太陽の子 我が名はカルナ (トクサン)
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インド神話の英雄

「英雄」と言う単語を聞いて最初に思い浮かぶ人物、貴方は一体誰を思い浮かべるだろうか?

 

 世界を救った英雄、人類を導いた英雄、国を救った英雄、発明家の英雄、少なくとも多くの人にとって益となる何か偉業を成した人物を人々はそう呼ぶ。

 藤堂弦にとって、【あなたにとっての英雄は誰か?】と問われれば、恐らく五十年前の笹津トールスを挙げるだろう。彼の人物は現連邦政府を立ち上げた張本人であり、恐らく彼が居なければ今でもヨーロッパだのアジアだの、人々は区域によって別々に生き、世界は幾つもの国に分裂していたに違いない。

 故に彼の成した偉業は世界の統一化であり、全世界を救ったと言っても過言ではない筈。

 何故なら全人類が協力してあらゆる事を成し遂げ、人々は真の結束を手に入れたからだ。

 

 ある人はウィルス・オーマトンの名を挙げるかもしれない。

 彼は超長距離高速航行のウィルス・Oエンジンを開発した、宇宙航行の第一人者である、彼のお蔭で人々は火星と言う名の新たな星を手に入れ、あらゆる資源問題や人口問題、地球環境問題を解決した。

 正しく英雄、百人に聞けば百人頷く天才だろう。

 

 そんな現代の天才、英雄達。

 あらゆる凡人が見上げ、素晴らしいと惜しみない称賛を送り、同時に羨望する対象。藤堂弦もそうだ、彼も下から英雄、天才を見上げて称賛を送る側の人間だ。

 凡愚ではない、しかし天才でもない。

 平々凡々と言うには才に溢れ、しかし鬼才と持て囃される程には能力が不足している秀才止まり。その才が枯れたと自覚したのはいつだったか、それ程遅くも無かった気がする。

 故に、彼はこんなセリフを聞いた時に、思わず笑ってしまったのだ。

 

「貴方の遺伝子の中に、英雄の記憶があります」――なんて。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

「此処の連中は頭がトチ狂っているに違いない」

 

 弦はベッドの上に寝そべりながら、そんな事を呟いた。

 場所はユーラシア大陸、旧ロシア領土山脈の何処か。今となってはその呼称も随分古い物になったが、今はエリア879と呼ばれる辺りだ。詳しくは分からない、ただ備え付けのテレビを点けた時に懐かしいロシア語を目にした事と、端末から大凡の現在地を割り出した結果だった。それも怪しいもので本当かどうかは分からないが、今の弦にとって此処が何処かなど大した問題ではない。恐らくエリア021――日本でない事は確実だ。

 弦は気付いた時には既にこの部屋で寝かせられており、訳も分からず狂乱しそうになったところ、一人の女性がやって来た。

 その女性は懇切丁寧に弦の現状を話し、協力を求めて来たのだ。

 

 曰く、貴方の遺伝子の中には英雄の記憶がある。

 曰く、その英雄は素晴らしい人物で、彼の記憶を手に入れられれば世界的な益となる。

 曰く、長時間拘束する見返りは十分に用意するので、どうか受け入れて欲しい。

 

 そして彼女はこれ見よがしにアタッシュケースなどを取り出し、アース紙幣を三千枚程見せて来た。これだけあれば数ヵ月の拘束など苦にもならない金額である。

 弦は去年成人した二十一歳で、連邦普通学校に通っていた。別段金に困っている訳では無いし、怪しさ満点というか半ば誘拐に近いやり口を糾弾したが、既に学校と両親――弦は片親なので、母には話が付いていると言う。

 承認は兎も角、これは連邦主導の世界プロジェクトだ何だと言われ、弦は一時間程の説得で折れ渋々頷いた。此処の職員――確かノアと言ったか、ノアの管理官だか何だかと言った女性は嬉しそうに頷き、弦に先程の倍以上の金額を支払うと言って上機嫌に部屋を後にした。

 

 それが三時間程前の話である。

 

 ノア――それがこの施設、研究所とでも言おうか、その名前だそうだ。

 連邦のプロジェクト、何でも過去の英雄、天才、傑物の子孫を探し出し、その記憶を覗き見て、天才、英雄の作った――或は持っていたオーパーツの収集、または記憶から子孫の覚醒を促し人工的な進化をさせるプロジェクトだと聞いた。

 その説明を一度頭の中で繰り返し、じっくりと考えた結論が先の言葉である。

 つまり、此処の連中は頭がおかしい。

 

 いや、頭がおかしくなったのは自分もか。

 本当かどうかも分からない話に頷き、了承してしまったのだから。これで次の日には屍になっていたら笑い話にもならない、いや、笑い話どころか話す事さえ出来なくなるのだが。

 兎も角突然の状況に混乱し、その隙を突かれたと言った所だ。我ながら自身の危機管理能力の低さに苦笑を零す。

 

「俺の最後の記憶は何だったっけ……」

 

 弦は目を瞑って回想する。

 元々旧ロシア領土に居た等と言う筈が無く、弦は他の土地から此処に連れてこられた口だ。気付けば――という表現はこういう時こそ使うのだろう。

 なんせ弦の最後の記憶は家で就寝した時、そこから凡そ半日足らずで此処まで来た事になる。自室で横になり、起きたら極寒の見知らぬ土地、何だそれはと思いたくなるだろう。

 

 しかし、部屋は存外に豪華なものだった。

 柔らかく大きなベッドに大画面の投影モニタ、電子書籍が観覧可能な小型端末に掃除、家事を行うAIポッド、大きな風呂にトイレ、トレーニングルームなどというモノまで付いている。

 どこぞのVIP御用達のホテルか、そう思ってしまった弦の感覚は正しいだろう。

 こんな設備を見せられれば強ち連邦のプロジェクトと言うのも嘘では無いと思うだろう、身代金目当ての誘拐ならば汚い個室に詰め込んでおけば良いのだ、これ程気を遣う理由が分からない。

 そこが、英雄の記憶云々に繋がるのだろう。

 

「しかし、俺のご先祖様が何だっていうんだ――?」

 

 弦は疑問符を浮かべながら呟く。

 平々凡々であると自分を評価する訳ではない、寧ろ平均から見れば恵まれた才を持っていると自負している。しかしソレはあくまで平均から見ればであり、遥か天上に座す天才、鬼才には敵わず、ただ苦笑いしながら称賛を送るしかない能の無い人間である。

 そんな自分が、英雄だか天才の子孫であると?

 その血を継いでいると?

 

「ハッ」

 

 鼻で笑った。

 もしそれが本当ならば自分は連邦の学校で腐らずに、もっと上の良い環境で学んでいただろうし、世界に名を轟かせていただろう。それが今現在、こんな研究所だか施設に入れられて不貞寝している自分、それが現実であり真実だ。

 

「まぁ――直ぐ帰れるだろうよ」

 

 弦はそう決めつけて瞳を閉じる。

 自分が英雄の子孫等と言う高尚な存在の筈が無い、きっと何かの間違いだ。

 彼はそう確信していた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「貴方の祖先、その英雄の名は――【カルナ】と言います」

「……? 誰です、ソレ」

 

 頭部に奇怪な装置を装着した弦、その装置は何と表現すれば良いか、大きすぎず小さすぎず、リング上になって弦の頭部を囲っている。これで弦の遺伝子だかDNAだか、良くは分からないがソレから記憶を読み取るらしい。

 午前中に精密検査と言う名の肉体労働を強いられた弦は、内心で辟易しながら午後の記憶没入事前試験を受けていた。要するに記憶を覗き見る為の耐性確認である、聞けばコレには適正があり、余りに酷いと発狂してしまうらしい。

 よくもまぁそんな危険な事をと思ったが、そうならない様に事前試験があるとの事。

 ご尤もである。

 

 弦の前に座るのは白衣を着た神経質そうな女、ツリ目に眼鏡で如何にも正確が苛烈そうな人物だ、昨日弦に色々と話に来た女性と同一人物である。名はミーシャと言うらしい、覚える気は無いが。

 彼女は何でも弦の記憶没入担当官らしく、要するに色々世話をしてくれる人である。日常世界のちょっとした相談、必要な物の申請、メンタルケア等々、英雄の子孫一人に一人が担当官として付くらしく例外は無いらしい。

 

 その彼女の口から出た名前――カルナ。

 

 弦が知る限り、そんな名前の英雄は記憶の何処にも引っ掛からなかった。一体いつの時代の英雄だろうか、まさか遥か昔の、それこそ第二次文明の時の英雄か何かだろうか。

 一体何を発明した人だ、何を成した人だ、弦は首を傾げた。

 

「この英雄は遥か昔の叙事詩――マハーバーラタに出て来る不死身の英雄です」

「不死身……サイバネティクス手術とか、ナノマシン・インディフェンスでもした人ですか? 凄いですね、遥か昔にもそんな技術があったなんて」

「いえ、そんな事はしていません」

 

 手術も無しに不死身だと? 弦は非常に驚いた、個人のデータ化ならば不死性を獲得したともいえるが、よもやその英雄とやらは肉体を捨て去ったのだろうか。弦としては一生データベースの電子世界で生きるなど勘弁と言わざるを得ない。

 しかし弦の考えている事が分かったのか、ミーシャは小さく溜息を吐きながら告げた。

 

「電子化も、手術も行っていません、彼は生まれながらにして不死身と言われていたのです――まぁ、最後は結局死んでしまいますが」

「……それは不死身とは言わないのでは?」

 

 現代ならば訴訟ものである、サイバネティクス手術元を訴えて慰謝料ガッポリだ。

 ミーシャは弦の言葉に眉を顰めながら、手元の資料をパラパラと捲った。分厚いファイルである、一体何枚のプリントが挟まれているのか。

 そして一枚のプリントを見つけたミーシャは、それを弦に手渡しながら言った。

 

「――英雄カルナは、ヤドゥ族の王シューラの娘クンティーと、太陽神スーリヤとの間に生まれた英雄です、太陽神の子である彼は父であるスーリヤと同じ黄金の鎧と耳輪を纏い、不死身の大英雄と呼ばれるに至ったのです、つまり貴方の祖先は半神の――」

「ははははは」

 

 弦は乾いた笑みを零した。

 無論視線は渡されたプリントに向けられている。

 この人頭おかしい、ぶっ飛んでやがる。

 

「太陽神? 黄金の鎧ィ? それで不死身だって?」

 

 何だこのデタラメを並べた文章は、明らかに創作の類だと分かる。

 弦はプリントを指で叩きながら薄ら笑いを浮かべた、明らかに相手を馬鹿にしている笑いだ。

 まず太陽神という存在が弦的には大爆笑だ、神と言う存在が消えてから随分久しいが、ブッダやらキリストやら、昔は宗教という奴が盛んだった。しかし現在観測できる宇宙上にそんな偉大な存在が発見できず、見る事も触る事も出来ない存在をどうやって信じろと言うのか。

 精霊と交わって子をもうけた? 死んで生き返った? 神の怒り? 恵み? 

 知った事ではない、この世の全て、寄る辺は科学だ。

 

「申し訳ありませんが、貴女はこれを大真面目に信じているのですか? 女性が神様と交わって、黄金の鎧を着た子どもを産んだと? それで不死身? 高々黄金を叩いて作った鎧で、不死身? この鎧は宇宙航行艦隊のモーフィス粒子砲、或はGTB爆撃を受けても無傷なのですかね? だとすれば大変素晴らしい! どんな天才の発明もコレには及ばない、着るだけで不死身になれるなど、つまり鎧を量産して人々に配れば全員が不死身になれる訳だ」

 

 弦は盛大な皮肉を口にした、こんな奴が本当に居たなら大口開いて笑ってやろう。

 聞いた事も無い英雄だ、弦が精々知っている昔の英雄と言えばエジソンだとかテスラだとかアインシュタインだとか、その辺りである。あの辺りが最古の英雄だろう、この世の原理を解き明かした偉大なる英雄だ。

 しかしこの英雄は何だ、名も聞いた事が無い、挙句に黄金の鎧を纏った不死身の人物だと?

 仮に、その情報が正しいとして――だから何だ。

 電気工学を極めた訳でもない、無線機を発明した訳でもない、雷を日常に齎した訳でもない、万有引力を発見した訳もでもない、真理に通じる数式を導き出した訳でもない、宇宙航行エンジンを作った訳でも無い、モーフィス粒子を発見した訳でもない。

 そのカルナとやらは一体何を人類に齎したんだ?

 

「太陽神とやらも馬鹿馬鹿しい、生まれた時から黄金の鎧を着ていたというのも信じられない、それに不死身だから何だと言うのです、人は己の力で不死に至った――今更そんな金メッキの鎧を見て、何になると言うのか」

 

 弦は呆れかえっていた、或は自身の考えが正しかったと確信した。

 つまりコレは連邦主導のプロジェクトなどではなく、単なる金持ちの道楽か、若しくはオカルト狂いのイカれた連中の妄言だと。百歩譲って神の概念を信じると言う程度であるならば弦も微笑んで受け入れよう。

 そうだね、神様は居るね、キリスト様も居るよ、ブッダ様も居るよ。

 けれど、それはあくまで君達の中には――という注釈が付く。

 そんな妄言に巻き込まれては堪ったモノではない、微笑みは呆れに代わり、ちょっと妄想に巻き込むのはやめて貰えます? と肩を竦める位はしたい。それが更に自分の先祖で英雄だと。

 妄想も此処まで来ると素晴らしい、賞賛に値しよう、君達は妄想の天才だ。

 

「すみません、俺はもう帰りたいのですが、良いですか? あのお金も要りません、何をされるか分かったモノではないので、あぁ、別に連邦警察に通報とかはしませんよ、ただ学校の欠席分と帰りの運賃位は貰いますけどね、これ位は当然でしょう?」

 

 弦は薄ら笑いを浮かべながら頭部の装置を外そうとした。多少信じかけていた数時間前の自分を殴ってやりたい、コイツ等は遥か昔に神様が存在して、人々を天から見守っていたと信じるイカれ狂信者だ。

 

 弦の薄ら笑いを見ながら、ミーシャは小さく息を吐き出す。

 こんな反応をするのは想定内だとでも言いそうな表情、正直に言って腹が立つ。しかし弦は何を言われても言い返す事はしないと決めていた、こういう連中はムキになって説得したとしても逆効果だ。

 連中の中には確かに神が存在し、「信じる者は救われる」だとか「神々は我々を見て下さっている」とか言っているのだ。こんな男一人の言葉で易々と考えは変わらないだろう。

 

「えぇ、まぁ――他の方々がそうでしたから、直ぐに信じろとは言いません……ですから」

 

 パタンとファイルを閉じたミーシャは、弦の馬鹿にした笑いに対し何か反論する訳でもなく。

 その手元にあった小さな端末、その表示されている【没入】のボタンに軽く触れた。

 

「実際にその眼で見るのが一番良いでしょう」

「――は」

 

 弦は思わず口を開く。

 瞬間、ガツンと――巨大な金槌か何かで頭部を殴られた様な、凄まじい衝撃を受けた。

 思わず頭部に手を伸ばすが、それより早く視界が引っ張られる。まるで脳の奥にめり込む様に、端から黒色が全てを覆い隠した。何だ、一体どうしたと言うのか、弦が混乱の余り叫ぶより、意識が飛ぶ方が早い。

 弦が最後に見た光景は、何か期待する様に薄ら笑いを浮かべたミーシャ。そんな彼女の姿を見ながら弦は意識を失い、次に起きたら殴り飛ばしてやると内心で決意した。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「カルナ、おい、カルナ――」

「――は」

 

 目が覚めた。

 呼ばれている、自分の名だ――カルナ、いや、待て。

 カルナ? そう、俺の事……いや違う、何かが噛み合わない。

 

 視界に幾つか斑模様が浮かび上がり、光に目が眩む。白昼夢を見ていた様な気分で額を撫でた後、何度か瞬きを繰り返して頭を振る。それでも視界にこびり付くベールの様なモノは振り切れず、胸に一抹の不快感が残った。

 

「カルナ、どうした、体調でも優れんのか? お前が不調を見せるなど珍しいではないか、明日は森で獣共が宴でも開くのか?」

 

 前方から聞こえる声、渋く、しかし不思議と安心を覚える声。未だに定まらない視界で声の方を見れば、偉く豪華な、ゆったりとした衣を着た男が椅子に座っていた。椅子と言うより王座という表現が正しいだろうか、凄まじい装飾の施された王座。

 男はジャラジャラと多くの金品を身に着け、その向こう側に見える肌は浅黒い。しかしその顔は恐ろしく整っており、表情は小さく笑っていた。

 

「――何、問題は無い、ドゥルヨーダナ、少々目が眩んだ……我ながら情けない」

 

 すらすらと。

 まるで当然の様に彼の名を呼び、笑みを浮かべて見せる男――カルナ。

 

 それに驚いたのはカルナ本人であり、何故自分が目の前の男を知っているのか、そして自身がカルナという一人の男であると疑問を抱かないのか、不思議であった。まるで男の記憶がそのまま思考に張り付いた様な、正に心体共に融合を果たした様な感覚。

 カルナは自身の記憶を掘り起こそうとして、しかしプツン、と。

 何かが切れる音がした。

 同時に、カルナの中から一切の疑問が無くなる。

 己はカルナであり、それ以外の何者でもない。そう心の底から納得してしまった。

 

「ふむ、先の狩りで少々無理をしたか? いや、お前に限ってそれはあるまい、ともあれ、不調であるならば休息を取らせてやるのも吝かではない、我も親友に無理を強いる程狭器では無いのでな」

「冗談はよせドゥルヨーダナ、俺は狩りの一つで息を荒げる程軟弱ではない、それは良く知っているだろう?」

 

 どこか白々しいドゥルヨーダナの言葉にカルナは薄ら笑いを浮かべながら告げる、そしてドゥルヨーダナもまた本気ではなく、「無論、なに、ちょっとした戯れと言う奴よ」と小さく笑い声をあげた。

 彼はカルナが不調であるなど、微塵も思っていない。

 

「しかし我を前にして上の空と言うのはどうだ、実際多少なりとも疲労があるのではないか? 盲目の王、その子である我より先に目を失うなど笑い話にもならんぞ、悪い事は言わん、休める時には休んでおけ、これは王としてではなく、莫逆の友としての言葉だ」

「――その言葉、有り難く受け取ろう」

 

 王座に凭れ掛かり、頬杖を着きながら放たれた言葉、それをカルナは甘んじて受け入れた。カルナ自身、最近は大した休息も取らず動き続けていた自覚があった。昼夜問わずの修練に次ぐ修練、それは他ならぬ宿敵が生まれた故に。

 

「昼も夜も弓を引き、槍を突き、剣を振るう、天武の才を持つお前の事だ、乾いた大地の様にそれらを容易く吸収しているだろう、だが無理が祟って倒れるなど、無様を見せてはくれるなよ?」

 

 呆れたように、しかし確かな信頼を感じさせる発言。カルナはドゥルヨーダナに向かって笑みを浮かべ、「勿論だ」と頷いた。カルナは友に飢えていた、故に唯一の友であり、仲間であり、同時に仕えるべき王である彼にカルナは従う。

 ドゥルヨーダナはカルナを王としている、しかしカルナにとって王は彼一人。

 ならば王である彼を守るのはカルナの役目。

 

「俺が無様を晒せば、それはドゥルヨーダナ、君の名に泥を塗る事になる、それだけは決して許されない、だからどうか安心して欲しい」

「……ふん、先の言葉は我の名誉だ、体裁だ、そんな事の為に言ったのではない、友の身を案じるのも我の役目だ、別に名に泥を塗ろうが何をしようが知った事ではない、お前が壮健であるならば良いのだ」

 

 そっぽを向き、そう吐き捨てる我が王。

 彼は他者にこそ厳しく、嫉妬もするし妬みもする、恐らくカルナが知る中で最も人間らしい王だろう。故に敵対者には容赦もなく、興味を抱かぬ他人にも同じ、しかし懐に入った人間に対しては恐ろしく寛容であった。

 

「この俺に、壮健で在れと、そう言うか」

 

 カルナはそんなドゥルヨーダナに対して苦笑を零す、太陽神と同じ黄金の鎧を秘めたこの身は決して死を迎えぬ。壮健であれ、と言うのであればカルナは常に壮健そのものだ。

 

「無論よ、我は何度でもお前に言おう、如何に黄金の鎧があるとは言え、痛みはあるし、病にも罹る、壮健で在れと願って何が悪い?」

 

 憮然と、何を当たり前の事をと言う様に口を開くドゥルヨーダナ。そんな事を言うのは君位だと、しかしカルナは暖かい感情を胸に抱いた。

 カルナの出自、その秘密を知る者は極一部のみ。そしてドゥルヨーダナに至ってはカルナが自ら打ち明け、彼はそれを笑みで以て受け入れた。それ程に友を想う彼の言葉、無下にする事は出来ない。

 

「分かった、君が望むのなら、俺は常に壮健で在ろう、このカルナ――こと頑丈さに於いては少々自信がある、俺は誰よりも壮健で在ろう、約束だ」

「ふん、当たり前だ、お前が永遠の時を生き、この我の偉業と伝説を後世に語り継ぐのだ、その役目は他ならぬお前にしか出来ぬ、否、この我が、お前に頼んだのだ」

 

 この世に永遠など存在しない、ドゥルヨーダナは確かに賢者として讃えられるには才が足りぬ、しかし永久という言葉を容易く信じる程愚者でもない。

 真剣な面持ちで、しかし僅かな微笑みを浮かべた彼の言葉をカルナは穏やかな顔で受け入れた。彼が生きろと言うのであれば、自分は必死に生きよう。そして伝えろと言うのならば伝えよう、唯一無二の友の頼みだ。

 この身朽ち果てるまで、その約束を果たすとする。

 

「んんっ……さて、少々話し過ぎたな、未だ報告の途中であっただろう、しかし大凡の話は掴んだ、もう良い、カルナよ、お前は少し休息と取れ、この我が許す、三日程体を休めると良い」

 

 ドゥルヨーダナは何度か喉を鳴らし、そう口にした。カルナは宮殿の中に私室を彼より与えられている、殆ど使用した試しがないがドゥルヨーダナは暗に其処で体を休めろと言っていた。

 卑しい身と蔑まれる己にとっては上等すぎる部屋だが、ドゥルヨーダナの厚意に甘えよう。カルナは一つ頷き、彼の提案を受け入れた。

 

「分かった、言う通りにしよう、此処三日は体を休めるさ」

「そうすると良い、もし三日以内、お前が修練している姿を見たら恐ろしい罰を与える、それが嫌なら精々大人しく体を休めていろ」

「それは怖いな、言われた通り、確り休むとしよう」

 

 ドゥルヨーダナの言葉に対して肩を竦めるカルナ、その口調は彼の言葉を真に受けていないと分かるものだった。しかしドゥルヨーダナがそれを咎める事は無く、カルナとドゥルヨーダナは互いに緩い笑みを浮かべ、小さく笑い声を上げた。

 

「では、また後で、親友(とも)よ」

「あぁ、精々英気を養うと良い、親友」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「ぐァッ――!?」

 

 頭痛、そして視界に光が弾ける。飛び起きようとした体は何かに抑えられ、思わず周囲を忙しなく見回す。今まで自分は何をしていた――周囲の景色は見慣れない白色。そして自分の隣には、冷静に此方を見つめる女が座っていた。

 誰だこの女は?

 いや、自分はコイツを知っている。

 女は手元の端末を何度かタッチし、それから小さく頷いた。

 

「一度目の没入は成功です、さて、貴方に問います――貴方のお名前は何ですか?」

「っ、ぅ、名前……?」

 

 女は意図の分からない質問を飛ばす、そして静かに自分を見ていた。額に手を当てながら頭痛を堪える、それから覚束ない思考のまま口を開いた。

 

「何を言っている、俺はカル………いや、ぁあ、そうだ、俺は藤堂弦だ」

「――自意識はあると、ふむ、没入適正がずば抜けて高いのは良い事ですが、高過ぎるのも考え過ぎですね、僅かにですが人格重複の前兆が見られる」

「……何だソレ」

 

 人格重複、没入を繰り返すと記憶の中の英雄と人格が重なってしまうのです、つまり自分を英雄本人だと考えてしまうのですよ、良くも悪くも英雄と言うのは我が強いので、適正が高い方程なり易い傾向にあります。

 そう言って端末を弄り、弦の頭部にあった装置を取り外した女――ミーシャは弦の拘束を解いた。

 十分程度の拘束だったらしいが、体はガチガチだ。恐らく緊張からだろう、見れば僅かに手は震えていた。

 

「さて、お疲れ様です弦様、初の没入はどうでしたか? 遥か古代の英雄カルナ、その日常の一幕、今回は試験も兼ねた没入でしたので十分程度の体験でしたが、信じて頂くには十分でしょう」

「………」

 

 弦は己の手を見下ろす、見慣れた手だ、父と母の人種は異なるが元々黄色人種の己である、その手はカルナの手と違って浅黒くない。

 顔をペチペチと触れば分かった、俺は藤堂弦である、それ以外の何者でもない。

 

「あれが、記憶なのか、VRや電脳空間では無く……?」

 

 弦は呆然と呟く、それ程までに先の体験は衝撃的であった。カルナと、確かドゥルヨーダナと言ったか。遥か古代に存在したインドという国、その英雄達の一幕。

 

「電脳空間であるならば、あそこまでリアルな空気の感触、匂い、湿度、風などを表現する事は不可能でしょう、何なら信じて頂けるまで没入を繰り返しても構いませんが?」

「……いや、遠慮する」 

 

 ミーシャの言葉に弦は力なく首を振った、そしてそのまま没入用の椅子に身を預ける。手で目を覆えば先の光景が瞼に浮かぶ、自身の遠い祖先だというカルナ、そしてそのカルナが親友と呼ぶ男、ドゥルヨーダナ。

 弦の脳には断片的にカルナの記憶が残っていた、アレはクル族王家が主催した競技会より二ヶ月後の時期だ。カルナは宿敵の存在に自身の武を高める事に熱を上げ、ドゥルヨーダナはそんなカルナを諭していた。

 

「貴方の自室の端末に叙事詩、マハーバーラタを簡潔にですが纏めた書籍をインストールしてあります、古書故に少々正確性には欠けますが参考程度にはなるでしょう、一度目を通す事を推奨します」

「……あぁ、分かった」

 

 目を覆って椅子に凭れ掛かる弦の耳に、隣のミーシャが立ち上がる音が聞こえた。そしてそのまま、「では」と一言添えて退室してしまう。弦はその後も数分程身を預けたまま微動だにせず、ただ自身の身に起きた事を飲み下していた。

 

「英雄、インド、カルナ――? その男が、本当に俺の祖先だと、そう言うのか」

 

 だらりと両手を降ろした弦は、呆然と天井を見上げる。

 黄金の鎧は確かに存在した――己の身を守る黄金の鎧、しかしソレは目に見える金属の鎧なのでは無かった。肉体に宿る、或は常に粒子として渦巻いている、と表現しても良い。

 あの時代に物体の粒子化など不可能、遥か古代のインドの戦士達は粒子銃で戦っていたのか、という話になってしまう。そんなのはあり得ない、またテレポートによる粒子転送は遠い異星にこそ飛べるが、時間の逆光、未来への転送は不可能なのだ。

 

「神は存在した……とでも?」

 

 人間は科学で証明できないものを【神】という、便宜上の万能者の仕業とした。落雷も、豪雨も、積雪も、全て神の怒りと称された。故に文明の整っていなかった前時代は神の信仰が一般的とされていたのだ。

 

 しかし、今の弦は認めざるを得ない。

 あの黄金の鎧がミーシャの言う通り、不死性を会得させるものかどうかは知らないが。あんな物質の粒子化は、あの時代、あの文明で成し得るものではないと。

 

「未来の誰かが逆行し、彼に与えた……? 馬鹿な、そんな理由が無い、何より連邦は矛盾を嫌う」

 

 それが出来るのならば歴史など穴だらけの虫食い状態だろう。

 弦は椅子から立ち上がると未だに覚束ない足取りで部屋を出た、扉を挟む様にして二人の警備員が立っており、弦を見るや否や敬礼を向けて来る。来る時も弦を護衛した二人だ、或は見張りとでも言うべきか。

 

「……部屋に戻る」

「はっ、先導します」

 

 一人が弦の前に立ち、もう一人が背後に張り付く。傍から見れば護衛とも捉えられる、しかし気分としては囚人だ。研究所ノアは存外広く、自室に辿り着くまで五分程の徒歩移動を余儀なくされた。結局警備員二人は移動中一言も話す事無く、周囲を警戒すると言うよりは弦本人に意識を割いている感じであった。

 

「では、我々はこれで、何か御用があれば――」

「端末で担当を呼べ、だろう? 大丈夫だ、放って置いてくれ……」

 

 弦は部屋に着くや否や警備員に向かって手を払う。

 それを見て互いにアイコンタクトを交わした警備員は、「では、失礼します」と敬礼をした。自室の入り口まで護衛と言う名の監視を行った二人は弦が部屋に入った事を確認し施錠を施す、特定のパスを持たなければ解除できない堅牢な扉だ、牢屋と言っても相違ない。

 弦は背後で扉の閉まる音を聞きながら、部屋に備え付けられた端末に足を向けた。手を翳せば勝手に電源が入り、その液晶からホログラムが飛び出る。

 

「インストールされた書籍の検索、名はマハーバーラタ……だったか」

『検索――該当アリ、携帯端末に書籍を転送、タグは旧インド神話、叙事詩』

「あぁ、多分それだ」

 

 弦はホログラムに再度手を翳して停止させると、ベッドの上に放られた携帯端末を手に取る。画面に触れると立体文書が飛び出し、マハーバーラタのダウンロードを開始した。そして数秒でダウンロードを終えた端末は、弦の目に書籍の文書を映す。

 それは嘗てこの世に存在した叙事詩、神話の一つであった。

 

「ドルパダ王、ドローナ……パーンダヴァ、弟子――カルナ」

 

 弦が文書をスクロールすると、カルナの名が所々に見えた。文章自体はそれほど長い訳でもない、用紙の枚数にして凡そ五十枚程だろうか。弦はその五十枚を一心不乱に読みふけり、三十分ほどでカルナの最後まで辿り着いた。

 

 即ち、カルナは死ぬ運命にある。

 

 当たり前だろう、人はいずれ死ぬ、人体の電子化でもしない限りは永遠の命など御伽噺に過ぎない。しかし弦は実際に目にした、その黄金の鎧を。そしてカルナの身と一時的にとは言え融合した弦は、あの男が誰かに殺される等とは思えなかった。

 一度の没入だけでも分かる、成程確かに、あの男には英雄と呼ばれる資質があった。驚異的な精神力、恵まれた才能、勇敢さ、恐らく『英雄』という言葉が時代と共に変質したのだ。本来はあぁいう、凄まじい闘志に満ちた男の事を指す言葉だったのだろう。

 弦は死の原因となったページを表示し、顔を顰めた。

 死の間際、カルナは黄金の鎧を持っていなかったのだ。

 

「奪われた、鎧を? 誰だこのインドラとかいう奴は……僧に化けた? 神が?」

 

 神が一個人に肩入れし、ましてや化けて騙してまで黄金の鎧を奪った。

 その事実が書かれていた部分を弦は顰めっ面のまま熟読、そして鼻で笑った。

 成程、所業だけを見れば如何に俗物的であるか分かる、コイツは神の皮を被った人間だ。同時に弦は神の存在を認めた、もし記憶に没入する中でコイツが本当に現れたなら、信じてやると。万人公平、平和万歳、隣人を愛す、そんな神を弦は信仰しない。しかし、こんな人の近しい感性を持った神が居るとするならば弦は認めた。

 尤もそれが、神と呼ばれるに相応しい存在かは疑問だが。

 是非とも過去神を信仰していた連中に見せてやりたい、お前等の神は随分と俗に塗れた真似をするなと。

 

「しかし、あぁ、成程、カルナがその神様モドキの血を半分受け継いでいるのなら、あの感覚も納得だ」

 

 弦はカルナと混じった時の感覚を思い出し、頷く。あの気力が充実した感覚、万能を手にしたような全能感、遥か遠くまで見渡せそうな程視界は良好で、思考に曇り無し。あれが英雄の器という事なのだろう、此処の人間に言われた事を信じるのならば、自分はその血を受け継いでいる訳で――

 

「冗談だろ………とは、言えなくなってきたな」

 

 携帯端末を放って、弦は天井を見上げた。最早トチ狂った考えだ、夢だ、妄想だ、などと喚く事は出来ない。実際その光景を見せられ、他ならぬ自分自身で体験したからだ。弦は確かに頑固であるが、自身の考えを絶対に変えないと豪語する程馬鹿でも無い。自身のソレが間違いであると理解したならば、それに馴染むよう努力する程度には柔軟な男だ。 

 

 弦は可能ならば原典を取り寄せて貰おうと考えた、手元にある資料はマハーバーラタを簡潔にまとめた物に過ぎない、あの記憶に潜る以上素の知識は大いに役立つ。今後の展開をある程度知っていれば上手い立ち回りが出来ると考えたのだ。無論、ただの記憶である以上大凡の筋書きから飛び出す事は出来ないだろう、しかし精神的な負担は段違いだ。

 

「問題は、この神話――叙事詩の内容だな」

 

 マハーバーラタという物語を簡潔に語るならばこうだ。

 

『百人の王子と、五人の王子が王位継承権を争う物語』

 

 パーンダヴァと呼ばれる勢力と、カウラヴァと呼ばれる勢力が互いに争い、鎬を削る。

 そして恐ろしいのは五人の王子側――パーンダヴァと呼ばれる勢力、その五王子は全て神の血を引いているという点。

 つまり百人の凡人と、五人の神の子が戦うのだ。

 

 それだけ聞けば正しく正義と悪だろう、神が間違う筈が無い、神は常に勝つ、前時代的な人間が好きそうな言葉だ。実際問題、百人の王子は――実際はドゥルヨーダナだが――あの手この手で五人を暗殺しようとする、正に悪の所業だ。

 そして何より笑えるのが、カルナがカウラヴァ――悪の側であるという事。実際カルナは太陽神の血を引いているので五王子の側に立つ人間なのだが、母に捨てられ御者の息子として生きて来た彼にとっては今更な事なのだろう。

 

 文書にはカルナという男が、強気で、負けず嫌いで、大口を叩く人間として書かれていた。

 実際弦はその評価が正しいモノだと実感している。

 

 そして何より弦が皮肉に思った事が、神が正道を反する、正に外道な真似をして勝利を得た点だった。最後は正義、もとい神が勝つ、しかしソレは物語然とした綺麗で完璧な勝利ではなく、騙し、不意を突き、戦意を削ぎ、凡そ神が行う事柄としては最低最悪の部類であった。

 

 






 大学図書館でマハーバーラタの本を借りようとしたら貸出禁止でした、ですよね。
 仕方ないので中で読んでました、インド本場でもカルナの人気は凄まじいらしいです。
 しかしカルナはかなり熱い男だった様で(悪い意味でも良い意味でも)
 一度和訳されたマハーバーラタ本編を読んでみたいものです。
 少なくとも物理学や電磁気学の本よりは面白いですから(白目)
 
 さてさてGW中に新作を投稿しようと決めていた私ですが、微妙に筆が進みません。
 更新は不定期になると思います。
 
 今回はヤンデレあるか微妙なので、タグは付けませんでした。
 けれど恐らく、タブン、絶対、作中には何処かにブッ込まれる気がします。
 ただヤンデレメインの話ではないので、まぁ此処は一つ寛大な心で見てやってください。


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太陽の子

 暫くの間ベッドの上で横になり、天井を見上げていた弦。その脳内で考える事は英雄カルナの事、そして彼が辿る人生について。部屋には自身の呼吸音だけが聞こえ――しかし不意に、コンコンと、何かを叩く音がした。

 

「……?」

 

 その音に、弦は思わず自室の扉に目を向ける。しかし認証式の扉を態々ノックする必要は無いし、担当の女性ならば入室前に声を上げる筈。弦は周囲を見渡し、先の音が壁から発せられている事に気付いた。

 再度、コンコン、と音が鳴る。

 

「何だ?」

 

 疑問符を浮かべで壁に近付く弦、そうすると音は部屋の隅、丁度ゴミ箱の置かれた辺りから聞こえていた。壁を直接叩く音ではない、何か硬質な物同士をぶつけている音だ。弦がゴミ箱を持って退かすと、部屋の床に沿う形で小さな白い布が壁に被さっていた。

 

「………布? 何でこんな物が」

 

 思わず口に出してしまう。

 弦の部屋は一面白色である為、遠目で見る限りは分からない。しかしゴミ箱を退かしてじっくり見れば、明らかに質感が違う物だと分かった。布は両面テープか何かで張り付けられていて、しかし下の部分は何も張り付けられていない。

 弦が布を捲ってみると、その向こうは空洞になっていた。分厚い壁を削り取ったのか、数十センチ向こうには弦の部屋と同じ、白い壁が見える。

 抜け穴か――?

