青空の花嫁 (スカイリィ)
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プロローグ


※注意:この作品は第一作「色彩の花嫁」の続編にあたる作品です。
必ずそちらをご覧になってからお読みください。




 その白いふわふわした生き物を見た時、私はそれが犬なのか猫なのかわからなかった。

 真っ白で、美しい毛並みの小動物。長めの耳はピンと上に伸びていてウサギを連想させる。尻尾はリスのようにふわふわで柔らかそうだ。脚の付き方を見る限りネコ系統の動物に見える。子猫並みに小さいけれど、幼体のような頼りなさはあまりない。

 なんの生き物かわからない。でも、可愛いなとは思った。

 その生き物は買い物帰りの私の前で脚を止めて「フォウ、フォーウ」と鳴いた。聞いたことのない鳴き声で余計にその種族が分からなくなる。猫ではないようだ。鳴き声からするとむしろ犬に近い。

 私は白いもふもふ生物を黙って見つめる。
 目標との距離七十センチ。相対速度ゼロ。射程圏内。視界良好。天候は晴れ。時刻は午後四時。太陽光は目標側。

 こちらを警戒する様子はない。むしろ興味を示している。周囲に人はいない。もふもふするなら今だ。気づけば私は脳内でそんな思考をしていた。

 驚かせないよう静かに買い物袋を地面に置いて、しゃがみ込む。白い獣はこちらの目を見ている。よく見れば首元にはスカーフのような布とリボン。誰かに飼われているのだ。なるほどこの人懐っこさはそれか、と納得する。

 まずは、と私は手を広げて、おいでおいでをしてやった。すると驚いたことに白い生き物はトコトコとこちらに向かってくるではないか。やがて私の手に触れるか触れないかのところで脚を止める。

 白い生き物は私の手の匂いをクンクンと嗅いでから、指をぺろぺろと舐め始めた。そこで私ははやる気持ちを抑えてもう片方の手で白い毛並みに手を伸ばす。

「わぁ……!」

 想像をはるかに超える柔らかい毛並みに、私は感嘆の声を漏らす。なんだ、この最高のもふもふは。反則じゃないか。頭を撫で、あごの下を撫で、背中を撫で、尻尾まで撫でる。これはどういうことだ、撫でる手が止まらない。

「フォウ、フォーウ」
「ふぉう、ふぉーう」
「フォーウ」
「ふぉーう」

 その可愛らしい鳴き声に思わず鳴きまねを返してしまう私。ああもう、いい歳して何やっているんだ私。しかし可愛いなぁ。ほおずりしたい。しよう。

「あなた、どこから来たの?」警戒する様子がないので、その小さな身体を抱き上げる。抵抗する様子はまるでなかった。「この辺じゃ見ない顔だけど」

「フォウー?」
「ふぉうふぉうー?」
「フォウ、フォーウ、んきゅ?」
「ふぉう、ふぉーう?」
「フォウ」
「……ごめん、わかんない」

 ちょっとだけ申し訳なさそうな顔で謝ると、気にしてないよ、と言いたげに白い生き物は私の顔を舐め始める。滑らかな舌の感触からしてやはり猫ではないようだった。猫の舌はもっとざらついている。

 動物の言葉が分かればいいのになぁ、とこういう時に思ったりする。手話ができるゴリラは実在するけれど、こんな四つ足の生き物とも話せたら面白いのに。この可愛らしい瞳からどんな世界が見えているのか、聞いてみたいものだ。

 小さな舌で頬を舐められていると、くすぐったさと可愛らしさで思わず笑いが出てしまう。

「うふふ、くすぐったいよう」
「フォウ」

 犬猫が好きというのもあって、私は動物に顔を舐められることに抵抗がない。愛情表現なら全面的に受け止めてあげるべきだ。代わりにこちらは思う存分もふもふするだけなのだから。

 顔を舐める動作が止まったところで、私はすかさずもふもふの首筋に顔を突っ込む。顔面が白い毛並みに包まれ、至福の時間が訪れる。深呼吸。

 その匂いを嗅いで「あれ?」と私は何かに気づく。ふわふわの毛皮の中に動物のものではない匂いが混じっている。この匂い、どこかで嗅いだことがあるぞ。
 確か、そう。一か月か二か月前に、我が家でこんな匂いがあったような。獣ではない。誰か、人の匂い。

「フォウさーん!」

 前方から女性の走ってくる音と声。私はその声に聞き覚えがあった。顔を上げてそちらを見やる。腕の中にいる生き物もその声に反応してそちらを向いた。この声は、確か。

「──マシュさん!」
「お母さま!」

 ピンクブロンドのショートヘアーに、アメジストのような瞳と、黒縁の眼鏡。小柄ながらもセクシーな体つきに、雪のような白い肌。そして見る者を引き付ける美しい容貌。

 その見知った顔を理解した私は素っ頓狂な声を上げてしまう。女性も私の顔を見るなり驚きの声を上げた。

 女性はマシュ・キリエライトであった。つい数か月前に我が家を訪れた、私の息子の恋人だ。
 彼女は私の腕に抱かれた小動物を見て、胸をなでおろすように息をついた。

「ああ、フォウさん、こんなところにいたんですね」
「フォーウ」

 フォウと呼ばれた小動物は彼女に反応してジタバタし始める。私は抱きしめたまま立ち上がってマシュに近づき、その子を手渡した。小動物は彼女の腕を伝ってその肩に上った。よく懐いているようだった。

「この子、あなたの?」
「はい。私のお友達です」

 勝手にどこかへ行っちゃダメですよ、と彼女が優しめに叱ると、フォウはぺろぺろと彼女の顔を舐めた。

 なるほど、フォウの匂いに混じっていたのは、この娘の匂いだったのだ、と私は納得する。いつも一緒にいるのだろうが、マシュがこんなに可愛い子を飼っているとは初耳だった。
 つまり、マシュが嫁入りしてくれればこのフォウもついてくる可能性が高い。素晴らしい未来だ。もちろん孫の方が嬉しいけど、それとは別だ。

 ──しかし、妙だ。マシュがいるなら、立香もいるはずではないか。どこにいるのだろう。私が立香を見逃すはずがないのだが。

「日本に来てたのね、立香は?」
「それは、その……」

 しゅん、とマシュは途端に顔色を暗くした。何がどうしたのかわからなくて、私は彼女の口が再び開かれるのを待った。

 そして数瞬間ほど経ってから、彼女は私がまったく予想もしていなかった言葉を口にした。

「家出、してきちゃいました」



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第一話 群青の恋

 カルデアに帰還してからしばらくの間、立香とマシュの生活はとても幸せなものだったとマシュは語った。具体的には性生活が。

 ただ、今までの旅で培った全情動を互いの身体へぶつける連日連夜のセックス、というわけにはいかなかった。周囲の人間の目もあるし、世界を守る仕事だってある。ただそれでも隙を見て二人は愛を育んだ。

 ねっとりと絡み合う甘い蕩けるような交わり。
 だらだらと長時間続く惰性的な交わり。
 獣としか思えないような暴力的な交わり。

 それらは二人にとって至福の時間だった。愛し合う若い男女、しかも強い絆で結ばれた二人にそれを禁ずるのは酷というものだ。避妊はしているし、万が一妊娠しても年齢が問題なだけで互いに添い遂げる気持ちはある。躊躇う理由など無かった。

 察しの良い何人かはそんな二人の関係に気づいていたようだったが、空気を読んでくれたのか表立って話題になることはなかった。

 ところがある日を境に状況が一変した。

 とある女性サーヴァントが立香の部屋の換気ダクト内から失神した状態で発見されたのだ。

 彼女は立香に思いを寄せる一人だった。立香とマシュの関係を疑って、換気ダクトを通じて忍び込んだのだ。そして立香とマシュの交わりを見て、気絶した。

「いや、なんでセックス見ただけで気絶するの」そこまでの説明を聞いていた私は思わずそう尋ねていた。
「彼女には、性知識がまるで無かったんです」マシュは私からの質問に対し気まずそうに答える。「年齢と育った環境を考えれば仕方ないのですが、どうも布団の中で恋人同士抱き合って、愛を囁けば子が成せると思っていたようで」

 うわぁ、と私はその少女の受けた衝撃を想像して、少し同情した。つまり図らずも、コウノトリやキャベツ畑を信じているような女の子に完全無修正ポルノを見せつけてしまったのである。しかも自分の思い人が他の女と激しくまぐわっている最中の光景を。

「彼女の証言で、私と先輩の関係が知れ渡ってしまったんです」
「別に、恥ずかしがることはないと思うけど。その女の子の目撃は別として。……立香に言い寄るのが減って、ちょうど良いんじゃない?」

「いいえ」首を横に振って、私の言葉を否定するマシュ。「むしろ競争が激化したんです」

 マシュ・キリエライトが抱かれたのなら、自分も、と。多くの女性が立香に激しいアプローチを仕掛けてきたのだという。しかも立香が童貞を卒業したことまで知られたがゆえに、それまでの遠まわしなものから直接的な誘いとなって現れた。

「まさか、立香、そのうちの誰かと寝たの?」
「いいえ。先輩は、誰とも肉体関係を持ちませんでした」

 その言葉にホッとする私。しかし、マシュの顔は暗いままだった。

「でも、その皆さんも大切な仲間なんです。先輩の立場上、邪険に扱うわけにもいかなくて……。一日だけのデートや、一緒の食事で各々を納得させていました」
「それは」

 私はマシュの感情を理解して、言葉を失う。立香の対応を否定するわけではないが、それはマシュにとってどれだけ辛いことだったろうか。

「先輩と抱き合うたびに、他の女性の匂いがするのは、とても悔しかった」ぎゅう、とマシュは自身のスカートの裾を握りしめた。「極めつけに、ある女性が私の目の前で、先輩に無理やりキスしたんです。それで、私、カッとなって」

『せんぱいのバカ、もう知らない!』
『実家に帰らせていただきます!』

 そう叫んで、マシュはカルデアを飛び出してきた。

 ことの顛末を知った私は、頭を抱えそうになる。つまり、この娘は立香に三行半(みくだりはん)を叩きつけてしまったのだ。

「私にとってカルデアが実家のようなものだったので……」
「うちに来たと」
「ごめんなさい。ここしか、思い付かなかったんです」

 浅慮な行動、と言ってしまえばそれまでだが、彼女の心には相当な負荷がかかっていたに違いない。立香と肉体関係でありながら、好きという言葉を理解しきれず、自身の好意を上手く伝えられない。

 そんな不安定な状況下で立香が他の女性と会っている。しかも彼女たちは己と違って立香への恋愛感情を明確に持っている状態だ。さぞ怖かったのだろう。それをただ耐えろというのは、この娘にとってあまりに辛い仕打ちだ。それが立香の意図したものでなくとも。

「……バカね」
「ごめんなさい」
「違うの」私は小さく震えるマシュの頬に手を添えた。「謝る必要なんてないのに、ってことよ」
「それは、どうして?」

「息子を支えてくれた女の子を拒否するほど、私は愚かじゃない」マシュの、今にも涙が溢れそうな目を見つめながら私は言った。「ましてや一度は私のことを『母』と呼んでくれた女の子だもの、あなたは。迷惑だなんて、これっぽっちも思っちゃいないわよ」

「……おかあさま」私の添えた手に自身の手を重ねるマシュ。とうとう我慢できなくなったのか彼女の両目からはぽろぽろと涙がこぼれ始めた。「おかあさま、おかあさま……」

「お母さん、って呼んでほしいんだけどな」

 ため息をついて、もう片方の手で彼女の頭を撫でてやる。
 見ればマシュの顔色は少し青白かった。食事する気力もなかったか、あるいはここまでの道のりでひどく疲れてるのか。どちらにせよ早く休ませないといけないだろう。

「うちに来なさい。疲れてるでしょ?」
「ありがとう、ございます。お母さま」
「だから『お母さん』だってのに」
「……お母さん」
「ん。よくできました」

 微笑みながら褒めてやると、マシュも涙をぬぐいながらはにかむように笑顔を作った。

 寂しい笑顔だな、と私は思った。




 何の連絡もなしに訪れた息子の恋人と、よくわからない白くてもふもふした生き物に、帰宅した夫は目を丸くした。

 弱ったマシュの代わりに私が経緯を説明してやる。魔術とかサーヴァントとかは自分でも上手く解説できそうになかったので適当にぼかした。

「立香が他の女と、ねぇ」
「かなり強引に迫られちゃったみたい」
「優しすぎるんだよな、立香は」

 ため息と同時にスーツのネクタイを緩める夫。ソファーで座っているマシュへ二人して視線を向ける。意気消沈している彼女はこちらの会話に意識を向ける余裕もないようだった。膝の上のフォウを撫でながら、ぼうっとしている。

 そんな彼女を見ながら夫が口を開く。

「マシュさんは、イギリス国籍だよな」
「そうだったはずだけど、なに?」
「九十日だ」上着を脱ぎつつ夫は言う。「イギリス国籍を持つ人間がビザ無しで日本に滞在できる期間だ。それまでには、仲直りしてもらわないと」

 夫の言葉で真顔になってしまう私。いや確かに、この人がマシュを追い出すなど考えていなかったけれど、ここまで肯定的だと逆に驚いてしまう。

「そのうち立香が迎えにくるさ。心配いらない」肩をすくめる夫。「それよりも、なんだ、あのフォウフォウ鳴いてる白い犬みたいなのは」
「マシュさんの友達。名前はフォウ」
「鳴き声そのまんまか。エサはどうするんだ」
「何でも食べるから大丈夫みたい。あとペットシートは用意してある」
「まあ、その辺はまかせる。生き物の飼い方は詳しくないんだ」

 そう言って夫は着替えのためにリビングを出ていく。その背中を見送った後、私はマシュに近づいて声をかけた。

「お腹空いてるでしょ。晩ご飯できてるから、食べなさい」





 夕食も終わって風呂も入って、あとは寝るだけになったころ、私はマシュの寝床を訪れた。以前と同じ、来客用の和室だ。

 中を見ると、彼女はパジャマ姿で布団の上に正座し、膝の上にフォウを乗せてその頭を撫でていた。

「……お母さん?」私に気づいて顔を上げるマシュ。
「体調は、大丈夫?」
「ええ、はい。大丈夫です」
「何か欲しいものはある?」
「いいえ、特には」
「そう」どう見ても大丈夫とは思えない様子の彼女の隣に座る私。「でも服とか下着とかは、明日買いに行きましょう。好きな服、買ってあげるから」

 マシュはほとんど着の身着のままでカルデアを飛び出してきたらしく、以前のように替えの服を用意していなかった。立香がいつ迎えにくるかわからない以上、買いそろえる必要があった。

「そんな、そこまでしてもらうわけには」
「また次来た時こっちに着る服があれば、いちいち持ってこなくてすむでしょう?」
「それは、そうですけど」
「別に気を使われるほど貧乏じゃないから。何十着も買うわけじゃないし、立香が独り立ちして、お金が浮いているくらいなんだから」

 だから安心して。そう言って私はマシュの頭を撫でてやる。反論できなくなったマシュは申し訳なさそうに顔をうつむかせていた。

「……どうして、ここまでしてくださるのですか」撫でていると、ぽつりと呟くように彼女は言った。「私は、約束を破ってしまったのに」
「約束?」

「先輩とずっと一緒にいるって、約束したのに」マシュは自身のパジャマを握りしめる。「あなたと、先輩と、約束したのに。私のわがままで、こんなことになって」

「私はあなたに『立香の奴隷になれ』なんて言ったつもりはない」毅然とした口調で私は言ってやった。「あなたが自分の望んだ生き方をして、そのうえで立香と一緒にいてくれる。そうなってくれたら良いな、って思っただけだから。あなたは自分のわがままを通していいのよ」
「でも」
「大丈夫だから」もう片方の手を、パジャマを握りしめるマシュの手に重ねてやる。「立香が必ず迎えに来るから。こんなに素敵な女の子を手放すほど、あの子は馬鹿じゃない。今ごろはあなたが家出して混乱しているでしょうけど、落ち着いたら絶対に迎えに来る」
「でも、私なんかのために」
「……あなた、自分がどれだけ立香に愛されてるか、わかってないのね」

 聞き分けの無い娘だ、と私は少しだけ叱るような感じで彼女に詰め寄った。彼女は怒られているというのが把握しきれていないのか、呆然としていた。それに構わず私は続けた。

「どう見たって立香はあなたにぞっこんなのよ。あなたのいない世界に意味を見出せるかどうか怪しいくらいにね」

 それは誇張などではなく、私が感じたままの言葉だった。立香がマシュを見つめる眼差しは、とても優しくて、それでいて危ういものだった。世界と天秤にかけてもなお、この女の子一人を選ぶほどに。この娘がいなくなっただけで生きる意味を見失ってしまうほどに、彼はマシュを大切に思っている。それが、私にはわかる。

「立香がなんのためにこの世界を救ったのか、忘れたわけじゃないでしょう。あの子は、あなたのために痛みも苦しみも、なにもかもを耐えてきたんだから。立香にとって、あなたにはそれだけの価値があるの」

 あの奥手な息子が選んだ、ただ一人の女の子。あの優しい息子が、共に生きるため命を賭して戦い続けたほどの女の子。それがどれだけ大きな意味を持つのかなんて、言われなくても感じ取れる。自分の息子が一番大切にしている宝物、それを理解できなくて何が母親か。

 優しくて、儚くて、可愛らしい、ごく普通の女の子。それこそが立香の選び取った、この世界の宝物だ。

「だから、そんなに自分を責めないで。あなたがしょんぼりしていると、立香が可哀そうよ。いつもみたいに胸を張って、笑顔でいてあげて。……あの子にとってこの世界の価値は、あなたの笑顔なんだから」

 それを聞いたマシュは、一瞬キョトンとした表情になったあと、少し照れた様子でうなずいた。その口元にようやく微笑みが戻ってくる。

「……はい、お母さま」
「お母さん、だってのに」

 言うこと聞かない子はこうだぞ、とマシュの柔らかな両頬をつまんで左右に軽く引っ張る。ぴゃあ、という間の抜けた声を出すマシュ。彼女の頬は本当に柔らかくて、幼子のそれのようだった。このマシュマロほっぺめ、としばらく引っ張ったり押したり捏ね繰り回したりして弄んでから放してやった。

 手を放したとたんにむくれるマシュ。頬に空気が少しばかり溜められるのを見計らって、すかさず両側から指で押して、ぷう、と口からその空気を抜く。幼いころの立香に良くやってやったイタズラだ。

「むう、私の顔で遊ばないでください」
「あなたが可愛いのがいけないのよ」にやりと笑う私。嘘ではない。この娘は困った顔もむくれた顔も可愛いのだ。「少しは、元気出た?」
「……はい。ありがとうございます」

 彼女の肯定が確かなものになっているのを悟った私。もう大丈夫だろう、と部屋を出ていくべく立ち上がる。

 しかし、妙な抵抗を感じてその動作を中断する。マシュが、私のパジャマの袖をつまんでいた。

「どうしたの?」
「あの、私が寝るまで……」伏目がちな表情で言うマシュ。「手を、握っていただけないでしょうか」

 立香が「眠れない」と訴えた時に、そうしてやったことを思い出す。あの子は子守歌よりもそうした方が寝つきが良かったのだ。マシュは立香と手を繋いで寝ていたこともあるし、もしかしたら同じタイプなのだろうか。

「私の手でいいなら、どうぞ」

 ありがとうございます、と礼を言ってからマシュは布団をめくってそこに潜り込む。一緒にいたフォウも彼女の枕元で寝る体勢に入っていた。明かりを消して常夜灯に変えた私はその横に座って、布団から出された彼女の手を、両手で包み込むように優しく握ってやる。

