一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜 (葉振藩)
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予選編
生まれ変わりました(ただし女の子に)


(=゚Д゚=)にゃぁす!


 ボクは薄れた意識のまま、病院の天井にある蛍光灯の光をぼんやり見つめていた。

 

 手足に力が入らない。指一本さえ動かすのが難しい。

 

 呼吸がうまくできず、息苦しい。横隔膜がちゃんと収縮してくれない。

 

 心臓の刻む鼓動のリズムが不規則だ。早くなったり遅くなったりとせわしない。

 

 今、ボクが仰向けに横たわっているベッドの傍らには、心電図を始めとする、数々の医療機器。

 

 視線を下に落とすと、そこには男のお医者さんと数人の看護婦さん、そして、両親が立っていた。

 

 みんなそれぞれ違った表情でボクを見下ろしていた。

 

 初老ほどのお医者さんは一見落ち着いた表情に見えるが、微かに唇を噛んでいるところから、やるせなさを抱いているのがなんとなくわかる。

 

 看護婦さんたちは、気の毒そうな表情。

 

 そして両親は、強い悲しみを顔に表していた。ボクに悲しみを見せないよう必死に笑おうとしても、うまく隠せず、悲壮感がもれだしたような表情。

 

 ――みんな、今のボクに対して思っている事がありありと伝わってくる顔だった。

 

 ボクの命の灯火は、今、消えようとしていた。

 

 十数年という長いようで短い生涯に、今、幕を下ろそうとしていた。

 

 ボクは間違いなく――今日、息絶えるだろう。

 

 ボクは生まれた時から、難病を患っていた。

 

 日進月歩で進歩している現在医療でも手の施しようがない、いわば不治の病だ。

 

 生まれてから今日まで、この病院の中だけがボクの世界だった。

 

 外へ遊びに行くなんてもってのほか。年の近い子が元気に外を駆け回る姿を、病院の窓から何度羨望の眼差しで見たのか覚えていない。

 

 幸いにも、娯楽はあった。携帯ゲーム機やネットサーフィン、漫画やアニメを見たりなど。娯楽の多さという点では、文明社会に生まれることが出来て幸せだったかもしれない。

 

 中でも、ボクは本を読むのが好きだった。自分がしない、できない出来事を追体験させてくれるから。

 

 一番好きなジャンルは冒険小説だ。十五少年漂流記やロビンソンクルーソーなど、見知らぬ土地へ流され、そこで頑張って生きていくような物語は読んでて一番楽しかった。そういった作品の主人公からは、人間の持つたくましさを強く感じられるからだろう。

 

 病院のベッドの上で、いろんな本をむさぼり読んだ。

 

 ボクが欲しい本を言うと、お父さんはいつも一生懸命探して買ってきてくれた。お父さんには、今でも感謝してもしきれない。

 

 ――しかしボクはやはり、元気に動き回れる体と、一緒にあそんでくれる友達が一番欲しかった。

 

 同い年の子が入院し、退院する様子を、ボクは何度見ただろうか。

 

 そのたびに、強い羨望と嫉妬を抱いた。

 

 どうしてボクは、退院できないの?

 

 どうしてボクは、ここにいなくちゃいけないの?

 

 ボクも、外に出て遊びたいよ。

 

 ある日、とうとう我慢ならなくなって、両親へ八つ当たり気味にその気持ちをぶつけてしまった。

 

 心配性なお母さんは断固ダメの一点張りだった。しかしお父さんはある日、ボクをこっそり病院から連れ出してくれた。

 

 やって来たのは、ウミネコやカモメが鳴く岬だった。

 

 生まれて初めて肉眼で見る大海原。鼻につく潮の香り。人工物にまみれ、薬の匂いばかりの病院とは一八〇度違う場所に、ボクは大きな感動を受けた。

 

 しかし、その感動の代償とばかりに、ボクの容態が急変。急いで病院に戻った。

 

 幸いにも命に別状はなかったが、ボクを無断で連れ出したお父さんは、お医者さんとお母さんにこっぴどく責められていた。あの時の光景は今でも忘れない。

 

 なのでボクはそれ以来、一切の不平不満は言わないようにした。もし言ってしまうと、またお父さんがボクを気の毒に思い、怒られるようなことをしてしまうんじゃないかと思ったからだ。

 

 なるべく、人に迷惑はかけない。そもそも、存在しているだけで迷惑をかけているようなものなのだ。ならば、ボクから進んで面倒事の種は蒔かないようにしよう。そう固く誓った。

 

 「元気な体が欲しい」「外で遊びたい」、そんな叶わない思いは心の奥に封印し、ただただ本と空想の中だけで生きる。

 

 何年も、そんな代わり映えのしない生き方をしてきた。

 

 ――だが、そんな毎日も今日、終わろうとしている。

 

 薄れていた意識が、さらに薄弱となっていく。

 

 視界がぼやけ、両親の顔がよく見えなくなる。

 

 全身から力が抜け、ベッドに沈むような重さを感じる。

 

 心臓の鼓動が、弱々しくなっていく。

 

 ああ、分かる。

 

 もう、潮時だ。

 

 「ボク」という人生と、お別れする時が来たんだ。

 

 薄れゆく意識の中、ボクは祈った。

 

 

 

 

 

 ――ああ、神さま。

 

 ――もしも、あなたという存在が本当にいるとしたら。

 

 ――そして、「生まれ変わる」という事が本当にあるのだとしたら。

 

 ――ボクは、大きなモノは望みません。

 

 ――地位も、

 

 ――権力も、

 

 ――富も、

 

 ――そういった大きなモノは、何一つ望みません。

 

 ――ですが、ただ一つ、これだけは与えてください。

 

 ――元気な体が、欲しいです。

 

 ――普通の子供のように、外を遊び回れるようになりたいです。

 

 ――それだけで、いいんです。

 

 ――もしも、生まれ変われるのなら。

 

 ――どうかお願いします、神さま。

 

 

 

 

 

 そこで、ボクの意識は、ロウソクの火が消えるように途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――と思った時だった。

 

 ボクの意識は、まだ残っていた。「まだ意識がある」と思えた時点で、それは明白だった。  

 

 しかも、先ほどのように消えかかった感じではない。もっと、はっきりとした感じ。

 

 体の調子も、先ほどのように絶不調ではない。

 

 手足がよく動く。

 

 心音もしっかりしている。

 

 体の奥底から、強い生命力を確かに感じる。

 

 視界は暗闇一色だった――目を閉じてるからだ。

 

 ボクは、ゆっくりと目を開けた。

 

 

 

 ――見たことのない人たちが、ボクを見下ろしていた。

 

 

 

 中華圏の伝統衣装を彷彿とさせるオリエンタルな服に身を包む、数人の見知らぬ大人たち。

 

 彼らの浮かべている表情は、先ほどの両親のように悲壮感に満ちたものではない。

 

 新しい命の誕生に対する、喜びと感動を感じているような表情だった。

 

 さらに、そこは病院ではなかった。知らない空間だった。

 

 屋内であることは間違いない。だが内装は全く違っていた。

 

 赤を基準とした内装。中国の伝統建築にあるような東洋的デザイン。

 

 

 

 ――何これ、どういうこと?

 

 

 

 そう喋ったつもりだったが、口から出たのは「あうおうあー」だった。

 

 うまく喋れない。舌っ足らずすぎる。

 

 ていうか、歯がない。

 

 見ると、ボクの手足は随分短くなっていた。

 

 見下ろす人の瞳に映るボクの姿は――すっぽんぽんの赤ん坊。

 

 ボクはギョッとした。

 

 さらに下半身――正確には、股下の辺り――に、何かが足りない感じがした。

 

 恐る恐る見ると、いつも有るはずの"象さん"がいなかった。

 

 驚きと、血の気が引く感覚が、両方した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、なんということでしょう。

 

 

 ボクはどうやら、生まれ変わることができたみたいです。

 

 

 神さま、ありがとうございます。この御恩は一生忘れません。

 

 

 でも、もう一つだけわがままを申すなら――――また男の子に生まれたかったです。

 

 



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生まれ変わった喜び【挿絵有り】

 少し硬い木製のベッドの上で、ボクは目を覚ました。

 

「うん……っ」

 

 ゆっくりと上半身を起こすと、大きく背伸びをした。背骨がパキパキと小気味よく鳴る。

 

 自室にあるゼンマイ式の壁掛時計が指し示す時刻は、四時。お坊さんならともかく、一般人的にはまだ眠っていていい時間だ。

 

 しかしボクは目をこすると、ためらいなくベッドから降りる。

 

 タンスの中から早朝修行用の軽装を引っ張り出すと、寝巻きを脱ぎ捨て、それに着替えた。

 

 髪の毛は、寝起きのせいで少しボサボサになっていた。なので木製のクシを通して毛並みを整える。

 

 肩甲骨を覆い隠すほどの後ろ髪を、三つ編みにしていく。

 

 そうして姿見に立つ。

 

 映っているのは、長い後ろ髪を太い一本の三つ編みにし、綿製の半袖に長ズボンという軽装をまとった小柄な――――女の子。

 

 手前味噌になるが、今鏡に映っているボクの姿は、見目麗しい美少女だった。

 透き通った鼻梁に、薄い桜色の唇、ぱっちりとした二重まぶた。大きめの瞳の上には、長いまつげが弓なりに沿っている。宝石のような華やかさの中に、ヒマワリのような快活さを含んだような美貌。 

 色白な肌はきめ細かく、とてもすべすべだ。まるで作りたての陶器のようである。

 

 女性なら誰でも羨むであろう美しさを、ボクは持っていた。

 

 だというのに、

 

「……はあ」

 

 それを見ると、どうしても小さく溜息を突いてしまう。

 

 ……どうしてこうなっちゃったかなぁ。

 

 でも、こう(・・)生まれてしまった以上、もう嘆いても仕方が無い。

 

 なのでボクはすぐに気を引き締め、家を出たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外は、当然ながらまだ暗かった。

 

 東の山の向こうからはうっすらと日光が見えるが、こちら側には差していない。町中はまだ夜同然だった。

 

 石畳で舗装された大通りの端々に軒を連ねているのは、レンガもしくは木で造られた建築物の数々。瓦で屋根を作っているという点では、どの建物も共通していた。

 

 石畳の上を、ボクはスタスタと早歩きで進む。

 

 その途中、一人のおばあさんと鉢合わせした。おそらく、散歩でもしていたんだろう。

 

「あら、(リー)さん家の末っ子の星穂(シンスイ)ちゃんじゃあないの。こんな朝早くからお出かけかい?」

 

 「シンスイ」と呼ばれたボクは立ち止まり、少し恥ずかしそうにしながら、

 

「えっと……ちょっと朝の修行に……」

「そうかい。朝から元気だねぇ。気をつけるんだよ」

 

 そう言うおばあさんに軽くお辞儀してから、ボクは再び早歩きを再開した。

 

「……シンスイちゃん(・・・)か」

 

 ある程度離れてから、嘆息するように吐き出した。

 

 

 

 

 

 ――転生。

 

 それは、死んだ人間が、別の人間として新たに生まれ変わること。

 

 ボクがそんな摩訶不思議な現象を経験してから、すでに十五年が経過していた。

 

 ボクは「李星穂(リー・シンスイ)」という人間として、再び生を受けた。

 

 初めは大いに戸惑った。まさか転生なんてものが本当にあるとは思わなかったのだ。当然だろう。

 

 しかも、生まれ変わったボクの性別は女性だった。

 

 これにも驚いたし、それに困った。元々男だったのに、女の子に転生してしまったのだ。誰だってこの先の生き方に不安を感じるものだろう。

 

 しかしすぐに、そんな驚きや不安を帳消しにして余りある大きな喜びを抱いた。

 

 生まれ変わったボクは、先天的な障害や持病など何も無い――全くの健康体だった。

 

 普通の人なら「だから何?」と呆れ気味に言うかもしれない。

 

 でも、ずっと病弱なままだった前世を持つボクにとって、その「健康」というのは最早金塊の山すら霞んで見えるほどの宝物だった。

 

 ボクは大いに喜んだ。

 

 しかし、さらに一つ問題があった。

 

 ボクが生まれ落ちたこの場所は、日本ではなかった。

 

 いや、日本どころか、地球ですらなかった。

 

 この場所の言語――もちろん日本語ではない――が話せるようになってから親たちに聞いたところ、ここは【煌国(こうこく)】という国にある【回櫻市(かいおうし)】という町なのだそうだ。

 

 まず、【煌国】なんて国は知らないし、聞いたこともない。

 

 おまけにこの国の文明レベルは、元居た現代と比べて雲泥の差があった。

 

 電気で動く機械が一つも存在しない。戦争でも未だに騎馬隊を使っている。

 

 現代ならば、たとえどんなに貧しい国であろうと、電化製品が一つも無いなんてことはないだろう。

 

 ボクは信じがたい思いを抱きながらも、ある一つの結論を導き出した。

 

 

 

 ここは――異世界。 

 

 

 

 ボクは、小説やアニメなどで頻繁に扱われる、異世界転生というものを経験したのだ。

 

 そういったサブカルチャー作品で登場する異世界というのは、大多数が中世ヨーロッパっぽい雰囲気だろう。

 

 しかし、この世界は違った。

 

 中国伝統建築にそっくりな建物ばかりが並び、なおかつ人々の服装もオリエンタルなものばかり。その他にも、中華を彷彿とさせる文化や要素がそろい踏みだった。

 

 つまりここは、言ってしまえば中華風の異世界。

 

 中世風であろうと中華風であろうと、地球ではない違う世界。そんな所で、現代日本の文明社会にどっぷり浸かったボクがやっていけるのか。不安はなくはなかった。

 

 ――しかしそんな不安は、元気な体で生まれることができた喜びに比べればちっぽけなものだった。

 

 歩けるようになり、この世界の両親から外出が許された途端、ボクは夢中になって遊びまくった。

 前世では見ているだけだったボール遊びにも、積極的に参加した。

 木にも登った。

 山犬やでっかいハチに追われたりなんかもした。

 鬼ごっこなどでは、常に最初の鬼を買って出ていた。走れる喜びに浸りたかったのだ。

 そんな風に村の中で大暴れしているうちに、近所の悪ガキ軍団のトップにまでなった。

 

 ボクはとにかく、前世で普通の子供のように遊べなかったフラストレーションを発散するかのように動き回り、遊び回った。

 

 まさしく我が世の春だった。

 

 そして七歳の頃、ボクは「あるもの」と出会った。

 

 ――【武法(ぶほう)】。

 人体に秘められた潜在能力をフルに引き出し、人の身で人を超えた戦闘力を得られる究極の体術。

 端的に言うと「凄い武術」だ。

 予想もつかない身体操作をし、そして人間とは思えないほどの凄まじい威力を発揮する武法。中毒並みのアウトドア派になっていたボクは、その異世界の武術にこの上なく魅了された。「人間の体はそんな使い方ができたのか!」と。

 

 父がとある武法士――武法を身につけた人のことを言う――を自宅に招き入れたのは、それからすぐのことだった。

 

 父はその武法士に、衣食住を完全に保証することを報酬に、ボクと姉に武法の教授をさせた。

 

 武法は健康増進に非常に高い効果があり、【煌国】の有産階級にはスポーツ感覚で親しまれている。

 

 ボクが末っ子として生まれた李家も、難関である文官試験の合格者を一族から多数輩出している名家だった。なので両親も他の富裕層と同じように、子供へ武法を学ばせようと考えていた。

 

 だが「学ぶならば、何事も一流の師から学ぶべきだ」という父の信条によって自宅に連れてこられた師匠の教えは非常に厳しく、姉は一週間を待たずにギブアップした。

 

 しかしボクだけは、師匠の課す厳しい修行を夢中になって続けた。

 

 ボクは武法を初めて目にした時の感動を鮮明に覚えていた。あんな凄い技を自分も使えるようになりたい。その一心で修業漬けの毎日を送った。

 

 そのせいか、修行を始めて三年になる頃には、ボクは師匠に「もう実戦をやっても構わん」と許可される実力をつけていた。

 

 武法は非常に強力だが、習得が難しく、実戦可能な強さになるまでには最低でも五年かかると言われている。なので武法士は、子供のうちから修行を開始することが多い。

 

 ボクはそれを、たった三年で成し遂げたのだ。

 

 しかし、それでは満足しなかった。修行を重ね、実力が上がるにつれて、「さらに先へ行きたい」という欲求が生まれてしまうのだ。

 

 その欲求のままに、ボクは夢中になって自分の武法を磨いた。

 

 修行は苦しいが、それを覆い尽くすほどを楽しさも同時に享受し、年月を重ねていった。

 

 師匠は二年前に病死してしまったが、その後もボクはずっと修行を続けている。

 

 そして、今も。

 

 ――程なくして、目的地に到着した。

 

 この町【回櫻市】の外れにある、小さな広場。人が十人ほど入れそうな太い幹を持つ大樹を中心に、黄土色の地面が広がっている。

 

 ここが、ボクの練習場所だ。

 

 家の庭も十分練習できる広さだが、そうすると姉が「うるさい!」とヒステリックに怒るので、やむなくここで練習している。

 

「ふぅ…………」

 

 ボクは両足を肩幅に開いて直立し、呼吸を整える。

 

 そして、身体各部を意識でチェックした。

 

 頭部――目線は水平。百会は真上向き。

 頚椎――歪み無し。

 両肩のライン――地面と並行。

 胸椎――歪み無し。

 腰椎――歪み無し。

 骨盤――歪み無し。

 足裏――湧泉に確かな重量感。

 

 骨格がいつも通り「理想形」である事を確認。

 

 武法習得のために絶対に外せないのが、理想的な骨格位置。

 

 実は人間の体重というのは、すべてが足裏に集まっているわけじゃない。五体のあちこちに分散し、それらを体が無意識のうちに筋力で支えているのだ。

 

 そして、その「体重の分散」を引き起こすのが、骨格の歪みだ。

 

 人間は社会生活を行う過程で、不必要な動作を無意識に何度も行い、自身の骨格に「歪み」を生じさせてしまっている。

 

 肩こりや首こりで例えよう。ボクが元居た現代社会では、画面に頭を突っ込ませる形でパソコンを操作し、猫背になる人が多い。猫背になると、頭部が前に突っ込んだ姿勢になる。そうすると首筋周辺の筋肉が、頭部の重さを支えるために本能的に収縮する。それこそが肩や首が凝り固まる理由だ。

 

 武法ではまず最初に、その「体重の分散」を招く骨格の歪みを矯正する修行を行う。

 

 骨格を理想的な配置に整えることで、分散していた自重が――全て足裏に集中した状態を作り出す。いわば「骨で立った」状態にするのだ。

 

 こういった骨格矯正法を【易骨(えきこつ)】という。

 

 正しい骨格位置を習慣レベルにまで馴染ませるには、もちろん時間と根気が要る。だが【易骨】ができた修行者は、自身の体重をフルに活用できるようになる。

 

 例えば、自重を乗せたパンチを放つとする。それを受けた相手は数十両斤(りょうきん)――この世界の「kg(キログラム)」的な単位らしい――の鉄球が猛スピードでぶつかるような、凄まじい衝撃を味わうことになる。この威力は骨格が歪んだ状態では決して出せないものだ。

 

 武法では、力学的に効率の良い体術を行い、その百パーセントの自重をより強力に叩き込む打法を用いる。そしてそのような強い打撃を【勁擊(けいげき)】という。

 

 ボクは骨格位置の正確さを確認すると、両足を揃えて立つ。

 

 そして――【拳套(けんとう)】を開始した。

 

 トォン!! と片足を踏み鳴らしてから、瞬発する。

 疾風のような速度で前進。すぐさま地を砕かん勢いで前足を踏み込み、急停止――と同時にその踏み込んだ足へ急激な捻りを加え、正拳を突き出した。拳に確かな重量感を得る。

 さらにその拳を掌にし、その場で小さく螺旋を描く。そこからすぐに大地を蹴って加速し、トォン!! という激しい踏み込みで急停止。同時にもう片方の拳で虚空を突く。

 両拳を顔の前で揃えて構え、前蹴り。そのままその蹴り足で前に激しく踏み込み、正拳へと繋げる。

 半歩退いてから、また前へ踏み込み、肘打ち。

 足底から全身を捻り、もう片方の手で掌底。

 再び半歩退きながら、また掌底。

 

 ――その後も、激しく鋭敏な動作が数珠のように連なっていく。

 

 動作の途中途中で発せられる、激しい踏み込みの音。それと同時に鋭く、強大な一撃が空気を切り裂く。

 

 雷撃を思わせる技法の数々。

 

 一挙行うたび、太い三つ編みが生き生きと躍動する。

 

 ボクが今行っているのは【拳套】。何十もの技が繋がって一つのセットになった、いわば型だ。

 これを何度も反復練習することによって、その武法に必要な体の使い方、【勁擊】の打ち方、歩法、体さばきなどを体に染み込ませるのだ。

 武法において、欠くべからざる修行法の一つだ。

 ただし正確には「型をやれば強くなれる」のではない。「型をやらなきゃ強くなれない」のだ。表現のし方はなんとなく似ているが、ニュアンスは微妙に違う。

 対人戦のための修行は他にある。しかしそれは【拳套】で養った体術がなければできない。【拳套】はいわば、対人戦のための前提条件的な基礎力を養う修行なのだ。

 

 あと、言い忘れていたけど――武法には数多くの種類が存在する。

 

 それは突き技主体だったり、蹴り主体だったり、体当たり主体だったりと、いろんなものがある。中にはその場から一歩も動かないまま敵を倒せる武法もある。

 

 そして、ボクの学んだ武法の名は【打雷把(だらいは)】。絶対的威力の【勁撃】と、絶対的命中率の双方を徹底的に養成する、超攻撃型武法だ。

 

 どんなにうるさい鳥のさえずりも、雷撃の凄まじい音一つでかき消される。【打雷把】は、その雷撃となることを目指す武法である。

 

 創始したのはボクの師匠「強雷峰(チャン・レイフォン)」。【雷帝(らいてい)】という異名を持ち、数多くの武法士を試合で打ち殺してきた、【煌国】最強の武法士だ。

 

 レイフォン師匠は指導者になる事をめんどくさがっていたため、まともに教えた生徒はボク一人だけだった。なので【打雷把】を知っているのは、この世界でボクだけということになる。

 

 ならば、師匠が作ったこの武法の伝承を途絶えさせるわけにはいかない。最後まで守り通す必要がある。

 

 そして、その事に抵抗は無い。

 

 人に教える立場になる気はまだ無いけど、ボクは今でも、武法をこよなく愛している。

 

 一生かけてでも続けるつもりだ。

 

 ボクは一層気合いを入れ、【拳套】を行う。 

 

 師匠は武法に関しては厳格で、無駄な動作を大層嫌っていた。その性格が現れているのか、【打雷把】の【拳套】の数は少なく、その一つ一つもかなり短い。なので、その短い少数の【拳套】を何度も何度も反復練習する。

 

 時間も忘れ、修行に夢中になるボク。

 

 気がつくと、山の向こう側から陽が登っており、広場を明るく照らしていた。

 

 それを確認すると、ボクは『収式(型を終える時の姿勢)』をして【拳套】を終えた。

 

 お日様が山の向こう側から顔を出した時が、早朝修行終了の合図だ。

 

 顔や首筋はすっかり汗にまみれており、半袖も重くなっていた。

 

 ポケットに詰めてあった手ぬぐいで顔と首筋を拭く。

 

 そして、広場の中心にある大樹に近づき、その幹へドッ、と掌底を打つ。

 

 大樹は枝葉を震わせると、実っていた果実を一つ落としてくれた。ボクはそれをキャッチする。地球では見たことのない形。この世界特有の果物だろう。

 

 ボクはその実をかじる。シャリッという歯ごたえとともに、酸味の効いた甘さが口いっぱいに広がった。食感は柿、味はみかんに似ている。

 

 修行後にこれを食べるのが、修行の次に楽しみな事だったりする。

 

 食べきると、残った種は端っこの草むらに放り投げる。

 

「さて、帰ろっと」

 

 ボクは背伸びをしながら、その広場から立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクの二度目の人生は、この時までは確かに順風満帆だった。

 

 

 

 そう――この時までは。

 




大恵氏よりファンアートを頂きました!
感謝感激(*´∇`*)


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役人なんて絶対イヤです!

 鋲がいくつも打たれた大きな正門を開け、ボクは中に入った。

 

 目に映るのは、広々とした中庭。そして、その奥にある立派な屋敷。

 

 ここが、ボクの今の家だ。

 

 ボクが自宅に戻って最初にしようと思った事は、軽い水浴びだった。

 

 家の裏側には井戸があり、さらに勝手口がある。

 

 最初に勝手口から家に入り、自分の部屋に行って替えの衣類を取り出してから、再び井戸の前に戻る。

 

 キョロキョロと周りに目を向ける。周囲に人がいないことを確認すると、汗まみれで重くなった服を脱いで、裸になった。

 

 少しバツが悪い思いをしながら、自分の体を見下ろす。女性的凹凸に乏しいが、代わりに余計な肉付きが無く、細身で均整の取れたスタイル。よく言えばスレンダー、悪く言えば貧相。

 

 ジッと見ているうちになんだか恥ずかしさが込み上げてきて、慌てて真っ直ぐ前を向いた。

 

 元々が男だっただけに、ボクは女体への耐性が弱い。自分の体を見るのにはなんとか慣れたが、他の女性の裸体を前にするとどうしても目を背けてしまう。

 

 なので、複数人の入浴の時はかなり苦労する。相手はボクを本気で女の子だと思っているため、その……胸や恥部を隠すことはせず、無遠慮に接してくるのだ。人によってはふざけて抱きついてくることもあって、その時に膨らみが……その……むにゅ、って……

 

「~~~~~~!」

 

 ボクは顔をさらに真っ赤にする。

 

 そしてその羞恥を誤魔化すように、井戸の底へつるべを投げ込んだ。ちゃぽん、と音がする。

 

 重くなったつるべを底から引き寄せ、中に入った水を体にかけた。井戸水が冷たくて気持ちいい。

 

 それから数度水を浴びてから、体を拭き、替えの服を着た。結び目と輪っかを使った留め具――チャイナボタンに酷似している――で真ん中を閉じた赤い半袖に、それと同色のゆったりしたワイドパンツ。まるでカンフー映画のような服装だ。

 

 この世界には旗袍(チーパオ)、いわゆるチャイナドレスもきちんとあるのだが、それを着るのは気が引けた。一回試しに着たことがあるけど、足がスースーして変な感じがするのだ。それに……恥ずかしいし。

 

 ボクはもう一度水を汲む。そのつるべの端に口をつけ、中の水を一気に飲み始めた。修行によって乾いた喉に、ひんやりとした井戸水は非常に美味だった。

 

「はぁーっ、生き返ったー!」

 

 つるべから口を離すと、ボクは爽快感に満ちた声を上げる。

 

 自身をいじめ抜いた後に味わうこの清涼感。

 

 まさしく、自分は生きているのだと感じる。

 

 前世では決して味わえなかったであろう快楽を、ボクは存分に享受していた。

 

 しかし、つるべの水をがぶ飲みし、風呂上がりにビールを一杯やったおっさんのような声を上げる今のボクは、明らかに乙女失格だった。

 

 こんな所を姉様にでも見られたら、一体なんて言われるか――

 

 

 

「ちょっとシンスイ! 今のは何!? はしたないわよ!」

 

 

 

 ……噂をすれば影がさす。昔の人は上手いことを言うもんだ。

 

 ボクは多少気後れしながらも、声が聞こえて来た勝手口の方を向く。

 

 そこには、見知った長身の女性が立っていた。

 

 腰まで伸びた長くつややかな髪の下にあるのは、彫刻のように端正なかんばせ。しかしその瞳はやや鋭く、キツイ印象を周囲に与えそうだ。

 白を基準としたドレスに包まれている細くしなやかな体つきは、ボクと違って出るところはしっかりと出ている。 

 

 この人は李月傘(リー・ユエサン)。ボクより二つ年上の姉にして、李家の長女だ。

 

 ボクはこの姉が苦手だ。ものすごい美人だが性格がとにかくキツく、口やかましい。ボクが何かやるたびに「はしたない」だの「みっともない」だのと姑のように言ってくる。

 

 でも、あいさつは大事だ。ボクはとりあえず微笑を作って、

 

「おはようユエサン姉様。井戸に用があるの?」

 

「おはよう。喉が乾いたから水を飲みに来ただけよ」

 

 姉様は「それよりも」と前置してから先を続けた。

 

「何なの、あの下品な水の飲み方はっ? もっとちゃんとした飲み方をなさい」

 

「水の飲み方一つにそんな目くじら立てなくてもいいのに……」

 

「良くないわよ。貴女は名門、李家の娘なのよ? ならば少しでも家柄に恥じぬ振る舞いをするよう心がけなさい。そんなことでは、寄り付く殿方もいなくなるわよ」

 

 少しムッとしたボクは、ジトっとした目で姉様を睨んだ。

 

「姉様、それって自虐ネタ? 男が寄り付かないのはそっちじゃないか。この間婚約の話があった(ティエン)家の次男坊に泣きながら逃げられたのはどこのどなたでしたっけ?」

 

「い、言うんじゃないわよ! あ、あれはただ相性が悪かっただけだわ! そもそも泣いて逃げるような情けない男、こっちから願い下げっ」

 

 姉様は顔を赤くしながら言い返す。

 

 まぁ、姉様は見た目はかなり良いんだけどね。でも、それに反比例して性格が……ねぇ。

 

「シンスイ、貴女今何か失礼な事考えてなかった?」

 

「滅相もございません」

 

 うわ、鋭い。こういう所も男を遠ざけちゃう原因なんだろうなぁ。

 

 見ると、姉様の片脇には一冊の本が挟まっていた。表紙には「文官登用試験過去問題集」と、煌国語で書いてある。

 

「姉様、今日も朝から勉強?」

 

 ボクの問いに、姉様は何を言わんやとばかりに鼻を鳴らし、

 

「わざわざ訊く必要があって? 李家は文官登用試験で数多くの合格者を出してきた優秀な一族よ。私はそんな家の子女として名に恥じぬよう、試験合格を目指して日夜努力しているの。武法なんかにうつつを抜かしている貴女と違って」

 

「う……」

 

 痛いところを突いてくる。

 

「えっと……ボクも一応勉強はしてるけど……その、やっぱり苦手で……」

 

「それは貴女が努力していないからでしょう? 何々が苦手、何々が出来ない、なんていうのは、所詮努力不足から目を背けるための言い訳なのよ。シンスイ、貴女は言うほど頑張ってはいない。だから苦手という言葉で言い訳をして、武法という逃げ場所に耽溺しているのよ」

 

 ……姉様のキツイ口調には慣れているつもりだが、今の台詞には流石にムカついた。

 

 ボクは全力で言い返した。

 

「そんな言い方はないだろ!? 勉強はきちんとしてない、だから苦手。それは認める。でもボクは一瞬たりとも、武法を勉強から逃げるための駆け込み寺にした覚えなんかない! ボクは本気で武法が好きなんだ! というか、姉様もそんな物言いしか出来ないから、男に逃げられたんじゃないの!? 姉様こそそのキツイ性格と言動なんとかしたら!? でないと行き遅れるよ!」

 

「何ですって!? もう一度言ってみなさい!」

 

「姉様は男に逃げられたーっ! このままじゃ行き遅れーっ!」

 

「このちんちくりん! 姉に向かって!」

 

 互いに噛み付かんばかりの勢いで詰め寄る。姉妹ゲンカが唐突に始まった。

 

 だがこれまた唐突に、二人揃って「くぅーっ」とお腹が鳴った。

 

「「…………」」

 

 ボクは別にお腹の音など気にしない。だが、目の前にある姉様の顔は羞恥で真っ赤だった。

 

 それを見て、今までの怒りが嘘のように溶けていった。

 

 ボクは姉様をフォローするべく、沈黙を破った。

 

「姉様……ご飯食べに行かない?」

 

「そ、そうね。貴女が行くというのなら、私も行くわ。別にお腹なんて減ってはいないけれど、これ以上貴女が品のない事をしないよう監視するために、仕方なくね」

 

 素直じゃないなぁ。

 

「あ、それと言い忘れていたわシンスイ」

 

「うん?」

 

「先ほど――お父様が戻られたわ」

 

 ……姉様のその台詞を聞いた瞬間、どういうわけかとてつもなく嫌な予感がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中華テーブルのような赤い漆塗りの円卓には、色とりどりの料理が並んでいた。

 

 食欲をそそる香り。美しく整然とした盛り付け。どの皿に乗る料理も、売り物に出していいレベルだった。

 

 それもそのはず。この李家に仕える使用人の中には、元々は高級飯店(レストラン)の料理人をしていた人が一人いるのだ。これらの料理は、その使用人が作ってくれたものである。

 

 なので、見た目や匂いだけでなく、味も最高である。

 

 現在は朝なので、比較的量は控えめだ。そして、夕方にはもっと多くの料理が卓上で花を咲かせることになる。

 

 前世では味気ない病院食ばかり食べていたボクにとって、それらはまさしくご馳走のはずだった。

 

 ……はずだった。

 

「…………」

 

 しかし今、ボクはその極上の朝食に食指が動かせないでいた。

 

 こうべを垂れながら、卓の下で絡み合う両手の指を見るともなく見ていた。

 

 まるで針のむしろに座らされたような、気まずい気分だった。

 

 しかし、いつまでもうつむいていてはいけないと思い、ボクは恐る恐る顔を上げた。

 

 

 

 ――向かい側の席には、壮年の男性が座っていた。

 

 

 

 巌のような顔に、視線を向けられただけで気圧されそうになる鋭い目つき。肩幅がボクの倍はある、堂々たる体格。

 

 この人は、この世界でのボクの父――李大雲(リー・ダイユン)

 

 帝都に務めている現役の文官で、かなりの重役だったと記憶している。

 

 ただでさえ忙しい文官の中でもさらに多忙な身であるため、こうして家に帰ってくることはほとんどない。

 

 ……いや、それよりも。

 

 ダイユン父様は向かい側の席にどっしり座りながら、ジッとボクに視線を送り続けていた。

 

 レーザーサイトもかくやという鋭い眼光にさらされ、ボクは蛇に睨まれたカエルも同然だった。

 

 父様は厳しい人だ。少しでも行儀の悪い所を見せればすぐにたしなめられるし、なんだか姉様と同じ匂いがする。

 

 そうか、今分かったぞ。姉様のあのキツイ目つきは父様譲りだ。これじゃあ男を寄せ付けないのも頷ける。元男のボクが言うのだ、間違いない。

 

 ……などと新発見している場合じゃない。

 

 なぜボクは、鋭い視線にさらされているのでしょうか?

 

 ボクが何かしたのでしょうか?

 

 もしかして、姉様がボクの水の飲み方を告げ口して、それを父様が代わって注意しようという感じか。

 

 いや……多分違う。

 

 父様の浮かべるあの重々しい表情は、そんなちっぽけなことを咎めようとする顔ではない。

 

 見ると、父様の隣の席にちょこんと座る女性が、気まずそうにボクと父様を交互に見ていた。

 

 たおやかな体つきで、おっとり系の美人。だが、どことなく疲れたような雰囲気を醸し出しているその女性は、ボクの母、李麦毯(リー・マイタン)だ。

 

 性格がキツイ父様、姉様とは違い、このマイタン母様はおとなしくて優しい人だ。

 

 ――ちなみにここまで見れば分かると思うが、ボクは家族全員を呼ぶ時に「様」付けをしている。

 

 良家の子女らしく、と教育されたことも理由の一つだが、ボク的には理由はそれだけではない。

 

 もう一つの理由は、「線引き」のためだ。

 

 確かに今目の前にいる人たちは、ボクの家族だ。

 姉様の事は苦手だが、同時にそれなりの愛着も抱いている。

 そして父様と母様には、産んでもらったことを本当に感謝している。二人がボクを作らなければ、ここに転生することは出来なかっただろうから。 

 

 しかしそれは、この異世界での話。 

 

 ボクには、もう去ってしまった前世にも親がいる。病気であるボクを決して見限らず、最後まで尽くしてくれた愛すべき両親が。

 

 この世界で「お父さん」「お母さん」と呼んでしまったら、前世の両親を裏切ることになってしまう気がするのだ。考えすぎかもしれないが、前世の両親は最後までボクの面倒を見てくれた。だからボクからも裏切るような真似はしたくなかった。

 

 ……まあ、今はそれは置いておこう。

 

「あの、あなた……そろそろ食べましょう? お料理が冷めてしまいますわ……」

 

 恐る恐るといった感じで言う母様。

 

 しかし、父様は胸の前で腕を組んだまま、ボクを見つめ続ける。

 

 そして、とうとう開口した。

 

「……シンスイよ、最近、勉強の方はどうだ?」

 

 ボクはビクッと肩を震わせた――やっぱり、そのことだったか。

 

 その時、姉様が「その質問を待ってました」とばかりに円卓を叩き、癇癪のように言った。

 

「お聞きになってお父様! シンスイったら相変わらず武法なんかにかまけて、勉強をおろそかにしているのよ! 私が十二歳の時点で完璧だった初級問題さえも満足に解けないんです! どうかこのじゃじゃ馬になんとか言ってやってくださいな!」

 

 父様と姉様の言う勉強とは、文官登用試験の勉強の事を指している。十八歳から受験が可能な国家試験だ。ちなみに姉様は現在十七なので、来年に受験を控えている。

 

 文官登用試験は難関であることで有名だ。おまけに文官は高給取りで福利厚生もしっかりしているため、毎年の競争率が馬鹿にならない。それをくぐり抜けただけで、普通より満ち足りた人生が待っている。

 

 そしてこの李家は三代前から、子女全員が文官登用試験をパスしているというエリート一族だ。

 

 父様はその事にプライドを持っている。そして自分の代でも全員合格を果たそうと、自身の二人の子供に幼い頃から勉強させているのだ。

 

 その「二人」の中には当然ボクも含まれるわけだが、ボクはどうにも気が乗らなかった。

 

 文官は公務員のようなもので、安定した職業だ。しかしその分、国家に仕える立場として、忙しい日々が待っている――武法の修行ができないほどの。

 

 そう。ボクが着目したのはその点である。文官になれば、武法の修行時間が確実になくなってしまうのだ。

 

 だからボクは、文官なんか嫌だった。

 

 そしてその気持ちは勉学にも顕著に現れていた。言ってしまうとボクの勉強は、姉様に比べてかなり遅れている。

 

 しかし、ボクは健康体を手に入れてこの世界に転生し、そして、武法という素晴らしい運動芸術に出会ったのだ。

 

 ボクは生涯をかけて、この武法を研究していきたい。

 

 それに、レイフォン師匠のたった一人の弟子として、【打雷把(だらいは)】を捨てるわけにはいかなかった。

 

 だからこそ、ボクは勇気を出して二の句を継いだ。

 

「父様……前にも申し上げたかもしれませんが、ボクは文官になどなりたくないのです」

 

 父様はあからさまに眉間へシワを寄せ、

 

「なぜだ? なぜなりたくない? 言ってみろシンスイ」

 

「……武法を続けたいからです。文官になれば多忙な日々が待っています。そうなってしまうと、もう武法の修行ができなくなります。それは、ボクの望むところではありません」

 

「武法だとっ? あんなもの、元々は健康増進のために始めたものに過ぎんだろう? 貴重な人生を費やす価値がどこにあるという?」

 

 その言い方に、ボクは少し苛立った。本当に姉様とそっくりだよ、この人。

 

「父様と姉様にとって無価値でも、ボクにとってはかけがえのない夢であり、宝物です。父様に腐される筋合いはありません」

 

「生意気を吐かすでないわ小娘がっ!!!」

 

 突然父様の落雷が落ち、ボクは硬直した。姉様も同じく固まっている。

 

「夢? 宝物? そんな風に現実を見ることを避けるから、貴様は未だに出来が悪いのだっ!! お前は由緒正しき李家の次女として生まれたのだ! ならば郷に入っては郷に従え! 日々真摯に勉学に励み、国に仕えろ! 少しはユエサンを見習ったらどうだ!? 通っている学習塾では常に最上位の成績! 合格はほぼ確実とのことだ!」

 

「でも……」

 

「口答えするな! 勉強は続けなさい! まったく、どうやら私はお前の育て方を決定的に間違えてしまったようだ。武法などと出会わせてしまったばっかりに、こんな親不孝娘の出来上がりだ。心強い用心棒にもなると思って、レイフォン師匠を屋敷の一室に住まわせ続けていたが、こんなことならユエサンが根を上げた時点で屋敷から叩き出すべきだったな」

 

 父様はさらにこちらをひと睨みし、続けた。

 

「だいいち、武法などがうまくなったところで、いったいどう生計を立てるという? 宮廷の護衛官か、保鏢(ほひょう)にでもなるつもりか? だがいずれも、お前が考えているほど甘い仕事ではない。武法の腕だけで務まる仕事だと思ったら大間違いだ。だいいちこの李家の中に、そんな粗暴な職に就いた者が出たとなれば、一族の恥だ」

 

 非難がどんどんヒートアップしていく。

 

 父様の事は怖い。

 

 この李家では、父様が絶対的発言権を持つ。ゆえに父様に対し、姉様も母様も異論を挟めない。

 

 でも今の父様は、せっかく生まれ変われたボクを束縛しようとする敵だ。前世でボクを病院のベッドに縛り付けた、不治の病と同じように。

 

 ここで日和見主義に走ることは、ボクの前世の経験が許さなかった。

 

 戦わなければならない。

 

 ボクはひるまず、言い返した。

 

「それは父様の希望でしょう!? ボクのとは違う! ボクがどう生きるかは、ボクが決める!」

 

「生意気を言うなといっているだろう!! 登用試験をくぐり抜けて文官の仲間入りを果たせば、お前は満ち足りた人生を送れるのだぞ!? この李家の面子も保たれる!」

 

「だから!! それはあんたの希望だろうが!!」

 

 「ちょ、ちょっとシンスイッ」と姉様が焦った様子で止めてくるが、ボクは無視する。

 

「貴様ぁっ!!」

 

 父様は怒りで真っ赤になったまま立ち上がり、ボクの目の前に歩み寄ってきた。

 

 ボクも席を立ち、父様と間近で向かい合う。

 

 紅潮した目の前の顔に、睨みをきかせた。殴りたければ殴るがいい。ボクは一切退くつもりはない。

 

 互いの目の間に、不可視の火花が散る。

 

 沈黙が、居間を支配する。

 

 だが父様は突然怒りを収めたかと思うと、冷え切った眼差しでボクを見下ろしてきた。

 

「…………そんなに武法がやりたければ、お前がそれに対して本気であるという証拠を見せるがいい。『輝かしい実績』という名の証拠をな」

 

 言うと、父様は懐から一枚の紙切れを出し、手渡してきた。

 

 広げて見る。

 

 ――その紙面の一番上には『第五回黄龍賽』と大きく活版印刷がされていた。

 

「それは近いうちに始まる【黄龍賽(こうりゅうさい)】の開催告知紙だ。お前も武法士なら【黄龍賽】は知っているだろう?」

 

 ボクは黙って頷いた。

 

 【黄龍賽】とは、四年に一度帝都で行われる、大規模な武法の大会だ。

 

 多くの武法士たちが集まり、鍛えた技で覇を競う。優勝者には莫大な賞金と、数多くの猛者を退けたという名誉が与えられる。

 

 賞金も魅力的だが、武法士にとっては後者の名誉という賞品も等しく重要だ。武法士は自分の流派への帰属意識が強く、一人の名誉はそのまま流派と、そこの門人たちの名誉にもなるのだ。

 

 ボクはすぐに、父様が【黄龍賽】の事を持ち出した理由に気づく。

 

「輝かしい実績……つまり父様はボクに――【黄龍賽】で優勝してみせろ、と?」

 

「そうだ。もしお前が優勝することができたなら、お前の武法に対する姿勢が生半可なものでないと認めてやろう。そしてその後は好きなように生きるがいい。だがもし、今年の【黄龍賽】での優勝が叶わなかった場合、その時は全力で勉学に励み、文官になってもらう」

 

 父様は突き刺すような視線を向けてくる。

 

「いいな? 優勝以外は認めんぞ。何せお前はあの【雷帝(らいてい)】から英才教育を受けた人物。優勝くらいは目指してもらわねばな」

 

 ……簡単な話ではない。

 

 【黄龍賽】では、【煌国(こうこく)】全土から武法士が集まる。その中には自分なんか足元にも及ばないような達人もいるかもしれない。いや、絶対いる。

 

 そんな強者たちの集まる中、生き残らなければならないのだ。

 

 道理の分からない子供でもなければ、それがどれだけ大変なことであるか想像に難くないだろう。

 

 だが、ボクは、逃げるわけにはいかなかった。 

 

 いや、逃げたくない。

 

 ボクは父様の視線を押し返すように睨み、言い放った。

 

 

 

「――望むところです」

 

 

 

 この一言が、ボクの二度目の人生に波乱が訪れるきっかけだったのだ。

 



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門出の日

 父様の挑戦を受けてから、半月が経過した。

 

 ボクはこれまでの間、なにくそと思い修行した。父様の思い描くレールから外れるために。

 

 もちろん、修行は楽しかった。しかし一方で、楽しんでいいのだろうかと疑問を抱く自分もいた。

 

 これから始まる【黄龍賽(こうりゅうさい)】は、国中から猛者が集まる大規模な大会だ。

 ボクも自分の腕には多少自信はあるが、武法の世界は広い。もしかしたら、まだボクの知らない強力な武法を使う強敵が現れるかもしれない。

 そんなまだ見ぬ強敵と戦うための修行なのに、そんな風に楽しみを持ってしまっていいのか? もっと緊張感を持って修行すべきなんじゃないのか? そんな思いをボクはたびたび抱いた。

 

 しかし、そのたびにボクは自分を戒める。

 

 それは「修行はひたすら苦しいものだ」という固定観念が作り出した幻想だ。ボクは楽しみながら修行したことで、他人より速く実戦的強さを手に入れたんだ。ならば、これからも変わらずそのスタンスを続けるだけ。

 

 というわけで、ボクは今日の早朝も熱心に修行に励んでいた。

 

 場所はもちろんいつもの場所。【回櫻市(かいおうし)】の外れにある大樹の広場だ。

 

 今日の正午、ボクはとうとうこの町を出る。そして【黄龍賽】に参加しに行くのだ。

 

 この修行はそのための最後の追い込みだ。この場所とも、しばらくお別れとなる。

 

 なので、自分の中にある全てをここに絞り出す勢いでひたすら功を練る。

 

 果実の実る大樹の根元で、ボクは静かに立っていた。

 

 直立姿勢ではない。中腰の姿勢でだ。

 

 上半身の姿勢を真っ直ぐに整えたまま、大腿部が地面と平行になるくらいに腰を落とした姿勢。

 

 両拳を脇に引き絞り、足指でしっかりと地を掴みながら、まるで一つの山のような盤石さでその場に立ち続ける。

 

 その際、頭頂部にある経穴【百会(ひゃくえ)】に糸が付き、それによって天から吊り上げられているというイメージを忘れない。

 

 低姿勢による負荷が両膝に集中している。それによって、大腿部全体に燃えるような疲労感。

 

 

 

 ――この姿勢を、すでに十分は保っている。

 

 

 

 これは【架式(かしき)】と呼ばれる修行法だ。

 決められた一つのポーズを長時間保つことによって、脚力を鍛えると同時に、その流派に必要な姿勢を身体に染み込ませる。

 非常に苦しいが、武法においては【易骨(えきこつ)】の次に大事な修行である。中にはこの【架式】ばかりを徹底的に練習し、型である【拳套(けんとう)】を全くしない流派もあるくらいだ。

 

 ボクのこの姿勢は一見、ただ深く中腰になっているだけに見えるだろう。

 

 しかしこの姿勢の中には、【打雷把(だらいは)】における重要な身体操作が二つ存在する。

 

 そして、その身体操作こそ、【打雷把】の強大な【勁撃(けいげき)】の源なのだ。

 

 まず一つ目――脊椎の伸張。

 ボクはこの姿勢を行う時「頭頂部が天から糸で吊り上げられている」というイメージを抱き続けている。これは、意識の力で頭部を真上に押し上げ、脊椎に上向きの張力を与えるためのものだ。

 なぜそれが威力向上に繋がるのかというと、全身のバランスが良くなるからである。

 人間の体には、引力という下向きの力が常に働いている。【打雷把】では脊椎を真上に張らせることで、さらに上向きの力を体に追加する。

 これら上下の力が同時に働くと、人体は底辺の広いピラミッドのような、非常に強い安定感を得る。

 その安定感を、そのまま攻撃力に変換するのだ。

 重心が安定していれば、どれほど激しくぶつかっても自分は倒れない。相手の重さを重心の盤石さで強引に押し退け、食い込むような打撃を食らわせることができるようになる。

 

 そして二つ目――足指による大地の把握。

 両足指で地を強く掴むことで、前述した身体操作による重心の安定をさらに強固なものにし、そびえ立つ山のように大地と一体化する。

 この状態を用いて打つと、相手はまるで山に寄りかかられたような凄まじい衝撃を受ける。

 

 【打雷把】では、これら二つの身体操作を基本とし、そこへあらゆる体術を組み合わせてさらに威力を増大させる。

 結果、相手を殺してお釣りが貰えるほどの絶対的威力が手に入るというわけだ。

 特にレイフォン師匠は、一撃で相手の胴体を突き破って死なせたこともあるとのこと。

 

 ボクはさらにもう十分【架式】の姿勢をキープし続け、ようやく腰を上げた。

 

「ふぅ…………っ」

 

 額にたまった汗を手で払い、爽やかな声をもらす。

 

 重々しい枷から解き放たれた下半身が、清涼感にも似たもので満たされる。

 

 これでボクの功が、少しだがまた一つ上に上がった。この清涼感は、ゲームのレベルアップ音に等しいもののような気がして、とても心地がよい。

 

 ボクは小休止すると、額の汗を拭い、次の修行に入った。

 

 直立し、両掌を前にかざす。

 

 呼吸を整え、心を沈める。

 

 そして、ヘソから指三つ分下の部位――臍下丹田(せいかたんでん)を意識する。

 

 細く、深く呼吸をしながら、その丹田に向かって全身からエネルギーが集中するイメージを浮かべる。

 

 すると、丹田のある下腹部が、不意に熱を持った。まるで焚き火に近づけたかのような、強い熱を。

 

 さらにその熱が、前にかざした右掌へ向かって流れるイメージを浮かべる。

 

 瞬間――丹田の熱は、電流が走るような感覚とともに右掌へ移動。

 

 その掌にはしばらく熱が残留していたが、だんだん冷めていき、やがて元の体温へと戻った。

 

 ボクは呼吸を整えてから、再び同じような手順を行った。

 

 丹田をスタートに、あらゆる部位へ熱を送ることを繰り返す。

 

 頭に、脇腹に、背中に、首筋に、足に、手に、鼻に、時には両手両足同時に、丹田の熱を送る。

 

 その熱が届いた部位の皮膚や骨は、熱を帯びている間だけ――鋼鉄のように硬度が増している。

 

 

 

 これは――【気功術(きこうじゅつ)】だ。

 

 

 

 人体内部に絶えず流れる【()】というエネルギーを用いた技術。

 

 全身に張り巡らされた【経絡(けいらく)】というルートに流れる【気】を丹田に注ぎ込み、そこを起点に様々な効力を引き起こす。

 

 ちなみに今行っているのは【硬気功(こうきこう)】の修行だ。丹田に集めた気の塊を任意の部位へ送り込むことで、その部位の硬度を一時的に鋼鉄並みにする技術。剣や槍さえも、少しの間だけ通らなくなる。

 

 その他にも、【勁擊】の威力を倍加させる【炸丹(さくたん)】、周囲の【気】を感知する【聴気法(ちょうきほう)】、自身の【気】を放出する【送気法(そうきほう)】といった技術が存在する。

 

 非常に便利な技術だが、タダではない。使いすぎると全身を巡る【気】が薄くなり、ヘトヘトに疲れ果てる。食事や睡眠を取ればすぐに回復するが、戦闘時では使いどころを考えないと足元を掬われてしまう。ご利用は計画的に、だ。

 

 武法には必ず存在する技術であり、これがなければ武法ではない。

 

 というより、【気功術】は【易骨】で整えられた体でしか使えない。【易骨】によって体重の分散を止め、全身から余計な緊張を取り除いた状態になって初めて全身の【気】の流れが円滑化し、【気功術】の修行の準備ができる。

 

 武法においては、何事も【易骨】から始まるのである。

 

 ボクはしばらく【硬気功】を繰り返した後、一旦【気】の操作をやめる。

 

 【気】を出してばかりいると、すぐに疲れ果ててしまう。なので数分小休止してから再開、そしてまた小休止と、休み休み練習するのだ。

 

 しかし小休止の間、決して怠けているわけではない。

 

 目を閉じる。深呼吸を繰り返しながら、ボクを中心にドームを張るように、周囲へ意識を集中させる。

 

 小休止の間は【聴気法】の訓練を行う。これは【硬気功】などと違い、【気】を消費しないからだ。

 

 周囲にある【気】の存在を感知し、敵のいる位置を割り出すのが主な使い方だ。これが使えれば、不意打ちを受ける心配がなくなる。

 

 ボクの真後ろに大きな『存在感』が浮かび上がった。

 

 それは、大樹の持つ【気】だ。

 

 チュンチュン、と、鳥のさえずりが近づいてくる。そう思った時には、大樹の【気】の近くに小さな他の【気】が降りてくるのをすでに感じていた。おそらく、さえずりの主だろう。

 

 ……【気】を持っているのは人間だけではない。動物や虫、草木だって生き物なのだ。【気】とは、生きとし生ける物すべてが等しく持つエネルギーである。

 

 だが、それで多くの【気】がごちゃごちゃになって、人間の存在を感知しにくくなる心配はない。

 

 人が持つ【気】と、その他の生物が持つ【気】では、明らかに感じが違うのだ。

 

 どう違うのかは上手く表現できないが、とにかく『違う』とはっきり分かる。なので、周囲に飛び交う【気】の中から、人間の【気】を簡単に見つけられる。

 

 タイムリーに、この広場の端に通りかかった人間の【気】を感知。

 

 目を開けると、そこにはこの間――父様の挑戦を受けた日だ――の早朝に鉢合わせしたおばあさんがいた。のんびりとしたペースで散歩していた。

 

 ニコニコ手を振ってきたおばあさんにボクは振り返すと、【聴気法】を再開した。

 

 しばらく続けてから、再び【硬気功】の練習を開始。

 

 何度か続けた後、再度小休止して【聴気法】。

 

 そんな風に繰り返しているうちに、山の向こうから日の出が訪れた。

 

 ボクは深く息を吐き、全身を緩める。今朝の修行はもう終わりだ。

 

 【気功術】の最中は一歩も動いてはいない。にもかかわらず、全身は汗だくだった。

 

 足元も、少しおぼつかない。少々張り切り過ぎたようだ。

 

 ボクはフラフラと大樹に歩み寄って、その幹に掌底。枝葉が震えたかと思うと、果実が一つ落ちてきた。

 

 いつものようにそれを食べ終えると、ボクは大樹の幹をさすりながら、穏やかに語りかけた。

 

「おまえともしばらくお別れだね。次戻るまでに、うんと実をつけておくれよ」

 

 ――そう、自分が優勝して戻ってくるまでに。

 

 

 

 

 

 

 そして、その日の正午、ボクは予定通り荷物をまとめて【回櫻市】を出た。

 

 

 



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予選会場【挿絵有り】

 

 突然だけど、【煌国(こうこく)】の行政区分について説明しよう。

 

 この国の行政区分は主に三つ。

 一つ目は【(しょう)】。これは日本の都道府県とほぼ同じ扱いと考えていい。

 二つ目は【()】。これは大きな町を表す単位。

 三つ目は【(ごう)】。これは小さな町、もしくは村を表す。

 

 この【煌国】という国は、五つの大きな【省】の繋がりによって成り立っている。

 

 帝都のある【黄土省(こうどしょう)】を中心に、東に【青木省(せいぼくしょう)】、西に【白金省(はっきんしょう)】、南に【朱火省(しゅかしょう)】、北に【玄水省(げんすいしょう)】の四つで囲まれる形で【煌国】という国は存在する。

 

 ちなみにボクの家がある【回櫻市(かいおうし)】は、【朱火省】の北端に位置する。

 

 ボクはそこから馬車で東に進み、二日後、【滄奥市(そうおうし)】という都市にたどり着いた。

 

 ここに来た目的はもちろん――【黄龍賽(こうりゅうさい)】に出場するためだ。

 

 【黄龍賽】はいきなり本戦から始まるわけではない。帝都のある【黄土省】を除く全ての【省】で予選を行い、参加者をふるいにかけるのだ。

 一つの【省】につき四つの都市で予選の大会を行う。その優勝者計一六名が本戦出場者となる。そういう仕組みだ。

 

 つまりボクがやって来たこの【滄奥市】は、その予選が行われる都市の一つであるというわけだ。

 

 ボクはとうとう戦いの舞台に上がろうとしているわけだが、

 

「…………」

 

 現在、人が行き交う街路のど真ん中で、ぽつねんと立ち尽くしていた。

 

 正午の太陽にさんさんと照らされる町並みは、非常に活気に満ち溢れていた。

 

 人通りが半端じゃなく、壁のように軒を連ねるオリエンタルな外装の建物内部はどこも過密状態だった。

 

 色々な店があって、行きたい場所に困らなそうだ。しかしその分、どの施設を立ち寄るべきなのか選別に困るという新たな問題が浮上しそうである。

 

 というか、今のボクがまさしくそういう状態だったのだ。

 

「……なんだかボク、おのぼりさんみたい」

 

 思わず呟く。

 

 予選開始は明日。その会場もすでに把握済み。そこまではいい。

 

 だがボクは次に、今日寝食を行う宿を探さなければならなかった。

 

 予選出場が決まったら、大会運営側が用意した宿にタダで泊まれるため、予選期間中の宿代の心配は要らない。

 

 だが、今日一日の宿代は自腹となる。

 

 一応、父様から多くの予算も貰っているが、長期的に家を離れることを想定したら、決して無駄遣いはできない。なので、今日の宿代はなるべく安く済ませたいのだ。

 

 しかし、ここは【回櫻市】より都会だからなのか、宿泊費が高い所が多い。

 

 あれ? ていうか、宿代の安い高いの基準ってどうなの? 前世、転生後問わず、今まで一人で宿などとったことがないので、その辺がよく分からない。

 

 それに、なんだか立ちくらみがする。女性特有の体質のせいではない。おそらく、あまりの人通りの多さで精神的に疲れているのだろう。

 

 時々、剣とか槍で武装した兵隊さんなんかも見かける。

 

 手提げ鞄を三つ編みと一緒にぶらぶらさせつつ、とりあえず進もうとしたら、

 

「――よお姉ちゃん、ちょっといいかい?」

 

 突然、後ろから声をかけられた。

 

 振り向くと、お世辞にもガラが良いとはいえない三人の男達が、ボクを囲うように立っていた。

 

「姉ちゃんよ、困ってんなら手ぇ貸してやんぜ? どうせ【黄龍賽】予選大会の観戦にでも来たんだろうよ。なら、この町の事分かんねぇんじゃねぇか? 俺らが案内してやんよ」

 

 男の一人がニヤついた顔でそう言ってくる。その眼はどこかギラギラした輝きを秘めており、ボクの胸部から太腿までを品定めするように見てくる。

 

 居心地の悪さを感じたため、ボクは愛想よく笑みを浮かべ、

 

「いえ、大丈夫です。一人でなんとかなりそうです」

 

「そう言わずによぉ」

 

「大丈夫ですってば」

 

「まぁまぁ、とりあえず来いよ。楽しませてやんぜ? それにこの辺悪い奴多いからな。俺こう見えて武法やってっからよ、守ってやれるぜ」

 

 言うや、男の一人がボクの腕を掴んで、そのまま引き寄せようとした。

 

「――あれ?」

 

 だが、引っ張ってきた男が拍子抜けした声をもらす。ボクが少しもその場から動かなかったからだ。

 

「うっ! くそっ! このーっ!」

 

 男は諦めず、なおも引っ張ろうとする。

 

 しかし、ボクの体は未だ根を張ったように動かない。

 

「くそっ! 全く動かねぇ! なんだこの女、途轍もなく重いぞ!?」

 

 男はボクの腕から手を離すと、怪物でも見るような目で見てきた。

 

 動かないのは当然だ。足指で地面を掴み、体をその場に固定していたのだから。【架式(かしき)】で鍛えたボクの足指の力にかかれば造作もないことである。

 

「……ちっ。行くぞ」

 

 興が削がれたのか、男達はそそくさと立ち去った。

 

 男達の姿が消えた後、ボクは一人ため息をついた。

 

「はぁ……男にナンパされるとか、なんの罰ゲームだよ……」

 

 これでもう何回目だろう。

 

 この町に入ってから、こうやって何度もナンパされ続けているのだ。そのたびに今のように袖にしているが。

 

 今のようなチンピラじみた相手がほとんどだったが、中にはかなりかっこいい人もいた。しかし、それでも心傾くことは一瞬たりともなかった。だって心はまだ男の子だもん。

 

 声をかけてくる人の武法士率はかなり高かった。この町ではどうやら、武法が盛んに行われているらしい。

 

 武法士は豪放磊落、かつ義気に厚い者たちの集まりというイメージが昔はあった。だって小説の中で出てくるテンプレートな武道家って大体そんな感じだし。

 

 しかし実際はそうでもない。もちろんマトモな人だってたくさんいるが、それとタメを張るレベルで、先ほどのようなチンピラじみた連中も多い。中には、ヤクザと癒着している流派もあるくらいだ。

 

「はぁ……」

 

 気が滅入る思いだったので、暇つぶしにちょっとした修行をすることにした。歩きながらでも出来るお手軽な、しかしそれでいて効果の高い修行法を。

 

 ボクは道行く人の邪魔にならないよう、いったん道の端っこに移動した。

 

 鞄をまさぐって、あるモノを取り出す。

 

 それは、一つの(まり)だった。

 

 ボクはそれを軽く宙に投げる。そして自由落下してきた鞠を、足で宙へ蹴り戻した。

 

 再び鞠が落ちてくる。それに軽く膝を当ててまた飛ばす。

 

 リフティングよろしく蹴鞠しながら、町中を歩く。

 

 他の人たちはそんなボクを奇異の目で見ていたが、ボクは奇行を行っているつもりは一切ない。至極真面目だった。

 

 これは【養霊球(ようれいきゅう)】という修行法だ。

 

 鞠を地面に落とさぬよう、リフティングのように何度も蹴って上げ続けることで、足の器用さを養う。

 

 足が器用になれば、武法特有の複雑な足さばきも抵抗無く行えるようになる。

 

 【打雷把(だらいは)】は絶対的威力ともう一つ、絶対的命中率を重んじる武法だ。そしてその絶対命中を可能にするには、足さばきが重要である。

 

 精密かつ迅速な足さばきを用いて相手の攻撃をかいくぐり、リーチ内に潜り込み、強烈な一撃を叩き込む――【打雷把】ではそういった戦法を頻繁に用いる。小柄でリーチの短いボクには特に重要だ。

 

 この修行法は【刮脚(かっきゃく)】という武法で行われている修行を、レイフォン師匠が取り入れたものだ。

 

 【刮脚】とは、蹴り主体の武法。巧妙かつ威力の高い蹴り技を多用することで有名だ。

 

 そういった武法の性質上、【刮脚】では足の器用さが重要視される。そのための【養霊球】だ。レイフォン師匠はその修行法を「使える」と感じ、自身の【打雷把】に組み込んだのだ。

 

 鞠を何度も蹴上げながら、街路を歩くボク。

 

 先ほどまで立っているだけで疲れが溜まる一方だったが、修行を続けているうちに気分が良くなっていった。

 

(もはやこれ、一種の病気だよなぁ)

 

 武法が関わると、どんなにストレスが溜まる状況でも気分が良くなる。ボクは自分のそんなゲンキンな体質に、思わず苦笑する。

 

 それにしても、この町は人が多い。

 

 栄えていることは確かだろうが、それを含めても過密っぷりがすごい。

 

 おそらく予選参加希望者と予選大会の観戦者が、外部から大勢やってきているからだろう。

 

 ちなみに【黄龍賽】は、商売をする人たちにとってはありがたい行事なのだ。

 

 本戦の開催場所は毎年帝都に固定されているが、予選は開催される町が毎年変更される。

 

 その理由は、他の町からやって来る人々がもたらす経済効果にある。

 

 予選大会が開催される町には、参加希望者や、大会を観戦したい人々が押し寄せて来ることになる。そうしてやって来た人たちがお金を使うことで、その町の経済を潤してくれるのだ。

 

 第一回【黄龍賽】でそれに気がついた政府は、予選の開催場所を毎年変えるようになった。一つの町に絞り込んで他をおろそかにするのではなく、ちょくちょく町を変えてまんべんなく経済に油を差すために。

 

 確かに、飯店や軽食屋の接客をしている人はかなり積極的だった。少しでも多くのお客さんを捕まえてやろうというパワフルさが目を見て分かる。

 

 食べ物屋を見ていたせいか、お腹が鳴った。

 

 そういえば正午の少し前に馬車を降りて以来、何も食べていなかった。思い出したように空腹感がお腹に宿る。

 

 いくら修行でも、空腹までは満たせない。

 

 とりあえず、どこかで食事にしよう。腹が減ってはなんとやらだ。

 

 そう考えた時だった。

 

 

 

「ねぇ? それって【養霊球】じゃない?」

 

 

 

 後ろから突然、そんな声がかかった。

 

 またナンパか……ウンザリした気持ちを抱きながら背後を振り返る。

 

 だが、そこに立っていたのは女の子。

 

 長身で、大人びた雰囲気を放つ美女だった。

 毛の末端あたりにウエーブがかかった長い髪をポニーテールに束ねており、デキる大人の女性をイメージさせる凛々しい顔立ちをしている。しかしどことなく少女としての面影を残しているため、歳はそれほど離れていないことが分かる。

 身長は目算で167厘米(りんまい)——この世界での「cm(センチメートル)」的な単位——といったところか。154厘米(りんまい)のボクより一回り高い。抜群のプロポーションを誇り、砂時計のような腰のライン、大きくも強い張りと美しい形を持つ胸部と臀部の存在が、瑠璃色の旗袍風のドレスの上からでも容易に見てとれる。……特に胸が凄い。大きさ的な意味で。

 スリットからは、細く、それでいて健康的な美脚が伸びている。

 

 ボクは鞠を蹴るのをやめると、少し驚いた目でその女の子を見つめ、

 

「この修行法の事を知ってるの?」

 

「知ってるも何も、私もその修行やってるもの」

 

 女の子は友好的な笑みを見せると「ちょっと貸して」と、ボクの足元の鞠を指差してきた。

 

 ボクはとりあえず鞠を蹴って寄越した。

 

 するとどうだろう。彼女は飛んできた鞠を足で受け取るや、それを華麗に宙で操ってみせたのだ。

 

「おおっ!」

 

 ボクは思わず感嘆の声を上げる。

 

 有名サーカス団仕込みの曲芸を見ている気分だった。

 

 鞠はまるで意思を持っているかのように、活き活きと彼女の周りを跳ね回っている。無生物である鞠に生物感を感じてしまうほどに、彼女のボール運びは神がかっていた。

 

 鞠の飛ぶ速度も速い。しかし彼女は一度もつっかかることも、体勢を崩すこともなく、まるで自分の体の一部のように鞠を操り続ける。

 

 何より、両足を使って蹴っているボクと違い、彼女は片足しか使っていない。その上で、ボクよりも美しく演じてみせている。

 

 【養霊球】は、別に見た目の美しさを競い合うためのものではない。しかし、彼女の足の技巧が類い稀なものであることを知るのには十分な判断材料だった。

 

 しばらくすると、彼女は落ちてきた鞠を手でキャッチする。

 

「【養霊球】はただ継続して蹴り続けるだけじゃなくて、蹴る力の強弱、足の当たる角度なんかで鞠の軌道を操るって意識を持ってやれば、さらに効果的に足の器用さが鍛えられるわよ」

 

 その言葉を紡いだ声音は、まるで妹を気遣うような面倒見の良さを感じさせる、落ち着いた響きを持っていた。

 

 ボクは目を宝石のように輝かせ、

 

「す、すごいよ!ボクよりずっと上手い!芸術的だよ!」

 

「そうかしら……そこまで言われると、ちょっと照れるわね」

 

 彼女は先端にウェーブのかかった長いもみあげをくるくる弄りながら、恥ずかしそうにはにかむ。大人びた顔立ちだが、笑う顔はとても可愛かった。

 

「それに、足技は私の専門だしね」

 

「専門……?」

 

「ええ。私の武法は【刮脚】だもの」

 

 開いた口が塞がらなかった。

 

 まさか【刮脚】のことを考えた直後にその使い手と出会えるなんて! タイムリーにも程があるだろう!

 

 つくづく、ボクは幸運だ。

 

 驚きと同時に、ワクワクのような気持ちが湧き上がってきた。

 

「【刮脚】っていうと「足を手と為し、一蹴りで肉を削ぎ落とす」っていうのが謳い文句の、蹴り技主体の武法だよね!? 創始者は岳河剣(ユエ・ホージェン)! ホージェンさんは【太極炮捶(たいきょくほうすい)】を二十年学んだ後、【太極炮捶】に含まれる蹴り技をベースに創意工夫を加えて【刮脚】を創始した! 最初に伝えられた場所は【青木省】の【三宋郷(さんそうごう)】っていう小さな村! そこからさらに【刮脚】は、高い蹴りを多用する【武勢式(ぶせいしき)】と、低い蹴りを多用する【文勢式(ぶんせいしき)】の二つのスタイルに枝分かれする! でも【武勢式】と【文勢式】の人たちはお互いに「自分たちのスタイルこそ【刮脚】の本質を追求したもの」と誇りを持ってて、もう片方を【刮脚】とは認めていない。でもボクとしてはどっちも素晴らしいスタイルだと思うんだ! だって【武勢式】の蹴りはダイナミックで威力に富んでるし、【文勢式】にはトリッキーな足払いが多いし! ああ、でも、この二つの特徴が合わさって一つになれば、もっと凄い武法になるとは思わないかな!? 創始者のホージェンさんの伝えていた古いタイプの【刮脚】が、バランス的には一番だよね! あれには【武勢式】と【文勢式】の要素がほどよく配分されてるから――」

 

「こらこら落ち着きなさい」

 

「あぅあっ」

 

 指で額を小突かれ、言いつのるのを止められる。

 

 いけないいけない、武法の事となるとテンションが上がりまくってしまう、ボクの悪いクセ。

 

 しかし彼女は気を悪くするどころか、口元に手を当てて愉快そうに笑っていた。

 

「ふふふっ、面白い子ね、あなた」

 

 彼女はそう言うと、

 

「自己紹介がまだだったわね。私は宮莱莱(ゴン・ライライ)。【黄龍賽】予選に参加するためにここへやってきたの。よろしくね」

 

 気さくに笑みを浮かべながら、手を差し出してきた。

 

 ボクは手汗を赤いワイドパンツで拭うと、おずおず彼女の手を握った。ボクより少し大きい。その上ひんやりすべすべしてて触り心地がいい。

 

「ボクは李星穂(リー・シンスイ)。【打雷把】っていう武法やってます。よ、よろしく」

 

 やや緊張しながら、ボクも自己紹介をしたのだった。

 




2017.10/3.大恵氏からファンアートを頂きました!
絵は、この話で初登場の宮莱莱(ゴン・ライライ)です!


【挿絵表示】

( ゜∀゜)o彡°


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謝るんだ

 

「へぇー、ライライはお父さんから武法を教わったんだー」

 

 ボクは人混みの多い正午の街路を、先ほど知り合った女の子――ライライと隣り合わせで歩いていた。

 

 その最中、会話に花を咲かせた。主な話題は武法の事。我ながら本当好きだなと呆れる思いだった。

 

 しかしライライはウザがったりはせず、小さく笑みを浮かべながら答えてくれる。彼女は姉様と同じ一七歳らしいが、その仕草はやっぱり十歳以上歳が離れたオトナの女性を思わせる。というか、姉様よりずっと大人だった。

 

「ええ。私のご先祖様は岳河剣(ユエ・ホージェン)の弟子だったの。そしてホージェンから教わった【刮脚(かっきゃく)】を、私たち(ゴン)家は家族の中で代々伝承してきたのよ」

 

「ってことは……今じゃ珍しい、一番古いタイプの【刮脚】ってことになるじゃないか! 【武勢式(ぶせいしき)】と【文勢式(ぶんせいしき)】のいいとこ取りの!」

 

「そうなるわね。私たちはホージェンから教わったものに、全く改良やアレンジを加えたことがないもの」

 

 ボクは興奮度をさらに強めて、ライライに詰め寄った。

 

「ねぇねぇライライ、良かったら少し見せてくれないかな!? 古流の【刮脚】は流石のボクでも見たことがないんだ!」

 

「うーん、残念だけどお断りさせていただくわ」

 

「えぇー!? そんなぁ!」

 

 興奮が一転、落胆モードとなるボク。

 

 そんなボクを見て、ライライは可笑しそうに笑いながら、

 

「シンスイって、本当に武法が好きなのね。嘘よ嘘。そのうち見せてあげるわよ」

 

「ホントに? 約束する?」

 

「うん、約束するわ。というより、約束するまでもないんじゃないかしら? シンスイも予選に出るんでしょう? なら、そのうち私の戦いぶりを見る機会があるでしょうし」

 

 それもそっか、とボクは同意する。

 

 それからボクは、ライライから比較的安めな宿を紹介してもらい、そこで宿泊手続きをした。ライライもその宿に泊まる予定とのこと。

 

 重たかった荷物を自分の部屋に置いた後、ライライとともに町中をぶらついた。予選は明日から。なら、今日は観光でもしようと思ったのだ。

 

 まず最初にしたかったのは、腹ごしらえだった。ライライもそれは同じだったようで、ボクらは露店で包子(パオズ)――中華まんのことだ――を買って食べた。

 

 肉入りであることを知って買ったわけだが、かぶりついた瞬間驚いた。なんと肉と一緒にスープが入っていたのだ。肉汁とスープがうまい具合にマッチしていてとても美味しく、ボクらはすぐにお腹に収めてしまった。

 

 次に、女物専門の服屋へ入った。

 

 さすが中華風異世界。ライライが着ているような旗袍風の服装がたくさん並んでいた。

 

 ライライは面白半分にとびきりセクシーな服装を勧めてきたが、ボクは頰を赤くしながらかぶりを振った。

 

 ちなみにこの世界、ご丁寧にブラジャーやパンティがあるのだ。

 

 ライライが気に入った服を試着中、その大きな胸のせいで着用していたブラジャーの留め具が壊れるというアクシデントが発生。急遽、新しいブラ探しをするハメになったが、彼女の胸に合うものがなかなか見つからず、大変な作業だった。……ボクがライライの素肌を直視できないせいで、サイズチェックに時間がかかったのも一因だが。

 

 途中で病院なんかも見かけた。

 

 前世とは打って変わって病気知らずだったボクは、そこに出入りする人たちを他人事のように眺めていた。前世では考えられなかったことである。

 

 店は開けっぴろげになっており、中の様子が少し見えた。

 

 お医者さんは、腰の悪そうなおばあさんをうつ伏せに寝かせる。そして、おばあさんの腰辺りに手を添えた。

 

 瞬間、お医者さんの手から――電気のようなものが漏れ出した。

 

 おばあさんの腰と、お医者さんの手の間で、青白いスパークが幾度も発生しているのが見える。まるで溶接してるみたいだ。

 

 ボクにはその電気のようなものの正体が分かっていた。

 

 あれは、お医者さんの体から放出された【()】だ。

 

 ――【気功術(きこうじゅつ)】は、医療にも応用が可能なのである。

 

 【気】の力を使って患者の体に干渉し、自然治癒力を刺激して回復力や回復速度を飛躍的に高めたり、感覚を一時的に麻痺させて麻酔と同じ効果を引き起こしたりすることができる。

 

 しかし、言うほど簡単ではない。

 

 人間の【気】には、指紋や声紋のように個人個人で形が異なる【波形(はけい)】が存在する。

 

 そしてその【波形】は、形の異なる別の【波形】が近づくと、互いに反発し合う性質がある。

 

 なので【気】の力で人間の体に干渉するには、患者の持つ【波形】を読んだ上で、自身の【波形】を一時的に患者のソレに似せてから【気】を流し込む必要がある。ラジオの周波数を合わせるように。

 

 どれも【気功術】としては高等技術であるため、ここまでできるようになるまで結構な時間が要る。

 

 そしてこの【煌国(こうこく)】の医師は、その気功治療法を必修スキルとしている。

 

 もちろん、武法を抜きにして【気功術】のみを覚えることもできる。だが多くの医師は、ついでとばかりに武法も兼修する傾向がある。武法も【気功術】も、ともに【易骨(えきこつ)】というスタートラインから始まるのだから。

 

 ……さらにこれは余談だが、【気】とは電気的性質を持ったエネルギーだ。そのため、塵が煙のように充満した空間で【気功術】を使うと、【気】が引火して粉塵爆発を起こす危険性がある。実際それで焼死した武法士も何人かいる。なので、そういった空間では【気功術】を使ってはいけないのだ。

 

 それ以降も、ライライとともに色々と見て回った。

 

 しばらくして、ポケットから機械式の懐中時計を取り出す。時刻はすでに午後三時を過ぎていた。そこまで時間が経っていたとは思わなかった。楽しい時間は過ぎるのが速い。

 

 ガチャガチャと金属の弾む音が、ボクの傍らを通り過ぎる。

 

「……んっ?」

 

 思わず、後ろを振り向いた。

 

 鎧や槍で武装した人たちの後ろ姿。【煌国】の正規兵だった。

 

 そういえば、さっきも兵隊を見たような……?

 

「ねぇライライ、あの兵隊……」

 

 どうしてこの町をうろついてるの? という言葉の続きを察したのか、ライライはボリュームを下げた声で、

 

「きっと、皇女殿下が宮廷から失踪されたから、探してるんだと思うわ。あなたと会う前、チラッと耳にしたもの」

 

「え、ええ!? 失そ――むぐっ」

 

 驚愕の声を上げようとしたボクの口を、ライライが慌てて塞ぐ。

 

「おバカっ。声が大きいわよ。あんまり騒いでいいことでもないでしょう?」

 

「ご、ごめん。でも、それってマズくない?」

 

「ええ、マズいわね。皇族がそこら辺ほっつき歩いてるなんて、非常識にも程があるもの。皇女殿下は前も何度か宮廷を脱走したことがあるらしいけど……まだ懲りてないのかしら」

 

「そ、そうなんだ……なかなかパワフルなお姫様だね」

 

「良く言えばね」

 

 ライライは苦笑まじりに同意する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人通りの多い町の熱気から体を冷ますため、ボクたちは今までいた商業区を一度離れて、【武館区(ぶかんく)】という場所へとやってきた。

 

 この【滄奥市(そうおうし)】は上から見ると正方形をしており、半分が商業区、もう半分が住宅区、そしてそれらの間をとった円いスペースが公共区となっている。

 

 住宅区の中には、さらに【武館区】と呼ばれる場所が存在する。

 

 武館とは、武法を教える道場のことだ。つまり【武館区】とは、その武館が数多く集まっている場所の俗称である。

 

 こういった場所は、どの町にも必ずといっていいほど存在する。

 

 そしてそこには、武法士ではない普通の人はほとんど立ち入らない。理由は簡単。怖いからだ。

 

 なので当然ながら、ここは商業区に比べて人通りに乏しい。

 

 しかし、落ち着いて休憩したい今のボクたちにとっては絶好の場所だった。

 

 ボクとライライは道の行き止まりにある井戸の前で、つるべに汲んだ水を備え付けの柄杓ですくって飲んでいた。

 

 歩き回ったせいで熱を持った体を、ひんやりとした井戸水が冷ましていく。

 

「ふうー、生き返るー」

 

「そうね。ずっと歩きっぱなしだったものね」

 

 そんな風に軽く話しながら、ボクらは口とつるべの間で柄杓を往復させる。

 

 先ほどの動き回りっぷりとは一転した、まったりとした時間が流れる。

 

 本当に自分の武法士生命を賭けた戦いに来たのかと、疑いたくなる。それくらいリラックスしていた。

 

 不意に、リズミカルな掛け声と足踏み音が、近くの建物の中から聞こえて来た。

 

 ここは武館の集まる武館区。つまり十中八九、武法の練習をしている声。

 

「何かやってるよっ? 何かな、何かな?」

 

「シンスイ、一応釘を刺しておくけど、練習を覗こうなんて考えちゃダメよ? それは武法士社会の中では最大のタブーなんだから」

 

「うー、分かってるよ」

 

 そうなのだ。

 

 武館の修行をこっそり盗み見る行為は【盗武(とうぶ)】と呼ばれ、武法士相手に一番やってはいけないことの一つだ。

 

 ボクのように気にしない者もいるが、ほとんどの者はそうではない。報酬を払ったわけでも、師と信頼関係を構築したわけでもない者に流派の伝承を盗まれることが我慢ならないのだ。間違った伝承を流布されるかもしれないという懸念ゆえでもあるが。

 

 ペナルティーは良くて袋叩き。過激な流派では、手を斬り落とされることもあり得る。盗み見て得た武法を使えぬように。

 

 いくらボクが武法バカでも、そこまでチャレンジャーではない。分別はわきまえているつもりだ。

 

 だが、練習する掛け声の中に、呻き声やダミ声のようなものが混じって聞こえてきた。

 

「え……?」

 

 ボクは柄杓を元の場所に戻し、呻きの聞こえる方向までゆっくりと近づく。

 

 ライライも柄杓を置き、ボクの後ろについてくる。彼女にも聞こえるようだ。

 

 先ほどまでいた脇道から大通りに出る。呻きがするのはもう一つ前の脇道からだ。ボクとライライはそこへ入る。

 

 薄暗い道が、目の前に真っ直ぐ伸びている。

 

「テメー、調子こいてんじゃねーぞボケ!!」

 

「うぐっ!」

 

 奥から具体的な発音を持った罵声が呻きとともに飛んできたため――なんと、女の声だった――、ボクは思わずビクッとする。

 

 しかし、ますます気になったため、奥へ進む足を速める。

 

 やがて、その騒ぎの元が、視界の中で大きくなった。

 

 レンガ造りの建物の側で胎児のように横たわる、一人の青年。その服はシワだらけな上、土があちこちに付着してボロボロだった。

 

 そして、彼がボロボロである理由は簡単に分かった。四人組が――現在進行形で彼を足蹴にしていたからだ。

 

 四人中三人は、ガタイの良い強面の男。そして残り一人は、ボクと比較的歳が近いであろう浅黒い肌の女の子だった。

 

 長い髪をサイドテールにしたその少女は、美少女と呼んでもおかしくない容貌だった。しかしその目つきは鋭く、剣呑な雰囲気を周囲へハリネズミのように発している。

 身長はボクより少し高い程度。だがスタイルはほぼ同じ。そのスレンダーな体を、桔梗色の半袖カットソーと、うっすら竜の刺繍が入った黒のショートパンツが包み込んでいた。二の腕や太腿から先を積極的に露出させた、活発さをアピールするかのごとき着こなし。

 

 その女の子と、傍らにいる三人は、ボロボロになった青年を執拗に蹴り続けている。

 

 青年は蚊の鳴くような声で、

 

「うっ……ぐふっ……や、やめろ、もう許してくれ……」

 

「ざけんな! まだだ! もうウチらにケチつける気がなくなるくらい、ボッコにしてやんよ!」

 

 少女は乱暴に言い捨て、蹴る勢いを強めた。

 

 それに便乗するように、三人の男も蹴りを強くする。どうやらあの女の子が、彼らの主導権を握っているようだ。

 

 いずれにせよ、このまま見ているわけにはいかない。

 

「――もうやめてあげなよ」

 

 ボクは彼らの元へ歩み寄ると、語気を強めてそう言った。

 

 四人と一人はボクら二人の方へ一斉に振り向く。

 

「るせーな! こっちにゃ事情があんだ! 目障りだから引っ込んでろよ三つ編み!」

 

 早速、女の子が噛み付いてきた。

 

 ライライは胸の前で腕を組むと、嘆息したような口調で、

 

「とは言ってもね、そんな風に白昼堂々リンチ行為をされたら、誰だって気になるでしょう? 関わって欲しくないのなら、自分たちが場所を考えるべきでなくて?」

 

「はぁ? なんだよお前、偉そうに。アタシの師父にでもなったつもりかよ? お前もその三つ編み共々大人しくしてろ、デカパイ女」

 

「デカッ……!?」

 

 女の子から言葉を浴びせられた瞬間、ライライは信じられないといった表情で硬直した。

 

 ……ライライは怒っているというより、ショックを受けているように見えた。

 

「ほらっ、さっさと散れ散れっ。これはアタシらの流派の問題なんだ。お前らもここにいるってことは武法士なんだろうから、分かんだろ? 別の流派の事情に口挟むんじゃねーよ」

 

 女の子は猫を追い払うような手振りをしながら、億劫そうに告げる。

 

 うーん……聞き方がちょっと上から目線過ぎたかな。

 

 なら、もう少し下手に出てみよう。

 

「えっと……ごめんね? いきなり偉そうに言っちゃって。なんとなく気になっちゃったんだ。もし良かったらでいいから、どういう事情でこうなっちゃったのか、詳しく聞かせて欲しいんだ。もしかしたら、なんか力になれるかもしれないし。ね? いいでしょ? お願いします」

 

 拝むように両手を合わせ、ボクは頭を下げた。我ながら、かなりへりくだった態度だ。

 

 それが功を奏したのか、女の子は居心地が悪そうな態度を見せ、レンガ家の根元に転がる青年を顎で示した。

 

「……言っとくけどな三つ編み女、元々の火種はそこのバカだからな?」

 

「そうなの?」

 

「ああ。このカス野郎、酒の席でアタシらの【九十八式連環把(きゅうじゅうはちしきれんかんは)】を貶してやがったんだよ」

 

 女の子の言葉に、三人の強面たちも首肯した。

 

 【九十八式連環把】――全部で九八ある技を好きな順番で数珠繋ぎし、絶え間無い連続攻撃を繰り出す事を主体とした武法のことだ。

 

 具体的な武法の概要はひとまず置いておいて、ボクは事情の追求を続けた。

 

「えっと、だからこうやって集団でボッコボコにしたの?」

 

「そうだよ。引きずり込んでボコボコの刑だ。なんか文句あっか、え? 三つ編み女」

 

「いや――無いよ」

 

「はっ?」

 

 間伐入れずに肯定したボクに対し、女の子は毒気を抜かれたような顔をする。

 

 ボクは続ける。

 

「リンチは褒められたことじゃないけど、君たちが怒るのには頷ける。自分が好きだったり、誇りに思っているものを侮辱されたら、怒ってもいいと思う」

 

 ボクだって、武法をくだらないもののように言った父様に反感を覚えた。なので、この女の子の気持ちは理解できる。

 

 なら、この場で最善の解決策は一つだけだ。もちろん、それはリンチではない。

 

 ボクはボロボロになった青年へ視線を移すと、

 

「ねぇ、そこのあなた」

 

「……な、なんだよ……」

 

「謝るんだ」

 

「え……? い、今までも散々謝ったんだけど……」

 

「あと一回でいい。その一回に誠心誠意を込めるんだ。何て言って貶したのかは知らないけど、彼女の誇るものをバカにするような発言を少しでもしたのなら、あなたは心を込めて謝らないといけない」

 

 さあ、とボクは彼を促す。

 

 青年はしばらくジッとしていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。

 

 そして、女の子と三人の強面を正面から見据えると、

 

「――すみませんでした」

 

 深々と頭を下げ、謝罪の言葉をはっきり告げた。

 

 腰を九十度曲げ、言葉にもきちんとした意思がこもっている。ナアナアな感じは一切感じない。

 

 しかし、女の子は聞く耳持たなかった。

 

「謝りゃ済むと思ってんじゃねーぞっ!!」

 

 そう怒号を上げるや、片足を勢いよく蹴り上げた。

 

 女の子の蹴り足が風を切りながら急上昇。

 

 そのままお辞儀を続けている青年の腹に突き刺さる――前に、ボクが片手でその足首を受け止めた。強い衝撃が手根に響く。

 

 女の子はボクを射殺すように睨めつけ、

 

「テメェ……!!」

 

「――やめるんだ。もう彼は誠心誠意謝った。これ以上の暴力はボクが許さない」

 

 そう言って、蹴り足から手を離す。

 

 女の子は数歩退くと、あからさまな構えを取った。体の中心線を守りつつ攻防を行うことに特化した、実戦向きの構え。

 

 ボクはそんな彼女に質問を投げかけた。

 

「ねぇ君、明日の【黄龍賽(こうりゅうさい)】の予選には出るの?」

 

「出るよ! それがどうしたってんだ!?」

 

「出るなら、ここで事を構えるのは良くないと思う。武法士は体が資本だ。ここで生傷を作ると、明日に響くんじゃないかな」

 

 そんなボクの意見に一理あると思ったのか、女の子は決まりが悪そうな顔をする。

 

 しばし逡巡を繰り返すと、はっきり聞こえる舌打ちをして構えを解いた。

 

 そして、強面三人を引き連れ、こちらへ歩いてくる。

 

 女の子はボクの隣まで来ると、訊いてきた。

 

「……おい、三つ編み。お前も明日の予選には出るつもりか?」

 

 ボクは頷く。

 

 女の子はそれを確認すると、

 

「……アタシは孫珊喜(スン・シャンシー)。お前は?」

 

李星穂(リー・シンスイ)

 

「リー、シン、スイ……よし。名前は覚えたぞ。明日になったら覚悟しとけ。今度こそぶっ潰すからな」

 

 そう言い残して、女の子――シャンシーたちは去っていった。

 

 その場に残されたのは、ボクとライライ、そして青年。

 

「……ライライ?」

 

 ふと、ライライの様子がおかしいことに気づく。

 

 レンガの家の壁に寄りかかりながら、がっくりとこうべを垂れていた。明らかに何かに落ち込んでいる様子。

 

 思い当たる点を見つけたボクは、ライライに尋ねた。

 

「あの……もしかして、さっきあの子が言ってたこと気にしてるの? その…………デカ……」

 

「……コンプレックスなのよ……」

 

 ……意外と繊細な性格なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ――こうして、その日の観光は幕を閉じた。

 



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試験開始!

翌日になった。

 

 自室のよりも一際硬い安宿のベッドから目を覚ましたボクは、身じたくを整え、ライライとともに町の中心へと向かった。

 

 この【滄奥市(そうおうし)】の中心には『公共区』という場所が設けられている。

 イタリアのコロッセオにも似た形の『競技場』を中心に、遊び場兼緊急避難場所である『中央広場』、重要な連絡事項を伝えるための掲示板など、公共利用のための施設が多数を占めている。

 

 ボクら二人はその『公共区』にある、『中央広場』へとやってきた。

 

 石畳が整然と広がっており、いくつか広葉樹や灌木が植わっている。広場の中央辺りには石製の日時計があり、現在の時間である九時を表していた。

 

「……うわぁ」

 

「すごいわね……」

 

 その『中央広場』に広がる光景を目にしたボクとライライは、思わず声をもらす。

 

 フットボールの試合ができて余りあるであろうその広場は今、大勢の人でごった返していた。

 

 全員、背筋に棒でも入れているかのように姿勢が良く、なおかつ一歩一歩が地面に吸い付くような重心の安定感が見られる。彼らは間違えようもなく武法士だった。

 

 別に並んでいるわけではないようなので、人混みの間を縫うようにして先頭へと到達する。

 

 そこには、広い木製の壇があった。その近くでは慌ただしく動き回る役人風の人たちと、大きな銅鑼(ドラ)、そして『第五回黄龍賽滄奥市予選大会会場』と書かれた縦長の旗が立てられていた。

 

 そう――ここが【黄龍賽(こうりゅうさい)】予選が開始される場所なのである。

 

 この『中央広場』の少し先には『競技場』が見える。【黄龍賽】本戦出場者を決める戦いは、あの中で行われるのだ。

 

 しかし、これだけの大人数を一人一人戦わせていては、いつまで経っても終わらない。なので予選ではまず最初に『試験』を行い、出場者をふるいにかけなければならない。

 

 そしてこれから始まるのは、まさにその『試験』だ。

 

 ボクは『第五回黄龍賽滄奥市予選大会会場』と書かれた旗へ目を向ける。これを見れば一発で「ここだ」と分かるはずだ。

 

 【煌国(こうこく)】の識字率はかなり高い。

 

 その理由は、この国のあらゆる町にある【民念堂(みんねんどう)】という民営教育施設の存在にあるといえる。

 

 【民念堂】は、庶民の手が届く程度の学費で読み書きや計算を習ったりできる、日本の寺子屋のようなものである。

 

 裕福な人たちしか教育を受けられなかった昔の時代、有志によって【煌国】各地に建てられた。この【民念堂】の登場で、庶民でも必要最低限の教養は身につけられるようになったのだ。

 

 ちなみに【民念堂】の教師をしているのは、難関である文官登用試験を諦めた者が多い。そのため【民念堂】は、多くの文官から「落伍者の受け皿」と見下されている。

 

 ボクはこれを初めて聞いた時、改めて文官になどなりたくないと思ったものだ。

 

 それを思い出した途端、やる気が湧いた。絶対にこの予選を勝ち抜いて、本戦への切符を手に入れてやる。そして本戦でも優勝し、文官至上主義者の父様をギャフンと言わせてやるんだ。

 

「ライライ」

 

「なに、シンスイ?」

 

「……負けないからね」

 

「……ええ。私もベストを尽くさせてもらうわ。どういう結果になっても恨みっこ無しよ」

 

 不敵に笑みを浮かべ合う。ボクたちはもう友達だが、それとこれとは話が別だ。ボクには譲れないものがある。やるからには全力だ。

 

 しばらくすると、役人の一人によって――壇の横にあるドラが盛大に鳴らされた。

 

 ざわめいていた武法士たちは、ぴたりと静まる。

 

 そして壇上に、カゴを片手に持った役人の男性が上がって来た。

 

「――これより、第五回【黄龍賽】予選大会を開始します!」

 

 彼の言葉が響いた瞬間、場の空気が引き締まった。

 

 かくいうボクも、背筋がピリリとする思いだった。

 

 固唾を呑んで、進行役であろう彼の言葉に耳を傾け続ける。

 

「ご存知である方もいらっしゃるでしょうが、【黄龍賽】予選大会は本戦と同じく、一六名の選手の方々に競い合っていただきます。なのでまず最初に、皆様の中から参加選手一六名の選出するべく、『試験』を行わなければなりません」

 

 来た、とボクは思った。

 

 何度も言うが、【黄龍賽】の予選大会を行うためには、最初にこの大勢の中から出場者を選抜しなければならないのだ。

 

 そしてこれから、そのための『試験』が行われる。

 

 『試験』の方法は毎年違う上、ギリギリまで一切詳細は明かされない。事前に知らせておくと不正行為を働かれる可能性があるからだ。

 

 今から、その『試験』の具体的な方法が明かされる。

 

 ボクはドキドキと胸を高鳴らせた。

 

 すると、進行役の役人は持っていたカゴを大きくスイングさせ――入っていた中身をこちら側へぶちまけてきた。

 

 カゴから出てきたのは、全部で一六個の『鈴』。

 

 握りこぶしほどの大きさの『鈴』が虚空を舞い、武法士の人混みのあちこちへと落ちた。

 

 ――ボクらの位置にも。

 

「うわっ?」

 

「あら?」

 

 ボクとライライは、落ちてきた『鈴』を思わずキャッチする。

 

 その『鈴』を振ると、シャララン、と、ガムランボールを連想させる美しい音色が鳴った。特徴的な音だ。

 

 一体こんなものを投げて、どういうつもりなのか。

 

 そう考えた瞬間、あるものが目についた。

 

 『鈴』には、大きな太陽とその下に広がる町を抽象的に描いたような意匠が刻印されていた。

 

 ――【煌国】の国旗と同じマークである。

 

 そして、投げられた『鈴』の数は合計一六個。

 

 ……まさか。

 

「それらの『鈴』の数は全部で一六個。これは、予選大会に参加する選手と同じ数です。今から皆様には――その『鈴』を奪い合っていただきます。それが今年の『試験』の内容です」

 

 進行役は、ボクの思い浮かべた予想と寸分たがわぬ事を口にした。

 

「かすめ取るも良し、腕ずくで奪うも良し、手段は問いません。日没になったら、我々がこの『公共区』にある鐘を鳴らします。それが『試験』終了の合図です。その後一時間以内に、『鈴』を持ってこの場所へ戻ってきてください。それができた方を合格とし、予選大会への参加資格を与えます」

 

 淡々と、それでいてはっきりとした声で述べられるルール。

 

 色々と述べられたが、ようはこの『鈴』を誰にも取られず、最後まで持っていればいいのだ。

 

 なるほど。シンプルなルールである。

 

「オラッ! テメー、寄越しやがれ!」

 

「ざけんな、おとといきやがれボケナス!」

 

「てめっ、痛えな! 何しやがんだ!?」

 

 途端、人混みのあちこちで騒ぎが起きる。

 

 武法士たちが早速『鈴』を取り合って揉めているのだ。……なんと血の気が多いことか。

 

 だがそこで、威嚇するようにドラが鳴り響いた。

 

 揉めていた武法士たちが手と口を止めた。

 

「静粛に! 開始の合図はこちらが出します。それまで我慢してください」

 

 進行役が、やや強い口調でそうたしなめる。

 

 そして、咳払いしてから続けた。

 

「……ルールの説明は以上です。なお、その『鈴』は【煌国】有数の職人が宮廷の依頼で手がけた受注生産品ですので、本物か偽物かの区別はすぐに付きます。偽造は諦めましょう。また、『試験』ではいかなる損害を負おうとも、大会運営側は責任を負いかねますので、どうかご了承ください」

 

 添え物のように補足事項を付け足すと、

 

「それでは、大変長らくお待たせいたしました。これより『試験』を開始します。三…………二…………一…………」

 

 ボォォォン! と、今までで一番高らかにドラが鳴らされた。

 

 その刹那、

 

「――そいつを寄越せやぁぁぁ!!」

 

 隣に立っていた武法士の男が、突然襲いかかって来た。

 

 シュビンッ、と風を切って放たれる、鋭い正拳。

 

 しかしボクは小さく体の位置を動かすだけでそれを回避。そのまま、その男の胸の中に潜り込む。

 

 そして、肘から激しく衝突した。

 

 脊椎の伸張、足指のよる大地の把握――それらの身体操作がボクの体を山のように大地に固定。肘打ちは山が寄りかかるがごとき威力を発揮した。

 

「っはっ……!!」

 

 腹の中の空気を全部絞り出すかのように呻くと、勢いよく後方へ吹っ飛んだ。

 

 そして、後ろにいた数人の武法士をドミノ倒しよろしく巻き込んだ。

 

 見ると、ライライも鋭く華麗な足技を駆使し、数人を蹴り飛ばしていた。

 

 ボクら二人は目を合わせると、笑みを浮かべ、

 

「ライライ、日没にまたここで会おう!」

 

「ええ。わかったわ」

 

 遠回しな勝利宣言をし合った。

 

 そして、互いに散開。別々の場所へと走り出した。

 

「鈴持ちが逃げたぞ!」

 

「追いかけろ!」

 

「待ちやがれ!」

 

 すぐに追っ手がわんさとやってくる。

 

 だがボクは一切止まらず、一目散に走り続けた。

 

 握っていた『鈴』を、ズボンのポケットに入れた。

 

 絶対に生き残ってやる。

 

 そして、予選大会への切符を手に入れてみせる。

 

 

 

 

 

 

 ――最初の試練が、始まった。

 



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打雷把の真骨頂

――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 ボクは【武館区(ぶかんく)】の真ん中に伸びる大通りを走っていた。

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 ボクは今、絶賛逃走中だった。

 

 後ろを軽く振り返る。

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

「ウラー! 待て女ー!」

 

「大人しく寄越せコラー!」

 

「渡さねーとしばき倒すぞ!」

 

「良かったらこの後遊ばない!?」

 

 後ろからは、大勢の男たちが波のように追いかけてきていた。

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 彼らは皆、武法士だ。

 

 そして彼らは、現在ボクがポケットに入れている『鈴』を狙っている。これを最後まで持っていられた者にのみ、予選大会の参加資格が与えられるからだ。

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 ボクも【黄龍賽(こうりゅうさい)】優勝のための踏み台の一つとして、予選大会に出なければならない。

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 ゆえに、この『鈴』は渡すわけにはいかない。

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 だから、こうして……逃げて……いるわけで…………

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 ……プチッ、と頭の中で音がしたような気がした。

 

「あーもー! シャランシャランうるさい!」

 

 ボクは苛立った口調で吐き捨てた。

 

 一歩踏み出すたび、その振動で『鈴』が音を発してしまうのだ。

 

 ガムランボールを連想させるこの美しい音色も、こうも執拗に聞かされては騒音と変わらない。

 

 それに、後ろを走っている追っ手の数、明らかに走り始めの時よりも増えている。

 

 ボクは苦々しい顔をした。

 

 もしかしなくても、この音のせいだ。鳴るたびに『鈴』の所持を周囲に知らせてしまい、追っ手を増やす結果となっているのだ。

 

 ていうか、だからこそ大会運営側は、奪い合う物を『鈴』にしたんだと思う。音の鳴らないものなら、最後まで懐に隠し持てば済む。しかし、それでは奪い合いは成立せず、隠した者勝ちとなってしまう。だからこそ、持っていると分かる品を選んだのだろう。

 

 しかもこの『鈴』の音は普通の鈴と違い、独特のものだ。なのですぐに『試験』のための『鈴』だとバレてしまう。

 

 ……でも、それにしたって人数が多過ぎでしょ!?

 

 そう思ってた時だった。

 

「あいつに渡ったのはラッキーだ」「そうだな、あの女小さくて弱そうだし」「片手で倒せそうだ」「即ゲット間違い無しだぜ」「それにあの子むっちゃ可愛い。乳と尻は残念だが、それ以外の全てが完璧だ。お近づきになりてぇ……」「オメーは目的が違うだろ、ひっこめタコ」

 

 後ろの連中から、そんな話し声が聞こえてきた。

 

 ……つまり何? ボクが鈴持ちの中で一番弱そうだから、集中して狙われてると?

 

 なんだそれ!? 武人の風上にも置けないじゃないか! 弱そうな相手を狙って潰すなんてハイエナと一緒だ!

 

 ……まあ、それも戦略の一つなので、決して卑怯ではないが。

 

 とにかく、あの人数をまともに相手にするのは気が引ける。どこか隠れられる場所を探そう。

 

 毎日鍛えていた甲斐あってか、スタミナの心配は今の所ない。

 

 ボクは【武館区】の中を夢中で駆け抜けた。

 

 しかしボクは、よりにもよって最悪の場所へ来てしまう。

 

 横幅約10(まい)――この世界の「(メートル)」にあたる単位だ――の道に入った途端、ボクは足を止めた。

 

 奥では、硬そうな石壁が通せんぼしている。両端にも建物が並んでおり、通れそうな脇道が一つもなかった。

 

 簡単に言い表すと「コ」の字のスペースだ。つまり――行き止まり。

 

 慌てて引き返そうとしたが、時すでに遅し。武法士たちがわらわらとやって来て、唯一の通り道を塞いだ。

 

 完全な袋小路。

 

 武法士たちは好戦的な笑みを浮かべて徐々に、徐々に、徐々に近づいてくる。皆、自分たちの優位性を信じて疑わない表情。

 

 中には、パキパキと指を鳴らしている者もいる。どう見てもかよわい女の子にしていい態度じゃない。

 

 でも、仕方がない。武法士の世界に男女の贔屓は存在しないのだ。負けたとしても「女だから負けた」なんて主張は、言い訳や負け惜しみの域を出ないのである。

 

 つまり、女である事を盾にすることもできない。

 

 この状況、実力を見せずして切り抜けられないようだ。

 

 ……仕方ない。

 

 『鈴』の奪い合いは、午前中である今から日没まで続く。そのため、無駄な体力はなるべく使いたくなかった。

 

 だが、こんな状況に置かれては仕方ない。

 

 ボクは腹をくくった。

 

 壁のように立ちはだかる武法士たちを見渡しつつ、片足を半歩退き、そこへ重心を置く。いわゆる半身の体勢となった。

 

 武法士たちは、一歩一歩ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 

 ボクと連中との距離が、少しずつ狭まっていく。

 

 やがて、

 

「打ち取ったらぁぁぁっ!!」

 

 先頭を歩く一人の男が、勢い良く飛び出した。

 

 素早い動きで一直線にボクへと迫り、肉薄。

 

 そして、走行の勢いを込めた前蹴りを放つ。

 

 下から掬うように振り出されたその一足は、鞭のように疾く、そして刃物のように鋭い。敵ながら見事な蹴りだ。

 

 だが、惜しい。

 

 蹴り足が伸びきった時――ボクはすでに蹴りの到達点にはいなかった。

 

 ボクは身をねじって体の位置を小さく動かすことで、蹴りの到達点から自分の体を逃し、そのまま相手の蹴り足の外側に移動していたのだ。

 

 相手の攻撃のリーチ内に入ってしまえば、こっちのもの。わずかゼロコンマ数秒間の戦いは、ボクに軍配が上がったのだ。

 

 ボクは攻撃へと転じた。

 肋間の捻り。

 肘の突き出し。

 腰の急激な沈下。

 石畳を砕かんばかりの力強い踏み込みによる重心移動。

 ――上記の身体操作を、同じタイミングで実行。

 

 【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】――【打雷把(だらいは)】の基本にして必殺の肘打ちが、男の土手っ腹に深々と突き刺さった。

 

「えごぁ!!!」

 

 肘越しに確かな手ごたえを感じると同時に、苦痛の声が爆ぜる。

 

 かと思うと、男はものすごい速度で元来た方向へ弾き返され、他の武法士数人を巻き込んで盛大に倒れた。

 

「このアマぁー!!」

 

 それを皮切りに、他の武法士たちも一斉にこちらへ駆け出してきた。

 

 みんな、言うまでもなくやる気は満々だ。

 

 一番乗りでボクの近くへやって来た武法士が、早速攻撃を仕掛けてきた。腰の捻りを用い、裏拳の要領で腕刀を振るってきた。

 

 だが、ボクと彼の間にはかなりの身長差があった。なので彼の腕刀を、ボクは軽くかがむだけで回避できた。

 

 腕刀を空振らせたことで、その武法士は遠心力のまま胴体をさらけ出す。

 

 そこを見逃すほど、ボクは優しくない。

 

 両足の捻り、前足への重心移動、肋間の捻り、肩甲骨の前進、拳の突き出し――これらすべてを同時に行う。

 

 正拳が風を切り、その胴体めがけてしたたかにぶち当たった。【拗歩旋捶(ようほせんすい)】という技だ。突き終えた形は、空手の逆突きに似ている。

 

 拳打をまともに食らった武法士は、小さく呻きを上げて吹っ飛び、転がる。

 

 ボクが今使った二つの技はいずれも【勁擊】という、武法独特の技術に分類される。

 

 ――【勁擊】とは、理にかなった身体操作を用いて、強大な力を相手に叩き込む打撃法である。 

 

 その基本は『三節合一(さんせつごういつ)』。

 

 『三節』とは、腕、胴体、下半身、これら三つの大まかなパーツの総称である。

 

 【勁擊】では、これら『三節』を同時に動かす。そうすることによって『三節』で作った力が一つに集約され、結果的に大きな打撃力が生まれるのだ。

 

 綱引きを例に挙げよう。

 綱引きは大勢集まったチーム二組で綱を引き合う競技だ。しかし綱を引く要員がバラバラのタイミングで引っ張っていたら、どれだけ大人数のチームでも、それは一人の力でしかなくなってしまう。だからこそ全員同じタイミングで引っ張り、それらの力を総動員させるのだ。

 

 【勁擊】も大雑把に考えれば、これと同じ原理である。体の一部だけの力ではダメだから、全身すべてを同時に動かし強大な威力を得る。

 

 ボクが武法というものに心惹かれたのは、この【勁擊】がきっかけだった。全身を工夫して使い、蛮力以上の力を出す。まさしく人体の神秘だ。

 

 もちろん、これも【易骨(えきこつ)】で骨格を整えなければ使えない技術だ。骨が歪んだ状態では、打撃を行う部位へ満足に力が集まらない。骨格を整え、自重が一〇〇パーセント使える状態になってこそ、初めて【勁擊】は【勁擊】足り得るのだ。

 

 敵側の攻撃はまだまだ続く。

 

 目の前に迫った新たな武法士が、踏み込みと同時に鋭い正拳突き。

 

 ボクは手甲の表面にその正拳を滑らせ、後ろへ流す。そして即座に前蹴りを叩き込んだ。

 

 前方の武法士が空を仰ぎ見ながら宙を舞ったのも束の間、すぐに右側面から回し蹴りを放ってくる男を発見。

 

 すぐには動けないと判断したボクは丹田に【気】を集中。そしてその集めた【気】を即座に背中へ移した。背中が強い熱を持つ。

 

 やがて回し蹴りが、ボクの背中を激しく叩く。

 

 ……しかし【硬気功(こうきこう)】によって鉄板よろしく強度を増したボクの背中に、その蹴りは蚊が刺したようなものだった。

 

 男は素早く蹴り足を引っ込めたが、その時にはすでにボクが反復横とびの要領で距離を詰めていた。

 

 ドカンッ!! という激しい重心移動とともに、ボクはその男へ肩から衝突。

 

 【打雷把】の強烈な体当たり【硬貼(こうてん)】を受けた男は、勢いよく壁にバウンドしたゴムボールよろしく弾き飛ばされ、数人を巻き込んで共倒れした。

 

 それからも、向かって来る敵を次々と蹴散らしていく。

 

 ちなみに、先ほどボクが踏み込んだ箇所の石畳は――粉々に砕けていた。

 

 ボクがさっきから繰り返している力強い踏み込みは【震脚(しんきゃく)】という歩法だ。

 

 重心移動の時に大地を思い切り踏みつけることで、一瞬だけ体重を倍加させ、それを攻撃力へと転用する歩法。パワー重視の【打雷把】では頻繁に用いられる。

 

 前にも説明したが、【打雷把】では打撃の時、脊椎の伸張、足指による大地の把握を同時に行うのが基本だ。これら二つによってピラミッドのように磐石な重心を作り出し、それを打撃力として用いるのだ。レイフォン師匠はこの力を【両儀勁(りょうぎけい)】と呼んでいた。

 

 そこへさらに【震脚】を加えれば、その打撃力は信じられないほど強大になる。

 

 攻撃力に対する飽くなき探究心。それがこの【打雷把】を作り上げたのだ。

 

 ――そして【打雷把】にはもう一つ、恐ろしい「利点」が存在する。

 

 もう何人目かの武法士を殴り飛ばした後、ボクは次なるターゲットに狙いを定めた。

 

「……!」

 

 その男はターゲットにされたことに気がついたのか、丹田にチャージしていた【気】を慌てて胴体に集中させた。胸の前で微かに弾けた青白い電流でそれが分かった。

 

 【硬気功】を施されたあの男の胴体に、普通の攻撃は通じない。【炸丹(さくたん)】を使わなければ、どんな【勁擊】も無意味となるだろう。

 

 しかし、ボクは構わず地を蹴り、突っ走る。

 

 予想外の行動に焦ったのか、男の表情がこわばった。

 

 そのせいでがら空きとなったボディめがけて、ボクは【移山頂肘】を叩き込んだ。

 

 ……普通なら、男は痛みをほとんど感じることなく、ボクの肘打ちに耐えたことだろう。

 

「かはっ……!?」

 

 しかし、間近に迫った男の顔は――苦痛を受けているとしか思えないほど歪んでいた。

 

 「凄まじく痛い」という気持ちと「信じられない」といった気持ちが混ざったような男の表情が、一気に遥か前方へ遠ざかった。

 

 みっともなく地面を転がる男の様子を、周囲の武法士たちは硬直しながら凝視していた。

 

 みんな、等しく同じ疑問を抱いていることだろう。――どうして【硬気功】を施していたのにダメージを受けたんだ、と。

 

 

 

 そう。【打雷把】の打撃には――【硬気功】が効かないのだ。

 

 

 

 ほとんどの武法では、砂袋などの器具を打つ修行を大なり小なり行う。

 

 しかし【打雷把】では、それらを一切しない。

 

 その代わりに、仮想の敵を思い浮かべ、それを貫き通すイメージで打つ練習を何度も繰り返す。

 

 それを長年積み重ねると、修行者の打撃技はそのイメージ通りの性質を得る。打撃による衝撃が【硬気功】すら突き抜け、本体に直接ダメージを与えられるようになるのだ。

 

 デタラメな理屈に聞こえるかもしれないけど、本当の話だ。というか、今こうして現実になっている。

 

「な、なんだこの女……【硬気功】を破りやがったぞ!?」

 

「【炸丹】を使った気配もなかったのに、どうやって……!?」

 

「もしかしてコイツ、かなり有名な武法士なんじゃ……!!」

 

 武法士たちが後ずさりしながら、怯えたような口調で言う。

 

 しかし、少数の男たちは、そんな彼らを説得するように声を張り上げた。

 

「ひ、ひるむんじゃねぇ! どんだけ【勁撃】が凄かろうと、相手は一人だ! こっちにゃ何人いると思ってんだ!?」

 

「そ、そうだ! 取り囲んでフクロにすれば、十分に勝機はある! ビビってんじゃねぇぞ!」

 

 その声である程度のモチベーションを取り戻したのか、武法士たちは後ずさりするのをやめた。

 

 ……ボクは内心で舌打ちした。このまま引き下がってくれれば良かったのに。

 

 武法士たちは円陣を組むように、ぞろぞろとボクの周囲を取り囲んだ。

 

 それに対し、ボクは周囲に意識を集中させ【聴気法(ちょうきほう)】を発動。ボクを取り囲む幾人分もの【気】の存在が、脳内に流れ込んでくる。 これを発動しておけば、全方向の敵の存在を感じ取れる。多対一の戦闘にはもってこいだ。

 

「やっちまえ!」

 

 誰かが発したその叫びとともに、周囲の武法士たちは中心にいるボクへと突っ込んでいった。

 

 ボクは【聴気法】で、周囲に集まる【気】の量を目算する。

 

 その中で、最も【気】の並びが薄い箇所を割り出す。

 

 ボクはそこへ狙いを定め、弾丸のように走り出した。

 

 そして爆ぜるような踏み込み【震脚】と同時に、向かった箇所の先頭を走っていた男めがけ、右肩から激しく衝突。【硬貼】だ。

 

 山が地面をスライドしてぶつかったような【打雷把】の体当たりは、男と、その後ろに追従して走っていた武法士数人をまとめてなぎ倒した。

 

 それによって、円陣の一箇所に穴が出来上がる。

 

 ボクはそこから素早く飛び出し、円陣の外側へ抜け出した。

 

 そのまま逃げようかと思ったが、運の悪いことに、ボクが出てきた方向は壁側だった。つまり、また追い詰められた状態に逆戻りというわけだ。

 

「待ちやがれっ!!」

 

 壁へ向かおうとした時、一人の男が後ろからボクの三つ編みを掴んできた。このまま引っ張るつもりだろう。

 

 なるほど。いい考えだ。普通の人とのケンカなら、かなり有効な手段である。

 

 だが髪を長くした女流武法士は、そういった状況への対応策をキチンと用意しているのだ。

 

 引っ張ってきた男の力に合わせるように、ボクは退歩。

 

「ぶおっ――!?」

 

 そのまま、背中から勢いよくぶつかった。男の呻きが耳を打つ。

 

 【倒身靠(とうしんこう)】――相手の引っ張る力に乗って、勢いよく衝突する技。掴まれた時のためのカウンターだ。

 

 このような技はあらゆる武法に存在する。だが【打雷把】は【両儀勁】によって、さらにその威力を強化している。飛んで火に入る夏の虫とはこのことだ。

 

 真後ろからこちらへ迫ってくる【気】の存在を感知。考える前に振り返りざまの回し蹴りを叩き込み、地面に転がす。

 

 右側面から来た男の正拳を右腕ですくい上げ、そのまま右肘による【移山頂肘】へ繋げ、黙らせる。

 

 回し蹴りを振り出そうとしていた男の懐へ素早く潜り込み、再び【移山頂肘】。

 

 向かって来る敵を、ボクはまるで流れ作業のように蹴散らしていった。

 

 一見好調に見えるかもしれないが、どれだけ倒してもキリがない。

 

 このまま長引くのも面倒だ。ケンカも戦争も、長期化するのが一番良くないのだ。

 

 こうなったら出し惜しみはせず、全力でぶつかろう。

 

 目の前の相手を蹴り飛ばした後、ボクは丹田に【気】を集中させる。

 

 そして、片足を激しく踏み鳴らした。【震脚】だ。

 

 ――【震脚】には「体重の増大」の他に、もう一つ効果がある。

 

 それは、地面を強く踏みつける事で、踏みつけた力と同じだけの反作用を大地から引き出す効果。

 

 それによって、全身にはしばらく、強い上向きの力が働く。

 

 そして、その力が働いている間――使用者の瞬発力は倍加する。

 

 向かって来る数人の武法士を睨めつけると、ボクは地を蹴り、疾走。

 

 驚くほど速く、互いの間隔が狭まる。

 

 驚愕の表情を浮かべた武法士たちを無視し、ボクは激しい踏み込みと同時に肩から衝突。【硬貼】による体当たりだ。最初の【震脚】によって推進力が増しているため、その衝突力には磨きがかかっている。

 

 

 

 さらに同じタイミングで――――丹田に集まった【気】を"爆発"させた。

 

 

 

 刹那、ボクの体の内側から外側へ向けて、突っ張るような強い力が発生。

 

 衝突。そして巻き起こる、集団の大崩壊。

 

 ボクにぶち当たった武法士と、その後ろにいた多くの者たちが、ボウリングのピンよろしくまとめて吹っ飛んだのだ。

 

 バタバタという音がいくつも重なる。人が倒れた音だ。

 

 やがて、それが止む。

 

 見ると、目の前には、人が無数に雑魚寝していた。

 

 あれだけ大勢いた集団が、大きく削り取られている。

 

 【炸丹】――丹田に集中した【気】を炸裂させ、【勁擊】の威力を大幅に増大させる【気功術】の技術。

 

 高い威力を発揮できる上に【硬気功】も破ることができる、武法士必殺の一撃だ。

 

 体力の消耗が激しいので使いどころが求められるが、それさえ間違えなければ非常に心強い。

 

 だが、その【勁擊】が元々持つ威力を数倍にするという計算なので、【炸丹】のパワーは【勁擊】の強さに依存する。

 

 そのため、これだけ甚大な被害をもたらしたボクの【炸丹】は、ボクの【勁擊】が元々持つ凄まじい威力を知らしめるのに十分なデモンストレーションとなったのだろう。

 

 残った無傷の武法士たちはみんな足を止め、戦慄の表情でボクを見ていた。

 

 ボクが一瞥くれると、みんな例外なくビクッと震え、一歩退く。

 

 歩いて近づくと、こちらを恐ろしげに凝視しながら道を開ける。

 

 ボクは精一杯の眼力で睨みをきかせながら、雑魚寝した男たちの上をまたぎ、ゆっくりとその行き止まりから離れていく。

 

 そして、曲がり角を曲がり、連中の姿が見えなくなった途端、ボクは全力でその場から逃走した。

 

 走りながら、ホッと安堵のため息をつく。

 

 よかった。なんとか切り抜けられた。

 

 ポケットにも『鈴』はちゃんとある。どうにか守りきれたようだ。

 

 【炸丹】を使ったせいで少し疲れたけど、まだまだやれそう。

 

 この調子で、日没まで逃げ切ってみせる。

 

 伊達に【雷帝(らいてい)】と呼ばれた男に鍛えられたわけじゃない。

 

 ――シャラン、シャラン、シャラン。

 

 そんなきらびやかな足音を響かせながら、ボクは【武館区】を駆け抜けたのだった。

 



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少女の誇り

「……よし、バレてない」

 

 建物の壁に寄りかかりながら、ボクは小さくガッツポーズした。

 

 ボクは現在、『公共区』にある『競技場』の壁際に来ていた。予選大会が行われる予定の大きな建物だ。

 

 空はすでに夕方。あかね色に燃える夕日が、西の彼方へ向かいつつあった。

 

 【武館区(ぶかんく)】での最初の大立ち回りの後も、ボクは何度も『鈴』を狙う武法士と戦い、そして蹴散らした。

 

 予想はしていたが、やり始めたらどれだけやっつけてもまるでキリがないのだ。堂々としていればしているほど、敵は無限に増えていく。

 

 そんなことを日没までずっと続けていたら、流石のボクでもヘトヘトになってしまう。

 

 なのでボクは、こそこそと行動することにした。

 

 抜き足差し足忍び足。一歩一歩をゆっくり踏み出す、空き巣のような歩き方。この歩き方なら、踏み出した時に起きる振動は最小限で済み、『鈴』も鳴らない。

 

 ボクはこの空き巣歩き(今名付けた)で、【滄奥市(そうおうし)】を移動するようにした。

 

 その甲斐あってか、周囲の武法士に『鈴』の存在がほとんどバレる事なく、残り時間を過ごせた。

 

 ……代わりに、道行く人たちから奇異の目を向けられたが。

 

 現在に到るまでのボクの過ごし方は以上である。

 

 長い戦いだった。たった数時間が数日に感じられそうなほどに。

 

 しかし、いい加減それも終わる。

 

 もうすぐ日没だ。日没になれば鐘が鳴る。そうしたら、最初に『鈴』を渡された場所まで一気にダッシュする。そして『試験』は合格。晴れて予選大会出場決定というわけだ。

 

 行き交う人々を観察する。武法士は整った姿勢と、足裏が地面に吸い付くような安定感のある歩行ですぐに見分けがつく。

 

 やはり武法がそれなりに盛んなのか、結構な数の武法士が混じっていた。あの中に、一体どれだけの『試験』参加者がいるだろうか。

 

 しかし、関係ない。日没の鐘までここでジッとしていれば、エンカウントバトルの心配はない。ボクに『試験』参加者の見分けがつかないのと同じように、相手もまたボクが参加者であることは分からないはずだ。『鈴』を鳴らさない、という前提があればだが。

 

 だがその時。

 

 ――ミギャアアアアッ!! ミギャアアァァァ!!

 

 突如、近くをうろついていた二匹の猫がケンカし始めた。

 

 聞く者の心を鷲掴みにするようなおぞましい叫びにボクは驚き、思わず飛び上がる。

 

 そして、その振動によって『鈴』がシャラン、と鳴ってしまった。

 

 ……しまった。鳴らしちゃった。今まで振動を起こさないよう忍び足で一生懸命進んで来たのに。ここで誰かにバレたら今までの苦労が水の泡だ。

 

 ボクはキョロキョロと首だけ回して周囲を伺う。

 

 そして、すぐそばを歩いていた男と目が合った。そしてその男が武法士であることは、前述した身体的特徴からすぐに分かった。

 

 男はボクを指差し、長らく探していたものをようやく見つけたような表情で叫んだ。その反応こそ、『試験』参加者であることの何よりの証拠だった。

 

「おいお前! まさか『す――」

 

 『鈴』、と言い切る前に急接近し、男の腹部に拳を叩き込む。

 

 男は「ぐはっ!!」と呻くと、そのままボクの拳の上でぐったりとのびた。

 

 踏み込みによって起きた鈴の音は男の呻きと重なったため、周囲には聞こえていない。セーフっ。

 

 ボクは気絶した男を近くの建物の傍らにゆっくりと移動させる。

 

 そして、その場から忍び足で退散し始めた。

 

 早くここから消えなければ。さっきの『鈴』の音を聞いてた奴が他にいたら、面倒なことに――

 

 

 

「――へぇ?お前鈴持ちなのか、三つ編み女」

 

 

 

 ――なるようだ。

 

 いつかどこかで聞いたことのある声が、後ろからボクを呼んだ。

 いつ――昨日。

 どこ――【武館区】。

 性別――女。しかもボクと歳が近い。

 

 ライライではない。

 

 だとすると……該当者は一人しか思い浮かばなかった。

 

 ゆっくりと、ボクは振り返る。

 

 そこには、予想通りの人物が立っていた。

 

 尻尾のように揺れているサイドテール。目鼻立ちは整っているが、目つきだけはやけに鋭い顔。龍の刺繍がうっすら入った短パン風のボトムス。そんな特徴を持った浅黒い肌の女の子だった。

 

 孫珊喜(スン・シャンシー)――昨日【武館区】で青年をリンチしていた流派のリーダー。

 

 彼女がこの『試験』に参加しているであろうことは分かっていた。彼女も【黄龍賽(こうりゅうさい)】の予選大会に出るつもりらしいから。なので、こうして再び会った事自体に対しては驚きはない。

 

 ……先ほどの口ぶりからして、ボクの『鈴』の音を聞いていたようだ。

 

 だがボクは一応、すっとぼけてみることにした。

 

「え? 何言ってるの?」

 

「とぼけんじゃねーよ。さっきの『鈴』の音、明らかにお前から聞こえてきた。お前は絶対持ってる。間違ってたら身売りしたっていいぜ、李星穂(リー・シンスイ)

 

 ……まあ、ごまかすのは無理だよね。

 

「あのー、シャンシー、だよね? ボクのことはこのまま放っておいて、他の鈴持ちを狙うというのは……」 

 

「ざけんなよ貧乳。せっかく見つけた獲物を逃せるか」

 

 うわ。貧乳っていわれた。だが残念。元男のボクに対してそれは悪口にならない。

 

「『鈴』を持ちながら日没の鐘が鳴るまで『公共区』で待ち伏せて、鳴った途端に一気にゴールの『中央広場』まで駆け込み、合格を勝ち取る――そんな事考えてる奴がいるかもしれねーと思ってダメ元で来てみたが、まさかマジでいるとはな。しかもそいつは顔見知りときたもんだ」

 

 シャンシーはしたり顔でそう言う。――見透かされているような気がして、恥ずかしかった。

 

「いやー……お前が鈴持ちで嬉しいよ。アタシ昨日言ったよな? お前を潰すって。だから今から有言実行させてもらうぜ。昨日晴らせなかった憂さを、テメーの体で存分に晴らしてやる。んでもって『鈴』もいただきだ」

 

 これみよがしに指を鳴らして威嚇するシャンシー。好戦的な表情だった。

 

 ここは逃げよう――ボクはすぐにそう考えた。

 

 日没までもうすぐだ。なので、無駄な戦いはできるだけ避けたい。

 

 なら、タイムリミットまで逃げて逃げて逃げまくってやる。

 

 逃げ足には自信がある。ボクなら楽勝だ。

 

 きびすを返して走り出そうとした時、

 

「なあ李星穂(リー・シンスイ)。そういや気になってたんだけどよ――お前の流派って何よ?」

 

 シャンシーから思わぬ質問をされたので、つい足を止めてしまった。

 

 ボクは質問の意図をはかりかねて若干戸惑いながらも、なんとか返答した。

 

「……【打雷把(だらいは)】だけど」

 

「【打雷把】……? 聞いたことねー流派だな」

 

 そう言って首を傾げるシャンシーの反応に、ボクは「無理もない」という感想を抱いた。

 

 【雷帝(らいてい)強雷峰(チャン・レイフォン)の名は、この【煌国】では非常に知名度が高い。

 

 だが、彼の武法【打雷把】の知名度は、それに反比例して非常に低い。最初で最後の弟子であるボクや、ごくごく一部の人間しか知らないのだ。

 

 その理由は、レイフォン師匠の武法に対する考え方にある。

 

 師匠は、武法に対しては超が付くほどの実利主義だ。そのため、自分が作った武法やその技の名前を全く考えてなかったのである。「技としてきちんと機能するなら、後はどうでもいい」といった感じだ。

 

 流派や技に名前を付けたのは、戦いから身を引き、ボクを弟子に取ってからだ。技に名前が無いと、弟子に教えにくい。なのでレイフォン師匠は流派に【打雷把】と名付け、その他の技の名前もきちんと考えて教えてくださった。

 

 おまけに師匠は【打雷把】という名前を、よその人の前で口にしたことがない。――別に【打雷把】を秘匿していたとかではなく、単に喋る必要がなかっただけだ。

 

 それが【打雷把】の知名度が低い理由。創始者の名高さとは不釣り合いにマイナーな流派なのである。

 

 シャンシーはしばし考え込む仕草を見せていたが、やがてつまらなそうに鼻を鳴らし、

 

「だーめだ、やっぱ聞き覚えがねーや。ま、考えるだけ時間の無駄か。どうせ対して腕もねぇ田舎者が作ったクソ流派だろうからな」

 

「……なんだと?」

 

 ボクの声が、我知らず低くなる。

 

 ……今のは聞き捨てならない。

 

 【打雷把】が、なんだって?

 

 シャンシーの嬲るような弁舌はまだ続く。

 

「【煌国】には死ぬほど流派があるけどよ、中には毒にも薬にもならねーカスみてーな武法もあるって話だ。たいてい、修行の苦しさと難しさに耐えかねて武法から足を洗い、それでも金と名声だけは手に入れてーと思った半端者が立ち上げたインチキ流派だ。もはや武法と名乗るのもおこがましい、完成度の低い粗悪品みてーなシロモノだ。お前の【打雷把】ってのも、その中の一つなんじゃねーの? ははっ! あり得る話だ! そういう流派はハッタリきかせるために大袈裟な名前してんのが多いからなぁ!」

 

 我慢ならなくなったボクは勢いよく振り返り、叩きつけるように言った。

 

「取り消せっ!」

 

「あー、何? 怒ったの? じゃあかかって来いよ。もしアタシを倒せたら、【打雷把】とやらの事を認めてやる。だがアタシに負けて『鈴』を奪われたら、クソ流派決定だ。ここで逃げ出しても等しくクソ流派認定してやる。さあ、どうする?」

 

 ボクは闘志と憤りに燃えた眼差しでシャンシーを睨む。

 

 彼女はきちんとそれを承諾と受け取ったようだ。口端を歪めながら頷くと、

 

「よし、良い目になったじゃねーか。んじゃ――始めようか」

 

 ――左拳を右手で包むように握り、顎の前に持ってきた。

 

 ボクは目を見張った。

 

 あれは【抱拳礼(ほうけんれい)】。武法士同士の挨拶だ。

 

 だが挨拶と一言でいっても、そのやり方次第であらゆる意味を持つ。

 

 右拳を左手で包めば、それは単なる挨拶のニュアンスを持つ。もしくは軽い手合わせの前に行い、「死なない程度に手合わせしましょう」という意思を表すためのものだ。

 

 しかし、今のように左拳を右手で包むやり方は――「死力を尽くし、互いの命を賭けて戦おう」という意味を持つ。

 

 相手に殺意を向け、自分もまた殺される覚悟を持ったという意思表示。

 

 【煌国】では互いにこれを行なった上で戦えば、相手を殺しても刑罰にかけられることはない。

 

 つまりシャンシーは、合意の下の決闘を求めているということ。

 

 ……軽い気持ちで飲むべき勝負ではないことは明白だ。

 

 しかし、退くわけにはいかなかった。

 

 【打雷把】のたった一人の門人として、侮辱された事に対して黙っているわけにはいかない。

 

 ボクも顎の前に左拳を持ってきて――それを右手で包み込んだ。

 

 その瞬間、両者の合意が成立した。

 

「【九十八式連環把(きゅうじゅうはちしきれんかんは)】――孫珊喜(スン・シャンシー)

 

 今までのガラの悪いものではない、凛とした口調で名乗るシャンシー。

 

「【打雷把】――李星穂(リー・シンスイ)

 

 ボクもそれに倣い、名乗った。

 

 ボクらは【抱拳礼】を解き、互いに構えを取った。

 

 シャンシーの構えは、防御の常識を体現した、まさしくお手本のようなものだった。

 

 構えられた両腕、そして前足の膝によって、体の中心をしっかりと隠している。それでいて、ぎこちなさを感じない。その構えに慣れ親しんでいる証拠だった。

 

 当たり前の事かもしれないが、その「当たり前」がきちんとできているかいないかで、かなりの差が出る。実戦とはそういう世界だ。

 

 しかも、命を落とすかもしれない戦いであるにもかかわらず、その表情には重々しさが見られない。むしろうっすら笑ってすらいる。

 

 ゴクリ、と喉を鳴らす。この少女、意外と油断ならない相手かもしれない。

 

 やがて、シャンシーは突風のような速度で向かってきた。

 

「らぁっ!!」

 

 急回転しながらこちらへ迫り、裏拳の要領で右腕を振るってきた。

 

 ボクはとっさの判断で、右即頭部に両腕を構える。

 

 ズンッ、と重々しい衝撃が腕に伝わる。棒でぶっ叩かれたような威力だ。腕がしびれる。

 

 ボクはそこからすかさず反撃へと転じようと考えた。

 

 だが次の瞬間、構えらえたボクの両腕の間から――拳が伸びてきた。

 

「くっ!?」

 

 真下から顎めがけてやってきたその拳を、ボクは背中を反らすことでなんとか回避。

 

 見ると、シャンシーは右腕をすでに引っ込め、アッパーのような左拳へと変化させていた。

 

 かと思うと、シャンシーの姿が急激に下へ沈む。

 

「――!!」

 

 マズイ、と思ったボクはすぐに丹田に【()】をチャージ。即座に胴体へ【硬気功(こうきこう)】をかけた。

 

 刹那、丸太の先を勢いよく叩きつけられたような凄まじい衝撃が、ボクの腹部にぶち当たった。

 

 ――間一髪、間に合った。

 

 【硬気功】のおかげで痛みは無い。が、余った勢いによって真後ろへ大きく滑らされる。

 

 ボクがさっきいた位置には、腰を落とした姿勢で正拳を突き出したシャンシーの姿。

 

 彼女はすぐさま、猿を思わせる軽やかな足さばきで距離をつめてきた。

 

 そして踏み込みと合わせて、鋭い左正拳を突き放つ。

 

 ボクは右腕の表面にシャンシーの拳をすべらせ、真後ろへ受け流した。右肩の真上を通過する。

 

 彼女は間伐入れずにもう片方の右拳で突いて来る。が、ボクは空いていた左手でそれをキャッチ。

 

 取っ組み合ったような体勢ができあがる。

 

 が、シャンシーは軸足ではない片足をボクの股下に添え置く。

 

 そして、軸足の蹴り出しによって、そこへ重心を移した。

 

「わ!?」

 

 ――瞬間、ボクの体が弾むように浮き上がった。

 

 体の真下へ勢いよく重心を移動されたことで、立っていた「場」をシャンシーの重心によって奪われたからだ。

 

 そして、

 

「ふっ!!」

 

 虚空を舞うボクめがけて、シャンシーは閃光のような足さばきとともに正拳を放った。

 

 ボクはとっさに片足を持ち上げ、拳が来るであろう位置に足裏を移動させる。

 

 そして――ぶつかった。

 

 足裏にとんでもない圧力が与えられ、ボクの体は風に吹かれたように真後ろへ飛ばされた。

 

 着地と同時に受身をとり、そして起き上がる。

 

「どうよ? 【翻打挑水架拳(ほんだちょうすいかけん)】【猴爬樹(こうはじゅ)】の組み合わせは?」

 

 シャンシーはこちらへ向かって歩きながら、余裕のある口調で言う。

 

 ――【九十八式連環把】の最大の特徴は、無限に近いパターンの連続攻撃を組み上げられる点にある。

 

 九十八あるとても短い【拳套(けんとう)】を好きな順番で列車のように連結させ、ワンパターン化しない連続攻撃を流れるように繰り出すことができる。

 

 しかも、その連続攻撃の中には「断絶」がない。

 

 【打雷把】のようなパワーのある武法は、一発一発の威力が強い分、【勁擊(けいげき)】と【勁擊】の連なりの間に大なり小なり「断絶」が存在する。まるで火山の噴火と噴火に間があるように。

 

 しかし、【九十八式連環把】にはそれがないのだ。川の水が流れるように、攻撃を並べることができる。

 

 そのため、「断絶」という名の隙が生まれない。

 

 ……はっきり言おう。彼女とボクの武法は、本来あまり相性が良くない。

 

「ほら、どんどん行くぞオラ!」

 

 シャンシーは再びボクに迫る。

 

 間合いにボクを収めた途端、怒涛の連打を放ってきた。

 

 針のように鋭い正拳。ハンマー投げのような腕刀。鞭のような回し蹴り。槍の刺突のごとき爪先蹴り。撞木(しゅもく)のような掌打…………

 

 息もつかせぬ勢いで浴びせられる、数珠繋ぎのような攻撃の数々。

 

 どの攻撃も鋭さと速さが半端じゃない。今のところなんとか全て躱し、受け流せているが、このまま続いたらいつかは当たってしまうだろう。

 

 【九十八式連環把】の特徴そのまま、シャンシーの攻めには僅かな断絶も無かった。そのため、付け入る隙が見当たらない。

 

 おまけに、攻撃一つ一つにきちんと防御の要素も入っているのだ。

 

 突き出した拳や掌が、顔面やみぞおちを守る防具の役目もしっかりと果たしている。

 

 蹴りは出すスピードだけでなく、引っ込めるスピードも速い。そうすることで敵に足を取られないようにしているのだ。

 

 彼女の放つ技の全てが、絵に書いたような攻防一体の性質を秘めていた。

 

 並みの練度では、攻撃の最中でそこまで防御にかたくなになれない。

 

 シャンシーの武法に対する真摯さが、一拳一拳からしっかりと見て取れる。

 

 ……今にして思うと、彼女はボクをわざと挑発したのかもしれない。

 

 せっかく見つけた鈴持ちであるボクを逃がすまいとして、わざと侮辱し、勝負を受けさせたのだ。

 

 でなければ、わざわざ流派の名前について話の矛先を向ける必要は無いはずだ。

 

 そうと分かった以上、これ以上戦いを続けていても意味はない。

 

 なら、逃げ出すのか。

 

 ――否。

 

 ボクはもう、左拳を右手で包んでしまった。

 

 決着がつかないうちに背中を向ければ、レイフォン師匠と【打雷把】の名誉に傷がついてしまう。

 

 だから、逃げるわけにはいかない。

 

「ははっ、よく避けるじゃんか! んじゃ、少し戦法を変えようか!!」

 

 シャンシーは攻撃の流れの最中、腰の裏側に両手を伸ばす。

 

 かと思えば、シュランッ、という鋭い擦過音とともに何かを抜き出した。

 

 彼女の両手に握られていたのは――鍔(つば)の無い両刃の短剣。

 

 知っている。あれは匕首(ひしゅ)という武器だ。

 

 シャンシーは武器を装備した。

 

 ――肉体の硬度を鋼鉄並みに高くする【硬気功】を身につけた武法士にとって、刃物などの武器は必ずしも必殺とはなり得ない。

 

 武法士の武装は殺傷力の強化というより、間合いや戦略の変化といった側面が強い。

 

 なので、彼女の武器持ちは卑怯ではない。戦略を変えただけのことだ。

 

 そして大抵の場合、素手で行う動きでそのまま武器が使える。

 

「そらっ!」

 

 シャンシーは匕首を逆手に持つと、再び攻撃を開始。

 

 手甲が上を向いた拳、いわゆる横拳(よこけん)で真っ直ぐ突いてきた。

 

 いつもなら最小限の動きで避けようと考えるが、今回は大きく拳の外側へ飛んで回避した。

 

 なぜなら――正拳の攻撃範囲が広がったからだ。

 

 小さな動きで回避しようとしたら、拳はよけられても、逆手に握られている匕首の刃によって斬りつけられてしまう。

 

 刃が伸びていない内側に逃げても、もう片方の匕首の刃の射程に入ってしまう。

 

 なので、拳の外側へ大きく逃げざるを得なかったのである。

 

「ほらほらどうした!? 相変わらず逃げてるだけかよ!? もっと攻撃してこいよ!」

 

 シャンシーは腕を振り回す動作を多用し、攻撃を連ねる。

 

 その動きは一見、舞踊のように美しい。

 

 しかし、その中には確かな鋭利さが内包されていた。

 

 匕首の両刃があるため、ただの軽い手振りでも鋭い斬れ味を持つ。

 

 打撃と斬撃の両方の性質を兼ね備えた攻撃の数々が、眼前で踊り狂う。

 

 ボクはそれらを必死に躱し、時に【硬気功】で防御しながら、反撃の隙を伺う。

 

 ――武器を振り回すシャンシーとは違い、ボクは今なお素手を貫いていた。

 

 ちなみに【打雷把】にも武器はある。大槍(だいそう)方天戟(ほうてんげき)といった、長さ2(まい)近くにものぼる長物が。

 

 しかし、今回はあっても使わない。

 

 大槍や方天戟は長いので、離れた所から相手を攻撃できるが、その分小回りが利きにくい。対して、匕首は短いが小回りが非常に利く。武器を持てば、ボクの方がかえって不利になるだろう。

 

 ゆえに、ボクは拳で戦うことを選んだ。

 

 そして、素手である今の状態で使える、比較的リーチの長い部位。

 

 それは――

 

「これだっ!」

 

 身を翻しながら刺突を避けたボクは、そのまま遠心力を込めた三つ編みをシャンシーの目元に叩きつけた。秘技、三つ編みハンマーだ。

 

「うわっ……!」

 

 シャンシーは思わず半歩退き、目元を押さえる。ダメージは無いだろうが、びっくりさせることはできたはずだ。

 

 両手で目を押さえている今、腹部はがら空きだった。

 

 ボクは遠心力を保ったまま彼女に近づき、その勢いをつけた回し蹴りを叩き込む。

 

「がっ――!」

 

 シャンシーは一瞬叫びを上げると、後方へ大きく流された。

 

 しかし、足で必死にバランスをとったことで、倒れずには済んだようだった。

 

「この……やってくれるじゃねーか、李星穂(リー・シンスイ)……!」

 

 蹴られた場所を匕首の柄尻で押さえながら、こちらを睨めつけるシャンシー。額にはわずかながら汗が浮かんでいる。効いてはいるようだ。

 

 ボクは毅然とした態度で言い放つ。

 

「どうかな? 【打雷把】がクソ流派っていうの、取り消してくれる気になった?」

 

「……ああ、そうだな。悪かったよ。クソ流派だったら、【九十八式連環把】の連続攻撃をここまで躱しきれる技術があるわけがない。それでいて、アタシに一矢報いてもみせた。アンタも、アンタの流派も、確かに半端ではないんだろうさ」

 

 その素直な発言こそ、【打雷把】への侮辱が単なる挑発だったことの証だ。

 

 彼女は「勝てたら認めてやる」と言ったのだ。なのに決着が付いていない今、認めるような発言をしている。

 

「でも……お前がどれほど強かろうと、アタシは負けるわけにはいかない…………負けられねーんだ!」

 

 シャンシーは再び匕首を構え、闘志のこもった眼差しでボクを見据えてきた。

 

「アタシは【黄龍賽】で優勝して――【九十八式連環把】の名誉を回復してやるんだ!!」

 

 今の一言に、ボクは思わず目を見張った。

 

「名誉の、回復……?」

 

「……アンタさぁ、【九十八式連環把】の事、どれくらい知ってる?」

 

 突然の質問に、ボクは少し困惑しながらも、

 

「――【九十八式連環把】。創始者は呉宝山(ウー・バオシャン)、少数民族【開族(かいぞく)】の出身で、享年九八歳。バオシャンは幼少期より【太極炮捶(たいきょくほうすい)】を十二年間学ぶ。その後、【煌国】各地の武法士と試合や技術交流を重ね、あらゆる技術と戦闘経験を吸収していった。その果てにバオシャンはあるひとつの結論に到った。「武法にて最も尊ぶべきは威力ではない。相手が倒れるまで延々と攻め続けられる円滑な攻撃だ」と。その考えを根幹にして生まれたのが【九十八式連環把】。クセの強い動作をすべて省き、比較的簡単で変化させやすい技を九十八つ選択、編纂して創始された。確かに連続攻撃を最重視している流派だけど、技の一つ一つは簡単そうに見えて良く出来ている。攻めつつも急所のガードを忘れない「攻防一体」を二番目に重視してるため、全ての技にきちんと防御や回避の概念が含まれている。断絶の無い「連続攻撃」の中に「攻防一体」が含まれればまさに鬼に金棒――」

 

「あーもういいもういい。暴走すんなよ」

 

 シャンシーは疲れたような表情でストップを命じた。

 

 ボクはかあっと赤面する。またやってしまった……恥ずかしい。

 

「アタシが聞いてんのは、そういうのじゃねーんだ。問題なのは【九十八式連環把】が世間でどういう風に扱われているか、だよ」

 

「え……?」

 

「……【九十八式連環把】が、武法士社会の間で何て揶揄されてるか知ってるかよ?」

 

 シャンシーの二度目の質問に、ボクは眉根をひそめた。

 

 ――その質問の明確な答えを、武法マニアのボクは当然知っていた。

 

 だが、できれば話題にしたくなかった。他所の流派を悪く言うのは好きじゃないだからだ。相手がその流派の人間であるならなおのこと。

 

 ボクはぼそり、と言った。

 

「……「ゴロツキの喧嘩道具」」

 

「……正解だよ、クソッタレ」

 

 シャンシーは苛立たしげに舌打ちする。

 

「アンタお嬢様っぽい綺麗な顔してかなりのオタクみてーだから、当然知ってんだろ? 【九十八式連環把】は比較的簡単な技で構成されてる。クセが強くて尖った動作より、シンプルな技ばっかにしておけば、変化が簡単で連続させやすい。だから、全ての技が簡単な分――習得が他の武法に比べて速いんだ」

 

 シャンシーは忌々しげに続ける。

 

「だからだろうな。ヤクザやゴロツキは寄ってたかって【九十八式連環把】に手を出した。【九十八式連環把】は習得が速いだけじゃねぇ。技の形が多少いい加減でも、ヤクザ同士の殴り合い程度には十分重宝するんだよ。連中は【九十八式連環把】をあちこちで悪用しやがった。ヤクザ同士の争いならまだ良い。だが奴らはカタギの、それも武法士でも何でも無い人間にも平気で拳を向けやがったんだ。金を脅し取ったり、女を腕力で押さえつけて弄んだりな」

 

 彼女はくつくつと自嘲めいた笑いをこぼす。

 

「……そしたらあら不思議。【九十八式連環把】の評判はあっという間に地に落ちてしまいましたとさ。【九十八式連環把】は「ヤクザ者どもと癒着した流派」としてすっかり定着した。周囲の人々からは「ゴロツキの喧嘩道具」と後ろ指を指され、どの町の【武館区】でも【九十八式連環把】と名乗った途端、眉をひそめやがる。完全な風評被害だ。この町の【武館区】でも、アタシらは周囲から見下されてる。昨日アンタが庇った馬鹿野郎もな、「ゴロツキの喧嘩道具」とアタシらの武法をバカにしてやがったんだ」

 

 ……そうだったのか。

 

 シャンシーは自嘲の笑いをやめると、憤怒の形相となって吐き捨てた。

 

「ざっけんじゃねーぞ、ボケが…………! アタシらを、そんな粗製品振り回してデカい顔してる半端者どもと一緒にすんな!! アタシは真剣にこの武法と向き合って来たんだ! なのに、そんなバカどもと同じ穴のムジナ扱いされるなんて迷惑なんだよ!!」

 

「シャンシー……」

 

「だからアタシは【黄龍賽】に優勝して、そんな世間に広がった汚名を返上してやんだ!! そうすればアタシやウチの武館の連中も、その他の努力してる奴らだって馬鹿にされずに済む! アタシが【九十八式連環把】の看板にべっとり付いた泥を、綺麗さっぱり拭い取ってやる!! お前にはそのための踏み台になってもらうぞ、李星穂(リー・シンスイ)っ!!」

 

 シャンシーはボクを強く睨み、再び両手の匕首を構える。

 

 彼女の話を聞き終えたボクは、深く息を吐き、クールダウンする。

 

「なるほど。同じ武法士として、気持ちは分かる。でもね、ボクは君の踏み台になる気なんかさらさらないよ」

 

「んだと……!」

 

「君に負けられない理由があるように――ボクにだって負けられない理由があるんだ。君の望みがどれだけ立派だったとしても、絶対に譲るわけにはいかない」

 

 そうだ。自分は生まれ変わったこの人生を、武法に捧げると決めたんだ。

 

 それを叶えるためには、【黄龍賽】で勝たなければならない。

 

 阻むものは何であろうと――【打雷把】でぶっ飛ばしてやる。

 

 ボクはどっしりと大地を踏みしめ、構えをとった。

 

 シャンシーは不敵に口端を歪めると、

 

「……はっ、上等じゃねーかよ。んじゃ、その意思――力で示してみろよ!!」

 

 一直線にこちらへ向かって来た。

 

 今までで一番の速度と勢いでボクと肉薄。

 

 片手に匕首を真っ直ぐ突き立て、踏み込みと同時に刺突してきた。

 

 ボクは体の捻りによって回避しつつ、突き出された腕の外側に移動。

 

 しかし、シャンシーは突き出した匕首の柄を指で器用に回転させ、すぐさま逆手に持った状態に変える。

 

 そして、真横にいるボクめがけて剣尖を振り出してきた。

 

 ボクは一歩前へ出た。それによって剣尖の目標点から逃れ、彼女の腕のリーチ内へと侵入。

 

 やって来た腕をガード後、シャンシーの脇腹へ狙いを定める。

 

 後ろ足の蹴り出しによって重心を勢いよく進め、【震脚】によって力強く踏みとどまると同時に拳を突き放つ。【衝捶(しょうすい)】という正拳突きだ。

 

 数百両斤(りょうきん)もの鉄球が猛スピードで飛んでくるような威力の拳が、シャンシーに迫る。

 

「しゃらくせぇっ!!」

 

 が、彼女は不意に全身をねじった。

 

 それによって、シャンシーの脇腹がボクの拳の目標点からズレる。つまり、攻撃をかわされたのだ。

 

 シャンシーは全身の回転をそのまま続ける。

 

 そして、ボクの真横に回り込みつつ――逆手に持った匕首の刃を首めがけて薙いできた。

 

 ボクは丹田に【気】を溜め、素早く首へと【硬気功】を施す。

 

 ボクの首と、シャンシーの刃が激突。ガキィン! という金属じみた音とともに刃が擦過。ボクの首には傷一つ付いていない。

 

 シャンシーは止まらない。回転を続けてもう片方の手にある刃を振り出してきた。が、ボクは一歩後退して難なく回避。銀の輝きが目の前を素通りする。

 

「そらっ!!」 

 

 彼女は匕首の一本を素早く順手持ちにすると、回転を直線運動に変える要領で突きかかってきた。

 

 人体の重さが百パーセント乗った突撃槍のようなシャンシーの刺突を、ボクはダンスを踊るように回転しながら回避。

 

 そして、そのまま遠心力によって三つ編みを振り回し、敵の顔面めがけて円弧軌道で放った。

 

「バカが! 同じ手が二度通じるか!」

 

 シャンシーは上半身の反りだけでボクの三つ編みハンマーを避けてみせた。

 

 ボクは遠心力の流れのまま、相手に背中を見せることとなった。 

 

「そこだっ!!」

 

 シャンシーは鋭くボクの背後に接近。順手に匕首を握った拳を真っ直ぐ突き出してくる。

 

 彼女の下腹部からは濃い【気】の集中を感じる。おそらく【炸丹(さくたん)】を使って打つつもりだ。

 

 絶好の攻めどころだと感じたのだろう――ボクが"ワザとさらけ出した"隙を。

 

「はっっ!!!」

 

 シャンシーは発破のような一喝とともに踏み込み、正拳を打った。同時に丹田でスパークのような激しい【気】の炸裂が起こる。予想通り【炸丹】を使って打ってきたようだ。

 

 ――しかし、ボクに当たることはなかった。

 

 ボクは必殺の拳が来る直前に、体の位置を小さく移動させていたからだ。

 

 【仙人指路(せんにんしろ)】――ワザと隙を見せることで相手の攻撃を誘い込む【打雷把】の体さばき。

 

 どんなに素早い一撃でも、どこに来るかが分かっていれば避けるのは簡単だ。

 

 そしてボクは――シャンシーの脇腹辺りまで急接近した。

 

「っ!!」 

 

 彼女が焦った顔になった途端、その胴回りに小さな電流が走った。【硬気功】を使ったのだ。

 

 でも――【硬気功】すら突き破る【打雷把】の【勁擊】の前では意味がない!

 

 ボクの渾身の肘打ち【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】が、彼女の脇腹に深々と突き刺さった。

 

「~~~~っ!!?」

 

 表情が大きく歪んだかと思うと、シャンシーは「く」の字になって大きく吹っ飛んだ。

 

 石畳に背中を付いてもなお、氷の上を滑るようにスライドしていく。

 

 やがて、止まる。

 

「う……あっ……そんな…………どうして【硬気功】が……? それに……この、バカみてーな、威力は…………!」

 

 仰向けに倒れたシャンシーは、打たれた場所を押さえながら、かすれた声で呟いた。

 

 苦痛を隠すことなく顔に濃く表している。

 

 もう終わりだろう。

 

 そう思った時、

 

「……クソッ……タレが…………! まだだ……! まだアタシは……負けちゃいねー…………!!」

 

 シャンシーが震えながらも、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ここで勝たなきゃ…………【九十八式連環把】は……泥まみれなままだ……!」

 

 そして、匕首を構える。

 

 ダメージがでかいせいか、四肢が明らかに震えている。安定感に欠ける構え。

 

 しかし、シャンシーの表情からは苦痛は感じられても、弱さは感じなかった。見えるのは「戦おう」という確かな意志力。

 

 【打雷把】の強大な【勁擊】を食らってもなお諦めずに立ち上がり、そして挑もうとしている。

 

 ……ボクはこれ以上、こんな気骨のある武法士をいたぶりたくない。

 

 なので――次の一撃で必ず終わらせる。

 

「……おおおおぉぉぉぉぉぉっ!!!」

 

 シャンシーは両手の匕首を順手持ちにすると、一直線に突っ込んできた。

 

 繰り出される、苦し紛れの一突き。

 

 ボクは体の位置を少しずらし、それを難なく回避。そのまま、相手の懐へ入る。

 

 シャンシーは間伐入れずにもう一本の匕首で突いてくる。

 

 が、【硬気功】を施した拳で刃を叩き折る。

 

 この瞬間、シャンシーは完全な無防備となった。

 

 ボクは両足のかかとを浮かせてから、全身の動きを協調一致させた。

 

 浮き上がった両足のかかとで思い切り地面を【震脚】する。 

 腰を一気に深く落とす。

 拳を真下から上へ円弧軌道で振り上げる。

 

 それらの動作から生まれた強大なエネルギーが、拳に集中する。

 

 【迅雷不及掩耳(じんらいふきゅうえんじ)】――【震脚】によって生み出された大地からの反作用を拳に伝え、相手に叩き込む技。比較的小さなモーションで大きな力を打ち出せるため、至近距離での戦闘時で非常に使える。

 

 拳が、下からすくい上げるようにしてシャンシーの腹部へ食らいつく。

 

 瞬間、彼女の体が勢いよく上へ吹っ飛んだ。

 

 3(まい)ほどの高さで上昇は止まり、自由落下を始める。

 

 やがて、シャンシーは背中から着地。

 

 そのまま、動かなくなった。

 

 ボクはそっと顔を覗き込んだ。

 

 どうやら、気絶しているみたいだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んっ……」

 

 暗い海の底から浮き上がるような感覚とともに、孫珊喜(スン・シャンシー)は目を覚ました。

 

 ゆっくりとまぶたを開ける。

 

 まず最初に目についたのは、規則正しい配置の石畳。きれいな長方形の石がいくつもくっつきあって、あみだくじのような直角の溝を作っている。

 

 寄りかかっているのは、硬い壁。

 

 自分が猫背になってこうべを垂らしている事に気づいたシャンシーは、顔を上げる。

 

「――気がついた?」

 

 そして、とても美しい少女と目が合った。

 

 自分の小麦色に焼けた肌とは違う、文句なしの白皙(はくせき)。つややかで長い髪は太い一本の三つ編みに束ねられており、少女が首を傾げるのに合わせて小さく揺れる。それをかぶるようにして存在するのは、箱入り娘然とした華やかな顔立ち。しかしぱっちりと開けられた大きな瞳の存在から、上品さと同時に快活さも感じられる。

 

 そんな少女はしゃがみこんで、こちらの様子を心配そうに伺っていた。

 

 最初はその事実をぼんやりと他人事のように捉えていたが、意識が覚醒してきたことで、目の前の少女が何者なのかを思い出した。

 

 李星穂(リー・シンスイ)。自分がさっきまで戦っていた少女だ。

 

 そして、同時に確信する。自分はこの少女の一撃によって、無様にも気絶していたということを。

 

 それらを悟った瞬間、意識が一気に明瞭となった。闘志によって。

 

 シャンシーは奥底から湧き上がる気力のまま、勢いよく立ち上がろうするが、

 

「テメー、よくもやってくれたな! 覚悟し――――うっっ!!!」

 

 刺さるような激痛を突然感じ、全身が本能的に弛緩。尻餅をついた。

 

 痛みで息を荒げるシャンシー。

 

「ちょっ、無理しちゃだめだよ。安静にしてなきゃ」

 

「やかましい! 敵の指図は受けねーよ、タコ!」

 

 こちらの身を案じるシンスイの言葉を、シャンシーはすげなく切り捨てる。

 

 一度辺りを見回し、状況を確認。

 

 背後にある壁の方を振り返ると、それはとてつもなく高く、そして横幅の大きな建物。この【滄奥市】に長いこと住んでいる自分には分かる。これは『公共区』の『競技場』だ。自分は今、その外壁に背中を預けて座っていた。

 

 空はすでに薄暗くなっていた。夕日が放つあかね色の光が、遥か西にうっすらと見える。それに引っ張られるようにして夜闇が訪れようとしていた。

 

 もう日没である。

 

 そして「その通りだ」と言わんばかりに――重々しく荘厳な音が高らかに響いた。

 

 この音は知っている。『公共区』の鐘楼にある鐘の音だ。

 

 これが鳴ったということは、『試験』が終了したということ。

 

 そして、これより一時間以内に『鈴』を持って『中央広場』へ戻らなければ、予選大会出場は認められない。

 

 シャンシーの胸に激しい焦燥感が生まれた。

 

「くそっ! まだだ! まだ負けてね――――ぐっ!!」

 

 立ち上がろうとするが、そのたびに激痛が走り、体勢が崩れる。

 

 何度も繰り返すが、やはり結果は同じ。

 

 シンスイから攻撃を受けた回数はたった三回。しかし最初の回し蹴りを除いて、シンスイの一撃は凶悪に重々しかった。あれほどの【勁擊】を食らった経験は初めてだ。おそらく、自分の師父でもあの異常な威力は出せないだろう。

 

 おまけに【硬気功】が全く通じないという反則じみた能力。

 

 それらの判断材料から、【打雷把】という流派の非凡さを痛感した。

 

 このとんでもない武法が無名なのは、厳重に秘匿されていたからかもしれない。

 

 武法の中にはその技術の強力さゆえ、鍛錬法どころか技の一つもみだりに公開せず、徹底的な秘密主義を敷いて伝承されてきた流派もいくつか存在する。

 

 もしかすると【打雷把】も、その一つなのかもしれない。そう考えれば、あのデタラメな威力と能力にも納得がいく。

 

 しかし、そんなとんでもない武法が相手だったとしても、それは引き下がる理由にはなりはしない。

 

 自分は勝たなければならない。【九十八式連環把】の名誉を回復させるために。

 

「うっ……ぐっ!!」

 

 しかし踏ん張るたび、激痛が電気のように総身を駆け巡る。

 

 それだけじゃない。全身がまるで鉛みたいに重い。

 

 気力に反比例して、体はもう限界だった。

 

「――やめなよ。もう君は戦えない。それは自分でも分かってるんじゃないかな」 

 

 シンスイが、諭すような口調で言ってくる。

 

 言い返そうと思った。

 

 しかし、やめた。

 

 自分がもう限界であることは、自分が一番よく分かっていた。

 

 自分は――負けたのだ。

 

 これで【九十八式連環把】の名誉を回復するという、自分の目的は潰えた。

 

 また、陰口を叩かれながら生きていく毎日の始まりだ。

 

 どれだけ勤勉に修行しても、泥が拭えない日々が続くのだ。

 

 心にぽっかり穴が空いたような空虚感が生まれる。

 

 その空虚感から目を背けるため、どうでもいいことをシンスイに尋ねた。

 

「おい、李星穂(リー・シンスイ)。アタシ……何分寝てたんだ?」

 

「うーん、二〇分くらい、かな?」

 

「…………アンタさ、ずっとアタシが起きるの待ってたのか?」

 

「そうだよ?」

 

 きょとんとした顔で肯定するシンスイ。

 

 シャンシーは怪訝な顔で、

 

「……なんでさっさと捨てて行かねーんだ? もう鐘は鳴った。アンタが鈴持ちだっつっても、一時間以内に持ち帰れなかったらアウトなんだぞ」

 

「眠ったままの女の子を放置して行けないって。それに……その、一言言いたくてさ」

 

 シンスイは何度か逡巡してから、改まった口調で告げた。

 

 

 

「君の腕前は素晴らしかった」

 

 

 

 予想外の言葉に、シャンシーは困惑で思わず目を見開いた。

 

「【九十八式連環把】を取り巻く事情はボクもよく知ってる。あちこちで悪用されたせいで評判が落ちたこともそうだけど、その悪用した連中のせいで間違った伝承が流布されてしまったことも知ってる。彼らがいい加減な形で【九十八式連環把】を覚えて、それを軽々しく広めたからだ。その流れを汲む【九十八式連環把】には「連続攻撃」の要素はあっても、二番目に大事な「攻防一体」が欠けている。【九十八式連環把】はそんな粗製品みたいなものが大半で、正しい伝承を行っている所の方が少ない」

 

 シンスイは、こちらの目を真っ直ぐ見つめた。

 

 同情しているわけでも、優越感に浸っているわけでもない、どこまでも真摯で真っ直ぐな眼差しで。

 

 思わず――その眼差しに見とれてしまった。

 

「でも、君の使うそれは違う。戦ってみてよく分かったよ。君の放つ一つ一つの技には、「攻防一体」の要素がきちんと含まれてた。これは、悪用した連中が流布した伝承には無いものだ。そして何より、君が【九十八式連環把】と誠実に向き合ってきたことの証だ。賭けてもいい」

 

 シンスイは、こちらの両肩に手を置く。

 

「だからシャンシー、君は十分に誇っていいんだ。【黄龍賽】優勝を目指さなくたって、君はきちんとその裏付けを持っているから。もし世界中の人たちが総じて「ゴロツキの喧嘩道具」と後ろ指を指しても、ボクだけは全力で「違う」と叫ぶ。だって、君がどれだけこの武法を愛してて、そして真剣に取り組んでるのかを知ってるから。今度君の前で何か言う奴がいたら、その時はボクがそいつをぶん殴ってやる」

 

 胸が熱くなった。

 

 何かが抜け落ちたように空っぽだった心に、灯火が宿った気がした。

 

 そこまで言うとシンスイは立ち上がり、

 

「……それだけ、言いたかったんだ。それじゃあ、ばいばい」

 

 少し恥ずかしそうな笑みを浮かべてそう告げ、走り去っていった。

 

 シャラン、シャラン、シャランという音色を響かせながら、遠ざかっていく。

 

「……変な女」

 

 シャンシーは思わずクスリと笑みをこぼす。

 

 あんなことを言うためだけに、自分が起きるのをずっと待っていたというのか。

 

 もう『試験』のタイムリミットだって近いというのに。自分がいつまで経っても起きなかったらどうするつもりだったのだろうか。

 

 しかも「ぶん殴る」とか。あんなお嬢様っぽい美少女が口にする言葉とは思えない。

 

 本当に、なんて変な女か。

 

 本当に……なんて優しい女か。

 

 ――彼女が女で良かった。男だったら、自分は絶対に惚れていただろうから。

 

「……完敗、かな」

 

 大きく間を開けて繰り返される鐘の音を聞きながら、シャンシーは小さく微笑んだのだった。

 

 心に巣食っていた空虚感は、もう無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「と…………とぉーーちゃくぅーーーーっ!!」

 

 すっかり日が暮れて薄暗い『公共区』の中を走り、ボクはようやく最初に『鈴』を受け取った場所――『中央広場』に到着した。

 

 さっきいた『闘技場』からこの場所まで、大して遠くはない。

 

 にもかかわらず、予定より随分到着が遅れてしまった。

 

 なぜかというと、待ち伏せをされていたからだ。

 

 鈴持ちは鐘が鳴った後、この『中央広場』へと向かわなければならない。

 

 それはつまり――その場所に鈴持ちが集中するということだ。

 

 そこへ向かう鈴持ちから『鈴』を奪い取り、大逆転勝利をしようという輩が大量に現れたのだ。

 

 ボクはそんな連中の相手をしていたので、少しばかり時間を食ってしまったのだ。

 

 しかし、それも終わり!

 

 まだ鐘が鳴り始めてから一時間経っていない。ボクはこの『試験』に見事合格したのだ。

 

 数時間ぶりに見る『中央広場』は、朝と比べてだいぶ空いていた。

 

 いるのは役人風の男数人と、武法士が一五人。

 

 そして、その一五人の中には――

 

「ライライっ!」

 

 そう、ライライもちゃんといたのだ。

 

「ふふ、数時間ぶりね」

 

 ライライはうっすら微笑むと、ボクと持っているのと同じ『鈴』を見せてきた。シャラン、と音が鳴る。

 

 ボクは嬉しくなる。今朝に交わした待ち合わせの約束を、彼女は見事に守ってくれたのだ。

 

 ボクもポケットから『鈴』を取り出し、それを見せる。

 

「おめでとう、シンスイ」

 

「うん。ライライも」

 

 そう言って、ボクらは互いに手を叩き合った。

 

 今日この時、ボクは片足を乗せたのだ。【黄龍賽】優勝までの、長い階段の一段目に。

 

 これからも一段、また一段と、快調に駆け上がってみせる。

 

 

 

 

 

 ――――その後、ボクらは大会運営の元で出場手続きを行った。

 

 

 

 こうして、晴れて予選大会出場が決まったのだった。

 



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開会式

 『試験』に無事合格し、予選大会参加者一六名の中に名を連ねることになったボクらは、大会運営が用意した宿に泊まることとなった。

 

 『商業区』にある『巡天大酒店(じゅんてんだいしゅてん)』という場所で、なかなか大きく立派な宿泊施設だった。

 

 予選大会に敗退、もしくは優勝するまで、そこがボクら一六名の家となる。

 

 予選大会は明々後日(しあさって)から始まる。ボクらにはそれまで、二日間の休息が与えられた。

 

 しかし、ボクはその二日間の中でも、修行を欠かすことはなかった。

 

 一日目の夜。

 

 そこは、小さな個室だった。

 

 存在するものは大きなベッド、横長の机、足の長い椅子、そして正方形の行灯(あんどん)のみ。モノの種類の数だけ見れば殺風景ととれるかもしれないが、それらに施された華美な装飾の醸し出す高級感は、モノが少ない寂しさを打ち消して余りあるものだった。

 

 実家にあるボクの私室より、幾分か豪華な部屋。

 

 そこはさっき述べた『巡天大酒店』の一室だった。予選大会の期間中、ボクが寝床にする場所である。

 

 ボクはそこで一人、修行していた。

 

 修行といっても、【拳套(けんとう)】のような激しい動きに富んだものではない。そこまでの広さではないし、何より【打雷把(だらいは)】の【拳套】をこんな室内で行えば、【震脚(しんきゃく)】で床が砕けてしまう。弁償はまっぴらだ。

 

 なのでボクは室内で、なおかつ狭い場所でも出来る修行をしていた。

 

 ボクはやや腰を落とし、真正面に右拳を突き出した姿勢で静止している。

 

 だが、突き技の練習ではない。

 

 突き出された右腕の手首には――つるべが引っ掛けてあるのだ。

 

 つるべの中にたっぷり入った水の重さによって、一定の負荷が右腕全体にかかっている。

 

 ボクはこの状態で、すでに五分は静止している。

 

 右腕と右肩にはだるい痛みがじわじわと続いており、額にはうっすら汗が浮かんでいた。

 

 これは【易筋功(えききんこう)】という、武法における修行法の一種だ。

 

 この【易筋功】について語るには、まず【(きん)】というものの存在について説明しなければならない。

 

 ――【筋】とは、武法士の肉体に存在する特殊な運動器官のことである。

 

 【易骨(えきこつ)】によって余分な筋力が抜け、理想的な状態に整えられた肉体にのみ現れる。

 

 【筋】は体の中に通っている、太い一本のヒモのような器官だ。五体全ての内側を芯のように通っており、なおかつそれらは全て列車のレールよろしく繋がっている。

 

 具体的にそのような器官が存在するわけではない。だが、"感覚的には"確かに存在する。

 

 また【筋】と筋肉は名前こそ似ているが、両者の性質はかなり異なる。

 

 筋肉は収縮することで力を出すが、【筋】は伸びて突っ張ることで力を出す。

 

 筋肉は衰えやすいが、【筋】は非常に衰えにくい。

 

 【筋】の成長速度は筋肉より遅いものの、その成長限界は理論上無いに等しい。

 

 そして、筋肉の性能には男女差があるが、【筋】には無い。武法の世界が男女平等である理由は、この【筋】の存在によるところが大きい。

 

 簡単に言ってしまえば、【筋】とは「高性能の筋肉」のことである。

 

 武法士は【勁撃(けいげき)】を使う時、この【筋】の力によって骨格を動作させ、体術を行っている。

 

 つまり【筋】の強さは、そのまま【勁撃】の威力へと直結するのだ。

 

 そして話を戻すが、【易筋功】とはその【筋】を鍛えるための修行法だ。

 

 あらゆる方法で【筋】に負荷をかけ、その可動域や柔軟性、突っ張る力の強さを養うのだ。武法士専用の筋トレと言っていいかもしれない。

 

 ボクが今行なっている【易筋功】は、つるべの重さによって腕の中に通う【筋】に負荷をかけ、突っ張る力を鍛えるためのものだ。

 

 【易筋功】は筋トレや柔軟体操のように、急激な負荷をいち、にー、さん、し、と断続的にかけるのではない。絶え間無く、継続的に、一定の負荷をかけ続けるのだ。そうしなければ【筋】はうまく育たない上、急激な負荷によって傷めかねない。

 

 余談だが、【架式(かしき)】も広く考えれば【易筋功】に分類される修行法だ。その流派で大切な姿勢のままずっと静止し続けることで、その姿勢に必要な【筋】の力加減を体に覚えこませ、なおかつ、それらを総合的に鍛えるのだ。

 

 ボクはこのつるべを使った訓練をすでに何年もやっている。そのためボクの腕は、その細さや柔らかさとは不釣り合いなほどの怪力を持っている。この腕で一般人を殴ったら、間違いなく大怪我をさせてしまうだろう。

 

 ちなみにこのつるべは、この宿の従業員のおばちゃんに借りたものだ。中には、近くの井戸で汲み上げた水が入っている。

 

 今でも十分重たいが、レイフォン師匠がご存命の頃は、途中でちょくちょく水を足してさらに重くされたものだ。そのことを含めて、あの人の修行は本当に容赦がなかった。

 

 しかし、そんな容赦の無さがあったからこそ、今のボクがある。だから師匠には感謝してもしきれない。

 

 さらに数分間【易筋功】を続けた後、ボクはつるべをゆっくりと床に置いた。

 

 右腕全体には、だるさと疲労が残っている。しかし、ほんのわずかだが、そこを通う【筋】の強さに磨きがかかっているような気がした。

 

 ボクはしばらく右腕をぐるぐる回し、深呼吸してから、修行を再開した。先ほどのつるべを、今度は左腕にぶら下げた。

 

 そのまま、再び静止する。

 

 左腕に下向きの力が絶えずかかり続け、だるさがジワジワと生まれ始める。

 

 ――大会運営側は、今回の二日間の休みを「休息期間」だと言った。

 

 しかし、ボクは確信していた。

 

 たとえ休息の期間だったとしても、他の一五人は怠けてなんかいないということを。

 

 ならば、ボクも怠けるわけにはいかない。

 

 それに、ボクにとって修行は楽しいものであって、苦行ではない。

 

 ボクは自分自身に武法の才能があるなんて思ったことはない。でも、修行を楽しくできるというのは、ある意味かなりの強みだと思うのだ。

 

 だから、ボクはボクのスタンスを変えない。ボクらしく強くなってみせる。

 

 ――そうして、ボクの一日目の夜はふけていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、あっという間に二日目の夜も過ぎ――とうとうその日が訪れた。

 

 午前の太陽が、頭上でさんさんと光っている。

 

 ボクの足元には、硬い石畳の敷かれた広大な円形の空間が広がっていた。その周囲を囲う壁面のさらに上部には観客席がリング状に伸びていて、そこに座る大勢の人々がこちらを見下ろしている。まるで巨大な筒の中に入っているような錯覚を覚えそうだ。

 

 円形の空間の中央には、ボクとライライを含めた合計一六人が横並びになっていた。緊張してかちこちになっているボクと違い、みんな平然とした顔だった。なんだか自分がおのぼりさんみたいに思い、少し恥ずかしかった。

 

 前方には、数人の男性がボクらと向かい合うようにして立っている。みな厳かな面構えで、中華伝統衣装の長袍(ちょうほう)にも似た長衣を綺麗に着こなしていた。

 

 彼らは、大会運営の人間だ。

 

 これからこの『競技場』で、予選大会の開会式が行われる。

 

 ここで挨拶を含めて、今大会のルールや対戦表が公開される。

 

 そういうわけなので、周囲の観客の視線も含めて、ボクはドキドキして気が気でなかった。

 

 ここに来て唯一話せる相手であるライライは遠く離れた位置にいるため、ますます緊張は募る一方。

 

 まだここに立って五分も経っていないはずだけど、ボクはもう三十分は立たされているような気分だった。

 

 速く進めて欲しい。そう思いながら棒立ちを続けるボク。

 

 やがて、観客席よりさらに高所にあるテラスのような場所から、大きな銅鑼(ドラ)が打ち鳴らされた。

 

 荘厳かつ派手な大音量が響き渡り、観客席がピタリと静まり返る。

 

 そして、ボクらの前に立つ大会運営の一人が一歩前へ出て、重い口を開けた。

 

「――大変長らくお待たせいたしました! これより第五回【黄龍賽(こうりゅうさい)】、【滄奥市(そうおうし)】予選大会を開始します!!」

 

 周囲の観客席から歓声が湧き上がる。

 

 それから飾り付けのような挨拶の言葉をしばらく述べ、ようやくルールの説明に入った。

 

「今大会の方式は勝ち抜き戦。今回厳しい『試験』をくぐり抜けたこの一六名に戦っていただき、最後まで勝ち抜いた方を優勝者とし、帝都にて行われる【黄龍賽】本戦に出場する権利を与えます! これと同じ大会は【煌国(こうこく)】のその他一五都市でも行われており、今大会優勝者は、本戦でその優勝者たちと戦うことになります!」

 

 その言葉を合図にしたようなタイミングで、先ほどのテラスのような場所から一枚の布が垂らされた。

 

 人間が十人以上余裕で雑魚寝できそうなほどの、大きな横長の白い布。風でめくれ上がらないための配慮か、その布の一番下の辺には(おもり)のようなものがいくつも横並びで付けられていた。

 

 そしてその白い布の面には、ねずみ算に酷似した図が墨汁ででかでかと描かれていた。

 

 最初に一本線から始まり、そこから徐々に何本もの線へと広がりを見せている。そして一番下にある末端の線は一六本。その下には、ボクを含む参加選手の名前が美しい黒文字で書かれていた。

 

 そう。その図は――トーナメント表としか呼べないシロモノだった。

 

 しかも、ボクの名前は一番左側にあった。

 

 予選大会の一回戦は今日の午後一時から始まる。つまり、ボクは今日早速一試合目に出ることになるということだ。

 

 うわー、なんか一番最初ってヤダなぁ……どうすればいいのか迷うし、緊張するし。

 

 ちなみに、ボクの右隣に書かれた名前――つまり最初の対戦相手の名前は「紅蜜楓(ホン・ミーフォン)」。

 

「試合におけるルールは主に三つ!

 一つ――先に降参、もしくは気絶した側の敗北とする!

 二つ――武器の持参・使用は自由! ただし試合中、外部からの武器の受け取りは禁止!

 三つ――【毒手功(どくしゅこう)】の使用は厳禁! 【毒手功】は今大会の公平性を著しく害する技術であるため、使用もしくは使用未遂を確認次第、その選手を即刻失格とする!」

 

 「以上!」という一言とともに、ルール説明は終わった。

 

 なるほど、シンプルなルールだ。

 

 ちなみに【毒手功】というのは、自身の手に毒を帯びさせる技術のことだ。

 

 決められた種類の毒虫や毒草をすり潰して毒薬を作り、その中に何度も手を突っ込むという修行を行う。それによって長い年月をかけて手に猛毒を染み込ませ、やがて【毒手】に変える。

 

 【毒手】となった手の皮膚は赤紫っぽく変色しているため、パッと見ですぐに分かる。

 

 そして、その【毒手】を使って【勁擊】を打たれた者は、たとえ服越しであっても【硬気功(こうきこう)】を施していても、問答無用で酷い毒に冒されてしまう。良くて廃人、たいていの場合は遅かれ早かれすぐ死亡する。

 

 使用者の腕前にかかわらず、当たった相手を高確率で死亡させるというアンフェアさから、武法士の間では「邪道」と呼ばれ、嫌悪と軽蔑の対象となっている。武法バカなボクでさえ、この【毒手功】はあんまり好きじゃない。

 

 強力だがその反面、修行の過程で自分が毒に冒されてしまう危険性がある。そのせいか、現在ではほぼ失伝している。

 

 ――閑話休題。

 

 それから細かい補足説明のようなものがちょくちょくなされた。

 

 そして開会式が終わりにさしかかると、ずっと説明をしていた運営の人がボクらを見据え、口元をほころばせて言った。

 

「では、最後に一言申し上げます。名誉ある一六名の皆様、色々と煩わしく申しましたが、あなた方に期待することはただ一つです。――どうか、我々や観客の皆様が手に汗を握るような、熱い戦いを期待しています!!」

 

 ドッ、と膨れ上がる大歓声。

 

 莫大な声量を全身でビリビリと受けながら、ボクは大会の始まりを改めて実感したのだった。

 

 ――頑張ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから開会式が終わり、ボクら一六名は解散となった。

 

 そのすぐ後、ボクはライライと並んで『競技場』内一階の廊下を歩いていた。

 

 内壁、床ともに頑丈な石造りの一本道。今のボクらから見て左側の石壁には等間隔で四角い穴が穿たれており、外の光を中へ招き入れている。その穴ほど多くはないが、壁には行灯もいくつかぶら下がっていた。夜はあれで灯りを付けるのだろう。

 

「一回戦頑張ってね、シンスイ」

 

 ライライはスズランを思わせる奥ゆかしい微笑を浮かべ、応援の言葉を送ってくれる。少し低めで、それでいて澄み切った声。

 

「ありがとー、ライライ。頑張るよ」

 

 ボクは少しやせ我慢の混ざった笑みを浮かべてそう返す。

 

 一回戦は今日の午後一時から開始だ。そしてボクはその一回戦を一番最初に戦うこととなっている。

 

 トップバッターを命じられたボクは少し緊張していた。みんなにもそういう経験はないだろうか? 発表会などで一番最初に発表することが土壇場で決まって、モデルケースがない分プレッシャーを感じたことが。

 

 開会式終了後に懐中時計を見ると、正午までまだ三十分以上余裕があった。なので、せめて試合までリフレッシュしていることにした。

 

 ちなみにライライはボクとは逆で、一番最後に一回戦を行うことになっている。

 

「そういえば、あなたの対戦相手って何て名前かしら?」

 

 ふと、ライライが訊いてくる。彼女が首を傾げた途端、胸元に実った巨大な二つの果実がふるん、と小さく揺れた。

 

 ボクはソレから素早く目を背け、少し上ずった口調で答えた。

 

「ホ、紅蜜楓(ホン・ミーフォン)って人っ」

 

 そう。確かそんな名前だったはず。

 

「……紅蜜楓(ホン・ミーフォン)、ですって?」

 

 だが、不意にライライの声が硬くなった。

 

 それを不審に思ったボクは、

 

「どうしたのライライ?」

 

「いえ。ちょっと聞き覚えのある名前だと思って……」

 

「へぇ、もしかして知り合い?」

 

「いえ、そういうわけではないけど……」

 

 なんだかライライの歯切れが悪い。

 

 彼女はしばらく唸るように黙り、やがて、少し言いにくそうに口に出した。

 

「昔、父から聞いた話で、断片的にしか覚えてないのだけど……確か――【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家の「(ホン)家」に、そんな名前の娘がいたような気がするのよ」

 

 ボクは思わず目を見張った。

 

 ――【太極炮捶】。

 

 はっきり言って、この流派を知らない武法士はモグリと呼んでいい。それだけ名高い流派なのだ。

 

 【太極炮捶】とは、最古の武法にして――全ての武法の源流。

 

 【煌国】には星の数にも等しい量の武法が存在するが、それらは全て【太極炮捶】の身体操作、修行体系、戦闘理論などに改良を加えて生み出された亜流なのだ。

 

 【雷帝(らいてい)】と呼ばれた最強の武法士であるレイフォン師匠も、最初はこの【太極炮捶】を学んだのだ。そして【太極炮捶】で得た豊富な技術を取捨選択し、そこへ独自のアレンジを加えて【打雷把】を完成させたのである。まさしく温故知新だ。

 

 【太極炮捶】の基礎理論は『太極』。

 

 『太極』とは、『陰』と『陽』が一体になっている状態のこと。

 

 【太極炮捶】はその理論通りに肉体を操作し、人の身で人以上の力を発揮するのだ。これは【太極炮捶】に限らず、ソレから生まれたその他全ての武法にも当てはまる話だ。

 

 【易骨】を例に挙げよう。【易骨】は骨格を理想的な配置に整えることによって、全身に分散していた体重を足元に集中させる。この時、全身は余計な力みが一切無い『陰』となり、足裏は自重の集中した『陽』となる。こうして肉体は『太極』と化すのだ。

 

 【気功術(きこうじゅつ)】にも『太極』の理論は反映されている。全身に流れる【()】を集めて丹田に凝縮させることで、【気】が濃く集まった丹田を『陽』となし、その他の体の部位を『陰』となす。

 

 その他にも例がたくさんあるが、挙げるとキリがないので、ここは割愛しておく。

 

 このような革新的な体術を一から開発したのは、「(ホン)家」の人間である。

 

 つまり(ホン)家は【太極炮捶】の宗家。

 

 彼らは【黄土省(こうどしょう)】南東部を拠点とし、【太極炮捶】の分館をこの【煌国】各地にいくつも立ち上げている。武法士社会の中ではまさに一大勢力だ。

 

 もしも紅蜜楓(ホン・ミーフォン)がその(ホン)家の一人だとするなら、かなりの実力者である可能性が高い。

 

 ボクはリラックスしかけていた心を一転、再び緊張させた。

 

 そんなボクを気遣ったのか、ライライは弁解するような口調で言い募った。

 

「あ、あのねシンスイ、多分よ? 私自身は紅家の人間に会ったことがないし、もしかすると、気のせいかもしれないわ。あんまりアテにしないでね」

 

 

 

 

 

「――気のせいなんかじゃないわ。ご名答よ」

 

 

 

 

 

 その時、可愛らしいながらも鋭い響きを持った声が、割って入るように後ろから飛んできた。

 

 ボクら二人は同時に振り向く。

 

 視線の先には、不敵に微笑を浮かべた一人の美少女が佇んでいた。

 

 歳はパッと見、中学に上がりたての小学生くらいに見える。身長もボクと同じくらいか少し低い程度。しかし旗袍(チーパオ)の腰から上を切り離して作ったような半袖の胸部からは、小さな背丈とは釣り合わない、なかなか大きな二つの膨らみがある。

 

 髪は毛先が肩に届く程度のセミロングで、両側頭部には真っ赤な菊花の模様が描かれた丸いシニヨンカバー。猫のようにつり上がった瞳が特徴的な顔立ちは、少女特有の愛らしさの他に、触る者をチクッと刺激するバラのような刺々しさも微かに感じさせる。

 

 その女の子はかぼちゃパンツにも似た長ズボンの裾を揺らしながら、こちらへ悠然と歩み寄って来る。

 

 ボクらの前でピタリと足を止めると、

 

「まさしく噂をすれば影、ね。ごきげんよう李星穂(リー・シンスイ)。あたしは紅蜜楓(ホン・ミーフォン)。今日の午後一時にあんたと戦う予定の相手にして、【太極炮捶】宗家である(ホン)一族の三女よ」

 

 ボクの方を真っ直ぐ射抜くように見て、そう自己紹介してきた。

 

 ボクはびっくりしすぎて飛び上がりそうになった。

 

 今ちょうど噂をしていた人物が、グッドタイミングで目の前に現れたのだ。

 

 しかもその人物は、武法士社会で名高い「(ホン)家」の身内と来たもんだ!

 

 武法マニアの血がたぎるのを感じる。聞きたい。色々根掘り葉掘り聞きまくりたい。吸い尽くすようにインタビューしまくりたい。

 

 しかし、まだ自己紹介を返してもないうちからそれは失礼だろう。ライライの時の失敗は忘れないぞ。

 

「えっと、ボクは李星穂(リー・シンスイ)っていうんだ。【太極炮捶】宗門の一族に会えるなんて夢みたいだよ。よろしく」

 

 ボクは気持ちを落ち着け、余裕のある態度で自己紹介をした。うん、我ながら凛々しい対応だ。

 

 女の子――ミーフォンは「よろしく」と一言返すと、

 

「あんた、流派はどこなの?」

 

「【打雷把】っていうんだ。知らないかもしれないけど……」

 

 そう流派名を教えた時だった。

 

「……あ、そう」

 

 ミーフォンの態度が一転した。

 

 ため息を盛大にもらし、諦めにも似た表情が端正な顔に浮かぶ。まるで興味をなくしたかのような消沈ぶりを露わにしていた。

 

 え? な、なんだろう、この態度……?

 

 少し引っかかるものを感じたが、ひとまず目をつぶる事にした。

 

「え、えっと、これから始まる試合、お互い頑張ろうね」

 

 そう言って、ボクは手を差し出した。

 

 だが次の瞬間――その手を思い切り払われた。

 

「え……?」

 

 ボクは唖然とした。

 

 思考速度がワンテンポ遅れる。

 

 今、手を払われた。誰に? ミーフォンに。

 

 どうして――と考えるよりも先に、ミーフォンが蔑むような眼差しをこちらへ向けながら、投げ捨てるような口調で言った。

 

「――勘違いしないでくれない? あたしと対等の立場に立ってるつもりなの? だとしたらはっきり言うわ――それはとんだ思い上がりね」

 

 あまりに予想外な展開に、ボクは言葉を発せなくなってしまう。

 

 しかし、そんなボクの代わりとばかりに、ライライが非難のニュアンスの混じった低い声で言った。

 

「……いきなり何の真似かしら。随分とあからさまな豹変ぶりね」

 

「ハッ、あんた宮莱莱(ゴン・ライライ)でしょ? 『試験』の最中、あんたが【刮脚(かっきゃく)】を使うところをちらっと見たわ。やれやれ、おママゴトに夢中な田舎者同士が馴れ合って。見るに堪えないったらないわ」

 

「……ママゴト?」

 

 ボクはようやく、声を出すことができた。

 

 ミーフォンは隠すことなく冷笑し、氷を肌に擦り付けてくるような口調で言った。

 

「そうよ? だって【太極炮捶】じゃないんだもの。その他の武法なんて後から作られた粗製濫造のオンパレードじゃない。歴史も戦闘理論の幅も技術の量も奥深さも、【太極炮捶】には遠く及ばない出来損ない。そんなものをママゴトって呼んで何が悪いっていうの?」

 

 ……ボクは(ホン)家の人間と直接会ったことはない。

 

 だが、噂には聞いたことがある。

 

 自分たちの祖先が作った【太極炮捶】だけが武法であり、その他多くの流派は取るに足らない「武法モドキ」である――(ホン)家の人間は、そんな中華思想に等しい考え方を持っているという噂。

 

 どうやらソレは、あながちデマでもなかったようだった。

 

「あんたさぁ、とっとと棄権したら? まだ間に合うわよ。大怪我の挙句に観客の前で大恥さらしたくないんならとっとと田舎に帰りなさい。その方があたしも楽でいいし。【打雷把】だっけ? そんなもん、ウチの【太極炮捶】とは歴史も技術も比べるまでもないわよ。【太極炮捶】は源流。全ての流派の親。子が親に勝る道理があると思ってんの?」

 

 傲岸不遜に言い募るミーフォン。

 

 【太極炮捶】こそが真の武法。他の流派は全て武法を騙るまがい物。まさしくそれが彼女の考え方なのだ。

 

 しかし、色々な武法を知っていて、それらに何度も感動した経験のあるボクは、そんな視野狭窄にも等しい考え方に対して「否」と突きつけたかった。

 

 ボクは言った。ケンカ腰な口調ではなく、諭すような声で。

 

「本当にそんな狭い考えを持ってるというのなら、はっきり言おう――君は世間知らずだ」

 

「……なんですって?」

 

 ミーフォンがピクリ、と柳眉を動かした。明らかに機嫌を損ねている様子。

 

 しかしボクは構わず続ける。

 

「世の中には、素晴らしい武法がたくさんある。それを知ってるボクに言わせれば、君の発言こそ【太極炮捶】という村の中に閉じこもってるせいで外の世界を全く知らない、田舎者のセリフそのままだよ」

 

「……言ってくれるじゃない」

 

 ミーフォンはさらにこちらへ詰め寄ると、ボクの爪先の前でドカンッ! と片足を踏みおろした。

 

 これは【震脚】だ。全ての武法の源流である以上、【太極炮捶】にもきちんと含まれているのだ。

 

 ミーフォンはボクのみぞおちを人差し指でつつき、至近距離から射殺すような目で睨みながら告げてきた。

 

「――上等よ、クソ流派。あんたの無様なやられっぷりを観客と大会運営の前で晒して、公式に出来損ないの烙印を押させてやるわ」

 

 そして、ボクの横を通り過ぎ、去っていった。

 

 遠ざかるミーフォンの背中を見送りながら、ボクは思った。

 

 これから始まる一回戦、負けられない理由がもう一つ増えた――と。

 

 胸に渦巻いていた緊張も、すでにどこかに吹っ飛んでいた。

 



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太極炮捶

 時間が経つのはあっという間で、午後一時はすぐに訪れた。

 

 筒の底に広がったようなその円形闘技場には、三つの出入り口が三角州の配置で存在する。そのうち二つが選手専用で、残り一つが審判専用だ。

 

 ボクは向かい合う形で開かれた選手専用出入り口の一つから出て、円形闘技場の中央へと歩を進めた。

 

 壁と出入り口の上にリング状に広がった観客席から、大勢の人たちがボクらを見下ろしている。

 そのさらに上層には大きな銅鑼(ドラ)の設置された広いテラスのような空間があり、(バチ)を握り締めた人が立っている。試合開始と試合終了の合図は、あのドラで行われる。

 

「――ふーん、来たのね。身の程知らずにも。まぁ、【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家であるこのあたしが相手でも、逃げずに同じ土俵の上に登ってきたことだけは褒めてあげるわ」

 

 ボクと対面して立っている少女、紅蜜楓(ホン・ミーフォン)はそう言って不敵に口端を吊り上げる。

 

 ボクは怒鳴るでも皮肉を言うでもなく、ただ淡々と返した。

 

「逃げないよ。ボクには負けられない事情があるんだ。たとえ相手が(ホン)家の娘さんでもね。それに【打雷把(だらいは)】への侮辱を撤回させたいこともある。君には【太極炮捶】だけじゃなくて、世の中には凄い武法がたくさんあるんだってことを教えてあげるよ」

 

「……言うわね、武法モドキのくせに。なら、あたしも宣言してやるわ」

 

 ミーフォンは、三本の指を立てた手を見せつけ、宣言した。

 

「――三分よ。三分以内で、あんたにこの競技場の床を舐めさせてあげる」

 

 うおおおっ、と歓声が轟く。

 

 挑発しているのか、あるいは素でやっているのか、彼女の心は知れない。

 

 しかし、いずれでも関係ない。

 

 等しく冷静に、かつ激烈に勝負に臨むのみだ。

 

 ミーフォンは左拳を右手で包み込み、顎の前に持ってきた。【抱拳礼(ほうけんれい)】だ。

 

 ボクもそれに倣う。

 

 ――これで、両者の合意が成立した。

 

 審判用出入り口の付近に立つ審判が、鋭い声で叫んだ。

 

「――始めっ!!」 

 

 ドラが雲を裂かんばかりに、高々と鳴る。

 

 途端、ミーフォンの周囲にある大気が激しく膨張。

 

 タカタカタカタカッ!! とまるでタップダンスのような足さばきで真っ直ぐ迫ってきた。一見変なフットワークに見えるかもしれないが、その速度は大型肉食獣にも勝るほどだった。

 

 知っている。これは【鼠歩(そほ)】だ。瞬発力ではなく、重心を前に送る勢いで高い推進力を得る歩法。精密な足さばきを用いるため、膝と股関節の優れたコントロール無しでは成し得ない高等技術だ。

 

 彼我の距離を、ほぼ一瞬で潰された。

 

()っ!!」

 

 ミーフォンは地を揺るがさんばかりの【震脚】で踏みとどまると同時に、拳の(やじり)を走らせる。

 

 ボクはその正拳を体の捻りで回避。そのまま突き出された彼女の腕の外側へ移動する。

 

 このまま肘打ち【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】を脇腹へ叩き込もう――思った瞬間、目の前に伸びた彼女の腕が、突然ボクの方へと迫ってきた。

 

「うわ!?」

 

 ミーフォンの前腕部は、ボクの喉元に接触してもなお移動を続行。そのまま時計の針に巻き込まれるようにして手前に押され、ボクは闘技場の真上に浮かぶ青空を無理矢理見せられた。

 

 頭という重たいパーツを後ろへ傾けられたことで、ボクは重心を崩して仰向けに転倒する。

 

 そして、さらけ出されたボクの腹めがけて、ミーフォンは拳を打ち下ろしてきた。

 

 ボクは鋭く降ってきた拳打を素早く膝で受けてから、迅速に横へ転がり、ミーフォンの足元から脱する。

 

 そこからできる限り素早く立ち上がった。

 

 しかし、ミーフォンはすでにキスできそうな距離まで接近していた。

 

 雨あられのように正拳を連続で放ってくる。一発一発が、蛇が獲物に食らいつくかのごとき勢いと疾さを持っていた。

 

 ボクは絶えずやって来る拳を必死にさばき続けるが、時々失敗して頬を擦過。手に掴んだ縄を思い切り引き抜いた時のような摩擦熱を感じる。

 

 これは【連珠砲動(れんじゅほうどう)】という技だ。肋間の捻り、肩甲骨の進行、腕の進行を同時に用いた突きをとんでもない速度で連発する。連打速度は、その使い手の練度に比例する。

 

 ミーフォンの拳速は、はっきり言って並ではなかった。なるほど、自信過剰になるだけの功力(こうりき)はあるようだ。

 

 降り注ぐ拳の雨を、ボクはなおも必死に防ぎ、いなし続ける。

 

 ――かと思った瞬間、真下から嫌な存在感を感じ取った。

 

 本能的に腰を反らせて顎を引く。その次の瞬間、顎のあった位置をミーフォンの鋭い上段蹴りが通過した。

 

 腰を反らしたことで、ボクは今重心が不安定な状態だった。バランスを取ろうという本能で、全身も硬直している。隙だらけだった。

 

 そこを狙ったのか、ミーフォンは蹴り足を上半身と一緒に勢いよく大地に急降下させた。――まるで、天を掴んで地上に引きずり下ろすような動き。

 

 マズイ、この技は――!

 

 ボクは急いで胴体前面すべてに【硬気功(こうきこう)】をかけた。

 

(ふん)っ!!」

 

 蹴り足だった足でそのままドカンッ!! と【震脚】。同時にボクの腹部へミーフォンの頭突きが鉄槌よろしく振り下ろされ、炸裂した。

 

「くっ……」

 

 痛みは無いながらも、その強力な威力の余韻で大きく後ろへ滑らされる。靴底と石畳が擦れ、妙な匂いが鼻腔をつついた。

 

 【黒虎出林(こっこしゅつりん)】。上半身を急速下降させることで生じたエネルギーを、【震脚】によって倍加した自重とともに叩き込む頭突き。虎が林から飛び出して獲物に食らいつく動きを参考に生まれた技だと言われている。非常に強力な破壊力を誇り、武法士でない普通の人間が食らったなら粉砕骨折は免れない。

 

 今のをまともに受けていたら、ボクもタダでは済まなかっただろう。

 

「へえ、なかなか良い反応するじゃないの。たいていの奴はこの組み合わせでオネンネするのにねぇ」

 

 ミーフォンは賞賛するでも侮るでもない、ただただ品定めするような視線を送ってくる。

 

 ……やっぱり、面倒くさい武法だな。

 

 高速移動の歩法からの突きを避けたと思えば、即座に崩し技。雨あられのような連続攻撃が続くかと思えば、いきなり決め手にもなりうるであろう強攻撃。彼女の攻撃の種類にはてんで統一性が無い。

 

 ――そう。これこそが【太極炮捶】だ。

 

 この武法の特徴を挙げろと言われたら、それはずばり「特徴が無いこと」の一言に尽きる。

 

 【太極炮捶】は全ての武法の原型。

 

 それはすなわち数百、ヘタをすると千を超えるであろう数の流派を生み出すに足る技術が、豊富に詰まっているということだ。

 

 つまり、あらゆる局面に対応した技が存在するのである。

 

 「突出した持ち味が無い」というのは、裏を返せば「弱点らしい弱点が無い」という意味にもなる。

 

 ミーフォンは半身になって構えると、

 

「でも、まだこれからよ。何せ――まだ二分も残ってるんだからねぇ!!」

 

 加速し、とんでもない速度で迫ってきた。

 

 靴底の面が石畳の面を叩く音が、絶え間なく聞こえる。【鼠歩】だ。

 

 ミーフォンの可愛らしい顔がアップで映った――かと思った瞬間、その顔が高速で視界の右側へスライドして消えた。

 

 背後に回り込む【()】の存在を確認した時には、ボクはすでに前へ突っ走っていた。

 

「ふんっ!!」 

 

 鋭い吐気と踏み込みの音が、真後ろから聞こえた。

 

 振り向くと、ミーフォンは先ほどボクの後頭部があった位置に手刀を振り下ろしていた。

 

 ミーフォンは背後からの攻撃が外れたことに悔しがりもせず、再び機敏に接近。

 

 振り出された右回し蹴りを、ボクは後ろへ跳んで躱す。

 

 今度は一瞬背中を見せ、身を翻しざまに左足裏を鋭く突き出してくるが、ボクはそれを体の捻りだけで避ける。そのまま必然的に彼女の足のリーチ内に入る。

 

 しかし、それは彼女の策略だということにすぐ気づいた。

 

 相手の間合いに入るということ。これは逆に言えば――相手もまた自分の間合いに入っているということなのだ。

 

 ミーフォンは突き出した蹴り足の底を、地に近づけていた。踏み込むつもりだ。

 

 彼女が踏み込んだら、ボクはその胸の前に立つという位置関係になる。そのことを考えるとおそらく肘打ち、もしくは体当たりに繋げるつもりだろう。

 

 それを悟ったボクはできる限りの脚力で地を蹴り、後退した。

 

 その甲斐あってか、ミーフォンが踏み込みと同時に突き出してきた肘の当たりは非常に軽く、ダメージにはならなかった。

 

 ボクは着地し、すぐさま構える。

 

 ……今のは少し危なかった。

 

 技をいっぱい持ってるだけじゃない。ミーフォンはそれら全てを使うべき所できちんと使っている。まるで車のギアを道路に応じて変えるように。

 

 まさしく臨機応変。

 

 さすが宗家というべきか。【太極炮捶】の理想的な戦い方を、ボクは今目にしていた。

 

 ――これを相手に、ボクは一体何ができるだろう?

 

 【太極炮捶】はそのスタンダードさゆえ、弱点はない。

 

 一点特化型の武法に対し、それに最も有効な技や戦略をしかけてくるだろう。

 

 ならば、【打雷把】のような尖った武法はどう立ち向かえばいい?

 

 答えは簡単に出た。

 

 

 

 ――その尖った部分を、最大限に引き出せばいい。

 

 

 

 【太極炮捶】は弱点が無い分、「強み」が無い。

 

 しかし【打雷把】には「強み」がある。そう――強大な威力と優れた命中率という「強み」が。

 

 相手には無いその「強み」をもって、打ち崩せばいい。

 

 ボクは覚悟を決め、ミーフォンを強い眼差しで見つめた。

 

「どうしたの? 棄権でもしたい? なら今からでも遅くないわよ。そこに立ってる審判に言ってきなさい」

 

「それはこっちのセリフかな」

 

「……は?」

 

 ボクの返しに、ミーフォンは眉根を不機嫌そうに揺らした。

 

 構わず続けた。

 

「いいかい、これからボクは――君を一撃で打ち倒す。まだボクは一度も手を出してないから分からないだろうけど……その「一撃」は死ぬほど痛いと保証する。だから今のうちに言っておくよ――凄く痛い目にあいたくなかったら棄権するんだ」

 

 ミーフォンの表情に剣呑な陰が濃く差した。

 

 そして、獰猛な微笑みを浮かべると、

 

「心配いらないわ…………凄く痛い目にあう前に、あたしがあんたをぶちのめして終わりだから!!」

 

 【鼠歩】で走り出した。

 

 電光石火の勢いで迫るミーフォン。

 

 しかし、彼女が走り出す寸前、すでにボクは地を蹴って前に進んでいた。

 

 互いの間隔が、手が届くほどまで狭まる。

 

「自殺志願者ね!!」

 

 ミーフォンはそう嘲笑うと、【震脚】で踏みとどまる。同時に拳が風を切って宙を疾走。

 ボクも同じタイミングで【震脚】し、急停止していた。

 

 ただ一つ彼女と違うのは、【震脚】と同時に――その足へ強い捻りを加えていた点だった。

 

 踏み込んだ足の螺旋回転は全身へと伝わり、そして綺麗に噛み合った歯車よろしく一緒に急旋回する。同時に、拳も突き出していく。

 全身の急旋回によって、ミーフォンの狙っていた胸の位置がズレる。弾丸のごとき速度で迫っていた正拳は見事に目標を失い、空振った。

 ボクの拳が、ミーフォンと薄皮一枚の距離まで到達。

 

「くそっ!」

 

 ミーフォンの胴体前面に青白い火花が散る。ゼロコンマ数秒の時間を使い【硬気功】をかけたのだ。

 

 良い反応。でも――無駄骨だ。

 

 ボクの拳は【硬気功】などお構いなしに、ミーフォンの腹部に深々と突き刺さった。

 

「――――!!」

 

 呻き声など、まともに聞こえなかった。

 

 拳が食い込んだ触覚を得た約半秒後、ミーフォンの体はまるでピンポン球のような速度で遠ざかったのだ。

 

 彼女は壁に背中から激突し、ワンバウンド。体の前面から着地した。

 

 効果は抜群のようだった。

 

 ——【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】。

 

 通常の【衝捶(しょうすい)】の踏み込みにさらに強い捻りを加えることで、その螺旋力で全身を旋回させ、正拳の威力をさらに上昇させる技。

 

 全身の旋回は威力の増強だけでなく、向かって来る相手の突きを回避するのにも使える。そう、先ほどのように。

 

 ミーフォンはうつ伏せに倒れたまま動かない。

 

 審判の人が彼女に近づき、確認を始めた。

 

 観客席も、静まり返る。

 

 やがて、

 

 

 

紅蜜楓(ホン・ミーフォン)、意識喪失を確認!! ――勝者、李星穂(リー・シンスイ)!!」

 

 

 

 二度目のドラが遠吠えのように鳴り響いた。

 

 途端、歓声が弾ける。

 

 ボクは額に少しばかり浮かんだ汗を拭うと、

 

「――そういえば、三分経ったかな」

 

 ため息混じりに、どうでもいい疑問を一人もらしたのだった。

 



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即堕ち【挿絵有り】

 ミーフォンとの試合に勝利したのち、ボクは円形闘技場から『競技場』の中へ引っ込んだ。

 

 闘技場への出入りは一階からのみ可能。ボクは試合後、必然的に一階を歩くことになった。

 

 そして現在、壁に四角い穴と行灯が並んだ『競技場』の一階廊下を歩いていた。試合前にいたのと同じ場所だ。ここは闘技場の出入り口から一番近い廊下なのである。

 

「一回戦突破おめでとう、シンスイ」

 

 隣を歩くライライが、そうねぎらいの言葉をかけてくれた。どうやら、ボクの試合も見ていてくれたようだ。

 

「ありがとう。ライライは今日は最後に戦うんだっけ?」

 

「ええ。まだまだ時間が余ってて退屈だわ。試合を見るのが唯一の時間つぶしね」

 

 彼女とは試合後、すぐに一階で合流した。

 

 観客席は一段上の二階にあるが、そこへ上がるための階段は、闘技場出入り口付近のこの場所とは少し距離がある。普通ならこれほど早く合流はできない。

 

 その理由はおそらく、選手用の席から見ていたからだろう。

 

 今大会出場選手は、一般来場者とは別の観客席で試合を見る権利が与えられる。

 

 選手用の席は、通常の観客席とは異なる区画となっている。規模は小さいが、通常の観客席より少し低い位置にあるため、試合を比較的近い場所から見ることができる。特等席と呼べなくもない。

 

 そして、そこからなら闘技場出入り口付近から近い。ライライはそこで見ていたのだろう。

 

「ところでシンスイ、一つ気になる事があるんだけど……」

 

 不意に、ライライが質問の前置きを口にしてきた。

 

 ボクは普段通りの声と態度で、

 

「なにかな?」

 

「……その、ミーフォンはあの時【硬気功(こうきこう)】をかけていたでしょう? シンスイはそれをどうして破れたのかなぁって思って。【炸丹(さくたん)】を使った気配なんて微塵もなかったのに……」

 

 ――来た。

 

 まあ、遅かれ早かれ感づかれるとは思っていた。

 

 別に隠してるってわけでもないし、まあいっか、教えちゃっても。別に困らないし。

 

 ボクは素直に答えた。

 

「実は、【打雷把(だらいは)】の【勁擊(けいげき)】には――【硬気功】が効かないんだ」

 

 ライライはあからさまに目を見張った。

 

「……冗談よね?」

 

 いつもの低く落ち着いた声とは違い、少し上ずった声。

 

 事実とは分かっているけど、それを事実とは認めたくない。そんな感情が読めそうだった。

 

 ボクはふるふるとかぶりを振った。太い三つ編みが尻尾のように左右に揺れる。

 

「ううん、本当だよ。ボクの使う【打雷把】には、【勁擊】にそういう性質を意図的に付与させる【意念法(いねんほう)】が伝わってるんだ」

 

 【意念法】とは、強いイメージの力を用いた技術のこと。

 

 プラシーボ効果というのをご存知だろうか。偽薬でも、飲む人が「これは薬だ」と強く信じて飲めば、薬として効果を発揮することがあるのだ。

 

 【意念法】の理屈は、それとほぼ同じ。動作の最中、決められたイメージを強く思い浮かべることで、その動作の速度や攻撃力を上昇させたり、特殊な効果を付与させたりできるのだ。

 

 【打雷把】では、【勁擊】を打つ時に仮想の相手を強くイメージし、それを打ち貫くという修行を行う。これも【意念法】だ。仮想の相手を貫くイメージで何度も時間をかけて練習することで、その【勁擊】に『貫く性質』を与える。

 

 代わりに、モノに【勁擊】を打つ修行は一切行ってはならない。そうすると【勁擊】は「物体を打つ」という性質を持ってしまい、【硬気功】を貫くことができなくなってしまう。

 

 この【意念法】は、レイフォン師匠が長年の研究の末に考案したものだ。なので、豊富な技術の結晶である【太極炮捶(たいきょくほうすい)】の中にも含まれていない。ミーフォンには盲点だったはずだ。

 

「……なんというか、前代未聞ね。私以外の選手もびっくりして前かがみになっていたわよ」

 

 ライライは若干引きつった微笑みを浮かべて言う。

 

「でも、そんな凄い武法が知られていないなんて、信じがたいわね…………その【打雷把】という武法、いったい誰が作ったのかしら?」

 

「えっと、それは――」

 

 ボクがライライの質問に答えようとした時だった。

 

 通せんぼするように立ちはだかる人影があるのに気がつき、思わず足を止める。ライライもそれに倣う。

 

 その人影は――先ほど戦った紅蜜楓(ホン・ミーフォン)だった。

 

 若干こうべが垂れているため、前髪の下に顔が隠れていて表情がよく見えない。火のごとき威勢の良さを表したような赤い菊花模様のシニヨンカバーは、若干しおれて見えた。

 

「……何かしら?」

 

 ライライは少し警戒心を帯びた声でそう尋ねる。

 

 しかしミーフォンは無言。

 

 頭を垂らしたまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 

 一歩。一歩。また一歩。

 

 ゆらり、ゆらり、と。

 

 亡者を思わせるその足取りに、ボクは否応なく心を引き締める。

 

 ――もしかすると、この場で仕返しをしに来たのかもしれない。

 

 戦いに勝ったら、恨みを買うことも少なくはない。そしてその恨みの数は、腕の立つ武法士ほど多い。

 

 ボクも武法士人生を歩み始めて以来、多くの相手と戦ってきた。一戦交えたっきり会わなくなった者が圧倒的に多いが、その中にはボクを恨んでいる者も大なり小なりいたはずだ。

 

 ……レイフォン師匠は戦った相手のほとんどをあの世に送ったため、案外かなり少ないかもしれないが。

 

 ボクとミーフォンの距離が近くなる。

 

 だが、彼女はなおも歩み続ける。

 

「…………お………………」

 

 消え入りそうな声で、そう口にした。

 

「お?」

 

 ボクは思わず、同じ一言をそらんじる。

 

 やがて、ボクらの距離が2(まい)を切った。

 

 ボクはやむを得ず、半身の体勢となった。

 

 いつでも反応できるよう、心構えをきちんとしておく。平静さという綿の中に、戦意という針を仕込むように。

 

 やがてミーフォンは、

 

 

 

 

 

「――――お姉様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!」

 

 

 

 

 

 がばーっ!! と、勢いよく抱きついてきた。

 

「へっ!?」

 

 予想の斜め上どころか、後ろへ逆走するような意味不明の行動に、ボクの思考が止まりかける。

 

 ミーフォンは試合時の挑戦的な表情など微塵も感じさせない、幸せ満点のキラキラ笑顔でボクの貧相な胸に頬ずりしてきた。

 

 って、ちょ!? 何してんのこの娘!?

 

「あぁんっ!! お姉様ったら凄くいい匂い!! お胸も壁のように見えてほのかな柔らかさ!! あーんお姉様お姉様ぁ!!」

 

 密着させてなおその奥へ進まんとばかりに、ミーフォンがゴリゴリ頬っぺたを擦り付けてくる。その声は女の子らしすぎるくらい女の子らしかった。

 

「うおおおおおおおお!?」

 

 ボクはそんな奇行に対し、意味が分からず、叫ぶことしかできなかった。

 

 ていうか、さっきから小柄な背丈に反してなかなか大きなミーフォンの双丘(おっぱい)がフニフニ当たって気持ちい……じゃなくて奇妙な感触がするんだけど!?

 

 凄まじくいい匂いに鼻を突っつかれて、頭もくらくらしてきた。

 

「ちょっ、ミーフォン!? 君、一体どうしちゃったのさ!?」

 

 少し経って、なんとかそう訊くことができた。

 

 ミーフォンは今時ギャルのようなキャピキャピした口調で、

 

「さっきはごめんなさいお姉様ぁ!! あたしが間違っていましたぁ!! あたしお姉様に倒されて、目が覚めました!! そしてもうあたしは身も心もあなたの虜ですぅ!! これからは「シンスイお姉様」と呼ばせて、未来永劫お傍に置いてくださぁい!!」

 

「いや、そんなこといきなり言われても……それに確か君って三女だよね? なら上にお姉さんがいるんでしょ? それなのにボクを「お姉様」って呼ぶのは変くない?」

 

「それはそれ、これはこれ、ですわ!」

 

 少女漫画のように輝いた眼差しでボクを見上げ、そう力強く断言する。えぇー。

 

 そこで突然、胸元に涼しさを感じた。

 

 見ると、上着を縦に留めていたチャイナボタン風の留め具の上部がいつの間にか外され、胸元のインナーが露出していた。

 

 ちょっ! この子いつの間に!?

 

 ミーフォンはそこへ顔を突っ込むと、鼻息を勢いよく吸い込んだ。

 

「はああああんっ!! お姉様ったら本当にいい匂い!! さっきの試合で汗かいてるはずなのに、全然グッドスメルですぅ!! もうお姉様を人間の女の範疇に入れておくには無理があります!! シンスイお姉様マジ天使ですぅ!!」

 

「や、何言ってるのさミーフォ……あっ! ちょ、ちょっと!? 鼻息そんなに荒くしないで! くすぐった――――あぁんっ!!」

 

 うわ! 変な声が出ちゃったよ! 我ながらなんて艶かしい声! 死ぬほど恥ずかしいんですけど!?

 

 助けて――そんな気持ちを込めた視線を、隣のライライへと向ける。

 

 それを受け取ったのかそうでないのか、ライライは世話の焼ける妹を見るような微笑を浮かべて一言。

 

「……罪な女ね、シンスイ」

 

「ちょっとライライ何言って――――ふあぁあんっ!!」

 

 また変な声出たよ! 恥ずかしい!

 

 ミーフォンはなおも削るように頬ずりしながら、

 

「シンスイお姉様ぁ!! 恋人でも妹分でも友達でも小間使いでも寵物(ペット)でもなんでもいいんです!! あたしを許してお傍に置いてくださぁい!!」

 

「わ、分かったから! これ以上は許してぇ――――――!!」

 




2017.9/6.大恵氏からミーフォンのファンアートを頂きました!


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羅森嵐と心意盤陽把

その後、ボクは決死の思いでなんとかミーフォンを大人しくさせた。

 

 ……大人しい、といっても、「比較的」という言葉を前置する必要があるが。

 

 ミーフォンはその後も「お姉様」呼びと、ボクに対する甘ったるい声と態度をやめてくれることはなかった。

 

 気に入られて悪い気はしないけど、彼女のはなんだか度が過ぎている気がする。

 

 ――まあ、それはひとまず置いておくことにする。

 

 ミーフォンと思わぬ形で和解した後、ボクらは選手用の観客席へと足を運んだ。のんびりするのもいいが、敵状視察もアリかなと思ったのだ。

 

 というか、そもそも選手用の観客席は、これから戦う相手の戦力分析のために用意されたものでもあるのだ。

 

 選手用の席にやって来た時には、すでに眼下の円形闘技場で第二試合が行われていた。

 

 いかつい大柄の男と、ボクらと歳が近い少女。その二人が闘技場で激しくぶつかり合っていた。

 

 ボクはその二人のうち、少女の方に目をつけた。

 

 円形レンズの眼鏡。オールバックにして後頭部で一本の三つ編みに纏められたチョコレート色の長い髪。名工の彫った彫刻を思わせる華やかな顔立ちは、賢人のような知性と戦士のごとき鋭い気迫を同時に感じさせる。

 

 着物のように袖の余った長袖と、袴をベースにしたとしか思えないデザインのワイドパンツ。ゆったりとした部位の多い服装だが、形良く盛り上がった胸ときついカーブを描いた腰の曲線美が、内側に秘められたプロポーションの良さを示していた。

 

 トーナメント表に書かれた名前は「于戒(ユー・ジエ)」と「羅森嵐(ルオ・センラン)」の二つ。

 

「彼女の名前はどっちだろう?」

 

 ボクが二人のうちのどちらかにそう問うと、片腕にしがみついていたミーフォンが答えてくれた。

 

「――羅森嵐(ルオ・センラン)の方ですわ、お姉様。あたし『試験』の最中、あの女がそう名乗って『鈴』を奪う所を目撃してましたもん」

 

「そっか。ありがとう、ミーフォン」

 

 そう感謝を告げると、ミーフォンは期待に満ちた眼差しで頭を突き出してきて、

 

「ご褒美に頭を撫でてくれると嬉しいですわ」

 

「え……あ、うん……」 

 

 ボクは若干気後れしながらも、ミーフォンの頭を優しく撫でてあげる。彼女は気持ちよさそうに目を細めた。まるで猫みたいだ。

 

 隣のライライが「ご愁傷様」的な目でボクを見ていた。

 

 ほんと、すっかり懐かれちゃったなぁ……。

 

 それは頭の隅っこに置いておいて、まず試合を見るのに集中しよう。

 

 ボクたちは適当な席を見つけ、そこへ腰掛けた。

 

 そして、眼下の試合を見つめる。

 

 その少女――センランは素手であるのに対し、相手の男は武器持ちだった。全長約1(まい)半の、薙刀に似てなくもない形の長物。柄の割合が六割ほどで、残りの四割は片刃の刀身である。「双手帯(そうしゅたい)」という武器だ。

 

 男は双手帯の刃をものすごい速度で横薙ぎに走らせた。いぶし銀の閃きが鋭く曲線を描く。

 

 センランは【硬気功(こうきこう)】をかけた掌でそれを受け止める。ガギィン! という金属の激突音とともに、彼女は大きく後ろへ滑った。

 

 彼女と男との間に、大きな間隔ができていた。その距離が、今のひと振りの威力をものがたっていた。

 

 しかし、眼鏡の奥にあるセンランの目から戦意は消えていない。いや、むしろ、楽しんでいるような色すら見えた気がした。

 

 センランは小さく動き出したかと思うと――疾走した。

 

「――!?」

 

 それを見て、ボクは驚かずにはいられなかった。

 

 ただ走っただけならいい。

 

 だが、その速度が――尋常ではなかった。

 

 センランは大きく開いた男との距離を、ほぼ一瞬と言っていい時間で縮めたのだ。

 

 高速移動なら、ミーフォンの【鼠歩(そほ)】で見た。しかし、今のセンランの速度はそれ以上だった。

 

 その尋常外の速度によって、男は反応が遅れる。

 

 その隙をついて、センランは踏み込みと同時に【硬気功】をかけた拳を双手帯の刃に叩き込んだ。

 

 【硬気功】をかけた拳は、まさしく鉄製の鈍器と一緒だ。双手帯の刃は甲高い金属音を立てて砕け散った。

 

 余った勢いによって、男は後ろへ滑らされる。

 

 だがセンランは、またあの高速移動で接近。追い打ちとばかりに爪先を男の腹部へ叩き込んだ。

 

 男は苦悶の表情を浮かべるが、倒れるのを我慢しつつ、残った双手帯の柄の部分でセンランに殴りかかった。

 

 しかしセンランは深く腰を落として回避。そのまま一歩踏み込み、正拳で突く。

 

 宙に浮き、派手に吹っ飛ぶ男。後ろには壁。

 

 しかし壁にぶつかる前に、センランが男の後ろへ素早く先回り。背中に回し蹴りを叩き込んだ。慣性の方向が変わり、男は元来た道を戻るように流される。

 

 センランは男の右に移動。肩口から体当たり。

 

 今度は左に回り込み、回し蹴り。

 

 正面に入り、正拳。

 

 あらゆる位置から、めまぐるしく攻撃を加えるセンラン。

 

 その一挙手一投足に、ボクは視線を集中させていた。

 

 重心位置が曖昧ではない。自重の乗った足がどちらかはっきり分かる足さばき。

 

 特徴的な動きや姿勢が少ない。シンプルな形の技が多い。

 

 そして、高速移動。

 

 それらの判断材料から、ボクは答えを導き出した。

 

「あれは――【心意盤陽把(しんいばんようは)】」

 

 ボクの記憶が正しければ、ほぼ間違いなく正解のはずだ。

 

 【心意盤陽把】――『陰陽』という理論を最大限に活かした武法。

 

 『陰陽』という二分割法は、様々なものに置き換えて考えることができる。武術に関しては『防御と攻撃』、『柔と剛』、『虚と実』などがそれにあたる。

 

 【心意盤陽把】は、これらの武術的な『陰陽』を明確に二分割することで、非常にスピーディーな動作を可能にする武法なのだ。

 

 例えば、先ほどの高速移動。あれだけ速いのは、別に優れた瞬発力があるからではない。"軸足を入れ替えるスピード"が速いから、あの速度が出せるのだ。

 

 重心の乗った足を『陽』として、重心の乗ってないもう片足を『陰』として認識し、それを何度も入れ替える足運びを行う。

 

 その『陰陽の転換』の速度は、練度の高さに比例する。センランのあの速度は、その『陰陽の転換』がとてつもなく速い証拠なのだ。

 

 このように【心意盤陽把】は、『陰陽を入れ替える』速度を養成することで、常識ハズレに疾く、鋭い動作を行なえるようになる。

 

 この流派は動きや姿勢、構えに虚飾が全く無い。素早く敵を打倒、制圧することに長けている。まさしく実戦本位の武法だ。そのため、実戦性を重んじる宮廷護衛官の間で積極的に採用されている。

 

 というより、そもそもこの武法を創始したのは、とある宮廷護衛官なのだ。

 

 【心意盤陽把】は、不文律的に御留(おとめ)流派のような扱いを受けている。ゆえにその伝承は、ほとんど宮廷護衛官の間にのみ集中しているのだ。

 

 そのような伝承事情ゆえに、ボクはあの武法をほとんど見たことがない。

 

 それを思うと、心が踊るのを感じた。 

 

 眼下では、センランが【炸丹(さくたん)】を使った正拳を相手に叩き込んでいた。

 

 女の細腕が、大の男を軽々と吹っ飛ばす。

 

 背中から落下し、静止。

 

 仰向けになったまま、微動だにしなくなる男。

 

 審判はそんな彼に近づき、数秒確認すると、

 

 

 

于戒(ユー・ジエ)、意識喪失を確認!! ――勝者、羅森嵐(ルオ・センラン)!!」

 

 

 

 センランの一回戦突破を宣言したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一回戦が終わった。

 

 めでたく勝ち進んだ者、惜しくも敗退した者、両方とも等しく八人出た。もともと一六人だった人数を半分こにする形で。

 

 ちなみに、ライライも無事に勝ち進むことができた。

 

 蹴り技主体の武法士もたくさん見てきたが、彼女はその中でも破格の実力を持っていた。相手はライライの迅速かつ重々しい蹴りの連続に手も足も出せぬまま、敗北へと追い込まれた。対してライライは相手に一度も触れられていないので、もはや完全試合だった。

 

 そして翌日。

 

 ボクとライライを含む一回戦勝者八人は、再び円形闘技場という名の(ふるい)にかけられる。

 

 ――ことはなかった。

 

 今日は、お休みである。

 

 この予選大会は、もともとの選手の数である一六を二で割っていく形で、合計四回戦行う。

 

 一日に一回戦やるので、戦う日にちは全部で四日。

 

 しかし、四日連続で戦わされるわけじゃない。試合の日と試合の日の間に、一日の休日を挟むのだ。

 

 この休日の目的は、主に二つ。

 一つ。選手に怪我の療養や休息のための猶予を与えること。

 二つ。選手含む外からの来場者にその町を観光させ、お金を使わせること。

 

 ボクは別に怪我をしているわけではないし、別段疲れたってわけでもない。ライライも同じだった。

 

 なのでボクたち"三人"は、この【滄奥市(そうおうし)】をのんびり観光することにした。

 

 ……ちなみに"三人"と言ったとおり、メンバーはボクとライライの他にもう一人いる。

 

「うふふ、シンスイお姉様……♡」

 

 その三人目――紅蜜楓(ホン・ミーフォン)は、ボクの片腕に嬉しそうにしがみついていた。

 

 これが漫画だったら、彼女の頭上からは無数のハートマークが湧き出ているだろう。そんな幸福感あふれる顔だった。

 

 この娘は昨日の一回戦に敗退した。選手用の宿である『巡天大酒店(じゅんてんだいしゅてん)』を出なくてはならなくなったことも含め、もうこの町にいる理由もないはずだ。

 

 だがミーフォンはいまだにこの町にとどまっている。わざわざ宿をとって泊まっているのだという。理由は「お姉様ともっと一緒にいたいです! もう二度と忘れないくらいその姿を瞳に焼き付け、匂いを鼻の奥に刻み込みたいですわ!」だそうだ。

 

 元男の自分としては、こんな可愛い娘に気に入られて悪い気はしない。が、それ以上に戸惑っている。ここまでストレートな好意を寄せられたことは、前世でも現世でも無かったのだ。

 

「あ、あのさミーフォン、少し離れて歩かない……?」

 

「どうしてですかお姉様?」

 

「や、だって、歩きにくいでしょ?」

 

「あたしはそんなことありませんもんっ。それとも、ご迷惑ですか?」

 

「あー、いや……別にそういうわけじゃないけど……」

 

「じゃあいいじゃないですかっ。ああっ、お姉様ったら今日もいい匂いがしますぅ!」

 

 恍惚の表情で、ボクの肋骨辺りにゴリゴリ頬ずりしてくるミーフォン。

 

 隣を歩くライライが「弱いわねぇ」と言いたげに苦笑を浮かべる。うん、ボクも我ながらそう思うよ。

 

 現在ボクらが歩いているのは、『商業区』の目抜き通りだ。

 

 横幅の大きな街道が伸びており、その端にはたくさんの店や、細い脇道がある。

 

 ちなみにこの『商業区』で人気なのは、なにも表で軒を連ねる店ばかりではない。

 

 目抜き通りの端にある脇道から裏通りに入ることができ、その辺りには少しマニアックで面白い店が多いのだ。

 

 変わった武器がたくさん売っているお店や、不味いが非常に健康に良い事で人気の飯店など、目抜き通り顔負けのバリエーションを誇っている。

 

「そういえばシンスイ、あなたの次の相手ってあの羅森嵐(ルオ・センラン)なのよね? 勝てそうかしら?」

 

 不意に、ライライがそう訊いてきた。

 

 明日に行われる二回戦、ボクは羅森嵐(ルオ・センラン)と対戦することになっている。

 

 昨日の一回戦では、第一試合でボクが勝ち、第二試合ではセンランが勝った。トーナメント形式であるため、次にボクと彼女が当たるのは必然だった。

 

 ボクはミーフォンに捕まってない方の手を顎に当てながら、

 

「うーん、どうだろ。【心意盤陽把】の使い手とは戦った事がないからなあ。まだ分からないや」

 

「お姉様は最強です! あたしの時みたいにワンパンで勝てますよ!」

 

「ははは……ありがと、ミーフォン」

 

 ミーフォンの頭を軽く撫でる。彼女は「うにゅぅ」と心地よさそうな声をもらした。

 

 ボクの思考は明日の試合ではなく、センランの使う流派に向いた。ボクはワクワクした表情で、

 

「でもさ! 凄いよね【心意盤陽把】! あれボクあんまり見たことないんだよ! もし機会があるなら、センランに話を伺いたいなぁ」

 

「次はあんな強敵が相手だっていうのに、あなたったら呑気ねぇ…………あら?」

 

 ライライはそこで言葉を止める。

 

 かと思うと、ボクの肩を叩き、耳打ちするような小さめの声で、

 

「……シンスイ、噂をすれば影、よ」

 

「え?」

 

 ボクが反応すると、ライライは前方のある位置を指差した。

 

 そこは、年季の入った小さな木造の建物だった。入口である引き戸の横には、煌国語で「お菓子」と大きく書かれた縦長の旗がはためいている。駄菓子屋だ。

 

 そして、その駄菓子屋の入口の前に棒立ちしている一人の少女。

 

 上品さと意思の強さを感じさせる美貌。円いレンズの眼鏡。オールバックにして後頭部で一本の三つ編みに纏められたチョコレート色の長髪。

 

 それは誰あろう、羅森嵐(ルオ・センラン)だった。

 

 昨日の試合を戦っている時の顔からは、まさしく戦士といった気迫を感じた。しかし今の彼女の顔はまるで迷子になった子供のようで、駄菓子屋の入口をただジッと見つめている。

 

 しかし、彼女の考えている事を読む余裕はなかった。

 

 もし機会があるなら話をうかがいたい――そう口にした矢先、願いがかなったのだ。

 

 つくづく、ボクは武法に縁があると思う。

 

 ボクは我知らず、小走りでセンランに近づいていた。

 

「ちょっ、お姉様っ?」

 

 突然スピードアップしたためにミーフォンの拘束から外れてしまうが、それすら気に留められなかった。

 

 センランの傍に着いたボクは、

 

「あ、あのっ! 羅森嵐(ルオ・センラン)、だよねっ?」

 

 少し緊張しながら、声をかけた。

 

 彼女はピクっと反応し、ボクの方を向く。そして、少し驚いた顔をした。

 

「キミは確か……李星穂(リー・シンスイ)だったか。わら、私に何か用か?」

 

 つややかな紅梅色の唇から、二胡の音色のように美しく、気品ある声が紡がれた。

 

「う、うんっ、そうだよ。その、君の使ってる流派って、【心意盤陽把】だよね!?」

 

「いかにも。それが何か?」

 

 やっぱり!!!

