地噴の帯び手 (観光)
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プロローグ1/2

「あー、こんないい月夜なんだから、いい出会いのひとつでもないもんかね」

 

 鬱蒼と生い茂る森の中に枝から枝へと飛び跳ねる男がいた。男は二十二・三の黒髪黒目で、分厚く丈夫そうな古ぼけた衣服に身を包んでいる。

 彼の肉体は服の上からでも鍛えられた肉体が見て取れる。分厚い胸部の筋肉と、細身ながらもしなやかな四肢。男の飛び跳ねる姿はいかにも慣れた動きで、見るものに不安を与えない常人離れした動きだ。黄色の肌は生気に溢れ、男の頬は野獣のように笑みを描いている。

 星明りの闇夜を飛ぶ彼に付き従う影はない。男の言葉は独り言となって虚空に吸い込まれていく。

 

「いい月夜? 僕にはそんな風情のある夜には思えないね」

 

 答えるものがいないはずの男の言葉に返す声が上がった。人の姿はない。男の右耳に下げられた勾玉から響いた声だった。

 水越しを思わせる、洞窟で聞くごときこもった声だ。

 

「そう言うなよ。これからあの紅世真正の神”祭礼の蛇”をブッ倒そうなんて考えるお仲間に会うんだ。期待は止められない」

「期待? それはどっちに対する期待だい。紅世の神との戦い、それともこれから会えるかもしれない歴戦のフレイムヘイズ。どっちかな?」

「ははっ、お前にはばれるか—— ”地壌(ちじょう)(かく)”ヒノカグツチ!」

「ばれる? 隠せると思われたことに驚いたよ、我が薄弱な契約者、自称『地憤(ちふん)の帯び手』クズキ・ホズミ?」

「なーに。そのうち他称になるさ」

 

 大笑いする青年——クズキは一際強く枝を蹴って天空へと身を躍らせた。

 

「ああ、楽しみだ! 大和の国に出てくる化生どもは歯ごたえがないからな!」

「歯ごたえ? それは酷というものだよ。君はこれで強大な討ち手なのだから」

「まだたいした年月生きちゃいないがな!」

 

 天高くあるクズキの体から炎が噴き出し、空気を震わせる稲妻のごとく周囲を照らしだした。

 その炎は輝く白色に僅かな黄金を混ぜた太陽の色をしている。夜に顔を出した太陽に森の生命がざわめくのを感じながら、クズキは『存在の力』を操り、空を駆った。

 

「年月? そういえば向こうには”不抜の尖麗”がいるんだったね」

「おうよ! それにあの”払の雷剣”もいるときた。強力な討ち手がよりどりみどり……さらには強大極まる”王”まで集まってるって話だ。強くなっておいてよかったよかった!」

「よかった? 浮かれるのはいいけれど死なないでおくれよ。君には残しているものもいるし、まだまだやることが残っているのだから。ええと……なんだっけ、あれの名前? 確か——灼眼の……」

「何度言えば覚えるんだっての——我が昼行燈の契約者」

「昼行燈? 聞き捨てならないね。ちょっと待ってくれ。その汚名をすぐにでも返上してみせるから……そう、確かあれは、灼眼の……しゃ、しゃ——しゃば?」

「……本当に俺の期待を裏切らない契約者だよな。もう一度言ってやるからよーーく覚えておけ!」

 

 目的地へと一直線だった行く先を星に向け高度を上げると、クズキは雲を突き破る。遠い未来で失われる天河を眼上に両手を突き出し、高速移動ゆえの騒音に負けぬようクズキは大声で叫んだ。

 

「ああ麗しき紅世界の化生ども! 今や同族たる炎の揺らぎ! 遠い時代に二つが織りなす、新しき創世の神話を紡ぐ物語!」

 

 それは遠い未来に起きる創世の神話。

 代替物でしかない青年と、かくあれと望み望まれた少女の、愛の物語。

 

「俺だけが知っている! その始まりと終わりの物語を! わずかな偶然が必然となって、積み重ねられた幾多の想いの果て、世界を巻き込み紡がれたる神話! そが名を————」

 

 放埓を極める紅世の徒と、跋扈する同胞を世界のため討滅せんとする炎の揺らぎ。

 二つの異邦者と人間。人間以下でしかない代替物。三様の者どもが複雑に絡み合い、果てに世界を作ったある物語。

 クズキの記憶の奥に存在する確かな未来。

 その名は——

 

「——————灼眼のシャナ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地憤の帯び手 プロローグ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはずっとずっと昔のお話。

 人間は文明人などという洒落たものではない時代。右手に青銅の武器を持ち、左手に泥を焼き固めたつぼを持ち、土埃にまみれた貫頭衣を着ていた——そんな時代。

 とある場所——遠い未来で言う所の栃木——でなぜか後の時代が知るよりもずっと早くに伝わり始めた稲作をしている集落があった。

 その集落にある畑は大層大きく、そして大層な量が収穫できた。それには稲作に適していたという理由が多分に含まれていたが、いささか想像以上の量が取れていた。村人たちは不思議に思うが思うだけで、当時の人間にとってこの場所だけ大量に取れるということで神の奇蹟と信じ、崇め、畑の中央にそれはそれは立派な社がたてられていた。

 

 ある日のことだ。

 その社の前に不可解なことが起きた。

 稲穂を収穫し始めた一日目、穂摘(ほずみ)の日――稲穂を摘み始める日のこと――のちょうど正午の時間。村の人間が祈りをささげる前で——空間に巨大な罅が入った。それはまるで海の上で船と船がぶつかった時にできる木の罅のようだった。大きく重量のある物体がぶつかり、押しつぶしあうようにできたその罅は、原住民にとってまさに『およびもつかぬ神の力』、その具現だった。

 恐れ、恐慌の波に攫われる人間たちだったが、その罅は僅かな時間をもって空に溶けていった。——一人の青年を落として。

 

 人々はその見知らぬ言葉を話し、見知らぬ服を着て、見知らぬものを持った青年を『神の落とし者』として敬った。

 もちろん初めからそうだったわけではない。そこには多分に青年が現れてから村の生活が楽になったことが関係している。

 青年は瞬く間に村を豊かにし、田畑を広げ、周囲の村を飲み込み、当時としては最大級の国を——むろん現代とは比べ物にならないほど拙いものではあるが——僅か数年で作り上げた。

 いつしか妻を取り、青年は幸せを感受し始める。辛く険しいながらも充実した毎日に青年は満足していた。

 

 それから幾ばくかの時間が流れた日のこと。

 国の人間が誰にも気づかれずごっそり減った。そして減ったことに誰も気がつかない(・・・・・・)

 傘下に収められていた村のいくつかが消え、しかし誰も気づかない。村の誰もがそれを当り前のようにふるまった。

 だというのに、自分だけは欠落したことを覚えている。

 

 その事実に『神の落し子』——名をクズキ、性をホズミ——が悩ましげな唸りをあげた。

 彼はいつしか成っていた国の代表という立場ゆえに、この問題を軽視ぜず、根本的原因を考えていた。

 すでにこれは一定期間ごとに、三度起こっていた。

 一度目は不思議に思いつつも、いつしか忘れていた。

 二度目はおかしいと考えつつも、戦の忙しさに埋もれさせた。

 三度目は解決すべきだと悟りつつも、常に解決方法を模索していた。

 しかし彼がいくら唸り声を絞ろうとも答えは出てこない。この時代の人間が想像できないような時代——後の世にいう現代——で教育を受けたクズキであっても、人が消え、そして誰もそれを認識できない……などという現象は習ったこともないし、聞いたこともなかったからだ。

 俗にいうところの『現代知識ちーと』なるものを使ったがゆえの立場ではあるが、彼自身は革新的な人間でもなければ特別優秀な人間でもなかったということも唸り声に拍車をかけた。

 つい先日、東山の麓の村が消えたばかりだ。

 あまりにも自然に不自然が起きる。

 それは原住民が嵐を神の怒りと恐れるのを、原理を知っているからこそ恐れないクズキにとって、あまりにも恐ろしいことだった。

 未知がもつ恐怖を久方ぶりに思い出し、クズキは畑の中心に建てられた神殿で体を震わせる。

 

 次は自分かもしれない。

 根拠のない恐怖がクズキの体を襲う。

 されど、クズキは震えたままの男ではなかった。

 ここにきて早数年。クズキは襲い来る周囲の国から国を守るため、幾度となく戦いを繰り広げた。戦場の恐怖を飲み込み、殺人の忌避を振りはらい、守るための勇を胸に秘め、障害を乗り越えていった。

 その精神は打ち鍛えられた鋼のごとく強靭で、未知の恐怖を味わいつつも胸を張り続けられる強さを持っていた。

 月明かりを存分に浴び、どうしてくれようかと舌なめずりする。

 

「失礼します」

 

 ふいに、横から声が聞こえた。

 そこには腰元まである長い髪を首あたりでまとめた女がいた。両手首に縄を通して作った水晶の飾りをつけ、巫女の立場を示す翡翠で作られた勾玉を耳につけている。月明かりに照らされた彼女は冷たい鉄を思わせる雰囲気の女だった。

 この時代には少ない白い貫頭衣を羽織った女は、名を落穂巫女(おちほのみこ)といった。

 かつては違う名を名乗っていたが、クズキが異世界から渡ってきたとき、祈りをささげていた巫女ということで、そう呼ばれていた。ここでの落穂とは村に実りをもたらしたクズキを意味しており、落穂巫女とはクズキの巫女であるという意味の称号だった。

 

「どうした」

「神酒を、お持ちいたしました」

 

 毅然とした面持ちで巫女は手に持っていた水稲(すいとう)——ここでは稲の一種ではなく、稲を編んで作られた貯蔵用の酒器——のふたを開けて、酒器に上澄みを注いだ。

 清酒、とまではいわないが静かに上澄みを注がれたそれは、美しい色合いを備えている。巫女はこぼさぬよう静かに酒器をクズキの足元へおいた。

 クズキは酒に月を揺らめかせ、香りをかいで十分に楽しんでから、ぐいと酒を飲み干した。

 

「うまい」

 

 と口の中でほのかな酒の味をかみ締めたクズキがつぶやく。

 来たばかりのころは、もう酒があるのか! と驚いたものだ。

 今クズキが飲んだのは山葡萄を土器にいれておき、自然酵母によって作る原始的な果実酒であり、ほかにも口噛み酒などがすでに存在している。よくよく考えればかの有名なヤマタノオロチの尻尾を落とすために使ったものは大量の酒であった。この時代に酒があっても不思議ではない。

 

「御身に喜ばれたとあっては、西の村のものも喜びましょう」

「ああ、これはいい酒だ。喜ばなければ嘘だろ。どうよ、お前も一つ」

 

 クズキは水稲を巫女から取ると、酒器になみなみと注いで手渡した。

 巫女は慣れたものと遠慮なく酒を飲み干し、仕えるべきクズキの隣に腰を下ろした。

 一見すると立場の違う巫女と神の落とし子(昔は神の血を引くというだけで立場が上だという認識だった)が対等に酒を飲んでいるように見え、巫女が不敬を犯しているともとれる。

 しかし二人が飲む酒は、農耕儀式のために『神の落とし子』であるクズキに供えられたものであり、この時代の酒は神と共に儀式の場で飲み干すものであって、決して神だけが飲むものではない。共に飲み干す物なのだ。ある種接待のための飲み物であった。

 

 クズキは酒器を空にした巫女——二人だけのとき穂乃美(ほのみ)と呼んでいた——の須恵器(酒器の一種)に手ずから酒を注いでやる。

 甘い——というほど甘くはないが、祭儀の場くらいでしか飲めない酒を前に、清廉とした穂乃美の表情がほころぶ。

 電灯ひとつない時代の夜は驚くほど月が明るく、穂乃美の笑顔を星が彩る。クズキの口元にも、あくびのように笑みが移った。

 穂乃美は巫女であり、その身をクズキという『神の落とし子』に捧げられた人間である。同時に男と女として、お互いが愛情を育んだ——神と巫女の領分を越えた夫と妻の関係でもある。その証拠に薬指には黄金に輝く指輪がある。

 彼女の笑みが夫に移るのはごく自然なことだった。

 

「あの子はもういいのか?」

「もう十分に夜の神に抱かれているのでしょう。ぐっすりと眠っていますよ」

 

 あの子——つまるところ穂乃美(ほのみ)の子供であり、同時にクズキ自身の子供であり、まだ一才に届かない子供のことだ。いつもは心配症の穂乃美がついているのだが、離れていてもいいのか? というクズキの確認もかねた質問に穂乃美は胸を張って答える。

 

「そうか、今日はゆっくりできるな」

「ええ」

 

 穂乃美が静かに同意し、甘い瞳でクズキを流し見た。

 彼女のほころんだ表情はどこか艶やかで、瞳には色が奥に潜み、誘うような瞳でクズキを見ていた。

 穂乃美は酒に弱い。それほど高くない酒でも飲めば体の底が熱くなるらしい。

 クズキは彼女の流し目がそういう(・・・・)意味のものであると察しながら、彼女の空になった酒器に酒を注ぐ。無言の拒絶だった。

 わずか、穂乃美の表情が悲しげになる。しかし注意深くクズキを見て、クズキの表情に隠された憂いの色を感じ取るや、心配そうな顔でクズキの横に移動し、肩を触れ合わせた。

 

「何か、杞憂なことでも?」

「——」

 

 国を繁栄させ、敵なしとなった自国について悩むことは、それほど多くない。どれもが他愛ないもので、悩みというほどではなかった。

 悩みと呼べるほどの問題は今やひとつ。 ————人が気づかれずに消えてゆくこと。これだけだ。

 

 時には村がまるまるひとつ姿を決しても、誰も不自然に思わない。誰に聞いても記憶にすら残らない。

 何一つ原因がわからない、どころか誰も覚えていられない。

 この件に関して、おそらく穂乃美も覚えていないのだろう。

 わずかに口に出すことを躊躇し、

 

「少し前のことだ。東山のふもとの村が、忽然と姿を消した」

 

 言い切った。

 近隣の人間すら覚えてられなかった東山のふもとの村。

 確かに存在したはずのそれ。

 どうせ覚えていないのだろうと、わずかな希望を持ちながら穂乃美にいう。

 

「消えた……?」

 

 戸惑いをあらわにする穂乃美。

 ああ、やはり。

 クズキは思った。続く言葉は——

 

(——そんなところに村などありましたか?)

「——あの村が消えた、という報告に覚えはありませんが……」

 

 という穂乃美の眉をひそめたものだった。

 

 クズキの眼が、真ん丸を、描く。

 

「穂乃美……覚えて、いるのか?」

「覚えて? 何のことでしょう。あの村には何度か足を運んだではありませんか」

「――っ!」

 

 今度こそ、息をのんだ。

(穂乃美が覚えている――!)

 クズキは体ごと彼女に向き直り、彼女の肩をつかんだ。

 驚きに、酒器が落ちる。

 はやる鼓動を抑え、クズキはゆっくりと確認する。

 

「東の、日上る地、三鷹山の、紫ぶどうの取れる、山成という男の治める村、のことだぞ?」

 

 東山の麓の村、というのは三つほど存在している。

 もしかしたら彼女のいう村とは、他の村のことかもしれなかった。クズキは自分との間に齟齬の生まれる余地がない問いかけを、息も絶え絶えに吐き出す。

 

「――? え、ええ。山成の治める村、昨年も多くのぶどうを手押し車で納めた東山のふもとの村でしょう」

「――は」

 

 クズキの中にあった小さな期待に、穂乃美はこれ以上無いくらい明確に答えた。

 彼の両手から力が抜ける。

(――俺以外にも、あれを知ってる人間がいる……)

 それは希望だった。

 今までのように村の仲間たちと共に戦うのではなく、誰にも知られずに戦うしかないと腹をくくっていたクズキにとって。彼女が隣にいるという事実は、何よりも強い希望となってクズキを支えてくれる。

 わずかな脱力の後、クズキの芯に一本の支柱が築き上げられた。

 それは、

(変わらない。今までのように俺は――――村を、守る)

 国主として、そして国守としての覚悟だった。

 

 クズキは水稲(すいとう)に直接口をつけ、一気にあおった。

 精魂込めて作られた酒の心地よい熱さを感じながら、勢い良く立ち上がり、

 

「穂乃美、明日の予定が決まった」

「……明日は西の村へ赴くのでは?」

「いや。そうじゃない」

「では?」

「東山の麓の村へ。俺たちは行かなきゃならない」

 

 穂乃美はため息を一つ。

 すでに数年、慣れてはいた。しかし仕えるべき『神の落し子』の突拍子のない行動に、辟易としてしまう。

 いや、嫌なわけではない。飽きさせない彼の行動はむしろ好ましいと言える。ただ、今夜ばかりは久方ぶりの『二人の夜』だったのだ。穂乃美は巫女として伽という清める行為を行う身ではあるが、やはり人として獣欲という穢れを期待しないわけではないし、愛されたいという願望もあった。

 それにこの時代の平均年齢はかなり低い。抵抗力の低い子供が死んでしまうことはざらにあった。だから彼との子供を未来へとつなげる為にも、あと二人は欲しいと考えていた。

 

 だが、意気揚々と寝所へ向かう夫の背中をみて、穂乃美は諦めた。ため息はその現れだった。

 東山の麓の村は遠いというほどではないが、それなりに距離がある。

 それに国主が出かけるとなればそれなりの護衛も必要だ。人が彼を襲うとは思えないが、狼の群れに囲まれることも十分に考えられるからだ。そういった不足の自体に対応する準備もしなければならない。

 準備の為の体力、行動の為の体力。それを考えれば余計な疲れを明日に残すわけにはいかない。

 つまりは――お預けということだ。

(まったく、『神の落し子』は私の気を知っていてこうなのだから、そう。たちが悪い)

 繰り返すことになるが、穂乃美は妻であり、クズキとは夫婦の関係である。しかし、それ以前に巫女である。

 故に、彼女は巫女として『神の落し子』と寝所をともにすることが許されない。というよりも、自分が許さない。夫婦となった初期の頃、自ら律するため、そう定めたのだ。

 『神の落し子』には『神の落し子』としての寝場所がある。朝日を浴び、共に眼を開けることを許されるのは、今日のような子を宿す為の行為の夜のみである。

 彼女はそれが、いかに心を満たす行為かよく知っている。

 それができないとあって、穂乃美は――巫女でありながら――落胆の色を隠せなかった。

 穂乃美は表情を隠すように、深く頭を下げた。

 

「どうか、御心を安らかに。おやすみなさいませ」

 

 寝所で布をかぶり、ごろりと横になったクズキに声をかけ、穂乃美は静かに神社を出た。

 しばらく彼女の足音を聞き、十分に遠くにいったことを確認してから、クズキは仰向けになって伸びをした。

(悪いことをしたかな……?)

 むろん、クズキは穂乃美の内心を大体理解している。

 しかし彼は――彼の若さでは珍しいことに――そういったことに関して積極的ではなかった。

 決して欲がないわけではない。むしろできるのならば心ゆくまでしたい。……ただ、出産という行為はこの時代ではあまりにも致死率が高かった。

 十分に医療技術が発達した現代ですら、時折死んでしまうこともある。ましてやこの時代の医療技術では、その致死率は高いと言わざるおえない。

 クズキは穂乃美を愛しているからこそ、そういった行為をほとんど行わなかったのだ。

 先ほどの拒絶も、愛ゆえのものだった。

 けれど、愛があるがために。彼女の子供が欲しいという想いに答えたい自分がいる。

 自分はどうすれば――

(――いや、今はよそう。考えるべきはこの欠落の原因だ)

 

 クズキは首をふって、夫婦の悩みを追い出した。

 事実、すでに三度人間が消えている。毎年これが続くとなれば――それも毎年被害が増加する傾向にあるならなおさらに――すぐに対応しなければならない。

 人は木材のように簡単に作れるものではないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝、太陽が昇り始めたころ。村人から護衛を募り、馬を用意し、食料を準備し、と戦の前のような忙しさを乗り越え、クズキを中心とした一団が東山の麓の村に出発した。

 八面六臂の活躍をした穂乃美(ほのみ)はわずかにけだるげな面持ちながらも、しっかりと馬に乗り、クズキの後ろを着いてきている。

 すでに半日ばかりの行軍を行っており、もうそろそろ東山の麓の村に着こうかという位置だった。

 

「そろそろ目的地につく頃だが……何もないんだろうな」

「……あなたのいうこととは言え、にわかには信じられません」

「朝あれだけ、ぶどうが納められた倉庫が空になっていたのを確認しておいて……まだ信じられないか?」

 

 うっ、と穂乃美が呻いた。

 彼女は何かしら言おうと口を開くが、「ネズミなんて言わないでくれよ」と先に可能性をつぶすと、黙って馬の手綱を握りしめた。

 だまってしまった穂乃美に代わり、警護に志願した村人の一人がクズキに声をかける。

 男はクズキが来たばかりの頃からの知り合いで、クズキも頼りにする腕っ節の強い男だった。彼は不思議そうな顔をして、クズキに問う。

 

「にしても……なんで東山のふもとへ? それも村の無い場所に。何かあるんですかい?」

「ああ、かなり重要なものが」

 

 クズキは明確になにがある、とは答えなかった。

 男にはそれで十分なのか、そうですか、と一言残して背後の隊列に戻った。男はすでにクズキが稀に起こす突拍子のない行動には慣れていたからだ。

 代わりに、男に並ぶようにして馬を歩かせていた少年が顔を赤くして、クズキに声をかける。

 

「あ、あの!」

「ん?」

 

 男は隣を歩く少年の顔に見覚えがなく、多分外の村の奴だろうな、と辺りをつける。

 外の村の若いものはクズキに声をかけるとき、大体こういう反応をするからだ。やれやれ、と肩をすくめる。

 

「先日はありがとうございました! 妻にいろいろとしてもらったおかげで、家族も子供ができたと大喜びで」

 

 青年が大きな声で言った。

 クズキの隣を歩く穂乃美の眼がぎょっと見開かれる。隊列を歩いていた男もたいそう驚いた顔で、あんたまさか人妻に手を出したんじゃないだろうな、と唇をわななかせた。

 穂乃美の瞳が冷たく鋭利な刃物となってクズキをさす。

 クズキは、なんて言い方すんだよこのやろう、と穂乃美の視線におびえながら、

 

「俺はただ奥さんに妊娠しやすい日が来る周期を教えただけだから。別にそんなに改まってお礼をいうようなことじゃないって」

 

 と誰に言われるまでもなく説明する。

 クズキはただ妊娠しにくい女性に少しでも、という気持ちからなんとなしに教えたもの――俗にいうオギノ式である――だが、夫の不倫を疑っていた穂乃美と隊列に並んでいた男たち、誰もが等しく驚愕に身を震わせた。

 子供とは行為の結果授かるものであり、授かれるかどうかは神のみぞしる。というのが一般の認識だったのだ。それをクズキはいとも容易く覆し、それも授かりやすい周期まで知っているという。この時代からすれば、それは重大な知識だった。

 穂乃美はぜひともその知識を教えてほしい! と口を開きかけたが、いやここで聞くのはまるで自分が催促しているみたいではないか。と思い至り、何食わぬ顔でクズキの隣を歩き始めた。ただし、彼女の背中からは隊列に向かって「だれか聞けよおら!」という威圧感を放っていたが。

 穂乃美の無言のオーラに隊列の男たちは萎縮し、逆に穂乃美の聞きたいことを聞けそうになかった。

 隊列の中の一人が、空気を変えようと意を決して声を上げる。

 

「そういえば向こうについたら俺たちはまず何をすればいいんだ!?」

 

 おお、と周りの男が内心で喝采する。よく落穂巫女の無言のオーラを無視できた! という喜びの声だった。

 しかも彼が聞いたのは後々聞かなければならないことで、穂乃美も無視できないものだったから、なおさら今の空気を帰るにはぴったりだったのだ。

 

「そうだなぁ……とりあえず向こうで何日間か泊まることになるかもしれない。だから数日間留まれるような準備が必要だ」

「というと水や食料ですね」

 

 穂乃美が具体的な例を上げる。

 護衛の男たちは心得たもので、「じゃぁあれとあれだな」「あれも必要だろ」としきりに会話している。

 頼もしいかぎりだ、とクズキは思った。

 

 それから三時間ほどだろうか。

 途中ウサギなどの食料を見つけ、狩るなどの手間はあったが、無事隊列は麓へとたどり着いていた。

 

「そんな……っ!」

「……」

 

 声を荒げたのは穂乃美だった。

 彼女の目の前には不自然なまでに広がった何もない広場がある。深い木々に囲まれた場所にぽつんと存在するなにもない広場はとても自然にできるとは思えないもので、穂乃美は強い違和感を感じる。まるで何かが欠落(・・)してしまったような……

 いや、事実欠落したのだ。

 穂乃美の記憶では、ここには確かに村があったはずなのだ。

 東山の麓の村としては最大の大きさを持ち、山葡萄を大量に栽培していた村が。

 何人かは穂乃美もかかわり合いがあり、友人というべき人間も、確かにいたはずだった。

 

 誰にも知られぬ間に大移動したのか?

 そうだとしても、ここまで何の痕跡も残さずには移動できない。

 穂乃美の脳内にかつてない混乱が襲いかかった。

 いつも落ち着いた落穂巫女の姿に、何も無いことを自然だと感じている隊列の男たちがざわめく。

 目の前のぽっかりと空いた場所を見ていると、穂乃美の中に真っ白な部屋に閉じ込められるような漠然とした不安がわき出してくる。

 

「……今回は村ごと、か」

 

 慌てふためき、珍しく相好を崩した穂乃美の隣で、ざわめきを無視したクズキがつぶやいた。

 それは予想以上の被害に対するものだった。

 

 一度目は村の中の一人の男だった。

 二度目は併合した村の数人だった。

 三度目は――村ごとだった。

 

 クズキは徐々に広がる被害に、作為的なものを感じ、焦りに頬をひくつかせる。

(わかっていたことは二つ。こいつは徐々に被害を広めているってこと。そしてちょうど一年おきに襲える知恵がある存在(・・・・・・・)だってこと。でもここにきて確信した。こいつは――――――やばい!)

 眼前に広がる無人の広場。

 あるはずのものが無くなったそこに、誰もが当たり前にしか感じない。

 しかしクズキには、そして穂乃美には大切な物が抜け落ちたような違和感が、蛇が肌をなで回すように感じられるのだ。ともすれば吐いてしまいそうな薄気味悪さがあった。

 

 クズキは広場に踏み入るのを躊躇った。

(ここに踏み入って、俺は大丈夫なのか? 同じように消えはしないのか?)

 だめだ。

 怖さがクズキに悪い方向ばかり想像させる。

 穂乃美も不安そうにクズキの背中を見ていた。つられるように、隊列を組む男たちもどことなく不安そうにクズキを見る。

(いや――ここで怖じ気づいてどうする! 俺は国主なんだ!)

 首をふって、頭の中に巣食う悪い気を振り払う。

 そしてクズキは堂々と胸をはって、一歩、踏み込み、

 

 

「おんやぁ〜〜〜、見知らぬ人がひーふーみー。ちょっーと数えきれませんねぇー」

 

 

 その人を小馬鹿にしたような声が耳朶を振るわせたとき、最初にクズキが想像したのは――巨大な山脈を滑り落ちる雪崩だった。

(なぁっ……!)

 声を表に出すことはできず、急ぎ振り返った先、何も無かった平坦な場所にひょろりと細い男性が立っていた。無精髭とぐるぐると渦をまく髪型、細められ奥を見ることのできない眼をしている。

 着ているのは、明らかに文明レベルの違うよれよれのシャツとスカートのような服。

 一見すれば外来人のようにも見えなくもない。

 しかしここにいる一同、だれも彼をただの人間だとは思っていなかった。

 

 ただ男が立っているだけだというのに、眼を離せない奇妙な存在感を感じる。それは隊列を組む男たちも同じで、中には歯を振るわせる者もいた。

 端的に言って、恐怖していた。

 男の視線が怖い。

 男から感じる圧力が暴風のようだ。

 男を見るだけで手足から力が抜けていく。

 クズキたちはその感覚を知っている。それは自分が勝ち得ない圧倒的な存在を前に、勝てないと本能が全面降伏したが故の反応なのだと。

 夜の闇にまぎれ、襲いくる大嵐。

 土砂降りの雨が引き起こす大河の反乱。

 爆音とともに周囲を吹き飛ばす落雷。

 そのどれもが勝ち得ないもので、そして目の前の奇妙な男もまた――勝ち得ない存在なのだと、誰もが本能で悟った。

 

「いーったいなんのようなんでしょーねぇ? 誰もここのことは覚えてなぁーいはず(・・)なのにー……」

 

 男は首を傾げ、しばしの熟考の後にクズキたちの腰に下げられた青銅の剣に気がつく。

「ほっほーうっ?」特徴的な笑い声と共に男がゆっくりと近づいてくる。

 隊列を組んでいた男の一人が膝を屈した。彼が一歩近づくたびに、彼から感じる圧迫感は二乗三乗と大きくなっていた。

 

「これは武器ですか――? ずいぶんとがんばりましたねぇー」

 

 まるで剣ができるまでの歴史を見てきたように、男は感心する。そしてクズキをじっと見ると、なにやら興味深げに瞳を輝かせた。

 

「おんやぁ……? あなた……私たちをぉー、正しく認識して(・・・・)いるぅ……?」

 

 それがクズキのしゃくに障った。

 上から目線で何様のつもりだろう。

 クズキはこちらの世界に来てから、基本的に敬われる立場にあった。それ相応の働きはしてきたが、クズキも知らぬ間に彼の中には自分が上に立つ身分なのだという自尊心が芽生えていたらしい。

 恐怖に歯を鳴らしながら、腹の底から力を振り絞って腰元の剣を引き抜いた。

 

「――――――」

 

 ――お前は、何者だ。

 震えるクズキの声は言葉にならず、木々のざわめきに飲み込まれた。

 しかし男には十分だったのか、大仰に両手を広げ、

 

「わたーし? わたーしはぁ! 隣の世界からぁーわたって来たっ”紅世の王”が一人――――”万華胃(ばんかい)()”ぉーーー!!」

 

 誰もが眼を剥いた。

 男――”万華胃(ばんかい)()”の広げられた両手、そのいたるところに口が現れ、大きく口を開けたからだ。その口の奥には洞窟の奥のような闇が広がり、口の端からよだれをこぼしている。生理的嫌悪に鳥肌が立つのを止められない。

 未知に震え上がるクズキ一同を前に、”万華胃の咀”は機嫌良く小さな声でささやいた。

 

 ――――――いただきまぁーす 、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 猛烈な悪寒に教われ、咄嗟に穂乃美を背中にかばったクズキが見たのは、これこそ地獄と言うべき光景だった。

 体中に口を付けた化け物に、あり得ない薄緑の炎が広がり、そして仲間が食われている光景だ。

(食われた? 違う、喰われたんだ)

 人が食物に感謝し、未来へと繋ぐ為に命を食すのではない。ただ食べる必要もないのに、それが娯楽だからと無為に命を消費するために、奴は喰らった。

 腕に現れた口はうまそうに咀嚼し、汚らしい音を響かせている。

 その口からはクズキの周囲の男たちにつながるように一本の線が見える。線は薄い緑色で、男たちも緑色に燃え上がっていた。自然では決して見ることのできない『あり得ない炎』にクズキの思考が、混乱の極地へと誘われた。

 

 クズキは混乱するまま、ただ男たちが炎に包まれるのを見ていた。

 いや、ただ見ていただけではない。

 彼らの存在が薄くなっていくのを、クズキは感じていた。

 

「やめ……」

 

 燃える男たちの一人は、クズキが来てからずっと一緒に戦い、町を守ってきた男だった。

 初期に、不信感を持たれていたクズキに少ない食料を分けてくれた恩人で、度重なる戦にクズキが折れそうになったときに、一喝してくれた男だった。

 

「やめろよ……」

 

 その隣にいた男はクズキが最初に迎え入れた他村の一人だった。村の統治の勝手が分からず、合併してすぐに村々の喧嘩になったところを納めてくれた人だった。

 それからは何度も村の統治のことでお世話になってきた。

 

「やめろ……っ」

 

 その後ろにいた青年は、ここにくる途中話しかけてきた青年だった。

 妻をとても愛していることが、端から見ていてよくわかる。そんな裏表のないやつだった。立場の差はあれど、見ているだけでわかる邪気のなさに、将来はもっと仲良くなれたら……そう思っていた男だった。

 

 誰もがクズキにとって大切な人だった(・・)

 毎朝顔を合わせて挨拶し、昼には仕事を共にこなし、夜には疲れたと笑いあう。そんな仲間たちだった。

 なのに――喰われていく。

 ただ身を喰われるのではない。

 気色悪い炎に身を焼かれながら、その存在(・・)ごと喰われていく。一秒ごとに仲間たちがいた記憶が、確かな絆が、陽炎のように消えて、ゆく。

 

(だめだ。こんなこと、俺は――――――っ!!)

 

 気がつけばクズキは走り出していた。

 そして何の策もないまま、愚直に”万華胃(ばんかい)()”へ青銅の剣で切り掛かった。

 

「うおぉぉぉぉっつ!!」

 

 全身全霊を込めた斜め振り下ろし。これ以上無いほどの剣線を描き、同じ青銅の剣ならば両断してしまうだろう一刀。”万華胃の咀”は――人差し指で難なく受け止めた。

 わずかも”万華胃の咀”の指は後退すること無く、クズキが振り下ろした青銅の剣は粉々に砕け散った。

 なぜ剣が砕け散るのか、疑問の声が喉からもれる――前に、”万華胃の咀”の蹴りが腹部に直撃し、クズキは大きく後方に吹き飛び、地面を転がる。

 

 激痛が腹部からかけ上がり、クズキは口から血塊を吐き出し、咳き込む。

 ”万華胃の咀”からすればなんとも軽い一撃で、クズキの内蔵は損傷し、死の瀬戸際に追い込まれていた。

 

 痛みに涙があふれる――それでもクズキは”万華胃の咀”を睨みつけた。

 すでに仲間たちは一人もいない。すべて”万華胃の咀”の腹の中へ。悔しさのあまり、奥歯がくだける音がした。

 

 ”万華胃の咀”は憎悪に燃えるクズキの瞳をにやにやと嫌らしく見下ろしながら、音を立ててゆっくりと近寄る。人など及びも着かぬ存在の足音は、そう。最初にクズキが感じた雪崩が襲いくる恐怖を思い出させる。

 ”万華胃の咀”は憎悪と恐怖に彩られたクズキを見て、楽しんでいた。

 

 三歩。

 それが”万華胃の咀”がクズキにとどめを刺すまでの時間だった。

 クズキは動かない。

 もう後長くない体だと悟って、それでも最後まで屈しないと”万華胃の咀”をにらみ続ける。そこに憎悪はあっても恐怖はなかった。

 後二歩。

 ”万華胃の咀”はクズキの顔に慄然とした様がないことに気がついた。

 ”万華胃の咀”にとって人間という生き物は、『紅世の徒』に『存在の力』を搾取される、いわば食料でしかない。それがこうも反抗的な眼で見ていると思うと、ムカムカとした苛立が募る。

 

 後二歩。

 ”万華胃の咀”はわずかな距離をつめることはなく、手を掲げた。そこには薄緑の炎が揺らめいている。

 『存在の力』を練り上げ、顕現させた炎弾だった。さっき喰らったばかりの『存在の力』のわずかばかりをくみ上げて作ったこの炎弾は、これを殺すのにさぞふさわしいだろう。

 ”万華胃の咀”の口元に嗜虐的な笑みが浮かび、彼はその手を振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 振り下ろされる手を二人から少しばかり離れた場所で、落穂の巫女はそれを見ていた。クズキに迫る”万華胃の咀”の右手には致死の炎が揺らめいている。

 揺らめく炎が止まるほど加速された時間の中、穂乃美は願った。

 

 ――やめて。

 

 心からの――願いだった。

 あの炎をクズキが受ければ、間違いなく愛する夫は死ぬだろう。

 穂乃美には根拠もなくそれを悟っていた。

 できることならば、クズキを助けたい。

 彼が助かるというのなら、自分の身を捧げてもいい。

 穂乃美は本気でそう思った。

 そして願った。

 

 ――紅世の王”万華胃の咀”から夫を助けてほしい。

 

 一途に、一心不乱に、それだけを願う。

 穂乃美の願いは、他者の追随を許さぬほど純粋だった。

 ゆえに、

 

 

 ――――――もしお前が人のすべてを失うことになろうとも、助けたいと願うのならば、

 

 

 

 ――――――お前に力をやろう。

 

 

 

 ――――――万難を排し、仇敵を穿つ、力を。

 

 

 

 ――――――お前に、やろう。

 

 

 

 穂乃美の願いは隣を歩む者へと――――届いて、しまった。

 

 

 

 

 

 

 



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プロローグ2/2

 後はもう死ぬだけだった。

 炎の熱に焼かれ、皮膚を爛れさせて、肺を炭化させ。そうして惨めに死んでいくだけだった。

 クズキはそれを理解し、憎悪の劫火に身を浸し、”万華胃(ばんかい)()”を強いまなざしで見据え――――遠くで涙を流し見つめてくれる穂乃美を横目に見ていた。

 思えば自分にはもったいない妻だった。

 美しく、教えたことをすぐに覚える聡明さを持ち、いつも夫を立ててくれる、よくできた妻だった。

 怒りに我を忘れ、彼女を逃がすこともできない不肖の夫の最後に付き合わせることになるのが、クズキの心残りだった。

 死神の鎌を前に、加速した思考の中で思う。

 こんな怪物がいるのだ。自分が死せば怨念となって化けてでれるかもしれない、と。

 もしそうなれば、自分はすべてをかけて彼女を逃がすだろう。怨霊などそもそも存在しないのかもしれないけれど……そう、なればいい。

 いや、違う。……そうするのだ。彼女を助けるのだ!

(彼女を生かす為に! 俺はそうしなければならないっ!)

 仲間一人助けられなかった愚鈍な国守だが、せめて妻を守れる夫でありたかった。

 クズキは怨念となってでも彼女を救う覚悟を決め、後残りわずかとなった生の時間、彼女の姿を焼き付けるため、彼女へ視線を向けた。

 そして、

 

 ――――――もしお前が人のすべてを失うことになろうとも、助けたいと願うのならば、

 ――――――お前に力をやろう。

 

 天から降る声を聞いた。

 なんだ、と思う暇もない。

 視界の中で穂乃美の体から爆炎が吹き出し、猛烈な風が吹き荒れた。

 

「なぁーーんだっとぉぉぉ――!?」

「穂乃美!?」

 

 吹き出した炎は揺らめき、陽炎の向こうで穂乃美の姿が掠れる。

 まるで深海を思わせる現実には到底あり得ない炎――――青墨の炎に息をのみ……あることに気がついて、クズキは顔色を変えた。

 これまでずっと、それこそ死の一歩手前まで感じていた半身たる妻の存在が急速に燃えていた。

 彼女の存在をあの青墨の炎が燃やし、焼いた端から何か異質で巨大な力が彼女を器にして流れ込んでいくのを感じる。

 

「ほ……のみ……」

 

 クズキのつぶやきすら原料とし青墨の炎は燃え盛り、クズキは静かに涙を流した。

(いま、燃え尽きた……穂乃美の存在は、この世から燃え尽きて……欠落した(・・・・)んだ……)

 青墨の炎の中、穂乃美だった存在が風に揺れた炎のように立ち上がる。

 一挙一動に力強さを感じさせ、その炎の向こうに揺らぐ姿はそう……

 

フレイム(ほのおの)ヘイズ(ゆらぎ)…………」

 

 口の端からもれた言葉はクズキが意識してのものではなかった。

 自然と零れた言葉だった。

 

 その瞬間、クズキの体に落雷にも似た衝撃が走る。

 

 ――あり得ない薄緑と青墨の炎。

 ――”紅世の王”と名乗る異形の怪物。

 ――喰われることで欠落する存在。

 

 クズキにはそれらに聞き覚えがあった。

 昔読んだ小説に、そんな話がなかったか?

 確か、その題名は――――灼眼の、シャナ。

 

「ああっ……!」

 

 記憶の欠片をつかめば、後は連鎖的だった。

 次々と浮かび上がる情報の数々。それは黄金にも勝る価値があり、そして何より、この現状を打破するのにこれ以上無いくらいの援護となる。

 クズキは強い意志を秘めた瞳を”万華胃の咀”へと向ける。

 ”万華胃の咀”は死にかけのクズキに興味を無くし、期待に眼を輝かせ、穂乃美に向き合っていた。

 

「こーれはこれは。まさか私が、あの! 同胞殺しの裏切り者に会えるとは、おもってもぉーみませんでしたよぉぉぉ――――」

「薄緑色の炎……最初の相手がまさか”万華胃(ばんかい)()”とはね。ずいぶんといやな奴に会ったわ」

 

 ”万華胃の咀”をにらむ穂乃美に変わって、彼女の左耳に新たにつけられた勾玉から、森の清涼な鳥に似た声が響く。

 

「ずーいぶんなことを言う。久しぶりの再開を祝って? あなたもこっちに来ませんかぁ、”剥迫(はくはく)(ひょう)”」

「冗談。私は”天壌の劫火”の掲げる正義のもと、大義名分を背負って、心置きなく自由にやりたいのよ。追われる生活なんて絶対ごめんよ」

「さーびしいですねぁ。あなたがいるならそれはそれは楽しいだろぉーに」

 

 再び見下すような笑みを貼付けた”万華胃の咀”に”剥迫(はくはく)(ひょう)”は躊躇いがちにある提案を持ちかけた。

 

「ねぇ”万華胃の咀”、ここは私たちを見逃してもらえないかしら?」

「ほうぅ?」

 

 その提案に驚いたのは穂乃美と”万華胃の咀”だった。

 ”剥迫の雹”は続けて、

 

「今の私たちじゃ、あんたには勝てないわ。私の性格はあなたもよく知ってるでしょう?」

 

 ”万華胃の咀”は彼女の言葉に納得のいった顔でうなった。

 

「確かに。あなたは勝てない勝負をぉーー極力(・・)避ける人でしたねぇー。私も何もしないというのなら、見逃すのもやぶさかではないですけれどぉー」

 

 彼は自分の足下に転がっているクズキに指差して、

 

「これは私がもらっていきま――――っとっと」

 

 戯けたことを言う前に、穂乃美の手から巨大な炎弾が飛び出していた。

 

「ちょっとなにやってんのよ! せっかくこの場はなんとかできそうだったのに!!」

「契約を忘れたのですか! 私はあの人を助ける為に、すべてを捧げたのです! あの人を捨て置けるわけがないでしょう!」

 

 彼女は腰元に吊るされた剣を引き抜いて、”万華胃の咀”へと切り掛かる。

 クズキのときは容易く砕かれた剣も、いかような力なのか、”万華胃の咀”を斬りつけても折れることは無く、むしろ奴はその剣を避けていた。

 

「あんたのこと、もう忘れて(・・・)るのに!?」

「関係ありません!」

「ああーもう! わかったわよ! そこの男! さっさと逃げなさい。ここは私たちが時間を作ってあげるから! ほらさっさと!」

「おっと、そうは行きませんよぉー」

 

 逃げろ、と言われてもクズキはすでに死に体なのだ。この重傷でどうやって逃げろというのか。

 クズキが考えるもいい案など浮かびもしないし、浮かべるだけの時間もなかった。

 ”万華胃の咀”は穂乃美の剣を避け、彼女の隣をくぐり抜けると、猛速でクズキへと突進を仕掛けてきたのだ。

 クズキにはどうしてこの奇怪な”万華胃の咀”とやらが自分に執着するのか、理由はまったくわかっていなかった。だが、奴が自分を殺しにきている、ということだけはわかる。

 一度は興味の対象外となったが、今度こそ殺されて人体実験の被験者にでもなるのだろうかと徐々に近づく”万華胃の咀”に、穂乃美がフレイムヘイズになってわき出した希望の分だけ、絶望と恐怖が溢れ出す。

 しかし恐怖から視線を外せないクズキと”万華胃の咀”の間に影が割り込んだ。

 それはまぎれも無く、共に過ごしてきた落穂巫女(おちほのみこ)だった。

 

 穂乃美は振りかぶった剣を裂帛の気合いとともに振り下ろす。風を切る音がうなりをあげる剣を、”万華胃の咀”は慌てて避けて、穂乃美から距離をとる。

 

「相変わらず厄介な『自在法』ですねぇー。にしてもまさか最初からその自在法『剥迫(はくはく)』が使えるとは思いませんでしたよぉー。成ったばかりのフレイムヘイズの評価をあーげないといけませんなー?」

「……」

 

 ”万華胃の咀”は周囲に眼を向け、いつの間にか漂っていた小さな氷の破片に眼を細めた。

 

「空間に干渉し、短距離を転移する自在法、ほーんとぉーにやっかいですねぇー」

 

 ――――自在法『剥迫(はくはく)

 強大な紅世の王”剥迫の雹”の名を冠したこの自在法は、周囲にちりばめた雹の元へと転移することを可能とする、名の通り『追って剥ぐ』自在法である。

 

 この自在法は空間に干渉する特性から、時に干渉する……とまでは言わなくともそれなりに難易度の高い自在法だ。

 ”剥迫の雹”も契約者がまさか最初から十全とは言えないまでも使用できることに、内心では驚いている。

 

「まぁー、それでもぉー? 成りたては成りたて。ここで食べておいてもぉー、いいでしょー?」

「……あんたが一体全体どうして”探耽求究”に憧れて口調まで真似してるのかは知らないけど、ホントきもいわ、あんた」

 

 ”剥迫の雹”の言葉に、小馬鹿にした笑みを口の端に表し、”万華胃の咀”は両腕を広げた。

 両腕のいたる所に掌ほどの口があり、気味の悪いうなり声とよだれを垂らしている。

 

「ちっ、後ろの男は動けないか……引く気はないのよね?」

「はい」

 

 ”剥迫の雹”の問いかけに、穂乃美は強い瞳で頷いた。

 

「……いい、あれが少しでも隙を見せたら、『剥迫』で男拾って逃げるわよ。正面からじゃ絶対に勝てないんだから。それから――――」

「……来ます!」

 

 注意すべきことを続けようとした”剥迫の雹”を遮るように、”万華胃の咀”の腕口から薄緑の炎が吹き出された。

 その炎は地面を伝って穂乃美の足下へと伸びた。

 

「まずい! 男拾って逃げなさい!」

 

 喚起の鋭い声が上がった。

 穂乃美は急ぎクズキの元へと転移し、さらにもう一度離れた場所に転移した。

 

 二度の転移によって”万華胃の咀”との距離は大きく広がる。

 しかし彼女の動きを読んでいたのか、薄緑の炎は穂乃美も元へと軌道を修正し追いすがってきた。

 

「――――っ!?」

 

 穂乃美は急ぎもう一度転移しようと体に力をいれた、が。慣れない自在法の行使、そして二度の連続転移による虚脱感が体を襲う。

 薄緑色の炎は、目の前にあった。

(だめ、逃げられない!)

 

「うぉぉぉぉおお――――!」

 

 眼をつぶった穂乃美の体が動く。

 虚脱感に膝をつきかけた穂乃美の体を死に体のクズキが抱え上げ、走り出したのだ。とはいえ重傷には変わりなく、走れたのはわずか五歩分の距離だけ。

 クズキは激痛に足をもつれさせ、二人してゴロゴロと大地を転がった。

 だが、そのわずかな距離が二人を救う。

 二人の眼と鼻の先で、薄緑色の炎は花火のように広がり、直径十メートルほどの円となり、そして広がった面積すべてを一気に喰らった(・・・・)

 大地がごっそりと消えてなくなる。

 

 ある一定範囲内の物体を問答無用で喰らう――――”万華胃の咀”固有の自在法・咀嚼遠(そしゃくおん)。今でこそ一本だが、最大で数百もの火線をのばせるこれは、紅世の王の名に違わぬ強力な自在法である。

 穂乃美は相手の強力な自在法に、顔を真っ青にする。

 その彼女に向かって、”万華胃の咀”は両腕を広げ威圧するように近づいて、

 

「さぁー、これからが楽しー楽しー狩ぁーりの時間ですよぉー」

 

 あの人を見下した笑みで穂乃美を笑った。

 

 

 

 

 

 それからは一方的だった。

 迫る咀嚼遠(そしゃくおん)から逃げる穂乃美。時折穂乃美も不意をうって攻勢に移るも、”万華胃の咀”は巧みに『咀嚼遠』を操って、転移先をつぶしていく。”万華胃の咀”の動きは蛇のように知的で、柳のような柔軟さとしなやかで穂乃美を着実に追いつめていた。

 

「ほんと、性格悪いわね、”万華胃の咀”は!」

「いーぇ。私は徒としてのぉー本能に忠実なだけでー。別に性格が悪いわけではないのーでーすよー」

「それが性格悪いっていってるのよ!」

 

 力の消費が激しく、肩で息をする穂乃美に変わって、苛立まじりに”剥迫の雹”が怒鳴った。それにくつくつと笑いを返す”万華胃の咀”はどうみたって性格が悪い。

 今だって穂乃美が息を整える為に足を止めたというのに、わざわざ合わせて足を止めているのだ。これを悪いと言わずに何というのか。

 

(あいつはちょっと昔の知り合いで、私たちの武器である『剥迫』で何をできるか知ってる! 私たちには分が悪いわ!)

(……せめて私がもう少し力をうまく使えるなら……)

(いいえ、あんたはよくやってるわ……ただあいつのほうが一枚上手なだけ)

 

 穂乃美はちらり、抱えている夫に視線を向けた。

 妻の腕の中にいる夫に常の意気はなく、重傷故の息の荒さを無くし、微かな鼓動のみが彼の生存を主張している。もはや一刻の猶予もない。すぐに治療を開始しても命が危うい状況だった。

 いつにない彼の弱々しい姿に穂乃美の冷静な思考回路にわずかな焦りが過電流となって流れている。熱くなった思考がショートしそうだ。

 

(……このままじゃじり貧よ。”万華胃の咀”の自在法『咀嚼遠』は数少ない人間以外のものを存在の力に変えて吸収できるようになる自在法。あいつは私たちを追いながら、ちゃんと土や木を変えて使った分を補充してる。長期戦は不利になるだけよ)

(……はい)

(あんたはその男を手放せない。ならもうやることは決まってるわ)

 

 ”剥迫の雹”が明確に言葉にしなかったことを、穂乃美はしっかり認識していた。

 穂乃美は夫であるクズキを見捨てることができない。彼女が人を捨ててでも守りたかった彼を死なせることは、絶対に許せない。

 しかし彼を抱えたまま、穂乃美が逃げることはできない。そもそも自分一人だったとしても、穂乃美は目の前の”王”から逃げ切れる気がしなかった。

 逃げられない。ならば、することは一つ。

 ”剥迫の雹”は案にこういっていた。――万に一つの可能性である、”万華胃の咀”の打倒。それを目指すしか無い……と。

 穂乃美は唇を噛み締め、にやにやと笑う”万華胃の咀”の死角の茂みに転移した。

 そこでクズキを丁寧に地面におろし、

 

「……」

 

 耳元で何か言おうと口を開いて、結局何も言えない自分に苦笑した。

 

(さっきも言ったけど、あんたの旦那はあんたのこと何も覚えてないわ。それでも挑むのね?)

(記憶の有る無しに意味はないのです。ただ彼が生きている、それだけで私がこうする意味になる)

(本当に一途な女。前の契約者もそうだったけど、あなたもよっぽどよ。私だったら放っておかない)

(放っておかれなかったから、私は妻になったのです)

 

 穂乃美は背後のクズキを一瞥し、再び転移した。

 

「おんやぁー。男がいーませんねぇー」

(わかってるくせに。白々しい!)

 

 穂乃美の行動など浅はかだと顔に書いてある”万華胃の咀”をこれ以上無いほど研いだ視線でにらむ。

 これから穂乃美がすることはなんてことない。

 ”万華胃の咀”の討滅だ。できるかできないかは関係ない。穂乃美はそうしなければいけなかった。

 

(ここで”万華胃の咀”を倒さなければ、他の村人のように、私たちは、あの人は――――!)

 

 穂乃美は瞳を閉じ、開く。

 研がれた鋭い視線が決意という熱に打ち直され、覚悟の刃となって敵を見据える。

 

(わかってるわね……あんたは度重なる転移で疲労してる。存在の力も残りわずか。最初ならいざ知らず、今のあなたじゃ残りをまとめてぶつけなきゃ、意味はないわ。もしもうっかり外せばあの意地の悪いやつのことよ。あなたの目の前で夫を殺すでしょう)

(……そんなことはさせません……!)