 すると、マシュはちょっとだけ呆然とした表情を浮かべた後、うふふ、と笑いをこぼした。怪訝な顔をする私。

「どうしたの?」
「いえ、先輩の手に、似ていたので」
「こんなおばさんの手が?」

 私は自分の手の甲に目をやる。常夜灯の薄暗い光の下でもわかる。お肌の曲がり角と呼ばれる年齢はとうに過ぎ去り、ツヤもハリも無くなりつつある私の手。皿洗いや洗濯で指紋も薄くなっている。皮膚の薄いところでは血管が浮き上がり、手全体が徐々に老婆のそれへと変貌を遂げようとしている。立香の若々しい手とは、似ても似つかない。

「綺麗な手です」そっと握り返してくるマシュ。「先輩と同じ、暖かくて、優しい手です」
「……立香と同じ、ね」

 その言葉を反芻する。そして思い出す。生まれたてのころ、私の指を握ってくれた小さな手。腕相撲で手加減してやれた幼いころの、頑張ろうとする手。夕暮れの街を帰る時の、一緒に繋いだ手。そのすべてをこの手は覚えている。

 それだけ立香と手を繋いでいたというのに、私はマシュの言ったように「似ている」と考えたことなんて一度もなかった。むしろ夫の手に似ているのではないかと思っていたほどだ。

 でも不思議と違和感がなかったし、マシュがそれを気づけたことも納得できた。この娘は、誰よりも立香の手の温もりを愛しているのだから。それに似ていれば、自ずとわかるのだ。

「寝れそう?」
「はい。良く眠れそうです」

 以前に話してくれた、死の恐怖をかき消すくらい優しい立香の手を思い出しているのだろうか、彼女はとても穏やかな表情で目を閉じた。

「おやすみなさい」

 彼女が寝息を立てるまで、私は手を握ってあげた。

 可愛い寝顔だな、と私は思った。


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第二話 紅の想い


 次の日、目が覚めて着替えた私は、朝食を作る前にマシュの寝床の様子を見に行った。

 和室のふすまを開けてみると、未だマシュはぐっすりと眠っていた。一緒に寝ていたフォウはすでに目覚めていて、寝息を立てるマシュの顔をぺろぺろと舐めていた。

 疲れているのか、あるいは時差ボケの影響か、それでもマシュは一向に起きようとはしなかった。

「おはよう、フォウくん」
「フォーウ、キャウ!」
「しー。起こしちゃ可哀そうでしょ」

 マシュの枕元で騒ぐフォウをいさめつつ、その小さな身体の前にしゃがみ込み、あごの下を撫でてやる。

「朝からどうしたの?」
「フォーウ」

 あごの下に回した私の指をガジガジと噛んでくるフォウ。しかし加減をしているのか痛みはない。それから赤ちゃんが乳を吸うように指先に吸い付いてくる。その様子を見て私は察する。

「そっか、お腹すいてるんだ」 
「フォウ!」

 その通り! と言いたげにフォウが私の前でぴょんぴょんと飛び跳ねた。昨日はリンゴをむいてあげたのだけれど、それだけでは足らなかったのかもしれない。

「わかったわ。おいで」

 私が手を差し出すと、フォウは腕を駆け上がって肩のところまできた。白い毛並みが耳をくすぐるのだけれど、嫌ではなかった。この身軽さはまるで猫のようだ。ほんとうになんの生き物なのだろう。

 肩にフォウを乗せた私は音を立てないようにダイニングへ移動して、私が普段使っている椅子にフォウを座らせ、「ちょっと待っててね」と言って冷蔵庫へと向かった。

 冷蔵庫の中身を確認する。フォウはなんの動物かわからないけれど、とりあえず玉ねぎやチョコレートなど犬猫にとって有害な食べ物は与えない方が良いだろう。ほとんどの動物にとってあれは毒になる。というか玉ねぎやカカオ、コーヒー豆といった有毒植物を平然と食べる人間の方がおかしいのだ。

 冷蔵庫の扉を開けた私の目に、昨日買った卵のパックが映る。残り二個。マシュが来たことで昨日は予想外の消費になってしまったのだ。これでは三人分の朝食には足りない。

「卵焼き、食べるかな」

 しかしフォウならばこの量でも足りる。私はそれを取り出して、卵焼き器と油を用意して調理を開始した。動物は塩分の処理能力が低いから味は薄めにしよう。マシュからは特にアレルギーがあるとかは聞いていないし、毎日与えない限りコレステロールも大丈夫だろう。

 少したって、見た目には美味しそうな卵焼きが完成した。だが、ひとかけら味見をすると塩味も甘味も薄くてあまり美味しくはない。人間には美味しくなくても動物はこれでいい。動物にとって人間の味付けは濃すぎるのだ。

「おまたせ」
「フォウ!」

 よほどお腹がすいていたのか、フォウは椅子の上でうれしそうに跳ね回っている。私はそれを落ち着かせてから、皿に乗せた卵焼きを差し出した。

 卵焼きを見たことがなかったのだろうか、フォウは検分するように匂いを嗅いでから、恐る恐るそれをかじった。すると途端に目の色を変えて卵焼きにかぶりつき始める。ものすごい勢いだ。

「そんなに美味しい?」
「フォウ。ウー、キャウ!」

 ふわふわの尻尾を振って「美味しい!」と言うようにフォウが鳴く。それはなによりだ。夢中で卵焼きにかぶりつくフォウの頭を撫でてやった。可愛いなぁ、このもふもふめ。

 ひとしきりその頭を撫でてやってから、私は気を引き締めて再び台所に戻った。

 さて、今度は人間たちの朝食を作らねば。平日の朝は、主婦の戦場なのだから。






 その日、私とマシュは近くのショッピングモールへと足を運んでいた。マシュの服を揃えるためだ。フォウは家でお留守番だ。

 まずは下着。参考がてらトップバストの値を聞いてみるとマシュの胸は予想よりもずっと大きかった。彼女は着痩せするタイプだったのだ。それでいてアンダーバストとウエストが細いものだから反則的だ。頬だけでなく胸もマシュマロだったか。

 ついでにヒップの値も聞くと意外と大きい。理想的な安産型だ。なるほど以前「未成年でも、もう産める身体」と言っただけのことはある。成年女性でもここまでのプロポーションを持つ者は少ないだろう。

「すごいです。たくさんあります」

 ランジェリーショップに着くと、マシュはたくさんの色鮮やかな下着に目を輝かせていた。立香とはこういうところに来たことがなかったのだろう。あの年頃の男子にランジェリーの店は居心地が悪い。

「ここから選んで良いのですか?」
「ええ、どれでも、あなたの好きなように選びなさい」

 かくいう私も若い女性の下着の見繕いなど、自分のものだけ、しかも二十年くらいしていない。年配向けの下着なら口を出せるが、マシュのようなグラマラスな少女の下着なんて想像もできない。仕方ないので店員に声をかけて代わりに選んでもらうことにした。

 店員に提示されるランジェリーの数々にマシュは表情をコロコロと変えた。若い女性向けのものは種類が多いが、大きなサイズとなるとそこまでの数はない。あの大きな胸だとフルカップでなければ収まらないだろう。

「──すみませんが、どういったご関係で?」

 下着選びで悩んでいるマシュを遠目に見ていると、見繕っている人とは別の若い店員が尋ねてきた。
 外国人の美少女と日本人のおばさんというよく分からない二人組なんて滅多に見るものではないから、気になってしまったのだろう。別に気を悪くするわけでもない。その問いへの答えなど一言で済む。

「未来の嫁姑です」

 自信満面のその答えに店員は一瞬呆然としていたが、少し間を置いて「可愛いお嫁さんですね」と微笑みを返してきた。

「あの娘、すごいです。まだまだ大きくなりますよ、お義母さま」
「……たぶん息子のせいです」
「素敵な恋なんですよ、きっと」
「知ってます。この前いやというほど見せつけられたから」

 それは良かったですね、と店員は笑った。善意の言葉なのだろうが、あなたはあの恐ろしいデンジャラス・ビーストを目の当たりにして同じことを言えるのか、と私は心のなかで突っ込みを入れた。

 元が成長途中だったのかもしれないが、恋すると女性は美しくなるという。あれだけ熱烈な恋をしていれば、それはもうすごいことになるだろう。胸だって大きくなる。次来たらブラジャーのサイズが一気に拡大しているかもしれないな、と思った。


 マシュが遠慮したのか、下着店での会計はさほど高くなかった。しかしそれでも可愛いデザインのものが揃っていた。店員曰く、最近は大きなサイズでも可愛いのが揃っている、とのことだった。

 次は服だ。女性服に関してはショッピングモールの中にたくさんの店舗がある。安いのもあれば高いのもあるし、若者向けから年配向けまでさまざまだ。

 外から見えない下着と違って、周囲の若い女性を見て参考できるファッションは私でも選んでやることができそうだった。

 部屋着としてTシャツとジーンズとスカートを二、三枚買って、便利なのでジャージも買っておく。

 次からが本番だ。青と白のギンガムチェックの可愛いワンピースにクリーム色のカーディガン。それに合いそうな襟つきソックス。ついでに可愛いパンプス。可愛らしさ全振りのコーディネートだ。反則的に可愛い。

 続いて雑誌で見かけたシルバーのブルゾンジャケット。白のツーピースを合わせて清純な雰囲気のファッション。この春にぴったりの爽やかさだ。これで立香もイチコロだろう。よっしゃテンション上がってきた。

 広告に載っていたベージュピンクのライダースジャケット。グレーのトップスと白のスカートでカッコよさをアピール。マシュの幼めの容姿をカバーする大人っぽい雰囲気に。さあそろそろ荷物が重くなってきたぞ。

 女の子の服を選ぶのは楽しい。みるみる時間と金を消費してしまう。

 昔、確か幼稚園の送り迎えだったか。母親仲間で話していた時に聞いたことがある。女の子の親にとって最大の楽しみは着せ替えだと。色々な服を着る自分の娘が可愛くてしょうがないのだと。それを聞いても男の子の親である私にはピンと来なかった。

 だが今ならその気持ちも分かる。マシュが可愛い服を試着するたびに己の心が踊るのが感じ取れた。この無垢な美少女を思いのままにコーディネートするのは快感だ。最初は戸惑っていたマシュも途中から楽しんでいたし、今回の買い物は成功だった。



 買い物袋がかさばり、財布の中身が危うくなっていることに気が付いて、私たちは買い物を終わらせた。昼が近かったのでファミレスでご飯を食べることにした。マシュはミートソースパスタとアイスティー、私はペスカトーレと紅茶を頼んだ。

「買いすぎちゃいましたね」たくさんの買い物袋を見ながらマシュが言う。「こんなに買っていただいて、本当によろしかったのですか?」
「女の子だもの、これくらい普通よ」
「でも、どこに置きますか。あの部屋には置ききれませんよ」

 マシュが今現在寝泊まりしている客間にはそこまで大きな収納スペースはない。第一、そこへ彼女の服をずっと置いておくわけにもいかないだろう。
 さてどうするか、私は少しだけ考えて、実に簡単な解決法を見いだした。

「今日から立香の部屋で寝れば良いのよ」
「先輩の、お部屋ですか?」キョトンとするマシュ。
「どうせ立香と一緒に寝るでしょ、あなた。だったら同じ部屋に置いておけばいちいち移動しなくていいじゃない」
「でも、先輩のお部屋を勝手に……」
「立香と、あなたの部屋よ」お冷を喉に流し込んでから私。「今日からあそこは二人の部屋だから。立香のものを捨てない限り、あなたの好きにしていいの」

 曲がりなりにも嫁にくる女の子だ。本当ならば彼女専用の部屋を用意してあげたかったのだけれど、あいにくとそこまでうちは広くない。だから立香の部屋を二人の共用にするのだ。他のカップルならいざ知らず、この二人の場合ならちっともマイナス要素にはならない。

「先輩と、私の部屋……」
「立香だって、嬉しいと思うわよ。毎日好きなだけ熱い夜を過ごして、好きなだけあなたの寝顔を眺めて、好きなだけイチャイチャできるんだから」

 そこまで聞いたマシュの顔が赤くなる。上気した頬に手を当てて、うわ言のように「先輩と、好きなだけ……」と呟いてから、照れてうつむいてしまう。

 彼氏の優柔不断さに怒って家出してきた女の子とは思えないくらい可愛い反応だ。本当に立香のことを想っているんだな、と少し嬉しくなった。──まあこのアイデアに問題があるとすればセックスのしすぎで身体を壊しかねないということなのだが。

「顔赤くしちゃって。なに、そんなに立香とイチャイチャするの好き?」
「ううう……」私のからかいに顔を手で覆いながら身悶えるマシュ。「否定は、しません」
「すごいんだ」
「先輩とキスするだけでも、頭の中が真っ白になっちゃうんです」

 あらかわいい。私はニヤニヤとした笑顔になるのを我慢できなかった。付き合いたてのカップルみたいな初々しさだ。若いって、いいなぁ。

「そのあとはもう、先輩に五、六時間はめちゃくちゃにされて、何も考えられなくなって、気づいたら朝になってます」

 前言撤回。こいつらはやはり発情期の獣だ。

「……避妊はしてるのよね?」
「はい、お薬で」
「ピルかぁ」

 きちんとした避妊方法にホッとしつつも少し残念に思う私。ピルは確かに避妊成功率が高いけれど、女性が毎日薬を飲まなければならないし副作用だってある。女性に避妊の役割を押し付けているとも言えなくはない。

 立香は非協力的なんだろうか、と考えていると、何かを察したのかマシュは首を横に振ってその考えを否定した。

「コンドームだと一晩で一箱使いきってしまうので、薬の方が合理的なんです」

 ……理屈はわかる。わかるのだが、どんな回数こなしてるんだこの子たちは。私は二人の性生活の凄まじさに戦慄した。体力おかしいだろう。

「それに厳密にはピルではなくて、私の魔術回路を整える薬も兼ねているんです。副作用も少なくて、とても楽です」
「まじゅつかいろ?」
「魔術を行使する際に必要な神経のようなものです。限られた人にしかありません。今の私はその回路が錆びついている状態なので、回復のためにカルデアから支給してもらっているんです」

 そういえばこの娘は魔術の世界にいるんだったな、と私は彼女の言葉で改めてそれを認識する。杖を振って呪文を唱えればいいという単純なものではないらしい。

 しかし、この娘が魔術師というのは不思議なものだ。「奥様は魔女」というアメリカのドラマが昔あったけれども、まさか自分の息子がその立場になるとは夢にも思わなかった。

 あるいはマシュの年齢と連れているマスコット的な小動物を鑑みるに、魔法少女の方がいけるかもしれない。タイトルは「魔法少女カルデア・マシュ」といったところか。毎日ピルを飲む魔法少女なんて生々しすぎて放送できまい。

「まあ、でも万が一、避妊失敗しちゃっても別にいいわよ」
「それは、どうしてですか?」さんざん避妊しろと言っていたのに、一転して別のことを言う私にマシュが首をかしげる。
「だってあなた、すぐにでも立香の赤ちゃん産みたいって顔してるんだもの」

 それを言ってからぴったり三秒。ようやく照れた頬の冷却を終えようとしていたマシュの顔が、あっというまに耳まで真っ赤になる。あとなんだかプルプルと震え始めてる。

「立香にめちゃくちゃにされて、彼の赤ちゃんを妊娠して、何人でも産んであげたいって思ってるんでしょ?」
「そんな、私、私……」顔を覆う余裕すらない様子のマシュ。「そんな、せんぱいの、赤ちゃん、だなんて……」

 からかいのつもりだったのに、どうもこの反応を見る限り図星のようだ。カップルの間柄において妊娠出産というのは別格の出来事だが、それにしたってこの娘はいったいどんな想像してるんだ。

「あなたの人生だもの、アドバイスはするけれど強制はしない。だから、どうしてもすぐに産みたいっていうなら、無理には引き留めない。二十歳まで避妊しろってのは、立香への警告であって、あなたにとってはあくまで目安だから」

 にこりと彼女に微笑みかける私。

「でも、子作りは立香と良く相談した上ですること。あなたはまだ子供なんだから、そこら辺は良く考えなさい」
「せんぱいの、赤ちゃん、私が、妊娠、産む、何人も……うああ……」

 壊れかけのラジオみたく途切れ途切れの言葉を呟くマシュ。もう頭がパンクして、まともに会話できそうにない。

 立香とのキスだけで思考が真っ白になるのだから、立香に好き放題犯されたあげくの妊娠なんて、想像した日にはそれこそ頭の中が大爆発してしまうだろう。さんざんセックスしているというのに、この娘はまだ初心なところがある。そこが可愛いのだけれど。

 からかいすぎたかなぁ、と苦笑いしながら私は彼女の頭に手を置いて、その髪に指を絡める。絹糸のように細く美しいマシュの髪はサラサラと手の中で踊った。綺麗な髪だな、と私は思った。

 しばらくして注文した料理が来るまで、私はマシュの頭を撫でてあげた。





 ショッピングモールから帰宅すると、家の前に赤いコートを羽織った長身の男性が立っていた。

「サーヴァントがこの距離に近づくまでわからないとは、たるんでるぞ」
「エミヤ先輩!?」

 褐色の肌に白い髪の毛。以前玄関先に訪れた立香の護衛、エミヤ・シロウ氏だった。マシュは彼の姿を見るなり、私の後ろに隠れてしまった。

「ええと、エミヤさん。どうしてここに?」
「お久しぶりです、母君」エミヤ氏はそう言って軽くお辞儀をした。「簡単です。カルデアからついてきたんですよ」

 まったく手間をかけさせる、と愚痴をこぼすように私の後ろのマシュへ視線を向ける。

「万が一にも彼女に悪いことが起こらないよう、こっそりと警護をしていました。──カルデアで彼女の様子がおかしくなったのはすぐにわかりましたから。これは何かあるなと思って、ずっと監視していたんです。しかし、着の身着のままで下山して藤丸家まで逃避行するとは予想外だった」

「先輩は」私の背中越しにマシュが訊く。「立香先輩は、私がここにいることをご存じなのですか?」
「知っているとも。昨日、この家に着いた段階で連絡を入れた。そうでなければ今頃半狂乱になって君のことを探しているだろうからな」

 そこまで言って、エミヤ氏はマシュに手を差し伸べる。それを見たマシュの手が私の腕を、ぎゅううと掴むのが分かった。嫌がっているのだろう。そのせいかエミヤ氏の手はとても優しそうなのに、私には邪魔者の手として映った。

「さあ、帰ろう。みんな心配してるぞ」

 その顔はニッコリと微笑んでいて、明らかに善意からくる言葉ではあったのだけれど、私には納得のできないものとなっていた。

 ここで帰したら、ダメだ。

 私はマシュをかばうようにして前に出て、エミヤ氏に詰め寄った。

「あなたには悪いけど、この娘は帰さない」
「なに?」エミヤ氏の優しい目つきが一転して鷹のような鋭いものになる。「どういうつもりですか?」

「この娘がカルデアを飛び出してきたのは立香のせいなんだから、その立香が迎えにくるのが筋ってもんでしょう」びしり、と彼の眼前に指先を突きつける。「立香が迎えにくるまで、この娘はうちの子よ」

 私のまくし立てた言葉に、彼の顔が戸惑いの表情に変わる。

 立香がマシュへ会いに来て、しっかり謝罪しなければ何の解決にもならない。それだけは間違いないと私は確信していた。このまま連れて帰ったらマシュが皆を心配させただけの悪者にされかねないからだ。

 立香が彼女に「ごめんなさい」を言って、仲直りして、その上で帰還させる。それ以外の方法で帰らせるなんて、私には許容できない。

「……藤丸立香が来ない限り、帰す気はないと?」
「それが絶対条件よ。それが嫌なら私を張り倒してから連れていくことね」

 唖然とした表情で固まるエミヤ氏。指を突きつけながら睨みつける私。二人の視線が交差していたのは五秒くらいだったか。先に表情を崩したのはエミヤ氏の方だった。

「まいったよ。あなたには敵わない」もう降参、と言いたげに両の手をあげるエミヤ氏。「あなたに免じて、ここは退散するとしよう」
「わかればよろしい」指を下す私。
「だがカルデアには連絡しておくし、この家の警護も続ける。彼女にもしものことがあれば私は切腹ものだからな」
「それは構いませんけど、立香が来るとしたら、どのくらいになりそう?」
「少なくとも丸一日はかかるだろうが、わかり次第、あなたに連絡するさ」