 

「君の武法【心意盤陽把】について、何か聞かせて欲しいんだ!! 宮廷護衛官「韓亮(ハン・リャン)」が、目にも止まらぬ速さの連続突きを得意とする流派【番閃把(ばんせんは)】を改良して創始した武法! 他の流派に比べると歴史はちょっと浅いけど、【番閃把】の美点を連続突きだけじゃなくていろんな種類の技に組み込んだその技術体系は非常に素晴らしく、風のような速度で敵に近づき、そして迅速に打倒、制圧することに長けている。まさに要人警護の要である護衛官に相応しい流派ってわけだね! でも警護手段の漏洩を心配してか、【心意盤陽把】は宮廷護衛官の間で秘伝状態になっている。一応民間でも伝承はあるにはあるけど、めちゃくちゃ少ない。護衛官ってのは非常に高い武法の腕前が必須条件で、おまけに募集人数もごくわずかな狭き門。その護衛官になれる人そのものが圧倒的に少ないから、引退後に教えられる人も必然的に少数なんだ。これじゃ民間に広まりにくいわけだよ。おかげでボクもこの武法だけはあんまり見たことがなくてフムグッ――!?」

 

 ボクは延々とまくし立てる口を慌てて塞いだ。

 

 またやっちまった! 

 

 いい加減進歩しろよ、ボク!

 

 ボクは先ほどまでの生き生きした表情をすっかり曇らせ、控えめな上目遣いでセンランを見る。

 

 彼女は案の定、ぽかんとした顔。「え? いきなり何なのこの娘?」という考えが読めなくもない表情だ。

 

 ……だが突然、センランは表情を崩して呵呵大笑した。

 

「あっはははははは! 尋ねてきたかと思えば突然高速でまくし立て、かと思えば自分でその口を塞ぐなんて、面白いなキミは!」

 

 今度はボクがぽかんとする番だった。

 

 センランはひとしきり大笑いすると、少し前かがみになってボクの顔を覗き込む。彼女はボクより背が高かった。ライライよりかは少し低いくらいか。

 

 円い眼鏡の奥にある瞳は、宝石のような強い輝きと威厳に満ちていた。その意味不明な圧力に、ボクは射すくめられたような気分になる。

 

 センランは面白げに口端を吊り上げて、

 

「しかし、【心意盤陽把】に関する先ほどのセリフを聞いて少し驚いたぞ。熱心に調べていなければ、あそこまでは語れまいよ。私には分かるぞ。キミは大層武法に惚れ込んでいるな? キミからは私と同じ匂いがして仕方がない」

 

「匂い?」

 

 妙な言い回しに、ボクは小首をかしげる。

 

 センランは腰に手を当てると、意気衝天に鼻を鳴らし、

 

「いいだろう、気に入った。話をしても構わんぞ。だが……その、条件として、一つだけ私の頼みを聞いてもらえないだろうか?」

 

「うんっ、何でも言って!」

 

 話が聞けると分かった途端、ボクはゲンキンにも一気にテンションを最高潮に上げた。

 

 センランはちょっぴり頬を赤くすると、もじもじ指を絡ませながら、

 

「……その、ここに入りたいのだ。一緒に来てはくれないか?」

 

 ――駄菓子屋を、目で示したのだった。

 



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分かっちゃったよ

「かんひゃひゅりゅ! ほへはふっほほひはっはほは!」

 

 きちんとした言葉となっていないセリフを口にしながら、センランはほかほかの包子(パオズ)を夢中でほおばっていた。

 

「しゃべるなら食べてからにしなよ」

 

 隣を歩くボクは苦笑しながら言う。

 

 その包子の中には餡子がたっぷりと入っている。いわゆるアンマンという食べ物である。先ほど駄菓子屋で買ったものだ。

 

 センランは口の中のものをこくんと飲み込むと、

 

「――感謝する。あのような店には立ち寄ったことがないゆえ、どうにも二の足を踏んでしまってな。キミが一緒に来てくれたおかげで、ようやくこれを買うことができた。ああ、なんたる美味!」

 

 再び、包子を食べだすセンラン。その顔はまるで子供のように無邪気で、試合で見せていた武法士としての面影は無かった。

 

 ボクは驚きで瞳を大きめに開き、尋ねた。

 

「駄菓子屋さんに入った事無いって……もしかして君って、凄いお嬢様だったりする?」

 

 センランは肩を微かにビクッと震わせ、

 

「んむっ? ま、まあそんなところかな。それより李星穂(リー・シンスイ)とやら、約束を果たすとしようか」

 

「約束……ああ!」

 

 ボクはポンと手を叩き、嬉々としてセンランの顔を覗き込んだ。

 

「教えてくれるんだったよね? 【心意盤陽把(しんいばんようは)】のこと!」

 

「ああ。約束だからな」

 

 ふふん、とセンランは腰に両手を当てる。

 

 ボクはワクワクしながら、彼女の口がもう一度開くのを待った。

 

「まず始めに、【心意盤陽把】が『陰陽の転換』を最重視していることは存じているな? そして、功力が高い者ほど『陰陽の転換』を行う速度も速い」

 

 うんうん、とボクは頷いた。

 

「しかし、その『陰陽の転換』を理想的なスムーズさで行うには、動作の最中に特殊な【意念法(いねんほう)】を行う必要がある」 

 

「それはっ?」

 

 急かすボクに、センランは答えた。

 

「その動作を行う時——その動作を『陰陽を入れ替える』という行為だと強く思い込むのだ」

 

 ボクは思わす小首を傾げた。『陰陽を入れ替える』と思い込む? そんなの、【心意盤陽把】では当たり前のことじゃないか。

 

 しかしセンランの答えは、今のボクの考えが一面的なものに過ぎないと切り捨てるかのようなものだった。

 

「この【意念法】は、動作から一切の無駄を排除するためのものだ。「歩く」や「手を動かす」という行為には、大なり小なりその人間特有の「無駄な動作」というものが含有している。ゆえにその動作を『陰陽を入れ替える』という行為として考えながら行うことで、「無駄な動作」という名の不純物を取り除くのだ。心身ともに『陰陽を入れ替える』という目的一つに集中させることで、初めて【心意盤陽把】らしい無駄のない、鋭敏な動作を行うことができるようになる。「心」と「意識」の力で、正しく強い動きを導き出す。これこそがこの流派の名に付く『心意』という単語の持つ意味だ」

 

 その力説っぷりに、ボクは「はぇー」という感心の声をもらした。

 

 なるほど。いい勉強になった。やっぱり本だけで得られる情報には限界がある。実際に使う人の意見には敵わない。

 

 彼女の熱弁はなおも続く。

 

「そしてこの【意念法】は、この流派の源流である【番閃把(ばんせんは)】で使われているのと同じものだ。【番閃把】ではその看板技ともいわれている連続突き【無窮翻閃(むきゅうほんせん)】に『陰陽の転換』という考え方を用いる。相手に接している拳が『陽』、そうでないもう片方の拳が『陰』と区別した上で、『陰陽を入れ替える』という【意念法】を用いながら正拳を左右交互に高速連打させる。【意念法】によって「無駄な動き」が取り除かれた正拳は非常になめらかに動き、なおかつ修行を長く積めば積むほどその連打速度も天井知らずに高まっていく。【心意盤陽把】はその技術思想を連続突きだけでなく、歩法やカウンターにも落とし込んだ改良型武法だ。疾く歩き、疾く反撃し、疾く打ち、疾く制圧する! おまけに飾りのような動きは一切存在しない!」

 

 ――あ。やばい。

 

 この上がりまくったテンション。一字一句、力のこもった早口。

 

 分かっちゃったよ。

 

 この娘もきっと、ボクと"同じ"なんだ。

 

 うん、そうだ絶対。賭けてもいい。

 

 この娘もボクと同じで――かなりの武法好きなんだ。

 

 ボクに「同じ匂いがする」と言っていたのは、こういうことだったのだとようやく理解する。

 

「ところで、私もキミに聞きたいなぁ。昨日の一回戦で、なぜキミの拳は【炸丹(さくたん)】を使ったわけでもないのに【硬気功(こうきこう)】を破れたのだ?」

 

 センランが非常にいきいきとした顔で訊いてくる。――きっとボクも武法について尋ねる時、今のこの娘と同じ顔してたんだろうなぁ。

 

 強い仲間意識のようなものが、胸の底からあふれてくるのを感じた。

 

 なのでボクは、【打雷把(だらいは)】の【硬気功】無効化能力の原理を説明した。【心意盤陽把】の得難い情報を教えてくれたお返しという意味もあるが、気の合う友達ができたような気がして凄く嬉しかったからだ。

 

 ……ちなみに、このようにおおっぴらに技術内容を説明しても、それで他流派に伝承が漏れる心配はない。ボクらが教え合っているのは、その技術の大筋に過ぎないのだ。実際にその技術をモノにするには、師による細かい手直しや口頭による指導が必要不可欠なのである。

 

 センランは口を大きく開けながら、

 

「――なんと! そんな方法でっ? そんな技術が存在するなどとは露ほども知らなかった!」

 

「そっか。ところでセンラン、君は誰からその武法を習ったの?」

 

「え……えっと、わ、私の親類に元宮廷護衛官の者がいるのだ。その者から教わった。では……えっと、その、キミは……」

 

「シンスイでいいよ」

 

「う、うむ。ではシンスイ、君はその【打雷把】というとんでもない流派を、一体誰から授かったのだ?」

 

「えっと、それはね――」

 

 言いかけた瞬間、片腕を何かが強く締め付けてきた。

 

 不機嫌そうに頬を膨らませたミーフォンが、ボクの片腕にしがみついていたのだ。

 

「ミーフォン? どうしたの?」

 

「……お姉様、その女は敵ですわよ? そんな手の内を晒すような真似をするのは良くないと思います」

 

「えぇー、いいじゃない。同じ武法士同士じゃないか。それに【打雷把】の能力は、もうきっと他の選手にもバレてるよいたたたたた」

 

 そう反論すると、腕を締め付ける力を一層強めてきた。爪も食い込んでるせいかちょっと痛い。

 

 ミーフォンはやや涙の混じった目で、ボクを上目遣いで睨んでいた。なんだかちょっと可愛い。

 

 ていうか、これはもしかしなくても……ヤキモチ焼いてるのかな? ボクがこの娘を放っぽって、センランとばっかり話してたから。

 

 ボクはフォローの意味を込めて、ミーフォンの頭を撫でてあげる。絹糸のような心地よい感触の髪をさらさらさせるたび、甘い匂いがしてくる。

 

 不機嫌そうだったその表情が、少し柔らかいものに変わった。

 

 そんなボクらを見ていたセンランは、何かを察したように両手を叩き合わせ、

 

「なんだ、キミたちは"そのような"間柄だったのか? 昨日の試合の時には険悪な関係に見えたが……」

 

「あたしが負けた後でお姉様に謝ったのよ! 結ばれたのはそれから!」

 

「なるほど、そうだったのか」

 

「や、結ばれてないでしょ!」

 

 思わず突っ込んだボクに、センランは大らかさ溢れる聖者のごとき微笑みを浮かべ、

 

「別に気にする必要はあるまい。この国では一応だが、同性間の婚姻が認められている。かといって実際にする者はほとんどいないが、決して違法ではないのだ」

 

「そうですお姉様! あたしたちを縛る鎖はありません! 一緒に幸せになりましょう! あたしお姉様の子供なら何人でも産んであげますから!」

 

「なりません! あと、少し落ち着きたまえ! ボクらじゃ子供できないでしょうが!」

 

 マジなのかジョークなのか判断に苦しむ。

 

 そこでライライがううんっ、と咳払いする。センランは反応してそちらを向いた。

 

「おや、キミは……宮莱莱(ゴン・ライライ)だったかな。キミまで彼女らと一緒だったのか」

 

「ええ。シンスイとは『試験』が始まる前に知り合ったの。よろしくね、羅森嵐(ルオ・センラン)さん。私のことはライライで構わないわ」

 

「こちらこそ。私のこともセンランで結構だ。昨日のキミの試合、見事だった。あそこまで巧みで鋭い蹴りを放つ者を、私はほとんど知らない」

 

「ありがと。ところで、私たちはこれから観光に出かけるつもりなのだけど、良かったら貴女も一緒にどうかしら?」

 

 ライライの気さくな申し出に、センランは何度かためらいの表情を見せたが、

 

「……ご一緒させていただこうかな」

 

 やがて、少しぎこちない笑みを浮かべて頷いたのだった。

 



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交流

センランもメンバーに加えたボクら四人は、ともに【滄奥市(そうおうし)】の物見遊山へとしゃれこんだ。

 

 この町は『試験』の前日にも見て回った。しかしなにぶん広いため、まだまだ立ち寄っていない店や施設も多かった。

 

 なので、ボクらはまだ行っていない場所を中心に回ることにした。

 

 まだ立ち寄っていない服屋で着せ替え人形よろしく試着を楽しんだり、路上で披露される弦楽器の演奏や大道芸を見たり、いろんな事をした。

 

 特にボクらが足を運んだジャンルは軽食屋だ。値段的にリーズナブルなものが多いからだ。油条(ヨウティアオ)粽子(ゾンズ)豆腐脳(ドウフナオ)といった軽食を次々と買い、お腹に収めていった。

 

 そんなに食べて太らないかって? 心配ご無用。ボクらは武法士。日々の修行がそのままカロリー消費になるのである。

 

 センランはというと、ボクら以上に観光を楽しんでいた。さまざまなものを珍しがったり、新鮮そうな目を向けたりしていた。まさしく天真爛漫な子供のようだった。

 

 ボクの家もそれなりに恵まれた家庭である。しかしセンランは、ボクにとって当たり前のものさえも珍品扱いしていた。そのたびに彼女は「自分には縁がない」みたいなことを口にしていた。

 

 きっと、ボク以上の箱入り娘なのだろう。

 

 センランが特に楽しんでいたのは書店での立ち読みだった。

 

 なんでも、彼女はかなりの読書家らしい。

 

 立ち読みのジャンルは武法関係の資料のみならず、過去に【煌国(こうこく)】と隣国との間で行われた(いくさ)の記録や、有名な大衆小説など、多岐にわたった。

 

 店員さんは終始苦い顔をしてこちらを見ていた。ボクはその視線に少し胃を痛めながらも、内心で謝りつつセンランを放置した。

 

 書籍は一昔前まで高級品扱いされていたが、印刷技術が進歩したことによって、今日(こんにち)では一般民衆にも手が届きやすい価格となっている。かといって安い買い物というわけでもないので、財布の中身はむやみに放出できないのである。

 

 ボクも武法関係の書籍で興味深いものを一冊見つけたが、今回は家にしばらく戻れないので、予算の都合上泣く泣く諦めた。またの機会に買うとしよう。

 

 そんな感じで、ボクらの観光午前中の部は、あっという間に終了した。

 

 正午となった。太陽は空の真ん中に差し掛かり、垂直からボクらを見下ろしている。

 

 最初はこの時間帯に一度休んでお昼ご飯にしようと思っていたが、途中でいくつも軽食を食べたので、ボクら四人ともお腹は空いていなかった。

 

 それに、ボクらは全員普通の人よりずっと体力があるので、まだ疲れてはいなかった。なので観光を続行することにした。

 

 それが決まった時、センランが真っ先に行きたい場所を指定した。

 

 ボクらは現在、彼女が決めたその場所――武器屋に来ていた。

 

「おおお……!」

 

 センランは外でさんさんと輝いている太陽にも負けないほど瞳を輝かせ、店内を見渡していた。 

 

 かく言うボクも、

 

「おおお……!」

 

 ――全く同様のリアクションをしていました。これぞ類友ってやつだよね。

 

 店の中には、所狭しと様々な武器が並んでいた。壁際には箒立てのような入れ物があり、その中に剣や槍などがいくつも立てられている。中央辺りに並んだ陳列棚には、手裏剣などの小型武器が並んでいた。

 

 無骨な鋼鉄の刃が樹海のようにひしめくソコは、まさしく武法マニアのボクらにとってのエルドラドであった。

 

 ボクは普通の武器屋に来てもテンションが上がるが、今回ではまさにアゲアゲだった。

 

 なぜかというと、珍しい武器がいっぱいあったからだ。

 

 それもそのはず。以前にも話したかもしれないが、ここが『商業区』の路地裏にある、変わった武器ばかりが売っている武器屋だからである。

 

 ボクはそわそわと興奮を訴える手足を抑えながら、センランに告げた。

 

「……センラン。ボクは右側を物色するから、君は左側をお願いするよ。何か面白いものがあったら報告し合おうじゃないか」

 

「心得たっ!」

 

 ボクらは解き放たれた獣のように店内へ飛び出した。

 

 壁際に置いてある武器の数々を血眼で探る。あまり見ないような珍しい武器が多い。しかし、多過ぎてどれから目をつければいいのか分からない。これぞ嬉しい悲鳴というやつだ。

 

 ちなみに、こういう武器屋に防具は一つも売っていない。武法士をメイン顧客として考えている店だからだ。

 

 武法士には肉体を金属のように硬くする【硬気功(こうきこう)】が存在するので、防具はむしろ重くて邪魔なだけになってしまう。

 

 センランは立て掛けてあった一本の刀を手に取ると、スランッ、と刀身を鞘から抜いてこちらへ見せてきた。

 

「み、見ろシンスイ! 苗刀(びょうとう)だぞ! こんなものまで売っているとは!」

 

「うそ!? まじで!?」 

 

 彼女の手には、細長い片刃の両手剣が握られていた。

 

 全長約150厘米(りんまい)ほどで、全体的にやや反りを持っている。そのフォルムは、日本刀の一種である「太刀」に酷似していた。

 

 これは苗刀という刀だ。武法で使う刀や剣は片手持ちのものがほとんどだが、これは数少ない両手持ちの刀である。

 

 使用する主な流派は【通背蛇勢把(つうはいじゃせいは)】。ダイナミックでしなやかな動きから、強力な【勁擊(けいげき)】を繰り出す武法だ。

 

 だが、苗刀を使う流派はあまり無い。その分ニーズが少ないため、置いてある店も少ないのだ。

 

「うおっ!? セ、センラン! これ見てこれっ!」

 

 ボクは興奮した声を上げて、立て掛けられていたソレを手に取った。

 

 それは一本の矛。しかしその先端に取り付けられた刃は、まるで地を這う蛇を模したような波形をしていた。

 

「それは蛇矛(だぼう)じゃないか! 斬られたら止血が困難になるというあの!」

 

 センランの的確な説明に、ボクは満足げに頷いた。

 

 そう。この矛で斬りつけると、波状の刃の盛り上がった部分がノコギリのように肌の中に分け入るため、傷口が深くなり、止血や縫合がしにくくなるのだ。

 

「あと、これ! 腰帯剣(ようたいけん)まである!」

 

 次にボクが取り出したのは、柄に納まった両刃の細剣だった。しかし刀身とそれを包む鞘は非常に薄っぺらく、そしてふにゃふにゃと柔らかかった。

 

 これは腰帯剣という、その名の通り腰帯(ベルト)と剣を融合させた武器である。極薄でふにゃふにゃに作られた剣を、ベルト型の鞘に納めて持ち歩ける。普通の剣と違ってかさばらず、持ち運びに優れており、旅の武法士には人気の品なのだそう。

 

 それからも面白い武器や珍しい武器を探し当てては、それを互いに報告し合って楽しんだ。

 

 買えないけど、ウィンドウショッピングをしているような感じで、大変面白い時間だった。店の人には申し訳ないが。

 

 はしゃぎ回るボクら二人を、ライライたちは離れた所から生暖かい目で見ていた。まるで手のかかる子供を遠くから見守っているような表情である。

 

「いやぁ、予選大会の有無を抜きにしても、この町に来れて良かった! 外の世界でなければこんな面白いものは見れないからな! 実に嬉しい!」

 

 本当に嬉しそうな笑顔で言うセンラン。その顔はとても輝いて見えた。

 

 ――しかし、彼女の発言の中に、少し気になる単語があった。

 

「……外の世界?」

 

 まるで今まで、どこかに閉じ込められていたかのような口ぶり。

 

 ボクのそのつぶやきを耳にした途端、センランの表情が喜びから狼狽に変わった。

 

「……い、いや! 別に深い意味は無いのだ! うん、全然無い! だから気にしないでくれ!」

 

 まるで言い訳するかのごとくまくし立ててくる。

 

 ――もしかして、凄く厳しい家柄だったりするのかな。そのせいで、普段は行動範囲を制限されたりしているのかも。

 

 もしそうだとしたら、その境遇に置かれる気持ちは分からなくもなかった。

 

 父様も、勉強そっちのけで武法にかまけているボクに難色を示していた。今回の【黄龍賽(こうりゅうさい)】に出なければならなくなったのは、その問題が大きくなってしまったせいだ。

 

 そのように、家の都合で行動や人生を拘束、制限される人の気持ちを、ボクは知っている。

 

 それを思った時、ある思いが生まれた。

 

 センランとの時間をもっと楽しみたいという思いだ。

 

 お互い面倒な立場かもしれない。自由が利きにくい立場かもしれない。

 

 それでも、今この時は違うのだ。

 

 ならば、その許された時間では、自分に素直になって行動しよう。

 

 そう――体が不自由のまま一生を終えたボクが、今こうして新たな人生を楽しんでいるように。

 

 ボクはセンランの元へ歩み寄り、手を差し出した。

 

「今更だけど――今日は、めいっぱい楽しもうね」

 

 笑顔で差し伸べられたボクの手に、センランは少し戸惑いながらも、

 

「……ああ。改めてよろしく頼む」

 

 やがてそう笑みを返しつつ、掴み返したのだった。

 

 ――ボクとセンランの心は、今この瞬間確かに通じ合っていたのだと信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 楽しいことも、続けるうちにマンネリ化してくるものだ。今のボクらにとっては『商業区』巡りがソレであった。

 

 ということで、ボクらは『商業区』を抜けて【武館区(ぶかんく)】へと足を踏み入れた。

 

 理由は簡単。ここにどんな武法が伝わっているかを見物するためである。武器屋でいろんな武器を見ていたら、ボクもセンランもなんだか無性に武法がやりたくなってしまったのだ。

 

 【武館区】には、武法士同士の交流の場が最低一つは存在するものである。

 

 その町の【武館区】を根城にしている武法士たちは、そこで武林(ぶりん)――武法の世界のこと――に伝わる噂や話題などを話したり、技術交流を兼ねた試合を行ったりしている。

 

 ボクらはそういった場所を探しているのだ。

 

 武法士が集まるということは、たくさんの流派が一箇所に集まるということでもある。ボクとセンランはそれを見てみたいのだ。

 

 しかし、この【武館区】に入ってから五分とかからないうちに、あることに気がついた。

 

 大通りを歩くボクらに向けて、周囲の視線があからさまに向いていたのだ。

 

 ある者はおののくような表情、ある者は険しい表情、またある者は好奇の表情。彼らはさまざまなリアクションを交えてボクらを遠巻きから見ていた。

 

 隣を歩くミーフォンは、ボクにだけ聞こえる声量でささやく。

 

「お姉様、なんか周りの連中がジロジロ見てきてるんですけど。なんなんでしょうかね?」

 

「あー、それは多分、ボクらが予選大会の参加選手だからだと思うよ」

 

 そう。だからこんなに目立っているのだ。ボクも【武館区】に入ってからようやくその事を自覚したのだが。

 

 思えば『商業区』にいた時も、なんだか周囲からの視線を集めていたような気がする。

 

 おまけにミーフォンを除く三人は二回戦進出者。余計に注目を呼びやすいはず。

 

 でも、だからどうということでもない。名を上げるために勝負を申し込んで来る者がいるかもしれないが、そうすればここにある武法が見られるため、かえって渡りに船だ。

 

 ボクらは大通りを歩き続ける。

 

 『商業区』に比べて人通りはだいぶ少なく、騒々しさも無い。

 

 【武館区】にいるのはほとんど武法士。そして武法士の人口は一般人に比べてはるかに少ない。

 

 武法は習得が難しい。学習者の大半が途中で落伍者になってしまうのである。

 

 だが、しばらく歩いているうちに、がやがやと喧騒のようなものが聞こえてきた。

 

 ボクはそれを聞いてピンときた。それは多くの人の声が重なり合ったものだ。つまり、近くに人の集まりがあるということ。

 

 そのガヤは右側から聞こえてくる。ボクらは今歩いていた大通りから右の道へ入る。

 

 その道の伸びた先には、広場のような所が見える。音源は間違いなくそこだった。

 

 武館を五、六件ほど通りすぎ、その場所へたどり着く。

 

 そこは一言で言い表すなら、さびれた公園。時間の経過で黒ずんだ石畳が一面に敷かれており、それらの中には欠けたり砕けてたりしているものが多い。伸びている木にも、どこか年月の経過を表す哀愁がただよって見えた。

 

 しかし、景観はさびれていても、そこには多くの人がいた。みんな談笑していたり、技を軽くかけ合ったりしている。武法士だと一目で分かった。

 

 おそらくこのボロボロの石畳は、度重なる【震脚(しんきゃく)】でこうなったのだろう。

 

 やがて、彼らの中の一人がボクらの存在に気がつく。

 

「お、おい! みんな! 見ろ!」

 

 途端、その彼はこちらを指差し、まるで熊でも見つけたように大騒ぎした。

 

 それにつられて、全員が同じ方向を向く。そして、顔を驚愕でいっぱいにした。

 

「うそだろ? あいつらって……」「ああ、間違いない」「予選大会の出場選手だ」「しかも、一人を除いて全員が二回戦進出組ときたもんだ」「マジかよ」「昨日試合見てたけど、みんなめちゃくちゃ強かったぜ」「俺見てなかったから詳しくは知らねーけど、弟弟子が言うには李星穂(リー・シンスイ)とかいう女が一番ヤバイらしいぜ」「そいつの【勁擊】、【硬気功】が効かねぇらしいぞ」「嘘だろ!?」「それヤバくね?」「あの四人の中にいる?」「三つ編みの女だ。眼鏡かけてない方の」「へぇー、あんな小さい子が」「うわ……めっちゃ可愛い。惚れたかも」「俺はあの一番背の高い女がいいな。大人の女って感じで好みだ。何より乳がデカいし」「俺はあの一番小さい娘推しだな。あの猫みたいな目で冷たく見下ろされながら蹴られたい」「……なんかいつの間にか下世話な話にシフトしてない? もっと武法の話しようよ」

 

 案の定、ざわめき始めた。

 

 ボクは思わず気後れする。彼らの反応が思った以上に過剰だったからだ。

 

 これだけ注目を浴びると、どういう風に振る舞えばいいのか分からなくなる。大会での試合はただ戦えばいいだけなので平気だが。

 

 どうしたもんかと反応に困っていた時、後ろから声がかかった。

 

「――あれ? アンタこんな所で何やってんだよ?」

 

 聞いた記憶のあるその声に、ボクは思わず振り返る。

 

 ボクらの真後ろには、薄い褐色肌の少女が立っていた。側頭部にぶら下がったサイドテールが、尻尾のようにゆるく揺れている。

 

 思わぬ人物の登場に、ボクはびっくりせずにはいられなかった。

 

「シャンシーじゃないか。君こそどうしてここに?」

 

 その女の子は見間違いようもなく、『試験』の時に戦った孫珊喜(スン・シャンシー)だった。

 

 シャンシーは何言ってんだとばかりに目を細め、

 

「アホ。ここはアタシらの武館がある場所だぞ。いてもおかしくねーだろ」

 

「あ、そっか」

 

 なら、ここにいて当たり前だよね。

 

「あら。あなたたちっていつからそんなに親しくなったのかしら」

 

 ふと、ライライが意外そうに訊いてくる。

 

「『試験』の最中に色々あったんだよ、ボクたち」

 

「ふーん。そうなのね」

 

「お、デカパイ女、お前も一緒だったのか。相変わらず乳でけーな。動く時邪魔になんねーのそれ?」

 

 ライライは恥ずかしそうに胸元を隠し、上ずった声で、

 

「ほ、放っておいてよっ。それに私には宮莱莱(ゴン・ライライ)って名前があるんだから、そんな変な呼び方しないで」

 

「知ってるよ、大会で名前見たし。ちょっとからかっただけだ。悪かったね。――それよか話を戻すぜ。【武館区(ここ)】になんか用か? 観光ってわけじゃねーだろ? ここには褒められる見世物なんざなんもねーしよ」

 

「そのまさか、だよ」

 

 ボクの遠回しな返し方に、シャンシーは目を丸くする。

 

 しかし、すぐに何か察したような笑みを浮かべて、

 

「あぁ、なるほどな。おおかた、武法士どもと軽い手合わせでもしたり、ここにどんな武法が伝わってんのか調べたりしてみようってハラか。オタクだねぇ、アンタも」

 

「正解かな。まあボクだけじゃなくて、この娘の判断でもあるんだけどね」

 

 そう言って、ボクはセンランを目で示す。

 

「私は羅森嵐(ルオ・センラン)。明日始まる二回戦にて、シンスイと戦う予定の者だ。よろしく頼む」

 

 センランは一歩前へ出て、凛々しい声と挙動で自己紹介をした。その様子がなんだか妙に様になっていて、少しびっくりした。

 

 シャンシーは少し面食らったような顔をしつつも、紹介を返した。

 

「アタシは孫珊喜(スン・シャンシー)ってんだ。つーか…………李星穂(リー・シンスイ)よぉ」

 

 突然話を振られたボクは「うん?」と首をかしげる。

 

 シャンシーはボクの傍に近寄り、耳打ちしてきた。

 

「いいのか? こいつ、次の対戦相手なんだろ? 一緒にいて手の内がバレちまわねーの?」

 

「いいんだよ。センランもボクと同じくらい武法大好きっ子なんだ。それで意気投合しちゃってさ」 

 

「……ま、アンタがそれで良いならいいけど」

 

 そう頷くと、シャンシーは気を取り直したように腰に手を当て、

 

「んで、誰かと手合わせがしてーんだっけ? そんじゃ僭越ながら、アタシが最初の相手になってやんよ。羅森嵐(ルオ・センラン)とやら」

 

「本当か!? よし、では早速!」

 

「おうよ。包むのは右拳でいいんだよな?」

 

 センランは「うむ」と気合いたっぷりに首を縦に振る。

 

 シャンシーが言っていたのは【抱拳礼(ほうけんれい)】のことだ。右拳を左手で包むやり方なら「殺気は持たず、穏便な試合運びをしましょう」という意思表示となる。技術交流的な試合では必ずこのやり方を用いるのだ。

 

「おい九十八式! でしゃばってんじゃねぇ!」「引っ込め!」「お前の出る幕はねぇ!」「すっこんでろ!」「九十八式の分際で!」

 

 唐突に、他の武法士たちが一斉にブーイングを始めた。

 

「るっせーな雑魚ども!! こちとらもう先約取ってんだ!! やりてーならアタシの後にしな!! それができねーなら師父(パパ)ん所に帰れ!!」

 

 しかし、シャンシーは火を吐くように一喝し、黙らせた。

 

 そして、ボクの方へ向き直った。

 

「……ま、相変わらずここじゃこんな扱いなのさ、アタシら九十八式は」

 

「そっか……」

 

 自嘲気味に言うシャンシーに対し、ボクはそう同意するしかなかった。

 

 さっきの非難の嵐は、疑うべくもなく【九十八式連環把(きゅうじゅうはちしきれんかんは)】の悪評が原因だ。

 

 ボクがシャンシーを倒したことで、その汚名を払拭する機会が一つ失われてしまった。それを考えると、多少の罪悪感が生まれてくる。

 

 しかし、ボクは彼女の優れた腕前を知っている。汚名なんて忘れてしまいそうになるほどの腕前を。

 

 だからこそ、言った。それが励ましになるかどうかは分からないけど、言いたかった。

 

「大丈夫だよ。言ったでしょ? 君の凄さはボクが保証するって。みんなに認められなくても、ボクだけは君の味方だから」

 

 ね? とウインク混じりに微笑むボク。

 

 シャンシーは虚をつかれたように目を丸くし、そして瞬時に頬を真っ赤に染めた。

 

「……ふ、ふーん、あっそ。別に頼んでないけどね」

 

 尻尾のようなサイドテールを指でくるくる弄りながら、そう言い捨てた。口調こそぶっきらぼうだが、その仕草から照れ隠しであることが容易にうかがえる。

 

「あ、あとさ李星穂(リー・シンスイ)、言い忘れてたけどさ、えっと…………一回戦突破おめでと。見てたよ、アンタの試合。最前列の席奪ってさ。その、これからも応援してるから……頑張ってよ」

 

「そっか。ありがとね、シャンシー」

 

「……うん」

 

 うつむき気味に頷くシャンシー。

 

 強気で乱暴ないつもの彼女と違い、その態度と声はなんだかしおらしかった。

 

 なんだろう。普段とのギャップのせいか、妙に可愛く映るんだけど。

 

 だがその時、ミーフォンがボクらの間に割って入った。

 

「ちょっとあんた、なんか必要以上にお姉様に馴れ馴れしくないかしら? 何いきなり女の顔見せてんのよ」

 

 そう不満げに言う彼女の顔は、焼けたおもちのようなふくれっ面だった。

 

 焼けたおもちという例えの通り、まあ……ヤキモチ焼いてるんだろうなぁ。ボクがシャンシーとばっかり話してたからかな? それとも、他に理由があるのかな?

 

 シャンシーはさっきまでのしおらしさをガラリと変え、いつもの好戦的な態度になってミーフォンに睨みをきかせた。

 

「ああん? なんだお前、一回戦で李星穂(リー・シンスイ)にワンパン負けした奴じゃねーか」

 

「嫌な覚え方すんじゃないわよ! あたしには紅蜜楓(ホン・ミーフォン)って名前があんのよ!」

 

「うっせーなぁ。つーか、馴れ馴れしいのはお前も同じだろ。試合中は「三分で倒す」なんて大言壮語ぬかしてやがったくせに、今じゃ腹見せてなかよしこよしってか? 猫みてーな目のわりにやってんことは犬同然かよ」

 

「……は? 何あんた? ケンカ売ってんの? いいわよ言い値で買ってやるわよ。礼儀知らずの山出しに人生教えてあげるわ」

 

「上等だメス犬! とっとと左拳包めコラ!!」

 

「望むところよ!!」

 

 ヒートアップした二人は、互いに自分の左拳を右手で包もうとする。ちょっと何してんのこの二人!?

 

 ボクは慌てて止めに入った。

 

「こらこら! 二人ともやめなさい! シャンシーはセンランと試合するんでしょ!? ミーフォンも威嚇しないの!」

 

「……ちっ。わぁったよ」

 

「……はい、お姉様」

 

 シャンシーは投げやりに、ミーフォンはシュンとした態度で引き下がった。

 

 出会って早々流血武闘を始めようとするなんて。この二人、ちょっと相性が良くないかもしれない。

 

 そこへ、センランが少し遠慮がちな口調で口をはさんできた。

 

「その……早く始めたいのだが」

 

「あ、悪ぃな。んじゃ、中央に来てくれ」

 

 センランはシャンシーに誘導される形で、この広場の中央辺りに来る。

 

 彼女たち二人の周囲に、ドーナツ状の人だかりが出来上がる。その中にはボクらも入っていた。

 

「――【九十八式連環把】孫珊喜(スン・シャンシー)

 

「――【心意盤陽把(しんいばんようは)羅森嵐(ルオ・センラン)

 

 互いに名乗り、右拳を左手で包み込む【抱拳礼】をしながら一礼。

 

 ふと、シャンシーがセンランの顔を見て言った。

 

「……お前は、しかめっ面をしねーんだな」

 

「何がだ?」

 

「アタシの流派、聞いただろ」

 

「【九十八式連環把】を取り巻く悪評のことか? そんなものを気にするなどつまらぬことだ。何であれ等しく武法。ゆえに私は敬意を払おう」

 

「……なるほどな。李星穂(リー・シンスイ)と仲良くなれるわけだ。それじゃ、始めようか」

 

 少し嬉しげに微笑んでから、表情を引き締め、臨戦態勢をとるシャンシー。

 

 合わせてセンランも構えた。

 

 体の中心線を隠すようにして両手を構えたまま、互いに近づく。

 

 両者の前の手同士が触れそうになった瞬間、ピタリと静止。

 

 かと思いきや、そのままお互いゆっくりと反時計回りに歩を進め始めた。まるでダンスのペアが手を繋ぎ合い、そこを中心にしてぐるぐる踊り回るように。

 

 両者の動きは、小川のように緩やかだった。しかし同時に、今にも何かが起こりそうなピリピリした雰囲気が感じられる。

 

 弾けるのも時間の問題だ。

 

 やがて――弾けた。

 

 シャンシーの左正拳が閃く。

 

 やってきたソレを、センランは右手甲で外側へ弾く。

 

 しかしその時すでに、シャンシーのもう片方の拳が腹部へ真っ直ぐ肉薄していた。

 

 が、一撃目を弾いたばかりの右腕の肘をストンと真下へ落とすことで、迫る拳を打ち落として直撃をまぬがれる。

 

 そして、センランは下ろした右腕を――今度は真上に伸ばした。

 

 アッパーカットの要領で顎に迫る拳を、センランは最初に弾かれた左手でなんとか受け止める。

 

 難を逃れたと思った瞬間、突然シャンシーの腹部がズドンッ、と爆ぜた。

 

「――っ!?」

 

 目元と唇をきつく引き締めながら、シャンシーは数歩たたらを踏む。

 

 それがセンランの繰り出した左掌底によるものであると気づくまで、少し時間がかかった。

 

 ――速い。

 

 センランが受け止められた右拳を引っ込め、それと交換する形で左掌を突き出し、それが相手に直撃した。 

 

 そこまでは分かる。 

 

 だが――その過程がほとんど見えなかった。あまりにも速いのだ。

 

 シャンシーも同感だったようで、少しやせ我慢の混じった笑みを浮かべながらこう訊いた。

 

「やるじゃん、お前…………べらぼうに速かったぞ、さっきの掌底。全然見えなかった」

 

「まあ、当たりは全然浅かったがね」

 

 センランは謙遜した様子だが、さっきの攻撃速度は明らかに非凡なものだった。

 

 おそらく、あの打撃は『陰陽の転換』を応用したものだろう。

 

 この理論は足運びだけでなく、手法にも利用が可能だ。相手と接触した手を『陽』、そうでない方の手を『陰』として考え、それらを転換させたのだ。

 

 そしてこの場合、彼女のずば抜けた転換速度をそのまま使えるのである。

 

 ――やっぱり、強い。

 

 こんな相手と明日戦うのだと思うと、ボクは緊張を禁じ得なかった。

 

 二人は再度接近。そして、手脚を交え合う。

 

 何手も攻防を繰り返す。

 

 命のかかっていない、安全な攻防。

 

 しかしそれでも白熱し、周囲の視線は二人に釘付けとなった。

 

 ――そして、その渦中にいるセンランの顔は、凄く満ち足りているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かーーっ! 生き返んなーーっ!!」

 

 鎖骨の辺りまで湯船に浸かったシャンシーは、そんな年頃の女の子らしからぬ極楽そうな叫びを上げた。

 

 全身を肩まで湯の中に沈めているボクは、そんな彼女から目をそらしながら、

 

「……シャンシー、なんかおっさんくさいよ」

 

「あー? いいじゃねーか。温泉入りに来る機会なんざあんまりねーんだよ。あー極楽極楽。これで酒でもありゃ完璧なんだけどな」

 

「あなた一五歳でしょう? お酒飲むにはまだ早いわよ」 

 

 胸元まで湯に入ったライライがそうたしなめてくる。シャンシーは「わかってるよ。冗談だっての」とつまらなそうに返す。

 

「…………………………」

 

 ミーフォンはというと、口元まで湯の中に埋没させながら、ものすごい眼差しでボクの体を凝視していた。ちなみにお風呂であるため、シニヨンカバーは外している。

 

 彼女の目は血の涙が出そうなほど血走っていて、荒い鼻息がお湯の表面に大きな波紋を作っていた。……怖い。

 

 ――ボクらは現在、『商業区』にある温泉宿に来ていた。

 

 あの後、二人の試合は、センランがシャンシーを組み伏せて拳を寸止めさせたことでカタがついた。

 

 負けたシャンシーは多少悔しがりはしたものの、最後には清々しい笑みを浮かべながらセンランの握手に応じた。

 

 その後もボクたち――主にボクとセンラン――は、広場にいた何人かと試合を行った。

 

 ちなみに、結果は全勝だった。しかしその試合は、あくまでここの【武館区】に伝わる武法を拝見し、技術的交流を重ねるのが主な目的である。勝ち負けなど気にせず、思う存分試合に打ち込んだ。

 

 そして、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がつくと空は夕方になり始めていた。

 

 ボクらは【武館区】を出た後、度重なる試合による疲れを癒し、汗を流すべく、この温泉宿にやってきた。

 

 ここは宿泊だけでなく、温泉のみを楽しむこともできる。ボクらは後者を選んだ。

 

 ……そう。温泉に入るまではよかったのだ。むしろ、そこは大歓迎だ。

 

 ただ、一つ問題があった。

 

 それは――

 

 現在、ボクらは女湯の露天風呂に浸かっていた。

 

 その湯船の隅っこで、ボクを除く女の子四人が固まっている。ボクはそんな彼女らを避けるように距離を置いていた。

 

「シンスイ? 何をそんなに離れている? もっとこっちに来たらどうだ?」

 

 センランがそう言って手招きしてくる。その髪は側頭部辺りで大きなお団子状にまとめられていて、額を出すスタイルをお風呂でも貫き通している。ちなみに眼鏡も着用中だ。そんなに目が悪いのだろうか。

 

 彼女はこう言っている。が、しかし、言うとおりにすることはできない。

 

 三つ子の魂百までとよく言うだろう。どれだけの美少女に生まれ変わったとしても、前世で培った男としての人格は、まだまだ本質として色濃く残っているのだ。

 

 早い話、自分以外の女の裸体を直視できないのである。

 

 「もう自分は女なんだ! だから女の子の裸見ようがおっぱい触ろうが犯罪じゃない! ヒャッホーイ!!」と開き直るという手もあるが、男の子ゆえの後ろめたさがある今、それをやれば最低野郎になってしまうような気がするのだ。

 

 ゆえに、ボクは彼女たちから目をそらしつつ、距離を取るしかないのである。

 

「……ん?」

 

 ふと、お湯の表面から、何か出っ張りのようなものが出ているのが見えた。

 

 その出っ張りは周囲に波紋を作りながら、ス――ッとボクに近づいて来る。

 

 あ、こんな場面見たことあるぞ。前世にいた頃、映画配信アプリケーションで見た某有名サメ映画のワンシーン……

 

 どんでんどんでんどんでんどんでん――――

 

「――お姉様ぁぁぁ!!」

 

 ざっぱぁん!! とサメ――ではなくミーフォンが湯の中から飛び出した。あの出っ張りは彼女の頭だったのだ。

 

 そして、勢いよくボクに向かって抱きついてきた。ちょっと、何を!?

 

「はぁ! 髪を下ろしたお姉様もお美しい! お肌も色白ですべすべ! 一箇所一箇所に一切の無駄がない均整の取れた女豹のような体つき! そこらの女では決して成し得ない完璧な美がここにありますぅ!!」

 

「うおぉ――――!!?」

 

 ミーフォンが頬と体をボクに向かって激しく擦り付けてきた。

 

 ちょ! ストップ! やめて! そんなに密着したら、ふにゃんふにゃんと柔らかいものが当たります! しかも今回は小さくて硬い粒のような感触というおまけ付きなんですけど!

 

「あ…………ご、ごめんなさいお姉様。あたしったら、調子に乗って……すっかり我を忘れてました」

 

 だが突然、ミーフォンはそう言って申し訳なさそうに引き下がった。良かった。ボクの気持ちを分かってくれたか。

 

「――あたしが触るばっかりで、お姉様に触らせるのをすっかり忘れていました!」

 

 分かってなかったぁ――――!!

 

 ミーフォンは両腕を組み、その小柄さとは不釣り合いに大きな双丘を強調させる。

 

「手前味噌ですけど、あたし体には自信あるんですよ? 背は小さいですけど、胸はほら、それに反して結構豊かなんですから! お姉様になら、いつでもどこでも好きな所触らせてあげます! なんなら、それ以上のことでも!」

 

「触りません! あと、それ以上のことってなにさ!?」

 

 ていうか見せつけないで! ボクの理性(ライフポイント)を無自覚に削るのはやめてください!

 

 そこで、シャンシーがくだらなそうに一言呟いた。

 

「アホくせぇ。何で乳でけー方がいいんだよ。戦う上で邪魔なだけだろあんな脂肪」

 

「は? 何それ、負け惜しみ? 自分がまな板だからって僻んでるの? あーヤダヤダ、聞くに堪えないわね」

 

「……おい。その乳袋の中身絞り出されてーのか?」

 

「……あんたこそ、ただでさえ貧相なその胸をさらにカンボツさせられたいわけ?」

 

 ジャバンッ! と立ち上がり、シャンシーとミーフォンは睨み合う。

 

「ちょ、二人とも! せっかくの温泉なんだからケンカしないで! ね?」

 

 ボクは二人の裸を直視せぬよう腕で目元を覆いながら、そう仲裁した。

 

 彼女らは不満そうだったが、なんとか引き下がってくれた。

 

「ていうか、胸っていえば……」

 

 ミーフォンは言葉を途中で止めると、じぃっと「ある一点」に目を向けた。

 

 その「ある一点」とは、リラックスしながら湯に浸かっているライライ。

 

 彼女は髪を下ろしていた。後ろで束ねていたポニーテールが解かれ、毛先辺りにウエーブのかかった長い髪がだらんと下へ流れている。それらはお湯によってぺったりと鎖骨の辺りに貼り付いており、なんだかとても色っぽく感じた。

 

 そして、ミーフォンの視線は――その巨大な胸部に集中していた。

 

 線の細い上半身の中で唯一激しく自己主張をしたソレは、成人男性の手でも覆いきれないであろう大きさと、そして美しい釣鐘型を誇っていて――

 

「緊急回避っ!」

 

 ボクは音速に匹敵する速度でそっぽを向いた。危なかった。一瞬だが、確かにあの魅惑の果実に視線が釘付けになってしまっていた。大丈夫、先っぽは見てないよ。

 

「な、なにかしら? そんなにジロジロ見て」

 

 ミーフォンの視線に気がついたのか、ライライのたじろぐような声が聞こえてきた。

 

「……改めて見ると、随分デカいわね。ちょっと揉ませなさい。何厘米(りんまい)あるのか確かめてあげるわ」

 

 そんな彼女に対し、ミーフォンはそう静かな声で言いながら接近していく。

 

 ライライは引きつった顔で、

 

「い、いいわよ別に」

 

「遠慮しなくていいわ。下着買う時に参考になるかもしれないじゃない」

 

「そんなの店で測ればいいから大丈夫よっ。というか、あなた今凄く意地悪そうな笑顔浮かべているのだけど!?」

 

「気のせいよ気のせい」

 

 笑いを噛み殺したようなミーフォンの声。

 

 危機感たっぷりな表情で、ライライは逃げ出した。

 

「――ふっふっふ。逃がさぬぞライライよ」

 

 しかし、まわりこまれてしまった!

 

「ちょっとセンラン!? あなたまで!?」

 

「うむ。私もキミのほど大きく形の整った乳房を見たことがない。ちょっと触ってみたくなった。女同士だ、何を気にすることがある?」

 

 手の指を軟体動物よろしくくねらせながら、邪悪に微笑むセンラン。完全に悪ノリしていた。

 

 二人のおっぱい魔人が、ライライを追い詰める。

 

 そして、

 

「――んぁんっ!?」

 

 えらく扇情的な響きを持ったライライの喘ぎ。ボクは思わずドキッとする。

 

 ミーフォンとセンランの手が、見事にライライの両胸を鷲掴みにしていた。

 

 そして、その柔肌に食い込んだ指たちが、うねうねと動く。

 

「やっ! あっ! だめ、ああん! ふぁっ、だ、だめぇ! あ、あっ! あぁんっ!!」

 

 その動きに合わせて、ライライが何度も嬌声を発する。

 

「やっべ、面白そ! アタシも参加すんぜ!」

 

 とうとうシャンシーまで興味を持ち、飛び入り参加しだした。

 

 夕空へ向かって、艶かしい喘ぎ声が何度も響き渡る。

 

 ……ボクは蹂躙され続けるライライに何もしてあげられず、ただただ耳を塞いで目をそらし続けるしかなかった。



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センランの正体

「ぐすっ……みんな酷いわ……」

 

 ライライは鼻をすすりながら、涙声で呟く。

 

 ボクらは温泉から上がった後、宿をすぐに出た。

 

 シャンシーとは入口で別れた。なんでも、門弟たちと集まってご飯を食べに行く約束をしているらしい。

 

 よって、現在は最初の四人組で『商業区』の町中を歩いている。

 

 すでに夕方から夜に変わりつつある空。往来する人の数も昼間に比べて落ち着きを見せていた。昼間は人混みのせいで満足に見えなかった反対側の店も、今では良く目に映る。

 

 ライライはお風呂でおっぱいを揉みしだかれたことをまだ気にしており、少ないながら目に涙を溜めている様子だった。

 

「す、すまない。少し戯れが過ぎたようだ」

 

「乳揉まれたくらいで泣かなくてもいいじゃないの」

 

 センランは申し訳なさそうに、ミーフォンは困ったように言う。

 

「ううっ……酷いわよぉ。好きでこんな大きくなったわけじゃないのに…………シンスイぃ」

 

 泣きながらボクの首に手を回し、抱きついてくるライライ。ボクは無言でその背中を優しくさすってあげた。

 

 なんでも彼女は昔から発育が並外れて良く、一一歳の頃にはすでにミーフォン並みのバストを誇っていたらしい。当時通っていた【民念堂(みんねんどう)】の同級生たちから「きょーにゅーう! きょーにゅーう!」と散々からかわれて以来、それがコンプレックスとなってしまったそうだ。

 

 ご愁傷様……。

 

 ライライをなだめながら、ボクは空を見上げた。

 

 夕日のあかね色は、東側から押し寄せる瑠璃色の夜闇によって西へ追いやられ始めていた。

 

 もうすぐ夜となる。

 

 楽しい時間はあっという間だ。

 

 今日一日は非常に密度が濃かったはずだが、時間の経過がとても早く感じる。そしてそれはそのまま、今日という日がどれだけ楽しかったのかを表していた。

 

 ボクは楽しかった。

 

 なら――センランはどうだっただろう?

 

 武法を好むという点で、ボクらは全く同じ種類の人間だ。なので、ボクの楽しみがそのまま彼女の楽しみになる。そう信じて、今日一日を本能のまま遊び倒した。

 

 センランはちゃんと楽しんでくれていただろうか?

 

 ボク一人による自己満足で終わっていなかっただろうか?

 

「ねえセンラン、今日は……楽しかったかな?」

 

 少しおそるおそるな響きを持ったボクの声。

 

 訊いた瞬間、手ぬぐいで眼鏡を拭いていたセンランはその手を止めた。歩く足もピタリと静止させる。

 

 うつむき加減だった顔をさらに下へ垂らす。

 

 その様子は、感動で打ち震えているようにも、何かに失望しているようにも見えた。

 

 いや、きっと表情が見えないから、正にも負にも捉えられてしまうのだ。

 

 我知らず唾を飲み込んでいた。

 

 だが、やがてセンランはその深いうつむきを保ったまま、はかなげな声で答えた。

 

「……楽しかった。こんなふうに思い切り遊んだことは、久しく無かったから」

 

「……センラン」

 

「ありがとう、シンスイ。私を振り回してくれて。今日は一分一秒すべてが、金銀財宝のように輝かしいものに思えたよ。キミとともに遊んだ事を、私は永遠に忘れないだろう」

 

 予想に反した感謝ぶりに、ボクは喜びを通り越して少し気恥ずかしくなった。

 

 永遠というのは少し言い過ぎかもしれない。でも、それでも「楽しかった」と言ってもらえたことは嬉しい。気恥ずかしさは再び喜びへと回帰する。

 

 ボクはセンランに歩み寄り、片手を差し出した。

 

「明日の試合、お互い全力で戦おう」

 

 それは、握手を求める手であった。

 

 今回の大会の一戦一戦は、ボクの武法士生命を賭けた綱渡りのようなものだ。

 

 どういう形であれ、勝つことが大事。それ以外の結果は認められない。

 

 しかし、今日一日で仲良くなったこの少女との戦いは、勝利にのみ執着したものにはしたくないと思った。全力を出し惜しみせず、真摯に挑みたい。たとえその先にどういう結果が待っているのだとしても。

 

 ボクが差し出したこの手には、そんな強い思いがあった。

 

 センランは一瞬戸惑った様子だったが、

 

「――ああ。よろしく頼む」

 

 すぐに自分の片手でボクの手を掴み、握手に応じてくれた。

 

 未だにこうべを垂れているため顔は見えないが、笑みを浮かべているのは声で分かった。

 

 今日あったばかりの彼女とそこまで分かり合えたことに、改めて嬉しくなる。趣味嗜好が同じであるならなおさらだ。

 

 しばらく固く結束を結んだ後、ボクらは手を離す。

 

 センランは手を引っ込めながら、もう片方の手に持っていた眼鏡をかけようとした。

 

「あっ……!」

 

 が、引っ込めた方の手を誤って眼鏡にぶつけ、取り落としてしまう。

 

 かちゃん、とレンズが弾む音。

 

「拾うよ」

 

 ボクは率先して、眼鏡を優しく拾う。眼鏡は高級品だ。丁寧に扱わなければ。

 

 手に持ったソレを、持ち主であるセンランに渡そうとした。

 

「――ん?」

 

 だがその時、ボクはふとある点に気がついた。

 

 眼鏡のレンズに注目する。

 

 レンズから向こう側には――代わり映えしない普通の景色があった。

 

 ……この表現では、分かりづらかったか。

 

 ボクが言いたいのは、レンズ越しに前を見た時、目に気持ち悪さを全く感じなかったということだ。

 

 つまり、レンズに度が入っていない。

 

 これは――

 

「伊達メガネ……?」

 

 思わず呟く。

 

 そう、紛れもない伊達メガネであった。

 

「――っ!」

 

 次の瞬間、センランはボクの手から眼鏡を乱暴にひったくり、かけ直した。

 

 気まずそうな顔で目を背けられる。

 

 さっきまで柔らかかった雰囲気が、一瞬で張り詰めたものになる。

 快晴を喜んで外を歩いている途中、急速に雨雲がかかった時のような気持ちにさせられた。

 

 今までの彼女らしからぬ強引な行動と後ろめたい態度に、ボクは首をかしげずにはいられなかった。

 

 さらに、疑念のようなものまで生まれた。

 

 伊達メガネをかけているところまではいい。ファッションの一言でケリがつく。

 

 ボクが気になったのは――お風呂に入る時にまでソレを着用していた事だった。

 

 最初はそれに対し、視力がかなり悪いからだろうという先入観を持った。

 

 しかし、そんなことはなかった。伊達メガネであったことがその何よりの証拠だ。

 

 目が悪くなかったのなら、お風呂にまでかけていた理由はなんだ? 湯気でレンズが曇るだけで、何のメリットも無いはずなのに。

 

 別にそれが分かったところで、何も起こらない。しかしなぜかひどく気になった。

 

「センラン、君は……」

 

 訊いてみたかったが、彼女の発する無言の圧力が「やめろ」と言外に訴えてきている感じがして、途中で言葉が途切れる。

 

 何か触れて欲しくない事情があるのかもしれない。

 

 もしそうだとしたら、ボクはこれ以上踏み込むべきではない。それはセンランのためではなく、自分の好奇心で動くことに他ならないのだから。

 

 センランを真に思うなら、次にこの言葉を繋げるべきだ。

 

 「ううん、何でもない」と。

 

 そうしようとした、まさにその時。

 

「――おい、嬢ちゃんたち。ちょっといいか」

 

 端から知らない声が割り込んできた。

 

 誰だよこんな時に。苛立ちを胸に秘めつつ、声の方向へと振り返る。

 

 そこに立っていたのは、鎧と槍を装備した四人の男の人。

 

 統一された武装を見て、彼らが【煌国(こうこく)】の正規兵であることがすぐに分かった。

 

 何でこんな所に兵士が? と一瞬考えたが、すぐに答えは出た。

 

『きっと、皇女殿下が宮廷から失踪されたから、探してるんだと思うわ』

 

 ライライは以前、確かにそう口にしていた。

 

 つまり彼らはこれから、ボクたちに皇女殿下らしき人を見ていないかを尋ねるつもりなのだろう。

 

 はっきり言って、そんなこと聞かれても困る。

 

 ボクは皇女殿下の顔なんて見たことが無いのだ。

 

 異世界(ここ)にはテレビどころか写真だって存在しない。媒体技術の発達した現代日本と違って、そんな簡単にお偉いさんの顔が見れる場所ではないのだ。

 

 ごめんなさい、知りません――そう答えてさっさと退散しよう。

 

 しかし、センランの方に思わず視線が釘付けになる。

 

 こわばっていた彼女の表情が、さらに緊張感を増していた。緊張しているのは主に唇と頬。目元は何かから無性に逃げたい感情を表すかのように細められていた。

 

 明らかに様子がおかしい。

 

 兵士たちが、そんなセンランへ目を向けた。

 

 が、顔を見られる前に、勢いよく首をひねる。

 

 ……その不審な反応が、兵士たちの強い関心を引いたのだろう。

 

「おいそこのお前、ちょっと振り向いて顔見せてみろ」

 

 一人が、センランの背中に手を伸ばしだした。

 

 石のように無骨な手が、肩へ近づく。

 

「――っ!!」

 

 しかし掴まれる寸前、センランは突発的にその場から走り出した。

 

 ――スタートダッシュの時、その片胸のポケットから何か光るものが落ちるのが見えた。

 

 野生の獣のような勢いで、彼女はボクらから遠ざかった。

 

「待てっ! 止まれ!」

 

 兵士たちは慌ててセンランを追い始めた。重そうな装備だが、訓練しているだけあってか、その足は一般人よりずっと速かった。

 

 しかし、センランは突如加速し、兵士たちとの距離をあっという間に広げた。間違いない。【心意盤陽把(しんいばんようは)】の歩法を使ったのだろう。

 

 しかし兵士たちはめげずに追跡を続ける。職務熱心なことだ。

 

 追いかけっこをするメンツが全員曲がり角に入り、見えなくなる。

 

 ボクら三人は、ポツネンとその場に取り残された。

 

「……何だったのかしら」

 

 連続した思わぬ展開に、ミーフォンがつぶやきをこぼす。

 

 ボクも同意見だった。

 

 伊達メガネをぶんどったり、兵士から逃げ出したり。彼女の不審な行動をいきなり連続して見せられて、頭が混乱していたのだ。

 

 例えるなら、映画の序盤から一気に飛んで、クライマックスを見せられた時のような混乱に似ているかもしれない。

 

 残った夕日の光を反射して輝く黄金色の物体が、整然と敷かれた石畳の上に転がっていた。

 

 さっきセンランが落としたものだ。

 

 拾って見ると、指輪だった。

 

 刻印されているのは、大きな太陽とその下に広がる町を抽象化したような意匠――【煌国】の国旗と同じマークだった。

 

 太陽を表す刻印の(まる)部分には、綺麗にカッティングが施された紅宝石(ルビー)がはまっている。

 

 指輪全体に使われているのは、ほぼ間違いなく純金。

 

 疑いようもなく、上等なシロモノだった。おそらく、質に売ったらひと財産だろう。

 

 ――これから、ボクはどうするべきだろうか。

 

 自分のするべきことを考える。

 

 しばらく地蔵のように固まって、頭を回転させ続けた。

 

 そして、「この指輪をセンランに返す」という方針が決まった途端、ボクはセンランが逃げた方向へ向かってダッシュした。

 

「あ、ちょっとシンスイっ?」

 

「ごめん二人とも! ボク、この指輪をセンランに届けてくる!」

 

 振り返りもしないまま、そう押し付けるように言った。

 

 落し物を届ける――それももちろんある。

 

 だが、もし落し物を届けたいのなら明日にすればいい。どうせ試合で会えるのだから。

 

 ボクにはもう一つ、動く理由があった。

 

 センランが逃げ出した理由が気になったのだ。

 

 はっきりしない事を、はっきりした事にしたいだけなのだ。

 

 全力で戦うと誓い合った手前、もやもやした疑問を直前に残すのは、やはり気持ち悪いと思ったのだ。

 

「二人はもう帰ってていいよ!」

 

 待たせないようにそう釘を刺してから、走る速さをさらに上げた。

 

「あの指輪……どこかで見たことあるような……」

 

 そんなミーフォンの微かなつぶやきを聞き逃し、ボクは去っていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜に移るのは予想以上に速かった。

 

 太陽はすでに西の彼方へ埋もれており、瑠璃色の闇が空のほとんどを覆っていた。

 

 夕日と夜闇が5対5の割合になったところで、町の人たちは行灯や灯篭に火を灯し、【滄奥市(そうおうし)】にオレンジ単色のライトアップをもたらした。

 

 照明器具に恵まれた現代に比べれば、原始的かつ短調な光。しかしその分、人間という生き物の原始的感性がほどよく刺激されるため、悪い気分ではない。

 

 オレンジ光がぽつぽつと灯った【武館区(ぶかんく)】の大通りを、ボクは息せき切って走っていた。

 

 夜になって、この道はさらに寂しさが増していた。乏しかった人通りも昼間に比べてさらに少なくなり、人間は時々見かける程度しかいない。

 

 そんな中、ボクはある身体的特徴のみを絞って人探しをしていた。

 

 丸メガネ。オールバックになってさらけ出された額。後頭部で太い三つ編みとなったチョコレート色の長い髪。センランの特徴である。

 

 彼女は武法が好きだ。なので、ここに来ているかもしれないと踏んで探し回った。

 

 だが見つからぬまま、時間だけが無為に過ぎていった。もうかれこれ二〇分以上は走り回っている。

 

 日々の鍛錬の賜物で、体力的には全く問題はない。しかし大量ではないものの汗がまた皮膚表面に浮かび上がってきて、気持ち悪い。帰ったらお風呂に入り直すなり水浴びするなりしなければならない。

 

「ちくしょ、見つからない……!」

 

 息をかすかに切らせながら、ボクはぼやきをこぼす。

 

 いくら探して見つからない。

 

 ていうか、手がかりも何も無い状態で、この広い町全体を探そうという行為そのものが無茶なのだ。

 

 ボクが走り回っている最中、センランだって移動しているだろうし。

 

 そう考えると、こうして走り回る行為そのものが無駄なように思えてきた。

 

 一度足を止める。頭を冷やそうと深呼吸。

 

 その結果、頭はあまり冷えなかったが、代わりに見覚えのある顔と出くわした。

 

 シャンシーだった。

 

 しかし、彼女にはつい数十分前までの活発さは無く、まるで精根尽きはてたようにふにゃふにゃだった。両隣にいる二人の男が、その左右の肩を担いで歩いていた。

 

 彼ら二人も見たことがあった。シャンシーと初めて会った時、一緒にいた仲間の男たちだ。

 

「ううーん…………もう飲めにゃい……」

 

 でろんとこうべを垂らしたシャンシーは、ろれつの回らない口調でそう呟く。

 

 そして、彼女が近づいて来るたび、徐々に強くなってくる酒気。

 

 まさか。

 

「シャンシー! 君、お酒飲んでるの!?」

 

 ボクの驚く声に反応し、へべれけなシャンシーは舌足らずに言う。

 

「んあ? シンスイ? 違う違う、酒ひゃねーっへ。薬くせー変な飲みモン。飲んでみっと意外と美味くへ、体の奥がぽわーんとあったかくなっへぇ……」

 

「一〇〇パーお酒でしょそれ!」

 

 この国では、お酒は一八歳からと決まっている。しかしそれはちゃんとした法律に基づいた決まりではなく、慣習法や不文律みたいなものである。

 

 まあ、未成年の分際で飲酒していたことについては、またの機会に問い直すとしよう。

 

「それよりシャンシー、センランを見かけなかった?」

 

 そう問いかけると、シャンシーはいかにも不満たらたらな口ぶりでくだを巻いた。

 

「んだよぉ、センランセンラン! でけーケツの女ばっかし追っかけやがっへぇ! センランとあらひのどっちが大事だってんだよぉ!?」

 

「ええ!? 意味わかんないし! 唐突に何なの!?」

 

「とーとつじゃねーよぉ、ぎゅー」

 

「うわ! ちょ! 抱きつかないで!?」

 

「やだ。離さにゃい。このまま家に持っへ帰っへやう」

 

 シャンシーは腕と足をボクの全身に絡ませてくる。その細い手足には似つかわしくない、凄い力だった。

 

 夢見心地な微笑みを浮かべながら、ボクのほっぺに頬ずりしてくる。

 

 女の子の香りと酒気が混ざった蠱惑的な匂いがボクの鼻をつき、妙な気分にさせられる。

 

 もしかしてシャンシー……甘え上戸ってやつ?

 

 なんて冷静に分析してる場合じゃない。

 

「は、離れてシャンシー! ボク用事があるから!」

 

 ボクはできるだけ乱暴にならないよう、ヘビのように絡みついてくるシャンシーを剥がしにかかった。

 

 しかし彼女の手足の【(きん)】はかなり鍛えられているようで、手加減した力では全く解けない。なので、本気を出さざるを得なくなる。

 

 やっとの思いで引っぺがした。

 

 千鳥足で着地したシャンシーは頬っぺたをぷくっと膨らますと、うめくような声で告げてきた。

 

「……あいつなら、さっき広場に入っへくのを見たぞぉ。アンタらが今日の昼間、試合してた場所な」

 

「ありがとう! じゃあ行くね。もう飲んじゃダメだよ?」

 

 ボクはさらに、シャンシーを担いでいた二人の男にビシッと人差し指を向ける。

 

「いいかい君たち? 分かってるとは思うけど、酔ってる所を美味しくいただこうなんて考えないこと! いいね?」

 

「し、しねぇよ、んな事。俺らがシャンシー姐さんに殺されちまうわ」

 

「よろしい! ばいばいっ」

 

 きちんと釘を刺してから、ボクは再び足を走らせた。

 

 窓や灯篭からもれるオレンジの光が、前から後ろへ次々と流れていく。

 

 さっきと違い、今は踏み出す一歩一歩に迷いはなかった。アテが見つかったからだ。

 

 広場までの道のりはちゃんと頭に入っている。その脳内の地図をなぞるように移動する。

 

 あの場所にセンランがいる可能性は十分にあった。

 

 センランを追う兵士たちは武法士ではなかった。『商業区』もしくは『公共区』でなら水を得た魚のように動き回れるが、武法士ひしめくこの【武館区】では迂闊な行動はできず、慎重にならざるを得ない。剣や槍が通じない人間と揉めたくはないはずだから。

 

 それにあそこは、彼女が他流との試合を楽しんだ場所。思い入れがあるはず。

 

 兵士たちに探られにくく、なおかつセンランの心に残ったスポットだ。

 

 ソコにいなかったら、もう素直に『巡天大酒店(じゅんてんだいしゅてん)』に戻ってゆっくり休もう。明日は試合だ。どうせセンランともその時に会える。

 

 しばらく走って、ようやくその広場へと到着した。

 

 大通りとは違い、そこには照明が無かった。しかし遥か頭上に輝く満月が白い光で照らしているため、所々ひび割れた石畳の上に木々の影絵ができていた。

 

 そして、その影絵の中に――ボク以外の人影が一つ。

 

 センランが、途方にくれたように棒立ちしていた。

 

 声をかけるより先に、彼女がボクの存在に気づいた。

 

「……シンスイ?」

 

 驚いた顔で、かすれた声を発した。

 

「……どうしたのだ。こんな所まで」

 

「センランを探してたんだよ」

 

「……私を?」

 

 こくん、と頷いてから、ボクはポケットに入っていた金色の指輪を彼女に差し出す。

 

「あ……!」

 

 センランは目を大きく見開くと、指輪を慌てて受け取り、その胸に抱いた。

 

 その仕草が、指輪の大事さを示す何よりの証拠だった。

 

「ありがとう、シンスイ……この指輪は、大切な形見なのだ」

 

「形見?」

 

「ああ。昔、病で亡くなられた母上から授かった物だ。これが無いことに気づいた時は心臓が止まるかと思ったが、こうして君が拾ってくれたおかげで助かった。感謝する、本当に」

 

 深々と頭を下げられる。

 

 ボクは少し恥ずかしくなってきてしまい、思わず早口で言う。

 

「あ、はははは。どういたしまして。でも、センランも気をつけなよ。ていうか、そんなに落としたくなかったなら、指にはめておけばよかったのに」

 

「っ……そ、そうだな。そうかもしれないな」

 

 センランはぎこちない笑みでそう答えた。

 

 一瞬現れた激しい動揺を、作り笑いで塗りつぶしたかのようだった。

 

 ――今また、彼女の不審な反応を見た。

 

 それによって、センランに対する疑念が再燃する。

 

 ここで訊いてみよう。

 

 ――どうしてあの時、君は逃げたの?

 

 いや。そうじゃない。

 

「センラン。君は一体――”何者”なの?」

 

 彼女はショックを受けたように喉を鳴らした。

 

 それを見て、少し心が痛む。

 

 センランはうなだれ、そのまま一言も発さなくなった。

 

 ボクもそれにつられて、押し黙る。

 

 重苦しい沈黙が場を支配した。

 

 ――やっぱり、突っつくべきことではなかったかもしれない。

 

 自分の無神経さを後悔し始めた、その時だった。

 

「――ようやく見つけましたよ」

 

 静まり返った空気を、第三者の声が切り裂いた。

 

 鋭さと強さを持った、男の声。声質は比較的若い。

 

 それは、広場の入口から聞こえてきた。ボクが今背にしている方向だ。

 

 ボクと向かい合う形で立っているセンランには、その声の主が見える。

 

 そして、それを目にしている彼女の顔は、今まで見たことがないほどまでに強ばっていた。信じられない、といった表情。

 

 ボクはゆっくりと、真後ろを向いた。

 

 そこに立っていたのは、見上げるほどの長身をもつ美丈夫だった。

 

 ルックスは二枚目と形容できる端正さ。しかし、眉間に微かに刻まれたしわと鋭い眼差しの存在ゆえ、なよなよした感じは全くしない。垢抜けた顔立ち。騎士制服をアジア風にアレンジしたかのような紅色の長衣をきっちりと着込んでおり、そのスマートな体躯は一見細長く見えるが、目を凝らすと適度な太さを持っていた。

 

 多少近寄りがたさはあるものの、力強さと美麗さ、そして鋭さと三拍子揃った容貌である。男の理想像を体現したようなその姿は、元男のボクでも一瞬見とれてしまうほどだった。

 

 その男は、片手にある携行型の行灯を高く掲げ、ボクらの――より正確にはセンランの姿を照らし出した。

 

 淡いオレンジ光に当てられたセンランは、男から沈痛そうに目を背けた。

 

 男は呆れたように、それでいて心から安堵したように一息ついた。

 

「センラン、知り合いなの?」

 

 ボクは小声でセンランに尋ねるが、彼女は未だに沈黙を破ろうとしない。

 

 仕方ないので、直接目の前の彼に訊くことにした。

 

「あの……あなたは?」

 

 すると、至って事務的な響きを持った答えが即座に返ってくる。

 

「私は宮廷警護隊副隊長、裴立恩(ペイ・リーエン)

 

 まるで、それ以上の説明など必要ないかのような言い方だった。

 

 しかし、そんな事務的冷たさなど気にならなくなるほどに、ボクはびっくりしていた。

 

 この人――リーエンさんは「宮廷警護隊」と名乗った。

 

 宮廷警護隊とはその名の通り、皇族や要人の警護を主な職務とする人たちだ。以前に話した宮廷護衛官とは、そこで働く人たちの事を指す。例えるなら、警視庁警備部警護課(SP)のような存在だ。

 

 彼らは皆その職務上、卓越した武法の腕前を持っている。いわば、エリート武法士なのだ。

 

 普段のボクなら、そんな立場である彼に対して質問攻めを食らわせたくなっているところだが、今はそれどころじゃない。

 

 ――どうして宮廷警護隊の人、しかも副隊長なんていうポストの人が、センランに対して用がある?

 

 リーエンさんは歩み寄ってくる。その足音は全く聞こえない。

 

「そのような装いをされていても、私の目は誤魔化せません。幼き日よりあなた様を見守り、【心意盤陽把】の師として教鞭を取らせていただいていた、この私の目は。そして――その指輪が何よりの証拠」

 

 センランは指輪を胸に抱くように庇う。

 

 なるほど。この人が師匠だったのか。それなら【心意盤陽把】を知っているのも納得でである。

 

 しかし、師匠であるにもかかわらず、この妙にへりくだった態度。

 

 師弟関係を超える何かが、この二人の間にはあるのだろうか?

 

「ぐっ……は、離せ! 何をする!?」

 

「さあ、早く帰りましょう」

 

 しかしその思考は、センランの手を半ば強引に引っ張り込むリーエンさんを見た瞬間、一気に吹っ飛んだ。

 

「ちょ、ちょっと! 何してるんですか!? 乱暴はやめ――」

 

 てください、と続く前に、ボクの首筋に白刃が突きつけられる。

 

 リーエンさんがもう片方の手で腰の直剣を抜き放っていた。

 

 ――ほとんど見えなかった。

 

 剣を持つために放り投げられたのであろう携行型の行灯が、コトリと垂直に落ちる。

 

「これも職務です。邪魔をするようならば容赦なく斬り捨てますよ」

 

 氷河のように冷え切った声色だった。

 

 敵愾心が一気に生まれた。

 

「――やってみろよ」

 

 突き殺すように視線を向ける。

 

 相手もまた、冷たい殺気を放ってくる。

 

 一触即発の空気がそこにあった。

 

「もうよい! 剣を納めよ! 見苦しい!」

 

 そこで、センランが悲痛にわめいた。

 

「――はい」

 

 すると、リーエンさんは驚くほどあっさりと剣を納めた。

 

 ボクも臨戦態勢を解く。

 

 センランは嬉しそうに、しかしそれ以上に寂しそうな眼差しでボクを見つめてくる。

 

「センラン、君は一体……」

 

「シンスイ。もうこれ以上、優しいキミをたばかる事は心苦しい。ゆえに明かそう。私が――いや、”(わらわ)”が何者であるかを」

 

 唐突に一人称が変わった。しかも、かなり仰々しいものに。

 

 かと思えば、眼鏡を外し、三つ編みをほどく。

 

 今度こそ露わになったセンランの素顔。そしてその彫刻めいた美貌に、真上からチョコレートにも似た色の長い茶髪がばさっと下りる。

 

 先ほどまでいた文学少女風の少女はいなくなり、代わりに、美しく風格のある少女が現れた。

 

 透き通った鼻梁。白皙(はくせき)の肌。威厳ある眼差し。そして流れるように伸びた、猫目石のようにつややな茶髪。

 

 その少女は、おごそかに名乗った。

 

 

 

「――妾の名は煌雀(ファン・チュエ)。【煌国】第一皇女にして、現皇帝の第二子。皇位継承権は第二位だ」

 

 

 

 えっ――――

 

 ボクは我が耳を疑った。

 

 頭の中がめいっぱい混乱する。

 

 皇女?

 

 誰が?

 

 センランが。

 

 いや、センランは偽名だった。

 

 本名は煌雀(ファン・チュエ)。いや、名前呼びは不敬だ。皇女殿下と呼ぶべきである。

 

 ごちゃごちゃになった頭の中身を再編成する。

 

 ――皇女殿下は素性を隠して、「羅森嵐(ルオ・センラン)」という架空の人物を名乗っていた。

 

 びっくりどころの話ではない。腰が抜けそうなほどの驚愕だった。

 

 だが――薄々、その可能性は心のどこかで考えていた。

 

 しかし、自分の中にある「常識」が、その可能性を無視していた。こんな偶然があるわけ無い、と。

 

 そう――センランが皇女殿下である偶然が。

 

 そもそも、あの兵士たちから逃げる理由など、それ以外に考えられなかったのだ。

 

 そして、あの指輪は彼女の母、つまり皇后陛下の形見。

 

 なるほど、これ以上無い身分証明だ。指にはめずに隠したくなるのも分かる。

 

 ――そして、そんなつじつま合わせよりも先に、ボクにはまずやるべきことがあった。

 

「――申し訳ございませんでした。知らなかった事とはいえ、皇女殿下に対する重ね重ねの非礼。どうかお許しを」

 

 ボクは恭しく地に跪き、謝辞を述べる。相手が皇族であると分かった以上、これまでのような馴れ馴れしい態度をとることは許されない。下手をすれば不敬罪だ。

 

 センラン――ではなく煌雀(ファン・チュエ)皇女殿下は、ひどく悲しそうな顔をした。

 

「……そんな慇懃(いんぎん)にしないでくれ。妾たちは友達だろう?」

 

「そんな。勿体無いお言葉です」

 

 ボクがそう首を横に振る。

 

 皇女殿下は吐き捨てるように呟いた。

 

「……だから、嫌だったのだ。せっかく趣味の合った友達も、妾が皇族だと知った途端にコレだ」

 

 対して、リーエンさんが淡々と述べた。

 

「殿下、それが皇族です。この【煌国】において絶対的支配階級を得て、何不自由の無い暮らしを約束される代わりに、身命を賭してこの【煌国】という名の御旗を支える義務があるのです」

 

「そんなことは百も承知だ! 父上達にも、そしてお前達にも迷惑かけたと思っている!」

 

 皇女殿下はかんしゃくのようにまくし立てる。

 

 リーエンさんは表情を全く動かさない。まるでその表情しか知らないかのように。

 

 彼はそのまま、再び終始冷静な口調で訊いた。

 

「殿下。どうして宮廷を脱走するなどというお戯れをなさったのですか」

 

「……「武法士」に、なりたかったからだ」

 

 ボクは無礼かもしれないと思っても、首を傾げずにはいられなかった。

 

 武法士になりたい? もうなっているではないか、と。

 

 しかし少し考えると、皇女殿下の言う「武法士」とは、そのままの意味より、もっと深い意味を持っているように感じた。

 

「妾は、昔から大変武法が好きだった。きっかけは幼い頃、帝都で演武会を見たことだ。その日以来、妾はすっかり武法という究極の体術に心酔した。リーエン、お前に教えを乞うたのは、それからすぐの事だったな」

 

「はい。あの時の事は、私も鮮明に覚えております」

 

「お前という(きっかけ)を得た妾は、以来、寝食を忘れて修行に没頭した。お前の熱心で丁寧な指導も相まって、妾は普通よりも速い速度で上達することができた。――だが、腕を磨くことはできても、”その先”ができなかった」

 

 皇女殿下は、寂しそうに笑った。

 

「妾は皇女。その身分が邪魔をして、周りの武法士は妾と手合わせをしてはくれなかった。応じても、必ず妾が勝てるように手を抜いてくる。いつもヒソヒソと聞こえてくるのだ。「試合を挑まれても応じるな。丁重にお断りしろ」「しかし断りすぎればご機嫌を損ねる。そうしたら素直に試合に応じろ」「そして応じてしまったら、ワザと負けろ。少しでも殿下を傷つけたら人生が終わる」「とにかく、皇女殿下のご機嫌を損ねるような事だけは絶対に避けろ」……分かってしまったよ。妾が「皇女」でいる限り、まともな「武法士」になることなど不可能であると」

 

 ――皇女殿下の「武法士になりたい」というセリフの本質が、分かってきた気がした。

 

「だから妾は――外の世界へ出たかった。「皇族」ではなく「一人の武法士」になりたかった。満ち足りた人間ゆえの贅沢極まる悩みである事は分かっている。しかし、妾はそれでも欲しかったのだ。真摯に手合わせに応じてくれる相手が。武をもって生まれる友が。そして妾は決めた。近々始まる【黄龍賽(こうりゅうさい)】をきっかけにして、少しの間外の世界へ逃げてみようと。【黄龍賽】でなら、相手は手加減などせず本気で戦ってくれる。今の妾にはおあつらえ向きの舞台だ。言ってしまえば、妾は優勝するためではなく、”出場するために出場した”のだ」

 

「……武法を好まれる殿下ならばさもありなん、と思っておりました。どうやら【黄龍賽】の予選が行われる地区を重点的に探った意味があったようですね」

 

 リーエンさんは、なおも落ち着き払った口調。

 

 皇女殿下の話を聞いて、ボクはその苦悩を十分に理解できた。

 

 確かに、ボクは皇女殿下を「羅森嵐(ルオ・センラン)」という人間だと思い込んでいた。偽りであると知らずに。

 

 だが、生まれ持った環境ゆえの悩みを秘めている――この事実は正解だった。

 

 彼女の苦悩は、ボクの苦悩とよく似ている。

 

 この異世界に転生してからの苦悩だけでなく、転生前の時の苦悩も、彼女のソレと似通っている。

 

 ――ボクらは「生まれつきの何か」が足かせになり、それに悩んでいる。

 

 さらには、武法というものに心惹かれた点。

 

 社会的立場は違っても、どうしようもないくらい、ボクらの境遇は似ていた。

 

 だからこそ、たった一日でここまで仲良くなれたんだと思う。

 

 ボクらはもう、立派な友達だった。

 

「……だが、それももうおしまいのようだ。リーエン、妾ではお前から逃げることはできない。素直に捕まって――帝都に帰るとしよう」

 

 心が激しくざわついた。

 

「御理解いただけて幸いです。あなた様はここにいるべき人間ではありません。特別な存在なのですから」

 

 リーエンさんの言葉が、途中からよく聞こえなくなる。

 

 手と背中に、嫌な汗が浮かび上がる。

 

 皇女殿下は、静かにボクに言った。

 

「さようならだ、シンスイ。残念だよ。キミとは立場など関係なく、仲良くできると思っていたのに。でもキミから初めて声をかけられた時、おくびにも出さなかったが、すごく嬉しかったよ」

 

 駄菓子屋の前で途方に暮れていた時と同じ表情だった。

 

 それはきっと、ボクと決別する意思の表れなんだと思う。

 

 ……ちくしょう。ボクは、何をやっていたんだ。

 

 数分前に戻って、自分の顔面を思いっきりぶん殴りたい。

 

 皇女殿下? 重ね重ねの非礼? 勿体無いお言葉?

 

 バカ野郎。

 

 それのどこが友達に対する態度だ。ホントにバカ。

 

「ま、待って!!」

 

 背を向けて去ろうとする二人を、ボクは呼び止める。

 

 二人は足を止め、こちらを見た。

 

 ボクは、心に用意していたセリフを口に出した。

 

 

 

「貴女は、いや、「君」はまだ――センランだ」

 

 

 

 皇女殿下――いや、センランが目を大きく見開いた。

 

 リーエンさんは一歩前へ出て、厳しい口調で告げる。

 

「その名は偽りであるとすでにご存知のはずです。それに加え、殿下に対する馴れ馴れしい言動。立場をわきまえるべきだ」

 

 馴れ馴れしい? 立場? 知るかそんなもん。

 

 そう悪態をつきたいのを我慢し、ボクもまた一歩前へ出る。

 

 リーエンさんと向かい合う。

 

 そして、

 

「――お願いします! 彼女を明日の試合に出してあげてください!」

 

 深々と頭を下げつつ、そう頼み込んだ。

 

 ボクの頼み事は「せめてボクとの試合が終わるまでの間だけは、彼女を「羅森嵐(ルオ・センラン)」でいさせてあげて欲しい」ということだ。

 

 どのみち、センランは帝都に帰ってしまう。彼女が皇女である以上、その結末は絶対に覆らない。

 

 唯一の心残りがあるとするなら、それは――明日、ボクと行う二回戦。

 

 このままセンランを見送れば、ボクは明日の二回戦を不戦勝にできる。そして、【黄龍賽】優勝までの一段を楽に登れる。

 

 なんとも思っていない相手だったなら、素直にラッキーと思えたかもしれない。

 

 でも、センランに対して、そんな勝ち方はしたくなかった。

 

 明日の戦いで全力でぶつかり、彼女の願いを叶えたい。

 

 その思いを込めて、ボクはさらに続けた。

 

「このままずっと自由にしてくれ、なんて言いません! 明日にやるボクとの試合だけでいい! 彼女を戦わせてあげてください!」

 

 顔を少し上げる。

 

 ボクを見下ろすリーエンさんの表情は全く変わっていなかった。

 

 それを見て、その先の答えが簡単に予想できてしまった。

 

 会ってまだ数分だが、この人は融通の利きにくいタイプだとなんとなく分かった。

 

 おそらく、断られる。

 

 リーエンさんの唇がゆっくり動こうとした時だった。

 

「――妾からもお願いする!!」

 

 センランも深く頭を下げ、ボク以上の力強さをもった声でそう頼んだ。

 

「シンスイが言っている通り、明日の二回戦が終わるまででいいのだ!! その後は勝敗に関係なく帝都に戻ると約束しよう!! それに、今日妾を看過したことで、お前の隊内での立場が悪くなるような結果には絶対にしない!! 妾の全ての力を使ってでもお前の立場を守る!! だから、伏して頼む!!」

 

 皇族の人間が臣下に頭を下げるという、普通に考えれば非常識な光景。

 

 しかし、「羅森嵐(ルオ・センラン)」は「皇女」ではない。一人の「武法士」だ。

 

 彼女は「武法士」として、頭を下げているのだ。

 

 広場中が静まり返る。どこかで鳴いている鈴虫の声のみが静かに響いている。

 

 最初にそれを破ったのは、ため息混じりなリーエンさんの声だった。

 

「……殿下。あなた様ともあろう御方が、そう軽々しく頭を下げるものではありませんよ」

 

 ボクとセンランは、同時に顔を上げる。

 

 リーエンさんは目を閉じ、口を半開きにさせていた。呆れたような、諦めたような、押し負けたような顔。

 

 ボクは彼の気持ちが分からなかったが、センランは少し希望を帯びた明るい表情をしていた。

 

 彼女とリーエンさんは昔からの仲だ。当然、彼の性格や癖をよく知っているはず。

 

 つまり、彼のこの表情は、良い返事を出す前兆であるということ。

 

 やがて、リーエンさんは明確な答えを口にした。

 

「――分かりました。明日の予選大会の二回戦が終わるまで、我々は待機し、殿下を見守る事にいたします」

 

 それを聞いた瞬間、心の奥底から間欠泉のように喜びが湧き上がってきた。

 

「やった! やったぞシンスイ!!」

 

 しかしボクが大喜びするよりも早く、センランが歓喜のままに抱きついてきた。

 

 普段なら少し恥ずかしくなるところだが、今は羞恥よりも喜びが強かった。

 

「うん! うん! やったね、センラン!」

 

 ボクもセンランの背中に手を回し、嬉々として抱き返す。

 

 そこで、リーエンさんが咳払いし、

 

「ただし、条件があります。殿下にはもうしばらく、今まで通りの変装をしていただきます。暗殺や謀略が起こる可能性に備え、この【滄奥市】にいる間は「羅森嵐(ルオ・センラン)」という架空の人間として過ごしてください」

 

「心得た。護衛は?」

 

「付きたい所ですが、我々が貼り付いていると、かえって怪しまれる可能性があります。なのであからさまな護衛はつけず、自然にしている方が気づかれにくいかと」

 

「分かった」

 

 頷くと、センランは含んだような笑みを浮かべた。

 

「ふふふ。頷いてくれると思ったぞ。なんだかんだで、お前は昔から妾に甘いからな」

 

「……そういう事は、分かっていても口に出さないのが花というものですよ」

 

 はぁ、とため息をつくリーエンさん。

 

 ともあれ、これで明日の試合は約束された。

 

 間近のセンランと目が合う。

 

 彼女は無邪気に笑い、

 

「ありがとう」

 

 ただ、そう一言口にした。

 

 それを見て、思った。

 

 明日の試合、忘れられない思い出にしてあげよう――と。



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ボクも武法士、私も武法士

 翌日。

 

「えええええ!? センランが皇――――むぐっ」

 

 ボクから聞いた内容を大声でもらしてしまいそうになったミーフォンの口を慌てて塞ぐ。

 

「おバカっ。そんな大声出しちゃダメでしょ。バレたらエライ事になるよっ」

 

「……ごめんなさいお姉様。つい驚いて」

 

 シュンとするミーフォンの頭を、許す意思を込めてそっと撫でる。

 

 ボクは目と【聴気法(ちょうきほう)】で周囲を探る。人の姿も【気】の存在も無いことを確認すると、ため息をついた。この世界には盗聴器も隠しカメラも存在しない。ひとまず安心していいだろう。

 

 ここは『競技場』の一階廊下だ。石壁にいくつも空いた四角い穴から眩しい朝日が入り、こちらを明るく照らしている。

 

 もうすぐセンランとの試合が始まる。ボクは控え室に行く途中、ミーフォンとライライの二人と鉢合わせした。

 

 二人にはまず、昨晩の事を聞かれた。あの後どうしたの、と。

 

 ボクは昨日の事を包み隠さず話した。もちろん、その中にはセンランの素性のことも含まれていた。この二人になら話してもいいと思ったからだ。もちろん、オフレコにするという条件付きで。

 

 当然ながら、聞かされた後のリアクションは驚愕の一択だった。

 

 ミーフォンは今の通り。ライライも叫びはしなかったが、大きな驚きを顔に表していた。

 

「はっ!? てことは今からお姉様は、こ――げふんげふん、センランをボコ殴りに行くってことになる……でもそんなことしたらブタ箱行きになるんじゃ!? ヘタすると首チョンパ!? いやあああああ! お姉様が死んじゃうぅぅぅ!!」

 

「お、落ち着いてミーフォン! それは絶対ないから! ね!?」

 

 そう。そんな事は絶対にありえない。

 

 センランは「皇女」ではなく「武法士」として戦うのだ。権力を振りかざすなんてことは、死んでも彼女のプライドが許さない。

 

 ライライはすっかり事情を受け入れたようで、普段の落ち着いた態度に戻っていた。

 

「それでシンスイ、勝算はあるの? 【硬気功(こうきこう)】無効化の存在はすでに大会出場選手全員に知れ渡ってしまっているから、みんなきっと回避を中心にして戦略を練ってくるわ。そして……」

 

「うん、分かってるよライライ。センランの武法は――回避向きな流派だってことだよね」

 

 【心意盤陽把(しんいばんようは)】の歩法の速度なら、回避することも、そのまま相手の死角に入り込むこともきっと一瞬で行える。

 

 スピードに関しては、悔しいけどボクはセンランに遠く及ばない。

 

 しかし、自分と相性の良くない相手とぶつかる事なんて、大会が始まる前からすでに覚悟できている。

 

 それに、ボクには【打雷把(だらいは)】がある。【雷帝(らいてい)】と呼ばれた最強の魔人、強雷峰(チャン・レイフォン)の作った武法が。

 

「大丈夫。絶対に勝ってみせるから」

 

 だからこそ、そう自信満々に言ってのけた。

 

「お姉様……勝ってくださいね」

 

 心配そうに言うミーフォンの頭を再び優しく撫でてから、ボクは控え室へと向かったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、その時はやってきた。

 

 円筒状の空間。リング状に広がった客席にいる多くの観客が、円筒の底のような闘技場を見下ろしている。

 

 そんな彼らの視線を集めているのは、ボクと、その向かい側に立つセンランだった。

 

 上層にある客席からはわらわらと声や音が聞こえる。今でも十分騒々しいが、最高潮になった時はもっと凄まじいのである。

 

 しかし、そんな騒音などほとんど聞こえないほどに、ボクらは互いに意識を集中させていた。

 

「――”私”は嬉しいよ、シンスイ」

 

 晴れやかな笑顔を浮かべたセンランは、そう静かに言った。

 

「キミとこうしてこの場で立てることが、奇跡のようにすら思える。キミがあの時説得を持ちかけなければ、こうなることは叶わなかっただろう」

 

 乱流のような騒音の中にいるにもかかわらず、その静かな声は驚くほどすんなりボクの耳に届いた。

 

 ボクらはまさに、二人だけの世界にいた。

 

「だからこそ、その好意に対する感謝を示すため――全力でいく。それがキミに対する最高の礼儀であると信じているから」

 

 瞬間、彼女を取り巻く雰囲気が変わった。

 

 荒波のような圧力、剣のような鋭さ、それらを同時に感じる。

 

 眼鏡の奥にある眼差しから、視線という名の槍を突きつけられているかのごとき錯覚を覚える。

 

 しかし、そんなふうに雰囲気を変えながらも、センランはさっきと変わらない笑顔で、言った。

 

「何せ、私は「武法士」だからな」

 

 一寸の迷いも無い口調だった。

 

 思わず笑みがこぼれた。

 

 そして、ボクも返す。

 

「うん。ボクも「武法士」だ。だから君が「武法士」である以上、全力でいくから」

 

 センランは「武法士」。ボクも「武法士」。

 

 これは「武法士」同士の神聖な戦いだ。

 

 全力で挑むのが礼儀。

 

 全力で挑む相手には、全力で返すのが礼儀。

 

 平等な関係性。

 

 生まれや家柄や立場を理由に手心を加えたり加えさせたりすることは、その関係性と「武法士」の誇りを著しく冒涜する悪しき行為。

 

 ボクらは互いに、左拳を右手で包んだ。

 

 【抱拳礼(ほうけんれい)】。互いの対等な関係性を、互いに認める儀礼。

 

 これをセンランと交わせたことを、ボクはきっと忘れない。

 

 センランもまた、覚えていてくれることだろう。

 

 そして――試合開始を告げる銅鑼(ドラ)が鳴った。

 

 先に行動を起こしたのはセンランだった。

 

 一気に距離を詰めた――かと思いきや、ボクの真横を通って背後に回り込んできた。

 

 ほぼ一瞬で刻まれたジグザグ軌道。まさしく稲妻が走ったような動きだった。

 

「っ!!」

 

 相変わらずとんでもないスピードだが、その速度で来ることは覚悟していたため、ボクの反応はなんとか間に合った。右肘を振り、真後ろからやってきたセンランの右正拳を弾いてその軌道をずらした。

 

 ボクは素早く彼女の右手首を掴む。そして、そのまま手前へ勢いよく引っ張りこんだ。

 

 センランは羽根のように軽かった。――当然である。センランがボクの引っ張る力に乗る形で、自分から突っ込んで来ていたのだから。

 

「ぐっ!?」

 

 ボクは高速移動してきた石のブロックに直撃したかのような、重々しい衝撃をその身に受ける。

 

 大きく真後ろへ投げ出されるが、なんとか倒れずにバランスを保った。

 

 自重を一〇〇パーセント活用できる武法士の体当たりは、まさしく車の正面衝突に等しい威力がある。

 

 普通の人間なら確実に大怪我しているところだが、武法士の骨格は【易骨(えきこつ)】によって理想形に整えられているため、非常に優れた衝撃分散機能を持っている。これくらいではビクともしないのだ。

 

 センランは遠く開いた間隔を、再びその高速移動で潰してきた。

 

 しかし、真正面から攻め込みはせず、左側面に移動。

 

 彼女が次の行動を起こす前に、ボクは迅速に左半身全てに【硬気功】をほどこす。

 

 それから半秒と待たず、左上腕部にセンランの肘が叩き込まれた。

 

 【硬気功】のおかげで痛みも傷も無いが、弾丸にも等しい速力で衝突した肘は、その腕の細さとは不釣り合いなインパクトを発揮。ボクの体は右側へ勢いよく投げ出された。

 

 一度受身を取ってから、素早く立ち上がり、構える。

 

 ごくり、と喉が鳴った。

 

 ――厄介な武法だ。

 

 センランの重心移動の速度は、『陰陽の転換』の速度とイコールの関係だ。

 

 つまり踏み込んで放つタイプの打撃は、始まり(動作の開始)から終わり(踏み込み)までの過程が非常に速い。

 

 よって、攻撃動作が見えた後に【硬気功】を使おうとしたのでは遅すぎるのだ。

 

 これが【心意盤陽把】。宮廷護衛官の必修武法に採用されるほどの名門流派。

 

 その凄さは前から聞いていたが、実際戦ってみて改めてそれを痛感した。まさに百聞は一見に如かずだ。

 

 それから、幾度も攻めてきた。

 

 瞬足でボクの死角へ移動し、矢継ぎ早に攻撃を浴びせかけてくる。

 

 時には真横。時には背後から。

 

 ボクは神経を極限まで研ぎ澄まし、対処していく。

 

 繰り返される攻撃の種類は様々だったが、すべてに共通している特徴が一つあった。

 

 ――さっきから、全く前から攻めて来ようとしない。

 

 センランは攻撃の時、ボクの後方一八〇度のうちのどこかへ必ず移動しているのだ。

 

 その理由は容易に察せた。

 

 ボクの【勁擊(けいげき)】を警戒しているからだ。

 

 【打雷把】の【勁擊】には、「【硬気功】の無効化」という我ながら反則じみた特殊能力がある。もし直撃が確定しても、【硬気功】で守ることはできない。なので、安全地帯や死角からの攻撃ばかり行っている。

 

 ライライの言った通りの展開になった。

 

 それに加えて、ボクは今少し良くない状況に置かれている。

 

 周囲のあちこちから次々とやって来る攻撃のせいで、腕による防御が間に合わない事が多くなっていた。

 

 そしてその分、あらかじめ【硬気功】を張っておくという手段を多用している。

 

 【硬気功】に頼りすぎているのだ。

 

 このままだと【硬気功】を使いすぎて、【気】が枯渇してしまう。そうなったら疲労で動きが鈍くなる。超スピードを誇るセンランにそこを攻められたらおしまいだ。

 

 今のボクはまさに、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶も同然。この状況が長引けば、そのうち限界がやって来る。

 

 なんとかしなければ。

 

 ゆえに、ボクは行動を起こした。

 

 【硬気功】がかかった背中に打ち込まれた拳の勢いを利用し、ボクは前へ大きく跳ぶ。

 

 足を踏みしめ、勢いを殺す。背中は未だに敵に見せたまま。

 

 そして、そんなボクの後ろ姿めがけて、センランが雷光のような速力で迫った。

 

 ――今だ!

 

 センランの正拳が肉薄した瞬間、ボクはしたり顔で身をねじり、これから打点になる予定だった背中の位置をずらす。

 

 拳は見事に空を切った。

 

 そしてその時すでに、ボクは拳を脇に構えたまま振り向いていた。

 

 【仙人指路(せんにんしろ)】。あえて隙を見せることで、相手の攻撃を誘う体さばき。

 

 彼女は見事に、ボクの垂らした釣り針に食いついたのだ。

 

 ボクは今、見事にセンランの腕のリーチ内へ潜り込んでいた。

 

 このまま真正面から【衝捶(しょうすい)】を打ち込んでやる。

 

 後足で地を蹴り出し、体を勢いよく推進させながら、脇に構えていた拳を伸ばしていく。

 

 しかし、直撃の間際にいるはずのセンランは――口元に微笑を作っていた。

 

 かと思えば、半歩横へ体をズラす。

 

 そうした事により、センランはボクの正拳の延長線上から脱した。

 

 ……しまった。

 

 ボクはそこでようやく理解する。

 

 ミイラ取りがミイラになった。

 

 攻撃を誘い込んだつもりが――逆に誘い込まれた。

 

 自分は未だ、【衝捶】を行おうとしている最中である。

 

 攻撃を繰り出している過程というのは、実は最大の隙になりやすい。なぜなら、攻撃動作を行っている最中は――回避も防御もできないのだから。

 

 ボクは急いで【硬気功】を体の前面にかけようとする。

 

 しかし、センランの拳が突き刺さる方がずっと速かった。

 

「あぐっ――!」

 

 鈍痛と鋭痛の中間のような痛覚とともに、ボクの体が後ろへ吹っ飛ぶ。

 

 歯を食いしばって痛みに耐えつつ、両足の摩擦で慣性を殺した。

 

 見ると、センランはすでにさっきの位置から消えていた。

 

 かと思えば、

 

「はっ!!」

 

 突如、背中に衝撃が舞い込んできた。

 

 約半秒間に十発近いインパクトを叩き込まれ、痛みよりも驚愕が先行する。

 

 その攻撃を受けて初めて、センランがボクの背後へ先回りしていたことを知った。

 

 今のはおそらく、『陰陽の転換』を利用した連続突きだろう。相手に接触した拳を『陽』、そうでないもう片方の拳を『陰』と考え、それらを何度も交互に入れ替えたのだ。この流派の源流である【番閃把(ばんせんは)】譲りの一芸。

 

 それからすぐにやって来た回し蹴りを、ボクは間一髪両腕でガード。

 

 おぼつかない足取りで後退しつつも、なんとかバランスを取り戻す。

 

 そこへ、センランが再び急迫する。

 

 ボクはそれを見て、【気】を丹田にチャージさせる。

 

 ――センランが前蹴りを放つのと、ボクが構えた両腕に【硬気功】を施したのは、全く同じタイミングだった。

 

 ドドドドドドドドドドドドドン!! と爆竹のごとく蹴りが跳ぶ。

 

 センランの両足が、目にも留まらない速度で交互に踏み換えられていた。

 

 おそらく、先ほどの連続突きと同じ理屈を足で実行しているのだ。【番閃把】は拳でしかできないが、【心意盤陽把】は足でも可能なのである。

 

 【硬気功】によって硬化したボクの腕に、彼女の蹴りはダメージにならない。

 

 しかし、絶え間なく高速で浴びせられる衝撃が、徐々にボクの体という名の物体にエネルギーを蓄積させていく。

 

 そして、その「衝撃の蓄積」は――ボクの足をほんの数厘米(りんまい)浮き上がらせた。

 

 たかが数厘米(りんまい)

 

 が、されど数厘米(りんまい)

 

 足元が浮き上がったことで、ボクはバランスを崩し、死に体となった。

 

 マズイ。ここを攻撃されたら――!

 

「そこだっ!!」

 

 センランは蹴りをやめ、拳を矢のように疾らせる。

 

 ボクは、幸いにもまだ【硬気功】の残っていた両腕でそれを防御した。

 

 ズンッ、と衝撃。

 

 痛みは無い。しかし宙に浮いている今、打撃の勢いを殺す手段は無い。

 

 結果的に、ボクは後ろへ大きく投げ出される事になった。

 

 お尻から着地。一度後転し、流れるように立ち上がる。

 

「まだまだ行くぞシンスイ!」

 

 大きく離れた位置に立つセンランの姿が、視界の中で急速に大きく写った。

 

 真っ直ぐ迫る。

 

 ボクは危機感を抱いた。このままじゃ防戦一方だ。

 

 こうなったら、あまり得意な技じゃないけど、「アレ」を使ってみるしかない。

 

 幸い、今のボクとセンランは向かい合った状態だ。この位置関係なら成功するかもしれない。

 

 覚悟を決め、近づいて来るセンランの両目と視線を合わせた。

 

 ボクと彼女の両目が糸で繋がっているイメージを強く持ちつつ、凝視する。

 

 センランがさらに近づく。

 

 が、ボクは今なお彼女の目を見ることに集中していて、一切構えない。

 

 ボクの目には、センランの瞳しか映っていない。

 

 その瞳の奥に、この一戦を心から楽しんでいる感情をあらわす光が見えたような気がした。

 

 とうとうセンランは、拳と蹴りが全てを決める間合いまで到達。

 

 ボクはその瞬間、彼女と視線を合わせたまま――首を右に回した。

 

「うわっ――!?」

 

 するとセンランは、突然何かに引っ張られるようにして前のめりになり、バランスを崩し、虚空を舞う。

 

 さっきまでしていた高速移動による慣性が働き、ものすごいスピードでボクの右を通り過ぎようとする。

 

 そんな彼女に、ボクは飛んできたボールをバットで打ち返す要領で回し蹴りをヒットさせた。

 

 確かな手応えとともに、ほんの微かな呻きが耳朶を打つ。

 

 そして、センランの体は元来た方向へと流された。

 

 【太公釣魚(たいこうちょうぎょ)】――相手と自分の視線を、特殊な【意念法(いねんほう)】を使って一時的に同調(シンクロ)させる技術。同調した互いの視線は、一本の糸で繋がったような状態となるため、ボクが視線を動かせば相手もそれに釣られる形で動かされる。さっきのセンランはそれによってバランスを崩したのだ。

 

 背中を引っ張られるようにして遠ざかるセンランめがけて、迅速に直進。

 

 すぐに追いつき、彼女の胸前へと到達。

 

 ボクは強烈な肘打ち【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】による追い討ちを実行した。

 

 ――が、技を開始した瞬間、彼女は地に足をついてしまう。

 

 当たれば決め手に化けるであろうボクの肘が接触する僅差(きんさ)、風のように一歩後退。射程圏外へ逃げられてしまった。

 

 下がったセンランが再び手前へ疾駆するのと同時に、ボクは肘鉄を空振らせた。前足がズドンッ! と石敷を踏みしめる。

 

 彼女はこちらへ急接近。その顔が視界の九割を占める。

 

 このままじゃ打たれる――そう思った時には、すでに本能的にもう片方の拳を真っ直ぐ突き出していた。【拗歩旋捶(ようほせんすい)】だ。

 

 センランもまた、一直線の突きを出す。

 

 互いの拳が、ピンポイントで衝突。

 

 彼女の【勁擊】のパワーが拳から腕骨を通い、体幹に染み渡る。拳と拳の接触面から暴風が爆ぜた気がした。

 

 ボクは突き終えた姿勢のまま、その場から動かない。

 

 そしてセンランは――大砲のような速度で弾き飛ばされていた。

 

 単純な【勁擊】の威力では、ボクは彼女よりずっと上だ。何より【両儀勁(りょうぎけい)】によって磐石の重心を得ているため、その場から少しも動くことはなかった。

 

 センランは遠く向こうにある壁へ背中から激突。大きく跳ね返って地にうつ伏せに倒れる。

 

 その様子は、ミーフォンとの試合の終わりとデジャヴしていた。

 

 が、センランはゆっくりとだが、立ち上がって見せた。

 

 その顔は、苦痛と同時に確かな喜びを噛み締めるようにして微笑を作っていた。

 

 ボクもつられて笑みを浮かべる。

 

「……私は嬉しいぞ、シンスイ。予想以上だよ。まさか最後の最後で、キミのような強者と一戦交えられるとはな。昨日、リーエンに(こうべ)を垂れた甲斐があったというものだ」

 

「お気に召して良かったよ。君こそかなり厄介だ、センラン」

 

「それは褒め言葉と受け取って良いのかな?」

 

「もちろん。少しでも油断したら、足元をすくわれそうだ。ひと時も気が抜けないよ」

 

「そうか」

 

 センランはフッと涼しげに一笑した。

 

 が、すぐにそれは挑発的な笑みへと様変わりする。

 

「しかしシンスイ、これは勝負だ。私が勝敗にかかわらず去る身だとしても、キミが本気で優勝を目指しているのだとしても、私は全身全霊で勝ちに行く。悪く思わないでくれ」

 

「構わないよ。というか、そもそもそれが目的で”家”を出たんでしょ?」

 

 違いない、とセンランは小さく頷くと、構えを取った。

 

 後足に重心を乗せ、両太腿が地と並行になるほどに腰を落とした構え。

 

 ボクは意思とは関係なしに奥歯を噛み締めた。緊張感が生まれる。

 

 確信できた。

 

 センランはこれから、何かしようとしている。

 

 今まで見せて来なかった、特別で、強力な何かを。

 

「シンスイ、これは「武法士」である私から渡せる、せめてもの置き土産だ。とくと見るといい――【箭踏(せんとう)】を」

 

 次の瞬間、センランの姿が消え――

 

「がっ――!?」

 

 ――たと思った瞬間、ものすごい衝撃が腹部を襲った。

 

 【硬気功】を発動する(いとま)すら与えられず、甘んじて謎の激痛を味わうハメになった。

 

 認識が追いつかない速度で立て続けた物事に、ボクの頭が混乱をきたす。

 

 見ると、先ほどまでボクのいた位置には――正拳を突き終えた体勢のセンランがいた。

 

 宙を舞いながら、ボクは我が目を疑った。

 

 そんなバカな。ボクとセンランとの間には、さっきまでかなりの間隔があったはず。【心意盤陽把】の高速移動をもってしても、最低でも二秒ちょっとは掛かる。

 

 しかし今、彼女は文字通り「一瞬」でボクとの距離を詰め、一撃入れてきたのだ。

 

 ボクは着地とともに受身を取って立ち上がり、前方のセンランを見る。

 

 彼女はボクの8(まい)ほど先に立っていたが、その立ち位置が突然――ボクの右隣に変わった。

 

「うぐっ!?」

 

 横合いから疾風のごとくやって来た肘鉄を、なんとか右肘で打ち下ろして防ぐ。

 

 かと思えば、またしてもセンランの姿が眼前から消える。

 かと思えば、背中に強烈なインパクト。

 かと思えば、センランが再び右隣に現れ、鞭のような回し蹴りをぶち当ててきた。

 

 大きく放り出されるボクの体。

 

 立て続けにダメージを与えられたが、その痛みよりも混乱が勝っていた。

 

 ――【心意盤陽把】に、こんな技があったなんて。

 

 まるで立っている座標位置のみを入れ替えたような、常軌を逸した速度。

 

 それは瞬間移動(テレポーテーション)にも似ていた。

 

 しかし、そんなことはありえない。

 

 なら、一体なんだっていうんだ?

 

 頭の中をかき混ぜながら、ボクは地に背中から落下。

 

 が、痛みをこらえ、すぐに起き上がる。武法は一部の流派を除けば立ち技専門なので、寝転がったままでいることを良しとはしない。

 

 前方に佇むセンランはボクを見つめながら、落ち着いた、しかし強い口調で言った。

 

「これが【箭踏】だ。自分を中心とした一定範囲内の何処かを『陽』と定め、そこへ一歩で重心移動する歩法。我が流派の秘伝に位置する技術だ」

 

 それを聞いて、ボクはようやく合点がいった。

 

 【心意盤陽把】の技術を支えている理論は『陰陽の転換』。なのでこの技も当然それを利用したモノである。

 

 【箭踏】は自分の周囲数(まい)の中で『陽』と定めた位置へ、一歩で重心を乗せる足さばき。

 

 そして、その移動速度は――使い手の『陰陽の転換』の速度に比例する。

 

 センランの『陰陽の転換』は凄まじく速い。

 

 今までの高速移動は、両足の重心移動による『陰陽の転換』を何度も”繰り返す”ことで成立していた。

 

 しかし、【箭踏】は”繰り返さない”。踏み出すのはたった一歩だけ。

 

しかしその一歩には、純粋な『陰陽の転換』の速度がそのまま反映される。それによって、瞬時に数(まい)も離れた位置まで到達したのだ。

 

 それが、あのテレポートじみた移動方法の正体。

 

 デタラメな話ばかりに聞こえるが、そのデタラメがボクを今苦しめている。ゆえに事実と受け止めざるを得ない。

 

「これを見せた相手はキミが初めてだ、シンスイ。尊大な物言いになるが、これを見ることができたキミは自分を誇ってもいい。キミは間違いなく、私が今まで戦った中で最強だ。警護隊トップクラスの実力を誇るリーエンでも、まともにやり合ったら危ないかもしれん」

 

「それは流石に言い過ぎだよ」

 

 ボクは場違いと分かっていても苦笑した。

 

 リーエンさんの動きは一度しか見ていないが、それだけでよく分かった。彼はきっとボクより強い。

 

 でも、自分と同じ趣味と志を持つ友達に、そんな風に認めてもらえたことは素直に嬉しい。

 

 【箭踏】を使ったのも、単にボクが強かったからだけじゃないと思う。

 

 武法を好むボクだからこそ、見せてくれた。そんな気がしてならない。

 

 もしそうだとしたら、本当にサービス精神旺盛だ。

 

 二重で嬉しい。

 

 そして、ボクもそんなセンランの厚意に報いたいと思った。

 

 この一戦を、忘れられない一戦にしてあげたいと思った。

 

「さあ、再開といこう。おそらく、ここからが勝負の分水嶺となるだろう」

 

 ボクは黙って頷いた。

 

 互いに構える。

 

 しっかりと地を踏みしめる。

 

 そのまま、視線と視線をぶつけ合う。

 

 微動だにしない。

 

 上層にある客席から、歓声が絶え間なく降ってくる。

 

 しかし、ボクの意識はこの戦いに集中しているため、その声は小さく聞こえる。

 

 さらに静寂へと近づき、やがてほぼ無音になった瞬間、センランの姿が”消失”。そして間伐入れずに人間一人の【気】が真横に出現。

 

 考える前に、ボクは前へ走った。

 

「ハッ!!」

 

 気合の一喝とともに放たれた掌打が、ボクの背をかすった。

 

 回避に成功した喜びと安堵に浸りたいのはやまやまだけど、そんな暇はない。

 

 丹田に【気】をチャージ。

 

 背後から一直線に攻めてくる事を予想したボクは、先手を取って振り向きざまの後ろ回し蹴りを振り出す。

 

 蹴り足が空気を切り裂き、円弧軌道で鋭く移動。

 

 だが結局、蹴れたのは空気だけだった。センランはその場から少しも動いていなかったのだから。

 

 蹴りの遠心力のまま、ボクは胸をさらけ出す。

 

 センランの姿がまた消えた。この角度からして、間違いなく胴体狙いだ。

 

 ――が、それも予想の範疇。

 

 あらかじめ溜めておいた【気】を、胴体の前面全てに集中させた。【硬気功】。

 

 センランが、点灯したLEDライトのようにパッと目の前に出現。同時に、莫大な運動量のこもった拳が胴にぶつけられた。

 

「わっ……!」

 

 ノーダメージ。しかし打撃の勢いに押され、闘技場の床面を転がる。

 

 しゃがみこんだ姿勢になってから立ち上がると、ボクは決死の思いで頭を働かせた。

 

 ――次はどう来る? 真っ向から? それとも横から? もしくは背後?

 

 ――彼女はボクの【勁擊】を警戒していた。だから真っ向から来る確率は低いかもしれない。

 

 ――だとしたら、睨むべきは背後と左右。もしくは斜め前と斜め後ろ。

 

 ――いや、今の彼女のスピードなら、ボクが対応するよりも速く打ち込める。ならば、真正面から攻めても問題は無いはず。

 

 ならば――あえて前を打つ!

 

 ボクはセンランが姿を消すよりも迅速に、足底から全身を旋回させた。

 

 【拗歩旋捶】。拳が音速に届きそうなほど加速。

 

 矢のごとく撃ち放たれたボクの正拳は、やがて一瞬で眼前に現れたセンランの脇腹に擦過した。彼女の上衣にぱっくりと大きな切れ目が走る。

 

 不格好に腰をひねったセンランは、ひどく緊迫した表情。おそらく、とっさの判断で避けたのだろう。

 

 ボクは突き伸ばされた手で、そのままセンランの衣服を掴もうとする。

 

 彼女は片膝を垂直に蹴り上げ、ボクの腕を真上にカチ上げた。

 

 が、その時すでに、ボクの爪先蹴りが鋭くセンランにヒットしていた。

 

 分厚い鋼板を蹴ったような硬質感が、蹴り足に走る。なんと彼女はすでに胴体に【硬気功】を施していた。この攻撃を読んでいたのだろう。

 

 ボクの【勁擊】は【硬気功】を無効化させることができるが、それは【勁擊】に限った話。普通の打撃技はこうして防がれてしまうのだ。

 

 以降、幾度も出し合い、防ぎ合い、ぶつけ合った。

 

 センランの戦い方は非常に立体的で、かつ型破りだった。

 

 消えては現れ、消えては現れ、消えては現れ、怒涛の攻撃を仕掛けてくる。

 

 ボクはそれをギリギリで防御、回避していく。

 

 やってきてから対処するのでは遅すぎる。なので、あらかじめ相手の一手先を計算、予測した上で先手先手を取っていく。技術というより、駆け引きの勝負だった。

 

 しかし、それでも時々さばき切れずに、細かい攻撃を食らってしまう。それはセンランも同じであった。 

 

 互いの力が拮抗した戦いが続く。

 

 さっきの防戦一方な状態に比べればマシだろうが、それでも宜しい状況とはいえない。

 

 お互いの実力が五分五分なら、その戦いはどちらか片方が力尽きるまで続く消耗戦となる。

 

 自慢になるけど、ボクは相当鍛えているので体力には自信がある。

 

 しかし、センランもボクと同じくらいの武法ガチ勢だ。ヤワな鍛え方をしているとは到底思えない。

 

 そこを考えると、彼女から先に力尽きる展開を期待してはいけないと思った。

 

 センランの力量を必要以上に警戒した上で、一段優位に立つ方法を探す必要がある。

 

 その方法は?

 

 もちろん、【打雷把】の【勁擊】だ。

 

 贔屓目で見なくても、絶大な威力。しかも【硬気功】も効かないという悪魔的な追加効果も持つこの【勁擊】をまともに食らえば、たとえセンランだってただでは済まないだろう。

 

 しかし、それを打ち込む隙が無い。彼女の動きが速すぎて当たらないのだ。それに外れれば、そこがそのまま隙になってしまう。

 

 欲しい。

 

 なんとか、付け入る隙が欲しい!

 

 そのためには何が必要だ!?

 

 必死で考えろ。でなきゃお前に勝機は無いぞ、李星穂(リー・シンスイ)

 

 もう一度【太公釣魚】を使う? ――ダメだ。あれをやるにはかなりの集中力が要る。このギリギリの状況でそんな余裕はない。ましてやセンランは一度食らっているんだ。今度は警戒しているはず。

 

 【仙人指路】はどうだろう? ――何寝言言ってるんだ。それは破られたじゃないか。失敗すればそこが大きな隙になる。

 

 なら、砂をかけて目を潰して動きを鈍らせるのは? ――原始的だけど、良い考えだ。でも砂なんかどこにある? ここは一面びっしりと石敷だ。砂利道とは違う。

 

 ……いや、できるかもしれない。

 

 砂利が無いのなら――作ってしまえばいい!

 

 天啓のようにある考えが浮かんだボクは、丹田に【気】を集め、凝縮させる。

 

 そして、対面していたセンランに背中を向け――闘技場を囲う壁目指してダッシュした。

 

「――!?」

 

 その唐突な行動に驚きの声をもらすセンランを無視し、ボクは壁めがけて全速力で駆け続ける。

 

 壁面がぐんぐん近づいてくる。

 

 次の瞬間、背中に重々しい衝撃が炸裂。センランが追いかけて、ボクの背中を打ったのだ。

 

 かなり痛いが、同時にナイスアシストだと思った。彼女の打撃による勢いのおかげで――壁面まで一気に近づくことができたのだから。

 

 ボクは地を蹴り出し、急速に前進。

 

 壁面のすぐ前まで到達した瞬間、【震脚】で踏みとどまる。

 

 同時に、丹田に集めておいた【気】を――【炸丹(さくたん)】させた。

 

 体の内側から末端へ向けて、激しく突っ張るような力が生まれた。

 

 その力は、強大な威力のこもった正拳に、更なる莫大な運動量を与えた。

 

 そしてその正拳【衝捶】は硬い壁面に直撃し――その直撃箇所周辺を”爆裂”させた。

 

 壁を形作っていた石材が木っ端微塵に粉砕。壁面の一部が深々とえぐれ、大きな破片と細かい破片が同時に宙を舞う。

 

 ボクは、細かい砂状の破片を手のひらいっぱいに掴み出す。

 

 そして、真後ろへ向かってばらまいた。

 

「うっ……!?」

 

 途端、ちょうどボクの3(まい)ほど離れた位置にいたセンランが目元を庇い、呻きを上げた。目に入ったか、もしくは入らないように庇っているのだろう。

 

 ボクはその僅かな隙を見逃さず、一気に彼我の距離を圧縮。

 

 センランがボクの接近に気づく。

 

 同時に、ボクは彼女の腹部に拳を添え置いた。

 

 センランは「マズイ」と言わんばかりの焦りを顔に浮かべる。これから一歩下がって回避しようとすることだろう。

 

 ――しかし、もう何もかもが遅い。

 

 こうして拳を相手の体の表面に密着させた時点で、すでの「この技」は決まっているも同然なのだ。

 

 確かに、瞬間移動じみた【箭踏】の速度は驚異だ。

 

 しかし「瞬間移動じみた」モノであっても、「瞬間移動」ではない。目的の地点に到るまでには、きちんと「過程」が存在するのだ。

 

 そして、その「過程」がある限り、「この技」が外れる事は断じてない。

 

 両足底、両股関節、骨盤、肋間、胸郭――これらを同時旋回させ、その総合的な力を添えられた拳に伝達する。さらにその拳自身にも螺旋運動を加え、その貫通力と推進力を増大。

 

 螺旋の運動量はトコロテン式に伝わるため、その伝達速度が凄まじく速い。

 

 センランが下がるより、添えられたボクの拳が力を持つ方がずっと速い。

 

 ボクは添えた拳を、ゼロ距離で爆進させた。

 

「っはっ――!?」

 

 むせ返るような声とともに、センランは勢いよく「く」の字となった。

 

 これぞ、【打雷把】最速の【勁擊】――【纏渦(てんか)】。

 

 しかし、この技はスピードが速い分、【打雷把】の他の【勁擊】に比べて威力が少し弱い。なので決め手にはならないだろう。

 

 センランは【纏渦】の勢いで、後ろへ投げ出されている最中。バランスを崩した死に体だ。

 

 ここが決め所だ。

 

 ボクは【震脚】で瞬発力を一時的に高めてから、彼女めがけて突っ走る。

 

 距離はすぐに縮まった。

 

 拳を脇に構え、センランに向けて真っ直ぐ狙いを定める。

 

 ありがとう。

 

 さようなら。

 

 いつか、また一緒に遊ぼう。

 

 そんな思いを込めて、【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】を放った――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それから、どれくらい経っただろうか。

 

 二回戦の第一試合、つまりボクとセンランの一戦が幕を下ろし、すぐさま第二試合が始まった。

 

 しかしボクは、選手用の客席でその試合を見ることは無かった。

 

 ボクの二擊目を受けたショックで気絶したセンランの元へ行ったからだ。

 

 【黄龍賽(こうりゅうさい)】の運営サイドは、選手の治療のために腕の良い医師を一人派遣している。意識消失で敗北した選手や、怪我をした選手はみんなそこで処置を受ける権利があるのだ。

 

 医務室に運ばれたセンランはすぐに目を覚ました。【気功術(きこうじゅつ)】による治療を数分受けた後には、すっかり元気になっていた。

 

 ちなみに、ボクはそこに居合わせた大会運営の人に「壁を壊すなんて何を考えているんだ。しかもあんな派手に粉砕するなんて、熟練した武法士でもできないぞ。その小さな体のどこにそんな力がある」という、称賛だか非難だか分からないお叱りを受けた。

 

 センランは回復すると、すぐに『競技場』の出口へと向かった。

 

 ボクも、隣り合わせで付いていった。

 

 勝敗にかかわらず帝都に帰るというのが、二回戦で戦う条件だ。もう、センランとのお別れは目前である。

 

 だからこそボクは、少しでも長く彼女と一緒にいたかったのだ。

 

 目頭が熱くなってくるが、それを抑え、センランと普段通りの態度でおしゃべりをした。もうすぐお別れするという事実から目を背けたいという気持ちももちろんあった。だがそれ以上に、お別れまでの時間を終始楽しいものにしたいと思ったのだ。

 

 センランも同じ気持ちだったはずだ。だって、ときどき鼻をすする音が聞こえたから。

 

 しかし、時間というのは実に平等で、冷酷だ。泣こうが笑おうが等しい速度で過ぎていく。

 

 出口に到着した。

 

 木製の大きな両開き扉を押して開く。

 

 外の日差しが眩しく顔を照らす。

 

 そして、最初に目に付いたのは、騎士制服のような紅色の長衣をまとった一人の美男子。

 

「お待ちしておりました」

 

 その人――裴立恩(ペイ・リーエン)さんは、無表情のまま淡々と第一声を発した。

 

 思わず気後れする。この人は、ボクの苦手なタイプの人間だ。

 

 しかし、今はそんなことどうでもよかった。

 

 もう、お別れだ。

 

 これからセンランは「羅森嵐(ルオ・センラン)」ではなくなり、皇族の人間に戻る。

 

 彼女は本来、手が届かない立場の人間。ここでお別れしたら、次はいつ会えるか分からない。

 

 いや、もし会えたとしても、これまでのように対等な友達として接することは許されないだろう。

 

 それを考えると、この瞬間が永遠の別れになるような気がした。

 

「っ……? あ、あれ……?」

 

 ふと、目元から頬を通い、顎に何かが伝っているような感触。

 

 ボクは、泣いていた。

 

 我慢するって決めてたはずなのに、情けなく涙を流していた。

 

 拭いても拭いても、新しい雫が生まれ、こぼれ落ちる。

 

 止まって欲しいのに、止まらない。

 

 センランはそんなボクを、痛ましそうに見ていた。

 

 その瞳に涙を徐々に溜める。

 

 やがて、ボクらは引かれ合うようにして抱き合った。

 

「大丈夫。私とキミはずっと友達だ」

 

 まるでボクの心を見透かしたようなセリフだった。

 

 その短い言葉だけで、ボクの涙腺は決壊した。

 

「……うん……うんっ…………!」

 

 センランの肩に顎を乗せ、泣き笑いしながら何度も頷く。

 

 師匠が亡くなった時以来、初めて流した涙だったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひとしきり抱き合い、泣いた後。

 

「いつか、帝都に遊びに来い! 立場上おおっぴらに仲良くする事はできんが、今回のように変装して、こっそりキミに会いに来てやる!」

 

 センランはいたずらっぽい笑みを浮かべ、そう提案してきた。目元を少し泣きはらしているが、その顔は昨日ボクと遊びまわっていた時と同じだった。

 

 ボクも笑顔を作り、元気よくそれに頷き返した。

 

「……「羅森嵐(ルオ・センラン)」、流石にそれは問題発言かと」

 

 リーエンさんが呆れ返ったように口を挟んでくる。「皇女殿下」ではなく偽名で呼ぶあたり、やはり真面目だと思った。

 

 センランは意地悪そうに笑い、

 

「私が心配なら、目立たぬようこっそり付いてくればよかろう。それが護衛官(お前たち)の仕事なのだから」

 

「あなた様のお戯れに付き合う事は、我々の職務に含まれないはずなのですが」

 

「私に武法を教えた時点で、すでに職務の範疇など超えておろう?」

 

「……はぁ」

 

 諦めたようにため息をつくリーエンさん。

 

 案外、この人も苦労人なのかもしれない。そう考えると、少しだけ親しみやすさが湧いた。

 

「まあ、私も試合を見ていましたが、あなた様も随分と功を高められたようですね。師の立場から言わせていただきます。――先ほどの試合、見事でした」

 

 彼の一言にセンランは一瞬目を丸くするが、すぐに「そうだろう、そうだろう」と機嫌良く笑った。

 

「しかし、シンスイも凄かったぞ。こやつの【勁擊】は恐ろしい。一発食らっただけで、精も根もすべて削ぎ落とされたような気分にさせられたよ」

 

「……でしょうね。私も観客席から俯瞰(ふかん)しておりましたが、肝が冷えました。あれほどの【勁擊】が打てる者は、この【煌国(こうこく)】広しといえどそうはいないでしょう。【勁擊】の威力が売りの武法はいくつかありますが、(リー)女士の技はもっと異質で、そして恐ろしく見えました。まるで――「彼」のように」

 

 ――彼?

 

 リーエンさんはいつも通りの無表情だが、その額には微かにだが脂汗が浮かんでいた。

 

 そして、ボクの方を向き、突然訊いてきた。

 

(リー)女士、もし間違っていたのなら申し訳ありませんが、貴女の師は――強雷峰(チャン・レイフォン)公ではありませんか? 貴女の武法は、彼のソレととてもよく似ているのです」

 

「え? はい、そうですが」

 

 ボクはきょとんとした顔で普通に答える。

 

 が、センランはひどく驚愕した表情となっていた。

 

「なんと! キミはあの【雷帝】から武法を学んだのか!? あれだけ弟子を取るのを億劫がっていたあの男の衣鉢を継いだと!?」

 

「う、うん。まあ、そうなるかな」

 

「なるほど……それなら、あの異常な攻撃力にも納得がいく。そうか、【打雷把】というのか、あの男の使う武法の名は」

 

 若干気後れした顔でボクは頷く。

 

 ボクはすっかり当たり前のように感じてしまっているが、彼の気難しい性格から考えるに、レイフォン師匠の弟子というのはそれだけで驚くべき存在らしい。

 

 リーエンさんは続ける。その顔は――少し緊張を帯びていた。

 

「……十年少々前、一度だけ【雷帝】を見かける機会がありました。しかし彼の姿を一目見た瞬間、私は情けないと分かっていても、総身を震わせずにはいられませんでした。――恐ろしかった。まるで殺気という名の衣装を普段着のごとく着こなしているかのごとき気迫。幾つもの死線をくぐり抜けた人間特有の凄みを、まだ若輩者だった当時の私は嫌というほど感じました。そして確信しました、「あれが”本物”なのだ」と」

 

 ……そう語るリーエンさんの気持ちが、ボクにはよく分かった。

 

 ボクも初めてレイフォン師匠と目を合わせた時、その瞳からとてつもなく剣呑な気配を感じた。視線だけで殺されるんじゃないかってくらい怖かったのを今でも覚えている。

 

 まあ、深く付き合いを重ねていくごとに、無愛想に見えて意外と面倒見が良かったりといった面があることが分かったので、ボクは師匠の事が結構好きだったけど。

 

(リー)女士、他人の師を批判するような事を口にするのは躊躇われますが、老婆心ながら一つ忠告させていただきます。――貴女の師父は、数多の武法士を決闘で殺害しています。全て【抱拳礼】を行った上での合法的な決闘ですが、人は時に、理屈だけでは決着がつけられない生き物。彼に殺された者の身内や腹心からの”仇討ち”には、十分用心するように」

 

 リーエンさんはいつものリーエンさんらしからぬ、相手の身を案じるような口調で言った。

 

 どう返事をすれば少し迷ったが、ボクはとりあえず「はい」と頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、ボクはその後、思い知ることとなる。

 

 リーエンさんの口にした言葉の重さを。

 

 そして、運命の残酷さを。

 

 



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あまりにも残酷な偶然

「ふっ!」

 

 目の前の男が、鋭く息を吐いて疾る。

 

 研ぎ澄まされた鋭い速度で、大きく開いたボクとの間合いを一気に潰す。

 

 あと三、四歩で到達という距離まで達すると、男は突如風車のように横回転。

 

 屈強な踏み込みとともに、その遠心力の乗った裏拳を振ってきた。

 

 ボクはそれを受けようと、両腕を側頭部に構えて備える。

 

 裏拳が予定通りにボクの両腕に当たる――かと思えば、男は当たる寸前に突如その拳を引っ込め、遠心力を保ちながら急激にしゃがみ込んだ。

 

 裏拳はフェイク。本命は腰を落としつつの足払い。

 

「おっと!」

 

 ボクは円弧軌道でコンパスよろしくやってきた払い蹴りを、後ろへ跳んで躱す。

 

 だがそれは一時の安心。男は深くしゃがんだ状態から全身のバネを活かし、ボクに向かって飛び込んできた。

 

 虎が獲物に爪を立てるような激しい気迫とともに、男の掌打が空気を裂いて迫る。

 

 ボクは、やってきた掌の側面に自身の前腕部を滑らせ、あさっての方向へと受け流す。そしてそのまま、男の腕の中へと足を踏み入れた。体の小さいボクが、最も有効打を狙いやすい最高の立ち位置。

 

 このまま一撃入れてやろう――そう思ったが、敵もなかなか甘くなかった。

 

「ヒュォッ!!」

 

 風が耳元を通り過ぎる音にも似た尖った吐気とともに、男の体勢が急激に上昇。地面から弾き出されたような勢いで跳躍しながら、鋭利な爪先蹴りを左右二連続で放ってきた。

 

 ボクはバックステップが間に合ったおかげで直撃はまぬがれた。けど、爪先蹴りの一発が胸の辺りをかすめ、上着のボタンが一つ開けられた。

 

 鋭く、起伏に富んだ質の高い動きにボクは内心で舌を巻く。流石は準決勝進出者。一筋縄ではいかないようだ。

 

 しかし、それでもボクは勝つ。勝たないといけない。

 

 呼吸を整え、そして構えを取り直す。

 

 男は丹田に【気】を集め、それを両手に集中させた。【硬気功(こうきこう)】をかけたのだ。

 

 それから時間差をほとんど作ることなく、虎爪を象ったような手形による掌打を激しく連発させてきた。

 

「ハイハイハイハイハイハイッッ!!」

 

 一撃一撃に気合の一喝を伴って、怒涛の爪撃が滝のようにボクへ舞い込む。

 

 正面、上下、左右側面、斜め上下、あらゆる方向から飛んでくる。

 

 【硬気功】によって鋼の硬度を得た今の彼の手は、まさしく本物の虎の爪に同じ。なのでボクは手を直接ぶつけ合うのを避け、相手の手の側面と擦るように受け流していく。そこに最小限の動きによる回避動作も加え、クリーンヒットを堅実に防ぐ。

 

 何度も防ぎ、躱しつつも、その攻防に慣れないように心がける。人間は、変化の無い物事や動作をずっと見続けてしまうと、脳が慣れてしまう。それからそのパターン化した動作と違う動作を唐突に出されると、反応が否応なしに遅れてしまうのだ。そういう戦法を取る武法も存在する。

 

 そうならないよう集中力を、手足といった末端ではなく、それに攻撃力を与えている体幹部、そして相手の表情へと向けた。

 

 男は眉間に獰猛なシワを作りながら、ひたすら連打を連ね続ける。

 

 そして次の瞬間、その眉間のシワがさらに数を増した。

 

 ――来る!

 

「カッッ!!」

 

 男は地を踏み鳴らす。そしてその【震脚(しんきゃく)】によって倍加した瞬発力を遺憾なく発揮し、ボクへと接近。

 

 【硬気功】さえ間に合わないほどのスピードだった。

 

 突風の速度と巨岩の重さを兼備した肘鉄が迫る。

 

「っ!」

 

 打撃部位が薄皮一枚まで来た瞬間、ボクは一気に全身を旋回運動させた。

 

 直撃する予定の箇所をズラし、そのまま社交ダンスのように回転しながら男の側面を取る。

 

 そして――腰を落としつつ【震脚】で踏み込み、肩から貼りつくようにぶち当たった。

 

「いっ――!!」

 

 【打雷把(だらいは)】の一技法【硬貼(こうてん)】。渾身の体当たりをまともに食らった男は、眼をひん剥いて魚のようにビクッと仰け反った。

 

 しかしそんな姿を見れたのもほんの一瞬だけ。すぐに男は後ろから引っ張られるような速度で遠ざかり、地を転がり、やがてうつ伏せで止まった。

 

 離れた距離、およそ25(まい)

 

 しばらく経っても動かない男の様子を、審判が近づいて見る。

 

 そして、

 

「意識消失を確認!勝者――李星穂(リー・シンスイ)!!」

 

 ボクの決勝戦進出が決まったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 粱捭展(リャン・バイジャン)は、自分の目が節穴であった事をひどく痛感していた。

 

 準決勝の第一試合が李星穂(リー・シンスイ)の勝利で幕を下ろした後、しばらくして自分が戦う第二試合がやって来た。

 

 決勝戦への切符を奪い合う相手として対したのは、自分より十歳ほど年の離れた少女だった。

 

 毛の末端がゆるく波打った髪は後頭部でひと結びに束ねられており、女にしては背の高い肢体は、理想的な砂時計の曲線美を形作っている。全体的に色気が濃いが、その顔立ちは女の美貌と少女の可愛らしさが同居しているようだった。一言で彼女を形容するなら、美女になりかけた美少女、といったところか。

 

 名を、宮莱莱(ゴン・ライライ)

 

 ここが美しさを競う場であったなら、彼女はここにいる誰よりも輝いていたことだろう。かくいう自分も悲しき男の性ゆえ、幾ばくかの間彼女の持つ美に見とれていた。

 

 だがここは、純粋な武を競い合う舞台。

 

 前年度に【黄龍賽】本戦まで行った経験のあるバイジャンは内心で鼻白んだ。

 

 李星穂(リー・シンスイ)といいこの女といい、小娘が準決勝まで上り詰めるとは、この大会の質も随分下がったようだ。

 

 李星穂(リー・シンスイ)が持つ「硬気功無効化能力」は確かに驚異だ。だが、ここまで勝ち残ったのは、疑うまでもなくその能力のおかげだろう。それを抜きにすれば、所詮は生まれて十年とちょっとの若輩者に過ぎない。目の前の女も同様に、何かすがりつけるものがあったのだろう。

 

 武法の世界に男女の区別は無い。しかしその分、純粋な実力主義だ。

 

 勝負を決めるのは積んできた「功」の高さ。それが劣る者は倒れるしかない。それが武法の世界の常識であり、バイジャンの持論でもあった。

 

 自分はこの小娘共よりずっと長い間、真摯に武法と向き合い、功を積んできたのだ。そんな自分が敗北するなどという事はありえない。いや、あってはならない。

 

 バイジャンは目の前の女を下し、決勝戦で李星穂(リー・シンスイ)と戦うという未来予想図の実現を疑わなかった。

 

 ――そう。試合が始まる前までは。

 

 試合開始を告げる銅鑼が鳴った瞬間、女は残像を残すほどの速度で迫り、そして回し蹴りを鋭く振り切ってきた。

 

 自分はやって来るひと振りに備え、【硬気功】を施した上で腰を落とし、重心の安定を強めた。

 

 しかしその蹴りが直撃した瞬間、まるで大樹で殴りつけられたかのごときとてつもないインパクトが全身に響いた。

 

 さらに重心の安定を嘲笑うように、バイジャンの総身が大きく跳んだ。

 

 着地し、次の攻撃に備えようとした時には、すでに女はこちらに迫っていた。

 

 無数の蹴りが、自分を破砕しようと激しく駆け巡る。

 

 目を奪われるほど美しい生足によって繰り出される、鉄槌のごとき蹴擊。

 

 人間大の石材を余裕で粉砕せしめるであろうほどの速度、圧力が、縦横無尽に暴れまわる。当てそこねた蹴りが時々落下し、石敷を深くえぐった。

 

 威力と速度だけではない。

 

 一蹴りと一蹴りの間に間隙が見られない。反撃に移せる穴が無い。

 

 ゆえにバイジャンは防戦一方だった。――いや、防御したらその防御ごと叩き壊されかねないので、回避一辺倒といった方が正確か。

 

 その回避一辺倒を続けている間に、バイジャンは女の使う武法の本質を見た。

 

 これは【刮脚(かっきゃく)】だ。

 

 変幻自在の蹴りを特徴とする、「蹴りの武法」と呼ばれた名流派。

 

 自分もその使い手と戦い、そして勝利した事がある。

 

 しかし彼女の見せる技巧は、明らかにそのへんの【刮脚】使いとは一線を画していた。

 

 見た目は、大人びた色気があるだけの、ただの少女。

 

 だが、その一蹴り一蹴りからは――その歳からは想像もつかない、暗い執念のようなものを薄々感じた。

 

 バイジャンは目の前にいる女の器を見誤っていた事を悟った。

 

 この女は、運の良さだけで成り上がってきた果報者ではない。

 

 濃い執念のままに牙と爪を磨き続けてきた女豹だ。

 

 回し蹴りを外した女はそのまま背中を向けると、すぐに足を踏み替え、馬が後ろ足を跳ね上げるような後ろ蹴りを放ってきた。知っている。【鴛鴦脚(えんおうきゃく)】という技だ。

 

 鎌のごとく真下から迫った靴裏を、バイジャンは顎を引いて避ける。

 

 が、跳ね上げられた女の蹴り足が、突如急降下。

 

「あがっ――――!?」

 

 右足の甲に、杭を打ち込まれたような激痛。

 

 見ると、急降下してきた女の爪先が突き刺さっていた。

 

 そして、その痛みで硬直したところが隙となったのだろう。

 

 女の蹴りが四方八方から殺到した。

 

 凄まじい速度で踏み替えられる彼女の脚。それと同じ速度で全身のあちこちへ衝撃が襲った。

 

 肉を削ぎ落とし、骨をむき出しにできそうなほどの蹴りが、あらゆる動きと形をもって叩き込まれる。

 

 勢いと衝撃が熾烈過ぎるためか、痛みすら感じる暇がない。

 

 意識だけがガリガリとものすごい速度で削り取られていく。

 

 やがて――バイジャンの意識は闇の底へと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 準決勝の試合が終わった後の正午。

 

 二人揃って見事勝利を収めたボクとライライは、生き生きとした足取りで『商業区』の目抜き通りを歩いていた。

 

 これから祝勝会でもやろうということで、そのための店を探している最中だ。

 

 まあ、まだ決勝戦が終わってないので真の祝勝会とは言えないけど、とりあえず二人揃って決勝には進めたので、軽い気晴らしというかリフレッシュというか、そんな感じである。

 

 なので、大きな料理を頼んだりはしない。

 

 ボクらが探しているのは茶館、つまりお茶屋さんだ。

 

 お酒が飲めないからというのもあるが、それだけではない。茶館はただお茶を飲む店というだけでなく、老若男女いろんな人の交流の場となっているのだ。まあ、地球でいうところのカフェみたいなもんである。軽いお祝い話に花を咲かせるにはうってつけの場所だろう。

 

 ミーフォンは一緒ではない。あの娘は現在、この『商業区』のとある店で日雇いの仕事をしている。なんでも、滞在期間が延びたせいで所持金が結構減っちゃったかららしい。まあ、女の子が野宿するわけにはいかないしね。

 

 というわけで、今はボクとライライの二人だけだった。

 

 なんだか、この【滄奥市(そうおうし)】に来たばっかりの頃の再現みたいだ。

 

 でもあの日と違い、今のボクらはもう立派な予選大会の選手だ。しかも二人揃って、明後日の決勝戦で戦うメンツである。

 

 そのためだろうか。周囲の人たちから受ける眼差しの量が異様に多かった。

 

 羨望の眼差しだったり、驚いた眼差しだったり、中には「みんなやたらと注目してるけど、あいつら誰?」的な目も見られる。

 

 いずれにせよ、なんだか少し照れくさくてむずがゆい。

 

「――ん?」

 

 ふと、そのたくさんの眼差しの中に、少し質の異なる目を見つけた。

 

 眼差しというより、眼光といった方が適切かもしれない。なんか、暗い洞窟の奥から、息を潜めて獲物の隙を伺っている獣のような――

 

「どうしたの、シンスイ?」

 

 ライライの声掛けとともに、我に返った。

 

「あ、ううん、何でも無い」

 

 ボクは取り繕うように否定した。気のせいかもしれないし、そもそも実害があるわけでもない。気にするだけ無駄ってもんだ。

 

 しばらくして、小さな茶館を見つけたボクたちは、そこへ向かった。

 

 開け放たれた引き戸をくぐって中に入る。正方形の卓と、それを囲む椅子。あちこちに設置してあるそれらの席の中から適当に選び、そこへ二人で向かい合う形で座った。

 

 一分と経たない間に、店員さんが注文を訪ねにやって来る。ボクらは慌ててお品書き見た。お茶だけでなく甘味やお茶菓子も売っているようだったが、ボクらはお茶だけを頼んだ。

 

 お代は250綺鉄(きてつ)――【煌国】の通貨の単位である――だそうだ。ボクらは125綺鉄ずつで割り勘した。

 

 注文の品はすぐに来た。木箱のような長方形のお盆に乗ったミニサイズの茶器一式と、まだ開いていない乾燥茶葉、そしてお湯のたっぷり入った銅製のヤカン一つ。

 

 喫茶店のように、最初から出来上がったコーヒーや紅茶が届き、それを飲むというスタイルではない。

 

 お客さんが急須に入った茶葉に湯を注いで茶をしみださせ、それを複数人で分けて飲み合うというスタイルである。

 

 【煌国】の茶文化は、中華圏のソレと非常に似ていた。

 

 ボクは率先して準備を始めた。

 

 茶葉を赤土製の小ぶりな急須に入れ、さらにヤカンのお湯を注いで蓋を閉じる。

 

 一分ほどで、乾燥していた茶葉が大きくなり、お茶がしみだしていた。

 

 だが一番最初に出たお茶は渋みが強いので、おちょこに似た茶杯二つに入れてから、すぐに木箱のようなお盆――このお盆を「茶盤」という――の溝から中へ流し捨てる。これは、茶杯を温めるためでもある。

 

 それから二回目の湯注ぎに入る。ボクはヤカンを高く掲げ、その位置から急須の茶葉へ向けてお湯を叩きつけるように注いだ。こうすることで茶葉が空気を含み、開きが早くなる。茶葉が開けば、お茶がしみだす速度も上がるのだ。

 

 三〇秒ほどで、注いだお湯はお茶となった。それを二つある茶杯へ均等に淹れる。そのうちの一杯を、ライライに差し出した。

 

「随分手馴れてるのね、シンスイ」

 

「うちの姉様に教わったからね」

 

 実際は「叩き込まれた」というのが正しいかもしれない。昔、お茶の作法を完全無視したボクの飲み方を姉様が「はしたない!」とたしなめ、押し付けるように教えてくれたのである。

 

 二人茶杯を手に取り、その芳醇な香りを軽く楽しんでから飲んだ。

 

 苦味の中にも微かな甘味もあり、良い香りも相まってとても美味しい。どんどん喉に流し込みたくなる。しかしジャバジャバと腹いっぱいには飲まず、控えめにゆっくりと飲んでいくのがマナーだ。

 

 茶杯を口から離し、一息つくボクら二人。

 

 リラックスした空気がそこにはあった。

 

 最初に切り出したのはライライだった。

 

「――決勝進出おめでとう、シンスイ」

 

 奥ゆかしい笑みを口元にたずさえ、そう祝辞を述べてくれる。

 

 ボクも「ライライも、おめでとう」と笑顔で返した。

 

「それにしても奇妙な縁ね、私たち。会って早々意気投合した仲だったのが、今じゃ決勝戦で雌雄を決する間柄だなんて」

 

「ホントだね」

 

 二人顔を見合わせて笑い合う。しかしその笑みの中には見えざる闘志が秘められていた。

 

 当然だ。ライライとは友達だが、明後日(あさって)には敵として戦うのだ。

 

 そしてボクは、たとえライライが相手だとしても、手心を加えるわけにはいかない。何せこの大会には、ボクの武法士生命がかかっていると言っても過言ではないのだから。

 

 ライライにもまた、負けられない事情があるのかもしれない。なので手加減してくれるなどと侮っちゃダメだ。

 

 そうだ。明後日の試合は、単純に優勝者を決めるためのものではない。ボクとライライの願いのぶつけ合いでもあるのだ。

 

 ――しかし、今はひとまず試合の事は忘れて、のんびりと過ごすとしよう。そのための茶館だ。

 

 ボクは不敵な笑みを、柔和な笑みに変えた。

 

「そういえばシンスイ、あなたお姉さんの事を「姉様」って呼んでいたわよね。そのことから察すると、シンスイってやっぱりどこかのお嬢様なのかしら?」

 

 ライライも同じ事を思ったのか、談義の方向を取り留めのない話にシフトさせてきた。

 

「うーん、お嬢様なのかなぁ。一族三代揃って、文官登用試験に全員合格してるって話だけど、それ以外に何か特殊な所ってあったかなぁ」

 

「まぁ。それでも十分すごいわよ。親御さんは役人なんでしょう? 暮らしも裕福なんじゃないかしら」

 

「確かに普通の家よりかは裕福かもしれないけど……だから全て良しってわけでもないんだよ? 父様も姉様も二言目には「勉強」だもん。苦しくて息が詰まっちゃうよ」

 

「ふふふ、そうなんだ。まあ確かに、シンスイが机にかじりついて勉強する場面は想像できないわね。あなた、二言目には「武法」だもの」

 

 互いに和やかな笑いを上げる。

 

 そこから、まるで風船が膨らむように話が盛り上がっていった。

 

 子供の頃の話、住んでいる町の話、武法を学び始めて間もない頃の話、とにかく色々な話題を持ち出して会話の材料にした。

 

 まあ、さすがに「ボクは元地球人なんだ!」とまでは言わなかった。信じてくれないだろうし、ヘタをすると狼少年ならぬ狼少女扱いされそうだから。

 

「そういえばさ、ライライのお父さんってどんな人なの? 【刮脚】を教えてくれたのも、確かお父さんなんだよね?」

 

 その膨らんだ談義の最中、ボクはそう尋ねた。

 

「そうよ。父は普段はすごく優しいんだけど、私に武法を教える時は凄く厳格だったの。でも、それは私が武法士社会の中に入った時、命を落とさないよう、徹底的に強くするため。結局のところ、どこまでも優しい人だったのよ」

 

「そうなんだ。何て名前なの?」

 

宮淵輝(ゴン・ユァンフイ)

 

 その名前を聞いた瞬間、ボクは電撃的な速度で身を乗り出し、ライライを凝視した。

 

「マジで!? 宮淵輝(ゴン・ユァンフイ)っていったら、『無影脚(むえいきゃく)』っていう通り名で有名な【刮脚】の達人じゃないか! その蹴りは目で追えないどころか、影さえ生まれない! その脚の【(きん)】の功力は入神の域に達していて、地面と並行に伸ばした脚には百人ぶら下がっても大丈夫っていう、あの!」

 

「ええ。確かに父はそんなあだ名で呼ばれてたわね。……まあ、多少噂に尾ヒレが付いてる感じが否めないけど。でも身贔屓を抜きにしても、非常に高い実力を持った武法士と断言できるわ。それはそうとシンスイ、少し落ち着かないと茶器が傾くわよ」

 

「あ、ああ。ごめん」

 

 冷静になり、ゆっくりと席につき直すボク。そんなボクを微笑ましげに見つめるライライ。

 

「でも、ホントにびっくりだよ。前から「(ゴン)」って苗字と【刮脚】っていう組み合わせに少し引っかかってたけど、まさかライライがユァンフイさんの娘さんだったなんて」

 

 ホント、世界って案外狭いよねぇ。

 

 そこでボクは、ふとある事を考えつく。

 

「ね、ねえライライ……その、お願いがあるんだけど……」

 

「何かしら?」

 

 ボクは卓の下で指同士を絡ませながら、ためらいがちな声で言った。

 

「その……もし【黄龍賽】が終わったらさ、ユァンフイさんに会わせてもらえないかな……?」

 

 ――ボクはただ「ユァンフイさんに会ってみたい」という気持ちで言ったつもりだった。

 

 が、目の前の彼女はボクの言葉を聞いた途端、ひどく寂しそうな顔をした。

 

「…………ごめんなさい。それは、出来ないの」

 

 まるでお通夜のように沈みきった声。

 

 その消沈ぶりを見て、ボクは地雷を踏んだような気がした。

 

「ご、ごめんライライ。もしかして、図々しい頼みだったかな?」

 

「ううん、違うの。別に迷惑じゃないの。でもダメなの。お願いされても、”もう”出来ないの」

 

 ライライは寂しげな顔でかぶりを振りながら言うと、一度区切りを作り、そして次のように発言。

 

「父はもう……亡くなってるから」

 

 ――どうやらボクは、クレイモア級の地雷を踏んでいたらしい。

 

「そ、そうなの!? ご、ごめんねライライ! いくら達人に詳しくても、さすがに今の生き死にまでは分からなかったんだ! ていうか、えっ!? ユァンフイさん、亡くなってたの!?」

 

 ライライに対する申し訳なさ、そしてユァンフイさんがすでに亡くなっていた事への驚愕がないまぜとなり、謝罪だか驚きだか分からない言葉になってしまった。

 

「いいのよシンスイ。もう九年も前の事だもの」

 

 彼女は言うと、口元を小さく微笑ませる。しかし、やはり寂しそうな感じは抜けていない。

 

「父は――父さんは、ある武法士との試合に負けて死んだのよ」

 

「負けた……? あの『無影脚』が?」

 

 耳を疑うボクに、こくん、と頷くライライ。

 

「九年前、その武法士は父さんの名声を聞きつけて、家まで尋ねてきて、真剣勝負を申し込んできたの。当時まだ八歳だった私は、当然反対したわ。だけど父さんは誇り高い武法士だった。「【刮脚】で名を上げた自分がここで引き下がれば、【刮脚】という流派そのものに「臆病者」の烙印が押されてしまう」。そう言って、父さんは試合に応じたわ。その後、父さんは私を家に残して試合をしに行ったけど、いつまで経っても帰ってこなかった。「ついて来るな」って釘を刺されてたけど、私は心配になって父を探した。そして、長い時間走り回って、やっと見つける事ができたわ。――死体になった父さんの姿を」

 

 背筋が凍った。

 

「父さんの死体の傍らには、勝負を挑んできた武法士が棒立ちしていたわ。その男は私を見ると「小娘、お前の父親を殺したのは俺だ。仇を取りたくば、いつでも来るがいい」とだけ言って、去って行ったの。視線だけで魂を引きずり出されそうなそのプレッシャーに、私はしばらく全身が固まって動けなくなった。そしてその硬直が溶けた瞬間、涙が枯れるまで泣き叫んだわ。あの時の事は、今でも頭にこびりついて離れない」

 

 ライライは目を伏せ、密かに奥歯を噛む。

 

 おそらくその試合は、【抱拳礼(ほうけんれい)】で左拳を包んだ上で行われた決闘だったのだ。そうすれば両者の合意が成立した決闘ということになる。ゆえに、その男を殺人という罪で裁くことはできないだろう。

 

 しかし、法で裁かれないからといって、その死んだ者の身内は納得できるだろうか?

 

 いや、きっと出来ない。できるはずがない。

 

「父さんの埋葬が終わった後、私の中の悲しみは、父さんを殺した相手への復讐心に変わったわ。以来、私は仇討ちのために、父さんから譲り受けた【刮脚】をたった一人で磨き続けた。父さんは私に【刮脚】のすべてを教える前に亡くなってしまった上に、今では使い手がほとんどいない古いタイプの【刮脚】だから、他の師も見つからない。だから私は、すでに持っているものを強化するしかなかったわ。それでも必死の修行の末に、【刮脚】を高い水準までに強化する事ができた。まあ、多少我流が混じってはいるけどね」

 

 ライライはボクが今まで見てきた【刮脚】使いの中でも、破格の実力を持っていた。

 

 ……あれは、仇を討つための努力の賜物だったのだ。

 

 ボクはその努力に敬意を感じるとともに、少し寂しい気持ちになった。

 

 仇討ち目的で武法を学ぶ人なんて、別に珍しくもなんともない。武法の長い歴史を振り返れば、そんな人物は掃いて捨てるほど見つけられる。

 

 悪名高い【毒手功(どくしゅこう)】も、仇討ちのための道具として重宝されたのだ。

 

 それくらい、武法と仇討ちの関係は根深い。

 

 ライライも、その中の一人だったというだけの話だ。

 

 しかし、武法を何かのための「手段」としてではなく、武法「そのもの」を愛するボクとしては、そのような目的で修行する人を見るのは少し切ない。

 

 恵まれた人間特有の綺麗事かもしれないし、ボクにとっては他人事だからかもしれない。それでも、そう思わずにはいられなかった。

 

「私が【黄龍賽】に出ようと思ったのは、その仇に自分の存在をアピールするため。あいつはより強い武法士との戦いを求めて、【煌国】中を常に亡者のように徘徊しているの。固定された場所にはいないから、探し回っても見つかる確率は低いわ。でも私が【黄龍賽】で優秀な成績を上げて武名を轟かせれば、その仇は私への関心を抱き、自ずから姿を現してくれる。武名という誘蛾灯で仇を引きつけて、正々堂々と倒す。これが私の目的よ」

 

 ……なるほど。

 

 確かに【黄龍賽】で優勝したとなれば、それは結構なネームバリューになるだろう。その「仇」とやらが名の知れた武法士と戦いたがっているのなら、それは良いエサとなる。誘蛾灯とはよく言ったもんだ。

 

 とにかく、ライライの事情は、今の話でだいぶ理解できた。

 

 でも、本音を言うと、ボクは仇討ちなんてして欲しくない。

 

 「復讐は何も生まないから」なんて月並みな理由じゃない。

 

 単純に、彼女の身が心配なだけだ。

 

 ユァンフイさんほどの武法士を、正々堂々の決闘で殺した人物だ。きっと、実力も相当なもののはず。そんな奴に向かっていけば、命の保証はない。

 

 だから、できることなら、ボクは仇討ちをさせたくない。

 

 しかし、彼女はそんなボクの言葉を、きっと聞き入れてはくれないだろう。

 

「……す、少し微妙な空気になっちゃったわね。ごめんなさい」

 

 申し訳なさそうにそう言うライライ。

 

 ボクはやんわりとした態度で彼女の言葉を否定しつつ、

 

「ううん。実はボクの師匠も、二年くらい前に死んじゃってるんだ。ボクも師匠が死んじゃってすごく悲しかったし、ライライの気持ち、分かるよ」

 

 それは嘘じゃなかった。ライライはお父さんが死んで、実際悲しかったはずだ。その気持ちはきっと、ボクも彼女も同じだと思う。

 

「……ありがとう。優しいね、シンスイは」

 

 そう言って、ライライはにっこり笑ってくれた。普段の大人びた笑みとは違う、少女らしい笑顔だった。

 

 ――う。なんか可愛い。

 

 それを見てギャップ萌え的なものを感じてしまったボクは、少しドキリとする。

 

 少しだが、和やかなムードが戻ってきた。

 

 気分が良くなったボクは、再び小さな急須にお湯を注ぐ。

 

 しばらくして、お湯はお茶となった。

 

 ボクはそれを、自分とライライの茶杯についだ。

 

 互いに茶杯を手に取り、香りを楽しみながら、すするように飲み始めた。

 

「ところで、シンスイの師匠ってどんな人なの? あんなすごい技が使えるんだもの、有名な方なんじゃないの?」

 

 ライライがことさら明るい態度で訊いてくる。

 

「え? ああ、うん。そうだね、有名っちゃ有名かな。多分ライライも聞いたことあると思うよ」

 

「何ていう名前なの?」

 

 彼女の問いに、ボクは何気ない口調で答えた。

 

 

 

 

 

「――強雷峰(チャン・レイフォン)って人」

 

 

 

 

 

 ――ガチャンッ!!!

 

 ライライの手元から茶杯が滑り、卓上に落下。

 

 未だ熱を持ったお茶が彼女の手元にかかり、熱く濡らす。

 

 しかし、ライライの手は、熱に対する反射をピクリとも起こさなかった。

 

「ちょっ、大丈夫!? 火傷してない?」

 

 ボクはびっくりしながらも、彼女のそばに寄るべく席を立とうとした。

 

 ――が、ライライの顔を見た瞬間、ボクの動きが凍てついたように止まる。

 

 ライライはその顔を真っ青にし、信じられないものを見るような目でボクを直視していた。

 

 その両手は感じた熱湯の熱を無視し、真冬の風を受けた時のように震えていた。

 

「…………嘘、でしょ? ……あなたが……そんな…………!!」

 

 その口が、要領を得ない断片的な言葉をつむぐ。

 

「ど、どうしたの、ライライ!?」

 

 ボクはただならぬ事情を感じ、身を乗り出してライライの肩口に触れようとするが、

 

 

 

「――触らないでっっ!!!」

 

 

 

 ――その手を、力強く弾かれた。

 

「……………………え」

 

 ボクはまたしても固まってしまった。

 

 ――明確に拒絶する手つき。

 ――明確に拒絶する言葉。

 ――そして、敵意に満ちた表情と眼差し。

 

 それらを、さっきまで仲良く談笑していた少女が行ったという事実。

 

 ボクはその事実が、未だに現実であると認識しきれずにいた。

 

「…………な、何を……?」

 

 ようやく捻り出せた言葉は、たったそれだけだった。

 

 そして、そんなちっぽけな発言にさえ、ライライは敵意むき出しで喚くように言い返してきた。

 

「うるさい!! 喋るな!! 話しかけるなっ!!」

 

 さっきまでの彼女とは一八〇度違う態度に、未だに混乱が収まらない。

 

 一体どうなってるんだ。

 

 ライライに、何があったんだ。

 

 何か悪いものがとり憑いているのか――そんなバカバカしいことまで考えてしまう。

 

 店内の視線は、すっかりボクら一点に集中していた。

 

「さ、さっきからどうしたのさっ? そんなに急に怒って」

 

「何でもないわよ!! 何かあったとしても、あなたなんかに関係ない!!」

 

「いや、何でも無いわけが――」

 

「おせっかいね!! 関係ないって言ってるでしょ!?」

 

 その物言いに、ボクは大人気ないと分かっていてもカチンときてしまった。

 

「どう見ても怒ってるじゃないか! 怒るのは別に良いけど、その理由を言ってよ! でないとどうしようも無いよ!」

 

 ボクは思わずそうまくし立てる。

 

 次の瞬間だった。

 

 

 

 

 

「うるさいって言ってるのよ!! この――大量殺人者の弟子っ!!!」

 

 

 

 

 

 ――その一言は、決定的だった。

 

 彼女の態度が急変した理由を、ボクは察した。

 

 察してしまった。

 

「……まさか、君のお父さんを殺したのは……」

 

 嘘だ。

 

 そんなのありえない。

 

 偶然にしても出来すぎだ。

 

 信じない。信じたくない。

 

 しかし、ライライは必死に深呼吸しながら、あまりにも残酷な偶然の到来を決定づけた。

 

 

 

「……そうよ。私の父を決闘で殺したのは、強雷峰(チャン・レイフォン)――あなたの師よ」

 

 

 

 ボクはこの時のショックを、多分一生忘れないだろう。

 

 まさしく、運命の悪戯だった。

 

 ――でも、少し深く考えれば、分かる事じゃないか。

 

 ユァンフイさんはこの【煌国】という国全体で考えても、指折りの実力者だ。そんな人を負かすほどの武法士となると、随分と候補が絞られてくる。

 

 そして、その絞られたごく少数の候補の中に名を連ねるのは――達人という言葉さえ可愛く思えるほどの、掛け値なしの怪物たち。

 

 その怪物の中には【雷帝(らいてい)】という通り名とともに全国を震え上がらせた魔人、強雷峰(チャン・レイフォン)の名前も含まれなければおかしいのだ。

 

 何より、あの人は現役時代、名の知れた武法士を決闘でたくさん打ち殺しているではないか。

 

「……その……」

 

 ボクはすっかりおとなしくなり、そして口ごもってしまう。

 

 ボクは、彼女のお父さんを殺してしまった男の弟子だ。どうして非難がましく言い返せようか。

 

 ――謝罪する事だけが、ボクに許された唯一の行為だった。

 

 ボクは席を立つ。そして、ライライの前まで来ると、下げられる限界まで頭を下げた。

 

「……ごめんなさい、ライライ。ボクの師匠が君のお父さんにしてしまった事は、弟子であるボクが謝る。謝って済む話じゃないのは分かってる。許してくださいなんて言わない。でも、謝ることだけはさせて欲しい。――本当に、ごめんなさい…………」

 

 精一杯の謝意を込め、押し殺したような声でそう言った。

 

 頭をめいっぱい下げているため、ライライの顔は見えない。

 

 まだ怒っているだろうか。

 

 侮蔑の眼差しで見下ろしているだろうか。

 

 どちらでも構わない。

 

 どんな悪罵でも八つ当たりでも受けるつもりだ。

 

 しかし、

 

「~~~~~~~~っ!!」

 

 強い憤りを無理矢理飲み込むような唸りが聞こえるとともに、ライライの存在がボクを横切り、遠ざかっていった。

 

「ラ、ライライ、待っ――」

 

「ついて来ないでっ!!」

 

 静止を促すボクの声をバッサリと両断し、ライライは店の出口から外へ行ってしまった。

 

 ボクは店内に取り残される。

 

 他の客も何人かいるはずなのに、まるで陸の孤島にたった一人置き去りにされたような孤独感が襲って来る。

 

 

 

 

 ――ボクは今日、師匠の事をとてつもなく恨んだ。

 



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友達とは

 それからボクは、惰性のように時間を過ごした。

 

 茶館から出た後、同じ宿に泊まっている事もあって何度かライライと顔を合わせた。

 

 しかし彼女の反応は二通り。話しかけて来たボクの声を「うるさい!!」の一言で切り捨てるか、あからさまに無視するかだ。けんもほろろである。

 

 そのせいか、ボクはその日の夜に行う予定だった修行をやる気が起きず、そのまま寝てしまった。

 

 いつもは、よほど体調がひどい時でないと修行は休まない。そんなボクが具合も悪くないのに修行をサボったのだ。我ながら「明日は雪でも降るんじゃないか」と思ってしまった。

 

 翌朝になっても、修行をする気分にはなれなかった。いつもなら体が勝手に修行用の服に着替え始めるのに、それすらしていない。

 

 本格的にヤバイんじゃないかと感じ始める。

 

「……いけない。こんなんじゃ」

 

 ボクはそんな自分自身を、なけなしの気力で鼓舞した。

 

 このままじゃ腐ってしまう。いつものように修行で汗を流せば、少しは頭も冴えるだろう。

 

 少なくとも、何もせず時間を浪費しているよりはずっといい。

 

 何より、明日は決勝なのだ。少しでも下積みをしておかなければ。

 

 お腹に気力を溜め、勢いよく個室のベッドから跳ね起きる。

 

 寝間着を脱ぎ捨て、そのほっそりした肢体に修行用の軽装を通す。

 

 イソギンチャクのような寝癖の付いた長い髪をクシでとかしてから、お馴染みの太い一本の三つ編みにまとめようとした時、ボクはある事を思いつく。

 

「そうだ。ちょっと今日は気分を変えるために……」

 

 ボクは鏡の前で髪を結んでいく。

 

 やがて出来上がった髪型はいつもの三つ編みではなく、両側頭部に一つずつ結び目を作り、二束となった髪を垂らしたヘアスタイル。

 

 ――いわゆる、双馬尾(ツインテール)というやつだ。

 

「……自画自賛だけど、なかなか似合うかも」

 

 鏡に映っているボクは、いつものボクとは印象が大きく違った。

 

 大きな三つ編み一つに髪をまとめた普段のボクは、文学をたしなんでいそうで、なおかつ良家の娘然とした華やかな印象だった。

 

 しかし、今目の前にいるツインテールのボクは、女の子らしさを最大限に発揮し、周囲へ可愛さをこれでもかというくらい振りまいている感じだった。

 

 ――女の子ってすごい。髪型を少し弄るだけで、こうも印象が変わるなんて。

 

 ボクは鏡の前で目を丸くする。目の前にいるもう一人のボクも、同じ顔をした。

 

 びっくりした顔さえ可愛かった。

 

 ボクは調子に乗って、普段は絶対やらないような可愛い仕草やあざといポーズを、鏡の中の分身に次々と強要した。

 

 ……やだ。ボク、かなり可愛い。

 

 女としての美しさには恵まれていると自覚こそしていたが、それを今日ほど実感した日はなかった気がする。

 

「……はっ!?」

 

 が、我に返り、頭をイヤイヤ振った。

 

 ヤバイ。危うくナルキッソスのようになってしまうところだった。

 

 でも、そんなアホなことをやっていたおかげか、少しばかり元気が出た。

 

 よし、と意気込み、ボクは個室のドアから宿の廊下に出た。

 

「あ……」

 

 ――だが出た瞬間、ちょうどライライが目の前を通り過ぎていった。

 

 彼女はボクの存在を一瞥で確かめると、まるでそれ以上何もする必要がないとばかりに視線を前に戻し、歩きを続けた。

 

 ライライには昨日から、何度も袖にされ続けている。きっと今行っても、昨日の今日でまた拒絶されるだろう。

 

 しかし、それでもボクはめげずに駆け寄り、ことさら元気良く話しかけた。

 

「お、おはようライライ! これから食堂でご飯?」

 

 ライライは答えない。ボクなど存在していないかのように、淡々と歩く。

 

 ええい、負けるもんか。

 

 ボクは垂れたツインテールを両手に取り、

 

「ほ、ほら! 見てよライライ! ボク、今日髪型変えたんだ! どう? 似合うかな? 可愛い?」

 

「知らないわよ」

 

 ようやく一言くれた。しかし、あまりに冷たくそっけない。

 

「あ、あのさ……ミーフォンが『商業区』の飯店で働いてるんだって。遊びに行こうよ」

 

「行かない。あなた一人で行けば」

 

「……その……ライライ、今日は何か予定は――」

 

「うるっさいっ!!!」

 

 ライライは立ち止まり、癇癪のように怒鳴った。

 

「もう私に構わないで! だいいち、私たちは明日戦う敵同士でしょ!? 馴れ合うなんてありえないわ!!」

 

 昨日までなら、ここまで明確な拒絶を前に引き下がっただろう。

 

 しかし、今日はいま一歩踏み込んだ。

 

「それは、本心なの?」

 

「――っ!」

 

 見透かされた時のような顔をするライライ。

 

 否定もしなければ肯定もしない。その態度が言葉以上に「本心ではない」と語っていた。

 

 何より昨日のライライは、「決勝で戦う敵同士だから」なんてことは微塵も気にしてなかったのだから。

 

「……とにかく、私の事は放っておいて!!」

 

 やけくそのように言い募ると、ライライは廊下の向こう側へと走り去っていった。

 

 追いつけないスピードではなかったが、「追いかけて来ないで欲しい」と背中が言っている気がしたので、足が動かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、ボクは予定通り修行に取り組んだが、ライライの事で頭がいっぱいでいまいち身が入らず、結局中途半端で終わらせてしまった。

 

 本格的に参っていた。

 

 一晩経てば、多少は態度が柔らかくなるかもしれない――心のどこかでそんな淡い期待を抱いていたが、今朝のやり取りで、それは見事に打ち砕かれた。

 

 けど、むべなるかな、とも思う。

 

 思い起こされるのは、昨日、ライライが放ったあの一言。

 

『うるさいって言ってるのよ!! この――大量殺人者の弟子っ!!!』

 

 あれを聞いた時、ボクは内心かなりショックだった。

 

 しかし、同時に思い知ってしまった。

 

 自分は、そういう人の弟子である事を。

 

 確かに、レイフォン師匠は違法な殺しはやっていなかった。

 

 殺したのはすべて、合法的に行われた決闘の相手だ。相手が死んでも「試合の結果」の一言で社会的にはカタがつく。

 

 けれどそんな理屈は、殺された人の家族の立場から考えれば、体のいい詭弁でしかないのだ。

 

(リー)女士、他人の師を批判するような事を口にするのは躊躇われますが、老婆心ながら一つ忠告させていただきます。――貴女の師父は、数多の武法士を決闘で殺害しています。全て【抱拳礼】を行った上での合法的な決闘ですが、人は時に、理屈だけでは決着がつけられない生き物。彼に殺された者の身内や腹心からの”仇討ち”には、十分用心するように』

 

 あの日、リーエンさんの放った一言が蘇る。

 

 別に、ライライは仇討ちをして来ようとはしていない。

 

 が、それでもボクは、その一言の重さを嫌というほど思い知ったのだ。

 

 ――このまま、ライライとの関係はケンカ別れという形で終わってしまうのか。

 

 意見の食い違いなどによる衝突程度なら、まだ修復は簡単だったかもしれない。

 

 でもボクは、彼女のお父さんを殺した男の弟子なのだ。修復が難しい事は火を見るよりも明らかである。

 

 でも、やっぱりこのままなんて嫌だ。

 

 しかし、どうすればいいのか分からない。

 

 まるで出口の無いトンネルの中をさまよっている気分だ。

 

 そして、そう悩んでいる間にも、お腹は空く。

 

 ボクは水浴びで体の汗を流した後、着替えて宿を出た。宿の食事でもよかったが、今の沈みきった心持ちのまま、一人で食べるのはなんとなく気が引けた。なのでボクは『商業区』へ足を運んだ。

 

 目的地は、ミーフォンが働いている飯店。

 

 この【滄奥市(そうおうし)】でライライ以外に話せる人物は、シャンシーかミーフォンくらい。でもシャンシーはどこにいるか分からない。なのでミーフォンを選んだ。

 

 話し相手が欲しかったのだ。

 

 愚痴を聞いてもらう、なんて大人っぽいものじゃない。ただ誰かと一緒にいたいだけ。

 

 こんな時だけミーフォンを頼るなんて、ちょっと卑怯な気がした。

 

 しおれたツインテールをたなびかせながら、ボクは街道を歩く。すでに八割の店が開店しているが、まだ朝であるためか、正午に比べれば人通りはまばらだった。

 

 もうしばらく歩き、そしてゴールに着いた。

 

 大きくもなければ小さくもない、普通の店だった。入口のドアのすぐ隣には、赤い木枠で囲われたテラスのような空間があり、店内と連結していた。

 

 外壁上部に貼られた横長の飾り看板には、でかでかと『団圓菜館(だんえんさいかん)』と書かれていた。

 

 そして、その店の前で、見知った顔を発見する。

 

「――団圓菜館の朝食セットはいかがですかー!? 美味しいですよー!」

 

 ミーフォンが笑顔で愛想を振りまきながら、呼び込みをしていた。

 

 いつもの勝気な様子とは違い、まるでアイドルのようにキャピキャピしたノリだった。おまけに服装も、いつもと違う朱色の半袖とミニスカート。おそらく給仕さんの制服だろう。

 

 普段と変わったミーフォンのその姿は、見ていて新鮮だった。

 

 ていうか、あのプライドの高いミーフォンに接客ができたのか。

 

「……あ!」

 

 ミーフォンがこちらに気がついた。ただでさえ明るい笑みがさらに輝かしいものとなった。

 

 が、彼女はボクのツインテールを見た瞬間、ものすごい顔をした。

 

 かと思えば、

 

「――ツインテお姉様キマシタワァァァァァァ!!」

 

 がばーっ!! と、勢いよく抱きついてきた。

 

「あ、あはは……良く働いてるみたいだね」

 

「はい! あたしは頑張ってます! それより今日のお姉様凄く可愛いですぅ!! 普段の三つ編みも清楚で素敵ですけど、この髪型もおしゃれですわ!! ああっ! あたしお姉様の髪の匂いでご飯三杯は余裕ですぅ!!」

 

 言いながら、嬉々としてボクのツインテールを両手で揉むミーフォン。

 

 ボクのイメチェンは、大変好評のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この団圓菜館は、二階建てのうち一階を店として使っているようだ。

 

 ボクは店内を通じてテラスに入り、空席を見つけると、そこに座った。

 

「ご注文は何になさいますか、お姉様?」

 

 ミーフォンがニコニコしながらオーダーを訊いてくる。

 

 ボクは席に置いてあったお品書きとにらめっこする。でも、どれにすればいいのか迷う。

 

「今の時間帯なら、朝食セットがおすすめですよ。腹持ちが良くて、味もしつこくない、おまけに値段もお手頃です」

 

 ボクはミーフォンの言う朝食セットをお品書きの中で探し、見つける。確かにリーズナブルな価格だった。これなら財布はそれほど痛くない。

 

「それじゃ、朝食セットにしようかな」

 

「かしこまりました、お姉様!」

 

「ははは。ミーフォン、ちゃんと給仕さんできてるね」

 

「へへ。環境に順応しやすいのが昔からの特技なものなので」

 

 そう照れ笑いしながら、ミーフォンは店内奥のカウンターに向かった。注文を伝えに行ったのだろう。

 

 しばらくすると、陶製のコップが乗った木のトレイを持って、また戻ってきた。

 

「はい、お冷です」

 

 ミーフォンはコップをそっとボクの前に置く。水だった。

 

 ボクは軽くお礼を言ってから、水を少量すすり、器を置いた。

 

「はわー、お姉様のツインテ、柔らかくて気持ちいいですー……」

 

 ミーフォンはというと、嬉しそうにボクのツインテールの片方を触っていた。

 

 ボクはたしなめるように、

 

「ちょっとミーフォン、仕事しないとダメじゃない」

 

「大丈夫ですよ。この店が盛り上がるのは昼からで、朝方はあんまり人来ないんです」

 

 ミーフォンがそう言った瞬間、カウンター奥にいる男性店主の眼差しがビームのように光った。ひっ。

 

「ミーフォン、しーっ!」

 

 ボクが慌てて黙るよう促すと、彼女も失言だったと言わんばかりに口を押さえた。

 

 でも、確かに店内を見渡すと、店内テラス側問わず人はほとんどいなかった。他の給仕さんも手持ち無沙汰な様子だ。

 

 やはり時間帯のせいだろう。観光目的の人はまだ大体寝てそうな時刻だし、仕事がある人はそもそも店に来る暇がない。

 

 とりあえず頼んだ料理ができるまでの間、どう過ごそうか考えていると、

 

「それより、どうですかお姉様、この制服? 似合ってますか?」

 

 ミーフォンはその場でくるりと一回転し、そう感想を聞いてきた。

 

 小柄ながらスタイルの良いその体に通されているのは、朱色を基準とした半袖とスカート。上衣の脇腹辺りには、大きな睡蓮の刺繍が金色の糸で施されている。膝小僧より少し高い位置という、ロングとミニの間を取ったような丈のスカートは、末端がまるでフリルのようになっていた。ゴシックロリータとオリエンタルが混ざったような、中洋折衷のデザイン。

 

「似合ってるよ。特にそのスカート、可愛いね」

 

「めくってもいいんですよ?」

 

「めくらないから」

 

 くすくすと笑うミーフォン。

 

 ジョークなのかマジなのか分からないが、そんな彼女のおかげで少しばかり元気が出た。

 

「そういえばお姉様、ライライは一緒じゃないんですか?」

 

 ふと、ミーフォンがそう尋ねてきた。

 

 ――気まずい気分になる。

 

「あれ、どうしましたお姉様? 元気ないですよ?」

 

 そう言って、ボクの顔を覗き込んでくる。

 

 ボクは何度かためらうが、やがて重い鉄の扉を開くような心境で言った。

 

「実は……ライライとはケンカしちゃって」

 

 正直、ライライが一方的に突き放しているため、ケンカという表現が適切かどうか分からない。でも、それが一番妥当な単語だと思った。

 

 ミーフォンは少し驚いた表情で、

 

「ケンカですかぁ? しかもライライと? あいつ、ケンカするようなタイプには見えませんけど……」

 

「えっと……ケンカというより、ライライの方からボクの事を突っぱねてる感じで……」

 

「ますます腑に落ちませんね。一体何が?」

 

「……ちょっと、事情が複雑なんだけど…………」

 

 ボクはそれから、ミーフォンに話した。

 

 ボクの師匠のこと。

 

 ライライのお父さんのこと。

 

 ボクの師匠が、ライライのお父さんを試合で打ち殺してしまったこと。

 

 そして、ボクとライライの今回のいさかいが、その事を原因としていることを。

 

 話をすべて聞いたミーフォンは、木製トレイを手から落とし、四肢と唇を震わせながら、

 

「なっ……!? お、お姉様……あの【雷帝(らいてい)】の弟子だったんですか!?」

 

「うん、まあ一応。そういえば師匠って、君たち紅家の人間から【太極炮捶(たいきょくほうすい)】を教わったんだっけ?」

 

「は、はい。彼は元々【太極炮捶】発祥の地【嬰山市(えいざんし)】の生まれで、そこで【太極炮捶】を学んだんです。……まあ、破門という形で去ったらしいので、(ホン)家の人間からは良く思われてないですけど」

 

 「破門された」という経歴は、武法士社会では「武館を追い出された」以上の意味を持っている。

 

 前にも言ったかもしれないが、武法士は自分の流派に対する帰属意識が強い。例外もあるが、一度入門すれば、師と兄弟弟子との間にはまさに親兄弟のごとく強固な関係性が生まれる。

 

 一門は、一つの家族と一緒なのだ。

 

 その家族のような間柄から弾かれるというのは、もはや勘当と同じ。だからよほどの事をやらかさない限りは破門にはならない。

 

 つまり「破門された」という事は、その「よほどの事」をやらかしてしまったという意味に他ならない。

 

 そして、その経験はそのまま汚点となる。今度別の流派に入りたくとも、「破門された」経歴がネックとなって、門前払いをくらう確率が高くなるのだ。要するに、「こいつは我が門に泥を塗る存在になるかもしれない」といった感じで警戒されてしまうのである。

 

 【太極炮捶】門下だった若い頃、レイフォン師匠は類稀(たぐいまれ)な才能に恵まれていただけでなく、精進を怠らない努力家だった。そのため、同期の門下だけでなく、自分よりも長く修行している兄弟子たちも置き去りにして、屈強な武法士へと育っていった。

 

 しかし生来の好戦的な人格が災いし、他流派としょっちゅういさかいを起こしていた。あまりにそれがひどかったため、ある日とうとう流派を追放されてしまったのだ。

 

 破門後も、師匠は戦いを続けた。【煌国(こうこく)】中を放浪し、修行しながら名のある武法士たちを次々と決闘で負かした。

 

 さらに功力に磨きがかかり、「負かした」は「打ち殺した」に変わった。

 

 自分の学んだ【太極炮捶】に独自のアレンジを加え、【勁擊(けいげき)】の威力をより凶悪にした武法【打雷把(だらいは)】を作り出した。

 

 そしてとうとう、【雷帝】と恐れられるほどの最強の武法士になった。

 

 しかし彼はなおも満足せず、強者を求めてあちこちで決闘を続けた。

 

 そして、その末にユァンフイさんを…………。

 

「……やっぱり、ボクが悪いのかな」

 

 師匠の歩んできた修羅な道のりを振り返ったボクは、改めてそう思った。

 

 ボクは、ライライに言い返せる言葉を何一つ持っちゃいない。

 

 一方的に悪罵を吐かれるしかない。袖にされるしかない。

 

「もう……仲良くできないのかな」

 

 うつむき、そう弱音をこぼす。自然に出てきた言葉。それだけ心が参っている証拠といえた。

 

 だって、ボクは彼女の仇の弟子なんだ。そんな相手と、一体どうして仲良くできるだろうか。

 

 ――もうきっと、前みたいには戻れない。

 

「……お姉様にとって、ライライはどんな存在ですか? あいつがどう思ってるかなんて抜きにして、お姉様の考えてる答えを聞かせてください」

 

 そこで、ミーフォンが突然そう訊いてきた。

 

 ――そんなの、決まってる。

 

「友達だよ」

 

 ボクは、そう断言した。

 

 会ってまだ一ヶ月どころか、半月にも満たない間柄。

 

 それでも、ボクは彼女の事を友達だと思ってる。

 

 そんなボクの答えを聞いたミーフォンは、何秒か思案顔をしてから、やがて語り出した。

 

「……小さい頃、あたしには仲の良い友達が一人いました」

 

 脈絡の無い発言。

 

 しかし、何かボクに伝えたい事があるのかもしれない。そう思ったので、黙ってミーフォンの言葉に耳を傾けた。

 

「あたしと同じく【嬰山市】に住んでた子でした。その子はあたしと違って武法はやってなかったけど、それでも修行の合間によく一緒にいろんな事をして遊んでました。その子といるとあたしは凄く楽しくて、その子もまたあたしと一緒にいるのは楽しいって言ってくれました。その時、あたしはこの関係が未来永劫続くものだと、信じて疑っていませんでした」

 

 不穏な言葉で一度区切られ、さらに続いた。

 

「でもある日、あたしは見てしまいました。その子が――軽食屋で売ってた油条(ヨウティアオ)を万引きする所を。その子の家は凄く貧乏で、あたしと違ってお菓子を気軽に買う小遣いもなかった。だから、思わず魔が差してしまったんでしょう。あたしはすぐに自白するように説得しましたが、その子は「そんなことしてない」とシラを切りました。当時のあたしは今と違ってもっと生真面目な性格で、そんな不正を許すことができませんでした。商品というのは、その店の人がお金をかけて用意した物。それを一つ盗むだけでも、店の屋台骨をへし折る行為に等しい、といった具合に。だからあたしはその軽食屋に、友達の万引きを告発したんです」

 

 ……これは、どうすればいいのか判断に苦しむ問題だ。

 

 もしもボクなら、その子が自白するまで待っていたかもしれない。しかし、それだといつまで経っても自分の罪を認めない可能性だってある。

 

 しかしミーフォンは、告発を選んだ。

 

 それは社会的に考えれば、正しい事なのかもしれない。

 

 しかし逆に考えると、友達を裏切る行為と捉えられなくもない。その子とまともな友情が続く確率は低いといえるだろう。

 

 ミーフォンの次の語りを聞き、その読みが正しかった事を知る。

 

「その子の母親の必死な謝罪が功を奏して、店の人は訴えを起こさずに済ませてくれました。でもその日以来、その子は泥棒と呼ばれて、大人子供問わず周囲から後ろ指を指されるようになったんです。自業自得と言えばそれまでですが、あたしはその事に強い自責の念を感じてしまいました。バカみたいですよね、自分でチクっておいて後悔するなんて。正しい事をしたはずなのに、その子に引け目を感じて仕方がありませんでした。そうしてまともに話をしない日が続いて、やがて母親が富豪の男と恋に落ち、再婚した事を機に、その子は【嬰山市】を去りました。それ以来、全く会っていません」

 

 自嘲めいた笑みを浮かべながら語るミーフォン。

 

 しかし、その自嘲めいた笑みは、すぐに自信をもった微笑みに変わった。

 

「でも、今ならどう接すれば良かったのかわかります。あたしは、あたしの正しさを信じた上で、その子と向き合ってみるべきだったんです。その結果、どれだけ悪罵をぶつけられようと、そうするべきだったんです。友情が壊れる確率の方が高いでしょう。でも、もしかしたら――また前みたいに仲良くできたかもしれないじゃないですか」

 

 ――ボクは分かった気がした。

 

 ミーフォンが自分の過去を打ち明けた上で、何を言わんとしているのかが。

 

 彼女は見開かれたボクの目を真っ直ぐ捉えると、いつも以上に真摯な語り口で、

 

「お姉様はライライに引け目を感じているようですけど、それは宜しくありません。少し厳しい事を言いますけど、それじゃ関係の改善なんて望めないと思います」

 

「そう……かな」

 

「はい。友達だと思うなら、下手に出るのは良くないです。――なおさら反論するべきです。自分の非を認めつつ、自分の正しさを主張するんです。それができなくちゃ、友達じゃありません。どちらか片側に偏った時点で、友情は成立しなくなってしまうんです。あたしと、その友達みたいに」

 

 まさに今のボクとライライの状態は、ミーフォンにとっては身につまされるものだったのだろう。

 

 だからこそ、助言をくれた。

 

 ボクが、自分みたいにならないようにと。

 

 自分にできなかった事を、ボクにやって欲しいと。

 

 それを思うと、ボクは感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。

 

 きっとボク一人でうんうん悩んでいたら、こんなことは思いつかなかっただろう。

 

 ここに来て、本当に良かった。

 

 ――今、ボクのやるべきことが決まった。

 

 玉砕覚悟で突っ込むこと。

 

 突っ込んで、自分の非を認めた上で、自分の主張をぶちまけること。

 

 それで、ライライとの関係が修復されるという裏付けは無い。ヘタをすると、完全に修復不可能な溝が生まれてしまうだろう。

 

 でも、このまま日和っていたら、なおさら元の関係に戻ることはできなくなる。

 

 なら、やってやろう。

 

 どちらを選んでも後悔するなら、せめて後悔しない確率の高い方を選びたいと思った。

 

「ありがとう、ミーフォン。君の存在をここまでありがたく思った事はないよ」

 

 感謝を述べながら、ミーフォンの頭をそっと撫でた。

 

 途端、彼女はさっきまでの引き締まった表情を一転、にへらーと夢見心地に笑いながら、

 

「えへへー。お姉様ぁ、今でも十分幸せですけど、もう一つご褒美が欲しいです」

 

「何がいいんだい?」

 

「チューして欲しいです」

 

「いや、それはちょっと」

 

 ふふふっ、と二人顔を見合わせて笑声をもらす。

 

「――(ホン)、何やってる!? 朝食セットができたぞ! 早く運べ!」

 

 そこで、カウンター奥から苛立つような男の声が響いてきた。店主のだろう。

 

「あ、すみません! ただいま! ……というわけでお姉様、あたしはこれで」

 

「うん。お仕事頑張って」

 

「はいですっ」

 

 元気よく返事すると、ミーフォンはトレイを拾い、店内へ駆け足で向かった。

 

 が、その足が途中でピタリと止まった。

 

 彼女はボクの方を振り返ると、

 

「あの、お姉様、言い忘れていた事がありました」

 

「なんだい?」

 

 心配そうな顔で言ってくるミーフォンに、ボクの心に何か不穏な感じが生まれる。

 

「その、昨日、客の話を小耳にはさんで知ったんですけど……最近、この【滄奥市】で「武法士狩り」が横行してるらしいです」

 

「武法士狩り?」

 

「はい。なんでも、最近あるデカい【黒幫(こくはん)】が分裂したみたいで、その結果生まれた新興の組織が、自分たちの名を手っ取り早く上げるために、有名な武法士を潰しまくってるんですって」

 

 【黒幫】というのは、この国におけるマフィアのような組織のことだ。

 

 一口にマフィアと言っても、大小様々な組織が存在し、またその性質も組織によって異なる。

 

 まさしくヤクザの典型と呼べる粗暴な【黒幫】もあれば、仁義を重んじる質実剛健な【黒幫】も存在する。……まあ、ぶっちゃけ前者が大半だが。

 

「その……お姉様が予選大会の決勝まで勝ち進んだことは、この辺じゃもう知らない人はほとんどいません。もしかしたら、お姉様も狙われるかもしれません。お姉様なら平気だと思いますけど……その、念のため、気をつけてくださいね」

 

 そこまで言うと、ミーフォンは今度こそスカートを翻し、店内に入っていった。

 

「武法士狩り、か……」

 

 思わず呟きをもらす。

 

 そういえば昨日、衆人の視線の中で、突き刺すような眼光が一つあった気がする。それってまさか……。

 

 いや、そうとは限らないだろう。ボクの気のせいかもしれないし。

 

 それより、今はライライの事が優先だ。

 

 これからの行動のため、たらふく英気を養うとしよう。

 

 

 

 

 

 ボクは朝食セットをお腹に収めてから、店を出た。

 



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ライライの葛藤

 宮莱莱(ゴン・ライライ)は、『商業区』の街路を急いた歩調で歩いていた。

 

 太陽の位置がもうすぐ垂直に差し掛かる時間帯。道行く人々の密度も濃くなってきており、それらの僅かな隙間を縫って進んでいる。

 

 目的地は、ない。

 

 ただ、【滄奥市(そうおうし)】の中をあてもなく徘徊しているだけだ。

 

 すでに二時間以上歩き続けているが、日頃の鍛錬ゆえに足には疲労のだるさを一切感じない。

 

 内に渦巻くわだかまりを少しでも払拭するべく、足を動かしていたかった。

 

 しかし、わだかまりは落ち着くどころか、より一層の濃霧となって心を汚染していた。

 

 ライライは桜色の唇の下で切歯する。

 

 『――強雷峰(チャン・レイフォン)って人』

 

 昨日、シンスイの放った衝撃的な告白が、まるで数分前に聞いたばかりであるかのように色濃く頭に残留していた。

 

 今まで自分が仲良く接してきた友人は、実は長年追い求めてやまない父の仇の弟子だったのだ。

 

 その事実にライライはひどいショックを受けた。被害妄想であると分かっていても、騙された気分を感じずにはいられなかった。

 

 その上、もう一つショッキングな真実を突きつけられた。

 

 仇敵、強雷峰(チャン・レイフォン)が――すでにこの世を去っていたことだ。

 

 自分が必死に己の武を研鑽している間に、あの男はすでに地獄へ高飛びしていたのである。

 

 この真実は、ライライにかつてない喪失感をもたらした。

 

 自分は父が死んだあの日から、レイフォンの事を一日たりとも忘れたことはなかった。

 

 あの男の声、顔、後ろ姿。それらを刻印のように頭に焼き付けながら、父の形見となった【刮脚(かっきゃく)】という刃を懸命に研ぎ澄ませてきた。毒を盛って殺すという手ももちろん考えたが、すぐに切り捨てた。父は正々堂々の試合を行い、命を落としたのだ。仇討ちだからといって邪法に手を染める事は、成功失敗の如何に関わらず、父の名に泥を塗ってしまう行為であると思ったからだ。

 

 だから自分は、愚直に武法を磨く事を選んだ。

 

 あの男が地に倒れ伏す未来予想図を実現するために、努力を惜しまなかった。

 

 だというのに。

 

 ――あの男は、すでに死んでいるとのこと。

 

 憎むべき仇。しかし同時に、自分にとっての道標だった男。

 

 それが喪失した。

 

 あの男が死んだのなら、自分は一体何のために努力してきたのだろう?

 何のために、この大会に参加したのだろう?

 何のために、【あの技】を作ったのだろう?

 

 そう。ライライの胸中に渦巻く喪失感の原因は、目標の喪失だったのだ。

 

 その事が、仇の弟子だったあの少女――李星穂(リー・シンスイ)と揉めた事と重なり、濃霧のようなわだかまりを作り上げていた。

 

 自分はレイフォンの技を直接見ていたわけではない。あの男が作ったという父の亡骸を見ただけに過ぎない。なので、シンスイの武法を見ても、レイフォンの弟子である事に気づくことができなかった。

 

 こんな嫌な偶然がこの世にあるなんて。

 

 彼女には昨日から、ずっと辛くあたっている。

 

 向こうはめげずに何度も話しかけてきたが、自分はそのすべてを拒絶した。

 

「…………っ」

 

 ライライは苦虫を噛み潰したように顔を歪める。

 

 それは、苛立ちから来る表情。

 

 しかし、それはシンスイに向いた感情ではない。

 

 ――あまりに狭量な、自分自身に向いたものだった。

 

 本当は分かっているのだ。

 

 自分の彼女に対する態度が、理不尽なものであることくらい。

 

 はっきり言って、自分が彼女に当り散らすのは、お門違いの最たるものである。

 

 確かに、シンスイは父の仇、強雷峰(チャン・レイフォン)の門弟。

 

 しかし――”それだけ”だ。

 

 近しい人物である事は確かだが、あの男本人ではない。

 

 彼女は、あの気性が激しく好戦的な人格のレイフォンとは似ても似つかない。

 

 病的なまでの武法オタク。しかしそれでいて明朗で、大らかな性格の少女。

 

 そんな彼女を自分は微笑ましく、そして好意的に思っていた。会ってまだ数日だが、まるで可愛い妹分ができたような気分にさえなった。

 

 それなのに、ただ仇と近しい関係だったというだけで手のひらを返し、散々口汚く罵って拒絶した。彼女は何も悪くないというのに。

 

 自分の心の狭さに腹が立って仕方がない。

 

 でも、それでも、ただレイフォンの弟子だったというだけで、彼女をいとわしく思っている自分も心のどこかに確かにいる。

 

 彼女に謝りたい。

 彼女を遠ざけたい。

 矛盾する二つの感情が一つの(うつわ)に入り混じり、ものすごく気持ち悪い。泥の塊を飲み込んだような不快感が残って抜けない。

 

 いつの間にか、自分の足はこの町の中心にある『公共区』の石畳を踏んでいた。闘技場が建っている場所だ。

 

 『商業区』の過密ぶりに比べ、ここの人通りは比較的落ち着いていた。閉塞感が無く、手足を振り回しても迷惑のかからない余裕がある。

 

 しかし、そんなライライの周囲を、突如数人の男が囲い込んだ。

 

 岩のような面構え、堂々たる体格、ところどころに見える小さな刀傷。どう見ても堅気とはいえない風貌の男たちだった。

 

「……何か御用かしら?」

 

 ゆえに、ライライは否応なしに警戒心を抱かされる。

 

 全員に共通する特徴である、背筋に棒でも仕込まれたかのように整えられた姿勢、地面に吸い付くような重心の安定感を持つ足――武法士の身体的特徴――も、警戒心を強める要因だった。

 

 男の一人が、ひっひっ、という気味の悪い笑声を口元から漏らしつつ、

 

「あんた、宮莱莱(ゴン・ライライ)だろ? ちょいとツラ貸してくれねぇか?」

 



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押し寄せる悪意

 正午。

 

 ボクは周囲をしきりにキョロキョロしながら、『商業区』の人波の間を縫って歩いていた。

 

 両側頭部のツインテールを何度も振り乱しつつ探しているのは、言わずもがな、ライライである。

 

 団圓菜館を出た後、ボクはすぐにライライを探し始めた。

 

 ミーフォンのおかげで、もう迷いも負い目もなかった。

 

 すぐにでも会いたい。会って、今度こそ対等な立場で話したい。

 

 自分の苦い過去を持ち出してまでボクを鼓舞してくれたミーフォンのために、そして、ボク自身のために、今日中に必ずライライを捕まえるんだ。

 

 ……と、張り切って探しに出たまでは良かったが、未だに彼女の姿は見つかっていなかった。すでにかれこれ二時間以上探しているにもかかわらず、だ。

 

 無理もない、と思った。【滄奥市(そうおうし)】はかなり大きな町だ。おまけにその半分を占める『商業区』はこんなにも人で溢れかえっていて、そのせいで視界を遮られてうまく見えない。

 

 極めつけに、ライライは『順天大酒店』にはいなかった。つまり、今もどこかで移動を続けているということ。

 

 町は広くて混んでて、目的の人は移動中。探す条件としては最悪の一言に尽きる。

 

 【武館区(ぶかんく)】や『住宅区』には、一時間ほど前に探りを入れた。『商業区』とは打って変わって空いていて動きやすかったが、見つかるかどうかとは話が別だった。なので、やむなく『商業区』に戻ってきちゃったのである。

 

 すでにボクはヘトヘトだった。肉体的にはまだまだ頑張れるが、散々人波にもみくちゃにされてしまったので、精神的に磨り減った感じだ。体力はあるけどもうあんまり動きたくない、といった具合である。

 

「一回休もう……」

 

 ボクは休憩のため、『商業区』を出て『公共区』へとやって来た。ここの方が空いているからだ。

 

 大きな筒のような形状をした『闘技場』まで到着。その巨大な日陰の中に入り、壁際で体育座りした。

 

 目を閉じ、全身を緩め、心もリラックスさせる。しかしそのまま寝てしまわないように気をつける。一応、女の子だからね。

 

 が、その時、なーう、という猫の鳴き声が耳を震わせた。

 

 目を開けると、ボクのすぐ前には一匹の猫がいた。

 

 ニョロニョロとヘビのように尻尾を波打たせている、真っ黒な猫。その光沢のある真っ黒ボディの中、綺麗な金目二つだけが輝いていた。まるで夜空にきらめく星のようである。かなりの美人さんだ。

 

 思わず、その猫の顎を人差し指でちろちろ撫でた。喉元が振動し、ごろろろ、という音が聞こえる。

 

 ボクは癒されると同時に、その猫に強い既視感を持った。

 

「……あっ。おまえ、もしかしてあの時のうちの一匹……?」

 

 そう。この黒猫は『鈴』の奪い合いの最中、『闘技場』の前でケンカしていた二匹の猫のうちの一匹だった。

 

 この子が叫んだおかげで、鈴持ちである事がバレてしまって散々だった。

 

「ま、もう済んだ事だし、許してあげようじゃないか。ボクの心が広くて良かったね」

 

 ボクは黒猫の頭をそっと撫でた。すると、目元を気持ち良さそうに細めた。なんだかミーフォンを彷彿とさせるリアクションだった。

 

「待ってー!」

 

 そこで、幼い女の子の声が聞こえてきた。とてとてと軽めな足音が近づいてくる。

 

 視線を猫から上へ向けると、視線の少し先で、一人の女児がこちらへ向かって駆け足で来ていた。ボクと違って耳の下辺りで結ぶタイプのツインテールで、まだ丸みの残った顔の輪郭と、ボクよりもずっと低い身長から考えるに、年齢はおそらく七、八才くらいだろう。

 

「もー、黒虎(ヘイフー)のばかっ。どうしていつもいなくなっちゃうの?」

 

 女の子は黒猫のもとまで来ると、その腰周りに腕を回して抱きついた。

 

 黒虎(ヘイフー)ってその猫の名前? 何それカッコイイ。

 

 女の子はボクの存在に気づくと、頭をぺこりと下げつつ舌っ足らずな口調で、

 

「あ、あの、ありがとう、お姉ちゃん。この子を捕まえてくれて」

 

「いやいや、別に捕まえたわけじゃないよ。この子が勝手に寄ってきたんだ」

 

「そうなんだ。……あれっ?」

 

 そこで女の子は口を止め、ボクの顔をジッと見てきた。食い入るように。

 

「お姉ちゃん、どこかで見覚えが……」

 

 独り言なのかそうでないのか、女の子がそう呟く。

 

 な、なんだろう。この子は一体何に気づいたんだ。ボクはその幼い眼に思わずたじろぐ。

 

 次の瞬間、女の子は覚醒したように目を見開き、嬉々とした表情で声を張り上げた。

 

「――やっぱりそうだ! お姉ちゃん、明日決勝戦で戦う李星穂(リー・シンスイ)選手だよね!? 髪型変わってるけど、お顔がおんなじだもん!」

 

 あー、なるほど。そういうことか。そういえばボク、もうすっかり有名人なんだっけ。

 

 しらばっくれても意味がないと思ったボクは、女の子の言葉を肯定した。

 

「うん、そうだよ。ボクが李星穂(リー・シンスイ)さ」

 

「やっぱり! あ、あの……李星穂(リー・シンスイ)選手……」

 

「シンスイでいいよ」

 

「は、はいっ。あの、シンスイお姉ちゃん……あ、握手、して……欲しいなって」

 

 尻すぼんだ声でそう言いつつ、もみじみたいにちっちゃな手をおそるおそる差し出してきた。その顔は恥ずかしさと、おっかなびっくりな感じの両方が混じっていた。

 

 どうしよう。こんなちっちゃい子に握手求められちゃったよ。なんだかスターみたいな扱いで少し恥ずかしい。

 

 でも悪い気はしなかったので、ボクは力が入らないよう、ちっちゃい手をそっと握った。

 

「はわぁ……!」

 

 女の子は心底嬉しそうな笑顔を浮かべ、声をもらした。

 

 こ、ここまで喜んでもらえるとは。結構嬉しいかも。

 

 ボクは女の子の頭を撫でながら、

 

「明日の試合、応援してね」

 

「うん! 頑張って、シンスイお姉ちゃん!」

 

 にごり一つ無い純真な瞳を輝かせ、元気いっぱいに応援の言葉をくれる。

 

 可愛いなぁ。ボクはさらにその頭を撫で回した。

 

「あ、あのね、実は宮莱莱(ゴン・ライライ)選手もさっき見たの。でも、なんだか凄く怖い顔してたし、それになんだか怖そうなおじさん達も一緒だったから、話しかけられなくて……」

 

 上目遣いで見上げながら発せられた女の子の言葉に、ボクの心臓が唐突に高鳴った。

 

「お嬢ちゃん、ライライを見たのかいっ? どこで?」

 

 押し迫るようなボクの質問に、女の子はたじろぎながら答えた。

 

「う、うんと、十分くらい前に、この『公共区』で見たの。なんだか怖い顔したおじさん達がいっぱい出てきて、ライライさんを輪っかみたいに囲って、そのままどこかに行っちゃったの」

 

 その情報を耳にして、ボクは胸騒ぎのようなものを感じた。

 

 ――怖い顔したおじさん達。

 

 ライライにそんな知り合いがいるとは思えない。

 

『最近、この【滄奥市】で「武法士狩り」が横行してるらしいです』

 

『あるデカい【黒幫(こくはん)】が分裂したみたいで、その結果生まれた新興の組織が、自分たちの名を手っ取り早く上げるために、有名な武法士を潰しまくってるんですって』

 

 ミーフォンの教えてくれた情報が、ナイスタイミングで思い起こされる。

 

 ライライも決勝進出者。つまり、今のこの町ではボクと同じくらい有名なはずだ。

 

 もしかすると、彼女はその新興の組織に目を付けられ、連れて行かれたのかもしれない。

 

 杞憂である可能性は否めない。

 

 でも、ボクのカンが当たっている可能性も捨てきることができなかった。

 

 ボクは女の子を怯えさせないよう、つよめて冷静な口調で訊いた。

 

「どっち方面に行ったか分かるかい?」

 

「えっとね、あっち!」

 

 女の子が細い指を向けたのは、【武館区】のある方角だった。

 

 ボクは跳ねるように立ち上がると、

 

「ありがとう! 後でお礼にサインをあげるよ!」

 

 そう言い残し、【武館区】めがけて疾走した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんな所に連れてきて、どういうつもりかしら?」

 

 宮莱莱(ゴン・ライライ)は、氷の茨のような声色で周囲の男たちに訊いた。

 

 そこは四角い煉瓦造りの一階建ての前に広がる、正方形の中庭。建物のある位置以外はすべて硬い土塀で囲われており、その内側に広がったこの中庭には家具どころか、石ころ一つ転がっていない。ただ平たい土質の地面が敷いてあるだけの殺風景な空間。

 

 自分と、その周囲に立つ十数人もの男達は、皆等しく同じ地面を踏んでいた。

 

 男達のほとんどは剣や槍などで武装している。ナンパなどといった平和的要件でないことは明白だった。

 

「実は俺ら、あんたに一目惚れしたんだ! ――なんて話じゃもちろんないぜ?」

 

 リーダー格である男が両手の刀を磨り鳴らしながら、おどけた口調で言う。つられてその他全員がゲラゲラと品なく笑い出した。

 

 ライライはそんな連中の態度に眉をひそめながら、

 

「煌国語が通じないのかしら? 「どうしてこんな所に連れて来たのか」って聞いてるのよ。今、私凄く機嫌が悪いの。返答によっては全員蹴り飛ばすわよ」

 

「言うねぇ。鼻っ柱の強い女はおじちゃん大好きよ。組み敷いて屈服させた後の達成感が半端じゃねぇからな」

 

「あなたの好みなんて訊いてない。サービスでもう一度言ってあげるわ。どうして、私を、こんな所に、連れて来たの?」

 

 この無学そうな連中にも分かるよう、区切りを設けながら質問を突きつける。

 

 すると、リーダーはその岩のような顔貌を嗜虐で歪め、言った。

 

「簡単だよ、宮莱莱(ゴン・ライライ)。――あんたを潰すためさ」

 

「……私を? 何のために?」

 

「俺たち【看破紅塵(かんぱこうじん)】の名前を上げるためさ。あんたにゃそのための生贄になってもらう」

 

 ライライの頭に、電撃的に確信が芽生える。

 

「あなたたち……【黒幫】?」

 

「ご名答。だがまだ立ち上げたばっかりの新興組織でね、他の【黒幫】に比べるとまだまだ力不足が否めねぇ。それを改善するためにまず必要なモンって、なんだか分かるか?」

 

「……名声、ね」

 

「そうさ。ヤクザ者の世界で威張り散らすにせよ、部下の数を集めるにせよ、まずは実績に裏打ちされた名声が必要だ。だが今の俺たちの戦力じゃ、他の組織と戦争してもはっきり言って勝ち目はねぇ。そこで考えたのよ。名の知れた武法士に狙いを付け、そいつを叩きのめすことで、手っ取り早く名前を上げようってな」

 

 リーダー格の男が言うセリフには、意外にも説得力があった。

 

 武法士には、表の世界と裏の世界のあわいを徘徊しているような、曖昧な立ち位置の人物が多い。名の知れた武法士は特にそれが顕著である。

 

 あの憎き最強の魔人、強雷峰(チャン・レイフォン)もそうだ。あの男は有名な【黒幫】をたった一人で潰したという過去があるため、裏の世界でもすこぶる恐れられている。

 

 ライライは冷たい声色の中に、諭すような語り口も混ぜて言い放った。

 

「言っておくけど、私は予選大会の決勝まで勝ち残った程度の若輩者よ。あなた達が食べるにはいささか味が物足りないと思うけれど」

 

「へへっ、構わねぇさ。味が物足りなかったとしても、無味ってわけじゃねぇんだ。それに最近、活きのいい獲物がめっきり減っちまってなぁ、少しでも餌が欲しい気分だったのさ」

 

 どこまでも手前勝手な事を言う。

 

 これ以上付き合う義理も意味もないので、ライライは早々に出ていきたかった。

 

 しかし、外と唯一繋がる鉄の正門はすでに施錠されている上、周囲の男たちも自分を逃がさない気満々の様子だった。

 

 どうやら全員叩きのめさない限り、出られる見込みは薄いようだ。

 

 それを確信したライライは大きく息を吸い、そして気持ちを足元に落とす感じで深く吐いた。馬が蹄を翻すように、片足を小刻みに後ろへ振り動かす。

 

「よしよし。ようやくやる気になったかい。そうこなくっちゃなぁ」

 

 リーダーはニヤリと笑い、二つの刃を顔の前で交差させる。ゆるく反った三日月状の片刃剣。片手持ちのソレらを左右の手に一本ずつ持っている。「双刀」という武器だ。

 

 ライライの胸中は闘志に満ちていた。戦わなければいけないと分かった以上、なおも不平を吐くのは愚かしい。なら、戦いに意識を集中させたほうが有益だ。

 

 それに、連中にも言ったが、今の自分は機嫌が悪い。

 

 この戦いは、やり場の無い思いをぶつける対象としてちょうど良い。

 

 元を正せば、向こうから仕掛けてきた事だ。せいぜい鬱憤晴らしに利用させてもらうとしよう。

 

 中庭にぽつぽつと立った男たちから、次々と殺気が発せられ、こちらに伝わる。まるで水面に無数の砂利が落ち、水の波紋がいくつも生まれているみたいだった。

 

 今は無数の波紋だけで済んでいるが、いずれ膨大な水しぶきが舞うだろう。まさしく一触即発の雰囲気。

 

 ――やがて、爆ぜた。

 

「キェアアアァァァ!!」

 

 真後ろにいた男が、槍を一閃させてきた。

 

 鈍銀の刺突を、ライライは体をねじって回避。そのまま槍のリーチ内に入ると、持ち主めがけて疾走し、その胸部に渾身の足裏を叩き込んだ。男の足が大きく後方へスライドする。

 

「……っ」

 

 鋼板を蹴ったような感触に、ライライは舌打ちする。どうやらこちらの手を読んで、事前に【硬気功(こうきこう)】をかけていたようだ。

 

 腐ってもヤクザ者。場慣れしているようだった。

 

「うらぁ!!」

 

 真横では次の攻撃が開始されていた。その男がこちらへ迫りながら振り上げているのは、先端に大きな(うり)状の(おもり)がついた長い棒。「金瓜錘(きんかすい)」という武器だ。

 

 スイカほどの鉄塊が、銀の軌跡を残して流星のように飛んできた。

 

「ハッ!!」

 

 しかし、長年鍛えあげたライライの蹴りの前では玩具でしかなかった。鋭く振り上げた上段蹴りが錘と衝突した瞬間、錘と棒の付け根の部分が小枝のようにへし折れ、二つに別れた。

 

 唖然としている隙を突く形で、男に回し蹴りを叩き込んで吹っ飛ばす。

 

 さらにライライの攻勢は続く。宙を舞った金瓜錘の錘に狙いを定めて、思いっきり蹴飛ばした。錘は大砲のような速度で直進し、遠く離れた位置にいた棍使いの男の顔面に直撃。意識を刈り取った。

 

 今度の敵は三人。左右と前から槍の先端が素早く向かってきた。ライライは唯一の逃げ道である後方へ大きく跳んで、三つの刺突を回避。

 

 避けたと思った瞬間、自分の真後ろに人間一人分の【気】の存在を感知。

 

 さっきの三方向からの攻撃は、後ろで待ち構えていた男の元へと誘い出すための布石だったのだ。

 

「くたばぶらばぁっ!?」

 

 ――が、ライライはそれすらも読んでいた。後ろを一瞥もせぬまま、柄が槍のように長い斧――「大斧(だいふ)」という――を振りかぶった男の腹を足裏で撃ち抜く。派手な呻き、そして真後ろの土塀に物のぶつかる音が耳朶を打った。

 

 そのまま大斧を奪う事もできたが、それはしなかった。【刮脚(かっきゃく)】の専門武器は、リーダー格の男が持っている双刀。大斧のような長く重量のある武器の操作はあまり得意ではないのだ。

 

 しかし、武器を持たずとも、十分事足りる気がした。

 

 ここにいる者たちは全員、明らかに修行不足だ。連携や起点は良いが、体術の練度の甘さがすべてを台無しにしている。勢いはあっても、鋭さに乏しい。

 

 所詮この連中にとって、武法はただの手段でしかないのだろう。

 

 長年自分の流派と真摯に向き合ってきた自分との力量差など、比べるまでもなかった。

 

 こんな戦いを長く続けるなど時間の無駄だ。早々にケリをつけてしまおう。

 

 ライライは敵の塊めがけて突っ走る。

 

 途中、両足に【硬気功】を付与。足を覆う素肌の表面で青白い火花が微かに散る。

 

 そして――鉄脚を振り出した。

 

「「「ぐぉあああぁぁぁぁぁ!?」」」

 

 足のリーチ内に入っていた男三人に回し蹴りが直撃。等しく病葉(わくらば)同然に宙を舞った。

 

 片膝を上げ、横合いからやって来た柳葉刀(りゅうようとう)の刃を、【硬気功】のかかった向こう脛で防御。ガキィン、という金属音を耳にしてから、すぐにその刃の主を爪先蹴りで沈下させた。

 

 双手帯(そうしゅたい)を垂直に振り下ろしてきた男を、双手帯の刃ごと蹴り飛ばす。

 

 ライライは破竹の勢いで、敵の数を一人、また一人と減らしていった。

 

 ――いける!

 

 このままこの勢いを維持すれば勝てる。

 

 そこで、両足に集まっていた【気】が薄まるのを感じた。

 

 ライライが再び両足に【硬気功】を施そうとした時だった。

 

「――えぐっ!?」

 

 思わずえづく。喉元に、横線状の何かが強く食い込む感じがしたからだ。

 

 見ると、自分の左右両側にいる男たちが、互いに縄の先端を持ち合い、ダッシュしてこちらの首に思いっきり引っ掛けていた。

 

 頭が揺れ、一瞬、泥酔時のように気分が揺らぐ。かと思えば後方へ大きく転がっていき、戸が開け放たれている煉瓦造りの建物の中へと吸い込まれる。その内壁にぶつかったことでようやく止まった。

 

 建物の中は何も無い、中庭同様に殺風景な空間だった。一言で言い表すなら「何も入っていない倉庫」といった感じである。日光を入れられる穴は、自分が入った戸口以外に、天井付近に三つほど並んで穿たれた小さな長方形の穴のみ。そのせいか埃っぽく、カビ臭い。

 

 ばたばたばたばたっ、という多重した足音が室内に押し入って来るのを耳にしたライライは迅速に立ち上がる。

 

 リーダー格の双刀使いを含む、八人の男たちが屋内に入っていた。

 

 入口は、すでに(かんぬき)を通して固く閉ざされていた。光源は天井付近に開いた三つの穴だけとなったため、薄暗い。

 

 軟禁状態にするつもりだろう。だがそれは愚策だ。こちらが逃げられないのと同じように、相手もまた逃げる事ができなくなったのだから。

 

 八人の男は、懐から布袋を一つ取り出したかと思うと、それを一斉にこちらへ投げつけてきた。

 

 ライライは素早く横へ動いた。飛んできた袋は全て煉瓦の壁に直撃し、ぺちゃんこになった。

 

 そして、その中からもうもうと濃密な白煙が発生。白煙はあっという間に部屋全体を埋め尽くし、濃霧のように視界を遮った。男たちの姿が霞んで見える。

 

 ライライは毒霧かと思って一瞬焦ったが、吸い込んで舌で味わい、その正体をすぐに見破った。

 

 これは――穀粉(こくふん)だ。

 

 どうしてこんなものを?

