Fa#e/also sprach "FAKER" (ワタリドリ@巣箱)
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Prologue

 一九四五年二月十三日――ドイツ東部はドレスデンにて。

 時刻はやがて午後十一時を回ろうかという頃合いであったが、古都は煌々と輝いていた。

 街中を埋め尽くすのは橙色の光――燃え盛る炎。街全体を炉の薪としてくべるが如く、大地は炎に舐め尽くされていた。

「糞ッ、連合国の野郎……今更この街を焼くことに何の意味があるってんだ」

 ヴァルター・ゲルリッツ親衛隊曹長は苦々しげに毒づいた。彼の任務は被害状況を確認することであり、つまりは否応なしにこの街の生傷を目の当たりにさせられるのだった。

 英国空軍のランカスター爆撃機が上空に飛来したのは、夜の十時を過ぎた頃。海を隔てた島国から訪れた鉄の鳥たちは、この美しい街にも容赦なく地獄の卵を産み落としていった。諸外国では武装親衛隊の非道が憤られているが、この惨状を前にしては、怒りの拳を振り上げる彼らとて同じ穴の狢としか思えない。ヴァルターは傍らに控える部下に痛ましげな目を送る。

「…………」

 引きつった笑みを浮かべながら瓦礫の山を眺めているのは、まだ二十代という年若い青年――ヨアヒム・ブラウナー。聞けば彼はこの街の出身であり、更には目の前の瓦礫こそ彼の実家に他ならなかったのだとか。

 青年はありとあらゆる感情を失った虚ろな目で、かつて自分の家だったものを呆然と見つめていた。母と妹が心配だと真っ青な顔をしていた頃の方が、よほど生気に満ち溢れていた。

「俺は先へ進む。貴様はここで休んでいろ」

 敢えて無感動を装いながら、ヴァルターは言った。返事はない。

「……早まった真似はするなよ」

 けれどもその言葉にだけは、微かに首肯する気配があった。後ろ髪を引かれる思いがしながらも、ヴァルターは任務を遂行するべく、ヨアヒムをその場に残して、次なる町区へと移動した。

「…………」

 再度、問いたい。あの青年に対してもなお、振り上げた拳を下ろすことができるのかと。それがお前たちの口にする正義なのかと。

 正義。その言葉を脳裏によぎらせただけで、不意に自嘲するような笑みが零れた。果たして自分は正義などという漠然としたもののために戦ったことがあっただろうか。

 否――彼はただ、祖国を守りたかっただけだ。先の大戦に引き続き、幾度となく辛酸を舐めさせられ続けているこの国の、せめてもの一助となりたかっただけだ。

 だのに、一体どうして自分たちはこんなところへ来てしまったのだろうか。

 

 都市内の主要箇所を一通り見て回ってきたところで、ヴァルターはヨアヒムを置いて残してきた町区へと戻ってきた。

 街中では生き残った市民たちが懸命に消火活動を行っており、真昼もかくやというほどの喧噪に包まれている。そんな中で、ぱぁん、という銃声を聞き漏らさなかったのは、ひとえに彼がその音色を聞き慣れた兵士であったからに他ならない。

 はっとして、ヴァルターは弾かれたように駆け出した。杞憂であってくれればいい。そう願いながら。

 しかし現実はいつも残酷だった。幾度となく乗り越えた戦場の中で、その真実は嫌というほどに知ってきたにもかかわらず、それでもやはり悲嘆せずにはいられなかった。

 ヨアヒム・ブラウナーは拳銃で自身の頭を撃ち抜いていた。即死しただろうことは一目瞭然だった。けれども不思議とその死に顔は晴れやかで、嗚呼、こいつは死んだ家族に会えたんだな、と妙に安心した。自殺した人間は死後に地獄に落ちるというのは、もしかすると迷信なのかもしれない。

勝利(ジーク)…、万歳(ハイル)…………、――くくっ」

 けれども、どうしたことだろうか、こうして眦から涙が溢れてしまうのは。たった一滴――されど一滴。涙など疾うに枯れたものだとばかり思っていたのに、どうやらこの青年の死を悼むための最後の一搾りが残されていたようだ。

 脆い。人の身の、その命の、何とも脆いことか――。

 その時、ヴァルターの心中をよぎったのは、若者の死に対する悲嘆であり、若者を死に至らしめたことに対する憤怒であり、つまりは悲憤慷慨に類される想いであった。

 

「――O Freunde, nicht diese Töne!

 Sondern laßt uns angenehmere

 anstimmen und freudenvollere.」

 

 先の銃声も唐突であったが、しかし場違いのほどで言えば、この歌声には決して勝らなかったことだろう。そしてその音色を――調子っ外れな声音ながらも、その声の主が歌おうとしている曲の名を、その作曲家を、ヴァルターはよく知っていた。

 否、この国の誇るかの偉大な音楽家の名を知らぬ国民などいるはずがない。我らが総統閣下はワーグナーを甚くお気に召しているようだが、ヴァルター個人の感想を言わせて貰えば、彼は楽聖ベートーヴェンの音楽こそ至上と信じて疑っていない。

 だからこそ、耳をつんざく金切り声で交響曲第九番が奏でられることは、ひどく癇に障ることなのでもあり。ましてや戦火に焼け出されたこの状況下で口ずさむものでは、もっとない。

 

「Freude, schöner Götterfunken,

 Tochter aus Elysium

 Wir betreten feuertrunken.

 Himmlische, dein Heiligtum!」

 

 なおも歌は続く。音痴にも程がある。――否、その割に音程の外し方には一定の特徴がある。これはわざと巫山戯た歌い方をしているのか。

 とはいえ真相が何であるにせよ、許されざる行いであることに変わりはない。一刻も早く、この忌まわしくもある呪歌をやめさせたい。

 果たしてヴァルターが走った先で待ち受けていたのは――一人の東洋人であった。

 おそらくは同盟国の出身者だろう。が、その男を一目見た瞬間、どうしてかヴァルターはこう思った。まるで――死神のようだと。

 手足の異常に長い男であった。更には髑髏のように骨張った顔立ちの持ち主とあって、そのシルエットは骨格標本のようでもあり。

 また男の衣装は、ヴァルターたち武装親衛隊の制服に似て非なるものであった。けれども彼が必ずしも同胞でないと確信を抱けるのは、その腕章に描かれた意匠がヴァルターたちを束ねる鉤十字とは似ても似つかぬものであったからだ。

 男の歌は不意に止んだ。男がヴァルターのことなど眼中にないことは――男がヴァルターのことなど塵芥ほどにも気に留めていないことは、直感的に察知している。

「やれやれ……やはりハイドリヒを欠いた状態で錬成を試みるのは無謀でしたか。まぁ、あの程度で死ぬ以上は、所詮はその程度の男だったということなのでしょうが――」

 遠い異国の言葉で男は呟いた。ゆえにヴァルターにはその意が解せない。が、それでも〝ハイドリヒ〟という名だけは、かろうじて聞き取ることができた。《黄金の獣》との異名を取ったかの冷徹な高官の名は、末端に程近いヴァルターの耳にすら届いていたほどであったから。

「とはいえアインツベルンの秘儀を再現することには概ね成功した訳ですし……何より宣伝省の雇われ占星術師が生み出した秘術というのも実に興味深い。とりあえずは、これだけで得るものはあったと見なしても良いでしょうね」

 男は何やら思案し、そして一応の納得を得ることができている様子だった。悲嘆と憤怒だけが支配するこの火事場において、どこか物柔らかですらあるこの男の雰囲気は、有り体に言って異質であり――そしてその愉快げな表情が部下を喪ったばかりであるヴァルターの神経を酷く逆撫でした。

「……ッ!?」

 刹那の後、男と目が合った。やはり男はヴァルターの存在に特別驚いたような素振りは見せなかった。が、代わりに値踏みするような目を向けられていた。

 皮の張り付いた髑髏に見据えられて、自然と肌が粟立った。まるで心の奥底までも見透かされているかのように錯覚する。

 ヴァルターの何が男の興味を惹き付けたのか。少し考えて、不意に浮かんだ答えは――この男に対するヴァルターの殺意であった。幅広くは敵意と呼べるもの、即ち男は〝敵〟としてヴァルターの存在を認識したのではないだろうか。こめかみを冷たい汗が滴る。

 ややあって、男は場違いにも人懐こい笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。まるで商人が商談を持ちかけようとしているかのような態度だ。予想外の展開に、軽く毒気を抜かれるヴァルター。

「失礼――」

 と、その男は思いのほか流暢なドイツ語で、こう切り出した。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 その突拍子もない台詞に、ヴァルターは思わず絶句する。完全なる不死の軍団――一体何の世迷い言だ。命あるものは必ず死ぬ。それは絶対不変の真理だ。数多くの戦場で、そしてたった今この街で、その事実を何度となく再確認させられてきた。

 ――いや、或いはこの男もまた、戦災の衝撃で心を病んでいるだけなのかもしれない。

 であるならば、この地に足が付いていないかのような、浮世離れした雰囲気にも得心がいく。寝る暇もなく銃火に晒され続けた結果、心を病んでいった同胞たちもまた、ヴァルターの知る限りでも両手どころか両足の指にさえ余る。

「いやいや、アナタを驚かせるつもりはないのですよ。これは世間話――と言うには少々込み入っていますが、ええ、そうですね……端的に言って、アナタの願いを叶えるお手伝いをさせて頂きたいと、つまりはそういうことでして」

「俺の、願い……だと?」

 ええ、そうですとも、と男は頷く。

 男はロクジョウと名乗った。東洋人の名には疎いので、それがファーストネームなのかファミリーネームなのかは解らない。一方でロクジョウは親しげにヴァルターの名を呼ぶ。

「アナタの目を見れば解りますとも、ヴァルター。我らが戦友(カメラード)! アナタは数多くの死を目撃し、そのことに絶望してきました。そして絶望の果てにこう思われたことでしょう――人間の命の、何と脆いことかと。……嗚呼、ちなみに日本語では〝ハカナイ〟と言うのですがね」

「…………」

「我々が(いざな)って差し上げましょう――不死の境地へ」

「……ッ!?」

 ロクジョウの言葉が鼓膜を震わせる都度に、脳が痺れる。

 本能が警告する。これ以上、この男の言葉に耳を傾けてはならないと。

 その一方で、本能が歓喜する。この男の言葉には真実味が伴っていると。

 むろんその真偽など常識で計り知れるものではなく、信じるに足る確たる証がある訳ではない。だが違うのだ。理屈ではないのだ。本能よりもなお深い領域にて確信を覚えているのだ。

 言うなればこれは――魂を揺さぶられているのだ。

 そうとしか形容しようのない感覚がヴァルターを襲う。

「……貴様たちの軍門に降れば、何を手に入れられる?」

 それは親衛隊への不忠ではなかろうか。脳裏の片隅、かろうじて残った冷静な部分が囁く。

 ――ロクジョウはにぃと唇の端を吊り上げた。

「むろん、完全なる勝利を」

 だがその言葉を境に、いよいよヴァルターの思考は狂熱に呑み込まれた。

 勝利。そう、勝利。

 それぞ我らが祖国が最も欲するもの。忠誠こそ我が名誉――然れば〝勝利〟を捧げることこそが真の忠誠に他ならず。

 炎上する古都、やがて滅び行く国の象徴とも言うべきその場所に置いて、一人の兵士が声高らかに咆吼する。

 

「ジークハイル・ヴィクトーリアァァァァァ―――――ッ!!」

 

 それがヴァルター・ゲルリッツという男の最期の叫びであり――そして不死の頂に手を掛けた魔人の戦奴として生まれ変わった者の産声でもあった。

 

     †

 

 ちなみに、と灰燼に帰した古都を歩みながら、六条(ろくじょう)紅虫(あかむし)は呟く。

「今度の爆撃は、どうやら我々の〝儀式〟を邪魔しようとする意図が働いているようでしてね……一体どこの誰でしょうね、時計塔と政府との間に繋がりはないなどと戯れ言を口にしていたのは」

 後に〝戦略上不必要〟と指摘されることになるドレスデン爆撃。

 その真相は、しかし誰にも知られることなく、歴史の闇へと葬り去られるのであった――。



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Chapter.1 或る冬の一日
或る冬の一日(1)