 弦は眉に皴を寄せた。

 

「あ、あの」

「――!?」

 

 声が聞こえた。

 緊張を孕んだ女性の声だ、弦は思わず驚き、慌てて布を元に戻した。驚きの反面、弦は冷静に思考を回す。何故穴が空いているのだとか、お前は誰だだとか、色々考える事はあったのだが、冷静に考えれば穴の向こうは隣の部屋と言う事になる。

 その女性が誰であるか――それは既に答えが出ている様なものだった。

 

「……もしかして、俺と同じ被験者――?」

「は、はい、そうです、その、隣の部屋の……」

 

 成程、どうやら同じ境遇の仲間らしい。穴を覗き込んでみれば誰かの白い手が見えた、どうやら向こう側の人は床に座り込んでいる様子。弦は無意識の内に大きく安堵していた、同じ境遇の奴が居るというだけで人は何となく安心してしまう、それは弦も同じだった。

 

「あ、えっと、確か弦さん……でしたか?」

「え、あ、あぁ、そう、だけれども」

 

 何故名前を、そう呟くと女性は、「すみません、その、声、聞えてて」と慌てた様に弁解する。あぁ、そうか、穴が空いていると言う事は担当とのやり取りも、聞こうと思えば聞けるという事だ。

 弦は変な事を呟いたりしていないよなと、一人羞恥心を覚えた。

 

「あ、アンタも此処に無理矢理連れて来られたのか?」

「はい、私も気付いたら此処に……英雄の子孫だ何だって言われて」

 

 羞恥心から逃れる為に慌てて質問を飛ばせば、彼女は肯定の声を返す。それは弦と全く同じ状況だった、どうやら彼女も英雄の血を引いているらしい。自分と同じ様な奴が一体何人居るのか、弦は少しだけ悪寒を覚えた。

 

「弦さんは、昨日此処に来たばかりですよね……?」

「あぁ、そうだ――アンタは此処、長いのか?」

「いえ、私も四日前に来たばかりで……この穴も、暇で部屋を歩き回って居たら見つけたんです」

 

 どうやらこの穴は彼女が空けた訳ではないらしい、となると先人が作ったモノなのか。そうならば前にこの部屋に住んでいた奴は何処に行ったのか、部屋替えをする必要性は感じない。先人は用済みになって帰されたのか――或は。

 弦はその先の事を考えない様に首を振った。

 

「……アンタ、出身は」

「私ですか? えっと、エリア544です、昔はイギリスって呼ばれていました」

 

 壁に寄り掛かる様にして座り込んだ弦は、ふとそんな事を問いかける。どうやら彼女は500番台の地区出身らしい、少しだけ驚いた。弦の通う連邦普通学校では見ないナンバーだったのだ。どうやら本当に世界中から英雄の血を引く連中を連れてきているらしい。

 

「5ナンバーか、珍しいな」

「そうですかね……? じゃあ、弦さんは?」

「021、昔は日本って呼ばれていたよ」

「0ナンバー! 私、ゼロの方と逢ったのは初めてです」

 

 基本的にアジアには0ナンバーが付けられる、やはり向こうには少ないらしい。丸っきりいないと言う訳では無いのだろうが、やはり数は少ないのだと思った。その後彼女は何かを口にしようとして、しかし自分が未だ名乗っていない事に気付き自己紹介を始めた。

 

「弦さんは――って、私ばかり名前を知っていて、申し訳無いですね、遅ればせながら自己紹介を……私の事はウィリスと呼んでください」

「ウィリス、ウィリスか」

「聞き慣れませんか?」

「いや、何となく響きが綺麗だと思って」

「それは……ありがとうございます、名前を褒められたのは初めてですよ」

 

 彼女――ウィリスはそう言って笑う。

 顔の見えない相手と壁越しに話すという体験は弦にとって初めての事だった。相手がどんな人間なのか、どんな顔をしているのか、全く分からない。だが不安は覚えなかった、少なくともこんな状況で出会った唯一の仲間だ、弦は無条件で一定の信頼をウィリスに置いていた。

 

「そう言えば、弦さんは何歳なのですか?」

「俺か? えっと、今年で二十一になった、連邦学校に通っている最中だよ」

「あら、じゃあ私の方がお姉さんですね! 私は今年で二十四ですよ、連邦学校を卒業して、今はウィル・O社で働いています」

「それは……随分と優秀なんだな、敬語を使った方が良いか?」

「いえいえ、折角出会えた同じ境遇の仲間、ここはフランクに行きましょう」

「随分と寛容と言うか、何と言うか……じゃあ、御言葉に甘えて」

 

 その後、弦は様々な質問をウィリスに飛ばした。

 この部屋の使い方、出来る事、出来ない事、注意すべき事、このノアでの過ごし方。

 ウィリスは優秀だった、少なくともケツの青い自身よりも余程柔軟で、頭が回る人間だった。此処に連れて来られた日から今日まで、何が出来て何が出来ないのか粗方調べたというのだ。

 

「基本的に、欲しいと言った物は何でも手に入ります、ただ通信機器の類は禁止されていて、ネットワークの利用も非常に限定的なものです、少なくとも第三者に連絡出来る様なモノは申請出来ないみたいです、それ以外は本当に何でも、漫画でもゲームも食べ物でもベッドでも、伝えれば部屋の改装まで出来るみたいです」

「それは……何て言えば良いんだ、豪華な牢獄?」

「強ち間違った表現でも無いと思います」

 

 苦笑を零しながらそんな事を言うウィリス、彼女は更に「又聞きですけど、部屋にプールを作った人もいるらしいです」と続けた。

 それを聞いた弦は随分と順応している奴が居るんだなと思った。一体一人に幾らの金を使っているのか。

 

「此処の生活は数日に一回、或は一日おきの没入さえ済ませれば殆ど自由で生活の保障された、非常に居心地の良いモノです、正直に言えば少しだけこのままでも良いかなー……なんて思っている私も居ちゃって」

「まぁそうだよな……ウィリスの話を聞く限り、どうにも、悪い生活だとは思えない」 

 

 弦はそんな事を口にしながら、しかしこのノアという場所を欠片も信用していなかった。この素晴らしい環境は、釣った魚を逃がさない為の餌、もしくは鉄条網の代わりだ。最終的にその魚がどうなるかは分かり切っている。

 暴論だろうか? だとしても構わない、弦はあくまでノアを敵視する方針であった。

 少なくとも人を強引に誘拐して来て、大金見せびらかし実験を強要する連中を弦は腹の底から信じる事が出来なかった。

 

「此処での生活は分かった、もう一つ聞きたい事があるんだ、肝心の没入の事なんだけれど――」

 

 弦が一番肝心な事を聞こうとした時、向こう側から「ウィリスさん、失礼します」と声が聞こえた。恐らく彼女の担当だ、ウィリスが慌てて立ち上がり、弦も急いで穴をゴミ箱で塞いだ。

 

「人が来ました、また後程……!」

「分かった」

 

 そのまま何事も無く弦は穴から離れ、ウィリスの声も途切れる。穴を塞いで離れれば殆ど向こうの音は聞こえず、部屋には静寂だけが満ちていた。連中に穴の事がバレてしまえば不利益が生じる、少なくとも意見交換はできなくなるし、此処での知識源が失われる。馬鹿正直に担当に問う訳にはいかないのだ、弦にとっては生命線に近かった。

 

「――取り敢えず、暫くお預けだな」

 

 互いの安全、人が居ないときにしか穴は使えない。室内に監視カメラが無い事は確認済みだが、隠されたカメラがある場合はお手上げだ。弦はその類が無い事を祈り、ベッドの上に身を投げた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 研究所ノアに来てから二日目、弦はパッとしない思考のまま起床し、シャワーを浴びて朝食を摂った。朝食は扉の横にボックスが存在し、係の人間が毎日異なる食事を運んでくる。担当に言えば好きな物を作って貰う事も可能らしい、尤も弦は食事に関しては興味が無い、ある程度味が合って腹が膨れれば何でも良かった。

 

「さて弦様、昨日はちゃんとお休みになられましたか?」

「あぁ……まぁ、目覚めは最悪だがな」

「そうですか、それは何より」

「――本当に良い性格をしているよ、お前」

 

 場所は昨日と同じ、没入を行うための白い部屋。中央には大きめのベッドとも椅子とも言える物が鎮座し、その周囲には無数の機材が並んでいる。しかしこの空間に居るのは弦とミーシャだけであり、それらの機材を管理している人間は別の場所に居るのだと思った。

 ミーシャは手早く弦の頭部にリングをセットし、弦はゆっくりと背を預ける。タッ、タッ、と携帯端末に触れる音だけが周囲に響き、天井を見上げていた弦の顔をミーシャが覗き込んだ。

 

「本来ならば初回の没入から一日置くのがベストなのですが、本当に宜しいので?」

「構わない、どうせ早いか遅いかの違いだ」

 

 ミーシャの言葉に対して、弦は鼻を鳴らして答える。

 今日は本来ならば休息日として割り当てられる予定だったのだが、弦の希望で連日没入を行う事になった。そこには面倒な事は早めに済ませたいと言う考えもあるが、何よりカルナという男と同調した上で藤堂弦という人格を保てるかどうか試したかったからだ。

 もしカルナという男でありながら、弦という人間の自意識を保てるならば、或は彼の窮地を阻止出来るのではと考えた。

 無論、記憶である以上難しい事は理解しているが、あの男と同調してからというもの、何か感情が引っ張られる様な感覚が続いていた。まるで体そのものがカルナという男の記憶を求めているみたいだ、弦はそれを一時でも早く解消したかった。

 

「昨夜は用意していた書物をお読みに?」

「ちゃんと読んだ、カルナの箇所はじっくりとな」

「それは、それは、勤勉な事で」

 

 笑みを張り付けながらそんな事を言うミーシャは何処か気味が悪い、己がノアというデカイ手の上で踊っている様な気さえする。弦は一度大きく息を吸うと、頭の中身を切り替えた。自分は藤堂弦である、そう強く自己暗示する。

 一際強く端末を叩く音、それから顔を上げたミーシャが弦を覗き込んだ。

 

「――では」 

「あぁ、やってくれ」 

 

 カチリ、と弦の体が拘束され、ミーシャが手元の携帯端末を叩く。弦が目を閉じると、前の金槌で殴り付ける様な衝撃は無く、ゆっくりと沼に沈んでいく様に――弦の精神は暗闇の中に溶けた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 カルナが目を開いた時、そこは恐ろしく広い闘技場の様な場所であった。天を見上げれば青色は無く、閉塞的な壁がある事から屋内である事が分かる。地面には赤色の絨毯が敷き詰められており、中央にはぽっかりと空いたステージの様な物、それを囲う様にして設けられた観客席、外周にはズラリと男達が並びカルナもその中の一人であった。

 そして次に情報が雪崩れ込んで来る、此処は競技場であり、ドラウパディーという女性の婿選びの場である事、そしてカルナは宿敵の出場を聞き飛び入りで参加を果たした事。

 観客は裕福な身なりをして者ばかりで、逆にカルナの周囲の男達は様々な格好をしていた、明らかに上流階級の衣服をまとった者、それ程高価とは思えない衣服をまとった者、カルナは後者に当たる。

 会場の奥にはドラウパディーだろう、大変美しい女性と恰幅の良い男性が揃って座っていた。隣は彼女の父か、二人は笑みを絶やさずに挑戦者を見守っている。

 

「俺は――――あぁ、大丈夫だ」

 

 カルナは額に手を当てて暫くの間沈黙し、それからポツリと呟く。視界は明瞭、思考も澄んでいる。頭の中には藤堂弦と言う自意識も存在し、カルナと言う男の精神も確りと機能していた。

 頭の片隅で弦は奮闘する、気を抜けば前回と同じように一瞬で押し潰されそうになってしまう。しかし同じ轍は踏まない、重要なのは二重思考(ダブルシンク)、オーウェルに倣おう、1984だ、つまり【二足す二は五】である。

 

 一際大きな歓声が上がり、カルナは俯いていた顔を上げる。すると競技場の中央、そこに恐ろしく美しい男が躍り出た。褐色の肌に黒い髪、一人だけ醸し出す空気が異なる。彼はゆったりとした衣服を纏いながら手には弓を持っていた。

 人間が引き絞るには少々大きすぎる剛弓、その男を見た途端、カルナの心臓が一際強く鳴り響く。

 

「――アルジュナ」

 

 呟かれた言葉、それは弦の意図しない発言。

 途端に流れ込んで来る感情、恨み、憎しみ、嫉妬心、どれも負の感情ばかり。それを一身に受け止めながら、弦は思う。あぁ、アイツがそうなのかと。

 

 カルナという男を語るのならば、彼の存在もまた欠かせない。

 アルジュナが陽の英雄であるならば、カルナは陰の英雄。

 弦が彼の事を文書で読んだ時、思った事はただ一つ。

 

 ――完璧な主人公

 

 カルナと同じグル(師匠)・ドローナチャリヤのアティラティ(優秀な戦士)、若くして多くの才を持ち、そして不断の努力によってそれらを余さず開花させた光の大英雄。何よりも義を大切にし、友情に厚く、自身と地位に誇りを持ち、強きを挫き弱きを助ける正義の英雄。

 神の元に生まれ、神の加護を受け、神の膝下で育ち、神と共に歩む男。

 未だその力は十全でなくとも、これからこの男、アルジュナは神々に見初められ多くの恩恵を授かる。天界神々から授かる神の武具、そして何より代表的なものと言えば破壊と再生を司る神、シヴァ・サハスラナーマ(インドの大神)から授かる【パーシュパタアストラ】

 

 別名、ブラフマシラス(大神の一矢)

 

 大神シヴァ・サハスラナーマが宇宙を含め全てを滅ぼす時、パーシュパタアストラを使用する。その効果は絶大であり、文書には『このこの世の生きとし生けるもの、ありとあらゆる物は消えて無くなる』と記載されていた。

 惑星一つどころの話ではない、宇宙全てである。そんな技術力は今の連邦にすら存在しない、数日前の弦ならば「何を馬鹿な」と鼻で笑っただろう。しかし黄金の鎧という分かりやすいオーパーツを見た弦は、それを笑い飛ばす事が出来なくなっていた。

 彼、アルジュナはこれより未来にシヴァ神と出会い、そのパーシュパタアストラを借り受ける事になる。

 全く以て敵わない、これだけ物語の主人公然とした男がいるものなのかと。

 

「………」

 

 カルナ手にした弓をぎゅっと握り締め、アルジュナを射殺さんばかりの視線で見つめていた。当のアルジュナは観客の歓声に応えながらも、ごく自然な動作で矢を番える。

 的は遥か上空、高い高い天井に吊るされた木製の魚――その瞳である。

 木製の魚には目の部分に黒い石が嵌め込まれており、更に結ばれた縄を通して魚は回転していた。その動きは実に不規則で狙い辛い事この上ない、よしんば瞳に矢が届いたとしても石を貫く矢を放つなど常人には不可能である。

 

 しかし、アルジュナには自信が漲っていた。

 見ている自分でも分かる、彼は自身がやり遂げられると腹の底から信じている。現にアルジュナは身の丈もありそうな剛弓を容易く引き絞り、その矢の先端を的に向けていた。

 射抜くに足る威力があるならば十分、後は的に当たるかどうか。

 観客の間に緊張が走る――主賓である女、ドラウパディーも固唾を飲んで見守っていた。

 やはり、彼女の本命はアルジュナなのだろう、その頬は僅かに赤らんで熱っぽい視線で彼を射抜いている。

 

「我が一射――ご覧あれ」

 

 アルジュナが淡々と、落ち着いた声でそう言った。

 瞬間、アルジュナの手元が弾ける。

 矢を放ったのだ、その矢は凄まじい勢いで突き進み、パァン! と大きな音を立てて木製の魚に突き刺さった。反動で木製の魚が高く打ち上がり、それから何度か揺れて再び回転を始める。

 

 その眼の部分、黒い石――其処には確りと矢が突き刺さっていた。

 石を砕き、穿ったのだ。

 やはり射抜いた、その弓の腕前は見事也。誰も成し得なかった快挙に観客は沸き、周囲の挑戦者たちが歓声を上げた。アルジュナの絶技に皆が賞賛を惜しまず捧げる、カルナはその様子をただじっと見ていた。

 アルジュナは周囲の歓声に応え手を挙げる。まるで勝利したかのような態度、否、実際彼は勝利したのだ。この祭典に、競技に、ドラウパディーに至っては最早決定的だ、目を惚けさせて手を組んでいる。

 アルジュナは剛弓を天に掲げ、その美麗な表情に笑みを浮かべた。

 

「………俗物が」

 

 別にドラウパディーの婿になるつもりは無い、元より目的はアルジュナ一人。カルナにとっては彼が、他ならぬアルジュナが、これ程の賛辞を当たり前の様に受け取っている事が我慢ならなかった。

 

 故に、一歩踏み込む。

 その賞賛の嵐を突き抜ける様にして、周囲の男どもを押し退け中央に躍り出た。

 瞬間、その賞賛の嵐は終わりを告げ、代わりに静寂が周囲に伝搬する。

 あらゆる人間の視線がカルナに注がれ、最初は「誰だ、あの男は?」という視線だったが、アルジュナに負けず劣らずの整った容姿に、優れた体格から直ぐに名が割れた。

 

 カルナ――ドゥルヨーダナの唯一無二の友、太陽の戦士。

 褐色の肌、黒と金の混じった髪を持つ黄金の男、その顔立ちは美しいと言うよりも野性味を前面に出したように鋭い。だがそれは芸術の方向が違うと言うだけであって、彼を見る女性の中には心奪われる者も少なくなかった。

 カルナだ、あのカルナが出て来た。

 そんな声がそこら中から聞こえて来た。

 

「――カルナ」

「………来てやったぞ、アルジュナ」

 

 正面に立つアルジュナが、掲げた腕を降ろしてカルナを見る。その表情は驚愕と、侮蔑――そして好戦的な笑みだ。

 カルナが浮かべる表情は、憤怒と闘争、それが混ざり合った表情。

 

 アルジュナという男は確かに出来た人間だ、主人公然とした男だ、義に厚い正道を成す男だ、しかし同時に人間である以上感情は存在する。王家の人間という地位に誇りと明確な義務を持ち、それを善しとするアルジュナにとって、カルナと言う男は見下すに値する男だった。

 

「その様な身で挑むつもりか、カルナ、私はお前の腕を認めている――だが、正直に言って今のお前では……」

「ふん、何とでも言うが良い――今に見ていろ、貴様のその矢ごと貫いてやろう」

 

 カルナは自身の持っていた弓を地面に放り捨てると、アルジュナの持っていた剛弓を奪い取った。アルジュナはアルジュナで、穿てるものなら穿ってみろと、その剛弓を明け渡す。弦に指を掛けてみれば、確かに凄まじく硬い。恐らく只人なら矢を番え、引く事すら儘ならないだろう。

 カルナがアルジュナを見てやれば、彼は余裕の表情のまま目を細めていた。「どうだ? 重くて引けまい」とでも言いたげな顔、それにカルナは腹が立った。

 この身は太陽神スーリヤの血を引く半神の英雄――このカルナに成せぬ事などない。

 

「この身は太陽と共にある――ならばこそ、全てを焼き尽くす一射をご覧に入れよう」 

 

 大きく息を吸ったカルナは矢を番え一息に、くんッ、と弓を引き絞って見せた。

 余りにも容易く弓を引き絞った事に、アルジュナは驚きを露にする。周囲の観客が騒めき、カルナの体から太陽の如き光が漏れた。

 

 狙いを定めたカルナには何も見えない、ただ回転する黒い石、そして突き刺さったアルジュナの矢だけが見える。音は消え、観客のざわめきすら外に蹴り出される。あるのは己の呼吸と心臓の鼓動――そして己なら穿てると言う絶対の自信のみ。

 その凄まじい気迫、溢れ出る自信に競技場の観客、挑戦者問わず呑み込まれる。そこにあるのは圧倒的な【我】、己を見ろと言わんばかりの威圧。ギチリと弦が軋みを上げ、その腕がピタリと射抜く先を定めた。

 

 理性に潜むもう一つの人格、弦が囁く。

 やっちまえ、カルナ――と。

 

「我が父よ、この世を照らす太陽よ、この身に火の加護を――アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)!」

 

 その一撃はカルナの正しく全力であった。

 使う矢と弓は人の作った、天の武器でも何でもない有り触れた物。しかし放たれた矢は火を纏い、凄まじい衝撃と共に競技場を揺らした。

 カルナの持つ火の加護、太陽神の血が矢に纏わりつき神性を帯びたのだ。

 それは正しく太陽の一射であった、全てを焼き焦がす熱と光、それは一筋の光となって木製の魚、その瞳を穿ち、突き刺さっていたアルジュナの矢ごと打ち砕いた。それだけではなく、釣り下がっていた魚を貫き、装飾に彩られた天井にすら届き得る。

 天井に着弾した矢は、しかし余りに威力にそれ自身が形を保てず、先端が天井に触れた瞬間燃え尽きて無くなった。

 

 パラパラと破片を零す木魚、そして空洞となった目の部分。その先には僅かに焼け焦げた天井、先端が触れた部分には僅か入り、その一撃の強さを存分に物語っていた。

 

 その始終を見ていたアルジュナは驚愕のまま硬直し、観客は言葉を失っていた。絶技――否、そう呼ぶ事すら彼の一射、その渾身の一撃を現わすには不足。正に神業、神域、ただの矢にて石を穿ち、火を伴って天に罅さえ入れて見せた。

 カルナは大弓を地面に突き刺し、その拳を高く、高く突き上げた。

 

「――見よ、この光、この熱、この一射を! 真の名手とはただ当てるだけではならぬ、ただの木矢で石を砕き、穿ち、天にも届き得る一射を放たなければならぬのだ! どうだアルジュナよ! 貴様のその矢、見事砕いて見せたぞ! 火を纏い、閃光と成りて奔る我が一矢に勝るものは無い、それを此処に証明しよう!」 

 

 突き上げた拳を開き、カルナは満面の笑みを浮かべてそう宣った。

 彼は過去最高に興奮していた、自意識を保っている弦にもそれは伝わる。寧ろ彼はカルナよりも興奮していたかもしれない、彼の内心を言い表すならば一言で足りる、ざまぁみろだ。

 

 アルジュナは目の前で大口を叩いたカルナを見つめ、悔しそうに口元を歪めた。その視線からはありありと敵意を感じ、しかし今のカルナにとってはどうという事は無い、寧ろ心地よいものですらあった。

 身分を理由に競技に参加出来ず、公衆の面前で直接アルジュナと対決する事が叶わなかったカルナだ。それはたった今叶い、アルジュナを超える弓の才を持つ事を世に知らしめてやった、これ程嬉しい事は無いだろう。

 

 周囲の観客が大きくどよめき、その波は大きく周囲に伝搬する。彼のアルジュナを超える一撃、一射、それを放ったのは何時ぞやかパーンダヴァの連中が罵った御者の息子。クシャトリヤ以上の階級を持たねば王家と競う事は出来ない、そんな事も知らぬのか、そう言って彼を罵った五王子。

 その腐り切った矜持(プライド)、それを粉々に打ち砕いてやった。

 そうカルナは深く笑みを刻んだ。

 

「己の血筋に驕ったか? それとも己ならば万物を射抜けると妄念に囚われたか? アルジュナよ、貴様の矢は決して俺に届かない―――王家の人間として胡坐を掻いて座し続けると良い、その間に俺は太陽(我が父)にすら届き得る矢を手に入れるだろう」

 

 カルナは突き立てた大弓を蹴飛ばし、アルジュナの足元に転がした。それを見たアルジュナは額に青筋を浮かべ、強く拳を握る。視線の敵意が殺意に転じ、カルナは薄っすらとした笑みを張り付けたまま余裕の態度を見せた。

 

「……私を侮辱するか、カルナ、王家の義を背負う、この私を」

「当然、先にこの身を貶したのは貴様等だ、王を語るならば俺もまた王である、義を果たそうが積み上げようが俺には関係が無い、ただあるのは純粋な武、その点に於いて貴様は俺に敗北した――それが事実だ」

 

 王であれ何であれ、弓に於いては己が上。

 確かにこの身の出自は褒められたモノではない、今でこそ仮初の王として肩書を得ているが、生まれは一生ついて回る。御者の息子と言う事実は消せないし、どう取り繕ってもカルナはカルナである。

 だとしても、カルナは決して後悔しない。父も母も愛情を持って己を育てた、満足に生活する事も出来た、ならば王であろうが御者の息子だろうが、ヴァイシャ(奴隷)シュードラ(一般市民)であろうが、クシャトリヤ(貴族)であろうがバラモン(王家)であろうが、関係ない。

 

「敗北したと言う事実に震えるが良い、貴様に土をつけたのは他ならぬ――御者の息子だ」

「カルナァッ……!」

 

 アルジュナが血走った目で叫んだ、自身の身内が彼を侮辱し、それの返礼とばかりに告げられた言葉はアルジュナの矜持と誇りを大いに傷付けた。カルナは王とは名ばかりの下級市民に過ぎない、義務の欠片も理解しない男にそこまで言われるのは我慢ならなかった。

 ここでカルナと殺し合いになっても構わない、そう言わんばかりにアルジュナは足元の剛弓を掴み、カルナもまた放り捨てていた自身の弓に飛びついた。

 

「ハッ、仮面が剥がれたかアルジュナッ? 大層歪んだ顔を晒しているぞ!」

「黙れッ、王家の誇りと義務を理解しない男が何を偉そうにッ! 武を競うと言うのならば是非もない、太陽を落とす我が渾身の一撃を手向けとして送ってやる!」

「面白い――我が黄金(太陽)の鎧、貫けると言うのならば見せてみろ!」

 

 互いに予備の矢を番え、素早くその矛先を相手に向ける。卓越した才を持つ者同士の激突、あわや殺し合いになるのかと周囲の皆に緊張が走った瞬間、ドラウパディーが声を上げた。

 

「この勝負、アルジュナ様の勝利とします!」

 

 互いが矢を番え、一触即発の事態となっていた競技場。そこに彼女の声は良く響き、カルナとアルジュナは声の主であるドラウパディーを見た。

 ドラウパディーは主賓席から立ち上がり、双方を見据えて手を突き出す。その肩は僅かに震えていたが、視線は鋭く二人を――特にカルナを射抜いていた。

 

「私はドルパダの娘、ならば御者の息子と婚約する訳には参りません、並び立つは王の資格を持つ者のみ、カルナ、貴方にその資格はありません」

「――ハッ」 

 

 公衆の前で再び御者の息子と侮辱を口にされたカルナは、しかし彼女の言葉を鼻で笑い飛ばす。元より、貴様と婚約する為に矢を番えた訳ではないと、その表情は侮蔑の色すら滲ませている。

 カルナは構えていた弓を降ろすと、口元に笑みを浮かべたままアルジュナに言った。

 

「あぁ、そうか、そうか……アルジュナ、良かったではないか、この勝負お前の勝ちらしい、元より絶世の美女などに興味はないが、主催者に断言されては敵わぬ、この競技は俺の負けだ、あぁ、良かったなアルジュナ――女に救われて大層な御身分じゃあないか」

「―――」

 

 アルジュナの弦がギチリと鳴る。

 その瞳はこれ以上ない程に見開かれ、口元は戦慄いていた。馬鹿にするのも大概にしろ、そう言いたげに震える矢はしかし、決して放たれる事は無い。既にカルナは弓を降ろし、勝負の判決も言い渡された。

 競技として勝利したアルジュナ、そして敗者となったカルナに矢を射るなど王家の人間として――戦士として許されざる事である故に。

 

「……くっ」

 

 アルジュナは震える腕で弓を降ろし、その矢を地面に叩きつける。その様子を笑みを浮かべたまま見ていたカルナは、その視線をドラウパディーへと向けた。

 

「では王家のドラウパディー様、御者の息子である俺はこのままお暇させて頂くとする、残念ながら力及ばず競技に負けてしまったからな、あぁ、あぁ、とても残念だよ」

 

 そう肩を揺らして口にするカルナは欠片も残念そうではない。

 皆が見たからだ、知っているからだ、弓の才に於いてアルジュナはカルナに敗北を喫したのだと。故にこの競技の結果は真でありながら偽りである、弓で敗北しながら身分で勝ちを拾ったアルジュナ。戦士としては失格だ。

 

「だが先の俺に対する侮辱―――いつか必ず後悔させてやろう」

「っ」

 

 最後にカルナは表情を一変させて、そう呟く。

 凄まじい敵意と殺意を向けられたドラウパディーは顔を引き攣らせ、一歩後退った。身分を理由に侮辱する人間を、カルナは心より嫌う。そしてそれは弦も一緒であった、天才の身でない凡愚がさもその境遇を知ったかのように語る姿は見るに堪えない。英雄を不当に汚す屑が、天才を罵る凡人が、弦は何よりも嫌いだった。

 カルナはそのまま背を向け競技場を後にする。弓に於いてカルナはアルジュナに勝利した、それを証明出来た、それだけで満足だった。

 カルナが出口に足を向けると、周囲を取り囲んでいた挑戦者達が道を譲る。そうして競技場から姿を消したカルナは、しかし見覚えのある姿を帰路で見つけた。

 

「ドゥルヨーダナ」

「カカカッ、おう、そうだ我である、ご苦労だったなカルナ」

 

 未だ競技場へと続く廊下、その壁に凭れ掛かっていたのは莫逆の友であるドゥルヨーダナ。その表情は満面の笑みであり、どこか上機嫌であった。

 

「見ていたのか、先の競技を」

「無論、我が友の晴れ舞台を見逃す程老いてはおらん、いやしかし、随分と爽快であったわ、あのアルジュナを下し、更に女に庇われた奴の姿、何と滑稽な事か、いや我は満足だ、とても満足だぞ」

 

 腹を抱えて笑い、何度もカルナの方を叩くドゥルヨーダナは未だ嘗て見た事が無い程笑みであった。常に眉間に皴を寄せ、難しい顔をしている彼がこれ程笑うとは。

 カルナの行動は完全なる私怨からのものだったが、彼がこれ程喜んでくれるのならば、あぁ成程、この行動は正しかったのだと思った。それにカルナとてアルジュナの悔しがる姿を見れて満足しているのだ、これまで腕を競う事すら許されていなかったのだから当然だろう。

 

「しかし我が一番嬉しいのはカルナ、お前の武がアルジュナに勝る、この世の頂きであると証明出来た事に他ならぬ、あぁ、我はそれが嬉しい、我の友はどの様な戦士にも負けぬ、この世で一番の強者であると、そう見せつけられたのだからな」

 

 ドゥルヨーダナはカルナの肩を掴んで、大声を上げて笑う。その声色は酷く興奮していて上ずってすらいた、どれ程の喜びを覚えているのか分かる程、カルナはドゥルヨーダナの手を掴み、笑みを浮かべたまま頷いた。

 

「当たり前だろう、君の隣に寄り添う俺は最高の戦士だ、どんな物でも穿って見せよう、射抜いてみせよう、蹴散らしてみせよう、君が選んだ男はそういう奴だ、どんな強者が来ても、神ですらこの俺は射殺す――あぁ、そうさ、この身は太陽なのだ、ならばこそ万物燃やし尽くすのが俺の力だ」

「あぁ、あぁ、素晴らしい、素晴らしいぞカルナ、そうだ、お前は最高の戦士だ、そして――最高の友でもある」

 

 確りと、互いに手を取り合ったカルナとドゥルヨーダナは正面で笑い合う。この瞬間、二人の絆は更に確固たるものとなった。カルナはドゥルヨーダナを心から信頼しているし、ドゥルヨーダナもまた、カルナを心から信頼していた。

 恐らくこの世すべての者が己を裏切っても、目の前の男だけは決して裏切らない。

 そういう確信にも似た誓いを感じた。

 

「さて――城へ帰ろう、我が親友、お前の武勇伝を弟たちに伝えてやりたいのだ」

「勿論だ友よ、宿敵のアルジュナ、その悔しがる姿を存分に教えてやるさ」

 

 二人は並び立ち、そのまま城へと帰還する。カルナとドゥルヨーダナにとっては凱旋と言っても良い。カルナの表情はとても誇らしく、光に輝いていて。

 ドゥルヨーダナの表情も清々しく、隣で矢を射る瞬間を語るカルナの言葉に何度も頷いていた。友が嬉しいならば己も嬉しい、それを地で行く二人は互いの喜色に酔っていた。

 

 しかし、その表情の裏で彼――ドゥルヨーダナは想う。

 己の唯一無二の親友、カルナを貶した女の事を。

 ドラウパディーの言葉を。

 

 

 ――あの女は己の友を、戦士を貶しやがった。

 

 

 ドゥルヨーダナの裏側は、憤怒の色で染まっていた。

 




 アルジュナが妻であるドラウパディーを兄弟全員で所有したという点、今作ではカルナに弓の腕で敗北し、それでも勝ちを拾った為、本当の意味で勝利していないと感じたから、という風に改変しました。
 つまりプライドからドラウパディーを嫁にしてはいけないと感じたのです。
 しかしドラウパディーはアルジュナと結婚したかったので押せ押せGOGO、私GOGO。
 結果五人の共通の妻ということで、落ち着く……みたいな。
 
 しかし神話系の話は書いている時間より調べる時間の方が長い気がします……今更ながら題材ミスだろうか。
 
 個人的に思うのはドラウパディーって下手をすると乙女ゲーの主人公レベルだなぁと。
 王家の五人全員と婚約していて、殆どが美形で、英雄で、しかも神の血を継いでいるから自分の子どもも神の血を継ぐって言う。ドラウパディー本人も絶世の美女って言われてますからね。

 


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受け継がれる才能

 

「ッは!」

 

 水の中から飛び出した様な感覚、酸素を求めて大きく口を開く弦。しかし思考も視界もハッキリしていた、否、明瞭過ぎると言っても良い。何度か呼吸を繰り返し、慌てて周囲を見渡す。そこはもう競技場ではない、白い――白すぎる部屋だ。

 

「同調解除、記憶没入停止、弦様、お体の方は問題ありませんか?」

「はぁ、はぁ……あ、ぁ、大丈夫だ、俺は、戻って来たのか」

「はい、一時間の没入でした、お疲れ様です、今日はこれで終了とします」

 

 隣で携帯端末を叩き、拘束を外すミーシャ。弦は両手を突き出して眺め、それが己の手である事を確認した。視界と思考は澄んでいる、まるでカルナのままみたいだ。記憶はちゃんとある、自分が弦だとも理解している。人格の重複は無い、大丈夫だ。乱れた息を整え、大きく深呼吸を繰り返す弦、そうすると自分が自分であると実感できる。

 しかし、何か体の奥で燻る熱の様なモノがあった。それは体を突き動かす病、いや、衝動と称しても良い。

 弦は未だ力の入らない体で椅子から立ち上がり、そのまま二本の脚で自重を支える。

 しかしいざ歩き出そうとした瞬間、ガクンと膝が落ちた。

 

「ッ!」

「! 弦様っ」

 

 地面に倒れそうになった弦を、隣に居たミーシャが慌てて支えた。見れば弦の膝はカクカクと震えており、全く力が入らない。予想以上に体力が消耗している、まるでフルマラソンを完走し切ったばかりの様だ。

 

「……やはり、この適正値で連日の没入は危険です、まだ慣らしが必要でしょう、明日は休息日とします、こればかりは弦様の御要望でも変える訳にはいきません」

「……ぁ、あ、そう、だな、これは中々、キツイ」

 

 弦は薄ら笑いを浮かべながら呟く、ミーシャの肩を借りて部屋を後にするが彼女の柔らかさを堪能する余裕さえない。しかし弦にとっては何よりも優先する事があった。

 

「弓を――」

「? 何でしょう」

 

 弦に肩を貸して緩慢な足運びを続けるミーシャ、そんな彼女に弦は懇願した。

 

「弓を用意して欲しい」

 

 

 

 

 没入による記憶の逆行、それによって人格に影響があるならば、同じく肉体にも影響がある。没入を繰り返せば繰り返す程、その精神は英雄に近付き、肉体もまた英雄に近付くのだ。些細な癖や言動、動き、型、全てが。

 そしてソレは適正が高い程早く進行する、適正とは即ち英雄との親和性と言っても良い。つまり何代にも渡って薄まった血が濃いか否か、その祖先の英雄と馬が合うか否か。

 弦はその点、カルナという男と非常に性質が似通っていた。

 

「――やはり」

 

 弦が立っているのは自室にあるトレーニングルーム、広さは三十メートル四方で一人に用意される部屋としては十分過ぎる程に広い。そして部屋の壁には即席の的が立てられ、その中心に赤い円が描かれていた。

 弦の手には弓と矢、ミーシャが用意したものだ。

 残念ながらカルナの時代にあった木製のモノではなく、カーボンとプラスチックで作られた競技用の弓だが、弓の形をしていれば何でも良かった。

 

 あの後、部屋で一時間程休息を行った弦は渋るミーシャに要望を押し通し、ノアにある武器一式を揃えて貰った。無論現代のモノではなく、古代から続く原始的な物ばかりだ。そもそも近代武器を要請したところで、却下されるのがオチだろう。

 代価は明日の絶対休息だ。

 

「嫌にしっくりくる、手に馴染む」

 

 弓の持ち手を何度も握り直すが、まるで長年扱って来たかのように手に馴染む、違和感が無い。本能の赴くままに弓を構えれば、逆の手が勝手に矢を番える。それは流れる様な動作で、本人である弦が矢を番え、漸く己が成した事に気付く程だ。

 無論、弦が弓道、アーチェリーを修めているという事実はない、寧ろ弓矢等と言う前時代的な武器を扱うのはコレが初めてですらあった。だと言うのに弦の手は迷いなく弓を構え、流れる動作で射る準備を整えた。

 

「……物は試しだ」

 

 弦はそう呟くと、弓を構えたまま瞳を閉じる。己の体の権利を本能に明け渡し、ただ赴くままに、流される様に、両の腕を動かし矢を放った。

 放ち、シュ! と弦が擦れる。

 それから パンッ! と何かが穿たれる音。

 弦が矢を手放してから数瞬後、恐る恐る瞼を開けば、弦の放った矢は見事に的の中心を射ていた。的への距離は二十メートル程、自身の手からは矢が消えており、的に突き刺さっている矢は先程まで無かった。

 つまり他ならぬ、己が成した事。

 

「……ビギナーズラック」

 

 マグレの可能性もある。

 呟き、足元に束ねていた矢を矢筒から一本引き抜く。一度息を吐き出す、今度は一連の動作を素早く行った。切っ先を的に向け、矢を番え、引き絞り、狙い、放つ。

 全てを己の頭ではない、体に任せ、動作に掛かった時間は一秒足らず。

 そうして流れる様な動きで放たれた矢は、まるで吸い込まれる様に的へと突き進み、その中心に突き刺さった。

 ストン! と心地よい音が鳴り響く。

 今度は確かに見届けた、自身の放った矢が確りと的を射抜いた。今日この時まで弓矢など触った事も無いド素人が、こうも簡単に。

 

「―――」

 

 弦は頭の片隅に確信を持ちながら弓をその場に放ると、背後に立て掛けてあった槍を手に取った。持ち手は鉄で出来ているが、刃は全て模造のプラスチックの玩具である。しかし手に取ればズシリとした重さがあり、見てくれだけなら本物の槍と相違ない。粒子銃か光線銃、近接でも手甲装甲の殴り合いしか知らない弦からすれば、唯の長いだけの棒だ。無論扱い方など知らない。

 

 弦はその槍を手に取って、大きく頭上で一回転、そのまま脇に挟む様にして構え、何となしに虚空に向けて一撃を放った。

 ビュンッ! と模造刃が風切り音を鳴らし、鋭い一撃が虚空を突く。

 狙いは人であれば喉元、それから抜き放った後に鳩尾に追撃。更に槍を捩じり込んで横にズラす、傷口を大きくして出血させる為の小手先の技。弦はその一連の動きを行った後に、またしても槍を足元に放り捨てた。

 次に取ったのは剣、その次は鉈、棍棒からジャマダハル、見た事も無い様な武器まで。

 弦はミーシャに頼んで用意して貰った武器を一通り手に取った、そしてそれらを掴むとどう扱えば良いのか、どう振るえば最も理想的か、直ぐに分かった。

 全てを試し終えた弦の足元には幾つもの武器が転がり、その真ん中で弦は呟く。

 

「やはり、思った通りだ……この身はカルナ、あの男の技を覚えている」

 

 精神が変質するならば肉体もまた然り、彼の持つ武、その技が断片的に弦の肉体に宿っていた。

 無論完璧なものではない、そもそもの話カルナと弦ではその肉体的な性能に差があり過ぎる、それに体感したところカルナの技量に比べて弦のソレは明らかに劣っていた。

 良くてカルナの半分程度の技量、だがそれでも現代に於いては卓越した技を持つ事に他ならない。更に言えばこれから没入を繰り返せば繰り返す程、この身はカルナに近付き、その武を余す事なく吸収する事になる。

 まるで麻薬でもやっている気分だった。

 

 労せずして英雄に近しい力を手に入れる、それは弦の肉体を根本から変化させ、その英雄本人の位置まで登りつめる事すら可能に思えた。或は連中の言っていた『覚醒を促す』というのは、この事だったのかもしれない。

 例えば素晴らしい発明家や稀代の天才の子孫が居たとして、没入を繰り返せばその天才に思考は近付く。その才を受け継ぐことを可能にするならば、現代に再びその天才の因子を引き継ぐ人間が現れると言う事だ。

 弦の場合はそれが圧倒的な武を持つ英雄だったというだけ。

 弦は居ても立っても居られなくなり、トレーニングルームから飛び出すと部屋の片隅に身を寄せ、ごみ箱を両手で勢い良く退かした。そして布を捲るとその向こう側に声を掛ける。

 

「ウィリス、なぁウィリス、今大丈夫か?」

「? はい、弦さん、大丈夫です、何かありましたか?」

 

 弦の声が向こうの部屋に届き、とととっ、と誰かが駆け寄って来る音が聞こえる。ウィリスは壁に寄り添うと、「ダイブだったのですか?」と疑問の声を上げた。弦は肯定し、「あぁ、今回は少し疲れた」と頷く。

 実際自意識を保った今回は非常に疲労が残り、前回の比ではない。しかし得るものも大きい没入だったのだ、弦は這い蹲ったまま穴に向かって捲し立てた。

 

「今日は朝から没入だったんだ、本当は休めと言われていたのだけれど、どうにも、こう、胸にべっとりと張り付いた感覚が続いていて、まるで先祖に呼ばれているみたいだ……今回の没入で英雄の技というか、才能というか、そう言うのが、何か俺の身に写し取られたみたいなんだが、何か知らないか?」

 

 弦は興奮冷めぬ様子で言葉を次々に紡ぐ、単純にどんな分野であれ、己が英雄と呼ばれた存在に近付く事が嬉しかった。

 弦はカルナという男を好いている、人間として限りなく近い感性を持っている者同士、血が繋がっているのならば当然だろうか? だとしたら弦はその血筋に感謝すらした。弦の問いにウィリスは何度か「えっと」と口にし、それから思い出したように言った。

 

「確か担当の人は『記憶の読み込み(リード・メモリー)』 と言っていました、私達のご先祖様の人生を追体験する事によって、その技能が私達に引き継がれると……随分早いのですね、私も一応幾つかは引き継げたのですが、その、余り多くは無いので」

 

 返って来た言葉は弦の知らないもの、精神が重なるとは聞いていたが肉体もそうだとは教えられていなかった。或は段階的に情報を与えているのかもしれない、そう思った。

 

「ウィリスも? なら、やっぱりこれは連中の言っていた覚醒って奴なのか?」

「恐らく、そうだと思います、先人の才を引き継がせて益とする、ただ人によって引き継げる才能も違うので――私の才能も、その、現代には少々そぐわないと言いますか、何と言いますか」

 

 歯切れ悪くそう言うウィリス、今の世に歓迎される英雄の才と言えば、数学者や科学者と言った人類の栄達に大きく貢献できる類の才能だろう。弦はカルナのその弓技、槍や剣と言った武器の技を引き継いだとしても大した貢献にはならないと理解していた。しかし本命は其処ではない、カルナの誇る本当の才は太陽神スーリヤの血を引いている点だ。

 つまり黄金の鎧、その一点に尽きる。

 或はウィリスも今の弦の様に、武の才能を引き継いだのかもしれない。

 

「――ウィリスのご先祖様がどんな英雄だったのかは分からないけれど、歴史に名を遺した人達なんだ、どんな才能であれ必ず意味がある、俺はそう思うよ」

 

 例え武の才能であろうと、それが卓越したものである事には変わりない。そして英雄の真価は才もそうだが、最も重要なのはその精神だ。英雄の器たる心の在り方、弦はカルナという男を通して見た英雄像、その中心に鋼の様な精神を見た。

 

「ははは……そう言って頂けると救われます、実は私も今日が没入日でして、午後からの予定なんです、そこでまた上手く同調出来れば良いのですが……」

「――これからどうなるにしろ、英雄と呼ばれた人たちの才を貰えるのは有り難い、出来れば深く潜り込んで一つでも多く才能を引き出せると良いのだけれど」

「はい、そうですね…………そうだ、弦さん、今日の夜って空いていますか?」

「夜?」

「えぇ」

 

 突然話題を変えられ、弦は少々面食らう。今日の夜は何かあっただろうかと考えるが、そもそもこの施設に入れられてからは没入時以外殆ど自由だ。予定も何も人と逢う事が出来ないので生まれようがない。

 

「没入も今日は終わったし、大丈夫だ、何か用事か?」

「はい、少しご相談したい事が」

 

 相談、そう言われて思い当たる事など弦には一つか二つ位しかない。弦は少しばかり声の音量を下げ、囁く様に問う。

 

「……その、今後について?」

「それも一つ」

「……分かった」

 

 弦は頷き、夜の予定が決まった。

 一応健康診断は定期的に行われているが、就寝時間が決められている訳でもない。ウィリスは喜色を滲ませた声で「ありがとうございます」と言い、丁度彼女の没入時間が迫っているという事で解散の流れになった。

