あの日へ (おばけっけ)
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0.プロローグ

 係留した哨戒艇から重機関銃を撃っていた射手が胸に大きな穴を開けて倒れた。胸から上がそのままちぎれなかったのが不思議なくらいの大きな穴だ。あまりにショッキングな光景だったから腰を抜かして地べたに座り込んでしまった。彼女の名を呼ぼうとしたがなかなか声が出ない。呼んだところで来ないことはわかっていたし、呼んでどうするかも考えていなかった。部下も多く見ている中でなんて情けない姿だと頭のすみで、この状況にも関わらず冷静に感じていた。

 

「おい、だれか……」

 

 絶え間なく続く銃声と砲声の中でようやく絞り出した彼の声を聞いた者はいない。

 

「だれか。だれかあいつを運んで銃座を引き継げ」

 

 目いっぱいまで声を張り上げたつもりだったが彼に従うものはいなかった。

 彼のすぐ右前、埠頭の縁で膝立ちになって射撃していた兵士が彼に気づき、駆け寄ってきた。七・六二ミリの小銃に大きなスコープが着いている。陸戦隊の選抜射手だ。大粒の汗がまつげで留められているがぬぐおうともしない。成人しているかどうかもわからないほど若かった。彼の感覚からすれば幼い、だ。険しい目つきのまま彼に空いた手を差し伸べて首を庁舎の方へ向けた。

 そうだ。応援を呼ばなければいけない。哨戒中のどこかの艦隊でも基地航空隊でもなんでもいい。この根拠地だけではもう対処できない。兵士の手を掴もうとしたとき、すぐそばでキーンという機械が激しく駆動したような音が三、四秒聞こえた。たまらずに目をきつくつむる。間髪入れずにヒュンと鋭い音とともに彼の頭上を何かが飛んでいった。よく見えなかったが、確認するまでもない。深海棲艦の艦載機だ。空母まで加わっているとはいよいよまずい。

 そっと目を開けると兵士はうつぶせに倒れていた。抗弾板を挟んだベストはずたずたに破れていた。兵士の顔が見えなかったのが彼にとって唯一の救いだった。

 さらに三機の艦載機が続き、庁舎の窓という窓を割っていった。泊地司令は逃げたのだろうか? 間に合わなかったとは考えないようにした。今これ以上何かが気にかかれば立ち上がれなくなる。

 倒れた兵士に這って近づき、小銃を取ろうとした。もう死んだ男の手はライフルをがっちり掴んでいた。生命活動を止めてこの戦場から解放されたのにも関わらず銃を手放さなない。銃把に絡んだ指を一本ずつ外しながら、この男の名だけは絶対に確かめようと思った。

 小銃は兵学校以来ふれてもいなかった。九ミリベレッタなら手首の延長のようにぴったり馴染むがこれはちがう。まず操作方法がわからない。先ほどまで撃っていたから装填はされているのだろう。構えると右目のちょうど正面にスコープの円い視界が現れる。調整するまでもなく頬はストックに載った。

 小銃を振り回してスコープの中に敵艦載機を収めようとしたが、見つからない。

 不意に銃身を押し下げられる。彼の真横にはアビエーション・グリーンの制服を来た瑞鳳が立っていた。空いた手にはグラスファイバー製の長大な弓を携えて、埠頭の向こうを見据えていた。

 

「慣れないこと、しないでくださいね」

 

 表情とは逆に瑞鳳の口調には余裕があった。小柄な彼女に不釣り合いな七尺三寸の弓が不安を掻き立てる。どうしたって勝てるわけがない。

 

「誰が艤装出せなんて言った」

 

「あとで処分でもなんでも受けますから」

 

「一人でやりあってもだめだ。敵の規模もわからない。すぐに応援呼ぶから」

 

 瑞鳳の手首をきつく掴んだ。そのまま握りつぶせそうなほど細い。こんなところで死ぬなんてあんまりだ。情けない士官だと舐められてもいいから止めたかった。今だけは瑞鳳が大切に思えた。

 

「頼むから行かないでくれって。情が移ったよ」

 

「提督も安いですね。じゃあこれからは優しく扱ってください」

 

 待て、と叫ぶと同時に瑞鳳は彼の手を振りほどき、走り出した。埠頭のふちを飛び越えると彼女の真下の海面に青く光る輪が現れる。その輪は彼女のつま先から頭までを通って消えた。下駄の裏が海面に着こうかというころには艤装の装着が終わっていた。

 深い緑色の上衣にダズル迷彩を施した胸当て。手にしていた弓には紅白の縞模様がついている。空母瑞鳳の最期――エンガノ岬沖海戦を前に行った改装後の姿がモデルの悪趣味な艤装だ。

 無謀な挑戦だ。いくら瑞鳳の練成度が高くても一隻でなんとかできる数は限られている。向こうには最低一隻の空母と戦艦がいる。そして多数の駆逐艦、潜水艦とPT小鬼。本土の主力がここ以外のどこかへ向けられたことを掴んで慌てて集結したのだろう。

 瑞鳳は危険など全くないという風にゆっくり矢を引き抜き、弓につがえた。弓道では構えを横から見たときにつがえた矢と口が重なるのが理想とされている、と前に瑞鳳が話していたのを思い出した。話した本人はその構えを忠実に守っているらしい。時おり弾丸が頭や頬をかすめていくのも構わずに二、三秒も絞って矢を放った。

 いつもそうだ。砲火の中でも瑞鳳はじっくり引き絞り、狙って放つ。砲撃など当たる方が珍しいのだから焦る必要はない、危険な時こそよく狙う、というのが瑞鳳なりの信条だった。

 放たれた一本の矢は六機の艦載機に姿を変えてたちまちのうちに見えなくなる。機体まではわからなかったがたぶん艦攻だろう。索敵にも出せてそのまま雷撃もしかけられる。敵の艦戦に落とされなければだが。

 

「瑞鳳! やつらの規模がわかったら陸にあがれ!」叫んだが、瑞鳳は動かなかった。「潜水艦がいるから。下がれ」

 

 続けてもう一本、矢が放たれる。今度は十二機。両主翼に増槽が懸垂されているから爆戦だ。空対空戦闘と爆撃のどちらもできるから一隻しかいない空母は重宝する。しかし今は使うべき場面ではない。足元まで潜水艦が迫っているかもしれないという恐怖はないのか。

 ずっと遠くで落とされた250kg爆弾が連続して爆発する音が聞こえた。これを数えれば後ろに控える敵に何機到達できたのかわかるが、そうする余裕はもうなかった。海面から浮き出た潜水艦の頭がいくつか、瑞鳳に近づいているのが見えた。

 小銃を抱えたまま正面に係留された哨戒艇まで走る。胸にぽっかり大きな穴を開けた射手が横たわる哨戒艇だ。船尾甲板に降りて船首の方へ回る。頬が削げた精悍な顔つきの射手は前歯をくいしばり、目を見開いて死んでいた。顔を見る限りでは死んでいるとは思えない。この表情が目の裏に焼き付いてしまう前に射手の目を閉じる。ボディアーマーの取手をひっぱり、操舵室の窓に寄りかからせる。

 .50口径の重機関銃に関して彼は素人も同然だった。これを扱うための訓練はこれまでに受けたことがないから見よう見まねでやる他ない。手榴弾を探しておかなかったのを後悔した。想像していたよりずっと重いチャージングハンドルを引き切り、装填する。トリガーは拳銃や小銃にあるような人差し指で引くものではなく、ハンドルを握って両手の親指で下に押し込むものだ。これもやはり重い。ようやく押し切ると銃声の凄まじさのせいですぐに指を離してしまった。弾はどこへ行ったのかもわからない。

 瑞鳳がきっとこちらへ振り向いた。眉をつりあげて口を固く結んだ瑞鳳は小さく首を横に振った。言おうとしていることはわかる。これは彼の完全なエゴだった。ここに留まるということは救援を呼ぶという士官の務めを放棄したも同然だ。今埠頭を守っている兵士への裏切りになる。何を言っても言い訳になる。しかしどうしても瑞鳳を見放して去りたくはなかった。彼女を上陸させてからでも陸戦隊を退かせるのは間に合う。

 重機関銃の照準の使い方はわからないから大まかなあたりをつけてそこを撃つしかない。海面から頭を覗かせて瑞鳳に迫る潜水艦へ銃口が向くように少しだけ俯角を着けてトリガーを押し込む。来ると構えていたから先ほどのような衝撃はない。三脚に載せているから反動もほとんどなかった。しかし銃声と振動は拳銃や小銃とは比べものにならなかった。銃声は耳から彼の体に入り込み、全身を内側から揺さぶる。

 およそ一秒、トリガーを押しっぱなしにして指を離した。潜水艦が頭を海面に隠すのが見えたからだ。通常の火器で深海棲艦を沈めた前例はごく少ないながら、ある。上手くいったのはいずれも潜水艦の中で最低級のカ級と水上戦闘艦最弱の駆逐イ級だ。打撃を加えて牽制した例なら数えきれないほどある。イ級よりも小さくもろいPT小鬼ならもっと簡単に沈められるだろうと言われている。

 瑞鳳が新たな矢を放った。今度は十八機の艦戦。やがて水平線の向こうから放たれてくる敵艦載機が二機、三機と黒煙をあげて落ちていくのが見えた。熟練度は高い水準を維持させている自信があったが、続々飛来する敵艦載機を見るとこれで制空権を奪還できるとは思えなかった。数が違いすぎる。練成度や性能で埋められる差にも限界がある。見たところ、敵の数はその限界を超えているように感じられた。

 

「艦載機を格納して下がれ! 抗命は許されないぞ」

 

 小銃を空に向けて二発、撃つ。瑞鳳は振り向きもせず最後の一射を放った。ここに配備されている中で最強の艦攻、天山だ。

 行動を選ぶ時間ではない。ストックを肩に当ててスコープを覗く。円い視界に収まったのは弓を握る瑞鳳の右手だった。

 優秀な狙撃手の弾丸は活殺自在、殺さずに相手を気絶させることすらできると聞く。彼は狙撃手でもないし優秀な小銃手でもない。だがもう他の手は思いつかない。もちろん外すつもりでいた。簡単には当たらないだろう。外しても意図は伝わるはずだ。悪く思ってくれて構わない。無事にいてさえくれればそれでいい。

 チークパッドにぐっと頬を載せて、船首の柵に左ひじをレストする。喉を緩やかに閉ざすように呼吸を止めると視界の揺れ幅はうんと小さくなった。人差し指で引き金の遊びを消してクロスヘアがちょうどいい位置までくるのを待つ。一秒、二秒、三秒、今。

 引き金を引き切ろうかというとき、急に振り向いた瑞鳳とスコープ越しに目が合った。直後、視界から消える。そこから先は何が起きたのか把握できなかった。二回か三回、ずっと遠くから雷鳴が聞こえた。最後に分かったのは、自分の体が船から海に投げ出されたということだった。すぐそこに潜水艦やPT子鬼が迫っていた海に。やがて彼の意識は途切れた。



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1.着任

 カウチの上で目が覚めた。額が汗ばんで不快だったがそのままにしておいた。耳を澄ますがなにも聞こえない。なにかあれば誰かがここに飛び込んでくるだろう。

 戦闘服の袖をめくって腕時計を確かめる。一一三〇。眠っていたらしい。いつ寝ていつ起きているのかはっきりしなくなってきた。こうしてカウチで休んでいるときに散発的に寝ているのだろう。にぶい頭痛をこらえて立ち上がり廊下に出る。やはり静かだった。通信隊も業務隊もかなりの人数を増警として配置してしまったから庁舎の中に残っている人間は少ない。衛生隊員も負傷者の手当で外を駆け回っている。鳥の鳴き声まで時折聞こえてくるのは間抜けだ。よく晴れている。

 医務室の前に来るまで誰ともすれ違うことはなかった。本当は誰か捕まえてだらだら話し込み、ここまで来る時間を稼ぎたかった。それでも結局は来るだろう。来るだけだ。ドアノブにどうしても手が伸びなかった。この薄いドアの前に突っ立ち五分か十分空白の時間を過ごすのが最近の習慣だった。義務ではないし、気が進まないのならそのまま引き返してしまおう。毎回そう言い訳しては引き返していた。

 不意に扉が開く。飛び出てきたのは戦闘服姿の衛生隊員だった。背は高いが顔はまだ幼さが残る上等水兵。日に焼けた顔から疲労がはっきり認められる。水兵は彼を見ると直立不動、挙手の礼をした。

 

「問題はないか?」

 

「はい。負傷者は全員落ち着いています。もう何日かすればほとんどの者が勤務に戻れると小隊長は仰っていました」

 

「瑞鳳は? 感染症は起こしていないか?」

 

「大丈夫です。義足があれば……」

 

 手を振って衛生兵の言葉を遮った。「わかった。もういいよ、ありがとう、続けてくれ」

 

 水兵はもう一度礼するとクリップボードをめくりながら走っていった。彼が入ると思ったのか扉は開いたままだった。今日くらいは、入らなければいけない。

 埋まっているベッドは片手で数えられるほどだ。一ヶ月前はベッドに入りきらないほどの重傷者がいて、その内の何人かは死んだ。ここはまさに地獄だった。それに比べればずいぶん落ち着いた。しかし次はないだろう。

 彼が探していたベッドは部屋の最奥部、窓際にあった。そのベッドはやはり一ヶ月前からこの根拠地で唯一の艦娘のものになっていた。

 瑞鳳は眠っていた。控えめな寝息がなければ死んでいるものと勘違いしただろう。普段は紅白模様の鉢巻で結んでいた髪もおろしていた。横向きでないと眠れないと言っていたが今は仰向けだ。もしかしたらもう横向きで寝ることはないかもしれない。

 無意識の内に視線は瑞鳳の目から布団で覆われた彼女の脚の方へ動いていた。自覚するとさっと視線を戻す。本人は寝ているのだからそこまで神経質にならなくていいのだろうが、彼には直視できない。

 彼女の右脚の膝から下はない。一ヶ月前の戦闘で魚雷の直撃を受けて文字通り吹き飛んだ。本来なら艦娘がそこまでの傷を負うことはめったにないが、不運なことに瑞鳳は直前に受けた砲撃で大破した。

 アクションリポートによれば彼が瑞鳳に小銃を向けた時、敵戦艦の主砲は彼が立っていた哨戒艇に向けられていた。艦載機からその情報を読み取った瑞鳳は彼を船から投げ出したが自身が避けることはできず直撃を受けた。直後、近くに潜伏していた潜水艦が放った魚雷が彼女の足元で炸裂し、右足は吹き飛んだ。

 彼の命の代わりに瑞鳳の右脚が失われた。もう艦娘として戦うことは二度とできない。艤装が修復できないほどに壊れることと装着者が戦えなくなることを海軍は本物の艦艇になぞらえて撃沈と呼んでいる。撃沈にはもちろん艦娘が死亡した場合も含まれる。死ななかっただけ良かった、というお決まりの文句が誰も慰められないことは知っている。

 彼があんなことをせずに早く庁舎へ戻ればこんなことにならなかった。死なずに済んだ陸戦隊員も何人かいるだろう。何を言っても彼らには申し訳が立たない。そして根拠地の将兵にはすっかり不信感を植え付けることになった。

 最初の手術を終えた夜、瑞鳳は同じうわごとを繰り返していた。何度も「撃たないでください」と。最後に見た彼は自分に銃口を向けていた。本当に撃つつもりではなかったが、そんなことは言わなければ伝わらない。上官に銃を向けられるのはどんな気分だろう? 今まで冷たく当たったことはあったが瑞鳳はいやな顔を見せたことがなかった。それが気に入らなかった。無謀とも言える任務を押し付けて挑発したこともあったが笑って帰投の報告にきた。瑞鳳にとって彼はもはや愛想を保ち、尽くすべき相手ではないはずだ。それでも彼の盾になった。彼が罪悪感を持つと考えてやったのなら大したものだ。これが復讐になる。

 ベッドのそばには白い手提げのスーツケースが置いてある。瑞鳳は今日ここを発つ。わがままな上官とも窓際みたいな任地ともお別れだ。ドアに赤い十字架が描かれたヘリで本国へ帰り、上手くいけば義足も作れるだろう。それから? その先まで考えるのはやめた。本人が望めば軍に残ってできる仕事はいくらでもある。

 気にかけることはもう一つあった。瑞鳳の後任だ。瑞鳳を運ぶヘリで来ることになっているがどの艦種の誰が来るのかは知らされていなかった。海軍は今のところ北方海域攻略にほとんどのリソースを投入している。解放海域で起きた反攻を鎮圧する余裕などほとんど残していないから新たに派遣できる艦娘も慌てて探しているはずだ。北方から戻されてそのままここに来る者かもしれない。

 望みを言えば対潜と対空を両立できる一個水雷戦隊か駆逐隊がほしいが無理だろう。単艦であれば軽巡か航巡、軽空母か。現状にふさわしくないのは戦艦や正規空母のような大型艦だが、そのクラスであれば全て出払っているから心配にはならない。

 すでに大詰めの北方攻略作戦が完了して鎮圧のための本隊が派遣されるまでおよそ一月と横須賀は通達した。一か月だ。たったそれだけ持ちこたえればまた平穏が戻ってくる。きっと上手くやる。後のことは考えたくない。

 担架を押して二人の衛生隊員が入ってきた。

 

「ヘリが到着しました」

 

「ご苦労。ではよろしく頼む。それから新任の子を執務室に案内してあげてくれ」

 



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2.失意

 執務机の前に立つ少女の言葉が信じられなかった。頭が真っ白になり、差し出された異動辞令にもしばらく気づかなかった。

 

「装甲空母……だって?」

 

「はい。翔鶴型の二番艦、装甲空母瑞鶴です。えっと、提督さん?」

 

 アイロンの利いたアビエーション・グリーンの勤務服に身を包む瑞鶴はもう一度名乗った。その口調からは相当の自信が感じられた。長い灰色の髪を左右で結い、くせなのか口元は必要以上にきつく結んでいた。目つきは悪いが大きな目は星を入れたようにきらきらしている。

 困ったことになった。まさか来るはずないと思っていた大型艦を送ってくるとは。

 

「瑞鶴だな。ようこそ南西諸島泊地へ。私が艦隊司令だ。まさか装甲空母が来るとは思わなかったよ。北方に行ってるとばかり」

 

「本当はその予定だったんだけどね。改装が長引いちゃって結局本土でお留守番。ちょうど艦種転換訓練が終わったところでここへの異動が下令されたってわけです」

 

 瑞鶴は応接用のソファに気兼ねなく腰かけた。そのまま「コーヒーは出ないの?」と言ってもおかしくはなさそうだ。

 

「正規空母としての訓練が終わったと思ったら改装。また教育。うんざりしてたところよ」

 

 若いな、と彼は思った。若さからくる無遠慮、幼さ。機動部隊の主力として周りが期待していると自覚したせいで生まれた不相応な自信を隠そうともしない。それもそうだ。装甲空母は彼女を除けば大鳳と翔鶴の二人。二人しかいなかった装甲空母という艦種に加われたのだからそれは誇らしいだろう。たとえ実戦に投入された経験がなかったとしても。

 

「そういえばここの泊地司令は? 挨拶に行かないと」

 

「大佐は一か月前の攻撃で亡くなった。そのため今は次席の私が泊地の指揮を執っている」

 

 敵艦載機の機銃が庁舎の窓を撃ち抜いていった光景が脳裏で再生されようとするのをこらえた。あれこそどうにもならなかったことだ。不運というより他はない。

 