(そう、させない。だから意思を振り絞りなさい。研磨した剣のように、細く鋭く、あなたの中にある存在の力を氷柱のように凍てつく雹へ)

(細く……鋭く……)

(自信をもつの。確固たる力なのだと。不安に感じることはないわ。あなたの力は天変が一つ。雹の力なのだから)

 

 穂乃美の体内で意思がわき出す。凝縮された守る意思は鼓動と共に存在の力へ練りあげられる。

 圧縮し、純化した存在の力が間欠泉のごとく、彼女の両肩から噴き出す。

 溢れた力は青墨色の炎となって揺らめき、僅かに離れた場所で温度を逆転させ、氷塊へと身を転じる。氷塊は噴き出した勢いのまま距離が生まれると徐々に分裂し、雹へと姿を変えた。

 まるで吹雪のように、雹は彼女を中心に渦巻く。数百の雹は嵐となり、渦巻く中心で、穂乃美の瞳が強い光を放っていた。

 

「素晴らしぃー! 『剥追』に加えて『雹乱運(ひょうらんうん)まで扱って見せるとは! よほど存在の力を扱う才能があったのか……」

 

 横目で茂みをみて、

 

「日常的に存在の力に触れていたのか……興ぉー味は尽きませんねぇー」

 

 ”万華胃の咀”のつぶやきと共に穂乃美の自在法が顕現する。

 彼女を中心に吹き荒ぶ『雹乱運』は後の新大陸の荒野で猛威を振るうツイスターさながらの嵐となっていた。

 

 穂乃美はタクトのように右腕を掲げた。それに従い雹は天空高く登る。雹一つ一つが鱗となって、まるで蛇のごとくとぐろを巻いた。

 

「真っ正面からいくわ」

「”剥追の雹”ぉー? この程度が本当に最後でーすかー?」

「ええ、勿論。だから受け止めなさいよ? 穂乃美!!」

「自在法――――『雹乱運(ひょうらんうん)』」

 

 タクトは振り下ろされた。

 示す先は”万華胃の咀”。待ち望んだ解放の号令に雹は大地に向かって一斉射された。

 

 巨大な龍が襲いかかるように数万の雹塊が豪雨となって突き進む。

 それは重機関銃の連射をも凌駕する威力であり、穂乃美の残りの力のすべてを注ぎ込んだ最大の攻撃だった。

 

「ぬわーーーっはっはっは!!」

 

 迎え撃つは幾万の口を持つもの。

 高らかに笑いながら、両腕のいたるところから火線が雹に向かって空を走しる。その数は実に数百を数え、落雹を迎え撃つ。

 中間で空気がはじけ、雹が喰われてゆく。

 

「あの化け物……っ! この『雹乱運』を真正面から食いつくす気なのね!」

 

 ”剥追の雹”が怒気を露わにする。

 『雹乱運』と”万華胃の租”が自在法『咀嚼遠』はお互いの中間で矛を交え、一方的に『咀嚼遠』に食われるという状況で均衡した。

 しかし『咀嚼遠(そしゃくおん)』は強力な自在法だが、あくまで任意あるいは接触した場所から一定の範囲内の物体を食らうだけの自在法だ。次々と遅い来る雹を一つの『咀嚼遠』で喰らい続けることはできない。

 そのため莫大な物量ならば穂乃美でも”万華胃の租”に勝てるかもしれないと一途の望みをかけて、この『雹乱運』を行使した。

 しかし、”万華胃の租”は”剥追の雹”の想像を超えていた。『雹乱運』の圧倒的物量に、『咀嚼遠』の連射で対応しようとしているのだ。事実、均衡は徐々に穂乃美へと近づいている。

 なにより力の限り生み出し続けられる『咀嚼遠』と違い、穂乃美の『雹乱運』は穂乃美が攻撃の前に生み出した雹しか存在しない。最初の攻撃(ファーストアタック)で押しきれなかった以上、じり貧になるのは穂乃美のほうだったのだ。

 

「かて……ない……っ!」

「ぬほほーーーほっぉーー!」

 

 押し寄せる濁流も、最後は竜頭蛇尾となって消えていった。

 すべての力を失い、もはや立つことも穂乃美にはできない。

 力が空っぽの器は身動ぎすらできないほどに、衰弱していた。もはや膝をつき、正面からねじ伏せた”万華胃の租”を涙ながらに眺めるのみ。

 ”万華胃の租”は大声で彼女をあざ笑った。

 この徒にとって人間も敵対する徒も食すためのものでしかないが、すべてをねじ伏せられ、まだ足掻ける力を残しつつも絶望に身を任せた状態がもっとも美味しいと、”万華胃の租”は知っていた。

 だからこそ、”万華胃の租”はすぐにでも叩き潰せる新米のフレイムヘイズ(炎のゆらぎ)を遠まわしに攻め続けた。

 ”万華胃の租”は食べることに無上の喜悦を感じ、自らうまいものを求める。

 これこそが強大なる紅世の王”万華胃の租”の原始の欲求であり、徒のすべてであった。

 

 今だ食したことのないフレイムヘイズはどんな味があるのだろうか。

 呆然と涙をこぼす穂乃美を見ているだけで”万華胃の租”の口元からはよだれがだらだらと溢れだしてくる。

 すでに下ごしらえは終わった。後は最後のひとさじ。

 

「そーういえばぁ、男がもう一人いましたぁーんねぇー?」

 

 ぴくり、穂乃美の肩が震えた。

 彼女の耳元の勾玉は落ち着きなく震えている。おそらく”剥追の雹”が何度も呼びかけているのだろう。

 

「さーて、どこにいたーかーなぁー?」

 

 わざとくるりと反転し、穂乃美に背中を見せる”万華胃の租”。徒の口元はひどく歪んでいる。

 彼は一歩一歩ある茂みへと近づき、その茂みを覗き込んだ。

 

「こーんなところにー?」

 

 そして”万華胃の租”最後の一味の首根っこを捕まえ、穂乃美に見せつけるように持ち上げた。

 それは穂乃美の夫であるクズキだった。

 今だしぶとくかすかな呼吸をしているが、誰の眼に見ても八割がた黄泉路に足を踏み入れている。

 

「……や、め……て」

 

 穂乃美の口から洩れた、懇願の言葉。

 ”万華胃の租”は頬をつりあげ、鼻をひくつかせる。今の穂乃美は実に好みの香を漂わせていた。

 ”万華胃の租”は確信する。――これは近年まれにみる傑作になる。

 

(興奮に焦ってはいーけませんよぉー。最後の一工程こそがぁー、もーーーーっとも旨さを左右するのですからぁー)

 

 ”万華胃の租”は丁寧に丁寧にクズキの首に力を込めた。

 真綿で首を締め付けるように。肉が柔らかくなるまで弱火でじっくり煮詰めるように。

 クズキの首をしめる。

 

 力なくぶら下がるばかりのクズキが、もがく。

 酸素をよこせと手足を震わせた。

 その様を見る穂乃美の瞳に憎悪が溢れる。

 

「……っ! ッ!」

 

 言葉にならない感情の発露は、彼女の肉を軟らかくするだろう。

 そして何もできなかった事実は、彼女の肉を甘くするだろう。

 愛する夫が無残に殺された結果は、彼女の肉にえもしれぬ法悦を加えるだろう。

 

「……ああ! ――ぁぁあぁあああああああ!!」

 

 穂乃美の涙の絶叫が森に響く。

 返す音はなく、”万華胃の租”の口元が絶頂を前に恍惚となるのみ。

 急かす本能を抑え、絶叫をコーラスに”万華胃の租”はゆっくりと力を加えてゆきーーーー首の折れる音がした。

 

 静寂。

 穂乃美はとうとう訪れたその音に、目の前を真っ白にし――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぎゃやああああぁぁぁあ!!」

 

 

 という悲鳴(・・・)を聞いた。

 ”万華胃の租”は手首を抑え、脂汗の浮かんだ顔で痛みを耐えている。

 骨が折れたのは首は首でも、”万華胃の租”の手首だった。

 

 どうして彼が手首を押さえているのか。どうして彼の手首が曲がっているのか。

 疑問の溢れる穂乃美をさらに混乱させるように、大地が光り輝いた。

 

 その輝きは次第に高さを生み、穂乃美の腰元まで伸びた。

 輝き一つひとつはどれもが稲穂の形を取り、風に穂をなびかせている。

 穂乃美にはその輝きに見覚えがあった。

 かつて夫と見た夕焼けの中に光る稲穂だった。

 

 彼女の瞳に、涙が一雫こぼれ落ちた。

 真っ白だった光景に、言葉にできない黄金の稲穂の美しい風景が広がった。それは彼女の戦いに擦れた心に安堵と安心感を与えてくれる。

 

 稲穂がひと際ゆれる。

 その中心で太陽が生まれた。

 午後の柔らかな日差しを思わせるその光に、穂乃美は胸の前で手を合わせ、ぎゅっと指輪を握りしめた。

 太陽の光に、瞳を潤ませて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ”万華胃の咀”にとって、それは歓迎すべきことのはずだった。

 目の前で生まれた新たなフレイムヘイズ(炎の揺らぎ)は、極上の食料が突然二つになる天来の贈り物というべきことのはずだった。

 しかし。

 ”万華胃の咀”は食欲ではなく、恐怖に身を震わせていた。

 

「お、おお……っ! おまえぇっ……」

 

 目の前にいたのは虫の息の人間一人。

 それが今、強大なる紅世の王”万華胃の咀”が震えおののくほどの強烈な存在を主張していた。

 

 フレイムヘイズは普通、契約した「人としての全存在」を紅世の王に捧げられ、捧げられた分の存在の力に空いた空白に契約者が入ることで完成する。

 その際捧げられる「人としての全存在」――運命という名の器の大きさによって存在の力の総量が確定する。

 今、”万華胃の咀”が感じるフレイムヘイズの力の総量は、強大なる紅世の王でも見通せぬほどに巨大だった。それは地平線の彼方に沈む太陽を見てこの地球の広さを測ることに似ている。

 強力な徒であるという強い自負を持つ”万華胃の咀”にとって、自身がちっぽけな存在にすぎないという事実を叩き付けられることは、追いつめた穂乃美の存在を忘れ、食欲すら無くす、圧倒的恐怖だった。

 

 稲穂が揺れる。

 クズキを包む炎は天を突くほどに高く燃え上がった。

 全てを焼尽す劫火の炎柱がそのすべてが契約者の存在を焼失させるための炎だ。本来であれば一瞬で終わるはずのそれが、終わらない。時間が経つほどに感じる存在の力は増大の一途をたどる。

 

 その力の総量に”万華胃の咀”は恐怖におののいた。穂乃美は頼もしさを覚えた。そして炎の持ち主である契約者”地壌の殻”は焼尽せぬほどに強大な契約者の「運命という名の器」の大きさに驚くばかりだった。

 

「――――――穂乃美」

 

 滔々した言葉で神の落し子は巫女の名を呼んだ。

 炎柱は弾け、吹き飛び、中心に男が立っている。

 

 その男はみるも無惨な風体だった。

 服は血に汚れ、ぼろのよう。何度も転がった体は泥にまみれ、髪は乱れている。

 だが、それらの要素をすべて眼に入らぬほど、その眼は強い光を帯びていた。ただ立っているだけで見放せないほどに、男は存在感があった。

 泰然とたたずむ巨岩のごとく男は佇み、徒を見据えている。

 

「――――――すぐ、終わらせる」

 

 一歩、踏み出す。

 瞬間、大地が震え上がった。強大にもすぎる存在の力によって顕現したその男に、誰もが震え上がった。

 ”万華胃の咀”は口の端から泡を吹きながら絶叫した。

 

「なんだ! それはなんだ!」

 

 このときばかりはいつもの話し方を忘れ、陳腐な言葉しか叫べなかった。

 それほどまでに男は圧倒的だった。

 

 これほどの存在の力が「運命という名の器」の大きさによって比例することは”万華胃の咀”も知っていた。

 ”万華胃の咀”にはこれほどの存在の力を一個人が保有することなど、とても信じられない。

 故に、叫んだ。

 だが複雑怪奇な自分を納得させ落ち着かせる理由を求める”万華胃の咀”の思惑を外れ、その理由は簡単かつ明朗なものだ。――男、クズキ・ホズミが未来を生きた人間だった。それだけの話だった。

 

 そも「運命という名の器」の大きさはどうやって決定されているのか。

 「運命という名の器」は個体の持つ時間軸に左右されないあらゆる可能性、死後やあの世、他の存在への影響力のことである。生きている間でもこの器の大きさは常に変化しており、必ずしも現時点での功績や影響力によって決定されるものではない。

 この器が大きいものとしては、生まれることに大きな意味を持つ王族であったり、後の世に広く使われる発明家であったりと、多種多様だが必ず影響力の強い存在の器が大きいものであった。

 確かにクズキも国主であり、見方によっては王族であり、その影響力は人よりも大きいだろう。だがその程度(・・・・)のことでこれほど大きくなるならば、この世の徒はすべて殲滅されているだろう。

 クズキはお世辞にも有能な人間ではない。これからの未来でなにか大きなことをして器が広がることも、子孫によって影響力が強くなることも考えずらい。

 

 ならばなぜ?

 その理由は一つ、彼が未来を生きた人間――――つまるところ、彼の頭の中にある雑多な未来の知識である。

 彼は別に勉学に勤しんでいた人間ではない。ごく普通に一般教養とされている程度の知識を持つにすぎない普通の一般人だった。

 しかし、その一般教養程度の知識の大多数は天才と呼ばれる人間の研究の末であったり、偶然の奇跡が見つけ出した知識なのだ。

 未来であっては誰もが知っていることでも、この時代であればその知識の価値は万金を軽く凌駕する。

 

 例えばクズキはすでにいくつかの知識をこの世界に――狭い範囲とはいえ、伝えてきた。

 そのうちの一つに妊娠法がある。危険日と安全日を生理周期から求める方法だ。これは意外なことに二十世紀に見つかったばかりのわりと新しく確実性のある方法として世界中に広まっている。

 この方法が広まるまで、妊娠のメカニズムはあまり知られていなかった。この時代の人間にも理解できる単純な方法だが、時代にはあまりに不釣り合いな知識なのだ。

 もしこれがこのまま広がっていけば世界に多大な影響を与えるだろう。

 たかが妊娠法だろ、と思う人間がいるかもしれない。

 だがもしこれを史実では子供に恵まれなかった王や将軍のような強い影響力のある人間が知ればどうなるだろうか。史実にはいなかった人間が生まれ、その人間が後をつぎ、まったく違う治世を行うかもしれない。

 王族でなくともたったもう一人生まれて結婚すれば、その人間と本来結婚する人間が違う人と結婚し、後の世に莫大な変化をもたらす。

 たかが妊娠法。されど妊娠法。その影響力はきわめて強い。

 

 他にも予防接種を始めとした影響力のありすぎる「当たり前の知識」をクズキは多数保有している。

 むろんクズキがそれらの知識を十全に扱えるとは限らない。

 だが扱えなくてもいいのだ。

 なぜなら「運命という名の器」は――――「時間軸に左右されないあらゆる可能性(・・・・・・・)」によって決定されるのだから。

 

 クズキがその知識を広めずとも構わない。

 使われなくとも変わらない。

 ただその知識――――『現代知識』というべきこれををクズキが保有していて、わずかでもそれを広められる可能性(・・・)があるのならば、クズキの器は大きく広がるのだ。

 

 一人の人間が一生で一つ見つければ歴史書に名を残すに足る知識を幾多保有するクズキの器は、もはや紅世真性の神すら認める『偉大なる者』をも凌駕する。

 クズキ・ホズミという未来を生きた一般人は――――太古の彼方で『偉大なる者』すらも超克する存在となる。 

 

 あらゆる生物の耳目を集めたまま、クズキはゆっくりと手を掲げた。

 掲げた腕の先、空に尋常でない存在の力が放出された。それは集い、変化し、圧縮され、炎の色の通り輝く第二の太陽として空に成った。

 

 太陽は美しい。

 黄金に輝く稲穂に降り注ぐ陽光は柔らかだ。

 穂乃美はその光に、彼の膝元で眠った春を思い出す。

 

「あ……あ……」

 

 けれど、それは”万華胃の咀”にとっての絶望だった。

 タクトのように手を掲げるクズキの姿は先刻の穂乃美と同様だが、起こりえる結果は違う。

 引き絞った口のまま、クズキは無言で手を振り下ろした。

 

 上空で存在を主張する太陽。その下部に火線で織りなされた円形の紋章が現れ、その中心に太陽の光が凝縮された。

 高密度の太陽光は文字通り太陽の熱を持って、一条の光芒となって”万華胃の咀”へと降り注いだ。

 地獄の業火すら生温い光は大地を溶かし、空気を破裂させ、徒を一瞬で炭化させた。

 

 強大なる紅世の王”万華胃の咀”。

 ただ食すことにどん欲な王の最後は、本能に刻み込まれた食欲すら吹き飛ばす太陽の力による、なんとも呆気の無いものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ〜、もう無理!」

 

 そういってクズキは大地にごろりと転がった。

 穂乃美は多少回復してきたのか、クズキの側によって彼の頭を膝の上に乗せた。

 彼女の手が愛おしげに夫の髪をなでる。

 

 クズキはその優しげな手つきにくすぐったさを覚えるが、文句は言わなかった。

 いうほど体力があるわけではなかったからだ。

 クズキは穂乃美が絶望した表情を朦朧とした意識のまま見て、その怒りから契約し、”万華胃の咀”の討滅を成したが、彼の傷自体は未だそのままだ。

 フレイムヘイズとなったことで回復力が眼に見えて上昇したものの、未だに体の節々には痛みが残っている。

 問題は多数残っているが、できることならこのまま寝てしまいたかった。

 クズキの現実逃避を許さないと、彼の右耳の勾玉――契約者”地壌の殻”の意思を表出させる神器からくぐもった声が聞こえた。

 

「無理? 残念だけどもう少しだけ僕と話をしてほしいな」

「わーってるよ。ただ言いたくなるくらいには疲れてるってだけだ」

 

 勾玉から声が聞こえたのに、穂乃美が納得のいった顔で頷いた。

 

「やはりあなたも私と同じく……」

「ああ。まぁそういうことだ」

 

 どこか悲しそうな顔をする穂乃美だが、耳元の彼女がのんきな声で”地壌の殻”に声をかける。

 

「ずいぶん遅かったじゃない。せっかくの逸材を失うかもってはらはらしたわ」

「はらはら? 君はそういうのが好きで契約するんだろう。よかったじゃないか。……まぁいいわけさせてもらうと僕もなるべく速く来たかったんだけどね?」

「そう? それならいいけど」

 

 どこか親しげに話す二人に、穂乃美が首を傾げた。

 

「二人はお知り合いなのですか?」

「知り合い、というか。元々私たちは二人一組のフレイムヘイズを作ろうと考えてた……なんていうのかしら」

「知り合い? というよりも同士、といったほうが適任なのかもしれないね」

 

 ”地壌の殻”はつけたして、

 

「心配? 別に僕たちは君たちへ不利益をもたらそうなんて考えてないよ? 君は夫婦みたいだしね。むしろ二人に長く生きていてほしいから僕たちは二人一組のフレイムヘイズを作ろうと思ったんだから」

 

 彼はさらに説明を続けようとする。

 そこにクズキが割って入った。

 

「あー、そっちもいろいろ考えてることがあるんだろうけどさ。それよりもまず現状と説明を頼む」

「説明? そうだね。そっちが先だったよ」

 

 納得するように”地壌の殻”が笑い、

 

「とりあえず? 最初に覚えていてほしいのは君たちと僕たちは長い付き合いになるということだよ」

「こっち風にいうなら、共に因果の路を歩くことになった……って感じね」

 

 ”剥迫の雹”が追随し、

 

「改めて、私は”剥迫の雹”」

「名前? 僕は”地壌の殻”」

 

 二人は息をそろえ、

 

「「因果の路を共に歩こう」」

 

 百代の代まで共にあるものに、言葉を贈った。

 

 




 1. 本小説はライトノベル『灼眼のシャナ』の二次創作となっています。

 語句の説明等はなるべく行っていますが、あくまで『灼眼のシャナ』原作、またはアニメを見た人を対象としています。そのため、原作を知らない、アニメも見ていない、といった方への配慮はまったく行っていません。これからも行いません。見てからを推奨します。
 原作ネタばれが多分に含まれているので、それでも読みたいという人はどうぞ。

 2. 本小説における時代設定について

 舞台を縄文から弥生時代と設定しています。こちらもできる限り調べてから書き出しているものの、細かい所は異なっている場合があります。もしそれは時代が違う、ということが分かる人がいましたら、連絡をください。小説の流れが変わらない修正でしたら、より雰囲気を出すために修正したいと考えています。

 3. 本小説の更新期間について

 作者はある程度区切りがつく所まで書いて、そこから前を修正。という形で小説を書いています。そのため、本小説はある程度区切りがつくまで投稿されることがありません。
 よって投稿は、ある程度区切りがつくまで書かれると、そこから毎日一話ずつ区切りまで投稿、という形になります。
 不定期で、更新のときは大容量かつ毎日投稿という変則投稿ですが、ご了承ください。


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1-1/3 「憤怒」

 紅世という”歩いていけない隣”の世界と関わりを持って、僅か数時間。

 人としての全存在を捧げ、その身を紅世に捧げることで彼の者らの力を借りうける存在——フレイムヘイズとなったクズキは東の山——後の唐沢山を探索していた。

 探索には同じくフレイムヘイズになった穂乃美(ほのみ)を連れており、彼女の左耳に下げられた青墨色の勾玉からは彼女と契約し異能の力を与える”剥追(はくはく)(ひょう)”が、楽しげにフレイムヘイズの成り立ちとその役目について語っていた。

 時おりクズキの右耳につけられた勾玉から、クズキの契約者”地壌(ちじょう)(かく)”の注釈や同意の声が上がる。

 おおよそまとめると、フレイムヘイズとは紅世より渡り来た”徒”による『世界の歪み』の発生を防ぎ、『大災厄』を回避することを目的とした両界のバランスを守る存在だという。

 フレイムヘイズは紅世で契約者を探す”紅世(ぐぜ)の王”にまで届く強い意志を持っているものがなるらしく、その意思は大多数が憎しみであり、その憎しみを糧に徒と戦うのがほとんどだとか。

 彼女の話す事実に、真剣に話しを聞いていた穂乃美が首をかしげた。

 

「『大災厄』というのは具体的にどのようなものなのでしょうか?」

「さぁ? 実際、なにが起きるかなんて私たちも知らないわ。

 でも考え方は単純よ。紅世の徒がこっちの世界で好き勝手するとその分世界が歪むの。今はまだ小さな歪みなんだけど……」

「塵も積もれば山となる……歪みもまたいつか巨大なものになる、ということですね?」

「その通り! その巨大になった歪みがどんなことを引き起こすのかはわからない。でもろくなことじゃないことは確かなの。私たちのような人間と契約した”紅世の王”は『大災厄』を止めるべく奮起した徒ってこと」

 

 穂乃美の疑問に、やはり”剥追の雹”は楽しげに答えるが、

 

「私たち? 君はそんな綺麗な理由で契約なんてしてないだろう?」

「どういうことだよ」

 

 ”地壌の殻”がはさんだ言葉に、クズキが食いつく。

 『灼眼のシャナ』を読んでいたことから、フレイムヘイズの成り立ちやら理由は知っていたが、個人が『同胞殺し』を決意する理由まではわからない。

 その理由のわからない存在が大切な妻の契約者であると聞けば、さすがのクズキも黙ってられなかった。その理由を達成したからといって、勝手に契約を切られたら堪ったものではないからだ。

 

「安心してもいいよ? 僕は彼女のいう『大災厄』を止めるためにわたり来た。それは間違ってない。でも彼女は少し違う。彼女の名前を覚えているかい?」

「”剥追の雹”だろ?」

「”剥追の雹”だよ? その名前——君たちで言う所の真名の意味を考えてみればいい。彼女の本質は『追って剥ぐ』存在なんだ」

「なんだそりゃ。まるで狩人か猟犬にぴったりの性格だな」

「ぴったり? むしろ天職さ。紅世の徒っていうのは自分の本質的欲求に従う存在なんだ。多くは好奇

心って形で現れるんだけど……彼女にとって悪戯に世を荒らす徒を狩る——『追って剥ぐ』ことは、彼女にとって本質に沿う行為であって、むしろそうすべき当たり前のことなのさ」

「なるほど。つまりこいつはフレイムヘイズの契約者になるべくしてなった、てことか」

 

 納得し、ジト目で勾玉を見るクズキ。”剥追の雹”は、

 

「ちょっと、あんた! 確かにそいつの言うとおり、最初はそういう気持ちで始めたのは否定しないけどね! 結局の所、最終的に到達する事実は『あんたたちの住む世界を守ること』に繋がってるんだから、そんな目で見ないでよ!」

(俺が気にしてんのは理由じゃなくて、あんたが黙って流そうとしたことなんだけど)

「まぁまぁ、あなたもそんな目をしないで。これからは一緒にいるのですから」

 

 後ろを歩いていた穂乃美が彼の手を握る。

 クズキは自分の髪を撫でつけるように何度か掻いた。別に喧嘩を始めたわけではないが、穂乃美の心配が身に染みたのだ。

 

「わーったよ。それで、続きは?」

「……私たちの行動目的はわかってくれたみたいね。それでこれからのあなたたちの(・・・・・・)行動目的だけど……これがちょっと困ってるのよ」

 

 しゅんとした声で”剥追の雹”が勾玉を震わせた。

 クズキは一瞬「徒を討滅すればいいんじゃないのか?」と考えて、すぐに困る理由について思いついた。

 本来フレイムヘイズは徒への憎しみを糧に、徒との長い戦いを戦いぬく存在だ。だというのに、自分たちは徒への憎しみから契約したわけでもなく、さらにはその原因の徒もすでに討滅してしまっている。

 つまり人間側が契約した王に積極的に協力する理由がないのだ。

 あえてあるとすれば、戦いの輪廻に踏み込むこととなった徒という存在自体を憎むことだが……クズキと穂乃美はお互いが存在することで、そこまで強い憎しみを——というよりまったくと言っていいほど——感じない。

 それをわかっているからこそ、”剥追の雹”も「戦え」とはいえず、困っているのだろう。

 穂乃美もそれに気がついたのか、困ったような顔でクズキのほうを向いた。

 善性な彼女はどうやら”剥追の雹”に協力するのがやぶさかではないようだが、彼女はクズキの巫女であり、彼の所有物——と穂乃美自身は考えている——だ。勝手に”剥追の雹”に協力を約束することはできない。

 どこか不安そうな、すがる穂乃美の表情に、クズキは弱かった。むろん断固として断るべきことは断るが。

 

「気にすんな。もうフレイムヘイズになったんだ。俺と穂乃美は世を乱す徒と戦う。お前らと一緒に……国を守ることにも繋がるしな」

「……そう。ありがと」

 

 彼女の素っ気ないお礼に、穂乃美がほっとする。

 彼女が”剥迫の雹”をどう思っているのかはわからない。何しろこの時代の人間ときたら、不思議なことがあればとりあえず神様のせいにしたがるのが常であり、穂乃美も異能の力を与える”紅世の徒”を神様のように思っていてもおかしくない。

 しかし見た限りでは、軽薄な話し方も手伝ってか”剥迫の雹”に対する神聖視のようなものは見えない。せいぜい契約者のことを新しい仲間として見ているくらいだろう。

 どうやら彼女は、実際に異能を持ち、イメージの神様に近しい存在である紅世の徒よりも、本当はただの人間でしかないクズキを上に置いてくれているらしい。

 もはや半身といってもよい”剥迫の雹”よりも自分を大切にしてくれていると思うと、少し——というよりも結構——うれしいクズキだった。

 

「それで、私たちは紅世の徒という化生を滅してゆけばいいのですね? この自在法を用いて」

 

 穂乃美が気を取り直し、掌に炎を生み出した。

 青墨色の炎は一度ゆらりと輪郭を振るわせると、その形を雹へと変えた。

 

「ええ、その通り。その青墨色の炎は私の炎の色で、そして雹は私の力の本質を表しているわ」

「より詳しくいうと? 炎の色は徒によって千差万別なんだ。そしてその雹だけど、”剥迫の雹”の本来の姿は巨大な雹塊でね、彼女の力の本質が雹なのさ。

 あと、僕たちの力をこの世界に表出させたとき、存在の力は最初炎のような姿を形取るけれど、それはあくまで『存在の力』がそういう形で見えるのであって、僕たちの本質とは少し違う。だからその雹の様に、僕たちの本質的な力を扱おうとすると、存在の力は変換され、彼女のような雹となるんだ」

 

 ”地壌の殻”は長々と説明した、が。

 

「長い。しかも分かりにくい」

 

 と、クズキがばっさりと切り捨てた。

 それに含み笑いを”剥迫の雹”がこぼした。今はまだ彼女しか知らないことだが、”地壌の殻”は説明好きだが説明下手という、少し変な徒だった。

 実は繊細なところのある友人が契約者に言葉で切り裂かれたことを、”剥迫の雹”は笑った。

 

「つまり? 君たちは存在の力を扱えて、その力は炎のようにも見える。

 同じ炎の色は存在しない。

 僕たち契約者の力を使おうとすると、僕たちの本質的力と同じ形になることが多い、ということさ」

「はーん。つまりあれだ、存在の力はガソリンで、それを使って起こしたそれぞれの行動がお前らの本質ってわけか。……いや、待てよ。つまりあれか。俺があの時使ったあの太陽みたいなやつも、お前の本質的力ってやつなのか?」

「太陽? あれは君の想像だよ。……ああ、そっか。そうだね。少し言い換えよう。僕たちの本質的力と同じ形になる、とはいったけれど、そこには多分に君たちの想像が混ざり込むんだ。

 より正確に言うなれば、僕たちの本質と君たちがもつ強さへの想像が混ぜ合わさって、特殊な形を取るのさ」

「……なんか余計にわかりにくくなった気がする」

 

 クズキは頭をかしげる。

 仮にも何度か原作で説明されているのを見たはずなのに、クズキにはいまいち理解できていなかった。全く以て”地壌の殻”は説明が下手である。

 

 少し補足をするなら、フレイムヘイズとは”存在の力”を操作し、『器』に宿った契約者の力を扱う存在である。

 彼らが操る力は契約した”紅世の王”と同じ色をしており、同じ色は滅多にいない。

 そしてフレイムヘイズが操る力は契約者の力を借り受けたものであるため、契約者の本質に似通ったものとなることが多いということだ。

 具体的な例を用いてみると、例えば”(ふつ)雷剣(らいけん)”という紅世の徒がいるが、彼は炎の代わりに雷を扱う。これは彼の真名から考える本質が”敵を討ち払う稲妻の剣”であるからだ。

 これだけわかっていればさっきの”地壌の殻”の説明は大体わかったことになる。

 なぜかクズキより理解のある穂乃美に説明され、クズキはようやく納得する。

 

「しっかし……どうして俺は太陽なんか思い浮かべたのかね?」

 

 とクズキは自分にもわからない、と首をかしげた。

 

「太陽、というのはむしろ副次的な想像だったのでは?」

「おまけってことか?」

「ええ、あのとき、あなたは太陽よりも先に稲穂畑を生み出していましたから」

 

 稲穂畑? そんなもの出した覚えはないのだが。

 穂乃美も自分も殺されかかっていた局面だったからか、無我夢中で自分でも何をしたのかよくわかっていなかった。

 ますます自分がやったことに謎が深まる。

 

「あ、でもお前はどうなんだよ」

「僕? 僕がどうかしたのかい?」

「お前の本質だよ。剥迫の雹がどんなやつなのかはわかった。だから今度はお前の番だ」

「僕の番? そうだね。一応説明するのもやぶさかじゃぁないし。僕の真名の意味は————っと、おしゃべりをしている間についたみたいだね」

 

 ”地壌の殻”の意味を問いただそうとしていたクズキの前に、開けた場所が姿を見せる。

 そこはクズキが上ってきた山の麓の村から、ほどよく離れた森の中、まるで喰らった後のようなぽかんとした広場が、そこにはある。

 

「これは……」

「”万華胃(ばんかい)()”固有の自在法、『咀嚼遠(そしゃくおん)』の痕ね……となると、この違和感はあれが関わってた何か、ってことになるわ」

 

 その広場は不思議なことに、絵に書かれた森の一部を消しゴムで消したように何も無かった。これこそが”万華胃の咀”固有の自在法『咀嚼遠』の力である。

 『咀嚼遠』はある一定範囲内の物体の存在の力を喰らう自在法で、喰われたものは最初から(・・・・)なかったことになる。

 その結果、穂乃美の前に広がる無人無物の広場が出来上がるのだ。

 

「はい、これで彼が何かしていたのは確定しました」

「後はその何かだけど……」

 

 クズキと穂乃美は”万華胃の咀”との戦いの後、クズキの最低限の治療と休息の後、強行軍で唐沢山を探索していた。

 それには多分に、”万華胃の咀”の起こしたことの調査と、なによりこの場所から”紅世の徒”が感じる違和感が、無視できないほど強烈だったことが含まれている。

 

「何か、というよりもあれだろ」

「あれ? だね」

 

 恐る恐るつぶやくのはクズキと”地壌の殻”だ。彼らの視線は広場を横断した向こうを見ている。

 

 それは裂け目だった。

 それ以外に言いようがない。そこには空間が裂け、ガラスに走る蜘蛛の巣状のひびが宙に浮かんでいた。

 奇妙な光景だ。

 何も無い場所にぽつりとひびが浮かんでいるのだから。

 いや、何よりも異様なのは、この裂け目から異様な違和感——世界に対する歪みを感じることだった。

 

「ああ、いやだいやだ。”万華胃の咀”のやつが残したものなんだから。どうせろくでもないんでしょ! 現に目の前にあるだけで吐きそうな違和感ばっかりじゃない!」

「ひび? というより、空間に裂け目ができているね……これは————」

 

 そのひびが何なのか、この中で最も博識な”地壌の殻”にも思い当たる物は無かった。

 しかしこの中で最も『あり得ない事象』に疎い穂乃美に、思い当たることがあった。

 あ、と上げた声に全員の意識が穂乃美へ向いた。

 

「なにか思い当たる節でもあるのか?」

 

 穂乃美は少し躊躇って、

 

「主人がこの地に降り立ったとき、よく似たものを目にしました」

 

 数年前、クズキがこの世界に来たとき、穂乃美は巫女として来年の豊作を祈る儀式をしていた。

 儀式の途中、世界を震わせる振動とともに空間に裂け目が生まれ、裂け目からクズキが落ちてきたのを目にしている。

 目の前にある裂け目はあの裂け目と非常に似ていた。

 

「俺が来たとき?」

 

 穂乃美にとってそれは神が降りたに等しい出来事だ。故に彼女があの一瞬を忘れることはない。しかし、クズキはその瞬間意識を失っていたせいか、まったく裂け目に思い当たることがなかった。

 穂乃美は裂け目の近くに寄ると、恐る恐るなでた。

 

「……私が見たときのものより、ふた周りは大きいでしょう。あれよりもずっと深い傷跡のような気がします」

「ずっと? 以前見たものを僕が知らないからなんとも言えないけど……これから落ちてきたっていうのは、気になるね。詳しい話を聞いてもいいかな?」

 

 この傷跡が何なのか、”地壌の殻”にはわからない。だが、この違和感、あるいは獣に追い立てられるような恐怖心をあおる裂け目に対して、無知ではいられない。

 ”地壌の殻”はフレイムヘイズの契約者——世のバランスを憂う者として真っ当な義務感から、穂乃美に訪ねた。

 だが穂乃美はクズキを見るだけで、”地壌の殻”の疑問に答えようとはしなかった。

 

「あなた……」

「……」

 

 と、穂乃美がクズキの顔色をうかがう。

 このままあったこと話せば、最終的にクズキが「それ以前」に何をしていたのか、という話になるだろう。だが、穂乃美は彼が自分からは決してそのことを話そうとしないのを知っていた。

 彼自身から聞いたことはある。だがそれは初期の村人に問い詰められたときくらいで、他は彼が酒に酔って前後不覚となったときだけだ。

 彼が以前のことを話すとき、彼は決まって悲しそうな眼をしていた。

 穂乃美はそれを思うとクズキに話させることはできなかった。

 

(……なんて考えて……穂乃美は心配してくれてるんだろうな)

 

 クズキは穂乃美の心配をありがたいと思いつつ、どうすべきか考えていた。

 今わかっていることは、目の前の裂け目はかなり危ない代物であるかもしれない、ということだけ。

 これについて調べることはフレイムヘイズとして当然の義務の為、これを通ってきた(?)クズキが向こう側で何をしていたのか、当たり前の様に話さなければいけない。

 

(別に話すこと自体はいい。俺が向こうで生まれ育ったことは事実だし、隠すことに大して意味はない。でも……)

 

 どこまで話すべきなのか。

 それが今のクズキの問題だった。

 

 別に元の世界の話を隠すことに大した意味はない。

 裂け目に飛び込んだからといって元の世界に帰れる保証もないため、向こうの世界の技術を手に入れるのは夢物語のような話だし、話したからといってクズキ自身に不都合はない。

 クズキ自身を拷問やらなにやらしても手に入る情報はたかが知れている——と思っている——からだ。

 

 だが『とある知識』に関してだけは、拷問だろうがなんだろうがするだけの価値がある。

 ————『灼眼のシャナ』

 クズキの知る大ヒットライトノベル。その内容こそが金銀財宝にもそれほど執着を覚えない徒たちですら、のどから手がでるほど価値のある情報だった。

 特に物語の最終決戦である楽園『無何有鏡(ザナドゥ)』創造については、自らが契約した”地壌の殻”がどう行動するのかわからない。

 迂闊なことを言うわけにはいかなかった。

 

(だからといって黙ってる……なんて選択肢も取れるのか?)

 

 しかし、もしクズキが話さずにいたとして、全く怪しまれずにいる……というのも難しい。

 紅世に関する知識は多い。それについて説明されているとき、まだ説明されていないのに、「知っていたせいで」納得してしまうことがあるかもしれない。

 一人にして二人と表現されることもある紅世の王とその契約者だが、それはお互いが一心同体だという信頼から成り立っている。もし疑念を覚えられ、それが大きくなればその最後はつまらないことになるだろう。————紅世の王による契約解除と、契約者の死亡、という惨めな終わりだ。

 

 クズキもそれはわかっている。

 だが、だからといって話してもいいものなのか。クズキには判断がつかなかった。

 なぜか?

 正直にいったからこそ、契約解除されるかもしれないからだ。

 

 どうして”地壌の殻”が「自分たちが何もしなくともうまくいく」ということを知って、使命感をなくさないと言えるのだろうか。

 彼が討ち手の契約者としての使命感を無くし、契約を解除されて迷惑を被るのは討ち手側なのだ。

 他にも自分だけが知識を知っていて、何も知らない契約者のほうが都合がいいと判断し、契約を解除するかもしれない。

 だから悩む。

 クズキは価値のある知識を彼らに提供するのかどうか、それを考えていた。

 

「どうしたんだい?」

 

 二人の様子に何かあるとわかっていながら、しばしの間を置いて”地壌の殻”が問いかけた。

 ”剥迫の雹”が続いて、

 

「私たちはこれから一蓮托生の関係なんだし、隠し事はなしよ、なし!」

 

 穂乃美の左耳の勾玉が大きく揺れる。

 それに穂乃美はやさしく手を添えて、揺れを抑えた。

 

「あまり暴れないでください————その、えぇ」

 

 続けて契約者の名前を言おうとして、穂乃美は彼女の名前を知らないことに気がついた。

 その様子に”地壌の殻”がめざとく気がついた。

 

「彼女の? この世での通称はレミリエントというらしいよ」

「あっ! そういえば自己紹介してなかったわね! 私は”剥迫の雹”レミリエント。”剥迫の雹”は真名で、こっちの世界での名前がレミリエントよ。あ、でも私、通称はよりも真名のほうが好きだからそっちでお願いね」

 

 紅世の徒には二つの名前がある。それは紅世に置ける名前——つまり真名と、この世界での名前——通称と呼ばれる二つの名前だ。

 ”剥迫の雹”あらため、レミリエントは朗らかに笑って自己紹介した。

 

「僕? 僕は”地壌の殻”。一応通称もあるけれど、あまり好きじゃないからね。真名で御願いするよ」

 

 ”地壌の殻”もまた、左右に意識を表出させる勾玉を震わせた。

 

「それで? 話を元に戻してもいいかい?」

 

 悩み、口を紡ぐクズキに催促の言葉がかけられた。

 ……何が最善の選択肢か。

 

 しばしの猶予の後、クズキは意を決し、(こうべ)を上げた。

 

「すこし、長い話になる……」

 

 

 

 

 

 

 

 地噴の帯び手1-1

 

 

 

 

 

 

「灼眼のシャナ……ねぇ?」

 

 口火を切ったのは”剥追の雹”だった。

 彼女の言葉に出てはならない単語があるのは、無論クズキが何一つ隠すことなく話したからだ。

 自分が他の世界からまったくの偶然でやってきたこと。

 その世界には『灼眼のシャナ』という本があったこと。

 本の物語のこと。

 終幕のこと。

 クズキは包み隠さず、すべて話したのだ。

 

「他世界からの移民? なるほど。大体の状況は把握したよ。善し悪しはともかくとしてね」

「俺としては良しであることを願ってやまないけれど」

 

 クズキがすべてを話したのには勿論理由がある。

 それは彼自身が怪しまれず、隠しきれるとは到底思えなかったからだ。

 彼は自身がそれほど有能な人間ではないと知っている。

 自信が持てなかったともいえる。

 自分一人が知識を持っていても、宝の持ち腐れのような気がしたのだ。

 

 だからクズキは強制解除もあるかもしれないデメリットよりも、共に悩み共に戦いお互いを信頼するメリットにすべてを賭けた。

 首切りの刃を待つ処刑囚の面持ちで、クズキは三人の言葉を待つ。

 

 ”剥迫の雹”が「一つ聞きたいんだけど」と声に出し「あんたはどう思ってるわけ?」問いかけた。

 彼女の問にクズキは答えようとし、けれどその問が自分に投げかけられたものではなく、耳元で揺れる”地壌の殻”に問いかけられたものだったと悟り、黙った。

 

「んー?」

「あんたとしてはこれからどうするつもり?」

 

 ”剥迫の雹”がたたみかける。

 それに”地壌の殻”はあっさりとした声で、

 

「別に? このままでいいんじゃないかな」

「はぁ?」

 

 あっけからんに言った。

 

「あんたねぇ……これだけの情報を聞いたんだから他に取れる選択肢なんていくらでもあるでしょう」

「例えば?」

「強制解除して紅世にこの話を広める」

 

 ”剥迫の雹”の言葉に穂乃美の目がぎょっとした。

 それを無視して、

 

「まさか? そんな方法はもう意味がないよ」

「有るでしょう。紅世にこの話が広まればそれだけで徒は……」

 

 ”剥迫の雹”が言葉に詰まる。

 広めて……どうなる?

 

「どうなる? さらに欲望を膨らませるだけだよ」

 

 徒がもし未来のことを知ったのなら、徒はより活発に活動するだろう。

 俺たちは新しい世界を作ることすら、あの世界では可能なのだと知って。

 その動きにはおそらく、歯止めもかからない。坂から転げ落ちるように徒はまい進するだろう。奴らはそういう存在なのだから。

 

「それに? 僕たちの目的を忘れたのかい、君は。それを考えればその程度のことで強制解除なんてしないよ」

「……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 

 今まで黙っていたクズキが口をはさみ、大声で、

 

「目的……目的ってなんだ!? 世界のバランスを守る以外、他にどんな目的がある!」

 

 フレイムヘイズは個人的な復讐心を糧に、長い戦いの輪廻へと足を踏み入れる。

 だが踏み入れさせる紅世の王の主張は一貫して『世界のバランス』を守るためだったとクズキは思っていた。

 

「勿論? 世界のバランスを守ることだよ。それ以外にはない。でも僕たちにも個人的事情がある」

「……ええ、そうね。私たちにはそれのために一緒に行動しているのよね」

 

 ここで黙っていた穂乃美が動く。

 彼女は左耳の勾玉を指でそっとさすった。

 

「そろそろ主人にもわかるようにお話しいただけないでしょうか? これでは話の流れが掴めないでしょう」

 

 優しく促す言葉に、”剥追の雹”は溜息を吐いた。

 

「……フレイムヘイズっていうのは、戦うことが義務の人間よ。なる時は考えもしないでしょうけれど、彼らの損耗率はひどく高いの。特に最初のころはね」

 

 ”剥追の雹”はわざと損耗率などと小難しい言葉で語ったが、フレイムヘイズはしょっちゅうそこらで死んでいく。

 それは彼らが一瞬の隙が死につながる戦士だからということもあるし、それ以上に徒がありえない事象を使う不可思議なやつらだからということもある。強大なフレイムヘイズの武勇伝の影に隠れてはいるが、基本的にフレイムヘイズは死にやすいのだ。

 特になったばかりのころは簡単に死ぬ。

 あっという間だ。

 フレイムヘイズになったばかりでは、ろくに存在の力も使えない。なれば戦うどころか逃げることもままらない。徒も敵が大して脅威ではないなら潰していく。

 繰り返すが、フレイムヘイズは死にやすいのだ。

 

「でも強ければいいってわけでもないの。時間をかけてやっと強くなったと思ったら、ちょっとした隙をつかれて討たれることもある」

 

 だが強くなれば死なないというわけではない。

 戦いというものは水ものだ。流れを読み間違えればすぐに死んでしまう。これは歴戦の討ち手も変わらない。

 不意をうたれたり、正体不明の自在法にやられたり。

 

「フレイムヘイズってね、そういうものなのよ」

 

 けれど、

 

「僕たちは? それを認めるわけにはいかなかったのさ」

 

 ”地壌の殻”は今までとは違う、しびれるような声色で呟いた。

 

「長い時間をかけようやく強くした契約者に死んでもらうのは困るんだ。そこから新しく契約者を探して、以前ほど強くなるのにかかる時間を考えれば、以前の契約者が死ななければどれだけの徒を討滅できると思う?」

「私が以前契約者を失ってから、新しい契約者が強くなるまで三十年以上かかったわ」

 

 クズキは自分の年齢よりも長い期間を想って、確かにそれだけの時間がかかるなら、契約者を失うことは時間の無駄だ、と”地壌の殻”の言い分を理解する。

 

「三十年だよ? 僕たちの使命、『世界のバランス』を想えば、この短くも長い時間の無駄は無視できない。だから僕は考えた。—— 一人ではなく二人で行動すればどうだろう、ってね。

 二人なら不意をうたれても、どちらかは対処できるし、逃げるにしても二人のほうが簡単だ。徒が徒党を組んでいる時もある。二人のほうがいろいろと都合がいいのさ」

「そして当時同じことを考えていた私は”地壌の殻”と行動を共にすることにしたのよ。……何十年もの年月、一緒にいた相手を失うのは……ごめんだったしね」

 

 つまり、彼らは使命と心情を考えた上で、なるべく長く契約者を生かしたかったのだろう。

 確かに個人よりも群のほうがいい。

 それは自然界の生き物を見るに明らかな事実だ。

 

「つまりお前たちは二人組のフレイムヘイズを作るために今まで行動してきていた……ってことか」

「作るために? というよりも『二人組のフレイムヘイズとして活動するために』が目的かな」

「だからよほどのメリットがない限り強制解除はしないってわけだ」

 

 ”剥追の雹”はクズキに笑いかけた。

 

「そういうこと! 実はこれが三度目なのよ。なるべく近くの場所で契約すれば知り合いで行動を共にしやすいかと思ってたんだけどね。前回は戦争をしている敵同士で契約しちゃったものだから、そこにいた徒を討滅したら、お互いに殺し合っちゃって!

 知り合いどころか、夫婦なんて関係の人間と契約できた今回はかなり幸運なの。それもお互いにもう存在の力を多少なりとも扱えてるし、器も大きい! これを逃がす手はないでしょ!」

 

 クズキと穂乃美は彼女のいう目的に胸をなでおろす。

 最初はどんな目的かと不安になったが、そういう目的ならば二人としても歓迎だった。夫婦なのに仲を引き裂かれるのは避けたかった。

 安堵からか、穂乃美がクズキの腕を抱え、肩に頭を乗せる。

 周りに誰もいないとはいえ、お互いのうちには契約者がいる。というのに、二人っきりの時のように体を寄せてくる。

 彼女は頬を緩め、ほんの小さな力でクズキの腕を抱いた。

 

「おたのしみのところ? 悪いけど、まだ聞きたいことがあるんだ」

 

 ”地壌の殻”の意識を表出させる勾玉がちかちかと自己主張する。

 

「……一応俺が知ってることは全部話した。これ以上はないぞ」

「そうじゃないよ? 整理しなくちゃいけないことがあるだけだよ。————まず一つ。今の時間軸」

 

 時間軸。

 日常会話ではまず使わない単語に一瞬何を言ってるのかといぶかしげな表情を取り、頭の中で漢字変換し、ようやくクズキは彼の言いたい次の言葉を察した。

 

「今は周りの状況から見て縄文から弥生あたりの時代だろ。大体紀元前十世紀から……あっと、どこまでだったかな。六世紀くらいまでだったか? とにかくその千六百年のどこかの時代だな」

「ほとんど絞り込めてないね? でも今それは関係ないよ。関係があるのは二つ……三つかな。そのすべてに関わってるもの……”祭礼の蛇”について、僕は話すべきだろうね」

「”祭礼の蛇”?」と穂乃美が首をかしげる。

 

 ”祭礼の蛇”とは物語でも初期の初期から名前だけは登場し、物語の根幹に存在する徒だ。それこそ徒であれば知らないものはいない、と言っても過言ではない存在だが、紅世に触れてわずかな穂乃美に聞き覚えがあるはずもない。

 クズキが確認の意味も込めて補足する。

 

「穂乃美、紅世における本物の神様だ。こっちの世界と違って紅世には本物の神様が何柱かいるんだ。”祭礼の蛇”はそのうちの一柱で、確か——『造化』と『確定』をつかさどる『創造神』だった……はず」

「よく覚えてるね? 彼の言う通り”祭礼の蛇”は創造神さ。あれは徒の願いを聞き、それが例えどんなに達成困難なことであっても、叶えてしまえるような……そんな本物の神様だよ」

 

 ”地壌の殻”はどこかさびしそうに”祭礼の蛇”を語る。

 彼の声色に穂乃美は鋭敏に何か複雑な感情を察し口をつぐんだ。だが穂乃美の優しさに気がつかない——国主という誰はばかることのない立場になってからはそういうことに疎くなった——クズキが”地壌の殻”に問う。

 

「何かあったのか」

「……考えてみればいいよ? 本当にどんな願いでも叶えてくれる神様がいる世界を。

 ……なのにその神様を近い将来討滅しなきゃいけないなんてこと考えれば……さすがの僕も少しは気落ちする」

「”祭礼の蛇”は私たちにとって、ある意味では願いを叶えてくれる善神なのよ」

 

 ”剥追の雹”もまた落ち込んだ様子だったことに穂乃美が気がつく。

(……ん?)

 クズキが「なるほど、確かに神様が実在していたらって考えると、それがいなくなることに落ち込みもするか」と考えていたとき、”地壌の殻”の言葉に引っかかるものがあるのを感じた。

 

「近い将来……ってのはどういうことだ? まさか————”祭礼の蛇”は『久遠の陥穽』にまだ放逐されない……のか?」

 

 疑問に、

 

「まさに? その通りなんだよ」

「少なくとも私たちは創造神がこっちに来たっていう話を聞いたことが無いもの」

 

 徒が簡潔に答える。

 

「ってことは……ここは現代から少なくとも三千年は前ってことか……」

「まぁ? 今回の話はそこが問題なんだけどね」

 

 ”地壌の殻”は気落ちした声にわざとらしい張りを持たせて、

 

「坂井悠二だったっけ? その物語の主役」

「あ、ああ。そいつがもう一人の主人公シャナに出会う所から物語は始まる……でもそれがなんなんだよ」

「じゃぁ一つ聞くけど? もし彼がいなかったら(・・・・・・)、物語はどうなったと思う?」

 

 坂井悠二がいなかったら。

 改めて考えて、クズキはそれはありえない前提だと思った。彼は物語の中核をなす存在だ。彼がいない『灼眼のシャナ』はもはや『灼眼のシャナ』ではない。考えたことすらないことだった。

 それでもあえて、考えてみるとするならば……

(シャナは世界中を歩いて、バル・マスケは零時迷子を再び見つけるまでおとなしくしてるってことか? ああ、でも。シャナだったら”祭礼の蛇”見つけてすぐに『天破壌砕』しそうだ……そうなるとさすがの創造神も大望の実現は難しいだろうな……って、あ! そうか!)