 それはどうも。そう礼を告げると、彼は一度微笑みを浮かべてから去っていった。

 私はその背中が見えなくなるまで見送ってから、盛大な溜息をついた。疲れではなく、安心したことによる安堵の息だ。

「さ、早く家に入りましょう。フォウくんがお腹すかせて待ってる」
「……はい」

 マシュは私の隣に立って、嬉しそうに寄り添った。

「……ありがとうございます、お母さん」
「私は当たり前のことをしただけよ」

 私は荷物を反対側の手に移して、彼女の手を握ってあげた。マシュも一拍おいて私の手を握り返してくれた。

「立香以外の男に、あなたを任せられるわけがないじゃない」


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第三話 一秒の未来

 マシュが来て三日目の金曜日。お昼過ぎ。

 前の日に家でお留守番させてしまったせいかフォウが不機嫌になってしまっていたので、マシュと一緒に散歩へ連れていくことにした。まあ散歩と言っても近くの公園で遊ばせる程度なのだけれど。

 首輪かリードをつけようかと思ったが、フォウは「首輪なんて嫌!」と言わんばかりに拒否の姿勢を崩さなかったので、仕方ないので抱っこして連れていくことにした。私の意図を悟ったのかフォウは大人しく抱きかかえられていた。

 良く晴れた午後だった。私は公園までの道のりを遠回りして、連れ添った一人と一匹に街を案内してあげた。

 マシュなら興味を持つかと思って、私は立香に関わった場所を重点的に見て回わることにした。彼女に訊くと「ぜひ案内してください」と喜んでいた。


 最初は立香の通った小学校だった。割と家に近い。給食が終わったところなのだろう、大勢の児童が校庭でドッジボールやらサッカーをして遊んでいる。

 ワイワイギャーギャーとやかましいことこの上ないのだけれど、医療施設で育ったというマシュにとってその光景は新鮮なものだったようで、フェンス越しに食い入るように見つめていた。

「ここが、先輩の通った学校」
「そう。あそこがプールで、あっちが体育館。卒業式以来ね。懐かしいなぁ」
「生徒さんが、いっぱいいますね」
「立香もあんな感じで遊んでた。あの子はサッカーが好きだった。今はどうか知らないけど」

 優しそうにマシュの目が細められる。アルバムで小さなころの立香の顔を知っているだろう。きっと校庭で遊ぶ児童に子供時代の立香を重ね合わせているのだ。

 ここに彼がいたのだと想像すれば、この喧噪も心地よいものになるのかもしれない。実際私も、この子供たちの騒音は嫌いではなかった。


 小学校のすぐ隣には幼稚園。こっちも小学生たちに負けず劣らず園児たちの遊ぶ声がものすごい。ほとんど悲鳴に聞こえるような声も聞こえる。

「あの子ね、幼稚園の最初の日は泣いて嫌がっていたの」
「そうなのですか?」
「初めての場所だから、怖かったんでしょうね」

 あの先輩が、と信じられないといった様子でマシュが呟く。彼女にとって、立香が駄々をこねて泣いている光景など想像もできないのだろう。
 私はその頃を思い出して、小さく笑った。

「でも帰って来たら『友だちたくさんできた』ってはしゃいでた。それで、次の日からは元気に通ってた」
「先輩らしいです」
「あの子、優しかったから。皆と仲良くできたみたいよ」

 幼稚園を見れば、長縄跳びで遊ぶ男の子や、ブルーシートを敷いておままごとをする女の子たちが見える。砂場では小さな落とし穴らしきものを作っている悪ガキたちもいた。

 こちらでもマシュは同じような表情でその光景を眺めていた。
 しかし園児たちの声に驚いてしまったのか、腕の中で暴れるフォウを抑え込むのが大変だったので早々に幼稚園を後にすることにした。


 少し離れた中学校。小学校とは打って変わって制服を着た生徒たち。こちらはもう子供というより学生と呼ぶにふさわしい成長具合が見て取れる。男の子の身長はぐんと伸びて体格もがっしりとし始め、女の子は少しずつ豊かな肉付きになっていく。

 制服姿のまま校庭で遊ぶ者、部活の一環か体操服でサッカーや走り込みをする者。
 騒いでいる者もいたけれど、規律など無いに等しかった小学校の昼休みとはまるで違う。騒ごうとする本能を抑え込む理性が、ここにきて一気に成長したのだ。

 その急激な成長具合に目を丸くするマシュ。彼女より背が高かったり大人っぽい女子もチラホラ見える。知識では理解していても、思春期の成長速度というのは本当にすごいのだ。

「立香の声変わりは中学二年だったかなぁ」
「声変わり、ですか?」キョトンとするマシュ。
「知らないの?」
「いいえ。でも、声変わりする前の先輩の声なんて、想像したことがなくて」
「女の子みたいに高くて、可愛い声だったわよ」
「お母さんみたいな声だったのでしょうか」
「さあ、どうだったか」

 すっとぼける私。マシュはアルバムで子供時代の立香を見ていても、声変わり前の声なんて知らない。それに関してだけは何だか妙な優越感を覚えることができた。

 実は電話の応対をした声変わり前の立香が、相手に母親である私だと間違えられたことがあることは内緒だ。恐らく今でも、その事を言うと恥ずかしがるだろうから。


 立香の通った高校は少し離れていたので後回しにし、私は目的地の公園にほど近い神社へと訪れた。

「ここは?」赤い鳥居を見上げるマシュ。
「立香とお宮参りした神社」
「お宮参り?」
「赤ちゃんが産まれたことを、土地の神様に報告することよ。ようは神様への挨拶」

 初宮参りとも言われるその行事は赤ちゃんの健康を願うものでもある。神道を特別信仰しているわけでもないけれど、立香を産んだ私はそれをしたのだ。七五三もここでしたのを覚えている。たとえ神頼みであっても、あの子は健康に育ってほしかったから。

「私が参拝しても、よろしいのですか?」
「そのために来たのよ。うちの息子にお嫁さんが来ますから、どうぞよろしくって」

 鳥居をくぐって、手水鉢で手を洗って、本殿に進もうとしたところでマシュの足が止まる。どうしたのかと思うと、彼女は脇にあった小さな社(やしろ)を食い入るように見つめていた。その両脇には狛犬とは違うデザインの像が立っている。

「これは、キツネ?」
「稲荷様ね。こういう神社ではよくあるわよ。一緒に祀られているの」

 江戸時代には東日本を中心に稲荷信仰が盛んだったせいで、あちこちの神社で稲荷が一緒に祀られている。ここもその一つだった。

「カルデアにもいますよ、キツネの人」
「サーヴァントとかいう、使い魔のこと?」
「はい。玉藻の前さんです」

 マシュの答えに、呑み込んだ唾が喉に引っかかってむせそうになる私。今さらっととんでもないこと言ったぞこの娘。玉藻の前といったら、九尾の狐じゃないか。

「……玉藻の前って、九尾狐の?」
「はい。先輩に召喚されたサーヴァントです」
「……なに平然と日本最強クラスの大妖怪を呼び出してんのよ」
「とっても良い方ですよ。美人ですし、尻尾も耳もフワフワですし。私も料理を教わっています」

 おお、神よ。うちのお嫁さんは九尾狐の弟子だったのですか。

 呆然とする私をよそに、マシュは小さな鳥居をくぐって「いつもありがとうございますね」と社へお辞儀をした。九尾の狐はその力の強大さから稲荷と同一視されることもある。神様と同じくらい強くて恐ろしいのだ。

 日本を滅ぼしかけた怪物を使い魔にしておいて、お友達感覚でいられる彼らの姿に、私は自分の方がおかしいのかと思ってしまった。

「でも先輩がお宮参りした神社に祀られていたなんて。カルデアに来てくださったのも、何かの縁かもしれませんね」
「ああ、うん。かもしれないわね」

 ちょっとばかり圧倒されつつも、本殿の前で私とマシュは手を合わせて、お参りをした。以前京都で練習してきたのか、マシュの二礼二拍手一礼の動作は完璧だった。

 そして恒例のおみくじである。引いてみるとマシュは大吉だった。これは幸先が良かったので二人で喜んだ。なお私は小吉である。中途半端だなぁ。



 出発から一時間を費やして、ようやく公園にたどり着いた。花壇や噴水があって、サッカーくらいならできる割と大きな公園だ。この辺では一番広い。

 平日のこの時間では人は少ないけれど、小さな子供を連れた母親やお年寄りたちの憩いの場になっていた。

 さあ駆けまわってきなさい、とフォウを放してやると、いきなり花壇の中にダイブして蝶々を追い回し始めた。身体が小さいので花の被害は少なくて済みそうだった。

 適当なベンチに腰掛ける私たち。とても良い陽気だ。お弁当でも持ってピクニックとしゃれ込みたいくらいだ。

 この歳になると一時間も歩けば相当に疲れてしまう。私はベンチの背もたれに身体を預けて脱力した。

「結構歩いたけど、大丈夫?」
「はい。ご心配なく。私はサーヴァントですので」

 そう言ってマシュは微笑んだ。その言葉通り、彼女は汗一つかかず平気な顔をしている。重い荷物を平然と持ち上げ、立香と長時間の行為をしても耐えられるだけの体力が彼女にはあるのだ。

 しかしサーヴァント、ねぇ。私は先ほどの玉藻の前のくだりを思い出す。人間よりもずっと強い、人型の使い魔というけど、どんなのだろう。

「サーヴァントって、どんなの?」マシュの顔を見ながら私。「あなたもその一人とは聞いてるけど、何人いるの?」
「先輩から、聞いてはいないのですか?」怪訝な顔をするマシュ。
「全然。魔術とタイムマシンでいろんな時代行って、黒幕倒して、人類史を救ったってことしか聞いてない」

 あの夜にそんな詳細に話す必要などなかったから、立香の説明不足も仕方ないと言えた。

 それを聞いたマシュは、ううむ、と悩むようにうなった。素人である私にどこから説明すべきか測りかねているようだ。
 少し思案に暮れてから彼女は口を開く。

「……そうですね、言うなれば、過去の英雄の霊魂、といったところでしょうか」
「英雄の魂?」
「魔術用語では『英霊』と言います。神話や伝承、史実などで名を残した人々です。その魂を莫大な魔力でもって現世に召喚して、使い魔として使役する。それがサーヴァントです。人間よりはるかに高い戦闘能力を持っています」
「偉人を、召喚するの」

 それはつまり、エジソンとか織田信長とかあの辺の偉人やら武将やらを現世に呼び出すということか。すごいことを考える人がいるものだ。玉藻の前も、そうして呼び出されたのだろう。

「けれど、あなたもサーヴァントなんでしょう。マシュなんて偉人、聞いたことないわよ?」
「私はデミサーヴァントという特殊な事例で、サーヴァントと人間の融合体なのです。言うなればサーヴァントの力だけ受け継いだ人間ですね」

 ふうん、とそのまま流す私。恐山のイタコみたいに魂を憑依させている、と解釈した。

「じゃあ、たくさんのサーヴァントがいるわけね。世界中に偉人なんて山ほどいるし」
「はい。カルデアだけでも、最大時で百人以上のサーヴァントがいました」
「……それ全部、立香の使い魔?」
「はい。私を含めて全員が先輩一人をマスターとして契約していました」
「立香、よくそんな状況で頑張れたわね」

 私はその事実に顔をひきつらせた。英雄になるような人間なんて、そのほとんどが普通じゃないに決まっている。普通じゃないから英雄になるのだ。百人もの変人奇人の集団をまとめ上げるなんて、尋常ではない。

「先輩はその英霊の過去に関係なく、どんな方にも対等に接したので皆から慕われていたんです」少し自慢気にマシュ。「伝承では悪として伝わっている相手でも、まずはその人格を見て、その方の人格を尊重した関わり方をしてくださったんです」
「それを、百人以上を相手に?」
「はい。そのおかげで取り返しつかないようなトラブルは起こりませんでした」

 ああ、それはモテないわけがない。偏見なく誰に対しても敬意をもって接することのできる立香の性格は、ある種の才能とも言えるだろう。そういう意味では間違いなく英雄としての素質があったのだ。

「あの子、優しいからね」
「はい。本当に先輩は優しいんです」少し身を乗り出してマシュ。「以前、旅の最中で私たちを殺そうとした武装集団がいたのですが、返り討ちにして制圧した後、彼らが飢えていることを知った先輩は、水と食料を分けたんです」

 私はその話を聞いて声もなく驚いた。自分を殺そうとした相手を助ける。言うはたやすいけれど、それを実際に行うのはものすごく困難だ。あの子はそれをためらいなくできたというのか。

「結果としてそれは正解でした。後の戦いで、彼らは私たちに加勢してくれたんです。それによって私たちは勝利を得ることができました」
「与えた恩が、返ってきたのね」
「先輩のおかげです。暖かくて優しくて、誰の心も大切にする。そんな方がマスターだったから、世界は救われたんです。先輩は世界最高のマスターです」

 そう言ってマシュは頬をわずかに赤く染めながら微笑む。

 これは本当に、惚れない方がおかしい。私は彼女の目を見て実感する。きっとそういう出来事は一度や二度ではあるまい。そんな立香の優しさを一番近くで見てきたのは、この娘なのだ。それはどれほど鮮烈に映ったことだろう。

「そんなに、立香は優しかったんだ」

 じんわりと心が暖かくなるのを私は感じた。私が育てたあの子が、それほどの優しさを秘めていたなんて。

 世界を救ってしまえるほどの優しさ。それでいて、辛い旅路を戦い抜けるほどの強さを彼は持っている。ただ一人の女の子のために命をかけるだけの、心の強さを。その事実が、たまらなく嬉しかった。

 では、と私は疑問を抱く。そんな優しさの塊みたいな彼と相対した敵というのは、どんな輩だったのだろう。人類を歴史ごと消滅させようとした黒幕。立香の優しさですら許容しきれないほどの悪とは、いったい。

「黒幕って、どんなやつだった?」私は思わずそう訊いていた。「なんで、人類を滅ぼそうとしたの。そんなに人が憎かったの?」

 ううむ、と再びマシュは悩んだ。きっと素人に説明するには複雑なものだったのだろう。私は急かさず、彼女が口を開くのをじっと待った。

「……人が憎い、というよりも、その命に価値を見いだせなかったんです、彼は」
「命に価値がない?」
「全ての命は終わるべきだと、彼は言いました」遠くを見るような眼差しで空を見上げ、彼女は告げた。「ゲーティア。そう彼は名乗りました。ソロモン王が創った七十二の魔神の集合体。王の死後に暴走を始めた、意思持つ魔術式。それが最後の敵でした」

 ゲーティア。私は唇だけ動かして声に出さずにその名を繰り返した。それが、黒幕。立香曰く、魔術で作られた人工知性体。立香たちの手で倒されたという、最後の敵。

「どんな命も必ず終わる。苦しんで生きて、瞬きのような短い時間で死を迎え、最期には絶望が待っている。なのに人はそれを繰り返す。それが、彼には耐えられなかった」
「ずいぶんと勝手ね、そいつ」

 放っておけばいいのに、と私はゲーティアとやらの行動原理に辟易した。勝手に人類を憐れんで、神にでもなったつもりか。

 私の言葉に頷きつつ、マシュはそのまま話し続ける。

「彼は人類史を焼くことで莫大なエネルギーを得て、地球創世の頃に飛び、死の無い理想の星を創ろうとしたんです」

 マシュの説明に理解が追い付かなくなって、キョトンとしてしまう私。なんだそれは。自分で、星を創る、だって?

「死の無い世界なんて、また壮大ね」
「彼にはそれだけの能力があったんです。足りないのはそれに必要となる莫大なエネルギーだけでした」
「そんなに必要なの」
「我々のレイシフト──タイムマシンも、使用するためには国一つ賄うだけの電力が必要になります。四十六億年の時を遡るには、人類史三千年分のエネルギーが必要だった。だから、焼いた」

 人の命に価値を見いだせなかったから、ためらいなくそれをエネルギーにできたのだ。ついでに憐れな人類を焼き払うことができる。なるほど行動原理はともかく無駄のない計画だ、と私は妙なところで感心してしまう。

「詳しいわね」
「彼自身が説明したんです」苦笑いするようにこちらを向くマシュ。「ゲーティアは私に、死の無い世界へ行かないかと誘いをかけたんです。この星の最後の記憶として、計画に賛同するよう求めたんです」

「けど、あなたは断った」それだけは確信を持って言えた。この少女が、そんなふざけた計画に賛成するなど微塵も思えなかったからだ。

「はい。……命はいずれ終わる。それを知っているから人は精いっぱい生きようとする。だからこそ命は美しい。私は先輩との旅路でそれを学びました。たくさんの人々にそれを教えてもらいました」

 いくつもの時代を渡り歩いたのなら、そこに生きる人々の姿も彼女は見てきたに違いない、と私は思う。精いっぱい生きて、死んでいく人々を。マシュはそこから多くのことを学びとったのだろう。立香と同じように、彼女もまた成長することができたのだ。

「それと……」
「それと?」

 言うべきかどうか迷っている表情のマシュ。けれどもそれは悪いことを言おうとしているのではなく、ちょっとした気恥ずかしさによるものらしかった。顔が赤くなっているから、立香のことを考えているのだろうと予想はついた。

「──永遠なんかよりも、先輩といる一瞬一秒の方が、私にはずっと魅力的だったんです」

 頬を桜色に染めた彼女は、そう言って微笑んでから、続けた。

「たとえ瞬きの後に消える命であっても、彼と生きるその一秒だけで、私の人生で積み上げきた全てを超える価値があった。永遠なんていらないと思えるくらいの輝きが、その一瞬にあった。だから、先輩を選んだ。……彼と生きる一秒の未来が、何よりも私の宝物だったから」

 永遠の命より、立香と生きる一秒。それが彼女の選んだ生き方。私はそれを理解して、しばらく何も言えなかった。

 だってそんな生き方は、私のような人間が選べないくらいに切なくて、眩しすぎる。この娘が見ている未来はたった一つだけだというのに、それがどうしようもなく、美しい。

「……やっぱり、あなたしかいないわよ」
「なにが、ですか?」
「立香のお嫁さん」ニッと歯を見せて、彼女へ笑みを向ける。「あなたしか、考えられない。あなたが立香へ向けてる愛は世界一だもの、きっと」
「それは」戸惑いながらも、彼女は嬉しそうに返した。「……もしそうなら、私は嬉しいです」
「仲直りできるよう、私も手伝うから。あなたの宝物の一秒、無駄にしちゃだめよ」

 すると彼女は私の肩に頭を寄せて、甘えるように、お母さん、と呟いた。「ありがとうございます」

 私は何も言わなかった。ただ黙って、その頭を撫でてあげた。




 ああ、どうして気が付かなかったのだろう。私は己の鈍感さに呆れてしまう。

 立香がこの娘を選んだ理由がいまさらになって、わかった。

 この少女は人間の善性をかき集めたように、どこまでも純粋で、どこまでも美しいのだ。身体も、心も、魂も、そのすべてが美しい。

 私の知る限り、こんな色鮮やかな命は他にない。人類史焼却の黒幕がマシュだけを救おうとしたのも理解できる。こんなにも美しい生き方をする命は世界でこの娘だけだったのだろう。だからこそ、立香はこの命に恋をした。

 マシュが立香の見せてくれる『色』に惚れたように、立香もまたマシュが作り上げる『色』に魅せられたのだ。互いの色彩に、互いが惹かれ合ったのだ。

 この子たちは出会うべくして出会い、惹かれ合うべくして惹かれ合った。それが、私の中に明確な答えとなって浮かび上がった。

 そんな簡単なことだというのに、私は気づくのが遅くなってしまった。


 それともう一つ、私は自分の中に存在する感情に気づくことができた。そっちはもっと簡単なことだった。

 私もまた、彼女の色彩に魅せられているのだ。

 それゆえこの娘の世話を焼こうと思ったし、立香以外の男に任せたくないと思ってしまった。ただの嫁候補ならそこまでしなくてもいいはずなのに、私はこの娘を放っておけなくなっていた。
 