「まずこの泊地の現状について知ってほしい。ちょうど北方海域攻略が始まった一か月前、沖ノ鳥島付近に集結したと考えられている敵反攻部隊の攻撃を受けた。泊地第一艦隊と陸戦隊はこれと交戦、空母ヲ級一隻を撃沈できたが十八人の将兵を死亡と重傷による本国送還で失い、第一艦隊旗艦瑞鳳は撃沈。

 反攻部隊は今も沖ノ鳥島方面を拠点に健在、航空機や艦艇の接近が繰り返されている。いいかな?」

 

「はいはい、要は敵の脅威下にあるってわけね」

 

「そう思ってくれていい。海軍は北方解放に力を集中させているが、あと一か月もあれば本格的な援護や補充が受けられる。それだけ持ちこたえればいい」

 

「持ちこたえる?」瑞鶴は不満そうにつぶやき、執務机の後ろの大きな窓まで歩いてきた。

 窓からは埠頭に展開する陸戦隊の一部が見える。重MATや機関銃を海に向ける水兵の中には増警として他部隊から差し出された者が少なからずいる。そうしなければならないほど損耗は激しかった。

 

「敵の編成はどうなってるんです?」

 

「おそらくは旗艦に戦艦タ級。それと軽母ヌ級一隻が主力に……」

 

「戦艦と軽空母ですって! 楽勝じゃない。今すぐにでも潰せるわ」

 

「話を最後まで聞け。それから職務中に上官と話すときは改まれ。その二隻のほかにPT小鬼や潜水艦、中型艦艇を多数従えている。対潜戦の経験はあるか?」

 

 注意されたことが不満だったらしく瑞鶴は顔をしかめたまま首を横に振った。

 漏れそうになった溜息を肺まで押し戻し、椅子に深く座りなおした。

いよいよ不安だ。対潜の経験はなし。今回の脅威は戦艦や空母などではなく大量の潜水艦やPT子鬼だ。それらに対処する技術がない艦娘となればできることは限られる。少し昔に艤装を貸与された正規空母は一応対潜もこなせたが最近は訓練自体行わないと聞く。正規空母は艦載機の操作に集中させるという方針だが単艦配置すればこんな弊害が現れるとは。しかし今ここで六術校の教育について嘆いても仕方ない。

 もっと不安なのは瑞鶴の性格だ。自信過剰、中々に扱いづらいだろう。功を焦って危険な行いをしないようによく注視する必要がある。それでも止まらないようなら瑞鳳にしたのと同じことをするかもしれない。同じように銃を向けて。

 不意にあの時の光景がよみがえる。スコープ越しに瑞鳳と目が合った瞬間。目をきつく閉じてかき消す。忘れろ、せめて今だけは。

 

「まあ、大丈夫だって! 対潜戦は軽空母のを見たことあるし、理屈はわかってるからなんとかします」

 

 今度こそ溜息はこぼれた。逆に瑞鶴は緊張感なく笑っている。接敵するまでこの危機は理解できないのか。できるなら理解することなく彼女には帰ってもらいたかった。

 

「期待してるぞ。問題を起こすな。目的は応援が来るまでここを持たせることだ。忘れるな」

 

 瑞鶴の顔からまた笑みが消えた。不機嫌なのを隠そうともしない。

 

「泊地を少し見て回ろう。その前に戦闘服に着替えた方がいいな。あとでベストと銃も受け取るから」

 

「銃!? 銃ってわたしの!?」

 

 耳元で叫ばれて思わず顔ごとそらす。この後の展開は、なんとなく予想できた。



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3.出撃

 彼の見立てに違わず、銃を抱えるのだけはどうしても気に入らなかった瑞鶴は戦闘服姿で弓袋を肩に掛けていた。やはり七尺三寸で瑞鳳よりいくらか背の高い彼女にも釣り合わない。その姿は瑞鳳と重なる。同じように弓袋を携えた瑞鳳と数えきれないほどこの埠頭を歩いた。大抵は任務に関すること以外の会話はなかったが、最低限の愛想を見せるためか瑞鳳が雑談を振ることもあった。食べ物と酒についてがほとんどで、本当にどうでもいい話だった。よく聞いておかなかったことを後悔した。あの日何も起こらなければ埠頭に重武装の陸戦隊が展開することもなく、今も隣を歩くのは瑞鳳で、そして彼女の話をもう少しだけ真剣に聞いていただろう。

 

「対舟艇ミサイルまで? 物々しいんですね」重MATや重機関銃を水平線に向ける二個陸戦分隊を間近で見る今も瑞鶴の声はのんきだった。

 

「どれほど緊迫しているかわかってもらえたかな。だから増警としても……」

 

「ライフルはいやですよ。瑞鶴には装甲空母の艤装があるの」

 

 そうですか、と流す。なにを言っても聞こうとはしないだろう。自分の艤装の力を信じて疑っていない。

 

「今は落ち着いているが、前回のような攻撃があればここはもたない。君がいればそれも免れるかもしれない。一人だから常に待機状態で大変だけど、頼むぞ。

いつもなら羅針盤の走査だけで哨戒はやらないけど、せっかくの空母だしそれも検討しよう」

 

 「羅針盤」は付近の海域にいる深海棲艦だけを捉えて場所を示すレーダーだ。海鳥と変わらない大きさの水上機一機でも必ず補足できるが敵の規模は映せず、しばしば何もない場所を敵がいるかのように示してしまうことがある。要撃管制員は羅針盤の情報を元に艦隊を敵艦隊の近くまで誘導するが、会敵できないことがあるのはこのためだ。妖精の技術だから改善は難しいが、この欠点のためにいらない緊張を強いられたこともこの一か月の中で何日かあった。艦載機による哨戒もできればマシになるだろうか。

 

「哨戒も迎撃も、なんなら強襲もお任せ。陸戦さんたちは撤収させて庁舎の修復でもやってもらえばいいわ」

 

 瑞鶴の方へ咎めの視線を送るが、当人は海の方を向いていて気付いていない。

 たしかにあの日に割れた窓や穴の開いた壁の修復は未だに進んでいない。そういった作業を担当する施設隊の何人かは今、戦闘服にボディアーマー姿で重機関銃の握把を握っている。瑞鶴のおかげで元の業務に戻せる将兵も何人か出るかもしれないが、部隊について言われるのはおもしろくなかった。

 ふいに瑞鶴の視線がこちらを向いた。大きく開く、反抗的で攻撃的な目から視線をそらせなかった。どうしてそんな態度をとる?

 

「瑞鶴、お前……」

 

「提督さん、なんか好きになれない」

 

 言いたいことは視線を交わしただけで伝わっていた。早くも部下と以心伝心の仲になれて喜ばしい、という冗談を口に出す気にはなれなかった。こうもはっきり口に出されればそれで返事に困る。これまで軍でこんな人間には出会ったことがない。しかも本人はまじめな顔で言ったのだからどう答えたらいいのかはなおさらにわからない。

 瑞鳳にとって彼は到底好きになれる相手ではなかったが彼女は嫌うような素振りも決して見せなかった。なのにこの新任は。

 どうしていいかわからず視線をぶつけ合ったままでいると、肩口に留めたハンドマイクが擦過音をたてる。マイクは腰に吊ったトランシーバーに接続され、レーダーを直接操作する監視小隊、警戒配備についている陸戦隊と繋がっている。

 

「羅針盤に感あり。座標……」

 

 監視小隊の無線が全て告げるより前に陸戦の分隊長は戦闘配備の号令をかけた。特に空気が変わったような感触はない。ずっと緊張していたのだから当然だ。機関銃手は蓋を開けてベルトリンクに息を吹きかけ、ミサイルの射手は照準器を覗き込む。準備は瞬く間に完了する。

 

「自前の航空隊は持ってるか?」

 

「もちろんです! 五二型と天山の六〇一空は精鋭です」

 

 空母系艦娘は根拠地に配備されている艦載機とは別に手ずから編成し、熟練度を上げた航空隊を持っていることがある。自身と完全に合うように調整した航空隊だけに他の艦娘には扱えず、これらの整備だけは整備小隊ではなく艦娘本人がするのが常だ。ちょうど狙撃手が自分の銃を誰にも任せずに自分で管理するのに似ている。

 瑞鳳もやはり自分の航空隊を持っていた。史実になぞらえて六五三航空隊と名付け、爆戦と天山で構成されていた。演習では正規空母にも劣らなかった。

 瑞鶴の実力は未知だがそれよりも確かめなければいけないことがある。

 

「出撃だ。艤装を展開して索敵を……」

 

「了解。瑞鶴、抜錨します!」

 

 瑞鶴は弓袋を取り去り走り出した。手にはグラスファイバー製の和弓。陸戦隊が展開する中、彼に背を向けて走り出した。

 途端、彼の周りの全ての動きが極端に遅くなった。時間がコマ送りのように流れる。機関銃手はもったいぶっていつまでもチャージングハンドルを引き切らず、分隊長は何か叫んでいるが間延びしているせいで言葉になっていない。

 走る瑞鶴を見て息をのんだ。さっきまで青い迷彩の戦闘服を着ていたはずなのに今の彼女は緑の勤務服姿だ。一歩進むごとに後ろ姿が別の誰かのものに変わっていく。左右で結っていた髪はほどけ、色が変わり後ろで一つに束ねられる。紅白模様の鉢がねで。

 ――忘れろ。あいつはもう走れない。もう戦えない。もう艦娘じゃない。

 頭では理解していたが瑞鶴の後ろ姿は瑞鳳の最後の時と重なっていく。瑞鳳の名を叫びそうになった。次の瞬間、閃光。埠頭の縁を飛び越えて海との隔たりが消えた瑞鶴の体を包む青い光。海面に触れた弓は在りし日の艦の魂を呼び起こし、海に迎えられた彼女の体に艤装を着せる。

 光が止み、艤装の装着を終えた瑞鶴が姿を現した。真っ白な上衣に詰められた深紅の弓袴。黒い胸当て。最も目立つのは左肩の長大な肩盾だ。飛行甲板を模した肩盾は装甲空母の名に違わず厚い。

 装甲空母を目にしたのは初めてだが、驚きはない。今は見た目など気にするときではない。

 

「索敵機を出して規模を伝えろ。攻撃隊は別命あるまで発艦させるな」

 

 叫んだが瑞鶴は全く構わず膝立ちになり、弓を真横に倒して目線の高さで構えた。矢筒から二本の矢を抜き出し、器用に一矢だけをつがえた。ろくに引き絞りもせず放つ。続けざまにもう一射。力弱く放たれた矢はすぐに推進力を失い、海面に落ちる直前に艦載機に姿を変えて高度を上げる。

 あんな射方は見たことない。たぶん弓道には存在しない構えだ。六術校の鳳翔が見れば激怒して拳骨の一つでも落とすだろう。

「索敵、成功。敵、雷巡一駆逐五。接近します」言い終わるより早く瑞鶴は立ち上がり海面を大きく蹴って走り出した。

 ――あぁやっぱり。見事に心配していた通りの展開になった。

 哨戒艇まで走り船尾に飛び乗る。「出せ、瑞鶴についてけ。陸戦隊、私が許可するまで撃つな」

 

 分隊長の怒声が聞こえたときには哨戒艇は動いていた。あとでこの操舵手が分隊長に絞られるのを止めなければ。

 頭の隅でそんなことを思いながら船首へ回る。機関銃手を務める若い二等兵曹はこんな状況にも関わらず銃口をやや上に向けて前方の空をにらみ敵機を警戒している。

 

「悪いことをした。もうすぐこの無能も消えるからあと少し我慢してくれ。ライフル、貸してくれるか? そのスコープが着いたやつだ」

 

 兵曹は肩に掛けた負い紐に手を当てて眉をひそめた。本人は気づいていないだろうが、彼の正気を疑う不信感がわずかに見て取れる。

彼はそれを見なかったことにして、兵曹が儀礼的に差し出したHK33を両手で掴んだ。ストックを肩に載せてマウントされたACOGをよく覗けるようにする。探すまでもなく円い視界に疾駆する瑞鶴を捉えた。船首からみて右斜め前、かなり速度を出している。第四船速も越えているだろうが、哨戒艇との間は詰まってきている。

しばらくそのまま進み、並走しようかという頃に突然瑞鶴は止まった。

 

「敵艦隊、見ゆ!」



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4.不信

 操舵手に中立を命じて銃を前方へ向ける。最初に見えたのは全高の高い雷巡チ級だった。海面から露出しているのは青白い表皮と黒い装甲の上半身だけだが、下半身はそのまま船体になっている。世界で初めてチ級を目視したイギリス海軍の水兵は「ケンタウロスが海を走っている」と叫んだと伝え聞く。顔面は白い陶器のような甲羅で覆われ、欠けた部分からは赤く輝く左目だけが覗いている。不気味だが、目を離せない。深海棲艦を見るといつもそうだ。嫌悪感を誘うが同時にもっとよく見たいと思って首を伸ばしてしまう。物珍しさや興味を覚えるわけではない。単に上級の深海棲艦は人間の女性によく似た見た目をしているからというだけかもしれない。何であれ、彼はその理由を永遠に知りえないような気がした。

 雷巡を中心に五隻の駆逐艦が周囲について輪形陣を成している。駆逐艦は大型犬ほどの大きさでクジラにそっくりだ。深海棲艦は等級が下に行くほど人間らしさが排されていくのも不思議だ。

 哨戒艇は瑞鶴より若干前に出て止まった。間は百メートル以上開いているが叫べば会話になる。

 小銃を下すと兵曹は前方に銃口を向けた。敵艦隊はスコープがなければ黒い点ほどにしか見えないが、はっきり見えるのにそう時間はかからない。

 

「まだ撃つな。私が撃てと言ったら撃ち続けろ」

 

 返事とともに一瞬だけ視線を感じた。本気で言ってるのか? 大丈夫なのか? と訊きたいはずだ。彼が撃てと指示するのは瑞鶴の飛行甲板が砕けた時で、先に操舵手に後退を命じた時だということは説明すべきではない。

 瑞鶴は半身になりまた折り敷いた。今度は弓を真横ではなく斜めに倒して構える。

 先ほどはなぜあんな構えをするのかわからなかったが、ようやく気付いた。あの体制をとることで敵から見た正面投影面積を小さくしているのだ。肩盾が頑丈なのを利用して前に出し、文字通り盾として使っている。誰からも教わらず無意識のうちにやったのなら少しおもしろい。陸軍で言うところの「撃たれないやつ」かもしれない。

 

「始めちゃいますよ。第一次攻撃隊、発艦始め!」

 

 敵艦隊はまだどの艦も瑞鶴を射程に入れてはいないが敵はすでに瑞鶴の間合いの中にある。アウトレンジ攻撃。空母や長射程砲を持つ戦艦はこの技法の習得のために血道を上げると言っても間違いではない。敵艦のはるか射程外から精確無比、必殺の一撃で旗艦を仕留め艦隊を総崩れにさせる。遅れて聞こえてくる砲声や反転する艦載機は残された艦の恐慌を誘発する。

 やはりまともに絞られずに矢は放たれた。落とされたのと変わらない。

 艦載機は母艦である艦娘が発艦後も操作できる。ならなぜ矢を引き絞り放つよう訓練されるのか。簡単なことで、そうした方がまっすぐ、あとから調整しなくても狙った場所へ艦載機を到達させられるからだ。敵の攻撃の警戒、艦載機の操作、第二次攻撃隊の計画。全て並行してやるのは当然に容易ではない。そういう芸当ができるのは彼が知る中で鳳翔と一航戦の二人くらいだ。そういう難しいことを瑞鶴はできるらしい。あるいは敵の間合いではないからと油断しているだけか。

 瑞鶴の航空隊の天山は彼が知るものより明るい緑の機体だった。敵に航空戦力はないから艦戦がなくても制空権確保だ。

 十二機の天山は二手に分かれて左右から輪形陣を挟むようにして魚雷を落とした。これまでの瑞鶴の振る舞いを見てきたなら思いもよらないほど、オーソドックスな雷撃だった。

 左右から撃たれればどうしたって避けることは難しい。十二条の雷跡はチ級を囲む五隻のイ級に狙いあやまたず命中し、水柱をあげた。

 取り巻きを失ったチ級は急停止、左腕と一体化した単装砲を正面に向けて乱射した。未だ瑞鶴は砲の射程には入っていないために放たれた徹甲弾は失速して海に落ちるか、到達しても瑞鶴の装甲甲板にぶつかって弾頭がひしゃげるだけだった。

 砲撃が収まってからの瑞鶴の動きは早かった。弓を海面に突き立てて立ち上がり、弓はそのままにチ級の方へ走り出した。

 やめろ、と叫んだが遅かった。砲撃火力こそ敵は貧弱だが、魚雷という接近戦での切り札が雷巡にはある。それも駆逐や軽巡よりひときわ強力なものだ。直撃すれば大型艦でもそれなりのダメージを負うことになる。通常の空母なら飛行甲板が使い物にならなくなるのは覚悟しなければいけない。

 そういう敵を前になぜ接近しているのか。その答えは瑞鶴が腰に吊っていた拳銃型の12.7㎝連装高角砲が示していた。彼女は高角砲を抜くと手元を見ずに初弾を装填した。

 もうすぐ魚雷の射程に入る。

 また瑞鶴の後ろ姿が彼女に重なる。魚雷で沈んだ彼女。小銃を構えて円い視界に瑞鶴の背中を納める。だが一秒も構えていられなかった。突然、振り向きそうな気がした。当然そんなことはない。敵は前にいる。

 チ級が下半身の艤装から一本の魚雷を放ったのが見えた。瑞鶴は止まらず、海面に向けて連装砲を連射した。突然あがる水柱。むちゃくちゃだ。砲撃で魚雷を処理するなんて駆逐艦しかやらない。

 二人の距離は手を伸ばせば届くほどまで詰まった。先手を試みたのはチ級。単装砲を無造作に突き出した。しかし瑞鶴はそれを掌底で簡単に受け落とした。すかさず連装砲のグリップの底で露出した左目を打つ。顔をのけぞらせたチ級の首に砲門を押し当て、二発撃った。

 砲声は九ミリ口径の拳銃にそっくりで、間延びしていた。先ほどまで砲を、魚雷を放っていた深海棲艦は両腕をだらりと垂らし、海面に倒れてそのまま沈んでいった。

 戦闘はあっけなく終わった。

 

「敵旗艦、轟沈」

 

 戦闘終了の宣言だった。最初から騒がしいことは起こっていなかったかのように海は静かで、今しがたまで暴れていたはずの深海棲艦の姿はもうどこにもない。さっき見たものは全てうそだったのではと感じる。初めての感覚ではない。

 すぐ隣で機関銃を構えていた兵曹のため息で我に返った。後ろからは操舵手の視線を感じる。もう終わりだ。引き返そう。

 

「提督さん、どうだった?」瑞鶴は得意げな顔で哨戒艇に飛び乗った。

 

 操舵手に泊地へ戻るよう伝えると瑞鶴に詰め寄った。しかし言葉は出てこない。何について怒ればいいのかわからなかった。空母らしくない戦い方をしたから? ダメージを顧みず挑んだから? 一体何に腹を立てている?