 壁に空いた穴を布で隠し、その上にゴミ箱を寄せる。弦は一度部屋を見渡した後、暫くその場に立ち尽くし、それから再びトレーニングルームに籠った。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 その日、弦は一日中弓を引き絞り、槍を振るっていた。まるで己の肉体を少しでもカルナに近付ける様に、一心不乱に体を動かす、一つの動作からカルナと異なる点を見つけ出し僅かなズレを修正する。

 頭に思い浮かべるのは己の遥か上を行くカルナの動き、大胆な様で精密、水の様で火の如く。宛ら関係は師匠と弟子か、しかしその力量の差は歴然で一を射る事で十のズレを見つける始末。

 

「……凄まじいな、英雄と言うのは」

 

 卑怯な手段で破格の才能を得た弦は、未だ武と言うものを理解していない。その入口に立ったばかりとでも言おうか、その動きだけで見れば妙手使いと言っても過言ではないが、その本質はまるで理解していない。体で理解しているのと頭で理解しているのとでは全く異なるのだ、本来であればそれらどちらかが欠けていれば十全に力は発揮できない。

 それでも妙手と言えるだけの力が残るのが英雄というモノか。

 

 入口に至ったからこそ分かる、己とカルナの技量の差。

 身体中から汗を流し、上半身裸で弓を構える弦は思う。

 理の天才もまた凄まじい存在だが、武の天才もまた、尊敬に値する存在だと。

 

「腕を止めるな、静止は一瞬、視界は的のみ、理解するな感覚のみで良い、流れる様に構え、流れる様に放つ、無駄な力を抜いて自信持つ、己なら穿てると」

 

 ブツブツと呟きながら弦は矢を番え、弓を突き出し、引き絞り、放つ。

 既に何千回と繰り返された動作だ、針鼠の様になった的から矢を回収して何度目か、既にその表面は穴だらけで時折刺さらずに落下する始末。それでも弦にとっては問題なく、的の中央を射る事は既に息を吐く様にこなしていた。

 問題は動作だ、無駄な部分に力が入る、不自然に停止する、思考が乱雑になる、足の位置が違う、言い出せばキリが無い。弦が目指しているのはカルナが、あのアルジュナを負かした瞬間の一射。

 

 ――アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)

 

 あの一撃の再現だった。

 しかし射てども射てども、放たれるのは平凡な一撃。否、本来であれば賞賛されるべき鋭い一射だ、驚異的な速度と鋭さで放たれる矢は綺麗な音を立てて的を射抜く。だがそれでは駄目なのだ、それだけでは英雄足り得ないのだ。

 

 原因は分かっている。

 己にはカルナが持つ神性とでも言うのか、神から齎される祝福が余りにも少なかった。要するに太陽神スーリヤの血が薄すぎるのだ、何代と繋がったカルナの血筋、元よりその血は半分が神の血。それが等分、等分、等分と薄まり続けた結果、彼の神の血は殆ど無いに等しい状態となった。

 

 アストラ・スーリヤを放つ際、弦は血が沸騰する様な熱を覚えた。恐らくあれが神性を得る瞬間だったのだ、太陽神の血が矢に炎を纏わせ、万物を砕く神の一射と成す。アレがもし天界の武具であったら、或はある程度の強度を持つ鉄の矢であったら。

 恐らく天井をも穿ち、遥か天空へと矢は伸びただろう、その確信があった。

 

「――カルナ、俺に力を貸してくれ」

 

 既にカルナという男を弦は、己の友の様に、或は家族の様に感じていた。本来ならばあり得ない、弦は元来もっと冷徹な人間だ。友と呼べる人間は少なく、なまじ顔が良いからクールと称される事もあるが、その性根は自信とプライドで凝り固まった酷く歪な人間だ。

 だがそんな弦でさえカルナと同調し、その人生、過去をまるで己の事の様に理解し、体感し、現在進行形でその一生をなぞって行く事になり、奇妙な友情、一体感を覚えていた。カルナという男はもう一人自分である、そう言っても過言ではない。

 尤も己自身は唯の観客であり、主役はカルナである。

 だが手に汗握って、カルナが喜べば喜び、カルナが悲しめば悲しむ、そういう事に何ら疑問を覚えなくなっていた。これが連中の言っていた精神重複という奴なのかもしれない、だが弦はそれに抗おうとは思わなかった。元より価値観や性格が限りなく近い位置にある二人、反発するどころか互いに上手く混じり合っている。

 

「……ふッ」

 

 小さく息を吐いて再び矢を射る、今度は先程よりも更に速度が上がり、スパンッ! と鋭い音を鳴らした。しかし炎を帯びる事も無く、閃光となって万物を貫く訳ではない。最高の一撃ではあるが、至高には届かず、それが何とも歯痒かった。

 生涯、これ程ものごとに打ち込んだ事は嘗て無かっただろう、一射一射、一つ射るごとに僅かだが精度と速度が上がる。薄皮一枚を重ねる様に、ただ繰り返す、何度も何度も。

 気付けば弦は次の没入を心待ちにしていた、この環境を手に入れる為に交わした休息さえも煩わしく思ってしまう。数日前まで思っていた、英雄など馬鹿らしい、理を紐解かない人間が讃えられる理由が無いと、そう信じていた自分など綺麗サッパリ消えてしまっていた。

 

 それ程までに眩く、光に満ちた存在なのだ――英雄というのは。

 

 





 物凄い中途半端な所で切って申し訳ない。 
 ただ今回の話を一話に纏めると16000字になってしまったので、大体二分割にしました。こっちは7000字足らずです。
 一話の目安は10000字なので、大体前後2000位を目指していきたいです。
 分割した後半は近い内に投稿します。


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後継者の意地

 

「――ん?」

 

 何度となく繰り返し、既に血すら滲み始めた手。矢を放ち続けて十時間以上、再び矢を番えた時、弦の耳に金属音が聞こえて来た。

 音の出所はトレーニングルームではない、恐らくウィリスからの合図だ、そう思った。

 

「もう夜なのか……」

 

 弦は弓を壁に立て掛けるとトレーニングルームを後にする、予め用意していたタオルで汗を拭うとゴミ箱を足で退かして布を捲った。見れば既にウィリスの手が向こう側にある、時計を見ると既に十一時を回っていた。

 

「済まない、遅れた」

「いえ、構いません、今は大丈夫ですか?」

「ん……あぁ、多分問題無い」

 

 壁に背を預け自室の扉を見る、そこに誰かの気配はない。弦は念のためリモコンで部屋を消灯し、寝ている体を装った。夜食には手を付けていないが、まぁ言い訳は何とでもなる。それに話すだけならば光は不要だ、寧ろ視界が閉ざされるからこそ思考に容量を割ける。

 

「没入はどうだった? 上手くいったのか?」

「あ、えっと、はい、多分上手くいった方だと思います、才能も幾つか覚醒して……久々にトレーニングルームに入りました、剣とか、弓とか、そういうモノを使うために」

「へぇ、そうか、ウィリスも……」

 

 トレーニングルーム、やはり彼女も武術系統の英雄が先祖だった。そうでなければ才能の話からトレーニングルームという言葉は出てこないだろう。弦が頷いていると、「もしかして、弦さんも?」と疑問の声が上がった。

 

「あぁ、俺も武の才能を引き継いだんだ、本当は数学者とか科学者とか、発明家の祖先が良かったのだけれど、俺のご先祖様は武人であったらしい、俺は銃もそうだが格闘技など生まれてこの方一度も学んだ事がないのだけれどね」

「それは私もです、まさかこの年になって、こんな古武術の才を貰えるなんて」

 

 女性ならば尚更だろう、となると彼女の祖先は女傑か何かだったのか。古い歴史には疎い弦である、誰か女性で凄まじい偉業を成した人物など居ただろうか? 少しの間考えてみるが、そもそも今から数百年、千年以上も前の話など大して学んでいない。それも弓や剣の時代の人間だ、下手をするとカルナと近い時代の天才なのかもしれない、恐らく地域も違うだろう、ヨーロッパかアジアかはたまた別な場所か。

 その辺りだと数百年単位で知識が無い、最早名を聞いても「誰だソレ」となる事は目に見えていた。

 それは彼女にも、そしてその英雄本人にも失礼に当たる。弦はウィリスの英雄の名を問い質したりしまいと誓った。

 

「男は存外そういうものが好きでね、先程までずっと弓を引いたり、槍を振るったり、剣を薙いでいた、数日前までは遥か昔の武器モドキと馬鹿にしていたが、一念貫き通せば最上にも勝る、今なら粒子銃を持った連邦隊にも負ける気がしないよ」

 

 おどけた様に、しかし自信に満ちた声で弦はそう口にする。

 無論如何に才能が有ろうと弓と粒子銃では話にならないだろうが。

 そもそも矢の飛来する速度と粒子銃では余りにも差がある、光の速度に近い粒子銃の射撃は動く前に相手を貫く。そんなトンデモ兵器に廃れた古代の武器が敵う道理は無い。

 だが例えそうであっても、僅かな隙さえあれば穿つ自信が弦にはあった。或はこれもカルナの精神に引っ張られた結果か、己ならば成せると信じて疑っていない。

 

「凄い自信ですね……私も弓を引いてみましたが、やっぱりご先祖様には敵いません、元の体が貧弱という点もあると思いますが、何て言うか、全然迫力が違いました、剣も、何て言うかご先祖様は風そのものを断つ、って感じなのですが、私のは力任せに振り回しているみたいな」

「あぁ、分かる、分かるぞ、思うに俺達には神の加護みたいなものが欠如しているのだろう、ウィリスの英雄がどんな人なのかは分からないが、遥か昔には神様という奴が本当に居たらしい、摩訶不思議な現象を起こせるインチキ野郎共だ、或は魔法みたいなモンだと思っても良い、そういう神様の厚底効果があって漸く英雄という人間は立ち上がれるんだ」

 

 逆に言えば神の手を借りずに英雄となった人間こそ、本当の意味で讃えられるべきなのかもしれない。もしくは英雄と呼ばれる存在そのものの質が下がっているのか、その辺りは弦の知るところではない。

 弦がウィリスに対して、「ウィリスの英雄は、神様と何らかの関係を持っているか?」と問えば、彼女は一も二も無く頷いた。

 

「はい、何でも神様の子らしくて」

「それは……凄いな」

 

 存外、英雄には神の子が多いのかもしれない、弦はそう思った。

 そう言えば嘗てヨーロッパの方で盛んだった天文学だったが、正座やら何やら人々は星々を結んで神聖なものとして扱っていたらしい。それに連なる人物たちは半神であったり、半妖精であったりしたとか、もしやウィリスの英雄はその類のものかもしれない。

 存在するかも怪しい人物ではあるが、カルナも同じようなものだ。

 

「半神ならば、やはりこう、人の身とは思えない技があるだろう? 先程からソレを再現しようと頑張ってはいるんだが、どうにも、百凡の一射にしかならない、技のキレは凄まじいのだが本物と比較すると酷く見劣りする」

「――それで神様の加護が無いと言っていたんですね、確かに私のご先祖様も凄い方でした、多分私も才を引き継いだとは言え、完全に再現するのは無理だと思います、あの辺りはやはり本当の意味で英雄でなければ……」

 

 本物の英雄、それを判断するのは何だろう。

 血の滲む修練か、或は神の血か、才を引き継いだとしても体に流れる血の割合は変えられない。つまり自分達は何処までいっても英雄本人に届く事は無い、無論カルナと並び立つ事が出来ると腹の底から思っている訳ではないが、やはり悔しさがあった。

 弦はぐっと唇を噛みながらもウィリスが自分を呼んだ本当の用件を思い出し、「それで、今後の相談というのは何なんだ?」と話を戻した。才能の話も重要だが己は未だ研究所の全容を理解していない、今後の事は何よりも重要だ。

 

「あっ、すみません、そうでした……弦さん、これを」

 

 弦が座り込んだまま壁に背を預けていると、コツンと手に何かが当たった。弦は近くの小型スタンドを掴み、扉から影になる場所で点灯。見れば摘まめるほどに小さく、勾玉の様な形をした小さな機械。それを摘まみあげて見つめ、「コレは?」と疑問符を浮かべる。

 

「通信機です、それ程遠くの人と会話は出来ませんが、ノア内であれば設計上問題ありません、耳に装着すればいつでも弦さんと私は会話をする事が出来ます、やはり一々壁に集まっては危険だと思うので……担当がいつ入って来るかも分かりませんし」

 

 そう言うウィリスの言葉に、弦は確かにと頷く。しかし一体どうやって入手したのだろうか、通信機をくれと言って馬鹿正直に差し出す連中では無いだろう。

 弦がウィリスに問いかければ、「ゲーム機とか、スピーカーを申請して、それを一度分解して作り直しました」と事も無く言い放つ。どれだけ手先が器用なのだろうか、弦には真似できそうにない。

 

「私はウィル・O社の技術部門でしたから、下っ端ですけれど、これ位の製造なら朝飯前です」

 

 ふふん、と自慢げに言い放つウィリス。成程、今更だが彼女が大企業の社員であった事を失念していた。こういう面を見るとやはり、彼女はとても頼りになる存在だ。

 

「充電は必要ないタイプなので、放って置けば勝手に電力を蓄えてくれます、この辺りはゲーム機のバッテリーをそのまま流用しました、小型化の為少しばかり燃費が悪いですが一日に一時間超も通信するとは思わないので恐らく問題は無いでしょう、えっと、通信を開始するには側面の小さなボタンを押し込んで下さい、そうすると相手に声が届きますから」

「ん……分かった」

 

 言われた通り電源を入れて耳に装着すれば、僅かにノイズが聞こえて来る、恐らく向こうの電源が入っていないので音を拾えないのだろう。少ししてウィリスも電源を入れたのが、ノイズは相変わらずだがトントンという音が聞こえて来た。指でマイクを叩く音だ、確認の合図だろう。

 

「良し、聞えた、問題無い」

「良かった……音が聞き取り辛いかもしれませんが、そこは有り合わせで作成したものなので許して下さい」

「有り合わせでコレを作れたなら凄い事だ、何も文句なんてないさ」

 

 通信機を取り外して弦は頷く、これで大分連絡を取りやすくなった。態々穴に集合する必要もないし、怪しまれる心配もない。万が一穴が見つかってもコレさえあれば連絡は取れる、正に最高の一手だ。

 弦がウィリスの有能さに感謝していると、向こうで声のトーンを落としたウィリスが淡々と口にした。

 

「それで、これが本題なのですが――ノアに連れて来られた英雄の子孫、没入を終えた後の処遇が分かりました」

「!」

 

 それは弦が懸念していた事の第一項目、全てが終われば金を与えて元の場所に帰すと言っていた連中だが、弦は終ぞ担当の言葉を信じた事は無かった。そもそも英雄の子孫から記憶を盗み見し、オーパーツや才能を回収したとして、前者はそもそもノアの職員より扱い方を心得ている上、後者に至っては本人を帰せば苦労して才能を開花させた意味がない。

 つまりあんなものは方便だ、弦はそう考えていた。

 

「そんな情報をどこで?」

「ただの偶然です、実は今日の没入でシートの裏側に、その、こんなものが張り付けてあって……本当なら今後の相談だけの予定でしたが、やはり、弦さんにも見せた方が良いと」

 

 弦が問いかければ、穴の向こう側から一枚の折り畳まれた紙が滑って来た。手紙だろうか? 今時データ化でペンを執る事さえ稀だと言うのに。しかし端末で読み込むチップなどは監視されている可能性もある、確かに最も安全な手段ではあった。

 弦が紙を受け取り恐る恐る開けば、中には文字がびっしりと書き込んであった。一応最低限で済ませようと思っていたのか、箇条書きで重要な事ばかりが書いてある。しかし如何せん紙のサイズが小さい為、一つ一つの文章は酷く短かった。

 

 ・ノアを信用してはいけない

 ・没入に深入りするな

 ・記憶を最後まで見るな

 ・英雄の道具を渡すな

 ・覚醒を急げ

 ・英雄が生を終えるまでに

 ・逃げ出せ

 

 書かれてあったのは、それだけ。

 小さな紙の隅から隅までびっしりとそう書かれていた。一つ一つの情報を読み取れば分かる、やはりこの場所は危険であると。覚醒を急げと言うのはつまり、記憶を最後まで見た瞬間、自分達は終わる、その時に備えろと言う事か? 英雄が生を終える時、万が一記憶を全て見てしまったら、逃げ出せと。

 逃げ出せという事は、やはり全ての先に待っているのは――

 弦は自身の心拍数が上昇するのを自覚した、緊張か、或は恐怖か、顔が熱を帯びて僅かに指先が震える。

 

 弦はその紙を再び折り畳み、ウィリスへと返した。

 予想はしていたし、薄々感じてもいた。だが実際にそんな事態に直面すると嫌な汗が流れる、まるで自分が立っていた場所が切り立った崖の上で、その先には奈落しかないと自覚した様な気分。弦は口元を抑えながら、小さく息を吐き出した。

 

「どう思いますか……この手紙」

 

 ウィリスは手紙を受け取り、どこか沈んだ声でそう問いかける。弦は首を横に振って、淡々と考えを述べた。

 

「……どうも何も、俺には隣人からの命懸けの忠告としか思えない、態々こんな手紙を作ってまで無差別に忠告するって事は、それだけ拙いって事なんじゃないのか」

「そう、ですよね」

 

 この書いた本人がどうなっているかは分からない、だがこんな没入シートに張り付けてまで無差別に情報を撒いたと言う事は、それだけ切羽詰まった状態なのではないか。それこそ安全な手段で連絡を取る試みも何もなく、最悪ノアの関係者の手に渡る事も考えられただろうに。

 

「仮に、仮に、この手紙の全てが正しいとして、恐らくオーパーツだけなら殺されても不思議じゃない、古代の凄まじい道具さえ手に入れられれば、宝の地図は不要だろう、つまりそう言う事だ、逆に言えば才能を持つ英雄の子孫なら機会がある、逃げ出す機会が、折角才能を開花させたのに殺す何て、そんな無意味な事はしないだろう」

 

 無論、殺されないだけであって安全や自由などは保証されないだろう、首に爆弾でも仕込まれるか、或は脳味噌を弄られるかもしれない。ベラドンナやアーベルマンの様や毒物を一滴一滴、その体に染み渡らせる、そんな所業を受けるかもしれない。

 命は在れど人権は無し、そんな未来が透けて見えた。

 

「だからこそ――覚醒を急げ、そういう事なのかもしれない」

 

 弦は口元を覆いながら髪を毟った――しくじった、そう思ったのだ。

 

 覚醒を急げと書いてあるが、覚醒を隠せとは書いていない、だが弦はその重要性に気付いていた。英雄の覚醒とはそれ即ち、武の才能を得たという事だ、科学や学問の発展に寄与した英雄ならばまだしも、弦の英雄はカルナである、その存在は圧倒的な武力によって成り立っている。

 そしてノアの人間はそれを知っている、つまり覚醒イコール武力の目覚め、そしてそれを弦は馬鹿正直に話してしまっていた。トレーニングルームの弓や槍、剣である、そんなものを要求すれば「私は武の才能を受け継ぎました」と叫んでいると同じでは無いか。

 

「くそ……こんな事なら隠すべきだった、あぁ少し考えれば分かるじゃないか、何と頭の悪い」

 

 弦はそう呟いて表情を歪める、ウィリスもこの手紙を見て同じことを考えていたのか、特に反応らしい反応も無かった。弦は暫くの間呼吸を乱し、それから何度か深呼吸を行った。確かにやらかしてしまったが、未だ致命的ではない。

 そう、まだ取り繕うことは出来る――

 

「ウィリス……」

「はい、多分私も――同じ事を考えていました」

 

 弦の言葉にウィリスは頷く、互いに考える事は一緒だった。

 つまり。

 

「私の覚醒は既にノア全職員に知れ渡っていると思います、多分弦さんも、けれど『どこまで引き継いでいるか』は分からない」

「あぁ、限界まで引き延ばす、成長効率を誤魔化すんだ」

 

 記憶に没入しながらも、その才能を引き継いでいる事を誤魔化す事はもう出来ない、トレーニングルームに弓や剣を求めた時点で覚醒した事は知られている。

 しかし、どの程度覚醒しているのか、どこまで英雄に近付いているのか、その尺度を誤魔化す事は出来る筈だ。外に対しては大して成長していない風を装い、しかし裏では最大限の努力を行う、来るべき時――記憶の最後に備える。

 

「実際、記憶を全て見終わる前に此処を抜け出す……っていうのは出来ると思うか?」

「……分かりません、そもそも此処の正確な位置さえ掴んでいませんから、仮に上手く抜け出せたとしても車も飛行機も船もありませんし、テレポートステーションがあれば別ですが、こんな大規模な施設が脱走を考えていないとはとても思えません」

 

 ウィリスの真っ当な意見に、「そうだよな」と弦は呟いた。自分達は元々その辺に転がっている一般市民でしかない、故に唯一の切り札は英雄の記憶、つまり受け継ぐ才能だけだ。矛盾しているが力を得るためには没入を繰り返すしかない、没入を繰り返せば繰り返す程、終わりの時は近付くがそうしなければ力を得る事さえも出来ないのだ。

 

「このまま大人しく飼われる――って選択肢は、無いよな」

「……それは、ちょっと」

「だよな」

 

 なら抜け出すほかない、何としてでもこの場所から。

 

「どう思う? まず、俺達が成すべきことは?」

「……何を差し置いても、まずは情報を集めるべきです、その次に才能を磨く事、最後に体を鍛える、最悪徒歩で此処の追跡を躱さなければなりませんから」

「おいおい、徒歩? 正気か」

「私達の祖先に限りなく近づけば……或は」

 

 ウィリスは真剣な声色でそう告げた、英雄、確かに彼等ならば凄まじい速度で駆け、全く息を荒げなくとも不思議ではない。その持久力と脚力があれば追跡を躱せるか――だが、受け継ぐのはあくまで才能、そんな劇的な変化が肉体に現れるのか、弦は疑問に思った。確かに英雄に肉体は近付くだろうが、飛行機を超える速度で人間が走れるとは、とても思えない。

 

「勿論、足があるに越した事はありません、この研究所に何かしらの移動手段がある事は確かです、それを奪うのも手でしょう――尤もGPSや粒子探知の類があれば場所もバレてしまうので、無効化する術が必要不可欠ですが」

「アンチ・パーティクルか……流石に、そんなモノは作れないよな?」

「通信機とはワケが違いますし、専門家でもないと無理です、そもそもジャミング装置なんて作れる人は連邦軍部の方か反連邦群衆(ゲリル・パルチザン)の連邦指定犯罪者位ですよ……」

 

 GPSの方なら何とかなるかもしれませんが、粒子探知を避ける手立ては今のところありません。そう告げられた弦はスタンドの光を消し、天井を見上げた。光があると嫌に思考が揺れた、周囲が闇に包まれているからかもしれない。

 一度深呼吸をして、それからぐっと腹に力を籠める。

 

「まぁ、今すぐ何とかしなければ、って訳でもない……問題の先送りは嫌いだが、現状足すら手に入れていないんだ」

「――そうですね、幸い時間はあります、私の方も記憶没入は序盤も序盤ですし、古文書と比較してまだ時間に余裕はありそうです、少なくとも後数回の没入で記憶が終わるって事は無いと思います」

「五回か、十回か、或は二十か……」

 

 弦とウィリスは己の身に残された正確な時間さえ知らない、一週間、二週間、少なくとも一ヵ月はないだろう。決して短い時間ではない、だが長くもない、それで己の一生が決まると考えればそうだろう。

 

「……施設の、他の人達とコンタクトは取れないのか」

 

 弦は僅かな希望を抱いて問いかける、武の才能を引き継いだ奴が増えれば単純に心強いし、発明の天才でも引ければ儲けものだ。余り物で凄まじく便利な道具でも作ってくれそうなイメージがある。そうでなくとも現状を打破できる最善手を考えられる頭がある筈だ。

 そして仮に、そんな奴がいるとすれば、黙って飼い慣らされるとは思えない。

 

「基本的に他者とのコンタクトは不可能です、それこそこの穴みたいに壁に穴でも空けない限りは、入退室の時間さえ厳密に決められているんですよ、廊下ですれ違う事さえ出来ません、没入を行う部屋には限りがありますから、それで移動時の接触を避けているんです」

 

 あくまで推論ですが、私は未だに弦さん以外の方と逢った事もありません。

 強ち間違った推論でも無いと言う事だろう、弦は唇を噛んだ。成程、成程、英雄という存在は酷く厄介だ、その力は個人でも十分恐ろしいが、それが集まりでもしたら凡人では手出しができない。

 例えそれが劣化版、つまり英雄本人でなくとも十二分に恐怖の対象となる。弦は脳内でカルナが百人集まった想像をした、正直勝てる気がしない。物理的にも精神的にも。

 

「……いっその事、逆の壁にも穴を空けてみるか? 隣に部屋があるなら同じく人もいる筈だ」

「――穴の中層を見れば分かりますが、多分壁の中にはダングステン合金が挟まっています、何の粒子と複合させたのかは知りませんが、人が素手でどうこう出来るものではありません、金属ドリルでも穴を空けるのは至難の業ですよ?」

「じゃあ、この部屋の穴はどうやって出来たんだ」

「……英雄の力とか」

 

 便利過ぎるな。

 しかし確かに、アストラ・スーリヤならば――少しだけそう思ってしまった。若しくはソレに近い武を持つ英雄ならば壁を穿つ事も出来るかもしれない、しかしその力を得る為にはどれ程の没入を繰り返す必要がある? それとも矢を手に奇声を上げながら壁を削れば良いのか? とてもマトモな人間には思えない。

 

「どちらにせよ時間が掛かるか」

「……焦っても仕方ありません、まずは才を磨く事に専念しましょう、どちらにせよ私達では自発的に情報を得る事も出来ません、果報は寝て待て、でしたっけ」

 

 ウィリスの言葉に弦は頷く、確かに意味も無く焦燥感を抱いても事態は好転しないだろう。別に一日二日でどうにかなる話でも無いのだ、焦るよりは冷静に、腰を据えて挑むべきだ。

 

「なら、今日はもう解散しよう、そっちも没入したばかりだろう? シャワーでも浴びてゆっくり寝ると良いさ」

 

 弦は立ち上がってそう告げる、自分もトレーニングルームに籠っていたから風呂に入りたい。夜更かしするなとは言わないが、今の生活を考えると大した利点も無いのだから。今のところ一番に気を付けるべきは健康だ、体調を崩しては元も子もない。

 或は不健康を装って、没入を伸ばすのも一つの手ではあるが。

 

「そうですね……そうさせて貰います、では、また明日、弦さん」

「うん、お休み」

 

 弦は穴にゴミ箱で蓋をして、手に握った通信機を見えない様にタオルで包んでベッドの上に置いた。万が一これが見つかってしまったら大変な事になる、使う時はある程度注意しないといけないだろう。

 暗闇の中一歩を踏み出すと、ズンッ、と肩が重くなった。まるで見えない力が全身を押し付けているみたいだ。

 

「大丈夫だ……大丈夫」

 

 弦は暗闇の中、覚束ない足取りでシャワールームへと進んだ。既に闇に慣れた瞳はある程度の視界を約束する、何度も「大丈夫」と口にする弦、それは誰に向けた言葉でも無く、ただ自分に言い聞かせていた。

 自信はない、恐怖が先行する。

 今の今まで騙し騙しやって来たが、こうなってしまうと、やはり恐ろしい。

 まるで映画か漫画の主人公ではないか、気付けば連邦の秘密裏に設立された組織に誘拐されて祖先が英雄だ何だと言われて、挙句の果てにソレが真実で実際に力を得ている。こういうのは一般人では無くて、もっと主人公然とした優秀な人間にこそ相応しい立場なのではないか?

 

 自分はただの人間だ、鋼の精神も持っていないし、英雄でもない。

 相手を馬鹿にした態度、或は夢か幻か妄言の類だと高を括っていた、そして力を得れば純粋に新しい玩具を与えられた子どもの様にはしゃいだ。

 そして真実を突き付けられればコレだ。

 途端に委縮して恐怖に呑まれる、何と凡人らしい凡人か。

 

 それが無性に腹立たしかった。

 

「何と情けない」

 

 それは羞恥の感情だった、若しくは怒りだった。

 力任せにシャワールームの扉を叩く、ドンッ! と音が暗闇に響いた。

 一度カルナと言う男と同調した己が、あの男の血を引く己が、こんなにも矮小で無様で取るに足らない存在だと、そう指を突き付けられて糾弾されている気分だった。

 

 こんな有様でどうする、数日前まで自分は秀才止まりで、決して天上人には届かないのだと腐れていた、しかし望外の才能を手に入れて更に己の先祖は歴史に名を刻んだ英雄だと言う。これで奮い立たずしてどうする、今のこの状況は寧ろ才能の代価と言っても良い。

 それに、何より。

 こんな無様な姿では、カルナの背を見る事すら許されない。

 

「俺ならば出来る――いや、俺にしか出来ない」

 

 それは弦らしからぬ言葉だった。

 過去の彼ならば、何だかんだ理由をつけて現状から逃げ出していただろう。辛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、自分は強くないから、自分は天才ではないから。

 理由は何だって良い、人が何かから逃げ出す時は周りにある何事でも理由になり得る。だがこの時の弦はそれを良しとしなかった、プライド、矜持、信条、何でも良い、そういうのを搔き集めて丸ごとぶつけてやったのだ。そうして絞り出したのが先の言葉。

 

 自惚れであった、自分ならば成し得る、自分こそが相応しいと。

 自惚れだと自覚しながらも、しかしソレを欠片も疑っていなかった。

 

 英雄の精神、カルナの人格である。

 

 

「待っていてくれ、カルナ――直ぐに追いつく」

 

 

 

 





 
 もう少し書くスピードを上げたいです……


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賽子賭博の罠

 

 

「それでは、本当に宜しいので?」

「あぁ、あっても邪魔なだけだ、自分で頼んでおいて言うのも何だが」

「……そうですか」

 

 ノアに連れて来られてから四日目、昨日は休息日として殆ど自堕落に過ごした。ベッドの上に転がって惰眠を貪り、時折テレビを眺めていたと報告してある。

 無論そんなのは建前で、トレーニングルームにて地獄の様な自重トレーニングを行っていたが、それは微塵も報告に挙げていない。隠しカメラが有れば一発で分かる嘘だ、その辺りは祈るしかない。

 一応見られているという体で動いてはいるが、連中も口での報告など大して信用していないだろう、その辺りはお互い様だ。

 

「では、後程係の者で運び出します」

「頼んだ」

 

 弦は今、自室にてミーシャと対面していた。彼女は端末を脇に抱えながら、弦に能面の様な表情を向けている。弦が彼女に頼んだ事は単純だ、二日前の没入で頼んでいた弓や剣、そして槍を回収して欲しいと頼んだのだ。

 一通り使ってみた物の、イマイチ手に馴染まないやら、余り意味を感じられないやら、適当な事を言って。

 

 これは昨日、ウィリスと話しあって決めた事だった。ギリギリまで成長を隠す為に、さも与えられた武具を上手く扱えなかった体を装う。その事でウィリスと弦は弓や剣の修練が出来なくなるが、それ自体は大した問題ではない。そもそも才能は記憶の中から引き継ぐもので、現実で修練してもその上達速度は常人と変わらない。

 言わば微修正程度の事しか出来ない。

 ならばいっその事、武の才は全て記憶に委ね、自分達は肉体の強化に励もうではないかと考えたのだ。無論、最終的には弓や剣を申請して修練に励むつもりだが、それは最終調整――つまり記憶の終わりが近付いて来た時だけだ。

 それまでは筋力トレーニングによる土台作りと才能の継承、そして情報集めに勤しむ。

 

「――まぁ、弦様は未だ没入を二回しか経験していませんから、それ程あせる必要はありません、才能の覚醒、その片鱗は見られるのですから焦らず記憶を読み進めましょう、もし、また必要だと感じたら仰って下さい」

「ん、分かった、ありがとう」

 

 薄く微笑んで、そう口にするミーシャに弦は頷いて見せる。大して疑われてはいないらしい、単に少しばかり気が逸っただけ、そう言う風に見られているのだろう。弦は内心でガッツポーズを取った、未だ自分が覚醒とやらに至ったかは分からないが、兎に角大して武を継承出来ていないと思わせられたのは大きい。

 このまま裏では力を蓄えつつ、彼らの目を欺いて見せよう。

 

「あぁ、そうだ、一つ聞きたい事がある」

「何でしょう?」

 

 では、今日の没入を行いましょう。

 そう言って自室を出ようとしたミーシャを呼び止め、弦は前々から思っていた事を問いかけた。

 

「没入する時、その時期と言うか、何が起きている時に飛ばされるか……位は知りたいんだけれど、それは没入する前には分からないのか?」

「……一応、大凡の記憶座標、つまり没入する場所の選択は出来るのですが、残念な事に没入可能な場所というのは限られているんです、更に没入時に自意識を介入させる厳密な時間、月や日単位ならば兎も角、時や分までの指定は出来ません」

 

 弦の疑問にミーシャは頷きながらそう答えた、その表情は淡々としていて嘘を吐いている様には見えない。単純に事実なのだろう、弦は困った様に眉を寄せた。

 

「英雄達にはそれぞれ分岐点があります、要するにその人生が何故そうなったのか、その原因となった強い記憶です、人間がそうであるように彼等もまたそう言った事柄を強く憶えています、私達が記憶に没入出来るのはそういう部分のみ、つまり強い記憶のみなのです、ですので大雑把に記憶の内容を話す事は出来ますが、何処で誰が何をして、どうなっているのか……という様な状況説明は不可能となります」

「科学技術にも限界があるって事か……」

「元々、遥か古代の人間、その記憶を読み取るだけでも凄まじい進歩なのですよ、これ以上は英雄達の叡智が無ければ無理です、それこそ神の御業の様な」

 

 どこか達観した様な物言いだ、ミーシャは大した感慨も無くそう言い放つ。弦は彼女を研究者然とした人間だと思っていた、こんな場所に務めてはいるが彼女の瞳には明らかに強い理性の色が灯っている。研究畑の目だ、科学を信仰しソレが人の生活をより豊かにすると確信している人間だ。こんな瞳を持つ人間が、何故こんな神だ半神だと、眉唾物とも言える世界に踏み込んだのか分からなかった。

 これ程の科学力を持ちながら、最終的に頼るのは古代人の崇めていた神の力。その事に絶望したのか、若しくは新たな探求心でも芽生えたのか。

 

「……何か?」

 

 ミーシャをじっと見つめていた弦は、首を傾げられて自意識を取り戻す。首を振りながら、「何でもない」と口にして足を進めた。

 

「行こう、今日の没入が待っている」

「――本当に稀な人ですね、自分から没入をしたがるだなんて」

「その方が都合が良いだろう?」

 

 皮肉を湛えて笑みを浮かべれば、ミーシャは肩を竦めた。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「さぁ、このドゥルヨーダナの名に於いて誓おう、この()は一切の不正なく、この賭博を行うと」

「……良いだろう、ユディシュティラ、その宣言確と聞き届けた、ならばこそ此方も正々堂々戦い打ち負かして見せよう」

 

 カルナが弦と同調した瞬間、目に飛び込んで来たのは豪華絢爛な装飾。真っ赤な絨毯に備え付けられた木編みの座椅子、壁は無く吹き抜けで場所はドゥルヨーダナの持つ(宮殿)、その中庭である事が分かった。

 

 広い中庭にはドゥルヨーダナの兄弟たちがズラリと座り、その中央にパーンダヴァの五王子、『ユディシュティラ』、『ビーマ』、『アルジュナ』、『ナクラ』、『サハデーヴァ』、そして『クリシュナ』が並んで座っていた。

 神に愛され、神を半身に宿した英雄達だ、例外なく強い神性を帯び力強い瞳で自分とドゥルヨーダナを見つめている。ドゥルヨーダナとカルナは五王子と対峙する様に座し、その目の前には賽子(サイコロ)が転がっていた。

 五王子の背後には山の様な金銀財宝、そしてドラウパディーが一人座している。恐らく兄弟の付き添い、妻としての随伴だろう。逆にカルナとドゥルヨーダナの背後には同じ量の金銀財宝が積み上げられ、それぞれが真剣な面持ちで対峙していた。

 

 こうやって座しているだけでもビシビシと視線を感じる。特にアルジュナだ、前回の競技でカルナに敗北したことが余程応えたのか。その視線からは敵意どころか殺気すら感じられる、無論公の場であり弓を競う場所ではない為、ある程度までは抑えつけられてはいるがドゥルヨーダナは気付いている。

 その眼は細く絞られていた。

 

 賽子賭博――そんな単語がカルナの脳裏に過った。

 そして雪崩れ込んでくるのはこの場面に至るまでの経緯と、そして弦の持つ未来の情報。つまりコレはドゥルヨーダナがパーンダヴァ五王子を陥れる為に組んだ罠だ。カウラヴァとパーンダヴァが決定的に道を分かつ、戦争の引き金となる出来事。

 

 即ち、ドゥルヨーダナの策略。

 賭博を以て、連中の全てを奪う分岐点。

 

 カルナはそれを自覚し、ぐっと腹に力を込めた。此処が歴史の分岐点、そう弦が理解した途端、何か精神的な重圧を感じた。それに弦の精神は押し負けそうになる、没入する前に大凡の説明を聞いておけばよかった、そう後悔する。

 しかし今にも崩れそうになる弦、その背を押す何かがあった。

 カルナの精神だ、その鋼の様で、太陽の様に熱い心が、弦の崩れかかった精神を支えた。

 まるでこの男は、自身の中にもう一つの人間が潜んでいる事に気付いているみたいだ、弦はカルナと言う男の偉大さに感謝し、彼の心が差し伸べた手を確りと掴んだ。

 

「さて――準備は良いかユディシュティラ?」

「無論、それで賽子は誰が振る?」

「なに、既に振る人間は決まっている……シャクニ」

 

 ドゥルヨーダナがその名を呼ぶと、黒い髪を一つに束ね、その顔を白い木面で覆った男が一歩踏み出した。体つきは細く、凡そ武人と呼べる体格ではない、しかし木面から覗く瞳は恐ろしく知性を感じさせるもので、対峙させる者に何とも表現し難い威圧感を与えた。

 

 シャクニ――ドゥルヨーダナの学術の師であり、同時に良き助言者、相談役である男。

 謀と賭博に関して言うのならば、この男の右に出る者は居ないだろう。

 シャクニは恭しくドゥルヨーダナとカルナ、五王子の間に座ると、地面に転がっていた賽子を一つ一つ摘まみ上げ手の中に収めた。

 そしてその中に一つ、懐から取り出した賽子を混ぜる。

 その様子をつぶさに見せながら、先に五王子に向けて賽子を収めた両手を差し出した。

 

「さぁ、存分に検分するが良い」

「……ふん」

 

 ドゥルヨーダナが尊大にそう言い放てば、ユディシュティラは鼻を鳴らして一つの賽子を摘まみあげる。じっとそれを観察してみるものの、特におかしな点はない。重さも質感も平凡、何処にでもある様な賽子だ、先の動作で含まれた賽子の一つも然り、僅かに色が濁っているが材料の色、或は願掛けの様なモノだろう、他と比べても大した違いはない。持ち比べてみても同じ、背後に居るアルジュナに手渡してみれば、彼も数秒ほど比較し頷いた。

 

「良いだろう、これで勝負だ」

「――シャクニ」

 

 その言葉を聞き、ドゥルヨーダナは内心で嗤う。

 他に混じった一つの賽子、それは唯の賽子ではない。この手の賭博でドゥルヨーダナが正々堂々戦う等と思っているのなら大間違いだ、彼は陰湿に、残酷に、卑怯な手段で勝利を捥ぎ取る男。

 華麗な勝利にも、雅な勝利にも、盛大な勝利にも興味はない。

 欲するはただ、勝利したという結果だけ。

 色の濁った賽子はシャクニ、その父の脊髄を削って作った賽子である。血と骨で出来た賽子はシャクニの思うがまま、その出目を変える。つまりアレが混じっている時点で、偶数か奇数か、などという賭けは成立しない。

 何故なら相手が張った方と逆の出目を出せば良い、それだけの話だから。

 

「……では、参ります」

 

 シャクニが指で三つの賽子を挟み、黄金の椀を反対の手に持つ。そして全員の目が己の手に集中している事を確認し、素早く賽子を椀に投げ入れ、地面に抑えつけた。カラカラと少しの間音が鳴り続け、やがて止む。

 地面に伏せられた椀、その中の賽子の出目――奇数か、偶数か?

