽は悲しそうな顔を浮かべる劉備になんと声をかけたらいいものかと悩んだ。

 

「大丈夫なのだ!」

 

張飛が言った。

 

「桃香お姉ちゃんの夢は鈴々達みんなの夢なのだ。何時か絶対に叶えてみせるのだ」

 

元気よく宣言する張飛の言葉は何ら根拠を持たないものだった。

それでも、張飛の言葉には人を元気づける何かがあった。

 

「うん……そうだね。ありがとう、鈴々ちゃん」

 

劉備は微笑んで張飛を抱きしめた。

身長差の為、張飛の頭は双子山に埋まる格好になる。

 

「んー! んー!」

「え? わっ! ご、ごめんね、鈴々ちゃん」

「う、うっぷ! く、苦しかったのだ、お姉ちゃん!」

 

呼吸ができずに苦しげに身を捩る張飛に劉備が慌てて抱きしめていた手を放した。

 

「何を羨ましそうに見ているのですかな?」

「は? ……な、何を言うか!」

 

劉備と張飛の様子を黙って見ていた関羽をからかうように趙雲が話しかけた。

関羽は微かに頬を赤らめて言い返す。

 

「私の勘違いでしたかな? 愛紗殿は落ち込んでいた桃香様を励ました鈴々殿を羨んでいるのではないか、と思ったのでが」

「そんな訳があるか! ……勘違いに決まっているだろう」

「しかし、桃香様の抱擁は兵士達の憧れ。理想郷といっても過言ではありません。如何に愛紗殿が清廉であるといえ、桃香様が自分以外に抱擁をしているともなれば心中穏やかではいられないのではないですかな?」

 

口の減らない趙雲に関羽は顔を真っ赤に染めた。

ニヤリと笑った趙雲は話を続ける。

 

「ふむ。どうやら私の勘違いだった様子。しかし、桃香様が誰と抱擁しようが愛紗殿が構わないということであれば、私も桃香様に抱きしめてもらうことにしましょう」

「星! 私をからかって楽しいか!」

「楽しいですな。愛紗殿は少々真面目すぎるのですよ。もう少し肩の力を抜かれてはどうですかな?」

 

趙雲の言葉に関羽は押し黙った。

強張らせていた体を和らげるようにゆっくり呼吸をすると、やがてポツリと呟く。

 

「そこまで私は緊張していたか」

「ええ、ガチガチでしたよ。殿方は堅いに越したことはありませんが、女性たるものやはり柔らかさがなければ」

「……その下世話な物言いは何とかならんのか?」

 

関羽が呆れたように趙雲に言った。

対する趙雲は笑みを深くして関羽の横を指さした。

趙雲の指し示す方向に顔を向けると、劉備が手を広げて立っている。

 

「愛紗ちゃん!」

「と、桃香様!?」

 

いきなり抱きついてきた劉備に関羽は裏返った声を上げた。

趙雲が物凄く楽しそうな顔をしている。

関羽は自らの顔が真紅に染まっていることを自覚した。

 

「愛紗ちゃんも何時もありがとう」

 

関羽の耳元で劉備が囁いた。

背に回された腕は関羽を力いっぱい抱きしめていた。

関羽の肩に劉備の顔が押し付けられる。

うなじから漂ってきた快い香りが関羽の鼻孔を擽った。

密着した体は劉備の体温を関羽に伝えていた。

そして、その体の微かな震えも。

関羽は劉備がしたようにそっと腕を背に回すとゆっくりと抱きしめ返した。

どこまでも優しい少女をこの世の全ての苦しみから守ろうと誓い。

 

「ふふふっ、仲良きことは良きことですな」

 

趙雲が優しく笑った。

 

「うん、そうだね。星ちゃんも抱きしめて良いかな?」

「え? えええっ!? え、ええっと、構わないですよ」

 

関羽から肩を離した劉備が声をかける。

抱きしめて良いか、という問に趙雲は随分と慌てた。

 

「おや、星殿、そんなに焦って、まるで生娘のようではないか」

 

関羽は趙雲にそう言って溜飲を下げた。

 

「ず、随分と言うようになりましたな。私が生娘だなどという流言はさておいて」

「星に散々からかわれたからに決まっていいるだろうが!」

 

関羽の言葉に趙雲が言い返す。だが、そこにはいつものキレがない、と関羽は感じた。

随分と顔を赤くしているではないか、と関羽は思う。

 

「朱里ちゃんも抱きしめて良いかな」

「は、は、はわわっ!? も、もちろんでしゅ! 喜んで!」

 

趙雲から体を離した劉備が諸葛亮にも抱きしめて良いかと尋ねる。

諸葛亮は何度も噛みながら、是と答えた。

 

「じゃあ、いくよ」

「は、はうううぅぅ~」

 

張飛の失敗で学んだのか、劉備はしゃがんで顔の高さを諸葛亮と合わせると抱きしめた。

やがて、手をほどいて立ち上がった劉備。

若干残念そうにしている諸葛亮を背に関羽に問を発した。

 

「ええっと、他の皆にもした方がいいのかな?」

 

劉備の目は彼女の指揮下にある騎兵や義勇兵に向けられていた。

 

「その必要はありません」

 

関羽はきっぱりと首を横に振る。

兵士達の多くが男性であることは大きな問題だった。

下手な噂が立てば、劉備の名誉を傷つける恐れもある。

劉備が義務感に駆られているとしても、それだけは断じて認められなかった。

特に劉備たちの様子を見て前屈みになっている兵士達はこの戦いが終わったら扱き直してやろう、と関羽は思う。

 

――桃香様のお付き合いする男は私に勝てるくらいでなければな。

 

関羽は無茶なことを考えた。その条件では劉備が結婚できる未来が予想できない。

 

「え、でも……」

「止めて下さい」

 

諦めの悪い劉備にきっちりと言い含めると関羽は兵士達に向き直った。

 

「何をぼやぼやしているか! いつでも動けるよう、配置に着け!」

「おお、怖いですな」

「星、茶化さないでもらおうか」

 

趙雲の言葉を関羽は切り捨てた。

劉備が小さく笑みを浮かべた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

曹操率いる騎馬隊は袁紹軍を右方向から攻めんと大きく迂回した。

旗は掲げず、袁紹軍とは距離を取り、音をなるべく立てないようにして走っていた。

袁紹配下の友若の策によって後方に配置された曹操は、それを逆手に取ろうと曹の旗を本陣から動かさず袁紹軍を奇襲しようと企んだ。

曹操軍にとっては幸いな事に袁紹軍後方の部隊の多くが膨大な弩による一方的な戦況に気を良くしているのか、周囲への警戒が緩んでいた。

それでも、ある程度距離を詰めれば当然発見される。

突進する曹操騎馬隊に袁紹軍左翼の兵士達は慌てて陣形を整えようとした。

 

曹操は腰から小型の銃を抜いた。

銃を持つ右手を天に掲げ、左手は手のひらで耳を押さえる。

曹操がトリガーを引くとバネの力により火花が起こり、内部に込められた火薬が点火する。

銃口から放たれた銃弾は白煙をまき散らしながら飛んでいく。

 

「馬が暴れないようにしっかり手綱を握っておけ!」

 

夏侯惇が部下達に命じた。

左手より白煙が上がった。

曹操軍が待機していた場所からであった。

放物線を描いて飛来した

着弾とほぼ同時に弾が爆裂した。鳴り響く轟音。

虚を突く唐突な出来事に袁紹軍は大いに動揺した。

その動揺が収まらぬう内に曹操軍は袁紹軍に接敵した。

 

「撃て!」

 

先頭を走る夏候惇が叫ぶ。

銃を構えて後ろを走っていた兵士達500名余りが一斉に発砲する。

発砲を終えた兵士達は馬の速度をゆるめ、銃に弾と火薬を紙で包んだ薬莢を装填する。

その間に、装填済みの銃を持つ兵士達が前方に並び出る。

これにより、曹操軍はほとんど速度を落とすことなく進軍を続ける。

突然の爆音と倒れる味方に混乱の極地に達した袁紹軍左翼は為す術もなく、曹操軍は無人の荒野を征くが如く駆け抜けた。

 

「雑魚は捨ておけ! 狙いはただひとつ! 袁紹の首だ!」

 

曹操は高らかに叫んだ。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

曹操軍が配置されていた本陣で曹操の撃った煙を荀彧達は観測した。

 

「撃ちなさい!」

 

合図を待ちわびていた荀彧は鋭く命じる。

その言葉に工兵部隊を中心とする兵士達が導火線に火種を押し付け点火した。

一目散に距離を取る兵士達。

その背後で地面に半分埋め割れた幾つもの鉄の筒が轟音を上げた。

白煙とともに撃ちだされた弾は放物線を描いて袁紹軍の本陣及び左翼に着弾した。

荀彧が弾道予測計算を元に開発した弾道予測用の補助具によって、曹操軍は弾道方向と着弾時間をかなり正確に予測できる。

砲弾自身に取り付けられた導火線の長さを調整することによって砲弾の爆発するタイミングをコントロールできるのだ。

要するに高精度な打ち上げ花火である。

 

「次! 次弾の準備をしなさい! 観測兵の報告を元に砲筒の角度を調整しなさい!」

 

荀彧の命令に兵士達が動く。

白煙を上げる熱された鉄の筒を『しゃべる』と呼ばれる土木用具で工兵達は掘り返した。

鉄筒は竹板を紐で周囲に巻きつけられている。

鉄板を丸めて作られた鉄筒は発射の衝撃にひび割れていた。

 

「耐久性の無さはやはり問題ね……今のままじゃ費用がかかりすぎるわ。今後の課題ね」

「後装式をゴリ押ししたあんたが言うんやない」

 

荀彧の呟きに李典が言い返す。

 

「あら? 華琳様も後装式に賛同したじゃない?」

「どうやったって、安定しないんや。威力、耐久性やコスト、生産性、どれひとつを考えたってうちの答えは一緒や! 絶対に前装式を採用するべきやった!」

「だとしても、弩に対して明確な有意を確保するためには連射性能が絶対に必要よ。それに、異民族を真っ向から破るには騎乗したままで銃弾の換装ができないといけないわ」

 

技術者として憤る李典に対して荀彧はそう答えた。

言い返したそうにしている李典を無視すると荀彧は戦場を見やった。

次の砲撃合図はまだ先になるはずだった。

それでも、荀彧は戦場を、袁紹軍中枢の方角に視線を向けた。

そこには荀彧の兄がいるはずだった。

もう長いこと会っていない。それでも荀彧にとってたった一人の兄だった。

その兄友若が開発に失敗した銃火器。

そんなものできるわけがない、と周囲の人間が否定したそれ。

荀彧は兄に代わって実現させた。友若が作ろうとしていたそれを超える物を実現させてみせた。

 

「兄様……」

 

荀彧の手は強く握りしめられていた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

袁紹軍左翼は既に組織だった動きが出来ていない。

曹操軍がそうなるようにその全てを傾けた結果である。

それでも、冀州から集った義勇兵の中には必死に戦おうとする者達がいた。

貧困と飢えに苦しんだ故郷を捨て冀州で安住を得た彼らは自らの暮らす世界を守ろうと必死だった。

立ち向かう英雄達の存在は味方である袁紹軍の兵士達を大いに励ます。

 

「撃て!」

 

勇敢な敵兵に夏侯淵は銃撃を集中させる。

曹操軍は寡兵。

袁紹軍を混乱の極値に追いやっている曹操軍であるが、一歩間違えば全滅する恐れすらある。

生き抜くためにも、曹操軍は勝ち続けなければならなかった。

 

 

「退け、退け、退けええい!!」

 

夏候惇が叫ぶ。

七星餓狼を振り回し、行く手を遮る袁紹兵を殺しながら。

 

「春蘭! 前に出すぎよ! 貴方の力は後で発揮してもらうわ! 力を温存しなさい!」

 

曹操が夏候惇を窘めた。

 

「も、申し訳ありません、華琳様!」

 

慌てて馬の速度を緩める夏候惇。

その横を夏侯淵率いる銃で武装した騎兵が前に出る。

 

「撃て!!」

 

その爆音にとうとう袁紹軍左翼は総崩れとなって逃げ出した。

馬をまっすぐ袁紹軍本陣へと向ける曹操軍。

 

「進路を左に向けなさい!」

 

袁紹軍左翼を切り裂いて走り抜けた曹操が叫ぶ。

袁の旗は袁紹軍本陣を離れて曹操軍の左前方にあった。

袁の旗の前には劉の旗が翻っている。

騎兵が兵士達の多くを占めている。

こちらに向けて既に動き出している部隊も見えた。

異民族と接する辺境の精鋭達であろう。

辺境の将兵の殆どが袁紹に味方したのだ。

その将兵の中で劉の性を持つ人間の名前を曹操は知っていた。

劉備玄徳。

公孫賛の下に身を寄せていた客将の名前である。

当然、精強な騎兵を連れてきているのだろう。

 

「秋蘭! まだいけるかしら!?」

「問題ありません、華琳様!」

 

曹操の問いかけに夏侯淵が答えた。

曹操は獰猛に笑みを浮かべる。

騎兵。

辺境異民族の脅威たるそれを如何に打ち破り無力化するか。

考えに考え、出した答えが今の曹操騎馬隊だった。

相手が騎兵であるならばどんな相手でも打ち破ってみせる。

曹操にはその自信があった。

劉備軍を突破して袁紹の首を狙うことは十分に可能だと曹操は判断した。

 

「突き進め!」

 

曹操が味方を鼓舞する。

右方向から弧を描くように馬を進めてくる劉備軍騎兵隊。

その数1000程。

劉備軍本体では慌てた様子で後続の騎馬隊が動き出そうとしている。

曹操軍の動きを予測していなかったのだろう。

 

「敵は我らの動きに驚いている! この隙を逃すな! 銃で敵を蹴散らすのだ!」

 

夏侯淵が命じた。

長い黒髪を一本にまとめた武将率いる騎馬隊は圧倒的寡兵でありながら進み続けている。

 

「報告! 左手より騎兵が向かってきます!」

 

兵士達の言葉に曹操達は慌てて左に顔を向けた。

曹操達が突き破ってきた袁紹軍左翼。

その影に隠れるように突き進む騎馬隊があった。

青い髪の武将率いる騎馬隊の数はやはり1000程度。

 

「我が名は趙子龍! 臆病者は失せるがいい!」

「なんだと! 貴様、切って捨ててやる!」

 

騎兵を率いる武将、趙雲の言葉に夏候惇が飛び出そうとした。

 

「止めなさい、春蘭! 秋蘭、蹴散らしなさい!」

「はっ! 標的は接敵している騎兵だ! 撃て!」

 

夏侯淵の命令に兵士達は銃口を趙雲騎兵隊に向けて発砲する。

鳴り響く轟音。

生まれてこの方聞いたこともない大音量に趙雲率いる騎馬隊の馬たちが怯えて足を止める。

 

「なっ!? 猪口才な!」

 

趙雲は槍を振るって自らを狙う銃弾を弾き飛ばしながら叫んだ。

趙雲の乗る馬もまた怯えて足を止めようとしていた。

趙雲の背後では少なからぬ騎兵たちが銃弾に倒れた。

 

「おのれ! 面妖な武器を使いおって! 曹操! 貴様には正々堂々と戦おうという気概がないのか!」

「なんだと! そこに直れ! 叩ききってやる」

「春蘭! 負け惜しみに付き合っている暇はないわ! 前に進みなさい!」

 

馬が暴れ戦うどころではない趙雲騎兵隊に見向きもせず、曹操軍は袁紹の首を目指して駆けて行った。

 

「むう。これは拙いかもしれませんな。孔明殿が危惧した以上に……」

 

曹操軍に一瞬で突破された趙雲は呟いた。どこか悔しげであった。

それでも、また諸葛孔明の作戦は終わっていない。

 

「馬を落ち着かせろ! 500騎ほど動けるようになった時点で追撃へと移る!」

 

趙雲は叫んだ。

曹操軍の進撃は何としても止めなければならない。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「は、はわわ、はわわ」

「しゅ、朱里ちゃん落ち着いて!? 曹孟徳さんの勢いが止まらないなら私達が戦わないと! 私が残りの騎兵を率いるわ。お願い。私に策をちょうだい」

 

曹操軍の予想を超えた突破力に焦っていた諸葛亮に劉備が声をかけた。

不思議と人を安心させる声。

劉備の大徳が成せるものだった。

 

「と、桃香様! 危険です!」

 

諸葛亮は目を見開いて劉備に言う。

 

「でも、誰かがやらなくちゃいけないんでしょう? 曹孟徳さんは絶対にここで止めないといけない。私より朱里ちゃんの方がずっと戦いは上手いからここで歩兵の皆を指揮してて」

「そ、それは……」

 

諸葛亮は言葉を詰まらせた。

劉備の目は決意に燃えていた。

 

「だ、駄目です! 桃香様はここで兵士達を鼓舞しなければなりません! 今、少数の騎兵を動かしても各個撃破の的になるだけです! ここは一丸となって曹孟徳さんの突撃を止めることに専念するべきです!」

 

諸葛亮は叫んだ。

既に曹操軍は劉備軍を射程に入れている。

今まで見せた突破力ならば張飛率いる騎馬隊も時間を稼ぐことは難しいだろう。

轟音を発する武器らしきもののために劉備軍の騎兵は殆ど戦うこともできずに無力化されていた。

馬が使えない。

その事実に愕然とする諸葛亮であったが、それを嘆いている時間はなかった。

曹操軍の、騎馬隊突撃の恐怖に少しでも耐えられるよう兵士達を落ち着かせなければいけなかった。

 

――私は見誤っていた……!

 

有力な武将である関羽、張飛、趙雲を向かわせた事を後悔する諸葛亮。

見た目が子供で腕っ節も見た目相応でしかない諸葛亮では十分に兵を鼓舞することができない。

強敵に怯える人間達を勇敢な戦士へ変えるのは誰もが不敗を確信する武将なのだから。

 

「み、皆さん、落ち着いて! 少し耐えればまだ望みはありましゅっ!?」

 

重要な局面で噛んでしまった諸葛亮。

これでは兵士の士気を上げられないと自責の念に駆られる。

 

「朱里ちゃん、大丈夫」

 

優しく諸葛亮の頭を撫でた劉備が前に進み出ながら言う。

劉備は兵士達に振り返って困ったように笑った。

 

「皆、聞いて! もう十分見ていると思うけど、曹孟徳さん達は強い。それでも、私は戦う。折角人々が豊かになった冀州を守るため、そして何よりようやく平和が訪れた幽州を守るには戦うしかないから!」

 

劉備の言葉に兵士達は怯えを見せた。

幽州の精鋭騎馬隊。

それを一瞬で突き破る曹操軍を兵士達は恐れた。

諸葛亮が慌てて劉備を見る。

劉備は一瞬、昔を思い出すように目を閉じた。

目を開けた劉備は話を続ける。

 

「……私が初めて幽州を訪れた時、誰もが泣いていた。親を失った子、伴侶を失った人々、飢えと貧困……誰もが生きるために、生き延びるために殺しあっていた。でも、今は違う! 烏族さん達や他の人達と商売をするようになって、幽州は変わった! 子供は親を失わず、伴侶は互いに寄り添って豊かになっている! 私はずっとつらい思いをしていた幽州の皆を守りたい! ようやく訪れた平和を守りたい! 今ここで、袁本初さんが死んでしまえば、冀州と幽州はどうなるのか分からない。私の勘違いで、もっと良くなるかもしれない。でも、また、昔みたいになってしまうかもしれない。危ないのは分かっている。私は愛紗ちゃんや鈴々ちゃん、星ちゃんみたいに強くない。それでも、私は私に出来る事をしたい。だから、皆、お願い! 私に力を貸して!」

 

劉備は兵士達に頭を下げた。

 

「全く……他所から来た嬢ちゃんが俺達の故郷のためにこれだけの覚悟を見せたんだ。俺はやるぞ! ここで逃げちゃあ負け犬になっちまう」

「おいおい、俺達も忘れんなよ」

「微力ですが、私ももちろん玄徳様の為に力を尽くします」

 

兵士達は次々と自分も戦うことを宣言していった。

 

「皆……」

 

劉備が涙ぐんだ。

 

――流石です、桃香様。

 

諸葛亮は内心で呟いた。

武将という観点から見た劉備は決して飛び抜けているわけではない。

無能ではないが、優秀というには不足がある。

知略家としてもそれほど優れているわけではない。

政務なども人並みにはできるが、諸葛亮等と比べると大きく見劣りする。

だが、そうした不足は劉備という人間の持つ人徳という強みを些かも貶めていない。

人を引き付ける能力、この人のために力を尽くそうと思わせる類まれな才能が劉備にはあった。

王としての才能。

万民を導く才能。

そして、何よりも民の幸せを何時も考える性格。

そんな劉備に心服したからこそ諸葛亮は劉備に仕える事を決めた。

どんな逆境にあっても諦めずに万民の幸せを願う強さは諸葛亮には無いものだったから。

 

「残された時間はありませんが、この短い時間で簡単な作戦を話させて頂きます」

 

兵士達が雄叫びを上げ終わった頃合いを見計らった諸葛亮が言った。

諸葛亮の予想通り、張飛率いる騎馬隊をほとんど時間をかけることなく突破した曹操軍は劉備軍本体へとその矛先を向けている。

曹操軍との戦闘に入るまでの限られた時間に諸葛亮は即席の策を構築した。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「くそっ! 私としたことがとんだ失態だ!」

 

関羽は思わず吐き捨てた。

曹操率いる騎兵隊の先頭に位置する兵士達が持っていた筒状の武器。

恐らく火薬を利用して金属の弾を打ち出す仕組みだろう、と関羽は当たりを付けた。

高速で飛来する金属の弾は脅威だった。

だが、それだけならば曹操軍の突撃を止めることも可能だったと関羽は断じる。

関羽たちにとって曹操軍が用いた新兵器の最大の脅威は馬を怯えさせる轟音だった。

馬が怯えて行動不能になった関羽軍を迂回するようにして曹操軍は突き進んでいった。

 

心に何処かに油断があったと関羽は認めざるを得なかった。

幽州では異民族が落ち着いた為に大きな戦いもなく、劉備たちは武功を上げる機会を得られなかった。

もっとも、劉備達は幽州の平和を喜んでおり、武功がないことを嘆きはしなかったが。

ただ、武功がないといっても劉備が今回連れてきた騎兵は精鋭中の精鋭だ。

遊牧騎馬民族との関係が大幅に改善したことで、幽州の騎馬隊は異民族から乗馬技術について学ぶ機会を得ていた。諸葛亮の発案により、異民族との融和をより推進するという目的の下、行われた政策の一つである。

その結果、幽州騎馬隊の乗馬技術は格段に進歩した。

リップサービスはあるだろうが、教官として関羽達を受け持った異民族の族長は自分達に匹敵するとその乗馬技術を褒め称えた。

劉備の率いる騎馬隊が漢帝国で最強の騎兵隊であると思っているのは、決して関羽等の指揮官だけではない。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

荀シンが官軍側の人間で強い注目を見せた人物の1人であると諸葛亮は曹操を警戒していた。

孫堅軍が暴れている際、劉備軍は孫堅と同様に強行突破してくるであろう曹操軍を抑えるために動くべきだ、と主張したのは諸葛亮であった。

 

「あの袁冀州州牧の快刀と呼ばれる荀友若さんが警戒していた曹孟徳さんと孫文台さんの内、孫文台さんは実際に弩の雨を掻い潜って冀州軍の右翼を崩しています。ならば曹孟徳さんも必ず冀州軍を打ち破って攻めてくるでしょう。袁州牧の命を狙って。官軍中央が崩壊した今、戦いに勝とうとすれば袁冀州州牧の命を取るくらいしかありませんから」

「だが、朱里よ、この精強な冀州軍を破るなど可能なのか?」

 

いくら孫堅が接敵に成功したとはいえ、官軍中央を圧倒している袁紹軍相手に強行突破は可能なのか、と関羽は尋ねた。

幽州から連れてきた騎兵隊でもこれだけの軍を崩すことは難しいだろう。

まして、冀州軍の最奥に位置する袁紹の安全を配慮することは無駄骨に終わる公算が高いのではないか、と関羽は思う。

幽州として冀州に味方することを決めた以上、今後のためにもある程度の戦功は必要だと主張していたのは諸葛亮だ。

予想を外れて曹操軍が攻めて来なければ、戦う機会さえ失ってしまう。

 

「必ず来ます」

 

関羽達の不安を吹き飛ばすように諸葛亮は言った。

 

「曹孟徳さんの軍は騎兵集団です。曹孟徳さんは欺瞞工作をしながら、その機動力を活かして冀州軍の左手に回りこむでしょう。袁州牧軍の中央前方に配置された兵士達は精鋭中の精鋭です。更に、官軍のそれを圧倒する弩を持っています。ならば、曹孟徳さんは正面から戦いを挑むよりも側面からの奇襲を選択するでしょう」

「それは、そうかもしれん。しかし、現状、官軍の中央が圧倒されている様子ではないか。この状況ではいくら曹操と言えども退却せざるを得ないのではないか。曹操が優秀だという話は聞いているが、不可能を可能にする程のものなのか?」

 

辺境で幾度か戦った事のある関羽は戦いというものに時があることを知っていた。

ここまで官軍が崩れている状況で高々1万の騎兵で何が出来るのか、と関羽は思う。

しかし、関羽を超える知謀を持つ諸葛亮は曹操が攻めてくることを確信した様子である。

関羽は、何故諸葛亮がそれだけの確信を持つに至ったかを知りたかった。

 

「荀友若さんが曹孟徳さんを警戒していたからです」

 

諸葛亮が答える。

 

「荀友若さんはまだ漢帝国では無名のはずの桃香様の名前を知っていました。それは、幾万といる無名の将兵の中から桃香様を見出したという事です。それほどまでに人を見る目がある荀友若さんが強く警戒する曹孟徳さんが素直に引く訳がありません。私は荀友若さんの人を見る目を信用しています」

「……なるほど、確かにまだ名を知られていないはずの桃香様を見出した荀友若殿が曹操を警戒しているというのは十分な理由だな」

 

関羽は頷いた。

無名の劉備を見出した人物の判断は無碍に扱うべきではない。

 

「曹孟徳さんが配置された陣の旗に動きは見られないという話です。ですが、曹孟徳さんはもう動き出しているでしょう。袁州牧を狙わざるを得ない曹孟徳さんは本陣を攻撃しようと冀州軍左手の強行突破を図ると思います。ただ、袁州牧は既に前進を始めようとしています。荀友若さんが当初の予定通り官軍中央の強行突破からの逆襲を狙って行動を始めたのでしょう。恐らく、曹孟徳さんが左手を突破してくる頃には本陣を離れて前に進んでいることでしょう」

「ふむ。矢の数から、袁紹軍が動くまでもう少し時間があると思っていましたが――」

 

趙雲が軽く首を傾げた。

 

「孫堅さんの動きに応じてでしょう。袁紹さんの中央に位置するのは精強な兵士達ですが、両翼は義勇兵が多く、練度も十分高いとは言えません。孫堅さんの動きに連動して右の官軍が動き出せば厄介なことになるでしょう。河を背にした状態で兵士達が追い詰められていると恐怖に駆られたら、最悪、軍が崩壊する可能性も無視出来ません。袁州牧はそれを嫌ったのでしょう。だからこそ、中央を一気に突き崩すことにしたのだと思います」

 

もちろん、当初の策よりも中央の被害は大きくなるでしょうが、と諸葛亮は続けた。

 

「なるほど、分かった。それで、我々はどうするべきだ? 曹操をどう迎え撃つべきだ?」

 

関羽が諸葛亮に尋ねた。

 

「騎兵を複数の部隊、3つに分けて波状攻撃を仕掛けるべきだと思います。曹孟徳さんの配下は騎兵部隊です。荀友若さんが強く警戒するほど優秀で、実際に短時間で複数の砦を陥落させている以上、その突破力は我々を超えていると考えるべきだと思います」

「幽州で鍛えあげれた我々の練度はかなりのものだと自負していますが、朱里殿はその我々より曹操の方が強い、と?」

 

諸葛亮の言葉に趙雲が問う。

 

「油断するよりはずっとましだと思います。実際、曹孟徳さんの騎兵がこの袁州牧の軍を突き破って進むだけの力を持っているのならば、私達が真正面からそれを止めるのは困難でしょう。曹孟徳さんの兵は職業軍人ですから厳しい訓練を課すことができますし、曹孟徳さんは袁州牧程では無いにしろ、かなりの資金を持っています。武装の点では私達よりも遥かに良い物を持っているはずです」

 

諸葛亮は話し続ける。

 

「だから、私はこれを真正面から止めずにいなすべきだと思います。つまり、一度に全ての兵力をぶつけるのではなく、連続的に騎兵で突撃を行い、曹孟徳さんの動きを遅くするのです。もちろん、寡兵でぶつかる以上、簡単に蹴散らされてしまうでしょう。しかし、皆さんであれば、一度蹴散らされた兵士達を再びまとめ上げることができます。そして、騎兵であれば動きが遅くなった曹孟徳さんの軍に追いつくことができるはずです。幽州の騎兵の練度を考えれば、絶え間なく曹孟徳さんの足止めができるでしょう。そして、足が止まりさえすれば、曹孟徳さんの騎兵は寡兵。袁州牧軍と連携すれば数の点で圧倒的な優位を確保できます」

「つまり、私たちは曹操の足止めに徹するという訳か。だが、兵力の分散は避けるべきではないのか?」

「それは相手がこちらを殲滅しようと考えている場合の話です。ですが、曹孟徳さんがここまで攻めてくるとすれば、それは袁州牧その人を狙ってのものでしょう。一々相手を撃滅するよりも、突き進むことを優先するはずです。これに対してこちらが兵力を集中すれば、それを強行突破された場合に後がありません。曹孟徳さんが具体的にどのような戦術を採用するか分からない以上、断続的に足止めを仕掛けながら臨機応変に対応する方が良いと思います」

 

そう言って諸葛亮は劉備を見た。

 

「うん、分かった。朱里ちゃんが言うなら間違いないよね」

「私も依存はありません。それで、具体的にはどう動くべきだ?」

「まず、騎兵を1000ずつ、4つの部隊に分けます。そして――」

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

騎兵部隊の練度により可能となった連続的な機動力を見越して諸葛亮が構築した作戦は、曹操軍がどれほどの突撃力を持っていようとも十分に時間を稼げるはずだった。

馬を使い物にならなくしたあの轟音がなければ。

曹操軍の兵士達が構えた筒が放った爆発音に関羽率いる騎馬隊の馬は恐慌状態になった。

馬を落ち着かせようとして、まともに動くこともできない関羽軍を横切って曹操軍は突き進んでいった。

趙雲と関羽が殆ど時間を稼げずに曹操軍の侵攻を許した様子を見た張飛は指揮下の騎兵隊の進路を変えた。

諸葛亮の当初の作戦では張飛達の騎馬隊は曹操軍の斜めから突撃する予定であった。寡兵である以上、横合いから攻撃を仕掛け、曹操軍を混乱させた隙に距離をとるというのが諸葛亮が張飛達に指し示した策だった。

しかし、同じ様に斜めから攻撃を仕掛けた趙雲と関羽は足止めが出来ていない。

曹操軍の精強さが原因ではなく、謎の轟音により馬が使えなくなったのが理由であった。

嘶いて立ち往生する劉備軍の騎兵を横切って曹操軍は突き進んでいる。

 

「真正面からぶつかるのだ!」

 

張飛は叫ぶ。

兵士達は死闘を予感しながらも鬨の声を上げた。

馬もまた乗馬する人間の決死の覚悟に嘶いた。

 

曹操軍と張飛の騎兵隊。

両者の距離が詰まった時、夏侯淵が配下に発砲を命じる。

 

「こんな攻撃、効かないのだ!」

 

趙雲が飛来した銃弾を弾き飛ばしながら叫ぶ。彼女の乗る猪は極度の興奮状態にあるのか、銃声に何の反応も示さなかった。

張飛は突き進み、槍を振るう。

その槍は曹操軍の先頭を走る筒を構えた騎兵の1人を容易く貫き、落馬させた。

一瞬で槍を引き戻した張飛は休む間もなく槍を振るう。

 

「鈴々がお前たちなんかやっつけてやるのだ!」

 

張飛の後ろを走る騎兵隊も多少の混乱はあったものの指揮官を守ろうと必死に曹操軍に食らいつく。

趙雲と関羽を突破する際の発砲。それにより張飛達の馬たちが事前に発砲音に気構えがあったからこそ可能になった。

 

「とりゃーーー!!!」

 

高速で振り回される張飛の槍に曹操軍の兵士達は次々と死んでいく。

 

「やるな、お前!」

 

夏侯惇が張飛隊の突出を抑えようと、七星餓狼を振るい馬頭を張飛に向ける。

 

「春蘭! 貴方が牙をむくべき時はまだよ!」

 

それを窘めながら曹操が指揮下の騎兵たちを引き連れ張飛に向かう。

 

「華琳様! 危険です!」

「構わないわ! 虎穴にはいらずどうして虎子を得られよう!!」

 

曹操は叫ぶと同時に絶を振るう。

 

「ぬりゃあーーー!」

 

張飛が叫び声とともに槍を振るう。

愛馬と猪に乗りかなりの速度で駆け抜ける曹操と張飛の交差は一瞬だった。

張飛の服に切れ込みが入り、曹操の頬に一筋の赤い線が走った。

 

「春蘭、進みなさい! 秋蘭、次弾を撃つのよ!」

「撃て!」

 

曹操が叫ぶとほぼ同時に夏侯淵は配下に発砲を命じた。

文字通り槍が届く距離での発砲音に張飛率いる騎兵の馬も流石に動揺し、暴れた。

 

「お、落ち着け!」

 

兵士達が必死に宥めようとするが、一度恐怖に駆られた馬を立て直す労力は並大抵ではない。

 

「くっ、待て、待つのだ!」

 

張飛が叫ぶ。

既に曹操軍は味方の混乱で身動きの取れない張飛の手が届かない場所を走っていた。

 

「華琳様、無茶をなさらないで下さい!」

「そうです! 私が戦いますから」

 

曹操の己が身を省みない行動に夏侯淵と夏侯惇が苦言を呈した。

 

「今、無茶をしなくて何時するというのかしら!? 後ろではさっき破った騎兵たちが動き出しているわよ!」

 

曹操は2人の臣下に言い放つ。

夏侯惇は曹操の言葉に背後を振り返った。

曹操の言葉通り、先程打ち破ったはずの騎兵達が曹操軍を追いかけてきている。

 

「なんだと!? くっ! さっき徹底的に叩いておけば!」

 

夏侯惇は悔しげに叫んだ。

曹操軍に戦いを挑んだ相手は高々千程度の寡兵だった。

夏侯惇の部隊がこれに攻撃をしかければ、容易に打ち破ることができただろう。

 

「落ち着け、姉者! 私達にそんな時間的余裕はなかった! しかし、拙い……華琳様! このままでは銃の再装填が間に合いません! 一度速度を落として次弾装填の時間を!」

 

夏侯淵が曹操に叫ぶ。

夏侯淵が率いる銃を装備した騎兵隊の数は1000。

装填にかかる時間は通常の弩の3分の1を切る。

連射性能だけで見れば夏侯淵の騎兵隊は弩兵3000に相当することになる。その全員が馬を乗りこなし高い機動力を持つ以上、実際にはそれ以上の戦力である。

だが、それでも限界はある。

張飛の騎馬隊を切り抜けるために発砲を繰り返したことで、装填された銃を持っている兵士がいなくなっていた。

袁紹軍左翼を突き破り、3回に渡る騎馬隊の突撃を突破した代償として、銃はかなりの熱を持っている。

再び銃を使うためにはどうしても時間が必要だった。

曹操軍の基本戦術は敵本陣までの道を夏侯淵の銃部隊によって切り開くというものである。

そして、曹操達はまだ袁紹軍本陣までたどり着いてはいない。

 

「いえ! もう、構わないわ! 春蘭! 温存していた貴方の力! 存分に奮いなさい!」

「はっ!!」

 

曹操は夏侯淳に命じた。

背後の騎兵隊は予想を超える練度を持っていた。

銃が使えない状況でまともに戦えば、相当の被害を受けるだろう、と曹操は判断する。

ならば、追撃を受ける前に劉備軍を突破しなければならない。

劉備軍。

呂布や張遼等と異なりほとんど武功の無い公孫賛の客将だったが、その力が侮って良いものではないということを曹操は既に十分認識していた。

曹操の放った諜報によれば劉備を麗羽、袁紹に推薦したのは友若である。

流石、あの袁紹の下で冀州をここまで発展させた人物であると曹操は内心で友若を褒め称える。

とは言え、曹操の現在の状況を考えれば賛美ばかりしていられない。

曹操は決断した。

 

曹操の命令を受けて夏侯淳率いる騎馬部隊7000は陣形を展開しながら最前列に躍り出た。

袁紹軍左翼を突き破り、趙雲を始めとする優秀な騎兵隊を全て突破してきた曹操軍1万。

だが、その内7000は戦いに参加することなく、力を温存していた。

 

一部の武将を除けば、兵士達には戦える限界が存在する。

いくら鍛えあげられた兵士と言えども、全力で戦い続けられる時間というのは長くない。

少数で敵の頭を叩く首狩り作戦の有用性は古来より度々示されてきた。

この成功によって本来負けるはずの勢力が勝利したことも多い。

だが、現実的な戦術としてこれが採用されることが少ないのは全力で戦闘可能な時間限界が理由である。

総大将は殆どの場合、敵陣の最奥に位置する。

これを叩くためには敵の守りを突破しなければならない。

だが、普通の兵士はどれだけ鍛えた所で敵陣を突破して総大将の首を取るまで戦い続けることができないのだ。

 

だから、曹操は首狩り作戦にあたって、如何に戦わず敵陣を突き抜けるかを考えた。

通常なら、まず不可能である。突出した部隊は敵の集中砲火を浴びることになる。

しかし、連射が可能な銃火器を手に入れた曹操にはそれが可能だった。

答えは単純だ。

銃火器の威力と音で敵兵を足止めし、敵の本陣を襲えば良い。

曹操の配下には個人としての武に優れた夏侯淳や許緒、楽進がいる。

彼女たちがその力を存分に発揮できる状況さえ用意できたならば、異民族の王であろうとその頭を胴体と繋げておくことはできないはずである。

 

夏侯淳率いる騎兵隊7000は曹操の構築した戦術の通り、温存していた力を存分に振るおうとしていた。

 

「行くぞ! 全員死力を尽くせ! 万が一、華琳様の武名を穢すような者があれば、この私が手ずから叩ききってくれる!」

 

夏侯淳が兵士達に檄を飛ばす。

 

「ボク達も行くよー!!」

「前進!」

 

許緒と楽進が両脇に続く。

劉備軍は目の前だった。

 

「突き破れ!」

「何としてでも防げ!」

 

両軍の掛け声が交差した。

 

諸葛亮の策は、槍兵を並べて曹操軍の初撃を食い止めるという単純なものである。

劉備の下には練度の不十分な義勇軍が多く含まれている。

時間もない状況下で複雑な作戦を立てても意味が無い。

そして、劉備によって兵士達の士気は最高潮だった。

今この時ならば、どんな危険にあっても兵士達は逃げずに戦うだろう。

作戦は単純であればあるだけ良い。

そして、騎兵は速度を持ってこそ威力を発揮する。

この場において数千程度の兵士達を死なせたとしても十分な戦術的価値が騎兵の動きを止めることにはあった。

 

――私が、この人達を死なせる、殺す……!

 

諸葛亮は自分に言い聞かせた。

軍師としての判断が諸葛亮に奮起した兵士達の犠牲を要求していた。

曹操率いる騎馬隊にここを突破されれば背後にあるのは混乱して迎撃態勢をとれていない袁紹軍だ。

袁紹がその命を落とすようなことがあれば袁紹軍は崩壊する。

それは、袁紹の下で発展を遂げた冀州の終焉とようやく平和に生きられるようになった辺境の崩壊へと繋がる危険がある。

兵士達の命と幽州を始めとする辺境の人々の平和。

その二つを天秤にかけて後者を選択したのは諸葛亮だった。

 

「はあああぁぁぁっ!!!」

 

曹操軍の先頭を走る武将達は並外れていた。

武器が振るわれるごとに、次々と劉備軍の兵士達は死んでいく。

そもそも、歩兵と騎兵の戦力比は決して等価ではないのだ。

それでも、劉備軍の兵士達は逃げようとはしなかった。

その生命が尽きるまで。

 

「どけえぇぇ!!!」

 

予想を超えて攻め崩せない劉備軍に夏侯淳が叫ぶ。

背後からは劉備軍の騎兵隊が迫っている。

更に、真横から唐突に現れた騎兵が曹操軍に襲いかかろうとしていた。

劉備の下に予備兵力として残された騎兵を諸葛亮が動かしたのだ。

 

「皆! 頑張って!」

 

劉備が剣を振るいながら叫ぶ。

曹操軍側に押され気味の場所を支援しようと、劉備は剣を抜いて最前線に躍り出たのだ。

 

「おい、嬢ちゃん! あんたは下がっとれ! 戦うのは俺達の役目だ!」

 

小隊を取りまとめる隊長が劉備を諌めた。

強引に劉備を下がらせた将達長は部下を怒鳴りつけた。

 

「おい! お前ら! 嬢ちゃんを不安がらせてるぞ! 何腑抜けてるんだ! ちびの曹操率いる兵なぞ恐るるに足らんわ!」

 

兵士達は奮起した。

劉備の存在はそれだけで無名の兵士達を奮い立たせる。

その兵士達に諸葛亮はその知の限りを尽くして策を練る。

結果として、この時、劉備率いる兵士達は歴戦の精鋭にも優るとも劣らなかっただろう。

死力を尽くしている以上、長くは戦えない。

それでも、この時だけを見れば劉備率いる兵士達は歴史に名を残すに相応しい奮迅を見せていた。

 

だが――

 

「貴様ら! いつもの訓練を思い出せ!」

 

夏侯淳が叫ぶ。

 

「戦闘部隊を援護する! 回りこんで一斉に発砲するぞ!」

 

夏侯淵が銃騎兵をまとめながら夏侯淵が叫んだ。

 

曹操は配下の騎兵に凄まじい訓練を課していた。

曹操に敗北は許されないのだ。

付き従う優秀な配下のため、そして何より曹操自身、己に敗北を許すつもりなどなかった。

 

「何をやっているの! 劉備など、無名の将に相手に何を手こずっている! 突き破りなさい!」

「撃て!」

 

曹操が檄を飛ばすのと夏侯淵の合図はほぼ同時になされた。

間近での発砲音に鼓膜をしたたかに打たれた劉備軍の兵士達の僅かな同様。

それを見逃さずに一斉に攻勢をかけた曹操軍はとうとう劉備軍の陣形を崩壊させた。

 

 

「目的は直ぐ先! 画竜点睛を欠く事の無いよう奮起せよ!」

 

曹操が叫ぶ。

既に袁紹軍本陣が視界に入っている。

曹操軍は死に物狂いで袁紹軍本陣の最後尾に突撃を仕掛けた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「荀大老師殿! ご無事ですか!?」

 

茫然自失していた友若にメガネをかけた利発的な女性が声をかけた。

 

「え……あ、ああ……」

 

友若は言葉にならない返事を返す。

微かに眉をひそめた女性。

 

「馬を連れて参りました。すぐに指揮を執ってください。曹操軍が強襲しました」

「え、そ、そんなこと言われても……君は?」

「私は郭奉孝と申します。本陣の伝令を任されております。荀大老師殿、指揮を。袁州牧のいる本陣は混乱しております」

 

郭嘉の言葉に友若は頭を抱えた。

曹操に勝てるわけなど無い、と思っていた友若であるが、そこに銃火器が加わるとなれば最早どうしようもない。

やはり、三国志の覇者と戦うことなどするべきではなかった、と友若は後悔する。

彼女達は文字通りバケモノなのだ。

曹操にいたってはあのバケモノである荀彧を配下にしているのだ。

あのプライドが高く、人を見下す事に情念を燃やす荀彧を、と友若は自らを棚に上げて思った。

そっくりそのままブーメランである。

その曹操が官軍に属している、という情報を手に入れた段階で逃げるべきだった、と友若は悔いた。

 

「げ、元皓殿は?」

「先ほどの攻撃による爆発で負傷されています。そもそも、袁州牧の筆頭軍師は貴方ではないのですか?」

「……」

 

友若はこの時ほど過去の自分を殴りたいと思ったことはなかった。

かつて、株式制度により冀州が大きな成功を収めた時に、田豊は友若に軍事についての知識があるかと尋ねた。

調子に乗っていた友若は自らの軍略が孫氏にも匹敵すると嘯いた。

結果としてそれを驚くほど素直に信じた田豊により友若は軍事面でも幕僚として扱われるようになったのだ。

そして気が付くと、何故か軍事面でも友若は袁紹配下として最高責任者になっていた。

 

原因は友若を大きく勘違いしている田豊である。

友若が政治以外にも軍事に関しても才能を有していると思い込んでいた。

田豊は経験的に飛び抜けて優秀な人間というものは万事に優れている傾向があることを知っていたのだ。

なまじ、友若が田豊の理解を超えた経済政策を大成功させたのが不味かった。

軍事に関して天才だという友若の法螺を田豊はあっさり信じたのだ。

 

細かいことは気にしない友若はそんな勘違いをされているなど思ってもいなかった。

何も考えずに権限が増えたことを面倒くさがりながらも喜んでいた。

その後、軍事に関しても権限を得た友若は失業対策目的で私兵の数を増大させたり、鉄の価格維持を目的として大量の弩と矢を作らせたり、と好き勝手にしていた。

だが、そうした権限はいざという時、曹操を相手に戦う立場と引き換えである事を友若は郭嘉によって思い出させられた。

 

――割に合ってねえぞ! 全然割に合ってねえぞ! 銃火器を、大砲を使うバグ連中が相手だなんて聞いていないぞ!