 あることに気がつく。

 それは坂井悠二がいなかった時、”祭礼の蛇”による大挙の実現の可能性は大きく揺らいでしまうということだ。

(いや、でも待てよ。どうして実現が揺らぐのが問題なんだ? 別にフレイムヘイズとしては新世界の創造なんてあやふやなもの、成功してほしくないはず。なのにそれが問題になるってことは、つまり……)

 

「そういうことだよ? 僕に限ってのことかもしれないけれど、僕としては新世界『無何有鏡(ザナドゥ)』の創造を歓迎したいたのさ」

 

 クズキの思考を読んでいたように”地壌の殻”は自分の考えを述べる。

 

「まぁ? あくまで君の知る物語が未来を示しているのだったとしたら……だけどね。不確実な可能性に賭けるのは反対だけど、未来の成功が保障されてるのであれば、僕としてはもろ手を挙げて賛成できたね」

 

 ”地壌の殻”は自らを賛成派だという。

 新世界『無何有鏡(ザナドゥ)』とは紅世とこの世の間に作られた徒の為の世界であり、『灼眼のシャナ』の物語は最終的にこの世界の創造を巡る争いの物語であった。徒たちは放埒の限りを許された自分たちの世界を欲して。フレイムヘイズはできるかどうかもわからない不確定な世界を作ることの危険性を考えて。両陣営は激しく争った。

 ”地壌の殻”は本来、新世界『無何有鏡(ザナドゥ)』の創造を反対すべきフレイムヘイズ陣営だが、彼は原作知識により新世界『無何有鏡(ザナドゥ)』が正しく作られることを知った。それゆえに原作のフレイムヘイズのように「問題が起きるかもれないから」という理由で反対することはないのだ。

 故に、自分を賛成派という”地壌の殻”の言葉にクズキと穂乃美は納得できる。

 だが、彼の言葉は奇妙だった。いち早くそれに気がついたのは、やはり穂乃美だ。

 

「ですが、今は違うのでしょう」

「へぇ? どうしてだい」

「話す言葉すべてが仮定と過去でしたから」

 

 指摘に”地壌の殻”は感心したように笑う。

 

「”剥追の雹”? 君はいい契約者に巡り合えたね。

 彼女の言うとおりさ。僕は「もし」楽園『無何有鏡(ザナドゥ)』が創造されるというのなら……賛成する。でも……僕はまず創造されることがない、と思ってるよ。より正確に言えば、『人を食らうことを禁止された』楽園の創造がないことが」

 

 どこか、確信の籠った声に、クズキが戸惑いがちに、

 

「『灼眼のシャナ』の未来が実際になるかどうかなんて、確かにわからない。でも、もしかしたら起こるかもしれないぞ? そのあたり、臨機応変に考えた方がよくないか。実際にあの二人が現れて創造するっていうなら、俺だってその方がいい」

「まずね? 僕の考えでは、その二人が生まれることはないと思ってる」

「……!」

 

 彼の意識を表出させる勾玉から静かな、されど水面に広がる波紋のように言葉が広がった。

 

「君は村の国守として? 今まで戦ってきたんだろう。その中で君は——人を殺したことがあるよね」

「……ああ、ある」

 

 確かにある。

 この時代では村々によって貧富の差が生まれ始めていた。

 例えばクズキの村では不自然なほど米の採取ができるが、他の少し離れた村では時おり飢饉が起きていた。

 もちろん少し離れた村の人間は死にたくない。

 だから彼らは手に青銅の剣を持ち、立ちあがるのだ。自分たちが生き残るために——他の村を襲い、食料を奪うために。

 クズキはそんな外敵から村を守るために、いつだって戦ってきた。

 その戦いは決して綺麗なものではない。敵を殺さず、なんて綺麗事は言えない。

 彼は幾度もの戦いの中で、確かに人を切り殺している。

 

「国主として? 君は合併した村の内部事情に手を出し、改変もしたんだろう?」

「したな」

 

 戦いに勝利することで、敵の村を合併し、さらに村の規模を大きくした。

 どれほど巧みに戦おうとも村の中から死ぬ人間はどうしてもでる。それを補充するためにも、これからの戦いのためにも、人は多い方がいい。

 だから村を吸収した。ただ、彼の性根はあまりに善性で、吸収した村の内部事情もよくしようと努力してきた。

 その結果、多少なりとも吸収した村はそれなりに豊かになっていった。

 

「だろう? ならこの世界で『灼眼のシャナ』は始まらない。——間違いない」

 

 それは、クズキが必死で生きてきたがための行動だった。

 そうしなければいけない理由があった。

 だが、それが”地壌の殻”の言う始まらない根拠だった。

 

「ふーん、ずいぶんと自信があるのね、あんたは」

 

 つまらなそうな声を出したのは”剥追の雹”だ。

 もっとも長いつきあいがある彼女にも、彼の考えが読み切れないのだろう。

 

「君たちは知ってるかい? 人が生まれるためには二人の人間が必要なんだよ」

「……なによ、そんな当たり前のこと、私だって知ってるわよ」

「本当に?」

 

 ”地壌の殻”の声が水面に広がる波紋のように広がった。

 彼の言葉はクズキにある出来事を思い返させる。

 クズキがまだ小学生のころの話だ。

 毎週水曜日の全体集会でこんな話をされたことがあった。

 

—— 一人の子供が生まれるためには二人の両親が必要です。

—— その二人の両親が生まれるためには四人のおじいちゃんたちが必要です。

—— そのおじいちゃんとおばあちゃんたちが生まれるためには八人のひいおじいちゃんとひいおばあちゃんが必要です。

—— 上に十回遡ると千二十四人の人が必要です。

—— みんなはそれだけの人が出会ってきたからこそ生まれた、大切な子供なんです。

—— だれか一人でもいなくなったら、それだけであなたは生まれていなかったんです。

—— だからみんな、一人一人を大切にしましょう。

 

 小学校で行われる道徳の話だ。

 クズキは今の今まで、そんな話をされたこと自体忘れていた。

 しかし、今、それを思い出した。

 

 クズキはかつて、国を守るために、人を切り殺した。

 いい訳はしない。

 

 けれど。もしクズキがいなかったら————彼は生きて子供を育て、未来に命をつないでいったんじゃないか?

 そして、人を殺すということは————その人間がつないでいくはずだった命すべてを殺すことに他ならないのではないのか?

 

 クズキの背中に、恐怖とも怖気と違う冷たい何かが走った。

 唐突に、あるいは今更に。クズキは異邦人という存在が侵略者と何ら変わらないことを理解し、心の中にあった原作という重石が陳腐なものに成り代わるのを感じた。

 それは、

 

「原作は始まらない。なぜなら、そもそも坂井悠二は生まれないから……っ!」

 

 あまりにどうしようもない現実だった。

 本来であればいなかったクズキの行動によって、多くの人間の行動が変化した。それによりこの国に将来生まれるはずだった人間は生まれない。人を十代遡るだけで千二十四人必要ならば、約二千人(十代前までのすべての人数の合計)の誰か一人でもかければ、その人間は生まれない。

 つまり、クズキが一人殺したことで、未来に生まれるはずだった数多くの命の灯火(ともしび)は消えてしまったのだ。

 今は最低でも三千年以上前の時代、現代までに百代近い代を重ねる。千二十四人程度では済まない。

 一人の本来ならば死なない人間を殺すことで——実際には出会いや、過程の影響。一人が生む子供の数等もあるので、一概にこうとはいえないものの——間違いなく途方もない数の人間が生まれなくなったのだ。他ならぬクズキのせいで。

 

 かつての日本の国家予算でも足りない、莫大にもほどがある数に影響を与えたその事実がクズキの肩に重くのしかかる。

 クズキはこれから未来を選択するのではない。すでに選択していたのだ。……原作とは違う未来を、すでに。

 後戻りする道は、もうない。

 

 

 




 この話を読んで、「あれ、通称では呼ばないの?」という疑問を持った人もいると思います。
 その答えとしては以下の通りです。

 ”紅世の徒”の呼び方として、本来であればこの世では通称で呼ぶのが正しい作法(のはず)です。
 が、まだフレイムヘイズの歴史が浅い太古の時代なので、そういった作法がそれほど重要視、ないし復旧していない設定になっています。
 個人的に古いフレイムヘイズほど真名で呼ばれるイメージなので、これからも本小説では真名重視でいきます。
 後、ぶっちゃけカタカナ名よりも小難しい真名を使った方が『シャナ』っぽい雰囲気がでるので。





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1-2/3 「憤怒」

 親戚まわりきつすぎワロタ。
 明日10時までに投稿できるかわかりません(泣)
 四日中には投稿しますので、一番力をいれた地噴の帯び手1-3/3「憤怒」までしっかり読んでください!


「君が考えていることもわかるけど? そろそろいいかな?」

 

 恐るべき事実を理解し、暗い表情で黙り込んだクズキに声をかけたのは異能の力を与える紅世の王”地壌(ちじょう)(かく)”だった。

 彼はさっきの話などどうでも良さげな声でそれよりも、と前置きし、

 

「僕たちは? そんな未来のことに悩むべきじゃないよ。今僕たちがしないといけないことは、目の前の裂け目についてだ」

 

 周囲の視線を、目の前に漂う空間の裂け目に向かわせた。

 変わらず、ガラスの罅のような裂け目はそこにぽかんと浮かんでいる。

 裂け目からわずかにもれる何かは紅世に関するものたちに、本能的な違和感——拒絶感を感じさせてくれる。

 

「あの”万華胃(ばんかい)()"の置き土産だよ? 現実への対処を優先すべきだと思うね」

 

 ”地壌の殻”の言うこともはもっともだった。

 今ここでクズキがそれについて悩んでも戻るわけでもない。はっきりいってどうしようもない。もはやクズキが悩む意味はなかった。

 それに気がつくとクズキは裂け目に視線をやって、これからのことを考える。

 過去を変えることは自分にはできない。

 今自分がすべきことはそれが何なのか見定め、全力を尽くすだけだった。

 彼は額の冷や汗を拭い取って面を上げた。

 

「確かに俺もそう思う。だけどどうしてこれがあの”万華胃の咀”が残した置き土産だってわかる」

「……うん? いい顔だ。

 基本的に徒が何か強力な自在法を使ったり、あるいは人を食べたとき、そこには僕たちがどうしても無視できない歪みが微かに残ってしまう。

 ”万華胃の咀”は独特の考えをもつ徒の典型、あの手の徒は協力をしても群れない。君の言う周期的時期なんかも加味した上で、この歪みが”万華胃の咀”の置き土産だって判断したのさ」

 

 ”万華胃の咀”がこれを作ったのか、それとも何らかの理由でできたこれを見つけ”万華胃の咀”が研究をしていたのか。どちらかはわからないが、何かしようとしていたことは間違いないらしい。

 まったく、消えた後も厄介な徒だ。と”剥追(はくはく)(ひょう)”が吐き捨てる。

 

「では実際の対応はどのようにすればよろしいのでしょうか?」

 

 いかに『存在の力』を利用できようとも、穂乃美はまだ紅世に関わって数時間足らずの新米でしかない。

 穂乃美は慎重を期すべき決断を自分で決することはできず、判断を仰ぐ。

 

「塞げるなら塞ぐ。塞げないなら誰も近寄れないように守る。これだけだね」

「……つまり、受け身になれ、と?」

 

 穂乃美の顔にはそれ以外の方法は無いのかと書いてあった。

 彼女は受け身になった勝負の勝ち目が薄いことをよーく知っていたのだ。

 契約者の不満を鋭敏に察した”剥追の雹”は苦笑とともに、鈴の音のような声で騒がしく声を上げた。

 

「基本的にフレイムヘイズなんてものは受け身なものよ! 世界中回って、徒を見つけてからようやく行動できる。そういうもの!」

「そうだね? 基本的にはどこかで待ち伏せたりもしない。フレイムヘイズはいつも行き当たりばったりの受け身だよ」

 

 ”地壌の殻”の同意に穂乃美は、だからフレイムヘイズの損耗率は高いんじゃないのか、とあながち間違いではないことを思った。

 

「ちなみに……ひびを無くす手だてに心当たりはあるのか?」

 

 あきれる穂乃美を横に、クズキが”地壌の殻”の勾玉を二本指でつまんで訪ねる。

 うっ、と詰まった”地壌の殻”に嫌な予感を感じ、

 

「そうだね? 現状は……無理かな?」

 

 ”地壌の殻”の顔が見れていたら、さぞや彼の頬は引きつっていただろう。

 前者は希望的考えであり、残りの近づけなくする策を取るということなのだろう。しばらくの間ここから離れられない、とクズキは判断した。

 自分が来たときひびはすぐになくなったらしいがこれはどうなのだろうか? ”万華胃の咀”が維持していたものであって、すぐに消えるものだといいのだが。

 

「とりあえず? ここで数日の経過を見て判断するしか無いね。この強烈な違和感に好奇心旺盛な”紅世の徒”が食いつかないわけがないし」

「だろうなぁ……」

 

 クズキが長期戦もありうると覚悟したとき、横にいた穂乃美が顔色を変えた。珍しいことに彼女の顔には若干の憤りに似た色合いが含まれていた。

 彼女はほんの少しだけ頬を膨らませると小声で、

 

「あなた……あの子をどうされるのですか?」

 

 彼女の声は少しだけ弱々しい。 

 穂乃美は今更になって——本当に今更になってだが——自分が死にかけたことを思い出していた。もしあのとき死んでいたら……自分はあの子——自分の息子を残して逝ってしまうところだった。

 穂乃美にとって一番大切な存在はクズキだ。巫女として女として妻として疑うべきもない。だが、女として妻としての穂乃美にとって、子供の存在はクズキにも負けず劣らない。巫女としての立場が無ければ、クズキよりも上にいたのかもしれない。

 そんな我が子を、今。穂乃美は思いっきり抱きしめたかった。

 クズキはそんな穂乃美の内心を——十全にとはいかないが——理解し、自分が子の存在を忘れていたことに恥じた。

 

「そうだな。とりあえず一回家に戻ろう」

 

 自然、クズキの口から帰る旨の言葉がもれた。

 彼は妻が冷たい鉄を思わせるような女でありながら、その実、情に厚く心配性な女であることをよく知っていたからだ。

 

「ちょっ、ちょっと待ちなさい!」

 

 眼で通じ合う二人の間に焦った声で割り込んだのは”剥迫の雹”だ。

 彼女は清涼感のある声を台無しにする焦りを表していた。

 

「子供? そういえば夫婦なんだよね。これは……まずいかな?」

「まずいにもほどがあるわよ! ああ、確かに夫婦なんだから当然のことだったのよ!」

「子供がいると何かまずいのか?」

 

 二人の焦りの理由がわからず、クズキと穂乃美は揃って首を傾げる。

 彼らに”地壌の殻”は苦々しい口調でこう答えた。

 

「村にいけばわかる」 と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地噴(ちふん)()び手1-2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐沢山から数時間ほど二人は歩いていた。フレイムヘイズになったおかげか、ぶっ続けで歩いても以前ほど疲れなかったことに『存在の力』の万能さを改めて感じながら、二人はようやく見えた村に目元を緩めた。

 クズキの国はクズキの村が次々と周囲の集落を吸収合併することで作られた国であり、領土の中に小規模集落、つまり村が点在する形で成り立っている。そのためクズキの村は国の中心であり、他の村よりも規模が大きい。

 中心にはクズキの住む社とそれを囲むわずかばかりの稲穂畑があり、さらにそれを囲むような円形に住居が配置されている。そして住居を囲むように堀が掘られている。

 堀の外には国の名になった見渡す限りの稲穂畑が広がっている。

 クズキが遠くから見る村の様子は変わりなく、穏やかな生活が見て取れた。

 

 クズキは付き従った村人をみすみす”万華胃の咀”に喰われたしまったことに後悔しながら、それでも顔を上げて村へと歩を進めた。

 国主としての行動の結果だ。うつむいたままなど自分が許せなかった。

 徐々に近くなる村。

 まだ緑色の稲穂が風に揺れる中には何人かの女性が畑をいじっていた。女性たちは麻を織って作られた貫頭衣を着て、長い髪を首元でまとめている。各々が穂畑の手入れをしながら笑顔で井戸端話に花を咲かせている。クズキが連れて行った男たちがいないことを抜けば、なんらいつもと変わらぬ風景だ。

 いなかった留守の間に、こちらも徒に襲われているのではないか? そんな根拠も無い不安が晴れ、クズキは微かに微笑んだ。

 

 クズキと穂乃美は村の出入り口——他国からの侵略を警戒し、周囲には堀があるので、出入り口はこの門しか無い——の前へたどり着くと、恐る恐る村の中へ入っていった。

 

「しばし待たれよ……旅の者よ(・・・・)

 

 クズキたちを出迎えたのは、村にいる一番年老いた老婆だった。四十ばかりか——この時代では驚異的な年齢の彼女は、眉をひそめ、背筋を伸ばし出迎えた。どこか穂乃美に似た鋭い視線の持ち主で、老いを感じさせない眼光がこれでもかといわんばかりに二人に向けられていた。

 

「ここは穂摘の国。旅の者よ、なにようか?」

 

 まるで見知らぬ他人への対応に、隣にいた穂乃美の肩が揺れる。

 あれほど彼女にはお世話になった(・・・・・・・)というのに。

(ああ……本当に、俺たちのこと……忘れてるんだな)

 心に針が刺さるような、そんな痛みが止まらない。

 フレイムヘイズは契約した紅世の王に器を捧げることで生まれる。そして捧げる過程で人だったころの記録のすべてが消えてしまう。あたかも炎が燃え尽きるように。

 親しかった老婆がクズキと穂乃美のことを忘れたのは、水が下に流れることと同じくらい自然なことだった。

 しかし、自然だからといって忘れられられたことが痛みにならないわけではない。

 歯を、噛み締める。

(俺は……まだいい……まだいいんだ……)

 痛みに耐えながら、クズキたちの死角になる場所に配置された村人を察知する。それは不振な人間が村に入ってきたときにどうすべきか、クズキが教えた対処法だった。つまり、

(俺たちがいた事実が消えても、俺が教えたことは残ってる……灯火が消えても残滓は残ってるんだ……)

 

「用、というほどのことでもない」

 

 クズキは自分が残した影響に眼を細めながら一歩進み出る。

 本来クズキは『神の落し子』であり、穂乃美は『巫女』の立場だ。こういった問答のような場ではクズキが直接声をかけるのではなく、穂乃美が間に入ることが普通なのだが……村人に忘れ去られたことがよほど答えたのだろう。穂乃美はするべきと自分に課したことを忘れ、呆然と老婆の眼を見ている。

 

「では、いったいなにを? この村は落穂(おちほ)の神を祭る村であり、同時にこの周囲一体を治める穂摘(ほずみ)の国の中心ぞ。まさかとは思うが……牙を剥く狼か?」

 

 ぎらり。

 そんな音と共に老婆の眼が鋭く光った。

 さすがに穂乃美の先代巫女なだけはある。

 老婆には散々しごかれたこともあってよく知っている。彼女には迂遠な言葉ではなく、直接的な言葉でいくべきだろう。

 

「俺の子を抱きにきた。会わせてもらいたい」

 

 本当なら、クズキは今すぐにでも心の痛みに耐える穂乃美を抱きしめてやりたい。だが、今は……それよりも早く。彼女に愛する我が子を抱きしめさせてやる方がいい。

 その一心でクズキは自分たちを忘れた大切な友人と向き合った。

 

「――――子?」

 

 老婆は首をひねる。今の村は年々食料事情がよくなったことも重なってたくさんの子供がいるが、誰の子とも知れぬ子はいなかったからだ。

 

「我が子、ミツキを。迎えにきたのです」

 

 老婆に忘れ去られたショックに震え、しかしはっきりとした口調で穂乃美が割り込む。

 途端、老婆は眼の色を変えた。

 

「————おのれ! 我らが落穂の神の名を騙るか!?」

 

 大音量の一括。老婆は腰元の剣を高らかに抜いた。

 ミツキとは、国の中心に据えられた場にすむ一人の赤子の名だ。

 ミツキはただの赤子ではない。『神の落し子』の子であり、正真正銘神の血を惹く子供なのだ。その親を名乗るということは、自らを落穂の神と名乗ることにほかならない。信仰深い老婆にとって落穂の神の名をかたる目の前の二人はこの時点で憎き人間となってしまった。クズキたちの言う言葉は事実なのに、だ。

 

 そう、真実なのだ。

 ミツキと呼ばれる赤子は穂乃美の体より生まれ出た紛れも無いクズキと穂乃美の子供である。

 しかし、それを知る者は世界中のどこを探しても二人以外にはいない。

 どれほど二人が子を想おうとも、どれだけ愛していたとしても。赤子すらそのことを知らないのだ。

 それが『器を捧げる』ということだ。

 

「……騙ってなどない。その名こそが俺に他ならない。嘘もなにもない」

 

 厳かにクズキは言葉を紡いだ。

 数年の経験の中で獲得した上位者としての言葉だった。

 

「おのれまだ神の名を騙るか! 氏素性も知れず、神名をたばかるとは! いったいどうして己らに神の子を抱かせられるというのか!」

 

 だが、それを教えたのは他ならぬ老婆である。老婆はふん、と鼻で笑うと剣を掲げ、太陽の輝きを刃に点す。

 

「かの子は我らが逆鱗ぞ! 触れたからには覚悟せよ!」

 

 途端、隠れていた村人が一斉に立ち上がった。

 誰もが手に剣を持ち、顔を怒りに染めている。神の名を偽られたことに強烈な怒気を発していた。

 この時代に置ける神とは実在のものだ。吹きすさぶ嵐に、轟く雷鳴に、打ち据える雹に。解明されぬ不可思議のすべてに人は神を感じる。それがこの時代の常だ。

 だからこそ、それの子供には絶対的な敬意が払われる。彼らの食料に直結する神の子ならばなおさらのことだ。

 村人は赤子に対し、本当に親愛の情と深い敬意を持ち合わせていたのだ。

 ゆえに、その名を謀り、子に何をするかわからないクズキたちに怒りの表情で剣を構える。

 

「不敬千万にもほどがありましょう!」

 

 対して穂乃美がとった行動はまったくもって『神の落し子』を最上位に置く巫女としてふさわしいものだった。

 彼女は老婆のよりも清涼に響き渡る一括と共に大地を強く踏みしめた。

 鈴の音のような清らかさに迫力を付け加えた彼女の声は場の熱気を一気に氷点下まで下げる。

 鼻白む村人たちだったが彼らの怒りはそれほど小さなものではない。雄々しい声を上げた男に引きいられ、戦いの鼓舞を高らかに歌い上げた。

 

「ミツキさまには手出しさせんぞ!」

「あの子は私たちの希望の象徴!」

「一歩たりとも村に入れるものか!」

「守るんだ! 今までのように、これからも!」

 

 わずかとはいえ、畏怖してしまった穂乃美への恐怖を吹き飛ばすように村人は叫ぶ。

 その姿は絶望的な戦争へ共に立ち向かった村人のようで。穂乃美の威圧する顔色の中にわずかな喜色が混じった。例え忘れられ剣を向けられようとも、そこには確かに夫と共に愛した仲間がいたからだ。

 

「……っ!」

 

 けれど、それでも。

 『神の落し子』に剣を向けることは許されない。

 穂乃美は食いしばって仲間たちと向かい合った。

 

「もう一度だけ言いましょう。ひけ、ひけ——退け! この方こそが落穂の神であるぞ! その心が(まこと)を感じるならば! ——剣の向ける先を自ら選べ!」

 

 途端。

 穂乃美が踏み締めた足元から青墨色の炎が噴き出した。炎は片手ほどの距離まで来るとその温度を逆転し、雹粒となって穂乃美の周囲を取り巻いた。

 

「なんとっ!」

 

 老婆の慄く声が跳びかからんとする村人の足を止めた。

 ごく普通の村人たちの前には雹を自在に操る超常の女が一人。神の身業をもって村人に相対していた。

 怒りを忘れ、息をのむ村人たち。しかしその表情はすぐに怒りの色に再び染め上げられた。

 

「おのれ! やはり女は悪神の類であったか!」

 

 そも雹とは空から落ちてくる氷である。

 大きいものになればその衝撃はすさまじく、人に当たれば死ぬことすらあるれっきとした災害の一種だ。

 では小さい雹ならば恐ろしくないのか。そうではない。小さくともれっきとした災害である雹は農作物に多大な影響を与える。雹事態の温度による冷却や、落下の衝撃による穂への影響。あげればきりなく、それゆえに稲穂を神にささげ、稲穂を中心に食し、また稲穂を尊ぶ国である穂摘の国にとって雹とは最大の敵である。

 それを操る者が現れたとあっては目の敵にするのは当然のことであった。

 常の穂乃美であれば目の敵にされることは予想できただろう。だが今はフレイムヘイズになる異常事態、子供の心配、仲間からの敵意、と心身を乱すことが重なっていた。それを考えてみれば今の穂乃美に雹の影響を予想しろというのは酷なものだろう。

 

 威嚇のために力を見せた穂乃美の思惑を外れ、場は引っ込みのつかぬ事態に成っていた。

 じりじりと村人が輪を縮めるなか、なるべく傷つけたくないと思いつつも覚悟を決め始めた穂乃美と村人たち……両者が息を潜め共に踏み出す——

 

「——待てぇいっ!」

 

 ——前に。

 大太鼓のごとし轟音が場を止めた。

 声を上げたのは穂乃美の喋りから黙っていたクズキである。

 

「その女は俺に下され巫女と成った。落穂の神が保証しよう。我が巫女に害はない!」

「なにぉ——? まだ私たちを謀ろうというのか!?」

 

 クズキは穂乃美の前に出て彼女を一歩下げると、穂乃美は心得たように膝をついた。

 怪しむ老婆の前に右手を突き出す。

 そしてなるべく偉そうに聞こえるよう腹に力を込めながら口を開いた。

 

「待て。お前たちが怪しむのも無理はない。が、少し話を聞け」

「なにを。ものども——」

「お前たちが! ……俺を怪しむのは俺が落穂の神でないと思っているからだろう。だが違う。俺はまこと、まことに落穂の神であるぞ」

「——たわけたことを! いったいお前の何が落穂の神だというのか!」

「では聞こう! なにをすれば落穂の神であるというのか!」

「それは——っ!」

 

 クズキの問いに老婆が断言しようと口を開き、その口を開けたまま固まった。

 それは彼女自身が問いに答えられなかったからだ。

 本来であれば断言できるはずのことだ。老婆は先代の巫女である。むしろ答えられなければならない。——だというのに。老婆はそれを断言することができなかった。

 

 なぜか?

 答えは単純である。

 

 落穂の神は紅世にその器を捧げ、すでにその存在がないからだ。

 

 そもそも落穂の神とはなんなのか。

 それは人間だったころのクズキに他ならない。

 元々クズキは『神の落し子』であるがその父がどんな神なのか定義され、神との血縁関係があるわけではない。ただ神々にしか起こせない奇跡から現れたために『神の落し子』と呼ばれていた。

 だから実際にはクズキは神ではない。正確にいうなら『神からの贈り物』だ。

 けれどそうとは呼ばれなかった。それはこの時代の人間からすれば厳密な事実関係が必要ないかったからだ。

 

 ——神の落とし物だし、優れた技術や考えをもたらしてくれた。戦争にも勝たせてくれた。豊かにしてくれた。ああ、この人はまるで神様みたいな人だ。いや、神様なんだ。

 

 冗談のような本当の話。

 クズキはこのような思考の推移をへて神様としてあがめられる立場になった。

 

 そして老婆が落穂の神の詳細を言えなかったのはここに理由がある。

 落穂の神という存在には落穂の神という『概念』と落穂の神である『クズキ』という二つの情報から成り立っている。

 『概念』は実りをもたらしてくれる神様。自分たちの国の象徴という意味合い、あるいは考え方であり、

 『クズキ』は本人を意味しており、落穂の神の姿や特徴はこちらの情報が保有している。

 

 だがクズキという存在が世界から欠けたことで、具体性のない落穂の神の『概念』だけが残った。

 ゆえに老婆は「なにをもって落穂の神とするのか」という質問に対し答えられなかったのだ。老婆の知る落穂の神が「象徴であり、実りをもたらす神」という非常にあやふやなものでしかなかったがために。

 

 老婆が口を開閉する様に村人たちが訝しげな表情を取った。そして自分たちも具体的なことを言えないことに気がつき、なんとも言えない苦みを噛み潰したような顔で、お互いを見合った。

 村人たちの間にできた奇妙な間。

 クズキは彼らが自分たちの記憶の欠落に戸惑うであろうことを知っていた。この奇妙な間をクズキは狙っていたのだ。

 クズキは村人たちが何らかの答えを出す前に左手を空に掲げ、叫んだ。

 

「————見よ! これこそが落穂の神の御技である!」

 

 脳裏にイメージするのは輝く太陽。

 クズキは自らの意思総体から『存在の力』のわずかばかりをくみ上げ、空に放出する。

 それは瞬く間に炎の形となり、空で球となって辺りを黄金に照らした。

 

「……おぉ……っ!」

 

 村人たちから感嘆の息がもれる。

 その光は空に浮かぶ太陽よりもずっと煌めいて人々の眼を引きつけた。

 それはまぎれもなく第二の太陽だった。

 光極の輝きは波のように村人の体を震わせ、内包する莫大な存在の力を否応無しに伝えてくる。

 太陽にも負けぬそれは、妖術だ呪術だとケチのつけられぬ、紛れも無い神の力のように村人たちは感じた。

 

「この光こそ、稲穂へと恵みをもたらす黄金の光。

 これこそがなによりの証拠だ」

 

 クズキは内心に不安を抱えながら、表にはぴくりとも出さず、小さな声でつぶやいた。

 そこの言葉を皮切りに、まず周囲にいた女が跪く。

 女たちは宝石に勝る黄金の炎と、無意識に感じた存在の力の圧迫感に、彼を神と認めたのだ。

 続いて男たちが膝をつき、最後に老婆もまた膝を屈した。

 そして老婆がゆっくりとその頭をたれると、周囲もまた、頭を下げる。

 

 クズキの頭上にある黄金の太陽はその輝きをもって「クズキこそが落穂の神である」ことを認めさせたのだった。

 村の中に静寂が満ちる。

 誰もがクズキの次の言葉を待っていた。

 

 クズキは全員を見渡し、口を開く——前に、村の奥から声が聞こえた。

 赤子の声だった。

 それは精一杯の自己主張の泣き声だった。

 見てほしい。助けてほしい。そばにいてほしい。

 言葉の話せない赤子の精一杯の言葉が、泣き声となって村に響いたのだ。

 

 それを耳にした途端。

 穂乃美の体が反応するのをクズキは横目にする。

 駆け出したい気持ちを必死で抑える穂乃美に、クズキが小さく頷く。

 

 途端。

 穂乃美は顔色を変えて走り出した。

 その声を穂乃美が聞き間違えることはない。クズキとの間に授かった子供の声だった。

 本来ならばクズキの後ろに控え続けるべきだとわかっていて、いても立ってもいられない。穂乃美は社の中で一人泣く子供の元へと走り出した。

 

 肩で息を切りながら穂乃美が社へと踏み入れた時、そこには以前と変わらない子供の姿があった。

 まだ生まれて一年ばかりの小さな赤子は穂乃美の姿を視界に納めると、より大声で泣き始める。

 数日ぶりにみる子供の姿に呆然としていた穂乃美はその声によろよろと弱々しい足取りで近づき、そっと赤子を抱きしめる。

 赤子は変わらずじんわりと暖かい。

 変わってしまった自分の、変わらない我が子の姿。ほとほとと彼女の頬に涙がこぼれる。

 

「ごめんね……ごめんね、ずっと一人にさせて……っ」

 

 ただ数日、子供を一人にさせてしまったことではない。

 すでに器を捧げた穂乃美はもう、この世にいなかったことになっている。

 故に、穂乃美の子供は天涯孤独になってしまったのだ。

 目の前に両親がいても。

 精一杯に愛を注がれようとも。

 子供が孤独になったことには変わらない。血の脈絡は露と消えたのだ。

 穂乃美はその事実を村人に忘れられることで実感し、子供に寂しい想いをさせることに涙が止まらなかった。

 彼女にとって子供とは、宝以上に大切なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこは日ノ本より遠く離れた大陸の奥地。黄河上流の深い山奥の村だった。

 年の三割を深い霧に包まれるその村は今日も変わらず霧の中にあった。

 まばらに簡素で一部屋しか無い部屋が四十ほど作られた村には、今日も狩ってきた獲物や野菜、山の恵みが干され、すこし外れた場所では土器を焼く煙が空へあがっている。

 山奥にある村としては破格の規模といってもいい。

 ちょうど村がある周囲の山では銅が取れ、また運ぶ為の川も近く、多くの人と金が集まるからだ。村は山奥とは思えないほど活気に満ちた村だった。

 ただ、一つ。いつもと違うことがある。

 それは村の中心に小高い山があることだ。

 心清き者はそれを見て眼を背けるだろう。汚濁にまみれた者はそれをゴミ山と称すだろう。なにせその小山は無造作に積み重ねられた人の死骸で作られていたからだ。

 

 小山——と称すこともはばかれるもの——の頂点、そこには一人の女が座している。立てた膝に肘を乗せ、頬杖をつく姿は一見すると粗暴な印象を与えてくる。

 少しばかり女と称すに躊躇われる風貌をことさらに強調するのは、背部からでもわかるほどに鍛え抜かれた体だ。

 男にはない女の柔らかさなど欠片も無い。

 女らしい細い腕であっても、ついた筋肉は鋼と見まごうばかりにしなやかなで、豹のような鋭い印象を見る者に与える。

 

「まったくよぉ……どいつもこいつも……」

 

 彼女——紅世の徒”業剛(ごうごう)因無(いんむ)”は口の中の物を吐き捨てた。

 飢えた獅子のたてがみを思わせる金髪をがしがしと指でかき回し、不規則に膝をゆらしている。彼女はひどく不機嫌だった。

 ぺっと吐き捨てた物が軽快な音とともに小山から転がり落ちる。人間ではない彼女の吐き出したものは、無論何かの食べ残しなどという生易しいものではない。転がるそれ——人の指は小山の一番下まで落ちると、頂点に座る女を眺めていた女性の足にぶつかった。

 

 粗野な獅子のような"業剛(ごうごう)因無(いんむ)"とは正反対に、下から眺める女性は妖艶な女だった。瑞々しく張りのある肌と、肉感溢れる体型、しゃぶり付きたくなるような潤んだ瞳は異性の情欲を誘ってやまない。

 婦人用の上下服の繋がった衣類——現代で言うところのワンピース——に身を包み、唇には(べに)をさしている。この時期の中国にはまずあり得ないベニバナの口紅は、彼女の表情をいっそう艶やかなものにしている。

 蠱惑的、あるいは艶然とした女。それが紅世の徒——”兎孤(うこ)稜求(りょうきゅう)”である。

 

「まったく。どうせこうなるなら食べちゃえばよかったのに」

「あ゛ぁ?」

 

 ”兎孤(うこ)稜求(りょうきゅう)”はどことなく呆れた顔で艶やのあるため息を吐いた。

 返答に威圧感のある視線を返す”業剛因無”に”兎孤の稜求”はやはり呆れた視線を向ける。

 

「だってそうでしょう? どうせ殺しちゃうのなら『存在の力』に変えちゃえば良かったのよ。そっちのほうが無駄がないし、楽じゃない」

 

 ”兎孤の稜求”の言うことはもっともである。

 徒にとって人間を殺す、ということにたいした価値はない。何の力も地位もない人間をいくら殺して山を作ろうが、そんなことは弱い徒にもできることであり、誇れることではない。

 むしろそんな手間をかけるくらいならば、さっさと存在の力に変換し食事を終えてしまった方が楽で、自分がやりたいことをする時間も増えるというものだ。

 対する”業剛因無(ごうごういんむ)”は足下の人から腕を引きちぎり、苛立たしげにその肉を喰いちぎった。

 

「だってよぉ……こいつらときたらさぁ……私に向かって「なんて姿だ。近くに川があるから清めてくるといい」、なんて言うんだぜ? 私は頭にきちまって、思わず皆殺しにしちまったよ」

「……たぶんそれは村人の善意よ。旅人を心配してくれる人だったんでしょうね」

「そうかぁ……あの優しげで「もう大丈夫だよ」なんて顔に書いてあるようなやつらだぞ? あれは絶対心の底で私のことを哀れんでた。

 あーもう! 思い出したらまたイライラしてきた!」

 

 まったく相も変わらずすぐに苛立ちを募らせる徒だ、と”兎孤の稜求”は嘆息した。

 無論、徒の本質——あるいは行動指針が簡単に変わることなど、めったに無い。”兎孤の稜求”もわかってはいる。しかし”業剛因無”だけはささっと本質を変化させてほしいと思ってしまう。

 なにせ彼女の真名は”業剛因無”。『業』は制御できない感情(いかり)を、『剛』は強烈な剛力を、『因無』は物事の原因がないことを表す。つまり彼女の真名は『怒りにまかせ理由無く振るわれる剛力』という意味なのだ。

 真名はその徒の本質を表している。”業剛因無”はその典型だ。近くにいる”兎孤の稜求”には危なっかしくて仕方ない。

 実際、”業剛因無”は我慢が効かなくなったのか、手に持っていた死体の一部を放り投げ、思いっきり振りかぶった左腕を死体の山に打ち付けた。

 途端。

 山が爆発したように弾け、死体がばらばらと空に打ち上げられた。強力な腕力で死体の山を吹き飛ばしたのだ。

 衝撃で粉々になった死骸が雨のように落ちてくる。これがただの八つ当たりなのだから厄介きわまりない。"兎孤(うこ)稜求(りょうきゅう)"が不快に眼を細める。

 

「ちょっと。私の近くで暴れないでちょうだい。当たったらどうするのよ」

 

 ”兎孤の稜求”に対する返答は無言で拳を振り下ろすことだった。

 再び爆音と共に大地が揺れる。恐るべきことに”業剛因無”の拳は一撃で小山を吹き飛ばし、二撃目で大地に大きな傷跡を作り出していた。

 

 それだけの光景を作り出しても、情動が収まらぬのだろう。物に当たるように"業剛因無"は大地を連打する。

 噴火のように土砂が舞い上がること十数回。深いクレーターの中心で”業剛因無”は顔を真っ赤にして荒い息を吐いた。

 

 ”兎孤の稜求"は落ち着いた?と口に出す寸前で言葉を飲み込んだ。何かにつけてキレる”業剛因無”に落ち着いた、と聞くことが禁句なことを思い出したからだ。

 しばし言葉を選び、”兎孤の稜求”は本題を切り出すことにした。

 

「”万華胃の咀”を覚えているかしら?」

「……あの裏切りもんがどうしたぁ?」

 

 人の話を聞かない”業剛因無”も流石に”万華胃の咀(旧友)”の話となると反応せずにはいられない。仲間に向けるものとは思えない鋭い視線が"兎孤の稜求”に向けられる。

 

「あれからも一定期間おきに私が連絡をしていたのは知っているでしょう? つい最近、向こうから返答があったのよ」

「へぇ……なんて?」

 

 落ち着いたように聞こえる”業剛因無”の声を嵐の前の静けさと自分に言い聞かせ、”兎孤の稜求”は”万華胃の咀”の言葉を告げた。

 

「『見つけた。救援もとむ』、ですって」

「————あのミミズやろおおぉぉぉぉ!! 裏切っておいて助けてだぁ!? ぶっ殺されてぇのかぁぁ!!」

 

 特大の衝撃が大地を揺さぶった。

 噛み砕かんばかりに噛み締めた歯がたてる音に”兎孤の稜求”が眉を細める。お世辞にも彼女の歯ぎしりの音は優雅ではない。

 

「別に悪い話でもないでしょう。百年以上探してきてようやく『見つけた』のよ? それでいいじゃない」

「ああ、そうだなぁ。そりゃ確かにいいさ。でもよぉ……? あのミミズは私たちを裏切ったんだ……だったらよぉ、それ相応に痛めつけて、叩き潰して。グッチャグチャになるまで殴られるのが筋ってもんだろぉ? なぁ……ぁ?」

「……そうね。わかったわ。あなたの好きにしなさい」

「それで、あのミミズはどこにいるんだ……ぁ。おい」

 

 ”業剛因無”の舌打ちに、”兎孤の稜求”は下唇を湿らせて、ちょうど昇り始めた日を指差した。

 

「ここから日の昇る方角。海をわたった先の島国に”万華胃(ばんかいの)()”はいるわ」

 

 まばゆいばかりの太陽を忌々しげに手で遮りながら東を見つめる。

 ”業剛因無”も聞いたことがある。確か日の(いずる)麓には巨大な島があり、そこにも何らかの国があるとかないとか。

 ”兎孤の稜求”は基本的に戦闘のできない徒だ。ほとんど戦闘能力をもっていない。しかし彼女は強大な”紅世の王”の一角。戦闘能力の代わりに多数の補助的『自在法』を保有していた。その中の一つが、特定の人間あるいは徒の位置を把握する『ヒロイの(せい)』である。

 この広い世界、はぐれればそれこそ一生会わないこともある。連絡を取り合うことも、位置を知ることも一苦労だ。だが”兎孤の稜求”の自在法があれば、かなり楽に連絡が取り合える。さすがに遠く離れすぎると精度が落ちるらしいが……”業剛因無”は過去の実績から、”兎孤の稜求”の自在法を信頼していた。

 

「へぇ……そうかい」

 

(あと少し(・・)であの憎たらしい”万華胃の咀”の顔面をぶっつぶせる……!!)

 位置を断言したのだからそれほど遠くないのだと”業剛因無”は踏んだ。胸が沸き立つのをまったくもって止められない。

(あと少し、あと少しだ……! くかかかっ! ああぁ、楽しみだ——)

 ”業剛因無”は頭の中の旧友を血だるまにした光景にほくそ笑みながら、「それで……距離は?」と、何気なく距離を聞いた。

 すると”兎孤の稜求”は何気なく距離を取りながら、これまたさりげなく言った。

 

 

「そうね。全部で三ヶ月くらいかしら」

 

 

 ”業剛因無”の怒りが爆発したのは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここ最近、穂乃美の機嫌がいい。

 近況を振り返って、クズキが最初に思いつくことがそれだった。

 

「しっかしまた、なんでだろうな?」

「さぁ? 僕に聞かれてもねぇ」

 

 契約者の独り言に、右耳の勾玉から声が上がる。ここ最近、クズキの独り言に一言入れるのが二人の日常だっだ。

 ”地壌(ちじょう)(かく)”の声に、クズキはあぐらの足を組み替える。

 ずいぶんと長く神社の広間であぐらをかいていた。作られたばかりの木の香りが充満した神社の中で、クズキは妻のご機嫌の理由を考える。

 

 あれから三ヶ月が過ぎていた。

 この三ヶ月はフレイムヘイズの基本を学びながら、再び国主として精力的に動く三ヶ月だった。光陰矢の如し。クズキにとってまさにあっという間の三ヶ月だった。

 

 その理由は二つある。

 一つはクズキという国主の存在が世界から欠けてしまったため、今まで治めていた国が次々と反旗を翻したことが挙げられる。

 男たちが”万華胃の咀”に喰われ国力は低下し、周囲国にとって落穂の国の中枢はまさにカモだった。すぐに大規模な反乱になることが予想され、クズキたちはこれに多いに慌て、対処することになった。

 

 本来、フレイムヘイズは人の世に関わることを極力避けなければならない。原作の知識からクズキはそう思っていたし、彼と契約した”地壌の殻”も穂乃美と契約した”剥迫の雹”もそう思っていた。

 がしかし、目の前で自分たちが築き上げてきた国が戦火の中心となるとわかっていれば、止めたいと思うのも人情というもの。

 最大で数万規模の人間が死傷してしまう。戦いを止めるためクズキと穂乃美は契約者に何度も頭を下げ、これに介入することにしたのだ。

 

 最終的に、クズキたちは戦争を止めることができた。

 それはもういろいろとあった、涙無しには語れぬこともあった。本の一冊でもできてしまうのではないかというくらいあった。のだが、ここでは詳しくは語らない。

 

 そして現在。

 すったもんだの末、クズキは国の神として逗留することとなっていた。

 

 本来はこれもいけないことではあるのだが、理由がある。

 それは東の山にできた亀裂を——”万華胃の咀”が残した異物がいっこうに消えなかったため——長期にわたって監視する必要があると判断したからだ。

 そのため、監視するための拠点が必要となった。

 クズキは国の神となって、東の山——唐沢山の麓に町を作り、これを拠点としたのだ。神として崇められたのはその対価のようなものだ。

 それに付け加え、数万の人的資源を動員できるので、いろいろと都合もいい。クズキたちフレイムヘイズ一行はそう判断した。

 

 クズキは神。

 穂乃美はクズキに降された元神、現巫女。

 これがクズキたちの今の立場だ。

 変わったのは穂乃美もまた神の一柱に数えられていることくらいだろう。

 

「しっかし……本当に理由がわからないんだ……」

 

 その穂乃美だが。

 クズキが唐沢山の麓に居を構え、しばらく立った頃からやけに機嫌が良かった。

 それまではいつものように鋭い眼で麓の村を作る指揮をしていたというのに、ある日を境に目元はゆるみ、言動は柔らかくなった。ここまで機嫌が良いのはなかなか無い。

 これほどとなると、それこそ結婚式の夜や子供の顔を初めて見た日くらいか。長期間という括りでは間違いなく無い。

 

 彼女がここまで幸せそうにしているのだから、多分自分がなにかしたのだろう。……というのはわかる。うぬぼれかもしれないが、まぁ、そこは間違いないだろう。一瞬たりとも間男と考えないのがクズキと穂乃美の間柄である。

 

 しかしトンと覚えがない。

 一体自分は何をしたのだろうか。てんでわからないのでクズキは新たな自分の半身に相談してみた。

 が、”地壌の殻”はこれに関してはまったく興味無さげにこう答えた。

 

「一応言っておくけれどね? 相談する相手、間違えてるよ」と。

 

 いかにも自分は関係ない、と言葉の端に含める”地壌の殻”にクズキはむっとして、

 

「そんな言い方無いだろう。ただ俺が手詰まりだったからちょっと意見を聞きたかっただけだろう」

「まず言っておくけどね? 基本的に君と同じときにしか彼女と会話していないんだよ。なにせ僕は君の右耳で揺れてる勾玉なんだから」

「それでも思うところとか、意見とかあるだろ。そういうのが聞きたいんだ」

 

 はぁ、と”地壌の殻”はため息をはく。

 

「だって考えてもみなよ? かれこれ数年も夫婦なんだろう? 僕よりもよっぽど答えに近いと思うけどね」

「だからー、そういうことじゃなくてな。他人の視点と言うか……なんというか。そういうのがほしいわけだ」

「よしんば他人の意見が欲しいとするよ? それでも僕に聞くのは遠回りをしていると言わざる終えないだろうね。

 僕は君を介しての三ヶ月間しか一緒にいないんだ。一対一で腹を割って話したこともなければ、愚痴を聞いたことだって無い。そんな僕に相談するのは……そうだね。他国の言葉で言うところの——ナンセンスってやつだ」

 

 わざわざ遠い他国の言葉を使う辺り、よっぽど呆れているらしい。

 まったく協力する気のない”地壌の殻”の声に頬を引きつらせながらも「ああ、確かにこいつに相談したのは間違ってたな」とクズキは反省した。

(……二度とこの手のことで相談しねーからな!)

 心の中で半身に対するものとは思えない決意を表明するクズキ。彼に気づかず、”地壌の殻”は口を止めない。それどころか機嫌良さげに右耳の琥珀がゆらゆら揺れる。

 

「第一に? 僕に聞くくらいなら三ヶ月間どこにいくにも一緒、寝るのも一緒の”剥迫の雹”に聞くべきだね。それが無理なら同性であるあの老婆の巫女に聞くべきだよ。まかり間違っても僕じゃないね

 それにだよ——?」

「それに?」

「機嫌がいいなら正面から聞けばいいじゃないか」

 

 ”地壌の殻”はこともなげにいった。

 実際そうだろう。不機嫌な人に過去を聞くのはこじらせることが多いが、機嫌のいい人間というのは基本的に大らかだ。ましてや『機嫌のいい理由』ならば喜んで話してくれるだろう。

 徒である”地壌の殻”にだってそのくらいのことはわかる。

 

「事はそう単純じゃないんだよ……」

 

 クズキはため息で返答した。

 

「どんな問題があるんだい?」

「この三ヶ月、いろいろあったけど基本的には一発触発の状態だったからな。まぁ”地壌の殻(おまえ)”がわからないのも無理はないか」

 

 クズキはここ三ヶ月の出来事を思い返す。

 そこには怜悧な美貌と鉄のような——あるいは氷柱のような——雰囲気の穂乃美がいた。

 戦争の一歩手前ということであまり個人的な時間は取れなかった。そんな状態では”地壌の殻”が穂乃美の常を鋭い印象で固定してしまっても仕方が無い。

 決して間違っているわけではない。

 意図せずとも穂乃美は常に鋭い雰囲気を纏っている。ある種、それも彼女の側面なのだろう。

 しかしクズキは知っている。

 例えば。穂乃美がその実、甘えることもある柔らかな女性なのだということを。

 例えば。クズキが告白の言葉を覚えていないと知ったとき、彼女がしばらく口も聞かなかったことを。

 例えば。度重なる戦争の中で彼女の両親が死んでしまった時、涙をこぼしたことを。

 例えば。穂乃美は深いキスに一時期はまって、ことあるごとに唇を求めていたことを。

 クズキは穂乃美のたくさんの側面を知っていた。

 

 そう。たくさん知っている。

 知っているからこそ、クズキは穂乃美に面と向かって聞けないのだ。

 なぜか。それは、

 

「あいつ、自分がうれしかったこと覚えてないと……すねるんだよ」

「へぇ……」

 

 気の抜けた声が耳元から溢れた。

 なんだか呆れているような気もするが、クズキは昔のことを思い返す。

 

 それはある夜のことだった。

 子供もいない若き日の夜、することはまぁ新婚の男女とあって俗に言うところの夫婦の営みの時間。まだ覚えたてとあってそれはもうクズキは胸を高鳴らせていた。穂乃美もまた自分を求めるクズキに胸を熱くしていた。雰囲気は完璧だった。行き着くところまでいく空気だった。

 そんな中、いざという時、穂乃美はクズキにしなだれかかり、そっと呟いた。「あの日のことを思い出します。お願いです、どうか。あの日の告白の言葉を、もう一度頂けませんか?」、と。

 クズキは熱っぽい穂乃美の言葉に頷き、耳元で「好きだ……」とささやいた。

 そしてそのまま押し倒し……なぜか眼をぱちくりさせる穂乃美と目が合ってしまう。

 

「あなた……?」

 

 不思議そうな顔でクズキを見つめる穂乃美だったが、次第に顔色を変え、覗き込むように言った。

 

「もしかして……覚えていないのですか?」

 

 穂乃美は恐る恐る問いかけた。

 ……実のところ、クズキは穂乃美にした告白の言葉を覚えていなかった。

 仕方ない、と言うこともできる。なにせ一度だって告白したこともない男だったのだ。それが国一番の美女に告白するとなれば……さらに受け入れてもらって、大好きな人を抱きしめることもできたのだ。興奮のあまり言葉を忘れるのも仕方ない。

 それをクズキはばつの悪い顔をしながら正直に話した。笑い話になると思ったのだ。

 が、自体はまったく違う方向に飛んでいった。

 

 穂乃美はクズキに「命を捧げよ」といわれたら即答で捧げてしまうほど、クズキに尽くす巫女なのだ。正直、「今まで自分がいったことを暗唱してみろ」と命令してみて、穂乃美が実際に過去の言葉すべて暗唱してみても、クズキは驚かない。それほど穂乃美はクズキにすべてを捧げている。

 そんな穂乃美にとって、それがクズキからの告白の言葉となれば……大海のごとし黄金と比して、なお勝るだけの価値があるだろう。

 それをクズキは覚えていなかった。すっかり忘れていたのだ。

 それは穂乃美が情事の雰囲気を吹っ飛ばし、家に帰ってふて寝してしまうのも仕方ない(・・・・)ことだった。

 それから穂乃美は口を聞いてくれず、クズキは思い出せず。

 クズキは告白をやり直すように、幾多の状況を作ってからの告白を繰り返すことになるのだが……

 

 閑話休題。

 

 またあれのようなことをしなければいけないと考えると、背筋が振るえる。

 前回は穂乃美に何度告白しなおしたというのか。六回はやった。どれも違うムードのある状況を作るのにどれだけ頭をひねったことか。

(さすがにあれはもうごめんだ)

 クズキはどうにかして彼女を不機嫌にしないような方法がないか考える。

 

 しかしどうにも浮かばない。黙り込んだ”地壌の殻”も答えてくれない。

(とりあえず、理由は聞かないでおく方向でいくしかないか……理由は気になるけど)

 嘆息をつくクズキ。

 国主としての経験を生かして、その理由には触れないようにしよう。と無駄な覚悟を決める。

 

 するとちょうど良く外から足音が徐々に近づいてきた。

 ずいぶんとご機嫌なのか、弾むようなリズムの足音だ。 

 それは扉の前で止まると声をかけた。頷くと、静かに扉が開く。正座し、深く頭を下げた穂乃美がいた。

 一言、二言挨拶をし、中へと入って、クズキの前で再び正座する。

 彼女は以前のような白の貫頭衣ではなく、深い青——藍色の貫頭衣に身を包んでいた。落穂(おちほ)の巫女としての立場は変わらなかったが、どうやら見ていた者は雹の印象が強かったらしい。友好を持った民に新しく着ている服を奨められたのだ。最初断ったのだが、熱心な奨めと何より今までに無い方法で染められた藍色の服を気に入って、今では巫女の服として採用していた。

 

「ご報告がいくつか。まず第一に——」

 

 彼女の報告を聞きながら、相変わらずその服も似合っているとクズキは内心で褒めていた。こんな美人のお姉さんが俺の嫁さんなんだぜ。

 不機嫌なときの穂乃美であれば、精神のたるみに気がつき鋭い眼を向けてくるのだが、今の穂乃美は「しょうがないわね」と慈母のような瞳でわずかに笑うのだ。

 なんかもう俺、幸せすぎる。クズキもくすくすと笑みをこぼす。

 

「——というように、国内で祭る為の祭りを盛大に行おうという話が……」

「ああ、その件については盛大にやってもらってかまわない。なんなら倉庫の奥の米を放出してもいい。せっかく祝ってくれるっていうんだから、こっちからも何かしないとな」

 

 自然、挙げられる案件への対応も寛容なものになる。

 祭りに貴重な米を——昨年の古いものとはいえ——放出するというのは、他国ならまずやらない大盤振る舞いだ。さすがの穂乃美も少し眼を見開く。貯蔵する米は有事のためにとって置かなければいけない財産なのだ。

 さすがにこの対応は軽率(けいそつ)と思ったのだろう。穂乃美は首を傾げ、「……ずいぶん機嫌が良いのですね」とたずねてきた。

 

 うかつな発言だったか?