 

「お見事だったよ。さすがは装甲空母」

 

「でしょ? わたしには幸運の女神が……」

 

「あんな戦いは二度と見たくはない」

 

 瑞鶴は目を細めてまた敵意を露にした。「そうですか。また沈まれるのがこわい?」

 

 胸の中で何かが弾けた気がした。ヒップホルスターからベレッタを引き抜き、銃口を瑞鶴の額に軽く当てる。兵曹が息をのんだのがわかった。もう抑えられない。自分の行いが生んだ結果であることはわかる。それでも抜かずにはいられなかった。こんなことを言われたら本当に殺してしまいたい。

 安全装置を押し上げ、引き金にテンションを加えていく。このまま引き切れば撃鉄は落ちる。瑞鶴は目を剥いてこちらから視線をそらさなかった。しかし殺されるというほどの危機感は認められない。本当は引き切らないとでも思っているのか、或いは銃に気づいているのか。

 撃鉄が落ちる。撃針は空を叩いただけだった。

 

「弾、いつも込めてないんですか?」

 

 答えないまま拳銃を収めた。エキストラクターが出張ってないのにも気づいていただろう。瑞鶴だったらなんとなく気づいていてもおかしくない。

 操舵手が到着した旨を告げた。兵曹が銃座から離れる。置き去りにされた陸戦隊も、瑞鶴も、誰もが彼に冷たい視線を向けていた。もうこんな目で見られるのはうんざりだった。

 

「敵艦隊は全滅した。持ち場に戻れ。何してるんだ早く!」

 

 哨戒艇を降りて言えたことはそれだけだった。

 

 



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5.停滞

 拳銃を引き抜き、机の上に放った。瑞鶴に突きつけた拳銃。感情に任せて馬鹿なことをした。彼女もすっかり失望しているだろう。本来なら自分の喉元に押し付けて撃つものだ。

 あの日以来、こうしてただぼんやりとしている時間ができた。撃てもしない銃を見つめてもう戻らない過去をとりとめもなく思い返す時間が。五分もすれば我に帰る時もあるし、何もなければ半日もそうしていることもあった。何もする気が起きない。どうすればあの日をなかったことにできるかという緩やかな焦燥を覚える。結局、どうにもならない。酒で凌ごうとしてもだめだ。いくら飲んでもあの日のことだけが忘れられない。忘れるために飲んだはずなのに気がつけばそれだけを思い出して余計に苦痛な思いをした。

 夕陽もそろそろ沈もうかと言う頃に執務室の扉を叩く者があった。返事を待たずにドアノブが回る音。こういう乱暴な開け方をするのは一人くらいしか思いつかない。

 嫌っていた戦闘服を着たままの瑞鶴はベレッタを見て何か難しい顔をした。

 

「死ぬ感じですか?」

 

「それほどの勇気があったらどれだけ良かったか」

 

 机の銃から目を離さずに瑞鶴はカウチに座った。どうやらなにか用があって来たわけではないらしい。そういえば彼女の部屋をまだ与えていなかった。

 

「着任早々に悪いことをした。申し訳なかったな」

 

「長い一日でした。本当にやばいのの所に着いちゃったのかと思いましたよ」

 

「同じ過ちは繰り返さない。君も協力してくれるならね」

 

「増援が来るまでくすぶってろってことですよね」

 

「言葉に気をつけろ。いやならそれで構わないから、な」

 

 自分は気をつけていたか? そんなことなかった。遠回しな嫌味も言った。直接否定することもあった。全部気分次第で。行いが巡り巡って自分のところに戻ってきたのだろうか。

 執務机の一番下の引き出しを開き、くびれた瓶を一本取る。まだ開けていないからずしりと重い。机に置くと鈍い音がした。静けさの中でその音は響いたような気がした。

 

「どうかな? 歓迎会にしては寂しすぎるか」

 

 瑞鶴は目を細めてウイスキーの瓶に視線を投げた。そしてまた彼の方へ戻す。蔑んでいる目つき。どれくらいの人間からあんな風に見られた? 呆れられるのも馬鹿にされるのももう慣れてしまった。

 かぶせてあった二つのグラスとフタを取り、濃い琥珀色の液体を指二本分の高さまでグラスに注ぐ。ほんの少し、下の奥に垂らすように飲む。液体は口蓋垂を焼き、食道で熱い風に変わり胃に落ちていった。

 

「君が俺をどう思おうと構わないから、余計なことはしないでくれ」

 

「わかりませんね」瑞鶴は肩をすくめて立ち上がり、執務机の前まで来た。「私も瑞鳳みたいに扱ったらいいじゃないですか」

 

 胸の奥がかっと熱くなった。酒のせいではない。意識せずとも視線はまだ机上のベレッタに走った。

 

「言葉に気をつけろ。今度は弾が入ってるかもしれない」

 

「撃ちたいならいいですよ」

 

 ぶしつけで、挑発的。やはりひどいやつが来たものだ。

 

「ここでなにが起きたかは知ってますけど、提督さんがそれについてどう感じてるのかは知りませんから。それについて私に当たらないでください」

 

「私はもうあんな経験はしたくない。自分のためとは思わなくてもいいから、私のために頼むよ」

 

「それでもあいつらは倒さなきゃいけません。私がね」

 

「功を焦ってるのか?」

 

 瑞鶴はなにか言いたそうに口を開きかけたが、不満そうな顔のまま言葉を呑み込んだ。

 ふと、昔の自分のことを思い出した。この地位に就いて間もない頃の自分はこんな感じだったのかもしれない。なにか成果を上げようとして機会を常に伺っていた。だが自分は、そのくせ失敗には臆病で周りに当たっていた。そのせいでこんな窓際みたいな根拠地に配置された。ここまで落ちるとは思っていなかった。おかげでもっと自棄になった。瑞鳳はそのせいであんなことになった。もっと早くに分をわきまえていれば、彼女とここで上手くやれて、これ以上悪くなるのも止められたかもしれない。もう何もかも遅い。

 グラスの中身をもう一口、今度は半分近く飲む。頭の奥が熱を持った。よくない兆候だ。

 空いたグラスを瑞鶴に差し出すと今度は大人しく受け取った。勝手にグラスの半分まで注ぎ、ほんの少し口に含んだ。小さく息をつき、執務机に腰掛けた。彼女の髪から控えめに放たれたシャボンの匂いのせいで文句を言うつもりが失せた。

 

「別に焦ってるわけじゃありません。そうじゃなくて……」

 

「こんなところで暴れたって誰にも見せつけられやしない」

 

 瑞鶴は顔をしかめてグラスの中身を飲み干した。

 

「今が一番気楽だよ。覚えておくといい」

 

「ぬるま湯に浸かりたいんじゃなくて……」

 

「今はそうでなくても、やがてそうなる」

 

「落ちてるんですね。そうはなりたくない」

 

 誹りも若さから来る馬鹿らしい勘違いのせいで言っているものだと思うもと感じることもない。

 グラスを空にしてもう一杯注ぐ。適当な頃合いで止めるべきだ。これ以上新任に惨めな姿を見せるのも防がなければいけない。早く瑞鶴に部屋を与えて追い出そう。

 

「弾、どうして入れてないんですか?」

 

 ボトルを掴むために体を寄せた瑞鶴の視線が拳銃に落ちる。様子からするにまだ飲んでいくつもりらしかった。

 

「昼にも見た通り、間違いが起きないようにな」

 

「部下を撃ち殺したことがあるの?」

 

 スコープ越しにぶつかった瑞鳳の視線。大きく見開かれた彼女の目。小さく口が動くのが見えた。「撃たないで」

 瑞鳳は彼が自分を狙って撃とうとしていると本当に思っていたのか。そんなはずはない、考えすぎだと言い聞かせてきたが絶対にそうだとは自分の中でも言い切れなかった。ベッドに力なく横たわり、熱と麻酔のせいで据わった目で彼を見ながら「撃たないでください」と繰り返していた。その二十四時間前には彼女を絶対に見捨てないと誓ったばかりだ。

 あの日以来、装填した銃を持つのが怖くなった。なにか間違いが起こりそうな気が拭えない。弾を込めて、照準を合わせるたびにあの瞬間を思い出してしまう。もう少しすれば銃に触れる機会すらなくなるから些細な問題だろう。本来なら彼は前線まで行って銃を撃つ立場にはない。

 

「そうじゃない。確かに今は込めてない、けど必要があれば撃つ。絶対にな」

 

 瑞鶴はこちらに顔を寄せて、目を細めた。卑しいものに、それでも幾ばくかの価値が残っているかどうか踏むような目。人を一体なんだと思ってるのか? きっと酔っているのだ。そう思うことにした。

 一息に残りを飲み干して、机の引き出しから三、四本まとめられた鍵束を掴み出す。

 

「部屋を与えてなかったな。今日だけは下の当直室を使え。荷物入れたところ、覚えてるよな」

 

 言いながらふと、あの部屋は片付いていたか考えた。あの日まで当直室は瑞鳳が使っていた。もちろん営内にも部屋はあったが滅多に戻らず、何かと物を持ち込んでいた。本人は即応性の向上と真面目な顔で言っていたが、今思えば冗談のつもりだったのか。

 少しは彼女を理解しようという決心をして初めてあそこを訪ねたのが、遠い昔のことのようだ。彼女は特に驚いたようでもいやがるようでもなく彼を招き入れた。ベッドは几帳面に整えられ、机の上には読みかけの文庫本が一冊置いてあるだけだった。

 きっとあそこはそれきり変わっていないだろう。最初から片付ける必要はなかった。

 

「提督さんがどう言おうと、瑞鳳を沈めたあいつらは応援が来る前に必ず倒します」

 

「抗命は許さない。将校が持つ拳銃の意味を今一度思い出しておけ」

 

 互いに険悪な視線を交わしたまま、瑞鶴は鍵束を受け取った。足取りがいくらか不安定に見えた。何かが不可解だ。瑞鶴の言葉の何かが引っかかった。何かを勘違いしているような気がする。それが何なのかは彼女が部屋を出てからもわからなかった。

 



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6.夢幻

 また一人になった、と感じた。最初から一人だったのだからまた、と言うのもおかしいか。ここに来てからはずっと一人であることを望んできた。彼に親切を働こうとする者、親しくなろうとする者が全て内心では彼を蔑み、あまりに惨めな男に同情して優しくしているように思えた。自分勝手で、どうしようもない子供のような思い込み。人が離れていくのも当たり前だった。そんな中にあって瑞鳳はまさに最後の光だった。彼女を理解させるために彼を受け止めていたと気づくことができたが、今となってはそれも遅すぎた。彼の最後の行いで瑞鳳は結局、彼は何もわかっていなかったと思っただろう。信じること、裏切らないこと。意図せず彼女の望みを絶ってしまった。あんな形で。

 机のすみに重ねられた五、六部の冊子を手に取る。監視小隊が収集した情報を元に作成される日報だ。

 今の虚しさと焦燥感を敵への闘志に変える気力はなかった。現状では反撃の兆しを見せればこちらが逆に叩き潰されるだろう。そもそもそんな余力はない。沖ノ鳥島の主力艦隊がもう一度大規模な攻勢を仕掛けない理由は二つあるといわれている。

 一つはあれらがこちらの戦力を壊滅させたと思っていること。もしかすると奴らの関心は本州へ向き始めているのかもしれない。いずれにしてもこちらへの興味は薄れてきている。

 二つ目は瑞鳳が艦隊にそれなりの打撃を与えられたこと。航空戦で核となる正規空母と少なくない水雷戦力を失ったまま再建できていない。そのせいで他方面への侵攻を渋っている。

瑞鶴が一個水雷戦隊を倒したことで敵の目は再びこちらに向くか? ありえないことではないが、あちらの関心がそれつつあるのを見るに、前回ほど大規模なものはない。おそらく、あの艦隊は戦力回復も終わらないまま北方から戻った連合艦隊に蹂躙される。この泊地が出る幕はもうない。あとはこれ以上損害を大きくしないように努めるだけだ。その考えが彼を一層無気力にさせた。

 冊子に張られた回覧表に既読を示すチェックを入れるとソファに体を横たえた。時刻は一九〇〇。今なら寝つける。半端な時間に目を覚ますのは必至だが、構わなかった。瞼を閉じると思っていたよりもさらにたやすく眠りの中へ落ちた。

 

 

 

 

 

 彼は一人で埠頭を歩いていた。これ以上ないくらい晴れていて、展開しているはずの陸戦隊は撤収していた。なにもかも元通りだった。

 彼にとって不幸ではあるが、この光景は夢だとわかっていた。同時に、今日は悪夢をみていないと悟った。悪夢を見ているときは夢だなんて気づくことは滅多にないが、彼を悩ませることのないどうでもいい光景が映し出されるときに限ってはそれが夢だと気づいてしまう。なんて不都合なものだろう。こうなっては少しでも長く眠っていてほしいと願うだけだ。

 係留している哨戒艇の船尾に二つの人影を認めた。二人ともべたりと尻をつけて脚を伸ばし、座り込んでいるようだ。誰かはすぐにわかったが彼は近づいた。

 

「提督、もう艦載機は残ってないんですか?」瑞鳳の声はかすれ、ただ一言発するだけでも消耗するようだった。鉢巻の上からでも額が汗ばんでいるのがわかり、両目は潤んでいる。服は所々で小さく破け、胸当ての中心には蜘蛛の巣状の亀裂が入っている。「これの弾ももうありません」

 

拳銃を模した形の噴進砲が瑞鳳の手から滑り落ちた。

瑞鳳に後ろから抱きかかえられた瑞鶴はもっと深刻だった。額の切り傷から流れる血のせいで左目を閉ざし、力弱く開いた右目は虚空を見つめて動かなかった。死んでいるかもしれないとすら思った。

 

 ――どうしてこんなことに?

 

 彼はもうこれが夢だということを忘れていた。現実と変わらず、受け入れがたい事実だと認識していた。

 

「私たち囮役だったんですね」

 

 瑞鳳は目で彼に縋る。細やかな約束を迫ったあの夜と同じ目。

 しかし彼は何もできなかった。なぜこんなことになってしまったのかもわからず、今彼女たちがどんな状況かもわからない。自分がどうするべきかも思いつかず、途方にくれるしかない。焦りも、恐怖もない。ただ虚しかった。あんなことになってしまったかわいそうな瑞鳳がいるからか?

 

「瑞鶴も私も助かりません」

 

 瑞鶴の体で隠れていた瑞鳳の右脚は膝から下がなかった。驚きはしなかった。それが当然なのだとぼんやり思った。

 言葉がなくても二人の望みは分かった。わかっていた。それに気づいた時には彼の右手に九ミリベレッタが握られていた。彼女たちの望みはこれ。耐え難い苦痛と屈辱とに犯されてゆるやかに死んでいくよりは早く解放してやった方がいい。死ねば終わりの見えない苦痛からも戦いからも逃れられる。死は、何にも勝る救済だ。自らを救う勇気は中々ないが。

 瑞鳳の額に銃口を押し当てる。きっとこれでいいのだろう。彼には正解がわからなかったからそうするより他になかった。今に限っては自責することもない。

 決定的な死を控えた瑞鳳は早くも目を閉じていた。眠っているようにも思えた。自分を撃つことはあんなにためらうのに他人を撃つのはこんなに簡単だったか? 

引き金は鳥の羽のように軽く引き切れた。ダブルアクションでこんなに軽いはずがない。待ち構えていた銃声も反動もやってこない。気づけば目の前から二人の姿は消えていた。それでも彼は何度も引き金を引いた。遊底を何往復もさせ、ついには自分の喉に銃口を当てた。弾は出ない。なぜ?

 

「提督さん、どしたの?」

 

 背後から声を掛けられて振り向く。瑞鶴はぽかんとして立っていた。額に傷などなく流れる血の跡もない。あちこちが損なわれた艤装ではなくアイロンの利いた制服を着ている。

 

「もしかして、弾が出ないって焦ってた?」

 

 彼は何も答えない。

 

「そりゃあ出ないですよね。だって弾、込めてないんだから」

 

 瑞鶴が右手を掲げた。手のひらには十三発の九ミリ弾が入った弾倉。なぜ彼女が不思議には思わなかった。これは夢なのだから。だから先の展開もなんとなく読めた。

 

「普段抜いてると肝心な時に撃てませんね。役立たず」

 

「それ、返してくれるか?」

 

「ダメ。返したら、誰を撃つの?」

 

 自分に決まっている。今の彼にとって拳銃は介錯するものでも、将校の権威を象徴するものでもない。ただ自分を逃がすための手段でしかない。

 

「彼女から目をそらして自分だけ逃げるの? そんなの、絶対に許さない」

 

 最後の一言は、瑞鳳が言ったような気がした。彼も聞いたことのない冷たい声で。

 

 

 

 

 

 目が開く。目をぐるぐる回して、今自分がどこにいるのか認識しようとした。先ほどまでが夢であると確信できるように。執務机の後ろの窓からは陽が射している。もう朝だ。ひどい夢を見た。悪夢には変わりないが、普段よりは記憶にも残っていない。取るに足らないものだ。

 

 横になったまま、応接机を挟んで向かいのソファに顔だけ向ける。ソーサーを持ってカップの中をスプーンでかき回す瑞鶴と目があった。

 

「おはようございます」

 

 緊張感のない声で瑞鶴は言った。



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7.兆候

「おはよ。眠れたか?」

 

「お陰さまで。私、眠れないなんてことあんまりないの」

 

 

 瑞鶴はカップの中身をすすって顔をしかめた。彼の前にも同じカップが置かれている。まだ湯気が昇っている。ソーサーにはクリームと砂糖のスティック。

 重い体を起こして昨日のことを思い出した。

 

「淹れてくれたのか? 来たばっかりなんだから気を使わなくたっていいのに」

 

「いいんです。一度淹れたら一人じゃ飲み切れないんだから」

 

 昨日だけで瑞鶴は彼を完全に嫌悪するようになったとばかり思っていたが、態度にはいくらか親しみがあった。ただの気まぐれに過ぎないかもしれない。

 カップにクリームパウダーを入れながら腕時計を覗いた。〇七〇〇。驚いた。思わず吹き出す。十二時間も眠っていたとは。夢の記憶は早くも薄れ、思い返す内容が本当に正しいのかも怪しくなる。悪夢だったのはたしかだ。夢の中で過ごした時間はほんの数分だったように感じる。

 時間の割にはよく寝たという感覚はない。体は重く頭の中はすっきりしない。酒のせいで眠りは浅かったのか。夜中、気づかない内に何度か目を覚ましたのだろう。

 まだ味も分からないほど熱いコーヒーを飲んでも思考はまとまらない。瑞鶴に何か言おうと思ったが何を言ったらいいかわからない。わからないまま、話し始めてしまった。

 

「昨日は本当に悪かった。来て早々なのにな。だから……」

 

 ——俺は何言ってるんだ?