 一月末日。大寒の真っ直中とあってか、いつにも増して冷え込みの厳しい朝だった。

 その日、甲斐(かい)(ひろ)()はスマホの目覚ましアラームが鳴るよりも前に目を覚ましていた。冷たい空気にひやりと肌を撫でられて、おちおち寝てもいられなかったのだ。昨夜のテレビニュースで、お天気お姉さんが「明日は大寒波が押し寄せて来ます」みたいなことを言っていたのを思い出す。

「……んー」

 布団の中で、紘人はのっそりと身じろぎする。枕元に置いてあるスマホを取り寄せて時刻を確認すると、午前六時五十三分だった。アラームが鳴るよりも七分ほど早かった。残りの時間をこのまま悶々と過ごすか、それとも覚悟を決めて冬将軍に戦いを挑むか。

「…………」

 三十秒ほど悩んだ後、紘人は身を起こすことを選んだ。もとい悩んでいる時間の方が無駄だと気づいた。さらば温暖なる天国、ようこそ寒冷なる地獄。今日という特別な一日が始まる。

 かちかちと歯を鳴らしながら、手早く高校の制服に着替える。その後洗面所で身支度を調えると、紘人は階下――彼の叔母が営む喫茶店の店内へと下りていった。

 

 冬原(ふゆはら)市は人口およそ八十万ほどの政令指定都市だ。東は海、西は山に、それぞれ面しているという閉鎖的な地形だが、展望タワーや遊園地といった娯楽施設の開発に力を入れており、それなりに人の流入が盛んな行楽地として栄えている。

〝紅茶とケーキがおいしいお店〟と評判の喫茶店〈あまりりす〉が位置しているのは、市の南部に位置する(ほし)()(づか)商店街の一角だ。三階建ての古い雑居ビルであり、一階が喫茶店、二階がその店主の住居、三階は下宿になっている。とはいえ現在の下宿人は身内である紘人だけなので、実質的にビル全体が彼らの自宅のようなものとなっている。元より叔母が私費を投じて土地ごと購入したのだから、何であれ叔母の持ち物であることに違いはないのだが。

 ところで〈あまりりす〉では朝早くからモーニングセットの販売も行っており、これが紘人の朝食を兼ねている。家族用に別々のものを作るよりも楽だという、叔母のずぼらさの現れだ。

 早朝の店内は、賑わっているというほどではないものの、それでも空席が目立たない程度にはお客さんたちが集まっていた。客層は出勤前やら夜勤明けやらのサラリーマンのほか、朝の散歩の途中に立ち寄るのだという老夫婦や、近所のアパートに住んでいる大学生だとか、とにかく様々だ。そして彼らの間を縫って歩きながら、朗らかな笑顔を無料で奉仕しているのが、店主の(あま)()(あや)()だ。年齢は既に四十代に差し掛かろうとしているはずだが、未だ三十代半ばで通用しそうな瑞々しさに溢れている。

「さすがは元アイドルだな。プロフィールの誤魔化し方とファンを手懐ける方法はよく心得ている」

 呟きつつ、定位置になっているカウンターの右端の席に腰掛ける。すかさず理子が熱々のコーヒーを運んできてくれるが、彼女は営業スマイルを振り撒きながらも、額に薄らと青筋を浮かべていた。

「おはよう、紘人くん。ところで今……何か言ったかしら?」

「おっと、聞こえてたか。おはよう、理子さん。今日も綺麗だね、って言ったんだよ」

 嘘ではない。事実、そういう意味も含めての発言だった。〝夢見るアイドルは永遠の十四歳!〟という謎の合言葉はともかく、理子の若作りの技術と努力に関しては素直に感心せざるを得ない。

「ん? そんなに短かったはずはないんだけどなぁ?」

 顎に人差し指を当てながら、こくりと首をかしげる元アイドル、かつ四十代手前の中年女性。

 ちなみに華麗なデビューを飾るや否やローカルアイドルとして県内と県外の一部を熱狂的に騒がせていたのだというその〝甲斐あやこ〟は、やがて結婚を機に惜しまれつつも引退、その後は一児の母として芸能界とは無縁の生活を送るものの、趣味でブログに写真を載せていた手料理の数々がネット上で評判になり、やがて料理研究家〝甘利理子〟に転身して〝再デビュー〟し、今度は全国の主婦たちの間でその名が囁かれるようになった――らしい。というか、目の前の当人が以前自慢げにそう話していた。どこまでが客観的事実でどこからが脚色及び誇張なのかは解らないが、とりあえずビル付きの土地を現金で一括購入したり、涼しい顔で紘人を含めた子ども二人を養っていたりするという、尋常ならざる経済力は本物だ。自分もその内大人になるわけだが、果たしてここまで稼げるだろうか。

 何だかんだ言って――人を惹き付ける〝何か〟を持った人なのだろう。その太陽のように力強い笑みを前に、しみじみと紘人は思う。彼女が身近にいてくれて、本当に良かったとも思う。

 そんな甥っ子の内心を知ってか知らでか、叔母は豊かな胸を張りながら高らかと謳う。

「私はね、別にみんなを騙しているわけじゃあないのよ? 夢を与えているのよ、夢を!」

「なるほど、物は言い様だね。勉強になるよ」

「……紘人くんの分のサンドイッチ、マスタード七割増しだから。異論は認めない」

 最後まで一片たりとも笑みを崩すことなく、しかし物騒なことを言い置いて、理子は踵を返した。「やれやれ……口は災いの元か」と紘人は微苦笑を浮かべた。

 料理の到着を待ちがてらスマホでネットニュースに目を通していると、

「おはようございます」

 と、聞き慣れた少女の声に、ふと紘人は顔を上げた。お店の出入り口を振り返ると、隣家に住むクラスメイト――高槻(たかつき)真里花(まりか)が入店してきたところだった。人目を惹く整った目鼻立ちの少女の登場に、一瞬にして店内の雰囲気が華やいだものに入れ替わる。紘人と目が合うと、肩に掛かる程度に伸ばされた髪を微かに揺らしながら、真里花は柔らかく微笑んだ。

「おはよう、紘人」

「おはようさん。珍しいね、こんな時間に真里花がお店に来るなんて」

「昨日の内に高槻さんから頼まれてたのよ。法事でご両親とも留守にするから、真里花ちゃんの面倒をよろしくってね」

 紘人の問いに答えたのは、ちょうど二人分のサンドイッチとサラダを運んできた理子だった。真里花もまた当然のように紘人の隣の席に腰を落ち着ける。

「でも良かったです。実は前々からこのお店で朝ご飯を食べてみたいと思ってたんですよ。すぐ隣だと、かえってなかなか機会がなくて……」

「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない。このヨーグルトはサービスよ」

「あれ? 僕の分は?」

「減らず口を叩く子にはあげませーん」

「……紘人、また何か余計なこと言ったの?」

「失敬な。僕は素直な感想を口にしただけたったのに」

 ――などと、他愛ない会話に興じていると、不意に理子が小さく顔を顰めた。その視線の先には店内に備え付けのテレビがある。朝のニュース番組の真っ最中、男性キャスターが生真面目な表情で原稿を読み上げている。その背景には、紘人もよく見知った風景が映し出されていた。

[皆さんは覚えていらっしゃいますでしょうか。今日は――]

 しかし皆まで言わさず、理子はチャンネルを変えてしまった。画面の中は打って変わって賑やかに芸能ニュースが展開する。

「……?」

 真里花が不思議そうに理子を振り返る。テレビを見ていた他のお客さんたちも一様に怪訝そうな表情だ。が、当の理子は何食わぬ顔で注文を取りに行っている。

 それを横目に、紘人はサンドイッチを一つ、口に運んだ。途端、猛烈な辛味が舌の上でタップダンスを繰り広げて、思わず咽せてしまった。視界が涙色に滲む。

「ひ、紘人? 大丈夫?」

「問題ない。こうなることは既に覚悟していた」

「無駄にかっこいいこと言ってるけど、はっきり言って意味不明よ?」

 相変わらず、こうと決めたら容赦しない人だ、我が叔母は。その普段通りの有り様に、紘人も人知れず小さく胸を撫で下ろす。

 ちなみに激辛サンドイッチは最初に手を付けた一個だけだった。腐っても料理研究家、食べ物で遊ぶようなことはしないのだ。



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或る冬の一日(2)

 朝食を終えると、そのまま真里花と連れ立って登校することになった。

 暖房の効いている屋内と違って、さすがに外に出ると吐く息が白く濁る。これもこれで冬の風物詩と言うべきか。

「ひゃあ、寒い」

 ぶるりと身震いする紘人。ポケットの中に入れた使い捨てカイロを手慰みにしつつ暖を取る。

 商店街の通りを抜けて、県道三十号線に出たところで、ふと少年は傍らの少女を振り向いた。

「そう言えば、僕らって隣同士の割に、こうして一緒に登校することってあんまりないよな」

「お互いの活動時間帯が微妙に違うものね。紘人はいつもさっさと登校しちゃうじゃない」

「僕は人気のない教室が好きなんだよ。そういう性分なんだよ」

 というか、何となく人気の多い時間帯に教室の中に入るのがあまり好きではないのだ。なぜと言われても、感覚的にそういうものなのだとしか答えようがない。

「まぁ……あれだ、最初からそこにいた方が、風景の一部として馴染みやすいだろう?」

「紘人はもうちょっと目立つくらいで丁度いいと思うけどな。ただでさえ地味なんだし」

 これといった特徴がないのだと、真里花はなぜかつまらなそうに言う。紘人が地味で無個性であることが、そんなに駄目なことなのだろうか。

「けどよ、ヒロの地味っぷりはある種の才能だと思うぜ。こいつの場合、どこにいても普通に馴染んじまうんだからな。人懐こいというより、もはや超能力だ」

「確かにそれは私もすごいと思ったりしてるけど……って、宵山(よいやま)くん? いつからいたの?」

「もちろん、たった今から」

 ごく自然な流れで会話の中に入り込んできたのは、額にバンダナを巻いた少年――宵山()(ろう)だ。去年から紘人や真里花と同じクラスになった男子生徒。最初はお互いに住む世界が違うというイメージを抱いていたのだが、何やかんやで馬が合い、今や気の置けない友人――もとい悪友とでも呼ぶべき存在になっている。

「おはよう、九郎。今日は珍しく早いね」

 九郎は朝に弱いらしく、登校してくるのはいつも始業時間ギリギリだ。だのに今日に限っては、こうして通学路で顔を合わせている。真里花といい九郎といい、どうにも今日は思いがけないタイミングで友人たちと巡り会っている。

「応よ。何つったって今日は、待ちに待った転校生がやってくる日だからな!」

 得意げに宣言する九郎に対して、

「……転校生?」

 と、紘人は首を傾げたが、

「あー、そう言えばそうだったわね。よく知ってるわね、宵山くん」

 一方で真里花は得心がいったように頷いていた。かく言う彼女は、紘人たちの通う学校――県立星見塚高校の生徒会長を務めている。一般の生徒にはあまり知られていない情報を持っているのも、その立場ゆえだろう。

「いや、昨日たまたま先生たちが話してるのを聞いちまってよ。しかもウチのクラスって言うじゃねえか! 男かな、女かな。やっぱり女だよな。それもとびっきりの美少女だよな。まさかこの冬にいきなり運命の出逢いを果たしちまうなんて、人生本当に何が起こるか解ったもんじゃねえぜ!」

「あ、いやね、宵山くん……転校生は――」

「よしなよ、真里花。その台詞の続きは何となく想像が付くけど……今の九郎にはたぶん何を言っても聞こえてないだろうかな」

「やっぱりデートスポットの定番としてランドマークタワーは行っておきたいよなぁ。あと遊園地も新しいアトラクションができたって話だし、そっちも要チェックだぜ」

 うしし、と楽しげに笑う九郎。幸せな人だなぁ、と心の底からそう思う。

 とはいえ――。

「あと数日で二月だっていうのに、こんな時期に転校? 随分と変わってるね」

「そうなのよね。でも現に転校してくるんだから、その人にも何か事情があるんでしょ」

「……ま、この場で話し合っても詮ないことか」

 人間、生きていれば何かしら予期せぬ出来事に巡り遭うものだ。変わっていようが、珍しかろうが、それが人生というものなのだ。であるからには、外野がとやかく言うことでもあるまい。