 まさかお前が可愛かったからだよ、なんて言えるわけもなく。クズキはごまかしついでに「お前ほどじゃないよ」と澄まし顔で言った。

 

「きゃはは! ほら穂乃美、私の言った通りでしょう?」

 

 オオルリに似た声で”剥迫(はくはく)(ひょう)”が笑う。

 穂乃美はそうでしょうか、とつぶやき、手の甲で頬に数度触れた。

 

「そうよそう。だって最近の穂乃美ってば目元は柔らかいし、一人のときは鼻歌ばかりじゃない。旦那がそう思うのも仕方ないわよ!」

「それはいいこと聞いた。今度穂乃美の歌、聞かせてもらいたいな」

 

 穂乃美の歌なんてクズキも聞いたことがない。わりと本心から言ったのだが、穂乃美は澄ました顔で「機会があれば」と言う。

 

「よし、祭りでお披露目してもらおう」

「はぁ……あなた」

「はは、わかってるわかってる」

 

 下からじと目で穂乃美が念を押す。

 

「歌は歌の専門家に任せるべきだろう。穂乃美にはむしろ祭事の始まりに詩ってもらうべきだしな」

「ええ、もちろん。巫女としての責務でしょう」

 

 穂乃美は当然とばかりに頷いた。

 巫女としての仕事の中に祝詞(のりと)というものがある。これは祝いの言葉、ではなく儀式の最初に神に捧げる言葉だ。他の宗教では神父、僧のように男が読むのが普通だが、落穂の神には女性が行うのが代々のしきたりだった。先代の巫女が言うには女性は生む者であり、落穂の神の権能……つまり穂を生み出すことになぞらえてのことらしい。

 元真面目系学生としては男に詠わせたほうが体裁がいいかな、なんて考えもしたが……まぁぶっちゃけおっさんより美少女に詠ってほしいクズキとしては喜ばしきしきたりなので、特に変えなかった。

 ふと、ここでクズキ。ある方法を思いついた。この詩を利用して妻のご機嫌の理由を探れる方法を、だ。

 

「思い返せば激動の年だったな」

「ええ。子供を育て、新たな社を作り、なにより私たちは人をやめました……激動の年。これはあなたが落ちてきた年に比肩しましょう」

 

 まずは基礎。不自然にならないように鍬でお互いの空気を耕す。

 突発的な話題の提供にも律儀に反応し、穂乃美が思った通りの返しをしてくれたことに内心頬を和らげる。

 

「あのときはあのときで大変だった。けど世界に対する見方の変化は今年の方が上だ。なにせ自分の存在自体がまるっと変わったんだ。穂乃美、どうだろう。これをきっかけに祝詞の中を変えないか?」

「祝詞を、ですか?」

 

 別に祝詞の中身が変わることは珍しいことではない。前年に飢饉があればそれを退ける内容に、洪水があれば雷雲を厭う内容に。あるいはその年が良かったのは神様のお陰ですという感謝の内容に。祝詞はわりとすぐに変えられる。現代ではどうだったのか知らないが、クズキが知る祝詞はそういうものだった。

 だからクズキの言うことも別に変ではない。

 穂乃美もそれに承知したのか断ることなく——そもそも嗜めることはあっても穂乃美に神の言葉に逆らうという選択肢は存在しない——「ではどのような言葉にすべきでしょう」とクズキに問う。

 だからクズキはこう答えた。

 

「その一年であった一番良いことを神に報告する、というのはどうだろう」、と。

 

 うまい。うまいぞ俺! と自分を絶賛するクズキ。

 かつてないほど機嫌がいい穂乃美ならば、この祝詞で話すことは今の機嫌がいい理由になるだろう。

 それとなく穂乃美の機嫌のいい理由を聞くのにこれ以上の方法はあるだろうか、いやない!

 わざわざ反語まで使ってクズキは断言する。

 どう考えてもそれとなく機嫌の理由を聞く方法は他にあるのだが、クズキが思いつく方法はこんなものだった。

 自分の欲望の為に神聖な祝詞を変える落穂の神(クズキ)。日本神話には自分勝手でいい加減な神が多いので、神らしいと言えば神らしい。元現代人だけれど。

 

「一番の良いことを……」

 

 なにか思うところがあったのか、穂乃美はお腹に手を当ててしばし悩んだ。

 

「それは……そうですね、例えば豊作のことを詠えばよろしいのでしょうか?」

「いや、個人的なものでもいい。豊作やらなんやらの儀式はもうある。俺を祭る社の始まりの儀式なんだから、二度手間になるのは避けたい。むしろ縁起を良くする為にも吉報を届ける気持ちで、祝詞を作ってほしい」

「なるほど……」

 

 この時代、縁起をかつぐのは大切だ。

 クズキとしてはそんな迷信どうでもいいとすら思うのだが、民はそういった謂れや縁起を大切にしている。となればクズキも自然、そういったことには気を配る必要があった。

 

「しかし個人事を儀式で詠うのは避けた方がよろしいのでは?」

「いっただろ、吉報って。良かったことを聞けばこっちだっていい気分になる、だろう?」

 

 クズキ、さりげなく次のために一言付け加えておく。

 これで次にこういうことがあっても、「今祝詞を考えるならどんな祝詞にする?」と聞けば一発でわかる。なんという策士……おそるべきは我が頭脳よのぉ……

 などとクズキが自画自賛する中、穂乃美は少しの考慮の後、珍しく目線をさまよわせる。そして何かしらの覚悟を決めたのか目尻を鋭くさせ、背筋を伸ばして胸を張った。空気が冷気のように鋭く張ったのを感じ、クズキもまた姿勢を正す。

 

「では、私のことを一つ、祝詞として祭りの際に詠いましょう」

「それで、内容は?」

 

 動機こそふざけているがこれも国事だ。事前準備なくぶっつけ本番で挑むものではない。国事という大事だからこそ予定調和であるべき。内容の確認は必須なのだ。穂乃美もそれをわかって、内容をはきはきと答える。

 

「はい。私の――」

 

 言いながら穂乃美は膝の上に置かれた手をそっとお腹に当て、数度撫でる。その手は慈愛の心をもった優しい手だった。まるで赤子の頭をなでるような、あまりにも慈しみに満ち満ちたその動きに、クズキはムズ痒い違和感を覚え、次の言葉でその正体を悟った。

 

「――――私のお腹に宿った、新しい命への感謝を。この喜びを。祝詞として捧げたいと考えています」

 

 なるほど。彼女は以前から子供をほしがっていた。それができたとなれば、穂乃美の常にない機嫌の良さ、確かに納得できる。

 だが、

 

「……」

「ほぇ?」

 

 ”地壌(ちじょう)(かく)”は沈黙を、”剥追(はくはく)(ひょう)”は呆けた声でその言葉を受け止めた。

 クズキは思考を止めないように気をつけながら、瞼をふせ、話の続きを促す。

 

「ここのところ、月ものがきていないのです」

「……なんで今まで言わなかった」

「ぬか喜びにしたくなかったのです。ですがもう三月。体調も悪くはありません。悪霊にいたずらされたということもないでしょう。子が、子ができたのです!」

 

 うれしそうに頬を綻ばせて語る穂乃美の声に、クズキはんー、と唸り声を洩らす。穂乃美の熱とは裏腹に重い沈黙が三人の間に存在していた。それに気づかず、穂乃美はたたみかけるように続ける。

 

「生まれる時期は田植えのころになるでしょうか。落穂の神の子としてはいい時期になりましょう。皆も必ず喜びましょう」

 

 黙っていた秘密を打ち明けたからか、喜びが溢れんばかりに穂乃美の笑顔を彩っている。

 祭事だ。良事だ。子供が生まれることは間違いなく善事だ。聞いてみれば穂乃美の機嫌がここまでよくなる理由なんてこのくらいしかない。

 今まで見たことがないくらい機嫌がいい理由がわからない、なんていっていたがなんてことはない。以前にも子供が生まれた時には酷く機嫌がよかったのをクズキが自然と例外にしていただけだ。

 だがクズキにもいい訳がある。自然無意識にその可能性を例外としてしまうわけが。

 なぜなら。フレイムヘイズは――

 

「……地壌の殻」

「……残念だけど?」

「…………剥追のっ」

「ないわ……」

 

 かすかな希望にすがった結果は否定。クズキは穂乃美を前にして頭を抱えてしまう。

 

「あなた……」

 

 ようやく周りの空気に気がついたのか、不安そうな声でクズキを呼ぶ穂乃美。彼女の声色に言うべきなのか、自問してしまう。先延ばしにすべきじゃないのか? そんな逃げが頭の中に浮かんだ。

 

 いいや、だめだ。

 逃げたところでいつかは追いつく。なら今はっきりとすべきだ。真正面から向かい合うべきだ。

 クズキは眼前の穂乃美の手を握り、彼女と目を合わせる。

 

「穂乃美……」

 

 彼女の黒曜石の瞳の中をしっかりと覗き込みながら、子供に言い聞かせるようにはっきり。クズキは言った。

 

「フレイムヘイズに、子供は生まれない」

 

 

 

 

 

 




 明けましておめでとうございます!


 観光


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1-3/3 「憤怒」


 抱きしめたまま蹴ったら、反動が奥さんにもいくだろ常考。って考えは不思議パワーでなんとかしたんだってことで。



 

 

 

 

 

 

 フレイムヘイズとはなにか?

 簡潔に述べるのならば『紅世の王に器を捧げた人間』である。

 

 だが、これだけでフレイムヘイズのすべてを理解するのは一を知って十を知る天才といえど至難の技であることは間違いない。

 そもそも器を捧げるということを断片的な情報すら無いままに理解するのは難しい。器を捧げる、という言葉がすでに比喩表現なのだ。酒の注がれた酒器を祭壇に置くのとはわけが違う。

 ならば器とはなんなのか。――それは自らがこの世界にもつ自分の存在の領土だ。

 

 例えばある国が存在するとしよう。もちろん国と言うからには領土がなければいけない。領土があるからこそ国として存在できる。

 だがもしこの領土がなければどうなるだろうか。

 住んでいた人はいる。

 主権もあった。

 だが領土がない。ならばその国は周囲に国として認められるのか。未来に国としての存在はあるのか。

 ――無い。領土の無い国は国ではない。あやふやでいつかは消えるもやのようなものだ。

 そしてこの例えにおける国こそが人なのだ。

 

 つまり、器を捧げるということは自分の領土を他者――契約者へ譲り渡すことであり、それがフレイムヘイズになるということなのだ。

 この世界の領土のないものに、この世界の理は適用されない。現代風にいうのなら国連の決めたルールに火星人が従う義理はないということだ。

 ゆえに、世界の共通の理たる時間はフレイムヘイズに流れない。

 時間が流れないということは肉体的変化が無くなるということだ。

 変化が無くなった肉体は成長もせず、老いることもない。それが――フレイムヘイズ。

 

 繰り返そう。

 フレイムヘイズに肉体的変化はない。

 

「ゆえにフレイムヘイズが子供を産むことは不可能だ」

 

 静謐な社の最奥で地壌(ちじょう)(かく)の契約者・クズキの声が反響する。それを聞く穂乃美は顔向きを下にし、表情を伺うことはできない。

 しかし両肩を落とした彼女の姿から負の感情が渦巻いていることは容易く察せた。彼女の左耳につけられた勾玉から森のそよ風のように優しげな剥追(はくはく)(ひょう)の慰めが穂乃美にかけられる。

 

 最上の喜びから一転してどん底までたたき落とされてしまった穂乃美に何か言わなければならないとわかっている。ただ何と言えばいいか分からず、クズキは唇を噛み締めた。

 口の中に溜まる唾を飲み込む程度の時間の後、俯いていた穂乃美が顔を上げる。

 涙に濡れ、研磨された鉄のような色の瞳は悲しみに揺れていた。

 

「もう……け……あり……ん……もう……け、ありません……申し訳、ありませんっ……私の、私のせいで……」

「いや、いいんだ」

 

 クズキは穂乃美の手を強く握る。

 

「ですが……私の、私のせいで子供が……」

「いいんだ」

「子供が、子供が生まれな――」

「――いいんだ、穂乃美」

 

 嗚咽を漏らす穂乃美の肩を抱き寄せ、赤子をあやすように彼女の頭を撫でる。優しく、何度も何度も穂乃美の髪を梳いてやると次第に彼女の震えも収まっていった。

 お互いの間に子供を熱心に欲しがっていた穂乃美にとって、この宣告は辛いだろう。クズキは彼女が少しでも穏やかに、癒されるように、気持ちを言葉に表す。

 

「お前がいてくれれば、それで。俺はそれでいいんだ」

 

 これから永遠に近い時間を共にする半身に自分の気持ちが少しでも伝わればいい。自分には彼女がいてくれればそれでいいんだ、とクズキは自分の本音をさらけ出した。

 

 

 だがしかし。

 伝わるからこそ、傷つけてしまう時がある。

 

 

 クズキは現代人だ。現代に生まれ、現代で育った。いかに時を飛ばされて激動の時代を過ごそうとも、根っこには現代で育まれた土壌が存在している。

 しかし穂乃美は違う。彼女は古き時代に生まれ、古き時代に育った女だ。クズキとは基盤が違う。土壌が違う。同じ人の姿をしていても、決して同じではない。

 二つの時代には明確な考え方の差があるのだ。

 今までそれが問題にならなかったわけではない。しかし物のように明確でないそれをクズキは今までなんとなくで解決していた。

 だからこそクズキは本当の意味でそれを理解していなかった。

 

 突然の衝撃。誰かに押されたようにクズキと穂乃美の距離が開いた。

 一体なにが?

 状況を理解できないクズキの視界には、呆然と自分の手を見る穂乃美がいた。それを見て穂乃美がクズキを押したのはすぐに理解できた。しかしその事実にクズキは顔を青くした。

 穂乃美は巫女だ。彼女はいつだって自分を巫女たらんとし、これまで一度だってクズキに直接的な力をふるったことなどない。

 なのに彼女はそうした。

 それはつまり、彼女が自分を律することを忘れるほどに、苦しんでいるということではないのだろうか。

 

 我に返って慌てて彼女の名前を呼ぼうと口を開いたクズキだが、彼の言葉よりも早く穂乃美は立ちあがり、クズキと視線を合わせ、言った。

 

「――子を、産めぬ女に。いったいどんな価値がありましょう――?」

 

 それは彼女を引きとめようとしたクズキの動きを止め、思考すら真っ白にする衝撃だった。

 穂乃美はその思考の空白の間に野兎のような速さで社から走り去る。

 咄嗟のことに追いかけられないクズキの元に残ったもの。それは彼女のいた場所に残る涙の染みと、彼女の言葉の二つのみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地噴の帯び手1-3

 

 

 

 

 

 

 

 

 社を飛び出し、村の外へと出て、森の中に入っても穂乃美は走り続けた。

 左耳にゆれる勾玉からは何度も”剥追(はくはく)(ひょう)”の静止の声が聞こえたが、穂乃美は止まれなかった。

 ようやくある程度操れるようになった『存在の力』で強化した肉体を全力で操作し、弓矢のように穂乃美は大地を駆けた。少しでも社から遠ざかりたかったのだ。より正確には……仕える神クズキ・ホズミの傍から。

 

「――このぉッ! いい加減に――――止まれェええええッッ!!」

 

 一心不乱に走る穂乃美の耳に、もはや衝撃と何ら変わらない声が轟く。今だ残る動物としての本能か、穂乃美の体が一瞬緊張し、足をもつれさせた。速度に乗った体は慣性に従い、穂乃美の体を一間ばかりの距離転がす。

 いつの間にか近隣の草原まで来ていたようだ。転んだ痛みはなく、仰向けになって空を見上げることになった。

 

「……う、うぁ」

 

 周囲に人はない。ただ太陽が穂乃美を照らすだけだ。

 空の青は吸い込むようで、眼前に広がる空の広さは開放感を湧きあがらせ、自然と穂乃美の自制心を緩めていく。

 

「うあ、ああ、ああぁぁぁぁぁ!」

 

 緩められた口元から溢れたのは後悔の絶叫。

 緩められた眼元から溢れたのは悲しみの涙。

 穂乃美は今。醜聞もなく責務も忘れ、子供のように泣いていた。

 

――どうしてあんなことをしてしまったのか!

 巫女としての責務を忘れ、領分を越えて神に暴力を振るうとは!

 あまりの羞恥に身動きも取れない。

 

――いや、それよりも。

 

 きっと彼はやさしいから。ちゃんと謝れば笑って許してくれるだろう。

 だから後悔ではなく、反省すればいいだけなのだ。

 だからこんな、こんなことよりも(・・・・・・・・)

 

 

――どうして。

 

 

――どうして、私は。

 

 

――私は!

 

 

 目元を抑える手とは反対の手で腹部に触れる。その皮膚の下には子供を産むための臓器――子宮が存在している。しかし、未来永劫この臓器が本来の目的を果たすことはないだろう。もはや不必要とすらいってもいい。

 それはつまり――子供が産めなくなってしまったということだ。ごまかしようはない。

 事実を口の中で言葉にするだけで、大粒の涙が頬を伝った。

 

「ねぇ、少しは落ち着いた?」

 

 耳元から半身たる”剥追の雹”の声が聞こえる。

 穂乃美はそれに首を振った。

 死にたくなるほどの悲しみと後悔が胸の中を暴れまわっているのだ。落ち着けるわけがない。

 そんな穂乃美の様子に、心なしか”剥追の雹”はためらいながら、

 

「……ねぇ、どうしてそんなに悲しいの?」

「……意味がなくなってしまったからです」

 

 か細い声で穂乃美が答える。

 

「私にはもう、あの人の傍にいる価値が……ないっ。もう……生きる価値すら、ないのです……っ!」

「――なにいってんの! クズキだっていってたじゃないっ、あんたが傍にいるだけでいいって! なのに生きる価値すらない? ふざけんじゃないわよ――ッ!」

「そんな価値は――――ッ!!」

 

 ”剥追の雹”にも負けない大声で涙交じりに穂乃美は叫んだ。

 

「――価値はっ……価値が、どこにあるのですか……私があの人の傍にいる意味が、私のどこに……」

「だーからー。あ・ん・た・が! あいつの傍にいる、それだけで十分な価値で、意味があるの! 紅世の徒に人間の心情を説教されてどうすんのよ!」

 

 ”剥追の雹”の言葉に穂乃美はかっとなって、耳元から勾玉を外して地面にたたきつけた。

 

「一体この世のどこに――――子の生めぬ女をほしがる男がいる!」

 

 突然の暴挙に驚く”剥追の雹”にたたみかけるように穂乃美が叫ぶ。

 

「次代に血の繋げない女になんの価値があるのですか! 神の血を残せない巫女にどんな資格があるのですか! ――夫の子も宿せぬ妻にどんな意味があるのですかっ!」

 

 血を吐くよりも辛い声に”剥追の雹”は言葉をはさむこともできない。

 

「いったいどんな顔をして彼の隣に立てというのです……ましてや! あの日あの時――私があの人を助けられていたなら――」

 

 激情のあまり穂乃美は土を握りしめ、”剥追の雹”へと投げつけた。

 この三カ月の付き合いで”剥追の雹”は穂乃美が礼節をわきまえた、慈しみに溢れた女であることを知っている。その彼女がここまでしたのだ。子の産めぬ事実は彼女に大きな痛みをもたらしたのだ。

 

「――――あの人はまだ子供をつくれた。私はあの人の未来を、血筋のすべてをっ。守り切れなかった!!」

 

 彼女はとうとう膝をついて両手で顔を覆うと、静かに肩を震わせ始めた。涙の嗚咽が”剥追の雹”を沈黙させる。

 ここにきて”剥追の雹”はクズキの綺麗な言葉に何の意味もなかったことを悟った。

 あれはクズキの考える最善の答えだった。しかしそれはクズキという現代人にとっての最上の答えだ。決して古代人たる穂乃美にとって最善の答えではない。二人にはお互いに確固たる育ての土壌が存在し、まったく異なる価値観の存在なのだ。

 

 そして今なお穂乃美を絶望に浸らせるもの。その正体こそがこの価値観だった。

 

 現代人であるクズキにとって、夫婦間に子供がいない、ということは決して悪ではない。ごくごく普通に有りうる当たり前のことだった。

 子供の産めなくなった女性はかわいそうと思っても当たり前に受け入れられた。それは現代においてそういったハンデをもつ人間が社会において受け入れられていたからだ。食べ物に溢れ、健康に満ちた現代社会において、ハンデをもつ人間は差別の対象ではなかったのだ。

 

 では穂乃美はどうだろうか。

 結論から言おう。穂乃美にとって子供が作れないということは悪だ。断言してもいい。

 そしてこれは穂乃美だけの過激的な思考、というわけではない。むしろこの時代――少なくとも穂摘の国において当たり前に存在する『常識』ですらある。

 なぜか?

 その答えは単純明快にただ一つ。――余裕がない。それに限る。

 

 穂乃美の育った古代とは、いかに安定した食料を得るか人間が思考錯誤する時代だ。この時代において食料とは常にぎりぎりだった。現代の牛乳のように毎日数千リットルも捨てられるものではなく、米の一粒だって無駄にできない生活なのだ。

 

 そんな生活に無駄飯ぐらいを抱える余力はない。比較的稲穂が育つ穂摘の国ですら、無駄を抱える余裕はない。もし体に異常をもった子供が生まれればすぐにでも見捨てられる。現代ならばその子にも生きる権利があるなどと声高だかに叫ばれるのだろうが、そんなことはない。一人増えるだけで年間に必要な食糧量は跳ね上がるのだ。満足に働けず、自分の分すら糧を得られぬ人間を養う余裕などあるはずもない。

 あらゆる技術が洗礼され、余裕のある現代ではない。ここは古代なのだ。

 

 厳しい時代に育った穂乃美にとって満足に働けない無駄飯食らいは死すべき悪だ。

 男であれば戦えず、畑作業もできないような男。女であれば――女の責務も果たせない女。それが穂乃美の無駄飯ぐらいの定義だ。

 そして穂乃美の考える女の責務は子を産むことだ。男の血筋を未来に紡ぎ、将来の労働力を増やす。それこそが穂乃美の考える責務だ。果たさなければ生きる意味もない。そう考えるほどに果たすべき責務――だった(・・・)

 

 そんな考えの穂乃美に「傍にいてくれるだけでいい」。そんな言葉の何が慰めとなるのだろうか。

 ましてや巫女としての責務もあったというのに。彼女は巫女として神の子ももっと産まなくてはいけなかった。

 

 繰り返すことになるが、彼女の生きる時代は常にぎりぎりの時代だった。それは食料という意味でもあったし、命の危険という意味でもある。

 この時代ではまともな医療も発達しておらず、常に感染症や病による死があった。現代であれば薬を飲んで寝ていれば治るような病で死ぬことすらあった。一説によれば縄文時代では十五歳まで生きられたのは半分ほどだったという。穂乃美の周囲も大人になるにつれて同年代が減っていき、今では三割しか残っていない。

 ならば穂乃美は巫女として確実に次代に血を残すために、三人は子供を産んでいなければならなかった。今の一人ではちょっとした不幸で死神に連れ去られてしまい、血を残せないからだ。

 

 だが、その責務ももはや果たすことはできない。

 穂乃美はもう子供を産めないのだから。

 

 子の孕めぬ女は無駄飯食らいだ。そして無駄飯食らいに生きる価値はない。

 そんな穂乃美の中にある常識、価値観が、絶望となって穂乃美の体を縛り付ける。

 いっそのこと死んでしまおうか。契約を解除して、このまま楽に――そんなことさえ本気で考えてしまう。

 今、穂乃美は間違いなく追い詰められていた。

 

「私に、価値はない。生きることに意味はない……」

 

 彼女は死への逃避を選びかけ、

 

 

 

 ふと――脳裏に浮かぶ光景。

 ――腕に抱かれた赤子の無邪気な声。

 ――隣に立つ男の太陽の笑顔。

 

 

 

「……でも――ッ。それでも――っ!」

 

 ――ぎりぎりのところで踏みとどまる。価値観という強力な鎖が死へと心を引きずり込もうとする中、それでも彼女を生に繋ぎ止めるものがあった。それは――

 

「私は――生きていたい! 一緒に、いたい……あの人と、一緒に。ずっとずっと――!!」

 

 ――ひとえに、愛。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 そして幸か不幸か、それは訪れる。

 

「――ッ」

 

 最初に気がついたのは何をすればいいか分からずうろたえていた”剥追の雹”であり、次に穂乃美だった。

 そこにあるのにあってはならない。物と物の間に無理やり入ったような、そんな違和感。

 

「……この気配は――」

「ええ、紅世の……徒! それも――王なみの強烈な気配よ!」

 

 穂乃美の広い感知範囲にかかったのは、紅世の徒のなかでも特に強力な”王”に分類される徒だった。”剥追の雹”には気配だけでこの徒が強力なことが読み取れた。

 おそらく穂乃美単独では歯が立たないだろう。気まずいとは思うが、クズキと合流すべきだ。”剥追の雹”はそう提案をしようと考え、穂乃美の奇妙な表情に息を飲むこととなった。

 

 瞼を赤くはれさせ、頬を引きつらせた。――奇妙な笑み。

 

 それを見て”剥追の雹”は咄嗟に待ちなさい! と鋭い声で穂乃美を叱責する。だが、穂乃美はふらふらと揺れながら気配の方向へと歩き出してしまった。

(今の穂乃美は――まずい)

 基本的にフレイムヘイズの契約者は自分の意識を表出させれる『神器』を好きな時にフレイムヘイズの元へ戻すことができる。”剥追の雹”は悪寒に突き動かされると、その力で穂乃美の耳元へ戻った。

 穂乃美の足取りは一歩ずつ徒へ向かっている。徒も穂乃美を目指していることから、遠からず接触するだろう。させじと”剥追の雹”は耳元で声を荒げる。――逃げろ、とにかく合流しなさい、と。

 

 だが足が止まる様子はない。

 徒の気配を察した時、穂乃美はあることを思いついていた。

 

「穂乃美! あんた聞いてんの? 聞いてるなら少しくらい返事をしなさい!」

「……仲間としてなら」

「――?」

「……もう女としても。巫女としても。私に意味はない……それでもせめて仲間としてなら、あの人の傍に立てるかもしれない」

「――このバカ! そう思うならさっさと合流しなさいよ」

 

 契約者の内心の発露に、”剥追の雹”は久方ぶりに本気で怒鳴った。なんて馬鹿な女だろうか!

 ”剥追の雹”の激怒に、しかし穂乃美は首を横に振った。

 

「……今のあの人に倒せると……本当にお考えですか?」

 

 ”剥追の雹”は穂乃美の指摘に押し黙る。それが答えだった。

 つい三カ月ほど前、クズキは強大なる紅世の王”万華胃の咀”を一撃の元に討滅した。その威力は紅世指折りの王達と比べても見劣りしないものだった。しかし、今のクズキはそれを使うことができていない。

 

「存在の力を十全に扱うためには意思総体による自身の掌握は必須。ですがあの人の保有する存在の力は大きすぎる。あの力のすべてを掌握するというのは、空の果てを見通すようなものです。いかにあの人といえど……そう易々とできることではないでしょう」

 

 フレイムヘイズの力量を存在の力の総量で語るのならば、彼は間違いなく最強だ。間違いない。しかし並ぶものない力が彼の成長を妨げていた。

 

「そうね。今のあいつは大したこともできないフレイムヘイズよ。

 でも一人よりも二人のほうができることはずっと多い。なにより死にずらい。それは間違いないの。あんたにはこれからも一緒に強くなって戦っていかないといけないのよ。こんなところで死ぬなんて私は認めないわ」

「……死にたいとは露ほども思っていません」

「なら……どうして歩き続けてるの! あんたの向かう先は後ろでしょう!」

 

 ここにきて穂乃美の足取りは力強さを取り戻してきた。彼女は赤くなった目尻に残る涙を指で払い、

 

「今なら合流することは難しくないでしょう。ですが、しません」

 

 ぬぐった涙を地面に捨て、立ち止まる。

 周囲を見渡せば太い木々に囲まれている。太い根によって隆起した地面の高低差もあり、見通しも悪い。

 ここならばちょうどいい(・・・・・・)

 

「合流すれば確かに一人よりは安全に戦えるでしょう。ですが、それよりもずっといい方法があります。先に一人で戦い、可能な限り情報を手に入れ、そして消耗させる。そうすれば残った一人は有利に戦うことができる」

 

 穂乃美は二度三度掌に力をいれると、数十の雹を生み出し、周囲に浮かべた。

 浮かぶ雹の数はすぐに増え、木枯らしのように穂乃美の周囲を舞う。背中には青墨色の炎を纏う。穂乃美の戦闘態勢が出来上がる。

 

「まさか。もう一度だけ言うわ。合流すべきよ」

「しません。してはならないのです」

「また価値とか意味とかくだらないことでわめくつもりなの!?」

「私にとっては大切なことなのです。

 もし合流すれば私たちの危険度は下がるでしょう。けれど私は血をつなぐことができなくとも巫女なのです。少しでもあの人の危険が少なくなるのならば、それをする責務があります」

 

 穂乃美の脆い笑みに契約者が怒鳴る。

 

「あいつは認めないわよ。まだ三カ月ぽっちの付き合いでも、あんたの旦那がどんな人間かくらいはわかる!

 あいつは穂乃美、あんたのことをそんな使い捨ての道具のようになんか絶対に使わない!

 もっと長い目でみなさい。これからも戦いは続くのよ!」

「いいのです」

 

 周囲の動物が逃げ出すような契約者の怒気に、それでも穂乃美は笑ってみせた。

 その笑みはまるですべてを包み込む聖母のような笑みだった。

 

「たとえ使い捨ての道具でも、それがあの人の傍にいる理由になるのなら」

 

 こんな話がある。

 あまりにも透き通った水には魚が住めない、という話だ。

 どぶ川にも、そこそこの河にも、それこそ少量の川にだって魚はいるのに、水のきれいすぎる川に魚は住めないというのだ。

 穂乃美の笑みはまさにそれだった。

 その笑みに生気はない。

 未来への渇望も。自身の欲望も。なにもない純粋すぎるからこそ、そこに未来へと生きる生気が見えなかった。

 ”剥追の雹”は数百年もの人との付き合いで、初めて笑みを恐ろしく感じた。

 これが、人。

 紅世でもとうとう見ることのなかったこの笑みは、人と紅世の徒が”似て非なる何か”であることを強く実感させた。 

 

 あまりに強烈な実感は時としてあらゆる感覚を消失させる。例えば時間。例えば思考。例えば、聴覚。例えば――

 

「……きますっ」

 

 ――知覚。

 あ、と思った時には遅かった。

 気がつけば森の闇の中から徒が顔を出していた。穂乃美を合流させる時間は零になったということだ。

 人の新たな一面に我を忘れるべきではなかったのだ。

 

 自身を叱咤し、すぐさま生き残る最善策を考える。この思考の切り替えはさすがだ。初期の初期からフレイムヘイズとして活動しているだけのことはある。

 しかしその活動の厚みが”剥追の雹”を絶句させてしまう。

 

「三ヶ月間歩き通して、ようやく辿りついたと思ったら……あぁん? あの腐れミミズの気配はなくて、代わりに討滅の道具(フレイムヘイズ)……なにこれ、私に喧嘩売ってんのぉ……え゛ぇ?」

 

 影から現れてまず目につくのは獅子のたてがみを思わせる金髪。くしの一つも入れない髪は四方に跳ねているが、粗暴な姿は一層見る者に野性を感じさせる。うっすらとした森の中で爛々と金色に光る眼は腰を抜かすほど力強い。

 

 力強いのは眼だけではない。鍛え抜かれた四肢は鉄のような視覚的重さを伝えてくる。

 穂乃美が会ったことのある徒は”万華胃(ばんかい)()”のみ。彼はどこか雰囲気が軽く、人ならぬ怖さはあっても重苦しい重厚感はなかった。

 

 だがどうだろう。

 目の前にいる女性から伝わるこの重さは。穂乃美は目の前にしてようやく知った。

(これが紅世の王……! なんという存在の重圧、傍にいるだけでわかる……――彼女は強いっ!)

 穂乃美は契約者とそろって言葉を無くした。それに現れた徒は片眉をぴくりとあげる。

 

「はーん、無視。私を無視、ねぇ?」

「あ、あんたは……」

「あーん゛? この声はどっかで聞いたことあんぞー?」

 

 頬を野獣のように歪めた徒に対し、”剥追の雹”は震える声を自覚した。

 

「なんで、どうして。どうしてお前がここにいる――”業剛(ごうごう)因無(いんむ)”!」

 

 ”剥追の雹”の絶叫に穂乃美は内の契約者に語りかける。

 

(あの徒を知っているのですか?)

(最悪! 本当に最悪よ! ”万華胃の咀”に続いてあの”業剛因無(ごうごういんむ)”! どれだけここは呪われてるの!)

(落ち着きなさい! 今は少しでも情報が必要なのです……!)

 

 焦る”剥追の雹”は契約者の言葉にわめきたいのを我慢する。

 我慢して我慢して、それでも我慢しきれなかった声が勾玉からもれた。

 

「~~~~っ!」

 

 穂乃美は油断なく”業剛因無”をにらみながら、自分の周囲に浮かぶ雹をゆっくりと回転させる。

 油断はない。

 この三ヶ月間で教わったフレイムヘイズの戦い方の定石を今一度確認しつつ、”剥追の雹”に情報を促す。

 

(……あれは強敵(つわもの)ぞろいの紅世の王の中でも特に強大な紅世の王。正直にいって今の私たちに勝ち目はないわ)

(やってみなければわからないでしょう)

(いいえ。わかってる。だって――)

 

 内心で会話を続ける穂乃美たちを興味深そうに見ていた”業剛因無”だったが、彼女は何か思い出したように頭をかいて、

 

「ああ、あの時のアマか! また契約できたのか、よかったじゃねぇか!」

「――――――あの時はよくもやってくれたわね」

 

 穂乃美の耳元から空恐ろしいほど冷たい声が聞こえた。

 契約者をして、ぞっとするほど冷淡な声に、穂乃美は”剥追の雹”と”業剛因無”のだいたいの関係を把握する。おそらく以前の契約者は”業剛因無”と接触、戦闘しており、その時は決着がつかない、あるいは敗北したのだろう。

 

 やってみなくてもわかる、というのはつまり自分以上の実力者が試して無理だったからなのだろう。

 自分は間違いなく先代の契約者より弱い。

 なるほど。”剥追の雹”の言う通り、このままでは勝ち目がないのかもしれない。まったくの犬死にかもしれない。

 

 だが穂乃美に引く気はない。

 

 引いてどうなる。

 なにもせず仕える神の御前に顔を出すなど、それこそ死んだ方がましだ。

 引けば情報を持ち帰れるが、それは戦わずに得られる名前のみ。どうやら”業剛因無”は有名のようだから、クズキ達も遅かれ早かれ手に入れる程度の情報でしかない。

 ゆえに、穂乃美は”剥追の雹”の説得に応じるつもりはなく、不退転の覚悟を決めていた。

 

 もちろんただ死ぬつもりはない。

 基本的に”剥追の雹”の先代契約者は雹での攻撃を中心としたフレイムヘイズだった。それゆえの『雹海(ひょうかい)降り手(ふりて)』の称号である。

 だが”剥追の雹”の本来の力は雹を生み出すことではない。先代はあまり学のある人間ではなく力押しを好んだため、雹を生み出し操る『雹乱運(ひょうらんうん)』を使っていたが、”剥追の雹”本来の力はむしろ転移し追って剥ぐ自在法『剥追(はくはく)』なのだ。

 そして穂乃美は『剥追』のほうに適正がある。

 

 称号は基本的に契約した紅世の王によって引き継がれるため、契約した人間が変わっても同じ称号になってしまうが、穂乃美と先代では戦い方まったく異なるのだ。

 ならば、先代にできなくとも穂乃美にできる可能性はある。

 

「おお、それでよぉー、私あのくされミミズを探してんだが――」

(いい? とにかく戦おうとせず『剥追』で逃げるのよ、いいわね!)

 

 ”業剛因無”に聞こえない小声で止めようとする”剥追の雹”の声を無視し、穂乃美は指先を噛むと、血を唇に塗る。

 どこまで削れるかはわからないが、最終的に死ぬことは逃れられない。ならばもしクズキが自分を見た時、少しでも化粧をした自分でいたかった。

 

 塗り終え、指先の血を拭うとそこに傷はもうない。

 今更だが、本当に人ではないという事実が、すとん、と胸の中に落ちてくる。

 何がおかしいのか、自分にも分らぬままに穂乃美は唇に笑みを作った。

 

「おい無視か。無視なのか……つか、てめぇ目元が赤ぇが泣いてた……のか?」

(ちょっと穂乃美! 話を聞――)

「――自在法『剥追』」

 

 まるで溶けるように。穂乃美の姿が虚空へと消える。

 業剛因無の疑問も、”剥追の雹”の制止も、なにもかもを無視して。

 この突然の消失に”業剛因無”は一瞬の思考停止を余儀なくされるだろう。

 穂乃美の『剥追』は雹から雹へと転移する自在法。気がつかれないように”業剛因無”の背後に配置した雹へと転移した。

(一撃で決める!)

 両手に雹で作ったつららのような剣を存在の力で限界まで強化しつつ、”業剛因無”の首へと突き出す。

 未だ”業剛因無”が気づいた様子はない。振り返ろうともしない。

(とった――!)

 穂乃美は確信と共に剣をもつ両手に力を込めた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 それが聞こえた時、穂乃美はまず自分の聴覚を疑った。

 耳に聞こえたのは生々しい肉を貫く音ではなく、氷の破砕音だったからだ。

 そして目を疑った。

 そこに血にまみれた剣はなく、中空で乱反射する氷のかけらが視界を満たしたからだ。

 

「私はさぁー?」

 

 呆然としたのはわずか。

 ”業剛因無”の震える言葉にはっとしたように転移し距離をおく。

 ”業剛因無”は無傷だった。突かれた部分をさすり、首を一蹴させ、穂乃美を見た。

 

「これでもいちおぉー、話し合いをしようとしてたんだぜぇ。この私が善意で行動してたんだぞぉ……おぃ」

 

 そこには青筋を浮かべる鬼がいた。

 怒髪天、宙をつく。たてがみのような髪が浮かび上がり、怒りに震えていた。

 

「それを、それをてめぇらはよぉ……」

「――自在法『雹乱運』」

 

 穂乃美の周囲を渦巻く雹の軌道が変わる。

 星空のような円運動がぴたりと止まり、まるで蛇が空を這うように空をうごめき、”業剛因無”を中心に無作為な軌道を取る。蚊にたかられたような顔で”業剛因無”は舌うちをした。

 

「てめぇらはよぉ……人の善意を無駄にしやがって……」

 

 穂乃美は慎重に”業剛因無”を観察する。

 すでに奇襲は失敗した。敵に転移できることを知られてしまった以上、次は奇襲にならない。今のままでは彼我の差は大きく、勝機は針に糸を通すような小さなもの。鹿を射ぬく一瞬のように集中力を高め、穂乃美は敵を見据えた。

 対する”業剛因無”は穂乃美の姿に体を震わせ、腹のそこから大太鼓のような圧迫感のある声で叫び声をあげた。

 

「しやがってよぉぉぉぉぉおおお!!」

 

 ずしん、と一際”業剛因無”の周囲が重くなる。高密度の存在の力によって強化された肉体がそう感じさせるのだ。

 ”業剛因無”は穂乃美が時を図っているのを知りながら、腕を振り上げた。その腕には十分すぎるほど力が込められている。

 巨大な大木が倒れる瞬間のあの予兆すら感じる腕に、穂乃美の集中がより一層増していく。

 どんな攻撃がくるかわからない。だがどんなものであろうと避けてみせる。穂乃美はそう腹に決め、

 

「ぶっとべごらぁぁぁぁあああ!!」

 

 振り下ろされる。

 剛腕が鉄槌となって大地を叩きつけた。

 落雷のごとき轟音と共に地面がめくれ上がった。強力な一撃が大地を液状化させたのだ。破裂した土砂が爆風を追い風に周囲を蹂躙する。

(何を――?)

 舞いあがった土砂を回避するため、大きく後ろに跳躍しながら穂乃美は”業剛因無”の意図を考えていた。

 穂乃美はてっきり自在法、あるいは直接的に殴りにくると考えていたのだが、”業剛因無”は予想を外れ土砂を舞いあげた。

 

 土砂程度でどうにかなるほどフレイムヘイズは軟ではない。ならばなぜ? 視界を悪くするのが目的か? 確かに今日は風がない。しばらく残留するだろう。だがそんなものは少し退避してしまえばいいだけのこと。ならば――

 

「前よ!」

 

 ”剥追の雹”の鋭い声が穂乃美の思考を遮った。

 見れば土砂のカーテンを突っ切るように”業剛因無”が飛び出していた。その速度は穂乃美が思っていた以上に速い。強烈な存在感の塊である”業剛因無”が近づくその様は坂を転がる大岩のようだ。

 矢よりも速い”業剛因無”の突撃を足でかわすのは不可能。穂乃美は瞬時に判断し、『剥追』を使おうとした。

 だが、

 

「雹が、ないっ!?」

 

 確かにあったはずの雹がどこにもなかった。

(そうか、あの時の土砂は――雹を潰すために!)

 舞いあがった土砂は爆風によって加速され、その質量と相まって弾丸のごとく雹を砕いていたのだ。

 大地を殴打したのは土砂による雹の粉砕、およびそれの隠ぺい、強襲の三つの意味を含めたものだった。わずか一回で『剥追』の特性を見抜くとは、野卑な外見からは想像できない判断力である。

(そもそも徒の外見で判断しようとしたのが間違いだったっ!)

 徒の外見は千差万別、実力に外見は関係ない。

 同じ人型だったせいか、どうしても人間としての常識が穂乃美の中にあった。知識としてわかっていたのに、どうしても常識に考えが寄ってしまった。

 目の前には拳を腰だめに構える”業剛因無”。今更の後悔である。

 

(まだ……まだっ!)

「余計な抵抗なんぞしてんじゃねぇぇぇ!」

 

 飢えた”業剛因無”の瞳が金色に輝く。

 穂乃美はまだあきらめないと掌から雹を放出、機関銃のように雹を打ち出すも”業剛因無”の表皮は弾丸のすべてをはじいた。剣を砕くほどの表皮には傷一つなかった。

 

「穂乃美ぃぃぃぃ――!」

 

 ”剥追の雹”の絶叫をコーラスに腰だめに構えた拳が唸りを上げ、”業剛因無”の剛腕は穂乃美の下腹部へと突き刺さった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 森の中を突っ切って穂乃美を追いかけたクズキが見たのは、まるで石が水面を跳ねるように吹き飛ばされた妻の姿だった。

 フレイムヘイズの動体視力を持ってして残像が尾を引くその姿に血の気が引く音が聞こえる。

 クズキは後先考えず、穂乃美の傍に駆け寄った。

 

 妻の姿は無残なものだった。拳を受けた下腹部には穴が空き、吹き飛ばされた時にぶつけて全身に青あざができている。

 人間ならば即死していてもおかしくない。

 ただ、息はあった。か細く、今にも途切れてしまいそうなほど小さなものが。

 

「あ゛~んぅっ?」

「後ろだ――!」

 

 叱責にクズキは穂乃美を抱えて飛びずさった。

 爆音。

 クズキのいた位置を中心に土砂が空を舞う。滝つぼのような破裂音の後、土煙のおさまった視界には粗野な風貌の女、”業剛因無"がいた。

 

「てめぇ……そこの女の関係者かぁ?」

「――ずいぶんと懐かしい顔だね、”業剛因無”?」

 

 クズキの神器・勾玉からの声に”業剛因無”が目を丸くする。

(彼女と僕は古い知り合いでね? 会話で時間を稼ぐから君は治癒の自在法で彼女を)

(俺に……できるのか?)

(焼け石に水かもしれないけどね? その水が命運を分ける時もあるんだ)

 頷き、クズキは穂乃美の――特に傷の酷い腹部に力を注ぐ。

 

「おおっ? その声……”地壌(ちじょう)(かく)”か! こらぁずいぶんとなつかしい顔じゃねぇか!」

「いつぶりだろうね? 僕としては会いたくなかったけど」

「モーなんとかが海割った時以来じゃねーか? 私としては会いたかったんだがよぉ……」

 

 拳を握り、関節をならす。

 

「前の契約者はどうしたぁ。あれは私に生意気な口を聞いたんだ……血達磨にしなきゃ気がすまねぇ……思い出したらむしゃくしゃしてきた」

「君はあいかわらず馬鹿だね? 契約者が変わるのは死んだ時だけだよ」

 

 ぷちん、と何かが切れる音がする。

 ”業剛因無”の周囲が再び熱を持ち、ざわめきが森に広がった。

 

(もう時間稼ぎは無理みたい)

(はえぇ! せめてもう少しくらい稼げよ! まだ全然終わってないんだぞ! あと少しは悪びれした声で報告しろよ!)

 

 クズキは抱きかかえた穂乃美を置くか考える。

 彼女の傷は大きすぎる。このまま放っておくと死んでしまうかもしれない。

 だが目の前の徒が傷を治すのをみすみす見逃してくれるとも思えない。彼女にかまい過ぎればクズキも致命傷を受けてしまうだろう。

 彼女を置いて戦うべきだ。理屈では分かっている。それでもクズキは妻を置いて戦うことを良しと断ずることができなかった。

 

「仕方ないかな? うん、それでいいよね」

 

 迷うクズキを前に”地壌の殻”が問いかけた。

 何を。クズキが答えを探す合間に、彼女(・・)は答えた。

 

「ええ、仕方ないわ。 ――私たちのことは放って逃げなさい」

 

 それは愛する妻の耳元から聞こえた。

 ”剥追の雹”の声だった。

 

「――な、何言ってんだ!」

「この状況じゃ穂乃美は助けられない。共倒れになる。なら穂乃美を捨てて討滅に専念すべきよ」

「馬鹿言ってんじゃねぇ! んなことできるか!」

「できるできないじゃない。あんたがフレイムヘイズならそうあるべきよ」

「ふざ――」

「来るわよ?」

 

 山が大地を踏みしめるような、重すぎる一歩が踏み込まれる。

 強大無比に顕現した”業剛因無”の一歩にクズキの総毛が立った。

 早いわけではない。ゆったりとした一歩一歩にクズキの喉が干上がっていく。目を離せない存在感を放つ”業剛因無”はまさに王だった。

 

「ほら、さっさとしないと――死ぬわよ」

 

 王が、踏み込む。

 瞬間、クズキの脳裏に走った感覚を何と言うのだろうか。虫の知らせ? 直感? あるいは本能だろうか。クズキは人体の発した信号、「横に飛べ」という警鐘に全力で従った。脊髄が脳を介すことなく、全力で体を飛ばす。

 そして見た。

 クズキのいた位置を薙ぐ”業剛因無”の剛腕を。

 

「――腕力自慢は速度が遅いのが世の常だろ!?」

「どこの常識よそれ。それと……ほら次が来るわよ、さっさと放りなさい」

 

 振り切った体勢のまま”業剛因無”の視線がクズキを捕えた。再び高速で”業剛因無”が接近する。これをクズキは再び飛びずさって躱そうとするが、やはり穂乃美を抱えたままでは距離が短い。”業剛因無”はクズキの動きに対処し、振りかぶった拳をクズキへと振り下ろす。

 

「やれやれ?」

 

 "地壌の殻”の意識を表出させる神器が強烈な光を放つ。

 太陽色の炎の光は咄嗟に閉じた瞼を超え、”業剛因無”の眼球に直接攻撃する。

 ”業剛因無”が眼球を健常に顕現し直すまでの僅かな時間に、クズキは距離を取る。

 

「助かった――!」

「それはいいけど? 早く放り出した方がいいよ。その子」

 

 ”剥追の雹”だけでない。契約者すら穂乃美を邪魔もののように言うその様にクズキは薄く青筋を浮かべる。

 

「お前らは……さっきからなんなんだ! 俺がこいつを見捨てられるわけないだろ!」

「とはいってもね? 僕たちの目的を忘れたわけじゃないだろう。僕たちはフレイムヘイズ、『世界の歪み』を乱す徒の『討ち手』だ。至上目的を勘違いしちゃいけないよ」

「な――っ!」

「僕たちにはこの世界、ひいては紅世に訪れる『大災厄』の回避をするために戦っている。

 ――君ほどの資質を持つフレイムヘイズを僕は知らない。後々のことを考えれば、ここで一人切り捨ててでも君は生き残るべきなんだ」

「二人組の話はどうなった!」

「それは資質が低いフレイムヘイズの話だよ。君と言うあたりを引いた以上、そこにこだわる必要はない。それにもし必要ならまたこの近くで”剥追の雹”が契約すれば済む話だよ」

「そんなもん――!」

 

 ――ただの道具じゃねーか!