 

思うままに権力がもたらす自由を満喫していたはずの友若は内心で喚く。

そんな友若の余りにも無様な様子に郭嘉が口を開いた。

 

「急いで下さい! 時間がありません。このままでは曹操にいいようにされて折角の勝利を台無しにしてしまいます」

「い、いやいや、相手は大砲を使ったんだぞ! 勝てるわけがないだろう!」

 

現実逃避していた友若に知りたくもない現実を思い出させた郭嘉。

その存在を疎んだ友若はこの低能が、と内心で思いながら乱暴な言葉で言い放った。

銃火器という近代戦で独壇場の武器を見て恐れもしないなんて所詮は野蛮人か、と友若は思う。

対する郭嘉は不思議そうに眉を顰めた。

 

「既に官軍の両翼の大半は撤退し、中央も潰走に追い込んでいます。恐らく袁州牧を狙った曹操さえ潰せばこちらの勝利は完全に確定するでしょう」

「その曹操をどうやって倒すっていうんだよ! 連中は銃火器を使っているんだぞ!」

「先程の攻撃でしたら今は使えないはずです。曹操騎兵隊がこちらに攻撃を仕掛けています。味方を巻き込む危険がある以上、あれはしばらく無いでしょう」

 

郭嘉は理路整然と答えた。

だからどうした、と友若は内心で吐き捨てる。

そんなことが分かったからといって、何の役に立つというのか。

友若が求めているのはその曹操への対処方法だ。

使えねー、と内心で呟く友若。

使えないのは間違いなくお前のほうだ、とツッコミを入れる人間は存在しなかった。

 

「目下の問題は如何に曹操率いる騎馬隊を撃退するかです」

「無理に決まってんだろ」

 

友若は即答した。

仮にも袁紹軍の軍略を司る人間が絶対に言ってはいけないはずの言葉である。

郭嘉は実は友若はただの小物なのではないか、と思い出している。正解であった。

ただし、転生チート知識持ちなのだが。

 

何はともあれ、郭嘉も立場上、袁紹が勝利するべく力を尽くさねばならない。

取り敢えず、郭嘉は先程の友若の言葉を聞かなかったことにして、現状の説明をすることにした。

 

「情報が錯綜していますが、曹操自身が騎兵を率いて我が軍左翼へと突撃している事は確実でしょう。曹操が愚かでないのであれば、袁州牧その人の命を狙っているものと思われます。我が軍の左翼を突き破り、本陣をも崩してみせるというのは中々信じがたいことですが」

 

曹操軍の爆撃により混乱した状況下で正しい情報を抽出した郭嘉。

その凄まじいまでの有能さに欠片も気がつくことない友若。

袁紹軍左翼の方向から断続的に聞こえてくる破裂音に身を竦ませながら叫んだ。

 

「大砲を、銃火器を使ってくる連中だぞ! できるに決まってるだろうが! ……ど、どうしたら……くそっ! どういうことだよ! 冗談じゃねえぞ!」

「先程からの破裂音の正体が銃火器だとして、それほどの威力を持っているのですか? 火薬を使っている様子ですが」

「何を言ってるんだ! 前時代的な武器なんか相手になるわけがないだろうが! 火薬で弾を打ち出すんだぞ! 火薬の量を増やせば、弓矢なんかと違って幾らでも威力と速度が出せるんだ!」

 

友若の言葉に郭嘉はなるほど、と相槌を打った。

何がなるほどだ、と友若は内心で毒づく。

 

「銃火器というものにずいぶん詳しいのですね」

「当たり前だろう! 昔、実家で簡単な火縄銃を作ろうとしたこともあったんだぞ」

「曹操の配下に荀大老師殿の妹君が居ると聞き及んでいますが、もしかするとその妹君が曹操に銃火器を持ち込んだのでは?」

「っ!!」

 

郭嘉の言葉に友若は蒼白になった。

そうだ、あのバケモノは銃火器の存在を知っていた、と友若は思い出す。

その様子を見た郭嘉は納得した様子で頷く。

 

「荀大老師殿、時間がありません。銃火器に関して知っていることを話して下さい。まず、それについて知らなければ対応出来ません」

「さっき言った通りだよ! 鉄の筒に火薬と鉛球とか金属の弾を入れて点火して爆風で弾を飛ばす仕組みだ。弩なんかと違って弓を引く必要がないから上手く作れば連射もできる。最終的には何百っていう弾を一瞬でばら撒けるようになるさ! 射程距離も全然違う! 弓矢の十倍くらい簡単に達成できるさ!」

「しかし、曹操軍の持つ銃火器はそこまでではないでしょう。それだけの事ができるなら騎兵の突撃も必要なくなる」

 

郭嘉は少考した。

 

「恐らく、曹操の持つ銃はある程度の連射性能を持ち、馬上で弾の装填ができるのでしょう。そして、その数はそう多くは無いはずです。ならば――」

「いくら考えたってあの連中が何を考えているなんて分からないだろう! と、とにかく、今はどう逃げるかだけを考えないと……」

「いえ、相手は騎兵。逃げられるものではありません。しかし、いくら銃火器とやらを持っていたとしても相手は寡兵。数に物を言わせれば敗北はありえません。だからこそ、曹操は死に物狂いで袁州牧を狙うでしょう。ともかく、銃火器について兵士達に伝えなければいけません。陣形を崩壊させるような事態は何としてでも避けなければ」

 

郭嘉が冷静に言い放つ。

どのような状況でも冷静さを保つことこそが重要であると郭嘉は知っていた。

その平静な様子にパニックに陥っていた友若もようやく我を取り戻した。

 

「じゃあ、えーっと、郭、兵士達への連絡は任せる。俺は袁本初様の下へ行く」

「分かりました」

 

頭を下げる郭嘉に返事を返す時間も惜しいとばかりに友若は馬に乗ると袁紹の下へと駆け出した。

 

「な、何としてでも本初様を逃さないと!」

 

友若は恐怖に涙しながら小さな声で言い放った。

 

「くそっ! 俺は何で本初様を助けたいなんて思っちまったんだ! 1人で逃げるべきだろうがっ! 曹操をどうにかするなんて無理に決まってる!」

 

友若は嘆きながら馬を走らせた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

曹操軍の突撃は苛烈の一言だった。

銃火器等、一切の小細工に頼らないそれ。勢いを止めれば死ぬと、決死の覚悟で攻撃を仕掛ける曹操軍。

対する袁紹軍は勝ち戦に浮かれていたところを背後から突かれる格好になった。

本陣付近での砲弾爆発のによって司令部が一時機能マヒを引き起こしたため、兵士達の動揺は十分に収まっていなかったのだ。

郭嘉が迎撃態勢を整えようと走り回ったが、彼女には十分な権限が与えられていなかった。

出世に関しては年齢序列の傾向が強い袁紹配下の弊害だった。

特異な才能の持ち主を十全に発揮する場が用意されていないのだ。

田豊の強い推薦がなければ友若も郭嘉等と同様に埋もれていただろう。

 

「くそっ! 弩兵を並べろ!」

「駄目だ! 敵味方が入り乱れている! 味方を殺すきか!?」

「『銃火器』とやらには気をつけろ! 大きな音がするが大したことはない!」

「それよりもこいつらを何とかしろ! 突破されるぞ!」

「うわああぁぁあ!」

「も、もう無理だぁぁぁ!」

 

一部の兵士達が悲鳴を上げて逃げようとする。

その動きは瞬く間に袁紹軍最後尾に伝播した。

元々、本陣後ろに配置される兵士達だ。決して練度は高くない。

劉備軍程の優秀な軍が最後尾に配置されるということがむしろ異常なのだ。

 

「雑魚には構うな! 突き進め! 袁紹の首をとった者には褒美を存分に取らせるぞ!」

「「「うおおおおおおオオォォォォォォ!!!」」」

 

夏侯惇が叫ぶ。

兵士達は雄叫びを上げてそれに答えた。

袁紹軍の最後尾を突き破り曹操軍は突き進む。

その先には袁紹軍の本陣があった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「おのれ! 曹操め! 袁本初様を何としてでもお守りしろ!」

 

本陣を守る精鋭の兵士達が叫んだ。

兵士の動きは素早かった。混乱した状況下にあって、予め決まっていたかのように隊列を整え、弩を構える。

袁紹の私兵の内、特に優秀であると認められた精鋭中の精鋭であった。

ただ、数は少なく500。局所的な兵力比は20倍に近い。曹操軍を止める事は絶望的であった。

周囲は友軍がひしめいているが、この瞬間、降り掛かった刃を払うためには何の役にも立たない。

 

「おい! 友若!」

 

精鋭の隊長が友若に向かって字を叫んだ。

なんて無礼なやつだ、と友若は状況も忘れて憤る。

常日頃、友若の作った連弩を散々馬鹿にしていた人物である。それでも彼女は友若の呼び名には大老師という怪しさ極まりない役職名を使っていた。

こんな連中と殿を務めるなんぞ御免だ、と友若は内心で思った。

 

「貴様が本初様を守れ!」

「友若殿! お願いする! 麗羽様を連れて逃げてくだされ!」

 

どうやって袁紹と共に逃げるかを考えていた友若は驚いて兵士長や田豊の顔を見た。

軍事の責任者として殿を押し付けられると思っていたのだ。

友若は袁紹を守るためにここに来たが、命を捨てる覚悟まではなかった。

2階級特進などには欠片も意義を見出さない友若は当然ながら適当な人間に全てを押し付けるつもりだった。

そして、他の人間も同様だと思っていた友若。

一応、兵士は仕方ないにしても、軍師などの幕僚が自発的に袁紹と共に友若を逃がそうとするというのは意外だった。

 

「え……?」

「ちょっ!? どういうことですの!?」

「麗羽様、お下がりください! 戦うのは私達の役目です!」

 

袁紹が退避を促す田豊に袁紹が苛立ちながら叫ぶ。

兵士長が袁紹に叫び返した。

 

「おい、友若! 何をボサボサしている!! 貴様は本初様を連れてさっさと逃げろ!!」

「は、はいぃ!」

 

兵士長の怒鳴り声の剣幕に友若は思わず裏返った声を返すと袁紹の乗る馬の鼻を引いた。

 

「ちょっと、友若さん! 私は逃げませんわ! 何で私が華琳の小娘如きに逃げなければならないのですか!」

「なっ!? 何いってんだこのアーパー姫!! 何時も何時も思ってたけど、どうしてあんたはこんなにあほなんだ!!」

「ちょっ! ちょっと、友若さん!! 今の言葉はどういう――!!!」

「――御免」

 

逃げることを拒否して暴れようとする袁紹の首筋を沮鵠が打ち付けた。

気を失い倒れる袁紹の体を沮鵠が支える。

 

「ボンクラ! 麗羽様を連れて逃げろ! 無事に麗羽様を逃せばさっきの言葉は聞かなかったことにしてやる!」

 

そう言って沮鵠は友若に袁紹の馬に乗るよう促した。

 

「……恩に着る」

 

馬を乗り換えた友若が小さく呟いた。

 

「何を殊勝なことを! そんな事を言う暇があったら麗羽様をどうやって逃すかを考えろ!」

「急げ! 何をやっている! 敵はすぐそこまで来ているのだぞ!」

 

兵士長が友若の乗った馬の尻を叩く。

袁紹が金に糸目をつけずに求めた汗血馬は嘶くと猛烈な速度で駆け出した。

 

「白凰、お前ら、死ぬなよ……!」

 

馬上で友若は呟いた。

 

「くそっ! 何なんだよ! 何でお前らはそんな……!」

 

その手には袁紹の体があった。

友若は何よりも袁紹を守らなければならない。

 

背後では袁紹までの道を塞ごうとする袁紹軍精鋭達に曹操軍が突撃するところだった。

曹操軍の槍が届くか届かないかの刹那、精鋭達は一斉に矢を放つ。

超至近距離で放たれた矢は容易く馬の体を貫き、馬上の兵士の命を奪った。

 

「「「うおおおおおおオオォォォ!!!」」」

 

袁紹軍の精鋭達は吶喊の声を上げた。

彼らが最強であると信ずる『真弩』を構え突き進む。

猛烈な勢いで迫る馬に臆することなく、彼らは突き進み、馬の腹に弩の先端を突きつける。

 

「馬を狙え! 曹操軍の足を断ち切るのだ!!」

 

圧倒的な質量と速度で迫る騎兵。それに踏み殺されながらも、精鋭たちは決して引かなかった。

 

「くっ! しつこい!!」

 

夏侯淳が袁紹軍の兵士を切り捨てながら叫ぶ。

七星餓狼が振るわれる度に血を流し死んでいく兵士達。

高々500。

しかし、死ぬまで止まることのない袁紹軍精鋭に曹操軍は思わぬ足止めを食らっていた。

 

「秋蘭、回りこむわ!」

 

その状況を見た曹操が叫ぶ。

周囲を取り囲む袁紹軍は動き出している。

時間の浪費は死へのカウントダウンに等しかった。

曹操の後ろを夏侯淵は少数の部下を連れて一気に袁紹軍精鋭の横を駆け抜ける。

 

「誰かやつを止めろ!!」

 

袁紹軍から叫び声が上がる。

袁紹軍精鋭は動けず、周囲の兵士達は組織だった動きが出来ていない。

それでも、何とか曹操達を食い止めようと馬に乗った男が曹操の行く手を遮ろうとした。

 

「曹操! 貴様には麗羽様に指一本――!」

「邪魔!!!」

 

とは言え、戦い慣れていない相手など武術も嗜む曹操の敵ではない。

交差する瞬間に首を切り落とし、群がる兵士達を斬り殺し、曹操は突き進む。

その目に立派な馬に乗った人物が映った。

曹操の愛するブレインたる荀彧と同じクセのあるブラウンの髪。

袁紹の快刀。

そして、友若の前に金糸の女性が乗っていた。

気を失っているのか女性の方は危なげに体を揺らしている。

 

曹操は一瞬、背後の夏侯淵を意識した。

振り向くことなく、夏侯淵が今まさに弓を引こうとしていると確信する。

 

曹操の目には駿馬に乗った2人の男女が写っていた。

友若の姿が曹操の瞳に反射する。

 

「――っ、秋蘭!!!」

 

曹操の声とほぼ同時に夏侯淵は矢を放った。

文字通り瞬きする間もなく友若へと飛来した矢は友若と曹操を遮るように駆け抜けた影によって弾かれた。

 

「先程は遅れを取ったが、次は同じ様には行かぬぞ! この関雲長が居る限り、先へは進めないものと思ってもらおう!」

 

美しい黒髪を一本に束ねた女性は青竜刀を掲げて叫んだ。

 

「っ! 天命か……」

 

曹操は唇を噛み締め呟いた。

 

「ここまでよ! 秋蘭!」

 

曹操は作戦の断念を決断した。

 

「耳を塞ぎなさい!」

 

決断を下してからの曹操の動きは素早かった。

懐から取り出した短銃を空に向けて引き金を引く。

破裂音とともに天を衝くような煙が生じた。

 

「っ! 夏侯将軍、あれを!」

「むっ! よし、撤退だ! 曹操様の合図が出た! 撤退に移れ! 馬を失った者を拾いながら撤退するぞ!」

 

夏侯惇が部下たちに指示を下す。

 

「ま、待て! 貴様ら! 逃げるのか!」

 

夏侯淵達に向けて叫ぶ沮鵠の声も虚しく、騎兵の機動力を存分に発揮した夏侯惇は瞬く間に遠く離れていった。

 

撤退に移った曹操軍の身の代わりの早さに袁紹軍は反応ができなかった。

さらに、再び袁紹軍を襲った砲弾の爆発。

袁紹軍がようやく陣形を整えて追撃しようとした時には曹操軍は既に袁紹軍の陣形をくぐり抜け弩の有効射程距離を越えようとしているところだった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

官軍と袁紹軍が大軍同士でぶつかり合ったこの戦いは袁紹側の勝利に終わった。

官軍側は官軍7万、豪族勢力2万を失い、脱走兵も含めれば文字通り半数以上の兵力を失い潰走した。

だが、袁紹軍は曹操軍の首狩り作戦により本陣への攻撃を受ける。

結果として、田豊や沮授を始めとした優秀な参謀、本陣護衛にあたっていた精鋭の全てを失った。

更に、これにより動揺した袁紹軍は官軍にとどめを刺す機会を失う。

純粋に勝利を喜ぶにはケチがつきすぎていた。

 

そして、友若は――

 




前半終了。
思ったよりも時間がかかりました。

以下中書き

さて、どうでしたでしょうか。
見切り発車的に書き始めた恋姫ssの様な何かですが、おかげさまで折り返し地点まで書き上げることができました。
後半はあれとあれ、あれ、あれ、あれ、あれとあれ、あれ、あれは全カットで、最後にあれで全部で7話くらいになると思われます。(※1)

・ネタバレもあるので余り書くことは無いのですが、オリキャラを含む登場したキャラについて少しだけ説明していこうと思います。ただし、今後のストーリーに深く関わりそうなところはノーコメントで。あと袁紹勢に限る。
……つまり、名前と特徴の列挙です。

袁紹勢
袁紹(字:本初 真名:麗羽) 愛すべきバカ。持つ者。
荀シン(字:友若 真名:??) 主人公 転生チートオリ主。ブラウンの髪。
田豊(字:元皓 真名:??) オリキャラ。もう出番はないです。
審配(字:正南 真名:怜香) 黒髪短髪関西系口調。持たざる者。
沮授(字:?? 真名:??) 出番はないです。
張バク(字:孟卓 真名:??) 真面目口調。MIKOFUKUの人だが、後半のプロットを考えた筆者によって半ば居ない子状態。
何ギョウ(字:伯求 真名:??) 誰これ? 袁紹の配下を調べている時に出てきた名前。
許攸(子遠 黄蘭) 金髪ふわふわ真面目風口調。持つ者。
沮鵠(字:?? 真名:白凰) 白髪活発系真面目少女。武の人だが何故か文官の仕事ばかりしている。持たざる者。
文醜(字:?? 真名:猪々子) 原作組。影が薄い。持たざる者。
顔良(字:?? 真名:斗詩) 原作組。影もない。
馬鈞(字:?? 真名:??) 技術者。真弩を実際に作った人。
郭嘉(字:奉孝 真名:稟) 原作曹操組。鼻血の人。

こんなところかな。
他の勢力についてはそのうち(※2)書き足します。

・思ったこと
まともに公開した(※3)二次創作はこれで2作品目ですが、こちらは何とか完結の目処がたちました。
終わりが見えるのは何というか嬉しいです。
10月、遅くとも11月には何とか完結させたいです。豚さんの方の内容を忘れかけているので。

・残念だったこと
ふと小説情報を開いたら総合評価が8889となっていた事がありました。この時、どうして、自分で評価を入れて8888のゾロ目にしてキャプチャしなかったのか、今でも悔やまれます。
あと、某所で山月記の話が出ていて、何であのネタを入れなかったんだあああァァァと身悶えしました。中島敦の名人伝とか大好きです。プロットは既にあってこのネタを入れる余地が思い浮かばないのが悔やまれてなりません。まあ、こんな場末ssに中島敦をネタとして持ってくるのお申し訳ないので、これでよかったのかもしれませんが。

・意外だったこと
銃に関しては当初の時期から(※4)導入を決めており、多少の批判はあるだろうと気楽に考えていました。
正直な所、株式制度の成功とか呂布とか呂布とか呂布とかもっとやばいと思っていた作者です。
あと、鉄の板バネを使っている『真弩』のやばさもあれです。皆さんあっさり流してましたけど。
むしろ、あっさり銃まで流されたらどうしよう、と思っていました。杞憂でしたが。

・お願い
感想に対する感想は止めてください。
こんな内容のssを書いている時点で筆者は批判ぐらい覚悟しています。
辛い感想は見なかったことにしています。

・今後
2、3週間更新を休みます。
誤字訂正とかをするつもりです。
感想返しもするかもしれません。

・感謝
こんなssですがお付き合いいただきありがとうございます。
ss書きとして誰かに読んでいただけると言う事に優る喜びはありません。
UAの増加に日々喜んでいる作者です。

※1 前半は当初6、7話くらいで終わる予定でした。
※2 その気になれば10年後、20年後も可能。
※3 知ってたとしても、見なかったことにしてください。
※4 大まかなプロットが決まったのが3話くらいだったような……すいません、嘘つきました。覚えてません。


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幕間
番外―言い訳一膳


この話は番外的な何かです。
本編の続きではありません。
この話を読まなくても本編の理解にそれほど差は生まれないはずです。
本編の背景紹介の一節として銃火器と恋姫世界の技術力について考察していたら予定より少々長くなったので一話として分割しました。
たったの16kなので本編と一緒にしても良かったかも……
今回は何時も以上に独自設定と妄想成分を多分に含むので注意して下さい。


銃火器。

正史においてそれの登場が確認されているのは十二世紀の後半である。

後漢の時代から千年の差がある。

更に、曹操軍に配備された小銃は後装式である。

李典は安全性や、製造コスト、経済コストを理由に前装式をプッシュしていた。

だが、荀彧と彼女に賛同した曹操に押し切られる形で後装式が採用されたのである。

このタイプの登場は十五世紀である。

後漢から三国時代にかけて火薬のかの字も存在していなかった。

いわんや銃火器。

 

当然ながら、創作物である三国志にもまずもって銃火器は登場しない。

火炎放射器の様な何かは何故か登場するが。あと、地雷も……

孔明先生の演義補正である。

ワープ魔法や天候操作と比べれば大したことがないのかもしれないが。

なんで、それで蜀が負けたの、と演義を読んだ人は思ったことがあるだろう。

失敗ばかりの北伐でも何故か司馬懿は公明にボコボコにされている。

 

ともかく、銃火器というのは三国志においてオーパーツに過ぎる。

いくらトンデモ設定が跋扈する三国志演義と言えども、銃火器を全面に押し出した作品はなかなか無い。

出していたとしても、個人の武器くらいの扱いで、制式化する話はかなり珍しいだろう。

というか、千年先の科学・技術を利用してはもはや三国志とは言えない。

名前が同じ人物たちが登場する別の何かである。

そんなものを三国志と言い張られては、温和なファンもキレざるを得ない。

 

少し視点を替えてみるとそのことは明白だ。

例えば、戦国時代において信長軍が千年先の科学・技術を利用したらどうなるか。

この場合、信長の利用できるテクノロジーは現代よりもはるかに進んだものになる。なにそれ怖い。

恐らく、無人兵器が空を飛びまわっては敵対勢力を爆撃し、敵対勢力の本拠地には衛星ミサイルが撃ちこまれる、とか訳の分からない状況になるだろう。

武将の活躍? なにそれ美味しいの? そもそも、戦場に兵士はいないですよ。核兵器で一発です。

そんなことになりかねない。

こうなっては、温厚な戦国時代ファンと言えども怒りが有頂天に達することは間違いないだろう。

そんなものは断じて戦国時代ではないのである。

 

かつて、荀彧に同じ土俵で勝てないことを思い知った友若は内政系転生チートオリ主の基礎項目であるKAYAKUで俺TUEEしてやるぜ、と銃火器の開発を試みたことがある。

友若は火薬の作り方など知らなかったが、幸いなことにこの世界には火薬が普通に存在していた。

火薬の存在を知った友若は喜び勇んだ。

後は銃本体だけだな、等と楽観的に考えながら、望遠鏡用に作ったレンズを放り捨てて友若は銃の開発に取り組んだ。

この時、もう少し望遠鏡の開発を続けていれば、まともなものになったのだが……

数々の失敗を忘却し、KAYAKUチートでこのクソ生意気なガキンチョをぐうの音も出ない様にしてやる、という暗い目的に燃えた友若。

そして、KAYAKUチートは失敗に終わった。

例によって実家の資金をドブに捨てる事になった友若はまだまだ時代が俺に追いついていないのか、等とニヒルに呟いた。

遊んでばかりいないでまじめに勉強しろと友若を非難する荀彧を無視しながら。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

だが、友若の生まれ落ちた恋姫的世界は三国志演義をベースにしているにもかかわらず、銃火器を製造出来るだけの技術的な下地があった。

銃火器の開発に必要な技術を二つだけ上げるとすれば、火薬の生成技術と鉄を丸めて筒を作る加工技術となるだろう。

どちらも正史のこの時代には存在しなかったものだ。

しかし、友若の生まれ落ちた恋姫的世界には普通にその双方が存在している。

 

まず、火薬。

中国三大発明の一つであるそれは古代中国、普の時代に発明されたと正史では伝えられている。

しかし、友若の生まれた世界には普通に花火があり、少量ながら火薬の生産も行われている。

友若の生まれた恋姫世界に何故花火があるのか。

その答えは女性達の服飾への絶えることなき情熱にある。

自分だけの服というものに拘りがあるのか、それぞれが全く別文化の出身と思える様々な服を身にまとっているこの世界の女性たち。

 

当然ながらその要望を達成するべく、服職人達は様々なデザインの服を世に生み出している。

同時に、斬新なデザインを実現するための技術についても相当に研究が進んでいるのである。

その一つが染色であった。

無数の要求に答えるべく、服職人達はは広範囲の色を実現するために無数の染料や顔料を見出している。

その一つに硝石を利用した染料がある。

植物素材等による色合いとは違ったそれは主に高所得者に好まれ、彼女たちの需要を満たすために硝石の生産は体系だって行われていた。

その硝石を使った新たな染料を研究している際、偶然にも発見されたのが火薬であった。

……色々と無茶があるが、とにかく友若の生まれたこの世界ではそうなっている。

正史での火薬の発見は不老不死の薬を求めた結果の副産物だったと言われているし、染料研究の副産物として火薬が生まれた所で何のおかしいところも……おかしいところしかないがそういうものだと納得してもらうしかない。

どっちにしろ、恋姫世界に花火、火薬が存在している事実は揺るがない。

 

そして、鉄の加工技術。

これもまた、女性、特に武将達の装飾に対する情熱が原因である。

飽くなき美の探求が砲筒を加工するだめの技術力を達成させたのである。

曹操や袁紹の身にまとっている鎧を見ると明白にわかるが、この世界の名のある女性たちが身にまとう鎧は漢帝国で一般に用いられているものと大きく異なっている。

漢帝国で一般に用いられている鎧は無数の鉄片を組み合わせたものである。

対して、精々数枚程度の金属を体型に合わせて加工する事によって有力な女性達が身にまとうそれは構成されている。

 

鉄片の組み合わせによる鎧は寸胴の服のようなものでボディーラインが隠れてしまう。

その結果、外から見ると寸胴体型となってしまう。

鍛えあげられて引き締まった肉体美もこれでは台なしである。

ただでさえ、出会いの少なめな武官にしてみればたまったものではない。

様々な意匠の服を自由に選べる文官と比べて、鎧をまとう必要のある武官はどうしても不利な立場に追いやられてしまう。

お洒落と恋愛の面で。

だが、鎧を身に纏わないのは危険が過ぎる。一部のチート武将ならいざ知らず、一般的な武将や兵士達にしてみれば鎧を装着しないというのは自殺行為だ。

しかし、金属を体型に合わせて加工すれば、鎧を身にまとっても体の凹凸のボディーラインを周囲にアピールすることができるのである。それどころか、かさ上げも……

もちろん、鎧の最大の目的は身を守ることだ。

当然、鉄片の鎧に対して同等かそれ以上の防御性能を達成しなければならない。

そのためには素材として加工が容易な青銅ではなく、鉄板を用いる必要がある。

つまり、曹操や袁紹などが身に纏っている鎧は鉄板を打ち叩き、変形させて作られているのだ。

鉄板から打ち出しで作る鎧は、開発されると瞬く間に女性の武官達の憧れとなった。

そして、この鎧加工を実現したのが肉厚な鉄板を自在に加工する技術である。

これを流用して、鉄板を丸めれば普通に鉄筒が作れる。

曹操の肩当てとかの複雑さに比べれば大したことはない。

そして、これに少し手を加えれば、鉄砲の開発は十分可能なのである。QED。

そんな無茶な話があるか!

 

……理論的に恋姫世界の服飾から見る技術レベルを考察すると銃火器が作れてしまう結論に至ってしまった。

銃火器の開発はご都合主義に投げて誤魔化すつもりだったのに、筆者としても予想外の結果である。

世の中にはお約束として突っ込んではいけないものがあると言う事の実証である。

賢明なる紳士淑女の読者方の中に二次小説を書こうと思っている/書いている方がいれば、この惨状を教訓としていただければ幸いである。

下手にメタ設定に突っ込んではいけないと。

お約束とはお約束として流すべきであると。

 

筆者も今回の事を教訓にして、まおうえもんの持っているスパナのようなものとか謎発明は無視する方向で話を進める。

あそこら辺を考えだすと、むしろ機関銃が存在しないのはどうしてなのか、とかそんな話になってしまうし。

豪天砲?

無視無視。

まおうえもんが作ったらしいあれを考えると、鉄の切削加工の存在を疑わざるをえない。

恐らく、基本的なパーツは鋳造で作れるだろう。

正史でも漢帝国はかなりの鋳造技術を持っていた。農耕器具等を始めとして様々な造形が可能であった。

欧州比べて一千年くらい進んでいたかもしれないレベルである。

火薬の存在があれば大砲位発明できていたかもしれない。

ただ、鋳造だけではどうしても加工精度が出せない。

簡単な筒ならともかく、複雑な機構を持つ豪天砲には精密な追加工が必要となるはずだ。特に、回転シリンダー部分とか切削でもなければどうやって作ったんだ。あとシリンダーの固定軸の位置合わせとかも。シリンダー自身の回転軸と装填穴の距離は一定にしなければならないはずなのだ。

鋳造でそれだけの制度を出せるわけがない。切削や研削による追加工が有ったはずである。

しかし、研削であれだけのものの芯出しをしようと思うとどのくらい時間がかかるか考えたくもない。

年単位で制作に取り組むならともかく、次から次へとポンポン発明品を世に出しているまおうえもんはもっと短時間で加工をしたはずである。

つまり、まおうえもんは鉄の切削をしたのだ。

だが、まともに切削をするためには鉄よりも固い素材が必要となる。

そんな素材は恋姫世界と言えどもそうそう存在しない。鋳鉄は硬いのだ。硬さ最強として有名なダイヤモンドは鉄には使えない。少なくとも高速に切削すると熱で鉄に溶ける。

とは言え、まおうえもんには最強の工具、ドリルがある。そのドリルをどうやって作ったのかは謎極まりないが。鍛造? 成型した後に表面処理をして硬化すればいけるのだろうか。

……。

……まおうえもんは凄いなあ。ボクにはとてもできない。

 

結論すると、恐るべきは恋姫世界の女性達の持つ服飾への情熱なのである。

より美しい服、より斬新な服のためには多少の科学・技術的飛躍(ほんの千年ちょっと)を容易く成し遂げてしまうのだから!

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

例によってメタな文章が続いたが、話を戻そう。

 

友若の生まれた漢帝国は普通に鉄砲が作成可能なだけの技術を有している。

もし、友若が荀彧にボロクソに言われて挫折しなければ、鉄砲発明者として友若の名は知れ渡ったかもしれない。

 

もっとも、鉄砲を作ったからといってそれが採用されるかといえば、無理だっただろう。

鉄砲を運用するためには多数の優秀な技術者と莫大な費用が必要になる。

当然ながら、そんなことができる財力を持った人物はそうそういない。

 

そして、この時代の技術力で量産できる銃ならば弩の方が普通に威力が高いのだ。

弩、西洋でクロスボウとして知られるその兵器の威力は凄まじい。

正史でも清代まで普通に弩兵の兵科が存在していたし、第一次世界大戦でも使われていたほどである。

さらに、特殊任務などでは銃火器の消音がまともなレベルに達するまで普通に使われていた。

ある意味、弩は最も寿命の長い実用的な兵器の一つと言えるかも知れない。

戦国時代、日本であれほど鉄砲が広まったのは弩という兵器が存在していなかった事が大きいだろう。戦国時代までの日本の飛び道具はお察し下さいレベルのものしかなかったのだ。

 

友若が武官に鉄砲を売り込もうとしても当然ながら、何故弩よりも低威力なのに金のかかる鉄砲を何で採用しなければいけないのか、と切って捨てられただろう。

曹操ですら、この時点で銃火器を持ち込まれてもそれを使おうとは思わなかっただろう。

そもそも、連射性能という点でも前装式の銃は弩に比べて優れてなどいない。

後装式は構造が複雑になることや、銃の破損を防ぐために威力が低下する等の問題がある。

事実、曹操軍で使用されている後装式の銃の威力は鉄の板バネを利用した袁紹軍の『真弩』に比べてはるかに劣っている。

実は友若がおざなりに開発した『真弩』は友若の転生チート知識の極みである。友若は苦労の果てに作り上げた連弩を潰すことになった『真弩』を嫌っており、その事に気がついてもいなかったが。

それどころか、官軍で利用されている木材の弓を持った弩と比べても威力の点で優れているとは言い難い。

流石に友若が連弩と言い張る玩具よりは威力が上だが。

いずれにしても、財政難に苦しんでいたこの時の漢帝国において高価な玩具を大量購入するような物好きはいなかったであろう。

 

更に、銃火器は戦闘の度に高価で希少な火薬を使用する。

特に、火薬の材料となる硝石はその生産の殆どが染料用に利用されており確保は難しい。

ただでさえ、硝石は生産量が少なく買い手市場だった。

硝石を生産できる技能者がその方法を秘匿しているため、どうしても生産量が増えなかったのだ。

火薬の大量消費を促すような物を作れば、硝石を使った染料の独特の色合いを好む富裕層の女性達を敵に回すだろう。

富裕層である彼女達は当然ながら権力ともつながりがある。

そして、研究開発というのは権力者の後ろ盾が無ければ不可能なものなのだ。

事実、友若以外にも火薬を武器に転用しようという試みをした者はいたが、硝石の確保が難しく結局失敗に終わっている。

しかし、そこは冀州のどろどろした権力闘争の存在にすら気が付かないお花畑の友若。

火薬を兵器として利用することに失敗してきた経緯を知りもしない友若は銃火器の開発が危険を含んでいることなど知りもしなかった。

当然ながら荀彧はその危険を認識していた。

だからこそ、友若に銃火器開発を止めるよう荀彧は口やかましく言ったのである。

KAYAKUチートに絶大な信頼を寄せていた友若はそれを嫉妬か何かと勘違いして聞き流していた。

いくらバケモノが跋扈する世界だとはいっても、科学技術等は恐らく時代相応だと思っている友若。

ならば、オーバーテクノロジーを転生チート知識より生み出せば目の前のバケモノを上回れるはずだ、と友若は信じていた。

そして、現代戦では完全に主役となったKAYAKUこそ友若の俺TUEE伝説を始めるに相応しい、と友若は考えていた。

今まで散々だったにもかかわらず靴底のガムのように諦めの悪い友若だった。

 

「ふん、鉄砲という天才的な発想を否定するだなんて」

 

鉄砲の存在を絶対視している友若は荀彧を小馬鹿にする様に言い放った。

銃火器が他の兵器を駆逐していった歴史を知っている友若。

無駄に上から目線であった。

青筋を浮かべる荀彧。

それでも、荀彧は論理的に友若を説得しようという努力を止めなかった。

 

「だから、火薬を利用した兵器開発は危ないって言ってでしょうが! そもそも、弩と比べてあんたの言う銃の威力は全然ダメじゃない!」

「あ、あれはまだ試作だったからで……」

「しかも、3発目を撃とうとしたら割れて爆発するし! もう少しで大怪我するところだったのよ! それも私まで! 何考えてんのよ!」

「う、うっせー! こいつさえ完成すれば戦争自体が変わるんだよ! 火薬の量を増やせば弓とか弩とかとは比べ物にならないくらいの威力が出るし、並べて撃てば最強だ! 三段打ちの無双ぶりを知らないのかよ! 数さえ揃えばひたすら弾幕をはることもできるし! 十字砲火とかもあるんだぞ!」

「寝言は安全を確保してから言いなさいよ! そもそもこれで何回目の失敗よ! いい加減問題があることを認めなさいよ! 火薬に割れやすい鉄を使うなんて頭が悪すぎよ! どうしても鉄が使いたいなら鎧に使われてる鍛えあげられた鋼を使うとか、もっと工夫をしなさいって私は何度も言っているでしょうが!」

 

憤る荀彧。

その怒りは当たり前のものだった。

何しろ、友若の作った『鉄砲』とやらは酷い。

相当な資金を費やしたにしては微妙過ぎる出来であった。

特に何時暴発するかわからないという問題は致命的だった。

恐ろしいことに、友若は銃身を鋳造で作った。

鋳造した鉄は炭素を多く含み、非常に脆い。

当然、爆発の衝撃で簡単に割れる。

鉄の鋳物による大砲は正史に存在したが、割れないよう肉厚を厚くするなどの工夫をしている。

それでも青銅の大砲より割れ易かった。

個人携帯用の銃火器開発を目指している友若の作った鋳物は肉厚が薄い。

割れないわけがなかった。

使いにくいどころか使用者の安全に関わる『鉄砲』に固執する友若の有り様は他の人間から見れば狂気の沙汰としか思えない。

正史において初期の個人携帯銃火器の銃身は鉄板を折り曲げで作られている。

明晰と言う言葉が陳腐にすら聞こえる荀彧の頭脳は容易く正解を言い当てていた。

しかし、荀彧の忠告に従う気などない友若。

 

「嫌ならほっとけよ!」

 

ぶっきらぼうに友若は言い放つ。

 

「私はお母様にあんたがめちゃくちゃしないよう見張りなさいって言われているのよ!」

 

荀彧が言い返した。

事実である。

妹である荀彧にあらゆる分野で追い越された頃から始まった友若の奇行は荀家の悩みの種となっていた。

曰く、農業収穫が十倍になる農法を考えた、十里先の物が手に取れるかのように見える装置を思いついた、等など冗談か何かとしか思えないアイデアを次々と言い出すのだ。

それだけならまだしも、それらのアイデアを実用化するために資金提供を求める友若に家族は頭を悩ませていた。

荀彧を除けば抜きん出てはいないものの最も優秀な友若。

そこそこ口が回り、何より詭弁に優れている友若を論破するのは難しかった。

姉や両親が言葉で説得しようとしても、友若の突飛な発言に翻弄された結果、いつの間にか友若が正しいことになってしまうことが多かった。

例えば、友若の発言の中には儒教思想の否定が含まれている事がある。これを迂闊に外で発言しようものなら大変なことになりかねない。

アイデアを実用化しようと没頭している間は余計なことを口走らず、大人しいのだ。

渋々、荀家は友若の道楽を認めた。

荀彧に負けて以来、勉学に意欲を見せなくなった友若がこれで自身を取り戻すのならば、資金提供に値すると両親は考えたのだ。

それに、友若は愚かではないのだから、何かしら成果を出すかもしれないという期待もあった。

ところが、それなりの資金を使い込みながら全くもって成果を出さない友若。

転生チート知識を持っている友若の方向性はそう間違っていない。

最後まで物事をやりぬく意志の欠如が原因だった。

だが、突飛な友若のアイデアは結果を出さないことには認められるわけがない。

そして、一向に勉学には見向きもしない友若であった。

 

両親が遂に業を煮やした結果、出番が回ってきたのが荀彧であった。

あらゆる点で友若を圧倒する荀彧であれば、妙な発言に翻弄されずに容易く友若を論破することが出来る。

友若が心折れた原因を考えれば、荀彧に見張らせる事は悪手である。

だが、他に適当な人材がいなかったのだ。

 

兄の監視を任された荀彧は奮起した。かつてない熱意に燃えた。

そして、その能力の限りを尽くして友若に付きまとい駄目出しを続けた。

転生チート知識をそのまま実現しようとしている友若の試みは荀彧から見れば無数の問題を抱えている。

技術・経済・宗教・政治、あらゆる分野に精通した荀彧の言葉は疑いようもなく正しかった。

結果として、友若は多大なストレスを抱え込むことになった。

もし友若に煽り耐性があるならば、荀彧の指摘により問題点を的確に把握することも可能だった。そうすれば、友若の転生チート知識はもっと早い段階で日の目を見ていたかもしれない。

しかし、荀彧をギャフンと言わせるという暗い目的を持つ友若にしてみれば、妹の意見に従うことは敗北を意味していた。例え、荀彧の意見が的を得ていると内心で思っていたとしても。

友若の無駄且つ姑息なプライドであった。

それが原因で成功を手にすることが出来ないのだからただのアホである。

 