「ところでよ、ヒロ。今年の夏はやっぱ受験勉強に専念すべきかね? いや、せっかくできた彼女なんだから、一緒に山とか海とか行きてえしよ――」

「うーん、それは本人と相談するのが一番じゃないかなぁ」

 そう、外野の分際で九郎の恋路に口を挟むなど、野暮も甚だしいのである。

 

 九郎の話が結婚を視野に入れた交際についてまで及んだところで、始業を告げる本鈴が鳴った。それを合図に、二年七組の生徒たちも一斉に自分の席に着く。

 それから数分後、担任の女性教師が「じゃんじゃかじゃーん!」と自前の行進曲を口ずさみながら教室内に入ってきた。

「おっはようございまーす! みんな元気ぃ? 喜べ野郎共及び淑女諸君……今日は、な何と!? まさかの転校生を紹介しちゃうのだぜよ!」

 スーツをばりっと決めた年若い女性教師――麦倉(むぎくら)ゆかりが、常と変わらぬ独特のテンションでそう切り出す。既に一年近くこのノリに関わってきたクラスメイトたちは、今更麦倉の奇行に驚いたりしない。

 が、社会科教師である麦倉の「Come on, baby!」という英語の先生並みに発音の良い呼びかけに応じて、その見慣れない生徒が教室内に入ってくると、ほんの一瞬、教室が静まり返った。

 それから一拍ほどの間を置いて、徐々にざわついていく教室内。ただし彼らの声音には、純粋な好奇だけでなく、ある種の困惑にも似たものが混ざっていた。

 然もあらん、事前に転校生が登場することを予期していた紘人ですら、その姿を一瞥するなり、軽く瞠目した。思わず絶句してしまった。

 というのは――その生徒が男なのか女なのか、一目見ただけでは判然としなかったからだ。中性的、否、いっそ少女的と評しても過言でないくらいの柔らかな顔立ち。首から上だけをトリミングすれば、嫋やかな雰囲気の美少女と説明しても十人中十人ともが何ら疑念を抱かないことだろう。けれども紘人たち男子生徒と同じく真っ黒な詰め襟とスラックスという出で立ちであるからには、やはりその転校生は男子であるに違いないわけで。

 教室中からまじまじとした視線を向けられてしまったためか、その可憐な容貌の少年は鼻白んだ様子で顔を引きつらせた。しかしすぐに緊張感丸出しの作り笑いを浮かべ、

「きょ…今日からこのクラスで一緒に勉強させて貰う阿戸(あど)(ふみ)()です! 前の学校では〝フミたん〟って呼ばれちゃってました! ええと……とにかくそういうわけなので、よろしくお願いしましゅ!」

 そう言って、最後の最後で噛んだ恥ずかしさを誤魔化すためか、ぺこりと深くお辞儀して赤らんだ顔を隠した史太。紡がれた声もまた、声変わりする前のようなハイトーンヴォイスであり、ますますその性別が疑わしくなっていく。いっそ剥いて調べてみたいと思ってしまうほどに。男同士なのだし、たぶん問題ないはず。

 ――と、そこでふと紘人は、熱心に家族計画を構想していた悪友の存在を思い出す。教室の後方をそっと振り返ると、その少年は一人、燃え尽きたように机に突っ伏していた。

 

「あの……ここ、いいかな?」

 昼休み。学食の片隅で掛け蕎麦を啜っていた紘人は「ん?」と顔を上げた。日替わり定食を載せたトレーを手に、気弱げな様子で紘人の顔色を窺っていたのは、教室内では今何かと話題になっている転校生――〝フミたん〟こと阿戸史太少年だった。

「同じクラスの人、だよね? ええと、甲斐くん、で合ってたっけ?」

 ちらりと周囲を見回せば、当然のように学食内は混み合っていて、相席をしなければ全員が座ることができないような状態だった。そこで史太は、学校内の数少ない〝知り合い〟として、同じクラスである紘人に白羽の矢を立てたといったところだろう。

 ちなみに紘人が独り身であるのは、いつも昼食を共にしている九郎が「今日は食欲がない」とどこかに姿を消してしまったからだ。真里花は生徒会室で他の役員たちと一緒にミーティングを兼ねて食べているし、どうしたことか今日に限っては他の知り合いとばったり出くわすということもなく、仕方なしに一人飯に甘んじていたところだったのである。

「うん、そうだよ。そこに座りなよ、フミたん」

 さりげなくこの少年の渾名を口に乗せてみると、彼ははにかんだような笑みを浮かべて、紘人の向かい側の席に腰を下ろした。

 日替わり定食の主菜は、豪勢にも豚カツだった。珍しいこともあるものだ。今日は三限目の日本史の頃から蕎麦が食べたい気分だったため、特に他のメニューをチェックしていなかったのだが、このことを知っていれば、或いは心変わりしていたかもしれない。

「……一切れ食べる?」

 紘人の視線が物欲しそうに映ったのか、史太は恐る恐るという様子でそう言ってきた。紘人は少し考えて、じゃあ遠慮なく、とご相伴に与ることに。普段ならば丁重にお断りしていたような場面だが、今度ばかりはむしろ、史太の好意を素直に受け取っておくべきだろう。もしかすると、これを機に史太は紘人と打ち解けたいなどと考えているのかもしれない。

 豚カツの出来は学食レベルとは思えないくらいに美味だった。サクサクとした衣に柔らかなロース肉、そしてどこか懐かしい味わい――というか。

「これ、理子さんの料理本に載ってる奴だろ」

 よもやこのような場面でも活用されているとは。何気に叔母の影響力を思い知らされた。

 紘人の目の前では、史太もまた揚げたての豚カツを口に運び、その出来映えに目を丸くしている。「ご飯を美味しそうに食べる人に悪い人はいない!」というのは理子の口癖だが、何となくその気持ちが解る気がした。

 フミたん、と紘人は眼前の少年に呼びかける。やはりここは筋を通しておかなければならない。

「失礼は重々承知の上だが……君のこと、簡単にネットで調べさせてもらった」

 え、と史太は身を強張らせたが、構わずに紘人は続ける。

「こんな可愛い子が女の子のはずがない……どうやら君みたいな人種のことを世間では〝男の娘〟と言うらしいね。また一つ、要らない知識が増えてしまったよ」

「あ、調べたって、そういうこと……?」

「とはいえ、やっぱり隠れてそういうことをやるのは卑怯だよな。ごめん」

 そう言って紘人が頭を下げると、史太はぶんぶんと両手を振った。

「いやいや、そんな謝るようなことじゃないよ! というか謝るようなこともされてないよ! ……結構真面目なんだね、甲斐くんって」

「そうか? 他の友達からはよく巫山戯た奴だと言われてるんだけどね」

 もちろんそういうことを面と向かって口にしてくるのは、真里花や九郎たちくらいだが。

 けれども、ううん、と史太は確信を持った様子で首を横に振る。

「甲斐くんは真面目な人だよ。何となく解るよ。……そうか、キミのような人が、()()なのか」

 後半の台詞は半ば独り言であり、その意味が気にはなったものの、敢えて聞かなかったことにした。他人の事情をやたら詮索したりするのは、言うまでもなく礼を失した行いだ。

「そう言う君も、見るからにお人好しそうな人間だね。詐欺とかに引っかかって、安物の絵を高値で売りつけられたりしないかどうか心配になる」

「…………」

 かたん、という乾いた音は史太が箸を落として発せられたものだった。口許を笑みの形にゆがめたまま、可憐な容貌の少年は彫像のように固まっていた。冗談のつもりだったのだが、もしかしなくても地雷を踏んでしまったようだ。

「……ま、こういう辺りが、僕が〝巫山戯た奴〟だとか言われてしまう一因のようでね」

「え!? あ、いや……そんなことはない、と思うよ? うん、ないない。ボクはその、持病の癪がちょっとアレしただけだから、ね、気にしないで」

「そう言われるとむしろ気になって夜も眠れないくらいになりそうなんだが、しかしそこまで言うからには気にしないように最大限努力することにしてみるよ。ありがとう」

「あ、うん。どういたしまして……?」

 ともあれフリーズしていた史太を再起動させることには成功した。多少話の流れが強引だった感は否めないが、季節外れの転校生は、やはりたくさんの秘密を抱えているようであることはほぼ間違いなさそうだった。

「ま、人間誰しも色々な事情を抱えているものさ」

「うん、そうだよね――」

 しかし――そのように相槌を打った史太の表情が、逆に気遣わしげであったように見えたのは、果たして紘人の気のせいだったのだろうか。丼を持ち上げている左腕が、急に重たくなったかのように錯覚する。

「…………」

 最後に啜った蕎麦は、伸びて微妙に不味くなってしまっていた。

 



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或る冬の一日(3)

 放課後。これから生徒会活動が始まるのだという真里花を見送ると、入れ違いに九郎がやってきた。昼休みから姿を消していて、そのまま午後の授業にも戻らなかったのだが、とりあえずその間に頭は冷えたらしい。少なくとも普段通りの快活さを装える程度には、九郎のヒットポイントは回復しているようだった。

「とゆーわけでヒロ、帰りにゲーセン寄ってこうぜ。神座万象シリーズで対戦プレイしようぜ。へへっ、獣殿を使って総てを(アイ)してやるよ……」

 そう言う九郎の目は、よく見れば微妙に血走っていた。ちょっと危ない人のようにも見えかねない。

「いや、今日はもうまっすぐ帰るべきだと思うよ。そして枕に接吻しながら、一人静かに咽び泣くんだよ。青春っぽくて楽しそうだろ?」

「楽しかねえよ! ……あー、でも、確かにそういうのも悪くないような気がしてきた。そうさ、俺にだって妄想の世界になら彼女の一人や二人くらいできるもんな。むしろそれができずしてリアルに彼女を作ろうだなんて烏滸がましいくらいだもんな」

「いや、全くそんなことはないと思う」

 とはいえ、これで九郎は寄り道せずに真っ直ぐ帰るつもりにはなってくれたようだ。ひとまずは安心して、紘人もまた鞄を取り上げる。

「よっしゃ。そうと決まればさっさと帰ろうぜ」

「いや、今日は用事があるんだ。ごめんね」

「……また〝いや〟かよ。さっきから三回連続で〝いや〟って言われたよ。俺振られすぎだろ……今日は何て日だ!?」

「いや、最初のアレは振られる以前の問題だったと思うけどな」

 結局、四回目の〝いや〟をも重ねることになってしまった。言いたくて言っているわけではないのだけれども。

 未だ失恋の傷が癒えていない九郎を構いつつ、紘人は視界の片隅で史太の姿を捉えていた。この転校生もまた紘人と一緒に帰りたそうにしていたのには気づいていたのだが、「今日は用事がある」という台詞を聞きつけて、しょぼんと肩を落としてしまっていた。

「それじゃあね、九郎。……また明日ね、フミたん」

 けれども教室を出がけに一声掛けてやると、途端に史太はぱあっと顔を輝かせた。一瞬、不覚にも可愛いと思わされてしまったのは内緒だ。

 

 学校を出た紘人は、自宅のある星見塚商店街を通り抜けて、市内の西方にまで足を伸ばしていた。途中、商店街の花屋で小さな花束を購入し、そのまま〈あまりりす〉には立ち寄ることなく、一人で目的地を目指す。やがて辿り着いたのは閑静な住宅街。教会や病院以外には、これと言ってめぼしい施設のない町区だ。

 そこは紘人にとって、とても思い出深い地域だった。というのは、彼はここで生まれ育ったからだ。父や母や姉――彼らと過ごした時間は、その殆どがここに蓄積されている。

 ただし、五年前の今日――あの忌まわしい事件が起きるまで、の話だが。

 やがて住宅街の外れに差し掛かってきたところで、紘人は足を止めた。ふと空を見上げれば、沈みゆく夕陽が空を真っ赤に染め上げている。否、その赤に侵されている空だけではない――十字架を掲げる神の家もまた、かつての惨劇を思い起こさせる鮮紅に包まれていた。

 冬原教会。それがこの場所の名前だ。今朝のテレビニュースの中でも垣間見た光景。

 ロマネスク様式のシンプルなデザインが特徴であり、建物の形はラテン十字を模して左右対称になっている。――そう、()()()()()()()()