 

「先に決めても良いぞユディシュティラ? 我は寛容なのでな」

「――余裕のつもりか? なら今に見ていろ、正義の神ダルマの加護は賭博であろうとソレを成す、即ち我々が負ける道理はない」

 

 ドゥルヨーダナは背中を丸めてカカカッと笑う、その表情は何処までも余裕に満ちており、その瞳は五王子の背後――この宮殿に持ち込まれた金銀財宝に向いていた。この賭博の賭け物品である、その積まれた財宝は総額にして幾らになるのか、カルナにも予想が出来ない。

 

「……エーク(奇数)

 

 暫くの間を置いて、ユディシュティラはそう宣言した。エークは1、即ちこの場では奇数を意味する。ドゥルヨーダナは肩眉を上げて、「ほう」と唸り、それから笑みを湛えて告げた。

 

「ならば我はドー(偶数)を選択しよう」

 

 双方張り終えた、カルナの表情は変わらない、この勝利を確信しているからだ。

 シャクニはドゥルヨーダナ、ユディシュティラの両名を見て、それからゆっくりと椀を持ち上げた。そして中にある賽子の出目を見る、結果は――

 

ドー(偶数)

 

 読み上げられた結果に、ドゥルヨーダナは「ハッ!」と甲高い笑いを上げ、カルナも薄っすらと笑みを張り付けた。反対にユディシュティラは眉間に皴を寄せる、その表情は厳し気だ。

 

「どうしたユディシュティラ? 正義の加護とやらを見せてくれるのではないのか、それとも賭博では正義もクソもないか?」

「……黙れ、高々一度勝ちを拾った程度だろうに、未だ序盤も序盤、精々今から全てを根こそぎ奪われる覚悟をしておけ」

「はん、そうか、そうか……では、賭けの分は頂くぞ」

 

 ドゥルヨーダナは両手を叩き、ユディシュティラ達の背後にあった金銀財宝、その四分の一程度を兄弟たちに持っていかせた。その山が僅かに小さくなるが、五王子は気にも留めない。次で勝つと確信しているからだ、その自信が間違いであるとも知らずに。

 ドゥルヨーダナは一度膝を叩くと、「さて、次だ!」と声を張り上げた。

 賽子を回収したシャクニは頷き、ユディシュティラを見る。彼はさっさとやれとばかりに顎を突き出し、シャクニは再び賽子と椀を構えた。

 

「参ります」

 

 そう告げ、シャクニは椀に賽子を投げ入れる。カラカラと音を鳴らしながら回転する賽子、それが動きを止める前にシャクニは椀を地面に伏せる。トンッ、と音が鳴り同時に賽子の音が止んだ。

 

「先手は全て譲ろう、選ぶが良いユディシュティラ」

「――ドー(偶数)

 

 ユディシュティラは顎に手を添えながら、そう口にした。先とは反対の偶数、ドゥルヨーダナはそれを聞き届け、「そうか」と笑みを浮かべたまま頷いた。

 

「良し、では我は反対のエーク(奇数)としよう、シャクニ」

「――」

 

 ドゥルヨーダナはシャクニに向けて手を打ち、シャクニは無言で頷く。

 そして持ち上げられた椀の下から出て来た賽子の目は――

 

エーク(奇数)

 

 ドゥルヨーダナが笑みを張り付け、ユディシュティラは顔を大きく歪めた。

 連敗によりユディシュティラの背後に佇む兄弟が僅かに表情を崩す、しかし決定的ではない。未だ二連敗、運が無ければこの程度は良くある事だ。

 ユディシュティラもそれを理解しているのだろう、一度手で顔を覆うと小さく深呼吸を行っていた。カルナはそんなユディシュティラの背後に座るアルジュナを見る。彼も僅かな不安を覗かせているが、己の兄を心底信じている様子だ。

 それが絶望に変わる様を見届けてやる。

 

「さて、二連勝か、どうやら運が向いているらしい――しかし、あぁ心配であるな、正義の神ダルマがこの勝負をひっくり返してしまわないか、我は非常に不安だ、あぁ、不安で仕方ない……なぁカルナ?」

 

 ワザとらしく肩を竦め、薄笑いを浮かべながら問いかけて来るドゥルヨーダナ。その声色は人の精神を逆撫でするもの、カルナもその意図を察し、「あぁ」と頷いて見せた。

 

「彼らに正義があるならば、ダルマは恐らく俺達を罰す、しかし勝負の流れはこちらにある様だ、若しや彼の正義の神は俺達に味方しているのかもしれない」

「ははははッ! 己の息子では無く我らに付くか、何ともまぁ法に忠実な神だ!」

「――ッ」

 

 ギチリとユディシュティラが歯茎を剥き出しにしてカルナとドゥルヨーダナを睨めつける、それはそうだろう、己の父を、神を侮辱されたのだから。ユディシュティラはパン! と膝を勢い良く叩き、叫んだ。

 

「御託は良い、次だ! 次ならば勝つ! 我が父の加護は我らパーンダヴァにあると知れッ!」

「ほう、面白い……それ程の自信があるならば、どうだ、賭け金を増やすと言うのは?」

 

 ドゥルヨーダナが肩眉を上げて手を叩く、すると周囲の兄弟たちが五王子の財宝を再び徴収し、その量は元々の半分程度になってしまった。積まれた金銀に輝く財宝は既に目減りしている。

 賭け金を増やす、その言葉にピクリとユディシュティラは反応した。

 

「正直チビチビ少量を賭けるのは性に合わん、全部、全部だ、己の全てを賭けろ」

「……全て?」

「応よ、そうさな……まずは財宝を全て賭けようではないか、主らの持ち込んだその財宝――次の一戦に全て賭けろ、見返りはユディシュティラ、今しがた奪った二回分の財宝、全て」

 

 その言葉にユディシュティラの目の色が変わった、代わりに背後に居たアルジュナ、クリシュナ両名が顔を顰めた。明らかに拙いと、そう直感した表情。二人が何かをユディシュティラに言う前に、カルナは白々しく叫んだ。

 

「あぁ、王よ、そして我が友よ、そんな事をしてしまって、負けたらどうするのだ? 折角幸運が二度も続いたというのに、その幸運を自ら差し出すなど……あぁ何と寛容で大きな器か、これで相手が拒めば、ソイツはドゥルヨーダナ、君の慈悲を無視し、ましてや意地を張った間抜けな奴という事になる」

「な……にをッ!」

 

 両手を突き上げて役者の様に朗々と言葉を紡ぐカルナ、その口調は酷く慈悲深いものだが、表情と言葉はこれ以上ない程に相手を馬鹿にしている。ユディシュティラはその姿にプチンと、額の血管を切らし勢い良く地面を叩いた。

 

「良くぞ、良くぞ其処まで吠えたなッ! 良いだろう、全て賭けよう、持ち込んだ財宝全てだ!」

「ほう、良い決断だ、英断だな、賞賛しようユディシュティラ」

「貴様の賞賛など要らぬ!」

 

 カルナの言葉にユディシュティラは勢い良く叫ぶ、背後に居たアルジュナとクリシュナは己の代表者が受けると決意表明してしまった為、伸ばした手は力なく地面に垂れた。前言を撤回する事は許されない、それは賭博に於いて絶対の条件。

 

「宜しい! その言葉、確かに聞き届けたぞ! シャクニ!」

 

 ドゥルヨーダナが興奮した様に叫び、シャクニが三度賽子を振る。椀に入った賽子が音を立て、そのまま伏せられる。カラカラと鳴る椀、そして音が止んだ瞬間ユディシュティラが叫んだ。

 

「エーク! エーク(奇数)だッ!」

「ならば我はドー(偶数)! さぁ勝負だユディシュティラ!」

 

 双方の叫びが中庭に木霊し、シャクニが伏せた椀を持ち上げた。三度目の勝負、ただしこの勝負にユディシュティラが敗北すれば全ての財を奪われる事になる。流石に背後の兄弟たちの表情も強張り、張り詰めた空気が流れた。

 果たして勝負の行方は――

 

 

ドー(偶数)

 

 

 シャクニが出目を告げ、ドゥルヨーダナは両手を突き上げ、逆にユディシュティラは地面に拳を叩きつけた。

 

「何故だッ!?」

「ハハハハハッ! 愉快、愉快よのぉ! ここまで連勝すると気分が良い、あぁ、今日は全ての神が我に微笑む全盛の刻か! ハハハハハッ、至高、最高、これこそ勝利の味よ!」

 

 高笑いと共に体を揺らすドゥルヨーダナ、対して五王子の表情は暗い。それはそうだろう、自身たちが持ち込んだ財宝が全て奪い取られたのである。ドゥルヨーダナとカルナの背後には五王子の持ち込んだ財宝が徴収され、二つの山が築かれていた。周囲のドゥルヨーダナの兄弟たちは忙しなく財宝を運搬している。

 

 完勝――これ以上ない程の完勝である。

 

 こちらは欠片も財宝を失わず、向こうの五王子が溜め込んだ金銀財宝を全て奪い取ってやった。これには流石のアルジュナも顔色を悪くし、唇を噛んでいた。彼は確かに英雄らしい英雄だが、義務を守り法を順守する人間である、今更なかった事にして下さい等と口にする筈が無い。

 ユディシュティラは俯いたまま震え、その拳を握っている。恐らく持ち込んだ財宝はドゥルヨーダナと同じ殆ど全財産に近いだろう、明日を生きるためには何かを売り飛ばさなければならない。大金持ちが一瞬にして貧困の王だ、カルナはざまぁみろと笑った。

 

 しかしユディシュティラという男は元来負けず嫌いな性格、傲慢で大口を叩き、良くそれをアルジュナに窘められる様な男だ。そんなドゥルヨーダナに近い素質を持つ奴が、完全に敗北して黙っている筈が無かった。

 

 

「……領土だ」

 

「ハハハハッ、ハ、あぁ、ん? ――何、今、なんと言った」

 

 

 

「――我が国の領土を賭ける」

 

 

 

 それは破滅への第一歩であった。

 

 





 インド系の名前は覚えにくい、本当に。
 今回の話を書いていて思いました、お前等もう少し「カルナ」を見習えと。
 
 私この話で何回ユディシュティラって書いたのだろうか。
 ユディシュティラ、って本当にユディシュティラ、もう少しユディシュティラは短い名前にすべきだと思いましたユディシュティラ、もう改名してくれよユディシュティラ。
 
 ドゥルヨーダナも大概ですがね。
 いやでも、まだドゥルヨーダナは大丈夫なんですよ、なんか特徴的で覚えられます。
 でもユディシュティラは何か噛みそうで覚えられないんです。
 これも全部ドリタラーシュトラって奴のせいなんだ! 
 くそう、ドリタラーシュトラめ! 長い名前を付けやがって!
 許すん!


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宿命と天命

 

「兄よ!?」

「ユディシュティラ、正気かッ!」

 

 先にアルジュナが悲鳴を上げ、クリシュナが引き留める声を発した。残ったビーマとナクラ・サハデーヴァも呆然としている。未だ諦める気を見せないユディシュティラに言葉が無かったのだ。

 ドゥルヨーダナはユディシュティラの領土を賭けるという発言に、最初は驚き、次に獰猛な笑みを浮かべた。正にカモが自ら寄って来た様な僥倖、カルナもまさか此処まで出してくるとは思わなかった。しかし自意識のある弦は驚愕しない、何故ならこれも全てマハーバーラタにて知識を得ているから。

 

「ユディシュティラ――貴様、その言葉に偽りはないか?」

 

 ドゥルヨーダナが先程まで見せていた笑みを取り消し、好戦的な表情を浮かべたまま告げる。本当にお前はその国、領土を賭け事の対象にするのかと。

 

「無論、無い! 我が国、我が領土、インドラプラスタを賭けよう!」

 

 ドゥルヨーダナの最終確認に、しかしユディシュティラは憤怒の声色で叫んだ。自身の拳を地面に打ち付け、そのまま肩で息を繰り返しながら肯定する。自国の領土、言ってしまえば国そのものを賭ける。

 王としては聊か以上に愚考が過ぎる。

 ドゥルヨーダナでさえ分かる事だ、恐らくユディシュティラは今負けが込んだために視野が極端に狭くなっていた。しかし情だとか情けだとか、そんなモノは外敵に微塵も持ち合わせていない男、それがドゥルヨーダナ。彼は歓喜に両手を突き上げ、そして高らかに宣言した。

 

「良い、良いぞ! 一国の王がまさか領土を、国そのものを賭けるとは! 傑作だ! そして素晴らしい決断だ! 宜しい、ならば我も応えようではないか!」

 

 こんな最高なカモを逃がしてなるものかと、ドゥルヨーダナは立ち上がる。そして己の背後に聳え立つ二つの財の山を指差し、それから言い放った。

 

「次、貴様が勝利すれば、あのちっぽけな財宝は全てやろう! 更にユディシュティラ、貴様の勇気に免じてもう一つ景品を増やしてやる! ――我が国の領土、ハスティナープラ、その半分をくれてやる!」

 

 それは驚愕に値する言葉であった、クル国の首都ハスティナープラ、それは富と繁栄を象徴する場所。あのドゥルヨーダナがその領土の半分をやると言い出したのだ、さしものアルジュナ達さえ言葉が無く、驚きに身を固めている。

 ユディシュティラに関しては殆ど呆然としており、まさかそこまで賭けて来るとはという気持ちであった。しかし、仮に勝利すれば大逆転どころの話ではない、財を全て取り戻し、その上領土まで勝ち取れると言うではないか。望外の事態、正に千載一遇のチャンス。

 ユディシュティラの瞳に強い闘争の色が宿った。

 

「――二言は無いな……?」

「ないッ!」

 

 ユディシュティラの言葉に、ドゥルヨーダナは胸を張って答える。そうして二人の王は互いの領土を賭け、一世一代の大勝負に乗り出した。中央に陣取るシャクニは両名に視線を寄越し、二人は頷く。

 それを開始の合図とした。

 

「参ります」

 

 指に挟んだ賽子、それを見逃してなるモノかとばかりに見つめるユディシュティラ。対してドゥルヨーダナはカルナを一瞥し、ニヤリと笑みを零す。最早勝ちを確信している顔、それはそうだろう、そもそもこの賭け事自体が計略、連中を陥れる罠なのだ。カルナはドゥルヨーダナの笑みに同じ表情で返し、それからさも真剣な表情を取り繕った。

 

 シャクニが四度目となる賽子を振る。

 カラン、と音を立てて椀に収まった賽子、それから流れる動作で蓋をし、音が消えた。

 

「―――」

「―――」

 

 張り詰めた空気、まるで棘を含んだ空間。

 ドゥルヨーダナとユディシュティラは一言も会話を交わさない、互いが互いに椀をじっと見つめ、汗を流していた。

 ドゥルヨーダナは勝利を目前とした興奮故に、ユディシュティラは己の尊厳を賭けた故に。

 この椀の下に国の命運が――生と死が眠っていた。

 

 

「――――エーク(奇数)

 

 

 ユディシュティラは額の汗を乱暴に拭って、そう告げた。

 対面に座すドゥルヨーダナの瞳をじっと見つめ、全く曇りのない目で、迷いなく。

 ドゥルヨーダナは彼の鋭く、抉る様な視線を受けながらも笑みを浮かべ頷いて見せた。

 

「―――ドー(偶数)

 

 ユディシュティラ(五王子の長男)エーク(奇数)を。

 ドゥルヨーダナ(百人兄弟の長男)ドー(偶数)を。

 それぞれ選び、宣言した。

 

 二人の視線が交差しカルナは人知れず拳を握った。カルナ自身がそうさせたのか、或は弦が握ったのか、それは分からなかった。中庭に緊張が走り、五王子も、ドゥルヨーダナの兄弟も、ドラウパディーさえ固唾を飲んで見守っていた。

 

「――」

 

 シャクニがゆっくりと息を吐き出し、それからドゥルヨーダナとユディシュティラを見る。二人は椀に注目し、その蓋が緩慢な動作で開かれた。

 三つの賽子の出目が白日の下に晒される。

 果たして、この領土争いに勝利したのは――

 

 

ドー(偶数)

 

 

 ドゥルヨーダナであった。

 

 彼は王らしさを投げ捨て、その場で跳び上がって喜ぶ。

 その両手を天に突きあげ、カルナに飛び掛かる勢いで抱き着いた。「やったぞ! 我はやったぞ! なぁ友よ! ハハハハハッ!」と上機嫌に笑い、体を揺らし、カルナの頭をくしゃくしゃに撫でる。

 カルナはこの勝負では何もしていなのだが、しかしドゥルヨーダナの凄まじい喜びっぷりを見ていると自分まで心が温かくなった。それは弦も同じである。

 

 対してユディシュティラはその場に崩れ落ち、ポタポタと滝の様に汗を流した。流れたのは脂汗か冷汗か、どちらにせよ染みを作って行くソレをカルナは哀れな気持ちで見届ける。

 あのアルジュナでさえ顔色を真っ青にし、戦慄いていた。それはそうだろう、例え王子とは言え国が無ければ王もクソもない。ただの肩書だけの一市民だ、王の義務だ責務だとほざいていた男が、自分と同じただの一市民に成り下がったのだ。

 カルナにはその事実が酷く心地よかった。

 

「あぁ、やったぞ、我はインドラプラスタを手に入れた! これでクル国は前王の時代と同じ一つとなったのだ! あぁ、これこそ真の【世界皇帝(ラージャスーヤ)】、我こそは世界を統べる王なりッ!」

 

 カルナと肩を組み、今にも歌い出しそうなドゥルヨーダナをカルナは満面の笑みで讃える。あぁ、そうだとも、君こそが世を統べる真の王であり、世界皇帝に足る存在だと。はしゃぐ彼を褒めちぎり心からの賛辞を送った。

 

「――まだだッ」

 

 喜びに沸くドゥルヨーダナとカルナ、そして兄弟たち。

 その祭りの様な熱気に水を差したのは他ならぬユディシュティラだ。滝の様な汗と涙を流しながら、痛いほどに握り締めた手を突き出し、叫ぶ。その表情は絶望の淵に一筋の光を見出した様な――しかし、狂人とも言える顔だった。

 カルナはその表情を見て、ゾクリと背筋が凍る。

 

「――我らの、我ら自身の身を賭ける」

 

 その言葉は中庭に良く響き、全員の耳に届いた。

 ユディシュティラの背後に居た兄弟たちは絶句する、よもやその様な事を言い出すとは欠片も思っていなかったと。それはドゥルヨーダナも同じであった、カルナは弦の知識から辛うじて驚愕する事を免れたが、それでも「まさか」という感情が浮かぶ。

 既に祭りの様な雰囲気は静まり返り、水を打った静けさだけが残った。

 

 己の身を賭ける。

 それはつまり、敗北すれば王家である事を捨てるという言葉だ。

 

 ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ、クリシュナの五人は最早何も言えなかった。最後まで沈黙を貫いていたビーマとナクラ、サハデーヴァでさえ、やめろと言わんばかりに顔を歪めている。

 

「冗談だろうユディシュティラ!?」

「兄よ、本気か……? 本気で言っているのか」

「おいおい、兄貴、流石にそりゃぁ……」

 

 皆はここまで来て、己の兄であり長であるユディシュティラが破滅への道を歩んでいると理解したのだ。このままでは負ける、己は王家の身すら追われ奴隷の身に落とされる。さすがにその一歩を踏み出すのは拙いと、兄弟たちが口々に反対意見を述べる。

 しかし。

 

「だがッ、だがしかし、国を失えば最早我々は死んだも同然! 責務も義務も権利さえ、我々は持つ事を許されなくなる――ならば身分が有ろうが無かろうが同じことッ!」

 

 ユディシュティラは兄弟たちの方を見向きもせず、ドゥルヨーダナに向かって吠えた。

 失ったものは余りにも大きい。私財は勿論、その国を丸ごと――辺境の地から死ぬ思いで発展させたインドラプラスタ、それを僅か一時間足らずで奪われたのだ。取り返したい、そう思う事は自然だろう。しかしその代償は己の身分、余りにも大きな代償だ。

 

「我が兄ユディシュティラ、少し落ち着いて欲しい、私達の言葉を聞いてくれ」

 

 アルジュナがユディシュティラの肩を掴み、優しく諭すように口を開いた。しかしユディシュティラは聞き耳を持たず、アルジュナの手を振り払う。それでも尚、アルジュナはユディシュティラの凶行を止めようとしたが、それよりも先にドゥルヨーダナが語りかけた。

 

「……王で在る事を捨てるか? ユディシュティラ」

「……民を見捨てる位ならば、この身を賭けよう」

 

 国を賭けの対象に含めた奴の台詞ではないな。

 ドゥルヨーダナはそう吐き捨てて、再び己の座椅子に腰かけた。その表情は先程までの喜びを失い、寧ろ憐みさえ感じさせた。そして細めた目で以てユディシュティラを射抜き、彼の顔を指差す。

 

「――これで最後だ、ユディシュティラ、勝てばそうだな……財宝はやらんが、国は返してやる、既に我は三度(みたび)勝利した、この権利当然主張させて貰おう」

「無論だ……領土だけで構わない」

「まぁ、本来ならば貴様らの首を五つ――否、六つか、並べたところでインドラプラスタとは釣り合わんが、別に構わん、これは王である我の慈悲である」

 

 ドゥルヨーダナが尊大にそう告げると、ユディシュティラは唇を噛み締めながら頭を下げた。その様子を我が王は大層嬉しそうに見ている、あのユディシュティラを屈服させた事が余程嬉しいのだろう。その口角は僅かに上がっていた。

 そして再戦の言葉を交わした以上取り消しは聞かない、アルジュナは唇を噛み締めながら引き下がり、ユディシュティラの背後に座した。

 

「シャクニ、何度も済まないな、だがこれで最後だ――貴様等の文字通り『命運』を賭けた賭博だ、心して選べ」

 

 シャクニがドゥルヨーダナに対して一度頷き、そして最後の賽子を振る。素早く放られた賽子は椀に入り、カラカラと音を鳴らす。そして椀は地面に伏せられ、賽子の転がる音は止んだ。

 ユディシュティラは既に賽子を見ていない、最早目で捉えても無駄と考えたか。瞼をぎゅっと閉じて祈る様に手を組んでいた。背後の兄弟たちはそんなユディシュティラを不安そうな面持ちで見つめており、ドゥルヨーダナはカルナの肩を枕代わりに頭を預けている、最早緊張も何もない。

 下手をすれば詐欺がバレてしまいそうな態度だが、仮にも勝っても負けても得しかないドゥルヨーダナ。ある意味勝者の余裕とでも言うべきか、その緊張のピークは既に終わっていた。

 

「決まったか、ユディシュティラ?」

「…………」

 

 長考。

 ドゥルヨーダナの問いにも答えず、ユディシュティラは祈りの姿勢のまま動かない。自分の父である正義の神ダルマにでも縋っているのか、或は単に迷っているだけなのか。傍から見ている限りは分からないが、その額には凄まじい汗を掻いている。

 ドゥルヨーダナは鼻を鳴らしでカルナに寄り掛かり、カルナはそんなドゥルヨーダナを支えながらユディシュティラと背後のアルジュナを見ていた。

 

 あれ程光輝き、嫉妬と憎しみの対象であったアルジュナが、今や国を失くして一般市民に落ちぶれたとは。仮に、万が一、この勝負にユディシュティラが勝利したとしても、あのドゥルヨーダナに情けを掛けられたという事実は一生消えない。

 その恥辱を背負って生きるのだ、どう転んでもドゥルヨーダナとカルナにとっては嬉しい展開でしか無かった。

 

 

「――ドー(偶数)……ドー(偶数)だッ!」

 

 

 祈りの姿勢から立ち上がり、叫んだユディシュティラ。その叫びを聞き届けたドゥルヨーダナは片手を上げ、「ならば、我はエーク(奇数)を」と言い放つ。ユディシュティラの目は血走っており、その肩は震えている。

 正に命懸け、己だけでなく一族の命を天秤に吊り下げたユディシュティラは必死だった。

 ドゥルヨーダナはそんな彼の姿を眺めながら、しかし薄く笑うだけ。

 

「シャクニ」

「――」

 

 ドゥルヨーダナの言葉に頷き、シャクニがゆっくりと椀を開く。その出目を這い蹲って確認するユディシュティラ、固唾を飲んで見守る五王子。

 そして告げられた結果は。

 

 

エーク(奇数)

 

 

 今度こそユディシュティラは崩れ落ち、額を地面に擦り付けた。

 瞳からは大粒の涙を流し、肩を揺らしながら嗚咽を零す。

 彼等五王子は既に王子では無く、バラモン(王家)からシュードラ(奴隷)に転がり落ちたのだ。クリシュナを含めた背後の五人は俯き、ドラウパディーに至っては信じられないとばかりに固まっていた。良い気味だ、たかが賭け事で全てを失うとは。

 

「……よもや、此処まで貴様らが賭け事に弱いとは、あぁ、しかし、賭けは賭けだ、貴様らの全て、確かに頂くぞ―――ドゥフシャーサナ(我が弟よ)、ドラウパディーを此処に引き摺って来い」

 

 ドゥルヨーダナは這い蹲って泣き喚くユディシュティラを見下ろしながら、ドラウパディーの近くに座していた兄弟、その一人に声を掛ける。すると彼は素早く立ち上がり、ドラウパディーの肩を強く掴んだ。そして呆然としたまま固まる彼女を引き摺って、ドゥルヨーダナの元に連れて行く。

 どうやらドラウパディーは未だ、己の境遇が信じられない様だった。

 

「ま、待ってくれ、彼女は私達の妻だが、この賭けには――」

「妻であるならば王家であると同じ、そうだろうアルジュナ? これは(ルール)だ、それともソレを破る気か?」

 

 連れていかれるドラウパディーに腕を伸ばし、止めようとしたアルジュナにカルナは声を掛ける。

 賭けの対象は既にユディシュティラが指定した、自分達の身分を賭ける。それはつまりこの場に居る王家の人間全てという事だ、そうでなければとても一国とは釣り合わない。そして元々パーンダヴァと関係無いとしても、彼女がアルジュナ達と婚姻しているのならば王家の人間である。賭けの対象は免れない。

 

「此処まで慈悲を見せたと言うのに、まだ喚くと言うのか? 我が王、ドゥルヨーダナは何度も機会を与えた筈だ、それを活かせなかったのはアルジュナ、貴様の兄だろう?」

「っ……」

 

 カルナが薄ら笑いを浮かべながらそう告げれば、アルジュナは射殺す様な視線でカルナを見る。だが言っている事は間違っていない、故に何かを反論する事は無かった。拳を硬く握り震えるのみ、やがてドラウパディーはドゥルヨーダナの弟によって目前に引き摺り出され、その美貌を全員の前に晒した。

 

 しかし、カルナとドゥルヨーダナの表情は優れない。愉悦も何も浮かばない、あるのはただ、コイツが気に食わないという共通の感情だけだ。

 

「ふん、大した女でもあるまいに、何故こんな奴を世の男共は欲しがるのか理解出来ん……なぁ、そう思うだろうカルナ? この女、どうすれば良いと思う?」

「そうだな友よ、心から同意する――何なら服を剥いで森にでも捨てたらどうだ? 性根の腐った女だが、その肉は獣にとっては馳走だろう、多少は連中の腹を満たしてくれるんじゃないか?」

 

 ドゥルヨーダナの問いに、カルナは笑わず、ただ淡々と答えを述べた。こんな女抱く気にもなれん、殺す気も無い、ならば服を剥いで森に投げ捨ててやれと。それは畜生を越えた悪魔の所業であり、アルジュナを含め五王子の反感を買うには十分過ぎる言葉だった。五王子の方から濃い殺気を感じたが、カルナはそれを鼻で笑い飛ばす。

 ドゥルヨーダナも気にした様子は無く、「それは良い」と頷いて見せた。

 

「そ、んな……」 

 

 ドラウパディーはカルナの言葉に漸く自意識を取り戻し、涙を零して体を震わせる。目の前の男から感じるのは慈悲の欠片も無い、まるで家畜を見る様な目。嘗て己をそんな目で見て来た人間は居なかった、故にそれは世を知らぬドラウパディーの心を無残に引き裂く。

 カルナは口元をふっと緩めると、壮絶な表情を湛えて告げた。

 

「言っただろう? 俺を侮辱した事――必ず後悔させると」

 

 いつか競技場で告げた言葉、カルナはそれを有言実行させるつもりでいた。

 

 

「テッ――メェエッ!」

 

 

 五王子の中から特に濃い殺気が漏れる、同時に叫び声が木霊して一つの影がカルナに向かって躍りかかった。

 五王子の一人、パーンダヴァの次男、ビーマだ。

 短絡的で暴力的、考える事を良しとせず何でもかんでも腕っぷしで解決しようとする風神ヴァーユの息子。流石に風の加護を受けているだけあって素早く、カルナが気付いた時には既に拳が顔面に迫っていた。周囲の誰もが制止を掛ける暇さえない、コレは避けられない、隣のドゥルヨーダナの表情が驚きに変わり拳がカルナを捉える。

 風の加護を受けた拳は素早く、鋭い、流石に直撃を許せば頭が吹き飛んでしまうだろう。

 

 しかし――ソレがカルナに届く事は無かった。

 

「ッ!?」

 

 ビーマの拳が黄金の粒子に包まれる、まるで拳そのものを絡めとる様に、ビーマの剛腕はカルナに届く寸前で止まった。ピタリと拳が固定され、風圧のみがカルナの背後に流れる。

 

【黄金の鎧】――これがある限り、何人たりともカルナを傷つける事は叶わない。

 

「――奴隷(シュードラ)の分際で早速主に拳を振るうか、パーンダヴァの王子と言っても、やれやれ、全く躾がなっていない」

 

 カルナは黄金の鎧によって腕を掴まれたビーマを見つめ、大した驚きもなくそう口にする。それから彼の額に指を近付け、ふっと笑みを零した。離れようと暴れるビーマだが、黄金の粒子は彼の腕を決して離さなかった。寧ろ振りかぶったもう片方の腕さえ絡め取り、更に強固な拘束と成す。

 

「貴様程度、指一本あれば事足りる」

 

 そう告げるや否や、ビーマの額に近付けた中指に粒子が集う。カルナの中に潜む弦は、それが太陽の神、スーリヤの力である事が分かった。まるで体が沸騰する様な熱、それを瞬間的に感じたのだ。

 カルナは一度ドゥルヨーダナの方を見て、彼が頷いたのを確認、それからビーマに向かい直った。

 

「馬鹿も叩けば治るやもしれん、まぁ物は試しだ――吹き飛べ俗物」

 

 パァン! と肉を打つ音。

 それはカルナが放った指の一撃、弦の価値観に基づいて言うのであればデコピン。それが神性を帯びた状態で放たれ、光の残滓を残しながら撃ち出された指は見事にビーマの額を直撃した。

 

 凡そ指一本で出せる威力ではない。

 

 直撃した瞬間に黄金の鎧を解除したカルナは、後方に勢い良く仰け反ったビーマを冷めた目で見つめていた。ビーマはそのままバク転する勢いで顔面着地し、地面に叩きつけられる。指で額を叩かれただけで人間が宙を舞う、正に常人では為せぬ技。カルナの指を受けた額は赤黒く鬱血し、ビーマ自身は白目を剥いて気を失っていた。

 受け身どころか防ぐ事も出来まい、カルナは小さく手を払うとビーマの体を蹴飛ばした。

 

「ふん、パーンダヴァも終わりか、存外、つまらぬ幕切れであったよ」

「ビーマ!」

 

 倒れた上に足蹴にされたビーマ()を心配し、叫ぶユディシュティラ。涙に濡れた顔のまま立ち上がろうとして、しかしドゥルヨーダナが手で彼を制した。

 

「ユディシュティラ、控えよ、此処は我の王座――貴様の立ち上がって良い場所ではない」

「ぐっ……しかし!」

「いつまで王の身であると勘違いしている? 貴様はもう、ただのシュードラ(奴隷)よ」

 

 ドゥルヨーダナの言葉に、ユディシュティラは項垂れて強く拳を握った。主に楯突いた奴隷に躾を施しただけ、暗にそう言っているのだ。故にこれは暴力でも何でもない、ただの正当なる教えである。王である事を許されない彼は、既に何をする事も出来ない。

 カルナは倒れ伏したビーマを見下ろし、それからドゥルヨーダナの隣へと戻った。五王子の皆がドゥルヨーダナとカルナを凝視し、凄まじい殺気を飛ばしてくる。

 

「――はッ、何だ逆恨みか? 財宝を賭けたのも、領土を賭けたのも、身分を賭けたのも、全て貴様らのやった事だろう、それで俺とドゥルヨーダナを恨むのは筋違いだ、見るに堪えん」

 

 カルナはドゥルヨーダナの隣に立ち、それから自身を見つめる五王子に向かって吐き捨てた。すると聞き捨てならないと、一人アルジュナが立ち上がる。あぁ、そうだ、貴様ならそうだろうアルジュナ、友を愛し、信義に厚く、正義を良しとする貴様なら。

 

「……確かに、それは私達の自業自得、なれどドラウパディーとビーマ、二人に対する仕打ちは余りにも――!」

「目には目を歯には歯を、侮辱には侮辱で返礼する、それの何が悪いアルジュナ?」

 

 憤るアルジュナを前に、カルナは全く悪びれもせず告げる。カルナは腹の底からそう思っていた、生憎とカルナと、そして弦は左の頬を殴られて、右の頬も差し出す程人間で来ても居ないし、逆にそんな奴がいるならば頬を差し出せなくなるまで殴り倒す。

 侮辱されて怒らない人間など居ない、そもそもその行為自体が相手を下に見ていると宣言している様なものだ。そしてアルジュナに王家としての責務、義務を重んじ、それを誇りに思う気持ちがある様に――カルナにも、決して譲れぬ気持ちがある。

 

「俺には侮辱されても汚れる矜持が無いと思ったか? 信条が無いと思ったか? ほざけ、どんな人間にも汚されてはならぬ存在、信条、矜持、想いがある、それを理解しない貴様に、俺を非難する資格などない!」

 

 カルナは叫び、それから言葉とは裏腹に笑みを以てアルジュナを見つめた。その表情から読み取れる感情は『愉悦』、確かに汚された矜持がある、存在がある、しかしソレ以上にアルジュナが苦しむ姿を眺めてやりたいと言う、ドロドロに濁った黒い感情があった。

 アルジュナはそれを理解していた、カルナと言う男が酷く口が回り、同時に建前と本音を混同した物言いをする事を。

 

「ッ――この、外道め……!」

「ふん、所詮は敗北者の囀り、心地良い位だ」

 

 アルジュナの殺意と、カルナの笑みが交差する。ドゥルヨーダナはそんなカルナの肩に手を添え、その場からゆっくりと立ち上がった。

 

「……カルナ」

「……あぁ、分かっているよ」

 

 ドゥルヨーダナの囁く様な言葉に、カルナは小さく頷く。

 ドゥルヨーダナという男は傲慢だ、嫉妬深く陰湿で、勝ちこそが全てと言って憚らない男だ。そしてそんな男が、こんなにもアッサリと、簡単に、容易に、宿敵である彼らを終わらせる筈が無かった。

 この場で首を刎ねる事も出来よう、己で死ねと剣を渡す事も出来よう、カルナが一人一人弓で射殺す事も出来よう。しかしドゥルヨーダナはどれも選ばなかった、こんな幕切れを良しとしなかったのだ。

 

「この様な最後では、我が父、盲目の王――ドリタラーシュトラも浮かばれまい、圧勝過ぎると言うのも考え物だ、もっと互いが互いに全力を尽くし、相応しい死を迎えねば嘘だ……そうだろうユディシュティラ、愚かな王よ」

 

 ドゥルヨーダナはそう言って、這い蹲っているユディシュティラの目前まで足を進めた。そして徐に足を上げると、そのままユディシュティラの頭を踏みつける。ゴッ! と鈍い音が鳴り、ユディシュティラの顔面が地面に叩きつけられた。

 

「ッ――ドゥルヨーダナ、貴様ァ!」

「兄から足を退けろッ!」

 

 背後に居たナクラ、サハデーヴァ両名が憤り、ドゥルヨーダナを睨めつける。しかしカルナが殺気を込めて二人を一瞥すれば、二人は委縮しそれ以上踏み込むことが出来なかった。カルナの右手には黄金の光が宿っている、そして光りは軈て一本の弓と矢を生み出し、カルナはそれを番えた。

 カルナの持つ太陽神の力、それによって生み出された黄金の弓である。

 

 競技では使用しない、正に彼が『殺す』為に使用する唯一無二の弓矢。狩りや戦争の時のみに猛威を奮い、カルナの卓越した技量に太陽の加護が合わさる事で正に馬鹿げた威力と精度を誇る。光そのものと言っても良い、正に実体を持たない武具。カルナはそれを惜しげもなく晒し、矛先を五王子へと向けていた。

 何かあれば射殺す、そう視線が告げている。

 ドゥルヨーダナはそんな双子には一瞥もせず、己の足裏で呻くユディシュティラに語り掛ける。

 

「賭け事で全てを失ったユディシュティラ、我は慈悲深い、同時に完璧主義でな、我の敵にも相応の水準を求めているのだ、こんな宮殿の片隅で行われた賭け事程度で宿敵の命を断つなど――つまらんだろう?」

 

 薄ら笑いのままぐりぐりと後頭部を踏みつけ、ドゥルヨーダナはそう言い放つ。相手の格が低ければ、己の格まで低く見られてしまう。ドゥルヨーダナは傲慢であった、同時に妥協を許さない男であった。

 

「故にユディシュティラ、財宝は返さんが領土は返してやる、ついでに貴様等の身分もな」

 

 ドゥルヨーダナはそう言ってユディシュティラの顔を軽く蹴飛ばすと、そのまま背を向けた。肩を落とし、首を気怠そうに傾けながら。

 

「だが条件がある――十二年――十二年を森で暮らせ、追放である、貴様らは我が領土、そしてインドラプラスタに踏み入る事を禁ずる、その森で慎ましく時を過ごせ、そして一年、その名を捨てて生きて貰う」

 

 それが領土と身分を返還する条件だ。

 ドゥルヨーダナが告げた内容、五王子の反応は様々だった。

 アルジュナは悔しそうに俯きながらも、どこか心配した表情で兄弟を眺め。

 ナクラ・サハデーヴァの両名は憤怒の表情のまま拳を震わせ。

 クリシュナは嫌悪と苛立ちに顔を歪めていた。

 

 森で十二年を暮らし、領土に戻った後も一年名を捨てて生きて貰う。それは王家の責務と義務を一時的とはいえ捨て去り、更には一年限りとは言え己を偽って生きなければならない、正に苦行と言って良い行為だった。

 無論、ドゥルヨーダナはソレを理解した上で言っている。己に負けた自分を恥じ、恥辱に塗れながら十三年もの時を生きろと言ったのだ。

 ドゥルヨーダナはカルナの直ぐ横に立ち、それから五王子を見下ろして薄く笑った。

 

「拒否権は無い――では、我が宿敵共よ……十三年後にまた逢おうぞ」

 

 カルナが手に持っていた弓を消し去り、ドゥルヨーダナが手を二度叩く。すると周囲に身を隠して待機していた戦士たちが一斉に五王子に殺到した。突然の事に彼らは反応すら出来ない、万が一の為にシャクニが用意した護衛達だ。その気配は巧妙に消し去られており、さしものアルジュナも対応する手が遅れた。

 とは言え各々が武芸の才を持つ者、最初の数人が殴り倒され、蹴り飛ばされる、しかし後に続く第二陣、第三陣が五王子の身柄を拘束する事に成功。ユディシュティラに至っては既に抵抗する気力すらなく、そのまま縄に結ばれた。

 反応が遅れてもこの結果、やはり半神というのは恐ろしい。

 

 ユディシュティラを始めとする五王子、そしてクリシュナは瞬く間に縄で縛り付けられ、そのまま中庭から引き摺り出された。そんな中、一人だけ最後まで抵抗していたアルジュナは拘束された状態から五人の戦士を蹴り飛ばし、カルナに向かって叫ぶ。

 

「ッ――カルナァッ!」

 

 その声は怒りと憎しみに満ちており、今にも殺してやると言わんばかり。しかしカルナはどこ吹く風でアルジュナの怒声を聞き流し、横目でアルジュナが取り押さえられる様を見ながら口角を上げた。

 

「無様だなアルジュナ、英雄として持て囃されるお前が……十三年後、もっとマシな舞台で決着をつけられる事を望む、それまで精々足掻け」

 

 カルナの言葉を聞き届けたアルジュナは何かを叫ぼうとして、しかし背後から全力で飛び掛かった戦士に押し倒される。そのまま抵抗空しく森の方角へと運ばれて行く五王子を見て、ドゥルヨーダナとカルナは静かに拳を重ねた。

 最後に消えたアルジュナを見て、カルナが覚えた感情は――愉悦でも、歓喜でもない。

 何かぽっかりと穴が空いた様な虚無感、それは達成感とは異なる空しい感情だった。それは別に五王子に対して思う事があるからとか、そういう事ではない。単純に、この選択が正しいのかと疑問に思ったからだ。

 

「……良かったのか、ドゥルヨーダナ?」

 

 ドゥルヨーダナの方を見ずに、カルナは問いかける。それはカルナの心からの問い掛けだった。

 すると、ふっ、と空気の抜ける音が聞こえて、それからドゥルヨーダナは言う。

 

「無論よ――この場で殺せば全てが円満の内に終わっただろう、見逃した以上、未来に我と争う事は確定した……十三年、高々その程度でくたばる連中でもあるまい」

 

 少しだけ陰のある表情で呟いたカルナ、それに応えるドゥルヨーダナ。その口調はどこか寂し気で、淡々としていて、ドゥルヨーダナは空を見上げ達観した様な目をして言った。

 

「光と影、陽と陰、五王子と百兄弟、世の認識は大して変わらん、そしてどちらが『斯くあれかし』と存在を決められたのか、そんなものは――遠い昔に承知しておる」

「……なら尚更、奴らはきっと力を蓄え戻って来る」

「だろうな」

 

 カルナの言葉に、ドゥルヨーダナは力なく笑った。

 カルナは顔を顰める、元より負けるつもりはない、アルジュナという英雄を打ち負かし、カルナは勝利を得る為に邁進するだろう。内に潜む弦も感じていた、カルナという男は微塵も己が負けるとは考えていない、感じてすらいない。