 立香の恋人だからという理由ではなく、彼女の人生に煌めく色彩をずっと見たい、といつの間にか私は思っていたのだ。

 なんて単純なことだったのだろう。我ながら滑稽に思えて、笑いそうになる。


 私は、この娘のことが、好きだ。

 立香と同じくらい、大好きだったんだ。

 それにようやく、気がついた。


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第四話 虚ろな唇


 公園でフォウをひとしきり遊ばせた後、私たちは立香の通っていた高校の前にたどり着く。この高校は家からは少し遠くて、立香は自転車で通学していた。

 フェンスを隔てた校庭では体操服を着た学生たちがソフトボールの練習をしていた。昼休みも終わり、体育の時間らしかった。

「ここが、先輩の母校なんですね」感慨深そうにマシュ呟く。
「そう。つい最近までここに通ってた」

 中学生よりもさらに大人に近づいた学生たち。それでも友人同士でじゃれあう姿は子供っぽい。精神面での成熟はまだまだこれからだ。

 立香も少し前まではここにいたのだけれど、校庭にいる彼らに立香ほどの成熟は見られない。息子はやはり人類史修復の旅とやらで一気に成長を遂げたのだ、と実感する。

 たくさんの人と出会い、その生き様を知り、人類を救うために費やした一年。たった一年だけれども、それはきっと立香とマシュにとって得難い経験になったに違いない。失われた命もあっただろうけど、二人はそれさえも成長の糧としたのだ。


 そうしてじっと校庭を見つめていると、ペアを組んでキャッチボールをしている女子生徒の一人と目が合った。私はすぐに視線を逸らしたのだけれど、その女子生徒はじっと私を見つめたあと、ペアの女子生徒に何か話しかけて、彼女を連れて歩いてきた。小柄な女の子と、普通の体格の娘だ。

 特に顔見知りというわけでもない。どうしたのだろう、と思いながらその姿が近づいてくるのを見ていると、女の子たちはフェンスを隔てたすぐ向こう側で脚を止めて、私に話しかけてきた。

「あの、もしかして、藤丸立香先輩のお母さんですか?」
「……そうですけど?」
「ああ、やっぱり」

 二人は顔を見合わせて、自分たちの予想が当たったことを喜んだ。
 立香の知り合いか。しかしどうして立香の母親であるとわかったのだろう。

「文化祭と卒業式の時に、藤丸先輩と一緒にいるのを見かけたんです。顔も似ているし、もしかしたら、って思って」
「そういうことね」私はそれに納得した。「でも、どうしたの。授業中じゃないの?」
「藤丸先輩がどこに行ったのか、気になってしまって」気恥ずかしそうに小柄な女の子が言う。「先輩たちに訊いても、どこに進学したとか、就職したとか、わからなくって……」
「藤丸先輩に告白し損ねちゃったんだって、彼女」もう一人の娘が補足した。

 ぎくり、として私は思わず隣のマシュを見た。彼女も呆気にとられたように固まっていた。これは、立香不在の修羅場だ。

「先輩のお母さんなら、知ってると思ったんです」と小柄な少女。「アタシ、どうしても藤丸先輩のことが忘れられないんです」

 女子生徒の眼差しは伏し目がちではあったけれど本当に真剣そのもので、彼への確かな気持ちが感じ取れた。
 私はどう言うべきか悩んだのち、その少女のひた向きな気持ちに応えるべく、正直に話してやることにした。

「うちの息子は、海外に就職しちゃったの。インドとかネパールの方。結構な僻地だから会うのは難しいと思う」
「か、海外……」

 うう、と残念そうに肩を落とす小柄な少女。あちゃー、と額に手をやるもう一人の女の子。
 この年頃の一般的な少女にとって海外というのはとても遠いところなのだ。ためらいなく海外へ飛んだ立香の方が変わっていると言えなくもない。

「だから言ったじゃん。告っておけばいいのに、って」
「そんなこと言ったって……」

 その言葉で余計に肩を落とす少女。二人は恋の話をする程度には仲が良いのだろう。
 愛の告白というのは人によっては大変に緊張するものだ。この娘の場合はその一歩が踏み出せなかったのだろう。

「藤丸先輩、顔は良いし、性格がすごく優しかったから、女子に人気だったんですよ」しょんぼりする女の子の代わりに連れの子が言う。「イケメンみたいにキャーキャー騒がれるようなタイプじゃなかったんですけど、ひそかに狙ってる子が多かったんです」

 どうやら息子は、高校時代からすでにモテる下地が完成していたようだ。現在のカルデアでの状況も納得だった。

「あの、そっちの人は?」

 連れの女の子がマシュの方を見る。先輩の母親と、見知らぬ外国人の少女を繋ぐ接点など普通は分からない。

「マシュ・キリエライトと申します」ぺこり、とお辞儀をするマシュ。
「あ、どうも」とつられてお辞儀を返す二人の少女。
「あー……」話がややこしくなる前に、私はさっさと真実を言ってやることにした。「この娘はね、立香の恋人なの」

「恋人……!」
「え、じゃあ、親公認の関係!?」

 少女二人の顔色が変わる。小柄な方は驚愕の表情のまま固まり、もう一人の方は顔を引きつらせる。
 真実を話すことは残酷かもしれないけど、叶わぬ希望を抱き続けるよりは無情な事実を突きつけてやる方がこの子たちには良いだろう、と私は思った。

「まあ、そうなるわね」と私。
「うわー。こんな美人が相手とか、勝てっこないじゃん」
「そんなぁ」

 目に見えて落ち込む少女。連れの少女もマシュも、その彼女にかける言葉が見つからず気まずそうにしていた。
 失恋、というやつだ。想いを寄せていた憧れの先輩が自分の手の届かないところへ行ってしまって、しかもものすごい美人をフィアンセにしてしまった。当然ながらひどい敗北感だろうとは思った。

「ううう……」
「まあ、しょうがないよ。もっといい男子探そ?」

 連れの少女がそう慰めるけど、小柄な女の子はすっかり意気消沈してしまっていた。私は一瞬躊躇しつつも、彼女に人生の先輩としてのアドバイスをしてやることにした。

「誰かを好きになるってのは、とても素晴らしい経験なのよ。あなたの場合は失恋してしまったけれど、それは絶対に無駄にはならないわ」

 その言葉にちょっとだけ顔を上げる少女。でもまだ納得しきれてはいない様子だ。私は続ける。

「恋をしなきゃ失うこともなかった。でも、恋をしなきゃ得るものもなかったのよ。またいつか恋をした時に、その経験が役に立つわよ」
「失恋で、得るものって、なんですか」と少女。

「『誰かを好きになること』そのものに価値があるの。好きであること、好きであったこと、その全部があなたの人生の財産になる。あなたは恋をして、それを失ったことで、人生に彩りを増やしたのよ。それは決して悪いことではない。──あなたはまだ若いんだから、これからたくさん出会いがあるはずよ。きっと素敵な男性に巡り合うわ」

 連れの少女も傍らのマシュも、私の話を黙って聞いていた。

「そんなに悲しんだら、運命の人が可哀そうよ」
「運命の、人……」

 少女はその言葉を受けて少し元気が出たようで、私の目を見てコクリとうなずいた。

「その、ありがとうございます」
「こちらこそ。息子を好きになってくれて、ありがとう」

 えへへ、と少女ははにかむように笑った。可愛い子だ。きっとこれから良い人に巡り合うだろう。


「あの、キリエライトさん」少女が立ち直ったことで安心したのか、連れの女の子がマシュに質問した。「藤丸先輩とはどこまでいったんですか?」

「どこまで、とは」キョトンとするマシュ。

「だから、その」照れ恥ずかしそうに頬をかく少女。「手を繋いだとか、キスとか、そういうどこまで関係が深くなったかってことです」

「ちょっと、なに訊いてんの」失礼でしょ、と小柄な少女が肘でつく。

 年頃の女の子だ。そういう色恋沙汰に感心があるのは当然と言えた。私はマシュに視線を向けて、答えてやるように促した。

 せいぜい『生涯を誓いました』とか、そういう文句を私は期待していたのだけれど、マシュの口から出た結果は全く違っていた。

「えっと、子作りを、少々」

 あまりに正直すぎる返答に少女二人と私が吹き出すのは、ほぼ同時だった。





「正直なのは結構だけれど、もう少しオブラートに包む言い方を勉強すべきよー?」
「ふにゃあ、いひゃいいぇすおひゃあさん」

 マシュの両頬をぐいぐいと左右に引っ張る私。涙目になりつつ呂律がまわっていないマシュ。

「エッチした、くらいならともかく子作りなんて、あの子たちの顔見た?」頬から一旦手を放しつつ私。「確かに一度は避妊しなかったわけだから間違ってないけど。あなたの年頃で子作りなんてあんまり言うものじゃないんだから。小さい方の子なんか、びっくりして腰ぬかしそうだったじゃない」

「うう、だって……」頬をさすりながらマシュ。

 その目を見ると、わずかに怒りのような感情が見てとれた。いや、これは単純な怒りというよりも、もっと別の感情が混ざっている。

 私は数瞬間経ってそれを理解する。これは恐らく、嫉妬だ。
 マシュは立香に想いを寄せていたあの少女に嫉妬していたのだ。だから、自身と立香の繋がりを殊更に強調したくなってしまい、あのような直接的すぎる発言をしてしまったのだ。

「嫉妬しちゃうのはわかるわよ」私はマシュの頬を包み込むように手を添えた。「好きな人を独占したいってのは、当たり前のことだもの。それだけあなたは、立香を愛してるってことなんだから」

 その言葉を受けて嬉しかったのか、マシュは微笑んだ。えへへ、と私の手に自分の手を重ねる。

「だからって、子作りしました、はデリカシーなさすぎだからね」

 彼女の顔に添えた手で、その頬をむにむにとこねくりまわす。みゃああ、というヘンテコなマシュの悲鳴。ほれほれ、ここがええのか、このマシュマロほっぺめ。

 この娘は意外と嫉妬深い。この娘にとって立香は、己に世界の色を教えてくれた、何よりも素敵な男の子なのだ。お説教はここまでにしておこう、と私は判断した。

「──まあいいわ。じゃあ、そろそろ帰りましょう」頬から手を離して、肩に上ってきていたフォウを抱っこしながら私。「途中の商店街で夕飯の材料買っていくから」

「今日は、何を作りますか?」
「鮭のホイル焼きにしようか」フォウにほおずりしながら私は言う。「鮭と、エノキと、ニンジンがいるわ。あと牛乳がもうないはずだから、ついでに買っていきましょう」
「また作り方、教えていただけますか?」
「もちろん」

 そうして私たちは立香の思い出から帰途についた。





 夕飯の材料を買って、家が見えるところまで来たころには午後五時を回っていた。途中でカフェやら本屋やら立ち寄っていたらかなり遅くなってしまった。

 家のすぐ近くまで来ると、門の前に誰かが立ち止まっているのが見えた。着物を纏った女性だ。しかしその髪は日本人のものとは思えないほど白い。銀髪のようにも見える。着物のデザインは白と緑で統一されていて、どことなく高貴な身分であるように感じられた。

 うちに用があるのだろうか。私はそう思いながら隣のマシュに視線を向けると、彼女の顔がみるみる青ざめていくのがわかった。心なしか身体も震えている。

「ど、どうして……」
「なに、知り合い?」
「……ひとまず逃げましょう。後ろを向かず、大声を出さず、ゆっくりと下がってください」

 なんだそれは。熊からの逃げ方か。

「あら、マシュさん」こちらに気づいた女性が声をかけてきた。その立ち振る舞いは奥ゆかしさを感じるほど優雅だ。「こんなところにいたのですね。お会いできてなによりです」

 あわわ、とマシュの動揺する声。私は目の前にいる女性のどこをそれほど恐れるのか全くわからなかった。確かに、エミヤ氏のような浮世離れした不思議な感じはするのだけれど。

「ええと、うちになんの用ですか?」とりあえず訊いてみる私。「マシュさんの知り合いみたいだけど、カルデアの人?」
「──あなたは?」

 彼女の目が私に向けられる。その瞳を見た瞬間、私の背筋を冷たいものが走った。蛇に睨まれた蛙のように足がすくんでしまう。なんだこれは。
 さっき、どこが怖いのかわからないと考えたが、それは全くの間違いであることを私は悟った。この女性は、なにか、致命的な何かがおかしい。私と彼女の間には、絶対的な隔絶が存在する。それが、わかってしまう。

「……私は、藤丸立香の母親です」質問を質問で返されたというのに、私は素直にそう答えてしまう。震えそうになる声を何とか抑え込む。

「まあ……!」笑顔を浮かべる女性。「マスターのお母上様だなんて、わたくしとんだご無礼を働いてしまいましたわ。質問を質問で返してしまって、申し訳ありません」

 そうしてペコリ、と頭を下げる。普段なら釣られてこちらも頭を下げるのだけれど、この女性の前ではそんなことをする余裕もなかった。私は今、なにかとんでもないものと相対している。それが背中の筋肉を硬直させてしまい、動かすことができない。

「わたくし、藤丸立香様のサーヴァントをしております」手にした扇子を口元に当てて、女性は言った。「クラスはバーサーカー。名を清姫。どうぞよろしくお願いしますね」





 安珍清姫伝説、という伝説が現在の和歌山県に存在する。

 文献によって内容に差異はあるのだけれど、おおむね、安珍という僧侶に裏切られた少女が激怒のあまり蛇に変化し彼を焼き殺す、というものだ。火を吐く蛇なので竜と解釈する場合もある。


 そしてその蛇に変身した少女の名が、清姫だ。

 清姫が旅の僧侶安珍に惚れて想いを告げるところから物語は始まる。女だてらに夜這いを仕掛けるのだが「熊野詣の最中だからダメだ」と拒絶されてしまう。巡礼を理由にフラれたのだ。
 それでも「参拝の帰りには必ず会いに来る」と約束してもらえたのだけれど、安珍は結局立ち寄ることなく去ってしまった。

 これに激怒した清姫は追跡を開始。なんとか安珍に追いつく。ところが安珍は「別人です」などと嘘を重ね、さらには神に頼んで清姫を金縛りにさせるなどして逃亡を続けた。
 とうとう清姫の怒りは天を衝き、巨大な蛇に化けて安珍を追い詰める。

 安珍は道成寺という寺に逃げ込み、そこの鐘を下して中に隠れることで清姫をやり過ごそうとした。
 しかし清姫は鐘に巻き付いて猛烈な炎を吐き出し、安珍は鐘の中で焼き殺されてしまう。安珍を殺した後、清姫は失意ののちに入水自殺する。


 とまあ、こんな筋書きの話である。平安時代末期に成立した「今昔物語集」にも記載されている割と有名な話だ。浄瑠璃や歌舞伎の題材にされることもある。

 私は「源氏物語」を始めとした古典文学が好きだったので安珍清姫伝説のことも知っていた。


 しかしそれにしても──その清姫が息子に召喚されていただなんて。

 私は彼女をリビングに通し、お茶とお菓子を出すことにした。どれだけ恐ろしい存在であろうと来客は来客だ。立ち話をし続けるのは失礼にあたる。

「ご丁寧にどうも」

 ソファーに座りながら清姫が言う。その隣にはガチガチに固まったマシュ。テーブルを挟んだマシュの正面には私。そして私の隣には──

「で、これはどういう状況なんだ」釈然としない表情の夫が座っていた。幸か不幸か、清姫を家に入れたのとほぼ同時に帰宅してきてしまったのだ。「サーヴァントってなんだ。まったく意味がわからないんだが」

「えーと、どこから説明したものか……」

 適当に作り話で済まそうか。そう考えてふと清姫の方を見やると、にっこり笑ってこう告げてきた。「母上様とはいえ、嘘は許しませんよ。わたくし嘘が何よりも嫌いなので」

 ぞくりと背筋が凍る。目が笑っていない。これから私が話すことの一語一句の誤魔化しすら見逃さないと言わんばかりの真剣さと冷徹さがその眼差しから感じられた。彼女は本気で『嘘』が嫌いなのだと私は理解する。彼女が伝承通りの存在なら、下手をすれば安珍のように焼かれかねない。

 確かに安珍にひどい嘘をつかれて傷ついた経緯が彼女にはある。けれどもそこまで蛇蝎のごとく嫌わなくても良いじゃないか。私は心の中で毒づく。

 悩んだ末、私は素直に説明してやることにした。それが一番安全だし、手っ取り早い。
 息子が魔術師であること、英雄偉人を召喚して使い魔として使役していること。目の前の少女が安珍清姫伝説の清姫であることをかいつまんで夫に説明してやった。それからタイムマシンのことも。清姫の視線を感じながら伝えるのはとても緊張した。


「立香が魔術師、ねぇ……」

 説明を終えても、夫は相変わらず微妙な顔つきだった。そりゃそうだ。いきなり自分の息子が魔法使いだなんて言われて、なんの根拠もなしに信じる方がおかしいのだ。

「で、その清姫さんがうちになんの用だい」夫が尋ねる。「マシュさんの同僚ってんなら、連れ戻しに来たのか?」
「いいえ、わたくしはただ、マスターに会いにきただけです」
「どういうことだい?」夫は首をかしげる。
「マシュさんが家出したというのなら、そこにマスターはやってくるはずです」
「まあそりゃそうだが……カルデアにいるんだろうから、そのまま会えばいいのに」
「マスターはどこかの時代に飛んでしまっていて、私単独では会えないのです。どうも独立戦争時の米国にいるようなのですが。……でも、近いうちにここにくるという直感だけはありましたので」

 なるほど、今会えないのなら先回りしておけばいいというわけだ。実に戦略的だと私は思った。少女の身でありながら成人男性の安珍に追いつけたのは、こういう頭の良さと勘の鋭さもあってのことだったのだろう。獲物を追い詰める蛇のようだ。

 しかしマシュが家出したというのに、二百年以上前のアメリカに立香がいるというのはどういうことだろう。なにか仲直りのプレゼントでも調達しているのだろうか。

「ずいぶんと立香にご執心なんだな」
「はい。わたくしはマスターの妻ですから」

 なぬ? 私も夫も怪訝な顔をした。マシュの顔はこわばったままだった。
 清姫はそれに構わず続けた。

「マスターから聞いておられないのですか。わたくし、藤丸立香様の妻をしております、清姫です」

 ぺこりと頭を下げる清姫。
 そこで私は察する。これはまた、とびきりの修羅場がやってきてしまったのだと。

「……立香の嫁さんは、そこのマシュさんだって聞いてたんだがな」と夫。「あんたは、勝手に自称しているんじゃないのか?」

「まあ、ご冗談を」にこりと微笑む清姫。しかし目が全く笑っていない。「わたくしたち、相思相愛の仲なのでしてよ?」

「せめて、どうして立香の嫁だって言うのか、理由を訊かせてくれないか」

 夫が腕を組んでソファーの背もたれに体重を預ける。この人がこの姿勢になるのは、相手への警戒を強めている時だと私は知っていた。この人は今、清姫を注意深く吟味している。

 それを知ってか知らずか、清姫は不敵な笑みを浮かべる。

「マスターがわたくしを召喚したからです。わたくしと惹かれ合う定めにある魂は、この世のあらゆる命の中でも安珍様のものだけ。ならばこそ、わたくしがマスターを伴侶と認識するのは当然のことです」

「……立香が安珍とかいう僧侶の生まれ変わり、って言いたいのか。だから、あんたは立香を愛してるのか」

「ええ。まさにその通りです。理解が早くて助かります、お父上様。……私は、安珍様を愛しています。本当に、心の底から愛していたのです。この心を偽物と呼ぶのなら、世界に真実はありません。だから──燃やしたのです。愛で、悲しみで、ただ燃やしたのです」

 手にした扇子をパサリと広げ、口元を隠す清姫。その動作からは貴族の娘であることを感じさせる優雅さが感じられる。しかし彼女からにじみ出る狂気がそれを打ち消してしまう。