 唯一の違いがあるとすれば、現在の建物は以前のものと比べて、比較的真新しい部類に入るといったことくらいだろうか。だがそれも当然のことだ、なぜならばこの教会は今から四年ほど前に再建されたばかりのものなのだから。

「…………」

 その思い出深い建物を、紘人は無表情に見上げる。

 まるで時間の流れから切り離されているかのように、冬原教会は昔からずっと変わらない姿で、そこに佇んでいる。それはあたかも、かつてこの地で起きた惨劇をなかったことにしようとするかのように――。

 つまらない感慨だな、と紘人は溜息を一つ零すと、そのまま聖堂の裏手にある墓地へと向かった。いくつもの墓碑が立ち並ぶの中、一際大きな墓石が目立つ。刻まれた〝慰霊碑〟という文字が遠目からもよく見える。紘人の家族もまた、そこに眠っている。両親、姉、そして叔父。

 それは、今から五年前に起きた宗教テロの犠牲者を弔うためのモニュメントであった。

 二〇一二年一月三十日。この日、冬原教会にてミサが執り行われる中、武装した外国人たち――〈双頭の鷲(ドッペルアドラー)〉を名乗る一団が教会を襲撃した。彼らの国の言葉で何かを叫びながら銃を乱射し、更には建物に火を付けるという始末。その場にいる全員を殺傷することそれ自体が目的としか思えないような、一方的な虐殺であった。犠牲者は優に四十名以上にも及んだ。

 しかし日本の法執行機関とて、この状況を手をこまねいて見守っていたわけではない。即座に警察の特殊部隊が出動し、襲撃者たちはその場で全員が射殺された。この迅速かつ的確な行動のおかげで、紘人を含めた数名はかろうじて生きながらえることができたのだ。特に紘人などは――場所柄これを〝奇蹟〟とでも呼ぶべきか――ほぼ無傷にも等しいような軽傷で生還できた。

 とはいえ、もちろん全くの無傷というわけではなかった。彼の場合、体よりも心に傷を負わされたのだと、医者がそれらしいことを言っていた。

 例えば、紘人には事件に関する記憶がほぼ抜け落ちていた。武装勢力が聖堂内に押し入ってきたところまではかろうじて思い出せるが、その後どういう経緯があって、自分が病院のベッドで目を覚ましたのか、その過程がすっぽりと抜け落ちている。

 またこの日以来、紘人は時たま左腕が疼くという奇妙な感覚に苛まれることにもなっていた。中学生の頃などは、思春期特有の自意識過剰な連中と同類に見られてしまうこともあり、何気に苦労させられたものだ。

「あれから、もう五年か……」

 それとも、まだ五年、と言うべきなのか。ただ何にせよ、今日に至るまでの日々は、決して不幸せなものではなかった。そのことを、墓前に伝えに来たのだ。紘人は慰霊碑に花を手向けると、膝を折って瞑目し黙礼する。たっぷり十秒。頭の中を、およそ一年分の想い出が駆け巡る。楽しかったこと、嬉しかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと。彼らが生きていれば、きっと交わしていただろう言葉の数々を。

 最後に季節外れの転校生の存在に思いを馳せたところで、紘人は目を開けて、立ち上がる。

「それじゃ……また来年にでも、気が向いたらお参りに来るよ」

 絶対に来る、などと約束はしない。それは死者を重石にする行為だ。彼らはきっと、そんなことは望まない。結局、墓参りというのは自分のためにするものに過ぎないのだから。

 そのまま教会を後にしようかとも思ったが、聖堂の前を通り過ぎようとしたところで、ふと足が止まった。或いは後ろ髪を引かれたとでもいう感じか。

「……んー」

 このまま帰ってしまいたいなぁ、というのが偽らざる本音である。それは確かだ。

 けれども、顔を出さないでおくと臍を曲げるのかもしれないなぁ、と後ろめたさのようなものも込み上げてきてしまう。別に悪いことはしていないし、そもそも約束自体した覚えもないのだから。

「…………」

 逡巡は一瞬、すぐに結論は出た。悩んでいる時間自体が無駄なのだと、今朝もそう感じたばかりだったではないか。

 意を決して――仕方なく紘人は踵を返すのだった。

 

 聖堂の扉を押し開けると、丁度その最奥――祭壇の手前において、一人の少女が祈りを捧げている姿が目に留まった。ステンドグラスから差し込む柔らかな光が、この尼僧の少女を祝福するかのように包み込んでいる。

「天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを――」

 玲瓏な言葉と共に紡がれる聖句が、堂内に物柔らかく反響する。

 紘人がこの少女と巡り会ったのは、今から約四年前。丁度この教会が再建されたばかりの頃。その姿を初めて目の当たりにした時は、あまりにも俗な喩えだが、まるで天使が人の姿を借りているかのような印象を受けたものだった。

 彼女のことを一言で表現するならば、白。

 白い少女であった。その肌は細雪のように白く、その瞳は澄み切ったブランデーを思わせる琥珀色。その人間離れした美しさが、先天性色素欠乏症症――アルビノと呼ばれるある種の障碍であると知ったのは、もう少し後になってからのことだった。

 尼僧の祈りを邪魔しないよう、紘人は音を立てることなく手近な最後列の座席に腰を落ち着かせる。

「我らが人に赦すが如く、我らの罪を赦し給え。我らを試みに引き給わざれ、我らを悪より救い給え。――エィメン」

 結びの言葉の後、尼僧は慣れた手つきで十字を切る。そして顔を上げるとゆっくりと聖堂の後方――紘人の座して待つ方向を振り返った。最初からそこに彼がいることが解っていたかのような動作だった。少女はにっこりと人懐こい笑みを浮かべる。

「お久しぶりです、紘人。またしても丁度一年ぶりですね」

 クローディア・ジャルーサラムというのが、このドイツ系アメリカ人の少女の名前だ。顔に見合わず流暢な日本語を操っていることには、今更驚くまでもない。

 ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくるクローディアに、紘人もまた小さく目礼を返す。

「どうも。クローディアさんこそ、全くお変わりないようで」

 それは世辞でも皮肉でもなく、何ら偽ったところのない率直な感想だった。紘人の記憶が正しければ、クローディアと初めて出会った四年前から、ずっと彼女はその姿が変わっていない。年齢を重ねている様子が全く見受けられない。かつては年上のお姉さんという印象だったのに、今年になってはもう年下の後輩みたいに思えてくる。

「ふふ、嬉しいことを言ってくれますね。そういう紘人は、また一段と逞しくなりました。初めて出会った頃とは見違えるようです」

 過去を振り返ってか、懐かしげに目を細めるクローディア。そういう仕草はとても老成していて、やはり外見年齢に見合わないだけの年数を生きているのだろうということを、仄かに想像させてくる。

「紘人は、今日もお墓参りにいらっしゃられたのですか?」

「ええ。と言っても、もう既に済ませてきましたが」

「なるほど。もう用事はお済みになったのに、こうして私に会いに来て下さったわけですね」

「まさか。僕はただ、神様に日々の感謝を伝えに来ただけですよ」

「神前にて嘘はいけませんよ、紘人。あなたは神を信じていますが、仰いではいません。その程度のことなど、とっくの昔にお見通しなのですよ」

 どうだ恐れ入ったか、と鼻高々に薄っぺらい胸を張るクローディア。然様で、と紘人は肩を竦めた。

「とはいえ、理由はどうあれ、こうしてまた私に顔を見せてくれた主のお計らいには、私としてはもう感謝の言葉が尽きないわけですよ。一年に一度の、決して欠かされることのない逢瀬……実にロマンチックではありませんか!」

「クローディアがそう思うのならそうなんでしょう。クローディアさんの中では」

「ええ、私の中ではそういうことになっているのですよ」

「…………」

 紘人が何を言ったところで、尼僧はにこにことした楽しげな笑みを崩さない。これがクローディアの素であるのか、それとも今日という日が特別なだけに紘人が気を遣われているのか、どちらが真相なのかは、まだ付き合いの浅い彼には知る由もない。

 だからこそ、「ところで――」と切り出したクローディアの目が笑っていなかったことには、敏感に気づけてしまった。

()()()調()()()()()()()()?」

「……まぁ、大事はありませんよ」

 左腕の疼き――慢性的な違和感は、五年前からの付き合いだ。程度はぐっと低まっているし、今更気に留めるほどのものでもない。ただ――なぜクローディアがその一点に限って気に掛けようとするのか、それだけは腑に落ちない部分があったが。

「そうですか。ご自分の体なのですから大切になさって下さいね」

「お気遣い痛み入りますよ」

 言うなり、紘人は腰を上げる。元々長居するつもりはなかったのだし、それに――やはりと言うべきか、この場所は水が合わないという感覚が纏わり付いて離れないのだ。

「じゃ、僕はそろそろ帰るとしますよ」

「あら、もうそんな時間なんですね。……外は暗いですから、お気をつけてお帰り下さいね。またのお越しをお待ちしております。神のご加護を」

 そう言ってクローディアが浮かべた微笑みは、先ほどのぎこちなさとは打って変わって、柔らかく慈愛に満ちたものだった。

 この人はきっと、隠し事をするのが苦手なのだろう。何となくそう思った。

 

 冬は日が沈むのが早く、聖堂を出ると、外はもう夜だった。

 スマホで時間を確認すると、十八時を少し過ぎた頃合い。空気の透き通った冬の夜空では、星々が明るく瞬いている。

 そうやって空ばかり見上げていたため、教会の敷地内から出る際に、人とぶつかりそうになってしまった。

「おっと、すみません……」

「へへっ、気をつけてくれよブラザー。これからも、な」

 紘人と入れ違いに教会内に入っていったのは、大柄な黒人男性だった。暗がりでよく見えなかったが、法衣のようなものを着ていた辺り、彼もまた聖職者なのだろう。

 白い少女と黒い大男。なかなか洒落た取り合わせだ。また来年にでも、話の種にできるかもしれない。

 教会から離れるにつれて、徐々に足取りが軽くなっていく。星見塚商店街のアーチが見えてくる頃には、今日あった色々な出来事の中でどれを叔母に話そうかと、そんなことを考えているのだった――。

 



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或る冬の一日(4)

     †

 

 少年を見送った直後、入れ違いにその男が近づいてくるのを、クローディアの鋭敏化された感覚はしっかりと捉えていた。

「や、お疲れ様ッス、少佐殿。今日も相変わらずお綺麗で」

 程なくして聖堂を訪れたのは、クローディアもよく見知っている黒人の巨漢だった。まるでゴリラが法衣を着て歩いているかのような風体であり、本人もそれをトレードマークに思って面白がっている。

「ふふ、お久しぶりですね、ボブ・ロドリゲス中尉。丁度いいタイミングでした」

 クローディアが言外に含ませた意味を正確に読み取ったのか、ゴリラのような巨漢――ボブもまた悪戯っぽく片目を閉じた。

「例の日本人の少年なら、ついさっきそこですれ違いましたよ。……少佐殿はああいうのが好みなんですね。ちょいと意外だったッスよ」

「そ、そんなんじゃありません! それに彼もああ見えて、なかなか見所のある少年ですよ」

 ぷぅ、とクローディアは頬を膨らませるが、ボブはその様子を見てからからと笑うばかり。まんまと乗せられてしまったようだ。

 冗談はさておき、と尼僧は真面目な表情を取り繕う。

「彼の左腕、どう思われましたか?」

「……見た目はすっかり馴染んでいやしたが、おそらく中身は――例のアレに相違ないでしょうッスね。尤も、どの道ウチの管轄ではないッスけど」

「ええ。ですが問題は、誰が彼にそれを与えたか、ということなのですよ」

 誰、と言いつつも、お互いに思い浮かべている人物は同じだろう。

「《左腕》に関しては協会から盗み出されたものなので、我々の関知するところではありません。……が、あの男は教会からもいくつもの聖遺物(アーネンエルベ)を奪い去っています。そして――それらを使って何かを成そうと企んでいる……」

 かつてこの地で起きた惨劇も、実はその一環だったのではないかと、クローディアは睨んでいる。〈双頭の鷲(ドッペルアドラー)〉――その正式名を東方正教会特務分室と称するかの組織は、世間で言われているような、ただのテロ組織などではなかったのだから。或いは一歩間違えれば、クローディアたちこそが、彼らのような〝役回り〟を演じさせられることになっていたかもしれないのだから――。