 溢れそうになった言葉をクズキは飲み込んだ。

 言ってしまえば心が弱って戦いも治療もできなくなる気がしたからだ。

 

 正直なことを言えば、フレイムヘイズになった時、クズキは自分が特別になった気がしていた。

 過去に戻った時以上に自分が特別な存在の気がしていた。

 物語の中に紛れ込み、まれにみる資質をもつ。まさに主人公のようじゃないか。そんな想いがクズキの心にはあったのだ。

 

 だが、これはどうだろう。

 自分の半身と思っていた存在は次を探せばいいなどと軽く言う。 

 理路整然と諭すのだ。

 人生の伴侶を、愛すべき比翼の翼を切り落とせと。

 

 信頼が。愛情が。

 音を立てて崩れていくような気がした。

 だがクズキに混乱していられるような陽気な時間はない。

 強烈な閃光に呻いていた”業剛因無”が顔を上げていた。

 

「さぁ?」

「早く!」

 

 選択は眼前。

 ”業剛因無”が踏み込むまでの刹那。クズキは選択しなければならなかった。

(穂乃美……)

 わずか、手の力がゆるみ――

 

 

 

 

「てめぇ……その女とどんな関係だよ」

 

 

 

 

 思わぬ声かけに身を固くした。

 怒り狂っているとばかり思っていたが、”業剛因無”はむしろ落ち着いた様子でクズキを観察していた。

 意図はわからない。しかし穂乃美を治癒させる時間はあればある程いい。クズキは治療のためにあえて会話に乗る。

 

「俺の女房だ」

「はーん。そうかいそうかい」

 

 先とは打って変わって、楽しそうに”業剛因無”が笑った。 

 楽しそう――といっても満面の笑みではない。含むものがある見る者を不愉快にさせる笑みだった。”業剛因無”の頬をひっぱたいてやりたい衝動にかられるも抑える。今は時間を稼ぐべきだ。

 

「ところでよぉー」

「なんだよ。そのもったいぶった言い方、気にいらない」

「そういうなよ。……私がその女に会ったとき、そいつ泣いてたんだぜ?」

 

 ”業剛因無”の思わぬ一言に、クズキは歯を食いしばった。

 泣いていたことは想像できていた。だから追いかけてきたのだ。だがどうして”業剛因無(こいつ)”にそのことを言われなければならないのか。

 見も知らぬ他人(てき)に繊細な部分に触れられ、心にさざ波が立つのを抑えられなかった。

 

 そのさざ波を人は隙と呼ぶ。

 

「ちょっと貸せよ」

「――なに?」

 

 ぐん、と”業剛因無”が右手で中空を掴み、引っ張った。

 まるで体に巻かれた見えない綱をひかれたように、穂乃美の体が”業剛因無”に引き寄せられる。

 まさかそんなことが起こるとは思っていなかったクズキの腕の中から穂乃美の体が飛び出した。”業剛因無”は無造作に穂乃美の頭を掴んで受け止め、髪を引っ張って持ち上げ笑った。

 

「はは! やっぱりこの目元は泣いた後だな!」

 

 じろじろと目元を覗き込んだ後、奪い返そうと飛び出したクズキに”業剛因無”は穂乃美を投げつける。

 クズキは穂乃美を抱きとめるも、剛腕で投げつけられた人体を完璧に受け止めることはできず、巻き込まれるようにごろごろと転がった。

 

「そいつはよぉ……私が会う前に泣いてたんだよなぁ。傍にいたい。傍にいたいってよぉ……」

「それがどうした……お前に言われることじゃない!」

「てことはよ、あれが泣いたのはお前のせいってことだよなぁ。お前が泣かせたんだろ? だったらお前が悪いんだ。なぁ……」

 

 今度こそ穂乃美を取られないようしっかり腕に抱えながら、”業剛因無”を睨む。

 

「言われなくともわかってる。だから俺はこいつを追いかけてきたんだ」

「そんなこと関係ねぇーなぁ。お前は泣かせたんだ。泣くってのはつらいよな。苦しいよなぁ。嫌だよなぁ……」

「お前……誰に言ってるんだ?」

 

 ”業剛因無”の言葉は誰に当てたものでもない。

 壁が話し出すような奇妙な忌避感にクズキの顔が歪む。

 

「彼はそういう徒だよ? 推し測ろうなんて無駄なことはしないほうがいいと思うけれど」

「”地壌の殻”、お前こいつを知ってるだろ」

「ああ、知ってるよ? どちらかと言えば知りたくもないけど知ってしまったたぐいの知識だけど」

 

 自分を見ているようで見ていない今なら逃げられるかもしれない。

 クズキはそっと逃げようと後ろに重心を移すも、そういうときに限って”業剛因無”の体が鋭敏に反応する。どうやら逃げられそうにない。

 

「徒っていうのは自由奔放なんだよ? ”紅世”が過酷な環境だったからっていうのもあるけど、大体の徒は自分の欲望のままにこの世を渡り歩く。欲望のままに、なんて言う通りその時々で自由気ままに動くんだけど、まれにそうじゃない徒がいるんだよ。

 あれはその代表格。

 笑って、怒って、泣いて。そんな自由奔放に欲望を満たすんじゃない。むしろ逆。あれはたったひとつの欲望に忠実で、それ以外を知らない徒なんだよね。ああ、なんの欲望かはいわなくてもわかるから言わないでおくよ」

 

 ”地壌の殻”の言葉を皮切りに”業剛因無”は自分を抱きしめた。

 

「辛くて苦しくて嫌なことは駄目だよなぁ……嫌なことをされるのはさぁ……いらつくよなぁ……」

 

 にんまりと笑う笑みの端が――裂ける。口角が耳元まで広がり、頬の筋肉の隙間から肉食獣の歯が現れる。

 ほしかったものを見つけた子供のようで、それでいて飢えた狼のような、そんな笑み。

 

「いらついたらよォ……おぃ! その分やり返したっていいよなぁ! 目には目を、歯には歯を!

 女ぁあ! 喜べよ、私がお前を泣かせた奴をぶっ殺してやるからさぁ!」

 

 ”業剛因無”の体から蒸気が噴き出した。

 関節の節々から間欠泉のように溢れる蒸気はひどく熱い。大気との温度差によって煙の中に隠れた”業剛因無”の黒い影が陽炎のように揺らぐ。

 

「ああ、もう手放しなよ? これからはそんなことしてたらすぐに終わるから」

「”地壌の殻”の言うとおり。ここからが本番よ」

 

 影が揺らぐ。

 影は右に、左にゆれるたびに徐々にその姿を大きくしていった。

 

「おい……嘘だろ?」

 

 徒は人に限りなく似た異世界――紅世の住人だ。

 だが彼らは人ではない。

 感情的動きが人に酷似していても、彼らは決して人と同一の存在ではない。その最たる違いが徒たちの外見だ。

 人型の徒は存在しているが、その多くは人の姿にしているだけで、本当の姿は違う。

 

 例えば以前戦った”万華胃の咀”の本来の姿は巨大なミミズだ。あくまでミミズの姿よりは人のほうが便利だから擬態しているにすぎない。

 また穂乃美と契約した”剥追の雹”は巨大な雹塊の姿である。

 このように徒の姿は千差万別。生き物ですらない姿の場合もあるのだ。

 

 クズキも多くの徒を知識では知っていた。

 だから”業剛因無”の本来の姿をみて、そういう姿の徒もいておかしくないとわかっていた。

 それでも。

 クズキは目の前に立つ”業剛因無”の姿に驚愕を隠せなかった。

 

 見上げるほど高く、背の高い木々ですら全長の半分程度しかない。

 その腕は大木のようであり、四肢に皮膚はなく、むき出しになった筋繊維は一本一本が鉄線のように太く、しなやかだ。

 その体は熱を帯びているのか、水蒸気を纏い陽炎を背負う”業剛因無”の姿は――見上げるような巨人だった。

 

「Ghaaaaaaaaaaa!!」

 

 ”業剛因無”はゴミを見る目でクズキを見下ろし、雄たけびを上げた。

 人の数十倍の人体が放つ音波は木々すら傾けた。ただの声ですらもはや兵器に等しい。

 

 今の”業剛因無”と比べれば、クズキなどくるぶし程度の大きさでしかない。

 クズキは”業剛因無”を討滅しなければならない。だというのに”業剛因無”を前にすると、高層ビルに挑みかかるような徒労感すら浮かびあがってくる。

 

 これが徒。

 これがフレイムヘイズ。

 

 小説を読むだけでは感じられなかった焦燥感と不安、恐怖に、フレイムヘイズというものがいかに非常識な存在なのか、その一端を感じた。

 

「さぁ? どうする?」

 

 ”地壌の殻”の他人事のような問が耳を通り抜けた。

 どうするもこうするもない。

 大きさとは力だ。

 体格差とはハンデだ。

 

 現代では公平にするために体格によって分けられるスポーツが多々ある。だが逆に言えば分けなければ公平ではないということだ。人間の体格差――たかだか二十か三十そこらの差が大きな差になることは、現代では常識だった。

 それは事実だ。

 バスケだって、サッカーだって、テニスだって身長が高い方が有利だ。

 柔道や剣道も身長が高い方が有利だ。

 背が高い、ということはただそれだけで巨大な利点なのだ。

 

 ならば!

 数十倍もの大きさの巨人と小さな人の間には、どれだけの差があるのだろうか。

 

 『存在の力』で肉体を強化すればいい。なんて甘えたことは考えられない。それは向こうもできることだからだ。

 むしろ存在の力に不慣れなクズキよりも”業剛因無”の方がはるかに優れている。

 力の操作技術も戦闘経験も、体格すら劣っている。それに加え、今のクズキは穂乃美を抱えている。

 クズキが勝るものなど存在の力の総量くらいだろう。それも使えなければ意味がない。

 

 新米フレイムヘイズは徒を前にして、いかに自分が危機的状況にいるのか理解してしまった。

 本能ではない。人間としての理性が、勝ち目がないとはっきり認めてしまったのだ。

 

「どうする……どうする……どうするっ!?」

 

 どうすればいいのか。

 口に出して思索するが、それはどうすると言い放つだけの思考放棄だ。

 頭のなかにはひたすらどうするという言葉だけが反芻していた。

 

 見捨てることなんてできない。

 でも死ぬこともできない。

 だからといって理性が挑むことを愚かだとあざ笑い、立ち向かおうと心が震えることもない。

 

 クズキは今、巨人の振り下ろす一撃を待つ哀れな木偶の棒だった。

 

 蒸気に包まれた”業剛因無”がゆっくりと動きだす。

 樹齢千年の大木のような左足が高く持ち上がる。頭の上にまでまっすぐ伸ばされた足はまるでギロチン台のようだ。ただ見ているしかできないクズキの内心はギロチンの解放を待つ死刑囚のようなものだったのだから、ギロチンの例えばあながち的外れでもないのかもしれない。

 

「う、うぉぉ、うぉおおおおおお!!」

 

 だめだ。

 このままだと死ぬ。

 クズキは立ち向かうために雄たけびを上げた。

 カラ元気でもいい。虚勢でもいい。この冷たくなってしまった体を動かす熱になるのならば。

 クズキは理性の諦めを吹き飛ばすために、穂乃美を抱きしめる腕に力を込

めた。

 

 そんなクズキの精一杯の行動は。

 小さな虫の威嚇にもならない。

 

 命を刈り取るギロチンとなって”業剛因無”のかかとがクズキ目がけて振り下ろされた。

 巨大さに見合わない俊敏な足の先端は容易く音速を超える。これほどの質量の物体が音速を超えたことで、空気の壁は破裂し、木々を吹き飛ばすほどの衝撃破が周囲に吹き荒れた。

 落雷など比にならない爆音が響き渡る。その音は東の麓から半日以上ある穂積の国を超え、隣国にすら聞こえ、大地を揺るがす振動は地響きとなって唐沢山の一部に山雪崩を引き起こした。

 

「――――!」

 

 粉塵と爆風が満ちる空間で、”業剛因無”はのっそりと手を振って、土煙を払った。

 ”業剛因無”はなぎ倒した木々を見渡し、首をごきりと鳴らす。そして少し離れた場所に転がっているであろうフレイムヘイズを探した。

 

 ――”業剛因無”がこの姿になるのはずいぶんと久しぶりのことだ。

 直撃すればクズキは穂乃美もろとも死んでいただろうが、あの瞬間、クズキのすぐ横に”業剛因無”の足が落ちて直撃にはならなかった。

 人間だった時との感覚のずれがクズキの首一枚を繋いだのだ。

 

 とはいえ、木々をなぎ倒す衝撃破をまともに食らい、クズキの体はかなりの距離を吹き飛ばされていた。山となった木々の残骸の中で、クズキは穂乃美を抱えながら膝をついている。

 衝撃と落下によって痛みつけられた体はボロボロで、上半身に身につけていた服は赤く染まっている。

 

(さて? どうするんだい?)

 

 ”地壌の殻”が声ならぬ声でクズキに問いかけた。

 今、舞いあがった粉塵と吹き飛ばされたことで”業剛因無”はクズキの姿を見失っている。

 逃げるのならば今しかない。

 うまくやればクズキは逃げ切れるだろう。

 だが、それも一人ならばの話。

 これは”地壌の殻”の最後の通告だった。

 ――見捨てて、お前だけで逃げろ。そんな残酷すぎる、最後の通告だった。

 

 無論、クズキは即断する。

 ――そんなことできるか。

 

 クズキにとって穂乃美は妻だ。なにもわからない古代に飛ばされ、必死の思いで生き抜いて手に入れた半身。心の底から愛した女なのだ。

 傍にいるだけで、時おり手を触れるだけで、視線を絡ませ合うだけで。クズキの心に温かさをくれる、そんな最高の片翼。それがクズキにとっての穂乃美だ。

 勝ち目があるとかないとか、そんなこと関係ない。

 たとえ何があろうとも、それこそ死のうとも――見捨てられるはずがない!

 

 クズキは”地壌の殻”の言葉を跳ねのけようと口を開き――心の隅にいた弱いの自分の囁きが言葉をせき止めた。

 

 ――きっと、穂乃美は死んでほしくないと思うよ。

 

 弱い自分はきれいな服を着ていた。仕立ての良い、古代では生成不可能な学生服に身を包んだかつての自分は続ける。

 

 ――どんな経緯であれ穂乃美はクズキが生きてることを望むと思う。

 

 弱い自分の囁きはじんわりとクズキにしみ込んでいく。

 まるで呪詛のようだ。

 聞きたくないのに、聞いてしまう。

 その言葉に思わずすがりついてしまいたくなる、そんな呪い。

 

 ――だから逃げよう。ここで二人で死ぬくらいなら穂乃美の想いを組んで、逃げるべきだよ。

 

 しみ込んだ呪詛はクズキの体から力を奪う。

 半身を抱きしめる腕の力が徐々に抜けていく。クズキにそんなつもりはない。”業剛因無”に取られないように力強く抱きしめているつもりだ。

 それでも呪詛は腕から力を奪っていく。

 

 ――僕は最強の資質を持ってる。だったら必ず復讐しよう。必ず強くなって、いつかアレを討滅するんだ。

 

 一滴の水が大地にしみ込むように。弱い自分の言葉がクズキの脳裏にしみ込んでいく。

 

 自分ならば年月を積み重ねていけば必ず”業剛因無”を倒せるようになるだろう。

 一度は”業剛因無”と同格の”万華胃の咀”を討滅しているのだ。あれが使えるように成りさえすれば”業剛因無”など一撃で討滅できる。

 ここで死ぬくらいなら――

 

 ――だめだ!

 

 いつしか心の端に追い詰められた自分が叫ぶ。

 

 ――まだ腕の中の穂乃美は生きてるんだ!

 ――でもこのままなら僕も彼女も死ぬ。無駄死になんて君だって嫌だろう?

 

 弱い自分の言葉に押し黙ってしまう。

 無駄に死ぬなんて御免だ。黙って死ぬなんてクズキにはできない。古代ですら諦めなかったクズキの反骨精神はだてじゃない。

 その心があがいてあがきぬいてやると勇猛に叫んでいた。

 

 ――だったら。逃げてでも生き抜いて。必ず復讐してやろう。――絶対にだ!

 

 弱い自分の力強い叫びがクズキの中に広がった。

 それはとうとうクズキのすべてを支配し、穂乃美を抱える腕がゆっくりと地面に下ろされていく。

 せめて、とクズキは丁寧に穂乃美を地面の上に下ろした。

 そして彼女の泥だらけになってしまった頬を優しく撫でる。

 

「ごめんな……」

 

 もれた言葉は謝罪。

 クズキはこれが最後と彼女の頬についた泥をぬぐった。

 

「…………ぅん」

 

 それはいったいどんな神の悪戯だろう。

 最後に触れた指の熱が穂乃美の目を開かせた。

 

 穂乃美はクズキの顔を見てわずかに目を見開き、朗らかな笑みを浮かべた。

 彼女はクズキの表情だけですべてを悟っていた。

 

「あなた……」

 

 小さくつぶやかれた穂乃美の言葉に、クズキは目をそらすしかなかった。

 穂乃美のクズキを想う瞳を見る勇気がなかった。彼女の澄み切った瞳を見てしまえば、クズキは罪悪感に心を押しつぶされてしまう予感があった。

 

「……気にやまないでください」

 

 穂乃美はクズキの頬に手を添えた。

 そして慈母のようにクズキの頬を撫で、髪をすく。その手つき一つひとつが想いに満ちていた。見なくても、ただ触れられるだけで彼女の心が流れ込んでくる。

 自分のことなんてなにも不安に思っていない。

 ただただクズキのことを想っていることが伝わってくる。

 

「俺は……っ、おれは……!」

「――あなたが生きている。私がその一助となれるのならば。これ以上の幸せは無いのです」

 

 穂乃美は反対の手で腹部をなでる。

 

「私はあなたの子を産めた。あなたと共にいられた。こうして死に目を看取ってもらえる。これ以上を欲しがれば罰があたりましょう」

 

 そして穂乃美は左手の薬指につけられた指輪を顔の前に掲げ、二度三度と触れた。

 遠い時代を思い返す瞳のまま、指輪に息を吹きかけ泥をぬぐう。

 

 そこにどんな想いがあったのかクズキにはわからない。

 ただ聖母のような笑みの向こう側に小さくない悲しみがある気がした。

 穂乃美は子を抱くように指輪をつまむと、指から引き抜く。それをクズキの指に通した。

 

「……どうして……」

「これはあなたの伴侶が持つものでしょう? 死に別れる私が持っていてはいけないものですから……」

 

 穂乃美の表情に初めて悲しみの色が宿った。

 瞳は涙にぬれ、今にもこぼれそうだ。

 気丈だった表情が崩れ、言葉が震える。それでも彼女は笑った。

 

「わ、私は幸せ者ですっ。あなたと共にいられたことを誇りに……ここで朽ちましょう……」

 

 笑う彼女を前に、クズキは抱きしめたい想いが膨れ上がった。だが抱きしめることなんてできない。抱きしめたら間違いなく、クズキは動けなくなるからだ。

 そんなクズキの想いすら読み取って、穂乃美は胸の前で手を組み、

 

「どうか……生きて」

「穂乃美……」

「生きてください……私を忘れてしまうほどに」

 

 涙が一滴、穂乃美の頬を伝う————

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「   ふっ、ざけんなぁぁああああああああああああああああ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人を”業剛因無”から隠していた周囲の木々が太陽色の炎に包まれた。

 恐れを吹き飛ばすための咆哮ではない。悲しみに浸る叫びでもない。穂乃美は初めてみる夫の怒号に目を白黒させた。

 

「あなた……?」

「……見捨てられるか? 見捨てられるか!? ――見捨てられるか!!」

 

 戸惑う穂乃美を抱き上げ、クズキは彼女を抱きしめる腕に力を込めた。もう力は逃げない。

 

「――俺は見捨てない。絶対に見捨てなんかしない。こんないい女、手放せるかッ!」

「で、ですが……」

 

 穂乃美は自分を見捨てる利点を言おうと口を開いた。

 しかしクズキは彼女の腕を引き、妻の唇に自分の唇を押しつけた。

 

「――あ」

「お前は――いいから黙って俺の腕の中にいればいいんだよ!」

 

 黄金の炎に囲まれた中、クズキの言葉を理解した穂乃美が顔を真っ赤に染めた。

 穂乃美は手を顔の前で恥ずかしさをごまかすように振って暴れ、それでもクズキが穂乃美を離す気が無いと悟ると、小さな声で「……はい」と返事を返す。

 顔を真っ赤した穂乃美が黙った代わりに、彼女の耳の勾玉から”剥追の雹”が怒気交じりに叫ぶ。

 

「――ちょっと! あんたなにしたかわかってんの?」

「ああ、わかってる。ちょっと俺の位置をあれに教えただけだ」

 

 振りかえればどこからでも見える巨体の”業剛因無”がこちらを見ていた。

 炎の中心に立つクズキと視線のぶつかった”業剛因無”は裂けた口をゆがませ、笑みを作っている。

 

「あんた……馬鹿なの? 馬鹿なんでしょ! どうして逃げなかったのよ!」

「そうだね? 僕としても納得のいく説明をしてほしい所だよ」

「――んなもん決まってるだろ」

 

 クズキは穂乃美を抱えたまま、”業剛因無”と向き合う。

 ”業剛因無”はゆっくりとクズキへと歩き出してきた。

 

 今度は臆さない。

 クズキもまた穂乃美を抱きしめたまま”業剛因無”へと歩き出す。

 穂乃美が焦ったように声を上げるが、そのすべてを無視する。今だ彼女の腹部の傷は大きく、治癒をかけ続けなければいけない。

 

「決まってる? ――そうやってお荷物を抱えたまま死に行くことが?」

「ざけんな。誰が死ぬかよ」

 

 今の穂乃美は間違いなくお荷物だ。

 そして”業剛因無”はお荷物を抱えたまま勝てるような徒ではない。

 だが、クズキに穂乃美を下ろす気などまったくない。

 

「それなら君は――」

「――なぁ”地壌の殻”」

 

 穂乃美を地面に置いて逃げれば、彼女は傷が原因で死ぬだろう。

 穂乃美を地面に置いて戦えば、彼女は戦いの間に死ぬだろう。

 比翼の翼を生かすためには、クズキが抱えたまま治療し続けるしかないのだ。

 

 それは無謀だろう。

 力も経験も体格も負けているのに、お荷物を抱えたまま戦うなど正気の沙汰ではない。

 

 そんなこと――クズキだってわかってる。

 だが穂乃美を失ったクズキに何ができる。

 比翼を無くした鳥がどうして空を飛べるのだ。

 クズキがクズキでいるためには。空高く、誰にも届かない天空を制すためには。隣に穂乃美が必要なのだ。

 

「――俺は最強なんだろ?」

「そうだね? 確かに君の資質は間違いなく最強だ。でも資質であって実力じゃない」

 

 どこか不安なそうな顔で――感情のたがが外れたのか――穂乃美がクズキの顔色を覗き込む。クズキは穂乃美の額に軽くキスすると、ムズ痒い表情でクズキから視線を外す。

 

「でも資質と実力は比例してる」

「そうかもね? 実力は資質以上にはならないから。でも今の君は資質に実力がまったく追いついていない」

「なら今追いつけばいい」

 

 ゆっくりと歩いてくる”業剛因無”は腕をまわし、体の調子を確かめている。

 よほど一撃で仕留められなかったのが腹にすえたのか、口からは大量の蒸気を吐いていた。

 

「無理だね? そう簡単に実力が伸びるわけがない」

「――なぁ”地壌の殻”。俺が昔いたところではさ、よく資質もないような主人公が最強の敵に勝つって展開の物語があったんだ。隙を探して、作って、運すら味方にして。

 けどな、相手は最強なんだぞ? 一番強いから最強なわけで、弱い奴が少し工夫したからって勝てるわけない。

 そんなもん――最強なんて呼べないよな」

「君は何が言いたいんだい?」

 

 初めて、”地壌の殻”が苛立ちを含ませた声を放った。

 それに苦笑いしながら、徐々に近づく”業剛因無”を眺める。

 

「穂乃美を抱えるってのは不利だ。体が小さいってのも不利だ。大した自在法が使えないってのも不利だ」

 

 近づいた”業剛因無”は膝を曲げ、体を沈めた。

 巨体が落ちようとする力に対して大地が砕けながら巨体を押し返す。その力を利用し、”業剛因無”の巨体が空高く飛び上がった。

 その着地地点にはクズキというアリのような人間がいる。

 

「抱えたままじゃ腕は振るえない。もともと大した自在法は使えない。戦った経験なんぞほとんどない。俺が勝てる要素なんて皆無だ。けどな。それでも――」

 

 巨体は自分の身長ほどの高さまで飛び上がると、星の引力に引かれ大地へと落ちてくる。

 同時に足を突き出し、蹴りの威力をさらに高める。

 実に七階建ての高層ビルに等しい大きさの巨人が落ちてくる様は、隕石のようだ。

 事実威力はそれに勝るとも劣らない。

 

 高速になった思考でいやにゆっくりとした”業剛因無”の落下を待ちながら、クズキはこれの威力を考える。

 おそらく、隕石のクレーターのように大地がはげ上がることは間違いない。

 どんなフレイムヘイズであれ、真正面から受け止めれば即死は確実だろう。

 だが、それでも、

 

「――――俺が最強だ」

 

 ”業剛因無”の一撃が着弾した。

 今度こそクズキに叩きこまれた蹴りの余波が大地を液状化させ、周囲を吹き飛ばし、轟音を轟かせた。

 かつてない威力の一撃だった。

 ”業剛因無”の全体重が乗せられた高所からの一撃は他の紅世の王にもまねできない一撃だった。

 自在法を用いない攻撃としてはあの壊し屋”不抜の尖嶺”のフレイムヘイズ『儀装の駆り手』すら及ばないだろう。

 これを食らい生きているものなど、”鋼鉄竜”や”嵐蹄”のような一部の例外くらいだ。いや例外であったとしても全霊をもって防がねば討滅されるだろう。

 それほどすさまじい威力だった。

 

 だからこそ。

 ”業剛因無”は理解できない。

 あれは間違いなく最高の一撃だった。なのに、

 

「腕が振るえないなら振るわなきゃいい。自在法が使えないなら使わなきゃいい」

 

 ”業剛因無”の足の下で、

 

「腕に抱えてるからどうした。殴れないなら蹴ればいい」

 

 強烈無比な蹴りを直立させた足で受けとめ、

 

「惚れた女を抱えて戦うなんぞちょうどいいハンデだ」

 

 最強のフレイムヘイズは無傷で立っていた。

 

 そこには弱々しい、いかにも成りたてのフレイムヘイズなどいない。

 いるのは全身から存在の力をこれでもかと溢れさせ、自信に満ち溢れた獰猛に笑う男だけだ。

 ”業剛因無”をして絶句させるほどの存在の力を纏った男の体は淡い太陽色に輝き、見るものすべてにこの男こそが世界の中心だと思わせる。

 

「今まで俺はうまく存在の力を使えなかった。それは明確なイメージがなかったからだ。

 でもな、今ようやくわかった。俺は『どんな相手にも負けない』なんてあやふやなイメージじゃだめだったんだ。

 例えば――」

 

 過剰に供給される存在の力がクズキの体を強化していく。

 明確な志向性を持った意思が存在の力を用いて望む結果を作り出す。

 すなわち、

 

「――目の前の巨人をぶっ潰す自分の姿! それを想像し、自分をそうであれと顕現させるだけでよかった!」

 

 クズキが足に思いっきり力を入れ、”業剛因無”の体を押し返す!

 密度の濃い”業剛因無”の超重量級の体がのけぞり、クズキによって押し返された。

 同程度の体格ならまだしも、まさかくるぶし程度までしかない人間に押し返されるとは。初めての事態に”業剛因無”は体勢を崩してしまった。

 

 それは隙だった。

 クズキは穂乃美を抱えたまま跳躍する。跳んだ先には”業剛因無”の巨大な顔がある。そこは地上から遥か高い位置で、飛行ができないフレイムヘイズがいて良い位置では決してない。だがクズキは強化した肉体の脚力だけで地上数十メートルもの高さまで飛び上がったのだ。

 驚愕に目を見開く”業剛因無”に容赦などしない。

 身をひねり、思いっきり強化した足をぶん回し、全力で顔面を蹴りつけた。

 

 瞬間、”業剛因無”の巨体が浮いた。

 強すぎるクズキの脚力が”業剛因無”の体を浮かび上がらせ、木々よりもはるかに大きな”業剛因無”を蹴り飛ばしたのだ。

 吹き飛ばされた勢いで太い木々を巻き込みながら転がった。蹴られた頬を呆然と抑える”業剛因無”に向かって、クズキは凄絶な笑みで叫んだ。

 

「――――ぶっちぎりの最強ってやつをみせてやる!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 我に返った”業剛因無”が最初にしたことは怒りにまかせた咆哮だった。

 そして腹の奥で煮えたぎる怒りのままに周囲を足でなぎ払う。そして体の半分ほどの大きさの――三階建てビルほどの木を握りしめると、振りかぶってやり投げのようにクズキに向かって投げつけた。

 

 一瞬で音速を超えた木が存在の力によって強化され、鋼鉄の槍となってクズキへと一直線に飛んでいく。

 それをクズキは一足飛びで横に飛んでかわした。今のクズキは自身の保有する莫大な存在の力を湯水のように使用し、肉体を強化している。普通の徒どころか王ですらすぐに枯渇するほどの力で強化された肉体ならば、一足で相当な距離を移動できる。

 投げられるものが一本ならば(・・・・・)この程度の遠距離攻撃、当たる気がしない。

 

「やっかいだなおい!」

 

 当たり前のようにクズキが避けた位置に第二射がせまっていた。それどころか”業剛因無”はすでに三本目を投げ、四本目を握りしめていた。

 どこで覚えたのか知らないが、まったくもってやっかいな攻撃だった。

 

 だがそれでも。この程度の障害でクズキを止めようなどと片腹痛い。

 クズキは穂乃美を抱きしめたまま、”業剛因無”目がけてまっすぐ走りだした。

 無論”業剛因無”とてそれを見ているだけではない。

 次々と槍を投げつけ、クズキの足を止めようとする。

 それに対しクズキはジグザグに走りながら対処する。

 

 ”業剛因無”の投げるのは槍であって点の攻撃だ。威力は高いが素早く動く小さな標的を狙うのは恐ろしく難しい。

 事実”業剛因無”はクズキに当てることができなかった。

 そこで”業剛因無”は投げ方を変える。すでに半分ほどの距離を踏破されているが、焦ることなく木をハンマー投げのように投げたのだ。

 木は回転し円を作りながら飛ぶことになる。

 槍の点に対して、これは線の攻撃だった。攻撃範囲が一気に広がる。

 クズキは木を前にして一瞬跳びかける。

 

「おらぁあああ!」

 

 すぐさま跳躍をやめ、足を突き出して突撃する木を粉砕した。

 飛んでいる時に狙われたら飛行の使えないクズキは避けられないからだ。

 踏ん張りも効き、すぐに体勢も立て直せる地上とは違い、空中ではいいとこ二度程度しか攻撃できない。こちらは一発もらえば穂乃美が危険なのだ。避けられる危険は回避しなければならない。

 

 そして粉砕するために僅かに速度が遅くなったクズキ目がけて存在の力で念入りに強化された槍が投げられた。

 

「はっ! 学習しないな”業剛因無”!」

 

 だが槍投げではクズキには当たらない。

 クズキは当然のように横っ跳びで槍をよけようとし――突如として軌道を変えた槍に目を見開いた。

 槍はすでに横を通り過ぎていた。

 だというのに慣性の法則を無視して九十度曲がってクズキたちを襲ったのだ。

 槍の先端はまっすぐ穂乃美を狙っていた。

 

「させるかぁぁぁあああ!!」

 

 クズキは横っ跳びの最中に片足を地面に振り下ろし、飛ぶ軌道を変える。

 しかしそれに合わせて槍も軌道を変えた。再びの九十度変化である。完全に物理法則を無視している。

 こんなこと普通ならできない。

 だがこの世界の存在ならば起こす方法がある。

 それが世界を自分の思う通りに変化させる力――自在法だ。

 

 おそらく”業剛因無”は自在法を用いてあり得ない結果を作り出しているのだろう。

 

「これはね? ”業剛因無”の自在法『引禍(いんか)』だね。自在法で印をつけて、それを引き寄せたり、あるいは瓦礫を引き寄せさせたりする自在法だよ」

「情報提供ありがとう! なんであれ、正面から潰すだけだ!」

 

 クズキはすぐさま地面に踏ん張って向かい来る槍に蹴りを叩きこんだ。

 強化されたとはいえ、クズキの脚力の前には粉々に粉砕されるほかない。

 粉々になった木はばらばらと地面に転がった。

 

「他のが来るわよ!」

 

 穂乃美の耳についた勾玉から”剥追の雹”の注意が響いた。

 見れば今までとは全く違う軌道で槍がせまっていた。四方からせまりくる槍の数は全部で五本。加えて前方からは”業剛因無”が走りこんでいた。

 おそらく五本の槍はすべてに追尾の自在法が刻まれているのだろう。

 それを考えると避けながら”業剛因無”の攻撃をかわさなければならない。さすがにそれはクズキとしても無傷でいられる自信がない。

 

 クズキは即断した。

 まずは木を破壊する。

 

 今までは”業剛因無”のほうへと飛んでいたが、今度ばかりは反対に飛んで他の槍に近づく。

 投げつけられた五本の木をまず破壊すべきだろう。

 まっすぐ近づく”業剛因無”よりも早く壊せるかは微妙なところだが、いっぺんに二つも相手にするほうがリスキーだ。

 

 クズキは”業剛因無”から距離を取りながら、落ち着いて向かってくる木を順番に蹴り壊していく。

 少なくとも壊せば自在法が解けるようだ。これで破片一つ一つに追尾性があったなら、厄介きわまりなかっただろう。

 

 クズキが下がりながら五本目の木を破壊した時、”業剛因無”はクズキとの距離を零にした。

 ”業剛因無”は木による攻撃が大した意味を持たなかったことに苛立ちの表情をしながら、振りかぶった拳を振り下ろす。

 走る速度が乗った拳は唸りを上げてクズキに迫った。

 木の槍を破壊するために足を振り上げたクズキの体勢では、”業剛因無”の剛腕を迎え撃つことは難しい。

 クズキは自らに潜む膨大な存在の力を組み上げ、強い意志で脚を強化すると、腕と接触するまでの僅かな時間で背後へと飛んだ。せまる剛腕はクズキを殴りつけるが、クズキはその力を利用して、はるか後方まで飛びずさった。

 

 

「さて? どうやって『引禍』を攻略するんだい?」

「さて、どうするかな――」

 

 

 思った以上に厄介な自在法だ。クズキは”業剛因無”固有の自在法『引禍』にひとりごちた。

 あの自在法、印に向かって(わざわい)――つまりこの場では木の槍(対象物)を引き寄せさせる自在法のようだ。厄介なのは自動で引き寄せるところで、”業剛因無”が自由に行動できる所だろう。

 自在法の対処に集中すれば”業剛因無”が。”業剛因無”に集中すれば自在法が、クズキに致命傷を与えようとせまってくる。

 どちらも疎かできないだけに厄介だった。

 

 

 さらに何度も連続で使われたことで気がついたが、この印、穂乃美の体につけられていた。おそらく穂乃美を殴った際についでにつけたのだろう。致命傷を与えていたのに、油断せず『引禍』の印をつけるあたり、ますます侮れない。

「つっても対処法なんていくらでも浮かぶんだけどな!」

「へぇ? どんなのか聞いてもいいかい?」

「この手の引き寄せる系はお約束ってのがあってだな――――っと!?」

 

 

 ぐん、っと”業剛因無”が再び空中で何かを手繰り寄せた。同時に腕の中の穂乃美が強烈に引っ張られた。当然、クズキが穂乃美を手放すはずもなく、クズキの体ごと宙へと浮き上がった。

 引き寄せられた先には、大リーガーのように振りかぶった”業剛因無”の姿があった。ただし球ではなく固く握りしめられた拳が飛んでくる。

 

 これに強烈な蹴りで反撃し、拳を潰してやりたい。が空中では踏ん張ることができない。クズキは真正面からぶつかることはまずいと判断し、突き出される”業剛因無”の拳に合わせ、膝で衝撃を吸収しながら、”業剛因無”から再び距離を取った。

 クズキは我ながら神業だと冷や汗を流した。今のをもう一度やれと言われてもできないだろう。

 とはいえ、状況が変わらない以上もう一度引っ張られたらやるしかないのだが。

 

 穂乃美につけられた『引禍』の印を消さない限り、クズキは都合のいいサンドバッグだ。印を消してしまいたいが、クズキではどこにつけられているのか見当もつかず、消す方法もわからなかった。

 殴り慣れていない初心者はまれにサンドバッグに反撃されるが、”業剛因無”はそれほど容易くないだろう。

 

 次の一手に悩むクズキに対し、”業剛因無”は足元の太い木を引き抜いた。槍にするには短く、太すぎる。手に持つにはちょうどいいサイズの木だった。

 ”業剛因無”はそれを何気ない仕草で空中に放り投げた。ぶつけようとも、投げつけようともしない。何となしに川に石を投げ込むような、軽い仕草だ。

 木はくるくると回転しながら放物線を描いていく。ちょうどクズキとの間の中間点で放物線は頂点を迎えた。

 途端、木は空中で固定され、一際強く木が輝いた。三角形を囲むように円が書かれた炎の陣――自在法がまばゆい光を放ったのだ。

 

「――――!」

 

 三度、穂乃美の体が引き寄せられた。

 クズキの体がものすごい速度で空中にある木に引き寄せられる。

 

 空中をなすすべもなく引き寄せられるクズキを見ながら、”業剛因無”は腰を落とし、腰だめに拳を構え、その耳元まで裂けた大きな口を開いた。

 

「 G h a a a a a a a a !! 」

 

 体の節々から高温の蒸気が噴き出す。

 嵐の風のように荒々しい蒸気は瞬く間に周囲に広がり、実に六十間(100m)もの距離に広がった。

 そして次の光景はクズキの心胆をぞっと震え上がらせた。

 

 ”業剛因無”を中心に周囲六十間内のあらゆるもの、木、岩、はては大地に『引禍』の自在法が刻まれていたのだ。

 

「 U B o a a a a a a a !! 」

 

 すべての自在法が強く瞬いた。

 まるで宇宙から見た未来の東京のように大地が輝く。

 ”業剛因無”の『存在の力』により『引禍』はその効力を発揮した。

 

 ばき、ぼき、という名付けがたい音、あるいは地割れのような地響き。様々な音がいたるところから同時に起こった。

 そして次の瞬間――クズキの眼下の大地が浮かび上がった!

 

「おいおいほマジかよ……世界崩壊の序章みたいなことになってんぞ!?」

 

 『引禍』の印をつけられた大地が空中のクズキに向かって引かれ、浮かび上がる。

 大地は引き裂かれ巨大な土砂塊に、木々は槍に。六十間内のすべてがクズキをへと殺到する。

 弾丸と呼ぶには大きすぎる物体が、群れをなして空を駆ける。その行き先に迷いはない。

 クズキは空中で動けず、踏み締めるべき大地はそのすべてがクズキを押しつぶさんと動き始めている。

 

「これはまずいね? しんだね」

 

 耳元で”地壌の殻”が諦めた。

 他人事のように――事実、クズキが死んでも彼は死なないので他人事と言えば他人事であり――彼はこの状況を詰みと判断した。

 

「いや、違う! これはチャンスだ!」

 

 半身の言葉に、クズキは目を見開いて叫んだ。

 いかにクズキとはいえ、数十トンにも届こうという土砂の弾丸を受ければ、器ごと砕け散るだろう。それが眼下すべての大地だというのだから、絶体絶命であることに間違いない。

 だが、だからこそこの状況こそが活路となる。

 

 眼下の大地すべてが敵の攻撃であり、視界いっぱいに広がる壁となってクズキを押しつぶさんと迫っている。

 クズキは自身を引き寄せた大木に両足で着地すると、ロケットのように”業剛因無”へと跳躍した。

 みるみる近づく障害物、それはすべてクズキへと最短距離で近づいている。一見すれば隙間などないように見えるが、その実、大きさによって速さが違うため、所々に隙間があった。

 クズキはその隙間に身を通すために跳躍したのだ。

 

 なにより自分を中心に近づいてくるということは、後になればなるほど隙間が小さくなるということだ。分度器を見ればわかるのだが、遠くに行けばいくほど一度で産まれる誤差距離は大きくなり、近づけば小さくなる。ゆえにクズキは即断決で行動したのだ。

 

「対処法ってのはな。ずばり――」

 

 そしてクズキの考えは正しかった。

 小さく存在した隙間を通り、クズキは土岩砂の壁を無傷で抜けだせたのだ。

 クズキは抜けだした勢いのまま”業剛因無”の股下を通って背後へ回り込む。

 ”業剛因無”が股下を通るクズキに気がつき、振り返りながらの回し蹴りをしようとするが――もう遅い。

 

「本人にぶつけちまえばいいじゃん、ってことだ」

 

 『引禍』によりクズキへと殺到していた土砂は、基本的にクズキに当たるまで止まらない。

 ここで一つ問題。

 今、土砂から見て、クズキはどこにいるだろうか?

 答えは――”業剛因無”の向こう側、だ。

 

 実に数千トンにも及ぶだろう土砂はクズキ目がけて殺到し、その途中にいた”業剛因無”へと降り注いだ。

 

 ”業剛因無”の全長は大体十二間(20m)ほどだろう。

 見上げるほどの大きさには感服するほかない。しかし”業剛因無”が巨大だからといって六十間もの範囲の大地とは体積がまるで違う。

 剛力で知られる”業剛因無”といえど、そのすべてを受け止めることはできるはずもない。

 

 ”業剛因無”の体に大地が激突する。

 『引禍』によって加速された大地が弾丸となって体を殴打した。骨のきしむ音が盛大に響く。

 強烈な痛みには徒も人間と変わらない。そして激痛に声もあげられないのもまた、変わらない。

 『引禍』を解除するも、すでにある速度は変わらず、あまりの衝撃に”業剛因無”ですら一瞬意識が遠のき、ぐらりと体勢を崩した。

 

 ――そして思い出す。

 自分は戦っていたことを。

 ――何と?

 あの”万華胃の咀”を討滅した底しれぬ新米フレイムヘイズとだ。

 ――ならば、この隙にあいつは何をしている?

 

 強烈な悪寒に”業剛因無”は倒れこみながら背後を振りかえった。

 そこにいたものを目にした時、かつて”万華胃(ばんかい)()”が経験した忘我を”業剛因無”もまた知ることとなった。

 そこには遥か大海を思わせる膨大な『存在の力』を繰るフレイムヘイズが立っていた。

 

「うぉぉぉ――」

 

 ただひたすらに足に『存在の力』を込め、より強く顕現する。

 拙い力の繰り方ゆえにか、足からは使いきれなかった無駄が炎となってゆらめく。その無駄に出ていってしまう炎ですら”紅世の王”を討滅するのに十分すぎるほどの力が込められている。

 卑怯だと言ってしまいたくなるほどの圧倒的強者がそこにいた。

 

「ぉぉぉおおおおお――」

 

 ”業剛因無”は羨望すら感じるクズキの力に拳を振るおうとするが、強かに打ちすえられた体はピクリとも動かない。ただクズキのほうへ倒れこむことしかできない。

 

 ひたすらに強化した足で一歩、クズキは踏み込んだ。

 踏み込んだ瞬間、大地が震えた。

 規格外の顕現に大地が慄き、常識外れの踏み込みに大地が揺れたのだ。

 そして倒れてくる”業剛因無”に合わせ、その左足を思いっきり――

 

「――おりゃぁぁぁぁああああああーーーーー!!」

 

 ――振り抜く。

 音を置き去りにした蹴りが、”業剛因無”の上半身を消し飛ばした。

 さらにその向こう側にあった千トン近い土砂が吹き飛び、粉塵となった。

 クズキのフレイムヘイズ数万人分もの力を込めた蹴りは余波だけで土砂のすべてを吹き飛ばしたのだ。

 

 ”業剛因無”の肉体が徐々に空気に溶けていく。

 それを油断なく最後まで見据えてから、クズキは空を仰いだ。

 空は舞い上がった土砂で曇っていた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 腕の中には未だ温かな妻がいる。

 それを守りきった安堵に穂乃美を軽く抱きしめる。

 今までは肉体強化に回していた『存在の力』もすべて治癒に回す。

 しばらくして、わずかならがら続けてきた治癒の自在法が効いてきたのか、妻はまどろみから目を覚ました。

 

 しばし喉の奥でかわいらしく唸り、ゆっくりと両目を開いていく。

 

「ほんとに……本当によかった……っ!」

「――あ」

 

 穂乃美の黒い両目を見た時、穂乃美がけが人と言うことも忘れ、強く抱きしめた。

 起きたばかりの穂乃美は状況がよくわかっていないのだろう。しばし目を白黒させた後、クズキの体を抱きしめ返す。

 わからないことだらけでも、抱きしめられた腕から伝わる熱に、穂乃美は答えたかった。

 

「なぁ、穂乃美――」

 

 クズキは穂乃美を抱きしめたまま、耳元でささやく。

 

「俺は――お前が死んだら、俺も死ぬ」

「なっ、なにを――」

 

 クズキはゆっくりと名残惜しそうに彼女から体を離し、目と鼻の先で彼女を見つめた。

 

「俺にはもう過去なんてない。家族もいない。この世界に来た時、俺が持ってたものは何も持ってこれなかったんだ。それこそ――生きる理由だって」

「そんな、あなたほど生きるべき人はいないでしょう――?」

「違うんだ、聞いてくれ」

 

 クズキは努めて穂乃美の目を見つめた。

 その目には真摯な光が灯り、穂乃美は思わずそれに見惚れた。

 

「俺は今、絶対に死にたくなんてない。死にたくない理由がある。

 それは(げんだい)のことなんか関係ない。俺が生きていたいと思ったのは、あの日。俺がこの世界に来た時、お前を見たからなんだ」

 

 もう三年前になる。

 あの日、この世界に来た時。クズキが最初に見たのは何かに必死で祈りをささげる彼女の姿だった。

 突如現れたクズキを見て言葉を失う穂乃美の姿に、クズキは思ったのだ。――綺麗な子だな、と。

 

「俺は国を守りたいと思ってる。でもそれはお前が民を守ろうとしてたから。だから頑張るお前を助けたくて戦いに口を出して、国を守ってきた。

 俺は子供の未来をいいものにしたいと思ってる。でもそれはお前を愛して、お前との間に生まれたからだ。だからあの子も愛おしくなって、俺は未来をよくしようと努力した。

 俺が生きようとする今の理由は、全部お前から始まったんだ。だから――」

 

 細い体に背負わされた民を守るため、必死で努力する彼女が気になった。

 だからクズキはつい口を出して、いつしか彼女と共に戦い、共に人生を歩んでいた。

 

 気がつけば頬を涙が伝っていた。

 穂乃美の頬に触れて、そっとなでる。

 

「――価値が無いなんて言わないでくれ。意味が無いなんて言わないでくれ。

 お前はもう、俺の生きる理由なんだから――――」

 

 そしてもう一度穂乃美を抱きしめる。

 ぎゅっと腕の中に閉じ込め、震える声でクズキは懇願する。

 

「生きてくれ、傍にいてくれ、俺の腕の中にいてくれ。――頼む」

 

 それは懇願だった。

 国主とあろうものがすべきではない、ましてや神がするものではない、懇願だった。

 

 沈黙があった。

 お互いの息以外の音がすべて消え失せる。

 クズキは心臓が痛いくらい脈打つなか、みじろぎもせず穂乃美の言葉を待つ。

 

「それが……」

 

 審判をぎゅっと目をつぶったまま待つクズキの耳に、呆れた声色が聞こえた。

 そして穂乃美は――クズキの抱擁に両腕で答えを返した。――強く、クズキを抱きしめ返したのだ。

 クズキの頬に涙が伝った。

 クズキの涙ではない。

 穂乃美の涙だった。

 とめどなく溢れる涙と堪え切れない嗚咽が彼女の肩を震わせていた。

 

「それがあなた()の命令だというのなら、生きましょう。それがあなたの願いだというのなら傍にいましょう。それが、あなたの愛というのなら、腕の中で笑いましょう――」

 

 そういって穂乃美はクズキの頬に両手を添え、ためらいなく唇を合わせた。

 

「――今、はじめて穂摘 穂乃美になった気がします」

「そうか……なら、これは今返さないといけないな」

 

 クズキは指につけられた二つ目の指輪をはずした。

 それは死を覚悟した穂乃美から返された夫婦指輪の片割れだった。

 

「例え……天壌の魔神を相手にしたとしても」

「――あなた?」

「蛇神に祟られたとしても、辛く苦しい戦いが続いたとしても」

「――私を愛することを誓いますか?」

 

 クズキの言葉が夫婦になったときの宣言を変えたものだと気がつき、穂乃美は瞳を潤ませて言葉を続けた。

 

 クズキは一度だけ目を閉じ……そして想像する。

 そして静かに微笑んだ。

 きっとフレイムヘイズとして生きるということは辛く険しいのだろう。終わりのない闘争にいつかはくじける日が来るのかもしれない。強敵との戦いに恐怖におびえる日が来るのかもしれない。

 けれど、それがどうした。

 

「――誓う。穂乃美と共に、この長い生を歩むことを」

 

 彼女が隣にいてくれるというのなら何を恐れる必要がある。

 一人では辛くても、二人なら。

 一人ならば転び、立ち上がれない日が来ても、二人なら助け合っていつまでも歩いていられる。永遠も、戦いの輪廻も。クズキは何一つ怖くなかった。

 

「穂乃美は……俺を愛することを誓いますか?」

「誓います」

 

 即答で答え、穂乃美もまた微笑んだ。

 

「長い生を共にし、黄泉路の果てでも共にあることを」

「――ありがとう」

 

 クズキは穂乃美の左手を取ると、薬指にそっと指輪をはめる。

 純金の指輪は斜陽を反射し、眩しいくらいに輝いていた。

 帰ってきた指輪を二度三度撫で、穂乃美はクズキの胸にもたれかかる。

 

 決してすべてが終わったわけではない。

 傷が癒えたわけではないし、これだけの戦闘に国からも人が来るだろう。その対処を考えねばならない。

 そして自分たちの命をすぐに諦めた契約者たちとの話し合いもしなければならない。

 まだ二人にはすることがあった。

 

 けれど今だけは。

 二人静かに寄り添っていたかった。

 触れ合い伝わるこの暖かさを実感するために。

 

 

 

 

 

 

 



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2-1/2 「傲慢」

 

 

 大罪、という言葉がある。

 それはとある宗教において、人間を罪へと誘う欲望と定義されたものだ。

 クズキが生きた日本においては七つの大罪と呼ばれるものが有名であったが、実際には大罪というのは七つだけでなく、それ以外にも多々ある。

 もろもろと語り始めればこの手のことにきりはなく、興味のない輩にとってはどうでもいい話であるため、あえて深くは語らない。

 ただ、一つ覚えていてほしいことがある。

 それはクズキが生きるはるか三千年の昔にも大罪と呼ばれるものがあったのだということを。

 有識者でなくとも。その欲望を極めることが罪へとつながると、誰もが知っていたのだということを。

 

 そして大罪の概念を”徒”も持っていたということを。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 鬱蒼と生い茂る森の中。

 息を乱しながらひた走る存在がいた。

 だが奇妙なことにそれは世界のどこを探しても見つかりそうにない。馬の体だというのに、その全身はびっしりととかげのようなウロコに覆われていたのだ。

 それもそのはず。”決してわたり来ることの無い隣の世界”からやってきた彼ら——”(ともがら)"はこの世界の住人ではない。とある詩人によって紅世と名付けられた世界の住人なのだ。

 

 徒は全速力で森を走りながら、馬面に焦りを浮かべている。

 その様は捕食者から逃げる鼠のようだ。いや、事実そうなのだ。徒は自分を狙う『存在の力』を感じていた。

 それはおおよそ自分を狙うには不釣り合いな規模だ。小さいというわけではない。むしろ”王”ではない自分にはあまりにも力強すぎる。蟻を一匹つぶすのに完全装備の軍を使う。そんな規模の違いを感じる。

 

 これは討伐ではない。虐殺だ。

 あまりにも理不尽ではないか。

 いったい自分がなにをしたというのか。

 徒は喰われた人間が考えていたであろうことを思った。

 

 生への執着は徒の足を止めない。

 狙われ、逃げられないとわかっていても足掻かずにはいられない。

 一心不乱に駆ける徒はちらり、後方に視線をやる。

 それはすぐに目に入った。

 森の上空にぽつんと浮かぶ薄墨色の雲。それが徒の背筋を凍らせてやまない。

 必死で走る徒の奮闘を嘲笑うようにぴたりとついてくる。徒はそれが空に浮かぶ雲とは全く違うもので構成されていることを知っていた。

 自然にはあり得ない薄墨色の雹の群体、それがあの雲の正体だ。

 そして今まさに徒にとどめを刺さんとする致命の刃だった。

 

 雲が突如として動きを変える。

 漂う動きから、蛇がとぐろを巻くように。大きくうなったのだ。

 

「あ……」

 

 徒の黒曜石の瞳が大きく見開かれた。

 うねりを上げる雲がゆっくりと落ちてくる。

 いや、ゆっくりというのは比較対象が大きすぎるからそう見えるのであって、決してそれの速度は遅くない。どころか、徒の全力走行の数倍の速度を持っていた。

 

「やめろ……やめてくれ!」

 

 一つ一つが握りこぶしほどの雹が。

 まるで雨のように。

 

「く、くるな!」

 

 高速で徒へと落ちてくる。

 土砂降りの雨のすべてを避けることは誰にもできないように。

 

「くるなぁぁーー!」

 

 その徒はあまりにもあっけなく、雹の雨に飲み込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 地噴の帯び手 2-1 『傲慢』

 

 

 

 

 

 

 

 

 雹を生み出し自在に操る自在法『雹乱雲(ひょうらんうん)』。その術者である”剥迫(はくはく)(ひょう)”のフレイムヘイズ、『雹海の降り手』穂乃美(ほのみ)穂摘(ほずみ)は着弾地点を見下ろしていた。

 あの徒が死んだとも限らないため、空から生存を確認しているのだ。雹による乱射を受け大きく地面はえぐれ、わずかに徒の残滓の炎が揺らめいている。

 

「さーて、今日の仕事も終っわりー」

 

 穂乃美の左耳につけられた薄墨色の勾玉からオオルリのような声が響いた。

 契約者に力を与える紅世の王”剥迫の雹”の声だ。どこか軽さを漂わせる間延びした声に穂乃美はわずかに苦笑する。

 着弾地点を見る限り、しっかり討滅できたようだ。

 王でもないような徒に大人げない力を使ったのだから倒せていないと困るのだが。

 

「最近は仕事が多いのはいいけど、どうにも歯ごたえがないのがちょっとねぇ?」

「私としてはそもそも国に来てほしくないのですが……」

「無理ね! あの裂け目がある限り徒は来るわよ」

 

 裂け目とは落穂の国の東にある空間の裂け目のことだ。

 それは紅世関係者にとって強烈な存在感がある。基本的に徒は好奇心が強い。そのため裂け目に興味を持ち、近づいてきてしまう。

 結果として裂け目に近い落穂の国は何度も徒に襲われることになっていた。

 本来徒が町に来ることなぞ十数年に一度もないのだが、ここ最近の落穂の国には一か月にいっぺん徒が来ていた。

 これほどの頻度はさすがの”剥追の雹”も聞いたことがなかった。

 