 

 だが、それを呑気に考えている暇はなかった。リーダーの双刀使いが二つの白刃をむき出しにしながら、こちらへ鋭く近づいた。

 

 無駄だ。そんな薄弱な刃、足に【硬気功】をかけ

 

 

 

 

 

 ――――駄目だ。出来ない。

 

 

 

 

 

 ライライは丹田への【気】の集中を慌ててとりやめた。

 

 確かに【硬気功】のかかった足による蹴りならば、刃を粉砕しつつ、この男を仕留める事ができるだろう。

 

 しかし、駄目なのだ。今【硬気功】を使ったら、取り返しのつかない事態に陥る可能性がある。

 

「死ねやぁ!!」

 

 リーダーの殺伐とした気合いの掛け声で、我に返る。

 

 しまった。反応が遅れた。

 

 ライライは決死の思いで後ろに跳ぶが、片刃の射程圏内から逃げきれず、左の二の腕に切り傷を負うハメになった。雀の涙ほどの血滴が、白濁した空間を花弁のように舞う。

 

「っ……! このっ!!」

 

 焼けるような痛みをこらえつつ、負けじと前蹴りを突き出す。

 

 しかしリーダーはその苦し紛れの蹴りを軽やかに回避。

 

 そして、虚空に出された蹴り足に、敵の一人が投げた細い縄がぐるぐると巻き付いた。「流星錘(りゅうせいすい)」――掌で包める程度の大きさを持つ瓜型の錘を、細い縄の先にくくりつけた武器。錘を相手にぶつけるだけでなく、縄を相手の四肢に絡みつかせて束縛するのにも使える。

 

 そして流星錘を持った敵は、後足に重心を移し、ライライの足を思いっきり引っ張った。

 

「きゃあっ!?」

 

 ライライは盛大に重心を崩し、前に引き寄せられた。

 

 流星錘に掴まれた片足を前に出しながら虚空を漂い、双刀使いのリーダーの元へと体が移動していく。

 

 「蹴り使いが足を取られた」という事実に、屈辱を感じる暇さえなかった。

 

 リーダーの姿はすぐに視界の九割を占め、そして、

 

「カッ!!」

 

 踏み込みと同時に鋭敏に放たれた肘が、ライライの腹の中央をえぐった。

 

「えぁっ……!」

 

 人間大の鉄球が高速でぶち当たったような衝撃、鈍痛。

 

 肘による【勁擊(けいげき)】をまともに食らったライライは腹の空気を絞り出され、思いっきり後ろへ弾き飛ぶ。しかし片足に巻かれた流星錘がそれを途中で止め、埃の溜まった石の床に背中から落ちることとなった。

 

 ライライはそのまま、激しく咳き込んだ。痛みの余韻は、なおも腹部に濃く残っていた。

 

「――どうだい? 俺らはこのやり方で何人も仕留めてきたのさ。」

 

 リーダーは苦悶するライライを見下ろし、そううそぶいた。

 

 ライライは目を苦痛で食いしばりながら、穀粉をぶちまけた連中の狙いを確信していた。

 

 ――武法士が使う【気】とは、電気的性質を持ったエネルギーだ。

 

 ゆえに【気】は、何かを燃やすための火種にもなり得る。【送気法(そうきほう)】の功力が高い者なら、発した【気】で着火剤に火をつける事も可能だ。

 

 そう。【気】は物を燃やせるのだ。――この密室に舞う穀粉さえも。

 

 小麦粉やとうもろこしの粉といった可燃性の塵が煙のように漂う場所で【気功術】を使うと、【気】がその塵に引火し、粉塵爆発を起こす危険性がある。それで焼死した武法士もいるのだ。

 

 必ずしも火がつくわけではない。しかし、爆発する可能性がある以上、不用意に【気功術】を使うのは愚の骨頂だ。武法とは、戦い、生き残るための技術。その技術で自分を殺してしまっては本末転倒。よほどの馬鹿か命知らずでない限り、この状況下で【気功術】を使おうとはしない。

 

 ――この連中は今まで、そんな武法士の堅実さを逆手に取ってきたのだ。

 

 リーダーはライライの傍らでしゃがみ込むと、

 

「えーっと、こいつの性別は女で、今は……」

 

「今、ちょうど昼の一時になった所ですぜ、御頭(おかしら)

 

「そうかい、恩に着るぜ。なら、今の【麻穴(まけつ)】はここだな」

 

 言うと、リーダーは人差し指を曲げて第二関節を(やじり)のように尖らせ、ライライの左鎖骨の下辺りへ深々と突き刺した。

 

 痛みを感じるとともに、四肢との疎通が途切れるのを感じた。

 

 全身が微動だにしなくなった。手足どころか、指一本さえ全く動かせない。まるで自分の体が自分の物でないかのようだ。

 

 最悪だ――ライライは強い悔恨で歯噛みした。

 

 今、リーダーが使ったのは【点穴術(てんけつじゅつ)】だ。人体に無数ある経穴(けいけつ)のいずれかを突く事によって、相手の体に何らかの影響を及ぼす技術。武法の技術であると同時に、医療の技術としても使われている。

 

 そして今突かれた経穴は【麻穴】。突くと一定時間全身が麻痺し、動けなくなってしまう。

 

 今の自分はまさしく、まな板の(こい)同然だった。

 

「さて、これから死なない程度にお前さんを袋叩きにしようって予定だったんだがな……」

 

 リーダーはそこで一度言葉を止めた。

 

 かと思えば、極上の獲物を見つけた獣のようにぎらついた眼差しを向けてきた。自分の太腿、腰周り、そして大きく膨らんだ乳房に視線が這うのを感じ、生理的嫌悪感が背筋を駆け上ってきた。

 

 他の男たちも同様の目をしている。

 

 嫌な予感が追い討ちをかけてきた。

 

「そうする前に――食わせてもらうぜ。こんな上玉、女郎屋にもなかなかいねぇからな」

 

 リーダーは双刀を無造作に放ると、もう我慢できないとばかりにこちらへ覆いかぶさってきた。

 

 柔肌にきつく食い込む指と爪の感触から「男」の力を感じてしまい、ライライは吐き気がするほど不快になった。

 

「【麻穴】打たれても声は出せるからよ、せいぜい可愛く啼いてくれよ」

 

 小刻みに荒い息をしながら、リーダーは下卑た口調で言った。

 

 汗ばんだ無骨な手が、太腿のラインをなぞりながら、股下へと近づいていく。

 

 これ以上無いほどの怖気が立った。

 

 ライライの心中は、焦りと、そして女としての本能的恐怖で荒波のようにざわついていた。

 

 このままじゃマズイ。

 

 今の自分では何も出来ない。

 

 誰かの助けが必要だ。

 

 ただの武法士じゃダメだ。もっと腕の立つ人物でないと、この連中に返り討ちにされる。

 

 そう、例えばあの少女、李星穂(リー・シンスイ)のような――

 

 

 

『うるさいって言ってるのよ!! この――大量殺人者の弟子っ!!!』

 

 

 

 まるで計ったようなタイミングで、過去に自分の吐いた悪罵が脳裏をよぎった。

 

「……は、はは…………」

 

 口元が、自嘲めいた笑みを形作る。

 

 何を甘ったれた事を考えていたのだろう。

 

 あんな酷い言葉をぶつけておいて、助けて欲しいなどと。

 

 厚顔無恥にも程がある。

 

 この【滄奥市】に来て以来、たびたび行動を共にしてきたあの少女は、今は自分の隣にはいない。

 

 当然だ。自分が一方的に突き放したのだから。

 

 ――これはきっと、報いなのだ。

 

 彼女は何も悪くないのに、父の仇と同一に捉え、そして手酷く拒絶した。その醜い行為への報い。

 

 何度も自分に構ってくれた彼女の気持ちを切り捨てた報い。

 

 この状況は、この馬鹿な女にふさわしい天罰なのではないか。

 

 自分はこれから、女が味わう中で最悪の苦痛を受けるだろう。

 

 今まで汚れを知らなかったこの体を、この男たちの手や舌が暴力的に汚し、征服し尽くすだろう。

 

 五感すべてが、汚らわしい情報で埋め尽くされるだろう。

 

 ――せめてこの男の顔を見ないよう、目だけは閉じたい。

 

 ライライは(まぶた)を下ろし、この残酷な世界に蓋をし始めた。

 

 瞼が半分下りた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ライラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァイッッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、入口の隣の壁が、瀑布(ばくふ)のように爆ぜた。

 



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いいんだよ

 その煉瓦造りの小屋の中からライライの声を耳にしたボクは、その外壁を【硬貼(こうてん)】で思いっきりぶち壊した。戸には鍵がかかっていたので、こんな乱暴な入り方しかできなかった。

 

 激烈な体当たりを受けた煉瓦の壁は木っ端微塵に砕け、ボクの身を屋内に導いた。

 

 途端、霧のような白い煙が視界を覆った。

 

 目の前が白濁するが、おぼろげながら屋内の映像はなんとか視認することができた。

 

 驚いた様子でこっちを見ている、”いかにも”な感じの男が八人。そのうちの一人は、部屋の奥で犬のような四つん這いになっていた。

 

 そして、その四つん這いの男の下で仰向けに倒れる、一人の女性。

 

 白い霧のせいでその姿は霞んで見えるが、彼女は見間違えようもなくライライだった。

 

 ライライの上に乗っかった男を見る。そいつの手は、旗袍(チーパオ)をモチーフにしたようなライライのドレスのスリットをめくり上げ、今まさに彼女の下着に手をかけようとしていた。

 

「――――」

 

 それを見た瞬間、激情が火柱のごとく脊柱を駆け昇った。頭が熱くなる。

 

 気がつくと、ミサイルのような勢いでライライの元へ突っ込んでいた。

 

「ぐぉあっ!?」「わっ!?」「だあっ!?」

 

 途中で何人かを跳ね飛ばすが、知ったことじゃない。勝手に倒れてろ。

 

 そして、ライライを組み敷いている男の腹を勢いよく蹴り上げた。

 

 奇怪な呻きを上げて吹っ飛んだその男には目もくれず、ボクはライライに駆け寄り、その隣でしゃがみこんだ。

 

「ライライ! ボクだよ! 大丈夫!?」

 

「……シン、スイ?」

 

 視線だけをこっちに向け、かすれた声で呟く。彼女の目は「どうしてあなたがここにいるの」とでも言いたげな光を持っていた。

 

 その問いに対する答えは簡単だ。【武館区(ぶかんく)】の人たちにライライを見なかったか聞いて回り、それらの情報を頼りに走り、ここまで到着したのだ。ライライはもうこの町の人たちには顔が割れていたため、居場所をたどるのはそう難しくなかった。今回ばかりはネームバリューに感謝である。

 

 左腕から血が出てるけど、それ以外に大きな怪我は無いようだった。

 

 ――良かった。間に合って本当に良かった。

 

 ライライの冷たい手を、宝物のように抱きしめる。

 

 が、彼女の手は、まるで魂が宿っていないかのようにボクの腕の中からするりと抜け、床に落ちた。

 

 この手の反応、まさか。

 

「もしかして……【麻穴(まけつ)】を打たれた?」

 

「……ええ。そうみたい」

 

 やっぱりそうか。

 

 【点穴術(てんけつじゅつ)】で打つべき経穴の位置は、固定されていない。その人の性別、時間帯によって、打つべき位置が変わるのだ。まるで太陽の黒点が移動するように。

 

 残念ながらボクは【点穴術】に関しては門外漢。なので、症状の回復に必要な経穴の位置が分からない。

 

 打たれて間も無いとしたら、【麻穴】の効果はあと数十分ほど続く。

 

 そしてその数十分の最中、この連中がライライに何をしようとしたか。

 

 答えは――さっきまでの様子を見れば明白だった。

 

 それを確信した瞬間、一度静まっていた怒りが再燃した。

 

「おい、こいつ――李星穂(リー・シンスイ)じゃねぇか?」

 

 男の一人が、ボクを指差しながら言う。

 

「お、マジだ。本物だ。髪型は違ぇけど」

 

「今日はついてんじゃねぇか」

 

宮莱莱(ゴン・ライライ)といいコイツといい、大量だなオイ。早く頂いちまおうぜ。決勝進出者二人を同時に潰したとなりゃ、俺ら【看破紅塵(かんぱこうじん)】の名にも箔がつくってもんだ」

 

 周囲の男たちは各々の武器を鳴らしながら、ギラついた目をボクらに向ける。今すぐにでも向かってきそうな気配が漂っていた。

 

 こいつらは間違いなく、ミーフォンの言っていた【黒幫(こくはん)】だろう。

 

 しかし、そんなことはもうどうでもよかった。

 

 こいつらがライライに酷いことをしようとしたのは事実なのだ。

 

 ――ぶちのめす理由は、それだけで十二分だ。

 

 ボクはゆっくりと立ち上がった。

 

「ライライ、ごめん。ちゃんと後で医者に連れて行くから、しばらくここにいて」

 

「ま、待って」

 

 ライライは慌てたような表情で呼び止めると、一度深呼吸してから、落ち着いた口調で告げてきた。

 

「……ここで【気功術(きこうじゅつ)】は使わないで。この白い煙は穀粉だから」

 

「……そっか。分かった。ありがとうライライ」

 

 小さく微笑みかける。

 

 そして、

 

「一番乗りぃーー!!」

 

 力強く木床を踏む足音と一緒に、真後ろから愉快げな叫びが聞こえた。

 

 ――その瞬間、ボクは一つの戦闘機械と化した。

 

 ボクは一切振り返らないまま、片足を鋭敏に後退。その足に重心を移すと同時に、背中から真後ろの敵へ激しくぶつかった。

 

「おげぁ!?」

 

 耳元で呻きが響いた瞬間、背中に付いていた敵の感触が離れ、後ろの壁から激突音が聞こえてきた。背後の敵への体当たり技【倒身靠(とうしんこう)】が見事に直撃したようだ。

 

 振り返り、次の敵が迫っていることを確認。そいつは引き絞っていた片手持ちの両刃直剣で真っ直ぐ突き込んできた。ボクは体を軽く捻って刺突を回避すると、直剣の(つば)を片手で掴んでから、それを握る男の顔面に足裏をぶち込んだ。

 

 男はひるんで仰向けに傾いて倒れていき、直剣を握る力も弱まる。ボクはその剣をひったくって右手に握るや、稲妻のような迅速さで真後ろに構えた。床と並行に構えられた剣身に、後ろから垂直軌道で放たれた斬撃がガキィン! と重々しくぶつかる。

 

 視線を真後ろへ巡らせると、柳葉刀を振り下ろした格好の男が立っていた。ボクは直剣を傾けて柳葉刀の刃を下へ流しつつ、滑り込むように至近距離の間合いを取る。そしてその腹めがけ、山が猛スピードで滑って直撃するような渾身のエルボーをぶち当てた。【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】だ。

 

 ピンボールよろしく吹っ飛んだその男をすぐに視界から外し、振り返る。

 

「このクソアマがっ!!」

 

 やけっぱち気味に飛んできた敵の片刃剣を、ボクは直剣で軽くさばく。重厚な金属音とともに、そいつのボディはがら空きになった。ボクは躊躇なくそこへ飛び込み、左拳による【衝捶(しょうすい)】を激しくヒットさせる。

 

「ぎゃっっ!!」

 

 そいつは火あぶりで苦しむような激しい叫びを一瞬上げると、スピーディーにボクから離れ、壁に激突。しばらく貼り付いてから、ゆっくりと剥がれ落ちるように壁面を離れ、床に倒れ伏す。

 

 部屋を見渡した。立っているのは残り三人。

 

 ボクはまず、その三人の中で最も手近な奴へ鋭く歩を進めた。

 

「うわ!! く、来るなー!!」

 

 そいつは焦った顔で声を荒げながら、柳葉刀を横薙ぎに振る――前にボクがその懐へ飛び込み【衝捶】。倒れる。

 

「お、おいちょっと待て! 俺もう降さ――」

 

 二人目の男は武器を捨てて何か言おうとしていたが、構わず突っ込んで【衝捶】。倒れる。

 

「ま、待ってくれ! 俺が悪かっ――」

 

 構えを一切取らずに何事か喚く三人目の男にも風のように近づき、【衝捶】。倒れる。

 

 ボクはそこで動きを止めると、呼吸を整え、周囲を見回した。

 

 白い粉塵の舞う部屋の床には、ボクが蹴散らした敵が雑魚寝よろしくあちこちで寝転がっている。

 

 しかし、倒れているのは七人。あと一人足りない。

 

 そして、その一人はすぐに現れた。

 

 その残った一人――ライライを組み敷いていた男は、半月状の刀身を持った二本の刀「双刀」の刃を顔前でクロスさせ、その又の間からボクを睨んだ。洞窟の奥から獲物を狙う虎のような鋭い眼光。昨日、『商業区』で感じた視線と同質だった。

 

 ボクは負けじと目つきを鋭角的に細め、睨み返しつつ、

 

「まだやる? これ以上やる意味はないと思うけど」

 

「降参する――と言いてぇ所だが、ここまで損害を出されておいて帰したんじゃ、俺も首領として示しがつかねぇ。だからよ李星穂(リー・シンスイ)、オメェは俺の双刀のサビになってくれや」

 

 まるで威嚇するように、二枚の刃をチンチンと打ち鳴らす男。

 

 ボクは冷えきった表情と声色で、

 

「……あっそ。じゃあさっさと来なよ。当分悪い事できない体にしてあげるから」

 

「まあ待ちな。この場所じゃ【気功術】が使えねぇ。やるんなら、この建物の外に出てからにしようや」

 

「……分かった」

 

 ボクは双刀の男が出した提案に頷くと、さっき壁を壊してできた横穴に向かってゆっくり歩き出した。双刀の男も後ろからついて来る。

 

 穴の前まで着く。

 

 そして――腰を急激に深く沈めた。

 

 頭の位置もそれによって下がり、そしてすぐに頭上で「何か」が風を切って通過するのを感じた。

 

 その「何か」とは、男の放った白刃の横薙ぎ。

 

 ボクは首と肩だけを軽く振り返らせ、不意打ちに失敗した双刀の男に軽蔑の眼を向けた。

 

「――ボクの期待通りに動いてくれてありがとう」

 

 そして、腰を深く落とした状態を維持しながら、間合いを一気に詰める。

 

 右手の刀を振り抜いた状態の男は慌てて対処しようとしたが、ボクの接近の方がずっと速かった。

 

 【震脚(しんきゃく)】で木床を踏み割ると同時に、肩口から激突。

 

「あごぁっっ――!!」

 

 【硬貼】を受けた双刀の男は、猛スピードで後ろへ流された。壁面にワンバウンドしてうつ伏せに着地。床で繰り広げられている雑魚寝大会に参加した。

 

 男は苦痛に歪んだ顔のまま、ピクリとも動かない。

 

 ――終わった。

 

 その事を確認すると、ボクは片手の直剣を放り出す。【硬気功(こうきこう)】無しで戦わなければならなかったため、やむなく慣れない武器を使ってしまった。

 

 雑魚寝した敵を次々と跨ぎながら奥へ進む。

 

 仰向けになったライライの元までたどり着くと、まるで先ほどの荒事など存在しなかったかのような、とびきりの笑みを浮かべて言った。

 

「――さあ、帰ろう。ライライ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、宮莱莱(ゴン・ライライ)はシンスイに背負われながら、その建物を後にした。中庭を囲う土塀の一部は派手に崩壊しており――シンスイが体当たりでぶち破ったらしい――、そこから外へ抜け出た。

 

 ライライはそのまま、【武館区】の病院へと連れて行かれた。

 

 小柄で細身のシンスイが、女にしては長身なライライを背負って歩く。その図は、まるで子供が大人をおんぶしているように見えなくもなかった。正直、周囲の視線に恥じらいを覚えたが、【麻穴】のせいで全身が動かないのだから仕方がない。甘んじておんぶされ続けた。

 

 病院に着くと、医者は数分間の問診をしてから、髪の毛よりも細い(はり)でライライの経穴を何箇所か刺してきた。痛みはなく、それどころか【麻穴】のせいで失われていた全身と脳の疎通が戻り、体が問題なく動くようになった。【麻穴】の効力を解くことのできる経穴を鍼で刺激したからだ。【点穴術】は、【気功術】と並ぶ医師の必修技能。体の不調を回復させる事はもちろん、全身麻酔を行ったりするのにも使う。

 

 さらに左腕の切り傷を治すため、【気功術】による治療も受けた。気功治療は「傷を治す」のではなく「治す力を強化する」ための処置だ。そして武法士は全身の【気】の流れが非常に円滑であるため、自然治癒力は常人よりずっと高い。その二つの要素が強い相乗効果を発揮し、切り傷はその場ですぐに塞がった。

 

 治療費は、シンスイが出してくれた。悪いと思って拒否しようとしたが、彼女は頑として「自分が払う」と譲らなかった。その奇妙な迫力に圧されて、結局払わせてしまった。

 

 病院を出た時、すでに時間は昼過ぎだった。地上と垂直の位置で輝いていた太陽は、すでに西へと傾き始めていた。少し弱まった陽光が、地上の【武館区】を照らしている。

 

 シンスイは喉が渇いたようで、目抜き通りの横に伸びた細い脇道の先にある井戸の前に来た。つるべで水を汲み上げ、たっぷり入った井戸水を何度も柄杓で掬って飲んだ。しまいには少しずつ飲むことがじれったくなったのか、つるべの端に唇を付けてガバガバ飲み出す始末。うら若き乙女の所業とは思えなかった。

 

 さっきまで何事もなかったかのような、呑気な振る舞い。

 

「……どうして」

 

 思わず、そう口からこぼれ出る。

 

 シンスイは美少女にあるまじき豪快な飲みっぷりを一旦やめると、その大きな瞳をぱちくりさせて、

 

「うん? どうしたの」

 

「……どうして、私を助けたの?」

 

 ライライはやや非難がましい語気で訊いた。

 

 分からなかった。

 

 自分は彼女に酷い事を言った。その後も彼女は好意を持って何度も接しようとしてくれたが、そのことごとくを拒絶した。それこそ、愛想をつかされてもおかしくないほどの苛烈さで。

 

 しかし、シンスイは自分の危機を救うべく、駆けつけてくれた。

 

 ライライはそんな彼女に感謝しつつも、それ以上に強い疑念を抱いていた。

 そして、そんな自分自身にまた、呆れと情けなさが募る。

 

 シンスイはライライの質問を聞くと、さっきまでの呑気な表情に真剣さを宿らせて言った。

 

「そうだね……「友達だから」っていう理由もあるけど、それだけじゃない」

 

「えっ……?」

 

「君に、どうしても聞いてもらいたい事があったからだ」

 

 その改まった言い方に、ライライは息を呑んだ。

 

 シンスイは一度大きく深呼吸すると、いきなり腰を深く曲げて頭を下げてきた。

 

「まず、強雷峰(チャン・レイフォン)の弟子として、もう一度君に謝っておきたい。――本当に済まなかった。合法的な決闘だったとはいえ、ボクの師匠が君のお父さんを殺してしまった事は変えようのない事実だ。亡くなった師匠に代わって、そして彼の弟子として、君には下げる頭があまりにも足りない」

 

 一句一句が、誠実な声色で紡がれた謝罪。形式的なものでない事は明白だった。

 

「……だけど、その変えようのない事実を踏まえた上で、もう一つだけ、言わせて欲しい」

 

 そこで突然、シンスイが発言を謝罪から別の方向へと持っていった。

 

 ライライは目を見開いた。先ほどの謝罪よりも、話の方向をずらした今の言葉の方に驚いた。

 

 緊張したようにうつむくシンスイから二の句が出てくるのを、ライライはじっと待った。まだほんの数秒間しか経過していないが、まるで何分も待っているような錯覚に陥りそうになる。

 

 やがて、彼女は意を決したように言った。

 

 

 

「――君のお父さんは、単なる殺人被害者じゃない!」

 

 

 

 その一言は、まるで透き通るように胸の奥へ入っていった。

 

 シンスイは真っ直ぐこちらの目を見ていた。二人の視線が繋がり合い、見えない糸を形成しているような気分になる。

 

「確かにレイフォン師匠は恐ろしくて、戦闘狂かもしれない! 殺した武法士の数も、両手両足の指じゃ全然足りない! だけど、弟子をやってたボクだからこそ、これだけは断言できる! レイフォン師匠は戦闘狂だったけど、断じて殺戮を楽しむような人じゃなかった! そして、武法士同士の真剣勝負にはどこまでも真摯だったんだ! ボクの武法士生命を賭けてもいい!」

 

 シンスイの大きく愛らしい瞳からは、媚びも気負いも一切感じられなかった。どこまでも透き通った、雪解け水のような光。

 

 その済んだ瞳には、自分の顔が淀み無くくっきりと映っていた。

 

 だからだろうか。彼女の言葉は、土に染み込んだ水のように心の奥底まで浸透してくる。

 

「だからこそ、ボクは君に言いたい! ――君のお父さんは、ただ無意味に命を落としたわけじゃない! 武法士同士の、誇りある真剣勝負に殉じたんだ!」

 

 それを聞いて、ライライは雷に打たれたような強い衝撃を受けた。

 

「詭弁だと思っても構わない! ボクや師匠を憎んだままでも別にいい! でも、もし君のお父さんの死が犬死にだと少しでも思ってたなら、その考えはどうか捨てて欲しいんだ!」

 

 シンスイは、まるで我が事のように、そう懇願してきた。

 

 ――詭弁なんかじゃない。

 

 彼女の言うとおりだった。

 

 父は無意味に殺されたわけじゃなかった。一人の武法士として誇りある戦いの場に立ち、果敢に挑み、そして華々しく命を散らせたのだ。

 

 決闘を断る事ならできたはずだ。しかし父はそれをせず、立ち向かった。

 

 それが何よりの証明だった。

 

 自分もそれを分かっていたからこそ、毒殺などという邪道に走らず、正攻法で挑む事を考えたのではないのか。愚直に武法を鍛える道を進んだのではないのか。

 

 そんな初心を、自分はすっかり忘れていた。

 

 そして、今思い出した。

 

 だというのなら、討つべき仇を失ったとしても、自分の生き方は変わらないはずだ。

 

 ――ここが、分水嶺であるような気がした。

 

 永遠に恨み言を吐きながら生きるのか。

 それとも、父のように誇りを持って生きるのか。

 

 ――選択に窮する事はなかった。

 

 無論、選ぶのは後者だ。

 

 自分も、父のようになりたい。

 

 父の形見である【刮脚(かっきゃく)】を大切にし、これからも磨いていきたい。

 

 父のように、自身の武法と戦いに誇りを持ちたい。

 

「そして、ボクが君に言いたい最後の一つ。――明日の決勝戦、お互い悔いの残らないように戦おう。君が一生懸命育ててきた【刮脚】、ボクは是非見てみたい」

 

 シンスイは花が咲くような満面の笑みでそう言った。

 

 その笑顔を目にした瞬間、心の奥底から強い感情が間欠泉のように溢れ出てきた。

 

 ――どうして、そんな風に笑えるの?

 ――私はあなたに、あんな酷い事を言ったのに。

 ――それなのに、あなたはこんな私に、まだそんな風に笑いかけてくれるの……?

 

 瞳にみるみるうち涙が溜まっていき、視界を水面(みなも)のように揺らがせる。

 

「――シンスイっ!!」

 

 気がついた時には、彼女にすがるように抱きついていた。

 

 腰と肩から背中へ手を回し、指が食い込むほどに締め付ける。

 

「ごめん…………ごめんね……!! シンスイ……っ!!」

 

 その小さな肩に顎を乗せ、嗚咽混じりの声で謝った。

 

 大粒の涙滴が絶えず滂沱し、頬を伝って顎に届く。

 

「――いいんだよ」

 

 シンスイは泣くライライの背中をさすりながら、そよ風のような優しい語気でそう言ってくれた。

 

 ライライは何度もかぶりを振り、

 

「よくない……私、大馬鹿だった…………! あなたの事、ずっと色眼鏡で見てたの……!」

 

「いいんだよ」

 

「大量殺人者の弟子、なんて……酷い事言ったのに……!」

 

「いいんだよ」

 

「今も心のどこかに、あなたの事を拒絶する気持ちが残ってるかもしれないのに……!」

 

「いいんだよ」

 

 ふるふると、駄々をこねる子供よろしくかぶりを振り続ける。

 

 シンスイはそんな自分の背中を撫でながら、我が子を慰める母のような優しい声でただただ繰り返した。

 

 いいんだよ、と――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう、何も悩まない。

 

 自分も父のように、誇りある戦いに身を投じよう。

 

 決勝戦という舞台の上で。

 



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打ち砕く拳、切り裂く脚①

 この【滄奥市(そうおうし)】に来て、特に日は長くない。せいぜい半月いくかいかないか程度の日数しか経っていない。

 

 しかし、その決して長くはない数日間は、非常に密度の濃いものだった。

 

 古流の【刮脚(かっきゃく)】を持つ大人びた少女、宮莱莱(ゴン・ライライ)と出会い、仲良くなった。

 

 【九十八式連環把(きゅうじゅうはちしれんかんは)】の汚名返上を志す少女、孫珊喜(スン・シャンシー)と出会い、ぶつかり合い、そして和解した。

 

 【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家の娘、紅蜜楓(ホン・ミーフォン)と戦い、勝利したら懐かれた。

 

 皇女という身分を隠して大会に参加していた少女、羅森嵐(ルオ・センラン)と出会い、意気投合した。

 

 ライライと仲違いした。

 

 そして、友情を取り戻した。

 

 まるで中身がよく詰まったスイカのように、この数日間には出会いと驚き、そして事件が溢れていた。

 

 楽しい事もあれば、辛い事もあった。

 

 しかし、今――円形闘技場までの一本道を歩くボクの顔は、笑顔を無理なく浮かべることができていた。

 

 大きな一束の三つ編みを後頭部ではためかせながら、迷いなく一歩、一歩進む。

 

 進む先にある四角い出入り口からは、朝日がまばゆく溢れ、この一本道を照らしていた。奥からは、大勢の人のおしゃべりが多重したガヤが聞こえて来る。

 

 それを見聞きして、ボクは感慨深いものを感じた。

 

 これから、【滄奥市】で過ごした数日間に終止符が打たれようとしている。

 

 時間が経てば、おのずと打たれる終止符。しかし、最後に笑えるのは二人のうち一人だけ。

 

 その終止符の名は――決勝戦。

 

 時間が経つのは早いものである。本当にあっという間だった。

 

 最初に鈴を奪い合い、そしてこれから最後に【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦の切符を奪い合うのだ。

 

 あの四角い光の先で待っているであろう相手と会うべく、ボクは足を少しも止めることなく動かし続けた。

 

 やがてその四角い入口をくぐる。

 

 途端、ボクの周囲全方向が、陽光による強い明るさを得た。円形闘技場とその周囲の情景が、はっきりと姿を見せた。

 

 周囲は円筒のような高い階層で塞がれており、そのうちの一層である客席から、無数の観客が円形闘技場(こちら)俯瞰(ふかん)していた。

 

 彼らの視線は、総じてボクと――もう一人に向いていた。

 

 胸が人一倍大きく、砂時計のような美しいボディライン。毛先にゆるいウェーブのかかった長髪をポニーテールにした髪型。そして、大人びた中にも微かに少女っぽさを残した顔立ち。

 

 彼女こそ、この決勝戦で戦う相手、宮莱莱(ゴン・ライライ)である。

 

「来たわね」

 

 ライライはやって来たボクの姿を真っ直ぐ見て、奥ゆかしく口元を緩めた。

 

 しかし、この柔和な微笑の中に、恐ろしい力を隠し持っている事を、ボクはよく知っている。だから闘志を含ませた微笑みを浮かべ、ライライに返す。

 

 この数日間、彼女の技を何度か目にした。あの蹴り技をあえて言い表すなら、「岩石の圧力を持った強風」。破壊力だけでなく、変化と柔軟さにも富んでいる。重さと軽やかさという、相容れない二つの要素を兼備した奇跡の脚法。あの『無影脚』から厳しい教育を受けただけの事はある。

 

「……ライライ。今更だけど、本当にやるのかい?」

 

「もちろんよ。昨日も言ったでしょう?」

 

 ライライは、父親の仇であるレイフォン師匠が先立ったおかげで、大会にかけた「武名を轟かせて仇を引き寄せる」という目的を失ってしまった。あんまりな言い方をすると、もう戦っても意味がないのだ。

 

 しかし彼女は、戦いたいと言った。仇を追い続けてきたこれまでの人生から軌道修正するための、最初の一戦をして欲しいと。

 

 もし彼女が棄権してくれれば、ボクは決勝戦を不戦勝でパスし、楽に本戦の参加資格を手に入れる事ができただろう。元々ボクは、本戦に優勝して父様に武法を続ける事を認めさせるために戦っていた。ここで不戦勝なら、願ったり叶ったりであった。

 

 けど、「棄権しない」というライライの言葉を聞いた時、ボクはどういうわけか落胆はしなかった。それどころか、凄く嬉しくさえ思えた。

 

 ボクは「仇を打つ」というライライの目的を、内心で心配していた。けど今回、その目的と決別しようとしている。そのきっかけとなれる事が嬉しいのだ。

 

 センランの時といい、今といい、この大会には単純な勝ち負け以外の意味を持つ試合が多かった。

 

「シンスイ、あなたの【黄龍賽】への思いは、昨日すでに聞いているわ。そして、同時に応援してもいる」

 

「……うん」

 

「でも、ごめんなさい。私はわざと負けてあげられるほど、器用な女じゃないの。……戦う前に、それだけ謝っておきたかった」

 

「うん。分かってる。いいんだ」

 

 ボクは柔らかく笑いながら、かぶりを振った。

 

 ライライはお父さんの【刮脚】を本当に大事に思っている。なので、わざと負けることは、【刮脚】の名誉を傷つけてしまうことに繋がる。

 

 そんな彼女の気持ちをくんだボクは、顔の前に左拳を持ってきて――それを右手で包んだ。

 

「【打雷把(だらいは)】――李星穂(リー・シンスイ)

 

 ライライもまた、ボクと同じ【抱拳礼(ほうけんれい)】を行い、祝詞(のりと)のように口にした。

 

「【刮脚】――宮莱莱(ゴン・ライライ)

 

 次の瞬間、銅鑼が高らかに鳴り響いた。

 

 この【滄奥市】で、最後の戦いが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【抱拳礼】を解き、最初に行動に移したのはボクだった。

 

 射ち出された一矢のごとく、ライライめがけて突っ込んだ。

 

 彼我の距離は、約一秒弱で、触れ合えるまでに狭まる。

 

 だが、いきなり大技は使わない。

 

 まずは軽く小手調べだ。

 

「せぁっ!!」

 

 前進を止めぬまま、体を時計回りに回転。その遠心力を上乗せした右回し蹴りを振った。

 

 脚という名の鞭が、風を斬り、ライライの左脇腹に迫る。

 

 が、突如ライライの下半身に白い閃きが発生。

 

 ボクの回し蹴りは見事に直撃した――ライライの靴底に。

 

 彼女は迅速に左足を持ち上げ、その足裏で回し蹴りを受け止めたのだ。

 

 その変則ガードに舌を巻く暇はなかった。ライライの左足が唐突に軌道を変え、ボクめがけて飛びかかってきた。

 

 右足を上げているため、足さばきによる回避は出来ない。なのでボクは右前腕部を垂直に立て、それをウエストの捻りによって体の内側へと引き寄せた。

 

 足裏を先にして一直線に向かって来たライライの蹴り足の側面に、ボクの右前腕部が接触。このまま摩擦力で軌道をそらしてやる。

 

 ――しかし、ライライの蹴り足は1厘米(りんまい)も動かなかった。

 

 ボクはとっさの判断で後ろへ跳ねた。

 

 瞬間、ライライの靴底が疾風の速度でボクの土手っ腹にぶち当たった。

 

「ぐっ!?」

 

 強烈な衝撃と鈍痛をその身に受けたボクは、余った勢いで弾き飛ばされる。後ろに跳んだことで衝撃を軽減できたが、それでもかなりの威力だった。まともに受けていたらと考えるとゾッとする。

 

 後傾しそうになったが、なんとか踏ん張って直立姿勢を保ち、両足を踏みしめた摩擦で勢いを殺す。

 

 が、完全に停止した時には、すでにライライが目の前に迫っていた。

 

 その片膝が上がったのを見た時、ボクは本能的に体をねじった。

 

「ふっ!!」

 

 ライライの鋭い吐気が響くとともに、さっきまでボクの正中線があった位置を、一筋の閃光が貫いた。

 

 彼女の放った爪先蹴りが持つ桁外れの速さを間近で見て、怖気が立つのを感じた。

 

 ふと、胸元に涼しさを感じたので見る。なんと爪先がかすったボクの服の胸元は、長い横線状の切れ目がパックリ入っていた。服の中の素肌が、絶壁のような胸とともに見え隠れしている。

 

 女の子らしく恥ずかしがっている暇はなかった。

 

 ライライは杭を打ち込むように蹴り足を着地させる。そしてそこを軸に素早く独楽(コマ)のように回転。背を向けた状態からの振り向きざま、後ろ回し蹴りを仕掛けてきた。その蹴り足は膝が九十度ほど曲がっていて、(フック)のようになっている。

 

 ボクは軽く身をかがめ、そのキックに頭上を通過させた。ライライは比較的高い位置で蹴りを放ったため、彼女より身長が低いボクには回避が容易だった。

 

 空振ったことで、ライライの体は遠心力の運命通りに胴体をさらけ出した。

 

 ここが攻めどころだと瞬時に感じたボクは、拳を脇に作り、後足を蹴って彼女めがけて飛び込む。

 

 正拳突き【衝撃(しょうすい)】が直撃する――

 

「がっ!?」

 

 ――という確信は、突如腹に舞い込んだインパクトによって見事に裏切られた。

 

 目を向けると、ライライが先ほど空振らせた蹴り足をそのまま使い、ボクに前蹴りを打ち込んでいた。体幹の力で遠心力を無理矢理殺し、キックに転じたのだ。

 

 苦し紛れの攻撃だったためか、威力はさほどでもなかった。しかし決して優しくもない。蹴りの勢いのまま、ボクの足は真後ろへ大きくスライドする。

 

 止まった後、ボクはじんじんと残った腹部の痛みを感じながら、我知らず喉を鳴らした。

 

 ――強い。

 

 蹴りの威力や速度がずば抜けている事は知っていたつもりだ。しかし間近で見たことで、初めてそれに明確な驚異を感じられた。

 

 おまけにパワーやスピードだけではない。ライライは自分の両足を、まるで腕と同じような巧みさでコントロールしている。まるで下半身にもう一組、腕が生えているようだ。

 

 その凄まじい蹴り技の嵐からは、彼女のたゆまぬ努力が色濃く感じられた。

 

 ライライはボクに微笑みを向けると、

 

「初めて会った時、私の【刮脚】が見たいって言ってたわよね。どうかしら? 気に入ってもらえた?」

 

「……うん。そりゃもう。めちゃくちゃ凄いし、おっかないよ」

 

「ありがとう。でも、今見せたのはまだまだ毛先の部分よ。これからもっと凄いものを見せてあげるわ」

 

 ライライは口元を不敵に釣り上げて笑う。

 

 …これは、小手調べなんて言ってる場合じゃない。

 

 最初から叩き潰すつもりで行かないと、足元を掬われる。

 

「じゃあ、行くわよ!」

 

 その一言とともに、視界にあるライライの姿が一気にズームアップしてきた。

 

 ダッシュ中に体の右側面をこちらへ向け、蹴りの間合いにボクを捕らえると、助走を込めたサイドキックを一直線に突き出してきた。

 

 ボクは体の位置を右へ少しずらし、猛烈な勢いで押し迫った足裏を紙一重で回避。そしてすぐさま、突き出された彼女の蹴り足をなぞる形で急接近する。

 

 がら空きの胴体に狙いを定め、ボクは踏み砕かんばかりに後足を蹴って加速した。

 

「フンッ!!」

 

 爆ぜるような激しい踏み込み【震脚(しんきゃく)】によって急停止し、正拳を打ち出す。【打雷把】の一技法、【衝捶】だ。【打雷把】では基本に位置する技だが、それでも直撃すればただでは済まない。

 

 ライライはやって来たボクの拳の真下に片腕を差し入れ、そして上げた。それによってボクの拳は大きくすくい上げられ、無力化する。

 

 さらに蹴り足を迅速に引き戻し、踏み込まれたボクの前足の股関節に足刀を押し込んだ。

 

「うわっ……!?」

 

 股関節を骨盤ごと後ろに押されたボクは否応なくバランスを崩し、尻餅をついた。

 

 しかし、のんびりしている余裕はない。ライライのむこうずねが真正面から急激に押し迫っているのだから。

 

 ボクは前腕部を交差させ、その又で蹴りを受けた。

 

 馬鹿げたインパクトが両腕に響くと同時に――派手にぶっ飛んだ。

 

 ゴロゴロと大きく後転しながら、ボクは背筋を凍らせていた。

 

 これほど重たい蹴りを受けたのは久しぶりだ。

 

 こんな蹴りを繰り出せる武法士はそう居ない。仇討ちを目指していただけの事はある。

 

 ボクは転がった状態から流れるように起き上がる。前方を見ると、すでにライライが残り約3(まい)ほどにまで距離を縮めてきていた。

 

 蹴りを受けた両腕が震えている。彼女の蹴りの威力をまだ覚えていて、そして恐怖しているのだ。

 

 しかし、両手を強く握り締めて、震えを無理矢理止める。震えたいなら後で好きなだけ震えればいい。でも、今だけは我慢してくれ。

 

 やがてライライは蹴りの射程内にボクを入れた。そして、何度も鋭い蹴りを連打させてきた。

 

 左右、上下、斜め、あらゆる角度から凶悪な閃きが走る。それらはまるで街灯に群がる羽虫のような不規則さで、ボクの眼前で飛び交う。

 

 ボクは全神経を集中させて、蹴りの嵐を紙一重で避けていく。【打雷把】の修行で鍛えた精密な足さばきの成せる技だ。

 

 しかし時々避け損ね、上半身のあらゆる場所にかすって服に切れ目ができる。

 

 それでも、クリーンヒットだけは着実に避けていた。

 

 幾度も視界に蹴りが行き交う。それらは全て、腰のある位置を下らない、高めの蹴りだった。

 

 だからだろう。――ボクのむこうずねに向かって唐突に放たれた低い爪先蹴りに、うまく反応できなかった。

 

「――っ!!」

 

 弁慶の泣き所に鋭い衝撃を受け、悶絶しそうになる。実際にはしなかったが、痛みによって全身が硬直してしまう。

 

 その僅かな隙を、ライライは回し蹴りによって突いてきた。

 

「あがっ――!?」

 

 莫大なショックが、二の腕を通じて体の芯まで染み渡る。

 

 重量の塊に横殴りされたボクは、大きく真横に飛ばされた。

 

 めちゃくちゃな転がり方をしつつも、なんとかしゃがみこんだ姿勢でストップする。

 

 ボクは激痛の名残を感じながら、手足の調子を確かめる。今のはかなり痛かった。しかし、動けなくなるほどじゃない。まだやれそうだ。

 

 少しぎこちないながらも、ボクは立ち上がって構えを取ることができた。

 

 それと同時に、自分の失念を叱咤する。

 

 ボクはすっかり忘れかけていたのだ。ライライの武法の性質を。

 

 

 

 ――ライライの【刮脚】は、最も古いタイプのものだ。

 

 

 

 現在【刮脚】には、大きく力強い蹴りが主体の【武勢式(ぶせいしき)】と、低く鋭い蹴りが主体の【文勢式(ぶんせいしき)】の二種類が存在する。

 

 ――【武勢式】は、ダイナミックで威力の高い蹴りを連発し、相手の体力を削ぎ落として倒すという戦法をとる。

 ――【文勢式】は、低い蹴り技で武法の命たる足を徹底的に攻めることで、足を破壊もしくは弱らせ、相手を戦闘続行不能に追い込む戦法をとる。

 

 そして、その二つの亜流の元となった古流の【刮脚】は、二つの亜流の性質を同時に持っている。つまり、高い蹴りと低い蹴り、どちらにも長けているのだ。

 

 高い蹴りは体力を削ぎ、低い蹴りは脚力を削ぐ。

 

 今度からは高い蹴りだけでなく、低い蹴りにも気を配らなければならない。

 

 遠く離れていたライライは、再びボクへ向かって疾駆した。

 

 彼女の蹴りの間合いに入る直前、ボクは両前腕部に【硬気功(こうきこう)】をかけた。青白いスパークとともに、両腕は鉄腕と化す。

 

 ライライは細く鋭い吐気とともに、右足による回し蹴りを振り出した。

 

 対して、ボクは蹴りのやって来る左方向に両腕を構えた。それに加えて、足指で大地を強く掴んで立ち、脊椎を弓弦(ゆずる)のように張り詰めさせる。

 

 そして半秒と立たぬ間に、構えられた両前腕部にライライの右足が激しく直撃。空気が爆ぜるように震え、蹴りの衝撃が腕を通して体幹に伝わってくる。

 

 普通ならその場から吹っ飛ぶほどの威力だったが、ボクの立ち位置は全く動いていなかった。【打雷把】お得意の【両儀勁(りょうぎけい)】を用いて、ピラミッドのごとく磐石な重心を得ていたからだ。

 

 受け止めた蹴り足をなぞるようにして、ライライの懐へと潜り込む。

 

「もらったっ!!」

 

 ボクは脇に構えていた右拳を【震脚】の踏み込みと同時に突き出した。【衝捶】だ。

 

「――甘いわね!!」

 

 だが、ライライは軸足となっていた左足を跳躍させ、その膝を真上に突き出す。それによってボクの打ち放った右拳は真下から打ち上げられてしまった。攻撃失敗だ。

 

 滞空中もライライは止まらない。拳を防いだその足を使って、真っ直ぐ爪先を走らせた。

 

「くっ!」

 

 ボクはとっさにもう片方の左手を構え、爪先を受ける。【硬気功】がまだ残っていたため痛みも怪我もなかったが、重鈍な衝撃を手で感じ取った瞬間、地に付いていた足がそのまま大きく後ろへ滑った。

 

 しかし、ボクらの距離はほとんど離れていない。――なぜなら、勢いよく滑るボクを、ライライが追いかけてきていたからだ。

 

 追い討ちをかける気だろう。

 

 ボクは再び【硬気功】で防ごうと一瞬考えたが、すぐにその思考を捨てた。ライライの蹴りは威力が高い。【硬気功】で受ければ無事で済むだろうが、また今みたいに吹っ飛ばされるに違いない。そこを追い討ちされる可能性がある。もしそうなったら同じ事の繰り返し。【気】も無限じゃないのだ。戦いが長期化する事を考慮すると、なるべく無駄遣いは避けた方がいい。

 

 なのでボクはわざと体重を真横にかけて体を横倒しにし、飛んできたライライの回し蹴りをくぐって避けた。

 

 そして横たわった状態のまま全身に捻りを加え、ライライの軸足へ蹴りを放った。しかしその足が跳んで地から離れたことで、ボクの蹴りは空振りに終わる。

 

 両膝を立てながら虚空に浮いたライライは、今なお寝転がったボクめがけて右足の靴底を鋭く撃ち出す。

 

 体を横に転がして蹴りを回避。音並みの速度で飛来してきた靴底は、ヒットした箇所の石敷を容易く破砕した。

 

 機敏に跳ね起き、構えを取った。同時に、ライライも着地する。

 

 ボクが今いる位置は、ライライの背後だった。

 

 攻撃を仕掛けるチャンスと思ったが、すぐに思いとどまり、大きくバックステップした。

 

 ――ボクが飛び退いたのと、ライライの片足がかまいたちのような鋭さで背後へ蹴り上げられたのは、ほぼ同じタイミングだった。

 

 その蹴りは、馬が後ろ足を持ち上げる様子によく似ていた。

 

 ――やっぱり、その技が出たか。

 

 あれは【鴛鴦脚(えんおうきゃく)】。背後にいる敵を攻撃する時に用いる蹴り技だ。【武勢式】にも【文勢式】にも存在する、【刮脚】の代表的な技の一つ。

 

 ライライの攻めは続く。美しくも強靭な両足でカニ歩きのようなステップを鋭敏に刻み、横向きのまま距離を詰めてきた。

 

 彼女が片膝を上げたかと思うと、その足の靴底が視界で急速に拡大した。

 

「うわ!」

 

 ボクは驚き、両腕で顔をガードした。ほぼ本能的な反応だった。

 しかし、蹴りによる衝撃は来ない。

 

 ――と思った瞬間、足の側面から何かがぶち当たり、重心を崩された。

 

「えっ……!?」

 

 ボクは足元を見る。そこにはライライの片足。どうやら足を払われたようだ。

 

 いつものボクなら、こんな簡単に倒されたりはしない。最初の蹴りのせいで、ボクの意識は完全に顔面に集中していた。それによって足元から意識が外れた。そこを狙ったのだろう。

 

 横向きに自由落下する今のボクは、まさに「死に体」だ。地に足が付いておらず、その場から逃げることもままならない無防備な状態。

 

 ライライの片足が動く。

 

 ボクはとっさの判断で、胴体の前で両腕を構えた。

 

「ぐっ――!!」

 

 次の瞬間、衝撃が爆発。

 

 構えられた両腕に、強烈な前蹴りが衝突してきたのだ。腕がもげそうなほどの圧力と鈍痛が、体の内側まで反響したような気がした。

 

 ボクは地に足を付いていなかったため、蹴りの威力のまま弾かれたように吹っ飛んだ。

 

 着地後も、勢いよく転がるボク。しかしなんとか立ち上がった。

 

 当然というべきか、ライライはボクに向かってダッシュで近づいている。一度も休ませてやる気はない。顔がそう言っている気がした。

 

「はああぁぁっ!!」

 

 ライライは裂ぱくの気合いを響かせながら、再び怒涛の蹴りの数々で攻めてきた。

 

 ボクはそれらを懸命に回避、あるいは受け流した。

 

 今度の連続蹴りは、まるで曲芸のようだった。

 

 単純な高い蹴り、低い蹴りという枠にのみ収まらない。

 

 胴体を狙った蹴りかと思えば足元狙い。足元狙いかと思えば胴体狙い。胴体狙いのフリをした足元狙いの蹴り、と思わせた胴体狙いの蹴り。その逆もしかり……

 

 カフェイン摂取済みの蜘蛛が張った糸のごとく変則的な攻撃軌道の数々が、縦横無尽にボクの視界内を踊り狂う。

 

 次の瞬間、

 

「あがっ――!?」

 

 丸太で思いっきり殴られたような衝撃が、両側の二の腕へドドンッ!! と左右交互に叩き込まれた。ライライが両足交互の回し蹴りを、とんでもない速さでぶち当てたのだ。

 

 砕けんばかりに歯を食いしばる。

 

 が、それは蹴りによる痛みのせいではなかった。

 

 

 

 ――すごく気持ち悪い。

 

 

 

 腹の中がよじれるような、凄まじい不快感。胃が捻転し、消化液が嵐の海のように荒れ狂うイメージ。いまにも吐き戻したい気分だ。

 

 これは一体なんなんだ。

 

 考えている時間など与えられるはずもなく、

 

「そこっ――!!」

 

 光線のごとく伸びてきたライライの片足が、ボクの胴体を真っ直ぐ撃ち抜いた。

 

 ボクは勢いよく後方へ弾かれる。地面に落ちた後も、倒れたまま石敷を高速でスライドし、そしてようやく止まった。

 

 体のあちこちが、何かに取り憑かれたようにジンジン痛む。原因不明の不快感もまだ抜けない。しかし意識は失っていない。それが奇跡に思えた。

 

 ボクは重い体を強引に奮い立たせ、しかし口元には満ち足りた笑みを作り、ライライに訊いた。

 

「……さっきの二つの技、ボクは見たことないんだけど……もしかして、古流の【刮脚】の技?」

 

 ライライはご名答と言わんばかりに微笑み、

 

「そうよ。今の二つの技は、古流の【刮脚】にのみ伝わるものだわ。最初の三連蹴りは【三才擊脚(さんさいげききゃく)】。()()(胴体)の順に蹴りを放つ連続技で、最初の顔面蹴りで下半身への注意をそらし、意識が抜けて緩くなった足元を二擊目で払って相手を「死に体」にし、そして三擊目で吹っ飛ばす。高い蹴りも低い蹴りも使いこなせる古流ならではの技よ」

 

「……ちなみに今ボク凄く吐きそうなんだけど、これも君の技のせい?」

 

「ええ。【響脚(きょうきゃく)】の、ね。相手の左右側面へ素早く回し蹴りを打ち込むことで、相手の体内に強烈な揺さぶりをかけ、振動波を発生させる技。【硬気功】でも防げない防御不能の蹴りよ。振動波はしばらく続くから、まだその不快感は消えないわ」

 

 聞けば聞くほど、驚異を感じざるを得ない内容だった。

 

 しかし、ボクはそれと同時に嬉しい気分にもなる。

 

 古流の【刮脚】が持つ技術は、ボクの期待以上に面白く、凄いものだった。

 

 しかしそれらを可能にし、そしてより優れた技たらしめているのは、ひとえに、ライライの修練の積み重ね。

 

 ――本当に、手強い相手だ。

 

 でも、それでもボクは負けない。負ける理由にならない。

 

 ボクはこの戦いで勝って、本戦への参加資格を手に入れ、そして優勝しないといけないんだ。

 

 友達だろうと、強敵だろうと、立ちふさがるならぶっ飛ばしてやる。

 

 ボクは片足で力強く足踏みした。【震脚】だ。

 

 するとどうだろう。体内に渦巻いていた不快感がぴったりと止み、調子が戻った。

 

 「よしっ」と意気込むと、ボクは両肩を元気良くぐるぐる回す。

 

 【震脚】をすると、地面からの反作用によって強い垂直の力が発生する。その力を使って振動波を強引に殺したのだ。思いつきでやってみたが、うまくいったみたいでよかった。

 

「……まさか、そんな無茶苦茶な方法で【響脚】の振動を消すなんて。シンスイ、あなたやっぱり面白い子だわ」

 

 元気を取り戻したボクを、ライライは緊張の混じった笑みを浮かべて見つめていた。

 

 彼女も彼女で、譲れない意地がある。

 

 これはルールに守られた、競技的な試合。

 

 だが、互いに譲れないものを持って戦うという点で、真剣勝負と何の違いがあるだろう?

 

 ボクら二人は闘争心を身にまとい、睨み合う。

 

 最初に動いたのは、ボクだった。

 

「じゃあ――いくよっ!!」

 

 【震脚】で大地を踏み鳴らすや、猛然とライライめがけて突っ込んでいった。【震脚】によって強化された瞬発力は、彼女との間合いをすぐに狭ませる。

 

 蹴りの射程範囲に入ってもなお、ボクはライライの正面へと突き進む。いつでも突きを放てるよう、拳を脇に構えておく。

 

「ハッ!!」

 

 当然の反応というべきか、彼女はバカ正直に直進してくるボクを足裏蹴りで迎え撃ってきた。闘技場の石敷も簡単に砕くほどの威力の塊が、真っ直ぐボクに向かって来る。

 

 ――が、それは予想の範囲内だった。ボクは蹴りが放たれる直前、細かい足さばきによって体の位置をほんの少しだけ横へ動かしていた。爆速で進む彼女の靴裏は、ボクの真横を素通りする。

 

 そのまま流れるように懐へ入った。

 

 いつもならここで正拳を打ち込むところだが、その手は一度破られた。攻めるとしたら意表を突く意味も兼ねて、違う攻撃を放った方がいいだろう。

 

 なので――ボクはあえて回し蹴りを選んだ。

 

「くっ……!?」

 

 ライライは腕を構えて、ボクのキックをガードする。さすがの彼女も予想外だったのか、反応がわずかに遅れていた。ギリギリで防いだのだ。

 

 倒れはしなかったものの、蹴りの威力に流されるまま後ろへたたらを踏むライライ。

 

 重心のおぼつかない今は、思うように攻撃に対処できない。今なら拳が当たるはず――そう思ったボクは迷わず地を蹴った。

 

 拳の届く距離にライライを捕らえた瞬間【震脚】で激しく踏み込み、さらにその足へ急激な捻りを加えて全身を旋回させる。その身体操作とともに打ち出された必倒の正拳【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】が、シャープな勢いでライライへと迫る。

 

 しかし、拳の延長線上にあったライライの姿が消えた。目標を失った拳が空気の壁を穿つ。

 

 彼女は胎児のように体を丸めて、地に背中を付いていた。慣性に逆らわず、自分から後ろに転がったのだろう。

 

 抱え込まれていたライライの両膝が、急激に伸びた。

 

「おっと!」

 

 迫ってきた二足の靴裏を、ボクは体を反らして避ける。数歩後ろへ下がって再び距離を作った。

 

 ライライは跳ね起き、ボクめがけて走り出す。女豹のごとく鋭い疾駆だ。

 

 足のリーチ内まで入った瞬間、横薙ぎの蹴りを放たれるが、それをかがんで避ける。

 

 ライライはその回し蹴りの遠心力に従って背を向け、片足を大きく跳ね上げた。【鴛鴦脚】だ。

 

 ボクは体を後ろにのけ反らせてその蹴りを回避。しかし大きく跳ね上げられた片足は空中でピタリと動きを止めたかと思うと、爪先を先にして急降下した。

 

 ボクは前にあった足を、素早く全身ごと下がらせた。爪先はボクの前足の甲があった位置に激しく落下。……もし足を下がらせなかったら、死ぬほど痛い目にあっていただろう。

 

 【鴛鴦脚】の目的は、二つの亜流によってそれぞれ異なる。

 

 【武勢式】は胴体か顎への攻撃、そして【文勢式】は爪先か足甲への攻撃を目的としている。

 

 だがライライの放った【鴛鴦脚】は、その両方の性質を兼ね備えたものだった。それこそ、彼女の【刮脚】が古流たる証拠だ。

 

 振り向きざまにスイングされた後ろ回し蹴りをバックステップで躱してから、ボクは元来た方向へ戻る形でライライへ向かっていく。

 

 矢継ぎ早にやって来る剛脚の振りをかいくぐり、ライライの胸の前に到達。遥か彼方まで打ち抜く気持ちで【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】の右肘を繰り出す。

 

 彼女はボクから見て少し右へズレて、肘打ちを空振らせた。そして、そこから止まることなく右膝を上げ始めた。ボクの脇腹を蹴る気だ。

 

 ボクは迅速にその蹴り足の太腿を両手で押さえ、移動を止める。彼女の脚は、あの凶悪な威力の蹴りを放ったとは思えないほどに柔らかく、なめらかだった。

 

 右側面に立つライライへ寄りかかるように、体当たり【硬貼(こうてん)】を仕掛けようとする。だが踏み込もうとした右足の膝が、ライライの足裏によって途中でつっかえ棒よろしく止められた。【硬貼】はライライまであと少しという位置でストップ。命中ならず。

 

 ボクはめげずに足底から全身へ捻りを加え、【震脚】による重心移動と同時に左拳をライライめがけて突き出した。だが彼女はボクの放った【拗歩旋捶(ようほせんけん)】を紙一重で避け、あさっての方向へ流す。

 

 ライライは踏み込まれた足へ爪先をぶつけようとしてきたが、ボクは素早く重心を後ろの足へ移して体を引く。

 

 ライライの爪先蹴りが空振ったのを見越して前蹴り。

 

 彼女はそれさえも最小限の動きで躱す。

 

 

 

 ――それからも、そんな演武じみた避け合い攻め合いを次々と繰り広げた。

 

 

 

 互いに全てを躱し、全てを躱される。

 

 一向に決着のつかない堂々巡りの攻防。

 

 わざとやっているのではないかと思う者もいるかもしれない。しかしボクらは真剣そのものだった。

 

 特にライライがそうだ。彼女はボク以上に慎重な面持ちで攻防に臨んでいた。ボクの【勁擊(けいげき)】には【硬気功】が通じない。それを警戒しているのだろう。

 

 驚くべきことに、ライライの足さばきの器用さも、ボクに負けず劣らずだった。

 

 いや、むしろここまで達者で当然かもしれない。【刮脚】は蹴り主体の武法であるため、人並み以上の足の器用さが求められる。そもそも、足の器用さを養う【打雷把】の修行法【養霊球(ようれいきゅう)】は、彼女の【刮脚】がルーツとなっているのだ。足さばきが上手くとも、何ら不思議ではない。

 

 手数の出し合いと潰し合いは、なおも繰り返される。

 

 しかし、どんなものにも等しく終わりはあるものだ。

 

「せいっ!!」

 

 ライライはほんのわずか生まれた隙を利用し、ボクの膝裏に自分の膝をぶつけてきた。

 

 蹴られた力こそ微々たるもの。だがその微々たる力によってボクの下半身のバランスはあっけなく崩れ、体が傾く。ボクも下半身の功力は相当に鍛えているため、足を蹴られても簡単にバランスを崩さない自信がある。だが彼女は膝裏を蹴ることで、膝関節を無理矢理曲げさせたのだ。膝カックンの要領である。

 

 仰向けに倒れるボク。前――正確には真上――を見ると、彼女の履いている靴の底が視界で一気に大きくなっていた。

 

「なんのっ!」

 

 ボクも負けじと足裏を突き出し、振り下ろされたライライの靴底とぶつけ合わせた。

 

 ものすごい下向きの力が、足裏を通して膝にのしかかってくる。

 

 だがボクもそれに応戦すべく、靴裏を真上に進めようと足に力を入れる。

 

 ぎりぎりと、互いの脚力が拮抗(きっこう)し合う。ある時はボクが押し、ある時はライライが押す。一進一退の力比べ。

 

 しかし、引力が味方してくれているためだろうか、気がつくとライライがボクを押し返す回数の方が多くなっていた。

 

「くっ……!」

 

 ボクは眉をひそめ、奥歯を食いしばる。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

 

 ライライの足が、さらに手前へと押し寄せてくる。

 

 このままだと、押し切られる。

 

 なら、彼女の足から素早く自分の足を離し、

 

 ――いや。そんなのはボクのプライドが許さない。

 

 ライライ、確かに君の足の【(きん)】はかなり鍛えられてる。

 

 でも、それはボクだって同じだ。

 

 【両儀勁】の源泉は、両足を大地に固定させる強靭な脚力。【打雷把】という流派の門戸を叩いて以来、ボクはその力を徹底して鍛え上げてきたんだ。

 

 このまま容易く押し切られていい道理が――あるはずがない!!

 

 ボクは自分の足へ、ありったけの力をつぎ込んだ。

 

 少しずつだが、着実にライライの足を押し返していく。

 

「な……!?」

 

 ライライは一瞬唖然とするが、すぐに表情を引き締めて踏む力を強めた。

 

 ボクの足は途中で数度進行を止めるが、下がることはなく、どんどん上がっていく。

 

 そして、

 

「――――あああぁぁぁっ!!」

 

 渾身の力で、最後の一押しをした。

 

「きゃっ!?」

 

 途端、ライライの体が宙へ浮き上がった。1(まい)弱の高さだ。

 

 ボクは跳ね起き、ライライは尻餅をつく。

 

 今なお座り込んだ体勢の彼女めがけて、狼のような俊敏さで突き進む。

 

 ライライもそんなボクの行動に対し、慌てた様子で立ち上がった。そして、突風にも似た勢いのミドルキックを振り放つ。

 

 ……しかし、攻撃のタイミングが少し遅かった。ライライが蹴り出した時、ボクはすでに足のリーチの半ばまで達していたのだから。

 

 ボクは片手で蹴り足の太腿を押さえ、回し蹴りをストップさせる。遠心力で放つ蹴りなので、足の末端に働く力は強くても、内側の力は弱いのだ。なので片手で事足りる。

 

 そしてもう片方の手を拳にし、ライライの上腹部へと添えた。

 

 彼女はこの上ない焦りを顔ににじませながら動こうとする。

 

 だがこうなった以上、もう逃げようがない。銃を突き付けているのと同じ状態なのだから。

 

「ぶっ飛べっ!!」

 

 四肢と胴体を同ベクトルへ急旋回。添えられたボクの拳は――ゼロ距離で音速にも届かんほど加速。

 

「っはっ…………!!!」

 

 【打雷把】最速の正拳【纏渦(てんか)】は、パァン、という空気をぶち抜く音とともに、ライライへと深くねじ込まれた。

 

 と思えば次の瞬間、拳と彼女の体が磁石の反発よろしく離れた。10(まい)を軽く超えるほど吹っ飛び、やがて仰向けになって停止した。

 

 ボクは突き終えた体勢を解き、剣道の残心のように構えへと移る。この試合、油断は寸分も許されない。だがそれ以上に、ライライがこのまま終わるわけがないという確信めいた予想もあったからだ。

 

 全身の螺旋運動で力を発する【纏渦】は、打撃部位への運動量伝達が凄まじく速いが、威力が他の技に比べて弱い。立ち上がる可能性は十二分にある。

 

 そして、そんなボクの予想は的中した。ライライがゆっくりと立ち上がったのだ。

 

「……さすがね、シンスイ。戦ってみて、あなたの恐ろしさを初めて理解したわ」

 

 顔には苦痛の色がある。だが両足はしっかりと地を踏みしめている。

 

「どうやら私も……出し惜しみは禁物みたいね」

 

 ――出し惜しみ?

 

 これ以上、まだ何か隠し玉があるというのか。ボクの中の微かな警戒心が一気に肥大化する。

 

 ライライは闘志の燃えくすぶる瞳でボクを真っ直ぐ捉えた。

 

「――見せてあげる。【刮脚】ではない、私が自分で創り出したとっておきの技を」

 



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打ち砕く拳、切り裂く脚②

 

「――見せてあげる。【刮脚(かっきゃく)】ではない、私が自分で創り出したとっておきの技を」

 

 その言葉に対し、ボクは脊髄反射のような素早さで構えた。

 

 ライライは大きく息を吐き出すと、目を閉じ、ゆったりとリラックスした状態で立つ。

 

 もう何度か深呼吸を繰り返す。

 

 そして、口を小さく動かし始めた。

 

「……る………………………………る…………け…………」

 

 何かを呟いている。

 

 口の動きの乏しさと同じくらい、微かな声量。おまけに観客の声にかき消されて全然聞こえない。

 

 だが、ライライの唇の動きから、かろうじてその呟きの内容を理解することができた。

 

 その内容は、次の通りだ。

 

「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」

 

 ――ライライは、まるで何かに取りつかれたように、「蹴る」という言葉のみを何度も繰り返していた。

 

「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」

 

 まだ続く。

 

「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」

 

 まだまだ続く。

 

「蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………蹴る…………」

 

 そこで一度区切りをつけると、大きく息を吸い、

 

「蹴る」

 

 これまでで一番力強い「蹴る」の一言を吐き出した。

 

 瞬間、ライライのまとう雰囲気がガラリと変わった。

 

 彼女を取り巻く空気から淀みや不純物がすべて取り除かれたかのような、そんなクリアーで混ざりっけの無い澄んだ気配。

 

 ボクはじゃりっ、と靴裏を擦り鳴らす。

 

 一体何をしていたのかはさっぱり分からない。

 

 だが今のライライは、さっきまでとは明らかに「何か」が変わっていた。抽象的な言い方かもしれないけど、それだけは断言できる。

 

 ライライはすさり、すさりと歩を進めてくる。

 

 その瞳に宿る闘志の炎は消え去っていた。だがその代わり、純水のように澄み切った輝きで満ちている。

 

 ――どういうわけか、ボクはそんなライライがたまらなく恐ろしく見えた。

 

 互いの距離がゆっくりと縮まっていく。

 

 だがボクの本能のような感覚が、彼女の間合いへ入ることに対して激しく警鐘を打ち鳴らしていた。「今すぐ逃げろ」と。

 

 だが、逃げていては勝つことはできない。ボクは心の警鐘を無視してその場に踏みとどまり、ジッとライライの到達を待った。

 

 やがて、ボクはライライの一足一刀――ならぬ一足一蹴の間合いの先端に入った。

 

「がっ――――!!?」

 

 突如、右の二の腕に衝撃が走る。

 

 真横へ吹っ飛ばされた。

 

 何の前触れもなくやってきた衝突と痛みに頭が混乱しつつも、ボクは即座に体勢を立て直し、さっきまで立っていた位置へ視線を向けた。

 

 が、ライライは蹴り終えた体勢をとっていなかった。それどころか、体を動かした素振りを欠片も見せていなかったのだ。

 

 ――いや、待て。さっきのはそもそも本当に蹴りだったのか?

 ――衝撃が来たのは確かだ。けど、攻撃の前兆が全く見えなかった。

 ――いやいや、ちょっと待て。ボクが攻撃の発生を見逃していただけなんじゃないのか。

 

 ライライはそんなボクの困惑など知らないような涼しい顔をしながら、再び近づいてきた。ダッシュではなく、ゆっくりとした歩行で。

 

 その穏やかな様子が、かえってボクの目には不気味に映った。

 

 けど、根拠のない恐怖心を噛み殺し、ボクは自分からライライへと駆け足で向かって行った。

 

 真正面から突っ込む――と見せかけて右斜め前へ方向転換。

 

 ライライの側面を取ったボクは全身に回転を加えながら近づく。

 

 彼女からは、未だにアクションを起こす気配が感じられない。

 

 戸惑う心を無理矢理黙らせてから、遠心力を乗せた右回し蹴りを打ち込もうと考えた。

 

 その時だった。右太腿と腹部に、高速で飛んできた砲丸が直撃するような圧力を感じたのは。

 

「――――っ」

 

 一撃目で足を払われ、二撃目で弾き飛ばされた。

 

 ボクはこれ以上ないほど目玉をひん剥く。

 

 今受けた二つの激痛に苦悶するが、その苦痛を帳消しにするほどに、ある事実に驚愕していた。

 

 なんと、ライライの足は――全くその場所から動いていなかったのだ。

 

 何度か地を転がったが、すぐにしゃがみ姿勢に持ち直す。

 

 今なおゆったりした物腰で立つライライへ、驚愕の眼差しを送った。

 

 心臓が鳴り響いて止まらない。

 

 ――ボクは確かに見た。

 

 二発の衝撃が訪れた時、ライライは確かに微動だにすらしていなかった。

 

 動くどころか、ほんの微かな初動さえ無かった。

 

 もしかして、相手に触れずに攻撃する技か?

 

 ――いや、そんなことはありえない。あるはずがない。

 

 それじゃあ、まさしく超能力じゃないか。

 

 それに、もし触れずに攻撃できるというのなら、ボクと距離が近づかなくてもボコボコにできているはずだ。ボクが謎の攻撃を受けたのは、すべてライライの蹴りの射程圏内。つまり、あれは「蹴り」だ。

 

 しかし、実際に蹴ったモーションを見せてはいなかった。なので、蹴りであるかも少し怪しい。

 

 なら、あの攻撃の正体は一体なんだ。

 

 武法マニアのボクでさえ知り得ない、謎の攻撃。その姿なき驚異に、ボクの心はすっかり翻弄されつつあった。

 

 ライライはまるで見透かしたような口ぶりで、次のように訊いてきた。

 

「ねぇシンスイ、あなた子供の頃、飛び回るハエを手で捕まえようとしたことはあるかしら? あれって中々上手くいかなかったでしょう?」

 

 まったく脈絡の無いその言葉に、首をかしげたくなる。

 

 が、ボクは少し戸惑いながらも、なんとか返答した。

 

「え……うん、まあ」

 

「そうよね。でもね、ものすごく簡単に手掴みできる方法が一つだけあるの。それは――「手を速く動かそう」っていう意識を持たないことよ」

 

 彼女の口から、また脈絡の無い発言が――

 

 ――いや、脈絡はあるかもしれない。

 

 ライライは今「速さ」と口にした。

 

 先ほどの、不可視の攻撃を思い出す。そして、一つの仮説を立てた。

 

 あれは「見えない攻撃」じゃなくて、「目で追えないほどの速度を誇る攻撃」なのではないか? 

 

 それならば、ライライの言った「速さ」という言葉に結びつく。

 

「知ってるかしら? 人間の体っていうのは、とってもつむじ曲がりなの。「速く動こう」と思えば思うほど、筋肉が緊張して、かえって遅くなってしまう。逆に「速く動こう」っていう執着を消し去り、ただ「この動きをしよう」っていう意識だけで体を動かすと、その動きは速く、そして鋭くなる。「速さ」への執着を捨てれば捨てるほど、動く速度は増す。そして「速く動こうとする意識」という不純物をすべて取り除き、純粋な「蹴る」という意識のみを残すと――その蹴りは神速へと至る」

 

 ライライが小さく微笑む。

 

 その笑みは、怖いほど澄んで見えた。

 

「それこそがこの【無影脚(むえいきゃく)】。強雷峰(チャン・レイフォン)に父の事を思い出させ、そして意趣返しするために、私が作った技よ」

 

 稲妻に打たれたようなショックを受けた。

 

 蹴りの速度をデタラメなものにしているのは、間違いなく【意念法(いねんほう)】だ。体を鍛えることで速くするのではなく、自己暗示による精神操作を使って速さを手にするのだ。

 

 「速さ」を捨てて「速さ」を手に入れる――あらゆる武法を知るボクでさえ、そんな技術は聞いたことがなかったし、想像さえつかなかった。

 

 しかし、真に驚く所は他にある。

 

 

 

 ――こんな凄い技を、ライライは自分で作ったのだ(・・・・・・・・)

 

 

 

 武法の長い歴史の中、革新的技術を生み出した者は多い。

 

 だがそれができたのは、ほんのひと握りの”天才”のみだ。

 

 そして、その天才が今、目の前にいる。

 

 ……もしかするとボクは、武法の歴史の大いなる1ページを見ているのかもしれない。

 

 仮にもし、ボクを「天才」などと言う人がいたならば、それを否定した上でこう返したい。「ボクは指導者と指導環境にとてつもなく恵まれていただけの、ただの凡人だ」と。

 

 純粋な才能ならば、きっとライライの方が上だ。

 

 ――本当に、厄介な相手と戦うことになっちゃったようだ。まさしく「敵に回すとこれほど恐ろしいなんて……」というセリフの意味を体験学習している気分である。

 

 しかし、ボクは諦めるつもりはない。

 

 もう引き返す事は出来ない。突き進むしかない。

 

 あの日、父様に大見得を切った時点で、すでにサイは投げられているのだ。

 

 渡りきってみせようじゃないか。

 

 【無影脚】という暴れ川を。

 

 ボクはライライとの僅かな距離を潰しきるべく、走り出した。

 

 途中で胴回りに【硬気功(こうきこう)】を付与。なおかつ両腕で顔面を守るという守勢を取る。

 

 これで受けるダメージを最小限にする事ができるはず。この状態のまま突っ込み、飛んでくる彼女の神速の蹴りに耐えながら強引に懐へ入ってやる。そうなればこっちのものだ。

 

 ボクはそのまま、彼女の領域へと足を踏み入れた。

 

 その瞬間、不可視の蹴りによる強大な圧力が、左右の脇腹へ往復ビンタよろしく叩き込まれた。

 

 しかし、そこは【硬気功】を施しているため痛みは無い。

 

 ボクはバランスを取り直すと、再び走り出そうと、

 

「うっ……!?」

 

 ――したが、途中で足が止まってしまう。

 

 胃の中を引っ掻き回されるかのような、凄まじい不快感に襲われたのだ。

 

 ――しまった。【響脚(きょうきゃく)】か!

 

 【無影脚】のインパクトが強すぎて、この技の存在をすっかり忘れていた。

 

 その隙を突き、右脇腹へ見えない回し蹴りが舞い込んだ。

 

 紙くずのように軽々と吹き飛ぶボク。【硬気功】のおかげで痛みが無いのが幸いだった。

 

 受身を取って立ち上がってから、すぐに【震脚(しんきゃく)】する。それによる地面からの反作用で【響脚】の振動波を相殺。不快感が消えた。

 

 ボクは舌打ちする。【響脚】があるため、【硬気功】による防御で強引に押し切るのは無理だ。【硬気功】の効かない攻撃の厄介さを、まさか自分が味わう事になるなんて。

 

 ……それなら。

 

 ボクはもう一度【震脚】して瞬発力を高めてから、再び大地を蹴った。

 

 真っ直ぐへは進まない。右側から大きく迂回するような円弧軌道で近づく。

 

 やがて、ライライの背後へたどり着く。

 

 ボクは胴回りを【硬気功】で固め、顔を両腕でガードしながら近づいた。さっきと全く同じ構えだ。

 

 【響脚】は回し蹴りを左右交互に行う技。背後の相手に、二連続の回し蹴りは不可能なはず。

 

 ボクは勇んで、左足で彼女の間合いへ踏み入った。

 

 次の瞬間、土手っ腹と左足甲の順に、強い物理的ショックが訪れる。

 

 腹は【硬気功】がかかっているため、当然痛くはない。

 

「――――!!」

 

 が、足甲は違った。

 

 金鎚で殴られたような強い痛みが走り、ボクは目を白黒させた。

 

 おそらく今使ったのは【鴛鴦脚(えんおうきゃく)】。あの技は後ろへ跳ね上げるように蹴った後、勢いよく爪先を急降下させて相手の足甲を痛めつける。それを目にも留まらぬ速さでやってみせたのだ。

 

 痛みに悶えて固まっている所へ、見えない蹴擊がぶち当たった。ボクの軽い体が弾き飛ばされる。

 

 胎児のように丸まった状態で滑り、停止。

 

 ボクは左足を踏ん張って立ち上がろうとしたが、さっき打たれた足甲がズキリ、と鋭い痛覚を訴える。その痛みから目を逸らし、強引に起立した。

 

 左足で強く地を踏むたびやって来る鋭痛に、ボクは忌々しげに奥歯を噛み締めた。

 

 背後からの攻めは、完全に裏目に出る結果となった。これなら【響脚】を避けない方が効率的だったかもしれない。【響脚】の不快感はすぐに消せるが、今受けた足甲の痛みはしばらく続きそうだから。

 

「あなたばかりに攻めさせてごめんなさいね。でも大丈夫……今度は私から攻めるから」

 

 ライライは変わらぬ涼やかな声色で言うや、突然ボクめがけてスピードアップした。全身の強靭なバネから繰り出される、ネコ科の猛獣のようなしなやかさと鋭さを持つ走り。

 

 今までのゆったりした様子からの唐突な加速に、ボクは反応がワンテンポ遅れた。

 

 そのせいで、彼女の間合いの接近をかなり許してしまう。

 

 焦る心の赴くまま、右足――左足を痛めているから――のバネを駆使してウサギのように横へ跳ぶ。

 

 直後、神速の蹴りがボクの立っていた位置の石敷を削った。姿どころか影すら残さないそのべらぼうな速度は、まさに【無影脚】の名に恥じないものだった。

 

 砕かれた石敷の大きめな破片が飛んでくる。ボクはそれを片手でキャッチするや、こちらへ距離を縮めにかかっていたライライへ投げつけた。

 

 彼女は走る速度を緩めると、見えない蹴りでその破片を砂に変える。

 

 それによって生まれた僅かな隙を使って、ボクはできるだけ長く後退し、間隔を大きくした。

 

 こちらへ近づくライライの両目に一致させるように、ボクは両の視線を送る。そのまま、互いの目が一本の紐で繋がっているイメージを強く持った。――【太公釣魚(たいこうちょうぎょ)】。視線の動きによって相手の移動方向をコントロールする技。それを使ってライライの体勢を崩させ、拳を打ち込む隙を作ってやろうと考えた。

 

 が、ライライはボクの視線から目をそらした。

 

 「くそっ」と心の中で毒づく。こっちの狙いはバレバレのようだ。センランとの一戦で【太公釣魚】を見せてしまっていた事が、ここに来てアダとなった。

 

 蹴りの射程圏の端と再び重なりそうになった瞬間、ボクはダイビングでもするように真横へ大きく飛び退いた。何度か転がってから再び二本足で立ち上がる。

 

 それからしばらくの間、あらゆる手段を用いて彼女から逃げ続けた。

 

 今のボクらを形容するなら、「手負いの獲物を追いかける猛獣」といったところか。当然、ボクが追われる側だ。

 

 彼女の間合いに入る事は自殺行為。入った瞬間、稲妻のような足技によって黒焦げにされる。間合いの中心たる自分の元へ近づく事を絶対に許さない。いわば「蹴りの結界」だ。

 

 ボクは逃げの一手に徹しつつ、その結界を破る方法を必死に考えていた。しかし、未だに何一つ打開策が思いつかない。

 

 やがて、逃げの一手にも限界が訪れた。

 

 考え事をしながら何かに取り組むと、大抵上手くいかないものだ。ずっと庇っていた左足で誤って瞬発してしまい、それによる痛みで思わず居竦んだ。そのせいで体が凝り固まり、回避行動に失敗する。

 

「ぐぅっ――!!」

 

 その代償と言わんばかりに、二の腕へ透明のミドルキックが直撃。派手に飛ばされた。

 

 石敷の上を無様に転げるボク。

 

 うつ伏せになってようやく止まり、約20(まい)先に佇むライライを見た。

 

 服がすっかりボロボロなボクと違い、彼女の体にはほとんど汚れが見られなかった。

 

 その違いを見て、怪物に追い立てられた時のような強い焦燥感が胸を冒す。

 

 何もかもが通じない。

 

 攻撃を避けるだけで精一杯だ。

 

 近づくなんてもってのほか。

 

 攻撃どころか指一本さえ触れられない。

 

 かつてないほどの逆境に、ボクは立たされていた。

 

 このままだと負ける。

 

 負けて、武法士として生きる人生プランがお釈迦になってしまう。

 

 そんなのは嫌だ。せっかく掴んだ第二の人生なんだから。

 

 ボクは勝ちたい。勝って【黄龍賽(こうりゅうさい)】の本戦へ進み、そこで優勝したい。いや、しなくちゃいけない。

 

 だけど現実問題、【無影脚】を攻略する方法が全く思いつかない。

 

 そして、ライライもそれを考える時間を与えようとはしてくれない。その証拠に、現在進行形でボクの元へと接近している。

 

 あと十秒足らずで、ボクは蹴りの領域に飲み込まれるだろう。

 

 度重なる打撃によって、いい加減全身はガタガタだ。これ以上蹴りを喰らうのはマズイ。

 

 けど、どうすればいい? 

 

 まず、蹴りの速度が速すぎて、回避が出来ない。

 

 防御しようとすれば【響脚】がやって来る。

 

 八方塞がりじゃないのか。

 

 

 

 ――いや。そんなことはない。

 

 

 

 突然、ある考えが雷のように脊髄を貫き、脳髄を焼いた。

 

 刻一刻と縮まるライライとの距離など気にも留めず、ボクはそのひらめきを確かめていた。

 

 一つだけ方法がある。

 

 目で追えないほどの速度を誇り、なおかつ変幻自在な動きを持つ【無影脚】を攻略できる方法が。

 

 その答えは、びっくりするくらいシンプルなものだった。

 

 いや、きっと今までのボクが、難しく考え過ぎていただけなんだ。

 

「ふふふ……っ」

 

 思わず、口から笑みがこぼれる。

 

「……何か、思いついたのかしら」

 

 大和撫子を思わせる奥ゆかしい微笑みを見せ、そう尋ねてくる。

 

 ボクは不敵に口端を歪め、

 

「まあ、そんなところかな」

 

「そう……でも、果たしてそれが今の私に通じるかしら…………」

 

 ライライのあの妙に落ち着き払った態度は、おそらく、神速の蹴りを放つのに邪魔な雑念を取り払った結果だろう。今の彼女からは悟りを得た僧侶にも似た、異様に澄み切った雰囲気が感じられる。

 

 心の中で予言する――その余裕な表情は、もうすぐ驚愕で塗りつぶされる事になる、と。

 

 ボクは全力で走り出した。

 

 左足で地を蹴るたび、痛覚が鋭く駆け巡る。

 

 しかし、今だけはそれを無視し、普段通りに足を動かした。大地をしっかりと踏みしめ、自分の体を素早く前へ導く。

 

 走行中、ボクは【硬気功】を胴回りにかけ、顔を両腕で覆い隠して防御の体勢をとった。

 

 本日三度目になるこの防御。

 

 断じてやけっぱちではない。これが勝利の鍵だ。

 

 ここで、作戦通りに事を運べるかどうかが、この勝負の分かれ目。

 

 その作戦で求められるのは、三つの要素。

 

 ――「準備」の速さ。

 ――その「準備」を行うタイミングをうまく掴み取る能力。

 ――そして、運。

 

 どれか一つでも欠ければ、ボクの目論みは失敗する。

 

 イチかバチかの大勝負だ。

 

 絶対に決めてみせる!

 

 決めてやる!

 

 彼女の間合いに入るまで、残り約四歩。

 

 集中力を極限まで引き出し、時の流れを遅くする。

 

 三歩、

 

 二歩、

 

 一歩、

 

 蹴りの結界へ足を踏み入れた。

 

 ――ここだ!!

 

 転瞬、ボクは出せる限りの速さで動いた。

 

 腰の高さを急降下させる。

 閉じていた足を左右へ一気に開き、四股を踏んだような立ち方となる。

 胸を張り、その勢いで両肘を左右側面――正確には、左右の脇腹の隣――へと突き出す。

 

 それらの身体操作を同じタイミングで開始し、そして終える。

 

 

 

 ――次の瞬間、右肘に重々しい感触がぶつかった。

 

 

 

 「ミシリ」という微かな音とともに、強烈なインパクトが体の芯まで響く。だが【両儀勁(りょうぎけい)】のおかげで、ボクの足はその場からは少しも動いていない。

 

 右肘のすぐ隣に、ライライの左足があった。神速という名のベールが脱げ、その姿が露わになっていた。

 

 そして、

 

「うぐっ…………!?」

 

 ライライはさっきまでの涼しげな表情を一変、驚きと苦痛が混ざったような顔となっていた。

 

 それを見て、ボクは作戦の成功を確信する。

 

 ――【無影脚】の攻略法。これは難しいようで、実は非常に簡単なものだった。

 

 ボクは顔を両腕でガードした上で、胴回りに【硬気功】を施した。

 

 この構えは、【無影脚】に対してボクが取れる最善のガード姿勢だった。

 

 ライライはそんなボクに、どうやって決定打を与えた?

 

 【響脚】を使った。彼女はボクの両脇腹へ往復ビンタのように素早く回し蹴りを当て、体内を揺さぶってきた。

 

 ――そう。だからこそ、ボクがこのガード姿勢をとったら、ライライは高確率で【響脚】を使って来ると踏んだのである。

 

 【無影脚】は確かに目に映らないほどの神速だ。だが、どこへ飛んでくるかがある程度予測出来てさえいれば、対応は比較的簡単に行える。

 

 ――だが、それはあくまでも前提条件。本題はこれからだ。

 

 もう一度言うが、【無影脚】の攻略は結構簡単だ。

 

 

 

 だって――攻撃の要たる「足」を攻めればいいだけなのだから。

 

 

 

 ライライは高い確率で【響脚】を使ってくるはず。つまり、狙う箇所はボクの側面に絞られる。

 

 あらかじめ蹴ってくるであろう位置は分かっている。ならばそこを狙って【打雷把】自慢の強烈な一撃をお見舞いすればいい。

 

 両側面へ肘打ちを行う技、【撕肘(せいちゅう)】。この一撃と真っ向からぶつかったライライの蹴り足は――見事に損傷しているはずだ。彼女もヤワな鍛え方はしてないので折れてはいないが、それでもかなり痛かったことだろう。苦痛にまみれた今の表情が、それを如実にものがたっている。

 

 だが、【響脚】を使う確率こそ高かったものの、必ずしも予定通りにいく保証はどこにもなかった。なので、運試し的な作戦だったことも否定出来ない。

 

 しかし今、その賭けは見事に成功を収めている。

 

 

 

 そして、痛みに苦しんでいる今こそが――最大の隙となる!

 

 

 

 痛む左足で地を蹴り、疾走。

 

 ライライへ肉薄。ずっと入りたくて仕方のなかったその懐へ、ようやく到達した。

 

 ライライは「しまった」と言わんばかりの表情でボクを見る。

 

 けど、もう何もかもが遅い。

 

 右足による【震脚】で踏み込み、同時にそこへ急激な捻りを加える。

 捻りの力を受けた全身が、綺麗に噛み合った歯車のように旋回。

 その回転運動を直線運動に変えるイメージで右拳を突き出した。

 

 ――渾身の正拳【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】はライライの体に真っ直ぐ突き刺さり、さらにその奥へ分け入らんとばかりに食い込んだ。

 

 微かな呻きが耳元で響く。それとともに、ライライの姿がものすごい勢いで後ろへ流された。

 

 ボクはそれを後から追いかける。

 

 ライライは背中で着地。それからもしばらくの間、後ろへスライドし続ける。

 

 ボクはまだそれを追う。

 

 やがて慣性が摩擦に負け、ライライの動きが仰向けで止まった。

 

 ボクもそれに合わせ、走るをやめる。

 

 そしてしゃがみ込みつつ、ライライの顔面の一寸先まで拳を進めた。

 

 ――寸止め。

 

 円形闘技場全体に静寂が訪れた。

 

 ボクも、ライライも、果てには観客たちも、水を打ったように沈黙している。

 

 数秒間、その深い静けさは続いた。

 

 その沈黙を最初に破ったのは、ライライだった。

 

 ボクの拳の下にあるライライの顔は、悔しげに、しかしそれでいて満足そうな笑みを浮かべ、言った。

 

「…………降参よ。さっきの肘打ちで、左足の脛にヒビが入ったみたい。もう蹴り技使いとしては負けたも同然だわ。この勝負あなたの勝ちよ、シンスイ」

 

 その言葉が聞こえてから約五秒後、

 

 

 

 

 

「――宮莱莱(ゴン・ライライ)の棄権を確認!! 勝者、李星穂(リー・シンスイ)!!」

 

 

 

 

 

 審判員の口から、勝者の名が高らかに叫ばれた。

 

 刹那、どっ、と歓声が膨れ上がった。

 

 これまで聞いてきた歓声の中で輪をかけて激しく、膨大な声量。

 

 その理由は、簡単だ。

 

 今この瞬間、この大会の優勝者が決まったからだ。

 

 このボク――李星穂(リー・シンスイ)に。

 

 それを実感した瞬間、ボクは喜ぶよりも先に脱力した。落っこちるようにその場で座り込む。

 

 ライライと目が合った。

 

「散々蹴ってごめんね、シンスイ」

 

「ううん。ボクもライライの足に怪我させちゃったし、おあいこだよ」

 

「そっか。それとシンスイ、私が蹴りで作った上着の裂け目から胸が見えそうよ。隠した方がいいわ」

 

「うわ!?」

 

 ボクは慌てて両手で胸を覆い隠した。壁のように貧相な胸だが、女の子としてあけっぴろげはどうかと思う。後で着替えないとね。

 

 ライライはそんなボクを見てクスクスと笑いをこぼすと、

 

「――優勝おめでとう、シンスイ」

 

 そう、祝う言葉をくれた。

 

 それに対し、ボクは何も言わず、満面の笑みを返したのだった。

 



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遠ざかる情景

 決勝戦が終わった後、ボクとライライはすぐに医務室へと運ばれた。

 

 二人とも怪我人だったが、怪我の程度で言えばボクの方が上だった。勝ったはずなのにおかしな話である。

 

 散々蹴られた痛みは【気功術】による治療ですっかり引いた。左の足甲の骨にも異常は見られず、同様の方法で怪我は治った。

 

 【響脚(きょうきゃく)】による振動波を受けたことを伝えると、お医者さんに薬をいくつか飲まされた。内臓にダメージを受けている可能性を考慮しての措置であるという。

 

 ライライはボクよりも短い時間で治療が終わった。でも彼女が言ったとおり、ボクが攻撃した左足の脛の骨には微かなヒビが入っていたらしい。薬と【気功術】を併用した治療によって痛みは引いたが、三日ほどは激しい動作を控えるよう言いつけられた。

 

 ちなみに、医務室で看護の仕事をしていた女の人から「さっきの試合凄かったです!」と目を輝かせながら称賛された。ボクとライライは顔を見合わせ、照れ笑いしたのだった。

 

 表彰式、ならびに閉会式は、午後に行われる予定だ。なのでボクらはミーフォンと合流してから、午後になるまで時間を潰した。

 

 まず『順天大酒店(じゅんてんだいしゅてん)』のボクの部屋へと戻り、破れまくった服を取り替えた。ぶっちゃけボクはあんまり気にしないけど、周りの人からしたら目に毒っぽかったので。

 

 ボクの荷物から下着を盗もうとしていたミーフォンをチョップで撃退してから、すぐに部屋を出て、軽食を摂った。お菓子レベルの安価な食事だったが、厳しい試合の後であったためか、その軽食は凄く美味しく感じられた。

 

 それからしばらく三人で談笑。そして懐中時計の針が閉会式開始の時間に近くなったのを確認すると、闘技場へと戻った。

 

 到着し、時間になるまで待機。

 

 

 

 そしてようやく――その時が訪れた。

 

 

 

 ボクは今、円形闘技場の中央辺りに立っていた。

 

 周囲の壁の上層にある円環状の観客席から、無数の羨望の視線がボクへと一点照射されている。見ると、最前列の席の一角から、ライライとミーフォンが手を振っていた。ボクはそれに対して笑顔で手を振り返す。

 

 気を取り直し、ボクは前を真っ直ぐ見た。

 

 そこには、シワのない立派な長袍(ちょうほう)に身を包んだ数人の男性が横並びで立っていた。

 

 開会式の時と同じメンツ。つまり大会運営の人たちだ。そのうちの一人は、細い鎖で繋がれた朱色のメダルを丁寧な持ち方で持っていた。

 

 彼らがボクに向ける視線は、みんな一様だった。厳粛さと誠実さ、そしてねぎらいの感情を秘めた眼差し。

 

 最初に十六人いたのが、今ではボクただ一人。優勝者として目の前の彼らと、そして周囲の観客の視線を独り占めしていた。

 

 この予選大会は、【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦の切符を手に入れるための審査みたいなものだ。なので、優勝者以外を表彰する意味はない。敗退者を『順天大酒店』から帰らせたのもそこに理由がある(宿泊施設を借りるための予算の削減という、大人の事情も絡んでいるが)。

 

 観客席のさらに上層のテラスのような場所にある巨大な銅鑼が、思い切り叩かれる。重厚かつ煌びやかな音が轟くとともに、歓声がピタリと止んだ。お約束のような流れである。

 

 運営の一人が、大きくはきはきした声で沈黙を破った。

 

「大変長らくお待たせ致しました! これより第五回黄龍賽、朱火省滄奥市予選大会の閉会式を開始します! 始めに、表彰式を行います! 今大会参加者十六名を打ち破り、見事優勝を収めたのは――ここに立つ李星穂(リー・シンスイ)選手です!!」

 

 なりを潜めていた歓声が、一気に膨張した。

 

 そう声を発した運営の男性は、朱色のメダルを持つ運営の人とアイコンタクト。

 

 メダルを持った運営の人は、ゆっくりとボクの前まで歩み寄る。

 

李星穂(リー・シンスイ)選手には、【朱火省(しゅかしょう)】の予選大会で優勝を収めた証にして、一ヶ月後に帝都で行われる【黄龍賽】本戦の参加資格――【吉火証(きっかしょう)】を贈呈します!」

 

 その言葉とともに、目の前の運営がメダルをボクの首に掛けてくれた。

 

 朱色の光沢を持つそのメダルは、五本の指を除いた手のひらほどの大きさ。円い表面には立派な鳥の意匠が刻まれていた。孔雀に似た姿をしたその鳥の双翼や羽毛の端は、燃え盛る炎の揺らぎのように波打っている。おそらくこの鳥は四神のうちの一体「朱雀」だろう。

 

 これが、本戦参加者の証――【吉火証】。

 

 度重なる激闘の果てにようやく掴み取った、最初の一歩。

 

 それを思うと、実際の重さよりも数倍は重々しく感じられた。

 

 感極まったボクはくるりと一回転し、首に掛かった【吉火証】を周囲に見せつけた。

 

 歓声の膨張がさらに輪をかける。

 

 ボクは素肌に清水を浴びるような気持ちで、その歓声を我が身で受け続けた。

 

 

 

 ――それから閉会式は、つつがなく終了した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、予選大会が終了した日の翌朝。

 

 ボクとライライ、そしてミーフォンの三人は、各々の荷物を持って【滄奥市(そうおうし)】の最北端で立っていた。

 

 前方を覆う背の高い土塀の一箇所に開けたスペースがあり、そこから踏み固められた土の道が、町の外へ向かってどこまでも伸びている。

 

 ボクらのすぐ近くには、一台の荷馬車が停まっていた。大きな荷台にはいくつかの箱が積んであり、その荷物の隣には剣や刀で武装した男が三人ほど座っている。

 

「――そろそろお別れか。寂しくなるな」

 

 ボクら三人から少し離れた位置に立っていた少女――孫珊喜(スン・シャンシー)がそう呟く。

 

 彼女のその言葉に、ボクは嬉しさを感じる一方、これから間も無く訪れる別れに寂しさも覚えた。

 

 そう――ボクら三人は、もうじきこの【滄奥市】を去るのだ。

 

 そして、【黄龍賽】の本戦が行われる帝都へ向かう。

 

 昨日、優勝したことは確かにめでたい。だがボクにとっては、まだ序章に過ぎない。

 

 むしろ、これからが頑張り時なのだ。帝都に行って、その頑張りを果たさなければならない。

 

 ちなみに、本戦に参加するのはこの三人の中でボク一人だ。つまり、ライライとミーフォンは付いて来る必要は全く無いのである。

 

 しかし、二人ともボクに付いて来るとの事。

 ミーフォン曰く「もっとお姉様と一緒にいたいですわ!」。

 ライライ曰く「私はもうやることがないし、せっかくだからシンスイの本戦での戦いぶりを見るとするわ。持ち合わせにもまだ余裕があるしね」。

 

 ……そういうわけなので、ボクら三人はもうしばらく一緒なのである。

 

「アタシも一緒に行けたらよかったんだがな……」

 

 ボクはしょんぼりしながらそんな事を言うシャンシーを励ますように笑いかけ、

 

「大丈夫。またきっと会えるよ。ボクの家、この町と結構近いし」

 

「そっか…………言っとくが、アタシはまだ九十八式の名誉挽回を諦めちゃいねーからな。アタシはまた四年後、【黄龍賽】に挑んでやる。もしそこでぶつかる事になったなら、今度はアンタには負けねーから」

 

「うん、分かった。元気でね。あと、もうお酒飲んじゃダメだよ」

 

「の、飲まねーよ! あん時のありゃ間違えて飲んじまっただけだ!」

 

 顔を真っ赤にしながらまくし立てるシャンシー。それを見てボクはクスクスと笑みをこぼす。

 

 シャンシーは赤いほっぺのまま咳払いすると、話題をそらしてきた。

 

「……ところで、帝都まではどうやって行くつもりだよ? 帝都はこの町から北の方角へずっと進んだ先にある。けど、この馬車は途中で東に曲がる予定なんだぜ?」

 

「大丈夫。途中でちょくちょく乗り換えるから」

 

 ボクは軽い調子でそう返した。

 

 ――本戦開始まで一ヶ月の猶予が設けられているのは、帝都までの道中にかかる時間を配慮しているためだ。

 

 ボクらはその一ヶ月の間に、帝都へ到着する必要がある。

 

 帝都はこの【朱火省】の一つ上の【黄土省(こうどしょう)】の中央に位置する。方角はここからだと北。到着までそれなりに時間がかかるが、それでも一ヶ月以内なら余裕で間に合うそうだ(余計な道草を食いすぎなければの話だが)。

 

 方角の認識に関しては問題無い。なぜなら実家を出る前、父様の部屋から方位磁針を一つ持ち出してきたから。万能アイテムのスマートフォンが存在しないこの異世界において、方位磁針は旅の必需品だ。

 

 次に、移動速度の問題。これもおそらく大丈夫だろう。

 

 北の方角へ向かう馬車に、乗せてもらえばいいのだから。

 

 乗せてもらい、北へ進めるだけ進んだらそこで下ろしてもらう。そしてまた北行きの馬車を途中で見つけたら乗せてもらう。それを繰り返しながら行けば、比較的楽に帝都へ着けるはずだ。

 

 そこに停まっている馬車も、途中まで北へ真っ直ぐ進むらしい。なので交渉し、乗せて行ってもらうことになったのだ。

 

 もちろん、タダじゃない。きちんと運賃が必要だ。

 

 その運賃としてボクらが提供するのは「防衛力」だ。

 

 ――売り物を積んで他の町へと移動する馬車は、出発前に必ず「鏢士(ひょうし)」と呼ばれる人たちをあらかじめ雇っている。

 

 鏢士とは、輸送品などを賊の手から守るために存在する職業武法士のことだ。その職業柄、高い武法の腕前がなければなることが出来ない。

 

 鏢士は必ず『鏢局(ひょうきょく)』と呼ばれる会社に所属している。物流などを行う人は、それなりのお金を『鏢局』に支払い、品物を守ってくれる鏢士を派遣してもらうのだ。

 

 ……そう。それほどまでに、護衛というのは大切なのである。

 

 なので、ボクらはそれを無償で差し出した。

 

 ――簡単に話をまとめると「無料でこの馬車を守ってあげるから、乗せて欲しい」といった感じだ。

 

 この馬車の御者(ぎょしゃ)さんは喜んだ。武法士が増えれば、それだけ馬車の守りは硬くなる。物資の守り手は一人でも多いに越したことはないのである。

 

 おまけに、ボクは予選大会の優勝者として有名になっていた。そのネームバリューが、幸運にも高い実力の裏付けとして扱ってもらえたのだ。

 

 それに比べ、鏢士の皆さん――今、あの荷馬車に乗っている三人だ――は難色を示している様子だった。そりゃそうだ。自分たちのプロフェッショナルに土足で踏み入るような事をされているのだから。けど、これも帝都へ早く向かうためだ。非難がましい視線は甘んじて受けよう。

 

「そろそろ出発しますよー」

 

 御者台から、御者さんののんびりした声が聞こえてきた。

 

 ボクら三人は荷台へと歩き出す。

 

 じとっとした目で睨んでくる鏢士三人の視線に耐えつつ、荷台へと乗り込んだ。

 

 そこから、シャンシーを見る。

 

 彼女は微かな寂しさの混じった微笑みをボクらへ向け、

 

「……達者でな」

 

「……うん。またいつか、縁があったら」

 

 ボクのその言葉を合図にしたように、馬がいななき、荷台が動き出した。

 

 シャンシーの姿が、みるみる遠ざかっていく。視界の中で粒のように縮小していき、やがて消えた。

 

 そして、【滄奥市】の町も小さくなっていき、やがて下り坂を下りるとともに見えなくなってしまった。

 

 ――そんな切ない情景に、不覚にも目頭が熱くなった。

 

 最初は、父様との勝負に勝つべく、仕方なしに訪れただけの町に過ぎなかった。

 

 滞在期間もほんの数日だった。

 

 けど、その数日の間、あの町には濃密な思い出がいくつもできた。

 

 いつしかボクの中で、思い入れのある町へと昇華していたのだ。

 

 ――しかし、涙は流さない。

 

 ボクはもう、前だけを進むと決めたのだ。

 

 父様との勝負が終わるまで、通過点は振り返らない。ただ後ろへ流すのみ。

 

 だけど。

 

 もし、この戦いが終わってもなお、ボクが武法士で居続けることができたならば。

 

 いつか再び、あの町に足を運びたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【予選編 完】



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ふろく
【武法の主な設定】


武法(ぶほう)

 

 人体の持つ潜在能力をフルに引き出し、常人以上の戦闘力と身体機能を得る究極の体術。

 煌国全土に伝わっており、数え切れないほどの流派が存在する。だがその全ての流派は、元をたどれば【太極炮捶(たいきょくほうすい)】が起源である。

 流派によって伝わる技術も戦闘理念も異なるが、一部の例外を除けば立ち技系がメイン。

 習得が難しく、実戦可能レベルに達するまでは最低でも四、五年はかかる。なので武法の修行は、物覚えの早い幼少期から始める者が多い。

 

 

 

 

 

易骨(えきこつ)

 

 武法を習得する上で最も重要な修行。

 常人の骨格は大なり小なり歪みを持っている。その歪みのせいで体重が体のあちこちへ分散し、それを支えるために余分な力みが生じてしまっている。

 【易骨】では、その骨格を歪みを正して理想的な配置に整えることで、全身に分散していた体重を足裏に集中させる。そうすることによって、自分の体重を一〇〇パーセント使えるようになる。重心移動と同時に打撃を放つことで、まるで数十キロもの鉄球が高速でぶち当たるかのごとき威力を出す事が可能となる。

 【易骨】によって整えられた骨格は、あらゆる衝撃を分散させる機能が備わっている。そのため、普通の人間が死ぬような衝撃を受けても無事でいる事ができる。

 また、体から余分な力みが消えると、全身の【気】のルートである【経絡(けいらく)】が広がり、【気】の流れが円滑化する。それによって初めて【気功術】(後述)の修行と使用が可能となる。

 

 

 

 

 

気功術(きこうじゅつ)

 ヒトを含む生きとし生ける物全てが持つエネルギー【気】を利用し、様々な効果を引き起こす技術。

 武法では必ず学ぶものであり、これがなければ武法ではない。

 【気功術】は、主に四種類存在する。

 

 ①【硬気功(こうきこう)】:臍下丹田(せいかたんでん)に集めた【気】を体の好きな部位へと移動させ、そこの硬度を一時的に鋼鉄並みにする技術。刃物も通さない。

 ②【炸丹(さくたん)】:臍下丹田に集めた【気】を爆発させ、打撃力を倍加させる技術。【硬気功】による防御を破る事ができる。ただし【気】の消費が激しい。

 ③【聴気法(ちょうきほう)】:周囲に存在する【気】を感知する技術。

 ④【送気法(そうきほう)】:【気】を放出する技術。物理的効果はない。

 

 戦闘では便利だが、使いすぎると全身の【気】が薄くなってバテてしまう。

 また、【気】とは電気的性質を持ったエネルギーであり、可燃物に引火する。そのため、可燃性の粉塵が煙のように舞う場所で【気功術】を使うと、粉塵爆発を起こす危険性がある。

 

 

 

 

 

勁擊(けいげき)

 力学的に効率の良い身体操作によって放たれる、武法の強力な打撃技。

 その基本は『三節合一(さんせつごういつ)』。『三節』とは、腕、胴体、下半身、これら三つのパーツの総称。この『三節』全てを終始同じタイミングで動作させることで、全身で生み出した運動エネルギーが一つになり、強大な威力を発揮する。

 力を生み出す身体操作の方法は、流派によって様々。

 【易骨】で整えられた骨格でなければ、一〇〇パーセントの威力は出ない。

 

 

 

 

 

架式(かしき)

 武法の修行法の一つ。

 その流派において重要な姿勢を作り、そのまま動かず長時間保つ事によって、姿勢を体に染み込ませる。

 非常に苦しい修行だが、武法の中では欠くことのできない大切なもの。

 

 

 

 

 

拳套(けんとう)

 その流派で用いられる何十もの技や動きをつなぎ合わせ、一つのセットにしたもの。空手でいう「型」。

 これを何度も反復練習することで、その流派における【勁擊】、足さばき、体さばきなどといった体の使い方を覚える。

 ただし【拳套】はあくまで、その流派の文法のようなもの。これを実戦で使うための訓練は他にある。「型をやれば強くなれる」のではなく「型をやらないと強くなれない」のである。

 

 

 

 

 

(きん)

 武法士が体内に持つ、特殊な運動器官。

 【筋】という名前でこそあるが、普通の筋肉よりも性能が上。いわば「高性能の筋肉」。

 その主な特徴は、以下の通り。 

 

  ①筋肉は膨張して力を出すが、【筋】は伸びて突っ張ることで力を出す。

  ②筋肉は衰えやすいが、【筋】は非常に衰えにくい。

  ③【筋】は筋肉よりも成長が遅いが、その成長限界は無いに等しい。

  ④筋肉の性能には男女差があるが、【筋】には男女ともに性能が同じ。

 

 【筋】は、【易骨】によって整えられた肉体にのみ現れる。実際に【筋】という器官が存在するわけではないが、"感覚的には"確かにある。

 【勁擊】の時、全身を動かしているのは【筋】。そのため【筋】が強くなれば、【勁擊】も必然的に強くなる。

 

 

 

 

 

易筋功(えききんこう)

 【筋】を鍛えるための修行法。

 鍛えたい部位の【筋】へ、常に一定の負荷をかけ続けて鍛える(筋トレのように、断続的に負荷をかけるのではない)。

 【架式】も広義的に考れば、【易筋功】に分類できる。

 

 

 

 

 

意念法(いねんほう)

 強いイメージ力を用いて、身体能力を強化したり、技に特殊な効果を付与したりする技術。

 プラシーボ効果とほぼ同じ原理。

 流派によって様々な方法が存在する。

 

 



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道中編
ひっちはいく


 ――【滄奥市(そうおうし)】を発ってから、三日が経過した。

 

 あの町を去って間もない時は、名残惜しさが心にあった。

 

 しかし出発して一日経つ頃には、その名残惜しさは、まだ見ぬ世界を求める冒険心へと変わっていた。

 

 方位磁針(コンパス)片手に、見知らぬ土地を旅する――それはまさしく、前世にたくさん読んだ冒険小説のストーリーそのままだった。

 

 病院のベッドが相棒だった前世のボクにとって、冒険など、紙面やディスプレイの中の出来事でしかなかった。

 

 そんな夢物語を今、こうして実現することが叶っている。その事実にボクは胸がいっぱいになった。武法と関わる時とはまた別の感動がある。

 

 これも李星穂(リー・シンスイ)として、この異世界に転生されたおかげだ。

 

 

 

 ――さて、その話はひとまず置いておき、現状の話に移ろう。

 

 

 

 この三日間、ボクとライライ、そしてミーフォンの三人は、順調に帝都までの距離を縮めていた。

 

 一日目で、【黄土省(こうどしょう)】と【朱火省(しゅかしょう)】の堺にある関所へ到着。

 

 ライライとミーフォンは武器こそ携帯していたものの、少ない上に暗器レベルの小型武器ばっかりだったので、すぐに通り抜けられた。

 

 ……が、ボクはそれ以上の速さで関所をパスしてみせた。【黄龍賽(こうりゅうさい)】参加者の証である【吉火証(きっかしょう)】を見せ、帝都へと向かう正当な理由を示してみせたからだ。

 

 それからもボクらは、方位磁針の指し示す北の方角に向かって真っ直ぐ進んだ。

 

 途中で村や町を見つけてはそこへ立ち寄り、食事や休憩をしたり、飲み水を補給したりした。

 

 夜寝る時は人気のない川辺や林を見つけ、そこで暖をとりながら眠る。女の子としてどうかと思うライフスタイルだが、いちいち宿に泊まっていたらあっという間に予算がすっからかんになってしまう。帝都に着くまで今しばらく我慢だ。

 

 そんな風に道中を過ごしながら、北上を続けていた。

 

 ……そして、現在も。

 

 ボクらは大きな手提げ鞄を片手に、両側を林に挟まれた一本道を歩いている。

 

 控えめな光をもった朝日の下、北と南へ真っ直ぐと伸びる黄土色の一本道。その道を挟むように、左右には広大な林が広がっていた。無数の針葉樹が剣山のごとく伸び連なり、深緑の影を作りながら奥へ奥へと続いている。

 

 左右の林のうち、右のずっと奥には川がある。

 

 なぜ知ってるかって? 答えは簡単、そこで昨日の夜眠っていたからだ。

 

 これがなかなか良スポットだった。川なので水浴びができ、おまけに魚も多くいる。ボクは幼女時代に培った野生児的テクニックを駆使し、シャケを数匹捕まえてみせた。おかげで昨晩はご馳走だった。

 

 そしてついさっき、その川から林を伝い、この道へ出てきたところである。

 

 ボクは父様の部屋からかっぱらってきた地図を取り出し、大雑把に現在地を目算する。結果、ここが【黄土省】の南端部である事が分かった。

 

 まだまだ道はあるが、それでもやっぱり地道に帝都へ近づいているのだ。

 

 帝都の近くには一際大きな関所があるらしいので、それを見つければもう着いたも同然だ。

 

 兎にも角にも、ただただ北へ進めばいいのである。

 

 このままのペースを維持すれば、余裕で間に合うはず。

 

 ふと、ボクの長袖が、横から微かな力でくいくい引っ張られる。

 

「……あの、シンスイ」

 

 三人の中で最も長身の少女――宮莱莱(ゴン・ライライ)が、蚊の鳴くような小さい声でボクを尋ねてきた。

 

「どうしたのライライ? まだ眠たい?」

 

「う、ううん。そうじゃないの。そうじゃなくて、えっと……あの…………」

 

 何かを恥じらうようなその様子に、ボクは無言で首をかしげる。

 

「その……私、臭わないかしら?」

 

 ライライが頬をほんのり染めて訊いてくる。我が身を抱くような仕草によってその巨大な双丘(おっぱい)がぐいっと強調され、思わず生唾を呑む。

 

 それと同時に、ボクは「ああ、なるほど」と思った。

 

 【滄奥市】を出て以来、ボクらはちゃんとしたお風呂に入っていない。水浴び程度しかしていないのだ。女の子としてはやはり気になるのだろう。

 

 それに昨日、随分念入りに水浴びしてたよね、ライライ。……その美しい裸体に何度視線を吸い寄せられそうになったことか。

 

 ボクは若干ためらいながらも、もじもじする彼女に近づき、犬猫のように鼻をすんすんする。

 

 そして、その感想――変態みたいな表現で申し訳ない――を率直に述べた。

 

「全然臭くないよ」

 

 ていうか、むしろ凄く良い匂いがする。

 

 女の子特有の匂いっていうのかな。甘さ九割、香ばしさ一割って感じ? 嗅いでると安心するっていうか、今はもう会えないお母さんを思い出すっていうか、なんていうか……。

 

 って、ちょっと待った。そこまでにしておけよボク。女友達の匂いを評論家のごとく表現するなんて、まさしく変態の所業ではないか。

 

 自分を戒めていたその時、三人の中で一番小柄な少女――紅蜜楓(ホン・ミーフォン)が勢いよく抱きついてきた。

 

「お姉様も変わらず良い匂いです! 安心してください! ああんっ、あたしこの匂い大好きぃ!! ビンに詰めて【嬰山市(えいざんし)】に持って帰りたぁい!! すぅぅぅぅぅぅぅっ!!」

 

「ちょっ、ミーフォ――あははは! くすぐったいよぉ!」

 

 ボクの首筋に顔を突っ込んで鼻息を激しく吸うミーフォンに、くすぐったくなる。間近で漂ってくる彼女の匂いは、やはり良い匂いだった。

 

 見ての通り、ミーフォンはえらくボクに懐いてくれているが、別にレズビアンというわけではないらしい。彼女曰く「たまたま好きになった人が女の子だっただけですわ!」とのこと。その時ボクは何て言ったらいいか分からず「ああ、そう……」と返してしまった。

 

 ――その時、後ろから馬のいななきのような音が微かに聞こえてきた。

 

 ボクはほぼ条件反射で、首だけを後ろへ向かせた。

 

 視線の遥か先には一台の馬車が見え、少しずつ手前へと接近していた。

 

 それを認めた瞬間、ボクは釣り針に(たい)がかかったようなラッキーさを感じた。

 

「よし。ヒッチハイクだ」

 

 グッと拳を握り、気合いを込めて小さく呟いた。

 

 「ひっちはいく?」と小首をかしげるライライを放置し、馬車の行く道を通せんぼする。

 

 馬車はあっという間に近くまでやって来た。

 

 ボクの姿を見るや、御者さんは慌てて馬を止めさせた。

 

「危ねぇなぁ! こんな所に立ってんじゃねぇよ! 死にてーのか!」

 

 当然ながら、御者さんは怒っていた。

 

 ボクは頭を下げつつ、

 

「ごめんなさい。でも、どうしても停まって欲しい用がありまして」

 

「用だぁ? 一体なんなんでぇ?」

 

「この馬車、目的地はどこですか?」

 

「【黄土省】の南西にある「楠楼郷(だんろうごう)」って村だが、それがどうしたんだよ?」

 

「この馬車、北へ進みますか?」

 

「このまま真っ直ぐ進んだ先にある【藍寨郷(らんさいごう)】って村までなら…………ああもう! さっきから何なんだ!?」

 

 ウンザリしたような質問が飛んでくると、ボクは顔を上げ、御者さんの目を真っ直ぐ見ながらはっきりと言った。

 

「もしよろしいなら、その【藍寨郷】って所まで、乗せて行ってもらえますか?」

 

 御者さんは何を言わんやといった表情を浮かべ、

 

「あのなぁ嬢ちゃん、この馬車は物を運ぶためのモンなんだ。人間はお呼びじゃねぇんだよ」

 

「そこをなんとかお願いします。もちろん、タダでとは言いません。ボクらは三人とも武法士です。なので目的地に着くまでの間、この馬車を守るのをお手伝いします」

 

 ボクがそれを口にした瞬間、馬車の奥にいる三人の男の目が剣呑な光を発した。おそらく、この馬車を守る鏢士(ひょうし)だろう。

 

 御者さんは困ったように頭を掻きながら、

 

「鏢士ならもう間に合ってんだがなぁ」

 

「でも、手勢は一人でも多い方がいいと思います。荷台に積まれたその品物を怖い人たちに取られたら困るでしょう?」

 

「……そりゃ、そうだけどよ」

 

 返事に窮している御者さんの横へ、鏢士の一人が身を乗り出してきた。彼は憤慨した様子で言い放つ。

 

「図に乗るな小娘が! 鏢士の職務が簡単だと思っているのか! 木っ端武法士ごときに務まるものではないっ!」

 

 それを聞いたミーフォンは「は?」と眉根をひそめて喧嘩腰になり、

 

「舐めてんじゃないわよ木っ端武法士。お姉様が本気になれば、あんたなんか一瞬であの世行きなんだから」

 

「何だと貴様! 侮辱は許さんぞ!」

 

 さらに怒りの温度を強める鏢士。今にも掴みかからんばかりの勢いだ。

 

 ボクはやや語気を強めてミーフォンをたしなめた。

 

「ミーフォン、やめなさい」

 

「っ……分かりました、お姉様」

 

 怒られた子供のようにシュン、と気落ちするミーフォン。

 

 せめてものフォローのため、彼女の頭を優しく撫でてから、

 

「連れが申し訳ありません。でも、もしボクの実力をお疑いなら、一つ手合わせをしませんか」

 

「……手合わせだと?」

 

「はい。拳での手合わせです。ボクが負けた場合は、素直に引き下がります。どうでしょうか」

 

 ボクの口調は、まるでカンペでも見ながら話したような整然さを持っていた。

 

 ……それもそのはず。あらかじめ準備しておいたセリフだからだ。

 

 ボクらはここに来るまで、北へ進む馬車を何度もヒッチハイクしてきた。大体は予選大会優勝者の証である【吉火証】を見せて強さの裏付けを示せば済むのだが、時々、実際に実力を見せないといけない場面にも直面した。今この時のように。

 

 ボクが今言った言葉は、そんな時のために用意しておいたものだ。

 

 鏢士はあっけにとられたような顔をするが、すぐに静かな闘志に満ちた表情へと変わった。

 

「……いいだろう。鏢士が伊達ではない事を教えてやる。いい社会勉強になるだろうよ」

 

 ボクは「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。

 

 鏢士は腰に下げていた鞘入りの直剣を荷台の中に放り込むと、馬車から降りた。

 

 ボクもミーフォンに手提げ鞄を預けてから、二人を端っこへ下がらせる。

 

 ある程度距離をとってから、ボクと鏢士は向かい合う。

 

「――では」

 

 鏢士は右拳を胸前へ持ってくると、それを左手で包みこんだ。【抱拳礼(ほうけんれい)】。

 

「――はい」

 

 ボクも同じく右拳を包む。

 

 そして、互いに構えをとった。

 

 両者ともに、体の半分を前に出した半身の体勢。前の腕と膝で正中線を隠し、敵の来襲に備える。

 

 前の手の指先を通して、小銃の照門よろしく相手の姿を捉える。鏢士も同じ方法でボクを見ていた。ボクら二人の視線がぶつかり、重なり、二本の線と化す。

 

 しかし、止まったままにはならない。ボクは彼の一挙手一投足から目を離さぬまま、立ち位置を前後左右あらゆる方向へずらす。

 

 そして鏢士も足さばきをしきりに刻み、ボクとの一線上の関係を律儀に守る。

 

 両者の構え方も一定ではなく、色々な形に変わる。ボクの構えに応じて鏢士の構えが変化。そしてその変化に対応するべくボクの構えが再び変化…………立ち位置を変えながらそれらを繰り返すボクら二人は、まるでダンスを踊っているかのようだった。

 

 最初は食い入るように見ていた御者さんも、今では飽きたようにあくびしている。しかし彼を除く全ての人間――ライライとミーフォン、そして残りの鏢士たち。全員武法士である――は、ボクらのやり取りを緊迫した眼差しで見つめていた。

 

 ボクらは遊んでいるわけではない。

 

 付け入る隙を探っているのだ。

 

 素人目には、ただ歩きながら逐一変なポーズを取っているようにしか見えないだろう。だがその中には素人では認識できない、めまぐるしい駆け引きの嵐が巻き起こっているのだ。

 

 さすがは強者揃いの鏢士というべきか、なかなか隙が掴めない。穴を見つけたと思った時には、すぐにそこを塞がれる。しかも慌てて直した感じが一切無く、流れるような自然な動き。動作が深く体に染み付いている何よりの証拠だ。

 

 ボクから隙を見つけて攻めるのは難しそう。

 

 ――それならば。

 

 ボクは足を一度止めると、スッと両手を垂らして構えを解いた。

 

 そして、正中線をおおっぴらにさらけ出したまま、鏢士へ向かって歩き出した。

 

「――っ!?」

 

 鏢士の喉元から、唾を飲む音が微かに聞こえた。

 

 今のボクは確かに無防備な状態だ。

 

 しかし、敵にそんな姿をわざわざ晒す時点で、罠の香りがするだろう。自分を痛めつける特殊な趣味でもない限り、何か対策を練っている事は確実なのだから。

 

 鏢士は今、二者択一を迫られている。

 ギリギリまで様子を見るか。

 危険を覚悟で打つべきか。

 

 が、性格的に即決の人なのだろう。彼はすぐに選んだ――後者を。

 

「シィッ――!!」

 

 鏢士は疾風のような一喝と足運びを同時に用い、右拳を先にしてボクへ急接近してきた。

 

 速い! 予想以上だ! さすがは鏢士!

 

 でも――狙いがバレバレだ!

 

 今のような作為的な無防備さに対して攻撃する者は、最も速度があり、なおかつそれなりに威力もある技を使いたがる傾向がある。「相手が反応しきれない速度で、先に打ち込んでやろう」という気持ちに駆られて。

 

 さらにその場合、最も決定打になりやすい部位を、無意識のうちに狙おうとする。一撃で仕留めたいがために。

 

 その部位とは、人間の急所が集まる垂直のライン、つまり正中線のどこか。

 

 ――その時点で、もう勝負はついている。どんなに速い攻撃も、どこに来るかが分かっていれば、避けるのはそう難しくない!

 

 鏢士の右拳が、フィルムのコマをいくつか省略したような速度でボクへと急迫。

 

 しかし、その拳の前方に、狙いの正中線は無かった。

 

 なぜなら――すでにボクは全身を反時計回りひねって、正中線の位置を右へずらしていたからだ。

 

 ボクの胸と並行の位置関係となった鏢士の右腕を、左手で掴む。

 

 そして、そこから流れを途切れさせずに右足で踏み込む。同時に、右肘を鋭く突き出した。

 

 

 

 ――ボクの【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】は、鏢士のみぞおちに突き刺さる寸前で止められていた。

 

 

 

 少し遅れてそれに気づいた鏢士は、顔を青くする。

 

「……もしボクがその気なら、この肘はあなたの胸に刺さっていました。まだ続けますか?」

 

 そう落ち着いた口調で問うと、鏢士の周囲から殺気が消えるのを感じた。

 

 ゆっくりと手を離す。彼はもう向かっては来なかった。

 

「……俺の、負けだ」

 

 鏢士はかすれた声でそう言う。

 

 ボクは冷静な態度を装いながらも、内心ではホッとしていた。

 

 彼は今職務中なので、怪我をさせたくなかったからだ。これ以上続かなくて良かったと思う。

 

 鏢士は気力の無い声で、しかしその中に驚きの響きを混ぜて再び訊いてきた。

 

「……君は一体何者なんだ?」

 

「ボクの名前は李星穂(リー・シンスイ)。訳あって、帝都に用事があるんです」

 

「女に対して失礼な問いだが……年齢は?」

 

「十五です」

 

 途端、鏢士のテンションがガクリと下がった。

 

「十五歳……俺は…………こんな子供に……」

 

 そうボソボソ呟く彼は、目に見えて落ち込んだ様子だった。

 

 ……当然かもしれない。強者揃いの鏢士に名を連ねるはずの自分が、こんな小娘に負けてしまったのだから。

 

 なんだか、彼の面目を潰してしまった気がして、心苦しい。

 

 ――ここは、一計を講じようかな。

 

 そう思い立ったボクは、ミーフォンのもとへ歩み寄る。預けてある鞄から【吉火証】を取り出し、それをみんなに見せた。

 

 ライライとミーフォンを除く、その場の全員が目を見張った。

 

「それは……【吉火証】!?」

 

「はい。ボク、これから【黄龍賽】に参加するために帝都へ行かないといけないんです」

 

 驚愕混じりの声でつむがれた鏢士の言葉を、ボクは落ち着いた態度で肯定する。

 

「なるほどなぁ。今年の【黄龍賽】本戦参加者か。どうりで強ぇわけだ」

 

 御者さんが関心したように一人呟く。

 

 ――よし、ボクへの評価が上がった。

 

 心の中でガッツポーズ。

 

 これで乗せてもらえる確率が高くなっただろう。

 

 何より「こいつほどの武法士に負けたのは仕方のないことだ」と思わせる事にも成功したはず。鏢士の面目もいくらか保たれた……と思う。

 

 それに、この鏢士も結構な手練だった。それは決して嘘じゃない。

 

「あの、乗せてもらえますか?」

 

 ダメ押しに、もう一言頼んでみた。

 

 御者さんはしばらく黙考すると、仕方ないとばかりに溜め息をつき、

 

「分かった。【藍寨郷】まで、鏢士の手伝いをしてもらおうかね」

 

 それを聞いた瞬間、ボクは喜びながらライライたちと手を叩き合わせた。

 

 ボクら三人は各々の荷物を持ち、嬉々として荷台の後ろへ入った。

 

 入った途端、鏢士二人の不愉快そうな眼差しにお出迎えされた。ボクらはそれに耐えつつ、空いているスペースに腰を下ろした。

 

 それほど大きな馬車ではないため、荷台の中はちょっとばかり窮屈だ。でも、乗せてもらえるだけでもありがたいのだ。文句はなしだろう。

 

 最後に、ボクが戦った鏢士が乗り込んできた。

 

 彼はボクを真っ直ぐ見ると、

 

「……済まなかった」

 

 悔しさと申し訳なさのこもった一礼をしてきた。

 

 ――もしかすると、面目を守ろうというボクの意図はバレバレなのかもしれない。

 

 だが、その事をあえて突っ込まず、当たり障りのない返し方をした。

 

「謝ること無いですよ。ボクらが皆さんのお仕事を邪魔しているのは事実ですから。【藍寨郷】に着くまで、ご厄介になります」

 

「……ああ。よろしく頼む」

 

 ボクと対面して座った彼は、そう頷いた。

 

 その口元が微かながら笑みを形作っているのを確認し、穏やかな気持ちになったのだった。

 



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突然の挑戦者

 起伏の激しい道を通り、荷台で揺られること約三十分。

 

 「もうすぐそこだ」という御者(ぎょしゃ)さんの呼びかけに反応して前方を見ると、遠くに建物の集まりがあるのを確認できた。

 

 その集まりは徐々に大きくなっていき、やがて視界すべてを埋め尽くした。

 

 御者さん曰く、そこが【藍寨郷(らんさいごう)】とのこと。

 

 寝ぼけ眼だったボクらはすぐに覚醒し、各々の鞄の取っ手を握ってスタンバイ。

 

 馬車は村に入って少しした所で停まった。ボクらは馬車に乗っていた人たちにまとめてお礼を言うと、荷台の後ろから降りた。

 

 御者さんは馬を休ませるため、もう少しこの村にとどまるらしい。

 

 改めて感謝を告げてから、ボクらは彼らと別れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この【煌国(こうこく)】には、【奐絡江(かんらくこう)】という長い長い川が流れている。

 

 その川はいくつもの支流に枝分かれして【煌国】全土に血管のごとく張り巡らされており、各地の村や都市へ水の恩恵を与えている。

 

 【奐絡江】の水の力は人々の暮らしを著しく助けているため、『煌国の血脈』という別名を持つ。

 

 さらに【奐絡江】のもたらした恩恵はそれだけにとどまらない。

 

 船による水上移動によって、余所の都市との連絡や交易が可能となったのだ。

 

 さらにその交易によって行き来したのはヒト・モノ・カネだけではない。数多くの武法も流出した。それによって伝承範囲が拡大したり、違う土地の武法同士が混じり合って新しい流派が興ったりした。つまり【奐絡江】は、武法の発展にも一役買っているのだ。

 

 ……さて。説明した【奐絡江】が今のボクらとどう関係しているかというと、この村――【藍寨郷】の位置だ。

 

 【藍寨郷】の斜め上辺りでは、【奐絡江】の支流が二本に分かれている。その二本の支流の又に挟まれた土地の中に、この村は存在するのだ。――より正確には、北側の支流付近にある。

 

 ボクらは馬車と別れた後、その【藍寨郷】を少し歩いた。

 

 中央辺りにある大樹を囲うように、建物がいくつも並んでいる。正直、それほど大きくはない村だ。しかし村中央の広場にある大樹は、大人四、五人が両手を広げてようやく囲えるほどの太さを持ち、どの建物よりも長大だ。確実に樹齢千年は超えているだろう。

 

 見ると、その巨大な幹に頭頂部をくっつけている少年が一人いた。年齢は、おそらく九歳か十歳くらい。

 

 その子は頭頂部――正確には頭頂部の中心にある経穴「百会(ひゃくえ)」――を大樹の幹に押し当てながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返している。

 

 何をしているのか、ボクには一瞬で分かった。

 

 ――あれは【連環功(れんかんこう)】と呼ばれる、【気功術(きこうじゅつ)】の初歩の修業だ。

 

 【易骨(えきこつ)】によって骨格が理想の配置に整うと、【気】の流通ルートである【経絡(けいらく)】が広がる。それによって【気】の流れが円滑化し、【気功術】が使える体となる。

 

 しかし【経絡】の広がりは、あくまで【気功術】を使用する準備が整っただけに過ぎない。次に、体内の【気】の流れを感じとる能力を養う必要がある。その能力がなければ、そもそも【気】を操ることなどできないからだ。

 

 そのために【気功術】初心者は、あの修業――【連環功】をやるのだ。

 

 成長した樹は、その内部に良質な【気】をたくさん含んでいる。【連環功】の修行者はその樹の幹に頭頂部をくっつけ、百会穴から吸い取るイメージで樹の【気】を体内へ取り込む。そしてその取り込んだ【気】をイメージの力で足裏にある経穴「湧泉(ゆうせん)」へ流し、そこから地中へ排出する。その排出された【気】は根っこに吸収され、再び樹の中に戻る。そして修行者はまた樹から【気】を取り込み、排出。そして樹はまた取り込む…………そんな順序を何度も繰り返すことで、【気】が体内で流通する感覚を学ぶのだ。

 

 その修業をしているということは、あの子はほぼ確実に武法士であるといえる。

 

 ボクはあの子に、この村にはどんな武法が伝わっているのか訊こうと思った。

 

 だがその矢先、きゅーっ、とお腹の虫が鳴く声が聞こえた。

 

 ボクのお腹ではない。見ると、ライライが赤い顔でうつむいていた。

 

 ……そういえばボクら、朝ご飯もまだ食べてなかったよね。

 

 ボクは「そういえば、お腹すいたね」と同調の言葉を送ってフォローする。もっとも、ライライはさらに頬を紅潮させてしまい、全くフォローにならなかったが。

 

 けど、お腹が空いているのは事実だった。

 

 ――そういうわけで、ボクらはまず腹ごしらえをすることにした。

 

 それほど大きくはない村だ。なので、店の数も多いとはいえない。その中からジャンルを飲食店に絞ると、さらに数は少なくなった。

 

 その少数から一つの店をアバウトに選び、そこへ入る。

 

 窓際に席を見つけてそこへ座り、全員一番安い素うどんを注文。

 

 約十分少々ほどで、その品が三人分運ばれてきた。熱い赤褐色の汁に太麺が入っており、その上へ少量の刻みネギを乗せただけの簡素な品。わびしく見えるが、これも節約のためだ。それに炭水化物なので、案外これで動くエネルギーになる。

 

 三人同時にいただきますをしてから、食べ始めた。

 

 ボクは空きっ腹にかられるまま、飲み干す勢いで太麺を吸いこみ、口の中で味わう。汁に含まれたダシは麺の中まで染み込んでおり、噛んだ瞬間それが湧き出して口内を醤油に似た味で満たした。空腹という強力な調味料も相まって、中々おいしかった。

 

 ライライもミーフォンも黙々と食べている。太麺をすする音は下品にならない程度の大きさだったが、ボクら以外のお客さんが一組もいなかったので、その音はよく耳に届いた。

 

 料理を運んでくれたおばちゃん――ここの店主の奥さんらしい――は、にこにこと人好きする笑顔を浮かべてボクらの席へ歩み寄ってきた。

 

「可愛らしい子たちだねぇ。どこから来たの?」

 

 穏やかな声で投げかけられたその質問に、ボクが答えた。

 

「えっと、【朱火省(しゅかしょう)】にある【滄奥市(そうおうし)】っていう町から来ました」

 

「まぁ、そんな遠くから?」

 

「はい。今年の【黄龍賽(こうりゅうさい)】に参加するために、帝都に行かないといけないんです」

 

 おばちゃんは見事に驚きを見せた。

 

「あらあら、そんな可愛いのに凄いわねぇ。頑張ってちょうだい」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 ボクは少し嬉しい気分になり、軽く会釈した。

 

「それにしても【黄龍賽】ねぇ……【会英市(かいえいし)】でも予選大会をいつかやって欲しいけど、残念ながらこの【黄土省(こうどしょう)】は予選大会が開かれない唯一の省なのよねぇ」

 

「【会英市】?」

 

 初めて聞く固有名詞に、ボクは疑問を表した。

 

 おばちゃんは説明してくれた。

 

「【会英市】は、この村のすぐ北に流れる川を越えた先にある町のことよ。以前までは寂れかけてたんだけど、十年ほど前にタンイェンさんが来て以来、経済的に活発になったのよ」

 

「タンイェンさん、って?」

 

馬湯煙(マー・タンイェン)――この辺りで一番の資産家よ」

 

 おばちゃんはさらに説明を続ける。

 

「北の川を越えた向こうには【会英市】と【甜松林(てんしょうりん)】の二つの町が隣り合わせであるんだけど、そこの産業や商売のほとんどはタンイェンさんの傘下にあるの」

 

「なぁにそれ? まるで小国の皇帝ね。聞けば聞くほどヤな奴に思えてくるわ」

 

 ミーフォンのひねくれた意見が飛ぶ。

 

 おばちゃんは苦笑いを浮かべながら、

 

「タンイェンさんは元々、小さい店の主人に過ぎなかったの。でもある日、お祖父さんから受け継いだ小さな山の中から、結構な量の【磁系鉄(じけいてつ)】が見つかったらしいのよ。彼はそれを元手にして事業を拡大。一躍大金持ちになったのよ」

 

「へぇ。凄いですね、それ」

 

 ボクは割と本気でびっくりした。そんなの、棚ぼたどころの話ではない。

 

 【磁系鉄】とは、この世界にある希少鉱石の一つだ。それも特に貴重な。

 

 色はヘマタイトによく似た光沢の強い鉄黒色。しかしその光沢は、色鮮やかな虹色である。

 

 そして、その最大の特徴は――【気功術】による影響を受けないことだ。

 

 【磁系鉄】は、その周囲に特殊な磁場を形成している。その磁場は【気】の流通を絶縁体のように遮断する性質を持つ。

 

 例えば、【磁系鉄】で出来た刃物があるとする。その刃物は【硬気功(こうきこう)】を施された部位に集中した【気】に分け入り、直接肉体を傷つけることができる。――簡単に言うと、ボクの【打雷把(だらいは)】と同じ「硬気功無効化能力」を持った武器ということだ。

 

 それで出来た武器を持てば、武法士との戦いでは相当な強みになるだろう。

 

 しかし、その産出量はめちゃくちゃ少なく、人の手による作成も今のところ不可能だ。なので、相場はなんと金の数倍以上。1両斤(りょうきん)あれば一軒家が余裕で買えてしまう。

 

 ライライは顎に手を当てて、

 

「【磁系鉄】か……私は見たことがないわね。シンスイは?」

 

「小さい頃に一回だけ【磁系鉄】で出来た刀を見たことがあるよ」

 

「あたしも見たことあるわ。ていうか、ウチに一本だけ純【磁系鉄】製の剣があるし」

 

 ボクは「嘘っ?」と驚く。

 

「はい。でも宝物扱いされてて、外に出す事は禁止されてますから。正直、宝の持ち腐れです」

 

「それでもすごいよ。もしそれ持ったミーフォンと戦ったら、勝てるか分からないかも」

 

「何をおっしゃいます! お姉様の【打雷把】の方が反則的じゃありませんか! それにお姉様相手じゃ【磁系鉄】も所詮付け焼刃です!」

 

 まくし立ててくるミーフォンに苦笑を返していると、おばちゃんは表情に少し影を差し、いくらかトーンダウンした声で言った。

 

「……でも、タンイェンさんにも結構いろんな黒い噂があるのよ」

 

「黒い噂、ですか?」

 

 ボクが聞くと、こくん、と頷くおばちゃん。

 

「裏の世界で有名な殺し屋を私兵として雇ったとか、彼のお眼鏡にかなった娼婦が屋敷に連れて行かれたまま帰ってこないとか、嫌がらせで住人を立ち退かせて強引に土地を手に入れたとか……」

 

 次々と列挙されていく、噂とやらの数々。

 

 だがおばちゃんは途中でハッと我に返った。

 

「……あら、あたしったら。ごめんなさいね。こんな話、食事処でするもんじゃないのに。それにあくまでも噂だから。本気にしないでね。それじゃあ、ごゆっくり」

 

 おばちゃんは取り繕うように言うと、カウンターの向こう側に立ち去った。

 

 ボクらは少しの間手と口を止めていたが、すぐに食事を再開した。

 

 ――馬湯煙(マー・タンイェン)、か。

 

 ま、いいか。別に考えなくても。これから帝都へ向かうボクらには関係ないことだ。

 

 唇に挟んでいた太麺を、ちゅるちゅるとすする。

 

 だが、店の出入り口の戸が突然勢いよく開かれたことに驚いたボクは、すすっていた太麺をぷつん、と途切れさせてしまう。

 

 店内に入ってきたのは、一人の若い男。

 

 年齢は二十代前半、もしくは半ばほど。額が少し出る程度の短い髪。その下にはスラッとした鋭い輪郭を持つ、好青年然とした顔立ち。濃紺一色の長袖に包まれた肉体は細見の長身。だがひ弱そうではなく、ほどよく鍛えられて均整の取れた体型。

 

 その男は迷いの無い足取りで店内を移動。

 

 そして、ボクらの席の前へ来た。

 

 彼はそこで立ち止まると、三人のうちの一人――ボクをまっすぐ見つめていた。

 

 その眼差しからは、目を疑うような、それでいてじっくり品定めをするような、なんとも言い表しにくい気持ちが読み取れた。

 

 ボクは噛んでいた麺を飲み込み、

 

「……あのー、何か用ですか……?」

 

 おそるおそる要件を訊いた。

 

 男はしばらく間を置いてから、ようやく口を開いた。

 

「……もし間違っていたら申し訳ないが、君は今年の【黄龍賽】本戦の参加者ではないか?」

 

 ボクは思わず息を呑む。

 

 ――どうして、彼はボクが【黄龍賽】参加者だと知っている?

 

 しかし、いったん気持ちを落ち着けてから考えると、思い当たるフシはあった。

 

 ――もしかして、さっきの会話聞いてたのかな?

 

 ここは窓際だし、硝子越しに微かに聞こえてしまったのかも知れない。

 

 いずれにせよ、バレてるなら無意味に隠しても仕方ないか。まあ、そもそも隠すようなことでもないしね。

 

「はい。ボクは李星穂(リー・シンスイ)。【朱火省】の【滄奥市】っていう町の予選で優勝して、【黄龍賽】に出場が決まりました」

 

「……俺は【奇踪把(きそうは)】の門人、徐尖(シュー・ジエン)という」

 

 その名乗りを聞いた時、失礼ながらボクは彼の名よりも、その流派の名前に気を取られた。やはり武法マニアの血ゆえか。

 

 【奇踪把】とは、変則的かつ巧みな歩法――足さばき――を得意とする流派だ。

 

 巧妙かつ規則性の無い移動で相手を幻惑し、思わぬ方向からの攻撃で倒す。それが主な戦い方だ。

 

 ……まあ。今はそれは置いておいて。

 

「それで、ボクに何かご用ですか?」

 

 ボクは再び、同じ質問を投げた。

 

 すると彼――ジエンさんはこちらの目を直視し、よく通る声で言い放った。

 

「――俺と、手合せをしてほしい」

 

 そんな唐突な要求に、一瞬目を丸くする。

 

 だが、すぐに我に返り、

 

「え、ええっ? い、いきなりそんな事いわれても……」

 

「伏して頼む。俺は別に果し合いを望んでいるわけではない。ただ、【黄龍賽】に参加する選手がどれほどの実力であるかを、日々鍛錬に精を出す身として少し確かめたいだけなんだ。頼む、少しでいいんだ。俺と手合せをしてくれ」

 

 深く、頭を下げられた。その腰は九十度近く曲げられている。えらくへりくだった態度だ。

 

 そんなジエンさんからは、何か妙な必死さが感じられた。

 

 ……なんだか、受けてあげないと悪い気がしてくる。

 

 それに、別段無理を言っているわけではなかった。

 

 彼は果し合いを望んでいないと言った。つまり殺し合いにはならない程度の、技術的交流がしたいのだろう。

 

 ――そういうことなら、むしろこっちから願い出たいくらいだった。この村の武法を拝むチャンスではないか。

 

「あのね、見て分かんないの? 今あたし達は飯食ってるのよ。そんな時に手合せなんて請われても――」

 

 迷惑そうな口調で追い返そうとするミーフォンを片手で制する。

 

 ボクはジエンさんににっこり笑いかけ、告げた。

 

「――分かりました。ただし、食べ終わるまで待ってくださいね」

 



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試合、そして暗躍

 うどんを食べるペースを早め、あっという間にお腹に収めた。

 

 それから少しばかり食休みし、お腹の膨満感がある程度和らいでから、ボクらはお勘定を払って店を出た。

 

 ジエンさんの後について行き、たどり着いたのは【藍寨郷(らんさいごう)】中央の、大樹のある広場だった。

 

「――ここでいいか」

 

 ジエンさんの問いに、ボクは無言で頷いた。

 

 運が良いことに、広場には今は誰もいなかった。なので、周囲に気兼ねなく戦える。

 

「シンスイ、気を付けて」

 

 案ずるようなライライの一言。

 

 ボクは「うん」と軽く承知すると、ライライたち二人を大樹の隅っこへ行くよう促す。

 

 樹齢千年は経つであろう大樹の前には、大きなスペースが広がっている。ボクとジエンさんはそこで向かい合って立った。

 

 右拳を左手で包む形の【抱拳礼(ほうけんれい)】を互いに行った。「試合を通じて交流を深めよう」という意思の表れだ。

 

 ジエンさんはそれを解くと、ゆったりと慣れた動作で構えを取った。

 

「では」

 

 そう手短に告げるや、彼はこちらへ向かって素早く"歩いて"きた。

 

 力任せな感じが一切しない、流れるような歩法(足さばき)。川の流れを彷彿とさせる途切れの無い速度。しかしそれでいて、普通の人の全力疾走よりも速かった。

 

 あっという間に、二人の間隔が潰れる。

 

 ジエンさんは踏み込みを交えて、右掌を突き出してきた。

 

 ボクは左手を振り、それを外側へさばく。

 

 しかし反撃に移る間もなく、すぐさま左掌打が飛んできた。

 

 ボクはその攻撃を、ジエンさんの左肩の側面へ素早く移動することで回避。

 

 そのまま肩による体当たり【硬貼(こうてん)】へ繋げようとこころみる。もちろん手加減するため、重心移動の力を倍加させる【震脚(しんきゃく)】は使わない。

 

 が、踏み込みと同時にぶつかる直前――相手の姿が突然消えた。

 

 かと思えば、背後に存在感。

 

「っ!」

 

 ボクは何も考えず、全力で前へ進んだ。

 

 刹那、後ろから足踏み音と風切り音が同時に聞こえた。首だけを動かして視線を送ると、ジエンさんの正拳が伸ばしきられ、ボクの背中と薄皮一枚の間隔で止まっていた。

 

 彼はまだ止まらなかった。背中を向けたボクめがけて真っ直ぐ突き進んでくる。

 

 地に足をついたボクは、靴裏を真っ直ぐ放つサイドキックで迎え撃とうとする。

 

 ジエンさんはダンスを踊るような美しい回転で、蹴りを(コロ)の要領で受け流す。そしてそのまま蹴り足のラインをなぞる形でボクへ迫ってきた。

 

 ボクは蹴り足を迅速に引っ込める。軸足を踏み換え、回し蹴り。

 

 が、ジエンさんは回転運動を保ったまま急激に腰を落とした。ボクの回し蹴りは彼の頭上を通過。

 

 そして、しゃがみながら放ったジエンさんの蹴りが、円弧を描いてボクの軸足に迫った。

 

「うわっと!」

 

 ボクは重心を蹴り払われる寸前に軸足を跳ねさせた。彼の蹴りをギリギリでかわしつつ、後ろへ向かって虚空を舞う。

 

 着地するや、すぐさま構えて備える。

 向こうも腰を上げて、構えを作る。

 

 互いの間に、再び距離ができあがっていた。

 

 ボクはジエンさんの動きに注意を払いながら、口元でひそかに微笑みを作った。

 

 ――あの動き、まさしくスタンダードな【奇踪把(きそうは)】だな。

 

 上流から下流へ流れる水のように淀みのない移動速度。変則的なフットワークと体さばき。そして相手の意表を突く攻撃。

 

 これぞ【奇踪把】と呼べる戦い方がそこにはあった。

 

 この流派における最大の特徴は、何度も言うが、その歩法にある。

 

 足の器用さに加え、その臨機応変さを何よりも尊ぶ。それらを高めた先に得る複雑かつ変化に富んだ足の動きによって、相手の視覚を惑わしたり、思わぬ方向や角度から攻撃を加えて意表を突いたりする。

 

 しかし【奇踪把】は歩法が多彩な分、【勁撃(けいげき)】の威力が他流に比べてあまり強くない。なので【奇踪把】ではそのパワー不足を補うべく、関節を攻める技術や【点穴術(てんけつじゅつ)】も併せて学ぶのだ。

 

 これは果し合いではないので、【点穴術】はまず使ってこないだろう。問題は関節技だ。

 

 今のところ、関節技はまだ使われていない。だが、今後はそれにも十分気を配る必要がある。

 

 ジエンさんが動きを見せた。直進ではなく、ボクから見て左側から大きく弧を描く動きで急速に近づいてきた。

 

 ボクは下がりながら、右へ、左へと何度も動いて彼から逃げようとする。

 

 が、ジエンさんはまるで草むらの中を移動するヘビのような曲線軌道を描いて、どこまでもボクを追いかけてくる。

 

 やがて二人の距離が、拳が勝敗を決する範囲にまで縮まった。

 

 ボクは逃げるのをやめて、左側から迫るジエンさんと対面するように立つ。

 

 地を蹴って勢いよく直進。踏みとどまると同時にその足へ捻りを加え、全身を急旋回。その力によって腰だめにしていた右拳を走らせた。【打雷把(だらいは)】の正拳【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】がジエンさんに鋭く迫る。

 

 しかし、当たらなかった。ジエンさんが急激に移動方向を右へ捻じ曲げ、ボクの突きの延長線上から外れたからだ。まっすぐ槍のごとく伸ばされた右腕が、彼の背中の横をスレスレで通過する。

 

 ジエンさんはそこで移動を停止。かと思えば、突き伸ばされたボクの右腕を風のような速さで捕えた。右手で手首を掴まれ、左手を肘関節に押し当てられる。

 

 この状態なら関節を極めることも、後ろへ引き倒すこともできるだろう。

 

 けど、そうはいかない。

 

 次の行動を起こそうとするジエンさんの機先を制して、ボクは【勁撃】を開始した。

 

 ――浮かせた両踵で激しく【震脚】。

 ――腰を急激に沈下。

 それらによって生まれた運動量が一つになり、ボクの右腕に強い力を与えた。

 

「のあっ!?」

 

 次の瞬間、ボクの右腕を捕まえていたジエンさんが急激に"跳ねた"。

 

 【迅雷不及掩耳(じんらいふきゅうえんじ)】。両足による【震脚】で生まれた大地からの反発力を腕に伝達させ、その力で強力な打撃を放つ技。彼は今、その力によって真上に吹っ飛んだのだ。

 

 彼はボクの背丈を超える高さまで達し、そこでようやく自由落下を始めた。

 

 背中からドターン、と着地。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 ボクは慌てて、仰向けに倒れたジエンさんに駆け寄る。吹っ飛んだ高さと勢いが尋常じゃなかったからだ。とっさの判断だったため、手加減がうまくできなかった。

 

 彼は案ずるボクを手のひらで制しながら、

 

「……大丈夫だ。胴体には当たっていない。持ち上げられただけだ」

 

「本当ですか?」

 

「ああ。……それにしても、凄まじい勁力だった。まともに直撃していたら確実に沈んでいただろうな。なるほど、【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦参加者というのは伊達ではないようだ」

 

 言いながら、ジエンさんはゆっくりと腰を上げて立った。

 

 そして、右拳を包む【抱拳礼】をしたまま、深く頭を下げてきた。

 

「――突然に無理を言ってすまなかった。そして、得難い経験をさせていただいた事に深く感謝する」

 

 そう告げると、ジエンさんは背中を見せ、その場から去っていった。

 

 徐々に小さくなっていくその後ろ姿を、呆然と見送るボクら。

 

「なんだか……あっさりと引き下がったわね」

 

 ライライがふと、そうこぼす。

 

 ……確かにそうかもしれない。もう少し続くと思ったのに。

 

 あれほど必死に手合せを頼んできた割には、ずいぶんと速い幕引きだ。

 

「……ま、いっか」

 

 けど、すぐに「大したことじゃない」と感じ、思考を打ち切った。

 

 正午に近づきつつある時間、天上の太陽はその光を強めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――それから数分後。

 

 

 

 【藍寨郷】を外れて少し北へ進んだ先には、【奐絡江(かんらくこう)】の支流の一本がある。支流の中では細い方だが、それでも横幅は軽く目算して20(まい)ほどだ。

 

 その20(まい)もの断絶を繋いで道を作っているのは、一本の石橋。上へ軽く反り返った石の道が向こう岸へと通じ、南と北の人々の往来を許していた。

 

 その少女――高洌惺(ガオ・リエシン)は、南側の岸に立っていた。

 

 リエシンは村の方角から伸びる道から、濃紺色の点が近づいているのを発見した。

 

 その点は徐々に具体的な容姿を明らかにしていき、やがて見知った姿となった。

 

「――遅かったじゃない、(シュー)師兄」

 

 リエシンは、帰ってきた兄弟子をやや非難の響きが混じった声で迎えた。

 

 濃紺の長袖の留め具を襟までぴっちり閉じた、清潔感のある出で立ちの青年――徐尖(シュー・ジエン)は、そんな妹弟子へ済まなそうな顔を向けて、

 

「申し訳ない。先方は食事中だったようでな、満腹感が落ち着くまで待っていたため、少し時間がかかった」

 

「親切ね、師兄は。……まあ、私の「計画」に手を貸す時点でそれは分かっていたけれど」

 

「俺だけではない。武館の門弟はすべてお前の味方だリエシン。流派とはそういうものだ」

 

「……ありがとう、(シュー)師兄」

 

 リエシンは心からの感謝を告げた。

 

 自分が彼と同じ武館に入門してから、すでに一年以上が経過している。十四歳という、武法を始めるにしてはやや遅めの年齢だったが、一年経った今ではどうにか【易骨(えきこつ)】に太鼓判を押してもらえていた。

 

 最初は口数が多くなく、表情の変化にも乏しいこの兄弟子に近寄りがたかった。けど半年前に二人きりで話す状況になった時、実はとても親切な性格であることを知った。以来、彼に普通に接することができるようになった。

 

 兄弟子は「気にするな」と軽く告げてから、本題に入った。

 

「先ほど、予定通り李星穂(リー・シンスイ)と一戦交えてきた。もちろん、包んだのは右拳だ。命をかけるほどの戦いではない。目的はあくまでその力量の見極めだ。お前の「計画」を実行するに足る武法士であるかのな」

 

 リエシンは兄弟子の真剣な表情を見ながら、尋ねた。

 

「それで、どうだったの?」

 

「率直にいうならば――」

 

 兄弟子はふと、言葉を途切れさせた。

 

 その額に浮かんでいる脂汗を見たリエシンは、胸がざわめいた。

 

「――想像以上の力量だった。俺の攻撃が一度も当たらなかった上に、【勁撃】の威力も並大抵ではなかった。あれほどの攻撃力を持った武法士は見たことがない。もしも先ほどの戦いが果し合いなら――俺は今頃冥土に行っていたかもしれない」

 

 その説明を聞いて、背筋が寒くなる。

 

 彼は自分の通う武館で一番の実力者だ。そんな彼にここまで言わせた李星穂(リー・シンスイ)という少女に対し、リエシンは畏怖の念を抱かずにはいられなかった。

 

 が、それと同時に、好都合だと口端を歪める。

 

 それほどの力を持っているのなら、自分の「計画」にあつらえ向きだ。

 

 しかし、もう一つ大切な要素がある。

 

「もう一つ聞きたいのだけど、その子は「噂」通り"美少女"だったのかしら」

 

「……ああ。それも間違いなかった。誰が見ても「美しい」と形容するであろう容姿だ」

 

 ――完璧だ。

 

 「計画」には"強さ"と"美しさ"、その両方を持つ者が必要なのだ。

 

 そして彼女は、それらを兼備しているという。

 

 願ってもない人材だった。これを逃せば、もう二度と同じチャンスはめぐってこないと言えるほどに。

 

「――決まりね。さっそく始めましょう」

 

 リエシンは確信をもってそう言うと、兄弟子とともに橋を渡り、北へ向かったのだった。

 



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奪われた吉火証

 正午辺りまで一休みしてから、ボクら三人は【藍寨郷(らんさいごう)】を後にした。

 

 少数ながら村に停まる馬車を片っ端から調べたが、残念ながら北へ真っ直ぐ進路を取る車両は無かった。

 

 そういうわけで、徒歩による北上が決まった。

 

 【藍寨郷】を出てから北へ少し進んだところに、【奐絡江(かんらくこう)】の支流が横一直線に大陸を切り分けるようにして伸びている。向こう岸へと繋がる古い石橋を渡り、さらに進むこと十数分。

 

 ボクらは現在、広葉樹林の中に真っ直ぐ伸びた道を歩いていた。

 

 無数に伸び連なる広葉樹は、下から上へ放出するように枝葉を広げている。その樹林の一部をごっそり削り取ったかのような土の一本道を、一歩一歩踏み進んでいた。

 

 道の左右の茂みに伸びた広葉樹の葉が重なり合い、木漏れ日の混じった日陰を作っている。そのため、ピークに達した日差しもぬるく感じる。山も谷も無い平坦な道のりも手伝って、快適に進めた。

 

 ボクらの歩く方向は、方位磁針の負極が指し示す方向とほとんど一致していた。

 

「このまま順調に進めるといいわね……」

 

 ライライがぼそり、と一言こぼした。

 

 ボクは少し苦い顔をして、

 

「うわ、なんかそれフラグっぽいからやめてよ」

 

「ふらぐ、って何?」

 

「へっ? ……い、いや、何でも無いよ。こっちの話」

 

 きょとんとするライライの質問に、ボクはそう適当にごまかした。

 

 いけないいけない。つい地球語を使ってしまった。

 

 でも、しょうがないじゃん。まさにフラグっぽい台詞だったんだから。「俺、この戦いが終わったら結婚するんだ……」っていう台詞と似たような匂いがしたし。

 

「そ、それよりさ、二人は帝都に行った事あるの?」

 

 ボクは突っ込まれないうちに、強引に話題の方向を捻じ曲げた。

 

 わざとらしい口調だったが、彼女たちは怪訝な顔一つせずに答えてくれた。

 

「私は無いわね。だから、少しだけ楽しみだったりするわ」

 

「あたしは何度かありますよ。宮廷の演武会とかで」

 

 ボクはミーフォンの台詞に食いついた。【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家の事情には非常に興味があった。

 

「へぇ、もしかしてミーフォンも出たの?」

 

「いえ、皇帝陛下や皇族の方々の御前で演武をしたのは、ウチの親父とか、師範代とかです。あたしは付き添いで来ただけで」

 

「そっか」

 

 【太極炮捶】は全ての武法の原型にして、由緒正しき大流派だ。その流派に伝わる技術の数々は、数百年の歴史を経て数多の武法が生まれた現在でも非常に高く評価されている。演武のために宮廷から呼び出されるのもさもありなん、である。

 

 ちなみに演武では、主に【拳套(けんとう)】を披露する。しかし人に見せる【拳套】は伝承を盗まれぬよう、念のためいくつかの動きを省略して行うのが常識である。

 

「そういうお姉様は、行った事ありますか? 帝都」

 

「うん。小さい頃に何度かね。最後に行ったのは十二歳かな。その時、帝都の武法士たちと結構な回数手合わせをさせてもらったよ」

 

「それで、結果はどうだったんですか?」

 

「勝ったり負けたりの繰り返し。その時はまだちょっと未熟だったからね。でも、いろんな武法が見れたから楽しかったよ」

 

 そういえば、その頃に初めて【心意盤陽把(しんいばんようは)】を見たんだっけ。あの感動は今でもよく覚えている。

 

 それからもボクらは、歩きながら帝都の話題に花を咲かせた。

 

 皇宮はどんな感じだったのか、どんな食べ物があるか、どんなものが売っているかなど。どんな武法が伝わっているかという話題に転じた途端、ボクは思わず凄まじい勢いで言い募ろうとしたが、それをありったけの自制心でストップさせた。オタクの悪い癖である。

 

 まるで遠足や修学旅行前のおしゃべりみたいなノリだった(行った事ないけど)。とても、ボクの武法士生命を賭けた戦いの前の雰囲気とは思えない。

 

 けどまあ、これでいいかもしれない。変に重い空気を作って暗い会話をするよりマシだ。

 

 そんな風に、広葉樹林に囲まれた道を歩いていた時だった。

 

 今歩いている道の右側に茂る草木の奥から、ガサガサと何かが移動する音が聞こえてきた。

 

 その音は徐々に大きくなっている。つまり、音源がこちらへ近づいているということ。

 

「うん?」

 

 ボクら三人は思わず足を止める。呑気そうな声とは裏腹に、ボクは警戒心を持って身構えていた。

 

 何か動物がいるのかもしれない。それが鹿やタヌキならまだ無視できるが、熊や虎などの猛獣だったとすれば面倒だ。場合によっては対決しないといけなくなる。武法士は猛獣を倒すコツもたくさん知っているが、それでも警戒し過ぎて損をするということはない。

 

 ガサガサと草木をかき分ける音がさらに大きくなる。

 

 やがて、そいつは姿を現した。

 

「……えっ?」

 

 右斜め前にある木の幹の陰から飛び出してきたのは――人間だった。

 

 服装は上下ともに、肌をぴっちりと覆った黒ずくめ。顔も、目を除くすべての肌を黒布で巻いて隠している。日本の忍者のような格好だ。

 

 明らかに怪しい出で立ちだが――彼の脇腹を濡らしてしたたる真っ赤な血が、ファッションの不審さを無視させた。

 

「た……助けて…………く……れ」

 

 その男はかすれきった声でそう言うと、まるで支えを失ったように倒れ伏した。

 

 うつ伏せになった彼の脇腹付近に、赤黒い血だまりが広がっていく。

 

「ど、どうしたんですか!?」

 

 ボクは思わず駆け寄り、彼の隣でしゃがみこんだ。

 

 右手に持っていた鞄を置き、血でぐっしょりと濡れた衣服に触れて体をさする。しかし、全く反応がない。

 

 物言わぬ彼とは裏腹に、その下の血だまりはどんどん拡大していく。

 

 ボクの心中に、とてつもない焦りが生じた。

 

 あまりに突然な緊急事態に頭が混乱するが、その混乱を無理矢理叩き潰して必死に頭を働かせた。

 

 どうすればいい!? この出血の量はマズイ! 今すぐ手当てが必要だ! ――でもどうやって――気功治療――ボクにはできない――【藍寨郷】に戻れば――あそこには病院があった――でももう随分離れてる――町や村にたどり着くまで真っ直ぐ進んだ方が――ダメだ、存在するかも分からないものを頼りになんてできない――事態は一刻を争う――ここは素直に元来た道を引き返して――

 

 ボクは顎に手を当てて思考の嵐を起こしていた。

 

 が、その途中に引っかかりが生じ、思考がストップする。

 

 その引っかかりの原因は、彼を触ったひょうしに手に付いた血の匂い。

 

 鼻を近づけ、改めて嗅いでみる。

 

 血液特有の金臭さが少しもしなかった。

 

 さらに、思い切ってその血を舐めてみる。

 

 

 

 

 

 ――砂糖のように甘かった。

 

 

 

 

 

 次の瞬間、ボクの右隣を突風が通過した。

 

「えっ?」

 

 ボクは顔を上げる。見ると、さっきまで倒れていたはずの黒ずくめの男が消えていた。そこにあるのは血だまりだけ。

 

 そして――ボクの鞄もなくなっていた。

 

 ボクは勢いよく後ろを振り向く。

 

 さっきまで倒れていたはずの黒ずくめの男は、ボクの鞄を脇に抱えて逃走していた。さっきまでの瀕死な状態など微塵も感じさせないほど元気いっぱいである。

 

 いち早く飛び出したのはミーフォンだった。

 

「この盗っ人野郎っ!!」

 

 怒りの声を上げ、黒ずくめを追いかけ始める。

 

 その声で、ボクはようやく我に返る。そして、現状を素早く正確に把握した。

 

 あの血は本物じゃない。何かを混ぜ合わせて作ったニセモノだ。

 

 奴は怪我なんかしていなかった。怪我人だと油断させてひったくりを行う泥棒だ。

 

 それを確信した瞬間、燃えるような熱が頭に宿った。

 

「待てっ!!」

 

 地を砕かんばかりに後足を瞬発させて、ボクは走り出した。

 

 日頃足の【(きん)】を鍛えていた成果と、怒りのボルテージのせいだろう。数テンポ遅れでスタートしたにもかかわらず、先に走っていたミーフォンとライライを追い越し、黒ずくめと一気に肉薄する。

 

 だが、ボクの伸ばした手が奴の衣服を掴みそうになった瞬間、その黒い後ろ姿がまた目の前から消えた。

 

「お姉様! あそこっ!!」

 

 ミーフォンの指差した方向を振り向く。そこには太い枝が四方八方に伸びた、一本の広葉樹。

 

 なんと黒ずくめの男は――その太い枝の一本の上に立っていた。

 

 目ん玉が飛び出そうな気持ちになった。あの一瞬で、あの高い位置にある枝へ跳んだっていうのか。

 

 ボクは戸惑いながらも、次の行動に移した。奴の立つ木めがけて弾丸のような勢いで突っ込む。【硬貼(こうてん)】で木を揺らして、枝から振り落としてやる。

 

 【震脚(しんきゃく)】で踏み込むと同時に、肩口から木の幹へドシィンッ!! とぶち当たった。真上に広がる枝葉が衝撃で激しく揺さぶられ、そこにくっついていた虫や葉や木の実が雨のように落下してくる。

 

 が、その揺れる枝葉の中に、黒ずくめの姿は無い。

 

 見ると、奴は一つ前の木の枝に立っていた。

 

 背を向けたまま前の木、前の木、前の木へと、まるでサルのように軽やかな身のこなしで飛び移って遠ざかっていく。

 

 ボクはそれを追いかけながら、あの動きの正体を確信していた。

 

 ――あれは【軽身術(けいしんじゅつ)】だ。

 

 武法における技術の一つ。全身の関節や【筋】を特殊なコントロール法で動かし、人間にあるまじき驚異的な軽やかさを実現する。その高い跳躍力と軽やかな動きは、奇襲攻撃や尾行、逃走などに使える。もっとも、実戦主義なレイフォン師匠は「あんなもの、ただの大道芸だ」と断じていたが。

 

 【煌国(こうこく)】では昔、【軽身術】の軽業を利用して盗みを働く盗賊『飛賊(ひぞく)』による泥棒が横行したらしい。

 

 そしてその飛賊は、今もたまに現れるとのこと。

 

 まさかボクは、その「たまに」を見事に引き当ててしまったのか?

 

 なんて考えている場合ではない。今は奴を――飛賊を追う事だけを考えろ。

 

 多くの木々が不規則な位置に乱立した茂みの中は、まるで迷路のように入り組んでいて、進むために右へ左へといちいち曲がらなければならず、非常に移動がしにくい。それに気を抜くと、地面からせり出した木の根に足を引っ掛けそうだ。

 

 だが地に足をつけていない飛賊は、そんな障害などお構いなしに、ぴょんぴょんと木から木へ跳んでスムーズな速さで逃げていく。

 

 その地の利の差は、両者の間で開かれる距離として徐々に表れていた。

 

 だが、諦めるわけにはいかない。

 捕まえないわけにはいかない。

 だってあの鞄には、今のボクにとって命と武法の次に大事な――【吉火証(きっかしょう)】が入っているのだから!!

 

 ボクと飛賊の追いかけっこは、まだまだ続いた。

 

 



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高洌惺

 

 ボクは日頃の鍛錬ゆえに、体力には自信があった。そのため、飛賊との追いかけっこはかなり長引いた。

 

 しかしながら、地の利の差は歴然だった。

 

 ボクは木々が乱立して入り組んだ森の中をいちいちかいくぐって進まなければならず、進行が遅かった。しかし飛賊はサルやモモンガのような気軽さで木から木へ飛び移り、ボクよりもすいすいと円滑に移動した。

 

 おまけに、飛賊の逃走には戸惑いや躊躇が無かった。まるで森の周辺の地理を熟知しているかのごときである。

 

 ボクらの差が少しずつ長くなっていくのは、必然だった。

 

 

 

 ――そして、とうとう飛賊の姿を完全に見失ってしまった。

 

 

 

 薄暗い広葉樹林のど真ん中。枝葉が重なり合ってできた天然の天蓋から漏れ出てくる陽光は、追いかけっこが始まったばかりの時に比べて弱い。どうやら、夕空になり始めているようだ。

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………!!」

 

 ボクは手近な木の幹に手を当て、体重を預けた。

 

 全身の毛穴という毛穴から汗が湧き出し、衣服を内側から濡らしていた。呼吸も荒く、心臓は間隔の狭い鼓動を何度も刻み続けている。

 

 後からずっとついて来ていたライライとミーフォンも、ヘトヘトの様子だった。

 

 一体、ボクはどれくらいの時間走ったのだろうか。必死すぎたため全然覚えていない。

 

 しかし、そんなことは些細な問題だった。

 

「…………どうしよう……!」

 

 ボクは、かつてないほどの絶望感を抱いていた。

 

 【吉火証(きっかしょう)】を、取られてしまった。

 

 取り返そうにも、飛賊の姿はもう無い。全身黒ずくめだったせいで容姿の特徴も分からないため、探しようがない。

 

 そして――このままでは【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦に参加できなくなってしまう。

 

 【吉火証】は本戦参加資格者の証。そして、この異世界には写真やカメラなんていう便利なものは無いため、優勝者の顔も広く知られている訳がない。もしボクが李星穂(リー・シンスイ)と名乗っても、参加資格たる【吉火証】が提示できなければその時点で偽者と判断されてしまうのだ。

 

 ボクは今、まさに最大の窮地の真っ只中だった。

 

 まるでこの世の終わりに直面した気分だ。

 

「……っ!!」

 

 凄まじい危機感を着火剤にして、再び戦意が燃え上がった。

 

 息を大きく吸い込み、また飛賊を探すべく走り出そうとした瞬間、

 

「待ちなさいシンスイっ」

 

 不意に、ライライに片腕を掴んで止められた。

 

 精神的に余裕がなくなっていたボクは、ムキになってその手を振り乱しながら、

 

「離してよっ!! あの泥棒を追いかけないといけないんだ!!」

 

「少し落ち着きなさい」

 

「落ち着けるわけないよ!! 【吉火証】がないとボクは――」

 

 続けようとしたが、ライライに左右の頬っぺを両手でむぎゅっと挟まれたため、言葉が途切れてしまった。

 

 ライライは吐息のかかる距離まで顔を近づけ、子供を諭すような口調で言った。

 

「いいから落ち着くの。もうあの黒ずくめは見失っているじゃない。闇雲に探し回ったら体力の無駄よ。まして、私たちは旅の最中なんだから、これ以上進路をそれるのは良くないわ」

 

ふぇもっ(でもっ)

 

「まだ全部が潰えたわけじゃない。今いる位置を考慮しても、【黄龍賽】が始まるまでまだ時間があるわ。その間に【吉火証】を探す方法を何か考えましょう」

 

ふぉんぁふぉふぉあふんぉっ(そんな方法あるのっ)!?」

 

「ないわ。今はね。でも、やけになって時間と体力を浪費するより、別の方法を探る方がずっと希望に溢れていると思うわ。とにかく、最後まで諦めちゃダメ」

 

 非難がましい響きをもったボクの言動に、ライライは終始冷静に対応した。

 

 ボクの中で燃えくすぶっていた火が消えていく。頭と体が冷水を通したように冷えていく。

 

 それを読み取ったのか、ライライはボクの頬っぺから手を離した。

 

「……ごめんね、ライライ」

 

「気にしないで。ほら、汗拭きなさい。女の子でしょ」

 

 そう言って、持っていた手ぬぐいで優しく顔の汗を拭き取ってくれた。

 

 不思議と、心が落ち着いていく。

 

 さすがは年長者。ボクなんかより、彼女の方がずっと大人だった。よく分からないが、寄りかかりたくなる包容力がある気がした。

 

「あ、あたしも参加するー!」

 

 ミーフォンも鞄から大急ぎで手ぬぐいを取り出し、ボクの首筋の汗をポンポンと拭き始めた。

 

 美少女二人に体を拭いてもらうというこのシチュが、まるで美女を傍らにはべらせる悪代官と同じ図に思えてきた。

 

「あの、ミーフォン、いいよ? 別にそんな無理しなくても」

 

「無理なんてしてません! あたしはお姉様の心の奴隷ですから! むしろこの(お姉様エキス)、舐め取りたいくらいです! 舐めていいですか!?」

 

「勘弁してください」

 

 三人の間に和やかな空気が生まれた。

 

 自然に笑みがこぼれる。

 

 雷雨のように荒れていた心が、快晴のように透き通った。思考もネガティブからポジティブに変わる。

 

 そうだ。まずは冷静にならないとダメだ。

 

 まだ時間はある。その間に上手いこと取り返してやればいい。

 

 ボクは頭のキレる方じゃないけど、一人じゃない。この二人が一緒なのだ。三人寄ればナントカって言うだろう。きっとなにか、いい方法が見つかるはずだ。

 

 兎にも角にも、まずはクールダウンし、これから状況が良くなると信じるのだ。

 

 

 

「――大切なものが盗まれた割には、随分と呑気なものね」

 

 

 

 だが不意に、そんな聞き覚えのない声が割り込み、ボクらの和やかな雰囲気を切り裂いた。

 

 ボクらは脊髄反射で臨戦態勢を取り、声のした方向を睨んだ。

 

 薄暗い森の木陰に、人影が一つ。

 

 その人影は足底が地に吸い付くような足取りで、ゆっくりとボクらへ近づいて来る。

 

 やがて木陰から抜け、その明確な姿が現れた。

 

 一人の少女だった。見た感じの年は、ボクと同じくらい。

 

 その黒い瞳は大きいが、ボクと違って子供っぽさが無い。反って伸びた長いまつ毛も相まって、憂いを帯びているような眼差しだった。右目の下には、小さな泣きぼくろが二つ隣り合わせでついている。肩を少し通過する程度に伸びた黒髪は右寄りで結ばれており、右肩に髪束が垂れ下がっている。

 

 文句なしに目鼻立ちの整った少女。しかしその装いは平凡というか、華やかさが感じられない。細身ながら出る所はそれなりに出たたおやか体つきだが、それを包んでいるのは簡素な深緑の半袖と黒いロングスカート。何も装飾が無く、生地も安物。質素な服装である。

 

 少女が右手に持っているものを見て、ボクは心臓を高鳴らせた。

 

「それは……ボクの鞄!」

 

 そう。見間違いようもなく、ボクの鞄だったのだ。

 

「そうよ。はいこれ、貴女に返すわ」

 

 少女はそう言うと、持っていたボクの鞄を放り投げた。

 

 ボクは慌てて前に出て、それを両腕でキャッチする。

 

 この形、生地、手触り、間違いない。間近で見て触って、改めて自分のものである事を確認した。

 

 さっきまで欲してたまらなかった感触。

 

 ボクは強い喜びを感じる一方で、強い不審感を持った。

 

「……どうして、君がこれを持ってる?」

 

 疑惑の眼差しを少女へ送る。

 

 この鞄はさっきまで飛賊が持っていたはずだ。なのに、どうしてこの娘が?

 

 まさか、この娘が飛賊の正体なんじゃ――と考えかけて止める。あの飛賊は声と体つきからして、間違いなく男だったからだ。

 

 でも、そしたらどうして?

 

 だが、それよりもまず、自分にとって今一番必要なモノの存在を確かめようと思った。

 

 ボクは鞄を開け、急いた手つきで中を探った。

 

 だが、

 

「無い……!?」

 

 どんなにかき分けても――【吉火証】がどこにもなかった。

 

 そんな!? どうしてっ!?

 

 すると、

 

「当然じゃない。【吉火証】は私の仲間が抜き取ったもの。貴女の鞄を盗んだのと同じくね」

 

 少女が無慈悲な口調で、そんな事を告げてきた。

 

「なんだとっ!?」

 

 ボクは烈火のような激情に駆られ、少女を睨みつける。

 

 しかし、彼女は少しも気圧されず、それどころか嘲り笑いすら浮かべてさらに言う。

 

「あら? いいのかしら、そんな反抗的な態度で? 貴女の大事な【吉火証】は私の手中にあるのよ? つまり私の一存で自由自在というわけね」

 

「……っ!!」

 

 激しい悔しさのあまり、奥歯を強く噛み締める。

 

 少女は嘲笑を崩さぬまま、名乗った。

 

「紹介が遅れたわね。私の名前は高洌惺(ガオ・リエシン)。よろしく、李星穂(リー・シンスイ)さん?」

 

 相手の名前より、ボクは自分の名前が呼ばれた事に対して関心が行き、そして驚いた。

 

「どうして、ボクの名前を?」

 

「つい最近、「【吉火証】を持った李星穂(リー・シンスイ)っていう美少女が、北を真っ直ぐ目指して馬車を乗り換えまくってる」っていう噂を聞いたからよ。貴女の使う武法の形式(スタイル)や、具体的な身体的特徴も交えて、ね。でもよりによって【吉火証】を見せびらかしながら旅するなんて、ちょっと迂闊だったわね。まあ、私としては大助かりだったけど。……さて」

 

 彼女――高洌惺(ガオ・リエシン)は腰に両手を当て、切り込むように言った。

 

「単刀直入に言うわ、李星穂(リー・シンスイ)。貴女の【吉火証】は、私の仲間が隠したわ。そのありかを知りたければ――私の計画に協力なさい」

 



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依頼という名の命令

 高洌惺(ガオ・リエシン)が突きつけた要求を聞いたボクは、嫌な予感を禁じ得なかった。

 

「計画……?」

 

 恐る恐るな響きを持ったボクの問いに、彼女は頷きを交えて答えた。

 

「そうよ。貴女にはこれから――馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷に忍び込んでもらうわ」

 

 聞き覚えのある固有名詞にボクは目を見開き、思わず小さくそらんじた。

 

「……馬湯煙(マー・タンイェン)

 

「そうよ。【藍寨郷(らんさいごう)】にいる時、小耳に挟んだ事くらいはあるんじゃないかしら? 十年前に突然現れて、【会英市(かいえいし)】と【甜松林(てんしょうりん)】の町興しをしてみせた、この辺りで一番の資産家よ。その二つの町に並ぶ店は、ほぼ全てにタンイェンの息がかかっているわ」

 

 資産家――その単語を聞いたボクは、すぐに彼女の頼もうとしている事を予想した。そう、「盗み」という予想だ。

 

 ボクは勢いよく食ってかかった。

 

「ふざけないでよっ! ボクに泥棒をやれっていうのか!?」

 

「早合点が過ぎるわよ。私はタンイェンの屋敷に忍び込めとは言ったけど、何かを盗んで欲しいとは一言も言ってない。私は人を探して欲しいだけよ」

 

「ある人?」

 

 顔をしかめながら尋ねる。

 

 すると高洌惺(ガオ・リエシン)は、不機嫌そうな、それでいて気に病むような苦々しい表情を浮かべて言った。

 

「――私の母親よ」

 

「お母、さん?」

 

 彼女は無言で首肯した。

 

「【会英市】の隣には、【甜松林】という町があるわ。【会英市】で働く男達の欲求のはけ口として、タンイェンが廃村寸前だった村を基盤に作った色町よ。母はその【甜松林】の娼婦だった」

 

「娼婦……どうしてまた?」

 

「私の家には、昔出て行った父――いえ、あんなクソ野郎、父とすら呼びたくないわね。その男が博打で作った借金があった。普通に働いて返すとなると十年はかかる額だった上、金貸しも返済を急かしたわ。母はその借金を一刻も早く返すため、【甜松林】で体を売るようになった。【甜松林】の娼婦になれば、男の慰み者になる代わりに、普通に働くよりずっと高い金が稼げる。幸か不幸か、母はとても綺麗な人だったから、客からの指名も多かった。母は雌犬のように男に尻を振る恥辱に数年間耐えた結果、どうにか借金を全額返せたの」

 

 そこまで聞けば、単なる思い出で済んだことだろう。

 

 しかし、このしたたかな少女が、意味もなく身の上話をするとは思えない。

 

 つまり、続きがまだあるのだ。ボクに対する要求へと繋がるような。

 

「そんなある日、母はある一人の男に買われたわ。――馬湯煙(マー・タンイェン)よ。奴は時々【甜松林】にやって来ては、気に入った女を買って自分の屋敷に呼び出すの。普通は娼婦のお持ち帰りなんてできないけど、【甜松林】の娼館の出資者はタンイェンだから強く言えない。母は一ヶ月前にタンイェンの屋敷へと連れて行かれて――以来ずっと家に帰っていないわ」

 

 そこまで聞いて、ようやく目的の輪郭がはっきりした。

 

「貴女にタンイェンの屋敷に侵入してやって欲しい事は――行方不明の母を探すこと。もしかすると、母は屋敷の中に閉じ込められているのかもしれない。貴女にはそれを確かめてもらうわ」

 

 それを聞いた途端、ボクは猛烈に突っ込みを入れたくなった。

 

「ちょ、ちょっと待った! タンイェンの屋敷に行ったのを最後に行方不明……そこまではいい。けど、それでタンイェンが容疑者だって理屈に走るのは少し乱暴なんじゃないの?」

 

「消えたのが母だけだったら、多少はそう思ったかもしれないわね。でもね、母だけじゃないのよ」

 

「え……どういうこと?」

 

「タンイェンに呼び出された娼婦は、皆例外なく行方不明になっているのよ。私がタンイェンを怪しいと思うのはそれが理由」

 

 ――彼のお眼鏡にかなった娼婦が屋敷に連れて行かれたまま帰ってこないとか。

 

 【藍寨郷】の食堂のおばちゃんから聞いた噂話の一部が、狙ったようなタイミングで思い起こされた。

 

「え……それって噂のはずじゃ……」

 

「噂なんかじゃないわ。娼婦の行方不明は真実よ。確認だって取ったもの」

 

 ボクは一応納得する一方で、常識的な事を考えた。

 

 【煌国(こうこく)】には『治安局』という警察機構がある。もしタンイェンが行方不明事件の原因である可能性があるのなら、姑息な策などとらずに治安局に言いつけて、タンイェンの屋敷を調べてもらえばいいはずだ。

 

 それをそのまま口にすると、次のような否定の返事が返ってきた。

 

「試してみたけど無理だったわ。奴はこの辺りの治安局の支部に多額の寄付をしている上、この国の一部の権力者とも繋がりがあるの。そのせいで治安局も「確固たる証拠が無いから」と家宅捜索には及び腰。警察機構が聞いて呆れるわね、まったく」

 

 その台詞にはさすがに同感だった。権力者と繋がりがあるからといってビビるなんて、まるで地球ではないか。どこの世界でも人間の考え方というのは一緒なのだ。

 

 そして、さらなる疑問がボクの頭に生まれた。

 

「……ボクにやらせたい事は大体分かったよ。でも、やるやらないはまず置いておいて、一つだけ分からない事がある」

 

 ボクはそう前置してから、その疑問を口から出した。

 

「――どうして、ボクに頼むんだ(・・・・・・・)?」

 

「いい質問ね。いいわ、これからその理由を教えてあげる」

 

 彼女はそう言うと人差し指を立て、話を続けた。

 

「まず、一番大切な理由。――貴女は私と違って、タンイェンに顔が割れていない。私は【会英市】の人間である上、一度治安局にタンイェンをチクった事がある。だから奴に顔が割れていて、なおかつ警戒もされているわ。私じゃ無理なのよ」

 

 次に、中指が立てられた。

 

「二つ目の理由は――貴女の腕前よ」

 

「腕前? 武法の?」

 

「そうよ。タンイェンの屋敷は、奴の雇った用心棒が警備しているわ。数が多い上に、個々の力量もそれなりにある。その警備は屋敷の外側に集中していて、内側の警備は比較的甘いけど、それでもそこそこの人数がいる。貴女が私の母を探して屋敷内をうろついている最中、用心棒が貴女を怪しんで捕まえようとしてくるかもしれない。そうなった場合にその用心棒を寝かしつけられる腕前が必要なのよ。全員まとまった集団には勝てなくても、一人二人数人程度が相手なら余裕で勝てるはずよ、貴女なら」

 

 その妙な評価の高さに、ボクは不審げに眉をひそめる。

 

「どうしてそう言い切れるんだい?」

 

「だって、実力を確かめたもの」

 

 確かめた、だって?

 

 ボクは今、初めてこの娘に会ったのだ。それでは確かめようが――

 

「……まさか」

 

 ライライが驚愕したような顔で呟く。

 

「どうしたのライライ? 何か心当たりが?」

 

「……シンスイ、あなたが昼間【藍寨郷】で戦った「彼」よ」

 

 それを聞いてようやくピンときた。

 

 まさか――徐尖(シュー・ジエン)さんが!?

 

 高洌惺(ガオ・リエシン)は口端をニヤリと歪め、

 

「聡いのね。そう、(シュー)師兄は貴女の実力を計るために、手合わせを求めたのよ」

 

「……どうりで退くのが早かったわけね」

 

 ミーフォンが悔しげにそう口にする。

 

 ……ジエンさんが敵だった事は、少しショックだけどまだ良いとしよう。

 

 だがそれとは別に、問題が一つあった。

 

「で、でもさ、そもそもどうやって屋敷に侵入するの? 外はたくさんの用心棒に守られてるんでしょ?」

 

「慌てなくても、これから話すわ。貴女を選んだ最後の理由に重複する問題でもあるしね」

 

 彼女はそこでひと区切りし、三本目の指を立てた。

 

「貴女を選んだ三つ目の理由、それは――その美しい容姿」

 

 予想外の答えだった。

 

 自画自賛になるけど、ボクは可愛らしい容姿で生まれてきた。

 

 けれど、それが今回の計画で一体何の約に立つというんだろう?

 

 その理由も、彼女は説明した。

 

「確かにタンイェンの屋敷の周囲は、用心棒たちに固く守られているわ。けど奴らは、タンイェンが【甜松林】から連れて来た娼婦には警戒しない。だからすんなり屋敷に入れる」

 

 ――美しい容姿。

 ――【甜松林】。

 ――娼婦。

 

 これら三つの要素から導き出された一つの答えを、ボクは恐る恐る疑問としてぶつけた。

 

「…………まさか君はボクに、娼婦になれと?」

 

「そうよ。貴女にはその美しさでタンイェンに取り入り、屋敷に侵入してもらう」

 

 彼女はあっさりと肯定し、続けた。

 

「私は貴女という人材をずっと待っていたわ。貴女の噂を聞いた時、私はすぐにこれを利用しようと考えた。【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦参加者には、帝都へ到着するまでの猶予として一ヶ月の期間が与えられる。でも時間に制限がある以上、余計な寄り道は避けて真っ直ぐ北上してくると思ったわ。【黄土省(こうどしょう)】へ入るための関所は、東西南北に一箇所のみ。北の関所から真っ直ぐ進めば、自ずと【藍寨郷】へとやって来る…………正直、賭けだったけれど、私は見事に捕まえたわ。李星穂(リー・シンスイ)、貴女という「強さ」と「美しさ」を兼備した女をね」

 

 次の瞬間、ドンッ! という鈍器で殴るような音が響いた。

 

 ミーフォンが手近な木の幹へ拳を叩きつけた音だった。拳が当たった箇所の木皮は削り取られ、中をさらけ出していた。

 

「――ざけんじゃないわよクソ女」

 

 その声は低かったが、代わりに暗い憎悪のような響きが濃密にこもっていた。

 

「さっきから黙って聞いてりゃ、泥棒のくせに猛々しいにも程があるわ。あんたのお袋が行方不明? ああそれはご愁傷様ね。でもそんなもん、お姉様の大切な物をガメるための免罪符になんかなりゃしないのよ」

 

 ミーフォンは高洌惺(ガオ・リエシン)に鋭く歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。

 

「それにねぇ、あたしが人を痛めつける方法をどれくらい知ってると思う? あんたの頭蓋の中から【吉火証(きっかしょう)】のありかを引っ張り出すくらい造作もないわよ」

 

 激しくは無い、落ち着いた口調。しかし一言一言に込められた殺気が、ミーフォンの本気度合いを濃く表していた。

 

 普通なら、こんなふうに凄まれたら大なり小なり怯えを見せるだろう。

 

「――やってみなさいよ」

 

 だが高洌惺(ガオ・リエシン)は怯えるどころか身じろぎ一つせず、ミーフォンの目を真っ直ぐ見ながら毅然と言い返した。

 

 えも言えぬその迫力に、ミーフォンは微かな動揺を見せる。

 

「拷問して無理矢理口を割らせるって言ってるんでしょう? いいわよ。お好きな方法でやってごらんなさい。ただし、もしも痛みに心が折れそうになったら、舌を噛み切ってあの世に逃げてやるわ。【吉火証】のありかを抱えたままね」

 

 それを聞いておぞましく思うとともに、驚嘆もした。

 

 彼女は自分の自害と、それによって失われる【吉火証】のありかを盾に、拷問による自白を防いでいるのだ。

 

 そして、彼女の目からは、それをやる覚悟と気迫が強く感じられた。

 

 まともな神経ではない。はっきり言って狂気の沙汰だ。

 

 ボクは、それがとても恐ろしく感じた。

 

「私だって、自分でできるならわざわざ赤の他人に頼んだりなんかしないわ。でも、私の手には余る。この辺一帯のほとんどはタンイェンの傘下で食ってるようなものだから、他の人の助けも期待できない。武館のみんなもそれなりに腕は立つけど、それでもタンイェンの用心棒には数も力も及ばない。果てには治安局も重い腰を上げない。まさに八方塞がり。だから――もう誰かに無理矢理やらせるしか方法が無いのよ」

 

 高洌惺(ガオ・リエシン)は悔しさを噛み締めるように言うと、力の抜けていたミーフォンの手を払い除ける。

 

「さて、李星穂(リー・シンスイ)。改めて貴女に依頼するわ。タンイェンの屋敷に忍び込み、私の母を探しなさい。その結果、納得のいく成果を出せたなら、【吉火証】は返してあげる」

 

 それは依頼じゃなくて命令だ――そう密かに反感を覚える。

 

 しかし、一度頭を冷やして冷静に考えた。

 

 確かに、彼女の要求は理不尽極まるものだ。

 

 しかし【吉火証】を取り戻す方法は、現段階では彼女の要求に応じる事以外に存在しない。

 

 彼女の流派は【奇踪把(きそうは)】であると分かったので、彼女の所属する武館を攻める手も一瞬考えた。しかし、狡猾なこの少女が、それに対して何も対策を立てていないとは考えられない。いや、むしろ何か対策があるからこそ、彼女は自分の流派を明かしたのだろう。

 

 そして、ボクに残された時間も無限ではない。一ヶ月以内に帝都へ着かないといけないのだ。道中どれだけの時間がかかるか未知数なため、無駄な時間の消費は可能な限り避けたい。

 

 できるだけ最速で、そして確実に【吉火証】を取り戻すには、やはり高洌惺(ガオ・リエシン)の要求をのむしかない。

 

 内容が内容であるため、躊躇を禁じ得ない。

 

 しかし、やがてボクは屈辱を噛み殺し、宣言した。

 

「――分かった。君に協力するよ。高洌惺(ガオ・リエシン)

 

 「しめた」と言わんばかりの微笑みが、彼女の唇に生まれる。

 

 次の瞬間、ミーフォンが殴りかかるような勢いでボクにすがりついてきた。

 

「ダ、ダメっ! ダメです! お姉様が体を売るなんて!!」

 

 驚き、怒り、焦り、悲しみなど、あらゆる感情がない交ぜになったような表情。その瞳はうっすらと涙で潤んでいた。

 

 ミーフォンの心情を容易に察したボクは、いつものようにその頭を優しく撫でながら、

 

「大丈夫だよ、ミーフォン」

 

「何が大丈夫なんですか!? どうしてこんな女の言いなりになって、お姉様が好きでもない男と寝ないといけないんですか!! どう考えたってふざけてます!!」

 

 うん。それはボクも同感だ。

 

 でも――

 

「でも、そうしないと【吉火証】は取り戻せないんだ。もう一昨日ミーフォンには話してるよね? ボクが【黄龍賽】で優勝したがってる理由」

 

「っ……それはそう、ですけど……!」

 

 分かるけど分かりたくない、そんな気持ちが表れた顔でうつむくミーフォン。

 

 ――分かってもらうしかない。だって、他に方法が思いつかないのだから。

 

 けれど、悪い事ばかりでもなかった。

 

 ……実を言うとボクは、少し安心していたのだ。

 

 てっきり、ライライ達もまとめて娼館に行け、って言われると思っていたが、用があるのはボク一人だったからだ。

 

 ライライ達と違って、ボクは元々男。根っから女な二人に比べれば、男に体を許す事への精神的ダメージが小さいはずだから。

 

 それにもう一つ。

 

 ボクは高洌惺(ガオ・リエシン)に協力するとは言ったが――男に体を開くとは一言も言っていない。

 

「大丈夫。ボクもタンイェンに会うまで、のらりくらりとやり過ごしてみるよ。綺麗な体で帰れるよう、最大限努力するから。こう見えてボク、とっさの機転はなかなか良いんだよ?」

 

 そう。上手いこと立ち回ってみればいいのだ。

 

 治しようの無かった前世の病に比べれば、この状況の方がまだイージーモードだ。打開のしようがある。

 

 そう、前向きに考える事にした。最後の最後までそうする方が、悲観するよりもずっと上手くいきやすいということを、ついさっきライライに教えてもらったばかりなのだ。

 

「……でも……でもぉっ…………!!」

 

 しかし、やはりそれだけでは足りなかった。ミーフォンはボクの服の裾を握りながら、ポロポロと涙を流し始めた。

 

 その泣き顔を見て痛ましい気持ちになる一方、泣いてくれることに嬉しさも感じた。

 

 女同士云々はともかく、この娘はボクの事を本当に慕ってくれている。だからこそ、ボクが慰み者になる事がたまらなく嫌なのだろう。

 

「……しょうがないな」

 

 ボクはうっすらと微笑むと、ミーフォンの片腕を掴む。

 

 

 

 そして、ぐいっと手前へ引き寄せた。

 

 

 

「――――んむっっ!!!????」

 

 涙で濡れた瞳を、これ以上ないほど大きく見開くミーフォン。

 

 ボクらは今まさに――互いの唇を唇で塞ぎ合っていた(・・・・・・・・・・・・・・)

 

 鼻腔を優しくくすぐるミーフォンの甘い匂い。その唇は柔らかさと瑞々しさを両方含んでいて、触れ合っていてとても心地よかった。

 

 やがて、ゆっくりと互いの唇が離れる。触れ合っていたのはほんの二、三秒だったが、まるで一分くらい経ったかのような錯覚に襲われた。

 

 ミーフォンの顔は当然ながら、まるで赤信号のようにまっかっかだった。頬の辺りからは、微かながらほっこりと湯気が出ている。

 

 ボクはにっこりと笑い、陽気に語りかけた。

 

「はい。ボクの初めての唇は君のものだよ。これで万が一男に奪われても、初めてしたっていう記憶はずっとミーフォンの中に残る。これじゃ、ダメかい?」

 

 大した事なかったように振舞ってこそいるものの、ボクも内心じゃかなり恥ずかしかった。

 

 ミーフォンは何も言わない。

 

 だが、その頬に立つ湯気の濃度がさらに濃くなった瞬間、

 

「……………………ぷしゅー」

 

 ばたーん!! と、風に吹かれた棒のように横倒しとなった。

 

 ミーフォンはそのまま、動かなくなる。

 

 完全にのびているようだった。

 

「……シンスイ、あなた男前過ぎるわよ」

 

 ライライはミーフォンと負けず劣らずの真っ赤な顔で、そう感嘆する。

 

 ボクは恥ずかしさを隠しつつ、元気な笑顔とVサインを返した。

 

「とにかく、ボクを信じてよ。なんとか頑張ってみるからさ」

 

 その言葉に、ライライはしばらく黙考した後、呆れ笑いを交えて頷いた。

 

「……分かったわ。でも、もし辛かったら戻ってきなさい。あなたは一人じゃないんだから」

 

「うん、分かった」

 

 ボクもそう頷き返した。

 

 そして、高洌惺(ガオ・リエシン)の方へと向き直る。

 

「相談は終わったかしら?」

 

 その見透かしたような冷笑に若干ムッとするが、その気持ちを抑え、指図するように言った。

 

「終わったよ。――さあ、ボクを今すぐ【甜松林】へ案内したまえ」

 



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それぞれのスタート

 

 その後、ボクは高洌惺(ガオ・リエシン)の後ろについて歩き出した。

 

 広葉樹林を抜けてから最初の道を進み、Y字状の分かれ道に差し掛かったところで、ライライたちとは別行動となった。二又に分かれた道のうち右が【会英市(かいえいし)】、そして左の道が【甜松林(てんしょうりん)】へと通じていた。ボクは左の道、ライライとミーフォンは右の道へ進んだのである。

 

 ライライたちはまず寝泊りする場所を探すとの事だったが、ボクは泊まる場所はともかく、二人が自力で食料を調達できるか少し心配だった。帝都へ向かう道中、川魚を取って食料を調達していたのは主にボクだったからだ。

 

 けど、すぐに心配するのをやめる。案外あの二人ならなんとかしてしまうかもしれないし。

 

 それよりも、問題はボクの現状だ。

 

 ボクは【吉火証(きっかしょう)】が入っていない鞄を片手に、山道を歩いていた。

 

 広葉樹林に挟まれているのは最初の道と同じだが、軌道はくねくねと蛇行していた。方位磁針の負極も、北と東の間を振り子よろしく何度も往復している。

 

 空はすでに夕日のあかね色一色だった。片側の木々の上からぎゃーぎゃーとカラスの絶叫が不気味にとどろき、夕方の肌寒さを一層引き立てた。

 

 そして、心臓も高鳴っていた。

 

 カラスのせいだけではない。さっきからつきまとう一抹の不安も原因だった。

 

 これからボクは、言うなれば売春をしに行くのだ。

 

 セッ…………げふんげふん、男女間の深い行為にはリスクが伴う。

 

 つまりは、変な病気にかかったり、赤ちゃんができちゃったりするかもしれないというリスクである。

 

 地球ならコンドームで解決だが、この世界にそんな素敵グッズはない。

 

 ライライたちにはああ大見得こそ切ったものの、不安が全く無いと言えば嘘だった。

 

 いつもなら、あの二人のうちのどちらかに甘えれば大抵の不安は軽くなったが、今はそれはできないし、許されない。

 

 なんだか、人が恋しかった。誰かと話したい気分。

 

 しかし、今一緒にいるのは、あの憎き高洌惺(ガオ・リエシン)ただ一人である。

 

 ……正直、あんまり気が進まない。

 

 けれど、沈黙を保ったボクらの間にある空気は重苦しく、居心地が悪かった。

 

 このままだと、不安が助長されそうだ。

 

 なので、正直癪だが、軽く声掛けくらいはしてみようと思った。

 

「あ、あの……」

 

「何?」

 

 あからさまに嫌そうな返事を返される。

 

 うわ、なんか早速ムカつく。

 

 けど我慢し、即興で話題を組み立て、次の話へと連結させた。

 

「……高洌惺(ガオ・リエシン)は、【会英市】に住んでるんだろ?」

 

「だったら何なわけ?」

 

 まとわりつく虫を払うようなぞんざい口調。

 

 やっぱりムカつく。ただただムカつく。

 

 もうヤダ。ここでリタイアする。こいつはきっと人をムカつかせるために生きてるんだ。話したって気が紛れるどころか胃がムカムカするだけだ。

 

 彼女だって、別にボクなんかと話したくはないんだろう――

 

「……というか、その高洌惺(ガオ・リエシン)って呼び方やめてくれないかしら。姓名を同時で呼ばれると、なんか記号で呼ばれてるみたいで嫌なんだけど」

 

 ――と思っていた時、彼女の方から話を繋げてきた。

 

「じゃあ何て呼べばいいのさ」

 

「好きにすればいいじゃない」

 

 やはり素っ気ない言い方。

 

 しかし、少しだが会話らしくなってきた。

 

「で? さっきの質問にはどういう意図があったのかしら」

 

 高洌惺(ガオ・リエシン)――改めリエシンは、無感情な目でこちらを見ながら訊いてきた。

 

 ボクはまた即興で台詞を考え、それを口に出した。

 

「いや……【会英市】にはどんな武法が伝わってるのか興味があって」

 

 リエシンはふんっと鼻を鳴らした。

 

「もしかして、私の武館を襲撃しようって考えかしら。でも残念。私たち【奇踪把(きそうは)】の武館はそう簡単に見つからないわ。素直に【甜松林】でタンイェンに媚売る方が、無駄な時間を浪費せずに済むと思うけど?」

 

 なんていうか、相当ヒネてるよねこの娘。まあ、彼女の武館を攻めようと一瞬考えたことがあるのは事実だけど。

 

「……正直、あまり知らないわ。まだ私は武法を学び始めて間もないし、そもそも武林の事情なんてどうでもいいし」

 

 おおっ。意外と真面目に答えてくれたぞ。

 

 しかし、少し気になる台詞が含まれていた。

 

「武林の事情に興味がないの?」

 

 その問いに対し、リエシンは呆れ気味に溜め息をつき、

 

「あるわけないじゃない。私の家は貧乏なのよ。武法を学ぶのは、将来、武で身を立てるために過ぎないんだから。今の武館に入るまでは大変だったわ。現ナマで稽古代が払えないから、どこの武館でも門前払い食らったし。その果てに、モノでの支払いを許している今の武館に流れ着いたってわけ」

 

「……君、武法が好きじゃないの?」

 

 強い憧れと興味から武法を始めたボクからすれば、リエシンの武法に対するスタンスは随分とドライなものだった。

 

 それを素直にぶつけると、リエシンは深くうつむいた。

 

 かと思えば全身をブルブルと震わせ、そして――爆笑した。

 

「……ふふふっ、あっははははは!! やだ! 私分かっちゃったわ! 貴女、相当なお嬢様でしょう?」

 

 突然はじけた笑い声にびっくりしながらも、ボクはゆっくり答えた。

 

「まあ、多分、世間一般的に言えばお嬢かも……」

 

「やっぱり! すぐに分かったわ。だって――「好きかどうか」なんて綺麗事を真顔で吐かしているんだもの」

 

 そう口にしたリエシンの声は、皮肉と揶揄に尖っていた。

 

 ボクを見る目も、さっきまでの無感情なものではなくなっていた。軽蔑と、怒りがくすぶったような眼差し。

 

 その変化に、ボクは戸惑いを隠せなかった。

 

「好きか嫌いかで進む道を選べるのはね、貴女みたいな温室育ちだけなのよ。好き? 夢? 生き甲斐? はっ、笑止だわ。そんなもの、恵まれた人間にしか持つことを許されない贅沢な嗜好品なのよ。酒や薬物並みにタチが悪い類のね」

 

 口に入った砂利を吐き出すような口調で、リエシンは言い募る。

 

 その台詞に反感を持ったボクは、負けじと言い返そうとした。

 

「そんなこと――」

 

「あるのよっ!!」

 

 が、ヒステリックに叫ばれたリエシンの一言に一刀両断される。

 

 胸ぐらを勢いよく掴まれた。

 

「私の母はとっくの昔に借金を返し終えてる! なのにその後もずっと【甜松林】で男の相手をして金を稼ぎ続けてた! それってつまりそういうことでしょう!? 借金を返した後も、生きていくためには金が必要! 何の特技も持たなかった母は、結局体を売り続けて生きるしかなかったってことじゃない!! 違う!?」

 

「それは……」

 

「結局、恵まれていない人間は、自分の体や矜持を傷つけながら生きるしかないのよ! そこに好き嫌いを差し挟む事は甘えの最たるものだわ! 貴女みたいに好き嫌いで生き方を選ぶような甘ったれた人間が、私は一番腹立たしいのよ!!」

 

 鬱憤をぶちまけるように言葉を放つと、リエシンは息を切らせて両肩をしきりに上下させた。

 

 彼女はそこでハッと我に返る。そして、何かを後悔したような顔をすると、ボクの胸ぐらから手を離し、顔を見せまいと素早く身を翻した。

 

「…………とにかく、貴女に今更選択の余地なんて無いのよ。【吉火証】を取り戻したかったら、死ぬ気で役目を果たすことね」

 

 リエシンはまるで捨て台詞のように早口で言うと、すたすたと早歩きで先に行ってしまった。

 

 ボクは拒絶的な、それでいて寂しげな雰囲気をかもしだす彼女の後ろ姿を、しばらく呆然と見つめていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 紅蜜楓(ホン・ミーフォン)は、右へ弧を描く軌道で伸びた道を歩いていた。

 

 天蓋のように真上を覆っていた枝葉はすでに無く、夕空が露わとなっている。道の両脇に生えた木々の枝葉が、道を進むにつれて短くなったからだ。

 

 大きな荷馬車三台が、蹄と車輪の音を荒々しく立てて横切った。大量の荷物を積んだ荷台は全て同じ外観だった上、三台とも一列上の軌道を保ったまま走っていた。おそらく、あれらは全て同じ業者の雇った馬車だろう。

 

 あれだけの数の物品を取り扱うに足る町が、この先にある事の証拠。

 

 つまり、ここから遠くない場所に【会英市】があるということ。

 

「……ミーフォン」

 

 後ろを付いて歩いていた宮莱莱(ゴン・ライライ)が、何かをそれとなく訴えるような口調で声をかけてきた。

 

 ――言いたいことは分かっている。

 

 先ほどシンスイと触れ合った唇を、指先で軽く触れて撫でる。

 

 力づくで唇を奪うという雄々しい行為に、自分は羽が生えて飛んでいきそうなほどの幸福感を覚えた。もう死んでもいいとさえ思った。

 

 しかし、それと同時にもう一つ、感じたことがあった。

 

 それは――シンスイの「覚悟」だ。

 

 あの接吻は自分への愛情ゆえのものではなく――非常に残念ながら――、男に体を蹂躙されるという最悪の結果になる事に対しての覚悟かもしれない。

 

 初めて見て会った男に純潔を捧げるくらいならば、知っている誰かにあらかじめ捧げてしまおう。そんな前向きでもあり後ろ向きでもある覚悟の現れなのかもしれない。

 

 正確な真意は分からない。だが、いずれにせよ【黄龍賽(こうりゅうさい)】にかける思いがそれだけ強い事の現れには相違なかろう。

 

 愛情のこもっていない、空っぽな接吻。

 

 けれど、あの時の事を思い出す。

 

 そこらの男よりもたくましい腕力で強引に胸の中へ引き寄せられたかと思った瞬間には、まるで顔ごとぶつかるような勢いで唇を奪われていた。――その映像は今なお鮮明に脳裏に残っている。追憶するたびに女としての本能的幸福感が天井知らずに湧き上がり、下腹部の辺りが炉のように甘い熱を持つ。

 

 ――正直、自覚はある。自分が彼女に抱く愛情が普通ではない事を。

 

 でも、それでも確かに自分は彼女を慕っているのだ。

 

 なら、その慕う相手のために、自分が今できることは何だろうか?

 

 その答えはいたって簡単だ。

 

 ライライもまた、自分と同じ答えを持っているはず。そう確信して疑わなかった。

 

 ミーフォンは剣を鞘から抜くような鋭さで身を翻し、力強く言った。

 

「――見つけるわよ。あたし達の手で【吉火証】を」

 

 ライライは少しも驚きはせず、ただ鋭く頷きを返したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく進むと、長く緩やかな上り坂に差し掛かった。すでにその頃、夕日は西の彼方へなりを潜めつつあった。夜の始まりだ。

 

 ボクとリエシンはそこを登りきり、頂天にたどり着く。

 

 そこから長く続く下り坂の先に、小さな建物群が見えた。

 

 小奇麗な建物が九割を占めるその建物群は、無数の灯りが寄り集まって出来たきらびやかな輝きを発し、自己の存在を夜闇の中でアピールしていた。その周囲は築地塀にも似たデザインの高い塀によって四角形に囲われており、唯一の出入り口はその四角形のうちの一辺に建てられた、無駄に豪壮な正門のみ。その重そうな門は、左右に開け放たれていた。

 

 リエシン曰く、あれが【甜松林】であるとのこと。

 

 馬湯煙(マー・タンイェン)が莫大な財力にものを言わせて造った色町。中にはたくさんの娼館が軒を連ね、多くの娼婦がひしめいている。女の香りが漂っていない場所はほとんど無いといわれている、男にとっての楽園の体現。

 

 正門の前に着くなり、リエシンは「私は【甜松林】の近くで常に待機してるから、何か用があったら呼びなさい」と言い、ボクの背中を押して正門をくぐらせた。彼女とはそこで別行動となった。

 

 門をくぐった先に広がっていたのは、まさしく別世界だった。

 

 赤を基調としたデザインの派手な建物が、大通りの両側にズラリと並んでいる。さらに、おびただしい数の灯篭や行灯が町のあちこちに設置されており、夜なのにまるで昼間のように明るかった。おそらく、夜の【滄奥市(そうおうし)】以上の明度だろう。

 

 道のあちこちには、かなり際どい格好をした綺麗なお姉さんが多数。懐いた猫のような艶っぽい仕草で道行く男にしなだれかかり、自分の店に寄らないかと甘く誘っていた。

 

 そして、時折近くの建物の中から響く、悩ましい嬌声。

 

 さっきまでの静かで暗い山道とは一八〇度変わった空間。もう一度異世界に来たような錯覚に陥りそうになった。

 

 いや、そもそもこの町を囲う塀は「【甜松林】は外界とは違う世界だ」と思わせるための配慮らしい。外の世界のしがらみや苦労をここでは忘れ、全力で女遊びに精を出せるように、というサービス精神からの。

 

 ……とうとう来た。来てしまった。

 

 これからボクはこの町で娼婦になり、タンイェンのハートを射止めるために働くのだ。

 

 リエシンのお母さんの身体的特徴は事前に聞いていた。娘(リエシン)と同じく、右目の下に二つ隣り合わせた泣きぼくろがあるとの事。なんとシンプルで判別しやすい特徴だろうか。

 

 あとは、タンイェンに上手く取り入ればいい。

 

 よし、これから頑張って――

 

 頑張――

 

「――れるわけねー……」

 

 ボクはガクン、とうなだれて落胆した。

 

 そりゃそうだ。確かにボクは元男。普通の女と比べて、男に肌を晒す事への精神的苦痛は少ない。それは嘘じゃない。

 

 でも――全く抵抗が無いわけではないのだ。

 

 ていうか、かつて男だった事を強く意識した上で考えると、生理的嫌悪感が否めなかった。元々男だったのに、男とキスしたり、アレな事したりとか、どんな罰ゲームだ。ボクはノーマルなんだよちくしょう。

 

 だが、くじけそうになった心を、強引に奮い立たせる。

 

 弱気になっちゃダメだ。全ては【吉火証】のため。それを取り戻さないと、ボクは父様管理の下、地獄の勉強漬けの毎日となるだろう。

 

 大丈夫。なんとかなる。ボクはこう見えて、いざという時は頭が回るのだ。何が何でも自分を守りながら、タンイェンをメロメロにしてやる。

 

「――よし」

 

 ようやく立ち直ったボクは、地をしっかり踏みしめて歩き出した。

 



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やっぱり無理ー!

 

 軒を連ねるいくつかの娼館の中から適当に一件見繕い、勢いのまま足を踏み入れた。

 

 最初に出迎えたのは美女ではなく、えらく恰幅のいいおばさんだった。いかつい顔つきを厚化粧でコーティングした、偉そうなマダムを思わせる容貌。最初は娼婦かと思ったが、聞くと、この娼館の店長だという。

 

 店長はえらくへりくだった態度で接客してきた――女知音(レズビアン)の客も稀にいるらしいので、ボクをそっち系だと思ったようだ――が、ボクが「ここで働きたい」と言った瞬間、その目つきは厳しいものとなった。

 

 店長は頭のてっぺんから爪先までをしばらく品定めしてから、「いいだろう。肉付きは貧相だが素材はかなり良い。今日から早速こき使ってやる。ウチらの世界は甘くない。金が欲しけりゃ腹括って死ぬ気でやりな」と、愛想の欠片も無い口調で言った。驚くほどのスピード採用だった。もう少し誓約があると思ったのに。

 

 それから店長はボクに、ここで働く上で重要な事を押し付けるように言いつけた。結構多かったので、正直全部覚えてられてるかは怪しい。まあ、後でまた記憶を補強すればいいか。

 

 そして――現在。

 

 ボクは、お風呂に入っていた。

 

 なめらかな質感を持った木製の湯船の中には、ピンク色に濁ったお湯がたっぷり入っており、もうもうと濃い湯気を発している。その湯気からは桃の香りがする。お湯に含まれた入浴剤のせいだ。

 

「ふぅ……」

 

 お湯に肩まで浸かっていたボクは、自分の意思とは関係なしに声をもらす。

 

 店長が最初にボクに命じた事は、身を清めることだった。「そんな汗まみれな体を売り物にするつもりかい? とっとと汗流してきな」と、無理矢理入らされたのだ。

 

 しかしそれでも、三日ぶりに入ったちゃんとしたお風呂は気持ち良かった。水浴びオンリーの毎日にはいい加減ウンザリしていたから。

 

 下ろされた長い髪を指でクシのようにすきながら、ふと考える。

 

「よく考えたら、これって初めての「仕事」だよね……」

 

 前世のボクは子供のまま死んでしまった。そして異世界でもまだ働いた事がなかった。つまりこれはボクにとって、最初のお仕事なのである。

 

 けど、よりにもよって最初に働く職場が娼館とは……。

 

「…………あのお堅い父様に知られたら一〇〇パー殺されるよね、コレ。良くて勘当かも」

 

 【甜松林(てんしょうりん)】での記憶は墓場まで持っていこう。そう決意した。

 

 しばらくして、ボクはお風呂から上がった。脱衣所に来てからも、桃の香りは肌に濃く染み付いていた。どうやらあの入浴剤は、体に甘い香りを付けるためのものだったようだ。

 

 支給された服は、地球で言うキャミソールによく似た形の薄着。しかしその透明度はかなり高く、ぴったり肌に付くと体の表面がくっきり透けて見えるほどだ。その下に身につけるのはパンティのみ。ぶっちゃけ、かなり恥ずい格好である。

 

 プライドをゴミ箱にダンクシュートして、それを着用。脱衣所を出る。

 

 脱衣所から前に真っ直ぐ伸びた廊下を歩いていた時、壁に寄りかかって立っていた一人の女の人が、向かい側の壁を片足で踏みつけた。それによって、ボクの通り道が塞がれる。

 

 素足で通せんぼしたのは、二十代半ばほどの女の人。ボクと同じ格好をしている所を見ると、おそらく娼婦だろう。薄着の下にうっすら見える体型はスレンダーだが、凹凸もそれなりにある。顔つきは文句なしに美人だったが、その目つきは鋭く、眉間にシワが寄っていた。きつい感じのする人だ。

 

「……あんたかい? 店長がさっき雇ったっていう香瑚(シャンフー)ってのは」

 

 茨のように尖った声で、彼女は訊いてきた。その目も明らかにボクを睨んでいる様子。好意的でないのは明らかだった。

 

 ボクを呼ぶのに使った「香瑚(シャンフー)」とは、この娼館におけるボクの名前。いわゆる源氏名(げんじな)みたいなものだ。さっき店長に付けられた。

 

「あ、はい。ボ……わたしが香瑚(シャンフー)です。これからよろしくお願いします」

 

 ボクはそう言って、お行儀よく頭を下げた。ちなみに一人称は「ボク」から「わたし」に改めている。「そんな男みたいな一人称じゃ客が萎える。変えな」と店長に言われたからだ。

 

 女の人はフンッと不快げに鼻を鳴らすと、

 

「あんさぁ、今からでも遅くないからさぁ、とっとと辞めてくんないかしら?」

 

「え……な、なぜでしょうか」

 

 ボクが引きつった顔と声で尋ねると、彼女は威圧的な語気で告げてきた。

 

「あんたみたいな見た目だけ良い女に入られると、はっきり言って迷惑なのよ。おおかた、見た目が良ければ大金稼げると思って入ってきたんでしょうけど、あいにく娼館(ここ)はそんな甘い世界じゃないわけ。この世界ナメ腐ったメスガキにうろちょろされるのってウザイわ。とっとと消えてよ」

 

 うわぁー……きっつい事言ってくれるなぁ。女性特有のトゲトゲしさを感じる。ある意味、姉様より迫力あるかも。

 

「あたしはもうここに来て長いから、男を夢見心地にする方法なんて死ぬほど知ってるわ。けど男ってバカなのよ。結局、技巧より若さを取るわけ。あんたがここに存在するだけで、あたしは娼婦として正当に評価されなくなるの」

 

「……えっと、あなたも十分にお美しいと思いますが……」

 

「は? 何それ? あたしを哀れんでんの?」

 

「へっ? い、いえ! そのようなことは……」

 

 威圧感をさらに強めて詰め寄ってくる彼女に、ボクはどうしたものかと困惑する。率直に褒めただけなのに、どうして哀れみだと思うのだろうか。いくらなんでもへそ曲がり過ぎじゃなかろうか。

 

「もう一度言うわ。あんた邪魔。とっとと消えて。目障り。近くに存在するだけで不愉快極まるのよ」

 

 彼女はあらゆる表現を用いて「帰れ」と命じてきた。

 

 しかし、それに素直に頷くわけにはいかない。

 

「ごめんなさい」

 

 ボクは添えおくように言うと、行く手を阻む彼女の片足をどけて、通り過ぎた。

 

 が、突然後ろから腕を掴まれ、そのまま引っぱられる。

 

 振り向くと、片手を振り上げた彼女の姿。その表情は憤怒に燃えていた。

 

「この小便臭いガキがっ!!」

 

 耳を刺すような金切り声を上げるや、振り上げた手で平手打ちを放った。

 

 が、数々の武法士と戦ってきたボクにとって、そのスピードはあまりに遅かった。なので、掴まれていない方の手で容易に弾く事ができた。

 

「小便臭くなんかないです。さっきお風呂入りましたから」

 

 彼女は驚愕で目を大きく開く。

 

 が、すぐに怒りを取り戻すと、近くに立てかけてあった角材を手に取り、

 

「このぉぉっ!!」

 

 肩に担ぐように振りかぶった。

 

 ボクはそんな彼女の懐へ一瞬で踏み入り、振り下ろされようとしていた角材の根元を掴んだ。

 

「これはさすがに危ないです」

 

 諭すように言うボクの言葉に耳を貸さず、彼女は角材を取り返そうと懸命に足掻く。しかし、日頃腕の【(きん)】を鍛えているボクから取り返すには、彼女はあまりにも非力過ぎた。まさしく大人と子供ほどの力の差だ。

 

「――あれ? 綿月(ミェンユエ)さん、何してるんですかー?」

 

 その時、後ろから女の子の声が聞こえてきた。足音は二人分だった。

 

 振り向くと、遠く離れたところに、ボクらと同じ娼婦の服を着た二人の女の子が立っていた。ストレートヘアーの娘と、ツインテールの娘の二人組だ。ボクよりは年上だろうが、それでもかなり若かった。見た目的に、高校を卒業して間もないくらいの年代である。

 

 それを見た途端、彼女は気まずそうな顔をして角材から手を離す。そして、逃げるようにボクの横を通り過ぎた。

 

 「ほら、退きなっ」と苛立たしげに二人の娼婦の間をこじ開け、向こうへ行ってしまう。

 

 ボクは角材を壁に立て掛けると、歩み寄ってきたその二人に軽く会釈した。

 

「あっ。あんたでしょ? 今日入った新しい娘って!」

 

 ツインテールの方の人は、さっきの人とは正反対な明るい態度で話しかけてきてくれた。

 

 それに対してボクは内心ホッとしながらも、きちんと名乗った。

 

「はじめまして、先輩方。(リー)……じゃなくて、香瑚(シャンフー)です」

 

「よろしくー」

 

「これからよろしくねー」

 

 気軽な感じで挨拶を返してくれた。

 

 良かった。さっきの女の人よりは比較的フレンドリーだ。

 

 ツインテールの人は意地悪そうに笑いながら、

 

「いや、しかしあんたも入った早々災難だったね。綿月(ミェンユエ)さんに目付けられるなんて」

 

綿月(ミェンユエ)さんって?」

 

「さっきあんたをイビってた人よ。この店じゃ一番の古株で、なおかつ一番の技巧派なんだけど、もう満二六で、女としての食べ頃が過ぎかけてるから焦ってんのよ。ま、年増の嫉妬ってやつ」

 

 ツインテールの人が溜め息をつくように言う。

 

 いや、まだまだ現役でやれそうなんですけど。あんな美人なんだし…………と、元男のボクが心の中で申してみる。

 

 ツインテールの人はボクの顔を中腰で覗き込む。

 

「それにしてもあんた、お人形みたいで可愛いわね。女のあたしでも見とれちゃうくらい。ヤバイ、危機感感じちゃうわ。あたしの客全部あんたに取られちゃうかも」

 

 その言葉に、ストレートの人は肩をすくめながら突っ込んだ。

 

「平気よ。あんたにゃあの医者がいるじゃないの。連日通い詰めであんたにゾッコンだしぃ?」

 

「まあ、毎回指名してくれるのは大助かりなんだけど……キモイんだもんあのオヤジ。○○○○ばっかり重点的に○○○してくるド変態だしさ」

 

「バカおっしゃい。あんたなんかまだ軽い方よ。あたしなんか○○を○○○○したいとか、○○○に○○して欲しいとか要求された事いっぱいあんだから。人畜無害そうなツラしてる奴ほど、腹の中じゃドス黒い欲望飼ってんのよねぇ」

 

「そうそう! ○○○を○○して見せろとか、○○○○○ろとか、○○を付けて○○○○○して○○○○しろとか! あっはははは! 変態ばっかよね!」

 

 ――あまりにもアレな単語が多々あったので、一部自主規制させていただきました。

 

 うわぁ……ピー音いっぱい……。顔が熱くなるのを通り越して、寒気すら感じた。

 

 ボクとそんなに歳が離れていないはずなのに、この二人は随分と百戦錬磨なようだった。

 

「――そういえばあたし、さっき外で神桃(シェンタオ)が歩いてくのを見たわよ」

 

 ふと、ツインテールの人がそう話題を変えてきた。

 

 ストレートの人はそれに過敏な反応を示す。

 

「マジかいっ?」

 

「うん。ウチの店の前を横切ってたわ。まあ神桃(シェンタオ)の方は、見てるあたしになんか全く気づいてないっぽかったけど。自分はお前らの一段上の世界にいますよ、的な感じ?」

 

「そうそう、お高くとまってるわよねぇあの女。まあ、確かにあの女はあたしらとは格が違うけどさぁ」

 

 彼女らの口調には、嫉妬と称賛が混じっているように感じられた。

 

 ボクは気になって「神桃(シェンタオ)って誰ですか?」と尋ねてみた。

 

 すると、ストレートの人が答えてくれた。

 

「『傾城(けいせい)』の一人よ」

 

「『傾城』って?」

 

「この【甜松林】の娼婦には階級があんのよ。下から上へ登っていく形で『四級』『三級』『二級』『一級』『傾城』といった感じにねぇ。つまり『傾城』ってのは一番上の階級。【甜松林】最高の娼婦の一人ってわけさ。一晩寝るだけでも凄まじい出費がかさむ。まさに「城を傾かせる美女」ねぇ」

 

「そういうのって、誰が決めてるんですか?」

 

「『落果会(らっかかい)』っていう、【甜松林】の統括組織さ。連中は馬湯煙(マー・タンイェン)に近い組織で、タンイェンの命令通りに【甜松林】のあらゆる事を取り仕切ってる」

 

「へぇー……えっと、つかぬ事を伺いますけど、お二人の階級はどれくらいでしょうか……?」

 

「あたしら二人とも『三級』だよ。ちなみにさっきの綿月(ミェンユエ)さんは『二級』だから、結構高い方だよ。あんたはまだ入ったばっかだから一番下の『四級』ね。ま、せいぜい頑張んなさいよ、後輩」

 

 ボクは二人からぐしぐしと頭を撫でられた。

 

 その後にも、彼女たちは【甜松林】のいろんな事情を聞かせてくれた。

 

 おかげで、右も左も分からなかったこの町の事をある程度知ることができた。

 

 聞いていて楽しかった。

 

 ……だって、それが一種の現実逃避になっていたから。

 

 けれど、時の流れというのは、人間の事情なんか知ったことかとばかりに淡々と進むものだ。

 

 しばらくして――とうとう「その時」がやって来た。

 

 

 

 そう。

 ボクの「香瑚(シャンフー)」としての初陣である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕日などとっくに落ちきった真夜中。すでに一般の家では夕食を終え、寝る時間となっていることだろう。

 

 しかしこの【甜松林】は、夜からが本領発揮だ。職という枷から解き放たれた男たちが、ぞろぞろとこの色町へやって来る。娼婦たちは金銭を対価として受け取り、女体の柔らかさをもって彼らの心と体に癒しを与えるのだ。

 

 かくいうボクも、その担い手の一人になろうとしていた。

 

 奥に向かって長方形に伸びた店内は、天井からぶら下げられた巨大な行灯の光によってほの明るく照らされていた。奥まで並行に続く長い双璧には、通路がそれぞれ一つずつ空いている。その通路の先には、娼婦と夜の逢瀬を行うための個室がいくつもあるのだ。

 

 ボクを含むこの店の娼婦は全員、壁際に並んでいた。来客に備えてスタンバっているのだ。ボクたち娼婦はいわばこの店の商品だ。言うなれば自分自身を陳列棚に並べているのである。

 

 ちなみに階級の高い娼婦ほど奥へ、低い娼婦ほど店の入口側に立っている。上座と下座みたいなものだ。ド新人のボクの立ち位置は当然、一番下。

 

 ボクはパンティ一丁の上にキャミソール似の半透明な薄着という、どう見ても下着にしか見えない格好だった。髪はいつもの三つ編みではなく、ストレートに下ろされていた。店長曰く「田舎臭いからやめろ」とのこと。

 

 見ると、綿月(ミェンユエ)とかいう人は、結構奥の方に立っていた。目が合った途端、まるで射殺さんばかりに睨みつけられた。……これから先、いじめられないといいなぁ。

 

 いや、いじめの方がまだ可愛い問題か。――これからするかもしれない事に比べれば。

 

 とうとうこの時が来てしまった。

 

 ボクはなっちゃったのだ、娼婦に。

 

 これから初めて会った男に買われ、そして……その、えっちぃ事をするかもしれないのだ。

 

 もう一度言うが、今のボクはこの店の売り物だ。きちんとお金を持った男に求められたら、その時点で売り物に拒否権など無い。

 

 のらりくらりとやり過ごす……とは言ったものの、悪いことにボクは『四級』、つまり一番安い娼婦なのである。

 

 安いということは、手が届きやすいということ。つまり、客に目をつけられる確率が非常に高くなるのだ。

 

 どでかい溜め息が出そうになるが、それをグッと我慢する。

 

 はっきり言おう。前途多難だ。

 

 処女喪失の展開は、もしかすると避けられないかもしれない。

 

 まあ、それなりに覚悟はしているが、できればそうなりたくはない。

 

 どうか、タンイェンが来るまででいいから、この店には客が一人も来ないで欲しい。ボクはそんな非現実的な願いに本気ですがっていた。

 

 そして当然ながら、それは叶わなかった。

 

 店の出入り口の戸が、開いたのである。

 

「――よぉ店長! また来てやったぜ!?」

 

 途端、無遠慮なデカい声が飛び込んできた。出入り口の一番近くにいたボクは思わず眉をひそめる。

 

 着崩した服装。細身だが貧弱そうではない、ほどよく筋肉の付いた体型。常に口元に浮かんだ軽薄そうな笑み。見るからに遊び人っぽい、若い男だった。

 

「あらあ!? これはこれは、(グァン)さんの所の御曹司!」

 

 その男を見るや、店長はボクらに接する時とは打って変わった、へつらうような明るい態度を取った。

 

 ていうか、ボクが来店した時よりも数倍輝いて見える。

 

「誰……?」

 

 ボクが小さくこぼすと、隣にいた娼婦さんが小声で教えてくれた。

 

「【会英市(かいえいし)】の貿易商の息子よ。ウチのお得意様」

 

 なるほど。だからあんなに明るい態度なのか。

 

 男は店内へと踏み入ってきた。

 

 その足取りを見てボクは少し目を見開く。足裏が床に吸い付くような歩き方。それはまさに、武法士の歩行だった。

 

「さーって、今日はどの娘にしようかなー、っと」

 

 中央まで来ると、彼はぐるぐると回りながら周囲の娼婦さんたちを楽しげに品定めしていく。

 

 他の娼婦さんが期待の眼差しとなる中、ボクは少しでも目立たないようにと顔を背けていた。当たりませんように……当たりませんように…………!!