 清姫はジロリ、と隣に座るマシュを見た。こわばっていたマシュの身体が小さく跳ねる。

「わたくしとマスターが愛し合っているというのに、マシュさんときたら。マスターをたぶらかして、夜な夜な淫らな逢瀬を繰り返すだなんて。あんな、破廉恥な行為を」

 うわぁ、この娘だったのか。通気口のダクトから立香とマシュのセックスを目撃してしまったのは。私はその事実に納得しつつ戦慄する。よりにもよって、清姫に目撃されるなんて。

 確か文献によれば清姫が安珍に恋したのは数え年で十三歳、現在主流の満年齢では十二歳のはずだ。貴族の娘として蝶よ花よと愛でられ育てられた彼女にまともな性知識が無くてもおかしくはない。

「わたくしの伴侶たるマスターをたぶらかしておきながら、彼を怒鳴りつけて飛び出すなんて、彼の伴侶にも、サーヴァントにもふさわしい行動とは思えません。あまつさえマスターのご実家に、迷惑も顧みず転がり込むなど……」

「……私はマシュさんを迷惑だなんて思っちゃいないわよ」清姫の不遜な言い方にいら立った私は言い返す。「少なくとも私は、マシュさんを立香のお嫁さんとして認めているわ。彼女が立香をどれだけ罵倒したって、その愛情は本物だもの」

 私の言葉に視線を向ける清姫。蛇のような眼差しがこちらのものと交わる。表に出してはいないが、怒っている。それはすぐにわかった。私も負けじと睨み返す。

「……清姫さん。もう一度確認したいんだが」にらみ合いを中断したのは夫だった。「あんたが立香を愛しているのは、立香が安珍の生まれ変わりだから、なんだな?」

「ええ。わたくしが愛を捧げるのは、安珍様ただ一人。その魂を持つお方なのですもの。マスターを、心から愛しております」

 相変わらずの答えが返ってくる。私はその答えにいら立ちをつのらせつつも、言い返せない。この少女の狂気は並大抵のものではない。彼女の目を見ればすぐにわかる。

 バーサーカー(狂戦士)との自称は伊達ではない。この少女は会話こそできるものの、想像を絶する狂気でその心を満たしている。私はそれを理解した。

 異形の血を引かぬただの少女が、竜に変化するほどの狂気。まさしく愛に狂っているのだ、この少女は。

 どうすればいい。私は悩んで、それから夫の顔を見ようとして──


「ふざけんじゃねぇ」

 ぴしゃり、とその場の空気をはねのける声が耳に響いた。私はその声が夫のものであると認識するのに数瞬間ほどかかってしまった。明確な怒りを秘めた、夫の低い声。二十年あまりの付き合いの中で、夫のそのような声は聞いたことがなかったのだ。

 私はとっさに夫と、その向かい側に座る清姫、それからマシュの顔を見た。夫の顔は険しくて、それとは対照的に清姫もマシュも驚いたような、それでいてわずかな恐怖を感じたような、そんな表情をしていた。きっと私も二人のような顔をしているのだろう。

 呆然とする私たちをよそに、夫は固く結んでいた口をゆっくりと開いた。

「俺のせがれを、バカにするな」



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第五話 おとうさん

「わたくしがマスターを馬鹿にしているとは、どういうことでしょうか」

「そのまんまの意味だ。それ以上俺のせがれを、立香をバカにするのは許さない」

 清姫と夫の視線が交差する。夫の言葉の意味を測りかねているのか、清姫は彼を訝しむように見ていた。夫は険しい顔つきのまま、清姫の問いに答える。

「お前さんが見ているのは立香じゃなくて、安珍なんだろ?」吐き捨てるように夫は言う。「自分のことを見てくれない女を嫁に選ぶほど、立香はバカじゃない」

「まあ、それはありえません。マスターは安珍様に他ならないのですから」

「戯言もたいがいにしろ。仮に立香が安珍の生まれ変わりだったとしても、あんたは立香を見ていることにはならない。立香の前世の姿に関心があるだけで、あいつ自身を見ていないじゃないか」

 私は夫が言いたいことを理解する。清姫が見ているのは安珍でしかなく、今を生きる立香を完全に無視しているのだと。そんな女に立香を渡すわけにはいかないのだと。

「お前が立香に安珍を見ている限り、あの子がお前に振り向くことは絶対にない。立香がどれだけ優しくたって、それだけは変わらんさ」

 その言葉を聞いて、清姫から笑顔が消えた。自身の恋の一切を否定されたことで、彼女の中に激しい怒りが満ち溢れようとしているのだと私は悟った。

 それを裏付けるように、清姫の唇の間から赤い炎が見え隠れした。無表情のままの彼女から、凄まじいほどの怒気が感じ取れる。もはや殺気としか言いようのない怒りだ。彼女は、本気だ。

「立香を見ていない女を立香の嫁にするわけにはいかない。あんたなんかに、立香を渡してたまるか」

 赤い炎が、強くなる。ダメだ、と私は夫を突き飛ばしてでも止めようと考えたのだけれど、清姫の発する殺気が激烈すぎて、怖くて動けない。このままでは夫が焼かれてしまうというのに、私は恐怖から目を背けることすらできなかった。


 ところが炎の奔流が発せられるであろう直前で、夫がテーブルを脚で踏みつけて、反対側の清姫につかみかかった。彼女の着物の胸倉を両の手でつかんで、思い切り引き寄せる。

 ゴン、という大きくて鈍い音と共に夫は清姫の額に頭突きを叩き込んだ。清姫は突然のことで対応できなかったのか、呆然としていた。口の中でくすぶっていた業火が怒りと一緒にみるみる消えていく。

「殺れるもんなら、殺ってみろ」

 歯をむき出しにして、夫は清姫に迫った。その凄まじい形相に清姫が小さく悲鳴をあげるのが聞こえた。

「嘘が嫌いだって言っているくせに自分へ嘘をついているお前なんか、怖くもなんともない。お前にそれができるってんなら、俺を殺してみせろ。安珍みたいにな」
「わたくしが、嘘を……?」

 そんなことあるわけない、と弱々しく清姫が首を横に振る。嘘を何よりも嫌う自分が、嘘をついているわけがないと。
 理解を拒む清姫に対し、叱りつけるように夫は答えてやった。

「安珍がどんな男だったのかは知らん。だが、立香と違う人間であることは確かだ。お前は立香と会うたびに、安珍の姿とギャップを感じているはずなんだよ。お前はそれを黙殺してるんだ。『この人は安珍だ』って自分に嘘をついて、無理やり納得しているんだ」

 夫の額から静かに赤い滴がこぼれる。血だ。清姫の額にも赤いものがにじんでいる。先ほどの頭突きは額を切ってしまうほどの威力だったのだ。それだけ夫は怒っているのだと気づいた私は寒気を覚えた。こんなに怒っている夫を見るのは、初めてだ。

「嘘が嫌いなのは結構だが、自分に嘘ついているようじゃ話にならない。そんな奴がどれだけ怒ったって、俺は怖くない。立香を見ようともしていないお前なんかな」

 すると、清姫を掴みあげている手を一つ離して、その手で夫はマシュを指さした。

「少なくともマシュさんは、立香を見ている。この娘は、立香の綺麗なところも醜いところも真正面から見てきて、そしてこれからも見てくれる娘だって俺は判断した。だから俺は認めた。この娘なら、立香を任せられるって。立香と一緒に、幸せになってくれる娘だって」

 マシュが息を飲む音が聞こえた。私も同じように息を飲んでいた。この人はそこまで、マシュのことを見てくれていたのだと。マシュが立香に向けている深い愛情を見透かすほどに。ほんの数日分しか彼女を見ていなくても、それだけは夫も理解していたのだ。

 マシュが立香と幸せになれる女性かどうか、この人はちゃんと見ていたのだ。

「俺はな、立香の父親なんだよ。立香が幸せになるなら、なんだってしてやる。あの子のためなら命だって惜しくない。お前に立香を渡すくらいなら、ここで殺されて、立香がお前を完全に拒絶するようにしてやる。安珍みたく俺を焼き殺して、父親の仇として立香に絶対の拒絶をされるんだ、お前は」

 至近距離まで近づけていた顔をゆっくりと遠ざける夫。ポタポタと額の血が白いシャツを濡らし、踏みつけたテーブルに赤い斑点をつけていく。それでも夫は清姫から目を逸らさず、鋭い眼光で射抜いていた。

「俺は死ぬかもしれんが、それで立香の未来が開けるなら、俺はそれでいい。骨になったって、灰になったって、俺はあの子を幸せにする。そのために、生きてきたんだ」

 そこまで言って、夫は掴んでいた手を放した。ドサリ、と力なくソファーに沈む清姫。

 夫はテーブルから脚を下ろすと、血が流れ出る額を押さえてリビングから出ていった。リビングには、あっけにとられた私とマシュと、それから意気消沈したようにソファーに座る清姫が残された。



「──マシュさん、清姫さんをお願い」

 私は少し経って、夫を追いかけた。
 リビングのドアを開けた横で、夫は額を押さえて壁に寄りかかっていた。私は扉を閉めて、夫に近づく。

「痛ぇ……」額から滴る血をシャツで拭う夫。「なんだ、ありゃ。コンクリートに頭突きしたみたいだったぞ。人間の固さじゃない」
「あれがサーヴァント。人間よりずっと強い使い魔なんですって」
「立香の使い魔なのか、あれが」
「百人くらいはいるみたいよ」
「それを全部、一人で従えてんのか、あいつ」ははは、と乾いた笑いをこぼし、夫は微笑んだ。「すげぇな、立香は」
「……正直、あなたが魔術を信じるとは思わなかった」

 夫はリアリストで、オカルトや心霊現象の類いは片っ端から否定するタイプであった。そんな夫が、立香が魔術師であることを信じたのは私としても意外だった。

「お前が言うんだから、本当のことなんだろうさ」夫は、実にあっさりとした答えを返してきた。「お前が立香のことで嘘ついたこと、一回もないからな」

 血まみれのまま、歯を見せて笑顔を見せる夫。私はそのあまりに単純明快すぎる論理に唖然としてしまう。

「……だけど、そうか。嫁さん連れてきただけじゃなくて、強くなっていたんだな、立香は」満足げに上を向いて、呟くように夫。「自慢の、息子だ」
「だって、あなたの子だもの」
「お前の子でもある」

 互いに微笑み合ってから、私は懐からハンカチを取り出して夫の額に添えた。出血が多い。それだけの衝撃を頭部が受けたのだから、硬膜下出血の危険性もある。

「……救急車呼ぶわ」
「いや、タクシー呼んでくれ。自分で病院行く。それぐらいは、できるさ」

 サーヴァントとはいえ少女に頭突きして救急車で運ばれるなんて、みっともない。恐らく夫はそう考えているのだろう。この人は昔から変なところでプライドが高い。立香のことに関してはなりふり構わないというのに。

「……わかった。でも救急箱持ってくるから、ハンカチで押さえて待ってて」
「おう」

 夫の短い了解の声を聞いてから、私は階段下の収納スペースに入った救急箱を取りに行った。

 夫のところに戻ってくると、渡したハンカチはもう真っ赤だった。私は傷口を消毒してからガーゼと包帯で手当てをした。ついでに電話でタクシーを呼んでおく。

「清姫さん!」

 マシュの声と共にリビングのドアが開いて、清姫が飛び出してくる。彼女はそのまま玄関へ一目散。声をかける暇もなく家を飛び出して行ってしまった。ほんの一瞬の間ではあったのだが、私には彼女が悔しそうな顔を必死に手で覆い隠そうとしているのが見えた。

「清姫さん……」
「……何を言ったのかは知らないけれど、今の彼女にどんな言葉をかけても、嫌味か勝ち誇りにしか聞こえないわよ」
「そんな、私、そんなつもりじゃ……」

 恐らくマシュは、清姫があそこまで弱った姿になるなど予想もつかなかったのだろう。私だってそうだ。あの狂気に満ちた少女が夫の頭突き一発で退散するなんて。


「ふむ。一時はどうなることかと思ったが、どうにかなったようだな」

 この声は。思わず玄関を見ると、出ていった清姫と入れ替わるように、見知った男性が立っていた。

「エミヤさん。どうしてここに」
「言っただろう。この家を警護すると。一キロ先のホテルから見守らせてもらっていたよ」

 そう言ってエミヤ氏は後ろ手に玄関のドアを閉めた。その姿は数ヶ月前や昨日会った時とはまるで違う、黒のボディアーマーと赤い上着という出で立ちだった。まるで戦闘服だ。

「いつでも清姫を狙撃できるようにね。なに、私はアーチャーだ。このくらいの距離、造作もない」
「あんたは?」夫が訊く。確かこの二人は初対面だったはずだ。夫からすれば見知らぬ若い外国人男性にしか見えないのだ。

「名はエミヤ。アーチャーのサーヴァントだ。英霊としては少々特殊ではあるがね」

 ああ、この人もサーヴァントだったのかと妙に納得する私。どこか浮世離れした不思議な雰囲気がしていたのはそういうことか。きっとあのアルトリアとかいう女性もそうなのだろう。霊なのだから、浮世離れしていて当然だ。エミヤなんて英雄は知らないけれど、偽名か、あるいはマシュのように例外的な存在なのかもしれない。

「あの清姫をよく退散させた。と言いたいところだが、単にあれは運が良かっただけだ」
「どういうこと?」と私。

「この家には強力な結界が施してあってな。この中で藤丸立香の血族、あるいはマシュ・キリエライトに対し明確な害意を持つと、その対象は身体の内側からダメージを負うようになっている。人間なら瀕死、サーヴァントなら行動不能になるようにな」

 いや、なにごく普通に人の家に結界なんて張ってるんだ。私は怒るのを通り越して呆れてしまう。守ってくれるのはありがたいが、そんな攻勢全開の結界を張るならせめて許可をとれ。目の前で強盗がいきなり瀕死になったら驚いてしまうではないか。

 私が憮然とした顔で見つめているのを気にしないようにしているのか、目を逸らしながらエミヤ氏は続けた。

「あなたが頭突きをぶちかましたその瞬間に、清姫の殺意が最大規模になった。それと同時に結界が作動して、清姫の霊基にダメージを与えたんだ。おそらくは精神面にも影響が出たのだろう。あの霊基損傷でまだ動けるとは、さすがバーサーカーだな」

「……なんだ。じゃあ、意味なかったのか」

 プライドが傷ついたのか、渋い表情で夫が呟く。

「そうでもないさ。ダメージを負った清姫に追い打ちをかけて退散させたのはあなたの言葉と怒りだ。サーヴァント相手に、良くひるまなかったものだ。蛮勇とも言うがね」
「褒めてるのか、けなしてるのか、どっちだ」

「両方さ。私も生前、身に覚えがあったのでね」ちょっと自嘲気味に肩をすくめるエミヤ氏。「もうこりごりだ。あなたも、もうサーヴァント相手に生身で張り合おうなんてしないことだ。命がいくつあってもたりないぞ、あれは」

 私はその言葉に少しだけ驚いた。サーヴァントがどれだけ強いのかではなく、このクールなエミヤ氏が生前にサーヴァント相手に生身で戦いを挑んだことに、だ。もしかしたらこう見えて無鉄砲だったのかもしれない。

「それと連絡だ。ついさっき、カルデアから藤丸立香が出発したと報告があった」

 ふと思い出したかのようにマシュの方を見て言うエミヤ氏。

「安心したまえ。割と早く着くそうだ」




 タクシーで病院へ行く夫を見送った後、エミヤ氏も意味深な微笑みを残して出て行った。家に残ったのは、私とマシュと、部屋に避難させていたフォウだけだった。

 リビングと廊下に滴った夫の血痕を雑巾で掃除して、血まみれのシャツとハンカチを洗面台で手洗いする。洗ったのが早かったためか、上手いことシミにならなくて済んだ。

 あらかた片付いたところで時計を見ると、すでに午後六時を過ぎていた。もう夕飯を作らないといけない。確か鮭のホイル焼きを作る予定だったのだ。

 作り方を教えてあげる約束だったので、マシュを呼びに行く。一階の客間を覗いてみるが、いない。ならばと思い二階の立香の部屋を見てみる。

 マシュは立香のベッドに座って、一人静かに膝の上に寝転がるフォウを撫でていた。明日には立香が来るというのに、その表情に光はなく、どちらかと言えば暗い。

「……お母さん?」

 ドアを開けた私に気づいたマシュがこちらに視線を向ける。ついでにフォウもこっちを向いて、私の姿を見たとたんに尻尾を振り始める。

「清姫さんのこと、気にしてるの?」彼女に歩み寄って、その隣に座る私。「カルデアに帰ってからフォローすればいいじゃない。あなたは悪くないし、大丈夫よ」
「それも、あるのですけれど……」

 マシュはそこでいったん口ごもる。私は急かさず、彼女の膝の上のフォウを撫でてあげた。フォウは私の手にじゃれついてくる。
 沈黙が続いたのは一分か、二分程度だったと思う。フォウの顎の下をくすぐってあげているところで彼女はもう一度口を開いた。

「……私、先輩にどんな顔して会えばいいのでしょうか」私の方に顔を向けつつマシュ。ほんの少しだけ声が震えている。「謝るべきなのか、怒るべきなのか、あるいはもっと別のことをすべきなのか。私には、わかりません。すぐにでも先輩に会いたいのに、それがわからなくて、怖いです」

「立香に嫌われるかもしれないから?」小さく息をついて私。「嫌われるのを怖がってちゃ、恋愛なんてできないわよ。あなたのしたいことをすればいい」

「でも、こんなこと、初めてで」

 どうしたらいいのかわからない、と言いたげにマシュは顔をうつむかせた。私は彼女の頭をそっと撫でながら、言ってやる。

「立香に会ったらすぐに、抱き着いてキスしちゃえばいいのよ」
「まじめな話なんですよ?」
「まじめな答えよ?」怒るようなマシュに対し、私は即座に返した。「あなた、すぐにでもそうしたいんでしょう?」
「でも、謝罪も何もなしに、それは……」
「あなたは、礼儀とか体面とか、そっちの方が立香より大事なの?」
「それは、違います。断じて、そうではないです」

 それだけは絶対に本当だ、という気持ちがその言葉には含まれていた。

「だったら、立香への愛情を優先すべきでしょ。喧嘩したけど愛してるって、行動で伝える方がよっぽどいいと思う。言葉なんて後からついてくるから。大切なのは気持ちよ」
「そんなもの、なんでしょうか」
「そんなものよ。恋愛なんてのは」

 心配性ね、と私は彼女に微笑んだ。「大丈夫よ。立香はきっと、あなたを笑顔で迎えにくると思うわ。あなたが謝ってくるなら許すし、怒ってくるなら素直に『ごめんなさい』を言える子だもの。心配する必要なんて、これっぽっちもないわ」

 立香は自分を殺そうとした相手を許せるのだ。ならば、喧嘩して家出した彼女を許すのはずっと簡単なはずだ。
 だから心配いらないよ、と私はマシュに語りかけてやった。

「……はい」ちょっと迷ったのち、彼女は微笑み返してくる。「お母さんがそう言うのであれば、信じます」
「よろしい」

 いつか立香を褒めた時のように、私はマシュの頭を撫でてあげた。 

「じゃあ、夕飯の準備しようか」
「はい。鮭のホイル焼き、でしたよね」
「フォウくんの分も一緒に焼くから、四匹分焼いちゃいましょ。フォウくんの分はネギとか除けて……あら?」

 私たちが夕飯の話をしていると、それまでゴロゴロしていたフォウが突然起きて、ベランダに繋がる窓際まで跳躍した。

「フォーウ、フォーウ、キャウ!」

 まるで外に何かいるように鳴き声をあげるフォウ。私たちは顔を見合わせてから二人して窓に近づいた。

「何か、外にいるんですか?」

 そう訊きながら窓を開けてやるマシュ。フォウはベランダに出ると、犬が遠吠えするかのように上を向いて泣き続ける。空はもう暗くて、月と星が輝いているだけだ。

「何かしら」
「いえ、これは」上空に目を凝らすマシュ。「隠蔽されていますが、何かの魔力反応?」
「何か、空に浮かんでいるの?」
「はい。割と近くに。ここから真上の、高度三十メートルくらいの位置に何か。……私の霊基が反応している。この感覚は、もしかして──」


「マシュ、母さん」

 聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。上からだ。私はとっさにベランダの手すりに手をやって、屋根の上を見た。マシュも私と同じように屋根を見る。

 屋根の上に、一人の見知った男の子が立っていた。

「──立香」
「ただいま、母さん」

 そう言って、さもそれが当たり前であるかのように、私の息子は微笑んだ。


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第六話 あなたと共に


「せんぱい、せんぱい……!」

 隣のマシュが、今にも泣きそうな声で立香を呼ぶ。

「ちょっと待ってて、今降りるから」

 すると立香はひらりとジャンプして、なんと庭に向けて飛び降りたではないか。

 三階に近い高さから飛び降りた息子に私は小さく悲鳴を上げたのだけれど、それは全くの杞憂に終わった。

 立香は着地と同時に身体を捻りながら倒れこみ、落下の衝撃を身体の各所に分散させるような動きで地面を転がってみせた。
 それから起き上がって、ニッコリと笑顔を向けてくる。

「せんぱい!」

 今度は隣のマシュがベランダの手すりに脚をかけて空中に身を躍らせた。彼女もまた立香と同じように衝撃を殺して無傷で着地してのけた。

 その光景を私は呆然としてしまう。なんだ、あれ。

 あの動き自体は見たことがある。確かテレビで、自衛隊の話だったと思う。空挺部隊がパラシュート降下する際、着地の衝撃を和らげるための方法だ。五点着地法とかいうやつだ。

 それにしたって自分の息子とその恋人がそんな動作を習得しているのはどう考えてもおかしい。この子たちはいつから空挺部隊に入ったんだ。本当になんなんだカルデアって。それとも私がおかしいのか?