 

 馬鹿らしいとは思っていたが彼が言葉を切っても瑞鶴は続きを待っているような顔をしていた。まだ互いに察して話をそのまま終わらせるほどの仲ではないのだ。なんでもないよ、と言えばこの話をなかったことにできるが、それは正しくないような気がした。大体こういう場面では正しいような気がした選択が裏目に出る。出来ることと言えばあとは言葉に気を使うくらいだろうが、それすらする気力はない。昨日の繰り返しも覚悟する。

 

「昨日のことは忘れてやり直そう。全部今日からだ」

 

 聞いたことがある文句だ。少尉に任官して間もないころ、別れたがっていた女に同じようなことを言った。よくとっさに出たものだ。

 瑞鶴は眉も動かさずに彼を見ていた。視線は冷たい。さぞ気持ち悪がっているだろう。彼の印象の上方修正はもう難しいが言い争うよりはマシだ。

 

「朝礼の前までにここにいてくれればいい。それまでは隣の部屋で自由にしててくれ」

 

「大丈夫ですか? なんか痛々しいけど」

 

「ありがとう。最初から痛々しかっただろ?」

 

 ゆっくりと立ち上がったが、身体中の関節が小さな音をたてた。両脚に小さなしびれ。ソファなんかで寝るからだ。しかしこのささやかな苦痛にも慣れた。今さらベッドの上で寝てもしばらくは落ち着かない。

 執務室の窓から見る埠頭の光景は一見すると昨日と何も変わらない。程よい陽が射し、風もない。危機がすぐ近くにあるようには見えない。もしかすると、危機などもう去ったのかもしれない。監視小隊の指揮所に行ってモニターを覗けば、昨日まであった赤く大きな点は消えていて小隊長がただ一言「穏やかな海です」と報告する。気楽な妄想にすぎない。妄想だから気楽か。

 静かですね、と隣に立った瑞鶴がつぶやいた。

 

「我々の見解を一つ示すと」ようやく気分がまともになってきたと彼は感じた。「沖ノ鳥島の敵艦隊はすでにここを制圧したと考えている。一ヶ月も反攻どころか動き一つないんだから。重MATや機関銃を脅威と感じるほど難しいやつらでもない。すでにここではない別方向に関心を向けている」

 

「それ、確実なの?」

 

「羅針盤を見ればわかる。潜水艦から成る斥候が西方に出された形跡もある」

 

「索敵機出せるけど。本土には伝えなくていいの?」

 

「横須賀はとっくに知ってるよ。もっと迫れば何とかできるだろうけど、北方から主力が戻ってくるまでは様子見だ。ここまで来て連合艦隊と一戦交えるほどの戦力はない」

 

「それでも敵の動向はもっと詳しく……」

 

「せっかく目がそれてるんだ、偵察機なんて出して下手に刺激すべきじゃない」

 

 ——ここで出来ることはもうない。

 

 直面すれば虚しくなるが事実だった。瑞鳳の仇を討つのも結局は本土の連合艦隊に任せるしかない。下手な感情に任せて動けば、今度こそ泊地は壊滅する。

 瑞鳳がこの様を聞けばどんな顔をする? きっと何とも思わない。彼女にとっては深海棲艦よりも自分を裏切り、銃口を向けた彼の方がよほど憎いはずだ。いつかは伝えるべきことを伝えなければいけない。本当にできるのか?

 

 窓際に立ったまま思考が浮遊していくのを感じた直後、執務机に放った無線機のマイクから擦過音が流れた。

 

「羅針盤に感あり。敵航空機、接近」

 

 瑞鶴が扉まで駆け出していくのを視界の端で認めた。慌てて制止する。

 

「珍しいことじゃないって。やり過ごすのが正しい。何もしなければ、何も仕掛けてこない。たぶんな」

 

 瑞鶴の視線にまた反抗の色が宿った。

 珍しいことじゃない。ここ一ヶ月の間は本当に。敵航空機が何もせずに引き返していったのも確かだ。普段と何も変わらない。本当か? 何か、いつもとは違うことが起きるような気がした。いつも来るのは水上機ではなくて空母に載せる型の偵察機だった。昨日瑞鶴が一個水雷戦隊を倒したことが今になって引っかかり始めた。

 

「陸戦、航空機は視認できるか?」

 

 マイクに吹き込むと間髪入れずにネガティヴ、とだけ返ってくる。

 

「もし水上機だったら……」

 

「潜水戦隊の可能性もある、ね?」

 

 瑞鶴の声は少し上擦っていた。興奮しているのか。何にせよ、二人の予想が一致しているのは確かだった。

 

「慌てるな。潜水艦だぞ」

 

「潜対地兵装を載せてたらまずいけど」

 

「そんなのあったらもう使ってるって。潜水艦の接近も何度もあったことだから。焦って艤装取りに行ったりするなよ」

 

 それでも瑞鶴は扉の前に陣取ったまま動かなかった。

 もし本当に潜対地兵装を積んだ潜水艦が近づいているのなら、それは危険な事態ではある。瑞鶴は対潜戦の訓練を受けていないと言っていた。見よう見まねで会得できるほど対潜は単純な技術ではない。

 瞬間、重機関銃の地鳴りに似た発射音が響いてきた。無線が錯綜した。

 

「陸戦隊、報告しろ。何が見えた」

 

「報告します。敵航空機を視認しました。六機の水上機が接近。対空射撃を……」

 

 瑞鶴と視線がぶつかる。小さく首を振って止める。何も示さなければ今すぐにでも出て行ってしまうだろう。

 まだだ。これだけでは何もわからない。

 

「直掩機だけでも飛ばさないと」

 

「いいか。聞けよ」彼は無線機をベストのポーチに収めた。「今から艤装と武器を受領して埠頭に出ろ。私が指示するまでは何もするな。発砲も、当然艤装の展開もだ」

 

 瑞鶴は頷かなかった。同意と見ていいとは思えない。そしてたぶん、小銃は受け取らないだろう。

 泊地にまた危険を呼びかねない選択だった。あとは瑞鶴がそこまで突っ走る人間でないことと、これがいつもの威嚇にすぎないことを願うしかない。

 

「先に出ろ。私も後から行く。先走るなよ」

 

 こちらに顔を向けるでもなく瑞鶴は早足に出て行った。どんな顔をしていたかは考えたくなかった。

 

 

 

 

 



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8.銃声

 瑞鶴が出ていくのと同時に無線機は沈黙した。銃声も止んだ。もう帰ったのか? だとしても全くおかしくはない。今扉を開けて大声で呼べば瑞鶴を戻せる。一、二秒間、そうすべきか悩んだ。長い苦慮だった。結局呼び止めはせずに作業帽を掴んで自身も走り出た。

 

 

 彼が外に出た時も銃声はなかった。しかし機関銃手は銃口と共に空をにらみ、敵が帰ったようには見えなかった。配置が解かれた気配はない。

 瑞鶴は弓袋を肩にかけて銃口が向いているのと同じ方向を見ていた。

 

「もう引き返したか?」

 

 双眼鏡を覗いていた最上級の分隊下士官は彼の方を見もせずに首を振った。

 

「泊地をぐるっと囲むように何周かしています。こんな飛び方は今まであまりなかった」瑞鶴の方を意味ありげにちらりと見て、ようやく彼の方へ向いた。「何か探しにきたようにも……」

 

 かもしれないな、と相槌をうつ。一個水雷戦隊を沈められたことに敵は予想よりも動揺しているのか。やはりこれ以上刺激してはいけない。瑞鶴の手綱を放さないでいられるかで今後の展開が変わる。

 こんなことになるだなんて二十四時間前には考えもしなかった。新たな艦が来れば少しは安心できると思い込んでいた。今では瑞鶴が暴走しないかと気を揉まなければいけない。何をしに来た増援なのか分からなくなっていた。

 キーン、という甲高い音と共に獣の牙にそっくりな六機の水偵が真上を通り過ぎていった。ダウンウォッシュを感じるほど低く飛んでいる。機体上部の発光体は青い。レーダーの役割を果たすと考えられているあの発光体で母艦を判別することができた。橙色なら空母から放たれた艦載機、青なら巡洋艦や潜水艦が装備する偵察機。機体の腹には細長いチェーンガンと二つの爆弾が懸架されている。

 自分の目で見えたものを本当だと理解したくなかった。サイトロンの双眼鏡を覗いて遠ざかっていく偵察機を捉える。六機が全て二つずつ爆弾を吊っている。千ポンド爆弾。対艦娘で考えるならそれほどの脅威にはならない。大型艦なら尚のことだ。しかし泊地の施設に落ちたら話は別だ。たった十二発の爆弾が何か大事な設備への致命傷になり得る。

 

「提督さん、あれ見えてる?」

 

 瑞鶴が早足に歩み寄ってきた。偵察機の武装のことを言っているのだろう。心なしか声が上擦っていた。危機を感じているのだろうか。

 隣に立っていた分隊下士官はその場から静かに遠ざかった。下士卒としての弁えではなく、単に昨日のことを聞いていたから離れただけだろう。誰だってあんな場面は近くで見たくない。

 

「キャリバー五〇じゃ落とせるわけないよ」

 

 機関銃手にも聞こえる声量で言ったのがやはり気に障った。言うべきことはそんな事ではないだろう。

 

「偵察機だ。全部無傷で返す」

 

「何言ってるの? 爆撃が始まったらどうするつもり?」

 

 瑞鶴は顔を近づけてすぐ耳元で声を荒げた。彼は無言で展開する陸戦隊を顎で指した。

 

「銃でも倒せるさ」

 

 彼の言い分に瑞鶴は言葉を失った。目を見開き、口を小さく開けたまま彼を見ていた。やはり正気でないと思い直しているに違いない。今さら誰にどう思われようとも傷つかない。時期にここを去るのだから。

 再び編隊が近づいてきた。重機関銃の点射が始まる。敵の偵察機は大型の海鳥ほどの大きさしかない。海鳥に十二・七ミリ弾の一撃があれば、文字通り消し飛ぶ。しかしあれには全く効果が認められない。深海製の装甲の前では秒速八九〇メートル近い速度で飛来する徹甲弾すら潰れ落ちてしまう。ただある一箇所を除けばどこに当たろうと同じだ。当たればどの種の深海棲艦であろうと深手を負う一点がある。しかし当てるにはそれなりの運が必要だ。どれほどの困難なのか知っているから、瑞鶴はあんな顔をしているのだろう。

 確かにこれまでよりも危機的だった。しかしまだ艤装を出すべき段階ではない。まだ様子を見ても充分間に合う。現状、艤装は最後の手段だ。使い所を見極める必要がある。

 

「羅針盤は偵察機隊の後方になにか捉えたか?」

 

 擦過音と共にネガティヴ、と短い返事だけがマイク越しに来た。母艦は一緒に進出してはいないのか、それとも潜りっぱなしで近づいているのか。

 

「潜水艦の有無は調べられるか?」

 

「艦攻が飛ばせるなら、きっと。制空権も取らないと」

 

 いっそ、偵察機が爆撃を始めれば決心もつく。しかし編隊は帰るようでもなく不気味に周囲をぐるぐる回っているだけだ。こちらが痺れを切らして艦娘を投入するのを待っているのかもしれない。狡猾な敵だ。それくらいやっていても驚きはしない。

 彼の頭に工廠の奥で眠ったままになっている零式水中聴音気の存在が浮かびあがった。大型艦に搭載可能な唯一の水中聴音気。爆雷は素手で投擲させれば牽制くらいにはなるかもしれない。しかしあれこそ使いこなすには熟練が必要だ。対潜戦闘の訓練すら受けていない瑞鶴がまともに扱えるとは思えない。きっと潜水艦の有無すら判別できない。

 

「瑞鶴、私の言う通りにやってくれ。頼むぞ。艤装を使う。だけど命令するまでは絶対に撃つな。いかなる兵装もだ。約束してくれ」

 

 瑞鶴がこれに同意しないなら、敵の好きにさせた方がまだ良いとすら思った。しかし瑞鶴は頷いた。自分が判断を誤ればどんな悲劇が待っているのか分かっているらしい。

 

「艤装を展開したらその場に留まって第三スロットの艦攻を発艦させる。水面すれすれの高さを保って千メートル先まで走査して潜水艦の接近を調べろ。終了したらすぐに艤装を格納して上がれ。やれそうか?」

 

 小さく頷き、海の方へ顔を向ける。

 対潜戦の経験は全くないと言っていた。きっとノウハウもないだろう。運が良ければ、接近しているのが捉えられるかもしれない。その程度だと彼は思った。潜対地兵器を使うにしても敵は浮上しなければならない。そこから艤装を再展開させれば痛み分けか、瑞鶴の立ち回り次第では沈めることもできそうだ。分は悪くない。何度もそう言い聞かせた。

 

「艤装の展開を許可する。行け」

 

 言い終わるより前に弓袋から和弓を抜き、駆け出した。一瞬、青く眩い閃光。光が消えると瑞鶴はすでに艤装を装着して海面に立っていた。

 矢をつがえる。やはり全く引き絞らずに放った。姿を表す十二機の艦攻。胴に懸架された魚雷が海面に接するほど低く飛んでいった。

 静寂。瑞鶴はうつむき、目を閉じていた。もし艦載機を発見すれば、母艦の艦娘は「手ごたえ」を感じ取れると瑞鳳が話したことがあった。他に言い表わせる言葉はなく、「手ごたえ」と言うより他ない感覚が伝わるらしい。その感覚が潜水艦だと判別できるようになるにはやはり経験が必要だとも言っていた。最初の内は些細な違和感としか思わない。瑞鶴にそんなことができるとは思えなかった。

 終わる頃合いのはずだった。反転して来た艦攻は再び一本の矢になり瑞鶴の手に収まる。目を開き、顔をあげた。しかし瑞鶴の目線は彼の方へ向くことなく、正面に釘付けになった。

 その場にいる誰もが同じ方向を見ていた。言葉を発する者はいない。こんな場面で浮かぶ言葉などないだろう。誰もが理解を拒み、驚愕した。時間が止まったような気がした。信じたくない光景。

 一隻の潜水カ級が浮上していた。最初からそこにいたかのように、誰にも気づかれることなく浮上していた。左腕で抱えた魚雷はぴたりと瑞鶴を照準している。長い髪の隙間から覗く左目は橙色。フラッグシップ・クラスだろう。カ級と言えど装備する魚雷は強力だ。装甲空母でも当たりどころが悪ければただではすまない。

 不覚だった。偵察機に気を取られてこんな所にまで接近を許していたなんて。

 瑞鶴がゆっくりとこちらに顔を向けた。声は出さずに唇だけを小さく動かしているが、何を言っているのかはわからない。大きな瞳が濡れているのが見えた。

 下がれ、と叫ぶ。しかし瑞鶴は首を小さく振っただけで動かない。

 カ級は瑞鶴と同直線上にいるから撃つにも難しい。背負った機関部の銃塔が音もなく、ゆっくり動きだした。

 分隊下士官が音を立てないようにゆっくりと近づいてきた。

 

「危険です。牽制が必要かと」

 

「許可するまで絶対に、一発たりとも撃つな」

 

 分隊下士官はため息とともに、きつく目を閉じた。すっかり諦めたような表情。彼のせいで自分たちが死ぬということを受け入れてしまったのかもしれない。

 不意に、銃塔の機銃が空に向かって火を吹いた。一秒に満たない連射。誰も撃ち返さなかった。敵に当てるにはまず瑞鶴の背を撃ち抜く必要がある。

 瑞鶴は弱々しく二、三歩後ずさった。

 胸のホルスターから拳銃を抜き出し、空の弾倉を分隊下士官に差し出した。彼の意図を悟った下士官が自身の拳銃に収まっていた弾倉を彼の前にかざす。こちらには十三発の九ミリ弾が込められている。しかし弾倉に手は伸びなかった。

 

 ││これで何をしようとしてる?

 

 スコープ越しに視線がぶつかった、あの一瞬が蘇る。彼女の翠緑の瞳が瑞鶴の涙を浮かべた目と重なる。同じ間違いを繰り返そうとしているのか。

 

「撃ち合いじゃないからな。一発でいい」

 

 空の弾倉を銃に戻し、遊底を引き切って後退位置で留める。今度は空いた掌を差し出す。下士官が遊底を引いて、薬室にあった一発を排出させる。エキストラクターによって弾き出された未使用の九ミリ弾が彼の掌に落ちた。握りしめる。

 きっと下士官は彼がこの一発で自らを決すると思っただろう。彼が死んだら次の指揮官がどうなるのか彼にも分からなかったが、今よりはまともになると期待したはずだ。しかし期待通りに事を運ぶつもはない。彼の期待通りになるかもわからない。

 カ級の銃塔が瑞鶴の胸をポイントした。重装甲の艦娘には豆鉄砲ほどの意味もない対空機銃だ。しかし瑞鶴は目をきつく閉じ、その場にしゃがんだ。

 どれほど訓練をこなそうと、ただの標的を前にするのと実際に銃口を向けられるのとでは違う。今の瑞鶴はあの粗末な機銃で撃たれたとしても“沈む”かもしれない。ストッピングパワーの正体とは思い込みに他ならないだろう。

 機会は今しかないと閃いた。

 右手で握った銃を突き出す。出来うる限りの早さで腕を上げたつもりだったが、自分の動きがひどく間延びして感じられた。左手で握った右手を包み、ほんの僅かに後方へ引く。照門から見える視界に瑞鶴はいない。しゃがんだことでカ級と彼を隔てるものはなくなった。それは敵に取っても同じだ。機銃の銃口は彼に向く。

 左手の親指で撃鉄を起こし、引き金を静かに絞り落とした。

 一瞬、ベレッタが息を吹き返した。

 



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9.浮遊

 スライドが後退位置で固定されたベレッタを机の上に強く置いた。静かなおかげで鈍い音がよく響いた気がする。椅子に深く腰掛けて引き出しからウイスキーの瓶を取り出した。かぶせていたコップに注ぐ。

 手の震えを止められなかった。瓶の口とグラスの縁が小刻みにぶつかってかちかちと音をたてる。

 興奮も動揺もしている訳ではない。自分では冷静でいるつもりだったが、実際にはそうでもないらしい。終わらせたぞ、と自分の中で何度言い聞かせても指先は冷たく、震えていた。

 グラスの中身を一度に飲み干す。口蓋垂を焼き、胃の辺りがかっと熱くなっただけだった。もう一度、心もとない手つきで注ぐ。ちょうどいい所で止められず、いくらか余分に流れた。しばらくぼうっと黄褐色の液体を見つめていた。やがでソファに浅く座る瑞鶴に視線を向けた。肘掛けに肘をつき、手のひらを頬にやっている。不満そうな顔で窓の方を向いているが、何を見ているのかわからない。彼とここに戻ってきてからずっとあの態度だった。こういう時にかけるべき言葉を彼は知らなかった。どんな言葉でも嫌味や憐れみを帯びているように感じることを知っているからだ。

 立ち上がり、彼女の隣に立ってグラスを差し出すが、ちらりと視線を向けただけで受け取らなかった。

 

「実戦とはあんなものだよ」

 

 沈黙。ため息が漏れる。

 

「しばらく出撃は無理か?」

 

「冗談じゃない!」瑞鶴は弱々しくこちらに顔を向けた。「あの程度で気後れするなんて……」

 

「だめならそれでもいい。たった一ヶ月の臨勤で横須賀に帰ってからなにか支障があったらそれの方が大事だ」

 

 言葉を間違えたと思った。こういう場合はやはり何を言っても間違えだ。まるで挑発しているみたいだ。

 

「私は提督さんみたいに弱くなんかない。そんなものに逃げたりもしない」

 

 彼のグラスに視線を落とし、すぐに戻す。軽蔑する者に対する目つきだ。強がりであってほしかった。恐れも知るべきだろう。全てが全て、物言わぬ標的を撃つ訓練と同じというわけでもない。暴走することもきっとなくなるだろう。

 瑞鶴は顔を背けて話を終わらせてしまった。

 再び椅子に腰掛けてグラスの中身を一口含む。先ほどの出来事が鮮明に脳裏で再生された。

 件の潜水艦と目を合わせ、銃口を向けあったまま。先に撃ったのは彼だった。今となっては調べようがないが、あの一発は髪の間から覗く敵の目に直撃したと確信していた。

 発砲の直後に敵はものすごい早さで潜水した。銃弾を受けて倒れたようにも見えた。撃沈判定は出していない。もしかしたら致命的な一撃だったのかもしれないが、いくら急所とは言えたった一発の九ミリ弾で深海棲艦が死ぬとは思えなかった。

 これで彼が少しでも自尊心を取り戻したかといえば、全くそんなことはない。敵の銃口が一瞬とは言えこちらをぴったり狙ったのはショッキングだった。あの銃口がまぶたの裏に焼き付いていないだろうか。

 もう銃を撃つつもりなんてなかった。ほんの幸運に過ぎない。少しでも間違いがあれば弾丸は瑞鶴の背に刺さった。本当に恐れていることが実現しかねなかった。

 スライドが後退したベレッタに目を落とす。十数分前に自分がこれを撃ったのが信じられない。

 グラスの中身を一気に飲みくだす。

 