 しかしドゥルヨーダナは違う、理解しているのだ。

 それはカルナも同じ、心は勝利を求め体は闘争を止めない、だが頭では理解していた。

 

「カルナ、我は奴らパーンダヴァが十三年の時を粛々と経て戻って来ても、領土と国を還すつもりは毛頭ない」

 

 ドゥルヨーダナは不意に、隣に居るカルナを確りとした瞳で見つめてそう言った。それは余りにも直接的な表現で、戦士としての矜持も、王としての重みも感じさせない、まるで子供の我儘の様な言葉だった。

 流石のカルナもコレには驚き、僅かに眉間に皴が寄る。

 

「ドゥルヨーダナ、それは……」

「言うな、分かっている」

 

 カルナが苦言を零そうとすると、ドゥルヨーダナはそれを制止する。己の行いがどんなものであるか、ドゥルヨーダナはそれを理解した上で口にしていた。

 

「元より賭博の席で起きた事、先のアレは誓いだ、そして神に愛された連中の事、恐らく馬鹿正直に誓いを守るだろう、そして十三年後、我に領土の返還を求める筈だ」

 

 五王子ならば森で朽ち果てる事もあるまい、そして奴らは半神であり、中には義務と責務を尊ぶアルジュナが居る。ならばこそ、彼らは決して途中で投げ出さず、ドゥルヨーダナが口にした通り日々を過ごすだろう。

 そして月日が過ぎれば権利を主張する筈だ、十三年の時を経て約束を果たしたと。故に、次はドゥルヨーダナが誓いを果たす番、あろう事かドゥルヨーダナはそれを破ると言った。

 

「そうなれば必然、連中は我らに弓引くだろうな、彼らは許さない筈だ、戦争は確実に起こる――我がカウラヴァとパーンダヴァの間で」

 

 カルナはドゥルヨーダナの言葉を、ただ黙って聞いていた。そして戦争が起きた場合どうなるのか、カルナはその未来に想いを馳せ――強く拳を握った。

 

 

「シャクニからも言われた――我々の敗北は、天命に定められたものだと」

「………」

 

 

 天命。

 これ程分かりやすい因果も無い、ドゥルヨーダナという男は既に天から見放されていると、暗に自分自身でそう言っていた。彼は王としての器を持たない、本来ならば悪政、独裁の王として非難されるべき立場にある。だが、彼は彼なりに信条を持ち、そして己の価値観を腹の底から信じて突き進んで来た。

 そんなドゥルヨーダナを見て来たカルナは、何人たりともドゥルヨーダナを貶す事を許さない。何故なら己を救った彼は、ドゥルヨーダナは、誰にとって悪人だろうが、卑劣で見るに堪えない男だろうが、他ならぬカルナにとって英雄だったからだ。

 

 けれど、だとしても。

 この世には成せる者と、成せぬ者がいる。

 そしてカルナとドゥルヨーダナは、残酷な事に――後者として天に定められていた。

 

「――星見など、当てにならん」

 

 カルナは小さく弱弱しい声で吐き捨てる、それは自分でも嘘だと分かる程に弱弱しい声色だった。しかしドゥルヨーダナはそんなカルナに目を向けて、力強い笑みを見せる。

 

「……そうだな、我もただ破滅を受け入れる気は無い、所詮は星見よ、星など高い天の果てより我らを見下ろす事しか出来んのだ、実に動くは我ら人の子、ならばこそ、人の意地を見せてやらねば気が済まん」

「あぁ――俺は君に救われた、そして君に返しきれぬ恩義がある……だからこそ、この世の果てまで付き合おう」 

 

 カルナとドゥルヨーダナは天を見上げ、互いに肩を並べる。

 敵は強大であり、運命そのものと言っても過言ではない。しかし、だからこそ勝つ価値があると言える。

 

「我が友、カルナよ、我は――お前に出会えて幸せであったぞ」

「……その言葉、俺もそのまま君に返そう」

 

 二人の背には、悲痛な程の覚悟が感じられた。

 

 

 

 





 加筆したら一万三千になりました、長くてすみません。
 分割も考えたのですが前日に分割して7000字だったので、ぶっちゃけあんまり変わらないかなと思ってブッ込みました、仕方ない仕方ない。
 
 最近一ヵ月に作品を一本を仕上げられるペースまで執筆速度が上昇したので、このまま夏休みまで月に一作出す事を目標にしました。五月中にこの作品を完結させて、六月にもう一本、七月に更に一本書いて夏休みに突入したら修羅に入ります。
 毎日平均三時間~四時間くらいは執筆していますが、夏休みに入ったら一日中書き放題、やったぜ。

 書きたいモノが沢山あって手が足りません、背中から生えてこないかな、新しい腕。


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修練の刻

 

「バイタル安定、何とか持ち直しました! 没入停止、意識の引き上げ(サルベージ)――クリア、自意識の回収に成功、人格バイアス(偏り)の矯正、誤差プラス0.1からマイナス0.2、許容範囲内です――分離、覚醒まで、三、二、一、今」

「弦様、弦様! 意識はありますよね? 何か意思表示を行ってください!」

 

 水面を揺蕩う様な感覚、酷く自己と世界の境界線が曖昧で、体を動かそうとしてもまるで動かない。その意思そのものが、手や足を動かすに足らぬと言われている様な。

 けれど耳から聞こえて来る声は聞き覚えがあり、何か騒然としている。もう少し寝かせてくれよ、そう思う感情を捻じ伏せて弦は瞼を開いた。

 

「ぅ―――」

「! 0984、覚醒確認! 弦様、聞えますか?」

 

 弦の視界に飛び込んで来たのは、今にも唇が触れてしまいそうな距離にあるミーシャの顔。そして隙間から見える白衣を着た男女数名の姿、弦は一瞬困惑し、「あぁ、ドゥルヨーダナは何処に?」と思った。視界の何処にも、友の姿が無い、それは酷く寂しい事であった。

 そして数秒して、その思考が誤りである事に気付き、白色の天井を見て理解する。

 

「ぁ………っ、お、れは」

「声帯、問題無し、意識もはっきりしていますね――貴方の名前を言えますか?」

 

 真剣な表情で告げるミーシャ。

 弦は数秒ほど視界を揺らし、口元をまごつかせて答えた。

 

「………藤堂――藤堂、弦」

 

 そのはずだ。

 そう口にするとミーシャは明らかに安堵した表情を見せ、背後の面々も胸を撫で下ろしていた。見れば弦の拘束は外されており、何か見慣れぬ機材が首や額、指と手首に繋がれている。

 

「何が、あった?」

 

 シートから上体を起こして弦は問いかけた。

 そんな弦をミーシャは補助し、その背に手を掛けながらゆっくりとした口調で説明する。

 

「カルナという英雄が強く憶えている記憶、つまり決定的な分岐点に関わった為、その人格遺伝子に弦様の自意識が呑まれかけました――幸い浸食が始まる前に気付けたので引き上げに成功しましたが、弦様は没入適正が高いので少々時間が掛かって……精神や肉体に、異常はありませんか?」

「……多分、大丈夫だ」

 

 弦は手で顔を覆い、視界に入る光を遮断する。まるで脳味噌を誰かにシェイクされた気分だ、しかし存外悪い気持ちではない、それが何故かは弦自身も分っていなかった。いつもと同じように両手を見下ろせば見慣れた肌色、大丈夫だ、俺はカルナじゃない。

 首や指に張り付いたケーブルを取り外せば、何やらひんやりとしたジェルが肌に塗り込まれていた。

 

「弦様の没入後の詳細をお話しします」

 

 ミーシャはその後、詳細を弦に語って聞かせた。

 どうにも、弦が没入を開始して四十五分と三十二秒経過後、バイタルに大幅な乱れが感知され、人格バイアスが異常値を検知。アラートが鳴り響き没入緊急停止の処置が取られたらしい。

 深く没入し過ぎると稀に起こる人格完全同調、要するにカルナと言う人間の人格が、藤堂弦と言う人格を完全に乗っ取ってしまうという事態。或は上書きとでも言えば良いのか、そもそも没入行為自体一つの肉体に二つの人格が混同し観測を行う行為であって、危険である事には変わりない。自我境界線が崩壊すれば英雄と没入者の人格が混ざり合って、精神崩壊を引き起こす可能性だってあるのだ。

 弦の場合は寧ろカルナとの親和性が高過ぎた為、反発による混ざり合いではなく、一方が完全に人格に浸透する上書きという形になったらしい。

 

「万が一人格が同調してしまっては、私達ではどうしようもありません、記憶から出る前に分離出来れば問題ありませんが、覚醒した後では既に定着し、自覚してしまう、そうなっては弦様自身の記憶に齟齬が生まれてしまうのです、そうなれば待っているのは発狂と廃人――精神の崩壊です」

「……末恐ろしいな」

「念の為、この後に精密検査を受けて頂きます」

 

 弦はミーシャの肩を借りて立ち上がり、それから周囲のノア職員達が弦を補助する。どうやらこのまま検査を行うらしい、本当なら一休み入れたいところだが、自分でも知らぬ内に異常をきたしていたら問題だ。

 

「―――?」

 

 これから行う精密検査に内心で辟易していると、ふと何か言い知れぬ熱を感じた、それは己の右手から。まるでお湯に浸かっている様な暖かさ、その感覚に弦が腹に添えた右手を見てやると、その指先が僅かに光り輝いていた。それは黄金の粒子、記憶の中で見た太陽の光。

 その事に弦は大きく驚き、慌てて指を握り込んで隠す。

 

「……? どうしました、弦様」

「い、いや、すまない、少し立ち眩みが」

「やはり体調が優れませんか……」

 

 心配そうに眉を寄せるミーシャに愛想笑いを浮かべながら、弦は必死に拳を握る。傍から見ると具合が悪いのを我慢している患者だろう、弦は努めてそう見える様に装った。

 決してこの右手は見られてはいけないとひた隠す。

 

 見間違え様のない、それは確かにカルナの持つ【黄金の鎧】

 その光であった。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「……本物、だよな」

 

 精密検査を軒並み終えて、自室へと戻った弦。周囲を見渡し誰も見ていない事を確認する、その後静かに壁に寄り添って自分の腕を抱えた。ゆっくりと深呼吸を繰り返した後に腕を見ると、小さな光が自身の腕を包んでいる。

 それは本当に薄っすらとしていて、目を凝らさなければ分からないほどの光、薄いベールと表現した方が良いかもしれない。弦にはそれが何であるか、大体であるが予想がついていた。

 

「カルナの――黄金の鎧」

 

 その断片とでも言うべきか、兎に角その力の一端が弦の体に現れていた。

 何故それが己の体に?

 弦は疑問に思う、黄金の鎧はカルナの手を離れ何処かの神様が保持しているか、古代のオーパーツに相応しく地中の中にでも埋まっているのではないかと思っていたが、現状その一片とは言え弦の体に存在している。カルナの肉体で散々感じた熱と同じだ、見間違い様がない。

 

 弦は一つの仮説を立てた――カルナは生まれた時より黄金の鎧を肉体に秘めていたという。ならば、それはカルナの子ども、つまり子孫にも適応されるのではないかと。カルナの血を引く連中もまた、その身に黄金の鎧を纏っていたのではないかという考えだ。

 無論、ただの人間に扱える筈が無い、そもそも黄金の鎧を持っているという事にすら気付かないだろう、己が何を身に纏っているか知らずに生きるのだ。黄金の鎧は自覚しなければその効果を発揮しない、ただ持っているだけでは無意味。

 そして弦と言う男はカルナと親和性が非常に高い、つまり先祖返り、子孫の中でも比較的血の濃い方であった、それも一つの要因として考えられるかもしれない。

 

 ともあれ、こうして黄金の鎧が肉体に宿っている以上、幾ら考えた所で現実は変わらない。前向きな捉え方をすれば、弦はノアに対する切り札を得たに等しいのだ。

 弦は僅かな戸惑いと、そして大きな歓喜の念を覚えた。

 カルナに一つ近付けた、そして同時に英雄が英雄たる力を手にいれたと。弦は早速トレーニングルームに向かおうとして、しかし思いとどまって方向転換、脇のトイレに足を進めた。扉を閉めて鍵を掛けると、弦は一度深呼吸。

 流石にトイレにまではカメラは無いと考えたのだ。

 

 そうして行うのは精神の集中、脳裏に思い浮かべるのは黄金の鎧の完成系、即ち無敵を誇る真の鎧。弦が右腕に力を籠めると、徐々に光の粒子が集い右腕を覆う。肩口から指先まで、びっしりと光りが包み込む。それはカルナが行う防御の構え、粒子自体は難なく扱えた、そもそもカルナの肉体で操る感覚自体は掴んでいる。

 だが、粒子は右腕にしか集わない、何故だ?

 

 弦は疑問を持ち、何となく全身に意識を集中させると、右腕に集っていた粒子は上手い具合に全身に薄く引き伸ばされた。黄金の鎧がベールの様に弦を覆い、その表面を輝かせる。

 しかし、とてもではないが全身は覆い切れない、弦は気付いた――粒子そのものの数が少ないのだと。

 

 量はカルナの半分……否、四分の一程度か。

 四肢の一つしか守れぬ程に薄くなった黄金の鎧、未だに弦が覚醒に至っていないのか、はたまた受け継がれた鎧そのものが薄いのか。

 だが、弦はそれでも構わなかった。

 元より十全の鎧など、己には分不相応だろう。

 

「片腕だけだろうが何だろうが、使えるなら儲けものだ――後は」

 

 弦は表面に薄く伸ばした黄金鎧を消し去り、代わりに腕に意識を集中させる。先程見た賭博場の光景、カルナが行った奇跡を再現する。スーリヤから受け継がれた太陽の力、脳裏に焼き付いた光り輝く弓。

 弦はそれを強くイメージした。

 そして握り締めた右腕に、何か熱いモノが現れる。それを確りと握り締めれば、幾分か薄い輝く弓が現れる。弦がそれを凝視すると、カルナのソレよりも大幅に力を失っている事が分かった。

 しかし力を失っていると言っても、根底は神性を含む唯一無二の武器、太陽神スーリヤの力そのものと言っても過言ではない。弦は一人、これならばと思った、或はここから逃げ出す事も夢では無いかもしれないと。

 

「……試したいな」

 

 弦は弓を握り締めたまま呟く。

 実体を持たない弓であるが、しかしその実熱は確かに存在している。まるで暖かい空気を握り締めている様な感覚、弦はその威力を確かめたい衝動に駆られたが辛うじて堪えた。

 そもそも、ただの弓でアストラ・スーリヤを放つカルナである、その塊である弓を放てばどうなるか――ウィリスがいつか言っていた、英雄の力ならば壁に穴を空けられるだろうと。

 それが本当であると、弦はしみじみと感じた。

 兎に角、この力は無暗に使用する訳にはいかない。

 この力は弦の持つ最初で最後の切り札だ、故に最後の最後まで明かす事をしない。

 そう硬く誓った。

 

 弦はトイレから退室すると、ベッドの端にタオルで包んだまま置いてある通信機を手に取る。本来ならば常に持ち歩くべきなのだが、没入時だけは見つかる可能性があるので隠しておくのだ。そして徐に耳にソレを当てると、ベッドの傍にしゃがみ込んだ。

 

「―――」

 

 部屋に居る間は常に持ち歩いて欲しい、ウィリスは弦にそう言っていた。電源を入れると僅かなノイズが走り、それから向こうの音が聞こえて来る。この無線機はどちらかの電源が入れば、もう片方も自動的に起動する様に作られているらしい。その為、弦にはウィリスの部屋の音が良く聞こえた。

 

「ウィ――」

「どーしてウィリスはこっこにいる~♪ こっこにいる~♪ そーれはね~、そーれはね~、わったしも知らない、ほんとに知らない♪ ひっとりで寂しいな~♪ さっびしいな~♪ でも寂しくないよ、ホントだよ、ほんとに寂しくないから、嘘じゃないよ」

「………」

 

 無線機を通して耳元から愉快な歌が聞こえて来た。

 前半は陽気であったが、後半は何やら迫真であった気がする、弦はそのせいで何を言い出そうとしたのか一瞬思考が飛んでしまった。

 弦は一旦通信機を耳から離すと、一度深呼吸する。取り敢えず歌を歌っているという事は部屋には誰も居ないと言う事だろう。そうだよな、独り言くらい誰でも言うよな、誰も話す相手が居ないと寂しいし、連絡も中々取れないし、一人で歌ったりするよな、分かる、分かるよ。

 

 弦は溢れ出る慈愛と優しさから、ウィリスの独唱を聞かなかったことにした。

 

「ウィリス、今良いか?」

「あ、弦さん、はい、勿論です」

 

 数分程時間を置いて――ウィリスと自分の精神安定の為に――弦はウィリスの無線機に声を発した。反応は素早く、弦の声を拾うや否や、ウィリスは応答する。

 

「実は今日の没入で新しい才能を継承したんだ、それもとびっきりの奴」

「本当ですか? それはおめでとうございます!」

 

 弦が才能の継承を話すと、ウィリスは自分の事の様に喜んだ。まぁ実際ノアから逃げ出すとなれば、最悪アテに出来るのは自分の力かウィリスの力だけだ。本当なら他の子孫達も巻き込んで逃げ出したいが、そう上手く行くとも限らない。戦力の拡充は彼女にとっても歓迎すべき事なのだろう。

 弦は時折脳裏に過る「どーしてウィリスは~」の歌声を努めて意識しない様にしながら、淡々と口を開いた。

 

「ウィリスも今日没入だったんだろう? 何か収穫はあったか?」

「あ、えっと、一応才能は引き継ぎました、結構便利な奴です」

「それは重畳」

 

 弦も上手く才を引き継いだが、彼女もそうであったらしい。どんな能力なんだと弦が問いかければ、ウィリスは何かを考えながら、丁寧に言葉を選んで説明した。

 

「その、私の英雄は王家と言うか、王様というか、まぁ現在は考えられませんが王族に連なる人でして、結構贅沢に生きているんです、それで彼の持つ貴重な武具を呼び出す力、と言いますか、棍棒とか、剣とか、弓とか、盾とか――あと防具であれば服なんかも出せます」

「……倉庫、みたいなものか?」

「倉庫とは少し違いますね、彼が生前に貯め込んだもの、授かったもの、手に入れたものをこの世界に召喚する……みたいな、此方から何かを入れる事は出来ませんので、物体の転送能力みたいなものでしょうか」

 

 そういうものかと弦は頷く、しかし中々便利な能力ではないか。武器が足りねば武器を取り出し、必要があれば防具も都合できる。現代でどこまで役立つかは知らないが、神の携わった武具の一つや二つあるだろう、それならば容易に壊れる事は無い筈だ。

 

「あと、彼には兄弟が沢山居て――僅かですが彼らからの加護も、ちょっとやそっとの怪我では倒れない頑丈な体になりました、多少違和感もありますが、きっと逃走時には役立ちます」

 

 加護まで手に入れたのか、弦は純粋に驚いた。どうやら彼女の没入は驚くほどに順調らしい、彼女の力と自分の力を合わせればノア脱出も夢ではない、弦は強くそう思った。

 

「弦さんはどんな力を?」

「俺は、どう説明したら良いか……そう、神性を自由に操る力と言えば良いか、鎧の様にして体を守ったり、弓を形作って射抜いたり、まぁ自由と言ってもそれくらいしか出来ないが、もしくは拳に宿らせて殴ったりか?」

 

 ウィリスの言葉に、弦は少しばかり考えてから答えた。カルナは指に纏わせてデコピンを繰り出したりしていたので、その力自体は単純な威力増加としても使えるのだろう。不思議なオーラ、或は流動筋肉みたいなものだろうか、非常に便利である。

 足に纏わせれば長時間の高速移動も可能かもしれない、太陽神の力と言うのは非常に扱い易い才であった。黄金の鎧も確かに便利だが、弦としては神性を授かったのが大きかった。

 

「随分応用の効く力ですね……」

「あぁ、ベースの肉体がショボいから正直かなり弱体化されているけれど、此処の壁位なら抜けそうだ」

 

 いつかウィリスの言った言葉を弦が繰り返せば、彼女は「本当ですか?」と驚きを露にする。弱体化していると言ってもそれ位ならば問題無い、全力で放てば穿てない事は無いだろう。

 

「もう少し没入を繰り返せば本人の力に近付けるかもしれない、その辺りは後に期待だな」

 

 弦はそう言ってカルナの辿る人生を脳裏に浮かべた、彼は呪いを多く受けた英雄でもあるが――何より天から多くの武具を授かり、パーシュパタアストラ(ブラフマシラス)と言うトンデモ兵器を持つアルジュナと正面から射合って追い詰めた英雄だ。その卓越した技量と神性操作は流石としか言いようがない。

 元々技量であればカルナはアルジュナに勝る、湯水の様に天界の武具を放つアルジュナに対し、カルナは極少ない武装のみで戦い抜いたのだ。彼は物語の終盤で神インドラに卑怯な手段で以て最大の防具、『黄金の鎧』を奪われてしまうが、代わりに「ヴァサヴィ・シャクティ(Vasavi Shakti)」と呼ばれる、あらゆる存在を一撃で屠る槍を手にする。

 

 もし、攻撃という手段に限定するのであれば彼の武具こそが最大の鬼札になり得るだろう。黄金の鎧、太陽神の加護、どちらも弦にとっては数少ない、そして強力な切り札、だがインドラの槍は正にジョーカー。

 それさえ手に入れば、このノアという施設そのものを吹き飛ばす事さえ出来るのではと思ってしまう。

 

「本当ならこの力の修練もしたいんだけれど……トレーニングルームが監視されているかも分からないし、何よりを貫通でもしたらいい訳が付かない、諦めるしかないかな」

 

 弦は天井を見上げながら溜息を吐き出す、神性を拳に纏わせて殴る事は出来るが、何分カルナという英雄の本領は弓で発揮される、他の才も無いとは言わないが弓技には遠く及ばない。

 他の追随を許さない弓こそカルナの強み、ならばこそソレを極めたいと思うのは自然だろう。しかし現状では叶わぬ夢であった。

 

「あっ、それなら――」

 

 弦が残念そうに言葉を漏らせば、何かを思いついたのか、ウィリスは声を上げて何やらゴソゴソと音を鳴らす。一体何をしているのだろうかと思えば、ウィリスは次いで「弦さん、トレーニングルームに向かって下さい」と言う。

 

「トレーニングルーム? 別に、構わないけれど……」

 

 首を傾げながらも弦は言われた通りに動く。トレーニングルームに入って、「入ったよ」と口にすれば、途端、何か巨大な質量を持つ物体が部屋の奥に現れた。

 

「!?」

 

 それはゴンッ! と僅かに鈍い音を立てて落下し、そのまま奥の壁に寄り掛かったまま動かない。ソレは何と表現すれば良いのだろうか、鋼鉄の塊? 或は金属を薄く伸ばした壁? 弦が疑問符と混乱を頭上に浮かべていれば、ウィリスから無線が入る。

 

「それ、私が引き継いだ力の一部です、今弦さんのトレーニングルームに防具を一つ呼び出しました、私の英雄が貯め込んでいた物の一つで、かなり頑丈な盾――みたいなものです、本来は何十人かの人で支えて使うものらしいですが一応神性を含む防具です」

「そ、そうなのか、本当に便利だな……しかし監視カメラがあったら」

「大丈夫です、自室にカメラは設置されていません」

 

 どこか確信を感じさせる言葉、弦が思わず言葉に詰まり、「何故そう言い切れる?」と問いかければ、ウィリスはふふんと鼻を鳴らして答えた。

 

「私の新しい才の一つです、自分が狙われているのに敏感と言いますか、他人の視線を視覚として捉えられるんです、今考えると納得なのですが、そもそもこの私達に用意された自室は英雄の才を引き継ぐ人間の為に作られたものです、隠しカメラだろうが粒子偽装カメラだろうが、正しく人外の知覚を持つ相手には分が悪いでしょう、それでバレてしまっては関係が拗れてしまいます」

「な、成程……」

 

 自分は未だカルナの才を全て引き継いでいないが、記憶の終盤に至ればその肉体は最早人間の枠からは逸脱しているだろう、武人の英雄ならば尚更だ。そしてそんな連中が、巧妙に隠されたとは言え見られているという事実に気付かない筈が無い。英雄という存在は得てして科学と言う枠に収まり切らない、そういうものだ。

 カルナの肉体に宿った為に弦も理解している、まるで世界全てを見渡せるような視界、己の周囲全てを把握できるような聴覚、そして神がかりとも言える勘――第六感(シックス・センス)

 それが実際の肉体に欠片でも継承出来れば、比較的広いとは言え屋内、確かに気付けるだろう。

 

「既に痛い目を見て学習したのか、或はそれを見越してか――どちらにせよ、この無線機は余り意味がありませんでしたね、ある意味便利と言えば便利ですが」

「ベッドに転がりながら話せるだけでも儲けものだ」

「………転がってませんよ?」

「いや、別にウィリスの事を言ったのではないけれど」

 

 まさか転がって通信しているのか。

 

「と、兎に角、これで修練に関しては問題ありませんよね? 私も自前の武具を手に入れましたし、多少は自分で修練出来そうです」

「……そうだな、着々と準備は進められている」

「後は機を待つだけです」

「あぁ、それと出来得る限り英雄本人に近付く努力をしないとな」

 

 弦の言葉にウィリスは頷き、「それでは、私は修練をするので」と通信を切る。弦も通信機の電源が切られた事を確認し、それをポケットの中に仕舞った。右手に意識を集中すれば、焼ける様な熱と共に弓が現れる。

 太陽神の力を宿した唯一無二の弓。

 それを一度まじまじと観察した後、逆の手に矢を生み出した。そして弓に番えながら的を見つめる、今しがたウィリスが都合してくれた古代の盾――もはや盾というよりも壁に近いが。

 

「全力でやったら流石に壊れるよな……なら」

 

 弦は手始めに、五割程の力で矢を引き絞る。流れ出る神性を意識的にカットし、大凡このくらいという感覚の出力で矢を放った。光は矛先に収縮し、弦が手を放すと同時に開放される。ドンッ! と小さな破裂音と共に放たれた矢は、凄まじい速度で飛来、盾に直撃し周囲の空間を揺らした。

 凄まじい衝撃、恐らく研究所の壁位なら容易く撃ち抜けるだろう。

 

 果たして、盾は矢の直撃を受けながらも健在――その表面に僅かな黒ずみを残すだけ。

 

 予想以上に頑丈な様である、弦はその事に喜びを覚えながらギアを一段階上げる。今度は六割、素早く矢を生み出しながら番え、そのまま第二射を放った。

 先程と同じ軌跡を辿りながら、しかし僅かに速度の上がった矢が盾に直撃する。それは表面に火花を散らし光を拡散させ、そのまま消え去る。

 光りが晴れた時に見えるのは黒ずみ、心なしか先程よりも面積が広い。なれど盾は健在、これならばと弦は思った。

 

 七割――流れる動作で矢を放つ。

 今度は光の大きさが目に見えて異なり、盾に直撃するや否や盾そのものを大きく振動させた。光が消えた後に見えたのは大きく凹んだ表面、地面を見ればあれだけの巨体が僅かに後退しており、傾斜が縦に近くなっている。

 

「……八割だと射抜くな」

 

 流石に硬い、だが全力に耐えられる程の強度は無い。

 弦は少し考え、強くても六割程度の力に抑えようと決めた。元より威力は十二分――ならば鍛えるのは射る速度と精密性だ。

 呼吸をする様に素早く、何気なく、動作を感じさせずに矢を番える必要がある。ただ、矢を射るという行為自体をこの肉体に教え込まなければならない。実体を持たない弓は非常に修練と相性が良かった、矢を引き過ぎて皮膚が破れる事が無い。

 

「良し――やるか」

 

 そこから、弦はただの機械となった。

 弓を構え、矢を番え、引き絞り、放つ。

 威力を半分に抑えた矢を淡々と射る、ただ射る、その動作を教え込む為に繰り返す、繰り返す。トレーニングルームに幾つもの光が瞬いては消え、瞬いては消える。

 

 弦はその修練に没頭し、トレーニングルームの光は深夜になっても消える事が無かった。

 

 

 





 明日は更新できるかどうか、ちょっと微妙です。


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黄金の誓い

「さて、今回の没入は『ジャラーサンダ王』との戦いを終えた後、クリシュナとクンティーがカルナの元に訪れた辺りからです、文書にも簡潔に記載されていたと思いますが、ジャラーサンダ王は五王子追放後、カルナがドゥルヨーダナを真の世界皇帝にする為に諸国を従えて回った時に出会った猛者、彼のビーマが三度引き裂いて殺したと言われる不死性を持つ王です、その彼を従えた事によりカルナはドゥルヨーダナとより強い信頼関係を結び、それを危惧したクリシュナが計略として接触した――という流れですね」

 

 早朝。

 前回の没入から三日ほど経過した日、流石に没入の緊急停止処置を受けた後は休養しろと言う事で、二日の休息期間が設けられた。そして二日の休息を太陽神スーリヤの神性操作に充て――黄金の鎧はそもそも攻撃されないと発動しないので、修練が出来ない――遂に四度目の没入を迎えた。

 

 前回の反省を踏まえてカルナの人生の復習と没入地点の概要を説明される、どうやら大分時間が跳ぶようで追放期間が終了した時から開始らしい。

 弦は差し出されたプリント紙に目を通し、何度か頷きながら内容を噛み砕いた。紙にはその時代のカルナの状態、粗筋が書かれている。

 追放から十三年後、既にその時点でカルナは呪いを二つも受け、十三年の間に国を制覇して回っていたカルナは僅かばかり弱体化していた。

 

 一つは奥義忘却の呪い。

 

 カルナは嘗てアルジュナの師であるドローナという男に弟子入りしようとしたが、身分を理由に断られた。そこで彼の師匠であるパラシュラーマと呼ばれる武人に師事、しかし彼も身分を重視する人間だった為、バラモンと身分を偽って彼に教えを乞うた。このパラシュラーマはクシャトリヤ(貴族)嫌いで有名であり、どうにかして彼の教えを受けたかったカルナはドゥルヨーダナに相談、結果彼が「ならば身分を偽れば良い」と発言、彼はそれを実行に移していた。

 

 しかし神様という奴は残酷で、ある日パラシュラーマに膝枕をして寝かせていた時にカルナは毒蛇に噛まれてしまう。しかしカルナは声を上げれば師を起こしてしまうと危惧し、その激痛に耐え忍び、ただ堪えていた。この時、不自然な事だが、黄金の鎧は力を発揮しなかったと言う。

 しかしそれに気付いたパラシュラーマは、「その様な激痛に耐えられる者は貴族以外ない、貴様、身分を偽っていたな!」と激怒。

 

 結果カルナの嘘が露呈し、パラシュラーマは彼に一つの呪いを押し付けた。

 それが奥義忘却の呪い。

 

 もし未来にカルナに匹敵する戦士、或は敵が現れた時、カルナはパラシュラーマから授かった奥義を忘却すると言う呪いだ。

 彼のパラシュラーマは後に大神シヴァ・サハスラナーマより神の武具である斧、『パラシュ』を授かったとされる英雄で、ヴィシュヌの化身、カルナに武術を教える辺りアルジュナやカルナに匹敵する英雄だという事が分かるだろう。そんな彼から授かった奥義だ、カルナはさぞ重宝していた筈だ。

 

 もう一つの呪いが戦車操作不能の呪い。

 

 無論この時代の戦車とは現代の浮遊戦車とは異なり、複数の馬に台車を括りつけて走らせるものである。言うなれば馬車の様なモノか、当時の人々はそれを戦車と呼んでいた。

 

 カルナはある時不注意からバラモン(司祭)の牛を殺してしまい、それを見た持ち主が激怒しカルナに、最も大切な戦いで戦車を動かせなくなる呪いを掛けた。それくらい許してやれよと弦は思ったが、どうにも後生大事に育てていた牛らしい。

 この時代、弓使いにとって戦車とは足そのものである。

 戦場を戦車で走り回りながら敵を射抜き、無双の働きをしていたカルナであるが、その活躍は戦車があってこそ、足が無ければカルナは満足に動けなくなる。まるで神が難癖つけてカルナを縛り上げている様だ、弦はコレもインドラがやっているんじゃないかと勘繰った。

 

 そして最後の呪い――否、これは誓いか。

 

 クンティー……カルナの実母、彼女との誓約。

 これが後にカルナを追い詰め、ドゥルヨーダナの敗北を決定付けた誓いだ。

 弦としては、呪いと言っても良いと思っている。

 こんなものは唾棄すべき、それこそふざけるなと一蹴しても良い誓いだ。

 

「――概要は把握した、そろそろ潜ろう」

「準備は宜しいので?」

「あぁ」

 

 弦は手にしていたプリントをミーシャに渡し、そのままシートに深く座った。ミーシャはプリントをファイルに閉じ、弦の頭にリングを被せる。そのまま指にバイタルを観測するパッチを張り付け、そのまま手元の端末を操作。タタッ、と画面を叩く音が耳に届き、それから数秒して声が聞こえた。

 

「では……没入を開始します」

「頼む」

 

 ミーシャの真剣な声、それを耳にした瞬間――弦は強い酩酊感にも似た感覚を味わい、ゆっくりと意識が溶けて行った。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

「―――」

 

 覚醒。

 

 白く濁った意識が一瞬にして冴えわたり、既に慣れた感覚に身を委ねる。僅かに霞む視界で周囲を見渡せば、そこは室内。四度目のお蔭か、精神に耐性でも出来たのか、没入後の意識変化は実にスムーズだった。場所はインドラプラスタの郊外、その空き家の一つ。

 

 カルナの目には見た事のない内装に質素なテーブルと椅子、その向こう側には見慣れた顔が一つ。もう一つは記憶に無い――いや、正確に言うのであればカルナですら憶えていない知古の存在があった。

 

「我が名はクンティー……カルナ、貴方の母です」

「………」

 

 カルナは顔を顰めた。

 弦は、なんてタイミングに没入したんだと驚いた。

 

 それは丁度、カルナ、クリシュナ、クンティーの三名でテーブルを囲み、パーンダヴァの二人が英雄であるカルナを自陣に引き込もうとしている場面であった。

 クリシュナは五王子ではない、正確に言うのであればアルジュナの親友。カルナにとってのドゥルヨーダナの様な存在だ。そんな彼は策略を張り巡らせ、クンティーを連れカルナの説得を行っていた。

 弦はカルナの中で小さく思考を回しながら、努めて冷静を装う。

 

「貴方のその燃える様な瞳、太陽を象った耳輪、守りの象徴である黄金の鎧、全て私がスーリヤ様に頼み授かったものです」

「……お前が、俺の母であると?」

「えぇ、えぇ」

 

 目の前の女性、クンティーと名乗った彼女は目に僅かな涙を見せ、何度も頷いて見せた。隣のクリシュナは黙っているが、その表情は真剣そのものだ。その事からカルナは、これが冗談の類ではない事を悟る、それ程に空気は張り詰めていた。

 

 クンティーは妙齢の女性で、老婆ではないが若くもない、白髪と黒髪の混じり出した褐色の女性だ。確かにカルナの年齢からすれば、母と言われても違和感がない。隣のクリシュナにそれとなく視線を移せば、彼は静かに一つだけ頷いた。

 

「……仮にそうだとして、一体何の用だクリシュナ、パーンダヴァのお前が、俺の母と名乗る人物を連れて来てどうする? この女性を人質に取って俺を脅すか?」

 

 カルナはクリシュナを見ながらそう吐き捨てる、元よりカルナにとって母など遠い昔の記憶に置いて来た存在だ。カルナにはカルナの両親――例え血が繋がって無くとも、ドゥルヨーダナの統治する街で健やかに暮らす義父と義母が居る。

 ならば十全、今更本当の親がどの面下げて逢いに来たのだと、そういう気持ちですらあった。

 

 クリシュナはそんなカルナの言葉を聞きながらも、真剣な面持ちを崩さず、小さく、だがハッキリした声で告げた。

 

「彼女を人質になどしない、何故なら――彼女はアルジュナの母でもあるからな」

「……何だと?」

 

 カルナはクリシュナの言葉に驚愕を露わにし、思わず体を硬くした。

 その様子を見ていたクリシュナは身を乗り出し、突き出した指を一本一本折る。

 

「彼女、クンティーは五王子の母親だ、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ………そしてカルナ、お前の母親だ」 

 

 五王子の母親、そしてカルナ本人の母親でもある。

 カルナはその事を、まさかと性質の悪い嘘を聞いたつもりで受け止めた。しかしクンティーは涙目で頷くばかりで、クリシュナも嘘を言っている様子は見えない。彼から感じるのは悪意では無く、ただ純粋な真実を述べたのみという感情だけ。カルナはその事に増々困惑し、「だとしたら……」と口を開いた。

 

「まさか、何だ、俺と、五王子が、仮に、仮にだが――お前が母親だと言うのなら、俺と五王子は兄弟だとでも言うのか?」

 

 動揺を隠せぬまま、カルナはそう問いかけた。

 クリシュナは無言で頷き、クンティーは「えぇ」と重々しく肯定する。それは今までの価値価値観をぶち壊す様な、正にカルナにとっては衝撃の真実であった。

 

「カルナ、今だからこそ言う――我らパーンダヴァと共に来い! 我々は同志なのだ! 五王子の長男はお前だ、カルナ、本来であれば五王子ではなく、六王子、カルナを入れた六人がパーンダヴァとして褒め称えられるべきだった!」

 

 衝撃の抜けきらないカルナに対し、クリシュナは畳みかける様に叫ぶ。それは彼の心からの願いであった、クンティーも涙を零しながらカルナに懇願する。その泣き顔をカルナに晒し、何かに耐える様に握り締められていたカルナの手を取って、真摯に祈った。

 

「私は大切な子ども達が袂を分かち、互いに争う姿など見たくありません、ですからどうか、あぁ、カルナ、パーンダヴァに来て、共に歩みましょう、そう在るべきなのです、カウラヴァに付くのはお止めなさい、我が子らと共に戦って欲しい、どうか」

「………」

 

 カルナは実母の懇願に思わず唇を噛み、視線を彷徨わせる。あのカルナを動揺させ、逡巡させるだけの破壊力がこの言葉にはあった。或はこれが天命、神が齎した正の道なのかもしれないと。

 だが、カルナの脳裏に過ったのは。

 

 

 

 

「我が友、カルナよ、我は――お前に出会えて幸せであったぞ」

 

 

 

 

「お前の言う事が、或は俺にとっては正義(ダルマ)を成す()なのかもしれない――」

 

 カルナはそう呟いて、ふっと目を優し気に細めた。

 その事にクリシュナは、「おぉ!」と感嘆の声を上げ、目の前のクンティーはパッと表情を明るくした。あの大英雄カルナがパーンダヴァに与すると、そう信じて疑っていない顔だ。

 カルナは優し気な表情のままクンティーの握っていた手を解くと、淡々と述べた。

 

「だが、クンティー――否、母よ、貴女は俺に対して許されざる行いをした……俺を捨てたのだ」

 

 しかし、カルナの口から放たれた言葉は、クンティーを、実の母を責める罪の言葉。

 

「その罪は俺の名誉を奪い尽くすものであった、俺は王家として生まれたと言うのに、王家としての尊厳も、責務も、義務も、権利も、何もかも得られなかった、それは全て貴女のせいだ」

「そ……れは」

 

 突如放たれた針の様な言葉に、クンティーは言葉を失くす。それは他ならぬ彼女の罪、そして真実であったからだ。カルナは片時も彼女から視線を逸らさず、父と同じ太陽を秘めた瞳で彼女を見つめる。

 黄金の輝きを持つ瞳で射抜かれたクンティーは、その輝きの前に、何か自分が卑怯で陰湿な悪に成り下がった様な、そんな気持ちになった。

 

「そうだと言うのに、その貴女は――たった今、己の利益の為だけに俺の裏切りを望んでいる」

 

 カルナはクリシュナとクンティーを一瞥し、質素な木の椅子から立ち上がった。そのまま天井を仰いで息を吐き出す、ソレは何か激情を堪えるような動作。カルナは立ち上がり、二人は未だ座している。

 当然、二人を見下ろすような形になったカルナは、拳を握り、それから告げた。

 

「パーンダヴァと共に戦えだと? カウラヴァ(百兄弟)を、ドゥルヨーダナを裏切れだと……?  ふざけるなァッツ!」

 

 握りしめた拳を激情と共に振り下ろす。

 カルナの拳はいとも容易く木製のテーブルを叩き割り、半ば地面にめり込ませた。目前に座っていたクンティーが肩を大きく揺らし、クリシュナが表情を大きく歪めた。

 

ドリタラーシュトラの息子達(カウラヴァの百兄弟)は俺の全ての望みを叶えてくれた、俺を尊敬してくれた、常に共に在ってくれた! 俺の偽りの身分を嘲笑うことなく、その信条と矜持を尊重し、遵守し、隣に並び立つ者として認めてくれていたのだ! それを裏切れと!? 俺を捨てた、お前が、裏切れと、そう言うのかッ!?」

 

 最早獣の様な叫びであった、空気が大きく振動し、怒鳴り付けられた二人は肝を冷やす。カルナがやろうと思えば、例えクリシュナ――ヴィシュヌの化身であろうと敵わない。その驚異的な武を以て殺されるだろう。

 カルナと渡り合えるのはアルジュナ一人、それを彼は良く理解していた。

 

 カルナは叩きつけた拳を震わせながら、その黄金の瞳でクンティーを射抜く。カルナの怒りを正面からぶつけられたクンティーは見っとも無く震え、その涙は既に消え去っていた。

 

「こうして突然やって来て、自分勝手に母だと明かし、今更母親面されて、自分の利益の為に友を裏切れ何て言われて――ちっとも笑えねェし、感動も出来ねェンだよクソッたれがッ!」

 

 それはカルナの腹の底から絞り出した言葉だった。

 カルナという人格と、弦という人格が折り重なり、魂からの叫びと言っても過言ではない。

 激情し、血走った目で二人を見るカルナは右手に黄金の弓を掴む。太陽神スーリヤの力で生み出した弓矢だ、それを見たクリシュナはあからさまに顔を蒼褪めさせ、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。

 しかし一手遅い。

 

 瞬く間に矢を番え、引き絞ったカルナはクリシュナにその矛先を向ける。完全に狙われたクリシュナは動く事も出来ず、二人は対峙したまま沈黙を保った。

 カルナの目は本気だ、もしクリシュナが此処で下手な事を言い出せば射殺してやると言う迫力があった。

 

「……母よ、我が実の母、クンティー、俺はお前を憎んでいる、蔑んでいる、お前の様には死んでも成らんと心に誓った――だが、一つだけ感謝している事もある、それは俺自身を産み落とした事だ」

 

 カルナはクンティーに視線も寄越さぬまま、淡々とそう口にした。椅子に座し、俯いたまま震えるクンティーは何も反応を返さない。元より返事など期待していないと、カルナは矢を引き絞る手に力を込めながら告げる。

 

「お前は俺を捨てた、王家としてではなく、ただの捨て子としての生を押し付けた、その事を俺は許さない……しかしこの身があるのはお前のお蔭でもある、故に俺は誓おう」

 

 そう言って、カルナは引き絞った弓をゆっくりと下ろし、その矛先を地面に向ける。

 そしてクリシュナに顔を向けたまま、その黄金の弓を消し去った。その事にクリシュナは驚き、同時に安堵する。カルナと言う男が残忍で、しかし同時に正道を好む男である事を知っているからだ。

 

「――アルジュナ以外の五王子、ユディシュティラ、ビーマ、ナクラ、サハデーヴァ、これらを俺は見逃そう、仮に戦場で出会っても、打ち倒しても、その命は奪わないと誓おう」

「!」

 

 クンティーはその言葉を聞き、俯いていた顔を上げた。

 カルナは彼女の顔を一切見る事無く、クリシュナに告げる。

 

「だがアルジュナは駄目だ、アイツは俺が射殺す、俺に匹敵する英雄を、俺は見逃す事は出来ない」

 

 カルナはそう言うや否や、話しは終わりだと言わんばかりにクンティーの傍を早足で通り抜け、そのまま外へと通じる扉を荒々しく押し開けた。その背にクリシュナが、「待ってくれ、カルナ!」と叫ぶが、カルナは止まらない。無言で扉を潜ると、室内にいる二人に向けて吐き捨てた。

 

「俺は誓いを守る、だがそれはお前達に情があるからではない――お前達の生き様が、余りにも見るに堪えないからだ」

 

 人生とは、誰に語っても胸を張れるように生きるべきだ。

 自ら恥じ入って生きるなど、そんなのは本当ではない。

 それはカルナの信条(クリード)――矜持(プライド)である。

 

 己の出生は恥か?