 

 ――しかし、それでかえって目立ってしまったのだろう。

 

 男はボクをまっすぐ凝視したまま、視線を固定させていた。

 

 冷や汗がぶわっと湧き出す。

 

 男はそのままボクに歩み寄り、体のあちこちに視線を走らせてきた。

 

「お前、見かけねぇ顔だなぁ?」

 

 ボクはなおも顔を背けていた。無駄だと分かっていながら。

 

 男は店長の方を振り向いて、無駄に大きな声で訊いた。

 

「店長!? もしかして、新しく仕入れた娘ぉ!?」

 

「はいぃ! 今日入ってきた新入りの香瑚(シャンフー)でございます」

 

 店長は相変わらず恐縮した態度で答える。

 

 仕入れた――この言葉にボクは内心カチンときた。まるで女をモノのように扱う言葉だったからだ。

 

 男はさらに顔を近づけ、興味津々にボクを見つめていた。その息は煙草臭かった。

 

 ボクは笑顔を崩さないまま、心の中で毒づいた。

 

 おまえなんかに、ボクの処女は死んでもやるもんか。

 

 ボクは申し訳なさそうな態度を作り、女の子女の子した弱々しい声で言った。

 

「え……えっと、ボ――わたし、まだここに来たばっかりで……まだ男の人と……その…………一夜を共にした事がないんです…………だから、その、あなたのお相手が務まるかどうか……」

 

 男は目を丸くし、

 

「へぇ? お前、生娘?」

 

「は、はい」

 

 ボクは恥じらうような態度を装って頷いた。

 

 どうだ。萎えただろう。ざまーみろ。

 

 これは前世で読んだ雑誌から得た情報だが、遊びたい盛りな若い男の間では「処女は重くてめんどくさい」という認識が少なからずあるらしい。なので処女アピールをすれば萎えて引き下がると思った。

 

 だが、男は嫌そうな顔をするどころか、逆に瞳を輝かせて言った。

 

「店長!! 俺今日はこの娘にするわ!! やっべ、俺生娘とヤるの大好きなんだよなぁ!!」

 

 マジかぁぁ――――――!!? 逆に燃え上がりやがった!!

 

 ヤバイ。ヤバイよこれマジヤバイ。

 

 果てしない危機感を覚えたボクは、なおも抵抗した。

 

「いや、あの、だからわたし……男の人を悦ばせる方法なんてまだ全然……」

 

「気にすんなって。むしろ、俺が一から手取り足取り教えてやるよ」

 

 いりません。ありがた迷惑です。

 

香瑚(シャンフー)、ゴネんじゃないよ! お前のような乳臭い小娘をわざわざ買ってくださるってんだ。そもそも、入って一年どころか一日すら経ってないペーペーのお前に、拒否権があるとでも思ってんのかい!?」

 

 さらに援護射撃とばかりに、店長の叱責が飛ぶ。やかましい。知るかそんなの。

 

「へへっ、んじゃあこの娘は買っていいんだな?」

 

「どうぞどうぞ。構いませんよ」

 

 店長が手もみしながら媚びるような口調で言う。

 

「だってさ。ほら、来いよ。今夜は楽しもうぜ」

 

 男はその無骨な手でボクの片腕を掴み、引っ張っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしよう…………………………。

 

 もしかするとボクは今、人生最大の危機を迎えているのかもしれない。

 

 そこは小さな部屋だった。人間二人が余裕で寝られる大きな(ベッド)、設置型の大きな行灯、花をモチーフにした木の格子で閉じられた窓。それ以外に何もない殺風景な部屋である。

 

 ボクは男の手に引かれ、この場所へと連れてこられた。

 

「っしゃ、燃えてきたぁー!」

 

 男は部屋に入った途端、興奮気味に上着を全て脱ぎ捨て、上半身裸になった。

 

 ヤバイ。向こうは早速やる気満々だ。どうすればいい?

 

 ボクは必死で思考をフル回転させ、打開策(わるあがき)を練る。

 

 ……こうなったら、関係ない話に持ち込んで床入りを忘れさせてやる!

 

 処女、断固死守すべし!!

 

 男が下の衣服も脱ぎだそうとした時、ボクは努めて女の子らしい態度を作り、速攻で頭に浮かんだ話題を口に出した。

 

「あ、あの、もしかして武法をやられてるんですかっ?」

 

 それを聞くと、男は感心したような声で、

 

「へぇ、よく分かったな。ガキの頃からのお稽古事の一つとして、武法をやってたんだ」

 

「そ、そうなんですか。それで、流派は?」

 

「【番閃把(ばんせんは)】ってやつ」

 

 よし、順調に食いついてる。

 

 このまま時間を忘れるほどに話を展開させてやる。武法マニアの知識量を舐めるなよ! 一晩語り明かすなんて朝飯前だ!

 

「へ、へぇー! 【番閃把】ですか! あれは有名ですよね。それに宮廷護衛官御用達の【心意盤陽把(しんいばんようは)】の元になった功績は素晴らし――」

 

「――ってぇかさぁ、んなこたぁいいからよ、さっさと始めようぜ」

 

 しかし、話を戻されてしまった。

 

 ええい、負けるもんか。まだ諦めないぞ。

 

「いえ、でもわたし、もっとあなたとお話が――」

 

「くどいんだよ!!」

 

 次の瞬間、ボクは突き飛ばされた。そして、背中の延長線上にあったベッドに倒される。

 

 仰向けになったボクの上に、男が勢いよく覆いかぶさってきた。

 

 すぐ目の前にある男の顔は、さっきまでの軽薄そうな表情ではなかった。

 

 彼がボクを見る目は、人間を見るソレではない。まるで「モノ」を見るような目つきだ。

 

「店長に代わって教えてやるよ新入り。テメェの仕事は男に体を差し出す事だ。男の話し相手じゃねぇんだよ。テメェら娼婦はただ金持った客にケツ振ってりゃそれでいいんだ。分かったか雌犬」

 

 その豹変ぶりに、ボクは思わず怖気が立った。

 

 男の顔が、下卑た笑みに変わる。

 

「安心しろよ。痛ぇのは最初だけだ。それに俺、お前みてぇな貧相なガキ、結構好みなんだぜ? もし今夜ちゃんと相手できたら、これから先贔屓にしてやってもいいぜぇ?」

 

 言いながら、ボクの胸に手を近づけ始めた。

 

 その距離、残り15厘米(りんまい)

 

 10厘米(りんまい)――

 

 8厘米(りんまい)――

 

 5厘米(りんまい)――

 

 3厘米(りんまい)――

 

 2厘米(りんまい)――

 

 1厘米(りんまい)――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっぱり無理ぃぃぃぃぃぃぃぃ――――――――!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 羞恥と恐怖と不快感に駆られて振り出されたボクの拳が、男の片頬に炸裂した。

 

「ぱぎょおぉ!!?」

 

 男は奇っ怪なうめき声を発したかと思うと、ものすごい勢いで吹っ飛び、ボクから離れた。

 

 そして、入ってきたドアに激突。その衝撃で蝶番(ちょうつがい)が壊れ、男はドアごと部屋の外へ放り出された。

 

 突発的に響いた破壊音の後には、息苦しいほどの静寂が訪れた。

 

「……………………あ」

 

 ――やっちゃった。

 

 思わずぶん殴っちゃった。

 

 しかしもう遅い。目の前には、ボクのしでかした行為の結果があった。

 

 部屋の外の廊下に横たわった男は、あるべき場所から抜けたドアと一緒に寝転がっていた。完全にのびている。

 

 ――後の祭り。覆水盆に返らず。

 

 それらの言葉が、ふとボクの頭に浮かんだのだった。

 



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殴り込み

 ――シンスイが指名客を殴り飛ばすという痛恨の大失敗を犯す、数時間前。

 

 

 

 あかね色の光が西の彼方へ姿を隠れるのに合わせて、空の下には闇が下り始めていた。

 

 そしてその夜闇の中、煌々と自己を顕示する大きな光の集まりがあった。

 

 そこが色町【甜松林(てんしょうりん)】の隣にある――【会英市(かいえいし)】という町だった。

 

 正方形を形作るように密集した、無数の灰瓦の屋根。大通りは、その正方形の南西の(かど)から北東の角までを貫く形で一直線に伸びている。

 

 宮莱莱(ゴン・ライライ)紅蜜楓(ホン・ミーフォン)が町の形を知っているのは、何も空を飛んで俯瞰したからではない。南西側の入口の端にある立て看板に書かれた【会英市】の簡単な地図を見たからだ。

 

 【滄奥市(そうおうし)】よりは明らかに見劣りするが、それでもなかなか大きな町だった。夜になり始めているが、寂しさを感じない。未だに多くの店が明かりを灯して商いに勤しんでいた。人通りもそこそこ多い。これが昼間だったら、もっと賑わいがあるのだろう。

 

 ライライたちがここに来た理由はただ一つ。奪われた【吉火証(きっかしょう)】を探すためだ。

 

『私は【会英市】の人間である上、一度治安局にタンイェンをチクった事がある。だから奴に顔が割れていて、なおかつ警戒もされているわ』

 

 高洌惺(ガオ・リエシン)は、自分が【会英市】の人間であると口を滑らせた。

 

 さらにリエシンは徐尖(シュー・ジエン)と兄弟弟子の関係。つまり【奇踪把(きそうは)】の所属。

 

 【会英市】に【奇踪把】の武館があったなら、まずはそこを尋ねてみようと考えたのだ。

 

 リエシンは自分を犠牲にする覚悟と、何が何でも目的を達成しようとする執念を持っている。しかし、もしかすると彼女の仲間の一部はそうでもないかもしれない。なので、そこを攻めてみようと思った。

 

 しかし、腹が減っては戦はできぬ、という言葉がある。まずは空きっ腹を満たしてから行動に移そうとライライは考えた。

 

 当然というべきか、ミーフォンは「そんな悠長な事やってる場合じゃないわよ!」と突っかかって来たが、その途端に彼女の腹の虫ははっきりと鳴いた。体は実に正直である。真っ赤になったミーフォンの意見を半分尊重する形で、歩きながら食べられる軽食をいくつか購入することが決まった。

 

 その軽食片手に、二人は【会英市】の【武館区(ぶかんく)】へと立ち寄った。

 

 理由は簡単。この町における【奇踪把】の武館の有無と、その場所を聞くためだ。

 

 通りすがりの武法士を訪ねた結果、この町には【奇踪把】の武館があるという情報と、そこまでの道のりの情報が得られた。

 

 得た手がかりを元に、ライライたちは夜の街路を歩く。

 

 そして、手元の軽食を全てたいらげた頃には――到着していた。

 

 四角く土地を囲う土塀の一箇所は、背の高い木製の両開き扉となっている。そして今まさに、一人の男がそこを開けて中に入ろうとしていた。

 

 ちょうどいい。まずは彼に話を伺おう。

 

 ライライの考えている段取りはこうだ。まず、リエシンと徐尖(シュー・ジエン)が所属しているかどうかを誘導尋問で確認。もし所属が確認できたら、話し合いで【吉火証】の返還を要求。それが受け入れられなかったら実力行使。武力に訴えるのはあくまでも最終手段である。

 

 しかし、歩き出した自分の横を――ミーフォンが放たれた矢のような勢いで通り過ぎた。

 

 扉の奥へ入ろうとしている男に向かって、迷いのない一直線軌道で突っ込んでいく。

 

「ちょっ、ミーフォン、あなた何を――」

 

 する気なの、と言い切る前に、ミーフォンは男の背中めがけて回し蹴りを叩き込んだ。

 

「ギャ!!」

 

 背後からの予期せぬ攻撃に、男は声を上げて吹っ飛んだ。扉を破り、土塀の中の敷地内へと放り出される音。

 

 ミーフォンはそれを追って、扉の奥へ入る。

 

 土塀の中がざわめき立った。

 

「オラァ!! 【奇踪把】のイモムシ共!! とっとと高洌惺(ガオ・リエシン)徐尖(シュー・ジエン)を出しなっ!!」

 

 次に、ミーフォンの鋭い怒号が耳に届いた。

 

 ライライは本気で頭を抱えたくなった。まずは話し合いで聞き出すつもりだったのに、ミーフォンはいきなり強行突破してしまった。あんな入り方では道場破りと何も変わらないだろう。血の流れる展開が現実味を帯びた。

 

 だがその強行突破は、ミーフォンが内心に抱く焦りをよく表しているようだった。

 

 ――やってしまったものは仕方がない。

 

 ライライは開け放たれた扉の中へため息混じりで入り、ミーフォンの隣へ駆け寄った。

 

 四角く広がった広場の中には、大勢の男たちがいた。その顔は軒並み、闖入者に対する驚愕に満ちていた。

 

 が、その驚愕の表情は、やがて憤怒のソレに変わる。

 

「貴様なんのつもりだ!? ここを【奇踪把】の武館であると知っての児戯か!? どこの流派の回し者だ!!」

 

 男の一人が、殺気を周囲にたくわえてそう怒鳴ってきた。

 

 ミーフォンは高慢に鼻を鳴らし、

 

「ハッ、盗っ人流派に教えてやる義理はないわね! 痛い目に遭いたくなかったら、今すぐ高洌惺(ガオ・リエシン)徐尖(シュー・ジエン)をふん縛ってこっちに寄越しなさい!」

 

「訳の分からん事を!! とにかく、この武館を愚弄するような真似をした以上、二人とも無傷では返さんぞ!!」

 

 え? 二人とも? やっぱり私も入っているの? しかけたのはミーフォンなのに? ライライは理不尽な気分になった。

 

 しかし、すでに向こうはやる気十分の様子。何もせずに帰してくれる未来は全く予想できなかった。

 

 武法の世界は綺麗事ばかりではない。ミーフォンがさっきやらかした行為は、この武館の看板に泥団子を投げつける行為に等しい。面子を潰された怒りに任せ、全員で向かって来ることだろう。

 

「上等よ。普通に訊いて吐かないんなら腕づくで吐かせてやるわ!」

 

 ミーフォンはそう勝気に言うと、持っていた手提げ鞄を土塀の隅に投げ捨てた。そして上着の背中の裾口に片手を入れ、衣擦れの音とともに何かを取り出した。

 

 それは、鎖で一本線状に繋ぎ合わされた、三本の短い鉄の棒。――三節棍(さんせつこん)。鎖に繋がれた短棒を遠心力で振り回し、敵を打つ打撃武器だ。

 

 かと思えば、ミーフォンは三節棍同士を繋ぎ合わせている二本の鎖を棒の中の収める――どうやら棒の中は空洞になっているようだ――。そして、三本の短棒の先端同士を接触させたまま数度ねじり、そして「カチッ」という音とともに連結させた。

 

 あっという間に、全長約150厘米(りんまい)におよぶ鉄の長棒が組みあがった。

 

 ライライは理解した。あれは連結式三節棍だ。三節棍としても使えるが、三本の短棒同士を連結させて一本の棍にすることもできる。長物である棍はあまり持ち歩くのに向いていないが、この連結式三節棍は隠し持つことが可能なのだ。

 

 さらに連鎖的に思い出す。【太極炮捶(たいきょくほうすい)】には棍法に優れた者が多いことを。

 

 この状況に危機感を感じる一方、【太極炮捶】の総領筋にあたる(ホン)一族の棍さばきがいかほどのものであるのかに、若干の興味が湧いた。

 

 得物を持たれたせいか、男たちの表情がさらに険を帯びる。

 

 もう引けないわね――仕方なしに覚悟を決めたライライは、ミーフォンと同じく土塀の近くへ鞄を投げ置いた。

 

 「ボスンッ」という落下音が聞こえた瞬間、男たちは一斉に飛び出した。

 

 ――戦いが始まった。

 

 最初にライライが行ったのは、ミーフォンと距離を取ることだった。そうすることで棍の射程圏内から外れ、彼女が戦いやすいようにしたのだ。味方の自分が近くに居ては、満足に棍を振れないだろう。

 

 ミーフォンはこっちを見ないまま口端を歪めた。どうやら自分の意図が伝わったらしい。

 

 そこから、ライライは自分の戦いに意識を集中させた。

 

 横一列に並んで向かってくる三人の敵。

 

 ライライはまず、一番右の男へ素早く前蹴りを打ち込み、吹っ飛ばす。

 

 そしてすぐさま後方へ跳んだ。約半秒後、さっきまで自分が立っていた位置を、残った二人の男の正拳が貫いた。

 

 空振りを確認すると、ライライは再び前に戻り、回し蹴りを放った。二人は極太の鞭のような蹴りに巻き込まれ、真横へ大きく転がった。

 

 次の敵の来襲は早かった。前から急迫してきた男が、柳葉刀を横薙ぎで振ってきた。

 

 しかし、その刃が斬ったのは空気。ライライはすでに大きく背中側へ跳躍し、後ろにあった土塀の表面を片足で踏みしめていた。その足でそのまま壁面を蹴って飛び出し、柳葉刀の男の顔面に膝を叩き込んだ。

 

 敵がまた一人沈んだが、まだ安心はできなかった。周囲から一点(ライライ)を挟撃しようとしている連中の存在に気づいたからだ。その数、ざっと見積もって六人。

 

 ライライは鍛え上げた脚部の【(きん)】の力を引き出し、できるだけ高く真上に跳躍した。自分の背後から正拳を突き出そうとしていた男の両肩を踏み台にし、その真後ろへと降りる。

 

 目の前には、六人の塊があった。

 

 ライライは臍下丹田に【気】を集中させると、片膝を抱え込む。

 

「はぁっ!!」

 

 そして、靴裏を真っ直ぐ前へ突き放つのと同時に――【炸丹(さくたん)】させた。

 

 気力が少し抜け落ちる感覚とともに、元々の蹴りの力がさらに倍加。その衝撃をモロに受けた六人の塊は、まるで落ちた石が砕けるようにあちこちへ散り飛んだ。落下音が六人分重複する。

 

 本当は回し蹴りでまとめてなぎ倒したかったのだが、それは無理だった。【炸丹】は、【気】の爆発によって生じる体の外側への張力を、打撃力に転化する技術。つまり、体の中心から外へ向けて放つ技にしか使えないのだ。

 

 少しだけ余裕が出来たので、ミーフォンの様子を一瞥した。

 

 見ると、彼女もなかなか上手く立ち回っていた。自分の背丈よりも少し高い棍を、まるで自分の手の延長のごとく生き生きと操り、四方八方から迫る敵を次々と蹴散らしている。

 

 ミーフォンの棍さばきは、予想通り達者なものだった。彼女と、彼女の刻む棍の動きは、水上で翻る蓮華のように華麗で、且つなめらか。しかしその上品さの中には確かな鋭さと圧力が内包されていた。美しさとしたたかさを兼ね備えた、海千山千の麗人を彷彿とさせる。

 

 ライライは我知らず目を奪われていたが、近づいて来る三人の敵の存在を新たに感じ取り、ハッと我に返った。

 

 一人目の男の正拳を紙一重で躱しつつ、その足を鋭く払う。

 その一人目の後ろから飛び出した二人目の男の腹へ靴裏を叩き込んで沈める。

 右から円弧軌道を描いて接近してきた三人目の男の手にある直剣を足で叩き落とし、それから回し蹴りで薙ぎ払う。

 

 円滑に敵を処理出来たことに気分が良くなる一方で、ライライはある事に気がついた。

 

 ――【奇踪把】の十八番である変幻自在の歩法を、敵がほとんど使ってこないのだ。

 

 そしてその理由も、ほとんど考える時間を要さずに察することができた。

 

 人が密集しているからだ。

 

 パターンの無い変幻自在な歩法で相手の攻撃を躱し、幻惑し、そして付け入る隙を導き出してそこを突く――それが【奇踪把】の基本的戦闘理念。

 

 しかし、その戦法は遮蔽物の少ない場所でこそ真価を発揮するもの。

 

 つまり、今のような状況――限られた範囲内に多くの人間が密集した状況では、その伝家の宝刀(変幻自在の歩法)は満足に機能しなくなる。有効な策に思える人海戦術が、逆に彼らの足を引っ張っているのだ。

 

 おまけに倒れた仲間が足元に転がっていることも、歩きづらさを手伝っているようだった。

 

 しかし、自分たちの武館を愚弄された事で頭に血が昇っているのか、敵側はその事に気づいていない様子。

 

 歩法さえ封じてしまえば、【勁擊(けいげき)】の威力が低めな【奇踪把】はそんなに怖くはない。警戒するとすれば【点穴術(てんけつじゅつ)】くらいだ。

 

 ミーフォンの無謀な突入は、結果的に戦略として成り立っていた。偶然なのか計算ずくなのか、自分には分からないが。

 

 以降も、仲間という名の足枷によって動きの鈍った男たちを次々と倒していった。

 

 動きを大きく制限された相手を蹴散らすのは実に簡単だった。まるで陸に打ち上げられた魚と戦っている気分である。

 

 大多数を寝かしつけ、立っている人間の数が減った後も、状況は変わらない。相手は倒れた仲間が邪魔で歩法を行えず、やはり鈍足だった。こちらのやる事はそれらをただ倒すのみ。

 

 しかし、それも無限には続かない。終わりは来るべくして来た。

 

 気がつくと、攻撃が止んでいた。

 

 周囲を見る。この場に立っているのは、自分とミーフォンの二人だけ。あれだけ大勢いた敵はすっかり雑魚寝状態だった。

 

「……ふぅ」

 

 それを確認した瞬間、ライライは額に浮かんだ汗を拭いながら、大きな溜め息をついた。

 

 ――やっと終わったか。

 

 正直、最初から喧嘩をする気で来たわけではなかったので、彼らをこんな目にあわせた事に多少の心苦しさを感じた。

 

 一方、ミーフォンはそんな良心の痛みを欠片も見せず、倒れている男の一人に掴みかかって気炎を吐いていた。

 

「ほら、言え! あんたらが高洌惺(ガオ・リエシン)とグルだって事は分かってんのよ! さっさと【吉火証】の隠し場所を吐きなさい! でないとマジ殺すわよ!」

 

 怪我人相手にもあの容赦の無さ。気後れを通り越して苦笑がこみ上げてきた。

 

 でも、こんなふうに笑えるのは、戦いが無事に済んだからである。数の面ではこちらが明らかに不利だった。【奇踪把】の歩法が使いにくい状況が偶然出来上がらなかったら、勝率はもっと低かったはずだ。

 

「は、はあ……? だ、誰だよそれ……? そんな奴しらねぇよ……」

 

 問い詰められた男は、かすれた声でそう訴えてきた。

 

 ミーフォンは掴んだ胸ぐらを乱暴に引っ張り上げ、

 

「ああん!? パチこくんじゃあないわよ!!」

 

「ほ、本当にしらねぇって。その(ガオ)ナントカなんて奴、ウチにはいねぇよ……」

 

 男は殺気満々なミーフォンの瞳を真っ直ぐ見つめ、すがるような必死さで言った。

 

「……いいわ。そんなに言いたくないのなら、多少強引にでも吐かせてやるわよ」

 

 ミーフォンは業を煮やした様子で、もう片方の手をゆっくりと男へ伸ばし始めた。おそらく、苦痛を使って無理矢理自白させるつもりだろう。

 

 ――ライライは素早く駆け寄り、その手を掴んで止めた。

 

「なっ……何よライライ!? 邪魔する気!?」

 

 当然ながら、ミーフォンは不満そうだった。

 

 ライライは子供を諭すように言った。

 

「落ち着きなさい。ここに突っ込んだ時といい今といい、あなた少し焦りすぎよ」

 

「焦らずにいられるあんたの神経を逆に疑うわよ! 分かってんの!? こうしてる間にも、お姉様は――」

 

「分かっているわ。私だって、一刻も早くシンスイを【甜松林】から出してあげたい。でも、だからこそ落ち着くの。そうしないと、見える真実も霧に隠れて見えなくなるわ」

 

 ライライがミーフォンを止めたのは、焦っていると感じたからだけではない。

 

 「リエシンを知らない」という男の主張が、嘘に思えなかったからだ。だって、怖いくらいに殺気立ったミーフォンの瞳から目を逸らさず、真っ直ぐ見ていたのだから。

 

 そしてさらにもう一つ、ライライには引っかかることがあった。

 

「ミーフォン、あなたが戦った相手の中に――【軽身術(けいしんじゅつ)】を使っていた人はいた?」

 

 その問いに対し、ミーフォンは何かに気がついたように大きく目を見開くと、

 

「…………いなかったわ。一人も」

 

 しばらくして、バツが悪そうな顔でそう答えた。

 

 ――そうなのだ。ライライが気になったのはその点である。

 

 シンスイから【吉火証】を奪い取った黒ずくめの男も、リエシンの仲間だという。そしてその男は【軽身術】を駆使し、まんまと逃げおおせたのだ。つまり【奇踪把】だけでなく【軽身術】も持っていないと、リエシンの仲間であると認定できないのである。

 

 ライライが戦った相手の中に、【軽身術】を使う者は一人もいなかった。そしてそれはミーフォンも同じだった。

 

 ライライは最後の裏付けを取るべく、手近に倒れている男に問うた。

 

「あなたたちって【軽身術】は修行してるの?」

 

「……あんな大道芸、俺たちの武法には必要ない」

 

 ――決まりだ。

 

 この武館はリエシンのいる武館ではない。

 

 自分たちはハズレを引いたのだ。

 

「だとするなら、一体どこなの……?」

 

 ライライは空を見上げ、問える相手のいない疑問を吐き出す。

 

 しかし、夜空が返してくるのは、月光と星明りだけだった。

 



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美女救出

 クビになってしまいました。

 

 

 そりゃそうだ。店のお得意様をぶん殴るなんて真似をしてしまったのだから。

 

 ボクに殴られたお得意様は見事に気絶していた。すぐに目を覚ましたが、その途端に「もう二度と来ねぇからなっ!!」と涙声で怒鳴り、女の子を一人も買わないまま娼館を出て行ってしまった。

 

 当然ながら、店長は怒髪天を衝く勢いで大激怒。この世に存在するありとあらゆる罵倒をぶちまけてから「お前のせいで貴重な得意様が一人いなくなったよ!! とっとと出て行きな、この疫病神!!」と叫び、ボクを鞄ごと店から追い出した。

 

 ボクは入ったその日に解雇という、異例の急速(ハイスピード)解雇を経験したのだった。

 

 入社と退社、両方とも最速の職場だった。今回の経験はあらゆる意味で忘れられないだろう。

 

 うん、そうだ。ボクは貴重な経験をしたのだ。そう思わないと、自分の馬鹿さ加減が恥ずかしくて死にたくなってくる。

 

 とにかく、ボクは娼館を追い出されてしまった。

 

 そこまではまだ良い。百歩譲って、まだ良い。

 

 ……その後、新たな問題が発生したのだ。

 

 この【甜松林(てんしょうりん)】という色町は、規模が広くない。その分、噂話なども非常に伝播しやすい。

 

 つまり何が言いたいかというと――ボクが追い出された事実とその原因が、その日のうちに【甜松林】全体に広まってしまったのである。

 

 ボクは娼館を追い出された後、しばらく休んでから他の娼館へと足を運び、そこの店長に「雇って欲しい」と頼んだ。しかしボクの体つきと三つ編みを見た途端「お前、さっき近くの娼館で騒ぎを起こした香瑚(シャンフー)って女だろ? とっとと帰んな」と、まるで虫を追い払うような口調で言われた。

 

 その後もめげずにいくつかの娼館を尋ねたが、みんな同じ反応だった。

 

 考えてみれば、当然の結果だと思う。店に利益を生まないどころか、逆に損なわせるような人材をどうして雇いたいだろうか。

 

 ――ボクは半日も経たないうちに、この【甜松林】の中で凶状持ち扱いとなってしまったのだ。

 

 それを確信した時には、すでに夜明けが訪れていた。

 

 ボクは結局、一晩中町中をうろついていた。

 

 どこかからニワトリの鳴き声が聞こえて来る。それによって朝であることを改めて実感したボクは、思わず大きなあくびをした。口を隠さないそのあくびは、年頃の乙女にあるまじきものだった。

 

「…………はぁ」

 

 ものすごく声の低いため息がもれる。ウンザリした声質だった。

 

 なんでボク、こんな所にいるんだろう。

 

 本当ならボクは今日、帝都へ向けてさらに北上していたはずだ。

 

 それなのに、どうしてこんなえっちな町で棒立ちしているんだろうか。

 

 そうだ。あいつだ。あいつのせいだ。高洌惺(ガオ・リエシン)のせいだ。

 

 あいつのせいでボクは帝都へ少しも近づけず、こんな状況に陥っているんだ。

 

 こうなったら自慢の【打雷把(だらいは)】の一撃をぶち込んで、無理矢理【吉火証(きっかしょう)】のありかを吐かせてやろうか――そんないつものボクらしからぬ悪魔的発想が浮かんだのは、きっと疲れているせいだろう。

 

 しかし、仮にそれをやっても無駄だ。リエシンは他人を手駒にするという卑劣な行為に、自分の命をかけているのだ。脅迫や拷問では意味がない。むしろ、自害されたらその時点で【吉火証】の隠し場所がわからなくなる。そうなったら終わりだ。

 

 【吉火証】を手っ取り早く取り戻したいなら、やはり馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷に入るしかない。

 

 そしてそれを成すためには、娼婦としてタンイェンに気に入られないといけない。

 

「……ボクはそれを、自分でさらに難しくしちゃったんだよね…………」

 

 またしても、馬鹿でかいため息が出る。

 

 まさしく因果応報。自業自得。身から出た錆。

 

 【甜松林】の町中からは、夜の時の盛り上がりがすっかり落ち着いていた。大通りを歩く人の数もまばらだ。夜の住人である【甜松林】の人たちは、日が差してからが休み時なのだろう。

 

 しかし、徹夜慣れしていないボクは眠たかった。またあくびが出る。

 

 これからどうしようかと、疲れた頭で考える。

 

 寝たくても、寝られる場所が無い。お腹は空いてない。お風呂も無い。やること、できることなんて一つも存在しないように思えた。

 

 ――そうだ。修行でもしよう!!

 

 偶然思いついたその考えは、まさしく天啓だった。

 

 というか、そもそもボクが一番忘れちゃいけない事だったじゃないか。

 

 【吉火証】を取られたこととか、娼館行きになったこととか、お客さん殴ってクビになったこととか、嫌なことがいくつも重なったせいですっかり忘れていた。

 

 武法の修行は、いつだってボクの一番の癒しだったではないか。

 

 よし、なんか少し元気が出てきた。今から気分転換に一汗かきに行こう。

 

 思い立ったが吉日とばかりに、ボクは【甜松林】の正門へ生き生きした足取りで進み、外へと出た。

 

 だが、正門を出てすぐの所で、嫌な奴に会った。

 

「――おはよう、李星穂(リー・シンスイ)進捗(しんちょく)具合はどうかしら?」

 

 右肩に乗った一つ結びの髪束。質素な半袖と長裙(ロングスカート)。憂いを帯びたような大きい瞳と、右目の下に二つ横並びした泣きぼくろ。――そんな身体的特徴を持つ少女、高洌惺(ガオ・リエシン)は、見透かしたような微笑みをたずさえてそう訊いてきた。

 

 ボクは仏頂面で、ぞんざいに返答した。

 

「……別に。どうもこうも無いよ」

 

「お客さんを派手に殴り飛ばしたらしいじゃない。凄いわ貴女。【甜松林】ができて以来、そんな真似をした娼婦は一人もいないわよ。一夜にして【甜松林】に伝説を築いたわね」

 

 賞賛するようでいて皮肉の混じった口調がなんかむかつく。

 

「うるさいなぁ、分かってるならわざわざ訊かないでよっ。ていうか、そんな事言うために来たわけ?」

 

「そうよ」

 

 リエシンはあっさり肯定した。

 

 ――ほんっっっっっっとに可愛くない!

 

 やな奴、やな奴、やな奴!

 

 ボクが頬っぺたを風船みたいに膨らませて怒りをこらえていると、

 

「――と言いたい所だけど、もう一つ用があったわ」

 

 リエシンが、急にからかい半分な態度を引き締めてそう言った。

 

 ボクの顔も思わずそれにつられ、真剣味を帯びた。

 

「もう一つの用って?」

 

「私の母が、娼婦だった頃に名乗っていた名前を教えに来たのよ。教えるのを忘れていたから」

 

 ――そういえば、聞いてなかったな。

 

「何て名前だったの?」

 

「『瓔火(インフォ)』よ。……それじゃあ、もう失礼するわ。せいぜい今の情報を役立てて頂戴」

 

 そっけなく告げると、リエシンはボクの横を通り過ぎて去って行った。

 

 【甜松林】の周囲に広がる広葉樹林の一角へ入り、その奥まで消えゆく彼女の後ろ姿を、ボクはしばらく眺めていた。

 

「お母さんの名前教えるだけでいいのに、なんでわざわざイヤミを前置する必要があるんだよ……ホントやな奴」

 

 ボクはそう小さく愚痴った。

 

 何か一つ悪口を言わないとやっていけないのか、あの娘は。

 

 そう不満を感じる一方、先ほどの彼女の言い回しに対する引っかかりを、心の中で密かに抱いていた。

 

 ――娼婦だった頃(・・・・)

 

 まるで、もう過去の事であるかのような言い方。

 

 そんな文脈をわざわざ用いた意図が妙に気になった。

 

 しかしすぐに最初の目的を思い出し、考えるのをやめた。

 

 少しばかり修行して、気を紛らそうという予定だったではないか。リエシンの台詞よりも武法を優先するのが、ボクという人間のはず。

 

 ボクはリエシンが入った所とは別の場所から、薄暗い広葉樹林の中へと入っていった。

 

 無秩序に乱立する木々をかきわけるようにして奥へ進む。

 

 しばらくすると、そこそこ広い空間を見つけた。太い広葉樹によって楕円形に包囲された、草木一本生えていないこげ茶色の地面。植物の匂いに土の匂いが濃く混じっていた。

 

「よし、ここでいいかな」

 

 ボクは持っていた手提げ鞄を木の根元へ置いてから、その楕円形の広場の中心に立つ。

 

 両足を揃えて直立し、ゆっくりと深呼吸。心を落ち着ける。

 

 しばしリラックスしていたが、次の瞬間、ボクの動きは「緩」から「急」へ突発的に移った。

 

 ――真横へ【震脚(しんきゃく)】で踏み込み、同時に肘で鋭く仮想の敵の胸を抉る。

 ――突き出した肘の腕を円弧の軌道で素早く脇に引き戻し、そこからすぐに真っ直ぐ掌打、さらに追い討ちとして肘鉄。仮想敵に息もつかせぬ二連擊を叩き込んだ。

 ――片腕を内側から外側へ広げて仮想の正拳を受け流しながら、仮想敵の懐へ侵入。もう片方の拳で真っ直ぐ腹を打ち貫く。

 

 踏み込みがいくつも連なり、地を揺るがす。

 拳脚が空気を切る。

 三つ編みが躍動する。

 何度も、何度も、何度も、イメージで作り上げた敵をぶち抜いた。

 落雷のごとき【震脚】の音が、森の中に絶えずこだまする。そのたびに、周囲の野鳥がざわめき立つ。

 

 ボクは体の内側に溜まった鬱憤を発散するように、力強く【拳套(けんとう)】を練り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――結局、少しと言いながら、二時間も修行に没頭してしまった。

 

 ボクは近くに流れていた川で汗を洗い流してから、元来た道へと引き返した。

 

 少しばかり体を動かしたおかげか、ぼーっとしていた思考がスッキリしたものになっていた。眠気もすっかり覚めている。

 

 うん。やっぱり修行って最高だよね。

 

 根拠は無いし、前途多難だけど、何とかなる気がしてきたよ。

 

 ボクは生き生きした足取りで【甜松林】へと戻ってきた。

 

 しかしまだ午前中であるため、人通りこそ二時間前と比べて少し増えたものの、町の活気は夜に比べればまだまだ衰えていた。

 

 午前に来る客が少ないためか、開いている娼館はまだ無い。その他には、両手の指で数える程度しかない酒屋やその他の店が開いているだけだった。

 

 また雇ってもらうよう頼みに行こうと思ったが、これはもう少し時間を潰してからの方がいいかもしれない。

 

 することの無くなったボクは、大通りを適当にぶらつきながら、通る人々を眺めた。

 

 若い女の人――今は普通の格好をしているが、ほとんどが娼婦だろう――が多いのは言わずもがな。

 

 時々だが、男性も見かける。そしてその六割以上は、背中に棒でも入ったかのごとき綺麗な姿勢と、足裏が地面に磁石のようにくっつくような歩きという、共通した特徴を持っていた。

 

 つまり、武法士。

 

 ――実はこの【甜松林】には、武法士の数が結構多い。

 

 なぜなら彼らは皆、この町の用心棒的存在だからだ。

 

 【甜松林】にも武館がいくつか存在する。それらの武館はこの【甜松林】の統括団体『落果会(らっかかい)』から月払いで報酬を得て、その対価としてこの町の警備をしているのだ。こういった色町では、糾紛(トラブル)を起こす客も多い。彼らはそんな迷惑な客を腕づくで処理する事が仕事なのである。

 

 ここの武館は全て、ヤクザ者との繋がりが深い。なので品性は皆無だが、その分荒事慣れしている。何より実利優先であるため、金のためなら一切手心を加えない。こういった役回りには理想的な人選というわけだ。

 

 ……ちなみにこれらは全て、クビになった娼館の先輩に聞いた話である。

 

「それにしても、何もやることが無いなぁ……」

 

 立ち止まり、一人ぼやきをこぼす。

 

 しばらくこの町を散歩していたが、そんなに規模が大きくないため、すぐに大通りは踏破した。なので、未知なる道(ダジャレではない)の探索という暇つぶしは潰しきってしまった。

 

 娼館はまだ開いていない。酒場にも興味がない。ヤクザ者の武館にはあんまり近寄りたくない。

 

 暇だった。とにかくやることがなかった。

 

 ぶっちゃけ、今【甜松林】にいる意味は皆無のような気がする。

 

 さっきの森で食べられる植物でも探そうかな――そんな考えが浮かんだ時だった。

 

「――ちょっと! 離しな! 酒臭いのよあんたら!」

 

 どこかから、そんな女の人の声が耳に届いた。

 

 まるで何かに捕まっており、その拘束を必死になって解こうとしているような語気を持っていた。

 

 気になったボクは耳を澄まし、再び声が聞こえて来るのをジッと待つ。

 

「――いい加減にしな! なんでアタシが――」

 

 さっきと同じ声――しかし最初に比べて、苛立ちの語気(ニュアンス)が増していた――が、別の言葉に形を変えてボクの鼓膜を震わせた。

 

 音源をたどると、視線は建物同士の間にある細い脇道で止まった。

 

 野次馬根性を覚醒させたボクは、コソ泥のような忍び足でその脇道へと近づき、建物の陰からそっと様子を伺った。

 

 影が差して薄暗いその路地裏にいたのは、人相の悪い三人の男。そして彼らは、建物の外壁にもたれかかって立つ一人の女性を三方向から囲い込んでいた。

 

 ――思わず見とれてしまうほどの美女だった。

 

 目鼻立ちが並外れて整っているのは言うに及ばず。つり上がった瞳は刃物のような鋭利さを連想させる一方で、長くきつく反り返った睫毛の影響で強い色気も感じさせる。艷やかで枝毛一つ無い長髪はお尻の辺りまで伸びており、絹束と見紛うような長いもみあげは、豊かで且つとても形の良い胸部の膨らみに優しく垂れ下がっていた。着ている服装は黒い長袖と、足首まで丈がある黒い長裙(ロングスカート)。露出は低いが、ぴっちりとした大きさであるため、内包する肉体の理想的曲線美がよく分かる。

 

 全体的に垢が抜けきったその美しい女性は、苛立ちと焦り、そして憤りで表情を歪めていた。そして、そんな顔すらとても絵になっている。

 

「なあ、オイ、いいだろぉ? 俺らと一発交流深めようぜぇ?」

 

 彼女を囲う男の一人が、緊張感の抜けきったぐでんぐでんの喋り方でそう言った。

 

 その路地裏は薄暗い分涼しいはずなのに、三人の顔は不自然に赤みを持っていた。疑いようもなく、酒気帯び状態だった。

 

「ざけんな、このカッペ! 下心見え見えなのよ! ちょっと酒に付き合う程度なら構わないけど、下半身で交流したいってんならきちんと出すモン出しな! 話はそれからだよ!」

 

 女の人は、さっきボクが聞いた声と同じ声でそう喝を発した。

 

 ……今の台詞から察するに、彼女は娼婦なのだろう。

 

 男たちは粘っこくまとわりつくような言い方で、

 

「おいおい、お前よぉ、この【甜松林】をバカ客から守ってやってんのは一体誰だと思ってんですかぁ?」

 

「俺らでしょ? だったらぁ、それなりの見返りを支払ってくれてもいいんじゃないのぉ?」

 

「そうそう。別に支払いは金じゃなくてもいいんだぜ。その体でもさぁ」

 

 ――この【甜松林】を、俺らが守ってる。

 

 ボクはあの三人が、【甜松林】を警備する武法士である事を察した。

 

 しかし、今の彼らは明らかに迷惑な客と五十歩百歩に見えた。

 

「ハンッ、起きたまま寝言吐かしてんじゃないよ! あんたらへの報酬は『落果会』がいつも払ってんだろ! ウチらからあんたらに何かしてやる義理は皆無だね! そのキタネー(ツラ)二度と見せんじゃないよ! おととい来な、インキンタムシ!」

 

 女の人は中指を立て、果敢にそう啖呵をきった。おおっ、武法士三人が相手なのになんて漢気だろうか。ちょっと惚れ惚れしちゃったぞ。

 

 だが、その罵倒は悪手だった。男の一人が彼女の胸ぐらを片手で掴み、宙へ一気に持ち上げたのだ。

 

「口答えすんじゃねぇよ、この売女(ばいた)がよぉ!! テメェらは男にケツ振って媚びてりゃいいんだよ!! なんなら今ここで俺の自慢の妖刀ぶち込んでやろぉかぁ、ああ!?」

 

 男は太く濁った声で怒鳴り、その持ち上げた女体を乱暴に揺さぶる。

 

「くっ……この……離しなっ!」

 

 女の人は必死に拘束を解こうとする。だが彼女を掴む無骨な手は、まるで金属の枷のようにビクともしない様子。

 

 見たところ、あの女の人は武法士ではないようだった。もし武法の心得が多少なりともあるのなら、あそこでやられっぱなしじゃないはずだから。

 

 普通の人間が武法士に、それも三人をまともに相手にして勝てるわけがない。

 

 その上、あの三人は完全に酔っ払った状態だ。放っといたら何をしでかすか分かったもんじゃない。酒に呑まれまくった人間に理屈は通用しない。

 

 ――ここは、加勢した方がいいか。

 

 ボクは隠れて様子を見るのをやめ、物陰から姿を現した。

 

「あのー……何してるんですかー?」

 

 さも今来たかのように振る舞い、答えの分かりきった質問を投げかける。

 

 男の一人が、酔いでめちゃくちゃになった語調(イントネーション)でがなり立てた。

 

「るっせぇ! 俺らぁ今お楽しみの最中だ! 上も下も引っ込んだ幼児体型はお呼びじゃねぇんだよ、タコ!!」

 

 一方的に突っぱねる言い方にムッとしたボクは、脇道の入口に鞄を置いてから、躊躇なくすたすたと三人の元へ歩み寄る。

 

 そして、女の人を持ち上げている男の腕を片手で掴むと、

 

「――うぉあっ!?」

 

 強引に引っ張り込んだ。

 

 一見細く柔弱な少女の腕は鍛え上げた【(きん)】によって凄まじい膂力(りょりょく)を発揮し、鋼のような男の腕を徐々に、徐々に下へと引きずり込んでいく。

 

 女の人のいる位置が少しずつ下がり、やがて地に足を付いた。

 

「いだだだだだだ!? っ! は、離せコラ!」

 

 男がボクの手を振り払う。それによって、女の人も腕から開放された。彼女は地に膝を付きながら、ケホケホと何度も苦しそうに咳き込む。

 

「テメェ、一体何のつもりだ!? それに今の力……ただのガキじゃねぇな! 武法士かぁ!?」

 

 男は少しばかり理性を取り戻した眼差しで睨めつけてくる。さっきボクが掴んだその腕には、五本の指の跡がくっきり残っていた。

 

「この野郎……邪魔しやがって……!」

 

「しゃしゃり出てきてんじゃねぇぞ! 殺されてーのか!?」

 

 酒臭い息と一緒に脅し文句を吐き出す。

 

 ボクはそんな彼らに目もくれず、膝を付いた女の人に近寄ってしゃがみこんだ。

 

「大丈夫ですか? ケガは?」

 

「けほっけほっ…………あ……ああ、大丈夫だよ。ありがと」

 

 少しかすれた声で紡がれた女の人の言葉に、ボクはひとまず安堵する。

 

 彼女に肩を貸してから立ち上がり、そのまま元来た道へ進もうとしたが、

 

「てめっ、シカトしてんじゃねぇぞっ!!」

 

 男の一人が放った拳の接近を感知したため、それを素早く片手で掴み取った。

 

 中指と薬指の腹で、受け取った男の拳面を押し返す。

 

 その勢いで二歩ほどたたらを踏んだ男は、酒気で赤みがかった顔をさらに紅潮させ、

 

「このガキャ――――――!!!」

 

 本格的に勢いをつけて突っ込んで来た。

 

 ボクは女の人の胴回りを片腕で抱きかかえた。彼女の方がボクより背が高いため、頭が豊満で柔らかなおっぱいの谷間に挟まってしまうが、今は気にしない。

 

 さっき以上の速度と圧力を持って飛んできた拳。顔面を狙った攻撃だ。ボクは女の人を脇に抱えたまま、足を小さく動かして頭の位置を横へズラし、紙一重で拳を回避した。

 

 だがそれで終わりではない。回避の時に移動した位置の延長線上にいた別の男が、ボクの髪の毛を掴もうと手を伸ばしていた。

 

 鉄棒みたいに強靭そうな五指が頭部を捕らえる僅差(きんさ)、またしてもボクは頭の位置を横へ少し動かし、相手に空気を掴ませる。そしてすぐさま伸ばされた腕の外側をなぞるようにして進み、男の横を素通り。

 

 二人目を越えたのも束の間。三人目の男が、左右の腕を大きく開いたまま突進してくる。抱きついて捕まえるつもりだ。

 

 翼のように開かれた両腕が今まさに閉じるという刹那の時間、ボクは地を蹴った。真後ろへ大きく飛び退いて、男の腕の間合いからギリギリで外れた。

 

 着地する。その時ちょうど背後にいた男がこちらへ腕を薙ぐ――よりも先にボクが背中で体当たり。突き飛ばして約2(まい)の距離を作った。

 

 三人はそれからも懲りずに何度も手足を出してきたが、そのことごとくが空振りという結果に終わる。

 

 ボクは狭くて人の密集した路地裏の中を活発に駆け巡り、やって来る攻撃を全て避けていく。胸の中に女性を抱いたまま縦横無尽に移動し続けるその様は、さながら激しい舞踏(ダンス)のようだった。

 

 三対一の人数差。こっちは一人荷物を抱えている。おまけに道幅も狭い。回避には向かない条件であることは言わずもがなである。

 

 けれど――ボクにとっては問題無い。

 

 【打雷把】は強大な【勁擊(けいげき)】だけが売りではない。針穴に糸を通すような精緻な歩法も特徴の一つである。

 

 その歩法によってあらゆる攻撃を必要最低限の動きで回避し、そのまま自分にとって有利な立ち位置を取るのだ。レイフォン師匠が強かったのは、そういった歩法によって「絶対に当たる一撃必殺」という夢物語を実現できたからだ。

 

 そして、師匠は自分と同じ持ち味を、弟子であるボクにも持つよう要求した。

 

 長年に渡って足の器用さを養ったボクは、足だけで針穴に糸を通せるし、足で持った筆で手書き並みに上手い字を書くこともできる。それらに比べれば、この狭い通路での攻撃の回避など容易い。

 

 まして、三人の動きは酔いのせいでキレがなく、なおかつ大振りで先読みがしやすい。ボクに一発も当たらないのは、もはや必然ともいえる。

 

 どれくらいの間、そんな一方的なやり取りをしていただろうか。

 

 気がつくと、三人は揃って息を切らせていた。

 

 当然の結果と言える。武法士は体力があるが、技とも呼べないような勢い任せの攻撃を繰り返していれば無駄な体力も食うはずだ。

 

「く……お、覚えてやがれ! 顔覚えたからなっ!」

 

 やがて、男たちはベッタベタな捨て台詞を言ってから、そそくさと路地裏から出て行った。

 

 ボクと女の人だけが、その場に残される。

 

「あの……もう離してもいいんじゃないかい? 連中ズラかったわけだし」

 

「へ? ああ、ごめんなさい。そうですね」

 

 女の人を脇に抱えている事をすっかり忘れていたボクは、慌てて腕から開放する。

 

 彼女はくるりとこちらへ向き直ると、その鋭さのある美貌を緩めて笑った。

 

「ありがとね、可愛い嬢ちゃん。あんたのおかげで助かったよ。危うく商売道具のこの(カラダ)を傷つけるトコだったわ。酒に呑まれた男なんざ発情期のワン公と大差ないからねぇ」

 

 その笑みを見て、ボクは思わずドキリとした。うわ……近くで見ると余計に綺麗な人だなぁ。なんか凄く良い匂いもするし。ていうか本当に娼婦なのか? どっかの国のお姫様だって言われてもボクはきっと疑わないよ。

 

「もしよかったら、なんか礼をさせておくれよ。……えーっと、あんた、なんていうんだい?」

 

「はい。ボクは李星穂(リー・シンスイ)っていいます。【甜松林】では、ええっと、香瑚(シャンフー)って名乗ってました……昨夜まで」

 

 最後の所を、気まずい気持ちで付け加えた。

 

 途端、女の人は突然ひどく驚いた顔と声で、

 

「まぁ! じゃああんたなのかい? 指名客を擊倒(ノックアウト)してクビになったっていう娘は!」

 

「う…………まあ、はい、その通りです……」

 

「あっははは! なーるほど! じゃあさっきのあの強さも納得ってもんだわね! あんた、何か武法をかじってんだろ?」

 

「はい、いささか……ところで、あなたのお名前は……?」

 

「ああ、悪い。言ってなかったねぇ。……【甜松林(ここ)】での名前で構わないかい?」

 

 こくん、と頷く。

 

 彼女は裕然とした態度を崩さぬまま、名乗った。

 

 

 

「――あたしは神桃(シェンタオ)っての。よろしくね」

 

 

 



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神桃(シェンタオ)

「――あたしは神桃(シェンタオ)っての。よろしくね」

 

 

 

 その名前を聞いた瞬間、ボクはえらく驚いた。

 

 ――嘘? 彼女が”あの”神桃(シェンタオ)なのか?

 

 この【甜松林(てんしょうりん)】では知らぬ者のいない名前。

 【甜松林】で最も高い女の一人。

 一度寝るだけでも財産がごっそり飛んでいく女性。

 

 ボクは失礼であるということも忘れ、目の前に佇む妖艶な美女を真っ直ぐ指差した。

 

「あ、あ、あなたがあの神桃(シェンタオ)っ!?」

 

 驚きのあまり少しわなないた声で問うと、美女はその艷やかな唇の両端を吊り上げて微笑を作った。

 

「へぇ? やっぱあたしの事知ってるんだ?」

 

「は、はい。昨晩まで働いてた店で聞きましたから」

 

「そうなんだ。まあ何にせよ、そういうことだから、よろしくね」

 

 穏やかな物腰で、美女――神桃(シェンタオ)さんは手を差し出してきた。

 

 ボクは「あ、はい、どうも……」という恐縮した呟きをこぼしながら、握手に応じた。彼女の手は絹のようにすべすべしていて、そしてボクより少し冷たかった。

 

 手を離すと、神桃(シェンタオ)さんは改まった口調で言ってきた。

 

「改めて礼を言うわ。さっきは助けてくれてありがと」

 

「い、いえ。大したことではないです。一回も殴られてませんし。それどころか全然疲れてませんし」

 

「疲れてない? そういえばあんた、あんだけちょこまか動き回ったってのに、汗一つかいてないわね。あんた、やっぱり武法の心得があるの?」

 

 「はい、いささか」ボクは謙遜を交えて返す。

 

 すると、神桃(シェンタオ)さんは好奇心を帯びた目でこちらを見ながら、

 

「いささか……ねぇ? あたしゃ武法には門外漢だけどね、こんな狭い路地裏で、しかも人間一人抱えながら、武法士三人からの攻撃を一発も当たらずに避けきるのを「いささか」っていうのなら、世の中めちゃくちゃになってる――それくらいの理解ならできるつもりだよ。あんた、可愛い顔して結構名の知れた武法士なんじゃないのかい?」

 

「そんなことないですよ。ただのしがない女流武法士です」

 

「ふーん? まあ、そういうことにしておこうかねぇ」

 

 彼女はそう言って意味深な微笑を浮かべる。何かを懐へ隠すようなその奥ゆかしい笑みは、彼女の雰囲気と相まってとても婀娜(あだ)っぽく映った。

 

 仕草の一つ一つが、ボクの心に残った男の部分を絶妙な加減で撫で、ざわつかせ、刺激する。しかもその仕草からはわざとらしさが一切感じられない。自然体であれなのだ。

 

 娼婦として、女として、明らかに格が違っていた。

 

 ――娼婦。

 

 その言葉が引き金になり、これから為すべき目的を思い起こした。

 

 ボクはこれから、どこでもいいから娼館に再就職しないといけない。

 

 そして、そのかつてないチャンスは今、目の前に確かにあった。

 

 ――そう、神桃(シェンタオ)さんだ。

 

 彼女は【甜松林】の娼婦の最高位『傾城(けいせい)』である、まごうことなき高級娼婦。

 

 そんな彼女が所属する場所は、当然、かなり位の高い娼館であるはず。

 

 神桃(シェンタオ)さんくらいの高級娼婦を求めに来るのは、考えるまでもなく金持ちばかりだろう。

 

 その「金持ち」と呼ばれる者たちの中には、【会英市(かいえいし)】と【甜松林】を立て直すほどの財力を持った資産家――馬湯煙(マー・タンイェン)も含まれている可能性がある。

 

 つまり彼女の娼館に入れば、タンイェンに会える確率が高くなるかもしれないということ。

 

「話を戻すよ。もし良かったら、何か助けてくれたお礼をさせておくれよ。どこまで何ができるか分かんないけどさぁ」

 

 ちょうどそこで、神桃(シェンタオ)さんがそんなことを持ちかけてきた。

 

 グッドタイミングだ。ここで、彼女の娼館に雇ってもらえるように頼むのだ。

 

 図々しい頼みであるので、断られる可能性もある。

 

 でも、試す価値も同様にある。

 

 駄目でもともとだ。玉砕覚悟で言うのだ。今がその最高の瞬間!

 

 ボクは勢いでぶつかった。

 

「あ、あのっ! じゃあ一つだけ、いいですかっ!?」

 

「なんだい? 言ってみな」

 

「ボクを――あなたのいる娼館で雇ってください!!」

 

 そうぶつけるように言い募ってから、胸が地面と並行になるくらい深く頭を下げた。我ながら見事なお辞儀だと思う。

 

 ……沈黙が訪れた。とても重苦しい沈黙が。

 

 神桃(シェンタオ)さんが重苦しさを発しているのか、それともボクがそう思い込んでいるのか、それは分からない。

 

 すべては、この頭を上げれば分かること。

 

 怖い。一言も発さない彼女が、今どんな顔をしているのか分からないから。

 

 しかしそれでも、ボクは勇気と気力を振り絞って、ゆっくりと頭を上げた。

 

 そうすることで見えた神桃(シェンタオ)さんの顔は、笑っているわけでも、怒ってるわけでも、ましてや冷ややかに見下ろしているわけでもなかった。

 

 まるで――懐古に浸るような表情。

 

 遠い昔に目の当たりにした情景を今再び見ているような瞳が、ボクの呆けた顔をくっきりと映し出していた。

 

「……あんた…………」

 

 その美しい唇からようやく出てきたのは、かすれた声。

 

 それからまた数秒黙り込んでから、神桃(シェンタオ)さんはさっきよりもはっきりした声で、ゆっくりとボクに問うた。

 

「…………返答の是非を出す前に一つ確認したいんだけど、あんた……結構良いトコの育ちじゃないか? 雰囲気とか顔つきとかから、なんとなく分かるよ。そうなんだろ?」

 

 いきなり、要領を得ない質問だった。

 

 けど、ボクはとりあえず正直に答えた。

 

「はい。手前味噌ですが、多分そこそこ良い家柄だと思います」

 

「やっぱり……なら、どうしてこんなゴミ溜めで働きたがる? もしかして家が豊かだったのは昔で、今はすっかり没落してて、食い扶持を稼ぎに来たんじゃないのかい?」

 

 再度問われる。まるで責めるような響きを持った言い方で。

 

 いや、責めるのとはちょっと違うかもしれない。なんというか、答えが予想できてるけどその予想通りであって欲しくない、そんな案ずるような気持ちが感じられなくもない口調だった。

 

 しかし、その予想は見事に間違っている。

 

「そうじゃないです。ボクは――馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷に入りたいんです」

 

 神桃(シェンタオ)さんは見事に目を皿にした。

 

 ボクの答えが、自分の予想と全く違っていたこともあるだろう。

 

 けれど、それだけではなかった。

 

「どういうことだい? なんだって馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷なんかに入りたがる?」

 

 まあ、当然の疑問である。

 

「ある人を探してるからです」

 

「ある人、ってのは?」

 

「【甜松林(ここ)】で働いてた「瓔火(インフォ)」っていう娼婦です」

 

 次の瞬間、神桃(シェンタオ)さんはものすごい勢いでボクの両肩口を掴んできた。

 

「あんた、瓔火(インフォ)を知ってるのかい!?」

 

 切羽詰ったような顔で、そう問いただしてきた。

 

 その反応にボクは口をあんぐりさせながらも、

 

「もしかして……お知り合いなんですか?」

 

「知り合いも何も、瓔火(インフォ)――姉御はあたしの先輩だよ。階級はあたしの方が上だがね」

 

 今度はボクが驚愕する番だった。

 

「こんな町にはふさわしくないくらい、優しい人だった。【甜松林】に入ったばっかの頃、うまく馴染めなかったり、くじけそうになったりしたあたしを、姉御はいつも優しく励ましてくれた。姉御の優しさには何度救われたか数え切れないわ。おかげであたしは徐々にだけどうまくやれるようになって、果てには『傾城』なんていう仰々しい地位にも上り詰められたわ。姉御は先輩ってだけじゃない、あたしにとっては恩人なのよ」

 

 ――そうだったのか。

 

 しかし聞いた限りでは、瓔火(インフォ)さんはなかなか良心的な人みたいだ。

 

 ……そんな人のお腹からあのひねくれ娘が生まれただなんて。

 

 神桃(シェンタオ)さんは、苦虫を噛み潰したような顔をして続けた。

 

「けど、姉御は一ヶ月ほど前に馬湯煙(マー・タンイェン)に指名されて屋敷に連れてかれて、それっきりウチの店には顔を出してないんだ。あたしはずっとそれが気がかりで、一度あの男の屋敷まで尋ねたんだけど「知らない」って一蹴されて追い返されたわ。どうにも納得できなかったけど、さすがにそれ以上の追求はできなかったわ」

 

「どうしてですか?」

 

「あの馬湯煙(マー・タンイェン)が相手だからに決まってんだろ。この辺り一帯の連中は、みーんなあの男の差す傘の下で飯食ってるようなもんだからね。下手な事すりゃ自分の生活が脅かされかねないわけ」

 

 くそっ、と毒づく神桃(シェンタオ)さん。

 

「だけど、気持ちはどうしても止められないのよ。姉御が行方不明になった一件、確実に馬湯煙(マー・タンイェン)が何らかの形で一枚噛んでる。あいつが姉御を連れて行ったのがそもそもの始まりだし。それに姉御だけじゃない。あいつに連れてかれた娼婦は全員同じように行方をくらましてるんだ。怪しむなって方が酷ってもんだろ。けど、あたしは立場上何もできない。下手するとあたしだけじゃなく、あたしのいる店までぶっ潰されかねないからね。そうしたら後輩たちに迷惑がかかる。もどかしいよ、まったく」

 

 ……まるで馬湯煙(マー・タンイェン)という名の天子が君臨する国みたいだ。

 

 悔しげに言う彼女を見て、ボクはそんな考えを抱いた。

 

 警察機構たる治安局が及び腰である以上、確かにそれでは解決も追求もできないだろう。

 

 けど――だからこそボクが役に立つ。

 

神桃(シェンタオ)さんは、瓔火(インフォ)さんを探したいですか?」

 

「……当たり前じゃないか。あの(ひと)はあたしの恩人なんだ」

 

「なら――なおさらボクを雇ってください。ボクは【甜松林】にも【会英市】にも住んでいない余所者です。だからタンイェンに気兼ねせずに動けます」

 

 神桃(シェンタオ)さんはあっけにとられたような顔をする。

 

 そんな彼女をよそに、ボクはさらに二の句を継いだ。

 

瓔火(インフォ)さんがどこに行ったか分からない以上、一番怪しくて、なおかつ探す価値があるのは屋敷の中です。ボクはそこに侵入して、瓔火(インフォ)さんがいないかどうかを確認しようと思っています」

 

「どうやってだい? 奴の屋敷は、奴が金で雇った武法士によって厳重に警備されてんだ。こっそりでも外から入るのは難し…………あんた、まさか……」

 

 途中で何かに勘づいたような反応を示し、神桃(シェンタオ)さんは恐る恐る尋ねてきた。

 

 彼女がこちらの考えを察していると確信したボクは、こくんと首肯した。

 

「そうです。タンイェンに娼婦として買われ、屋敷へ入れてもらうんです。そうすれば外の警備もすんなり抜けられます。その後、厠所(トイレ)に行くとかの理由を付けてタンイェンから離れ、屋敷の中をこっそり探し回るんです」

 

「……その方法はあたしも一回考えたよ。けど、屋敷の中物色してる最中に見つかったらその時点で捕まっちまうだろ」

 

「必ずしもそうとは限りません。素人ならほぼ確実にそんな結果になるかもしれないですが、ボクは武法士です。タンイェンの使用人に怪しまれて捕まりそうになっても、それなりに対処できます」

 

 そこまで聞き終えると、神桃(シェンタオ)さんはおとがいに手を当てて思案顔をし始めた。

 

 ボクの出した案――より正確にはリエシンの案だが――に乗るべきか、迷っているのかもしれない。

 

 だがやがて、腹をくくったように顔を上げた。

 

「……本当に、姉御を探してくれるのか?」

 

 そう訊く彼女の表情は、まさしく真剣そのものだった。

 

 ボクは口元を微笑ませ、力強く肯定した。

 

「はい。任せてください」

 

「そうかい……」

 

 神桃(シェンタオ)さんは目を閉じ、黙想するようにしばし口を閉ざす。

 

 が、すぐにまぶたを持ち上げ、呆れの眼差しでこちらを見て言った。

 

「…………けどなぁ、あんたのその策にゃ、一つだけ大きな欠陥があるよ? それはねぇ、まずタンイェンに買われなきゃいけないって点さ。それが出来なきゃ、そもそも始まらないじゃないか」

 

「………………あ」

 

 予想外の方向から突然殴られた気分となった。

 

 ――確かに、言われてみればそうだった。

 

 今までボクは娼館に入ることばっかり考えていた。しかし娼館に入るのはあくまでもスタートラインに過ぎない。その先でタンイェンに買われないと策は成立しないのだ。

 

 そうだ。そうではないか。その事をすっかり忘れていた。

 

 そしてそう考えたとたん、自分のしようとしていることがいかに難しいのかを再認識してしまった。

 

 タンイェンに気に入られる。これはまさしく言うは易し、行うは難しの所業だ。何せこの【甜松林】には娼館がいくつもある。奴が必ずしもボクのいる娼館に来てくれるとは限らないではないか。

 

 なんだよそれ。ハードモードすぎやしないか。

 

 ボクは体中の血がサーッと足底へ下がるような悪寒を得た。

 

 だが、そんなボクとは違い、神桃(シェンタオ)さんはクスクスと可笑しそうに笑っていた。

 

「ははははっ! なんにも考えてなかったのかい? しょうがないねぇ、じゃあ――手を貸してやるよ」

 

「えっ?」

 

「あたしは【甜松林】で顔が広いからねぇ。馬湯煙(マー・タンイェン)が買った女全員に共通する特徴から、奴の趣味嗜好を結構察してるつもりさ。おまけにあいつがウチの店に足を運ぶ頻度は結構多いし、入れば会える確率も高くなるだろうさ」

 

「えっと……それってつまり……?」

 

 ボクは、すでに分かりきっているはずの彼女の答えをさらに追求した。もし予想どおりなら、かなり希望が見えてくる展開になると思うからだ。

 

 神桃(シェンタオ)さんはボクの頭にポンと手を置くと、ニカッと人の良さそうな笑みを見せた。

 

「――いいよ。あんたを雇ってやる」

 

 それは、ボクが予想していた通りの答えであり、なおかつ望んでやまなかった答えだった。

 

 ボクはぱあっと表情を輝かせ、

 

「い、いいんですか!?」

 

「おうとも。さっき助けてもらった礼と、瓔火(インフォ)の姉御を探したいっていう気持ちゆえに、さ。正直言うと雇うかどうかを決めるのはあたしじゃなく店長だが、『傾城』であるあたしはある程度のわがままなら押し通せる力があるからね、あんたを上手いこと店にねじ込んでみせるよ。けど――まだそれじゃ足りない」

 

 言うや、彼女はこちらをビシッと指差し、遠慮のない言い方で、

 

香瑚(シャンフー)、あんたにはまだ馬湯煙(マー・タンイェン)を射止めるための魅力が足りない。素材は文句なしに一級品さ。だがその容貌や発する香り、立ち振る舞いとかは、奴の好みとは大きくかけ離れてる。それじゃあ奴が来店したとしても、ソッポを向かれるのがオチさね。見た目が良いだけの女なんざ、この【甜松林】にゃゴロゴロいるんだから」

 

「そんな……それじゃあ、どうすれば?」

 

「あたしが鍛えてやる」

 

 神桃(シェンタオ)さんは力こぶを作るように片腕を曲げ、ギュッと力強く拳を握る。

 

「タンイェンが来るまでの間、『傾城』であるあたし直々に――男を悦ばせるための技術知識(ノウハウ)をあんたに叩き込んでやる。その特訓は決して楽じゃない。けど、絶対の成功を約束してあげる。どうだい? あんたにこれを受ける覚悟がある?」

 

 ボクは一秒も迷わず「はい!」と頷いた。

 

 どうせこれを乗り越えないと、ボクの武法士生命は終わったも同然なのだ。なら、躊躇するだけ無駄ってものだろう。

 

 それに、タンイェンがよく来る店に入れる上、お膳立てまでしてくれるというのだ。今のボクにとってこれだけありがたい話は無い。

 

 ならば、なってみせようじゃないか。

 

 タンイェンのお眼鏡に叶う娼婦に。

 

 この夜の街の中で一際輝く星に。

 

 それまでの間、この神桃(シェンタオ)さんがボクの師父だ。

 

 

 

 

 

 こうして、ボクは娼婦として再デビューしたのだった。

 



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変身

 【会英市(かいえいし)】にある【奇踪把(きそうは)】の武館に殴り込み、そこがリエシンたちの本拠地では無いと分かってから、一晩が経った。

 

 あの乱闘が終わった後、ライライは騒ぎの原因を作った張本人たるミーフォンに頭を下げさせ、自身もまた深々とこうべを垂れて平謝りした。

 

 【奇踪把】門人たちは、その懸命な謝罪を受け入れてくれた。

 

 いや、それどころか自分たちの武館の看板を外して「不利な状況であったとはいえ、たった二人に潰されるような武館に、武館を名乗る資格は無い。受け取って欲しい」と、腹をくくったような面構えで差し出してきたのだ。

 

 正直、そんなものをもらっても嬉しくなかった。なので、ライライはミーフォンの手を引っ張って逃げるように立ち去った。

 

 ミーフォンはシンスイの身を案じての焦りからか、まだ武館探しを続ける気満々だった。

 

 しかしすでに夜遅く、体もさっきの戦いのせいで疲れきっていた。

 

 なのでライライは「今日はひとまず休もう」とミーフォンを説得。三○分もの時間を費やしてようやく納得させることができた。

 

 そして迅速に安めの宿を探し出し、そこで一晩泊まることに。

 

 久方ぶりの湯船に気持ちよく浸かってから、同室の同じ(ベッド)の上で泥のように寝入った。

 

 あっという間に夜は明け、次の一日が訪れた。

 

 もうじき正午になろうかという時間帯。

 

 宿を出たライライたちは、ジリジリと陽の照りつける山道を歩いていた。

 

 右手に断崖絶壁、左手に剣山のような針葉樹林。それらの間を縫うようにして伸びた曲線状の凸凹道が、帰巣するヘビのように東へ伸びている。

 

 現在、二人は【会英市】から離れ、東に進んだ先にある村へ向かって進行中。

 

 【会英市】における【奇踪把】の武館は、昨日乱闘を起こしたあの場所だけだった。

 

 あの町でないとすれば、もしかすると別の町の【奇踪把】の武館が本拠なのかもしれない――今朝そんな考えが一致した二人は、すぐに【会英市】以外の町を調べてみる決意をした。

 

 泊まっていた宿屋の主人に話を伺うと、【会英市】近隣にある町村と、そこへ到る道程を丁寧に教えてくれた。しかも大雑把にだが地図まで描いて。無愛想そうな雰囲気を漂わせていたが、親切な人だった。

 

 ライライはまず、東へ進んだ先にある村へと行くことにした。

 

 地図に書かれた町はどこも【会英市】から3000(まい)弱程度の距離。

 

 歩きで行く分では少し遠い。しかし日頃下半身の鍛錬を欠かさない二人の速度は常に安定しており、今では道の半分ほどまで到達できていた。

 

 地図によると、このくねくね道をなぞるように歩いていればおのずと目的の場所に着くようだ。

 

 順調に進んでいる二人。

 

 そんな二人だが――その髪型と装いはいつもと大きく違っていた。

 

 まず、二人とも安っぽい伊達眼鏡をかけている点では共通している。これらは【会英市】の市場で売っていた格安品だ。

 

 ミーフォンはいつもの半袖と長褲(長ズボン)という装いを改め、群青色の連衣裙(ワンピース)のみを着ていた。両側頭部でお団子状に束ねられた髪も解き、後頭部で馬尾巴(ポニーテール)に結びなおしている。いつもが勝気な武闘派少女という感じなら、今はさながら小生意気な村娘といったところか。

 

 一方、ライライも体の曲線美がよく出る瑠璃色の連衣裙(ワンピース)を一時卒業し、代わりにゆったりとした大きさの長袖と、足首まで裾が届く(スカート)を着用している。いつもは後頭部で結んで束ねている髪は、今は二束の三つ編みへと変わっていた。鋭く艶やかな雰囲気の女流武法士から一転、奥ゆかしい文学少女然とした姿となっていた。

 

 両者ともに、普段の印象とは大きくかけ離れた容貌へと変身を遂げていた。

 

 ――このような格好をするのには、ちゃんとした理由がある。

 

 それは、自分たちが李星穂(リー・シンスイ)の仲間であるとバラさないようにすることだ。

 

 高洌惺(ガオ・リエシン)徐尖(シュー・ジエン)も、ライライとミーフォンの姿をはっきりと見ている。なので仮に連中のアジトに近づいていたとしても、自分たちの姿が見つかったら、いち早く隠れられる可能性が高い。

 

 そこで、変装という手を思いついた。

 

 普段の自分たちとは一八〇度違った容貌に変えることで、正体を悟られにくくなる。

 

 さらに、尋ねた武館がアタリであるかどうかの確認も可能だ。

 

 変装したまま武館を堂々と訪ね「徐尖(シュー・ジエン)さんって人に用があるんですけどー」とでも言う。すると、こちらの正体に気づかない相手側は、警戒せずに対応するだろう。

 

 ――「いる」と答えればその時点でアタリ。

 ――「いない」という答えも、徐尖(シュー・ジエン)がその武館に所属していること前提のものなのでアタリ。

 ――「誰だそいつ?」というリアクションだった場合はハズレ。

 

 それら三択のいずれかを聞く事によって、すぐに当たり外れを判断できる。わざわざ殴り込みにいかなくても、だ。

 

 ……ちなみに尋ね人が徐尖(シュー・ジエン)なのは、警戒させないためだ。自分たちが一番敵愾心を抱いているのはリエシンである事を、相手側は間違いなく察しているはず。なのでリエシンではなく、その手伝い役の名前を使うことで、シンスイの仲間であると悟られる確率を少しでも小さくしようという試みである。

 

「……上手くいくかしら」

 

「分かんないわよ。ていうか、あんたが考えた策でしょ? もう少し自信持ったら?」

 

 やや不安げなライライの呟きに、ミーフォンがそう答える。その顔はどことなく嫌そうだった。

 

 ミーフォンとしては、とっとと突っ走って【奇踪把】の武館を探して突っ込みたいのだろう。

 

 そしてそれは一刻も早く解決したい気持ちの現れなのだと、ライライは訊かずとも理解できた。

 

 気持ちはよく分かる。

 

 けれど、昨日みたいなやり方を繰り返していたら、とてもじゃないが身がもたない。疲労のわりに得るものが少ない、もしくは皆無。ヘタをすると多くの武館を敵に回してしまい、(マイナス)へと達する。

 

 今回の策は、そんな無駄づくしを省くためにライライが考えたものだった。

 

 ふと、ミーフォンがこちらをじぃっと見つめている事に気づく。

 

 ……より正確には、こちらの胸部を。

 

 部屋着用に鞄に入れておいたライライの上着は、とてもブカブカで大きさに余裕があった。そのため体の線は服の中に隠れているのだが、その豊満で形の整った双丘は生地を内側から大きく膨らませていた。

 

「……あんたの胸、そんなゆったりした服着てても自己主張激しいのね。その乳のせいで正体がバレない事を願うわ」

 

 刺々しく指摘されたライライは頬をさっと朱に染め、胸元を腕で隠した。

 

「だ、大丈夫よっ。私じゃなくても、胸の大きい人なんてたくさんいるんだから」

 

「もしバレたら、後で形が変わるくらいそのデカパイ揉みしだくから」

 

「も……もうっ! 大丈夫なんだからっ。それにデカ……とか言わないでっ」

 

 そんな無駄口を叩きながら道中を進む。

 

 会話に夢中で時間を忘れていたせいだろう。気がつくと、小さな村の中へと足を踏み入れていた。

 

 木造八割、煉瓦造り二割の比率で小さな建物がまばらに建ち並んでおり、青葉を蓄えた木が道の途中途中でぽつぽつと自生している。建物と木の間を、子供たちがはしゃぎながら通り過ぎる。

 

 おそらく、ここが(くだん)の村なのだろう。

 

 来て早々、すれ違いざま(スカート)をめくられたミーフォンが怒り狂い、めくった犯人である悪ガキを追いかけようとした。ライライはそれを羽交い絞めにして懸命になだめ、ようやく落ち着けた。ここに来て騒ぎを起こすのは好ましい事ではない。

 

 気を取り直し、村の人に話を訊くことに。

 

 訊くべき事はたった一つ。この町に【奇踪把】の武館はあるかどうかだ。

 

 ――「ある」と答え、さらにそこまでの道のりを教えてくれた村人が、この村における最初で最後の協力者となった。

 

 教えられた通りに村の中を歩き、そして到着した。

 

 古めかしい木造の門構えに、背の高い木塀。作られてだいぶ経つのか、表面の木目が黒ずみに潰されかけて見えにくくなっていた。

 

 質素な外観。だがその内側からしきりに多重して聞こえてくる気合いの吐気、靴底で土を叩く音から、その建物が武館として「生きている」ことがひしひしと伝わってくる。

 

 年季が入っていながらも厳粛な雰囲気を持つ門の前に、ライライたちは立つ。

 

「いい、ミーフォン? 冷静にね」

 

「わ、分かってるわよ」

 

 少しバツが悪そうに頷くミーフォンを確認すると、ライライはその門戸を叩いた。

 

 途端、ずっと続いていた気合いと踏み込み音がピタリと止む。

 

 かと思えば、沸き立った湯のようにわらわらと話し声が聞こえてきた。

 

 しばらくして、キィ、という軋みを響かせて門の片方が開かれた。

 

 その隙間から、一人の男が半身を外へ出してきた。

 

「……何か用か?」

 

 稽古の途中だったせいか、その顔と言動はあからさまに迷惑だと訴えていた。

 

 ムッとするミーフォンを片手で制止させつつ、ライライは友好的な笑みを作って訊いた。

 

「あの、突然ごめんなさい。徐尖(シュー・ジエン)さんに用があるのですが、呼んでもらえますか?」

 

「はぁ? 誰だそいつ? そんな奴ウチにはいないぞ」

 

 ――ハズレだ。

 

 作った笑みの裏側で、ライライはそう冷静に認識した。

 



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「ふんわり」を大切に

 天井に吊り下げられた瓜型の行灯が、ほんのりと(だいだい)色に発光している。

 

 その灯りを受けて姿を現しているのは、その部屋唯一の片開き戸と、壁のあちこちに密着する形で置かれている木棚。その棚にズラリと陳列されているのは、陶製の小さな壺や、多種多様な色の液体ないし粉末が入ったガラス瓶。

 

 窓に張られたガラスの向こう側には、夜闇の中で煌々と営みを行う町並みが広がっていた。

 

 普通の人ならすでに家へ帰り、仕事で溜まった疲れをまったりと癒す時間帯。

 

 だがしかし、この【甜松林(てんしょうりん)】と娼婦(ボクたち)はこれからが本番(稼ぎ時)だ。

 

 花の刺繍で彩られた上品な靴が、ザンッ! と力強く床を踏みしめた。

 

「――さっきやった事のおさらいだ! 男が女のどんな要素に心惹かれるか、劣情を抱くか、分かるかい!?」

 

 その靴を美しく履きこなす美脚の主――神桃(シェンタオ)さんが熱弁を振るう。

 

「デカくて形の良い乳や尻? 細くて肉感のある太腿? ああそうさ、そいつも間違っちゃいない! けどね、んなもんは所詮小技に過ぎない! あたしが求めてるのはもっと根本的な答えさ! 一体それは何だ!? さあ、答えてごらん! 今のあんたなら即答できるはずだ! 三秒以上は待たないよ!」

 

 ザッ!! ボクは彼女と同じ花柄の靴を軍靴(ぐんか)のごとく踏み鳴らし、威勢良く答えた。

 

「はい!! それは「ふんわり」ですっっ!!」

 

「ご名答!! 細くしなやかな肢体に実った、大きく、柔らかな「ふんわり」! 「細さ」「柔らかさ」という、通常相容れない二要素の兼備! それは男では決してなし得ない、女にのみ許された特権! そういった所に、男は雌を感じるんだ! ヤリたいと強く思うんだ! 分かったね!?」

 

「はいっ!!」

 

「この「ふんわり」は普通に考えると、乳や尻のデカい女に有利に思えるかもしれない。けどそんなことは断じてない! あんたみたいにほっそりした女でも、十分に「ふんわり」は作れる! 香りや髪型、そして服装を工夫して変えればいいんだ! 小細工? 違うね! これは武装だよ! (せんじょう)に鎧を着て出るのは言わずもがなの常識! 持たざる者の堅実さは、持つ者の怠慢に一〇〇回勝ってお釣りが出る!! 肝に銘じておきなっ!!」

 

「はいっ!!」

 

「髪は結ばず、整髪料で膨らみを付ける! 香水、整髪料、入浴剤は全て鼻につかない控えめな匂いの物を選ぶ! 口紅は濃くない色! 服装は体の線が隠される程度の少し大きめなもの! つまり――今あんたがしてる格好が理想的ってわけだ!」

 

 ずびしっ、と神桃(シェンタオ)さんは持っていた細長い煙管(キセル)の先でこちらを差してくる。

 

 近くに置いてある姿見で、今の自分の姿を再確認した。

 

 毎度おなじみの三つ編みは解かれ、長い後ろ髪が下ろされている。さらにその髪は整髪料によっていじられ、耳元から下の範囲が綿飴よろしく「ふんわり」と広がっている。唇は桜色の口紅によって光沢をもった桜色に輝いており、貧相ながら無駄なぜい肉の無いしなやかな肢体は、大きさに余裕があり、なおかつさらりとした優しい質感を持った薄手のワンピースが体のラインごと「ふんわり」と包み込んでいた。

 

 そして、「ふんわり」とボクの全身を漂う優しい桃の香り。香水がちょうど良い塩梅に効いていた。

 

 そんなボクの格好を確認すると、神桃(シェンタオ)さんは厳しく引き締まっていた表情を崩し、柔らかく微笑んだ。

 

「よし、一旦休憩だ。十分だけ休憩時間をあげるわ」

 

 ポン、と肩に手を乗せられたボクも、つられるように相好を崩した。

 

 深く一息つき、肩の力を抜いてだらんとする。

 

 頭頂部をぐしぐしと撫でられた。

 

「いいわよ。あんた飲み込みが速いわ。教え始めて二日目だってのに、もうここまで吸収したんだね。これならあたしの指導にも熱が入るってモンだわ」

 

「ははは……必死に食らいついてるだけですよ……」

 

 ボクは力なく笑いながら、ため息をつくように言った。

 

 ――神桃(シェンタオ)さんの所属する娼館に入ってから、すでに三日が経過していた。

 

 さすが『傾城(けいせい)』の勤め先というべきか、その娼館は他のソレに比べて格段に大きく、そして絢爛豪華な装飾を誇る建物だった。なんでも、【甜松林】では一、二を争う高級娼館だそうだ。

 

 ボクは若干気後れしつつも、神桃(シェンタオ)さんに手を引かれるまま中へ入っていった。

 

 その娼館にも、香瑚(シャンフー)ことボクの悪名は伝わっていた。なのでボクが「働きたい」と言うや、店長と呼ばれる人は明らかに嫌そうな顔をした。

 

 にもかかわらず、今こうして入れているのは、神桃(シェンタオ)さんのこれでもかというゴリ押しがあったおかげである。

 

 おまけに彼女は「この悪名高い新入りは、このあたし直々にしごき倒す。矯正が終わるまではとても客の前には出せないわ」と、真面目な語気で店長に言った。

 

 この言葉には二つの意味が存在する。

 一つは、タンイェンのお眼鏡に叶う女にするべく、ボクを教育するため。

 もう一つは、「新人教育」という建前を使い、ボクをタンイェン以外の男性客にできる限り接触させないため。

 

 店長はしぶしぶ許してくれた。もちろん「仕事に出ない限りは給料を一切出さない」という条件付きだが、ボクは別にお金が欲しくて娼館に入ったわけじゃないので、ぶっちゃけどうでもよかった。

 

 タンイェンに買われるまでの間は、神桃(シェンタオ)さんの宿舎の部屋に泊めてもらい、なおかつごちそうまでしてもらう事になっている。

 

 それだけ見れば至れり尽くせりだが、彼女の教育はとても厳しく、体力を要する。それを込みで考えると必要経費に思えなくもなかった。

 

「それに、あれだけシゴかれたら覚えも良くなりますよ……」

 

 ボクは辛かった日々――といってもまだ三日目だが――を懐かしむような口調で言った。

 

 ――神桃(シェンタオ)さんの指導は思いのほか厳格だった。

 

 一切の妥協も許してくれなかった。

 

 髪型や服装どころか、仕草の細部に到るまで徹底的に矯正された。少しでも間違えたら、あの煙管でぴしっと折檻された。一日目なんか、体の隅々まで叩かれたものだ。

 

 昼夜を問わず叩き込まれる(文字通りの意味で)その教えに、ボクは全力で突っ走るスポーツカーにしがみつく心境で懸命に食らいついた。恥ずかしい知識もいっぱい教わったが、歯を食いしばり我慢して吸収した。

 

 まさにハート○ン軍曹並みのスパルタだった。泣いたり笑ったり出来なかった。

 

 けれど、その厳しい教え方からは、男を魅了することに対する並々ならぬ熱意が感じられた。

 

 正直言うとボクは、男なんて簡単に落ちると思っていた。胸を強調させたり、スカートを擦り上げてさりげなく太腿を見せつけたりすればいいだけだろう――元男の観点から、心のどこかでそう高をくくっていたのだ。

 

 けど、実際に習ってみるととんでもない。かなり奥が深い話だった。まさに一つの学問を名乗っていいくらいに。

 

 神桃(シェンタオ)さんは男を魅力する方法を、ここにいる誰よりも深く知り尽くしていた。まさしく博士号ものだ。

 

 娼婦は世間では「汚れた女」扱いされがちだが、それは一面的な見方に過ぎない。

 

 彼女たちは、男を虜にする事に対する豊富な知識、そして矜持を持ち合わせている。

 

 そして、その代表格ともいえる神桃(シェンタオ)さんをボクは心から尊敬する。

 

「――ほら慧莓(フイメイ)、少ない休憩時間なんだから、そこの椅子にでもおとなしく座ってなって」

 

 『傾城』の美女はさっきまでの気迫に尖った口調を一転、蓮っ葉な口ぶりで言いつつ、近くのスツールを指し示す。

 

 ――この店に入った時、ボクは「慧莓(フイメイ)」という別の名前を付けてもらった。「香瑚(シャンフー)」の悪名がすっかり広まってしまったため、本人バレを少しでも防ぐための措置だ。正直、付け焼刃な気がしないでもないが。

 

 ボクはお言葉に甘えて、示されたスツールに腰を下ろす。

 

 神桃(シェンタオ)さんも部屋の隅っこに置かれた木の椅子を引っ張り出し、そこへ乱暴に尻を乗せた。

 

 ちなみにここは、娼婦が娼婦として働いている本館の裏側に付設された小さな別館だ。この部屋はその別館にいくつか設けられた物置部屋の一つで、入浴剤や香水、整髪料、さらには性病や妊娠を予防する薬などが置かれている。

 

 気だるげにふんぞり返る美女。持っていた細長い煙管を少しの間くわえてから離し、ふわっと大きな円環状の煙を吐き出した。漂って来た煙の匂いは、少し甘かった。

 

「あんたの下積みが十分に終わるまでの間、馬湯煙(マー・タンイェン)の奴が来ないでくれると嬉しいんだがね……」

 

 お風呂にでも浸かった時のようにほんのりした声で、彼女は呟いた。

 

 それを聞いて、ボクの頭に前々から抱いていた疑問が蘇った。

 

「そういえばボク、ちょっと妙だと思う事があるんですけど」

 

「何がだい?」

 

神桃(シェンタオ)さん、そんなにお綺麗なのに、どうしてタンイェンに連れて行かれた事が無いんですか?」

 

 そう。そこだった。

 

 昨日聞いた話だが、神桃(シェンタオ)さんはタンイェンに買われた事が無いとの事。

 

 これほど美しく、おまけに『傾城』である彼女が一度も買われていない事実が、ボクには少し奇妙に思えたのだ。

 

「おや、嬉しい事言ってくれるじゃない。口説いてんのかこのー」

 

 神桃(シェンタオ)さんはボクに近づき、中腰になって頭を乱暴に撫でてきた。

 

「あう……」

 

 左右を往復するように頭部を揺らされ、難儀するボク。

 

 おまけに中腰になったことで、彼女のワンピースの中にある大きな肌色の膨らみがはっきり見える。体の振動を敏感に感じ取り、ふるん、ふるんと左右に揺れ動いていた。

 

 ボクは思わず生唾を飲んだ。でかい。ライライよりは少し小さいが、それでも平均値を余裕で上回っている。

 

 それに、脳がとろけそうなほど良い匂いがする。神桃(シェンタオ)さんの発するフェロモンだろうか。ボクの中に残った男心をススキで撫でるようにくすぐってくる。

 

 ボクの頭を撫で回す手がピタリと止まると同時に、目の前の『傾城』は言った。

 

「あたしが選ばれないのは、奴の好みから離れてるからさ。奴はあたしみたいな尖った感じの女は好きじゃないみたいなんだ」

 

「じゃあ、どんな女の人が好みなんでしょうか?」

 

「さっき教えただろ? 「ふんわり」を重視しろって。その「ふんわり」した要素を結集したような女ばかりを奴は買ってたんだよ。大人しそうで且つ従順そうな顔。柔らかい雰囲気と濃い色気を周囲に放ってて、香水もキツくない。まさしく瓔火(インフォ)の姉御みたいな女さ。あたしは体や技巧にゃ自信あるが、姉御みたいな儚げで優しそうな類型(タイプ)にはなりきれない。目つきとか鋭い方だしね。だから買われないのさ。ま、あたしはタンイェンの奴がどうも気に入らないから、別に改善しようとも思わないんだけどねぇ」

 

 へへん、と誇らしげに微笑んだ。

 

 それを見て、ボクもつられて笑う。

 

 和やかな空気が、煙と一緒に部屋に漂う。

 

 最初に入った娼館では決して過ごせなかった落ち着いたひと時。とても夜の街で働いているとは思えないくらいだ。

 

 煙草の匂いは好きじゃない。だがその煙の中でも安らいでいられるほどに、ボクの心は落ち着いていた。

 

 そもそも、リエシンに難題をふっかけられて以来、こんなにまったりした事はなかった気がする。

 

 そう思うと、そんな時間を提供してくれた神桃(シェンタオ)さんに、再び深い感謝の意が芽生えた。

 

「……ありがとうございます。ここまでして頂いて」

 

 ボクの突然の感謝に、彼女は少しまごついた様子で、

 

「お、おいおい。どうしたんだい藪から棒に」

 

「だって、もし神桃(シェンタオ)さんが手を貸してくれなかったら、ボクは今でもずっと【甜松林】をうろついてばっかりだったと思うから……」

 

 そして、帝都に向かうまでのタイムリミットをさらに浪費していたことだろう。

 

 まだタンイェンの屋敷に入れたわけではない。けれど彼女の助けによって、確実にそこへ到るまでの近道にはなったはずだ。

 

 この(ひと)には、本当に下げる頭が足りない。

 

 だがそこで唐突に、神桃(シェンタオ)さんの表情に影が差した。

 

「……礼を言われる覚えは無いよ。あたしは姉御の行方を探すためにあんたが使えると思ったから、手を貸しただけ。つまるところ、あんたを利用しているようなもんさね。助けてもらった礼ってだけで、ここまで施したりしないよ」

 

 その垢抜けきった美貌に浮かんだのは、斜に構えた皮肉っぽい微笑み。

 

 発した言い方も、まるで冷たく突き放すような感じに聞こえた。

 

 あたしとあんたの間に情なんか欠片もありはしない。利害で結ばれた関係だ。勘違いするな――そう言わんばかりの表情と言動。

 

 ……けれどボクには、彼女が悪ぶっているようにしか見えなかった。

 

 なんというか、その皮肉げな笑みが若干ぎこちなく見えるからだ。

 

「本当に、それだけですか?」

 

「……何だと?」

 

 鋭く艶やかな瞳が細められ、じろり、とこちらを向く。

 

 一見威圧的に感じられるが、その眼には図星を突かれた時特有の揺らぎが見られた。

 

 それを目の当たりにしたことで、ボクの中の予想は磐石な確信へと変わった。

 

 ――実は、ボクをこの娼館へ入れるための条件は、「給料を与えない」事の他にもう一つあった。

 

 それは、ボクには娼婦用の宿舎の部屋を与えないこと。

 

 【甜松林】の娼館では、入ったその日から仕事に駆り出されるのが常識である。前にボクが働いていた娼館がそうだったように。

 

 けど、ボクは「教育」という名目で、仕事へ出るのを避けてしまっている。利益を出さないどころか貢献しようとしない者に金や部屋を与えるほど、甘くはないということだ。そもそもボクがこの娼館に入れたこと自体、普通はありえないことなのだ。

 

 神桃(シェンタオ)さんはそんなボクのために、自分の部屋に同居する事を許してくれたのだ。おまけに、食事の面倒まで見てもらっている。

 

 ただ利用する事だけが目的ならば、そこまでしないはずだ。

 

 彼女はボクに対して、大なり小なりの情を抱いてくれている。そう信じて疑わなかった。

 

 ボクは何も言わず、ただただ威圧感のこもった――ように見せかけている――眼差しを見つめ続ける。

 

 そして、やがて神桃(シェンタオ)さんはそっと瞳を閉じ、降参とばかりにため息をついた。

 

「…………あんた、昔のあたしに似てんのよ」

 

 声量を低くし、郷愁に浸るような口調でそう切り出してきた。

 

 ボクはひょこっと小首をかしげながら、

 

「昔の?」

 

「そうよ。……この【甜松林】に来たばっかりの頃のあたしにね」

 

 『傾城』の女は煙管の吸口をくわえ、離す。

 

 深いため息を白煙とともに吐き、ゆっくりと語り始めた。

 

「あたしはね――こう見えても昔は結構良い家の生まれだったんだよ」

 

「え……」

 

 意外な事実に、ボクは目を丸くした。

 

 この【甜松林】のトップに立つくらいの娼婦が、元々は良家の生まれだったなんて。

 

 けれど、納得できる部分もあった。

 

 彼女の放つ雰囲気からは、濃い色気とともに、どこか気品のようなものも感じられたから。それが生まれ育ちに起因しているのなら、頷ける話である。

 

「ま、良い家っつっても、由緒ある立派な家柄ってわけじゃあない。食い物を扱う事業でちょっと成功してたって程度の家さ。まあそれでも、人並み以上の裕福な暮らしをしていたわね。でもね、ある日を境にその恵まれた生活が嘘のように終わったのさ」

 

「何か、あったんですか?」

 

 話し始めより一層深々としたため息をついてから、彼女は再び口を開いた。

 

「商売敵にハメられたのよ。もっと正確に言えば、一部の従業員を買収して、売り物に毒性のあるモノをこっそり入れられたのさ。それを口に入れた人はたちまち中毒症状を起こして、一時期大騒ぎになったわ。商いで一番大切なのは信用だ。ウチはそいつをあっという間に失ったのさ。それからも色々不運が重なって事業が上手くいかなくなって、挙句の果てにかなりの額の借金を背負うハメになったわね。その頃すでに精根尽き果ててた両親は、一足先に空の彼方へ旅立ったわ」

 

 オブラートに包みながらも残酷さを隠しきれていない文脈に、ボクの体温が一瞬だけガクッと急降下した。

 

「結果、両親の借金は全部あたしにのしかかったわ。あたしはすぐにでもその金を払いきらないといけなくなった。でも、その頃のあたしはただの小娘。とても一気に大金を稼ぐ技能なんてなかった。残っていたのは、人並み以上に美しい容姿だけ。だからあたしは、それを使って金を稼ぐ事にした。いや、そうするしかなかった。そう思ってすぐに、この【甜松林】に流れ着いたわ」

 

 煙管を吸う頻度が増え始めた。まるで何かから気を紛らそうとするかのように。

 

「でも、この町で働き始めてからもあたしは散々嫌な目に遭ったわ。娼婦同士のイビり合いや足の引っ張り合い、倒錯的な要求をしてくる変態客、そして、慣れない床入りを重ねるにつれて磨り減っていく自分の精神。けどそんな時、あたしは姉御と出会った。姉御の言葉と優しさに助けられながら必死に足搔き続けて、とうとう借金を全額返し終えた。そして気がつきゃ、『傾城』なんて呼ばれるようになってたわ」

 

 大きく一息吐くとともに、甘辛い白煙漂う空間にさらに濃い煙を付け足した。

 

 そして、神桃(シェンタオ)さんはボクの顔を真っ直ぐ見つめ直した。

 

「初めてあんたに会った時――この【甜松林】に流れ着いたばっかりの頃のあたしにそっくりに見えたんだ。この町に渦巻く欲望のドス黒さに慣れきれず、初心(うぶ)な小娘を卒業しきれず、人形のように無感情で町中をさまよってた、昔のあたしに。だから、どうにも放っておけなくてね」

 

 ボクの顔をくっきり写すその瞳は、まるで昔を懐かしんでいるかのような色だった。

 

 が、神桃(シェンタオ)さんはすぐにまぶたを閉じ、済まなそうな口調で、

 

「……おっと、やっぱり今の話は全部忘れとくれ。人を勝手に哀れんだりするのは下手な罵倒より酷いことだからね。ごめんよ」

 

「いえ、いいんです。多分……そんなに間違ってませんから」

 

 ボクは元男だが、男に体を差し出す行為の重要さを認識できないほど阿呆でも無知でもない。

 

 彼女を含め、ここで働く娼婦たちは当たり前のように商売をこなしているが、そこまでの心持ちに到るまでの苦心は想像に難くない。

 

 そう。普通は誰彼構わず体を許せなくて当たり前なのだ。

 

 かく言うボクもそれを割り切れなかったからこそ、客を殴り飛ばしてしまったのだ。

 

 ……まあ、「元とはいえ、男が男と乳繰り合うとか冗談じゃない。ボクはノーマルだ」って気持ちも少なからずあったが。

 

「……あれ?」

 

 ふと、彼女の過去と現在を見比べ、引っかかりを一つ見つけた。

 

神桃(シェンタオ)さんって、どうしてまだ【甜松林】にいるんですか?」

 

 その言葉の意図を察したのだろう。『傾城』の美女は瑞々しい唇に雅な微笑みを作り、

 

「もう借金は返し終えてるのに、って言いたいんだろ?」

 

「はい。どうして……」

 

「ふんむ。そうさねぇ」

 

 彼女は煙管を片手でくるくる回しながら、何かを思い起こそうとするように天井を見上げた。

 

 そういえばこの人の境遇は、以前聞いた情報とかぶっている。

 

 以前聞いた情報――それはリエシンのお母さん、瓔火(インフォ)さんの事情についてだ。

 

 彼女も借金を背負い、それをここでの商売の稼ぎで返しきった。しかしその後もなお、この町にとどまり続けていたとのこと。

 

 神桃(シェンタオ)さんの歩んできた道のりは、瓔火(インフォ)さんと非常に似通っていた。

 

 憧れの人との類似性を求めてのことだろうか?

 

 いや、きっと違う。

 

 もっと単純で、やるせない理由だ。

 

「簡単に言っちまうと……慣れたから、かね」

 

「慣れた?」

 

「おうさ。人ってのはどんな状況に置かれても、大抵は慣れて感覚が麻痺しちまうもんさ。最初はどんなに嫌だ嫌だと思ってても、日を重ねるうちにそうでも無くなってくる。日々違う男に腰振られる事も、他の娼婦からのやっかみも、変態じみた要求をしてくる客も、いつしか日常を形作る「当たり前」の一つだと感じられるようになっちまう。そして、その慣れ親しんだ場所から出る事が……変わる事が、怖くなっちまうのさ」

 

 目の前の美女は、自嘲を隠そうともしなかった。

 

 それを見て、ボクの心は締め付けられた。

 

「つまるところ、あたしは男にまたがってキャンキャン啼き声を上げて悦ばせる事くらいしか能の無く、そこから離れられない、臆病で恥知らずのクソアマなのさ」

 

「――それは違う!!」

 

 ほとんど反射的に出てきた言葉だった。

 

 神桃(シェンタオ)さんは鳩が豆鉄砲を食らったように目を見開く。

 

 気がつくと、ボクは彼女の両肩口を掴んでいた。

 

 離れたところから見ると、とても存在感のある彼女の姿。けれど実際に触れてみて、ボクとそれほど広さの変わらない、狭い女の肩幅だとわかった。

 

「あなたが助けてくれたから、ボクは自分の目的に近づけた。この娼館に無理矢理ボクを入れさせた事も、こうしてかくまってくれている事も、あなたじゃなかったら絶対出来なかったはずだ。ボクはそれを知ってる。だから、今みたいに自分を無価値だと切り捨てるような事を言うのは許しません」

 

 今までにないほど厳しい語気で、ボクは言い放った。

 

 視界のほぼ全てを占める、神々しさすら感じさせる端正な(かんばせ)は、まるでこれまで見たことの無い絶景を目の当たりにしたかのごとく驚きを呈していた。

 

「――わふっ?」

 

 かと思えば、突然体が前に強く引き寄せられる。顔が柔らかい二つのモノに挟まれた。

 

 柔らかいモノとは、神桃(シェンタオ)さんの胸の膨らみだった。

 

「…………前言撤回。あんた、全然あたしに似てないわ。だって、こんなに良い子なんだもの」

 

 そこまで来て、ボクはようやく抱き寄せられたのだと確信できた。

 

 想像を絶する柔らかさを誇る双丘に顔を挟まれているせいで、今の彼女の表情が全く分からない。

 

 ボクの背中に回された手が、ぎゅうっと内側へ締め付ける力を強める。顔がさらに奥へ埋まった。

 

 恥ずかしさは不思議と起きなかった。

 

 代わりに、包み込まれるような安心感が心を満たした。

 

 この感じは知っている。

 

 お母さん――前世のボクの母親に抱きしめられた時にいつも感じた、謎の安心感とそっくりだ。

 

 もう会うことの叶わないその顔を思い出した途端、目頭に熱いものがこみあげてきた。

 

 目を閉じて食いしばり、目の奥へ飲み込むイメージで涙を流すまいとする。もうどう転んだってあの人には会えないのだ。感傷的になっても仕方がない。

 

 しばらくして、背中を締め付ける力が緩んだ。

 

 ボクは見上げる。

 

「まあでもさ、ここでの生活も見方を変えてみれば嫌な事ばっかりじゃないよ? 何せ、一晩で他の職業じゃなかなか稼げないだけの日給が手に入るんだからね。まして、あたしは『傾城』。今じゃヘソクリの額だけで家が一件買えちまうよ。いつかこの金を元手にして、何か商売を始めてみるのもいいなって時々妄想して楽しむわけさ。な? 案外面白いもんだろ?」

 

 ことさらに明るくそう言って、間近にある絶世の美貌は片目をパチンと閉じてくる。

 

 ……もしかすると、さっきの自虐はただ言ってみただけって感じで、本当は案外ポジティブな性格なのかもしれない。

 

「……でも、嬉しかったよ。ありがと、慧莓(フイメイ)

 

 ちゅっ、と頬っぺたに柔らかい感触が一瞬押し当てられる。

 

 神桃(シェンタオ)さんに接吻(キス)されたのだと数テンポ遅れで気づき、かーっと顔が羞恥で熱くなった。

 

「あっはは! あんた顔真っ赤よぉ!? やだー、可愛いわねぇー!」

 

 ガバッ、と勢いよく抱き寄せられた。ボクの顔が再び豊満なおっぱいの谷間にぐりぐり押し付けられる。

 

 心地よい感触と甘香ばしい香りが同時にやってきて、ボクは羞恥半分極楽半分といった心持ちとなる。

 

 しばらくの間神桃(シェンタオ)さんのぬいぐるみ状態となり、そしてようやく開放された。

 

「でも、姉御はちょっと違うみたいだったけどね」

 

「違う、と言いますと?」

 

「姉御もあたしと同じで、背負ってた借金を全額返した後も【甜松林】で働き続けてたんだよ。けどなんつーか、姉御はあたしみたく現状に耽溺(たんでき)してるって感じじゃなく、もっと他に目的があるように見えたっていうか」

 

「目的って?」

 

「さあね。「目的があるように見える」なんてのはあたしの想像に過ぎないのかもしれないし。それを疑問としてぶつけようとは思わなかったわ」

 

 そこで、彼女は何かに気がついたように目を瞬かせた。

 

「そういや、あんたと姉御ってどういう関係なの? ずっと気になってたんだけど」

 

 その疑問をぶつけられたボクはどう答えるべきか数秒黙考してから、

 

「……実は、ボクと瓔火(インフォ)さんとの間に直接的な面識は無いんです」

 

「何だってっ? それじゃあ、どうして姉御を探そうなんて考えてる?」

 

 ボクは再び答え方を考えてから、返答を口にした。

 

「…………瓔火(インフォ)さんの娘さんに、頼まれたからです」

 

 否。正確には「脅されてやらされている」と言うのが正しい。けれど、この人が敬愛している女性の娘だ。なるべくカッガリさせる情報は教えたくなかった。

 

 神桃(シェンタオ)さんの瞳が一瞬大きく開かれる。が、すぐに理解したように目元を緩めた。

 

「なるほどね。そういや、姉御の肉親は娘だけだって話だったし、納得だわ」

 

「はい。娘さんも、母親が一ヶ月も帰って来ない事を変に思ったみたいです。一度治安局にタンイェンの屋敷の捜索を頼んだ事があるらしいですけど、何も無かったらしくて……」

 

「……そういや何日か前、馬湯煙(マー・タンイェン)治安局(おまわり)にガサ入れされたって聞いたけど、ありゃ姉御の娘がチクったからなのね。…………あっ」

 

 そこで、何かを思い出したように表情を明るくした。

 

慧莓(フイメイ)、ちょっとここで待ってて! あんたに渡したい物があるから!」

 

 彼女はそう言い残すや、戸を開けて部屋から駆け足で出て行ってしまった。

 

 煙草臭い室内に、一人ぽつんと残されるボク。

 

 やることが無かったので、とりあえず室内の臭いを逃がすために窓を全開してから、スツールに腰掛けて待つ。

 

 しばらくして、神桃(シェンタオ)さんが戸を破るように開けて戻ってきた。

 

「待たせたわねっ」

 

「おかえりなさい。どこに行ってたんですか?」

 

「宿舎のあたしの部屋よ。んで、コレを取りに行ったの」

 

 ささめ雪のような白い手に持たれていたのは、握りこぶしほどの面積を持つ一枚の紙だった。藁もしくは麻を主原料にしているであろう荒地の紙で、勝手にバラけて開かないよう、紙全体をひとまとめに固定するような折り方がされていた。

 

 ボクが頭に疑問符を浮かべてソレを見ていると、神桃(シェンタオ)さんはその無言の問いに答えた。

 

「これは姉御が書き残した手紙だ。「もし私の身に何かあったら、これを娘に――リエシンに渡して欲しいの」、そう頼まれてた。あんたが姉御の娘と顔見知りなら、渡す相手としちゃちょうど良い。受け取ってくれないか?」

 

 そう言って、手紙を差し出してくる。

 

 ボクは曖昧な頷きを返してから、受け取った。

 

 その手紙にはこじ開けられた形跡が見られない。きっと、神桃(シェンタオ)さんも中を見ていないのだろう。

 

 ――正直、好奇心が湧いた。

 

 もしかするとこの手紙の中に、何か瓔火(インフォ)さんを探す手がかりがあるのではないか。そう考えると、この丁寧に折られた封を解いてみたい気分に少しはなった。

 

 けど、これはリエシンに対しての手紙。リエシンではないボクが覗くことはまかりならない。

 

 これはリエシンに対しての配慮ではない。瓔火(インフォ)さんへの配慮だ。

 

 手紙としばらくにらめっこしていた時だった。

 

「ん?」

 

 急に神桃(シェンタオ)さんが、訝しげに眉根を下げた。

 

「どうしましたか?」

 

「いや……ちょっと外がやかましいなと思ってね」

 

 その言葉を確かめるべく、息を潜めて部屋の外へ耳を傾ける。

 

 すると、ほんの微かにだが、がやがやとした喧騒が聞こえてきた。

 

 この声は、おそらく本館からだ。別館であるここまで届くとは、よほどの騒ぎようである。

 

 戸が勢いよく開け放たれる。

 

「――神桃(シェンタオ)、タンイェンの旦那が来たわよ!」

 

 駆け込んできた一人の娼婦が、嬉々としてそう告げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、ライライとミーフォンはというと――

 

 

 

「…………はぁ」

 

 小さな点心(だがし)屋の外壁に寄りかかりながら、ミーフォンは虚脱感丸出しのため息をそっと吐き出す。

 

「…………」

 

 隣に立つライライもため息こそつかないものの、景気の悪い表情で押し黙っていた。

 

 二人の手には、夕食代わりの餡入り包子(パオズ)が握られていた。しかし、欠けていないどころか、歯型一つ付いていない。一口も食べていないのだ。買ったばかりの頃はほかほかと湯気が立っていたのに、今ではすっかり冷めきってしまっている。

 

 淡い月光がかかり、地面に二人分の影を作る。今宵の空には暗雲の欠片も見当たらない。そのため、砂場に水晶の粒を散りばめたような満天の星々と、文句なしにまん丸な月が天然の照明となっていた。

 

 いつもなら浪漫(ロマンチック)な気分に浸れたかもしれない。

 

 けれど、今のミーフォン達には疲労と焦り、そして絶望感しかなかった。

 

 ズレた伊達メガネさえ直す気になれないほど、心が沈みきっていた。

 

 ――見つからない。

 

 変装をしながら【奇踪把(きそうは)】の武館を探し始めてから、すでに三日が経過していた。

 

 ミーフォン達は、あらゆる町を血眼になって探した。

 

 【会英市】周辺は言うに及ばず、そのさらに遠くの町にも足を運んだ。

 

 この三日間で歩いた距離を累計すれば、目的の帝都までの道のりがかなり稼げる。それくらい歩き回ったはずだ。

 

 けれど、未だにリエシンたちが所属している武館は見つかっていない。

 

 自分たちの努力は努力足りえず、ただの徒労となっていた。

 

 これが気落ちせずにいられようか。

 

「こんなに探してるのに、どうして見つからないのよ……」

 

 ミーフォンは悔しげに歯噛みした。片手の包子を思わず握り潰しそうになる。

 

 せめて食事だけは無理にでも取ろうと思い、ミーフォンはずっと手の上で放置されていた包子を頬張った。けれどすっかり冷めていて美味しくはなかった。

 

 強引に引き出した食欲はあっという間に萎える。

 

 そしてその分、苛立ちがさらに募った。

 

「~~~~っ!」

 

 たまらず、地を乱暴に蹴飛ばして歩き出した。

 

 ライライが後ろから困惑した声で、

 

「ちょ、ちょっと? どこに行くの?」

 

「決まってんでしょ!? あの女の武館を探しに行くのよ!」

 

 振り向かぬまま、険を帯びた声を投げ返した。どうしてそんな分かりきったことを訊くのか。

 

 早歩きを続ける自分の足音に、ライライの足音が連帯する。

 

「探すって……当てはあるの? もう【会英市】周辺にある【奇踪把】の武館は全部当たったでしょう?」

 

「だから何っ!? だったらこの辺の武館全部を調べればいいじゃない! 数打てばいつか見つかるわよ!」

 

「待ちなさいっ」

 

 手首を強く掴まれ、歩きを止められる。

 

 ミーフォンはそれを拒絶的な手つきで振り払う。

 

 かと思えば、ライライはこちらの両肩を強く掴み、凄むような目つきで強く言ってきた。

 

「もうこれまで、あなたには何度も言ってるわ。「落ち着きなさい」」

 

「じゃああたしもここ最近で決まりきってる返し方をしてやるわよ! 「これが落ち着いていられるか」っ!」

 

「ならあえてもう一度言うわ。――「落ち着きなさい」。ミーフォン、あなたはこの三日間何を見てきたの? あなたと私が探した町や村に、一体いくつ武館があった? それだけの数の武館を当たるのにどれだけの労力が要ると思う?」

 

 冷静な態度を崩さないライライに反感を覚え、なおも食い下がる。

 

「じゃああんたは、すぐにでも高洌惺(ガオ・リエシン)の武館を見つけ出せる方法を用意してるっての!?」

 

「それは……」

 

 気まずそうに目を伏せ、沈黙した。

 

 それ見たことか。そっちこそ何も打開策が無いではないか。

 

 慎重なのは良い事だ。けど、それだけじゃあの人――お姉様は救えない。

 

 彼女が汚らわしい欲望で傷物になるなど、あってはならない。

 

 もし次会った時にそうなっていたら、自分にはとても耐えられる自信がない。

 

 そして、親愛なる彼女をそうなるかもしれない状況に追い込んだ高洌惺(ガオ・リエシン)、そして徐尖(シュー・ジエン)らを、決して許すことはできない。憎しみさえ覚える。

 

 連中の顔は、脳裏に刻印のごとく刻まれている。絶対に忘れない。忘れるものか。

 

 絶対に見つけ出して、【吉火証(きっかしょう)】を奪い返――

 

「…………あれ?」

 

 ミーフォンはこわばっていた表情筋を急に緩め、ふと声をもらした。

 

 二人の顔を思い出したことで、それにまつわる記憶も思い起こされたのだ。

 

 そして今ミーフォンの頭の中に流れているのは、シンスイとジエンの勝負の時の映像。

 

 その時のジエンの動きを振り返ったことで――ある一つの「仮説」が生まれた。

 

「ミーフォン?」

 

 未だに自分の両肩を掴んで離さないライライが、考えを巡らせている自分をきょとんとした顔で見ていた。おそらく、急に静かになったからびっくりしているのだろう。

 

 ……うん。思い浮かんだ「仮説」を話す前に、少し離れてもらうとしよう。

 

「ライライ、あんたちょっと臭うわよ」

 

 途端、ライライは「ガーン!!」という悲惨な効果音が似合いそうなほど青ざめ、一気に後ずさった。そして腕や腋、服の中へと鼻を近づけてすんすん嗅ぐ。

 

「冗談よ」

 

「じょっ……冗談なんだ…………よかった」

 

 心の底から安堵したのか、へなへなと脱力するライライ。

 

 まあ、それは置いておくとして。

 

「そんなことよりライライ、聞いて欲しいの」

 

「そんなこと、って…………まあ聞くけれど。何かしら? 改まって」

 

「実は――」

 

 ミーフォンは一度息継ぎしてから、口を開いた。

 

 

 

高洌惺(ガオ・リエシン)たちの流派は、【奇踪把】じゃないかもしれない」

 

 

 

 ライライが息を呑む音がはっきり聞こえた。目も明らかに丸みを帯びて驚きを表現している。

 

「……どうして、そう思うの?」

 

「そうね……それじゃあ、まず【奇踪把】って武法の主な特徴を上げてみなさい」

 

「え? えっと……」

 

 急に話を振られてしどろもどろになりながらも、ライライはなんとか答えた。

 

「巧妙で規則性の無い歩法を使って、相手を幻惑したり、攻撃をかいくぐったりしながら付け入る隙を探しだし、そこを攻める?」

 

「そうね。正解だわ。けどそれだとね、お姉様と戦ってた時の徐尖(シュー・ジエン)の動きに突っ込み所が出来るのよね」

 

「どういうことかしら?」

 

 ミーフォンは口角を吊り上げ、その「突っ込み所」を口にした。

 

「真っ直ぐ蹴り放たれたお姉様の蹴りを、徐尖(あいつ)は全身の回転を使って(コロ)の原理で受け流したわ」

 

「――あっ」

 

 ライライは不意を突かれたような表情となる。「まさか」と小さくこぼした。

 

 狙い通りの反応を得られたミーフォンは喜色満面となり、

 

「そうよ。【奇踪把】は回避の技術こそ長けてるけど――「相手の力を円の動きで受け流す」なんて技は存在しない。【奇踪把】の環擊(カウンター)は、巧妙な歩法を用いた回避を前提にして仕掛けるものよ。回避は積み重なれば重なるほど、相手の苛立ちを誘いやすい。そうして心に隙が出た所を一気に攻め入って制するのが【奇踪把】の十八番なのよ。……だから、あの男の使ってた武法は【奇踪把】じゃない。【奇踪把】に似て歩法の変化が多彩で、なおかつ相手の力を受け流す技術に長けた別の武法である可能性が高いわ。それをさも【奇踪把】であるかのように見せかけてたのよ」

 

「なるほどね。けれど、そんな流派……あったかしら」

 

「バカねぇ。あるじゃないの、一つだけ。それも、かなり名の知れた流派が」

 

 ミーフォンはそう前置きすると、やや面白くない気持ちのこもった語気で述べた。

 

 

 

「――【龍行把(りゅうぎょうは)】」

 

 

 

「――――!!」

 

 ライライの面持ちが、最高潮の驚愕を示した。疑いようも無く、こちらの考えが腑に落ちたのだと分かる。

 

 ――【龍行把】。

 

 武林において、この武法を知らぬ者はまず居まい。

 

 この武法の事を話すには、まずは我が門【太極炮捶(たいきょくほうすい)】の次に長い歴史を有する大流派――【道王把(どうおうは)】について説明しなければならない。

 

 【道王把】とは、【煌国(こうこく)】の東方にそびえ立つ霊山【道王山(どうおうさん)】を起源とする武法の総称だ。

 

 【道王把】は全部で五〇の流派があり、多種多様な拳技や体術、戦術理論が見られる。

 

 そして、その五〇流派の中には、代表的な三つの流派『道王派三大武法』が存在する。

 

 五〇の中の頂点に位置する最秘法、【太極把(たいきょくは)】。

 強大な【勁擊(けいげき)】を技術の中心に置いた、【心意把(しんいは)】。

 円運動を自在に操る、【龍行把】。

 

 ……そう。【龍行把】は、【道王把】の一つなのだ。

 

 【龍行把】の技術的特徴は、円運動を主軸においた華麗かつ実戦的な体術と――変幻自在の歩法。

 

 滑るような足さばきで常に敵の周囲を活発に駆け巡り、舞踊を彷彿とさせる美しい体さばきを用いて攻撃をかいくぐり、死角へ入って嵐のごとく激しく攻める。まさしく霊峰を中心にとぐろを巻く龍のような戦い方をする武法だ。

 

 その動きと戦法を実現させるため、入門したての初心者はまず歩法の訓練を徹底的に行う。そうして下半身がある程度円滑に歩法を刻めるようになってから、初めて【架式(かしき)】や【拳套(けんとう)】といった全ての武法に共通した修行に打ち込むのである。

 

 さらに円運動を重んずる体術の面目躍如とばかりに、【龍行把】では円や螺旋の動きを使った【化勁(かけい)】――打撃の力の向かう方向を操作し、受け流す技術――もしつこいくらいに鍛える。熟練者ならばたとえ小柄な老人であっても、大男の打撃を水中に迎え入れるように無力化することが可能。

 

 軽快で変化に富んだ歩法。

 円の動きを用いて暴力を溶かす技術。

 ――どうだろう? ジエンの戦い方とまるっきり同じではないか。

 

 そして何より【龍行把】は、【奇踪把】の元となった武法でもある。

 

 変化に富んだ歩法を活かし、死角に入って攻めるという戦闘様式(スタイル)は、まさしく【龍行把】の遺伝なのだ。

 

 つまり【龍行把】ならば――【奇踪把】のフリをするのはさほど難しくない。何せ、生みの親なのだから。

 

 ライライはこちらの瞳をジッと見て、確認をとるように訊いてきた。

 

「つまり高洌惺(ガオ・リエシン)たちは、【奇踪把】のフリをした【龍行把】の門人……ということ?」

 

 ……そう。それがミーフォンの立てた「仮説」の大略だ。

 

 もしもこれが真実なら、徐尖(シュー・ジエン)はとんだうっかり屋である。何気ない動作の中に、示唆(ヒント)を残してしまうなんて。

 

 【奇踪把】の武館を懸命に探して見つからないのにも頷ける。だって、そもそも探している対象が違うのだから。自らを【奇踪把】と名乗った時点で、連中の(ミスリード)は始まっていたのだ。とんだ食わせ物である。

 

 けれど、まだ仮説の段階だ。なのでミーフォンは頷かずに、

 

「そうかもしれないし、違うかもしれない。まだあたしの推測の域を出てないから」

 

「そうね。けれど……あたってみる価値はあるかもしれないわ」

 

 ライライのその言葉を引き金に、二人は押し黙った。

 

 しかし、向かい合う両者の口元は緩んでいた。

 

 さっきまでの重苦しい空気もどこへやら。

 

 月光や星明りも、心地よく感じる。

 

 二人はずり落ちかけていた伊達メガネの位置を整えてから、

 

「行きましょう」

 

「そうね。これでダメだったら、今度こそ武館総当たりよ」

 

 満月の見守る下、僅かな希望にすがりつく決意を固めたのだった。

 



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見出されたそれぞれの終点(ゴール)

「ほら、早くしな慧莓(フイメイ)。とっとと行かないと他の子に先越されちまうよ」

 

 廊下をつかつかと早歩きする神桃(シェンタオ)さんの後ろを、ボクはおっかなびっくりな歩調でついていく。

 

 ボクたち二人は今、本館の入り組んだ廊下の中を移動していた。途中途中で直角の曲がり角になっており、壁には同じようなデザインの片開き戸がいくつもついている。これらは全て、客と娼婦の逢瀬のための部屋である。

 

 ボクはまだ本館の中の道順に慣れていない。なので神桃(シェンタオ)さんの後姿に金魚のフンよろしくひっついて歩くしかなかった。 

 

 さらに、ここは逢瀬部屋が集中する場所だ。つまり、耳が付いていれば客と娼婦が"行為"に及ぶ音が否応なしに聞こえてくる。現に今も、そこらじゅうのドアの奥から甘ったるい声や息遣い、そしてリズミカルな(ベッド)の軋み音がこちらまで届いていた。

 

「!?」

 

 ボクは真っ赤になって神桃(シェンタオ)さんの服にしがみつく。情けない話だが、こういった状況には未だに免疫が無い。知識はそれなりに身につけたが、実物を前にするとこうなのである。

 

「なぁに生娘臭い反応してんだい。つーか、歩きにくいから離れな」

 

「お願いです、せめて大広間に着くまでの間こうさせてください…………」

 

「……はぁ。こいつぁ先が思いやられるねぇ」

 

 嘆息が聞こえた。

 

 以降、彼女がボクを袖にすることはなくなった。

 

 二人三脚よろしく神桃(シェンタオ)さんと足並みを合わせ、廊下をあみだくじのようになぞり歩いていく。

 

 壁に取り付けられた行灯が規則正しく並んで廊下を照らしている。明度はさほどでもない。ただ「照らしている」だけのほんのりした明るさ。なんだかぼんやりした気分になりそうだった。

 

 だが、やがてその薄暗さに慣れた目を、強い光が舞い込んで刺激した。

 

 二、三度まばたきして目を調節し、改めて前を見た。

 

 廊下から出てきたその部屋は、壁と天井がこれまでより大きく開けた広間だった。光を発している行灯の数も他の部屋の比ではなく、まるで昼間のように明るい。それによって十分すぎるくらい明らかになっている内壁、椅子やテーブルなどの調度品は、どれも煌めかんばかりに豪華な装いであった。さすがは高級娼館といったところか。

 

 そしてその部屋にいる人の約八割は、誘うような際どい服装の見目麗しい女性だった。彼女たちは数少ない男性の周囲へしなだれかかるようにして集まり、色気のある表情で口々に「あたしはどう?」「買ってよ」「退屈させないわよ」「今晩で百回イカせてあげるわ」などと言っていた。

 

 そう。ここは、客がその日の夜を共にしたい娼婦を選ぶ場所だ。客用の出入り口を入ってすぐの所にこの空間は広がっている。

 

 見ると、来ている男性客は皆等しく立派な装いである。なんというか、お金持ってそうな感じ。

 

 少し考えて、むべなるかな、と思えた。ここは高い女揃いの高級娼館だ。やって来る客層も自然と高給取りに限られる。

 

 そして、その客の中で、一際周囲に群がる娼婦の密度の濃い男が一人。密集する女たちの僅かな隙間から、なんとかその外見を視認することができた。

 

 見た感じの年齢は四十代後半ほど。獅子のタテガミのように逆立った髪に、精力と老獪さを感じさせる厳つい面構え。鼻の下には和製男爵を彷彿とさせる濃い口ひげがたくわえられている。簡素な作りながらも清潔さと高級感に溢れる、紺色の長袖長ズボン。特に襟を詰めて綺麗に着こなされた上着はちょうど良いサイズであり、内包する太い腕と鳩胸を顕示している。

 

 まさしく海千山千の男盛りといった印象。

 

 隣に立つ神桃(シェンタオ)さんも、ボクと全く同じ対象へと視線を送っていた。彼女に張り付いた表情は、緊張と敵意。

 

 そんな様子から、ボクは察した。視線だけを隣の美貌へ移し、

 

「……もしかして」

 

「そうさ――野郎が馬湯煙(マー・タンイェン)だ」

 

 ボクはもう一度、その男を見た。

 

 ……あれが馬湯煙(マー・タンイェン)

 

 今回の計画のターゲット。

 

 ボクが買われないといけない相手。

 

 何が何でも落とさないといけない男。

 

 ――こうして出会う事はずっと覚悟していた。

 

 けれど、いざ本番となってみるとどうだろう。足が陶俑(とうよう)のごとく固まって動かない。呼吸も自然と胸呼吸になっていて少し息苦しい。

 

 緊張しているのだ。

 

 ボクはそんな自分の肝の小ささに腹が立った。どうしてこんな時に限ってアガるんだ。本番にはそこそこ強い自信があったはずなのに。

 

「なに突っ立ってんのよ、このお馬鹿っ。早く行きな。でないと他の奴が買われちまうよっ」

 

 神桃(シェンタオ)さんがボクの脇腹を肘で小突きながら、ボリュームを下げた声でそう叱責してくる。

 

「で……でも……まだ三日しか教わってないですし……まだ準備が不十分な気が……」

 

 いつものボクらしからぬ、見苦しい言い訳が勝手に口元から漏れ出した。

 

 彼女はそんな弱腰なボクの頬っぺたを両手で挟み込み、顔を間近に肉薄させてささやくように言ってきた。

 

「大丈夫よ。今のあんたなら出来る。三日だろうが数時間だろうが関係ない。あんたはこの『傾城(けいせい)』から衣鉢(いはつ)を継いだんだ。成功を保証する理由はそいつで十分さね」

 

 甘い吐息が鼻腔をつつく。鼓舞の言葉が耳の奥を揺さぶる。

 

 ――そこまで言われたら、さすがにジッとしてはいられない。

 

 もしここで棒立ちを続けてタンイェンを逃がしたら、この人はボクに憤り、そして蔑むだろう。「何しにここに来たんだ」と。

 

 どうせ遅かれ早かれこうなるって分かってたんだ。なら、今ぶつからないでどうする。

 

 何より、【吉火証(きっかしょう)】がかかってるんだ。

 

 ボクは腹を括り、背筋を針のように伸ばして意気込んだ。

 

「――はい。行ってきます!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬湯煙(マー・タンイェン)は周囲に広がる情景を見るともなく見ていた。

 

 自分の全方位を囲んでいるのは、密度の濃い美女の林。

 

 豆腐のように白く柔和な肉体の感触が、男の正気を削る女の香りが、五感を圧する。

 

 美女たちは皆等しく、期待と媚びの感情を(かんばせ)に表し、自身の雌としての魅力を淫靡な言葉と仕草で示してきていた。

 

 普通の男の眼から見れば、まさにご馳走攻めだろう。

 

 しかし、幾度もこの風景を目にしているタンイェンからすれば、何も面白みがない。

 

 美しい者に、見慣れてしまったのだ。

 

 さらにその美女の中でも、垢抜けた者とそうでない者の区別を冷静に付けられるようにさえなった。

 

 容姿の美しい者だけになれば独り身はいなくなる、と言っていた者に覚えがあるが、それはあまりにも頭の悪い考え方だ。仮に醜男と醜女が根絶され、美しい者だけが世界に残ったとしても、その美しい者たちの中で再び美醜の格付けが始まるだろう。「天は人の上に人を造らず」という綺麗事は結構だが、人間が自分の上下を作りたがる愚かな生き物であるという事実から目を背けるべきではない。

 

 所詮、ヒトも獣も本質的には一緒なのだ。上下関係や、支配者の君臨する群れを形成せずにはいられない性質。どうあっても平等足り得ない「呪い」にかけられた存在である。

 

 そして自分は【会英市(かいえいし)】、そしてこの【甜松林(てんしょうりん)】というヒトの群れに事実上君臨する雄獅子だ。"購入"した女の連れ帰りは通常認められていないが、自分だけは慣習法的な形でそれを許されている。自分だからこそそんな事がまかり通るし、周囲も文句を言わない。

 

 ここへは久しく来ていなかったが、久々に「趣味」に打ち込みたいという衝動的欲求を抱き、今宵足を運んだ。

 

 ――さて、今日は「どれ」にしようか。

 

 タンイェンは目を凝らし、美肉の林を視線で物色する。

 

 最も懇意にしている用心棒曰く、自分の好む女の種類には偏りがあるとのこと。

 

 なんでも、柔らかそうな雰囲気を放つ女ばかりを買う傾向が強いらしい。

 

 正直、そう言われるまで自覚はしていなかった。自分を一番近くから見ていただけのことはある。

 

 柔らかく、甘い空気を漂わせている女を(とこ)へ叩きつけるように押し倒し、その瑞々しい肢体という名の果肉へ爪を突き立てる。未踏の花畑に泥まみれの靴で踏み入るがごとき所業。思い浮かべるだけで原始的征服感が満たされる光景だ。

 

 そんな事を考えながら、まるで玩具箱を漁る気持ちでひたすら娼婦を探る。

 

 しかし、中々琴線に引っかかる女が見つからない。

 

 全方位へ視線を巡らせても、同じだった。

 

 ――早くも興が醒めそうになる。

 

 しばらく来ないうちに、この店は「品揃え」が悪くなったのではないか。

 

 だが、せっかく労力を使って屋敷からここまで来たのだ。もう少しだけ物色を続けよう。そのためにまずこの周囲の女たちを追い払ってしまおう、と考えた――その時だった。

 

「ちょっ……アンタ、何よ、押さないでよっ」

 

 そんな鬱陶しげな声とともに、女たちの塊の一部にもぞもぞと隙間が広がった。

 

 その隙間は密集する人垣を分け入るように手前へ移動してくる。近づいてくる。

 

 やがて、タンイェンの目の前の人垣の間に割れ目が生じ、

 

「――ぷはっ。や、やっと抜けられたー!」

 

 そこから、一人の少女が湧き出てきた。

 

 ふんわりと広がりを見せた長い髪。大きな瞳に、桜色の口紅が塗られた唇。体の線を奥ゆかしく隠すように着こなされた、大きめの連衣裙(ワンピース)。そして、こちらの鼻腔を優しく撫でる桃の香り。

 

 若干の幼さこそ残るものの、かなりの美少女だった。

 

 以前ここに来た時、このような娘はいなかった。そう断言できる。一度見たら忘れられないくらいの上玉だからだ。

 

 おそらく、新しくこの店に入った娘だろう。

 

 少女はすがるような眼差しをこちらへ向け、言った。

 

「ボ――わたし、慧莓(フイメイ)っていいます! もしよろしければ、わたしを買ってくださいませんかっ?」

 

 何の修飾もされていない、愚直に要求を伝える台詞だった。

 

 タンイェンが返事に窮していると、

 

「ざけんじゃねーわよ、ちんちくりん! アンタ何様っ!? ずっと神桃(シェンタオ)のでかいケツに隠れてたくせに、こんな時だけしゃしゃり出てきやがってよ! ウチらの稼ぎの邪魔すんじゃねーよ、殺すぞ!」

 

 女の一人が少女の胸ぐらを掴み上げ、汚物を吐きかけるように痛罵した。

 

 それに同調し、その他の女も罵詈雑言を浴びせかける。どういうわけか新入りの少女は、他の娼婦から大層嫌われている様子だった。

 

 タンイェンは露骨に眉をひそめた。実に醜い光景だ。こんな様ではせっかくの美貌と装いも台無しである。黙って男に媚びる事のみへ集中していれば可愛げがあるものを。

 

 そう思いつつ、胸ぐらを掴まれて狼狽える少女へ視線を戻す。

 

 それにしても、かなりの美少女だ。わざわざ化粧でめかしこまずとも、光らんばかりの美しさを発揮するとはっきり分かるほどの。

 

 しかし彼女に施されたその装いは、決して邪魔にはならず、生来の美しさをさらに引き立てて高める見事な仕上がりであった。その装いを仕立てた者は、よほど女の魅力の出し方を知り尽くしている人物のようだ。

 

 控えめな桃の香りとともに、綿毛のように柔らかな雰囲気、そしてその中に内包された色気という名の針が伝わってくる。

 

 タンイェンの心の中の「何か」が刺激された。

 

 途端、下腹部から頭頂部へ、ぞわぞわとした高揚感のようなものがせり上がってきた。

 

 ――今回の「材料」は、この娘にしよう。

 

 生唾の嚥下に付随させる形で、そう決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 とっぷりと夜闇が地上を塗りつぶしているが、遮るもの一つない満月が淡く燐光を降らせているおかげで、灯りには困らずに済んだ。

 

 【会英市】の街路を数分歩いた末、二人はその場所へたどり着いた。

 

「……ここね」

 

 眼前にそびえるように構えられた木の門を見て、ミーフォンは誰かに確認を取るように呟いた。

 

 背の高い煉瓦造りの塀によって四角く包囲された、広場と、その奥にある小さな建物。ミーフォンともう片方のライライは、その正門に二人横並びで立っていた。

 

「ええ。町の人から聞いた通りに進めたなら、ここで間違いないはずだわ」

 

 ライライが両腕を組み、静かにそう言った。

 

 ここは、この町で唯一【龍行把(りゅうぎょうは)】を教えているという武館だ。四角形に広がった町の北西側の直角を起点に、南東へ約50(まい)進んだ位置という、なんとも分かりにくく目立ちにくい場所にその建物はあった。盗みを働く陰気な連中にふさわしい立地条件である。

 

 疑惑の眼を一度【奇踪把(きそうは)】から【龍行把】へ変更させた二人は、善は急げとばかりに早速【龍行把】の武館を探し、そしてここまで到着した。そこへ到るまでには対して労力はかからなかった。何せ町の人に道を聞き、教わった方向へ向かって歩くだけだったから。ちなみにこの【会英市】の大通りの中心には、方位磁針をかたどった石像が置いてある――馬湯煙(マー・タンイェン)が作らせたものらしい――ため、方角の割り出しにもさほど難儀せずに済んだ。

 

「まさか盗っ人一味を探して、【道王把(どうおうは)】の連中と関わる事になるとはねぇ。これでこの武館がクロだったら、連中をぶちのめす理由が一つ追加されるわ」

 

 それなりに年季の入った木造の門構えを睨みながら、ミーフォンは指をパキパキと小気味よく鳴らした。

 

 ライライはこちらを少し困ったように見つめて言った。

 

「……そういえば【太極炮捶(たいきょくほうすい)】と【道王把】って、仲が悪いんでしたっけ」

 

 その言葉に、ミーフォンは沈黙という是で答えた。

 

 彼女の言うとおりだ。【太極炮捶】と【道王把】は、流派同士の仲が良くない。

 

 特に【太極炮捶】宗家である(ホン)一族の武館と、【道王把】総本山である【道王山(どうおうさん)】は、永きに渡って険悪な関係を保ち続けている。両流派の過去の門人は、相手方の門人を十数人は殺しているのだ。一門同士の争いがいつ起こってもおかしくないくらいである。

 

 相手が【龍行把】かもしれないと分かった時、ミーフォンのやる気はさらに増した。

 

 もしもこの武館が本当に連中の本拠地だったなら、シンスイから【吉火証】を盗んだ怒りに、さらに先祖代々の怨恨も追加してぶちかましてやろう。そう心に決めた。

 

 ミーフォンとライライは、無言で互いの格好を確認しあう。

 外套のようにゆったりとした長袖、足首にまで丈が届く(スカート)。長い後ろ髪は両耳の下から伸びる二本の三つ編みにまとめられている。伊達眼鏡を着用済み。

 念のため、自分の身なりも再確認。服装は群青色の連衣裙(ワンピース)。髪型は後頭部で束ねられた馬尾巴(ポニーテール)。ライライとお揃いの伊達眼鏡。

 

 ――変装の準備は完了。

 

 いざ、突入。

 

 ミーフォンが前に出て、門を拳でトントンと数回叩く。

 

 叩いてから約十数秒後、門がゆっくりと片開きした。

 

「何か用か?」

 

 開かれた一枚の戸から、見知らぬ男が一人姿を現した。

 

 ミーフォンは少し緊張しつつも、それをおくびにも出さず、にこやかに尋ねた。

 

「あのー、すみませーん。私たちぃ、徐尖(シュー・ジエン)って人に御用があるんですけどー、いらっしゃいますかー?」

 

 いかにも頭の中空っぽな女っぽい喋り方。名演技だと思った。これなら警戒などまずされまい。

 

 そして、今の質問をされた後のこの男の反応が、全てを決する。

 

 ――徐尖(シュー・ジエン)を呼びに行けば、ここが正解。

 ――「今はいない」と答えれば、同じくここが正解。

 ――「誰だそれは?」という反応をされたら、ここは違うということになる。

 

 固唾を呑んで、次の答えを待つ。

 

 ほんの数秒の待ち時間が、数時間にも感じられる気がする。

 

 そして、

 

 

 

「――――今呼んでくるよ。ちょっと待っててくれ」

 

 

 

 ミーフォンは大当たりを引いた。

 

 ここだ。

 ようやく見つけた。

 ここが、リエシンの武館だ。

 一日千秋の思いで待ち続けたこの瞬間が、とうとう訪れた。

 自分の仮説通り、連中は【奇踪把】ではなく【龍行把】だったのだ。

 

 自分を強く拘束する何かから、ようやく解き放たれた気分になった。

 無限に続くかと思っていた迷路から、ようやく脱出できた気分になった。

 ずっと抜け出せなかった泥沼から、ようやく抜け出せた気分になった。

 

 しばらくして、さっきの男が長らく探し求めていた人物、徐尖(シュー・ジエン)を連れてきてくれた。こちらの正体に気づいていないためか、警戒心の欠片も感じられない顔だった。

 

 その顔を、すぐに苦痛で歪めてやる。

 

「――俺が徐尖(シュー・ジエン)だが、何用か?」

 

 真顔でそう訊いてくる盗っ人に対し、ミーフォンはことさら明るく告げた。

 

「はいっ! えっとですねー………………――――――――死ね」

 

 刹那、二つの衝撃が同時に爆ぜた。

 ライライの放った鋭い前蹴りが男の腹をえぐり。

 ミーフォンの振り下ろした鉄槌のごとき頭突き【黒虎出林(こっこしゅつりん)】が、ジエンに"柔らかく"直撃した。

 

 不意打ち同然に蹴りを受けた男は門の奥に広がった広場へ飛んでいき、尻から着地。その後も止まらずゴロゴロと後転していき、やがて広場の最奥にある小さな小屋の外壁に背を預けた。

 ジエンも前述の男同様、背中から大きく吹っ飛んだ。しかし、着地はしっかりと両足で行い、根を張るように地を踏みしめて残りの慣性も殺しきった。飛距離は、前述の男の半分以下だった。

 

 ミーフォンとライライは、武館の中へ足を踏み入れる。

 

 広場にちらほら立つ門人たちの視線は、こちらへ釘付けだった。

 

「……なるほど。どうやら歓迎できる類の客ではないようだ」

 

 ジエンが低く、尖った声で言う。胸の前に出された両腕は、まるで小麦粉の生地を捏ねている途中で止めたかのような手つきだった。

 

 ミーフォンは舌打ちする。おそらく腕の円運動による【化勁(かけい)】で威力を"溶かした"のだ。どうりで手応えがなかったわけだ。

 

「盗っ人風情に歓迎されたくはないわよ」

 

 そう言って、ミーフォンは伊達眼鏡を脱ぎ捨てる。ライライもそれに倣う。

 

 はっきりと露わになったこちらの素顔を見て、ジエンは瞠目した。

 

「まさかお前たちは……李星穂(リー・シンスイ)と一緒にいた……」

 

「ご名答。あんたたちのガメた【吉火証】を返してもらいに来たわ」

 

 それを口にすると、周囲の門人たちの放つ雰囲気がガラリと変わった。突然の闖入者に対する困惑から、流派の敵への警戒心へと心境を変化させたようだ。

 

「なぜ、我々が【奇踪把】ではないと見破れた?」

 

「さあね。教えるの面倒くさいし、そもそも教える義理もないし。とりあえず、とっとと【吉火証】返してくれない? 今ならまだ"少し"痛い目を見せるだけで済ませてあげるわよ」

 

 ジエンの問いをすげなく流し、【吉火証】を寄越せと手のひらを差し出した。

 

「……申し訳ないが、李星穂(リー・シンスイ)にはもうしばらく働いてもらう。リエシンのため、今回の計画を成功させるには、あの少女は欠くべからざる重要な存在だ」

 

 ――どこまでも勝手な事を吐かしやがる。

 

 ミーフォンの心中から、情けの一切が消滅した。

 

「……上等よ。なら、死になさい(・・・・・)

 

 比喩ではなく、その言葉本来の意味のつもりで口にした。

 

 こんなに頭にきたのは、いつ以来だろうか。

 

 敵はこちらの殺気を感じ取ったのか、テキパキと立ち位置を整え、構えを取った。まるで種類の違う花々のごとく、色々な構え方が連なりを見せている。

 

 見ると、二人の入ってきた門がいつの間にか閉じられており、さらにそこまでの道のりを遮る形で門人たちが待ち構えていた。

 

「行くわよ、ライライ。ここまで来てもまだ「穏便に解決を」なんて言わないわよね?」

 

「……ええ。元々こちらは被害者なのだから、取り返そうとする権利があるわ」

 

 二者の意見が今、完全に一致した。

 



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奪われる覚悟

 それはさながら、万華鏡のようであった。

 

 規則も陣形もへったくれも無く散らばった人の群れが、こちらという標的を定めた途端、それを「中心」にして廻り、巡り始めた。

 

 皆等しく円の軌道をなぞるように滑りの良い足運びを行っており、人数の多さに反して、誰ひとりとして他の仲間とぶつかることはない。事前に動き方を打ち合わせていたのかいなかったのか、連中の動きは驚くほど調和が取れている。

 

 そして、円軌道で歩を進める無数の者たちの中から、一人、また一人と絶えず「中心(ひょうてき)」めがけて矢の如く飛び出す。

 

 円と螺旋を技術的重点に置いた、華麗かつ鋭敏な体術の嵐がひっきりなしに吹き荒れる。

 

「くっ!」

 

 敵の一人が放った鋭い抜き手に、ミーフォンは間一髪前腕部をこすらせる。摩擦によって直進する方向が横へ逸れ、抜き手はこちらの頬をかすって空気を穿孔した。

 

 この機を逃すまいとすかさず【震脚(しんきゃく)】で踏み込み、正拳。しかし相手は舞踊のような鮮やかさで全身を旋回、体の位置を小さく横へズラしてこちらの突きを紙一重で流す。そのまま遠心力を持続させ、振り返りざま、鶴頭。

 

 ミーフォンは正拳のために突き出していた腕の肘を曲げる。円弧軌道でやってきた鶴頭が頬を打ち砕く寸前、手前へ起こした前腕部でそれを受け止めた。衝撃が梵鐘のように手根へ響く。

 

 間断を作らず、そのまま受け止めた相手の腕を掴み取る。さらに引き寄せ、渾身の頭突き【黒虎出林(こっこしゅつりん)】でお返しをしてやろうと考えた――矢先、

 

「あがっ――!?」

 

 真横から、大きな「何か」がしたたかにぶち当たった。衝撃の余剰分で跳ね飛ばされるが、どうにか倒れずに姿勢を整える。見ると、肩口を先にして体当たりをし終えた姿勢の、もう一人の敵。

 

 さらに自分が先ほど仕留め損ねた奴は、踊るように回転しながら迅速に後退。こちらの周囲をしつこくぐるぐると周回する仲間たちの中へ戻り、己もまた行動を同じくした。

 

 追いかけようとして、そしてすぐにやめた。あの中に入ったとたん、台風のように怒涛の攻め手を浴びる事は、数分前に痛みという授業料を払って学習済みだ。

 

 しかし、だからといって、この「台風の目」の中が安全であるという意味ではない。

 

 中と外、どちらも等しく地獄だ。

 

 さらに、一人抜けた不足分を補うためとばかりに、周囲を巡る無数の敵の中からまた一人排出された――ミーフォンの背後へ。

 

「しゃらくさい!」

 

 瞬時に片膝を立て、振り向きざま靴裏を突き放った。

 

 しかし、苦し紛れに打ち込んだ蹴り。後ろから来たその男は両前腕の旋回を使って(コロ)の原理で難なく受け流した。蹴り足に宿っていた強い直進力が【化勁(かけい)】によってスッキリと溶け消える。

 

 男はそのまま、こちらの蹴り足を両手で掴み取る。この状態ならこちらを引き寄せることも、足を叩き折る事も容易。

 

 すぐに対処しようとした瞬間、男の姿が突如残像を置き去りにして消えた。かと思えば「ぐえっ」という醜いうめき声が一瞬遅れで耳を打った。

 

 見ると、男はこちらから離れた場所で大の字となっていた。

 

「恩に着るわ!」

 

 それをしてみせた仲間――ライライに一言礼を告げ、ミーフォンは自分の戦いに意識を集中させた。この戦い、悔しいが気を抜ける暇はほとんど見つからない。ライライの状況を細かく確認する余裕などなかった。

 

 その通りとばかりに、次の敵が迫る。

 

 ミーフォンは両拳を脇腹に引き絞り、

 

「シィィィィィィィッ!!」

 

 瞬く間に拳の連打を放ち、眼前を塗りつぶした。

 

 【連珠砲動(れんじゅほうどう)】。一息の間に無数に繰り出される、雨のような連拳。視界が手の肌色一色に染まる。

 

 しかし、拳からは一向に手応えを感じない。

 

 足元を見てハッとする。敵は回転しながら腰を深く沈め、拳打の雨の下をくぐっていたのだ。さらに維持していた遠心力を使い、こちらの足を払おうと弧を描いて蹴りかかってきていた。

 

 ミーフォンは双拳を納め、後方へ跳ぶ。払い蹴りを僅差で回避。

 

 着地した後も気を抜けなかった。敵が即座に腰を上げ、滑るように近づいてきた。

 

 対して、ミーフォンは正拳に【震脚】を付随させて放った。

 

 が、例によって例のごとく。また回転によって、体の位置を微かにズラされた。こちらの放った拳が惜しくも空を切る。

 

 かと思えば、敵は踊るような回転を維持しながらこちらの懐中に滑り込む。

 

 ――危機感を覚えたミーフォンは、急いで臍下丹田(せいかたんでん)に【気】を凝縮させた。

 

「ふっ!」

 

 敵は自身の行う回転運動をさらに圧縮させた。遠心力を残したまま、足底から五体全てへ捻りを加え、拳を真っ直ぐ伸ばす。直前までの遠心力、そして全身の旋回力を込めた拳が、自身もまた螺旋運動を行いながら一直線に疾る。

 

 ――胴体前面への【硬気功(こうきこう)】が完了。それからほとんど間を置かずに螺旋の拳が直撃。

 

「くっ……!」

 

 まさしく間一髪の防御に成功したミーフォンは、衝撃の勢いに身を任せて彼我の距離を大きく開いた。痛みも損傷もない。が、受けた【勁擊(けいげき)】の余波が鋼鉄の胴体表面をビリビリ振動させていた。

 

 ――くそっ、面倒くさい。

 

 周囲に絶えず渦巻き続ける人間の台風。その中から敵が一人、二人、三人と次々吐き出されては、それと同じ人数が人間台風の中へ戻る。吐き出された者は台風の目に立つ自分たちへ接近。回避、【化勁】、攻撃の三種類の行動が、円を基準とした美しい体さばきより次々と繰り出される。

 

 ミーフォンもライライも、すっかり翻弄されていた。

 

 水面を翻る花々を彷彿とさせる動き。芸術的にさえ見えた。

 

 【龍行把(りゅうぎょうは)】はその動きの華麗さゆえ、一部の武法士からは花拳繍腿(かけんしゅうたい)――見た目が華やかなばかりで、実戦的ではない武法――と揶揄されている。

 

 だが、長年いがみ合ってきた流派の者であるミーフォンは知っていた。【龍行把】はその美しい動作の中に狡猾さ、そして鋭さを内包している。まるで(スカート)の下に単刀を隠し持った絶世の美女のごとく。

 

 【龍行把】最大の得意分野、それは「円運動の操作」。

 

 文字通り、自身に円の軌道で働く運動量を自在に拡大、縮小させられる。

 大きな円で回避、翻弄し、

 小さな円――螺旋――で【化勁】、そして貫通力の高い【勁擊】を行う。

 

 さらにこの武法は、集団戦でも無類の強さを発揮する。「円」という動きはその性質上、他の「円」の動きとの調和が取りやすい。武館が違えど【龍行把】同士であるなら、たとえ事前に陣形や役割を組み立てていなくとも、比較的高度な連携を実現することが可能なのだ。そして、それが普段一緒に切磋琢磨している師兄弟同士であったなら……その連携の完成度は推して知るべしだ。

 

 そう――まさに今この時のように。

 

 何度も防がれ、躱され、打たれたミーフォンはたまらず後退。同じく退いたライライと背中同士を付き合わせた。

 

 二人一組の塊の周囲を、【龍行把】たちは絶え間なく周回し続ける。まるで水面下で獲物の隙を伺うサメのように。

 

「……ねえライライ、お姉様との一戦で見せた、あの恐ろしく速い蹴りは使えないの? あれがあれば、こっちの圧勝だと思うんだけど」

 

「【無影脚(むえいきゃく)】のこと? 悪いけど無理よ。あれは【意念法(いねんほう)】の準備に時間がかかるもの。そんな余暇を、彼らが心優しく与えてくれるとは到底思えないわ」

 

「もう、使えないわねっ」

 

「酷いわよ……」

 

 二人して渇いた笑いをこぼす。笑っていられる状況でないことは火を見るより明らかだが、そうしないと戦意が萎えそうだった。

 

 少し早いライライの息遣いが、背中を通して伝わってくる。

 

 連中は一人に対して、一人で当たらない。大体二、三人で当たってくる。一人だけでも面倒くさいのに、それが三人同時にかかってくるのだ。やりにくいったらありゃしない。

 

「ミーフォン、お互いに背中をくっつけたまま戦うというのはどうかしら? そうすれば、後ろを補えると思うのだけど」

 

「おすすめしないわよ。あたしたちそれらしい連携なんかやったことないし、流派も違うし。逆に墓穴るんじゃない?」

 

「やっぱりあなたもそう思う?」

 

 「三人寄れば文殊の知恵」とはいうが、今は二人だ。いい知恵など望むべくもなかったようである。

 

 肝心の一人は、今もあの歓楽街で……。

 

 ――それを考えた瞬間、ミーフォンの中に熱が蘇った。

 

 そうだ。凹んでいる場合じゃない。自分は一刻も早く【吉火証(きっかしょう)】を奪い返さないといけないのだ。そして、それはこいつらを叩きのめさない限りは望めない。

 

 なら、戦おう。たとえ何十人何百人立ちはだかったとしても、一歩も退くことはまかりならない。でないと、大好きなあの人の笑顔を二度と見られなくなる――!

 

「――――ッ!!」

 

 切歯。そして疾駆。

 

 前方から近づいて来る三人のうち、一番右の敵めがけて突っ込む。

 

「ハッ!!」

 

 ――が、肉薄した瞬間、急激に進路を左へ変更。三人のうち一番左を走っていた敵めがけて肘から勢いよく激突した。【震脚】による踏み込みも加えて。

 

「がぁっ――!?」

 

 唐突な進路変更に虚を突かれたそいつは上手く対応しきれず、腹で強力な肘打を甘んじて受けた。紙屑同然に吹っ飛ぶ。

 

 ミーフォンはまだ止まらない。靴裏のかかとで地面を蹴り削り、土を掘り起こして盛大に舞わせた。

 

 残った二人の敵は目を押さえる。そして、その隙にまとめて打ち倒した。一人目は【黒虎出林】の頭突きで、二人目は回し蹴りで。

 

 ――十秒足らずの時間で、三人の相手を下した。

 

 ミーフォンの士気は高揚する。

 

 なんだ、やればできるではないか。

 

 いける。このペースを保っていれば、いつかは終わりが見える。

 

 このまま地道に崩していってやる。

 

 そう考えた時だった。

 

 自分の周囲で戦っていた敵一人が退き、人間台風の中へ戻る。交代とばかりに、新たな一人が台風の目の中へ飛び出してきた。

 

「!」

 

 その人物の姿を見た瞬間、ミーフォンの瞳が敵意で燃え上がった。

 

 リエシンに次いで憎たらしい男、徐尖(シュー・ジエン)だった。

 

「――死なすっ!!」

 

 ミーフォンは撃ち放たれた一矢と化し、憎き標的めがけて突進。

 

 間隔はすぐに潰れきった。

 

「らあっ!」

 

 怒気混じりの気合いとともに、鞭のごとき回し蹴りを放つ。

 

 ジエンはそれを防御しようと腕を構える。受け止めた後、捕まえるつもりだろう。

 

 しかし、回し蹴りが衝突する寸前、ミーフォンは蹴り足の膝を曲げた。足が折りたたまれて半分の長さに減り、ジエンに当たるはずだった向こう脛の部分が消失。こちらの足はジエンの目の前を通り過ぎた。

 

 そして、迅速に軸足を踏み換え、振り向くと同時に後ろ回し蹴り。

 

「ぐっ――」

 

 一回目の蹴りはあくまでも囮。本命である二回目に対して反応の遅れたジエンは回避が間に合わず、上腕部に甘んじて蹴擊を浴びる。

 

 体が軽く横へ跳ぶが、すぐに着地。

 

 しかしその時、すでにミーフォンがジエンの間合いの内へ踏み入っていた。

 

 天を引きずり下ろす気持ちで頭部を一気に急降下。同時に【震脚】による踏み込みで自重を倍加。渾身の頭突き【黒虎出林】がジエンに迫る。

 

 ――が、標的の姿が突如"消失"した。

 

 地を揺るがさんばかりの踏み込みに付随して放たれた頭擊は、見事に空振りする。

 

 地に差した影から上部に存在を認め、見上げる。ジエンはこちらの頭より少し高い位置で浮遊していた。攻撃が当たる寸前に、一気にあの高さまで跳躍したのだ。

 

 浮遊から自由落下へ以降。こちらの右肩を踏み台にしてから、真後ろへと着地した。

 

「このっ!」

 

 背後を取られる事は武人として恥ずべき事。ミーフォンは稲妻にも等しい速さで退歩し、深く腰を沈めつつ重心を移動。踏み込みと沈墜を合わせた勁力を肘一点に集中させた。

 

 ジエンは鞠が弾むような軽やかさで後方へ跳び、ミーフォンの肘鉄を直撃寸前で回避。さらに着地後、再び軽快に跳び上がる。空中で一度宙返りし、大きく距離が離れた位置に降り立つ。

 

 その身のこなしを見て、思わず瞠目する。

 

 足腰の「溜め」をほとんど作らず、まるで風に吹き上げられた紙のごとき速度と身軽さで跳躍できる、驚異的身体能力。

 

 人とは思えないこの動きは――間違いなく【軽身術(けいしんじゅつ)】のそれだ。

 

 つまり、シンスイの【吉火証】を鞄ごとひったくった黒ずくめの男の正体は、こいつだったということ。

 

 それを確信した瞬間、ミーフォンはますますジエンが憎らしくなった。

 

 ――長年敵対してきた流派の人間。

 ――高洌惺(ガオ・リエシン)の仲間。

 ――自分の敬愛する女性から、大切なものを盗んだ実行犯。

 

 ここまで憎む理由が結集した存在は、そうそう目にかかれないのではないだろうか。

 

 おまけに奴を含むここの連中全員、こちらに謝罪しないどころか武力を剥き出しにしてきたのだ。まさしく居直り強盗の態度そのままだ。

 

 敵意という火種にどんどん油が注がれ、大火となっていく。

 

 その大火は、ミーフォンの激情を駆り立てた。奥歯が我知らず強く噛み合わさる。

 

 大地の奥底まで足を埋没させんばかりの力強さで瞬発し、加速。

 

 ジエンとの間合いを再び圧縮するや、重心の乗った後足で地面を踏み切る。生み出した脚力を脊柱のうねりによって上半身まで伝達させ、それが手まで届いた瞬間に【震脚】で重心移動。手首を左手で握りこんだ右拳を、顎下から吐き出すように突き放った。――【白蛇吐心(はくじゃとしん)】。足と脊柱の力を手まで伝達させ、それを【震脚】の踏み込みとともに放つ強力な正拳。勁力のみの威力もかなりのものだが、打つ際には両腕と胴体で三角州の関係を形作るため、勁力はその頂点にあたる拳へと十割集まる。

 

 大きな(ちから)のこもった小さな拳。当たれば決め手に化けるであろう【太極炮捶(たいきょくほうすい)】有数の剛拳が、ジエンめがけて空気の膜を破って突き進む。

 

 ――しかし、【龍行把】は受け手に秀でた武法。攻める際にはよく考えないと、簡単に足元を掬われる。

 

 それを忘れ、激情に身を任せたツケは大きかった。

 

 結果として言えば、【白蛇吐心】はジエンに当たりこそした。

 

 しかし、やはり手応えは皆無だった。なぜなら、ミーフォンの強打を手で受け止めるや否や――その力を利用して自身を急回転させたからだ。まるで水流を受けて回りだす水車のように。

 

 そして、ジエンはその回転力をそのまま利用し、拳を(ハンマー)よろしく叩き込んできた。

 

「えがっ――――!!!」

 

 凄まじい衝撃と痛覚に右の二の腕を殴られ、一瞬、呼吸が止まりそうになる。

 

 ミーフォンの小柄な体が病葉(わくらば)のように宙を舞う。肩口から落下してからもしばらく勢いのまま転がり、ようやく横寝の姿勢で停止した。

 

「ミーフォン! ――っく! このっ!?」

 

 ライライはこちらを案じて声を荒げるが、あっちもすぐに助けに入れる状況ではないらしい。翻弄されているような声質で分かる。

 

「ぐっっ……!!」

 

 支援は望めないと悟ったミーフォンは、今なお残留する激痛を堪え、可能な限り迅速に立ち上がった。

 

 痛みを訴えるのは、先ほど打たれた右の上腕部。優れた衝撃分散機能を持つ武法士の骨格でなかったら、胸骨もろとも砕かれていたに違いない。

 

 衝撃の苛烈さを思い出して恐怖したかのように、ガクガクと震える右腕。

 

 もし本当にそうなら、皮肉なものだ。なぜならその衝撃を作り出したのは、ほかならぬ"己自身"なのだから。

 

 先ほどジエンが使った技は【借力盤打(しゃくりきばんだ)】。相手の打撃力を利用して自身を回転させ、その遠心力を用いて打ち返す技だ。その打撃の威力は、回転に利用した相手の攻撃力に比例する。【龍行把】に伝わる高等技術である。

 

 つまるところ、ミーフォンは自分で自分を殴ったのだ。

 

 今更ながら後悔の念が募り、歯噛みする。激情を腹の中へ呑み込み、冷静な態度で戦いに徹するべきだったのだ。

 

 しかし覆水盆に返らず。手負いの有様である自分に対して、ジエンは無傷そのものだった。

 

 ミーフォンは睨みをきかせ、ふと浮かんだ素朴な疑問をぶつけた。

 

「……あんた、なかなかやるじゃない。それだけの実力があるってのに、なんでお姉様を利用しようなんて考えたのよ」

 

「……馬湯煙(マー・タンイェン)の用心棒の雑魚だけなら、まだなんとかできよう。だがあの屋敷には一人、とんでもない怪物がいる。奴には、我々全員でかかったとしても勝ち目はない。だからこそ、李星穂(リー・シンスイ)の力が必要なのだ」

 

 ――とんでもない怪物?

 

 その代名詞についてもっと詳しく訊きたかったが、そんな暇はなかった。ジエンが再び距離を急激に詰めてきたからだ。

 

 拳が勝敗を決する間合いとなるや、再び打ち合いが始まる。

 

 攻撃。防御。反撃。回避。反撃、防御、反撃、【化勁】、攻撃攻撃攻撃防御防御防御回避反撃防御反撃【化勁】反撃【化勁】攻撃攻撃攻撃攻撃攻撃攻撃回避回避回避回避回避回避――

 

 数えるのも嫌になるほどの、怒涛のやり取り。

 

 勢いは五分五分――ではない。むしろ、その方がまだマシだった。先ほどの攻撃の痛みがまだ尾を引いていて、ミーフォンの動きは徐々にだがどうしても鈍ってきていた。蜘蛛の巣から抜け出そうと懸命にもがく蝶の心境である。

 

 このままではマズイ。いずれ押しつぶされる。

 

 仮にジエンを退けたとしても、他にもまだまだたくさん敵はいる。今の状況が長引けば体力的にもたない。数の暴力の餌食となる未来は避けようがない。

 

 何か、この絶望的状況を打破できる方法はないのか――!

 

 その時。

 

 

 

「――こんばんはー。兄さんにお弁当届けに来ましたー」

 

 

 

 出入り口が突然開き、この緊迫した状況に似合わないのんびりした声が聞こえてきた。

 

 開かれた戸から姿を現したのは、一人の長い黒髪の少女だった。見た感じ、歳は自分と同じくらいか、一つ上くらいだろう。おっとりとした雰囲気を放っており、ますます今のこの状況にふさわしくなかった。

 

 少女は何事もない日常を送るにふさわしい普通の表情で入ってきたが、今まさに繰り広げられている大立ち回りを目にした瞬間、凍りついた。

 

 彼女に対して最初に声を発したのは、ジエンだった。

 

「来るんじゃない! 今は外へ出ていろ!」

 

 沈着な物腰を崩さないジエンには珍しい、焦りを帯びた剣幕と声。

 

 途端、少女は表情を解凍させ、オロオロと狼狽え始めた。

 

「え、ええ!? どういうことジエン兄さん!? それより、その二人は誰っ? なんで皆戦ってるの!? ああもう、いったい何がどうなってるの!?」

 

 ――兄さん。

 

 あの娘は、確かにそう口にした。

 

 つまり、ジエンの妹。

 

 ……それを悟った瞬間、ミーフォンの脳裏にある策が浮かんだ。

 

 そう。とても悪魔的な策が。

 

 正直、良心が痛む。だが、この場を乗り切るには最善の策だった。

 

 ――苦悩が続いたのは約一秒半。即断といってよい時間だ。

 

 ミーフォンは、ジエンがよそ見をして手を止めている隙を利用した。隠し持っていた連結式三節棍を襟元の背中側から抜き出し、慣れた手つきで迅速に組み上げる。鎖で繋がれた三本の短棒は、あっという間にミーフォンの身長より少し長い一本の棍へと姿を変えた。

 

 左手で末端を、右手で棍の中心近くを握り締め、走り出した。

 

 向かうは――ジエンの妹がいる入口!

 

「っ! 行かせん!」

 

 こちらの意図を早々に察したのだろう。ジエンは必死な様子で追随してくる。

 

「おあっ!?」

 

 が、途中で背中に後ろから吹っ飛んできた仲間がぶつかり、巻き添えを食う形で倒れ伏した。倒れた二人の延長線上を走りながら見ると、三人の敵に一人で応戦するライライの姿。それを見て、蹴散らした敵がこっちに飛んできたのだと悟った。たまたまなのだろうが、嬉しい偶然だ。

 

 ミーフォンはひたすら全力で疾駆した。途中で妨害してくる敵のことごとくを躱し、蹴散らしながら、一心不乱に直進を続けた。

 

 そしてようやく、周囲を取り囲んで廻り巡る人間台風の前へと到達。その向こう側には、今なお状況が飲み込めずに狼狽を続けるジエンの妹の姿。

 

 それを視界に認めると、ミーフォンは棍を地面に思い切り突き立てる。深く刺さったのを確認すると、垂直方向に伸びた棍の先端へ素早く跳び乗り、足を乗せる。

 

 そして、そこを足場にし――跳躍した。

 

 足腰の【(きん)】の力を総動員させて跳び上がり、地上から3(まい)を優に超える宙を放物線の軌道で舞う。

 

 眼下には、あれだけ自分を悩ませてきた人間台風の奔流。その「人だかり」が、前から後へと流れていく。鳥になった気分であった。地上で起きているあまねく事が、まるで他人事のように感じる。鳥は皆こんな心境で、人を俯瞰しているのだろうか。

 

 だが、鳥の気持ちを味わう時間は終わりだ。体に働く慣性の軌道が、放物線の下りの部分に差し掛かった。引力に導かれるまま高度が下がっていく。

 

 やがてミーフォンは着地。そこは、人間台風を超えてすぐそこの位置であった。ギリギリながら、飛び越えに成功したようである。

 

 前方にはジエンの妹が棒立ちしている。

 

 彼女へ風のように近づき、そして背後に回り込む。

 

「きゃあっ!」

 

 連衣裙(ワンピース)の裾をめくり上げ、右太腿に隠していた匕首(ひしゅ)を右手で抜き出す。左腕で少女の体を強く抱き込み、匕首の刃をその喉元へ突きつける。

 

 

 

「全員動くなっっ!!!」

 

 

 

 落雷のごとき一喝。

 

 ピタリと全員の動きが止まり、水を打ったように静まり返った。

 

 全員の視線を一身に浴びながら、ミーフォンはさらに威勢良く言った。

 

「これが見える!? とっととお姉様からガメた【吉火証】を返しなっ!! さもないとこの子の首がパックリといくわよっ!!」

 

 チキンッ、と刃をさらに首へ近づけ、匕首の存在を強調する。

 

 武館全体が騒然とする。

 

「ちょっ、ミーフォン!? 一体何を!?」

 

 ライライが何か言っているが、今はシカトする。

 

「どうすんの!? さっさと選びなさい!! 素直に【吉火証】を渡す!? それともこの子を見捨ててでも【吉火証】を守る!? どっちでも構わないよ!! さあ、今夜のご注文はどっち!?」

 

 少女の背丈はミーフォンより少し高いので、表情は見えない。だがこちらへ伝わってくる体の震えから、怯えていることが容易に分かった。

 

 【龍行把】の者たちから受ける眼差しの色は様々だ。焦り、恐れ、敵意、殺意。だがいずれも負の感情という面では共通していた。

 

 当然というべきか、ジエンはすがるような形相と口調で訴えてきた。最初に抱いた冷静沈着な印象などとうに形無しであった。

 

「や、やめろ! 妹は武法士じゃないんだ!」

 

「へー、武法士じゃないんだ? そりゃいいこと聞いたわ。だったら【硬気功】は使えないってことね。喉笛かっ切るのも簡単で助かるわー」

 

 煽るように言う。ことさらに嗜虐的な笑みを浮かべ、刃の腹で人質の首筋を何度も軽く叩く。少女の肩から伝わる震えが強くなった。

 

 ジエンの顔がさらに蒼白具合を増した。今、妹はどんな顔をしているのだろうか。

 

「な、なぜだ!? なぜ妹を狙う!? 妹は――」

 

 関係ないだろう――そう続けようとするのを遮る形で、ミーフォンは言った。

 

 

 

「黙れ、豚野郎」

 

 

 

 口に溜まった汚物を吐き出すような語調。

 

「妹は関係ないだって? 寝言は起きたまま言うもんじゃないわ。その理屈が通るなら、あんた達が李星穂(リー・シンスイ)――お姉様にやった事は何? お姉様だって、元々あんた達の事情になんか全く関係のない、赤の他人だったのよ? それを腐った手段で従わせて利用してるのはどこのどいつ? 自分の投げた手裏剣を自分で食らってんじゃないわよ」

 

 まったくもって反吐が出る思いだった。

 

 相手から何かを奪っておいて、自分は奪われたくないなどと平気で吐かしているのだから。

 

 この男のツラの皮は、【太極炮捶】の技術書並みに分厚い。

 

「あんたは誰かから何かを奪っておいて、その奪った相手に「自分を憎むな」と?

 いじめられた奴に、「いじめた奴を憎むな」って?

 夫を寝取られた女に、「寝取った相手を憎むな」って?

 不当に家族を殺された人間に、「仇を憎むな」って?

 侵略された国の民に、「侵略した国を憎むな」って?

 ――――甘えんじゃねーよ、ハゲ」

 

 最後の一言は、込められる限りの怒りを込めて放った。

 

 ジエンは蒼白した顔のまま、凍りついたように表情を硬直させていた。

 

 ミーフォンは、ダメ押しにもう一言告げた。

 

「良い機会だから教えてやるわ。――奪われる覚悟の無い奴に、他人から何かを奪う資格なんか微塵もありゃしないのよ。【吉火証】がないと、お姉様の武法士生命は終わったも同然。それを返さないっていうなら……お姉様から未来を奪おうっていうなら、あたしは容赦無くこの子の喉笛を切り裂くわ。さあ、これが最後通告よ。――【吉火証】を返しなさい」

 

 言いたいこと、言うべきことは全て言い尽くした。

 

 あとは、相手方の返答次第。

 

 さっきまでの白熱ぶりが、嘘のように静かになっていた。しかし、どこか圧力のある、緊迫した静けさだった。

 

 やがてジエンは、

 

「………………要求を、呑む。だから……妹を離してくれ……」

 

 生気が抜けきったようにうなだれ、かすれた声でそう言った。

 

 ミーフォンはなおも慈悲無く言い放つ。

 

「妹を返すのは【吉火証】を持ってきてからよ。あと、持ってくるなら可及的速やかになさい。あんまり時間をかけると(はかりごと)があると見なすから、そこの所よろしく」

 

「わ、分かった……」

 

 言うや、ジエンは気だるげに立ち上がり、この広場の奥にある小屋へ向かって歩き出した。

 

 他の師兄弟も、何も言わなかった。それを見て、ジエンの行動がこの一門の総意であると確信できた。

 

 ミーフォンはおくびにも出さず、内心で安堵した。

 

 良かった。引き下がってくれて。

 

 いくら自分でも、戦う力の無い人間を殺したくはなかったから。

 

 師兄弟であるリエシンのために汚れ役を背負うほど、絆の深い一門だ。十中八九応じるとは思っていたが、万が一という事もあった。なので、連中の譲歩が奇跡のようにさえ思える。

 

 ライライを見る。こちらの真意を知ってか知らずか、呆れたように笑っていた。

 

 

 

 

 ――【吉火証】がその手に戻るまでの間、ミーフォンは無慈悲な悪人を演じ続けたのだった。

 



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揺らめき

 前略、父様に母様に姉様――ボクは本日、春を(ひさ)ぎました。

 

 とまあ、大げさな言い方こそしてみたが、つまるところボクは無事に馬湯煙(マー・タンイェン)に買われる事となったのである。

 

 ボクの値段は娼館のどの女よりも安かった。けれどタンイェンは、必要額の数倍以上の硬貨が入った袋をボンと店長に手渡し「面倒だ。釣りはいらん」と一言。なんと気前が良いことか。さすがは金持ち。

 

 その後、やはりというべきか、タンイェンは買った娼婦(ボク)を店で味わうことはせず、自分の住んでいる屋敷へと連れて行く、と言い出した。彼の発言は本当に鶴の一声のようで、店長は本来認められないはずの娼婦のお持ち帰りを少しも反論せずに承諾。ボクはタンイェンに手を引かれる形で連れて行かれた。

 

 【甜松林(てんしょうりん)】を出てすぐの所に、宮廷御用達かと勘違いしそうなほど派手な装飾が施された馬車が一台停まっていた。車両の中は、三人座りの席が向かい合う形で二つ配置された構造。前もって席で待機していた一人の用心棒の男、そしてボクとタンイェンを乗せ、馬車は山道を快走した。

 

 馬車に揺られること数分後、何事もなく屋敷へ到着した。

 

 車両を下りて最初に目に付いたのは、まさしく金殿玉楼という言葉が似合う豪壮な屋敷だった。乗ってきた馬車同様、贅の限りを尽くしたような仰々しい外装。しかし、無駄に豪華なだけでなく、警備もしっかりしていた。屋敷と敷地を高い柵で囲っているのは言うに及ばず、正門と柵の周囲には、武法士の身体的特徴を持った男たちが規則的な道順で巡回していた。なるほど、あれでは正攻法で入るのも難しいだろう。リエシンたちが搦め手を使おうと考えるのも分かるかもしれない。

 

 ボクはその厳重な警備を幽霊のようにすんなりと抜け、正門から屋敷の敷地内へ入った。さらに両開きの正面入口を抜けて、とうとう屋敷の中へと足を踏み入れる。

 

 途端、視界いっぱいを占める華美な内装にボクはひっくり返りそうになった。うちの屋敷でもここまでの豪華さはない。

 

 タンイェンの後に続き、踏むことがおこがましく感じるほど立派な絨毯の敷かれた床を歩く。

 

 到着した部屋は当然ながら、寝室。

 

 ダブルどころか三、四人並んで眠れそうなベッドが陣取るその部屋。タンイェンはベッドの傍らに設置された大きな行灯へ火を灯すと、ボクの両肩を掴み、そのままベッドの上へ力強く押し倒した。

 

「うわ……」

 

 バフッという柔らかい感触を背中に感じるとともに、仰向けの姿勢となった。

 

 男の無骨な指が柔肌に食い込む。

 

 すぐ目の前にある獅子のたてがみのような髪をした中年の顔は、まだ欲情や興奮にはそれほど染まっていなかった。眼からもこちらを品定めする冷静な光が感じられ、がっついた様子がない。おそらく、こういった事に慣れているのだろう。この遊び人め。

 

「……なるほど。肉付きは貧相、顔つきからも幼さが抜けきっていない。だがそれでも、傾国の美貌となる将来を約束されたも同然だと分かる。肌もなめらかで瑞々しい」

 

 こちらを組み敷いたまま、タンイェンはそんなことを口にした。

 

 まるで料理バトル漫画の審判キャラを思わせる細やかな解説に対し、ボクはなんと返したらいいか分からず、無言の愛想笑いを浮かべる。

 

 が、眼前の中年男の眼差しが突如鋭くなった。眉間の皺がそれに付随して数本増える。

 

「しかし気になるのは、このやけに健康そうな体の発達具合だ。多くの娼婦に見られる、不健康なまでの色白さが無い。程よく日に焼かれた素肌。それに、体の柔らかさを失わない程度に発達したこの筋肉。……小娘、貴様体を動かす趣味でもあるのか?」

 

 その的を射た指摘に、内心でぎょっとした。マズイ、武法士だとバレたら少し面倒だ。警戒されるかもしれない。

 

 ボクは笑った顔を変えぬまま頭をフル回転させ、すみやかに言い訳を考えた。

 

「え、えーっと……それは多分、よく空き時間に仕事仲間と蹴鞠をやってたからかと……」

 

「仕事仲間だと? 貴様、他の娼婦どもから大層嫌われていたではないか。仲間などいたのか?」

 

 心中の焦りがさらに増す。そうだった。ボクは神桃(シェンタオ)さんの庇護で守られているせいで、他の娼婦から反感と嫉妬を買っているのだ。そんな奴が仲間とか言っても、説得力に欠けるかもしれない。

 

「……フン。まあ良い、詮無き事だ」

 

 タンイェンはどうでも良さそうに話題を打ち切った。

 

 ボクはおくびにも出さぬまま、心の中で深く安堵する。危ない危ない、危うくボロが出そうになった。

 

「貴様に金を出したのは、このような世間話の相手をしてもらうためではない。用があるのは、あくまでその躰」

 

 言うや、タンイェンはこちらの太腿に触れようとしてきた。

 

「あ、ちょ、ちょっとお待ちを!」

 

 ボクは慌ててそう声を張り上げた。

 

 太腿まであと薄皮一枚という間隔で、大きく皮の厚い手の進行が止まった。

 

「あの、すみません。始める前に……その…………お花を摘みに……行きたいのですが……ダメ、でしょうか……?」

 

 恥じらうような仕草と声色を作り、ボクはそう訴えた。

 

 対して、タンイェンはあからさまに顔をしかめた。お預けを食らったのだから無理もない。

 

 しかし、やがて仕方ないとばかりにため息をつきながらボクを離し、体を起こした。

 

「……行ってこい。厠所(べんじょ)の場所はこの屋敷を巡回する用心棒にでも聞け」

 

「あ、ありがとうございます。すみません」

 

 申し訳なさそうに小さく首肯するとともに、心の中でガッツポーズ。これで堂々と屋敷の中を単独で歩ける。

 

 あとはもう一つ、手を打つのみだ。

 

 ボクは巨大なベッドから下りると、ワンピースの左太腿辺りにある小さなポケットを探り、

 

「あ、あと、ボ……わたしが帰ってくるまでの間、これを焚いておくといいかもしれないです」

 

 取り出したモノを、タンイェンに手渡した。

 

 それは、円錐状に固められた赤黒いお香一つ。

 

「……これはまさか、『枯木逢春塔(こぼくほうしゅんとう)』か?」

 

「よくご存知で。これを焚いて生まれた香りを嗅ぐと、子孫を残す本能が強く刺激され、性的興奮が爆発的に昂まります。言うなれば「吸う媚薬」。どんな不能もたちまち雄と化し、どんな聖女も雌に堕ちるといわれているスグレモノです」

 

「言われんでも知ってる。しかし、これはかなり高価な代物のはずだ。なぜ『四級』程度の貴様が持っている? 娼館の倉庫から盗んだのではあるまいな」

 

「まさか。これは『傾城(けいせい)』である神桃(シェンタオ)さんからのご厚意で頂いたものです。ボ……わたしのような安い女にはもったいない貴重な品。本来なら大切にしてしかるべきでしょうが、タンイェン様に買っていただかれるというせっかくの僥倖。ここで使わない手はありません。いえ、むしろ今この時のために、この『枯木逢春塔』は渡されたのだと強く胸に思っております」

 

 それらしい説明をしつつ、相手のメンツもそれとなく立てておく。

 

 タンイェンは少しの間手元の『枯木逢春塔』を眺めた後、やがて口端を吊り上げた。

 

「ククク、用意が良いじゃないか。よかろう。ならば貴様が戻るまでの間、コレで気持ちを高めておくとしようか」

 

「はい……ふふふ。今夜はドロドロに溶けるくらい愛し合いましょうね?」

 

 ボクは蠱惑的な声色でささやくように言った。絡みつくような流し目をタンイェンに向け、奥ゆかしさと色気を帯びた笑みを作って見せつける。神桃(シェンタオ)さんから教わった笑い方だ。喉を鳴らす音が聞こえたところを見ると、どうやらちゃんと効果はあったようであることがわかる。

 

 脱いでいた刺繍入りの靴に再び足を通した。

 

 背を少し丸め、さっき入ってきた戸まで爪先でひたひたと歩く。一歩踏み出すたびに腰を少し落とす、まるでコソ泥のような歩き方。

 

「娼館を出た時からずっと気になっていたが、なんだ、その変な歩き方は?」

 

 タンイェンからの声が、素朴な疑問という形で背中に当てられる。

 

 ボクはその指摘に対する動揺を隠しながら、振り向いて答えた。

 

「あはは……今日はちょっとだけ気分が悪くて。生理が近いのかもしれませんね」

 

 曖昧な笑みを浮かべつつドアとの距離を縮め、キィ、と控えめな手つきで開く。

 

 ボクは小さく開放されたドアの影に身を隠し、顔だけひょっこりと出して言った。

 

「では、なるべく速やかに済ませますので、どうかお待ちください」

 

 ゆっくりと閉める。閉じきると同時に、ガチャッ、という音を確認。

 

 そのドアがあったのは、左右に真っ直ぐ伸びた廊下の真ん中の壁だった。左右ともに壁で行き止まり、そこからまた左右への分かれ道という丁字状の通路になっている。屋敷の廊下の天井にいくつも吊るされている真球形の行灯は、曲がり角の真上、それぞれの一本道の真ん中という決まった配置で灯り、屋敷の中をほんのりと照らしている。

 

 今いる一本道の左右に人の存在が無いことを確認すると、ボクは胸の前でグッと拳を握り締めた。

 

 ――よっしゃ。うまくいったぞ。

 

 うまいこと、この部屋から抜け出せた。あとはこっそりこの屋敷を探るだけ。

 

 それにさっきの口ぶりからして、タンイェンは間違いなくあのお香を使ってくれることだろう。

 

 実は、タンイェンに渡したのは『枯木逢春塔』そっくりに色付けした、全く違うお香だ。

 名を『円寂塔(えんじゃくとう)』。焚くと強い睡眠衝動を誘発する香りを発し、数回嗅いだだけでぐっすり眠れる。神桃(シェンタオ)さんから貰ったものである。

 

 ちなみにこれも結構な高級品。その上、医師や薬師などの医療関係職以外は所持や購入を禁じられている代物。これを悪用すれば睡眠強盗も睡眠姦も容易いからである。どうして彼女がこんなものを所持していたのかは、あえて問うまい。

 

 とにかく、一度アレが焚かれれば、もはや爆睡コースは避けられない。タンイェンにはこの屋敷を調べ終わるまでの間、いい夢を見ていてもらおう。

 

 ――さて。ここからが本番だ。

 

 屋敷への侵入は成功した。

 

 そして、その中を歩き回るための口実もある。

 

 後は、瓔火(インフォ)さんがいるかどうかを深く探るのみ。

 

 牙城真っ只中での、ボクの孤軍奮闘が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ………!」

 

 高洌惺(ガオ・リエシン)は、真夜中の林道をひたすらに走っていた。

 

 周囲には誰一人歩いていない。自分の足が地を踏む音、そして間隔の短い息遣いばかりが耳を揺さぶる。

 

 禿げ上がった土の道の両脇には鬱蒼とした林が広がっており、奥深くまで続いている。満月の降らす燐光は、自分とその走る道を優しく照らしてくれているが、広葉樹の枝葉がいくつも重なり合っているせいで林の中にまでは届いていなかった。林の奥は途中から草木の像が闇に塗りつぶされており、深淵を連想させる。時折その奥から亡者の呻きのような空気の通過音、野鳥の絶叫などが聞こえてくる。

 

 普段ならそんな情景を不気味に思い、足並みが控えめになっていたかもしれない。

 

 しかし、今のリエシンにそんな余裕など微塵もなかった。

 

 もう結構走っているはずなのに、胸苦しさすら気にならない。

 

 その細い足は、ひたすら馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷がある方角へと足跡を刻んでいた。

 

 ――もうすぐだ! もうすぐお母さんに会える!

 

 タンイェンに連れて行かれる李星穂(リー・シンスイ)の姿を木陰から見た瞬間、リエシンは今回の計画の結末が見えた気がした。

 

 シンスイは見事にやってのけたのだ。タンイェンに気に入られたのだ。

 

 今頃、彼女は屋敷周囲の警備を楽々とすり抜け、見事に屋敷への侵入を果たしていることだろう。

 

 自分がやりたくても出来なかった事を、あの少女はやってのけたのだ。

 

 正直、考えた当初はかなり無理のある作戦だと思った。しかしそれは今、成功という結果を出しつつある。まさに嬉しい誤算(?)だ。

 

 これであの屋敷の中に母がいるかどうか、調べることができる。

 

 ――はっきり言って、今自分がタンイェンの屋敷へ行っても、できる事は何一つ存在しない。

 

 けど、もうすぐ母の事が分かるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなった。その気持ちが、母から賜った二足を急がせる原動力となったのだ。

 

 屋敷の中に母がいるか否かは、まだ定かではない。

 

 けど、いるかもしれないのだ。

 

 もしかすると、地下牢みたいな場所があって、そこに閉じ込められているのかもしれない。そして、そこへ入るための入口は巧妙な障眼法(カムフラージュ)が施されているため、治安局の家宅捜索でも見つからなかった――それがリエシンの立てた仮説だ。

 

 地下牢なんかに閉じ込める理由? 知るもんか。考えるだけ時間の無駄だ。貧乏人の自分に金持ちの頭の中など解せるわけがない。母がいるか否か、その二択以外に興味など無い。

 

 そんな風に仮説を展開させる一方で、リエシンはそれとは違う別の仮説も考えていた。

 

 一番そうであって欲しくない、掛け値なしに最悪の刷本(シナリオ)

 

 それは、母がすでに死――――

 

「っ! 違う、違う! そんなことない!」

 

 リエシンは自身の抱いた残酷な思考を誤魔化すように、足運びを早めた。

 

 そんなことを考えたら、自分は今まで何をしてきたというのだ。

 

 最低最悪な手段に手を染めてまでしようとした行為が、すべて水泡に帰してしまう。

 

 リエシンは必死にかぶりを振るが、一度芽生えたその最悪な考えは、水垢のごとく脳裏にこびりついてなかなか離れてくれなかった。

 

 大丈夫。お母さんは生きてる。絶対に生きてる。盲目的でもいいから今は信じるんだ――懸命に心を強く持つ。

 

 そうして夜道を一心不乱に駆けること数分後。

 

 今まで夜闇に慣れきっていた瞳に微かながら光が当てられ、リエシンは思わず我に返る。足が止まる。

 

 森林地帯の一部をごっそり削り取ったかのような、広大な土地。そこで山のごとくそびえ建つ館の窓が、煌々と光っていた。

 

 下階へ下るごとに広くなっていく形の、豪壮たる三階建ての屋敷。リエシンの視界を九割を占めるほど大きなソレは、背が高く頂点が矛先のごとく尖った鉄柵によって囲まれている。そしてその周囲を、何人もの武法士が徘徊していた。

 

 リエシンはハッとし、見つかる前に慌てて手近な木の陰に飛び込んだ。自分はすでにあの連中に顔が割れている。ここで見つかったら面倒な事になるかもしれない。ここは身を隠すのが吉。

 

 そこで少しだけ冷静さが戻る。そして思い出したように、長い走行による息苦しさが襲ってきた。

 

「っ……はあっ、はあっ、はあっ……」

 

 胸を押さえ、間隔の短い呼吸を小さく繰り返す。

 

 やがて呼吸も落ち着き、頭に昇った熱も冷める。

 

 顔を出しすぎないように気を付けつつ、木陰から馬鹿でかい屋敷の様子を伺う。

 

 いつ見ても華美さが過ぎていて、目が痛くなりそうな建物だった。巨大な屋敷は言うに及ばず、敷地に点在する小さな離れの小屋、正門から真っ直ぐ屋敷の入口へ敷かれた石畳、その石畳の端に等間隔でいくつか並んだ灯篭、果てには敷地全体を四角く囲う鉄柵に到るまで、必ず何かしら華やかな意匠が施されている。しかも鉄柵の四隅には青龍・白虎・朱雀・玄武を象った漢白玉(かんぱくぎょく)製の彫像が立っており、それに囲まれた敷地のほぼ中心位置に屋敷は鎮座している。屋敷の屋根の随所には、四神の長たる黄龍を模した小さな彫像が立てられていた。天子でも気取りたいのだろうか。――いずれにせよ、家主の性格が痛いくらいに垣間見える外装だった。

 

 ……「黄龍」という単語から、今年の【黄龍賽(こうりゅうさい)】の事を連想した。

 

 さらに、その本戦にめでたく出場決定したはずの少女、李星穂(リー・シンスイ)の事も。

 

 彼女は今、あの悪趣味な屋敷の中だ。

 

 どうしているだろうか。

 

 上手いこと屋敷の調査を進めているだろうか?

 

 それとも、タンイェンに食べられてしまっただろうか?

 

 ――いや。そんなことを考えても仕方がない。身を案じたりする資格など自分には一欠片たりともありはしない。

 

 どういう結果になったとしても、自分が最低下劣な方法で彼女を従わせた事実は変わらないのだから。

 

 しかし、だからといって後悔はしていない。自分は、自分の考えうる最大の策を講じたまでのこと。

 

 その計画に巻き込まれたシンスイがどういう目に遭うのかを想像しなかったわけではないし、巻き込む事への心苦しさもあった。けれど、自分は赤の他人より、肉親を取ることを選んだ。それしか方法がないのだから仕方がなかった。

 

 ……そう。状況や境遇に恵まれない者は、常に苦肉の策を強いられるものだ。

 

 食べられる物が皆無な状況で生き延びるには、飢えて死んだ他の仲間の死肉すら食わないといけない場合もある。

 水一滴も無い状況で生き延びるには、自身の出した尿すら飲まないといけない場合もある。

 ――何の技能も無い女が多額の借金を返しきり、なおかつ一人娘を養うためには、自身の体を売らなければいけない場合もある。

 

 そうだ。だから母は借金を返し終えた後も、娼婦をやめなかったのだ。いや、やめられなかったのだ。母には、それしか能がなかったのだから。

 

 けれど、リエシンはその事に感謝していた。その気になれば口減らしのために、自分を旅芸人の一座にでも売り飛ばす事だって出来たはずだ。しかし母は自分を見捨てず、身を粉にして育ててくれた。感謝の念を抱きこそすれ、何を不満に思うことがある?

 

 何より――ままならない世の中の辛苦を、若いうちから娘に教え込んでくれたのだ。

 

 自分には昔、医者になって多くの人を助けたいという夢があった。世間を知らぬ幼子特有の考え無しな夢だったが、それでも確かにそういう「夢」を持っていた。

 

 しかし成長するにしたがい、思い知った。自分の置かれた貧しい状況では、医学薬学を学ぶための金を工面することなど不可能なのだと。抱いたその「夢」は「夢」でしか無いのだと。生きるためには、「夢」にしがみつく事をやめねばならないのだと。

 

 理不尽な状況で目的を果たすための手段を、母はその生き様をもって教えてくれたのだ。

 

 だからこそ、善悪にこだわらず、甘さを捨てられる。

 

 こんな最低なやり方すら、冷笑混じりで行える。

 

 自分の大切なもののために、平気な顔して他人を踏み台に出来る。

 

 そうだ。今更悪びれるな。笑え。笑うんだ。最後まで笑いながらシンスイを使役しろ。リエシンは自身の表情筋に必死に指令を出す。

 

 カチコチにこわばった顔を少しずつ動かし、ようやく微笑みを浮かべられた。そう、シンスイにいつも向けている、あの冷笑だ。

 

 ――しかしその笑みは、すぐに驚愕に変わることとなった。

 

 

 

「――タンイェンの旦那に何か用かいぃ?」

 

 

 

「――!」

 

 真後ろから唐突にかけられた男の声に、リエシンは電撃的な速度で反応した。「タンイェンの旦那」という呼称を使う時点で、タンイェンの手の者である確率が高いと判断したからだ。(スカート)の横半分をまくり上げ、太腿にくくりつけておいた短剣の柄を握るが、

 

「おぉっと、得物を抜くのはやめときなぁ。俺っちの苗刀(びょうとう)がぁ抜き放たれて、お前さんの首を落とす方が遥かに疾いぜぇ?」

 

 間延びした響きの中に確かな殺気を内包したその声を聞いた瞬間、本能的に手が硬直する。

 

 ――この声には聞き覚えがあった。

 

 しかもその男は、「苗刀」と言った。

 

 自分の知る限りでは、タンイェンの用心棒の中で苗刀を使う者は一人しかいない。

 

 しかもそいつは数いる用心棒の中でも、輪をかけて危険な男だ。

 

 回りの悪い歯車のように、リエシンは恐る恐る振り向いた。

 

 ……予想通りの人物が、こちらの後ろを取っていた。

 

 細身ながらよく鍛えていることが分かる、凝縮感のある長身痩躯。大きく膨らんだ(ズボン)に、(へそ)周りの肌を露出した詰襟の長袖。肩甲骨を通過するほどに伸びた長髪は無数の細い三つ編みになっており、まるで頭からたくさんの蛇が生えているかのようだ。黄金色の虹彩を持つ双眸が屋敷の灯りを反射して不気味に輝いており、右頬には醜い傷跡が三日月状に刻まれていた。

 腰帯(ベルト)の左腰には、全長約150厘米(りんまい)ほどに及ぶ細身の刀が、鞘に収まった状態でぶら下がっていた。苗刀だ。

 

 この風変わりで剣呑な風貌、そして苗刀。

 

 間違えようはずもない。

 

 リエシンは震えた声で言った。

 

「お前は…………周音沈(ジョウ・インシェン)……!!」

 

 タンイェンの雇った用心棒の中で、筆頭の実力を持つ武法士。

 

 【通背蛇勢把(つうはいじゃせいは)】の達人。しかしこの男の真の恐ろしさは、類稀な苗刀の腕前だ。

 

 タンイェンに雇われる以前、この男は【黒幇(こくはん)】がはびこる裏の世界で数多の武法士を斬殺してきたという。そのいずれもが、死体となる姿など想像がつかなかった手練ばかり。愛刀の刃が発する輝きにちなんで、付いた通り名が【虹刃(こうじん)】。

 

 ――最悪だ。いきなりこんなバケモノと相対するなんて。

 

「なんでぇ俺っちの名をぉ……ってぇ、おやぁ? 不審者がいると思って来てみりゃぁ、いつかどっかで感じた【気】の波長じゃないかぁ。この波長…………確かぁ高洌惺(ガオ・リエシン)とかいう娘っ子だったかぁ? タンイェンの旦那を治安局にチクったっつぅ。懲りずにまぁた来たのかいぃ? お前さんのお袋さんはここにはいないってぇ、何度も言ってるじゃねぇかぁ。今度はぁ屋敷に忍び込んだりでもする気かぁ?」

 

 リエシンは内心の動揺を必死に隠しつつ、開き直ったように言う。

 

「妙な言いがかりはよしてもらえないかしら? 猜疑心が強いにも程があるわ。私はたまたま通りがかっただけよ」

 

「嘘言っちゃぁいかんよぉ。この土地はぁここで行き止まりだぁ。横切って伸びた道なんかぁ一本もないぃ。通りかかって来れるような場所じゃぁないのさぁ。それにお前さん【甜松林】の入口でぇ、女連れの旦那が馬車に乗る所をコソコソ隠れて見てたろぉ? あの馬車にゃぁ実は俺っちも乗ってたんだぁ。茂みの中からぁプンプンと匂ったぜぇ? 草木の【気】の中に混じったぁお前さんの【気】がよぉ。いかにも何か企んでますっつぅ感じで揺らめき立ってたなぁ」

 

「そ、そんなのただの憶測でしょう?」

 

「いやぁ、憶測じゃないのさぁ。俺っちの【聴気法(ちょうきほう)】はぁ、読心術並みなんだぜぇ? 相手の【気】の存在だけじゃぁなく、その個人が持つ波長、さらにはその【気】の揺らぎ方から大まかな感情まで読めるんだぁ。そして今のお前さんの心境もぉ、手に取るように分かっちゃうんだよなぁ。当ててやろぉかぁ? 動揺ぉ、焦り、恐怖だぁ」

 

 のんびりとした口調のくせに、それらが紡ぎ出す言葉の威力はかなりのものだった。

 

「それにタンイェンの旦那が買ったあの女もぉ、なんか【気】が妙な揺らめきを見せてたなぁ。ありゃぁ何か企んでるっぽい揺れ方だぁ。それも、お前さんとよく似た揺らめき方…………まさかとは思うが、お前さん方、グルってんじゃぁなかろうなぁ?」

 

「――っ!!」

 

「おぉ? お前さんの【気】の揺らめき具合がぁ劇的に変わったなぁ。こりゃぁ図星を突かれた時の揺れ方だぁ。カマかけただけのつもりだったが、こりゃぁいかんね、すぐにタンイェンの旦那の元へ行かんとなぁ。――――だがその前にぃ」

 

 転瞬、インシェンの姿が視界の中で急激に巨大化。そして、右脇腹辺りに刺さるような痛みが走った。

 

 見ると、刀の柄頭が、肉に埋没せんばかりに深々と食い込んでいた。

 

「がっ――――?」

 

「――お前さんにもぉ、一緒に来てもらおうかぁ?」

 

 刃で肌をなぞるような声が、すぐ耳元で聞こえる。

 

 リエシンは激痛と一緒に、かつてないほどの危機感を覚えた。

 

 マズイ、今の時間帯、この経穴を突かれたら――

 

「う…………っ」

 

 次の瞬間、案の定凄まじい眠気が襲ってきた。

 

 まるで芯を抜き取られたように、四肢から力が一気に抜ける。

 まるで体が自分のものではなくなったかのように、全身が重い。

 まるで奈落の底へと引きずり込まれるように、意識が遠のいていく。

 

 【発困穴(はっこんけつ)】。強く刺激すると強烈な眠気に襲われる経け――――

 

 

 

 

 

 リエシンの意識は、闇の奥底へ沈み込んだ。

 



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狂気

 ――すさり、すさり、すさり。

 

 ボクはタンイェンの屋敷の廊下を、スローペースで歩いていた。

 

 この一階には、直線的な廊下ばかりが続いている。その随所が直角の曲がり角となっていて、あみだくじを思わせる道筋だった。

 どこも似たような内装だったので最初は迷いそうになったが、時折見かける調度品や飾り物などが目印代わりになり、今ではだいぶ慣れてきた。

 

 ボクは薄い氷の上を歩くような心もとない足取りで、一歩、また一歩と進む。

 足裏全体をべったりと床に付けず、爪先のみでゆっくりと歩みを進めている。

 背筋も、少し猫背気味に丸めている。

 まるで、人の家にこっそり侵入した泥棒のような姿勢と足さばき。

 

 ――これは、武法士である事を隠すための歩き方だ。

 

 武法士は、背筋に棒でも入ったかのように真っ直ぐな姿勢、そして足裏が地に吸い付くような安定した歩き方という二つの身体的特徴を持っている。それなりに目が肥えていれば、すぐに武法の修練を積んだ経験があるか否かが分かってしまうのだ。

 

 なのでボクは背筋を丸め、さらに爪先歩きという不安定な歩き方を行うことで、それら二つの身体的特徴を隠したのだ。

 

 武法士である事が隠せれば、相手は「戦えないタイプである」とこちらを見くびり、油断を心に生むだろう。そうすれば、余計な疑いや警戒心を抱かれにくくなるはず。ここ数日のうちに【甜松林(てんしょうりん)】の娼婦たちを大勢観察したが、その中で武法を学んだ経験のある人は一人もいなかったのだから。

 

 用意した『円寂塔(えんじゃくとう)』も、タンイェンはきっと使ってくれていることだろう。『枯木逢春塔(こぼくほうしゅんとう)』と騙されて焚いておやすみなさいだ。

 

 ――「ぶっちゃけ、『円寂塔』の香りを屋敷全体にばら撒いて全員眠らせた方が、探索しやすいんじゃない?」という意見を持った方もおられるかもしれない。

 

 もちろん、それはボクも考えた。しかしこれほど広い屋敷だと、香りが屋内全体に回りきらない可能性が高い。おまけに香りは無差別に効果を発揮するので、吸ったら当然ボクも眠ってしまうだろう。何より、『円寂塔』の数はたったの一つ。だからこそ、一番有効な使い方をしようと考えたのだ。

 

 ……とまぁ、いろいろ下準備こそしたが、あくまで下準備。花の生育を促すために撒く肥料のようなものだ。

 

 作戦の成功という名の花を咲かすには、ボク自身の頑張りが一番重要である。

 

 あとは予定通り、瓔火(インフォ)さんを探すことに専念すればいい。

 

 ――ただし、見つかったとしても、今すぐには連れ帰らない。

 

 今回の目的は、あくまで瓔火(インフォ)さんの居場所を見つけることだ。

 

 仮に彼女が監禁されていて、その場所を無事に見つけられたとしても、今日は連れて行かない。リエシンには「屋敷の中にいないか確認しろ」と言われただけ。それ以上の事に首を突っ込む理由はない。

 

 というか、監禁場所が見つかっただけでも、治安局がその象並みに重い腰を上げるには十分な情報となり得る。

 

 以前にリエシンが訴えた時と違い、今度は確かな状況証拠が揃っているのだ。それを突きつけられたとなれば、治安局は今度こそ真面目に動かなければならなくなる。連中はモヤモヤして不確かな疑惑からは目を背けられても、確固たる真実から目を背けることはできない。もしそんな真似をすれば、警察機構として完全に形無しとなるからだ。そして民衆はその様を「法が金の力に日和(ひよ)った」と厳しい目で見るだろう。

 

 ……まあ、いろいろ理屈を並べたが、つまり今は瓔火(インフォ)さん探しに集中すればいいというだけの話だ。

 

 自分の目的を再確認したボクは、再び歩きだそうとしたが、

 

「――おい、女。おめぇ誰だ?」

 

 そこで、唐突に後ろから誰何(すいか)の声がかかった。

 

 ビクッと肩を震わせ、ゆっくり振り向く。見ると、ボクのすぐ後ろに一人の男が壁のように立っていた。片手には三日月状の片刃剣。おそらく、屋敷内部を警備しているという用心棒の一人だろう。

 

 それにしても、柄が悪そうな奴だ。どう見ても堅気には見えない。近寄っちゃいけないトゲトゲした空気が周囲に満ちている。

 

 用心棒としての職務は自覚しているようで、こちらを見下ろす眼差しは濃い疑惑を帯びていた。しかしその視線は厳密に言うとボクの太腿や胸元に集中しており、目尻も微かにつり上がっている。煩悩が含まれている証だ。

 

 ボクは彼に愛想笑いを向けると、ことさらに控えめな仕草を作り、

 

「あ、すみません……ボ……わたしはタンイェン様に買われた娼婦なんです……その……床入りの前に、お花を摘みに行きたいと思って……」

 

「タンイェンの旦那の……そ、そうかい」

 

 途端、彼は目元に浮かんでいた情欲を消し去り、ビシッと立ち方を正した。タンイェンの買った女に色目を使うなど恐れ多いと感じたのかもしれない。

 

 しかし疑惑や情欲こそなくなったものの、その瞳には、今度はある種の哀れみのような感情が宿っていた。

 

 男は、ボクが進んでいた方向とは逆の方向を指差した。

 

厠所(べんじょ)ならあっちだ。まぁ……ご愁傷様だ。運が悪かったと思うこったな」

 

 ――は?

 

 その意味深な発言の意図するところを尋ねようとする前に、男は早歩きでボクを横切って進み、そして遠くの曲がり角に姿を隠した。ドアの開け閉めの音が聞こえる。

 

 ご愁傷様って、どういうことだろう。

 

 ……もしかして、タンイェンって相当な変態性癖の持ち主とか? それこそ、最初に入った娼館の先輩方が豪語していたような、自主規制不可避な内容のアレやコレとか……?

 

 ぞわっ――

 

 全身の毛がサボテンよろしく逆立った気がした。

 

 ヤバイ。一刻も早く目的を果たして、この屋敷からおさらばしないと。

 

 まだ見ぬハードコアプレイへの恐怖は、そのままやる気へと変わった。

 

 当然ながら厠所(トイレ)のある方向へは進まず、今まで通りの方向へ歩き出した。

 

 さっきの男が入った曲がり角を早々に通過し、さらに奥へ進む。

 

 数え切れないくらいドアがあるので、どれに入ろうかずっと迷っていた。けれど、そろそろ決めた方がいいだろう。時間は有限なのだから。

 

 そう急く気持ちが湧き上がる一方で、少し妙な点に気づく。

 

 ――使用人がほとんどいないのだ。

 

 実は、この屋敷内部でタンイェン以外の人間に会ったのは、さっきの男でまだ三人目だ。

 

 普通、お金持ちの屋敷っていうのはもっとこう、家政婦さんとかの使用人がめまぐるしく往来しているものじゃなかろうか。

 

 しかし、この屋敷にはびっくりするくらいそれが無い。こんなに広い屋敷なのに、不気味なほど人口が少ないのだ。敷地の外はあんなに警備が厳しいのに、屋敷の内側には申し訳程度の人数しか警備がいない。

 

 外はガチガチ。中はスカスカ。

 

 なんだか、この比率に少しだけ違和感を覚えた。普通はどちらか一方に偏らせず、均等に人数を分けるものではなかろうか。

 

 ――もしかするとリエシンは、これを承知で今回の作戦を考えたのか?

 

 彼女は屋敷内部の警備がザルである事を知っていたのかもしれない。一度タンイェンを治安局に訴えたらしいし、もし知っていたとするならその時にでも確認したのだろう。

 

 けれど何はともあれ、ザル警備なのはこっちにとっても大助かりだ。

 

 とにかく、どこでもいいからまず一部屋調べよう。

 

 ピタリと歩く足を止めた。

 

 現在、ボクは丁字状の曲がり角のど真ん中に立っている。前方、左、後方へそれぞれ一本ずつ廊下が伸びており、それらの壁にドアがいくつか貼り付いている。

 

 計算や駆け引きを交えて選んでいたらいつまで経っても決まらない。なので、ここはアバウトにいくとしよう。

 

 瞳を閉じ、心の中を一度白紙のごとくまっさらにする。

 

 そして勢いよく開眼すると同時に、入るべき扉を射抜くように指差した。そこは、左に伸びた廊下の真ん中辺りの壁にあるドア。

 

 周りに誰もいない事を確認してから、ボクはそのドアへと近づく。そして、音を立てぬように気をつけながら、ほんの少しだけ開いた。細い隙間の間から、その部屋の様子を覗き込む。

 

 そこは一言で言い表すなら、博物館の一室のような場所だった。正方形に広がったシンプルな空間の中には、所狭しと美術品が並んでいた。

 

 最奥の壁には、水晶で作られた巨大な太極図が鎮座しており、右の壁には美しい女性の絵画、左の壁には男の戦士の絵画が、左右それぞれ三枚ずつ飾られている。

 

 そして部屋の中央部には、陶製の人形が四隅の位置関係で四体置いてあった。それらは男型と女型がそれぞれ二体ずつ存在する。奥から数えて、右二つは女型、男型の順、左二つは男型、女型の順に並べられていた。

 

 おそらく、ここは美術品の保管場所か何かだろう。

 

 奥に置かれた巨大な球状太極図。左右の壁にある絵画。中央部にある人形四体。どれもこれも、いかにも高そうな感じがする品だ。

 

 一体どんな悪い事をやったらこんなに儲かるんだろう――そんな風にちょっとひねくれた事を考えてみたりして。

 

 いずれにせよ、試しに調べる価値はあるかもしれない。

 

 その部屋には人が一人いた。何も置いてない壁に寄りかかりながら煙管をぷかぷか吸っている、いかにも悪そうな面構えの男だ。

 

 調べたいのだが、そのためにはあの男が邪魔くさい。ていうか、こんな所で煙管なんか吸うなよ。美術品に臭いが付くでしょうが。

 

 ――とりあえず、彼には少し眠っていてもらおうかな。

 

 ボクはそう決めるや、ドアの面に体を貼り付け、ノブを持つ。

 

 そのまま体ごと手前へ引き、一気に開放。九十度開ききったところで止める。

 

「んっ?」

 

 部屋の中から、少しびっくりしたような男の声が聞こえて来た。突然ひとりでに開いた――ように見える――ドアに驚いたのだろう。

 

 ボクはドアの裏側に隠れながら、息を殺して出方を待つ。

 

 足音が、部屋の中から廊下側(こちら)へとゆっくり近づいてくる。勝手に開いた理由を確かめるためだろう。……狙い通りの反応だ。

 

 やがて足音が、ノブのある辺りにまで到達。

 

 男は反対側の面からこちらを覗き込もうと顔を出してきた――瞬間、ボクはその口元を左手で鷲掴みにした。叫ばれないようにするためだ。

 

 「もがっ!?」左掌に湿り気を感じるとともに、男のくぐもった声が聞こえた。

 

 ボクは迅速に左手で男の爪先を踏みつけ、もう片足で重心を鋭く相手の股下へ移動させた。

 

「ごっ――――」

 

 篭った呻き声が耳に届く。踏み込みと同時に放たれた右正拳が、腹に深くめり込んだのだ。それほど力を出してはいないが、片足を踏みつけてその場に固定しているせいで衝撃を後ろへ逃せず、男は正拳の威力を余すことなくその身に受けることとなったはずだ。

 

 男はひどく強張りのけぞっていたが、すぐに魂が抜け落ちたようにガックリとうなだれ、めり込んだボクの拳に体重を預けてきた。

 

 キチンと気絶している事を確認した後、ボクは男をうつ伏せに下ろし、足側へ移動。両足首を掴んで部屋の中へと引きずり込み、静かにドアを閉じる。

 

 ぐったりとのびた男を壁際に寝かせてから、ボクはようやく探索を開始した。

 

 部屋の中をゆっくり歩きながら、飾られた美術品を見て回る。

 

 ――奥の壁近くには、バランスボールほどの大きさを誇る水晶製太極図がどっしりと置かれている。一つの石を球状に削って作ったのではなく、陰の部分をかたどった煙水晶と、陽の部分をかたどった透明水晶の二つをかっちりとはめ合わせて一つにしたモノのようだ。おまけに使われている水晶の内部には不純物やひび割れ(クラック)が一切含まれておらず、ガラス玉と見紛うほど見事に澄みきっていた。

 

 ――右の壁に掛けられた三枚の絵画は、美女を描いたものだった。精緻な筆さばきによってとてもリアルに描かれているが、リアルな絵特有の不気味さが全く感じられない。半端にリアルではなく、毛一本や肌の隅々にいたるまで精巧に描かれているため、まるで一枚の写真のようで、モデルが元々持つ魅力を最大限に引き出している。モデルが良いのか、あるいは描いた人の技巧が卓越しているのか。いや、両方か。

 

 ――左の壁には、前述の女性の絵と対をなす形で飾られた三枚の男の絵画。武器を構えて勇猛果敢に奮い立つ男――おそらく武法士だろう――の姿が毛筆で描かれていた。多くの色が使われている女の絵と違って、これは黒単色。が、それでも描き手の圧倒的な筆使いによって、奮迅する戦士の姿が緻密かつ大迫力に表現されていた。色など付けずとも、見た瞬間に脳が勝手に色を補完してしまうほどに。

 

 ――部屋の中央部には、陶製の人形が四隅の関係で配置されている。力強く槍を構えた姿の男の像、上品な正装を身にまとった美しい女の像がそれぞれ二体ずつ。どの像も例外なく服のシワなどの細部まで細かく作りこまれており、今にも動き出しそうな迫力と生命感が感じられる。腕のある職人が焼いたものであることは想像に難くない。

 

 なるほど、置いてあるものは、どれも美術品としてはかなり上等なものっぽい。鑑定眼など無いボクでも、それがとてもよく分かった。

 

 ……しかし、どれも「美しい」「超高そう」以外の感想を抱けなかった。

 

 ボクは美術品を鑑賞しに来たのではない。瓔火(インフォ)さんを探しに来たのだ。その目的につながらないのなら何の意味もないだろう。

 

 ここはハズレだ――そう断じて、(きびす)を返そうとした。

 

「……ん?」

 

 けれど、ふと気がかりな点を見つけ、ボクは足を止めた。

 

 それは――美術品の配置だ。

 

 まず、部屋の奥に置かれた太極図に着目しよう。その太極図は、陰陽魚の位置する方向が左右半々に分かれていた。陰が右、陽が左だった。

 そして、右側の壁には女の絵。それと対面する形で左側の壁に男の絵。

 

 この配置は――陰陽の理論に基づくものの可能性が非常に高い。

 

 黒い陰陽魚が寄った右側の壁に女の絵。陰陽理論において、右と女は「陰」を表す要素だ。

 そして白い陰陽魚が寄った左側の壁には、女の絵と向かい合うようにして男の絵が飾られている。左と男、どちらも「陽」を表す要素に他ならない。

 

 そう。そこまでは陰陽理論にきっちり則った位置関係だった。 

 

 しかし、部屋中央部にある四体の人形の配置だけはその限りではない。男女二(つい)のうち、奥側に横並びしている一対は左右ともに陰陽的な立ち位置を守っているが、手前に並び立つもう一対は男女の位置が左右逆だった。

 

 他は全部陰陽を守ってるはずなのに、どうしてわざわざそこだけを逆にしたんだ?

 

 それがやけに気になったためか、足がほぼ無意識のうちに人形へと歩み寄った。

 

「――あっ」

 

 ボクは思わず我が足を止めた。

 

 陰陽法則を無視した男女の陶製人形。それらの間の床に――何かを引きずったような跡が走っているのを微かに視認したのだ。

 

「……もしかして」

 

 霹靂(へきれき)のように、ある考えが舞い降りた。

 

 ――この二体を陰陽法則に則った位置に置き直せば、何かが起こるかもしれない。

 

 ……我ながら、バカバカしさを感じずにはいられない。ゲームのやりすぎにも程がある。

 

 けど、ここまで常識ハズレに大きく立派な屋敷だ。常識的思考は捨て、あらゆる可能性を疑う心も必要かもしれない。

 

 ボクはすぐに実行に移した。

 

 一対となった目の前の男女のうち、右側に置かれた男の人形に両腕を回し、そのまま足腰を立たせる。

 

 すると、刺さった何かが引き抜かれるような感触とともに、ソレは持ち上がった。中身が空洞になっているようで、重さはさほどでもなかった。

 

 ボクは足元を見る。今抱えている人形の底部からは、メロンの網目にも似た奇っ怪な模様の刻まれた直剣が真下へ伸びていた。

 さらに、先ほどこの人形が置いてあった床には、菱形を潰したような小さな隙間があった。考えるまでもない。直剣はこの隙間に納まっていたのだ。まさしく剣と鞘のように。

 

 意味も無くこんな作りにする訳が無い――そんな確信にも近い予想をしたボクは、持っていた戦士の人形を一旦床に寝かせてから、左側に置かれた女の人形も持ち上げた。やはりというべきか、それの底にも模様付きの直剣が付いていた。さっきの人形のと違う点といえば、剣身に刻まれた模様の形くらいだ。

 

 女の人形を、さっきまで男の人形が置いてあった位置に下ろす。底部の直剣が床の隙間の中にするりと納まり、陶製の美女がそこへ降り立った。

 

 さらに寝かせておいた男の人形を、空いた左側のスペースへ同じように置く(差し込む)

 

 

 

 次の瞬間、床の中から「ガコンッ!」と何かがぶつかるような音が聞こえた。

 

 

 

 かと思いきや、部屋の奥にある大型太極図の位置が、さらに奥へゆっくりと水平移動し始めた。

 

 いや、正確に言うなら、太極図が動いているのではない――その下の床が前へスライドしているのだ。

 

 床が開き始め、細い横線状の溝が空く。

 

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、と仕掛けが動くリズミカルな音が、床の奥底から響く。同時に、太極図を乗せた床の一部がさらに前へ滑っていき、細い溝が徐々に広がる。「溝」から「隙間」、そして「四角い穴」へと拡大していく。

 

 程なくして、床のスライドが止まる。

 

 見ると、奥の壁とくっつくくらいに位置がズレた太極図の前に、四角い穴が現れていた。

 

 その中には――下へ続く階段がうっすらと見える。

 

 考えていたバカバカしい仮説が、今、現実として目の前に現れていた。

 この部屋にあるもの全てを陰陽の法則通りに並び替えると、隠されていた通路が開く――そんな仮説が。

 

 ベタだ。ベタ過ぎる。どこの名作ホラーゲームの世界だ。

 

 けれど、ここまで手の込んだ仕掛けを用意してまで通路を隠すなんて、いよいよもって怪しさ満点だ。

 

 何にせよ、これで進むべき道が見えてきた。

 

 ボクが喜び勇んで隠し通路へ歩み寄ろうとした、その時。

 

 四角い穴の奥底から、解き放たれたように冷たい空気が吐き出された。

 

「――――うっ!?」

 

 その冷風に乗って、なんとも言いがたい臭気が押し寄せてきた。

 

 思わず腕で鼻を覆う。

 

 奇妙な匂いだった。まるで強烈な悪臭を誤魔化すためにいろんな種類の香水を秩序なくぶっかけたような、そんな混じり気の酷い匂い。嗅いだ瞬間、鼻の奥に刃物のごとく突き刺さり、そのショックがそのまま脳へガツンと伝播したような錯覚を覚えた。

 

 立ちくらみのように頭がクラクラしたが、すぐに持ち直し、四角い穴を見つめた。

 

 大きく口を開け、妙な匂いの混じった空気を吐き出し続けるその隠し通路は、奥が真っ暗だった。進むとすれば、何か灯りとなるものが必要だ。

 

 周囲をキョロキョロと見回し、すぐに天井から灯りを発している行灯に目が止まった。

 あれを天井から引きちぎって使おうという考えが一瞬浮かんだが、即座に却下した。そんなことをすれば、地下室を調べたという証拠が残ってしまう。万が一この奥に瓔火(インフォ)さんがいた場合、「監禁場所へ来た」という情報を残すことは絶対に避けねばならない。その情報がタンイェンに知られれば、あいつはボクが治安局へ告発することを警戒し、彼女を他の場所に移してしまう可能性がある。せっかく監禁場所を見つけたとしても、瓔火(インフォ)さんがいないとなればその状況証拠は完全に効力を失うだろう。

 

 何か、他に灯りになりそうなものは……。

 

 ボクは部屋の隅から隅まで、くまなく視線を巡らせる。

 

「……あ!」

 

 やがて、床に転がっていた「ある物」を見つけた。

 

 その「ある物」とは――さっき倒した男がくわえていた煙管。

 

 ボクはそれを拾い上げ、火皿を覗き込む。微かにだが、まだ火が残っていた。

 

 ……これを使おう。

 

 そうと決めてからのボクの行動は早かった。着ているワンピースの裾の末端を手で引き千切り、細長い一枚の布切れを作る。その片側の先端をねじって細くし、小さな種火が入った火皿へ挿し込む。数秒間その状態にしておくと、やがて焼けるような臭いが鼻をつき、布切れの先端に火が灯った。

 

 その火は、最初は線香並みに小さなものだったが、布切れという燃料を糧にしてあっという間に大きく成長した。

 

「よしっ」

 

 それを見て満足げに頷くボク。これで準備は完了だ。

 

 ボクは階段の前まで来て、一度足を止める。そして、右手に持った灯火付きの布切れを前へかざしながら――ゆっくりと降り始めた。

 

 一段、二段、三段、四段……どんどん体が地下へ沈んでいく。それに伴い、鼻を刺す臭気がさらに強まるが、奥歯を噛み締めて意識をしっかり固定する。

 

 部屋の明かりが上へ遠ざかり、周囲の闇の色が濃くなる。布切れの火で足元を照らしながら、慎重に段差を降りていく。

 

 コツリ、コツリ、コツリ、コツリ……地下という事もあってか、段差を踏む音が空間に反響する。静かに降りているはずなのに、その足音がひどく大きく聞こえる。

 

 寒さに凍えたように、肩の辺りが粟立った。

 

 怖い――我ながら情けない話だが、そう思ってしまった。

 

 ただならぬ臭気。空間を包む真っ黒な闇。その闇のせいでどこまで続くかも分からない階段。五感として伝わったそれらの情報が見事なまでに相乗効果を生み、恐怖をボクの内に発生させていた。

 

 はかなく闇を照らすこの小さな火が、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように感じられた。もしこの火が消えたらと思うと、不安でいっぱいだった。

 

 それにこの奥からは、何かとてつもなく嫌な感じがする。

 

 この先へ進んでしまったら、きっと後悔する気がする。

 

 けど、今更引き返すことなんてできない。臆病風に寒がってる暇があるなら一段でも多く下へ降りろ。ボクは自身を叱咤激励しながら、ひたすら足を動かした。

 

 やがて、次の段へ降りようとした前足が、後足を付いている段と同じ高さの床を踏んだ。階段が終わったのだ。

 

 ボクは火を前にかざし、前方の風景を明らかにする。内壁全てを平らな石材で囲まれた狭い一本道が、奥まで貫くように続いていた。途中で闇が濃くなっているため、その奥まではまだ見えない。

 

 変な臭いも含め、まるで下水道を連想させる陰気な通路だ。ていうか、ネズミとかゴキブリとか出てきそうでヤダなぁ……さっさと調査して帰ってしまおう。

 

 階段を下っていた時より少し早めの歩調で進む。道幅が狭いせいか、足音だけでなく息遣いまでよく響く。

 

 前方へ進む道が石壁に阻まれる。

 

 一瞬行き止まりかと思ったが、よく見ると、そこから左右二又の通路が続いていた。

 

 まず右側の道を進む。するとすぐに、煤けた木の扉に差し掛かった。灯りを当ててみると「製作室」と書かれた掛札があるのが見えた。

 

 一度引き返し、今度は左の道へと進んでみた。が、またもや似たような木のドアで阻まれていた。今度は「展示室」と書かれた掛札。

 

 ボクは二つある扉のうち、どっちから最初に入ろうか考えた。

 

 しばらくして、当てずっぽう的に「展示室」を選んだ。

 

 ノブを捻り、ゆっくりと「展示室」のドアを開けた。

 

 部屋に入った途端、硬いながらも微かな弾力を含んだ感触を踏んだ。見ると、床材が石から木に変わっていた。しかも一般民家のと違ってささくれ立った部分が無く、まるでフローリングのようにツルツルで光沢があった。

 

 ボクは火を高く掲げて、部屋の全貌を照らし出す。

 

 今までの地下室とは一八〇度毛色の変わった空間だった。部屋の中央部からシミが広がるようにして敷かれているのは、大きな毛皮の絨毯。その上には丸い面のテーブルと、揺り椅子が一つずつ。そして部屋の奥の壁には――人影のようなものがいくつも立ち並んでいた。

 

「――!!」

 

 電撃的な迅速さで身構える。しまった、見つかった!