「あの潜水艦、沈んだの?」

 

「まだ判定していない。何か見えたか?」

 

「沈んだかもしれない。そんな風に見えた、気がする」

 

「はっきり言ってくれって」

 

「沈んだと思う。すごい倒れ方してた」

 

 気持ちは晴れない。偵察隊に損害を与えたのかもしれない。敵にまだ抵抗できる余力が残っていると伝えたことになり得る。たとえ瑞鶴が役立たずになってしまったとしても。

 視線を時計に向けてため息が漏れた。まだ十時にもなっていない。瑞鶴が闘志か何かを燃やしてここをかけ出して行ったのが何日も前のことに感じられる。あの勢いもすっかり影を潜めた。もう現れることはないかもしれない。海域解放戦における切り札の装甲空母をこんな形で返したら、横須賀は怒り狂うだろう。そうなった所で今後の彼への処遇がより悪くなることはない。もう軽空母を一人沈めた。先に待つのは予備役編入――肩叩きだけだ。先のことを心配する気にもなれなかった。

 落ちるところまで落ちた。改めて自覚すると、虚しさと、ただ良心によって接してくれた人たちに対する申し訳なさが胸中を満たした。まさかこんな終わりを見るだなんて。爽快な終わりなど今さら期待のしようもない。成果もなく、中途半端なまま終わる。いくつかの傷をそのままにして。

 またため息が漏れる。あと一時間足らずで始まる朝の定例報告会のことを考えると気分は一層重くなった。幕僚たちは今朝の彼の行動を見てどんな顔をする? あの一発で彼が自分を撃てばよかったと皆が思っているだろう。

 こんな消化試合は早く終わってしまえ。何度もそんな恨み言を胸の中でつぶやくが、時間の流れが早まることはない。

 

「本当に沈んでたらいいんだけど」

 

「拳銃で沈めたなんてちょっと信じられないよ。初めて聞いた」

 

「私だって信じられない。アクションリポートには何て書かれるだろうな」

 

 珍しい事例として陸戦隊が文書を発簡しようとするかもしれない。そんなものに決裁をおろしたくはなかった。

 

「銃なんかで沈められたら、なんのためにいるのかわからない」

 

「君のアイデンティティの話?」

 

 瑞鶴は違う、と覇気もなく否定した。

 彼女がなぜそこまで戦闘にこだわるのか、理解できなかった。海軍におけるある種の切り札であると言う誇りのためか。今となっては馬鹿らしい。自分にもそういう理想を持った時期があったが、結局は見ての通りになった。果たして理想の叶った同僚がいたか? きっといる。それも片手で数えられるほどだ。

 確かに装甲空母は強力だが、この状況では手も足も出ないまま潜水艦に懐へ入られた。強力な艤装があるからと言って何もかも思い通りに進むワンサイドゲームにはならない。

 

「言っただろ。銃でも倒せるって。至難の業ではあるけど」

 

「大した腕なのね」

 

「とんでもない偶然か 、或いは当たってないだけだよ」

 

 瑞鳳が昔行っていたことを思い出す。曰く、熟練の射手や狙撃手は発射したものが命中したかどうか、目視しなくてもわかるそうだ。当たれば手に感触があるらしい。どことなくインチキ臭くてあまり好きな話ではなかったが、見なくとも手ごたえで分かるのなら便利なものだ。

 当然今回はそんなものなかった。彼が優秀な射手ではないだけか、それともその感触というもの自体が先人たちの錯覚に過ぎなかったのか。

 

「敵に当たった時はそれが感触で分かるものなのか?」

 

 瑞鶴は顰めてこちらを向いた。いきなり関係のないことを話だしたから困っているのかもしれない。しかしどうしても気にかかることだった。知ったところで得るものはないが、幼稚な好奇心を抑えることはできなかった。

 

「はぁ……ちょっと意味わからないんですけど」

 

「そのままの意味。そういう経験はある?」

 

「ない。射撃も弓道も苦手よ」

 

「意外だな。空母はみんな的に当てることに関して才覚があるものと」

 

 弓を模った艤装が主武装になる空母なのにそれはまずいだろうと思ったが、言葉は呑み込んだ。思えば瑞鳳も射撃は大して上手くはなかった。少尉任官直後からの短い年数とは言え陸戦士官だった彼の方がいくらかよかった。しかし弓に関しては一流だったはずだ。二十五メートル先に吊ったハガキ大の鉄板の真中を簡単に射抜いてみせた。きっと彼女にとっては大して難しいことではなかったのだろう。

 

「偏見よ。和弓式以外を使う空母は弓の引き方も知らないんじゃない」

 

「だからあんな矢の射ち方を?」

 

「うん。よく怒られたけどね。射法八節とか、実戦で必要?」

 

 必要だと説くこともできたが、瑞鶴が全て聞き入れるとは思えなかったしまた言い争いになることがなにより嫌だったので肩をすくめただけで流した。結局のところ、当たればいいのかもしれない。そんな気すらしてくる。

 考え事も億劫になってきた。頭が重い。

 

「少し寝るよ。一〇二五になったら起こしてほしい。その気があったらでいいから」

 

 瑞鶴はむすっとした表情のまま何の反応も見せなかった。構わずに椅子を百八十度回して目を閉じる。

 不意に、今しがたまで見ていた瑞鶴の横顔に不安を感じた。どの種の不安で、何の心配に繋がるのかもわからなかった。くすぶっている不安がやがて燃え上がる前に、きつく目を閉じて振り切ろうとした。



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10.安居

 弓から落とされた矢は六機の高速偵察機、彩雲に姿を変えて高度を変えていった。偵察に使われる最小スロットの矢は蟇目を着けてあるから、きちんと射ればひゅうと長く尾を引く音が残される。瑞鶴の放ち方では音などするはずがない。

 雲のない空と、真っ青な海の境が消えるところまでまっすぐ向かっていく編隊を彼はぼんやり眺めていた。一か月前には日常だった光景がようやく帰ってきた。もう十年も昔のことのように感じる。時間も巻き戻った気がして海面に立つ彼女の背に目をやった。ため息が漏れる。忘れろ、と二、三度声に出さず念じた。

 振り向いた瑞鶴の横顔はどことなく暗かった。今朝のことがよほど悔しかったのか、退屈しているだけなのか彼にはわからなかった。

 時刻一三三〇。天気、明朗。波、低し。穏やかな海。ここにいる限りは、だ。

 結局、偵察機を定期的に飛ばすことになった。泊地の幕僚たちは最初からそのつもりで話を合わせて彼に迫ったと見ている。展開し放しになっていた陸戦隊を撤退させることもだ。報告会では彼は相当ごねると思っていたらしく、提案を呆気なく受け入れられた幕僚たちは視線を交わして訝しんでいた。

 もう最後なのだから、それでいい。陸戦隊をすぐに展開できる状態に保つことを条件に、他のことはあの日の前へ戻した。埠頭に出るのが二人だけなのも同じ。海面に立って弓を携えているのが瑞鳳でないこと以外は。些細なことでしかない。一か月前の自分ならそう思った。今もそうでありたかった。今にして思えば冷たかった。あの冷たさが今、ほしかった。任務のためでも、部下のためでもなく、自分だけのために。身勝手だ。それこそ自己嫌悪を催すほどに。

 哨戒範囲は泊地から東方、沖ノ鳥島方面。羅針盤が走査できるポイントのさらに数キロ先まで。瑞鳳がいたころはもう少し広範で、代わりに距離は絞っていた。そして毎日は行わなかった。不合理な哨戒にも出した。例えば荒天時。艦載機が使えないために普通なら空母など出撃させないが、副砲を吊らせて行かせたことがあった。確か、その何日か前にはぐれ駆逐艦が侵入したことがあり、警戒を強化するからと無理に理由を着けた。実際は彼と距離を縮めようとした瑞鳳への嫌がらせでしかない。今にして思えば、まともではなかった。あの夜のことがなければ、まだ同じことを続けていたのだろうか。そんなことはないはずだ、と言い聞かせた。彼の良心がまた痛み出さないように。

 

「何か見えたか?」

 

 いくらか声を張り上げて瑞鶴に訊いた。返答はない。顰めて俯いているだけだ。艦載機からの光景を見ようとするとああいう顔になる者は多い。ある程度熟練の空母艦娘なら頭に無秩序に流れてくる情報も別の動きをしながら処理できる。やがては瑞鶴もできるようになるだろう。

 平穏だった。聞こえるのは寄る波の音より他になく、水平線までを遮るものはない。見慣れた光景のはずなのに違和感があった。なにもない? そんなはずがあるのか。この一か月間、毎日のように何かあったのに。今なにもなかったら、瑞鳳はなんのために沈んだ? 彼に手を差し伸べた選抜射手はなぜ死んだ? なにかあるはずなのに……

 受け入れるべきものが受け入れられない。安心すべきときにできない。それはすでに彼にとって日常ではなかった。彼が日常と認められる基準は一か月前の攻勢と、それからの緊張を強いられた日々へといつの間にかすり替わっていた。あれほど過ぎ去ってほしいと願った時間なのに、今ではその変化についていけていない。

 誰かの大声で我に帰った。はっと顔をあげる。振り返っていた瑞鶴と目が合う。

 

「報告、いいですか?」瑞鶴は変わらず不機嫌そうに彼を見ていた。

 

「悪かった。いいぞ。いつでも大丈夫」

 

「一から六番機、現在地Bマス、速度は……」

 

 速度、高度、そして何が見えているかを告げていく。報告によれば、一面の青。――いくらか不安ではあるが――潜水艦の影もなし。

 敵は今朝のことがあってもそれほど動揺していないのか。それとも今頃艦隊の首脳を集めて慎重な審議でもしているのか。もう一度、今度は強行偵察を出してきてもおかしくない。

 

「何もないのは信じられなくないか?」

 

「さぁ。私、この海域のことはよく知らないし」

 

「退屈そうだな」

 

「退屈に決まってるじゃない。瑞鳳は毎日こんなことを?」

 

 戻ってきた偵察機を格納する瑞鶴は顔をこちらに向けてはいなかった。よほどいやそうな表情をしているのだろうと思うことにした。

 

「本当なら何もないところだからな。上がってこいよ」

 

 日差しが強くなって、思わず作業帽のひさしをさげた。何か言おうとしたが言葉が出てこない。瑞鶴の気を引きたいわけではない。単に今の気分を紛らわしたいだけだった。たったそれだけの雑談にも迷うことにうんざりした。

 

「暑いところだろ? 築地はどうだった?」

 

「あそこはいいところなんじゃない。遊ぶところが少ないから私は好きじゃないけど」

 

 総て艦娘は築地の第六術科学校で教育を受ける。全ての艦種がだ。当初は正規空母として着任して十か月、そのすぐ後で装甲空母に改装されたからもう二、三か月別の課程に入ったのだろう。およそ一年過ごしていたことになる。気に入らない場所であれば長く感じるだろう。彼自身は築地で勤務したことがないからどんな場所なのか、イメージがわかない。いったことのある者の多くは「悪いところではない」と言っていた。彼にとってはその程度の認識しかなかった。

 

「遊び歩くのが好きか。だったらここは本土とは比べられないくらいひどいな」

 

 弓袋を肩にかけた瑞鶴は早く戻りたいという態度を隠そうともしなかった。

 

「見ればなんとなくわかりますって」

 

「私の唯一の娯楽はデスクの中のボトルくらいだ。瑞鶴も何か見つけるといい」

 

 おもしろいことを言ったつもりだったが瑞鶴は表情からするに困ってきているようだった。

 その気もないのに話に付き合わせるのもまたよくない。

 なんとなく、瑞鳳が無理やりにでも話をかけてきたときはこんな気分だっただろうかと感じた。自分の中に直視したくないなにかがあるから。今自分が見ているものから少しでも距離を取っていたいから他人との繋がりに逃げようとしたのだろうか。

 つき合わされる相手にしてみればいい迷惑だろう。身勝手だが、今はそうしていたかった。

 

「なにか欲しいものがあったら言えよ。娯楽なら何でも、たばこからパソコンまで。輸送にはちょっとコネがあるんだ」

 

「なにもいらない。自分でなんとかするから」

 

「そんなこと言うなって。せっかく来たのに」

 

 着任直後には腹立たしく、一緒にいる時間が少しでも短くなるように願っていた。彼女の言葉に我慢が利かず、銃まで向けた。今は距離を縮めようとしていた。つくづく、身勝手な人間だと思った。そこまで他人との関係にすがっていたいのか。

 瑞鳳と過ごした最後の夜、彼女はそう明かしてくれた。艦だった時の記憶を消せないから、忘れていたいから他の誰かに依存することにしていた。どこまでも勝手で、惨めだった。彼がそれさえも受け入れたのは、相手に同じことを求めていたからではないのか。

 

「私のしたことも間違ってたよ。だけど、もう少し歩み寄ってくれてもいいんじゃないのか」

 

「間違ってたって……」瑞鶴はようやく彼の方へ向いた。「あんなことしといてよくそんなこといえるじゃない。爆撃でもされたいの?」

 



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11.漂蕩

「爆撃だって」彼の口元は意に反して緩んだ。「私に爆撃か。生身の人間に?」

 

 瑞鶴の言葉がどこか相応しくない気がして、笑いを堪えられなかった。子供がよく使う大げさで、今一つ当てはまらない言葉選びと同じものを感じた。そんなことを言い出す相手だとは思っていなかったせいだろう。そもそも、彼は瑞鶴の人となりなどほとんどよくわかっていないことに気付いた。

 彼とは逆に、瑞鶴の怒りは真剣なものらしかった。大きな目をいくらか細めて口元をきつく結んでいる。爆撃だなんて言い出さなければ、会話をやめていたような表情だ。

 

「なるほど、爆撃だな。私一人を爆撃」

 

「それくらい簡単よ。やったこと、ないけど……」  

 

「もし人間をその……爆撃したらどうなる?」

 

「さあ……欠片も残らないくらい粉々に吹き飛ぶんじゃないかしら」

 

 言葉と真逆の、瑞鶴の自信なさげな態度がまた笑いを誘った。艦娘の兵装が対人に用いられた例はないが、直撃すればきっと彼女の言う通り跡方もなく消し飛ぶだろう。灰も残らないほどに。現行のミサイル駆逐艦も沈められるほどの力を秘めて入るのだから当然だ。艤装の力とは由来の艦の力そのものに他ならない。

 

「笑ってるけど、真剣だから」

 

 言い終わるより早く瑞鶴は駆け出し、再び海上で艤装を展開した。反転してこちらを向き、矢をつがえる。珍しくきちんと絞り、矢じりは彼の顔の額にぴったり向けられている。息をのんだ。

 

「本当にやることないだろ……」

 

「全機爆装。発艦始め!」

 

 彼がやめろ、と叫ぶのと矢が放たれるのは同時だった。一本の矢が一瞬の内に十二機の彗星に姿を変える。たまらずに走り出した。しかし航空機から人間の脚で逃げ切れるわけがない。彼は埠頭の縁の向こう、海の中を目指した。艦爆が、耳のすぐ後ろまで迫っているような気がした。錯覚だと必死に言い聞かせた。ベストの胸に手をやる。空を掴んだだけだった。ベレッタを置いてきたことにやっと気付いた。たとえ弾が入っていなかったとしても持っていないことを後悔した。装填してあっても艦娘の艦載機の前では何の意味もない。

 ようやく、待ち望んだ浮遊感。あとは重力に身を委ねることにした。後頭部を硬い何かがかすめて行った。作業帽が頭から落ちる。今しがた浮かんだ像は錯覚ではなかったらしい。安堵を感じる間もなく着水の衝撃が全身を包んだ。

 全て混濁した。今、どうして自分が海に落ちたのか分からなくなった。手首を掴まれて投げ出されたような気がした。誰に? スコープ越しに目があった瑞鳳の顔が浮かんだ。

 過ぎ去ったはずの時間が頭の中で再び理解された時には胸から上は海面に浮き出ていた。海水のせいでひりひりする目を無理に開けて埠頭の方を見渡す。彼の思い描いていた光景はそこにない。緊急展開した陸戦隊も次々に飛んでくる深海棲艦の艦載機もいない。振り返る。彼女は?

 瑞鶴は何か戸惑っているような顔で彼のことを見下ろしていた。安堵すると同時にフラッシュバックを見ていたのだとようやくわかる。目をきつく閉じて息を大きく吐いた。

 

「大丈夫だな? 異常ないな?」

 

「本物の爆弾落とすわけないのに……ビビりすぎじゃない?」

 

「それくらい真に迫るものがあったよ。泊地もろとも終わりだと思ったね」

 

 ここまでされたのに怒りを覚えない自分に驚いた。少し前にこんな仕打ちを受けたなら長距離遠征にでもやって三日は顔を見ないようにしただろう。それよりも今はあの日のことがまだ繰り返されていないという安堵が勝る。もう過ぎたことなのに。

 

「おもしろいものが見れただろ? なんだその顔は」

 

「その……ごめんなさい」

 

 水を含んでいくらか重くなった戦闘服を引き摺って埠頭に上がる時、背中越しにその言葉を聞いた。どんな顔で言ったのか気になったが、振り返りはしなかった。

 

「構うなって。これでおあいこさまにして」  

返事はなかった。結局彼は振り返らないまま続けた。「上がろう。監視小隊に結果を教えてやってくれ」

 

 

 

 

 

 シャワーを浴びて着替えると少しだけマシな気分になった。執務室に戻ると勤務服姿の瑞鶴がいかにも手持ちぶさたな様子で机の隣に立っていた。  

 

「今日はもう出撃はない。なにもなければ、な。アクションリポート、作っといてくれ。分からないことがあったら主計隊へ。しばらくはあそこにいるといい」

 

 彼が椅子に座っても瑞鶴は動かなかった。

 

「提督さんのこと、よくわからない」  

 

「ご覧の通りだよ。どうかしてる奴。お分かり頂けたかい?」

 

「違う。そうじゃなくて」

 

「だったら惨めだと哀れんでくれ。唯一の慰めだ」

 

「来たときは本当にヤバい人だって思ってた。今日勝手に艦爆出した時、本当に撃たれるのも覚悟してた。なのに今日のは……」

 

「情緒不安定なのかな。そういうものなんだと思ってくれ。迷惑かけるな」

 

 未だにあの日のことが脳裏で蘇って動揺するだなんてまだ話すつもりはなかった。本当は話すべきなのかもしれない。それで少しは良くなるかもしれない。しかし瑞鶴にはまだ言うべきでない気がした。艦娘であるからにはきっと同じ悩みがあるだろう。瑞鳳はそうだった。彼女の艤装との適合率は高すぎた。艦としての最後を鮮明に覚えていて、そのトラウマを彼女は持っていた。なんとなく情緒が安定していないということが彼女の身体歴の一番後ろに記されていた。艦娘には珍しいことではないし、大抵の場合どうすることも出来ないから放っておかれる。多くの艦隊指揮官は詳しく知ろうとしないし、詳しく解析しようとする者もない。妖精の技術なのだから仕方ない、あとは本人次第。その程度の言葉で片付けられてきた。彼もそうしてきた。そんな中で彼は何度も過酷な任務に彼女を投入した。悪意と共に。現状は報いだと思った。

 

「艦の記憶って言ったらいいのか……そういうの鮮明に思い浮かべられるのか?」

 

「けっこうはっきり浮かぶ。思い込みの一言で済まそうとしてる人たちもいるけど、絶対そんなことない。艤装を着けてる時間が長くなるほど艦そのものの記憶がはっきりしてくるの」

 

「それがトラウマになったりは?」

 

「中にはそういう子も。わたしは違うけどね。瑞鳳はひどかったの?」

 