転生チート知識は状況の異なる漢帝国にそのまま適応することはできない。

社会や文化、経済、技術といった様々要素に適応させて初めてチート知識は真価を発揮するのだ。

そして、言うは易く行うは難しという言葉があるように、知識を実利に結びつけるプロセスには相当の困難が伴う。

友若は余りにもこの過程を軽視していた。

これではとても上手く行くわけがない。

しかし、それでも本来なら友若はもっと簡単に名を馳せることができたはずである。

なぜなら、友若には一を聞いて百を構築する荀彧という妹がいるのだ。

思いついた側から転生チート知識を適当に話すだけでも荀彧はそれを昇華させる能力がある。

普通に荀彧の言葉に従っていれば鉄砲の開発に留まらす、それ以外の試み全てで成功をおさめることができただろう。

 

それでも荀彧の言葉を無視し、服にこびり着いたシミのように次から次へと様々な試みに挑戦する友若。

まだ、己の才能と転生チート知識を信じていたのだ。

妹なんかに負けてたまるかというプライドもあった。

 

そんなこんなで盛大に失敗を重ねる友若に荀家は驚いた。

その奇抜なアイデアに、ではない。

何の成果も出せず、荀彧に論破ばかりされている友若に対して荀家は資金提供を止めていた。

友若の試みに必要となる資金は少額ではない。

にも関わらず、友若は研究に必要となる資金を何処からか捻出していた。

不思議なことに、友若が家の資金を使い込んでいる様子はない。

何か危険なことをしていないか。家の不利になる事をしていないのか。

当然ながら友若に疑いを抱いた母親荀コンは荀彧に資金源を調べるように命じた。

 

荀彧は友若と同じようにちょっとした商売のようなものを行なっていた。

友若が何も考えずに呟いた転生チート知識の欠片を荀彧は拾い集め発展させていたのだ。

それを小馬鹿にする友若。友若の持つ転生チート知識から見ても中々の着想を見せる荀彧だが、その稼ぎは決して多いとは言えなかった。

友若は、自分ならもっと稼いでみせるのに、と内心思っていた。

自分がやってもいないことで他人を馬鹿にする当たり、友若は腐りきっていた。ドロの罠で腐ったレベルまで改善する必要があっただろう。

因みに、荀彧は敢えて稼ぎを少なくしていた。商売というものは儒教思想と対立しやすい。公然と儲けすぎれば他者の反発を招くと荀彧は判断していた。

その判断能力がない場合にどうなるか、という答えが袁紹と友若の逆賊指定である。

 

ともかく、荀彧が漢帝国の実情に合わせて昇華させたそれはそこそこ成功を収め、荀家にもリターンをもたらしていた。

さらに、事業を通して荀彧は地方豪族を中心に幅広い人脈を築いていた。この人脈は後に荀彧が洛陽で清流派として台頭する際に大いに役に立つことになる。

この様に商売にも造詣のある荀彧ならば友若の資金源を突き止めることも訳ないだろうと荀コウは考えていた。

そして、調査を命じられた荀彧は使用人に聞き込みを行った。

 

「友若のお坊ちゃんがどこから資金を得ているのか、ですか? さ、さあ……私には全く分かりません」

「わ、私も、わ、分かりません。ほ、本当ですって!」

「え? いや、普通に文若お嬢様が外で稼いできた金を――」

「……そう言えばあんたには賭博の借金を肩代わりしたことがあったわね。今すぐ返してくれないかしら」

「な、何も知りません! 坊ちゃんがどこから金を得ているかなんて知りません!」

「ならいいわ。これだけ調べて分からないなら事件は迷宮入りという事ね。あ、借金はお金がまとまった時でいいわ」

「……」

「……」

「……」

 

だが、不思議なことに荀彧の頭脳を持ってしても友若の資金源を突き止めることはできなかった。

荀彧の調査の結果、荀家やそれに関係する者達に不利になる事を友若がしている様子はない、という事が分かっただけであった。

予想外の結果に驚いた荀コン。

問題はないにしても友若の資金源を突き止める必要があると荀彧に引き続き調査するよう命じた。

因みに、友若は実家からの資金提供凍結に気が付いてもいなかった。

 

「大体、何ですぐ近くで火を付けるのよ!? もう少し遠くから火薬に火を付けられるようにするとか、そのくらいの工夫はして見せなさいよ!」

「う、五月蝿い! これは携帯用を目指しているんだ! 手で持って使えなきゃ意味が無いだろう!」

「携帯用にしたいならまず暴発しない物が作れてからよ! もう少し頭を使ったらどうなの!? このばか兄貴!」

「なっ!? バカって言ったほうがバカなんだぞ! バーカ、バーカ!」

「言った側から自爆してどうするのよ、ばかー!」

 

寝ても覚めても付きまとうことを止めない荀彧。

ノイローゼ気味なった友若が家出同然に洛陽に行くと言い出す1年前の話であった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

曹操を理想の主として頂いた荀彧はその才能を思う存分に発揮した。

荀彧の文官としての能力は比類なく、時をおかずに曹操配下の文官筆頭として敏腕を振るうことになる。

また、宦官の孫である曹操にとって清流派として名の知れた荀彧が配下にいるということは重要であった。

あの荀彧が仕えているのならば、と優秀な人間が集まってくるのだから。

更に、荀彧は先見の明を示した。

袁紹が奇異な制度を立ち上げるとすぐに動いた荀彧は曹操の貨幣収入を十倍に押し上げた。

曹操は荀彧をして、王佐の才、と称えた。

優秀な部下に恵まれた曹操は漢帝国の臣下として出世を重ねていく。

やがて、曹操は西園八校尉として皇帝が新たに設立した皇帝直属軍の取りまとめを任されることになった。

曹操に期待を寄せる皇帝はこの軍についての大きな裁量権を曹操に与えていた。

その中には部隊編成に関する権限もあった。

如何なる軍を作るか。

曹操は思案した。

 

「春蘭、貴方はどう思うかしら?」

「はっ! 私が華琳様の敵を全て蹴散らしてやります!」

「……ばっかじゃないの」

「なんだと!? 荀文若、貴様!」

「止めなさい、春蘭。桂花、貴方もよ」

「「申し訳ありません!」」

 

曹操の言葉に同時に謝罪する夏候惇と荀彧。

荀彧の手に包帯が巻かれている包帯に曹操は一瞬視線を送った。

 

「桂花、貴方ならどうするかしら」

「腹案を申し上げる前に華琳様に見せたいものがあります。お手数ですが、ご足労願います」

「分かったわ、桂花。態々足を運ばせるのだから当然期待して良いのよね?」

「はい」

 

荀彧は曹操、夏候惇、夏侯淵を引き連れて兵士達の訓練場となる予定の平原へと向かった。

 

「あちらです」

 

荀彧の指し示した先には複数の兵士達と李典がいた。

 

「あら、また新しい発明かしら」

 

曹操が尋ねる。

荀彧は李典と共に画期的な道具を次々と生み出していた。

曹操が絶賛した双眼鏡もこれに含まれている。

 

「……兄が昔作ろうとしていたものです」

 

荀彧が答えた。

包帯が巻かれた手は強く握られていた。

こういう時、曹操は荀彧が実の兄に強い感情を抱いている事を否応でも認識させられる。

もちろん、曹操と荀彧との絆は決して浅いものではない。

荀彧は心の底から曹操を敬愛し、仕えている。もし、荀彧が兄と曹操のどちらかを選ぶことになったら、彼女は曹操を取るだろう。それだけの自信が曹操にはあった。

しかし、曹操は心を微かにざわめかせた。

 

「……ふふふ。荀シン……あれだけのものを考案するなんて。是非とも会ってみたいわね」

「華琳様の御心を知れば、兄も光栄に思うでしょう」

 

荀彧は懐かしむように言った。

曹操ほどの大器の持ち主に見初められたと知ったら歓喜するに違いないと荀彧は思う。

荀彧の脳内で微妙に美化されている友若。過去の記憶とは美しいものなのだ。

頭脳の天才たる荀彧と言えど、その性向からは逃れられなかった。

もし、現実の友若が曹操に注目されていることを知ったら普通に逃げ出すだろうが。

 

「華琳様! ようこそ! 夏侯両将軍も歓迎します」

 

曹操の元に駆け寄ってきた李典が言う。

 

「お出迎えご苦労。それで、今度は何を見せてくれるのかしら?」

「もうすぐ始まります。華琳様、一応馬から離れておいて下さい。暴れだす危険があります」

「ふん、何を言うか。華琳様の馬はもちろん、私たちの馬もよく鍛えられた軍馬だ。そこらの臆病ですぐ暴れる馬とは違う」

 

荀彧の言葉に夏侯惇が噛み付く。

 

「それなら結構ね。その馬を信頼しているならあんたは側に突っ立ていればいいんじゃない。でも、華琳様からは引き離しておきなさいよ。万が一が無いように」

 

夏侯惇に一瞬顔を向けた荀彧は小馬鹿にするように言う。

 

「ふむ。春蘭、馬から離れておきましょう」

「は、はい」

 

曹操の言葉に夏侯惇と夏侯淵は従った。

2人が馬から距離を取ったのを見た荀彧が包帯の巻かれた手を振る。

準備が出来ていたらしい兵士達がその合図に動き始めた。

筒状の物を構え、その先を4半里程離れた的らしき物へと向けている。

 

「華琳様、大きな音がします。ご注意下さい」

 

荀彧が曹操に注意を促した。

兵士達の持つ筒から煙が上がると同時に、破裂音が鳴り響いた。

夏侯惇と夏侯淵の乗ってきた馬が驚き、前足を高く上げて大きく嘶いた。

曹操の愛馬ですら首を振って不安を示す。

 

「おい! こら、こんな程度で暴れるな! 私の馬だろうが!」

 

夏侯惇が慌てて暴れる馬を取り押さえに向かう。

その様子に視線を向けることすらなく、曹操は兵士達の持つ筒を凝視した。

 

「桂花! あれは何?」

「はい、華琳様! あれは『銃』です」

「今のは……火薬を使っているということかしら」

「そうです。火薬の爆発によって弾丸、金属の玉を打ち出す武器です」

「火薬を使った矢の試みについては話を聞いたことがあったけれど……どのくらいの威力が出るのかしら」

 

曹操が間をおかずに尋ねる。

 

「こちらを」

 

李典が的として使われていたらしき鎧の端布を差し出した。

 

「4半里の距離から弾丸を当てた場合のものです」

 

鎧を構成する鉄片の一部が破壊されて穴が開いている。

 

「なるほど。この距離で鎧を貫けるのね。どのくらいの命中精度があるのかしら?」

「あまり良くはありません。どうしても弾道が安定しません。慣れた兵士でも確実に標的に当てるにはこの距離の半分位でないと厳しいです。逆に言えば、それだけの距離なら結構中ります」

「それでは、弓や弩とそう変わらないのね」

 

曹操はそう言いながら横目で夏侯惇の方に視線をやった。

暴れていた2頭の馬は夏侯惇に宥められて落ち着いたのか大人しくなっている。

 

「こちらが、今回作った銃になります」

 

李典が曹操に銃を差し出した。

それを受け取った曹操はしげしげと眺め回す。

 

「ここは何かしら?」

「そこは点火部分になります。予め火を付けたこの縄がこちらの火皿に押し付けられることで点火します」

 

疑問に感じた箇所について質問していく曹操に李典が応対する。

構造について一頻り質問を終えた曹操は銃から視線を李典に向けた。

 

「これの連射性能はどのくらいかしら? 弩と同じか、それ以上だと思うのだけれど」

「それは――」

「華琳様、これを!」

 

李典の返答を遮って荀彧が曹操に声をかけた。

手には銃を持っている。

李典が曹操に渡したものと所々で構造が異なっていた。

 

「あら? それは別の銃かしら」

 

荀彧の言葉に李典が不満そうな顔を一瞬見せた。その目は荀彧よりもその手に持つ銃に向けられていた。

それを敢えて無視した曹操。荀彧に続きを促した。

 

「こちらは華琳様が手に持っている銃を改善したものです。こちらは弾丸を手元で装填できます。連射性能は段違いです。更に――」

「それは問題が多すぎるっちゅうねん。軍の武器として使うには機構が複雑過ぎや! 威力も出えへんし、品質も安定せえへん! 一品物ならともかくそれは武器として不完全に過ぎるやろが!」

 

荀彧の言葉を遮って李典が叫んだ。

よほど感情的になったのか、曹操を前にしているにも関わらず口調が素に戻っていた。

なるほど、と曹操は思った。

李典の反対で荀彧の持つ銃の問題点は大まかに把握できた。

武器に造詣の深い李典が反対するのもよく分かる。

コストや安定性は軍の武器を運用する際に重要だ。

 

「桂花、貴方の持つその銃の問題点は何かしら」

「機構が複雑でそちらと比べて価格が3倍程度になること、品質が安定しないこと、有効射程がそちらと比べて7、8割程度となること、暴発の危険がより高いこと、です」

「なるほど、問題だらけね。利点は連射性能だけ、ということかしら?」

 

荀彧は何も言わずに頷いた。

曹操は微笑んだ。

荀彧の持つ銃は問題だらけだ。

だが、曹操が軍を構成するに当たり、求めていた武器の条件を完全に満たしている。

 

「我が子房、桂花。よくやったわ」

 

皇帝直属軍の構成をどうするか。

曹操の腹案は決まった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

皇帝直属の常備軍。

皇帝の肝いりで設立されたその軍にとって最大の仮想的は騎馬異民族であった。

と言うより、漢帝国の軍団の殆どが異民族対策に設立されている。

これは建国当初から変わらない。

漢帝国に限らず歴代王朝は国内で軍を必要とすることなど殆どなかった。

完成された統治機構がある為、軍が必要になる反乱等そう簡単には起こらないのだ。

反乱が起こるというのは統治システムが余程の異常を来したか、あるいは滅亡直前かのどちらかである。

 

異民族は違う。

草原や荒地に住まう彼らは農耕により糧を得ることが出来る漢帝国の民と違い、食料を手に入れられずに飢えることが多い。

そうなった時、異民族は生き延びるために漢帝国へと襲いかかる。

貧しいがため、飢えているがために略奪をする異民族との戦いは勝った所で得るものがない。

更に、幼い頃から馬に乗る騎馬民族の戦力は漢帝国の一般的な兵士を遥かに凌駕している。

異民族とまともに戦うためには相手を超える兵力を用意する必要がある。

漢帝国にしてみれば異民族との戦線維持は財政上の大きな負担となっていた。

しかし、戦わなければ異民族は辺境から漢帝国内部へとその魔手を伸ばすだろう。

漢帝国は戦線を維持するために国家を傾けるほどの財を辺境に注ぎこんでいた。

注ぎ込まざるを得なかった。

 

差異はあれど、決して途絶えることのない異民族への対処は漢帝国にかぎらず歴代王朝の悩みの種である。

ある意味で、歴代王朝の役割は安定的に異民族の侵攻を防ぐ事にあったとすら言えるだろう。

それができないほど衰退した王朝は遠からず終焉を迎えることになる。

秦は防衛線を築くことで異民族に対処しようとした。

漢の高祖、劉邦は異民族討伐の失敗後、賠償金を支払って秦に習った。

戦いの天才たる光武帝は異民族との終わりなき戦いを避け、緩衝地帯を作り出すことによりその脅威を遠ざけた。

 

曹操が生まれた時代はどうであったか。

この時代の漢帝国の辺境防衛線は崩壊していた。

人口減少と税収減少により、漢帝国は十分な防衛兵力の確保が不可能となった。

辺境は犠牲になった。

漢帝国の兵士はまともに戦った所で異民族には勝てない。そうである以上、異民族撃退は不可能だ。

辺境は異民族が好き勝手に荒らされることになった。

 

異民族に優秀な指導者が生まれると事態は更に悲惨になる。

少し前に異民族の優秀な王が死んだから良いものの、そうでなければ洛陽まで異民族に陥落させられていたかもしれない。

現在の皇帝はかつて異民族の脅威を抜本的に解決しようと試みた。

国中から資金をかき集め、大規模な遠征軍を編成して異民族の討伐を目指し、そして、大敗した。その傷跡は大きく、漢帝国は優秀な将兵を多数失い、莫大な和解金によって国庫は傾いた。

売官をしてまで結成された皇帝の常備軍には当然ながら異民族対策が求められていた。

当然、常備軍は異民族と互角以上に戦えることが求められている。

しかし、その実現は難しい。

馬、という人間よりも遥かに強い生物を乗りこなす騎馬民族は凄まじく強大なのだ。

更に馬の移動速度は人間のそれをはるかに凌駕している。

異民族を超える兵力を用意したとしても、敵が逃げ出した際に追いかける手段がない。

そして、その圧倒的質量の突撃は脅威そのものだ。

並の兵士に止められるものではない。

 

辺境と発展著しい冀州の間に経済的な結びつきができたことで大きな収入源を手に入れた異民族は大人しくなったことで異民族対策の優先度は低下したが、それでも常備軍の最大の仮想敵が異民族であることに変わりはない。

むしろ、交易によって異民族が力をつけることを危惧する声さえ洛陽にはあった。

曹操自身もその危険性は無視できないと考えていた。

確かに、豊かさを手に入れた異民族は漢帝国を襲う動機を失った。

その点では大幅に脅威が低下したし、辺境では軍縮すら可能になった。

これにより、漢帝国の財政は一息つくことに成功している。それでもまだ赤字で首が回らなかったが。

 

だが、異民族は決して漢帝国に服従したわけではない。

漢帝国の武器が異民族に流れているという話もあった。

横流しを取り締まる動きもあるが、辺境を犠牲にした漢帝国を憎んですらいる辺境の民の不正を全て取り締まる能力は漢帝国にはない。

もし、また異民族に優秀な指導者が現れれば漢帝国にとってかつてない脅威となるだろう。

 

だが、逆に言えば指導者さえいなければ異民族はもはや脅威ではないのだ。

餓えたがために漢帝国を襲う異民族は頭を潰した所で止まらなかった。

しかし、今は違う。

 

敵の将を取るという首狩り作戦を曹操は基本戦術と定めた。

だから、曹操は常備軍を全て騎兵で構成することを決めていた。

戦場で異民族の王を殺すためには馬に乗らなければ接近すら難しい。

しかし、馬の扱いではどうしても異民族に漢帝国の兵士は勝つことができない。

常備軍の兵力は1万に定まっているために、数的優位に頼ることも不可能だ。

曹操は騎馬異民族に対して質的優位を確保する手段を求めていた。

 

だからこそ、曹操は銃火器、それも構造が複雑で問題を多く含む後装式のそれの採用を決めた。

訓練が必要で威力も出にくい乗馬しての弓や連射が不可能な弩では異民族に対抗するには不十分だからだ。

銃火器であれば用意に扱え、後装式であれば騎乗しながらの装填も可能なのだ。

加えて銃火器は銃声という素晴らしい副次効果を持っている。

慣れていない馬を恐慌状態にするそれは、遊牧騎馬民族を相手にするのであればむしろ主効果と言っても差し支えないだろう。

曹操は銃火器のこの特性を活かし、対異民族の首狩り戦術を構築した。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

曹操が皇帝直属の常備軍に銃火器を採用を決めたのはその戦術的価値故であったが、その採用を可能としたのは冀州の発展であった。

経済の活性化により、著しい増大を見せたのが高級服の購入者層である。

かつては上流層にほとんど独占されていた個別デザインの服は冀州で財を成した女性達にとって成功の証となった。

その中には硝石を利用して染色された布の需要もあり、以前の少量生産では全く需要に追いつかなくなった。

硝石の生産方法を知る人間が冀州で立ち上げた株式会社を買収した友若は、自らの保有している衣服会社に安価な硝石の染料を供給するために生産方法の公開を迫った。

結果として、少々血を見る展開になりつつも、漢帝国の硝石生産量は大幅な増大と価格の下落を見せた。

ここで、まとうな転生オリ主なら火薬の生産にも踏み切るのだろうが、そこは友若。

火薬のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。

友若は過去を顧みない漢。

……嫌な過去を全て忘れる、とも言う。

 

また、銃火器の生産に欠かせない鉄の生産量も冀州の発展により増大していた。

冀州で行われている価格調整により価格は低下していないものの、金さえあれば調達は容易となっていた。

 

銃火器の生産に十分な費用を冀州での資金運用で確保していた曹操。

帝国の資金ではなく曹操自身のポケットマネーであったが、銃火器の生産も十分に可能であった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

曹操と荀彧により考案された銃火器を利用した首狩り戦術。

漢帝国の民を守るため、遊牧騎馬民族相手に質的優位を確保しようと名刀のごとく研ぎ澄まされたそれ。

皮肉なことにその戦術が初めて振るわれたのは異民族ではなく同じ漢帝国の袁紹軍相手であった。

 




次話で前編が終わりになるはずです。
ようやく折り返し。
書きなぐりにしては長くなり過ぎな気がしてなりません。


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後編
荀シン友若 上


官軍の大敗。

その報は激震となって漢帝国全土を揺るがした。

最後にケチは付いたものの圧倒的な勝利を収めた袁紹軍に、中立の姿勢を保っていた辺境諸侯や冀州周辺の豪族たちは雪崩を打って袁紹に味方することを宣言した。

血気あふれる辺境豪族は独自に兵を集めはじめた。

 

「どういうことなのよ! あれだけ軍事費をつぎ込んで、あれだけ兵を集めて、それで負けるって!? しかも、相手は同じ漢民族なのよ! 凶悪な異民族じゃないでしょうが!」

 

官軍敗北の上奏に皇帝は暫し呆然とした後、顔を怒りに染めて叫んだ。

 

「皇甫嵩……あいつまさか手を抜いたわけじゃないでしょうね!?」

 

皇帝の言葉に側に控えていた十常侍の一人が答える。

 

「その可能性は否定出来ません」

 

皇帝は満足層に頷く。

皇甫嵩を更迭し袁紹討伐軍指揮官を交代させようと思う皇帝。幸いにも皇帝の脳裏には適任そうな人物が1人いた。

曹操である。

先の戦いで袁紹の首までもう一歩まで迫った英傑。

宦官の重臣を祖父に持ち、皇帝とも親しい人物だ。

そこに清流の重臣が異議を唱えた。

 

「何を言うか! この国に仇なす寄生虫どもめ! 皇甫殿からの報告を受け取っておきながらよくもその様な戯言をしゃあしゃあと! 貴様らに恥はないのか!」

「あれだけの兵力を与えられながら、敗北するなど皇甫嵩の内心に疑問を持たれてもしょうがないことだ」

「貴様ら宦官が討伐軍の為に集められた予算を掠めとったがために皇甫殿は満足に兵士達を武装させることもできなかったのだ!」

「何を言うか。自分達に親しい南部の豪族たちばかりを袁紹討伐軍に加え、軍事費を横領したのは清流を名乗るお前達の方ではないか」

 

清流を代表する重臣と宦官の言い争いは続く。

皇帝はその様子をうんざりとした表情で眺めた。

いつもの光景であった。

清流と濁流の終わり無きいがみ合いは。

元は漢帝国における派閥争いだったそれはいつの間にか止めようのない対立へと発展した。

清流と濁流、どちらかが完全に滅びるまでこの争いは止まらないだろうとすら皇帝には思える。

 

――どっちかが滅びたらそのまま漢が滅ぶでしょうが!

 

皇帝は内心で叫ぶ。

清流と濁流、そのどちらも現状の漢帝国には無くてはならない。

主に実務能力のある官僚が多い清流を切り捨てれは漢帝国はすぐにでも立ち行かなくなる。

だが、時の皇帝を外戚や官僚の好き勝手から守るための存在となった宦官、濁流を潰すわけにもいかない。官僚と組んだ外戚がどれだけ思うままに振舞ったか。

それに、濁流に属する官僚も少なからず居るのだ。

現実を考えれば清流と濁流はどこかで和解しなければならない。

しかし、現在の清流の主流は急進派と呼ばれる過激派であり、濁流を皆殺しにするべしと常日頃から声高に叫んでいる。

対する濁流は殺される前に殺せという発想により、清流への攻撃を強めている。

 

「そもそも、十分に非があるとは言えない袁紹を逆賊とするよう陛下に進言したのは貴様ら宦官ではないか!」

「袁紹討伐にことさら意欲を見せていた貴様らがそれを言うとは滑稽だな。陛下に袁紹を討伐すれば10年分の国庫を手に入れられる、と上奏したのは誰だったか、もう忘れたのか?」

「……もういい」

 

互いの非を論い続ける両者に皇帝はつかれた様子で言い放った。

 

「お前たちの諍いを聞くことにはほとほとうんざりよ。それよりも今決めなければならないのはこれからどうするかでしょうが?」

「……」

「……」

 

家臣たちは無言で頭を下げた。

これからどうするべきかという建設的な意見を一切述べることなく。

 

「お前たちはこれからどうするべきか、何か考えがあるの?」

「……」

「……」

 

苛立ちながら尋ねる皇帝に清流も濁流も沈黙をもって答えた。

頭を掻き毟りたい衝動を覚える皇帝。

 

「先の戦いで辺境はほぼ例外なく袁紹に味方した! このまま放っておけば彼らは袁紹の動きに合わせて一斉にこの洛陽を目指すでしょう! この状況でこの国の為に何をするべきか、その答えをお前達に聞いている!!」

「……」

「……」

 

皇帝の言葉に並居る家臣は目を伏せた。

皇帝に答える人間は誰一人としていなかった。

 

「……皇甫嵩の袁紹討伐司令官の任を解く。あいつには董卓や馬超の抑えをやらせる。袁紹討伐司令官の後任は曹孟徳よ。意義はないわね?」

「……」

「……」

 

何も答えなくなった臣下達にそう言い放つと皇帝は憤りながら謁見の間から退室していった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「荀大老師殿、兵を動かせないとはどういう不手際ですか? 貴方はそれでも栄光ある袁冀州州牧の筆頭軍師なのでしょうか?」

「然り。荀大老師殿、そもそも貴方は若すぎる。重責に耐えられないのであればその地位を返上するべきではないのか?」

「亡き田豊殿や沮授殿といった方々に代わる忠臣も必要でしょう」

 

丁寧でありながらも非好意的な言葉が次々と友若へ降りかかる。

曹操軍の首狩り作戦によって袁紹配下の上層部には多くの死傷者が出た。

死傷者として多かったのは上層部を多く占めていた田豊派閥や清流派閥の人間が多い。

長年、押さえつけられてきた名士達や豪族達にしてみれば降って湧いた好機である。

彼らは空席となった地位を自分達の派閥に連なる人間を送り込もうと画策していた。

何しろ、本陣への強襲を許したことを除けば、この度の戦いで袁紹は官軍相手に大勝利を収めた。

その勝利に同調して、辺境軍閥が一斉に袁紹に味方することを宣言している。

袁紹やその配下の人間達の殆どはこの戦いに勝利したものと思っている。何とか生き残れたと命の尊さを噛み締めている友若とはえらい違いであった。

後は数を半減させ、潰走した敗残兵を追撃し撃滅すれば、容易に洛陽までの道が開けるだろう。

 

そして、洛陽に住まう皇帝さえ抑えてしまえば天下は袁紹のものになる、と袁紹配下の多くは思っている。

現皇帝を廃して幼子を皇帝として戴き実務を握っても良いし、あるいは劉家から袁家に至尊の座を禅譲させても良い。

何れにしても、袁紹の権勢はこの国において比類なきものになるだろう。

そうなった時、袁紹配下としての序列や功績はこの国の序列と等しくなるはずである。

洛陽までの戦いで功績を上げ、袁紹配下としての序列を上げておけば、位人として最高位の三公となることも夢ではない。

袁紹配下、特に名士達や豪族達は鼻息荒く今回生まれた空席に座ろうと暗躍していた。

 

袁紹の重臣としての地位に座る、その為の最大の障害が友若だった。

友若自身は特にまとまった派閥を抱えていなかったが、今回空席となった重臣のポストに自らに親しい人間達を推薦している。

そして、袁紹から大きな信頼を得ている友若の推薦は人事において大きな力を持っていた。

折角、田豊派閥が崩壊し、清流派閥も影響力を狭めているのに、『荀シン派閥』などというものが誕生しては堪らない、と名士達や豪族達は一致団結して友若を追い落とそうとしていた。

本来であれば友若を味方につけるべく動くのが正しいのかもしれないが、これまで友若に煮え湯を飲まされてきた名士達や豪族達はその選択を選ぶ気にはなれなかった。

 

幸いにして、友若は官軍追撃のための軍編成を全く行わないという失策をしていた。

逃げ出した官軍の追撃を行うよう友若に命じた袁紹も苛立ちを見せている。

袁紹の寵愛という庇護さえ失えばまともな派閥を持たない今の友若を潰すことは容易い、と名士達や豪族達はほくそ笑んだ。若造め、とうとう転びおったな、と。

もちろん、友若のトントン拍子の出世に歯ぎしりをしていた名士達や豪族達は友若を転ばせるだけで済ませるつもりはなかった。

 

名士勢力や豪族勢力の獲物を前にした喜びを横目で見やりながら郭嘉は人知れずため息を付いた。

郭嘉は伝令としての職責を越えながらも袁紹本陣の混乱を納めた功績を評価され、名士勢力の推薦もあって、軍議に参加する事ができるようになっていた。

年功序列の傾向が強い袁紹配下としては、友若や一部の清流派閥の人間に次いで異例の出世であった。

郭嘉の能力を考えればこの地位でも大いに役不足であったが。

 

もっとも、郭嘉は袁紹配下として出世することに意義を見出していない。そもそも、金銭や地位と言った世俗的価値に郭嘉は執着していないのだ。

郭嘉は己の性格が袁紹と合わないことを十分に承知していた。

袁紹の下では一定の地位までしか出世できないだろう。

 

郭嘉の生まれ持った才能を十全に活かそうと思うならば、袁紹の下を去って新たな主を探す他ない。

溢れんばかりの才気は郭嘉に存分に翼を振るえる大空を求めていた。

そして、郭嘉は今回の戦いで理想の主として夢に描いたそのまま現実になったかのような人物を見た。

曹操孟徳。

その圧倒的な覇気は兵士達が次々と死んでいく戦場においても輝きを放っていた。

現状の曹操の立ち位置では郭嘉が配下として仕えることは難しいが、幸いにして曹操にはツテがある。

以前、袁紹を見切り去っていった程昱である。

曹操に対して持ち前の能力を認められ瞬く間に出世した程昱が郭嘉の才能を保証するだろう。

そして、才を愛す事で有名な曹操ならば確実に郭嘉を大いに取り立てるに違いない。

郭嘉にはその自負があった。

そして、曹操の下で己の才の限りを尽くして、天下に覇を唱えることはどれだけの喜びを郭嘉にもたらすことか。

 

もっとも、今となってはその選択肢はない。

現在、天下にもっとも近いのは袁紹だ。

そして、袁紹が天下を取るには洛陽へと兵を進めるだけで良い。

王としての才能は明らかに袁紹よりも曹操のほうが優れていた。

天下を見渡せば袁紹を超える王才の持ち主は数多いだろう。

にも関わらず、袁紹はそうした全てを差し置いて圧倒的な優位に立っている。

荀シン友若という鬼才がいるからだ、と郭嘉は袁紹成功の理由を友若に求めた。

 

この鬼才から学ぶべきことは多い。

余りにも多すぎる、というのが郭嘉の感想である。

正直、鬼才という言葉では生ぬるい、とすら郭嘉は思う。

郭嘉はこっそりと友若へ視線を向けた。

 

「……」

 

友若は名士と豪族勢力の一斉攻勢に何ら反論もせずに黙り込んでいた。

先の戦いが終わってから青ざめた顔。その目は恐怖に濁っていた。

その様子はとても袁紹の快刀と呼ばれる人物とは結び付けられそうにない。

もっとも、平素の友若の時点で冀州の大成功を成し遂げた人物とは思えないのだが。

 

しかし、その友若が提案した株式制度や銀行制度が発端となって漢帝国全土を揺るがす大変動が今まさに起ころうとしている。

友若のその頭脳から出てくる異次元の発想。

こうして成果を上げていなかったならば、狂人としか思えないレベルのそれ。

何をどう学べば、何をどう考えれば、そうした発想が生まれ出るのか郭嘉をしてもまるで理解できない。

 

提案の持つ個々の要素ならまだ天才の発想として理解できる。

例えば、資金はないがアイデアはある商人に投資する制度と言う提言なら郭嘉でも思いつけたかもしれない。

何しろ、漢帝国には農民を対象とした同様の制度が嘗てあったのだ。その制度を商人へと応用するという発想は儒学者に睨まれる危険があるにせよ、多少優秀な人間なら考えついたとしてもおかしくない。

また、金を貯めこむ豪族から資金を放出させる必要性は漢帝国の実情を正しく認識する能力のある者達にとっては自明のことだ。

嘗て、仁や徳といった思想に依って富裕層は国家や民草のために己が財を放出していた。それが、風化し、機能しなくなったのがこの時代だ。

当然、富裕層に溜め込んだ金銭を放出させようという試みは無数に行われていた。

だから、金を貸す際に常に伴う貸し倒れのリスクを分散するということを思いつく人間がいたとしても、それはまだ努力の果てに辿り着いた秀才か、天才の範疇に収まっているだろう。

借金が返済不可能となった際に一定以上の責任を問わないという有限責任を定めた制度なら天才の発想だと郭嘉は素直に賞賛できたことだろう。

失敗した場合のリスクを一定に抑えるという事は挑戦を促し社会に活気を与えるという点で画期的であると郭嘉は思う。

それでも、まだ発想としては理解できる範疇に留まっている。

 

だが、それらを全て内包した、株式制度というものを立案する発想というものは郭嘉の理解を超えていた。

幼い頃から多くの書物を読んで学んだ郭嘉をしても、株式制度の名前や類似する制度は聞いたことがない。

つまり、友若は株式制度という非常に大きな仕組みを殆どゼロから考えだしたことになる。

そして、株式制度に留まらず、友若の頭脳からは同様の異端の発想が次々と出てくるのだ。

本来は個々の要素を組み上げて行くべき所を圧倒的な完成度を伴って。

 

その事に考えが至った時、郭嘉は得も知れぬ寒気を覚えた。

鬼才。

いや、怪物。

その怪物の頭脳から出た発想によって数百年の歴史を持ち5000万を超える民を抱える漢帝国は急速に変化している。

怪物が止まらなければこの国の大変動は尚も続くだろう。

そして、その先がどうなるのか。

郭嘉にはそれを判断することができない。

天に才を与えられた郭嘉であるが、その才能はあくまで『天才』止まりなのだ。

怪物の行動を予測する能力は郭嘉には与えられていなかった。

何れにしても、一人の人間が周囲に対してこれほどまでに大きな影響を及ぼした例は数少ない。

 

――常日頃の様子からはどうして中々想像できませんが。

 

郭嘉は内心で独りごちた。

普段の友若は決して怪物と呼ばれるような人物には見受けられない。

業務能力や政治能力は平凡から優秀の間に留まっている様に郭嘉には思える。

むしろ、友若は人間関係やコネクション作りに関しては平凡以下とすら言えると郭嘉は判断していた。

そもそも、日ごろの立ち振舞で無数の敵を生んでいなければ、目の前の吊し上げは起きなかったはずなのだ。

政策立案能力や一部の戦略構築能力では異常な才能を示しているにも関わらず、余計な敵を生むことなど日常の友若の行動は余りにも稚拙だ。

友若のその有り様は余りにアンバランスだと郭嘉には思えてならない。

あるいは、『天才』とは元来そういうものなのだろうか、と郭嘉は思い直した。

 

――風の言う通り、ということでしょうか……

 

郭嘉は袁紹の下を去って行く程昱との別れの会話を思い返した。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「お元気で、風。今生の別れではないとはいえ貴方と別れると思うと寂しいですね」

「稟ちゃんもお元気で~」

「今後は曹孟徳殿の下へ行くのですよね?」

「ええ、そうです~。荀文若殿、荀友若殿の妹君の口利きがありましたので。今のままでは風の能力を発揮することはできませんし、乱世の奸雄には会ってみたいですから~」

 

程昱は何時もと変わらぬ様子でのんびりと話した。

荀彧が直接程昱を誘ったとも取れる程昱の言葉に郭嘉は内心で少々驚いた。

流石に友若の妹であるだけあって、荀彧も優秀なようだ、と郭嘉は内心で舌を巻く。

袁紹の下のうだつの上がらない官吏にまで目をつけるとは尋常ではない。人材鑑定眼では友若を上回っているだろう、と郭嘉は思った。

 

「荀文若殿ですか。凄まじく優秀だと聞き及んでいますね」

「そうですね~。上辺の能力だけを見れば間違いなく荀友若殿よりも優秀だと思いますね~」

「しかし、風。それを分かっているのならもう少しここに留まっても良かったのでは?」

 

郭嘉は程昱に尋ねた。

程昱は郭嘉と同様に友若の鬼才を認めている。当然、友若から学べることの多さも理解しているはずなのだ。

 

「風としても、もう少しここにいても良かったかなとは思うのですが~」

「ふむ」

「でも、荀友若さんの下にいくらいてもその全てを学ぶことはできないと風は思うのですよ~。風には荀友若さん程の才能はありませんし」

 

程昱は目を半ば閉じながら言う。

その瞳に微かに感情が篭っていることを郭嘉は気が付きながら、何も言わなかった。

 

「だから、離れるという訳ですか?」

 

郭嘉は静かに尋ねた。

程昱は小さく微笑んで答える。

 

「ええ。荀友若さんという巨人の全体を正しく捉えるためには距離を置かなければいけないと風は思うのです」

「巨人、ですか」

「そうですよ~。まあ、巨人の体は持っていないかもしれませんが~。視線だけが巨人の高さにある、と言ったほうが正しいかもしれませんね~」

「なるほど……そう、かもしれませんね」

 

そう言って郭嘉は程昱に笑いかけた。

程昱の言葉は郭嘉を大いに納得させるものだった。

 

凡人が地面から物事を見る者ならば、秀才は過去に積み上げられた知識という丘の上から物事を知る者だ。

凡人は木々があれば、その先がどうなっているかを知るすべはない。対して、秀才はちょっとした林の先を見通すことができるだろう。

それが凡人との違いで秀才の限界だ。山があれば秀才もまたその先を知るすべはない。

郭嘉を始めとした『天才』はその類まれなる直感と過去の知識を元にして自らの視点を山の高さにまで押し上げることができる。凡人や優秀程度の人間が見落とす無数の情報を無意識下で収集しまとめる『天才』は遥か遠くを見通して見せるのだ。

だが、人間である以上、『天才』といえども山の先の先までを知ることはできない。そこまで先を知るために必要な情報がそもそも手に入らない以上、いくら『天才』であっても限界はあるのだ。

普通、いくら『天才』であっても、過去に築かれた知識の集大成を無視することはない。

何百、何千年という時を経て形作られたそれの上に立ってこそ、『天才』は遥か遠くを見通すことが可能になるのだ。

 

だが、友若は違う。

友若は次々と異常な提案を繰り返してきた。過去から脈々と受け継がれてきた知識とは余りに隔絶したそれ。

遥か未来の在り方を知っていると言われれば、そのまま信じてしまいそうな友若の発想は、過去に積み上げられた知識を多くの点で無視している。

そして、無視していながら、友若の発想が生み出した成果は漢帝国に大きな変革をもたらした。

 

巨人の視点。

山よりも高いそれ。

郭嘉達ですら足元にも及ばない遥か先を友若は当たり前のように認識しているのだろう。

そして、余りにも先が見えてしまうがために、そもそも友若には目下の問題が理解できないのだ、と郭嘉は思った。

 

「稟ちゃん?」

 

思考に耽っている郭嘉に程昱が声をかけた。

 

「すいません、風。少し考え込みすぎていました」

「も~っ! お別れなのに稟ちゃんは相変わらずですね……ぐう」

 

程昱が眠そうな声で文句を言って、そのまま寝入った。

 

「風?」

「……お、おおう、稟ちゃんが1人黙って考えに没頭したりするからつい」

「……まったく。風も相変わらずではありませんか」

 

郭嘉はそう言って笑った。

程昱も笑った。

一頻り2人は笑い合った。

涙や惜別の言葉は似合わない、と2人は言葉を交わすことなく同じ結論に至った。

幸いなことに漢帝国は何とか平和を保っている。今後、大きな事変がなければ傾いた財政も持ち直すだろう。

これは決して永久の別れではないのだ。

そして、2人は互いに己のやるべき事に向けて動いている。

ならば、それぞれの選択に悔いや悲しみを覚える訳がないのだ。

 

「……それでは、また会いましょう~、稟ちゃん」

「ええ。お元気で、風」

 

そう言って2人は別れた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「ちょっと、友若さん! 黙っていては分かりませんわ!」

 

袁紹が苛立ちを隠さず、黙りこんだ友若に向けて叫んだ。

友若に対する袁紹の視線の厳しさは日増しに鋭さを増している。

特に、軍事の責任者でありながら友若が官軍への追撃体制構築に熱意を示さなかったことは袁紹の憤りを買っていた。

曹操軍によって幼い頃からの世話役を始めとした忠臣を失った袁紹は一時茫然自失に陥ったものの、1日で立ち直り、友若に官軍の追撃を命じていた。

だが、友若は袁紹の命令に対して動こうとしなかった。

それどころか、袁紹軍の追撃を妨害するような動きすらしてみせた。

袁紹軍中枢の欠落に拠って、田豊や沮授の死に拠って後任が決まるまでではあるが、袁紹軍における実務上の権限の殆どが友若に集中する事態になっていた。

そのため、袁紹軍は逃げ去る官軍を追うこともなく、立ち往生を続けたのである。

だが、袁紹にしてみれば、身内を殺されて黙っているという選択肢はない。

亡き田豊から友若の助言に従うようにと遺言を残されていた袁紹であるが、ここに来て限界が近かった。

 

友若にしてみれば曹操軍相手に半死半生で何とか生き延びることができた所なのである。

銃火器を実用化するというバケモノ。

今回は元込め式の銃や大砲しか使ってこなかった曹操軍だが、次は機関銃を運用してきたとしてもおかしくない、と友若は心の底から恐怖を覚える。

そんなバケモノに自分から再び近づくなど、友若には自殺行為としか思えない。

 

にも関わらず、袁紹を始めとして友若以外の殆どは官軍の追撃、つまりは曹操軍との再戦を希望して止まない。

友若にしてみれば信じがたいことだが、袁紹を始めとした多くの人間が銃火器の威力を過少評価しているのである。

例えば、審配らは『真弩』があるから曹操軍にも十分対抗できる、と楽観的だ。

先の戦いのような奇襲を受けなければ十分に勝てる、と言い放っている。

友若にしてみれば余りにも甘い考えだ。

豪族達や名士達の一部は本陣を脅かされた責任を劉備に押し付けようとすらしていた。

曹操と同じく三国の覇者となる劉備がいなければどうなっていたことか、と思っている友若は唖然とした。

友若が外聞もなく涙を流しながら劉備達に感謝したことで、劉備を責めようとする動きは無くなった。

 

因みに、この時、友若は劉備の要望に応じて、戦争で命を落とした兵士の家族に対して見舞金を支給している。

この財源は当初友若のポケットマネーだったが、吝嗇な友若は豪族達や名士達に資金提供を強要した。

このことにより友若は例によって彼らからの恨みを買っていた。

 

話を戻すが、袁紹軍に九死に一生を得たという安堵の感情が存在しないことに友若は驚いていた。

むしろ、曹操軍のせいで勝って当たり前の戦いにケチが付いたという態度の人間すらいるのだ。

そうした人間はもちろん、銃火器など物の数ではないと言い放つ。

 

「ただ、大きな音を立てるだけではないか! 他は弩と変わらん! しかも、連中の持っている銃とやらの数は高々千や二千だというではないか! こちらには十万もの弩があるのだぞ! 荀大老師殿は何を恐れているのだ!」

 

曹操軍兵士から鹵獲した『銃』の威力を見た名士の一人は言い放った。

そして、その意見は袁紹を始めとした多数派の考えでもあった。

曹操の『銃』などどれほどのものか。所詮は寡兵。正面から戦えば容易く打ち破れる、と殆どの人間が思っている。

『銃』というものが画期的であるという友若の言葉に同調したのは郭嘉等僅か数名だった。

しかし、『銃』の威力を認めた郭嘉でさえも官軍、つまりは曹操軍への追撃を主張した。

曹操軍が機関銃などを実用化していれば、袁紹軍は数に頼ったところで敗北しかねないということが、郭嘉達には分からないのである。

 

「我が軍には十の勝因があり、一方、官軍には十の敗因があります。一つは、義。今回の袁州牧に対する逆賊認定は義に背いたものであり、官軍には大義がありません。一方――」

 

平然と袁紹軍の有利を説く郭嘉を友若は憎々しげな目で睨みつけた。

『銃』の将来性を理解したことは褒めてやるべきかもしれない。だが、それだけの理解力がありながら、曹操軍に勝てるなどという妄言を吐く事は友若にとって許しがたい事だった。

友若は曹操軍と戦わない理由付けを欲しているというのに、どいつもこいつも好戦的で戦うべきだという意見を述べるばかりなのである。

それどころか、郭嘉は曹操が火薬を買い集めようと奔走しているから、曹操軍は現在銃火器を使えないのではないかという分析までする始末である。

 

そんなものは罠に決まっている、と友若は郭嘉を内心で罵倒する。

袁紹軍でさえ物資に不足したことは無いのだ。

この袁紹率いる軍が、である!