「とはいえフレイムヘイズが常に二人もいる以上、これほど安心できることもないでしょう」

「どーでしょうねー? 徒だって複数で行動することもあるし」

「私たち二人だけでは難しいと?」

「実際、”ギャロップの袋”とか”ウートレンヤカー”とか、それなりの規模の徒集団はいたわけだし」

「しかし討滅されたのでしょう。他にできて主人にできぬ道理がありますか」

「そういう話じゃないんだけど……

 まぁあの手のやつは大体派手好きだから。人の多いギリシャとかそっちのほうで大暴れして『棺の織手』にボッコボコにされてるわ」

 

 『棺の織手』の話は穂乃美も何度か聞いていた。

 徒にとって人は食料である。それゆえにか、徒は人口分布と同じように分布している。食料の多い場所に集まるのは人も徒も同じことらしい。

 ”剥追の雹”がいうには今もっとも人の多い場所は「ぎりしゃ」とか言う場所らしい。

 そして『棺の織手』はぎりしゃを中心に活動するフレイムヘイズであり、『境界渡り』によって徒が紅世から渡りきた初期の初期から徒を討滅しているらしい。契約する紅世の王も強大であり、フレイムヘイズも経験豊富。求心力も高く、一匹オオカミ主義の多いフレイムヘイズの中心的存在でもある。

 

「『棺の織手』……一度は会ってみたいものです」

「『棺の織手』に限らず、他のフレイムヘイズには一度会った方がいいかもね」

 

 穂乃美たちがフレイムヘイズになってからすでに八カ月。裂け目に吸い寄せられた徒には幾度となく接触してきたが、今だ同胞には一度も会えていない。

 穂乃美自身、他のフレイムヘイズのことが気にならないわけではない。

 裂け目や国やら息子やら。もろもろの放り出せない事情から探し出そうとは思わないが、機会があれば聞いてみたい事がいくつかあった。

 

「とはいえ、ぎりしゃとやらの方角も分からない以上、『棺の織手』に会うことは難しいでしょう」「そーよねー。昔私は雪が深い国を中心に戦ってたんだけど、ここがどこかさっぱり。知り合いに助けてもらおうにもどうやれば会えるのやら……」

「さびしいですか?」

「まさか。狩り場から足を遠ざける狩人がどこにいるのよ」

 

 狩り場、とはよくいったものだ。

 穂乃美は眼下に見える落穂の国を見下ろしながら、眉をひそめた。

 裂け目に好奇心を刺激された近隣の徒はこの国に集まる。そしてその徒を狙うフレイムヘイズがいる。

 ここはよくできた狩り場だった。

 ただ、もっとも犠牲になる最弱の餌が国民であるということが、穂乃美の心胆を冷たいものとしていた。

 今日近くに来ていた徒はすでに討滅した。

 穂乃美は空を飛び、社へと向かう。

 

「あーっ! 穂乃美さまだー」

 

 穂乃美は静かに社の前に降り立った。

 空から降りてくる穂乃美の姿はすでに国の名物だ。

 穂乃美を目ざとく見つけた山菜摘みの女の子が歓喜の声を上げると、周囲の大人たちも彼女の近くに集まってくる。

 

「もうっ。指さししてはいけないと何度言えば……申し訳ありません、穂乃美様」

「かまいません。子供のすることですし、ね?」

 

 最初に近寄ってきた女の子の頭を撫でてやると、少女はうれしそうに歯を見せて笑った。

 彼女の腕には一匹のウサギがいる。

 東の麓には元々ウサギが多かったのだが、ここに村を切り開いたのを機に、ウサギの養殖が始まったのだ。腕の中のウサギは彼女の家で飼育しているものの一匹だろう。

 このウサギは繁殖力が強いので、どの程度の数が増えたのか気になるところだ。

 周囲を見れば、時おりうさぎがひょこひょこと顔を出している。

 随分とういものだ、と穂乃美は頬を緩めた。

 すると集まってきた大人の一人が困りげな顔で声をかけてくる。

 

「あの~……穂乃美様。わりーんだけど、相談がありまして」

「ああ、そろそろ畑に手入れをしないといけない時期でしたね」

「そうなんでさぁ。それでですね――」

 

 少女の髪を手で整えてやりながら、大人たちの言葉に耳を傾ける。

 それは周囲の環境の話であったり、稲作の予定についてであったり。あるいは病気についてなど多岐にわたった。それに逐一返答していく。

 今の穂乃美は落穂の神・クズキに仕える元神という立場だ。

 それゆえにか、おいそれと接することのできないクズキに変わって民と触れ合い、時に主導者として国を牽引する存在になっていた。

 

 夕暮れ時。

 穂乃美の周りに人が集まるのはすでに見慣れた光景だった。

 そうして隣の村の顔役と話をしていると東の社の奥、小高い山の頂点から落雷のような音が響き渡る。

 周囲の人間は一瞬だけ肩をすくませるが、すぐにまたかぁ……と顔をほころばせた。

 これもまた恒例のことだった。

 

「またクズキ様がなんかやったんべ」

「おお、ほれみろ。今日は炎の柱が立ってるぞ」

 

 唐沢山と名付けられた山の頂点に視線が向く。

 そこには空を焼き尽くさんばかりに立ち上る巨大な炎の柱があった。

 太陽色に輝くそれは、夕陽の中にあってなお美しい。

 ほれぼれする民と同様、それ以上に目を奪われた穂乃美だったが、柱はすぐに勢いを弱め、陽炎のように消えていった。

 その様子に穂乃美の耳にぶらさがる薄墨色の琥珀が文句ありげに震えた。

 

「まったく。あいつまだ『存在の力』をうまく操れないのねー。もう結構立つのに。あいつ才能ないかも」

「口を慎みなさい、”剥追の雹”。あの人は大きすぎる『存在の力』に少し手間取っているだけです」

 

 穂乃美は契約者の言葉を窘める。

 周囲には村の顔役もいるのだ。かつて下された神、という設定になっている以上、ある程度周囲を気にする必要がある。

 もっともいなくても穂乃美は窘めただろう。

 

「とはいっても。もう季節をいくつまたいだの? 穂乃美はもう十分立派にフレイムヘイズしてるじゃない」

「普通のフレイムヘイズはもっと長い時間をかけて成長していくのでしょう? ”地壌の殻”は決して主人が遅い方だとは言っていません。むしろ早い方だといっていたでしょう」

「そーだけどー」

 

 不貞腐れた声を出す”剥追の雹”に頬笑みながら、穂乃美は炎柱のあった場所を見やる。

 最近、この場所を訪れる徒の数は急増していた。最初の二か月ばかりは一匹かそこらだったのに、ここ一カ月は週一で徒が現れている。

 現状がそうである以上、クズキの戦力化は急務なのだが……どうにもクズキは使い物にならない。

 いや、今すぐに戦場にでて戦えるかと言われればもちろん戦える。

 半年前、”業剛因無”を蹴散らした力がある以上、王クラスの徒が来ようと十分に戦えるだろう。

 ただし、思わぬ爆弾も抱えることになるが。

 

 はっきりいってクズキは『存在の力』を繰るのが下手だった。

 

 体の外に放出した『存在の力』をまともに操れず、すぐに暴走させてしまう。

 今の炎の柱も、おそらく暴走させた結果だろう。

 暴走した炎は自分の体も焼いてしまう。怪我をしていなければいいのだが、はてどうだろうか。

 

 穂乃美は頬に手を当てて考える。

 どうしてあれほど主人は下手なのだろうか、と。

 

 その疑問はここしばらく悩みの種だった。

 放出された存在の力をうまく操れないまま戦いの場に出た時、頼るのは肉体強化の自在法だろう。

 だが、あの自在法には致命的な欠点がある。

 本来であれば自身をより強く顕現させることで肉体を強化するのが普通だが、クズキは直接肉体に膨大な存在の力を纏わせ強化するという方式を取っており、それに稚拙な自在式が重なり、肉体的反動が非常に大きい。

 かつて”業剛因無”との戦いで使った後、フレイムヘイズでありながら彼は数日寝込むことになった(これには未だ人間である、というクズキの認識も多分に影響している)。

 なによりもあの肉体強化の自在法では時間制限がある。無茶な自在法のせいで長時間戦えないのだ。あれでは不測の事態で長丁場になったときがまずいというのが、歴戦の”紅世の王”、”地壌の殻”と”剥追の雹”の判断だった。

 穂乃美の印象ではクズキという男は大体のことを鼻歌交じりにやってのけるので、存在の力だろうがなんだろうが容易いと思っていただけに、現状は意外というほかない。

 穂乃美自身は半年かそこらでお墨付きをもらえたので、余計にそう思ってしまう。

 

「きっと比較対象が穂乃美なのがいけないのよねー。ほら、あんた天才だし」

「そうでしょうか? 私は主人ほど強くはありませんよ」

「まっさかー。半年で私たちのお墨付きをもらえる新米なんて世界中探してもそうそういないわよぉー?」

「……ですが、そうであってもそうでなくとも……なにか変わるわけでもないでしょう。今はただ、国に襲い来る徒を滅すのみ。違いますか?」

 

 問いかけに”剥追の雹”は黙り込んだ。やはりこの娘は大当たりだ、と内心で喝采をあげながら。

 巫女としての教育の結果か、はたまたクズキの影響か。彼女はフレイムヘイズにしては珍しく、謙虚だ。新米フレイムヘイズには特別な力に酔いしれるものや、自信を過大評価するものもいるが、穂乃美にそれはない。

 彼女には多くの新米に待ちうけている死の罠が無意味なのだ。

 すでに五人目の契約者であり、うち三人を契約してすぐに失っている”剥追の雹”からすれば、穂乃美の精神構造は実に都合のよいものだった。

 それゆえの当たりである。

 

「『剥追』の距離も思ったようには長くなりませんし……」

「『剥追』は空間に手を加える自在法よ。そう簡単に距離が延びてたまるもんですか!」

 

 ”剥追の雹”はけらけらと笑いつつ、神器の勾玉を右に左に揺らした。

 

 穂乃美が思い返すのは半年前の戦い。強大な紅世の王”業剛因無”との戦いだ。

 襲い来る徒と戦ってきたが、あれほど苛烈な力をもつ王クラスの徒とは、今だ戦えていない。

 凡百の徒をいくら討滅しようと、王に通じなければ意味はない。

 神に仕え、伽ぎ、代弁し、守る巫女として。力はいくらあっても足りない。

 

「やはり私も精進あるのみ、ということでしょう」

 

 穂乃美は足元でにっこりと頬笑む少女の額をちょん、と押して距離をつくり、胸元でつつしまやかに手を振った。すると穂乃美の体が浮かび上がっていく。

 それなりの高度まで浮かび上がると、東に悠然とたたずむ唐沢山へと視線を向ける。

 標高はそれほど高くなく、小一時間もあれば頂上まで行けてしまう。その天辺に遠くからでもわかる開けた場所がある。そこには雄大にもそびえる巨大な社があった。

 穂乃美は遠くからでもわかる主人を祭った社を目印に、飛行の自在法を見事に操り、空を駆けた。

 

「あいつ、また腕を焼いてないといいけどね?」

「そのときはまた私が治癒すればいいのです。失敗は決して悪いものばかりではないでしょう。成功の礎に失敗は必要不可欠」

「その通り! ……でももう三カ月は続いてる。ちょっと教育方針変えた方がいいかもしれないわ」

「何を……その程度のこと、主人ならばいずれ克服することは間違いありません」

「はぁ……あれよね。穂乃美ってば意外と盲目的よね」

「この程度の期待、ただの一度として裏切られたことがないので」

「でもさー。私としては全幅の信頼があったとしても、疑うことはお互いのために必要だと――あれ?」

 

 耳元の勾玉が疑問の声をあげた。

 フレイムヘイズに限らず”紅世”関係者は同じ”紅世”の気配を感じることができる。二人の索敵範囲にその気配があった。

 

「うーん。これはフレイムヘイズっぽいわね」

「徒ではなく?」

「間違えることがないわけじゃないけど、これは間違いなくフレイムヘイズ。それも結構年食ってるわ」

 

 気配は次第に近づいてくる。

 穂乃美は空中で止まり、相手を待った。

 

「気をつけなさいよ。同じフレイムヘイズでも戦うときは戦うんだから」

「同じ目的を掲げる同士でも、時に戦うとは……」

「元人間。穂乃美のほうがよくわかってるでしょう?」

 

 ”剥追の雹”の問いに答える間もなく、上空の雲海から何かが飛び出してきた。

 それは青い馬だった。

 自然にはあり得ない青い馬が二頭。その馬にひかれるようにして四角い形状の箱のようなもの、つまり戦車に乗る男が一人。

 

「戦車に乗って空飛ぶフレイムヘイズ……ああ、ってことはあれ、『青駕(せいが)御し手(ぎょして)』ね」

 

 少しほこりにまみれたふわりと風になびく服を着たその男は、速度を落とすと穂乃美の前でぴたりと止まった。

 柔らかい印象の服とは違い、男の体は太くがっしりとしていた。顔の線も太く、顔は四角い。髪色は金、肌は白く、俗に言う白人であった。えりあしを適当に紐でまとめられたざっくばらんな髪型は、海の荒くれ者どもを束ねる男のようだ。

 穂乃美自身は生まれてこのかたこの島国を出たことがない。そのため異邦人を見るのは初めてだ。見覚えのない姿に思わず息をのむ。

 ”業剛因無”も金髪だったが、あの時は気にするだけの余裕もなかった。改めて異邦人の姿をじっくりと見れば、やはり物珍しさが顔をだす。

 しかしそれを外にはみせないよう腐心しつつ、穂乃美は『青駕の御し手』に言葉を促す。

 

「お初にお目にかかります。”剥追の雹”のフレイムヘイズ、『雹海の降り手』穂摘 穂乃美です」

 

 名乗りに対し『青駕の御し手』は興味深そうに自分の顎を撫でた。

 何か話すつもりは無いのだろうか。すると彼の肩につけられていた黄金のメダルが強く震える。

 

「懐かしい名。しばらくぶりである。因果の交差路で出会えたこと、感謝しよう」

「まぁこっちもあんたたちに会えたのは都合がいいし、感謝するわ」

 

 溜息まじりに”剥追の雹”が答えた。

 すると黙っていた男がずい、と一歩前に出た。

 

「”抗哭(こうこく)涕鉄(ていてつ)”のフレイムヘイズ、『青駕の御し手』アルタリ。このあたりで徒が活発に動いているという噂を聞いてきた……が。すさまじものだな、これは」

 

 アルタリは眼下を見下ろし、苦笑した。

 やはりすぐにわかるのだろう、あの裂け目の異常さが。

 

「なら下に行きましょうか、こっちは私たちだけじゃないし」

「ええ、フレイムヘイズとなれば主人も交えなければなりません」

「君は結婚しているのか?」

 

 ほう、と興味深そうな目になる。

 穂乃美は頷き、下に降りていく。

 クズキには三回ほど存在の力を活性化させ合図を送りつつ、社の入口へと降り立った。

 

 社はこの時代にしてはめずらしく、木で組まれた大型のものだ。

 ギリシャやエジプトのような高度な文明とは違い、古代――それも紀元前の日本の建築技術はお世辞にも優れていない。

 クズキも一般知識はあっても住居に関する知識はほとんどなく、さまざまな方面に手を伸ばしたが住居に関してはそのままだった。そのためあまり手間とお金をかけられない一般層では竪穴式住居がまだまだ現役である。

 それに比べれば東の山頂に建てられたこの社はかなり立派である。

 まず第一に高床式倉庫の技術を応用してあるため、竪穴式住居のように地面に穴を掘るのではなく、地面から上に浮く形になっている。

 また竪穴式住居のような斬った木をすぐに使うのではなく、一つ一つの木を綺麗に加工し、揃えたものだけを使っている。そのため床は地面でなく木張りの床である。

 そして建築技術の粋を結集してあるため非常に背が高い。山頂かつ社の背も高いため、非常に遠くからでもこの社は見ることができる。

 この時代では大きな自然――例えば滝や巨岩、大河は崇拝の対象だった。そのためか大きな建造物もまた神聖なものとして扱われていた。クズキ――つまり、崇拝の対象である神の社が大きいのはそんな理由のためであった。

 

 穂乃美は中に入ると、照明に火をつける。

 綺麗な床が光を反射し、全体がぼんやりと明るくなった。

 そこは一度に二十人ばかりを収容してもまだあまりそうなほどに大きい。現代に換算すれば10m x 10mばかりか。他の村の顔役も感嘆するほどの広さに穂乃美は満足そうに頬を緩める。

 ちなみにクズキ個人としては時代に不釣り合いなこの広さをあまり気にいっていない。神の社なので権威を落とさないためにあまり日常雑貨や家具を置くわけにもいかない。ただがらんとする広い場所はクズキの趣味ではないのだ。

 

 とりあえず一通りの謁見の準備を済ませると、穂乃美は再び入口から出て外で待っていたアルタリを中に招き入れる。

 

「見慣れない。石作りの家のほうが便利である。なぜ石で造らないのだ」

「そりゃ”抗哭の涕鉄”、あんたが活動してたあっちとは文化が違うのよ。地元が正義みたいな言い方しないでちょうだい!」

「しかし便利だ。耐久性も高い。ゆえにわからん」

「この石頭! むこうとは気候も季節も違うの、同じの作ったら不便で仕方ないわよ!」

「そうなのか。わからん。今は頷いておこう」

「あー、その話し方ややこしっ!」

 

 オオルリの鳴き声のような甲高い声を耳元で聞きながら、耳飾りにしたのは失敗だったかもしれない、と穂乃美は内心でひっそりと思った。

 しまっておいた座布団を取りだし、『青駕の御し手』にどうぞと進める。

 彼はそれをみると無言で腰を下ろす。失礼の一言もないのに穂乃美の眉が細まる。

 

(いえ、相手は他国の異邦人。こちらの道理が向こうの道理であるはずもなし。他意はない)

 

 穂乃美も座布団の上に腰を下ろす。

 これもまたクズキがもたらしたものの一つ。四方を閉じた布の中には細い竹を細かく切ったものが入っており、直接板の上に腰をおろすよりもずっと負担が少ない。布は貴重ではあるが、神の特別製を醸し出すのに一役買っている。

 ちなみに穂摘の国で着られている服はすべて麻でできている。クズキはあまりに服の技術が低く、着ていて痛かったのでどうにか良い服を作りだそうとしたのだが、今だに失敗し続けている。クズキの叔母は絹糸を蚕から作っていたので、これならできる!と意気込んでいたのは遠い昔の話。木綿なら最初から糸だし余裕!と思っていたのもずいぶん昔。やはり技術の流用はなかなか難しかったらしい。

 閑話休題。

 

 しばし契約者の会話を右から左に聞き流していると、社の扉が開いた。

 

「おう、遅くなって悪かった」

 

 右耳に琥珀色の勾玉をゆらし、白い貫頭衣に身を包んだクズキだ。

 堂々と胸を張って奥へ足を進めると、中央部に作られた神座に腰を下ろす。上座ではない。文字通り神座である。クズキは胡坐を組んだ。

 実に神らしい堂々とした姿だが、穂乃美はその袖口が焦げているのを見逃さなかった。

 

「クズキ様」

「わーってる」

 

 クズキは腕を組む。

 

「それで? あんたはどこのだれだって?」

「……」

 

 穂乃美は静かに溜息を吐かざるを得なかった。

 いつものように二人きりではないのだから、威厳のある話し方をしてほしかった。

 とりあえず相手は同じフレイムヘイズなのだから、と自分を納得させた。

 

 『青駕(せいが)御し手(ぎょして)』アルタリはゆったりとした服の袖あまりを一度はためかせる。石が服を着ているようだ、と穂乃美は思った。

 

「何処の誰であろうとどうでもいいだろう。我らはフレイムヘイズなのだから」

「しかり。同じ目的。共有するのならば国里の何に意味がある」

「それもそうか」

 

 納得するクズキをよそに右耳にかけられた琥珀の勾玉がきらりと光りを放った。

 

「それで? 君たちは何をするつもりなんだい、”抗哭(こうこく)涕鉄(ていてつ)”?」

「久しいな。強大なる旧友よ。これが時の流れの因果とみたぞ」

「相変わらずだよね? 君の話し方はまどろっこしくてかなわない。本題に入ろう、本題に」

「しかり。同意すべき事実だ。もう幾度となく言われたことでもある」

「だからね? 本題だよ」

 

 なげやりな”地壌の殻”の言葉には多分に面倒という気持ちが含まれていた。

 

「我らが理由。察するのは容易かろう。その違和感だ」

 

 引き継ぐようにアルタリが口を開く。

 

「それが何か……まではわからずとも、世界に与える影響は察することはできる」

「しかり。だが考察だ。近くにありし者に聞く以下よ」

「であるからには聞くのがもっとも適当。聞かせてはくれないか、『地噴の帯び手』よ」

 

アルタリの視線がクズキ達の背後へ向いた。

そこにはあの正体不明の裂け目がある。

しばし悩ましげな表情でクズキは唸り、「ま、隠すことでもないか」とあっけからんに笑った。

 

「あんたらは世界に裂け目ができていた……なんて言ったら信じるか?」

 

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 なるほど。

 クズキたちの説明に対し、『青駕の御し手』は大仰に頷いて、しばし考えにふけった。

 その間、クズキたちは無言で彼らの発言を待つ。

 そうそう簡単に整理できることではないし、解消できる問題でもない。クズキはわいて出た間で、穂乃美に視線を向ける。彼女は慣れたように立ち上がると社を出て行った。

 

「ふむ。であるならば。一つ聞きたい」

 

 黙りを続けるアルタリに変わって”抗哭の涕鉄”が口を開いた。

 

「なにを?」

「理由。留まるではない。国に関わる理由だ」

「……別にそう変な話でもないだろう?」

「その身分、世に交わり続けるものでもあるまい。ひいては使命にさわるものよ」

「あんたのその言葉はあれか? ”達意の言”が下手だからそう聞こえるのか?」

 

 クズキのちゃかしにアルタリが相貌を重苦しいものに変えた。言葉の節々に込められた存在の力が肌を震わせる。

 

「——ごまかすな」

「ごまかしたつもりはない」

「ならばなぜ。神の立場など無用の長物。フレイムヘイズは留まるべからず」

 

 アルタリは腕を組んでクズキを睨む。夜盗のようなほりの深い相貌の睨みは剣を突きつけられるようだ。

 熟練のフレイムヘイズはそこにいるだけで強い存在感を発する。アルタリもまた熟練のフレイムヘイズ。その睨みは常人のものとは比べ物にならない。

 クズキの背筋に冷や汗が流れた。

 

「ごまかしたつもりはない」

 

 二度の言葉にようやく睨みを納めると、アルタリは目をつむった。

 どうやら交渉は相方に任せるのが彼らのスタンスらしい。一見話の通じずらい”抗哭の涕鉄”に話し合いを任せることを、クズキは意外に思った。

 

「……確かにフレイムヘイズが俗世——こういう言い方が正しいのかはともかくとして——関わり続けるのがいいとは俺も思ってない。いつ死ぬかわからないからな。長い時間生き続けたフレイムヘイズが俗世に深く関わって、それで消えたとなれば、影響は大きい——だが」

 

 フレイムヘイズは生きる時間が人よりも長く、扱える力も大きい。世に関わった時、その影響は人とは比にならない。クズキもそんなことはわかっている。

 

「今の状態をやめる気はない」

「却下だ。とはいえ事情はあるはず。聞かせてもらおう」

「それがフレイムヘイズとして動いていく上で、一番いいと考えたからだ」

 

 アルタリの髪留めから興味深そうな声が漏れた。

 そこで穂乃美が社に再び入ってくる。手にはおぼん。上には茶の入った器がある。穂乃美が全員に茶をまわすと、クズキはそれを口に含んでから、いいか、と前置きし、

 

「少なくともあの裂け目をどうすることもできない以上、ここに留まり続けるんだ。多少なりとも長い付き合いになって、影響はでる。だったらそれを有効活用すべきだ。

 現状、俺が国主として治めているこの国の人間は俺の力だ。数がいればそれだけできることも多い。応用はいくらだって効く」

「くっ……くく」

 

 真剣な顔で話すクズキの前で、じっと黙っていたアルタリが苦笑した。

 

「……何がおかしい」

「面白い話だ、と思ってな」

 

 アルタリは茶を口に含んだ。その口角は見間違えようもなく笑みを形とっていた。

 

「俺は何か変なことを言ったか?」

「ああ、いったさ」

「どこが?」

「人を力と言ったことが」

 

 アルタリの置く茶器の音がいやに響く。

 社の中は無音だった。

 主人を笑う男を前に穂乃美の目が細められる。

 そんな穂乃美を前に、アルタリは問題児を相手にする教師のような顔をしていた。

 

「人は力だ。数がいれば防御網を作ることも、砦も作れる。かく乱も……今は無いが、フレイムヘイズ同士の連絡だってまかせられる。人はいるだけで力になる。間違いない」

「——成ってから(討ち手になって)どれほどになる」

 

 唐突な話題の切り替えにクズキは訝しげに首を傾げた。

 

「まだ季節が一巡していない」

「だろうな。ずいぶんと人よりの考えをしている」

「……!」

 

 それがどうした!

 言おうとし、気づく。自分が人ではないかのような言葉だと。

 

「その通りだ。 フレイムヘイズは人とは違う」

 

 アルタリのありきたりな言葉は字面に反し、重いものだった。少なくともクズキがその意味を考えさせられるほどに。

 

「人が砦を作ったからどうなる。かく乱してどうなる。

 砦など徒にとって砂上の城だ。かく乱しようと前に出たのならそれは鴨が葱を背負ってくるようなもの。

 人が力になると?

 確かにその通りだ。だがそれは同じ土台の上の話(・・・・・・・・)。——紅世にその理屈は通用しない。人はただの燃料だ」

 

 今度はクズキがこう思った。なるほど、と。

 だがしかし――続く行動はアルタリのそれとは違う。

 どこか小馬鹿にした笑いだった。

 むしろ憐れんでいるようですらある。

 

「一つ聞いてもいいか? 例えばフレイムヘイズは遠く離れた場所に言葉を届けられるか?」

 

 クズキの問にアルタリは首をかしげる。

 

「……できるだろう。その手の自在法は多い。距離によっては多少の個体差はあるが、難しくはない」

「じゃぁ地平線の先ならどうだ? 影も形も見えない、朝と夜が入れ替わるほど遠い場所なら?」

「固有の自在法になるが、ないわけではない」

 

 答えながらアルタリはこの問にどんな意味があるのか分からない。

 だがクズキは無言の求めに対し、違う問いかけを投げかけた。

 

「じゃぁ小枝を折るよりも容易く、指先一つでいくつもの都市を焼き尽くす炎を、フレイムヘイズは生み出せるか?」

「……難しいだろう。それほどの規模となれば、それに見合った存在の力を使う。使えるものは絞られるだろう」

「そうか。なら次が最後だ」

 

 クズキは腕を掲げ、天井を指さし、

 

「人間を超えたフレイムヘイズっていうのは……あの空に浮かぶ月に――唯人を運ぶことはできるのか?」

「……不可能だ。フレイムヘイズならばまだしも、あの天に浮かぶ月に、唯人をつれてはフレイムヘイズとて辿りつけない」

「ああそうだ。その通りだ。それがフレイムヘイズの限界だ。――――しょぼいよな」

 

 クズキのアルタリを見る目は語っていた。

 ああ、その程度。それくらいしかできない。自分よりも上の存在をあざ笑う――なんて馬鹿なんだろう。

 

 だからアルタリは悟った。

 クズキは人がいずれ可能とすると確信している。

 遥か遠い場所へ声を届け、大地を焼き尽くし国を屈服させる炎を生み出し、いずれ唯人を月へと連れていく。

 人はそれができるのだと。

 

「今すぐできるとは言わない。だができない、なんてことはない。

 いずれ人は到達するぞ。なにせ――人って奴は俺たちが売り払ったこの世の可能性に満ちているからな!」

 

 予想を笑うことはできなかった。

 結びの言葉がアルタリの胸に重く突き刺さったからだ。ある意味で、紅世の王に殴られる以上の衝撃を受ける。

 だがすでに数百年、フレイムヘイズとしての道を歩いてきた。揺れたからどうした。これまでの道のりがアルタリの背中を支え、頭を冷やす。

 

「そうか、そうだな。人は力かもしれないな。――それで、だからどうした。論がずれているぞ。本題はお前が世に関わる正当性だ。

 現実、人が力だったとして――それはお前が人の世に関わり続けていい理由にはならない!」

 

 人が力であるか否か、が今の本題ではないのだ。本題はフレイムヘイズが「国主として世に関わった時の危険性」だ。

 アルタリはクズキの語る言葉に、実現した未来を幻視した。

 だがそれは今ではない未来だ。

 本当にクズキのいう力を人が持っているのなら、関わることもやぶさかではない。だが今の人にそんな大それたことはできない。ならば、それはクズキが関わってよい理由になりえない。

 

「いいや、理由はある」

 

 アルタリの言葉にクズキは強く断言した。

 揺らぎはない。己が思考に絶対の自信を持つ者特有の顔つきで、

 

「人は力だ。けれどそれは即物的な力だけを意味するものじゃない」

 

 クズキは穂乃美と視線を合わせる。

 そこには信頼する目と、信頼に答えようとする(・・・・・・・)目があった。

 

「支えがあるから俺は踏ん張っていられる。この国に関わって、俺が国主でいることで――俺はフレイムヘイズとして存在できる」

「――馬鹿なのか? どんなフレイムヘイズもいずれは散っていく。例外はない。だというのにフレイムヘイズの消滅の影響をより大きくしてどうする。

 国主として関わり、いずれその長きにわたって蓄積された情報が一気に消えることになれば……影響は計り知れない。個人のフレイムヘイズを切り捨ててでも、それは避けるべきことだ」

「その可能性に目をつむってでも、俺がフレイムヘイズでいる価値がある」

「根拠もなしに――」

「あるさ。なにせ、俺は――――最強だからな」

 

 にっ、と曇りない笑顔で笑った。

 おもわず呆気にとられる。

 魑魅魍魎、一騎当千ひしめくフレイムヘイズを知れば知るほど、そんな大言軽々しく言えないというのに。

 それを無知と笑うか、無謀と呆れるか、アルタリはどちらもできず、苦し紛れに溜息を吐いた。

 

「フレイムヘイズにとってやるべきことはなんだ?」

「そうだな……穂乃美、答えてみろ」

 

 問にクズキは答えなかった。代わりに傍に控える穂乃美の答えを欲した。意図はわからないがすかさず穂乃美が答える。

 

「徒の放埓な行動から民を守ることです」

「――違う」

 

 アルタリは首を振った。

 そして語る。幼い子供に教えるように、物事の本質を悟ってもらうように。

 

「フレイムヘイズは『世界の歪み』の発生を防ぐことで両界のバランスを守ることだ。フレイムヘイズが世界の歪みの原因を作ってどうするというのだ。それは存在意義を見失っている」

「いいえ。民を守らずして、何が超常の力だというのでしょうか?」

「話にならない」

「話にはなってる。俺たちにとってそれは正しいことなんだ」

 

 ここまで自分が正しいと開き直られてはどうしようもない。

 元々フレイムヘイズは一人一党の気質が強い。そういう意味ではクズキもまたフレイムヘイズの一人ではあった。

 

「よく聞くといい。例えばだ。強大な王がいたとしよう。それが人を狙うことで致命的な隙を見せている。こちらの選択肢は二つ。一つ、人を守る。だがそうすれば徒の隙はなくなり逃げられる。二つ、人を犠牲にし徒を討滅する。

 どちらが正しい?

 答えは一つ。討滅すべきだ(・・・・・・)

「そうか。その心は?」

「たった一人の歪みを今許容するだけで、これからの将来喰われるであろう数百人分の歪みを無くすことができる。取捨選択だ。人の犠牲を認めようと、両界のバランスを守ることを優先すべきなのだ」

 

 穂乃美は手に力が入ったことを自覚する。

 彼女は徒に復讐するためにフレイムヘイズになったわけではない。ましてや両界のバランスのためになったわけでもない。

 ただ夫を守るために(・・・・・)フレイムヘイズになった。ひいては国のためを思うから。

 

 だというのに。フレイムヘイズの倫理はそれを認めない。

 存在意義を見失うとすら。

 

 穂乃美からすればそちらのほうがおかしいなことだ。

 確かに徒を倒すことはバランスを守ることにつながる。それはわかる。

 だが、だからといってそれは守ることより優先すべきことなのか?

 穂乃美は倒すことよりも守ることを胸にすべてを捧げたのだ。ならば、問いに対し、守る以外を選ぶことこそ存在意義(アイデンティティ)を見失ってしまう。

 

 穂乃美は先達との僅かな会話の応酬に、フレイムヘイズとは何か、大切なものを見失いそうだった。

 そんな穂乃美を横目にして、クズキも黙りこんだ。

 原作に置いても御崎市のミサゴ祭りにおいて『儀装の駆り手』カムシン・ネプハーブはミサゴ祭りで行われた”探耽求究”ダンタリオンの実験を阻止する為に町ごと吹き飛ばすことも視野に入れていた。

 それは世界のバランスを守るフレイムヘイズとしては正しい行動倫理なのだ。

 

「ふむ。良きかな良きかな。これも因果の交差の上のこと」

「僕としては? 君が口をはさまなかったことが意外だよ?」

 

 契約者”抗哭の涕鉄”が口を開くと、相対するように”地壌の殻”も口を開く。相手をするのは自分がよいだろうと漠然と感じたからだ。

 てっきりもっと口をはさんでくるかと思っていたが、”抗哭の涕鉄”は相方に任せるばかりだった。彼自身もいいたいことは多々あったろうに。

 それにクズキの言い分もひどいものだ。

 先達の教えを完全無視して、自分は死なないから大丈夫……などと、生意気にもほどがある。

 古今東西、この手の自分に自信がありすぎる奴というのは早死にが常。それは”抗哭の涕鉄”もよくわかっているはず。それをツッこまないのはクズキに大物の気配を感じたからか、それともただのきまぐれか……どちらにしても見逃してもらえるならそれに越したことはない。

 

 ”地壌の殻”の個人的意見を言わせてもらうのならば、クズキが国主として世界に関わり続けるのは反対だ。

 ただ、それをするだけの価値がクズキにはある。だから認めているにすぎない。

 とはいえ、その価値はクズキの未来の話を聞き、そして内包する存在の力を知らねばできないだろう。ゆえに、多少荒事になることも覚悟していた。

 それがなくなったのだから多少の安堵も溢れよう。

 ただ”地壌の殻”には一つ気になることがある。

 

「ところで、君たちはどうしてここに来たんだい?」

「知れたこと。活発な徒の話を耳にしただけのこと。後は使命に準じたのみよ」

「ああいや、ね? 別にそんなことはわかってるんだよ。聞きたいのはどうして徒が活発にここを目指しているのか、それをどこで誰に聞いたのか、だよ」

「相も変わらず。どう言うものか。揺れるこの葉のようで、されど鋭い奴よ」

 

 大したことではない。

 ただ疑問に思っただけの話。

 クズキ達が守る”裂け目”は見る者に強烈な違和感を与える……が、それはあくまで近隣の者のみだ。決して世界の歪みのように遠くからでもわかる、というものではない。あくまで近くに来た者にしか気づけないものなのだ。

 だが、ここ最近遠くからも徒がやってくる。それは明らかに異常なことだ。

 近くにこないとわからないのに、遠くの者がやってくる。それはつまり、どこかで誰かが噂しているということ。

 気づいた徒は全て討滅してきた。現状、これを知るのはクズキ達だけのはず。クズキ達は今までフレイムヘイズに会うことはなく、他の誰かに話すことはなかった。だが噂になっている。少なくともフレイムヘイズであればこれを知っていて放置はあり得ない。

 つまり――徒側で誰かが知っているということだ。

 

 この「徒の誰かが知っている」というのが問題だった。

 それはつまりかつて討滅した”万華胃の咀”が、厄介な仲間たちに情報を教えていた可能性があるということだから。

 

 聞かなければならない。

 その情報の大本に誰がいるのか。

 あの極めつけに厄介な徒集団――

 

「――”大罪”は動いているのかい?」

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

 歴戦のつわもの共に重苦しい沈黙が溢れた。

 長きを生きる四人にとって”大罪”の名は口をつむぐに足るものだった。

 

 その意味を知らない穂乃美とクズキは首をかしげるほか無い。

 特にクズキは大物の名を覚えていた自信があっただけに、殊更混乱する。

 ”大罪”、そんな名前は聞いたことがない。

 そもクズキの知る大罪は三千年の今よりも千年以上後になって作られた基準だ。この時代には似合わない言葉と思う。

 暴食、傲慢、怠惰、色欲……合計七つの罪へ誘う感情、大罪。

 大それた名に、重い沈黙。おのずとクズキも敵の巨大さを悟る。

 

「”大罪”って奴らはね。私たちフレイムヘイズも……徒でさえも恐れる集団の名前。ええ、本当に恐ろしい奴らよ」

「知っているのですか?」

 

 実際に見たような実感のこもる声で”剥追の雹”が呻いた。

 騒がし屋な彼女は珍しく、答えるために口を開かず呻くにとどまっていた。なにかそこ知れぬ因縁があるらしい。

 話せない彼女に代わり、”地壌の殻”が引き継いだ。

 

「知ってるも何も? 君たちだって知ってるよ。会ったことだってある」

「俺たちが、一体いつ? いやそもそも、その”大罪”ってのは何をして、誰がいるんだよ」

 

 説明の下手な彼に頼るよりも”抗哭の涕鉄”の話を聞いたほうがいいのかもしれない……と思ったが”抗哭の涕鉄”も負けず劣らず話下手な徒だ。

 それに嘘を教えてくることもないだろう、という信頼に任せて言葉の続きを待つ。

 

「彼らはね? それはもう恐ろしいことをした。何が恐ろしいって、普通思いついてもやらないことを大真面目にやったことが恐ろしいんだ。

 ……紅世にはこの世界にいない神様、本物の神様がいるとは話をしたと思う」

 

 紅世。

 弱肉強食の激しい『決して歩いてはいけない隣』の世界。

 そこには神がいる。

 決しておとぎ話や空想、祈りの中の産物ではない。

 確固たる世界法則の一つとして神が存在するのだ。

 創造・伝播・天罰……様々な事象を体現する存在。それが紅世の神だ。

 

「例えば? 有名な神に天罰神がいる。彼は神として審判と断罪を司っているのだけど……ここからが問題で、彼が神としての権能を発揮したとき、どんなの強い徒でも彼には勝てない」

 

 それは天罰が『天からの罰』であり、避けられぬものだから。故に誰も勝てない。世界はそうなっている。

 

「君たちからすれば? 信じられないかもしれないけど? 神は確固たる存在として世界にあったんだ」

 

 しかし、

 

「だからこそ? 余計に紅世の人間はこう感じる。この世界に神はいない、ってね

 でも何をトチ狂ったのか、大罪の奴らはこう考えたんだよ。ここが隣り合う似て非なる世界だというのなら神がいないのはおかしい。だから——自分たちが神になれるのではないのか? なんて、全く論理的じゃないことを本気で考えて、実行したのさ。あるかわからない空席の座を求めて」

「馬鹿げている。ふざけている。だが奴らには強い力があった」

「本当にね? ”大罪”は強かった。たった六人、けれどそのすべてが強大な紅世の王で構成されていたんだ」

「当時”雹海の降り手”として私も活動していたわ。でもフレイムヘイズは群れないから。圧倒的強さに数が揃った”大罪”はそりゃもう大暴れしたの」

「しかもだよ? ”大罪”の首領は頭が良かった。どんな目的があったのかはわからないけれど、とても効率的だったんだ。——”万華胃の咀”を覚えているかい?」

「あの体中に口がついてた徒だな」

「”万華胃の咀”は”大罪”の一人だけどね? すこし特別だったんだよね? あれはすべての徒の中で唯一人以外の物質を存在の力に変えて吸収できたんだ」

 

 本来、徒は人以外の存在の力を吸収できない。

 それは徒という存在が人に近しいものだから。

 もし土や木などの無機物を吸収すれば、存在の意思総体が薄れ、遠からず消滅することになる。

 だが何事にも例外があるように、抜け道があった。

 徒たち——というよりも紅世の関係者はまだ知らないことだが――無機物も徒が吸収する方法は存在している。それは無機物を変化させて得た存在の力を超高品質の力にすることだ。未来において都喰らいを行った徒は、これで町ごと存在の力に変えて絶大な力を得ている。

 

 ”万華胃の咀”の場合はそれとも少し違う。

 というよりも都喰らいを抜け道とすれば、”万華胃の咀”は本物の例外だ。

 彼は本当の意味で無機物を喰らうことができたのだ。

 どういう原理か調べた者も多く、真似をした徒は多々いたが、後にも先にも”万華胃の咀”のみだろうと有識者の間で一致を見ている。

 

「”大罪”はね? ”万華胃の咀”が吸収した存在の力を、彼を介すことで”大罪”の間で受け渡したんだ。

 人はまばらに分布していて、そんなに簡単に大量には食べられない。けれど地面ならどこにでも大量にある。——やつらはね? とある山を丸ごと存在の力に変えたんだよ」

 

 山まるごとを存在の力に変える……それは莫大な存在の力を手に入れたことは想像に難くなく、スケールの大きさに穂乃美は息を飲んだ。

 ただ事前知識を持っていたクズキは冷静に問いかけた。

 

「待ってくれ。普通それだけの存在の力を手に入れたとして……その徒は意思総体を保てるのか?」

 

 徒という存在は基本的に存在の力によって体を構成されている。

 存在の力というものは基本的に意思総体と呼ばれる——人間で言うところの心——によって制御するのだが、何事にも分相応というものがある。船に積み荷を乗せすぎると沈むように、あるいは自分の力量以上の道具を使って怪我をするように、分を超えた存在の力は持ち主に牙をむく。

 しかも意思総体の消失——つまり自身の消失——という形で、だ。

 だから徒は存在の力があればあるだけ強くなることを知りながら、それでも自分の力量以上の存在の力を集めないのだ。

 山規模の存在の力を一個人の徒に扱えるなどと、クズキには到底思えなかった。

 

「さぁ? その辺りは知らないんだ。なにせ”棺の織手”や当時の”雹海の降り手”が徒党を組んだときには綺麗さっぱり足取りがつかめなくなってたんだ。だから実際彼らが何をしたかったのか、わかってない。あくまで推測だけ」

「後は散発的に目撃情報があるだけ。生きてるのはわかってたけど……ね? その偶発的な遭遇で私は契約者をやられて……」

「”剥迫の雹”……」

「ともかく……奴らは強く、それに長く暴れてるの。やったことも到底認められないし、最悪の部類。だからフレイムヘイズは奴らを恐れてる」

 

 いつもより心なしか小声の”剥迫の雹”。

 ここに恐るべき奴らが来る。出会ってきた紅世の王は例外無く死の危機をつれてきた。

 今の自分たちが必ず勝てる保証はない。

 気づけば穂乃美は腕に冷たさを感じていた。

 しかしすぐさま横から伸びた手が穂乃美の掌を握る。

 恐ろしさはそれだけで吹き飛んだ。掌にはあの夕日に照らされた稲穂畑の心地よい暖かさがある。

 それだけで穂乃美には十分だった。

 瞳にいつもの怜悧さを取り戻し、問題を引き連れてきた『青駕の御し手』と視線を合わせた。

 

「それで、その”大罪”とやらはどう動いているのですか?」

「”大罪”の一人に”頂立(ちょうりつ)”という徒がいる。我らはあれを追ってきた」

「”頂立”がここに? どうやらあれは本格的に”大罪”がらみなのかもしれないわね」

 

 ”剥迫の雹”の吐いたため息からは彼女の内心を推し量ることはできそうにない。

 彼女はちゃかしながら話していたが、クズキは強い因縁のようなものを”剥迫の雹”から感じていた。今までの会話から推測するに”業剛因無”との遭遇時にかつての”雹海の降り手”をやられた、というところだろう。

 その因縁が変にからまり、穂乃美を窮地に陥れることがなければいいのだが……

 

「それにしても……”万華胃の咀”に”業剛因無”ときて”頂立”ね……ますますここを移動しづらくなったわね」

 

 ”剥迫の雹”がなんとなしに口の端に乗せた名に、”青駕の御し手”が眉をひそめた。

 待て、そんな話は聞いていないぞ、と目には書いてあった。

 

「まだ言ってなかったけど、もう大罪は二人ここに来たのよ」

「驚愕の事実。しかし謎がある。いかにして奴らを切り抜けた?」

 

 ”抗哭の涕鉄”の驚きに”剥迫の雹”は笑みを深めた。

 

「フレイムヘイズが徒を切り抜けたとしたら答えは一つでしょう——討滅したのよ」

「——事実か?」

「嘘じゃないわよ、なんて陳腐な言葉を言ったら信じてくれるの?」

 

 驚く、ことを通り越して訝しげにアルタリが顔をしかめた。

 かつてより数百年。古今東西徒は多けれど、あれほど強力な徒は数少ない。名実ともに”強大な紅世の王”である”大罪”の二角落とした——それも新人のフレイムヘイズが——などと到底信じられることではない。

 

「……信じよう。信じられぬことだとしても。他ならぬ”剥迫の雹”が名にかけて真実とするのなら」

「ありがと。——誓って。事実よ」

 

 アルタリはその宣告に腕を組んだままうつむいた。

 『青駕の御し手』の先達として活躍していた”剥迫の雹”を信じようとしているのだ。

 だがアルタリには”大罪”と浅からぬ因縁がある。その経験が単純に事実と認めることを難しくしていた。

 

 怒り狂う巨人。

 すべてを喰らう大蚯蚓。

 麗しき売女。

 見下ろす球体。

 ——恐怖を引き連れた怠惰。

 

 あの一瞬を。アルタリは忘れない。

 

「——それで?」

 

 過去へ踏み込んだアルタリを”地壌の殻”が呼び戻す。

 

「君は? これからどうするつもりなんだい?」

「少しの間だがこの辺りに逗留させてもらいたい」

「へぇ——?」

「追っていた徒が目指していたのはここだ。ならばここで迎え撃つことも可能だろう」

「なるほど? それで、その徒、名前はなんて言うんだい?」

「”大罪”を追っている、といった」

「ああ、つまり? 残っている”大罪”で追える徒となるとアレだね」

「そう——他者をおとしめ、特別とされることに執着する徒、大罪が一角——”頂立”だ」

 

 

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

 現代と比べてずいぶんと月が大きい。

 見上げた空に浮かぶ、満月にクズキは記憶の風景を重ねた。

 

 すでに時刻は深夜。

 民は寝静まり、森が引きづり込まれるような闇を胸に抱えた時刻。クズキは社の縁側で空を見上げていた。

 さきほどまで話していた『青駕の御し手』はすでに唐沢山から下山し、下の客用の家に案内してある。

 会話の熱気で満ちていた社は冷たい静寂に乗っ取られ、クズキは一人だった。

 ああ、いや。この場合二人、というべきだろう。

 クズキの耳につけられた琥珀色の勾玉が淡い光を点している。

 

「——それで? 君としてはどうするつもりなんだい?」

「さぁ——? とりあえずこの国に来るなら、討滅するさ。ここは俺の国だからな」

 

 クズキはここ最近作ったばかりの新しい土器——中には並々と酒が注がれているそれをぐぃっとあおった。

 喉をやけるような酒気に体が熱を持つこの一瞬に心地よさを覚える。

 

「しっかし話に聞くだけなら恐ろしい”大罪”をまさか二角も落としてたとは……脅かさなくてもよかっただろう」

「君の場合? いろいろいいことが重なってのことだろう? それで鼻をのばされても困るからね」

「俺は謙虚の意味を正しく理解してるつもりだが?」

「そうだね? なにせまだ存在の力をうまく扱えないわけだし?」

 

 くつくつと笑う”地壌の殻”にクズキはいやそうな顔をした。

 

「おい……別に俺が使えてないわけじゃないだろ。ただ……」

「君の最大の特徴——使い切れないほど大量の存在の力を全面に押し出そうとすると失敗する……かな?」

 

 クズキは無言で手に持った酒気を再びあおる。

 全く持ってその通りだった。

 なにやら”剥迫の雹”は誤解しているようだが、クズキは決して存在の力を操ること、それ自体が苦手なわけではない。

 確かに比べられる穂乃美ほど——というより穂乃美は別格なので別勘定として——うまくはない。だがそれほど下手、というわけではない。

 ただクズキの最大の武器である膨大な存在の力を有効活用しようとする——つまり一度に大量の存在の力を使おうとすると、制御の手を離れ、自在式が失敗してしまうのだ。

 

 どうやらクズキは一度に出せる存在の力が保有する量に対して、それほど大きくないらしい。

 それを無理矢理大量に出そうとすると、どうしても制御がおろそかになり、結果失敗してしまう。

 そもそも存在の力の総量は『時間軸に左右されないあらゆる可能性』によって決められるが、一度に出せる量に『時間軸に左右されないあらゆる可能性』は関係がない。

 今のクズキは個人所有の海を前に如雨露片手に立ち尽くしているようなものだ。

 存在の力保有量は人並みはずれているのに、一度に放出できる量は人並み。あまりにも不釣り合いな力だった。

 

「どうにかしないといけないってのはわかってるんだが……」

「かれこれ半年かな? そろそろ解決の手がかかりでも見つけたいところだね? これだといつ君が死んでしまうかと気が気じゃないよ」

 

 例えるならクズキは無限のガソリンを持つ一般車だ。

 無限のガソリンを持つからいつまでだって走り続けていられる。どんな車もこれ以上に走ることはできない。

 それはすごい。

 だがもし勝負をすることになって、それが『短距離走』だったとしたら?

 その勝負にガソリンの量なんてさほど関係ない。あるのはどれだけ強い最高速度を出せるかだ。そこが勝負を分ける。

 徒との戦いもそうだ。

 クズキは補給なく戦い続けられるが、一瞬の差が勝負を分けることなど普通にあり得る。

 残念なことにクズキの一瞬の放出量は並みで、上を見れば切りがないほど多い。

 どうにかすべき問題だった。

 

「あれだけど?……頭下げて知恵でも貸してもらうかい?」

「ありっちゃありだけど」

 

 クズキは酒器をおろし、社に近づいてくる人に視線を向ける。

 青墨色の巫女服に身を包んだ穂乃美だった。服の色が黒に近いため夕闇から抜け出すように彼女は現れた。

 晩酌の途中に近づくとなれば、何かつまみでも持ってきてくれたのだろう。クズキはいそいそと彼女の酒器も用意しようと腰を上げ、彼女の腕の中にいつもとは違ったものが抱え込まれていることに気がついた。

 大事に彼女の腕に包まれているのは自慢の我が子だった。

 すやすやと眠る我が子と、抱きしめる妻の姿に心が暖かな温度に満ちていく。

 

「……いいのか? 夜に連れ出して。おばばに怒られるぞ?」

 

 穂乃美は微笑む。承知の上のことらしい。

 

「どうか、抱いてやって下さい」

 

 差し出された我が子受け取り、ゆったりと揺すってやる。

 生まれてからすでに一年と少し。生まれたばかりよりずっと重い。ともすれば落としてしまいそうだ。フレイムヘイズの肉体であっても、自分の子は重かった。

 

「ずいぶんとまぁ……大きくなったなぁ……」

「知らぬ間に子は成長するのですよ。知っていますか? つい先日つかみ歩きを始めたそうですよ?」

「そっか、もうそんなころか。……歩き回るのも遠い話じゃないな」

「ええ。ただ他の子供に比べて少し遅いらしく、先代様はすこし心配していました。実際どうなのでしょう……話すのも遅くなったりしてしまうのでしょうか……」

 

 心配そうに腕の中の子供を覗き込む穂乃美。

 いつもは鋭い視線の穂乃美だが、二人っきりか子供の前ではいつもこうだ。こんな一面を見れることをうれしく思う。

 クズキも少し困った顔で微笑んだ。

 自覚はなくとも、彼もまた子供の前では表情が柔らかい。そんな彼を見れることに穂乃美もまた幸せを噛み締める。まったくもって似たもの夫婦とは彼らのことをいうのだろう。

 

「その手のことは俺もあんまり詳しくない……ああ、でも確かかなり個人差があって遅い子供は二歳になってもあんまりしゃべれない……っていうのは聞いたことあるな」

「……この子は大丈夫でしょうか?」

「大丈夫。ちゃんと俺たちが話しかけてあげればしゃべれるようになる。時期はあくまで個人差が大きいって話なわけだ。ゆっくり、あせらず……な?」

 

 落ち着くように目で穂乃美に語りかける。

 すると放っておかれたと感じたのか、子供がむずかって動き始める。

 

「あー、あー」

「うぉっとっと」

 

 どうやら完全に起きてしまったらしい。ゆりかごのように揺らしてなだめようとするが、どうにもいけない。声が涙混じりになった。

 クズキはあまり子供に触れた経験がない。

 生まれてからもずっと国主として仕事をしていたし、フレイムヘイズになってからは国主不在となった国を平定し、唐沢山の麓を開発してきた。子供とふれあう時間はそれほど多くなかったのだ。

 もちろん忙しいからなどと理由を付けて避けていたわけではない。むしろ主夫が存在していた時代出身のクズキとしては積極的に育児に関わりたかったのだが、先代の落穂の巫女や穂乃美がさせてくれなかったのだ。

 なんでも育児は女の仕事です! 国主としての責務を果たしなさい! とのことだ。どうにもそのあたり頭が固くていけないと思う。

 

 子供が泣きそうになるにつれ、クズキの顔も泣きそうになっていく。

 見かねた穂乃美がクズキの腕の中から子供をひょいと奪い取った。すると子供はすぐに泣き止み、寝静まる。今度は違う意味でクズキが泣きそうになった。

 

「まったく? こうなるとフレイムヘイズも形無しだね?」

「クズキってこういうのホントだめねー」

 

 二人の契約者がクズキの顔を見て笑う。

 クズキは頭をがしがしとかいて、そっぽを向く。

 

「いいんだよ。俺は親父にしかできないことができるんだから。適材適所だ」

「そうです、”剥迫の雹”。これは妻の仕事、夫ができなくても良いのです」

「そーうー? 私はできるにこしたことはないと思うけどねー?」

 

 まったくもって同感である。

 ”剥迫の雹”の軽口にため息を吐いて、クズキは隣の空席を軽く叩いた。穂乃美は失礼します、といって隣に座る。

 

「お酒を?」

「いい月だからな」

 

 穂乃美は空に浮かぶ月を見上げた。わずかな雲が余計に月に美しさを引き立てる。感嘆の息が漏れるほど美しい月だった。

 

「あなたの隣にして見る月は……本当に綺麗」

「……それは誘ってるのか?」

「はい……?」

 

 不思議そうな穂乃美に、いいやなんでもないと言い返して、手元にあった酒器を掲げる。穂乃美はクズキの行動に目を丸くした後、頬を赤くした。

 フレイムヘイズは人間よりもずっと強靭な体を持っているが、酒を飲めばしっかり酔うことができる。いつものクズキなら彼女に酒を勧めはしなかっただろう。これから子供を抱えたまま麓の村まで帰る必要があるからだ。整備されているとはいえ、夜道の山道を酔ったまま歩かせるわけにはいかない。

 だがクズキは勧めた。

 酔ったら帰れないのに、だ。

 つまりはそういうことだった。

 

 小さな声ではい、と頷きながら酒器を受け取り、一口だけ飲む。

 そして穂乃美は腕に子供を抱いたままクズキに寄りかかる。

 隣の大切な人の体温を分かち合いながら、しばし二人の間に静寂が満ちた。風に揺れる木の葉の音がさらさらと流れ、自然のオーケストラが夜空に歌を歌う。

 

 クズキは思う。

 これがきっと俺の守りたいものなんだ、と。

 

 それは穂乃美も思っていたのだろう。

 彼女はクズキのほうへ顔を向け、ゆっくりと近づけて——

 

「こういうのは、ずいぶんと久しぶりだな」

「このところ忙しかったものですから……それに——」

 

 避けていたでしょう?