 彼はどうだったかな、と呟いただけだった。

 実際のところ、ひどかった。しかし彼がそれを知ることになったのはあの日だった。もっと早くに知らなければならないことだった。彼女の私物から正規に処方されたものではない抗鬱剤が見つかったとき、彼の後悔は決定的になった。バカらしい思い込みから来る感情で他人と付き合ってきたのが間違いだとようやく知った。相手を理解しないまま同じ時間を過ごすことほど危険で後ろめたいことはきっとないだろう。そしてそれが分かるのは大事が起きた後だ。

 

「どうだったって、たった一人の艦のことも把握してなかったの?」

 

 苛立ちをはらんだ瑞鶴の声がすぐ隣で聞こえた。顔は見ないようにした。

 

「信じられない。何ヶ月も一緒に働いててわからないなんて。ちょっと冷たすぎるんじゃない

。自分の行いがわかってなかったの」

 

「わかってたよ!」大声を出したあとで我に帰る。取り乱して怒鳴るだなんてみっともない。「悪かった。こんな言葉じゃ何もわからないよな」

 

「わたし、提督さんのこときっと好きになれない。何よりも瑞鳳をあんな目を合わせた提督さんを……」



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12.胸臆

「瑞鳳とは親しかったのか?」

 

 出身期別が全く違うことは知っていた。何かの教育で一緒になっていたのかもしれない。しかし今の言葉からするとただの知り合い、とは思えない。まるで何か因縁でもあるような口振りだった。

 

「親しかった、か。そうね。親しい」

 

「海兵団は違ったろ。築地で会ったか」

 

「違う。入隊時期も合ってない」

 

「だったらそんな言い方は……」

 

「本当に知らないのね?」瑞鶴の大きな目がもっと大きく開かれた。「だったらいい。わたしだって、瑞鳳だってきっと話たがらないことよ」

 

 瑞鳳が自身の由来の艦について話すことはなかった。一度もだ。きっかけがなければ縁のある艦について調べようとする艦隊指揮官もなかなか見つからないだろう。インターネットでも簡単に見つけられる情報なのにも関わらずだ。彼らにとっては艦の名など暗号名以外の意味は持っていない。太平洋に沈んでいったあの巨大な艦とは別物だと考えている。彼もそうだ。軍艦に何度も同じ名前が振り当てられるように、彼女らも偶然そのコードを振り当てらたに過ぎない。ここまで名前というものの認識に乖離が生まれるのも、不思議なことだ。指揮官たちにしてみれば、艦の名も艦隊につけられる一から四の数時や記号と同じ。しかし艦娘たちはその名前をまるで一生呼ばれる自身の名前と同じように大切にし、尊重を求め、艦と一体になろうとする。艤装との装着を断って数ヶ月もすれば艦の記憶などすっかり抜け落ちてしまうのに。言葉を変えれば艦に振り回されているとも言える。瑞鳳はどうだ。正に振り回されていた。エンガノ岬での最後の戦いの記憶は彼女の心をあっという間に蝕み、そして――おそらくは――人間性まで変えてしまった。つくづく、悲劇的な兵器だ。

 そこに心底同情して、彼は瑞鳳に寄り添おうと決めたはずなのに瑞鶴にはできなかった。

 

「君たちが艦の記憶で悩むことがあるように」彼は椅子を回して瑞鶴と向き合った。「私も過ぎた出来事について悩むことがある」  

 

「あの日のこと?」

 

「もう一ヶ月前のことだよ。未だに夢に見る。突然あの日の出来事が鮮明に浮かぶことがある。そうすると、すっかり無気力になっちゃって他人のことがなんだか受け入れられなくなるんだ。すぐに抜け出せるときもあるし、一日中そのままでいる時も……」

 

 

 瑞鶴はまた困ったように眉を曇らせた。今しがたのことを思い出したのかもしれない。

 

「あとになって瑞鳳に何をしてきたのか、ようやく気づいたよ。遅すぎた。もっと早く彼女を理解しなきゃいけなかった」

 

「もう全部過ぎたことなのに……」

 

「せいぜい一ヶ月の付き合いかもしれないけど、瑞鶴にまた同じ間違いを犯したくはない。なによりも私自身のために」

 

「銃を押し当てておいて、よくそんなこと言えるのね」

 

「誰だって空母があんな戦い方してたら動揺する。それにあんなこと言われたら。考えてもみろ、瑞鶴にまで沈まれたら……」

 

「心配してくれてたんだ?」瑞鶴は全然こちらの言うことを信じていないという風に鼻を鳴らした。「提督さんが艦娘を心配するような人だなんて知らなかった」 

 

 そうだった。彼は単に心配していた。言うこともまともに聞かずに前進した瑞鶴を、あの日の瑞鳳に重ねていた。もし瑞鶴が傷ついて帰ってきたら? 横須賀での評価はもう落ちるところまで落ちていた。なにも自身の進退を気にしているわけではなかった。それよりももっと原始的な感情が沸き起こっていた。きっと初戦で彼女に何かあったら彼はひどく同情し、自分まで傷つき、後悔していただろう。

 あの日に至るまで、瑞鳳にそんな心配をしたことはなかった。人並みに他人を気にかけるようになったのはあの日のことがあってからと言うのも皮肉だ。負け戦ばかりの年月の中で他人を思う余裕を知らずの内に失い、心を閉ざしていってしまったのに、また他人への情を少しでも取り戻したのは、きっと瑞鳳のおかげか。しかしそれも今の瑞鳳にはなんの慰めにもならない。彼女の中では彼は何も変わらず、多くを失った失望の発作の中に未だあるのだろうか。

 

「それでもわたし、あいつらの旗艦を絶対沈めるから。一人でもね」

 

「こだわるんだな。たった一隻の戦艦なんかに」

 

「瑞鶴にとっては、ただの戦艦じゃない。あれは……」

 

 執務室の扉をノックする音で会話は止まった。監視小隊長がバインダーを抱えて入ってくる。わざわざあの男がやってきたということは、なにかいい報せを持ってきたわけではないだろう。大抵なす術のない情報だ。ノックから間髪飛び込んでくる絶望的な報告よりは全然いい。

 

「今、よろしいですか?」

 

 小隊長は冷静な態度でいたかったらしいが、声は緊張していた。バインダーに挟まれた海図を差し出されたとき、いよいよいやな報せだと確信した。

 泊地から西方に示された赤い鬼の顔を模したアイコン、そこから伸びる矢印が再び泊地へ向いていた。つい最近、北方の本土に向けられていたはずの偵察艦隊の動きだ。

 

「これはどこからきた?」

 

「鹿屋基地航空隊から、ほんの今しがたの入電です」

 

「彩雲じゃまだ見えなかったか。羅針盤は何か捉えてるのか」  

 

 小隊長は今はまだ、と首を振った。

 次は完全に潰される。後ろから撃たれたり本土の部隊と挟み撃ちにされるのがこわいはずだ。少しでも戦力が残っていると分かればきっとまた来る。

 かすかに動悸がした。まだなにも終わってはいない。

 

「動向を注視しろ。鹿屋基地の情報にも」何か言おうとした小隊長を遮った。「また偵察機や潜水空母がちょろちょろ来るだけならなにも変える必要はない」

 

 下がっていく小隊長を見ながら瑞鶴はあれでよかったの? と訊いた。

 

「今のところは。もうあいつらは瑞鶴の存在に気づいてるか」

 

「一個水雷戦隊を沈めたのよ。きっと気づいてる」

 

「もしもの時はやれるか?」

 

「当たり前じゃない。装甲空母よ。タ級とやりあっても負けない」

 

 今朝のことがあってなお瑞鶴は強気だった。実戦などほとんど経験したこともなく、砲弾や艦載機が頭上をかすめていった時の、死を確信した恐怖も知らないだろう。そういう恐怖の中で彼女は戦いを継続できるのだろうか。潜水感の機銃であそこまで動揺した瑞鶴が。きっと今は海軍でたった三人しかいない装甲空母としての自負や周囲がこれまでかけてきた期待のおかげで負けん気を保っているようには振る舞える。次に起きた戦闘でその自負すらも自分で砕いてしまうかもしれない。かと言ってまた敵艦隊が来れば出さないわけにはいかない。不安定なところにいる。あとはこの、ただ時間をじりじり浪費するだけのにらみ合いがもう一ヵ月続いてくれるのを願うよりない。それが今は誰にとっても理想的だ。なにも消耗し、精神的にも疲弊しているのは彼だけではない。陸戦隊を撤収させたことで、泊地の将兵たちに元の日々が帰ってくると期待させることができた。いくらか彼らは持ち直せるかも知れない。

 持ち直すのだ、彼にも持ち直すことが必要だ。今のままでいつまでもいるのではなく。今日くらいは官舎に帰ろうと思った。最近はずっとここにいて急な事態に備えていた。今日くらいは帰れるだろう。あの何もない部屋で一晩寝たところで、彼にとっては暗鬱に満ちた日々に立ち向かう気力を膨らませられるとは到底思えなかった。それでも不思議なもので、家に帰れるとなると少しだけ胸の中は軽くなる。きっと明日からはまたたった一枚の海図を見るたびに、そこに書かれた情報が質量を帯びて彼の心臓を押しつぶしていくような錯覚と共に緊張を強いられるはずだった。



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13.慰藉

 失望してはならないという金言をこれまでに何度も聞いた。友人が言った、かつての上司の口癖だった、白黒映画の中でコメディ俳優が聞かせた、とにかく色々なところで聞いた言葉だ。彼が受けてきたリクエストの中で最も難しいものの一つだ。少なくとも彼は――それが他人に言わせれば――些細な出来事にさえも簡単に失望してきた。

 彼は今まさに失望している。たった一枚の海図ですっかり失望し、戦意を削がれてしまったのだ。どうしてこんなタイミングで? ひどく惨めな気がした。そして結局なにもできない自分にうんざりした。

 

「にしても、しつこいやつらだな。暴力的なくせに狡猾で注意深い」

 

 瑞鶴は険しい顔で海図を見ながらそうね、とぞんざいに返事した。

 こんな時瑞鳳ならなんて言うだろうか。きっと言うだろう。失望しないで、なんとかしましょうと。他人には前向きなことをよく言っていたが、その実自身は完全にふさぎ込み、負の記憶とそれについて回り絶えず膨らみ続ける負の感情に呑まれていた。彼女の中ではその明るい言葉すら負の記憶に由来していた。他人のためにそこまで好意を向けられるのはロボットみたいで気味が悪いとすら思っていたが、違う。他人のために向ける好意も、結局は自分のためのものだった。なんて愚かなことなのか。時間が進むことしかできないものである限り、他人の感情を自分の望むところに留め置くことなんてできない。瑞鳳はそれを知っていたのか? 知っていてあんな態度を貫いていたのなら、それこそ絶望的な戦いだ。エンガノ岬で軽空母瑞鳳が強いられた死に際よりもずっと救いなく、出口もなく、どうすることもできない絶望だ。

 

「今日は帰る。たまにはな。ラッパ鳴ったらすぐ帰るから、引き止めないでくれ。瑞鶴も一回くらい隊舎戻れよ」

 

「いいです。下の部屋使うから。荷物もあそこに入れちゃったし」

 

「本部のやつ捕まえて運んでもらえよ。声掛けとこうか」

 

「いいったら。子供じゃないんだから」

 

「さっきの話じゃないけど……」監視小隊長が持ってきたバインダーを既読の書類箱に放り込む。「これでも気にかけてるつもりだよ」

 

「そういうの、身勝手よきっと」

 

「どう言われたってもう気にならない。どうせ自己満足だから」

 

「自己満足の善意って不思議。偽善とは違うの?」

 

「不思議じゃないしきっと偽善でもない。たぶん、これが奉仕の精神の正体じゃないかな」

 

 瑞鶴は難しい顔でしばらく顔を伏せていた。彼にとって苦痛ではない沈黙がしばらく流れた。

 

「瑞鳳は提督さんにそんな風に接してたの?」

 

「それは、違うだろうな。瑞鳳は確かに見返りを期待してた。私がついに、わかっていながら返すことのできなかった見返りを」

 

「どんな見返り?」

 

「どんな、って訊かれると難しいね。その内、いい言葉が思いついたころに言うよ。だけどその見返りを私はよこせなかった」

 

「今だったら、提督さんは瑞鳳にそういう気持ちで会うこともできる?」

 

「できるさ。それが彼女への慰めになるなら、私への慰めにだってなる」

 

 口にしたあとではっとした。自分にも慰めがほしいのか? 瑞鶴からすれば、結局悪いのは彼であり、救済を求める立場にないはずだ。だが実際のところ、彼の心はあの日以来それを求めて浮遊していた。何が彼の救いなのかという答えを求めて、メビウスの輪に似た出口のない混乱と焦燥の中を浮遊していた。今もそうだろう。

 何が彼の救いか? あの戦艦を倒すことか。もう一度瑞鳳の前に現れて、彼女の願いをまた叶えられることを証明するか。それとも、今は引き出しの中に横たわるベレッタにもう一度弾を込めて、今度こそ自身を撃つか。それがいい。それだけが唯一の、この失望から逃れ瑞鳳に報いる方法のような気がしてきた。死だけは、絶望の中にあっても常に、最大の救いになり得る。

 不意に、あの日彼に手を差し伸べて死んだ若い水兵の顔が浮かんだ。息を切らし、まつげまで流れてきた汗。まだ二十歳だった。絶望的な戦場から解放の機会を与えた死は、最期まで大切に調整したマークスマン・ライフルを握りしめた兵士を幸せにしたか。答えが出ることは永久にないだろう。真実を感じることもなく本人は死に、残った人間には「きっとこうだろう」と推し量ることしかできない。

 生きることだけがたった一つの正義だとは彼は思わない。生きる自由があるなら死ぬ自由もある。彼にもあっていい。瑞鳳の声が聞こえた気がした。自分だけ逃げるなんて、と。聞いたような言葉だ。逃げではない。何もかも失い、絶望のふちにたったものだけが見つけられる最後の選択肢なのだ。それはもちろん瑞鳳にとっても……

 思索が良くない方向へ向かおうとした時、スピーカーから流れ始めたラッパの音でついに我に返ることができた。

 

「じゃあね、帰るよ」

 

 ラッパの音が鳴り止むと間髪入れずに作業帽と鞄を掴んだ。

 

「ちょっと、本当に帰るの?」

 

「本当だって、言っただろ。瑞鶴も飯食って帰ればいいよ」

 

「食堂の場所もわからないんだけど」

 

「今になってそんなに威張って言うな。待って」

 

 内線電話の受話器を取り上げ、監督班の番号を押そうとした。

 

「提督さんはここで食べてかないの?」

 

「私はいい。たまには家で夕飯が食べたいよ」

 

 本当は前後不覚になるまで酒を飲むだけになるだろうけど、という言葉は飲み込んだ。久しぶりに帰ったところでその程度のことだ。どうせなにか起きてしまえば酔っていたくても呆気なく正気に戻ってしまう。結局はバッカスも溺死などさせてくれない。切れかけの裸電球の灯りに似た、心もとなく、切れてしまえばはかなさだけが残る夢を見せるだけだ。甘く優しいだけの夢も、目を背けたくなる回顧も、振り返ってみればよくよく憶えてなどいない。それでもその夢に溺れずにはいられなかった。

 

「提督さん、家で食事するの?」瑞鶴の顔に冷笑が浮かんだ。「料理とかしちゃうんだ?」

 

「する訳ないだろ。ありあわせのものをそのまま食べるんだ。あればね。生きてるって感じするだろ」

 

「そんなに荒んでるなら急いで帰らなくてもいいじゃない。ここ、案内して」

 

 長居しすぎた。瑞鶴の言うことに構わず早いところ出るべきだった。

 泊地内でも人の疎らなOクラブの存在をちらりと思い出した。オフィサーズ・クラブとは名ばかりの、民間業者が入った小さな施設。見栄えだけはいいレストランと古めかしいバーがあるだけだった。オフィサーズと名づけられてはいるが下士卒でも──手続きすれば民間人でも──入れ、最近は施設も充実していて清潔な元下士官クラブに客を取られている。人が入っていくところなど最近は見たことのないOクラブなら醜態を演じてしまっても……

 

「少しだけだぞ。行くのは一か所だけで泊地ツアーとかやらないし、六時までには帰るからな」

 

 

 

 

 

 

 早い時間ということも手伝ってか彼の予想通り、Oクラブには将兵の姿がなかった。レストランにもバーにも人が入らないのを見ると、いっそ建物ごと無くしてしまった方がいいとすら思う。

 彼が迷いもなく選んだのはいつも同じ中年の店員──バーテンダーと呼ぶのはふさわしくない気が彼にはした──しかいないカジュアルバーだった。

 

「将校クラブとかまだあるんだ」カウンターに座った瑞鶴はなぜか小さな声で言った。

 

「前は将校しか入れなかったはずだ。私が来た頃には誰でも入れるようになってたけど」

 

「じゃあなんでまだなんとかオフィサーズ・クラブなんて名前なの」

 

「こんなとこでも名前を変え、設備を変えたりするには膨大な文書も人も金もいるからな。そんなことに決済の印を要求する人間もいないはずだ」

 

 たった一人の店員は彼の顔を見ただけで黙って薄いウィスキーソーダを出してきた。ベースに何を使っているのか未だに知らないし特別に気をつけるようなことではない気がした。

 

「好きなもの頼んで。何を飲むにも私の金だ」

 

 ぼんやりとグラスを眺めながら言った。瑞鶴が聞いたことのない言葉を店員に伝えた。きっとカクテルか何かの名前だろう。この店でカクテルなんてものが作れることに驚いた。

 浅いカクテルグラスに注がれて出てきたのは透明な液体で、小さい果実のようなものが二、三個あしらわれていた。どんな飲み物なのか訊く気になれなかった。

 

「名誉ある海軍と水底の同士たちに」

 

 グラスを少しだけ浮かせてこういう時にはお決まりの文句をささやく。同じようにグラスを掴んでいた瑞鶴が乾杯と言ったのが聞こえた。

 グラスの中身を一口、大きく飲む。炭酸は強く、ウィスキーの苦味は飲み下す直前に舌の奥で名残惜しそうに留まるだけだった。

 

「疲れてるの?」

 

「みんな疲れてるよ。色々ありすぎて。正直なところ……どうしたらいいのかわからない」

 

「提督さんの口からそれは聞きたくなかったんだけど」

 

「本当のことだよ。早く終わってほしい」

 

「どうしたら終わるの?」

 

「何度も言うけど、ひたすら待つだけ。奴らがもっと本土に近寄るか、北方攻略から帰ってきた横須賀の主力が叩き潰してくれるのを待つ」

 

 口に出したくなかった。言うたびに何もできない自分を直視せざるをえない。終わった先に待っているものも見えていた。底があるだけだ。真っ逆さまに落ちていった先の終わり。先も見通せず登ることも到底できない谷底だろう。

 考えを遮られるよう薄いソーダを飲む。

 

「本当はまだ選択肢があるんじゃないの」瑞鶴が真剣な眼差しを向けてきたのがわかった。彼女の掌が彼の肘に触れる。思ったよりも華奢な手だった。

 選択肢だったらいくらでもある。しかし彼には待つこと以外の選択をどれも上手く運べる自身がなかった。

 

「無理だよ。負け癖がついてる。挑むのがこわい」

 

「もう一回くらい負けてもいいんじゃないの。どうせもう無くすものだって残ってないんだから」

 

 瑞鶴の無遠慮な言葉で思わず彼女の手を振り払った。机の上に二、三枚紙幣を置く。グラスの残りを全て飲み干した。

 

「おやすみ。問題を起こさないように気をつけて、楽しい夜を」

 

「本当は、どうしたいかわかってるんでしょ? とにかく挑めば清算できるのに。全部」

 

 立ち上がる間際に聞いた一言が、しばらく心臓にまとわりついて不快な鼓動を誘っているような気がした。



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14.危機

 どこまでも身勝手だ。自分が捨てた日々、自分から目をそらした過去、自分で拒んだ人々。全ての代償が今こんな形でやってきた。そのときになって初めて気づく。それらがどれほど貴重で、代えがたく、大切にすべきであったのか。しかし気づいたときというのは大抵遅すぎるときだ。もう帰っては来ないと自覚して初めてわかる。負け戦ばかりだったのだからせめてそれらだけは後生大事に抱えていなければならなかった。それしか彼にはなかったのだから。

 今は何にすがっている? 過去だ。彼に唯一残ったのはたいして輝かしくもない、だが今では愛さずにいられない過去だった。あの日々を自分から拒み、塞ぎ込んだりしていなければきっと今は少し変わっていた。きっとそうだろう。それでいいか、と言われれば違和感がある。大切にするものはそれだけか。

 Oクラブで隣に座った瑞鶴の横顔が浮かぶ。彼の肘をそっと押した彼女はどんな表情だった? 彼の奥深くまで射抜こうとする眼差し。強い意志で、同調を求めていた。なぜそこまで戦おうとする? 答えはもうわかっている。二人が過去に会ったかどうかなどは、瑞鶴と瑞鳳の関係であるなら重要ではない。水底の闇の中でも二隻を繋ぎ止めていたほどの強い絆があることを知っていたなら、瑞鳳も他人との関係に依存するべきでなかった。よりにもよってこんな人間との関係に。

 いつか見た夢のようにかつていまわの際を共にした瑞鶴は、瑞鳳をまたも沈めた敵になんとしてでも復讐の一矢で報おうとしている。しかし彼は? 艦としての時代に負った傷を隠し、人の不信を恐れて手を差し伸ばした瑞鳳に彼は何をした?