まして、未来の覇王が火薬が足りないだの馬鹿みたいな状況に陥るわけがない。

論理的に考えれば、それは物資が足りないと見せかけた曹操軍の罠であると判断するのが妥当である、と友若は考える。

物資潤沢な環境しか体験したことのない友若の兵站に関する認識は、遠足には弁当の持参が必要だよね、程度のものだった。

実際の所、曹操軍は火薬や弾を撃ち尽くしており、銃火器を基軸とした戦術は実行不可能な状況に陥っていたのだが。

 

あのバケモノ、曹操を相手にする以上、どう足掻いたところで奇襲を受けることは間違いない、と友若は信じていた。

そして、乱戦になれば、今度こそ袁紹は曹操によって殺されてしまうかもしれない、と友若は恐れた。

曹操軍の銃火器を見たことで、友若の妹とその主曹操へのトラウマが再発したのである。

今すぐこの場に曹操軍が襲いかかってきてもおかしくはないとすら友若は思っている。

それほどまでに友若は曹操を恐れていた。

当然、友若に曹操と戦おうなどという気概は欠片も存在しない。

戦えば勝てないのだから、勝利を目指す戦略ではなく、負けない立ち回りを取るべきだ、というのが友若の考えである。

 

一応、官軍との戦いは袁紹軍の勝利という形になっている。

だが、それはあくまで薄氷の上のものだと友若は思っている。

追撃など以ての外だ。

まして、袁紹の一命を取り留めるために活躍した劉備に難癖をつける様な豪族達や名士達と共に戦っては生き残れる気がしない。

 

むしろ、多くの犠牲を払いながらも生き残った奇跡を無駄にする訳にはいかない、と友若は思っていた。

臆病者と呼ばれても構わない、と友若は覚悟する。

田豊や沮授、死んでいった無数の兵士達に友若は袁紹を託されたのだ。

その袁紹を生存させるために、友若はできる限りのことをするつもりだった。

 

だが、このままでは不味い、と思う友若。

袁紹が我慢の限界だという表情をしている。

流石に決定権のあるトップは納得させないといけないよなあ、と頭を悩ませる友若。

袁紹の寵愛がなくなれば物理的に首が飛びかねないことを友若は認識していなかった。

 

その時、友若の頭に天啓と呼ぶべき考えが浮かんだ。

ハッとする友若。

袁紹の性格。

それを考えれば、友若の脳裏に浮かんだ論理は有用に作用するはずだ。

友若は唇を濡らして話しだした。

 

「本初様。我々は今回謂れのない誹りにより逆賊と名指しされました」

「そんなことは分かっておりますわ! 友若さん、私が聞いているのは漢に弓引く逆賊だなどとこの私を辱めた忌々しい宦官の狗共を蹴散らす段取りはどうなっているか、ということですわ! この私、三国一の名門袁家が皇帝陛下に弓引くなどありえませんわ! そもそも、あの狗共をコテンパンにしなければ元皓さんに顔向けできませんわ!」

 

袁紹が怒りの声を上げた。

予想通りの袁紹の反応に友若は内心で会心の笑みを浮かべた。

 

「確かに、本初様、宦官共は私達の事を漢に反逆を企んだ逆賊と名指ししました。これは全く謂れのない嘘偽りであり、企みによるものです。先の戦いは天がどちらが正しいかということを明白に示したと言って良いでしょう。ですが、――」

 

友若は慎重に言葉を選びながら話を続ける。

周囲のうるさい連中に口出しをされては敵わない、と思っている友若。

 

「ここで、官軍を追撃すれば必然として洛陽へ軍を進めることになります」

「そんな当たり前のことは言われなくても分かりますわ!」

「しかし、それは、この現状、不味いのです」

 

友若は一言一言を噛むように話す。

 

「どういうことですの!?」

「今、本初様が、大軍を率いて洛陽に向かえば、万民は、本初様が、本当に、漢に対して反乱を企んでいたものと思うでしょう」

「そ、そんな出鱈目を信じる者がいるというのですか!?」

 

友若の言葉に袁紹が歯軋りをした。

 

「間違いなく、いるでしょう。事実、本初様が今洛陽へ登れば、漢の権力は全て本初様の手に握られることになります。本初様をよく知っている者ならともかく、有象無象は今回の騒ぎの黒幕が本初様であるとすら邪推する、でしょう。本初様の威光に嫉妬する者達がこうした噂を拡散することも十分にあり得ます」

 

友若は淡々と答える。

舌が段々と回りだした友若。

思ったことをそのまま言えば良いという状況は友若の気分を楽にした。

無責任に可能性を煽るというのは友若の得意とするところである。

袁紹は肩を震わせていた。

 

「ここは皇帝陛下に使者を送るべきです。今回の事変が宦官らの企みに因るものだと言うことを説明すれば、皇帝陛下も必ずや過ちを認めるでしょう。そして、天下の万民は本初様をして天下に比類なき忠臣と讃えること間違いありません」

「まて! 荀大老師!」

 

友若と袁紹のやり取りに危機感を覚えた豪族の1人が声を上げた。

明らかに友若は戦いを回避し、外交で決着をつけようとしている。

そうなれば私兵を率いてこの戦いに参加した豪族達は折角の機会に功を上げることができなくなってしまう。

更に朝廷との交渉となればその矢面に立つのは十中八九、友若と関わりの深い清流派閥の人間だ。

袁紹達は宦官と交渉するつもりがない。濁流に繋がりのある人間達には活躍の場も与えられないだろう。

 

友若は朝廷との交渉によって袁紹勢力内部における自らの勢力を確固たるものにしようと目論んでいるのだ、と豪族達や名士達は考えた。

だが、軍を交えない外交交渉では袁紹が確実に天下を握る保証がない。

袁紹によってフリーハンドを渡された朝廷は天秤の針を自らの方向に向けようと暗躍することは疑いようもない。

軍を進めれば天下に確実に袁紹の手が届くこの状況。

それをみすみすと見逃し、自らの勢力拡大に奔走するとは何たる佞臣か、と豪族達や名士達は憤る。

 

「荀シン、貴様それでも――!!」

「朝廷と交渉だと!? この期に及んでそんな悠長な事を言うとは!! ここは軍を進め、皇帝陛下の側に侍る佞臣を須く斬り殺すべきだ!!」

「おい、友若! 何アホな事吹いてんのや!!」

 

豪族達や名士達の友若に対する一斉砲火に審配が同調した。

審配を驚きの目で見る豪族達や名士達。

友若の提案で利益を得るだろう人間であるにも関わらず、審配は友若に噛み付いた。

 

「この期に及んでうちらの勢力拡大とか考えてどないすんのや! 友若!」

「えっ?」

 

なるほど、洛陽に軍を進めれば袁紹を非難する者もいるだろう。

だが、それがどうしたというのだ。

忠誠や信義、そうした綺麗事に浸りたい人間は好きなだけ浸らせておけば良い。

審配はそんなロマンチシズムに興味はない。

かつて、皇帝によって多くの仲間が殺された審配である。漢や皇帝に対する忠臣は持ち合わせていなかった。

蒼天既に死す。

皇帝は自らの選択によって漢帝国の命脈を絶った。

ならば、名門中の名門、友若という天才を重用し、天下に比類なき善政を敷いた政治家にして、将軍たる袁紹が至尊の座に着いたとして何の問題があろうか。

漢帝国への忠誠心を捨てられない袁紹に配慮し、直接口にしたことはなかったが、審配は内心ではそう思っている。

そして、審配の言葉はこの場にいる殆どの人間達の意見を代弁したものだった。

 

対する友若は意味が分からないと首を傾げる。

実際、友若にとって審配の言葉は意味不明であった。

曹操軍と戦わない為に友若は朝廷との交渉を主張したのである。

逆賊という指定がなくなれば曹操軍も袁紹と戦う理由を失うだろう。黄巾の乱が起こり戦乱の世となれば話は別なのだろうが、漢帝国はまだ辛うじて威光を保っている。

ともかく、曹操と戦わない方法を必死に考えていた友若。

派閥勢力の拡大とか、そんな発想は根本から存在しない。

だからこそ、友若は咄嗟に不思議そうな、驚いたような顔をした。

 

「――っ!! ……分かりましたわ……!!」

 

歯軋りをし、指先が白くなるほどに手を握りしめた袁紹が血を吐くように呟いた。

審配達が顔を歪める。

 

「朝廷に使者を送ります……! ただし! ただし、この度、私が受けた屈辱、大切な部下たちが流した血。それを企んだ者達に必ず対価を払わせなさい!」

「麗羽様! 麗羽様を非難する者など無視すればよいのです! ここは軍を進めるべきです! 天下が直ぐ目の前にあるのですから!」

「怜香さん……だからいけないのですわ。私は天下の名門、袁家の人間、袁紹本初! 盗人や匪賊の譜系ならいざ知らず、この私が漢に弓を引くなどあってはならないことなのですわ!」

 

袁紹は叫んだ。

袁紹は必ずしも自らの言葉に納得している風ではなかった。

 

「本初様! これは漢に弓を引く行為ではありません! 皇帝陛下の佞臣を取り除く為に我々は洛陽を目指すのです!」

「本初様! どうかお考え直しください!」

「う、うるさいですわ!! あなた達、この私の決定に逆らいますの~~!!?」

 

決して納得したわけではない袁紹。

天下という果実を前に手を伸ばさずに我慢することは袁紹に苛立ちを覚えさせた。

それでも、この場では名門袁家の名声を損ねたくないという虚栄心が袁紹に決断を促した。

友若の予想通り、袁紹は天下という美酒を前に自らのプライドを優先したのだ。

袁紹配下の多くは呆然と袁紹を見ていた。

 

「――っ! 休みますわ!! 皆さん、ごきげんよう!」

 

袁紹は荒々しく席を立つとそのまま去っていった。

去り際に袁紹は友若を睨んだ。

友若が余計なことを言わなければ、何の憂いもなく生意気な曹操を下し洛陽へと軍を進められたというのに、と袁紹は思った。

袁紹の寵愛のみによって命を保っている友若にしてみれば死刑台へと一歩足を進めた形である。

友若は全く気がついていなかったが。

 

「……ふう」

 

友若は心の底から安堵の溜息を付いた。

曹操軍と真っ向から戦うという最悪の事態は避けられた、と友若は思う。

とは言え、まだ油断はできない。

朝廷との交渉が失敗すれば、また、曹操が攻めてくる可能性が無視できない。

更に好戦的な味方をどう抑えるかも重要な問題だ。

朝廷との交渉成功には薄氷の上に成り立っている袁紹軍有利の状況が必要だ。

友軍が暴走して下手に曹操軍に戦いを挑むといった事が無いよう管理しなければならない。

勝って兜の緒を締めよ、と友若は肝に銘じた。

 




見所:
決断力のある麗羽様
3週間もありながら貯蓄ゼロの奇跡
かっこ良くなっているはずの主人公


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荀シン友若 下

「……そう、分かったわ。公台にはよくやったと伝えておいてちょうだい。貴方もよく伝えてくれたわ。明日朝返書を渡すからそれまで休んでおきなさい」

 

陳宮からの報告書を読み終えた賈駆は配送を請け負った兵士に労いの言葉をかけた。

兵士が退出するのを待って、賈駆は深いため息を付く。

董卓が心配した様子を見せる。

 

「え、詠ちゃん、大丈夫?」

「ええ、ボクは大丈夫。恋達もまあ上手くやったようね。最後の最後で活躍の場があったみたいだし……皆、怪我もなく無事みたいよ。死者はなし、怪我人は少々ってところね」

「良かったぁ」

 

賈駆の言葉に董卓は心から安堵した。

純粋に友人の無事を喜ぶ董卓。

賈駆は董卓のそんな在り方を喜ぶと同時に微かな痛みを覚えた。

軍師として、無意識のうちに味方の損害を損得勘定で判断してしまう賈駆。

例えば、仮に呂布達が死んだとしても、賈駆はそれを嘆くよりも先にその損失を見積り、抜けた穴を補填する方法を考えるだろう。

もちろん、賈駆は軍師としてそれが当然だと思っていたし、その事に後ろめたさを感じたことはない。

仲間の死を利用できなくて何が軍師か、と思う。

だが、そんな賈駆にしてみれば董卓の純粋な在り方は余りに眩しい。

親友である董卓がそうした事を気にするわけなど無い。

しかし、賈駆はこうした時、心優しい親友に自分が相応しくないと思ってしまうのだ。

 

「……詠ちゃん、大丈夫。詠ちゃんは私の大切な、大切な親友だから」

「っ! ゆ、月!」

 

賈駆の内心の葛藤を見透かしたように董卓が笑いかけた。

敵わないな、と賈駆は思った。

こんなに優しい董卓こそ、もっと上の立場に立つべきだと賈駆は思う。

少なくとも、異民族対して無謀な挑発を行って辺境を地獄へと変えた前の皇帝や現皇帝などよりは遥かにましだろう。

 

そもそも、洛陽の人間で辺境への理解がある人間は少ない。

官吏として出世する人間は一旦洛陽を離れた地に赴任するものだが、その際に人気があるのは賄賂が期待できる冀州を始めとした豊かな土地だ。

対異民族目的で莫大な戦費が辺境に割り当てられていた時期は辺境への赴任を志望する者もいたが、そうした人間の目的は横領と賄賂によって財を成すことであり、辺境の問題を解決するためではない。

流石に朝廷は辺境の重要さを理解していたが、実情を把握していない彼らの行動が辺境の民を救うことはなかった。

 

并州がこの世の地獄だった頃、董卓は辺境の民を救おうと奔走していた数少ない人間だった。

そして、それ故に董卓は他の官吏から疎まれることになった。

官吏の収賄や着服は大きな利権構造を構成していた。

民を救うために奔走する董卓の行いはその利権を切り崩すものだったのだ。

 

友人として、軍師として賈駆は董卓を支えようと奔走した。

だが、当時の賈駆にできたことは殆ど無かった。

賈駆の説得能力は決して高くはない。

生まれつき問題の本質を容易く見通してしまう賈駆にとって交渉とは、物分かりの悪い相手に論理を説くというものになりやすい。

相手が賈駆に従う部下であればそれで問題はない。

だが、汚職にまみれた官吏を相手に賈駆の正論は効果を示さなかった。

結局、并州が平和を取り戻せたのは董卓や賈駆の功績と言うよりは、冀州の経済圏拡大によって并州に莫大な資金が流入するようになった事が大きい。

 

もちろん、賈駆はその好機を最大限に活かすべく動いた。

官吏達に経済拡大による利を示し、彼らの既得権益である収賄の密告を示唆して脅し、飴と鞭を使い分けて行政の腐敗改善を実現してみせた。

長年の苦節に耐えた賈駆の粘り強い交渉。それを全面的に支えた董卓の献身。

その成果である。

しかし、それは袁紹の成功という幸運があったからこそ獲得することができた。

董卓や賈駆の力のみで并州の平和が達成できたなどとは口が裂けても言えない。

董卓は純粋に并州の平和を喜んでいたが、賈駆は表面上笑顔を取り繕いながらも悔しさを感じずにはいられなかった。

 

冀州州牧袁紹本初。

その袁紹に株式制度など冀州経済の起爆剤となった様々な政策を献策した荀シン友若。

賈駆はどうしても自分達と袁紹達とを比べてしまう。

もちろん、双方は前提となる権勢や財力、家柄に大きな差がある。

だから、董卓と袁紹で成し遂げた功績に差があるとしても、それは決して両者の素の能力の差には直結しない。

 

だが、仮に董卓が今の袁紹の立場にいたとして。

仮に賈駆が友若と同じ立場であったとして。

賈駆は荀シンに劣らない働きができるのだろうか。

商人の話によれば株式と名付けられた制度は、商売を行うにあたっての資金集めを始めとして様々な利点のある画期的なものらしい。

異民族との果てしない殺し合いが続いていた并州で幼い頃から過ごしていた賈駆は商売に関しては余り詳しくない。

董卓のためにも学問を疎かにしたことのない賈駆だが、商売を取り扱った書物は少なかった。

賈駆が本格的に商売や経済に触れるようになったのは、并州が冀州の経済圏に入ってからだ。

そのため、賈駆にしてみれば株式制度や銀行制度は当たり前のもので、それがない商売というものが実感を伴って想像できない。

しかし、今となっては当たり前のこうした制度は10年前には影も形もなかった。

全くの無から株式制度や銀行制度を考案した友若。

自分は同じことができたのか、という自問に是と答えられない賈駆であった。

 

「はあ……」

 

賈駆は溜息とともに幾度と繰り返してきた思考を振り払った。

劣等感に苛まれている暇はない。

賈駆は心配そうな顔の董卓へと視線を向けた。

 

「月、袁紹のところから朝廷との和睦交渉のための使者が来るわ。袁紹はボク達に洛陽まで使者を護衛するように求めているわ」

「そ、それじゃあ、これ以上の戦いは無いんだよね」

「……ええ、陳宮の話だとそうみたいね」

 

戦いが続かなそうな状況にホッとした様子を見せる董卓。

官軍との戦いで

賈駆は董卓の心の平安に喜びながらも、袁紹の行動に不可解なものを感じていた。

官軍相手に圧倒的な勝利を得た袁紹軍。

その勢いを持ってすれば洛陽まで攻め上ることも容易だったはずである。

そして、洛陽さえ抑えれば、漢帝国は袁紹のものとなる。

皇帝側が袁紹に対して行った不義理、理不尽を考えれば。諸侯も納得せざるを得ないだろう。

仮に董卓が袁紹の立場だったとすれば、賈駆は洛陽までの進軍を進言しただろう。

だが、袁紹は勝利の果実を掴もうとせず、自らの破滅を企んだ皇帝側を生かそうという行動をとっている。

 

賈駆にしてみれば優柔不断な悪手としか思えない。

生かされた皇帝側が袁紹に感謝することは無いはずだ。

むしろ、機会を見て今度こそ袁紹を倒そうと動くだろう。

朝廷に巣食い、権力を牛耳る宦官や官吏と、勢力を拡大する一方の袁紹。

この両者が並び立てない以上、共存不可能だ。

そして、将来も敵としかなり得ない相手を生かすことは百害あって一利なしだと賈駆は思う。

賈駆ならばここで断固とした武力行使により後顧の憂いを断つべきだと主張するだろう。

 

とは言え、袁紹の統治、軍事面での圧倒的な成功を見ている賈駆。

英雄袁紹の選択をただ愚劣と切り捨てることはできない。

そもそも、朝廷が辺境の実態をまるで理解していなかったように、董卓達もまた朝廷の動向に詳しいわけではない。

ある程度の情報――誰がどの地位にあるか等は伝わってくるが、書面上に出ることのない対立や繋がりに関しては朝廷と距離をおいた董卓達には伝わってこない。

もちろん、賈駆は董卓が朝廷の都合で潰されないように動いていたが、逆に言えばそれだけしかしていなかった。

 

この戦いに先立って行われた交渉で賈駆は天才とまで言われる友若と直接言葉をかわしたが、その時、彼女がその天才に対して最初に抱いた印象は愚鈍な人間というものだった。

もちろん、伝え聞く逸話や、冀州の発展を考えれば、その印象が間違っている事は明白だ。

どうして友若に間違った印象を抱いたかといえば、両者の持っている情報の違いがあったからだ、と賈駆は判断している。

前提となる知識がそもそも異なっているために、賈駆は最初袁紹側が不利だと判断していた。

だが、実際は、弩を始めとした大量の武器を揃え、兵を鍛え上げ、長年にわたって戦いに備えていた袁紹軍の圧倒的な勝利に終わったのだ。

賈駆の持っていた情報には不足があったのである。

恐らく、袁紹側は董卓が袁紹は武装を整えているという情報を知っているものとして交渉に臨んだのだろう。

だが、董卓や賈駆は辺境の復興に追われており、朝廷を除けば殆ど外に目を向ける余裕がなかった。

そもそも、株式制度では投資のために莫大な情報が公開される。

人材不足の董卓陣営では、賈駆が殆ど一人で膨大な公開情報を処理して、并州の安定的な経済発展の実現していた。

とても、密偵を組織して外部の秘密情報を探る余裕は無かったのだ。

 

だが、上京するのであれば、そうした情報は極めて重要だ。

袁紹も董卓の知らない情報から朝廷との和睦交渉を行うと決めたと考えるのが妥当だろう。

朝廷の動向に関して何か重大な情報を持っているならば、袁紹が武力行使ではなく和睦交渉を選んだことも納得できる。

袁紹は董卓側にその情報を開示するつもりのないのか、賈駆はどうして袁紹が交渉を選んだかを具体的に知ることは無かったのだが。

 

――ボク達も今後は外の情報を集めなくちゃならないわね。

 

異民族の問題がなくなり余裕の出た并州。

袁紹と朝廷との交渉仲介に成功すれば、董卓陣営は名声を増すだろう。

そうなった時、諸侯の動向を知らなければカモにされるだけだ。

生き残るためにも、朝廷や袁紹を始めとした諸侯の動向を知っておくことは必須であると賈駆は考えた。

 

「ともかく、袁紹側の使者は陳宮の早馬と同時に出立したらしいわ。使者の名前は審配正南と許攸子遠。彼女たちが并州に着いたらすぐに朝廷との交渉に動けるよう根回ししておく必要があるわ。朝廷を交渉の席につけるためにもある程度の兵は動かさなくちゃいけないし」

「うん」

 

董卓は微笑んだ。

賈駆も小さくそれに笑い返す。

 

「くっだらない戦争のせいで、商人の動きが止まっているしね。并州のためにも平和を取り戻さなくちゃいけないわね」

「頑張ろうね、詠ちゃん」

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「友若、話があるんやけど」

「……まあ、いいけど」

 

朝廷への使者は清流として洛陽との人脈のある審配と許攸になった。

2人は護衛の兵100名を率いて并州へと向かい、董卓に仲介を委託することで皇帝側と交渉の席に着く予定である。

審配が友若に話があると声をかけたのは出立前夜の事だった。

 

相変わらず微妙な趣味の服装だ、と友若は思う。

貴金属の装飾品をジャラジャラと身に付けた審配は何というか成金趣味である。

夏だというのに複数の種類の動物の毛皮で作られた上掛けを身に纏っていることには感心するが。

確かこの上掛けは数銭万銭したと審配が言っていたはずである。

審配にしては珍しく品の良いデザインで、友若も珍しく褒めた記憶がある。

本当に金に目がないやつだなあ、と友若は自分を差し置いて感心した。

身に纏った装飾品に対して体の貧相さは如何ともしがたいが、と考えた友若は慌ててその思考を振り払った。

こういうところだけ、勘の良い審配が友若を睨みつけている。

 

なまじ顔立ちが整っているだけあって、つり目気味の審配の睨みは怖い。

友若の様子に審配はため息を付いて目を逸らす。

澄ましていれば美人なんだけどなあ、と友若はこっそりと思った。

癖のない黒髪を短く切った審配は落ち着いてさえいれば麗人に見えるだろう。

本人は黒髪が地味だと気にしているようだが、友若は審配の髪が好きだった。

理由は分からないが、漢帝国には金やブラウン、銀だけに留まらず、蒼とか緑の髪を持った女性がいる。

前世から見れば信じられない光景だ。中国って基本的に黒髪の人間しかいなかったような、と思う友若。自分の髪もブラウンなのだ。

そんな環境で、審配の黒い髪は何というか見ていて落ち着くのだ。

蒼とか緑の髪が不自然で似合わないという訳では全くないのだが、かつての世界の常識に当てはまる審配(ただし女性だが)の髪を友若は好んでいた。

それを口に出したことは一度もなかったが。

そんな事を考えている友若に審配は気を取り直すように口を開く。

 

「うちの家でええか?」

「……流石にそれは。一応、女が付き合ってもいない男を夜中に家に上げるのはどうかと思うけど」

 

審配の無防備な発言に友若は半眼で答えた。

職場の同僚とそういう関係にあると噂されるのは面倒極まりない。

遊ぶなら遊郭のような施設を利用する方が後腐れがなくて良い、と友若は思っている。

火遊びはやっているうちは楽しいのかもしれないが後始末がひたすらに面倒なのだ。

何れにせよ、悪友というべき関係にある審配とは今の距離感を維持していたいものだ、と友若は考えた。

 

「一応って、どういうことや? ……まあええ。なら、こないだ出来た幕土亭の個室で話そうやないか。あそこなら問題あらへんやろ」

「うーん。まあ、いいか」

 

やる気のない友若。

そんな友若の様子にニヤリと口元を歪めた審配は声を潜めて友若に耳打ちした。

 

「実は麗羽様から高級葡萄酒を頂いてやな。しばらくここを離れなあかんから、この機会に空けてしまおうと思っとるんや」

「ま、マジでか!!? あ、赤だよな!!? もちろん白でもいいけど!!」

 

葡萄酒に目がない友若は我を忘れて叫んだ。

金に糸目をつけないだけあって、袁紹の所有している葡萄酒はどれも一級品だ。

いい加減な搬送で品質が悪化した劣等品や冀州少量ながら生産が開始された微妙なそれらとは一線を画している。

友若と似通った袁紹の好みを考えれば、件の葡萄酒は自分好みの辛口赤に違いない、と友若は内心で小躍りした。

 

「声が大きいで、友若。他の奴らに聞かれたら、連中挙ってこれ幸いとただ酒を飲みに集まってくるやろ。折角二人だけで空けようって言うたのに」

「確かに……」

 

神妙な顔で友若は頷いた。

因みに、袁紹配下の人間でタダ酒やタダ飯の会合へ参加率が最も高いのは審配で次点が友若である。

 

「とゆう訳でや、友若は先に幕土亭に行って席取っといてえや。うちは葡萄酒を取りに一旦家に戻るさかい。あ、友若には残念かもしれへんけど、白やで」

「ち、畜生! でも飲む!」

 

友若はそう言って審配と別れた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「おう、正南! こっちだ、こっち!」

 

幕土亭を訪れた審配に友若は声をかけた。

小麦粉を醗酵させて作った生地を焼いたもので焼き固めた挽き肉などを挟むという独特の料理を出す店である。

この料理は友若発案のアイデアを昇華させたものであり、アイデアを提供した友若や審配はこの店舗の大株主となっている。

そのため、予約なしで一室を占拠するといった無茶も可能なのである。

 

審配が通された部屋は店舗の奥であった。

裏通りに面しているためか窓はない。

それでも景観を良くしようと壁には掛け軸や花が飾られていた。

 

「お、あの掛け軸、もしかして……?」

 

掛け軸にうっすらと見覚えがあった審配は眉間にしわを寄せて少考した。

 

「……元々俺のものだよ。ここの店主が部屋の装飾をするだけの資金がないなんて嘆いていたからな。まあ、安物だし、こうして提供したわけだ。安物だからな」

 

友若が嫌そうな顔で審配の疑問に答える。

 

「ああっ! そうや! 確か、だいぶ昔に天才画家の名作とか言うとったやつやないか! そんで、鑑定したら偽物っちゅうことが分かったやつ。まだ持っとんたんか!?」

「もういいだろう、その事はっ!」

 

友若の言葉に詳しい事情を思い出した審配がニヤニヤと友若を見る。

かつて友若がまだ袁紹の呉服職人だった頃の話である。

当時の友若は骨董集めにハマっており、中でも名のある人物によって作られたという芸術品に目がなかった。

当時、審配は微妙な出来としか思えない掛け軸や陶器を自慢してくる友若に辟易とさせられたものである。

もっとも、審配も金や銀をふんだんに使った装飾品を友若に見せびらかしていたのだが。

結局、鑑定士によって友若の所有する芸術品はどれも価値がないと判明した。

審配は内心で勝ったつもりでいる。

まだ、十年も経っていないが、審配には遥か昔の話のように懐かしく思えた。

 

因みに、『鑑定事故』以来、友若は骨董集めに懲りたのか名物を買い漁ることをパタリとやめた。

その代わりに、友若は現存の職人や画家から形のいびつな陶器や手抜きの掛け軸を安値で買い集めている。

本人曰く前衛芸術というものらしいが、審配にはその価値が全く分からない。

職人や画家はこれ幸いと失敗作を友若に引き取ってもらっているようである。

そんなガラクタがどうして後に高値がつくのかは審配にはさっぱりである。

まあ、友若の妙な物収集癖は昔から変わらずということなのだろう、と審配は思う。

 

だが、十年前と変わった事は多い。

審配にしても、洛陽の官吏を辞めて冀州で袁紹に仕えている。

その間、友若の献策を発端として冀州は爆発的な発展を遂げた。

冀州の紙面上の税収は100倍程度まで膨れ上がった。もっとも、支出もそれに比して増えているのだが。

濁流との争いに破れ、洛陽を去らざるを得なかった時は途方に暮れた審配。

それが、今では袁紹の臣下としての名声を得て、莫大な財をなしている。

さらに、袁紹の権勢拡大は勢い衰えることを知らず、天下にその手が届く所まで来たのだ。

人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだと思う審配。

 

本当に冀州は様変わりした。

その割に友若と審配の関係は出会った時から変わっていない。

悪友とでもいう感じの関係の両者は互いに迷惑を掛け合いながら、相変わらずこうして酒を酌み交わしている。

いい年をした男女であるはずなのに、同性同士の付き合いの様な感じを続けているのは如何なものかと審配は心の奥底で思っていた。

何しろ、両者は10年も親交がありながら真名の交換もしていないのだ。

異性間の真名の交換は結婚を前提とした間柄か、深い臣従関係にある間柄くらいでしか行われないことを考えれば妥当であるのだが、審配としては中々納得がいかない。

同性同士なら親友という感じの間柄でも真名交換をするのだ。

友若と審配は異性を全く匂わせない、同性との友人と変わらない付き合いをしている。

それなのに、真名に関しては異性という壁に阻まれる事は二重規範ではないかと審配は思うのだ。

 

「白……まあ、最近赤ばっかりだったし、偶にはこういうのもいいか……」

「なんや、不満なら飲まんでもいいんやで?」

「め、滅相もないよ! 俺、うれしー。正南さん、愛してる!」

「あっ、愛!?」

 

友若の戯れ言に思わず反応してしまう審配。

そんな審配の様子を見た友若が顔をしかめた。

 

「い、いや、言葉の綾というか、ちょっとした冗談みたいなものだけど」

「……そうかそうか、葡萄酒はいらんのか、友若」

 

審配はかなり据わった目で友若を睨む。

 

「ちょっ!? いやだって、昔から俺よく冗談で愛してるって言ってたじゃん!?」

「……はあ。まあええわ。ほな、さっさと開けようか。しっかし、友若もまるで進歩してないやんか」

 

審配はため息を付きながら栓抜きを手に葡萄酒の入ったクリスタル瓶の蓋を開けた。

内心では友若に対する罵倒の言葉が渦巻いていたが。

待っていましたと言わんばかりの勢いで、友若が2つのクリスタルの杯を取り出す。

西方から流れてきたというその杯は青みがかった透明で、外側の表面には細かい文様が描かれている。

友若の収集物の中で審配も欲しいなと思う数少ない逸品であった。

 

「友若もいい大人なんやから、乙女の純情を傷つける様な真似したらあかんやないか」

「……乙女? い、いや! 何でも無いです! 何でもないですから!」

 

審配の顔を見た友若。

何を恐れたのか慌ててポロリと漏れた疑問を誤魔化す。

 

「……まあ、ええわ。その代わり、この杯は貰っとくで」

 

審配は友若を睨みながら杯を掲げてそう言った。

物の価値も乙女心も理解しないこんな男の手にこの逸品は勿体無いと思う審配。

 

「ちょ、ちょっ!? 何故に!? それは高かったんだからあげられないよ!?」

「やかましい! 乙女に散々な口の聞き方をしといてこれで済ませてやるっちゅうてんだから感謝せんかい!」

「り、理不尽だ! 断固拒否する! ほら、この前、横領の刑罰が重くなったばかりじゃないか! 正義はこっちにあるぞ!」

 

審配に対して友若が叫んだ。

 

「しゃあないな。じゃあ、友若がこの前さんざん欲しがってたあの掛け軸と交換でどうや?」

「ま、マジで!? もちろんいいよ!」

 

審配の提案にあっさりと友若は頷いた。

清々しい笑顔である。

少し前、審配は気まぐれに日ごろ友若が収集しているような下手くそな掛け軸を一枚、購入していた。

千銭等とふざけた価格を提示する商人を脅し、1銭で買い取ったのだ。

何が書いてあるかも分からない残念な出来のもので、正直、審配には子供の落書き程度にしか見えなかった。

一時期、家の客間に飾って眺めてみたが、どうして友若がこうした掛け軸に執着するのかは終ぞ分からなかった。

だが、審配の家を訪れた友若がその掛け軸を見た途端、譲ってくれと熱心に頼み込んできたのだ。

その時は断った審配。

しかし、友若はしつこく、度々審配の家を訪れては、掛け軸を譲ってくれと頼むようになった。

審配としては友若が頻繁に家を訪問するようになったことを喜ぶ反面、下手くそな掛け軸に自分が負けているようで微妙な気分であった。

友若の言う前衛芸術というものは審配には何が良いのか全く理解できない。

友若は後二、三十年すればとてつもない価値がつくと言っていた。

だが、いくら冀州を大発展させた友若と言え、こればっかりは外れるだろうと審配は考えている。

下手をすれば1万銭を超えるクリスタルの杯とあの掛け軸ならぼろいな、と思う審配。

友若の訪問回数が減るだろうと心の何処かが傷んだが、審配はそれを無視した。

 

「……まあ、あんな小細工よりも直球勝負や」

「? どうしたんだ? さっさと飲もうぜ」

「……はあ」

 

審配は溜息をつくと杯を掲げた。

 

「乾杯」

「乾杯や」

 

友若の考えだした儀礼に従って軽く杯をぶつける2人。

審配としては杯を傷つけかねないこの儀礼をクリスタルの杯で行うことは遠慮したかったが、一方で、杯が奏でる高い音が耳を楽しませることは確かだった。

 

「あ、甘っ!」

 

葡萄酒を飲んだ審配が叫ぶ。

 

「失礼します」

 

一杯目の葡萄酒を2人が飲み干した直後、給仕が料理を運んできた。

まずは、前菜である。

友若がぼやく。

 

「うーん。まるでファーストフードって感じがしないな」

「何言うてんのや?」

「ああ、何でもないよ。それよりも、どんどん食べようか。しかし、この葡萄酒確かに甘いな?」

 

友若が葡萄酒を指し示す。

予想以上に甘い味に葡萄酒の愛好家である友若といえども不満を覚えずにはいられなかったようだ。

 

「そうやなー。料理と一緒じゃキツイな。とりあえず、普通の酒を頼んどくか?」

「……いや、俺は葡萄酒だけがいい」

「ほな、うちは酒を頼むとしようか」

 

審配はそう言って給仕に酒を持ってくるよう命じた。

給仕が去っていき、部屋にはまた2人だけとなる。

審配は席に着くと友若を見た。

無言で前菜を食べ続けていた友若は殻になった器を横にどけながら顔を上げた。

 

「……」

「……」

 

無言で見つめ合う友若と審配。

壁越しに裏通りの喧騒が微かに聞こえた。当初審配が思っていたよりも壁の防音性能は高いらしい。

日が沈んでいても、経済発展著しい冀州は中々眠らない。

一日中働き通した労働者達が疲れを癒やそうと居酒屋を訪れ、売り子が威勢よく客引きをする。

建築物と建築物の間に張られた紐にぶら下げられた提灯によって、月のない夜でも人々は街中を歩けるのだ。

 

「それで」

「……」

 

先に沈黙を破ったのは友若だった。

顔は若干強張っている。

 

「話って何だ?」

「……分かってるんやろ?」

 

審配は静かに言った。

 

「……何で朝廷と交渉することにしたのか、か?」

「そうや」

 

審配の肯定に友若は頭に手を当てて考え込んだ。

 

「曹操軍が使ったあの『銃』。あれをどう思う?」

「またそれか? 確かにあの武器は大したもんかも知れへんが、所詮数が揃わな大したことあらへんやないか。正直に言うで。うちにはあんたが曹操にビビっているようにしか見えへん! まあ、あの小娘は確かに大した人物かもしれへんが、率いている兵の数は少ない。麗羽様直属の私兵が持つ真弩なら簡単に勝てるに決まっとるやないか!」

 

審配の叫びを友若はもどかしそうに見ていた。

審配の声はだんだんと大きくなっていく。

 

「正直、あの戦いの後、すぐにでも官軍を追いかけて二度と立ち上がれなくなるまで叩いておくべきやったとうちは思う。今からでも遅くはない。麗羽様を説得して曹操の小娘をぶっ潰して洛陽の土を踏むべきや!」

 

審配はそう叫んで友若を見た。

 

「――ってない……」

 

友若は聞き取れないほどの小さな声で呟いた。

 

「何や? 言いたことがあるなら言うてくれへんと分からないやんか」

 

審配が尋ねる。

友若は思いつめたような顔で審配を見つめた。

審配の鼓動が高まる。

だが、次の瞬間、友若の口から漏れた言葉は苛烈の一言だった。

 

「正南は何も分かってない! あの『銃』はそんな生易しいものじゃない! あれがどれだけ異常なものか! あれは全ての戦いを塗り替える武器だ! 将来、剣とか槍、弩なんてものは全部消えるだろう! 真弩!? あんなものが何の役に立つんだ! 銃が出てきた以上、弩なんて過去の遺物だ! あれは文字通りの革命だ! それを実用化した曹操と戦うことがどれだけ危険か誰も分かってない!」

 

友若の剣幕に押される形で審配は思わず黙りこんでしまった。

しかし、時間とともに審配の心には反発が生まれる。

 

「なら……なら、何時戦うっちゅうんや……!」

 

絞りだすように吐いた言葉には憤りがあった。

 

「友若、あんたの言う通り曹操は大したやつかも知れへん。だが、相手がなんぼ大したやつやろうと何時かは戦わなあかんのや。ほんなら、今、この有利な状況で戦わんで、どないすんのや!」

「それは……」

 

友若は何かを言おうとして、口を閉ざした。

その様子に審配の怒りは深くなる。

なにか言ってやろうと思って口を開きかけ、思い直して黙りこむ審配。

視線を部屋の扉に向け、耳を澄まして近くに誰も居ないことを確認する。

 

「……うちは麗羽様に天下を取らしてやりたい。それが今のうちの夢や」

 

暫しの逡巡の後、審配はそう言った。

友若が驚愕の表情で審配を見る。

審配の言葉は漢帝国の否定を意味していた。

 

「せ、正南っ! それはっ!」

「漢の高祖はただのゴロツキやった。そもそも、儒教では誰でも君子になる資格がある。漢はそもそも永遠やあない。皇帝が道を誤れば最後には国が滅ぶっちゅうのは当たり前の話や。そして、今の皇帝は散々道を誤って、自らの首を絞め、忠臣を殺して、佞臣の跋扈を許し、漢の土台を腐らせた。なら、冀州を大いに発展させた名君、名門袁家の継承者である麗羽様が天に立って何の不都合があるんや。うちはそのためならなんでもするつもりや。麗羽様の為なら命も惜しくないと思う」

「……」

 

審配の言葉に友若は黙って思案するように頭に手を当てた。

 

「少し意外だな……」

 

友若がポツリと呟いた。

 

「どういう意味や?」

「いや、正南は大義とかよりも、もう少し自分を大事にすると思っていた。俺みたいに。……いや、とんだ勘違いだったわけだな」

 

誤魔化すように手を振る友若を審配は見つめた。

 

「……あのジジイの所為でうちは酷い誤解を受けたけどな。うち、一途なんやで」

「ああ、そうなんだな」

 

友若は眩しそうに審配を見て、寂しそうに笑った。

その笑い顔が気に食わなくて、審配は苛立った声を出した。

 

「この前だって友若は麗羽様の為に命懸けで動いたやないか。その御蔭で麗羽様は無事助かった。なのに何をそんなに腐っとるんや」

「そんなんじゃないさ。あの時、俺は……俺は……」

 

友若は言葉に詰まって視線を下に向けた。

審配は静寂を破って近づいてくる足音を聞いたのはその時である。

考えがまとまったのか、口を開こうとする友若に審配はジェスチャーで静かにするように指し示す。

足音を聞いた友若は若干青ざめた様子で審配を見た。

 

「大丈夫やろ。声は抑えとったし、聞こえてないはずや……」

「失礼します。大変お待たせしました」

「おう、とうとう来よったか! 散々待たせおって! うちを誰だと思っとんのや。この店の大株主や! 舐めとんのか!?」

 

料理を運んできた給仕を審配は怒鳴りつけた。

給仕は哀れなほどに怯えた。

 

「も、申し訳ありません! お役人様! 本日は行列ができるほどの客が入っておりまして――」

「有象無象の連中よりもうちらを優先せんかい! それとも何か? うちらのこと舐めとるんか?」

「申し訳ありません! 申し訳ありません!」

 

チンピラの三下と言わんばかりの様子で給仕を問い詰める審配。

友若がため息を付きながら声をかけた。

 

「まあまあ、正南。無理を言って予約もなしにいきなり押しかけたのはこっちだし、勘弁してやりなよ。ごめんね、君。正南は今機嫌が悪いから、暫く近寄らないといいよ。一応これで料理は全部なんだよね?」

「ちっ! はよ消えんかい」

「あ、は、はい。食後に甘いモノがありますので頃合いを見計らってお運びします。し、失礼します!」

 

友若のとりなしに給仕は怯えながらもそそくさと部屋を去っていった。

去り際に友若に頭を下げる給仕。

それに軽く手を振る友若を審配は不機嫌そうな顔で眺めた。

 