 何はともあれ、立香が帰ってきたのだから出迎えるのが筋というものだ。私はフォウを抱き抱えて部屋の中に戻り、そのまま玄関へと向かった。

 玄関を抜けると、そこは濃厚なラブシーンだった。

 二人は互いに強く抱き合い、貪るような口付けを交わしあっている最中だった。さすがに気まずくなって、フォウ共々私はその光景に背を向けた。

 仲直りも何もあったものじゃない。最初からラブラブじゃないかこの二人は。私は小さくため息をついた。このバカップルめ。


「ふむん。また濃厚な光景であることよ。余も妻との逢瀬を思い出す」

 聞きなれぬ声に顔を向けてみると、そこには褐色の肌をした男性が立っていた。エミヤ氏ではない。中東や地中海風の外国人だ。

 身体のあちこちに金の装飾が施されてはいるがその実かなり軽装で、上半身などは白いマントで覆われている程度だ。その堂々とした佇まいは畏怖すら感じ取れる。

 男性もまたこちらを見てきたので、私はその太陽色の瞳と目を合わせた。エミヤ氏や清姫と同じく、どことなく浮世離れしている存在感だ。

「あなた、もしかして、サーヴァント?」
「いかにも。魔術の素養もなしに良くぞ気がついたな。貴様はマスターの母親か?」
「ええ、私は立香の母です。──だって、なんとなく浮世離れしているんですもの、あなた」

 ほう、貴様が。といった感じで頭の先から爪先までその瞳で見つめられる。不躾というわけではない。この人にはどことなく王者の気風がある。

「その賢さに免じて名乗ろう。我が名はオジマンディアス。王の中の王だ。此度はライダー(騎乗兵)のサーヴァントとして現界した」
「……ごめんなさい。私、日本史と中国史はともかく、世界史には詳しくないの」

 きっとこの人は有名な王様なんだろうけれど、私はその名前に聞き覚えがなかった。世界史は専門外なのだ。
 しかし正直に知らないことを伝えると、彼はニヤリと笑ってみせた。

「良いぞ、赦す。自らの無知を知り、それを正直に述べる賢き者は余の好むところだ。無知を隠し通す愚か者より遥かに信頼できる」
「それは、どうも」

 尊大に見えて器は大きいようだ。不敬者として怒りを買うことは無かった。
 彼は顎に手をやって思い出すように口を開く。

「そうだな、この極東の地においては……ラムセス2世の名がより知られているだろう」
「あ、聞いたことある。古代エジプトの王様ね」
「ファラオである。万物万象は我が手中にあるがゆえに」
「ファラオ?」
「そう、ファラオだ」

 ファラオという言葉は何となく知っている。古代エジプトの王たちは皆それを名乗った。王であり、神であることを示す呼び名だ。

 日本の元首を王や皇帝でなく天皇と呼称するように、古代エジプトでもファラオという名は特別なものだったのだろう。

「で、そのファラオがどうしてうちに?」
「決まっておろう。マスターを、貴様の息子を連れてきたのだ」そう言って不敵な笑みを見せるファラオ。「よかろう、マスターの母である貴様には特別に見せてやる。上を見るがよい」

 上? 私は言われた通りに視線を上げた。そこには夜空があるはずだったのだけれど、暗い空と星の代わりに全く別のものが浮かんでいた。

 太陽だ。太陽の輝きを纏った大きな船。帆船のようにも見えるそれが、家の真上に浮かんでいる。そのあまりに非現実的な光景に私は言葉を失ってしまう。

「『闇夜の太陽船(メセケテット)』。余が騎乗兵として召喚された証だ。魔術師どもに隠蔽の術式を掛けさせておいた」私の驚く顔に満足したのか、ファラオは嬉しそうに解説する。「音の三倍の速さでここまで来た。市街地に衝撃波をやらないようにするのが大変だったぞ」
「……これは、また、すごいのが来たわね」
「当然のことだ。余はファラオなのだからな」

 ファラオ。ファラオってなんだっけ。私は自分の中の常識が崩れ始めるのを感じる。魔術の世界というのは、常識に囚われてはいけないのだろうか。

「まあ、うん、でも、立香を送ってくれて、ありがとう」
「余のマスターが、自らの妻となる者へ一刻も早く会いたいと言うのなら、それに応えずして何がファラオか」
「……あなた、二人を応援してくれているの?」

 確かにこの王様は、マスターである立香が命じたところで素直に従うとはとても思えない。立香を送ってきてくれたのは彼自身の意思によるものと考えるのが自然だ。
 王様は私の言葉を受けて、思い出すように目を閉じる。

「余の時代、エジプトにおいて恋愛の末の婚姻はふしだらなものであり、家同士が決めるものが最上とされていた。しかし余は妻と大恋愛の末に結ばれたのだ。ゆえにあのような恋心を否定はしない。むしろ好ましく思う。だから手を貸してやったまでのことよ」

 この王様が、大恋愛とは。私はちょっぴり驚いた。この人は昔の自分と奥さんの姿を、立香たちに重ねているのだ。共感と言う方が近いかもしれない。

「奥さんのこと、好きだったのね」
「いかにも。余が敬愛した女人は、かの者だけだ」

 敬愛。その言葉に私は目を丸くする。この見るからに尊大な王様が「敬愛した女性」だって?

「なんだその目は」
「ごめんなさい。あなたの口から『敬愛』だなんて言葉が出てくるなんて、思ってなくて」
「妻はこの世の誰よりも慈悲深く、そして神々よりも美しかった。自ら戦場に出る胆力もあった。その妻を敬愛することが、おかしいことか?」
「……いいえ、全然」私はこの王様がとても良い人であることに気が付いて、思わず微笑みを返していた。「とても素晴らしい人だったのが、わかるわ」
「ふむん。良いぞ。もっと妻を誉めるがよい」

 そう言って王様は笑った。太陽を思わせる鮮やかな笑顔だった。

「──それはともかく、あやつらはいつまで接吻を続けるつもりだ」

 王様の言葉で後ろを向くと、立香とマシュは未だに濃厚なラブシーンの真っ最中だった。互いに舌を絡ませあっているせいか二人の口元から唾液が滴り落ちている。

 マシュの腰に回していた立香の右手は、いつの間にか彼女のお尻に添えられているではないか。スカートの裾から手を入れ、タイツ越しにお尻の割れ目へ指を滑り込ませるような卑猥すぎる手つきで撫でている。

 いやらしく触られているというのにマシュは嫌とも思っていないのか、ただ頬を染めて立香の唇をむさぼっている。彼女の右手もまた立香の脚の付け根を撫でまわしている。こっちはもっと性的な手つきだ。デンジャラスなビーストである。

 王様は呆れたような顔つきで二人の元へ向かい、手にしたエジプト風の杖でおもむろに立香の頭を叩いた。スコーン、といい音が響く。

「いってぇ!」マシュから唇を離して立香。
「ファラオの眼前でいつまでも濡れ場を見せつけるでないわ。馬鹿者」そのまま立香の頭に杖の先を置く王様。「接吻も良いが、まずこの者へ話すことがあるだろうに」
「……そうだったね」

「私へ、話すこと、ですか?」口元を拭いながらマシュ。息がしづらかったのかあるいは興奮のせいか息が荒い。

「うん」頭の上に乗せられた杖を除けながら、バツの悪そうに立香が言う。「……ごめんね、マシュ。俺が優柔不断だったせいで、きみを追い詰めちゃって」

 それを聞いたマシュはキョトンとした顔で彼を見つめる。言われたことの意味がすぐには理解できなかったようだ。おいおい、と私は心の中で突っ込みを入れた。立香が現れるまで悩んでいたのはどこへ行った。

「……あ」
「もしかして家出してたの、忘れてた?」
「……はい」

 少し遅れてマシュの顔が恥ずかしそうに俯かれる。どうもマシュは先ほどの濃厚なキスで頭の中が真っ白になり、それまでの懸念事項が吹き飛んでいたらしい。立香が来てくれたのがよほど嬉しかったのだろう。

 彼女らしい、と私は小さく笑った。本当に立香のことばかり考えているのだ、この娘は。

「みんな心配してたよ」
「……ごめんなさい」
「でもマシュの家出先がここで、俺は少し嬉しかったんだ」叱られた子犬のようにおとなしくなってしまったマシュを、立香は優しく抱きしめた。「あれだけ怒っていたのに俺の実家を頼ってくれてさ。カルデア以外にマシュの帰る場所があるんだって思えて、なんだか安心したよ」

 そう言って立香はマシュの頭を撫でた。マシュも立香の胸に顔をうずめる。

 あとそれまで近かったオジマンディアスは、そっと二人から離れて私の隣に並んだ。王様というだけあって他人の機微を感じ取る能力は高いのかもしれない。愛しあう二人に水を差すような真似はしたくなかったのだろう。

「……確かに私の帰る場所はカルデアとこの家がありますけど」しばらく撫でられた後、マシュは顔を上げて立香の目をまっすぐ見つめた。「私が居たい場所は、ここだけなんです。この世界で私がずっと居たいのは、あなたの隣だけなんですよ、先輩?」
「うん。わかってる」
「だから、他の女の人がそこにいるのは嫌です。私にはここしかないんです。世界でたった一つの私の居場所を、誰にも渡さないでください」

 よく言えた、と私は心の中でマシュを褒めた。自分の中に渦巻く独占欲を、この娘はちゃんと伝えることができたのだ。自分に色彩を与えてくれた男の子、それを誰よりも独り占めしたいという気持ちを。

 この娘はようやく他の恋敵たちと対決する覚悟を固めたのだ。耐えたり逃げるだけではなく、自分の幸せのために主張することを覚えた。それが私には彼女の成長のように感じられて、嬉しかった。

「そう言うと思ってた」ニッと歯を見せて笑みを向ける立香。「俺もそうしたい。そのために、マシュに渡すものがあるんだ」
「渡すもの?」

 立香は抱きしめていたマシュを離して、自身のポケットに手を突っ込んだ。そこから小さな小箱が取り出される。

 私はその箱の大きさと質感を見て中身を察する。あれは、まさか。

「これは……?」
「これを用意するのに時間かかっちゃったんだ」

 小箱の上半分が開かれる。私の予想通り、そこにはキラキラと輝く透明な宝石と、それがはめ込まれた銀色の指輪が二つ入っていた。

「左手薬指の意味は、知っているよね」
「はい」頷くと同時にその顔をみるみる赤くしていくマシュ。しかし今度は俯かず、彼の目をじっと見つめる。「知っています」

 緊張と、それから特大の期待に彼女の呼吸が浅く、早くなるのがわかった。

 私もその雰囲気につられてか、鼓動と呼吸が早くなるのを感じた。自分が『それ』をされるわけでもないというのに、ドキドキして、嬉しくて、涙が出てきそうだ。

 一度深呼吸をしてから、意を決したように立香は口を開いた。

「……マシュ」
「はい」

「これは俺のわがままなんだけど」小箱ごと指輪を差し出す立香。「俺と一緒に、未来を歩んでほしいんだ。俺の人生の半分をマシュにあげるから、マシュの人生も半分、俺にください」

 プロポーズ。私の息子が、その恋人に求婚した。私の人生の中でも決定的瞬間だった。

 だというのに、心の中で沸き立っていた喜びが失速してしまうのを私は感じた。
 マシュも私と同じように感じたのか、顔を赤くしたままむくれてしまう。

 立香、あんたって子は、こんな時にやらかすなんて。

「五十点」ため息とともに私は言ってやる。「今のプロポーズは百点満点中、五十点よ」
「ええええ!?」と心底驚いたように立香。
「まったく、長引かせておいてそんな求婚しかできないとは。余の見込んだマスターが情けないことよ」

 腕を組んで見守っていたオジマンディアスですら首を振って、そう言ってくる。既婚者である彼も気づいたのだ。

「俺、今の、すごく頑張って考えたのに……」一世一代のプロポーズを全員に否定されて戸惑うように立香が言う。「何が、悪いのさ」

 この子、本当にわかってないな。私は呆れながら、マシュに視線を向けて「言ってやりなさい」と促した。

「はい、お母さん」うふふ、と彼女は私に微笑んで、それから立香に顔を近づける。「先輩。私が前に言ったこと、忘れちゃったんですか?」

 え? と立香は戸惑うような顔つきになる。必死になって記憶を掘り返しているのだろうけど、きっとそれは間に合わない。そんな暇さえ与えないようにマシュは続けた。

「私は私のすべてを、あなたに捧げたいって思ってるんですよ?」小箱を持つ立香の手に、マシュの手が添えられる。「命も、身体も、心も、先輩に全部あげるつもりで私は生きてきたんです」

 マシュは頬どころか耳まで桜色に染めている。しかし俯かず、立香の目をまっすぐに見つめながら、彼女は言ってやった。

「だから半分なんて言わないでください。私は私の人生を全部、あなたにあげますから」

 いまさら気づいたように、立香の表情が固まる。そしてマシュと同じように、みるみる頬が染まっていく。

「代わりに先輩の人生を全部、私にください。二人で一つの未来を、あなたと共に歩ませてください」

 とどめとばかりに、にっこりと笑顔を浮かべるマシュ。それを受けた立香は今までの余裕が嘘のように、今にも泣きそうな顔になってしまう。

 立香と生きる未来。彼女が見ている未来はそのたった一つだけなのだ。永遠など少しも欲しくはないと思えるほど、立香と生きる一秒一瞬がいとおしいと彼女は言っていた。

 立香もそれを理解していたはずだろうに、奥手な彼は人生の半分だなんて制限を設けてしまったのだ。

 でも彼女は、勇気を出してそれを伝えてみせた。己の人生を相手に差し出し、また相手の人生をそれと繋げたいという、恐ろしく身勝手で、そして何よりも美しい気持ちを。立香と添い遂げる未来を。

「あ、あ、ああ」感情が高ぶっているのか声が震えている立香。「おれは、おれは……」
 
「せーんぱい」その震える唇に自身の指を押し当てるマシュ。小悪魔めいた仕草だというのに、顔が真っ赤なせいでむしろ初々しさすら感じられる姿だった。「返事が聞こえませんよ?」

「……うん」その双眸からぽろぽろと涙を流しながら、立香はうなずいた。「俺の人生を、マシュに、全部あげるよ」
「よくできました」

 そう言ってつま先立ちになったマシュは、軽いリップ音を立てて立香にキスを送った。

 とたんに立香が感極まった様子で彼女を抱きしめ、声を出して泣き始めた。マシュの目からも涙が流れ始める。

 愛する者の生と己の生が一つになった。その未来が見せる鮮やかさを実感して、今二人はどうしようもなく、嬉しいのだ。

 新しい命が産まれるのと同じように、新しい人生がこの子たちの前に広がり、たった今、産声を上げたのだ。

「今のが、百点満点」
「うむ。実に模範的な回答よな」

 抱き合いながら喜びの涙を流す二人を見て、私と王様は笑った。

 二人の未来が一つのものになる。その際に輝く希望の光は、古代から現代まで変わらないものなのだろう。王様の笑顔はどこまでも明るくて、優しそうだった。

 過去を生きた先人として、若い二人の未来を祝福するように、王様は心の底から喜んでいた。そんな笑顔だった。


 私は己の両目から流れ出る水滴を拭いながら、思う。

 今の私の顔も、きっとそうなのだろう。



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第七話 祝福の獣

 無事に二人のプロポーズが終わったのを見届けると、あとは好きにしろと言わんばかりに、オジマンディアス王はさっさと空飛ぶ舟で帰ってしまった。

 そろそろ夫も帰ってくるだろうし、夕飯を作らないと。王様を見送った私も息子たちのプロポーズ現場という非日常的な空間から意識を戻す。

 鮭は四つしか買ってきていない。立香の分を抜くわけにはいかないから、必然的にフォウの夕飯は別のものになってしまう。

 仕方ないから私の鮭を少し分けてあげて、また卵焼きを焼いてあげよう。私はそう決めた。幸い卵は買ってきてある。コレステロールも二日連続くらいなら大丈夫だろう。

 私は抱き合う二人の脳天に軽いチョップを入れ、こちら側に意識を引き戻させた。

「いつまでも外で抱き合ってないで、部屋でいちゃついてきなさい。エッチするのは良いけど、一時間半以内に終わらせること。晩御飯には間に合わせなさい」

 これを言っておかないと、感極まった二人は時間を忘れてまぐわってしまうと私は理解していた。

 しばらくの別離とプロポーズを経た今の二人であれば、下手をすると十時間越えのハードマラソンに突入しかねない。たぶん世界記録である。バカップルめ。

「ああ、うん……」
「ええと、はい……」

 二人はもう嬉しくて恥ずかしくて、どうしたら良いのか分からないといった様子だった。

 あまりにもお互いを意識しすぎて、今までのようにスムーズにイチャイチャできないのだ。付き合ったばかりのカップルかお前らは。

 しばらくの間ドギマギしていた二人だったけれども、そのうちどちらともなく玄関をくぐって、二階へと上がっていった。

 初々しい二人だ。しかしこれから90分間は物凄いことになると私は確信していた。二人とも気絶しなければ良いのだけれど。

 そうして庭に残されたのは私と、その足元でちょこんとお座りしているフォウである。ふわふわとした尻尾が足首を時折くすぐった。

 立香とマシュが何か大事なことをしているというのを感づいたのか、プロポーズの最中も大人しくしていてくれたのだ。

「フォウくん」私は小さな白い身体をそっと持ち上げる。「さっきのはね、立香とマシュが『つがい』になるための、大切な出来事だったの」
「フォーウ?」
「人間のはプロポーズって言うのよ。立香からするはずだったのに、逆にマシュから申し込んじゃった」

 あの子たちらしいわね、と優しく語りかけると、フォウは小さく鳴いた。そうだね、とでも言っているように私には感じられた。

「あの二人は、これから一緒に生きていくの。病気の時も健康な時も、辛い時も楽しい時も、手を取り合って生きていくって、約束しあったの」

 そう語りかけながら私はフォウを抱っこしてやる。フォウはすりすりと身体を寄せてきた。

「それは簡単なことじゃないし、とても大変な人生になるかもしれない。だけど私、二人がその約束をしてくれて、すごく嬉しかったんだ。私の大好きな二人が、そうやって生きていくって考えただけで……泣いちゃうくらい、嬉しかった」