 それは彼女の勝手な思いであり、押し付けがましい努力であったから、応えなければいけない訳など彼にはなかった。そう言うことは簡単だ。しかし彼は人間だった。情があり、良心があり、共感する力がある。だからこうして後悔し、むなしさを覚えている。もう今さら、彼女にしてやれることなどない。

 

 

 思いが浮遊していくのに任せながら、ふと自分はどこにいるのかという疑問をぼんやりと感じていた。瑞鶴と別れて自分の部屋に帰ってきて、それから。それからは記憶がおぼろげだった。シャワーを浴びて、ボトルを手に取り……

 ゆっくりと目が開いてきた。意識が覚醒してくれば目は勝手に開いてくる。不快な何かが脳を掻き回しているように錯覚した。そのせいで目が覚めたのだ。それは耳から入ってきて頭野中で膨れ上がる。

 電話だ。携帯電話の単調で甲高い着信音。上体を勢いよく起こし、ベッドサイドテーブルに手を伸ばす。幸運なことに電話はそこにあった。遠慮なく頭痛を起こすこの音に耐えながら部屋中を探すという災難は回避できた。一刻も早くこの音を消したい一心で、真夜中に電話があることの意味もろくに考えず出た。

 

「おやすみのところ申し訳ありません。先ほど監視小隊より報告が」

 

 中年の当直士官の声は落ち着いていた。今のところ泊地で冷静でいなければならない人間が誰であるのか心得ている。おかげで彼の意識は瞬く間にはっきりした。頭の中には鈍い痛みがこびりついたままではあったが。

 

「戦力不明の一個艦隊が高速を保って泊地に接近しています。このままだと四十分程度で泊地に到達。先行する航空機や潜水艦は確認されていません」

 

「陸戦隊は?」

 

「上番中の一個小隊がレベル3の武装で展開しました」

 

「警戒レベルはそのまま。警急かけるぞ。瑞鶴が来たら艤装受領させろ。出撃は待て。私もすぐ行く」

 

「お迎えのお車はいかがいたしますか」  

 

「けっこう。自分ので行く。それまで頼むぞ」

 

 電話を切り、カーテンの隙間から覗く空を見る。陽が昇りきるにはまだ時間がかかる。瑞鶴は戦えるか。空母に夜戦はできない。

 そこから先を考えるより早く、部屋を出ていた。

 

 

 

 

「敵は速度を落とさず依然として接近しています。監視小隊は〇四五〇頃に迎撃圏内への侵入を予期。陸戦隊はすでに展開完了。人員現況は……」

 

「艤装は展開できるのか? 瑞鶴は?」

 

 淡々と報告する当直士官の声を思わず遮った。単に事実だけを述べていく相手の平坦な声がなぜか挑発的に聞こえた。自分が焦燥しているだけではない。感情次第で重要な場面での相手への接し方も変えてしまう。彼の周りからついに誰もが離れていった理由だ。この些細な一時に自身の醜態を見たような気がして、彼は早くも自分を疑いはじめた。

 執務室にたどり着いたものの、椅子に腰を下ろすつもりはなかった。机に入れたままになっていた拳銃をプレートキャリアのホルスターへ収め、すぐに出る。その間にも当直士官は人員報告を続けていた。

 相手は彼が自身に抱く以上の不信感を持っている。二等水兵から叩き上げで大尉にまで上ってきた士官だ。何が正しいのか彼以上に分別がつくに決まっている。一回り以上若い、手のつけられないほど能無しの上官を心底軽蔑しているに違いない。

 士官は一瞬だけ押し黙り、目を伏せると再び話しだした。

 

「艤装の整備は完了しております。兵装の搭載も。准尉は格納庫前で待機中」

 

 口元がゆがみそうになったのをこらえる。艦娘に関わらずに勤務している者の多くは不思議なことに名前を呼ぼうとしない。階級や艦種であったりただ彼女とだけ言う者も見たことがある。きっと違和感があるのだろう。彼も最初はそうだったかもしれない。今では慣れた。

 埠頭へ続く扉を開くと南方特有のぬるく、湿気を含んだ風が弱々しく彼の頬をなでていった。朝焼けの空と塩気を含んだ香りが不安を揺り起こした。想像していた通り静かだ。気味が悪くなるほどに。思わず息をのむほどに。

 控えめに寄せては引くのを繰り返す波の音以外に聞こえてくる音はない。展開している陸戦隊員たちは武器の握把を握ったまま、いずれ見えてくるだろう敵をただ待つように水平線の向こうをじっと眺めていた。指揮官すらも彼に気付いていないのか、その場に立ち尽くして微動もしない。時間が止まったような気がした。緊張も緩慢も感じられない、停滞していただけだった。そして扉から出た所で歩を止めてしまった彼もその静止した光景の一部になろうとしていた。

 

「提督さん! 出撃まだなの?」

 

 我に帰り、声のした方を見る。瑞鶴は律儀にも昨日と同じくアビエーション・グリーンの制服を着て、やはり弓を手にしていた。すっかり焦燥し、興奮しているらしく声は上ずり、大きな目はさらに存在感を増していた。瞳には初めて会ったときに見たきらきらした輝きはなく、興奮のおかげでかすかに潤んでいるだけだった。これにも不安と同時に、うっすらとした失望の念が忍び寄ってきた。

 

「すぐに艤装を展開しろ。第四スロットの彩雲を発艦させて敵艦隊とその後方まで情報を収集する。迎撃圏内への侵入が確実になったら戦爆連合で迎撃。いいな」

 

 撃沈、という言葉はあえて使わなかった。深追いさせるつもりはなかったし偵察機と遭遇した時点で撤退するならそのまま逃がすつもりでもあった。潜水艦や航空機と違い知らぬままに懐まで入られるようなことはない。 

 

「彩雲に戦爆? 高角砲は?」

 

「普通なら空母には積まない。戦爆連合と彩雲の編成が緊急対処時の空母の兵装と規則で決まっている」

 

「彩雲なんていいから高角砲に換装して。索敵は艦攻でもできる」

 

「何言ってるんだ? あと三十分もしない内に迎撃圏内に奴らが到達するんだ。今あるものでやるしかないだろ」

 

 聞いたことのある言葉だ。今あるものでなんとかしろ。この一言だけで空母にとっては丸腰同然の装備のまま瑞鳳を哨戒に出した。何度も。

 しかし今回は違う。本来なら空母は接近戦など行わない。アウトレンジ攻撃による敵艦隊の崩壊を至上の任務とし、水雷戦隊突撃のきっかけを穿つのが彼女らのあるべき姿だ。高角砲などまず装備することはない。最初の瑞鶴は雷巡を高角砲の接射で沈めたが、本来なら駆逐艦や軽巡が取るべき戦法だ。ろくな技術もないのに間合いを詰めて挑めば呆気なく返り討ちに逢い、撃沈に直接繋がる。絶対にさせるべきではない。

 

「私しか海上で戦えないのに! 高角砲がないなら噴進砲でも集中配備機銃でもいいから、接近戦の装備がないと」

 

「戦爆連合があれば戦艦相手だろうとアウトレンジで決着がつくはずだ。撃ち漏らした敵は陸戦隊が水際で止めを刺す」

 

 瑞鶴はこれ以上はもう何も言いまいと口をきつく閉じた。眉を吊り上げて怒りを隠してはいない。これでいい。彼女も学習してくれたらしい。

 前回のように近接戦にこだわっていればやがて良くない結果を招く。取り返しがつかないほどに。  

 水平線の方へ視線を投げた。朝焼け。まだ夜の名残りは色濃い。

 

「発艦できるか? まだ陽は昇りきっていない……」

 

「できるに決まってます。東の空に明けの明星が輝きだしたなら、星の矢はまたあの海に閃く」



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15.箒星

 瑞鶴の視線が東に見える金星に向いた。大仰な言い方でありながら当人の表情は真剣そのものだった。瑞鳳も同じような言い回しをしたことがあった。その時は夕方で見えていたのは宵の明星だったが。そういう例えを使うことが空母艦娘の中に一つの文化としてあるのかもしれない。

 

「信じるからな。勝手な前進はなしだ。艤装、展開しろ」

 

 瑞鶴は敵意を込めた目のまま海の方へ反転し、走り出した。彼もその後ろからのろのろと着いていく。陸戦隊の指揮官と目があった。首を振る。視線の端で青い光を捉えた。埠頭の端で歩を止めて、すぐ左隣に座っていた重MATの観測手の肩を叩く。

 

「銃、貸してくれるか」

 

 日に焼けた若い水兵は立ち上がり、HK33小銃を控え銃のかっこうで差し出した。受け取り、コッキングレバーを引いて薬室を改める。空なのを確かめると弾倉を抜き出し、レバーが完全に後退した位置で留める。再び弾倉を装着して固定されていることを確認するとレバーを上から叩いて前進させた。金属どうしがぶつかり合う音が静けさの中で残響を引きずっていくほどに存在感を示した。レバーが完全に前進したことも手のひらで確かめてセレクターを安全位置に置く。これでいい。きっと撃つこともない。

 洋上に立った瑞鶴は弓を構えてやはり引き絞らず矢を落とした。六機の彩雲はレシプロエンジンの唸りを置き去りにして水平線を目指し進んでいった。

 また静寂が訪れた。胃がぎゅっと縮こまり、早鐘のような鼓動がはっきり聞こえているような気がする。錯覚だと思い込む。

 今度はこの静けさの中に、張り詰めた空気が充満していた。その場にいる誰もが漫然と何かを待つのではなく、何かが迫っていることを確信したらしかった。

 ここで敵を沈めたら、今度こそ後戻りできない。次は総攻撃が待っている。壊滅か、それとも内陸への撤退か。本当に逃げたところで、横須賀はこれ以上怒ることもないだろう。徹底抗戦を叫んでも待っているのは将兵や装備の減耗と、海域解放作戦の切り札たる装甲空母の喪失だけだ。万一この泊地が再び敵の手に落ちても、主力連合艦隊を投入すれば簡単に奪還できるのだから。

 こんな状況なのにも関わらず抗戦の決意をしたがらない自分に愕然とする。見えているのは敗北の二文字だけだ。彼自身が戦うわけでもないのに。

 

「索敵成功。敵、一個艦隊三隻。旗艦に軽巡へ級。雷巡二隻、駆逐二隻が随伴」

 

 いずれも強烈な魚雷を積んでいる。高速で接近しこちらに残存しているはずの艦に必殺の雷撃を叩き込み、速度を活かして反転、逃げ切る。可能なら情報も持ち帰って。或いは刺し違えてもこちらの艦を潰そうとするか。確実に艦娘を投入させるために対地砲撃も仕掛けてくる。

 不意に違和感がやってきた。水雷戦隊にしては中途半端な編成だ。雷撃戦力を集めてきたにしてもこんな編成がありえるか。重巡もいないから砲撃戦も完全に諦めているし、対空戦もほとんど成り立たない。五隻というのも不自然に思えてきた。決死部隊なのに一個艦隊の定数限界ではない。胸の奥でまとわりついたようなもやは晴れない。

 

「彩雲の高度を下げろ。奴らの頭すれすれまで。何を相手取ろうとしてるのか教えてやれ」

 

 小銃のストックを肩に載せてスコープを覗く。一機の彩雲の後ろ姿が丸い視界の中をゆっくりと縦断し消えていった。

 ここらで引き返してくれ、と何度も声に出さず願った。何もしないならこっちだって手を出さないから、頼むから放っておいてくれ。まだ見えない敵に向かってそう哀願する自分が馬鹿らしくなってきた。 

 

「そろそろ捉えただろう。あいつら、引き返しそうにないか?」

 

「全然。それ覗いてるならそろそろ見えるはずよ」

 

 瑞鶴が言い終わるより早く視界には黒い点がぽつりと一つ映り出していた。単縦陣で迫っているのが分かる。熟練した狙撃手であれば、一キロ近く離れた敵の頭でも相応の銃があれば精確に撃ち抜けるという。5.56mmの小銃に八〇〇メートル先を狙うのが限界のACOGでは無理だ。大口径ライフルとカール・ツァイスの高倍率スコープを用意した所で彼が撃ったのでは命中は望めない。

 彩雲がしきりに敵艦隊の頭上を往来して、ちらちらと視界の上端に黒いものが映る。もう泊地があちらの砲の射程入ってしまう。決意する時が来たらしい。ライフルを下ろす。

 

「もう撃たないとダメだ、瑞鶴。迎撃しろ、迎撃しろ」

 

 明治時代に範を取ったイギリス海軍に倣い、命令は二度繰り返される。しかし兵の気を引き締め忠実に実行させるほどに厳かなものではなかった。諦めに似た、ため息のような一言だ。初めて彼女に正確に発した命令のような気がした。

 瑞鶴はかすかに首をこちらに向けると小さく頷いて、矢筒から一本目の矢を抜き取り、つがえた。どんな顔をしていたか見えなかったが、今は見えない方が良かった場面だろう。

 放たれた矢は十二機の天山に姿を変えて、V字形の編隊を整えながら高度を上げていく。彼が知るよりも明るいカラーリングの天山。瑞鶴が手ずから調整し、精鋭と自負した六〇一航空隊所属の機体だ。あの機体が艦隊決戦支援か何かで来てくれたらきっと心強かっただろう。長い鍛錬のお陰で精度も威力も底上げされた航空魚雷の搭載と高い運動性を両立している。文句の入る余地がない一流の装備だ。改修にも長い時間を費やしたに違いない。しかし今はあの艦攻も最悪の状況への呼び水になりえる。最悪の状況を覆す天からの一矢にはならない。

 もう一矢つがえた瑞鶴は上体をいくらか逸らし、鏃を空の方へ向けた。驚いたことにきちんと引き絞り放っていった。斜め上方に打ち上げられた矢が重量に完全に囚われて頭を垂れた時、矢は二機の艦載機に姿を変えた。彼の立つ位置からでは機体が判別できなかった。更に後方を索敵するために出した艦攻だろうか。対抗する航空戦力がないのに艦戦を出すのはふさわしくない。

 すぐ横の水兵があっという声を漏らした。彼も目を向いた。

 単縦陣に展開した敵艦は全て瑞鶴に横腹を向けて魚雷を打ち出した。こちらは艦隊指揮で言うところのT字不利になる。それよりもその場の誰もが驚嘆したのは撃ち出された魚雷の数。見える雷跡はゆうに二十を越えていた。とにかく逃げ場を無くせるように広い扇型を描いて迫る魚雷がはっきり見えた。

 上がれ、と叫んだ。何も考えられない時間が何秒か存在した。その数秒間、全てが間延びしていた。瑞鶴は魚雷が向かってくる方へ一歩踏み込んだ。そしてコンマ数秒遅れて放たれた隣の魚雷との隙間を巧妙に縫って呆気なく、絶望的な雷撃をやり過ごした。

 目の前で起きたことに彼は言葉を失った。見上げた度胸だ。ほんの一瞬タイミングがずれたり、身体操作をわずかにでも間違えていれば確実に被弾していた。当たる確率の方が高かったのは誰の目にも明らかだ。それでもその中から確実に避けきるごく小さな道を見出し、実行してみせた。普通あそこまでひどいことになれば全速で後退して艤装を格納し、陸へ上がってくる。退かなかった、という選択が彼には信じられなかった。

 瑞鶴の次の行動は彼にとってより信じられないものになった。魚雷をかわしても止まらずに敵への接近を始めた。また撃ってこないという保障などない。好機と取られて第二撃を誘うことになる。

 

「前進するな、戻れ。抗命する気か」

 

 叫びながら小銃を空に向けた。いつかの時と重なった。彼女の矢筒は赤く、小さな振りのある袖が艦載機のダウンウォッシュではためいていた。忘れろ、今だけは。瑞鶴の後ろ姿と重なろうとしていた記憶を押し潰し、セレクターを単発位置に切り替える。引き金を引くことは出来なかった。

 彼が逡巡する間に艦攻隊は敵艦隊に迫っていた。編隊は二手に別れると一隻を左右両側から挟み込むように魚雷を放った。この攻撃もタイミングがずれれば撃ち漏らしが出る。敵が雷撃を認めて速度を変化させたりすることも読んだ上で到達点を予測し、そこにピンポイントで魚雷が重なるように距離を調整して放たなければいけない。こればかりは天性の勘、それか尋常ではない数の戦闘経験に頼るしかない。瑞鳳はよく言っていた。そして自分にはそのどちらもないからと。彼女が爆戦や艦爆を多用したのはそのためだ。急降下爆撃ならば精密な照準とその後の操作で確実に命中させられた。

 果たして瑞鶴にはその勘があったらしい。艦隊は減速したが旗艦から順も違わず一隻ずつ止まり、火を吹いていく。十秒もかからずに、今しがた圧倒的な魚雷火力を誇示した一個艦隊は全滅したのだ。

 張り詰めていた空気が一瞬にして弛緩したのを感じた。瑞鶴が止まったことで誰もが戦闘終了だと信じたはずだ。

 そして彼自身もようやく銃を下ろし、長いため息をついた。何時間も呼吸を止めていたような気分だった。この勝利で気分が晴れることはなかったが、ひとまずは終わった。まだ瑞鶴が浮いているということに何よりも彼は安堵した。誰も死ななかった。この事実が彼の不安を僅かながらに覆い隠し、沈鬱という発作を鎮めたのは今日が初めてだった。

 再び編隊を組んだ艦攻が一本の矢に姿を変えて瑞鶴の手のひらに落ちたのが見えた。その矢を納めた瑞鶴だけは今の状況にそぐわぬ緊張感を発していた。彼女の周辺だけを取り巻いていただけの空気はすぐに陸にも伝播し、緊張はまたもはしる。