 無言の言葉にクズキは肩をすくめて答えとした。

 

「そういえば……一つ聞いてもいいでしょうか?」

「何を?」

「どうしてこの子にミツキという名をつけたのでしょうか?」

「ああ……そういえば言っちゃいけないんだったな」

「はい。しきたりですから」

「しかし変なしきたりだよな。名前の意味を誰にも言っちゃいけないなんて」

「意味を知られると悪いモノに入られやすくなるそうです」

「……それ、穂乃美は聞いていいのか? 本人と名付け親しか知っちゃ駄目なんだろ?」

 

 穂乃美は腕の中のミツキの頬を愛おしそうになでた。

 

「子供の名の意味を知りたがらない母はいません。それに……あなたの話を聞いていると、悪いものには意味を隠しても意味がないのでしょう?」

「悪いものっていうのが病気をさしてるなら」

「では……私が知ってもいいではないですか?」

 

 この時代の人間は理解できないことを想像で補った。

 病気やその最たる例だろう。病原菌を悪しき霊とし、防ぐ方法を迷信に頼った。このしきたりもその一つのなのだろう。

 

「……俺の時代には三本の矢って話がある」

「三本の矢?」

「詳しい話は避けるが……簡単にいうと、一本の矢は折れやすくとも三本まとめれば折れにくい。だから矢と同じように人も協力すれば折れにくいんだ、って話だな」

「なるほど……素晴らしい話ですね」

「俺もそう思う。この世界に来て、余計にな」

 

 クズキはこの世界に来てフレイムヘイズになるまで国主として国を発展させ、守ってきた。だがそれが一人でできたかと言えばそうではない。むしろ多くの人間の力を借りてきた。だからこそクズキは人のまとまりの力が強いことをよく知っていた。

 

「それにあやかったんだ。ただそのままだと三ツ矢……ただ矢は結局のところ武器だ。国主に武器の名前を入れるのはどうかと思ってな。矢を構成してるもの、つまり木にいいかえて三ツ木(みつき)

 こいつは神の子供の子供だからな。将来的に人を率いる立場になるのは確実だ。だから人のまとまりの力のことを忘れないように……って願いをかけて」

「……そうですか、そんな意味が」

「……ただ、今の俺は人間じゃないし、一人で大群も相手にできる。……なんの皮肉だよって、成長したときに言われそうで……すこし怖いな」

 

 苦笑いと共に酒器を空にする。

 穂乃美があわてて酒を注ごうとするが、手はミツキで埋まっている。クズキは手で制して自分で酒器に注いだ。

 酒はうまい。だがクズキの表情は苦虫をつぶしたような顔だった。

 

「……俺はフレイムヘイズになったこと自体は別に嫌じゃない。ただ後悔していることがいくつかある」

 

 今までクズキはフレイムヘイズに悪感情を見せたことはない。

 内に秘めていた後悔の発露に、契約者が耳を済ませる。

 穂乃美の腕の中のミツキの頬を突っつきながら、

 

「俺はこの子に国主の座を譲ってやりたかった。ちゃんと年取ってな。今のままじゃ、結局俺が神として上司に居座り続けることになる。

 ……ミツキには自分の国としてこの国を譲って、一番上に立つ醍醐味って奴を味合わせてやりたかったよ。今更の話だけどなぁ……」

 

 やっと寝たミツキがくすぐったそうに顔をゆがめた。また起こされてはたまらない。穂乃美が肩を壁にしてクズキからミツキを隠す。

 そんなやりとりに穂乃美とクズキは二人して笑った。

 

「ええ、私も人としてやり残したことはあります……けれど、あなたと同じになれたのなら、それで良いのでしょう。ですが……」

 

 穂乃美はミツキを包んでいた布の位置を直しながら、

 

「やはり『青駕の御し手』の言うフレイムヘイズの使命には納得できません」

「——言ってることは間違ってないと思うけどな」

「はい。私も巫女として国を動かす上で犠牲を容認してきました。自分はそんなことできない、なんて知らない振りはもうできません」

 

 これまでの数年でもクズキは人の犠牲を良しとしたことがある。

 例えば他国との戦争時、あるいは奇形児が生まれた時、クズキは国の長として命の取捨選択を行った。

 今更『そんなことできない』……なんて言う資格はすでにない。

 

「「世界のバランスを守ることは決して人を守ることではない」と『青駕の御し手』は言いました。ですが私はこう思うのです。人を守ることが世界のバランスを守ることにつながると」

「……」

「フレイムヘイズは数えきれない月日を戦いに費やすと聞きます。ならばいずれ私たちも選択の問題に直面するはず。どちらも世界のバランスを守ることには変わりません。ですが私はどちらの手段をとるべきなのでしょうか……私はまだ悩んでいます」

 

 穂乃美の独白をクズキは黙って聞いていた。

 お前は巫女だ。俺の選択についてこい。——なんて言葉は簡単に言える。

 穂乃美は巫女としてその言葉を飲み込み、使命としてくれるだろう。

 だがクズキはこれから——少なくとも数千年の永きに渉って戦い抜くことを決めている。その膨大な時間、人から与えられた言葉で戦い抜けるのだろうか。クズキはそうは思わない。

 人から与えられた答えで生きるには——フレイムヘイズの一生は永すぎる。

 だからクズキは黙って穂乃美が答えを出すのを待ち続けた。

 ただ穂乃美は黙したまま語りださなかった。

 

「——来たわ」

 

 考え込む穂乃美の耳元で”剥迫の雹”が緊迫した声でつぶやいた。

 すぐさま集中すると二人の感覚に徒の反応があった。しかしずいぶんと――遠い。

 唐沢山の麓から以前住んでいた穂畑の村、さらにその向こうの山の向こう辺りに徒の気配を感じる。

 空を飛んでも数十分はかかるだろう。探知範囲ぎりぎりの位置にその徒はいた。

 

「——変だね?」

「ああ、動いてない(・・・・・)。こいつ何やってるんだ?」

「さぁ? あの辺りに人はいたかな?」

「いや、あの辺りは山がきつい。近くに平野もある関係で人は住んでいなかったはず」

「——『青駕の御し手』も気がついたみたい。あっちは行く気よ」

 

 クズキはそれほど探知が得意ではないが、穂乃美は自在法の関係か、この手のものが得意だ。視線を向ければ響くように答えがきた。

 

「……少し遠いため、詳しくはわかりませんが……かなりの気配。少なくとも王かと」

「ということは? あれが噂の”頂立”かな?」

「いや、待て——気配が遠くなっていく」

 

 徒の気配が勢い良く遠くなっていく。

 焦ったように『青駕の御し手』が速度を上げるが、ほぼ等速。追いつけはしないだろう。

 

「——今回は様子見か?」

「”頂立”はあんまりいい噂を聞かないわ。もしかしたら何か余計なことをしてくるかも」

「そうだね? もしあれが”頂立”だとしたらこっちを観察していたのかも?」

 

 今までに出会った徒はどれも猪突猛進で面白そうなものがあれば突っ込んでくるような奴らばかりだった。

 だが様子見で情報を集めるような徒ともなれば、それなりに知恵が回るのだろう。どんな仕掛けをしてくるのやら。

 仕掛けられる前に討滅してしまいたいが、こちらは拠点防衛を義務づけられた身。”裂け目”がある以上後手に回るしかない。

 やっかいなところだ、とクズキはぼやきつつ、

 

「……これは今までとは違う戦いになるかもしれないな」

 

 これまでとは違う戦いの予感に身を震わせた。

 

 

 

 

 

    ◇◆◇

 

 

 

 

 

「ふん……ずいぶんとあの女は有能だったらしい。危うく見つかるところだった」

 

 クズキか厳しいと言った山の奥深く。緑の深い森の仲に場違いな風体の青年がいた。

 金の王冠に、赤のマント。褐色のはだに借り上げた短髪。鋭い相貌は自信に満ちあふれている。

 上半身裸の上にマントの男には奇妙な色気があった。目を離せないような……そう、まるで上位の王族と相対するような、そんな気分になる。

 それもそのはず、青年は”強大なる紅世の王”にして”大罪”の一人、”頂立”なのだから。

 

「それで……”兎孤の稜求”。あの『討滅の道具』のどれが”万華胃の咀”をヤッたというのだ?」

 

 誰もいない森の中で虚空に語りかけると、景色が歪み人型を取った。

 現れたのは体のラインがはっきりと現れるワンピースを着た女だった。金色の艶やかな髪をなびかせる彼女もまた徒。”強大なる紅世の王”にして”大罪”の一角、”兎孤の稜求”である。

 

「”万華胃の咀”は知らないわ。”業剛因無”と戦ったのは女といた男のほうよ」

「あれが? 偉そうではあったな」

「ここ一帯の国の王よ」

 

 ほう、と青年——“強大なる紅世の王”にして”大罪”の一角”頂立”は周囲を見渡した。

 遠く、眼下の平野に見える村々——国は生気に満ちている。国民の誰もが明日を疑わず、太陽の恩恵の下に日常を繋いでいる。だが多くの国を見てきた”頂立”には文明の段階がまだ幼いことがよくわかる。高床式住居が残っているのを見て、鼻で笑った。

 

「所詮は極東の国の王よ。絹も無く、巨大建造物も無い。数も少ない。国を名乗るのもおこがましい」

「評価するのは気楽でいいわね」

「ふん、俺に評価されるだけでありがたいと思うべきだろう」

「……あなたも珍しい徒よね」

「お前には言われたくないがな。人と交わる徒などお前くらいだろう」

 

 侮蔑の視線を”頂立”は仲間に向けた。

 この世に跋扈する徒は大多数が人に対して評価するほどの価値を感じていない。とある徒は人を麦の穂に例え、喰らうことを収穫と表した。またある徒は人を虫と区別できないと言った。それが徒にとっての人間だ。

 食料に対し、特別な視点を持つのは一部の風変わりな徒だけだ。

 その点では文明に特別な価値を感じる”頂立”は変わり者と言えるだろう。

 だが風変わりという点では”兎孤の稜求”は”探耽求究”にも劣らない。”兎孤の稜求”は人と交わる徒なのだ。

 人で例えるなら豚と交わるようなものだ。風変わり、という侮蔑を受けるのも仕方ないだろう。

 

「あら、それで満足してるのよ、私は。”大罪”に変わり者なんて当たり前のこと過ぎて侮蔑にもならないわ。あなたは嫌でしょうけどね」

 

 ふん、と——おそらく癖なのだろう——鼻で笑う。

 

「一応聞いておきましょうか。手は貸しましょうか?」

「いらん。あの程度のフレイムヘイズなど俺一人で十分。貴様らは俺が手に入れた『欠片』を前に、頭を下げる準備をしておけばよい」

「そう、期待してるわ……ああ、あの男を殺すなら言い訳は考えておきなさいよ。じゃないと——”業剛因無”に殺されるわよ」

 

 きびすを返し、再び虚空へと消えていく”兎孤の稜求”。

 完全に消えたことを確認して、

 

「ふん。しぶとく生き残ったクズに俺がいったいなぜ言い訳などという低俗な行為をしなければならん」

 

 遥か遠く、唐沢山の山頂に据えられた神社には二つの気配。

 それなりには強そうではあるが……

 

「所詮は人。分相応の力を得て舞い上がっているだけの愚民、地をはう毛虫よ。”業剛因無”と”万華胃の咀”はどうにかしたようだが……この”頂立”を前にすれば、ふん。言うまでもないことよ。……ふ、ふふ。ふはーはっはははは!」

 

 

 

 

 

 

 



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2-2/2 「傲慢」

 それはあまりに唐突な出来事だった。

 『青駕の御し手』の来訪から二週間ばかりたったある日の夜。

 新月の暗闇にまぎれて、それはやってきた。

 

「それにしても? 夜に奇襲するならささっと来ると思うんだけど?」

 

 唐突に起こされる形となった徒の来訪に”地壌の殻”が首を傾げる。

 わざわざ深夜に徒が来襲したというのに何を考えているのか。徒は悠々自適に歩いて向かってくる。気配を垂れ流し、自己主張をするおまけ付きで。

 社で待ち構えるクズキと穂乃美も徒――以前と同じ気配のため、おそらく”頂立”――の狙いがわからなかった。

 

「あの”頂立”のやることだ。考えがあるのだろう。我らただ迎え撃つのみよ」

「しかり。”頂立”とは私が戦陣を切って向かい合う。二人には補佐をしてもらいたい」

 

 徒の狙いがわからない。それがどうした。

 歴戦のフレイムヘイズ――『青駕の御し手』アルタリは戦気にみなぎらせた。どんな策も粉砕すれば関係ないと立ち上る気配が雄弁に語っている。

 その背中は確かな歴史を感じさせた。

 

 穂乃美は巫女服の着付け紐をより固く結び、戦いに備える。

 アルタリとの会合から二週間。幾度と話をしてきたが、やはり未だ穂乃美の中のフレイムヘイズ像と実体の間にズレがある。ズレが喉に小骨のように突き刺さって、無視できない違和感となって穂乃美を悩ませる。

 

 ……けれど今は目の前の敵へ。

 

 培ってきた戦いへの呼気を高めていく。

 契約者の様相に”剥迫の雹”は気がついていたが、”剥迫の雹”はフレイムヘイズの使命に殉じているわけではない。本能の赴くがままに好き勝手やってきた徒だ。穂乃美の悩みに気がついてはいても、かける言葉は持っていなかった。

 

 ……まぁ、穂乃美ならなんとかするでしょ!

 

 けれどこれまでに結んできた友誼が”剥迫の雹”に穂乃美が悩んだ末、答えを出してみせると信じさせた。

 ……それにあいつもいるしねー。

 視線の先には社の入り口で腕を組み、あぐらをかいて座るクズキがいる。

 

「補佐? といっても僕たちにできることはないよ?」

「まぁ、無理な肉体強化くらいしか紅世の王に太刀打ちできるのはないからな」

 

 クズキはアルタリに多少存在の力の運用について教えてもらっていたが、やはり大規模な運用――穂乃美と”剥迫の雹”はここで初めて問題の理由を知った――となると失敗してしまう。外に自分の適性放出量以上の力を放出すると、どうしても制御がおろそかになってしまうのだ。

 こればかりは長年かけて制御の腕をあげていくしかない、とアルタリは言っていた。

 

「それならそれでいい。あの”頂立”のことだ。ここのことは調べてあるだろう。とすれば”業剛因無”を討滅した力について知っているはずだ。その事実をもって牽制となる」

「つまりここぞという時狙える位置取りをして、相手を自由に戦わせなければいい……ってことか?」

 

 アルタリが手に存在の力を集めると炎が吹き出し、剣の形を取った。

 それは鉄の剣だった。

 思わずクズキの目が細まる。

 

 この時代はまだ鉄の生成方法が広まっていない時代だ。ごく一部の国だけが丈夫な鉄の作り方を独占しており、事実クズキの国でも青銅が一般的だ。

 

 ……だとすればアルタリの出身は……

 アルタリの力は一時的に鉄を顕現させる力らしい。見るのは初めてだが、ずいぶんといい鉄に見える。

 これは頼もしい。クズキはアルタリの指示に従うことにした。

 

「さて? そろそろだけど?」

「ここで迎え討つ」

「ここで? 山頂で戦うのかい?」

「あれは飛びながらの戦いが主だ。自在法も遠距離から超重量の物質を飛ばす遠距離型。どこで戦おうと有利不利はない。だとすれば裂け目に近いここのほうがまだマシだろう。燐子でも隠れて動かされてはたまらない」

「なるほど? じゃぁ僕たちはこっちの裂け目に重きを置きながら、うまいこと”頂立”の牽制でいいね?」

 

 頷き、アルタリが飛び上がった。

 同時に青い炎が吹き出し、二等の馬をかたどる。続いてかごが作られ、馬に繋がった。アルタリ固有の自在法――空を駆ける戦車『アルシュケー』だ。

 

 クズキと穂乃美も続けて飛び上がる。

 大地はあまりに暗すぎた。障害物の多い森よりも空のほうが戦いやすいという判断だ。

 だが、クズキと穂乃美は飛び上がってから数秒、惚けてしまった。

 

「は――?」

「――え?」

 

 唐沢の山頂から見下げた場所に”頂立”はいた。

 真夜中の深夜。奇襲にはもってこいの暗闇の中。強大な気配を隠しもせず、むしろここにいるぞと主張して、ゆっくりと向かってくる。――後光を背負いながら。

 背中に背負われた後光は辺り一帯を照らし尽くす太陽のような光だ。新月の暗闇なんぞ関係ない。強烈な光を”頂立”は背負っていた。頭につけた王冠が無駄に輝いている。

 

「……あいつは、馬鹿なのか?」

 

 クズキが呆然とつぶやいたのも無理はない。

 新月を待って強襲したにもかかわらず、わざわざ後光を背負って現れたのだ。

 奇襲は自ら気配を垂れ流し無駄にして、闇夜の利点を後光を背負って無意味にする。こいつは本当に頭のいい徒なのだろうか。

 呆れたように見ていれば、”頂立”もクズキたちに気がつく。

 ”頂立”はクズキたちを見て鼻で笑った。

 

「ふん。この俺がわざわざ足を運んでやったのだ。素早く出迎えるのが筋だろう。まったく道具のくせに愚鈍とは、使えないにもほどがあるぞ」

 

 実に偉そうにクズキたちを嘲笑う。

 ”頂立”は誰かを鼻で笑い、あざけり、見下すことばかりで有名な徒だ。見たことはなくともクズキはすぐにこいつが”頂立”だとわかった。ここまで情報通りの徒というのも珍しい。

 後光を背負ったまま”頂立”も飛び上がり、クズキたちと高度を合わせる。

 

 気がつけばこちらが攻撃することなく、あっけに取られて”頂立”を近づけさせていた。あの後光はこちらの不意をつくという点ではちゃっかり機能していた。……夜に気配隠したまま強襲したほうが効率はよかっただろうが。

 

「ふん。みずほらしいな。一国の王ともあろう男が出迎えに着る服とは思えんぞ」

 

 クズキの服装をみて”頂立”は自身の羽織るマントひらめかす。

 クズキの着衣は麻で織られた簡素な貫頭衣に勾玉や牙などの装飾がされたものだが、”頂立”の着る服はどれもがこの時代では最高級のものだった。ズボン一つとってもいいものを使っている。首にかけた装飾は黄金とできており、頭部につけた王冠にはこぶし大の宝石が付けられていた。わずかとはいえ、『存在の力』を感じることから王冠は宝具だと思われる。だがそうであっても、その芸術的価値は金を積んでも釣り合わない。

 もし王の格が身につけている物の金額で決まるならクズキは圧倒的敗者だろう。

 

「は! 徒風情に王を語られたくないな。率いる民の一人もいない王を世の中ではなんて言うか教えてやろうか? ――自意識過剰の勘違いやろうっていうんぞ、おい」

「ふん。程度の低い民しかいない国の王をなんというか知っているか? ――お山の大将と言うのだ、猿が」

 

 あ、こいつは無理だ。

 クズキは細胞レベルで合わないことを悟った。

 二人の視線が火花を散らす。

 すぐさま第二、第三の口撃をしようと両者の口が開き――アルタリが動き出す。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 今から行くぞ、などという口上はない。徒とフレイムヘイズの間にそんなものは存在しない。ただ討滅する意思と結果だけがそこにある。

 『アルシュケー』が”頂立”に突っ込む。青い残像の尾を引くほどの速さが生み出す破壊力は、ただの徒なら反応する間もなくひき殺しただろう。だが、アルタリは”頂立”にぶつかる寸前で機動を反らした。

 

「あれが”頂立”の自在法『重装』か」

 

 気がつけば後光を背負う”頂立”の周囲には黒いもや――というより霧に近いもの――が浮かんでいた。この霧こそが”頂立”の持つ自在法『重装』である。

 その特性は触れた者に付着すると離れないこと、そして重さを自由に変化できることだ。

 

 アルタリが不意をうったのもここに理由がある。

 『重装』は触れた者に重さを与える展開型の自在法だ。一度に展開できる量も多く、触れてはならない特性から展開されると非常に厄介なのだ。一番の対策は展開される前につぶすことだろう。だが軌道上には『重装』が展開されたため、やむ得なく軌道を変えて攻撃を諦めた。

アルタリは”頂立”の周囲を走りながら隙を伺う。霧はランダムに動き回り、そうそう隙は見つかりそうになかった。

 

「ふん。賊というのはいつも不意を打つ。俺の威光を前に正面から正々堂々戦う気力がなくなるのはわかるが……もう少しくらい会話を楽しむ余裕を持つがいい」

「それでは何を話そうというのですか?」

 

 基本的にクズキが表に立って話すことはない。穂乃美は巫女としてクズキの前にたって言葉を交わす。

 穂乃美はゆっくり相手を刺激しないように雹を展開していく。

 

 雹の一つ一つに視線を向けながら”頂立”が笑う。自分と似たような自在法に共感したのだろうか。穂乃美には笑みの理由がつかめない。

 というよりも穂乃美はこの徒が今までの徒とは違うような気がした。

 普通、徒と言うのは人間など意識していない。

 人間との接し方など、それこそ刈られる前の稲穂のようなものだ。

 

 だがこの”頂立”、すこし人間を意識しすぎている。

 

 化け物然とした姿の徒が多いこの時代に、これでもかと人間の王を意識した姿だけでも十分に変人。ましてやクズキを見て王のなんたるかを説くとは……よほど人間に興味を持っていなければできない。

 その”頂立(へんじん)”の持ちかける会話に興味が無いと言えば嘘になる。会話に集中して隙を見せたらそのまま討滅してしまえ、なんて考えもないわけではないが。

 

「まさかのんきにお茶でも飲みながら天気について話そうとでも?」

「そんな一言二言で終わることを話すつもりはない」

「そうですか……」

「それよりももっと知りたい事があるだろう?」

 

 意味ありげな顔で”頂立”が言う。

 もっと知りたい事とは? 穂乃美は若干悩んだ。

 あなたのその顔を屈辱に歪める方法を教えていただけると助かります、とは聞けないなぁ……と内心で思った。どうやら思った以上にクズキに対する返答が気にいらなかったらしい。

 穂乃美はあえて黙って”頂立”の続きを待った。この手の輩はえてして聞いてほしそうな顔をすれば自分から話し出すからだ。

 

 その分析は正しかったらしい。

 穂乃美たちの顔を見て鼻の穴を大きくさせるとさぞ自尊心を満たされたような顔になって”頂立”が口を開いた。

 

「ふふふ、貴様らはさぞ知りたいのだろう。そう、我ら”大罪”の目的を!」

「なっ――」

 

 予想以上のものが”頂立”の口から出てきた。

 別に”大罪”の目的なんて考えてもいなかったが、言われれば穂乃美としても知りたいことだ。

 ”大罪”の残りはまだ三人いる。そのどれもが強力な紅世の王であり、それらは群を組んでいる。ならばせめて目的くらい知って迎え撃ちたい。

 

 知りたい。

 できるならその目的、知りたい。

 

「穂乃美」

「ええ、わかっています」

 

 クズキから注意がかかる。

 無論、穂乃美にもわかっている。”頂立”に目的を明かすメリットがないことを。いや、そもそもそれが本当かどうかはわからない(・・・・・・・・・・・・)

 

 だが一つの情報ではある。

 真偽はともかく、聞く意味がないわけではない。

 警戒したまま、穂乃美は聞く体制に入った。

 

「ふむ、やはり聞きたいと見える」

「ええ、知りたいですね。とても」

「そうか! ならば教えてやろう!」

 

 自在法で風を起こしてマントをはためかせた。

 

「我ら”大罪”の目的、それは『世界の欠片』を使うことだ!」

 

 ずいぶんとあっさり”頂立”は目的を暴露した。

 むしろあっさり過ぎて穂乃美は若干力が抜けた。

 だが少し聞き慣れない言葉はあった。

 

「『世界の欠片』?」

「ふん、貴様らが大層大事に守っているあれのことだ。貴様らはあれに触ったことがあるか?」

 

 おそらく『世界の欠片』とはこちらで言う所の『裂け目』だろう。それに触ったことがあるかと言われれば……もちろんない。

 あれは世界という概念にできた傷だ。触って傷が悪化でもしたら目も当てられない。自在法によるアプローチはしても直接触るなど怖くてできない。

 

 そもそも触ることはできるのか。

 確かに見る限りでは裂けたひび割れのように見えるから、触れるのかもしれないが、そのあたり穂乃美は懐疑的だった。

 というよりも……

 

「そうか、なら知る由もないだろう。あれは触れる、そして触ることでひびを広げることができるのだ。そして、その時ひびから欠片ができる。カサブタのようにな。そして我らは――」

「待ちなさい! そもそもなぜ! あの裂け目をお前たちが(・・・・・)知っている! 徒に見せたことがないはず!」

 

 どうしてひびの存在を知っているのか。

 穂乃美は近づく徒をすべて討滅してきた。である以上そこに何かがあることがわかっても『世界の欠片』があるとまではわからないはずなのだ。ではなぜ?

 

「さてな、どうしてだと思う?」

「ここにきて隠しだてするか」

「すべて話すと言った覚えはないがな」

「ならば――」

「まぁ待て」

 

 腰を落とし、今にも飛びかかろうとした穂乃美を”頂立”が止めた。

 無論、敵の待てに止まる馬鹿はいない。そのまま雹で転移しようとして、

 

「まだ『世界の欠片』を使って何をするか聞いていないだろう?」

 

 ぎりぎりで踏みとどまる。

 確かにそれを話すというなら聞いておいて損はない。

 だが踏みとどまらなかった者もいた。

 

「――『アルシュケー』!」

「牽いて、挽いて、轢き殺せ!」

 

 アルタリの自在法『アルシュケー』が最大速度で空を走った。青い光の帯を引き連れながらそのまま”頂立”へ突っ込む。

 しかしそれは予期されていたのだろう。実にあっさりと直進するアルタリを避けて見せる。

 

「せっかちな男だ、せっかく教えてやっているというのに。所詮道具に戦いのだいご味を求めるのは酷というものか」

「道具には道具なりの倫理があります」

 

 こうなっては仕方ない。すでに戦端は開かれた。

 アルタリに続いて穂乃美が手に巨大な矢雹を作り出すと、全力で投げつけた。高速で飛ぶ質量体の威力は未来の大砲の一撃にも負けないだろう。

 

「やれやれ、愚民というのは余裕が無い。上に立つ者、優雅たれ、と教わらなかったのか?」

 

 雹が”頂立”の体をくし刺しにする――直前。黒い霧が噴き出す。”頂立”固有の自在法『重装』だ。

 『重装』に触れた雹が下に逸れた。雹の先端部が急激に重くなったことで軌道が変わったのだ。

 同時に今まで漂うだけだった『重装』が”頂立”の体を覆う。

 これでは直接攻撃をした場合『重装』に触れてしまう。

 遠距離から、もしくははがしてからの近距離しかない。

 

「だから待てといっているだろう。これだからイエローモンキーは文明が弱いのだ」

「その言葉、宣戦布告だな。後悔するなよ」

 

 どっしりと後方で構えていたクズキの体から強烈な圧力が噴き出した。

 

「お前が噂の新米フレイムヘイズだったか。確かに圧倒的だ」

「たっぷり味わえ。これが最後の戦いだろうからな」

「ふん、お前らごときに殺される俺ではない。が、まぁ待て。俺は話し好きなのだ。もう少し話を聞いていけ」

 

 どうしても話したい事があるらしい。

 ”頂立”の様相に穂乃美は何か作為的なものを感じ始めていた。ただ話し好き、というだけで戦いを無理やり止めてまで話すのか。むしろ戦いながら話すのものじゃないのだろうか。

 穂乃美の思考をよそに、知ったことか、と再び踏み出そうとしたアルタリ。だがクズキの耳元の勾玉がそれを大声で止めた。

 

「嘘かどうかはともかく? 聞いておく必要はあるんじゃないかな? なにせ話はあの”泰汰不証(たいたふしょう)”につながるんだから」

「――っ」

 

 アルタリの体が震えた。

 恐れにか、気づきにか。どちらともとれる震えだが、さてどちらか。

 遠目では判断がつきそうにない。

 クズキは体の中を駆け巡る存在の力を慎重に扱いながら”頂立”を睨む。

 

「ふん、意思の統一にここまでかかるとは。やはり愚王か」

「もうそれでいい。お前の中ではそうなんだろ。――さっさと話を進めろ」

 

 吐き捨てるようにクズキは言った。

 クズキ自身、才能溢れる王とは思っていない。だがこれまでの道のりは胸を張って誇れる。それは自分に何一つとして恥じることがないからだ。国をよりよきものとするため足掻いてきた事実がある。

 それをそこらの徒に――ましてや国を率いたこともない輩に罵られて温厚でいられるほど、クズキはおとなしい人間ではない。紅世の王とはいっても強力な徒の別称であり、実際の王ではないのだ。

 

「……まぁ良い」

 

 ”頂立”はなにかひっかかるのか、しばし悩む様子を見せてからかぶりを振った。

 

「しかし貴様ら王の言葉を聞く体勢というものがあるだろう、そこになおれ」

 

 クズキは口から怒声が噴き出すのを慌てて抑えた。

 そもそも聞く体勢ってなんだ。もっと別の言い方があるだろう。

 

 押さえて? と小さな”地壌の殻”の声に、クズキは頬を引くつかせながら睨むにとどめた。

 なおる様子のないフレイムヘイズに”頂立”は鼻を鳴らす。

 

「貴様らはあの欠片を触ったことがないのだろう。ならばわからんかもしれんがな」

「そもそも『世界の欠片』ってのはなんだ」

 

 クズキが問いかけると再び”頂立”が鼻で笑った。短い会合で彼が鼻で笑うのは何度目だろうか。そろそろ愛嬌すら感じる。

 

「『世界の欠片』とは文字通りの意味。人間で言う所の皮膚のようなものだ。むしろ断片といったほうがわかりやすいだろうな」

 

 意外にも”頂立”の説明は丁寧だった。

 これまでの口ぶりや態度を見るに説明などしそうにない印象だったのだが、

 

「それでそんなものがどうして必要になる。人間で言うところの皮膚なんてもっていても意味はないだろう」

「それは人間が見た時の話。世界を人に例えたのならば、こちらは人間以下、それこそありや虫の視点で語るべきだ」

「そうかい、だが虫からしても人間の皮膚なんて意味ないと思うが?」

「当たり前のことを聞くな。まったくそれはあくまで例えだ。例えをうのみにするあたり馬鹿な男だな」

 

 穂乃美の端正な顔に青筋が浮かび上がった。

 ”頂立”はそれに気づかない。

 

「一つ、お前たちはこう思ったことは無いか? どうして徒はこの世界に存在し続けられないのだろう、と」

「決まってる、お前たちが他の紅世の生き物であって、この世界に元々いない存在だからだ」

「その通りだ。だが徒たちは存在の力を使って顕現している。ならば存在することは正規の手順を踏んでいるはずだ。決して存在するだけで力を消費していくようなことは起こり得ないはず。

 だが現実問題として徒は存在するだけで力を使い、人を食らい、力を集めなければならない」

「人から奪った場所を自分のものと主張するんだ。盗人として訴えられることのどこがおかしい」

「いいやおかしい。人は存在の力に変換できる。それは石や木も同じだ。つまりこの世界の物体を構成しているものもまた存在の力。ならば徒が存在の力から物体を作ったとして、どうして徒が作ったものだけは存在することに力を使い続けなければならない。そこいらの石でも数千年の年月をあり続けるというのに……徒が作れば数日で消えるだろう。

 もし消費するのだったとしても。人の一生分の存在の力で徒は一カ月もこちらの世界にはいられない。どれほど規模を抑えても、だ。釣り合っていないではないか。

 これはおかしいとは思わないか?」

「……」

 

 ”頂立”の言葉を少し考えてみる。

 確かにおかしいのかもしれない。が、元々クズキは大した学のある人間ではない。すぐに自分の考える領分ではないと後回しにした。今はそれよりも、

 

「おかしいかもな。だけど、そんなものはお前を討滅してから考えればいいだけの話だ!」

「なるほど、道具に考える頭はないか」

「それよりも――さっさと話せよ。お前の疑問と『世界の欠片』がどうつながる、お前は何に使うつもりだ?」

「ふむ」

 

 ”頂立”が顎に手を当てて考え込んだ。

 今日三度目のそれに穂乃美は漠然とした危機感を得た。なにか自分は途方もなく馬鹿なことをしている、そんな予感だけが胸の中でとぐろを巻いているのだ。

 

「例えばだが、お前(元人間)はむけたカサブタをどう思う」

「別に、ただのカサブタだと」

「そうではない、もっと大きなくくりでだ。例えば――自分の一部、とは考えないか?」

「そりゃぁ元々は自分の一部だったわけだから――ああ、つまりそういうことか」

 

 大仰で丁寧な説明にようやく何が言いたいのかに思いいたる。

 

「世界の一部ならそこにあって自然だよな。世界の一部なんだから」

「あなた? それはいったいどういうことでしょう」

「つまり、こいつらは世界の一部を体の中に取り込むことで、存在の力の消費なしにこの世界に居座ろうって腹積もりなんだよ。そうだろ?」

「グレイト。その通り!」

 

 ”頂立”が両手を広げ、後光の光を強くした。

 

「『世界の欠片』を取りこんだ徒は世界の一部とも見えるだろう。ならばこの世界に世界の一部として存在することのなにをとがめられるというのか。

 我ら大罪の最終目標はずばり! 世界の一部となり真にこの世界の一員となることで一切の存在の力の消費なく! この世に顕現し続けることだ!」

 

 宣言に対し、”地壌の殻”がうなった。

 

「いやはや? これはこれは、ちょっと認めるわけないはいかないねぇ?」

「ええ、そんなことされちゃたまったもんじゃない!」

 

 契約者たちもしかり、”頂立”の宣言が本当であれば、フレイムヘイズはそれを認めるわけにはいかない。

 なぜなら彼らの計画の大前提には『世界の欠片』が存在している。つまりそれは世界が傷つくことを大前提としているのだ。

 

 おそらくだが、もしそれが本当だというのなら、世界中の徒がこぞって『世界の欠片』を作り出そうとするだろう。

 今だ裂け目の閉じ方すらわかっていないのに、だ。

 徒に好き勝手な場所で裂け目を作られたとしたら、いったいどうなるのか。徒の数だけ世界が傷つけられ、最終的に崩壊を始める……などという大災厄が起きても全く不思議ではない。

 フレイムヘイズとしてそんなことは絶対に認められない。

 

 臨戦の体勢を取り始め、体に気力を充実させていくフレイムヘイズ側。対して”頂立”は力の抜けた格好のまま語りかける。

 

「さて、ここで一つ謎かけがあるのだが、どうしてわざわざできる奇襲も後光で潰し、話す必要のない目的を丁寧に説明したと思う?」

 

 とたん、穂乃美とクズキが固まった。確かによくよく考えればどうしてそんなことをしたのだろう。外見と言動に勝手に決め付けていなかったか。派手好きだろう。考えてないのだ、などと。

 そして”頂立”は指をたて、ひょい、と振り下ろした。

 

「すべてはこのためだ」

 

 その瞬間。それに最初に気がついたのは穂乃美だった。続いてアルタリ。しかし一番気がつくべきクズキはとうとう最後まで気づかなかった。

 頭上1.96km先から落ちてくる超重量の塊に。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 音よりも早く、まず光があった。

 赤を通り越して白い光が視界を埋め尽くし、音とは形容できない衝撃破が山を削った。

 すべてが終わった時、穂乃美はみた。

 唐沢山そのものが消え失せた光景を。

 

 その中心。

 クレーターの真ん中には立方形の箱。しかし見るだけでわかる。それのすさまじい重さに。三メートル四方程度の大きさだというのに、穂乃美はあれを欠片も動かせる自信がなかった。まるで山そのものを圧縮したような、異様な物体だった。

 

 おそらく、あれは『重装』だろう、と呆然とした理性のごく僅かに生き残った一部が判断する。”頂立”は『重装』で作った超重量の物体を遥か上空から落としたのだ。重力を味方につけたこれは隕石と同等の威力を持ってフレイムヘイズに襲いかかった。その威力は吹き飛ばされた山が身を持って証明している。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 

「あなた……?」

 

 穂乃美の口から震える声が漏れた。

 後ろにいたはずのクズキの姿がどこにもなかった。

 

 隕石による衝撃で平地となった瓦礫の上であたりを見渡す。側にも空にも、周囲にも彼の姿を見つけることはできない。――まさか直撃を受けたのか?

 

「どこに、どこに!」

 

 周囲の大きな岩や土を”剥追”で除去しながら、夫の姿を探す。

 舞いあがった土で月が隠れ、恐ろしく暗かった。時おり、黒い雲の下で存在の力がうごめくのを感じる。おそらくアルタリが”頂立”と戦闘しているのだろう。

 

 だがそんなことはどうでもいい。

 穂乃美は生きていると信じながら、必死の思いで夫を探し、

 

「――――っ!?」

 

 瓦礫の下にいたクズキを見つけた。

 つまり、まだ致命傷ではない。フレイムヘイズが死ねば遺体も残らないからだ。

 だが、あくまで死んでいないだけだった。

 

 四肢はつぶれ、右足はない。

 頭の一部は歪んでいる。

 明らかに致命傷だった。

 

 いやむしろ、どうして生きているのか不思議だった。

 フレイムヘイズは人よりも頑丈だが、ここまでされて生きていられるほど丈夫でもない。

 

「いやね? よく即死しなかったよ。よかったよかった」

 

 あっけからんと死にかけの耳元で”地壌の殻”が笑った。

 

「たぶんね? 臨戦態勢に入ってたのがよかったんだろうね。肉体強化してたおかげでぎりぎり死ななくてすんだよ。いやでも、これだけの攻撃をしてくるとは、さすが”大罪”。さすが”頂立”だ」

「だだだ、大丈夫なのですか?」

「いや? 駄目かもね」

「いやーーーー!」

 

 ”剥追の雹”は落ち着いてクズキの傷を見る。深い傷だが、少しずつ再生が始まっている。フレイムヘイズは基本腕がふっとんでも生えてくる。死んでない以上、”地壌の殻”が治癒でなんとかするだろう。

 問題があるとすれば……

 

「これ以上はね? さすがに死ぬね、うん」

「でしょうねー」

 

 上空で幾度となくすれ違う”頂立”と『青駕の御し手』がいる。流れ弾でも今のクズキには致命傷だ。

 

「できることなら場所を移したいけど、それで燐子にでも欠片を持っていかれたら最悪。それで実証実験でもされれば世界中で徒による世界への攻撃が始まるでしょうね。それは絶対に阻止しないといけない。となると裂け目の側からは動けないってことね」

「すると? 君たちがやることは一つだね?」

「クズキを守りながら、裂け目も死守。両方やらなきゃならないってのが辛い所ね」

 

 クズキの体を触診していた穂乃美がばっと立ち上がる。

 

「いえ、それぐらい行って当然! 巫女たるこの身を粉にしようとも夫の身は必ず守ります!」

「気合いは十分、と。それにしても――」

 

 ”剥追の雹”は目の前にある巨大な『重装』の塊を忌々しげににらんだ。

 

「あんだけゆっくり歩いてきてぺちゃくちゃしゃべったのはこれが理由だったのね」

「だろうね? これだけ高密度の力の塊を上空に浮かべ、かつ隠ぺいしつつ動くのはよほどその手の自在法が得意じゃなきゃ。多分、”頂立”はそれができてもそれほど早く動かせなかったんだろうね。昔”頂立”は距離によって『重装』の速度が変わるって聞いたことあるし?」

「でしょうね。……ま、死んでないしまだ良しとしましょう!」

「――”剥追の雹”!」

「だから穂乃美! 気持ちはわかるけど割り切りなさいよ」

 

 治癒の自在式を施す。ゆっくりとだがクズキの傷が塞がっていく。だが意識は戻らない。

 

 当たり前だ。

 隕石が直撃したのだ。

 クズキの膨大な存在の力によって強化されていようと、そうそう防げるものではない。

 

 穂乃美自身、体は傷だらけで右手の骨はぐちゃぐちゃだった。

 むしろあれを受けてすぐに戦えたアルタリがおかしい。さすが歴戦のフレイムヘイズか、と穂乃美は彼に対する印象を一つ上方修正――した瞬間、空から男が降ってきた。

 

「ぐむ……」

 

 かなりの勢いで地面にぶつかるとごろごろとかなりの距離を転がった。

 

「アルタリ!?」

「上だ小娘ぇ!」

 

 穂乃美の叫びを打ち消す大声でアルタリが叫ぶ。

 穂乃美は咄嗟に避けようとし――下に動かせないクズキがいることに気がついた。

 あらかじめ展開しておいた雹すべてを上空に回し簡易的な盾にするが――突然、雹が落ちた。

 

 ――ばかな!

 

 制御下にあるはずの雹が空から落ちる。

 それは穂乃美の体に降り注ぎ、すさまじい重さを穂乃美に与えた。

 

 ――恐ろしく重い!

 肘と膝を立たせて、重い雹に耐える。そうしなければ下のクズキもつぶれてしまう。

 穂乃美は偶然体に当たらず顔の横に落ちた雹を見て目を丸くした。雹には黒い霧がついていた。

 

「こ、これは……『重装』っ!」

 

 自在法『重装』。

 ふれた物体に自由な重さを与える自在法。

 雹は今、穂乃美が自由に動かせないほどに重くされたのだ。

 

 みればアルタリの右手にも黒い霧がついている。すさまじい速度で落ちたのは『重装』が原因だった。

 上空からの強襲に、敵の行動規制。防御も攻撃もできる応用の効く自在法だ。なんてやっかいな。穂乃美は”頂立”をにらんだ。

 

 上空からそれを見下ろし、”頂立”はフレイムヘイズを鼻で笑った。

 

「やはりそうやって地面にはいつくばるのがお似合いだな、虫ども」

「とうとう猿以下ですか」

「無論。人を辞めて虫になったのだろう、貴様らは。飢えもせず、民にもならず、税も納めない。虫と言わずしてなんという。いや、産むこともなく、殺めることしかない貴様らは虫以下だ」

 

 ”頂立”が指を弾く。

 地面にめり込んでいた立方体がばらけて霧になると”頂立”の周囲へと戻っていった。

 

「ふん。誰もが俺を敵にすればひれ伏す。これぞ我が頂立の名の具現よ! ふははははははっ!」

 

 クズキは倒れ、アルタリはひれ伏し、穂乃美もまた四肢を屈している。

 立つのは唯一人、”頂立”のみ。

 王のように唯一人が大地に立っていた。

 

「――まだだっ、まだ終わらん」

 

 アルタリは気合の篭った一声と共に身を起こす。

 もし”頂立”の話すことが本当であれば、それが成功したとき、徒は世界に大きなダメージをもたらすだろう。

 ゆえに。長きにわたり両界の安定を守ってきた者として、やらせるわけにはいかなかった。

 

 即断決。

 

 アルタリは左手に持った鉄剣で『重装』のついた右腕を切り落とす。片腕を切り落としてでも”頂立”は討滅しなければならない。激痛に萎えかける心に渇をいれ、アルタリは立ちあがった。

 

「『アルシュケー』ッ!」

 

 蒼炎が馬を生んだ。

 世にも珍しい蒼い剛馬『アルシュケー』は背にアルタリを乗せると、”頂立”までの距離を瞬く間に踏破する。現実にありえざる超高速で騎手を運ぶ自在法により、怨敵”頂立”の首が剣の間合いに入った。

 

「『鍛冶神(かじかみ)の炎』よ! 今こそ敵を断て!」

 

 振りかぶった剣が蒼い炎を纏う。高熱の証たる蒼い炎は剛風のように荒れ狂っている。

 

 断ッ!

 剣が振り抜かれた。

 空間をまるごと裂くような一撃は”頂立”の立つ場所ごとあらゆるものを焼き尽くす。神話のごとき光景が穂乃美の目に映った。だが、

 

「待つがよい。まだ話しは終わっていないぞ」

 

 燃え盛る炎の中、黒い霧を纏った”頂立”が立っていた。無傷である。

 渾身の力を込めた蒼炎も黒い霧を突破することは叶わなかった。まったく忌々しいほど強力な自在法だった。

 

「困難か。熱の刃で『重装』を打ち砕くには。だが諦めんぞ」

「その通りだ”抗哭の涕鉄”。我らに止まる道などありはしない」

「だから待てといっているのだ」

 

 ”頂立”の霧が波のように広がった。

 アルタリは飛び上がって躱すが、穂乃美はそうはいかない。だがこれを体に受ければ本当に何もできなくなってしまう。

 

「しばしご覚悟を!」

 

 仕方なし。

 穂乃美はクズキを抱えて雹で転移する。

 転移の衝撃がクズキに致命傷となるかもしれない、しかしあのままなら死ぬ。

 穂乃美はクズキの頑丈さに賭けるしかなかった。

 

「――うぇぁ」

 

 回避のため空に転移した途端。クズキの口から奇妙な声が漏れる。肺から血が漏れだす音だった。

 急いでどっかで安静にさせなければならない。

 

「一度ひきます!」

「ごめんねぇ!」

「待てと言ってるだろう」

 

 飛んでひこうとした穂乃美に”頂立”が手をかざす。あまり早く動けない穂乃美を檻のように霧が取り囲む。触れればまた落ちる以上、強行突破は無理だ。

 だがクズキを考えれば転移もできない。

 穂乃美は臍を噛んで動きを止めるしかなかった。

 

「いったい何を待てという!」

「なに、まだ話の続きがあるというだけのこと」

 

 ぎゅ、と”頂立”が掌を握る。

 その手に呼応するように檻が小さくなった。

 同時に檻の隣に穂乃美の姿が現れる。顔には後悔があった。転移はクズキにダメージを与えてしまうのだ。そう何度もできることではない。

 

「話を聞けというのなら動きくらいは止めてほしいものですが」

「隙があれば討つ。フレイムヘイズと徒の正しい関係だろう?」

「ええ。間違いなく」

 

 さて、と”頂立”は顔に手を当てて、指先に霧をつけた。

 そのまま指先を頬に当てると、霧を絵具のようにして頬に線を引く。”頂立”の表情は狼の笑い顔にそっくりだった。

 

「知っているぞ、『雹海の降り手』。貴様、フレイムヘイズの使命は民を守ることだと言っていたな。そして貴様はこの国――二十の集落をまとめた国の巫女だと」

 

 やはり。

 最初の日にしか話していないことが”頂立”の口から出てきたことを穂乃美はさほど驚かなかった。

 ただフレイムヘイズに対し、探りをいれる周到さを厄介に思った。

 

 もちろん唯調べただけではないのだろう。集め、使ってこその情報だ。

 なにをされても即座に動く。腕の中で意識を無くしたクズキを守るため、穂乃美は身構え、

 

「実はな、二十の集落。ひとつひとつに燐子(りんね)を配置させてもらった」

 

 愕然とした。

 燐子とは徒がこの世の物体に”存在の力”を注ぎ込むことで作られる下僕だ。

 基本的に徒の代わりに存在の力を集める道具、あるいは徒の槍代わり足代わりとして作られる。

 性能は作った徒によって左右されるが、高度な自律行動ができるものから、単純な行動しかできないものまで千差万別である。

 

 だがどんなに低性能であっても人間以上であることは間違いない。

 つまり、集落には人間を皆殺しにする兵器が野放しにされているということである。

 

 すぐさま助けに行こうと思い立って、腕の中にクズキがいることを思い出した。そして目の前に”頂立”がいて、背後には『世界の欠片』があることを。

 

 動けない。

 どうすればいいか、穂乃美にはわからなかった。

 

 民を守るのか。

 『世界の欠片』を守るのか。

 ”頂立”を討滅するのか。

 クズキを守るのか。

 

 幾多の選択肢の中、穂乃美には優先すべき順序があいまいで、どれを一番に選ぶべきなのかわからなかった。

 

 妻としてクズキを死なせたくない。

 巫女として民を守りたい。

 契約者として世界を守りたい。

 

 すべてが穂乃美の本音だ。けれど、今この時。穂乃美はどれかを選ばなければならない。ほかならぬ状況が穂乃美に選択肢を突きつけていた。

 

 もちろんすべてを選ぶことはできる。けれどそんなことをすればどれも中途半端になることは容易に想像がつく。むろん、穂乃美の明晰な頭脳はそれが愚策だと知っていた。

 動きを止めた穂乃美を前に”頂立”は鼻で笑った。その嘲りの視線はごみを見るような目だった。

 

「俗物が。どうする。いいのか? 大切な民が死んでいくぞ?」

「あ、あ……」

 

 喉がからからに乾いていた。

 かすれた声が無意識に漏れだす。

 穂乃美は頭の中が真っ白になっていくのを止められなかった。

 

 それでも穂乃美は必死になって考えた。どうすればいい。どうすればいい。どうすればいい。

 

 そして”頂立”の向こう側にかすれて見える集落を見た。――そこにはミツキがいる。

 必死になって考えて――その実何かにすがっていた穂乃美は藁にもすがる思いで、それに飛びついた。

 

「く、国を守らなくてはっ」

「く、くかかかか!」

「穂乃美!?」

 

 奇妙な笑い声を上げる”頂立”と叱責する”剥追の雹”を無視して穂乃美は飛び上がろうとした。

 必死になって穂乃美が考えた結果、国を守ると決めたのだ。クズキを守り、国を守る。それが自分のすべきことだ、と。穂乃美は決め付けた。

 その様子を見たアルタリは、

 

「待て! 罠だ!」

 

 腹から力を込めて叫んだ。

 

「これはこちらを分断するための罠だ! 二人を一度に相手にすれば何が起きるか分からない。故の単機撃破を狙った罠だ!」

「し、しかし。使命を果たさねば……」

「違う! フレイムヘイズの使命は両界のバランスを保つことだ! 優先順位を間違えるな!