 否、例え御者の息子だろうと、大英雄に匹敵する武を持てると証明してみせた。

 出生でしか物事を判断できない奴らを見返した。

 真に語り合える友にも出会えた。

 更に言えば、己は王家の出だと知った。

 

 カルナは己の人生で恥じ入る点など何一つなかった、成すべき事を成し、己の出来得る限りを尽くして来た。信賞必罰、何か嘘を吐けば罰を受け、成した事に褒美を貰った。呪いも受けたし、同時に山ほどの財も築いた。その事に対してカルナは微塵も後悔をしていない。

 

 恥など無い、己にあるのは絶対の自信と無冠の技――そして莫逆の友である。

 

「元より運命程度で挫ける心ならば、疾うの昔にカウラヴァを離反しているだろう、だが己は未だドゥルヨーダナと共にある――ならばこそ、この命尽きるまで隣を歩むのが俺の正義(ダルマ)……例えお前達から見て俺が悪だろうが、他ならぬ俺だけの正義(ダルマ)だ」

 

 カルナはクリシュナとクンティーに対してそう言い放ち、扉を叩きつけるように閉めた。最早振り返る事は無かった。

 砂利道を駆け、遠くに停めた戦車の元に戻る。

 インドラプラスタを後にするカルナの足取りは軽やかであった。

 まるで足が羽の様に軽く、心の負担は最小限、まるで何か鎖から解き放たれた様な気持ち。弦はこのカウラヴァの敗因とも言える誓いをさせまいと、あれこれ考えていた事が馬鹿らしくなった。

 寧ろここまで言い切ったカルナに対して、素晴らしいぞと、良く言ってやったと、手放しで褒め称えたい気持ちで一杯だった。それはそうだろう、カルナと繋がった弦は彼と同じ感情を共有している。

 

 即ち、ドゥルヨーダナに対する恩義と友情、クリシュナに対する敵対心、クンティーに対する蔑みの感情、それらがまるで己の事の様に思え、弦は先の言葉を撤回させようなどとは微塵も考えなかった。

 

 これで良い、否、これが良い。

 

 そうだ、誰が今更あんな母親面して、その実自分の事しか考えていない様な奴の言う事等聞くものか。そもそも五王子はその出生を貶し、蔑み、馬鹿にした連中である、そんな奴らと肩を並べて友を討つなど――そんなのはカルナの矜持が決して許さない。

 弦はカルナの中で一人、この判断は決して間違いなどではないと理解していた。

 惨めな奴だ、そうやって一生、他人を理解しない甘えた生を送るが良い。

 

 そうだ、カルナならばきっと運命を凌駕する。

 天命を退け、己の約束を果たす。

 カルナなら、きっと――カルナ(自分)ならば。

 

 

 

 ――同調指数上昇、退避処理、間接没入(カスケード)を行います。

 

 

 




 13869字でした、二分割して投稿します。


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失われた光

 

 

 何だ?

 

 弦がその声を聞いて疑問の声を上げる前に、ガツンと、いつか感じた衝撃を頭部に感じた。それは金属のハンマーで思い切り後頭部を叩かれた様な痛みと衝撃、弦は突然の事に視界が弾け、意識が一瞬暗転した。

 

 そして辛うじて意識を再び取り戻した時、弦は驚愕した。視界は数秒前とは異なり、自然豊かな森の中である事が分かる。カルナはその森の端にある滝で沐浴を行っていた、それらが一気に頭の中に雪崩れ込み、連続した記憶の流入を許した弦は頭が割れる様な痛みに襲われる。しかし体はカルナ、例え精神が軟弱であろうと耐えねば嘘だ。

 弦はカルナの中で踏ん張り、死ぬ気で痛みを堪えた。

 そして揺れる視界の中で水に浸かり、カルナとの同調を果たす。

 

 一体何が起こった。

 

 弦はカルナの肉体に宿りながら疑問に思った。

 場面が跳んだ――否、記憶が跳んだのか。クリシュナとクンティーがカルナを自陣に引き込もうと説得する記憶から、此処は……いつの記憶だろうか、弦には分からない。だがカルナの記憶の中にクンティーとクリシュナから受けた言葉を断り、ドゥルヨーダナの元に戻った記憶があったので今は先の出来事から未来の事だと分かった。

 

「……誰だ」

 

 カルナが水に浸かって滝の音に耳を涼ませていると、背後から誰かが近付いて来る気配を感じた。弦の困惑に構わず、記憶は続いている。

 気配は茂みを揺らしてカルナの前に姿を現すと、カルナの事を確りと見つめながら小さく頭を下げて見せた。

 

 バラモン僧――ゆったりと肌の見える白い法衣に首には祈輪が垂れ下がっている、髪は短く切られており旅の僧だとカルナは思った、彼も沐浴に来たのだろうか。カルナは徐に水面から立ち上がると彼に対して小さく目礼をした。

 

「これは、バラモン僧侶の方か、とんだ失礼を――」

「いえいえ、此方こそ、忍び寄る様な真似をして申し訳ない、何分人の来ない森なので、獣の類かと警戒してしまいました」

「それは当然の事、貴方も沐浴を?」

「えぇ、まぁ」

 

 カルナが警戒を解いて問いかければ、僧は緩慢な動作で頷いた。ならばこの場は譲るとしよう、男二人程度で手狭になる水辺ではないがカルナは一人での沐浴を好んでいた。

 畳んだ服の上に置いていた布、それを掴んで軽く顔と頭の水気を飛ばす。そして沐浴を終えようとしたところ、「もし」と僧が声を上げた。

 

「? 何か」

「実は私、この辺りを旅しておりまして――少々施しを頂けはしませんか」

 

 カルナが首を傾げると、僧はおずおずと手を差し出しカルナに施しを求めた。バラモン僧は神道を求め石を積み重ねる者、その道の一助となるならば施すのも吝かではない。そもそもカルナは太陽神スーリヤを礼拝する為に沐浴を行っていた、同じ神を拝する者同士、これまで何度か施しを求められた事はあったが、沐浴時だけは決して断らないとカルナは己自身に決めている。

 

 太陽神スーリヤに捧げる誓い――弦は思う、遥か古代の日本で言う『金打』の様だと。

 そして同時に思い出した。脳裏に文書の文字が浮かび上がる、カルナと沐浴、バラモン僧と施し。

 状況、台詞、人物。

 

 

 これは、カルナが黄金の鎧を喪失する場面だ。

 

 

 拙いと思った、同時に止めなければとも思った。

 カルナの拝礼に対する矜持、それは理解出来るが黄金の鎧を失う事だけは避けなければと。カルナは鎧さえあれば死なない、不死身の英雄である、ならばこの場面を乗り切ればカウラヴァの勝利さえ望める。記憶を改変する事は叶わない、そんなのは没入を始めた頃に導き出した結論だったが、その時の弦は動かなければならないと言う強迫観念にも似た感情に背中を蹴飛ばされた。兎に角、伝えねばならぬ、動かねばならぬと。

 

 弦は己の存在を燃やす様に内側から叫び、カルナに意思を伝えた。

 カルナの感情が弦へと伝わる様に、弦の感情もまたカルナに伝わる。カルナは内側から伝わる、『彼に施しを与えてはならない』という言葉に、僅かに、ほんの僅かに、表情を顰めた。

 それは初めてカルナと言う男が感じた弦の残滓、或は介入と言っても良い。

 

 カルナと弦は同じ肉体に精神を共にしている、その主導権はカルナと弦、両方にあった。しかし二人は極めて性格、趣味趣向、価値観間、行動倫理が似ていた為に行動に対する衝突などは生まれなかったのだ。だが、たった今、最初に没入を行った時の様な『ズレ』を感じる。

 双方の意見が合わない、食い違う、カルナは施しを許し、弦は駄目だと叫ぶ。

 初めて意識的に生まれた両者の違い、それはカルナに言いようのない不快感――或は【嫌な予感がする】という感覚で齎された。

 

「………申し訳ないが、この通り俺も大した物は持ち合わせていない、食糧ならば多少は融通できるが、それが望みか?」

 

 カルナは齎された予感を訝しみながら、目の前のバラモン僧の言葉に消極的な承諾を口にする。自身の第六感に確かな信頼を覚えながらも、己の父である太陽神スーリヤだけは裏切れないと思ったのだ。誓いとは戦士として遵守すべきものであり、また人生に於いての楔だと思っているからだ。

 

 カルナがそう言うと、バラモン僧はにっこりと笑みを浮かべ、凡そ僧侶が言い出す事とは思えない言葉を口にした。

 

「いえいえ、そんな、食料を分けて頂くつもりはありません、ただ貴方の持っている物を一つ、そう――その『黄金の鎧』を頂きたいのです」

 

 それは余りにも予想外な言葉であった。

 それはそうだろう、旅の僧が黄金の鎧を欲しがるなど、そんな事を誰が予想出来よう。カルナは驚きに僧侶を見て、困惑し、それ以上に疑問を抱いた。何故この僧が黄金の鎧を欲するのか分からなかったからだ、カルナは僧の言葉に不信感抱き、同時に先の勘が正しいものだったのだと認識する。

 

「旅の僧よ、申し訳ないが、この鎧は差し上げる事が出来ない、コレは生れ落ちた時より我が身と共にある腕や足の様なモノなのだ、仮に貴方がこの鎧を手にしても、千切った手や腕を体から生やす事が出来ない様に、手に入れる意味など無い、何か他の物なら何でもやろう、故にこの鎧は諦めてくれないか」

 

 カルナは懇切丁寧に僧へ黄金の鎧を欲す意味がない事を説いた、この鎧はカルナの身と共にあるからこそ効力を発揮するのであって、他の誰かの手――それこそカルナと太陽神スーリヤ以外の人物が持っていた所で意味など無い。

 

「いいえ、いいえ、私が求めるのはそれ一つのみ……どうか、どうか」

 

 しかし僧侶は頑なに黄金の鎧を求めた、その両手を差し出し施しをと迫る。それは施しを受けると言うよりも、半ば強請りに近かった。カルナは流石におかしいと訝しむ、バラモンの僧が何故――そう考えた瞬間、カルナは目の前の人物に僅かな神性を感じた。

 

 神性は神が持つ、独特な威圧感。

 カルナは驚き、同時に納得する。

 

 誰も扱えぬ黄金の鎧を欲する理由、己が使えないのに何故欲するか? 簡単な事だ、黄金の鎧がカルナと言う英雄の手元にさえなければ良い、そうすればカルナは不死性を失う。それで得をするのはカルナと敵対している者――つまり、パーンダヴァに他ならない。

 味方にならぬならとクリシュナが吹き込んだか、或は独自に動いたのか。

 どちらにせよ目の前のバラモン僧――それは僧侶に化けた神であった。

 

「………そうか」

 

 カルナは一人悟る。

 目の前の人物、彼が放つ神性をカルナは知っていた。

 大神インドラ――アルジュナを産み落とした神の一柱であり、『神々の中の帝王』、『英雄神』と呼ばれる存在、太陽神スーリヤに並ぶ神そのものである。

 カルナは両手を差し出すバラモン僧――インドラを前に小さく息を吐き出した。

 

「そこまでして勝利を欲するのか、大神インドラよ」

「!」

 

 己の正体を看破したカルナを前に、インドラはその場でカルナを見上げる。両手を差し出す姿勢のまま此方を射抜く視線は力強い、そこからは強い覚悟を感じた。

 

「これは我らが人の闘争、英雄神と呼ばれる御身が肩入れするべきではない、クリシュナに言い包められたか、もしくはアルジュナに泣きつかれたのか? 『あぁ、大神インドラ()よ、私はカルナに勝てません、どうか彼を弱らせては頂けませんか?』、と」

「………」

 

 インドラは答えない、だが彼の纏う神性が僅かに勢いを増し、常人にも気付ける程度に跳ね上がった。機嫌を損ねたか、怒りを覚えたのかもしれない、だがカルナは一歩も引かずにインドラの行いを非難した。

 

「誉ある神が、あのインドラが、人に化けてまで片方に肩入れするか、数多の武具を与えるだけでは飽き足らず、更には敵対する将にこの様な仕打ちまで――大神インドラ、貴方には恥という概念がないのか?」

 

 あまりな言い方であった、しかしカルナは譲らない。この戦いは地上で行う以上、それは人間同士による争いである。本来ならば神々の介入すべき事柄ではない、あまつさえアルジュナは多くの神々から加護と天界の武具を授かったと聞く。

 

 それすら本来であるならば大きなアドバンテージとなるのだ、それに加えて相手の持つ唯一無二の武具を奪う? そんなのは武人の行いではない。太陽神スーリヤでさえ手を出さずに居るのだ、子どもの喧嘩に親が手出しをするとは。

 

「英雄神と呼ばれるのならば理解しているだろう、武人とは己の技量を競い、名誉ある戦いが望まれる、だが貴方がやっている事はソレを貶す行為、それでも尚、貴方は黄金の鎧を欲すると言うのか――もし、そうならば」

 

 カルナはインドラの横に置いてある服、その中に隠されていた小さなナイフを取り出した。戦では殆ど使わない、日常生活で多用する様な薄く短いナイフだ。それをカルナは己の胸に向けると、一息に突き立てた。

 

「ふんッ!」

 

 切っ先は凄まじい勢いで胸を貫き、グジュッ! と生々しい音が鳴る。刃の中ほどまで埋まり、カルナと弦は痛みに思わず呻いた。

 傷口から赤色が滴り、しかしそこから円を描く様にカルナは腕を動かす。まるで心臓そのものを抉り出すかのような所業、それをインドラは驚いた様な目で見ていた。

 

「黄金の鎧は――心の臓、その手前、そこに核が存在する」

 

 カルナはそう口にしながらナイフを抜き放ち、浅く切り抜いた己の胸だった部分、肉片を千切り取る。べりっ、という音と共に皮膚と肉が千切られ、血が噴出する。カルナはそれを物ともせずに肉片を握り締め、それから耳輪を千切り、練り込む。

 そうして肉片を一つの黄金の球体へと変質させた。

 それが他ならぬ黄金の鎧――その核である。

 

 球体の周囲には黄金の粒子が飛び交い、それが本物であると証明している。カルナは一度それを強く握り、瞳を閉じて何かを堪える様に震えると、惜しむことなくインドラへと放った。

 インドラは放られたそれを受け取り、じっと見つめる。カルナの手を離れた黄金の鎧は粒子を失い、色褪せ、その効力を失った。

 

「持っていけ、大神インドラ――卑怯で哀れ、戦士の名を捨てた神よ、その黄金の鎧が、お前の恥の象徴だと知れ」 

 

 カルナはそう吐き捨てると、タオルで胸元を抑えながら湖より上がった。そのまま服を掴んでインドラの横を通り過ぎる。黄金の鎧を失ったカルナは既に不死では無くなった、血は止まらないし痛みも酷い。内心で弦は歯噛みし、カルナが黄金の鎧を失った事を悔いていた。

 或は己にもっと強い意思があればと、それは懺悔にも近い感情だった。

 

「――待たれよ」

 

 水辺を後にするカルナの背に、インドラの声が掛かった。ピタリと進む足を止め、背中越しに彼を見るカルナ。インドラは立ち上がり、片手に黄金の鎧を握り締めながら、もう片方の手に神性を集めていた。

 

 流石に純粋な神、それも大神となると集まる神性は膨大だ。軈て光は収束し一気に弾け、彼の手に握られていたのは黄金に輝く一本の槍。矛先から持ち手、石打まで全て黄金に輝いている、その光は何とも形容し難い。太陽の様な温かさと相手を殺すと言う殺意に満ち、戦士の精神と闘争の心が合わさった様な武器。

 正に至高の一槍、カルナも一瞬その槍に見惚れてしまい、思わず頭を振った。

 まさか、その槍で俺を殺すか。

 カルナがそう言えばインドラは首を横に振り、そのまま告げた。

 

「……我は神である前に武人である、故に、カルナ、貴様に黄金の鎧に替わる武具を授ける」

 

 インドラはそう言うや否や、手に持った槍をカルナの足元に放った。

 槍は回転しながら宙を舞い、そのまま矛先から地面に突き刺さる。その黄金の槍をカルナは驚いた様に見つめ、それからふっと表情を崩した。

 

「……大神インドラ、それは授けるとは言わぬ、交換と言うのだ」

 

 そう言って、その黄金の槍を確りと掴み、引き抜いた。手に取れば槍は良く馴染む、まるで長年使い込んだ様な感覚。その場で軽く振るってみれば、矛先が黄金の粒子を纏って宙に閃光を残した。

 

 黄金の鎧に近い性質を感じる、恐らくインドラが意図して寄せたのだろう。矛は厚くカルナがこれまで見て来たどんな槍よりも重厚で神々しい、槍はズッシリとした重量がありカルナが振り回せば馬の頭でさえ簡単に砕けるだろう、凡夫が簡単に振り回せるものではない。

 インドラは何度か槍を振るって具合を確かめるカルナを横目に、槍を指差して言った。

 

「銘は『ヴァサヴィ・シャクティ』、我インドラが神性より練り上げた神槍である、その槍は森羅万象、万物を問わず穿つだろう――ただし、内包する神性を解放すれば形は崩れる、全力での使用は一度限り、なれど一度ならば、我自身は勿論、この世のあらゆる存在を殺すに足る矛と成る」

 

 彼の英雄、アルジュナでさえ、その槍の前では一撃で命を奪われる。

 そう言ってインドラは黄金の鎧を懐に仕舞った、これで貸し借り無しだと言わんばかりに。カルナはその動作に若干の怒りを覚えたが、無言で奪われるよりはマシだと考えなおし、槍を脇に抱えた。

 

「許せとは言わん、だが理解せよ、天運とは時に平等を損なう」

「天運に平等もクソもあるか、運とは其れ即ち神の気分次第、明確に肩入れしておいて理解せよとは面白い、ならば元より介入などせねば良いものを」

 

 正直に言ったらどうだ? 

 己はパーンダヴァに味方していると。

 カルナが皮肉げに口元を歪めて告げるが、インドラは何も答えなかった。その事にカルナは肩を竦め、インドラに背を向ける。

 

「さらばだインドラ、もう二度と逢わない事を祈る」

「こちらもだ――我を罵った男は、貴様位なものよ」

「ふん、神々も存外、根性が無いと見える」

 

 カルナはそう言って再び視線を向けた時、既にインドラの姿は消えていた。

 人の姿を崩し天に戻ったのだろう、後に残るのは滝の音とカルナの息遣いのみ。頭上を見上げれば木々の隙間から蒼穹が見える、憎々しいインドラは仏頂面で此方を見下ろしているに違いない。あの青色でさえ今のカルナには憎悪の対象に映った、最早ここまで来ると神嫌いにも等しい。

 

「――人も神も、中身は大差ない、俗に塗れ、感情に生きる存在か」

 

 だからこそ神は人と同じ姿をしているのかもしれない、その違いなど、持ち得る力の大小のみで分けられる。即ち人とは持たぬ者であり、神は力を持つ者。

 馬鹿らしくも否定できない事に、カルナと、そして内に潜む弦は力なく笑った。

 

「あぁ、これでは……ドゥルヨーダナに怒られてしまうな」

 

 胸から流れ出る血は止まらず、黄金の鎧は奪われてしまった。手元に残ったのはインドラの黄金槍――ヴァサヴィ・シャクティと自身の矜持のみ。その槍も一度使えば壊れてしまう、脆い幻想に過ぎない。

 こんな時でも太陽神スーリヤは何も語らなかった。

 

 

 

 

 

 

 ――仮にインドラがアルジュナを救う為に立ち塞がっても、俺は必ずや彼を打ち倒し、アルジュナを射殺す、是が非でも成し遂げると君に約束しよう。

 ドゥルヨーダナ、安心して欲しい。

 パーンダヴァの五王子も、彼らを守護する神々も、軍勢すらも射殺す俺は君に約束する。

 五王子で最も難敵となるのはアルジュナだろう、俺はインドラの作った黄金の槍、ヴァサヴィ・シャクティを彼に放つ、パーンダヴァで最も力あるアルジュナが倒れれば残りの兄弟達と軍勢は君の元に帰すか森へと引き返す筈だ。

 誇りを与える人よ、我が王よ、俺が生きている間は決して嘆いてはならない。

 俺はパーンダヴァに必ず勝利する、あらゆる軍勢を蹴散らし、射抜き、君に大地を捧げるだろう。

 

 

 

 

 





 二話連続更新ですが分割しただけなので短いです。
 そろそろ終盤になってきました、十三万字程度での完結を目指したいです。


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手に入れた最後の力

 

 世界は黒色だった、音は無く、景色も無く、幾重にも分裂した思考は考える事を許さない。自分は今何処にいるのだろうか、黄金の鎧を失った己は本分を全う出来るだろうか、敵は、パーンダヴァはどこに、ドゥルヨーダナはどうした。

 

 出口を失った思考はグルグルと同じ場所を回り、薄っすらと視界が光を取り戻す。まるで暗闇の中に差し込んだ光の様に、瞼を開けて目を見開いた。視界は定まらない、まるで霧の中の様だ、しかし確実にその霧は晴れていく。

 

 見上げた先は天井であった、白い天井、少なくとも見覚えのないもの。指先で触れる感触は滑らかな布、自分はベッドに横になっているのかと自覚し、それから自身の首に突き刺さる管に気付いた。

 それを無理矢理引っこ抜くと、何か白い液体が飛び出る。何となくソレが汚いものに思えて、シーツで乱暴に拭った。管を地面に放り、何故か力の入らない上半身を無理矢理起こす、僅かな眩暈に襲われたが精神力で捻じ伏せた。

 

 部屋は小さく、ベッドが一つと周囲に何か医療器具の様なモノが並んでいる。首に刺さっていた管は何か液体の入ったパックに繋がっていて、そのパックは別な四角い機器と接続されていた。その隣には心電図がある、見れば胸元にもパッチが張り付けてあって、引き剥がすとバイタルが横線一本となり電子音を鳴らした。

 

 此処は何処だ?

 

 少なくとも覚えのない部屋である、自分が何故寝かしつけられていたのかも分からない。ベッドから素足のまま降りると、ひんやりとした感覚に顔を顰めた。嫌に寒い、風邪だろうか?

 自身の腕を擦るものの悪寒は消えない。隣の心電図の電子音が喧しく、思わず苛立って蹴り倒してしまう。機器は大きな音を掻き鳴らしながら地面を滑り、そのまま音は小さくなって止んだ。その後、何かドタドタと慌てた足音が聞えて来る。

 

「ッ、弦様!?」

 

 そして部屋の出入り口から飛び込んで来たのは一人の女性――ミーシャだ。彼女は肩を上下させて呼吸を荒くし、ベッドから降り立って呆然としている自分を発見し、あからさまに安堵していた。

 

「よ、良かった……バイタル停止のアラートが鳴って驚きました、目が覚めたのですね?」

「……あぁ」

 

 ミーシャは小さく笑顔を浮かべて頷くが、しかし次いで表情を一変させる。それは目の前に立つ弦の雰囲気、気配と言っても良い、それが余りにも豹変していたからだ。言っては悪いが一般人の持つ緩い、何か温和な気配から、戦場を渡り歩き血を啜って来た様な剛毅な雰囲気に変わり果てていた。

 ミーシャはそんな雰囲気を発する人間を幾度と無く見て来た、没入後の時間に。

 

「……弦様?」

 

 故に警戒する、僅かに眉を潜めて問いかければ、目の前の弦は首を傾げた。

 

 

「弦――? 誰だ、それは」

 

 

 驚愕、同時に「あぁ、やはりこうなったか」と諦めの感情を覚えた。

 弦の没入適正は非常に高く、上層部からも人格重複は時間の問題だと言われていた。前回の没入でも危険視されていたが、今回で遂に弦と言う人格がカルナという英雄に書き換えられてしまったらしい。あと一度、二度、せめて三度、そう願っていたが叶わぬ夢だったのか、ミーシャはカルナと成り果てた弦を見て唇を噛んだ。

 

「此処はどこだ、どうして俺は――いや、違う、弦? あ、カルナ、そうじゃない、俺は、俺は……」

 

 しかし、カルナは未だ完全に弦の人格を上書きしていなかった。

 カルナは突如頭を抱え、何かを堪える様に顔を顰める。それは奇しくも没入で行っていたカルナと同じ状況、一つの肉体に二つの精神が混在し、互いが主導権を握っている。

 

 カルナの肉体であれば二つの精神を別々に、異なるモノとして管理出来ていたが、あくまでこの肉体は弦がベースとなっている。半神の英雄でもなければ万全な状態で黄金の鎧も身に着けていない、ただの劣化した英雄崩れ。

 そこに本来の人格に加え、英雄の精神を宿すには余りにも器が小さすぎた。

 

「! 弦様、貴方は――」

「ッ、そう、だ、違う、落ち着け、俺は、弦――これは現実だ、没入じゃない、ドゥルヨーダナはいない、パーンダヴァも、これは、お前の世界ではない、カルナ、あぁ、そうだ、ここはお前の大地ではないんだ……」

 

 頭を抱えて蹲る弦は、額に脂汗を滲ませながら必死に言い聞かせていた。

 己の存在証明、カルナか弦か、その線引きは非常に曖昧だ。

 例えるのなら一つの箱に水を満たし、中央に仕切りを作る様な感覚。分断された水はお互いに異なる色で、違う精神として孤立している。しかし、その水を区切る仕切りの強度がカルナは鉄製で、弦のは木製どころか段ボールに近かった。

 

 じわりと水が染み出して、隣の水に浸食する。

 

 それはカルナという英雄の水、色水が己を色付けし、誰であるかという部分を酷く曖昧にさせた。俺は誰だ、弦か、カルナか?

 

 彼と共に居た時間が長い弦はカルナでもあり、弦でもあると答えられる。彼の人生を追体験した時間は僅か一日足らずであるが、しかしその経験と知識は実に何十年という積み重ねによるもの。

 それを弦は肉体ではなく、脳で体験していた。

 

「カルナ、頼む、これは……これは、俺の生なんだ……!」

 

 弦は叫び、内に潜むカルナに懇願した。

 それは正しく懇願だった。

 

 人の生を覗き見て好き勝手言っているのは自覚している、しかし記憶の人格に乗っ取られても良いと言える人生は送っていない。弦はカルナの人生を通して己の生を見つめ直し、そう叫べるだけの覚悟を身に着けていた。

 カルナの精神が小さく揺れる、それから弦の肉体を覆っていた気配が徐々に小さくなり、等身大の、現代に生きる青年の人格が戻った。

 

「――ッは」

 

 思わず詰めていた空気が漏れる、肩で息を繰り返し、掻き混ぜられた脳を整理するべく何度も酸素を求めた。駆け寄って来たミーシャは慌てて弦に寄り添い、その背を撫でる。その目元には僅かに涙が見え、ミーシャは今度こそ心から安堵した。

 

「良かった!……まさか、人格を取り戻せるなんて! あぁ、弦様、貴方はやはり――」

「っ、は、で、でも、ちょっと、コレ、きつ……」

 

 弦はミーシャに何か言葉を掛けようとして、しかし余りの辛さに口を閉ざす。下手に話すと胃液が逆流しそうだった、こんな苦痛にカルナの肉体は易々と耐えていたのか。弦は驚愕した、これ程の不快感を覚えながら顔を顰める程度で済むなんて、やはり彼は規格外だと。

 同時に、己は未だカルナの足元にも及んでいないと強く感じてしまう。そう考えると堪らなく悔しい、弦はただ歯を食いしばって激情を堪えた。

 

「弦様、もう少しだけ辛抱を……! 今、HMSを投与します!」

 

 這い蹲った弦に寄り添っていたミーシャは何かを思い出したように駆け出し、周囲にあった機材を押し退けながらステンレススチールで出来た容器の上、其処に固定されていた数本の注射器を掴んだ。隣のボタンを殴る様に押せば注射器をロックしていた爪が解除され、それを手にミーシャは再び弦の元へ駆ける。

 

 注射器は太い円筒状で針が無かった、元々皮膚に密着させナノマシンを注入するタイプのモノだ。ミーシャは注射器の上部に差し込んであった安全ピンを抜き放つと、弦の首筋に押し当て言った。

 

「投与します、息を吸って下さい!」

「ッ、すぅ――」

 

 弦が身を竦ませ小さく息を吸った瞬間、パシュン! と言う音と共にナノマシンが注入される。僅かな痛みと不快感、弦はそれを甘んじて受け入れ、ナノマシンを注入した効果は直ぐに現れた。

 まるで視界が嘘の様に晴れ、不快感がものの数秒で消え去る。流石は科学の力だと思った、どんな症状も一発だ。

 

「弦様、御気分の方は?」

「だい、じょうぶだ……あぁ、先程よりは大分マシになった」

 

 注射器を地面に転がして弦の背を撫でるミーシャ、その問いに弦は何でもない様に答えた。何を注入されたのかは知らないが、恐らく人格重複を抑える薬か没入後のケアに用いる薬剤だろう。実際症状は緩和され、逆流しかけた胃液は何事も無く腹に収まっている。

 

「もう少しベッドで横になっていて下さい、まずは体を休めなければ……此処は没入者専用のメディカル・ルームです、個室ですから自室と同じように使って頂いて構いません」

「いや、結構だ、自室に――」

「弦様」

 

 弦が無理矢理立ち上がって部屋を出ようとすると、ミーシャの硬い声が弦の足をその場に縫い付けた。いつもと違う、何か棘を含んだ表情。弦がミーシャを見れば彼女は不安と怒りを滲ませて言った。 

 

「……十二時間、貴方が没入を終え、意識を消失してから経過した時間です」

 

 真剣な表情で告げられた言葉に、弦は驚愕した。十二時間、つまり半日である、てっきり没入から一時間か半刻程度だと思っていたが、予想以上に時間を食っていたらしい。弦は己の頬に手を当てて、それから顔全体を何度か撫でた。

 

「――半日も寝ていたのか、俺は」

「はい、正しくは昏迷状態でしょうか、今回の没入は失敗です、ノアでの記憶追跡が困難となり、DNA内での弦様の自意識が突然転移(ランダム・アポート)、結果意図しない記憶への連続没入が敢行され、弦様の肉体は連続没入に対する負荷に耐えられず、長時間意識を失っていたんです、記憶追跡が失敗した為、データの入手も出来ず徒労に終わりました」

 

 弦はその話を聞いて思わず顔を顰めた、連続没入というゾッとしない話もそうだが、データの入手という不穏なワードを聞いたからだ。しかしソレを問い詰めようとは思わない、弦は軽く頭を振ると独りで立ち上がった。

 

「弦様っ――」

「分かっている、ちゃんと寝る、でも自室でだ、環境が変わると良く眠れない」

 

 覚束ない足取りで歩き出すと、ミーシャが慌てて肩を貸した。その表情には僅かな怒りが見えるが、仕方ないとばかりに溜息を一つ。

 

「……ちゃんと休息を取って下さいね」

「約束する」

 

 

 

 

 弦は自室のベッドに横たわったまま思考した、さて、どうしたものかと。

 ナノマシンの効果かカルナが自重しているのか、視界は良好だし思考もハッキリしている、体調は悪くなく体も何不自由なく動かせるようになってきた。寧ろ肉体的には一歩カルナに近付いたのか、何か言い知れぬ力強さの様なものすら感じた。

 

 一度に二回の没入を体験してからだろうか、その神性の強度と言うか、量も幾分か増えた気がする。最も危惧していた黄金の鎧消失であるが、記憶の中で失っても弦自身には絶えず粒子が渦巻いている、その事に弦は安堵した。

 

「ヴァサヴィ・シャクティ……」

 

 弦が呟くと、右腕に粒子が集まるのが分かった。このまま形成し続ければ恐らく、彼のインドラの槍を生み出す事が出来るだろう。この没入で弦はカルナの持つ最も攻撃的な武具を手に入れたのだ、いつミーシャが戻って来るかも分からないので取り出しはしないが、後でトレーニングルームを利用するつもりだった。

 

 弦のベッドの隣には良く分からない医療器材ひとつ鎮座している、万が一の時の為にとミーシャが運び込んだものだ。頼むから大人しく寝ていてくれと何度も念を押され、弦はこうして嫌々ベッドに横たわっている。

 

 カルナとの人格重複、まさかこの世界でカルナと同調してしまうとは思っていなかったが、これで弦はカルナと言う英雄の武具を揃えた事になる。少なくとも没入を開始した頃とは比べ物にならない、正に半英雄と言っても良い人間にまで成り上がった。

 黄金の鎧に太陽神の神性、更にヴァサヴィ・シャクティ――インドラの槍まで手に入れた。

 カルナの適正としては弓が最も扱いやすいが、単純な威力だけならばコレが最強だろう。

 弦は全能感を覚えた、カルナの力を万全とは言えないが全て揃えた故に。

 

「―――!」

 

 弦が何をする訳でもなく、ぼうっと天井を眺めていると、枕元に置いていたタオルから僅かに音声が聞こえて来た。弦はその事にハッと意識を引き締め、周囲を見渡してからタオルをベッドの中に引きずり込む。それから中にあった通信機を引っ張り出すと耳元に添えた。

 

「……ウィリス?」

「あぁ、良かった、繋がった、弦さん、今大丈夫ですか?」

「……多分」

 

 部屋の出入り口を見つめながら、弦はベッドの中に潜り込む。そうすれば仮に突然入って来ても分かるまいと、そう考えたのだ。我ながら子供みたいな所業だが背に腹は代えられない、予防線を張るに越した事はないのだ。

 

「何か廊下が騒がしかった様な気がしますが……その、何かあったのですか?」

「あぁ、その……」

 

 ウィリスの問いかけに弦は言葉を濁す。

 十中八九、己が没入時に関する事だろう。少なくとも人格重複に呑まれかけたのだ、ある意味騒がしくなるのも当然だと思った。しかしソレをウィリスに馬鹿正直に話して良いものか、人格に呑まれた事が弦にとっては恥の様に思えた。同時に、ウィリスに対して心配を掛けたくないとも。

 

「………少し、没入後に記憶が混濁して、な」

 

 結局弦は近い様な遠い様な、どうとでも取れる言葉でその場を逃れる。ウィリスは単純に、「大丈夫だったのですか?」と心配を露にし、弦は慌てて、「研究所の連中が大袈裟なだけだ」と嘯いた。実際あの苦しみは騒ぐだけのものだった、恐らくナノマシンを注入しなければ己は地面をのた打ち回っていただろう。

 

「ウィリスの方は大丈夫なのか、没入後の副作用とか……」

「えっと、私は没入適正がなぁなぁと言いますか、普通の人より少し良い程度のものなので、それ程は」

「そっか」

 

 没入適正が低いと副作用も少ないのか、弦は少しだけ羨ましいと思った。恐らくあの苦しみを味わったばかりだからだろう、そうでなければ弦は適性を高めたいと言う筈だ。

 

「今回の没入では何か得られましたか?」

 

 ウィリスは僅かに真剣味を帯びた声色で問いかける、弦は小さく息を吸い込むと、力強く答えた。

 

「多分――俺の英雄が持っていた最後の武具、それを手に入れた」

「……と言う事は、つまり」

「そうだな」

 

 脱出の時が迫っている。

 弦は強く頷いた。

 

「……ウィリスの方はどうだ?」

「私は――そうですね、多分、次が山場です、それを越えれば後はもう武具は手に入らないと思います、記憶自体も三回か四回程度で終わりそうですし」

「なら、実行するのは次の没入後……か」

 

 存外早かった、そう思う。

 最長で一ヵ月程度を想定していたが大幅に予定が前倒しになる。弦は己が緊張している事に気付いた、それはそうだろう、こんなデカイ組織を敵に回すと決めたのだ、足が竦むに決まっている。

 それでもやめようと思わなかったのはカルナの精神があったからか、彼は弦の中で沈黙を保っているが、その存在は在るだけで弦に勇気を齎した。

 

「……計画は?」

 

 弦は声を潜めて問いかける、口惜しいが武一辺倒の己はこういった計画を立案する事に向いていない。ウィリスの事だ、脱走に向けてある程度計画は練ってあるのだろう。そう思っての発言だったが、果たして、彼女は既に腹案を抱えていた。

 

「――実は、二日前から継承した才を使って周囲を探ってみたんです、彼の持っていた武具の中に偵察に向いている類の物があったので、オーバーテクノロジーも甚だしいですが、これが中々便利でして」

 

 大雑把ですが、この施設、ノアの見取り図が手に入りました。

 その言葉に弦は歓声を上げそうになった、流石とか、やはりウィリスは違ったとか、彼女を祭り上げて感謝を叫びたくなる。それをぐっと我慢して、「凄いな」と万感の思いで呟いた。ノアの見取り図が手に入ったのなら迷わずに済む、それは素晴らしい事だった。

 

「流石に全区画とは行きませんが、足の有る場所も分かりましたし、脱出路も決めました、足は旧式ですが粒子を使わないタイヤ式の搬入車両が三つ、丁度搬入口と思われる区画に用意されているのでソレをそのまま利用しようと思います――場所は私達の部屋から走って一分程度の場所です」

 

 ウィリスの語った計画はそれ程複雑なものでもない、ある意味順当とも言える内容だった。

 まず食料や衣料品を搔き集めて準備を整え――恐らく長旅になるだろうとウィリスは言った――次の没入が終わり次第、才能を使って自室の扉をぶち破る。そして周囲の英雄達の自室扉を破壊しながら前進、ウィリスは全員を救うのは無理だろうと言った。弦も最初から全ての英雄の子孫を助けるのは無理だと思っている、突発的な脱出なのだ、まず脱出の準備も出来ていないだろうし、没入を開始して間もない奴も居るだろう。そういう連中を連れて行くのは難しい、ならば希望をぶら下げ多少なりとも時間を稼いで貰おうという算段だった。

 

 後はどれだけ迅速に搬入口へと辿り着けるか、ノアの連中が防備を固める前に搬入車両に向かう、認証キーはウィリスが何とかすると言った。どうやら旧式車両程度ならばキーの偽装は比較的容易らしい。

 万が一同じく逃走出来そうな英雄が居た場合は同行させる、その判断はウィリスと弦の同意があった時のみとした。不確定要素は余り含まない方が望ましい、ウィリス徹頭徹尾二人での脱出を軸にしていたのだ。

 

「この施設の警備がどれ程かは分かりませんが、恐らく神性を含んだ防具を身に纏えば大した脅威にはならないかと、何か鎧や盾の防具はありますか?」

「鎧が一つある、光線銃程度ならビクともしない、電磁砲や爆雷は無理だと思うけれど……」

「古代のオーパーツを信じましょう、最悪武具や防具を使い捨ててでも突破します」

 

 弦はウィリスの発言に驚いた、まさか武具や防具を使い捨てる等と言い出すとは。少なくとも弦には言えない、黄金の鎧もヴァサヴィ・シャクティも弦にとって、或はカルナにとって唯一無二の宝だからだ。

 どうやらウィリスの英雄はかなり武具と防具に恵まれた英雄らしい、王とも言っていたが、かなり高名な英雄なのかもしれない。少しだけウィリスの英雄の名が気になった弦だった。

 

「因みに逃げ切った後は?」

「追手を振り切った後は、どこかに身を潜めるか、或は辺境の地にでも腰を落ち着けるか――少なくとも、大手を振って生きる事は出来なくなるでしょうね、隠居は確実です」

 

 ウィリスは僅かな悲観を込めてそう口にする、「折角勉強して良い企業に入ったのに、これでパァです」と。弦はその事に少なからず衝撃を受けた、漠然と普通の生活は出来ないと思っていたが、そこまでとは。

 

「普通の生活には戻れないのか」

「無理でしょうね、職員の言葉を信じるならば此処は連邦そのものです、そこから逃げ出した時点で犯罪者と大した変わりはありません、家には勿論戻れないでしょうし、社会保障など以ての外です、連邦の力が及ばない辺境の地で細々と暮らせれば御の字でしょう」

 

 ウィリス淡々と当たり前の事を言う様に言葉を紡いだ、言われてみればその通りだ。この施設が連邦のものであるならば、そこを脱走した時点で連邦の意向に背いたという事になる。その時点で社会に溶け込む事は不可能、指名手配されるかどうかは分からないが真っ当な生活を送れないのは確かだった。

 学校にも通う事は出来なくなる、そう思うと何か、自分の中から人生のレールとも言える指標が剥がれていくのが分かった。それは恐らく一般的な価値観だとか、普遍の幸せだとか、そういうモノだと弦は理解する。

 己は人の言う『普通』を手にする事が出来なくなった、それを改めて感じた。

 

「……怖いですか?」

 

 どこか暖かさを感じさせるウィリスの声、それに弦は首を振って、「まさか」と強がって見せた。未だ社会にすら出ていない青二才だが、此処で尻込みする理由はない。少なくともこの施設で延々死ぬまで飼い慣らされるよりは良い、己は人である、人間としての矜持がある、こんな家畜の様な扱いを受けて満足する程腐ってはいないのだ。

 

「重畳、どうせ後は進むだけです、必ず成功するとは言えませんが、それほど低い数字でもない、後付けですが私達には英雄の才もある、為せば成ります」

「為せば成るか……良い言葉だな」

「えぇ、どうせ逃げるだけです、真正面から戦わなくとも良いのですから、気を楽に挑みましょう」

 

 ウィリスは無線機の向こう側で笑っていた、何となくだが弦はそう思う。逆境でこそ笑顔を、ある意味彼女こそ英雄の精神を正しく引き継いでいるのかもしれない。弦はウィリスのその強さに憧れ、同時に敬意を抱いた。

 

「ともあれ、実行まではもう少し猶予があります、準備は念入りに」

「分かった、足りなければそれとなく担当に申請しよう、勿論悟られない程度にね」

 

 弦は無線機に手を当て、「じゃあ、また」と口にした。ウィリスも一言添え、ブツッと通信が切断される。籠っていた熱を吐き出す様にベッドから抜け出せば、何となく室内の空気が美味しく感じられた。

 無線機を握り締め、天井に向けて息を吐き出す。

 

「……やっぱり、ベッドの中は暑い」

 

 額の汗を拭って呟いた、弦の視界に曇りは無かった。

 

 

 

 六時間――弦がベッドから抜け出すのに要した時間だ。

 結局体に何ら問題無しと判断されるまで、弦は大人しく惰眠を貪っていた。再びミーシャが自室にやって来た時、簡易身体検査を行って人格重複の予兆無しと判断された。後は医療器具一式を片付けたミーシャが退室したのを見計らってトレーニングルームに籠る。

 試すのはヴァサヴィ・シャクティ、黄金の槍である。

 

「記憶通りなら一度の解放で崩れる筈だけれど……」

 

 弓を取り出す感覚と同じで、神性を集めれば槍はすぐさま現れる。それは記憶と全く同じ外見を持ちながらも、やはり力は大きく失っていた。その場で握り締め軽く振り回す、普通に使う分ならば問題は無い。

 一番の懸念は神性を解放した場合だ。

 

 弦はヴァサヴィ・シャクティを眺めながら思う――少なくとも、一度の使用で壊れる感じはしないと。

 そもそもコレは憎きインドラの作った槍であるが、現在は弦の使用する神性から作られたものである。記憶を追体験し、カルナの武具を手に入れた弦だが本質は弦の中にある遺伝子が僅かな神性を使って模倣した武具に過ぎない。

 

 カルナに帰属した武具、つまりヴァサヴィ・シャクティは本来の神性から大きく逸脱していた。つまりコレはヴァサヴィ・シャクティであって、インドラの槍ではない。記憶では彼のインドラが太陽神スーリヤの神性に寄せたと感じたが、これは太陽神スーリヤの神性そのものだ。

 弦はカルナと同調する事で、己の中にある英雄の遺伝子というモノを僅かだが理解し始めていた。

 

「インドラの槍なら一度で壊れる、けれどコレは俺の神性で作った槍だ――そう易々と壊れるか?」

 

 ハッキリ言ってしまえば、仮に壊れてしまったとしても次のヴァサヴィ・シャクティを生み出せば事足りる。今の弦には黄金の鎧によるバックアップもあった、弦は僅かな疑問を抱きヴァサヴィ・シャクティを構える。

 目前にはウィリスから拝借した神性を纏う壁――もとい盾。

 黄金の弓では七割でも貫通しなかったが、槍ではどうか?