 

 ……しかし、向こうの人影は棒立ちのまま、全く動こうとしない。

 

 何か変だと思ったボクは【聴気法(ちょうきほう)】を使ってみる。そして、人影の並ぶ場所に【気】の存在が皆無であると知った。

 

 ボクは胸を撫で下ろし、構えを解いた。なんだ、あれは人間じゃないのか。

 

 人形か何かだろうか――興味本位から、その人影に向かって近づいてみた。

 

 灯りを受けて、その人影の正体が顕在化した。

 

 やはりというべきか、人形である。裸体となった美女をモチーフにした人形が、壁に何体も並んでいた。

 

「って、うわ……すっごいリアル……」

 

 ボクは顔を火照らせながら、動かぬ美女たちの裸体をまじまじ凝視していた。

 

 そう、その人形たちはものすごく精巧にできていた。

 

 大まかな外見を人間の女そっくりに似せているだけでなく、唇にできた皺や、瞳の模様、皮膚の一片一片までも細かく表現させていたのだ。本物の全裸の女性が目の前に立っているかのようである。そのため、ただの人形を見ているはずなのに、妙にイケナイ気分になってくる。

 

 さっきの絵画や人形も本物のようにリアルだったが、所詮「本物のようだ」という域を出ない程度のもの。目の前の人形は「ようだ」を抜きたくなるくらい、現実じみていた。

 

 ボクは一番右端に立つ人形に目を付け、寄ってみる。

 

「……ふぁ……」

 

 その人形に、ボクの目は釘付けになった。

 

 ――目を奪われるほどに美しかった。

 

 総身すべてが、静脈がくっきり透けて見えそうなほどの白皙(はくせき)。女性として細くあるべき所は不健康に見えない程度に細く、豊かであるべき所は形良く豊富な肉付きをした、シャープさとソフトさを一身に兼ね備えたプロポーション。

 

 おっとりして優しそうな印象を受ける美貌は、聖母のような微笑みで固まっていた。ただ前だけを見つめる双眸はとても温厚そうな垂れ目。右目の下に二つ隣り合わせで並んだ泣きぼくろの存在が、熟れた女の色気を醸し出している。腰の辺りまで下りた長い髪が、「ふんわり」と膨らみをもって広がっていた。

 

 ……美しすぎて、不気味なくらいだった。

 

 もっと近づきたい。触れてみたい――ボクにそう思わせるほど、その人形の美しさは群を抜いていた。

 

 心の中の何かに導かれるまま、その人形の下腹部辺りに触れてみた。表面は硬いが、指圧を押し返してくる程度にハリと弾力があった。

 

 ていうか、なんだか妙に感触が肉質で、生々しいというか――

 

「………………え?」

 

 人形の裸体の下腹部を触る手が、ピタリと止まる。

 

 ――ちょっと待って。この感触って……?

 

 記憶の中に強い引っかかりを得たボクは、再び触れる手を動かした。今度は確かめるように、入念な手つきで。

 

 触れる。押す。撫でる。掴む。揉む。

 

 それらの作業によって得られた触覚情報をまとめて考察。

 

 結論はすぐに出た。

 

 裸体のリアルな艶めかしさに赤熱していた顔の温度が、絶対零度にまで急降下する。

 

 そして、

 

 

 

「う――――うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 

 ボクはこの上なく恐慌し、絹を裂くような叫び声を上げた。

 

 一刻も早く離れたいという情動から迅速に後ずさりしようとするが、足同士がぶつかり、尻餅を付いてしまう。

 

 ボクは恐る恐る人形の顔を見上げる。"彼女"は変わらず前だけを見つめ、慈愛に満ちた微笑みを作っていた。

 

 ――まるでその表情しか知らないかのように。

 

 四肢が、意思とは関係なく震えをきたす。血を抜かれたかのごとき寒気に襲われるが、全身は大粒の汗を吹き出すという体感温度と噛み合わない反応を示していた。歯の根も合わなくなり、眼振が止まらない。

 

 違う。

 

 人形なんかじゃない。

 

 

 

 

 

 これは――――本物の人間だ。

 

 

 

 

 

 多少硬直はしているものの、"彼女"の表面の感触は、人間の肌と全く同じだった。

 

 さらには、その異常なまでの精巧さ。

 

 「本物のようだ」ではなく、「本物」だったのだ。

 

「まさかこれ……『尸偶(しぐう)』?」

 

 ボクは震えた唇で、誰が答えるでもない疑問を口にした。ほぼ正解に等しい疑問だった。

 

 ――以前、本で読んだことがある。

 

 この【煌国(こうこく)】が建国されてまだ間もない頃。

 【煌国】の始皇帝が老衰で崩御した後。当時の皇族は、始皇帝が成し得た建国の偉業を未来永劫忘れぬためにと、その御姿をそのままの形で保存したいと考えた。そして帝都中の薬師や知識人に「始皇帝の遺体を、生前と同じ姿のまま残す方法を考えろ」と(みことのり)を出した。

 その結果、決められた薬草や毒虫などを混ぜ合わせて作った特殊な薬で防腐処理などを施し、その死体を生きていた頃と変わらぬ姿のまま保存するという方法が考案された。それによって始皇帝の亡骸は腐らず、生前と違わぬ姿かたちのままとなり、今も内廷の地下室に飾られているという。

 

 そう。その腐らない死体こそが『尸偶』だ。

 

 人の遺体を材料にして作る、いわば「死体人形」。

 

 ようやく合点がいった。「制作室」は、この『尸偶』達を作るための部屋。そしてこの「展示室」は、出来上がったそれらを飾って楽しむための部屋。

 

 あの悪臭は、死体をいじった際の臭いと、薬品の匂いとが混ざり合って生まれたものだったのだ。

 

 全てを理解した瞬間、言い知れぬ不快感と非現実感から強いめまいが起こり、ボクは左手で口元を押さえて深くうずくまった。

 

「うっ……っくっ…………!」

 

 腹の奥から焼け付くモノが勢いよく食道を逆流してきたが、渾身の気合を込め、喉でせき止める。

 

 出かけた胃酸を飲み戻した後も、嫌な感じが胸に巣食って離れなかった。

 

 ――いくらなんでも、これは変態性癖すぎる。

 

 いや、変態性癖なんて可愛く思えるレベルだ。

 

 『尸偶』作りを「製作」と称し、そしてそれを並べる行為を「展示」と呼んでいるのだ。明らかに異常だった。

 

 こんなこと、おおよそ血の通った人間に出来る行為ではない。

 

 まさしく悪魔のごとき所業だ。

 

 これを作ったのは、十中八九タンイェンだ。ここは奴の屋敷だし、何より『尸偶』を作るための薬の材料は、どれも庶民では手の届かない高価なものばかり。状況的にも財力的にも、タンイェンが明らかに真っ黒なのだ。

 

 長距離を走った後のように動悸が続く。何度も深呼吸を繰り返して、ようやくソレは落ち着いてきた。

 

 ボクは再び、恐る恐る顔を上げていく。気味悪くてもう視界の片隅にさえ入れたくなかったが、勇気と気力を振り絞って『尸偶』の女性を見上げた。

 

 "彼女"は相変わらず裸のまま、ただ前だけを見つめながら棒立ちしていた。死体のはずなのに、その浮かべている微笑みはまるで生きているかのように生々しい。それがかえってたまらなく不気味だった。

 

「っ! ……ちょっと待った。あれって……!?」

 

 ボクはようやく気づいた。気づいてしまった。

 

 "彼女"の右目の下にある、隣り合わせに並んだ二つの泣きぼくろ。

 

 その泣きぼくろが――リエシンのソレと酷似している事に。

 

 脳裏に恐ろしい予想が生まれた。

 

 まさか、この人は――――

 

 

 

「――そこまでだ、このコソ泥めが」

 

 

 

 最悪の結末を思い浮かべる一歩手前でドアが開け放たれ、吐き捨てるような声が投げかけられた。

 

 唐突に訪れた人間の声に、ボクは先ほどまで抱いていた恐怖を一度捨て置き、跳ねるように立ち上がった。構える。

 

「え……嘘……」

 

 開放されたドアの前に立つ人物を見たボクは、我が目を疑った。

 

 そこには――光を放つ行灯を片手に持った馬湯煙(マー・タンイェン)と、長身の男が立っていたのだ。

 

「そんな……眠ってるはずじゃ……!?」

 

 語るに落ちると分かっていても、そう口にせずにはいられなかった。

 

 タンイェンは嘲笑するように鼻を鳴らし、

 

「やはりあの香は『枯木逢春塔』などではなかったか。おおかた、強い催眠効果のある香をソレに似せていたのだろう。その代表的な香といえば『円寂塔』あたりかな?」

 

「まさかあんた……見抜いたっていうのか!?」

 

「見抜いたわけじゃない。――疑っただけだ」

 

 ボクは唾を飲み込み、靴底をじりっと擦り鳴らす。

 

 タンイェンは口端を垂直方向に歪ませ、続けた。

 

「床入りをギリギリで渋り、厠所(べんじょ)に行きたいからと屋敷内部を歩きたがり、果てには「これを焚いて待っててください」と自前の香を差し出す。どうだ? 少しでも疑惑の目を向ければ、自ずと魂胆が見えてくると思わないか?」

 

「……ボクは思わないよ。ちょっと疑り深過ぎるんじゃない?」

 

 内心の不安を隠すべく、軽口を叩くように言った。

 

 ボクの手元の布切れに点いた火と、タンイェンの行灯。二つの光源が同時に部屋を照らしているため、人影は二つに折り重なって見えた。

 

「それが本来の一人称か。疑り深い? 大いに結構だ。べらぼうな資産を持っていると、それ目当てに寄ってくる糞虫のような輩が絶えんのでな。資産家にとって、猜疑心は強すぎるということはない。現に今も、その猜疑心のおかげで貴様らという糞虫を駆除できるのだからな」

 

「……貴様"ら"?」

 

 その言い回しに、ボクは違和感を覚えた。だって、この屋敷に潜入したのはボク一人だけなのだから。

 

 ――そして、その違和感を解消する材料はほどなく見つかった。

 

 ボクは、付き従うようにタンイェンの隣に立った長身痩躯の男に目を向けた。ヘソ出しの詰襟。ドレッドヘアーよろしく無数の細い三つ編みに結われた長髪。左腰には太刀に酷似した細長い刀、苗刀が帯剣されていた。

 

 こいつは知っている。【甜松林】からここへ来る時に乗った馬車でタンイェンと同席していた、用心棒の男だ。

 

 ……いや、今この男はさして重要ではない。

 

 問題は、その男の右脇に抱えられている一人の少女である。

 

「リエシン!? どうしてここに!?」

 

 そう。リエシンだった。

 

 腹部に回された男の右腕の上で、まるで物干し竿に掛けられた布団よろしくだらんと垂れ下がっていた。

 

 一瞬死んでいるのかと思い焦ったが、耳を澄ますと寝息が微かに聞こえてくる。どうやら眠らされているようだ。

 

「屋敷の周りをうろちょろしてたんでなぁ、【点穴術(てんけつじゅつ)】で眠らせて捕まえたんだぁ。その口ぶりから察するにぃ、おたくら案の定グルってたわけかぁ。いやぁ、手前味噌だがやっぱ俺の【聴気法】は化物じみてるねぇ」

 

 その男は、リラックスしたように間延びした口調で言った。

 

 ボクはほぼ本能的に一歩退いた。

 

 気だるげな口調。緩い物腰。一見「ちょっと変な格好をした男」程度にしか見えないかもしれない。

 

 けれど、ボクには経験則で分かる。

 

 こいつは絶対に只者じゃない。レイフォン師匠と似た、幾多の死線や地獄をくぐり抜けてきた人間特有のおぞましい雰囲気を感じる。肌がチクチクするほどに。

 

 が、奴の手元にはリエシンがいる。今は彼女を取り返して逃げないといけない。

 

 ボクは瞬発するために足に力を溜め――ようとする前に男が声高に発した。

 

「おっとぉ、動くなよぉ? ちょっとでも反抗的な素振りを見せたらぁ、この娘っ子の首を切り落としてやるぞぉ。こいつも見た感じ武法士みたいだがぁ、グーグー眠ってちゃ【硬気功(こうきこう)】は使えんよなぁ?」

 

「……っ!」

 

 その言葉に反応し、全身を硬直させた。

 

 ――今こいつ……ボクが動き出す前に止めた……?

 

 ボクはさっき、足腰に力を溜めようという考えこそ持った。しかし、まだ体はその行動を少しも実行していなかった。

 

 つまりあの男は、ボクが動き出すことを先読みした上で「待った」をかけたのだ。

 

 背筋に怖気が立つ。やっぱり間違いない。この男――相当な手練だ。

 

 タンイェンがくつくつと喉を鳴らしながら、一歩前へ出た。

 

「さて、慧莓(フイメイ)とやら。貴様は見てはいけないモノを見てしまった。その好奇心に見合った代償を、これから存分に支払ってもらうぞ」

 

 その顔には皺を強調するように暗い影が走っていて、まるで幽鬼のようだった。



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狂った理屈

 その後、ボクとリエシンは拘束を施され、ドレッドみたいな頭をした男に抱えられて地下室を出た。

 

 嫌という程見たあみだくじ状の廊下を移動し、やがて連れてこられたのは巨大な大広間(ホール)だった。

 

 大きな両開き戸の正面玄関をくぐってすぐ目の前にあり、タンイェンと寝室に行く時にも通過した場所だ。カマボコ状に広がった、赤と金を主体とする絢爛豪華な装飾が施された空間。半円の弧を描いた壁の中央部には上階を貫くようにして幅広い階段が伸びており、その右隣の壁面には通路がぽっかりと空いて奥へと続いている。ボクらが出てきたのはそこからだった。

 

 階段のすぐ前の床に放り出されたボクとリエシン。その周囲には、外を巡回していたはずの用心棒たちが輪を作って立っていた。騒ぎを聞きつけて集まったのだ。タンイェンもどういうわけかそんな仕事の放棄を注意しない様子。

 

 【発困穴(はっこんけつ)】の効力によって眠らされているらしいリエシンは、こんな危機的状況に不似合いな心地よい寝息を立てていた。

 

 そんな彼女の安らかな眠りを、用心棒の一人が木桶からぶちまけた井戸水が妨げる。

 

「んぶっ…………ぱっ……!?」

 

 あっぷあっぷした苦しげな声を数度もらしてから、リエシンは固く閉ざされていたそのまぶたをゆっくりと開いた。

 

 そして、寝ぼけ(まなこ)を周囲へ巡らせる。

 

 何度も往復するように視線を走らせると、やがて何かに気づいたようにハッとした。虚ろだった瞳にも生気が宿る。

 

「しまっ————うくっ!?」

 

 慌てて跳び起きようとして、失敗。再び地面へ横倒しとなった。

 

 リエシンの両手両足には、肉厚な鉄製の手枷足枷がはめられていた。それによって手首同士、足首同士を密着させた格好を余儀無くされているため、立ち上がろうにもそれは叶わない。

 

「な……何よこれは!? どうなってるの!?」

 

「捕まったんだよ。君のせいで」

 

 今更感たっぷりなリエシンの発言に、ボクは非難がましい声で告げた。

 

「……李星穂(リー・シンスイ)? なんでここに……いや、それはひとまず置いておいて、どういうこと? 捕まった?」

 

「何でそこで疑問形なのさ。最初に捕まったのは君じゃないか。そのせいで眠らされた君を人質に取られて、ボクまでこのザマだよ」

 

 ボクは揶揄のニュアンスを込めた言葉を交えつつ、リエシンと同じ形で拘束されている我が身を視線で示した。

 

 ちなみにボクは手枷足枷に加え、【麻穴(まけつ)】によって全身を麻痺させられているというオマケ付きだった。なんでも「一番危険だから」という理由らしい。猛獣みたいな扱いだ。

 

「眠らされたって…………あっ!」

 

 リエシンが黙考したのも束の間。すぐにハッと何かに気づいたような素ぶりを見せた。おそらく、捕らえられた時の事を思い出したのだろう。

 

 そんな彼女に、ボクは糾弾の言葉を遠慮しなかった。

 

「リエシンのバカっ。どうして付いて来たんだよっ? ボク一人だったら、まだどうにでもなったっていうのにっ」

 

「…………ごめんなさい。もうすぐ母の事が分かるかもしれないと思ったら、居ても立っても居られなくなって……」

 

 済まなそうな表情を浮かべ、消沈した声で謝罪を述べられた。

 

 おおっ、謝ったよ。あのリエシンが。ボクはそんな場合じゃないと分かっていながらも、目を丸くせずにはいられなかった。

 

 しかし、せっかく見られた殊勝な顔もすぐになりを潜めた。彼女はジッとこちらを注視しながら、

 

「それで……どうだったの?私の母は……瓔火(インフォ)は見つかったの?」

 

「……っ、そ、それは……」

 

 そんな疑問をぶつけられたボクは、思わず返事に窮する。

 

 リエシンに真っ直ぐ向いていた視線が、自然と横へ逸れていく。

 

 ――彼女の問いに対する答えを、ボクはキチンと持っていた。

 

 しかし、それはリエシンにとってあまりに残酷な情報だ。

 

 この娘は人の物をかすめ取り、隠し、そのありかと引き換えに人を操るような人間だ。彼女さえ現れなければ、ボクはつつがなく帝都へ到着するはずだった。正直、気を使ってやる義理なんかカケラもありはしない。

 

 ……そう、ないはずなのだ。

 

 しかし、ボクの握る情報は、そんな彼女にさえ同情の念を向けたくなるほど酷なものだった。心に残ったそんな良心が、ボクの口を固く閉じさせていた。

 

 その時だった。

 

「――雑談は終わったか? 女狐ども」

 

 助け船か、あるいは悪魔のささやきか、嘲笑混じりな声が降ってきた。

 

 ボクはそちらへ目を向ける。

 

 タテガミのように後ろへ逆立った頭髪に、岩のように厳つい壮年の面構え。鋭い目つきに、幾本もの皺が寄った眉間。

 

 その男、馬湯煙(マー・タンイェン)は、ボクとリエシン二人の闖入者を冷ややかに俯瞰していた。

 

 その隣には、さっきのドレッド男が控えていた。全く恐縮した様子の無い慣れた佇まいからして、おそらくこの男はタンイェンの側付きみたいな存在なのだろう。

 

馬湯煙(マー・タンイェン)…………!」

 

 唸るように名を呼び、降ってくる冷たい視線に睥睨の眼光を衝突させるリエシン。

 

 対して、タンイェンは大したことが無いとばかりに鼻を鳴らし、口元を嘲笑で歪めた。

 

「やれやれ、懲りない女だな貴様は。ここに来るのは何度目だ? いい加減、貴様の顔は見飽きたのだが」

 

「母の行方を吐くまで、何度でもここに来るわ」

 

「熱心な事だ。まあ良い……その悪あがきも今日で終わる。詮無き問題だ」

 

「……どういう意味かしら」

 

 意味深な言い回しに、リエシンは訝しげに半眼となる。

 

 そして次の瞬間、タンイェンは耳を疑うような一言を放った。

 

 

 

「貴様らはもう二度とこの屋敷から出られないという事だ。なぜなら――ここで仲良くあの世に旅立ってもらうからだ」

 

 

 

 ボクらは全く同じタイミングで驚愕を示した。

 

 あの世へ旅立つ――遠回しに「死」を表す言い方。

 

 その明らかな殺人宣言に対し、最初に食ってかかったのはリエシンだった。

 

「巫山戯ないで! いくら貴方がこの辺り一帯の事実上の覇者だったとしても、そんな事までまかり通るとでもっ?」

 

「通るとも。どのような罪を犯したしても、然るべき連中に知られない限りその罪は存在しないものと同義だ。貴様らは今夜秘密裏に始末する。足が付かぬよう、遺体も外には出さない」

 

「どうして捕まらないといけないのよ!? 私は屋敷の外をうろついていた事は認める。でも、それだけよ! なのにどうしてそこまで……」

 

「馬鹿めが。屋敷の周りをうろちょろされたところで、子蜘蛛が床の隅をチョロチョロ這っている程度にしか思わん。しかし、貴様が差し向けたその小娘は、見てはならないモノを見てしまった。つまりはその連帯責任ということだ。後顧(こうこ)の憂いを断つ事も込みで、貴様にも消えてもらう」

 

 淡々と告げられたタンイェンの言葉を聞いた後、リエシンは当然ながらボクへと視線を滑らせた。

 

 一体何を見たの――彼女の瞳が言外にそう訴えかけてきている。

 

「……っ」

 

 ボクは若干の吐き気を催しながらも、この屋敷の地下室にあった『尸偶(しぐう)』の事を説明した。

 

 連ねた説明の随所で、胃の中のモノが沸騰したように暴れた。どうしてもあの『尸偶(彼女たち)』の姿を思い出してしまい、否応無く気分が悪くなってしまう。

 

 ボクの感じた気持ちは、別に不思議でもなんでもなかった。全て聞き終えたリエシンが苦しげな顔を見せたのを見て、自分が普通の感性の持ち主であると分かり安心する。

 

 ボクは不快感を奥歯で嚙み殺し、タンイェンの顔をキッと睨んだ。

 

「あの『尸偶』…………材料になったのは――【甜松林(てんしょうりん)】で働いてた娼婦だな」

 

 隣から、リエシンの息を飲む声が聴こえてきた。

 

 タンイェンに連れて行かれた娼婦たちは、皆等しく行方不明になったままだという。

 

 その彼女達が屋敷から出る事なく『尸偶』にされているのだと考えれば、全て辻褄が合う。

 

 そしてタンイェンもまた、ボクの言葉を薄ら笑いという形で肯定してみせた。

 

「まあ、これから死に行く者に対して秘めるのは無粋というものか。――正解だ。"アレ"は全て、俺が金で買った売女(ばいた)どもだ。その躰を(とこ)の上で満足するまで堪能した後、毒で殺し、地下で固めた」

 

 リエシンはすっかり言葉を失っていた。タンイェンに向けていた睥睨の眼差しも、化け物を見るようなソレに変わっている。

 

 ボクも似たような視線を送っている。しかしその中に、疑問の色も交えていた。

 

 その疑問のまま、「どうして、あんなことを……!?」と震えた声で尋ねた。

 

 すると、

 

「趣味だよ」

 

 拍子抜けするほど、簡単な答えが返ってきた。

 

「趣味……だと…………?」

 

「そうさ。俺はな、花が嫌いなんだ。どれだけ美しかろうと、時が経てば枯れ果て、華やかなりし頃の姿など見る影もなくなってしまう。女もまた同じ。傾国の美女も時とともにその美しさを失くしていき、やがて醜い老婆となり下がる。俺はそんな美の凋落という理不尽な摂理から、女どもを解放してやったのだ」

 

 静かな怒りの炎が、心の中に灯るのを感じた。

 

 この男は、まるでドライフラワーでも作るかのようなスタンスで多くの女性を手にかけたのだ。その罪、決して軽くはない。

 

 何がどうあっても、コイツには然るべき場所で法の裁きを受けさせなければならない。

 

「……お前は人の命を何だと思ってんだ。あんな事、絶対に許されないぞ…………!」

 

「許されない、だと?」

 

 睨み混じりのボクの発言を聞いたタンイェンは、笑声を吹き出した。

 

 やがて堪え切れないとばかりに、ソレは呵々大笑へと変わる。

 

 笑いが収まった後、奴は傲岸不遜にうそぶいた。

 

「自分の事を棚に上げるのは止してもらおうか、李星穂(リー・シンスイ)とやら。貴様はそこまで育つために一体どれだけの肉を食らった? 貴様だって牛や豚や鶏を殺して得た肉を当たり前のように食っているはずだ。俺のしている事も、本質的にはそれと同じなんだぞ? 俺は、俺の飼育していた家畜を殺して有効利用したに過ぎん。俺が手を加えてやらなかったら【甜松林】は廃村を待つばかりだった。そんな糞の価値も無い土地を開拓して、なおかつ、金や頼れる者が無い哀れな女どもの受け皿を作ってやったんだ。俺はいわば、奴らの恩人。ゆえに、奴らをどう扱おうが自由と言えよう?」

 

 反吐が出る――奴の長々しいご高説の感想は、その一言に尽きる。

 

 確かにタンイェンの下で働いたおかげで、経済的に助かった者もいる。神桃(シェンタオ)さんや瓔火(インフォ)さんがその良い例だ。しかし、魂まで売った覚えのある者はいないだろう。コイツの吐かした理屈は、あまりにいびつで狂気的なものである。

 

 けれどコイツはそれさえも「取るに足らない事」と平気な顔で断ずるだろう。それを分かりきっているため、口には出さなかった。

 

「ねぇ…………お母さんはどこ………?」

 

 唐突に、乾いた響きを持った声が耳に入った。

 

 音源は隣。声の主はリエシンだった。

 

 ……そう。わざわざリエシンだと確認しないと分からないくらいに、さっきの声色は変わり果てたものだったのだ。

 

 ようやく口を開いた彼女の様子は、魂が抜けたような有様だった。表情は仮面みたいに動きが無く真っ白。おちくぼんだように虚ろな眼差しは、眼前を見るともなく見ていた。

 

 タンイェンは思い出したように目を見開いた。かと思えば、両口角を邪悪に吊り上げる。

 

「そういえば貴様、瓔火(インフォ)の娘なのだったなぁ? それなら話は早い。冥土の土産に教えてやろうではないか。お前の母親が、どこに行ったのか。貴様の見立て通り、俺はそれを知っている」

 

 それから先の台詞を予想出来たボクは、焦った声と態度で制止を呼びかけた。いずれ知られる事だと分かっていても、止めずにはいられなかった。

 

「ば……馬鹿野郎!! よせ!! 言うなっ!!」

 

「では教えようか。貴様の母親、瓔火(インフォ)は――」

 

 タンイェンはボクの渾身の声量を歯牙にもかけず、残酷な結末へ向かって言葉を連ねていく。

 

 暗く空虚なリエシンの双眸が、ジッと奴の答えを待っていた。

 

「黙――――モガッ!?」

 

「うっせーよ。これでも食ってろや」

 

 大声で遮ってやろうとした瞬間、何かが口いっぱいに突っ込まれた。それは、用心棒の一人がニヤニヤしながら突き出した靴の爪先。

 

「ん――――っ!! ん――――っ!!」

 

 言葉にならない声をひたすら叫び続ける。体を魚みたいに振り乱して爪先を口から出したかったが、【麻穴】のせいで身じろぎ一つ起こせない。

 

 汚らしいものに口を塞がれている間に、とうとうタンイェンは最後の一言まで言い切ってしまった。

 

 

 

「――『尸偶』となって、他の娼婦ともども地下室に飾られているさ」

 

 

 

 リエシンの無表情が、これ以上無いくらい悲痛に歪んだ。

 

 が、絶望の表情はすぐに憤怒のソレへと変わり、ヒステリックな怒号を発した。

 

「う、嘘だっ!! デタラメを言うなっ!!」

 

「嘘ではない」

 

「なら見せてみなさいよ!? 貴方がお母さんを材料にして作ったっていう『尸偶』をっ!! 今すぐにっ!!」

 

「ハァ? 馬鹿を言え。なぜ俺が貴様のような野良犬のために労力を割かなければならないのだ? だいいち、わざわざ地下から引っ張り出さずとも――貴様の隣に証人がいるではないか」

 

 冷笑混じりのタンイェンの言葉に反応し、彼女は隣に横たわっているボクへと視線を移動させた。

 

 それを合図にしたように、こちらの口から靴先が離れた。

 

李星穂(リー・シンスイ)、貴様は何故あの『尸偶』達の材料が娼婦であると気づけたのだ?その理由を教えてはくれまいか? ん?」

 

 言葉の矛先で、愉しげにチクチクつついてくる。

 

 ボクは唇の下で悔しげに切歯し、二人から目を背けた。……とことん性格の悪い奴め。

 

 リエシンはすがりつくように話しかけてきた。

 

「……李星穂(リー・シンスイ)?」

 

「…………」

 

「……何か言わないの?」

 

「…………」

 

「なんで黙ってるの? 何か言ってよ?」

 

「…………」

 

「ねぇ、何か知ってるんでしょう? この屋敷の中でお母さんに繋がる何かを見たんでしょう? ねぇ……それを教えてよ……?」

 

「…………」

 

「黙らないでよっ!! 言いたいことがあるならさっさと言いなさいよっ!! ねぇ!? 貴女は一体何を見たの!? お母さんはどこにいるの!? どこかで見たんでしょ!? 言いなさい!! 言え!! 吐けよっ!!!」

 

 喉が潰れそうなほどの大声で喚き催促してくる。

 

 しかし、ボクは口を閉ざし続けた。

 

 ――言えるわけがない。

 

 こんな残酷な真実を日常会話のような気軽さで突きつけられるほど、ボクは大人でも冷血でもない。

 

 しかし、一方でこうも思った。

 

 このままボクが口をつむぎ続けていたら、そんな残酷な真実を、残酷な人間の口から吐かせてしまうことになる、と。

 

 ならば、ボクの口から言ってしまった方がマシなのではないか。

 

 数秒間黙考し、結局「言う」という選択肢を取った。

 

 長大で重厚な地獄の門を押し開ける心境で、ボクは開口した。

 

 

 

「……ボクが最初に見つけた『尸偶』の右目の下には、二つ隣り合わせに並んだ黒子(ほくろ)があった。――君と全く同じ場所に、全く同じものがあったんだ」

 

 

 

「――――っ!!!」

 

 遠まわしな言い方をしても、その情報の元々持つ衝撃は殺せなかったようだ。

 

 リエシンはしゃくりあげるように大きく息を呑み、顔貌を絶望一色に染め上げた。

 

「あ…………ああ……あ…………!!」

 

 怖いくらい瞳孔とまぶたが開ききった双眸の淵から、ダムの決壊のごとく涙が溢れ出す。

 

 大粒の涙滴が頬の輪郭を伝い、顎下に降り注ぐ。一つ、二つ、三つと、あっという間にたくさん滴り落ちていく。

 

 ボクは自分で選択したとはいえ、激しいやるせなさに苛まれた。

 

 ――そう。ボクが最初に発見した『尸偶』が、リエシンのお母さんである瓔火(インフォ)さんだったのだ。

 

 右目下の黒子の存在だけではない。その顔つきも、どことなくリエシンに似ていたのを思い出す。

 

 行方不明の娼婦が『尸偶』にされている事に気づけたのは、彼女の『尸偶』を見たからである。

 

 殺されているだけでも十分辛いのに、その上手前勝手な理由で「死」を弄ばれたのだ。これほど酷な話があるだろうか。

 

 タンイェンは「労力を割きたくない」と『尸偶』を持ってくることを拒否したが、今のボクはむしろそれで良かったと思っていた。あのような姿になったお母さんを見てしまったら、きっとリエシンは本格的に壊れてしまうだろうから。

 

 パチパチと、乾いた音が響いた。

 

「ハハハハハハハハッ!! いいぞ、その顔! 純度の高い絶望と失意が色濃く現れているなぁ! 貴様には色々嗅ぎ回られて不愉快な思いをさせられたからな、普通に殺すより、先に大いに絶望させたかったのだよ!」

 

 タンイェンは両手で拍手をしながら、耳障りな哄笑を上げた。

 

 悪びれる態度が欠片も見受けられなかった。それどころか、本気で馬鹿笑いしている。どう見ても、きちんと血の通った人間の反応ではない。

 

「お前――」

 

 ボクはギリッと奥歯を割れんばかりに噛み合わせ、睨み目でタンイェンを強く射た。

 

 その先の言葉を繋げようとした瞬間、絹を裂くような叫びが先に轟いた。

 

「人殺しっ!! お前は最低の悪魔よ!! お母さんを……お母さんを返せェェェェェェェェェェ!!!」

 

 聞く者の心胆をぞわっと逆なでする悲痛な響き。

 

 タンイェンは何を言わんやとばかりに薄笑いを浮かべて言った。

 

「返すわけがなかろうが。『尸偶』を一人作るのに、一体どれだけ出費がかさむか分かるか? 貴様ごとき貧乏人が全財産と身包みを剥がされてもまだ届かぬわ」

 

 聞くに堪えない奴の台詞はなおも饒舌に続く。

 

「そもそも、一ヶ月も戻らなかった時点で、母親がすでに死んでいることくらい察しがついたはずだ。なのに、わざわざまた探しに来るとは……ハハッ! 知恵者ぶった態度と言動を装っていても、頭の悪さは隠しきれんな! さすが、あの下賤な女の(はら)から生まれてきただけの事はある!」

 

「お母さんを侮辱するなっ!!」

 

「侮辱? 正当な評価を下しただけだ。俺の屋敷に招かれた時、あの女は浮かれ気味に口元を綻ばせていたよ。おおかた、ここで俺に取り入れば収入も増え、懐が暖かくなるとでも妄想したのだろう。ハハハハ! なんと即物的で浅はかな女か! これは商売女に凋落するわけだ! まるで極上の餌を前にしてぶんぶん尻尾を振る愛玩犬のような顔だったぞ!? これから飾り物になるとも知らずになぁ! 今の貴様を見て、「(かえる)の子は蛙」という言葉が本当だったと分かったぞ! その浅はか、短絡さ、頭の足りなさ、まさしく母親と瓜二つではないか!!」

 

 胸糞が悪くなる言葉の数々。耳を塞げないのが苦痛だった。

 

 一方で、タンイェンが並べ立てる台詞に対する異議も心の中で持っていた。

 

 ――きっとリエシンも、心のどこかで分かっていたのだ。お母さんがもうこの世にいない事が。

 

 ボクが【甜松林】で最初の夜を超えた翌日、リエシンが口走った言葉を思い返してみるといい。

 

『私の母が、娼婦だった頃に名乗っていた名前を教えに来たのよ』

 

 その中に含まれていた「だった頃」という文脈に対し、当時のボクはひどく引っかかりを感じていた。

 

 ……あれは、もうすでにお母さんが死んでいると、心のどこかで確信していたからではないだろうか?

 

 でも、多分リエシンはそれを信じなかった――否、信じたくなかったのだ。そりゃそうだ。自分の家族が死んだ事なんて、そうそう簡単に受け止められるわけがない。

 

 だからこそ、彼女はボクを脅して従わせるなどという暴挙に及んでまで、その仮説が嘘であるかどうか確かめようとしたんだと思う。

 

 ――しかし、彼女に突きつけられた現実は、どこまでも救いのないものだった。

 

「ああああああああああああああああああっっ!!! 殺す!! 殺す!! 殺すっ!! お前だけはっ、お前だけは絶対に殺してやるぅぅぅぅぅぅ!!!」

 

 リエシンは狂ったように激しく手足を足搔かせながら、本来の声質とはかけ離れたおぞましい声で吐出した。大きく見開かれた目はいまだ滝のように涙を流し続けており、充血が亀裂みたいに白目の上を広く走っている。まるで何かに取り憑かれたかのようだった。

 

 冷ややかな笑みを崩さないいつもの彼女は、見る影もなかった。もし手足の動きが封じられていなかったら、真っ先に短刀を構えて刺しに行っていただろう。

 

 叫び続ける彼女の顔を、タンイェンが愉しげに踏みつけにした。

 

「ククク。だが貴様の母親はなかなかに床上手だったぞ? 性技は言うに及ばず、俺が腰を打ち付けるたびにメス猫のような甘ったるい声を出すという、奉仕精神に富んだ女だった。あの夜は久しく燃え上がったよ。下賤な身なれど、男を喜ばす事に関してだけは一流だったわ。貴様もその娘なら【甜松林】でひと稼ぎできたんじゃないか? ハハハハハハハハハハハハッ!!」

 

「ああああああああああっ!!! タンイェン!! タンイェェェェェェェェェンッッ!!!」

 

 潰れきった叫びを上げ、陸に上がった魚よろしく体を振り乱すリエシン。その顔に乗せた足をねじ込むようにして踏みにじるタンイェン。そんな二人の様子を無反応で傍観し続けている周囲の用心棒達。

 

 ひとしきり足裏と冷罵で(なぶ)って満足したのか、タンイェンはリエシンの顔から足を離した。改まった口調で、

 

「さて、そろそろ本題に戻るとしようか。もう一度言うが、『尸偶』の事を知った貴様にはこれからくたばってもらう。だがただでは殺さん。貴様ら二人は容姿だけはなかなかに美しい。特に李星穂(リー・シンスイ)、貴様は俺が見てきた女の中でも指折りの美貌の持ち主だ。よって、貴様らの(むくろ)は『尸偶』に変えて大切に保存してやる」

 

 最高に嬉しくない容姿の褒められ方だった。

 

「……が、その前にこの馬鹿どもへ駄賃をくれてやらねばならんな」

 

 タンイェンは周囲を囲う用心棒達へぐるりと視線を巡らせつつ、そう口にした。

 

 何を言いたいのかはっきりしない、遠まわしな言動。

 

 けれど、舐めるような視線をボクらの体へ走らせてくる用心棒たちを見て、今までと同じくロクでもない事なのだと容易に予想できた。

 

 そして、その予想は確信に変わった。

 

「お前たち――その二人の体で遊んで構わんぞ。ただし『尸偶』にする材料だ。傷は付けるな」

 

 瞬間、周囲の群がりから野太い歓喜がどよもした。

 

 逆に、ボクとリエシンは蒼白になって言葉を失った。

 

「どうしてわざわざ大広間(こんなところ)に連れて来たか分かるか? こいつらに貴様らを食わせるためだ。これだけの人数が一度に押し寄せられる部屋は限られているからな」

 

 うそぶくタンイェンに、ボクは気を取り直して気丈に眼光をぶつけた。

 

「お前、どれだけ最低なんだよ……!」

 

「何とでも。これから死に行く者に余計な苦痛を与えてしまう無駄な行為だが、悪く思うなよ。この連中も共犯だ。なので時々こうして餌を与えねば逃げ出されてしまうのだよ。仮に逃げ出されても始末する事ができるが、手間でな」

 

 なんてこと考えるんだ、この男は……。頭がイカれているとしか思えない。

 

 ボクは今まさに思い知った。この男は、こちらの掲げる道徳や倫理観が全く通じない存在なのだと。

 

「いやぁ、助かるわぁ。最近女抱いてなかったからよ。これでスッキリできるぜ」

 

「ほんと、タンイェンの旦那様々だな。しかも相手は【甜松林】の娼婦ときたもんだ。あそこの娼婦をロハで抱かせてくれるたぁ、太っ腹どころじゃねぇな」

 

「そういや、前にやった女も絶品だったよな?」

 

「前って何時(いつ)だよ? 今までで何人いただいたと思ってんだ」

 

「あいつだよ。右目に泣き黒子が二つある女」

 

「あーあの女か。確かにあいつはいい体してやがったなぁ。思わず順番無視して二回連続で()っちまったよ」

 

「最終的にはかわるがわる俺らの相手しすぎたせいで、セミの抜け殻みてーに放心してやがったなぁ。ウハハハハ!」

 

 用心棒達は下卑た声色で、下卑た話に花を咲かせていた。

 

 連中が誰の事を話題にしているのかは、言わずもがなだった。

 

「タンイェン…………貴方って男はどこまで腐ってるのよっっ!!!」

 

 リエシンが憤怒の形相で金切り声を上げ、射殺さんばかりにタンイェンを睨んだ。

 

 そんな彼女の言葉は、次のような一言でバッサリと一刀両断された。

 

 

 

「腐っているのは貴様だろうが」

 

 

 

 リエシンは虚を突かれたような顔で押し黙った。

 

 虫を見るような目でボクの隣の少女を下視しながら、タンイェンは傲然と続けた。

 

「【甜松林】の娼婦としてこの屋敷へ入り込み、母親の手がかりを探す――やれやれ、目も当てられないほど杜撰で運頼りな発想だな。普通に考えれば、こんな阿呆な作戦に取り合ってくれる人間などいる訳が無い。ならばこの李星穂(リー・シンスイ)という娘は、何らかの方法で貴様にこの作戦を強制されているのではないか? そう考える方が自然だと思うが」

 

「っ!? そ、それは――」

 

 頭をがばっと上げて言い返そうとするリエシンだが、途中で言葉に詰まってしまい、すぐにまた側頭部を床に寝かせた。反論ができないのだろう。本当のことだから。

 

「沈黙は是なり、か。いやはや、これは困ったものだ。赤の他人を不当な手段で従わせ、体を売らせ、泥棒の真似事をさせる。しかし自分は一切手を汚さずに高みの見物――さぁて? こんな輩に他人の悪事を正義ヅラで糾弾する資格が果たしてあるのかな?」

 

「…………っ!!」

 

 ギリッ、という歯ぎしりの音が、隣からはっきりと聞こえて来た。見るまでもなく、リエシンが悔しげに切歯した音だ。こんな大悪人に、しかも自分の肉親を殺した男に言い負かされたことが、きっとたまらなく悔しいのだろう。

 

 ぐうの音すら出なくなった。

 

 とどめの一発とばかりに、タンイェンが軽蔑の語気で強く言い放った。

 

「――自分の行動を棚上げするなよ、高洌惺(ガオ・リエシン)。俺を腐っていると形容する貴様こそ、真に腐った掛け値なしの(クズ)だ。姿かたちは見目麗しい母に似たようだが、哀れなるかな、その醜い心はロクデナシの父親から受け継いだもののようだ。その事に気づいていない貴様に、俺はもはや憐憫さえ覚える」

 

 リエシンは魂を引っこ抜かれたように放心した。

 

 表情は口を間抜けにあんぐり開けたまま、真っ白になって固まっている。目は未だタンイェンの方を向いてこそいるものの、前を見ようとする光が死んでいた。

 

 まさしく心ここにあらずといった様子。

 

 言葉尻を盛大に取られ、完全に論破された。

 

 自分の目的は、母を探す事。ゆえに自分の行いに大義があると思っていたが、そんな綺麗事などなかった。むしろ、赤の他人に汚れ役を押し付けようなどと考えた時点で、自分は憎むべき敵と同じ位置に急降下していた――そんな純然たる事実を刃のように突きつけられたリエシンの今の心境は、一体いかようなものだろうか。

 

 しかし、これだけは分かる。もう彼女は、堂々とタンイェンを糾弾することができなくなってしまったと。

 

 抜け殻同然となったリエシンをタンイェンは鼻で笑い、告げた。

 

「せめてもの温情だ。貴様の骸で作った『尸偶』は母親の隣に飾ってやる。表情も喜色満面に形作ってな。良かったなぁ、これでまた親子一緒に暮らせるぞ?」

 

 こんな悪意たっぷりの最低な台詞にさえ、リエシンはもう一言も反論しなかった。

 

 彼女は今なお人形よろしく固まったままだ。これから起ころうとしている事を、因果応報と甘んじて受け入れようとしているように見えた。

 

「恨むのなら、家族愛などという幻想にうつつを抜かした己を恨むんだな。――もういいぞ。好きなだけ味わえ」

 

 タンイェンのその発言を合図にしたように、周囲の用心棒たちは動き出した。

 

 こちらへ向けて、一歩、また一歩と進む。まるで野ウサギをじわじわ追い詰めるかのように。

 

 ボクらを囲う円状の人垣が、徐々に小さくなっていく。

 

 情欲に澱んだ眼光が、いくつもボクらの肢体を照らす。

 

 激しい危機感が、胸焼けのように腹から胸へせり上がってきた。

 

 歯を食いしばり、必死に体を動かそうと試みる。しかし未だ麻痺した五体は、将たる心の発する指令から完全に耳を塞いでしまっている。それは気合いや根性では不可逆である、人体の生理的問題。

 

 手詰まり――そんな言葉が脳裏を去来した。

 

 ヤバイ。今回はマジで危険な状況だ。

 

 打つ手が全く無い。

 

 このまま、こいつらなんかの餌食になるのを待つしかないのか?

 

 どう考えても、ボクとリエシンだけの力で乗り切れる訳が無い。

 

 誰か他の人の力が必要だ。もしくは、奇跡が起きるのを期待するしかない。

 

 どちらも限りなく望み薄なのは共通している。

 

 けど、もはやこの状況、祈るより他に出来ることが存在しない。

 

 だからボクは、最後の悪あがきとして、祈った。

 

 誰か助けて――と。

 

 

 

 

 

「だらっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 

 

 

 

 途端、そんな力強い叫びとともに、正面玄関の両開き扉が勢いよく開け放たれた。

 

 若い女の声だった。それも、妙に聞き覚えのある。

 

 ボクらへ向かっていた用心棒も軒並みその足を止め、正面玄関の方を向いた。ボクも連中の隙間から、同じ方向を覗き見る。

 

 全開となった木の両開き扉の前には――眼鏡をかけた二人の女性が立っていた。

 

 一人は女性というより、少女という表現の方が適切な小柄な女の子。群青色のワンピースを着ており、ミディアムショートほどの長さの髪を後頭部で束ねたポニーテール。眼鏡越しに、勝気そうに吊り上がった大きい瞳が覗いていた。

 

 もう一人は、大人になりたての少女といった感じの似合う女の子だ。長い髪を三つ編み二本に束ね、その二束はB系ファッションのようにゆったりした長袖の肩にかかっている。スカートの丈は足首に届くほど。穏やかながら意思の強さを感じる眼差しは、さっきの女の子とお揃いの眼鏡のレンズに覆われていた。

 

 見た事の無い風貌。

 

 しかし次に発せられた言葉を聞いた瞬間、その正体を容易に解すことができた。

 

「お姉様っ!? どこですか!? いたら返事してください!!」

 

 ポニーテールの娘が、切羽詰ったような声で大広間へ呼びかけた。

 

 ボクは驚愕する。

 

 聞き間違えようはずがない――その声は、明らかにミーフォンのものだった。

 

 今一度、その二人を注視した。妙な格好こそしているが、顔かたちから分かった。ポニーテールの娘にはミーフォンの、三つ編みの娘にはライライの面影が見て取れる。

 

「ミーフォン!? 君なのかい!?」

 

 その二人がここに来たという事実に驚きながらも、ボクは先ほどの呼びかけに呼応する形で声を張り上げた。

 

「お姉様!? お姉様なの!? どこですか!?」

 

 ミーフォンは焦った様子で大広間をキョロキョロ見回す。程なくして、用心棒たちの間隙を介して二人の視線がぶつかった。

 

 ボクの状態を視認できたのか、視線の先の双眸が大きく見開かれた。

 

 そして、開かれたその瞳が鋭く細められたと思った瞬間、遠くに小さく見えていたミーフォンの姿が一気に大きくなった。

 

 高速移動の歩法【鼠歩(そほ)】。タカタカと子気味良い靴音を幾重にも連鎖させ、人垣へ急迫。無言のまま、持っていた鉄製の棍――長棒の身に二つ横線が走り、均等な長さで三等分されている事から、連結式三節棍を合体させたものだと分かる――を思いっきりスイングした。

 

「「「ぐあああああああ――――!?」」」

 

 かまいたちのようなひと振りは、最初に二人の用心棒の腹へ深々と食い込んだ。それからも鉄棍は勢いを持続させ、直撃した二人の横に立っていた者たちもまとめて横へ薙ぎ倒す。

 

 バラバラと真横へ転がされる用心棒達。環状の人垣の一部が削り取られ、見通しが格段に良くなった。鉄棍を振り抜いたミーフォンの姿も、はっきりと目に映る。

 

 薄く鋭く細められていた彼女の目が、再び大きく開かれる。その中に、囚われの身であるボクの姿が鏡のように鮮明に映し出されていた。

 

 今一歩鋭く踏み出し、ボクの元へ寄るミーフォン。

 

 落とし穴に落ちたような速度で素早くしゃがみ込むと、ワンピースのポケットの中に入っていたモノを取り出し、嬉々として見せてきた。

 

「お姉様! やりました! コレ!」

 

 ミーフォンの手にあるソレを見て、ボクは心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。

 

 五指を除いた手ほどの大きさの、金属の円盤。まばゆい朱色の光沢を持つソレの表面には、燃え盛る羽毛と双翼を持つ伝説上の鳥「朱雀」の意匠が刻印されている。

 

 まるで生き別れの肉親と数年ぶりに再会したような気分になった。涙さえ出てきそうだ。

 

 そう。まごうことなき――【吉火証(きっかしょう)】。

 

 手足が麻痺していなかったら、餌にがっつく犬猫よろしく飛びついていたに違いない。

 

「こ……これ、どうしたの!?」

 

「取り返したのよ」

 

 ボクの疑問に対し、簡潔極まる答えを返してきたのは、ゆっくりとこちらへ歩を進めてきているライライだった。二束の三つ編みとゆったりした衣装を揺らしながら裕然と歩み寄ってきて、やがてミーフォンの隣で止まる。

 

「取り返したって……簡単に言うけど、どうやって?」

 

 二度目の質問を投げる。

 

「そうね、ちょっとだけ長くなるけど――」

 

 ライライはそう前置きをすると、【吉火証】を見つけるに到るまでの経緯と苦悩、そしてボクがこの屋敷にいる事を割り出した方法を、懇切丁寧に説明してくれた。

 

「――【吉火証】を奪還した後、私たちはあなたにその事を伝えるために、急いで【甜松林】へ赴いたわ。それで「李星穂(リー・シンスイ)って娘を知りませんか」って街中聞いて回ったのだけど、みんな知らないって。困り果ててたその時、凄く綺麗な女の人が出てきて、あなたが馬湯煙(マー・タンイェン)に買われた事を教えてくれたの。確か名前は、えっと……(シェン)……(シェン)……」

 

「……もしかして、神桃(シェンタオ)さん!?」

 

「そう! そんな名前だったわ。彼女からこの屋敷の場所も聞いて、全速力でここまで走って来て――現在に到るというわけよ」

 

 ライライからの説明は以上だった。

 

 今神桃(シェンタオ)さんの名前が出てきた事に少し驚いたけど、同時に納得もした。思えば、【甜松林】でボクの本名を教えた人って、あの人だけだったし。

 

「そ、それよりお姉様! まだ初めては無事ですか!? 姦通してませんか!?」

 

 ミーフォンが鬼気迫る表情を近づけて訊いてきた。

 

 いや、姦通って――そう突っ込もうとして、やめた。間近にある彼女の眼差しが、どうしようもないほどの不安感で揺れているのが分かってしまったから。ここで茶化すような事を言うのは良くない。

 

 ボクは努めて穏やかな笑みを浮かべ、告げた。

 

「結構危なかったけど、大丈夫だよ。まだ綺麗な体です」

 

 瞬間、ミーフォンの瞳の中にぶわっと透明の液体――涙がたくさん蓄えられた。

 

 大粒の涙滴が崩れるようにいくつも目元から溢れ出し、両頬を伝い、顎先から下へ落ちる。

 

「よ……よがっだよぉぉぉぉぉ!!」

 

 ミーフォンは横たわるボクの脇腹へ飛び込むように顔を押し付け、泣き叫んだ。薄手のワンピースが湿り気を帯びていく。

 

 唐突な号泣に動揺するよりも先に、あるものに目が止まった。

 

 遠くからでは分からなったが、間近から見ると群青色のワンピースの所々に土埃の汚れや皺が見られた。肌もうっすら汗ばんでおり、髪もややボサボサだ。その有様を見ただけで、彼女がこれまでに重ねた苦労の一端を嫌でも察することができた。

 

 ライライと目が合う。何も喋らず、苦笑と頷きだけを返してきた。「好きにさせてあげなさい」と言わんばかりに。

 

「うええええええん……!! あらひ……あらひ、がんばったんれす……! おねえさま、どうなってるのか、ふあんれふあんれ……ひぐっ、それでもいっしょうけんめ、がまんひて……それへ…………ふぐっ……ふえええぇぇぇぇぇんっ!!」

 

 ろれつの回らない言葉が途中まで続き、後は号泣ばかりが繰り返された。

 

 胸の奥がじんわりと熱を帯びて揺さぶられるような、そんな感傷を覚える。

 

 撫でてあげたかった。抱きしめてあげたかった。けれど今のボクは【麻穴】のせいで動けず、それはできない。もどかしかった。

 

「……ありがとう。二人とも」

 

 せめて、ありったけのいたわりの気持ちを込めて、そう静かに言ってあげた。

 

 この二人が付いて来てくれて本当に良かった。もしライライとミーフォンがいなかったら、ボクは【黄龍賽(こうりゅうさい)】に出場できないどころか、この世から永久退場していただろうから。ボクはとことん悪運が強いようだ。

 

 ――しかし次の瞬間、その気持ちは無事にこの屋敷を出られた時に抱くものであると思い知らされる。

 

「……外の奴らがここに大勢集まっていたせいで、屋敷周辺の警備が手薄になっていたか。おかげでとんだゴキブリの侵入を許したようだな」

 

 頭上から降ってきたタンイェンの言葉を耳にしたことで、再び心が現状に引き戻される。

 

 用心棒の一人が両手に持った双刀の刃同士をせわしなく擦り合わせながら、

 

「で、タンイェンの旦那? この女どももやっちまっていいんで? もし許してくださんなら、そっちの乳のでけぇ女がいいな」

 

「反抗の色を見せたら好きにしろ。もし何もしなさそうなら帰してやれ」

 

 タンイェンは遠まわしに、ミーフォンとライライに二者択一を突きつけた。

 

 無関係を決め込んで去るか、それともボクを連れて行くために抵抗するか、その二択を。

 

馬湯煙(マー・タンイェン)さん、とお見受けするわ。私たちはシンスイを連れ戻しに来ただけなの。あなたたちと事を構えるつもりはないわ。だからシンスイと……ついでにそこに転がってる高洌惺(ガオ・リエシン)も連れて帰らせてもらえない?」

 

 ライライが持ちかけたのは、その二択の中間ともいえるものだった。

 

 なんとなく分かる。これは「ボクとリエシンを連れて帰る」という選択肢があるかどうかの、確認のための問いなのだと。

 

 タンイェンは飛んできたハエを叩き落すようなニュアンスで、あっさり否を告げた。

 

「ダメだな」

 

「即答ね。どうして?」

 

「貴様にそれを教える義理はない。この娘共には大事な用がある。何も見なかったことにして早急に立ち去る事をおすすめしよう」

 

「両手両足を拘束する必要のある用って、一体どんなものなのかしらね。私気になるわ」

 

 皮肉で尖ったライライの言動に、タンイェンが眉をピクリと動かす。

 

「それにシンスイ、あなたさっきから少しも体を動かしていないけど、もしかして【麻穴】でも打たれたせいで動けないんじゃないかしら?」

 

「う、うん。実はそうなんだ」

 

「――だそうよ。友達を拘束するに飽き足らず【点穴術(てんけつじゅつ)】まで平気で使うような人間に「はいそうですかさようなら」なんて背中を向けられると思う? よって、答えは「いいえ」よ」

 

 周囲から、いくつもの小さな金属音が多重して聞こえてきた。用心棒たちが武器を構えたからだ。

 

「……愚かな選択をしたな。友情などに踊らされて、前途ある若い身を火にくべるか」

 

 無数の白刃に囲まれるライライとミーフォンへ、冷ややかな眼差しを送るタンイェン。

 

「立ちなさい、ミーフォン。来るわよ」

 

 その言葉を一顧だにせず、ライライはボクの脇腹に顔を埋めているミーフォンへそう促す。

 

「……分かってるわよっ」

 

 ミーフォンは腕で目元を数度ゴシゴシ擦ると、勢いよく立ち上がった。

 

 周りには人の壁。刃の羅列。悪意の高波。

 

 二人はそれに臆するどころか、自らを鼓舞するように鉄棍の先で、靴裏で床を叩いた。二つの音が寸分のズレもなく重なる。

 

 二人の気持ちは今、きっと一つになった。

 

「「――この巫山戯(ふざけ)た騒動に、とっとと暗幕を下ろそうじゃないの」」

 



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大立ち回り

 幾本もの視線が交錯し合い。

 幾本もの足が激しく靴跡を刻み。

 幾本もの銀閃が虚空を絶えず駆け抜ける。

 

 時折空間に響き渡る、鉄と鉄を叩き合わせる甲高い音。現在も鉄棍と片刃が激突し、野鳥の鳴き声にも似た金属音が鳴った。水の波紋のように部屋全体へ波及し、やがて空気中に溶ける。

 

「くっ!」

 

 眼前の男の斬撃を弾き返した紅蜜楓(ホン・ミーフォン)は、その反動に押されて数歩たたらを踏んだ。

 

 両足で床をしっかり踏みしめ、重心の均衡を取り戻す。しかしその時すでに、後方に立っていた敵が片手を前へ振り、握られていた革製の鞭を鋭く飛ばしていた。

 

 鞭はミーフォンの鉄棍へあっという間に巻きつく。そのまま鞭使いは素早く退歩。重心を後ろへ移動させ、その勢いをもってミーフォンの小柄な体を引っ張り込んだ。

 

 ミーフォンは面白いほど軽々と引き寄せられた。――当然である。彼女が自らすすんで近づいたのだから。

 

「ごぁっ!?」

 

 呻きがこちらの耳朶を打った。ミーフォンは肘を先行させながら接近し、鞭使いへ激突したのだ。得物である鞭を残し、勢い余って後ろへ転がっていった。

 

 鉄棍に未だ巻きついたままの鞭。彼女はそれを即座に抜き取ると、端を持つ。そして、前から向かって来ている敵の足元めがけて薙ぎ払った。革の鞭がその敵の足首に食らいついたのを確認すると、先ほどの鞭使いに倣う形で後足を退き、勢いよく自重を譲渡――引っ張った。

 

「ちょっ待っ――わっ!」

 

 案の定、その男は一度つんのめってから、大広間(ホール)の天井を仰ぎ見るように傾いていく。後ろを歩いていた仲間も盛大に巻き込んで、まとめて将棋倒しとなった。

 

 積み重なった数人の塊を、ミーフォンは数歩助走をつけてから飛び越える。放物線の軌道で、人の塊の向こう側に立つ男へ接近。やってきた刀のひと薙ぎを鉄棍の真ん中で受け止め、落下と助走の慣性を乗せた跳び蹴りを叩き込んだ。潰れたような呻きをもらし、床を後転していく。

 

 ……相方は今のところ、順調に応戦できているようだ。逐一視線を送ってそれを知った宮莱莱(ゴン・ライライ)は、おくびにも出さず心中で安堵する。

 

 そして、自分が今身を置いている戦闘へ再び意識を戻した。

 

 ライライの両手には、先ほど敵から奪い取った双刀(そうとう)が握られている。細長い柳の葉に似た刀身を持つ、二本一組の刀。我が門【刮脚(かっきゃく)】の得意とする武器だ。

 

 ちょうど左右には、長物を持つ敵が一人ずついた。右の男は大斧を、左の男は双手帯を大上段から垂直に振り下ろしている最中だ。

 

 ライライは両の刀身を肩に背負うようにして構える。そして、凄まじい圧力を持って下降してきた斧刃と片刃へ両の刀身を滑らせた。その摩擦によって二つの太刀筋の軌道をずらし、下へ受け流した。

 

 斧と大刀が床に突き刺さるのを待たずに、ライライは両腕を左右へ伸ばす。左右の男の眉間へ双刀の柄尻を打ち込み、黙らせた。倒れる音が二人分聞こえる。

 

 次なる敵を求め、広大な空間を疾駆。六人集まった塊を視界に認めると、そこへ迷いの無い足取りで突っ込んでいった。

 

 最初に鉢合わせた槍使いの刺突を、全身の捻りで紙一重で回避する。そのまま掬い上げる要領で双刀の片割れを走らせ、槍を中心から二つに分断。今なお持続させている捻りの遠心力に回し蹴りを乗せ、得物を失った槍使いを横殴りした。

 

 ライライはまだ回転をやめない。その回転を利用した円弧軌道の斬閃を放ち、横合いから急降下してきた方天戟の刃を打ち返す。横へ弾かれた方天戟はそのまま隣の仲間の二の腕に刺さった。苦悶の絶叫に驚いている所を狙って、二次被害を起こした方天戟の持ち主を蹴り飛ばす。

 

 打倒した標的は顧みず、どんどん攻め、蹂躙するライライ。

 

 双刀で防ぎ、蹴りで攻めるの順序で、次々と敵をいなし、沈めていく。

 

 足技中心の【刮脚】は、手を使った攻撃が極端に少ない。しかしこの双刀を持つことで、手にも攻撃手段を与えることができる。さらに円を基準とした剣さばきは、斬るだけでなく斬撃からの防御にも優れており、そこへ【刮脚】の多彩な蹴りを上手く加味させれば、堅牢な城壁に立てこもって矢を放つような攻防一体を実現できるのである。

 

 前と左右の三方向からの同時攻撃。ライライは左右から来た剣を双刀で受け、前から一直線に向かってきた槍は蹴上げでへし折る。その後、すぐさま嵐のような蹴りの乱舞に巻き込んで吹き飛ばす。

 

 間もなくして後ろから飛んできた(ひょう)――投擲用の短剣――をすんでの所で躱す。二投目を許す前に投擲者へ肉薄し、その腹へ抉るように爪先を叩き込んだ。

 

 直剣を構えた男が、雨あられのように刺突を繰り出してくる。ライライは何度か下がって回避してから、相手の首めがけて双刀の一本を薙いだ。男は狙い通り直剣でこちらの一太刀を防ぎ、代わりに懐をがら空きにさせる。その間隙めがけて靴裏を激しくぶち当てた。

 

 蹴りを引き戻した後もその足を地に付けず、真後ろを一直線に蹴擊する。こちらの放った踵は、背後から矢の如く突き進んできた棍の先端と衝突。二つの力が拮抗したのも束の間、すぐにライライの蹴りが押し返し、後ろに立っていた棍の持ち主を跳ね飛ばす。

 

 ――戦況には今のところ、滞りは見られない。

 

 しかし、それで「こともなし」とは必ずしも言えなかった。

 

 最初は快調な気分で戦っていたが、刃を交える回数を重ねるにつれて、胸騒ぎが暗雲のように押し寄せてきた。

 

 しばらくして、ライライとミーフォンの距離が縮まり、互いに背中をぶつけ合わせた。

 

「くそっ、このアホ共、一体何人いんのよ!? どんだけあしらってもキリがないったら!」

 

 ミーフォンの苛立ったぼやきが、背中の振動とともにこちらへ届いた。

 

 彼女の意見には完全に同意する。

 

 敵の数が多過ぎるのだ。

 

 確かに今のところ善戦こそしているものの、自分たちと相手側には圧倒的な人数差がある事実からは目を背けられなかった。

 

 しかも、全員雑魚ではない。連中が刻んだ太刀筋の速度と鋭さ、受け止めた刃から感じた勁力の重さから、個々の力量もなかなかのものであることが読み取れた。

 

 最初は短調な攻勢で対処がしやすかった。けれど連中も頭が冷えてきたのか、場当たり的な攻め方をやめ、人数差や自分の持つ武器の特性を活かした戦術に変えつつあった。

 

 一度も切り傷を負っていないのが不思議なくらいだ。

 

 この連中が本格的な連携を行って攻めてきたら…………考えるだけで気が重くなる。

 

 長期戦になったら、確実にこちらが不利だ。消耗した所を物量差で押されて終わるだろう。

 

 そして、こうして悩んでいる間にも、時間は流れているものだ。

 

 周囲に立つ男たちの刃が無数に連なり、冷ややかな光沢を放っている。まるで虎視眈々と獲物を狙う毒蛇のごとく、少しずつにじり寄ってくる。

 

 冷酷な鉄の輝きに圧され、ライライは思わず唾を飲み込んだ。重心が無意識のうちに踵へ寄る。

 

 その時、ミーフォンの肘が呼びかけるように背中を数度叩いてきた。

 

 軽く背後を向く。同じように振り返ったミーフォンと視線がぶつかる。

 

 彼女はその視線を、今度はとある方向へチラチラ当てた。まるで「そこを見ろ」と指し示すように。

 

 無言の催促に応じ、その方向を見る。

 

 半円状の軌道で広がったこの部屋の壁の中心には、幅の広い階段が上階へ向かって続いている。そして、その大階段の右隣には――奥へと続く細い通路。

 

 ミーフォンの視線が指すモノと、その目的を解すことができた。

 

 この大広間にいたら、必然的に多方向からの攻撃を許してしまう。ゆえに、あの狭い一本道へ入ることで、敵の来る方向を大幅に制限し、挟撃の危険を無くしてしまおうというのだ。

 

 それが必勝の手かと訊かれれば、首を傾げざるを得ない。けれど、比較的良い兵法である事は確かだった。

 

 二人は再び視線を合わせる。

 

 そして、同時に頷いた。

 そして、同時に目標を見つめた。

 そして、同時に足腰を溜めた。

 

 そして――同時に床を蹴った。

 

「「おおおおおおぉぉぉぉぉぉ――――!!」」

 

 鋭敏に、そしてしなやかに凶刃の林を駆け抜ける二匹の女豹。

 

 ミーフォンは鉄棍を、ライライは双刀を振り回し、通りがかった敵を威嚇して強引に道を開けさせる。時々その威嚇に屈せずに放たれた刃は、最小限の体さばきで回避。そうして立ちはだかる敵の数々を、ことごとく視界の後ろへ流していく。

 

 そして、ようやくそこへたどり着いた。

 

 大階段の右隣の壁に四角くくり抜かれた、一本の通路。そこへライライ、ミーフォンの順に入った。

 

 だが、ミーフォンは入ってすぐの所で足を止める。元来た方向へ向き直り、鉄棍を水平に構えてまくし立てた。

 

「あたしがこいつらをあしらって時間を稼ぐ! あんたはその間に【無影脚(むえいきゃく)】とかいう技を完成させなさい! 時間かかんでしょ、アレ!?」

 

「えっ…………ええ! 分かったわ!」

 

 一瞬戸惑ったライライだったが、すぐに彼女の意図を察し、威勢良く頷いた。

 

 ここへ移動する事を選んだ理由は、敵が攻めてくる方向を一つに絞るためだけじゃなかった。

 

 自分に【無影脚】の準備時間を与えるため。

 

 今までは敵が多過ぎたせいで、【無影脚】を使うという選択肢は完全に度外視していた。しかし敵の来る方向が一つだけとなり、なおかつミーフォンが守ってくれるというこの状況なら、準備を終える事は可能。

 

 ……ただし、ミーフォンが敵を一人もこちらへ通さないという条件付きだ。もしも敵を一人でも取りこぼせば、準備に集中していて隙だらけな自分は格好の的となってしまうだろう。

 

 ライライは乱暴にかぶりを振り、頭に積もった負の未来予想をふるい落とす。 

 

 【吉火証(きっかしょう)】を探している間、自分は背中を預けられる存在としてミーフォンを信頼していた。なら、今回も信じずしてどうする。

 

 それに、いくつも多重して雪崩のようになった足音が徐々に大きくなっていることから、男たちがこっちへ近づいてきているのが分かる。

 

 躊躇している暇は無い。

 

 ライライは覚悟を決め、静かに目を閉じた。視界が黒一色となり、聴覚が敏感になる。

 

 早速耳朶を打ってきた甲高い金属音をよそに――【意念法(いねんほう)】を開始した。

 

「蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 たった一言のみを、読経のごとく呟き続ける。

 

 ――「蹴る」という言葉は、これから作る彫刻の完成図であり、そしてそれを形作るための(のみ)でもある。

 

「蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 ――求めるのは、並ぶもののない『神速』。

 

「蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 ――しかしそれは、「速さ」を求めれば求めるほど遠ざかる、天邪鬼なもの。

 

「蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 ――ゆえに『神速』を求めるならば、逆に「速さ」への執着の一切を捨て去る必要がある。

 

「蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 ――なんの変哲もないただの岩を愚直に削り、削り、削り続け、見る者すべてを魅了してやまない神仏の姿を形作っていく。

 

「蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 ――「蹴る」という言葉の鑿を使い、「心」という岩から、「速さへの執着」という無駄な部分をじっくり削ぎ落としていき、

 

 

 

 

 

「――蹴る」

 

 

 

 

 

 ――――やがて、『神速』という名の仏像を彫り終えた。

 

 途端、深い安らぎが心身を包み込んだ。

 雑念の一切を取り除いたことで、波紋や揺れ一つ立たない水面のように気持ちが落ち着いた。

 顔が勝手に、涼しげな笑みを作った。

 

 ――【無影脚】、発動完了。

 

 瞳をゆっくりと開く。光と色が目を一斉に殴りつけてくる。暗い地下室に数時間閉じこもってから太陽を拝んだ気分だった。

 

 ミーフォンはこちらへ背中を見せたまま、次々と押し寄せてくる敵に鉄棍一本で必死に応戦していた。目を閉じる前と比べ、疲労の色が明らかに増していた。

 

「……ありがとう、もういいわ……」

 

 そう告げた自分の声色は、怖いくらいに静かで澄んだものだった。

 

 ミーフォンは武器で押し合っていた相手を強引に突き飛ばしてから、こちらを振り返った。その額には、うっすら汗が浮かんでいた。

 

「お……遅いわよ……いつまで……待たせんのよ…………?」

 

 ところどころに息継ぎを差し挟んだ声。

 

 自分は一体、どれだけの時間を費やしたのだろうか。【意念法】の最中は時間の感覚が曖昧だったからよく分からない。

 

 けれど、それは今更詮無き事。

 

 ミーフォンは無事。自分は無傷のまま、【無影脚】の発動を成功出来た。

 

 その結果を出せたのだから御の字だった。

 

 もう――負ける未来が全く浮かばない。

 

 ライライが裕然と歩み、ミーフォンが機敏に後退。両者がすれ違い、前後関係が入れ替わる。

 

 早速、間合いの中に敵が一人侵入してきた。

 

 その手に握られた刀が上から下へ太刀筋を刻む前に――「蹴る」。

 

「はがっ!?」

 

 稲妻のような蹴擊を土手っ腹に受け、男は苦痛と困惑の混ざった表情で吹っ飛んだ。

 

 続けざまにもう一人近づいてきた。両手に構えた槍を、中段から真っ直ぐ一閃。

 

 対して、ライライは二度「蹴る」。

 

「がふっ……!!」

 

 槍の真ん中、相手の胴体の計二箇所に、蹴りという名の閃電が直撃。槍は真っ二つにへし折れ、その持ち主は先ほどの敵同様背中側へ勢いよく逆走。

 

 その場に立ち尽くすのをやめ、ゆっくりと歩を進めるライライ。

 

 唖然として棒立ちしたままの敵を「蹴る」。

 

 刀を持って猛然と接近してきた男を「蹴る」。

 

 両斜め前から同時に急迫してきた二人の敵を「蹴る」。

 

 「蹴る」、「蹴る」、「蹴る」、「蹴る」、「蹴る」。

 

 ライライが前へ進むたびに、雑魚寝する人間の数が天井知らずに増えていく。

 

 両手にある刀を振るう必要さえない。

 

 ただ「蹴る」という単純な動作を繰り返すだけで相手が飛んでいく。

 

 『神速』へと至った今のライライの蹴りに触れる方法は、攻撃を受ける以外にほぼ存在しないと言って良い。残像どころか、影さえ作らないほどの速度で放たれる攻撃に、どうして反応することができるだろうか。

 

 圧倒的な速さは全てを凌駕する。千古不易の理。

 

 一本廊下から抜け、再び大広間へ出る。眼前には、今なお数多くの用心棒が立ち並んでいた。けれど、その表情は軒並み混乱しきっていた。きっと連中は、こちらの蹴りは全く視認できていないのだ。まるで仲間がひとりでに吹っ飛んだように見えたのだろう。

 

 そんな人垣にライライの足が緩慢に、そして無慈悲に近づいていく。

 

 連中はどうすれば良いか決めあぐね、まごついている様子だった。

 

 しかし、

 

『オオオオオオオオォォォォォォォォォォォォ――――ッ!!!』

 

 やがて腹を括ったように、総員武器を構えて猛進してきた。

 

 まともに向かっても勝てる訳が無い。けれども主人(タンイェン)の見ている手前、逃げ出すわけにもいかない。ゆえに、そんな考えに至ったのだろう。あるいは、優勢な数で押せば勝機があるという総意なのかもしれない。

 

 けれど、それは愚かを極めた選択だった。

 

 この【無影脚】を使った時点で、数の優位などとっくに無くなっているのだから。

 

 用心棒たちがすぐそこにまで迫る。

 

 そして、人垣の先端がライライの間合いに侵入した瞬間――空気が爆ぜた。

 

『ぐぷぺぶげぽぁ!!?』

 

 いくつもの呻き声が同時に湧き上がり、重複する。

 

 最前列を走っていた連中が総じて神速の蹴りを叩き込まれ、横合いへと文字通り"蹴散らされた"のだ。

 

 蹴り足を引き戻すのもまた『神速』。壁のように面積を広めて押し寄せようが、間合いに入れば目にも止まらないほどの連打で強引に()き止め、そして押し返せる。言わば「蹴りの結界」だ。

 

 人垣が一気に削り取られ、用心棒たちは動揺を露わにした。

 

 そうしている間にも、ライライは歩みを続けていた。

 

 蹴りの届く範囲に少しでも入ってしまった不幸な者には、容赦無く衝撃が待っていた。地面をみっともなく転がる人間が続出していく。

 

 まごついてうまく動けない者も、動揺に打ち勝って向かってきた度胸ある者も、間合いへ踏み入った者は平等に蹴散らしていく。

 

 ライライは自分で自分の技に舌を巻くと同時に、さもありなんとも思った。

 

 【無影脚】は【雷帝】と恐れられた最強の怪物、強雷峰(チャン・レイフォン)を仮想敵として作られた絶技。数の暴力ごときで御せる道理は無い。

 

 ――否。宮莱莱(ゴン・ライライ)という武法士の矜持がそれを許さない。

 

 歩いて、「蹴る」。

 

 それだけで敵の数がモリモリ減っていく。

 

 やがて、ぽつんと残った一人を残し、全員が倒れ伏した。

 

「んな……馬鹿な……!?」

 

 その男は信じられないとばかりに青ざめた表情で、横になる仲間達をしきりに見回す。

 

 きょろり。ライライの緩んだ眼差しが、男の方を向いた。

 

「ひっ……!! く、来るな……来るな……!!」

 

 ひどく怯えながら、片手に持った直剣をめちゃくちゃに振り回している。しかし足が硬直して動かないのか、立ち位置は全く後ろへ退けていない。

 

 しかしライライは無遠慮に歩み寄り、

 

「はばっ――!!」

 

 直剣の刃もろとも、男を踏み蹴った。

 

 重々しくも鋭さを持った炸裂音が聞こえたと思った時には、敵の姿は遥か向こうへ切り離されていた。宙をしばらく舞ってから床に落ち、数度転がってようやく止まる。刃が(つば)近くで途切れた剣を胸に抱きながら、胎児みたいな格好で静止。

 

 折れた刃の片割れがカツン、と落ちるとともに、静寂が訪れた。

 

 ライライは軽い足取りで大広間を巡りながら、周囲を見回す。さっきまで元気良く動き回っていた用心棒は、残らず床の端々に寝転がっていた。もうこちらへ向かってくる者は一人もいなかった。

 

 ――けれども、殺気が完全に消えてなくなったわけではない。

 

「……やっぱすごいわね、その技。もう全員やっちゃったんじゃない?」

 

 ミーフォンがこちらへ歩み寄りながら、そう賞賛を送ってきた。

 

「まだよ」

 

 が、ライライはそれをぴしゃり、と否定した。

 

 そう。さっきの男で最後ではない。

 

 ――あと一人、残っている。

 

 用心棒が全員倒れてもなお、この空間にはひんやりとした鋭い殺気に満ちていた。

 

 そして、それはたった一人の人物が放っていた。

 

 ライライは大階段の前に立つ、長身痩躯の男に視線を移した。

 

 無数の蛇が頭から伸び出たような沢山の三つ編み。右頬に走った三日月状の傷。(へそ)周りから下を露出させた詰襟に、(うり)のような膨らみを持った長褲(長ズボン)という奇抜な装い。左腰には、細長く反りを持った刀「苗刀(びょうとう)」が帯刀されていた。

 

 その黄金色の瞳と視線がぶつかった。

 

「……――っ!?」

 

 瞬間、ライライの総身に悪寒が走った。

 

 爬虫類を思わせるその金眼からは、生命の輝きがまるで感じられなかった。まるで無機物の金玉を眼球代わりにはめ込んだように暗く、作りモノめいていた。

 

 何より、この広大な部屋全てを覆い尽くすほどの殺気を、この男がたった一人で担っているのだ。

 

 直感で分かってしまった。

 この男はさっきまで相手にしていた雑兵とは格が違うと。

 それだけじゃない。滅多にお目にかかれないほど強大で、そして危険な存在であると。

 

 男の隣に立つタンイェンは、その厳つい顔貌に静かな怒気を表しながら命じた。

 

「……インシェン、屋敷の中を少し壊しても構わん。その小娘二人を確実にバラバラにしろ。【虹刃(こうじん)】という通り名が名前負けではない事を、俺に証明してみせろ」

 

 その命を受けた男――インシェンは左腰の苗刀の鍔に指をかけ、

 

「――御意ぃ」

 

 鷹揚に頷き、前へ出た。

 



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虹刃

 

 無数の蛇が頭から生えたような奇っ怪な三つ編みをしきりに揺らしながら、インシェンという男はゆっくりと前へ出てくる。

 

 そして、自分たち二人の約5(まい)先で足を止めると、

 

「つぅわけで、雇い主様からの命令だぁ。おたくらに恨みはぁないが――死んでくれぇ」

 

 左腰にぶら下がった苗刀(びょうとう)の柄を握り、滑らかに抜き放った。

 

 ピュオンッ、と慣れた手つきで抜き身の刀身を肩に担ぐインシェン。

 

 鞘から外界へさらけ出されたのは、白刃ではなく――"黒刃"だった。

 

 苗刀特有の細長く反りのある刃は、どんな色でも塗りつぶせないであろう漆黒に染まっていた。一応金属光沢はある。だが奇妙なことにソレは、磨き抜かれた貝の真珠層のような――「七色」。

 

 この大広間(ホール)の天井や壁にいくつも存在する行灯の光が漆黒の刀身に当たり、輝かせる。ミーフォンの顔に虹色の反射光が当てられた。

 

 彼女はそれに眩しがる仕草を見せなかった。そんな余裕など全く無いといった緊張の面持ちで、黒い刀を凝視していた。

 

「【虹刃(こうじん)】って…………あんた、まさかその刀【磁系鉄(じけいてつ)】……?」

 

 緊張した声で、ミーフォンが問うた。

 

「ご名答ぉ。この苗刀はぁ仰る通り、【磁系鉄】だぁ。しかもぉ、余計な混ぜ物一切ナシの純【磁系鉄】製ぃ。こいつ一本売ればぁしばらく左団扇ができるぜぇ。その事実がこれからの斬り合いにどぉ関わってくるか、おたくらも武法士ならご存知だよなぁ?」

 

 返って来た抑揚の激しい語り口に、ライライは眉をひそめた。隣のミーフォンも同様だった。

 

 ……実物を目にしたのは今が初めてだが、話だけでなら聞いたことがある。

 

 【磁系鉄】は、【気】の流通を遮断する効果がある希少鉱物。それで作り上げられた武器は、刃も通さないはずの【硬気功(こうきこう)】を容易く破ることが可能だ。

 

 つまり、これから始まる戦いでは、【硬気功】が使えない。そして今までより一層斬撃への警戒を強めなければならない。

 

 それにあの男の立ち振る舞いや一挙手一投足には、一つとして無駄な動きが無い。まるで全ての動作から「武」以外の要素を削ぎ落としたかのようだ。このような質の高い動きをする人間を、自分は死別した父以外知らない。

 

 何より、チクチクと肌に確かな知覚のように感じるほどの、濃厚で鋭い殺気。

 

 この男、絶対に只者ではない。二対一だからといって油断していると確実に首を撥ね飛ばされる。

 

 インシェンは黒刃を背に担ぐように持ち、半身になってやや腰を落とす構えをとった。

 

 くつくつと喉を鳴らす笑声をもらしながら、

 

「さぁてぇ、精々抵抗してみせてくれよぉ? どうせ殺るにしても、簡単に終わっちゃぁつまんねぇからなぁ」

 

「往生すんのはあんたの方よ。魂魄が体から抜け落ちた後もそんな戯言吐かしてりゃいいわ」

 

 ビュンッ、と鉄棍の先端を眼前の敵に向け、気丈に言い返すミーフォン。

 

 相手の実力を読めているかいないかは分からないが、ミーフォンのそんな威勢の良い物言いに、気圧され気味だったライライは若干の士気を取り戻すことができた。

 

 ここは彼女を見習うべきだ。純粋な実力の差が伴う戦いにおいて、心の在り方というのは重要だ。たとえ虚勢であったとしても、気をしっかりと持つべきなのだ。それに【無影脚(むえいきゃく)】は強力な分、僅かな精神の乱れが生じただけで解けてしまうという欠点も存在する。わざわざ自分で自分を不利に追い込むこともあるまい。

 

 ミーフォンは鉄棍を中段に置き、水平に構えた。

 

 それに倣い、ライライも臨戦体勢を取った。

 

 自分たち二人とインシェンを取り巻く空気が、緊迫した沈黙に包まれる。

 

 が、それはたった一瞬の事だった。

 

「――(シャ)ッッ!!」

 

 突風が壁となって押し寄せ、インシェンの姿が視界を一気に占めた。

 

 二人は即座に左右へ散開。それからほとんど間を置かずに、直前まで自分たちのいた位置の床が爆砕した。

 

 木屑の舞い散る中に、刀を振り下ろした体勢のインシェンが見えた。黒刃は細長くも深い傷跡を床に刻み、めり込んでいた。

 

 一度足を止め、ミーフォンと目で合図する。左右から挟撃しようという考えが一致したとを判断。

 

「南方の果モンより甘ぇ――!!」

 

 ――が、挟撃が始まる前に、インシェンが機先を制した。刺さった漆黒の刀身を引き抜きつつ疾走し、瞬く間にこちらへ急迫してきた。

 

「!?」

 

 しまった、先を読まれた。

 

 出鼻をくじかれたライライはすぐに対応出来なかった。かろうじて動かすことができたのは、双刀を持った両手のみであった。

 

 インシェンがこちらの蹴りの間合いの直前まで達する。途端、急激に腰を深く落とし、背中を丸めた。柄を胸元に抱えるようにして苗刀が握られている。

 

 そして、腰と背中を急激に伸ばすと同時に――黒刃の尖端を一直線に疾らせた。

 

「ぐっ……!」

 

 全身のバネを用いた一突きを、ライライは胸前で交差させて構えていた双刀で受け止めた――重い。

 

 そのまま二刀の交差点に黒刃を滑らせながら軌道を横へズラしていき、やがて横を通過させた。

 

 串刺しにこそならずに済んだものの、ライライは余剰した勢いで弾かれる。

 

 おぼつかない足取りで後方へ下がりつつも、インシェンの姿をしっかりと見続ける。そして、その背後に鉄棍を大きく振り上げたミーフォンの姿を発見。

 

 振り下ろされた。

 

「おっとぉ、危ないねぇ」

 

 が、インシェンは一瞥もせぬまま黒刃を素早く背中側へ引き寄せ、垂直に放たれた彼女の一撃を受け止めた。ガキィン、と耳が痛くなるほどの金属音。

 

 黒い剣尖が斜め下へ傾く。接していた鉄棍が黒刃の上を滑り、下へするりと落ちる。それによってミーフォンの胴体ががら空きとなった。逆に、インシェンはいつでも斬りつけられる状態。

 

 このままじゃ斬られる――そう考えた時には、ライライはすでに双刀の一本を投擲していた。回転しながら飛んでいく。

 

 無論、そんなお粗末な攻撃が当たるはずもなく、刀はインシェンの黒刃によって容易く弾き返された。しかしそれに対応したことで、狙い通りミーフォンへの注意が逸れ、彼女に退く猶予を与えられた。

 

 打ち返された双刀が幾度も翻りながら風のようにライライの隣を素通り。なおも衰えずに飛翔を続け、遥か後ろの壁に深く突き刺さってようやく止まった。

 

「やるねぇ、お嬢ちゃん達ぃ」

 

 そう綽綽(しゃくしゃく)とした口調で言うインシェンは、戦いを始める前とは一切変わらぬ飄々とした物腰だった。生命感に欠ける不気味な金眼も相変わらずだ。

 

 焦燥感の荒波が立ちそうな心を必死に鎮めつつ、ゴクリと喉を鳴らす。

 

 やはり強い――刃を交えたのはまだ数度だが、その少ない回数だけではっきりとその事を悟れた。

 

  一手先の攻撃を即座に察知する眼力もさることながら、無駄な動きを一切せず、必要最低限の動きのみで対処する技巧と胆力。

 

 この男、自分たちより遥かに戦い慣れしている。

 

『……馬湯煙(マー・タンイェン)の用心棒の雑魚だけなら、まだなんとかできよう。だがあの屋敷には一人、とんでもない怪物がいる。奴には、我々全員でかかったとしても勝ち目はない。だからこそ、李星穂(リー・シンスイ)の力が必要なのだ』

 

 ちょうど良い時機(タイミング)で、徐尖(シュー・ジエン)の言っていた言葉が脳裏をよぎった。

 

 彼の口にしていた「とんでもない化物」とは、まさしくこの男を指す代名詞だったのだ。そのことを今、確信する。

 

「さぁてぇ、背の高い方の嬢ちゃんの力量は確かめたし――今度は小さい方の嬢ちゃんを味見させてもらおうかねぇ!」

 

 言うや、インシェンは(きびす)を返し、ミーフォンめがけて接近した。

 

 黒刃の間合いの先端と、小柄な少女の立ち位置がぶつかる。

 

 刹那、漆黒の刀身が逆袈裟の軌道で走った。

 

「くっ!?」

 

 ミーフォンは鉄棍を構えてそれを防御。鈍さと鋭さを同時に持った金属音とともに、数歩後ろへよろけた。

 

 そして重心を安定させた時には、すでにインシェンの横薙ぎがすぐそこまで迫っていた。首を狙ったものだった。

 

「ちょっ!?」

 

 だが幸運にも鉄棍の位置が、さっきの初撃によって首元まで打ち上げられていた。それが盾となり、首斬りを防いだ。

 

 下がって距離を置いてから、ミーフォンは武器を構え直す。その姿を、インシェンは鼻白んだような表情で見つめ、

 

「ふぅん? なぁんだぁ。おたく弱かぁないが、背の高いお嬢ちゃんに比べると随分と張り合いが無いじゃないのぉ。お兄さん、アクビが出そぉだぜぇ」

 

「なっ……!? なんですって!? この蛇頭(へびあたま)!」

 

 ミーフォンはムキになって食ってかかるが、涼しげな微笑によってさらりと流される。

 

 そしてその微笑は、すぐに闘争心と嗜虐心を濃く帯びたニヤケ顔へと変わる。

 

「まぁ、いいかぁ――どのみち二人とも斬って捨てるんだしよぉ」

 

 そううそぶいた次の瞬間、虎を思わせるしなやかで鋭敏な足運びで駆けた。インシェンの立ち位置が、ミーフォンの懐へと一瞬で転ずる。

 

 ものすごい風圧を伴わせ、後ろへ引き絞っていた剣尖を真っ直ぐ突き放った。

 

「うわっ……!?」

 

 体をひねって避けたおかげでなんとか体は無傷で済んだ。が、黒刃はミーフォンの連衣裙(ワンピース)の腹部を擦過し、綺麗な裂け目を作った。

 

 インシェンの刺突を闘牛士よろしく回避したことで、結果的にその真横を取った。それを好機と思ったであろうミーフォンは、急激に全身を横回転させる。鉄棍を円軌道で振り、敵の後頭部を殴りつけようとした。

 

 けれど直撃の寸前、インシェンの頭部が上半身ごと消えた。鉄棍は惜しくも空を切る。

 

 否。消えたのではない。腰を深く落とし、上半身を真下へ引っ込めていたのだ。

 

 かと思えば、臀部が床に付きそうなくらい深くしゃがみ込んだ体勢から――インシェンの上体が急激に跳ね上がった。

 

「きゃあっ!!」

 

 地面を弾んだ鞠のような立ち上がりとともに斬り上げられた黒刃は、ミーフォンの鉄棍に衝突。彼女の手から武器を強引に引き剥がした。

 

 鉄棍は回転しながら真上に浮かんでいる。そして今、ミーフォンの手には武器が無い。

 

 さらにインシェンの武器は【硬気功】の通じない【磁系鉄】製。

 

 丸裸同然の状態だった。

 

「そらよぉ、一人目討ち取ったりぃ!!」

 

 インシェンは上へ振り抜いた刃を下へ翻し、垂直に一閃させた。

 

 マズイ、殺される。インシェンに近づいている最中だったライライは、ミーフォンの体が頭頂部から尾てい骨まで真っ二つになる最悪の未来予想を思い浮かべていた。

 

「――舐めるなっ!!」

 

 が、ミーフォンは太腿にくくりつけてあった匕首(ひしゅ)を迅速に抜き放ち、逆手に握り、その短い剣身を黒刃の延長上に置いた。

 

 甲高い金属音、そして摩擦音――ミーフォンは上段からの一太刀を匕首で受け止め、さらに刃同士を擦らせて黒刃を下へ流しつつ、インシェンの間合いのさらに奥へと踏み入った。そして横をすれ違いざま、逆手に持った匕首の刃で喉元を斬りつけようとした。

 

 対して、インシェンは柄から片手を離した。その腕を鞭のように上へしならせ、匕首を握るミーフォンの手を真下から打ち上げた。

 

 得物を腕ごと上へ弾かれる。そして、遮るものがなくなった彼女の腹部へすかさず蹴りを叩き込んだ。

 

「きゃっ!?」

 

 ライライは、奴の蹴りによって吹っ飛んできたミーフォンとぶつかる。二人まとめて将棋倒しとなった。

 

 近づいて来られる前に立ち上がる。

 

 遠間(とおま)――間合いから遠く離れた位置――に立つインシェンを睨みつつ、その出方をジッと待つ。額から頬へ汗のひとしずくが伝った。

 

 ――インシェンの動きは、やはりというべきか【通背蛇勢把(つうはいじゃせいは)】のものだった。それも、かなりの功力を誇る使い手と見た。

 

 【通背蛇勢把】の主な特徴は、そのしなやかな体の使い方にある。

 

 極限まで全身を脱力させ、全身の【(きん)】の柔軟性を徹底的に向上させる。それによって得られた肉体を使い、柔らかさと破壊力に富んだ身体操作を実現させる。さらにそこへ長さ(リーチ)のある苗刀を加えれば、まさしく鬼に金棒の強さと化す。

 

 例えば、ミーフォンの鉄棍を打ち払ったあの斬り上げ。あれは【通背蛇勢把】に伝わる【拍球捶(はくきゅうすい)】という技を苗刀で使用したものだ。腰を急降下させ、体重を落とした時に発生した地からの弾性力に身を任せて再び立ち上がり、その勢いを込めた正拳を放つ技。起伏が激しいその動きは、下半身の優れた柔軟性と強靭な脚力を兼備していなければ上手くいかないものだ。

 

 柔をもって剛を得る。それこそが【通背蛇勢把】の基本にして真髄。

 

 インシェンは腰を軽く落とし、苗刀を上段で水平にして構えた。

 

「よぉし、小手調べも終わったことだし――これからは本気(マジ)で行くとするかぁ」

 

 ブワッ――

 

 男の纏う殺気がさらに濃く鋭くなり、突風のごとくこちらの肌を殴った。

 

 さっきので本気じゃなかったの――ライライは眼前の強敵の底知れなさに冷や汗を禁じ得なかった。

 

 しかし、心を乱してはいけない。もし乱れてしまえば、その時点で【無影脚】の効果が切れてしまう。波紋一つ起きない水面を思い浮かべながら、懸命に自心を律する。

 

 少し横へ離れた所にいるミーフォンと目を合わせ、互いに頷きあった。この男を相手に、一人で挑もうとすることは自殺行為に等しい。卑怯であろうと、ここは二人で協力して戦うべきだ。

 

 左右二手に分かれる。ミーフォンは右、ライライは左へ進み、弧の軌道でインシェンの左右側面へゆっくり近づいていく。挟み撃ちを狙うためだ。

 

 その時、不意にインシェンが体を激しく一回転させた。同時にその周囲の床が円周状にえぐれ、無数の木屑が吹雪のように360度全方位へばら撒かれた。

 

 本能的に目元を庇う二人。

 

 しかし、それこそ敵の思う壺だった。

 

 インシェンは床を蹴り、爆進。木屑の雨の中を瞬き一つせぬまま駆け抜け、わずか半秒ほどの時間でライライとの距離を潰した。

 

 漆黒の閃きが疾る。ライライは音速に達していそうな速度で迫る黒い刀身を、残った双刀の片割れで間一髪防御した。

 

「――――っ!!」

 

 次の瞬間、とんでもない衝撃が手根、腕を介し、体の芯まで伝播した。

 

 かと思えば、ライライの五体が勢いよく後ろへ反発。10(まい)半ばほど後まで吹っ飛んだところで、ようやく足を踏ん張らせて慣性を殺せた。

 

 得物を構えようとした。だが先ほどの斬撃を受けたせいで、刀身は見事に砕け散っていた。横合いに投げ捨てる。

 

 ……なんて威力だ。未だに手がビリビリしびれている。

 

 そうして心の中で感嘆している間にも、インシェンは再びこちらへ走行してきていた。

 

 8(まい)、5(まい)、3(まい)――人間離れした瞬発力によって、あっという間に距離が食い尽くされる。

 

 インシェンは苗刀から右手を離し、残った左手で柄尻を握る。そのまま振り上げ、左腕を大きく伸ばしながら刀身を振り下ろしてきた。元々長身な苗刀の長さに腕全体の長さも加わり、いつもより尺のある間合いをもって襲いかかってくる。

 

「く……っ」

 

 土壇場で間合いの広さを変えられたせいで少し困惑したが、ライライはなんとか後ろへ退いて回避できた。目と鼻の先で黒線が上から下へ駆ける。

 

 しかし、ライライの爪先近くに急降下した黒刃は、床へ直撃する寸前でピタリと停止。かと思えば剣尖の向きが斜め上、つまりこちらの顔に向けられた。美しい七色の反射光がギラリと剣呑に輝き、頬を照らす。

 

 しまった、確かこの技は――

 

 大きく後ろへ跳んだ。

 

 刹那、黒い剣尖が勢いよく跳ね上がった。その刃はチリッ、と衣服の表面をかすりながら、直前までライライの鼻があった辺りを貫いた。

 

 【流星趕月(りゅうせいかんげつ)】。大振りな斬り下ろしをワザと回避させて狙った場所へ誘導し、そこへ下から手刀を急上昇させて鼻を削ぎ落とす技。それを苗刀で使ったのだ。

 

 ギリギリの所で跳んだおかげで、黒刃の餌食にならずに済んだ。代わりに、無駄に育った胸元の双丘の中間に刃がかすり、衣服のその部分に縦の切れ目が入った。そこが左右にパックリ開き、中にある白い素肌と深い谷間が露わになる。

 

「んんっ? 今なぁ布が裂ける音かぁ」

 

 黒刃を突き上げた体勢のまま、呑気にそう呟くインシェン。相変わらず虚ろで生命感に欠けるその金眼は、眉間と同じく床を向いていた。

 

 ライライは胸元を隠したい気持ちでいっぱいだったが、今は羞恥に駆られている場合ではない。奥歯を食いしばって、女子の本能を噛み殺した。

 

 インシェンがまたも風のように距離を詰めてきた。

 

 幾度も黒刃を疾らせてくる。

 

 変幻自在で、かつ上下の起伏が激しい動作から次々と繰り出される斬撃。漆黒の文目(あやめ)が、眼前で目まぐるしく描かれていく。

 

 一筋一筋が決め手級の斬れ味を秘めた斬閃の数々を、ライライはかろうじて躱し続けていた。しかし時折避けきれず、衣服にごく浅い切り傷を刻むことを許してしまう。

 

 何より不気味なのは――インシェンの瞳が全く動きを見せないことだった。怒涛の剣戟を連発するインシェンの表情は闘争心で溢れたものだが、金の虹彩を持った眼だけ死んでいるように生気が無く、そして微動だにしないのだ。まるで眼窩に硝子(ガラス)玉がはめ込まれているようである。

 

 回避を継続する事にだんだん難儀してくるライライ。服についた細かい切り傷の数がさらに増える。

 

 そんな時、刀を振り続けるインシェンの背後に人影が現れた。

 

 ミーフォンだった。先ほど弾き飛ばされた鉄棍が再びその両手に握られており、腰をひねって後ろへ引き絞っていた。

 

 かと思ったら、今度はインシェンの動きに変化が生まれた。振る手を止め、苗刀を自分の真横で構えた。剣尖を真下に向けた、床と垂直の状態で。

 

 それから半秒と経たないうちに、ミーフォンの鉄棍が薙ぎ払われた。そして、あらかじめ構えられていた黒刃と激しく衝突。

 

 インシェンはまたしても、彼女の攻撃を先読みして防いでみせたのだ。しかも、ミーフォンの方を一瞥もすることなく。

 

 しかし、今、奴の胴体には苗刀や腕の守りが無く、無防備にさらけ出されていた。

 

 それは一瞬見せた隙。けれど、一瞬でも隙は隙。そして【無影脚】の神速の蹴りならば、その「一瞬」を突くのは簡単だ。

 

 蹴りを叩き込もう。ライライはそう判断し、それを実行しようとした。

 

 

 

 ――が、転瞬、インシェンが地を蹴った。

 

 

 

 ライライの足の届く範囲から逃れる形で後方へ跳んだのだ。自分の立っていた位置に黒刃を振るいながら。

 

 程なくして、神速の一蹴りが突き進む。しかし、標的(インシェン)を間合いの外へ逃がしてしまったため、あえなく空を蹴った。

 

 そして、蹴り足が限界まで伸びきった瞬間――置き去りにされた黒刃が向こう脛に軽くかすった。

 

 くすみ一つ無い白い肌に、小さな裂傷が一筋刻まれた。

 

「……ちぃと浅かったかぃ」

 

 その残念そうな言葉を合図にしたかのように、灸で焼いたような軽い痛みがやってきた。浅い裂け目から微かに鮮血が染み出し、その雫が花びらよろしく宙へ舞い散る。

 

「――っ!!」

 

 蹴り足を慌てて引き戻したライライは、驚愕しきった表情で大きく距離を取った。

 

 インシェンの動きに気を配りながら、蹴り足の脛へ目を向ける。

 

 ――夢じゃない。やはり、切り傷ができていた。

 

 傷の浅さ同様、切られた痛み自体は大したことはない。

 

 しかし、ライライはそれでも頭を思い切り殴られたような衝撃に苛まれていた。

 

 

 

 ありえない――【無影脚】を避けるなんて。

 

 

 

「速さ」への執着を心から全て削ぎ落とし、身につけた「神速」の蹴り。それは音さえ置き去りにするほどの圧倒的速力を誇る。人間の動体視力で捉える事はほぼ不可能。仮に目で追えたとしても、対処しようとする暇さえ与えず蹴り飛ばせる。

 

 ライライ自身も、驕りを抜きにしてこの【無影脚】に強い自信を持っていた。避けるどころか反応することさえ叶わない、無比の脚速を誇るこの技ならば、あの【雷帝(らいてい)】を一方的になぶり殺しに出来るかもしれないと。

 

 しかし、今まで不変だったその自信が今、崩れかけていた。

 

 ――あの男は、その蹴りを避けてみせたのだ。

 

『……ちぃと浅かったかぃ』

 

 このような台詞は、避けられないはずのこちらの蹴りを避け、なおかつ一矢報いるという人外じみた行為を意図的にやってみせた裏付けに他ならない。

 

 血の気が一気に急降下し、体が冷めた。

 

 今まで荒立たないよう心を律してきたが、そんなものはとうに乱れていた。【無影脚】の効果が切れた事を今、実感する。

 

「おぉっとぉ」

 

 インシェンが急にそう声をもらし、体の位置を真横へズラした。古い立ち位置にミーフォンの鉄棍が振り下ろされたのは、それから刹那ほど後だった。

 

 空振ったミーフォンは驚いた顔を見せたが、その場に居着くことなくすぐに後ろへ数度跳ね、間隔を開いた。構えた状態で止まる。

 

 ライライはというと、未だにインシェンの姿に視線が釘付けとなっていた。

 

 ——こちらの仕掛けようとする攻撃のことごとくが、動き始める前に潰される。

 

 最初は、ただ単に相手の動きを読むのが上手い程度だと思っていた。

 

 けれど、今なら分かる。インシェンの防御ないし回避能力は、「先読みが上手い」という尺度で済むモノではない。【無影脚】を躱されたことで、その考えは確信となった。

 

 少しでも攻撃の素振りを見せていたなら、まだ分かる。

 

 だが、こちらがその「素振り」を少しも見せないうちから、あの男は出鼻をくじいてきたのだ。

 

 これはもう、先読みや予測の域を逸脱している。

 

 まるで一手先の未来を覗かれているような気分だ。

 

 3米(まい)ほど離れた位置に立つミーフォンがこちらの衣服に視線を送りつつ、軽口をぶつけてきた。

 

「何胸元開いてんのよ? 色仕掛け作戦?」

 

「ち、違うわよっ! 切られたのっ」

 

 ライライは真っ赤になって過剰反応する。

 

「ふうん? あいつ飄々としてるフリしてスケベなのね。まったく、これだから男ってのは」

 

 ことさらに明るい口調で言うミーフォン。軽い笑みこそ作っているものの、その額には汗が浮かんでいた。

 

 きっと内心の不安や焦りを紛らすための台詞だろう。【龍行把(りゅうぎょうは)】と交戦した時と同じ感じだ。

 

「いや、わざとじゃないんじゃないかしら……? あの男、私の胸元に目もくれてなかったし」

 

「うえっ……もしかして男色か何かなの? あいつ」

 

「私に聞かれても分からな―――」

 

 そこまで言って、ライライはある事に気がついた。

 

 ――見ていなかったのだ。

 

 ライライは今まで、この大きな胸のせいで散々悩んできた。そしてその悩みの一つが、男からの視線だった。

 

 たいていの男はライライと出会うと、まずその胸に視線を移動させるのだ。一瞬か数秒間かの個人差はあれど、大体胸を見てくる。以前、着ていた服の胸囲が小さすぎて胸の留め具が弾け、胸元が露わになるという災難に見舞われたことがあったが、その時は周囲の男ほぼ全員の視線が胸に集中した。……あの時は死にたくなるくらい恥ずかしかった。

 

 そう。時間の長短を問わず、大体の男なら目が行ってしまうのだ。

 

 しかしインシェンはライライの胸部を切り裂いた時、そこへ微塵も目をくれてはいなかった。全く別の方向を見ていた。

 

 その事実を「点」とし、そこから「線」、「面」に広げるように思考を展開させる。

 「面」へと至った思考を、さらに「立体」へと押し延べる。

 その果てに――恐ろしい仮説を一つ組み立てた。

 

「どしたのよ、ライライ? そんな黙りこくって」

 

 急に無言になった自分を気遣うように、ミーフォンが顔を覗き込んできた。

 

「大丈夫」と目と表情で訴えてから、ライライは黒刃を後ろに引いて構えたまま微動だにしないインシェンを見つめ、そして切り出した。

 

「インシェン、だったかしら? あなた、見事な腕前ね。これほどの苗刀さばきを見せる武法士にはお目にかかったことがないわ」

 

「なぁんだぃ? おだてて気分を良くして、手心を加えてもらおうってぇ魂胆かぃ?」

 

「違うわよ。素直に感嘆しているだけ。その剣の腕前もそうだけど、私が真に評価しているのは――その異常なまでの勘の良さよ」

 

 金色の双眸の間にある眉間が、ピクリと動く。

 

「……あなたの先読みの能力は、もはや予測の域を超えて、「読心術」の領域に片足を突っ込んでいると思うわ。次の動きの「予兆」が見えてから動くならまだしも、その「予兆」さえ出ていない段階から、あなたは私たちの次の手に対して反応してみせた。そうでなければ、私の【無影脚】を避けられる訳が無い。あの蹴りは仮に「予兆」が見えたとしても、見えた時にはすでに相手を蹴り飛ばしている。人間では普通に反応しきれないほどの速度があるのよ」

 

「【無影脚】……だとぉ?」

 

 インシェンの眉間に深い皺が刻まれた。

 

 さらに口を動かし続ける。

 

「で、その事を踏まえた上で、あなたに一つ質問を投げかけようと思うのだけど、暇はいただける?」

 

「……俺ぁ構わんぞぉ。聞くだけぇ聞いてみぃ」

 

 了解をもらった。

 

 ライライは額に嫌な汗を浮かべつつ、問いを投げた。

 

 

 

「私たちが今――どんな服を着てるか分かる?」

 

 

 

 インシェンの表情が少しだけ強張りを見せたのが分かった。

 

 そして、こちらの問いに対してすっかりだんまりとなっていた。

 

 ――嫌な予想が当たった事を確信する。

 

「答えられないでしょう? 答えられるわけがないわよね? だって、”分からない”んですもの」

 

 正直、頭を抱えたい気分だったが、ライライは気丈にそう言い放った。

 

 ミーフォンは解せないといった困惑の表情で訊いてきた。

 

「ど、どういう事よ? 一体何の話をしてるワケ?」

 

「今言ったままの意味よ。この男には、私たちの容姿が分からないの」

 

 遠まわしな表現はやめて、ライライは次のようにはっきりと告げた。

 

 

 

 

 

「この男は――――目が見えてないのよ」

 

 

 

 

 

「なっ……!!」

 

 握っている鉄棍を取り落としそうなほどに、ミーフォンは驚愕を露わにした。

 

 ライライはさらに、その事実の裏付けを述べ始めた。

 

「インシェン、あなたはこの戦いの最中、瞬き以外に目を一度も動かしていなかった。その理由は簡単。動かす必要がなかったからだわ」

 

 インシェンは喋らない。まだ今の段階では、その沈黙が是なのか非なのか分からない。

 

 さらに続けた。

 

「さらに、床を円状に削って木屑を舞わせた時にも手がかりがあったわ。その時、あなたは舞い散る木屑の中を突き進んで私に向かって来ていたけど、視界を覆うほどの量の木屑を――あなたは一度も腕で払おうとはしなかった。普通なら細かい木屑が目の前に映った時、人は無意識のうちにそれを腕で払い除けて顔を守ろうとするはず。けどあなたはそれをしなかった。当然だわ、あなたにはその木屑が見えなかったんだから」

 

 そしてもう一つ、とライライは前置きをしてから、インシェンを指差して言った。

 

「極めつけに、あなたは私の服の胸元の部分を刀で切った時、確かにこう言ったわ――「今のは布が裂ける音か」と。こんなこと、普通は口に出して言わないはずよ。言うとするなら、それは音しか判断材料がなかった時。私はこれを思い出した時、あなたが盲目なんじゃないかっていう仮説を立てたわ。そしてそれをはっきりさせるためにさっきの意地悪な質問をぶつけたわけだけど――当たっていたようね」

 

 インシェンはその指摘に対し、挑戦的な微笑みを浮かべる。

 

 突然、ミーフォンが取り乱した様子で突っかかってきた。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよライライ! 目が見えないですって!? そ、それじゃあコイツはどうやって世界を認識してるっていうのよ!? あたしたち二人の相手も、目が見える奴並みに、ううん、目が見える奴以上にこなしてたじゃない! 一体どういうこと!?」

 

「視覚以外の知覚が、それを補う形で異常発達したからだと思う。聴覚や触覚と結論付けたい所だけど、私たち武法士には、生まれ持った五感以外にもう一つ感覚があるはずよ。――【聴気法(ちょうきほう)】っていう感覚がね」

 

 何かに思い至ったように、大きく目を見開くミーフォン。

 

 ライライは再度、男の死んだ金眼を強く見つめた。

 

「【聴気法】は、周囲の人間の【気】の存在を感知できる技術。けど、感知できるのはあくまで「存在」だけ。感じられる【気】の形は、その人物と同じ高さの炎のような不定形で、人型ではない。つまりその時対象が行っている動作までは分からないということ。だから、実戦の中で【聴気法】を過信しすぎるのは危険。あくまでその用途は索敵。これが一般的な武法士の持つ【聴気法】への認識よ」

 

 緊張で喉が乾燥していたため、ライライは唾を飲み込んでから次の言葉を発した。

 

「……けど、希にいるのよ。【聴気法】によって、人間の【気】の存在を具体的な人型として感知できる人間が。それだけじゃない。感知した人型の【気】の揺らぎ具合から、その人間の心情を読む事も可能らしいわ。そしてそういった能力は、視覚や聴覚といった感覚が欠如している人間に現れやすいと言われている。正直、外れている事を願いたい予想だけど……インシェン、あなたは"そう"なんじゃないかしら」

 

 もしも【聴気法】で心の機微を読めるのだとしたら、人間の反射速度では回避できないはずの【無影脚】を避けられた事にも辻褄(つじつま)が合う。

 

 インシェンは、こちらが蹴りの前兆一つ見せていない段階から動き始めていた。あれは「蹴りを放つ」というこちらの思考を読めたからだろう。だからこそ、機先を制することができた。

 

 そうとしか考えられない。

 

 この男は視力こそ無いが、見えている者以上に"()えている"のだ。

 

「くっくっくっ……観察力のあるお嬢ちゃんだねぇ。(めくら)じゃぁなかったら、どんな別嬪さんか拝みてぇもんだぁ」

 

 抑えたような笑声をもらしながらそう言うと、インシェンは構えを解いた。苗刀を左腰の鞘に納め、自由になった両手で拍手をしながら再度口を開いた。

 

「――だぁい正解、その通りだぁ。俺ぁ目が全然見えねぇ。しかしその分【聴気法】でぇ、他人の精神状態を漠然とながら読めるのさぁ。心の変化を感じ取れるんだからぁ、当然相手の攻撃の時機(タイミング)だって丸わかりだぁ。それを読んだ上で動けるから、俺ぁ周囲の人間より一拍子早く動けるって事になるねぇ」

 

 出来れば、耳を塞ぎたかった。

 

 どうしようもなく嫌な情報を、敵の口から聞かされたのだから。

 

 一拍子早く動ける――これが戦いにおいてどれほど恐ろしい事であるか、武法に携わる者には痛いほど良く分かるはずだ。

 

 体術における「拍子」とは、行動の区切りの回数。一歩進んで一拍子、二歩目を進んで二拍子、三歩目で三拍子といった具合に、一つ一つの運動や行動を節目で区切って数にしたものだ。

 

 これは攻防にもあてはまる。

 自分が一回突き、相手がそれを躱して一拍子。相手が蹴りで反撃し、それを自分が両腕で受け止めて二拍子。受け止めた蹴り足を手前に引っ張り込んで三拍子。引っ張られた相手に正拳を叩き込んで四拍子…………こんな感じで、彼我のやり取りの一つ一つは「拍子」として区切られているのだ。

 

 そして防御ないし回避の「拍子」は、相手の攻撃という「拍子」が刻まれてから初めてその意味を成す。簡単に言うと、回避や防御といった受身な対応は、相手の攻撃が先に行われなければ成立しないということだ。当たり前である。そもそもやって来る攻撃がなければ、防ぎようも避けようもないのだから。

 

 ――しかし、インシェンの【聴気法】はその"当たり前"を覆す。

 

 相手の精神の浮沈を読むというその能力をもってすれば、これから敵の攻撃が行われるという事を一瞬早く察知し、攻撃の「拍子」が刻まれる前に行動を起こせる。敵の間合いから逃げ出す事も、攻撃が行われる前に出鼻をくじく事も可能となるのだ。

 

 それゆえに、「一拍子早く動ける」能力。

 

 つまるところインシェンは、周囲の誰よりも速く動くことが可能なのである。

 

 ライライは表面上では澄ました顔を決め込みつつ、内心でかなり落胆していた。相手が非常に悪いと思ったからだ。

 

「なんだぃ、そんなに落ち込んでよぉ? 正解したんだぁ、もっと喜んだらどうだぃ」

 

「!」

 

 ライライは澄まし顔を一驚させる。図星を突かれると同時に、心が読める事の裏付けをはっきりと見せられた。

 

 インシェンは満足そうに口端を歪め、いつも通りの間延びした口調で語り始めた。

 

「——俺ぁ餓鬼ん頃、重い病にかかって死ぬほど苦しんだ事があってねぇ。まぁ一命こそ取り留めたんだが、後遺症で目ぇ見えなくなっちまったぁ。おまけにそれからすぐ両親が押し込み強盗にぶっ殺されちまってよぉ、一人っ子だった俺ぁ天涯孤独の身に成り下がったぁ。だが悲観に暮れてる暇なんざぁなかったぁ。俺ぁテメェでテメェの食い扶持稼がにゃならなくなったが、盲の糞餓鬼を使ってくれる所なんざありゃしねぇ。教養の一環としてやらされてた武法で身ぃ立てようとも考えたが、鏢局(ひょうきょく)はどこも汚ぇ野良犬を蹴飛ばすように俺を追い払ったねぇ。草を手探りで採って食って、腹ぁ壊す日々が何日も続いたぁ。あん時ゃ神様とやらをひどく恨んだねぇ」

 

 悲惨な過去を話す顔は憂いを帯びていたが、それはすぐに破顔に変わった。

 

「……だがな、救いってなぁ案外どこにでも転がってるもんだぁ。俺ぁある日、自分の【聴気法】が強くなってる事に気がついたぁ。全盲になって以来、役立たずになった目の代わりにそれを使って人の存在を確かめてたんだがぁ、それで功力がついちまったんだろうよぉ。塊としてしか感じられなかった【気】は日増しにヒト型として認識できるようになりぃ、果てにはそのヒト型の【気】の揺らぎ方からそいつの考えを漠然と読めるようになったぁ。おまけに、嗅覚や触覚といった既存の感覚も前より敏感になってなぁ、結果、俺ぁ普通の人間よか鋭い感覚を手に入れたって寸法よぉ。その能力を闇賭博で利用して大儲けして、そんな俺に目ぇ付けて闇討ち仕掛けてきた連中も返り討ちにしてやったぁ。そして……ある【黒幇(こくはん)】がそんな俺の力を買いてぇと言ってきて、それに頷いたことが、俺の用心棒稼業の始まりだったといえるねぇ」

 

 苗刀の柄頭を指でカチカチ弾きながら、インシェンはなおも力強くうそぶいた。

 

「俺の伝家の宝刀はぁ、【聴気法】や【磁系鉄】の刀だけじゃぁねぇ。俺の【通背蛇勢把】は多少我流が混じって品の無ぇものになっちゃいるが、その分叩き上げだぁ。武法士同士のケンカだけじゃねぇ、裏の世界で数々の血戦を経て生き抜いた実績も伴っているぅ。おたくらのお嬢様武法でぇ、一体どこまで刃向かえるかなぁ?」

 

「……得意げに吐かす割には、顔に随分デカい傷跡があるじゃないの」

 

 気圧されつつも、精一杯の嫌味を放つミーフォン。

 

 インシェンは右頬に深く刻まれた醜い傷跡を撫でながら、次のようにしみじみと言った。――そしてその言葉を聞いた瞬間、ライライは不意打ちを食らったような気分にさせられた。

 

「あぁ、これぇ? これぁ昔戦った武法士に付けられたもんだぁ。――宮淵輝(ゴン・ユァンフイ)っつってよぉ、とんでもねぇ蹴り技を誇る【刮脚(かっきゃく)】の大名人だぁ。ありゃぁやばかったぜぇ。だって、蹴りで鉄が”折れる”んじゃぁなくて”斬れる”んだぜぇ? 手も足も出なかった、いや、アレとやりあって手足が残ってる方がぁ奇跡ってもんだなぁ。――ん? なんだぁ、大きい方の嬢ちゃん? その驚いたぁ【気】の揺らぎはよぉ?」

 

 驚くなという方が無理な相談だ。

 

「あなた……父を知っているの?」

 

「あぁん? 父ぃ? …………なぁるほどぉ。そぉですかぁ? そぉ来ましたかぁ!?」

 

 インシェンは勢いよく苗刀の柄を掴むと、表情を闘争心の混ざった喜びの笑顔に一変させた。

 

「やべぇよやべぇよやべぇよやべぇよぉぉ!! マジかぁおいぃぃ!? (ゴン)って姓と【無影脚】っつぅ技名に引っかかりを覚えちゃぁいたが、まさかお嬢ちゃんがユァンフイの身内だったたぁなぁ!! すげぇなぁ、運命的なモンを感じるぜぇ!!」

 

 ひとしきりバカ笑いすると、インシェンは体の右半分を前に出した半身の体勢となって、腰を落として立った。そのまま右手を苗刀の柄に、左手を鞘に添えおく。抜刀の構えだ。

 

「斬り捨てる前に一つ聞きてぇんだが、おたくの親父さんは今どこにいるんだぃ? 今度、昔の雪辱を晴らしに行きてぇんだがぁ」

 

「……残念だけど、もうとっくに墓の下よ」

 

 重苦しく口にしたその言葉に、インシェンは微妙ながら驚いた表情を見せた。

 

 が、すぐにそれはなりを潜める。

 

「……ま、武法士なら珍しくもねぇ話かぁ。それじゃ仕方ねぇ、かなり役不足だが――お嬢ちゃんの首で我慢しますかねぇ!!!」

 

 一喝。そして――爆ぜた。

 

 さっきまで立っていた位置の床を爆砕させ、インシェンが瞬く間に距離を詰めてきた。陽炎(かげろう)のごとき運足に伴わせる形で、左腰の苗刀を抜き放った。

 

 漆黒の疾風(はやて)を思わせる抜刀。

 

 黒い太刀筋がライライに襲いかかる――かと思いきや、その軌道が急激に左真横へ曲がった。振り抜かれた途端、ガキィンッ、という力強い金属音。

 

 左を一瞥すると、いつの間にかこちらへ来ていたミーフォンが、鉄棍ごと薙ぎ倒されていた。おそらく、横合いから鉄棍を叩き込もうとして、弾かれたのだろう。

 

「――おたく邪魔だよぉ、悪いが先に逝ってくれぇ」

 

 インシェンは苛立った口調で呟くと、天井を仰ぎ見るように倒れようとしているミーフォンの方へ爪先を向ける。そして、重心の乗った後ろ足に力を込めた。

 

「させないわっ!!」

 

 瞬発される前に、ライライは左右の足で交互に回し蹴りを放った。

 

 右回し蹴りは【硬気功】のかけられた二の腕で、左回し蹴りは苗刀の柄で受け止められた。二擊とも、損傷を加えるには到らなかった。

 

「……っ?」

 

 にもかかわらず、金字塔のごとく磐石だったインシェンの重心が突如よろけた。気分が悪そうに顔をしかめている。

 狙い通りだ。古流の【刮脚】にのみ伝わる技法、【響脚(きょうきゃく)】。左右側面へ素早く交互に衝撃を与えることで、相手の体内に振動波を発生させる。どんな歴戦の武法士でも、体内を激しく揺さぶられれば不快感から逃れられない。そして、そこがそのまま大きな隙となる。攻撃の時機(タイミング)が分かったとしても、凄まじい不快感で苦しむこの状態では上手く動けまい。格好の的。

 

 ライライは隙だらけなインシェンの懐へ接近しつつ、臍下丹田に【気】を込める。【炸丹(さくたん)】によって威力を倍加させた蹴りを至近距離から叩き込んでやろうと考えた。

 

 ――――が。

 

「――()ッッッ!!!」

 

 ライライが蹴り足の膝を上げた瞬間、インシェンの口から吐気が爆発。ほんの一瞬、その胴体が内側から膨張したように見えた。

 

 びっくりしつつも、構わず丹田の【気】を炸裂。()で射ち放たれた()のごとき勢いで爪先が突き進む。

 

 あと薄皮一枚で衝突する距離まで来た瞬間――敵の姿が視界から消えた。

 

「あがっ……!?」

 

 同時に、突き刺さるような重みが腹部を襲った。

 

「惜しかったねぇ、中々いい線行ってたぜぇ」

 

 左の耳元から、インシェンの声。見ると、左隣に来ていた声の主から膝を入れられていた。

 

 ――そんな、動けないはずなのに……!?

 

 ライライは動揺する。蹴られた勢いにより、心もとない足取りで下がらされながら。

 

 インシェンはそんな”死に体”である自分へすぐさま接近。大きく振りかぶった黒刃を振り下ろしてきた。

 

 対して、ライライはわざと重心の安定を捨て、重力に全身を預けた。仰向けになって自由落下しつつ、真上から降りてくる苗刀の柄尻を靴裏で踏むように蹴った。降下途中の黒刃が、再び元の方向へと弾き戻される。

 

「おぉっとぉ……」

 

 インシェンが少しよろけている隙に、ライライは背中を付いてから後転し、立ち上がった。

 

 大きく後ろへ跳んで間合いを開く。

 

「衝撃が浸透する蹴りか……さすがは【刮脚】、面白ぇ蹴り技が多いねぇ。だが相手がちぃと悪かったなぁ。【通背蛇勢把】にゃ、そぉいった体内浸透系の技を無効化する呼吸法がいくつか伝わってんのよぉ。さぁてぇ? 次はどんな手で来るよぉ、ユァンフイの娘ぇ?」

 

 ライライは歯噛みを隠せなかった。また一つ、自分の持ち札が潰された。

 

 苗刀を地面と並行に持ち、後ろに引いて構えるインシェン。

 

「来ねぇんなら、またこっちから行くぜぇ。――簡単に死なねぇでくれよぉ!!」

 

 その言葉とともに、時計回りに回転しながらこちらへ肉薄してきた。

 

 遠心力に乗せて黒刃を振り、こちらから見て右から左へ黒い一閃を刻む。ライライはなんとか後ろへ下がってそれを避けた。

 

 インシェンは回転をやめることなく、再び接近してくる。

 

 ライライはもう一度後方へ飛び退き、斬撃から逃れる。

 

 二度も避けた。

 

 しかし、なおも狂ったように回転を続けるインシェン。漆黒のかまいたちを纏った小さな竜巻と化し、執拗に追いかけて来る。

 

 ライライはそれをただ後ろへ跳んで回避し続けた。踵を返す暇さえ無い。もし方向転換したなら、その一瞬がそのまま隙となり、たたっ斬られるのがオチだった。

 

 ミーフォンが追いかけて応戦しようとしているが、未だ行動に移せないでいた。彼女の持つ鉄棍とインシェンの苗刀の長さはほぼ同じくらい。相手も同等の長さの武器を持つ以上、遠い間合いから突けるという棍の利点は死んだも同然。あの斬撃の竜巻の中へ無闇に鉄棍を突っ込ませたら、弾かれるどころか、下手をすると手を斬られる可能性があるのだろう。

 

 インシェンは未だに鋭い回転をやめない。それに伴い、漆黒の斬閃が床と並行の角度で胴体の周囲を周り、巡り続ける。残像を幾重にも残すほどの速度で周回するその太刀筋は、さながら黒い円環であった。虹色の光沢が相まったためか、美しくも感じられる。

 

 しかし心なしか、その黒い円環の角度が徐々に傾いていた。

 

 並行の状態から、20度……45度……60度……円環は少しずつきつく傾斜していく。

 

 やがて、円環は床と垂直の角度となる。”横円”から”立円”となったのだ。

 

「ハァァァッハハハハハハハハハハハハハハハァ!!」

 

 インシェンのけたたましい哄笑。破壊と死をもたらす暗黒の車輪を体の左側面に付き従えながら、執念深くライライを追う。追う。追う。

 

 しかし、黒刃が縦回転になったことで、インシェンの側面ががら空きになった。その上、刀ごと全身を回転させている今の状態では、攻められても遠心力の勢いが足枷になってすぐに対応する事はできないだろう。

 

 そしてそこを同じく攻め時と認識したであろうミーフォンが走り出した。何にも遮られていないその右側面めがけて、鉄棍の先端を鋭く疾駆させた。

 

 串刺しとなった。

 

 ――インシェンの残像が。

 

「!!」

 

 ライライは大きく目を見張る。

 

 なんと、インシェンは黒刃が後ろへ振り抜かれてから腰を一気に落とし、そして大上段へ振りかぶられた瞬間に前へ大きく跳んだのだ。その唐突な加速によって、ミーフォンの鉄棍は惜しくも外れた。

 

 そして現在――ライライの視界いっぱいにインシェンの姿が迫っていた。

 

 インシェンのその体術の流れには、既視感があった。

 その既視感は即座に具体的な情報へと変化。

 これからインシェンがやろうとしている事を悟ってしまったライライは、一刻も早く逃れようと全力で床を踏み切って横へ跳ぶ。

 

 ライライの後足が黒刃の軌道から抜けきるのとほぼ同時に――爆音が轟いた。

 

「きゃああああああああああ!?」

 

 黒刃が振り下ろされた位置を始点に、空気が急激に膨張。見えない壁となって、大小様々な木片もろともライライの背中を強く押し流した。

 

 広大な床の上をみっともなく転がる。木屑が雨のように降りかかってくるため体が痒い。

 

 ――【烏龍盤打(うりゅうばんだ)】。腕を何度も回転させることで遠心力を溜めてから、踏み込みとともに強力な腕刀を振り下ろす大技。事前に溜めた遠心力に、重心の急降下、【震脚(しんきゃく)】による自重の倍加を上乗せするため、使い手の功力次第では凄まじい威力を発揮する。それを苗刀で使ったのだ。

 

 勢いが弱まってきたので、転がる体を止め、すぐに立ち上がった。

 

 そして――目の前の光景に戦慄する。

 

 インシェンが刀を下ろした位置の延長線上へ、地割れのような大きな亀裂が真っ直ぐ伸びていた。なんと、亀裂は剣尖よりさらに離れた場所まで続いており、外へ出るための両開き扉を木っ端微塵に粉砕したところでようやく途切れていた。――果たしてどれだけの勁力が、あの黒刃に込められていたのだろうか。

 

 アレにもし当たっていたら、一刀両断どころか、元々人間だったかどうかも疑わしいメチャクチャな死体が出来上がっていたに違いない。

 

「惜しかったなぁ」

 

 インシェンは亀裂に埋まった刃を引き戻し、残念そうに苦笑した。まるで遊んでいるかのような、余裕ある語り口だった。

 

 漆黒の刀身が、天井からの光を跳ね返す。七色の反射光に当てられたライライは、己の心胆が冷えるのを感じた。

 

 ――これが、【虹刃】。

 

 類稀なる武技。

 類稀なる刀。

 類稀なる感覚。

 この男は、あらゆる要素が非凡そのものだった。

 

「さぁてぇ、斬り合いはまだまだ始まったばっかりだぁ。俺の勝ち戦になる可能性が高ぇが、死合ってなぁ最後まで結末が分からねぇもんだぁ。せいぜい死力を尽くしてくれよぉ、お嬢ちゃん方ぁ」

 

 ――勝てるのだろうか。こんな怪物に。

 

 どんなに心を強く持とうと努力しても、その感情を最後まで殺しきる事は叶わなかった。

 



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解き放たれた若虎

 ――腐っているのは貴様だろうが。

 ――俺を腐っていると形容する貴様こそ、真に腐った掛け値なしの屑だ。

 ――姿かたちは見目麗しい母に似たようだが、哀れなるかな、その醜い心はロクデナシの父親から受け継いだもののようだ。

 

 タンイェンから投げつけられた痛罵の数々は、高洌惺(ガオ・リエシン)の心に今なお深く突き刺さっていた。

 

 ……全く否定出来なかった。

 

 恐ろしいくらいの正論だった。あんな大悪党の口から出たとは思えないくらいに。

 

 母を助けるため――そんな最もらしい大義を掲げれば許されるなどという思い違いに身を任せ、関係のない少女たちを引きずり込み、タチの悪い野良犬の群れの中に放り込んだ。

 

 このような行為が、自分の趣味のために大勢の娼婦を『尸偶(しぐう)』に変えた憎きタンイェンと、一体何の違いがあるというのだろう。

 

 タンイェンは外道だ。しかし、外道と罵る自分もまた外道。とんだ物笑いの種ではないか。

 

 自分の犯した愚行で傷つけたのは、李星穂(リー・シンスイ)だけにとどまらない。

 彼女の二人の友人に、本来する必要の無いはずの心配をさせてしまった。

 善良な武法士だった兄弟子たちに汚い役目を押し付け、挙句流派の面子に泥を塗ってしまった。

 そして――娘である自分がこのような無様を晒したことで、大好きな母の名誉も連鎖的に汚してしまった。

 

 もしも死んだ母が魂魄となって現れたなら、きっと自分を許さないだろう。横っ面を叩き、怒号を発し、泣き崩れるに違いない。

 

 そして今。

 大広間(ホール)の奥にある大階段の前で横たわったリエシンの眼前では、周音沈(ジョウ・インシェン)と、シンスイの連れ二人による激闘が繰り広げられていた。

 

 地割れのような巨大な溝を生み出すほどの【勁擊(けいげき)】を見せられても、一歩も退かず、果敢にインシェンへと挑みかかる二人の少女。

 最初は、インシェンによる一方的な惨殺で終わると思っていたが、二人の実力は中々のもののようで、必死に食らいついていた。

 けれども、それはまだ殺されていないというだけの話。二人の状況は、はっきり言って優勢とは言い難かった。拮抗だけが今の彼女たちの限界のようだった。そしてそれも、おそらくそう長くはもたない。

 

 あの二人がインシェンの刀の(サビ)になったら、今度は自分とシンスイの番だ。散々辱められてから薬で殺され、その骸を玩具にされる。女として、人として最も屈辱的な死に様である。

 

 自分が死ぬ分には、まだ因果応報と諦めがつくかもしれない。死んだ後、母の隣に仲良く飾られるのも悪くない。あの世では、母からこっぴどく叱られる事になるだろうが。

 

 けれど、今自分の隣にいる李星穂(リー・シンスイ)は? その仲間であるあの二人は?

 

 完全にとばっちりではないか。殺されなければいけない理由が見当たらない。

 

 そもそも、あの二人が戦っている事自体、本来ならばありえない事なのだ。彼女たちは自分が原因でこの場にいて、そして戦わされている。それは言わば、自分で汚した部屋を他人に片付けてもらっているという体たらくである。

 

 まったくもって情けない話だ。情けなすぎて涙が出てきそうだ。

 

 こんな結果しか生み出せない人間が、一丁前に(はかりごと)など実行するべきではなかったのだ。策士ですらないのに策に溺れた結末がコレである。

 

 ――姿かたちは見目麗しい母に似たようだが、哀れなるかな、その醜い心はロクデナシの父親から受け継いだもののようだ。

 

 タンイェンの台詞が、再び脳裏にこだまする。

 

 この言葉が、一番効いたかもしれなかった。

 

 父――いや、「あの男」はどうしようもないクソッタレ野郎だ。母を食い扶持稼ぎの道具としか思っておらず、気に入らなければ暴力に走るのは当たり前。中毒のように賭博にのめり込み、外では愛人を作って母の稼いだ金を貢ぎ、果てには高利貸しから金を借りて豪遊し、その借金を全て母に押し付けて雲隠れ。他人の不幸と引き換えに快楽を貪るその様は、まるで美しい花の咲く木に取り付いて栄養を奪う寄生木(やどりぎ)である。

 

 そして自分もまた、そんな父と同じことをしている。自分の目的のために、何の関係もない他人を酷な状況に無理矢理巻き込んだ。そのくせ自分は「自分の手に負えないから」と言い訳して、血と汗の一滴さえ流そうとしない。暗愚な他力本願と陋劣(ろうれつ)な利己主義。血は争えないとはこのことだ。

 

 「あの男」は自分と母を捨てた後、ある【黒幇(こくはん)】の怒りを買った末に(おもり)を付けられたまま【奐絡江(かんらくこう)】に沈められたと、風の噂で聞いた。ざまあみろ、母さんを散々虐げた罰が当たったんだ。その噂を聞いた時は胸がすく思いだった。

 

 けれど、そんな風にせせら笑った自分も、今まさに「あの男」と似たような末路をたどろうとしている。自分の犯した過ちの応報を受けようとしている。

 

 このまま自分は、「あの男」の生き写しとして死んでいくのか?

 自分でやった事の後始末一つできずに終わるのか?

 死ぬ寸前までさもしい心を抱え続けるのか?

 

 ――そんなのは嫌だった。

 

 もう遅いかもしれない。手遅れかもしれない。

 

 でも、それでも「あの男」と同じ類の人間のまま死にたくはなかった。

 

 どのみち死す運命にあるとしても、せめて人としてのケジメは付けて死にたいと思った。

 

 そう考えた瞬間、長い間消沈していたリエシンの心に火が灯った。気力を失っていた四肢にも生気が蘇る。

 

 考えた。自分は今、何をするべきなのか。どのようにしてケジメをつければいいのか。

 

 決まっている。――インシェンを倒す手伝いをすることだ。

 

 用心棒達が一人残らず倒れ伏した現在、タンイェンの手元に残った手札はインシェンのみ。最強の、しかし唯一の持ち札。

 

 インシェンをどうにかできれば、シンスイ達はこの屋敷から生きて出る事ができる。それだけじゃない。『尸偶』という連続猟奇殺人の確たる物証を頑迷な治安局に突きつけ、タンイェンを破滅に追い込む事だって可能だ。

 

 けれども所詮、言うは易しな机上の空論である。

 

 見るがいい、今の自分の姿を。両手首と両足首を、頑強な鋼鉄の枷で拘束されている。こんな動けぬ体で一体どうやってインシェンを倒そうというのか。否、仮に自由に動けたとしても、武法士として半人前以下な自分では到底太刀打ちできない。一瞬で頭部が無くなるのがオチだ。

 

 ならばどうすればいい? やはり自分に出来る事など何もないのか?

 

 そう思いかけた瞬間、一つだけ打開策になりそうな策が頭に浮かんだ。

 

 リエシンの視線は、自然と隣へ移動した。

 

 

 

 ――自分と同じ状態で拘束されたまま横たわっている、李星穂(リー・シンスイ)の姿。

 

 

 

 もしも彼女が動けるようになったら、戦えるようになったなら、もしかするとあのインシェンも打ち破ってしまうかもしれない。

 

 現在、【麻穴(まけつ)】を打たれたせいで全身が麻痺しているらしい。

 

 だが自分は【龍行把】の修行がある程度成るまでの間、身を守るための術として【点穴術(てんけつじゅつ)】も教えられていた。つまり、自分ならばシンスイの麻痺を回復させることができるということだ。

 

 猛者揃いの【黄龍賽(こうりゅうさい)】予選を突破したことは言うに及ばず、あの兄弟子(ジエン)をして、「想像以上の力量」と言わしめるほどの力を持ったこの少女が参戦すれば、インシェンを倒す事ができるかもしれない。

 

 ……どこまでも他人任せな自分が恥ずかしい。

 

 けれど、他に良い案は思いつかなかった。

 

 迷っている場合じゃない。こうしている間にも、あの二人はインシェンにじわじわと追い詰められつつあるのだ。

 

 リエシンは意を決し、こちらに背中を見せたまま横たわるシンスイへ目を向けた。

 

 ――まずはシンスイにかけられた【麻穴】を解くための経穴を見つけなければならない。

 

 経穴とは、刺激を与えると人体に影響を与える点状の部位。突く力の強弱や鋭さによって、その人に健康も大病も与えられる。

 経穴は必ずしも一定の位置には留まらない。その時の時間帯、季節などによって、まるで星座のように位置が変わるものが多い。

 そして星と同様、経穴の位置移動にも法則が存在する。【点穴術】の修行者は数種類の経穴の移動法則を師から学び、そこの突き方、その経穴の効果の解き方などを教わるのだ。

 

 【点穴術】とは、いわば人体の天文学。そしてその技術は武法だけでなく、医療でも必須の技能として用いられている。

 

 ……自分が【点穴術】のある【龍行把】を選んだのは、医学を学ぶという夢に対して心の何処かで未練を抱いていたからかもしれない。

 

 滑稽な話だ。「夢なんてくだらない」などとシンスイに偉そうに言っておきながら、自分が夢から離れきれていないのだから。

 

 しかし、同時に幸運だ。シンスイを【麻穴】の鎖から解き放てるのだから。

 

 リエシンはこの大広間(ホール)と外を繋ぐ両開き扉へ目を向ける。立派な装飾の施されたその扉は、先ほどのインシェンの斬撃によって無惨に粉砕されていた。けれど、そこから外の様子と夜空が見える。

 

 その夜闇の濃さから、大まかな時間帯を予測。そしてそこへ現在の季節の情報を合わせ、経穴の場所を考える。

 

 ――見つけた。

 

 打つべき部位は、命門(めいもん)――ヘソの真後ろに位置する背中の経穴――の、左隣。

 

 そこを打てたなら、シンスイを蝕む【麻穴】の効力は消え、動けるようになる。両手両足に硬くはめられた枷も、彼女の馬鹿力ならば引き千切る事も不可能ではないはずだ。

 

 ちょうど良いことに、シンスイは今背中を見せていた。

 

 あとは、突くだけ。

 

 後ろ手に手枷をはめられているこの状態では、指で突く事はできない。

 

 ……手がダメならば、足で突くしかない。

 

 両足首も枷で固定されているが、それでも足を伸ばしたり引っ込めたりする程度は可能。爪先を尖らせ、足で突くのだ。

 

 シンスイのすぐ近くにはタンイェンがずんぐりと立っている。だが幸いにも、インシェンの善戦を気を良くしながら凝視しているようで、こっちには見向きもしていない様子。よほど派手な事をしない限り、こちらの動きに気づくことはないだろう。

 

 ――やるならば、注意が逸れている今しかない。

 

 身をよじらせ、両足をシンスイの背中へ向ける。両膝を抱え込み、蹴り出しの準備。

 

 準備を整えたリエシンは、語りかけるように心の中で念じた。

 

 全て私の蒔いた種だって事は分かってる。

 貴女に何かをお願いする資格がない事は分かってる。

 でも、このままじゃあの二人は、ほぼ確実にインシェンに斬り殺されることになる。

 お願い。あの二人を助けてあげて。

 

 

 

 

 

 そしてリエシンは――――爪先を突き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………!」

 

 浅い呼吸を刻みながら、紅蜜楓(ホン・ミーフォン)は鉄製の棍を中段で構えていた。

 

 隣に立つライライから聞こえてくる呼吸音も、吸気と吐気の間隔が短い。

 

 しきりに肩が上下しているせいで浮沈を繰り返す棍の先端。その延長線上には、インシェンが佇んでいた。

 

 長期に渡る苦戦で消耗した自分とライライとは正反対に、あの男はまだまだ余裕がある様子。

 

「……なぁんだか飽きてきたなぁ。必死に食らいついてくるのは良いんだがぁ、それでも俺が攻めてる回数の方が多いんだよなぁ」

 

 それどころか、退屈そうに黒刃の(みね)で肩を叩いてすらいた。

 

「やっぱ死合ってなぁ、攻めつ守りつの状態を繰り返すのが面白ぇし燃えるもんだぁ。だが攻め手の割合ばかりが増えちゃぁ、一方的ななぶり殺しと変わらねぇよぉ。そんな展開がぁ一番つまらねぇ」

 

 言いたい放題言ってくれる。

 

 けれども、その台詞には説得力があり過ぎた。

 

 ――強すぎる。

 

 ミーフォンの全身を、電気のように焦燥感が駆け巡る。呼吸の乱れがさらに激しくなった気がした。

 

 断言できる。この男、今まで戦った相手の中で三つの指に入るくらい強い。

 

 あらゆる攻撃を始まる前に避けられてしまう。どれほど質の高い技を使おうとしても、それら全てが空を切る、あるいは機先を制され潰されるという結果で終わった。そのくせ、向こうは非常に洗練された技の数々で無遠慮に猛攻してくる。まさしく防戦一方だった。

 

 自分を弱い者呼ばわりするのは屈辱だが、インシェンの言うとおり、これでは弱いものいじめと変わらない気がした。

 

「まぁ、贅沢は言いっこなしかぁ。俺ぁ旦那の用心棒ん中じゃぁ一番高い金もらってんだぁ。期待されてる分、お小遣い分の仕事はせにゃぁなぁ。つぅわけで、予定通りその首頂戴するぜお嬢ちゃん方ぁ」

 

 片足を退かせ、耳元で苗刀を並行に構えるインシェン。

 

 ミーフォンとライライは沸き立つ殺気に反応し、息継ぎさえ忘れて身構えた。

 

 まもなくしてインシェンが鋭く進歩。急速に彼我の距離が狭まった。

 

 鉄棍を横薙ぎしてやろう――そう考えた瞬間、インシェンの走る速度が急激に上昇。また得意の【聴気法(ちょうきほう)】でこちらの攻撃の意思を読んだのだろう。こちらの一手を始まる前に潰す気だ。

 

 長い間合いを最大限に活かした鉄棍のひと振りが走ったその時には、すでに敵の姿がミーフォンの懐のすぐ前へと到達していた。棍の遠心力が弱まるくらい間合いの中へ入られた上、すぐにでも刺突を繰り出せる状態だ。

 

 ――が、横薙ぎが直撃する寸前、ミーフォンは電光石火の速さで鉄棍を手前へ引っ込めた。そして胸近くまで戻ってきた棍先を、こちらへ接近しているインシェンへ真っ直ぐ向けた。

 

「っ!」

 

 変則的な棍の間合いの変化に、こちらと正対する金眼が見開かれる(見えないが)。

 

 いける。ミーフォンは駆け引きの成功を確信しつつ、インシェンの鳩尾を貫く気持ちで突きかかった。

 

 しかし、インシェンの黒刃もすぐに疾走。その剣尖が鉄棍の先端と激突した。

 

「うっ……!?」

 

 刺突による衝撃が武器を通して手根へ響き、梵鐘のように骨が震えた。同時に、余った勢いによって真後ろへ弾かれた。

 

 ――嘘っ、こんな防ぎ方ってある……!?

 

 反撃の可能性を覆したインシェンの防御に、ミーフォンは驚愕を禁じ得なかった。鉄棍の先端という小さな的に剣尖を正確にぶつける技巧。そしてそれを土壇場で平然とやってのける胆力。危険な世界に慣れているがゆえの妙技と豪胆さだと思った。

 

 しかし驚いている場合ではない。刺突の勢いに流されて体の自由が効かなくなっている今の自分は、隙だらけもいいところだ。そしてインシェンもそこを狙うべく、再び鋭く運足を開始。

 

 自分の立ち位置が黒刃の射程圏内に食われる前に、ミーフォンは行動を起こした。鉄棍の先端を後ろの床へつっかえ棒よろしく突き立ててから、先ほど弾かれた勢いに乗る形で真後ろへ跳躍。そのまま床に突き立てられた鉄棍に体重を預けながら、大きく放物線を描いて後ろへ飛んだ。

 

 放物線の頂点にまで達する。浮遊したミーフォンの眼下では、袈裟斬りを空振ったインシェンの姿が見えた。

 

 そして空振りの時に出来た僅かな隙を狙う形で、横合いからライライが肉薄する。蹴り足の膝を抱え込むように上げていた。

 

 インシェンはそれを斬り捨てようと、下段に降りている黒刃に動きを与えた。

 

「させないっ!」

 

 ミーフォンは太腿に納めていた匕首(ひしゅ)を抜き、それを投げつけた。銀色の軌跡を残しながら、敵へと急激に吸い込まれていく。

 

 当然、インシェンは黒刃でそれを叩き落とす。しかし、その対応はそのままライライに付け入る暇を与えるに至った。

 

 肌がむき出しの下腹部へ爪先が直撃。衝撃が爆発した。インシェンが床に足を付いたまま後方へと滑る。

 

 一見手応えがあったように見えるが、当のライライは眉をひそめていた。

 

 そして着地後、ミーフォンもまた同じような顔をする事になった。

 

「……やれやれぇ、もうちょっと反応が遅れてたら危なかったぜぇ」

 

 “青白い火花“が微かに走る腹部をさすりながら、インシェンはしみじみと呟く。――やはり【硬気功(こうきこう)】で防いでいたか。

 

「よく粘っちゃぁいるが、いい加減息も絶え絶えみてぇだなぁ。このままやり続けても、精神的にキツかろぉさぁ。このまま苦しめるのはぁ悪党の俺でも忍びねぇ。だから二人掛かりとはいえぇ、この俺相手に十分以上持ちこたえた事に敬意を評して――即死にしてやるよぉ」

 

 瞬間、インシェンの臍下丹田に青白色の光が集まっていき、光の塊が出来上がった。【気】を溜めたのだ。

 

 「即死にしてやる」という台詞から察するに、おそらく高威力の技を使ってくるのだろう。ならば、今溜めた【気】で使うのはほぼ確実に【炸丹(さくたん)】。

 

 ミーフォンは【烏龍盤打(うりゅうばんだ)】で出来上がった大きな裂け目を見やってから、血の気が引いた。あれに【炸丹】が加わったらと考えただけでゾッとする。

 

 インシェンは腰を落とす。背中の半分が見えるくらいに腰を絞り、黒刃を背後に構えた。

 

 やがて、回転しながら加速。

 

 黒いつむじ風を周囲に纏い、こちらへ急迫してきた。

 

 ミーフォンは思い切り床を蹴り、大きく後退。約半秒後、直前まで立っていた位置を漆黒の太刀筋が飲み込んだ。

 

 しかし、インシェンの攻め手は休まらない。旋回速度をさらに上げ、再び距離を縮めてくる。ほとんど間隙の見られない回転斬りのせいで、ライライもうかつに手出し出来ない様子。

 

 腹部に風圧を感じる。黒い殺人旋風が、今まさに接触しようとしていた。

 

 それに当たるまいと、ミーフォンは再び後ろへ跳んだ。間一髪、斬閃の間合いから遠ざかり、事無きを得る。

 

 ――しかし次の瞬間、その対応がインシェンの思う壺であった事を身をもって思い知る。

 

 インシェンの溜めていた【気】が、稲妻の落下地点のように弾けた。腰と(こかんせつ)を回す轆轤勁(ろくろけい)から、体全体をねじり込む纏絲勁(てんしけい)に変化。遠心力を直進に変える要領で、一直線に剣尖を飛ばしてきたのだ。

 

 【炸丹】によって強化された【勁撃(けいげき)】の刺突。腕の長さも加わり、回転斬りよりも大きな間合いで突き進む。ミーフォンに余裕で届く長さだ。さらに、跳躍したことで虚空を舞っている今のミーフォンは、自分から動くことができない。つまり、良い的であるということだ。

 

 ミーフォンは刺突の来るおおよその位置を確認し、即座に鉄棍を構える。正直、防げるかどうかは博打だが、何もしないよりはマシだった。

 

 そして、幸運は訪れた。剣尖は、構えられた鉄棍の真ん中に激突。身体に刺さらずに済んだ。

 

 ――しかし、受け止めきれるかどうかとはまた別問題だった。

 

 刺突に込められた勢いに身を委ねた瞬間、インシェンの姿が急激に小さくなった(・・・・・・)

 

「がはっ――!!?」

 

 不意に、背中全体にとんでもない激痛が襲った。まるで高所から叩き落とされたかのような強烈な衝撃に、腹の中の空気が一欠片残さず絞り出される。

 

 インシェンの姿の圧縮が止まっている。そして、背中には平べったい感触。それらの情報から、吹っ飛ばされて壁に激突した事を悟る。

 

「う……っ」

 

 ミーフォンは呻きをもらす。激突の余韻が今なお身体中に残響していた。身じろぎするのにも痛みを伴う。普通の人間だったなら粉砕骨折だけじゃ済まなかっただろう。

 

 目玉だけ動かし、手元の鉄棍を見る。刺突を受け止めた箇所が深く潰れており、その一点から見事にひん曲がっていた。これではもう使い物にならない。

 

 小さくなっていたインシェンの姿が再び大きくなっていく。こちらに近づいているのだ。

 

 このままではマズイと思い体を起こそうとするが、少し動いただけでも全身が痛みという名の悲鳴を上げる。それによって体が本能的に硬直し、起きかけていた体勢が崩れた。

 

 そうしている間にも、インシェンとの間隔がさらに狭くなる。おそらく、あと二秒ほどで黒刃の射程内に入るだろう。

 

 豹を思わせるしなやかな瞬発力で駆けるインシェンの横合いから、ライライが飛び出す。進む方向に回し蹴りを先回りさせ、走行を妨害しようとした。

 

「あぁらよっとぉ!!」

 

 しかし、インシェンは止まらなかった。止まるどころか、走行の勢いをほとんど殺さぬまま回転。その状態を維持したまま腰を急激に沈下させ、向かい側から飛んできた蹴りの下をくぐり抜けた。

 

 回し蹴りが頭上を通過するや、再び回転しながら腰を上げる。そしてすぐさま、回転の力を利用した峰打ちをライライの脇腹に叩き込んだ。黒い横線がゆったりした生地の奥へ食い込む。

 

「が――!?」

 

 彼女は表情で苦悶を訴えると、すぐに後方へと弾き飛ばされた。胎児のような姿勢のまま床を大きく滑る。

 

 インシェンはさらに鋭く歩を進める。疾る。間隔を狭める。

 

 そして、とうとう黒刃の間合いの内にミーフォンを含んでしまった。

 

 漁師の投げた網にかかった魚の気分を味わった。

 

「安心しなぁ、痛みはねぇ! 一瞬で首ぃはね飛ばすから「パッ」と逝けるぜぇ!」

 

 その言葉に呼応したように、漆黒の刀身がギラリと輝く。不気味なほど鮮明で、美しい虹色の反射光が顔に突き刺さった。

 

 ――その時、ミーフォンの脳裏に数多の映像が押し寄せた。

 物心ついた時には、(ホン)家の娘として【太極炮捶(たいきょくほうすい)】をやらされていた事。

 友達の盗みを告発したことで、仲違いしてしまった事。

 出来の良い姉に強い劣等感を抱き、苦しんだ事。

 その苦しみを少しでも和らげるために、驕り高ぶった事。

 その驕りを李星穂(リー・シンスイ)に真っ向から打ち砕かれ、それと同時に彼女に惚れ込んだ事。

 

 これまで「紅蜜楓(ホン・ミーフォン)」として生きてきた記憶が数珠のように一繋ぎとなり、脳裏を高速で通過していく。その速度は、徐々に首元へと近づいている黒刃よりもずっと速かった。

 

 これが走馬灯ってやつなのね――ミーフォンは驚くほど冷静にそう考えた。

 

 走馬灯の後には死が訪れるのが法則(セオリー)

 

 その死をもたらす漆黒の刀身は、首の薄皮一枚の距離まで到達。

 

 やがて――

 

 

 

 

 

 首元から急激に(・・・・・・・)遠ざかった(・・・・・)

 

 

 

 

 

 その事に驚く前に、甲高い金属音が鳴り響いた。

 

 そして驚いた時には、一本の柳葉刀が宙高く舞っていた。

 

 そして驚いた後、自分がまだ死んでいない事にようやく気がついた。

 

「――え?」

 

 ミーフォンは呆けた顔で、呆けた声をもらした。

 

 眼前のインシェンは苗刀を背後に構えながら、心底楽しそうに破顔させていた。

 

「…………へぇ?あんだけ厳重な拘束から抜け出すたぁ、一体どんな手品を使ったんだぃ?」

 

 その言葉の終わりと同時に、宙を舞っていた柳葉刀が床にカツゥン、と落下した。

 

 その音に導かれるように、視線がインシェンの向こう側へ向いた。

 

「……あ…………!!」

 

 ミーフォンの瞳が大きく開かれた。

 

 両目の奥から、否応無しに涙がにじみ出てくる。

 

 視線の遥か先には、一人の少女の姿。

 

 大きな瞳が眩しい、大輪の花を思わせる美貌。毛先辺りがふわふわと広がった、長く美しい髪。薄手の連衣裙(ワンピース)から伸びた、細くしなやかな四肢。手首足首にはまった分厚い鉄輪。

 

 いつもと全く違った装いでこそあるものの、自分が慕う「彼女」そのものである事は疑いようもなかった。

 

 

 

 

 

「――手品じゃないよ。誰かさんが反省した結果だ」

 

 

 

 

 

 視線の先の少女は、ミーフォンの期待通りの声を出してくれた。

 

 瞬間、眼に溜まっていた涙が一気に決壊した。

 

「…………お姉様っ!!」

 

 気がついた時には、そう呼びかけていた。

 

 こちらの姿を見て、その少女――李星穂(リー・シンスイ)は安堵の表情を浮かべた。

 

「……良かった、二人とも生きてる。何とか間に合ったみたいだね」

 

「はい……!でも、どうやって拘束を解いたんですか?」

 

「リエシンが【麻穴】を解いてくれたんだ。その後は【炸丹】で体の内側から外に力を発して、手足の枷を無理矢理引きちぎった」

 

 ほら見て、と手首足首をぶらつかせ、分かたれた二対の鉄枷を見せびらかすシンスイ。

 

 あの頑強そうな枷をそんな方法で断ち切った事も面白い。だが、ミーフォンがそれ以上に驚きを隠せないのは……

 

「……助けたんですか? あのアバズレが? お姉様を?」

 

「まあ……信じられないかもしれないけど、そうなんだよ」

 

 シンスイは苦笑混じりに答える。

 

 部屋の奥の大階段前に寝転がっているリエシンに思わず目を向けた。手足を枷で繋がれたリエシンはこちらからの視線を受けると、気まずそうに顔を背けた。

 

 正直信じらんないけど、お姉様がそう言うのならきっと本当なんだわ――ミーフォンはそう思うことにした。……無論、それだけで許してやろうなどとは微塵も思わないが。

 

 シンスイは裕然と、それでいて迷いのない足取りでこちらへ歩き出した。

 

「二人とも、お疲れ様。あとは――全部ボクの手で終わらせるから」

 

 言うや、シンスイはちょうど足元に落ちていた方天戟(ほうてんげき)――先ほど蹴散らした敵の一人が落としたものだろう――の柄尻を踏みつける。全長約180厘米(りんまい)に及ぶ長大な武器は回転しながら真上に跳ね、彼女はそれを宙で掴み取った。

 

 自分の背丈より長い方天戟を器用に頭上で回し、そこから流れるように中段の構えとなった。

 

「……へえ。中々良いモノじゃないか。さすがはお金持ち」

 

 手元の武器を品定めし、不敵に微笑むシンスイ。

 

 彼女の表情を見て、ミーフォンは心の底から嬉しく感じた。

 

 ――そのお顔、久しぶりに見た気がします。お姉様。

 

 真剣味を帯びつつも、武法に関わる事への喜びを忘れていない表情。自分は、こんな彼女の顔が好きだった。

 

 それを再び見れた。

 

 そう考えると、【吉火証(きっかしょう)】探しにがむしゃらに奔走したことが報われたように思えた。

 

 インシェンは踵を返し、シンスイの方を向いた。

 

「……いやぁ、嬉しいねぇ。実はお兄さんなぁ、おたくと一番殺り合ってみたかったんだぁ。地下室で見た時から、ずっとタダモンじゃねぇと思ってたぜぇ?」

 

「やめた方がいいんじゃない? ボクはまだ手の内を見せてない上に、アンタの【聴気法】の秘密聞いちゃってるし。そっちが不利になるんじゃないかな」

 

「タネが割れてるから簡単に解決できる……そんな甘い能力じゃねぇぞぉ?」

 

「……なるほど。退いてはくれないって事でいいんだね」

 

 シンスイは稲光のような速度で槍先を引き、肩口の辺りで担ぐように構えた。

 

「それじゃあ――遠慮無く行くよ。アンタは結構危ない相手だから、今回ばかりはボクも出し渋りは無しでいく。せいぜい死なないように努力してね」

 



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雷霆万鈞

 ボクは静かな緊張感を抱きながら、遠く向かい側に立ったインシェンを見つめる。

 

 ドレッドヘアーのような無数の三つ編みを頭部から生やしたその男は、ボクのそんな視線を受けた途端に構えを変えた。半身の体勢となり、黒い刀身を後ろへ引っ込める形で構える。

 

 そんな構えの変更を見て、ボクも槍先の両隣に三日月状の刃が寄り添った武器「方天戟(ほうてんげき)」を動かした。肩に担ぐような持ち方をやめ、ヘソ辺りの高さで水平に置く。長大なリーチにものを言わせて突き刺すことに特価したオーソドックスな姿勢。

 

 すると、インシェンはまた体勢を変更させた。半身より胸をさらに真横へ向けた真半身(まはんみ)の状態となる。そうなったことによって、ボクから見た奴の体の面積が細くなった。つまり、的が小さくなり「点」の攻撃である槍が当たりにくくなったということ。

 

 それからも、ボクらはしきりに位置を移動させながら、何度も何度も構え方を変化させ続けた。相手が構えを変えれば自分もそれに上手く対処できる構え方に変え、すると相手もその構えを迎え撃つ事に適したしたスタイルに変える。そんな延々と続きそうないたちごっこを繰り広げる。まるでダンスでも踊っているようだ。

 

 しかし、ボクら二人はいたって真剣であった。舞踊のように見えるやり取りの中では、素人では決して視認できない駆け引きの嵐が巻き起こっていた。

 

「インシェン、何をやっている? さっさと攻めんか!」

 

 だからこそ、素人であるタンイェンはイラついたような野次を投げ、ミーフォンとライライは固唾を飲んで静観しているという顕著な温度差があった。

 

 方天戟と苗刀の先端の間で、一触即発の空気が火花のように弾けている。いつ爆発してもおかしくはない。

 

 やがて、爆発した――ボクの足元が。

 

 後足の蹴り出しは一瞬で突風にも比肩する速力を全身に与えた。

 

 【震脚(しんきゃく)】で踏み込み、真正面へ銀の筋を疾らせた。重心を高速でぶつける衝突勁を用いた突き刺しだ。

 

「あぁらよっとぉ」

 

 インシェンは立ち位置を小さく横へズラし、槍の延長線上から自身の体を外した。凄まじい速さで走った槍先は空気の壁を貫く。

 自分としては会心の速度だと思ったが、避けられた。おそらく【聴気法(ちょうきほう)】を使って攻撃の来るタイミングを先読みしてから避けたのだろう。

 

 さらに、奴は避けてから間もなくして黒刃を下から振り上げた。方天戟の柄部分を真下から斬ろうという魂胆だろう。

 

 そうはさせない。ボクは全身を捻り、その動きに伴わせる形で方天戟を円弧起動で引っ込めた。そのままボクという軸を中心に槍先を回転させ、一周して戻って来させる形で三日月状の刃を叩き込んだ。

 

 握った柄に伝わる硬い感触。脇腹に当たる寸前で、苗刀の柄尻でガードされた。

 

 インシェンが滑るようにボクの間合いの内へ侵入。方天戟の柄めがけ、再び下から斬撃を放とうとしていた。

 

 ボクは苗刀が動き出す前に後方へ跳び、武器を体ごと黒刃の範囲内から逃がす。それから半秒足らずのうちに黒い一閃が上から下へ駆けた。

 

 着地し、後足を瞬発。回転しながら敵に再度接近し、三日月状の刃で薙いだ。

 インシェンは白刃を黒刃で受け止め、そこから素早く袈裟斬りへ繋げる。しかしその太刀筋が駆け抜けた頃には、すでに狙っていたであろう方天戟の柄は無かった。

 槍先を敵に向けたまま横へ逃げていたボクはその空振りを確認するや、すぐさま踏み込んで刺突を放った。けれども、インシェンはすぐにその攻撃を察して黒い刀身を動かし、飛んできた槍先を横へ弾く。そこからさらに刃の軌道を器用に変化させ、またしても柄を狙って太刀筋を走らせてきた。

 ボクは武器を体ごと強引に真後ろへ引っ込めることで、黒刃の向かう先にあるモノを「柄」から「三日月状の刃」に入れ替える。「柄の切断」は「刃同士の衝突」に変わり、激しい金属のぶつかる音を響かせた。

 

 攻撃しては退がって、攻撃しては退がって、攻撃しては退がって。絵に描いたようなヒットアンドアウェイがそこにはあった。

 

 方天戟は【打雷把(だらいは)】の得意武器の一つ。長い間合いを取ったまま強大な一撃を叩き込む事に特価している。そして、素手の体術がそのまま槍術にも活きる。武法の例に漏れず、体術と武器術がクロスオーバーしているのだ。

 

 だが、ボクがこの武器を選んだのはそれだけが理由ではない。

 

 最たる理由は、その間合いの長さだ。

 

 インシェンは類い稀な先読みの能力を持っている。それこそライライの言うとおり、読心術の領域に片足を踏み入れているほどに。

 

 そんな能力を持った相手に最も有効と思われる策。それは――絶え間なく、積極的に攻め続けることだ。

 

 たしかに奴には、攻撃の前兆が分かるかもしれない。けれども、必ずその攻撃をいなせることが保証されているというわけではない。仮に前兆が分かったとしても――その時点で動ける状態でなければ全く意味が無いのだ。

 

 人間は重心を崩した時、それを本能的に安定させようとする。しかしその生理的反応は、そのまま全身の硬直を招く。

 

 つまり――

 

「うおぉっ?」

 

 ボクの刺突を黒い刀身で受け止めたインシェンは、その勢いに押されて後方へたたらを踏んだ。

 

 チャンスと睨み、後足を蹴る。【震脚】による踏み込みに伴わせる形で、槍先を風の速度で相手の腹部へ向かわせた。

 

 インシェンは二度目の刺突が当たる直前に刀を内側へ振り、槍先の進む起動を少し横へずらした。露出した左脇腹の表面に、方天戟の側面についた刃が擦過。微かな切り傷を作る。

 

 すぐに体勢を整えたインシェンは、爬虫類のような金眼をギラつかせ、察したように呟いた。

 

「……なぁるほどぉ。そぉいうことかぃ」

 

 ――早速こっちの策を見破られたっぽい。

 

 そう。矢継ぎ早に連打を仕掛けることで、重心のぐらつきを誘発するのだ。

 

 数を打てば、たとえその全てが防がれようとも、防いでいる内に必ずぐらつきが生じる。ぐらつけば、体が無意識のうちにバランスを保つため硬直する。そしてその硬直中はうまく動くことができないはず。そこを積極的に狙うのだ。いくら見切る能力に優れていたとしても、動くことができなければ意味は無い。方天戟や槍といったリーチの長い武器は、その連続攻撃を安全圏から仕掛ける事ができるのである。

 

 さらに、方天戟は刺突だけにとどまらない。槍先の両隣についた三日月状の刃があるため、刺すだけでなく斬ることもできる。つまり真っ直ぐ突くだけの槍と違って攻撃方法がワンパターンになりにくく、工夫次第で多彩な攻撃を仕掛けることができる。

 

 そして何より、自分よりも長い間合いを持った武器を、大抵の人なら鬱陶しく思うはず。そしてその「鬱陶しい」という感情は――長い武器の破壊に自ずと集中するようになる。インシェンが方天戟の柄ばかりを斬ろうとしていたように。相手の攻撃を自分の任意の位置へ誘導する【打雷把】の体さばき【仙人指路(せんにんしろ)】の応用だ。

 

 ボクは武器を後ろへ引き絞って構えると、もう何度目かになる接近を開始した。

 

 鍛えられた足の【(きん)】の功力にものを言わせ、敵との距離を一気に潰す。途中でヘソ周りを捻り、遠心力を乗せた刃を振り放った。

 

「そぉ何度も同じ手は食わんよぉ!」

 

 そう叫ぶや、インシェンは武器のリーチ内に鋭く踏み入ってきた。三日月状の刃を後ろへ置き去りにし、柄の真横に移動する。

 

 良い判断だ。遠くへ逃げようとせず、あえて間合いの中へ入ってしまうことで、目標物である柄に近づける。おまけに長い武器にかかる遠心力は内側に向かうほど弱くなる。リーチの奥に入ってしまえば当たっても痛くはないはずだ。

 

 ――が、良い判断だからこそ、それも想定内。

 

 ボクは大きく退歩しつつ、方天戟の刃を迅速に引き寄せた。柄尻を真後ろに引いて武器の長さを短く調整し、インシェンを間合いの外にする。

 

 手前へ引っ込めた槍先は、真っ直ぐ敵に向いていた。

 

 胴体と下半身を、足底から一気にねじり込む。同時に、真後ろへ引いていた柄尻を前へ押し出した。鋭い旋回力は槍先へ伝達し、鋭い推進力へと変化。

 

「疾っ!!」

 

 渾身の纏絲勁(てんしけい)を込めた刺突が、稲妻と見紛う速度で直進。

 

 インシェンは走行の勢いを止められず、銀閃としてやって来る槍先を甘んじて受ける事となった。鳩尾に突き刺さると同時に、接地面から青白い火花が弾けた。

 

 強風にあおられたダンボールよろしく後方へ弾き飛ばされた。しかし、すぐに着地し両足を踏ん張らせ、ボクから10(まい)弱離れた位置で勢いを消しきった。

 

「……こりゃぁやべぇな、とんでもねぇ勁力だぁ。こんなイカれた【勁擊(けいげき)】ぶっぱなす小娘がこの世にいたたぁなぁ。これだからぁ武法の世界は面白ぇ」

 

 そう感嘆の台詞を吐くインシェンの表情は、嬉々とした笑みだった。タンイェンの護衛など抜きにして、戦う事そのものに楽しみを見出しているような顔。

 

 槍の刺さった胸部の布には穴こそ空いていたが、それ以外に外傷らしい外傷は見当たらなかった。当たる直前【硬気功(こうきこう)】で防いだのだ。

 

 ボクは密かに眉をひそめた。【打雷把】の『硬気功無効化能力』は、素手の【勁擊】を使う時のみ効果を発揮する。つまり、武器では発動できないのだ。もし叩き込んでいたのが槍ではなく拳だったら、その時点で終わらせることができていたかもしれない。

 

 インシェンは体操のように肩を数回回すと、腰を落とし、刀を下段に構えた。

 

「んじゃぁ、今度は俺の番だなぁ。お嬢ちゃんの本気度合いが分かったんだぁ――小手調べなんて無粋な真似はもぉせんよぉ!!」

 

 しなやかに地を蹴飛ばし、矢の速度と猛獣の迫力を兼備した突進を見せた。

 

 その速力にボクは舌を巻くが、気を持ち直し、構える体に力をみなぎらせる。こちらの猛攻を防ぐべく、自分から攻めていこうという算段なのだろう。

 

 そうはいくもんか。武器のリーチはこっちが上なんだ。逆に押し返してやる。

 

 ボクは槍先を下段に置いたまま、インシェンとの間隔を固定するように真後ろへ大きく何度も後退。しかし、バックステップで真っ直ぐの走りと対等の速度が出せるはずもなく、すぐに両者の差が詰まった。敵がボクの間合いのすぐ前へ到達。

 

 下段に置いておいた刃を跳ね上げ、牽制してやろう――そう考えた瞬間、ただでさえ速いインシェンの速度がより一層増した。またしてもすっぽりと間合いを侵犯される。そしてボクの跳ね上げた刃がインシェンの後ろで虚空を斬った。

 

 インシェンが下段にしていた黒刃を逆袈裟に斬り上げ、方天戟の柄を真っ二つにする――前に、ボクは片足の靴底を床に叩きつけた。

 

 足裏に硬い感触を覚えるとともに、柳葉刀が回転しながら真下から飛び出した。先ほどミーフォンを助けるために投げつけたものだ。ちょうど良い所に落ちていたので使わせてもらおう。

 

 両者の間を遮る形で宙を舞った柳葉刀を、インシェンは即座に苗刀で真横へ弾き飛ばした。目が見える人間でもびっくりするはずなのに、顔色一つ変えずに対応してみせた。全盲であると考えると恐ろしい。【聴気法】以外にも、よほど鋭い感覚を持っているのだろう。

 

 ――しかし、その感覚の鋭さが命取りだ。

 

 黒刃を外側へ振ったことで、インシェンの胴体は今、がら空きだった。

 

 そしてすでにボクは小柄な体躯を生かし、そのあけすけな懐へ潜り込んでいた。

 

(ふん)ッ!!」

 

 【震脚】で踏み込むと同時に腰を深く落とす。肘打ち【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】が突き刺さった。

 

()ッッッ!!!」

 

 渾身の肘打を浴びたインシェンの身体が、ロケットのような速度でカッ飛んだ。

 

 ほぼ一瞬で向こう側の壁に激突し、粉塵と轟音を同時に発生させる。

 

「やった! やっぱりお姉様の【勁撃】は最強よ!」

 

 大広間の端に立つミーフォンが、嬉しそうに声を上げる。

 

 だがそれとは正反対に、ボクは顔をしかめていた。

 

 さっきの肘打ち、当たりこそした。だが――手応えがあまり無かった。絶対にクリーンヒットではない。

 

「……酷いねぇ、こんな勢いよく壁に叩きつけるなんてよぉ。威力を殺せても、激突で死んじまうよぉ、マジでぇ」

 

 それを裏付けるように、モクモクと立ち込める粉塵の中から声が聞こえてきた。

 

 粉塵はすぐに晴れ、インシェンの姿が露わになる。背中側から青白い光が数度明滅して見えた。【硬気功】で激突のダメージを防いだのだ。

 

 ――さっきの肘打ちが当たる直前、インシェンはボクの肘の前腕部に自分の腕を押し付けた。

 

 勁力が最も集中するのは、突き出された肘の先端。なので、肘と違って勁が集中していない前腕部に前もって触れておいたことで、威力を減退させたのだ。さらに【通背蛇勢把(つうはいじゃせいは)】特有の呼吸法を用い、全身にかかる衝撃を軽減させた。

 

 とっさの判断で、ここまで緻密な対応ができるなんて。

 

 やっぱりこの男、只者じゃない。ボクは柄を持つ両手の握力を我知らず強めた。

 

 インシェンは身体をほぐすように首を一回転させると、また素早い速度を活かして向かってきた。

 

 ボクはさっきと同様、退がって距離を稼ごうとした。

 

 だがインシェンは真っ直ぐは進まず、右側へ弧の軌道を描きながら近づいてきた。側面から攻める気だ。

 

 ボクは槍先をインシェンに向けなおす。

 

 するとインシェンは、今度は左へ弧を描いて進んできた。ボクもそれに合わせるように左へ槍先を向かわせる。距離が縮まってきたので、バックステップも合わせて。

 

 そんな感じで追いかけっこをしばらくしていると、背中がひらべったいモノにぶつかった。どうやら壁に追い詰められてしまったようだ。

 

「はぁっ!!」

 

 それを確認すると、インシェンは一層速度を上げて真っ直ぐ近づいてきた。

 

 マズイ。後ろが行き止まりである以上、後退もできないし、円状に武器を振り回すこともできない。攻撃手段が一気に限られてしまった。

 

 そんな風に苦悩している間にも、インシェンは無慈悲に着々と間合いへ近づいてきている。

 

 ボクは後ろへ下がるのをやめ、左へ走った。広いところへ避難して仕切り直しだ。

 

 当然ながら、奴はそんなボクをしつこく追っかけてくる。けれども、すでに方天戟を振り回すのに支障がない広い場所に来ていたため、問題はなかった。

 

 ボクは武器を大上段に振りかぶる。近づいてくるインシェンめがけて、腰の沈下と合わせて三日月状の刃を斧のように振り下ろした。

 

 インシェンは少し横へズレて、それを躱す。間合いの中へ入る。

 

 ボクの攻撃はまだ続く。回転しながら後ろへ跳ね、着地と同時に遠心力を込めて薙ぎ払い。インシェンは黒い刃で三日月状の刃を防御。ガキィンッ、とやかましく金属音が響く。

 

 一歩退きながら、黒刃と接触した槍先を手前へ引っ込める。そして再び元来た方向へ戻す形で、インシェンめがけて突き掛かった。

 

 ――この時ボクは、インシェンは体を捻るという最小限の動作で避けると踏んでいた。さらにそこを狙い、確実に当たるであろう攻撃を放とうと頭の中で考えていた。

 

 けれども、インシェンはやってきた槍先を、垂直に構えた黒刃で受け止めた。槍先と三日月状の刃の間に黒い刃が割り込み、甲高い衝突音が鳴る。

 

 避けられない攻撃じゃないはずなのに、どうしてわざわざ防ぐ事を選んだのか――思考を巡らせようとした瞬間、インシェンの腰部が急激に手前へ"蠕動(ぜんどう)"した。

 

「――――ッ!?」

 

 かと思えば、黒刃と接触していた方天戟の先端、柄を介し、腕から体へと凄まじい衝撃が走った。

 

 その衝撃の勢いに押されるまま、真後ろへ吹っ飛ぶボク。

 

 虚空を流れながら、ボクは今の攻撃の正体を察した。【吐炮(とほう)】。腰椎を激しくうねらせ、背骨を介してその力を腕に伝達させる技だ。極めて小さなモーションで大きな力を出せるため、懐へ潜り込んだ時のトドメの一撃として用いる事が多い。

 

 壁が迫る。だが、激突する前にボクは両足を付き、足指を踏ん張らせて勢いを殺した。

 

 再び武器を構えようとした時には、すでにインシェンが間合いの中へと侵入していた。

 

 武器を振って応戦しようと試みる。だが、さっきの【吐炮】による勢いがまだ消えきっておらず、体が思うように動かない。

 

 そして、

 

「ほらよぉ!!」

 

 下から掬い上げるように放ったインシェンの太刀筋が方天戟の柄とぶつかり、そして通過(・・)する。

 

 柄が途中で途切れ、槍先と泣き別れた。

 

 180厘米(りんまい)ほどの長さを約130厘米(りんまい)に縮められると同時に、方天戟の武器としての意味を無にされた。

 

 しかし、ボクはその程度では揺るがない。そもそも、武器を破壊されるなんて想定の範囲内。

 

 後足で床を踏み切り、その反力でインシェンの黒刃の範囲内へ入り込んだ。

 

 インシェンは懐まで距離を詰められまいと、大きく後退。そして、それを追うボク。互いの間隔は広がりも狭まりもしない。ボクが間合いに入った状態がキープされている。

 

 ボクはまだ、"方天戟だった長い木の棒"を両手に握っていた。苗刀の柄を握るインシェンの手に狙いを定めると、木の棒の断面で思いっきり突き放った。

 

「痛っ……?」

 

 肉と骨に食い込む感触を得るとともに、インシェンが顔をしかめて刀を握る手を緩めた。その緩めた一瞬を見逃さず、今度はその手を下から蹴り上げ、苗刀を手放させた。ずっとインシェンの手から離れなかった刀が床に落ち、スライドする。

 

 取りに行く暇さえ与えない。ボクは木の棒を元きた方向へ逆走させる形で振り出した。インシェンの顔面を狙った攻撃だ。

 

「刀が無きゃぁダメな野郎だと思うなよぉ!?」

 

 言った途端、インシェンの片手が一瞬"消える"。かと思えば、振った木の棒がひとりでに折れた。見ると、消えた片手がいつの間にか手刀を振り抜いた状態となっていた。

 

 ボクはさらに短くなってしまった木の棒を投げ捨てる。

 

 そこから素手での戦いが始まった。

 

 インシェンは刀を失っても少しも動揺を見せなかった。それどころか、生き生きと攻めてきた。

 

 拳の中指の第二関節を(やじり)のように突き出した透骨拳(とうこつけん)を作り、それを矢の如く放って来る。ボクは最小限の足さばきで横へずれ、胸部を狙った正拳を回避。

 

 避けたが、そこで攻撃は終わらなかった。インシェンの拳が開かれたと思った瞬間には、片腕を掴まれた。奴はそこからもう片方の腕による手刀でボクの首を狙ってきた。突風に匹敵する速度で迫るその手刀は、当たれば首くらいは簡単に切り落とせるほどの鋭さを秘めていた。

 

 腕を掴まれているため、動いて避けられない。なのでボクはもう片方の手で拳を作り、やってきた手刀を下から打ち上げた。

 

 攻撃をなんとかいなした後、ボクは片腕を掴んでいるインシェンの手を即座に振りほどいてから、すぐさま敵の懐へ潜り込んだ。

 

 【震脚】で踏み込み、同時にその足をねじり込む。衝突勁と纏絲勁を込めた正拳【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】を真っ直ぐ突き放った。

 

 インシェンは体をひねって軸をズラし、紙一重で躱す。ボクの正拳が腹の前を通過してから、すかさずその腕に真上から手刀を斬りおろしにかかった。

 

 素早くその突き手を引っ込めてその手刀から逃れつつ、次の拳打に以降していく。足底から全身をねじり込み、突き手を引き手に変え、引き手を突き手に変えた。【拗歩旋捶(ようほせんすい)】。いわゆる正拳逆突きだ。

 

「うっ……!?」

 

 その拳が伸びきる寸前に、お腹に衝撃がぶつかった。技は直撃寸前の所で不発に終わり、ボクの体はその衝撃の勢いに流されていく。

 前を見ると、靴裏を突き出したインシェンの姿。蹴られたのだろう。奴の足はボクの腕よりリーチがあるので、それを利用して【碾足衝捶】をストッピングされたのだ。小柄な我が身が少し恨めしかった。

 

 踏みとどまった後も、休まる暇はない。インシェンは裏拳の要領で鶴頭を飛ばしてきていた。

 ボクシングのスウェーよろしく頭を引いて避けたものの、今度はその伸びてきた手の肘が曲がりながら近づいてきた。

 次の攻撃を察したボクは真横へ跳ぶ。それから刹那の間隔を経て、ボクのいた位置をインシェンの肘打ちが貫いた。腰を深く落とし、山のようにどっしりと鎮座して放たれた強力な頂肘(ちょうちゅう)

 

 しかし、だからこそ居着きやすい。ボクは回転しながら元来た方向へ戻り、その回転に右回し蹴りを乗せた。

 

 インシェンは片手で蹴り足を掴み取ると、思いっきり自分の手前へと引き寄せた。しかし、それも織り込み済みの対応。ボクはわざとその引かれる力に乗り、右足を折りたたみながらインシェンへと飛びかかった。

 

「おぉっ……?」

 

 微かな声を上げるインシェン。ボクら二人は仲良く将棋倒しとなった。

 

 右足を掴むインシェンの手を振りほどいてから、転がりながら離れ、立ち上がった。インシェンも同じように、そして同じタイミングで立つ。

 

 そして、互いに床を蹴って疾駆。接近。あらゆる手を使って何度も打ち合った。

 

 しなやかで、かつ起伏の激しい体術から放たれる、鋭い連打の数々。軽さと重さの兼備という矛盾した性質を秘めた打撃が、拳、蹴り、手刀腕刀など、ありとあらゆる形をとって幾度もボクに襲いかかる。

 

 ボクも決死の思いでそれを防ぎ、躱しつつ、時折反撃する。けれども、どの攻撃も等しく空振るか、あるいは軽く擦過する程度。クリーンヒットへとなかなか繋げられない。

 

「はっっ!!」

 

()ッッッ!!!」

 

 もう何度目かになる【移山頂肘】が衝突。しかし最初の時と同様、肘ではなく前腕部を触れられたまま衝撃を受け止められ、おまけに呼吸法によって力を大幅に減退された。結果的にインシェンを遠くまで吹っ飛ばせたが、全然手応えがない。まるで水を殴った気分だ。

 

 ボクらの距離が至近距離から、一気に伸び広げられる。

 

 インシェンが止まった。その場所の足元には――先ほど取り落とした苗刀が落ちていた。

 

 当然ながら、奴はそれを拾った。

 

「……ククク、偽娼婦のお嬢ちゃん、おたく筋はかなり良いんだがぁ、ちょっと後先考えなさすぎだぜぇ? 敵を武器の落ちた場所に誘導すればこうなることくらい、予想はつくだろぉよぉ? 普通は拾わせねぇように遠くにやるのが定石ってもんだろぉ? 強ぇ【勁擊】バカスカ放つからこぉなんだよぉ」

 

 言うや、インシェンは再び我が手に舞い戻った漆黒の愛刀を床と並行にし、後ろへ引いて構えた。

 

 ――知ってる。そんなこと、わざわざアンタに言われなくても百も承知だ。

 

 ボクは、そんなただ【磁系鉄(じけいてつ)】で出来てるだけの刀なんか、少しも警戒の範疇に入れていなかっただけだ。

 

 確かにその刀には【硬気功】が効かないが、ただそれだけだ。【硬気功】が使えなくなったというだけで、自分の持つ技すべてが意味をなさなくなったわけではない。

 

 ボクには、一途に鍛え上げた【打雷把】がある。それの前では【磁系鉄】の武器など小細工に同じだ。

 

 そしてインシェン、アンタはその技の恐ろしさの一端を思い知ることになるだろう。

 

 何より――アンタは常人以上の優れた間隔こそ持ち合わせているが、その感覚には小さいようで大きな「穴」が存在する。

 

 それら二つを、今からその身に叩き込んでやる。代わりに、敗北という名の授業料を払ってもらう。

 

 ボクは構えた。そして、インシェンの出方を待つ。

 

 やがて、

 

「んじゃぁ――そろそろお開きといこぉかぁぁぁぁぁ!!!」

 

 反時計回りに高速回転しながら向かってきた。

 

 「刀が回転している」のではなく、「黒い()がある」ように見えるほどの速力でスピンし、つむじ風のように追いかけてくる。

 リーチが長いため、こちらからはうかつに手が出せない上、その回転で溜めた遠心力を次の技にも利用できる。大雑把だがとても理にかなった攻防一体。自分の武法を「品性は無いが叩き上げ」と評価したインシェンの言ったとおりである。

 

 ミーフォンもライライも、必死になって逃げ出した攻撃法。

 

 しかし、ボクは二人とは全く真逆な行動を取った。

 

 その黒い円環に向かって――突っ込んでいったのだ。

 

「自殺したくなったかぁ、偽娼婦ぅ!?」

 

 迫り来る漆黒のつむじ風から、昂ぶった声色でそう言ってくる。

 

 なんと言われようと、その足に迷いはない。

 

 ただ我が身をひたすら正面へと鋭く、速く導き続ける。

 

 やがて、黒い円環が目と鼻の先まで迫った。

 

 このまま何もしなければ、高速で廻り巡る漆黒の刃によって首が落ち、全身を挽肉にされるだろう。

 

 だが、無論、何もしない訳が無い。

 

 ボクは両手首を密着させ、左側面に構える。

 

 そして、黒い円環の中へと踏み入った。

 

 

 

 次の瞬間――音が鳴った。

 

 

 

 肉が裂ける音?

 骨が砕かれる音?

 それとも、その両方?

 

 どれも否。

 

 

 

 ――金属同士が(・・・・・)ぶつかる音(・・・・・)だ。

 

 

 

「……っ!?」

 

 インシェンの表情に動揺が浮かんだ。

 

 左から右へ横薙ぎに放たれた黒刃は――ボクの両手首にはまった分厚い腕輪によって防がれていた。

 

 そう。先ほどまでボクを拘束していた手枷の残骸である。

 

 ――コレの存在に、インシェンはもっと気を配るべきだったのだ。

 

 インシェンの感覚は確かに鋭い。しかし、その鋭い感覚をもってしても、把握しきれない部分が存在する。

 

 それは――相手の服装。

 

 インシェンは、相手が動き出す前からその攻撃の前兆を読めるという超能力じみた感覚を有している。

 けれど反面、相手が身につけている衣服、装飾に関してはほとんど認知しきれていなかった。

 

『私たちが今――どんな服を着てるか分かる?』

 

『答えられないでしょう? 答えられるわけがないわよね? だって、"分からない"んですもの』

 

 ライライがインシェンを盲目だと見破った時に投げかけた質問を聞いたおかげで、ボクはその事を察することができていた。

 

 インシェンは、こっちが武器なしだと油断していた。だからこそ何一つ警戒せず、回転だけを続けた。それを止められるとも知らずに。

 

 そして、止められて間もない今この瞬間こそが――最大の隙となり得る!

 

 接している黒刃を沿うようにして、一瞬でインシェンの懐へ潜り込む。

 

 そして、その胴体の表面に掌を添えた。

 

 インシェンの顔にあからさまな狼狽が見える。

 

 けれど、今更焦ってももう遅い。

 

 ボクは体術を開始した。

 表面上、五体はほとんど動かさない。

 しかし【意念法(いねんほう)】と呼吸によって筋骨を緻密に操作し、小さいながらも細く鋭い勁を体内で練り上げ、ゼロ距離から一気に解き放つ――――!!

 

 

 

 

 

 ズバンッ!!! という、落雷にも似た炸裂音が轟いた。

 

 

 

 

 

 それをきっかけに、慌ただしかった大広間(ホール)が水を打ったように静まり返った。

 

 誰一人として、言葉どころか、呼吸一つ発さない。

 

 打ち合わせでもしたかのような沈黙がそこにあった。

 

 けれども、それはボクの頭頂部に赤い雫(・・・)が滴り落ちる音によって破られた。

 

 最初の一滴を皮切りにして、どんどん赤い雫がボクの頭を真紅に染めていく。

 

 落ちてくる赤いソレは、すぐに雫から流体へと変わった。

 

 赤い液体の流れてくる方向をたどるようにして、視線を上げる。

 

 そして――白目を剥いたまま口元から血を流し続けるインシェンの顔が目に入った。

 

 インシェンはひとしきり血の滝を流すと、まるで支えを失ったカカシのように背中から倒れた。それによって――掌の延長線上の壁に穿たれた握りこぶし大の(あな)が明らかになる。遥か向こう側の壁である。

 

 ボクは突き出した掌をゆっくりと下ろし、呼吸を整えた。

 

 そして、仰向けに倒れたインシェンを見下ろす。顔を力なく横へ傾け、口から流れ出る血で赤い水たまりを作っていた。

 

 

 

 【雷霆万鈞(らいていばんきん)】が一招――――【冷雷(れいらい)】。

 

 

 

 【打雷把】には、【移山頂肘】や【衝捶】といった基本の技の他に、『奥義』に分類される技がいくつか存在する。

 それらの技は全て【雷霆万鈞】という名の【拳套(けんとう)】の中に保存されている。

 【雷霆万鈞】に含まれる技法は、いずれも極めて高い確率で相手を殺傷せしめるほどの強大な威力を誇る。

 

 今のはその中の一つ【冷雷】。

 外見上は不動(ノーモーション)を装いながらも、体内では特殊な【意念法】と呼吸法によって骨格や【筋】を細かく操作し、勁を生み、掌を介して相手に送り込む。まるで内部に膨大な稲妻を蓄えて放出する積乱雲のように。

 極限まで研ぎ澄まされたその勁力は針のような鋭さと貫通力を誇り、相手の体内を浸透、貫通し、その後ろ側の物体まで飛んでいく。また、鋭すぎて【通背蛇勢把】の呼吸法でもほとんど威力を緩和できない。

 

 意識を失って仰臥(ぎょうが)するインシェンを見て安堵する一方、申し訳なさにも似た気持ちも抱く。

 

 ボクはよほどの事がない限り、【雷霆万鈞】は使わないようにしている。それを使ってしまった。彼を殺してしまったかもしれない。

 

 武法士である以上、いつか相手を殺してでも勝たないといけない時が来ることは覚悟していないといけない。ボクもその覚悟はしていたが、それでも人の命を奪ってしまう事に慣れられるほど、冷酷にはなれなかった。

 

 ――そして、そんな殺人に慣れるどころか、楽しむようにさえなった残忍な人物が一人いる事を思い出す。

 

 ボクはインシェンに詫びるように軽く頭を下げると、踵を返し、その人物――馬湯煙(マー・タンイェン)の立つ方向へ歩き出した。

 

「あ……あ、あ……」

 

 視線という矛先を向けられたタンイェンは顔面蒼白となる。キョロキョロと周囲を見回し、自分の足元に横たわるリエシンを見つけると、髪を引っ張って強引に起こし、その首筋に匕首(ひしゅ)を突きつけた。

 

「く、く、来るな小娘ぇ!! こ、この女を殺――」

 

 言い切る前に、ボクは右足に履いていた靴を蹴って飛ばす。靴は弾丸のような速度で滑空し、タンイェンの手に直撃。握っていた匕首を取り落とさせた。

 

 タンイェンは再びそれを拾い上げる――前に一気に距離を詰め、匕首を遥か遠くに蹴っ飛ばした。

 

「あ……!」

 

 タンイェンは絶望的な表情となる。

 

 リエシンをその片腕から奪い返して寝かせてから、ボクは改めてタンイェンに視線をぶつけた。

 

 一歩進む。

 

「な……何をするつもりだ? お、おお俺をどうする気だ? 殺すのか? 殺す気なのか?」

 

 一歩進む。

 

「ば、莫迦が! そんな事をすれば貴様が臭い飯を食うハメになるんだぞ!? 貴様も知らんわけではあるまい!? ぶ、武法士が素人を殺したら、素人同士の間で起きた殺人以上の厳罰で裁かれる事になる! 自分で自分の首を絞めるつもりか!?」

 

 一歩進む。

 

「そ、それに俺はとある大きな【黒幇(こくはん)】とも懇意にしている! 俺を殺せば最後、その【黒幇】共が意趣返しのために貴様を狙うぞ!? そうなれば貴様は終わりだ! 【奐絡江(かんらくこう)】を漂う屍となる未来は避けようがない! 実に愚かな選択――」

 

「バカじゃないの」

 

 虫を叩き落すようなニュアンスで、ボクはそう返した。

 

「殺すわけないでしょ? 武法士による素人殺しの重罪は重々承知だし、おっかない人達に目つけられるのもめんどくさいし。何より、アンタと同じ尺度に落っこちるのボク嫌だもん」

 

 それを聞いて、タンイェンの表情が安堵の明るさを得た。

 

「な、なら――」

 

「――でも、その代わり」

 

 ギリィッ。拳を硬く握り締め、

 

 

 

「一発だけでいい――――本気(マジ)で殴らせろっっ!!!」

 

 

 

 タンイェンの顔面に、思いっきりぶち当てた。

 

 技にならない、お粗末で洗練さの欠片も無い殴打。

 

 しかし、それでもタンイェンは面白いほどに飛んでいき、宙を舞い、やがてうつ伏せに落下した。

 

 奴は鼻血を垂らしたまま動かない。しかし時々ピクピクと表情筋が動いている様子から、生きてはいることがわかる。

 

 それを確認すると、ボクは一息ついてから、

 

「終わったよ」

 

 振り向いて、微笑みを交えてみんなにそう伝える。

 

 それに対し、

 ミーフォンは嬉しそうに微笑みを返し。

 ライライは疲れたような、それでいて安堵したような力ない笑みを返し。

 そしてリエシンは、申し訳なさそうな表情で目を背けたのだった。

 

 

 

 

 ――――こうして、ボクらの長い夜は終わった。

 



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おかあさん

 それから、あっという間に時間が経ち、夜空も白んでいった。

 

 夜から朝へ到るまでの間、【甜松林(てんしょうりん)】と【会英市(かいえいし)】の両方の町では、眠らない驚愕と喧騒がわき続けていた。

 

 むべなるかな、というべきだろう。

 

 それら二つの町を事実上取り仕切る覇者、馬湯煙(マー・タンイェン)が御用になったという大ニュースなのだ。騒ぐなという方が無理な話である。

 

 インシェンを倒した後、ライライとミーフォンはボクとリエシンを待たせ、屋敷の一番近くにあった治安局の詰所へ向かった。そして役人たちを屋敷まで呼び出した。

 

 『尸偶(しぐう)』という、連続猟奇殺人の動かぬ証拠を突きつけられた役人たちは、もはやタンイェンをしょっぴかないわけにはいかなくなった。ここまではっきりした裏付けを見せられてもなお動かないようでは、いよいよもって法が財に屈した事を意味するからだ。虎もハエも一緒に叩けないような警察機構など、民衆は信用しない。

 

 タンイェンはその場ですぐに逮捕、連行された。いや、タンイェンだけじゃない。奴の用心棒も一人残らずお縄を頂戴した。この連中も共犯といえるからだ。一夜にして数十人もの大捕物。牢屋が足りるか心配である。

 

 しかし、その連行された用心棒たちの中にインシェンの姿は無かった。いつの間にやら、インシェンはふらりとその姿を消してしまっていたのだ。一体いついなくなったのかは分からないが、ほぼ確実に相手を死なしめる【冷雷(れいらい)】を食らってまだ動けるその体力には脱帽させられた。

 

 ……その一方で、胸を撫で下ろしている自分が心の中にいた。どういう理由があれ、人を殺す事は好きではない。インシェンが生きていた事に安心しているのだ。覚悟を決めたつもりなのに、随分情けない話だった。

 

 すでにみんなが寝静まっている時間に働かされた治安局の役人たち。けれど彼らは、その理由を作ったボクらに難色を示したりはしなかった。それどころか、もの凄く感謝されてしまった。

 なんでも、娼婦の連続行方不明事件にタンイェンが深く関わっていることは、詰所にいるほとんどの役人が疑っていた事だったそうだ。けれど、確たる証拠が無かったため、金銭的援助を受けている事への後ろめたさも含めて、うかつな行動は取れなかったらしい。

 

「なっさけない話ねぇ」

 

 そんな歯に衣着せぬミーフォンの物言いに、役人たちはそろって渋い顔をした。

 

 頬っぺたに大きな腫れ跡を作ったタンイェンを先頭にして、ぞろぞろと行進させられる逮捕者の大行列。通りかかった民家は一件、また一件と窓を開けて騒ぎ出した。それが積もり積もって大騒ぎにまで膨れ上がったのだ。

 

 驚愕以外のリアクションを取れない人。どう反応していいか分からず呆然としている人。「ああ、やっぱりね」とでも言わんばかりの済ました表情の人。野次馬の中には色々な顔が見られた。

 

 その後、屋敷の地下室に置いてあった『尸偶』は、まず【甜松林】に運ばれた。娼婦たちの身元確認のためだそうだ。

 変わり果てた娼婦たちの姿を見て、ある者は気味悪げに後じさり、またある者は知人の死を知らされて悲しみに暮れた。

 ――瓔火(インフォ)さんの『尸偶』を目の当たりにした神桃(シェンタオ)さんは後者だった。だが涙こそ多少流したものの、号泣ほどの泣き方はしなかった。聞くと、神桃(シェンタオ)さんもなんとなくこうなる事を予想していたからとのこと。

 

 身元がはっきりしない死体は、すべて無縁仏として集団墓地に埋葬されるらしい。親類がはっきりしている、あるいはその親類とツテがある友人には、その死体が返還された。特殊な薬で防腐処理が施された『尸偶』は半永久的に腐らないため、役人は「墓に埋めても、大切に保存しても、どちらでもいい」と言ってくれた。変わり果てた姿を見るに忍びなければ埋葬し、死してなおその姿を見ていたければ残す、といった感じで選択肢が決まるのだろう。

 

 ――当然ながら、瓔火(インフォ)さんの『尸偶』もリエシンに返還された。

 

 しかし、今の彼女は、埋めるか残すかの選択がまともに出来る状態ではなかった。

 

「うっ……ひぐっ……ううっ…………ぐすっ……!!」

 

 安っぽくも幅の広いベッドの上に横たわり、決して変わらない笑みで天井を見つめ続けている瓔火(インフォ)さんの『尸偶』。鎖骨から下の部分に毛布がかぶせられているのは、元々ヒトだったものに対するせめてもの礼儀だった。

 

 その傍らにしゃがみ込みながら、リエシンは絶えず嗚咽をもらしていた。

 

 泣き続ける彼女を、ボクら三人は何も言わず、いや、何も言えずに後ろから見つめていた。 

 

 お世辞にも立派とは言えない木造りの家だった。戸口と、台所や寝室といった生活空間の区切りがほとんどされておらず、入った瞬間すぐベッドと台所が目に付いた。掃除は行き届いているけれど、生活を送る上で必要最低限のモノしか置いてないひどく殺風景な空間。木製の床も弾力に富み、よく軋む。ここで【震脚(しんきゃく)】をしたら一発で床が抜けると確信できた。家主には失礼だが、「家」というより「離れの小屋」という印象。

 

 ここは【会英市】にあるリエシンの家だ。受け取った『尸偶』は、そこにある二人用のベッドに横たえている。

 

 外から見ると、とても小さな一軒家だった。この家で、今は亡きお母さんと二人で慎ましやかに暮らしていたのだろう。

 

 開いた窓から、夜明けになりたての優しい日差しとそよ風が入ってきた。

 

 ボクの三つ編みが、ライライのポニーテールが、ミーフォンの下ろされた髪が風に揺らされる。ボクら三人は、いつも通りの服装と髪型に戻っていた。一度三人とも服を着替えてから、リエシンの様子を見にここへやってきたのだ。

 

 ただし、三人の総意ではない。言いだしっぺはボク。

 

 当然というべきか、ミーフォンはリエシンの事を相当嫌っており「こんな女シカトして、とっとと帝都へ向かいましょう、お姉様」と言ってきた。けれど、ボクはお母さんの死という現実を突きつけられたリエシンの様子がどうしても気になったのだ。二人とも、それについてきた感じである。

 

 しかし、わざわざ様子を見に来る必要があったのか、今更ながら思ってしまった。 

 

 ――彼女が悲しみにどっぷり浸かって泣いているなんて、確かめるまでもなく分かりきっていた事だったのだから。

 

「お母さん…………おかあさん……おがぁさぁん……!!」

 

 リエシンは硬くなった亡骸の手に頬を当て、薄い敷布団を濡らし続ける。その言葉しか知らない幼児のように、何度も「お母さん」と涙声で呼びかけていた。

 

 けれど、それに返してくれる声は決して聞こえない。聞こえるわけがない。

 

 ひたすらに涙と声を流し続けるリエシン。ボクらがこの部屋に来て、まだそう時間は経っていない。一体、彼女は何時間ベッドで泣いていたのだろうか。

 

 ボクは、そんな彼女にかける言葉が見つからなかった。

 

 泣き声とは別に、もう一つカツカツとリズミカルな音が聴こえてきた。ミーフォンが苛立たしげに爪先を鳴らす音だった。

 

 しばらくは靴を鳴らすだけだったが、やがて我慢ならないとばかりにリエシンに歩み寄り、強引に振り向かせてその胸ぐらを掴み上げた。

 

「――あのさぁ、いつまでそうやってベソかいてるつもり!? いい加減ウザいんだけど!」

 

 容赦の無い怒声が響く。

 

 それを聞いてリエシンは怯んだ顔を見せたが、すぐにキッと睨み返した。

 

「そう思うのなら、さっさと出て行ってよっ!」

 

「ああそうねそうだわ出来ることならそうしたいわよ! でもね、お姉様があんたの事気にかけてくれてんのよ! お姉様にとんでもない仕打ちをしたあんたの事を!」

 

「私はそんなこと一言も頼んだ覚えはないわよっ!!」

 

「このっ……! じゃあ聞くけどさぁ! そうやってガキみたいにわんわん泣いてるだけで、状況が良くなると思う!? なるわけないわよ! 泣いて喚いたって、白話(はくわ)の英雄が都合よく現れてあんたを慰めてくれたりなんかするもんか! あんたが今からするべきことは、その"母親だったモノ"の処――」

 

「――ミーフォン、やめなさい」

 

 続く言葉をいち早く察したボクは、語気を強めて黙らせた。心の準備期間というものが誰にでも必要なはずだ。今から無理して瓔火(インフォ)さんの『尸偶』をどうするかを決めなくてもいいだろう。

 

「でも、お姉様……!」

 

「やめなさい、って言ったぞボクは」

 

「…………はい」

 

 なおも食い下がろうとしてきたミーフォンは静かになり、力なく頷く。

 

 リエシンが我が身をかき抱きながらうずくまり、ヒステリックな声色で喚き散らした。

 

「もう出て行ってよっ!! あなたたちを陥れた事を咎めるなら後にしてっ!! 今は放っておいて!! 一人にしてよぉっ!!!」

 

 聞く者の心を引き裂くような叫びに、ボクらは息を呑んで押し黙った。さっきまで悪態を付いていたミーフォンでさえ、気圧されたような顔となる。

 

 ――今は、そっとしておいた方がいいかもしれない。

 

 誰にだって、周りの事を顧みずに泣き叫びたい時があるはずだ。そして今、リエシンはその時なのだろう。なのでここは一人にして、思いっきり悲劇に身を置かせた方が良いだろう。内に押し込めるよりも、そっちの方が心を病みにくい。

 

「……二人とも、今は出ていよう」

 

 ボクがそう静かに告げると、ライライとミーフォンも頷いた。

 

 踵を返し、戸口へ向かう。

 

「…………あっ!!」

 

 ――だが、ふとある事を思い出し、ボクの足が止まった。

 

「……シンスイ?」

 

「お姉様? 何か?」

 

 突然声を上げたボクを、ライライとミーフォンがびっくりした顔で見つめていた。

 

 そんな二人のリアクションにほとんど注意を向けられないまま、ボクはある考えに深く浸っていた。

 

 今まで、どうして忘れていたんだろうか。

 

 ボクはリエシンに、渡すべきものが一つあったではないか。

 

 ――【甜松林】で神桃(シェンタオ)さんから頂いた、リエシン宛の瓔火(インフォ)さんの手紙。

 

 あの手紙は確か、娼婦として働いていた時に着ていた薄手の連衣裙(ワンピース)の中に入っていたはず。少し破いてしまいこそしたが、高そうな服だったので、【甜松林】に来た時に神桃(シェンタオ)さんに返したのだ。

 

 こうしてはいられない。急いでその手紙を取りに【甜松林】へ戻らないといけない。

 

 ボクはリエシンに振り向きつつまくし立てた。

 

「リエシン!! ボクが戻るまで絶対に家を出ないでね!! 渡したいものがあるんだ!!」

 

 涙目のままキョトンとしたリエシンを置き去りにして、ボクは戸口から外へ出たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リエシンはただただ悲観に暮れていた。

 

 インシェンとの戦いが終わるまでは、そんな余裕が全くなかった。しかし全てが終わった後、まるで堰を切ったように悲しみが溢れ出してきた。

 

 今回の一件で、めでたくタンイェンは捕縛された。確たる証拠がある以上、極刑、良くても長期間獄に繋がれる沙汰は避けられないだろう。

 

 全ての元凶は裁かれ、母の行方と状態も分かった。過程は必ずしも思い通りにならなかったが、リエシンの目的は結果的に果たされた。

 

 そう。全てが終わったのだ。

 

 けれど――だからどうしたというのだろう?

 

 真相が分かったからといって、母に会えたのか?

 

 いや、一応会う事はできた。死体人形と化した母に。

 

 正直、シンスイ達には当たり散らしたくはなかった。けれども、感情が抑えられないのだ。悲しいという感情が。

 

 リエシンは(とこ)で横たわる母の抜け殻を見つめ、不気味なほど真っ白なその頬を指先で撫でた。人肌のなめらかさ。けれど氷のように冷たく、弾力に乏しい。

 

 紛う事なき死者の感触。

 

 それによって「母の死」という情報をさらに濃く感じてしまったリエシンは、再びガクリと膝を屈した。

 

「うっ…………あぁぁぁ……っ!!」

 

 母の片手を自身の両手で握りしめ、それにすがるような体勢で泣き崩れる。

 

 手から感じる硬く冷たい感触が、涙腺を絶えず刺激する。

 

 ――どうして、どうして、どうして!

 

 どうして優しい母がこんな無惨な最期を遂げて、卑怯者の自分が生き残るのだろう? もしも世を統べる神々が存在するのなら、そいつらはとんだ捻くれ者だ。

 可能ならば、この命を母に差し出して生き返らせたいくらいだ。

 こんな事なら、あのままタンイェンの飾り物になっていた方が良かったかもしれない。

 そして、せっかく生き残ったのに、そんな風に命を粗末にするような考えを抱いている自分自身が憎らしい。

 

 生き残ってしまった自分を憎み、そしてそんな自分を憎む自分をまた憎む。終わる事なく続く自責の連鎖だった。

 

 しかし、その連鎖を断ち切るかのように、戸口が勢いよく開け放たれた。

 

 思わずそちらへ目を向けると、シンスイの姿があった。

 

 そういえば、さっき「待ってて」と言って家を飛び出していったが、一体何をしていたのだろうか。

 

 シンスイはこちらを真っ直ぐ見つめながら歩み寄って、

 

「――これ、読んで」

 

 そう言って、何かを手渡してきた。

 

 それは、一枚の折りたたまれた紙だった。つぼみのように内側へ固定されるように折られており、外力で簡単に開かないようにできていた。

 

「え……」

 

 そしてリエシンは、その紙の折り方に凄まじい既視感を覚えた。

 

 自分は知っている。こうやって手紙を折りたたむ人を、一人。

 

 それは――

 

「まさか……お母さんの……?」

 

 呟いた途端、「どうして分かったんだ?」と言わんばかりにシンスイは驚きを表した。

 

 しかし、すぐに気を取り直した様子で表情を引き締め、言ってきた。

 

「それは察しの通り、瓔火(インフォ)さん――つまり君のお母さんの書いた手紙だ。【甜松林】にいるお母さんの後輩から、君に渡すよう頼まれた。「もし私に何かあったら、この手紙をリエシンに渡して」っていう瓔火(インフォ)さんの伝言と一緒に」

 

 リエシンのまぶたが開かれる。その目に悲しみ以外の光が宿った。

 

 気がつけば、自分はその手紙の封を解いていた。慣れ親しんだ折り方だったため、破らずにすんなりと開けられた。

 

 掌にすっぽり収まるほどたたまれていた紙は、あっという間に大きな一枚の紙と化した。

 

 見知った折り方と同じく、見知った筆跡で本文が書かれていた。その本文の下の余白に、簡単な地図のようなものが記されている。

 

 リエシンはその文に目を通し、黙読した。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 愛する娘 リエシンへ

 

 

 

 もしもこの手紙をあなたが読んでいたなら、お母さんはきっともうこの世にはいないかもしれません。

 あなたに伝えたいことのありったけを込めて、この手紙をしたためさせていただきました。

 辛いかもしれませんが、どうかお母さんの最期の無駄話に付き合ってください。

 

 

 

 まず始めに、あなたに謝りたい事があります。

 

 ――こんなダメなお母さんでごめんなさい。

 

 お母さんは昔、擦れっ枯らしな悪い女でした。

 

 厳格な家柄に嫌気が差して家出し、雨露しのぐためにいろんな男性の寝床を転々とし、その男が酷い人だった時はその財布からお金だけ抜き取って雲隠れして…………そんな生活ばかり繰り返してきました。男の人に擦り寄らなければ生きる事もままならない……思えばこんなお母さんにとって、娼婦とは天職だったのかもしれませんね。

 

 けど、そんな生活は突然終わりを迎えました。――そう、リエシン、あなたをお腹に宿したからです。

 

 望んで妊娠したわけではありませんでした。けれど、お母さんはお腹に宿ったあなたに対して、確かに深い愛情を抱いたのです。あなたを産みたい、あなたと出会いたい、あなたと一緒に生きていきたい。そう思い、堕ろさずに産む決心をしました。

 

 生まれたばかりのあなたは、今のような可愛らしさからは似ても似つかない、お猿さんみたいなしゅわくちゃ顔でしたよ。でも日を重ねるにつれてお母さんの面影を感じられるようになっていき、愛らしい女の子に成長してくれました。これは嫁の貰い手引く手あまただと、身内贔屓ながら思っていました。

 

 ……けれど当時連れ合っていた男の人、つまりあなたのお父さんは、良い父親にはなれませんでした。最初は優しかったのですが、年月が経つにつれて暴力的になっていき、お母さんは日に日に心を削られていきました。

 

 せっかく稼いだお金もあの人の浪費で無くなり、果てには借金を押し付けていなくなってしまいました。ここまでは、あなたも知っていますね。

 

 あなたはあの人を毛虫のように嫌っていましたね。お母さんも酷い人だと思いましたが、それなりに愛情もありました。なにより、彼がいなければ、あなたがこの世に生まれることもなかったのですから。なのであの人がいなくなった時、すごく憎かったし、けれど同時に悲しかったのです。

 

 借金を返すために、お母さんは体を売って稼ぐしかなくなってしまいました。

 

 娼婦の仕事は想像以上に辛く、苦痛ばかりでした。

 

 けれどリエシン、あなたが隣にいてくれたから頑張れました。

 

 あなたはいつもお母さんを気にかけて、家事も率先してこなしてくれましたね。そして「お母さんは休んでていい。もうお母さんは散々傷ついたんだから、これからは私が頑張る」と言ってくれました。

 

 お母さん、嬉しかったですよ。そう言ってくれる娘がいるだけでも、どうしようもないお母さんの人生にも意味があった気がします。

 

 そして、そんな言葉を娘のあなたの口から言わせてしまって、ごめんなさい。

 恵まれた家に産んであげられなくて、ごめんなさい。

 ダメなお母さんの子供にしてしまって、ごめんなさい。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 リエシンはすでに息絶えている母へ視線を送りながら、ふるふるとかぶりを振った。両頬を伝っていた涙が輝きながら左右に散る。

 

 違う。断じて、ダメな母親なんかじゃない。

 

 母は自分の身を削って自分の面倒を見てくれた。見捨てる事だってできたはずなのに、それをせず、最後まで自分とつないだ手を離さずにいてくれた。ダメな母親だなんて、誰にも言わせない。

 

 貧困だって、借金を押し付けて消えた「あの男」が全部悪いのだ。あのゲス野郎さえいなければ、もっと良い人生だったに違いないのだ。

 

 何を謝る必要があるというのか。

 

 リエシンはそんな気持ちを強く覚えつつ、続きへ目を向けた。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 次に、あなたに心から感謝したい事があります。

 

 ――こんなダメなお母さんに、希望をくれてありがとう。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

「――えっ?」

 

 今度は、全く別の意味で驚いた。

 

 ――希望を与えた? 私が?

 

 ありえない。

 

 自分は母に何もしてやる事ができなかった。

 

 一応、母に代わって家事全般に取り組んだ。母が家で快適でいられるよう、努力はした。

 

 が、所詮その程度の貢献。母の頑張りに比べれば雀の涙でしかない。

 

 自分が「仕事をしたい」と言うと、母はきまって厳しくそれに反対した。娼婦は精神的にも厳しい仕事であるため、なるべく母の心を安心させておきたかった。ゆえに仕方なく母の言うとおりにした。

 

 そう。事実上、自分は何もできないお荷物でしかなかったはずだ。母はそんな事は一言も言ったことがないが、それは母の優しさゆえ。自分は紛れもなく、純然たる穀潰しだった。

 

 そんな自分が、いったい母に何を与えたというのだろう。

 

 冗談だろうと思いつつも、母の真意が気になった。

 

 さらに読み進めた。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 リエシン、お母さんは前にあなたに「将来の夢はあるの?」と何気ない口調で問いました。

 何気ない質問を装ってはいたものの、心の中では真剣でした。当たり前です、大事な娘の未来に関わる事なんだもの。

 

 そしたら、あなたは恥ずかしそうにこう答えましたね。「医師になって、病気の人を貧富にかかわらず助けたい」と。

 

 それを聞いた時、お母さん、凄く感動したんです。なんて素敵な夢を見てくれているんだろう、って。

 

 お母さんね、表面上は平気そうに振舞ってたけど、実は【甜松林】で働く事が凄く苦痛だったんです。それこそ、あなたというたった一人の家族の存在に励まされてかろうじて続けていられている、といったほどに。もし一人ぼっちだったとしたら、お母さんは今頃自分で自分の手首を切っていたかもしれません。

 

 でもねリエシン、あなたのその夢を聞いた時、大嫌いな娼館でのお仕事に対して、かつてないほどの意欲が湧いてきたんです。

 

 別に男の人に抱かれる事が大好きになったわけではありません。

 

 

 

 ――あなたの夢を叶えてあげたい、っていう強い気持ちが生まれたのです。

 

 

 

 だって、考えてみてください。こんなダメなお母さんから生まれた子が、たくさんの人の命を救う素晴らしいお医者さんになるんですよ? (とび)が鷹を生んだどころじゃないです。鶏が金の卵を生んだのです。

 

 今はまだ妄想でしかありません。けれど、お母さんはその妄想だけで、凄く救われた気分になったんです。もっともっと頑張って、お金を稼ごうって意欲が出てきたんです。

 

 以来、お母さんは積極的にお仕事に打ち込みました。娼婦はとても体力と精神力を削られるお仕事ですが、前と違って、苦痛しかないという事が無くなっていました。

 

 そして、借金も返し終え、身軽な体になった後も、お母さんは【甜松林】で娼婦として働き続けました。リエシン、あなたが医術を学ぶためのお金を稼ぐために。

 

 幸い、その頃のお母さんは【甜松林】でもかなり位の高い娼婦になっていたため、一晩に入るお金も結構多かったのです。さらに【甜松林】は娼婦たちの感染症や妊娠の予防を率先して手伝ってくれるため、病に倒れる事も、身重(みおも)になって働けなくなるという事もありませんでした。そういう意味では、かなり恵まれた環境なのかもしれません。

 

 リエシン、あなたは「もう借金は返し終わっているのに、どうして【甜松林】にとどまり続けているのか」と疑問に思ったはずです。分かってます。普通はそう思いますね。

 

 けど、それは【甜松林】という慣れた環境に耽溺しているわけでも、他に稼げるお仕事が無いから仕方なく続けているからでもありません。

 

 「仕方がない」といった諦めの気持ちではありません。むしろ逆です。――リエシン、あなたの夢を叶えたいからです。

 

 お母さんは、リエシンに希望を託そうと決めました。あなたにはお母さんのように曲がらず、真っ直ぐ生きて、いろんな人に愛されて、いろんな人を幸せにしてもらいたい。「聡明で、水のように澄み切った心を持って欲しい」という願いを込めた「洌惺(リエシン)」という名前のように。

 

 すでに現段階で、かなりの額のお金が貯まっています。きっと、帝都の医大学(いだいがく)で最後まで学び続けられるほどの額があるでしょう。

 

 けれど無理強いはしません。勉強のために使うもよし、生活のために使うもよし、リエシンが幸せになるなら、どんな使い方でもお母さんは一向に構いません。

 

 そのお金は、家の外壁の根元に全額埋めて隠してあります。詳しくは、この手紙の余白に書かれた地図を見てください。

 

 

 

 

 

 最後に。

 生まれてきてくれてありがとう、リエシン。

 良いお母さんじゃなかったけど、あなたの事は本当に愛していました。

 

 どうか、幸せに。

 

 

 

 

 

 高磧華(ガオ・チーホア)

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 手紙を握るリエシンの両手が、意思とは関係なく震えだす。

 

 雨のように涙滴がいくつも紙面に落ち、墨で書かれた字を滲ませ歪める。

 

 ――お母さんが、そんなことを考えていたなんて……!!