 私はフォウの背中を優しく撫でた。白くてふわふわの毛並みは、本当に柔らかくて心地よかった。

「もし二人に子供ができたら、その子の遊び相手になってあげてね、フォウくん。それだけであの子たちの助けになるし、きっと喜んでくれると思うから」
「フォーウ!」

 まかせて! そう言うかのごとく尻尾が振られる。本当にこの生き物は人間の言葉が分かっているのかもしれない。

「晩ご飯作るから、少し待っててね」
「フォーウ」
「ん、いい子いい子」

 私は親愛の意味を込めて、フォウの鼻先に自分の鼻をくっつけた。
 するとフォウは、私の鼻をペロペロと舐め始めた。嫌ではなかったのだけれど猛烈にむず痒くなった私は盛大なくしゃみを二連発した。ちくしょう、このもふもふめ。





 夕食の準備ができる前に夫は帰ってきた。額には包帯が巻かれている。三針縫ったのだとか。

 リビングに来るなり夫は「靴があるけど、立香もう来たのか」と訊いてきた。私は無言で頷いて、自分の左手薬指を示した。
 夫はそのジェスチャーの意味を理解できず悩んでいたのだけれど、しばらくして事態を悟ったのか目を見開いた。

「立香のやつ、もう指輪渡したのか」気の早い奴だと夫は笑いながら言った。「じゃあ、今は部屋でヒートアップ中か」
「九十分で終わらせるように言ってある。あと二十分」
「また生々しい時間だ」

 夫は苦笑いして、リビングのソファーに腰掛けるといつものようにテレビを見始める。私はその間に鮭のホイル焼きと漬物とご飯と、それからフォウの分も含めた卵焼きを作り上げていった。

 制限時間五分前で立香とマシュが二階から降りてきた。さすが、普段から数時間の行為をしているだけのことはある。このぐらいは全く平気、といった様子だった。しかしわずかな汗のにおいは隠せていない。

「婚約おめでとう」にやり、とした笑みで夫が言った。でもその笑顔は嫌味など微塵もなく、とても嬉しそうなものだった。「式はいつにするんだ?」
「うーん、どうしようか」立香がマシュに訊く。「マシュが二十歳になったら、とは考えているけどさ」
「できれば、私の二十歳の誕生日が良いです」とマシュ。
「どうして?」
「先輩と初めて会ったのが、私の十六の誕生日だったからです」マシュは立香の腕に自身の腕を絡ませた。「だから結婚記念日もその日にしたいんです。それなら絶対に、死ぬまで忘れないでしょうから」
「良いじゃないか。最高のプレゼントだ」と夫は笑顔になった。

 それは、良い。きっと素晴らしい誕生日になるだろう。私はその会話を背中越しに聞きながら思う。三年後が待ち遠しい。
 そうこうしているうちに夕食ができた。私はそれをテーブルの上に並べて、後の三人に声をかけた。

「ご飯できたから、早く食べなさい」
「はーい」

 三人はぴったりと同じ返事をして、顔を見合わせて笑った。





 その日の夜、寝室の前に白いもふもふ小動物が座っているのを私は見つけた。

「そうか、マシュは今取り込み中だものね」
「フォーウ」

 さすがにあの二人が交わっているただ中にこの子を置いておくのは良くないだろう。私はフォウを抱き上げて一撫でする。

「じゃあ、今日は私と一緒に寝ましょう」
「フォウ、フォウ」

 納得してくれたようにすり寄ってくるもふもふ。私はそのままベッドまで連れていって、枕元にフォウを置き、自分も布団にくるまった。

「お休みなさい、フォウくん」
「フォーウ、キャウ」

 顔に柔らかい毛並みを感じながら、私は眠りについた。今日は色々なことがたくさんあって、なんだか疲れていた。でも、嫌ではなかった。








 不思議な夢を見た。

 何もない虚空に自分が浮かんでいる夢を。
 そこには本当に何もなくて、真っ暗な闇が広がっているだけだ。音もなく、光もなく、匂いもない。でも自分の存在は確かに感じ取れるし、それが夢だとも理解できた。

 変な夢だな。そうしてぼんやりと佇んでいると、前方に何かの気配があることに気が付いた。距離感はわからないし大きさもわからない。でも、その何かに見られていることはわかった。

『やあ、こんばんは。夢の中に失礼させてもらってる』
「ああ、どうも、こんばんは」

 こいつは夢の中に入り込んだ異物だと理解できたけれど、どうにも敵意が感じられないので私は素直に挨拶した。

『疲れているところ申し訳ない。あなたと話がしたくて、お邪魔させてもらったんだ』

 その声は少し子供っぽい口調ではあったけど、とても丁寧だと私は思った。

「私と、話?」
『うん。ぼくはもう消えかかっていてね。これを逃すともう二度と他人と話ができるかわからないんだ』
「そんな大事なチャンスなのに、私で良いの?」
『あなたがいいんだ』照れくさそうに声は言った。『ぼくの最期は、あなたとの話で飾りたい。あなたを見ていたら、そう思えたんだ。他にも話をしたい人はいるけどさ、その人とはもうお別れを済ませてあるんだ。それなのにまた話すなんて、気まずいだろう?』

 男か女か、老人か子供かもわからない声。でもその声が言っていることは本当のことだと私は悟った。

 どうして私を選んだのかは知らないし、どうやって私を知ったのかも知らないけど、その最期を看取って欲しいと願われたのだから、断るのは良くない。

「良いけど、何を話すの?」私は了承しつつ首を傾げる。「世界平和についてでも議論する?」
『そんな大それたことを話すつもりはないよ』小さく笑うように声は言った。『あなたにも関係していることだから、大丈夫』
「あなたのことは、なんて呼べばいい?」
『……そうだね「シャパリュ」とでも呼んでくれるかな』
「シャパリュ?」
『そう。適当でいいよ。僕には名前がたくさんあるからね』

 ふうん、と流す私。これは勘だけれど、この声の主は相当な長生きなのではないかと思った。長生きしたから名前がたくさんあって、名前に拘らなくなったのではないかと。なんとなくそう思った。

『じゃあ早速なんだけどさ』中高生の女子同士が恋バナでもするような口調でシャパリュは言う。『あなたはマシュ・キリエライトのことをどう思ってる?』
「あなた、マシュさんの知り合い?」
『ああ、そこの説明をしていなかったね。……そうだよ。短い付き合いだけど彼女のことは良く知ってる』
「どうって、言われてもね」
『好きか嫌いかと言われたら?』
「大好きよ、そりゃ」
『ぼくも彼女のことは好きだよ』シャパリュの口調はとても明るくて、まるでニコニコと微笑んでいるようだった。『あとね、あなたの息子のことも、ぼくは好きなんだ。二人とも優しくて大好きだ』
「あら、ありがとう」

 私は素直にそう言った。シャパリュというこの声の主は嘘をついているようではなかった。本当にマシュと立香が好きなんだとわかる。そのくらい、声が喜んでいた。

 話は少し変わるんだけどね、とシャパリュは続けた。

『昔、ぼくはとある小島に自分を閉じ込めていたんだ。人間の嫉妬や怒りの感情に晒されるのが嫌で嫌でしょうがなかったんだ』
「どうして、そんなに嫌だったの?」
『自分が怪物になってしまうって、分かっちゃったんだ』

 少し悲しそうにシャパリュは言う。

『見ての通り、ぼくは普通の存在じゃない。人間の負の感情を取り込んで、最終的には恐ろしい化け物になってしまう存在なんだ。そういう性質が自分にあることを知っていたから、ぼくは人から距離を置いた。人がいなければ無害でいられたからね』
「優しいのね、あなた」
『でもぼくの世話していた魔術師は本当にクズ野郎でね。そうして静かに暮らしていたぼくを外の世界へ放り出してしまったんだ』

 クズ? クズって言ったぞこいつ。それまでの優しげな口調から一転して感情の籠りまくった言葉に私は顔をひきつらせる。

『本当にあいつはクズのクソ外道の人でなしのアンポンタンなんだ。マーリンてやつなんだけどね。あなたも会えばわかる。絶対にそう思うよ』

 声だけしか聞こえていないのに鼻息が荒くなっているのがわかる。物凄い感情を込めた罵倒である。そのマーリンとかいう魔術師はよほどクズだったのだろうと私は思った。

『──まあ、それでぼくは放浪の旅に出たんだ。「美しいものに触れてきなさい」なんて言われて送り出されたんだけど、どうしたらいいかわからなかった』

 まあ、そりゃあねぇ。私は曖昧な表情で頷いてやった。自分だってそんなこと言われて放り出されても、戸惑うに違いない。

『ぼくは世界中をさ迷ってね。そこでマシュと、藤丸立香に出会ったんだ』

 ああ、そこに繋がるのかと私は納得する。シャパリュは続けた。

『ぼくは二人と触れあって、とても驚いた。あの二人は善性の塊だったんだ。どこまでも真っ直ぐで優しくて、善良な人間だったんだ。おかげでぼくは怪物にならずに済んだ』
「でしょうね。私もあの二人はとても純粋だと思う」
『……ぼくは二人を、美しいと思った。日だまりのように優しくて、暖かくて、キラキラしてるんだ、あの二人は。魔術師の言う通りになったのは癪だけど。──本当に美しいものをぼくは見たんだ』

 あのどこまでも純粋な二人を、美しいと思った。そうシャパリュは言った。私にもその感動は理解できた。

 真っ白で清らかな女の子に、この世界の色を教えてくれた男の子。
 優しさに満ち溢れる男の子に、心の底から愛を捧げる女の子。

 あの二人はどこまでも純粋で、美しい。私もそう思っている。

『ぼくは二人を祝福した。出来る限りのことをしてあげた。そのせいで知性を含めた力を全部失ってしまったのだけれど、それでも良いと思えるくらい、ぼくは二人に感謝してるんだ』
「あなた、それで……」

 私はシャパリュというこの声の主が、消えかかっているのだと理解した。正確にはその知性が、もうすぐ無くなってしまうのだと。

『ぼくはやりたいようにやっただけさ。善意とは基本的に押し付けるものだからね』

 開き直るように声は言った。確かにその言葉からは後悔など微塵も感じ取れない。

『でも、ぼくはまた美しいものを見ることができたんだ』
「それは、なに?」
『あなただよ』即座にそう返って来た。『あなたが二人に注ぐ愛情。それが、ものすごく綺麗に見えたんだ』

 そうか、だからこの声の主は、私を指名したのか。最期に綺麗なものと話したいと願ったのだ。
 けれど、私は私がそこまでの存在なのかと少し不思議に思った。そんなに特別なことは、していないんだけどな。

「別に私は、親として当たり前のことをしてあげただけだから」
『その当たり前をできる人が、この世にどれだけいるだろうね』冷静な口調でシャパリュは言う。『あなたは素晴らしい母親だって、ぼくは思ったんだ。夫を愛し、子を愛し、その子の伴侶を愛している。それがぼくには美しいと思えたんだ』
「……夫のこと、そんなに愛してるってわけじゃないわよ」

 なんだって? シャパリュは心底驚いたように声をあげた。

「結婚してもう二十年以上だからね、なんであの人と結婚したのか、忘れちゃった」
『愛しては、いないのかい?』
「これが愛なのか、私にはわからない。子供も立香一人だし、あの人の嫌なところでイライラすることもあるから、全部愛せているわけではないと思う」
『確かに、誰かを全部愛するなんてのはとても難しいことだけれど……旦那さんの、嫌いなところってのは?』
「……清姫さんのことは、知っている?」
『知っているとも。今日起きた出来事もね。──でも、あれは仕方のないことじゃないのかな。誰かが拒絶しなきゃ、彼女はずっとあのままだったとぼくは思うよ』

「私は清姫さんの愛情も、立派な愛だと思ったの」私は肩をすくめつつそう答えてやる。「昔の男性に似ているからって理由で新しい男性に想いを寄せるのは、ありふれたことよ。男としては面白くないかもしれないけれど、それが偽物の愛だなんて、私には思えない」

『だから、清姫の愛情を否定するつもりはない、ってことかい?』
「そうよ。でもあの人は、それを否定しちゃった。昔から、立香のことになるとムキになる人だったから」

 私は小さくため息をつく。あの人は、立香を大切に思っている。それはとても良いことなのだけれど、それと同時に冷静でなくなってしまうところがある。今日の出来事などはその象徴とも言えるだろう。痛し痒しだ。

「子供を何よりも愛するのは素晴らしいことよ。でも、だからといって少女の恋心を否定していいわけじゃない。あの人のそういうところは、嫌いかな」
『息子想いの良い父親だと思うけどな、ぼくは。マシュのことも見ていてくれたし』
「息子想いすぎるのよ、あの人は。……私は、他人の人生を否定するつもりはない。そんな権利は私にもあの人にもない。私はただの母親だし、あの人もただの父親だもの。だから、あの人のそういう勝手な部分は、治してほしいかな」

 結婚してからずっとそう思っているんだけどね、と私は苦笑いする。

 夫は清姫を傷つけてしまった。どっちがどれだけ悪いとか、そういうのはないのだけれど、いつか謝っておかなければならないだろう。それだけは確かだ。でもあの人は身勝手で頑固なところがあるから、果たしてうまくいくかどうかわからない。

 大切な人のためなら、なんでもしてしまう身勝手な人。たぶん、これからもそういうところはずっと変わらないだろう。

「……でもね、感謝はしてるんだ」
『感謝?』
「だって、立香に会わせてくれたんだもの」

 正直照れくさくて仕方ないのだけれど、私は思ったことをそのまま話してやった。

「立香に会わせてくれた。ただそれだけで、あの人の嫌いなところなんて、どうでも良くなった。何千何万と感謝しても足りないくらいに、この人と結婚して、良かったと思えたの。そういう意味で、私はあの人に感謝してる。立香を愛してくれるあの人と結婚して、本当に良かったと思っているわ」

 その立香のおかげでマシュにも会えたしね、と私は付け加えた。あの二人に会えたのは、夫のおかげでもあるのだと。

『……やっぱり、あなたは美しいよ』少し間を置いてからシャパリュは言った。『ぼくに残された欠片ほどしかない知性を振り絞って、あなたと話したいと思ったのは、間違いじゃなかった』
「それは、どうも」

 私は恥ずかしさを隠すように返した。あの人は、家族のためならなんでもしてしまう身勝手な人だ。でもそれが私の、あの人の嫌いなところであると同時に好きなところだったりするだなんて、恥ずかしくって、言えない。

 それからシャパリュは少し黙っていた。私は急かさないでそのまま待った。

『──ごめん、あなたと話したいことは山ほどあるんだけど、もう、行かなきゃ』
「そっか」

 まるで、次の用事があるからもう行くね、というような口調でシャパリュは言う。私はそれに対して良い言葉を返すことができなかった。でも、それで良いとも思った。

『あなたと話せて、嬉しかった。ぼくの好きなものを同じように好きだと言ってくれるあなたが、とても好きだ』
「こちらこそ。私の息子とお嫁さんを好きになってくれて、ありがとう」

 こんなにもさっぱりとした見送りは初めてだ。私は遠ざかる気配に向けて手を振ってやった。あちら側に、行ってしまうのだ。

『ああそうだ。大事なことを言い忘れてた』

 遠ざかりながら、ふと思い出したかのように声が上げられた。
 大事なこと? 私は次に放たれる言葉に耳を傾けた。


『卵焼き、美味しかったよ。ありがとう』

「──あなたは」

 私は思わず固まってしまう。その言葉が意味するものを、私は知っていたからだ。

 そんな。シャパリュ。あなたは。あなたの正体は。

『私は本当に、美しいものを見た』私が固まっていると、声は心底嬉しそうに言った。『あなたも、その夫も、その子供たちも、とても美しいと思うことができた。好きになることが、できた』

 たった今理解したことが信じられなくて、私はその言葉を聞くことしかできなかった。

 それに構わず声は続けた。最期の言葉を紡ぐために。

『好きになること、それ自体が素晴らしいことだとあなたは言った。なら、私の命に価値を与えてくれたのは、あなたたちだ。だからお返しに、私はあなたたちを祝福しよう。──さようなら、元気でね』

 ああ、そんな。私は手を伸ばすのだけれど、あの子には全く届かない。そんな、早すぎる。せっかくお話できたのに。

 待ってよ。私は、もっとあなたと話がしたい。あなたの見てきたものを、あなたが美しいと思ったものを、聞かせてほしい。

 あなたが好きになったものを、私に伝えてほしい。あなたの命を、心を、その色を、私に教えてほしい。

 知りたいことがたくさんあるのに、あなたはそれを抱えて行ってしまうのか。

 お願い。待って。





「フォウくん」


 目を醒ますと、目の前には白いふわふわの獣が寝息を立てていた。

 なにか夢を見ていた気がするのだけれど、思い出せない。誰かと、話をしていたような。

 フォウを起こさないようにゆっくりと身を起こす。時計を見ると、アラームの時間まであと十分程度だった。
 私は目覚ましを解除して、着替えに向かう。朝ご飯を作らないと。私と、夫と、立香と、マシュと、フォウの分。

 さて何を作ろうか。私はほんの少しだけ悩んで、決める。 

 卵焼きにしよう。ただそれだけを、思った。



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エピローグ

「じゃあ、エミヤさん。二人を頼みますね」
「お任せを」

 藤丸立香の母親からそう言われて、俺は一言だけ返した。

 自分は高ランクのサーヴァントではないが、曲がりなりにも三騎士クラスのアーチャーだ。魔術師、サーヴァント相手だろうと一対一なら遅れを取ることはない。ギリシャ神話最強のヘラクレス相手だろうと時間稼ぎくらいはできる。

 頭に包帯を巻いた父親からも同じような意味合いの視線を受けていたので、口角を上げることでそれに応える。

「じゃあ、行ってきます、お母さん」
「行ってらっしゃい、マシュさん」

 未来の嫁姑がおもむろにお別れのハグをし始める。本当にずいぶんと仲が深まったものだ。髪の色も顔立ちも全然違うというのに、まるで本当の母娘のようではないか。

 俺は生前、母というものを知らずに育ってきた。だが、マスターの母親からマシュに注がれる愛情は本物であることぐらいは分かる。マシュからの愛情もしかりだ。

 一方、面白くなさそうな顔をしているのは藤丸立香である。マシュと婚約を交わしたというのに、彼女は母と仲良しこよしで、自分は置いてきぼりだ。

「マシュは俺のだからね」

 憮然として立香が言う。すると母娘はハグしあったまま、挑発的な笑みを彼に向けた。

「えー、ほんとにござるかー?」
「三日間待たせておいて、説得力ないでござるよー?」

 カルデア最強の煽りスキルを持つ剣豪、佐々木小次郎のマネをする二人。それからお互いの頬を擦り付けあって笑い合う。これには、人類最高のマスターといえども是非もなし。苦虫を噛み潰した表情になるしかない。

「マシュさん、立香がまた浮気したら、私に言いなさい。いつでも来て良いからね」
「はい、お母さん。その時は先輩にうんとお説教お願いしますね」
「……その時はせめて私か、サーヴァントの誰かに言っておいて欲しいものだな」腕を組みつつ俺。「護衛する立場にもなってくれ」
「立香が浮気しなければ済む話よ」と母親。
「だそうだぞ、立香」と苦笑いしながら父親。

「……もう、しないよ」むう、と拗ねたように藤丸立香が言う。「迫られても最悪、令呪使ってエミヤ呼ぶから」
「待ちたまえ、なぜ私なのだ。そこは令呪で迫ってきたサーヴァントを止めるべきだろう」
「だって令呪で止められるような迫り方じゃないんだもん。エミヤなら強いし、女難だし、幸運ランク低いから、俺の不運を引き受けてくれるかなって」
「ならばクーフーリンを呼べ。ヤツも女難で幸運ランクはEだ。それに死んでも問題ない」
「この人でなし」
「マスターが言うな」
「じゃあ二人とも呼ぼう」
「止めてくれ。それだけは止めてくれ。自害を命じられた方がまだマシだ」