今! 目の前には災厄の引き金が笑っているのだ! ならば成すことなど唯一つ!」

 

 アルタリは再び”頂立”に突っ込むと、霧を剣で切り裂いた。轟々と燃える蒼炎を圧縮した鉄剣は霧を切り裂くが、すぐさま剣が重くなる。それを捨て、新しい剣を生み出しては霧を切り裂く。

 効率は最悪だ。だが、こうでもしなければアルタリは”頂立”の近くに行くことはできない。消耗を覚悟の戦術だった。

 

「二人なら勝てると言いたいのか? 道具ごときが……恥を知れ!」

「強力なフレイムヘイズを二人同時。いかにお前が”強大な紅世の王”だとしても打ち破れぬ道理はない!」

「ほう? ならばこういう趣向はどうだ」

 

 一瞬”頂立”の周囲の”存在の力”が増えた。すると霧も強度を増し、斬りづらくなる。つまりアルタリに隙ができる。そこへ霧を圧縮した針を”頂立”が飛ばした。高硬度の霧の針はフレイムヘイズの肉体を容易く貫くだろう。アルタリは『アルシュケー』の腹を蹴り、馬を飛び上がらせて躱す。

 

「”頂立”め! なんと厄介な! すべてが掌の上にあるとでも言うのか!」

 

 ”抗哭の涕鉄”はすぐさま見抜いた。

 今の力の増量は”頂立”の内から出た存在の力ではない。外からの増量だった。つまり、”頂立”は落穂の集落を襲わせた”燐子”から存在の力を吸収しているのだ。本来”燐子”から存在の力を集めるには至近距離から回収しなければならないが、なにか特別な手段を使ったのだろう。

 

 今の”頂立”はいわば遠く離れた場所に専属の回復役をつけているようなものだ。

 アルタリは消耗覚悟で挑んでいるのに、”頂立”はどんどん回復していく。これではまるで勝ち目がない。

 ということは。アルタリは「分断するための罠」とわかっていても穂乃美を”燐子”討滅に回さなければならない。

 完全に”頂立”の掌の上だった。

 

「ほうらどうした!? 戦略的にも心情的にも別れたほうがいいぞ!? せっかく理由を作ってやったのだから喜んで別れるがいい!」

「そうして別れたところを順次撃破か!?」

「そのとおり! だがこのままでもジリ貧だぞ? ああ、まだ第三の選択肢があるな。徒の力に屈し、無抵抗のまま消えていく! これが一番賢いぞ!?」

 

 アルタリは頂立の針をかわしながらしかめっ面で舌打ちをした。

 相手の目的が裂け目である以上、一度逃げ出して体制を立て直すことはできない。つまりここに一人はいなければならないわけだ。

 

 だがここで二人で戦ってもジリ貧なのは間違いない。

 戦い続ける選択肢も確かにあるが、落穂の国は大きい。人の数もそれに比例して多い。

 戦い続けても頂立のストックが切れる前にこちらの集中力が切れてしまう。

 つまり輪廻の掃討にも一人必要だと言うことだ。

 

 どう考えても二人に分かれる必要があった。

 しかし別れれば手負いのこちらでは順次撃破されて行くのがオチだ。

 視線を流し穂乃美を見る。彼女は目に見えて混乱している。

 声でもかけてやりたい気持ちがアルタリにもあるが、悠長に話をさせてくれそうにもない。

 燐子から集めた存在の力で作った『重装』を連続射出する”頂立”に舌打ち、『アルシュケー』を走らせ、回避する。

 相手の思うつぼだとわかりながら、『青駕の御し手』は有効な手立てを打てずにいた。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 一方、混乱する穂乃美に反比例するように”剥追の雹”は冷静だった。

 そして冷静に考えた結果、今の状況を自分では打破できないと悟っていた。

 以前からうっすらとは思っていた。

 穂乃美には大切なものがありすぎる、と。

 

 本来フレイムヘイズとは強い憎しみを持って生まれてくる。

 それはフレイムヘイズの成り立ち上、ほぼすべてのフレイムヘイズに当てはまる。

 契約する王にとってフレイムヘイズの強い憎しみは執着であり、目的を果たすまで決して死ねないという生き汚さという利点がある。

 

 だがこれだけかと言うとそうではない。

 フレイムヘイズの憎しみは大切なものを奪われたが故の憎しみであり、逆を言えばフレイムヘイズには守るべき大切なものがない、という利点も存在しているのだ。

 

 穂乃美の場合は少し違う

 まず第一に穂乃美は大切なものを失う前に契約してしまった。他のフレイムヘイズとは成りたちが少し違うのだ。

 そのため彼女は何一つ大切なものを失っていなかった。

 

 妻  ――故の夫。

 巫女 ――故の神。

 副国主――故の民。

 

 彼女には守るべきものが多すぎる。

 だからそこを同時に攻撃された時、彼女は身動きがとれない。

 

 一応、穂乃美を動かすすべはある。

 穂乃美を構成する三要素に優先度をつければいい。それだけで穂乃美は動きだせるだろう。一番大切なものだけを守ればいいのだから。

 だが穂乃美に優先度をつけさせる、それが”剥追の雹”にはできない。

 

 口で言うことはできる。

 だが”剥追の雹”の立場で言えることは、夫を捨て、国を捨て、アルタリと共闘し徒を倒せ、の言葉のみ。

 穂乃美の三要素すべてを捨てろという無慈悲な言葉だけだった。

 しかし穂乃美はそれに頷くだろうか。

 断言できる。

 

 ありえない。

 

 フレイムヘイズとしての穂乃美はまだ半年ばかりの新しい要素だ。

 これまでの月日で積み上げてきた他の要素には到底及ばない。穂乃美が頷かないことなどすぐにわかった。

 

 ……私じゃぁ穂乃美はどうにもできないわねー。

 契約者としてあるまじき言葉を”剥追の雹”は内心で呟いた。

 そして穂乃美の腕のなかでぐったりと手足を投げ出すもう一人のフレイムヘイズへ視線を向けた。

 

 鍵はこいつだ。

 こいつの行動、一言ですべての風向きが決まる。

 良い方向にいくか、悪い方向に行くのか。それはわからない。

 けれどこのままでは最悪の方向にしか行けない。

 耳元で揺れる飾りでしかない自分を恨めしく思いながら、”剥追の雹”はクズキを睨む。

 

 ――起きろ。

 ――起きろ。

 

 お前の妻が泣きそうな顔になっている。

 国の民が死ぬこともできずに消えている。

 世界もお前を必要としてる。

 だから、

 

 ――起きろ、起きろよ。『地噴の帯び手』クズキ・ホズミ!

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

「……ほ、のみ!」

 

 それはどんな偶然か。”剥追の雹”が内心で叫んだ瞬間、クズキが目を見開いた。

 頭部への治癒を優先させたことで意識が回復したのだ。

 四肢はつぶれたまま、怪我は重症の域を脱していない。

 それでも穂乃美になにか伝えようとする瞳は強い力を宿していた。

 クズキはぐちゃぐちゃになった左手で穂乃美に服を握りしめる。

 

「……ま、も――れ……」

 

 片肺がつぶれているのか、口から血が溢れた。

 それでもクズキは言いきった。

 

「――まもれ」

 

 瞬間、穂乃美の体に電流が走った。いつの間にか丸まっていた背筋がぐぅっと伸びる。

 

「――――はい!」

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 穂乃美はクズキを抱えたまま走りだし、『世界の欠片』の傍にクズキをそっと下ろした。

 腹は決まっていた。

 

 自在法『雹乱運』を発動。周囲に雹を生み出す。さらに生み出す。万に届くほどの雹を生み出し、それを四方八方にばらまく。

 穂乃美は守る優先度も方法もまったく悩まなかった。思考は驚くほど精練されていた。

 

「まったくさー、やけちゃうわよねー」

「――”剥追の雹”」

「いいじゃないちょっとくらい無駄口たたいったって。私がいくら気をもんでもねー? こんな一言で立ち直られちゃ、立つ瀬がないわよ」

「私は夫を愛していますから」

「あっつーい。私とけちゃうー!」

 

 夫の一言で立ち直る穂乃美の様を人は単純というのかもしれない。あるいは馬鹿な小娘と罵るかもしれない。

 しかし穂乃美は大声で反論するだろう。

 違う、私が単純なのではない。(かみ)の言葉にそれだけの重みがあったのだ、と。

 あれほどぐちゃぐちゃな感情で、地に足をつけている感覚すらなかった自分。今は胸の中に確かな一柱の柱が立っていた。

 たった一言で穂乃美はクズキに導かれていた。

 

 思考は驚くほど鮮鋭。

 視界は遠くまで鮮明。

 振舞は輝くほど鮮麗。

 

 穂乃美には一片の曇りもない。

 

「――『剥追』」

 

 穂乃美の姿がかき消えた。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 アルタリは歴戦のフレイムヘイズである。

 凡百のフレイムヘイズとは比べるべくもない実力差があり、ただの徒なら鼻歌交じりに討滅できる程度には強い。

 しかしやっかいなことに”紅世”関係者には歴戦と形容される猛者が数多いる。”頂立”もその一人だった。

 

 アルタリが一振りし、”頂立”が防いで。”頂立”が攻撃し、アルタリが躱す。尋常ではない蒼炎が空を焼き、おかしな霧が太陽を隠す。天変地異の景色を二人は幾度となく繰り返した。

 一見、互角にも見える。だがアルタリは確実に追い詰められていた。

 焼き尽くす蒼炎も、鋭く重い鉄も、”頂立”には何の痛打にもならないからだ。

 

 ”頂立”の周囲を漂い続ける自在法『重装』が攻撃の一切を防ぐ。アルタリは未だ『重装』を攻略できずにいた。

 

「なにか案はあるか?」

「やっかいな。実にやっかいだ。刃を届かせる道の見当もつかない」

 

 声ならぬ声で契約者に問うと、契約者は実に頼りない答えを返した。

 いつものことだ。

 ここぞという所で知恵がでない相棒とは数百年の付き合い。もはや様式美だった。

 

(しかし、いったいどうするか)

 

 アルタリは歴戦のフレイムヘイズだ。だが弱く未熟な時期もあった。その経験が攻略の糸口もつかめない自在法に屈することを良しとしない。

 力を回復させ一方的に攻撃してくる、という不利的な状況でも、アルタリは冷静に敵を見据え、勝つ手段を探し続ける。

 

 すでに復讐は果たしている。生きることに未練はないが、数百年で次第に精製された使命が徒を討滅しろと体を突き動かす。

 

(大体の攻撃方法は試したが”頂立”の『重装』は破れなかった。となると基本的に自分一人では『重装』を破れないということになる。つまり外部の協力が必要だ)

 

 鉄剣を新しく作り、打ち出される『重装』の弾丸を弾く。わずかに剣に付着した霧が途端に重さを変える。恐ろしく重い。わずかでも両手で持つのは重かった。

 アルタリは苦し紛れに”頂立”へと投げつけるが、当たり前のごとく剣は弾かれた。

 

「『アルシュケー』!」

 

 厳しい山も踏破する愛馬をけりつける。愛馬はいななきと共に速度を増した。

 『アルシュケー』の通った道を弾丸が薙ぐ。一秒としてアルタリは同じ場所にいない。常人には”頂立”が何と戦っているのかわからないだろう。

 

「ずいぶんと粘るものだ。まるで腕を這う虫だな」

「その虫の毒に殺される人は存外多いぞ、”頂立”!」

 

 徒の侮蔑にアルタリが叫ぶ。

 相手の軽口に付き合う余裕はあると、相手に印象付けるためだ。

 突破口が見えないからといって険しい顔をしていれば、相手を調子つかせるだけだ。戦闘で波に乗った敵というのは恐ろしい。この波が時として弱者の刃を強者に届かせるのだ。

 

「ふん。惨めにケツをふって逃げたフレイムヘイズのセリフではないな」

「――なんだと?」

 

 しかし、その論理を知っているのはフレイムヘイズだけではなかった。

 

「知っているぞ、『青駕の御し手』。貴様、百年前のバルカン半島にいたのだろう?」

 

 アルタリの鼓動が乱れた。

 なぜ、貴様がそれを。

 『アルシュケー』の足並みがわずかに崩れる。アルタリはそれに気がつけない。

 

 ――眼前に蘇る光景

 ――炎に焼かれた大地

 ――足元には友と慕った歴戦の強者

 ――炎、炎

 ――振りかえって交わった視線

 

 怒り狂う巨人。

 すべてを喰らう大蚯蚓。

 麗しき売女。

 見下ろす球体。

 

 ――恐怖を引き連れた怠惰。

 

「う、ぉぉおおおおおお!!」

 

 突如『アルシュケー』の馬首が方向を変える。

 記憶の恐怖を振り払うようにアルタリは叫んだ。

 

 手に生み出した鉄剣は通常の三倍の巨大さを誇り、纏う炎は過去最大の規模を誇った。

 ここぞという時、アルタリが徒を屠った終の一撃。

 アルタリは”頂立”に突っ込んだ。

 

 ”頂立”は突撃するアルタリを前に内心で笑い転げた。

 

 ——これだから所詮は毛虫なのだ!

 

 勇ましい思いでアルタリは突撃をしているつもりなのだろう。だが気がついているのか。”頂立”の視界に映るアルタリの顔には、はっきりと怖いと書いてあることを。

 なにより『存在の力』の制御がまるでなっていない。炎は収束しきれておらず、鉄剣の密度は均一ではない。派手さと規模だけが大きいだけで、新人フレイムヘイズにすら劣っている。

 

 すこし過去をつつくだけでこれだ。

 ”頂立”は人間というものが心の底から滑稽な生き物だと思っていた。

 事実、目の前の人間は数百年を生きているのに、これだ。

 

「馬鹿は死んでも治らない? その通りだ。だが足りないぞ! 人間は生まれた時からすべて馬鹿なのだという一言が!」

 

 突っ込んでくるアルタリに”頂立”はいつも通り『重装』の槍を飛ばした。

 だがいつもとは違って固めなかった。その僅かな違いにアルタリは気づけなかった。

 そしてアルタリはいつも通りその槍を剣で撃ち払い――槍が爆散した。

 

 僅かな量でも十分な重さになる『重装』が粉末となってアルタリの全身にかかる。

 固めていない粉状のものを叩けば塵になるなど、冷静なアルタリなら気づけただろうに。

 全身に付着した『重装』にアルタリが我に返る――が、もう遅い。重量を増した『重装』によってアルタリの体が落下した。

 

 全身に付着した以上、先ほどのように切り落として『重装』の影響から逃げることはできない。

 大地を舐める格好となったアルタリを上空から”頂立”は見下ろし、

 

「ふん、やはり毛虫は地べたをはいつくばるのがお似合いだ」

 

 その手の先に巨大な『重装』の塊を生み出した。

 クズキに致命傷を負わせた攻撃ほど上空からではないが、それでも今の高さなら十分。『重装』の重さを極限まで重くすればフレイムヘイズの一匹、ひねりつぶすにも十分。

 地べたで何とかして逃げようともがくアルタリを鼻で笑いながら、『重装』を落下させた。

 

 衝撃。

 

 自生する木々ですら浮かびあがるほどの振動が周囲に伝わった。

 ――殺った。

 ”頂立”は舞いあがる粉塵を眼下に確かな手ごたえを感じた。

 後は新米フレイムヘイズ二人、うち一人は重傷のみ。稲を刈るよりも容易い。内心でほくそ笑む。そして――

 

 ふと、違和感を感じた。

 

 何かがおかしい。

 距離感を間違えたような。

 あるいは……そう、そこにあるべきものがないような。

 

 猛烈な焦りに突き動かされ、”頂立”は眼下で沈黙する『重装』の塊を散らした。

 その下には――なにもない。

 

 無論、存在を明け渡したフレイムヘイズに死体などいう上等なものが残ることはない。なにもないのが当たり前だ。だが”頂立”は顔をしかめた。

 自分でも理由はわからない。

 ただこの違和感を無視してはいけないと”頂立”の積み上げた年月が叫んでいた。

 

 ――なんだ、何を見逃した?

 

 わずかな違和感に”頂立”は動きを止め、思考する。

 しかしその僅かな一瞬が明暗を分けた。

 

 思索にふける”頂立”が背後に『存在の力』を感じた時にはすでに遅い。

 空間を跳ぶ独特の感覚と共に、下にいたはずの男が背後から”頂立”に斬りかかった。

 右斜め上段からの振り抜き。

 ”頂立”が身を傾けるも遅く、剣線は肩口から腕を切り落とした。

 

「き、きさまぁぁーーーっ!!」

「”頂立”! 覚悟っ!」

 

 アルタリが叫ぶ。

 そのまま返す刀で”頂立”の首元に狙いをつけ、一閃。

 

 ”頂立”は突如として現れたアルタリに混乱しつつも、なんとか一刀を避け、切り落とされた腕を逆手で掴んだ。

 徒の切り落とされた四肢は通常、意思総体の影響を離れたことで構成する存在の力が世界に還元されていく。だが還元されるまでの間は存在の力の塊でもある。本来それは身を削ることと同義だが、切り落とされた以上仕方ない。

 

 ”頂立”は切り落とされた腕の存在の力を一気に『重装』に再構成すると、そのまま爆発させた。 『重装』の黒い霧が周囲に飛び散る。

 

 この至近距離、さすがに避けられまい。

 ”頂立”は『重装』で代わりの腕を構成しながら、霧まみれのアルタリの姿を探す。

 

 だがアルタリはすぐ目の前にいた。――霧など露と身につけないままに。

 思わず息をのむ。

 ――あれだけの至近距離でどうやって!

 答えはアルタリのすぐ近くにあった。

 小さな何かが月明かりを反射して光っている。――雹だ。小さな雹が空中に多数散布していた。

 

 アルタリに近づく『重装』はすべて雹の近くでどこかに消えていた。

 

「まさか……これは」

 

 ”頂立”には思い当たる自在法が一つある。

 だがこれほど小さな雹ではなかった。もっと大きく、多量の存在の力が込められていたはず。これほど隠密性にすぐれ――他者の自在法を飛ばせるものではなかったはず。

 

 愕然とする”頂立”の背後に再びなにかが跳んできた。”頂立”は振りかえって、

 

「貴様、『雹海の――」

「――『剥追』」

 

 背後へと現れた穂乃美が”頂立”の体に触れ、自在法を使った。

 自在法はその名の通り”頂立”に触れた部分を中心に、まるで剥ぎ取ったかのようにごっそりと体を削り取った。

 

「が、ぁっ……っ!!」

 

 穂乃美は追撃をかけるため反対の手を頭部へ伸ばすが、ごっそりとえぐられた”頂立”の体内に仕込んであった自在法が発動する。

 用心深い”頂立”の、内臓があるべき部分から『重装』の霧が噴き出した。

 穂乃美は先ほどの混乱が嘘のように冷静に『剥追』で転移し、距離を取った。

 

 ”頂立”はすぐさま離れた場所に配置していた燐子(りんね)から存在の力を吸収し、傷を手当てする。

 だが手当の途中に燐子からの供給が止まった。

 まだ燐子にはこの国の人間を食らったことで蓄えてあった存在の力があるはずだが……仕方なしに他の燐子へと意識を向け存在の力を回収する。――そして気づいた。

 

(数が……燐子の数が減っている……っ!)

 

 自身の補給線である燐子は二十近く配置してあった。それが今は半数以下しかない。まだ燐子の存在をほのめかしてから十分と経っていない。

 この辺りの他のフレイムヘイズがいない以上、目の前にいる『青駕の御し手』か『雹海の降り手』が討滅したのだろう。しかし解せない。ここから村々まではいかに強靭なフレイムヘイズとて、往復できるほど近くない。

 ”頂立”にはその方法がさっぱり思いつかない。しかし、事実燐子の数が大幅に減っていた。

 

 いったいどうやって。

 目の前のフレイムヘイズがそれほど早く飛べるとは聞いたことがない。

 

 そこまで考えて”頂立”は気がついた。

 ――いや、まさか。

 把握する燐子がまたひとつ減る。

 慌てて周囲を見渡せば、そこには確かに自分の腹をえぐり取った『雹海の降り手』がいた。

 

 ――いやまさか。

 今度は疑念ではなく否定の言葉を内心でこぼし――目の前で消えた穂乃美の姿に、次いで燐子が一つ減った事実に息をのんだ。

 

「ひょ、『雹海の降り手』ぇ! 貴様跳んだな! 跳んだんだな!」

 

 すぐさま現れた穂乃美に”頂立”は思わず叫んだ。

 穂乃美は怜悧な美貌に頬笑みを浮かべた。その頬笑みが”頂立”の平常心に鋭い一太刀となって襲いかかった。

 

 すぐさま”頂立”は『重装』を雲のような形状で作りだすと、複数に分けて他方向から穂乃美へと向けた。

 それを『剥追』で跳んでかわす。

 

 ”頂立”は再び『重装』をかわした先へ向けて、息つく暇なく穂乃美へ攻撃する。

 時間を与えるわけにはいかなかった。

 

 さっきの一連の流れから”頂立”は穂乃美がどうやって燐子の数を減らしたのか大体わかっていた。

 おそらくいったん戦線離脱した際に大量の雹を作り出し、それを村へ向けて飛ばしていたのだろう。それを目印に穂乃美は戦いながら途中途中村々に跳んで燐子を討滅しているのだ。

 

 現在の”頂立”の優位は外部に燐子という補給線をもつことによるものだ。それが穂乃美によってすべて消されれば後に残るのは1対2という圧倒的不利のみ。そのため”頂立”は穂乃美に村々まで跳ぶ時間を与えるわけにはいかない。

 

 無理な攻撃はせず、余裕をもって村まで跳ぶ時間を稼ごうとする穂乃美。対して余裕を与えまいと奮闘する”頂立”。

 気がつけば立場は一転し、”頂立”が追い詰められていた。

 

「”頂立”ぅうううーーー!」

 

 横合いから蒼い炎がぶつけられる。

 慌てて『重装』を盾にし、ことなきを得たが、すでに穂乃美はいなかった。

 

「くっ、今は貴様の相手をしている暇はないぞ、『青駕の御し手』ぇ!」

 

 燐子が一つ。また一つと消えていく感覚に、焦りを覚える。

 だがチャンスでもあった。

 

 燐子を消しているということは穂乃美がここにいない、ということでもある。

 穂乃美が戻ってくるまでに『青駕の御し手』を消してしまえば、少なくとも1対2の圧倒的不利な状況は消える。勝ち目が残る。

 

 ”頂立”は頭につけていた王冠をアルタリ目がけて投げつけた。

 

「む――」

「これは――宝具!?」

 

 それは”頂立”の切り札だった。

 王冠につけられた宝石、宝具『魔貌のボルベス』は宝具に魅入られた人間や徒を取りこみ、あるいは注入することで『存在の力』としてため込むことのできる宝具だ。

 

 ”頂立”は今までたまわむれに何人もの人間を取りこんでいた。内部にため込まれた存在の力はかなりの量だ。

 その力の一端を一気に『重装』へと変化させる。

 

 『魔貌のボルベス』は内部に存在の力をため込む際、圧縮してため込む性質がある。今回は一気に解放・変化されたため、まるで爆弾のように力は外へと拡散する。『重装』の霧はまるで爆風だ。

 こればかりは避けられない。

 『重装』に飲み込まれたことを目でみて、感覚で確認し、『重装』を圧縮させた。踏みつぶされたヒキガエルのように大抵のものを圧殺できる――はずなのだが。

 

「ええい、またか、毛虫ふぜいが!」

 

 圧縮された『重装』の中にアルタリの姿はなかった。

 潰す瞬間まであったアルタリの感覚が、コンマ数秒前に忽然と姿を消していた。

 

 周囲を見渡せば隠蔽の自在法が刻まれた雹が宙にいくつも漂っていた。

 おそらく大多数は『剥追』のマーキングだが、少数は遠くからこちらを把握するため、監視の自在法が刻まれたものなのだろう。

 

 あらかじめ幾つかの『剥追』の雹をアルタリの懐に潜り込ませておき、危なくなったらこちらを見ている穂乃美がアルタリを転移させるようになっているのだ。

 怒り任せに『重装』の霧をいくつもの刃状に圧縮させ、周囲に放つ。次々と雹が砕けていくが、

 

「させると思うか!」

「我らが利点。背を押すもの。壊させるほど甘く無い!」

「ええぃ。この”頂立”に上から襲いかかるなど不敬な! 毛虫が空から落ちてくるな!」

 

 アルタリの一刀に雹の破壊を邪魔される。

 雹を優先すればアルタリに邪魔され、アルタリを優先すれば雹に邪魔される。

 もはや初期の予定は完全に崩れ、実質的な1対2を余儀なくされていることに”頂立”は屈辱をかみしめた。

 

 燐子の数はもうわずか。

 1対2の状況は不利極まりない。

 もはや”頂立”の敗北は秒読みのように思われた。

 

 だが、”頂立の表情に敗北の予兆は欠片もなかった

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 次々と転移した穂乃美は最後の村で足元の燐子を前にしていた。

 時間はかけられない。

 遠くで戦うアルタリは消耗激しく、ところどころで手助けせねばやられてしまう。

 

 穂乃美は転移した瞬間に雹を生み出し燐子へぶつけ、相手の体に接触した雹を転移させた。

 すると雹から一定範囲の物体がごっそりとえぐれたように消えた。

 これが”頂立”の腹をえぐった力の正体だった。

 一瞬で体の半分を無くした燐子は瞬く間に存在する力を無くし、存在の力の残滓を燃やして消えた。

 

「今のが――」

「――最後! 後はにっくき”頂立”! 今日という今日は絶対討滅してやるわよ、穂乃美!」

 

 穂乃美は左手に雹で剣を作ると振りかぶった。

 

「無論、稲穂の国に敵するというのなら――」

 

 穂乃美が跳ぶ。

 視界が一気に塗り替わった。

 

「稲を刈るように!」

 

 振り下ろす。

 『剥追』の雹を固めて作った剣は防御不能の一刀だ。

 事実背後への強襲を防ごうと”頂立”の背中から噴き出した『重装』を、刃に触れた部分から飛ばし、その背中を切り裂いた。

 

「――その命、ここで摘みとしましょう!」

 

 『剥追』によって刀身の無くなった剣を捨て、穂乃美は両手を突き出した。手のひらから生み出された『剥追』の雹が重機関車のごとく発射。防御を削り、肉を剥ぐ雹の乱打に”頂立”の体が穴ぼこだらけになって、空から落ちていく。

 体の端から炎となって溶けていく”頂立”。フレイムヘイズ達はその瞬間、『大罪』が一つ、頂立に勝利した――

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 ――とはならない。

 

 地面へと落ちていく”頂立”の体が不自然なまでに膨張した。

 体に開けられた穴からはひっきりなしに『重装』の黒い霧が噴き出し、体を覆っていく。それはみるみる大きくなり”頂立”の吹き飛ばした唐沢山ほどの大きさの球体となった。表面は黒光りし――おそらく『重装』を圧縮したのだろう――恐ろしく固いことが見て取れた。

 

「これはいったい……”剥追の雹”、心当たりは?」

「さぁ? ここまで”頂立”を追い詰めたのは私たちが初めてだしー? 私にもわかんなーい」

「知らん。聞いたこともない。だが予想はつく」

「”抗哭の涕鉄”、というと?」

「”頂立”のやることよ。『重装』で身をつつんだ。臆病なことよ」

「だが厄介でもある」

 

 なるほど、と穂乃美は頷いた。

 確かに厄介な話だった。圧縮した『重装』の固さはもう身にしみて知っている。それに身を包んだとなれば確かに、討滅には厄介な話だった。

 

 だが、穂乃美には全く関係ない。

 

 周囲に雹を生み出す。今までは遠くに雹をやる関係でほとんど数は出せなかった――穂乃美の操る雹の数は、操る範囲に反比例する――が、今なら数十万に達する数の雹も生み出せる。さすがにそのすべてが『剥追』の雹というわけにはいかないので、数万の数を作り出し――”頂立”にぶつける。

 

 防御不能の雹が雪崩となって『重装』に襲いかかり、その外殻を削っていく――が、瞬きの間に『重装』はきれいさっぱり修復された。

 

 だがこれほどの『自在法』となればかなりの存在の力を使うはず。

 こちらは二人であることを考え、穂乃美は相手を消耗させようと雹を生み出し始めた。

 

「やめろ」

 

 突き出された手をアルタリが掴んだ。

 なぜ、と穂乃美が視線で問う。アルタリは眼下の”頂立”を指さし、

 

「以前話しただろう、『山喰らい』の話を。奴は存在の力をため込む宝具を持っていた。おそらく奴はあの『山喰らい』で得た力をまだため込んでいる。持久戦は不利だ」

『ほう、なかなかどうして。知恵が回るじゃないか』

 

 眼下の球体から声が響いた。

 

「ずっと不思議に思っていたことがある。お前はどうやって遠く離れた燐子から『存在の力』を受け取っているのか、と。燐子が集めた存在の力を吸収するには直接触れなければならない。よほど特殊な個人用の自在法でも使わない限り、原則的に不可能だ」

『それで?』

 

 追い詰められているとは思えないほど楽しげな声で”頂立”が問う。

 

「だがあの宝具があれば話は別だ。内部に力をため込むことができるあれがあれば、さも燐子から『存在の力』を回収したように見せかけることができる。自分から種明かししたのも、燐子の存在を『雹海の降り手』に印象付けて、分断させるためだろう」

『それで?』

 

 同じ声音で”頂立”が問う。

 

『わかったからどうした。その策はお前たちがたたき壊しただろうに。終わったことをわざわざ確認したがるとは』

「ああ、その通りだ。もう終わったこと(・・・・・・)だ」

 

 どこか達観したアルタリの声に穂乃美が目を瞬いた。

 それを何もできないととったのだろう。”頂立”が大声で笑った。

 そして”頂立”を包む球体がゆっくりと空へ浮かんだ。驚きは無かった。

 

 おそらくこのまま裂け目まで行って、『重装』の中に裂け目を取りこむつもりなのだろう。あの『重装』の殻を破れない以上、アルタリと穂乃美に止めるすべはない。

 ならば初めからそうすればよかったのに、とも思うが何かできない理由があったのだろう。宝具にためられた存在の力を温存したかったのか、他の理由があったのかはわからない。

 

「おそらく”頂立”には『山喰らい』で得た存在の力は大きすぎるのだろう」

 

 アルタリは空に浮かぶ”頂立”を見ていた。

 その視線には何か含むものがあった。気づいても穂乃美は口にはしない。

 

「徒が無制限に存在の力をかき集めたからと言って強くなるわけではない。むしろ自分に扱いきれない存在の力は、存在に対する自身の意思総体の割合を薄め、いずれ消滅する原因となってしまう。

 ”頂立”は確かに強大な紅世の王だが、尊大な態度ほど器が大きくはなかったのかもしれない」

「だから”頂立”は気づいていない、と」

「そうだ」

 

 おそらく『重装』は操る質量によって速度が制限されるのだろう、ゆっくりと目の前を移動する”頂立”を目の前にしながら、穂乃美は体から力を抜いた。

 穂乃美にとってもこの戦いは終わったものだった。

 

「『雹海の降り手』……」

 

 大切な指輪に触れて何かを想う穂乃美に、アルタリは言いにくそうに声をかける。

 あらたまってどうしたのだろうか。

 内なる声で”剥追の雹”に問いかけてるも、思い当たることはないらしく不思議がっていた。

 アルタリは無骨な顔に似合わず口をまごつかせた。

 

「……本来、『剥追』は目に見える範囲でしか移動できない、と聞いていた」

「ええ、確かに。『剥追』は短い距離でしか転移できません、でした(・・・)

「ではやはり――」

 

 穂乃美は首を縦に振った。

 

「そうか――」

 

 アルタリは穂乃美をどこか遠い眼で見ていた。

 穂乃美はその眼に含まれたものが何かわからなかった。

 そしてアルタリはまた何か言いたげに、口を開いては閉じてを繰り返した。

 

「なにか、私に聞きたい事でもあるのですか?」

 

 助け舟を出すつもりで穂乃美がいうと、しばし腕を組んでアルタリは口を開いた。

 

「もしも、その『剥追』の距離が今だ短かったならば、今までの戦法は使えない」

 

 穂乃美はアルタリの言葉を少し意外に思った。

 この無骨な顔のフレイムヘイズは終わったことをもしもで掘り返すような人間ではないと思っていたからだ。

 おそらくあの遠い眼の理由に関連しているのだろう、と穂乃美は続きを待つ。

 

「”頂立”を相手にしつつ、要所要所で隙を見て村へ転移し、燐子を減らす……『剥追』の転移が無ければできないことだ。

もしも、もしも『剥追』が使えなかったとしたら、『雹海の降り手』よ。何を優先するのか、口に出してはくれないか?」

「それは――」

 

 ああ、とアルタリの言葉にようやく納得がいった。

 この無骨な男は意外と優しい男だったらしい。

 このフレイムヘイズは落ち着いた今、穂乃美が生き続けていくために手助けをしようとしている。

 これから先、長き生の中で選択すべきことが何度もあるだろう。その時、選択の迷いが穂乃美を殺さないように、今向き合わせようとしているのだ。

 

 おそらくアルタリは選択を前に動揺した穂乃美を心配しているのだろう。

 偶然『剥追』の距離が伸びたことで助かっただけと思っているのかもしれない。

 

 だがそれは違う。穂乃美はすでに答えを出している。

 

「――あなたは犠牲を容認して討滅するか、人を守って徒を討ちもらすか、選択を用意しました。答えはこうです。――逃がさず、切り捨てず、討滅する。それが私の答えです」

 

 以前の出会いの場で、アルタリは穂乃美に問いかけ、答えは犠牲を容認し、徒を討つことだと断言した。

 だがそれは違うと穂乃美は確信していた。

 

「できるわけがない。世界はそう単純で簡単ではない」

「そんな二元論は人であったときに嫌というほど行いました」

「ならばわかるだろう?」

 

 アルタリの問いかけに、穂乃美は悪戯めいた笑みで言う。「それは人よりの考えです」と。

 呆気にとられたアルタリの表情がおかしくて、穂乃美の口元がゆるい月を描いた。

 

「もしもこの身が人以上の力を持つというのなら、人であった時の結果に満足してはいけない。より大きな力がより大きな責任を持つというのなら、より大きな結果を求めるべきだ。私はそう思うのです」

「つまり『雹海の降り手』はこう考えていると? また選択しなければならないとき、優先順位をつけずにすべてを守る、と」

「主人は死にかけの身で守れ、といいました。ですが私はそこに隠れた「何を」の言葉を見つけられなかった。それは主人が心からすべてを守れと言ったこともあり、また私もすべてを守りたいと真実思っていたのです」

 

 あの時、クズキの言葉にはっとさせられた。

 それはクズキの想いであり、同時に自分がどうしたいのかという想いでもあった。

 アルタリの考えに納得できず、自分は守るべきだと思った。ならばそれでいいじゃないか。フレイムヘイズは結局のところ復讐者としての自分を優先している。だったら自分のこの守りたい意思を優先して何がわるい。

 むしろ我の強いフレイムヘイズではありきたりな、間違いのない考えじゃないか。

 

 だから守る。

 優先順位なんて付けない。

 全部ひっくるめて守れば付ける必要なんてない。

 

 穂乃美はその瞬間、本当の意味で自分のすべてを掌握した。

 扱いきれていなかった存在の力も自在法も、すべてを十全に使える。あの瞬間、穂乃美は『雹海の降り手』として完成したのだ。

 

「――私はずいぶんと無粋な男だったらしい」

 

 アルタリは穂乃美の顔を見て苦笑いを浮かべた。

 それに穂乃美は、はいとも、いいえとも答えず、大切そうに指輪を撫でるにとどめた。

 二人の間には落ち着いた空気が流れていた。

 

『ふはははは! そう落ち込むことはないぞ! この”頂立”をここまで追い詰めたことは末代まで誇るがいい! あっと道具どもは子供を作れないのだったな! ふははははは!』

 

 しかし、それを見た徒は大声で二人をあざ笑った。

 まったく見当違いのことに二人はむしろおかしくなって、笑いあってしまう。

 

 ”頂立”はそれを現実に向き合えない空元気の笑みと判断し、余計に気を大きくして笑った。フレイムヘイズと徒の間に奇妙な笑いの連鎖が作られた。

 

「――ああ、やはり気がついていないのだな」

 

 アルタリは”頂立”お得意の小馬鹿にした笑みを浮かべた。

 

「ええ、気がついていないようです」

 

 穂乃美は憐れむような瞳で離れていく”頂立”を見送る。さながら、かわいがっていた家畜を殺さなければならず見送る少女のような瞳だった。

 

「あれほどわかりやすいというのに」

 

 そういったアルタリの視線が『世界の欠片』のある場所に向けられた。

 そこには死にかけの重傷を負ったクズキがいるはずだった(・・・)。だが”頂立”は死にかけの道具に何ができると余計に声を大きくした。

 

「ああ、過ぎたる力は身を滅ぼすとはまさにこのことか」

『心地よい負け惜しみだ! これからは何かあるたびにお前のその言葉を使って広めてやろう! うれしかろう、うれしかろう!』

「そうだな、楽しそうで何よりだ。我らもこの長きにわたる『大罪』の”頂立”との戦いが終わると思うとうれしいからな」

『そうか! ではさらばだ!』

 

 ”頂立”は高笑いしながらゆっくりと裂け目へ向かう。

 その姿に何もできない自分の無力さを悔やみながら穂乃美は呟いた。

 

「ええ、終わりです。今度こそ、本当に」

 

 その瞬間、”頂立”の殻を一条の光線が貫いた。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 光線が『重装』を貫いた瞬間、”頂立”は我に返った。

 莫大な存在の力に、意識が高揚し、まともな判断がこなせていなかったことを自覚したのだ。

 

 だが我に帰っても冷静さは帰ってこなかった。

 周囲の把握のために『重装』の鎧を取り払った時、”頂立”は見てしまったのだ。『世界の欠片』のすぐわきに立つ一人のフレイムヘイズを。

 

「よくも……よくもまぁ、やってくれたよなぁ……」

 

 その声は遠く離れた”頂立”の背筋を泡立たせるほど怒気に満ちていた。

 いや、そんなことはどうでもいい。そんなことよりも”頂立”には看過しえないことがある。

 それはフレイムヘイズ――クズキの周囲に漂う膨大な『存在の力』だ。

 

 クズキの周囲を漂う存在の力の総量は『魔貌のボルベス』にため込んでいた存在の力の総量を明らかに超えていた。

 身を焦がすほどの憤怒を練りこまれた存在の力は周囲の空間を捻じ曲げ、空間すらも不安定にしていた。

 

「……き、あ……お、まえ……」

 

 肌に感じる力は勢いを増すばかり。”頂立”は口を開いては閉じることしかできない。

 憤怒のあまりクズキの体からは絶え間なく存在の力が漏れていた。すでに”強大な紅世の王”ですら干からびるほどの力を放出している。

 

 そこにある存在の力が恐ろしいのではない。

 放出された存在の力がある指向性を持ってうごめいていることが”頂立”は恐ろしかった。

 

「つ、使えないはず、だ。お前は、たたた、たしか……」

「ああ、そうだな。そうだったよ(・・・・・・)。でもな、使えないなら使えないなりに考えもする。ましてや――こんだけコケにされたんだ……意地でもやる方法の一つや二つ考えるだろ!」

 

 クズキの周囲を漂う存在の力は次第に術師を中心に渦巻きながら上空へと登っていく。一見すれば竜巻のようなそれは、数秒後には上空で圧縮されひと固まりの球体となった。

 ”頂立”はその塊――巨大な太陽を見上げ、限界まで眼を見開いたまま固まった。

 

「――自在法『天照(アマテラス)』ッッ!!」

 

 太陽の下部に自在法の陣が現れた。そこに書かれたのは圧縮と加速。膨大な炎を圧縮し、加速。標的に――つまり自分へ――打ち出す。

 そこで初めて”頂立”の脳に死が描き出された。

 恐怖に顔を引きつらせながら全力で『重装』の盾をつくった。

 しかし太陽から打ち出された大樹のごとき太さの光線は『重装』の盾を容易く貫く。

 

「お、おおお、おおおおおおお!?」

 

 一撃。

 ”頂立”の体は一撃で半分が焼失した。

 とっさに『魔貌のボルペス』の力を使い、修復する――が、今度こそ”頂立”の頭の中が真っ白になった。

 眼前の太陽には四つの陣が描かれていたからだ。

 どころか陣は時間と共に数を増やしていた。八つまでは数えて、”頂立”は乾いた笑みを浮かべた。それ以外にやれることはなかった。

 

 光線が流星群のごとく”頂立”へ降り注いだ。後は言うまでもないだろう。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 クズキは拙い自在法に膨大な量の力を使い、ごり押しで治した腕を握りしめる。

 フレイムヘイズの肉体は相当無茶ができるようだ。ごり押しで治したにも関わらず、何の不調もなさそうだった。

 

「あなた!」

 

 瓦礫の上に立つクズキの元へ一目散に妻がやってきた。

 穂乃美はクズキの体が治っているのを見ると、涙を浮かべながらゆっくりとクズキの体を抱きしめた。

 

 よかった、よかったと嗚咽を漏らす穂乃美に心痛めていると、アルタリが近くに来ていた。

 アルタリは不思議そうな顔でクズキを見ていた。

 

「……いったいどうやって」

 

 小さな声だったがクズキには聞こえていた。

 アルタリは数時間前まで力の繰り方に四苦八苦していたクズキを知っている。それだけに強力な自在法を操って見せたのが信じられないのだろう。

 

「別に大したことはしてない」

「だが事実としてあれだけの自在法を使ってみせた。大したことと謙遜できるほどおとなしいものではなかった」

「ああちがう。方法の話だ。俺はただ存在の力を中からくみ上げるのと操るの、両方を完全に分けただけだ」

 

 言うとアルタリは眼を見開いた。

 たったそれだけのことで、と呟いて、しかしこの方法の問題点に気がついたのだろう。

 

 クズキは元々体の中から力をくみ上げながら自在法を組むのが苦手だった。少量ならばともかく、大量の力をくみ上げようとすると、どうしても気が回らず失敗してしまうのだ。

 

 だから分けた。

 組み上げた存在の力を外へと放出することと、自在法を操ることを。

 クズキは自在法を繰ること自体は下手ではない。

 その結果が”頂立”の討滅だった。

 

 思えば始めてこの自在法を使ったときも、周囲にはクズキが契約した際の力の残滓が漂っていた。それを使ったから、あの時は成功したのだろう。

 

「だが、この方法には問題も多い」

 

 この方法には二つの問題点がある。

 ひとつは外へと放出するため、近くにいればクズキ以外も力を使えてしまうということだ。空中に漂う力は紅世の関係者であれば誰でも使える。このやり方では相手に塩を贈りかねない。つまり敵が近いと使えないのだ。

 

 ふたつめは準備に時間がかかるということ。どうしても二工程になってしまい、他者よりもずっと時間がかかってしまう。さらにいうと存在の力を放出した場所から移動すれば、結局また放出からやり直さなければならないという問題もあった。

 

 いっぺんに力を出しながら使うのは問題がある、ならばあらかじめ出しておいて使う。

 実にまともな考え方のようにも思えるが、アルタリには実戦で使えるとはとても思えない。致命的な問題がありすぎるのだ。

 

「まぁ、その辺は連携やらなんやらでなんとかするさ」

 

 アルタリの視線に、クズキは笑って答えた。

 しばしの沈黙ののち、こくりと頷いた。

 

 クズキは腕の中で泣いていた穂乃美がおとなしくなるのを待ってから、体を離す。

 そして叫んだ。

 

「おい! どうせそこらで見てるんだろう! さっさと姿を見せたらどうだ!」

「あら、気がついてたのね?」

 

 ふっ、と。

 

 瓦礫の暗がりから顔を出した女がいた。

 アルタリと穂乃美の体が一気に緊張する。二人は女の存在に全く気がついていなかった。

 

 女は艶のある唇を指でなぞりながら、クズキに甘い視線を送ってくる。

 それを片手で邪険にしながら、女を観察する。

 

 女はひどく男好きのする体をしていた。

 豊満な胸に、くびれ。むしゃぶりつきたくなるような尻と細長い脚。極めつけにうるんだ瞳と艶やかな長い髪。美をかき集めたような女だった。

 なによりも徒特有の人を引き付ける存在感が女を最大限に引き立てていた。

 これに誘われればどんな男でも一晩は頑張れるだろう。かれた男もいけるかもしれない。

 それほど色気のある(・・・)だった。

 

「”兎孤(うこ)稜求(りょうきゅう)”……」

 

 アルタリが声を震わせながらいった。

 この徒は不思議と目を離せられない。クズキですらそうだった。彼女から眼を離せるのはおそらく、同性の女だけだろう。”兎孤の稜求”はあらゆる男の視線をくぎ付けにしていた。

 

「ええ、私が『大罪』が一人、”兎孤の稜求”よ」

「あんたが四人目の『大罪』か。――戦うか?」

 

 ぐっと拳を握りしめる。

 クズキの眼を見て”兎孤の稜求”は溜息を吐いた。

 

「私、戦うように見えるかしら?」

 

 ”兎孤の稜求”が着ているのは赤い体のラインがよくわかるドレスのような服だった。おおよそ戦うための服のようには見えない。

 本当に戦うのが嫌そうな表情をしていた。姿で判断するのは愚かだが、本当にこの徒にこれ以上ここで戦う意思はないのだろう。

 

 そう判断すると体中に満ちていた存在の力を散らしていく。

 クズキにもこれ以上戦う意思はなかった。

 

 だが穂乃美は少し違ったらしい。

 クズキの対応に驚くと、反対に体に力をみなぎらせた。

 

「いい、穂乃美。どうせ無駄だ」

「ですが……今ならばあれは荷物を抱えています。絶好の好機では」

 

 そういって穂乃美は鋭い視線を”兎孤の稜求”の足元で体育座りしている”頂立”に向けた。

 

「ちょっと。早くたちなさいよ、あなた狙われてるわよ」

「我、死んだ。死んだ?」

「生きてるわよ」

「ほぇ」

 

 ”頂立”はやっと顔をあげるとクズキの顔をみて跳びあがった。

 

「ななな、死んでも殺しに来たのか! 鬼、悪魔!」

「あなたは何言ってるの?」

 

 下手な構えを見せて叫ぶ”頂立”の姿に心底呆れたようだ。”兎孤の稜求”の眉がひそめられた。

 

「お? おお! お前は”兎孤の稜求”ではないか!

 お前がいれば百人力だ。さぁ、力を貸してくれてもいいのだぞ?」

「いやよ、戦うならあなた一人で戦いなさい」

 

 どこか落ち込んだ顔の”頂立”をよそに、”兎孤の稜求”はクズキに向き直った。

 

「今日の所はここで引かせてもらうわ」

「そうか、二度と来るな」

 

 クズキの辛辣な言葉に”兎孤の稜求”はとろけるような笑みで笑った。

 

「あら、私はあなたみたいな男って好きよ?」

 

 甘い徒の誘いにクズキは”兎孤の稜求”の噂を思い出した。

 なんでも人と交わる徒だとか。

 物好きなやつもいたものだ。

 だがフレイムヘイズと徒が寝所をともにしてもいいことなど一つもない。なによりクズキには穂乃美がいる。

 

「あいにく美女はもう間にあってる。これ以上ないくらいにな」

「残念」

 

 ”兎孤の稜求”は本当に残念そうに肩を落とした。

 その様すら色気が漂っていた。

 ここまでくると大したものだ。よほど人を観察したのだろうか。クズキには仕草の一つひとつが演技か本心か分からなかった。

 

「ではまた会いましょう」

 

 眉をひそめるクズキに笑みを一つ投げかけ、”兎孤の稜求”は唐突に姿を消した。

 前触れもない消失は穂乃美の『剥追』によく似ていた。

 気がつけば”頂立”もいない。

 

 おそらく何らかの自在法だろう。

 仕留めたはずの”頂立”を救出していたことと、突然この近くまで現れたことから予想はしていた。

 しかしめったにいないはずの空間転移の自在法が使えるとは、やはりあれもまた”強大なる紅世の王”であり『大罪』が一人ということだろう。

 

 おそらく『大罪』はもう一度こちらを狙ってくる。

 ならば次こそは完膚なきまでに勝つ。

 クズキは一層気を引き締めた。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 それから数日後。

 

「こんなところにいたのね?」

 

 艶やかな声が、とある荒野に響いた。

 声の持ち主はひどく男の視線を誘う女だった。ブロンドの髪を乾いた風になびかせ、体の線を見せつける服を着ている。

 

 ここは四方地平線の彼方まで荒野。水泣くば人は生きていけない不毛の大地。みずみずしさに溢れた女には不釣り合いな場所だ。

 

 なぜこんなところに。そう問いたくなるのが人と言うものだが、問うものはいない。そもそもここには人がいなかった。

 いるのは女の姿をした徒と、その目の前で寝ころんでダラける少年の徒が一人。

 

「ずいぶんと探したわ。相も変わらずあなたは動かないのね?」

「あー、だって疲れるだろう?」

 

 大の字になって寝ころぶ少年は実に気だるげに答える。

 

「そのわりにはずいぶんと周りが悲惨だけれど……」

 

 艶やかな女――”兎孤(うこ)稜求(りょうきゅう)”があたりを見渡す。

 荒野というものは基本的に平坦で、それでいて途中途中に突き出た岩や地層が見える程度のはずである。

 しかし周囲はえぐれ、砕かれ、裂けている。何か尋常ならざるものが争った跡のようだ。

 

「少し前かな。『天空制する黄金』とばったり顔を合わせてね」

「ああ、『焦砂の敷き手』と。どうりで」

 

 どうやら戦ったのは高名なあの『焦砂の敷き手』だったらしい。徒たちの中心である東欧から海を隔てたこの大陸では四指に入る討ち手だ。

 さりげなく少年の体を観察してみる。わずかにだが切り傷があった。

 

「……ずいぶんと」

 

 ――強かったのね。

 ”兎孤の稜求”は少年の強さ……ではなく『焦砂の敷き手』の強さに驚いた。

 なにせこの少年に少なからず攻撃を与えられるフレイムヘイズなどそうはいないからだ。

 話に聞いていたよりもずっと強いらしい。

 

「とどめは?」

「それが最後の最後で逃げられたよ」

「そう。相変わらずなのね」

「言いがかりだよ。ただ逃げるのを追うのが面倒だっただけ」

 

 ――めんどくさい……なんて、憎たらしいほど相変わらずね。

 ”兎孤の稜求”は真っ赤な唇に指をあて、なぞる。手持無沙汰になるとしてしまう彼女の癖だ。

 並みの男ならばその仕草だけで力がみなぎることは間違いない。しかし”泰汰不証”はその手のことに興味がなかった。興味があるのはむしろ、こんな田舎――徒にとっては人が多く文明の進んでいる中国やエジプト、地中海沿岸が都会という分類だった――に彼女が足を運んだ理由だ。

 

「それで……こんな田舎にどうしたんだい。ここに男はいないよ?」

「それは残念なお知らせだけれど……私にはとてもいい知らせがあるの」

 

 答えを(兎孤の稜求)は焦らす。

 これだから女の姿を取る徒は面倒なのだ、と以前いわれたことがあるが……これが性分なのだ。今更やめられない。

 

 予想通り少年はめんどくさそうに寝返りをうち、視線を向けてくる。

 ”兎孤の稜求”はめずらしいことに、こうして何だかんだかまってくれる()というのが好きだった。

 とはいえこれ以上焦らしては何をされるかわからない。

 めんどくさがりな彼の流儀に合わせて端的な言葉を紡ぐことにする。

 

「『世界の欠片』が見つかったわ」

「へぇ」

 

 この時ばかりは少年の目が開かれる。

 長いつきあいになるが、こんな彼の姿は初めて見た。

 ここに”業剛因無”がいれば、げらげらと野卑な笑顔で笑っただろう。

 

 『世界の欠片』――それは彼が長きにわたり求めていたものだった。

 ”紅世”より渡り来てはや数世紀。彼があらゆる手段を用いて手に入れようとし、結果影を踏むこともできなかったそれ。見つかったというのなら、驚きも当然。

 

 さて、この後はどうなることか……

 

 思案する”兎孤の稜求”の前で少年がゆっくりと立ち上がっていく。

 究極のめんどくさがりの――自身を構成する存在の力ために人を食らう、それすらめんどうだといってはばからない――彼が自ら立ち上がる。

 それはつまり――

 

「――動くのね?」

 

 目の前の少年が。

 強大な徒特有の気配など微塵も感じさせない少年が。

 ふとすると人間と間違えるほど弱々しく見える少年が。

 

「もちろん。今回ばかりは僕も本気だ(・・・)

 

 ――動く。

 一見すれば唯の少年。

 けれど紅世に属するものならば知らぬものなき少年が。

 かつて怒り狂った”千変”と真っ向勝負し、結果紅世真正の神に認められた少年が。

 力のすべてを一度として発揮したことのない徒が。

 

 ――動く。

 

 それはつまり――

 強大無二の徒”泰汰(たいた)不証(ふしょう)”が強大なる紅世の王集団”大罪”を引き連れ、全霊を持って挑むということである。

 

 この瞬間――”兎孤の稜求”は計画の成就を確信した。

 

 

 

 

 

 

 



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