 弦は無性に試したかった。

 

「分からないなら――試すまで」

 

 槍は近接武器として扱えるが、投擲武器としての側面もある。元々カルナは槍を投擲するものとして見ていた、射手としての経験からかもしれない、神性を解放するとは即ち槍の全力投球を意味する。

 

 弦は肉体の本能に身を任せ、槍を逆手に掴むと大きく上体を逸らし足を広げた。

 瞬間、ボッ! と黄金の粒子を噴き出す。

 

 投擲態勢に入った事により、ヴァサヴィ・シャクティが神性解放段階に移行したのだ。弦に戸惑いは無かった、何よりこの槍の扱い方はカルナが知っている。

 

 彼が知っているのならば、弦も既知と同じ。

 

「神性を解放、インドラとは異なるが十二分だろう、銘は『ヴァサヴィ・シャクティ(雷光の力)』―――いや」

 

 既にこの槍はインドラの手を離れている、槍を構成する神性も最早太陽神スーリヤのものと言っても良い。ならばこそ、この槍にヴァサヴィ・シャクティの銘は似合わない。

 ヴァサヴィ(雷光)の力ではない、これはスーリヤ(太陽)の力、しかし純粋な彼の力だけではない。カルナと弦の、己の力で生み出したもの。

 ならばこそ、弦とカルナは新たな銘を与えた。

 

 

メラーガルム・シャクティ(私の熱き力よ)!」

 

 

 叫ぶと同時、黄金の槍が一際強い閃光を放った。

 

 投擲は一瞬、腕の力、腰の回転、足のバネ、全てを全力稼働させて腕を振り抜く。同時に黄金の槍が凄まじい勢いで渦を巻き、宛らロケット砲の勢いで手元から射出された。無論神性だけは手を抜き、十二分に加減して放った。

 

 感覚で言えば九割減、凡そ一割程度の力で槍を構成。その程度ならば防げると判断したのだ。

 だと言うのに槍は火薬鉄砲に迫る速度で飛来し、神性の盾へと衝突する。拮抗は一瞬だった、否、一瞬すら短い。投擲を終えた姿勢で弦は直感的に悟った――盾が抜かれる。

 

 その思考は正しく、盾は数秒と経たず穿たれ、黄金の槍は背後の壁に迫った。その勢いは全く衰えず、恐らくそのまま衝突すれば容易に壁を貫くだろう。その直前に弦が慌てて神性を回収し、槍は壁に衝突する直前で消え去った。

 残滓が壁に当たって拡散し、キラキラとトレーニングルームに黄金の粒子が舞う。

 

「……一割でこれかよ」

 

 弦は思わず呟いた、欠陥だらけの空洞槍さえ肉体だけでも全力で投擲すればこの威力。穿たれた盾は摩擦熱に赤く発火しながらシュウ、と音を立てている。神性も含めた全力投擲ならば弓のアストラ・スーリヤ(太陽の星よ)をも凌駕するだろう、一体どれほどの惨状が広がるのか、想像すら出来ない。

 

 弦が再び神性を集めると先程と同じ黄金槍、メラーガルム・シャクティが構成される。やはりインドラの槍と異なり再び生み出せば連射も可能、つまり息切れさえしなければ先程以上の一撃が何度でも放てる訳だ。

 構成された槍を掴み、弦はその場で回転させ脇に挟む。

 

「これは――最高の武器だな」

 

 弦は笑みを隠し切れなかった。

 

 



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怪物の息子

 

「……こんなに大袈裟に準備する程か?」

「えぇ、弦様は没入の度に同調指数が上昇しています、今回はかなり危険な状態になる可能性が非常に高い為、緊急医療チームを結成しました」

「………」

 

 五度目の没入、恐らくカルナの人生の最後に差し迫るだろう。

 その為、弦の人格重複を警戒したミーシャが専用の医療チームを結成させていた。弦自身も次の没入で大きな副作用を伴うと覚悟していたが、まさか専用のチームまで作られているとは。

 

 いつもの没入ルームにずらりと並んだ白衣の人員を見て、弦は内心で辟易としていた。その数は総勢十二名、一人に掛ける人員としてはかなり多い方だろう。そもそも没入ルーム自体それ程大きくも無いので少々狭い、元々あった没入用の機材に加えて医療品も持ち込まれている為、足の踏み場もないという訳ではないが、中々に圧迫感があった。

 

「今回の没入はパーンダヴァとカウラヴァの戦争時の記憶となります、カルナの人生最後、恐らく終盤に近い記憶になるでしょう、どのあたりに没入になるかは分かりませんが、恐らくパーンダヴァの五王子ビーマか英雄アルジュナとの決戦、どちらかの記憶というのが解析班の見立てです」

 

 決戦、その言葉を聞いて弦の中の気持ちが引き締まる。解析班と言うのが何かは知らないが、覚悟はしておけと言う事だろう。

 

「決戦か――仮に向こうで死んだら、俺はどうなってしまうんだ?」

「記憶は英雄の自意識がある限り続きますので、恐らく心配はありません、英雄カルナは死んだ後に太陽神スーリヤと一体になったと言われています、その後の記憶も続いていれば弦様の精神も付随します、最悪こちらに呼び戻しますので」

 

 弦は説明を聞いて成程と思った。英雄の死が記憶の終わりだと思っていたが、確かにそうなると記憶は続いているという事になる。そもそも神なんていうトンデモ生命体が存在している時点で記憶という定義すら危うくなるのだろう。カルナの肉体が死んでも、カルナの精神が生きている限りは没入が続く。せめてブツ切りにならない事を祈ろう、前回の二連続は中々に酷かったから。

 

「万が一の備えもありますし、安心して死んで貰って構いません」

「言葉だけ聞くと凄まじいな、物騒だぞ」

 

 死んで貰って構わないとは、中々どうしてヘヴィーな言葉ではないか。弦の方針はどこまで行っても『いのちだいじに』だ。

 

 弦の言葉に小さな笑みを零したミーシャは、そのまま白衣の面々を見渡した後に弦の頭部にリングを装着した。その後はいつも通り、端末を叩いて弦を見る。頭に装着されたリングを微調整した弦はシートに深く背を預け、ゆっくりと目を閉じた。

 

「記憶没入時間は一時間を予定しています、弦様、準備は宜しいでしょうか」

「……あぁ、やってくれ」

 

 恐らく最後となる没入、存外早かったが後悔は無し。連中はどうやら太陽神スーリヤと一体化したカルナに興味があるようだが、残念ながら弦には神と一体化した後など微塵も興味がない。

 

 弦が敬うのは、人として生きたカルナなのだ。

 これが神嫌いという奴なのだろうか、弦は少しだけ笑ってしまった。

 

「それでは弦様、ご健闘を」

 

 戦うのは己では無く、カルナなのだが。

 弦はその言葉を口にする事無く、泥の中に沈んでいった。

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 暗転、肉体の同調。

 第二の肉体とも言える、精神に馴染んだカルナの体。指先のピリッとした感覚に弦の精神が目を覚ます。不快感は無い、何か脳内に浸透する様な感じ、それはカルナに人格を上書きされた時に似ていた。

 

「オメェの相手はァ、俺だァ」

 

 弦が目を覚ました時、カルナの目の前には巨大な男が立っていた。身長は三メートル近く、常人を遥かに上回る巨躯。周囲は暗闇で時折松明の明かりがチラつく程度、どうやら場所は戦場らしい。カルナは戦車に搭乗しており、目前には三頭の馬が興奮した状態で停止していた。五度目の没入によってスムーズな同調を果たした弦は、その人物が誰であるか、カルナから齎された知識の流入によって知る。

 

 ガトートカチャ――羅刹女ヒディムバーとビーマの息子。

 その風貌は最早人間のものではない、顔面にびっしりと張り付いた幾多の眼球、裂けているのではないかと錯覚するほど巨大な口、そして尖った耳。その肉体はビーマの血を引いているからか恐ろしく巨躯で、腕や足が丸太の様に太い。

 カルナは内に潜む弦からの要望で小さく息を吐き出すと、手に握った黄金の弓に矢を番える。

 

「――風神ヴァーユの息子、ビーマ、お前まさか己で戦わぬつもりか」

 

 カルナは表情を顰めて、そう口にする。

 巨躯の怪物ガトートカチャ、彼の背に隠れる様にして此方を睨む五王子のビーマはフッと口元を歪めた。彼は棍棒を手にして、しかし息子の背に身を潜めている。

 

「いいや、戦うに決まってンだろう、だがコレは戦争だ、自分より強い息子が居るならば頼るべきだ、そうだろう?」

「クリシュナめ、要らぬ入れ知恵を……まぁ、良い、お前がそう言うのであれば」

 

 カルナは戦車の上で弓を引き絞る、その矛先はガトートカチャ、ビーマの息子。

 

「お前の息子を射殺し、その次にお前を打ち倒そう」

「やれるものならな――ガトートカチャ! 夜は羅刹の世界だろォ!? カウラヴァの英雄を打ち倒してやれ!」

「任せろォオオ!」

 

 ビーマが叫び、ガトートカチャが応えた。そのまま凄まじい速度でカルナに迫り、その腕を振りかぶる。カルナは叩き潰される前に馬を蹴飛ばし急発進、ガトートカチャの腕は虚空を裂き地面に叩きつけられた。

 ドゥ! と拳が直撃した地面が揺れる、見れば砂塵と共に小さな穴が穿たれていた。直撃すれば黄金の鎧を持たない己は即死するだろう。

 

 カルナと弦は僅かに顔を顰めた、互いの精神がシンクロする。現実で人格重複しかけた二人だが没入時に限ればソレは凄まじい益を生み出す。動きと思考に齟齬が無い、まるで二体一身、カルナが弓を引き絞れば自然に弦の精神も付随した。

 

「だが……怪力だけではな」

 

 呟き、矢を放つ。

 太陽神スーリヤの力の塊である矢は風を切ってガトートカチャに飛来し、慌てて顔面を庇ったガトートカチャの腕に突き刺さった。

 

 ストン! と腕を半分程射抜いたスーリヤの矢、やはり太陽神の神性ならば射抜けるとカルナは笑みを浮かべる。突き刺さった矢は役割を終えると空気に溶けた、そのまま黄金の残滓が漂うのみ。

 腕に穴を空けられたガトートカチャは、まさかと驚愕する。これまで数多の武具を弾いて来た己の肉体がこうも簡単に射抜かれた、それは衝撃を覚えるには十分だった。

 

「ッ――父さん、コイツ、強い」

「あぁ、当たり前だ、カウラヴァの大英雄カルナ、アイツは別格だぞ、俺の額を小突いただけで倒しやがったからな」

「……コイツ、倒したら皆喜ぶ?」

「あぁ、パーンダヴァは大喜びだ、歌って踊って祭りとなる」

「――なら、倒す」

 

 短いやり取り、ガトートカチャはそれだけで気合を入れ直した。闘士を燃やし歯茎を露出させる、その姿は人と言うより獣だろう。カルナは再び黄金の弓に矢を番え、構えた。

 そしてガトートカチャが再び加速する、空を駆けると呼ばれた驚異的な脚力が生み出す超加速。地面を踏み砕いて迫りくるその姿は悍ましく、正しく怪物の名が相応しい。

 戦車の速度を大きく上回っている、数秒すれば追いつかれるだろう。

 

「見るに堪えんな」

 

 カルナは番えた矢を放つ。

 閃光が視界を多い、一際太い矢がガトートカチャを襲った。その一撃を彼は腕を盾に防ぐ、ズンッ! と重々しい音と共に腕を射抜かれるが、ガトートカチャの勢いは止まらない。

 

「高々一本の矢でぇ、俺が止まると思うなぁああ!」

「なら――三本で止めよう」 

 

 カルナは即座に三本の矢を生み出し、番え、放つ。矢の高速連射、流れる様な動作で放たれた三本の矢はカルナの戦車をガトートカチャが捕らえる前に着弾し、その腕に追加で三つの穴を空けた。

 カルナを捕まえようと伸ばした手が、三本の矢によって大きく後方に逸れる。

 

「そら、額が空いたぞ」

 

 カルナがそう言い放ち、追加で矢を放った。その矢の狙いは頭部、直撃を許せば頭蓋を射抜かれる。矢を一射放つのに一秒も要しない、正に神速。それでいて一撃は強く、重かった。

 

「ッ、おォオオ!?」

 

 ガトートカチャは直前で身を屈める事により、その一撃を辛うじて躱し、飛来した矢は額を僅かに掠めた。

 

 カルナは次々と矢を生み出すと、宛ら連射砲の如く矢を降らせる。その一撃一撃が急所に当たれば即死するだけの威力を秘め、同時に牽制を成す一射二役の厄介な攻撃。加えてカルナ自身は常に戦車で移動している為、捉える事すら困難だった。

 

 カルナに攻撃を加えようと駆けても、戦車に追い縋る前に矢の嵐が行く手を阻む。手傷を追って嵐を突破した先にあるのはカルナの超反応による神速の速射である。かなりの距離があれば何とか回避の間に合うカルナの矢であるが、至近距離では目で捉える事も出来ない。

 不用意に近付けば気が付いた瞬間、額を射抜かれる――何て事もあり得た。

 

「っ、強いなァ、くそ、強いぞォ、コイツ」

 

 ガトートカチャはカルナの攻撃を避けながら歯噛みしていた。

 強い、とんでもなく強い。何でこんな強い奴がカウラヴァの英雄なのだと悪態を吐きたくなる、その武は尊敬に値するものであり、パーンダヴァに居たのならばガトートカチャは惜しみない称賛を浴びせただろう。

 

 近付けなければガトートカチャに攻撃手段は無く、カルナの一撃は確実に体力と体を削り取る、まさに敗北は時間の問題。

 

 それでもガトートカチャは諦めず突貫を繰り返すが、その度に体を矢が掠め体力と血を奪われた。

 戦闘開始から凡そ十分、それだけでガトートカチャは全身血塗れになり、カルナは息一つ乱していなかった。とても敵わない、この男は自分と同じステージに立っていない、ガトートカチャは肩を上下させながらそう感じた。

 

「ハァ、ハッ、クリシュナ、言ってた、俺、お前に勝てない、フッ、フゥ、だから俺は、お前の手札を奪う」

「―――何?」

 

 ガトートカチャはカルナから大きく離れると、息を荒くしたままそんな事を口走った。手札を奪う、それが何を意味するのかカルナは分からない。

 遠くで弓を構えたまま顔を顰めるカルナを見て、ガトートカチャは薄ら笑いを浮かべた。

 

「つまり……こういう事だァ!」

 

 叫ぶや否や、ガトートカチャはカルナに背を向けて逃走を開始した。当然の事にカルナは驚き、「臆したか!?」と非難する。だがそれは見当違いな言葉であり、ガトートカチャはあろう事かカルナを無視し、周囲のカウラヴァ兵を襲い始めた。

 

 ガトートカチャとカルナの戦いを見ながら、周囲で小競り合いを行っていたカウラヴァの兵士は突然の襲撃に驚き、悲鳴を上げる。それはそうだろう、英雄と劣勢とは言え渡り合う怪力無双の怪物、そんなものが自分達に向かって来るのだ、恐怖を感じない筈が無い。

 実際正面からの戦いではカウラヴァの一兵士がガトートカチャに敵う筈が無く、周囲のカウラヴァの戦士たちは次々に葬られていた。

 

「ッ――何て事を、貴様ァッ!」

 

 カルナは激昂し一度に五本の矢を番えて放った、それは空気の壁を貫きながらガトートカチャに迫る。しかし、その悉くを彼は躱して見せた。今の彼はカルナの攻撃を回避する事だけに専念している、そして片手間にカウラヴァの戦士を蹴り、殴り、殺害して回っていた。

 

 カルナはガトートカチャを戦車で追い回すが、元より俊敏性のみで言うのであれば彼の方が上、戦車が彼に追いつく事は無い。ガトートカチャは体の何処に矢が突き刺さろうが、決して足への被弾は許さなかった。彼はカルナとの真剣勝負を投げ捨て、カウラヴァの戦士を人質に暴れ回る事を選択したのだ。

 

「所詮怪物、戦士の矜持すら持たぬかッ!」

「クリシュナ、嘘吐かない、俺より、頭良い、だから正しい!」

「矜持と正義は両立せぬッ!」

 

 カルナの猛攻、三、四、五と矢の数が一秒を刻むごとに増えていく。ガトートカチャはカルナの矜持に火が付いたと悟るや否や、碌な攻撃も行わず逃げ回る事に専念した。ガトートカチャが駆けるだけで只の戦士にとっては攻撃にも等しい、その巨躯での体当たり、地面を踏み抜く衝撃、それだけでカウラヴァの戦士は宙を舞った。

 

 素早い、矢が当たらない。

 

 驚異的な脚力を逃げる事だけに使われると此処まで面倒だとは。己から逃げ回る敵を追うなどカルナにとっては初めての経験であった、基本的にカルナは逃げ出す者を追う事は無い、逃走とは即ち戦士の矜持を捨てる事と同義だからだ。しかし目の前の男は明らかにカルナを誘っていた、正面から戦っては敵わないと見るや否や、まるで見せつける様にカウラヴァ軍を蹂躙する。

 

「ハハハッ! 渋れ、渋れ、どんどん死ぬぞォ! 槍を使うか、全滅して嘆けぇ!」

「ッ、それが狙いか……!」

 

 カルナは思わず唇を噛んだ、ガトートカチャの言葉に連中の真意を悟ったのだ。

 クリシュナがガトートカチャに伝えた策だと言うが、成程、どうあってもクリシュナはアルジュナに勝利を齎したいらしい。逃げ回りながら矢を躱し、カウラヴァの戦士を蹂躙する奴を仕留めるには必中の槍を使うしかない。

 

 つまりヴァサヴィ・シャクティを此処で使わせようとしているのだ。

 

 そうすればカルナは黄金の鎧を失い、最後の切り札さえ無くした状態でアルジュナと決戦に挑む事となる、そうなればカルナの不利は明らか。

 

「パーンダヴァには、貴様等には――戦士としての誇りも、矜持も無いのか……ァッ!」

 

 激昂、それは失望だったのかもしれない。

 カルナは黄金の弓を手から消失させると、己の内に内包したインドラの槍を取り出した。黄金に輝くソレを取り出すと、ガトートカチャは明らかに顔を歓喜に歪ませる。

 

「使うか、使うのか英雄ゥ!?」

「―――外道が」

 

 カルナは黄金の槍を掲げると、上体を逸らして投擲態勢に入った。ソレを見たカウラヴァの戦士達は我先にと退避を始める。ドゥルヨーダナを通じてカルナは、ヴァサヴィ・シャクティを使う場合は退避しろと予め通達していたのだ。

 

 そして彼らはそれを忠実に守った、ガトートカチャは背を向け走り出すカウラヴァの戦士を見て、一人でも多く仕留めようと駆け出そうとするが、その足がガクンと落ちる。

 

「!?」

 

 そして何だと己の足を見下ろし、愕然とした。

 黄金に輝くリング、輪が己の足を拘束していた。ガトートカチャは慌ててカルナを見る、彼は槍を構えたまま微動だにしていなかった。

 

 必中の槍は追尾ではない、対象を空間ごと固定し回避不能にて放たれる、故に必中。

 策を捏ね繰り回すインドラに似合った槍だ。

 

 これを此処で使えばアルジュナを確殺出来る保証が無くなる、しかし時間が経てば経つほどカウラヴァの戦士が死ぬのも事実。ならばこそ、使う事に躊躇いは無し、それが連中の狙いだろうと構わない。

 

 仲間とは黄金に勝る宝であり、ドゥルヨーダナの忠臣。

 一人でも多く生かすのが、彼の親友であり剣である己の役目であるが故に。

 

「戦士ではない貴様に掛ける言葉は無い、惨たらしく死ね、死んで嘆け、土に還り後悔しろ、貴様に与える誉など、微塵も持ち合わせていないのでな」

 

 カルナは吐き捨て、構えたヴァサヴィ・シャクティにありったけの神性を込めた。インドラの槍は必中であり確殺である、ならばこそ勝負より逃げた彼の怪物に無様な死を。

 

 

 

「塵も残すなインドラの槍――神性解放、『ヴァサヴィ・シャクティ(雷光の力)』!」

 

 

 

 戦車の上から数歩駆け、全力投擲。

 

 ボンッ! と振り抜いた瞬間に衝撃波が周囲を駆け抜け、戦車が大きく揺れた。そして脱げ抜かれた黄金の槍は凄まじい速度でガトートカチャに飛来。彼は最後の瞬間を目にする事さえ許されなかった。

 

 気付いた時には既に、黄金の槍は己の胸を貫き。

 穿たれた、そう認識した瞬間に槍が弾けた。

 

 神性解放とは即ち、槍を構成する内包された力を外側に向けて放出するという事。黄金の槍は何故一度限りの必殺槍なのか? 使用用途が対人確殺であるからだ。

 

 敵を固定し、必中させ、突き刺さった所に神性を解放、内部の力を外に放出し、突き刺さった人物ごと消滅させる。言葉にすればそれだけ、ソレを大神インドラの神性で行う。

 

 要するに自壊槍なのだ。

 

 凄まじい閃光と衝撃が大地を揺らす、雷光が内側からガトートカチャの肉体を穿ち、青い稲妻が周囲を包んだ。この瞬間だけは夜が消え、再び光が世界を支配する。まるで天に聳え立つ怒りの柱、極光が遥か彼方を照らしインドラの槍は十全に役割を果たす。

 風圧で周囲の戦士が地面に伏せ、転がり、まるで嵐の様だった。

 

 十秒程猛威を奮った聳え立つ雷光の柱は徐々に細くなり、やがて糸の様に細くなって消えた。後に残るのは円型にくり抜かれた地面のみ、ガトートカチャの痕跡は何一つ残っていなかった。

 

「――これが、インドラの槍か」

 

 カルナは消え去った柱を見届け、そう呟く。

 ガトートカチャの立っていた場所には深い溝が出来上がり、まるで隕石でも落ちて来たような有様。それがたった一本の槍によって齎されたとのだと言うのだ。

 天を見上げればポッカリと暗闇に穴が空いている、星々が極光を避ける様にしていた、月すらもその姿を晦ませている。

 

 神性とは星にすら届き得るか、カルナはヴァサヴィ・シャクティを握っていた手に黄金の弓を生み出すと、矢を番えながら振り向いた。

 

「次だ、あぁ、息子は怪物として穿ち殺したぞ、ビーマよ」

「――」

 

 ヴァサヴィ・シャクティの極光をその眼で見たビーマ、彼は比較的近い距離でカルナと息子の観戦を行っていた為、その風圧をモロに受け地面を転がっていた。周囲には吹き飛ばされた戦車や武具が散乱し、ビーマは自分を見下ろすカルナを前に、慌ててそれらを掴んで投げつけた。

 

 ビーマの怪力で投げつけられる木片や欠けた剣、矢は確かに攻撃として成り立つが、カルナはその悉くを打ち落とし、断ち切った。彼を射殺すのは容易だろう、更に怪力無双のビーマ、五王子を仕留めたとなればパーンダヴァの士気は大いに下がる筈だ。

 

 しかし、カルナには誓いがあった。

 母と結んだ不殺の誓いだ。

 それを破る訳にはいかなかった。

 

「愚か者が、武を満足に使えぬ幼稚な男め、戦士として立つ事も出来ぬか、お前は俺の相手に相応しくない、尻尾を巻いて逃げ帰り、森で惨めに暮らすが良い!」

 

 カルナはそう叫んで、番えた矢を放ちビーマの右肩を射抜いた。

 それは神性を十二分に抑えた一撃である、しかし同時に英雄カルナの矢でもあった。矢はビーマに捉えられぬ速度で飛来し衝撃と共に肩を貫通する。ビーマは穿たれた事にもんどりうって呻き、そのまま憎々しい表情でカルナを睨めつけ背を向け逃げ出した。

 

 利き腕を射抜かれては武器を持てぬ、それは逃走するには十分な理由。

 カルナはビーマが高い武を持ち、棍棒の才を磨いていた事を知っていた。故に戦士として逃げる理由を与えてやったのだ。

 

「………これで、後はアルジュナだけか」

 

 逃げ去るビーマの背を見届けながら誰に向ける訳でも無く呟く。

 ユディシュティラ、ビーマ、ナクラ、サハデーヴァ、その悉くをカルナは打ち倒した。少なくとも当面、この戦争が幕を下ろすまでは再起不能だろう。ユディシュティラ、ナクラとサハデーヴァの三人は足を射抜き、ビーマは利き腕を砕いた。

 

 あとはアルジュナを倒せばパーンダヴァの将はクリシュナを除き全滅した事になる、それはカウラヴァの勝利を意味していた。

 もうすぐ、我が王に大地を明け渡す事が出来る。

 そう思って小さく、カルナは薄い笑いを浮かべた。

 

 

「………漸く射合えるか、アルジュナ」

 

 

 

 

 

「――あぁ、私も長い事待ち侘びていたよ、カルナ」

 

 



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この日、この時の為に生き続けた

 

 カラカラと、車輪の音がした。それは意識せずとも自然に耳を打つ、周囲にそれ以外の音は無く、ただ引き寄せられるように振り向いた。

 そこには、蒼穹の弓を手にしたアルジュナが佇んでいる。カルナと同じ戦車に搭乗し、その瞳はカルナを射抜いていた。

 

 いつの間に、とは思わなかった。

 ある意味天命、或は必然。

 

 聳え立つ閃光を目印に駆けたのだろう、二人の邂逅は成るべくして成った。カルナと弦の精神が深く結びつく、アルジュナを討つという執念にも似た想いが二人を更に深く同調させ、やがて仕切りは取り払われてしまった。

 後悔は無かった。

 そうでなければ勝てないと思った。

 ギチリと、弓を握る手が軋む。

 

「もっと早く決着がつけられるとばかり思っていたが、存外、この世も儘ならん」

「私も同じように思うよ、カルナ、神々もそうだが、人というのも中々どうして業が深い」

 

 アルジュナはこれまで見た事もない防具を身に纏っていた、神々から授かった神性の鎧だろう。手に持つ弓からは膨大な力を感じた――弦から逆流入する知識にてカルナは知る、その銘は『パーシュパタアストラ』、またの銘をブラフマシラス。

 

 大神シヴァ・サハスラナーマの持つ最強の武具。

 

 アルジュナは世界を七度滅ぼすと呼ばれるそれを手に、ゆっくりと矢を番えた。腰には絶えず矢を生み出すと呼ばれる神具が巻き付けられている、どうやら準備は万全らしい。

 カルナはアルジュナの動作に応えるようにして、矢を生み出し、番えた。

 

 周囲に戦士の姿はない、既にヴァサヴィ・シャクティの被害を免れる為に退避している。それはカウラヴァもパーンダヴァも同じ、正真正銘此処に居るのはカルナとアルジュナ二人のみ。

 静謐が世界を包み込み、互いの呼吸だけが聞こえた。

 

「カルナ、これが最期になるだろう、何か言い残す事は無いか」

「――我々は戦士だ、アルジュナ、語るとすれば、それは矢を以て語る他ない」

「……それもそうだな、今更面と向かって語るなど」

 

 アルジュナは小さく笑った、カルナは能面を張り付ける。

 此処に来て、カルナはアルジュナを憎む感情が消え去った事に気付いた。感傷だろうか? 否、そんな軽いものではない。それは何か戦士として通じる者を見つけた、同志を見る様な感覚だった。

 

 兄弟だと知ったからか、血が繋がっていると明かされたからだろうか、いや、そうではない。目の前の男が、アルジュナという男が、根本的な部分は己と何ら変わらないと理解したのだ。戦士としての価値観や、同胞を見る瞳の色、矜持を何より尊守し、誰かを守り、信条に沿って生きる。

 その果てに相容れなくとも、その生き方は己と道を違えていなかった。

 或は――もし、母が己を捨てなければ。

 

 

 共に歩んだ道もあったのかもしれない。

 

 

 なんて、そんなあり得ない夢を抱いた。

 

 

「――ブラフマシラス(シヴァの一矢)

「――アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)

 

 

 開戦の合図は無し、互いの必殺の一撃が飛来し宙で衝突、黄金と青い流星が散り夜が一瞬の内に昼へと変貌した。

 

 カルナは一射一射を渾身の力――即ちアストラ・スーリヤとして放ち、アルジュナはシヴァより授かった最強の弓を引き続ける。ただの一射がカルナの渾身に匹敵する、それだけ弓の性能が段違いであった。

 

 七つの黄金(太陽)が放たれれば、七つの流星がこれを堕とす。

 

 正に絶技と絶技、技量だけならば確かにカルナへと軍配が上がる、なれどアルジュナは神々に愛され、寵愛を受け続けた人間。その彼が持つ武具が強制的に立ち位置を押し上げ、カルナに匹敵、乃至凌駕する力を授けていた。

 

 卑怯とは思うまい、それもまた(アルジュナ)の持つ才ゆえに。

 

 カルナは持ち前の高速連射を行い、アルジュナも何とか追い縋ろうと弓を引き続ける。カルナの連射技量は驚嘆に値する、矢を番え、狙い、放つまでに一秒と掛からない。アルジュナも高い技量を誇るが、その域には達していなかった。

 

 なれど今は武器の質が違う、カルナが僅かに力を溜める動作を行わなければならない間、アルジュナは七割程の力で弦を引けば良かった。

 故に、何とかアルジュナはカルナに追い縋る。

 両者の矢は拮抗していた。

 

「アール・スト――ッ!?」 

 

 宙で弾ける互いの矢、その拮抗状態を脱す為にカルナは己の持つ奥義の一つを解放しようとした。しかし奥義の名を告げようとした口が止まる、次いで何かを拒む様に体から力が抜けた。

 何だとカルナが顔を顰めれば、中に潜む弦が叫ぶ。

 

 呪いだ、これは呪いだぞカルナ――これまでにカルナが受けた呪いが、この身を蝕んでいる。

 

 呪いは二つあったが、たった今その片方――カルナに匹敵する敵、英雄が現れた時、授かった奥義を忘却するという呪いが発動した。パラシューマの掛けた呪いだ、カルナがたった今使おうとした奥義がスルリと、自身の内側から抜け落ちた。

 忘却してしまったのだ。

 

「―――本当に、儘ならん」

 

 カルナは奥義を放てず、思わず苦笑を零す。

 不自然に硬直したカルナ、その隙を見逃すアルジュナではない。

 

 アルジュナは即座に三つの矢を放ち、カルナの戦車を撃ち抜いた。内二つはカルナの超絶技巧が撃ち落したが、残りの一射がカルナの戦車、その一頭を射抜いたのだ。

 三頭いる内の一頭の馬が射抜かれカルナは即座にその一頭を切り離す。そして再び駆け出すものの明らかに速度が落ちていた。

 

「高々一頭、まだ終わらん」

 

 カルナはそう呟き再度矢を番えた。

 奥義を使えぬのならば、使わずして勝つのみ。

 飛来する青い流星を打ち落とし、お返しとばかりに黄金の矢を放つ。アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)を連射、己の神性を根こそぎ消費し次々と矢を放った。カルナとアルジュナの矢は大地を穿ち、空を裂き、正に神々の戦いと言っても良い惨状を巻き起こした。

 黄金と流星は覇を争う。

 

「正義の門よ!」

 

 アルジュナが叫ぶ、同時に彼の右腕から無数の槍が津波の如く射出された。

 天界から授かった武具だろう、それをまるで矢の様に降らせる。カルナはその大雑把とも豪胆とも言える攻撃方法に驚き、戦車を動かしながら被弾の軌跡を描く槍のみを打ち落とした。

 

 流石に天界の武具なだけあり、通常の一射では砕く事すら出来ない。

 強い、流石アルジュナだ――唯一無二の我が宿敵。

 

「だが負けんッ!」

 

 アルジュナが武具により天秤を傾けるのならば己の技巧で天秤を戻して見せよう。

 カルナは戦車の縁に足を乗せると、そのまま黄金の弓を限界まで引き絞った。生み出した矢はアストラ・スーリヤをも超える神性を湛え、形を保つ事すら難しい。

 

「彼のヴァサヴィ・シャクティから授かった知恵だ、食らうが良いアルジュナ!」

 

 衝撃と共に放たれる一矢、飛来するソレに対しアルジュナは普通の一射でない事を悟った。故にカルナに向けていた矛先を向け、先程放たれた矢を宙で迎撃する。

 瞬間、飛来した矢は宙で自壊し、凄まじい閃光を放った。

 

「何ッ!?」

 

 狙いをつけ、矢を直視していたアルジュナは思わず叫ぶ。

 矢はアルジュナを狙っていたが、本当の目的は殺傷ではない。アルジュナが迎撃すると踏んで目を向けた瞬間、自壊し閃光を放つように神性を操っていたのだ。

 敵に突き刺さった後に自壊、確殺を行うヴァサヴィ・シャクティを参考にして作った即興の太陽矢。正にスーリヤの名に相応しい一撃だろう、アルジュナは目を潰され数秒程硬直してしまった。

 ことカルナとアルジュナの戦いに於いては、その数秒が黄金に勝る価値を誇った。

 

アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)!」

 

 再び放つ渾身の矢、渦を巻き空間を裂いた太陽の矢はアルジュナ目掛けて突貫する。狙いはアルジュナの心臓、だが寸でカルナの射撃に気付いた彼は戦車を飛び降りた。

 例え目が見えずとも、殺気を感じ取ることは出来る。

 果たしてカルナの一射はアルジュナの戦車を粉々に破壊し、矢は三頭いた内の二頭を閃光に巻き込んだ。地面に転がったアルジュナは未だぼやける視界のまま矢を構える、だがぼやけた視界では碌な矢も放てまい。

 カルナは今こそ好機とばかりに戦車を走らせ、更に矢を番えた。

 

 次の一射で射殺す。

 

 しかし、再びカルナが矢を射る事は無かった。

 

 第二の呪い――戦車操作不能の呪いが発動した。

 

 カルナが矢を射る為に引き絞った瞬間、ガタン! と衝撃が走り、カルナは宙に投げ出された。地面に転がって受け身を取ったカルナは、一体何だと戦車を見て驚く。

 戦車の車輪が二つ、正面からパックリと割れてしまっていたのだ。

 足を奪われた、カルナはその事実に思わず顔を顰めてしまった。

 この場面で呪いに襲われるか、アルジュナを仕留める好機である、よりによって今――!