「おっと、その〝何か〟について大体のアタリが付きましてね。それを少佐殿にもお伝えしておくのが、ここに赴任してからの最初の任務なんスよ。ま、詳細は後ほど」

「了解しました。……と言っても、殆ど〝確認〟になりそうですが」

「ほほう? さすが少佐殿、ご自分でも大方の調べが付いていらっしゃると」

「根拠のない予感みたいなものですけどね。大したことではありません」

 むしろ杞憂に終わってくれればそれに越したことはない。もしもクローディアの推察が当たっていた場合、今後この街でどれだけの血が流れるか解ったものではない。それこそ、五年前にちょうどこの場所で起きた惨劇すら比にならないほどに――。

 が、ボブは顰めっ面で頭を掻いている。どうやら愉快な話ではないことは確かなようだ。

「とはいえ見方を変えれば、これは大きなチャンスでもあるッスけどね。宮様が、確実にこの街に現れる――」

「……その〝宮様〟という呼び名は、いわゆる敬称でもあるようです。私たちまであのような者をそう呼ぶのも如何なものかと」

「しかし、元よりそいつが業界の方で知れ渡ってる通称っすからねえ……他に何て呼びゃあいいんすか。《贋作者(フェイカー)》とでも?」

「いえ。贋作などあれの行いに比べればまだ可愛げがあります。そうですね、どうせ呼ぶなら――《盗作者(クライバー)》といった辺りが妥当かと」

「なるほど、《盗作者(クライバー)》ッスか。そいつぁ言い得て妙だ。じゃ、そいつを標的名として改めて周知させておきやすよ」

 ボブがくつくつと笑う傍らで、クローディアは窓の外に目を遣った。街には灯りが点り、徐々に夜の顔を見せ始めている。

 少女は思う。もしもこの先、この舞台において《贋作者(フェイカー)》と呼ぶに相応しい相手が現れるとすれば、それはきっと――。

 

     †

 

 冬の空は空気が澄んでいて、星が酷く明るかった。

 けれども都会であるこの冬原市で見上げる空は、やっぱりどこかくすんでいるようにも見える。地上の夜景が綺麗過ぎるあまりに、空までもがその輝きに侵されてしまっているのだ。

 ――故郷で見上げた空は、まるで宝石箱をひっくり返したかのようだったのに。

 この空は見るに堪えないと、史太は目の前に視線を落とす。海。夜の海。まるで吸い込まれそうになるくらいの、真っ黒な海。

 冬原市海浜公園に、史太の姿はあった。ネットで調べた限りでは、夜景が綺麗なデートスポットと専らの評判だったのだが、海に面しているだけあって冬場はさすがに寒いのか、今は殆ど人気がない。たまにランニング中の大学生や犬の散歩をする老人が通りかかるくらいだ。

 ちらりと公園の時計に目を遣ると、時刻は十九時二十八分。待ち合わせの時間まで、残り二分ほど。――と、そう思っていたところで。

「おや、待たせてしまっていましたかね?」

 忽然と待ち人は姿を現した。歩く骸骨を思わせる、長身痩躯の男。その名を六条紅虫。

「い、いえ。ボクもついさっき来たばかりですから」

 上擦った声で史太は答えた。元々人見知りしやすい質であるという自覚が史太にはあるが、それを差し引いても、眼前のこの男には見る者を畏怖し威圧する何かがある。言うなれば――一個の肉体の中で数百人もの人間が蠢いているかのような。だがそれも当然のことだ、彼はそういう術理を身につけた、ある種の魔法使いに他ならないのだから。

 そして、お伽話に登場する魔法使いは、時に主人公の願いを叶える存在でもあり。

 史太は声の震えを押し殺しながら、おもむろに口を開いた。

「今日、学校で〝彼〟と会いました」

「……おや、それは重畳。で、どうでしたか? 《左腕》を持つかの少年は」

〝どう〟というのは、この場合どういう意図で訊かれているのだろうか。少し考えてから、史太は六条が望んでいるのだろう方向性の回答を導き出した。

「たぶん問題ないと思います。彼は……ボクのことを、ちゃんと友達として扱ってくれていますから――」

 友達、という言葉を口にして胸が痛むのは、ただの感傷だ。気にするな。気にしてはいけない。

 史太の内心を知ってか知らでか、六条は「なるほど……」と得心がいった風に頷いている。

「では、アナタは引き続き彼との関係をこのまま維持して下さい。そして折を見て、計画の第二段階に移行するとよろしいでしょう」

「折、というのは?」

 すると、にぃと髑髏に薄気味悪い笑みが張り付く。

「やがて虎が野に放たれます。狩りの時間ですよ。何、それ自体はただの余興ですがね……彼らにきっかけを与えるには、程よい舞台を演出できるかと思いましてね」

 男はどこまでも楽しげな様子だった。その邪気に満ち溢れた横顔に、背筋を氷塊が滑り落ちたかのような寒気を覚えさせられる。

「それでは、開幕に先立って――まずは通し稽古(ゲネプロ)に参加して頂くとしましょうか」

 

     †

 

 やがて一月は終わり、二月が始まる。

 かつてドレスデンで執り行われようとしていた儀式が、七十二年の時を経て再び動き出す。

 否――本当はもう既に、動き出しているのであった。

 



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Chapter.2 宿命の夜
宿命の夜(1)


 まず感じたのは〝飢餓〟――求めしものは魂。

 男を殺せ。女を殺せ。老婆を殺せ。赤子を殺せ。

 犬を殺し、牛馬を殺し、驢馬を殺し、山羊を殺せ。

 生きる場所の何を飲み、何を喰らおうと足りぬ。我が飢えは未だ満たされず。

 ゆえに殺せ、殺せ、殺し尽くせ。侵し、犯し、蹂躙の限りを尽くそうぞ。

 

     †

 

[――昨夜遅く、冬原市の公園で男性の他殺死体が発見されました]

 休み時間。トイレを済ませて戻ってくると、教室の一角に人だかりができていた。ニュースキャスターの声や女子生徒が息を呑む音が漏れ聞こえてくる。どうやらスマホの中に流れる映像ニュースを皆で覗き込んでいるようだ。

「被害者の男性は冬原市の会社員、生野健児さん二十四歳であり、死因は鋭利な刃物によって切りつけられたことによる失血死です」

 そのニュース原稿はさすがに言葉を選んでいるな、と紘人は思った。今の時代、インターネットで簡単に検索を掛けるだけで、大っぴらには報道されていない詳細を得ることができる。便利な世の中になったものだ。

[警察ではこれを二日前から起きている連続殺傷事件の四件目として断定。捜査を進めています――]

 キャスターの言葉がそう締め括られて、音が途切れた。映像ニュースが終わったらしい。やがて教室内も喧噪を取り戻していく。

「通り魔、四件目だってよ」

「怖え。マジ怖え。俺とかホラー映画ならそろそろ殺されてそうなパターンじゃん?」

「いやお前は設定上カウントされてるだけのモブだろ。調子に乗るなよ」

「つかどうせヤるんなら、もっと別のところでやって欲しいよね。おかげでウチらまでとばっちり食っちゃってるじゃん」

「だよねー。部活禁止令とかマジウザい」

 生徒たちの反応は様々で――けれども誰の言葉にも共通しているのは、自分たちは観客に過ぎないという余裕。事件現場はこの学校からもそう遠くない場所に位置しているのに、彼らにとってはそれとてスマホの画面に隔てられた向こうの世界の出来事に過ぎないのだ。

 とはいえ、それも致し方ないことだろう。かく言う紘人自身、五年前のテロ事件に巻き込まれるまでは、テレビニュースになるような大事件など自分とは無縁のものだと信じて疑っていなかったのだから。

「凄惨な殺人事件も、現役の高校生たちの手に掛かればスリルを味わえるエンターテインメントか。世も末だね」

 と、知った風な口を叩いてみると、横合いから脇腹を小突かれた。真里花の仕業だった。

「そういうことを言う紘人も充分不謹慎よ。それに事件のおかげで部活禁止令が出ちゃって、生徒会(こつち)も色々と忙しいんだから」

「部活禁止令? ……あー、そう言えばさっきも誰かが言ってたな」

「そうなの。でも部活がないならないで、やっぱり放課後も学校に残っちゃう人が多いみたいで。熱心な人とかは自主練に勤しんじゃってるし……」

 で、そういう生徒たちに早々の帰宅を促すお役目を生徒会が請け負わされてしまっているらしい。ばかりか、部活禁止令に対する苦情が生徒会にまで寄せられていて、その処理にも追われているのだとか。

「ふうん。そりゃ大変だね」

「そう、大変なの。だからね――」

 と、そこで何やら期待するような目を向けてくる真里花。皆まで言わずとも解るが、しかし皆まで言わないのも卑怯ではないかなと思ったが、

「了解。僕で良ければ力になるよ」

 紘人は諦めたように肩を竦めた。途端、我が意を得たりと笑顔を浮かべる真里花。現金な女だとは思いつつも、男が女の笑顔に弱いのは世の常でであり。

「本当? ありがとう。感謝してます!」

「ただし……条件が一つある」

「条件?」

「うん。……おーい、フミたん!」

 紘人が振り返ったのは、数日前からこのクラスの一員になった、季節外れの転校生。次の授業の予習をしていたらしい史太は、紘人に声を掛けられるなり、少し嬉しそうに微笑んだ。こっちもこっちで妙に可愛いと思わされてしまうのだから、何とも恐ろしい話だ。

「どうしたの、甲斐くん?」

「今日の放課後、空いてるかな? 生徒会の手伝いをすることになったんだけど、せっかくだからフミたんもどうかなって思ってさ。学校に馴染むいいきっかけになるんじゃないかと思うんだ」

 史太に話しかけつつ、真里花にも目線で問いかける。彼女は得心がいったように頷き、

「私は別に構わないわよ、阿戸くん。人手は多い方が助かるしね」

「だ、そうだ。生徒会長のお墨付きがあるんだから、変に遠慮する必要はないよ。もちろん用事があるのなら断ってくれも全然構わないしな」

「ううん……そういうことなら、是非ボクにも手伝わせてよ。前の学校では、あんまりそういうことってやったことがなかったから」

「じゃあ、決まりね。放課後になったら、二人ともまずは生徒会室に来てくれるかしら」

「了解」

「よろしくお願いします、高槻さん」

 

 そして放課後。一足先に出ていた真里花を追いかけるように、紘人と史太も生徒会室に向かう。

 これまでにもよく真里花の手伝いをしていた――もとい手伝いに駆り出されていた紘人は、既に他の生徒会役員たちとも気心の知れた間柄になっている。初対面である史太には、ほんの少しだけ好奇の視線が向けられたが、誰も特に何も言わなかった。

「失礼しまーす」

 生徒会室は普通の教室の半分くらいの広さ。元より大勢が集まることはあまりないのだが、それでも部屋の中央には長机が居座り、壁際には書類棚やホワイトボードなどの備品が並んでいたりなどしているため、ややこぢんまりとした印象を受ける。

 真里花の姿は、そんな室内の一番奥――部屋全体を見回せる位置の席にあった。そこが生徒会長の専用席なのだ。

 他の役員――確か会計の女子生徒だ――と何やら打ち合わせをしていた様子だった真里花は、紘人たちの姿に気づくと、役員との話を切り上げて、二人を手招きした。

「やあ、真里花。お待たせ。……邪魔しちゃったかな?」

「ううん、丁度きりが良いところだったから。それじゃあ紘人、阿戸くん。改めてよろしくね」

 紘人たちに割り振られた仕事は、部活禁止令に反して活動中の生徒のほか、〝同好会〟活動を名目に学校に居残っている生徒たちに帰宅を促すことだった。前者はともかく、後者に関しては「これは部活禁止令であって同好会禁止令ではない」などという屁理屈が横行しており、生徒会も手を焼かされているのだとか。