「もっと早く止めんかい。あれじゃあ、うちが嫌なやつみたいやないか」

「みたいじゃなくて、権力を嵩にかかる嫌なやつだったよ。まあ、これで給仕か近づくこともないだろう。助かったよ」

 

審配の文句に友若が言葉を返した。

 

「全く、うちの名声に傷がついたことはどないしてくれるんや! これでも親しみやすい人柄で有名だったんやで? 責任とってもらわなあかんで」

「それただの自意識過剰じゃ……じょ、冗談だって!」

「あぁん?」

 

嫌なことを全部人に押し付けて、と憤る審配には、お前が言うな、と応じる友若。

両者は一通り言葉を交わすと、手に持った杯にそれぞれ酒を注いだ。

酒を飲み干した審配は真面目な顔つきをして友若を見た。

友若も顔を引き締める。

近くに人の気配はなかった。

 

「そんで……」

「……」

 

手に持ったクリスタルの杯を弄びながら、審配の言葉の続きを友若は無言で待った。

審配は唇を舐めると言葉を続けた。

 

「友若、あんたはどう思っとるんや。これからの事、麗羽様の事を」

「……本初様には本当に感謝している。本初様のお陰で今の俺があることは間違いない訳だし、恩返しのためにも精一杯本初様の為に働きたい……と、思う。それに、元皓殿に命懸けで後を託されたんだ……あの時、死の一歩手前にいた本初様と俺の代わりにあの方は亡くなった。なら……」

「……」

 

審配は杯に酒を注ぐと一飲みにした。

葡萄酒と比べると弱い酒だ。

杯の容量は普通の酒を飲むには小さい。

友若も葡萄酒を煽った。

酔いが回ったのか、友若の顔は赤く火照っていた。

 

「本初様と元皓殿が俺の出した案を採用してくれて、そこから今の俺、大老師が出来上がった。その上、命まで救われた。その恩には報いなければいけないだろう……いや……違うな……それはただの言い訳だ」

 

友若は審配をまっすぐと見つめた。

顔は赤くなっていたが、その目は真剣そのものだった。

友若は口を開こうとして躊躇し、また口を開こうとして思い悩んだように口を閉ざした。

暫くの沈黙を挟んで思いつめたように口を開いた。

 

「俺は……俺は、本初様が好きなんだ……愛しているんだと、思う」

 

それだけを言うと友若は口を閉ざして顔を俯かせた。

審配は冷静な自分に内心で驚いていた。

心の奥底では薄々気が付いていたからだ、と審配は考えた。

 

「田豊のジジイの目論見通りやな。あのクソジジ、あの世で喜んでいるんとちゃうか? まあ、うちも麗羽様と釣り合うのは友若しか居らへんと思っとったから、素直に応援させてもらうわ」

「ごめん」

「何誤っとるんや? 友若は何にも悪いことはしてないやろが」

 

友若向かって茶化すようにそう言うと、審配は立ち上がった。

 

「友若、あんたはこれからも麗羽様の為に尽くすつもりなんやな?」

「……ああ、そうしないといけないし、俺もそうしたいと思っている」

「そうか。うちは友若を信じる」

 

審配はそう言って笑う。

鏡はなかったが、自然な顔で笑えたと審配は思った。

 

「さて、そう言えばうちは明日、并州へ行くんやった。準備は許攸に全部押し付けとったが、最後くらいは手伝わんとまた散々小言を言われるからな」

「正南……また、また何時か酒を飲もうな」

「何これが最後みたいな顔しとるんや。うちはとあんたは、友人やんか。今回の葡萄酒を提供したのはうちやし、帰ったら酒奢って貰わなあかんな」

 

審配の言葉に友若がただで手に入れた酒じゃないか、と呟く。

こんな時でもけちな友若が審配には可笑しかった。

 

「ほな、またな~」

 

審配はそう言って手を降った。

そして、身を翻すと歩いて、それでも何時もよりは早足で部屋を後にした。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

友若は静かに葡萄酒の入ったクリスタルの杯を傾けた。ロウソクの明かりに照らされて、杯の文様がキラキラと煌く。

物憂げに友若は天井を見上げた。

 

「覚悟を決めないといけないのかな……」

 

友若は体を震わせた。

あの戦い。

紙一重で袁紹も自分も死んでいた、と友若は思う。

背後から追ってくる曹操軍を思い出すと、未だに体が恐怖に竦む。

 

曹操。

バケモノ。

銃火器と言う友若が開発しようとさんざん努力して、失敗したそれを作るだけではなく、戦術として利用してみせた。

同じくバケモノの荀彧が銃火器についての知識を曹操に渡したのだろう。

だが、荀彧の知っている銃火器の実物は友若の失敗作ばかりだ。

つまり、曹操は荀彧が支えてから十年もしない内に銃火器を開発し、戦術を開発して、生産の目処を整え、軍隊に採用してみせたのである。

そんな存在をバケモノと言わずしてなんと呼ぶのか。

そして、そんなバケモノと戦うと考えるだけで友若の心は恐怖の悲鳴をあげる。

 

田豊や袁紹直属の兵士達はあの時、バケモノを前に戦い死んでいった。

あの時、彼らは死を目の前にしていることを理解していた。

それでも彼らは一歩も引かなかった。

あの場に審配がいたら、彼女もまた同じように命を張って袁紹を守ったのだろう。

友若はそう確信する。

 

翻って自分はどうであるか。

戦いが終わった時、友若の心に最初に生まれた感情は安堵であった。

あの時、友若はただただ自分の命の無事を喜んでいたのだ。

そんな自分が友若はたまらなく嫌だった。

 

田豊や審配、肉の壁となり死んでいった兵士達と自分を比べるために友若はひどく嫌な気分になる。

自分の矮小さが明らかになって。

自分の卑怯さが隠せなくて。

 

曹操と戦えるのか、と友若は自問した。

 

「……くそっ、ちくしょうが……!」

 

勢力を拡大した今の袁紹と曹操や劉備、孫……策(?)は相容れない。

ならば、いずれ袁紹は、友若は曹操と戦うことになる可能性が高い。

そうなった時に、友若は曹操と戦わなければならないはずだ。

ならばいっそ今、とも思う友若だが、どうしても戦うという選択肢を選べない。

 

友若には曹操軍を相手にしてまるで勝ち目が浮かばない。

審配達の様に勝利が簡単に得られるとは到底思えないのだ。

負けるために戦うようなものだ、とすら友若は思う。

 

そして、仮にこの前の戦いと同じ状況になった時、友若は袁紹のために命を捨てることができるのか。

友若には自信がなかった。

だが、もし、そこで引いてしまったら、友若は二度と立ち直れない。

袁紹や審配、田豊と並び立つことができない。

その資格を失ってしまう。

何より友若が自分自身を許せない。

それは死よりも恐ろしいことだ。

友若は震えながらそう思った。

 




見所:バーガー
次話:ツインドリル


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ツインドリル

「奈何せん此の征夫、安んぞ四方を去るを得ん……」

 

曹操は城壁の上に立ち、天を見上げながら呟いた。

曹操軍は現在冀州から洛陽までへと続く関所の要塞を守っている。

袁紹軍が進軍してくれば、その一撃を受け止める役割を曹操軍は担っていた。

とは言え、曹操軍の手勢は現在3万程度。

仮に袁紹軍20万に攻められれば持ちこたえることは難しいだろう。

 

袁紹討伐を名目に集まった20万もの兵士達は消え去った。

特に先の戦いで官軍主力が壊滅的な打撃を受けたことが後を引いている。

あれで漢帝国は主力精鋭の大半を失った。

曹操の活躍を除けばほぼ一方的な敗北。

仮に袁紹軍から素早い追撃を受ければ、官軍は文字通り全滅していた可能性すらあった。

無論、曹操軍の活躍によって混乱していた袁紹軍に素早い追撃は不可能だった。

更に、曹操は拙速な追撃を迎え撃つために幾つかの策を用意していた。

あの状況下で、どれだけの効果があったかは微妙であったが、袁紹軍が陣形を崩してでも強引に追いすがってきたならばそれなりの効果を得ただろう。

もっとも、それは奇策や小細工の類であり、袁紹軍が犠牲を省みずに追いすがれば飲み込まれただろう。

袁紹軍の圧倒的な数の弩による面制圧は単純且つ圧倒的な破壊力を有している。

 

しかし、袁紹軍は追撃を仕掛けてこなかった。

官軍側としては一命を取り留めた形だが、一週間を過ぎても姿さえ見せない袁紹軍の動きは不可解であった。

事実、敗走し、要塞まで退却した官軍側は恐慌状態にあった。

延々と降り注ぐ矢に倒れていく友軍。一方的に死んでいった精鋭部隊。

その様子は官軍の将兵に恐怖心を植え付けていた。

時間を置くことで、兵士達の間には戦闘がどのように推移したか、どのように負けたか、という話が広まったのだ。

このタイミングで袁紹軍が追撃を仕掛けていればどうなったか。

官軍はまともな指揮系統も組めないままに再び潰走する事になったかもしれない。

この時、袁紹軍相手に唯一奮戦した曹操軍は鉄砲の火薬と弾を切らせていた。

銃火器を装備しているのは兵の1割である1000のみである。

だが、銃火器は曹操軍の基本戦術の根幹をなしており、戦力低下は無視できなかっただろう。

更に、皇帝を始めとする朝廷は予想外の大敗に混乱状態にあり、援軍の編成もままならない状況であった。

 

だが、結局袁紹軍は動かなかった。

斥候を放った結果、袁紹軍が河に橋を建設している事、つまり先の戦場付近に留まっているという事が分かった。

その情報を知った袁術を始めとする諸侯は袁紹軍の脅威は無い、と主張して撤退を始めようとした。

官軍の総司令官であった皇甫嵩はその動きを止めようとしたが、不幸なことに、このタイミングで朝廷から皇甫嵩の司令官解任の命が下った。

結果的に後任への引き継ぎに奔走する事になった皇甫嵩と曹操に諸侯の動きを押しとどめることはできなかった。

そのため、官軍の兵力は3分の1程度まで減った。

人事の混乱も相まって、この時、士気の低下は深刻な状況だった。

それでも、袁紹軍は動かなかった。

そして、袁紹軍は今も不気味な沈黙を保っている。

 

不動の袁紹に討伐軍に参戦した諸侯は次々と領地に引き返していった。

元々、冀州の財を狙って参戦した諸侯である。

彼らは勝てる見込みのない戦いに付き合うつもりなど微塵もなかった。

そして、袁術などは領地に帰参して間もおかずに公然と袁紹と連絡をとっている。

袁紹に漢帝国従うよう説得するためだ、と張勲は説明していたが、それを言葉通り信じるのは余程のお人好しくらいだろう。

だが、漢帝国にはそれを諌めるだけの力がない。

 

先の戦いで袁術は真っ先に逃げ出した。

それにも関わらず、朝廷がそれをまともに咎められなかった時点で漢帝国の凋落は明らかになった。

それを分かっているからこそ、袁術配下の張勲は袁紹と大々的に交渉できるのだ。

袁術の袁紹に対する個人的な確執を除けば、同じ袁家の勝利は袁術にとって悪い話ではない。

袁紹と袁術、その両者が同盟を結ぶということも十分にあるだろう、と目端の利く者達は考えていた。

そうなれば洛陽は北と南から攻められることになる。

そして、漢帝国にそれを防ぐだけの力は残されていない。

 

とは言え、曹操は袁紹と袁術が現状で同盟を結ぶ可能性は極めて低いと判断していた。

先の戦いで袁紹は圧倒的な勝利を収めた。

袁紹勢力の大半は洛陽までの道も楽に突破できると考えるだろう。

勝利の美酒を容易に手にすることができる立場の人間が同門とは言えそれを態々分け合おうとは考えないはずである。

そして、袁術の性格を考えれば、両者が短時間で歩み寄れるとは思えない。

 

更に、南方の豪族達は冀州の台頭で割りを食ってきた。

そのため、南部豪族達の袁紹に対する憎しみは強い。

袁術が明確に袁紹と組むとなれば袁術の支持母体である南部豪族からの反発は必至である。

だから、曹操は南の袁術に関しては心配していなかった。

 

むしろ、懸案は北部辺境である。

対異民族に関して失敗を重ね、辺境に莫大な犠牲を強いてきた漢帝国。

戦乱により荒廃していた辺境は冀州の経済と結びつくことで奇跡的な復興を遂げた。

冀州と距離が有るために経済的結びつきの弱い馬騰等を除けは、辺境の群雄は全てが袁紹に味方した。

辺境を守る将軍は公孫賛など忠誠心の高い人物が選ばれていたはずである。

それにも関わらず、こうした状況に陥ったことに朝廷はようやく自らが辺境からどれだけ恨みを買っていたかを理解させられた。

朝廷では袁紹に味方した辺境の将兵を寝返らせようと画策しているようだが、朝廷不利のこの状況では難しいだろう。

むしろ、馬騰らが袁紹に与するのも時間の問題だというのが曹操の考えだった。

 

そして、辺境の将兵が一斉に洛陽を目指せばそれを防ぐことは難しい。

いや、不可能だ。

兵の数だけならば問題はない。

莫大な人口を抱える司隷。

後先を考えなければ幾らでも徴兵できる。

だが、それを率いる将軍や指揮官の数が圧倒的に足りない。

漢帝国が抱える歴戦の将兵は清流と濁流の血で血を洗う争いによってその多くが命を落とした。

現状で、まともな実戦経験のある将兵は辺境に集中している。

そして、その辺境が袁紹に味方したのだ。

無論、曹操の見出した才ある者達ならば、辺境の精鋭を相手にしても十分に戦ってみせるだろう。

だが、彼女達は漢帝国存亡の戦いで数万の兵を率いるには地位が低すぎる。いくら皇帝の寵愛厚い曹操であっても、実績の不十分な部下にそれだけの大任を与えることを周囲に認めさせることはできない。

そして、仮に曹操と彼女が見出した優秀な人間に全権限が与えられたとしても辺境が一斉に進軍してくれば全てを守ることはできない。

皇帝の不興を買って左遷される形で袁紹討伐軍司令官の任を解かれた皇甫嵩。

かの老将は曹操の計らいで司隷の北部を守っているが、北西を守る将がいないのだ。

袁紹軍と同じタイミングで北西の馬騰らが動けば、洛陽陥落の危機だ。

 

しかしながら、この状況下で袁紹はそうした選択肢を採ろうとは思わないだろう。

袁紹軍と辺境軍が一斉に進軍した場合、最初に洛陽の土を踏むのは恐らく馬騰らになる。もしくは董卓か。

袁紹の配下はそう判断するだろう。先の戦いで活躍した曹操が要塞を守っている以上、如何に袁紹軍が数で勝ろうとも打ち破るのには時間がかかる。

底抜けに楽天的な袁紹を除いて、その配下はそのように判断するはずだ。

実際、曹操は袁紹軍が動きを見せない間、怯えた兵を鍛え直し、要塞の堀を深め、対攻城兵器用の火矢や油を用意した。

そして、その情報を誇張して袁紹側に流した。

袁紹側に曹操軍に打ち勝つのが容易では無いと知らしめるためである。

もちろん、如何に曹操が守りを固めたところで袁紹と協調して辺境が動けば洛陽陥落は免れない。

だが、その時、洛陽を陥落させる名誉を手にするのは袁紹ではない。

 

端的に言えば袁紹軍は勝ち過ぎた。

先の戦いで圧倒的な勝利を収めた袁紹。

このままいけば勝利の果実を独り占めできる、と袁紹達は思ったに違いない。

だからこそ、袁紹は辺境との協調を躊躇するだろう。

時間をかければ袁紹単独でも勝利は可能だと思うが故に。

目と鼻の先にある勝利が袁紹軍の動きを縛るのだ。

 

もっとも、それは凡俗の話だ。

友若、袁紹の懐刀と呼ばれるあの天才はそうした問題など百も承知だろう。

そもそも、袁紹軍が動かなかった原因は友若が反対したからだ、という情報を曹操は最近密偵から得ていた。

友若の近辺に潜んだ密偵からの情報によれば友若は当初から一貫して官軍への追撃に反対していた。その理由は、官軍への追撃が義に反するというものだ。

 

もちろん、曹操は友若の言葉をそのまま信じる愚は犯さない。

恐らく、友若は軍を進めることの不利益と混乱を知っているからこそ袁紹を止めたのだろう、と曹操は思う。

 

冀州を中心とする袁紹勢力。

その中枢を担っていた人物の内、少なからぬ者達を先の戦いで曹操軍は殺した。

袁紹の首を取れなかったことは曹操にとっての痛恨事である。

だが、袁紹勢力は頭を取られなかったまでも重臣を何名も失った事により、混乱状態に陥っている、というのが曹操が密偵の情報から得た結論である。

 

戦いの前、袁紹配下では田豊を中心とする古くからの臣下の派閥と、洛陽で袁紹に従った名のある清流派達の派閥に権力が集中していた。

この両派閥は長年協力的な関係を築いてきた。

そして、両派閥が推していたのが友若である。

友若が冀州改革に当って莫大な権力を行使できたのもこれらの派閥があったからこそである。

しかし、その一方が田豊らの死によって崩れた。

そのためこれまで強大な派閥によって押さえつけられてきた袁紹配下の野心家が動き出した。

野心家達は一様に洛陽への進軍を主張している。

洛陽へと袁紹が進めば、天下が握れると野心家達は思っているのだ。

だから、彼らは一致団結して進軍に反対していた友若を批判していた。

 

この様な状況下で軍を進めればどうなったか。

なるほど、数多の犠牲の果てに洛陽は取れるかもしれない。

しかし、袁紹が今の状況で洛陽を取って天下を握れば、その裏では配下達による熾烈な権力闘争が幕を開ける事になる。

曹操の知る袁紹にそれを抑えるだけの能力はない。

そして、諸侯は袁紹が1人で天下を握ることを快く思わないだろう。

袁紹には逆賊という汚名がある。

それは陰謀によって被せられたものだが、洛陽へと攻め込めばその汚名はそのまま真実となるのだ。

袁紹が圧倒的な力を持ち続ければ問題はない。

だが、内部闘争によってその力に陰りが見えた時、袁紹に反感を抱いている諸侯たちは一斉に動き出すだろう。

友若はその可能性を怖れたのだろう。

 

もし、曹操が袁紹の立場にあれば、間違いなく洛陽へと軍を進めただろう。

漢帝国の腐敗と混乱を一挙に解決する絶好の機会だからだ。

権力の一極集中に因る様々問題など恐れるに足らず。

曹操にはその全てに対処してみせる自信がある。

だが、それは類まれなる統率力を持つ曹操だからこそ選べる選択肢だ。

誰もが選べるものではない。

そして、袁紹は洛陽へと進むことによりもう一つ、重大な問題を抱えることになる、と曹操は見ていた。

あの友若ならば、そうした事を考えるなど朝飯前だろう。

だからこそ、友若は官軍への追撃に反対したのだろう。

 

「荀シン友若」

 

曹操は友若の名を口にした。

袁紹の懐刀。

曹操の配下である荀彧の兄。

名門荀家の長男。

冀州発展の立役者。

客観的に友若とはその様な人物だ。

 

だが、それはあくまで客観的に見た場合だ。

人の価値観が一様ではないように、友若に対する認識も人によって異なるだろう。

 

例えば、荀彧にとっての友若とはただの兄ではない。

自覚しているわけではないのだろうが、荀彧は友若の事を何時も意識して行動している。そこには言語化の難しい複雑な感情、親愛、嫌悪、劣等感、怒り、悲しみを相混ぜにした様なそれがある。

 

曹操にとっての友若もまた、一言で言い表す事は難しい。

だが、今、曹操が友若とは何者か、と一言で問われれば、超えるべき壁、と答えるだろう。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

広大かつ肥沃な大地を持つ秦や漢帝国、その歴史の一面は対異民族政策の歴史でもある。

貧しい土地に住む異民族は生き延びるために肥沃な中原を襲うのだ。

歴代の皇帝は代々この問題に頭を悩ませてきた。

始皇帝や高祖は防衛線を築くことで異民族の脅威を防ごうとした。もっとも、完全な防衛線を築くことは難しく、和解金を支払うなどの宥和政策により漢帝国は辺境を維持した。

これに対して、武帝は軍を持って異民族を打ち破ってこれを統治することで抜本的な問題解決を試みた。これは一時的に効果を上げたが、異民族の反乱頻発や防衛線の拡大は漢帝国に莫大な負担となってのしかかり、遂には武帝の獲得した領土の放棄を選択せざるを得なくなる。

後漢の光武帝は防衛線として城壁を築くのではなく、人の住まない緩衝地帯を作ることで異民族を防ごうとした。これは一定の成果を上げた。

とは言え、時間が流れると、無人の緩衝地帯は消えていき、漢帝国は異民族と向き合わざるを得なくなる。

 

曹操が生まれた時代、辺境では異民族が暴れ回っていた。

辺境の人口減少により漢帝国は防衛線を維持することが不可能となっていた。

それにもかかわらず、漢帝国が異民族を弾圧する政策を採ったことで、異民族が凶暴化したのだ。

加えて、異民族に強力な指導者が現れたことで、漢帝国は窮地に立たされた。

異民族討伐を目指した漢帝国の軍は大敗。

もし、異民族の指導者が病死しなければ、洛陽は陥落して漢帝国は滅んでいただろう。

曹操はそうした情勢を見ながら育った。

 

曹操は幼いころから周囲の人間を圧倒する才覚を示した。

教師となった者達は曹操が瞬く間に己を遥かに上回ることを理解させられるか、あるいはその才能が己を遥かに超越していることを理解できずに彼女を変わった考えを持つ一介の生徒として扱うかのどちらかであった。

そして、曹操の才を理解した人間は最早教えることはない、と去っていった。

曹操の教師を続けるのは彼女の才能を理解できない人間だった。結果として、曹操は私塾の評価であの袁紹にすら後れを取った。

 

結局のところ、天に愛された曹操にとっての師となれたのは過去の偉人や天才の書き残した書物や歴史だけだった。

その結果、曹操は漢帝国というもの事態について色々と考えるようになった。

学友が漢帝国の中での立身出世を目指して勉学に励む中、曹操は国とはどうあるべきかを考えていたのだ。

だから、曹操は漢帝国がどのような異民族対策を採るべきか、ということについても昔から考えを重ねてきた。

 

そして、曹操は、人口が減少した辺境で異民族の略奪に対応するためには質の高い優れた兵士達が必要だ、と結論付けた。

異民族の騎兵一騎に対して漢帝国の兵士は等価ではない。異民族に対向するためには数倍の数が必要となってしまう。

これでは人口の減った辺境を守れるわけがない。

仮に、辺境の人口が減少していなかったとしても、防衛線の維持には莫大な費用が必要となる。その負担に代々漢帝国は苦しんできたのだ。

兵数を増やすことは短期的な対策にはなっても長期的な問題解決はできない。

だからこそ、漢帝国には異民族と真っ向から戦える精強な兵士達が必要なのだ。

優秀な兵を育て上げるには費用がかかるが、兵士として多くの民を動員すれば、田畑が荒れることとなり最終的な負担は大きくなってしまう、と曹操は考えたのだ。

 

この様に、私塾において曹操は漢帝国の持つ様々な問題に対する解決策を考えた。

そして、その思考はやがて野望へと変わる。

統治能力を喪失した漢王朝に代わって自らが立つ。

大胆にも曹操はその様に考えるようになった。

 

現実を見据えずに迷走する漢帝国。

漢帝国の制度や構造によって引き起こされた数多の問題。

私利私欲に走る官僚。

宦官の暴走を許す皇帝。

民草に伸し掛かる重税。

清流と濁流の血まみれの争い。

独立気運を見せる諸侯。

 

曹操は漢帝国がもはや長くはないと思った。

長くあってはいけないと考えた。

もちろん、曹操などの優秀な人間がいれば漢帝国の延命は可能だろう。

だが、延命したところで何の意味があるのか。

漢帝国の迷走を思えば、それは民草を徒に傷つけるだけだ。

 

今の漢帝国は皇帝、外戚、濁流、清流、豪族、名士等の様々な勢力が複雑な対立関係を構築しており、互いの足を引っ張り合うことに終始している。

漢帝国が抱えている無数の問題を解決するためには大きな改革が必要になるが、そこには必ず利害関係から対立する者が現れるだろう。

長い時を得て築き上げられた複雑に入り乱れた関係は生半可な事では断ち切れない。

だからこそ、曹操は漢帝国に代わる新たな国が必要だと考えた。

現状ではどうやっても問題解決が不可能である以上、他に道はない。

 

そして、その国を創るのは自分をおいて他に居ない、と曹操は内心で結論したのだ。

自らこそが万民を救い、導くのに最も相応しい、最も優れた『王』の器だと曹操は思った。

傲慢とも受け取られかねない曹操の有り様。

だが、無数の問題が明白に存在しているにも関わらず、何もできない既存の漢帝国の在り方よりは遥かにましだ、と曹操は考えたのだった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

荀シン友若。

曹操をして天才と呼ばざるをえないかの人物は、金融という全く新しい概念を発明した。

その新しい概念に基づく幾つもの制度によって冀州経済を飛躍させた友若は次に辺境をその経済圏に取り込んだ。

その結果、異民族の跋扈を許していた辺境は急速に安定を取り戻していった。

冀州を中心とする経済に組み込まれた異民族が大人しくなったからである。

恐らくかなり早い段階から友若は辺境を冀州の経済圏に取り込むことを考えていたはずである。

冀州での毛皮を使った服の流行、酪等の異民族の食材を利用した料理の広がりは主に友若によって推し進められた事を曹操は密偵からの情報で知っていた。

明らかに、友若は異民族との交易活性化を目論んでいたし、実際に交易は拡大していった。

これを偶然と考えるのは余りにも呑気だろう。

つまり、冀州の経済が拡大した結果、辺境の異民族が大人しくなったのは偶然ではない。

袁紹はともかく、友若は最初からこの結果を予期し、そのようになるよう事態を導いたのである。

 

結果として、友若は辺境に平和をもたらした。

軍によってでもなく、和睦金を支払うのでもなく、経済という機構に異民族を組み込むという方法によって。

そして、この平和は漢帝国や辺境に負担をかけるどころか、利益をもたらした。

利があったからこそ、辺境は異民族との関係を変えることができたのだ。

 

様々な勢力の利害関係が入り乱れた漢帝国において、物事を変えることは非常に難しい。

辺境のように軍を維持するために莫大な資金がつぎ込まれる場合は特に困難となる。

辺境の軍を縮小することは、軍人として生活の糧を得ている兵士達の収入を奪うことになる。

また、宦官や官僚にとって辺境とは着服や賄賂を行う収入源であった。

だから、これまで異民族との講和を推し進める類の試みは失敗続きだったのだ。

講和が成功すれば、辺境に投じられる予算が削減されるからである。

 

これに対して、冀州経済と結びついて異民族との交易を推し進めることは、辺境で収入を得てきた関係者に今まで以上の利があった。

漢帝国の歳入をはるかに超える規模の冀州経済。

その冀州における毛皮の流行により、毛皮を求める莫大な冀州資本が辺境に投じられていたのである。

異民族との交易拡大は様々な雇用を創出したし、税収の増加も容易に予測された。

漢帝国が辺境に投じる予算を絞っていたこともあって、辺境の諸侯はこぞって異民族との交易拡大に舵を切った。

官僚達や豪族達にしても依存はなかった。関税や交通税による収入増加が容易に見込まれたからである。

辺境の民にしてみても軍人以外の雇用創造は喜ばしいことだった。

各勢力の利害関係の一致を見たことで、辺境はその在り方を大きく変えた。

おそらくは、友若の思い通りに。

 

友若によってもたらされた辺境の平和は無数の問題を孕んでいる。

交易によって異民族は漢帝国の政情等を今まで以上に容易に手に入れられるようになる。

更に、異民族は交易によって得た貨幣で武器を買い揃える事もできるようになるだろう。

そうなれば、潜在的な辺境の脅威はより一層増すことになる。

現在の辺境が平和に落ち着いているのは、異民族もまた戦いに疲れていたからだ。

だが、交易によって異民族の力が回復した時、異民族が大人しくしている保証はない。

 

また、平和維持を交易の利益によって行う以上、異民族との取引規模は一定規模に維持しなければならない。

平和によって異民族の数が増せば、さらなる交易拡大が必要にある。

だが、異民族の主な輸出品である高級な毛皮を購入できる富裕層や中間層は漢帝国全土を見回した時、それほど多くはない。

冀州の毛皮流行が終われば、異民族は売るものがなくなって、交易で食っていくことが不可能となる可能性すらあるのだ。

そうなれば、異民族は再び略奪を行うようになるだろう。

だから、友若のやり方で平和を維持するのであれば、漢帝国は需要にかかわらず毛皮の購入を続けなければならない。

短くとも、異民族が漢帝国に対して毛皮以外の輸出品を見出すまでは。

そして、それを可能とするには冀州以外でも商業を奨励し、商人や職人の力を強くして毛皮を購入可能な富裕層を増やすとともに、毛皮の需要を増やすように動き続けなければならないのだ。

 

これ以外にも、問題や何れ問題となるだろう要素は無数にある。

だが、それでも曹操は認めざるを得なかった。

友若の異民族対策。

それが曹操の頭にあったそれを上回っていることを。

交易による武器を交えない辺境の平和維持は曹操にとって盲点であったのだ。

いや、この広い漢帝国を見回したところで友若と同じ考えを思い描いた人間は居ないだろう。

それほどまでに、友若の成した事は革新的であった。

 

そして、今なお、漢帝国は変貌を続けている。

冀州の発展は自ずと他州にも影響を及ぼし、官僚の在り方や商人や職人の地位向上、交通路の拡張など様々な面で構造的な変化を引き起こしている。

それは今までとは全く異なる国家のあり方を生み出そうとしていた。

果たして、この変化が友若の意図したものであるか否か。

曹操はこれをそうであると判断した。

友若の一連の政策の完成度と革新性を思えば、友若が始めから新たな国家の在り方を脳裏に描いている可能性は極めて高い、と曹操は考えたのだ。

 

曹操は友若の国家の在り方を描く才能を自らよりも上であると認めた。

だが、それは曹操にとって看過できないものだった。

 

特定の分野においてならば、曹操を上回る者は多くいる。

個人的な武について言えば、曹操は夏候惇や夏侯淵を下回っている。

人物鑑定眼に関しては荀彧が上回っている事を曹操は認め、それでよしとしていた。

発明に関してなら李典は曹操を上回る才能を示す。

あらゆる事に精通している曹操だが、その道を極めた天才に勝てるわけではない。

だが、それは問題にはならない。

曹操は自らの役割を『王』として自認していたからである。

『王』である曹操はあらゆる分野に関して判断を下す必要があるから、それぞれに関して理解していることが必要だ。

だが、それぞれの実行に関しては才ある人間に任せれば良い。

もちろん、人手が足りなければ、曹操は率先してあらゆる実務を行う。それを行えるだけの能力を持っている。

だが、より優れた者がいるならばその者に任せたほうが良い、と曹操は合理的に考える。

荒っぽい言い方をすれば、曹操にとって『王』の本来の責務は決断をする事だけなのだ。

 

そして、その決断とは国家の新しい在り方を定めることである。

これを定めるのが国家の創始者としての『王』の役割である、と曹操は考えている。

だからこそ、曹操は友若の描いた国家が自らのそれよりも優れていることをそれで良いと認めるわけには行かなかった。

最優の『王』を自認する以上、曹操が描く国家のあり方というのもまた、誰のものよりも優れていなければならない。

一方で、ずば抜けた理解能力を持つ曹操は友若のそれが革新的であり、尚且つ有効であることを認めた。

 

生まれてから、『王』として立つ、と内心で誓ってから、一度たりとも自らに優る存在を見たことのなかった曹操。

彼女にとって友若は『王』としての土俵で彼女に土を付けた初めてであり唯一の存在だった。

自らと対等となりうる存在としてではなく、自らを上回る存在こそが友若だった。

 

だから、友若の才能、その天才性に気がついた時、曹操は荀彧に命じて無数の密偵を友若の近辺に放ってその動きを調べた。

また、荀彧に昔の友若の言動を尋ね、その詳細を聞いていた。

友若の言動。

その一つ一つを吟味して、曹操はその背後にある意図を読み解こうと試みた。

曹操は自らを上回る友若からできる限りの事を学び、盗もうとしたのである。

ある意味で、友若は曹操にとって初めての本当の意味における師であった。

 

そして、曹操は書物では決して学ぶことのできなかった無数の画期的な知識を手に入れた。

哲学や数理、経済に関する新たな知見、銃火器や双眼鏡に代表される新たな発明。貨幣ではなく証文を使った取引形態や規格化による生産工程の分業化の可能性。

それらは確実に曹操に新たな力をもたらした。

そして何よりも、友若が当たり前の様に言い放った数多の言葉の背後に曹操は確かな国家像を見た。

 

友若から学び、模倣し、その叡智を盗むことに曹操は何ら躊躇を覚えなかった。

友若を前にした時、曹操は『王』ではなく挑戦者だったのだ。

曹操は曹操孟徳であるために、能力の限りを尽くして友若を超えなければならなかった。

 

また、曹操自身、友若を超えたいと心の底から渇望していた。

嘗て、曹操はこれほどまでに勝利に執着したことはなかった。

彼女にとって自らの優位は当たり前のものとして存在した。

だから、曹操にとって勝利とは当たり前のものであり、だからこそ万民に恥ずるところのない完璧な勝利でなければ意味が無いと思っていたのだ。

 

しかし、その勝利が当たり前でなくなった時。心の底から自らの敗北を認めざるを得なかった時。

曹操は勝ちたいと強く思った。

曹操を信じて、従う才ある配下の為に。

自らの信じる新たな国家の為に。

 

そして何よりも、曹操自身が心から勝利を欲していた。

並ぶ者の居ない圧倒的な才能を持って生まれた曹操。

生まれ持って与えられた翼に意味があるとすれば、それは友若という巨人を超える事だ、とすら曹操は思った。

曹操をしてなおその頂を見通せない友若という大山。曹操が生まれ持った才能の限りを尽くしてもなお届かないかもしれない天才。

その存在に曹操は心の何処かで歓喜していた。

自分は友若に打ち勝つために生まれたのだ、と曹操は心の底から思う。

友若を超えて初めて曹操は本当の意味での『王』となれるのだ。

 

「荀シン」

 

曹操は再び友若の名前を口にした。

曹操は着実に友若と同じ高みへと近づいている。

その自覚が曹操にはあった。

だが、果たして友若と並び立つ領域まで行き着けるのか。

友若を超えることが叶うのか。

その保証はない。

曹操はそれに焦りを感じる反面、心のどこかで喜ばしく思っていた。

敗色濃い大敵を打ち破っての勝利はきっと曹操に心からの満足をもたらすだろうから。

何よりも生まれ持った才能を十全に振るう機会を想像すると曹操の心は震えた。

 

「お呼びですか、華琳様」

 

曹操の背後から声がかけられた。

振り返ると荀彧が立っていた。腕には幾つもの書簡を抱えている。

官軍の敗北から今日まで荀彧は敗軍の再編に追われていた。

 

「ええ、桂花。兵士達の訓練や物資調達、全て滞り無いようね。よくやったわ。流石は桂花ね。これなら袁紹幾ら兵を引き連れてきたところで十二分に耐えられるわ」

「あ、ありがたきお言葉です、華琳様ぁ!」

 

曹操は荀彧を褒めた。

実際、荀彧の働きは見事なものであった。

諸侯が次々と抜けていく中、兵士達に対しては夏候惇を始めとした曹操配下の武将に訓練を施させて士気向上を目指し、商人や近隣の豪族と交渉することによって食料や武器などの物資をかき集め、火薬の材料を買い集めたその中心人物が荀彧であったのだ。

その間、曹操は恐慌状態にある洛陽からの使者を宥めすかすことに大半の時間を費やさざるを得なかった。

その事を歯がゆく思う反面、曹操は荀彧という得難き名臣の価値を改めて嬉しく思っていた。

 

「ともかく、これで何とか防衛の準備は整った。だから、そろそろ次に向けて動かなければならないわ」

 

曹操の言葉に荀彧は緩みきった顔を引き締めた。

 

「引き継ぎは直ぐにでもできるわよね?」

「はい、華琳様! 私の部下で残りは問題ありません」

「素晴らしいわ、桂花。では、休みもなくて悪いのだけれど、早速働いてもらうことになるわ」

 

曹操は荀彧から顔を逸らして視線を城壁の外へと向けた。

視界には映らないが、その先には冀州がある。

 

「私は洛陽へ向かわなくてはならないわ。皇帝から度重なる要請をこれ以上無視することはできないし、袁紹が朝廷と交渉をしようと動き出しているのだから。だからこそ――」

 

曹操は振り返って荀彧の顔を見た。

その顔は普段よりも硬くなっている。

 

「桂花、貴方は袁紹の下へ向かいなさい。風も連れて行きなさい」

「は、はい!」

 

曹操の言葉に荀彧は緊張した顔で頷いた。

その目に微かな怯えがあることに曹操は気が付いたが、彼女はそれを無視した。

 

「桂花。貴方には全権を任せるわ。状況の変化に応じて自由に動きなさい」

 

曹操は未来に思いをやりながら荀彧に言った。

 




見所:華琳様「縛りプレイ止めました」
次話:妹様withPK


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妹様withPK

今現在、漢帝国最強の諸侯は疑いようもなく袁紹である。

膨張する経済を滞らせないために必然的に拡大した冀州の行政機関はその規模による力を持っている。

生半可な数や才能で袁紹に挑んだところで圧倒的な数の差に押しつぶされるだけだ。

莫大な人間を抱える冀州とそれを可能にする経済力はそれだけで脅威であった。

 

その結果が先の戦いにおける圧倒的な弩による一方的な面制圧である。

通常、歩兵を基軸とする軍同士の平地戦では槍兵等の白兵戦が可能な兵科を前面に出して弩兵等は後衛に配置する。

弩兵を前面に出すのは、槍兵等との素早い入れ替えが可能な場合や、そもそも白兵戦が発生しにくい状況などに限られる。

普通は弩兵で歩兵の一斉突撃を止めることが不可能だからである。

弩というものは剣や槍のように大量に生産することが難しく、数を揃えることが困難だからである。

効率的な生産の為には熟練技術者の数を揃え、材料を揃える手筈を整え、状況に応じて工程を調整して、整備や修理が可能な体制を整えて、初めて軍で利用される弩は作られる。

当然ながら、弩の価格は槍などとは比べ物にならない。

一方で、弩兵と槍兵の戦力はそこまで差は無いのだ。

極端な話、弩の数を揃える資金があるのであれば、それで多くの兵を雇って槍を持たせた方が戦力になるし、兵を分割して行動するなど戦術的な応用力も高まるのだ。

それでも漢帝国で弩が用いられるのは、圧倒的な機動力を持つ異民族と戦うためには強力な遠距離攻撃が必要だったからである。

そして、財政上の理由から大規模な常備軍を揃えられない以上、弓と異なり必要な訓練が少ないという弩は漢帝国に欠かせない武器であった。

また、矢を相手の中核部分に撃ちこめば、敵兵を混乱させて有利に戦うことが期待できる。

仮に、一方しか弩や弓等の遠距離攻撃の手段を持っていなければ、兵士達の士気に大きな影響があるだろう。

だから、殆どの勢力は自らの軍に弩兵や弓兵を組み込んでいる。とは言え、その数は軍全体で見た時、1、2割ほどである。

弩兵は普通数を揃えられないのだ。

そうである以上、白兵戦になった時まともに戦うことができない弩兵を前面に出すことは弱点を敵の正面にぶら下げることに等しい。

それが軍事の常識であった。

 

しかし、袁紹軍は圧倒的な数の弩を揃えるという強引な手法によって弩兵を主軸とする軍を作り上げた。

そして、数に物を言わせることで、弩で歩兵の突撃を完封することは困難であるという軍事の常識を打ち破ってみせたのだ。

絶え間なく放たれる矢に殆どの官軍は接近戦を挑むことすらできなかった。

袁紹軍に白兵戦を挑むことができたのが孫堅と曹操のみであり、その一方は壊滅するに及んだという結果が袁紹軍の方針の強力さを証明している。

そして、その圧倒的な弩の数を実現可能としたのが莫大な税収をもたらす冀州の経済力であったのだ。

 

一方で、袁紹はその力を経済に依存するが故に、行動上の制約を持つことになった。

袁紹は冀州の経済を傾けるわけにはいかないのだ。

だからこそ、袁紹の懐刀である友若は経済に負担を強いる長期的な遠征や戦闘を可能な限り避けようと試みている、というのが曹操の推測である。

もちろん、他に選択肢がなくなれば袁紹軍は圧倒的な数と質で立ちはだかる障害をなぎ払うだろうし、容易に勝てると思えば武力を使うことに躊躇する相手ではあるまい。

だが、他に選択肢がある限りにおいて、袁紹勢力の策略家である友若は戦いを避けるだろう。

実際、袁紹勢力は官軍との戦いに勝利してから素早く交渉に主軸を移した。

曹操達が袁紹軍の進撃を止めるために軍備を整えている間、袁紹は幾つもの諸侯と交渉を重ね、自らの味方を増やしていったのだ。

大敗に混乱していた朝廷がようやく我を取り戻した時には、洛陽の北西に位置する馬騰達の勢力が袁紹に与すると宣言をしていた。

加えて、河北の豪族達は袁紹を逆賊と貶めた朝廷を非難する動きを見せ始めている。

現状、外交交渉で朝廷は大きな後れを取っている。

 

そして、曹操もまた袁紹に後れを取っている点では同様であった。

曹操は袁紹が味方を増やしている間、防衛線の構築に集中せざるを得なかったのだ。

これ以上政治的、外交的に差を付けられることを傍観する訳にはいかない。

それに、友若が講和の裏で曹操が危惧した通りのことを企んでいるとすれば、それだけで曹操は窮地に立たされる。

それを未然に防ぐためにも、曹操はようやく軍として機能しだした守備兵を残し、皇帝の下へ直接赴く必要があった。

 

一方で、曹操は袁紹との交渉窓口を作っておくことの重要さを認識していた。

今は大きな勢力とはいえない曹操は、まだ単独で袁紹と直接矛を交える事は避けなければいけないからだ。

今の曹操軍であれば幾ら袁紹軍であっても勝利には莫大な犠牲が必要となるだろう。それは必然的に袁紹軍の弱体化させる。

だからこそ、それを正しく認識している友若は戦いを避けようとしている。

しかし、袁紹の配下には先の戦いの勝利に酔い、曹操軍など恐れるに足らずと公言してはばからない人間もいるのだ。

そして、思慮が欠けているからといって、その人間の行動力を侮ることは危険だと曹操は判断していた。

最悪の場合、突発的な戦いから袁紹と曹操の潰し合いに発展してしまう恐れもあった。

それだけは避けなければいけない。袁紹、そして友若との戦いは天下を賭けた舞台こそ相応しい、と曹操は思っている。

 

だが、袁紹と交渉するにしても謙った態度を取る訳にはいかない。

皇帝の寵愛を受け、皇帝直属の軍を率いる曹操が袁紹に取り入ろうとすれば、天下を目指す諸侯の一人としての曹操は死ぬことになるからだ。

そして、曹操自身、まだ戦い続ける意志を保っている状況で頭を下げるつもりはない。

友若に勝つためにその力の限りを尽さんとしている曹操であるが、それでもなお守るべき一線というものは存在するのだ。

 