 

 自分には一言も告げていなかった母の真意が、明らかになった。

 

 まさか、自分の夢をそんな風に受け取っていたなんて。

 

 確かに、自分は昔、医師という存在に憧れを抱いていた。

 

 きっかけは、昔何度か会った医師の老婆。もう今すぐにでも逝ってしまいそうな、ひ弱そうなお婆さんだった。けれど、その頼りなさそうな細腕によって病人が救われていく様子を見て思ったのだ。まるで何かの術のようだ、と。神秘的にさえ映った。

 

 そう、それが医師になりたいと思ったきっかけだった。

 

 けれど、所詮物知らずな子供が軽々しく口にする安い言葉。母に夢を言った時の自分はそれなりに本気だったが、何が何でもなってやる、といった気概など持ってはいなかった。

 

 しかし、母はそんな自分の軽口のために身を削った。

 

 自分が「不要」と唾棄していた夢に、希望をかけてくれていた。

 

 どうしようもないほどの感謝の気持ちと同時に、凄まじい申し訳無さを禁じ得なかった。

 

 ――気づかなくて、ごめんなさい。

 

 それが、死んだ母に謝りたかった一つ目の事。

 

 もっと早く母の意図に気づいていれば、あんな無理は許さなかったのに。借金の返済が終わるのと同時に、無理矢理にでも【甜松林】から連れ帰っていたのに。自分は母さえいれば、それだけで十分だったのだから。

 

 ……いや。お金を貯めていた事を喋らなかったのは、自分が「そんなのどうでもいい! お母さんさえ元気でいられるなら、夢なんかいらない!」と答える事を前もって予測していたのかもしれない。

 

 ――こんな娘で、ごめんなさい。

 

 それが二つ目の謝罪だった。

 

 母は命をかけて尽くしてくれた。自分のために。――自分なんかのために。

 

 けれど自分はもう、そんな風に愛される資格の無い最低の人間と成り下がってしまった。

 

 そんな人間のために頑張っていたのでは、まるで母は道化ではないか。

 

 ごめんなさい。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい――

 

「ごめんなさい…………ごめんなさい…………ごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

 

 決壊した。

 

 リエシンは母の形見となってしまった手紙を胸に抱きしめながら、澎湃(ほうはい)と涙を流した。情けなく号泣した。

 

 馬鹿だ。

 

 自分はとんだ大馬鹿者だ。

 

 母の気持ちがめいっぱい書かれた手紙を読まされた事で、感謝の気持ちを塗りつぶすほどの凄まじい罪悪感が押し寄せてきた。

 

 罪悪感を洗い流そうとばかりに、涙腺が液を吐き続ける。けれども、それはいつまで経っても収まることがない。永遠に続くのではないかとさえ思った。

 

 不意に、自分の胸から背中までを何かが優しく包み込んだ。

 

 ――シンスイに抱きしめられていた。

 

「……今だけ貸してあげる。だから好きなだけ泣きたまえ」

 

 静かに、囁くようにそう耳元で言ってくる。

 

 いつもなら抵抗の気持ちが生まれただろうが、今は心がとてももろくなっていた。

 

 とても素直に、彼女の胸に顔を押し付けた。

 

「ああああぁっ……!! あああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 絞り出すように涙と声を発する。

 

「おかあさん……! おかぁさああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」

 

 もはや心の堤防は粉々に崩れ、感情がただただ瀑布のように溢れてくる。

 

 母の死んでしまった悲しみ。

 母の気持ちにずっと気づけなかった自分への腹立たしさ。

 母の名誉を傷つけるような事をした罪悪感。

 

 それらすべてを、シンスイの胸の中へ涙としてひたすら吐き出す。

 

 

 お日様のような彼女の匂いに包まれながら、リエシンはただただ泣き続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リエシンがひとしきり泣いて落ち着いた後、ボクらは手紙の地図を頼りに、瓔火(インフォ)さんの遺したお金を見つけだした。

 

 戸口がある方とは反対側の外壁。そこの根元の土を足で何度か払うと、長方形の木の板がうっすらと浮かび上がった。端にある溝に指をかけてその板を開くと、木製の空洞が現れた。木箱が埋まっていたのだ。

 

 そしてその木箱の中には、膨らんだ布袋がいくつも入っていた。 

 

 袋の中身はすべて硬貨だった。

 

 リエシンの許可を得た上でそれらを数えてみる。

 入っている袋の数は二十袋。ひと袋につき入っているのは一〇万綺鉄(きてつ)。つまり――合計二〇〇万綺鉄ということだ。

 

 確かにかなりの額だ。これなら帝都にある医大学で学びきってなおお釣りが来るレベルである。

 

 戦国時代が終わって泰平が訪れた100年以上前、【煌国(こうこく)】は薬や医術を取り巻く迷信や嘘を一掃するべく、医師や薬師を免許制にした。国立の教育機関である医大学で医学を学び終え、国家試験に合格した者だけが免許を得て医師を名乗れるようになったのだ。これによって「浮気したことのないコオロギの雌雄をすり潰せば万能薬ができる」などといった迷信に騙される人が激減したが、一方で医者になるために昔よりお金がかかるようになってしまった。一〇〇年以上前は一人の医者を師とあおぎ、その技術を盗んでいくという方式だったらしい。

 

 このべらぼうな金額から、お母さんのリエシンに対する並々ならぬ想いを感じられた。

 

「……こんなバカ女の母親とは思えないほどの人格者ね」

 

 ミーフォンも、そう言わずにはいられなかったようだ。

 

 リエシンは布袋を一つ手に取り、胸に抱いた。

 

「お母さん……っ」

 

 涙混じりに呟く。

 

「ごめんね……私なんかのために……苦労させて……」

 

 ひとしきり抱きしめ続けると、布袋を再び木箱の中に置く。

 

 涙を腕でこすり取り、表情を引き締めると、リエシンはボクたちの方へ振り向いた。

 

 目の周りは泣きはらして真っ赤だったが、その中心にある瞳は決意に満ちたように輝いていた。ボクら三人の顔がくっきり映っている。

 

 そして、

 

「遅くなったけど、貴女たちに詫びさせて欲しいの。――本当にごめんなさい。私が愚かだった。私の勝手な考えで、貴女たちを振り回して」

 

 リエシンは床に両膝を付けると、手を前に置いて、その状態から床と並行にこうべを垂れてきた。いわゆる土下座であった。

 

 ボクはその突然の謝罪に戸惑いを感じたが、それもほんの数秒だけ。すぐに「人として当然の事をしているだけだ」という考えが生まれた。

 

 そうだ。この子が【吉火証(きっかしょう)】を盗んで脅してきたりしなければ、ボクらは今頃つつがなく帝都へたどり着いていたはずだ。

 

 早く事件が解決したから良かったが、ヘタをするともっと長い期間この辺で立ち往生し続けなければならなかったかもしれないのだ。もし滞在期間が【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦開始までの一ヶ月を超えていたなら、ボクの武法士生命は完全に終わっていただろう。

 

 リエシンが余計な事さえしなければ、すべて上手くいったんだ。

 

 この子と会いさえしなければ。この子さえいなければ。

 

 ――けど、悪い事ばかりではなかった。

 

 今回、ボクらが関わったことで、タンイェンという巨悪を懲らしめることができた。

 

 真実は残酷ではあったが、リエシンのお母さんの安否がはっきりした。

 

 ボクも、神桃(シェンタオ)さんといったいろんな人と関わる事ができた。その事も結構面白かったし、心にも残った。

 

 しかしながら、このままタダで許すほどボクは甘くない。

 

 それを察したのか、リエシンは土下座をやめ、木箱に入った布袋の数々を手で示した。

 

「せめてものお詫びよ。――ここにあるお金を貰って欲しいの」

 

 ボクら三人はそろって目を丸くした。

 

 真っ先にライライが訊いた。やや非難のニュアンスのある声色で、

 

「待って。そのお金は、亡くなったあなたのお母様が一生懸命貯めたお金なんでしょう? それをそんな軽々しく……」

 

「軽々しく扱っているつもりはないわ。何度も言う。今回、私は貴女たちにはとんでもない仕打ちをしてしまったと深く悔いている。だから、せめてもの償いがしたいの。それに…………今の私には、このお金を受け取る資格なんて無いもの」

 

 自嘲気味に微笑むリエシン。

 

 ……お母さんが、自分の願いを込めて名付けた「洌惺(リエシン)」という名前。

 

 今回、リエシンはその名前に全くふさわしくない行為に走ってしまったのだ。

 

 なるほど、そういう後ろめたさがあっての判断か。

 

 よし分かった。そういう事なら――

 

「――甘ったれるなよ、高洌惺(ガオ・リエシン)

 

 ――なおのこと、受け取るわけにはいかない。

 

 ボクの答えを聞いたリエシンは、キョトンとした顔でこちらを見てきた。

 

 その視線を受け、ボクはさらに続けた。

 

「この大金を、しかもお母さんの遺産でもあるこのお金を差し出すことで、少しでも罪の意識から逃れようって魂胆かい? 甘い。甘すぎるよ。それに金で解決しようとしてる感じがしてすこぶる不愉快でもある。いいかい? ボクはね、君のせいで女として大切なものを失いそうになったんだよ? その事をちゃんと理解してるよね。それを「お金払いました。許してください。はいさようなら」なんて済ませようって? ボクの事まだ心の中で馬鹿にしてるでしょ? 正直に言っていいよ」

 

 ことさらに不快げな口調でまくし立てる。

 

 リエシンは慌てたような態度で、

 

「違うわ! そんな事少しも思ってない! 私は本当に――」

 

「別に君から恵んでもらわなくても、ボクの家はお金に不自由してないんだよ。だからこんな額渡されても正直邪魔でしかない。それだと罪の意識が晴れないっていうんなら、安心して。君にはとっておきの罰を用意してあるから。謝罪したいっていうのなら、それを甘んじて受けてもらう」

 

「何……かしら」

 

 緊張の面持ちで訊いてくるリエシン。

 

 そう。彼女に一番ふさわしい罰は、このお金を手放す事じゃない。

 

 彼女自身が不幸になる事でもない。

 

 むしろ、逆だ。

 

 ボクは大きく息を吸い、そして答えとともに吐いた。

 

 

 

 

 

「リエシン――君の夢を叶えてみせろ」

 

 

 

 

 

「……え」

 

 あっけにとられたような顔で押し黙るリエシン。何を言っているのか分からない。そんな感情が容易に読み取れる。

 

 ボクはさらに訴えかけた。

 

「その手紙に書かれてた通り、君は将来医師になりたかったんだろ? なら、その夢を叶えてみせろ。お母さんが用意してくれたこのお金があるんだ。できないとは言わせないよ」

 

「え……でも……」

 

「でももカモもない。せっかく君のお母さんが命を削ってその機会(チャンス)を与えてくれたんだ。君はそれを活かさないといけない」

 

 そう。ボクがこの世界に転生し、健常者として生きるチャンスを手にしたように。

 

 ボクはそのチャンスを掴み、武法士として生きている。

 

 彼女にも、そのチャンスを捨てずに掴んで欲しい。

 

 リエシンは、太陽を見ているような眩しげな眼差しでこちらを見ながら、

 

「……いいの?」

 

「いいんだ。っていうかやりなさい。ボクらは君をこうして生き残らせて、そしてお母さんにも会わせてあげた。つまり、この機会を使えるようお膳立てをしたのはボクらだ。だから、ボクらに対して本当に謝意があるのなら、それを活かしてみせろ」

 

 ボクは真っ直ぐリエシンを見て、そうはっきりと告げた。

 

 そして、自分の胸を叩き、笑いながら言った。

 

「ボクもね、今回【黄龍賽】で勝ち残らないと、武法を続けられなくなっちゃうんだ。だから、これは約束だ。ボクは必ず勝ち残る。そしてまたいつか君に会いに行く。いつになるか分からないけど、いつか来る。その時に備えて、君は立派なお医者さんになってなさい。どうだい、守る気があるかい?」

 

 そこで一端、言葉を止めた。もうどう答えるか分かりきっているが、リエシンに考える余地を与えたのだ。

 

 彼女は眩しい目でこっちを見たまま、彫像のごとく動かない。

 

 だがしかし、みるみるうちに表情を明るくしていき、

 

「――うん! むしろ喜んで守らせてもらうわ」

 

 やがて、そう言って笑ってみせた。

 

 ……今まで彼女が見せた笑みの中で、ダントツで素敵な笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクら三人は、広葉樹林の中の一本道を進んでいた。

 

 道の左右には、広葉樹や雑草がいくつも乱立している。幅広い枝葉の塊が天蓋のように上部を覆い、朝の木漏れ日の混じった影絵のような日陰を作っていた。

 

「――お姉様、あの金受け取っても良かったんじゃないですか?」

 

 ボクの隣を歩いているミーフォンが、そんなことを言ってきた。

 

 首を横に振り、

 

「ううん。いいんだよ、あれで。元々あれはリエシンのためのお金だ。それに三人ともこうして五体満足で生きてるし、ボクの貞操も無事。失ったものは何もないんだ。だから、この話はこれでおしまい」

 

「……まあ、お姉様がそうおっしゃるなら……」

 

 なんか納得いかない、とばかりに唇を尖らせながらも、もう突っ込むのをやめるミーフォン。

 

 そこで、ライライが台詞を挟んできた。

 

「いえシンスイ、失ったものはあったと思うわ」

 

「ええっ? まじで? 何さ?」

 

「変装するための衣装を買うのに使ったお金。おかげでただでさえ風通しのいい財布がさらに殺風景になったわよ。この分だと、帝都に着いたとしても野宿になるかもしれないわ」

 

「う……そ、それはごめん……なんか、苦労をかけたね」

 

 ボクは弱った顔でそう謝る。ライライはクスクス笑声をこぼしながら、

 

「ごめんなさい、意地悪言って。決してたくさんとは言えないけど、まだお金は残ってるわ。【会英市】で出費こそしたけど、【滄奥市(そうおうし)】から帝都に向かう道中ずっと野宿だったのと、シンスイが山菜やら魚やらを採ってくれたおかげでだいぶ節約できてたから。まあ、使い切ったらその時はその時ということで」

 

「そっか。もしお金無かったら言って。できる限りおごるから」

 

 期待してるわ、と笑いかけるライライ。

 

 それからもボクを中心にした三人横並びで歩きながら、とりとめのない会話に花を咲かせた。

 

 ボクは会話を楽しみつつ、左手に握られた方位磁針に逐一目線を移す。きちんと北へ進めているようだった。

 

 あの後、リエシンとは程なくして別れた。

 

 そしてボクらはすぐに各々の荷物を手にして【会英市】から立ち去った。

 

 【藍塞郷(らんさいごう)】の前にある石橋前に来てから、真っ直ぐ北上。そして現在、リエシンの仲間に【吉火証】を奪い取られる直前までいた山道の中を進んでいる。

 

「でも……宿を取るよりも先に、ちゃんとしたお風呂に入りたいわ……」

 

「……そうね、同感だわ。あたしもいい加減水浴びには飽きてきたし」

 

 ライライの切実そうな呟きに、ミーフォンが力強く同意する。

 

「ボクは【甜松林】でしょっちゅう入ってたなぁ、お風呂。すっごいいい匂いがするやつ」

 

 思い出を懐かしむようにのほほんとした口調で言う。すると、ライライがやや不満げに見つめてきた。

 

「……羨ましい。私なんてほとんどまともなお風呂に入ってないのに……いい加減臭ってないか心配だわ」

 

「い、いや、平気だよ? 別に臭くないよ? それに帝都に着いたらお風呂付きの宿を見つければいいじゃないか」

 

 うー、と小さく唸るライライ。やはり女の子としては死活問題なのだろう。ボクも他人事じゃないが。

 

「あああああああああ!?」

 

 ミーフォンが突然、何か思い出したような叫び声を上げた。

 

 ボクとライライは思わずビクッとする。

 

「ど、どうしたのさミーフォン? 何か忘れ物でもした?」

 

「は、はい!! あたし、かなり大変なことを忘れていたみたいです!!」

 

 マジか……まあでも、まだ【会英市】からそんなに離れてないし、今から戻っても十分間に合うか。それじゃあ、忘れ物を取りに戻――

 

「――昨日、お姉様がしてた娼婦の格好、よく見ていませんでしたっ!!」

 

 ――らなくていいか、うん。このまま進もう。

 

 ミーフォンは鞄を持たない空いた手で頬っぺたに触れ、うっとりしながら、

 

「ああ! いつもは可憐かつ快活なお姉様ですけど、昨夜のお姿は普段とは一八〇度変わりつつも違う魅力にあふれていましたわ!! いつもよりも露出度が高く、布地も透明度が高いという非常に攻めた格好! ほんのり鼻腔をくすぐる桃の香り、「ふんわり」と広がった長い髪、これらの魅力要素も喧嘩することなく上手いこと噛み合って、愛らしさの中に凄まじいバブみを内包した甘ったるい雰囲気にあふれていました! もしも非常事態じゃなかったら、この紅蜜楓(ホン・ミーフォン)、我を忘れてお姉様に飛びかかっていたかもしれません!!」

 

「いやいやいや、何が「よく見てない」だよ!? ものすごく正確に観察できてるじゃあないか!」

 

「何を言います!? 今言ったのは大まかな魅力に過ぎないです! もっと細部までは見ていませんでした! お姉様、今からでも遅くありません! 【甜松林】に戻って昨夜の服を貰ってきてください!」

 

「君はボクが娼婦になるのを反対してたんじゃなかったのかい!?」

 

 ダメだこの娘。早く何とかしないと。

 

 そんな風にわいわい騒ぎながら道中を歩き続けていると、ふとあるものが目に入り、思わず進む足が止まった。

 

 真ん中にいるボクの影響を受ける形で、二人も歩くのをやめた。

 

「これって……」

 

 ボクは呟きつつ、目に入った原因をさらに凝視する。ちょうど右にある広葉樹の近くにいくつも伸び連なった、雑草。

 

 雑草が生い茂っているだけなら他の場所と変わらないが、視線の向く先に生えたソレらは、一部の区画が真っ赤に染まっていた。

 

 さらに周囲の樹の配置を見回して、ようやく思い出す。

 

 ――【吉火証】を取られた場所だ。

 

 ここでいきなり黒ずくめの男が出てきて、怪我人のフリで油断させてボクの鞄をひったくったのだ。雑草の一部が赤く染まっているのは、血に似せた液体が滴り落ちたからだろう。

 

 また出てくるかもしれない、とほんのちょっと警戒しなくもなかった。

 

 しかし、流石にもう誰も飛び出してくる様子はない。

 

 ボクらは顔を見合わせ、微笑みながら頷き合う。

 

 ――思えば、今回のとんでもない寄り道はここから始まったのだ。

 

 陰謀の標的にされ、操られ、ひどい目にあいそうになった。ある意味、忘れられない体験をさせられた。

 

 けれど、酷いだけの数日ではなかった。

 

 普通なら滅多に体験しないような出来事を色々と味わった。

 

 それはきっと、時間の経過によって美化された思い出かもしれない。

 

 けれど、それでいい。

 

 今、こうして無事でいて、なおかつ帝都へ再び進み始める事ができているのだから。

 

 まさに、終わりよければすべてよし。

 

「――行こう!」

 

 雑草から目を離し、前を向いて歩を進める。

 

 ボクが執着すべきは、通過点ではない。【黄龍賽】の優勝という終着点のみ。

 

 それまで、決してこの足は止めない。

 

 その止まらない足取りで、再び帝都への長い道のりを歩き始めたのだった。




次回に幕間を一話置いて、道中編は完結となります_φ(・_・


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幕間 騒乱の前奏【挿アニメあり】

「いてて……まぁだ打たれた場所が痛むぜぇ……」

 

 周音沈(ジョウ・インシェン)は腹部を押さえて苦笑しながら、凹凸の激しい道路を一人歩いていた。

 

 すでに死んだ両目の代わりに、【聴気法(ちょうきほう)】という第二の目で世界を観る。自分の歩く道の両側には、巨大な火柱のようなものがいくつも乱立している。樹木の持つ【気】だ。それらに挟まれる蛇のような道にインシェンは足跡を刻んでいる。

 

 【会英市(かいえいし)】から北に大きく離れた位置にある林の中。少し前まで雨露をしのいでいた屋敷はすでに遥か後ろだ。

 

 インシェンに目的地はなかった。ただ、少しでも【会英市】から離れたかった。

 

 ――馬湯煙(マー・タンイェン)が逮捕されて、すでに一週間が経過していた。

 

 【会英市】と【甜松林(てんしょうりん)】の二つの町を事実上牛耳る人物の失脚は、傘下にいるすべての組織と人間に凄まじい混乱を与えた。

 

 理由は簡単。後継ぎがいないからだ。

 

 タンイェンには妻もいなければ子もいなかった。なので、彼の事業を引き継げる人間が一人も存在しなかったのである。

 

 関係を持った女こそ、それこそ両手両足の指じゃ足りないくらいいるだろう。けれど、タンイェンは自分の家族を持とうとは決してしなかったのだ。

 

 さらに、その問題に次ぐ形で、もう一つ困った問題が発生した。

 

 タンイェンの「隠し子」を名乗る子供の増加である。

 

 タンイェンが捕まって数日後、一人の女性が屋敷に自分の子供を引き連れて「この子はタンイェンと寝てできた子だから、この子に遺産のすべてを受け継がせろ」などと言ってきたのだ。

 

 それからはまさに雨後のタケノコ。次々と「タンイェンの隠し子」が出てきたのである。

 

 無論、隠し子のほとんど、いや、下手をすると全員が偽物だろう。自分の子と現在の状況を利用して一攫千金を狙おうという浅ましい欲望ばかりが渦巻いている事は言うまでもない。タンイェンは色んな女と関係を持っていたため、無駄に信ぴょう性があるのがタチが悪かった。

 

 自分が長いこと浸かってきた裏の世界では、人間の醜い部分ばかりが目立っていたため、この程度の事には見慣れていたつもりだ。けれど、ここまで面白いほど周りの状況を変えてみせたタンイェンの財力には笑えたし、恐れ入った。

 

 さて。自分の雇い主であるタンイェンは塀の中。長い間出てこれないか、最悪、極刑もありうる。どのみち、自分に金が入る事はもうない。

 

 どうするか?

 

 決まっている。とっとと立ち去るのみだ。

 

 自分はいわば、金だけで動く傭兵。動物で例えるなら、餌を与えてくれる人間に擦り寄る野良猫だ。餌が尽きてしまった家に、もはや長居する理由はない。

 

 それに、あの屋敷にとどまっていては、自分も治安局に目をつけられかねない。

 

 だから、立ち去る。それが唯一にして最良の選択。

 

「……哀れなもんだなぁ、あのオヤジもよぉ」

 

 思わず、憐憫の響きを持った呟きがもれた。

 

 金があれば従い、なくなれば去る。そんな人間しか、タンイェンの傍にはいなかったのだ。情を持った者など皆無。大勢の人間に囲まれていながら、本質的には孤独だった。まったくもって哀れである。

 

 ……いや、その孤独は彼自ら選んだものだった。営利目的の人間に、タンイェンは信用と信頼を置いていた。欲のある人間は、それを満たすことで思うがままに御せる。情に訴えかけてくる者の方がよほど胡散臭く感じるらしい。

 

 あの男は、人間の中にある愛や情といったものを、一切信じようとしないのだ。たとえあったとしても、それは私欲に起因したものであるという徹底した人間不信ぶり。

 

 以前聞いた彼の過去からして、その歪みぶりもむべなるかなと思う。

 

 昔、タンイェンは単なる小さな店の主に過ぎなかった。生活も質素だったし、取り立てて何の特徴もない家だった。誠に信じがたいことに、本人も今のような性格ではなく、もっと純朴だったそうだ。

 

 しかし、祖父が遺した山を受け継ぎ、その中に眠っていた大量の【磁系鉄(じけいてつ)】が転がりこんで以来、彼の周囲を取り巻く状況が一転した。

 

 【磁系鉄】を売ったことで莫大な金が入った。そしてそれを上手いこと運用させ、事業を拡大し、最初の何倍もの利益を得ていった。元々商才があったからというのもあるが、絵に書いたような一攫千金であった。

 

 大きな家を手に入れた。美味い飯を毎日食えるようになった。立派な服を手に入れた。でかい風呂を手に入れた。美しい妻を手に入れた。高価な美術品を手に入れた。……その他多くの、あらゆるものを手に入れた。

 

 タンイェンの生活は、昔の暮らしなどちっぽけに見えるくらいにきらびやかなものとなった。

 

 けれど、良い事ばかりではなかった。

 

 金目当ての人間が、まるで()のように群がってきたのだ。

 

 ある者は金をだまし取ろうとしてきたり、またある者は盗み出そうとしてきたり、様々な手段で財をかすめようとしてきた。タンイェンはそういった手合いに散々手を焼かされた。

 

 しかし、そこまではまだ良かった。大きな金を持っていると、悪い人間も大なり小なり寄ってくる。それを分かっていたからだ。

 

 タンイェンが本格的に壊れたのは――妻の裏切りを知った時だった。

 

 妻は自分を毒殺し、資産のすべてを自分のモノにしようと企んでいた。それも、弱い毒を食事に混ぜて毎日少しずつ与えていく事で、徐々に衰弱させ、毒殺には見えない形で殺害するという方法。自分の体調の悪化を不審に思ったタンイェンは探りを入れ、その事を悟ってしまった。

 

 タンイェンは妻に、そして人間に失望した。愛し合って結ばれたと思っていた妻でさえ、自分の金目当てで近づいてきた人間たちと同じだったのだから。

 

 失望は、容易に殺意と怒りに変化した。先手を取って妻を亡き者にし、山に捨てた。

 

 ——それこそが、唯我独尊で冷酷非情なタンイェンを形成した出来事だった。

 

 莫大な資産を手にした時に、すでに彼は破滅への道へ足を踏み入れてしまっていたのだ。

 

 タンイェンもまた、金目当てで群がってきた人間と同じだ。金に振り回され、やがてはその金によって地獄へ落とされた。全くもって皮肉の極みである。

 

 ――だが、すでに手を切った相手。そんな事は詮無き話だった。

 

 今の自分に求められているのは、行方をくらますこと。

 

 治安局の連中は、自分がタンイェンの傘下に加わっているという情報を確実に掴んでいるはず。ほとぼりが冷めるまで、一切この姿を見せてはならない。

 

 タンイェンは泥の中を進むように、ゆっくりと歩を進める。

 

「ぐっ……!?」

 

 が、突如腹部の裏側に走った鋭痛に膝を屈し、中腰で止まってしまった。

 

 体温が急激に低下する。それなのに、額には嫌な汗がぶわっと浮かび上がる。体の内外が矛盾した反応を見せた。

 

 インシェンは腹を押さえる手に力を込める。

 

「……やれやれぇ、あの偽娼婦、ひでぇ事しやがるぜぇ……俺じゃなかったらとっくの昔にあの世行きだっつぅのぉ」

 

 思わず、そうぼやいてしまう。しかしその口調は少し楽しげだった。

 

 あの少女――李星穂(リー・シンスイ)から受けた【勁擊(けいげき)】の余韻がまだ残っているのだ。

 

 思い出すだけでゾッとする【勁擊】だった。まるで体の中に透明な刃を通されたような感覚がしたと思ったら、想像を絶する不快感が全身に押し寄せ、そのまま意識を刈り取られた。

 

 インシェンは【気功術】の鍛錬を徹底的に行い、内面の力を強靭にしていた。それが無かったら、今頃こうして生きて歩いてはいなかっただろう。

 

 とても散々な目にあった。おそらく、長らく過ごしていた裏の世界でも、ここまでな目に遭ったことは片手の指で数えられるほどしかない。

 

 けれど、インシェンの口元には笑みが浮かんでいた。

 

 久々に骨のある武法士を見つけられたからだ。

 

 自分を敗北に追い込んだ数少ない武法士の目録の中に、新たな名が刻まれた。

 

 そのことが面白く、そして楽しくて仕方がなかった。

 

 この腹の痛みが、千金に匹敵する贈り物のようにさえ感じられる。

 

 また会えるのなら、是非とも会いたい。

 

 もしかするとこれが恋なのかもしれない、などと冗談を考えていた時だった。

 

 道の前方右端から、バタバタと足音が近づいてくる。

 

 そして、インシェンの前に四つの【気】が立ち塞がった。人間のものだ。

 

「よぉ、お兄さん。結構羽振り良さそうな格好してるじゃねぇの。よかったらさあ、俺らに有り金全部恵んでくんねぇか?」

 

 その【気】の一つが、下卑た笑声の混じった口調で言ってくる。

 

 異臭が鼻につく。相当風呂に入っていないようだ。

 

 セリフから察するに、追い剥ぎか何かだろう。連中の【気】も、極上の獲物を見つけた狩人のようにざわついている。

 

 普通の人間なら狼狽えるか、もしくは警戒して身構えるだろう。

 

 けれど、インシェンにとっては羽虫が飛んできた程度の事態でしかなかった。

 

「おいお兄さんよお?俺らの持ってるブツが見えねぇかな?命が惜しかったら金目のモン全部こっちに寄越——」

 

 言い切る前に、インシェンは左腰の苗刀を抜き放った。勁力を受けた黒い刃が音速で横一閃に駆けた。

 

 瞬間、立ちはだかっていた四人分の【気】が全て雲散霧消した。黒刃の軌道上にむせ返るほどの金属臭が咲き誇り、顔に粘度の高い液体が数滴飛び散った。

 

 先程まであった【気】と同じ回数だけ、落下音が耳朶を打つ。そして、インシェンの爪先に何かが転がって当たった。

 

 自分は目が見えない。だが見えずとも、この爪先にある物体が得意げに笑った表情で固まった男の生首である事は容易に分かる。

 

 気持ち悪いので、蹴って元の方向へ押しやる。人間の頭部というのは案外重いものなのだ。

 

「タカる相手を盛大に間違えたみてぇだなぁ。来世を貰えたらぁもっとマシな人生送れよぉ」

 

 喜ぶでも嘲るでもなく、無感情な口調で呟いた。

 

 そして、人間だった肉塊の上を跨ごうとしたが、すぐにピタリと足を止める。

 

 振り向かぬまま、後ろへ呼びかけた。

 

「——そこのおたくよぉ、そろそろ出てきたらぁ?」

 

 自分はここを通る前、小さな村に寄って小休止した。その時から、自分をずっと尾行している【気】があったのだ。

 

 呼びかけに応える形で、木陰に隠れていた人間の【気】が姿を現した。

 

 インシェンの【聴気法】は、普通の武法士には見えない【気】の性質も観れる。【気】から男女の区別さえつくのだ。

 

 その【気】は、女のものだった。

 

「——流石は【虹刃(こうじん)周音沈(ジョウ・インシェン)。その勘の良さは噂に違いませんわね」

 

 読んだ通り、年若い女の声がそう言ってきた。

 

 姿形や表情は、全盲であるインシェンにはさっぱり分からない。しかし彼女の存在を形成する【気】からは、攻撃の意思は見られなかった。代わりに、何か謀をしている「揺らぎ」があった。

 

 インシェンは探るような口調で尋ねた。

 

「おたく、さっきの村から俺の事ぉつけてたよなぁ。もしかしてぇ、俺が何者か知ってる奴かぁ?」

 

「はい。貴方を【虹刃】とはっきり存じておりますわ。わたくしの手の者が「周音沈(ジョウ・インシェン)を見た」と言っていたので、せっかくなのでこうして伺わせてもらった次第ですの」

 

「へぇ?「手の者」ねぇ?もしかしてぇおたく、どっかの【黒幫(こくはん)】の者かぃ?」

 

「当たらずとも遠からず、といったところでしょうか」

 

 女はクスリと含みのある笑声をこぼすと、自分の名を告げてきた。

 

「申し遅れましたわ。わたくし、趙緋琳(ジャオ・フェイリン)と申します。此度は、貴方にお願いしたい事があって参りました」

 

「お願いぃ?まぁ、聞いてやらねぇでもねぇが、その前に、出すものはきちんと持ってるんだろうなぁ?ロハはぁ嫌よぉ?」

 

「ご心配なく。貴方が闇の世界で暴力を飯の種のしている事は重々承知ですわ。ゆえに、これから貴方に対する依頼に相応しい報酬を用意できる当てはありますわ」

 

 そう淡々と告げる女、趙緋琳(ジャオ・フェイリン)

 

 けれど、その落ち着きように反して、【気】の「揺らぎ」はなんだか変だった。

 

 いや、別にこちらをハメようなどという考えを抱いているわけではないのだ。

 

 まるで、長年の宿敵が落とし穴に落ちるのを今か今かと待っているような、そんな緊張と期待が渦巻く【気】。

 

 フェイリンの真意を測りかねつつも、訊いた。

 

「……まぁ、ちゃんと褒美があるってんならぁ、引き受けてやるさぁ。んで?おたくは俺に何をさせてぇんだぁ?用心棒にぃなって欲しいのかぁ?それとも誰か消してほしぃ奴でもいるんかぁ?」

 

「貴方を雇う目的、ですか……」

 

 女の形をした【気】は一度間を置き、そして答えた。

 

 微かな笑声と艶っぽさを含んだ、色気のある声で。

 

 

 

 

 

「あえて言うならば————"国盗り"でしょうか」

 




またまたまた大恵氏からファンアート、いやファンアニメを頂きました!!
なんと、今度はGIF画です!


【挿絵表示】

こいつ……動くぞ!

大恵氏、大感謝了(*゚∀゚*)


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本戦編
帝都


 進んで、進んで、休んで、進んで、休んで、進んで、進んで、休んで――

 

 そんな途方も無い繰り返しを続けながら、ボクたちは少しずつだが、着実に内陸へ北上していった。

 

 主な交通手段は徒歩と、ヒッチハイクで捕まえた馬車。

 

「荷車の用心棒を無料で引き受ける」という条件ゆえに、それまで荷物を守っていた鏢士(ひょうし)と何度かいざこざを起こしたが、とりあえず怪我せずに何とかなっている。

 

 乗っては降り、降りては歩き、歩いては乗り、乗っては降り、降りては歩き――これの繰り返しであった。

 

 しかし、そんなちまちました旅も、間もなく終わりを迎えようとしていた。

 

 【甜松林(てんしょうりん)】を発ってから五日後の昼。

 

 今歩いているのは、整然と遥か前まで敷き詰められた石畳。馬車が三、四台ほど並んで通れる広さだった。 

 

 これは街道だ。

 

 ボクたちは現在、煌国の内陸中心部にある【黄土省(こうどしょう)】という地方に来ていた。その東西南北にはさらに四つの地方が隣り合わせとなっていて、黄土省との境目にはそれぞれ一箇所ずつ関所が設けられている。ボクたちのような旅人は基本持ち物検査程度しかされないが、物流などでそこを通る人たちは税を取られるらしい。

 

 そしてこの街道は、その四つの関所を超え、帝都まである程度近づくと現れる道である。この道は、帝都の四ヶ所の関所まで一直線につながっている。

 

 つまりこの道を進んでいるということは、もう帝都まで近いということだ。

 

 そしてとうとう、目の前に帝都の鼻先が見えた。

 

「……あ! お姉様お姉様! あれを!」

 

 ミーフォンが声高に前を指差した。

 

 バージンロードのように真っ直ぐ伸びる石畳の先。地平線の下に半身を隠した大きな壁が確認できた。ソレはボクの視界の両端まで広がり、それでもまだ足りないくらいに横幅がある。囲う街の広大さを遠く離れた位置でもはっきりと表現していた。

 

 帝都に来たことがあるボクとミーフォンは、その正体を知っている。

 

 あれは、帝都を囲う城壁である。

 

「もしかして……あれが帝都なの? 結構、いえ、かなり大きいわね……」

 

 帝都へ来た経験がないというライライは、その城壁の横幅の広さの目を丸くしていた。

 

「やっと着いたのね……ああ、早くマトモなお風呂に入りたいわ……」

 

「あんたってたびたびそう言ってるわよね、ライライ」

 

「だって、女にとっては死活問題でしょう?」

 

「それは同感ねぇ。でもあんたの場合、3日前に川で水浴びしてる所を通りすがりの杣人(そまびと)に見られた事も含めての意見なんでしょ?」

 

「や、やめてよミーフォンっ! あの時の事はもう忘れたいのよっ!」

 

 燃えるように赤くなった顔を手で覆うライライ。

 

 ……まあとにかく、帝都がもうすでに目前だってことだ。

 

 長い旅路の果てが見えたことで、ボクは気が緩みそうになる。

 

 が――その帝都が【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦の舞台であることを思い出した途端、気が引き締まった。

 

 ここは戦場なのだ。常に気を張っている必要は無いが、決して油断は許されない。

 

 そして、ボクは「戦う」ために来たのではない。「勝つ」ためにここに来たのだ。

 

 静かに深呼吸する。自分に静かな気合いを入れ、

 

「よし、それじゃ、一気に進んじゃおうか!」

 

 そう威勢良く言い、歩調を速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帝都は高い壁によって囲まれた、とんでもない広さを誇る大都市だ。

 

 最北端には煌国の宮廷建築物【熙禁城(ききんじょう)】が建っており、その南側全体に広大な街が広がっている。

 

 宮廷は言うに及ばず、煌国の行政機関や軍の本拠地などの重要な組織が、この都一点に集中している。いわば行政の拠点。

 

 さらにこの巨大な都は、煌国における物流の要でもある。陸路はもちろんのこと、【奐絡江(かんらくこう)】の支流に繋がる運河が数本流れており、水路を使った貿易も盛んだ。何より四地方の中心にある地方【黄土省】のさらにど真ん中に位置しており、モノやカネの大部分が帝都を交差点として行き来している。

 

 まさしくこの国の心臓部ともいえる都市。ここが陥落することは、そのまま煌国の滅亡を意味する。なので、他の街より輪をかけた厳重な警備体制が敷かれている。……もっとも、今は軍縮の方向に動いているため、昔より守りが薄めだが。

 

 帝都はかつてもう少し北寄り――今でいう【玄水省(げんすいしょう)】にあったそうだ。けれど戦乱期に南の沿岸部まで領地を増やしたので、乱世が終わると同時に少し南下し、内陸部ど真ん中のここに遷都(せんと)したらしい。

 

 ――以上が、ボクが知る限りの帝都の情報である。

 

 さて、ここまで来たのは良い。

 

 ボクがこれからやるべき事は決まっている。

 

 本戦出場者名簿にボクの名を書き記し、国が用意した宿に泊まることだ。

 

 予選が終わった時、運営から登録場所と手続き方法は事前に教わっている。

 

文礼部(ぶんれいぶ)』という、教育・官吏登用・そして国家祭祀などに関する職務を司る機関がある。その庁舎まで行き、そこで【吉火証(きっかしょう)】を見せればいい。そして渡された名簿に自分の名を記載すれば終わり。晴れて本戦出場の準備完了というわけだ。

 

 その後は国が用意した宿の一部屋に泊まる。ちなみにこの部屋は大会期間中だけでなく、開会式が始まるまでの猶予期間中も泊まっていて良いらしい。食事やお風呂も無料で付くため、ありがたいサービスである。

 

 ボクの衣食住の問題はこれで解消されるだろう。

 

 しかし――この二人は別だった。

 

 

 

「――これから私たち、どこで寝泊まりしようかしら」

 

 

 

 ライライのその呟きを聞いた途端、ミーフォンは渋い顔で肩をすくめた。

 

 そう。この二人は本戦参加者ではない。なので当然ながら宿も用意されないのである。

 

 二人の財布の中身には、本戦期間中に宿を取り続けられるほどのお金はなかった。まして、本戦が始まるまであと半月ほどあるのだ。

 

 ボクの部屋に泊めることはできない。本戦参加者以外の人は無料で同居してはいけない決まりなのだ。これは【黄龍賽】という国是のために借り受けている宿に余計な経済的負担を与えないためのお上の配慮らしい。……ちなみに参加者とそうでない者は、【吉火証】を含む本戦参加資格の有無で確認するとのこと。この【吉火証】とは本戦終了までの付き合いである。

 

 手に持った鞄を緩やかに揺らしながら、とぼとぼと覇気の無い歩きをする二人。その歩き方はボクの足にも伝染する。

 

 現在、ボクらは帝都の入口にある関を超え、街の大通りを並んで歩いていた。

 

 久しぶりに目にした帝都の景観は、やはり凄まじいものだった。白い石畳で綺麗に舗装された大通りは横幅がとんでもなく広く、行き交う人々の数も並の町とは比べ物にならなかった。その両端には大小様々な建物がずらりと軒を連ねており、その列が大通りの石畳と一緒にはるか彼方へと伸びていた。

 

 この大通りは、ボクらが入ってきた南の入口から【熙禁城】に向かって真っすぐ伸びている。つまりこのまま直進していれば、いずれ宮廷までたどり着くというわけだ。しかしこの場からは、はるか前方にある【熙禁城】の姿が朱色の線――宮廷を囲う城壁だ――にしか見えない。それが、この街の大きさが尋常じゃないことを物語っていた。

 

 それにしても、やっぱり凄い街並みだ。大通りに立ち並ぶ建造物はどれも大きめなものばかりだし、立っているだけで往来する人の熱気に当てられて眩暈がしそうだ。この街の圧倒的景観に圧され、自分たちの存在がアリンコくらいにちっぽけなものに感じられる。

 

 ミーフォンがため息混じりに言った。

 

「やっぱ、現地で稼ぐしかないっしょ」

 

「働いて、ってこと? でも、そんなにすぐ雇ってくれる所なんてあるかしら」

 

「日雇いでもなんでも探すのよ。もう帝都まで来ちゃったんだから、やるしかないわ」

 

「そうね……」

 

 その日暮らしについて話し合う二人を見て、雨露しのげることが保障されているボクはちょっと申し訳ない気分になってくる。

 

「なんか、ごめんね? ボクの部屋に一緒に泊めてあげられればいいんだけど……」

 

「お姉様が気に病む必要はありませんよ。元々、あたしたちは好きこのんでお姉様に付いてきたわけですし」

 

「そうね。これは私たち二人の問題だから。大丈夫。【会英市(かいえいし)】でやったリエシンの流派探しなんていう無茶に比べれば、まだまだ優しい問題よ」

 

 謝るボクに対し、二人はそんな風に返してくれた。

 

 それを聞いて、少しだけ申し訳なさが薄れた気がした。

 

 うじうじ考えていても仕方がない。ボクは気を無理矢理取り直し、足並みに力を込めた。すると、二人の歩調にも活力が戻った。

 

「それにしても、本当に大きな街ね。往来も多いし。さすが帝都と名乗るだけのことはあるわ」

 

 話題を変えるように、ライライが感嘆の口調でそう口にした。

 

 ミーフォンが同意する形で言葉を繋げてきた。

 

「そうねぇ。でも、【黄龍賽】が始まったらもっとすごいことになるって話よ」

 

「すごいこと、って何かしら?」

 

「人の数よ。いろんな場所から帝都まで観に来るわけだし。あと、本戦の勝ち負けを賭けた賭博なんかも行われるみたいよ」

 

 そうなのだ。

 

 賭博は「射幸心(しゃこうしん)を煽る悪しき娯楽」として、地球ではあらゆる国がその存在を禁じていた。それは異世界である煌国でも同じことだ。

 けれど、国が胴元を務めて管理する国営の賭場に関してはその限りじゃない。【黄龍賽】で行われる賭け事も、その「国営賭博」の一つというわけだ。

 

 煌国が【黄龍賽】の運営に積極的なのは、そこから得られる経済効果ゆえだ。【黄龍賽】やその予選を見に来る客を余所の土地から引き付けて、国のカネ回りを円滑にし、その都市の経済を潤すのが狙いである。いわば、経済の潤滑油的なイベント。

 

 しかし、ただ「観戦」という要素だけでは人を集めにくい。だから「合法的な賭博」という要素を加えた。武法士の試合を見るだけじゃなく、そこへ賭けまで加わるとなれば、人はもっと集まりやすくなるのだから。

 

「もしミーフォンがその賭場で賭けることになったら、やっぱりシンスイの勝ちに全額注ぎこむのかしらね」

 

 ライライは冗談めかした口調でそう言った。

 

 ボクは「当然よ! お姉様が負けるなんて万に一つもありえないし! もし賭けに参加したら、一軒家建てられるくらいの額ぶち込んでやるわ!」なんて無茶苦茶漢気あふれる(女だけど)返しを予想していた。

 

 けれど、次に発せられた台詞は、予想よりも冷めたものだった。

 

「……分からないわ。何せ、全国から選りすぐりの猛者が集まるんだから、お姉様の負けはあり得ないなんて無責任なことは言えないわよ。――――それに、”あの人”も来るかもしれないし」

 

 ――”あの人”?

 

 誰の事なのか尋ねようと一瞬思ったが、ミーフォンの金属的に硬まった表情を目にすると、すぐにその気は失せた。なんか、聞いてはいけないことだと直感で感じたからだ。

 

 が、次の瞬間にはいつものミーフォンに戻っていた。口元に猫のような笑みを作りながら、

 

「そういえばお姉様、『文礼部』の庁舎がどこにあるのか知ってます?」

 

「あ……そういえば、分かんないかも」

 

 帝都には何度か来ているが、庁舎の場所なんかアウトオブ眼中だったのだ。だって武法にしか興味なかったんだもん、しょうがないじゃないか。

 

「なら、案内しましょうか? あたし知ってますから」

 

「ほんと? それは助かるな。じゃあ、お願いしようかな」

 

「じゃあ、報酬前払いってことで……頭をなでなでしてくださいっ」

 

 期待するような上目遣いをしながら、頭を差し出してきた。

 

 ボクは少し恥ずかしい気持ちを抱きつつも、鞄を持っていない方の手でその頭を優しく撫でた。髪がさらさらで気持ちいい。くすぐったくも幸福そうに目を細めるミーフォン。

 

 しばらくそうした後、彼女に導かれるまま帝都を歩いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして、たどり着いた『文礼部』の庁舎内にて。

 

「……ふむ、なるほど。どうやら本物のようだな」

 

 細長い卓を挟んで向かい側に立つ年若い男性官吏は、ボクの【吉火証】をひとしきり観察すると、そう結論付けた。

 

 大丈夫と分かっていたはずなのに、ボクはその反応に安堵のため息をついた。

 

 玄関口である二枚戸を超えてすぐ広がる広間の応接窓口。そこにあるカウンターのような長机の向こう側にいる官吏に「【黄龍賽】本戦参加者名簿に名前を登録したい」と伝えると、最初に「予選優勝者の証を見せろ」と言われた。なので【吉火証】を渡し、確認させたのだ。

 

 【吉火証】は朱雀の意匠が刻まれた朱色の金属板で、メダルみたいなものだ。朱雀の意匠が無い裏面には、玉璽(ぎょくじ)――皇帝が使うハンコのことである――と全く同じ印章が彫り込まれている。それを偽装するなんて恐れ多い(やから)は滅多にいないだろうが、念のためああして偽物でないかどうかを確かめているのである。

 

 その結果、本物と納得した官吏は【吉火証】をボクに返してくる。

 

「それじゃあ、これに自分の名前を書くがよろしい」

 

 彼はそう言って、一冊の薄い帳面を卓上に出してきた。墨汁の付いた細い毛筆をボクに手渡す。

 

 どうやらこの帳面が、本戦参加者の氏名を記入する名簿らしい。

 

 ボクはそれを開いた。

 姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)劉随冷(リウ・スイルン)毛施領(マオ・シーリン)乃耐(ナイ・ナイ)勾藍軋(ゴウ・ランガー)――六人目の記入欄に、「李星穂」と書き記した。うん、我ながら結構上手く書けた。

 

 わざわざこうして自分で記入させるのは、本人の筆跡を残しておくためだ。郵便物受け取り時に書くサインみたいなものと思っていい。

 

 しかも、官吏はこちらが読み書き可能なことを信じて疑っていない。政府は日本の寺子屋にあたる民間組織【民念堂(みんねんどう)】への支援を積極的に行ってきた。そのため、煌国の識字率はとても高いのだ。

 

 記入を終えたボクは帳面を返そうとしたが、ひどく驚いた男性官吏の顔を見て思わず手が止まった。

 

「……お嬢さん、君の名前は本当に「李星穂(リー・シンスイ)」で間違いないのかい?」

 

「はい」

 

 あっさり肯定すると、彼は数度深呼吸してから、驚くべき一言を発してきた。

 

 

 

「――皇帝陛下からの(みことのり)を受けている。「もし李星穂(リー・シンスイ)を名乗る少女とその一行が訪れたら、宮廷まで案内せよ」と」

 

 

 



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御前

 目の前にそびえ立つその建物に、ボクは開いた口が塞がらなかった。

 

 ミーフォンもライライも、似たような感じである。

 

 今、大通りを真っ直ぐ北上しているボクらの視線の先には――まさに「宮殿」と表現できる建造物が見えつつあった。

 

 真っ平らな紅色の壁が遥か右から遥か左まで伸び、重厚に内側を隠し護っている。その壁の中央には、黄色の瓦屋根をかぶった門構え。

 その頑丈そうな壁はなかなかに背が高いが、広大な敷地内の建物全てを隠しきれてはおらず、壁の輪郭の下から大きな黄色の屋根がいくつかはみ出ていた。

 赤色と黄色を基調とした建築物の集まり。

 

「これが【熙禁城(ききんじょう)】……凄いわね」

 

 それを見たライライの呟きに、ボクも内心で同意した。

 

 これが煌国の宮廷建築物【熙禁城】である。

 

 前にもちらっと説明したが、【熙禁城】は大通りを真っ直ぐ北へ進んだ果てにある。ある程度【熙禁城】に近くなると、両端にずらりと並んでいた建物たちは綺麗さっぱり無くなり、代わりに大きな赤い牌楼(はいろう)が等間隔で何対も並んでいた。それが、やんごとなき方々の膝元へ近づいている事を強調していた。

 

「あの……本当にここに入るんでしょうか……」

 

「ああ」

 

 ボクの恐る恐るな確認の問いに、先頭を歩いていた官吏の男はあっさり頷いた。さっき【吉火証】を見せた人だ。

 

 信じがたいことに、ボクらはこの中におわす皇帝陛下に呼び出されているのだ。

 

 一体どうしてだろう? そんな疑問ばかりが脳裏を支配する。その疑問がそのままの形で口から吐き出された。

 

「一体どうしてだろう?」

 

「こちらが訪ねたいくらいだよ。官と言っても自分は末端の身だ。それゆえ、そういった事情は一切聞かされていないんだ」

 

 官吏はまたしても淡々と返した。

 

 隣を歩いているミーフォンがやや震えた声で、

 

「……まさか、お姉様を何かの罪で牢へ入れようと……?」

 

「それはないよ。裁くのが目的なら、わざわざ宮廷まで呼びつけたりはしない。それは治安局の領分だ」

 

 官吏の答えはどこまでも冷静だった。しかし、その声に少しばかり緊張の色を感じた。きっと、彼も宮廷には近寄りがたいのだろう。

 

 ほどなくして、目的地の前まで到着した。

 

【熙禁城】の城門は、近づいて見てみるとさらに大きかった。城門の両端には槍を片手に持った衛士が一人ずつ立っている。

 

 大きいのは門だけじゃない。城壁も思いのほか高い。全てがビッグサイズ。まるでアメリカのハンバーガーみたいに。

 

 首を限界まで曲げないと最上部が見えないほどのジャンボっぷりは、驚き云々よりも無言の威圧感のようなものを感じさせた。これ以上踏み込むことが畏れ多いことのように感じられる。まさに宮廷らしい荘厳な雰囲気だ。

 

「少し、ここで待っていてほしい」

 

 官吏はそう言ってボクらを静止させると、衛士の元へ近寄り、何事か話す。

 

 すると衛士二人は納得したようにこくこくと頷き、二枚戸である城門の片方を開け放った。官吏はそこへ遠慮がちな足取りで踏み入り、奥へ消える。

 

 それから五分くらい経つと、官吏は門から出てきた。さっきまでいなかった”もう一人”と一緒に。

 

 その”もう一人”は、騎士制服を中華圏風にアレンジしたような赤い衣服――宮廷護衛隊の制服をピシッと着こなす男だった。端正ながらひ弱さを感じさせない顔立ちに、細見に見えてよく鍛えられた体躯。凛々しさと力強さを同時に連想させるその美丈夫は、

 

「……あ!」

 

 ボクが会ったことのある人だった。

 

 間違いない。

 

 この人と初めて会ったのは【滄奥市(そうおうし)】の予選大会の最中。

 

羅森嵐(ルオ・センラン)」という少女のフリをしていた皇女殿下の護衛を務めていた――

 

「リーエン、さん?」

 

 その美丈夫――裴立恩(ペイ・リーエン)さんはボクの姿を確認すると、無表情のまま、平淡な口調で一言。

 

「お久しぶりです、李星穂(リー・シンスイ)女士」

 

 

 

 

 

 

 久しぶり(といってもたったの数日ぶりだが)に会ったリーエンさんとともに宮廷の中へ入ったボクら三人。彼がこれからの案内役を務めてくれるらしい。

 

 ちなみにさっきの官吏は再び庁舎の方角へ戻った。その顔が安心してる感じだったのは、宮廷などという近寄りがたい場からようやく解放されたからに違いない。

 

 観賞魚がうっすら見える(ほり)の上に放物線状に架けられた長い石橋。それを超えた先にある二枚目の門を目指し、リーエンさんを先頭にボクらは橋の上を渡っていた。

 

 門をくぐってからというもの、ずっと無言のままだった。

 

 いい加減、沈黙が息苦しかったので、前のリーエンさんへ話しかけてみた。

 

「その、お久しぶりですね」

 

「そうですね」

 

「……その、宮廷って初めて入ったけど、凄いですよね」

 

「そうですね」

 

「…………その、今日も帝都が平和で何よりですね」

 

「そうですね」

 

 ……………………。

 

 会話のキャッチボールってなんだっけ?

 

「あの……もしかしてボクの事嫌いです?」

 

「?」

 

 何を言ってるんだこの娘は、とでも言いたげに首を傾げるリーエンさん。そして再び前へ向き直す。

 

 ……あ、そっか。これが素なのね。

 

 きっと誰にでもこんな感じなんだろう。ボクにだけこんな淡々としているわけではなさそうだ。そう思うと少しだけ救われた気分。

 

 ふと、隣のミーフォンがちまちまと服の裾を引っ張ってきた。

 

「お姉様、この美男子(イケメン)は一体何者なんです? お姉様とこの男の話を聞く限りでは、お二人は知り合いのようですけど……それにあの服、宮廷護衛隊の制服ですよね?」

 

 あ、そういえば二人には説明まだだったっけ。

 

 なのでボクは、リーエンさんがその宮廷護衛隊の副隊長であること、そのリーエンさんがセンラ……もとい煌雀(ファン・チュエ)皇女殿下の守護者であり武法の師であること、そしてボクと彼が顔見知りとなった経緯などをかいつまんで説明した。

 

 二人はあーなるほど、とでも言いそうな納得の顔をした。

 

「宮廷護衛隊……そこに所属しているだけでも凄いのに、しかも副隊長とはね」

 

 ボクの少し後ろを歩くライライが顎に手を当てながら、独り言のように呟く。濠を泳ぐ魚がちゃぷん、と水面を跳ねた。

 

 その呟きに、リーエンさんが静かに返した。

 

「そう大げさな事でもございません。虚飾無く地道に武を練り、なおかつ職務に忠実たれば、誰であろうと私のようになれます」

 

 おお、やっと会話らしい事しゃべり始めてくれたよ。

 

 そういえばこの人、センラ……もとい皇女殿下を強引に連れ帰ろうとして、それを止めようとしたボクに躊躇なく剣を抜いたっけ。あの時ボクは柄にもなく頭に血が上ったけど、今思えばあの行動は護衛官という職務に対して忠実だったからこそのものだったんだよね。

 

 その時に見た風のような剣速を思い出したボクは、小さく笑みを浮かべて、

 

「けど、生半可な腕前では務まらない。それは確かですよね?」

 

「ええ。ですが求められるのは武法の腕前だけではありません。的確な判断力、最低限の宮中作法、応急処置程度の医学知識、達者な馬術、そして何より……皇族を守るための「肉の盾」となる覚悟。俸禄(ほうろく)は高いですが、その分命の危険が伴います。ゆえに我々は任務にあたる前に、各々の遺書を生きているうちに書き残しておくのです」

 

 彼の一言一句からは、護衛官という職務の重たさがひしひしと感じられる。実際にその世界を見ている人間にしか出せない雰囲気的リアリティがそこにはあった。

 

 リーエンさんは顔が鉄で出来てるんじゃないかってくらい表情の変化に乏しい。けどそれは、死と隣り合わせな任務をこなすうちにそうなってしまったのかもしれない。死線に慣れ過ぎたせいで、いろんなことに対して冷静でいられるようになったのかもしれない。

 

 そんな風に話している間に石橋を超え、その先にある門もくぐった。

 

 途端――視界いっぱいに絶景が広がった。

 

 年季の入った石畳がどこまでも前へ横へと伸び広がった、馬鹿でかい広場だ。サッカーの試合が一度に2ゲーム行えそうなほどの広さを持ったその広場の奥には基壇があり、最上部には巨大かつ華美な建物がどっしりと居座っている。

 

 その煌びやかさに思わず見入ってしまうボクら三人。職業柄しょっちゅう見るのであろうリーエンさんは変わらぬ様子で歩き続けていた。

 

「も、もしかしてあそこに陛下がいらっしゃるんですか?」

 

「いいえ。あそこは「火殿(かでん)」という、皇族の即位、結婚、誕生祝いなどといった国家的儀式を執り行うための建造物です。「火殿」の裏側には、似たような外観をした「水殿(すいでん)」があります。官吏登用試験を含む国家試験の会場、宴会場などとして用いられる建物です」

 

 ボクのおのぼりさん丸出しな質問にも、リーエンさんは普通に答えてくれた。

 

 広場の奥まで歩み寄り、「火殿」「水殿」を乗せた基壇の階段を上る。その基壇は真っ白な漢白玉(かんぱくぎょく)でできており、階段の手すりから欄干に至る細部まで、細やかな装飾が施されていた。一段登るだけでも申し訳なく思える。

 

 一番上の段まで来てから、聞いた通り似たような見た目をした「火殿」「水殿」を横切り、北へ伸びた階段を下る。

 

 先ほどほどではないが、それなりに大きい広場に降り立った。奥にはまたしても門。しかしこの【熙禁城】でこれまで見てきた門に比べ、明らかに外観に気合いが入っている。

 

「あれは『混元門(こんげんもん)』という、「外廷(がいてい)」と「内廷(ないてい)」を繋ぐ門です。あの門から南側が、市井の民にも比較的開かれた区画である「外廷」。そしてこの門を超えた先が皇族の私的な区画である「内廷」。陛下は内廷にある『天麗宮(てんれいぐう)』の玉座にて貴女方をお待ちです」

 

 ごくり、と三人同時に喉が鳴った。

 

 そこから最初に言葉を発したのはライライだった。恐る恐る挙手しながら、

 

「あ、あの……私たち、陛下にお会いする時の作法とか、全然知らないのですが……」

 

「そう過剰に気構えずとも結構です。陛下も市井の人間である貴女方に、そこまでの事は期待してはおりません。御前では跪いたり、何かを賜ったらこうべを垂れて礼を述べたり、最低限のことを守っていただければ大丈夫なはずです」

 

 またも平淡な口調でリーエンさんが答えた。

 

 とうとう『混元門』の前へ到着。

 

 リーエンさんが二人の門番に頷く。彼らもまた頷きを返し、その重厚な門を二人で開いていく。

 

 固く閉ざされていた両の扉が徐々に開いていき、その奥にある――

 

 

 

「シ――――ン――――ス――――イ――――ッ!!!」

 

 

 

 チョコレート色の長髪をした少女をさらけ出した。

 

 がばーっ、と胸の中に柔らかい重みが飛び込んでくる。ボクはとっさに足腰に力を入れ、それを倒れず受け止めた。ほのかな甘い香り。

 

「ああっ、この匂い、間違いない! 会いたかったぞシンスイ! ようやく来てくれたか!この日を(わらわ)がどれだけ待っていたことか!」

 

 背中に回された腕に力がこもる。チョコレート色の髪を被った小さな頭が、壁面みたいなボクの胸にゴリゴリ押し付けられる。

 

 センラ……もとい皇女殿下は、ボクの腕の中で幸福そうに笑っていた。

 

 見ると、彼女は「羅森嵐(ルオ・センラン)」だった頃のような庶民丸出しな格好ではなかった。上下ともに裾が長めな群青色の衣装。胸の谷間が見えない程度に鎖骨の辺りが露出しており、両腕と(はかま)の裾の先からはフリルに似た白い生地が短くはみ出ている。服の至るところには宝飾や金銀細工が散りばめられており、まるで蒼暗い夜空に輝く星々を彷彿とさせた。

 

 しかしそんなことはどうでもいい。

 

 確かに彼女に再び会えた事はとても嬉しい。けど、だからこそ、ボクは何を言えばいいのか判断に困っていた。羅森嵐(ルオ・センラン)という「一介の武法士」はもういない。目の前にいるのは皇女という「公人」だ。そのような相手に、センランにしてきたような馴れ馴れしい話し方はいけないと思った。

 

 けれども、このまま放っておいても話が進まない。こんな言い方は冷たいかもしれないが、ボクらはあくまで皇帝陛下に会いに来ただけなのだから。

 

 けれど、んんっ、というリーエンさんの咳払いを聞いて、皇女殿下は我に返った。グッジョブ。

 

「あ……すまぬ。こんな事をしている場合ではなかったな」

 

 ボクから二歩ほど距離を置くと、彼女は少女らしい表情を引き締め、「皇女」の顔となった。

 

「帝都へようこそ、李星穂(リー・シンスイ)とその一行。父上――現皇帝が奥でお待ちだ」

 

 それを見て、ボクはようやく宮廷に来たのだと真の意味で実感したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「父上、チュエでございます。ただいま李星穂(リー・シンスイ)とその一行をここへお連れいたしました」

 

 美しい金細工がふんだんに施された赤い両開き扉に向かって、皇女殿下は凛々しい声音で告げた。

 

 目前には、三階建てほどの高さと広い横幅を持った立派な建物がある。赤い壁面に、朱色の屋根と庇。その庇を支える円柱から屋根を構成する瓦の一枚一枚まで少しも手を抜かれておらず、個々の材料の寸法や形がまるでコピーしたかのようにみんな一緒だった。

 

 この【熙禁城】に入ってから、建物が持つ迫力や豪華さには圧倒され続けていたが、今目の前にあるソレは今まで見たものよりどこか異質だった。

 

 それもそのはず。ここは『天麗宮』といって、玉座の間がある宮殿だからだ。つまりこの扉の向こう側に、陛下がどっしりと座っているということ。

 

「――入るが良い」

 

 扉の向こうから聞こえてきた男の声が耳に入った瞬間、脊椎に電流が走った。否応なしにピシッと背筋が伸ばされる。

 

 きっとこの声は……皇帝陛下のものだろう。

 

 唾を呑む。

 

 大丈夫だ。緊張するな。リーエンさんも、陛下がボクらを庶民だと知っていると言っていた。多少の不作法は寛大なお心で許してくださるに違いない。

 

 ライライもあがっている様子だった。いつもは柔らかなその表情がカチカチに固まっている。

 

 意外なことに、ミーフォンは比較的落ち着いていた。けれど少し考えると「当然かも」と思った。この娘は【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家の者として、武法の表演のために何度か陛下の御前に訪れているらしいから。経験がボクらより上だ。

 

 それぞれのリアクションを見せていた時、ギイィ……と赤い扉がひとりでに開いた。内側から誰かが開いているのだ。

 

 明らかになった『天麗宮』の内部。それを見て、ボクは思わず息を呑んだ。

 

 豪華絢爛。そんな四字熟語でしか表現できないような大広間だった。壁面、天井問わずにオリエンタルな装飾が煌めきを示しており、巨大な球状の行燈五つが五芒星の位置関係でぶら下がっている。壁際には護衛隊の制服を着た男たちが一本道を作るように並んでおり、それに導かれるまま視線を一番奥へ向けると、数段の段差の上にある玉座と、『公正無私』という煌国語が書かれた額が目に付いた。

 

 玉座にどっしりと座るその人に、視線が吸い寄せられた。

 

 年齢は壮年と初老の中間くらいの男性だ。体格は長身でやや痩せ形。柔和そうな顔立ちだが瞳の放つ光は鋭さがあり、斜め上へ鋭角的に尖った口髭がさらに顔に威厳を与えていた。シルクハットを押し延べたようなデザインの冕冠(べんかん)と、胴体に精緻な龍の刺繍が入った立派な長衣は、両方とも黄土色で統一されている。

 

 冕冠から覗く頭髪と髭の色は黒。しかし目元がどことなく皇女殿下に似ている。

 

 確信した。

 

 彼がこの煌国という一国家を統べる絶対君主、皇帝陛下であるということを。

 

 そして陛下の隣には、長身痩躯の美青年が控えていた。思わず見惚れてしまいそうになるほどの、貴公子然とした顔立ち。腰まで伸びた美しい髪は皇女殿下と同じチョコレート色だ。その髪色と、陛下に負けず劣らず立派な身なりから察するに、彼も皇女殿下と同じく皇族の方であろう。

 

 皇女殿下とリーエンさんを先頭にし、玉座へ近づくボクら三人。

 

 陛下のご尊顔がはっきりと見えるほど近くまで来たところで、進行が止まった。

 

 リーエンさんが横へ移動し、護衛官たちの列に加わる。皇女殿下は玉座のある段差まで上っていった。

 

 それを跪くタイミングだと直感したボクは、スッと落ちるように片膝を床に付いた。後の二人もボクに倣う。

 

「面を上げよ」

 

 その声に従い、顔を上げる。

 

「そなたが李星穂(リー・シンスイ)、で間違いないかな?」

 

 陛下のお言葉に耳を傾ける。その顔と同じく、柔和な中にも重々しさが宿る声色であった。

 

 流石に緊張したが、それでもボクは努めて落ち着き払った口調で答えた。

 

「はい。ボク……ではなく、私が李星穂(リー・シンスイ)でございます」

 

「そうか。余は不肖の身ながら皇帝をやらせてもらっている煌榮(ファン・ロン)という。隣にいるのは我が息子の煌天橋(ファン・ティエンチャオ)。皇位継承権第一位、次期皇帝候補筆頭だ」

 

 名を呼ばれた美青年、ティエンチャオ殿下は「どうも。よろしく」と微笑みかけてきた。その優美かつ気品漂う笑みに思わず見惚れてしまいそうになるが、心の中で力いっぱい首を振った。あれは男。あれは男。あれは男。

 

 陛下が再び口を開いた。

 

「そなたの活躍ぶりは、我が娘のチュエからよく聞かされている。まずは【黄龍賽】の本戦出場を祝わせていただこう。そして、これからのより一層の活躍を期待する」

 

「はっ。もったいないお言葉でございます」

 

 陛下はそこまで述べると、今度はボクの左隣に膝を付いたミーフォンに呼びかける。

 

「そちらにいるのは、(ホン)一族の末妹だったか。以前何度か見たことがある」

 

「はい。いかにも紅一族の三女、紅蜜楓(ホン・ミーフォン)でございます。数年ぶりに御身を拝謁できた僥倖、恐悦至極に存じます」

 

 ミーフォンはうやうやしくそう言った。おお、なんかボクよりずっと堂々としてて様になっている。「お姉様ぁー!」とか叫びながら甘えてくるいつものあの娘とは思えない。

 

「うむ、久しいな」と頷く陛下。さらに、

 

「して……あと一人のそなた、名を申してみよ」

 

 そう訊いてきた。

 

 ボクもミーフォンも話しかけられた。よって、陛下のおっしゃる「あと一人」というのがライライを指していることは明白だった。

 

 彼女もそれを悟ったようで、やや緊張した声でゆっくり言葉をつむいだ。

 

「お、お初にお目にかかります陛下。わた、私は宮莱莱(ゴン・ライライ)と申します。よ、よろしくお願いいたします」

 

(ゴン)か……これもチュエから聞いたのだが、そなたは【刮脚(かっきゃく)】の使い手であるそうだな?」

 

「は、はい」

 

「ふむ……」

 

 陛下は少しの間彼女の顔を眺めてから、再び口を開いた。

 

「……もしも間違っていたなら申し訳ないが、そなたは『無影脚』とうたわれた【刮脚】の名手、宮淵輝(ゴン・ユァンフイ)の血筋の者ではないか?」

 

「ち、父をご存じなのですかっ?」

 

「なるほど、娘か。道理で面影があるわけだ。そなたの父は一度余の前で【拳套(けんとう)】を表演してみせたことがある。噂に違わぬ見事な腕前であったことは今でも忘れぬ。良い男を父と師に持ったな」

 

 それを聞いた瞬間、緊張気味だったライライの表情がぱあっと明るくなる。「こ、光栄でございます!」と嬉しそうに言う。父親を褒められた事が誇らしかったのだろう。

 

 これで、ボクら三人に対する陛下のご挨拶は終わった。

 

「さて、そろそろ本題に入ろうではないか。李星穂(リー・シンスイ)、そなたは今、どうして自分たちがここへ呼ばれたのか疑問に思っておるな?」

 

「はい」

 

「そうか、もっともな意見だ。それをこれから話す。そなたら三人をここへ呼び寄せた理由は二つある。一つ目は、そなたらが【滄奥市】でチュエと関わった件が関係している。我が不肖の娘がそなたらに迷惑をかけた事をこの場で謝罪したい。同時に、短い間ながら友として娘に接してくれたことへの感謝を告げたい」

 

 ボクらは三人同時に「恐縮です」とかしこまった。

 

「さて、もう一つは」と、陛下は話の内容をそこで区切った。むしろ、そこから先が本番だと言わんばかりの口調だった。

 

 陛下の視線は三人の中のたった一人――ボクへ真っ直ぐ注がれていた。

 

 視線で体に穴が空く錯覚を覚えながらも、何事も無いようにジッとしているボク。

 

李星穂(リー・シンスイ)よ、そなたは【雷帝】強雷峰(チャン・レイフォン)の弟子であるらしいな?」

 

 びくっ、と肩が震えた。

 

 ボクの師匠が強雷峰(チャン・レイフォン)だとどこで聞いたんだ、と一瞬考えたが、これも皇女殿下からお聞きしたのだろうとすぐに納得。

 

 数瞬遅れで肯定する。

 

「はい。その通りです。私は【雷帝】の最初で最後の門弟。彼から【打雷把】を与えられ、現在でも修練を続けております」

 

「【打雷把】か。十数年前にここへ来た頃、あやつは己の拳に名もつけていなかったが……流石に伝承する上で名前はあった方が便利と踏んだのだろうな」

 

「そ、そんな感じです」

 

「そうか。して、【雷帝】は今どうしている? 最近、あやつの新しい武勇伝を全く耳にせぬのだが」

 

「……師は、二年前に病で逝去なされました」

 

 瞬間、部屋中がざわついた。

 

「なんと。あの殺しても死ななそうな男が……」

 

 陛下は本気で驚いた顔で、独り言のように言った。隣のティエンチャオ殿下も目を丸くしている。

 

 かと思えば、陛下は深く頭を下げた。

 

「すまなかったな。知らなんだとはいえ、訊いてはならぬことを訊いてしまった」

 

「い、いいえいいえ! いいんです! もうずいぶん前の事ですから! だからおやめ下さい!」

 

 ボクは必死に頭を上げるよう促した。陛下にこうべを垂れさせている自分が、まるでひどい犯罪者のように思える。

 

 陛下は頭を起こすと、気を取り直した声で告げてきた。

 

「では李星穂(リー・シンスイ)よ。その【打雷把】とやらを余に見せてはくれまいか?」

 

 予想外の命令に、ボクは目を何度もぱちぱちさせる。

 

「表演せよ、ということでしょうか?」

 

「うむ。それが二つ目の理由だ。【雷帝】の衣鉢を継いだそなたの拳、是非ともこの目に刻み込んでおきたい。無論、差支えがなければで構わぬが」

 

 陛下は黙想するように目を閉じ、こちらの答えを待った。

 

 ちょっとびっくりこそしたが、特に断る理由は無い。なのでボクは「分かりました」と了承。

 

「その前にお聞きしたいのですが、この『天麗宮』の床で震脚を行っても大丈夫でしょうか?」

 

「構わぬよ。仮に床材が砕けても、そなたを咎めたりはせぬ。思い切りやるがいい」

 

「では、お言葉に甘えて。ライライ、ミーフォン、ちょっと後ろに下がってくれないかな」

 

 二人は黙って頷くと、そそくさと下がってスペースを広げた。

 

 そのスペースの真ん中にボクは直立する。

 

 周囲に、右拳を包んだ『抱拳礼』で挨拶をする。 

 

 呼吸を整える。陛下の前だと思うと少し緊張するので、周囲に誰もいないとイメージする。

 

 誰もいない静かな世界に、ボク一人が佇む。

 

「『母拳(ぼけん)』」

 

 周囲を包む静寂に、一言、そう投じた。

 

 途端、ボクはまるで導火線の火を受け取った爆竹のごとく爆ぜた。

 踏み込んで双正拳。さらに踏み込んで頂肘。全身を旋回させつつ正拳。急激に腰を沈墜させて掌打。踏み込みの反作用力を利用した上掌打。腰の沈下をともなった正拳。踏み込みと同時に足底から全身を鋭く開いて撑掌(とうしょう)――

 それら全てに、床を踏み砕かんばかりの震脚が伴っていた。

 まるで火山の爆発が幾度も連続するような、強大な勁撃の連なり。

 

『母拳』という、【打雷把】の基礎的な勁撃法を学ぶ【拳套】だ。

 

 脊椎を垂直に張りつめ、足指で大地を掴む——それらの要訣によって盤石な重心を築く【両儀勁(りょうぎけい)】。

 その【打雷把】の基本勁を保ちながら、重心を高速でぶつけて威力を出す衝突勁、腰を急激に沈めて威力を出す沈墜勁、体を左右へ展開して威力を出す十字勁、全身を螺旋状にねじり込んで威力を出す纏絲(てんし)勁……様々な勁を複合させる。

 勁とは全身で作る力。上半身と下半身の動きを終始同調させて生みだす、強く鋭い力。

 その勁を打ち出す勁撃とはすなわち、「一拍子でたくさんの力を生み出し、それを集約させて叩き込む」打法。

【打雷把】は、その「一拍子」に非常に多くの勁を注ぎ込む。それこそが「人を殺して釣りが出る」ほどの威力の秘訣である。

 

 話を『母拳』に戻す。

 

『母拳』とは、一拍子に莫大な勁を作りだす体術に体を慣らし、さらにその威力をどこまでも高めるための【拳套】なのである。

 しかし、普段修行している【拳套】をそのまま演じているわけではない。

【拳套】は、修行として行う『裡式(りしき)』と、他人に見せるための『外式(がいしき)』の二種類に分かれている。今ボクが陛下の御前で演じている拳は後者だ。

『外式』は、技としての機能を壊さないまま、細かい技術の要訣が隠れるように工夫してある。目が肥えた人が見ても、その要訣を読み取ることは非常に難しい。

 ボクは色んな流派の知識こそあるが、その中核をなす要訣までは分からない。それはこの『外式』しか見ていないからである。

 このようにして、武法士は自分たちの伝承を巧妙に隠しているのだ。

 

「はっ……」

 

 運動神経に深く刻み込まれた技の数々を無心でこなしていき、やがて終わりに差し掛かる。

 

 腰を落とした姿勢から両膝を揃え、吸気を交えてゆっくりと直立していく収式。

 

 息を深く吐く。

 

 右拳左手の抱拳礼を陛下に捧げ、締める。

 

 次の瞬間、静かであった玉座の間に、割れんばかりの拍手が沸き立った。

 

 陛下、皇女皇太子両殿下だけでなく、両側の壁に立ち並ぶ護衛官たちも手を勢いよく叩いていた。

 

 なんだかこそばゆ気分になったボクは、うなだれて顔を前髪で隠す。

 

 しばらく経って拍手が止む。陛下を除いて。

 

「素晴らしい、素晴らしい。実に見事な功力であったぞ。間違いない、その拳、十年前に【雷帝】が見せたものと全く同じである」

 

 大変喜ばれている様子。

 

「お、お気に召したのなら幸いです」

 

「うむ。大いに気に入った。だが、余としては、もう少しその武法の何たるかを目に焼き付けたいと思っている」

 

「何たるか、ですか?」

 

 意味深な表現に首を傾げるボク。

 

 すると陛下は「ジンクンはいるか?」と少し声高に呼びかけた。

 

「はっ。ここに」

 

 呼びかけからほとんど間を作らず、一人の護衛官が列から出た。

 

 武人の屈強さと紳士の気品が同居したような、初老ほどの偉丈夫であった。顔は鋭く引き締まった輪郭を持ち、髪はすべてオールバックのように後ろへ流している。目つきは鋭いけど殺気でぎらぎらしている感じではなく、理知的な光が瞳に宿っている。宮廷護衛隊の制服を整然と着こなすその肉体はリーエンさんと違って大柄かつ骨太だが、無駄な筋肉が一切付いていない。無駄という無駄を削ぎ落とした彫刻のような肉体美。

 

 何より、身にまとう雰囲気が普通ではなかった。

 

 いや、別に威圧感みたいなものをまとっているわけではないのだ。むしろ逆。それらしい感じが一切しない。しかしだからこそ、これからどのように動くのかが全く読めないのだ。まるでヒトではない何かがヒト型を取って歩いているかのようであった。

 

 自然と、その偉丈夫に視線が向かっていた。

 

 彼はボクと陛下の間に踏み入る。そして、ボクと向かい合った。

 

「かの【雷帝】の弟子に会えて光栄である。我が輩は宮廷護衛隊の隊長を務める郭金昆(グォ・ジンクン)と申す。よろしく頼む」

 

「へ? あ、はい、どうも。よろしくお願いします」

 

 友好的な笑みとともに差し出された無骨な手を、ボクは戸惑いとともに一礼しながら握る。

 

 手が離れた後、陛下は値踏みするような笑みを浮かべて言った。

 

李星穂(リー・シンスイ)よ、もし差支えなければ、そのジンクンと手合せをしてくれぬか。その【打雷把】とやらがどのように戦うものなのか、余は見てみたい」

 

 …………はい?

 

 

 



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護衛隊長

「ふふふ、腕が鳴るぞ。まさか【雷帝】の拳をこの身で味わえる日が来ようとは。長生きはしておくものであるな」

 

 向かい側に立つジンクンさんは肩を回しながら、感慨深そうに言う。

 

「よ、よろしくお願いします」

 

 対し、ボクも一応そう返す。

 

「火殿」「水殿」の下に広がる、長大極まる広場。そのど真ん中でボクら二人は向かい合って立っていた。正午を過ぎた太陽が垂直に日差しを送ってくる。

 

 遠巻きからは陛下を含む皇族の方々、護衛隊の皆さん、ライライとミーフォンが十人十色の表情でこちらを見つめていた。

 

 無論、言いだしっぺである陛下の顔は期待に満ちていた。

 

 結局のところ、ボクはジンクンさんとの手合せに了承してしまったのだ。

 

 最初はもちろん迷った。皇族を守護する立場に立つ人を私闘で傷つけて良いのだろうか、と。

 

 けれど一方でこうも思った。精鋭ぞろいの護衛隊でトップを張る人物とはいかほどのものか、と。

 

 少しの間考えて、最終的に好奇心が勝ってしまった。

 

 試合に頷くと、陛下は善は急げとばかりに『混元門』を抜け、この場所で戦うように命じた。

 

 自分から了承したこととはいえ、今更ながら「これでよかったのか?」という気持ちは若干生まれる。

 

 けど、もう「はい」と言ってしまったのだ。ここで引き下がったらそれこそ陛下は興醒めだろう。

 

 別にジンクンさんを殺すわけじゃない。きちんと加減はする。それにジンクンさんも護衛隊の隊長であり、あのリーエンさんの上司なのだ。簡単にやられたりはしないはず。

 

 ボクは覚悟を決めた。

 

「では――【打雷把】、李星穂(リー・シンスイ)

 

「【心意把(しんいは)】、郭金昆(グォ・ジンクン)

 

 互いに右拳を包む抱拳礼。

 

 ――ってあれ? 【心意把】? 【心意盤陽把(しんいばんようは)】じゃなくて?

 

 次の瞬間、その意識の隙を突くかのように圧力が急接近。

 

「うわっ!」

 

 反応が遅れたが、何とか回避が間に合うタイミングだった。身体の位置をスッと横へずらす。

 

哈阿(ハァ)ッッ!!」

 

 すぐに、ボクがさっきまで立っていた位置にジンクンさんが激しく踏み入ってきた。やってきた正拳は何とか避けられたが、それに付随した震脚の余波がビリビリ足元に伝わってきた。ものすごい踏み込みだ。

 

 ボクの切り替えは早かった。地を蹴って、震脚で踏みとどまると同時に放つ正拳突き【衝捶(しょうすい)】に繋げようと自然に思いつく。

 

 が、それは思いつきで終わってしまった。ジンクンさんが前の爪先を鋭くこちらへ向け、跳びかかる猛虎のような勢いで再度接近してきたからだ。

 

哈阿(ハァ)ッッ!!」

 

 力強い発声と激甚な震脚をともなって、真正面から稲妻のように右掌打が伸びる。

 

 ボクは体を左へよじらせて掌を回避しつつ、左拳を脇に引き絞った。全身を時計回りに捻り込んで纏絲(てんし)勁を生み出し、それに左拳を乗せて放つ【拗歩旋捶(ようほせんすい)】へ変化させる。

 

 螺旋の力場を纏った拳が敵に接触する直前、上から右掌でかぶせるように押さえ込まれ、勁を無力化された。ジンクンさんが打撃に使った右掌を引き戻し、ボクの正拳をいなしたのだ。

 

 ジンクンさんの両手がペダルを漕ぐように縦回転を描く。右掌によって拳が下へどけられ、がら空きになったボクの胴体めがけて――左掌が近づいた。

 

哈阿(ハァ)ッッ!!」

 

 直撃してもおかしくない距離だったが、ボクは間一髪打撃の目標点をずらし、紙一重で掌打を回避。【打雷把】の精密な足さばきがあってこその物種だ。

 

 そのまま流れるようにジンクンさんの横合いへ移動し、そして肩口から激しく衝突した。

 

哈阿(ハァ)ッッ!!」

 

 ボクの【硬貼(こうてん)】とジンクンさんの勁力が一瞬だけ拮抗。そして爆発。

 

 互いに大きく弾かれた。

 互いにおぼつかない足取りを強引に修正し、敵の攻撃に備える。

 互いに視線を合わせ、不敵に笑う。

 

「やるな、【雷帝】の弟子。全く気が抜けぬぞ」

 

「そちらこそ。今のは決まったと思ったのに、あっさり防がれて少し凹みますよ。それと【心意盤陽把】じゃなくて【心意把】だなんて」

 

「意外であったか? 我が輩としては、【心意把】の方が使い慣れているのでな」

 

 軽口を叩き合っている間にも、ジッと相手の出方をうかがう。

 

 さっきも言った通り、ボクはてっきり彼が護衛隊必修武法である【心意盤陽把】を使ってくるという先入観を抱いていた。そこへ【心意把】を使われたので、不意打ちを受けた気分だった。

 

 その二つの流派は名前こそ似ているが、戦闘理念、勁撃法ともに全く異なる。

 

 【心意把】――【太極把】【龍行把】と並び称される、道王山三大武法の一つ。

 

 強大な勁撃を連発しながらひたすら前へ前へと突き進み、行く先にあるものを片っ端から蹴散らしていくという豪快な戦い方をする武法だ。

 

 【心意把】では、『浪勁(ろうけい)』という独特の勁を用いる。呼吸によって体内に生まれる空圧を利用し、回転する球状の「力場」を丹田に作り出す。その「力場」で生じた回転力を上半身へ伝え、震脚で倍加した自重とともに敵へ叩き込む。ジンクンさんがさっきから発しているあの鋭い掛け声は、丹田に「力場」を作り出すための呼吸法を行った際に自然と出てくるものなのだ。

 

 勁撃と呼吸法は密接な関係がある。武法の各流派には勁撃の時に行う呼吸法が一つ決められており、その方法も流派によって千差万別だ。その決められた呼吸法を守ることで、勁撃を行う際の体力消耗を最小限に抑えることができる。逆にそれを守らないと、たった数回の勁撃でヘトヘトになってしまうのだ。

 

 『浪勁』で用いるあの呼吸法は、体力の消費を抑えると同時に、勁力増強にも一役買っている。内勁と外勁が一体となった強力な勁撃だ。

 

「――っ」

 

 ジンクンさんは腹の奥まで呑み込むように吸気しつつ、構えを取った。前の掌を顔の前に、もう片方の掌を丹田の前に添え置いた半身の姿勢。まるで見えない槍を構えているような形だった。

 

 ボクも大きく息を吸って、鋭く吐きつつ足腰を落とした。武法の命たる下半身に力が充足する。

 

 重苦しい沈黙が訪れる。

 

 が、それは一瞬の間だけだった。【心意把】に刻まれた戦術思想の赴くまま、ジンクンさんが爆発的に加速して突っ込んできた。

 

哈阿(ハァ)ッッ!!」

 

 一喝とともに、口元から吐き出すように拳を飛ばしてくる。それを軽く躱しつつ、彼の側面を陣取る。

 

 普通なら、ここで一発お見舞いするところなのだが、ボクはあえてそうはせずに再び横へずれた。一瞬後、その判断の正解を告げるように、先ほどボクのいた場所を掌打が貫いた。

 

【心意把】は真っ直ぐ突き進んで攻めるという戦略を補うために、迅速な方向転換や防御法も念入りに鍛錬する。うかつに攻撃を仕掛けたら綺麗にカウンターを貰ってしまうため、攻め所は考えなければならない。

 

 ボクは側面へ移動して攻撃を回避。ジンクンさんは一瞬で方向を変え、再び踏み込んで勁撃。それも横へ動いて避ける。彼はまた方向を素早く変えて勁撃。ボクは側面へ逃げる。それを追って勁撃、避けて、また勁撃、避けて――――

 

 終わりの見えない堂々巡りの攻防が繰り返される。

 なかなか勁撃が当たらないジンクンさん。なかなか隙が見つからないボク。両者のそんな状態が不変のまま、時間ばかりが過ぎていく。

 もしジンクンさんが攻撃の手を休めたら、その一瞬に隙ができる。だから彼は手を止められない。

 一方ボクも少しでも攻める動作を行ったら、ほんの一瞬ながら隙が生じ、避けられなくなってしまう。

 互いで互いを縛り合ってしまい、そこから抜け出せないでいた。

 

 それなら――

 

 ボクはやってきた拳を回避しつつ横合いへ移動。ジンクンさんの胴に抱きついた。

 

 渾身の力で震脚。莫大な上向きの力が全身に働いたことで、ボクよりずっと大きく重たいジンクンさんの体が発泡スチロールのように軽くなった。その浮力に足腰の力を上乗せし、

 

「どすっ……こい!!!」

 

 大きく真上に投げ飛ばした。

 

 地球で得た知識が役に立った。相撲取りは力強く四股(しこ)を踏むことで、自分の何倍も重たい相手を軽々と持ち上げることができるという。その原理を利用させてもらった。

 

 虚空を舞うジンクンさん。きつい放物線を描きながら地へ迫る。

 

 ボクはその落下予定地点まで走った。震脚で激しく踏みとどまり、さらにその足に強い捻りを加えて纏絲勁を生成。連鎖的に全身が左右に展開して十字勁も発動する。彼の足が地に付く直前に、その【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】で突きかかった。

 

 ジンクンさんはボクの正拳を足裏で受け止めた。

 

「ぬおっ……!?」

 

 瞬間、彼の姿が煙のように消え去った。

 

 いや、違う。ボクの勁撃の余波で真後ろへ吹っ飛んだのだ。その常軌を逸した速力が、拳の宿す威力を物語っていた。

 

 地面に接した後も、ゴロゴロと激しい転がり方をし続ける。しかしジンクンさんも必死で受け身を取り、壁際付近まで到達したところでようやく起き上がれた。

 

 しかし、吹っ飛ぶ彼を追う形で走っていたボクは、起き上がった彼の目の前まですでに迫っていた。

 

哈阿(ハァ)ッッ!!」

 

 彼の反応は驚くほど迅速で、かつ的確だった。瞬く間に蓄勁の状態を作り、踏み込みとともにそれを爆発させた。右拳が流星よろしく迫る。

 

 走行の勢いがあるため、ボクはうまく動けなかった。なので左回りに身体をひねった。凶悪な威力を乗せた無骨な拳がボクの胸前をスレスレで通過。

 

 ボクは左足で急ブレーキをかけつつ、右足刀を斜め上へ鋭く伸ばした。

 

 ジンクンさんも立円軌道で右拳を引き戻しつつ、左拳を口から吐き出すように放つ。

 

 足刀がジンクンさんの顔面へ、左拳がボクの胴体へ突き刺さる一歩手前で。

 

「――それまで!!」

 

 皇女殿下が静止を命じた。

 

 ぴたり、と両者の手足が止まる。

 

「双方、よく健闘した。もう良いぞ」

 

 続いて、陛下の声が聞こえた。

 

 蹴りと突きの体勢を解き、ボクとジンクンさんは向かい合って直立。

 

 先程までとは違い、彼の瞳には穏やかさが戻っていた。

 

 それを見るボクの顔も、きっと緩んでいることだろう。

 

「感服する。我が輩をここまで追い詰めた者はリーエン以来だ。流石は【雷帝】の門弟である」

 

「いいえ。このまま続いていたら、ボクの方が危なかったかもしれません」

 

「謙遜を」

 

 言いながら、握手を交わした。

 

 そんなボクらを、拍手が包み込んだ。

 



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おっぱいは身を助く

 激しい手合わせの後、ボクらは再び『天麗宮』へと戻ってきた。今回はあくまで謁見であるため、形式的に玉座の間に行く必要があった。

 

「いや、素晴らしかったぞ!キミの試合!流石は(わらわ)が見込んだだけのことはある!」

 

 皇女殿下が興奮気味に褒めそやしてくる。これと似たような事を、ここへ来るまでにすでに四回も言われた。

 

「東の果てにある霊山【道王山】! そこでは【道王把】と総称される様々な名拳が生まれたが、その中でも極め付けは道王山三大武法。その一つである【龍行把】は化勁と柔法に長けた「柔」の武法! 一方、同じく三大武法である【心意把】はそれとは対をなす「剛」の武法! 一切顧みることなく強大な勁を発しながら突き進み、前にあるあまねくモノを殲滅していく様は王者の風格がある! 【心意把】を超える剛拳はこの煌国広しといえど存在しないと、妾は確信していた……そこにいるシンスイに出会う前までは! 一拳一拳はまさに雷撃の如しとうたわれた【雷帝】強雷峰(チャン・レイフォン)から譲り受けたその拳を目の当たりにした時、妾は剛拳などという表現ではまだ生易しい、もっと異質で強大な「何か」だと感じた。爆発的な勁撃は言うに及ばずだが、それを当てるための技術にも並々ならぬ工夫が凝らされているのだ! 妾がこの身でソレを――」

 

「ほらほらチュエ、場所を弁えなきゃ」

 

 壊れたダムから溢れる水みたいに延々と放出される武法話を、隣のティエンチャオ殿下がやんわり止めた。

 

 皇女殿下は「やっちまった」とばかりに赤くなりながら口を塞いだ。その様子は、武法のうんちくをつらつら語りまくるのを止められた時のボクにそっくりだった。

 

 跪いたまま見つめているボクの視線と、皇女殿下の視線が重なった。とっても嬉しそうに笑いかけてくれる彼女とは逆に、ボクは笑い顔とも困り顔とも取れない中途半端な表情を浮かべていた。

 

 彼女と再び会えたのは、確かに嬉しい。親友と呼べる存在なのだから当然だ。

 

 けれど、彼女は皇女で、ボクは庶民。むやみやたらに接点など持てない仲。

 

 手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、その存在が果てしなく遠く感じる。それがもどかしかった。

 

 そんな心境を察しているのかいないのか、膝を付いているライライとミーフォンは複雑そうにこっちを見ていた。

 

「しかし、チュエ殿下のおっしゃる通りでございますよ。我が輩も久しく血が騒ぎましたゆえ。陛下もお喜びのようですし」

 

 ジンクンさんの威勢の良い発言に、陛下も「うむ」と頷く。それを見て少し嬉しくなった。

 

 さらに、陛下の側にひかえているティエンチャオ殿下も微笑をたたえて賞賛してくれた。

 

「そうだね。僕も彼女の腕前に感服したよ。正直、新しい護衛官として召し抱えても良いほどだ」

 

「……お戯れを。武法の腕だけでは、我らの任務は務まりません」

 

 跪くボクら三人の近くに立つリーエンさんが、淡々と口を挟んだ。現職の護衛官として聞き捨てならない発言だったようだ。ティエンチャオ殿下もそれを分かっていたのか、小さく苦笑を浮かべた。

 

 護衛官に話題が移ったところで、ボクの心の奥にくすぶっていた一つの疑問が浮き上がった。

 

 ボクはゆっくり挙手しつつ、遠慮がちな口調で、

 

「あの……一つ、思ったことがあるのですが、聞いてよろしいでしょうか?」

 

「何だ?申してみよ」

 

 陛下のお許しを得たので、控えめな語気を保ったまま口にした。

 

「今回、隊長さんは【心意把】を使っていましたけど、護衛隊って必ず【心意盤陽把】を使わなければいけないというわけでは無いのですね」

 

 すると、陛下は口をぽかんと開け、目を丸くした。何言ってんだこいつ、とでも言わんばかりのご尊顔。

 

 え?なに?なんか変なこと言った?

 

 自覚無き粗相をしてしまったのでは、と心配になった途端、この国の旗印たる御人は心底愉快そうに大笑した。

 

「ふはっ、はははははは!いや、すまぬ!あまりに娘の言う通り過ぎるゆえ、可笑しくてな!そなた、誠に武法を愛しているのであるな」

 

「はい!それはもう」

 

 ボクはハキハキと肯定した。

 

「ふむ……そういった説明は余より、このチュエの方が適任であろう。何せ、この帝都に伝わる武法流派のほぼ全てを頭に入れているほどの武法狂いであるゆえ、な」

 

 陛下の名指しを受け、待ってましたとばかりに皇女殿下が一歩前へ出た。嬉々とした様子で、

 

「その通りだ、そんな決まりはない。もし使用する武法を単一化したら使える技の幅を狭めてしまい、かえって任務に支障が出かねんからなっ。確かに護衛隊に配属されたら、【心意盤陽把】は訓練させられる。だがそれはバラバラな武法を学んでいた護衛官達に「共通した戦法」を与え、連携を取りやすくするためという側面の方が大きい。【心意盤陽把】は元々護衛官のために作られた武法ゆえに、警護を行う上で最適な戦法が数多く備わっているからな。その戦法は至極単純、「迅速に近づき、迅速に制圧する」だ!それさえ守れれば流派の違いなど些末な事!そもそも【心意盤陽把】があれほどの速度を誇るのはそういった理由——」

 

「はいチュエ。そこまででいいからね」

 

 ティエンチャオ殿下にやんわり言いくるめられ、ぐぬぬ、と口を波線っぽくする武法大好きお姫様。

 

 なるほど。そういう理由だったか。

 

 武法は戦えるレベルまで上達するのに、結構な年月を要する。しかし、一つの武法に習熟した後に他の流派を学ぶと、その習得速度は桁外れに高くなる。これは、全ての武法の根本原理が共通しているからだ。第一外国語を熟達した後に他の外国語の学ぶとその習得速度もとんでもなく速いという話はよくあるが、その理由は多言語間に共通する要素が少なからず存在するからだ。それは武法に関しても同じことがいえるのである。

 

 護衛官に高い武法の実力が要求されるのは、任務の過酷さともう一つ、警護向きな武法【心意盤陽把】を短期間で叩き込むためであるとボクは知っていた。

 

 けれど、それは一面的な見方に過ぎなかったようだ。

 

 また一つ、ボクの記憶の引き出しに新たな情報が入った。彼女には感謝である。

 

 ジンクンさんは昔を懐かしむように目を閉じ微笑みながら、

 

「まあ、()が【心意把】を使いたがるのは、そちらの方が馴染み深いという理由ですがね。【心意盤陽把】に関して言えば、リーエンの方が達人と呼べるでしょう。昔は私の方が上であったというのに、今ではすっかり追い越されてしまいまして。いやはや、老いと才には勝てませぬな」

 

「何を仰います。私の腕前など、隊長殿には遠くおよびません。朝廷への忠誠心もまたしかり。十年前、暗殺者の凶刃から身を挺して陛下を庇った貴方の姿、私は一日たりとも忘れたことはございません」

 

 リーエンさんがいつもより少し強めの語気でそう言いつのった。ん? なんかちょっとムキになってるっぽい?

 

 陛下もまたジンクンさん同様ひっそりとまぶたを閉めながら語り出した。

 

「そのようなこともあったな。あの暗殺者は非常に素早い歩法を使う男であった。あれは余が第三子をもうけ、その生誕祭をしていた時だ。大勢の客人の中に紛れ込んでいたその暗殺者は、その稲妻にも見まがうほどの歩法の速度をもってあっという間に余の懐まで肉薄し、黒光りする短剣で突き刺そうとしてきた。余もあの時は死を覚悟した。しかし、当時はまだ隊員の一人であったジンクンが盾となってくれたのだ。その後暗殺者にはまんまと逃げられてしまったが、ジンクンが代わりに刺さってくれたおかげで余は事なきを得た」

 

「刃に刺さったって……ジンクンさんはよく平気でしたね」

 

 ボクは怪物を見るような目を大柄な隊長へ向けた。それを受けた彼は「深く刺さったものの、奇跡的に重要な臓は傷ついていなかったから、なんとか九死に一生を得たのだよ」と苦笑しつつ答えてくれた。確かにそれは奇跡としか言いようがないのかもしれない。

 

 ――って、あれ?

 

 どうして、刃が体に刺さったんだ?

 

 武法士は【気功術】の技能の一つ、【硬気功】が使える。任意の部位へ気の力を集中させ、そこの硬度を一時的に鋼鉄並みにする技術だ。それで体を防御すれば、刃物なんか通さないはずなのに。

 

 できるだけ言葉づかいに気を付けながらその疑問を陛下へお伝えする。すると、こう返ってきた。

 

「その暗殺者の短剣には、【磁系鉄(じけいてつ)】が使われていたのだ」

 

 腑に落ちた。

 

【磁系鉄】は特殊な磁場を発する希少金属。その磁場は気の流れを阻害し、気の塊の中へ分け入ることができる。【硬気功】をかけている部位もしかり。

 

 そういうことなら、たとえ【硬気功】の防御も無効化される。なので刺さるしかない。

 

 【磁系鉄】は非常に希少かつ高価な金属だ。それで作られた刃物をわざわざ持ち出したあたり、その暗殺者は是が非でも陛下を亡き者にしたかったのだろう。

 

 その凶刃から、ジンクンさんは見事国の宝を守ったのだ。

 

 この上ない(いさお)である。

 

「その厚き忠義に胸を打たれた余は、ジンクンの怪我が完治後、隊長に任命したのだ。その任さえも、今日まで立派に勤め上げてくれた。余の自慢の忠臣だ」

 

「ははは、とんでもございませぬ。隊長職など、私風情には過ぎた賜物。十年経った今でも隊の手綱を握るだけで精いっぱいでございます。私より適任な者は他にもいたでしょうに、陛下もお人が悪い」

 

 照れながらそう言うジンクンさん。どこまでも謙虚な人である。

 

 その謙虚さを、リーエンさんがたしなめた。

 

「差し出口を失礼します。――隊長殿、貴方の謙虚さは美徳ですが、過ぎた謙遜はかえって自身の心証を悪くしてしまいます。たまには胸を張る事を覚えるべきだ」

 

 さっきと同じく、少し力の入った声だった。

 

「隊長殿は素晴らしきお方です。類稀(たぐいまれ)な武法の功力を持ち、護衛に役立つ技術を深く身につけ、さらには機転もよく利く。しかしそれに決して驕ることはせず、青き血をあまねく害意から守護すべく日々精進を重ね続けている。これこそ護衛官として、陛下に(さぶら)う者として在るべき姿。その姿を日々目に焼き付けつつ、私もそれに近づこうと非才ながら精進している次第です」

 

 リーエンさんがこれでもかといわんばかりに褒めちぎっている。その口元は少しだが笑っていた。無表情と呆れ顔しか見たことの無いボクにとっては新鮮だった。

 

 ジンクンさんの事を本気で尊敬しているのだ。

 

 その敬意を向けられた本人はというと、ばつが悪そうに曖昧な笑いを浮かべていた。けど、まんざらでもなさそうだった。

 

 陛下もまた、ジンクンさんを称賛する。

 

「そうであるな。ジンクンほどの者が傍に仕えていると思うだけで、余も気兼ねなく執政が行える。むしろ働き過ぎで、たまには休めと言いたくなるほどだ。そなたにはいつも感謝しておるぞ、ジンクン」

 

「勿体無きお言葉、痛み入りまする。しかし、働き過ぎというわけではありませぬよ。毎年の冬、長いお暇を頂いておりますゆえ」

 

「それはそなたが休むための暇ではなかろう。確か、娘の墓参りのためであったか」

 

「……ええ。そうでございます」

 

 ジンクンさんは少し影が差した顔で小さく微笑んだ。

 

 この人、娘さんがいたのか……まあ、見た感じの年齢的におかしくないんだけど。

 

 話題が話題だったため、周囲の空気が少し重いものとなった。

 

 それをいけないと思ったのか、陛下は「すまぬ」と一言謝った後、強引に話題の方向を切り替えた。

 

「いずれにせよ、先ほどの試合は誠に良いものであった。李星穂(リー・シンスイ)よ、【雷帝】より譲り受けたそなたの技、しかと見させてもらった。これからも一層の精進を重ね、一層の活躍を見せてくれることを陰ながら期待している」

 

 陛下の言い下したそのお褒めの言葉に、ボクは「ありがとうございます」と会釈した。

 

「では、今日はここまでにしよう。そなたら三人とも、長旅で疲れておろう。今日はゆっくり休み、明日にでもこの帝都を物見遊山などするとよかろう」

 

 帰って良い。

 

 そう受け取ったボクらは立ち上がろうとするが、皇女殿下がすがるように口をはさんだ。

 

「ち、父上っ? も、もう帰してしまわれるのですかっ」

 

「当然であろう。少々雑談が過ぎてしまったが、すでに要件は済んでいるのだ。これ以上このような仰々しい場に置いておいては彼女らの気が休まらぬ」

 

「そ、それはそうかもしれませんが……妾は、その……」

 

 言葉を濁しながらも、その切なげな目はちらちらとボクの方へ向いていた。

 

 もっと一緒にいて、もっと話をしたい。うぬぼれでないとしたら、彼女が考えていることはこんな所だろう。

 

 ボクだって気持ちは同じだ。けれど、それは互いの立場が許さない。皇族との間柄は利害関係が生まれやすいのだ。王様が一人の臣下に寵愛を傾け過ぎたせいで衰退した国だって歴史上たくさんある。

 

 きっと、皇女殿下もそれはわきまえている。だからこそ苦しいのだろう。

 

「チュエ。今、お前は「皇女」であるぞ。その意味が分かるな?」

 

「っ……はい」

 

 陛下の重厚なお言葉に彼女は一瞬息を呑み、そして俯き加減で静かに頷いた。前髪で顔が隠れているため、どんな顔なのかよく見えない。

 

 皇女殿下の気持ちを、陛下も分かっているのだ。その上で「それは許されない」と遠回しに釘を刺した。

 

 部屋を覆う空気は先ほどとは一転、暗くどんよりしたものになった。

 

 さっきまで立ち上がろうとしていた両足が、まるで凍ったように動かなくなっていた。動き出してはいけない空気を敏感に感じ取り、それに体が服従してしまっている。

 

 その空気を、

 

 

 

「父上ぇー? ここにおるのかー?」

 

 

 

 背後から聞こえてきた、幼い女の子の声が破った。

 

 思わず後ろを向いた。ライライ、ミーフォンも同様に首を動かす。

 

 閉めたはずの両開き扉が開け放たれており、その真ん中に一人の少女……もとい幼女が立っていた。

 

 年齢はおそらく十歳に届くか届かないかというほど。女児特有のふっくらした輪郭を持つ精巧な人形のような顔立ち。髪色は皇女殿下より少し黒寄りな焦げ茶色で、肩のラインを少し通り過ぎた辺りで切り揃えられている。腕が肩口まで露出した上着と足首まで覆い尽くした(スカート)という上下衣装は、夕焼けのような朱色と華美な金糸の刺繍で彩られていた。

 

 これまた髪の色から、皇族の一員であると確信するボク。

 

露琴(ルーチン)!? なぜここにいる!?」

 

 皇女殿下の、非難混じりな驚きの声。

 

 ルーチンと呼ばれたやんごとなき幼女は、とてとてと玉座の近くまで駆け寄る。

 

「父上、これはいったいなんの騒ぎじゃ? 面白いことなら、わらわもまぜてほしいのじゃ」

 

 鈴の音のような幼女様のお言葉に、陛下は目頭を揉みながらため息を吐く。

 

 突っ込みを入れたのは、ティエンチャオ殿下だった。

 

「ルーチン、君こそどうしたんだい? 今は勉強の時間だったよね? もう終わったのかい?」

 

「まだじゃ!退屈じゃったから、抜け出してきたのじゃ!」

 

 ボクより壁な胸を張り、ドヤ顔で言い放つ幼女様。

 

 ティエンチャオ殿下の天使のような微笑みに、若干の苦みが走った。

 

「で、一緒にいた教師はどうしたんだい?」

 

「薬で眠らせたっ!」

 

 豪語するロイヤル幼女。呆れ返る皇族の面々。

 

 皇女殿下がつかつかと鋭く歩み寄り、幼女様の後ろ襟を掴んで猫のように持ち上げた。火を吐くような激しい口調で、

 

「この馬鹿者が! 偉そうに言うんじゃない偉そうに! とっとと戻れ! ついでに眠らせた教師を起こして詫びてこい!」

 

「うわー! はなせ! はなすのじゃ、このうつけ者が!」

 

 じたじたと手足で宙を掻く幼女様。

 

「教師に一服盛って勉強をすっぽかしたお前の方がうつけ者だ!この大うつけが!」

 

「やかましいのじゃ、家出皇女! 自分だって帰ってきてから父上に死ぬほど叱られて、一週間出禁食らったじゃろうに!棚上げはやめるのじゃ!」

 

「な、なんだと貴様ー!」

 

 ああだこうだ、こうだああだ、とかしましく言い合う二人。

 

「二人とも、そこまでにしておこうか。客人も見ているのだから」

 

 ティエンチャオ殿下は柔和な物腰を崩さないまま、包み込むように口喧嘩を仲裁した。その態度にほだされたのか、二人もそれ以上言い返すことはせず、ぶすりとした顔で黙りこくった。

 

 皇女殿下しかり、幼女様しかり、皇族の女性陣はクセが強いようだ。あの天使と見紛う美貌を持つ第一皇太子は、そんな個性的な面々を上手に取りまとめる役割があるっぽい。

 

 陛下は咳払いの後、やや疲れた声で、

 

「騒々しくて済まなかったな。後できつく言い聞かせておくゆえ、どうか許して欲しい」

 

「いえ、ボク達は一向に構いません」

 

 両隣に跪くライライ、ミーフォンも頷いて同意する。

 

「ところで、その方は?」

 

 もうほとんど分かりきっていたが、ボクは一応その幼女について尋ねた。

 

 すると、その幼女を掴み上げている皇女殿下が答えた。苦笑気味に。

 

「ああ、こいつは煌露琴(ファン・ルーチン)。やたらとやかましい妾の愚妹だ」

 

「やかましいのはおまえじゃ、チュエ!わらわがやる事なす事にいちいちうるさく言いおってからに!」

 

「だったらその勝手気ままな行動を改めろ!あと、妾の事は姉上と呼べと何度も言っておろうが!?」

 

「やだ!そんな貧相な乳をした汗くさい女を姉とは呼びとうないのじゃ!」

 

「な、何を吐かす!?貧相じゃない!平均くらいはあるわ!それに臭くもない!」

 

「はいはい、貧相でも臭くもないから、そろそろやめようね。いい加減にしないと父上の怒りが爆発するよ」

 

 顔を真っ赤にして口論を再開する二人の皇女。それをまたしても上手に諌める皇太子。

 

 その様子を呆然と見ながら、微かに考えを巡らせるボク。なるほど、やっぱり彼女が陛下の仰っていた「第三子」か。

 

 皇女殿下はルーチン様を床に下ろす。

 

 小さな皇女は「んべ」と大きな皇女へ舌を出してから、長い(スカート)を軽やかに翻してボクらの方へと振り向いた。

 

「して、この者たちは一体何奴じゃ?新しい側室か?」

 

「失礼な事を言うな!」

 

 ごちん、と皇女殿下のゲンコツがヒット。

 

 再び姉に噛みつきそうになる前にティエンチャオ殿下が優しくなだめ、そしてこの状況をさらっと説明した。

 

「ふむふむ、なるほど。つまり(チャン)なんとかの唯一の弟子である李星穂(リー・シンスイ)という女に武法を表演させていた、と。しっかし、わらわには分からんのぅ。武法なんか見てて何が楽しいのじゃ?」

 

 ぴっきーん。皇女殿下とボクの冷ややかな眼差しがルーチン様一点に注がれた。ボクらを敵に回す発言を堂々としたよ、この幼女。

 

 ティエンチャオ殿下はルーチン様の頭に軽く手を置き、

 

「それより、ダメじゃないか。勉強をサボっちゃ」

 

「だってだって!つまらないのじゃ!」

 

「勉強は面白い面白くないで学ぶものではないよ。必要だからやるんだ。僕らは皇族。民を導く立場である以上、普通の人より高い教養を身につけておく必要があるんだよ。それが、この国で誰よりも満ち足りた生活を送る権利と引き換えに課せられた、僕らの使命なんだ」

 

「う……」

 

「亡くなった母上だってきちんと学んだんだ。もし今の君の姿を天上の母上が見たら、きっとガッカリすると思うな」

 

「うう……」

 

「さ、分かったら戻りなさい。あと、ちゃんと教師の人には謝るんだよ?」

 

 ルーチン様はしばらく黙ってから、分かったのじゃ、と弱々しい声で答えた。

 

 陛下はふぅ、と安堵したようなため息をつくと、改めて申された。

 

「重ね重ね申し訳ない。では、今度こそさらばだ。立つが良い」

 

 言われた通り、ボクら三人は立ち上がる。視界の右端に微かに見えていたライライの巨乳がたゆん、と上下に揺れた。そちらへ意識が行かないよう、前だけを見続ける。

 

 が、その時、ルーチン様の顔色に変化が訪れた。

 

 興味なさげにこちらを見ていた目が、くわっ!と大きく開かれたのだ。信じられないものを見るような、それでいて長年探し求めていたものをようやく目の当たりにしたような、そんな驚愕と妄執を強く感じる眼光。

 

「……い」

 

 幼い唇が、何かを呟いた。

 

 かと思えば、玉座のある段から足を下ろした。

 かと思えば、真っ直ぐ歩き出した。

 かと思えば、歩行は走行になった。

 跳躍。宙返り。

 放物線の下りを刻みながら、落下予定地点——ライライへと迫る。

 

 

 

 

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっぱいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!!!!」

 

 

 

 

 

 ルーチン様は奇声を上げながら彼女に抱きつき、その豊満な巨乳に顔を埋め込んだ。

 

「きゃ!?」

 

 飛びかかってきた重さに押され、仰向けに倒れるライライ。

 

「ル、ルーチン殿下っ?な、何を?」

 

 ライライは困惑の声で問うが、ルーチン様はその声が聞こえていないようだ。

 

 なぜなら、 自分の頭を巨乳の谷間に夢中で押し込んでいたからだ。

 

「ふもっ、ふむぅ!うぉ……うぉっぷぁいぃぃぃぃぃぃぃぃ!!ふごっ!ふごっ!ふごぉぉぉぉ!!」

 

 犬みたいに呼吸を荒げ、乙女が出してはいけないような重鈍な声を出しながら、その大きく実ったおっぱいの間に頭部をねじ込み続ける。その眼差しは、まるで飢えた獣のようだった。

 

 ふにゅんふにゅん。その巨乳を両手で鷲掴みにし、揉みしだく。ルーチン様の指の圧力を受けた肉の果実は、目まぐるしくその形を変える。

 

 プチ皇女はオヤジみたいな声をもらす。

 

「むふ、むふふふ!むふふふふふふ!何という理想的なおっぱい!形、大きさ、柔らかさ!全てが完璧!芸術的ですらあるっ!!」

 

「ちょ、ちょっと殿下……だめです……これ以上は……あんっ!」

 

 ライライは言葉の最後で、艶めかしく喘いだ。

 

 ルーチン様が、乳房の「尖端」を服越しに摘んでいた。

 

「ふむふむ!乳輪も綺麗な円形で、尖端の大きさも程よいものじゃ!ま、間違いない。これこそわらわが長年探し求めてやまなかった神なる双丘!いただきむぁぁぁす!!」

 

 なんと、その「尖端」を服の上からパクッと咥えたではないか。

 

 そのまま…………ちゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!

 

「ふぁあああああああああああんっ!!」

 

 ライライが艶っぽい悲鳴を上げた。

 

 しかし、それすらも構わず、一心不乱に尖端を吸い続けるルーチン様。一週間ぶりに餌にありつけた肉食獣のように血走った目だった。

 

「んむっ!んちゅっ!ちゅぅぅぅぅ!!はむっ!ちゅぅっ!うぉっ、うぉっぷぁぁぁぁぁぁい!!」

 

「や、あ、んぁん!やだ!だめぇ!そんな、そんなに吸っちゃ……あぁんっ!!だめぇ!!だめぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 顔を真っ赤にし、甘ったるい叫びを上げながら、首を左右に振るライライ。

 

 ……一体、何が起こっているのでせうか。

 

 眼前では、今なお謎の淫行が続行されている。

 

 これ、どうすればいいんだろう。

 

「早く終わらせてくれぬものか……」という陛下の疲れた独り言を耳でとらえつつ、そう思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ルーチン様による突然のセクハラ行為は、皇女殿下が三発のゲンコツを叩き込んだことでおひらきとなった。もし漫画なら、ルーチン様の頭にはタンコブが鏡餅よろしく三段重ねになっていることだろう。

 

「誠に失礼した!うちの愚妹が済まぬ!」

 

 皇女殿下は妹の頭を押してお辞儀させつつ、自身も深くこうべを垂れた。まるで親子揃っての謝罪シーンのようだ。

 

「ほら、お前も謝るんだっ」と肘で小突かれたルーチン様も「……ごめんなさいなのじゃ」と弱々しく口にした。

 

「お、おやめ下さい。私はもういいですから」

 

 ライライは散々揉まれ吸われを繰り返した我が胸を腕で隠しつつ、柔和な笑みを作ってそう言った。その頰はいまだ熱に浮かされたように火照っており、声もどこかとろけた感じがする。

 

「我が愚妹は異常なほどの乳狂いでな、ライライのような立派な乳を目にすると、跳びかからずにはいられないタチなのだ」

 

「は、はぁ」

 

 ライライは「どう返せばいいのか分からない」といった表情で一応の相槌を打った。うん。もし本当にそう考えていたのなら、ボクも同意だ。

 

 ルーチン様は下げた頭を少し上げた。涙を含んだ上目遣いで遠慮がちに被害者(ライライ)を見つめながら、

 

「その…………本当にすまなかったのじゃ。そなたの乳があまりに見事であったゆえ、頭のタガが外れてしまっておった」

 

「み、見事だなんて、そんな事はありませんよ。無駄に大きいばっかりで……子供の頃から笑われたりからかわれたりしてきたんですから」

 

「何を言う!素晴らしいおっぱいであったぞ!その乳に顔を埋めた瞬間、宮廷御用達の枕さえ敵わないほどの柔らかさがわらわの頭を包み込んだのじゃ!つかめば指が面白いほどよく沈む柔和きわまる乳房の感触は、まさに神が人の身に与えたもうた神秘! 吸っても母乳が出てこないことは誠に残念であったが、そこは想像力で補った!そなたを揶揄した者どもは全くもって目が腐っておる!こんな神なるおっぱいを見たら、普通なら拝み倒したくなるものではないのかっ!」

 

 どうしよう。こんな酷い会話聞いたの初めてだよ。とんだおっぱいマイスターである。

 

 ライライも笑みが引きつっている様子。

 

 しかし、スケベオヤジよろしく緩みまくったルーチン様の表情が、突然哀愁のようなものを帯びた。

 

 

 

「それに……凄く良い匂いじゃった。まるで、顔も見たことの無いはずの母上を思い出したのじゃ」

 

 

 

 ボクとライライは揃って息を呑んだ。

 

 母上とはすなわち、皇后様のことだろう。

 

 けど、その方は今、この場にはいない。いや、この世界にすらいない。

 

滄奥市(そうおうし)】にて、皇女殿下は身バレ防止に隠していた純金の指輪を「母上の形見」と表現していた。つまり、もう皇后様は亡くなっているということだ。

 

 皇女殿下は静かに目を閉じ、そしてすぐに開いて答えた。

 

「……我らの髪の色は母上譲りだ。その母上は、十年前にルーチンを出産して間も無く身罷(みまか)られた。ルーチンがそこまで乳狂いなのは、母上の死が関係しているのだ。こいつは母親の顔を見たことがない。ゆえに、母という存在に対する憧れが人一倍強いのだ。その憧れが屈折し、やがて母性の象徴とたびたび形容される女の乳への妄執へと変わった。厳密に言うと、こいつは乳を求めているのではない。その乳の向こう側に、母親を求めているのだ」

 

 そういうことだったのか。そこまで聞くと、同情の気持ちが湧いて来ないでもない。……乳乳連呼しているところにはこの際目をつぶろう。気にしたら台無しな気がするから。

 

 ルーチン様は潤んだ上目遣いで、なおもライライの方を見つめている。まるで母親に冷たく扱われた子供のような表情だ。

 

「だから、こいつの事を好いてくれとは言わない、けど嫌わないでやってくれぬか?馬鹿で我儘で悪戯好きで気まぐれで生意気な奴だが、悪い奴ではないのだ。どうか、伏して頼む」

 

 皇女殿下は深々と頭を下げた。

 

 為政者としてではなく、一人の姉として。

 

 ライライは瞳を閉じ、遠い日に想いを馳せるような笑みを浮かべて言った。

 

「……私も、幼い頃に父を亡くしています。なのでルーチン殿下のお気持ち、幾ばくか察する事が出来ます」

 

 細く長い美脚がたおやかに数歩進み、しゃがみ込む。

 

 ルーチン様の頭に、ライライのなめらかな手が優しく置かれる。

 

 今の彼女の顔は、まるで母親のように慈愛に満ちていた。

 

「嫌いになんてなりませんよ。どういう理由であれ、私を好いてくださったのなら悪い気は致しません。こんな粗末な胸でよければいくらでもお貸しします」

 

「ほんとうか!?」

 

「はい。ですが……さっきみたいに乱暴なのは、その……遠慮して頂けると……」

 

「わ、わかったのじゃ!今度からなるべく自分を抑える!」

 

 恥ずかしそうに言葉を尻すぼませていくライライに、ルーチン様は活き活きと頷く。さっきまで泣きそうだったのが嘘のように、晴れやかな笑みとなっていた。

 

 ふと、小さな皇女は大切な事を思い出したようにハッとした。

 

「そ、そういえばそなた、名はなんという?」

 

「ライライです。宮莱莱(ゴン・ライライ)

 

「ライライ……うむ!たしかに覚えた!むふふ、うりゃ!」

 

 ルーチン様は嬉々として、ライライの胸の中へむにゅん、と飛び込んだ。さっきみたいな欲望劣情丸出しな飛び込み方ではなく、しなだれかかって甘えるような感じで。

 

 胸の谷間に頭を埋めながら「ふふふー」ととろけた声を出す小さな皇女。あっけにとられたように目をぱちくりさせていたライライも、すぐに表情を和ませて焦げ茶色の髪をさらさら撫でる。

 

 が、すぐに我に返り、慌てて手を引っ込めた。

 

「ご、ごめんなさい。いきなりこのような馴れ馴れしい事を!」

 

「どうしてじゃ?もっとして欲しいのじゃ」

 

「ありがとうございます。ですが、いずれにせよ私はすぐにここから去らなければならないのです。申し訳ありませんが、ここで離して頂かないと」

 

「え……帰ってしまうのか!?嫌じゃ!もっとライライと一緒に居たいのじゃ!」

 

「ルーチン」

 

 幼い子供を軽く叱るような声色で、ティエンチャオ殿下が呼びかける。

 

「我が儘を言ってはダメだよ。誰にだって帰るべき場所があるんだ。君だって家に帰りたいのに帰れなくなったら困るだろう?」

 

「でもっ」

 

「いいかいルーチン、僕らは為政者だ。為政者の発する言葉は、民には(ちょく)として認識される。ゆえに僕らは口にすべき言葉を慎重に選ばなければならないんだ。君が何気なく口にした発言が、誰かの人生を大きく狂わせてしまう事だってあるんだよ。君は宮莱莱(ゴン・ライライ)を慕うその声で……彼女を不幸にしたいのかい?」

 

「っ。わ、分かったのじゃ……」

 

 上手いこと言いくるめられてしまったルーチン様はライライから離れ、沈んだ顔で俯いた。

 

 彼の言っている事はもっともなのだが、なんだかちょっと可哀想に思えてきたかも。

 

 そう考えた瞬間、ライライが開いた距離を埋める形で一歩近づいた。目線の高さをルーチン様に合わせ、表情を緩めながら、

 

「大丈夫です。これでお別れじゃありませんから。また会えますわ」

 

「ぐすっ……ほ、ほんとうか?また、わらわに会いに来てくれるか?」

 

「はい。ルーチン殿下が良い子になって、お勉強もお稽古事も頑張ったら、いつかきっと会えます」

 

「分かった。わらわ、もう勉強サボらないのじゃ。父上や兄上の言うこともちゃんと聞く。家庭教師に薬を盛ったりもしないのじゃ。良い子にするのじゃ。だから、だからまた会いに来てたもれ」

 

 はいっ、とにっこり返事するライライ。まるで小さな子供に「良く出来ました」と褒めるみたいに。

 

 すごい。いい感じに(しめ)たよ。ライライにこんな才能があったなんて。

 

 驚愕を示したのはボクだけではなかった。

 

「……これは驚いたな。滅多に人に懐かないあのルーチンをここまで手懐けるとは」

 

 陛下が心底驚いたように言呟いた。

 

 おとがいに指を当てて考える仕草をしばらく見せ、やや歯切れ悪く次のように持ちかけた。

 

 

 

宮莱莱(ゴン・ライライ)よ、物は相談なのだが……しばし、我が娘ルーチンの近侍(きんじ)として雇われる気は無いか?」

 

 

 

 ライライは一瞬石化したように固まってから、自分の聞いた事が理解できないとばかりに確認を取った。

 

「近、侍?つまり、ルーチン様の側仕えになれと仰るのですか?」

 

「左様である」

 

「む、むむむむむ無理です無理です!わ、私、皇族のお側付きになれるほどの教養なんて欠片も持ち合わせていないんですから!」

 

「そう身構えずとも良い。何も東宮傅(とうぐうふ)になれと申しているわけではないのだ。ルーチンの側にいて、面倒を見てやってくれればそれで良い。そなたはこのじゃじゃ馬娘に懐かれ、かつ見事に手懐けられる手腕の持ち主だ。そなたが近くにおれば、ルーチンの暴れん坊ぶりもなりを潜めるやもしれぬ。それにそなたの武法の腕前ならば、万が一ルーチンに危険が迫った場合でも守ってやれるしな。無論、少なからずの報酬も出そう。どうだ?期限はこの帝都に滞在している期間中で構わぬ。受けてみる気はないか?」

 

 ライライは陛下から目を離し、下を見つつ黙考した。

 

 その途中、彼女は何か名案が浮かんだように顔色を明るくすると、視線を再度玉座に戻して答えを出した。

 

「分かりました。この宮莱莱(ゴン・ライライ)、ルーチン殿下付きの近侍の任を拝命致します。ですが陛下、報酬には金品ではなく、別の物をお願いしたく思います」

 

「申してみよ」

 

「——私と、ここにいるミーフォンの衣食住の保証を」

 

 陛下と、ミーフォンが同時に眼を(しばたた)かせた。

 

「そのようなもので良いのか?」

 

「はい。むしろ、とても嬉しく思います。元々、私とミーフォンは本戦参加者ではなく、シンスイの後をついて来ただけなのです。ですので、宿泊費の工面に難儀しておりました」

 

 ライライの口調には、最初のようなおっかなびっくりさが無くなっていた。陛下と話す事にだいぶ慣れたようだ。

 

 陛下は少し間を置いて、重々しく頷いた。

 

「よかろう。ならば早急にいずこかの宿を手配しよう。ティエンチャオ、頼めるか?」

 

「御意」

 

 ティエンチャオ殿下は涼しげに返事をすると、無駄のない洗練された歩様でボクらの横を通り過ぎ、両開き扉から出て行った。それに数人の護衛官が付き従った。

 

 途端、ルーチン様は我慢を解き放つようにライライの腰へ抱きついた。

 

「ライライっ!やったのじゃ!これからも一緒にいられるのじゃ!」

 

「ふふふっ、だから言いましたでしょう?また会える、と。これからしばらくの間、よろしくお願い致しますね」

 

「わかったのじゃ!うふふー!ライライ、ライライっ!」

 

「あ、でもお勉強とかはちゃんとしなきゃダメですからね?」

 

「うん!わらわ、頑張る!だから、いっぱい甘えさせて欲しいのじゃ!おっぱいもたくさん触らせて欲しいのじゃ!」

 

 心底幸せそうに頬をすり寄せるルーチン様を、流石のライライも可愛いと思ってしまったのだろう。フニャッとした笑いを浮かべ、その焦げ茶色の髪を撫でる。

 

「では、色々とゴタゴタしたが、今度こそ終わりとする。各々、用心してお帰り願おう。だが宮莱莱(ゴン・ライライ)、そなたはもう少し残ってもらいたい。これからの予定を詳しく話さねばならぬゆえ、な」

 

 座から立ちながらの陛下の発言に、ボクら三人は同時に頷いた。

 

 ミーフォン達の寝床が見つかったのはまさに僥倖だ。「芸は身を助く」とはよく言うが、ライライの場合は「おっぱいは身を助く」であったようだ。……上手くないね、うん。

 

 不透明だった先行きに希望を見出した二人の表情には、少しだけ生気が増している気がした。

 



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三つ編み伊達眼鏡少女、再び

 これからすぐに帝都の観光!といいたいところだけど、長旅で疲れているボクら三人は満場一致で「休む」という方針を固め、帝都観光は明日へ延期した。

 

 ボクとミーフォンは【熙禁城(ききんじょう)】を後にしてから、その入口の門前で立ち止まった。これからの仕事について説明を受けているライライを待ち、しばらくして合流した後に歩き出した。

 

 ルーチン様の近侍という大役を突然任ぜられたライライは、その仕事についての説明、これからの予定、用意された宿の場所などを教わった。聞くと、仕事が始まるのは明後日(あさって)かららしい。

 

 ……少しばかり話が変わるが、ボクは自分が泊まる宿がどこなのかをすでに聞かされていた。東の大通りから少し北寄りの場所にある『呑星堂(どんせいどう)』という旅館だ。『文礼部』から【熙禁城】へ行く途中に、あの男性官吏が教えてくれたのだ。

 

 なんとライライ達が宿泊する予定の場所も、その『呑星堂』だった。つまり、ボクら全員おんなじ宿ということである。

 

 これは偶然だとは考えにくい。ボクら三人組がバラバラにならないよう、ティエンチャオ殿下あたりが気を利かせてくれた確率が高い。

 

 まあ、どういう意図があろうと別にいいだろう。この二人の寝食が保証されたんだから。

 

 午後の日差しが弱まり、夕日になりつつある時間帯。ボクらは東へ真っ直ぐ伸びる大通りを歩いていた。目的地は無論『呑星堂』。

 

「いや、それにしても助かったわよ。まさかこんな形で寝床を確保できるなんて。しかもお姉様と同じ場所!これも全部あんたのこの乳のお陰よ、ライライ」

 

 ミーフォンは景気良く笑いながら、ライライの胸の片方を鷲掴みにした。彼女は「ひゃっ」と声を上げると、恥ずかしそうに胸を庇った。

 

 ライライは恨みがましい涙目で軽く睨みながら、

 

「そんな乱暴に掴まないでっ」

 

「ごめんごめん。それより、【熙禁城】に入るための通行手形的なブツを貰ったって言ってたわよね?それちょっと見せなさいよ」

 

「……少しだけよ?あんまり人に見せびらかして良いものではないんだから」

 

 トーンを落とした声で言いながら、ライライは腰のポケットからソレを出した。往来する人々の目に付かないよう片手で壁を作り、ボクらだけにこっそり見せた。

 

「「おお……」」

 

 ボクとミーフォンは揃って感嘆した。

 

 掌にギリギリ収まるほどの、金色の円盤だった。その表面には【吉火証(きっかしょう)】の裏面に刻印されているものと同じ、玉璽(ぎょくじ)の印が刻み込まれている。

 

 これが、【熙禁城】の内廷へ入るための許可証となるらしい。皇女の近侍という職業柄、どうしてもこういったモノは必要になる。

 

 しばらく見せてから、ライライは焦った手つきでポケットに戻した。この紋章を見られたら、盗みに来る奴がいるかもしれないと警戒しているのだろう。

 

 ボクは軽く礼を述べてから、今回の予期せぬ朗報へ話を戻した。

 

「とにかく、良かったじゃない。しかも寝床だけじゃなくて食事まで付くって話なんだから」

 

「そうですね、お姉様。あとライライ、くれぐれもルーチン殿下に粗相の無いようにね。あんたが近侍をクビになったら、必然的に宿にもいられなくなるんだから」

 

「もう、他人事だと思ってっ。働くのは私なんだから、もう少し気の利いた言葉をかけて欲しいわ」

 

「ごめんごめん。でもあんた、満更でもないんでしょ?ルーチン殿下の相手するの」

 

「まあ、それは、そうだけど……」

 

 ライライはバツが悪そうに言葉を尻すぼませていくと、逃げるように手元の紙へ視線を移す。そこには『呑星堂』への地図が簡単に描かれている。

 

 ボクは地図を横から覗き込みつつ訊いた。

 

「まだ宿までかかりそう?」

 

「ええ。東の大通りから少し北寄りに進んだ所にあるみたいだけど、『呑星堂』がある通りへの入口を示す目印がまだ見つからないわ。地図上では【熙禁城】の近くにあるように見えるけど、思ったより時間がかかりそうね」

 

「それだけこの帝都がだだっ広いってことだわね」

 

 ミーフォンの言う通りだった。流石は国の心臓部だけあって、とんでもなく広大な都市である。

 

 すでに夕方になっているせいか、到着したばかりの時より人通りが少なくなっている。が、それでも他の街なんか目じゃないってくらい密度が高かった。

 

 終わりがなさそうなほど長い石畳を踏み歩いてしばらくすると、ようやくライライが左の脇道へと曲がった。盛況な往来が一変、控えめなものとなる。大通りに比べてかなり狭まった街路の端に建ち並ぶ建物が地面に影を落としていて、人が三々五々散って行き交っている。大通りに比べると寂しいが、それでもそれなりに人はいて、陽当たりもそんなに悪くない。

 

 間も無くして、軒を連ねる建物に旅籠(はたご)などの宿泊施設の割合が増えていった。人通りの多さによる喧騒から離れた所を選んで営業しているのかもしれない。その方が客も静かに休めるだろうから。

 

 ライライの足が止まり、右へ爪先を向けた。その先は脇道ではなく、建物。

 

 つまり、目的の宿へ到着した事を意味していた。

 

「へぇ……なかなか良いトコじゃないの」

 

 その建物を見上げたミーフォンがそう言葉をこぼした。

 

 前方に大きな庭を備えた、横幅の広い三階建ての木造建築物。屋根や庇に施された装飾は年季が入っているが、新築同然な綺麗さをもつ窓、整然と物の配置がなされた敷地内から見て、手が届く範囲は手入れを怠っていないことが見て取れる。

 

 日本の温泉旅館を彷彿とさせる外観を誇示するその宿は、それなりに格式が高そうな感じである。こんな所を用意してくれるなんて、お上も太っ腹なことだ。

 

 敷地はボクの胸の高さほどの柵に囲まれており、開かれた正門に被さっている屋根の軒下には、美麗かつ豪快な書体で『呑星宮』と大きく彫られた看板。

 

 途端、ボクらの間に満ちた空気が緩んだ。「やっと休める」。そんな気持ちが同調したのだろう。

 

「さて、それじゃあこの辺りで解散にしようか。各自、自分の部屋で休むということで」

 

 ボクはやや声高にそう持ちかけた。

 

 ライライは肩をトントン叩きながら、

 

「はぁ、やっとちゃんとしたお風呂に入れるわ」

 

「え?ライライ、ここってお風呂あるの?」

 

「らしいわ。しかも温泉だそうよ」

 

「「温泉!」」

 

 その素敵すぎる単語に、ボクもミーフォンも揃って目を輝かせる。

 

「入ろう!早く荷物置いて入ろう!」

 

「はい!あと、お姉様の全身はあたしが隅々まで洗ってあげますから!」

 

「お断りします!」

 

 早歩きで門をくぐり、入り口まですたこらさっさと向かう。

 

「あ、ちょっと待ってよ!」

 

 ライライが慌てて駆け足でついてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、入口の受付にて全員の本人確認が取れ、めでたくそれぞれの部屋へと案内された。

 

 良さげな外観に違わず、部屋もなかなか広くて素敵であった。けれど部屋を堪能するのはひとまず後回しにすることにしたボクは、そこへ荷物を置き、風呂へ行く準備を整えてから部屋を出た。

 

 浴室は大浴場型で、脱衣所から飛び出してすぐ大きな浴槽に遭遇した。浴槽を形作る真新しげな木材が心地よい木の香りを湯気につけていた。即座に飛び込もうとしたボクら二人を、まずは体を流しなさいとライライが止めた。

 

 体がしゅわしゅわになるくらいこの世の極楽を享受した後は、食堂で出された夕食を食べた。おいしかった。

 

 それから、各々の部屋へと引き返した。

 

「ふう……」

 

 ボクは部屋に置かれた椅子に腰を下ろすと同時に、気の抜けた吐気を出した。

 

 奥行きはそこそこで、横に広がった空間。部屋と廊下を繋ぐ扉から見ると、中央には小さな円卓と二つの椅子があり、右の壁には化粧台や衣装棚、左の壁には二人ほどが寝られそうな大きさのベッドが置かれている。奥には二つの窓が貼られており、すっかり日が沈みきった外の暗さを見せていた。

 

 天井にぶら下がる丸い行灯が、煌々と光を灯していた。まるで満月が降りてきたようなその白い輝きは、どう見ても火ではない。白熱電球にも負けない光量であった。

 

鴛鴦石(えんおうせき)』という鉱物だ。「雄石(おいし)」と「雌石(めいし)」の二種類が存在し、それらは接するとまばゆい光を放つ性質を持っている。その性質を利用した照明器具が作られているが、石の産出量はあまり多くないため高額であり、宮廷や裕福な家庭にしか置かれていないのだ。代わりに、『鴛鴦石』一セットは二〇〇年ほどもの寿命を持つため、非常に長持ちする。

 

 背もたれに体重を預け、椅子を何度も軽く揺らす。

 

 薄手の半袖に、かぼちゃパンツのように膨らんだ長ズボン。それが現在着用している寝間着だった。向かって右方向の果てにある化粧台の鏡には、三つ編みを解いて髪を下ろしたボクが見える。ひどく気だるげな顔だった。

 

 椅子を前後、前後、前後と幾度も揺らすうちに、まどろみが襲ってきた。ベッドが放つ求心力に体が反応し、視線が否応なくそちらへ向く。帝都に着くまで、まともな寝具にありついた試しがなかったのでなおさらだ。

 

 しかし、ボクはいかんいかんと首を勢いよく横に振り、気をしっかり持った。

 

 まだ寝るわけにはいかない。一つだけ、やっておきたい修行があるのだ。

 

 ここ最近の間、やりたくてもずっと出来なかった修行が。

 

「よしっ」

 

 気合いを強引に入れ、椅子を立った。

 

 まず、窓の外側にある雨戸を閉じ、外から部屋の様子が見えないようにする。

 扉の施錠がなされている事を確認。

 化粧台の影、衣装棚の中、ベッドの下などに人が隠れていないかを調べる。

 壁や天井や床に、覗き穴のようなものが無いか精査。

聴気法(ちょうきほう)】を使い、廊下側から覗こうとしている者がいないかをチェック。

 

 念入りな下調べをしばらく続け、「問題なし」と判断。この部屋はボク以外誰もいない密室で、その中の状況を覗く方法や人物も一切存在しない。

 

 ボクは鞄を探り、巾着型の財布を取り出す。さらにその中から硬貨を一枚用意。

 

 円卓と化粧台の中間にある、比較的広いスペースへと移動した。

 

 そこで再度【聴気法】で廊下を探査。覗いていると思わしき人の【気】は無し。

 

 かなり神経質にチェックを続けるボクだが、これには理由がある。

 

 ——この修行法は、"絶対に"誰かに見せてはいけないからだ。

 

 武法の伝承は、その流派の技術を盗み取られないよう、基本的に周囲の目から隠れた場所で行うものだ。ここまで目ざとく周囲を確認するのは、そういう武法の世界における基本的慣習ゆえである。

 

 しかし、今から行う修行を隠したい理由は、それだけではない。もう一つある。

 

 もしもこの修行を誰かに見られでもしたら——ボクの人生(●●●●●)が終わる(●●●●)からだ。

 

 この修行は、国家からは厳しく禁じられているものである。もしソレを行なっているのがバレれば、せっかく授かった二度目の人生を鉄格子の中で過ごすハメになってしまうだろう。

 

 それを承知で、ボクがやるのだ。これもまた、レイフォン師匠から授かった大切な伝承の一つなのだから。

 

 ……さあ、始めよう。

 

 覚悟を決めたボクは、持っていた硬貨を親指で宙に弾いた。

 

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 それから翌日。

 

 久しぶりのマトモな寝具は驚くほど寝心地が良かったようで、目覚めはすこぶる良かった。こんな良い目覚めは何日振りだろうか、と思わずにはいられなかった。

 

 いつもなら夜明け前の時間帯に起きて、朝日が顔を出すまで武法の修行に励むはずなのだが、今回は夜明けを余裕でぶっちぎった時間に起床してしまったようだ。まあ、たまには良いだろう。

 

 それに今日、ボクにはきちんとした予定があるのだ。

 

 この帝都を、三人で観光するという予定が。

 

 せっかく帝都まで来たのだから、ここでしか出来ない何かをやろう。昨日の夕食の席でそう訴えたら、二人も賛成してくれて、とんとん拍子で今日の予定が決まったのである。

 

 それに、ライライは明日から宮廷で働くことになっているのだ。遊べる日は今日くらいしかないだろう。

 

 そんなわけで、ボクらは朝食を済ませ、宿の限界から外へ出た。

 

 いざ正門を出ようとしたその時である。門口の端の影から、一人の少女が姿を現したのは。

 

「遅かったなっ!」

 

 腰に両手を当て、嬉々とした様子で声をかけてきた。

 

「……!」

 

 その姿を目にした瞬間、ボクは思わず息を呑んだ。

 

 見覚えのある、いや、ありまくる人物だった。

 

 長いチョコレート色の髪を後ろへ上げておデコを出し、うなじの辺りでひと束の三つ編みを作った髪型。気品と快活さを同時に連想させる瞳と、それを覆う丸い伊達眼鏡。袖の丈がやや余った上衣に、ひだが等間隔に走った袴のようなワイドパンツ。

 

 スポーツも達者な文学少女。そんな感じの印象を与えてくるその少女は、

 

「昨日ぶり——ではなく、【滄奥市(そうおうし)】以来だな、シンスイ」

 

 見間違えようもなく「羅森嵐(ルオ・センラン)」であった。

 

 彼女を見て、ボクの中に二種類の感情が生まれた。

 

 一つは「また会えて嬉しい」という感情。

 もう一つは「どう接するべきか」という困惑。

 

 ボクの中では、後者の方が大きかった。

 

 ただの武法好きな女の子……というのは仮の姿。その正体は畏れ多くも煌国第一皇女、煌雀(ファン・チュエ)殿下その人であらせられる。

 

 どうしてこんな所にいるのかは知らないが、正体を知っている今、以前のように馴れ馴れしく接する事は許されない。

 

 膝を付こうとする初動を見せたボクら三人を、皇女殿下が掌を突き出して制した。

 

「ま、待て待て待て!跪かずとも良い。無礼講で頼む」

 

「で、ですが……」

 

 ボクは弱り切った態度を示す。

 

 こういうパターンが一番判断に困る。本人は無礼講にしろと言っているが、立場上そうはいかない。かといって彼女の意を完全に無視するのも無礼っぽくて気が引ける。板挟み状態だ。

 

 皇女殿下はんんっ、と咳払いすると、威勢良く宣言した。

 

 

 

「——我が名は羅森嵐(ルオ・センラン)!更なる功力とまだ見ぬ武法を求めてその日暮らしの日々を過ごす、一介の女流武法士であるっ!!青き血の御方々とは縁もゆかりも無い!あるのはただ鍛え上げた【心意盤陽把(しんいばんようは)】と武法への愛、そして己の名のみだっ!!」

 

 

 

 少年漫画の登場シーンよろしく「ドンッ!」という荘厳な効果音が鳴った気がした。

 

 一方、ボクらはどうリアクションを取っていいか分からず、揃って口をあんぐり開けっ放しにしていた。

 

 そんなボクらに構わず、三つ編みの少女はさらに続けた。

 

「ふふふ、シンスイよ。よもや“私”が非合法的に市井へ出てきたのではと思っているのではあるまい?」

 

「え?いや、まあ……」

 

 はい。めっちゃ思ってます。今頃【熙禁城】は大騒ぎかもね。

 

 曖昧さという遠回しな肯定を示したボクに対し、皇女殿下は少しも気を悪くする素振りを見せずに言葉を連ねた。

 

「ところがどっこい、そうではないのだよ。シンスイ、昨日私はキミ達が帰ってしまう事に対して父上に不満を表したが、その時、父上がそんな私に何と言ったか覚えているだろう?」

 

 ボクは少し黙想して考え、すぐに答えを手繰り寄せた。

 

『チュエ。今、お前は「皇女」であるぞ。その意味が分かるな?』

 

 瞬間、ボクは彼女の言いたいことを察した。

 

「……そういうことですか」

 

「そういうことだっ」

 

 ボクの問いかけに、自信満々に伊達眼鏡を光らせる。

 

 つまり彼女は「今の自分は市井の武法士「羅森嵐(ルオ・センラン)」であり、第一皇女の「煌雀(ファン・チュエ)」ではない。だから市井に降りてきても何も問題はない」と言いたいのだろう。

 

 ぶっちゃけ、屁理屈な気がしないでもない。陛下は本当にそんなニュアンスでおっしゃったのだろうか。

 

 けれども目の前の第一皇女は自身の正しさを一切疑わぬ顔でまたも豪語した。

 

「それに、父上に死ぬほど叱られたのは、城を抜け出して庶民のフリをしていた事よりも、この帝都から遠く離れた【滄奥市】まで行ってしまった事の方が大きい。一日中帰らないなんて事が無い限り、父上の逆鱗に触れる事などあり得んよ」

 

 本当かなぁ。

 

「というわけだから、シンスイ、そして二人とも、今日は私が帝都を案内してやろう。どうせ今日一日見て回るつもりだったのだろう?ならば、その物見遊山がより楽しくなるように一肌脱ごうじゃないか」

 

 腰に手を当てながら力強く告げた。

 

 どうしようかな……

 

 ぶっちゃけた話、リーエンさんあたりにチクった方が良い気がしないでもない。もうボクらは目の前の三つ編み伊達眼鏡少女の正体を知っている。知らなかったならまだしも、知ってて連れ回したとなったら超怒られそうだ。下手をすると何か罰を受けるかもしれない。

 

 そう。ボクらの保身を第一に考えれば、ここで袖にするのが一番なのだ。

 

 しかし。

 

「……やっぱり、ダメか?」

 

 最初の自信満々な表情からどんどん曇っていく皇女殿下を見ると、それを選んではいけない気分になってくるのだから卑怯だと思う。

 

 大きく吸い、吐く。凝り固まっていた思考が緩み、寛容な気分になる。

 

「——分かったよ。それじゃあ、お願い出来るかな?「センラン」」

 

 諦めたような微笑みとともに、「センラン」の提案に乗っかる意思を示す。

 

 ライライ、ミーフォンからの反論はない。二人もボクと似たような笑いを浮かべていた。

 

 伊達眼鏡の奥にある琥珀色の瞳が、じんわりと潤いを帯びる。

 

「……シンスイっ!!」

 

 ボクの胸に勢いよく飛び込み、抱きついてくるセンラン。

 

「ありがとう!また、一緒にいられるのだなっ!わら、私、とても嬉しい!」

 

「う、うん。そっか」

 

 間近に迫る高貴な美貌は、さんさんと輝かんばかりの笑みを咲かせていた。その不可視の陽光に目が眩んだボクは思わず目をそらす。

 

 良い香りとともに、ボクの胸にふにふにと柔らかな感触が押し当てられる。ルーチン様曰く「貧相」なソレは、なかなか豊かなボリュームを誇っていた。

 

「こらこら、そんなにベタベタしないのっ。そろそろお姉様から離れなさい!」

 

 早くも「センラン」だと割り切ったらしいミーフォンは、センランを無遠慮に引っぺがそうとする。だがセンランは「あぁん、もう少し良いだろうっ?」と中々離れない。

 

「センラン、くれぐれもボロを出さないように注意してね」

 

 後ろに立つライライが、やんわりと念を押した。押された本人はチョコ色の三つ編みを尻尾みたいに振りながら「無論だ!」と返した。

 

 ——これで全員「センラン」だと扱う意思の確認が取れた。

 

 

 

 でわでわ、物見遊山へれっつごーである。



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物見遊山

「センランのことだから、いきなり【武館区】あたりに行くと思ってたけど……」

 

 ボクの隣を歩くミーフォンが呟く。

 

 先頭を歩くセンランはくるりと振り向き、両手を広げて楽しげに笑った。

 

「私はキミたちを楽しませると決めてついて来たのだ。まずはそれが先だろう。それにこの帝都には面白おかしいもの、美味いものが山ほどあるっ。それらを余すことなく見せようじゃないか」

 

 再び前を向き直る。その弾むような歩調から、心底嬉しがっていることが容易に見て取れる。そこまで喜んでくれているなら、突っぱねなくて正解だった気がする。

 

 快晴の朝日の下。『呑星堂(どんせいどう)』を出て、西の大通りを歩行している三人+一人。まだ朝早いため人通りはそれほどでもなく、商売を始めている店もまばらであった。

 

 現段階で開店している店は、飯店や甘味処がほとんどである。きっと、店へ朝ごはんを食べに来る人が少なからずいるのだろう。というか、実際いた。今見た。

 

 そんな事情を、帝都を根城にしているセンランが把握していないはずは勿論なく、次のように提案してきた。

 

「よっし、それじゃあまずは腹ごしらえといこうではないか!腹が減っては武法はできんからな」

 

「いや、ボクたち全員朝ごはん食べてるんだけどな」

 

「だが甘いものは別腹、と言うであろう?これから向かうのは軽く食える甘味処だ。わら、私のオススメの場所に連れて行ってやる。心せよっ」

 

 鼻息荒くして豪語する三つ編み伊達眼鏡。ところどころで「(わらわ)」と言いそうになるのが実に危なっかしい。

 

「オススメって……センラン、君ってそんなに頻繁に市井に下りられる立場なのかな?」

 

「いや。変装した上でこっそり抜け出している。ちなみにこの格好以外にもいろんな装いがあるのだ」

 

 この国の未来が不安になってきた。

 

 会話を弾ませながらたどり着いたのは、東の大通りをさらに進んだ先にある一件の甘味処だった。商品の陳列台と一体化した勘定台にはすでに客が列を成していた。センランを先頭にして、ボクらもその列の一部と化す。

 

 空気に甘い香りが宿る。ご飯を食べて間もないはずなのに、空腹感が訪れた。

 

「私のオススメはあれだ。『甜雲包(ティエンユンパオ)』という」

 

 センランの指が指し示すのは、ズラリと並列した皿上の甘味(スイーツ)達の一つ。入道雲のように所々膨れ上がった丸い輪郭と肌色の生地を持つお菓子だった。他のお菓子に比べて個数が明らかに少ないところを見ると、かなり人気の品であるようだ。

 

 って、あれ?あのお菓子、どこかで見たことがあるような——

 

「もしかして…………シュークリームっ!?」

 

 思わず声を荒げたボクに、並んでいる人たちの視線が集中。が、すぐに興味を失って他の方向を向いた。

 

 ちまちまと服の裾を引っ張ってくるミーフォン。真後ろへ振り向いた。

 

「お姉様、どうしたんですか?しゅう、って何です?」

 

「へ?い、いや、何でもない何でもない」

 

 可愛らしく小首を傾げる我が妹分を尻目に、ボクは再度『甜雲包(ティエンユンパオ)』とやらへ視線を移す。

 

 ……やっぱり、どう見てもシュークリームではないか。

 

 まさかこの異世界でお目にかかれる事になろうとは。

 

 思えば、前世のボクは病院食ばっかりで、シュークリームみたいなスイーツを食べたことは滅多になかった。

 

 これは楽しみになってきた。早く来い、ボクの番。

 

 その後も順調に列は潰れていき、とうとうボクの前に並ぶセンランの番となった。

 

「『甜雲包(ティエンユンパオ)』一つ頼もうか」

 

「はいよっ」

 

 元気の良い返事とともに、店のオヤジさんが注文の品を取る。最後の一個を。

 

「あ……」

 

 支払いを終えて商品を手に取るセンランの姿を、ボクは悲壮感あふれる表情で見つめる。ー

 

 彼女が列から抜け、ついにボクの番となった。

 

「らっしゃい。何が欲しいんだい、お嬢ちゃん」

 

 気さくに訊いてくるオヤジさん。

 

 ボクは死にかけた魚のような目つきで適当に見繕い、それを指差した。

 

「……それ、お願いします」

 

 真っ黒い箱を。

 

 

 

 

 

彩饅頭(ツァイマントウ)』というお菓子があることは、煌国グルメに明るくないボクでも知っている。

 

 練った小麦粉の生地に具材を包み込んだモノを「包子(パオズ)」と呼び、具材が入っていない小麦粉の生地だけのモノは「饅頭(マントウ)」と区別する。

 

 饅頭はいわゆる蒸しパンのようなもので、汁物と一緒に食べたり、肉を挟んだりするのが主流だ。

 

 それともう一つ、饅頭の生地自体に何らかの味付けをするという食べ方がある。饅頭生地自体は味が無いため、それでは寂しいと感じたどこかの料理人が味付けという方法を考えたそうな。その結果、甘い饅頭、辛い饅頭、塩気のある饅頭、牛乳風味の饅頭など、多種多様な味付けが実現された。

 

彩饅頭(ツァイマントウ)』とは、そんな味付け饅頭を使った闇鍋的なメニューだ。

 

 味がバラバラなたくさんの饅頭を、外から中の様子が見えない箱に入れる。購入者はお金を払った後、その箱に空いた穴に手を突っ込み、ランダムに一つ取り出すのだ(ちなみにこの穴からも中が覗けないように工夫してある)。

 

 そこだけ見ればワクワクものかもしれないが、いかんせん、味付けがトンデモないのだ。練乳味や果実味などといった素敵な味もあれば、卵の殻味や鉄味などといったアホみたいな味もある。そんな混沌とした味の数々から何が出るのかは取り出してからのお楽しみ♫それが『彩饅頭(ツァイマントウ)』。……これ、なんて百味○ーンズ?

 

 無意識のうちに『彩饅頭(ツァイマントウ)』を選んでしまったボクの手元へやってきた味は——

 

「……ムカデってこんな味するんだネ。初めて知ったや」

 

 である。

 

 人かじり分減った、濃い茶色の饅頭。半球型の頂点には、簡略化されたムカデの絵が焼き付けられていた。

 

 ちなみに、味付けに本当にムカデを使っているわけではない。調味料を上手いこと組み合わせ、ムカデそっくりの風味を生み出しているのだ。

 

 そう、だからボクは実際にムカデを食べているわけではない。これはきちんと食品衛生的にノープロブレムな食べ物だ。……そう考えなきゃ吐きそうだった。

 

 脂汗を額にかきながら、ムカデ饅頭を頬張る。舌に触れるたび、如何とも形容しがたい味覚が襲ってくる。

 

「無理して食う事は無いのではないか?」

 

 センランがはむっと『甜雲包(ティエンユンパオ)』を食べながら、怪訝な顔で見てくる。

 

 ボクは恨めしいような羨ましいような視線を撃ち返す。勝者の味って何味だい、センランや。

 

 ボクら四人は各々の品を購入し、それを店の向かい側にある建物の壁に寄りかかりながら食していた。

 

 女の子らしく甘味に頰をほころばせる三人とは対照的に、ボクの顔は饅頭と同じ土色だった。

 

「……なあシンスイ、私のやつを一口食うか?」

 

 同情したのか、センランは食べかけのシュークリームっぽい何かをこちらへ突き出してきた。

 

 「慰めなんていらないよっ!!放っておいておくれ!!」なんて言えるほど、ボクは武士は食わねどナンタラ的精神を持ち合わせてはいなかった。弾かれたように顔を上げ、

 

「マジで!?いいの!?」

 

「あ、ああ。ただし、一口だけだぞ」

 

「ありがとう!」

 

 間伐入れず、はむっ、と雲のような生地にもう一つかじり跡を追加。

 

 途端、泡をかじったように柔和な食感と、舌を少し刺激するくらいの甘味が口いっぱいに広がった。ううむ、お姫様が推薦するだけあってめちゃくちゃ美味い。ふわふわした食べ応えはシュークリームと瓜二つだが、中身の甘さは少し刺激があってしつこい感じがする。この甘さは生クリームのソレではない。

 

 この味って確か……

 

「これ、もしかして煉乳?」

 

「そうだ。正確には、黒蜜と煉乳を混ぜた極甘液状調味料だ。どうだシンスイ、感想は」

 

「あ、うん。美味しい。美味しいんだけど……」

 

 コレはシュークリームではない。似て非なるナニカだ。まあ美味いけど。

 

「だけど、何だ?何か気に入らなかったのか?」

 

「え?ああ、ごめんねセンラン。美味しいよ。お礼と言っては何だけど、ボクのこの饅頭を」

 

「結構だ」

 

 機先を制して却下するほどイヤなのね。

 

 すると、ミーフォンが「ハイハイハイ!」とぴょんぴょん跳ねながら挙手した。

 

「その饅頭、あたしが貰いまーす!良いですよね、お姉様!?」

 

「えっ。これ、ムカデ味だよ?あのゲジゲジした節足動物だよ?」

 

「いいんですいいんです。ささ、早く下さいよ」

 

 あまりに急かすので、ボクは言われた通りに半分近く減らしたムカデ饅頭を渡す。

 

 ミーフォンはボクがかじった場所を始まりに、饅頭の大半を一口で頬張った。瞬間、肩まで垂れている彼女の髪の側面がまるで静電気を帯びたようにゾワッと逆立った。ほら見なさい、言わんこっちゃない。

 

「コレはお姉様の唇が触れたモノコレはお姉様の唇が触れたモノコレはお姉様の唇が触れたモノ——」

 

 なんか念じてる。

 

「あの、やっぱり無理しないでいいよ?」

 

「いいんです!お姉様の美しい唇が触れたものだと思えば、たとえ泥水でも高級酒同然に感じられますから!任せてください!」

 

 ビーズを散りばめたようなキラキラ笑顔で豪語してくる。や、それはそれでなんかヤダナ。ちょっと引くわ。

 

 最後の一切れを勇敢に口へ放り込むミーフォンを余所に、ライライの手元を見た。一本の串に、茶色い半透明のお団子が三つ刺さっている(さっきは四つだったが、一つ食べたようだ)。そういえばミーフォンが同じのを食べてたな。あっという間に完食しちゃったみたいだけど。

 

 ボクの視線に反応したのか、ライライが串を少し前に出して、

 

「これは『柔琥珀(ロゥフーポー)』っていうのよ。何かの木の樹液に特殊な薬草を混ぜ込んで、お餅みたいな状態に凝固させたものらしいわ」

 

「へぇー」

 

「良かったら一つどう?何も付けなくても甘くて美味しいわよ」

 

「ホント?それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

 ライライから串を受け取り、樹液団子を一つ口に入れてもちゃもちゃと咀嚼する。食感はわらび餅っぽい。カラメルにも似た甘みが舌の上でとろけて、口内全体へ波及した。おお、これは結構イケるかも。個人的には『甜雲包(ティエンユンパオ)』より好きかもしれない。

 

 

 

 

 

 あっという間に手元の甘味を食べきったボクらは、あともう数件軽食売り場を回って時間を潰しながら、他の店が開くのを待った。

 

 どれも初めて見る新鮮なものばかりであるため、ひと時たりとも退屈はしなかった。こんなことなら小さい頃に帝都に来た時、【武館区】にばかり入り浸ってないで、もう少しいろんな店を楽しんでおけばよかった。

 

 楽しんでいる分時間の経過も早かった。気がつけば多くの店が開店しだしており、人の往来も盛んになっていた。

 

 この帝都の大通りは東西南北へ十字状に伸びている。奥に【熙禁城(ききんじょう)】がある北の大通りを除く三本の突き当たりは、関所も兼ねた門となっている。

 南の大通りは東から西へ伸びる水路によって分断されている。水路は帝都を囲う壁を超えて、近くを流れる【奐絡江(かんらくこう)】まで繋がっている。もちろん、帝都と外の境には陸路と同様、水門と関が設けられている。

 

 そんな水路に架かる広いアーチ状の石橋を踏み越えてすぐの所に、次なる目的地はあった。

 

 そこは。

 

「……書房?」

 

 そう、書房に他ならなかった。

 

 横に広い二階建ての木造建築。店先から店内に至るまであらゆる本が積み上げて並べられていた。店先を覆う庇の上部には大きな丸い看板が取り付けてあり、その表面には、足に本を掴んで飛ぶ鳥のマークが刻み込まれている。

 

 そのマークを見て、連れてきた本人であるセンランは満足げに微笑み、ライライは瞳を大きく見開いていた。

 

「まさかここって……『落智書院(らくちしょいん)』!?」

 

 驚愕以外のリアクションが分からないとばかりに口をあんぐり開けているライライ。

 

 彼女が口にした固有名詞を聞いた途端、残ったボクとミーフォンも目を丸くして看板を見た。

 

『落智書院』とは、煌国の老舗書房だ。「人は身分の貴賎を問わず、優れた智と書に触れる権利を有する」というスローガンのもと、大衆文学から学術書に至るまで様々なジャンルの本を売り出している。この国では一、二を争うほど巨大な書房であり、各地の街に支店がいくつもある。

 

 いや、より正確には「書房連合」とでも言うべきだろうか。何せ販売だけでなく、挿絵作成、執筆、製本、製紙の全てを『落智書院』という一つの組織で行っているのだから。

 

 この煌国には『商会制度(しょうかいせいど)』というものがある。同業者同士が手を組んで『商会』という組合を結成し、それを一つの店として扱うという制度だ。一つになることで、商品の生産、流通、販売、品質維持、それらにかかる資金繰りなどを安定化させ、なおかつ指示伝達を円滑にすることが可能となる。その上、加盟する全ての店及び組織の利益配分を公正なものにし、各々の生活を保護したりもできる。中世ヨーロッパで言うところの商業ギルドによく似ている。

 

 大きな店は、大抵その『商会』を組んでいる。この『落智書院』もその一つというわけだ。

 

 この国の書房は、力を入れているジャンルが店ごとに異なる。そうやって他店との差別化を図り、自分たちの利益を守っているのだ。『落智書院』は色々なジャンルを扱ってこそいるが、最も力の入れ具合が強いモノは——大衆文学である。

 

「見て見て見て見てシンスイ!『遊雲天鼓伝(ゆううんてんこでん)』の新刊が出てるわ!きゃ〜〜〜〜〜!!」

 

 見ると、ライライは店先に積まれた一冊の書籍を天高く掲げながら、びっくりするくらいキラキラした笑みを浮かべていた。……え?あれってライライだよね?一体なんだろう、いつも落ち着いた彼女らしからぬあの喜びようは。

 

 だが次の瞬間、ボクの左隣からも声が甲高く響いた。

 

「何ぃっ!?もう新刊出たのか!?くそぅ、流石は「月里(ユエリィ)」先生、いくらなんでも仕事が早すぎるぞ!だが許すっ!」

 

 センランまでもが興奮した様子で駆け出し、ライライと同じ本を手に取ってパラパラとめくり始めた。

 

 え、何この二人の反応?全然分からないんだけど。

 

 置いてけぼりを食らった気分のボクに、右隣のミーフォンが語りかけてきてくれた。

 

「お姉様、あれは『遊雲天鼓伝』っていう超人気の大衆小説なんです。あたしも読んだことがあります」

 

「へぇー」

 

 超人気——そんな単語を頭に思い浮かべながらその本へ目を向ける。同じように店先で平積みされている他の本に比べると、積まれている冊数が数倍以上と飛び抜けていた。それが『遊雲天鼓伝』とやらの人気ぶりを濃く裏付けていた。

 

 ボクは前世にいた頃、暇つぶしに色んな本を読み漁った。けれども転生してからは武法武法また武法であったため、こちらの世界の文学には疎かった。武法関係の書籍はたくさん読んだけど。

 

「え!?シンスイ読んだこと無いの!?そんなー、勿体無いわよ。コレを読んでないどころか知らないなんて人生の半分くらい損してるわっ」

 

 こちらの会話に気づいたライライが、珍獣を見るような顔で絡んでくる。表情を彩るそのキラキラ成分は、彼女が『遊雲天鼓伝』のファンである事のこの上ない証であった。

 

「これは国中を旅してる武法の達人が、行く先々で起こる事件を解決していくっていう勧善懲悪モノなの!そこだけ聞くとありきたりな話に思うかもしれないけど、登場人物がみんな個性的で、なおかつ本当にそういう人物がいるかのような生命感があるの!特に主人公が凄く良い味出してて、口では事なかれ主義みたいな台詞を言いつつも、陰ではみんなを助ける為に人知れず体を張って戦って、救われた人達の笑顔を遠くから見てふらりとまた旅立っていく……そんな恩着せがましくない生き方が凄くカッコいいのよ!魅力は登場人物だけじゃないわ!物語も予想を毎回大きく裏切って読者を驚かせつつ、けれど幸せな終わり方になるという期待は裏切らない!たくさん苦しい思いをするけど、その苦しみから解放されて登場人物に幸福が訪れた時、なんだか物語の登場人物の心情と同調したみたいに胸がスゥッと軽くなるんだ!それから——」

 

「よし、もういいよライライ。だいたい内容は理解出来たから」

 

 なんだか武法の事を夢中になってまくし立てるボクみたいだ。

 

「著者は売れっ子覆面作家「月里(ユエリィ)」!小説だけじゃなくて連環画(れんかんが)も描いていて、世に出した作品は軒並み爆売れという稀代の天才作家なの!しかも、その正体を知る者は誰もいないと言われてる、謎に包まれた人物!あぁ、一体どんな方なのかしら。一度でいいからお会いして花押(かおう)を頂きたいわ」

 

 未購入の新刊をその巨大な胸に抱きしめながら、陶酔するように目を閉じるライライ。本当に好きなんだなぁ。

 

 ちなみに「連環画」というのは、四角形に引かれた線の中に絵やシーンを描き、それを幾つも並べて一つの物語を作った読み物だ。いわゆる漫画のようなものである。ていうか、実際に見てみると思いっきり漫画である。

 

「実はなライライ、私も月里(ユエリィ)先生の正体が気になって手の者に密かに調べさせたんだが、全く分からなかったのだ。よほど巧妙に素性を隠しているのだろうな」

 

 おい、自分の権力利用して何してんの。

 

 そんな風に話している間にも、高く平積みされた『遊雲天鼓伝』の塔が徐々に縮んでいった。人気であることの裏付けをまた垣間見たのであった。

 

「はっ、いけない。私も早く買わなくちゃ。えっと、お金は……」

 

 ライライはブツブツ言いながら巾着型の財布を取り出し、中身を確認。

 

 途端、さっきまで輝いていた表情が一転、元気が無くなった。「足りない……」という呟き。

 

 製紙技術と印刷技術の発展によって、本は庶民にも求めやすい代物となった。けれども求めやすいというだけで、決して安価というわけではない。昔のようにバカ高くはないが、かといって気軽にポンポン払えないくらいの費用がかかるのだ。

 

「はうぅ、せっかくの新刊なのに……」

 

 そろそろ涙目になり始めているライライ。

 

 平積みから自分の分をちゃっかり確保していたセンランが、申し訳なさそうに口にした。

 

「出来ることなら記念に買ってやりたいが……私は身分の都合上、他者に気安く金品を施すわけにはいかぬのだ。すまん、ライライ」

 

「ううん。いいの。これでお別れっていうわけじゃないし、またお金がある時に買えばいいもの」

 

 目に溜まった涙を指先で掬って拭い、無理矢理にっこりする。

 

 なんだかちょっとかわいそうだな。

 

 その笑みを見ていられなくなったボクは隣のミーフォンへ視線を逃す。

 

「…………っ」

 

 見ると、ミーフォンは口角を下に吊り下げ、半眼で地面と睨めっこしている。難しい表情だ。まるで心の中で葛藤しているように見えた。

 

 だがすぐにバッと顔を上げるや、ドカドカとライライへ歩み寄る。上向きの掌を差し出し、やや硬い口調で、

 

「ライライ、あんたの財布ちょっと見せなさい」

 

「え、どうして?」

 

「いいから見せなさい。別に盗りゃしないわよ」

 

 有無を言わさない気迫に負け、ライライは渋々と財布を差し出した。

 

 ミーフォンは受け取ると、中身を確認し始めた。硬貨を数枚ずつ取り出してチェックしていき、じっくりと銭勘定していく。

 

 やがてそれが終わり、財布を持ち主に返却。

 

 ミーフォンは積まれた『遊雲天鼓伝』の前に置いてある値札を一瞥すると、次のように言った。

 

「——ライライ、あたしが半額出してあげる。あんたはもう半額出しなさい。そうすりゃ余裕で買えるはずよ」

 

 ライライの顔が、目に見えて驚きを呈した。

 

 かすれるような声で、

 

「いいの?」

 

「いいのよ。あんたのお陰で、あたしの帝都での衣食住は保証されたんだし。だから、その、えっと、こんなもんじゃ釣り合わないかもだけど、その…………ああもう!とにかくあたしがいいって言ってるんだからいいのよ!このおっぱいお化け!」

 

 ミーフォンは途中からやけくそ口調になり、プイッと後ろを向いた。しかしライライに背中を向けたということは、ボクに正面を晒したことになる。唇を尖らせながら真っ赤になっていた。

 

 きっと、ミーフォンなりの優しさと恩返しのつもりなんだろう。それを考えると、口元が自然と緩むのを感じた。

 

 しばらく驚きの表情から脱せずにいたライライだったが、

 

「……うん。ありがと、ミーフォン」

 

 やがて思わず見とれそうになるくらい可憐な笑みを見せた。

 

 それをチラッと見たミーフォンはさらに顔を赤くして目を背け、後ろへ自分の財布を突き出してまくし立てた。

 

「ほ、ほら!使いたきゃ使いなさいよ!ってか、早く取れ!あたしの気が変わんないうちに!」

 

「うふふ。はーい」

 

 そう言って財布を受け取ったライライは、『遊雲天鼓伝』の新刊を発見した時以上の喜びようを見せていた。

 



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謎のツインテール

 帝都に来て開いた口が塞がらなくなるのは、これで何度目だろう。

 

「ほぁぇー。すげーなこりゃ」

 

 あんまり女の子がしてはいけないであろう口調で、ボクは驚きを呈した。

 

 目の前にあるソレは、西の大通りの隣に山のごとく屹立している、巨大な建造物だった。地理的には、大通りの果てにある西門がはっきり見えるほどの位置である。

 

 王様の冠を巨大化させたような、幅広い円筒形のデザインだ。石材同士が隙間無く組み上げられた頑強そうな外壁は、余計な装飾が皆無な武張った構造。その壁が上部まで続き、一番上は四角い石材の突起でギザギザした輪郭を描いていた。

 

 中にある「何か」を囲っているような円筒状の形。それらの情報を類推すると、ここの用途は自ずと絞られてくる。

 

 そう。闘技場(アリーナ)である。

 

 ここは【尚武冠(しょうぶかん)】という巨大闘技場だ。大規模な見世物を行なうための場所でもあるが、最たる用途は【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦の舞台である。他の町にあるどの闘技場よりも大きいのだ。

 

 参加する身としては、闘技場の場所はあらかじめ知っておいて然るべきだ。以前帝都に来た時にも見た気もするが、その古い記憶を新しく上書きするためにもう一度道程と建物を見ておきたかったのである。

 

「なんか……闘技場というより、砦みたいね」

 

 ライライが【尚武冠】を見上げつつ、独り言のようにこぼした。

 

 それには同感であった。

 

 外壁の頑健さもそうだが、その門も圧巻である。破城槌(はじょうつい)を打ち込んでも開かなそうなほど重厚な門構え。しかも外部から入り込める扉はその門のみ。観客ありきな施設にしては少々構え過ぎている気がしないでもない。

 

 けれども、作った……否、「作らせた人物」の事を思い浮かべると、むべなるかなと思う。

 

「みたい、ではない。この闘技場は、砦と同じ機能を有しているのだ」

 

 センランがそう補足説明する。

 

 彼女の言う通り、ここは砦の代わりに使っても十分機能的である。硬い外壁は言うに及ばず、頑丈かつ巨大な正門。一つしか出入り口がないのも、敵軍の軍勢がやってくる箇所を一箇所へ絞り込み、迎撃しやすくするためだ。

 

 このように【尚武冠】は、非常に戦向きに作られている。そのため、有事が起こった際の避難場所としても利用されている……いや、まだ利用されてないか。そもそもこんな場所に立てこもらなきゃいけないような事が帝都で起こった事はないのだし。

 

 この構造には、建設を命じた人間の性格が色濃く反映されている。そう、「武を重んじる」性格が。

 

「この闘技場は、煌刻(ファン・クー)陛下の勅で作られたのよね」

 

 ちょうど良いタイミングで、ミーフォンがかの御仁の名を出した。

 

 煌刻(ファン・クー)。現皇帝の一代前に在位していた皇帝。

 

 聡明かつ文武優秀であったものの、やや過激な思想の持ち主であったため、付いた渾名が『獅子皇(ししおう)』。

 

 彼は武法を大変愛していたそうで、ご自身もまた武法を嗜んでいた。その腕前は並みの兵では全く敵わないほどのものであったという。噂では精力も絶倫で、一晩に相手をした女の数は最大で三〇人を超えるらしい。

 

 凄かったのは武力や体力だけではない。あらゆる文化や学問に深く通じ、非常に博識だったそうな。

 

 この闘技場は、その『獅子皇』が作らせたもの。

 

 そもそも30年前、【黄龍賽(こうりゅうさい)】などという催し物を考案したのはクー皇帝だ。その元々の目的は、煌国内の武力向上と、才能ある戦力の発掘。経済効果はその副産物に過ぎなかった。なんとも武を重んじる彼らしい発想である。

 

 そういった思想ゆえに、考案した建物の構造も戦術的合理性が取り入れられた。この【尚武冠】もその一つというわけだ。

 

「……そうであったな」

 

 センランは同意するが、その表情はどこか固く、難しいものだった。

 

 それを見て、ボクは内心で「しまった」と思った。

 

 一度、センランへの認識を「皇女殿下」に戻して考えよう。

 

 煌刻(ファン・クー)陛下は優秀な為政者ではあった。けれど同時に、彼は功と罪を等量持つ賛否両論の支配者でもあった。

 

 特に、彼が病没する直前に起こした『ある事件』はかなり物議を醸したらしく、皇族も彼に対しては極めて複雑な感情を持っているという噂があった。それはどうやら本当の事であったと、目の前の「皇女殿下」を見て確信する。

 

 たとえ先代の皇帝といえど、良い気分になれない名詞をすすんで出す事は無いと思った。

 

 なのでボクは少しわざとらしく感じつつも、話題のベクトルを強引にそらした。

 

「あ、あー、そういえばさ!【武館区】にはまだ行ってないんだ。久しぶりに見てみたくなっちゃったから、今から行きたいなぁ」

 

 ボクの狙いに気づき、それに乗ることにしたのだろう。センランは固まった表情をほぐし、にっこり返してきた。

 

「う、うむ。そうだな!では、今から行くとしよう。ライライとミーフォン、異論はないか?」

 

「私は別に構わないわ」

 

「あたしもー」

 

 こうして、話題と行き先の変更を成功させた。

 

 

 

 

 

 

 

【武館区】という呼び方は正式なものではなく、俗語(スラング)の側面が強い。武法士というのは、一箇所に居場所を集中させたがるところがある。そうすれば他流派の人を通じて武林の噂話や流派の勢力の動きなどが分かるからだ。

 

 また、戦乱期の名残りという理由もある。

 

 少し話が変わるが、煌国には『武法の里』と称される街がいくつか存在する。住人の八割以上が何らかの武法を嗜んでいるほど、武法が盛んな街のことだ。そこは街全体が【武館区】みたいなものである。

 

 そういった街は、元から『武法の里』だったわけではない。「なるべくしてそうなった」のだ。

 

 百年以上前の戦乱期、『武法の里』はいずれも国境付近に位置している普通の村落でしかなかった。

 

 もし他国からの侵攻を受けた場合、真っ先にその被害を受けるのは国境付近だ。なのでそういった場所にある町村の住人は、自衛のために武法士を招き入れて教えを請うた。そうして住人たちは町全体を民兵団のようにし、自分たちの町や村を自分たちの手で敵国軍から防衛したのだ。その活躍たるや正規軍顔負けだったそうで、そこから名を挙げた達人も数多い。

 

 太平の世となった現在でも、そのような武法士同士の団結は無意識に美徳とされている。けれど日本の学生よろしく、逐一ベタベタ馴れ合う類の団結ではない。普段は付かず離れずの適度な距離感だが、いざとなったら力を合わせて困難に立ち向かう。そんな感じだ。

 

【武館区】とは、そういった「流派を超えた団結」という、武法士に刻まれたDNAを具現化した地域なのだ。

 

 閑話休題。

 

 帝都の【武館区】は南西にあり、都を正方形に囲う壁面の角(かど)に隣接している。その壁面の上部には治安局の武官が常駐しており、交代で見張りを立てている。常人を超える力を持った武法士たちを警戒しているのだろう。信用されていないみたいで少し悲しい。

 

 現在ボクは他の三人を伴い、その治安局たちのちょうど眼下に来ていた。以前来たのはもう数年前のことなので帝都での記憶は薄れていたが、ここの場所だけはしっかりと覚えていた。

 

 壁の上は通路となっており、角の辺りでちょっとした広場になっている。その広場に建つ小さな詰所の前から俯瞰している武官たちに、ボクは笑いかけて手を振った。まだ年端もいかない女の子だから多少警戒心が薄れているのか、彼らは笑顔で手を振り返してくれた。今日も平和で何よりです。

 

 上から下に視線を戻すと、ボクは来る途中屋台で買った棒状の干し芋をひと齧りした。その食感、香り、味は肉に酷似していた。これは『擬肉(ニーロゥ)』といって、ただの干し芋に肉そっくりの味と香りをつけたものだ。肉をしょっちゅう買えない人でも肉を食べた気になれるため、庶民の間で長年親しまれているお菓子である。

 

 脇道から、建物の集まりへ入る。両端に建ち並ぶ大小さまざまな建物の多くは当然武館。そこかしこから踏み込みの音が重なって聞こえてきて、鼓膜を揺さぶられるたびに血湧き肉躍る。

 

 通り過ぎる人は、みんな足裏が地面に吸い付くような歩き方であった。武法士だ。

 

 さて、【武館区】に来たはいいが、一体これから何をしようか。

 

 ボクは見て回ることしか考えていなかった。が、欲を言えば、武法に関わるナニかがしたい。

 

 練習している武館の塀によじ登って覗いてみよう、なんてバカな考えを一瞬浮かべて即座に斬り捨てる。それは【盗武(とうぶ)】という、武林において軽蔑される行為だ。もしそんなマネをすれば、ボクは一つの流派をまるごと敵に回してしまうだろう。捕まってリンチってところか。悪ければ腕チョンパかも。

 

 一体どうしたものか——黙考していた時、向かい側からこちらへ歩いてくる小さな人影が視界に入った。

 

 ボクより少し背が低いミーフォンより、さらに背丈の小さめな女の子だった。

 

 両側頭部に一束ずつ結んだその髪型は、ツインテールというやつである。クールそうでいて愛嬌のある顔立ちは、まだ十歳を超えて間もないくらいの幼さを残している。絵に描いたような幼児体形は、上下ともにやや裾が長めのドレスで柔らかく覆われていた。

 

 ちまっ、ちまっ、という足音が聞こえてきそうな、いじらしい足取りで歩いてくる。けれどここは【武館区】。そのちびっ子の踏み出しにも、武法士特有の地面との吸着力が視認出来た。

 

 ……その子の動きを見た瞬間、ボクの精神に緊張が走った。

 

 武法士には、技や功力(こうりき)の他に、相手の力量を見定める「眼力」も求められる。むしろ、それを一番養わなければならないくらいだ。

 

 相手の実力を戦う前から目視で理解することができれば、「あ、こいつ弱いな。そんなに警戒しなくても平気そう」「うっわ、こいつ絶対ヤバい。近づかんとこ」みたいな判断が出来るようになる。そうすれば自分の身を守れるし、無駄な争いも格段に減る。

 

 どのような基準で相手の実力を見定めるのかは、具体的には決まっていない。理屈ではなく、感覚的なものだからだ。だからこそ武法士は師匠の動きを常に観察したり、他人の演武を見たりして「眼力」という曖昧な能力を養っていくのだ。かく言うボクも、そうやって「眼力」をつけた。

 

 話をツインテール幼女へ戻そう。

 

 

 

 彼女の動きは——とてつもない力量を匂わせていた。

 

 

 

 目を幾度も擦っては見直す。けれども目に映る光景は変わらない。

 

 体軸に氷を入れられたように身体が冷えた。

 

 馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷での一件を思い出す。タンイェンの用心棒の中で最強の力を誇る男、周音沈(ジョウ・インシェン)を初めて見た時、その一挙手一投足から非凡な実力を読み取れた。

 

 あのツインテール幼女からは、そのインシェンに匹敵する、もしくは遥かに凌駕するほどの力の片鱗が感じられたのだ。

 

 見た感じ、年齢はどれだけ見積もっても十二歳くらいだろう。それだけの若さ……否、幼さであそこまでの実力をつけたというのか。とてもじゃないけど信じられなかった。

 

 ツインテール幼女はボクらの横へ来て、すぐに通り過ぎる。

 

 しかし、ボクはずっと彼女から目が離せないでいた。首が自然と後ろを向いていく。

 

「どうしたのだ、シンスイ?後ろに何かあるのか?」

 

 怪訝そうなセンランの声が聞こえた。

 

 その時だった。ツインテール幼女が歩く足をぴたりと止め、鋭く振り返ったのは。

 

 彼女の大きな瞳と目が合った。信じられないもの見るように、しきりに瞬きを繰り返してきた。

 

 かと思えば、スッと流れるような足さばきでボクへと肉薄。

 

 思わず一方退いて半身の立ち方となった。彼女の力量を読んだ今となっては、警戒するなという方が無理な話だ。

 

 けれど、相手の目に敵意は感じられなかった。

 

 代わりに、細部まで品定めするような視線に晒され、居心地が悪くなる。

 

「太い三つ編み……小柄な体型……壁みたいな胸……」

 

 ツインテール幼女がぶつぶつと呟く。あれ?今さらっとバカにされた?

 

「ど、どうしたのかな?ボクに何かご用?」

 

 ぎこちない笑いを作りつつ、子供をあやすような口調で問いかける。

 

「一人称は「ボク」…………「本人」である可能性、極大」

 

 冷静だが舌の足りなさが若干残る口調でそう言ったかと思うと、ツインテール幼女はクイッと顔を近づけて訊いてきた。

 

 

 

「質問。あなたは【雷帝】の一番弟子、李星穂(リー・シンスイ)か」

 

 

 

 表情少しも変えずに叩き込まれたその質問に、ボクはしばし面食らう。

 

 無論、答えは「はい」だ。けど、それ以前に尋ねる事があった。

 

「君は、ボクの事を知っているのかい」

 

 子供をあやすような口調などすっかり忘れ、素の言い方で問うた。

 

 幼女はコクリと頷き、

 

()。あなたのことは、ある人物から耳にしている」

 

「それって、誰?」

 

「質問。その方が何者であるのか、あなたは知りたいか」

 

「まあ、知りたい、かな」

 

 とりあえず肯定する。まあ、知りたいのは本当だし。もしかすると、ボクの知り合いかもしれないからね。

 

「で、誰だか教えてくれるの?」

 

(いな)

 

「えぇー。自分から引っ張っておいて、それはないんじゃないかなぁ」

 

 ことさらに冗談めかした態度で返した。本当はもっと疲れた態度を取りたかったのだが。

 

「えっと、ところで、君のお名前は?」

 

「否」

 

「それも教えてくれないのかよ!?」

 

 ガクッと崩れ落ちそうになる。一体何がしたいんだこの子は。ボクをからかって遊んでるんじゃなかろうな。

 

 ミーフォンが目線の高さを幼女に合わせ、悪ガキを脅すように言った。

 

「ねえお嬢ちゃん、お姉さん達ヒマじゃあないのよ。いくら自分がヒマだからって、面白半分にからかうのはやめてもらえないかしら。あんまし人を食った態度ばっか取ってると……いつか尻子玉(しりこだま)抜かれるわよ」

 

 うわ、お下品。

 

「否。からかうつもりはない」

 

 幼女は自分より背丈の高いミーフォンに臆する事なく言い返した。

 

「現段階では、否。が、条件を満たせば、是」

 

「条件?」

 

 首をかしげるボクに、ツインテール幼女は懐へ踏み込むように言い放った。

 

「提案。わたしと立ち合って欲しい。もし応じてくれれば勝敗の如何にかかわらず、あなたの質問に正直に答える」

 



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謎の武法

 子供を傷つける奴に、きっとロクな奴はいない。

 

 ボクが最も嫌う事の一つは、幼児に手を出すことだ。

 

 子供というのは、理屈を差し挟むまでもなく弱者である。肉体的な強さもそうだが、社会的立場という意味でも実に薄弱な存在だ。

 

 子供の非力さにつけ込んで暴力で従わせる奴、子供の無知さにつけ込んで間違った認識を吹き込んで都合良く動かす奴、こういった手合いを見ると五〇〇(まい)ほど助走をつけて殴り飛ばしたくなる。

 

 ボクは、子供に暴力を振るうのは嫌いだ。

 

 しかし、しかしである。

 

 もしも子供が勝負を挑んできて、なおかつその子供が自分と同等の強さを持ってたら?「子供だから」とナメてかかると逆に足元をすくわれかねないような相手だったら?

 

 この場合、選択肢は二通りに分かれる。

 ——それでも「子供だから」と手を出さない。

 ——実力の世界に大人も子供もない。手加減無用だ。

 

 ボクはというと、上記した自分のポリシーが壊れる事を覚悟の上で、後者を選んだ。

 

「決定。ここなら十分な広さがある」

 

 謎のツインテール幼女の抑揚に乏しい一言で、ボクは足を止めた。

 

 そこは、【武館区】南西にそびえる巨大な壁面だった。その壁と建物群との間には、それなりに横幅の広い道がある。その中央部に、ボクと幼女は向かい合って立つ。

 

 端から見ているのは連れの三人だけではなかった。どこから情報を聞きつけたのか、結構な数の武法士が集まって見物に来ていた。おかげでそれなりにざわついており、壁の上にいる治安局の武官も緊張の面持ちでこちらを俯瞰(ふかん)していた。

 

「ねえ、本当にやるの?」

 

 ライライが困惑した様子で訊いてくる。

 

「やる。みんなも武法士なら見えるでしょ?この子が持つ実力の片鱗が。この子はただの子供じゃないよ」

 

「それはそう……だけど」

 

 やっぱり引っかかるものがあるのか、ライライは納得いかないといった表情で口ごもった。

 

 彼女の気持ちはよく分かる。ボクだって、ライライの立場なら同じ態度だったはずだ。いや、むしろ止めに入っていたかもしれない。

 

 けれども、ボクはこの子と少し立ち合ってみたかった。

 

 無論、ボクの事をどこで知ったのか、この子が何者なのかが知りたいというわけではない。

 

 ただ、見たいと思ったからだ。この幼さで、一体どうやってこれほどの功力をつけたのかを。

 

 ……ホント、どれだけ武法狂いなんだボク。

 

 自嘲の笑みを浮かべていると、ツインテール幼女はおもむろにその小さな指を三本立てた。

 

「補足。わたしの年齢は三十を超えている。あなたが気に病む理由は皆無」

 

「さんっ……!?」

 

「じゅう!?」

 

 ボク、ライライがテンポ良く驚愕を呈した。他の野次馬もザワッと喧騒に山を作った。

 

 嘘でしょ?こんな幼女幼女した子が三十路?信じられない。

 

 けれど、あながちあり得ない話でもない。

 

 肉体の「内」と「外」を同時に強健にする武法の修行は健康に良いだけでなく、老化の抑制にも効果がある。実際、お肌真っ白すべすべスタイルグンバツな妖艶系美女が実は六十歳でした、なんてこともたまにある。

 

 いや、だけどさ、これは流石にオーバーじゃないかな。少女なら分かるけどさ、こんな幼女だよ?ジェットコースター乗り場で門前払い食らうくらいの。

 

 そんな三十路幼女はおもむろに両手を上げる。鼻の前まで持ってくると、右拳を包む形の【抱拳礼(ほうけんれい)】を作った。

 

 ボクも慌ててそれに倣う。なんだか相手のペースに乗せられている気がしないでもなかったが、今は考えないようにする。腹を括ろう。

 

 互いに手を下ろす。

 

 瞬間——ボクは石畳を蹴り抜いて加速した。

 

 両者の間隔をほぼ一瞬で一(まい)未満に圧縮し、『震脚』で重々しく踏み込む。その震脚に刺突のような正拳突きを伴わせた。【打雷把(だらいは)】の基本技【衝捶(しょうすい)】。

 

 ツインテール幼女は右へズレた。直前まで彼女の姿があった虚空を貫く。

 

 外した。けど、その突きは当てる事だけが目的ではない。突き出した拳を掌に変え、ツインテール幼女の腕を掴もうとする。

 

 すると、相手は一瞬先に腕のリーチから離脱。何も掴めなかった。

 

 ボクは空を掴んだ手を拳にして手前に戻し、鋭く前へ踏み込むと同時に【衝捶】。

 

 それもまた体の位置をスライドして避けられた。

 

 ボクは突き出していた拳を脇へ引きつつ、もう片方の拳を突き放ち【衝捶】。回避される。

 

 避けられる。【衝捶】。避けられる。【衝捶】。避けられる。【衝捶】。

 

 そのやり取りを幾度も続ける。

 

 【衝捶】は真っ直ぐ前に飛び、震脚で踏みとどまると同時に真っ直ぐ突くというだけの技。しかし動作が単純な分、ちょっとした工夫を加えるだけで何度も何度も追撃できる。なので、今のようなガンガン押して防戦一方にさせる戦い方も可能なのだ。

 

 が、ボクが放つ正拳のことごとくに、あっさりと空気を打たせるツインテール幼女。まるで事前に攻撃が来る軌道でも読んでいるようなその身のこなしは、敵ながらあっぱれである。

 

 しかし避けるたびに、その小さな背中は徐々に壁際へと近づいているのだ。

 

 さらに怒涛の連撃を重ねる。それをただただ避けるツインテール幼女。

 

 やがて、彼女の背中が壁面と密着。

 

 ここだ!

 

 ボクはこれまでで一番の脚力を込めて瞬発し、敵との距離を一気に食い尽くす。

 

 強烈な震脚で踏み込み、さらにその足に捻りを加えて全身を鋭く左右へ展開。一拍子にいくつもの勁を爆発させ、一直線に拳を疾らせた。【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】という、基本技でありながら必倒の威力を持つ一手。

 

 壁を後ろにしている彼女に取れる行動は限られてくる。横へ移動して避けるか、もしくは何らかの方法で真正面から受け止めるかだ。

 

 さあ、どう来る?

 

 見ると、ツインテール幼女は自らの胸の前で蝶のような形の両掌を構えていた。

 

 ボクの拳が、その両掌の中へ吸い込まれる。

 

 互いの肌が触れた瞬間、その小さな両掌がボクの拳の周囲を撫でるように絡みついた。

 

 途端——勁が"溶かされた"。

 

 複数の糸をねじり合わせて作った紐をバラバラに解かれたように、拳に集約された勁の重みが四方八方へ分散したのだ——【化勁(かけい)】。特殊な体術を用い、相手の力を"溶かす"技。今のでボクの勁は完全に殺され、無力化された。

 

()!」

 

 ツインテール幼女の小さな唇から鋭い吐息。同時に、ボクの拳と彼女の両掌の接触部で衝撃が爆ぜた。

 

 衝撃を受ける側であったボクは【両儀勁(りょうぎけい)】による重心の安定を保ったまま大きく後ろへスライドさせられた。靴底と石畳が強く擦れ、焼けるような匂いが鼻に付く。

 

 ジンジン痺れる拳を解いて左右に振りながら、ツインテールを見据える。あの独特の発声から察するに、今のは呼吸法によって体内に生まれる空圧を打撃力に転化した【勁撃】だろう。【心意把(しんいは)】の勁撃法と似たものだ。

 

 ということは、このツインテールが使う流派は【心意把】なのだろうか?……いや、さっきのような見事な【化勁】は【心意把】には無い。

 

 ならば、同じく【道王山(どうおうさん)】を起源に持つ【龍行把(りゅうぎょうは)】か?……もしかしたらそれが正解かも。【龍行把】には優れた【化勁】や回避技術もあれば、今のような呼吸法を用いた攻撃も一応存在する。つじつま合わせだけすれば、【龍行把】が最有力候補だ。

 

 けど、ボクはそれを正解と断定することをためらった。それは理屈ではなく、本能のようなものがそうさせていた。

 

 彼女の技からは、なんだか未知の匂いがするのだ。ボクの既成概念だけでは答えを出す事の出来ない「何か」を感じる。

 

 何より——彼女はまだ自分から攻めていない。

 

 とてつもなく嫌な予感がする。

 

 壁際から離れ、ゆっくりこちらへ歩んでくるツインテール幼女。

 

 物理的重量はボクより軽いはずなのに、その小さな足からは巨人の歩行のような重々しさを錯覚した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シンスイと幼女の戦いを、センランは顎に手を当てて見つめていた。

 

「……なにか引っかかるな」

 

 奥歯にものがはさまって取れないような心境だった。答えがすぐそこまで出かかっているのに、あと一歩のところでそれが姿を見せてくれない。そんなもどかしさがあった。

 

「どうしたのセンラン?もしかして、あの自称三十代の幼女の事について知ってるの?」

 

「う、うむ……もう少しで手がかりになる情報を思い出せそうなのだが……」

 

 ミーフォンの問いに、曖昧に返した。

 

 もう少し。本当にもう少しなのだ。今まさに、あの娘に関するものと思われる情報の片鱗が見れそうなのだ。

 

 まるでおもちゃ箱を漁るように、自分の知り得る武法関係の情報の数々を掘り進む。

 

 特徴的な形容詞は「優れた【化勁】」「呼吸法を用いた【勁撃】」「優れた回避技術」。これらの情報に合致する流派を探る。

 

 該当した流派は【龍行把】。この答えはきっと我が同士シンスイも出している事だろう。

 

 だが、ここでさらにもういくつか情報を付け足す。「小柄な幼女という見た目に反して三十代」「達人と呼べる功力」など。

 

 その新しい情報も合わせ、総合的に考えを巡らせる。

 

 巡らせて、巡らせて、巡らせて——閃いた。

 

 聞いたことがある。見た目と年齢が合致しない、とある達人のことを。

 

 

 

 

 

 

 その昔、一人の少女がいた。

 

 少女は流行り病で両親と死別し、幼くして天涯孤独の身となった。

 

 終わりの見えない飢えと孤独に蝕まれながら、目的地もなく亡者のように各地を彷徨(さまよ)った。

 

 そんな少女に憐憫を覚えた「ある大流派」の大師は、少女を養女として引き取り、自分の持つ秘伝の武法を教え始めた。

 

 師が嫉妬しそうになるほどの武芸の才を持っていた少女は、驚くべき速度で上達。成人を迎える頃には、大勢の門弟を持つその流派の中で一番の高手となっていた。

 

 ここまで聞けば、「よくある達人録の一つ」と認識されるだけで終わるだろう。

 

 ただ一つだけ、少女には奇妙な点があった。

 

 それは、修行を開始した幼少期から——ほとんどその姿が変わっていないことだった。

 

 少女が習った武法には、非常に高い健康効果と、老化を極端に遅らせる効果があるらしい。それこそ、不老不死の伝説を持つ仙人のごとく。

 

 そんなとんでもない武法を秘匿し続けている、その流派の名は————

 

 

 

 

 

「まさか、あの者は……!!」

 

 最初、【黄龍賽(こうりゅうさい)】の参加者名簿で「あの名前」を見た時、同姓同名の別人だと思った。

 

 なぜなら、「あの武法」は秘伝中の秘伝。門外不出の技。【黄龍賽】などという目立つ場で見せるわけがない。そう思っていたからだ。

 

 だが仮に、その流派が「禁」を破ることを良しとしたとしたら?

 

 今、シンスイと戦っているあの少女は「本人」である可能性が非常に高い。

 

 もし、そうだとしたら。

 

 

 

 

 

 シンスイは、あの少女に勝つことはできないかもしれない。



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新たなる決意

衝捶(しょうすい)】【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】【拗歩旋捶(ようほせんすい)】【硬貼(こうてん)】【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】【迅雷不及掩耳(じんらいふきゅうえんじ)】……いくつもの技法をどこまでも連結させていく。

 

 一手放つ間に次の二手、三手、四手、五手くらい先の技も考え、次の二手を打とうとする間にも事前に数手先の手段を思考する。脳細胞に火がつきそうなくらいの速度で頭を働かせ続け、絶え間なく決め手級の技を繰り返す。

 

 そのことごとくを――ツインテール幼女はかすりもせずに躱していた。

 

 しかもその避け方は、「やってきた攻撃から素早く逃げる」というスピード感あるものではなかった。まるで散歩中に差し掛かった障害物を軽く避けて通り過ぎるかのような、自然体で、かつ緊張感に欠けるものであった。

 しかし、だからこそ不気味に感じた。どんな大男もたじろぐであろう勢いと威力を持つ【打雷把(だらいは)】の猛攻を前にし、日常生活然とした動きができるなんてまともな神経とは思えない。

 

 明らかに異質な体捌き。

 

 額に浮かんだ汗が、凍りそうだった。

 

 一体、何が起こっているというのだろう。

 

 とはいえ、攻撃中に雑念を持つのは良くなかったようだ。

 ツインテール幼女はボクの側面へ移動して正拳を回避しつつ、ボクの膝裏に自身の膝を回り込ませる。そのまま片腕でボクの胸部を押し、テコの原理でひっくり返してきた。背中から石畳に寝転がった。

 

 ボクは流れるように受け身を取り、すぐさま立ち上がった。ツインテール幼女との距離が僅かに開いた――かと思いきや滑るように詰めてきた。

 

 初めて見せる攻勢に一瞬戸惑うが、すぐに気を引き締める。ボクの方がリーチは上だ。落ち着いて狙えば彼女の間合いに入ることなく迎え打てる。

 

「はぁっ!」

 

 足底から全身を鋭く捻り込み【拗歩旋捶】。螺旋状の勁力をまとった拳が動作過程を途切れさせるほどの速度で直進。

 

 対し、ツインテール幼女は全く軌道を変える事なく真っ直ぐ突っ込んでくるではないか。

 

 何を考えてる? このままじゃボクの拳の軌道とぶつかるぞ。わざわざやられに来たっていうのか――驚愕と呆れを五分五分に抱いたボクだが、放った正拳が幼女の頰と薄皮一枚の間隔を開いて通過したのを見た瞬間、心が驚愕一色に塗りつぶされた。

 

 ボクの拳の軌道と彼女が向かってくる軌道はぶつかる位置関係だったはずだ。しかし彼女は直撃寸前に自身の的をほんの微かにズラし、紙一重の間隔でもって躱したのだ。なんという精密な体さばき。感服ものである。

 

 小さな体がボクの胸の中へ流れてくる。

 

 ボクは迎え討とうと右膝を突き出——そうとした瞬間、幼女はボクの右膝に自身の靴裏を押し当てた。しまった、これじゃ膝蹴りが出せない。

 

 ワンテンポ先に出鼻を挫かれた事に更なる驚きを覚えるが、それで動きを止めることはしない。今度は至近距離からでも凄まじい威力を叩き込める突き技【纏渦(てんか)】を繰り出すべく、右拳を幼女に添えた。

 

【纏渦】の勁力伝達速度は【打雷把】で最速。足底を捻り始めた時点でその力がトコロテン式に拳へ届くのだ。拳を体表面に添えたこの体勢へと持ち込めば、相手が避けようとする前に打ち込める。ほぼ当たったも同然。

 

 ボクはゼロ距離から拳を爆進させ————

 

 

 

 空気を打った。

 

 

 

「がっ!?」

 

 神速の拳が外れた事を理解したのと、背中へ鉄球を叩き込まれるような衝撃を受けたのは全く同時であった。

 

 大きく弾き飛ばされながら、薄眼でさっきまでいた位置を見る。肘を突き出して深く腰を落としたツインテール幼女の姿。

 

 転がって受け身を取り、立ち上がる。打たれた背中が痛い。

 

 ツインテール幼女は相変わらず何を考えているのか分からないような無表情のまま、ゆっくりと歩いて来ていた。

 

 そんなバカな……【纏渦】を避けたっ!?

 

 そこまで来て、ようやくその事実へ思考を傾けることができた。

 

 拳を密着させたあの位置関係から【纏渦】を避ける奴なんて初めてだった。

 

 あの状態から回避するなんて、それこそ一瞬先の未来でも覗かない限り不可能――

 

「……未来」

 

 ふと、閃いた。

 

 普段なら「あり得ない」と断ずるだろうが、ここまでシャレにならない事実を出されたら「その可能性」も視野に入れなければならない。

 

 

 

 そう――この幼女は「未来が見える」のだ、という可能性を。

 

 

 

 未来を見る能力……ボクはソレと良く似た能力を見た事がある。

 インシェンが使っていた、相手の攻撃の「前兆」を読む超人的な【聴気法(ちょうきほう)】だ。

 が、その能力で分かるのは相手が攻撃を仕掛けてくるタイミングだけだ。相手がこれから行う具体的な攻撃法まで読めるわけではない。むしろ、そうでなかったからこそボクはインシェンを倒せたのだ。

 このツインテール幼女は違う。これから相手が使うであろう攻撃手段を先読みし、それをいち早く封殺していた。【纏渦】を初見で避けられたことで、その仮説は真実へと急接近した。

 

「君は、ボクの動きを先読みできるのか?」

 

()

 

 直球で尋ねたボクに対し、幼女は少しも間を作らず肯定。

 

「わたしはあなたの攻撃を先読みできる。厳密に言うと『攻撃軌道の予測』」

 

 彼女は歩くのをやめ、立ち止まった。

 

 かと思えば、また歩き出した。

 

「質問。李星穂(リー・シンスイ)、あなたは今のわたしの動きから、これからわたしが行う攻撃の具体的な情報を読む事ができたか」

 

 何言ってるんだと思いつつも、ボクは首を横に振った。

 

「それが普通。でも、わたしは分かる。相手が行う身振り、手振り、足振り、表情筋の動き、目の動き、呼吸の刻む拍子、足を踏み出したことによる振動、移動時に起こる風圧の向かう方向、服が風でなびく方向…………そういった「取るに足らないゴミのような情報」をいくつも寄せ集め、そこから相手が放つ攻撃の種類・軌道・やって来る時間・力の程度といった具体的な情報を瞬時に解き明かす事ができる。この能力を使えば、たとえ目を閉じていても容易に相手の攻撃を避け、防ぎ、御せる。これをわたし達(・・・・)は【看穿勁(かんせんけい)】と呼んでいる」

 

 【看穿勁】……そんな技術、武法の世界に浸かりまくったこのボクですら聞いた事がない。

 

 そんなもの、まさしく未来視と同じではないか。

 

 体の芯がこの上ない緊張で硬くなる。

 

「この【看穿勁】は防御や回避だけじゃない、攻撃にも役に立つ。なぜなら、相手の攻撃の軌道が全部先読みできるということは――攻撃を一切受ける事なく堂々と間合いへ踏み入ることができる事に繋がるのだから」

 

 そう言いながら歩いてくる幼女の足取りは、不気味なくらい落ち着き払っていた。

 

 歩容に気圧いが無いことが、逆に恐ろしく見えた。

 

 自然と足が後ろへ下がった。

 

 瞬間、幼女がツインテールの二尾を引きながら、風のように疾走。

 

 ボクはソレを迎え討とうとしたが、すぐにやめた。【看穿勁】などと言う得体の知れない能力の存在を知らされた以上、迂闊に打ち込んだらかえって隙を作ってしまう。まずは避けて防いでからだ。

 

 なめらかな歩法で滑り寄ってきた小さな体。ボクはそれをすんなり間合いへ招き入れる。

 

 自然な感じで、しかし確かな鋭さをもって伸ばされる右掌底。ボクはその外側へと逃れつつ、敵の右側面を陣取る。

 

 次の瞬間、真っ直ぐ伸びた彼女の右腕の肘がクンッ、と曲がった。腕に角度を作りながら肘が進む先には、ボク。

 

()!」

 

 透き通る声による一喝とともに、小さな肘が爆発的な威力を"発力"した。

 

 ボクは【硬気功(こうきこう)】を込めた右手でその肘鉄を受け止めた。痛みはなかったが、爆ぜるような勢いが体の裏側まで突き抜けるような錯覚を感じながら、真後ろへと飛ばされた。

 

 靴裏と石畳との摩擦抵抗で強引に勢いをねじ伏せる。

 

 ツインテール幼女はなおも悠々と佇んでいた。まるで自分の優位は揺るがないとでと言わんばかりに。

 

 ボクは呼吸を整え、これから取るべき手段を高速で考えた。

 確かに攻撃を行えば、そこがそのまま隙となってしまう。

 でもだからといって、このまま逃げ続けていても何も変わらない。

 

 なんでもいい。今すぐ倒せなくてもいい。彼女のペースを多少でも崩すことが出来れば。

 

 良いとはいえない頭を必至に働かせる。

 

 その末に――一つ閃いた。

 

 それを早速実行するべく、ボクは目標であるツインテールを射るように見据えた。

 

「定義。あなたはこれから、真正面からわたしを叩こうとする。迷いの無い、清々しいほど真っ直ぐな直線軌道がわたしの胴体に刺さっている」

 

 ご丁寧に写実的な説明をくれる幼女。

 

 ボクは何も答えず、ご明察通り彼女の瞳をまっすぐ見ながら直進した。鍛えられた脚部の【(きん)】が叩き出す敏捷性にモノを言わせ、彼我の距離を一気に詰めた。

 

 杭を打ち込むように靴底を大地へ叩きつけ【衝捶】。

 

「またその技」

 

 幼女は片手を前に出す。その掌中へ予定調和のようにボクの拳打が吸い込まれ、接触した途端その周囲へするりと絡みつかせてくる。

 

 すると拳に込められたエネルギー全てが溶かされ、スカスカの一撃となった。【化勁】だ。

 

 しかし、ボクは少しもガッカリしなかった。

 

 確かに勁は化かされた。けど――ボクと彼女の視線はいまだにぴったり重なっている。

 

 ボクは両者の視線同士が繋がって糸のようになる『意念』を強く浮かべながら、勢いよく右へ頭を振った。

 

 すると、まるで見えない糸に引っ張られたかのように、幼女が右へ大きく前傾した。――【太公釣魚(たいこうちょうぎょ)】。自分と相手の眼の間に仮想の糸を意念(イメージ)し、相手を一時的に操り人形にする技。神経がすり減りそうなほどの集中力が要求されるためあまり得意な技ではなかったが、成功して何よりだ。

 

「……っ!?」

 

 幼女の息を呑む声。その仮想の糸に見事踊らされた小柄な体は今、バランスを大きく崩した「死に体」だ。

 

 こちらの攻撃軌道が筒抜けだというのなら――予測できても避けられない状況に追い込んでやればいい。

 

 幼くも高い知性を感じさせる顔立ちに、驚愕が現れる。

 

「はっ!!」

 

 虚空を舞う幼女へ一瞬で押し迫り、【碾足衝捶】をお見舞いする。

 

 直撃。風に吹かれた羽根のように吹っ飛んだ。当たる瞬間に【化勁】で威力の何割かを溶かされてしまったけど、体勢が悪い状態では全ての力を溶かしきることはできなかったようだ。

 

 飛ぶ彼女の背中の延長上には壁面。

 幼女はくるり、と宙返り。背中ではなく足裏で壁に激突し、【碾足衝捶】による勢いが消えた途端に着地した。

 

「……驚いた。こんな方法でわたしに一撃加えるなんて」

 

 ほんのかすかにだが、ツインテール幼女の歩みにはよろけが見られた。軽減させたとはいえ、ノーダメージでは済まなかったようだ。

 

 その様子に勝ち誇る気持ちをひそかに抱きつつ、訊いた。

 

「どうする? まだ続けるかい」

 

(いな)。そろそろ引き際。あなたの実力がいかほどのものかも計ることができた。これ以上の続行は後に差し障る」

 

 幼女の言い回しに、ボクは引っかかるものを覚えた。

 

「ボクの実力を計る? 一体、何のために?」

 

「興味があったから、というだけ。かたくなに弟子を取らなかったという【雷帝】の弟子がいかほどのものか、気になった」

 

「……そういえば、君はボクの事を誰から聞いたんだい? もし試合に応じたら、勝敗にかかわらずソレを教えてくれる約束だよね? 君の名と素性も込みで教えてよ」

 

「今から教えるつもりだった。まずは、わたしの名前と所属門派から」

 

 ツインテール幼女は一息置いてから、少しゆっくりめに答えた。

 

 

 

 

 

「わたしの名前は劉随冷(リウ・スイルン)。【道王山】の門弟にして――――【太上(たいじょう)老君(ろうくん)】の称号を継ぎし者」

 

 

 

 

 

 相変わらず、抑揚のない声。

 

 けれど今放たれた台詞には、その声以上の衝撃的ニュアンスが込められていた。

 

 ライライたち三人を含む周囲の人々が大きく色めき立つ。

 

「【太上老君】だって……!? 君が……!?」

 

 驚き以外のリアクションが取れなかった。

 

 【太上老君】――その称号が持つ意味を知らない武法士はほとんどいない。

 

 【道王山】における最秘伝、【太極把】を継ぐ者のことだ。

 

 【太極把】の全容は、全くの謎に包まれている。その技術は非常に強力であるらしく、師一人につき弟子も一人という一子相伝の体制で伝承を繋げてきた。

 その非常に内向きな伝承方法に加え「【道王山】の外で【太極把】は見せてはならない」という徹底した秘密主義ゆえに、【太極把】をわずかでも見たものはいないと言われている。

 

 幻のベールに包まれた【太極把】は、様々な憶測や迷信を人々の間に作り出した。

 曰く、【送気法】で【気】を当てた相手を即死させる技。

 曰く、湖を岸から岸へ歩いて渡る技。

 曰く、視線で『意念』を送るだけで心臓を止められる技。

 信憑性の高いものから荒唐無稽なものまで様々だ。確かに存在する武法なのに都市伝説扱いされている奇妙な流派なのである。

 

 何度も言うが、【太極把】の姿を見た者はいない。つまり証人がいないのだ。そのため、目の前で【太上老君】を名乗るこの少女がニセモノの可能性だってあり得る。長い歴史の中でかたくなに秘密主義を貫き続けてきた【太極把】を名乗って、いったい何人の人がそれを「本物」と信じるだろう?

 

「証拠は?」

 

「今はない。でも嘘だと疑うなら、【黄龍賽(こうりゅうさい)】が終わった後にでも【道王山】まで行って尋ねるといい。「現在の【太上老君】は劉随冷(リウ・スイルン)か」と」

 

 ボクの目を真っ直ぐ見て言い返した。私見だけど、嘘をついているようには見えなかった。

 

 【黄龍賽】という単語を聞いて思い出した。そういえば本戦出場者名簿に「劉随冷(リウ・スイルン)」という名前が書いてあった。つまり、この子も本戦出場者。

 

「もっとも、【黄龍賽】が終わった後でも――あなたが(・・・・)武法士で(・・・・)いられる(・・・・)かどうか(・・・・)定かでは(・・・・)ないけれど(・・・・・)

 

 ――なんだって? 今、何て言った?

 

「ねえ、えっと……スイルン、それってどういう意味?」

 

 ツインテール幼女、もといスイルンは疑問とばかりに小首を傾げる。その仕草は子供っぽく見えた。

 

「いや、「あなたが武法士でいられるかどうか定かではない」って台詞だよ」

 

「それは――」

 

 スイルンがその先をつづけることはなかった。

 

 

 

「お前と私が交わした約束を、忘れているわけではなかろう?」

 

 

 

 太く、張りつめたような声がボクの耳朶を打った。

 

「え……」

 

 聞き覚えのある、いや、あり過ぎる声に、我が耳を疑った。

 

 そんな。まさか。こんな所にいるなんて。

 

 ありえない、と考えそうになって止めた。

 

「あの人」は、この帝都で高級文官として働いているではないか。ならば、再会しても何らおかしくはない。

 

 緊張して動きに乏しい首で、ゆっくりと後ろを振り返る。

 

 案の定、そこには聞いた声と同様に、よく見知った人物が立っていた。

 

 文官がよく好んで着る、裾が少し余る上品な上下衣。ゆったりとした生地からでも分かる広い肩幅、厚い胸板、太い首。硬質感と凄みのある(いわお)のような顔立ちと鋭い眼光は、厳格な人間性を隠しもしていない。

 

 こんなごっつい男からボクのような可憐な容姿の娘が生まれるなんて、とても信じられない。

 

 そうである。

 

 ボクが【黄龍賽】などというものに参加するキッカケを作った人物。全ての元凶。

 

 

 

 

 

 ――ボクの父である李大雲(リー・ダイユン)であった。

 

 

 

 

 

「父……様」

 

 ボクのかすれた呟きに、ライライたち三人は息を呑んだ。

 

 何を語りかけようか返事に窮していると、父様はこっちへ歩きながら先に口を開いた。

 

「どうやら、本戦まで上がってこれたようだな。過酷さで根を上げているとも考えたが、なかなか足掻くではないか」

 

 久しぶりに会ったのに、第一声がそれかよ。

 

 動揺はすぐに反感へと裏返った。

 

 父様は輪のような人だかりをぐるっと見回すと、あからさまに眉根を潜めて吐き捨てた。

 

「ふん。相変わらず卑俗な場所だな、【武館区】というのは。武法士どもが何食わぬ顔で帝都の一部を私物化している。解体でもすれば普通の民が通りやすくなるものを」

 

 それを聞いた周囲の武法士たちは苛立ちでざわめいた。しかし頭に血を上らせて飛び出してくる者は一人もいなかった。父様の歩き方から、素人であると判断したからだろう。武法士が武法士でない人を傷つけると罪に問われるのだ。おまけに見るからに文官なのでなおさら相手が悪い。

 

 ボクは不機嫌さを隠さずに、

 

「そんな卑俗な所にわざわざ立ち寄るなんて、『戸部(こぶ)』の長官というのは随分と暇なんですね。それとも何ですか? 娘に構ってほしいんですか?」

 

「何だと?」

 

 父様の眉間に刻まれた皺の数が数本増える。

 

 が、すぐに元に戻る。

 

「……まあいい。お前の減らず口など慣れっこだ。いちいち頭に来ていては身が持たん」

 

 言いながら、父様はボクの方――ではなく何故かスイルンの方へと歩み寄った。

 

「【太上老君】、腕試しの感想はどうだ?」

 

「なかなか手強い相手。けど、わたしなら勝てる」

 

「そうか。まあ、そうでなければ貴公を頼った意味がないが」

 

 二人は、まるで以前から見知った関係であるかのように言葉を交わしている。

 

 それに「頼った」ってどういうことだ? 父様はこのスイルンに何か頼みごとをしているのか? 何を?

 

 膨らむ疑念。

 

「頼ったって……どういうことですか、父様」

 

「文字通りの意味だ。シンスイ、私はお前をなんとしても武法の世界から引っ張り上げ、(リー)家に恥じない人間にするつもりだ。【太上老君】には、そのためにご協力頂いている」

 

 そこまで聞いて、父様の考えていることが分かった。

 

 つまり――

 

 

 

「父様は……【黄龍賽】にスイルンを参加させて、優勝させることで、ボクを負けさせようとしているんですね」

 

 

 

「そのとおりだ」

 

 父はまったく悪びれる様子なく肯定した。

 

「シンスイ、これはお前のためなのだ。このような世界に浸かりつづけていたら、お前の師のように無意味な死体ばかりこしらえた挙句、何も残せぬまま一生を終えることになるぞ。武法など、お前のような由緒ある生まれの者が関わるべきものではない。お前はお前の居るべき場所に戻るべきなのだ。分不相応な世界でみじめに生き、みじめに果てたいのか」

 

 ――そのセリフは、ボクの神経をこの上なく逆なでした。

 

 師匠が何も残せないまま一生を終えた?

 ボクがいるべき場所?

 みじめに生きてみじめに果てる?

 

 知ったふうな口を利くな。

 

 ボクは皮肉で研ぎ澄ました語気で言い放つ。

 

「……久しぶりに会いましたけど、相変わらずみたいで安心しました。おためごかしを「お前のため」なんて恩着せがましく、そして平然と押し付ける。なおかつ相手の恩師を公然と侮辱する。呆れるくらい変化に乏しいですね、あなたは」

 

 パァン。

 

 乾いた音と同時に、ボクの片頬に痛みが走る。

 

 父様に横っ面を叩かれたのだ。

 

「親に向かってその口のきき方はなんだ!!」

 

「……気に入らない意見には暴力と怒号で当たる所も相変わらずなようで」

 

「シンスイ……この分からず屋めが!!」

 

「あなたにだけは言われたくない。ひとまずそれは置いておいて……一つ分からないことがある」

 

 そこで父様から視線を外し、スイルンへ向いた。

 

「スイルン、君たち【道王山】は、【太極把】の公開を頑なに嫌がっていたはずだ。それなのにどうしてこの機会に見せる気になったのかな」

 

 小さな【太上老君】は少し間を置いてから答えた。

 

「あなたの父上の口車に乗っただけ」

 

「口車?」

 

「わたしは彼の提案を最初は断った。けれど、彼はその次にこう言った。『【太極把】につきまとう迷信や憶測を、この機会に払拭してみないか』と」

 

 どういう意味だ?

 

 スイルンはさらに続ける。

 

「【太極把】は徹底した秘密主義によって、一切漏洩することなく、一本線状の継承を繋げてきた。けれどその分、【太極把】に関する数多くの憶測や迷信が世間を飛び交うことになった。中には「【太極把】は失敗作。だから【道王山】は門派のメンツのために公表したがらない」などという心外な憶測も生まれる始末。それはある意味、伝承が漏れるよりも由々しき問題」

 

 【道王山】みたいな由緒正しき大流派は、メンツを大事にしたがる所がある。先祖が長い時間と努力と流血の果てに作り上げた武法がけなされる事は、彼らが最も嫌う仕打ちの一つだ。

 

「だからこそ、わたしは李大雲(リー・ダイユン)の口車に乗り、【黄龍賽】に参加した。【黄龍賽】という大勢の人の目前で【太極把】の力を示し、【道王山】の偉大さを今一度知らしめるために」

 

 スイルンはそう言うと、ボクを真っ直ぐ指さした。

 

李星穂(リー・シンスイ)、あなたはそのための(いしずえ)に相応しい。【雷帝】の唯一の門弟であるあなたを大勢の前で負かせば、【太極把】の威光は不動のものとなる」

 

 無表情で発せられた抑揚に乏しい言葉だが、どこか凄みがあった。

 

 彼女はボクを「敵」と認識し、衆人環視の中で確実に倒そうと考えている。――「【太極把】こそが最強なり」と証明するために。

 

 父様はそんなスイルンを利用し、ボクを負かそうと考えている。――ボクを文官にし、自分の望む生き方を強いるために。

 

 二人の利害は完全に一致していた。

 

 相手は実質【道王山】最強の武法士。【化勁】の巧みさも厄介だが、特筆すべきはその未来予知に等しい先読みの力【看穿勁】。さっきは機転を利かせて一撃当てられたが、あんな上手い手が二度三度四度と思いつくとは限らない。それができなければボクはなすすべなく負けるだろう。

 

 スイルンはきっと決勝まで駆け上ってくる。そんな気がする。勝ち進むことになれば、必ず彼女とぶつかる。

 

 逃げることができない、絶望的な勝負。

 

 でも、だからどうした。

 

 ボクは嬉しい誤算で授かった第二の人生を、武法という最高の身体文化へ捧げると決めたのだ。

 

 それを邪魔する者は、たとえ生みの親であっても、許さない。

 

 ボクは感情に乏しいスイルンの眼差しを真っ直ぐ睨み、言い返す。

 

「そう簡単にいくと思わないでよ。君はボクを餌としか思っていないみたいだけど、【雷帝】の遺産を侮ったら——大火傷だけじゃ済まない結果になるからね」

 

 続いて、全ての元凶たる父様へ睥睨の視線を移す。

 

「父様、あなたはどうあってもボクを李(リー)家の雛形に収めたいつもりみたいだ。だけど、宣言しておきます。あなたの仕掛ける小細工のことごとくは、あなたが先ほど腐した【雷帝】の拳が跡形も残さず消し去ると」

 

「……よくぞ吠えた。どこまでその威勢が続くのか、見ものだな」

 

 父様はそう言って背を向ける。

 

「シンスイ……お前にはなんとしても武法から足を洗ってもらう。それがお前のためなのだから」

 

 押し殺したような声でそう言い捨てると、そのまま立ち去っていった。

 

 その後ろへスイルンも伴う。

 

 二人の姿が小さくなり、やがて消えた。

 

「……お姉様」

 

 ミーフォンがおずおずと歩み寄ってくる。

 

 その頭に手を乗せつつ、ボクは二人の消えた場所を見て言った。

 

「――ボクは勝つ。絶対に勝つ。だから、何も心配はいらない」

 

 それは、自分に言い聞かせるためでもあり、覚悟を決めるためでもあった。

 

 ――今までのボクは、少したるんでいたのかもしれなかった。

 

 もともとボクが【黄龍賽】に参加しているのは、父様との約束があるからだ。

 それを果たすために、もっと緊張感を持って勝負に臨むべきだった。

 けれどボクは、その気持ちをいつの間にか無くしていた。

 【黄龍賽】を通じていろんな人と出会い、苦しい時や嬉しい時を送った。

 それがとても楽しかったのだ。

 だからこそ、それに耽溺しかけていた。

 

 これからはもっと緊張感を持たなければならない。

 父様の鼻を明かすために。望まない生き方を強いられないために。

 大好きな武法を、奪われないために――

 

 

 



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琳泉執行

 その後、何をしたのかはあまり覚えていない。

 

 どこか店に寄ったのかもしれないし、名所を見に行ったのかもしれない。

 

 それらを五感で感じ取りはしたものの、考えが常にぼーっとした状態だったので、記憶がかなりあいまいだった。

 

 ボクはただ、ボクを引っ張ってくれている三人の後ろについて歩いていただけだ。歩きたい気分ではなかったので、歩かされたという方が正しいかもしれないが。

 

 けれども一方で、三人には感謝も抱いていた。もし彼女たちが心ここにあらずなボクをリードしてくれていなかったら、夕方になった今でも【武館区(ぶかんく)】の街路のど真ん中で立ち尽くしていたかもしれないから。

 

 どれだけ歩いただろうか。鍛えられているはずの下半身に疲労のだるさが若干でてくるくらい足を動かした果てに到着したのは、『吞星堂(どんせいどう)』にあるボクの部屋だった。

 

「ただいまー!」

 

 扉へ一番乗りしたミーフォンが元気よく無人の部屋へ足を踏み入る。

「いや、ここミーフォンの部屋違うし。何自然な感じで同室になろうとしてるのさ」というつっこみさえ入れる余裕が無い。

 

 残る三人も入っていく。まだ嗅ぎ慣れていない部屋の匂いをぼんやりと感じ取る。

 

「きゃっほぅ!」

 

 ミーフォンが嬉々としてベッドに飛び込む。うつ伏せになりながら、ボクが昨晩使っていた枕に頬ずりしたり顔を埋めて鼻息を吸ったりなどする。その変態ちっくな珍行動すらスルーしつつ、ベッドの端っこにちょこんと座った。

 

「……はぁ」

 

 我知らず、そんな溜息が出た。

 

 部屋全体が静まり返っている。

 

 部屋中央の円卓の二席に座るライライとセンランは、心配そうにボクを見ていた。ミーフォンもすぐに枕の匂いを堪能するのをやめ、黙ってこちらへ視線を向けていた。

 

 この沈黙は間違いなくボクが作り出したものだった。

 

「その……シンスイ、大丈夫?」

 

 口火を切ったのはライライだった。

 

 対してボクは、

 

「うん」

 

 としか返せなかった。

 

 次にミーフォンがぎしり、と四つん這いでボクに近づき、

 

「本当に大丈夫ですか? なんだか目が死んでますよ?」

 

「うん」

 

「お腹は空いてないですか?」

 

「うん」

 

「どこか痛くないですか?」

 

「うん」

 

「お姉様の腋の下舐めさせてください」

 

「うん」

 

 ミーフォンは弱り切った表情を円卓側へ向ける。

 

「ダメだわ。これはちょっと重傷かも……」

 

「うん。あなたもね、ミーフォン」

 

 引き気味の苦笑で答えるライライ。

 

 彼女たちがボクの身を純粋に案じてくれているのはよく分かる。

 だが申し訳ないけど、今のボクはまともな応対など億劫で仕方がなかった。

 

 スイルンとの一戦からずっと脳裏に去来しているのは、父様の厳つい顔。

 父様を久しく見た瞬間、再認識してしまった。「本戦で一度でも負けたら終わり」という現実を。

 重々しく突き付けられたオールオアナッシングに、ボクの心は重圧で潰されそうだった。

 

「それにしても、相変わらずの頑固者であったな。キミの父は」

 

 しみじみ口にされたセンランの発言に、ライライが意外そうな顔で、

 

「センラン、あなたシンスイの父親の事を知っていたの?」

 

「ああ。【滄奥市(そうおうし)】から戻った後、シンスイの事を調べてもらったのだ。父親が税務や財政を司る『戸部(こぶ)』の長官であることはすぐに調べがついた」

 

 するとミーフォンが良い事思いついたとばかりに頭を上げ、

 

「そうだわセンラン、あんたの力で言う事聞かせることってできないわけ?」

 

「無茶を申すな。公人が臣下のお家騒動に介入でもしてみろ、もっと面倒な事態に発展することは火を見るより明らかだ」

 

「――そもそも、そんなことで父様が一度出した意見を覆すとは思えないよ。あの人の頑固さは筋金入りだから」

 

 ボクは思わずそう口を挟んだ。

 

 だからだろう。またしても息苦しい静けさを呼び込んでしまった。

 自分のために話し合いをしてくれている彼女たちに、八つ当たりをしてしまったみたいな気分となる。

 何か、何か話さないと。

 

 でも、何を? 分からない。

 

「……あ」

 

 せめて声くらいは出してみようと、強引に発しかけた時だった。

 

「お姉様っ!」

 

 ミーフォンが勢いよく前のめりになってボクに近づいた。その顔はまたしても名案が浮かんだように明るかった。

 

「な、何かな」

 

「あたし、良い事思いつきました!」

 

「良い事?」

 

「はい! 良い事です!」

 

 そこで一度言葉を止めると、ミーフォンはその頬をほんのりと桜色に染め、はにかんだ笑顔で再度口を開いた。

 

「万が一、お姉様が敗退したら、その時は――――あたしと結婚すればいいんです!」

 

 …………………………。

 

 その発言にボクを含む一同が唖然とする。

 

 え? なんだって?