「それに……ほら、今日は第一金曜日でしょ」

 こめかみを押さえながら真里花は呻く。その言わんとするところを察して、紘人も苦笑を浮かべた。

「ああ、アレか。そう言えば今月もやるって言ってたな」

「そう、アレよ。紘人が状況提供してくれたおかげで、ようやく尻尾を掴めそうだわ」

「……アレって?」

 史太は一人首を傾げていたが、説明は後に回すことにする。

 その他、巡回する場所の受け持ちや要注意のグループなどを確認して、紘人たちは生徒会室を出発した。

「ねえ、甲斐くん。〝アレ〟って何なの?」

「んー……この学校の恥部、かな。最近は鳴りを潜めて――というか表立った活動をしていないから、一般の生徒の中にはもう知らない人も多いだろうけど、でもやっぱり水面下では残っちゃっててね。実に困ったことに」

「は、はあ……」

 解ったような解らないような顔で頷く史太。こればかりは口では説明しづらいというか、したくないというか。どうせ関わることになるのだから、いっそのこと直接見て貰うことにして、それからでも話は遅くないだろう――と紘人は考えているのだった。

 



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宿命の夜(2)

 自主練中の生徒や、放課後の教室にたむろしている生徒たちに早く帰るように伝えるのは、思ったよりも難しいことではなかった。やはり例の通り魔事件の四件目が、この学校からもそう遠くない場所で起きたという事実は、それなりに動揺を誘ったようだ。事件の存在をちらつかせると、大半の生徒は痛いところを突かれたという顔をして、帰り支度を始めてくれた。

「近所だからって、野次馬はしていくなよ」

「ばーか。俺がそんな不真面目な奴に見えるかよ。大人しく家に帰って布団被ってるさ」

「いや、それはそれでビビり過ぎだろ」

 生徒の背中を見送りながら、また一つメモ帳にチェックを増やし、いよいよ最後の難関――例の〝アレ〟に挑む時がやってきた。

「さて、行くぞ転校生――心の準備は充分か」

「う、うん……ていうか、なんでそんなに気構えないといけないの?」

 それには答えず、紘人は先立って廊下を進む。やがて辿り着いた先は、体育倉庫。閉め切られた扉が、城門のような堅牢さを以て見る者を威圧してくる。

「……ここ?」

「ああ、ここだ。今月はここで〝会合〟が開かれる。既に情報は得ている」

「会合……」

 鉄扉の奥からは人の気配。時たま歓声のようなものも漏れ聞こえてくる。さすがの史太もただならぬものを感じたのか、ぶるりと肩を震わせた。

「安心しろ、フミたん。いざとなれば僕が守ってやる。いたいけな少年の未来を守ることも、先達の務めさ――」

「いたいけって……ボクはそんなに綺麗なものでもないんだけれどね」

 史太が自嘲するような笑みを浮かべたのは気になったが、今は火急の問題が別にある。大きく深呼吸した後、紘人は鉄扉の把手に手を掛ける。

「フミたん……もし僕がここで散ったら、真里花に伝えて欲しいことがあるんだ」

「え? それって――」

「〝中学二年の夏に真里花のプリンを勝手に食べちゃったのは、実は僕なんだ。謝る。ごめん〟――って」

「いや、それはちゃんと自分で謝ろうよ。……というか、さっきから何でそういう変な台詞が多いの? 甲斐くんって実は、昔〝左手の封印が解ける!〟云々とか言っちゃってた人?」

「失敬な。僕の左腕は本当に疼いていたんだ。……いや、もういい。それじゃ――開けるぞ」

 史太がごくりと唾を飲み込むのを横目に、紘人はがらりと勢い良く鉄扉を開け放つ。

「生徒会だ! 全員その場を動くな!」

 薄暗い倉庫内に冬日が射し込み、中を一斉に照らし出す。

 うぎゃあ、と驚きの声を漏らしたのは数人の男子生徒たち。

驚いた調子に床にばらまかれたのは、俗に言う〝いかがわしい絵〟の数々。その内の何枚かが床を滑り、紘人たちの足許にまで流れ着く。

 と、史太がその内の一枚を取り上げた。最初は怪訝な顔をし、次にその意味を理解して頬を赤らめ、しかし最後は困惑したように紘人を見上げてきた。

「あの……甲斐くん、これって――」

「見ての通りさ。十八歳未満は閲覧禁止なアレだ」

「あ、うん、それは解るんだけど……これって――」

「よ、ようヒロ。ご機嫌麗しゅう……?」

 入り口を塞ぐように立つ紘人たちに、倉庫内にいた男子生徒の一人が妙にへりくだった調子で話しかけてきた。誰あろう、紘人の憎めない友人――宵山九郎その人に他ならなかった。

「やあ、九郎。情報提供、感謝してるよ」

 引きつった笑みを浮かべる悪友に、紘人もまたにっこりと微笑み返す。途端、九郎は発狂したかのようにくわりと目を剥いた。

「巫山戯んな! 何あっさり親友を売りやがってんだ! 俺たち紳士の真摯な集いを何だと思っていやがる!?」

「紳士だろうが真摯だろうが、君たちが十七歳だという現実は変えられないんだよ。道を踏み外しそうになっている友人を諫めるのも、麗しき友情だと思わないか?」

「だーもう、ああ言えばこう言う……。けどな、これだけは声を大にして言わせて貰うぜ。――俺たちは断じて邪な気持ちでこの絵を眺めていたわけじゃねえ……日本の誇る芸術作品として崇めているんだ! なあ、そうだろ、みんな!」

 九郎の呼びかけに、彼の背後で固唾を呑んでいた他の生徒たちが一斉に「応!」という声を上げた。

「そうだ、俺たちは芸術を愛しているんだ!」

「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を!」

「僕らの敬愛する喜多川歌麿先生の筆致を学んでいるだけです、それの何が悪いと言うんですか!」

「……君の掲げているそれは鈴木春信だよ、『風流江戸百景』の中の一枚だね」

 紘人が半眼でツッコむと、その絵を掲げていた男子生徒は「うっ…」と鼻白んだ。すかさず九郎から「馬鹿野郎!」という叱責が飛ぶ。

「歌麿先生の作品はこっちだろうが! 修行が足りねえぞ、修行が!」

「お、押忍!」

「……九郎、君の持ってるそれも葛飾北斎の絵だよ?」

 ちなみに喜多川歌麿の描いたと伝えられる一枚は、史太の手の中にあるのだった。

〈春画愛好会〉――それが彼らの集いに冠せられた名前であった。

 本を正せば美術部から分派した一団である。と言うか、美術部を追い出された連中である。

 当初こそ「浮世絵に親しんでいるのだ」というお題目を掲げて周囲の目を欺いてきたが、あらゆる秘密はやがて日の下に晒されてしまうもの、その実態が春画――要するに古き良きエロ画像の蒐集や模写だったと知られるや、彼らは忽ちの内に部を追い出されてしまったのだった。

 そこで話が終わるのであれば、まだ可愛いものであったのだが――エロスに情熱を燃やす自称〝真摯な紳士〟たちは、この苦境にもめげずに、再び立ち上がった。部という形にこだわらず、同好会という形で校内に隠れ潜むことで、彼らはその息を長らえさせてきたのである。

 ――という説明を受けた史太は、一言こう呟いた。

「…………………………バカなの?」

「バカじゃねえ、だから死なねえ!」

「まぁ死にはしないだろうが、とりあえずここにある分は証拠品として生徒会が押収させて貰うよ」

「そんな殺生な! こいつらを印刷するために使った印画紙は安くねえんだぞ!? そんじょそこらの藁半紙とは比べ物にならねえんだぞ!!」

「こっちだって先生たちに知られる前に生徒会で内々に処理してやろうと言ってるんだ、これでも譲歩しているんだ。何ならこのまま職員室に通報してもいいんだぜ?」

「ぐ……」

 親の敵を見るような目ながらも押し黙る九郎と、どこまでも涼しい顔の紘人。

 やがて――九郎は力なく項垂れた。その背中に他の男子生徒たちが励ますような、或いは縋るような声を掛ける。

「宵山! こんなところで挫けるお前じゃないだろう!」

「そうですよ宵山先輩! こんな横暴に膝を屈していいはずがありません!」

 声援を受けて、九郎は肩を震わせる。よもや泣いているのか――否、笑っているのだ。くつくつと喉を鳴らしているのだ。

「くっくっく……これで勝ったと思うなよ、ヒロ。元の画像データさえ残っていれば――」

「ああ、ちなみにパソコン部には回線の強化を条件に快く協力して貰ったよ。先日、この学校のサーバーで不審な隠しフォルダを発見してね。パスワードでロックされていたけれども、解除できるまでそう時間は掛からないだろうってさ」

「ブルータスお前もか!?」

 ――果たしてここに、〈春画愛好会〉は息の根を止められたのだった。

「ま、今日のところは暗くなる前に大人しく帰るんだね。何かと物騒な世の中だからさ」

 颯爽と去りゆく勝者の背中に向けて、不屈の闘志を燃やす敗者が声高に叫ぶ。

「が、諦めん。諦めんぞ見るがいい。俺の辞書にそんな文字は存在せん! なぜなら誰でも、諦めなければ夢は必ず叶うと信じてるのだァッ!」

 

 生徒会室に戻る道すがら、紘人はくすくすという小さな笑い声に気づいた。傍らを歩く史太が、ことのほか楽しげに肩を揺らしていた。

「どうしたんだ、フミたん」

「あ、ごめん。何でもないよ」

「何でもないってことはないだろう。……まぁ、我ながら痛快な一幕ではあったと思っているけれども」

「うん……宵山くんたちにはちょっと申し訳ないけど、正直、ちょっと楽しかった」

 そう言って、はにかんだような笑みを浮かべる史太。その造作こそ少女的で柔和だが、夕陽に照らされた笑顔は、やはり快活な少年のそれに他ならなかった。

 が、雲が太陽を覆い隠すにつれて、史太の表情もまた少しずつ翳っていく。

 外を振り返って、不意に少年の紅唇が小さな呟きを零す。

「今夜もまた出るのかな……通り魔」

 史太の声は不安げに揺れていて、その細い肩の華奢さがなお際立つ。

「怖いのか?」

「怖い、かな。何の理由もなく人を殺せる気持ちなんて、ボクには一生理解できそうにない。そんなのは人間じゃない……ただの獣だよ」

「獣、ね」

 果たして本当にそうだろうか。紘人は内心で自問する。

 何の理由もなく相手の命を奪うのは、むしろ人間の特権だ。獣たちの方こそ、明確な理由がなければ相手の命を奪わない。――生きるためだけにしか、彼らは命を奪おうとしない。

「ともあれ殺人者の気持ちだなんて、なってみないと解るものではないよ」

 そう言って、紘人は肩を竦めた。或いはなってみたとしても、やはり理解できるかどうかなど怪しいものだ。人はそれぞれ自分の思いを持っているのだから。思いは交わることこそあれども、混じり合うことは決してないのだから。

 結局、どうあっても他人のことなど理解できないのだ。そういう風に、できているのだ。

 ――だからこそ。

「…………」

 どうして史太がこう、縋るような目を向けてくるのかは、紘人には解らない。

 解らないからこそ――彼が解って欲しいと言ってくれるのを、ずっと待っている。

 生徒会室の前まで来たところで、紘人は肩越しに最近新しくできた友人を振り返った。

「人にせよ獣にせよ、大切な誰かのために力を惜しまないというところは、どっちも同じだと思うんだ。……だからさ、どっちも捨てたものじゃないと、そう僕は思うよ」

 史太の言葉は待たない。元より期待していない。ただ彼に何かが届いていればいいなとだけ思いつつ、紘人は生徒会室の扉を開けるのだった。

 



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宿命の夜(3)

「……出前? うちの店、そんなサービスなんてやってたっけ?」

 夜。この家の夕飯にはまだ早い時間に理子に呼び出されたかと思いきや、彼女は申し訳なさそうな顔で両手を合わせていた。何でも冬原市ハイアットホテルに至急料理を届けて欲しいとのことらしい。