そのため、袁紹との交渉にあたっては、卑屈にならず堂々と袁紹と交渉に臨みながらも、交渉を成功に導くだけの能力の持ち主を送らなければならなかった。

更に、今後の状況の変化に応じて臨機応変に対応するだけの判断力も要求される。

場合によっては曹操の立ち位置が一変する可能性もあるのだ。

 

この困難な任務を曹操は荀彧に任せた。

更に、袁紹との顔つなぎのために、一時期袁紹の下にいた程昱を付けたのである。

曹操の幕僚として文官の最上位に位置する荀彧とそれに続く程昱を袁紹との交渉に向かわせる事は曹操の交渉に対する熱意を示していた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「冀州、久しぶりだとやはり懐かしいです~」

「……」

「ふう、涼しくなってきたとはいえ、やっぱり日が差すとまだ暑いですね~。風はこの暑さについうとうとと……ぐぅ」

 

場上で揺られながら一瞬寝入った程昱は何も言わずに黙り込んだ荀彧を見やって内心で溜息を付いた。

袁紹側と交渉と場を設けるために荀彧と程昱は冀州へと向かっている。

その旅路が始まる前後から荀彧は殆ど何も言わずに考えこむようになった。

荀彧と友若の確執を聞き及んでいる程昱は無理もないと当初その様子を傍観していた。

 

かつて、荀彧は友若が考案したという発想を否定していたという。

荀彧はその事を後悔している事を程昱は知っている。

友若の発想の可能性を見抜けなかったという自分への不甲斐なさを。

そして、友若が荀彧の下を去ったことを。

荀彧は悔やんでいた。

 

正直な所、荀彧の過去の判断は無理もない話だと程昱は思う。

友若の発案はあまりに突飛に過ぎる。

冀州の成功があるからこそ、程昱はその価値を認めているのだ。

もし、その成功がない状況であったら、程昱は友若の意見をまともに取り合おうとしたかは微妙なところである。

暇を持て余している時なら、そうした話を聞いても良い。

自分もそんな程度の興味しか友若の意見には抱けなかったのではないか、と程昱は考える。

友若の発想は地に足がついていないのだ。

 

通常の発想や政策は現実の状況を基にして組み立てていくものだ。

現実に基づかない発想や政策というものは、現皇帝が身を持って証明しているようにまず成功しない。

だから、成功を収めた大胆な発想や政策などと呼ばれるものは、普通、現実の問題を正しく見据えている。

そして、現実に対して実現可能な範疇でその成果を最大化するのだ。

 

だが、友若のそれは全く違う。

現実を正しく認識した上での発想とは思えないのだ。

むしろ、友若のそれはそうした外的要因とは関係なく、最初から存在していたと考えるほうがしっくり来る。

友若が自らの献策を説明する方法にもそれは現れている。

友若の説明は現実の問題を論理的に考察していくというものではなく、これが正しいから正しいのだという身もふたもないものなのだ。

かつて、程昱は友若を巨人の視点を持つ人間と評価したが、その考えは荀彧との会話によってより強くなった。

荀彧が幼いころの友若の言動を聞き及ぶに、超常的な解釈が許されるのならば、始めから友若は知識を持って生まれたのではないか、とすら程昱は思う。

 

最近耳にした華南に降り立った天の御遣いの噂。

漢帝国の南部では実しやかに囁かれているらしいそれを聞いた程昱は、友若もまた天の御遣いなのではないか、と考えた。

天の知識に基づいて行動しているというのならば、友若の地に足のついていない言動にも納得がいく。

ありえないと思いつつも、それを冗談として完全に否定出来ない程昱である。

 

だから、荀彧が友若の意見の可能性を理解できなかったことを責めるよりも、その献策を無下にせずに採用した袁紹や田豊の判断を讃えるべきなのだ、と程昱は思う。

正直な所、田豊だって最初は駄目元だったのだろうし、袁紹にいたっては未だに冀州の変革を正しく理解しているとは思えない。

たまたま、袁紹には無謀とも思える献策を試すだけの余裕があり、偶々、その献策を行った人物が友若と言う天の御遣いの如き人物だった、というのが冀州の成功の理由だろう、と程昱は考えている。

 

しかし、それは程昱の考えであって荀彧のそれではない。

友若に似て自らの知性に高い誇りを持つ荀彧。

彼女は周囲がなんと言おうと自らの失敗を、過失を許すことはないだろう。

それ故に、冀州へと向かう荀彧がこうして無口になることは程昱にとって予想外の出来事であったわけではない。

 

だが、決して短くはない旅路において、何の会話もなく進むのは退屈なものだ。

自分の考えに没頭している荀彧にとってみればそんな事は全くないのだろうが、程昱としてはそろそろ誰かと何か会話を交わしたいと思っていた。

 

護衛として付けられたのが楽進でなければ。

決して口にはしなかったものの、程昱はそう思った。

生粋の武人ともいうべき佇まいの楽進。護衛という役割を担っている彼女は生真面目に周囲の警戒を続けており、会話を交わせるような雰囲気ではない。

話しかければ当然返答が返ってくるが、それは報告や情報伝達を目的としており、今後曹操が採るべき方策に関しての話をしたり、ましてや雑談に応じたりする様子はない。

自らの職務に忠実であり、その則を越えようとはしない楽進。

曹操や荀彧と同様に、程昱もその在り方を好ましいと思ってはいる。

だが、荀彧から一切の返答がないこの状況において、自分勝手だとは知りながらも護衛が楽進ではなく許緒や于禁であれば、と考えてしまう程昱であった。

 

そのため、冀州へ旅立ってから2日目から程昱は頻繁に荀彧に話しかけ始めた。

残念なことにその結果は梨の礫だったが。

荀彧はただただ、自らの考えに没頭しているばかりである。

袁紹、そして友若と会う前からこんな様子で大丈夫なのだろうか、と程昱は一瞬考えたが、直ぐに問題無いと判断した。

荀彧は掛け値なしに優秀だ。

曹操も重要な判断をする際は常に荀彧に意見を求めている。

また、曹操配下の主要人物はその殆どが荀彧が見出した人間であることが示すように人物鑑定眼に優れ、清流の顔役という立場を持っている荀彧は朝廷、豪族、名士等のあらゆる方面に顔が利く。

そして、失敗することの許されない袁紹との交渉に全権を託される程の信頼を曹操から得ている人間が荀彧である。

その荀彧の心配をするなど余計なお世話もいいところだろう、と程昱は考えた。

 

「稟ちゃんはどうしているでしょうか~。久しぶりの再開が楽しみです~」

 

やはり、この旅路の友として無意識のうちに求めているのはかつて冀州で席を隣にした人物である、と程昱は思い直した。

かつて、程昱は冀州の変化の先が目指すものを知るためには、外部からの視点が必要だと判断して冀州を去った。

目まぐるしい変化の一つ一つを追った所でその全貌を理解する事は不可能なのではないか、と思ったからである。

その程昱に対して同僚であり親友であった郭嘉は冀州に残る選択をした。

漢帝国に変革を促す一連の動きは冀州に端を発しており、その場にいなければ変革が目指すものを理解できないと郭嘉は考えたのだろう、と程昱は思っている。

程昱と郭嘉、そのどちらが正しかったのかははっきりとはしていないが、程昱は曹操の旗下に加わったことを後悔してはいない。

指導者として、王として圧倒的な才覚を持つ曹操や友若の妹である荀彧から学べることは多かった。

特に荀彧との議論は冀州の在り方の長所や短所に対する程昱の理解を深めた。

また、程昱は曹操から幾つもの重責を任され、その力を存分に振るっている。

冀州にいた時とは比べ物にならないほど忙しい日々ではあったが、充実している事は確かだった。

 

郭嘉もまた意義のある日々を送ったに違いない、と程昱は思ったし、友としてそうであることを願った。

冀州の外からその変化の推移を見守った程昱に対して、郭嘉はその内部から変化を見つめていた。

ならば、程昱には見えなかったものが郭嘉には見えただろうし、その逆もまた真であるはずだ。

だからこそ、程昱は郭嘉との再開と再び語り合うことを楽しみにしていた。

 

「……ちょっと、風。今回の目的はあんたの友人に会うことじゃあないわ。そこの所、分かっているのでしょうね?」

「おぉぅ。久々に喋ったと思ったら、早速釘を刺すなんて~。桂花ちゃん、もう少し肩の力を抜いたほうがいいと風は思うのですよ~」

 

今まで黙り込んでいた荀彧が突然話しかけてきたことに驚きながら、程昱は言い返す。

荀彧は程昱の方を見ることなく、前に顔を向けたまま答えた。

 

「問題はないわ。随分と心配しているようだけれど、私は華琳様の期待に必ず応えてみせるわ」

「おぉぅ。風の声が聞こえていたなら返事をして欲しかったのですよ~。風は会話をする相手がいなくて寂しかったのですから~」

「ホントだぜ。おい、嬢ちゃん。旅ってのは会話を楽しみながらするもんだぜ」

 

腹話術で茶化す程昱に荀彧は何も答えなかった。

話を聞いているなら返事をしてほしいものだ、と眠そうな顔のままで憤慨する程昱。

一方で、荀彧が何だかんだで何時もの鋭利な思考力を持っている様子を示している事に程昱は安堵していた。

 

「愛しの兄上の事を考えているのですかー」

 

取り敢えず、今までの復讐も兼ねて、程昱はからかうように荀彧に尋ねた。

 

「そうよ……」

「うーん、これは重症ですねー。兄妹愛を抉らせて妙な関係になったりしないかと風はヒヤヒヤしてしまいますー」

 

何時もなら『私が愛しているのは華琳様よ』等と激しく噛み付いてくる荀彧が思い悩む様子であっさりとからかいの言葉を肯定したことに、程昱は目を見開いて驚いた。

先程は荀彧が大丈夫だと判断した程昱だが、急に不安になってくる。

そんな程昱に、ずっと前を見ていた荀彧が顔を向けた。

並走する2頭の馬。

それぞれの馬に乗った2人は顔を向け合った。

 

「大丈夫よ」

 

荀彧は程昱の不安を否定する様に言った。

 

「……兄は私のことを嫌っているから」

 

硬質な声で荀彧はそう言った。

その瞳から程昱は何の感情も見出すことができなかった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

荀彧文若。真名を桂花。

荀家の末妹として生まれた彼女は幼い頃から凄まじい才能を示した。

その才覚は神童と謳われた友若ですら凌ぐものであった。

その荀彧が特に優れていたのは理解力である。

一を聞いて十を知るという言葉の通り、一度聞いたことを完璧にこなしてみせる荀彧。

幼い頃から理路整然としたものの考えが出来た友若ですら、荀彧ほどの理解力は持たなかった。

僅か4歳の時、荀彧は勉学において友若を上回ってみせた。

孔子や孫子、荀子を始めとしてこの時代の教養とされた書物を全て読破し、諳んじてみせたのだ。

この頃から、段々と友若は荀彧に対抗心を燃やすようになった。

転生前のチート知識を有している友若は神童として大いに持て囃され、増長しきっていた。

そんな友若にとって自らの神童としての立場を脅かしかねない荀彧は心中穏やかでいられる相手ではなったのである。

とは言え、この頃はまだ、友若は荀彧を可愛く思っていた。

この頃、両親や姉達は家の外に出ていることが多く、友若は何かと荀彧の面倒を見ていた。

犬好きだった荀彧のために犬の耳に見立てたフードを取り寄せてやったのは友若であったのだ。

 

「兄上! 兄上!」

 

頻繁に友若の名を呼びながら駆け寄ってくる幼い荀彧の様子に友若は確かに頬を緩ませた。

そして、荀彧の頭を撫でる友若に彼女は目を細め満足そうに笑いながら望みを口にした。

 

「勉強を教えて下さい!」

「……よしよし、いいぞ、桂花。今日は数学だ!」

 

この頃、友若は暗唱では荀彧には勝てないという事を渋々ながら認めていた。

それでもまだ、友若は荀彧に対する自らの優位を信じていた。

記憶力で劣っているが、総合的には自らのほうが上だと友若は考えたのだ。

それでも、自らの劣る所を直視することを嫌った友若は前世で得た知識を荀彧に教えた。

論語や孫子の解釈等では既に友若は荀彧に劣っていた。

だが、転生チート知識の一つである体型だった学問知識では友若に一日の長があったのである。

暗記物は得意なようだけど、思考力を問われる学問なら負けるわけがないと友若は高をくくっていた。

この時点では。

 

「つまりだな、この『微分』というやつを使うとその瞬間の傾きが分かる。傾きが分かればこうやって『グラフ』から次の動きが予測できるわけだ」

「あ、兄上、兄上、凄いです! この『微分』を使った式を作れば色々なことの動きを予測できるのですねっ!? いえ、それだけではなくで、例えば獣や草木の増え方等にも使えそうです! 複雑な式は解けないものもありそうですけど、小さな変化を計算して積み重ねていけば、どんなものでも見積もりができそうです! わあ、やっぱり兄上は凄いです!」

「……ああ、うん。そう言う応用もある。……『微分方程式』って言うんだけど、もちろん俺は知っているし、桂花の言ったことは当然理解しているさ……でも、凄いぞ、桂花。1人でそんな事に気が付くなんて!」

 

だが、荀彧は学問を問わず、あらゆる分野で圧倒的な才覚を示した。

文字通り一を聞いて十を知る荀彧である。

友若の教えを瞬く間に理解して更にその応用すらも考案してみせたのだ。

荀彧は友若の教える『学問』に熱心に取り組んだ。

手に入る書物を全て読破し、暗記した荀彧にとって勉強はただの退屈な確認作業になっていたのだ。

だが、友若が考えだしたという『数学』や『物理』等の『科学』は荀彧にとって何が出てくるかわからない面白いパズルであった。

書物では知りえなかった考え方、無数の概念、そうした全てが幼い荀彧の好奇心と知識欲を強烈に刺激した。

だから、荀彧は兄である友若を慕って何時も付き従い、ひっきりなしに、『科学』を教えてくれとせがんだ。

 

「桂花は本当に兄さんっ子ですね」

 

母である荀コウは2人の関係を見て、微笑ましそうにそう言っていた。

友若もまた笑いながら荀彧の頭を撫でていた。

そして、荀彧は何時も気持よさそうに目を細めて友若にされるがままにしていた。

 

だが、何時からだったか、友若は荀彧の頭を撫でる事を止めた。

そして、『科学』を教えてほしいとせがむ荀彧を避けるようになった。

 

友若は思い知らされたのだ。

荀彧が文字通りの天才であることを。自らがただの凡人でしか無いことを。

それは自らを選ばれた天才だと信じていた友若にとって到底受け入れられない現実だった。

しかし、うろ覚えの記憶を振り絞って思い出した無数の知識を荀彧が瞬く間に吸収して、発展さえさせている様子を見ては、友若も心の奥底では理解せざるを得なかった。

荀彧が友若よりも遥かに優れた頭脳の持ち主であることを。

 

その事実を直視せざるを得なかった時から、友若は荀彧を避けるようになった。

友若の逃げ癖、困難に立ち向かうことなく無視や逃亡を選択する悪癖は既にこの頃から存在していた。

荀彧に自らの持つ知識を託して彼女の将来を応援するとか、兄として恥じないように勉学に励むとかという発想は友若にはなかった。

素直に負けを認めるには友若の自尊心はあまりに高く、しかしながら、足掻き続けるには彼の羞恥心は耐えられなかったのだ。

嘗て神童と呼ばれた友若が勉学から逃げるように、革新的な物の発明等という道楽を始めたのはこの時期である。

 

勉学に投じる時間の減少に合わせて、友若の成績の伸びは鈍化していき、終には低下するに至った。

この様子を心配した家族は友若の勉学に向けていた熱意を復活させようと画策する。

荀彧と比べれば劣るものの、友若もまた幼い頃から天才と呼ばれるべき才能を示していた。

持ち前の才能を持ってすれば、朝廷に登ることも夢ではないとまで期待された程である。

将来のためにも友若が下らない道楽で身を崩す事は避けなければならない、というのが家族の思いだった。

 

友若の才能を褒め、勉学の重要さを説く母親に友若の心は再び書物へと向かった。

妹の存在さえ無視すれば、友若は同年代に並ぶ者の居ない抜きん出た存在であった。

そして、自らが頂点に立っているという事実は友若の自尊心や虚栄心を満足させるものだった。

もし、母親の説得が成功していれば、友若はまた勉学に励み、今とは全く別の道を歩んでいたかもしれない。

 

しかし、友若は結局勉強に背を向けた。

きっかけは荀彧の提案であった。

 

「兄上、孫氏なら私が教えます!」

 

様々な事を教えてもらっている友若に対して荀彧がお返しをしようとして行った善意からの提案。

普段のお礼に自分の出来る事を、という荀彧の言葉だった。

荀彧にとって見ればその内容は何でもないものだ。

当たり前に、荀彧はそれができると思ったからこそ、友若に申し出たのだ。

 

それがどれだけ友若の心に亀裂を入れたか。どれだけ友若に憤怒と羞恥を感じさせたか。

この時の荀彧はそれを想像することさえできなかった。

生まれてからその知性において一度も敗北を味わったことのない当時の荀彧。

この時の彼女にとって敗北から来る嫉妬や怒りは実感を伴うことがなかった。

 

だが、友若は荀彧のその一言で思い知らされた。

儒学や兵法等、この国家で必要とされる学問において、友若と荀彧には生徒と教師ほどの差が既に存在していることを。

荀彧に何の悪意も気負いも無いことを友若は理解していた。

つまり、友若よりも一回り幼い荀彧は自らがより優れていることを当然と思っているのだ。

そして、この年齢で、この年齢差でこれだけの差を付けられた以上、どれほど努力したところで荀彧に勝てるわけがない、と友若は考えた。

 

友若は増々発明という道楽に没頭するようになる。

説得をしようとする家族の声にも耳を貸さずに。

 

他の家族と同じように荀彧も友若の説得を試みた。

友若の考案した様々な案は突飛なものが多く、徒労に終わるとしか思えなかったからだ。

色々な物事を教えてくれた友若とまた一緒に勉強したい。

この時の荀彧にあったのはその一心だった。

 

だが、友若は荀彧を強く拒否した。

友若は自らの自尊心を傷つけた荀彧を嫌っていた。

心の奥底ではこの時既に荀彧を憎んでいたと言っても過言ではない。

それは完全な逆恨みであった。

 

荀彧は友若に勉学に専念するべきだと理路整然と説いた。

それらは全くもって正しく、屁理屈の得意な友若ですら反論することは敵わないものであった。

しかし、荀彧の言葉が正しければ正しいほど、友若の心は勉強と、荀彧から離れていった。

 

当時の荀彧はそれを理解することができなかった。

荀彧にしてみれば、自分は何も間違っていないにも関わらず、兄である友若はそれに反論することもなく逃げているのである。

友若の態度に荀彧は怒りさえ覚えた。

荀彧の友若に対する口調は次第に刺を増していく。

それはどこか幼い子供の癇癪に似ていた。

 

荀彧はこの時、知らなかったのだ。

正しいことが怒りを買うことがあるという事を、あふれる才能が妬みと憎しみを生むことがあるという事を。

そうした人間関係の知恵は普通経験によって培われていくものである。

だが、圧倒的な才能を持って生まれた荀彧はこうした機微を学ぶ間もなく、持ち前の才能で他者を無自覚に傷つけてしまっていた。

 

結局、荀彧が自らの過失を理解したのは、友若が彼女が考え付きもしなかった方法で冀州を発展するさまを目の当たりにした時だった。

それは、自らが兄に優っているという荀彧の無自覚の奢りを打ち砕くものであった。

その敗北の苦味は荀彧に人間が非論理的な側面を持つことを教えた。

そして、自らの判断に誤りが存在しうることを荀彧は心に刻んだのだ。

 

それ以降、荀彧は自らの考えと異なる意見であっても頭ごなしに否定することはなくなった。

失敗を通して人間の機微を学んだ荀彧は大きく成長を遂げた。

そして、荀彧は人間鑑定の才能を開花させ、人事を取り仕切るなど、曹操の下で活躍していくことになった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「くそっ! 豪族の連中といい、名士達といい、どいつもこいつも邪魔ばっかりしやがって!」

 

自らの執務室で友若は豪族と名士を呪った。

袁紹軍が渋々ながら冀州へ退却してから、友若は混乱した冀州の回復に奔走していた。

だが、その道程は友若にとって険しいものであった。

田豊派閥の壊滅。

元清流派閥との蜜月関係の終焉。

これまで友若が自在に権力を振るうことができていた背景の消滅により、豪族達や名士達の派閥が積極的に友若の足を引っ張ろうと動き出した。

ここに及んで、友若は初めて本当の政治に触れたと言えるのだ。

友若は急に天から刃が降ってきた如きの衝撃を受けた。

今まで何の労苦もなく自由気ままに動いてきた友若にとって、この状況は理解できないものだった。

友若の袁紹の関係がギクシャクしたことを見て取った豪族達や名士達はこれを好機と友若への攻勢を強めた。

仕方なしに、友若は自らを攻撃してくる勢力を宥めすかし、利権をほのめかし、何とか彼らを大人しくさせた。

もし、友若の袁紹との関係が改善していなければ、豪族達や名士達は攻撃を止めることすらなかったであろう。

幸いにして、袁紹と葡萄酒を飲み交わした友若は皇帝と交渉をすることが決まってから悪化していた関係を修復し、より親密にすることに成功していた。

とは言え、今まではなかった同僚との確執や権力闘争は友若に疲労を覚えさせた。

それに、豪族達や名士達は消極的に友若の足を引っ張ることを止めたわけではないのだ。

 

「曹操が怖いのですか、だって!? 何を偉そうに! 怖いに決まってんだろう! 三国の内一国を創る王だぞ! 馬鹿か! 馬鹿なのか!」

 

いくら覚悟を決めたつもりになった所で、曹操と対峙すると考えるだけで友若の心は恐怖に震える。

ただでさえ、現状で曹操は袁紹の持っていない銃火器を手にしているのだ。

友若としては袁紹軍に銃が配備できるようになるまで曹操と事を構えるつもりはない。

戦車や戦闘機などで武装面での圧倒的な優位を得たとしても安心できない、とまで友若は思っている。

 

一通り叫んだ友若は息を荒げながら執務室に散乱した書簡を手に取った。

田豊を始めとした有能な実務官の喪失による業務の負担は袁紹配下に重く伸し掛かっている。

目についた優秀な人物を次々と昇進させて業務に当たらせているが、どうしても限界があった。

 

イライラと頭を激しく掻きながら書簡を読んでいく友若。

その時、執務室に2人の女性が入ってきた。

 

「相変わらず余裕が無いのね」

 

女性の片割れ、張バクが友若を見て、平坦な口調で言った。

 

「五月蝿い。それよりも株式取引の再開の目処は立ったのか?」

「随分な言い様ね。昔散々手伝ってあげたのに。お望みなら私も貴方みたいに仕事をサボっても構わないのよ、友若?」

「ぐっ。 わ、悪かったよ、孟卓。その、気が立っていて、すまん」

 

友若の謝罪に張バクは分かればいいのよ、と手を降って答えた。

張バクは袖が服の本体と分離しており脇が露出する独特の服に身を纏っている。

友若がうろ覚えの記憶を元にデザインした『ハクレイ』式のMIKOFUKUを張バクは大層気に入っていた。

蒼と白の配色が気に入った、とは本人の談である。

 

その張バクは一緒に執務室へ入ってきた女性、郭嘉に説明するよう手を降って促す。

郭嘉は友若を見据えて話しだした。

 

「銀行から資産を全て引き下ろそうとしていた動きは一先ず収まりました。袁本初様の大勝利が広まったことで、急落していた株式の価格も落ち着きを見せています。ただ、今後の状況の変化によっては再び株式制度が混乱する可能性もあるでしょう」

「そ、そうか……」

 

目下の最大の問題が何とか落ち着きを見せ始めていることに友若は安堵の溜息を漏らした。

最低限、冀州の財政を健全な状況にしておけば、最悪の場合でも命乞いくらいはできるのではないかと友若は信じた。

後は、朝廷との交渉が上手く行けば目下の重要課題は全て片付くはずである。

友若は和睦の成立を心から願った。

 

それにしても、と郭嘉を見ながら友若は思う。

メガネの奥に理知的な輝きを宿した女性は何時もと変わらず凛とした佇まいである。

その郭嘉を見ていると友若はどうにも既視感を覚える。

最初はその既視感が何なのか分からなかった友若。

だが、郭嘉の仕事ぶりを見ているうちに、友若はその理由に気が付いた。

 

――どうにも、あの妹、バケモノと同じ匂いがするんだよなあ……

 

郭嘉の有能ぶり、凄まじいまでの頭の回転は友若のトラウマである荀彧を想起させた。

常日頃は元々存在すらしなかったものとして荀彧を無視している友若である。

未だに妹に対する苦手意識、忌避感は無くなっていない。

その妹を連想させる人物である郭嘉と頻繁に顔を合わせることに、友若は少しずつ苦痛を感じるようになっていた。

郭嘉が有能であればあるだけ、友若のトラウマは刺激されるのだ。

それでも、郭嘉を重用しているのは単純に人手が足りないからであった。

1人で数人分以上の業務を行うことができる郭嘉を手放すと、友若の能力では本格的に冀州統治が破綻してしまう。

 

そんなことを考えている友若。

張バクが思い出したように呟いた。

 

「それにしても、一時期は大変だったわね」

「ええ、袁本初様と友若殿の関係改善は天恵でした。この入り組んだ状況で友若殿が排斥されれば、冀州がどうなるか誰にも分からなくなってしまいますから。しかし、袁本初様との関係改善、友若殿は一体いかなる策を使ったのでしょうか? 後学のためにも是非お聞きしたいのですが」

「え? あ、ああー……」

 

郭嘉の問に友若は言い淀んだ。

なんと誤魔化したものか。

友若がその様に考えている間に、張バクが口を開く。

 

「決まっているじゃない。麗羽様と友若の関係が良くなった前の夜、2人だけで葡萄酒を飲んでいたわ。そして、翌日の麗羽様の歩き方。つまり、2人は――っ! ちょ、ちょっと奉孝、大丈夫!?」

 

あっさりと事実を述べようとする張バク。

しかし、彼女の説明は途中で遮られた。

 

「ら、らいひょうむ、れす……」

 

郭嘉は鼻を抑えながらしゃがみこんだ。

鼻を抑えた手からは留めることなく血が流れている。

勢い良く流れる血は床に真っ赤な水溜りを作るほどである。

冗談のような出血量だ。

 

「あーもう! 失敗したわ! 不意打ちに過ぎたのね! 奉孝! これで鼻をきつく押さえなさい!」

 

珍しく慌てた様子を見せる張バク。

出血多量が原因なのか顔が青白くなりつつある郭嘉。

 

――妹に似ていると思ったのはただの気のせいか

 

友若は郭嘉が妹、バケモノに似ていると感じたことを思い違いであると切り捨てた。

興奮しただけのはずなのに、止めどなく鼻から血を流す郭嘉の体は医学に暗い友若から見ても異常であり、正しく化物と呼ばれるべき存在なのかも知れない。

だが、それは別に自分の恐れる類のものではない、と友若は判断した。

 

その時。

 

「失礼します。荀大老師様、報告がありま……っ!? し、失礼しました!!」

 

報告のためだと言って部屋に入ってきた文官。

彼女は血を流してしゃがみ込む郭嘉を見て真っ青な顔をすると慌てて踵を返した。

友若は慌てて文官の後を追う。

 

「ちょっ、ま、待て! なんだか、とんでもない勘違いをしているんじゃないだろうな!」

「わ、私は何も見ておりません! だ、だから、い、命だけは……!」

「やっぱり勘違いしてるんじゃねえか! だっ、だから待て! 話を聞けってば!」

「お助けー!!!」

 

悲鳴を上げて必死に逃げる文官の後を追いながら友若は先程までの自分を殴ってやりたくてしょうがなかった。

 

――何が鼻血くらいなら可愛いものだ、だ! 十分迷惑じゃあないか!

 

友若が誤解を解くまでにおよそ半刻(1時間)を費やしたことをここに明記しておく。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

文官の勘違い――無理もないものだが――から始まった騒動を何とか無事収めた友若は、件の文官を伴い執務室に戻った。

部屋には既に誰も居らず、郭嘉が流した血の跡も残っていない。

ただ、匂いだけが、先程の光景が幻でなかったことを示していた。

 

「それで、大分時間が開いたけど、報告って何だ」

「は、はい、本当に申し訳ありません。私が早とちりをしなければ」

「それはいいから早い所、報告を済ませてくれないかな」

 

幾度と無く謝罪の言葉を述べる文官に友若は報告を促した。

 

「はい、実は正午ごろ、曹操孟徳の使いの先触れが訪れまして、荀彧及び程昱が袁本初様との交渉を望んでいると」

「……もう一回言ってくれないかな?」

「は、はい! 本日正午ごろ、曹操孟徳の使いの先触れが現れ、荀彧及び程昱が袁本初様との交渉を望んでいるとの事です!」

 

友若の言葉に文官ははっきりとした口調で報告を述べる。

荀彧。

疑いようもなく文官はその名前を口にした。

つまりは、バケモノである。

それが、ここに来る?

 

「は、ははは……」

 

ここ最近の忙しさと、先ほどまでの騒動で体力を消耗していた友若は乾いた笑みを浮かべながら気を失って倒れた。

 




見所:鼻血
次話:けーりん(予定)


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けーりん1

感想、誤字報告ありがとうございます。


特使として荀彧が来る。

その報告を受け取った友若の同様は清々しいほど見事なものだった。

友若が意識を失ったことは泡を食った文官が必死に応援を呼んだことで周囲の知るところとなった。

友若を嫌う勢力は仕事に支障をきたす病弱さを非難した。

何かにつけて友若を非難する彼らの行動はいつものことであったが、今回の内容は一理あった。

この時点で、冀州において重要な裁可を行う権限を持っているのは袁紹と友若のみである。

袁紹が常日頃から思い出したようにしか政務に携わらない事もあって、友若の不在は冗談抜きで冀州行政を麻痺させるのだ。

官僚たちは田豊の喪失の大きさを改めて思い知らされることになった。

少なくとも政務をサボりがちなツートップの代わりに実務を取り仕切る人間が早急に必要だ、というのが彼らの一致した見解であった。

 

意識を失って倒れた友若は4半刻もすると目を覚ました。

上半身を布団から起こしぼんやりと周囲を見渡した友若は、枕元に置かれた大量の裁可待ちの書簡を見るとため息を付いて再び横になろうとした。

 

「とっとと起きなさい」

 

現実からの逃避を図る友若に対して、見舞いに来た張バクが冷たく言い放つ。

 

「あんたの親愛なる妹が来るそうよ」

 

友若は張バクの顔を見た。

友若の顔は恐怖に染まっていた。

 

「じょ、冗談、ですよね……?」

「冗談じゃないわ。本当のことよ」

 

かつて、友若は冀州で妹、荀彧を散々に非難した。

妹が袁紹の下に来ようとしている。

かつてその話を聞いた友若は必死にそれをさせまいと、荀彧を貶める噂を流したのだ。

その噂の一部は一理あると言えるものであったが、大半は根も葉もない虚構であった。

友若は嘘を吹聴したのだ。

そして、その嘘をあたかも本当の事のように周囲に話す内に、友若はいつの間にか、その虚構を本当に信じるまでになった。

荀彧を近づけたくないあまり、妹を貶める発言をさんざん繰り返した友若、オオカミ少年はいつしか本当にオオカミの実在を信じるようになったのだ。

そのため、友若は妹、荀彧を理不尽な動機で行動する得体のしれないバケモノだとまで思っている。

 

そんなバケモノの事など考えたくもない、と友若は徹底的に妹の存在を無視してきた。

だから、友若は十年も前の荀彧しか知らず、その間に彼女は人間的に成長した事など想像もしていなかった。

実際を知ろうともせず、過去に自らの創りだした虚構の妹、バケモノに怯える友若。

その姿は自らの影に怯える子供にも似て滑稽ですらあった。

 

「そ、そう言えば、えーっと、寒気がするし、腹も痛いし、全身の血管から血液を吹き出して死にそうだから、俺は対応できそうにないな。孟卓、任せた」

 

審配と酒を飲み交わした際に覚悟を決めたと思い込もうとしたはずの友若。

だが、彼は荀彧という恐怖を前にどうにかして逃げ出せないか、と真っ先に考えた。

瞬発的な判断に本性が現れるとするならば、友若は危機にあって真っ先に逃亡を選択する人間であった。

立ち向かわなければいけないと理屈では理解していても。

 

「バカだバカだと思っていたけど、本当に馬鹿ね、友若。あんたが対応しなくてどうするのよ?」

「い、いや、他の人間でも……」

「友若……」

 

張バクは深く溜息を付いた。

目眩を堪えるように目頭を抑えると、張バクは友若の顔を真正面から見据えた。

 

「今、冀州で曹操と戦いを避ける事をまともに主張しているのはあんただけよ、友若。他の人間に任せれば、曹操との対立を煽ることは間違いないわ。まあ、私も曹操と戦うという選択肢もありだと思う。でも、あんたが絶対に戦うべきでないと考えているなら、曹操の使者に応対するのはあんたでなければならない」

「で、でも……一応親族相手に俺が譲歩したととられれば問題にならないか?」

 

張バクの言葉に友若は言い返した。

ここ最近の苦労によって友若はようやく政治というものを学び始めている。

学んだことの一つが、余計な面倒を避けるためにも批判される行動は慎むべきだ、という事だった。

血統上は妹である荀彧と交渉の席に付けば豪族達や士族達など友若を憎んでいる勢力から批判される事は間違いない、と友若は確信する。

 

「問題にするでしょうね。でも、そこまで大きくはならないわ。あんたが妹を嫌っていると言う事はここでは有名な話だもの。余程の事をしなければ、ただの言いがかりに終わるでしょう。日頃の言動の賜物ね。あんたが嫌っている妹に便宜をはかるわけない、とでも言っておけば深くは追求できないでしょう。それよりも、あんたの批判者が荀彧と交渉の席に着けば、否応なしに曹操との戦闘になるわ。少なくとも、連中はそうなるように動くでしょうね。戦闘になれば功績を上げる機会もあるわけだし」

「う、ううう……わ、分かったよ。やるよ。やればいいんだろう」

 

友若は悲壮な声で言った。

棍棒を片手に竜に挑む、そんな覚悟で友若は妹に会うことを決めた。

 

「情けないわね」

 

張バクが辛辣に言い放った。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

袁紹のお膝元に到着した荀彧達の一行は政庁の一室に案内された。

 

「懐かしいです。昔、ここにいた頃は稟ちゃんと一緒に仕事をしたものです。まあ、内容は簡単なものばかりで時間を持て余し気味だった風達はよく2人で色々と話し合ったものなのですよ」

 

程昱が案内された部屋を見回しながら言った。

そして、壁際に歩き依ると程昱は引窓を開けた。

涼やかな風が室内に吹き込んでくる。

窓の外には人と物と金が集中する冀州の町並みが見えた。

 

「忙しないわね」

 

 

旅路、殆ど喋らなかった荀彧が程昱に話しかけてきた。

程昱は若干驚いたような声を出すと、荀彧に調子を尋ねる。

 

「おおっ! 桂花ちゃんはもう大丈夫なのですか?」

「ええ……大丈夫よ」

「それは何よりです。……しかし、桂花ちゃんの言う通り冀州は相変わらずですねー。こんなに忙しないと、おちおち昼寝もできないじゃあないですか……ぐう」

 

荀彧の様子に内心で安堵した程昱は窓から吹き込んでくる心地の良い風を受けながら夢の世界へと意識を飛ばした。

 

「風、起きていなさい」

「おおっ! これは失礼しました。秋風の心地よさについうとうとと」

「……あんた、さっきの自分の言葉、もう一回言ってみてくれないかしら? おちおち昼寝もできないとか言っていたと思ったのだけれど」

 

荀彧は半眼で程昱に言う。

程昱がちらりと周囲を見渡すと、他の人間の殆ども程昱を大なり小なり呆れた様子で見ていた。

 

「何というか、稟ちゃんと仕事をしたこの建物は懐かしいのですけれど、風にはこの冀州の町並みはどうにも懐かしく感じられないのですよー」

「逃げたわね。まあ、いいけど。それで、冀州の町並みが懐かしくないっていうのは建物がどんどん建て替わっているからかしら?」

「ええ。風にはちょっとこの街の変化が速すぎるのですよ」

 

荀彧の質問を程昱は肯定する。

冀州の町並み。

それがどうしても好きになれない、と程昱は思う。

 

袁紹の治める冀州は今現在、異常な速度で建築物を壊して、作っている。

莫大な金が動く冀州。

そして、人々はより多くの金を求めている。

商売を拡大するために、店を構えるために、工場を作るために、そうした様々な金儲けと関係のある理由により、この土地では古い建物が次々と打ち壊され、新たな建築物が作られている。

 

それは手放しで喜んで良いものではない、と程昱は思う。

何世代にわたって歴史を積み重ねて来た古い建築物。

それが何の価値もないと、叩き壊される光景は程昱を少しばかり憂鬱な気分にさせる。

 

もちろん、この漢帝国に変化が必要なことは程昱は痛いほど知っている。

減少の一途をたどっていた漢帝国の税収と一方で肥大する官僚機構。

宦官等、一部勢力への権力の集中と、それに伴う血で血を洗う終わり無き権力闘争。

こうした問題を思えば、漢帝国は変わらなければならない。

変われないのであれば、最早存続することは許されない。

 

それでも、程昱は変わるべきではないものもあるはずだと思う。

変化が必要だからといって何もかもを打ち壊し変えてしまえば、そこに残るのは別の何かだ。

漢帝国が変わるにしても、別の王朝が建つにしても、それは過去の歴史と文化を引き継いでいるべきではないのか。

程昱が見る限り、冀州の変化の果てにあるのは儒教を始めとした既存の価値観の崩壊と金が主体となる新しい世界だ。

それは程昱が脳裏で描いてきたこの国のあるべき姿からはかけ離れている。

もちろん、冀州の発展により多くの人が救われたことは確かであるし、今後もその恩恵に預かる人間は増えていくだろう。

しかしながら、既存の価値観の全てを打ち捨てて進み行く冀州の在り方を満面の笑みで歓迎できない程昱であった。

 

「失礼します」

 

程昱が物思いに耽っていると、荀彧達の部屋に侍女が入ってきた。

その手は盆を支えており、盆の上には茶碗が並べられた。

 

「お茶を用意いたしました」

 

侍女は部屋に備え付けられた机の上に茶碗を並べて、最後に持っていた盆を机の上に置くと、頭を下げて部屋から退出していった。

侍女の足音が遠のいていくと、荀彧は目で楽進に合図を送った。

楽進は机に置かれた盆をひっくり返すと、その裏にあった紙を手にとった。

毒針などが仕込まれていない事を確認した楽進はその紙を荀彧に渡す。

 

「……袁紹、それと兄は私達との交渉に応じるみたいよ。直接の交渉に出てくるのは……荀シン、ね」

 

荀彧は紙に書かれた袁紹勢内部に関する情報を見ながらそう言った。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

友若は荀彧と相対することを決めたが、覚悟を決めて直ぐにそれが実現する訳ではなかった。

重要問題の決定権を持つ友若がいなくては幾つかの行政上の手続きが進まない。そのため、袁紹配下の官僚たちが最低限の裁可を済ませることを強く友若に求めたからである。

覚悟を決めたにもかかわらず肩透かしを食らったことに友若は若干の不満を覚え、同時にバケモノと恐れる妹との対面が遅くなったことに安堵した。

渡された書簡を読解して、その妥当性を吟味し、様々な要因との関係から判断を下すのは億劫であったが。

田豊のありがたみを今更ながら強く感じる友若であった。

 

何時も以上に時間をかけて渡された書簡の裁可を終えた友若は取り敢えず服を着替える事にした。

友若の普段着は比較的質素なものである。

ゴテゴテした装飾を好まない友若は、普段動きやすさを優先した服を着ている。

敵対者は立場に相応しくないと友若の格好を批判してきた。

だが、友若はそれを気にしてこなかったし、そもそも、そこまで問題にされることはなかった。

前世の感覚からすれば友若にとって普段着ですら派手な部類に入るのだ。

いわんや正装をや。

という訳で、友若は前世の感覚に基づいた普通の服――白と紺色を基調とするそれ――を普段は着ていた。

 

しかし、他勢力の人間に会う際に普段の格好を貫き通せば、相手に軽んじられたという認識を与えてしまう恐れがある。

今の所、喧嘩を売るつもりも買うつもりもない曹操配下、妹でありバケモノである荀彧。

どういう行動原理で動いているのかも分からない相手の気を損ねるかもしれない無用のリスクは避けるべきだと友若は判断した

 

そんな訳で、普段の倍以上の時間をかけて正装を身に纏った友若は重い足取りで荀彧との対談に向かった。

涼しく過ごしやすい気候である。

にもかかわらず、友若は背中にじっとりとした汗が流れることを感じた。

 

「あー、くそっ!」

 

苛立ちの声を友若は上げた。

本音を言えば今直ぐにでも逃げ出したい友若。

それができないのは友若以外が曹操の使者、荀彧と対談すれば曹操と戦いが起こってしまう可能性が高いからである。

自殺したいなら周囲を巻き込むなよ、と友若は思う。

兵力差が僅か3、4倍程度しか確保できない上に、相手のみが銃火器を所持しているという状況で曹操軍と事を構えるなど死に急いでるとしか友若には思えない。

あるいは、彼らは曹操とつながっており、袁紹に無謀な出兵をさせようと企んでいるのではないか、とすら友若は思う。

ただの被害妄想であったが、友若はそれが正しいと考えた。

袁紹の配下としていい目を見てきたはずなのに裏切るような真似をして、と憤る友若。

傍目から見れば、曹操に利する行動をしているのはむしろ友若だと捉えられかねないことを友若は想像すらしていなかった。

 

「どいつもこいつも。麗羽様を裏切って曹操の味方をするなんて」

 

友若がそう呟いた直後、けたたましい音が響いた。

驚いた友若が音の聞こえた方向を見ると、侍女が蒼白な顔をして立っていた。

その足元には粉々に砕け散った陶器が散らばっている。

 

「何事ですか!?」

 

大きな音を聞きつけた兵士が友若の方へ駆け寄ってくる。

侍女が落として割った陶器、お茶用の湯のみと思わしきそれを確認した友若は兵士に向き直った。

 

「彼女が陶器を割ってしまった音だ。済まないけど、後片付けをお願いできるから。必要だったら他に人を呼んでもいい」

 

侍女の事を指さしながら友若は兵士に言った。

兵士は床に散らばった陶器の欠片を見て、安堵の表情を浮かべた。

友若は荀彧、バケモノとの話し合いのために嫌々ながら歩き出そうとして、真っ青な顔で未だに震えている侍女の姿を発見した。

賠償金の事を心配しているのだろうか、と思った友若。

この政庁で用いられる調度品の数々はそこそこ高価なものが多い。

侍女の給金がどのくらいか友若は全く知らないが、賠償金を支払うことが難しい可能性は十分にある。

 