 

 アルジュナはいつまで経っても飛来しない矢に疑問を抱きながら目を擦って視界を確保する。十二分に明瞭な視界を手に入れたアルジュナは、地面に立つカルナを見て驚いた。

 そして横に転がる戦車を見て顔を顰める。

 

「何のつもりだ、カルナ、何故戦車が壊れている……!?」

「なに、少しばかり呪いを喰らってな、その代償だ――だが、戦車が無いのは同じ事」

 

 カルナは千載一遇のチャンスを逃した事に、内心で呪いを掛けたバラモンを罵りながら再度弓を構えた。互いに足は潰えた、ならば正面切って射合う他なし。

 カルナはアルジュナの正面で膝を着くと、限界まで弦を引き絞った。

 

「足を止めての射合いならば、負けんぞ、俺は」

 

 次の瞬間、カルナは四本の矢を殆ど同時に放つ。

 指に矢を挟み、それぞれ同じ方向に向けて射出したのだ。数ミリの狂いがあれば明後日の方向に消える矢、しかしカルナが放った矢はまるで生き物の様にアルジュナへと飛来する。

 アルジュナは素早く矢を番えて迎撃、内三本を打ち落とすと、残りの一本を地面に転がる事によって躱した。

 

「返礼だ、受け取れカルナ!」

「不要ッ!」

 

 地面を転がって、空かさずブラフマシラス(シヴァの一矢)を放つアルジュナ。

 対するカルナはアストラ・スーリヤ(太陽の星よ)を放ち、黄金と青に包まれた矢は互いに衝突、粒子を撒き散らしながら掻き消えた。

 戦車を失って尚、二人の技に陰りは見えない。

 

「我が父と大神シヴァよ、我に力を――正義(ダルマ)の鉄槌を!」

 

 アルジュナを中心に幾多もの武器が姿を現す、天界より授かった唯一無二の武具が唸りを上げてカルナに襲い掛かった。槍が投擲され、剣が払い、棍棒が振り下ろされる。その数、十、二十、三十――否、百を超える。

 どれ程の武具を与えたというのか、カルナはインドラに悪態を吐いた。全て彼が天界より引っ張り出して来たモノだろう、アルジュナはそれを己が使うのではなく神性を操り間接的に奮ったのだ。

 

 カルナはその一つ一つの軌道を読み、己に当たる物は切払い、そうでないものは体を傾けて躱した。使い手の無い武器など恐るるに足らず、故にカルナは一度大きく後退すると、矢を引き絞り叫んだ。

 

 武具と防具を揃えたアルジュナと射合うならば、時間を掛ける程カルナは不利となる。

 元より向こうは鉄壁の守りを持ち、既に此方は矛も盾も失っているのだ。黄金の鎧はインドラに奪われ、彼の神から授かったヴァサヴィ・シャクティはクリシュナの策略で失った。

 更には呪いにより奥義を忘却し、頼みの綱の戦車も無い。

 対してアルジュナはインドラとシヴァの加護に加え、彼の神から授かったパーシュパタアストラ、天界の武具と防具を豊富に持っている。ならばこそ、時は敵でありアルジュナの味方であった。

 

 

 自らの悪への加担は天命である、なれどこれは他ならぬアルジュナと――己との戦いだ。

 

 

「是を以て彼の英雄、アルジュナを射殺す矢とする、我が父よ、我が神よ、我が大地よ――天命を覆す極光の矢、刮目せよ、此処を死地と定めたり!」

 

 カルナは己の内にある神性全てを振り絞り、これまでの中で最大の攻撃を仕掛けた。

 

 番える矢は四本、己の渾身を超える一射――『アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)』の一斉射撃。

 

 構えたカルナの周囲に太陽と見間違う程の光が集まり、震える腕で矢を放った瞬間カルナの足元が陥没した。衝撃は風となって周囲を襲う、それはカルナの全神性を込めた射撃であった。

 閃光と爆音――回転と共に放たれた四本の矢は一点を穿つ光の様に、アルジュナの元へと飛来した。ヴァサヴィ・シャクティにも劣らぬ勢い、宛ら神の光。さしものアルジュナでさえ、その究極に迫る一射に見惚れた、洗礼され命を削る一撃はこれ程までに美麗なのかと。

 見事、流石、それでこそ我がカルナ(宿敵)、そういった尊敬にも似た感情を胸に抱き、同時にこれが彼の最大の攻撃だと理解する。

 ならばこそ、全力を以て凌がねばならない。

 アルジュナは大きく弦を引き絞りながら叫んだ。

 

「万物遮るは此の盾よ――パソパティス!」

 

 瞬間、アルジュナの前に展開されるのは無数の防具。天界より授かった九つの盾、それを惜しみなく張り出し壁とした。カルナの放った四つの矢、その内の二射が重なりあった九つの盾に衝突する。

 その熱量は膨大で、盾に守られている筈のアルジュナが頬を焼かれた。太陽の如き極光、正に太陽神スーリヤそのものと言っても良い神性。カルナの命を削った矢は九枚の盾を次々に貫通し、アルジュナは顔を顰める。

 

 何と言う熱! 何と言う神性! どれ程の才を持てばこれ程の一射を放てるのか!

 九枚の盾は徐々にその神性を薄くするが、元よりこの盾はインドラより授かった天界の防具。九枚重ねて矢を二本防げぬなど、あり得ない。

 故に、最後の一枚になって漸くカルナの放ったアストラ・スーリヤは勢いを失くし、やがて黄金の粒子となって消え去った。続く形で九枚の盾も粒子となって消え去り、その役割を終える。

 

「お前の全力、私の全力で応えよう……! 大神シヴァの世界を射抜く一射、此処に再現する――パーシュパタアストラ(大神の一矢)!」

 

 迫りくる二射、カルナは最初の二本を盾穿ちとして、そしてもう二本をアルジュナの命を射る矢として放っていた。既に盾は射抜かれた、ならばこそこの二射は己の技量で以て退ける他ない。

 

 アルジュナが放つは大神シヴァ・サハスラナーマの矢を再現した一射、世界を七度滅ぼすと言われる究極の射撃――無論、放つのはシヴァ自身ではない為、大幅に精度と威力は落ちる。なれどアルジュナもまた歴史に名を刻む大英雄の一人、ならばこそ放たれる矢は至高と言って相違ない。

 眩い光がアルジュナの手元から放たれ、ソレは青白い螺旋を描いて直進する。地面が抉られ、大地を裂きながら進む矢は大神の矢を模倣したもの。対するカルナの矢は太陽神スーリヤの神性を惜しみなく注ぎ込んだ矢。

 

 互いの矢が衝突し、夜空に青と黄金の華が咲いた。

 

 青は螺旋を描き、黄金は光を撒き散らす。

 大神と大神、僅かな差はあれど殆ど威力は互角と言って良い。武具の差は命を削る事によって埋め、アルジュナは此れを己の最大の射撃によって迎え撃った。

 

 

 果たして、打ち勝ったのは――カルナの『アストラ・スーリヤ』

 

 

 青の螺旋を正面から貫き、螺旋が黄金に埋没した、黄金の矢が一本、たった一本だけ残った。

 カルナは二本の内の一本を正面からパーシュパタアストラに突貫させ、破られる直前に自壊させたのだ。結果、内包した神性を外側に放出したアストラ・スーリヤは崩れ去り、対するパーシュパタアストラは大きく勢いを殺された。

 其処に最後の一本が飛来し、貫いたのだ。

 青色の粒子が渦を巻き、その中心を黄金の一矢が斬り裂く。

 

 アルジュナは撃ち破られたパーシュパタアストラに驚愕し、呆然と此方に迫る矢を見ていた。既に最大の攻撃を放った後、内にある神性は大きく損なわれ、少なくとも数呼吸の間が必要であった。

 しかし光の如く飛来する矢は一秒と要せず、アルジュナの心臓を穿つだろう。

 アルジュナは刻々と迫る矢を眺めながら、悔しさに顔を顰めた。

 己の着込んだ鎧では、このアストラ・スーリヤを防ぐ事は出来ないだろう、それは即ちアルジュナの死を意味する。

 

 だが後悔は無かった。

 全力で戦い、全力で射合った結果、己は敗北した。

 ならばこそ胸を張って死ぬべきであり、これ以上ない結末とも言えた。命を捨てるは今この時、己の死地は此処にある。

 アルジュナは顰めた表情の裏側で、僅かな、ほんの僅かな笑みを浮かべた。

 

「やはりお前は凄いな、私の負けだ――誇ってくれ、カルナ」

 

 アルジュナは最後にカルナへの称賛を口にした。

 純粋な射合いで敗北した事に、彼は心から満足していたのだ。

 そうして己の天命――受け入れたアルジュナは、その瞳を閉じようとして。

 

 

 

パソパティス(神の盾)!」

 

 

 

 アルジュナの前に躍り出たクリシュナによって、黄金の矢は辛くも退けられた。

 

「な……」

 

 それはアルジュナの声だったのか、或はカルナの声だったのか。漏れた声は驚愕の色を含んでおり、アルジュナの前に立ち塞がるクリシュナを二人は呆然と見ていた。

 黄金の矢は虚空に弾かれ消滅し、クリシュナの構えた盾は僅かに罅割れたものの貫通は許していない。

 神性を大きく失ったカルナはその場に膝を着き、大きく顔を歪めた。

 

「……クリシュナ?」

 

 アルジュナは己の親友の登場に大きく動揺し、そして次いで彼の為した事に怒りを露わにした。その表情は憤怒に歪み、アルジュナは声を荒げる。

 

「クリシュナ、何のつもりだ!? 何故此処に居る!」

「何故? ――愚問だろう、アルジュナ、友である君を救う為さ」

 

 クリシュナは激昂するアルジュナを前に、何の悪れもせず飄々と語って見せた。取り出した盾を消し去り、膝を着いたカルナを見下す。その背後からアルジュナは肩を掴み、クリシュナに詰め寄った。

 

「私は……私は言った筈だ! この戦いだけは、カルナとの決戦だけは邪魔をするなと、そう何度も願った筈だッ!」

「あぁ、勿論理解しているとも、だけれどソレ(その願い)で君が敗北するのなら、幾らでもそんな約束は破る、アルジュナ、君はね、勝たなくちゃならないんだ」

「ふざけるな!」

 

 アルジュナは弓を持たぬ手でクリシュナを殴り付けた。

 肉を打つ生々しい音にクリシュナは数歩よろめくが、彼は薄ら笑いを浮かべたままアルジュナを見ている。彼にとっては戦士の決着など道端の小石程の価値しかないのだろう、大切なのは勝つか負けるか――そんな彼の価値観が瞳から透けて見えるようだった。

 

「何十年も願った悲願だったのだ、カルナとの決着は! 先の一矢で私は死ぬべきだった! それが正しい結末であり、私達の終わりだったのだ! それを……それをお前はッ!」

 

 クリシュナの胸元を掴み、捩じり上げたアルジュナは殺意すら滲ませた声色で叫ぶ。それは友と家族を大切にするアルジュナにとってあり得ないとも言える暴挙、しかし今のアルジュナはこれが正しい事であると確信していた。

 しかしクリシュナはそんなアルジュナを前に、顔色一つ変えず淡々と語って見せた。

 

「君の戦士としての矜持は理解しよう、しかしアルジュナ、君は君自身の義務と正義(ダルマ)を果たすべきだ、多くの友、家族、知人の死に苦しむのも分かる、だがカルナと彼らは悪に加担する存在だ、死後彼らは純粋で平和な世界に導かれるだろう、躊躇ってはならない、そして正義(ダルマ)の為にこのような手段を用いる事はアルジュナ、君が偉大なる平和と邪悪、正義と不誠実、堕落を神に捧げる為に必要な事、この勝利は君の使命を果たす為に必要不可欠なのだ――君は宿敵との心地よい決着の為に、パーンダヴァの戦士と兄弟を危険に晒すつもりか」

「ッ………」

 

 クリシュナの言葉にアルジュナは歯噛みした、確かに、と心の中で思ってしまったのだ。けれどソレを認めてしまえばアルジュナの中にある戦士の心、矜持(プライド)信条(クリード)を投げ捨てる行為であった。

 王としての判断ならば分かる、だがアルジュナは武人として今まで生きて来た人間だった。仲間の為に矜持を、信条を、今すぐ投げ捨てろと言われてもアルジュナは簡単に頷く事が出来ない。それをしてしまえば最後、アルジュナはこれから純粋な武人として生きていけなくなってしまう。

 

 それは己の恥だけではない、これ程美麗で偉大な射手である宿敵、カルナをも貶める行為だと思った。

 アルジュナはカルナを素晴らしい射手だと認めている、憎しみの感情も確かにあるが、それ以上に尊敬の念を抱きはじめていたのだ。

 

 カルナは今、大きく神性を損なって戦闘不能に陥っている。その額には大きく汗を掻き、最早一本の矢を射る力さえ残っていないのだろう、弓に土をつけてクリシュナを睨めつけていた。

 正しく先の攻撃はカルナにとって最大の攻撃であり、最後の攻撃。

 黄金の鎧があればまた違ったのだろう、しかしヴァサヴィ・シャクティと引き換えに万能の鎧を失ったカルナは、既にこれ以上戦える状態にない。最早怨敵を睨めつけ、崩れ落ちる体を支える他無かった。

 

 クリシュナはアルジュナの腕を掴むと、強引に引っ張ってその指先をカルナに向けさせる。

 

「さぁ、アルジュナ、彼を射殺すんだ――カウラヴァの大英雄を打ち倒せば、彼らの戦力ではパーンダヴァに敵わない、彼は唯一無二の将であり、カウラヴァの柱なんだ」

「だが……そんな、そんな事は!」

「アルジュナ」

 

 クリシュナの手を振り払おうとしたアルジュナを、しかしクリシュナは己の全力を以て押し留めた。

 

「君の正義を果たせ、義務を果たせ! 戦士の矜持では無く、友と仲間を率いる王としての判断を下せ、そうでなければ我々は此処で死に絶えるだろう!」

 

 此処でカルナを討たなければ、彼はその絶大な武を以てパーンダヴァを滅ぼすだろう。ドゥルヨーダナに宣言した様に、この大地を彼のクル王に捧げる為に、カルナはその弓を引き絞る筈だ。

 悪が勝利した世はどうなるのか、君はそんな世を、武人としての矜持を理由に見過ごすのか。

 

 アルジュナは正義の英雄であった、そして義務を尊ぶ男であった。クリシュナの激言に顔を歪ませて、俯いてしまった。彼の中では武人としての矜持と信条、そして仲間を想う気持ちが鬩ぎ合っている。こんな乱入を許す形で、本来ならばこの命を絶たれるという結末で終える筈の決闘が――第三者の妨害であっさり、こんな容易にも立場が逆転してしまうとは。

 

 アルジュナが死に、カルナが勝者となる。

 カルナが死に、アルジュナが勝者となる。

 

 死者と勝者が入れ替わる、それはアルジュナの矜持を大きく傷つけた。

 

 苦悩に次ぐ苦悩、これで本当に良いのかと言う疑問。

 苦り切った表情でぎゅっと目を瞑って何かを堪える、それは熱い鉄を飲み下した様な表情で、アルジュナは力なく弓を垂れた。

 

 神か人か、武人か王か、友か宿敵か、正道か邪道か、誠実か卑怯か――既にそれを悩む段階になく、アルジュナは邪道を成してしまった。

 勝てば全てが許されるのか? 正義を盾に卑劣な手段を行うのは武人としては最悪の部類だろうに、なれど友の為には邪道に堕ちねばならない。それは単にカルナの武が、アルジュナを凌駕している故に。

 アルジュナは垂れた腕に力を籠め、しかし悲痛に歪んだ顔を隠そうともせず、呟いた。

 

 

「……許してくれとは言わない――すまない、カルナ……私の宿敵」

 

 

 カルナはそんな呟きを最後に聞いた気がした。

 

 ストン、と。

 軽い音が体に響く。

 

 カルナが霞む視界で見たのは、己の首を射抜いた一本の矢。

 それはアルジュナが放った矢であり、神性が込められた矢は容易くカルナの肉体を貫いた。黄金の鎧を持たないカルナはソレを防ぐ手立てを持たず、また治癒する事すら出来ない。

 パーシュパタアストラ(蒼穹の弓)によって放たれた矢。

 カルナはせり上がった血を吐き出した。

 

「ヵ……ァ、ル、ジュ……」

「……恨み言も罵倒も、あの世で甘んじて受けよう、カルナ、故に一足先に待っていてくれ、直に私も其処に堕ちるだろう」

 

 カルナはアルジュナに向かって手を伸ばし、しかし既に気道を射抜かれたカルナは何かを発する事が出来なかった。伸ばした手はアルジュナに届く筈もなく、ゆっくりと仰向けに倒れるカルナ。

 アルジュナは悲痛に歪んだ表情のまま、倒れ逝く宿敵を眺め。

 カルナは己の死を悟り――天命には抗えなかったのかと、失意の中に沈んだ。

 彼の中にあったのは、アルジュナに対する悲しみと、クリシュナに対する憎しみ、そしてドゥルヨーダナに対する後悔であった。

 

 あぁ、クリシュナ、お前は唯一願ったアルジュナとの決闘さえ汚すのか。

 アルジュナ、お前との決着、こんな形で終わるとは、無念という他ない。

 ドゥルヨーダナ、すまない、せめて最期に一言、君に――。

 

 カルナの精神は敗北を認め、ゆっくりとその生涯を終えた。例え邪道、卑怯の類によって敗北しようと、死と言う結果は結果。既にカルナは敗れ、その生を終えようとしていた。それが武人の矜持であったからだ。

 

 

 

 

 あくまで【カルナの精神】は――だが。

 

 

 

 

「あぁ――ァあぁアァあぁアアッ!」

 

 雄叫びが上がった、首を射抜かれたカルナ自身から。それは獣の咆哮に似ていて、凡そカルナが発したとは思えない程のもの。理性など欠片も感じさせないソレにクリシュナとアルジュナは身を竦ませる。

 

 カルナの精神が死んだ時、その肉体はどうなるのか。

 本来であれば肉体に宿る人格は一つのみ、唯一の精神が枯れれば肉体もまた死を迎える。だが今この時、この瞬間だけは異なる。

 このカルナの人格が消えればどうなるのか?

 

 

 即ち――(もう一人のカルナ)が主導権を得る。

 

 

「グリジュナァアアアアァアッ!」

 

 血の泡を噴きながらカルナは激昂する、それは先程の穏やかな表情からは想像する事も出来ず、正に豹変と言って良かった。カルナ――否、弦は思うがままに叫ぶ、叫び、同時になけなしの神性を右手に宿した。

 黄金の弓は既に消失している、カルナの肉体とは言え現在操っているのは弦。

 

 故に、彼はこの時代に成し得ない一つの奇跡を体現する。

 

メラーガルム・シャクティ(私の熱き力よ)

 

 叫び、黄金の粒子によって構成されたソレを見たクリシュナは驚愕した。

 

「馬鹿なッ――!?」

 

 カルナの手に掴まれたのはビーマの息子、ガトートカチャを屠ったインドラの槍――銘を『ヴァサヴィ・シャクティ』

 使えば必中、当たれば確殺、その凶悪極まる槍をカルナは己の手で作り出して見せた。記憶の逆流入、カルナの記憶が弦の肉体に影響を及ぼす様に、弦の記憶がカルナの肉体に影響を及ぼすのも又必然。

 本来ならばあり得ないヴァサヴィ・シャクティの模倣、弦はソレをクリシュナとアルジュナの前で成し遂げて見せた。そこから感じられる神性は弱弱しい、アストラ・スーリヤと同程度の神性しか込められていない。

 高々一矢と同じ密度、しかし侮る事無かれ。

 

 

 この槍は、彼のインドラの槍を模倣しているのだから。

 

 

「殺すッ、殺ジてやるッ、お前ェだけはァ、絶対にィッ!」

 

 カルナの決闘を汚しやがった。

 何度その矜持に土を掛ければ気が済むのだ。

 策略に次ぐ策略、唯一望んだアルジュナとの決戦でさえ、お前は――!

 

 弦はこれ以上ない程に激怒した、その怒りは最早カルナの精神が役割を果たさなくなっても、十全に肉体を動かせるほどの激情。弦はメラーガルム・シャクティを掴んだまま上体を逸らし、もう片方の手で喉に突き刺さった矢を引き抜いた。

 ブシュッ、と鮮血が飛び散り、喉に血が詰まる。

 だが、それをものともせず弦は吠えた。

 

「穿て、殺せ、ぶち抜け、何が何でもッ、アイツを殺せぇェッ! ――【メラーガルム・シャクティ】!」

 

 そうして放たれたのは執念の一撃――或は憎悪と言い換えても良い。

 黄金の槍は弦の手を離れ、空気の壁を撃ち抜き、ボンッ! という衝撃音と共にクリシュナ目掛けて放たれた。奇妙な唸りを上げて迫る黄金の槍に、クリシュナは顔を青くする。だが腐っても英雄、ヴィシュヌの化身、咄嗟に腕を突き出して叫んだ。

 

パソパティス(神の盾)!」

 

 それは先のアストラ・スーリヤを防いだ天界の盾。

 神性を纏う盾が黄金の槍を防ぎ、その表面に切っ先が衝突する。火花と黄金の粒子を散らして回転する槍に盾はピシピシと罅を大きくした。元より矢が入れていた罅、それがどんどん大きくなる。

 

「馬鹿なッ、死に体で、何故これ程のッ――!」

 

 クリシュナの言葉は最後まで続かない。

 弦の放った黄金槍はパソパティスを穿ち、その奥に居てクリシュナに直撃する。だが盾によって僅かに軌道の逸れた槍は、クリシュナの頭部ではなく右腕を捉えた。

 鋭い切っ先は容易くクリシュナの腕を斬り裂き、自壊を恐れたクリシュナは自ら右腕を千切り捨てる。一拍遅れて黄金槍は神性を外部に放出し、アルジュナとクリシュナの至近距離で閃光が巻き起こった。

 

「ッぐあッ!」

「っ、クリシュナ!?」

 

 アルジュナは咄嗟に残ったパソパティスの一枚で閃光を防ぐが、クリシュナはモロに閃光を受けて地面を転がる。その表情は血に塗れ、青く血の気が引いていた。

 殺せる――もう一発で、殺せる。

 

「これでぇ……!」

 

 弦は首から流れ出る血も厭わずに第二の黄金槍を生み出す。

 最早模倣も出来ない、ただ空洞だけがある黄金槍、所々パーツが足りずに透けて見える、外面だけを取り繕った粗悪品だ。

 だが他ならぬスーリヤの神性で構成されたソレは神をも殺し得る矛を持つ。これで十分だ、手負いのクリシュナを仕留めるには。

 

「死ね、惨たらしく死ね、後悔して死ね、己の抱えた業を知り、炎に焼かれて死に絶えろッ!」

 

 生み出した黄金槍を構え、再び弦は投擲態勢に入る。黄金槍を確りと掴み指先で一回転、その矛先をクリシュナに向け限界まで背を逸らした。ギチリと背筋が悲鳴を上げ、腕に青筋が浮かび上がる。

 例え槍が粗悪品だろうが問題無し、ソレを投擲するのはカウラヴァの大英雄カルナ、であるならばクリシュナが再び神の盾を持ち出そうが問題無い、防ぐ盾諸共沈めてやる。

 

 地面に転がったクリシュナは再度槍を構えたカルナを見て恐怖に顔を歪ませる。

 弦は万感の思いを込めて叫んだ。

 

 

 

「メラーガルム・シャク――!」

 

 

 

 

 

 《同調値危険域突破、没入者の人格重複確認――強制引き揚げ(サルベージ)を実行します》

 

 

 

 

 





 遅くなってすみません。
 その分文字数を上乗せしたので許して下さい。
 いやぁ、ようやくここまで書けました。
 次回か、もしくは次々回位で完結です。


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終局、破滅への帰還

 

 

 その場所を一言で言い表すのなら――地獄、であった。

 

 

「同調値上昇、止まりません! 英雄人格と没入者人格の同調値、九十%突破、人格重複最終段階に移行……無理です、乖離処理間に合いません!」

「バイタルに大幅な乱れが見えます、これ以上は没入者の体が……!」

「記憶内での没入者感情グラフが振れ幅上下値を五オーバー、ミーシャ管理官、これ以上は……!」

「没入中止、緊急停止プログラム作動、強制引き揚げ(サルベージ)を実行して下さい!」

 

 ミーシャを中心に乱雑に並べられた機器を叩く医療班の面々、寝かせられた弦には無数の管とパッチが張り付けられ現在進行形で増えている。急激な同調による肉体の変質を最小限に留め、尚且つ彼の人格を無傷に近い形で引き揚げようとしているのだ。しかし事態は思う様に進んでおらず、彼らの表情には余裕が無い。

 

「人格同調遮断、強制引き揚げ開始――直ぐに覚醒します!」

「っ、ウド、ツェン!」

「はい!」

 

 弦の人格を強制的に戻したミーシャは、二人の男性医療員に声を掛ける。彼らは足元に置いていたドクターバッグと機器を手にすると、弦の寝ているシートに駆け出した。弦が不調を訴えた場合、直ぐに対応出来る様にする為だ。

 そうしてミーシャを含む班全員が緊張を孕み見守る中、弦の意識はゆっくりと浮上した。

 

「弦様、体の方は――」

 

 ミーシャに変わりウドと呼ばれた班員が弦に声を掛ける、そしてその肩に手を触れた瞬間、ウドの顔面が弾け飛んだ。鼻が陥没し、パキン!と首から音が鳴る、大きく後方に仰け反るウド、突然吹き飛んできた彼に対応できず背後に居たツェンもまた巻き込まれて地面に転がる。

 ガシャン! と機器を横倒しにした瞬間、周囲の空気が凍った。

 シートから身を起こした弦、その姿を見た全員が固唾を飲む。一目で理解出来た、たった今、目を覚ました弦が正気ではないと。

 

「ッ、ァ、あ、クリシュナぁァアアッ! クソ、クソッ、クソォッ! アイツ、あいつだけはァ、殺す、殺してやるッ……!」

 

 顔面を片手で覆い、唾液を飛ばしながら血走った目で叫ぶ。

 それは最早狂人の挙動であり、部屋の班員は全員顔を蒼白にしながら数歩後退った。それはその奇行に気後れしたという点もあるが、何より弦は全身に黄金の粒子を纏っていたのだ。

 可視化されたソレは班員全員の視線に止まり、弦が覚醒を果たした事を証明している。つまり今の彼は唯の狂人ではなく、英雄の才を十全に引き継いだ狂人だった。彼に殴り飛ばされたウドはぐったりしており、首が明後日の方向に折れ曲がっていた。

 英雄の才を纏った怪力で殴り飛ばされたのだ、常人には耐えられないだろう。

 この部屋に居ては拙い、全員の意見は一致していた。しかし安易に飛び出せば弦の標的になりかねない、まるで猛獣の扱いだ。

 弦は荒い息を繰り返しながら周囲を見渡し右手を突き出して叫んだ。

 

「メラーガルム・シャクティッ!」

 

 狂っているだけならば良かった、しかし幾度の没入を繰り返した弦の精神は闘争本能だけは決して鈍らせない。どれだけ狂乱の状態であろうと、こと神性の扱いだけならば理性が働く。

 弦は叫ぶと同時に黄金槍を構成し、確りと掴むとその場で一回転。脇に挟み刺突の構えを見せた。

 

「ッ、ぅ、わ、ああぁッ!」

 

 正面に居た班員がウドの死に錯乱し、背中を見せて逃走しようとする。しかし反転した瞬間に弦が踏み込む、それはカルナの動きを参考にした足捌き。凡そ数歩分の間合いを一息に潰し、右腕が弾丸の如く放たれた。

 ズドン! と槍にしては余りにも重々しい衝撃音、槍の矛は逃げ出した男の背中を貫き、そのまま心臓を穿っていた。即死である、男は穿たれた痛みに白目を剥き、自身の胸から生え出た槍を掴んで絶命。

 弦は貫き殺した男の背を蹴り飛ばし槍から抜く。ズルリと赤色と共に骸が地面を転がり、弦は再び槍を指先で回転させた。

 

「殺す、全員殺す、殺してやるッ――パーンダヴァは全員殺すッ!」

 

 血走った目と唾液に塗れた口元。

 弦の瞳は目の前の彼らを見ていない、否、正確に言うのであれば彼は未だ没入の最中――つまりこの場所を現実だと理解していない。目の前に見えるのは敵、カウラヴァの戦士が身に着けている鎧も剣も印も無い、ならば敵だ、殺すべきだ、殺さなくてはならない。

 そういう一種の強迫観念、或は憎しみの感情に身を委ねていた。

 

「管理官、これは……!」

「全員、NBGを用意して」

 

 ミーシャの隣で冷汗を流す女性班員。ミーシャ自身も現状が非常に拙いと理解している、故に彼女は弦の安全性確保を一端放棄しNBG――非殺傷銃の使用を許可した。

 ミーシャの言葉に残った班員、凡そ九名が腰裏に装着した小型の銃を引き抜く。非常事態に備えノアの職員は全員NBGの装備が義務付けられていた。

 しかし、その動作だけで弦は相手に何らかの攻撃手段があると察知、素早く踏み込むと同時に槍を振るった。

 

 犠牲者は弦の一番近くに立っていた女性班員、銃に手を伸ばしながら片時も弦から目を離さなかった彼女はしかし、神速の踏み込みに反応する事が出来ず容易く槍の攻撃範囲に呑まれる。

 瞬きに用いる時間、凡そ一秒未満、それだけで首に矛先が埋まった。

 

「ぁ――」

 

 次いで矛が首を貫通し、女性の首が鮮血と共に宙を舞う。

 それがスローモーションに見えた他の班員は回転しながら更に手を緩め、黄金槍を長く持った弦の行動に身を竦ませる。そして次の瞬間、放たれた薙ぎ払い。それは非常に広い攻撃範囲を誇り周囲の班員は矛に首を浅く斬り裂かれた。

 範囲内に居たのは三人、そのどれもが骨に届かない絶妙な位置まで矛の侵入を許す。ドポリ、と血が噴き出し三人は首を抑えて喘ぐように膝を着いた。

 

「穿ち殺す」

 

 薙いだ状態から槍を宙で回転、そのまま投擲態勢に。

 拙いと思ったミーシャは掴んだ銃を引き抜き速射、圧縮された空気が破裂し火薬銃と同程度の速度で小型カプセルが射出される。中には対象を昏倒させるナノマシンが込められており、体のどの部位に当たっても等しく効果が得られる優れもの。

 しかし弦は射出されたソレを目で捉える訳でも無く、ごく自然な動作で体を傾け躱して見せた。カルナの才が直感を発したのだ、これは射線を見れば躱せると。

 

「嘘……ッ」

 

 銃を引き抜いてから一拍を置かない、ガンマン顔負けの射撃をいとも簡単に。その動揺がミーシャの表情を歪ませ、弦の黄金槍は誰に邪魔される事もなく放たれた。

 ボッ! と空気の壁が穿たれ、そのまま指先から滑る様に槍が投擲される。ソレは直線に凄まじい速度で飛翔し、ミーシャの隣に立っていた女性班員の一人を捉えた。

 瞬きする間もない、顔面に直撃した槍は肉を削ぎ抉り、そのまま頭蓋を貫通して体の上半身を消滅させる。まるで戦車に轢かれたような惨状、ビシャリと脳髄とも血とも言えない赤がミーシャに降り掛かり、白い没入ルームは赤色の華を咲かせた。

 頭部から胸部にかけて丸々失った骸は膝を折り、そのまま崩れる様に倒れる。

 

 残りは四人、生き残った班員は慌ててミーシャの元に集まり弦に銃口を向けた。

 

「こんなに覚醒が早い何て――スーリヤの神性にヴァサヴィ・シャクティまで具現化を……? いえ、アレは違う、ヴァサヴィ・シャクティじゃない、もっと別な……」

「ミーシャ管理官! そんな事は後にして下さい!」

 

 ミーシャは弦の持つ黄金の槍――今しがた投擲した槍を復元し、再度構えた――を見て呟く、ソレは彼女の覗き見たカルナの記憶、ヴァサヴィ・シャクティと同じ形状だ。しかし発せられる神性はインドラとは異なり、その特性もまた自壊槍と言うよりは自爆槍に近かった。

 インドラの槍を模倣した、結果は同じとはいえ、過程の異なる武具、それはミーシャの知らない情報。彼女は研究者として未知に貪欲であった、それが今の状況に相応しいかどうかは別として。

 

「ッ、来ます!」

「――一斉射撃!」

 

 弦が大きく上体を沈ませた瞬間、ミーシャが叫ぶ。

 彼女は研究者であるが同時に多くの部下を持つ管理官でもある、判断は早かった。

 その足が地面を蹴るより早く、ミーシャの言葉に従った四つの銃口からカプセルが撃ち出された。パァン! と空気が爆ぜる音、同時に弾丸を模したカプセルが飛来し弦を襲う。

 高速で飛翔する弓より速い弾丸、カルナ本人ならば兎も角、その肉体は弦と言う英雄の劣化版に過ぎない。

 一つ、二つ、三つのカプセルを躱し、同時に黄金の槍でカプセルの軌道を逸らす。しかし四つ目のカプセルが弦の肩に着弾し、上半身が大きく傾いた。

 

「やったッ!」

 

 班員の一人が叫ぶ、カプセルは何処に当たろうが等しく効果を持つ、更に中のナノマシンは即効性だ。これでもう彼は数秒後には動けなくなる。

 喜びの表情で銃を掲げた班員は――しかし、次の瞬間に投擲された黄金槍に胸を射抜かれた。

 ボシュッ! と血飛沫が上がり、班員は喜びの表情を浮かべたまま絶命する。

 

 他の班員が愕然とした表情で弦を見る、彼は着弾した肩を叩きながら黄金の粒子を散らせた。それはカルナという英雄の代名詞、ミーシャもまさかという思いで呟く。

 

「黄金の鎧……」

 

 弦が肩に集中させたソレは、確かにカルナが持つ黄金の鎧であった。

 あらゆる攻撃を防ぎ、着用者を守る無敵の神性、局所的とは言え弦は現世でそれを発現してみせた。この時点でミーシャは、あらゆる攻撃手段が彼に通じない事を悟る。

 もし仮に彼が没入先のカルナと同じ鎧を発現しているのならば、ソレを破る手段をミーシャ達ノアは持ち得ていない。彼のインドラですらカルナの黄金の鎧を卑劣な手で剥ぐ他なかった、つまり大神ですら黄金の鎧は手に余ったのだ。

 それを拳銃如きでどうにか出来るなどと。

 

「管理官!」

 

 ミーシャは班員の叫びで自意識を取り戻した。

 そして視線を真っ直ぐ向ければ、弦が黄金の弓を生み出し既に構えている。その弓矢をミーシャは良く知っている、不偏にして絶対、英雄カルナの放つ太陽の一射。

 

「――アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)

 

 止める事など出来なかった、そして回避する事も。

 気付いた時には既に矢は飛来し、四人全員を射抜いている。班員は全て頭蓋を射抜かれ、一瞬の内に命を落とした、恐らく自分がいつ死んだのかすら分からなかっただろう。

 唯一ミーシャだけは矢を頭部に受ける事を避け、代わりに右肩に矢が突き刺さる。それでも威力共々凄まじい衝撃で、大きく吹き飛んだミーシャは没入ルームの壁に叩きつけられた。肺の空気が全て抜け落ち、大きく口を開けて喘ぐ。残った神性がミーシャの体を蝕み、意識が一気に白濁した。

 

「ま……って」

 

 ミーシャ意識を失う直前に弦に向かって手を伸ばす、その手に僅かな粒子が集うものの――それが形を成す前に、ミーシャの意識は闇に呑まれた。

 

 全てのパーンダヴァの兵士を無力化したと思った弦は、再びヨタヨタと歩きながら呻く。没入ルームの扉を抜け、そのまま廊下に出た弦は血走った目で周囲を見渡した。

 

「クリシュナ、くそ、あぁ、何処行きやがった……アルジュナ、ッ、俺達は、まだァ……」 

 

 黄金の弓を消し去って、廊下を覚束ない足取りで進む。

 胸の内には憎悪と憎しみ、あらゆる不快感を詰め合わせた様な感情がぐるぐると渦巻いている。自我は確かに弦だった、しかしカルナの精神も持ち合わせており、何より弦の意識は此処を古代の戦場だと思っている。景観など関係ない、ただ味方は救い、敵は殺す、単純な故に強い暗示、弦の思考は酷く限定されていた。

 

 

 そんな弦の肩を、誰かが強く掴んだ。

 

 

 背後から肩を掴まれた弦は、黄金の粒子を右手に纏いながら振り向く。

 誰だか知らないが、きっと敵だ、そうに決まっている、此処には敵が多い。

 振り向き様に顔面を殴り飛ばそうとした弦は――しかし直前で拳を止め、粒子を霧散させた。

 

「弦さん!」

 

 短く切られた金髪に青い瞳、整った顔立ちは大人びていて、自分を見る目は酷く慈愛に見ている。同時になにか焦燥した表情を浮かべており、弦はその容姿に一瞬知らない人間だと判断を下したが、それよりも先に声が耳に届いた。

 

 ――弦さん。

 

 聞き覚えのある声と呼び名、それは弦がこの場所で唯一友と呼ぶ人間のもの。

 霧散した粒子は虚空に溶け込み、弦は目を見開いたまま振り上げた拳を力なく下げた。

 

「………ウィリス、か?」

 

 混濁した思考に一筋の光が差し込む、それは狂乱に満ちた弦の胸の内を一瞬とは言え鎮め、思考に空白を生む。

 ウィリス、それは弦がノアで出会った被験者。

 つまり同じ境遇の仲間だ。

 しかし、此処は現世ではない筈――何故彼女が?

 

 その矛盾が狂乱を破るキーと成る、弦は頭を抱えて呻いた。ウィリスが此処に居る、それはつまり此処は戦場ではない、現世だ。己は弦であり、没入から帰還したのだ。その事実を受け入れるのに弦は多大な痛みを伴った。

 胸の内の憎悪は未だ轟々と燃え盛るが、なけなしの理性が『堪えろ』と檄を飛ばす。

 そんな弦の手を掴み、ウィリスは声を荒げた。

 

「弦さん、時間がありません、早く!」

「ッ、ウィリス、あぁ、何で君が此処に……」

「それは後です、既に脱出は始まっています!」

 

 脱出……脱出?

 鈍った思考は数秒ほど単語から状況を引き出すのに時間が掛かった、しかし弦の脳裏にウィリスと話し合った脱出計画の事がリフレインする。そうだ、俺達はノアから逃げ出す為の算段を立てていた。

 だと言うのに俺は管理官の前で能力――あぁ、いや、アイツ等は殺したんだった。

 けれど、アイツ等はパーンダヴァの――違う、此処は現世で、パーンダヴァはカルナの……。

 

 弦の思考が混濁する、既にカルナと弦の精神は深い部分で結びついてしまっていた。仕切りは取り払われ、カルナと弦の境界線は既に呑み込まれている。しかし時間が無いのも事実。

 ウィリスは呻いて頭を抑える弦の手を引いて駆け出した、説明する時間が勿体ないとばかりに。

 白い廊下は既に赤く染まっていて、廊下の端に何人かの職員が血塗れになって転がっている。ウィリスがやったのだろうか、やはり彼女も英雄だったのだ、弦は痛みを堪えながらそんな事を思った。

 

「幸い没入ルームから搬入口は遠くありません、他の被験者も目に付く部屋は全てブチ破りました! 今ノアは混乱状態です、このまま脱出を――!」

「あ、あぁ……」

 

 見ればウィリスは背中に大きなリュックサックを背負っている、恐らく前に言っていた脱出する為に必要な物資だろう。弦も部屋に用意はしてあったが、この分では持ち出せそうにない。

 弦は手を引いてよろよろと走っていた足を叱咤し、何とか精神を持ち直す。

 弦一人だけでは立て直せなかった、カルナの精神が裏から弦の自立を支えたのだ。

 

 廊下を駆ける二人の前に四人の職員が慌てて飛び出してくる、その表情は焦燥に満ちていて、弦とウィリスを見つけるや否や「止まりなさい!」と叫んだ。

 ウィリスは小さく舌打ちを零しながら、弦に問いかける。

 

「弦さん、戦えますか!?」

「――大丈夫だ」

 

 戦闘になると弦は冷静になる、狂乱に犯されようと何だろうと、英雄の精神が手元を狂わせる事を良しとしない。カルナと混じり合った今は顕著だった、躊躇いも無く腕に黄金の粒子を纏わせる。

 ウィリスも右手を突き出すと、「では半分お願いします!」と叫び、二人は殆ど同時に技を放った。

 

 

 

 

 

「――アストラ・スーリヤ(太陽の星よ)!」

 

「――パーシュパタアストラ(大神の一矢)!」

 

 

 

 

 取り出したのは互いに弓、放たれたのは黄金(太陽)と青の流星。

 それは凄まじい速度で飛翔し職員四人を容易く射抜き、その上半身を消し飛ばした。下半身だけとなった職員はそのまま崩れ落ち、簡単に走り抜けられる。

 しかし、二人はそうしなかった。

 出来なかった。

 

 

 血だまりの中――二人の足が止まる。

 

 

 それはそうだろう、そうでなければおかしい。

 弦の内心を言い表すのであれば、「あり得ない」、或は「嘘だろう」という真実を否定したい気持ち。それはウィリスも同じであり、弦とウィリスは互いに驚愕の表情を張り付けたまま見つめ合っていた。

 弦の黄金の弓がギチリと鳴り、ウィリスの蒼穹の弓が震えた。

 それは、あり得ない技だったから。

 余りにも覚えがある技だったから。

 

 だってそれは、その技は――

 

 

 

 

「………………カルナ()?」

 

 

 

 それはアルジュナ(ウィリス)の技だったから。

 

 

 

 

 





 これにて完結、出したい台詞が出せませんでしたが書きたいところは書けました。
 満足です。
 
 結局ヤンデレをブッ込む事が出来ませんでした、本当なら研究所脱走後にアルジュナとカルナの確執にかこつけてイチャコラチャッチャさせようかと画策していたのですが予想以上に長くなりそうなので諦めました。
 カルナでありながら弦でもある、そんな場所にフォーカスを当てて書きたかったです(小並感)
 
 ウィリス=アルジュナは気付いていた方が感想欄で予言していたので戦々恐々としていました、個人的には「兄弟が沢山」の部分でドゥルヨーダナと勘違いしてくれたら良いのになーと思っていたのですが……まだまだ力量が足りぬ。

 第二部はあるかも分かりませんが、構想自体はあるのでメモ帳に書いて保存しておきます。未来の私が書いてくれるかもしれません。
 
 それではまた次の作品でお会いしましょう。 


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