 マスターの提案に頭を抱えそうになる俺。女性サーヴァントにまとめてぶち殺される未来しか見えない。Eランクの幸運と女難の相を持つ二人を放り込んだところで、ろくなことにはならないのだ。

「クーフーリンだ?」息子の挙げた名前に聞き覚えがあったのか、父親が首を傾げる。「ケルト神話のか?」
「そうだ。アイルランドの光の御子。彼もマスターのサーヴァントだ」と俺。「実に残念なことにな」
「他にもたくさんいるよ。クーフーリンの師匠のスカサハもいるし、エジソン、織田信長、モーツァルト、マリーアントワネット、ヘラクレス、坂田金時、それから円卓の騎士まで」指折り数える立香。「みんな大切な仲間さ」
「……立香、お前、良く頑張ってるな」

 父親が顔を引きつらせる。今挙げたほとんどのサーヴァントは超一流の英雄だ。当然のごとく普通でない奴らばかりだ。そんな彼らを『大切な仲間』と形容できる藤丸立香のメンタルは並大抵のものではない。それに父親も気づいたのだ。

「別に、普通だよ」平然と答える立香。それから未だ母親とハグし合うマシュに視線を向ける。「それに、マシュもいてくれるから、俺は大丈夫だよ」

 えへへ、と視線を向けられたマシュは照れるように笑う。「私は先輩のサーヴァントで、お嫁さんですから。当然です」

「……マシュさん、立香を頼みます」父親がマシュに小さく頭を下げる。
「お任せください」

 マシュはすでに、正妻としての余裕を見せていた。彼女なら大丈夫だろうとその場が和む。

 その様子を見ていた母親は、「そうだ」と何やら思い付いたようで、マシュを離して玄関の中に駆け込んだ。
 少したって戻ってきた彼女の手にはデジタルカメラが握られていた。

「せっかく婚約したんだから、記念写真撮りましょう」彼女は俺にカメラを差し出す。「エミヤさん、シャッターお願いできる?」
「……別に構わないが」私はそれを受け取る。

 どうせならゲオルギウスを連れてくるんだったなと思った。彼は召喚されてからと言うもの写真撮影にハマり、常に一眼レフカメラを携えている旅人の守護聖人である。聖人ってなんだっけ。

 四人と一匹が、玄関の前に並ぶ。俺は距離をとってカメラを構えて、画面を覗き込んだ。

 画面に映し出されたその光景は、婚約の記念写真と言うよりは、家族写真と言うべきものだった。


 合図と共に俺はシャッターを押した。一つの家族の未来が、そこには収められていた。






 カルデアに帰還した俺たちを職員たちが出迎えた。

 マシュが居なくなったことで仕事が狂い、憮然としていた彼らだったが、藤丸立香とマシュの左手薬指に輝くダイヤに気づくや否や、万歳三唱の大歓声を上げた。
 女性スタッフの中には感動のあまり泣き出してしまう者もいた。皆が二人の婚約を祝福していたのだ。

 それからはもう、二人とも祝う彼らに揉みくちゃにされてしまう。胴上げでも始まりそうな雰囲気だ。俺は二人から距離を置いて、自室へと向かった。


 そこでふと、サーヴァントたちの気配が一か所にまとまっていることに気が付く。全員ではないが、十名近いサーヴァントが一室に集まっている。こんなことはめったにない。

 俺は壁に手をついてカルデアの建物を解析する。サーヴァントたちの重量で床が歪んでいる場所を正確に特定してみせた。この場所は、ジェームズ・モリアーティの部屋だ。

 最近召喚された彼はシャーロック・ホームズの宿敵であり、悪の組織の親玉だった経歴を持つサーヴァントだ。また良からぬことを計画しているのではないかと疑った俺は、こっそりと彼の部屋に向かった。

 部屋の前についてみると、中からはたくさんの声が聞こえてきた。

『本当に大丈夫だったのか、あれで。いくら人里離れた砂漠だと言っても、地面を均しただけでは爆発の痕跡は残ってしまうぞ?』
『なに心配いらない。ネバダ砂漠は後の世で核実験場になるんだ。九百回も核爆発が起きてクレーターだらけになる。衝突で生成された鉱物なぞ核爆発のそれと見分けはつかないさ』
『これだからアメリカ人は。……しかし、今はその歴史に感謝をしよう。地面を均しておくだけでも骨が折れたからな。あれ以上の作業は勘弁願うよ』
『それよりも、結婚式の段取りを決めようじゃないか。どの形式で行く?』
『ふむ。特定の宗教の形式では皆が納得しないだろうが、そこは我慢してもらうとしよう』
『立会人はドレイク船長にやってもらうとして、さてどうするか。カトリック、プロテスタント、正教会、仏教、神道、ヒンドゥー、イスラム、いろいろいるぞ』
『場所は余の神殿を使うことを赦そう。形式は問わぬ。派手にやるといい』
『とりあえず酒を使うのはやめておこう。デンジャラスビーストが顕現してしまう』
『えー、わらわはマシュの白無垢見たーい』
『それはワシも見たいが、後で着せればよかろう。マシュはスタイルが良いし、ここはやはりウエディングドレスだと思うのう』
『私はそれに賛成よ。とっても可愛いと思うわ』
『キリスト教系統なら聖人の連中に任せられるからな。讃美歌の演奏もできるやついるし』

 なんだこの集まりは。爆発だとか結婚式の段取りだとか、まるで関連性が分からない。

 俺は意を決して扉を開いた。部屋の中の視線が一斉に向けられる。

「やあ、エミヤくん、お帰り」部屋の真ん中に立っていたモリアーティ教授が声をかけてきた。「マスターとマシュくんの護衛ご苦労様。今日は何の用かね」
「……本当に、なんなんだ。この集まりは」

 俺は部屋を見渡した。確かに多くのサーヴァントがいるのだけれど、そのつながりが見いだせない。

 古代エジプト最大最強の大英雄にして神王、オジマンディアス。
 北アメリカ先住民族アパッチ族の戦士、ジェロニモ。
 元羊飼いで古代イスラエルの王、ダビデ。
 コルキスの王女で神代の魔術師、メディア。
 ケルト神話における影の国の女王、スカサハ。
 恐らくは英霊として世界最高の知名度を誇る発明王、トーマス・アルバ・エジソン。
 第六天魔王と呼ばれ今なお畏怖の対象となっている戦国武将、織田信長。
 その姪にして天下人の側室、茶々。

 八名ものサーヴァントがモリアーティ教授の部屋で話し込んでいる。
 国も時代も性別も、歴史の中で為した役割もてんでバラバラだ。一貫性がまるでない。

「さっきの核爆発云々の話は、なんだね」ため息をつきながら俺。「また良からぬことを企んでいるのか?」

 ふむ、とモリアーティ教授が口を開く。「指輪作りでね、ちょいと第五特異点にレイシフトしていたのさ」

「指輪を、作っただ?」
「うむ。私の宝具『終局的犯罪(ザ・ダイナミクス・オブ・アン・アステロイド)』でちょいと隕石をネ、二千トンほど落としたのサ」

「いやあ、時々すごい大きさのが落ちてくるもんだから、それを迎撃するのが大変だったよ」とダビデ。「現代イスラエルには僕の名前を冠した対空迎撃システムがあるっていうけどさ、まさか僕自身がそれの真似事をするとは思わなかった」

 なにやらかしてんだこの悪の首領どもは。私が苦い顔をすると、メディアが横から口を挟んだ。

「鉄隕石には金やプラチナといった貴金属が含まれているから、そこから指輪の原料を抽出したの。精錬には茶々さんの宝具で大爆炎を起こしてもらってね。信長さんも金属精錬の知識があったから手助けしてもらったわ」

 えへん、と偉そうに胸を張る茶々と信長。茶々の宝具は豊臣を滅ぼした業火を再現するものだから、それは隕鉄を溶かすには充分な熱量を持っていることだろう。

 信長も、かつて鉄砲の増産を行っていた関係上、鉄を始めとした金属知識は豊富なはずだ。施政者として金銀の取り扱いも慣れているだろう。

「隕石を使うアイデア自体はわしが出したのじゃ」と信長。「昔から隕鉄を使った鉄製品は世界各地にあるからのう。そこからヒントを得たのじゃ」

「鉄隕石は全隕石の一割にも満たないから、集めるのが大変だったのよ。そこからさらに含有量の小さなプラチナを取り出すものだから、私とジェロニモの魔術を使っても骨が折れたわ」

「まあ、魔術で補えないところは私が手を貸したのだがね」とエジソン。「科学万歳、直流万歳」

「……じゃあ、あのダイヤモンドは?」

「隕石に含まれていた炭素を、余のピラミッドで上下から押しつぶしたのだ」とオジマンディアス。「良い金剛石(ダイヤモンド)の結晶ができるまで、苦労したぞ?」

 ダイヤモンドは炭素が高い圧力を受けて結晶化した宝石だ。人工ダイヤを作るには同じように高い圧力をかけてやればいい。彼らはその高圧力を、ピラミッドを落とすことで達成したのだ。理屈は分かるが作り方がデタラメにもほどがある。

 俺は理解する。藤丸立香がやたらと来るのが遅いと思っていたが、指輪作りに時間がかかっていたのだ。

「星の、指輪か」

 隕石由来の成分でできたそれは、大地から生み出された通常の指輪とは対極をなす。空の指輪であり、星屑の指輪である。手間はかかっているが、なんともロマンチックだ。真相を知ればマシュは喜ぶだろう。

 というか、隕石はそれ自体高価なものだから、それから作ったとなったらとんでもない値段になるのではなかろうか。日本円で数千万は軽くいくだろう。

「星の指輪もそうだが、この場合は『みんなで作った』というのが重要なのだよ」ふふん、と自慢げにモリアーティ教授。「ただ買ってきた指輪を贈るより、皆の努力と情熱で形作られた、心のこもった指輪を贈る方が素敵だと思わないかね?」

「それは確かに、そうだが……」

 俺は再び部屋を見渡す。指輪を作っていたのは分かったが、どうしてこの連中がそれに手を貸したのか、てんで理解できない。

「ふむん。どうして彼らがかかわったのか、わからないようだね」戸惑う私を見て、モリアーティ教授が人指し指をピッと掲げる。「ではヒントを出そう。ここにいる者たちは、私を除いてある共通点を持っている。それが答えだ」

 俺はその言葉を受けて、もう一度彼らを見渡す。ひとりひとり、その経歴を思い出す。

 そうして気づいた。ここにいる連中は、まさか──

「ここにいる奴ら、全員『親』か!」
「その通りさ」

 そう、彼らは生前に家庭を持ち、子を成した者たちばかりだったのだ。

「私も、彼らに依頼されたときは驚いたよ。『お前の宝具で隕石落とせ』なんて、ハルマゲドンでも起こすのかと思ってしまった」
「……親心、というやつか」

 彼らからすれば、藤丸立香とマシュ・キリエライトの初々しい恋はとても美しいものに見えただろう。いつかの自分を重ねて、彼らを応援してやりたくなるのもわからなくはない。
 それに親としての庇護欲が重ねられれば、時代を超えた連携にまでつながることになんの違和感もない。
 時代が変わろうと、親は親なのだ。

「今回の騒動は私が原因だったからな。皆に声をかけたら、賛同してくれたのだ」スカサハが手を挙げて発言する。「まさかあれで、マシュが家出するとは思っていなくてな」

 マスターに無理やりキスしたのは、あんただったのか。私は呆れたようにスカサハを見た。言葉の上では反省しているが、表情も口調も平然としている。悪びれた様子など全然ない。これだからケルトは。

「ふん。これだからケルトは」苦々しそうに織田信長が毒づいた。「わしの家臣たるマスターを寝取ろうとするとは、良い度胸をしておる」
「ほう、やるか、第六天魔王」不敵な笑みで信長を見つめるスカサハ。

「……わしは戯れは赦すが、侮りは赦さんぞ、神殺し」信長が腰の愛刀に手をかける。「家臣の家庭を想うのも、主君たるわしの務めじゃ。女の欲望を優先してマスターの幸せをぶち壊しにするのは、わしが認めない」

 苛烈な性格で知られた織田信長は、実は家臣の家族にさえ気配りを欠かさない身内想いの人物であったとされている。

 身内には優しいが、敵は徹底的に殲滅する。そういう武将だったのだ。かの恐るべき魔王は、マスターのささやかな幸せを案じていたのだ。

「まあいいではないか、彼女が声をかけてくれたおかげで、こうして成功したのだ」エジソンが二人の間に割って入る。「ほんの少しとはいえ、反省している証拠だ。それで手打ちといこう」


「……そう言えば、もう一つの原因はどうした。清姫は」

 藤丸家を飛び出した彼女は、まだ戻ってきていないのだろうか。気になった俺はそう訊いたが、それと同時に皆が一斉に目を逸らすのを感じた。全員があいまいな表情で沈黙する。

「……のう、エミヤよ。いったい清姫に何が起こったのじゃ?」顔を引きつらせながら織田信長。

「なにが、だと?」
「あやつはな、帰ってくるなり『マスターを寝取るのはわたくしです!』なんて言いおったのじゃ」

 寝取る? 俺はその単語に猛烈な違和感を覚えた。自身をマスターの妻であると認識している彼女が『マスターを寝取る』など言うはずがない。彼女の世界認識ではすでに自分がマスターの妻であり、寝取る必要などないのだから。

「私も気になってな、清姫の霊基を調べたのだが」スカサハが口を挟む。「やつの霊基は、精神レベルで一度ズタズタにされている。だが、それが、いびつな形で再生していたのだ」

 藤丸家に仕掛けた攻勢結界によって、彼女は霊基を破壊されたのだ。彼女はそれを自力で再生成してみせた。しかし、それによって今までの世界認識が歪んでしまったのだ。マスターは、現在自分のものではない。だからこそ自分が寝取るのだと。

「あまつさえ、マシュより先にマスターの子を孕んでやると意気込んでいてな」
「それはさすがに、無理だろう」

 俺は首を横に振る。人間としての肉体を持つマシュのようなデミサーヴァントはともかく、清姫を始めとした我々サーヴァントは子を成すことはできない。死者が生者と子孫を残せるわけがないのだ。だから、清姫の意気込みは全く無駄なことなのである。子供ができない夫婦を否定するわけではないが、どれだけ頑張ってもそれは覆せない。

 俺はそう感じてため息をついたが、スカサハはそんなことを否定するように口を開く。

「『わたくしは執念で竜へと変化を遂げた女。であるならば、どうして執念でマスターの子が宿せないことがありましょうか』」

 ひゅっ、と誰かが恐怖で息を飲む音が響いた。スカサハの口調が清姫の特徴をよくとらえていたというのもあったが、皆がその狂気の具合に戦慄していた。かのオジマンディアスでさえ、目を逸らすことを選択してしまうほどである。

 サーヴァントのことをよく知っている者ほど、その言葉の醸し出す狂気が理解できるのだ。霊体の身で、生者の子を成そうとするその狂気を。

 普通ならできない。だが清姫ならば、あるいは。その可能性がさらに恐ろしさを倍増させる。

「……なんだか、悪化してないか。とんでもない方向に」
「……お主もそう思うか。さすがバーサーカー清姫。EXランクの狂化は伊達ではない」
「……何もかもクーフーリンが悪い」
「……そうか、馬鹿弟子の仕掛けた結界か。あとで心臓を刺し貫いておこう」
「そうしておいてくれ」
「貴様も同罪だ」
「なんでさ」

 俺は肩をすくめる。さて、清姫はどうしたものか。治すならナイチンゲール女史の手を借りるというのもあるが、いっそこのままの方が被害は少ない気もするし、大きくなる気もする。

 しかし同時に、これは清姫にとって大きな成長なのではないかとも俺は思った。

 それまで『自分がマスターの妻である』という間違った認識しか持っていなかった清姫。それが『自分は妻ではないが、いずれ必ずなってみせる』という全く新しい認識に変化したのだ。この二つはまるで違う。

 恐ろしく狂っているのは変わりない。けれど、彼女はようやくスタートラインに立ったとも言えるのだ。好きな人を手に入れるための、恋のレース。そのスタートラインに、だ。

 今はマシュがトップを独走しているが、それまでレースに参加すらできていなかった、参加しようとも思っていなかった清姫は、ようやくレースに参加することができたのだ。

 もしかしたらトップを奪取できるかもしれないという可能性を、彼女は手に入れた。愛する人と添い遂げる未来を、彼女はいつの日かつかみ取れるかもしれない。悲劇のヒロインは、幸福のヒロインになる権利を得たのだ。

 彼女にもまた、未来は開かれた。それを思うと、なんだか見守ってやりたいという気持ちになってくる。

 ……恐らく清姫の乱入で、その恋のレースはとてつもない波乱万丈になるだろうが。クラッシュ続出だけは避けたいものだ。


「まあ、良いじゃないか。何かあったら、また僕たちが手を貸すさ」にこやかにダビデが言う。「あの子たちの未来はあの子たち自身が切り開くものだ。僕たち先人ができることは、その障害を取り除いてやることだけだ」

 俺は意外そうにその顔を見つめた。このいい加減な王様が、そんなことを言うとは予想外だったのだ。 

「当り前だろう?」にやり、とダビデは不敵な笑みを浮かべる。「確かに僕は良い父親ではなかったかもしれない。けれど、親として願うことは誰だって同じなんだ」
「……親として願うこと?」
「未来ある子供たちの人生が『愛と希望の物語』であってほしいと願うのは、親として、間違っているかい?」

「……いいや、間違ってなどいないさ」

 俺は理解する。

 彼と彼女の旅路が、幸せなものであって欲しいと、この者たちは願ったのだ。
 願わくば二人の未来は、愛と希望の物語であれと。
 その道行きの上に、綺麗な青空がありますようにと。

「僕たちは永遠にこの世にいられるわけじゃない。けれど、あの子たちにしてやれることはいくらでもあるんだ」とダビデ。「だから、今のうちにできることをしておくんだ」

「そうだな。せめて、結婚式の段取りくらいはしてやらんとな。意外と面倒なのだ、あれは」とエジソン。
「二十歳までお預けか。今の時代は難儀なものだ。昔は十二歳でも子を成した馬鹿者もいたというのに」とスカサハ。
「おい、利家の悪口はよさぬか神殺し。あやつはわしの親友じゃぞ」と信長。
「あー茶々それ知ってるー。二十歳の時に十二歳の幼女を孕ませた前田家の鬼畜だー」と茶々。
「ケルトもあれだけど、日本人もたいがいね」とメディア。
「ほう、エジプトもそうであったぞ。幼き花嫁の話くらいあるとも」とオジマンディアス。
「紀元前の話だろうそれは」とジェロニモ。

 再び彼らは喧々諤々の話し合いに戻っていった。



 俺には、彼らの存在が、とても優しく見えた。

 自分たちは子どもたちよりも先に消えてしまう。けれど、それを嫌だとは微塵も感じてはいない。そんなことよりも、いかに子どもたちが幸せに生きられるのかをひたすらに考えている。

 それは時として、身勝手で、子どもの考えを無視してしまうことにつながりかねない。それでも、子供について考えることをやめられない。それが親なのだ。悠久の時を経てもなお、変わることのない愛情だ。

 彼らは立香とマシュの姿に自身を重ね合わせると同時に、自分の子供のようにかわいがっているのだ。どこまでも純粋で美しい二人の未来が、幸せであってほしいと願っている。


 俺は黙って退室することにした。生前に子を成さなかった自分は、ここでは浮いてしまう。 

 ふと、ドアを閉める寸前で部屋の中を見た。立香とマシュについて議論している彼らは俺の姿など気にも留めない。しかし、俺はその光景を美しいと感じた。


 彼らは笑っていた。青空を照らす太陽のような、優しい笑顔で。





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