 あの二機。宙に向けて放ったあの二機が帰ってきていない。どこに行ったのかも追っていなかった。

 それに気付くのと瑞鶴が体ごと振り返るのは同時だった。振り向きざま、空き缶のようなものを一つ海面に叩きつけるように投げた。即座にごく小さな水柱が上がり、海面に黒い影が浮かぶ。

 潜水艦、と彼が叫ぶのとカ級がその姿を顕にするのは同時だった。今度は敵が彼に背を向けるかっこうになっているから目の色は判別できない。昨朝に彼と相対したのと同じ個体に思えてならなかった。必死に掻き消す。そう思い込んでいるだけだ。妄想に過ぎない。深海棲艦などどれも同じ見た目なのだから。

 

「機関銃手、見えてるな?」

 

 彼自身も小銃を構えて叫んだ。握把を握る右手が小刻みに震えているせいで全く狙えない。後ろから銃口を向けているから有利なのは確かだが、自分に向けられた機銃の銃口が脳裏にべったり張り付いて離れない。

 瑞鶴はなんの表情も浮かべていなかった。視線はカ級に合わせたまま、確実に来るであろう実戦の衝撃を覚悟したのか口だけは固く引き結んでいる。

 前回、たった一隻の潜水艦に装甲空母瑞鶴が追い込まれたのは誰もが知っているだけあり、重機関銃はぴたりとカ級に照準していた。しかし、瑞鶴は首を横に振った。場の視線が彼に集中したのを感じた。

 撃つな、とトーンを落として言う。自身も銃を下ろす。そのときには水平線の向こうで彗星が瞬くのを見ていたからだ。迷う隙も、感じる暇もない。指差し、その光に水兵たちを注目させる。機影はレシプロエンジンの唸りを連れて正体を明かそうとしていた。先細った胴体と機種の下で大きく開いたエアインテーク。それだけの特徴があれば充分だった。

 二機の彗星が帰ってきた。瑞鶴は最初から潜水艦を察知できていたのだ。その上で艦爆を発艦させた。彼女が決着をつけるために、誰にも言わず。最初の五隻などほんの前座だった。彼女にとってはたった一隻の潜水艦との戦いこそが決戦だった。

 確かな終わりを運んできた彗星は日の出を背にした彼女の結った髪を揺らして通り過ぎ、浮上したカ級の真上に音もなく爆弾を落としていった。潜水艦の装甲なら二五〇キロで充分だ。今から急速潜航したところで間に合うはずがない。水中まで追いかけてきた爆弾は爆雷と同じ効果を発揮する。瑞鶴の背丈ほどの水柱が立つ。おかげで彼女は海水をかぶったが次に彼女の顔が見えたとき、彼女は目をきつく閉じて空を仰ぎ見ていた。二機の彗星だった矢は伸ばした手に落ち、矢筒に納めるとこちらに顔を向けた。

 瑞鶴は目を細めて穏やかに笑っていた。彼女が来て以来、あんな表情を彼に向けたのは初めてだった。なんとなく、彼と瑞鶴は今同じことを考えているような気がした。

 しかしその笑みも長くはもたなかった。瑞鶴が突然目を見開き、くずおれる。艤装の装着は解除され、生身の体は沈み出す。彼女の名を叫ぶのと、遠くで雷鳴が聞こえたのが同時だった。

 

「戦艦です! タ級、距離一一〇八メートル、反転して遠ざかっていきます」

 

 双眼鏡を覗いていた陸戦士官が叫んだ。

 一キロ以上先からの狙撃。これこそアウトレンジ攻撃だ。重MATなら届くが有線で誘導されるミサイルの速度は決して早くない。到達するより前にかわすことなど高速艦なら簡単だ。

 陸戦士官が何か言っていることも頭に入らない。小銃を置くと走りだし、海に飛び込んだ。



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16.追懐

 静かな雨が降る日だった。シースタリオンの後部ハッチが開いた途端機内に吹き込んできた、生温かく湿った空気を今も忘れない。鮮明に想い出すたびにその時の、胃の辺りが重くなるような、鬱屈した気分も蘇る。

 ため息と共にシートから立ち上がると機上輸送員が彼のダッフルバッグを手渡し、見送ってくれた。一歩外に出れば感じる気候は熱帯のそれだった。土砂降りでなくてよかったと思った。気温が低いときに降る雨は体温を奪い危険という理屈はあるが、高温多湿に雨という組み合わせの不快さには到底及ばない。髪は垂れ下がり、ワイシャツは肌に密着するせいで気持ち全身が重い。

 ヘリポートのすぐ脇に立っていた小柄な水兵が明るい声で彼の名を呼びながら近づいてきた。黒いオールウェザーコートの襟から覗くネクタイは緑色で、肩の階級章はW―4を示していた。海軍で五つにランク分けされた准尉の階級章を着けるのは艦娘だけだ。彼女こそこの根拠地に配置された唯一の艦娘らしい。

 

「祥鳳型軽空母二番艦、瑞鳳です。ようこそ南西諸島泊地へ」

 

 瑞鳳はかすかに顔を上げて視線を合わせると敬礼の代わりに官給品の黒傘を差し出してきた。

 

「ありがとう。しかしひどい天気だな。毎日こんな調子なのか」

 

「もう梅雨は明けましたから、雨のほうが珍しいです。いい天気の日ばかりですよ」

 

 大きく赤子のように丸い目を細めて瑞鳳は笑った。人懐こい笑顔だが目の下にはうすいくまが浮いていた。きっと化粧が薄い。幼い顔立ちをしているが、彼と大して変わらない年齢のような気がした。

 こんなに素朴な笑みを浮かべているのに、ひどく疲れているようだった。或いは、退屈で毎晩寝付くことができないだけか。

 

「雨も降ってますから、早く行きましょう。傘、さして」

 

 たった今受け取った傘を取り上げ、わざわざ広げて差し出してくる。顔中の筋肉が硬直した。

 例えば近しい人間がやるならなんと言うこともなかった。しかし初めて顔を合わせた人間にこんなことをされるのは気味が悪い。どことなく、彼女の笑顔に押し付けがましさを感じた。こういう善意が嫌いだ。そもそも人間の善意というものを彼は絶えず疑っている。理想としての言葉があるだけで、実在するものではないと。

 傘を受け取ると瑞鳳は回れ右して儀仗隊の将校のように彼の斜め前までずれて歩きだした。

 

「なんか力んでるな。そこまで大げさじゃなくていいだろう」

 

「そう言う訳にはいきません。なにせ新しい提督ですから」

 

 提督、と呼ばれると未だに胸がざわめく。能無しの若手将校の階級を無理に押し上げて何が提督か。

 前任地の旗艦に言われた言葉が胸に刺さったままになっている。「あなたを提督だなんて呼びたくない」なにも面と向かって真面目な顔で言うことはないだろう。陰でこそこそ言っているのを聞いてしまったとしてもやはり悲しいが。瑞鳳もあと何ヶ月かして彼がどうしようもない人間だと気づいた時、そう冷たく言い放つのだろうか。もうそんなことは言わせないと固く決意したとしても、大抵は空回る。いつものことだ。決めるべきところで決められない。要するに、そんな器ではないのだ。提督だなんて呼ばれる器でない。誰かを動かす器でもない。もしかしたら誰かと深い関係を築く器ですらないか。今のままでいる限り、劣等感だけが太っていくような気がした。元のマークのままでよかった。望まぬマーク替えなのだから当然か。

 近づいていく灰色の司令部庁舎に意味もなく視線を固定しながら浮かんでくる言葉は暗く希望からは遠ざかっている。こんな立場になってしまっては、今後の展望は全然なく一歩間違えればすぐに肩を叩かれ予備役編入を迎えてしまう。今の彼の中ではそれすらもまともに見えてくる。明るい考えはかけらもなく、そんな言葉を捻り出そうとする気力ももうなかった。

 

「こんな所ではありますけど、存外に悪くはないんですよ」

 

 瑞鳳が振り返った。相変わらずにこにこしているが今のところ彼にはそこまで笑っていられる理由は見当たらない。 

 

「ここは長いのか?」

 

「いいえ。三月に来たばかりです」  

 

「まだ半年も経ってないじゃないか。それで良い所だと決めるのはちょっと……」

 

「早計なんかじゃありません。きっと提督もそう思いますって」

 

「前任者もそう言っていたかい? 私もこの前線根拠地を楽園と呼んで去りたいね」

 

 つれない言い方。これでいい。興味なんて持たなくていい。好いてくれなくていい。こちらも好くことなんてないから。何かを与えなければ関係が始まることはなく、与えられれば返さなければ関係は保てない。時折例外を目にするが、一方的に与える関係が成り立つのは親子だけだ。歪な繋がりと思う。どうしてそんな関係が成立するのか。生物の本能が成すのか。彼にはわからなかった。他人どうしなら冷えた関係でよかった。それが必ずしも険悪な関係を意味するわけではないのだから。

 不意に瑞鳳が立ち止まった。つられて彼の歩も止まる。どうした、と彼が訊いてもすぐには振り返らなかった。彼にとってはずいぶん間延びして感じられた、ほんの何秒かの後に振り返る。瑞鳳の顔からはようやく笑みが消えていた。童顔の割に、凄みがうっすら滲む横顔だった。

 

「前任の提督はどう思ってたんですかね。結局聞けないまま転勤していっちゃいました」

 

「私にはわからないよ。何も言わなかったのならきっとことさらにひどいところとは思わなかったんじゃないかな」

 

 特別良い所だったとも、と胸の中で付け加える。こんな前線ぎりぎりの根拠地が良い所だなんて思うわけがない。前任者も逃げ出したくて仕方なかったはずだ。少なくとも本土ならどこでもここよりはマシだろう。

 瑞鳳があんなことを言うのも、流されてしまったものへのせめてもの慰めか、でなければ本当にこの土地に合ってしまったどうかしている人間だということだ。

 

「そうならいいんですけど」

 

「前任とは仲良くなかった?」

 

「悪い関係ではなかったんです。本当ですよ」

 

「ならそんなに悪くは思わなかっただろう。印象を決めるのは場所じゃなくて人だ」

 

 大した出まかせが漏れたと思った。実際にそう感じたことはない。良い所は良いし悪い所は悪い。感じ方でしかない。

 

「だったら、瑞鳳のせいで提督はここが最悪だったと思うのかもしれませんね」

 

 冗談のつもりだったのだろうが、瑞鳳の笑みは寒々しい。病的だとすら思った。大きい割にくまのある目のせいだろうか。生来こういう笑い方しかできないのかもしれない。笑っているはずなのに誰かにすがるように目を細め、眉は困ったように下がっている。この表情が最も魅力的だと自分で見出したのか。だとしたらその見立ても誤りだ。射抜くように動かず、ガラス玉のように無機質に輝く栗色の瞳に見据えられれば息が詰まり、相手の庇護欲を誘い出すことはできない。単に彼は大きな目が苦手なだけか。

 オーラ、という言葉が彼は嫌いだったが、瑞鳳からはどこか暗く冷たい空気を感じた。人が寄りたがらない、病的な空気が彼女の足元や髪で隠れたうなじから立ち昇っているように思える。敗北という結果で終わった戦争の中で最後を迎えた艦という由来がこの不気味な空気の原因だとしたら、艤装という兵器のなんと罪深いことか。

 

「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。行きましょうか」

 

 瑞鳳自身も言葉を選べなかった自覚があるのか、いたずらっぽく肩をすくめるとまたゆっくり歩き出した。

 庁舎はさらに近づく。



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17.双眸

 ガラスドアを抜けて司令部に一歩足を踏み入ればそのまま何かに区切りがついてしまうような気がした。彼がいつまでも留まっていたかった何かだ。味気ない灰色をした三階建の建物の中が異世界に思えて不要な緊張感が湧き出てくる。錯覚だ。しかし踏み出す一歩一歩が、なんの脈絡もなくアスファルトの路面を力強く突き破って現れた手に掴まれたように重く、建物に近づくことを拒んでいた。建物が拒んでいるのではない。彼が拒んでいる。進む方向を一八〇度変えてまだ離陸していないシースタリオンへ取って返せば、足取りは軽くなり走り出すだろう。実行できないアイディアはいつだって最も魅力的だ。実行できないから。

 

「ここの前はどこに?」

 

「木更津の航空隊。初任地でした。懐かしいなぁ」 

 

「木更津! すごいじゃないか。精鋭空母だ?」

 

「全然、そんなことないですから」

 

 木更津基地と鹿屋基地には戦闘行動半径の長い攻撃機や偵察機が配置され、前線で不足の事態があったときには真っ先にかけつけて情報を収集し、敵艦隊への攻撃を行う。QRFとしての機能も備えていた重要な基地だ。総じて熟練度が高く性能の高い機体が優先的に置かれる。母艦の定数は一隻だがやはり優秀な空母や水母が置かれると聞いていた。

 彼が知っているのはその程度の、ごく概ねの事柄だけだったが、それを全て言ってしまうと瑞鳳ははっきり否定した。

 

「航空隊の空母なんてお飾りですよ。私、あそこにいるときは彩雲しか飛ばしたことなかったんです。基地には目一杯の攻撃機を配置したいからってあそこの提督は言ってました。本来なら水母のポストなんですよ」

 

「彩雲がないとここみたいに遠い所まで攻撃機連れてこれないんだよ。飾りなんかじゃない。自分を悲観するなよ」

 

 瑞鳳の視線を感じた。他人に言うだけなら簡単だ。自分が実行しているかどうかなど考える必要もない気楽な助言。楽観できない状況で悲観するな、だなんて彼が言われれば途方にくれるしかない。

 

「提督はご自分の展望を悲観されたことは?」

 

「あるよ。きっと人よりも多いな」

 

 ここに来れたことを悪いとは思わないが、と一言加えようとしたが飲み込んだ。こんな場面で言ったのでは嫌味の色すら帯びてくる。まさしく余計な一言だろう。それかただの社交辞令と取られるか。どちらにしろあまりいい一言でない。

 

「さあどうぞ。中もご案内します」  

 

 ガラスドアを開けたまま押さえた瑞鳳が庁舎の中を指し示した。ずっと後ろでかすかな風を感じる。シースタリオンは離陸しだしたらしい。退路も絶たれた。ため息をなんとか口の中で押しとどめる。いよいよ全ておしまい、そんな気がした。

 

 

 

 着任申告の文言を言い終えると泊地司令官は彼を休ませて相好を崩したように振る舞った。丁寧に磨かれた跡のある立派な執務机と役職、姓名が浮き彫りされた木製の卓上名札だけで威厳は充分に伝わった。艦隊司令に選抜されてしまったから彼の年齢にあまりに不相応な階級が臨時に付与されているに過ぎず、本来であれば白頭鷲の階級章をつけた高級将校と直接関わることはほとんどない。やはりプレッシャーを感じて胃の辺りが重くなる。そんな彼の心持ちなど伝わるわけもなく、司令官はどこか冷ややかな笑顔のままでいた。薄くなりつつあるが色の落ちていない髪を後ろへ撫でつけ、堀の深い顔立ち。一見すると細見だが顎はがっしりしていた。イギリス海軍の将校だと言われても納得できそうな風貌だと彼は思った。

 

「監視小隊と艦隊が文字通り前線の目になる」抑揚は抑えられているが通る声だった。「ここの艦娘は今のところ瑞鳳一人だから、しっかり意思を通わせて役目を果たしてほしい。中央が解放作戦を立案したならすぐに情報を持っていけるように、それからこちらの海域に侵入しようとする敵は一隻足りとも漏らさないこと。大変な環境ではあるが、しっかり頼むよ」

 

 彼が短く返事すると司令官は小さく頷き、退室を促した。特に期待もなければ失望も感じられない態度だった。きっと前任者はそこそこ上手くやっていたのだろう。あるいは平穏で何もないからこそ、誰がやってもそこそこ上手くいかなくてはまずいか。期待されるポストでは決してない。何か成し遂げようにも横須賀は今のところ北方海域解放に力を割いているからしばらくこちらは注目されない。

 不運も重なった。まさに窓際。誰がやろうと同じ仕事。出世のレースから外された道。

 それをいよいよ自覚させたこの空間から逃げるように出ると、扉の横で控えていた瑞鳳は小さく頷いた。

 

「ここの司令官、どんな人?」

 

「あの人は貴族ですね」瑞鳳は間髪入れずに、真面目な顔で答えた。

 

 彼女なりのユーモアだったのかもしれないが、あまりにイメージ通りの単語が出てきたせいで納得してしまった。上手いことを考えたものがいる。前の艦隊司令がそう呼んでいたのかもしれないし、監督部の下士卒が給湯室でそう呼んでいたのかもしれない。どうであれ、あの見た目や人となりにぴったり当てはまる言葉が発見されてしまった時点でそれは泊地中を大事な命令の文書が受領されるより早く駆け回り、浸透してしまった。下らないが、笑わずにいられない。

 

「前の艦隊司令はあの人と上手くやれてた?」

 

「見た目とは違って気難しい人ではないですから、心配しなくてもいいですよ。それより……」

 

 瑞鳳は彼の方に視線を向けたまま固定し、やがて立ち止まった。つられて彼も歩を止める。どうした、と言いかけて呑み込む。彼を見据える瑞鳳の目からはなんの感情も読み取れない。こうして見るとその瞳にはやはりガラス玉という例えがしっくり来る。無機質で、圧迫される。目線を合わせているだけで、彼の中の全てを読み取られるような気がした。傘を広げられたときに抱いたような些細な感情すらも、全て。

 どうして他人をそんな目で、平気で見る? 彼女の小さな顔に掌を這わせて強引にでもその目をつぶらせたい。

 怒りがそろそろと溢れる瞳で見つめられたときの息苦しさを知っている。失望が滲む瞳の、粉雪に似た柔らかな冷たさを知っている。ではこれは? 彼にはわからない。感情を全てやすりですり減らしてしまった単なる空虚だけがその瞳の無効に広がっているような気がした。

 

「それより、なんだ?」

 

「それより私が提督と上手くやれるか気にかかります」

 

「私の前任と何かあったのなら、正直に話してほしい。そんなこと言われると気になるよ」

 

「何も、何もありませんでした。本当に何も」

 

 彼には瑞鳳の言いたいことが全くわからなかった。おかしな艦娘の上に着けられた。胸の中ではすっかり途方に暮れていた。半年に満たない前線での勤務で精神をすり減らし、参ってしまったのかもしれない。きっと彼の最初の仕事は彼女に精神科軍医への受診を命令することだ。

 

「ならそんな言い方じゃなくても。今はまだ……」

 

 彼の言葉を無視して彼女は両手で彼の右手をそっと握り、引き寄せた。冷たく薄い手だった。細長く、指の形はかっこういいが青白く手の甲には血管が浮き出ている。爪には何も塗らずただ短く整えてあるだけだった。童顔のわりに手はもっと老けたように見える。そのアンバランスさが気味悪く思えてすぐに自分の手を引き戻した。

 何秒かの間、瑞鳳は空を掴んだだけの自身の両手を見た。そして小さくため息をついた。せっかく手ですくった水が指のすきまから全て流れ出てしまったのを惜しんでいるようにも見える。

 

「ごめんなさい。変に思わないで……」

 

「私ならいい。本当に大丈夫なのか?」

 

「大丈夫。提督、最初に聞いてほしいです。瑞鳳は提督の期待にきっと応えますから」瑞鳳は力なく手を垂らして何か言葉を探すように下唇を噛んだ。「だから捨て駒なんかだとは思わないでくださいね」

 

 こめかみの辺りの血管が膨れた。反応を顔に出さないようにするにはかなりの努力が必要だった。自己紹介がしたかったとは到底思えなかった。



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