 

「えっと……ごめんねミーフォン。よく聞こえなかったから、もう一回言ってくれないかな」

 

「だから、もし負けたらあたしと結婚しましょうって言ってるんです!」

 

「……その心は?」

 

「だって、「もし負けたら文官登用試験を受けろ!」っていうのは、全員文官合格経験ありっていうお姉様の家柄ありきの条件なんですよね? だったら、その家の人間じゃなくなっちゃえばいいんです! お姉様があたしの家に嫁いでそれから絶縁しちゃえば、もうあのガンコ親父の顔色うかがう必要ないじゃないですか! それでもってお姉様が路頭に迷う心配もなくなります! この国は一応同性婚アリみたいですし。そうよね、センラン!?」

 

「む……まあ、確かにそうだが」

 

「ほら! だからお姉様、もし本戦で敗退したらあたしに貰われてください! あ、もちろん負けなくても貰ってあげますけど」

 

 恥じらうような微笑みを真っ直ぐ向けてくるミーフォン。

 

 驚きのその発想に、ボクは今なお口をあんぐりさせっぱなしだった

 

 けれど、やがて可笑しさがお腹から湧き上がってきた。

 

「くくっ……ふふふふっ…………」

 

 こらえきれずに唇から少しずつ漏れ出していき、やがて大笑となった。

 

「あはっ、あは、あっははははははははははっ!! もー、ミーフォンってば何言ってるのー!? 変なのー!! あーっはっはっはっはっ!!」

 

 お腹を抱えて爆笑しているのはボクだけではなかった。センランとライライも同じように笑声を上げていた。

 

 きょとんとしているミーフォンを見て、ボクはひーひー言いながらも呼吸を整える。

 

「ふう…………凄いね、そういう手は考え付かなかったよ。それじゃあ万が一ボクが負けたら、ミーフォンのお家に貰われちゃおうかな」

 

 冗談めかした口調で言った。

 

 ミーフォンは一瞬、ものすごい顔をした。だがすぐに焼け付く夏の日差しのような笑顔を浮かべて勢いよく飛びついてきた。うなじに両腕を回され、結構な豊かさを誇る二つのふくらみが押し当てられる。

 

「ああん、お姉様ぁぁぁ!! やっとあたしの想いに応えてくれる気になったんですねぇ!! あたし、今までの人生の中で一番幸せですよぉ!!」 

 

「いで! いでででで! く、苦しいから! まだそうすると明確に決めたわけじゃないからね!? それに【黄龍賽】本戦はまだ始まってもないんだから!」

 

「もう勝ち負けとかどうでもいいから今すぐにでもお嫁に来てくださいぃ!! あたし頑張ってお姉様好みの雌になりますぅ!! 毎晩一睡もさせなくていいですからぁ!! ううん、むしろ今すぐここで滅茶苦茶にしてください!! 上も下も全部ひん剥いて裸にして、全身のいろんな箇所にお姉様の唇や手の跡付けてナワバリ主張してください!! ああん!! 抱いて! 抱いてお姉様ぁぁぁぁぁ!!!」

 

「ちょぉぉぉぉぉぉぉ!?」

 

 怒涛のスキンシップに声を上げるボク。彼女は自身の発する甘い匂いがボクに染みつきそうなほど体を擦りつけてきていた。

 

 引きはがそうとするが、全然離れない。ふにんふにんと形を変えて押し付けられるおっぱいが気持ちいい一方で、首と胴体がとんでもない力で締め付けられて苦しい。

 

 