侍女が賠償金の心配をしていると考えた友若は、さてどうするか、と思案した。

数瞬の思考の後、侍女を助けることにする。

情けは人の為ならず。

その言葉が誠であると考えれば、この侍女を助けておくことは巡り巡って友若の利益になるはずである。

具体的には妹、バケモノとの対談で何かの助けが入らないだろうか、と友若は期待する。

困ったときの神頼み、と同じ心理である。

友若は侍女を安堵させようと、ゆっくりとした口調で彼女に話しかけた。

 

「気にしなくても良い。この程度何の問題もないからね」

「!!?」

 

友若の言葉に侍女は恐怖の表情を浮かべて後ずさった。

侍女を安心させるための行動だったはずなのに、何故彼女を怖がらせる事になったのか。

予想外の反応に友若は唖然とした。

 

いや、と友若は考えなおした。

よくよく考えて見れば友若は袁紹配下でトップの権限を持つ立場にある。

極端なことを言えば、友若は文字通りこの侍女の生殺与奪権を握っているのだ。

この者を切れ、と友若が命じれば、兵士はその命令に従うだろう。

もちろん、友若はそんな誰も徳をしない蛮行に及ぶ趣味などないが。

だから、友若は侍女に話しかけるにあたって自分が怖れられているなどと想像もしなかった。

だが、それは友若にとっての当たり前であっても、侍女にとってはそうではない。

自らの首を物理的に飛ばせる上司の前で失敗に言及されれば、その口調がどうであれ、部下は怯えるだろう。

 

そうした事を考えた友若はどうしようか、と頭を悩ませた。

そして、若干の思案と葛藤の後、友若は周囲に応援を呼びかけている兵士に声をかけた。

 

「済まないが、少し頼まれてくれないか?」

「何でしょうか」

 

声をかけられた兵士が若干気構えるような表情で友若に応えた。

 

「どうやら、彼女が湯のみを落としてしまったのはどうやら俺が驚かせてしまったかららしくてね」

「なるほど」

「……」

 

自らに非があるという友若の説明に兵士は心から納得がいったように頷いた。

どうして、そんなに納得した表情を浮かべるんだ。

ここは自分が侍女を庇ったことに気が付きながらも敢えてそれを気が付かない振りをするべきだろうが、と友若は心のなかで兵士に罵声を飛ばした。

几帳面で真面目な夏侯さんが食器を落とすなんて失敗をするなんてそんな訳ないですよね、と呑気に宣う兵士に友若は怒りを向ける。

それはどういう意味だ、俺なら食器を割ってもおかしくないとでも言うのか。

口に出さずに友若は大いに憤った。

 

取り敢えず、侍女に積極的に話しかける兵士の顔を記憶に刻む友若。

何時か覚えていろよ、と友若は心の奥底で暗い笑みを浮かべた。

天上人とも言うべき上司、友若の怒りを買ったことにも気が付かず、兵士は侍女の割った陶器の欠片を拾い集めている。

侍女はといえば未だに青い顔をしながら固まっていた。

一応、侍女を助けるために行動したつもりの友若は、取り敢えず彼女を安堵させるべく口を開いた。

権力者である友若を恐れている様子の侍女だが、何も言わないまま去るよりはひと声かけた方が良いだろうという判断である。

 

「あー、さっきはどうでもいいことで声を上げたりして悪かったな。それについては全然気にしていないから心配する必要はないよ」

 

友若は転がった破片を手を降って指し示しながら侍女に言った。

対する彼女の顔面はいよいよ血の気を失い、蒼白になった。

自らの言葉がむしろ逆効果を生んだことに慌てたと思った友若はそれ以上何も言わずに踵を返すと、曹操の使者達と会うべく歩き出した。

珍しく人助けをしようとしたにもかかわらず上手く行かなかったことに落ち込みながら。

 

「大丈夫ですよ、夏侯さん。この食器の賠償金はさっきの荀大老師殿に請求しますから。それよりも、良かったら今度一緒に食事でもどうですか?」

 

背後から頭が空っぽとしか思えない兵士の声が聞える。

なんで俺が身銭を切らなければいけないんだ、と吝嗇家は内心で叫んだ。

 

「あ、あの、すいません。お誘いは嬉しいのですけれど、私には将来を誓った相手がおりまして」

「ちょっ!? き、聞いてないですよぉぉ! そんなぁ!」

 

後ろから聞こえてくる兵士の嘆きの叫びに友若はざまあみろと溜飲を下げた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

来賓を迎えるための一室に案内された荀彧一行はしばらくの間、部屋に待たされた。

4半刻程過ぎた後、ようやく部屋の戸が開けられ、数名の人間が入ってきた。

友若を筆頭に張バク、郭嘉、韓馥、最後に顔良が続く。

袁紹側には4席。

顔良を除く4名が着席した。

顔良は4名の背後に無言で控える。荀彧や程昱の背後に無言で佇む楽進と同様に。

 

友若は眼の焦点を遠くに彷徨わせると、張バクを見た。

視線を向けられた張バクは頭痛を堪えるように頭を押さえるとため息を付いて話しだす。

 

「曹西園八校尉殿より袁冀州州牧への戦勝の祝辞は確かに受け取りました。麗羽様も昔懐かしい学友からの祝福を喜んでおいでです」

 

実際の袁紹の様子など、伝えるべきでない余計な情報を切り捨てながら張バクは淡々と言う。

 

「先の戦いで残念なことに曹西園八校尉殿は麗羽様と矛を交えることになったが、本心ではこの国の平和を目指しているということ、麗羽様もよくよく納得しておられます」

 

そこまで言い切った張バクは続きを述べるかどうかを考え、口を閉ざした。

荀彧が返答する。

 

「華琳様――曹孟徳様の代わりに感謝致します。袁冀州州牧殿が華琳様のお考えを正しく理解されたことは、民草の無用な犠牲を避ける事に繋がります」

「天は民草を無用に傷つけることを望んでいないでしょう。麗羽様は人としての道に従っただけです」

「なるほど。袁冀州州牧殿は『礼』を心得ていらっしゃるのですね」

 

張バクに対する荀彧の返答に韓馥が眉を顰めた。

荀彧は袁紹を賛美するに当って、最も高い徳とされる『仁』ではなく、社会制度の徳目である『礼』をその根拠とした。

張バクの発言を鑑みれば、荀彧の言葉の背後には袁紹に対する非難の色があった。

袁紹の行動は『仁』に値しないというそれが。

結局韓馥はまだ何も言わなかったが、不満を持っていることは確実だ。

いや、袁紹を始めとして曹操との話し合いに不満を持っている人間は多い。

 

一方的に袁紹に逆賊の汚名を着せた皇帝。

その皇帝の直属軍を指揮する曹操に対する怒りを持っている者――本心からのものであれ、建前からのものであれ――は多い。

先の戦いで袁紹側に大きな損害を与えたほとんど唯一の存在ということもあって、曹操には袁紹勢力の憎悪が注がれている。

そのため、曹操側の使者が来たという情報が伝わった時、追い返してしまえ、という意見も多かった。

それでも、袁紹側が交渉に応じたのは、友若と文官達が強く曹操側との交渉を主張したからだ。

 

本音を言えば、荀彧を追い返したい友若であった。

だが、銃火器で遅れをとっている状況で曹操と現時点で戦うことを避けなければいけない、という友若の判断は荀彧に対する恐怖に打ち勝った。

だからこそ、友若は曹操と剣を交える可能性を少しでも減らすためにこうして交渉に臨んだのだ。

友若の目的は唯一つ。

銃火器の開発と配備で優位に立つまで、何としてでも曹操との争いを避ける事である。

対等な武装では勝ち目がないと友若は思っている。

 

そうした話を張バクは友若から聞いていた。

『銃火器』が兵力差を覆しうる兵器だという友若の主張に張バク自身は疑問を抱かないわけではなかった。

確かに、曹操軍から鹵獲した『銃』は袁紹軍で用いられている『真弩』と比べて単純な飛距離や速写性では優っている。

だが、有効射程や運用可能な数を考えれば袁紹軍は十分な優位を持って戦えるはずだと張バクは思っている。

しかし、それでも曹操を打ち破るために多大な犠牲が必要になるというのは張バクも認めることろである。

そして、戦いに苦戦したり、犠牲が出れば大きな問題が生じると考えた張バクは友若に協力することにした。

 

先の戦いで大勝利を収めたにもかかわらず、張バクたちは冀州経済の混乱収拾に奔走している。

田豊や沮授と言った名臣を失ったことにによる業務の混乱の影響が大きいが、他にも冀州経済に多大な投資をしていた豪族達等が一斉に資金を引き上げようとしたことも無視できない。

官軍との戦いを前に銀行業務を停止したことによって、いざという時に銀行預金が使えないという事を白日のもとに晒したのだ。

張バクや郭嘉達が根気強く説得を続けたことで、幸いにも銀行の利用を止めようという豪族達の動きは取り敢えずは収まった。

ただ、豪族の多くは袁紹が逆賊という立場に置かれていることをひどく心配している。

皇帝を無視して清流と濁流が争い続けている洛陽等の漢帝国中心都市と異なり、地方では皇帝の権威は大きな影響力を持っているのだ。

 

洛陽で官吏をしていた経験を持つ張バクにしてみれば、豪族達が皇帝をありがたがる様は滑稽に思える。

実権を握っているのは清流と濁流のどちらかだ。

この二つの勢力の宮廷力学的な力関係によって漢帝国の方向性は決定されているというのが実際である。

だが、地方に根を張る豪族達にとって、皇帝とは漢帝国中央からの命令を正当化する強大な権威である。

中央と関わるだけの権勢を持たない純朴な豪族達にしてみれば、背後で糸をひく黒幕よりも矢面に立つ皇帝こそが権力の象徴と思うことも無理はなかった。

 

同様の理由で、辺境の民は皇帝を憎んでいる。

事実上、漢帝国に切り捨てられた辺境。

その辺境の人間にしてみれば、背後に蠢く無数の官吏や宦官よりも、それらの象徴たる皇帝の方が憎悪を向ける対象として理解しやすいのである。

 

だからこそ、豪族達は袁紹軍が官軍相手に勝利を収めた今でも逆賊という汚名を重要視しているのだ。

袁紹と距離の近い豪族達は逆に漢帝国を潰して新たな帝国の樹立を夢見ているようだが、逆にある程度の距離を置いている豪族達は名目上漢帝国に逆らう反逆者となった袁紹や冀州経済との関係を維持する事を躊躇している。

 

そして、こうした豪族達の存在、彼らがばらまく貨幣は冀州経済にとって欠かせないものとなっている。

豪族達がいなくなれば、冀州の流通貨幣は一気に低下するだろう。

そもそも、今現在、冀州の経済全体の収支を見ると、資金は流入しているが、一方で物理的な貨幣は流出しているのだ。

これは、辺境の交易のために莫大な貨幣が必要だからである。

辺境では交易が活発化しているが、異民族はそもそもあまり貨幣を保有していない。

保有する機会も必要もなかった。

漢帝国の商人と異民族との交易は物々交換で事足りていたからである。

しかし、交易の拡大により、物々交換というものの効率の悪さが無視できなくなる。

また、漢帝国の嗜好品――衣服を中心としたそれ――を異民族が一度の物々交換で手に入れることは困難であり、彼らは貯蓄を行うためにも貨幣を利用した交易を望むようになる。

そして、辺境の交易における貨幣需要の高まりによって冀州から莫大な量の物理的な貨幣が流れでた。

経済発展とともに名目上の資金は今なお流入しているが、それは証文や物品、あるいは預金の数字の形を取っており、実物としての貨幣は流出しているのだ。

 

郭嘉によってまとめ上げられた冀州の貨幣収支を初めて見た時、張バクは大いに驚いた。

もし、袁紹側が敗北していれば、冀州経済がどうなっていたことか想像もつかない。

ただ、ひとつ言えることがある。

袁紹の力である圧倒的な財力を支える冀州経済は、戦争前には張バクが思ってもみなかった以上に脆い足場の上に構築されているのだ。

現在の冀州行政が続かないという噂が広まればそれだけで揺らぐほどには。

 

郭嘉の類まれなる分析能力によって冀州経済の危うさがが明らかになると、財政に関わる文官達は明白に官軍との争いを避けるべきだという立場をとるようになった。

そのためには、袁紹に汚名を着せた朝廷と講和することもやむを得ない、と文官達は考える。

冀州経済が危ないという噂が流れるだけでも貨幣危機が発生しかねない。

そのため、文官達は表立って経済の危うさを表明する訳にはいかなかったが、これ以上の危険な賭けは避けたい、というのが彼らの大勢を占める考えだった。

奇しくも、曹操を怖れてひたすらに戦いを避けるべきだと主張を重ねた友若と同じ立場に文官達の多くは立つことになったのだ。

その思考過程は全く異なっていたが。

 

これに対して豪族達や名士達の一部が強硬に反発している。

君側の奸臣を取り除かなければまた同じ事が起きると思う者。

漢王朝に代わって袁紹が立つべきだという考える者。

場当たり的な政策を繰り返してきた皇帝に対する不信を抱く者。

強大な敵となり得る曹操を今叩くべきだという意志を持つ者。

友若憎しの感情に囚われた者。

戦功を上げる機会を求める功名心に突き動かされる者。

冀州で幅を利かせる文官に対する反感を抱く者。

戦いを望む理由は無数にあれど、官軍と今戦って倒すべきだと主張する人間が一定数いることは確かであった。

 

だから、張バクと郭嘉達は荀彧との交渉にあたって朝廷との戦いを主張する主戦派の人間を可能な限り排除しようと動いた。

そして、主戦派の中でも比較的穏健で話の分かる韓馥を主戦派の代表として交渉の席に参加させた。

直実な人柄である韓馥であれば、他の主戦派の様に無理な主張はしないだろう。

更に、周囲から一目置かれている韓馥が交渉の席に参加する以上、その結果がどうであれ他の主戦派も強くは文句を言えない。

 

加えて、この交渉には袁紹配下として現在最も地位の高い友若も参加している。

派閥力学を無視して動く友若を憎悪する人間が豪族派閥や名士派閥に多いことは確かである。

しかしながら、面と向かって友若に文句を言える人間は冀州においては袁紹だけだ。

豪族達や名士達の中に不満を持つ者がいたとしても、現状では言葉を飲み込むだろう。

友若と曹操側の荀彧との血縁関係は問題となるかもしれないが、この兄妹の中の悪さ、と言うより兄の妹に対する憎悪は有名な話であるからなんとでもごまかし得るだろう。

 

問題があるとすれば――。

張バクは横目で友若を見ながら思う。

問題があるとすれば、友若が交渉の席に参加しながら言葉を発しようともしていない事だ。

それどころか、友若はそもそも荀彧を見ることもせずに視線を虚空に彷徨わせている。

頑として友若は妹と向き合うつもりがないらしい。

 

――どんだけ、妹が嫌いなのよ。

 

知っていたとはいえ、張バクは内心で呆れ声を出さずにはいられなかった。

友若が全く発言しないというのはあまりよろしくない。

この交渉を主導しろとは言わないが、主戦派である韓馥に主導権を渡すような展開を防ぐことくらいは友若にやってもらわなければ困る。

栄達の道から若干外れたところにいる張バクや、この場で最も地位の低い郭嘉だけで名声のある韓馥を抑えることは難しいのだ。

とは言え、友若のこの様子では、自分以外にも軍事的解決に反対する勢力が居ると知ったら、そもそも交渉の席に立つことすらなかっただろう。

 

――それを思えば、友若の態度は褒められたものではないにしろ、よく逃げなかったと褒めるべきなのかもしれないのかしら?――……そんな訳ないわね。

 

張バクは頭に浮かんだ考えを即座に否定する。

仮にも、現在あらゆる面で漢帝国最強の勢力の最大の側近がこの有り様と言うのはあんまりだ。

嫌いな野菜を残さず食べた子供を褒めるような対応ができるわけがない。

その上、友若は食事の席には着いたものの、その野菜を食べようとはしていないのだ。

 

気苦労のためか、張バクは軽いめまいすら覚えた。

とは言え、張バクに挫けている余裕はない。

心に活を入れると、張バクは口を開く。

 

「『礼』を心得ている、と言うのはどういう事でしょうか」

「漢帝国の序列、天子様を頂点とする序列に従う袁冀州州牧殿は『礼』に則っていると申し上げました」

 

荀彧は淡々と言葉を紡ぐ。

なるほど、と張バクは思う。

媚びることも飾ることもなく、ひたすらに理に適っている荀彧の言葉。

名目上、儒学を重んじる清流の中で一目置かれるのもよく分かる。

同時に、荀彧の有り様は味方と同じかそれ以上の敵を作ったことは間違いない。

人の神経を逆立てる言動に関して、荀彧のそれは天性が光る。

友若の妹というだけあって荀彧もまた随分と癖の強い人格だ、と張バクは現実逃避をしながら考えた。

荀家の兄妹、同僚としてどちらの方が楽かは微妙なところではあるが。

横に目をやると、韓馥が予想通り、その顔に怒りを浮かべている。

 

「なるほど、確かに袁本初様は『礼』を知るお方だ。対して、朝廷は何をしているのか。何をしたのか。臣下として『礼』を守り、天子様から統治を任された冀州を大いに発展させた。その功は古の名臣管仲にも優るとも劣らないだろう。その忠臣に朝廷は何を持って報いたのか!」

「失礼ながら、袁冀州州牧殿の行いは忠臣と褒め称えられるべきものでしょうか?」

「なに?」

 

声を荒げる韓馥に荀彧は冷淡に言葉を返した。

 

「確かに、袁冀州州牧殿は冀州を大いに発展させ、その結果として漢の国庫を潤しました。しかし、同時に、州牧殿は漢の秩序を揺るがしかねないほどの権力を一介の州牧が持つことを止めようとしませんでした。古来より、皇帝の地位を脅かす権力を握った者は如何なる功績を上げようがその生命を永らえることはできまませんでした。呂不韋は宰相として秦をして諸国列強最強の国家へと育て上げましたが、権勢を欲しいままに振るったため、始皇帝に廃されました。漢興隆の功臣であった韓信すらもその力が皇帝の権威を犯したがために処刑されたのです」

 

韓馥は荀彧を睨みつけた。

 

「忠臣を殺す皇帝に義があると言うのか!?」

「漢建国の功臣である韓信、その幕臣や高祖に不満を持つ者達は韓信こそが天下に相応しいと主張していました。そして、韓信はそれらの言葉に次第に心を動かされたのです。韓信が速やかに処断されなければ、韓信は高祖に反旗を翻していたでしょう。そうなれば、高祖が項羽を下してようやく訪れた平和が崩壊し、燃え盛る戦火は万民を傷つけることになったはずです。功臣を敢えて弑すことの不『義』と、それにより救われる万民の大安を思う『仁』、そのどちらがより重いと言えるでしょうか」

 

荀彧の発言に韓馥は言葉を詰まらせた。

先程の袁紹の行動が民を思っての行動であるとの発言を張バクがしている。

ここで義が重いとは言い難い。

それに、そもそも『仁』は最も重要な徳とされているのだ。

それでも、韓馥は何とか反駁をしようと口を開いた。

 

「だが、袁本初様は天子様に反旗を翻すなど考えてもいなかった! 呂不韋や韓信の如き、主君に刃を向けようと腹の中で考えていた不忠者とは違う! その袁本初様を貶めた宦官の如き佞臣こそが責められるべきであろう!」

「十常侍達の専横は漢を蝕んでいるでしょう。しかし、袁冀州州牧殿もまた天子様を脅かすほどに権勢を持ち過ぎました。また、官軍を打ち破るほどの兵を持っていることも事実です。そもそも建国の功臣ですら力を持ちすぎたものは命を落としたのですし、皇族であっても皇帝の地位を脅かすものは廃されるのです」

「貴様の主曹操は人を不当に陥れることを良しとするのか!?」

 

顔を真っ赤にして叫んだ韓馥の言葉に涼やかな顔を保っていた荀彧が眉を動かした。

張バクと対面の位置にいる程昱が素早く荀彧に目を走らせた。

荀彧は顔を殆ど動かさずに程昱に目配せをした。

張バクは思わず韓馥の顔を見た。

友若だけが何の反応も見せずに空中に視線を彷徨わせている。

相変わらず話し合いに参加するつもりはないらしい。

 

「……一般論として、君主は時に非情な決断を迫られるものです。人の上に立つ者であれば須く例外はありえないでしょう」

「荀大老師殿は曹操が随分な人物であると言っていたが、今までの言動、そして話を聞く限り、人を平然と陥れる人柄であるようだな。大した人物かはさておき、警戒に値する」

 

韓馥が暴言を吐いた。

張バクは舌打ちをしたい気分だった。

韓馥はまんまと荀彧の挑発に乗せられた。

 

「我が主、華琳様を侮辱するのですか?」

 

現状、袁紹側、曹操側の双方ともに戦う意志はない。

この時点で潰し合うことは双方にとって不利益となるからだ。

それを痛いほど理解できる立場にいる張バク。

主君と仰ぐ袁紹の為にも、張バクは曹操側との衝突を避けるように立ち回らなければならない。

友若もまた、張バクと同様に曹操との戦いを避けようとしている。

つまり、袁紹側の人間は、韓馥を除いて曹操と戦ってはいけないという考えで一致している。

そして名士の立場にある韓馥も袁紹の方針には基本的に従うという立場をとっている。

だから、この交渉の結果として曹操と戦うことになるという可能性は極めて低い。

そうならないよう、張バク、郭嘉、ついでに友若が動くからだ。

 

曹操側も同様に戦いを避けるように動くだろう。

だが、荀彧達は潰し合いは避けるという制約の下でも最大の成果を得ようとしている。

具体的には韓馥を挑発し、曹操に対する侮辱の言葉を引き出した。

主に対する暴言によって荀彧達は袁紹側に怒り、拳を振り上げてみせる大義を手に入れた。

それを実際にその大義を行使すれば双方にとっての大きな不利益となるから、荀彧はあくまでも脅しに留めるだろう。

しかし、荀彧は大して労すこともなく1つの交渉材料を手に入れたのだ。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

会談の前の僅かな時間に郭嘉は曹操側の目的を推察した所を張バクに述べていた。

 

郭嘉は言った。

袁紹側に現状で戦うつもりがないことを荀彧、そして曹操は熟知しているはずだ、と。

 

「経済の急激な拡大に伴う行政業務の増大によって冀州では官吏の数の増やしました。その際に密偵やその類を紛れ込ませることは容易であったはずです。先見性のある人物であれば、それをしていないわけがありません」

「それはそうでしょうね」

 

郭嘉の言葉に張バクは同意する。

普段あまり意識していなかったが、郭嘉の言葉の通り密偵が存在している可能性は否定出来ない。

むしろ、存在していないなどと考えることは危険だろう。

例えば、張バクの目の前にいる女性がどこかの勢力に情報を流している、ということも可能性として否定はできないのだ。

疑いだしたらきりがないだろうし、大量の人員を雇った以上、密偵の全てを排除することは不可能だ。

 

「経済の拡大によって増員された官吏は基本的に出世の道がなく、一般的な業務のみを任されていましたから、密偵がそう簡単に重要な情報を手に入れる事は出来なかったでしょう。それでも、こちらが戦いの準備をロクにしていないことは当然分かるでしょう」

「それなら、曹操はどうして右腕である荀彧を態々こんな所に送ったのかしら? こちらに今戦う意志がないことが分かっているなら使者を送る必要性は低いだろうし、送ったとしても荀彧である必要はないはずじゃない?」

 

顎に手を当てて尋ねる張バク。

郭嘉はメガネの縁に軽く手を当てながら答えた。

 

「曹孟徳殿はこちらが朝廷に使者を送った事も知っているはずです。この状況で曹孟徳殿には袁本初様と朝廷との和睦の犠牲となる可能性があります。こちらにも朝廷にもそう言う考えを抱くものがいたとしてもおかしくはありません。曹孟徳殿は皇帝の寵愛を得ていますが、宦官を敵に回していますし、宦官の孫という血縁上、清流との関係も微妙な所があります」

「確かに曹操は宦官の関係者であっても厳しい処罰を下した事で名を上げたから中央に敵も多いでしょうね。それで、郭奉孝、貴方は朝廷を使って曹操を追い詰めることに賛成なのかしら? 反対なのかしら?」

 

郭嘉の言葉に好奇心を刺激された張バクは尋ねた。

目の前の理知的な女性がなんと答えるか。

張バクには興味があった。

 

豪族や名士達は賛否が別れるだろう。

政略で難敵を排除すれば、戦いの犠牲は避けられるが、戦場でこれを討ち取って武勲とすることもできなくなるのだ。困難であるとはいえ、友若が恐れ、先の戦いで大いに活躍した曹操を打ち倒せば万金に値する戦功となるだろう。

審配ならば迷いなく賛意を示すはずだ。

彼女は周囲の目を怖れずに実利を取る面の顔の厚さと勝利や栄光を求める貪欲さを兼ね備えている。

友若ほどではないにしろ、曹操を油断できない相手として認識する審配ならば、その障害を排除する機会を逃そうとはしないはずだ。

許攸は消極的に賛成するといったところだろうか。名誉や富に対する熱意を持ちながらも敵を作らずに外聞を保つ狡猾さを兼ね備えた彼女なら、敵を陥れる策謀を選択するにあたって躊躇して見せるだろう。見せるだけだろうが。

友若は恐らく消極的反対。というよりもあの食わず嫌いは曹操には関わりたくもない、という態度を保てるうちは保ち続けること間違いない。

審配と許攸が政略で曹操を追い詰めてから友若は大いに慌てて動き出すのだろう。

そして、友若の異様な発想で振りかかる問題はいつの間にか解決しているのだ。

そんな未来が張バクには妙に現実的に想像できた。

 

「心情的には反対です。しかし、この国の状況を考えればこれ以上の戦いは避けるべきですし、曹孟徳殿の人柄を聞く限りでは、袁本初様と天下を分け合う事ができる人物とは思えません。だから、私は朝廷を使って曹孟徳殿を排除すべきだと思います」

「心情的に反対とは……ねえ」

 

張バクは郭嘉の顔を見て妙に納得した。

郭嘉は圧倒的に優秀だ、というのが共に働いた張バクの感想である。

誰であっても郭嘉が飛び抜けて優秀なことは直ぐに分かるだろう。

それが、今回の戦いの後にようやくまともな地位に出世したというのは、いくら郭嘉が新参者で有力者との人脈がなかったとはいえ異常である。

ロクに人脈も実績も業務能力も有していない友若が田豊に引き上げられる形で今の地位にあるのだ。

ならば、郭嘉もまたそれなりの地位まで出世していてしかるべきではないか。

 

しかし、この馬鹿正直ともいうべき郭嘉の性格ならばそれも無理は無い、と張バクは思った。

立場的には許攸の下に郭嘉はいたと張バクは聞いている。

恐らく許攸は何ら批判を受けることなく、強力な競合相手となりかねない郭嘉を出世させずに捨て置くことが出来ただろう。

一定以上の地位に就くには能力だけではなく思想や忠誠心が重要な要素となるのだから。

 

「まあ、貴方が何を考えていようが、仕事さえやってくれるなら私はどうでもいいのだけど」

 

とは言え、郭嘉が袁紹の治める冀州で栄達しようが、しまいが、張バクには関係がない話だ。

張バク自身栄達にはそれほど興味が無い事を思えば、郭嘉の才能の無駄遣いを責めることはお門違いだ。

それよりも、今は曹操側の行動予測をこの天才的な戦術家と共有しておくべきだ、と張バクは考えた。

 

「……それで曹操は朝廷から切り捨てられることを恐れているのね。確かに、怜香や黄蘭あたりなら、曹操の首を和睦の条件にするくらい普通にやるでしょうし。でも、それなら荀彧を送るべきはここではなくて洛陽ではないのかしら。荀彧は清流でも名が知れているし、今このタイミングでこっちに来た所で朝廷との和睦に影響をあたえることは出来ないはずよ」

 

既に朝廷と袁紹側の使者である審配、許攸の交渉は始まって暫く経っている。

情報伝達の時間差を考えれば、もう既に交渉が決した可能性も高い。

つまり、今荀彧が冀州に来た所で洛陽の動向を左右することは出来ないのだ。

むしろ、洛陽に人脈を持つ荀彧を冀州に送ったのは失策ではないのかと張バクは思う。

 

「恐らく、洛陽には曹孟徳殿自身が向かったのでしょう」

「!? 冗談っ! っとも言い切れないわね。総大将の不在による士気の低下もこちらに戦う意志がないなら問題ないのだろうし。……そうだとすると、情報戦で圧倒的に負けている状況はなんとかしなくちゃいけないわね。曹操が洛陽に向かっているなんて情報、こっちには来ていないわよね?」

 

張バクは郭嘉に尋ねた。

 

「曹孟徳殿本人に関する情報に関しては私の知る限り、冀州には届いていません。曹孟徳軍が活発に訓練をしているという情報なら届いていますが。ただ、曹操が洛陽へ向かったというのはあくまでも私の推測です。それが正しいという保証はありません」

「でも、他に考えられないでしょう? 曹操がよっぽど愚かでもない限り、洛陽に干渉しないという選択肢はないわ。そして、そのためには洛陽で顔の広い人間でなければいけない。荀彧がこっちに来た時点で、曹操が洛陽へ向かったことは確実でしょう? だとすると、曹操はこっちの正確な情報を得ているってことじゃない! ああ、もう! 今から、進軍の準備をした所で曹操の帰還に間に合わないでしょうし、一方的にやられてるようなもんじゃない」

 

張バクはそう言って頭痛を堪えるように頭を抑えた。

情報戦で圧倒されているという状況はあまりにも拙い。

だが、身内に紛れ込んだ諜報員を見つける事は並大抵の労苦ではないし、それに割く人員の余裕もない。

むしろ、経済の混乱に対処するために人員を増やすことを決定したばかりだ。

膨張体制を整えるにしてもノウハウを蓄え、それがまともな形になるのは先の事になるだろう。

 

「まあいいわ。防諜に対しては友若の魔法のような解決策に期待しましょう。怜香や黄蘭にも頑張ってもらえば、なんとかなるかもしれないし。彼女達も手腕を存分に振るえる機会は望むところでしょうし」

 

張バクは取り敢えず問題を棚上げした。

 

「そんな事は後で考えるんでいいわ。それで、曹操が洛陽へ向かったとして、荀彧が態々冀州までやって来た目的は何なのかしら、奉孝?」

「あくまで推測ですが、――」

 

前置きとともに語り出した郭嘉の言葉に張バクの目は大きく見開かれた。

郭嘉の推測した内容は余りにも大胆であった。

驚愕に染まる張バクの思考。

だが、その一方で、態々荀彧を送り込む以上それくらいの理由があってもおかしくない、と張バクは頭の片隅で思った。

そして、曹操が態々荀彧を冀州へ派遣する理由として郭嘉の推測以上のものは考えられないとも思った。

 

なるほど、と張バクは思った。

曹操が本当にそれだけのことを考え、尚且つ断行するほどの意志の持ち主であれば、友若が彼女を恐れる様子も過大評価とは言えないかもしれない。

だからこそ、勢力の小さいうちに打倒しておきたいところではあるのだが、はたしてどうなるものか。

張バクは溜息を付いた。

こういう役回りはやる気のある人間に任せるべきだと思う張バクであった。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「先に侮辱したのはそちらではないか!」

 

韓馥が怒りの声を上げる。

それは違う、と張バクは内心で呟いた。

荀彧は袁紹に対する批判を口にしていたが、その言葉は慇懃無礼ではあれど、皮一枚の差で侮辱の一線を踏み越えてはいない。

袁紹を批判するにあたっても、その名を直接出すことなく、あくまでも故事の話、一般論という体を装っていた。

そのため、袁紹を侮辱したと言い張る事は難しい。

 

そうでなくとも、袁紹側と曹操側の立ち位置は違うのだ。

優位に立つ袁紹側はその優位を保つためにも、争いを避ける必要がある。

ともすれば、一時の自尊心を満足させるため、戦功を上げる機会を得るために軽挙に走りがちな豪族達や名士達を何とか抑えなければならず、交渉にあたってもうかつに好戦的な言葉を発する訳にはいかない。

この場で話したことは立ち所に冀州の同僚の知るところとなる。

豪族達や名士達は韓馥からこの場で起きたことのあらましを聞くだろう。

張バクが曹操と戦うという可能性をほのめかす程度であったとしても、曹操を打ち破る事こそが全ての権力を手にする唯一の方法であると近視眼的に信ずる味方が、元清流の人間も武断の意見に賛同したとして、これ幸いにと軽挙に走りかねない。

一方で、下手に曹操側に譲歩をしすぎれば、それを過失として責められることになるだろう。

袁紹は様々な背景を持つ莫大な数の配下を抱えているがために、意志の統一が困難かほとんど不可能で、その配下は常に味方の動向をも意識しなければいけないのだ。

 

対する曹操側は少勢力であるがその意志はよく統一されている様に見受けられる。

つまり、荀彧は強行的な姿勢を見せることで譲歩を引き出そうと試みる事ができるなど、戦術的な自由度が幅広い。

もちろん、こちらが引くに引けなくなるまで追い詰めることはしないだろうが。

 

「とんだ言いがかりですね。私の発言のどこに袁州牧を侮辱する言葉があったと言うのですか」

 

荀彧は口端を微かに歪めながら韓馥に答えた。

 

「何を屁理屈をっ!」

「では、私の言葉のどこに問題があったのかを示していただけないでしょうか」

 

増々精神を高ぶらせる韓馥は嘲笑とも取れる笑みを浮かべた荀彧に反駁する。

 

明らかに荀彧は韓馥を怒らせようとしている。

嫌な性格だ、と張バクは思った。

曹操の目的が郭嘉の予想通りであるのなら、荀彧は韓馥を態々怒らせる必要はないのだ。

荀彧があえて火に油を注いでいるのは今後の交渉材料を増やしておくためだけであるはずである。

その行動自体は曹操の利益につながるだろうから、配下である荀彧が熱心にそれに打ち込むことも理解できる。

そして、韓馥という格好の獲物に食いつくことも戦略として正しい。

もちろん、弱みを晒した相手に対して戦果を最大化する、という行動は間違ってはいない。

とは言え、貪欲なまでに戦果を拡大する行動を張バクはどうしても好きになれないのであった。

 

ともかく、郭嘉の言葉通りだ、と張バクは思った。

荀彧は、ほぼ間違いなく交渉の進みを遅らせようとしている。

主に対する物言い等という、ある意味でどうでもよいことに関して議論を続けていることからも明らかだ。

そして、恐らく、荀彧や曹操側は暫くこうした態度を崩さないだろう。

朝廷の動きがあるまで。

 

袁紹に着せられた逆賊という汚名がどうなるか。

朝廷が断固とした態度をとるのか、軟化するのか。

その結果によって、今後の物事の流れは大きく変わる。

曹操はその時に誰よりも素早く動くために腹心の荀彧を冀州へと送り込んだのだ。

荀彧を始めとした曹操の使者とって、本命の交渉は審配及び許攸と朝廷交渉との交渉結果が示されてから始まるのだ。

 

袁紹側としても洛陽の動向によっては方針転換する必要が出てくるかもしれない。

だから、どの道、朝廷の動きがあるまでは、曹操との関係についても決めがたい。

袁紹側と曹操側、両者の思惑の一致により始まったこの交渉である。

両者が結論を先延ばししたいという点でも一致している以上、交渉がまとまるわけがない。

 

茶番にすぎない今の話し合いなど適当に流してしまえばいいのだ。

まともに取り合おうとするなど労力の無駄で馬鹿げた行為だ。

張バクはその様に思っている。

荀彧や審配の様に真面目一辺倒に勝利のために勝利を求める行為は張バクの苦手とするところなのだ。

 

「う、裏切りを肯定するというのか!?」

「そのような事はありません。五常は万民が守るべき理想です。しかし、国を治める立場にあるものは状況によってはこれらを超越した好意を為さざるを得ないはずではないでしょうか」

 

荀彧は言葉に詰まる韓馥に冷然と返すと視線を目の前に向けた。

荀彧の目の前には友若が座っている。

韓馥を血祭りにあげた曹操の腹心は友若を睨みつけるように見据えている。

対する友若は決して荀彧に視線を向けることなく、木偶の坊のように宙を見上げている。

 

「だが、士が徳を失えばそれは国難の元だ!」

 

荀彧に散々論破されたにも関わらず、尚も反撃を試みる韓馥。

張バクは呆れるとともに感心した。

この善良で純朴な女性はこれだけの才能を持った友若の妹を相手に尚も反論を重ねているのだ。

その無謀さは褒められても良いのではないか、と思う張バクであった。

 

「なるほど、そうかもしれません。上に立つものが民を思いやる心を失えば、万民は苦しみに喘ぐことになる。だからこそ、孔子も『仁』を最も重要な徳であると述べたのでしょう」

 

荀彧は最早韓馥を見てもいなかった。

その視線はただひたすらに友若に向けられている。

荀彧の瞳は恒星のごとく輝きを放っていた。

韓馥はようやく自らがとんでもない怪物に剣を向けていたことに気がついたのか、顔をこわばらせていた。

これが荀彧。

張バクが去った後の混沌とした洛陽で清流として頭角を現した俊才。

小さな体でありながら尋常ならざる覇気であった。

 

だが。

 

何故か、張バクには一瞬荀彧が泣いている幼子のように見えた。

親を怒らせて口も聞いてもらえずに途方に暮れて泣き叫ぶ子供のように。

 

我ながら、何を考えているのだと頭を振る張バク。

 

「そう。仁とはとても重要なものなのです。力を持つものは皆仁を持たなければなりません。ここで言う『仁』とは、目に映る者達だけではなく、書簡を通してのみ知ることのできる人間をも含んだものでなければいけません」

 

荀彧の言葉は淡々と部屋に響いた。

 

「今、この国の南では民の多くが重税に喘ぎ、災害に度々見舞われて苦しんでいます。彼らが苦しんでいるのは、自らの土地を捨てて逃げ出す民が多かったために、人が減り、一人ひとりに伸し掛かる税等の重みが増えているのです。脱走に成功した者の多くは日々の糧を得ることができています。しかし、そのことにより、民の流出は加速して、その結果、残された者達の負担は増えるばかりなのです。多くの人手を失った邑では用水路の整備もできず、田畑は荒れ果ててしまったところもあります。これらの地域を治める官吏達や豪族達はこの問題に対処しようと努力を重ねましたが、失敗に終わったのです。相変わらず、民は自らの故郷を捨てて、去っているのです。荒れ果てた土地を捨て。袁紹を討伐するための軍に南方の諸侯が多かったことは偶然ではありません。彼らは自らの民を奪い取って発展を続ける冀州を恨んでいるのです」

「そ、それは、逆恨みではないのか。南方で民が逃げ出したからといって、それは我々の責任ではない」

 

韓馥が諦め悪く反論する。

荀彧はその言葉に視線を返すことすらしなかった。燃えるような激情を含んだ瞳はまっすぐ友若へと向けられている。

 

「そうかもしれません。しかし、冀州は確かに流民を多く受け入れることで発展を遂げたのです。人の増大があったからこそ、物の売り買いが広がったのです。人手がいるからこそ、大胆な灌漑工事や道の整備を行うことができたのです。そして、大量の流民を受け入れたがために、南方を始めとした地域は働き手を失い、そのことがさらなる貧困を生んでいます。今、あなた方が、この地の発展のみを考え、人を失い、荒れ果てていく南方の地の有り様を関係ないことだと切り捨てるのならば――」

 

荀彧の噛みつかんばかりの言葉にも友若は視線を彷徨わせたままだった。

 

「自らのことのみを考え、天下の民を思う『仁』を持たずに天下の富を集めるのならば、冀州の発展の裏で衰退している土地の事を忘れているというのなら、必ずやこれらは忘却の彼方よりあなた方に復讐をするでしょう!」

 

荀彧はそう言い放った。

ただ一人、友若を見据えながら。

それは、あるいは親に対して自らを見るように駄々をこねる子供の様子と類似していたかもしれない。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

茶番のはずの交渉は思いの外長引いた。

結局のところ、郭嘉の予想通り、結論は決まらないまま、交渉は次に持ち越されることになった。

次回の日時は具体的に決められていない。

暗黙の内に朝廷の動向に関する情報が入ってきた時に二度目の交渉を行うことが決まった。

それまで、荀彧達はこの冀州に留まることになる。

 

張バクはある意味では人質となった荀彧達の衣食住をどうするか、頭を悩ませていた。

荀彧ほどの人間を自由にさせておけるほと張バクは脳天気ではない。

こちらの防諜体制では無駄かもしれないが、それでも、あれだけの才能を示した荀彧に実際の重要情報を見せる訳にはいかない。

さらに、先ほどの交渉の席にいた程昱という人物は荀彧によって袁紹の元から引きぬかれたという話を張バクは郭嘉から聞いている。

そのため、うかつにこちらの人間と触れ合わせるわけにもいかないのだ。

 

どうしたものか。

そもそも、何で自分がこんな事に悩んでいるのか。

こうした案件は友若こそが行うべきではないのか。

張バクの頭にはそんな考えがよぎる。

 

そんな時、張バクの執務室を一人の女性が訪れた。

袁紹である。

あの戦いの直後は塞ぎ込みがちだった袁紹であるが、最近では何時もの自由人ぶりを取り戻し――田豊というお目付け役がいなくなったことで一層悪化していたが――政務をサボっては神出鬼没にあちこちを歩きまわっている。

立ち上がって応対する張バクに袁紹は友若の妹が冀州にいるという話を耳にしたが本当か、と尋ねた。

張バクがそれに是と答えると、袁紹はその妹はいつまでここにいるのか、と続けて尋ねた。

朝廷の情報が伝わってくるまでは居るだろう、と答えた張バクに袁紹は考えこむような様子を見せる。

 

「そうすると短ければ数日、となってしまいますわね。うーん、これは困りましたわ」

「何をお困りなのでしょう、麗羽様」

 

張バクは面倒事が返ってこないこと祈りながら尋ねる。

対する袁紹は考えこむように腕を組んだ。

 

「兄妹、というものはやはり仲良くなくてはいけませんよね?」

「は、はあ。どうなんでしょうか……」

 

袁紹の問に曖昧に答える張バク。

目の前の問題に手と足が生えたような女性は例によってとんでもない事を考えている事を張バクは認めざるを得なかった。

あの兄妹の仲を持つことを考えているらしい袁紹。

先ほどまでの友若と荀彧の様子を散々目にした張バクには、それが山を動かす程の難題に思えてならない。

 

「兄妹、姉妹というものは素晴らしいものですわ。私も可愛い美羽さんとは何時も仲良く一緒にいましたし」

「……仲良く?」

 

洛陽で袁紹と袁術の様子を見たことのある張バク。

袁術は明らかに袁紹を敵視していたのだが、袁紹にはそうは思っていないらしい。

まあ、袁紹は持ち前の豪運で袁術の罠を全て回避し、存在に気が付いてすらいなかったようであるから、彼女の視点から見れば、袁術は可愛い妹なのかもしれない。

 

「ああ! その可愛い美羽さんが! 私の敵として戦場に現れるなんて! 運命とは何と悲しいものですわ! きっと、美羽さんも私と戦わなければいけなくなった時には涙を流したに違いありません!」

「それは無いんじゃないんですか。むしろ、袁公路様は喜んで……」

 

感極まって叫ぶ袁紹。

張バクは小さな声で呟いた。

袁紹は聞いてもいない。

自分の言葉に涙腺を刺激され、涙を流していた。

 