「もちろん普段はやってないんだけどね。お店を始めた頃からご贔屓にして下さっている方で、やっぱりどうしても無碍にできなくて――」

「しょうがないな……で、そのお得意様って何者なのさ」

「ええと、雑誌のライターさんをやっているとか言っていたかしら。たくさんの雑誌でコラムの連載を抱えている、結構売れっ子さんだって言ってたわ。自分で」

「自分で……」

 どうにも信用がならない。本当に売れているのだろうか。

 ただ嘘か真か、そのお得意様は現在、原稿の締め切りに追われてホテルに缶詰にされているらしい。そこでモチベーションの維持に必要だとか何だとかいう理由で喫茶店〈あまりりす〉の特製オムライスが食べたいと駄々を捏ねているそうな。しかし本人を外に出すとそのままどさくさに紛れて逃亡する恐れがあるし、かといって担当編集が目を離すわけにもいかない。そこで妥協案として、料理の方をホテルに運ぶということで話が付いたらしい。

「でも最近物騒でしょう? さすがに奈々子ちゃんを向かわせるのもどうかと思って――」

 奈々子というのは、この店でアルバイトをしている女子学生だ。料理系の専門学校に通っているらしく、学校とお店の両方で腕を磨いている、自称〝甘利理子の一番弟子〟である。

「了解。パパッと行って、パパッと帰ってくるよ」

「ありがとう! お礼に今夜は奈々子ちゃんが腕を振るってくれるそうよ」

「それ、いつも通りの賄いだよね?」

 かくして紘人は、岡持を片手に夜の世界へと繰り出すことになった。

 

 冬原市ハイアットホテルがあるのは、冬原湾に跨がる冬原大橋を挟んだ北側――俗に〝新都〟と呼ばれる地域だ。古くからの街並みを残す星見塚町とは対照的に、近代的な発展を遂げている地域であり、遊園地や展望タワーといった観光地があるのも新都側である。

 ホテルではくだんの売れっ子ライターとやらの素顔を見られるかとも思ったのだが、宿泊客でない紘人はロビーで待たされた上に、料理を受け取りに来たのもまたそのライターさんの担当編集だという中年の男性だった。

「いや、ありがとう。済まなかったね。今度時間が空いたら、僕もお店を利用させて貰うよ」

「ええ、ありがとうございます。お待ちしております」

 正直肩透かしを喰らってしまった感は否めないが、それでも理子に仕込まれている営業スマイルは忘れない。ただでさえ理子には色々と世話になっているのだから、こういう場面で彼女の顔に泥を塗るわけにはいかない。

 ホテルを出て帰路に就いてしばらくして、紘人はほんの少し迷った。岐路に立たされた。

 往路は急ぐということもあって、湾岸線を走るバスに乗ってやってきた。通り魔事件の影響か、利用客が少なかったのはかえって幸いだった。さすがに岡持を手にバスに乗ると、多少奇異の目で見られた。

 しかし復路では急ぐ理由はなく、だからこそわざわざバスを使う必要もない。だから遠回りになる湾岸線を通ることなく、冬原大橋を渡って星見塚に戻ってきた。

 戻ってきたのだが、懸念はこの先にある。ここから星見塚商店街に向かうには、橋脚を見上げるような形で位置する冬原海浜公園を通り抜けるのが近道である。だが昨晩に通り魔が出没したというその事件現場もまた、この海浜公園なのである。

「どうしようかな……」

 常識的に考えれば、殺人事件の現場に近づくというのは、あまり気持ちの良いものではない。

 だが日常的に利用している場所であるだけに勝手知ったるものはあるし、それに通り魔が同じ現場に二度現れるとは限らない。だからたぶん大丈夫だろう。そう判断して、紘人は海浜公園へと足を踏み入れた。

 

 或いはこの時、別の道を通っていれば――その先の人生は大きく違ったものになっていたのかもしれない。だからこの選択はきっと、宿命づけられたものだったのだ。

 

 異変を感じたのは、公園の中程に差し掛かった頃。

 それはおそらく、野性の直感とでも言うべきもの。思考よりもなお早く本能が、その危機を察知していた。弾かれたように体が動き、勢い良く前転する。

 途端、直前まで立っていた地面に大きな亀裂が走っていた。まるでバターにナイフを走らせたが如く、コンクリートが柔らかに抉られていた。だがそれで驚くのはまだ早い。

 真に驚異的、かつ脅威的であるのは、それを為したのが徒手の手刀――人間の地力に過ぎなかったということ。

 ――という思考に費やされた時間は瞬き一つの間にも満たない。脳が理解するよりもなお早く、攻防は繰り広げられている。通り魔、という単語だけが意識の範疇で明滅する。

 再び紘人を目掛けて手刀が走る。逆袈裟。バックステップで回避するも、返す刀で右薙ぎが襲い来る。手刀使いの姿が真正面に現れて、紘人はようやく相手の姿を視認する。フードを目深に被った小柄で華奢な人影。その姿が先のような怪力を発揮したという事実に戦慄を覚え、ほんの一瞬、対処が遅れる。躱しきれない。

「……くッ!」

 咄嗟に左腕を跳ね上げてガード。骨が折れるだけならばまだしも、このまま斬り飛ばされるかもしれないと思ったのは、腕を上げてしまった直後。

 通り魔の手刀と紘人の左腕が交錯する。

 同時、紘人の脳裏を一つのイメージが走り抜けた。《赤原猟犬(フルンディング)》――自動追尾という特性を備えた、古き英雄の聖遺物。なるほど、だからこうも正確に手刀が襲ってくるのかと、頭の冷静な部分が妙に納得していた。

 直後、左腕が手刀を弾き飛ばす。その勢いのまま通り魔も紘人から距離を取り、警戒するようにフード越しに紘人を睥睨してくる。遅れて紘人も自覚する。その左腕は斬り飛ばされるどころか、骨すらも折れていなかったことに。

「……まじか」

 だが安心するのはまだ早い。《赤原猟犬(フルンディング)》はその使い手が健在である限り、何度弾いても標的に食らいついて離れない。猟犬の銘は伊達ではない。――と、なぜか紘人は理解していた。自分でもどうしてそのような知識を持っているのか理解が追いつかず、ばかりか間一髪のところで手刀使いの猛攻を掻い潜れている理由にも自分では思い至るものがない。

 すんでのところで獲物を取り逃がすという状況に業を煮やしたのか、不意に通り魔の挙動が大きく変化する。紘人の眼前で宙を一回転したかと思いきや、その遠心力を利用して威力が倍加された踵落としを彼の頭蓋へ向けて振り下ろしてきたのだ。咄嗟に両腕で頭部を防護するが、勢いまでは殺しきれず、そのまま押し倒されて背中から地面に叩きつけられる。受け身を取っている余裕などなく、激痛が全身を駆け抜ける。視界が霞み、耳までもが遠のく。

「が、はァッ……」

 軽く咳き込んだだけのつもりが、血反吐まで出てきた。どうやら内臓をも強打していたらしい。それを好機と見てか、紘人の心臓を目掛けて通り魔の手刀が突き下ろされる。

 と、紘人は刮目する。すんでのところで手刀を掴み取る。奇妙なことに、まるで真剣を素手で握ったかのように指が裂けた。

 が、既に脳内でアドレナリンが沸騰しつつある紘人には、その痛みがただの熱さにしか感じられない。痛みの限界を通り越した余り、凄絶に微笑する余裕すら生まれる。

「逆境は見方を変えればチャンスなんだって、元アイドルのおばさんが言ってたよ」

 紘人の右足が跳ね上がり、掌握した相手の下腹部を強打、そのまま蹴り上げて頭越しに投げ捨てる。巴投げの要領だ。

 我ながら会心の一投だったと思う。同じことを二度やれと言われても、今度は巧くできるかどうか解らない。が、この隙にこの場から逃げ出せれば――と、そう思った瞬間だった。

 腹の中から、血にまみれたもう一本の腕が生えた。

 否、それは自分の腕ではない。音もなく――紘人に気取られるよりも早く接近したこの手刀使いの剣のような腕によって、背中から腹を一直線に穿たれたのだ。

 漏れた苦悶は声にすらならず、ひぃひぃと喉を空気が通り抜ける音が響く。視界が真っ赤に染まり、痛みと共に意識までもが遠のいていく。

 なるほど、僕は今日ここで死ぬのか、と酷く冷静に状況を理解していた。

 通り魔がその小さな紅唇を開く。紘人を――紘人の中にある何かを喰らおうと。

 目では迫る口腔を見つめつつも、意識では全く別のものを視ていた。

 走馬灯と言うのだろうか。頭の中を次々と見知った顔が走り抜けていく。転校生のはにかんだような笑い顔。悪友の不敵な笑み。隣人の少女の可憐な笑顔。そして叔母の慈愛に満ちた微笑み。みんな笑っていた。自分はいつも、この笑顔に囲まれていたのかと、今更実感する。

 ―――――不意に、記憶の中の世界までもが紅蓮に染まった。

 あまりもの唐突な変化と共に呼び起こされたのは、炎上する聖堂の光景。腹の中から全身に膨れ上がる、この燃えるような熱さが、それを思い出させたのか。

 そうだ、自分もまた、今から彼らのところに向かうのだ。いつも優しかった父。脳天気に笑う姿に励まされた母。何かと弟を構いたがる世話焼きの姉。紘人を実の息子も同然に可愛がってくれた叔父。

 そして――――――――――その場には酷く不釣り合いな、二つの人影。

 どくん、と心臓が勢い良く跳ねる。終わりに臨もうとしていた肉体が活気を取り戻す。

「ふざ、けるなよ……」

 頭の中を火事嵐が駆け抜ける中、その瞳の奥にて闘志が芽生える。

 通り魔の犬歯が鼻白んだように動きを止める。よもや瀕死の少年が絞り出す、その断末魔にも等しいような呻き声に気圧されたとでも言うのか。

「だって、僕は――」

 脳裏で明滅する炎の記憶。燃えていく。焼けていく。死んでいく。繋いだ手を―――――。

 苦悶を押し殺し、不敵ですらある笑みを載せて、少年は忌々しげに吐き捨てる。

 

「だって僕は――こんな場面(ところ)で死んでいい人間じゃないんだからな」

 

 ぶわり、と体の奥底で何かが膨れ上がった。左腕が熱い。そこに詰まっている何かがはち切れんばかりに存在感を主張する。

『────ついて来れるか』

 それは言葉にならない言葉であったことだろう。紘人が感じたのは、ただの思念。ただの意味。ただの残滓。ゆえにその問いかけに答えは要らず――。

 そして同時に理解していた。この左腕に詰まっているモノの正体を。――その、使い方を。

 腹に穴が空いていることさえ忘れて、紘人の肉体が通り魔を突き飛ばして跳ね起きる。そして彼の口が独りでに動き、何かしらの()()()()()()()を紡ぎ出そうとした、その瞬間。

 

「おいおい……三下風情が、なァに我輩(オレサマ)獲物(エサ)ァ横取りしようとしてんだよ、ァア?」

 

 そのどこまでも不遜な一声と共に、一陣の風が駆け抜ける。

 通り魔の頭上を目掛けて、空から無数の剣が降り注いだのだ。極度に戯画的で、醜怪極まる魔剣の数々であった。まるで磔にされるかのように、地面に縫い付けられた通り魔。

 はっとして振り仰げば、月光を背負った金毛火眼の魔物が、にぃと牙を剥いていた。

 



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宿命の夜(4)

 暴風もかくやという勢いで出現したのは、夜においてなお目映い一体の魔人であった。

 腰丈まで届く金色の髪。燃えるように爛々と輝く火色の瞳。だが何よりもその男を特徴づけていたのは、耳の下まで裂けた大きな口であった。嗤えば、その口端から牙が覗くほどの。

 その姿を何と形容すべきか。紘人の脳裏に、ふと一つの単語が閃いた。

 ――人狼。

 そう、この魔物はまさしく、人の形をした狼に他ならなかった。

 音もなく羽毛のように軽やかに地面に降り立つ男。どこから跳躍してきたのかは知らないが、尋常ならざる身体能力だ。

 と、男は地面に磔にされた通り魔には目もくれず、真っ直ぐ紘人だけを見下ろした。ある種の親しみすら感じさせられるその視線に、紘人はぶるりと悪寒を覚える。

 何だこいつは、何なのだ。困惑する紘人。

 一目見ただけでその異常性を看破する。それはまるで――一人の中に数百、ないしは数千もの人間が蠢いているかのような違和感。眩暈がする。この男が傍にいるだけで、人混みに酔わされているかのようにも錯覚する。これを魔人と呼ばずして、他の何をそう呼べようか。