「う、ううう……ぐすっ……と、とにかく、運命とは何があるのか分かったものではないのですから、後悔しない内に兄妹は仲直りしておくべきだと思うのですわ」

「麗羽様にしては珍しく建設的な意見ですが……」

 

言いよどむ張バク。

世の中には可能なものと不可能なものがあるのだ。

しかし、袁紹はまるで躊躇もしなかった。

 

「残念なことに時間がありません。ですが、兄妹が幼いころと同じように一つ屋根の下で暮らせば、また、仲直りも不可能ではないと私は確信するのですわ!」

「えー」

「これは決定ですわよ! 荀、文若さん、でしたわね、の住まいは兄の家にしなさい」

 

元気良く言い切った袁紹。

張バクは何とか袁紹を思いとどまらせようと頭を巡らせ、現在の苦労の殆どの原因が友若であることを思い出した。

まあいいか。

友若のためにこれ以上労力を費やす必要はないと張バクは判断した。

 

「分かりました、麗羽様。御意の通りに致します」

「よろしいですわ、それにしても今日はいいことをしましたわ~」

 

上機嫌で踵を返して部屋を去る袁紹。

その後姿を頭を下げて見送りながら、張バクは袁紹の言葉を友若に伝える瞬間を想像して口元を歪めた。

 




超難産でした。
次話 りん
『けーりん』の予定を分割して投稿します。
次話も間違いなく難産。
その次はほのぼのと書きやすい内容な気がするのですが。


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けーりん2

次で終わる気がしないのでタイトルに番号を振ることにしました。
感想・誤字報告ありがとうございます。


荀彧と同居するように袁紹が命じた事を伝えられた友若の反応は文字通り劇的であった。

両頬に手を当てて叫ぶ友若の表情は絵の題材にすらなれるであろうものだった。

名前をつけるなら『叫び』だろうか。

声を上げることすら出来ず無言で絶叫する友若を見て、張バクはそんな感想を抱いた。

 

我を取り戻した友若は必死に何とかしてくれと張バクに懇願した。

あのバケモノと一緒に暮らすなど耐えられない、殺される、助けてくれ。

恥も外聞もなく叫ぶ友若に張バクはここ最近溜まっていた苛立ちが溶けていくことを感じた。

大いに溜飲を下げたのである。

懇願し、拝み、猛虎落地勢を取る友若に、これは袁紹の決定であるから自分に覆すことは出来ない、と張バクは告げた。

そして、伝えるべきことを伝えた張バクは真っ白に燃え尽きた友若を後に荀彧達の元へ向かった。

 

実のところを言えば、荀彧をその他と別けて配置することは防諜という点で微妙な選択肢であった。

何しろ、荀彧はこちらから幾人も有望な人材を幾人も引き抜いている人物だ。

引きぬかれたのは袁紹の下では出世が望めない者達であるから、仕方のない話なのだが、的確にこれはと思える人材を見つけてこれを引き抜くという荀彧を好きにさせておくわけにはいかないのである。

一方で、程昱もまた卓越した頭脳の持ち主であることを郭嘉から聞いている張バクとしては、こちらの監視の目を緩めるわけにもいかないのだ。

 

使える人材の不足から、できればまとめてこの2人を極秘裏に監視しておきたいと張バクは思っている。

そうでなければ、どうしても一方の監視が手薄になってしまう。

張バクの抱えているまともな手駒――信用が何よりも重要で、更に一定の能力を持った人間――の数は少ないのだ。

二人が別々の場所にいては、全ての時間、極秘裏に監視することが難しくなってしまう。

友若に荀彧の監視を任せるという事は今の友若の様子を見る限り不可能と考えるべきだろう。

どう考えても、あの様子では無理だ。

 

そこで、張バクは方針を変えることにした。

監視していることがばれることを覚悟の上で人員を増やすことにしたのだ。

内通者がいたとしても、複数の人間で監視を行えばその行動を知ることはできるし、曹操側がそれを知れば、彼らも迂闊な行動は控えるだろう。

とりあえず、大急ぎで監視を行う人間を見繕った張バクは、部下を引き連れて荀彧達が待たされている部屋へたどり着いた。

扉の前に控えた侍女が張バクを室内へと案内した。

 

「お待たせしました。皆様の宿泊場所が決まりましたので案内させていただきます」

「随分と時間がかかりましたね~。何かあったのですか?」

 

張バクの言葉に程昱が訊ねた。

荀彧一行の到着は事前に早馬で伝えられており、当然ながら、張バク達は荀彧達の宿泊場所を準備しなければいけないことも分かっていたはずだ。

実際、荀彧達の宿泊場所が既に用意されている事を荀彧達は間諜の情報によって知っているのだ。

にも関わらず、荀彧達はこの控室で日が暮れるまで待たされた。

何かがあった、と考えなければならない。

袁紹配下の熾烈な権力闘争は程昱も情報として知っているが、最悪の場合、主戦派である豪族達の突発的な行動が起きたことも考えられる。

そうであれば、冀州脱出の手はずを考えなければいけなくなるだろう。

程昱は何時もと同じ眠そうな様子を保ちながらも、真剣に張バクの様子を観察した。

 

「えー……少々問題が起きまして。しかし、もう解決したのでご安心を」

 

対する、張バクは言葉を濁した。

袁紹と突飛な思いつきに翻弄されることは冀州において珍しい話ではない。

袁紹配下にとって理不尽なまでの命令にどれだけ上手く対応できるか、ということの重要さは常識である。

同僚であるならば張バクの様子から直ぐ様全てを察することができるだろう。

 

「あー、なるほど。分かりました」

「……そうでした。貴方は以前ここにいたのですね」

 

かつて郭嘉とともに袁紹に仕えていた程昱も事情を察したようである。

不思議そうな顔をする荀彧に程昱は目配せをして口元を動かした。

何らかの暗号があったのかは張バクには分からなかったが、荀彧は事情を察した様子で呆れたような表情を見せた。

 

「荀文若殿以外の皆様は後ろの者が宿泊所まで案内します」

 

張バクはそう言って背後に控えた部下を指し示した。

荀彧は無表情で張バクを見ている。

 

「それは一体どういうことか? 文若殿だけ別だとは!」

 

楽進が警戒心をむき出しに尋ねた。

重心を微かに下げて、何時でも動けるよう身構えている。

程昱は楽進に向き直ると安堵させるように手を降った。

 

「心配ないですよ~。これは多分……」

 

含みを持たせる様な言い方をして程昱は張バクに視線を送った。

郭嘉が褒めるだけあって、袁紹の性格から張バクの次の言葉を予期しているのだろう。

面倒くさい相手だ、と張バクは内心ため息を付いた。

審配達の今のうちに曹操を排除するべきだという主張はそう間違っているとも言いがたいのではないか、と張バクは思う。

 

「荀文若殿、もし、嫌でなければ友若、貴方の兄の屋敷へと案内しますが」

「……」

 

楽進が息を呑んで荀彧を見た。

荀彧が断ってくれれば話は楽なのだが、と張バクは思う。

そうすれば、今までさんざん頭を悩ませた監視も楽になるし、友人である友若の心の平穏も保たれるだろう。

普段は面倒事ばかりを持ち込む友若をどこか憎めない張バクであった。

 

「それは」

 

荀彧は何の表情も見せない。

能面という言葉そのものである。

 

「それは、……兄が提案したのかしら」

「麗羽様、袁本初様のご提案です」

 

張バクは淡々と答えた。

荀彧は手を握りしめて俯いた。

 

「――っ!」

 

張バクは驚いた。

荀彧、先ほどの会談ではあれほど堂々と演説を行った天才、燃えるように輝いていた瞳には微かに涙が浮かんでいた。

兄である友若は荀彧に会いたくもないという様子を示していたことを張バクの態度から悟ったのだろう。

 

「桂花ちゃん……」

 

程昱が心配そうな顔で荀彧に歩み寄った。

荀彧は急いで服の袖で顔を拭う。

 

「大丈夫よ」

 

荀彧は鼻を啜りながら程昱に答えた。

 

「あー……」

 

張バクは荀彧に何と声をかけたものかを悩んだ。

今の友若の事を考えれば、荀彧に張バク、というか袁紹の提案を拒否してもらうことが一番だ。

家族の大切さを説いていた袁紹の荀彧に対する視線は厳しくなるかもしれないが、そんなものを気にする荀彧ではないだろう。

その結果として交渉に問題が出そうなら、張バクが出来る範囲で動いても良い。

曹操側には利点が見いだせないが、一方で大した損失があるわけでもない。

恩が売れると考えれば、曹操側も考慮しても良い話だろう。

こんなことで恩が売れる事には情けなくてしかたがないのだが。

 

だが、涙ぐむ荀彧に向かって提案を断るよう促す気概は張バクにはない。

どうやら、友若の話とは違い、荀彧は碌でもない兄のことを慕っているらしい。

よくよく考えて見ればこの兄妹は十年以上顔を合わせてすらいないのだ。

殆ど生き別れと同じ状況である。

家族とそれだけ離れていれば、また会いたいと思うのが人情というものだろう。

かつて仲違いをしたとしても、月日というものは往々にして過去の失敗を風化させ、美点のみを際立たせるものなのだ。

むしろ、これだけの月日が立ちながら未だに妹を忌み嫌っている友若の在り方が異常だ。

 

恐らくだが、この荀彧という少女は兄に会えることを内心で楽しみにしていたのではないか。

先の会談であれほど活発に発言をしていた事も久しぶりに会った兄を前に奮起していたと考えられる。

それが荀彧の行動の全ての理由ではないにしろ、何割かは占めているのではないか。

荀彧が友若の言うように人間性の欠如した存在ではないとするならば、そう考えるのが妥当であるように張バクには思えた。

 

そうすると。

荀彧に提案を断らせることは、およそ十年ぶりに再開した兄妹の仲を引き裂く事になってしまう。

兄の方は相変わらず会いたいとも思っていないようだが、妹のほうは再会を望んでいるのだ。

こうして涙ぐんでいる様子を見るに、その予想は恐らく正しいだろう。

荀彧に兄と接する機会を拒否するよう提案する事はひょっとしなくても残酷なことではないのか。

堪えようとしながらも涙をこぼしてしまう荀彧の様子は張バクの良心を抉った。

 

これでは客観的事実として、張バクが生き別れの兄妹の再会を邪魔する立場になってしまう。

まるで物語の悪役である。

心がひどく痛む。

友若の為に多少の行動はしても良いと思っていた張バクだが、これだけの良心的呵責を跳ね除ける覚悟はなかった。

泣く子には勝てないのだ。

 

ふと荀彧から顔をそらすと程昱と楽進が張バクを見ていた。

両者の顔は真剣そのものであり、張バクの言葉を待ち構えていた。

その様子は我が子を守る母親を彷彿とさせるものであり、張バクが迂闊な言葉を口から滑らせれば容赦はしないという無言の意志を伝えていた。

張バクは肩にどっと疲れを覚えた。

何故、自分がこんなに苦労しなければいけないのか。

根本的な疑問が張バクの頭を過る。

 

そもそも。

張バクは友若の事を考えた。

十年経っても相変わらず妹を嫌っている、いや、恐れていると言うのはかなり異常である。

友若は荀彧のことを人を貶してばかりの残忍な性格の持ち主だ等と散々に非難していた。

人の過ちを決して見逃さず、執拗に攻め立てるとも。

それは、結局のところ、自分よりも優秀な妹に対する劣等感や嫉妬心が根本にあるのではないか。

友若の愚痴を聞きながら、張バクはそんな事を考えたものである。

そうした感情は張バクにも分からなくはない。

自らをして優秀な官吏であると自負する張バクだが、自らを遥かに超える人間が存在することも知っている。

自分が思いつきもしなかった発想や発明を容易く成し遂げる存在を知っているのだ。

そうした相手に何も感じるところがない、といえば嘘になる。

もちろん、それだけの事を成し遂げた相手を称賛する気持ちも持ちあわせてはいるが、一方でどうして自分ではなくその相手に天は才能を与えたのか、と思わずにはいられない。

散々面倒事を引き起こし、情けない様子を晒しているのを見ると特に。

 

だが、人は大概の環境にも適応する能力を持っている。

時とともに、張バクの胸を焦がしていた嫉妬の心は薄れていった。

それは一種の諦観であるのかもしれない。

絶望的な才能の差を示されながらも、それを受け入れられるということは。

 

とは言え、仕方のない話である。

どれだけ張バクが学び、考えぬいた所で、天才が小金を稼ごうという程度の考えのもとに築き上げた制度を超えるものを作り出すことは出来なかっただろう。

いや、天才の成果の十分の一、百文の一ですら実現させることは不可能だったはずだ。

それだけのものを見せつけられれば、否応なしに認めざるを得ない。

張バクという人間は天才を前にすればただの凡人に過ぎず、そのお零れに預かる程度の存在であることを。

 

しかし、張バクはいつしかそんな自らの在り方に満足できるようになっていた。

張バクは日々の行政運営において重要な役割を担っている。

日々の業務をきっちりと終わらせ、部下を上手く働かせて、張バクは天才の築き上げた制度を円滑に運営しているのだ。

それはムラッ気の強い天才には出来ないことだし、大きな仕事を好む審配なども苦手とするところだ。

だが、それは確かに重要で欠かせない役割だ。

自らが全てを支えているとまでは思わないにせよ、大きな発展を遂げた冀州を支える人物の一人として張バクの名前は必ず上がるだろう。

ならば、それで良いではないか。

張バクはそう思う。

そう思えるようになった。

 

張バクが嫉妬心を克服したように、いい加減、友若も妹へ対する恐怖心を克服しても良い頃だ。

そもそも、冀州でこれだけの成果を叩き出しながら――その思惑がどうであれ――妹への劣等感を払拭できないというのはおかしい話だ。

馬鹿にしているのか、と張バクは言いたくなってしまう。

客観的に見て、友若は荀彧をはるかに超える業績を成しているのだ。

 

確かに、一般的な行政処理能力だけを見れば荀彧という才女は友若を凌いでいるのだろう。

友若の一般的な業務能力は平均をやや上回る程度なのだ。

そして、伝え聞く話を聞く限りでは、荀彧は多くの分野、ほとんど全ての領域において友若を上回っているはずだ。

 

だが、友若に与えられた発想力、狂気と紙一重の才能。

そのたった一つ。

たったそれだけで荀彧持てる才能全てに勝って尚、お釣りがくるだろう。

友若のそれはそこまでのものだと張バクは思っている。

 

袁紹は今後も天下の動乱の中心にあるだろう。

冀州の発展によって得た名声や権勢、財力、軍事力、追従者、そして、その結果得ることになった無数の敵。

漢帝国が落日を迎えつつある今日、袁紹の得たその全ては彼女に停滞や安寧を許しはしないだろう。

そして、田豊亡き今、それを支える配下の筆頭こそが友若なのだ。

 

今後、友若は天下に注目されることになるだろう。

その時、友若には覇権を握りつつある袁紹配下として恥じない立ち振る舞いが求められる。

今までのようにあまり好き勝手に過ごされては困るのだ。

冀州を取り巻く状況は以前とは異なるのだから。

袁紹が自由奔放に振舞っているが、その配下までその真似をしたら収拾がつかなくなってしまう。

だからこそ、袁紹を支える事になる友若はもっとしっかりと地に足をつけなければならない。

 

ともかく、友若には妹程度は克服してもらわないと困る。

張バクはその様に結論した。

 

「問題がないようでしたら友若の元へ案内します。着いて来てください、荀文若殿」

 

論理的武装を終えた張バクはあっさりと友若を売った。

いや、売ったという言葉は語弊がある。

友若の成長を信じて、乗り越えるべき試練を与えることにした、と言うべきであろう。

試練というには随分と簡単に思えるものだったが。

荀彧は驚いた様子で涙に濡れた目を張バクに向けた。

目をそらすように踵を返す張バク。

 

「桂花ちゃん、ファイトです~」

「頑張ってください」

 

程昱と楽進が背後でそんな事を言っていた。

 

「う、うるさいわよ……ありがとう……」

 

荀彧が小さな声で答えた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

冀州は日が沈んでも夜遅くまで眠ることがない。

日々の仕事に汗を流した労働者達に憩いの場を提供し、対価として金銭を得るために食事や酒を提供する食事処や酒屋、男娼や娼婦を抱えた宿泊施設。

これらの施設は深夜を越えてようやく店を閉める。

まだ日が沈んでから一刻も経っていない。

夜の街道には提灯が張り巡らされ、明かりが行き交う人々を照らしていた。

 

株式制度に端を発して急速な発展を遂げた冀州の熱気がそこにはあった。

ほろ酔い加減で笑い合う労働者達。

大きな稼ぎを得て上機嫌な交易商。

彼らをやきもきさせた官軍との戦いも蓋を開けてみれば袁紹の一方的な勝利となった。

一時はどうなるかと思われた冀州の経済も活力を取り戻している。

 

友若は不機嫌そうな顔で夜の街を歩いていた。

その後ろには荀彧が無言で付き従っている。

友若は自宅へと向かって歩いていた。

 

友若の家は冀州の政庁から離れた場所にある。

以前、冀州に長居するつもりのなかった友若は自らの家を持たず、借り家暮らしを続けていた。

金に意地汚い友若にしてみれば、持ち運べない不動産と言うものは金を溝に捨てることと同義であった。

だから、価値が高く、持ち運びやすい美術品集めに傾倒し、見事にガラクタばかりを集めたのである。

そんな友若であるから、出世して、大金を持ってからも、彼はあまり自分の家を持とうとしなかった。

周囲の人間は仮にも袁紹の配下としてそれなりの地位にあるのだから自分の家くらい持っておくようにと強く勧めたが、友若は馬耳東風とばかりにそうした忠告を聞き流していた。

 

その間、冀州は急速に発展し、地価は高騰した。

特に冀州行政の中心である政庁近辺の地価は天井知らずに伸びていった。

友若が重い腰を上げてようやく家を購入しようと思い立った時には政庁付近の土地は昔の数十倍程度にまで増大していた。

政庁近辺の表通りには高い地位を持つ人物達の屋敷が立ち並んでおり、その合間を縫うように高級な食事処が立ち並び、裏通りは官吏達の集合住宅と言った具合で、そもそも売りに出される土地がなかったという問題もあった。

 

「バブルじゃねえんだぞ」

 

友若はそう言って地価急騰の批判だけをして――地価の急騰に対して特に何か手を打つことはなく――安い土地を探した。

そうして見つけた比較的安価な土地に――友若は不当に高いと限界まで交渉を続けたが――友若は屋敷を構えた。

 

安い土地を買ったというだけあって、立地は政庁からかなり離れた場所にある。

そのため、貸家に住んでいた時よりも不便になった、と友若は常々不満を漏らしていた。

特に、都市内部における馬や荷馬車の通行に制限がかかってからは尚更である。

人口増加に伴い多発するようになった交通人と馬との接触事故への抜本的対策として大きな都市では馬や荷馬車の通行に時間制限が設けられている。

具体的には深夜以降のみ通行を許可するというものである。

何者であっても――例え袁紹であったとしても――馬専用に設けられた一部の道を除いて日中都市内部で馬を乗り回すことは出来ないのだ。

これによって友若は自分の屋敷から政庁へ向かう為に馬を使えなくなった。

そんな事をされては敵わないと、友若は特権として馬の使用を求めた。

だが、それを認めると友若に対して対抗心を燃やす豪族達や名士達まで特権を主張して収集がつかなくなる、と判断した許攸や張バクによってその主張は退けられた。

 

そのため、友若は毎日、屋敷から政庁まで半刻ほどの道を往復することになったのだ。

これでは余りに不便だということで、とりわけ忙しい時期には友若は政庁に泊まり込む事も多かった。

もっとも普段から仕事をサボっていた友若であるから本当の意味で忙しくなることは稀であった。

実際の所、友若は屋敷まで歩くのが面倒だったのである。

政庁には程昱達が泊まっているような来客用の宿泊場所が幾つかあり、友若はその1つを自分の部屋のように使っていた。

 

公私混同も良い所であるが、友若は政庁付近の袁紹や審配の屋敷に泊まるよりはましだと思っていた。

そんなことをすれば色々と詰みかねない。

友若は微妙にへたれていた。

 

ともかく、最近真面目に仕事をするようになった友若は、田豊を失ったしわ寄せもあり、本当の意味で日々の仕事に忙殺され、政庁に泊まり込む日々が続いていた。

そんな友若が屋敷へと向かっているのは妹を退けようというせめてもの足掻きだった。

張バクは荀彧のために普段友若が使っている部屋を準備した。

これに対して友若は今晩は屋敷に帰る、と強硬に主張したのである。

屋敷までの道程は遠い。

しかも、徒歩に限られるとなれば、旅の疲れもあるだろう荀彧は同行を諦めるかもしれない。

友若はそんな淡い希望を抱いていた。

万が一、荀彧が友若の屋敷に同行するということになっても、屋敷まではかなりの距離を歩かなければならない。

日が暮れているとはいえ、繁華街を経由すれば人混みによって『偶然』荀彧と逸れてしまうという嬉しい事態、いや、不幸な出来事が起こるかもしれない。

 

しかし、友若にとっては不幸なことに、荀彧は一刻程度の徒歩に怯むことはなかったし、繁華街の人混みは友若の予想していたほどのものではなかった。

少し前までは官軍を打ち破った冀州軍がこの付近にも待機しており、多くの報奨金を得た彼らは連日、酒を飲んでは騒いでいた。

加えて、戦いに参加して大金を手にした兵士達を呼び込もうと多くの店の客引きが熾烈に争っており、繁華街は真っ直ぐ歩くことすらままならないほどの盛況ぶりを見せていた事を友若はよく知っている。

しかし、治安の悪化と軍規の乱れを懸念した張バクによって官軍と戦うために集められた冀州軍の大部分は解散され、精鋭部隊については政庁付近から遠ざけられた。

同時に、飲食店の過剰な客引き等に規制が入ることで、繁華街は落ち着きを取り戻しており、人混みによって逸れるという事態が生じるとは期待できない。

これは実は友若の指示である。

面倒くさい客引きを何とかしようとしての行動であった。

 

「くそがっ!」

 

友若は吐き捨てた。

何故、治安維持をしてしまったのか。

繁華街をまともに歩けるようにさえしなければ、荀彧と逸れることも出来たはずなのに。

友若は激しく後悔した。

 

「何だってぇ!? 誰がクソだ!!」

「え?」

 

大男が拳を振り上げながら友若に向かって叫んだ。

訳も分からずに友若は間の抜けた表情でその男を見返した。

体格の良い男であった。

引き締まった体や膨れ上がった腕を見るに兵士だろう。

酒によっているのか顔は真っ赤に染まり、体は左右に揺れていた。

 

「何を言っているんだ?」

 

友若は不機嫌な顔で言った。

背後の荀彧によってただでさえ機嫌の悪い友若。

地位の高さもあって乱暴な言葉など久しく聞いたことのない友若は拳を振り上げる男に対して噛み付くように言い返した。

悔い改めて謝罪をしなければ、後日手を回してこの男を首にしてやる。

友若は内心でそんな事を考えながら酔っぱらいの大男を睨みつけた。

何しろ、友若の地位を持ってすれば一介の兵士の進退を決めることも自由自在なのだ。

 

「なにを言っている、だとう!?」

 

だが、友若の対応は不味かった。

相手に十分な思考能力が残されていれば、そもそも、質の良い服を着込んだ友若に一介の兵士が喧嘩を売るなどあり得ない。

酒によって理性を溶かしていた大男は生意気な小男、友若の態度に何時もと変わらぬ対応で報いた。

拳を振り上げて強かに友若を殴り飛ばしたのである。

友若は文字通り宙を舞った。

視界が漆黒に閉ざされ意識を失う寸前、友若は甲高い悲鳴を耳にした気がした。

 

周囲の人間たちも驚いた様子で騒動を起こした大男と友若達に視線を向けた。

大勢の視線を受けて大男は自分が誰に手を出したのかも知らずに勝ち誇って叫んでいた。

友若やその背後にいた荀彧の服が相当に高級なものであることにも気が付くことなく。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

友若は庭に佇んでいた。

由緒ある荀家の屋敷、その庭の池の辺りである。

季節は春である。

今まで経験した中で最も寒かった冬も終わり、庭には至る所に若葉が萌えていた。

鳥達が囀り桃の花が咲き誇っている。

池を見下ろすと、波一つ立たない水面には若葉萌える木々と雲ひとつない空が写っていた。

 

「兄様っ!」

 

心地の良い声が友若の耳に入った。

桂花。

真名をその様に名付けられた友若の妹であった。

名まだ無い。

荀家の末妹であり、幼いながらも才気の燐片を示している。

両親や親戚は『神童』友若に匹敵するかもしれない、等と言っていることを友若は知っていた。

こうした評価に対して、いくら才能があったとしても桂花が自分に匹敵するとは思わない友若である――何しろ友若と桂花では根本的なスタートラインが異なる上に年齢差が加わるのだ――が、桂花が賢い子供であると言う事は贔屓目なしに認めるところである。

この時代の人物として自分の次くらいには才能を持っているのではないか、等と友若は考えていた。

 

数えで4歳、実年齢はようやく3歳になったばかりのその稚児は途中転びそうになりながらも友若の所まで駆け寄ってきた。

まるで子犬の様だ、と友若は思った。

仮に桂花に尻尾が付いているとしたら左右に大きく振られていることだろう。

桂花は腕を背後で組んでまっすぐに友若を見上げていた。

 

「やれ、桂花。一体どうしたんだい?」

 

友若はそう言って桂花を抱き上げた。

決して身体能力に恵まれた訳ではない友若だが、幼い桂花を少しの間抱き上げることくらいはできるのだ。

抱き上げられて足を宙に浮かせた桂花は嬉しそうに笑った。

 

「兄様、これを一緒に食べましょう」

 

そう言って桂花は背に隠していた桃を友若の目の前に示した。

友若は驚いたような顔をつくり――実のところを言うと桂花が駆け寄ってくる途中で転びそうになった時に友若はその手に桃が握られていることを目撃していた――桂花に頷いてみせた。

 

桂花を下ろした友若は池の岸辺に腰掛ける。

あぐらを組んで座った友若が自らの足を指し示すと、桂花は嬉しそうにそこに腰掛けた。

何がおかしいのか後ろを振り返りながら機嫌がよさそうに桂花は笑う。

それに釣られて友若も笑みを浮かべた。

そして、手を伸ばすと桂花から受け取った桃を引きちぎる様にして二つに割った。

熟しきった桃からは果汁がこぼれ落ちる。

 

「わあぁ」

 

桂花が感嘆の声を上げた。

これは大当たりの桃に違いない。

割られた二つの桃をしばし見比べた友若は明らかに大きい方のそれを桂花に渡した。

 

「はい、お姫様」

「ありがとうございます、桂兄様!」

「いえいえ、これは桂花の持ってきた桃だよ。礼には及ばないさ」

 

友若がそう言うと、桂花は後ろにより掛かるようにして、友若に頭を押し付けた。

そして、受け取った桃の半分を宝物であるかのように両手で抱えると、その端を啄んだ。

 

「美味しいです! 兄様も早くっ!」

「分かった、分かった。そんなに急かさなくても大丈夫だよ」

 

友若はそう答える、

そして、友若を凝視する桂花に笑いかけながら桃を口にした。

 

これは美味しい、と友若の脳裏には月並みの感想が浮かんだ。

果肉はとろけるように柔らかく、瑞々しく、それでいて決して水っぽくはない。

甘みや酸味が絶妙な組み合わせで凝縮されているという感じである。

そして何よりも気高い芳醇な桃の香りが友若を楽しませた。

食べる、と言う行為は舌だけで完結するものではない。

味覚以外にも視覚や触覚、そして嗅覚といった感覚がこの行為をより豊かなものにする。

確かに味覚は重要だ。

この桃は間違いなくその点でも優れている。

しかし、味覚という一点だけではこの素晴らしい桃は成立し得ない。

そう、味覚以外の感覚を軽視しては決して真の美食には到達し得ないのである。

友若はそんな妄想を脳裏に浮かべた。

 

「美味しいですよねっ、兄様!」

「うん、そうだね。すごく美味しい桃だ」

 

友若がそう答えると、桂花は嬉しそうに満面の笑みを浮かべると両手に持った桃を頬張った。

桂花の両頬が焼いた餅のように膨れる。

その様子に思わず友若が吹き出すと、桂花は顔を真っ赤にすると不満そうに唸った。

 

「ううぅん!」

「うーん、桂花は可愛いなあ」

「ん~っ!!」

 

友若の言葉に桂花は顔を俯けて黙りこんでしまった。

座ったまま器用に体を友若の方に向け直すと、無言でぐりぐりと桂花は頭を押し付けてくる。

 

「やれやれ、しかし、うちの桃好きなお姫様はとうとう庭の桃をもいだのか。だけど、桂花の身長でよく桃に手が届いたね」

 

頭を擦り付ける桂花に笑っていた友若だが、ふと気になった疑問を口にした。

それを話題を切り替える好機と見た桂花は素早く頭を上げる。

先ほどまで、何も言えずに顔を赤く染めていた事を誤魔化そうとしているかの様であった。

 

「何を言っているの兄様! 私の手が届く訳がないじゃない! これは召使に取ってもらったのよ」

 

おかしな事を言う桂兄様ね、と桂花は言葉を続けた。

桂花の言葉は少し考えれば当たり前の話である。

小さな桂花の手が桃の実まで届くはずがないのだから。

桂花の手が届く程までに垂れ下がった実など無いだろう。

桂花から受け取った桃の実はどこもあたっていなかったから、落ちた実を拾ってきたという事も無い。

論理的帰結によってこの桃は桂花が直接桃の木から手に入れたものでは無い、ということになるのだ。

 

それを桂花に声に出して指摘されると、自らの想像力の欠如を咎められた気がしてしまう友若。

この当時から、桂花は正しい言葉を刃に変える才能の燐片を示していた。

妹を相手に無様な質問をした友若はかすかに頬を赤らめた。

そして、誤魔化すように顎に手を当てて考えこむような姿勢をとった。

 

「しかし、よく召使が桃を取ってくれたね。母上が子供たちには間食させないように、と口を酸っぱくして命じていたと思うけど」

「えへへー。実はね、実はね」

 

桂花は友若の耳元に顔を近づけた。

サラサラしたブラウンの髪が友若の頬に触れる。

耳元で桂花が囁いた。

 

「これは秘密なの。兄様、誰にも言わない?」

「ああ、桂花が秘密というのなら誰にも言わないよ」

 

桂花の言葉に友若はよくある約束をした。

つまり、簡単に破られる種類のものである。

そうした事に気が付くだけの経験を持っていない桂花は嬉しそうに笑って、秘密の宝物を見せびらかすかのように目を輝かせて話し始めた。

 

「この前、左慈と于吉が倉庫で一緒にいるのを見たの。そうしたら、2人にはそれを秘密にしておいて欲しいって頼まれたの。だから、私は兄様の言っていた『等価交換』の通りに、何か一つ、願い事を叶えてもらうことにしたのよ。それで、さっき庭の手入れをしていた阿礼に桃を取って貰ったの!」

「……なるほど。しかし、まさかあの2人が……いや、だからこそなのか」

 

桂花の言葉に友若の脳裏には幾つかのキーワードが浮かんだ。

『倉庫』、『密室』、『何時も一緒にいる2人が2人っきり』、そして『秘密』……。

体はまだ二次性徴も迎えていないが、前世の記憶を持つ友若である。

僅かな情報であったとしても嘗ての記憶を駆使すれば何があったのかを想像(妄想)することは容易い。

友若のどどめ色の脳細胞は2人の関係性について、桂花が考えもしなかったであろう1つの答えを導き出した。

 

これは、後で母親に報告しておかなければ、と友若は思った。

つい先程、桂花と交わした約束など頭の片隅にもない。

友若は普通であれば他人の恋愛に口を出す趣味はない。

だが、家の召使同士の恋愛、しかも儒学的に問題となりそうなそれを放置しておくわけにはいかないだろう。

実のところを言うと、女性同士と言うのは割とあるらしいのだから、あの2人の関係もそこまでは問題とならないのかもしれない。

何れにしても、どのように対応するべきかは母親である荀コウが決めるべき話になるだろう。

友若としては、穏便な裁定が下ることを願うばかりである。

 

「兄様、あの2人がってどういう意味ですか?」

「えっ!?」

 

友若の態度になにか感じるところがあったのか、桂花が質問を投げかけてきた。

友若は返答に詰まった。

まさか友若が想像したことをそのまま教える訳にはいかない。

情操教育に悪すぎる。

桂花には純真なまま成長して欲しいと友若は願っているのだ。

下世話かつアンモラルな話を桂花の耳には入れたくない。

 

「いや、何となく口に出ただけだよ。あの2人は何時も一緒にいる印象があったけど、倉庫で何をしていたかなんて想像もつかないや」

「むーっ! 兄様、こっちを向いて喋ってください!」

 

明らかに話を誤魔化そうとしている友若の態度に桂花は頬をふくらませて怒った。

友若は困った顔で、取り敢えず桃を口にした。

その行動が気に入らなかったのか桂花は肩を怒らせて叫んだ。

 

「私を誤魔化そうなんて酷いです! そんな兄様は嫌いですっ!」

 

その様子に前世の記憶からハムスターを連想して和んでいた友若であるが、桂花の最後の言葉にはひどく慌てた。

この世の終わりを前にしたかのような顔で友若は機嫌を損ねて横を向いた桂花に謝る。

 

「! け、桂花、ごめんよ。ただ、ちょっと説明が難しくて」

「意地悪な兄様なんて知りませんーだ」

「ごめん! 本当にごめんっ!」

 

そっぽを向く桂花に友若はひたすらに頭を下げた。

そんな様子に桂花は上目使いで友若を見上げた。

 

「じゃあ、あの2人が何なのか教えてください」

「うっ!? ええっとね……そう、まだ小さい桂花には早い話だ。だから、この話は桂花が大きくなってからだな」

 

友若がそう言うと桂花は不満気な顔をした。

 

「む~~~っ! 桂花はもうそんなに小さくありませんっ! 論語も全巻ちゃんと覚えたんですよっ!」

 

桂花の言葉に友若は内心で若干驚いた。

友若がそれを覚えた年齢は間違いなく桂花のそれよりも後だった。

つまり前世の知識を持っているにも関わらず、友若はただの子供に違いない桂花に遅れを取ったという事になる。

この事は友若には容易に看過できない問題である。

生まれつきの知識で他者を圧倒し続けた友若の自尊心は肥大する一方であり、彼の精神は何事につけても自らが劣っていることを認められない程度には増長していた。

 

いや、と友若は思い直した。

友若は確かに天性チート知識を持ってはいるが、この国の常識や一般教養は生まれた時に身に付けていなかった。

例えば、文字の読解についても,友若は殆ど何も分からないところから学習を始めた。

ここで友若はなまじ別の言語体系の知識を持っている為に、最初は躓いたのだ。

この様な学習に関しては予め知識を持っていないほうが有利となる場合もあるだろう。

だから、桂花がこの年齢で論語を暗記していようが、それは間違っても友若が桂花に劣っているということを意味しないのだ。

そう考えて、友若は心の平穏を取り戻した。

 

そして、気を取り直した友若は桂花の頭を撫でる。

桂花が優秀であるということは兄である友若にとって喜ばしいことだ。

 

「そうか、それは凄いなあ! 流石桂花だ! 我が家のお姫様だ! 本当にもう可愛い上に賢いなあ」

「えへへ、だって兄様の妹ですから……って、頭を撫でても、ご、誤魔化され、ません、よっ!」

 

その様に答えながらも、頭を撫でられた桂花は顔を緩めて目を閉じた。

 

「本当に可愛いなあ、桂花は」

 

友若がそんな事を言いながら頭を撫で続けると、桂花はもたれかかってきた。

 

「あと10回言ってくれたら許してあげます、兄様」

「そうかそうか。可愛い桂花は許してくれるのか」

 

そう言って友若は桂花の頭を撫で続けた。

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

夜の寒さを感じて友若の意識はわずかに覚醒した。

ぼんやりとした頭で友若はまばたいた。

懐かしい夢を見ていた気がした。

もう、はるか昔に思える頃の夢を。

あの頃はまだ、友若は自らの非凡性を信じていた。

 

三国時代の英雄たちを差し置いて、自らこそが天下の行く末を決めるのだとすら思っていたのだ。

認めたくないものであるが、今思うと当時の友若は井の中の蛙という言葉が相応しい醜態を晒していた。

それが今では曹操という圧倒的脅威を前に何とか生き延びようと醜く足掻くことすらまともに出来ていないのだ。

過去に描いていた夢と現在の自分。

その落差にとてつもない惨めさを覚えて、友若は目尻を湿らせた。

 

曹操と相対する恐怖から逃げ出したい、と友若は思う。

同時に、そんな考えを抱く自分が堪らなく嫌になるのだ。

友若は袁紹の事を思った。

彼が愛している女性の事を。

 

いや、果たして友若は本当に袁紹の事を愛していると言えるのだろうか。

友若は自信が持てなかった。

袁紹に対して友若が特別な感情を抱いている事は確かである。

その才覚は抜きん出ているとは言い難いものの、自信に満ち溢れて奔放に振る舞う袁紹の性格を友若は好ましいと思っていた。

 

だが、袁紹のために曹操と戦うと考えただけで友若の身は竦んでしまう。

友若には曹操を打ち破る想像が全く出来ないのだ。

頭を振り絞ってどれだけ考えた所で、曹操との対峙の先にあるのは死しか思い浮かばない。

相手はこんな時代に銃火器を実現する怪物である。

友若の発案が荀彧を通して伝わっていたとしても、それを部隊単位での運用を可能とするまで発展させたのは間違いなく曹操や荀彧の功績であり、その常軌を逸した才能、バケモノ性の証明だ。

 

確かに、友若は未来知識に基づいた発想を駆使することで曹操を出し抜くことができるかもしれない。

だが、それはあくまで一時の有利にしかならないだろう。

曹操達は友若が作ろうとしていた銃火器の出来損ないから実用レベルのそれを開発したのだ。

天性チート知識を利用し発想で優位に立ったとしても、曹操はすぐにそれを模倣し、あまつさえ改良してみせるだろう。

そんなバケモノを敵に回してどうやって生き残ると言うのか。

友若には検討もつかない。

 

こんな有り様では、曹操という恐怖が現実となって立ちはだかった時、まともに立ち向かうことなど出来ないだろう。

むしろ、叶うならば友若はすぐにでも逃げ出したかった。

友若が未だにこの地に留まっているのはなけなしの誇りを守るためであり、つまるところ、ただの惰性であった。

 

袁紹の為に命を捨てていった田豊や無数の兵士達はどうして立ち向かうことができたのか。

極限状態の咄嗟の行動ゆえだったのか。

あるいは、曹操の恐ろしさを理解していなかったのか。

友若の持ち合わせていないある種の勇気があったからなのか。

友若には未だに分からない。

こんな、恋人の危機にあって命を捨てることの出来ない自分が袁紹の事を愛しているなど、どの口が言うのだろうか。

意識がはっきりとしない中、友若は涙が零れないように目を閉じた。

そして、こんな事を考えるのは無意味だ、と自らに言い聞かせた。

考えないでいれば、自分に嫌気を覚えることはないのだから。

 

どれだけの時間が経ったのか。

友若が心を落ち着けて完全に意識を取り戻した時、彼を殴った大男は数名の憲兵達によって拘束されていた。

一瞬何が起こったのか分からずにいた友若だが、直ぐ様、先ほどの出来事を思い出して立ち上がろうとした。

 

「痛っ!」

 

動こうとした途端に頭痛が友若を襲う。

 

「大丈夫?」

 

悲鳴に近い声が友若の直ぐ上から聞こえた。

友若が上を見上げるとそこには頬を濡らした荀彧の顔があった。

 

「――っ!!??」

 

恐怖の対象を目の前にして友若は力の限り仰け反って、地面に転げ落ちた。

 

「落ち着いて! 頭を殴られたのよ! コブができているし、何があるかわからないのだから安静にしていないといけないわ!」

 

荀彧が友若に向けて叫んだ。

どこかの店から持ってきたのか長椅子から腰を浮かせて、友若のことを見据えていた。

友若は耳を貸す事無く、体を引きずるようにしてとにかく恐怖の代名詞、荀彧から距離を取った。

荀彧は顔を歪めた。

泣きそうな顔のようにも一瞬見えた。

このバケモノが涙を流すなんてあるわけがないと友若は思いなおす。

 

「ご無事ですか!?」

 

憲兵の代表と思われる女性が友若に声をかけてきた。

口をパクパクと動かしながら振るえる手で友若は荀彧を指さした。

一体どうして荀彧が。

友若の頭にあるのはそんな疑問だった。

憲兵の女性はそんな友若の様子を見て、何を勘違いしたのか納得したように微笑んだ。

 

「妹君はそれはもう、荀大老師殿の事を一生懸命に看護していらっしゃいました」

「――は?」

 

お前は何を言っているんだ。

友若の頭に浮かんだのは正にその言葉だった。

この妹、バケモノに人の心配をしたりする機能がそもそも備わっているのか。

 

友若は妹の人間性を全く認めていなかった。

荀彧を余りに恐れる友若は妹を人間とは異なる理で動く何かだと思い込んでいたのだ。

少し過去を振り返れば、幼い日の友若の後ろに付いて歩いていた荀彧の様子を考えれば、そんな事はあり得ないとすぐに分かるにも関わらず。

そして、荀彧が友若を心配したという事実を前にしても、友若はその裏に何かとてつもない思惑が潜んでいるに違いないと怯えたのだ

 

憲兵は友若の内心に全く気が付かなかった。

そもそも彼女は友若が妹を恐れている事を知らなかったのだ。

当然ながら憲兵は友若の名前や顔を事を知っている。

だが、憲兵は友若の人となりや人間関係に関しては伝聞でしか知らない。

そして職務として流言等の対処も行っている憲兵にしてみれば、伝聞情報は多くの場合誇張され、あるいはねじ曲げられていると考えるべきものだ。

だから、友若が妹を嫌っているという噂を聞いても、憲兵はそれを頭から信じることはなかった。

そして、荀彧が近くの店に命じて長椅子を運ばせ、その上に友若を横たえて、膝枕をして友若の看護をする様子を見た憲兵は、以前耳にした両者の関係についての噂が根も葉もない偽りであると判断した。

それほどまでに、荀彧の友若を看護する様子は親身であり、誤解を恐れない言い方をすれば愛情に満ちていた。

 

「素敵な兄妹ですね。私は姉がいますが喧嘩が多くて、ご両人の様に仲の良い兄妹には憧れてしまいます」

「ちょっと何言っているのか分からない」

 

頬を染める憲兵に友若は冷たい声で答えた。

そして、更に文句を言おうと思い立ち上がろうとした友若は頭の痛みに再びしゃがみ込んだ。

 

「痛っ!」

「無理しないで横になって!」

 

頭を抑えて唸る友若に荀彧は素早く歩み寄るとその手を掴んで引っ張りあげるように友若を長椅子に座らせた。

友若は慌てて手を振りほどくと、荀彧とは逆の向きに横になった。

 

「あっ……」

「そいつはどうするんだ?」

 

友若は取り敢えず荀彧を無視すると、顎をしゃくって捉えられた大柄の兵士を指し示した。

憲兵は顔を引き締めると友若の問に答えた。

 

「処刑します。大老師に手を上げたということで、暫くの間