「よう、死に損ないの餓鬼。五年ぶりだなァ。今度は腹に大穴を開けてんのか、つくづく痛いことをされるのが好きみてぇだなァ?」

 裂けた口を開き、牙を覗かせながら呵々と大笑する人狼。その傲岸不遜さを隠そうともしない声音は、聞いているだけで頭痛がしてくる。

 が、たった今、眼前の人狼は聞き逃せない一言を発した。――五年ぶりだ、と。

「五、年…ッ?」

 無意識に漏れた呟きに血反吐が混ざり、紘人は思わず咳き込んでしまう。その様の何が面白いのか、より一層破顔する人狼。

「おいおい大丈夫かァ? んなことで我輩(オレサマ)に立ち向かえるのかァ? ……ま、どの道今はまだ論外っつーことに変わりはねえけどよ?」

 その不快な声がぎしぎしと脳を軋ませる。やめろ、黙れ、口を開くな。

 誰か――誰かこの男を沈黙させてくれ。

 よもやその念が通じたわけでもないだろうが、不意に魔人は背後を振り返った。魔剣によって地面に縫い止められていたはずの通り魔が、全身を引き裂かれながらも、拘束を解いて脱出していたのだ。

「あァん、まだやるのか?」

 途端、興を削がれたとばかりに人狼は眉間に皺を寄せる。金毛火眼の野獣が牙を剥く。

 男の周囲で不可視の何かが凝り固まっていくのを紘人は幻視する。その形状に名を与えるならば、剣、という言葉がやはり相応しい。

 空中に投影された不可視の剣が次々と通り魔を目掛けて走る。だが通り魔もまた果敢だった。その手刀を振り回しては、見えざる剣を次々と弾き飛ばしていく。そのまま逃げるのかと思いきや――予想外にも通り魔は人狼の懐へと飛び込んでいった。

「ほぅ、たかが三下の分際にしちゃあ、ちったァ見所があるじゃねえか」

 剣の数が増え、速度も増していく。ただでさえ満身創痍であった通り魔の体が更に削られていく。それでもなお通り魔は突き進む。

 手負いの獣さながらの特攻に、然しもの人狼も一瞬瞠目する。そしておそらくは、それこそが通り魔の狙いだったのであり。

 通り魔は人狼にタックルを掛けると、ほんの微かに生まれた隙を突いて、全速でその場から離脱した。人狼の胸元には、通り魔の手刀によって付けられたのだろう、浅い切り傷が走っていた。

「肉を切らせて骨を断つ、ってか? まぁ退屈しのぎにはなったぜ、なァ糞餓鬼?」

 そう言って魔人が振り向いた、その瞬間。

 紘人の蹴技もまた、ありったけの殺意を込めて人狼の横面を叩いていた。

 

 見失っていた断片が浮かび上がってくる。欠けていた記憶が繋ぎ合わされていく。

 あの炎に包まれた世界で、何があったのか。その真実の一端が呼び覚まされる。

 なぜ今まで忘れていたのだろうか、この手足の異常に長い男と、狼に酷似した魔人の存在を。

『――ほう、ではこの少年に《左腕》を?』

『ああ。お誂え向きに左腕がぶった切られていやがる。さすが教会だな、神サマって奴も小粋なことをしてくれやがるぜ』

 やがて人狼は屈み込み、少年の顔を覗いた。

『よう、死に損ないの餓鬼。大変なことになっちまってるなァ。つーても全部我輩(オレサマ)たちの仕込みだけどよ? つーわけで恨みたけりゃあ我輩(オレサマ)を恨め。憎悪を滾らせ、瞋恚の炎を燃え立たせろ。そして――いつか我輩(オレサマ)たちを殺しに来いや。ま、できればの話だがなァ?』

 そして呵々大笑する人狼。聖堂の焼け落ちる音に負けず、げらげらと下卑た笑い声が響き渡る。

『おっと、忘れてたぜ。我輩(オレサマ)の名はヱミヤ。これがオマエから全てを奪い、そしてオマエに生きるための力を与えた元兇の名だ、忘れんなよ』

 忘れんなよ、という言葉が脳裏に反響する。

 ああ、忘れないとも。二度も名乗らせるまでもなく、その名を思い出したとも。

 

 不意打ちの足刀は確実に人狼に入った。だがこの感触は何だろう。まるで鋼鉄の柱を蹴ったかのような激痛が紘人に返ってくる。

「ほォ?」

 だがその程度で怯んだりはしない。否、この場において既にまともな感覚など疾うに忘れ去っている。

 たった今、紘人の脳裏に満ちているのは、恐怖でもなければ痛みでもない。ただ純粋な憎悪。それ一色に染まって、どこまでも澄み切った憎悪。

「ヱ…ミ、ヤ―――――ァァァァァッ」

 喉が潰れても構わないと言わんばかりの勢いで咆吼する。有り余るエネルギーをそういう形でも放出しなければ自分が保てそうになかった。

 かはっ、と人の形をした狼――ヱミヤは歓喜に震えたかのような声を漏らす。

「そうだ、そうだ、そうだそうだそうだそうだ、それだ! そういうのを待ってたんだよ、糞餓鬼ィ!!」

 號、と人狼もまた吼える。

 ――が、それは束の間のことに過ぎなかった。

「……………と言いたいところだったんだがよォ、言っただろ、今のオマエじゃ論外なんだよ。一瞬だけでもテメェのノリに合わせてやっただけ感謝してくれや」

 技も芸も何もあったものでなく仇敵に飛び掛かる紘人を、ヱミヤはほんの少しだけ口惜しそうな様子ながらも、無造作に振り払った。不可視の剣が紘人の胸元で爆弾のように炸裂し、そのまま後ろへと仰け反らせられる。

 どさり、と少年の体躯が地面に落ちる。コンクリートの味を舐めるのはこれで何度目だろうか。もはや口の中に広がる血の味しかしない。

「まァ、もうちっと強くなってから出直すんだな。それに――」

 それに、〈教会〉からのお客サマが来ちまったようだ、という言葉を残して、ヱミヤの気配が徐々に遠ざかっていく。待て、という紘人の言葉は声にすらならず、人狼の背中には何も届かなかった。

 ヱミヤ――全てを奪った仇敵。絶対に許さない、絶対にだ。

 胸の奥はどこまでも熱く、しかし脳は徐々に冷めていく。

 闇に呑まれていく意識の中で、紘人はなぜか、ここにはいないはずの尼僧の声を聞いた気がした――。

 



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宿命の夜(5)

     †

 

 とある男の話をしよう。

 誰よりも重い理想を抱き、それゆえに溺死した男の物語を。

 

 男は正義の味方であろうとした。それはかつて男を救ってくれた師の理想。

〝この世の誰もが幸せであって欲しい〟――そのような借り物の理想を、男はどこまでも真摯に追い続け、その生涯を全うした。私欲を殺し、ただ理想にだけ徹した生き方を終生貫いた。

 

 男は正義を体現する一個の装置であった。〝錬鉄の英雄〟とはそういうモノであった。

 男は己の行為に対して何の見返りも求めなかった。地位や名誉はおろか、感謝の言葉すらも不要とばかりに、ただひたすら戦い続けた。

 元より男の追う理想は人の世の理を超えていて――だからこそその頂に手を掛けられる男は、既に人では有り得ない存在に他ならなかったのだ。

 

 男の人生は報われるものではなかった。誤解と裏切りに終始した一生であった。

 然もありなん、その男は生きながらにして死んでいたのだから。

 かつて未曾有の大災害で多くの命が奪われる中で、幸運にもその男は後の師によって助け出された。だが師に救うことができたのはその男の〝命〟だけであり、この時に喪われた〝心〟だけは永遠に取り戻されることがなかった。

 ゆえにその男は滅ぼすべき私など最初から持ち合わせておらず、ただ公に奉ることだけがその男に残された唯一の機能だったのだ。

 

 血潮は鉄で、心は硝子。

 ただの一度も敗走はなく、ただの一度も理解されない。

 彼の者は常に独り、剣の丘で勝利に酔う。

 

     †

 

 その夢の果てで、少年は剣の墓標が立ち並ぶ荒野に立ち尽くしていた。

 見渡す限りの剣、剣、剣。その数は優に千を下らないだろう。無銘の数打ちから稀少な銘品に至るまで、古今東西ありとあらゆる剣がその丘に蒐集されていた。

 だが、少年はすぐに気づく。それらはどれ一つとして本物でないことに。意匠はおろか刀匠の理念から担い手の技倆に至るまで余すところなく完全に模倣した、精緻な贋作であることに。

 そして荒野を吹き荒ぶ風の中には、ある種の自嘲が読み取れた。その得物から生き様に至るまでの全てが、他者のそれを真似た偽物に過ぎないということに。

「英雄だか何だか知らないけど……案外バカだね」

 ぽつりと少年は呟きを漏らす。しかし言葉に反して、その声音に侮蔑するような色は感じられない。少年は労るような微苦笑を滲ませつつ、こう言った。

「生きるということに、偽物(うそ)本物(まこと)もあるものか――」

 

     †

 

 目が醒めると、紘人は公園のベンチに横たわらされていた。ご丁寧にも、足許には彼の持ち運んでいた岡持が安置されている。真冬の野外だというのに、不思議とあまり寒さは感じなかった。何か夢を見ていたような気もするが、あまりよく覚えていない。

 どうしてこんなところにいるのかと記憶を辿り―――――慌てて身を起こした。

「そうだ、通り魔! それに――………!」

 ヱミヤ、という言葉は興奮のあまり声にならなかった。ようやく見つけた仇敵。いずれ対決することが約束された宿敵。そして今はまだ力の及ばない強敵――。

 と、不意に体に違和感を覚えて、血が上っていた頭が急に冷める。と言うより、体を動かすことに何の違和感もなかったのだ。全身が傷だらけである上に背中と腹に風穴が空いてしまっていたはずだったのだが、いずれの傷口も跡形もなくすっかり塞がれていた。

「…………」

 一瞬、ここで起きた出来事の全てが夢だったのではないかとも思ったが、襤褸と化した服の隙間から肌を撫でる寒風の感触に、その考えはすぐに否定される。やはりあれは全て現実に起きたことだったのだ。

 とはいえ、誰がこの傷を治療してくれたのだろうか。寝て起きたその間に手術痕すらもなく傷が治されているなど、かの黒ずくめの無免許医も廃業を余儀なくされかねない事態だ。

 いや、それ以前に今は何時なのだろうか。自分はどのくらいの間眠りこけていたのだろうか。

 ポケットの中に入れておいたスマホを手探りすると、妙にざらざらしているというか、刺々しいというか、とにかく奇妙な感触が。よもや、と思いつつそれを引き抜いてみれば、

「……うわ、こりゃ酷い」

 スマホは画面が割れるどころか筐体そのものが真っ二つに折れており、更には紘人の血が流れ込んで赤黒い塊がこびり付いていた。さすがにこのレベルまで破壊されてしまうと、データの復旧も難しいかもしれない。

「一難去ってまた一難、だな」

 空を見上げれば、月が苦笑いを浮かべながら紘人を見下ろしている。その高さからして、もう遅い時間であることは想像に難くない。帰宅が遅く、更には連絡が付かないと来た。正直、これから自分を待ち受けている運命を思うと、帰宅するのが恐ろしくてたまらない。

「とりあえず、何て言い訳するかだけでも考えてから――」

 と、改めてベンチに腰を落ち着かせようとしたところで、視界の片隅に懐中電灯の光を捉えた。同時に、それを手にした警官たちの姿も。

「やべ……」

 先の騒ぎを誰かが通報したのか、それとも見るからに不審な格好でベンチに寝そべっていた紘人が通報されたのか。何にせよ警察への言い訳は、理子へ言い訳するよりもずっと難しくなってしまうことだろう。紘人は音を立てないようにそっと立ち上がると、岡持を片手に、夜の公園から静かに走り去ったのであった。

 

 ちなみに。

 家に帰ると、なぜか真里花までもが目を真っ赤にして紘人を待ち構えていた。

 結局しどろもどろとした話しかできなかった紘人にも非があるとはいえ、二人分の追及とお説教は身に堪えた。

「…………全ての元兇は自分だって、そう言ったよな、ヱミヤ」

 だからこれもヱミヤの所為だと思うことにしよう。実際ほぼ間違っていないのだし。



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