 

 ~~~しばらくお待ちください~~~

 

 

 

「んもぉ。お姉様ったら我慢強いんだからぁ。あたしは全然かまわないのに。据え膳は貪り食うのが礼儀ですよ?」

 

 ベッドの上でしな(・・)を作り、扇情的な流し目を向けてくるミーフォン。ボクより年下のくせに妙に色気が濃くてエロい。

 

「ボクが構うのっ。だいいち、二人が見てる前で始めるつもりなわけ?」

 

「じゃあ――」

 

「人気のない所でもしないからねっ」

 

「ち」

 

 惜しい、とでも言いたげに舌打ちするミーフォン。

 

 どうにか引っぺがしたが、彼女の匂いは服にしっかりしみついていた。いや、いい匂いだけどさ。

 

「でも、ありがとうねミーフォン。君のおかげでいつものボクに少し戻れた気がするよ」

 

 ボクは素直に感謝を述べた。

 

 さっきまでは問いかけにきちんと反応する気力さえなかったが、気が付くとすっかり元通りに突っ込みを返せるようになっていた。ミーフォンの奇行が、固くなっていたボクの心をほぐしてくれたのだ。

 

 思えば、この可愛い妹分にはいろいろと助けられてばっかりな気がする。

 

 腋の下舐める程度なら許してあげてもいいかな……なんておかしな考えがひそかに生まれたり生まれなかったり。

 

「……いいえ。元気になってくれてよかったです」

 

 にこやかに頷くミーフォン。

 

 彼女が擦り付けた残り香を感じ取りつつ、ボクは全員の顔を見回して強く言った。

 

「ごめん、みんな。でももう大丈夫だ。ボクはいつものボクに戻ったから。確かに負けたら終わりかもしれないけど、だったら負けなきゃいいだけの話なんだよね。なら今は「負けたらどうしよう」ってくよくよ悩むより、どうしたら勝ちぬけるかどうかを考えるほうが建設的だ。そうだよね?」

 

 うん、と頷きを返す全員。

 

 重々しい空気はすでに無い。場は明るく前向きな雰囲気に包まれていた。

 

 ボクは気を取り直し、センランへ向けてことさら明るく尋ねた。

 

「そういえばセンラン、今年の【黄龍賽】に参加するメンツについて何か知ってる?」

 

「そうだな……参加者名簿には逐一目を通しているが、現在記入されている人のうち三人は知っている名だ。その中には当然ながら劉随冷(リウ・スイルン)も入るが、あやつの事は昼間によく知った。残り二人について話しておこうか?」

 

「聞かせてくれるかい」

 

 うむ、と首肯すると、三つ編み眼鏡の少女は落ち着いた口調で語り始めた。

 

「一人目は勾藍軋(ゴウ・ランガー)。【軽身術(けいしんじゅつ)】を用いた高速戦闘を得意とするなかなかの曲者だ。事実、前回の【黄龍賽】でその実力を準優勝という形で示している」

 

「高速型か……」

 

 ボクは少しばかり顔をしかめた。前回準優勝者であることもそうだが、スピードタイプの相手はちょっぴり苦手だったからだ。優れた【軽身術】の使い手は、パッと近づいて一発当ててからパッと遠くへ離れるという超高速ヒットアンドアウェイをよく使ってくるのである。あれは2D格闘ゲームのハメ技に通じるモノがある。つまり対処がしにくく面倒くさい。

 

「二人目は姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)。前回【黄龍賽】の優勝者だ」

 

 優勝者という単語に全員の眉根がぴくりと反応を示した。

 

 センランはやや緊張を顔に帯びながら続ける。

 

「こいつは勾藍軋(ゴウ・ランガー)よりもさらに厄介者だ。【空霊衝(くうれいしょう)】の使い手で、試合を開始した時の立ち位置から全く動かぬまま全ての対戦相手に圧勝し、とんとん拍子で優勝をもぎ取った。前回の【黄龍賽】以来、ついた通名は【天下無踪(てんかむそう)】」

 

 ごくり、と生唾を飲み込むボク。

 

 【空霊衝】とは、武法の流派の名前である。力や衝撃の形や向きを自在に操る【空霊勁(くうれいけい)】を用いて、常識破りな戦い方をする流派だ。この【空霊勁】を上手い事利用すれば、その場から動かずに相手を負かすことも可能。

【太極把】と並ぶ「隠れた名拳」の一つ。

 

 いずれにせよ、

 

「一筋縄じゃいかない、ってわけだね」

 

「そういうことだ。抜かってはならんぞ、シンスイ」

 

 センランが眼鏡を光らせてそう頷いた。

 ボクもまた頷きを返す。

 

 前途多難だった。しかし父様と会った後のように気持ちは沈んではいない。むしろ高まってすらいた。これからそのビッグネームの相手をひたすらに倒していかなくてはならないのだ。半端な気持ちはむしろ持たない方が良い。

 

「そういえば【黄龍賽】って、煌国内の武法士育成のために開催されたのよね? 結局のところ、効果はあったのかしら?」

 

 不意に、ミーフォンがそう尋ねてきた。

 

 三つ編み眼鏡の皇女は眼鏡の真ん中を指先で押さえ、気まずそうに答えた。

 

「……言ってしまうと、そちらの効果は薄かったかもしれん。だが代わりに興行的な方面ではかなり上手くいっている」

 

 当初思い浮かべた目的とは違うがな、と最後に付け加えて。

 

 欲したモノと違うモノが手に入る。そういうことは世の中では割とよくあることだと思う。地球でも、資本主義を掲げた日本が社会主義っぽくなったり、逆に社会主義国家を標榜した中国の方がよほど資本主義らしくなったりしたのだから。

 

「知っているかもしれんが、我が国は現在財政的に余裕があるとは言えない状態だ。停滞したカネ周りを少しでも潤滑にするための金策。それこそが我々皇族が【黄龍賽】に求める恩恵なのだよ」

 

「金策、ね……やっぱりそんな風になっているのって、先代の皇帝のせいなの?」

 

 財政がらみの話題を乗せたセンランの言葉に、ライライがそのように反応を示した。

 

 センランはさらにその場に縮こまり、重々しく口を開いた。

 

「……左様。できれば先祖を腐すようなセリフは避けたい所だが、こればかりは先代の擁護が難しい問題だ。彼の行った政策によって、今の財政難は生まれたのだから」

 

「「内憂の排除」、だね」

 

「そうだ」

 

 ボクの答えに、小さく頷く三つ編み眼鏡っこ。

 

 ――その問題はボクもよく知っていた。

 

 一〇〇年前、煌国は長きにわたる戦乱期を耐え抜き、太平を勝ち取った。

 しかしながら戦乱期の名残りとして、朝廷に良い感情を抱いていない部族や民族をいくつか国内に飼っていた。いずれも、いつ反乱を起こしてもおかしくない連中ばかりだったそうだ。

 感情、思想面だけの問題ではない。実害もきちんと出していた。反朝廷的感情を持った部族は、帝都へ運ばれる物資を乗せた荷車を襲撃する山賊となっていたのだ。その連中のせいで多くの事業者が辛酸を舐めさせられた。

 

 それらを重く見た当時の皇帝『獅子皇(ししおう)』は、本格的な大乱が起こる前にそういった「獅子身中の虫」をねじふせようと考え、具体的な行動を起こした。

 

 かといって、一方的に進軍して皆殺しにしたのでは民衆の反感を買いかねない。なので反朝廷的部族が本気で怒るほどの「嫌がらせ」で挙兵させ、それを「賊軍」と認定することで堂々と攻め込むための大義名分を作る。怒り狂って攻め入ってきた賊軍を、万全の態勢を整えた国軍が迎え撃つというわけだ。

 

 武を重んじる『獅子皇』ならではのこの発想によって、多くの反乱の芽が摘みとられた。帝都と他の町を行き来する行商人も安心して活動できるようになった。

 

 しかしながら、その代償は安くはなかった。むしろ、リターンよりリスクの方が大きかった。

 戦争というのはとにかくお金がかかるものなのだ。度重なる進軍によってどんどんお金が使われていったことで、国庫の中身の半分以上が消えたのだ。あと数百年は楽に国を運営できるといわれていたほどの貯えが、だ。――現在の財政難はこれに起因している。

 さらに戦争孤児や落人(おちうど)も増加した。そういった人々の何割かは食うに困って盗賊や【黒幇(こくはん)】に身をやつした。

 『獅子皇』の政策は、戦争被害者を増やして国家財政に大打撃を与えるという大失敗で終わったのだ。

 

 センランはそんな皇族の恥部を赤裸々に語ってから、再び言葉を連ねた。

 

「おまけに、この度重なる挙兵による被害は国庫の中身の激減、戦争被害者の増加にとどまらない。とある武法の伝承が消滅したのだ。シンスイ、キミなら分かるだろう?」

 

「……【琳泉把(りんせんは)】」

 

 少し間を作って発せられたとある武法流派の名に、部屋の空気が張りつめた。

 

 その空気の変動が、【琳泉把】と呼ばれる流派の消滅に関わる「事件」の理不尽さを示唆していた。

 

 

 

 

 

 

 『獅子皇』が行った「蛮族討伐」の作戦のうちの一つに【琳泉執行(りんせんしっこう)】というものがある。

 

 それは、三十年くらい前まで存在した、『琳泉郷(りんせんごう)』という小さな村を襲撃するための作戦であった。

 

 『琳泉郷』は、別に大きく発展した都市でもなければ、何かの名産地であるというわけでもない。特徴がほとんどない、どこにでもある本当に小規模な村である。

 けれども、一つだけ大きな特徴があった。

 それは、村の住人の中でのみ伝承されている「ある武法」の存在だった。

 

 そう、それこそが【琳泉把】だ。

 

 【琳泉把】は非常に強力な武法だった。他の武法には存在しない「革新的な技術」が含まれており、使い方次第では冗談抜きで「最強」となり得る。

 

 【琳泉把】の全容はほとんど世間に知られていない。なぜなら『琳泉郷』の村人の中でのみ秘密裏に伝承されてきたからだ。彼らは『琳泉郷』の住人ではない余所者には、決して教えなかったのである。その秘密主義たるや、あの【太極把】と同程度だったという。

 

 けれども、「ほとんど」知られていないだけで、ごく一部の人間は【琳泉把】の姿を知っていた。武法を大層好んでいた『獅子皇』もその一人だった。

 

 『獅子皇』はその武法が持つずば抜けた戦闘技術に感動すると同時に、危険視もした。

 もしも【琳泉把】を身につけた一〇〇〇の兵が、そうでない一万の兵と全面戦争を行った場合――ほぼ確実に前者が勝つ。こんな連中にもし反乱でも起こされたら煌国が陥落しかねない。そう思ったことだろう。

 

 その不安を具現化させるように、『獅子皇』が大々的に(みことのり)を出した。内容は「【琳泉把】の使用・訓練・伝承の一切を禁ず」というものだった。

 

 当然ながら、『琳泉郷』の人々は猛反発した。【琳泉把】は彼らの誇りであり魂だったのだ。それを一方的に「捨てろ」と言われたら反感を抱くのはいわずもがなだろう。当時の村長は『獅子皇』との謁見でそんな村民の気持ちを代弁した。しかし聞き入れられず、宮廷から叩き出された。

 

 『琳泉郷』の人々の中に宿る朝廷への不満感は一気に膨れ上がり、やがて明確な叛意となった。――そんな彼らが村ぐるみで朝敵(ちょうてき)に変貌するまでに大した時間はかからなかった。

 

 『琳泉郷』は一斉蜂起し、朝廷に対して反乱を起こした。

 

 その情報を耳にした『獅子皇』は、きっとしたり顔で笑っていたに違いない。

 

 彼らの一斉蜂起は、実は想定内の行動だったからだ。彼らが【琳泉把】に並々ならぬ想いと誇りを持っていることは知っていた。その感情を逆撫でし、叛意を促し、行動へ移させた。向こう側から蜂起してくれたなら、国軍は「蛮族の討伐」という(にしき)の御旗を掲げて堂々と挙兵できる。

 

 国軍は挙兵。『琳泉郷』と交戦となった。

【琳泉把】対策を万全にとっていた国軍は敵を順調に蹴散らしていった。だがそれでも『琳泉郷』の使う技によって国軍の兵士にも少なからぬ犠牲が出た。「【琳泉把】は危険だ」という『獅子皇』の見立てはウソではなかったのだ。

 

 数日間にも及ぶ戦闘の末、最終的に勝利したのは国軍だった。

 

 

 

 

 

「――その後『琳泉郷』の人間は老若男女問わず殲滅された。それによって【琳泉把】の伝承の芽は完膚なきまでに摘み取られてしまったのだ。まったくもって嘆かわしい事件だ。同じ血を宿す者として慙愧(ざんき)に耐えぬ」

 

 センランは苦痛に耐えるように唇を引き結んだ。

 

 この『琳泉執行』には、他の蛮族討伐とは違う「大きな問題点」が一つある。

 

 それは――『琳泉郷』がもともと(・・・・)反朝廷的部族(・・・・・・)でもなんでも(・・・・・・)なかった(・・・・)ことに他ならない。

 

 彼らは帝都行きの荷車を襲ったりなんか一切していない。ただ静かに暮らしていたかっただけだ。なのに無理やり朝敵に仕立て上げ、挙句の果てに滅ぼした。

 

 『琳泉郷』は紛れもなく被害者だ。何も悪くない。

 

 そういう理由から、【琳泉執行】は三十年以上経った今でも物議をかもしている。

 

 『獅子皇』は、『琳泉執行』から数年後に病没。その後、息子である煌榮(ファン・ロン)陛下が摂政付きで即位し、その政権が現在まで続いている。

 

「父上は先代のやり方には否定的意見を持っている。先代のやってきた無謀行為の清算のため、この三十年間お力を尽くしてこられた」

 

 それは分かっている。近年少しずつ軍縮している所を見ればそれは明らかである。軍拡ばかりしていた『獅子皇』政権とは真逆の方向性を示していた。軍費を削って他の分野にお金をあてているのだろう。

 

 でも――

 

「……でも、朝廷は前代皇帝の下した詔をいまだに破棄してない。違う?」

 

 センランが目に見えて気まずそうな顔を見せた。

 

 そうだ。皇帝がすげ変わり、『獅子皇』の政策によるダメージの回復に積極的だったとしても、「【琳泉把】の使用・訓練・伝承の一切を禁ず」という詔は効力を失っていない。三十年以上前のまま今も残っている。

 

 これは、現政権も【琳泉把】を怖がっている裏づけに他ならない。『琳泉郷』にした仕打ちは最悪だったが、きっと「【琳泉把】が危険である」という意見には同意しているのだ。

 

「【琳泉把】って、ボクでも見たこと無いや。どんな武法だろうね?」

 

 ボクはそう口にした。これ以上傷口に塩を擦り込むような言葉は避けたかったのだ。

 

 センランはふるふるとかぶりを振った。

 

「残念だが、一介の市井の民でしかないキミに話す事はできぬ。それに先代は『琳泉執行』の後、【琳泉把】に関わる情報に箝口令を敷いたからな。今この煌国に【琳泉把】の正確な姿を知る人間はもういないかもしれん。いや、たとえ知っていても、それを口に出す者はいないだろう」

 

「謎の武法ってわけね。まあ、【太極炮捶(たいきょくほうすい)】の敵ではないでしょうけど」

 

 ミーフォンがそううそぶいた途端、きゅるるる……と腹の虫の鳴き声が聞こえた。

 

 真っ赤になってお腹を押さえているのはライライである。

 

「あんた乳や尻だけじゃなくて、腹の音もでかいのねぇ」

 

 からかうようなミーフォンの言葉に、腹の虫の飼い主は赤い顔をうつむかせた。

 

 さらに意識は室内へと移る。窓から見える景色は日没となっていた。オレンジ色の夕空が西の壁面の奥へ引っ込み、夜の暗幕が空へ押し寄せていた。

 

 それを見た途端、センランはガバッと勢いよく椅子から立った。

 

「いかん。そろそろ私は帰らねばならん! あまり帰りが遅いと父上にお叱りを受けかねん! 申し訳ないが、私はここでお(いとま)させていただく」

 

「え? ああ、うん。気を付けて帰ってね」

 

「うむ。またいつか必ずこの姿でキミたちに会いに来る。それまでさようならだ」

 

 ぎゅっ。センランがボクの背中に腕を回して抱きしめる。まるでボクの存在を我が身に感じ取るように。

 

 他の二人にも同じように抱きつくと、彼女はドアの前でボクらの方へ振り返る。

 

「では、さらばだ! また一緒に遊ぼうぞ!」

 

 そう声高に告げて、ボクの部屋から出て行った。

 

 遠ざかっていく足音。それが消えたのに合わせて、ボクら三人の口が開いた。

 

「台風みたいな女だったわね。まあ、今日一日結構楽しかったけど」

 

「ふふ……また、会えるといいわね、シンスイ」

 

「うん……」

 

 ボクは控えめな声で頷く。我ながら少し元気に欠ける声であった。

 

「シンスイ? なんか元気ないわね。センランとのお別れがそんなに寂しい?」

 

「へっ? あ、ああうん。そんなところかな」

 

 ボクが慌てて相槌を打つと、ミーフォンが片腕に抱きついてきた。結構豊かな二つの膨らみをあからさまに擦りつけ、甘ったるい声色で、

 

「だったらお姉様ぁ、あたしがその寂しさを癒してさしあげますよぉ。心身ともにっ」

 

「い、いや。大丈夫だって」

 

「遠慮しないでくださぁい。あたし達、これから結婚するんですからぁ。「昼は貞淑夜は娼婦」っていう嫁の理想像がありますけど、あたしは朝昼夜全部娼婦になれますぅ。あたしが全身全霊をかけてお姉様を癒してあ・げ・ま・す・よ」

 

 甘い吐息とともに耳元でささやかれ、肩がビクンと震えた。熱に浮かされたような微笑みを浮かべるミーフォンがものすごく煽情的に見える。

 

「こらこら、まだ結婚するって決めたわけじゃないでしょうが。それに遠回しに「負けろ」って言ってない? ボク負けないからね。絶対優勝するんだからね」

 

 ぶー、と不満げに頬を膨らませて下がるミーフォン。表面上は平静を装っていたボクだが、内心では心臓がバクついていた。やばい、我が妹分がどんどん色っぽくなってる気がする。

 

「ねえ二人とも。センランも帰ったんだし、そろそろお風呂入らない? それから早くご飯にしましょうよ」

 

 ライライのその提案に、ボクとミーフォンも同意の頷きを返した。

 

「満場一致。それじゃあ、行きましょうか」

 

「よし。ささ、お姉様、早くお風呂にしましょ」

 

「そうだね」

 

 意気揚々と部屋を出ていく二人に、ボクも着替えを準備してからついていくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はー、なんか疲れた。もう今度からミーフォンに背中流させるのやめよう……」

 

 大浴場から自室に戻った寝間着姿のボクは、大きなため息を吐いた。

 

 お風呂はやはり最高だったのだが、身体を洗う時のミーフォンが最悪だった。「たまには背中を流してもらうのもいいかもな」なんて思って彼女に任せたのが愚かな判断である。背中だけでなく後ろから平べったい胸に手を回して揉んできて(揉むほど無いけど)、挙句の果てには「前」まで洗おうとしてきた。さすがに看過できなかったボクはゲンコツで静止させた。「もし優勝できなかったら結婚しましょう」話から、ミーフォンのスキンシップが過激になってきている気がする。今度ちゃんと厳しく言っておくべきだろうか。でもなんだかんだで最終的に甘やかしちゃうんだよなぁ、ボクってば。

 

 基本女性の裸体を直視できないボクだが、ミーフォンのだけは普通に見れるようになっている気がする。いや、あの子ってば自分から恥じらいも無く大っぴらに見せてくるから、多分慣れてしまったんだろう。

 

 ……って待つんだボク。なんか気づけばミーフォンの事ばっかし考えてないか?

 

 いかん、このままでは本格的にミーフォン(ルート)に入ってしまう。ウェディングドレス着た女同士で挙式して、二人仲良くブーケを投げる展開になりかねない。いや、この世界にウェディングドレスもブーケトスも無いんだけどね。

 

 けど、あの子に感謝を抱いているのは本当だった。もしミーフォンの明るさが無かったら、ボクは今でも気分が沈んだままだったに違いない。

 

 ありがとう。そう心の中で感謝する。

 

「……よしっ」

 

 ボクは一発気合いを入れ直した。食堂で夕食が出る時間まで修業でもしよう。少しでも優勝できるだけの力をつけるために。それが今のボクにできる唯一の道である。

 

 ――今日も「アレ」をやろうかな。

 

 そうと決めたら、まず行うべきは「密室を作る」ことだ。

 

 部屋の外の通路から誰も覗いている人がいないことを確認後、出入り口のドアを閉じて施錠。

 夜の姿となっている帝都の景色を晒す窓。その雨戸を閉じきり、窓の外から部屋の中が見えないようにする。天井の中心からぶら下がっている『鴛鴦石(えんおうせき)』の照明をつけ、真っ暗な部屋を明るくする。

 壁に覗き穴が無いかを確認する。物陰や衣装棚に誰か隠れていないか確認する。――いずれも異常なしと判断。

 【聴気法(ちょうきほう)】を発動。外の通路、および隣室に人の【気】の反応は無し。

 

 今、ボクの部屋は「密室」と化した。

 

 ボクは財布から硬貨を一枚取り出すと、部屋の中の開けた空間まで移動する。

 精神の波を静め、心という名の土壌を柔らかくする。

 それから、特殊な呼吸法を交えて【意念法(いねんほう)】を行った。――「「五拍子」を刻んだら、それを「一拍子」として扱う」というイメージをひたすら頭の中で練り上げる。

 十分に意念が練れた事を確認後、ボクは片手に用意しておいた硬貨を親指でピン、と弾いた。薄い円形の鉄塊が幾度も翻りながら真上へ飛ぶ。

 

 硬貨が放物線の下降の軌道を描き始める。

 

 ボクはその硬貨が「一歩踏み出す時間で落ちる高さ」にまでやってくるのをジッと待つ。

 

 待って、待って、待って――到達した。

 

 

 

 次の瞬間、ボクは歩き出した(・・・・・)

 

 

 

 そう。ただ歩いただけだ。特殊な体術を用いたわけでも何でもない。

 

 ただ、「五歩」足を進めただけだ。

 

 一歩、二歩、三歩、四歩、五歩――チャリーン、と硬貨が落ちる音が聞こえたところで足を止めた。

 

 ボクが歩き始めたのは、硬貨が「一歩踏み出す時間で落ちる高さ」にまでやってきた時。普通ならば、前足をぽんと前へ一回踏み出すのと同時に「チャリーン」という落下音が鳴る。

 しかし今ボクが刻んだ歩数は「五歩」。

 

 

 

 すなわちボクは今――「普通の人が(・・・・・)一歩踏み出す時間(・・・・・・・・)()五歩(・・)歩いた(・・・)ということだ。

 

 

 

 落ちた硬貨を拾い、その表面の刻印を眺めながら物思いにふける。

 

 ――ボクは一つ、ミーフォンたちに嘘をついている。

 

「【琳泉把】がどんな武法か知らない」とボクは言った。

 

 それこそが嘘だった。

 

 本当はどのような武法であるのか良く知っている。

 

 その恐ろしさを、ボクは良く理解している。

 

 

 

 

 

 なぜならボクが(・・・)琳泉把(・・・)の修行者だから(・・・・・・・)だ。

 

 

 

 

 

 ――――自身の刻む「拍子」を『圧縮』し、相対的に【最速】になる。

 

 それこそが【琳泉把】の根幹をなす能力に他ならない。

 

 人間の刻む全ての動作には、必ず「拍子(リズム)」が存在する。歩行に例えると、一歩踏み出したら「一拍子」、二歩目を踏み出したら「二拍子」、三歩目で「三拍子」、四歩目で「四拍子」、五歩目で「五拍子」……といった感じで「拍子」が重なっていくものだ。

 しかし【琳泉把】では流派特有の特殊な呼吸法と【意念法】を組み合わせて用い、そういった複数の拍子を「一拍子」の中に『圧縮』させる。すると、常人が一拍子を刻む時間に、自分は何拍子も生み出すことができる。

 

 つまりこの能力を使えば、普通の人が一歩踏み出す時間に自分は五歩踏み出すことも可能となるのだ。――そう、「さっき」のように。

 

 これこそが、『獅子皇』が恐れて仕方がなかった【琳泉把】の真の力だ。

 武法のすべての技は、一部の例外を除いて、一つの技につき一拍子しか生まれないような工夫がなされている。【勁撃(けいげき)】なんかがその代表例だ。【勁撃】は上半身、腰、下半身を同時に動かす『三節合一(さんせつごういつ)』によって強い力を生み出す。【勁撃】とはすなわち、「一拍子で強大な力を生み出す打撃法」なのだ。

 つまり相手が一回の動作を行う間に、自分は三回、四回、五回の動作が行えるのだ。それがどれほど恐ろしいことであるのか、武法士であるならばよく理解できるはずだ。

 

「さっき」ボクが行ったのは【縮地(しゅくち)】という、【琳泉把】の基本功だ。前述した「拍子を圧縮する能力」を養うための修業で、長い年月をかけて圧縮できる拍子の数を少しずつ増やしていくのだ。ちなみにボクは今、五拍子まで圧縮できる。

 

 この技術を、ボクは一体誰に教わったのか?

 

 決まっている。ボクが武法において「師」と仰いだ人物はたった一人しかいない。

 

 そう――強雷峰(チャン・レイフォン)だ。

 

 確かに【琳泉把】は、『琳泉郷』の中でしか伝承されなかった非常に内向きな流派だ。

 けれども、何事にも「例外」というものは存在する。

 その最初で最後の「例外」こそがレイフォン師匠だったのだ。

 

 

 

 

 

 この話は、レイフォン師匠がまだ若者だった頃にさかのぼる。

 

 噂に名高い武法士に勝負を申し込むべく、その武法士が住む街へ向かう途中の事だった。通っていた山道で、一人の女性が野党に取り囲まれていたのだ。

 

 その女性は妊娠していて、お腹がもうかなり大きくなっていた。そのため何かしらの武法の構えを取ってこそいたが、満足に戦える状態ではなかった。

 

 レイフォン師匠は迷いなく介入し、その野党を【勁撃】で殴り殺してしまう。そのあとにやってきた援軍も等しく一撃で殺傷し、山道の一角に死屍累々を築き上げた。師匠は女性に傷一つつけることなく守り通したのだ。

 

 だが弱り目に祟り目とばかりに、新たな問題が発生した。なんとその女性が産気づいてしまったのだ。師匠もさすがに妊婦の扱いなど分からず、困惑しながらも女性を近くの街にある助産院へ連れて行った。その後、無事に玉のような男の子が生まれたそうな。

 

 その後、女性は生まれたばかりの我が子を抱きながらレイフォン師匠に深く感謝をした。さらには「お礼がしたい」と言って、彼女が住んでいる村――『琳泉郷』まで案内した。

 

 村の中でも、レイフォン師匠のしたことは大変喜ばれた。実はその女性は村長の娘だったのだから当然といえよう。

 

 村長は娘と同じように「何か礼がしたい」と口にする。

 対して師匠は「この村で一番強い武法士と手合せをさせてほしい」と返す。

 そうして出てきた村一番の武法士と手合せをし――簡単に敗れてしまった。それは後に【雷帝】と呼ばれる男が味わった、最初で最後の「敗北」だった。

 

 その武法士が使った流派は【琳泉把】。初敗北のショックよりも、その圧倒的な武法への感動の方が大きかったレイフォン師匠は「この拳を教えてほしい」と頼んだ。

 

 いくら娘の命の恩人でも、流石にその願いに対して村長は慎重にならざるを得なかった。何せずっと秘密主義を貫いてきた【琳泉把】を余所者に教えようというのだから。

 

 村長は一晩考えた末に答えを出した――「むやみやたらに伝承しないと誓うのなら、教えても構わない」と。

 

 師匠は『琳泉郷』に二年間住み込み、【琳泉把】の指導を受けた。生まれ持った才能と精進をいとわない勤勉さを併せ持つ師匠はどんどん秘伝の技を身につけ、さらなる実力をつけた。

 たったの二年で終わったのは、母の訃報を耳にしたからだ。師匠は母の葬儀に出席するべく、自分の育った街へ帰らなければならなくなったのだ。

 

 ――『獅子皇』が【琳泉把】を禁ずる勅命を出し、『琳泉執行』を起こしたのは、それからすぐのことであった。

 

 

 

 

 

 師匠はせっかく学んだ【琳泉把】を隠さなければならなかった。

 

 しかし、彼はあきらめなかった。自分を信じて秘伝の技を授けてくれた『琳泉把』の人達の生きた証を残したいと考えた。

 

 だからこそ考えた――【琳泉把】の技術を組み込んだ、新しい流派を生み出そうと。

 

 勅命で禁じられたのは、あくまで【琳泉把】だ。しかし「【琳泉把】とよく似た性質を持った別の武法」ならば勅命の枠外である。

 

 師匠は目指した。

【琳泉把】のスピードに強大な【勁撃】を加えた新たな武法を。

「究極の速さ」と「究極の威力」を併せ持った最強の武法を。

「雷のような」ではなく「雷そのものとなる」武法――――【雷公把(らいこうは)】を。

 

 師匠が欲していたのは【打雷把】ではない。【打雷把】は、「究極の威力」を得るための通過点に過ぎない。

 

 【雷公把】こそが、師匠が真に作ろうとしている武法だったのだ。

 

 この【打雷把】は、言ってみれば【雷公把】の未完成品(プロトタイプ)。「雷鳴のごとき一撃を放つ」ことはできても「雷そのものになる」ことはできない不完全な武法。

 

 師匠は着実に夢に近づいていた。「究極の威力」は手に入れた。後はそこに「究極の速度」を加える方法を見つけるだけだった。

 

 しかし――志半ばにして師匠は病に倒れた。「【雷公把】の完成」という夢を、唯一の弟子であるボクに託して。

 

 思えば、ずっと弟子を取らなかった師匠がボクを受け入れてくれたのは、自分の命がもう長くないことを悟っていたからかもしれない。自分の夢の「担い手」を探していたのかもしれない。

 

 いや、きっとそうだ。

 

 だからこそボクは、こうしてこっそりと【琳泉把】を修業している。

 

 さらに、【打雷把】と【琳泉把】をくっつけるために、いろいろと試行錯誤を繰り返している。

 

 ボクは再び【琳泉把】独自の呼吸法と、「五拍子=一拍子」というイメージを用いた【意念法】を同時に行う。【縮地】の前準備だ。

 

 歩き出す。

 

 一歩――二歩――三歩目で床が壊れない程度に踏み込み【衝捶(しょうすい)】へと繋げようとした。

 

「うっ――!?」

 

 だが【衝捶】の体術を始めた瞬間、全身が硬直した。まるで体が【打雷把】の使用を拒むかのように。

 

 たったの三歩だが、【縮地】によって速度が上がっているためその勢いは全力疾走並みだった。余剰した慣性によってゴロゴロと床を転がり、窓下の壁に背中を打った。

 

「いたた……今日もダメだったかぁ」

 

 失敗には慣れていた。何せ、ずっと繰り返してきた事だから。

 

 すべての武法は【太極炮捶】を母としている。そのためどんなに戦術理論が違っても、すべての武法の基礎は皆同じ。

 

 その理屈から考えれば、【打雷把】と【琳泉把】をくっつけられるはずなのだ。

 

 しかし、未だにこの二つは【雷公把】にならずにいる。それはなぜか?

 

 

 

 ――「呼吸」だ。

 

 

 

 武法には、その流派の技術を使用する上で必要な「呼吸」が存在する。それは流派によって千差万別で、その流派における呼吸を用いずに技を使おうとするとすぐにバテてヘトヘトになるか、もしくは技が不発に終わる。ラジオに例えるならば、「流派(放送局)」に「呼吸(周波数)」を合わせて「その局の放送を聞く(その流派の技を使う)」といったところか。

 

 つまり、新しい流派を作るには、新たな「呼吸」を見つけなければならないのだ。それは、広大な砂漠の中から一粒の砂金を見つけるのと同じくらい難しい。

 

【打雷把】と【琳泉把】を融合できないのは、それを行うための「呼吸」がまだ見つかっていないからだ。

 

 手がかりも何もない暗中模索の世界。

 ボクはその暗中から、二つの武法を繋ぎ合わせるための「架け橋」を探り当てなけばならない。

 それが、レイフォン師匠の夢であり、ボクの悲願でもあるのだから。

 

 ――仮に。

 

 仮に、この本戦期間中に【雷公把】が完成したならば、ボクはきっとどんな対戦相手にも負けることはなくなる。あの劉随冷(リウ・スイルン)にも勝てるに違いない。

 

 けれど、それはあまりにも希望的観測が過ぎるというもの。

 

 ボクは、【打雷把】で数多くの猛者と戦っていかなければならない事を肝に銘じておくべきだろう。

 

 ――いや、違うな。

 

 帝都に入る前にも決めただろう。

 

「戦い」に行くのではない。「勝ち」に行くのだと。

 

 そう。ボクは「勝つ」。

 

 勝つのだ。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 ――【黄土省】南部の関所を越えて一日が過ぎた。

 

 趙緋琳(ジャオ・フェイリン)は夜闇に包まれた道を無言で歩いていた。

 

 竹藪の中に伸びた道。今日は月光が明るいはずなのだが、折り重なった笹葉の影に隠れてしまっているため、沈殿物のような濃い闇が下りている。時折吹き付ける風によって笹がざざぁっと鳴り、不気味さを誘う。

 

 普通の者なら多少なりとも緊張を抱く情景だが、フェイリンは一切動じない。笹のざわめきを「笹のざわめき」であると正確に認識していればいいだけの事だからだ。そんな益体も無い現象を妖魔の類と結びつけるほど、フェイリンは少女をしていなかった。

 

 それは、一緒に歩いている「もう一人」も同じだったようだ。

 

「今ん(とこ)ぉ、周囲にヒトの【気】はねぇみてぇだなぁ」

 

 その「もう一人」――周音沈(ジョウ・インシェン)はそう報告してくる。

 

 後頭部へ持ち上げた長髪を無数の細い三つ編みにした奇抜な髪型。両目は蛇のような金眼で、右頰には三日月状の深い傷跡が走っている。(へそ)から下を露出させた詰襟に、ふくらみのある(ズボン)。その左腰には、ゆるい反りを持つ細見の長刀『苗刀(びょうとう)』を差していた。

 

 彼はすでに失明しており、優れた【聴気法】を使って世界を見ている。けれどインシェンはその死んだ視線をぐるりと周囲へ巡らせながら、

 

「普通の人間ってなぁ、ここでどんな風景を見てんだろうなぁ」

 

「やはり、貴方にも視力への未練がありますのね」

 

「別に未練ってほどのモンでもねぇさぁ。もし目ン玉見えてたらぁ、きっとこのステキな【聴気法】は手に入んなかったからなぁ。だがやっぱたまぁに思うんだわぁ、「今この場所はどんな光景なんだろぉなぁ」ってよぉ。人間ってなぁ存外無いものねだりだねぇ。それになぁ趙緋琳(ジャオ・フェイリン)、おたくがどんな姿してんのかも気になるしよぉ」

 

「……(わたくし)の姿なんか見ても、面白くありませんわ」

 

 むしろ、眉をひそめられる可能性が高い。

 

 肌を手首足首まで覆っている薄紫の上下衣は体の線がよく出る作りとなっており、細さと膨らみの配分が理想的に近い女性的曲線美を誇示している。栗色の短髪の下には麗人然とした上品な顔立ちがあり、両目の虹彩は血のような赤色だった。

 

 問題なのは、この「赤い眼」だ。

 

 この眼をインシェンに見られないというのは、フェイリンにとっては幸運だった。

 

 自分は昔から、この赤い眼が嫌いだった。

 

 赤い眼の者は、この国では数千万に一人の確率で生まれると言われている。片親または両親が赤眼であっても、もしくは両親どちらとも赤眼でなくとも、その確率は変わらない。

 

 その持ち主が男だったら「かっこいい」で済むのかもしれないが、女の場合は最悪だ。

 女の赤眼は「毒婦の象徴」と呼ばれ、忌避されている。

 古き時代、国を混乱や滅亡に追いやった「傾城(けいせい)の美女」は、みんな自分のような赤い眼をしていたという。歴史の経過とともにその伝説が自然と歪められていき、やがて「赤眼の女は住む家に凋落をもたらす」という言い伝え(ジンクス)に落ち着いた。

 

 小さな頃から、この赤い眼のせいで散々嫌な思いをしてきた。子供たちからの苛めや仲間外れは当たり前。大人たちまで密やかに自分を揶揄した。しかしそらすらもまだ優しかった。……もっと悲惨な目にあった事がある。

 この両目を抉り出してやりたいと何度思ったことだろうか。

 

 ――しかし、「あの人」はこの眼を気味悪がらなかった。それどころか「綺麗」とさえ言ってくれた。

 周囲から散々冷や飯を食わされてきた自分に優しくしてくれた。

 身を護り、生きていくための術を教えてくれた。

 ずっと笑えなかった自分に、笑顔をくれた。

 

「ん? どうしたよお嬢さん。おたくの【気】、なんか恋する乙女みてぇな揺らぎ方してっぜぇ?」

 

「……気のせいですわ」

 

 インシェンの指摘に、フェイリンは少しだけ頬を染めながらそうシラを切った。

 流石は読心術にも等しい優れた【聴気法】。余計なモノも見えてしまうものだ。

 

 自分は、自分にたくさんのものをくれた「あの人」を慕い、その「夢」のために尽くしたいと思った。否、思っている。

 フェイリンが今回の「計画」における切り込み隊長となることを、「あの人」は猛反対した。お前に血と争いは似合わない、お前は女としての幸せを掴め。そう言ってきた。

 しかし女なればこそ、許されぬ想いとはいえ愛してしまった男の夢を叶えたいものだ。ゆえにしつこく何度も食い下がり、「危なくなったら雲隠れする」という条件でようやく「計画」への参加が許された。

 

 フェイリンの手が自然と拳を作る。

 もうすぐだ。

 もうすぐ帝都に、この煌国を崩壊へと導く「戦火」が生まれる。

 朝廷という根が燃え尽き、国という大樹が枯れ果てた時、「あの人」の悲願は達成される。

 否。してみせる。この手で。

 

 

 

 貴方様の願い、この私がなんとしても叶えて差し上げますわ。

 ――――お父様。

 



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第一回戦

 

 どうやらボクらは、随分と早く帝都に着いてしまったようだった。

 

 【黄龍賽】まで、結構な日数暇があった。

 

 その間、ライライは宮廷へ赴き、ルーチン様の傍付きの任を務めていた。

 

 聞くと、その仕事はなかなかにハードなものらしかった。

 ルーチン様がじゃじゃ馬な事もそうだが、宮廷内で職務を行うために宮中作法を叩き込まれたという。間違えようによっては打ち首になりかねないようなものもいくつか存在するので、案外バカにできないらしい。

 

 一方、ボクはというと、本戦にむけてひたすら修業あるのみだった。

 

 一人練習ばかりだと、対人感覚が鈍ってしまう。なので時々ミーフォンも特訓に誘った。彼女は快く協力してくれた。

 

 各々のやり方で、ボクらは運命の日までの余暇を消費していった。

 

 長かろうが短かろうが、確固たる目的と、それを達成する意思のこもった時間は過ぎ去るのが早いものだ。努力をしすぎるという事はない。武法の世界では特にそれが顕著。

 

 やがて――その「運命の日」はやってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帝都の西方面にその巨躯をそびやかす【尚武冠(しょうぶかん)】は、【滄奥市(そうおうし)】で目にしたものよりはるかに巨大な闘技場だった。

 

 巨大なすり鉢状になった【尚武冠】の内側。その斜面は観客席で、おびただしい数の人が座していた。彼らの視線は、すり鉢の底辺にある円形の闘技場に熱く集中していた。

 

 その円形の広場の上には、計一六人の武法士が横並びで立っていた。ボクは一番左の位置だ。

 

 煌国の東西南北で行われた予選大会で選りすぐられた猛者たち。

 

 観客席を二等分する形で、分厚い石壁が立っている。それには大会運営しか入れない部屋が集まっており、その最上段にはバルコニーのような柵付きの足場があった。そこに立つ官吏風の男が、声を高らかに響かせた。

 

『――皆様、こんな朝早くから集まっていただき、大変ありがとうございます!!』

 

 この大歓声を貫くほどの声量。肉声のはずなのに、スピーカーを使ったような強みがあった。

 

『ご覧ください!! 今、闘技場に集まる彼ら一六名こそが、厳しい予選を勝ち上がってきた強者たちに他ありません!!』

 

 ボクシングの司会役を思わせる、解説がかったテンション高めの口調。やはり、よく通る声だった。

 

 この異世界に拡声器の類は存在しない。あれは声量を増幅させ、さらにその音波を拡張して広域に響き渡らせる特殊な呼吸法を用いて喋っているのだ。武法の技術の一つである。

 

『今日、この日まで、皆様は一日千秋の思いであったかも知れません! 退屈で退屈で仕方がなかったのかも知れません! ですがもう大丈夫です! ここにいる彼らが、己の武と勇をもって、皆様の心に巣食う退屈を跡形もなく吹き飛ばしてしまうことでしょう!!』

 

 ドォッ!! と歓声が爆発する。耳が痛い。

 

 司会者もだんだん気分が乗ってきたのか、口調が弾みを帯びてきた。

 

『さて、続いて、この【黄龍賽】本戦まで勝ち上がってきた一六人の強者達を一人ずつ紹介致します!!』

 

 ドォォッ!!! と嵐のごとく湧き立つ歓声。

 

 彼の言葉に、ボクも緊張を覚えた。これからどんな相手と戦っていかなければならないのか、知っておくべきだからだ。

 

『左端から順に紹介しましょう。まず最初に三つ編みの彼女――可憐な少女と侮るなかれ! その細腕に宿るは無双の怪力、その骨身に宿るは無双の勁撃!! 剛力の妖精と呼ぶに相応しい彼女の名は…………李星穂(リー・シンスイ)!!』

 

 ええっ、ボクからっ?

 

 司会役の仰々しい紹介が終わるとともに、観客の声が突出した。

 

 うーん……なかなかイカす紹介だけど、今のは女の子を紹介するのにはあんまりふさわしくない気がする。怪力だの剛力だのと。

 

 一応、ファンサービス(いるか分かんないけど)は大事かなと思い、観客席へ両手を振る。歓声が一段高まった。

 

『次は、前回の【黄龍賽】をご覧になった方ならば見知った顔でしょう――前回の準優勝者が満を持して登場!! 果たして、四年前の雪辱を果たす事は出来るのか!? 類稀なる【軽身術(けいしんじゅつ)】を駆使して見せつける、風のように舞い、風のように刺す神速の拳技! 風の申し子…………勾藍軋(ゴウ・ランガー)ッ!!』

 

 声援が、ボクの隣に立つ青年へ降り注いだ。目つきの鋭い、細身の男だった。

 

 その鋭利な眼光は、右隣に立つ白髪の少女へ真っ直ぐ向いていた。

 

 まごう事なき美少女であるのは間違いない。けれど、羊の毛を思わせるボサボサで膨らんだ髪、丈が余りまくった衣服、柔和に整った美貌に浮かぶ眠そうな表情が、なんというか……台無しにしていた。いかにも寝坊して来たって感じの女の子。

 

 けど、彼女もまた本戦参加者なのだ。

 

 次の瞬間、ボクは勾藍軋(ゴウ・ランガー)が彼女を睨んでいた理由を悟った。

 

『続いては…………その勾藍軋(ゴウ・ランガー)に雪辱を植え付けた張本人!! 前回の【黄龍賽】の優勝者!! 勝因は「立ってボーッとしていたから」!! 前【黄龍賽】における全ての試合を、一歩も動かぬまま勝利したのはもはや語るまでもない伝説!! 『天下無踪(てんかむそう)』と畏怖された、少女の姿をした要塞!! その名も…………姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)!!!』

 

 ボクは思わず、羊みたいな女の子――姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)を見た。

 

 彼女が……前回優勝者?

 

 その前回優勝者サマは、寝ぼけまなこでこっくりこっくり舟をこいでいた。いつ寝入ってもおかしくない。……それは王者の貫録なのか、それとも彼女の素なのか。

 

 だが、なんとなく分かる。仮に今打ちかかっても、間合いに入った瞬間に何かが起きる。そんな根拠のない、けれども感覚的には極めて濃厚な予想が脳裏に浮かぶ。

 

 ――あれ?

 

 そこでボクは異変に気付いた。

 

 なんか、ボクと勾藍軋(ゴウ・ランガー)氏の時に比べて、観客たちの声援が薄めだ。

 

 トゥーフェイは前回優勝者なのだ。もっと盛り上がってもいいはずなのに。

 

 そんな思案をよそに司会役は選手の紹介を進めていくが、トゥーフェイの圧倒的存在感にあてられたせいで、ボクにはその他大勢の顔がジャガイモにしか見えなくなっていた。名前も頭に入ってこない。

 

 しかし、一番右端、すなわち最後の選手の紹介を耳に入れた瞬間、ぼんやりしていた意識が一気に冴えた。

 

『――最後に紹介するのは、もしかすると、今大会の台風の目となるかもしれない彼女! 悠久の歴史の中、今まで一度も表舞台に現れることの無かった存在が、今日、この場に姿を現した!! そのしなやかな肉体に宿る、悠久の技と知恵の数々!! 【太極炮捶(たいきょくほうすい)】の数多の技法が、この闘技場で花火のごとく放たれる!! 彼女こそ【太極炮捶】宗家の次期当主――紅梢美(ホン・シャオメイ)!!』

 

 【太極炮捶】宗家。

 

 その単語にボクは脊髄反射に等しい反応を示した。その紅梢美(ホン・シャオメイ)なる選手を見る。

 

 全体的に「鋭さ」を感じさせる長身の女性だった。

 大きすぎず小さすぎない丈の衣服によって、曲線美をゆるやかに主張している。女性特有の柔弱さ薄弱さは感じられず、力強く跳ねそうなしなやかさがあるように見受けられる。

 ややキツめに整った美貌。その切れ長の瞳は、睨みつけてくる猫のソレを思わせる。

 

 一目で分かる。只者ではない、と。

 

 さらに、もう一つ分かった事があった。

 

 彼女の顔立ちは――ミーフォンに似ていた。まるで彼女が大人になったみたいな顔だ。

 

 それだけじゃない。【太極炮捶】の宗家という素性。同じ苗字。

 

 これらの要素が、ミーフォンとの関連性をさらに揺るぎないものにしていた。

 

 確かミーフォンは、(ホン)一族の三女だった。するとあのシャオメイは次女、あるいは長女なのかもしれない。

 

 ボクはしばらくの間、シャオメイに視線が釘付けとなっていた。

 

 

 

 その後、この大会の詳しい概要説明がなされた。

 

 勝ち抜き戦であること。

 気絶、もしくは先に棄権を宣言した側の負けであること。

 打った相手を高確率で死に至らしめる【毒手功(どくしゅこう)】は禁止であること。

 

 それらの説明は、予選と全く変わらなかった。

 

 開会式はつつがなく終わった。

 

 

 

 その後、さっそく第一回戦が始まった。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 とうとう始まった【黄龍賽】本戦、第一回戦。

 

 その第一試合で、さっそく自分は戦うことになった。

 

 ここまでようやく来たかという思いを抱きつつ、ここはまだ始まりに過ぎぬと自戒する。

 

 葉奮(イェ・フェン)は自らの巨体に中腰の構えを取らせ、眼前にたたずむ少女を見据えた。

 

 小柄で華奢な肢体。太い三つ編みを一本結った、妖精のごとき美少女。

 

 武より茶と華が似合いそうなその少女の名を、李星穂(リー・シンスイ)

 

 技など使わずとも、腕の力だけで容易に捻り潰せそうに見える。しかしそれは有り得ない話だ。ここまで勝ち残ってきた以上、それなりの実力があることは明白。

 

 ……が、それを勘定に入れても、この勝負は自分が優位に立てると自信を持って言える。

 

 フェンは呼吸を整え、心に(なぎ)のような静けさを呼び込む。

 

 細密な意念をもって、体内を流動する【気】を操作する。

 

 ――思い浮かべるは、自分の頭頂部から体の表面を滑って尾骶骨へと流れる水。その水は尾骶骨へ至ると、体軸の中を駆け上り、再び頭頂部へ達して流れ出す。そんな延々と続く水の円環。

 

 すると、その想念の通りに【気】が流動していく。普段はバラけて不定形である【気】は、フェンの皮膚表面を覆う膜の形となり、槍さえも通さない不可視の鎧と化す。

 

 【周天硬気功(しゅうてんこうきこう)】。フェンの特技にして奥義。

 

 通常の【硬気功】は、一ヶ所から一ヶ所へ【気】を移動させるだけの「一方通行」の道筋を辿る。その効果は一時的なもので、しばらくすると【気】のまとまりがバラけ、大気中に霧散する。その【気】は体から抜け、体力の消耗へと繋がる。

 

 しかしこの【周天硬気功】は、常に膜状の【気】の塊が「流動」して「循環」している。それはつまり、防御のたびにいちいち【気】を消費しなくても、一定量の【気】だけでしばらくは肉体を守れるという意味。

 

 非常に精緻な【気】の操作が求められるこの高等気功術を、フェンは箸で飯を食うがごとく自在に操ることができる。

 

 さらに、流動している不可視の膜の上に――さらにもう二枚の【気】の膜を生成。肉体表面に、三層の【周天硬気功】が生まれた。フェンが一度に操作できる限界枚数だ。

 

 ここまで来ればこちらのもの。刃を通さない鎧を三枚重ねで身につけた今の自分はもはや城壁に同じ。

 

 李星穂(リー・シンスイ)が地を蹴り、鋭く距離を詰めてくる。迷いのない足取り、手の動き、視線、意念。

 

 フェンは無鉄砲とも呼べる彼女の行動に勇敢だと称賛する一方、憐れみのような感情も抱いていた。

 

 たとえどれほど強大な勁撃(けいげき)であろうと、この【周天硬気功】の前では意味をなさない。たとえ一層を破壊できても、まだ二層残っている。その破壊された一層も、すぐに再生可能。

 

 破壊しようと躍起になって体力を消耗させ、それからゆっく

 

「り————!!?」

 

 起こるはずのない、起きてはならない激痛がフェンを襲った。

 

 なんと、踏み込みを交えて放たれたシンスイの拳は、【硬気功】の膜をすり抜けて(・・・・・)直撃したのだ。

 

 あり得ない。なんだこの拳は!? 今まで出会ったことのない異質な技。

 

 それ以上の思考を、シンスイの一撃は許しはしなかった。

 

 墨汁の海に落ちたかのように意識が薄れていき、やがて真っ黒になった。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

  一回戦の相手は相性が良かった。【硬気功】を得意とする武法士だったからだ。

 

 ボクの【打雷把(だらいは)】の前では、【気】の鎧などあって無きがごとし。無敵の守りを固めたと油断した相手にどデカイ一撃をくれてやった。油断していた分、ショックも大きかったようで、その一発で相手はぐったりとのびていた。

 

 ともあれ、これで一回戦を勝ち抜いた。優勝まで一歩近づいたのだ。

 

 それは素直にめでたいと思うことにしよう。

 

 それ以外に、ボクは一つ、気にしていることがあった。

 

 さっきの試合の最中にも、思考はずっと別の方向に向いていた。

 

 紅梢美(ホン・シャオメイ)

 

 ミーフォンと同じ紅一族の人間。おまけに、【太極炮捶】の次期当主だというではないか。

 

 【太極炮捶】のトップを担う人材が、この表舞台に出てきた。——これを、どのように考えるべきか。

 

 彼らは、全ての武法の源流であるという事実と歴史の長さゆえに、非常にプライドが高い。会って間もないミーフォンを思い出せば、そのプライドの高さは一目瞭然だろう。

 

 【太極炮捶】に言わせれば、この【黄龍賽】は数多の田舎拳法がぽこぽこ殴り合うための卑俗な催しに過ぎないだろう。高みから冷笑こそすれ、自らすすんで飛び込む事は無いと思われる。

 

 しかし、ミーフォンという前例がある。彼女も次期当主でないけれど紅一族だ。

 

 いや待て。そもそも、ミーフォンはどうして【黄龍賽】に出ようなんて考えた?

 

 分からない。今度聞いてみよう。今は自分で考えられる範囲で予想してみよう。分からない。

 

 考えを巡らせれば巡らせるほど、答えから遠ざかっていく感覚を覚える。

 

 こうなったらマトモに知恵が働かなくなることを知っていたボクは、一度考察を打ち切った。

 

 それに目の前には、もっと優先すべきモノがあるではないか。

 

 ボクは参加選手用の観客席から、闘技場にいる顔ぶれを俯瞰していた。

 

 正午の日差しに当てられながら立つ、二人の武法士。

 

『さぁ、先ほどの第一試合は一瞬で決着がついてしまい、ご来場の皆様は唖然としてしまったかもしれません……ですので、今から始まるこの第二試合で存分に盛り上がると致しましょう! 第二試合――前【黄龍賽】準優勝者の勾藍軋(ゴウ・ランガー)選手と、【太極炮捶】宗家次期当主の紅梢美(ホン・シャオメイ)選手の一戦です!!』

 

 声援が湧き立つ中、これから武を競う二人の反応は実にマイペースであった。

 

 試合開始の合図までの合間を持て余しているかのように、片足を上下にゆすっているランガー。対し、シャオメイは真竹のように涼やかで落ち着いた立ち姿勢。

 

 ボクは無意識に唾を呑みこんでいた。

 

 シャオメイが一体、どんな戦い方を見せつけるのか。それに対してももちろん興味はある。

 

 しかし一方で、前【黄龍賽】で優勝したほどの腕前を持つランガーも気になった。ヘタをすると、今大会の驚異の一人となる可能性があるからだ。

 

 この試合で勝った方が、あさってに行われる第二試合でのボクの対戦者となる。

 

 数多の声が重なって響く会場に、司会役の男は満足げにうんうん頷く。

 

『いいですねぇ、いい感じに場が盛り上がって参りました……この大会を膳立てした者の一人として、その盛り上がりを決勝戦まで保ち続けてくださることを切に願っております!! それでは第二試合――――始めぃっ!!』

 

 試合開始を告げる銅鑼が鳴り響いた。

 

 瞬時、ランガーが最初の立ち位置から霞のごとく消え失せ、シャオメイの背後へ転移していた。

 

 刃の横薙ぎを思わせるランガーの回し蹴りが見舞われる。

 

 だが、シャオメイはそれが振り抜かれる前に蹴り足の奥へと滑るように退歩し、背中からぶつかろうとした。

 

 彼女の背撃が当たる直前に、ランガーの姿が急激に跳ね上がった。まるで質量が無いに等しい羽毛が、風に吹かれて舞い上がったような突発的跳躍。

 

 シャオメイを飛び越え、落下の軌道へ移った瞬間、ランガーは空中で身を捻じり、もう一度回し蹴りを振り放った。

 

 シャオメイは身体をのけ反らせて蹴りから逃れた。それから空中に浮いているという最大の隙をさらしたランガーめがけて、拳と一緒に鋭く歩を進めた。

 

 鋭利な勁力を込めた正拳が突き刺さる寸前、ランガーの身体が"跳ねた"。

 

「な!?」

 

 ボクは身を乗り出さずにはいられなかった。

 

 ランガーは足場の無い空中で、さらに跳躍したのだ。

 

 地球でやっていたアクションゲームに出てくるような「二段ジャンプ」。それを実現してみせたのだ。

 

 さらにランガーは空中を幾度も跳ね、シャオメイの上空を蜂のごとく高速で飛び回った。

 

 翼の無い人間が――空を飛んでいる!!

 

『で……出ましたぁぁ!! 勾藍軋(ゴウ・ランガー)選手の得意技【飛陽脚(ひようきゃく)】!! 自身の体重を自身の足で蹴りつけることで、足場の無い空中でも跳ねることができる【軽身術】の発展技能!! 彼の持ち味である速度と併用すれば鬼に金棒! 幾多の武法士が制空権を奪い取られて敗北へと追い込まれた光景は、前【黄龍賽】を目にした方々ならば今でも鮮明かと思います!』

 

 シャオメイの頭上に、残像の直線が幾本も幾本も幾本も引かれる。まるで彼女の頭上で銃弾が飛び交っているみたいだった。

 

 が、不意に直線は角度を大きく変え、斜め下へ直進。直前までシャオメイが立っていた位置を、ランガーの蹴りが落下した。土でできた地面が爆砕し、粉塵が巻き起こる。

 

 ランガーはまたも宙を飛び回る。時折また地上へ落ちるように蹴りを放ち、また上空へ戻って飛行。ときどき落下、飛行……

 

 そんな流れが、延々と繰り返された。

 

 シャオメイは反撃できず、ただ避けるだけだった。一発も食らっていないが、かわりに一発も攻撃を当てていない。

 

『シャオメイ選手、防戦一方の様子! さあ、この難所をどのように切り抜ける!? どうするんだぁ――!?』

 

 司会役のテンションが高まっているのを感じた。

 

 時間が経つにつれ、飛行するランガーが落下してくる回数が多くなっていった。

 

 今なお、避けるだけのシャオメイ。

 

 避けて、避けて、避けて、避けて――

 

 その流れがパターン化し、心に飽きが生まれてきた時だった。

 

 シャオメイの口がぱくぱく動き、それに対して空中のランガーがギョッと驚きを表した。

 

 歓声のせいで声は聞こえなかった。しかし、唇の動きで読むことができた。

 

 ――盗んだぞ(・・・・)お前の技を(・・・・・)

 

 そんな発言を。

 

 次の瞬間、

 

 

 

『シャ……シャオメイ選手が――――飛んだ(・・・)ぁぁぁぁぁ!!?』

 

 

 

 司会役が、心の底から驚愕を露わにしたような声を上げた。

 

 ボクも彼と同じような反応だった。

 

 なんと、シャオメイが――【飛陽脚】を使ったのだ!

 

 虚空を蹴っ飛ばして跳ねるように宙を飛び、ランガーめがけて上段蹴りを叩き込んだ。

 

 撃ち落とされた鳥のように地へ背中から落下するランガー。すぐに体勢を取り戻したが、その顔には尋常ではない驚愕と、誇りを傷つけられたような屈辱感が浮かんで見えた。

 

 彼女が【飛陽脚】を使ったことに、ボクは今なお開いた口が塞がらなかった。

 

 そんな馬鹿な。【太極炮捶】には【軽身術】はあるが、【飛陽脚】があるなんて話は聞いたことがない。なんでシャオメイは使えるのだ。

 

 ――盗んだぞ、お前の技を。

 

 そのセリフから鑑みるに、シャオメイはもともと【飛陽脚】を持っていたわけではなく、今、この試合の中で「盗んだ」ということになる。

 

 そんな事信じられなかった。いくら技に使われている原理が分かっても、それを実際に自分が使うとなれば話は別だ。鍛錬の積み重ね無くして、技の奇跡は起こせない。

 

 けれど、目の前で起こっている現実は、その主張を許さない。

 

 間違いなく、シャオメイはこの試合の中で、ランガーの技の理合いを読み取り、自分のモノにしたのである。

 

 そんな紅家の次期当主が動き出した。稲妻のようなギザギザ軌道を空中で描きながら、ランガーへ横から襲いかかった。

 

 速度はランガーには及ばない。けれど技を簡単にマネされたという事実にショックを受けたのか、ランガーの反応が遅れた。蹴りを避けきれず、両腕で防いだ。

 

 当ててから、次の行動へ移るのは早かった。蹴られた勢いで地を滑るランガーの背後へ、シャオメイは【飛陽脚】で先回りし、回し蹴り。今度こそまともに当たり、横へ跳ねとんだ。

 

 またもシャオメイは追い打ちをかけようとするが、その前にランガーは体勢を立て直し、風のような速度で後ろへさがって突きを回避する。両者の間に、大きな間隔が出来上がった。

 

 おおおおっ、と大きく湧き立つ観客たち。

 

『す……素晴らしいぃぃ!! なんという燃えるやり取りでしょうか!! 互いの技を出しつくし、工夫し、しのぎを削る!! これこそ我々が望んでいた勝負ではないでしょうか!? どちらが勝ってもおかしくは無い!! 観客の皆様はどちらに声援を送るのでしょう!? 私めは立場上、両方を応援しなければならないので、皆様が羨ましいです、はい!!』

 

 リップサービスではなく、本気で燃えていることがうかがえる司会役。

 

 しかし、またしてもシャオメイの口がぱくぱく動いた。

 

 ――出し尽くした? 笑止。まだ一〇〇分の一も出してはいない。

 

 と。

 

 次の瞬間、シャオメイは何の前触れも見せることなく瞬時に敵との距離を詰め、正拳を胴体へ打ち込んだ。ランガーは当たった後にようやく驚きと苦痛を顔に出した。――【霹靂(へきれき)】。予備動作の一切を排し、初速から最高速度を叩き出す速度重視の突き技だ。

 

 あまり威力は無いようで、ランガーが少し後ろへ滑るくらいの勢いしか出なかった。が、牽制としては申し分無い一発だったようで、シャオメイが懐まで近づき、強力なもう一発を当てるお膳立てとなった。

 

 地を叩くような深い踏み込みを交えた拳が直撃。ランガーは今度こそ勢いよく吹っ飛び、闘技場に直線を描くように転がる。

 

 かろうじて受け身を取って立ったランガー。苦痛と憤怒が等量混じった表情を浮かべると、稲妻じみた速度で相手の背後へ回り込んだ――速い!

 

 対し、シャオメイは常に冷静だった。背後から体ごと放たれた正拳を、背を向けたまま横へ一歩動いてかわす。拳が体を横切る瞬間に肘を真後ろへ突き出すと、直進中だったランガーの体へ吸い寄せられるように刺さった。

 

 相手の推進力を利用した攻撃。大した労力もかけずに、決して少なくない痛みを与えた。

 

 だがそれで苦しむ暇を与えない。シャオメイは振り向きざま、蹴り足に鋭く弧を描かせてランガーの頬を殴りつけた。横倒しになろうとする相手へ追い打ちをかける形でもう一蹴り打ち込み、元の方向へ叩き返す。

 

 ランガーの体が地面と垂直に戻った途端、彼女の双拳が豪雨となって敵に浴びせかけられた。一度の吐気に莫大な手数の正拳を打ちだす【連珠炮動(れんじゅほうどう)】。

 

 息を吐ききる前に連拳を中断すると、シャオメイは斜め下へ我が身を挿し入れるように深く踏み込んで掌底。鋭く重い勁力が胴体を打ち抜く。

 

 うしろへよろけるランガー。

 

 シャオメイは天高くへ背筋と双拳を伸ばしながらそれに追いすがる。まるで獲物に飛び掛かる虎を思わせる姿だ。

 

 敵を自らの射程内へ呑んだ瞬間、シャオメイは掴んだ天を引っぺがすように急降下。観客席にまで響く震脚とともに、斜め下へ向かう軌道で双拳を叩き込んだ。

 

 【恨天虎撲(こんてんこぼく)】。凄まじい重心移動に上半身の急降下を加えた、強大な一撃。

 

 それをまともに受けたランガーは、くるりと白目を剥いて仰向けとなった。

 

 しばらく経っても、起きる気配はない。完全にのびている。

 

『しょっ……勝者、シャオメイ選手――――!!』

 

 勝敗が決した瞬間、場が歓声の渦に包まれた。

 

『信じられない!! 前回準優勝者であるランガー選手を子ども扱い!! 無傷で下してしまったぁ!! なんということでしょう!! これこそが我々の武法の偉大なる母【太極炮捶】の悠久の歴史が持つ凄みなのかぁ――――!?』

 

 司会役の力説。

 

 彼女は勝利に喜びもしなければ、手ごたえの無い相手だったとガッカリもしていない。

 

 この結果が当然とでも言わんばかりの姿勢。

 

 その姿は、悠久の歴史の体現者を思わせた。

 



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お姉様と姉上

 

 どうしたものか、と考えていた。

 

 シャオメイの勝利で幕を下ろした第二試合の後、ボクは【尚武冠(しょうぶかん)】を出て、西と北の大通りの間に張り巡らされた脇道を一人歩いていた。大勢の人が毎日往来する大通りにくらべると、石畳の舗装が粗めだった。

 

 試合が終わった後は、一日間を置いてから次の試合を行う。選手に休息時間を与えるためだ。なので今からあさってまで、余暇が与えられている。

 

 これからの試合に備え、他の選手の視察を行うべきかもしれないが、そんな気分にはなれなかった。ボクは次の相手の実力は見ているので、今はそれで十分だ。それに他の選手を見るのは今じゃなくて次の試合の日でもいい。勝ち上がった選手だけを見ればいいのだから。

 

 片手には、先程店で買った『甜雲包(ティエンユンパオ)』がある。売り切れかと諦めつつ訪れると、なんと一つだけ残っているという僥倖に巡り会え、迷わず購入。けれど、その幸運の『甜雲包』はあまり減っていなかった。

 

 それもそのはず。

 シャオメイの戦いぶりを目の当たりにしてからというもの、気が気でなかったからだ。

 

 ——相手の技を盗み、自分のものにしてしまう謎の技術。

 

 ボクは、いつの間にか、武法のことなら何でも知っている気になっていたのかもしれない。

 けれど、そんなことはなかったのだ。やはり武法の世界は広い。

 最初の武法であり、その他全ての武法を生み出した始祖たる流派、【太極炮捶(たいきょくほうすい)】。

 

 その大流派には、膨大な技術や修行法が凝縮されているという。が、「その全てが世に公開されたか?」と聞かれたら、「分からない」としか答えようがない。つまり、ボクの想像を絶する「何か」が、あの始まりの武法には存在するのだ。

 

 次に戦うのは、そんな得体の知らない相手なのだ。

 

 もし手を合わせれば、ボクの技も盗まれるのだろう。そうなった場合、ボクはどのように戦えばいい?

 

 けど、一方で思う。技を盗めるのと、それを使いこなせるようになるのは別問題じゃないか、と。

 シャオメイがランガーから得た【飛陽脚(ひようきゃく)】には、とてもじゃないけどランガーほどの速さは無かった。

……その点を見るに、シャオメイは技を盗むことはできても、それを盗んだ相手ほどの威力で使う事はできないのだろう。マネするのはあくまで技術のみというわけだ。

 

 付け入る隙があるのだとすれば、その辺りにあるのかもしれない。

 

 『甜雲包』をひとかじりし、口の中でカラメルにも似た刺激のある甘みを感じ取りながら考えた。

 

 シャオメイの技は、いわばコピー能力。

 

 だが、コピーできるのはあくまで技術のみだ。

 

 ならば——「あの技」が有効かもしれない。

 

 残った『甜雲包』を全部口に入れ、一息つく。

 

 一度試合のことを考えるのは中断し、今の目的へ意識を向けることにした。

 

 ボクの今の目的は、食べ歩きだった。

 

 この帝都は本当に広い街だ。もう一ヶ月以上ここにいるが、未だに見たことの無いものがたくさんある。

 

 特に食べ物だ。大通りと大通りの間に血管のごとく張り巡らされた脇道には、表通りにはないユニークな食べ物が結構ある。それを探すのが最近の楽しみとなりつつあった。

 

 誰かが一緒にいると面白いのだろうが、あいにく今一緒にいられそうな人は誰もいない。

 

 ライライは今日も仕事だし。ミーフォンもどういうわけか、開会式が終わってからどこにも姿が見当たらないし。

 

 荒い石畳を踏みながら、裏通りを物色していた時だった。

 

 今通り過ぎようとしていた薄暗い脇道の奥から、言い争うような声が聞こえてきた。

 

 少し気になったので、野次馬根性でその脇道へ近づいてみる。

 

 近づくたびに、言っている言葉が鮮明になってくる。

 

「う、ぐっ…………あ、あね……」

 

 知った声だ。

 自然と歩調が速まる。

 暗く影を落とした細い脇道が、徐々にくっきり見えてくる。

 

 ――長身の何者かに首根っこを掴まれ、壁に押し付けられたミーフォンの姿。

 

 両足が石畳を蹴った。

 

「おい! やめろ! 何してんだ!?」

 

 一瞬で間を詰め、ミーフォンの首をつかむ腕につかみかかった。

 

 が、次の瞬間、稲妻のごとき一撃がボクの体にぶつかった。

 

「ぐ――――!?」

 

 長身の人物は、何の予備動作もなく突発的にこちらへ踏み込み、拳を打ち込んできたのだ。何とか反応が間に合って掌で受け止めたけど、ギリギリだった。恐ろしく素早い。

 

 ――この技、まさか【霹靂(へきれき)】っ?

 

 ついさっきの試合で見た技とおなじものを使われたボクは、その人物の正体が【太極炮捶】の門人であると確信。

 

 いや、門人どころではなかった。

 

 暗い影に目が慣れ、視界の中で明確化したその長身の人物は——他ならぬ紅梢美(ホン・シャオメイ)だったのだ。

 

「ほう、今のを受け止めるとは大した反応だ…………んっ?」

 

 感嘆の声を漏らしたシャオメイも、ボクの正体に気づいたようで、そのネコ科の獣みたいに鋭い瞳を少し見開いた。

 

 けほけほと咳き込むミーフォンを無視して、シャオメイは再び眼差しを研ぎ澄まし、ボクを見据えた。

 

「……李星穂(リー・シンスイ)。なぜ私の邪魔をした? お前には関係ないだろう、引っ込め」

 

「そうはいくか。君がボクの大事な妹分をいじめているんだ。看過できるわけないだろ」 

 

「妹分、だと? 私達は本物の姉妹だ。なおさら貴様の入り込む余地などない」

 

 ……やっぱり、姉妹だったのか。

 

「でも、姉妹喧嘩にしては少し過激だったんじゃない。首絞めるなんてさ。ウチの姉様も頬っぺたつねるくらいしかしないよ」

 

「貴様の家のことなどどうでもいい。これは紅家の問題だ。この愚妹があまりにも恥をさらすものだから、姉として折檻(せっかん)していたのだ」

 

 うるさい、もう知らん。ボクはシャオメイを無視して横切り、地にへたり込むミーフォンへ歩み寄った。

 

「ミーフォン、大丈夫かい?」

 

「お、お姉様……はい、あたしは大丈夫です」

 

 そう言って力なく笑う我が妹分。

 

「お姉様? ……ふん、田舎拳法の女と仲良く姉妹ごっこか。その李星穂(リー・シンスイ)を私の代用品にでもしているのか?」

 

 シャオメイはミーフォンを見下ろしながら無慈悲に言った。

 

 その眼差しには、深海のように暗い軽蔑、失望感があった。……彼女はミーフォンを見るたび、そんな目をしている。

 

 ミーフォンは必死な顔で訴えた。

 

「ち、違うわ姉上! 失礼なこと言わないで! あたしはこの人をそんな風には――」

 

「どうだかな。努力と鍛錬を放棄し、【太極炮捶】という大看板を傘に着て威張り散らすだけだった貴様の姿を見てきた姉としては、そう思わずにはいられないんだがな」

 

「っ……そ、それは……」

 

「それだけでも見るに堪えないというのに、しまいには他流派の者を「お姉様」呼ばわりしてケツごと尻尾を振っているときたものだ。大きな木に寄りかかって、自分まで強くなった気でいる貴様に「恥さらし」以外のどのような形容詞がふさわしいというんだ?」

 

「――あの、さっきからうるさいんだけど」

 

 いよいよ我慢ならなくなったボクは、傍から口を挟んだ。

 

「勝手な憶測ばっかり並べないでよ。この子は純粋にボクを慕ってくれている。ボクもこの子がなんだか憎めないから一緒にいる。それだけだ。それを他流派に尻尾振ってるとか、恥をさらしてるとか言わないで欲しいな。はっきり言って余計なお世話だ」

 

 ……あれだけ過激なスキンシップをされてきた側だからこそ言える台詞だった。

 

 シャオメイは怒るわけでも、あざ笑うでもない、ただボクの言葉を音としてしか聞いていないような無反応さを見せていた。

 

「まあ、田舎拳法と馴れ合うのは目をつぶろう。この愚妹が起こした問題は他にある」

 

「問題?」

 

「そうだ。――こいつは負けたのだ。しかも、予選大会の一回目でな。まったく嘆かわしい」

 

「……だから何だ。試合で負けることだってある。そもそも、負けたことの無い武法士なんていない」

 

 【雷帝】と称された最強の武法士であるボクの師だって、一回は負けたことがあるのだ。「生涯無敗の達人」なんて、おとぎ話でしかありえない。

 

 シャオメイはため息をつく。まるで世間知らずな子供を相手にするような態度だった。

 

「一介の田舎流派であるお前には分かるまい李星穂(リー・シンスイ)。我が【太極炮捶】は全ての武法の中でも最古の歴史を誇る由緒正しき大流派。ゆえに、その威厳と面子を保つことは重要なことだ。そして、その宗家の人間の醜態は、そのまま【太極炮捶】の醜態へと直結する」

 

 シャオメイは一呼吸間を置いてから、さらに言いつのった。

 

「我ら紅家は今まで、「無駄な勝負はしない」という姿勢を貫いてきた。だがそれゆえに、その実力を疑い、侮る者がちらほら現れ始めた。このままでは座して面子が潰れるのを待つだけ。――だからこそ、次期当主である私は【黄龍賽(こうりゅうさい)】という公の試合に出場した。【太極炮捶】を再び偉大な流派にするために」

 

 なるほど。だから【太極炮捶】宗家の彼女はこの大会に出ていたのか。 

 

「そのためには、公の場で戦うに相応しい実力が必要だ。この愚妹は心技体ともに論外。次女も腕は確かだが私の方が上だった。それゆえに、長女であるこの私が行くこととなった。……だというのに、その愚妹は勝手に家を飛び出し、勝手に大会に参加したのだ。そして、見事に恥をさらしてくれた」

 

 その刺すような発言に対し、ミーフォンは一歩前へ出て抵抗の言葉を発した。

 

「あ、あたしも姉上みたいに、【太極炮捶】の役に立ちたくて――うぐっ!?」

 

 だがそれも、シャオメイに胸倉を掴み上げられたことで封殺された。

 

「黙れ、面汚し。貴様のような出来そこないは何もするな。歩いた数だけ恥をさらす。一歩も動かぬことが【太極炮捶】に対する唯一の貢献だ」

 

 燃え盛る業火を力づくで押し殺したようなその低い声色は、ミーフォンを青ざめさせた。

 

「お前は昔からそうだった。上達しない、姉に追いつけない辛さから逃げるために、【太極炮捶】という大流派であることに威張り散らすことに夢中になり、鍛錬を放棄した。わかるか? それがこの無様の根本だ」

 

「あ、姉上……あたしは」

 

 ミーフォンは言いたいことがありそうに口を開こうとするが、うまくしゃべれずにいた。姉の剣呑な気迫に圧されているようだ。

 

 そんな妹にさらなる追撃をかけるように、シャオメイは続けた。

 

「私は父上から当主の座を継いで、まずやりたいことは「流派の浄化」だ。【太極炮捶】の面子を潰すような要因を一掃し、綺麗な状態に戻す。私が当主になり次第――貴様を間引いてやる(・・・・・・)

 

「え……どういう事……? 間引く、って……」

 

 ミーフォンがこれ以上ないほど目を見開き、言葉を失いかけた。まるで初めて聞いたような反応である。……いや、今この瞬間初めて聞いたのだろう。

 

「そのままの意味だ。【太極炮捶】、紅家の両方から、お前の名を抹消する。そして家から叩き出す。あとはどこかで暴れるなりその女に擦り寄るなり、好きにしろ」

 

「ふ、ふざけないでよ姉上! いくらなんでもそんな事——」

 

「するさ」

 

 するわけないわよね、とでも言おうとしたミーフォンの声を、シャオメイが無慈悲に断絶させた。

 

 ひゅっ、と悲痛に息を呑む妹。

 

「私は【太極炮捶】のためなら何だってする。面汚しならば、血を分けた妹も切り捨てる。私はもうすぐ、それを行えるだけの発言力を手に入れる。その時がお前との別れの時だ、ミーフォン」

 

 ミーフォンは唇を震わせて頭を左右にイヤイヤ振りながら、

 

「い、いや……やめて姉上! それだけは嫌!」

 

「断る。もう決めたことだ。【太極炮捶】の大改革を行う上で、貴様は邪魔でしかない」

 

 ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、悲嘆にゆがんだ顔で駄々っ子のようにわめくミーフォン。

 

「いや……やだ……やだやだやだやだやだやだぁ!」

 

 そんな様子が癇に障ったのだろう。黙らせようとばかりに片拳を振り上げた。

 

 

 

「いいかげんにしろ、この馬鹿姉」

 

 

 

 その拳を、ボクは掴んだ。

 

 シャオメイは剣呑に眼差しを細めてボクを睨んだ。小動物くらいなら視線だけで殺せそうな眼光であった。

 

「……離せ、田舎拳法。邪魔をするとただでは済まさんぞ」

 

 対し、ボクはひるまず、容赦なく煽った。

 

「正直言って教える義理は無いんだけど、自覚できてないのが可哀想過ぎるだから、親切心で教えてあげるよ。――今のキミの姿を見ても、【太極炮捶】の威厳なんかひとかけらも感じられない。むしろ失望さえ覚える。……ねえ? この場合【太極炮捶】の威厳を潰しているのは誰なんだろうね?」

 

 シャオメイの視線に宿る鋭さがさらに増した。

 

「貴様……私を侮辱するのか」

 

「侮辱? これは助言だよ。キミは【太極炮捶】の威厳を回復させたいんだろう? そのための手伝いさ」

 

 挑発するような態度を崩さず、つらつらと続けた。

 

「もう一つ。キミはしきりにボクを「田舎拳法」呼ばわりしているけど、そういう他派を見下した姿勢を続ける限り、キミ達が再び尊敬の眼差しを浴びることはあり得ないよ。だって、周りを下に見てるってことは、今の自分に満足しちゃってるってことなんだから。もうそれ以上の成長は望めないわけだね。こういうのをなんて言うんだっけ、ああそうだ、「驕れるもの久しからず」かな?」

 

 実をいうと、彼女の「田舎拳法」呼ばわりには地味にムカついていた。

 

 生まれの良さを鼻にかけて、人を見下している言い方だからだ。

 

 ボクの前世――人生の大半を医療施設で過ごしていたころの事を思い出す。

 

 あの頃のボクは、健常者に対してコンプレックスを持っていたきらいがあった。

 次々と退院していく患者がボクに向ける、憐れみの眼。彼らはボクを本気で可哀想だと思っていたのだろうけど、ボクはそれを「見下しているんだ」と捻じ曲った受け取り方をしていた。

 こういう言い方をすると地球の母さんに失礼だけど、望んであの母親から、病気持ちで生まれたわけじゃない。生まれ方を選べるのなら、みんな元気な子供として生まれたいはずだ。

 そんな「どうしようもない事」を比べられ、鼻にかけられることが、ボクは嫌いだった。

 

 それに、生まれの貴賤は必ずしも、優劣強弱とは結びつかない。

 

「少なくともボクの師匠――【雷帝】強雷峰(チャン・レイフォン)には、それが理解できていたみたいだよ。あの人はいくら強くなっても「上」を見続けてきたんだ。キミと違って」

 

 極め付けに、この言葉をプレゼントしてやった。

 

 レイフォン師匠はもともと【太極炮捶】の出身だ。同時に、【太極炮捶】が嫌う「門派の面汚し」の最たる人物。

 

 そんな武法士をヨイショして、相手の怒りをさらに燃え上がらせる。

 

 するとあら不思議。ボクを歯牙にもかけていなかったシャオメイの矛先が、はっきりとこちらを向くのだ。

 

「今……なんと言った?」 

 

 興味を失ったようにミーフォンを放置し、ボクの方へ真っ直ぐ向いた。その眼差しの奥底には、不倶戴天の敵を目の当たりにしたような憤怒がくすぶっていた。

 

「貴様は……あの【雷帝】の弟子だというのか」

 

「そうだよ。キミ達が大嫌いなあの【雷帝】のね。あの人はもともと【太極炮捶】だったみたいだけど、天下を震え上がらせた流派は【太極炮捶】じゃない。ボクの【打雷把】だ。そこを間違えないように」

 

 今の言葉はとらえようによっては、「【太極炮捶】よりも【打雷把】のほうが優れている」という意味になる。

 

 それは、いずれ【太極炮捶】を背負って立つ者にとっては、この上ない侮辱だろう。

 

 内に燃える怒りを飼いならすように、紅家の次期当主は口端を吊り上げて挑戦的に微笑んだ。

 

「…………今日は素晴らしい日かもしれないな。我が門の面汚しの弟子を、公の場で叩きのめせるのだからな」

 

 ネコ科を思わせる鋭い目には、もはやボクしか映っていない。

 

「あさっての二回戦までに、二つの覚悟をしておけ。痛い目を見る覚悟と、衆人環視の中で面子を潰される覚悟だ」

 

「そのセリフ、そのまま返すよ。特に後者の場合、君の方が潰れる面子が大きいんだし」

 

 数秒間無言でにらみ合うと、シャオメイは飲み込むように殺気を消し、ボクを横切った。

 

 そのままこの脇道から出ようとした、その時。

 

「待って、姉上!!」

 

 ミーフォンが、切迫した声で呼び止めた。

 

 長女の足が止まる。が、振り向きはしない。

 

 それでも話を聞いてはくれると分かったのだろう。ミーフォンは激しく言いつのるのを必死で抑えたような声で言った。

 

「姉上にとって……今のあたしは流派の汚れみたいなもので、将来、家から叩き出そうって考えてるのよね?」

 

「だからなんだ」

 

「教えて欲しいの。……何をすれば、あたしに対するその認識を変えられるのか」

 

 シャオメイから、微かに息を呑むような声が聞こえた気がした。

 

 が、すぐに淡々とした口調で、一つの「条件」を提示した。

 

「――私に一撃でもいいから、技を当ててみせればいい」

 

「え……それだけで、いいの?」

 

「うぬぼれるな。お前は長い間、鍛錬を怠ってきた。その間に私は、流派を継ぐために父上から特別な修業を施された。もはや私とお前の差は雲泥という言葉では言い表せん。――どんなやり方でもいい、本気の私に一撃当ててみせろ……用は済んだか? なら、もういくぞ」

 

「待って、あと一つだけ!」

 

 ミーフォンはそう引き止め、もう一つの用件を告げた。

 

 

 

「姉上、もし明日の試合が終わったら――あたしと立ち合ってください」

 

 

 

 ボクはその言葉に目を剥く。

 

 前を向いていた爪先をこちらへ向け直したところを見ると、シャオメイも少なからずの関心があった様子。

 

「もし、あたしが一度でも姉上に一撃当てられたなら、そのときは……あたしが流派にとどまることを許してください」

 

「負けた場合は?」

 

 即座に投げられた容赦ない質問に、ミーフォンは苦痛に耐えるような表情となりつつ、おずおず言った。

 

「……その時は、姉上の随意にしてください。あたしを追い出したいなら、そうすればいい」

 

 いきなりのとんでもない展開に、ボクは泡を食った。何を考えてるんだ、そんな一大勝負をこんな所で消費するなんて!

 

「ミーフォン、考え直すんだ。シャオメイとやり合うのは、もう少し修行してからでもいいだろう?」

 

「いいえお姉様。鉄は熱いうちに打て、と言いますよね? 今この時が、勝負に出る時なんです。もしここで引き下がったら、あたしはずっと姉上に尻込みするかもしれない。だから、すぐに勝負をつけたいんです」

 

 そうはっきり言い放つミーフォンの目は、いつもの能天気そうなソレではなかった。まるで死地へ向かう前の兵のように覚悟に満ちていた。

 

 それを目にしたボクは、今のこの子に何を言っても利かないと確信する。「好きなだけキスしてあげるからやめて!」と言っても意見を変えないに違いない。

 

 その時、シャオメイの鉄仮面に妙に人間臭い表情が浮かんだ。先程まで向けていた汚物を見るような顔に、興味の色を見せていた。

 

「……いいだろう。ならば第二回戦ののち、【尚武冠】の正面入口で待っていろ。勝敗の如何にかかわらず、必ず立ち合うと約束しよう」

 

 最後の言葉を多少柔らかめの口調で告げると、今度こそシャオメイは曲がり角へ消えた。

 

「お姉様」

 

 ミーフォンが呼びかけてきた。

 

 これから先に続く言葉を、ボクは一字一句先読みしていた。

 

「――あたしに、稽古をつけていただけませんか」

 

 



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「偏り」

 

 今のボクは【黄龍賽(こうりゅうさい)】の選手だ。その辺で修業なんかしていたら人が集まってくるだろう。それだと集中できない。

 

 なので、帝都を四角く囲う巨壁の東門から外へ出て、少し進んだ先に広がる大きな森の前にやってきた。

 

 広葉樹を主とした木々が密度を作る形で生い茂り、午後の日差しが最高潮な今でも目視できない闇を作る深さを見せていた。

 その規模は広大。森を貫く一本の舗装路に沿って帝都東門まで離れても、森の両端が視界に収まらないほどである。

 

 『緑洞(りょくどう)』と呼ばれる大森林だ。

 この森は約七割が、国によって環境を保護された御料林(ごりょうりん)であり、無断で入ることは厳しく禁じられている。許可なく入って密猟などしようものなら三食昼寝付きのハッピーな牢獄生活が始まるだろう。

 

 その大森林の前は、鬱蒼とした木々が打って変わって草原となっている。

 人の手が加わっているんじゃないかってくらいに同じ背丈の下草が生え広がっており、寝転がったら気持ち良さそうだ。

 

 そんな広大な下草の上で向かい合う二人の乙女。

 

「その……本当に良いんですか?」

 

「いいんだよ」

 

 もう何度目かになる申し訳なさげなミーフォンの問いかけに、ボクは快く頷いた。

 

 きっと、ボクは次の試合が近いから、気を使っているのだろう。

 

「可愛い妹分の頼みなんだ、安いものだよ」

 

 微笑みかけ、そう告げる。

 

 いつもならこんなことを言おうものなら「あーんお姉様ぁ!! なんてお優しい!! お礼はあたしのカラダで必要額の十倍支払いますぅ!!」くらい叫んで抱きついて来そうなのだが、今回はそうはならなかった。

 

「ありがとうございます、お姉様」

 

 にっこり笑いはしたものの、それだけだった。

 

 その様子が、今回の状況の深刻さを物語っている気がした。

 

 稽古をつけてほしい、という彼女の希望を叶えようとこの場に来たわけだけど、どう稽古をつけたもんかと少し考える。

 

 ボク達は流派が違う。

 レイフォン師匠の【打雷把(だらいは)】は一応【太極炮捶(たいきょくほうすい)】が起源ではあるが、もうまるっきり形も変わってしまっている。

 おまけに体術の時に併用する呼吸法も異なるので、両者の武法は相性が良くない。

 

 なので、【打雷把】を教えることはできない。

 

 けれど、それ以外の事なら教えられる。

 

「じゃあ始めようか。稽古って言っても、やることは簡単だ。ボクにひたすら攻めてくればいい」

 

「え……それだけですか?」

 

「それだけだ。【打雷把】を教えてもいいんだけど、キミの技とは用いる呼吸が違う。それに【太極炮捶】は技術の玩具箱だ。主題があいまいな分、自分の持ち味を見つけやすい」

 

 頭の中に無数ある武法の知識を探りながら、言葉を連ねていく。

 

「いいかい、確かに【太極炮捶】は「特徴がないのが特徴」と言われているが、それでも個人によって技術の偏りが大なり小なり出るものだ。過去の達人はその「偏り」をとことんまで追求して、新しい流派を興していったんだ。キミには今から組手を通して、その「偏り」を探してもらう」

 

「「偏り」というのは……どういうものなんでしょうか?」

 

「キミの身体が最も好む動きのことだ。それこそがキミにとって一番役に立つ。「これが役に立つ」と嫌々学んだ動きよりも、そっちの方がよほど使いやすい」

 

 そこまで言うと、ボクは足だけを半身の立ち方にし、前足の爪先の延長線上にミーフォンを置いた。

 

「それを知りたいのなら、ひたすら攻めてくるんだ。大丈夫、一応ボクも攻めるけど手加減はするから、安心して存分にかかってくるといい」

 

「わ……分かりました。では……」

 

 ミーフォンはおずおずとながら構えを取る。

 

 ボクはすり足で不規則に立ち位置を変えつつ、妹分の出方を待つ。

 

 やがて、ボクの間合いへウサギのような俊敏さで一直線に飛び込んできて、重心の進行に右正拳を交えてきた。

 

 ボクはミーフォンから見て右側へさっと身を逃がしながら、まだ重心を移しきっていない彼女の前足をすれ違いざまにスパンッ、と蹴り払った。

 重心位置があいまいな状態で足払いを受け、ミーフォンの身体が前のめりに大きく飛ぶ。うつ伏せに倒れた。

 

 正直、今彼女に指摘したいことはあった。

 けれど、我慢して口を閉じた。

 これはミーフォンの武法に「個性」を見出すための訓練なのだ。無暗に指摘するのはその邪魔をし、ボクの持つ「型」にはめてしまう結果になりかねない。

 

 ミーフォンはぐっと弾むように立ち上がると、素早くこちらへ向き直った。

 

 今度は、無暗に攻めようとはしない。少しずつ進んで、こちらの動きを地道に窺いながらジッとしている。

 

 なので、今度はボクから近づき、勁力を込めた手を真っ直ぐ進めた。相当手加減した右掌打である。

 

 いきなり攻めてこられてびっくりした様子のミーフォンだったが、ギリギリのところで反時計回りに体をひねって回避。踏み込みに合わせて放たれたボクの掌打が空を切る。

 

 ボクは踏み込んだ前足で新たに地を蹴った。腹回りの捻りによって力を生み、もう一方の足へ重心を移すと同時に左肘を放った。力を大幅に抑えた【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】。

 

 ミーフォンは突き出されたボクの肘の上腕と前腕を両手で押さえ、尖った肘の衝突を防ぐ。だが余剰した勁によって彼女の華奢な体が真後ろへ跳ねとんだ。ごろごろと後転するが、その転がりの流れに乗って身を起こす。

 

「くそっ!」

 

 舌打ち混じりに吐き捨て、もう一度疾駆し向かってくるミーフォン。左右の拳や掌を闇雲に連発させてきた。

 

 ボクはやってきた拳の一つを避けつつ、腕をなぞるようにして近づき、背後へ回り込む。そこから靴裏で背中を蹴っ飛ばした。ミーフォンは前のめりに流されるが、足をもつれさせながらもどうにか立った状態を維持した。

 

 ミーフォンは振り返り、再び走り出そうとするが、一度止まって深呼吸。落ち着いた様子となった彼女は、構えで防御を固めたままゆっくり近づいてくる。

 

 互いの息遣いが聞こえるくらいの静寂がしばらく続く。

 

 瞬間、呼吸が鋭く吐かれるとともにミーフォンが弾かれたように距離を詰めてきた。

 

「おっ?」

 

 閃くような速度でやってきた右正拳。ボクは左前へサッと進み、ギリギリでその拳を避けた。今のはなかなかに鋭く、疾い。早急にケリをつけてやる、という彼女の純粋な意思が現れたような動きに思えた。

 

 けど、その一撃を打った後のことを考えていなかった様子。その証拠に、ボクの体当たりは何の妨害も無くミーフォンに衝突し、その身を転がした。

 

 再び起き上がり、突っ込んでくるミーフォン。

 そんな妹分の攻め手をボクは容易く躱し、いなし、時に出鼻をくじく形で技を打って無効化。

 

 一見すると、いじめているようにしか見えないやり取り。

 

 なぜこうまで追い込むのか。

 

 決まっている。ミーフォンが持つ「偏り」を引き出すためだ。

 

 人間、追い詰められると本来の力を発揮する。これは根性論でも何でもなく、変えようのない事実だ。

 

 彼女は倒れても倒れてもへこたれない。果敢にボクへ向かって来ては弾き返され、また立ち上がる。

 

 それほどまでして何を掴みたいのかは、明らかだ。

 

 実姉であるシャオメイに、認めてもらいたいからだろう。

 

 彼女たち姉妹には、明らかに深い確執がある。先ほどシャオメイが口にしていた言葉の数々から、その理由もなんとなく分かる。

 

 会って間もない頃のミーフォンを思い出してみるといい。【太極炮捶】という大流派を鼻にかけた言動と態度が濃厚だった。――シャオメイもそれと似たような感じの振る舞いをしていたが、彼女にはそう威張れるだけの功力があった。

 

 きっとミーフォンは、実力を付けずに驕ってしまってばかりだったのだろう。

 

 その理由はおそらく、優秀な姉への劣等感(コンプレックス)

 

 いくら精進を重ねても、姉には追いつけない。自分が一段階段を上るたびに、姉は十段上ってしまう。そんな圧倒的な才能の差を見せつけられ続け、やがて努力を続けるのが馬鹿らしくなり、最終的には膝を屈してしまった。

 

 でも今、ミーフォンは懸命に変わろうとしている。

 

 所詮、一段ずつ登るだけの微々たる進歩しか無いのかもしれない。

 

 残された猶予も今日を含めてたった二日。功力とはそんな短時間でつかないものだ。それを考えると、付け焼き刃同然の足掻きかもしれない。

 

 けれど、進まないよりは、少しずつでも変化したい。そんな思いが、拳脚を介して聞こえてくるみたいだ。

 

 だからボクは、いじめ続ける。

 

 そんな願いを、叶えるために。

 

 

 

 

 

 何度もミーフォンを転がし続け、気がつくと夜闇が降りていた。らんらんと光を発する月と星々が、時折流れる細かい千切れ雲に隠れることで明滅する。

 

 間隔の狭まった呼吸を繰り返しながら、草の絨毯の上で仰向けに倒れているのはミーフォン。対し、ボクは呼吸の乱れどころか汗一つかかずに立っていた。

 

「今日はもうこれくらいにしようか。早く帰ってご飯にしよう」

 

「は、はい……ありがとう、ございました、お姉、様」

 

 途切れ途切れにそう返すミーフォン。もう少し落ち着くのを待った方がよさげだ。

 

 ボクは彼女の横へ尻を下ろして座り込む。

 

 しばし無言の時が過ぎ、多少呼吸が落ち着いてきたところで、ミーフォンが申し訳なさそうに口を開いた。

 

「ごめんなさい……お姉様。試合が近いっていうのに、あたしのわがままに付き合わせてしまって……」

 

「気にしないでいいよ。むしろ、【太極炮捶】がどういう武法かおさらいができたみたいでタメになったよ」

 

「……あたしの技なんて、姉上とは雲泥の差です」

 

 なけなしの気力すら削がれたように低くなるミーフォンの声。

 

 そこまで言ったつもりはない。わざわざここで姉の事を引き合いに出すあたり、この(ホン)家三女の悩みが根深いモノだと分かる。

 

「ねぇ、良かったら、話してくれないかな?君のお姉さんのことを」

 

 思えば、ボクはミーフォンの家族事情をまだ詳しく聞いていない。

 

「お姉様」なんて呼ばれて過剰に慕われてこそいるが、ボクはこの子の事をあまり知らないのだ。今がそれを聞ける最高のタイミングだろう。

 

 ミーフォンはまた押し黙ったが、やがて重い扉を開くような鈍い口調で語り始めた。

 

「……お姉様もご存知の通り、あたしは【太極炮捶】宗家である紅家の三女として生まれました。当代の紅家当主は男児に恵まれませんでしたが、生まれてきた三姉妹はいずれも武芸の才に恵まれていました。手前味噌ですけど、このあたしも」

 

 男に恵まれなかったという事実に、ボクは悪いと思いつつも、気の毒と少なからず感じた。

 

 武法は訓練次第で、男女問わず平等に強くなれる究極の体術だ。ゆえに、扱いに男女差はない。

 

 しかし、それは武法に限った話だ。この国において、女の役目は主に家に入り子を産み育てることであり、家長や家元といった主要な立場は男が引き継ぐべきであるという風潮がある。

 

 邪推かもしれないが、当代の紅家当主は女しか生まれなかったせいで、世間から揶揄するような事を言われた可能性がある。

 

 ……もっとも、あのシャオメイの才は、そんな世間の陰口なんて跳ね除けるほどのものだっただろうけど。

 

 ミーフォンの次の発言も、それを大いに肯定した。

 

「けどその中でも、長女のシャオメイは別格でした。その才能は「【太極炮捶】始まって以来の逸材」と呼ばれるほどのもので、親や他の弟子たちも大いに姉上の将来を嘱望(しょくぼう)していました。……本当に凄いんです、姉上は。あたしなんか、凡人以下に見えるくらい」

 

 その先を、自嘲混じりに続けた。

 

「あたしね、姉上と違って親や門弟から期待されてなかったんです。一部の意地の悪い門弟からは「出涸らし」って陰口も叩かれてました。あたしはそれが悔しくて、見返そうと一生懸命修行しましたよ。でも、あたしが一つ積み木を積む間に、あの人は十段くらい積んでるんです。なんだか、頑張れば頑張るほど自分が惨めになってる気がして……ある日馬鹿らしくなって、周囲を気にするのをやめました」

 

「……いいじゃないか、それで。所詮、周りは自分の人生に対して責任なんて取ってくれないんだ。他人の陰口は気にしない方が賢明だよ」

 

「はい、今のあたしならそう思います。でも、あの頃のあたしは変に自尊心が強くて、自分がその他大勢の中に混じるのがイヤでした。だから自分を保つために「【太極炮捶】創始者の一族」っていう生まれを鼻にかけて、他流派の人間に威張り散らしていました。……今にして思い出すと自刃したくなるほど恥ずかしい話ですよ。優しかった姉上も、そんなあたしに日に日に冷たくなっていって、気がついた時にはまるで他人以下に捉えられていました」

 

「驕り」というのは一種の麻薬だ。自分は気持ちいいかもしれないが、それだけだ。自分の成長はそこで止まってしまう。周りもそんな自分を快くは見ないから、孤立する。

 

 けど、それはミーフォンだけでなく、シャオメイにも言えることなのだ。あの長女は、【太極炮捶】以外の武法をかたくなに認めようとはしない。それもまた、【太極炮捶】という大流派を蝕む「驕り」という毒なのだ。

 

「——でも、予選大会でお姉様の勁撃を食らった瞬間、そんな慢心は埃みたいに吹き飛びました。ああ、世の中にはこんな凄まじい武法があるんだ、こんな馬鹿げた一撃を打てる武法士がいたんだ、こんな格好良い女の子がいたんだ、って、思い知ったんです。貴女は、あたしを長い停滞から救ってくれた。深い泥沼から引っ張り上げてくれた。……あたし、本当に感謝してるんです。ありがとう、お姉様」

 

 眩しいものを見るような輝きを持った目でボクを見ながら、柔らかく口元を微笑ませるミーフォン。

 

 それを目にして、身体の熱が上がるのを実感したボクは、思わず顔を背けた。

 

「お姉様?」

 

「い、いや、なんでもないよ」

 

 そうごまかすが、心音はいまだにちょっと速まったままだった。

 

 ……やばい。さっきのミーフォンの笑顔、今までで見たことがないくらい可愛かった。

 

「っ……と、ところでさミーフォン、一つ聞きたいんだけど」

 

「なんですか?」

 

 小首をかしげたミーフォンは、露骨な話題変えの気配を感じていないようだ。

 

 その事にホッとしつつ、ボクは今日の昼間に行われたシャオメイとランガーの試合を脳裏に蘇らせていた。

 

「――【飛陽脚(ひようきゃく)】って、【太極炮捶】の中に含まれてるの?」

 

 ミーフォンは目を丸くした。今の発言を聞いて早々、ボクが何を聞きたいのか悟ったようだ。

 

 紅家三女は周囲をきょろきょろと見回してから、重々しい面持ちで次のような前置きを告げた。

 

「……お姉様、今からあたしが話すことは、どうか極力ご内密に願います。「あの術」の存在を話すこと自体、我が門の掟で言えば黒に近い灰色なのですから」

 

 ――あの術?

 

 興味を引き付けられる謎のワードを口に出してから、ミーフォンは静かに語り始めた。

 

「まず質問の答えですが、【太極炮捶】に【飛陽脚】はありません。あれはシャオメイが試合中に相手から「盗んだ」んです」

 

「「盗んだ」? 瞬時に技の使い方を見抜き、自分のモノにしてみせたってことかな?」

 

 あっさりと頷くミーフォンを見ながら、ボクは驚きと同時に「やっぱりな」と思っていた。

 

「【太極炮捶】は最初の武法。当然、その歴史も長い。歴史を重ねる中で、幾多もの【拳套(けんとう)】や体術、鍛錬法などを考案し、蓄積させていきました。その総数――――およそ五〇〇種類」

 

「ごっ……!?」

 

 べらぼうな数字に、目玉が飛び出そうになるボク。

 

「ですが、それらのモノを一つも失伝させずに次世代へ伝えるというのはほぼ不可能に等しい。身体能力強化系の「鍛練法」なら書物でもどうにかなりますけど、体術や【拳套】などといった「技術」はそうはいきません。それらの習得には師による細かい口伝が必要で、師を介さない修行では限界があります」

 

 彼女の意見はもっともだ。

 武法の技というのは、ただ体を動かせばいいというものではない。

 技を円滑に行うための効果的イメージング――すなわち【意念法(いねんほう)】や、勁撃の際に生まれる身体疲労を最小限に抑える呼吸法なども欠かせない。

 それらは、技を熟知した師による直接的な教え無くして身に付くものではない。

 

 特に重要なのが――師のよる技の「実演」。

 

 武林には「黙念師容(もくねんしよう)」という言葉がある。

 師の技をよく見て、その理想像を頭に思い浮かべながら、それに少しでも近づくように己の技を磨く……その大切さを言い表した言葉だ。

 

 以前も言及したが、武法において「見る力」というのはかなり重要だ。

 

 相手の一挙手一投足から実力を計ることもそうだが、師が見せた技という「雛形」を見て、その「雛形」に己の技を近づけていくためにも必要なのである。

 

 筋トレでも、理想の肉体を思い浮かべながら鍛える方が、思い浮かべないのに比べてその理想に近づきやすくなる。

 武法の習得も、理屈としてはこれとまったく同じ。

 師という「目標」を持たず曖昧模糊(あいまいもこ)に技を学ぶと、動きに変な癖がついて技の性能が落ちてしまうことが多い。……片足を失って武法ができなくなった達人が優秀な弟子を育て上げた話もいくつかあるが、それは達人の指導力の凄さの賜物といえよう。

 

 まあとにかく、武法の技をきちんと覚えるには、やっぱり師匠の存在が欠かせないのである。

 

 しかし次の瞬間、ミーフォンはそんな既成概念を揺るがす、とんでもない言葉を口にした。

 

「ですが、あたし達【太極炮捶】宗家は、その膨大な量の技を保存するために、ある「身体改良法」を生み出しました。――ソレを施された人間は、初めて見る技でも、数回見ただけでそこに含まれる「理合(りあい)」を全て読み取り、自分のモノとして完璧に体得してしまいます」

 

 喉に詰め物をされたように、声が止まってしまう。驚愕が度を越して、言葉が上手く出せない。

 

 普通の事のように異常な発言をした紅家の末妹は、なおも淡々と続けた。

 

「お姉様は【以人為鏡(いじんいきょう)】というのをご存じですか?」

 

「へっ? え……ええっと、確か……」

 

 動揺を引きずりながらも、ボクは脳内検索エンジンを起動した。

 

 ――【以人為鏡】とは、先天的な特異体質の一種だ。

 

 それが「技術」であるならば、どれほど複雑な体術でも数回見た程度で習得してしまう。そんな体質の人間が、非常に稀な確率で生まれる。

 

 身体を使った「技術」の結集である武法において、これはとてつもないアドバンテージだ。

 

 脚力や腕力といった「身体能力(フィジカル)」は、常人と同じやり方と速度で養っていかなければならない。が、それ以外の「身体技能(テクニック)」は数回の観察で苦も無く覚えられる。

 

 ……なんとも羨ましい話だ。【以人為鏡】であれば、この煌国に存在する全ての流派を会得するのも夢ではないかもしれない。

 

 脳内検索で出てきたそれらの情報をミーフォンへ伝えると、一度頷いてからさらに驚くべき発言をした。

 

「その「身体改良法」とは――その【以人為鏡】を後天的に作り出すものなんです」

 

 脳天を貫くような驚愕が襲いかかった。頭がくらくらしてくる。まるで夢を見ているみたいに現実味が薄い。

 

 かろうじて声を出せた。

 

「そ……そんなこと、できるの?」

 

「はい。名を――【鏡身功(きょうしんこう)】。時期当主として決まった子供には、その身体改良法を施されます。その内容は他流派や紅家ではない門人はもちろん、次期当主ではない紅家の人間さえも見ることは許されません。かくいうあたしも【鏡身功】の内容は一切分からないんです」

 

 ボクは恐る恐る挙手。

 

「ちなみに……見ちゃったらどうなるの?」

 

「物理的に首が飛びます」

 

「ええっ!? そこまでするのかい!?」

 

「はい。【以人為鏡】を人為的に作り出す――そんなとんでもない技術が門外へ漏れようものなら、世の中が滅茶苦茶になりますから。だからこそ、覗いた者には私的に死刑を執行する許可を朝廷からも賜っているんです」

 

 一度も執行されたことはないですけどね、と最後に付け加えるミーフォン。

 

 確かに彼女の言い分はもっともだ。しかし練習を覗いた――すなわち【盗武】した者を口封じに首ちょんぱにするという残酷なまでの徹底ぶりに、ボクは若干引いていた。普通の流派では、最悪でも腕を切り落とされるくらいで済むというのに。

 

 そんな心中を読んだのか、ミーフォンは苦笑を浮かべた。

 

「まあ、そんな感じです。あたし達【太極炮捶】は、後転的に【以人為鏡】となった当主の驚異的吸収力を利用して膨大な量の技を保存し、それを何世代にもわたって続けてきたんです」

 

 そこで、話は止まった。

 

 それらを全て聞いたボクはようやく腑に落ちた。相手の技を数度見ただけで模倣してしまう能力も、【太極炮捶】が技術を一つも絶やすことなく伝承を繋いでこれたのも、ひとえに【鏡身功】のおかげというわけだ。

 

 ミーフォンの心配ばかりしていたけれど、今の話で目が覚めた気分だった。

 

 自分の心配もしなければあるまい。

 

 何せ相手は、【太極炮捶】が千年以上の歴史を通して積み重ねてきた数多の武技をその一身に宿しているのだ。

 

 これは言うなれば、【太極炮捶】という流派そのものとの戦争に他ならない。

 

 ミーフォンもまた、そんな異常な存在である姉に挑もうとしている。

 

 まるで、二人で大きな怪物を狩ろうとしているみたいだ。

 

 どちらも、勝てますように。

 

 ボクは前途多難な戦いに、不安と期待を等量抱いていた。

 



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三者三様の備え

 

 紅梢美(ホン・シャオメイ)は、帝都西側の外壁を背にして一人たたずんでいた。

 

 いかなる侵略をも威風堂々と防がんとする分厚い壁面の中心には、関所付きの門が設けられている。

 東西南の三か所に開かれた出入り口の一つであるそこから、真西へ向かって一直線に石畳の舗装路が伸びている。その路に添って、結構な頻度で馬車が帝都へ出入りしていた。

 

 また一台入ろうとしている馬車を一瞥する。白い(ほろ)のかかった荷台の後部から、大量に積み上げられている布袋がちらりと視認できた。袋表面には荒っぽい標準語で「砂糖」と書かれていた。おおかた、砂糖の生産が盛んな南方から送られたものだろう。

 

 シャオメイはそれを些事と断じて、己の修練に意識を戻した。

 

 青々とした、雲ひとつない空を見上げる。正午となって垂直の位置にある太陽がしたたかに照り付けていた。

 

 シャオメイはそんな太陽に刃向うがごとく、跳躍。

 

 さらに空中でもう一度「跳躍」した。

 まるで、宙にいる自分の体を見えない誰かが蹴っ飛ばしたかのように、シャオメイの体が跳ね上がったのだ。

 

 さらにもう二度、三度、四度、五度、六度……と虚空で跳ね上がるのを繰り返し、垂直に上昇していく。

 

 やがて、舗装路が麺のように細く、そこを通る馬車が米のように見える高度まで達した。

 

 今度は横へ鞠のように身を弾ませる。無論、空中で。

 

 次は右へ。次は左へ。次は下へ。次は緩やかな傾斜状に斜め上へ。次はきつい傾斜状に斜め下へ。

 

 翼を持たず、地に縛り付けられているはずの人が、縦横無尽に天空を駆け回っている。

 

 外壁の最上部は通路となっていて、壁の直角位置には詰所がある。通路に立っている警備兵が口をあんぐり開けてこちらを見ているのが、一瞬だけ視界に入った。

 

 しばらく飛行を続けた後、シャオメイは外壁最上部の道へ軽やかに着地した。

 近くに立つ警備兵が何か言いたげに口をぱくぱくさせているが、【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦選手は大会開催中限定で通行税を免除されている。文句を言われることはないだろう。

 

 シャオメイはこの場に一人しかいないような気持ちで、ふう、と一息ついた。その額には、玉のような汗。

 

「……思ったよりも疲れるな、この【飛陽脚(ひようきゃく)】とかいうのは」

 

 これまた一人だけでいるような気分で独り言。警備兵の存在は完全に意識の外だった。

 

 腕の素肌で汗をぬぐい、空を仰ぎ見る。

 

 シャオメイが着る修練用の軽装は、やや目に毒であった。

 腰から足首まで包む履物は露出が皆無だが、上半身に着ているのは下着のような布一枚のみ。両肩の鎖骨辺りに掛けられた細い帯状の布に、胸部から(へそ)の少し上くらいまでを包む筒状の薄布を繋げただけの代物だ。肩幅と両腕、腰まわりは激しく露出しており、釣鐘状に胸部の布を尖らせる双丘も谷間が覗いている。

 

 女として魅力的だとよく言われる凹凸の激しい肢体を主張したような服装。

 

 しかしシャオメイは気にしなかった。昔から、武法以外の事には無頓着なのだ。なので警備兵の目も気にならない。

 

 それよりも今のシャオメイには、昨日新たに「盗んだ」技の制御の方に頭がいっぱいだった。

 

 【飛陽脚】。自分の体重を自分で蹴飛ばすことで、足場のない空中でも跳ね上がることができる技。

 

 この技を【太極炮捶(たいきょくほうすい)】に加えるつもりはない。

 (ホン)家の次期当主であるシャオメイは【太極炮捶】の技術継承の使命を背負ってこそいるが、その継承するべき技術の中に門外の技を入れる気はさらさらなかった。

 【太極炮捶】の技は【太極炮捶】の者だけが作るべきなのだから。

 

 けれど、自分のために有効活用する程度なら、父上とて文句は言うまい。

 

 そういうわけで、明日の二回戦に備えて【飛陽脚】を扱う訓練をしていたが、これがなかなか疲れる。

 

 ――【鏡身功(きょうしんこう)】。

 

 次期当主に選ばれた次の年の始まりから半年間、シャオメイは生活のほぼ全てを体質の改良に費やされた。

 

 毎日決められた時間帯に、決められた箇所の経穴を(はり)で刺す。

 毎日決められた時間帯に、決められた種類の薬膳を食べる。

 毎日決められた時間帯に、決められた調合法の薬湯に入る。

 毎日決められた時間帯に、決められた素材の寝具で決められた時間に寝て、決められた時間に起き、決められた【拳套(けんとう)】を決められた回数練る。

 

 全てにおいて管理された厳格な生活に身を置くことで、徐々に肉体を作り変えていった。

 

 その極秘の工程を終えた半年後に得た能力は――「体術習得速度の飛躍的向上」。知らない体術を、数回見ただけで自分のモノとして吸収できるという破格の能力だ。

 

 【鏡身功】は素晴らしいものだが、慣れない体術は使い慣れていない【(きん)】も使うので、必然的に疲労が伴う。

 

 この【飛陽脚】が体に馴染むには、どうやら一日じゃ足りなそうだ。これは明日の試合では乱用しないことにしよう。

 

 外壁最上部の通路の両端を囲う胸の高さほどの塀を登り、外壁から飛び降りる。

 浮遊感と空圧とともに地が急迫。

 着地寸前に【飛陽脚】で上へ跳ねて落下の勢いを打ち消してから地に軽やかに足を付ける。

 

 この技の訓練はここまでにしよう。慣れない武器の練習に躍起になるよりも、長年慣れ親しんだ武器を手入れする方が建設的だろう。

 

 慣れ親しんだ武器の最たるもの――自分が武法を始めてから最初に学び、今までずっと練り上げてきた【拳套】を、今日もまた練ろう。

 

 両脚をくっつけて直立し、呼吸を上から下へ降ろす意識で気息を整える。心身が沈んで「静」の状態になったことを実感する。

 

 足元には牛が一匹寝そべっていて、その牛の背中の端に立っているという意念を思い浮かべてから――シャオメイは「静」から「動」へと転じた。

 

 拳と掌による勁撃が中心の【拳套】。思い浮かべた仮想の牛の背の範囲から出ることなく、時に柔らかく、時に鋭く、技の流れをこなしていく。

 

 仮想の牛を縦に割る形で引かれた「直線」を意識し、それを勁をこめた拳や掌の軌道でなぞる。

 

 起式(はじまり)から収式(おわり)までの時間はわずか三十秒という短さ。しかし一度それを練り終えると、シャオメイの全身には滝のような汗が吹き出していた。

 

 【卧牛一条拳(がぎゅういちじょうけん)】。

 牛が寝そべる程度の広さのみを使い、勁の流れを仮想の一本線になぞって勁撃を行う【拳套】。

 

 武法とは本来、牛が一匹寝そべることのできる空間さえあれば十分に戦える。その戦闘思想を現したのがこの【臥牛一条拳】といえる。

 

 さらに、仮想の「直線」に打撃部位を通すことで、ブレない、鋭い勁撃を作り上げる。

 

 【太極炮捶】では一番最初にこれを学ぶ。【太極炮捶】に存在する全ての【拳套】に共通する要訣が含まれているからだ。

 

 つまりこの【臥牛一条拳】を鍛えて功力が高まれば高まるほど、他の【拳套】の技の威力も上がるということだ。

 

 

 

 ――そういえば、ミーフォンはこの【臥牛一条拳】ばかりやっていたな。

 

 

 

 遠い昔の記憶を追想し、自然と口元が微笑みを作る。

 

 しかし、それを自覚したときには、いつもの硬い表情へ戻っていた。

 

 あれはもう昔の話だ。少なくとも、今のミーフォンはもうあの頃のような性格じゃない。

 

 時は人を変える。良くも悪くも。

 

 自分もまた、昔のように甘い姉ではいられないのだ。

 

 【太極炮捶】という大流派を背負って立つ身として、甘さはすべて捨てなければならない。

 

 流派を貶めるようなら、たとえ身内であっても破門にする。

 

 もう、自分はそういう女なのだ。

 

 けれど――

 

 もし、あの妹がこの体に少しでも触れてくれたとしたら。

 

 心を鬼にせずとも、一緒にいられるのに。

 

 だが、それはおそらく叶わないだろう。

 

 はっきり言って、今の自分とミーフォンでは勝負にならない。よほどの奇跡でも起きない限り、自分の勝ちで終わるだろう。

 

 そう、よほどの奇跡でも起きない限り――

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 ——今のままではダメだ。

 

 ミーフォンは下半身から駆け昇ってくるような危機感とともに、そう強く確信していた。

 

 日が真上から西へ傾き始めた時間帯、ミーフォンは巨大な湯船の中で膝を抱いて座っていた。

 

 湯気が霧のようにもうもうと漂うその場所は『呑星堂(どんせいどう)』の大浴場である。横長の長方形である空間の六割を、端から端へ続いている巨大な湯船が占めていた。残った四割には、脱衣室へ繋がる戸、石鹸や桶、露天風呂へと続く引き戸がある。

 

 白い素肌を撫で、疲れを癒す意味を込めて我が身をいたわる。自身を粗末に扱っていては育つ功力も育たない。

 

 時間を忘れるほど長く浸かった浴槽から上がり、脱衣室へ出る。

 

 ここで洗い落とした汗は、昨日と同じく、帝都東側に広がる大森林『緑洞(りょくどう)』の前の草原で流したものだった。

 

 昨日と同じく、シンスイに稽古をつけてもらったのだ。

 

 彼女の歩法の精密さ、それを生かした体捌きは神がかっており、一撃どころか、自分からは一度も触れなかった。軽く自信をなくしかけたが、シンスイが懸命に励ましたおかげでどうにか気持ちの安定を取り戻した。

 

 だが一方で、新たな問題意識を認識することとなる。

 

 濡れた素肌を拭きながら、ミーフォンは先程の思考へ再び立ち戻った。

 

 ——今のままではダメだ。

 

 シンスイは確かに、ミーフォンのために体を張って稽古してくれている。明日に自分の試合を控えているにもかかわらず、だ。そのことには感謝の言葉もない。

 

 しかし一方で申し訳ないが、物足りなさも感じていた。

 

 物足りなさとは——こちらを本気で叩きのめそうという気概がシンスイにはないことである。

 

 シンスイは確かに厳しく立ち合ってくれている。しかし、稽古はどこまでいっても所詮稽古。「実戦」ではない。ゆえに、どこか現実味の無さや妥協感が否めなかった。

 

 自分が手っ取り早く強くなるには、やはり実戦を通して学ぶ必要があるとミーフォンは確信していた。

 

 人間は追い詰められると普段以上の力を発揮するものだ。その中を通じて己を追い詰め、潜在能力を呼び覚ます。そうすれば、シャオメイに勝てずとも一矢報いることができるのではないのか……そんな希望的観測を抱いていた。

 

 そう、希望的観測。コレをやればこういう結果が約束されている、という保証がどこにもない、暗中模索の中で見つけた方法。

 

 けれど、やる価値はある。

 

 ミーフォンは歩きながら、その方法を考え始めた。

 

 実戦というと、互いに手心を加えることの無い真剣勝負。

 

 しかし、そんな勝負ができる相手が、そうホイホイ見つかるだろうか?

 

 ここ最近、左拳を右掌で包む【抱拳礼】——命のかかった決闘を意味する合図の上で行われる戦いをよく見ている気がするが、普通なら簡単に真剣勝負を挑み、応じたりはしないものだ。我が身を張るべき戦いと、そうでない戦いがある。

 

 自分を憎んでいる人間を探す?そんな奴は見たことが無い。自分がかつて盗みを告発したことで縁の切れた昔の親友なら自分を恨んでいそうだが、彼女は武法士じゃないし、そもそも今はどこにいるかも分からない。

 

 なら、どうすればいい。

 

 そうだ、自分を憎んでいなくてもいい。少しでも「気に入らない」という感情を抱く者、あるいはその人物が恨みに思っている相手の知り合いという繋がりで——

 

「……あ!そうか!その手があったわ!」

 

 思いついた、一人だけ。

 

 いる。たしかに。自分に「気に入らない」という意識を抱きそうな人物が、一人。この帝都に。

 

 暗闇の中に、一筋の光を見つけた気分だった。

 

 こうしてはいられなない。早速、「あの人物」がどこにいるのか、これからどう動くのかを探ってみなければ。

 

「よしっ!」

 

 ミーフォンが気合を入れて拳を握りしめたその時。

 

 女の悲鳴が聞こえた。

 

「あ、貴女っ!?な、なんて格好してるのっ!?」

 

 中居の服を着た中年女性が、ミーフォンを指差しながら震えた叫びで訊いてきた。

 

 何を怯えているのだろう。そう怪訝に思いつつ我が身を見下ろす。

 

 裸。

 

「っ!?」

 

 ミーフォンは顔を真っ赤にし、しゃがみ込んで我が身を掻き抱く。しまった、考え事に没頭し過ぎて着衣に気が回らなかった。

 

 目を見張らせている男客を見ぬまま、悲鳴混じりの声で叫んだ。

 

「見んな馬鹿ーっ!!あたしを視姦していいのはお姉様だけなんだからぁーーっ!!」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 突然ですが、このボク李星穂(リー・シンスイ)は日記をつけています。

 

 地球にいた頃は毎日毎日病院生活で、日記を書いたとしてもおんなじような内容ばっかりだ。いや、毎日違う点はある。どんな医療ケアを受けたか、どんな薬を使ったか、どんな痛みが走ったか、などだ。……そんなの日記に書きたくない。苦しくなるだけだし。

 

 だけど今は異世界で、しかも健常者だ。いろんな所に出歩けるから、カラフルな思い出が作れる。だから書く事も毎日違う。なんと素晴らしいことか。

 

 極め付けに、レイフォン師匠に弟子入りして間も無く「毎日、日記をつけろ」と命じられたことがキッカケとなり——ボクに日記をつける習慣が生まれましたとさ。

 

 煌国の製紙技術は優れている。あらゆる方法と材料があり、おまけにその材料も安価で大量生産が可能なシロモノときている。だからこそ、文明レベルは中世と同程度でも紙が安価である。……それでも本が高いのは、ただ単に印刷に手間がかかるからだろう。

 

 まあ、とにかくボクは夜闇を『鴛鴦石(えんおうせき)』の灯りで照らす『呑星堂』の自室にて、今日も日記をつけている。

 

 

 

 

 

 足で。

 

 

 

 

 

 寝台(ベッド)の端に座りながら、床に置かれた白紙の帳面見開きページの中心を左足で押さえ、右足の親指人指し指で筆を持って、右ページにスラスラと今日の出来事を書いている。

 

 ボクが書き連ねていく文字は、自画自賛だが、足で書いたとは思えないほど美麗であった。……正直、手で書くよりも上手だと思う。

 

 ――足で美しい字を書く。

 

 そう。まさしくそれがこの『足日記』の狙いだ。

 

 【打雷把(だらいは)】は、絶対的攻撃力と、それを確実に当てるための精密な歩法を持ち味としている。

 その持ち味のうち後者を成り立たせるには、「足の器用さ」が必要不可欠である。

 

 ボクはレイフォン師匠から、「足の器用さ」を養うための修行法をいくつか教わった。――この『足日記』もその一つである。

 

 文字は見方を変えれば、ありとあらゆる「軌道」を持った線の集合体である。特に煌国標準文字は、漢字並みに複雑な文字だ。

 そんな文字を足で書くことによって、【打雷把】に必要な「足の器用さ」を育てるのである。

 

 無論、弟子入りして間もない頃の『足日記』は酷いものであった。文字の(てい)さえ一切感じられないほどぐちゃぐちゃな上に、たった数文字書くために一頁費やすというヘタクソっぷりだ。

 

 だが今ではこうして美しい文字を書くことができる。それに並行して、歩法の精度も並外れたものとなった。

 

 攻撃力だけが目立つ【打雷把】だが、足を主体として使った技もいくつか存在する。

 

 ……ボクは、昨日のシャオメイの試合を思い出す。

 

 正直、決勝戦まで大技は隠しておきたいところだが、アレは出し惜しみをして勝てる相手ではない。

 

 状況が状況なら、全てをさらけ出す覚悟を決めよう。

 

 師匠が長年の経験をもって作り上げた【打雷把】の力は、まだまだこんなもんじゃない。

 

 それを、あの独善的な【太極炮捶】次期当主サマに見せつけてやるのだ。

 



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それぞれの戦い①

 

 明日に怯えていようと、楽しみにしていようと、時というのは平等に過ぎ去っていくものだ。

 

 違うように感じるのは、その人の心の有り様が、精神的な速さをコントロールしているからだ。

 

 かくいうボクは、遅く感じていた。

 

 当然だろう。相手は【太極炮捶(たいきょくほうすい)】という大流派の次期当主なのだ。血統書付きな上、才覚や実力は群を抜いているとのこと。

 

 けれど、戦わなければ先には進めない。

 

 そんな思いでボクは一夜を超え、今日、第二回戦を迎えた。

 

 上空から見ると巨大なすり鉢状である【尚武冠(しょうぶかん)】が、戦いの舞台だ。

 

 すり鉢の斜面に当たる観客席と、底辺にあたる円形の闘技場。

 

 観客席は、途中で分厚く高い壁によって分断されていて、アルファベッドの「C」みたいな形となっている。

 その巨壁は【黄龍賽(こうりゅうさい)】の運営役や皇族が出入りする特別な建造物となっており、庶民はおろか、官吏でさえも許可無く入れない。

 巨壁からは、すり鉢の内側へ向けて二つの露台(バルコニー)が出っ張っている。

 狭い露台には司会役がおり、その上段にある広い露台には皇帝陛下を含む皇族のお歴々が高みの見物を決めていた。センラ……もとい煌雀(ファン・チュエ)皇女殿下に手でも振りたいところだが、こんなパブリックスペースでそれは軽率だし失礼だろう。

 

 大勢の観客が熱い視線を向ける底辺の闘技場。そこで向かい合って立つ、ボクと紅梢美(ホン・シャオメイ)

 

 正午になる約一時間半前から始まった第二回戦において、一番最初にやり合う組み合わせだった。

 

「とうとうこの時が来たな【雷帝】の弟子。私は実をいうと、お前と一戦交えるのを楽しみにしていた」

 

 シャオメイは表情を真顔のまま、そう言った。相変わらずの鉄仮面なので、とても楽しそうには見えないのだが。

 

「【雷帝】の弟子、じゃなくて李星穂(リー・シンスイ)ね。苗字でも名前でも好きに呼んでよ……それで、どうして楽しみにしてたのかな?」

 

「ああ。お前の師父【雷帝】こと強雷峰(チャン・レイフォン)は、もともとは我々【太極炮捶】の門人だ。他流派といさかいを何度も起こして破門になりはしたが、最初に習った【太極炮捶】を高めて独自の優れた拳法を作り上げたという。さらに奴は名のある多くの武法士に勝利し、当代随一ともいえる拳力を天下に知らしめた。――お前はそんな怪物の弟子なのだ、李星穂(リー・シンスイ)。そんなお前を、【太極炮捶】の長となる者の拳で打倒すれば、【太極炮捶】が最強ということになる」

 

「なるほどね……でも、ボクは君の肥やしになる気は毛頭ないよ。ボクらを「田舎拳法」とあざ笑うその根性をへし折って、武林がいかに広大無辺であるか教えてあげるよ」

 

 言いつつ、ボクは左拳を右手で包んだ。

 

「それは、是非とも見せていただきたいものだな」

 

 鼻で笑いつつ、シャオメイもまた同じように挨拶した。ヒョウのように鋭く美麗な眼差しに、ボクの姿がくっきり映っている。

 

 ボクら二人のその行動に、周囲を囲う観客たちが歓声を膨らませた。

 

『さてさてさて、ようやくやってまいりました第二回戦! たった一日の間隔を開けるだけだというのに、数年待ったような気分なのは気のせいでしょうか? 皆様個人個人によって待った長さは違うでしょうが、今、この時、ようやくその待ち時間から解放されることとなりました! ――本日の第二回戦! 謎の攻撃型武法を使う麗しの美少女、李星穂(リー・シンスイ)と、【太極炮捶】という大流派をその双肩に背負う女傑、紅梢美(ホン・シャオメイ)の一騎打ちだぁぁぁ――――!!』

 

 歓声がさらに増した。途切れて聞こえるくらいに大きい。

 

『両者ともに、すでに『抱拳礼』は済ませている様子。ならば、あとは思う存分互いの技と功力(こうりき)を発散させるのみ。さあ――存分に暴れてくださいなっ!!』

 

 司会役が大きく挙手。

 

『では――――始めぃっ!!』

 

 その手が刀のごとく振り下ろされるの同時に。

 

 試合の開始を告げる銅鑼(どら)の音が高らかに鳴り響いた。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 勾藍軋(ゴウ・ランガー)は意気消沈していた。

 

 自分はいったい何のために四年間の苦練を積んだのだろう。

 

 知れた事。今度こそ【黄龍賽】で優勝するためだ。

 対戦相手としてぶつかった武法士を全員倒し、今年こそあの【天下無踪(てんかむそう)】に敗北の味を教えるためだ。

 【黄龍賽】を、小遣い稼ぎとしか思っていないあのウサギ女を、今度こそ叩きのめしてやりたかった。

 

 ……そのはずだったのに。

 

 結果は、四年前の前回【黄龍賽】よりもさらに悪かった。

 本戦には出場できたものの、初戦敗退という無様をさらしてしまった。【太極炮捶】の次期当主である女の手によって。

 

 ギリィッ。ランガーの歯が、削れんばかりに噛み締められた。

 

 だが、憤っても仕方がない。自分はもう負けたのだ。敗北者なのだ。

 

 負けた者は消えるのみ。

 

 今頃、【尚武冠】では第二回戦が行われているはずだ。けれどそれを見る気にはなれなかった。

 

 ランガーは荷袋を片手に、小さな宿屋の一階へ続く狭い階段を下りていた。

 

 この宿は『吞星堂(どんせいどう)』ではない。『吞星堂』は昨日すでに荷物をまとめて出ている。

 昨日帰ってもよかったのだが、そのときは敗北感が大きく、長い帰路を歩く気力が皆無だった。

 【黄龍賽】参加者の宿泊施設は、その参加者が敗北した翌日に退出しなければならない。そういうわけで、この安い宿屋に一泊した。

 

 石造りの階段である『吞星堂』とは違い、木製である階段は少しやわらかく感じる。震脚などしようものなら一発でへし折れそうだ。

 

 階段を降り切り、帳場を過ぎて、表戸を出る。

 

 これから、この帝都を出て行く。

 

 だが、自分はあきらめない。四年後も【黄龍賽】に出場する。そのために、さらなる修業に己が身を投じるのだ。

 

 この宿は、帝都の南西に張り巡らされた裏通りの一角に存在する。南門寄りなので、一番近い南門から帝都を出よう。

 

 そう思い、この宿の庭園と街路を隔てる木の正門を出ようとした。

 

 しかし、開かれている正門の片側に寄り掛かっている一人の少女が、こちらの行く手を足で阻んでいた。

 

 小柄な少女だった。髪は肩幅の辺りで先端が途切れており、両側頭部には団子のような白い布がくっついている。勝気に整ったその顔立ちは、猫を思わせる。

 

 その顔は、一昨日に自分を下した相手――紅梢美(ホン・シャオメイ)に似ていた。

 

 ランガーの目が無意識に険しさを帯びる。

 

「……なんだ、テメェ」

 

 明らかにランガーを通せんぼしているその少女に、目つきと同様に鋭い口調で問う。

 

 少女は毅然とした態度で、自らの名を名乗った。

 

「あたしは【太極炮捶】宗家、三女の紅蜜楓(ホン・ミーフォン)。【黄龍賽】本戦参加者、勾藍軋(ゴウ・ランガー)とお見受けするわ」

 

 ――(ホン)、だと?

 

 ランガーの眉間のシワの本数が増えた。

 

「テメェ……まさかあの女の」

 

「そうよ。あなたが一昨日負けた紅梢美(ホン・シャオメイ)はあたしの姉」

 

 "あなたが一昨日負けた"を強調したミーフォン。

 

 それを聞いて確信した。シャオメイの身内であるこの女もまた、奴と同じく不倶戴天の存在なのだと。

 

「おい、メスガキ。冷やかしに来たんならとっとと失せろ。俺はテメェみてぇなお嬢と違って暇じゃあねぇんだよボケ。家帰ってチャンバラでもしてろ。でねぇと――――潰すぞ」

 

 潰すぞ、ではなく今すぐ潰したい。けれどそれをやるとこちらの立場が弱くなりかねない。なので刃物のような殺気を必死で内側へ押し込める。

 

 そのミーフォンは、こちらの眼光に怯えるように顔を緊張させる。その足が、一歩後ろへ退こうと動く。

 

 ふん、ビビって消えやがれ。

 

 だが紅家の三女は下がろうとした足をピタリと止めると、その足でそのまま一歩前へ強く踏み出した。

 

 ――コイツ!

 

 表情からも怯えの色が消え、こちらの眼光をみずからの眼光で受け止めて、言い放つ。

 

「あなた、これから帝都を出ていくんでしょ? 遠路はるばるこんな大都市に来たわけなんだし、もう少し思い出でも作りましょうよ」

 

「……何が言いたい?」

 

「帰る前に――――あたしと立ち合ってもらえない?」

 

 ミーフォンの提案に、ランガーは我が聴覚を本気で疑う。

 

 何言ってんだこの馬鹿。コイツ、どう見ても俺よりずっと功力が低い。コイツだって、俺の実力は立ち姿を見れば分かるはずだ。

 

 なのに、それを踏まえた上で、俺に挑戦しようとしている。

 

 なんという勇敢な――

 

「図に乗ってんじゃねぇぞっ!」

 

 憤激に突き動かされるまま、ミーフォンの懐へと一瞬で詰め寄る。その顔が驚きを呈する暇さえ与えぬうちに掌底を叩き込んで、遠くまで紙屑同然に吹っ飛ばした。

 

 街路の真ん中でうつ伏せになって止まる。

 

 無茶苦茶な転がり方をした。まるで死んでいるみたいに動きが無い。

 

 けれど、ミーフォンはぴくりと身じろぎしたかと思うと、ゆっくりと体を起こしていく。

 

 立ち上がる。

 

 その顔は、真っ直ぐに自分を見つめていた。

 

 戦う覚悟を決めたような眼差しに射抜かれたランガーは、自分の足を自然と後ろへ一歩下げてしまった。

 

 それを見て、ランガーは更なる恥辱と憤怒を覚えた。

 

 恐れてしまった。怯えてしまった。あんな小娘に。

 

 ――気に入らねぇ!

 ――【太極炮捶】だか何だかしらねぇが、お高くとまりやがって。

 ――その態度は、お前みてぇなボンボンがして良いものじゃねぇんだよ!!

 

 「大流派」と呼ばれる武法は大嫌いだ。

 

 ランガーが所属している流派は、武林において名前がほとんど知られていない無名流派。大流派に属している連中の口から言わせれば「田舎拳法」だった。

 

 確かに、【太極炮捶】【道王把(どうおうは)】などといった由緒ある流派に比べれば、無骨で粗野な武法かもしれない。

 

 だがそれでも、ランガーは自分の流派を、武法士人生において自らが骨を埋めるべき流派であると心から思っており、誇りにしていた。

 

 だからこそ、金持ち連中がこちらの流派名を聞いた時に見せる、「田舎拳法か」という嘲りの感情が含まれた笑みが気に入らなかった。

 

 金持ち連中は、きちんと見返りが期待できるものに投資したがる。武法を学ぶ場合、連中が学びたがるのは由緒ある「大流派」だ。【太極炮捶】や【道王把】がその代表的な例である。

 

 「大流派」サマに名を連ねる連中には、金持ち連中が多い。

 そいつらは「強くなりたい」というよりも「技を蒐集(しゅうしゅう)したい」というような連中だ。

 知っている技が増えるほど達人に近づくと本気で思っているような愚か者どもだ。

 だから技を多く知っていても、精神は未熟。新しい技を覚えていくのは好きだが、試合は嫌だ。そんな連中ばかりである。

 

 最初は「大流派」である事をいばり散らしていても、こっちがちょいと小突けばたちまち戦意を失ってだんまりとなる。

 

 「大流派」なんて連中は所詮、技の歴史の長さを鼻にかけた貧弱野郎の吹き溜まりだ。ランガーはそんな偏見に近い見方を持っていた。

 

 しかし、目の前のこの女はどうだろう?

 

 この女は「由緒ある技」だけでなく、自分よりも強い相手に立ち向かう「勇気」も持っている。

 

 それがものすごく気に入らない。

 

 二物を持っている者が、ランガーは憎たらしくすら思えていた。

 

 その憎たらしい少女は、なおも毅然とした態度で言い放った。

 

「あんたに与えられた選択肢は二つだけ。左拳を包むか、包まないかの二つ。――どうする?」

 

 頭の中で、大事な何かが切れる音がした気がした。

 

 右掌に左拳を乱暴に叩きつけ、ランガーは膨張する怒気を押し殺したような声で言った。

 

「――上等だ、【太極炮捶】。捻り潰してやるよ」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 試合開始の銅鑼が鳴って、半秒と経たぬうちにボクは勢いよく飛び出した。

 

 迷いなき直進。

 

 間合いと間合いが接触。

 

 その瞬間ボクは攻撃に――移らず、シャオメイの左斜め前へ右足を進めた。敵が放った刺突のごとき拳打を躱しつつ、左足でまっすぐ蹴った。

 

 シャオメイが軽く前へ進んで蹴りを避ける。

 

 ボクは蹴り足でそのまま彼女の隣へ深く踏み込み、重々しい肘打ち【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】へと連結させた。

 

 対し、シャオメイは再び最初の立ち位置へ下がって肘を空振りさせる。さらに回避後、左足ごと左拳を進ませて正拳突き。

 

 飛んできた左拳を小さく右へずれて避けつつ、シャオメイの間合いの奥へ侵入。【衝捶(しょうすい)】へと繋げた。

 

 突き進んで放つ必殺の正拳突きが、薄皮一枚まで肉薄。

 

 だが不意に、シャオメイの手がボクの拳にそっと添えられた。かと思うと、拳に込められた勁力が水を殴ったように失せ、同時にシャオメイの姿が視界から消えた。

 

 背後に怖気が走る。その本能的な感覚に従い、ボクは重心を横へスライドさせた。約半秒後に、ボクのいた位置を槍のような爪先が穿ちぬいた。

 

 見ると、シャオメイは空中にいた。

 おそらく、ボクの拳が秘めた莫大な直進勁を、水車のように自身の縦回転へと利用したのだ。そのままボクの頭を飛び越えて真後ろを取り、その奪った回転力を利用した蹴りを放った。

 

 同じような技が、【道王把】に含まれる武法の一つ【龍行把(りゅうぎょうは)】にもある。

 

 シャオメイは、何も感じていないような無表情をこちらへ向ける。

 

「この程度で勝てるとは思っていなかったが、それを踏まえても素晴らしい反応だ。流石はあの憎き【雷帝】の弟子といったところか。……それにお前から奪い取った勁力、とてつもなく重々しかった。回転力として利用したまでは良かったが、強すぎてあやうく制御に失敗するところだった」

 

「【太極炮捶】次期当主様に褒められて光栄だよ」

 

「そうか。……お前の拳に含まれる「理」を、これから戦いの中でたっぷり観察させてもらおう」

 

「言っておくけど、ボクの【打雷把】はそんなに甘くないから――ねッ!」

 

 軽口をそこで途切れさせ、間を詰めた。鞭のような前蹴りを放つ。

 

 それを手で受け止められるのを確認してから蹴り足を高速で引っ込めた。回転して振り向きざまに放つ円弧の裏拳を深々しゃがんでくぐり抜ける。

 

 彼女の間合いの奥、それも低い位置を取ったボクは踏み込んで【移山頂肘】を叩き込んでやりたい衝動に駆られるが、それをさせぬとばかりに靴裏が目の前で大きく拡大された。

 

 ボクはしゃがんだまま歩を横へ進めて身を捻り、間一髪その蹴りから逃れた。そのまま伏せた右足を軸にして回転し、左足でシャオメイの軸足を蹴り払った。

 

 重心を奪われたシャオメイは、空を仰ぎ見ながら虚空を浮かんだ「死に体」と化す。足場がないゆえに動くことができない、格好の的。

 

 そこを狙ってやろうと考えた瞬間、ある過去の映像が脳裏をよぎった。――第一回戦で、何もない空中で跳躍して空を飛びまわっていたシャオメイの姿が。

 

 転瞬、虚空に浮かんでいたシャオメイが、蹴られて跳ね上がっていた自分の片足を、もう片方の足で蹴りつけた。

 

 ――シャオメイの五体が、足場も何もない空中でばちぃん、と真上に"跳ねた"。

 

 【飛陽脚(ひようきゃく)】。自分自身の体重を自分の足で蹴っ飛ばすことで、足場のない空中でもジャンプできる。翼の無い人間でも空を飛べる、ある種の憧れを禁じ得ない技。

 

 さらにシャオメイはもう二回空中で跳ね、ほぼ一瞬でボクの真後ろを取った。背後から来た回し蹴りをかがんで躱す。

 

 着地する音が微かに聞こえた。ボクはその音めがけて風のように歩を進めた。シャオメイへと急接近。

 

 ボクは牽制で右裏拳を放つ。それが受け止められるのを見た瞬間に深く間合いへもぐり込み、左拳で【衝捶】。

 

 体の捻りによって回避されてしまったが、反撃を許さずもう一度【衝捶】で突き進んだ。シャオメイはそれも軽く避け、即座に跳ねるような回し蹴りへとつなげるが、ボクも身体を手前へ引いて逃れる。

 

 生まれた互いの距離を、シャオメイが掌打で埋めてくる。

 ボクは体を鋭くよじって掌打の延長線上から胴体を逃しつつ、体ごと入ってきたシャオメイの胴体めがけて蹴りを直進させた。

 

 しかし、シャオメイはまだ前足を踏み込んでいなかった。

 

 掌打に込められた勁力を急きょ打ち消し、ボクがまっすぐ放った蹴りをもう片方の手で受け止めつつ、その力を我が身の回転に利用した。

 

 前傾した状態で竜巻のようにシャオメイは回転。地面と体が向かい合った瞬間、回転の勢いで震脚し、さらにその足に鋭い捻りを込めた。

 

 体重で石畳を叩いた力に比例した反力がとぐろを巻く形でシャオメイの身体を駆け上り、横回転させ、振り向きざまに放つ回し蹴りに新たな勁力を与えた。

 

 音速で迫る鎌のような蹴りを、後ろへ下がって間一髪回避しつつ、その曲芸のような奇怪さを含む動きに脱帽していた。

 不安定な状態で反撃してみせるあの技は、酔っ払いの動きを模した【太極炮捶】の【拳套(けんとう)】――【酔漢拳(すいかんけん)】の中に含まれているものだ。

 

 直立に戻ったとたん、シャオメイは地を蹴って距離を詰めた。

 

 シャオメイの拳が重心ごと走り、ボクもまた前に飛び出しつつ拳を真っ直ぐ放つ。

 

 シャオメイは踏み込んで正拳中段突き。ボクもまた正拳中段突き。両者の技は同じだった。

 だが、動きは少し違いがあった。

 シャオメイは、体を前面に向けたまま放つ、ポピュラーな正拳突き。

 だがボクは震脚で激しく踏み込んだ足に急激な捻りを加え、その力で全身を展開させて威力に加算する正拳突きであった。――名を【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】。突き終えた時の形は、腰を落として弓を引いたような格好だ。

 

 体を横へ開いたことによって、ボクの胸部にシャオメイの拳が擦過。

 巨乳だったら危なかったなぁ、と思うのとほぼ同時に、ボクの拳がシャオメイに突き刺さった。

 

 敵の体が、引っ張られるように後方へ吹っ飛んだ。

 

 そんなはっきりとしたやられ様を見たにもかかわらず、ボクは眉をひそめずにはいられなかった。

 

 ――なんだろうか、この手ごたえの無さは。まるでゼリーを殴ったみたいな、衝撃が埋まっていく感触だった。

 

 それを裏付けるかのように、吹っ飛んだシャオメイが地面でくるりと後転して受身を取り、流れるように立ち上がった。

 

 彼女の顔からは一応苦痛の色は感じるものの、それもほんの少しだった。ボクの一撃を浴びた後とは思えないほどぴんぴんしている。

 

「……何をしたの?」

 

 緊迫しつつボクが問うと、シャオメイは独り言のように言った。

 

「直撃と同時に下半身全体を柔らかく沈ませ、お前の拳に込められた勁力を緩和し、地面へ逃がした。【黐腿(ちたい)】という歩法だ」

 

 そう言えば、そんな歩法もあったっけ。

 

「だが、それでも十分に痛かったぞ、お前の一撃は。全く恐ろしい。この馬鹿げた勁力も【雷帝】譲りというわけだな。相手の攻めをかいくぐって間合いの奥へと踏み入るための精密な歩法、その後に絶対的威力の一撃。まるでそれ以外はゴミだといわんばかりの究極の合理性、恐れ入った。【雷帝】は好かんが、その武法へのあくなき探究心は驚嘆と称賛に価する」

 

 シャオメイの口元が、微かに笑みを作ったのが見えた。

 

 

 

「だからこそ――――盗ませて(・・・・)もらった(・・・・)

 

 

 

 その言葉に対し、問う時間どころか考える時間さえ与えられなかった。シャオメイが前触れなく稲光のような速度で迫ったからだ。

 

 どうにか反応が間に合い、シャオメイの放った神速の正拳突き【霹靂(へきれき)】を両腕で防ぐに至った。だが、その勢いで後方へたたらを踏む。

 

 突きを終えたシャオメイが、さらに鋭くボクの間合いへ踏み入ってきた。重心がおぼついていない今のボクは隙だらけ。満足に対応することもできず敵のクリーンヒットを許してしまう可能性が高い。

 

 そんなボクに、シャオメイは深く横歩きで踏み込んで――肘を打ち込んだ。

 

「か――――」

 

 一瞬、意識が飛びかけた。それくらいの威力が、肘に込められていた。

 

 けほけほと数度咳き込みつつ、吹っ飛ぶボクは受け身を取って立った。しかしそこで一度膝がよろけ、倒れそうになる。

 

 先ほどの一撃の余韻に、膝がわななくように震えている。

 

 ボクの頭も、彼女の肘打ちに込められた理合いに驚いていた。

 

 まさか、今の技は――――

 

「【移山頂肘】…………!!」

 

 そう。【打雷把】の一手。それをシャオメイは使って見せたのだ。見た目もそっくりだが、力を生み出す体術、肘に込められた勁力の形さえも瓜二つ。

 

 シャオメイは肘打ちの体勢をやめると、つらつらと説明しだした。

 

「なるほど…………激しく重心を落として一瞬だけ体重を倍加させる沈墜勁(ちんついけい)(へそ)周りの旋回の勢いを使う轆轤勁(ろくろけい)……ここまではありふれた生勁動作だが、この技……否、【打雷把】とかいう武法の技の威力を支えているのは――「脊柱の張力」と「深い踏み込み」による作用反作用か。腰を沈下させつつ、背筋へ上向きの強い力を【意念法】で与える。そうすると、全身は両端から引っ張られた糸のように強い張力を手に入れ、横からの力に強くなり、その場に立つ力が金字塔のごとく盤石となる」

 

 見透かしきった彼女の台詞に、ボクは内心で青ざめた。まるで心の中を覗かれた気分で気持ちが悪い。

 

「面白い体術だ。やはり【雷帝】はとことん常識から逸脱するのが好きなようだ。――だが、それでも私には及ぶまい。この体には、悠久の歴史の蓄積がつまっているのだから」

 

 そこまで言うと、シャオメイが再び地を蹴った。

 

 ボクもまた走り出す。

 

 互いの間合いがぶつかった瞬間、シャオメイの姿が消えた。

 ――と思った瞬間に真上から影が差したので素早く横へ動き、垂直に急降下してきたシャオメイの踏みつけを避けた。跳び上がりから降下までの時間がとんでもなく短かい。【飛陽脚】で跳躍、落下を瞬時に行ったのだ。

 

 ボクは着地間もないシャオメイへ横歩きで詰め寄り【移山頂肘】。

 しかしシャオメイは小さく自分の位置をずらしてこちらの肘を回避し、すかさず前蹴り。ボクはどうにか回避が間に合い、その蹴りを空振りさせた。

 目標を失った靴裏はすぐに踏み込みへ変わり、ボクから盗み取った【移山頂肘】が迫る。

 自分の技が当然のごとく使われることに気味悪さを感じつつも、ボクは冷静に斜め前へと一歩を進めた。直前までの立ち位置をシャオメイの肘が穿ち抜く。

 

 ボクはそのまま彼女の真後ろを取り、【衝捶】で突きかかる。

 

 紅家の長女は鋭く振り返りざまにボクの正拳を手で払いのけると、すかさず瓜二つな【衝捶】。

 

 ボクもそれを避けて、二発目の【衝捶】。

 

 【衝捶】。【衝捶】。【衝捶】。【衝捶】。

 

 終わりの見えなそうな【衝捶】合戦が繰り広げられていた。

 

 同じ技で攻防を行う様は、まるで同門同士で行う約束組手のようだ。

 

 けれど、ボクとシャオメイは違う流派だ。

 

 だからこそ、同じ土俵で戦うとなればボクに分があるのは当然。

 

 ボクは突然【衝捶】をやめ、自然な動きでシャオメイの左胸に拳を添えた。

 足底から指先までを同じ回転方向へ同時に捻り込み、添えた拳をゼロ距離からドリルのように直進させた。

 

 直撃。だがそれと同時にシャオメイの身体がぐにゃり、と少し沈み、ゼリーを殴ったような手ごたえの無さをもう一度ボクの拳に味わわせた。――また【黐腿】で勁力を緩和された。

 

 紅家長女は3(まい)ほど押し流される程度で済み、すぐにまた近づいてきた。ボクの間合いに入った途端急旋回し、右の裏拳を放ってきた。

 

 ボクは軽く身をかがめ、裏拳の真下をくぐってやりすごす。けれどシャオメイはなおも回転を維持し、今度は左拳を円弧状に振った。それを右腕によってガード。

 

 衝撃を右腕の手根に感じつつも、間合いの奥へと身をねじ込もうとする。

 

 が、シャオメイはボクの右腕を掴み取ると、そのまま左へ大きく歩を進めた。重心の流れにボクを巻き込む。

 放とうとした【衝捶】が中断され、身体が右に投げ出された。

 シャオメイはというと、ボクが流れようとしている方向の先で腰を落として力を溜めていた。

 彼女は鋭く右足を進めた。未だ左手で掴んだままのボクの腕を引っ張りながら、右正拳を叩き込もうとした。真っ直ぐ進む勁力に、相手を引っ張った勢いも上乗せする気だ。

 

 そうはさせない。矢のような速度で迫るシャオメイの右拳を冷静に見極めてから、空いている左手でその右拳を上から押さえ込むように無力化させた。

 

 だが引っ張られた勢いだけは続き、ボクはシャオメイに抱きつくようにして胸へと飛び込んで、二人仲良くドミノ倒しのごとく倒れた。

 

 ――通常、武法は特殊な流派を除き、立ち技が主体だ。寝転がって戦える技はきわめて少ない。

 なので、シャオメイは倒れた後、ボクの手を放して立ち上がるのだと考えていた。

 

 だからこそ、シャオメイが未だにボクの右腕を離さぬままでいることに動揺した。

 

 ボクの上を取った紅家長女は、ボクの右腕をがっちり掴んだまま、真上から下へ弧を描く形で膝を振り下ろした。

 

 ボクはその膝蹴りを靴裏で受け止めた。

 

 両者の力が押し合う。シャオメイが重力と脚力を活かしてグイグイ加圧してくるのに対し、ボクは脚力のみで押し返す。――その光景は、【滄奥市(そうおうし)】の予選大会決勝戦でライライと戦った時の一部とほぼデジャヴしていた。

 

 重力という自然の力を味方に付けているシャオメイの方が有利だろう。それでもがんばって押し返す。足の【(きん)】はこれでもかってくらいに鍛えてきた。その力を活かして、またライライの時みたいに押し返してやる。

 

 だが、シャオメイの呼吸が不意に変化するのを聞いた瞬間、気力に陰りが生まれた。

 

 まるで、重たい石を天高く持ち上げる様を彷彿とさせるその呼吸音に、聞き覚えがあったからだ。マズイ、たしかこの呼吸法って――

 

「フゥッ!!」

 

 その重鈍な発声と同時に、ボクの靴裏にかかる重みが数倍に増す。まるで岩のように重たい!

 

 どうしようもない重圧に耐えつつも、ボクは記憶の辞書を引いていた。

 

 【重身術(じゅうしんじゅつ)】――特殊な呼吸法によって体幹部の【筋】を下へ伸ばし、身体を強引に重くする(・・・・・・・)技術。猿のような身軽さを手に入れる【軽身術(けいしんじゅつ)】とは対を成す存在だ。

 

 呼吸法を繰り返すたびに、重さを増やせる。これを使うと体重が一時的に倍加するので、重心移動と同時に行えば技の威力が上がる。

 

 ただし、この呼吸法をやった直前は体が硬直するので、そこが隙になるという欠点がある。だからこそレイフォン師匠も【打雷把】には組み込まなかったのだ。

 

 そんな風に一瞬、現実逃避気味に記憶を思い起こしていたが、技の正体を知っているだけではこの状況は切り抜けられない。

 

 こちらを圧潰(あっかい)せんとばかりに、自重を少しずつ増やしてくるシャオメイ。

 

 鍛え抜かれたボクの足も頑張ってるけど、それでも少しずつ押し戻されていた。……やばいな、これ以上続くともたないよ。

 

 ――仕方ない。正直この手は使いたくなかったけど、背に腹は代えられない。

 

 ボクは足に力を込めるのを忘れず、そのまま【気】を操作。

 丹田に電気的エネルギーの塊が生み出されたのを実感した瞬間、それを起爆。

 銃弾の雷管よろしく弾けた【炸丹(さくたん)】のエネルギーは、くじけそうだったボクの足に強い真っ直ぐな力を与えた。

 

 のしかかるシャオメイをいくらか上に押し返せた。しかし、まだ完全には押し出せていない。

 

 もう一度、丹田を激発させた。――かなり押し返した。

 

 三度目の【炸丹】で、ようやくシャオメイという名の巨岩を少しだが切り離せた。繋がれた手を素早く振りほどき、這うようにそこから脱出した。

 

 ドズンッ!! という重々しい落下音。殴るような風圧。

 

 シャオメイの落下地点は、頑丈そうな石敷きが粉砕され、その下にある土さえも軽く陥没させていた。果たして最終的にどれだけの重さだったのだろうか。

 

 【重身術】による副作用で、シャオメイは少しの間だけ動けない。

 

 ボクも体力と【気】を多く消費する【炸丹】を三連発したおかげで虚脱感があったため、隙を突くことは叶わなかった。

 

 客席の熱気が、いつのまにか天を衝く勢いで高まっていた。司会役も熱を込めて何やら語っているが、それさえも今のボクにとってはささいな事だった。

 

 鉛を巻きつけたみたいな気だるさを実感しつつも、ボクは改めてシャオメイの動きを振り返る。

 

 バラバラではっきりとしないが、的確に移り変わる戦法。数多くの技を知りつつも、それを持て余さず、有効な場面で有効な使い方をする機転。

 

 これが、【太極炮捶】。すべての武法を生み出した、悠久の時を生きる武法。

 

 シャオメイの【太極炮捶】は、まさしく【太極炮捶】らし過ぎた。

 

 いくら「特徴が無いのが特徴」だといっても、個人の性格などが技に反映して、どこか突出した「偏り」が現れるはずなのだ。

 その「偏り」が生まれるからこそ、【太極炮捶】は数多ある武法流派の祖となれたのだ。

 

 しかし、目の前の紅家長女の拳たるやどうであろう。

 「特徴がないのが特徴」という個性を遵守し過ぎていた。

 おそらく、「【太極炮捶】を次代に伝える」という使命感の賜物だろう。伝承者である以上、伝承されたことの範囲を超えるものを身に付けたり、教えたりしてはいけないのだから。

 

 おまけに、【鏡身功(きょうしんこう)】によって、相手の体術を取り巻く「理」を読み取り、自分のモノにできる。

 

 反則にもほどがある。

 

 普通なら心折れる。

 

 でも、ボクの口元には微笑があった。

 

 だるさを気合いで強引にねじ伏せ、ボクはシャオメイめがけて突っ込んだ。彼女もまた硬直が治ったようで、そんなボクにゆったりと身構える。

 

 シャオメイは重心の乗った右足を素早く前へ滑らせ、その動きに合わせて右掌を放つ。

 

 ボクはそれを身の捻りであさっての方向へ流しつつ、胸中に入った。

 

 すると、今度は左腕が外側から弧を描いてやってきた。ボクはその腕を真下から右足で蹴り上げる。

 

 胸部がガラ空きとなったシャオメイは、身を翻しつつ後ろへ跳躍。回し蹴りを出しながら退避することで、間合いへの接近を防ぐ。

 

 しかしボクは、そんなシャオメイへ突っ込み、跳躍した。

 

 緩い放物線を描いて、虚空を舞うシャオメイの間合いへ飛び込む。真横から回し蹴りが素早く近づく。

 

 ボクは靴裏を斜めにし、その面に回し蹴りをこすらせて軌道を斜め下へそらした。

 

 これには、流石の紅家次期当主といえど驚きを呈したようだ。

 

 そんな彼女を余所に、ボクは余剰した勢いの赴くまま間合いの奥へと吸い込まれていく。

 

 屈曲させていた足の伸びを開放。彼女の腹部へ靴裏を叩き込んだ。

 

「く……っ」

 

 眉間に濃いシワを刻みながら、シャオメイは後方へたたらを踏んだ。

 

 足を止め、こちらを真っ直ぐ睨んだ。

 

「……面白い脚法だな」

 

 ボクは片足を持ち上げつつ、声を強く張らせて言った。

 

 

 

「見せてあげるよ。【打雷把】の脚法――【縫天脚(ほうてんきゃく)】を」

 

 

 

 さあ、本当の勝負はこれからだ。

 



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それぞれの戦い②

   

 草が敷き詰められた大地の上を、風にあおられたボロ布同然に一人の少女が転がった。

 

 その少女――ミーフォンはすでに満身創痍の有様だった。

 

 服は草と汚れにまみれ、皮膚にもところどころかすり傷が見られる。

 

 しかしそれ以上に、体中が痛く、重い。

 

「ははははっ! 弱い! 弱すぎるんだよ小娘ぇ!!」

 

 勾藍軋(ゴウ・ランガー)は哄笑の混じった叫びを上げながら、転がるミーフォンめがけて鞠を蹴る要領で足を振り放ってくる。

 

 ミーフォンは両腕を交差させ、その又で蹴りを受け止めた。衝撃が背中までジィンと響いた。

 

 すでに日が垂直に達しつつある時間帯。帝都東部に生い茂る大森林『緑洞(りょくどう)』の手前に広がる草原にて、二人は戦っていた。

 

 ……否、それは「戦い」と呼んでいいのかいささか首をかしげたくなるものだった。

 

 力量差があり過ぎるのだ。

 

 「より強い相手との実戦を」と自ら望んだミーフォンだったが、やはり【黄龍賽(こうりゅうさい)】を本戦まで勝ち上がってきただけのことはある。

 

 途轍もなく強い。手も足も出ないほどに。

 

 だが、この男程度、乗り越えられずにどうする。

 

 自分の姉シャオメイは、この男を簡単に叩きのめしたのだ。コイツを倒せぬようでは、姉に一撃当てるなど逆立ちしたって不可能だ。

 

 そんな気概から、恐れず挑みはしたものの、この体たらく。

 

 最初は何度か反撃できたものの、すぐにランガーの圧倒的な速さによって怒涛の攻めを受け、身動きが取れなくなっていた。

 

 起き上がろうとした所を攻撃される、ということを何度も何度も繰り返され、まるで蹴鞠のような状態におちいっていた。

 

「あの紅梢美(ホン・シャオメイ)の妹だっていうんでいかほどのものかと警戒したが、なんてことはない! 弱い! あまりにも雑魚! 俺が予選で叩きのめした対戦相手にも劣る! こんなのが【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家だってんだから笑えるぜ!!」

 

 愉悦が混じったランガーの声。

 

「やっぱ「大流派」なんて呼ばれてるトコの門人なんざこんなもんだ!! 歴史と技の数ばっかで功力が伴ってねぇ!! 「全ての武法の母」なんて気取ってやがるくせに!! いや、テメェが特別出来が悪いのか!? どうなんだよ!? 教えてくれよ!! なぁ!!」

 

 言葉が途切れるとともに、再び新たな蹴りが加えられる。派手に転がる。

 

 転がる勢いを利用して立ち上がりたいけど、疲労の蓄積による重々しいだるさで四肢がうまく動かない。

 

 動かないと延々と鞠にさせられるだけだ。ミーフォンは気力を振り絞って四肢に力をこめ、立ち上がった。

 

 しかし、立ったのもつかの間。遠く離れていたランガーの顔が一気に視界の中で巨大化し、同時に撞木(しゅもく)()くような掌打を腹に打ち込まれた。

 

「あぅっ……!!」

 

 身体の裏側まで突き抜けそうな重く鋭い勁力に、ミーフォンはえずくような声であえいだ。再び地面を転がる鞠と化した。

 

 今いるこの場所は、小さな下草が絨毯のように生え広がっただけの大地だ。木々といった遮蔽物は全くと言ってもいいほど見当たらなかった。なので、地形を利用した戦法は使えず、純粋な技比べを強いられている。

 

 だが、この場所を選んだのはそもそもミーフォン自身。純粋な技比べを望んでここへランガーを連れてきたのだ。

 

 そうしておいてムシが良い話だが、ミーフォンは早速後悔気味だった。もう少し遮るものが多い場所を選べばよかっただろうか。そうすれば、その地形を上手く生かして、このランガーとも渡り合えたかもしれない。

 

 ――いや、やっぱりそれじゃダメだわ。

 

 自分は純粋な実力だけで、あの偉大な姉へ一矢報いたい。

 

 この戦いは、そのための修行でもあるのだ。

 

 ミーフォンはもう一度立ち上がる。すぐさま呼吸の焦点を下へ落とすように呼吸と心身を安定させ、しっかりと足を立たせた。

 

 ランガーがまたしても高速で迫る。

 

 恐れるな。自分はやれる。

 

 敵の持ち味である「速さ」を考慮して、間合いに入ってからではなく、間合いに入る直前にミーフォンは両の掌を眼前で同時に回した。右掌を反時計回りに、左掌を時計回りに。

 

 自分の間合いの前面を無駄なく満たしたその掌の動きが、残像を置き去りにして突き出されたランガーの拳に側面から絡みつく。拳は視界の端へどけられ、胴体が露わとなった。

 

 そのガラ空きの胴体めがけて、靴裏で踏んづけるように蹴ってやろうと考えた。

 

 だが次の瞬間、目の前からランガーの姿が消え失せた――と思ったのと同時に、顎へ下から硬いモノがぶつかるような鈍痛を覚えた。頭が揺さぶられる。

 

 天を仰ぐように倒れていくミーフォン。一瞬ぼやけた視界に、片膝を上へ突き出した状態で虚空を舞う敵の姿を捉えた。あの突発的な跳躍は、間違いなく【飛陽脚(ひようきゃく)】だ。真上に飛び上がりつつ、こちらの顎を膝で蹴ったのだと悟る。

 

 やわらかい草の絨毯に背を預けた。あまりに寝心地が良く、そのまままどろみに身をゆだねてしまいたくなる。

 

「あうっ……」

 

 だが、髪を上に引っ張られる痛みとともに、眠気は覚めた。

 

 強引に持ち上げられたミーフォンの顔の前に、槍のように鋭い殺気に満ちた眼光を放つランガーの顔がぬっと現れた。

 

「立てよ、売女(ばいた)。まだ終わってねぇんだよ。武法の世界に男女の扱いの差なんか存在しねぇ。一回左拳包んだらどっちかがくたばるかまで終わらねェんだ」

 

 恫喝するような声に、心胆が震えた。

 

「まぁ、ずっと惰眠(だみん)をむさぼってきた「大流派」のお嬢様じゃあ、ここまでが潮時か? 俺も鬼じゃねェからよ、一つ言う事を聞いたらこの決闘をチャラにしてやる」

 

「何を……しろってのよ?」

 

「俺の靴の裏を舐めてから股をくぐれ」

 

 それを聞いた瞬間、ミーフォンの中で何かがはじけた気がした。

 

 その弾けた何かの欠片は、全身へと染み渡り、精根尽きかけていた体に力を与えてくれた。

 

「どうだ? 悪くねェ条件だろ? ほら、さっさとしろ――ごっ!?」

 

 憤激に駆られるまま、ランガーの左頬を右拳で殴打した。

 

 小柄な娘であるミーフォンも一応は武法士だ。鍛えられた腕の【(きん)】の力は、成人した男以上である。

 

 殴られた勢いでランガーは横転する。その隙にミーフォンは体の痛みをこらえて立ち上がった。

 

「てっ……テメェッ……!! もう許さねぇぞ……!! 親切にしてりゃ付け上がりやがって……!!」

 

 ランガーは左頬を手で押さえながら、親の仇を見るみたいな目でミーフォンを睨みつけた。

 

 不思議と、その目に対して恐怖は無かった。

 

 毅然と言い放った。

 

「黙れ、この田舎者。今のが親切心だって言うんなら、あんたはよほど俗世から隔離された辺境で育ったみたいね。あまりにも世間との認識から離れすぎてるわ」

 

「んだとコラァッ!! 今度はマジ殺すぞ!!」

 

「やれるもんならやってみなさいっ!!」

 

 喝破した。

 

 ランガーが押し黙る。

 

 ミーフォンはさらに言い放つ。

 

「あたしはあんたとは違う! 全ての武法の母【太極炮捶】を生み出した(ホン)家の血を引く末裔の一人! あんたとは持って生まれたものが違うのよ! 分かったかハゲ!」

 

 これは「(おご)り」じゃない。

 倒れそうな体を支える「鼓舞」だ。

 自分は確かに未熟者かもしれない。

 けど、今にも倒れそうなこの体は、悠久の歴史が支えてくれている。

 そう思うと、不思議と勇気が湧いてくる。

 

 ――「誇り」と「驕り」は似ているようで全く違う。

 

 昔、姉のシャオメイから聞いた言葉が、脳裏によみがえる。

 

 当時まだ幼かった自分は、その言葉の意味が分からなかった。

 

 いや、きっと、ずっと分かっていなかった。

 

 ……今、この瞬間までは。

 

 本当の意味で、姉の言葉の意味を今、理解できた気がした。

 

 それだけでも、この戦いに身を投じた意味は十分にあったと思えた。

 

「いい!? 今からあたしはあんたを倒す! 凄まじい痛みに備えて、歯を食いしばっておきなさい!」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 第ニ回戦、第一試合は凄まじい盛り上がりを見せていた。

 

 長身と痩身の女拳士が、各々の技を遺憾無く発揮し、熱くしのぎを削っている。

 

 拳が、脚が、鋭く飛び交う。

 

 その戦っているうちの一人である紅梢美(ホン・シャオメイ)は、次々と絶え間なく繰り出されるシンスイの技の応酬に圧倒されていた。

 

 矢のごとく距離を詰めてくるシンスイ。それに対し、シャオメイは右腕を薙ぎ払って牽制の一手を放つ。

 

 シンスイはかがんでその腕刀の下をくぐり、速度を緩めることなくこちらの間合いの奥へ乗り込んでくる。

 

 そう避けるのは分かっていた。だからこそ深く身をかがめたシンスイめがけて右足を下から上へ振り出した。

 

 対し、シンスイは靴裏を持ち上げ、前蹴りの脛を受け止めた。

 

 防がれて間もなく、シャオメイは次の攻撃へ疾風のごとく転じた。前蹴りに出した右足へ重心を譲渡し、勁力を込めた左掌を放った。

 

 シンスイは独楽(こま)のように回転しながら左へ移動し、左掌を紙一重で避けた。さらに、回転の勢いをそのまま右回し蹴りへと利用する。

 

 シャオメイは前足に乗った重心を素早く後足へ引っ込め、その移動に上半身の動きを同調させた。シンスイの右回し蹴りがこちらの腹部の布をチッ、と擦過。

 

 遠心力に従うまま後ろを向こうとし始めたシンスイの背めがけて、再び重心移動の勢いを乗せた左掌底を走らせる。

 

 だがその掌底を、鉤爪状にして戻されたシンスイの蹴り足によって横から弾かれる。それによって強制的に胸を開かされた。

 

 胴体のど真ん中へしたたかに蹴りが叩き込まれた。

 

「くっ……」

 

 どうにか【硬気功】による防御が間に合い、痛覚はない。だが【気】の力を乱用すると体力を消耗するので、こんな防御を何度も繰り返すわけにはいかない。

 

 ――何という精密で、変幻自在の脚法か。

 

 シンスイは急に破壊力抜群な勁撃をやめ、蹴り技のみで仕掛けてくるようになったのだ。

 

 何を考えてそうしているのか、よく分からない。

 

 だが、決してヤケになったわけではなさそうだ。

 

 

 

 さっきからその蹴りに当たってばかりなのだから。

 

 

 

 非常に精密な動きをするシンスイの脚部は、器用にこちらの攻め手を払い、受け流し、こちらに隙を生み出し、そこへ的確に蹴り込んでくる。

 

 その軌道は、まるで稲妻模様を彷彿とさせた。

 

 明らかな「技」の匂い。

 

 基本的に他流派に無関心なシャオメイも、流石に聞かずにはいられなかった。

 

「……なんだ、「それ」は」

 

 するとシンスイは、次のようにうそぶいた。

 

「さっきも言ったでしょ。【縫天脚(ほうてんきゃく)】さ」

 

 今まで高威力の打撃ばかりを使っていたので、【雷帝】の伝説を含めて考え、シンスイの持ち味は高威力の打撃だけだと思っていた。

 

 ……しかし、こんな厄介な蹴り技まであったなんて。

 

 今度はシャオメイから仕掛けた。跳ねるような足さばきで一気に間を潰し、前蹴り。それを横へ動いて逃れるシンスイ。

 

 だが次の瞬間、シャオメイは軸足を跳ね上げ、蹴り上げたばかりの自分の片足へもう片方の膝を叩き込んだ。【飛陽脚】が発動し、シャオメイの重心が空高く跳ね上がった。

 

 そこからさらに重心を蹴り、今度は斜め下へ我が身を跳ばした。上空で狭い角度をつける軌道で、シンスイめがけて足裏から落下。――だが、それも避けられる。

 

 シャオメイは、シンスイが避けた方向へ鋭く足と身と掌底を進めた。

 シンスイがこちらの懐へ入りつつ避けたのを「狙い通り」と心中でつぶやく。

 一度の吐息とともに猛烈な拳打の連発を放った。【連珠砲動(れんじゅほうどう)】。

 

 雨あられの如き拳は、いくらかは防ぎ躱せても、いくらかは当たる。そう思った。

 

 しかし、その期待はすぐに裏切られた。

 

 ――当たっていない!?

 

 三つ編みの美少女は、放った一拳を側面から蹴りつけてシャオメイの体幹へ揺さぶりをかけた。それによって上半身の位置をずらし、次に放つもう片方の拳の軌道を歪ませているのだ。歪められた次の拳はシンスイがいる位置より若干ズレた位置の虚空を打っている。……それを何度も繰り返すことで、雨の如き連続拳を一発も受けずにいた。

 

 あっという間に一息吐ききった。

 

 吸う瞬間は隙となるので、迅速に退歩しつつ鼻から空気を充填し、追い討ちをかけるべく向かって来たシンスイへもう一度【連珠砲動】を試みる。

 

 ……だが、今度は二拳目以降を打つ事さえ許されなかった。

 

 放った【連珠砲動】の一拳目へ、シンスイは体を横へ向けつつ蹴りを放った。その蹴りはこちらの拳の内側を滑り、それをなぞる形で腕の根元がある中心――すなわち胴体へとぶつかった。

 

 大した威力ではなかったものの、重心の均衡を崩されたせいで技の中断は免れなかった。

 

 後ろへたたらを踏んだのはほんのわずかな時間。しかしシンスイはそのわずかな隙を突く形でもう一度胴体へ蹴りを叩き込んできた。

 

 くぐもった呻きをもらしつつ、シャオメイは後方へ飛ばされた。しかし足と地面の摩擦で勢いを殺し、持ち直す。

 

 なんたる的確さ。なんたる緻密(ちみつ)さ。

 

 【縫天脚】。その名の通り、まるで天を縫うように翔ける雷のようである。

 

 だが、それよりも、なによりも、重大な事があった。

 

 

 

 

 

 ――――盗めない。

 

 

 

 

 

 すでにこの技の動きは十分すぎるほど見ている。その術を取り巻く「理」も読めている。

 

 だというのに、【縫天脚】をいまだ我が物に出来ていない。

 

 なぜ真似できない?

 

 その答えは明白だ。

 

 

 

 この技は、技であって(・・・・・)技ではないからだ(・・・・・・・・)

 

 

 

 この精緻(せいち)な脚法は、李星穂(リー・シンスイ)という武法士が持つ、飛び抜けた足の功力(こうりき)があってこそ成り立つもの。

 

 シンスイの脚の動きの精密さは、達人を通り越し、もはや変態の領域にまで達している。

 

 【縫天脚】などという技名を称してこそいるが、これはそんな「変態的に精密な足の動き」を最大限に活かしただけの「脚による攻防」に過ぎない。

 

 ゆえに――その技は『定形(ていけい)』を持たない。

 

 シャオメイが模倣できるのは、体術が『定形』な技のみだ。相手が積み上げた功力までも真似することは出来ない。そんな怠慢を【太極炮捶】は許しはしない。

 

 シンスイがまたも追いすがり、回し蹴り。

 

 それを後ろへ飛び退いて避ける。すると、シンスイは軸足を跳躍させて再びシャオメイを足の間合いに収め、ぐるりと円周して戻ってきた回し蹴りをまたも見舞う。

 

 このまま下がり続けていては、延々と回し蹴りを見舞ってくるに違いない。

 

 そう判断したシャオメイはあえて前へ進んでシンスイの懐へ入り、比較的遠心力の弱い蹴り足の太ももを受け止める。……あの馬鹿げた脚力とは不釣合いなほど柔和で細い脚だった。

 そのまま肩口から体当たりを仕掛けようとする。

 だがシンスイは受け止められた蹴り足をシャオメイの足の隣へ降ろすと、そこへ体ごと重心を移して体当たりを躱す。さらに背後へと回り込み、こちらの背中を踏むように蹴った。

 

 前のめりに押し流されたシャオメイは、そこへ追い討ちが来ることを懸念した。回転しながら跳ね、振り向きざまに蹴りを横から横へ降り抜く。それによって、三つ編みの少女の侵攻をわずかな時間ながら妨害することに成功した。そのわずかな時間で重心の均衡(きんこう)を取り戻す。

 

 電光石火の勢いで急迫してくるシンスイ。外から内へ弧を描く形で右足を振り抜こうとするが、シャオメイはそれよりも速く懐へ詰め寄る。

 先ほどと同じく、蹴り足の付け根付近を左手で押さえることで右回し蹴りを止めつつ、今度は体当たりではなく右掌を真っ直ぐ打ち出した。

 

 が、またしてもシンスイの行動は的確かつ機敏だった。

 受け止められた右足を、元来た軌道へ戻すように迅速に引っ込めた。さらにその足に重心を移し、斜め後ろへ大きく立ち位置を退いてこちらの右掌打を避けてみせた。

 

 そこからシンスイはすぐに手前へ戻り、下から上へすくい上げるような蹴りを走らせた。

 

 シャオメイは両前腕を交差させ、その又で下からの蹴りを受け止めた。

 シンスイはすぐにこちらの両腕から蹴り足を引き、そのままこちらの胸を真っ直ぐ狙った蹴りへと変化させた。それを体の捻りで間一髪躱す。

 

 滑らかで変化多彩な蹴りの数々。

 なんてやりづらいのだろう。

 どれだけ(みつ)な攻め手を用意しても、針穴に糸を通すようにして通り抜けられ、まともに蹴りを当てられてしまう。

 回避しようにも、相手はこちらのわずかな隙さえ見抜いて蹴りこんでくるため、いずれ食らってしまう。

 

 ここまで来て、ようやく【縫天脚】という技の本質を掴んだ気がした。

 

 

 

 あれは――"必ず当たる蹴り"なのだ。

 

 

 

 そんなとんでもない脚法が、俗世にはあったのだ。

 

 自分の【太極炮捶】至上主義は、とてつもなく偏狭な考え方なのではないか。

 この主義を貫き通すことは、【太極炮捶】を再び偉大にするどころか、逆に衰亡させてしまうのではないか。そんな気持ちが湧いてくる。

 

 ……弱気の虫を起こすな。

 

 シャオメイは自身を戒める。

 

 ああ、認めよう。この国は広い。【太極炮捶】を除いても、素晴らしい武法が星の数ほどあるのだろう。百歩譲ってそこは認めよう。

 

 だが、それでも自分は【太極炮捶】を将来背負って立つ存在なのだ。たとえ他の流派が優れていようと、自門の劣等を認めるわけにはいかない。

 

 勝てるかどうか分からなくても、たとえ勝てなくとも、全力で戦い抜く。そうするべきなのだ。

 

李星穂(リー・シンスイ)……認めよう。現時点では、私ではお前に勝てるかどうか分からない。いや、もしかすると負けるかもしれない。我が門の面汚しとはいえ、武林で雷鳴のごとく名を轟かせた【雷帝】の拳。その力は伊達ではなかったというわけか……」

 

 そこまで弱々しく言ってから、シャオメイはグッと腰を落とし、左足を前にした半身の立ち方を取った。

 

 そこから先の口調からは、もう弱さの響きは消えていた。

 

「……だが、私も自分の負けや劣りを認めるわけにはいかぬ立場ゆえな。ここで白旗を掲げるわけにはいかないんだよ。だからこそ――【太極炮捶】の絶技の一つでお前にあたり、地に伏せさせてやる」

 

 絶技、と聞いてシンスイは何やら一瞬目を輝かせた気がしたが、すぐに真剣な表情の裏に隠し、呼吸を整え始めた。

 

 何となく分かる。次の手で、シンスイは全力の勁撃を出してくることが。

 何となく分かる。次の技のぶつかり合いで勝敗が決まることが。

 

 もし、万が一、この戦いで敗北したならば。

 

 その日を境に――私も少し大人になることにしよう。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 正午となる時間帯。紅蜜楓(ホン・ミーフォン)勾藍軋(ゴウ・ランガー)の戦闘はまだ続いていた。

 

「くそっ、ボロクズの分際でちょこまかとっ!」

 

 ランガーの苛立った声。

 

 ミーフォンはボロボロの有様になりつつも、懸命に、かつ賢明に戦っていた。

 

 実力差は歴然だった。普通にぶつかり合えば、もうすでにランガーの勝利は確定していた。

 

 けれど、武法とは弱い者が強くなるための「技術」だ。

 ただ単純な馬力や身体能力の高さだけが勝利の鍵であるならば、その時点で「技術」としての存在価値は皆無となる。

 

 確かに、技の威力、脚力、腕力といった基礎的な功力は、遠く及ばないかもしれない。

 

 だが、自分は【太極炮捶】の中にある多くの技術と触れ合ってきた。

 

 知っている技の数なら自分の方が上だと言える自信がある!

 

 ――よく考えてみれば、当たり前のことだったのだ。

 

 武法の技には、別に「教えられた方法通りの使い方しかしてはいけない」という決まりなど無いのだ。

 その技から、手法や歩法だけを一部抜き出し、好きなように使ってもいい。

 そう考えると、ミーフォンはあまりにも多くの回避方法、防御方法を知っていることになる。

 

 それらの蓄積が、ランガーという格上の相手に食らいつくための、ささやかな牙となっていた。

 

 姉に追いつかんとして、ついに叶わなかったミーフォン。

 けれど、そのために積み重ねたミーフォンの頑張りは、無駄ではなかったのだ。

 

「いい加減諦めろ、クソ女ぁ!」

 

 眼前に鉢合わせたランガーが、鋭い運足に合わせた拳を放つ。

 

 ――この男の動きにも、徐々に目が慣れてきた。

 

 ミーフォンは拳が自分に到達するであろう時間を冷静に予測してから、小さく体を横へズラす。

 正拳が耳の横で空を切るのと同時にランガーの胸の中へ侵入し、肘鉄を打とうとする。

 

「しゃらくせぇっ!!」

 

 それを読んでいたのであろうランガーが、重心の乗っていない方の足を蹴り上げた。

 ギリギリでその蹴りを察知したミーフォンは、全力で後ろへ退がる。蹴りは服をかすめただけで、当たらずには済んだ。

 

 けど、これで終わりじゃない。攻撃は流れるように続くのだ。

 あの振り上げられた足は、いつか地面に下ろさないといけない。

 なら、その下ろす足をどうやって再利用する?

 ――おそらく、かかと落としか、蹴り足でそのまま踏み込んで勁撃。

 

 後者だった。

 

 動作の過程が途切れて見えるほどの速度で肘を放ったランガー。――しかしその肘の先にミーフォンはすでにいなかった。

 

「ぐはっ!?」

 

 すれ違いざま、ミーフォンの膝蹴りがランガーの脇腹へ突き刺さった。

 

 意表を突かれたことによる微かな動揺を、ミーフォンは雨あられのごとき連続正拳で突いた。【連珠砲動】。一息で多くの手数を放つ。

 

 拳はランガーを的確にとらえるが、怒りで痛覚が鈍化しているのか、こちらの連続拳をもろともせずに足を進めようとしてくる。

 

 ミーフォンは【連珠砲動】を中断。最後に放った拳を開き、ランガーの片腕を掴み取る。そのまますぐに重心を真後ろへ移動させた。

 

 後ろへ流れるミーフォンに引かれ、前のめりになるランガー。

 

 足底を撃発させ、上肢に力を送り、それをさらに肘へと送る。こちらへ手前へ向かってくる力に逆らう形で肘を叩き込む。

 

 矛盾した力の激突がより強い力を生み、ランガーが倒れ臥す……と思った。

 

「っの…………小娘がァァァァ!!」

 

 だが限界を突き抜けた怒気が膨れ上がると同時に、ランガーは震脚した足を強く捻り込んだ。螺旋状の反力がランガーの全身を竜巻よろしく旋回させ、その渦中にミーフォンを巻き込んだ。

 

 力の竜巻に投げ出され、草原を転がる。受身を取ってしゃがみ姿勢になるが、膝をついた楽な体勢をとった瞬間、今まで目をそらし続けていた疲労が一気に押し寄せた。

 

 しかし、殺気を満々にめぐらせたランガーの姿を見た瞬間、疲労を危機感が上回った。

 

 一気に我が身を右へ切り、風のような速力を乗せて放たれた蹴りを間一髪で躱す。跳ね起きる。

 

 ランガーは鼻血を腕で拭い、再び向かってきた。

 

 対してミーフォンは正面から挑む。前方から飛んでくるであろう攻撃に備えて両掌を前に構えるが、こちらの間合いに入った瞬間ランガーの姿が消え、

 

「がっ!?」

 

 背中に重々しい衝撃がぶち当たった。

 

 一瞬息を詰めつつ背後を一瞥すると、ランガーが蹴り足を引っ込めている姿が見えた。そこからさらにもう一撃加えんとばかりに距離をもう一歩詰めてきた。

 

 それなら、こっちから近づいてやる――ミーフォンは前には逃げず、あえて後ろへ一歩退がった。背後へ重心を移動させる勢いで、背中による体当たりを仕掛ける腹づもりだった。相手もまたこちらへ直進してきているため、力同士がぶつかり合って威力が増すだろう。

 

 しかし、背中に全く手ごたえを感じなかった。……真上に影が差す。

 ランガーはこちらの真上に跳躍していたのだ。

 かと思えば、こちらへ向かって下弦を描く形で片脚を振った。それを横へ動いてなんとか躱す。

 

 着地する直前は、あえて狙わない。向こうもそこが隙になる事を分かっていて、なおかつそれに対する心構えをしているはずだからだ。

 

 ランガーは着地し、加速。

 

 ミーフォンも同時に加速。予備動作を一切作らず、一気に最高速度まで達する高速の正拳【霹靂(へきれき)】。

 

 ――通常、【霹靂】は他の技よりも威力が低めだ。なので決め手には不向きであり、主に速度を生かした奇襲や牽制に用いられる。

 

 しかし、ミーフォンが向かう先から、ランガーもまた手前へ直進して来ている。……これはつまり、逆方向から向かってくる力も威力に加算できるということだ。

 

 ランガーが放った雷光のごとき拳打。その拳の側面に自分の拳の側面をこすらせ、軌道をずらし、懐へ入り込み――衝突。

 

「ぐぉっ……!?」

 

 ランガーが呻いたのと、ミーフォンが拳越しに確かな手ごたえを感じたのは、まったく同時だった。

 

 今度こそ、雌雄を決するに足る一手だと思った。

 

 しかし、そう思ったことで、今まで引き締まっていた心にかすかな緩みが生じた。

 

「このっ…………クソガキがぁっ!!」

 

 その緩みを、ランガーは猛烈かつ正確に突いてきた。痛みと怒りを食いちぎったように切歯しながら、前足で踏み込む。

 爆風が起きそうなほどの重心移動に伴った虎爪手(こそうしゅ)がミーフォンの体に鋭く叩き込まれ、勁力が刺さるように伝わった。

 

 一瞬白眼を剥きそうになるが、渾身の意志力で意識を現実につなぎとめた。ミーフォンは蹴飛ばされた鞠のように後方へと弾き飛ばされ、ランガーから約5(まい)離れた位置でうつ伏せになった。

 

 腹部に受けた勁の痛々しい余韻が身体中に波及する。しかしそのねちっこい痛覚よりも、土壇場における自分の甘さへの怒りの方が強く感じられた。

 

 ――自分は、なんてせっかちで早計なのだろうか。

 

 シャオメイなら、【霹靂】が決め手になり得たとしても、決して手を抜かないだろう。きっと通用しなかった場合における対処法を何通りも考えるに違いない。

 

 それに比べて、自分は何と短気なことか。

 

 思えば、自分はこれまで「近道」ばかりを求めてきた。

 

 手っ取り早く功力をつけるための「近道」を求めていた。

 手っ取り早く名声を高めるための「近道」を求めていた。

 手っ取り早く攻め入る隙を見つけるための「近道」を求めていた。

 

 そんなもの、存在しないことくらい分かっている。けれど理屈はそう理解していても、本能が「近道」を探しているのだ。

 

 功力――すなわち修行による力の蓄積とは、積み木と同じだ。一段一段地道に積み上げていくもの。よほどの天才でもなければドカンと二、三段も積み上げられない。

 

 自分という人間はきっと、本質的には怠け者なのだろう。

 

 それでも、ミーフォンにはただ一つ、熱心に積み上げていた「積み木」があった。

 

 【臥牛一条拳(がぎゅういちじょうけん)】――【太極炮捶】における基本中の基本。

 

 幼い頃、姉のシャオメイから「他の何が出来なくてもいい。でもこれだけはちゃんとやっておくんだぞ。そうすればお前は大成するから」と笑顔で教えられた【拳套】。

 

 思えば、その教えだけはキチンと守っていた。他の何が腐っても、【臥牛一条拳】だけは大切に大切に学んだ。だからこそわかることがある。

 

 【臥牛一条拳】は、非常に合理性の高い技の結集だ。

 

 ――自分の足元に寝そべる一頭の牛を思い浮かべ、その中でのみ拳を打つ。そうすることによって、窮屈な状況下でも満足に戦えるようにする。

 

 ――さらに、その仮想の牛を縦に分割するような「直線」を思い浮かべ、その線に拳や掌の動きをなぞらせる。それによって、ぶれている勁の向きをまっすぐに整え、勁に針のような鋭さと速さを与えていく。

 

 その二つの要訣のうち、特にミーフォンが注目していたのは後者だった。

 

 打撃というのは、本人が真っ直ぐ打っているつもりでも、「力の向き」は真っ直ぐになっていないことがほとんどだ。

 

 それは、"高度な打撃法"である【勁撃】もまた同じ。まっすぐ直線軌道で勁を走らせているつもりでも、実際には直線状とはいえない歪んだ軌道になっていることが多い。

 

 

 

 「直線」こそが、速く、鋭く、強く進むための一番の「近道」。

 

 

 

 そう。「近道」なのだ。

 

 ずるがしこく横道にそれることなく、ただ真っ直ぐ進むことが――最高の「近道」なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時。

 

 場所は違えども、まったく同じ時期と時刻に。

 

 長女と三女の視界の中心に――――前へ真っ直ぐ伸びる「直線」が浮かび上がった。



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それぞれの戦い③

 

 シャオメイは、自身の鳩尾(みぞおち)の延長線上に立つシンスイへ真っ直ぐ伸びた「白い直線」を、奇妙な感慨とともに見つめていた。

 

 ――よもや、「これ」を公衆の面前で使うことになろうとはな。

 

 この「白い直線」は、シャオメイの目にしか映っていない「幻」である。

 

 しかし、ただの幻ではない。力を持った幻。

 

 

 

 この線は「近道」だ。

 

 

 

 【雷箭(らいせん)】――【太極炮捶(たいきょくほうすい)】における五つの絶招【通天五招(つうてんごしょう)】のうちの一招。

 

 高速の正拳突き【霹靂(へきれき)】よりもさらに速く、そして岩をも穿ちぬくほどに鋭い必殺の一撃。

 

 勁撃の威力は、必ずしも生み出された勁の量に比例しない。

 ほんの1両斤(りょうきん)弱ほどの重さしかない鉄塊でも、薄く、鋭利に鍛え上げれば、その重さ以上の物体を両断できる刃と化す。

 さらにそれより軽い鉄片でも、極限まで細めれば、あらゆるものに突き刺さる針と化す。

 この鉄の例は、勁にも当てはめられる。

 総量を増やすのではなく、その質を変えることで強くする。

 

 そのための修行は【臥牛一条拳(がぎゅういちじょうけん)】に含まれている。仮想の直線を拳打や掌打でなぞることで、勁を直線状に整え、鋭く変化させていくのだ。

 

 しかし、それだけでは【雷箭】は使えない。

 

 【雷箭】を使うために、もう一つ必要な要素がある。

 

 それは――修行において、常に「近道」を求める気持ち。

 

 「近道」を求める、とは言うが、それは楽して強くなる方法を探す、という意味では断じてない。

 むしろ、そういう邪道はこれ以上ないほどの「遠回り」である。

 

 【易骨(えきこつ)】によって武法に必要な肉体を作り、

 さらにその上に流派の基礎修行を重ね、

 さらにその上に基本的な技を重ね、

 さらにその上に応用を重ね、

 さらにその上に奥義を重ねる。

 その積み重ねが終わったら、今度はまた基礎修行に回帰。流派を支える基盤を徹底的に鍛え上げ、実力を底から伸ばしていく。

 

 そんなありふれた地道な積み重ねこそが、最高の「近道」なのである。

 

 「「近道」を求める気持ち」を常に持ちながら、ひたむきに武を練る。

 

 その過程で、「「近道」を求める気持ち」は、肉体に影響を与える確かな力を持った【意念法(いねんほう)】へと進化する。

 

 

 

 そうなって初めて、この「白い直線」を見ることが出来るようになる。

 

 

 

 この線は、常人には決して歩けない「近道」だ。

 この線に沿って歩けば、普通に歩くより数十倍以上の速度で移動できる。

 この線に全身の力――すなわち勁を通せば、それは雷さえ置き去りにする最速の一撃と化す。

 

 「近道」たる幻影の白線の向かう先では、シンスイが左足前の半身の構えでこちらの攻め手を待っていた。

 丹田には高密度の【気】の充足を感じる。

 おそらくは【炸丹(さくたん)】を使ってくる。

 彼女もまた、次の一撃で勝負を決める気だ。

 

 ――面白い。

 

 土壇場に追い込まれているというのに、口元には自然と笑みが浮かんでいた。

 

 異流派、しかも憎き【雷帝】の流れを汲む者であるというのに、彼女に大して嫌悪の感情はもうほとんど皆無だった。

 

 あるのは、今まで見た中で一番すさまじい勁撃への畏怖と、技一つ一つからにじみ出る修練の濃さへの敬意。

 

李星穂(リー・シンスイ)、終わらせるまえに、お前に詫びておこう。田舎拳法、などと言ったことを」

 

 シンスイは目を丸くしたかと思うと、可笑しげにクスリと笑い、

 

「いきなりどういう風の吹き回しだい?」

 

「お前の実力を認めなければならないと思ったからだ」

 

「なんか気味悪いよ。【太極炮捶】至上主義なキミが、そんな事を言うなんて」

 

「……そうかも、しれないな」

 

 シャオメイは自嘲が混じった苦笑を浮かべる。

 

 自分は今まで「【太極炮捶】こそが真の武法。他流派は取るに足らない塵芥(ちりあくた)」という考え方を疑いもしなかった。

 

 実際、この【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦まで勝ち上がってくるまでに、さほど労力のかかる試合は存在しなかった。

 

 しかし、それは【太極炮捶】が優れているからではなく、シャオメイの実力が優れていたからだ。

 

 このシンスイは、確実に自分よりも格上だ。

 

 強大な勁撃、細密な歩法――会ったことは無いが、そんな【雷帝】の持ち味を忠実に受け継いでいる。

 

 まともに戦えば、勝ち目は薄い。

 

 ならば、まともではない技法に頼る他あるまい。

 

 それに、自分をここまで窮地に追い込んでくれた相手へ、ささやかな礼をしたい。

 

 ゆえに使おう。

 

「見せてやる。我が門の絶技【通天五招】の一つ――――【雷箭】をな」

 

 刹那、シャオメイの五体は光と化した。

 

 音も無く、目にも留まらぬ速度で一直線に突き進むその姿は、空を翔ける稲光のようだった。

 

 その稲光は、突き出されたシンスイの右正拳と衝突した瞬間に再びシャオメイの姿を取り戻し、落雷のような轟音を周囲にぶちまけた。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 ――時を同じくして。

 

 妹である紅蜜楓(ホン・ミーフォン)もまた、同じ境地の技法を無意識に発動させていた。

 

 突然、視界内に現れた謎の「白い直線」。

 

 ランガーに問うても、「線だぁ? 何を言ってやがるんだオメェは? 殴られすぎて幻覚でも見てんのか?」と一蹴された。

 

 そう言われたことで、ミーフォンはこの「白い直線」を幻だと断定。

 

 幻まで見えるほど、疲労と痛みを蓄積させていたのか……いよいよもって限界が近いことを悟った。

 

 この、白絹の紐のような「白い直線」は、自分の鳩尾から真っ直ぐ前へ伸び、その延長線上に立つランガーへと突き刺さっていた。

 

 こんな幻影に教えられずとも、自分のやるべきことは決まっている。――前に進むのみ。

 

 そうして再び、足を前へ進めた。故意ではないが、その「白い直線」の軌道に乗る形で。

 

 

 

 だが次の瞬間――――遠ざかっていたランガーの姿が、いきなり至近距離にまで達したのだ。

 

 

 

 また持ち味である速さを使って一気に距離を詰められた。ミーフォンはそう危機感と焦りを覚えつつ、両前腕を揃えて突き出して胸と顔を守る。

 

 衝突。

 

 しかし、それによって大きく吹っ飛んだのはランガーの方だった。

 

 対し、自分の方はぜんぜん痛みを感じなかった。それどころか、全身の力が極限まで細まり、それが後ろから前へ透き通るような感覚を覚えて、謎の爽快感。

 

 今なお草原を勢いよく転がっているランガー。その隙に、ミーフォンは自分の立ち位置を確認する。

 

 戦慄した。

 

 さっきまでの自分の立ち位置は、はるか後ろへ置き去りとなっていた。

 そこから今の位置までに、半円状にごっそり地面をえぐられた跡が一直線に引かれていた。緑一色の大地に土色の線。

 

 先ほどとは違う意味で怖気が走る。

 今、自分はいったい何をした?

 こんな技、自分は覚えた記憶がない。知らない。

 けれど、一度見た記憶ならあった気がする。記憶の彼方に、引っかかるものを覚えていた。

 

 ランガーが、とんでもなく遠い位置で仰向けになって止まった。

 

 

 

 ――同時に、ミーフォンは思い出す。

 

 

 

 あれは確か七歳の頃。

 

 当時十四歳だったシャオメイとともに、修行で必要な薬の材料となる植物を、山の中へ採りに行っていた時のことだ。

 

 自分はシャオメイとは遠く離れた位置に立っていた。大きな声を出さないと会話が出来ないほどの遠さだった。

 

 そんな位置関係に置かれた状態で、自分は熊と鉢合わせしたのだ。

 雲を衝くかと思えるほどの巨躯。丸太を思わせる太い四肢。餓えと敵意に満ちた眼光。

 ミーフォンの五倍はあろうかという体長を誇るその大熊は、その山の主だと思われた。

 

 大熊は、ミーフォンの腰周りの倍以上の太さの右前足を上げたかと思うと、それをミーフォンめがけて袈裟がけに振った。

 

 殴られればスイカのように頭が吹っ飛ぶであろう一振りだった。武法には熊の動きを模した高威力の技が多く存在するが、これは真似したくなると思えるほどの重厚さだった。

 

 だが次の瞬間、それよりもさらに驚愕すべき現象を目にした。

 

 ミーフォンから遠く離れていたはずのシャオメイが、いきなり視界内に現れたかと思うと、こちらを横切って熊に拳で衝突したのだ。

 

 誇張なく、電光を思わせる速度だった。こちらへ来るまでにたどったであろう道のりには、半円状にえぐれた直線状の傷跡が刻まれていた。

 

 十四歳の細腕によって、熊の巨躯が紙クズ同然に飛んだ。

 

 遠距離で針葉樹にぶつかり、その幹をへし折ったところで止まった。

 

 倒れてくる木の梢を避けてから、二人は熊に恐る恐る近づいた。

 

 我こそ山の主であるとばかりに超然と立っていた熊は、ぐったりと項垂れたまま動かなくなっていた。

 

 口元からは赤黒い血が湧き出ており、シャオメイが打った胴体のど真ん中には――半球状の陥没跡がはっきりと見えた。

 

 姉の助けによって九死に一生を得たミーフォンだったが、恐怖から助かったことによる安堵から泣き出したりはしなかった。

 驚くべき出来事が連続で舞い込み、頭がいっぱいいっぱいだったからだ。

 

 結構時間が経過したところで、ミーフォンはようやく熊を一撃で死なしめたあの技法について尋ねることができた。

 

 姉は言った。――【通天五招】の一つ、【雷箭】だ、と。

 

 

 

 追憶はそこで途切れた。

 

 

 

 意識が再び現実に立ち戻る。

 

 ランガーは今なお、遠距離で仰臥(ぎょうが)したままだった。

 

 勝った…………のよね?

 

 自分は勝利した。信じられないことに。

 

 しかし一方で、新たな懸念が生まれる。

 

 ――殺してしまったのでは。

 

 あの大熊を一撃で倒すほどの技なのだ。まともに食らって立っていられるどころか、生きていられる人間がそうそういるとは思えない。

 

 左拳を包む【抱拳礼】をしておいて何をいまさら、と思うかもしれない。

 

 だが自分は、ランガーを殺したいから戦いを挑んだのではない。

 

 疲労で重たい足を引きずりながら、ランガーに近づく。

 

 ずいぶんかかって、ようやく彼の元へたどり着く。

 

 衣服の腹回りが焼け落ちたように破れ、皮膚が露出している。腹部のほぼ中心には、火傷のような打撲痕。

 

 気絶はしている。

 

 だが、息は普通にしていた。

 

 それを見て、安堵と理解が両方胸中に生まれた。

 

 自分の【雷箭】は、まだ姉のような威力には達していないようだ。

 

 けれど、【通天五招】という必殺の技法の一つを独学で覚えられたのだ。

 

 確かに、自分は成長した。

 

 が、今はそれを喜ぶよりも、やるべきことがあった。  

 

 正午の日差しの下、ミーフォンはランガーを背負って、帝都東門まで歩き出した。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 【通天五招】。

 

 名前だけなら聞いたことがあった。

 

 五〇〇種類ある【太極炮捶】の技法の中でも、桁外れの威力を誇る五つの絶技の総称。

 

 武法における「弟子」は、主に二種類に分類されている。

 ただその流派に名を置いているだけの『外門(がいもん)弟子』。

 師から才能と人格を認められ、家族に等しい師弟関係を結び、流派における秘伝などといった特別な訓練を受ける権利を持つ『内門(ないもん)弟子』。

 

 【通天五招】は、『内門弟子』にしか教えられない特殊な技法の集まりだ。

 

 いずれも強力で、一回の使用で形勢を大きく覆すほどの力があるという。

 

 始めは、あの【通天五招】を見られると思うと、胸が高鳴った。武法好きの身としてはこの上ない僥倖(ぎょうこう)に思えた。

 

 しかし、シャオメイが放った【雷箭】を【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】で受け止めた瞬間――その想像を絶する威力に仰天した。

 

 鋭い重さの塊が拳にぶつかった瞬間、その場所から背中まで針を通されたような鋭い痛みを覚えた。

 

「あぐっ……!!」

 

 腰を落として弓を引いたような【碾足衝捶】の形を崩しそうになるが、なんとか思いとどまった。

 

 ボクとシャオメイの右拳が接触し、勁と勁を拮抗させていた。

 

 苦い顔をする。まさか、【炸丹】を用いた【打雷把】の一撃と同程度の威力だなんて。

 

 【雷箭】と名乗った彼女の必殺技は、思いのほか速く、思いのほか重かった。

 

 いや、これは「重い」のとは少し違う。まるで極限まで研ぎ澄ませた針のごとく、勁力が極細で、かつ強い指向性がある。

 ホースから流れ出る水も、出口を指で摘まんで小さくすれば水圧が増す。それと同じで、勁力の「量」ではなく「質」を劇的に変えた一撃。

 

 まるで、物差しに沿って綺麗に引いた一本の直線のごとく、歪み無い勁。

 

 ――直線。

 

 その単語を聞いて、ボクは【太極炮捶】に存在する「ある拳套」を想起させた。

 

 【臥牛一条拳】――【太極炮捶】の基礎を養うための【拳套】だ。

 

 ボクの師である強雷峰(チャン・レイフォン)は、もともと【太極炮捶】の出身だ。

 なので【太極炮捶】の技術や事情にある程度通じていた。

 そんな彼から、【臥牛一条拳】の要訣とその重要性を教えられたことがある。

 

 自分の目の前に「直線」が引かれていることを意識し、そこへ勁力を沿わせる意念(イメージ)で勁撃を放つ。

 そうすることで、岩を削って針にするがごとく勁力を鋭利にしていくのだ。

 ――実用主義極まれりなレイフォン師匠でさえ、【臥牛一条拳】は「先人の英知の賜物」とこの上なく称賛していた。

 

 もしかすると、この【雷箭】は、そんな【臥牛一条拳】の技術要訣を応用した技なのかもしれない。【拳套】で極限まで細めた勁力をさらに細め、それに肉体の動きを乗せて高速移動――こんな感じの技術かもしれない。

 

 いや、ボクでも予想がつかない。あの悠久の歴史を持つ【太極炮捶】の絶技なのだ。ボクごときの浅知恵では及びもつかない技術内容が含まれているのだろう。

 

 それはそれとして――

 

「ぐおおおお……っ!!」

 

 重い!! 体がどうしようもないくらい重い!!

 

 【易骨】によって理想の配置に整えられている武法士の骨格は、骨と関節の間にゆがみが無い。

 どれほど重い荷重を手で受け止めても、それで腕や手首が折れたり、肩が外れたりすることはない。

 その重みは肩甲骨と鎖骨……背骨……骨盤……大腿骨……下腿骨……足というルートを経由して地面へと逃げていく。

 

 しかし、それを踏まえても、今の状況は決して芳しくない。

 

 【雷箭】を受け止めたことで、ボクの体力と気力は根こそぎかっさらわれた。ここで押し負けたら、もう立てないかもしれない。

 

 今でこそ両者の拳は拮抗している。が、それもいつ瓦解するか分からない。

 

 いや、今にもボクは瓦解しそうだった。威力はほぼ互角だが、「突き進む力」は【雷箭】の方が強い。

 

 このままでは間違いなく押し負ける。

 

 ――焦るな。押し合いで負けるなら、他の方法で勝つんだ。

 

 妙なプライドは捨てろ。

 【打雷把】がいくら威力重視の武法だからといって、それにこだわり過ぎるな。

 力でねじ伏せる戦法にこだわるな。不利な状況に陥ったら、水のように柔軟に戦法を変化させろ。

 

 シャオメイの拳に通った勁は、今なお強い指向性を維持して、ボクを真っ直ぐ押し込もうとしている。

 

 ――真っ直ぐ。 

 

 そのとき、天啓を得た気がした。

 

 進む力で負けるなら、相手のその進む力を逆手に取ろう。

 

 ボクはシャオメイの右拳と押し合わせている自らの右拳を、右へとずらす。それと同時に右足も右へと滑らせ、左拳を胸の前へ持ってくる。

 

 押し合っていた拳が横へずれたことで、シャオメイの右拳がするりと拮抗状態から抜け出し、あの稲妻じみた直進を再開させた。

 

 ボッ! と耳元を拳が通過する。

 同時に、胸の前に添え置いていたボクの左拳に、重々しくも鋭い衝撃がぶつかった。

 同時に、シャオメイのかすれた呻きが耳朶を打つ。

 

 シャオメイの体から強い指向性を持つ勁が失せ、空を仰ぎ見るような格好で弾かれた。

 

 ――彼女の強い推進力を、ボクは逆に利用したのだ。

 勁力による押し合いをやめ、【雷箭】の鋭い拳を避けてから、あらかじめ構えておいた左拳にシャオメイの体を衝突させる。

 ボクはその時も、肉体を上下に突っ張らせることで磐石の重心を得る【両儀勁(りょうぎけい)】を使っていた。

 つまりシャオメイは、そびえ立つ岩へ自ら体当たりしたようなものだ。その岩へ突っ込む力が強ければ強いほど、彼女自身が受ける痛みも大きいはずである。

 

 十分に効いたと思った。

 

 しかし、シャオメイは地へは倒れず、足を石敷きへ踏ん張らせて立ち姿勢を維持した。

 

 くそっ。ダメだったか。

 

 ボクが舌打ちとともに再び構えを取ろうとした瞬間、シャオメイは驚くべき一言を口にした。

 

 

 

 

 

「この試合――私の負けだ」

 

 

 

 

 

 と。

 

 途端、会場が妙なざわつき方をした。

 起き上がったのに「自分の負け」とは一体なにを言っているんだ、降参なのか……そんな言葉が蚊の群れみたいに飛び交う。

 かくいうボクも同様の気持ちだった。

 

 だが、今の一言が降参ではない事を、シャオメイは次の発言ではっきりさせた。

 

「先ほど、私は一瞬だが意識を失った。一瞬であろうと、敗北条件を満たした以上、負けを認めねばなるまい――この勝負、誰が何と言おうとお前の勝ちだ、李星穂(リー・シンスイ)

 

 くやしさ、至らなさ、さらに上をめざそうという向上心……これら全てを咀嚼(そしゃく)して味わっているかのようにシャオメイは静かに目を閉じ、自身の敗北を再度告げた。

 

 会場が数瞬静まり返る。

 

 だがその数瞬が過ぎた瞬間、割れんばかりの大喝采が爆発した。

 

『しっ……試合終了ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!! 第二回戦、第一試合を制したのは――李星穂(リー・シンスイ)選手だぁぁぁぁぁぁ!!』

 

 ここにきてようやく司会者の声と存在を再認識した。

 

 シャオメイがこちらへ近づいてくる。だがダメージが残っているのだろう、途中でよろけた。

 

 ボクから近づいて支えようとするが、彼女は手振りでそれを断ってくる。

 

「私としたことが不覚を取った……まさかあんな方法で【雷箭】を破るなど……」

 

 見ると、シャオメイは少し沈んだ表情に見えた。

 

「私はミーフォンを「面汚し」と断じたが……こんなザマでは私も妹の事を腐せんな。私は【太極炮捶】を偉大にするどころか、逆に泥を塗ってしまった。私こそが、【太極炮捶】の真の面汚し……なのかもな」

 

 自嘲気味に発された……いや、文字通りシャオメイは自嘲していた。

 

 それを聞いて、ボクは少しむっとした。あえてイヤミったらしい口調で、

 

「ミーフォンといい、キミといい……どうして(ホン)一族の人ってそんなに極端なんだろうね。あのさ、勘違いしちゃダメだよ。キミが今回負けて汚したものがあるとすれば、それは【太極炮捶】の看板じゃなくてキミ自身の名誉だ。キミの腕が未熟だから負けたんだ。だから、今のキミの言葉こそが【太極炮捶】を真に貶めてると、ボクは思うよ」

 

「しかし、私は」

 

「しかしもお菓子もコケシもない。それに、仮にキミの名誉に汚れが付いたとしても、そんなものは後でいくらでも洗い落とせる」

 

 それを聞いたシャオメイは、しばしうつむいた。

 

 だがおもむろに顔を上げると、ほんのかすかにだが――柔らかな笑みを浮かべて言った。

 

「……そうかも、しれないな。お前の言う通りだ」

 

 ――なんだ。可愛く笑えるじゃないか。

 

 やはり姉妹というべきか。シャオメイが初めて見せた純粋な笑みは、ミーフォンにどこか似ていた。

 

 だがすぐに元の鉄仮面に戻ったシャオメイ。そんな彼女を真っ直ぐ見つめ、ボクはなおも続けた。

 

「それに、ミーフォンを「面汚し」って言うのもものすごく気に入らない。あの子は最後の最後では頑張る子だ――ボクが保障する」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 勾藍軋(ゴウ・ランガー)は目を覚ました。

 

 ほんの一瞬、眠っていたような気がする。眠り始めと今まで、ほとんど間が無いように思えた。

 

 鼻につく薬の匂い、白い天井、それなりに寝心地の良い寝台に横たわる我が身。

 

 見慣れぬ部屋だった。壁と天井は白一色。硝子張りの窓からは午後の日差しが見て取れる。壁の直角の位置には棚があり、そこにはランガーもよく知る霊薬や医療具がきれいに陳列されていた。

 

 最初はおぼろげにそれらを認識していたが、あっという間に意識は覚醒し、『緑洞』の前で行っていた紅蜜楓(ホン・ミーフォン)との闘いをすぐに思い出すに至った。

 

 勢いよく体を起こした瞬間、

 

「ぐっ――――!?」

 

 体幹に、鋭い痛みが駆け抜けた。

 

 痛んだ腹部を強く押さえ、荒い呼吸を繰り返す。

 

 さらに思い出した。

 

 自分が、ミーフォンに負けた事実を。

 

 太陽の強さを見る限りでは、気を失ってから今までそれほど時間は経っていないようだった。

 

 ほぼ誇張抜きに稲妻じみた速度で急接近され、腹に常軌を逸した勁力が突き刺さった――その事をようやく知覚できたのは、意識を手放す寸前だった。

 

 明らかに普通の技ではなかった。おそらく、【太極炮捶】の秘伝に位置する技法に違いない。

 

 しかし、あんなとてつもない技を、どうして今まで隠していた?

 

 決まっている。秘伝だからだ。むやみに見せるものではないからだ。

 

 けれど、戦況不利になったので、やむを得ず使った。

 

 使えばいつでも勝てたのだ。

 

 つまりこういうわけだ――こいつなかなかやるじゃないか。じゃ、そろそろ本気出して終わらせるか。

 

 ランガーは歯噛みする。姉妹そろって、俺を馬鹿にしやがって。

 

 自分は紛れもなく本気だった。だが、あの小娘はボロボロの様相を見せつつも、本気で取り合ってはいなかった。単なる暇つぶしだったのだ。

 

「――あ、気がついたみたいね」

 

 その怒りは、この部屋の入り口から入ってきたミーフォンの姿を目にしたことで、さらに猛々しく燃え上がった。

 

「テメェッ! 舐めやがっ――!!」

 

 寝台から飛び出して掴みかかろうとしたが、全身に走った痛みがそれを許さなかった。

 

 ミーフォンは慌てた様子で駆け寄り、

 

「ああっ、ダメよ馬鹿! まだ傷が癒えてないでしょ! おとなしくしなさい!」

 

「るせぇっ!! 関係ねぇだろ!! とっとと失せやがれ!!」

 

「な、何よその言い方!? せっかく自腹切って医者に連れてきてあげたってのに!」

 

「頼んでねぇんだよアバズレ!! そもそもテメェが蒔いた種じゃねぇか!! あんな技ずっと隠して手を抜きやがって!!」

 

 止まらなくなっていた。

 

 あまりの屈辱に、涙さえ目に浮かんでいた。

 

「助けたつもりか!? ふざけんな! 完全に恥の上塗りだろうが!! 今まで手ェ抜かれてた挙句に負けて、おまけに施しまで受ける!! なぁ、お前に分かんのか!? この屈辱が!! この惨めさが!!」

 

 「大流派」は嫌いだ。

 

 流派の歴史を傘に着て武林の雲上人(うんじょうびと)のごとく振る舞い、ランガーのような無名の流派の門人をどこまでも下に見る。

 

 ランガーが強くなったのには、そういう連中の鼻っ柱を叩き折りたいという理由もあった。

 

 事実、「大流派」に所属する大勢の武法士と戦い、地を舐めさせてきた。

 

 しかし、自分が今まで戦ってきたのは、弱い連中ばかりなのかもしれない。

 自分がしてきた戦いは、ただの弱いものいじめなのかもしれない。

 自分はただ、「大流派」の連中にされてきた仕打ちをやり返すだけの、卑小な行いばかりをしてきたのかもしれない。

 

 ずっと、心のどこかでそう考えていた気がする。

 

 今回、それを明確に思い知った。

 

 ミーフォンが土壇場で見せた、あの常軌を逸した技。

 

 あれを目にし、我が身に受けたランガーは、今まで築き上げた自信を一気に削ぎ落とされた気分だった。

 

 恐るべき技だった。自分が使う【飛陽脚(ひようきゃく)】などただの曲芸にしか思えぬほどの、質実剛健な技。

 

 長い年月によって培われた、桁外れの「奥義」。こういった技が「大流派」にはあるのだ。

 

 ――自分は、本当はそれを見ることを恐れていたのかもしれない。

 

 流派の歴史の違いを思い知ってしまうから。

 

 そんな奥義を知ってしまった挙句、敗北。おまけに、今まで手を抜かれていたという始末。

 

 自分の情けなさに自決したくなる。

 

 そんな風に、泥沼の渦のごとく自己嫌悪に呑まれていた時。

 

「――手なんて抜いてないわよ」

 

 疲れたような、あきれたようなミーフォンの一言が降ってきた。

 

 思わずその姿を見上げる。

 

 ミーフォンは、治療を受けていない様子だった。だって、まだボロボロなままなのだから。

 

 ――なんでお前は治してねぇんだ。

 

「あんた強かったわ。悔しいけど、あたしより強い。あたしは常に本気で当たってたし、あのままだと確実に負けてた。今回勝ったのは、ほとんど奇跡みたいなもんよ」

 

 真顔で淡々と述べるミーフォン。

 

 嘘を言っているようには見えなかった。

 

 そう確信すると、いくつか疑問が出てくる。

 

 あの技は何なのか。今まで使わなかったのは、土壇場で身に着けたからなのか。

 

 いや、そんなことより、何より――

 

「お前は……なぜ自分より強いと分かっていた俺に挑んだ?」

 

 それが聞きたかった。

 

 対し、ミーフォンは少しの逡巡も無く答えた。

 

「いろいろ理由はあるけど、その中で一番大きいのは……強くなるため」

 

「強く……?」

 

「そう。あたしには、認められたい人がいるのよ。だから、その人に認められるくらい強くなりたかった。あんたみたいな格上とやりあうのが、そのための最高の近道だと思ったのよ」

 

 泥縄かもしれないけどね、と、擦り傷の残った顔に苦笑を浮かべるミーフォン。

 

 ――同じだ。

 

 ランガーは目の前の少女に、強い共感性を覚えた。

 

 その姿は、かつて我が流派の力と名を天下に知らしめたいと懸命に足掻き、己を鍛えることに邁進(まいしん)していた若い頃の自分に酷似していた。

 

 自分の弱さと非力さを許せず、それを乗り越えんと四苦八苦と試行錯誤を繰り返していた、昔の自分に。

 

「じゃ、あたしはそろそろ行くから。ちゃんと体を大事にね。あたしがせっかく有り金ほとんどぶち込んで治したんだから」

 

 ミーフォンは少しよろけながらも、きびすを返して立ち去ろうとした。

 

「お、おい待て。どこへ行く?」

 

 ランガーが思わずそう問うと、その小さくも大きく見える背中は、一切の迷いも気負いも無い口調で答えた。

 

「――決着をつけにいくのよ」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 試合の後にシャオメイが連れて行かれたのは、医務室であった。

 

 寝台に寝かされ、応急処置が行われた。

 

 数十分もの処置のおかげで痛みは引いたが、しばらくは安静にしているように言われた。

 

 だがシャオメイは言う事を聞かなかった。

 

 その二足は、確信をもって、ある一方向へ向かっていた。

 

 【尚武冠(しょうぶかん)】の入り口だ。

 

 おそらくミーフォンが待っている。そう分かる。

 

 その途中で、李星穂(リー・シンスイ)と再会した。彼女もまた、妹がこれから行うであろう戦いを見届けに来たのだろう。ついて来いとは言ってないが、代わりに拒みもせず同行を許した。

 

 【尚武冠】は大きな建造物だが、それを踏まえても、シャオメイは入口までの距離が妙に長く感じられた。

 

 緊張しているのか。

 なぜ緊張している?

 妹に負けるのが嫌なのか?

 それとも、本当は勝って欲しいと思っているのか。期待しているのか。

 

 ――どれも無駄な感情だ。

 

 もう自分は昔のシャオメイではない。【太極炮捶】という大流派を守ることを宿命づけられた人間だ。

 

 自分はただ、本気でミーフォンに当たるのみ。怪我がまだ残っているが、実力差を埋める丁度いい(かせ)といえよう。

 

 細い円弧状の石造りの道。そこをしばらく歩くと、やがて脇道が見えた。

 

 そこをくぐり、広大な広間に差し掛かる。外へと通じる大きな両開き扉をくぐり抜ける。

 

 薄暗い風景が一転、まばゆい光が照りつけた。すでに昼過ぎのようで、太陽が最高潮に照り付けている。

 

 そのまぶしい陽光の中にたたずむ、一人の小柄な少女。

 

 やはりミーフォンは、自分を待っていた。

 

 しかし、

 

「ちょっ……ミーフォン!? どうしたのその恰好は!?」

 

 こちらの隣を歩いていたシンスイが、ひどく驚いた様子でそう尋ねた。

 

 ミーフォンは確かにそこにいた。だが、衣服が酷く汚れていて、いたるところに土埃や草の破片が付いていた。顔にも微かなかすり傷が見られる。

 

 明らかに荒事の後といった出で立ちであった。

 

 往来する人々も、すれ違いざまに妹を注視している。

 

 何があったのだろう。自分の中で鍵をかけて閉じ込め続けていた「姉」としての感情がざわついた。

 

「へへへ……ちょっと勾藍軋(ゴウ・ランガー)に喧嘩売っちゃいまして……」

 

 ミーフォンはにへらと笑ってそう答えるが、その笑顔はとても痛ましい。

 

 シンスイは恐る恐るといったふうに、

 

「まさか……乱暴されたの?」

 

「ええ、勝ちはしましたけど、めちゃくちゃにされまして……あ、別に手籠めにされたって意味じゃありませんよ。あたしは処女です。だから安心してねお姉様」

 

 片目をつぶって茶目っ気ある笑みを浮かべるミーフォンに、シンスイは「安心できないよ……無茶しちゃ駄目デショ」と力なく突っ込む。

 

 勾藍軋(ゴウ・ランガー)と……戦った?

 

 そんな馬鹿な、なんという無茶を。

 

 自分は確かにあの男に勝った。けれどあの男はかなりの使い手だ。正直言って、ミーフォンでは荷が重い相手である。ミーフォンも、それを分かっていたはずだ。

 

 なのにミーフォンは、みずから戦いを挑んだ。

 

 ボロボロになりながらも、勝利したという。

 

 ミーフォンは相変わらずへらへらしながら、恥ずかしそうに言った。

 

「だって……姉上に一撃当てたいなら、姉上が負けた相手にさえ勝てなきゃ意味がないと思ったので」

 

 心が再び、別の意味でざわつくのを感じた。

 

 見たい、と思った。あのランガーを倒してみせたという妹の力を。

 

 最初は義務感で戦うという意識が強かった。しかし今は、自らの意思が「戦いたい」と叫んでいる。

 

 気が付くと、シャオメイの手は右拳左掌の【抱拳礼】を作っていた。

 

 それを見たミーフォンが、面くらったように目をぱちくりさせている。

 

「姉上……?」

 

「約束は約束だ。早速勝負といこう。私も先ほどの試合での怪我が癒えていないし、お前もその有様だ。条件は似たようなものだろう?」

 

「……うん。じゃあ、人のいない場所でやりましょうよ」

 

 同じく右拳を包んで返すミーフォンの言葉に、シャオメイは頷く。

 

 

 

 

 

 

「ここであたしと勾藍軋(ゴウ・ランガー)は戦ったの」

 

 そうしてミーフォンに連れてこられた場所は、帝都東側を覆う大森林『緑洞』の前に広がる草原だった。

 

 自分たち姉妹は、遠く間を作って向かい合っていた。シンスイはその中間あたりで、向かい合う姉妹の延長線上から離れて立っていた。

 

 戦いの場に連れてこられる前から、シャオメイの精神は戦士のソレに変わっていた。それを発散させたいと、ミーフォンへせかすように言った。

 

「では、構えろミーフォン」

 

「うん。でもその前に、一つ勝負方法を指定したいんだけど」

 

「……言ってみろ」

 

「この勝負――互いに放つ技は一回きりの、一本勝負にしない?」

 

 ミーフォンのその発言に、シャオメイは「何っ?」と目を見開かずにはいられなかった。

 

「な、何考えてるんだよ!? それだと、キミに与えられた機会は一回しかなくなるよ!?」

 

 自分の代わりに、シンスイが驚きと狼狽を見せた。

 

 ミーフォンはふるふるとかぶりを振り、安心させようとするような涼しい笑みを浮かべて告げた。

 

「お姉様、ぶっちゃけてしまうと、あたしもう今にもぶっ倒れそうなんです。バカスカ小技を繰り出すなんて体力的にもう無理ですから、最後の一発に……あたしの【太極炮捶】の門人としての人生を賭けようと思います」

 

「それこそ無茶だ! 手数をいっぱい出せばシャオメイに触れられるかもしれないけど、たった一回きりだなんて!」

 

「大丈夫です、お姉様」

 

 なおも涼しげに微笑むミーフォン。

 

 何かある――シャオメイは確信した。

 

 一本勝負などという暴挙に出させるだけの「秘策」が、妹にはある。

 

 それは一体いかようなものだろうか?

 

 見たい。

 

「いいだろう」

 

 シャオメイはそう了承した。

 

 何か言いたげに姉妹の顔を交互に見やるシンスイ。だが二人の固い決意を感じ取ったのか、もうどうにでもなれとばかりに大きなため息を吐いて、距離を取った。

 

 シャオメイは右足を後ろへ下げ、腰を若干落として半身に構えた。

 

 一方、ミーフォンは自然体だった。両足は揃えず両腕はぶらりと下げた、正中線丸出しの無防備な姿勢。

 

 一見すると無防備なその姿勢が、その裏側に秘められた「何か」を示唆している気がした。

 

 ――何が来ようと関係ない。平等に迎え撃つのみ。

 

 そう心を引き締めるのと、遠くにいて小さく見えていたミーフォンの姿が急に大きくなるのは、全くの同時だった。

 

 驚くのと平行に、防御を行う。

 

 なんとか腕による防御が間に合い、やってきたミーフォンの拳を側面から押すことに成功。

 

 しかし、ミーフォンの拳に込められた勁力は、まるで一本の針のごとく研ぎ澄まされており、腕だけで完全に横へ払うことは出来なかった。

 

 脇腹へわずかに当たった。

 

「がっ……!?」

 

 尋常ならざる痛覚と同時に、体が勢いよくもんどり打った。

 

 そんな最中でも、思考はめまぐるしく働いていた。

 

 今の技。

 間違いない。

 あれは――【雷箭】だ。

 

 そんな馬鹿な。ミーフォンが【通天五招】を教わったなんて聞いていない。

 

 しかし、あれは紛れも無く【雷箭】だ。――常人には決して歩くことのできない「近道」を歩くことで、稲光にも等しい速度と、細い針のごとく研ぎ澄まされた勁力を生み出す技。

 

 もしかして、【通天五招】の練習を盗み見たのか――いや、それは無いだろう。ミーフォンは流派の掟にはきちんと従っていた。そんな妹が【盗武】などあり得ない。

 

 ならば、残された可能性は一つ。

 

 独学で習得した(・・・・・・・)

 

 それこそ考えにくい。あれを独学で編み出せるとしたら、そいつはとんでもない天才だろう。ミーフォンは、そんなに才能がある方ではない。

 

 しかし一方で、ミーフォンも【太極炮捶】の門人だ。同じ流派の奥義である【通天五招】を組み立てるための基盤はできていた。

 

 まして【雷箭】は、【臥牛一条拳】から編み出された技なのだから。

 

 そこへもう一つ「キッカケ」が加われば、習得できなくもない。

 

 【雷箭】は、感覚的な「近道」を歩く技。

 

 

 

 ――「近道」という単語で、シャオメイは腑に落ちる。

 

 

 

 ミーフォンは常に「近道」を求めてきた。

 

 強くなる「近道」、名声を手に入れて威張り散らすための「近道」、シャオメイに近づくための「近道」。

 

 そして今回、ミーフォンはシャオメイに一撃当てるための実力を付ける「近道」を求めた。だからこそ、格上であるランガーに戦いを挑んだのだ。

 

 武法とは、単なる「技術」という枠組みでは収まりが付かない。生き物みたいなものだ。

 

 ゆえに、使い手の意思などで、急に形を変えてしまうことがある。

 

 ミーフォンの持つ「技術」と、ミーフォンが望む「近道」が呼応し、新たな技術を生み出したといったところか。

 

 なんという偶然。なんという幸運。なんという執念。

 

 よもや、自力で【雷箭】を得ようとは。

 

 一撃当たってしまったが、それよりも【雷箭】を身につけたことの方が何倍も衝撃的で、かつ称賛に値する。

 

 もんどり打って倒れるシャオメイ。しかし威力をいくらか緩和できたため、受け身を取る余裕はあった。回転の勢いを利用して立ち上がる。

 

 ミーフォンを見る。あの驚くべき速度で拳を放った妹は、拳を前へ突き出した姿勢を保ちながら止まっていた。先ほどいた位置から今の立ち位置を結びつけるように、半円状にえぐられた深い溝が地面に刻まれていた。

 

 妹の足がガクッと崩れ、下草の上に倒れ伏した。

 

「ミーフォン!」

 

 先に飛び出したのはシャオメイだった。妹の元へ駆け寄り、その具合を見た。

 

「あ……姉上。あたしは……大丈夫」

 

 ミーフォンは力なく微笑んだ。

 怪我の度合いから見て、すでに限界だったのだろう。それを今まで気力でごまかしていたが、自分に一撃当てられた事を確信した後、一気に安心して力が抜けたといったところか。

 

 そんな妹のもとへ、今度はシンスイがゆっくり歩み寄った。

 

 ――目の前の二人の少女を見て、シャオメイは自分の価値観が変わりゆくのを感じていた。

 

 かたや、自分を圧倒的拳力で打倒してみせた少女。

 かたや、自力で【太極炮捶】の奥義を編み出してみせた妹。

 

 世界は広いのだと、思い知る。

 

 紅家は【太極炮捶】以外を見下しがちだが、武法に貴賤など無かったのだ。流派は違えど、どれを鍛えても天下に名を残せるほどの力を得られる。

 

 目の前のシンスイが、その最たる例と言えるだろう。

 

 そんなシンスイと出会い、触発されたからこそ、あのミーフォンもここまで変われたのだ。

 

 シャオメイは感動を覚える。決して顔には出さないが。

 

 目の前の妹と、その隣のシンスイに対し、シャオメイは言った。

 

「……この勝負、お前の勝ちだ、ミーフォン。約束通り、お前を流派から叩き出す、などという発言は取り消そう」

 

「姉上……」

 

「それと……今まですまなかったな。見事だったぞ、お前の【雷箭】は」

 

 自分は今、いったいどんな顔をしているのだろう。

 

 ミーフォンの目元から大粒のしずくがぼろぼろとこぼれ出した。涙を指で掬うように拭いてやるが、止まらない。

 

「それと、李星穂(リー・シンスイ)――お前にも感謝する。ミーフォンがここまで変われたのは、きっとお前のおかげだろう」

 

「……そんなことはないさ。この子が変われたのは、ボクのおかげじゃない。この子自身の力だよ」

 

 そう言って、愛おしそうに妹の額を撫でるシンスイ。力ない照れ笑いを浮かべるミーフォン。

 

 それを見て、シャオメイの口元もほころんでくる。

 

「どうか、これからも妹のことをよろしく頼みたい。……猪突猛進という言葉を人の形にしたような女だが、好いた相手にはとことんまで尽くす愛情深さがある」

 

「え? う、うん。いいけど」

 

 なぜか、やや気まずそうにあちこち向きながら頷くシンスイ。

 

 その反応は一体? と思いつつもシャオメイは立ち上がり、踵を返す。

 

 シンスイの声が背中に当たる。

 

「もう帰っちゃうの?」

 

「そのつもりだ……と言いたいところだが、気が変わった。まだ路銀はあるし、もう少しこの帝都に残ろうと思う」

 

「なんで?」

 

「……李星穂(リー・シンスイ)、君がどこまでやれるのか見届けたいからだ。あの【雷帝】から衣鉢を継いだ君の力を、私は最後まで見てみたい。願わくば……君が最後まで勝ち残らんことを」

 

 シャオメイはそのまま歩き出した。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 しばらくしてから、ボクとミーフォンは宿へ向かって帰りはじめた。

 

 ミーフォンは動けない状態だったので、ボクがおんぶして歩いている。

 

 草原から帝都東門までの道のりを、えっちらおっちら進む。

 

「まったく、今回のミーフォンはとんでもないことばっかりしでかしたよね。何度ヒヤヒヤさせられたことか」

 

「ごめんなさいお姉さま……でも、全部丸く収まったんだからいいじゃありませんか」

 

「まあ、そうだけどさ」

 

 正直、今回のミーフォンの挑戦は、無茶の一言に尽きるものだった。

 

 圧倒的実力差のある姉に勝つべく、約一日半程度の時間で力をつけ、勝利する。

 

 あまりに無茶だ。泥縄にもほどがある。取り決めた後でも、ボクは内心では反対していた。

 

 けれど、ミーフォンの意思は岩のように固かった。なので、黙って手を貸した。

 

 ボクはミーフォンが負けた時にどうするかばかり考えていた。手を貸しておいて、彼女の勝機を感じていなかったのだ。

 

 だが、勝ってみせた。

 

 絶望的な力の差を、ミーフォンは自力で埋めてみせたのだ。

 

「何か、ご褒美をあげてもいいかもなぁ」

 

 背中にかかる控えめな重みを感じながら、そうつぶやいた。

 

 とたん、ほとんど身じろぎしなかったミーフォンの体がビクンと反応した。さっきまでとはうって変わった嬉々とした声で、

 

「な、何かくれるんですか!?」

 

「うん、ボクにできることなら」

 

「で、でしたらお姉様の腋の下を舐め――」

 

「それはヤダ」

 

「えー!? お姉様、前に「うん」ってうなずいてくれたじゃないですかー!」

 

「あ、あれはナシだよ! ボクも心ここにあらずだったんだから。ていうか、何でそこまで腋舐めたがるのっ」

 

「お姉様の腋で生成された塩を味わいたいんですぅ! きっと数百年ものの岩塩も敵わない極上の味ですぅ!」

 

 うわぁ、ドン引きだわぁ。

 

 けど、これだけ騒ぐ元気があるならいいかな。

 

「……じゃあ今夜、一緒に寝てくれませんか。お姉様のお部屋で」

 

 しぶしぶといった感じで、ミーフォンはそう妥協してきた。

 

 ボクはしばらく考えてから、

 

「んー、それくらいなら、まあ…………でも、変なことはしないでね?」

 

「…………」

 

「返事は?」

 

「はぁい」

 

 心底残念そうな返事が返ってきた。

 

 かと思えば、ボクの首元へ後ろから回された腕に、ちょっとだけ力が入った。

 

「なら、一晩中抱きしめながら寝るのは…………だめ?」

 

 ミーフォンが耳元でささやいてきた。花のように甘い吐息と、やけに色っぽい声色。

 

 ボクは若干ドキリとしつつも、冷静に考えてから、

 

「……それくらいなら」

 

 そう承認した。まあ、匂い嗅がれたり、首元にキスマークつけるくらいはされそうだけど、許容範囲内か。下着に手突っ込んできたりしたらゲンコツってことで。

 

 ミーフォンはうふふ、と嬉しそうにボクの背中にもたれかかってくる。

 

「やっぱりお姉様は優しいです。なんだかんだで、厳しくなりきれないんですもん」

 

「そうかな」

 

「そうですよ。そういうところも……大好き」

 

 きゅっと、ミーフォンの両腕の力がほんのり強まる。まるで大切な宝物を抱きしめるように。

 

「お姉様――ありがとうございます。あたしと出会ってくれて。あなたがいてくれたから、あたしはやっと前に進めたんです」

 

「……ミーフォン」

 

「あたし、お姉様にどこまでもついていきますから。たとえあなたがとんでもない大罪を犯したとしても、あたしだけは、あなたの味方でいますから」

 

 その言葉は少し大げさな気がしたが、それでもボクの心に深く染み入るのを感じた。

 

「ありがとう」

 

 それ以上の言葉は、要らないと思った。

 



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遊雲天鼓伝

 

 シャオメイ戦での疲れを一晩で癒し、その翌日。

 

 陽光に照らされた帝都の東の大通り。早朝ゆえに人通りもまだ三々五々な街中を、ボクとライライは並んで歩いていた。

 

 ボクらは他愛のない話に花を咲かせていた。

 

 内容は、主に……宮中での仕事のことだ。

 

 今日と明日の二日間お暇をいただいたライライは、気晴らしに帝都を散策したいと言った。ずっと宮廷にこもりっぱなしだったので、たまには市井の中に浸かりたいらしい。

 

 けれど、なにぶん一人では味気ないため、ボクがこうして一緒している。

 

 ちなみにミーフォンは、昨日の疲れで今も泥のように眠っている。試合をしていたボクよりも疲れている様子だった。

 

「今日はありがとう、シンスイ。あなたがいなかったら、つまらない休日を過ごすところだったわ」

 

「いいや、気にしないで」

 

「でも、いいの? 明日は試合なんでしょう?」

 

「いいのいいの。どうせ一日頑張ったところで泥縄だから。それよりさ、もっといろんな話をしてよ。宮廷に出入りできる、しかも皇族とちょくちょく関われる庶民なんて滅多にいないんだから」

 

「え、ええ、分かったわ。あのね、ルーチン様の事なんだけどね……」

 

 ライライは突然ハッと何かに気づいたような反応を見せる。

 

 どうしたの、と問おうとしたら、ライライはやや遠慮がちにヒソヒソ小さく言ってきた。

 

「その……皇族の事だから、あんまり公の場では話せないのだけど……この話は、ここだけの話にしてもらえるかしら」

 

 頷く。

 

「ルーチン様がどうしたの?」

 

「あのね、ルーチン様はね…………」

 

 某クイズ番組の司会者並みにもったいぶるライライ。その表情もまた、緊張めいたものだった。

 

 どうしたんだろうか。何か、とんでもない秘密でも目にしてしまったのだろうか?

 

 かと思えば、顔を喜色満面にして言った。

 

「すごくお可愛いのよ!」

 

「え? そ、そうなの?」

 

「うん! 寝てるときなんかは体を丸めて猫みたいだし、起きてる時はいつも私のそばにくっついて離れないし、何より、私にだけそんな態度っていうのがなんというか、その………ふふふふふ」

 

 両頬に手を当て、悶絶するみたいに体をくねらせるライライ。

 

 その様子に、ボクは若干気後れしながら、

 

「そ、そうなんだ。てっきり、毎日その巨大な胸を揉みしだかれたり吸われたりしているのかと」

 

「私も最初はそれを警戒してたんだけど、私に嫌われたくないから我慢するっておっしゃったの。だからせいぜい胸に顔うずめるくらいしかしてこないのよ。でもやっぱり我慢している感じがして……好きにさせてあげたいって何回も思ったわ。存分に甘えさせてあげたいっていう変な欲求が沸いてくるのよ。何なのかしら、この気持ちは」

 

 やや憂いを帯びた笑みでため息をつくライライ。

 

 それは母性というものでは。

 

「ライライって、将来は良いお母さんになるかもしれないね」

 

「も、もぉ、何言ってるの。まだそんな年じゃないし……こんな汗臭い女、貰ってくれるアテもないし」

 

「そうかな? ライライってかなり美人じゃん。ボクが男だったら放っておかないよ?」

 

「もー、何言ってるの、やめて。……はい! この話題はここでオシマイね」

 

 ライライは頬をほんのり赤く染めながら、ぷいっと前を向く。

 

「ところで、宮廷内の生活ってどんな感じなの?」

 

 恥ずかしがっているようなので、とりあえず話題の方向を変えた。

 

 ライライは人差し指を唇にそっと当てる。

 

「うーん、宮廷ってものすごく広くって、把握しきれないわ。私がいるのは常にあの方の隣だし、あの方もそもそも勉強とかその他のお稽古事で動く範囲が限定されているし」

 

 ルーチン様という意味を「あの方」という代名詞でぼかしつつ、そう説明してくれた。

 

 まあ、それはそうか。いくら傍仕えといったって、宮廷の全部を見れるわけではないのだ。

 

「そういえば、内廷(ないてい)には始皇帝の『尸偶(しぐう)』が飾られているって聞いた事があるんだけど、見た?」

 

 尸偶――【甜松林(てんしょうりん)】の地主であるタンイェンの屋敷の地下室に飾られていた大量の死体人形を連想させて、若干気持ち悪さを催す。

 

「いいえ、見ていないわ。そもそも始皇帝の尸偶は、地上ではなく地下にあるらしいのよ。その地下室は有事の際に皇族たちが逃げ込む避難場所の役目もあるらしくて、私のような端女(はしため)では入り口を見ることさえ叶わないわ。……まあ、噂では玉座の下に入り口があるらしいけど、それ以外にもいろんな説があって、流言飛語の域を出ないわね」

 

 残念。いったい始皇帝がどんな人だったのか、ご尊顔を間接的に拝んでみたかったのに。

 

「そういえば、内廷ではよく宮廷護衛隊の制服を着た人とすれ違ったわね」

 

「そりゃあ、宮廷を守る人なんだから、いっぱいいるさ」

 

「そうね。その中でえっと、(ペイ)さんやら(グォ)さんやらとも時々鉢合わせたわ」

 

 (ペイ)さんというのが護衛隊副隊長のリーエンさん、(グォ)さんというのが隊長のジンクンさんだ。

 

「何か話しするの?」

 

「いいえ。一言挨拶するくらい。でも、間近で立たれると存在感がすごいのよ。剣呑ってわけではないけど、なんというか、気を緩めたら途端にその存在感に呑まれて消えちゃいそうな感じがして……ああ、これが護衛隊の二強なのね、って思った。皇族の命を奪いに来る輩は今はかなり少ないけど、奪いに来る連中は正直言って自殺志願者としか思えないわね」

 

 遠まわしに「敵に回したくない」と表現するライライ。

 

 しかしまあ、それはボクもおおむね同感だ。

 

 ボクは帝都へ来て間もない頃、ジンクンさんと一戦交えた。その末に引き分けにこそなりはしたが、彼の持つ功力には圧倒されていた。きっと、それでも彼はまだ手加減している。本気でかかられたら、危ないかもしれない。

 

 さすがは護衛隊の長だと褒めちぎりたいところだ。

 

「まあ、私が話せることといったらこれくらいね…………ああ、そういえばもう一つ、妙な話を耳にしたわ。宮廷内を往来する文官の方々が、時々話題にしていた話」

 

「何?」

 

「近頃、砂糖を大量に帝都へ運んでいる人たちがいるって話よ」

 

 彼女の言葉に、ボクは小首をかしげた。

 

「それのどこが妙な話なの?」

 

「おかしいのよ。今年は南方では砂糖の原料となる作物は不作で、砂糖は今相場が上がっているのよ。なのにとんでもない量の砂糖が、帝都に運ばれてきた。文官の人たちは口を揃えて「資金洗浄では?」って言ってる」

 

 資金洗浄――いわゆるマネーロンダリングというやつだ。あくどい事して得たお金を別の何かに変換して、それをさらにお金に戻すことで、その「あくどい出所」を隠す。

 

「というか、文官はもう独自に調査をすすめているみたい。でも話を聞く限りじゃ、尻尾をつかめていないみたいよ」

 

「ふーん……」

 

 まあいいか。お金の問題で、ボクら武法士に出来ることなど何もないだろう。彼らにまかせよう。

 

「ところでシンスイ、私も聞きたいことがいくつかあるのだけど」

 

「いいよ、何でも聞いて」

 

「まず一つ目なんだけど、昨日シンスイが対戦した相手って、ミーフォンのお姉さんだって聞いたんだけど」

 

「うん、そうだよ。シャオメイっていうんだ。まだこの帝都にいるみたいだから、暇があったら会いに行ってみたら?」

 

「そうね。いいかもね。あともう一つ聞きたいことがあるのだけど……いいかしら?」

 

「何?」

 

「明日戦う相手――姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)には勝てそう?」

 

 その質問を聞いた瞬間、緩んでいたボクの心がキュッと引き締まるのを感じた。

 

「……正直のところ、分からない。なにせ、相手は前【黄龍賽(こうりゅうさい)】優勝者だから、決して侮っていい相手ではない。それに……」

 

「それに?」

 

 同じように相槌を打つライライ。

 

 ボクは昨日に見た試合のことを思い出しながら、畏怖の気持ちを抱きつつ言った。

 

「彼女は試合が始まってから、一歩も動かずに勝ってみせたんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い出すのは、昨日の第二回戦。

 

 からくもシャオメイに勝利したミーフォンを部屋へ寝かしつけた後、ボクは再び【尚武冠(しょうぶかん)】に戻ったのだ。

 

 戻ると、ちょうど次の試合の真っ最中だった。

 

 一方は、いかにも質実剛健といった巨躯を誇る、坊主頭の武法士。

 もう一方は、ウサギみたいにモフモフした白髪頭の少女、姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)

 

 坊主頭の武法士は、その巨躯に不釣り合いなほどの敏捷性でトゥーフェイに近寄り、重さがよく乗った掌打で打ちかかった。

 

 当たれば、栄養不足っぽいトゥーフェイの痩身は、綿毛のように軽々と吹っ飛ぶはずだった。

 

 しかし、綿毛のように飛んだのは坊主頭の方だった。

 掌打が白髪の少女の胴体に触れた瞬間、跳ね返されたのだ。

 ゴロゴロと転がる坊主頭。対し、トゥーフェイは痛がる素振りを一切見せていなかった。それどころか、あくびしながら今にも寝てしまいそうにうつらうつらしていた。

 

 その態度に腹を立てたのであろう坊主頭は、頭全体を真っ赤にして再び勁撃を加えた。

 しかし、またも跳ね返った。

 さらにまた打つが、結果は同じだった。

 

 拳、掌、肘、各種蹴り技。エトセトラ。

 

 坊主頭はとにかくあらゆる方法で勁を叩き込んだ。けれど、いずれも跳ね返されるという結果のみに終始した。

 

 トゥーフェイはもはや眠ってすらいた。

 

 その異常な光景にボクは唖然としていた。

 

 近くにいた観客に聞くと、つまらなそうに言った。

 

 ……トゥーフェイは試合開始から、一歩もあの位置から動いていないということを。

 

 やがて、度重なる勁撃の連発によって坊主頭は体力を徹底的に使い果たし、降参した。

 

 トゥーフェイの勝利。

 

 こうして、ボクが準決勝で戦う相手が、あの白髪の少女と決まった。

 

 

 

 ――【天下無踪(てんかむそう)】。

 一歩も足跡を作ることなく天下を取った白髪の少女。

 その伝説の片鱗を目の当たりにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクの話を静かに聞いていたライライは、話が進むにつれて顔に驚きを広げていった。

 

「噂には聞いていたけれど……凄いのね」

 

 うん、と頷いてから、ボクはトゥーフェイの使っている武法の名を思い起こす。

 

「【空霊把(くうれいは)】……見るのは初めてだけど、聞いてた以上に厄介な武法だったな」

 

「私は名前くらいしか聞いたことがないけれど、シンスイ、何か知ってるの?」

 

「ボクもそんなに知らないんだ。【空霊把】のことを記載してる文献が少なくて、しかも書いてあったとしてもほんのちょっとの情報だけ。でも、その「ほんのちょっと」なら知ってるよ」

 

 ボクはわずかな知識のカケラをつなぎ合わせ、それを頭の中でまとめてから口にした。

 

「知ってるのは主に二つだけ。――まず一つ目は「力を自在に操る」武法であるということ」

 

「力を操る? その「力」っていうのは、勁のことかしら」

 

「勁でもあるし、ただの力のことでもある。【空霊把】は特殊な意識操作と呼吸法を用いて、力や勁の形や向きを自在に操ることができるんだ。例えばさライライ、どうして剣って人を斬れるか知ってる?」

 

「刃があるから、でしょう?」

 

「そうだね。でもその刃っていうのは、図形的な見方に変えると何だと思う?」

 

「そうねぇ、うーん……ものすごく細い線、かしら?」

 

 正解だ、とボクは彼女を指差した。

 

「刃っていうのは、その極細の線に力を乗せて対象にぶつけることで、初めてその対象を真っ二つにできるんだよ。つまり「斬る」っていう行為は、見方を変えれば「極細の面積で殴る」っていう行為ともいえるんだよ」

 

 ようやく合点がいったであろうライライが、目をしばたたかせた。

 

「【空霊把】は、力の持つ「形」を自在に変えられる。それを利用すれば、生み出した勁を極細の線として拳から発することで「斬撃」に変えたり、勁を指先よりもはるかに小さな一点に凝縮させて「刺突」もできる。さらに、変化させられるのは自分で生み出した力だけじゃない。――相手から受けた力も操れる」

 

「じゃあ、トゥーフェイが相手の攻撃をはね返せたのって……!」

 

「相手から受けた衝撃を地面に逃がし、それによって地面から跳ね返ってきた反力をそのまま相手に返したんだよ」

 

 信じられない、とか細く呟くライライ。

 

 だが、これは実際にボクの目の前で起きた現実だ。

 

 これこそが、【天下無踪】といわしめたトゥーフェイの技の正体。

 

「まだもう一つ、知ってることがあるんじゃないかしら」

 

 ライライが気を取り直して、そう話を促してきた。

 

「そうだったね。【空霊把】についてボクが知るもう一つの情報は――習得できる人間がとても限られていること」

 

「限られてる?誰でも覚えられるものではないの?」

 

「うん。なんでも、【剣骨(けんこつ)】っていう特殊な骨格を生まれつき持っていることが必須条件なんだって。どういう骨なのかは分からないけど、これを持っている人は一万人に一人の割合らしいよ」

 

 【空霊把】は確かに強力な武法だが、俗世で出回っている情報量は少ない。

 

 その最たる理由は、使える者、習得可能な者がほとんどいないからだ。

 

 しかし【剣骨】を持つ者には、同じく【剣骨】を持つ人間が本能のようなもので分かるらしい。だからこそ【空霊把】は細々とながら伝承を守ってこれたのだ。

 

「だとすれば、まさしく天恵を持っているのね。その姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)は」

 

「だね。……あ、それとね、トゥーフェイの試合を見ているうちに気づいたことがもう一つあるんだ」

 

「何? まだ何か使えるの? 彼女は」

 

 ライライが顔をしかめる。ただでさえ【空霊把】という強力な武法を身につけているというのに、これ以上何か特異な能力があったらボクの勝ち目がさらに薄くなる……そう考えているんだろう。心配してくれているのだ。嬉しい。

 

 けれど、そうではない。これから口にする「もう一つ」は、もっとエモーショナルな事だ。

 

 ボクはふるふるとかぶりを振り、その先を告げる。

 

「――トゥーフェイの試合の時、観客がひどくつまらなそうだったんだ。ううん、試合だけじゃない、本戦の開会式でやった選手紹介でトゥーフェイの番になった途端、歓声が低くなったんだ」

 

 ライライは下を向いて黙考し、やがてハッと顔を上げて言った。

 

「もしかして、トゥーフェイがただ立ったまま勝つから?」

 

「そうだよ。相手は必死で動くけど、トゥーフェイは動かない。相手は勝手に負けてくれる。こんな試合を面白いと思える観客がいると思うかい?」

 

 ふるふると首を横へ振るライライ。

 

「けど、やっぱりトゥーフェイはそのことに対してもどこ吹く風って感じだった。ということは、彼女にとって大事なのは、大会で優勝することじゃなくて、それによって得られる付加価値ってことになる」

 

「それって、流派の名を上げることかしら?」

 

「いや、あのやる気の無さを見る限りでは、そうは思えない。もしかすると、優勝賞金が目当てなのかもしれない」

 

 【黄龍賽】に優勝すると、莫大な額の賞金が出る。実際に、それを目当てに集まる武法士も数多い。

 

 この国は財政難なはずなのに、なんでそんな莫大なお金を用意するのか――それは、【黄龍賽】という催しによる経済効果から得られるお金の方が倍くらい多いからだ。 

 

 ボクはしょっちゅう命のかかった戦いに巻き込まれているが、本来、この泰平の世で、武法を使った戦いなんてそう見れるものではない。だからみんなはそれが見たい。だから【黄龍賽】に客が集まる。お金も集まる。

 

 話を戻そう。

 

 つまりだ。【黄龍賽】の選手は、自流の名を上げるために出場するわけではない。お金目当てで参加する者もいるということだ。

 

 そんな風に話をしながら歩いていた時だった。

 

「ん?」

 

 ボクは一歩踏み出そうとしたが、踏み出す先に何かが落ちていることを感じ取ったため、虚空で足を止めた。

 

 見ると、そこには一冊の白い本が落ちていた。

 

 「遊雲天鼓伝 第十七集」と黒く走り書きされているだけの、シンプルな表紙だ。

 

 あれ、この題名、どこかで見覚えが……。

 

 拾い上げ、ぱらぱらとページをめくって確認する。ざっと見たところ、小説のようだった。

 

 書かれている文字はどれも手書きだ。活版印刷で刷られた文字ではない。

 

「シ……シンスイ…………そ、そ、そ、そ、それそれ、それれ、そそそそれれれ――」

 

 ふと、ライライの震えた声が耳に入った。

 

 振り向くと、女の子がしてはいけないような衝撃的表情を浮かべてこちらを――より正確には、ボクが持っている本を――血眼で凝視していた。

 

「ら、らいらい?」

 

「か、かか、かかかかかしかし貸してシシシンシンスイ。そ、そそそっそれ」

 

「え、ああ、うん」

 

 DJスクラッチみたいにブレた声を出すライライに当惑しながらも、本を差し出す。

 

 ひったくるように受け取ると、顔を間近に近づけながらぱらぱらと高速で読んでいく。

 

 十秒くらいしてから本を顔から離す。その顔は、恐ろしいくらいに興奮気味だった。

 

「間違いないわ、コレ…………『遊雲天鼓伝(ゆううんてんこでん)』の最新刊だわ! まだ発売されていないはずの!」

 

「『遊雲天鼓伝』って確か、ライライが好きな読みものだったっけ。でも……発売されていないものがこんなところに転がってるかなぁ」

 

 きっと誰かが勝手に書いた二次創作だ、というニュアンスを受け取ったであろうライライが、ふるふるとかぶりを振った。

 

「いいえ、この文体、間違いなく『月里(ユエリィ)』先生のものだわ。手書きで書かれているところを見ると……これは印刷する前の原本だわ」

 

「だとすると、ますます落ちてる意味が分からないよ。その原本って、作品を印刷して出版する権利を持った出版商会が持ってるべきものなはずだろう?」

 

「もしかすると……落としたのかも」

 

 ライライがそう推論を出すのと同時に、ボクは本の裏表紙に赤く丸い紋章が捺(お)されているのを見つけた。

 

 足に本を掴んで飛ぶ鳥の意匠。

 

 ボクはそれと同じ看板を見たことがある。

 

「それ、『落智書院(らくちしょいん)』の紋章じゃないかな?」

 

「え? ……あら、本当ね」

 

 『遊雲天鼓伝』を出版しているのは『落智書院』という出版商会――出版社のようなものだと考えてよい――である。

 

 その紋章があるということは、二次創作である可能性は限りなくゼロである。

 

「ということは、落としたもの、なのカナ」

 

 そうボクが結論付けると、ライライは笑みを輝かせて間近まで顔を近づけてきた。甘い吐息がかかる。

 

「シンスイシンスイシンスイ! 行きましょう! この原本を届けて差し上げましょうよ! 愛読者として、この事態を見過ごすわけにはいかないわ!」

 

「いや、でも……どこに届ければいいのかな」

 

「『落智書院』の本店まで行けばいいのよ! あそこは最大規模の店であると同時に、出版について細かい取り決めをしたりする頭脳的な役割も持っているの! 作家さんはそこに原本を届けて、商会の人と作品について話し合うのよ! だからそこへ届ければいいの! 大丈夫、本店はこの帝都の中にあるから、人に聞きながら行けば分かるわ!」

 

「あ、はい、ソウデスカ」

 

 息もつかせぬマシンガントークにたじたじになりながらも、ボクは相槌を打つ。

 

「なら行きましょう! すぐ行きましょう! すぐ! これは千載一遇の好機だわ! ずっと謎に包まれていた覆面作家『月里(ユエリィ)』先生のご尊顔を拝めるかもしれないもの! いえ、もし運がさらに良ければ、花押(かおう)を一筆いただけるかも……!」

 

 それが目的か。ちなみに花押とはサインのことである。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな風に張り切るライライに引っ張られるようにして『落智書院』本店を探し始めたボクたち二人。

 

 この帝都の、いや、この煌国における最大規模の書房であったため、探しだすのにさほど苦労はせずにすんだ。

 

 昼前には、目的の建物の前へと到着していた。

 

「へぇー、結構大きいねぇー」

 

 ボクは感嘆の声をもらしながら、眼前にそびえるその建物を見上げた。

 

 横に広いその四階建ての建物の最上部にかぶさっているのは、赤褐色の瓦でうろこみたいに覆われた三角屋根。その屋根の四隅の先端には、小さな鳥の彫刻が飾りつけられている。

 

 現在は開放状態である入り口の両開き扉は、光沢が強い朱塗り。瓦の張られた軒の上には、本を足に掴んだ鳥の紋章を描いた『落智書院』の丸い扁額がついている。その紋章の上部分の空白に「落智書院 本店」と書かれている。

 

 その堂々たる威容から察するに、以前見た『落智書院』の書房は支店の一つに過ぎないとすぐに判断がつく。

 

「私も見るのは初めてだわ……すごいわね」

 

 ライライもぼんやりした口調でそう同意する。

 

 こうして二人仲良く棒立ちして眺めている間にも、開放された両開き扉から数多くの客が呑まれ、吐き出されていく。

 

 さて、ここへ来たのはいい。

 

 問題はここから先だ。

 

「この原本のこと、だれに相談すればいいんだろう?」

 

 ボクのその発言にライライはおとがいに手を当てて思案顔で、

 

「そうね……店の人なら、誰でもいいんじゃないかしら。そこから書房の上の立場の人へ通じていけば」

 

「まあ、やっぱりそれが一番のやり方か」

 

 ボクはそう賛成を示し、ライライとともに店先へ歩き出した。

 

 そのときだった。

 

「あう」

 

 横からぶつかってきた誰かが、気の抜けた呻きをもらす。ハスキーっぽい、女の子の声だった。

 

「ああ、ごめんなさ…………」 

 

 軽く一瞥しながら謝ろうとしたが、そのぶつかってきた人の顔を見た瞬間、言葉を失った。

 

 やや丈が余る服装に通された、枝のように細く不健康そうな肢体。ウサギの毛みたいに白くふんわりした髪。とろんと眠そうに細められた眼差し。

 

 見間違えようはずがない。

 

「君は――姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)?」

 

 前【黄龍賽】優勝者にして、明日の準決勝でボクが戦う相手に他ならなかった。

 

 自分の名を呼ばれたことで、彼女の眠そうなまぶたもピクリと動いた。見上げ、こちらと目を合わせた。 

「……あなたは」

 

「えっと、こんにちは、トゥーフェイ。こうして直接話すのは初めてだったよね」

 

「誰だっけ」

 

 ずごーっ、と漫画みたいに転げそうになった。

 

「つ、次の対戦相手の名前くらい覚えておこうね!? ボクは李星(リー・シン)――」

 

「要らない」

 

「は?」

 

「だって、また立って寝てる間に勝つ。だから相手の名前、覚える必要、ない」

 

 ハスキー声で口にしてきたその台詞に、ボクはとてつもない挑発の匂いを感じた。

 

「や、やってみないとわからないだろそんなの!?」

 

 そうムキになってまくしたてたが、トゥーフェイはうつむいたまま無反応。

 

「ちょっと、聞いてるの!?」

 

 なんでこんなにムキになっているのか自分でも不思議に思いながらも、ボクはしゃがみこんで白髪の少女の顔を覗き込むが、

 

「……すーぅ、すーぅ、すーぅ」

 

 ――寝ている。

 

「って、こんなところで寝るなぁ――!!」

 

「ふぁ」

 

 ボクの叫びにぴくんと反応し、顔を上げるトゥーフェイ。口端からだらだら垂れるよだれを拭こうともしないまま、

 

「……そうだ、今は一大事。このまま寝たら、わたしの、引きこもり生活の基盤が、崩れかねない」

 

「よくわかんないけど、まずはよだれを拭きたまえ」

 

 トゥーフェイはボクの指摘通りに袖で唾液を拭くと、「よっこらせっ、と」と心底かったるそうに立ち上がった。なんかおばさんくさい。

 

「探さないと……アレがないと……面倒くさい……ことになる……でも、今も、十分、めんど、くさい……」

 

 かと思えば、ぶつぶつと独り言を口にしながら、ゾンビのようにのろのろ歩き始めた。どう見ても、必死に何かを探しているとは思えない歩き方だ。

 

「「アレ」って、何のことだい?」

 

 ボクがそうたずねると、トゥーフェイは不思議そうにこちらを見ながら、

 

「……あれ、あなた、まだいたの」

 

「いたよ!!」

 

 もうヤダ! なんなのこの子!?

 

 常軌を逸したマイペースぶりに辟易していたときだった。

 

 ずっと眠たげに細められていたトゥーフェイの瞳が、かすかに見開かれた。

 

 その視線の向かう先は、ライライだった。

 

 いや、より正確には、ライライが持っている『遊雲天鼓伝』の原本だ。

 

 トゥーフェイは老人のように緩慢な動きでそれを指差す。

 

「それ……わたしの。返して」

 

「え?」

 

 ライライは手の内にある原本と、トゥーフェイの顔を交互に見る。

 

 しばらくそうしてから、悟ったような表情になる。

 

 そこからさらに、歓喜いっぱいに笑みを膨らませていき、

 

「ま、まさか! まさかまさか!! まさかあなたがあの『(ユエ)――――」

 

 (リィ)』先生、と言い切る前にトゥーフェイが素早くライライの口をふさいだ。

 

「……禁句」

 

 いつもの気だるげな、けれど少し非難のニュアンスがこもった声で、トゥーフェイがたしなめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら、ライライの夢は叶ったらしい。

 

 偉大なる『月里(ユエリィ)』大先生の光臨である。

 



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天才肌な少女

 

 真っ暗で何も見えない。

 

 目に墨汁をかけたみたいな暗闇が、ボクの視界を一片残さず覆い尽くしていた。

 

 しかし、今は絶賛昼下がりの時間帯だ。普通ならこんな暗闇はありえない。巨大隕石が落ちた後は、衝突の勢いで巻き上がった大量のチリが太陽光をさえぎるため、昼間でも暗いらしいが。

 

 この闇は、ボクの目にぐるりと巻かれた布がもたらしているものだ。

 

 前後不覚となったボクは前に右手を出し、誰かの手を掴んでいる。その手はひたすら前へ前へとボクを引っ張っている。その引っ張る力に逆らうことなくボクは進んでいた。

 

 さらに後ろへ差し出されたボクの左手は、同じように目元に布帯を巻いて視界を封じられたライライの右手を掴んでいるはずだ。その手は本人の興奮を表しているかのように汗ばんでいた。ぬるぬるする。

 

 ボクの右手を引っ張っているトゥーフェイに、困惑しながら尋ねた。

 

「ねぇ、まだ着かないのかい?」

 

「あと少し」

 

 気の抜けたハスキーボイスが簡潔に答える。

 

 ボクら三人は今、トゥーフェイを先頭にして電車のように連結して進んでいた。

 

 トゥーフェイが、あの超人気覆面作家『月里(ユエリィ)』であるという衝撃的事実が明らかになってから、すでに数十分が経っていた。

 

 彼女は『落智書院(らくちしょいん)』本店へ、書きあがった新刊の原本を届けにいく途中だったらしいが、途中で原本を落としてしまい、それをずっと探し回っていたらしい。

 

 原本を拾ってくれたボクらに感謝を示すと「お礼に、わたしの隠れ家でもてなして、あげる」と寝ぼけ眼で提案してきた。

 

 ボクはこの提案に素直に乗るべきか迷ったが、『月里(ユエリィ)』の大ファンであるというライライはすでに行く気満々だったので、仕方なくそれに乗っかることにした。

 

 トゥーフェイは原本を『落智書院』に渡して戻ってくるや、ボクとライライに一条の黒帯を手渡し、コレを目に巻いて視界を隠せと言ってきた。

 

 なんでも、トゥーフェイは覆面作家で通しているため、自宅の情報も隠しているらしい。曰く「家の場所が割れるとめんどくさいことになる」。

 

 だからボクらの目を隠しながら、こうして自宅まで引っ張っているのだ。

 

 黒一色な視界の中、右手にかかる引力に導かれるまま進む。

 

 しばらくして、ようやく立ち止まった。扉が開く音。

 

 周囲の匂いが変わる。お日様の匂いから、紙と墨汁と木の匂いに変わる。

 

「もう大丈夫。はずして」

 

 トゥーフェイにそう言われるや、ボクは目隠しを取った。数分ぶりの外の世界が視界に広がる。

 

 後ろには扉。前には右へ曲がり角が続いた直角の廊下。

 

 廊下の直角軌道をなぞるように進むと、またしても扉。

 

 そこを開いて中へ入ると、紙と墨汁の匂いが強まった。

 

 その部屋には、あらゆる要素が密集しすぎていた。

 

 正方形の空間のど真ん中には、寝台がぽつんと置かれている。最初にそれを見て寝室かと思ったが、周囲の情景がその決め付けを許さなかった。

 

 壁際には、うっすらと汚れた机、図鑑や歴史書といった資料が並んだ本棚、墨汁や紙束が大量に置かれた棚、一段一段に入っているモノの名前が書かれた引き出し棚……いろんなものが密集していた。この一部屋だけで、食事も睡眠も仕事もすべてこなせてしまうだろう。

 

 壁の上部には、力強くも繊細な筆遣いで描かれた絵が、ストーカーの部屋よろしくびっしり張られていた。

 

「ようこそ。ここが、わたしの寝室兼食堂兼仕事部屋」

 

 「兼」が多い部屋である。

 

「その寝台に座って。何か持ってくる」

 

 言うとおりにボクは寝台の端っこに座った。

 

 ライライもその大きなお尻を恐る恐る寝台の端に置きながら、興奮で息を荒げさせていた。

 

「シ、シンスイ……! きちゃった、私たちとうとう来ちゃったわ……!」

 

 目を見開き、顔を火照らせ、額には汗びっしりで息も荒い。なんかちょっとエロい。

 

「み、見てあれ! 『果剣売侠(かけんばいきょう)』の一頁よ! 主人公と恋人が生き別れる場面!」

 

 ライライの指に導かれるまま、壁の上部に貼られた絵の一枚を見る。

 

 それは、「連環画」の一ページだった。

 

 ちなみに地球の中華圏にある「連環画」とは、絵の下に文章が書かれた絵本のようなものだ。けれど、異世界にあるこの国の連環画はまるっきりマンガであった。

 

「あ、あれは主人公が秘伝の剣法を授かる場面! やだっ、あれは!」

 

 ライライはさっきから興奮冷めやらぬ様子。いつもの落ち着いた大人っぽい印象からは百八十度変わっていた。

 

「すごい……すごいわぁ……!! ぜんぶ銅版画じゃない、手書きの絵よ!! 破壊力が違うわ!!」

 

「あ、はい、そうですね」

 

 気後れしながらも、そう返事を返す。

 

 しばらくして、トゥーフェイがお菓子の乗った皿を持って戻ってくる。

 

「お待たせ」

 

「あ、はい、どうも」

 

 ボクはそれを受け取る。

 

「えっと……トゥーフェイ、どこで食べたらいい?」

 

「その寝台でいい」

 

「いや、でも」

 

「この部屋はもともと、来客の存在を想定していない……だから、そこしかない」

 

「そういうことなら……遠慮なく」

 

 ボクはライライとの間に皿を置く。トゥーフェイは仕事机の椅子を引っ張り出してそこへかったるそうに腰をおろした。

 

 不意に、ライライがもじもじしながら、

 

「あ、あの、あの、あの、あのあのあのあの……ゆえりぃ、せんせい」

 

「ん?」

 

「その、えっと、えっと……まことに、図々しいお願いだとは思うのですが……」

 

 ライライはしばらくためらってから、思い切って口にした。

 

「か……花押(かおう)をお願いできますかっ!?」

 

「いいよ」

 

「ほ、本当ですかぁぁぁぁ!?」

 

「ちょっと待ってて」

 

 よっこらせ、とババ臭く立ち上がると、近くの棚から厚紙を一枚引っ張り出し、机に持ってきて筆をさらさらさらりと滑らかに走らせた。

 

 花押(サイン)が書かれた厚紙を、ライライへ差し出した。

 

「はい」

 

「あ、ありがとうございましゅぅぅぅぅ!!」

 

 厚紙を眺め、絶頂でもせんばかりの喜びを見せるライライ。

 

「わたし……愛読者は大事にする主義。あなたは、わたしの書き物がとても好きみたいだった、から」

 

「はい! はい! はいですぅ!」

 

 さっきからライライの人格(キャラ)が変わりすぎてちょっと怖い。誰この人?

 

 水を差すようで悪い気がしたが、ふと気になったことがあり、それをトゥーフェイに尋ねた。

 

「ところで、ここって君の家なのかな?」

 

「そうでもあり、違うともいえる」

 

「というと?」

 

 追い討ちをかけるように問いかけると、トゥーフェイがふと、押し黙った。

 

 なんだろうか。なにか重い事情でもあるのだろうか。だとしたら薮蛇だったかも……そう考えていた時、

 

「……すーぅ、すーぅ、すーぅ」

 

 寝息。

 

「って、寝るなっつーの!」

 

「…………ふぁ。あれ、ここ、わたしの仕事部屋? さっきまで街中を歩いてたのに、なぜ」

 

「それは数分前の話だよ!」

 

「……ああ、そうだった。あなたがあまりに詰問するから、眠くなったんだった」

 

「いや、詰問ってほどのものかな……」

 

 ああ、だめだ。調子狂う。

 

「さっきの質問の答えだけど、ここはわたしの家であって仕事部屋」

 

「ご両親は?」

 

「この帝都に住んでるけど別居中。実家の方が広い。けど両親がうるさい」

 

「うるさい?」

 

「……すーぅ、すーぅ、すーぅ」

 

 ずびし! 頭にチョップして起こした。

 

「…………「嫁に行くアテはあるのか」とか、「将来のこともちゃんと考えろ」とか、「物書きなんて不安定な仕事やめて堅実に生きろ」とか、「もっと見た目に気を使え」とか……正直うっとい。わたしの人生なんだから、何をしようとわたしの勝手」

 

 そこに関しては、ボクも同意を示さざるを得ない。

 

 ボクがこの【黄龍賽(こうりゅうさい)】に参加したのは、ひとえに、父親の意見に反発するためだからだ。

 

 けれど、彼女の親御さんは、世間体のことだけを考えてそんなことを言っているのではないと思う。

 

「きっと、トゥーフェイのことを心配してくれているんだよ。親なんだから」

 

 この言葉を口にしてから、ボクは身につまされる思いをした。

 

 父様は、ボクが武法を続けることを反対し、官吏になることを強く望んでいる。……それは、世間体だけでなく、ボク自身の未来を心配しているからではないだろうか。

 

 そうかもしれないし、違うかもしれない。

 

 けど、どちらにせよ、ボクが引き下がる理由にはなりえない。このまま戦い抜くだけだ。

 

「……そうかもしれない。けど、それは、わたしが譲歩する理由にはなりえない」

 

 トゥーフェイの返答は、ボクの意見を丸写ししたかのようにダブっていた。

 

「この話、しんどくなるから、もうおしまい。……ライライさん、って、いったよね?」

 

「ひゃっ!? は、はい! なんでしゅかっ!?」

 

 憧れの人に自分の名を呼んでもらえたことに感激したのか、ライライがうわずった声で返事する。

 

「ついでだから、わたしの仕事風景……見ていく?」

 

「い、いいんですか!?」

 

「うん。そのかわり、わたしのこの場所、しー、だからね」

 

 唇に人差し指を当てて「しー」と口止めするトゥーフェイ。

 

 ライライがあふれん喜びでふくらませたような笑みのままコクコクうなずく。

 

 それを見るや、トゥーフェイは椅子からかったるそうに立ち上がり、棚へ近づく。引き出しを引いて、中に大量に入っている白紙を数枚取り出し、再び作業机へ戻ってきた。

 

 一見すると年寄りのように緩慢で力のない動きだが、スキが一切見当たらない。

 

 それを見て、このねぼすけ女が【黄龍賽】を準決勝まで勝ちあがった強者なのだということを再認識した。

 

 トゥーフェイはゆったりと椅子に座る。取り出した数枚の紙を机の左端に置いた上で、そこから二枚ほど取り出して机上の下敷きに並べた。

 

 机の最前に置いてあった小さな壷と、二本の細筆を取る。小さな壷を紙の前に、二本の細筆を手元へ置く。

 

 小壷のフタを開封。中はやはり墨液だった。

 

 トゥーフェイは両手にそれぞれ一本ずつ細筆を持つと、二つの筆先を墨液にチョンとひたす。

 

 ボクは早くも唖然としていた。あの両手の筆を同時に使うというのか……?

 

 次の瞬間、ずっと緩慢だったトゥーフェイの両手が、(さっ)! と疾風のごとく動きを急変させた。

 

 ものすごい速度で走る二本の筆。それらは目の前に置かれた二枚の紙の純白を、これまたものすごい速度で染め上げていく……!!

 

「なん……」

 

「だと……!?」

 

 二枚の紙に描かれていく「それ」がはっきりしたものになった瞬間、ライライとボクは同時に驚愕をあらわにした。

 

 なんと――「小説」と「連環画」を、同時に書いているではないか!!

 

 右の紙には、地球で言うところの漫画のような「連環画」を。

 左の紙には、小説を。

 表示形式がまったく異なるそれらの作品を、同時に書き記している。

 

 ありえない。普通なら頭の中身がこんがらがって、両方とも支離滅裂な出来となっているはずだ。紙の無駄である。

 

 けれど、トゥーフェイが黒く刻み込んでいく二つの作品は、とても同時に書いているとは思えないほど整然としており、なおかつ絵も文字も美麗だった。

 

 あっという間に小説と連環画の一ページ目を完成させたトゥーフェイは、その完成品を横長の机にゆっくりと置いた。どうやら、あれは書いたものを乾かすための机らしい。

 

 すると、作業机の左端に積まれた紙からまた二枚取り出し、同じように作業を進めた。

 

 その光景に、ボクたち二人は時の経過さえ忘れて見入っていた。

 

 その間にも、窓から見える太陽はどんどん西方向へと傾いていき、完成した紙の数もどんどん増えていく。

 

 やがて、部屋に入ってくる陽光が白から茜色へ変わった頃。

 

「…………ふぅ」

 

 ずっと機械的に作業を進めていたトゥーフェイの手が、止まった。

 

 すでに完成品置き場には、乾燥を終えた完成品が何束も積み上げられていた。

 

「……『遊雲天鼓伝』十九巻、『蒼血剣侠(そうけつけんきょう)』八巻、完成した」

 

 ぎょっ、と目を見開くボクとライライ。

 

「う、うそっ!? もう終わったんですか!?」

 

「ん。これでしばらくは怠け放題。この一仕事終えた後が最高のひととき」

 

 ライライの質問に答えながら、干された布団のようにぐでーっと椅子にだらけるトゥーフェイ。

 

 ボクらは今なお驚きを残していた。

 

 小説であれ、漫画であれ、本一冊を書き終えるのに一日では足りないはずだ。それを、一日どころか半日以下の時間に、二冊も終わらせてみせたのだ。どう考えても人間業じゃない。

 

 その上、彼女の作品はどれも非常に高い人気を誇っているという。

 

 まさに天才少女。

 

 だが一方で思う。

 

 こんなすばらしい芸術的才能を持った少女が、なぜ武法を学び、【黄龍賽】なんかに出ているのか。

 

 その疑問を、そのままの形でトゥーフェイにぶつけると、

 

「磐石な「怠け」を作るため」

 

 という答えが返ってきた。

 

「わたし、文や絵を書くの、好き。でも、それ以上に「怠ける」ことが大好き。だから、好きなことで稼ぎを得て、大好きな「怠け」を実行しているの」

 

 でもね、と気だるげな接続詞でつないで、次の言葉が連なった。

 

「……この仕事、結構不安定。人気が出て売れれば万々歳だけど、そうでないと厳しい。だから、それ以外の財源が必要。かといって、両親みたいにしゃかりきになって働くの、嫌」

 

 一息ついてから、またも続けた。

 

「そんなある日、わたしの前に一人の老武法士が現れた。なんでも、わたしが、一千万人に一人の確率でそなえる希少な骨格【剣骨(けんこつ)】を持っていて、そんなわたしに無敵の武法を伝承したいんだって。わたし、肉体労働大嫌いだから、断ろうとした。けど、その老武法士は言ったの。「この【空霊衝(くうれいしょう)】を得られれば、おぬしは立っているだけで万の敵を打ち倒せよう」って」

 

 その先に続く言葉を、ボクは予想できてしまった。

 

「そこでわたし、考えた。この【空霊衝】を手に入れれば、何の苦労もせずに【黄龍賽】で優勝して、莫大な賞金を得られるって。だからわたし、ガラにも無く頑張った。【空霊衝】は普通の武法と違って、【剣骨】さえ持っていれば早く習得できる。わたしは一年で【空霊衝】の全伝を体得して、前回の【黄龍賽】に出た。それで本当に楽々と優勝して、懐もウハウハ。――そして、今回もウハウハ」

 

 それを「準決勝は自分の勝ちで決まり」という早まった勝利宣言だと解釈したボクは、おもわず反駁(はんばく)した。

 

「やってみないとわからないよっ」

 

「最初にそう言って、結局最後には白旗を揚げた人を、わたしは何人も見てきた。あなたの戦い方は見てるけど、結局は力と手数にモノを言わせて敵をねじ伏せるだけのもの。わたしの【空霊衝】と一番相性が悪い武法。――だからわたしに、あなたの名前を知る必要、ない」

 

「だから、やってみないと――」

 

 そう言い返しかけたところで、トゥーフェイが寝息をたてていることに気がついた。

 

「…………すーぅ、すーぅ、すーぅ」

 

 まるで干された布団のように、椅子の上に垂れ下がるようにして寝入っていた。

 

 今度はいくら揺さぶっても一向に起きなかった。どうやら、仕事で疲れているみたいだ。

 

 ――くそっ、明日絶対勝ってやるからな。

 

 唾液をだらだら垂らしながら眠ったトゥーフェイのほっぺたをむにーっと引っ張りながら、ボクは改めてそう決意したのだった。

 



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つまらない試合

 

 しばらくしてから、眠るトゥーフェイをたたき起こして「帰りたい」と伝えた。

 起こす必要は必ずしもなかったが、彼女はこの仕事部屋兼隠れ家のある場所を知られたくないと言っていた。その気持ちを尊重するなら、起きて案内してもらうしかない。

 

 ボクとライライは再び目隠しで視界を隠されたまま引っ張られ、大通りのど真ん中でまた目隠しを取った。

 

 「さよなら」とだけ告げると、トゥーフェイは気だるそうにとぼとぼ歩き去っていった。

 

 その貧相ながら隙の無い後姿をそっと睨みながら、ボクは見送った。

 

 どうしようもない鬱屈と、明日へのかすかな不安を引きずりながら、ボクは『呑星堂(どんせいどう)』へと戻った。

 

 風呂に入り、寝台の中で待ち構えていたミーフォンを追い返し、そのまま眠ろうとした。

 

 だが、なかなか寝付けなかった。緊張していたのだ。

 

 トゥーフェイが常に崩さない、あの気だるげでマイペースな振る舞いを思い浮かべる。

 

 あれは生来の性格ゆえというだけでなく、自身の武法の腕に対する絶対の自信の表れなのだろう。

 

 事実、彼女は前回の【黄龍賽(こうりゅうさい)】で優勝しているのだ。

 

 今回も、その結末が揺るがないと心から信じている。だからこそ、あの綿のごとく柔和な物腰を保てるのだ。

 

 考えれば考えるほど緊張が増してくる。

 

 けれど体は疲れに対して忠実だ。気がつくと、朝まで眠っていた。

 

 ボクは着替えて、【尚武冠(しょうぶかん)】へと向かった。

 

 準決勝はたったの二試合。なので、今までの試合より少し遅めの昼からの時間に始まる。

 

 けれど、どれだけ時間に余裕があっても、今のボクには足りないくらいだった。

 

 何かに追い立てられるように【尚武冠】へ足を急かす途中、ボクは唐突にひらめいた。

 

 ――トゥーフェイの【空霊把(くうれいは)】を破る、ある秘策が。

 

 

 

 

 

 

『さあ、やって参りました!! これから、準決勝の試合をとり行いたいと思います!! 見たくて来た方も、興味本位で来た方も、ここまで来たらどうか最後まで選手たちの行く末を見届けていってください!!』

 

 特殊な呼吸法で増幅された司会役の発声が場を穿ったが、これまでの試合とは違い、歓声は薄めだった。

 

 すり鉢状の【尚武冠】の闘技場。斜面の客席にびっしり並ぶ観客と、その無数の目が俯瞰する底辺にある円形の闘技場。

 

 ボクとトゥーフェイは、すでに闘技場のど真ん中で向かい合っていた。

 

 ボクはやる気十分だが、目の前に立つ白髪頭の少女はそれとは真逆で、すでにあくびをこらえている状態だった。

 

『では、準決勝第一試合!! 李星穂(リー・シンスイ)選手と、姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)選手の一戦です!! どうか、盛り上がってご覧になってください!!』

 

 司会役のその叫びは、なんだか場を盛り上げようと躍起になってる感があった。

 

 けれども、やはりいつもの大歓声は無い。細波のようなざわめきだけがどよどよと場を揺らすのみ。

 

 その反応はむべなるかなと思う。

 

 なにせ――トゥーフェイの試合なのだから。

 

 トゥーフェイは今まで、一歩も動かずにすべての試合を快勝して見せた。

 

 「やる側」からすれば、面倒なく勝ち進めて万々歳だろう。

 「見る側」からすれば、そんな試合ほどつまらなく退屈なものはないだろう。

 

 けれどそれは逆に考えると、観客もまたトゥーフェイの勝利を一ミリたりとも疑ってはいないということだ。

 

 そう。ボクは今、この上なくアウェーなのである。

 

 誰もが李星穂(リー・シンスイ)が勝利する未来予想を浮かべていない。

 

 ――その予想を、今、全力で裏切ってやる。

 

 このアウェーな状況を覆さんとする気概が生まれる。

 

 ボクは改めて、トゥーフェイを見た。眠そうだ。

 

「昨日、ちゃんと寝たのかい?」

 

「ん。わたし、いつも眠いし」

 

「忠告しておくよ。そんな態度が通じるほど、ボクは甘い相手じゃない」

 

「そんな風に言って、結局最後には根負けした人、いっぱい見た。きっとあなた……えっと…………」

 

李星穂(リー・シンスイ)

 

(リー)……やっぱりいい。どうせ覚えるだけムダ」

 

 意地でも、ボクの名前を覚えさせてやる。

 

 それをなし得る方法はただ一つ、勝利以外ありえない。

 

 きっとこの子は、今まで一度も負けたことが無いのだろう。

 

 ならば、敗北という初体験の相手は、ボクがなってやる。そうすれば、否応なく名前を覚えてしまうだろう。

 

『では、準決勝第一試合――――開始っ!!!』

 

 試合開始の銅鑼(ドラ)が鳴っても、場は変わらず盛り下がったままだった。

 

 それにかまわず、ボクは(さっ)、と一瞬でトゥーフェイの間合いへ入り込む。驚くほどすんなりと入れたが、それは相手が一切動かないからだ。

 

 構えもせずに立ったままの白髪の少女めがけて、拳から衝突した。その【衝捶(しょうすい)】は狙いあやまたず、トゥーフェイのど真ん中へと突き刺さった。

 

 普通なら、彼女の細く不健康そうな体が、紙細工同然に軽々吹っ飛ぶのが必定。

 

 けれど、肉体の可能性を極限まで突き詰めた武法同士の戦いにおいて、それは必ずしも必定にあらず。

 

「んぐ!?」

 

 拳が衝突した場所の内側から、衝撃が膨れ上がった。痛くはなかったが、代わりにボクの体が大きく弾き返された。

 

 【両儀勁(りょうぎけい)】によって重心を大地に固定させていたため吹っ飛ぶことはなかったが、石畳の上を高速でスライドするハメになった。ふたたびトゥーフェイとの大きな間隔が出来上がる。

 

 その結果に、周囲から「やっぱりな」とでも言わんばかりの嘆息がいっせいに放たれた気がした。

 

 やっぱり、【打雷把(だらいは)】の勁撃でも跳ね返されるのか。

 

 トゥーフェイは受けた勁を大地へと逃がし、そこから同じだけの強さで跳ね返ってきた反力をボクの拳の接触面へと伝達させたのだ。いわば、自分で自分を殴っている状態。

 

 けれど、そんなものは想定内。

 

 ボクはひるまず突っ走った。今度は深い踏み込みと同時にその足をねじり込んで、沈下と螺旋の力を同時に生み出して炸裂させる【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】。

 

 が、またも拳がトゥーフェイの体に喰らいついた瞬間、力が跳ね返った。大きく後ろへ滑らされる。……やはりこれも通じない。

 

 けれど、ボクは手を休めない。今度は重心そのものをぶつけるような体当り【硬貼(こうてん)】で滑り寄る。――また跳ね返された。

 

 またも突っ込み、今度は重心の衝突を肘で打つ【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】。

 

 反射された。

 

 【衝捶】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【碾足衝捶】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【碾足衝捶】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【碾足衝捶】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【碾足衝捶】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【碾足衝捶】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【移山頂肘】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【硬貼】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。 

 【衝捶】。

 反射。

 【衝捶】。

 反射。

 

 

 打って、跳ね返って、打って、跳ね返って、打って、跳ね返って、打って、跳ね返って――

 

 まるで自分の尻尾を永遠と追いかけ続ける犬みたいに、同じ行動、同じ流れを何度も繰り返す。

 

 打っているうちに、なんだか面倒くさくなってきて、攻撃も簡単なものになってきている。

 

 すでに客席はしらけきっている。「またいつもの展開だ」と思っているのだろう。

 

 だがそんな周囲の失望感などどこ吹く風で、ボクはまだまだ拳を打ち続けた。

 

 体力にはまだまだ余裕がある。尽きない限り、永遠に打ち続けよう。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 シンスイとトゥーフェイの試合に対する観客の興味が失せきっているのは、紅梢美(ホン・シャオメイ)の目でも一目瞭然だった。

 

「お姉様……」

 

 隣に座るミーフォンが、心配そうにシンスイを見守っている。

 

 そろって試合を見に来た(ホン)家姉妹の周囲では、口々に好き勝手な文句が飛び交っていた。

 

「おいおい、やっぱりいつもの展開だぜ。また姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)の事実上の不戦勝かよ」

 

李星穂(リー・シンスイ)なら【天下無踪(てんかむそう)】の無敗神話を覆せるんじゃないかと思ったのに、とんだ期待はずれだ」

 

「ほらな、やっぱり俺の言ったとおりだったんだよ。変に逆張りしないで素直に【天下無踪】に賭けといた俺の判断は正しかったわけだ」

 

「くそっ。後でおごれよな」

 

「やなこった。はははは、李星穂(リー・シンスイ)のおかげで今夜は酒と飯が美味そうだぜ」

 

 ミーフォンはそう言った男へ振り返り、火を吐くように言った。

 

「あんたお姉様ナメてんの!? あんましバカ吐かすと股間の鈴を引きちぎるわよインキン野郎!」

 

「落ち着けミーフォン。相手にするな。それと、女がそんな下品な言葉を使うんじゃない」

 

 シャオメイは冷静にミーフォンを自省させる。男はふんと鼻を鳴らして試合へ視線を戻す。

 

 ミーフォンはガシガシ床を踏みつけて憤慨しながら、

 

「ああもう、マジでムカつく! なんなのあいつら!? もう諦めてるわけ!? 玉無し! 根性無し!」

 

「まあ、私もまだ諦めるには早いと思うが……今のシンスイの状態を見ると、連中と同じ感想を抱きたくなるのも仕方が無いかもしれんな」

 

 そう言いつつ、シャオメイは闘技場で行われている試合を俯瞰する。

 

 否、それはもう「試合」と称していいのか疑わしいほど、一方的な展開となっていた。

 

 シンスイは、棒立ちするトゥーフェイめがけてひたすらに技を打つ。しかし技は通じず、跳ね返されるという結果ばかり。

 

 対し、トゥーフェイはこれまでの試合の例に漏れず、試合開始から立ち位置を一歩たりとも変えてはいなかった。今回もいつも通り勝つつもりなのだ。

 

 話には聞いていたが、実際にその光景を目にするとなると、衝撃的だった。

 

 これが【天下無踪】。一度も足跡を作らずに天下を取った少女。   

 

「……お姉様、勝てるかしら」

 

「分からん。すべては彼女次第、としか言えない。シンスイが姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)の鉄壁の守りを破れれば勝利できる可能性が生まれる。出来なければその時点で終わり」

 

 そうだ。トゥーフェイのあの防御を破らない限り、シンスイに勝利はありえない。

 

 しかし、どうやって?

 

 あの技は、物理攻撃であれば何でも跳ね返す、武法泣かせな技だ。

 

 斬撃であっても、それは見方を変えれば「「刃」という極細の面積に加重する」という行為。かすり傷は負わせられたとしても結局は跳ね返される。

 

 体内浸透系の技法は? いや、それも結局は物理的な加重。力を自在に操る【空霊衝(くうれいしょう)】ならその浸透力さえも跳ね返しかねない。

 

 試合に出ているわけでもないのに、自分が対応策を熱心に考えてしまっている。だが、良い案は思いつかない。

 

 そうしている間にも、シンスイは打って跳ね返され、打って跳ね返されという無意味な行動を繰り返している。

 

 このままでは、ムダな体力を使うばかりだ――

 

「……ん?」

 

 だが、ふとシャオメイの視界に、妙なものが映った。

 

 それは、石畳をしっかり踏みしめたトゥーフェイの靴の根元にあった。

 

「――あれは、まさか」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)は眠かった。

 

 ていうか毎日眠い。眠り病じゃないかってくらい眠い。

 

 目の前で、三つ編みの美少女がドンドンバンバン勁撃を打ちまくっている最中でも眠い。

 

 彼女の勁撃は、今まで出会った武法士の中でダントツに凄まじかった。

 

 けれど、やっぱり痛くもかゆくも無い。勁撃がこちらの体に接触した瞬間、その勁力は痛みを与えるよりも早く骨格を介して大地へ逃がされる。そこから同じだけの反力が戻ってきて肉体を通い、相手との接触箇所へ向かって流れ着く。相手は自分で放った勁で吹っ飛ぶ。

 

 そう、汗水流して殴りあう意味などない。

 

 無駄な行い。徒労。

 

 トゥーフェイは徒労はしないし、嫌いだ。

 

 いや、そもそもトゥーフェイは労力を使うこと自体を嫌う。

 

 しかし、生命を受けた者は、労力を使うという呪縛からは逃れられない。そうしないと生きていけないからだ。

 

 かといって、さすがに自決する気にもなれなかった。生命を持てば「労働」という呪いに縛られるが、同時に「怠け」の喜びも享受できる。

 

 トゥーフェイの人生は、いかに多くの割合を「怠け」で占められるか、という、ある種の戦いだった。

 

 そこそこ位の高い官吏である父と、薬師の母との間にトゥーフェイは生まれた。

 

 毎日仕事で粉骨砕身する両親を見て、こう思った――「こんな大人にはなりたくない」と。

 

 幼少期に読み書き算術を学んでいた『民念堂(みんねんどう)』で、「将来の夢」という題材の文を書かされた。

 

 「働かないで一生ごろ寝して暮らしたい」と書かれたトゥーフェイの文を見た教師はこう思っただろう。「こいつ世の中舐めてるのか」と。

 

 しかし、トゥーフェイは本気だった。

 

 だからこそ思った。自分の人生を可能な限り「怠け」で満たそうと。

 

 まず目をつけた職が文筆業だ。書いたものが大ウケすれば、一気に巨万の富を稼げるという。

 

 トゥーフェイは小説や連環画を基礎から独学で勉強し、わずか一年弱で大人気作『遊雲天鼓伝(ゆううんてんこでん)』を世に送り出した。

 

 そのほかにも何冊も売れる本を出し、どんどん金が入ってくるようになった。家と別の小さな建物を購入して余りある額のお金が。

 

 しかし、文筆業ほど不安定な職もない。今は人気で稼げているが、それがなくなった場合は金が入らなくなる。

 

 そこで目をつけたのが、優勝すれば莫大な賞金がもらえるという【黄龍賽】。

 

 武法で一攫千金を狙おう――そう考えたのと同じ時期に【空霊衝】の師父と出会ったことは、「怠けよ」という天の意思がもたらした運命であると今も本気で信じている。

 

 トゥーフェイは、常人の十倍以上の耐久性と弾力性をあわせ持つ特殊な骨格【剣骨(けんこつ)】を生まれつき持っていた。

 

 その【剣骨】の保持を習得条件とした【空霊衝】は、立ったままでも万人を倒せる無敵の武法とのこと。まさに天の采配ではないか。

 

 【空霊衝】を一年かけて習得し、十三歳の頃に【黄龍賽】へ初出場。そこで見事怠けながら優勝をもぎ取り、莫大な賞金を手に入れた。

 

 すでに懐はかなり暖かくなったが、それもいつかは枯渇するだろうし、老後にのんびりするための資金をもう少し貯めておきたい。なので今年も【黄龍賽】に出場した。予選大会のために遠出しなければいけないのが面倒だが、面倒事といえばそれだけだ。本戦は実家のある帝都で行われる。

 

 今回も楽々と優勝し、賞金を手に入れ、好きな書画に興じながら自堕落な生活に没入するのだ。それを考えると、よだれが出てくるほど楽しみだった。

 

 まどろんでいた意識が明瞭になる。目の前では、三つ編みの美少女がなおもこちらの体に勁を打ち続けていた。

 

 その必死さと熱心さに、苛立ちのようなものを覚える。いい加減諦めればいいのに。そうすれば楽なのに。

 

 もう一度、寝てしまおう。

 

 次に目を覚ました時、三つ編み美少女は自分の負けを認めているだろう。

 

 

 

 

 

 ――だがその時、トゥーフェイは気づいていなかった。

 

 自身の足元(・・・・・)を確認しないという、痛恨の「怠け」を犯していたことに。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 もう何発目だろうか。

 

 「いっぱい」としか言えない。

 

 けれど、「いっぱい」打ったのだ。

 

 あらゆる技を出したが、すべて例外なくトゥーフェイに跳ね返された。

 

 けれど、その疲労は決して「徒労」ではない。

 

 ボクは、立ったまますぅすぅ眠るトゥーフェイの足元を見て、それを実感していた。

 

 大地に根を張ったようにしっかり立つ白髪の少女。その足元を中心にして、本当に根が張っているかのような深い亀裂が四方八方に走っていた。

 

 石畳が割れているのだ。

 

 たしかに、トゥーフェイは要塞のごとき防御力を持っているかもしれない。

 

 けれどトゥーフェイの反射技は、大地からの反力ありきのものだ。つまり、地に足が着いていなければ使えないということ。

 

 彼女の体は攻撃に耐えられても――踏んでいる足場はどうだろう?

 

 トゥーフェイの通り名は【天下無踪】。立ち位置を一度も変えることなく天下を取った者という意味。

 

 だが、立ち位置が変わらない以上、こちらが打ち込む威力の数々を、すべてその「変わらない立ち位置」が引き受けるということになる。

 

 土の地面であったならともかく、今は石畳という人工物だ。

 

 つまり――砕ける。

 

 この手段は、トゥーフェイと戦った武法士も考えたかもしれない。が、仮にそうだったとしても、勁撃の威力が足りず、体力が尽きるまでに足元を破壊できなかったことだろう。

 

 けれど、ボクは違う。

 

 ボクには【雷帝】と恐れられた最強の男が創った、最強の攻撃力を誇る武法【打雷把】がある。

 

 【打雷把】の強烈な勁撃を、何度も同じところへ打ち込めば、どうなるのか。

 

 その結果は、すぐに分かる。

 

 ボクはもう何度目か分からない【衝捶】を、寝息をたてるトゥーフェイに打ち込んだ。

 

 跳ね返される。が、ピキッ、という音とともに、亀裂がさらに増える。

 

 ダメ押しにもう一度【衝捶】を叩き込んだ。

 

 次の瞬間、

 

 

 

 

 

 崩壊した。

 

 

 

 

 

 ボゴンッ、という破砕音とともに、トゥーフェイが踏みしめていた石畳だけが他の石畳から砕けて離れた。

 

 踏みしめていた石畳ごと宙に浮かんだトゥーフェイ。その顔はすでにのんきな睡眠モードではなく、これ以上ないほどの驚愕で染まっていた。

 

 ボクはそんなトゥーフェイに溜飲を下げつつ、走り寄る。丹田に【気】を集める。必殺の一撃を浴びせるための準備。

 

 間合いに飲み込み、丹田の【気】の炸裂と同期させた【碾足衝捶】を叩き込んだ。

 

 拳が喰らいついたのを見れたのは、ほんの一瞬。その一瞬の後には、とんでもない速度で後方へ流された。まるで見えない糸で思いっきり引っ張られたように。

 

 壁に激突し、そこの石材を粉砕。

 

 

 

 

 ずっと沈んでいた観客のざわめきが、ざわっと大きく高ぶった。

 



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初めての渇望

 

 ――何? この感覚。

 

 突然全身に舞い込んだ感覚に、姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)は混乱を覚えた。

 

 硬い棒状のモノで突き刺されたような感覚が、炎が燃え広がるように腹部から背中へ駆け抜けた。

 さらには浮遊感。

 そのかすかな浮遊感の後に背中へやってきたのは、平べったい衝撃。こちらの体を押しつぶさんばかりの力だった。

 

 いったい、これはなんなのだろう。

 

 この、全身を波のように駆け巡る、想像を絶する痛みは――

 

 

 

 ああ、そうだ。これは「痛み」なんだ。

 

 

 

 そう確信した瞬間、

 

「っぐっ……あああああああああぁぁぁぁぁ!!!」

 

 ようやく「痛み」を「痛み」として明確に知覚したトゥーフェイの全身が、火であぶられるようなすさまじい激痛を訴えた。

 

 自分は武法による戦いで、「痛み」など感じたことが無かった。

 

 だが今日、初めて感じた。それも、とんでもなく大きなものを。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 トゥーフェイは叩きつけられた壁から落ちると、地面にうずくまってなおも苦痛を叫び続ける。

 

 痛い。痛すぎる。息が上手くできない。視界も涙でにじむ。

 

 吐きそう。

 

「っ……ぅおぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ」

 

 吐いた。今朝食べた饅頭のかけらが混じっていた。

 

 なんなんだ、これは。

 

 あっていいのか、こんなことが。

 

 どうして、わたしがこんな目にあわなければならないのだ。

 

 わたしの人生は「怠け」で満たされていた。そのはずなのに、なんでこんな「怠け」とは程遠い苦痛を感じている?

 

 そうだ、夢だ。これはいつもしている昼寝の中で見る夢の世界に違いない。こんな自分でも、ときどき悪夢を見る。夢の世界はままならないのだ。

 

 しかし、この全身をさいなむ激痛は、このうえなく現実だった。吐き出したモノの苦酸っぱい余韻も、現実味がある。

 

 現実だった。

 

 限りなく「怠け」で満たされていた自分の現実が、「苦痛」で侵略されている。

 

 その侵略者は誰だ?

 

 苦痛で固まった体に鞭を打ち、ゆっくり顔を上げる。

 

 真半身(まはんみ)の状態で腰を落とし、拳をこちらへ突き出したまま止まっている、華奢な三つ編みの美少女の姿。

 

 ――李星穂(リー・シンスイ)

 

 彼女が必死で自分に覚えさせようとしていたその名前を、今、「思い出す」という形で明確に覚えた。

 

 シンスイは突き出した拳越しに、そのらんらんと輝く太陽みたいな大きな瞳をこちらに向けてきていた。

 

 その瞳を向けられたトゥーフェイの中に、さまざまな感情が渦を巻いた。

 

 今、自分の目の前に立つのは、自分とは何もかもが正反対の存在だ。

 人生を「怠け」で満たそうとしている自分とは違う。

 何かに向かって一直線に突き進み、今の自分より良い自分を作り出そうとしている者。あれは「そういう目」だ。

 

 彼女は、そのひたむきさへの「供物(くもつ)」として、自分を喰らい尽くそうとしている。

 

 冗談じゃない。

 

 トゥーフェイははっきりと確信した。

 自分はこの女が嫌いだ。 

 この女は敵だ。

 自分の「怠け」を犯そうとする、不倶戴天(ふぐたいてん)の侵略者だ。

 侵略者なら、蹴散らさなければならない。

 食われる前に、食らいつくさなければならない。

 

 その敵意は、次第にある一つの感情へと転化した。

 

 

 

 ――「勝ちたい」という感情に。

 

 

 

 それは、ずっと「怠け」に固執してきた少女が初めて胸に抱いた、勝利への渇望だった。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 勝ったと思った。

 

 トゥーフェイは、ずっと苦痛とは程遠い戦いばかりに甘んじてきた。

 

 なので、その初めての苦痛を【打雷把(だらいは)】による強大な勁撃で受ければ、戦意なんてポッキリ折れると思った。

 

 事実、トゥーフェイは地面にうずくまり、叫びを上げ、ショックで胃の中のモノを地面にゲーゲー吐き戻した。

 

 けれど――そこから再び立ち上がるのを見て、ボクは驚きを隠せなかった。

 

「トゥーフェイ……!」

 

 そう、立ち上がったのだ。

 

 さび付いたようにぎこちなくではあるが、確かに二本の足を立たせたのだ。

 

 丈の余った袖で口元の吐しゃ物をぬぐうと、目の前にいる白髪の少女は、ややかすれた声で言った。

 

「あなたは……敵」

 

 白い前髪の奥底にある瞳は、敵意と戦意で光っていた。

 

「あなたは……邪魔者」 

 

 その表情は、今まで見てきた彼女のどんな表情にも似つかなかった。

 

「あなたは――――嫌い!!」

 

 次の瞬間、大地がビリビリと激震した。

 

 かと思えば、トゥーフェイの足元を始まりに、こちらへ向かって放射状に無数の亀裂が伸びていた。

 

 石畳が一瞬で粉みじんと化し、足元がもつれた。

 

「うわっ……」

 

 何だコレは!? 一瞬で石畳が全部砕け散った!

 

 この石畳はかなり頑丈だ。ボクでさえ、これを壊すのに何十発と勁撃を放ったのだ。

 

 地面が激しく揺れたと思った瞬間には、地面が粉々に揺れた。

 

 つまり「振動」。トゥーフェイは地面に振動を流し込み、それによって石畳を粉々に砕いたのだ。

 

 どんなに頑丈な家屋でも、強い地震によって激しく揺さぶられればヒビが走り、崩れる。これは言うなれば、擬似的な地震。

 

 おそらく、振動は呼吸で生み出したものだろう。特殊な呼吸法で丹田を高速振動させて、その振動を【空霊衝(くうれいしょう)】の力学操作で大地に流したのだ。

 

 そうやって考えに浸りながら、下ばかり向いていたのがいけなかったのだろう。

 

 隣から近寄ってくる存在感に気づくのが遅れてしまった。

 

「ふっ!!」

 

 細い吐気とともに、トゥーフェイのかかとが大上段から振り下ろされた。

 

 ボクは遅れこそしたものの、間一髪半歩ほど動いてかかと落としを避けた。

 

 直撃はまぬがれたが、驚くべき現象が起きた。彼女のかかと落としが当たった地面の延長線上へ、きれいな直線状の「切れ目」が生まれたのだ。

 

「これは……!」

 

 身の毛がよだつ思いをした。生み出した力を「極細の線」の形に細めることで、蹴りに斬撃と同じ性質を与えたのだ。そうなったあの蹴りは刀の一振りと同じ。当たれば真っ二つになっていただろう。

 

 けれど、こんな近距離であんな大振りを使うべきではなかった。当たれば儲けものだが、外れたら隙が大きい。

 

 大振りがたたって硬直している一瞬を突く形で、ボクはトゥーフェイに正拳突き【衝捶(しょうすい)】で近づいた。

 

 対してトゥーフェイは、ボクの拳の甲に手を滑らせた。

 

「いてっ!?」

 

 途端、拳の甲にチクリとした痛みを覚えた。全身がびっくりして、体術と呼吸を崩してしまった。技が不発で終わる。

 

 ボクは大きく距離をとりつつ、手の甲を見た。針で刺されたような小さな傷口から、ぷくりと血のしずくが浮かんでいた。おそらく、針先のようにとても小さな一点を思い浮かべ、そこへ力を集中させることで針に刺さったような痛みをボクに与えたのだろう。

 

 トゥーフェイは踏み込みと一緒に掌底を伸ばしてきた。しかし、ボクはすでに退いていて、彼女の間合いのはるか外である。

 

 絶対に当たらない距離。

 

 

 

 だというのに――全身に衝撃が走った。

 

 

 

 まるで透明の壁が高速で迫り、衝突したような感じだった。

 

 さほど威力は無いが、吹っ飛んだ。

 

 受身をとって立つ。痛みは無い。しかし驚愕が強かった。

 

 触れてもいないのに……衝撃を受けたのだ。

 

 ボクは、得体の知れない動物を見る目をトゥーフェイに向けながら、

 

「……何をしたの」

 

「「球状の力」を発しただけ」

 

 あっさり答えが返ってきたが、言っている意味が分からない。

 

「わたしの【空霊衝(くうれいしょう)】の能力は、力や勁の操作。それらの「形」や「向き」を筋肉操作で自在に操り、体のどの箇所からでも発散させることができる。わたしは今、大地を踏みつけて生まれた力を体の中で練り上げ、「立体の球」に作り変えて掌から発した」

 

 ボクは【空霊衝】の能力を少しだけなら知っていた。

 

 さっきの切れ味鋭いかかと落としは、蹴り足に宿る力の形を「極細の線」の形に圧縮して叩き込む、というものだった。

 

 そう。「叩き込む」のだ。

 

 すなわち「当てる」ことをしなければ、どんなに鋭く圧縮させた力であっても意味が無い。所詮は打撃部位の「平面」にしか働いていない「二次元の力」だからだ。

 

 ――そこまでが、ボクが知る【空霊衝】の能力だ。

 

 けれど、実際は「平面」である「二次元」だけでなく、「立体」である「三次元」にまで力の形を変化させられるのだという。

 

 間合いの外にいたにもかかわらず衝撃を受けたのは、掌底から勁力が前に向かって球状に膨らんだからだったのだ。

 

 射程距離のある打撃――そんな言葉が脳裏をよぎる。

 

 実は、打撃力を飛ばす技術は、ごく少数ながら存在する。【井拳功(しょうけんこう)】という修行法だ。井戸の底にある水へ向かって何度も何度も拳を打ち続け、それを数年続けると、拳の力が井戸の水に伝わって波紋を起こし、やがて水しぶきさえ起きるようになる。

 

 しかし【空霊衝】は、ソレとは違うアプローチで「射程距離のある打撃」を実現させていた。

 

 おまけに厄介な点が二つある。

 発射する勁力の流れや形を自分の任意で変えられること。

 さらに、それがどの角度から飛んでくるのかが一切見えないことだ。

 

 その面白おかしい理屈に、武法マニアとしての興奮を覚えるが、今はそれ以上に危機感を覚えた。

 

 それ以上、深く考える時間は無かった。トゥーフェイの片足が、今にも大地を踏みつけようとしていたからだ。

 

 ボクが大きく後ろへ飛び退くのと、トゥーフェイが大地を踏むのは同時だった。先ほどまでのボクの立ち位置がひとりでに破砕し、破片を四方八方へ撒き散らした。――大地を踏んで生み出した力を、自身の体からボクの立ち位置を結ぶ「触手」の形に変えたのだ。

 

 破片から目を守るべく、ボクは反射的に腕で目元をかばう。

 

 だが、そのほんの些細な隙を突くかたちで、横合いから衝撃が殴りつけてきた。

 

「うぐぅっ!?」

 

 見えない拳に打たれたボクは、横へ倒れようとする。だが手を地に付いて、そこから跳ねた勢いで立ち上がる。

 

 慌てるな。心の波風を沈めて感覚を研ぎ澄ませ。

 

 トゥーフェイが飛ばしてくる勁力はまったく目で見えない。なら、視覚以外の感覚でとらえるしかない。

 

 そうだ、触覚だ。彼女の勁力が飛来してくる感触を肌で感じ取れ。

 

 いくら射程距離があろうと、しょせんは「打撃」。「打撃」である以上、ある程度の風圧は隠せない。

 

 ボクは恐れず、目を閉じた。

 視力を真っ暗闇に封印することで、それ以外の感覚が必然的に敏感になる。

 歓声がうるさいので、両手で耳も閉じる。さらに触覚が鋭くなる。

 

 この【尚武冠(しょうぶかん)】はすり鉢状であり、横風が来る方向は限られている。選手が闘技場に入るための穴だ。そこからこちらにかすかな涼風が吹くのだ。

 

 その涼風とは方向を異にする、不自然な風が吹くのを感じた。

 

「っ!」

 

 ボクは右へ跳んだ。瞬間、先ほどまで立っていた左側からボゴンッ、と何かの鈍器で殴る音。

 

 いける! 

 

 自然風の向きをあらかじめ読む。そのうえで、その風とは違う不自然な風を読むのだ。そうすれば、見えない打撃を避けられる。いくら飛ばせる打撃とはいえ、しょせんは「打撃」だ。力が空中を通るにあたって起こる風圧までは消せない。

 

 目を閉じていても、【聴気法】でトゥーフェイの存在を感知できる。

 

 ボクは、トゥーフェイの気めがけて走り出した。

 

 途中途中で勁力が飛んでくるが、風から手がかりを得て回避を続ける。

 

 目標へちゃくちゃくと近づいている。向こうも逃げているらしい足音が聞こえるが、こっちのほうが速い。

 

 トゥーフェイまであと少しという距離まで近づいたときだった。

 

「うっ……!?」

 

 突然、全身を激しく揺さぶられたように体がぐらついた。

 

 まるで船酔いみたいに気持ちが悪い。吐きそうだ。

 

 ふらついたわずかな隙を突く形で、衝撃が腹にぶち当たった。

 

 大きく後ろへ吹っ飛ぶが、足指を地面に噛ませて立ち姿勢をキープ。

 

 いよいよたまらず、ボクは目と耳を開いた。まるで頭をめちゃくちゃにかき回されているみたいなめまいがまだ続いている。

 

 おそらく、振動をボクの骨格に送り込んで、頭ごと揺さぶって、擬似的な船酔い状態を作ったのだろう。ライライの【響脚(きょうきゃく)】みたいなものだ。

 

 ボクは震脚する。下から上へ昇る力を作り、強引にその振動をねじ伏せた。余韻は少し残っているが、酔いはさめた。

 

 風の動きから、再び飛来してくる勁力の接近を読み取る。当たる刹那に体の位置をずらし、やり過ごす。

 

 しばらく視覚と聴覚を封印していたおかげか、一時的にだが皮膚感覚が鋭くなったようだ。これなら目と耳をふさがずとも戦えそうだ。

 

 トゥーフェイを見て、その動きを観察するが、

 

「がっ!」

 

 真横から衝撃。ボクは吹っ飛ぶ。受身を取って立つ。

 

 いけないいけない。いつもの癖で、目だけで相手の動きを読もうとしてしまった。触覚だ。触覚を使うのだ。

 

 ボクは視界には意識を向けず、その周囲の風向きの変化にのみ意識を集中させた。

 

 だが、次の瞬間におとずれた勁力を皮膚で感じ取った瞬間、ぎょっとした。

 

 ――マズイ、これは避けるのが難しい。

 

 触手状の勁力をこっちまで伸ばしているのは今までどおりだが、今度は真上でシャワーみたいに、幾本もの細い触手に分化して降り注いでいる。その分化した無数の触手は、ボクの立ち位置を中心とした半径5(メートル)をすっぽり覆っていた。

 

 飛ぼうとしたが、タイミングが遅かった。降り注ぐ力の雨に全身を殴られ、体がうつぶせに地面に縫い付けられた。

 

 【空霊衝】は勁力の形を好き勝手に変えられるのだ。ならば、相手が避けにくい形に変えることだって造作も無いはずだ。

 

 足腰に鞭打って迅速に立ち、再びトゥーフェイに向かって突っ込む。

 

 トゥーフェイが手をかざす。そこからまたさっきのように、シャワーのごとく幾本も分かれた勁力の直線が迫るのを触覚に感じた。

 

 ボクは止まらなかった。震脚で「跳ねる力」を生み出して、それを推進力として利用。左手で顔を覆い隠しながら、右肩を前にして勢いよく突っ込んだ。【打雷把】の体当り技【硬貼(こうてん)】だ。

 

 たとえシャワーみたいに弾幕を張ろうとも、一撃の強さでは【打雷把】の方が圧倒的に勝っていた。トゥーフェイの放った勁力の弾幕をたやすく押し返し、間合いへと暴風のごとく踏み入った。

 

 【硬貼】の勢いを殺さず、そのまま左拳による【衝捶】へと連結させた。

 

「くっ!」

 

 トゥーフェイは苦虫を噛み潰したような表情となり、真横へダイビングのように上半身から飛び込む。そうしてボクの拳から逃れてから、体を転がして距離をとった。

 

 その対処法に、ボクは肩透かしを食らった気分になった。

 

 ――なんで、あの反射技を使わないんだ? アレを使えば、簡単に防げたはずなのに。

 

 それを考えさせないとばかりに、右上から見えない衝撃が飛来してきた。

 

 ボクは前へ走る。破砕音が後ろで聞こえた。

 

 突き進む。

 

 今度はまた球状の勁力。止まることは出来ないので、再び【衝捶】で破壊する。

 

 破壊してから間髪いれずに、右真横から不可視の力が迫ってきた。

 

「ふんっ!!」

 

 考えるよりも先に体が【移山頂肘】の動きを刻んだ。横へ激しく深く踏み込むと同時に右肘を鋭く突き出し、その肘が見えない何かに当たり、押し勝つ感触。

 

 まるでトンネルを掘り進むように、トゥーフェイの間合いまで着実に近づいていく。

 

 とうとう間合いのすぐ側まで走り寄った。

 

 だが次の瞬間、ボクの触覚が「尖った圧力」を感知。「沈む力」と「上へ伸びる力」を同時に引き出す【両儀勁(りょうぎけい)】で強引に足を急停止させた。

 

 瞬間、ボクの右頰、右脇腹、左足、頭部のすぐ近くを「尖った圧力」が通過した。

 

 背筋に寒いものが走る。――勁力を、自分の周囲に伸びる大量のトゲとして生み出したのだ。

 

 かと思えば、再び勁が球状に膨張。ボクは強風にあおられるようにして吹っ飛ばされた。……ちなみに、あらかじめ【両儀勁】は解いておいた。地面に重心を固定する力と、トゥーフェイの発した力がぶつかり合うのを防ぐためだ。

 

 数米離れたところで受け身をとって立ち上がる。

 

 構え、前手の指先越しにトゥーフェイを照準する。

 

 強い。

 

 今までずっと怠惰に動かないでいた【天下無踪(てんかむそう)】に、ボクはようやく足跡を作らせることができた。

 

 だがそれは逆に、眠れる獅子を叩き起こしただけなのかもしれない。

 

 「力を自在に操る」という【空霊衝】の能力を遺憾なく発揮し、こちらを着々と追い詰めていた。

 

 ここまで変幻自在な勁力を、ボクは見たことがない。まるで実体に触れる幽霊と戦っているみたいだ。

 

 そう思う一方で、分かったこともあった。

 

 

 

 ――あの子には、戦闘経験が足りていない。

 

 

 

 ボクが動きや戦法を変化させでもしないかぎり、攻撃方法がずっと単純なままなのだ。

 

 普通なら、単純な攻撃と思わせて心の隙を作ってから、攻撃方法に変化を与えて不意を突くこともできたはずだ。

 

 けれど、トゥーフェイはそれをしなかった。彼女の攻撃は主に、その場だけを凌ぐためのものだ。後先をほとんど考えていない。

 

 この壊れきった足場がその証拠だ。

 

 おそらく、彼女は衝撃反射技を「使わない」のではなく「使えない」のだ。石畳を壊してしまったことで、足場が不安定になっているからだ。しっかりと立てる地面でないと、あの技はうまく機能しないのだろう。

 

 【天下無踪】であり続けてきた怠惰のツケが、ここに出ていた。

 

 ボクの勝機は、おそらくその「未経験の隙」を突くことにあると思う。

 

 真っ直ぐにトゥーフェイの目を見つめた。その目にはもう眠たげな感じはいっさい見受けられない。あるのは、眼前に立つ敵をことごとく打ち倒そうという気迫のみ。

 

 ――この数分のあいだに、ずいぶんと様変わりしていた。

 

 【黄龍賽(こうりゅうさい)】をただの「小遣い稼ぎ」と断じた怠け者の姿は、とうになりを潜めていた。

 

 あるのは、武法士の姿のみ。

 

 ならば、ボクもその姿勢にこたえて、全力を出すとしよう。

 

 走り出す。その最中も、トゥーフェイの瞳から視線をはずさない。

 

「いい加減、倒れて!」

 

 その赤い瞳が、苛立ちでぎらぎらと輝く。ソレと同時に、自然の風向きに別の風向きが加わる。ボクが右へ避けると、直前までの立ち位置が爆砕した。

 

 赤い瞳がボクを追う。またも不可視の打撃が迫る。またも避ける。

 

 避ける。避ける。避ける。

 

 今までよりも数段避けやすかった。

 

 感覚を研ぎ澄ませたからというのもあるが、もう一つ理由があった。

 

 相手の目を見ているからだ。

 

 何度も言うが、トゥーフェイは今までその場に立っていれば勝利できていた。だから戦闘における駆け引きに慣れておらず、分かりやすい。

 

 その分かりやすさは、おのずと表情や視線に表れる。そこから攻撃を先読みできると今気づいた。

 

 普通、武法士同士の戦いでは、視線でも攻撃を悟られぬように工夫する必要がある。だが何度も言うが、トゥーフェイは戦い慣れていないため、そういった駆け引きが下手なのだ。

 

 あっという間に距離を詰めた。

 

 しかし今トゥーフェイが踏んでいる足場は、幸運にも、割れずに残った石畳。つまり――衝撃反射技が使える。このまま攻撃すれば、ボクの攻撃は跳ね返されるだろう。

 

 だが、それも織り込み済みだ。

 

 トゥーフェイと目を合わせ続けていた理由は、先読みのためだけではない。

 

 ボクは、自分とトゥーフェイの瞳が見えない糸でつながっているという意識で【意念法】を用いながら、くいっと顔を左へ振った。

 

 それにあわせる形で――トゥーフェイの体もボクから見て左へと流される。

 

「っ!?」

 

 息を呑むトゥーフェイ。視線の同調を利用して相手の重心を崩す技【太公釣魚(たいこうちょうぎょ)】の術中にはまった白髪の少女は、大きく体勢を崩して「死に体」をさらす。

 

 ボクはそんな彼女の飛ぶ方向へ先回りする。

 

 呼吸を整え、技を出す心身状態へと体を切り替える。

 

 基準とする力は衝突。正拳で一撃――吹っ飛んだ相手に風のごとく追いついて肘鉄で二撃――またも追いすがって肩口で三撃。

 

 武法において「三星(さんせい)」と呼ばれているそれらの部位による衝撃は、すべて一点へ打ち込まれた。エネルギーが蓄積して強大なダメージへと変化する。

 

 【三星沖撃(さんせいちゅうげき)】。

 

 まともにそれを食らったトゥーフェイは、大きく後ろへ吹っ飛ぶ。

 

 壁に激突。

 

 そのままずるりと滑って仰向けに倒れ、動かなくなった。

 

 官吏がそんな白髪の少女へと駆け寄り、確認を取る。

 

 その表情は青ざめていた。

 

「……心の臓が、動いていません」

 

 ボクも、そして司会役の人もそろって青ざめた。

 

『しょ……勝者、李星穂(リー・シンスイ)選手!! ですが姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)選手、危険な状態! 運営の皆様、大至急、トゥーフェイ選手を医務室まで運び入れてください!!』

 

 準決勝は、衝撃的な幕引きとなった。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 夢を見ていた。

 

 それはそれは幸福に満ち溢れた夢だった。

 

 奴隷のように労働することも、人間同士の余計なしがらみにとらわれることもない。

 

 ふわふわと空をたゆたう雲の上に寝そべり、手元の書を読みふけっているだけで時が過ぎていく。お腹がすいたら口を開ければいい。そうすれば食べ物飲み物が勝手に口の中に入ってくる。

 

 額に汗してあくせく動き回る下界の人々を他人事のように俯瞰(ふかん)しながら、自分は「怠け」という別世界に耽溺し続ける。

 

 それはまさに、姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)という少女にとって理想の生活だった。

 

 しかし、トゥーフェイは他人より賢い少女であった。ゆえにその夢は、人として生を受けた以上、たとえ皇族であっても叶うことがないということを知っている。

 

 そう考えると、一気に気持ちが萎えた。

 

 夢に対して興味を失い、肉体が覚醒を選んだ。

 

 まず目に付いたのは、白い壁。

 背中は、少しだがやわらかい感触の寝台に体重を預けていた。どうやらこの白い壁は壁ではなく天井のようだ。

 周囲には、薬などの医療用具が置かれた棚。

 

 薬臭い空気を大きく吸った瞬間、

 

「んぐっ……!!」

 

 体の芯が、きしむように痛みを訴えた。

 

 その痛みが、寝ぼけていた思考を一気に現実へと引き戻した。

 

 痛みの波が喉へひびき、思わず咳き込んでいると、

 

「気がついた?」

 

 視界の横から、ひょこっと女の子の顔が出てきて、こちらを気遣わしそうに見下ろした。

 

 大きな瞳に、長く反ったまつ毛。桜色の唇。白くまっさらな肌。太く長い三つ編み。

 

 化粧をしていないのに、化粧をした女性以上の美しさを発するその美少女は、自分の知っている人物だ。

 

 敵だ。

 

「あ、あなた、何をして――ぐっ!?」

 

 上半身を起こして李星穂(リー・シンスイ)から逃れようとするが、動こうとした瞬間に再び体の芯から激痛。背中を丸めて縮こまり、歯を食いしばった。

 

「ああっ、無理しちゃだめだよ。君、さっきまでかなり危ない状態だったんだから」

 

「危ない……状態?」

 

「経絡の流れがふさがっちゃって、心臓が止まってたんだよ。経穴(けいけつ)を刺して経絡をこじ開けてから、にごった気を気功術で殺して自然治癒力の働きを促したおかげでなんとか助かったけど。ちなみに今はもう夕方。君、四時間くらい眠りっぱなしだったよ」

 

 そこまで言われて、トゥーフェイはようやく思い出した。

 

 自分は、シンスイに負けたのだ。ここ――医務室の寝台で横たわっていることこそ、なによりの証拠だ。

 

 けれど、それを信じきれずに、問うた。

 

「わたしは、負けたの?」

 

「うん、ボクの勝ち。どういう形であれ、君は意識を失ったんだから」

 

 ぎゅっと、拳が握られる。

 

 最悪だ。これでは完全にムダ骨ではないか。

 

 なんのために、わざわざ予選大会に出るために帝都を離れた?

 なんのために、この大会に出た?

 

 すべては、怠けるための金をためるためである。

 

 だけど、すべてムダになった。試合に負けたせいで。

 

「なんで、ほうっておいてくれなかったの」

 

 震えた声で、そう口にしていた。

 

 シンスイは戸惑いながらも、気遣わしい声で、

 

「いや、放っておけないよ。あのまま放置してたら死んでたんだよ?」

 

「……だったら、それでもよかったのに」

 

「――何だと?」

 

 シンスイが何か口にしたが、構わずに、感情のまま言い募る。

 

「あなたのせいで、ここまで来た苦労が水の泡。このままだと金が足りないで、また面倒なことをしないといけなくなる。そんなの、冗談じゃない。このまま苦労し続けるくらいなら、あのまま殺してくれた方が――」

 

 パァン。

 

 突然、頬に乾いた痛みが走った。

 

 シンスイに横っ面を叩かれたのだ。

 

「ふざけたことを言うもんじゃない」

 

 さっきまでの心配そうな表情から一転、厳しい怒りを表情にたくわえていた。

 

 トゥーフェイの瞳が思わず見開かれた。

 

「君の気持ちは良く分かる。誰だってめんどくさいのは嫌さ。ボクだって、父様との約束さえなければ、こんな大げさな大会になんか出てない」

 

「…………」

 

「でもね、世の中には、君やボクが嫌がる「めんどくさいこと」ができない人間だっているんだ。したくてもできないんだ。そういう人間にくらべれば、君はかなり恵まれている。それを知らずに「めんどくさいから死にたい」なんて言葉を吐くんじゃない」

 

 その声は、厳しくもあり、悲しげでもあった。

 

 表情も込みで、トゥーフェイは自然と察してしまった。

 

 ――おそらく、彼女は知っているのだ。「そういう者」の気持ちを。

 

 自分が味わったのか、近しい誰かの不幸を見たのか、理由は分からない。

 

 けれど、シンスイは間違いなく、「そういう者」の苦しみを知っている。 

 

 トゥーフェイはしばらく、何もいえなかった。彼女の言葉に、説得力がありすぎたのだ。

 

 自分は、自分の父や母を「つまらない人間」だと断じていた。苦労の先に次なる苦労を重ねるような人生を送る二人のようになるまいと、ずっと思っていた。

 

 けれど、それはすべて、自分のためなのだ。

 

 世の中には、そのように家族を持って、幸せに生きたいと願っている者だっている。――だが、何らかの事情で、そういった願いをかなえられない者もいる。

 

 医者になりたくとも、医学を学ぶ金がないせいで諦めざるを得ない者もいる。

 

 病気を治したくとも、治せない者もいる。

 

 それらに比べれば、病気も無く、自身の力で財も築けて、自身の足で歩ける自分の人生の、なんと恵まれていることか。

 

「……わたしは」

 

 けど、人間の人格は簡単に変わらない。

 

「わたしは……怠けるのが好きで、めんどくさいことが嫌い。それは変わらない」

 

 けど、一つだけ変わったものがある。

 

「でも、あなたのことも嫌いで、気に入らない。だから、今度戦うときは必ずやっつける」

 

 この少女は、今まで一度も抱いたことのない気持ちを抱かせてくれた。

 

 その気持ちは、自分が大好きな「怠け」とは程遠い、泥臭く汗臭いものだったが、不思議と胸に入れて不快なものではなかった。

 

 それどころか、常に倦怠感に満ちた自分の体に、奇妙な活力が生まれてくる。

 

「叩いてごめんね」

 

 シンスイはニコニコしながら、こちらの頭をもふもふなでてくる。

 

 トゥーフェイは振り払わない。しかし、ぶすっとした顔で睨む。

 

「……わたし、嫌いって言った」

 

「ボクは結構好きだよ、君のこと」

 

「…………ばか」

 

 かすれた声で悪態をつくトゥーフェイ。

 

 が、なでてくるシンスイの手は、やはり振り払わなかった。

 



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酒乱博覧会

 【黄龍賽(こうりゅうさい)】では予選本戦を問わず、一試合終わった次の日を一日空けてから次の試合をおこなう、という感じで進んでいく。

 

 一日暇をもうけるのには二つの意味がある。

 一つ。選手を休ませること。

 一つ。観客に散財させて、開催地域の金回りを良くすること。

 

 ボクとトゥーフェイの試合の次の日も、その例にもれず、休みが入った。

 

 ――ただし、一日ではなく、三日も休むことになったが。

 

 理由はひとえに、ボクとトゥーフェイのせいだ。

 

 闘技場にびっしり張られていた石畳。あれがほとんど壊れてしまったから、その取りかえ作業をしなければならないのだという。

 

 数枚壊れた程度なら三日も休ませる必要はないが、ほぼ全部となると時間がかかるらしい。

 

 まして、次は決勝戦なのだ。妥協はなおのことしたくないのだろう。

 

 決勝戦――ボクと、劉随冷(リウ・スイルン)が戦う試合。

 

 あのツインテール三十路(みそじ)幼女の顔を思い浮かべるたびに、胸騒ぎを覚える。

 

 自分は、彼女に勝てるのだろうか。

 

 【道王山(どうおうさん)】の頂点に位置する武法士【太上老君(たいじょうろうくん)】。

 

 そんなとんでもない立場に立つ彼女の能力は、相手の未来の動きを読む、という規格外のもの。

 

 緊張するなというほうが無理な話だ。

 

 なので、与えられた三日という猶予の中、ほんの少しでも力をつけねばならないと思った。

 

 試合翌日の昼。帝都の東に広がる平原。

 

 ボクを中心に、ライライ、ミーフォン、センラン、シャオメイがぐるりと輪になって囲んでいた。

 

 張り詰めた沈黙を、ボクの一言が破った。

 

「――いいよ」

 

 瞬間、四人も硬直を解いた。

 

 四人は風のような速度でボクめがけて近寄り、それぞれの技を放った。攻撃の到達までにかかったのはわずか一秒未満だった。

 

 しかし彼女たちが殴った、もしくは蹴ったのは、ボクの残像でいろどられた空気であった。

 

 ボクはライライとミーフォンの間を紙のようにスルリと抜け、高速で圧縮する四人の輪から脱していた。【打雷把(だらいは)】特有の細密な歩法のなせる技。

 

 一番速く次の攻撃に移ったのはシャオメイであった。彼女がこの四人の中で最強かもしれない。もっとも警戒しなければいけない相手だ。

 

 シャオメイの姿が消えたかと思った瞬間には、すでにその正拳がボクの構えの「穴」をすり抜けて胴体に迫っていた。予備動作を極限まで削ることで稲妻みたいな速度を発揮して突く技【霹靂(へきれき)】である。

 

 けれど、構えに「穴」を空けたのは不注意ではなく、そこへ攻撃を誘い込むための「釣り」だ。いくら速い突きでも、どこに来るのか分かっていればそれほど怖くはない。

 

 ボクは体を横へ開くことでシャオメイの拳を紙一重でよけつつ、素通り。本当ならここで一発入れるのだが、「ルール」にのっとって、それはしない。

 

 続いて向かってきたのは、一番近くにいたセンランであった。

 

 突っ込んでくるのではなく、ボクの周囲を矢のような速度で不規則に駆けまわって、どこから来るのか予想できにくくする。肉体的速度ではなく「陰陽の転換速度」という心理的速度を体術に投影させたその動きは、あちこちの角度から放たれ飛び交う銃弾を思わせた。

 

 センランの思惑通りに混乱しそうになる心をしずめ、眼を閉じ、感覚をとぎすます。視覚に執着するから惑う。それ以外の感覚も開くのだ。トゥーフェイ戦で学んだことである。

 

 背後から迫ってくる、細く鋭い風圧を触覚が感じ取った瞬間、ボクは右足を軸にして時計回りに体を右へ向け、センランの突きを回避。そのまま離れる。

 

「ふっ!!」

 

 が、まだ気を休めるわけにはいかなかった。目の前にいたライライの跳ねるような蹴りを、上半身の反りで回避。

 

 鞭のしなりのような蹴りを連発し、ボクはそれを退いて避ける。

 

 避けてはいる。しかし、それは当てるためというより、任意の場所へ誘導するためという目的のほうが大きかった。

 

 背後にいるミーフォンの存在に気付いた時には、すでにミーフォンは技を十全に出せる状態となっていた。

 

「ごめんなさいお姉様っ!」 

 

 謝罪とともに、ミーフォンは稲光となった。出した技は、姉のシャオメイと同じく【霹靂】。しかしミーフォンのは出すのに時間がかかるため、ライライを使って誘導するしかなかったのだろう。

 

 前からは、とんでもない速度で詰め寄ってくるミーフォン。後からは、蹴りを真っ直ぐ走らせてくるライライ。

 

 二つの攻撃が接触するまさにその時、ボクは一気に横へ歩を進めた。

 

「うわっ!?」

 

「きゃぁっ!」

 

 ミーフォン、ライライが短い悲鳴を上げた。ボクという共通の敵を見失ったことで、互いに正面衝突。ぶつかって弾かれ、ごろごろと転がった。

 

 それからやってくる攻撃も、つぎつぎと回避していく。

 

 そう、「回避」。攻撃も防御もしていない。ただ「避ける」だけだ。

 

 この模擬戦は、そういうルールなのだ。

 

 けれど、この五人の強敵相手に、そう何度ももつはずもなく、

 

「うわっ!?」

 

 シャオメイの掌打を食らったことで、模擬戦は終了した。

 

 加減はされていたのでそんなに痛くはないが、勢いで草の上を転がった。

 

 転がって、足裏が地面に付いた瞬間に脚力で跳ね、立ち上がった。

 

「っはーっ、まけたぁー! それで、今回は何秒くらい耐えられたかな?」

 

 問うボクに、シャオメイが淡々と告げる。

 

「一分十七秒。前回よりも十秒ほど伸びたようだが、まだまだだ。【太上老君】に挑むとしたら、最低でも二分は耐えたいものだな」

 

「うえっ……二分かよ。長いなぁ」

 

「当然だ。本来、武法とは死線を生き残るための技術だ。準備をしすぎるということはない。まして、【太上老君】のような化け物相手ならなおのこと。いいか、二分だ。次からは常に「二分を超える」と意識しながら挑め。武法は肉体だけでなく意識も使う。ゆえに、それをするのとしないのとでは天と地ほどの差がある」

 

 もっともなことを言いながら、高ハードルなことを要求してくる【太極炮捶(たいきょくほうすい)】次期トップ。

 

 現在行っている模擬戦は、「回避能力」を養う訓練だ。この四人が攻撃してくるのを必死で避ける。ただそれだけ。

 

 逃げる技術は、ある意味戦う技術よりも大切だ。

 回避はもちろんのこと、圧倒的格上から逃げるのにも役立つ。

 【打雷把】の特徴の一つである「精密な歩法」も、その「逃げる技術」を宿しているのだ。

 

 それに、次に戦うスイルンは、相手の未来の動きを予想できるのだ。

 なので、攻撃は当たる確率よりも外れる確率のほうが高いと言っていい。

 

 【打雷把】の精密な歩法は、確実に相手に一撃を与えるためのものだ。攻撃をかいくぐりながら、自分に有利な立ち位置まで我が身を誘導し、打つためのものだ。

 

 つまり、たとえ「逃げる技術」であっても、歩法を鍛えるならば、それはそのまま「当てる技術」の鍛練に回帰する。

 

 攻撃と回避のつながりが強い武法、それが【打雷把】なのだ。

 

 ボクはお尻に付いた葉っぱを払いながら、シャオメイを見て言った。

 

「それにしても、君まで手を貸してくれるとは思えなかったよ、シャオメイ」

 

 シャオメイは冷たさを感じさせる美貌をふっと微笑みで緩めて、言った。

 

「私としては、鼻持ちならん【道王山】のお山の大将より、お前に勝ってほしいと思っている。いや、勝ってもらわねば困る。もし私を倒したお前があの女に負けでもしたら、「【太極炮捶】は【道王把】よりも劣る」というとらえ方をされかねん。だからこうして協力させてもらっているというわけだ」

 

 そういえば【太極炮捶】と【道王山】って仲悪かったんだっけ。

 

「それに、妹にあれだけ乞われてはな」

 

 呆れたような視線を、その妹に向けるシャオメイ。ミーフォンは手を振ってにこにこ笑っていた。

 

 その様子を見て、ボクは胸にあたたかいものを感じた。どうやら姉妹仲は、以前よりも良くはなっているみたいだ。

 

「それじゃあ、さっそくもう一戦やるとしようか」

 

 気を取り直し、ボクがそう声を張り上げると、ライライが言った。

 

「休まなくていいの、シンスイ?」

 

「大丈夫だよ。というか、あんまり時間ないから、少しでも避け続けられる時間を増やしたいんだ」

 

「でも、もう五回連続よ? あんなとんでもない試合を終えた次の日だっていうのに、無理しすぎじゃないかしら」

 

「平気だって」

 

 気遣ってくれるライライの発言を、ボクはやんわりと断った。

 

「では、今夜は私が良い酒を用意してやろうではないか! 今は訓練に熱を出し、夜には美酒を片手に英気を養おう!」

 

 そこへ、センランが威勢よく提案してきた。

 

 その言葉を聞いて、ボクとセンランを除く全員が「おおっ」と目を見開いた。

 

 一方、ボクはそんな変装皇女の首をがっちり押さえながら、遠くへ引っ張り込んだ。

 

「どうしたシンスイ、痛いぞ」

 

「はいはいごめんね。それよりも、いいのかい? 君はまがりなりにも皇女なんだろ? (いさお)を立てていない庶民にホイホイ施すのは良くないだろうに」

 

「ふふん、皇女の頭脳を舐めるなよ? たしかに私は皇女だが、今は「羅森嵐(ルオ・センラン)」という一介の武法士ということになっているんだ。酒も、ギリギリ合法的な筋から秘密裏に用意できる。私がこれまで何度父上の目を盗んで酒をやっていたと思っている? 甘く見るなよ」

 

 そんな会話を小声で交わすボクら二人。いや、それ威張れることじゃないよね。完全に不良皇女じゃないっすか。

 

「何を話している?」

 

 いきなりシャオメイの声が背後から聞こえ、びくっとするボクとセンラン。

 

 ボクはなるべく不審に思われない表情で、

 

「い、いや、別に何も?」

 

「そうか……ん?」

 

 ふと、シャオメイが何かに気付いたような顔をしたかと思うと、センランの顔を凝視した。

 

「……お前、以前どこかで会わなかったか?」

 

 再びびくっと身を震わせるボク。

 

 まずい。シャオメイは【太極炮捶】宗家の長女という立場上、皇族とお会いする機会があったはずだ。ここで今センランの正体に気づかれたら面倒かもしれない。

 

 ボクは心配になってセンランを見るが、さすが皇女というべきか、図星をつかれた気持ちをおくびにも出さず、にっこり笑顔で嘘を吐いた。

 

「いや、初めてだぞ。私は羅森嵐(ルオ・センラン)という。【太極炮捶】の宗家の者とまみえるとは僥倖(ぎょうこう)だ。以後、よろしく頼む」

 

「そうか……私は紅梢美(ホン・シャオメイ)。妙なことを言ってすまなかった」

 

 軽く握手を交わす二人を見て、ボクは胸をなでおろしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――それから再び、ボクは回避訓練を行った。

 

 夕方まで続け、一分五十一秒を最高記録にしてから、ボクらは『吞星堂(どんせいどう)』に戻った。

 

 お風呂に入り、寝間着に着替えたあと、ボクの部屋にミーフォン、ライライ、シャオメイが集まった。

 

 センランも最後の一人として部屋に入ってきた。

 

 ――直径60厘米(センチ)ほどの酒甕(さかがめ)を肩に担ぎながら。

 

 ドカン! と重量感満載の音を立てて床に置かれたその酒甕の中身は、もちろん酒。

 

 しかし、ただの酒ではなかった。

 

「聞いて驚け! 『通天宝録(つうてんほうろく)』の果実酒だ!」

 

 というセンランの一言に、本当に全員驚いた。

 

 『通天宝録』とは、この煌国で最も有名で、かつ高価な銘酒の一つだ。

 極級、特級、一級、二級、三級の計五つの等級がある。

 一番下の三級でも、庶民の給料二ヶ月分の値が張り、ほっぺたが落っこちそうになるほど美味いらしい。

 

 センランが持ってきたのは、一級。

 

 これは飲まぬわけにはいかぬと、全員が乗り気になった。

 

 煌国では基本、一八歳以下は飲酒してはいけない。

 

 だがそれは司法書に書かれているわけではなく、人々の間で自然と生まれた不文律である。「法的には罪ではないが、道徳的にはあまり褒められた事ではない」というレベルだ。

 

 杯と(ツマミ)もセンランが準備してくれていたので、超高級酒を交えた宴がすぐに始まった。

 

 ミーフォンとセンランは喜び勇んで飲みまくった。

 

 ライライは最初は気が乗らない様子だったが、滅多に飲まない超高級酒というネームバリューに屈し、結局飲むというオチ。

 

 シャオメイも「酒は嫌いではない」ということで、普通に飲んだ。

 

 ボクはというと、一口も付けていない。もともと酒があまり好きではなかったので、ツマミをチビチビ口にしながら三人の飲みっぷりを見るともなく見ていた。

 

 高級酒の量は思いのほか多かったようで、夜ふけになった今でもまだ半分くらい残っていた。

 

 

 

 ――ボクの目の前に混沌が広がっていたのも、その頃だった。

 

 

 

「うへへへへ〜!! おねぇさまにあたひの匂い付けまくるのぉ〜! おねぇさまはあたひのナワバリぃ〜! ほかのオスとメスが寄ってこないようにするんらからぁ〜!! それっ、それぇ!!」

 

「シンスイぃ、なじぇキミは一杯も飲まんのらぁ? ほらほらぁ、美味いぞぉ? キミもたぁんと飲めぃ!」

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!! どうひて、どうひてみんなイジワルするのぉぉぉぉ!? わたしなにもしてないのにひどいよぉぉぉぉぉぉぉ!! ああああああん!! うおおおおおおおんっ!!」

 

「ふははははっ! な、何をそんなに泣いているんだ!? ははっ、はははははは!!」

 

 右隣から胸を擦り付けて甘えてくるミーフォン。

 左隣からしつこく杯を押し付けてくるセンラン。

 床に座りながらわんわん号泣しているライライ。

 そんなライライを見て爆笑しているシャオメイ。

 

 みんなに共通して言えるのは、酒臭いということだ。

 

 酔っ払っている。全員ひどい酔い方だ。

 

「んー、ちゅっ。おねぇさまのほっぺあまくておいしいれす! あたひのくちびるの跡つけまくっててってい的にナワバリ主張してやるぅ。んー、ちゅっ」

 

 何度も右頬へキスしてくるミーフォンは甘え上戸。普段よりもスキンシップの過激さが数割増しで凄まじい。

 

 押し返そうにも、ものすごい力でしがみついているので全然離れない。そうしている間にも、頬や首元にキスマークが増えまくる。

 

 どうしたもんかと思っていた時、むにっ、と、左頬に硬くて冷たいモノが押し当てられた。酒の入った杯だ。

 

「くぉらぁ! シンスイ! ミーフォンと乳繰り合ってばかりいないれ、キミも一杯くらい()っておけぇ! 『通天宝録』らろぉ? ここで飲み逃したらもう一生飲めんかもしれんろぉ?」

 

 その杯の持ち主たるセンランは絡み酒であった。さっきから何度断ってもこうして酒を勧めてくるのだ。

 

「いや、だからボクは飲まないって」

 

「ぬわぁにぃ!? おそれ多くも煌国第一皇女の出す酒が、飲めぬというかぁ!?」

 

 しかもなにあっさり素性バラしてんの。

 

 たちの悪い二人の酔っ払いに挟まれながら椅子に座るボク。

 

 そのすぐ前では、

 

「うええええええええええええええええん!! もぉやだぁ!! なんでみんな巨乳巨乳いうのぉ!? 好きでこんなにおっきくなったわけじゃないもん!! ママのせいだもん!! 巨乳ばっかりじゃなくてわたし自信のこともみてよぉ!! ああああぁぁぁぁぁぁん!!」

 

 床に女の子座りしながら、子供のように泣き叫ぶライライの姿があった。

 

 うん、これは見事な泣き上戸だ。

 

 ボクは迷子に話しかけるような口調で、

 

「ど、どうしたのかな? ライライ」

 

「ぐすっ……みんながね、わたしのことをいじめるの。巨乳だとか、爆乳だとか、乳牛だとか、胸にかんする悪口ばっかりいってくるの。とくにね、【民念堂】の男の子がね、すっごくね、ひどいの。搾って牛乳出せとかいってね、からかってくるの。でるわけないよぉ! わたし牛さんじゃないんだもん! もぉやだ! 男の子なんかだいきらいなのぉ! うああああああああああんっ!!」

 

 認識している時間軸がめちゃくちゃになっているようだ。子供の頃の事まで言っている。

 

 再び泣き出してしまったライライを見ていられなくなったボクは、慰めにかかった。

 

「みんな、ライライが魅力的だから、つい照れ隠しでいじめたくなっちゃうんだ。ライライが憎いわけじゃない。むしろ逆さ。君が可愛いんだ。ほら、小さい男の子ってそんなもんだから」

 

「ぐすっ……ほんとぉ?」

 

「ホント。だからもっと堂々としてなきゃ。ライライは凄く綺麗で可愛らしい女の子なんだから。ボクが保証する」

 

 ライライは無邪気な眼差しでこちらを見上げ、しばらく凝視した後、

 

「ありがとぉ! シンスイ! だーい好きっ!」

 

 子供のような満面の笑みを浮かべ、ボクの腰に抱きついてきた。

 その勢いで座っている椅子が倒れそうになるが、呼吸によって体重を勢いよく沈墜(ちんつい)させ、椅子の四脚を床へ押し付ける。バランスを強引に安定化させた。

 

 背中にライライの手が回り、それが締め付けてくる。同時に、常軌を逸したボリュームを誇る彼女の双丘がふにゅん、と押し当てられる。うわ、改めて見ると凄くデカい。

 

「えへへ、しんすい。しんすい。しーんすい」

 

「あの、ライライ。離れて欲しいんですけど……」

 

「やだ。わたしこのままがいいの」

 

 そう言って、幸せそうにボクに頬ずりしてくるライライ。

 

 いつもの大人びた印象とは百八十度違うその様子に、内心でどぎまぎする。

 

「ちょぉっとお!? なにおねぇさまにだきついてんのよぉ!? はなれなさいよぉ!」

 

「やー! やーっ! ここがいいのーっ!」

 

 ボクに抱きつくライライをひっぺがそうとするミーフォン。駄々をこねるように抵抗するライライ。……子供の喧嘩にしか見えない。

 

「ふはははは! いいぞ、ミーフォン! もっといけ! 攻めろ! ははははははっ!!」

 

 笑い上戸なシャオメイは、爆笑混じりにそうはやしたてる。ちょっと黙っててくれないかな。

 

 ともあれ、今の状況のひどさは伝わっただろう。古今東西の酒乱の数々。名付けて、酒乱博覧会へようこそ!

 

「ちょっと、ふたりとも、落ち着い――むぐっ!?」

 

 とりあえず、美少女二人の取っ組み合いを止めようとしたボクの口に、固いモノが押し付けられる。

 

「ほら飲めぇ! 皇女様の酒飲めぇ! ぐいっといけぇ!」

 

 それは、センランが押し付けた酒杯だった。

 

 甘くて酸味が強い液体が口内へと流れ込んでくる。ごくん。……飲んでしまった。

 

 薬臭い味を想像していたのだが、いざ飲んでみるとオレンジジュースみたいで、酒であることをほとんど感じさせない味わいだった。

 

 ……美味しい。

 

 押し付けられた酒杯から、ごくごくと酒を吸い取っていく。無意識の行動だった。

 

 それが、ボクが冷静にモノを考えられた最後の瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 鳥のさえずりと、窓から差す朝日によって、ボクは深い眠りから目覚めた。

 

 まず目についたのは、ボクの泊まる部屋の天井。

 

 鼻についたのは、甘酸っぱい果実酒の香りと、甘香ばしい女の子の匂い――それらが混ざった蠱惑(こわく)的な匂い。

 

 肌に感じたのは、寝台(ベッド)の掛布団の感触と、何もまとわぬ触覚。

 

 裸だった。

 

 しかも、ボクの上には温もりの塊が乗っかっている。

 

 裸になったミーフォンが、ボクの上で眠っていた。

 

 ボクはギョッと驚いてから、周囲を見回してさらにギョッとする。

 

 大きな寝台の上で裸になって眠っているのは、ミーフォンだけじゃなかった。

 

 ボクの右隣にはセンラン、左隣にはライライ、そのさらに後ろにはシャオメイ。もちろん全員一糸まとわぬ姿であった。

 

 何でみんな裸なの? どうして?

 

 酒と女の子の匂いの中で困惑していると、ボクの胸の上で眠っていたミーフォンが目を覚ました。

 

「んっ……おねぇ、さま?」

 

 寝ぼけ眼の妹分には悪いが、ボクは焦った口調でまくしたてた。

 

「ね、ねえミーフォン、これどういうこと? なんでボクも含めてみんな素っ裸で寝てるの?」

 

 だが、ミーフォンは頬を染めてうっとりとした笑みを浮かべ、衝撃的な答えを発した。

 

「ふふふふ……おはようございます。昨日のおねぇ様、すっごく雄々しくて、素敵でした……」

 

「は?」 

 

「あたし、はじめてなのに、あんな凄くて……もぉ、頭バカになりそうなくらい、気持ちよかったです…………ねぇお姉様ぁ、もういっかい、もういっかいあたしを極楽に連れてってぇ」

 

 猫のように甘い声をもらしながら頬ずりしてくるミーフォンの言葉に、ボクはさーっと血の気が引くのを感じた。

 

 もしかして、そういうこと? そういうことで、そういうことなの?

 

 嫌だ。信じない。信じるもんか。これは公明の罠だ。きっとミーフォンはボクを騙そうとしているんだ。

 

 そう自分に言い聞かせていたその時、左隣から「んうぅ……」とうなる声が聞こえた。ライライが目を覚ましたようだ。

 

 よく見ると、彼女の身体のあちこちには、唇の跡のようなものがあった。特に、その巨大で形の良い乳房に多く付いていた。

 

 ライライと目が合う。

 

「お、おはよう」

 

 ボクはとりあえず挨拶する。

 

 が、ボクを認識した瞬間、彼女はその寝ぼけ眼を大きく開き、さらには顔をリンゴみたいに真っ赤にした。

 

 ライライはボフン、と寝台に顔を埋める。涙で潤んだ目だけこっちへ向け、拗ねたような声で一言。

 

「………………シンスイのけだもの」

 

 ピキリ。

 

 ボクの心のどこかに、亀裂の入る音が聞こえた気がした。

 

 続いて、右隣のセンランも目を覚ますと、頬をほんのり染め、色気を感じさせる笑みを交えて言った。

 

「キミという女は……存外すさまじいのだな。もうすこしで、嫁げぬ体になるところだったぞ。そうなったら……極刑ものだからな?」

 

 もうやめて。ボクのライフはゼロだよ。

 

 シャオメイも目を覚ました。

 

「…………っ」

 

 何も言わなかったが、頬を染め、チラチラと切なげな顔でこちらを見る。

 

 やめてよ。どうしてそんな顔するんだ。美人のそんな表情は可愛らしいけどさ、今のボクには絶望しか感じられないよ。

 

 確定。

 

 ボクは最低だ。酔った勢いとはいえ、この美少女四人を……!

 

「うわあああああああああああああああああああああ――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――ああああああああああ…………あ?」

 

 ボクは一気に目を覚ました。とんでもない悪夢を見たからだ。

 

 ガバッと体を起こし、周囲を見回す。

 

 そこには、床のあちこちでぐったりしている四人の姿。服は――よかった、着てる。

 

 ボクも、床で眠っているうちの一人だった。もちろん着衣で。

 

 耳をすますと、みんなウンウン苦悩するように唸っていた。もしかすると、昨日のお酒が響いて頭痛とかするのかな。

 

 けど、申し訳ないけど、今はそんなことどうでもよかった。

 

「夢でよかったぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!」

 

 とてつもない解放感とともに、ボクは天を仰ぎ見て言った。

 

 ちなみに、頭痛も吐き気もしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教訓。

 

 酒は飲んでも飲まれるな。

 

 あと、ボクは結構強い方みたいだ。

 



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異常事態

 休みが何日増えようとも、時は過ぎるもの。

 

 来るべき日が来るのは、避けられぬもの。

 

 知っているはずなのに、それを認めたくはない自分がボクの中にはいた。

 

 これから始まる決勝戦。最後にして最強の敵との戦い。

 

 あと一試合。されど一試合。

 

 これまで楽な戦いなんてものはほとんどなかった。けれど、今回の劉随冷(リウ・スイルン)との戦いは、これまで以上に厳しいものになることが約束されていた。

 

 彼女には、相手の未来の動きを読む『看穿勁(かんせんけい)』という能力がある。この能力の前では、今まで通じていたあらゆる技が否定されてしまう。

 

 しかし、それでも引き下がるわけにはいかない。

 

 もし負けを認めれば、ボクは武法をやめなければいけなくなる。父様の狙いに乗ってしまう。

 

 それはもっと嫌だった。

 

 だからこそ、とうとうやってきたその日になっても、うろたえず、闘技場に堂々と姿を現した。

 

 司会役の官が、これまで以上に生き生きとした声で言った。

 

『さあ、長いようで短かった【黄龍賽(こうりゅうさい)】も、いよいよ大詰め! その最後の一戦を飾るのは…………この二人ですっ!!』

 

 どぉっ!! これまでにない最高潮で歓声が爆発した。

 

 すり鉢状に広がる観客席と、その底辺に広がる闘技場。

 

 闘技場の中心に立つ二人の武法士——ボクとスイルン。

 

『かたや、【道王山(どうおうさん)】の中で最強の称号【太上老君(たいじょうろうくん)】を継いだ天才! かたや、無名流派であるにもかかわらず、怒涛の勢いで勝ち上がってきた若虎! 勝つのはどちらか、これから決まります!』

 

 歓声がまたも爆発した。

 

 しかし、ボクもスイルンも、そんなものは気にならない。

 

 気になるのは、目の前の相手のみ。

 

「提案。李星穂(リー・シンスイ)、あなたには考えておくべき事がある」

 

 不意に、スイルンが喋りだした。

 

「……なに?」

 

「あなたはこれから、自分の身の振り方を考えておくべきだ」

 

 含んだ物言い。だが、何を含んでいるのかが明らかなその物言いに、ボクはムッとする。

 

「あなたは強い。けれど、わたしはさらに上の境地にいる。あなたが勝てる道理は絶対にない。あなたはこの【黄龍賽】で負けたら、官吏になるための勉強をさせられるそう。そんな父君の思惑に乗るか、家を捨ててでも我を貫き通すか、そういった事を今から考えておくべき」

 

 なるほど、お優しいことを言ってくれる。

 

 けれど、それは全て、スイルンが勝つという前提で出された提案だ。

 

 はらわたが煮えくり返る。挑発なのか素なのか知らないが、あまりにボクを甘く見ている。

 

 怒気をしずめ、真顔で淡々と言い返した。

 

「君こそ分かってるのかな? ……これ、みんなが見てるんだぜ? こんな公衆の面前で君が醜態をさらしたら、【道王山】の名に傷がつくんだよ? それなのに、なんでそんな他人事みたいに言ってられるのか、ボクは不思議でならないよ」

 

 スイルンはあくまで無表情。

 けれど、彼女は【道王山】の最秘伝【太極把(たいきょくは)】の実力を世に知らしめるために、こんな俗っぽい大会に出ているのだ。ボクの今の言葉を、彼女は内心では重く受け止めているはず。

 

「【雷帝】の技を、あまり舐めるんじゃない」

 

 そう鋭く言いつつ、ボクは内心である葛藤をしていた。

 

 【琳泉把(りんせんは)】を使うべきか否か——という葛藤を。

 

 一動作の中に必ず一つ存在する「拍子」。

 複数の拍子を「一拍子」の中に圧縮し、相手の数分の一の時間で動くことができる破格の武法【琳泉把】。

 

 これを使う事ができたなら、この試合での勝率はぐんと上がる。未来の動きを読まれたとしても、スイルンが対応しきれないだけの速度で動けば攻撃は通るからだ。

 

 しかし、これはいまだ、朝廷による使用禁止が解かれていない違法な技だ。もし使ったことがバレたら、ボクは優勝すると同時に捕まるだろう。

 

 一方で思う。皇族の方々は、【琳泉把】を実際で肉眼で確かめたことがあるのか、と。

 

 先代皇帝『獅子皇』こと煌刻(ファン・クー)は、【琳泉把】の情報を徹底的に闇に葬った。なので、その情報は皇族とボク以外に持っていないと言える。

 

 しかも、皇族が持っているのはあくまで「情報」のみ。その目で【琳泉把】を見たわけではあるまい。なにせ、【琳泉把】は根絶やしにされる前から、みだりに見せることを禁じていた極秘伝の武法だったからだ。

 

 つまり何が言いたいかというと、「使ってもバレないのでは?」ということだ。

 

 けれど、万が一の可能性も考えてしまう。

 

 どうしたものか。

 

 だが、それ以上悩んでいる時間はなさそうだった。

 

 司会役が、口を開いた。

 

『では、今年の【黄龍賽】を締めくくる、最大最後の一戦! その火蓋を切る役を、この私が引き受けましょう! なんと光栄な役回りでしょうか! 大変緊張し、興奮を禁じ得ません!! それでは、【黄龍賽】決勝戦————始めっ!!』

 

 試合開始の合図と同時に、銅羅(ドラ)——ではなく、「鐘」が鳴り響いた。

 

 カーンカーンカーンカーン!!

 

 甲高く、耳に突き刺さるような鐘の音が、危機感を煽るように連続で鳴らされた。

 

 なんだこれは。決勝戦は、こんな風に始めるのか?

 

 しかし、観客もみな鐘の音にざわざわと動揺しているようす。その中には、去年の【黄龍賽】決勝を見た者だっているはず。

 

 つまり、この鐘の音が決勝戦開始の合図である可能性はないと言っていい。

 

「これは……緊急」

 

 そう発したのは、スイルンだった。

 

 常に何を考えているのか分からない無表情な彼女だが、今は微かながら、緊張感が見てとれた。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 ——その鐘が鳴らされる、約三十分ほど前。

 

 

 

 菓子売りの竹江(ジュー・ジャン)は、ところどころ小さなシワのついた壮年の顔に満ち足りた表情を浮かべていた。

 

 今日も店先はてんやわんや。皿に乗った甘味の数々を並べた長い勘定台の前には、長蛇の列ができていた。

 

 【黄龍賽】本戦が始まってからは、列が伸びているのがはっきり分かった。遠方から武法士たちの戦いを見に来た見物客だ。

 

 その【黄龍賽】も、そろそろ決勝戦が始まるだろう。客から聞いたところだと、勝ち残ったのは【道王山】の頂点に位置する武法士と、【打雷把】とかいう聞いたことのない無名流派の少女の二名だという。

 

 けれど、武法のことに疎いジャンはそれを聞いてもうまく理解ができないし、しなくても良いと思った。自分が関わることは、まず無い世界だろうから。

 

 それに、自分の戦場は彼らとは違う。自分の戦場はこの店だ。

 

 ただ菓子を売っていれば良いというものでは無い。おんなじ品物ばっかり売っていたら、いくら美味くともいずれは飽きられる。なので創意工夫を重ね、飽きられぬ努力が必要なのだ。『甜雲包(ティエンユンパオ)』、『彩饅頭(ツァイマントウ)』、『柔琥珀(ロゥフーポー)』などといったものも、その創意工夫の産物である。

 

 ジャンにとって、それは戦いであると同時に、楽しみでもある。

 

 この店で商売をしていることこそ、ジャンにとっての幸せなのだ。

 

 そう——『獅子皇』による蛮族征伐に巻き込まれ、生まれ故郷ごと全てを失った昔のジャンには、とても想像がつかなかったであろう生活だからだ。

 

 「皇帝陛下の勅」という(にしき)の御旗のもと、食料品などを全て国軍に接収された。さらにその地も戦火に見舞われて焼け野原になった。何もなくなったその時から、今の生活にいたるまで、少しずつ努力を重ねてきたのだ。

 

 この国を恨まなかった、と言えば嘘になる。けれど、恨みを抱いたところで、自分のような一介の庶民に何ができようか。結局、皇族などといった「大きなもの」の意思と折り合いをつけて生きていかねばならないのだ。

 

 それに、すでに過去のことだ。今はこうして生活を立て直せているため、それでよしとする。

 

 だが、そうやって折り合いをつけきれない者も、中にはいた。

 

 そういった「国への恨みを忘れられぬ者たち」が秘密裏に団結し、いつか朝廷に対して反旗を翻そうとしている。そんな噂もある。だが、それはきっと都市伝説だろう。

 

「すんませぇん、おやっさん、ちょっといいかぃ?」

 

 ふと、声がかかった。ジャンはつまらぬ思考を打ち切り、商売へと心を切り替えた。

 

「はいよっ。何が……欲しいんだい?」

 

 一瞬、言葉に詰まった。

 

 声をかけてきたらしいその男の格好が、とんでもなく奇抜だったからだ。

 

 まず目に付くのが、その独特な頭髪。長い髪を無数の細い三つ編みにしたその髪型は、頭からたくさんの子蛇が生えているようすを連想させる。

 右頬には三日月状の傷跡。金色の瞳は確かにこちらを向いているが、その両眼からは生命の輝きが感じられない。硝子(ガラス)玉のような無機質さだった。

 ヘソ周りだけを露出させた詰襟の長袖。(うり)のような膨らみを持った長褲(長ズボン)の左腰には、細身で反りのある長い刀——確か、「苗刀(びょうとう)」という刀だ——がぶら下がっていた。

 

 そんな風貌に驚きつつも、冷静に心を保つ。この男は客の列から外れて話かけてきている。つまり、買い物目的ではないということ。

 

 ジャンはその金眼の男に話しかけた。

 

「何か用かい、お兄さん。お客さんいっぱいいるんだから、手短にね」

 

「分ぁかってるってぇ。えっとなぁ、おやっさん————死んでくれぇ」

 

 次の瞬間、景色が傾いた。

 

 何かにつまづいてよろけたのだと思い、下半身の安定を取り戻そうとする。が、腰から下の感覚が無い。

 

 そのまま景色が右から左へ流れ、自分の視点の高さが低くなっていき、やがて側頭部への衝撃とともに景色の流動が止まった。

 

 自分は倒れたのか?

 

 見ると、あの金眼の男は、いつの間にか腰の苗刀を抜き放っていた。真っ黒なその刀身が、虹色の光沢を放っていた。

 

 勘定台のすぐ手前に——ジャンの「腰から下」が立っていた。

 

 ジャンの片割れがどちゃ、と倒れた次の瞬間。

 

「き……きゃあああああああああああああ!! 人殺し!! 人殺しぃ!!」

 

 その絹を裂くような悲鳴を皮切りに、街路のあちこちで悲鳴がとどろいた。

 

 自分の店に並んでいた客たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ——ようとした瞬間に首から上が消失。血しぶきが舞う。

 

 あの金眼の男が電光石火の速度で動き、客たちを一瞬で斬り殺したのだ。

 

 この男から離れた場所から、苦痛を訴える絶叫が次々と聞こえてきた。見ると、剣や刀で武装した者たちが、何も持たぬ人間たちを次々と殺しているではないか。

 

 悲鳴。絶叫。血臭。赤く染まりゆく街並み。

 

 さっきまで平和な喧騒に包まれていた様子が、嘘のような血河死山と化していた。

 

 昔に目の当たりにした、生まれ故郷での地獄を思い出させた。

 

「悪りぃなぁ。おたくらにゃ恨みはねぇが、雇い主のお命じでねぇ。この周音沈(ジョウ・インシェン)のぉ斬られ役になってくれやぁ」

 

 金眼の男が発した、感情のこもっていない、無機質な言葉。まるでこの虐殺を割り切って行っているかのような心情が感じられた。

 

 心胆からのおぞましさを覚えながら、ジャンはおのれの一生に幕を下ろした。



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団結の旗印

 【尚武冠(しょうぶかん)】の円環状の観客席を分断する形でそそり立つ、長方形の建築物。

 

 「管理塔」と呼ばれているその建物の下層は【黄龍賽(こうりゅうさい)】運営部の詰所であり、上層は皇族たちのための特等観戦室となっている。

 

 その特等観戦室にて。

 

「何だとっ!?」

 

 緊急の鐘が鳴ってすぐ聞かされた急報に、煌国第一皇女の煌雀(ファン・チュエ)は我が耳を疑った。

 

「はっ! 繰り返しお伝え致します! 街に突如として、正体不明の武装集団が出現! 民衆を無差別に殺害しているとのこと! 死者の数は現在、約二百人!」

 

 皇族の前で片膝をついたまま、先ほどと同じ情報を口にした衛兵。

 

 もたらされた情報の凄惨さに、チュエは現実感を感じられなかった。寝ぼけていたところに冷水をぶっ掛けられた気分だった。

 

 しかし、臣下が冗談でそんな事を言うわけが無い。チュエは気を強引に引き締め、言葉を発した。

 

「治安局の者は何をしている!?」

 

「はっ! 執行部隊が制圧に向かいましたが、約七割が死亡、三割が負傷!」

 

 その情報がさらにチュエの心を揺さぶった。治安局は下級とはいえ武官だ。武法もそれなりにたしなんでいる。それがあっさりやられた。

 

 つまり、その武装集団は大多数が武法士であるということ。

 

 長兄である煌天橋(ファン・ティエンチャオ)が、その妖精のような美貌に緊張をかすかに帯びさせながら問うた。

 

「治安局の手に負えなかったら、いよいよ国軍の手を借りるしかない。もう要請は済ませたのかい?」

 

「はっ! しかし、兵を向かわせることはできませぬ!」

 

「何故だ! 大事であろう!? なぜ動けぬ!?」

 

 チュエが思わずそう鋭く訊く。衛兵は悔しげに歯噛みしながら、驚くべき言葉を発した。

 

「はっ! ……兵舎にて待機中であった兵士のほぼ全員が、全身に麻痺を訴え、その場から一切動けない状態なのであります……!!」

 

 頭が真っ白になる。

 

 軍が、動けない……!?

 

 それでは、反撃さえできないではないか。その武装集団が民を虐殺する過程を、指をくわえてながめていることしかない。

 

 現皇帝である父が低く、重く言った。

 

「武装集団とやらが現れたのと同じ時機に、多くの兵士に同じ症状が現れた。……同一犯の仕業としか思えぬな。おそらく、何か特殊な薬によるものだろう?」

 

「はっ! 気付け薬を飲んだ衛兵らが兵舎に入って調べた結果、兵舎のいたるところに『通雷塔(つうらいとう)』を焚かれた痕跡を発見!」

 

 その情報に、皇族一同が大なり小なりの驚愕を示した。

 

 『通雷塔』とは、医療用の薬香(やくこう)の一瞬である。主に感覚を鈍らせて、負傷による痛みを和らげる用途で用いられる。

 

 だが、取り扱いが難しい上、悪用するとろくなことにならないので、強力な睡眠誘発効果を持つ『円寂塔(えんじゃくとう)』と同じく、医師の資格がある者しか買えぬようにしている。

 

 その『通雷塔』を、兵士の大半が戦闘不能になる量を用意するとなると、結構な金がかかる。

 

 おまけに使用期限があるため、長年にわたって買い貯めておくという手も不可能だ。

 

 つまり、今回の計画の実行のため、急激に『通雷塔』を買い占めたということ。

 

「そういえば、つい最近、砂糖を大量に帝都に運び込んでいた妙な連中がいたと聞いているけど……もしや、「このため」かな」

 

 ティエンチャオが静かに呟いた言葉は、チュエが行き着いた考えと全く同じものだった。

 

 大量の金品をそのまま帝都の関に運び込むと、高確率で怪しまれてしまうだろう。なので、その大量の金品を砂糖に替えることで、怪しまれにくくする。

 

 そうして帝都に運び入れた砂糖をまた金に戻し、それで大量の『通雷塔』を購入する。

 

 ティエンチャオは壁に寄りかかり、考え込むように目を閉じながら、

 

「だとしたら用意周到なことだ。計画性を感じずにはいられないね。その武装集団とやらも、かなり組織立っている。単なる暴徒と思ってかかるのは危ういだろう。ところで、もう近隣都市に駐留している軍への応援要請は済ませたんだろう?」

 

「はっ! ですが、近隣の兵力が帝都に到達するまでの時間は……最低でも三日はかかるかと」

 

「そうか……そういえば、その武装集団とやらはそれほどまでに強いのかな? 治安局も下級武官とはいえ、それなりに訓練を積んだ武法士だ。暴徒程度に遅れをとるとは思えない。なのに七割も戦死者が出ている。これは普通に考えて異常なことだ。近隣国から侵攻してきた軍隊を相手して七割死んだ、という方が説得力に満ちているよ」

 

 「戦死者」という重い言葉をあえて用いて、事の重大さを強調するティエンチャオ。

 

 衛兵はやや歯切れ悪そうに、

 

「はっ! ……実は私も、かろうじて生き残った治安局の者にそのことを訊いたのです。すると、彼らはみな口々にこう言いました。『まるで、「自分たちよりも速い時間の流れ」に身を置いているかのような、異質な素早さだった』と」

 

「よくわからないぞ!」

 

 父のかたわらに立っている末妹のルーチンの非難に「はっ! 申し訳ございません!」と謝罪する衛兵。

 

 チュエも今回ばかりは、愚妹の感想に同感だった。

 

 自分たちよりも速い時間の流れ? 異質な素早さ? どういう意味か。

 

 そんな武法、聞いたことがない。むしろ、そんなとんでもないものがあったら、不謹慎だが、自分が見に行きたいくらいだった。

 

 ――いや。待てよ。どこかで聞いたことがある気がする。

 

 膨大な武法知識の中に、引っかかりを覚えた。しかし、その具体像が見えてこない。

 

 チュエが頭を悩ませている間に、ティエンチャオが「分かった。ありがとう。もういいよ、下がって」と衛兵を下がらせた。それからため息をつき、

 

「……さて、困ったぞ。こうしている今でも、くだんの武装集団は帝都を我が物顔で闊歩している。にも関わらず、それを止める役目を持つはずである帝都の兵力は機能不全。援軍の到着も三日またいだ後だ。あまり考えたくはないが……援軍が来るまでにこの帝都が陥落させられる可能性もあると言える」

 

 それはつまり、この国が滅びるということ。

 

 チュエの中に、強い焦りが生まれる。それを懸命に押さえるが、どうしても殺しきれない。

 

 不意に、皇族の側で常に控えていた宮廷護衛隊隊長、郭金昆(グォ・ジンクン)が片膝をつき、次のように告げた。

 

「僭越ながら申し上げます。兎にも角にも、まずは皆様と民の避難が先決かと。これは、戦乱期後に初めて訪れた国家的危機です」

 

「……そうであるな」

 

 疲れたような、重い腰を上げたような皇帝の反応に対し、ジンクンはさらに申し出た。

 

「陛下、差し出がましい事だとは百も承知でございますが、私めより一つ提案がございます。口に出すことだけでも、お許しいただけませんでしょうか?」

 

「申してみよ」

 

 皇帝があっさりと許可した瞬間、ジンクンは「では」と前置きしてから話し始めた。

 

「まず、皆さまは【煕禁城(ききんじょう)】地下にある皇族専用の避難場所へと身を隠すべきです。あの場所は皇族と、ごく一部の護衛官しか知り得ない秘密の場所。入れば見つかる心配はありません」

 

「……建国以来一度も使った事のない、あの場所を使うのか」

 

「はい。さらに、民の避難場所はこの【尚武冠】にすべきかと。【尚武冠】は闘技場であると同時に、砦と同じような軍事的防御力も兼ね備えております。出入り口も少なく、周囲を覆う壁も帝都の外壁と同等の強固さと登りにくさ。……ただ、問題点が一つございます」

 

「申してみよ」

 

「はっ。援軍が来るまでの食糧でございます。【尚武冠】には防御力はあれど、備蓄の食糧がありません。兵糧攻めを受けたなら、ひとたまりもありませぬ。……あくまでも「提案」です」

 

 一同、苦々しい顔をした。

 

 この選択ならば、国の旗印たる自分たちは助かるだろう。

 

 しかし、代わりに民が飢えと殺戮に苦しむこととなる。

 

 もしそうなれば、たとえ援軍が賊どもを打ち破ったとしても、民の不興を買うこととなろう。現状しか見ずその先をまったく見ていない、向こう見ずな対処療法だ。

 

 国の下地を支えるのは民。皇族は旗印。どちらも軽視してはならない。

 

 重苦しい沈黙が場を支配する。

 

 なにか、他に手はないのか。チュエはそっと目を閉じ、考えた。

 

 そもそも、今回これほど苦境を強いられているのは、戦力となる者がほとんどいないからだ。兵も全員が毒に冒された訳ではないだろうが、残った兵を集めたところで、武装集団には敵わないだろう。無駄死にさせるだけだ。

 

 援軍もすぐには来れない状況。

 

 他に、どうやって戦力を確保すればいい。

 

 しばらく考えた末、ある手を思いついた。

 

 チュエが沈黙を破った。

 

「父上、兄上、それにルーチン。妾(わらわ)から一つ、提案がある」

 

「なんだ?」

 

 返事をした皇帝を含む一同が、こちらに視線を向ける。

 

 チュエは大きく息を吸い込み、覚悟を決めて口にした。

 

「――妾を置いて、即刻ここから逃げて欲しい」

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 鐘の音が鳴り響いてからというもの、【尚武冠】の客席はざわめきっぱなしだった。

 

 緊急の鐘であることは、危機感を煽るような鳴らされ方でもう察しているに違いない。けれど、なぜそれを鳴らしているのか分からない。

 

 その未知の危機感が、ざわめきをさらに高めていた。

 

 かくいうボクも、奇妙な焦燥感を覚えていた。

 

 何が起きているのか分からない。だが、たぶん、とんでもないことが起きているのだ。

 

 観客の何人かが、席を立って客席から立ち去ろうとした、その時。

 

「――静粛に!!」

 

 会場を包み込んでいたざわめきを、凛とした女の一喝が剣のように貫いた。

 

 一気に場が静まり返る。

 

 今の声には聞き覚えがある。ありまくる。

 

 ボクは視線を横へ向ける。

 

 そこには、思った通りの顔があった。

 

 猫目石のように光沢が強い、チョコレート色の長髪。玉(ぎょく)のように白い肌の顔に、美しくも威厳ある顔立ちが浮かんでいる。

 

 豪奢な衣装に身を包んだその少女は、伊達眼鏡を外して三つ編みを解いた羅森嵐(ルオ・センラン)。すなわち――

 

 

 

「妾は煌国第一皇女、煌雀(ファン・チュエ)である!!」 

 

 

 

 闘技場まで降りてきていた皇女殿下は、先ほど同様、貫くような声でそう名乗った。

 

 この声は普通の人が出そうと思っても出せないものだ。武法によって内部器官を鍛錬しなければ、これだけの声は出せない。

 

 厳かな語気で、皇女殿下は続けた。

 

「先ほどの鐘の音は、断じて訓練にあらず。……皆の者、どうか落ち着いて聞いて欲しい。今この【尚武冠】の外、市井では大変な事が起きている。突如として湧き出た賊どもが、無辜の民を虐殺しているのだ」

 

 ざわっ!! と観客の声が跳ね上がった。

 

 あまりに予想外な内容に、ボクも驚愕を禁じ得なかった。

 

「その者どもは、賊とは思えぬほどに武の腕が卓越している。治安局の手には負えず、帝都の兵も賊徒どもの姦計にまんまとしてやられた。じきに近隣都市から援軍が駆けつけるが、それも何日かかるか分からない」

 

 ざわめきがこれまで以上に高まった。パニックに発展する一歩手前で踏みとどまっている状態だ。

 

 無理からぬことである。なにせ、暴れ回っている賊に対し、抵抗する術が何もないというのだ。それでは、ただ黙って皆殺しにされるのを待つだけではないか。

 

 その恐慌を、皇女殿下は神妙な面持ちで受け止めていた。

 

「まさに我らの不徳の致すところである。それを我が肝に銘じた上で――厚顔無恥ながら皆の力を頼りたい」

 

 全ての視線が、いっせいに皇女殿下へ向いた。

 

「まず始めに言っておく。今から言うことは強制ではない。妾は、名乗り出た者に「命をかけろ」と告げねばならぬからだ」

 

 そう前置きしてから、殿下は本題に入った。

 

「妾は父と兄、妹を宮中に逃し、ここに残った。無論、賊どもと戦うためだ。そこで、この【尚武冠】に集まる武法士たちで義勇軍を結成し、妾とともに戦って欲しい。我々は今、何一つ戦力を持たぬ状態だ。なので、民衆の中から戦える者がいたら、どうか力を貸して欲しい。もし、協力してくれたならば、謝礼として一人あたり10万綺鉄(きてつ)を約束する。――どうか、お願いしたい。我らのためではなく、この国のために」

 

 そう言って、皇女殿下はこうべを垂れた。

 

 困惑の声が幾重にも重なり合う。

 

 皇女が頭を下げてまで頼み込んできたこと、10万綺鉄という少なくない謝礼があること、国家の危機であることなどを踏まえると、参加すべきではないかと言う声が多かった。

 

 だが、相手は治安局を軽くあしらい、国軍さえも策略で木偶の坊にしてみせるほどの連中だ。返り討ちにあって命を落とすかもしれない。……そんなリスクとリターンの勘定が、彼らに二の足を踏ませていた。

 

 でも、はっきりと分かることがある。

 

 皇女殿下は、裏表なしの本心で助けを求めている。

 

 ずっと「管理塔」の最上階にいたはずの彼女が、わざわざこの闘技場まで降りてきた理由。

 

 それは、民衆と同じ高さに立つことで、「命令」ではなく「依頼」であることを強調するためだ。

 

 正規兵でもない庶民を無理やり戦地へ送るような真似をしたら、あとあとになって感情的なしこりを残しかねない。それに、強引に動かした非正規軍ほど士気が低く、もろいものはない。

 

 それを分かっていたからこそ、皇女殿下は「命令」で義勇軍を作ることをしなかったのだ。

 

 会場は、今なお明確な返事を出せずにいる。

 

 このままでは、ずっと決まらずじまいだ。

 

 なのでこの場合、きっかけとなる「一人目」の存在が必要だ。「一人目」の有志が現れれば、それを皮切りにどんどん増えていく。人間とはそういうものだ。

 

 ボクはおもむろに皇女殿下へ歩み寄る。

 

 その御前にて片膝をついて跪き、右拳左掌の抱拳礼をした。

 

 

 

「皇女殿下、どうかこの私を、あなた様の指揮下に加えては頂けませんか」

 

 

 

 会場が静まり返った。

 

 ボクは目を見開いた皇女殿下を見上げながら、さらに続けた。

 

「今はまごうことなき国家の大事。どうしてあなた様の頼みを袖にできましょうか? ――【雷帝】強雷峰(チャン・レイフォン)が一番弟子、李星穂(リー・シンスイ)、義勇兵としてここに志願致します。どうかこの総身を護国の槍として、あなた様の随意にお使いください」

 

 再び場がざわめいた。「おい、聞いたか今の?」「【雷帝】って、あの【雷帝】だよな?」「ああ、どんな相手も一撃で殺してきたっていう」「あの子、【雷帝】の弟子だったのか」「道理で強ぇわけだ」……口々にそう言っていた。

 

 ――【雷帝】の武名、死してなお健在なり、か。

 

 レイフォン師匠の名前を出したのはワザとだ。

 

 かの有名な【雷帝】。

 その一番弟子が戦いに参加する。

 その事実を見せつけることで、その他大勢にかすかながらの安心感と士気を与える。名声に頼るのはあまり好きではないが、この際かまっていられない。

 

 皇女殿下は泣き笑いのような表情を浮かべていた。

 

 だが、すぐに公人の表情に引き締めた。

 

「かたじけない。そなたほどの使い手が味方になってくれるのなら、これほど心強いことはない。そなたの命、妾が責任を持って預からせていただこう」

 

 そこまで言うと、ボクの隣にスイルンが跪いた。同じように抱拳をし、抑揚に乏しい声で告げた。

 

「【道王山(どうおうさん)】最高位門人【太上老君(たいじょうろうくん)】であります、劉隋冷(リウ・スイルン)です。わたしも、国の命運を賭けたこの戦に参加したく思います」

 

「そなたもか! 【太上老君】の力まで借りられるとは、なんと運が良いことか。感謝する。ともに戦おうぞ」

 

 そう嬉しげに感謝を告げるお姫様をよそに、ボクは隣のスイルンに横目を向け、

 

「意外だね。引き受けるとは思わなかったよ」

 

(いな)。そして心外。今は誇張を抜きにしてこの国の危機。ここで武を振るわない理由はない。実利の面から考えても、ここで手を貸しておく方が【道王山】の名誉のためになる。その頂点であるわたしが尻込みすれば、【道王山】は山賊風情に恐れをなした臆病者の集まりだと揶揄されかねない」

 

「そういうもんかな」

 

()。そういうもん」

 

 ボクの口調をマネて頷く三十路幼女。意外とノリは良いのかも。

 

 さらに、観客の中から、次々と挙手し、義勇兵に志願する者が現れだした。

 

 俺も、俺も、私も、俺も――

 

 それはやがて、観客席全体にまで及んだ。

 

 全員が挙手したわけではない。けれど、大多数の武法士たちが戦う意志を示した。……その中には、本戦参加者も含まれていた。

 

 皇女の頼み。謝礼金。他の人が志願したからそれに便乗。理由はいろいろあるだろう。

 

 けれど、みな心の中でこうも思っているはずだ。

 

 「座して死を待ちたくない」と。

 「戦うべき時に戦わぬ武法などただの踊りだ」と。

 「故国をタチの悪い害虫から守りたい」と。

 

 皇女殿下は眩しいものを見るような微笑みを見せていた。

 

 きっと、彼女も望み薄だと思っていたのだろう。だがその予想に反し、多くの有志が集まってくれた。

 

 それが驚きであり、同時に、たまらなく喜ばしいのだろう。

 

 皇女殿下は幾度か深呼吸すると、表情を戦意で引き締め、鋭く大きな槍のような声を発した。

 

「では、まずは作戦の概要を説明する!! 義勇軍を二つに分け、それぞれ分担して行動をとってもらう!! 「防衛班」と「遊撃班」の二組だ!!」

 

 息を吸い込み、発する。

 

「「防衛班」の任務は、この【尚武館】を死守することだ!! 【尚武館】は、闘技場であると同時に、軍事施設と同じだけの防御力を備えている!! その機能を生かし、民の避難場所として使用する!! 「防衛班」はこの【尚武冠】の正門と、民の避難場所として扱うこの闘技場を死守してもらう!!」

 

 息を吸い込み、発する。

 

「「遊撃班」の任務は、敵を各個撃破しながらの民の救出、ならびに帝都にある食料の確保だ!! つまり「遊撃班」には、民と食料をこの【尚武冠】に運ぶ役割を担ってもらう!! 民の安全はもちろんのこと、何日立てこもるか分からぬ以上、食料の確保は死活問題!! 今回の作戦の如何は、この「遊撃班」の活躍にかかっていると言っても過言ではない!!」

 

 息を吸い込み、発する。

 

「次に、「防衛班」「遊撃班」に参加する者を分別する!! 分別基準は、武法の流派で決めさせてもらう!!

 「防衛班」には、【太極把】【番閃把(ばんせんは)】【扎捶(さっすい)】【閃穿脚(せんせんきゃく)】【心意把(しんいは)】【蛇形番閃把(じゃけいばんせんは)】【空霊衝(くうれいしょう)】【弓形把(きゅうけいは)】【牛鶏双意把(ぎゅうけいそういは)】【延扎招(えんさつしょう)】【游山派(ゆうざんは)】【鶴形把(かくけいは)】【六合嵐手(ろくごうらんしゅ)】、これらの者たちに加わってもらう!!

 「遊撃班」には、【打雷把】【龍行把(りゅうぎょうは)】【心意盤陽把(しんいばんようは)】【通背蛇勢把(つうはいじゃせいは)】【刮脚(かっきゃく)】【転纒擺殲招(てんてんはいせんしょう)】【奇踪把(きそうは)】【九十八式連環把(きゅうじゅうはちしきれんかんは)】【五元把(ごげんは)】【虎勢把(こせいは)】【虎隼双形把(こじゅんそうけいは)】【(りゅう)()双形(そうけい)転墜(てんつい)穿崩(せんほう)殲遍(せんぺん)(てん)()(しょう)】【酔漢把(すいかんは)】、以上の流派に担ってもらう!!

 固定された特徴の無い【太極炮捶(たいきょくほうすい)】および、名を呼ばれなかった流派の者は、自分の技の向き不向きを確認した上で、どちらへ加わっても良しとする!!」

 

 ずらりと並べられた流派名の数々に、ボクは目を見開いて驚いた。

 

 今の流派は全て、帝都およびその周辺に伝承がある武法に他ならない。さらに、それらの武法の向き不向きを考慮した上で、適任と思える役割に分けたのだ。

 

 これは、ボク同様に武法をこよなく愛する彼女にしかできないことだ。

 

 周囲の興奮を感じる。皇女殿下の指揮に、何か凄みを覚えたのかもしれない。

 

 さらに、禁止事項など、いろいろと細かい説明がなされた。

 

 それを終えると、皇女殿下は最後にこう言った。

 

「厳しい戦いになるだろう。死者も出るやもしれぬ。そんな危険な戦に身を投じてくれた諸君らに、妾は深い感謝の意を示し、武運の長久を切に願う。――我らが煌国に、恒久なる煌めきがあらんことを!!」

 

 会場全体から、太陽に届かんばかりの(とき)の声が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、戦いの火蓋が切って落とされた。

 

 皇帝の膝下たる帝都にて多くの血が流されたその争乱はのちに——『帝都事変』という、戦乱後最悪の事件の一つとして語られることになる。

 



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遊撃班①

 

 そういうわけで、ボクは遊撃班として市井に出た。

 

 一応、この異世界に転生してから、流血沙汰を目にする機会はそれなりにあった。

 

 元文明社会人としては好ましくないことではあるが、武人としての胆力をつけるという意味では無駄ではなかった。

 

 もしそうやって見慣れていなかったら、血が流れているのを見ただけで体も思考も動かなくなっていただろうから。

 

 だとしても。

 それを踏まえたとしても。

 目の前に広がる光景は、立ち止まらずにはいられないものだった。

 

「なによ……これ」

 

 呆然としたライライの声。

 

 ボクも同じことを心の中で思った。

 

 曇り一つない青空の下に広がっているのは、帝都の変わり果てた姿だった。

 

 あらゆる建物が無惨に半壊し、石材や木材の破片が無数にちらばっているさまは、まるで台風が去った後のようだ。

 

 無数の破片に混じって倒れているのは、人間。すでに息が無いことが一目で分かる死体ばかりだった。

 

 あちこちに横たわった死体からは、赤黒い血が水たまりのように広がり、石畳の溝を伝ってさらに広がっていく。

 

 風に乗って流れてくるのは、悲鳴、血臭。

 

 今、目の前に広がっているその光景は、誇張無しの地獄絵図だった。

 

 戦場。

 

 その二文字が頭に浮かんだ。

 

 ここはもう、あの賑やかで笑顔にあふれていた街並みではない。

 血と殺戮が跋扈する、慈悲のかけらも転がっていない戦場。

 おぞましい。

 そう思った。

 

 が、それ以上に――どうしようもないくらい頭にきた。

 

 ボクらはついこの間まで、この街でお菓子を食べたり、酒を飲んだり、そんな楽しく平和な日常を過ごしていたのだ。

 

 そんな日々を、血の赤色で塗りつぶされたのだ。

 

「い、いやあああああああ!!」

 

 女の悲鳴。近い。

 

 振り向くと、そこには尻餅をつく若い女性と、その上で刀を振りかぶった「黒い男」がいた。目元を除いてすべてが黒づくめという怪しさ満点の格好。

 

 敵だ――即座にそう判断したボクは、足元に転がっていた石畳の欠片を蹴っ飛ばした。

 

 黒づくめがそれを防ぐために費やした一瞬の隙を突く形で、風のように間を詰めた。

 

「この畜生がっ!!」

 

 震脚による強い踏み込みによって増幅させた自分の重心を拳に込め、矢のごとくぶつける一撃。渾身の勁力と義憤を込めた【衝捶(しょうすい)】。

 

 当たる。避けられるタイミングじゃない。どうにかしようとする前にボクの拳がこの畜生を貫くだろう。

 

 ――そのはずだった。

 

 瞬間、黒服の身体の輪郭が、(おぼろ)のようにボヤけた。

 

 かと思えば、確実に当たる距離であるはずのボクの拳が達するよりも、さらに速く動いた。……その動きは、まるでビデオテープを早回ししたことで高速で動き回る、テレビの中の人物を連想させるものだった。

 

 胸騒ぎを感じたボクは、踏み込みと同時にその足に強い捻りを加え、身体を左へ展開。【衝捶】から【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】へと急きょ変更させた。

 

 体を開いたことで、相手から見た体の面積が小さくなった。そのためだろう。一瞬後、すれ違いざまに黒服が放った太刀筋が、さっきまでボクの左腕があった位置を通過した。

 

 ――刹那の時間で、それらの薄氷のやりとりが繰り広げられた。

 

 黒服はボクの後方まで来ると、そのおぼろげだった輪郭がハッキリとした形に戻る。さらに、テープの早回しみたいな異質な速度も消えた。

 

 すると、そいつの動きがそこで止まった。まるで、足全体が麻痺したかのように動かなくなった。

 

 ボクは胸中の困惑をいったん無視して距離を詰め、【衝捶】。今度は回避どころか防御さえせず、黒服は甘んじて衝突を受けて吹っ飛び、民家の壁に当たって破壊した。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 どうにか撃退こそできた。

 

 しかし、バクバクと心音が耳に響き、嫌な汗が出た。

 

 今の相手、積み上げた功力こそ大した事はなかった。

 

 だが、使っていた技が普通じゃなかった。

 

 まるで技を使用する人物だけが、「周囲より流れが速い時間」の中に身を置いて動いているかのような、異質な速度。

 

 頭の中で引っかかる。

 

 今の加速には見覚えがあった。

 

 まさか、今の技は――

 

「……そんなバカな」

 

 ボクはすぐに首を振った。そんなわけがない。「あの技」を使えるのは、今やこの世でボクだけのはず。こんなゴロツキに使えるはずが――

 

 それ以上黙考する時間はもらえなかった。横合いの脇道から次々と、さっきの奴と同じ格好をした黒服の人物が大勢飛び出してきたからだ。

 

 二つの軍勢がぶつかり、攻防が始まった。

 

 遊撃班の武法士が、各々の武器を振るって攻撃を仕掛けた。

 

 しかし、黒服はいずれも自分の武器で攻撃を防ぎ、すぐさま相手の体を斬りつけた。

 

 なんの変哲も無い、ありふれた反撃のし方。だが――その速度が異常なほどに速かった。遊撃班が一回斬りかかる時間に、黒服は「防ぐ」「斬る」の二動作を行ったのだ。

 

 あっという間に、数名の遊撃班士が犠牲となった。

 

 その光景に憤激したのか、残った遊撃班の武法士たちも怒号を上げて黒服へと突っ込んでいった。

 

 遊撃班の方が、数の上では疑いようもなく勝っているのだが、

 

「やめろ、君たち!! ヤケになるなっ!!」

 

 ボクはそう叫ばずにいられなかった。

 

 次の瞬間、懸念通りの惨劇が起こった。

 

 勇猛果敢に攻めに行った遊撃班士たち。黒服の集団は、そんな彼らの間を風のように縫った。

 

 銀閃をともなった黒風が幾本も地に吹き荒れ、それらが黒服の集団という元の形を取り戻した瞬間、遊撃班の武法士たちの体から赤黒い徒花(あだばな)が咲いた。

 

 しとしとと降る血の雨に打たれながら、ボクはこれ以上ない驚愕とともに、確信を得た。

 

 間違いない。

 もはや疑う余地はない。

 知らないフリは許されない。

 

 

 

 

 

 あれは――――【琳泉把(りんせんは)】だ。

 

 

 

 

 

 人間の行う動作の一つ一つに、必ず含まれている「拍子」。

 「(すう)動作」と同じ数だけ生まれた「(すう)拍子」を、特殊な呼吸法と意識操作によって『一拍子』に変える。

 それによって、常人が「一動作」を行う時間で、術者は「数動作」を行えるようになる。

 結果、「相対的な最速」が手に入る。

 

 かつて、『琳泉郷(りんせんごう)』と呼ばれる村の中でのみ伝承されてきた、極秘伝の武法。

 

 先代皇帝『獅子皇』が行った賊徒討伐によって『琳泉郷』が消滅し、それと一緒に【琳泉把】の伝承も途絶えた。

 

 一部の「例外」を除いて。

 

 その「例外」の一つが、ボクだ。

 

 ――この黒服の集団も、その「例外」だ。

 

 もし、滅亡した『琳泉郷』の住人が、ごくわずかながら生きていたとしたら?

 そんな彼らがこの国への報復を夢見て、密かに武を練り続けていたのだとしたら?

 この黒服たちが、そんな「彼ら」なのだとしたら?

 

 国是(こくぜ)として殺された同胞たちの、復讐。

 

 彼らには、この国を憎み、牙を向ける権利があるだろう。

 

 そう、これらは正当な「戦」なのだ。

 

 

 

 

 

 違う。

 

 

 

 

 

 冷静になって考えろ。予想外の状況に心を呑まれるな。

 

 仮に、『琳泉郷』の生き残りとやらがいたとしよう。

 いたとしても、その数は、両手指で数えられるくらいわずかなものだろう。【琳泉執行】の被害は、生き残りの確認が困難なほどに甚大だったのだというのだから。

 それが『琳泉郷』滅亡から数十年しか経っていない時間で、ここまで人口を増やすことができるだろうか? 人間の繁殖能力では無理だ。

 

 ならば、この連中の正体として考えられる答えは、たった一つ。

 

 『琳泉郷』の生き残り達から、【琳泉把】を与えられただけの連中だ。

 

 【琳泉把】という素敵なオモチャを手に入れて遊んでいるだけの、ただの人殺しにすぎない。

 

 そもそも、「戦」とは戦闘員と戦闘員の殺し合いだ。こいつらは、戦う術を持たない女の人まで殺そうとしていた。

 

 こんなものは「戦」を名乗ることさえおこがましい「虐殺」だ。

 

 「虐殺」に、大儀など欠片も存在しない!

 

 ボクは現実に立ち戻った。

 

 一瞬、自己保身の気持ちでためらいが生じた。だがそれを振り切り、大声で叫んだ。

 

「みんな、気をつけろ!! 連中が使う技は【琳泉把】だ!! 絶対に自分から近づくな!! 距離を大きくとって戦え!!」

 

 遊撃班の群雄達が驚きでざわめいた。

 

「【琳泉把】って、まさか、あの……?」

 

 ライライも、信じられぬような目で黒服を見つめていた。

 

 ミーフォンは困惑した顔で、ボクと、黒服連中を交互に見ていた。

 

 ボクは続けて、遠雷のような声量で叫んだ。

 

「いいか、よく聞きたまえ!! 【琳泉把】の能力は、数拍子を一拍子に圧縮し、相対的速度を速めるものだ!! 見たところ、連中は一拍子行う時間で「二拍子分の動き」が出来ている!! つまり、普通の武法士が一回動く間に、連中は二回動けるということだ!!」

 

 武法をたしなむ者には、今の説明だけで十分理解できたはずだ。

 

 ボクはこの時点で、国の法を破っていた。「【琳泉把】の伝承・使用・修行の一切を禁ずる」のうち、「伝承」を破ってしまっているのだから。

 

 けれど、情報は伝えておいた方がいい。でなければ無意味な死が増えるだけだ。

 

「強力な能力だけど、完璧じゃない!! 距離を十分にとって戦え!! 確かに連中は一拍子の時間で二拍子分の動きができるけど、その二拍子分の動きをした後、わずかな間だけど「硬直」がある!! そこを突くんだ!!」

 

 ライライが、懐疑的な表情でボクを見つつ、つぶやく。

 

「シンスイ、あなたは……」

 

 ――なぜ、【琳泉把】のことをそこまで知っているの。

 

 そう言いたいのだろう。

 

 【琳泉把】は、その技術内容はおろか、見た目すらも国によって秘匿されている極秘機密だ。

 

 普通に考えれば、ボクのようなそこそこ良家というだけのお嬢様が、知っているはずはないのだ。

 

 ならばなぜ知っているのか。その答えを出すのは、難しくはないだろう。

 

 きっとライライも、ミーフォンも、その「答え」を見つけているはずだ。この娘たちは賢いから。

 

 それを踏まえた上で、ボクは目を向けぬまま二人に告げた。

 

「ごめん、二人とも。ワケはすべてが終わった後にキチンと話す。だから今は何も聞かず、ボクと一緒に戦ってほしい」

 

 沈黙する二人。しかしすぐに頷く息づかいを聞かせてくれた。

 

「ありがとう」

 

 ボクは静かにそう感謝してから、ミーフォンの方を向いた。

 

「それと、ミーフォン、君にはこのことを【尚武冠】にいる皇女殿下に伝えに行ってほしい。きっと皇女殿下も、まだこのことを知らないはずだ」

 

「え……あ、あたしも戦いますよ!」

 

「その気持ちは嬉しいけど、君に行って欲しいんだ。君は足が速いし、何より、一番信頼できる奴だから。だからお願い。敵が使う武法の正体が【琳泉把】だっていうこと。その【琳泉把】への対処法。その二つを、皇女殿下に伝えに行って欲しい。それだけで、無駄死にはかなり減ると思う」

 

 ボクのお願いに、ミーフォンは何秒か黙ってから、すがりつくような目を向けながら言った。

 

「……死んじゃだめですからね、お姉様」

 

「分かってる。そっちもね」

 

 ボクは伝えるべきことを、愛すべき妹分に話しだした。

 



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防衛班①

 

 正午の青空の下。

 

 巨大な石冠を思わせる形の闘技場【尚武冠(しょうぶかん)】が堂々と屹立していた。

 

 武を重んじる先代皇帝『獅子皇(ししおう)』の思想を体現したかのようなその巨大施設は、競技用とは思えないほど武張った構造をしていた。

 

 天高く伸びた円環状の壁は、頑強なだけでなく、石材同士が密に噛み合って隙間がない。壊すこともよじ登ることも困難だ。

 

 おまけに壁の頂上には円環状の通路があるため、そこから人が守護すれば、守りはヘタな砦よりも硬い。

 

 中に入るための入口も、正門以外存在しないため、防衛の際にはそこに人員を多く割けば良い。

 

 そう。この【尚武冠】の防御力は非常に高い。ゆえに軍事拠点としても、避難場所としても、ここより優れたところは帝都に無いと言っていい。

 

 しかし、壁の頂上にある円環の通路から外地を俯瞰する煌雀(ファン・チュエ)の顔には、戦況に対する絶望感が表情として浮かんでいた。

 

 

 

 【尚武冠】の正門前は今――血と叫びで埋め尽くされていた。

 

 

 

 敵は、衛兵から得た情報の通り、全身黒づくめという格好の集団だった。

 

 しかし、こうも大勢この【尚武冠】へと押し寄せてきたのは予想外だった。

 

 【尚武冠】を守り、かつ避難民を安全に中へ招き入れる任をもつ防衛班の面々は、必ず敵を食い止めてやるという気概で満ち溢れていて、心強さを感じられた。

 

 しかしながら、気概だけではままならぬ事も、この世には多々ある。

 

 黒づくめの集団は、数こそこちら側には遠く及ばないものの、個々においては防衛班の戦闘員を軽く凌駕していた。

 

 その圧倒的な戦闘力をもって、正門を死守している防衛班の者たちをガリガリ削っていた。

 

 最初の頃は護国の士気に満ち溢れていた有志たちも、その多くが物言わぬ死骸となって横たわっていた。彼らの血が、正門前広場を染めていた。

 

「くそっ! こいつら速――ぐはっ!?」

 

 また一人、新しい屍が生まれた。

 

「このクソが! この――がはっ!」

 

 また一人、新しい屍が生まれた。

 

「う、うわっ、た、助け――ごぁっ!」

 

 また一人、新しい屍が生まれた。

 

 屍。屍。屍。屍。屍ばかりが増えていく。

 

 防衛班たちにも、怯えの色が出始めていた。

 

 それを俯瞰するチュエも、同様の表情だった。

 

 風に乗って漂ってきた濃い血臭が鼻につき、思わず口元を押さえる。渾身の気合いで、喉まで出かかった焼け付くモノの吐出をせき止めた。

 

 意識が遠のきかける。

 

 

 

 これが、戦場の匂いか。

 

 

 

 自分は、武法が好きだった。

 それに準ずる形で、武と名のつくモノも好きだった。

 本でよく、昔起こった戦の数々を読んで知った。

 栄光ある戦もあれば、二度と起こってはならないような悲惨な戦もあった。

 自分は、この世の戦の全てを知った気でいたのだ。

 

 けれど、それは知識の中での話に過ぎなかった。

 

 実際の戦場は、本で読んだよりもはるかに恐ろしく、胸糞の悪い場所だった。

 

 強い方が弱い方を一方的に殺し、血の河と屍の山を築き上げる。

 それでもなお足りぬと、さらなる殺戮を望む強い方はどんどんその勢いを強め、蹂躙を続ける。

 

 この調子では、いずれ防衛班の者たちは全滅する。

 戦える者がいなくなれば、敵の牙は戦えぬ者に向くことだろう。

 殺され、犯され、奪われるだけ。誰もそれを止めることはできない。

 

 チュエは片膝を屈した。防衛班の勇姿が、円環通路を縁取る背の低い石材に隠れてしまう。

 

 ――逃げ出したい。

 

 自分を信じて集まってくれた者たちが、無惨な死体へと変わっていくところを、少しだって見たくはない。

 

 けれど、どんなに残酷な結果でも、自分はそれをこの目で見続けなければならない。

 

 自分は皇女であり、将としてここに残ることを選択した身だ。

 

 ならば、陣地の奥でふんぞり返って、結果だけを待っているわけにはいかない。護国のために立ち上がってくれた者たちの奮戦、散り様を、しっかりと目に焼き付けておかければならない。

 

 たとえ自分が最後の一人になったとしても、戦うことをやめてはならない。四肢を落とされ、好き放題に弄ばれても、最期まで敵に噛みつき、睨み続けなければならない。

 

 チュエはもう一度腰を上げ、正門前を見下ろした。目を背けたいのを我慢しつつ、眼下の惨劇を注視した。

 

 今だけは情を捨て、「冷徹な指揮官」に心を切り替える。

 

 正門を防衛する者の数は、まだ黒服の集団よりも勝っていた。

 

 しかし、あの黒服集団は、その桁外れな強さを誇る武法で、数以上の実力を発揮している。

 

 奴らの使う武法は、実に奇怪で、かつ異質だった。

 あの衛兵の証言通り、まるで周囲の人間とは違う時間の中で動いているかのような速さだ。

 肉体の速さではなく、使い手の肉体に作用する時間そのものが速まっているかのようであった。

 

 その見たこともない武法の正体を知りたいものだが、今はそれを考えるのは置いておく。

 

 今必要なのは、どうやってあの「速さ」に対応するか、だ。

 

 自分だけでなく、他の防衛班の人間もその武法に圧倒され、為す術なしにやられている。彼らの中にも、あの謎の武法を見たことのある人間が一人もいないのだ。

 

 具体的な対策を立てなければ、防衛班の者たちは無策で突っ込んでいき、そして殺されるだけだ。

 

 眼下では、勢いづいた黒服軍団が、今なお防衛班の武法士たちを斬り倒している。

 

 自分がうんうん悩んでいる間に、人が死んでいく。

 

 そのことが、チュエをますます焦らせ、冷静な判断能力を奪うという悪循環。

 

 それが、全滅まで続くかと思われた、まさにその時。

 

 

 

 黒服軍団が、ひとりでに倒れた。

 

 

 

 自然の風向きに、別の不自然な風が混じったと思った瞬間、まるで見えない大きな手(・・・・・・・・)で上から押さえつけ(・・・・・・・・・)られたかのように(・・・・・・・・)、黒服たちが勢いよく地面に"伏せさせられた"のだ。

 

 当然、防衛班の誰も、黒服には触れていない。そもそも、触る前に斬られてしまうだろう。

 

 またしても不可解な現象に頭を痛めそうになるチュエだったが、「見えない大きな手」という言葉から、それを可能にする武法流派の名を思い出した。

 

「どいて、邪魔」

 

 戸惑う防衛班の武法士たちの人垣を割って前に歩み出たのは、兎の毛を思わせる白髪をした、眠そうな顔の少女だった。

 

 

 

 

 

 

 

 姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)が義勇軍に志願したのは、別に愛国心やら義憤やらのためではなかった。

 

 李星穂(リー・シンスイ)が、一番乗りに志願したからだ。

 

 それがなんだか悔しくて、気がつけば挙手していた。皇女様はそんな自分をしっかり見つけていた。

 

 あの女――シンスイは嫌いだ。

 汗水流して、ゼーゼー息を荒げるほど頑張れば、山さえ動かせると本気で思っていそうなあの真っ直ぐさが嫌いだ。

 意思と精力にあふれたあの眼が嫌いだ。

 散々自分を殴って、なおかつ敗北の味を覚えさせたあの拳が嫌いだ。

 

 けれど、そのはずなのに、なぜか気になってしまう。

 

 なんだか、あの女は、普通の人にはできないようなことを軽々とやってしまう。そんな感じがするのだ。

 

 いや、それは事実だった。今まで誰も破ることのできなかった【空霊衝(くうれいしょう)】の絶対防御を破り、なおかつ自分に生まれて初めて勁撃を食らわせた女なのだ。

 

 今回だってそうだ。あの女が一番に義勇兵として志願したことで、その他大勢が感化され、俺も私もと戦いに参加した。――自分も、そんな人間の一人だった。

 

 あの女には、周囲を、世界を変えられる「何か」がある。

 

 自分も、そんな「何か」によって変えられてしまった一人だ。なにせ、かつての自分なら絶対に抱くことのなかったであろう「対抗心」を抱いてしまっていたのだから。

 

 トゥーフェイは、危機を告げてきた防衛班士の呼びかけに名乗り出て、こうして血まみれの正門前広場へ出た。

 

 

 

 ――眼前に立ちはだかる、怪しげな黒づくめの軍勢。

 

 

 

 自分にとって、戦いとは「挑むもの」ではなく「降りかかってくるもの」だった。

 

 しかし、今、自分は「挑んで」しまっている。

 

 これもシンスイの影響なのだと思うと、すごく悔しくて、すごくムカついて、すごく新鮮だった。

 

「わたし……働くの嫌い。大嫌い」

 

 ワッと、黒い軍勢が押し寄せてくる。

 

「小説やおとぎ話には終わりがあるけど、働くことには終わりがない。それがすごくしんどくて、嫌」

 

 トゥーフェイはおもむろに掌を突き出す。

 

「……けど、ここで寝てたら、きっと、働くのよりずっとしんどい思いを、わたし含め、この国のみんながすることになる」

 

 【意念法】で「球体」を思い浮かべる。大地を踏みしめて勁を体内に吸い上げ、呼吸法による筋肉操作で「球体」になるよう勁の形を整えていき、

 

 

 

「だからわたし――――今だけは(・・・・)労働の犬になる(・・・・・・・)

 

 

 

 発した。

 

 大きな立体の球形となった勁力が、トゥーフェイの掌から膨れ上がる。

 

 黒服たちはその見えない力の膨張に押し込まれ、まとめて後方へ大きく弾き飛ばされた。

 

 一気に雑魚寝のありさまとなった黒服たちを冷厳な眼差しで見据え、トゥーフェイは静かな闘気を込めた声で告げた。

 

「早く終わらせる。長時間労働がこの世で一番嫌いだから」



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遊撃班②

 戦場と化した市井では、人の叫びと、金属のぶつかる音が絶えず響いていた。

 

「もう少し下がれ! 連中の間合いに入るぞ!」

 

「ほんのわずかな隙も見逃すな!」

 

「闇雲にかかったら死ぬぞ!」

 

 遊撃班のそんなやり取りが、よく聞こえてくる。

 

 彼らは最初のように、闇雲に敵に突っ込んだりはせず、必ずある程度の距離を取ってから戦うようにしていた。

 

 黒服の一人が【琳泉把(りんせんは)】を発動させ、あのビデオの早送りを思わせる速度で急迫してくる。しかし十分距離をとっていた遊撃班士には届かず、速力は途切れ「硬直」を見せる。その時には、黒服は遊撃班の間合いにすっぽり納まっていた。【硬気功】で防御する暇さえ許さず、手持ちの刀で叩っ斬った。黒い衣類の傷から赤黒い血がほとばしる。

 

 遊撃班士の後ろから、黒服の一人が襲いかかる。連中の【琳泉把】のリミットである「二拍子」の範囲内で余裕に斬れてしまう距離。いざ手に持っていた直剣で突き刺そうとしたその黒服だが、他の遊撃班士が投げた石つぶてがその側頭部にぶつけられ、それによってひるんだことで刺突の狙いが大きく逸れた。【琳泉把】の効果が切れ、黒服の速さが元に戻る。そこへ遊撃班の武法士が決め手級の一撃を叩き込んで黒服を沈めた。

 

 ——今ボクの目の前には、最初の時のような劣勢ぶりは見られなかった。みんな、各々のやり方で、黒服の集団に応戦できていた。  

 

 それはひとえに、ボクが「敵の武法の正体は【琳泉把】である」と教えた上で、その対策も伝え広めたからであった。

 

 最初は未知の武法に圧倒されていた遊撃班だが、「未知」はすでに「既知」となった。そうなれば、人間は考える生き物だ。きちんと対策をとって応戦しだした。

 

 かくいうボクは、彼らよりもスマートに敵へ当たっていた。

 

 眼前から、動画を早回ししたような動きでボクへと急迫してくる黒服。大きく開いていた間合いをまばたきする程度の一瞬で詰めた。

 

 しかし、ボクの間合いへと入った瞬間、あらかじめ早めにスイングしておいたボクの長槍の柄が、狙い通りのタイミングで黒服の足を払った。さらに一歩退くことで槍のリーチ内から敵を外し、重心を崩して虚空に浮いた黒服めがけて刺突を叩き込んだ。

 

 肉を貫く生々しい感触に気づかないフリをしつつ、ボクは槍を広く持ち、力の限り思いっきり横へ振り抜いた。黒服が槍からすっぽ抜け、ボクに近寄りつつあった他の敵に直撃。将棋倒しになったところを他の遊撃班が剣で突き刺して絶命させた。

 

 その調子で、ボクは次々と敵を葬っていった。他の遊撃班は多少の傷を負ったが、ボクは今なお無傷だった。

 

 全ては、【琳泉把】の特性をよく知るからこそ出来る芸当である。

 

 一動作につき一つ生まれる「拍子」。【琳泉把】の能力は、いくつかの拍子を「一拍子」に圧縮することで、相対的に常人を超えた速度を出すというものだ。

 

 つまり、この黒服連中が速いのは、二歩進むことで生まれる「二拍子」を「一拍子」として行うことで、ボクらが一歩進む間に自分たちは二歩進む事を可能にしているからだ。

 

 ——なら話は簡単だ。足を払ってしまえばいい。どんなに速く動けたって、移動するのが足であることは常人と変わらないのだから。

 

 【琳泉把】は漫画に出てくるような、周囲の時間を遅くして自分だけ速く動くというような時間操作の能力ではない。「動作ありき」なのだ。

 

 もしこの連中が、「一拍子」の中に圧縮できる拍子の数が三拍子を超えていたら、ボクも本気を出さないといけなかっただろう。けれども、幸い連中は二拍子しか圧縮できない。これなら、普通の武法でも十分に対処可能だ。

 

「シンスイ、大丈夫っ?」

 

 そんな考え事をしながら敵をなぎ倒し続けていると、近くにいたライライがそう声をかけてきた。

 

 ボクは頷きを返す。

 

「大丈夫だよ。ライライこそ怪我してない?」

 

「一回かすり傷を負った程度よ。大事はないわ」

 

 そう言って脇腹に刻まれた小さな衣服の切れ目を見せつけるライライは、両手に一対の双刀を握っていた。ボクと同様、敵から奪い取ったものだ。

 

 その刃は、血の赤で濡れていた。

 

「あ……」

 

 それを見て、ボクは思わず驚きで喉を鳴らした。あの血のしたたる量からして、彼女も敵を斬り殺したのだろう。

 

 周囲の敵が減っていたこともあって、戦いで引き締まっていた意識が少し緩んでいた。

 

 周りでは、今なお斬り合いが行われていた。

 

 敵が斬られ、味方が斬られ、流れる血の色は同じ。

 

 そう、同じ赤い血なのだ。敵も味方も。

 

 ——ボクらは今、なんと虚しい事をやっているのだろう。

 

 同じ人間同士が、互いの血を流し合っている。

 

 あれだけ美味しそうな食べ物の匂いがしていた通りなのに、今は血と埃の匂いしかしない。

 

 笑い合うのではなく、殺し合っている。それが当たり前な場所こそ、この「戦場」なのだ。

 

 ボクの持つ槍もまた、さっき刺した敵の血で潤っている。人間の脂でギラギラ光っている。

 

 なんでこんなところにいるんだろうか。

 

 ボクが武法を学んだのは、こんな無意味な殺戮に手を染めるためなのか。

 

 こんなことのためにボクは——

 

「危ない!」 

 

 ライライの切羽詰まった一声が耳を突いた一瞬後、赤い水滴がボクの頰に数滴かかった。

 

 その血の雫が飛んできた方向へ目を向けると、ライライの双刀の片方が腹に突き刺さった黒服が立っていた。黒服は己の敗北が信じられぬとばかりに刺さった刀を数秒凝視してから、ゆっくりと空を仰ぎ見て倒れた。

 

 ライライの顔が視界の端から目の前に入ってきたと思った次の瞬間、突然左頬に平たい痛みが走った。

 

 刀を持ってない右手から、したたかに平手打ちを食らったからだ。

 

「しっかりなさい、シンスイ! まだ戦は終わってないわ! 死にたいの!?」

 

 キッと睨みながら発せられた喝も含め、ボクは一気に目が覚めた気分になった。

 

「分かるわ。よぉぉぉく分かる! あなたの気持ち! でもね、今は割り切らなきゃいけない時なの! もし私たちが戦わなかったら、無意味な死人がもっと増える! 一番最初に義勇兵として名乗り出たあなたが、それを分からないでどうするの!?」 

 

「ライライ……」

 

「シンスイ、「殺す」ためじゃないの。「守る」ためなの。そう思いなさい。分かった?」

 

 殺すための戦いではなく、守るための戦いだ。そう言いたいのだろう。

 

 うん……そうだ。その通りだ。

 

 完全に目が覚めた。

 

 確かに、人を殺すことに対して不快感は消せないけど、今はそれにとらわれてばかりいてはダメだ。とらわれたら、その時点でボクは死ぬ。他の人も死ぬ。

 

 大きく息を吸い、吐く。気持ちが落ち着くのを感じ取ってから、

 

「ごめん。それと……ありがと。もうだいじょぶだから」

 

「そう……良かった」

 

「うん。ほんと、ありがと」

 

 ボクとライライの後ろから、それぞれ一人ずつ敵の殺気が迫ってくる。

 

 瞬間、ボクらは弾けるように離れ、それぞれ襲いかかってきた敵を倒した。

 

 それから、今まさに無抵抗なおじいさんを斬ろうとしていた黒服めがけて槍を投げつけ、脇腹から脇腹にかけて串刺しにする。電光石火の勢いで近づいて槍をサッと引き抜いてから、おじいさんの手を引いて避難民と食料品の集まる中央広場に誘導した。臨時の避難場所だ。【尚武冠】に群がっているらしい軍勢をある程度減らし次第、避難民を誘導する予定となっている。

 

 そうだ。そうじゃないか。ボクらは弱い人を助けるために戦っているのだ。

 

 そう考えると、己の行動に多少の正義感が生まれた。

 

 あとあとになって人を殺したことへの自己嫌悪に悩まされるかもしれないが、せめて今だけは自分の行いに大義を持たせよう。

 

 ボクは槍をしっかり握りしめて、血と殺戮ばかりの地獄へと一直線に駆け出した。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 紅梢美(ホン・シャオメイ)は、敵から奪った双手帯(そうしゅたい)——刀身半分、柄半分という比率の、全長約140厘米(りんまい)の長刀——を片手に、帝都南東の裏通りを駆け回っていた。

 

 表通りに比べて、この裏通りはやや影が差して薄暗い。よく目を凝らして周囲を見なければ黒服や非戦闘員を見つけられない。

 

 シャオメイの行く手を遮るかのように、脇道から全身黒服の男が飛び出した。こちらへ狙いを定めた瞬間、周囲より速い時間の流れにいるかのような異質な速さで近寄り、剣突を仕掛けてきた。

 

 しかしシャオメイは黒服が走ろうという姿勢を見せた時点で空中へ跳ね、その剣の射程外に逃れていた。己の体重を己の足で蹴っ飛ばし、突発的に上へと跳ね上がったのだ。【飛陽脚(ひようきゃく)】という技術だ。

 

 下向きに自分の体重を再度跳ねさせ、俊敏に着地。そこからすかさず手にある双手帯で後ろを薙ぎ払い、黒服の首をはね飛ばした。

 

 切断面から鮮血が吹き出すのも待たず、シャオメイは再度走り出した。

 

 相手と距離が大きく離れている時点で機先を制するべし——この黒服と戦う時の心得だ。

 

 この連中の使う武法が、すでに失伝したはずの【琳泉把】であるという事実も驚きだが、その【琳泉把】の具体的な能力と、その対処法をシンスイが知っていたという点にはもっと驚いた。

 

 あの娘は何故、それを知っているのだろう? 彼女が武法を好むことはすでに知っているが、それにしたって限度があるはずだ。まして、国家がずっとひた隠しにしていた【琳泉把】である。

 

 だが、今はそういったことは些事と捨て置くことにする。考えだしたら、疑惑の渦に呑まれるだけだろうから。

 

 それと、【琳泉把】はどういうわけか、敵から「盗む」ことが出来ない。おそらく、体術を学ぶだけでは不十分だからだ。この技は何年か練習を積まないと、本来の力を発揮できないのだろう。そういった技は、さすがの自分でも模倣は不可能だった。

 

 そうやって裏通りを散策していると、

 

「うああああ! た、助けてくれぇぇぇ!!」

 

 恐怖の絶叫を上げながら、曲がり角から一人の男が飛び出してきた。

 

 シャオメイはその男の姿勢を見て、武法士でない非戦闘員だと判断。

 

「おい、こっちに」

 

 来い、という言葉が続くことはなかった。

 

 その男の後ろに、ヌゥッと巨大な人影が現れるのを見つけたからだ。

 

 その人影は、太い腕を外から内へ振りぬいた。男の首から上が消失。

 

 断面から噴出し、赤い雨となる血。

 

 やられた男の頭部は民家の壁を跳ね返って、石畳に転がった。人影に殴られたであろう片頬の肉はごっそりと削げ、頬骨が見えていた。巨大な熊にでも殴られない限り、こんな酷い傷はできないだろう。

 

 シャオメイはかんばせを引き締め、その人影を凝視した。

 

 (くも)()く巨漢だった。手足は骨太で、鋼の棒を思わせる。角刈りの頭の下にある精悍な顔つきには、見るからに獰猛な戦意が浮かんでいた。目が常に炯炯と光っている様子から、常に餌に餓えた虎を思わせる。

 

 だが、そんな容貌の情報などささいなことだ。

 

 問題は、その男が——正規兵の衣装(・・・・・・)を身につけているという事実だった。

 

「やはり戦えぬ者を殺すのは張り合いが無くてつまらぬ。殺すならやはり武法士の方が……ん?」

 

 その巨漢の国軍兵はこちらに気づくと、その顔に浮かぶ戦意をさらに濃いものにした。

 

「ほう……女、にしてはなかなかの功力を持っているなぁ、小娘」

 

「……貴様こそ、その体たらくはなんだ? 何ゆえ国軍兵の格好をした者が庶民を襲っている? 国軍とは貴様のような気違いの巣窟だったのか?」

 

「誤解だ。国軍は気違いなどではない——腰抜けの集まりだ」

 

 正規兵なのに、国軍を平気で腐す発言。

 

 さっきの殺人行為も含めて、シャオメイはこの男が国軍の中に生まれた裏切り者であると推測した。

 

「申し遅れたな。俺は秦刺鑫(チン・ラーシン)。煌国帝都常駐軍第三番隊隊長……いや、”元”隊長か」

 

 その名には、聞き覚えがあった。

 

 シャオメイは、シンスイと戦った時と同等の緊張感を内に生み、静かに言った。

 

「……貴様があの『猛虎将(もうこしょう)』か」

 

「ほう? 俺を知っているのか」

 

「ふん、知っているさ。純粋な武法の腕前ならば国軍屈指とうたわれる使い手だが、思想面に難があり過ぎて、左将軍から部隊長に成り下がったという、良くも悪くも伝説的な男ではないか」

 

 シャオメイはラーシンを強い眼光で睨みつつ、侮蔑の口調で、

 

「確か貴様の主張はこうだったと記憶している——「弱者は強者の家畜である」」

 

「そうだ。同時に、この世の真理でもある」

 

「狂った思想だ」

 

 ラーシンはフンと鼻を鳴らす。

 

「どうやらお前も、あの腰抜け今上(きんじょう)と同類のようだな」

 

「帝都常駐軍を行動不能にしたのも貴様だな、『猛虎将』」

 

「そうだとも。成り下がってもなお、俺の地位は軍内部でそれなりに高い方だ。普通の兵士よりも入れる場所は多い。その権限を利用して兵舎のいたるところで『通雷塔(つうらいとう)』を焚き、兵どもをでくの坊に変えてやったのよ」

 

「……(せん)無い事とは思うが、一応理由を尋ねておこうか」

 

 内から沸き立つ怒りを抑え込みながら、シャオメイはそう訊いた。

 

「存分に、武を振るえる世界を作るため」

 

 ラーシンは青空を仰ぎ見ながら、熱に浮かされたような口調で言った。

 

「先代皇帝『獅子皇』……あの御方は稀に見る名君であった。我が国の力を存分に発揮し、血の海と死体の山を国土各地で築き上げた。圧巻であったぞ……幼き俺が目にした戦場は、愛も、友情も、金も、何一つ意味をなさぬ! あるのは「力」という絶対不変の価値のみ! 何一つ飾らぬ、獣としての純粋な人の姿がそこにはあったのだよ! 名家の生まれというだけで、親類のご機嫌伺いばかりをしてきた当時の俺にとって、その地獄は天国に見えた! 以来、俺は親兄弟と縁を切り、武法の修練にのみ明け暮れた。成人して軍に入り、一兵卒から将の地位まで駆け上がったのだ。全ては、あの戦場(てんごく)に少しでも長くいるためにな!」

 

 だが! と力強く区切ってから、ラーシンは続けた。

 

「今の皇帝の治政はどうであろうか? 精強なる我が軍を積極的に使おうとはせず、それどころか軍縮し、国内での銭勘定ばかりに熱を出している体たらく。他国へ攻め入って版図を拡大すべきだという俺の意見にも耳を貸さず、降格した。このような軟弱な国など、俺がいる価値はない。そんな時、俺はある男に出会った」

 

「ある男、だと?」

 

琳弓宝(リン・ゴンバオ)と名乗ったその男は、俺にこう持ちかけた。

 「共に国盗りをしないか」と!

 「国を盗った暁には、お前を軍部の頂点に召し抱え、存分に暴れさせてやる」と!

 俺はそれに乗った! 力を持つくせにそれを使う度胸もない腰の抜けた国など叩き潰し、新たに強国を作り、近隣国に覇を示してやろうと思ったのだ!」

 

 高らかに力強くそう発したラーシンに、シャオメイは強い憤りと、そして憐れみを覚えた。

 

 度重なる征伐がもたらした財政難だけではない。

 

 この男もまた、『獅子皇』が遺した負の遺産の一つ。

 

「……もはや貴様は国軍兵でもなければ、武人ですらない。ただの下劣な国賊(こくぞく)だ」

 

 シャオメイは双手帯の尖端を国賊に向け、言い放った。

 

「法が沙汰を下すまでもない。——【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家次期当主、この紅梢美(ホン・シャオメイ)が、貴様をこの場で処刑してやる。今すぐ遺言を言っておけ」

 



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防衛班②

 ——【尚武冠(しょうぶかん)】正門前の防衛戦は、最初の敗色濃厚なさまとはガラリと戦況が変わっていた。

 

 陽炎のような残像を残しながら近づき、斬りかかる黒服。対し、防衛班の武法士が複数で敵一人にあたり、死角という死角から剣で貫いた。敵がまた一人倒れて息絶える。

 

 防衛班は、最初のうろたえようが嘘のように、果敢に挑み、そして的確に敵を倒していた。

 

 十分に距離を取った上で機先を制する。それが難しいなら一人の敵に対して複数でかかる。防衛班の基本的な戦法はそれに終始していた。

 

 そんな劇変っぷりを、姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)は戦いながら見ていた。

 

 この変化はひとえに、皇女が高みから伝えてくれた戦術のおかげに他ならない。

 

 皇女は敵の使う武法の正体が【琳泉把(りんせんは)】だと伝え、その能力、能力への対処が可能な戦法を防衛班全員に告げたのだ。

 

 なぜいきなり敵への対処法が分かったのだろう? 前線で戦う自分たちでさえ、敵の情報がほとんど掴めなかったというのに。

 

 そんな風に一度は不審がったトゥーフェイであるが、彼女は皇族だ。何か秘密の情報網があるのだろう。そう思うことにした。皇女が伝えてくれた情報のおかげで、こうして戦況は良い色に変わりつつあるのだ。それでいいだろう。

 

 視界の端に、敵に斬られそうになっている味方の姿が映った。トゥーフェイは指先から「長い直剣」の形をした勁を伸ばす。その不可視の刺突は敵の胸を貫き、その息の根を止めた。

 

 自分が最前線で立つ役目はもう終わった。もう彼らは自力でこの黒服軍団と戦えるだろう。ならば自分の役割は、犠牲者を少しでも減らすべく援護をしてやることだ。

 

 だがこれも結構大変な仕事だった。自分の身を守りながら、常に前線の戦いに目を凝らしていないといけないからだ。それに、そもそも一人で全員を援護するのは物理的に不可能であるため、やはり仕損じて味方を斬られてしまうことは避けようがない。

 

 面倒な役回りだった。これだから働くのは嫌いなのだ。一つの仕事が片付いても、次の仕事がやってきて、それが終わってもなお別の仕事が生まれる。延々に終わらぬ苦行。

 

 大将首を落とせばこの戦いも収束するのだろうが、その「大将首」とやらが誰なのかも、まだ分かっていない状況なのだ。それでは首級を上げたくても上げられない。

 

 ——いや、ちょっと待った。

 

 そうだ。この黒服連中に指示を与えている、「指揮官」の存在が見当たらないではないか。

 

 逐一司令を与える指揮官がいない以上、こいつらは前もって与えられた「単純な司令」にもとづいて暴れまわっていることになるのではないか?

 

 こうして市井で暴れまわっているところを見ると、その「単純な司令」とは、市井の制圧だろうか?

 

 しかし、そう決めつけるべきか迷った。もう【琳泉把】とやらの弱点はこっち側に筒抜けだ。「複数の拍子を一拍子の中に圧縮する」という破格の能力も、すでに強みの半分ほどを失った状態である。——にも関わらず、黒服連中の動きには大きな変化が見られない。

 

 つまり、この連中に事前に与えられている「単純な司令」とは、「暴れるだけで良い」ということになる。だって、もし市井を攻略することが目的なのだとしたら、弱点がバレた今なおあれほどの気勢を保ってはいられないだろうから。

 

 それが真実だと仮定しよう。そうなった場合、この連中が行う「ただ暴れるだけ」という行為には、一体どういう意味が隠されて——

 

 

 

 紫色の風が、トゥーフェイを横切った。

 

 

 

 その紫の風は、黒服相手に応戦し続ける防衛班の中に入り込んだ。——瞬間、群雄たちが体のあちこちに血の華を満開に咲かせた。

 

「なっ……!!」

 

 緊急事態になってもなおボンヤリした表情を崩さなかったトゥーフェイの顔に、初めて驚愕が浮かんだ。

 

 なんだ、いまのは。

 

 一瞬で多くの味方を殺傷せしめたその紫風は、やがて天に登った。速度が下がるたびに、朧のかかった不確かな姿から、ハッキリとした人間の形へと戻った。その紫紺の衣服をまとったその人物は、空中で何度かトンボを切りながら位置を移動させ、敵味方がぶつかり合う位置から離れた位置へ軽やかに着地した。

 

 女である。自分と歳が近いくらいの。

 

 やや短めに整えられた栗色の髪と、紅玉のような双眸。麗人然とした中性的な顔立ち。

 手首足首までを包む天鵞絨(ビロード)生地の紫の上下衣には、細くもメリハリのきいた肢体の曲線美が浮かび上がっており、上品でありながら艶めかしい印象を受ける。

 

 その右手には、血の滴る短刀。

 

 生き残った防衛班の武法士らは、それを目にしたことで、この紫の女が大勢の仲間を一瞬で殺したのだと判断したのだろう。

 

「おのれぇっ!!」

 

 彼らは燃えるような憤激に駆り立てられるまま、紫の女に突っ込んでいった。

 

「やめろ!! 下がって!! あなたたちじゃ敵わない!!」

 

 柄にもなく、必死に声を張り上げるトゥーフェイ。あの女が持つ非凡な実力を、すぐに看破したからだ。

 

 けれど、その柄にもない頑張りが報われることはなかった。

 

 女が再び紫の風と化し、向かってきた防衛班の間を目にも留まらぬ疾さで駆け巡った。通過した場所にいた者は例外なく急所から血を噴き出し、絶命した。

 

 女が止まる。その後ろには、さっきまで防衛班だった死体の山が出来上がっていた。

 

「他愛ありませんわね」

 

 中性的で艶のある声で、女は言った。

 

 敵味方問わず、その尋常ならざる強さに我が手を止める。

 

 が、黒服たちはその女を味方と判断したようだ。(とき)を上げて再び勢いを取り戻し、一気に数を減らした防衛班の者たちへとなだれ込んだ。一方、防衛班らは強力な敵の登場で多少気勢を削がれたのだろう、黒服たちに対応するのが少し遅れ、犠牲者を新たに数名増やすこととなった。

 

 もはや両陣営の人員の差は互角。それは、防衛班が「数の有利」を失ったということを意味する。つまり劣勢。

 

 たった一人の登場で、形成が一気に逆転してしまった。

 

 泥沼と化した戦線を、その紫の女は他人事のように見つめていた。

 

「へぇ、(わたくし)達の武法のことをよく理解した上で、それに応じた戦法を見せていますわねぇ。けれど、【琳泉把】は数度見ただけで理解できる代物ではありませんし……もしかして、裏切り者がいるのかも……」

 

 思案するようにブツブツ独り言を言う女めがけて、トゥーフェイは問答無用で勁力を飛ばした。形状は地面と平行に真っ直ぐ伸びる刃。上半身と下半身を別れさせてやる。

 

 その勁力が紫女の腰に触れる直前、その姿が消え——

 

「へぇ、遠距離まで届く勁撃ですの? 面白い技ですわねぇ」

 

 た、と思った瞬間、背後からその声が聞こえた。

 

「!!」

 

 驚愕したのとほぼ同時に、背中の真ん中に短刀の切っ先が触れた。

 

 しかし、触れはしても、刺さることはなかった。刺突も、広義的には「打撃」に分類される攻撃法。そうである以上、トゥーフェイの肉体に刻み込まれた【空霊衝】が黙っていなかった。刺突にこもった運動量が波として大地に伝わり、それと等量の反力が返ってきて、短刀の直撃位置へと戻ってきた。

 

「えっ……」

 

 自分が生み出した衝撃で弾かれた女は、唖然とした声と顔をしていた。

 

 重心を崩しかけて不安定になっているこの一瞬を、トゥーフェイは有効活用した。指先から剣尖の形をした勁力を伸ばし、女の短刀の腹に当てた。その短い刀身は半ばから半分に折れた。——紫女が最初の遠距離勁撃を回避した。であれば、あの女はまた飛んでくるであろうことを予測し、隙を見せている間は【硬気功】で自分を防御するはず。なら、【硬気功】の恩恵を受けられない武器を狙い、破壊しておく方が比較的良いだろう。

 

 重心の安定を取り戻した紫の女は、その麗人の顔に好戦的な微笑を浮かべた。

 

「……なるほど、読めましたわ。【空霊衝】ですのね? 道理で刃物が通らないわけです」

 

 トゥーフェイは我知らず喉を鳴らす。

 

 ——やっぱりこの女、強い。

 

 最初に、トゥーフェイが不意打ち気味に放った勁力の刃にも、この女は即座に対応してみせた。わずかな空気の流れから勁力の刃の存在を察知した上で、【琳泉把】特有の俊足で回避し、そのままこちらの背後を取った。

 

 しかも、この女の【琳泉把】は、あの黒服の軍勢よりもはるかに速かった。「一拍子」の中に圧縮できる拍子の数が、間違いなく二拍子を超えている。

 

「申し遅れましたわ。私、趙緋琳(ジャオ・フェイリン)と申します」

 

 その女は自らの名を名乗り、一礼した。……その挙動は洗練されていて、どこか育ちの良さを感じさせた。

 

 トゥーフェイはジッと睨み、

 

「……あなたがこの黒い連中の親玉?」

 

「当たらずとも遠からず、でしょうか。私たちは『琳泉郷(りんせんごう)』という一団です。我々の首領は、その一団の名前の元になった村の生き残りにして、私の義理の父、琳弓宝(リン・ゴンバオ)。私は弟子であり、副官ですの」

 

 『琳泉郷』。それは、あの黒服とフェイリンが使う武法【琳泉把】の発祥地。

 

 『獅子皇』の勅によって滅んだ、不運な村。

 

 トゥーフェイは確信した。——この戦いは「復讐」なのだ。不当に滅ぼされた自分たちの村や、その住人の。

 

「その首領はどこにいるの?」

 

「教えるわけありませんわ。そもそも知る必要もありません。貴方はここで、死体になるのですから」

 

 そうあっさりと口にした次の瞬間、フェイリンの姿が消え、真後ろに存在感が現れ、自分の喉元に腕を回してギュッと締め上げた。気道が狭まり、呼吸が苦しくなる。

 

 この女は実に賢しかった。打撃では意味がないと分かるや、「ならば締め技はどうだろうか」という手を即座に思いついたのだ。締め技は「打撃」ではないから。

 

 しかし、【空霊衝】はそれも折り込み済みで、技術体系が組まれている武法だった。大地を踏ん付けて生み出した力を背中から発し、フェイリンに浴びせかけた。呼吸法が使えなかったため力の形を整えることはできなかったが、それでも相手を吹っ飛ばすことくらいはできた。

 

 吹っ飛んだフェイリンがたたらを踏んでいるわずかな隙を狙い、トゥーフェイはもう一度背中から勁力を撃ち出した。剣尖の形をした不可視の力が、フェイリンの胸に真っ直ぐ向かっていく。

 

 しかし、ギィン! という、金属同士が強くこすれるような音が聞こえた。フェイリンは自らの両手に【硬気功】を施し、剣尖状に伸びてきた勁力を受け止めたのだ。

 

 その的確な防御に、敵ながらあっぱれと感じたトゥーフェイ。あの刹那の瞬間、しかもわずかな空気の流れから自分の不可視の力の軌道を見破り、あらかじめ【硬気功】をかけておいた両手で防いだ、といったところか。それを土壇場やってのける豪胆さは賞賛に値する。

 

 重心の安定を即座に取り戻したフェイリンの姿がまた消える。薄紫の霞のように、目の前に現れる。

 

 もう近づかれたくない。

 そう思ったトゥーフェイは全身から「剣」を生やした。五体の至るところの表面から外側へ向かって、剣の形に変えた大地の力を発したのだ。

 

 ハリネズミのようにいっぱい生やした。これだけ綿密に剣を出せば、近づいた相手は絶対に避けられず、突き刺さる——はずだった。

 

「貴女、戦い慣れしてませんのね」

 

 しかし、この女ときたらどうだろう? あれだけたくさんの剣勁を、まるで針に穴を通すような身のこなしで全て避けてみせたのだ。

 

 トゥーフェイは己の目を疑った。なんだこの女は。こっちの頭の中を覗き見る力でもあるのか? こちらの心を読み取った上で避けているとしか思えない、神がかった回避だった。

 

 この刹那の瞬間、トゥーフェイの思考は驚くほど高速で働き、その原因を見つけ出した。

 

 

 

 ——切れ目(・・・)だ。

 

 

 

 トゥーフェイの衣服のあちこちに、刃物で刺してできたような切れ目があった。

 

 それを見て確信する。手以外の部分から刃状の勁力を発した時、自分の服に穴が空いてしまうのだ。

 

 今更ながら、もっともなことだと思った。だって、勁力は服から出ている訳ではなく、素肌から出ているのだ。素肌から剣が生えでもすれば、その上に被さっている衣服を貫いてしまうのは当然と言えよう。

 

 さらに、この切れ目が出来上がるのを見ていれば、たとえ不可視であっても容易にその軌道が読めるはずだ。どこに飛ぶのか分かっていれば、防御も回避も難しくない。

 

 今まで気がつかなかった【空霊衝】の弱点。それに気づけなかった己の不注意。

 

 「戦い慣れしてませんのね」というフェイリンの言葉が、胸に突き刺さるようだった。

 

 不可視の剣が消え、フェイリンがさらに間合いの奥へ踏み入ってくる。

 

 フェイリンの手が閃いたと思った瞬間、胴体の”五ヶ所”へ同時に衝撃を受けた。

 

 当然ながら「打撃」であるため、フェイリンは【空霊衝】の衝撃反射に引っかかって吹っ飛ぶこととなった。

 

 だがしかし——トゥーフェイも片膝を屈してしまった。

 

「ぉえっ……!!」

 

 酒杯一杯分ほどの血を、石畳に吐出した。赤黒い模様を描く。

 

 全身から血の気が引いたみたいに寒い。まるで真冬の雪原に裸で立っているみたいだ。

 

 なんだこれは。あいつの打った衝撃は、全部まとめて跳ね返したはずだ。なのにどうして自分が血なんか吐いてる? 

 

 顔を上げ、敵の姿を見る。フェイリンはすでに受け身をとってから立ち上がっており、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。

 

 その赤い両眼を爛々と光らせ、口端を吊り上げながら、なぶるような語気で口にした。

 

「「同時に押してはならない経穴」を押したのですわ」

 

「……なに?」

 

「経穴は、押した箇所に応じて、肉体に良い変化も悪い変化ももたらす。けれど、良い変化をもたらす経穴にも、同時に押すと、健康どころか害をもたらす組み合わせがいくつか存在するのですわ。貴女はしばらく、技を使うことや、気を練ることが困難なほどの不調に苦しむことでしょう」

 

 凍ったように冷たく、岩石を巻きつけたように重たい我が身を起こしながら、白い前髪の下からフェイリンを睥睨する。

 

「この……赤眼女……」

 

 それは、何気ない悪態だった。

 

 しかし、相手は「何気ない悪態」以上の受け取り方をしたようだ。

 

「…………眼が赤いから、何よ」

 

 ふと、フェイリンのまとう雰囲気が変わった。

 

 今まで涼しげだった雰囲気が、爆発前の火山のような状態に変わる。

 

「——眼が赤くて、何が悪いんだよっ!!!」

 

 爆発。

 

 フェイリンが紫の風のようにこちらへ近づいたと思った瞬間、全身のあちこちから次々と衝撃が叩き込まれた。竜巻のように周囲を周りながら、ひっきりなしに蹴りを繰り出してきているのだ。

 

 技が満足に使えないため、衝撃の反射もできない。トゥーフェイはただひたすらにやられ続けるだけだった。

 

 かと思えば、足を払われ、仰向けに転ばされた。

 

 フェイリンはそんな自分の上に馬乗りになり、何度も何度も顔面を殴りつけてきた。

 

「ちくしょう!! 殺す!! 絶対にお前を殺してやるっ!! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!」

 

 まるで人格そのものが変わったような狂いようだった。

 

「死ね! 死ね! さっさと死ねよ!! 私の前から消えてなくなれよ!! 死ね!! 死ね!! 死ね!! 死ね!! 死ねぇぇっ!!!」

 

 赤い瞳をギラギラと不気味に光らせ、顔に深い怒り皺(じわ)を刻み、口端を泡立たせながら怨嗟を吐き散らす。その表情は、先ほどまでの華やかな貴人然とした印象とは似ても似つかぬ、ケダモノのような顔だった。

 

 想像がつかぬほどの、深い憎しみ。

 

 彼女の顔には、それがむき出しになっているような感じがした。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………そうだ、お前も私と同じ赤眼になれ。その忌々しい目玉をくり抜いて、お前の血を空っぽの眼窩に注いでやる! そうすれば、私と同じ痛みが分かるだろうさ! それを感じながら逝け!! 逝け!! 逝けぇっ!!!」

 

 意識が朦朧としてきた。

 

 自分に迫る命の危機さえ、他人事のようになりかけている。

 

 ああ、わたし、ここで死ぬんだ。

 

 もう面倒くさいし、この辺でやめようか。

 

 せめて、痛くないように死にたいな。

 

 だが、次の瞬間、

 

 

 

 ——「めんどくさいから死にたい」なんて言葉を吐くんじゃない。

 

 

 

 準決勝敗北後に聞いたシンスイの言葉が、脳裏に強く響いた。

 

 刹那、倦怠感で重かった体の芯に、電撃のような気力が通った。

 

 弾かれたように左腕が動き、自分の目玉をえぐろうとしてきたフェイリンの右手を掴み取った。

 

「っ!? このっ、離せ!」

 

 フェイリンはその野良犬みたいな荒んだ目でこちらを睨み、今度は左手を目玉に近づけてきた。

 

 しかし、それも右手で掴み取る。さらにその掴んだフェイリンの左手を口元へ引っ張り、その指に思いっきり噛み付いた。

 

「ぐあああっ!! やめろ!! 離せこの死に損ないがぁっ!!」

 

 必死に身を揺らして暴れるフェイリン。しかしトゥーフェイは最後の力を振り絞り、ずっと掴み続ける。

 

 死なない。死んでたまるものか。

 

 重くてだるいだけで、手足は動くのだ。なら、情けなくても、恥ずかしくても、惨めでも、最後の最後まで食らいついてやる。

 

 こうしてこの女を足止めしていれば、他の誰かが助けに来てくれるかもしれない。それを信じて、ひたすら頑張るのだ。

 

 ——ああ。わたしはいつから、こんなに頑張る奴になっちゃったんだろう。

 

 あなたのせいだよ、李星穂(リー・シンスイ)

 

 だからあなたって嫌い。

 

 でも、あなたに会えてよかった。不思議とそう思えるよ。

 

「ちくしょう!! 離せこの売女(ばいた)がっ!!」

 

 だが、引き締まっていた腕の【筋】から、突如勝手に力が抜けた。先ほどのフェイリンの攻撃の傷が響いたのだ。トゥーフェイの左手が一瞬緩んだ隙に、フェイリンは自らの右手を引き戻した。肩を上下させ、呼吸を荒くしている。

 

「もういい! もういいですわ!! 貴女はすぐに殺しますから!! さっさと私の前から消え失せなさいっ!!」

 

 いくらか理性が戻ったのか、口調が元に戻りかけていた。しかし、そんなことはどうでもいい。

 

 フェイリンの右手が、こちらの首を掴んだ。かと思えば、その細く滑らかな指からは想像もつかないほどの怪力で締め付けてきた。

 

「く……か……っ」

 

 息ができない。苦しい。

 

 抵抗しようにも、力が出ない。

 

 だんだんと意識が遠のいていく。

 

 ああ。せっかく、がんばったのになぁ……

 

 やっぱり、苦労なんて率先してするもんじゃ、なかった。

 

 なんて……つまらない…………終わり方………………

 

 

 

「——(いな)。誇っていい。この戦い、誰が何と言おうとあなたの勝ちだ」

 

 

 

 一陣の風が吹いた。

 

 それとともに、自分の首を絞め上げていた圧力が、消える。

 

 意識が、徐々にはっきりしてくる。

 

 ぼやけた視界も、鮮明になってくる。

 

 目の前にいたのは、趙緋琳(ジャオ・フェイリン)ではなく——幼女だった。

 

 長い髪を両側頭部で一本ずつ束ねている子供っぽい髪型で、外見も十を超えて間もないくらい。しかし、その幼い顔立ちには深い知性の匂いを感じさせる雰囲気が浮かび上がっており、その立ち姿にも、歩んだ人生の深さを感じさせる威厳のようなものがあった。

 

 知っている。この幼女を。

 

 煌国有数の大流派【道王把(どうおうは)】。その総本山である【道王山】にて、頂点に位置する地位【太上老君(たいじょうろうくん)】を継いだ人物。

 

 その強大な功力(こうりき)で、怒涛の勢いで決勝戦まで上りつめた、その幼女の名は——

 

(リウ)……隋冷(スイルン)?」

 

()。姫殿下のお命じで馳せ参じた次第。ここまでよく健闘した、姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)。あとはわたしに任せて、あなたは早々に退がるべき」

 

 突然現れた彼女の提案は、こちらとしては願っても無いことだった。もう体は限界だった。

 

「……わかった。お願いする」

 

 こくん、と頷く幼女。

 

 一方、そんな幼女に打ち飛ばされたのであろうフェイリンは、しゃがみ込んだ状態からゆっくりと起き上がった。その顔からは獣じみた怒気がすっかり消えており、醒めたような眼でスイルンを見つめていた。

 

「次から次へと湧きますわね。ですが、私の【琳泉把】は、あの黒服たちとは格が違いますわよ」

 

 スイルンは気負う様子を見せず、悠然と言い返した。

 

「否。わたしにとっては似たようなもの」

 



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笑声

 遊撃班と防衛班が、市井で奮戦しているその頃——

 

 

 

「こんな場所があったとはのー……」

 

 末妹ルーチンの感心したような声が、やまびこのように反響した。

 

 皇族と、それを護る八人の宮廷護衛官が歩いているのは、石造りの一本道だった。

 

 一番背丈のある護衛隊隊長ジンクンの頭が擦れそうになるくらい低い天井。両端の壁は規則正しくレンガが張られており、その壁に等間隔で設置された【鴛鴦石(えんおうせき)】が通路をほんのり照らしていた。

 

 皇族の長兄ティエンチャオは反響しすぎない程度の小声で、

 

「僕も、話には聞いていたが……こうして入るのは初めてだよ」

 

「お前だけではないぞティエンチャオ。余も、父上も、そのまた父上も、ここを通った事はない。使う必要が無いほど、平和であったがゆえな」

 

 父でもある皇帝が、こちらの一言に言葉を返す。

 

 どの声も、今通っている一本道の中を波及し、声量以上の大きさで響き渡る。

 

 各々の息遣いさえ、よく聞こえる。

 

 皇帝、ティエンチャオ、ルーチンの皇族三人。それらを前後から挟んで守りながら歩く宮廷護衛官八人。

 

 ここは、【煕禁城(ききんじょう)】地下に広がる、避難用の地下道だ。

 

 『混元宮(こんげんぐう)』にある謁見の間。その中にある「仕掛け」を所定の手順で作動させると、玉座の位置がひとりでに横へずれ、地下に続く階段が現れる。そこを降りてまっすぐ進み、今この場所に来ていた。

 

 あと少しすれば、かなり開けた空間に差し掛かるそうだ。そこが、皇族専用の避難場となっている。地下室らしくジメジメした陰気な場所だが、一応生活に必要な最低限のモノは揃っているらしい。

 

 出口は【煕禁城】の外にいくつかあるが、その場所を知る者は皇族と護衛官を除いてほとんどいない。

 

 ちなみに壁で光を発している【鴛鴦石】は、入り口付近にある石材を奥まで押し込むと「仕掛け」が作動し、「雄石」と「雌石」が接するようになっている。……その仕組みは、この地下室を設計した昔の職人にしか分からないだろう。

 

 【尚武冠】に妹のチュエを残して、皇族と護衛官らは身分を悟られぬように変装し、【煕禁城】へとやってきた。そこからすぐに変装を脱ぎ捨てて、謁見の間からこの地下道へと入ったのだ。……その道中、一度も敵の襲撃に遭わなかったのは幸運という他ない。

 

「皆様には、危険な思いをさせてしまい、申し開きのしようもございません。この老骨めの愚考に乗っていただくというご英断、感謝いたします」

 

 先頭を歩く宮廷護衛隊隊長、郭金昆(グォ・ジンクン)が、背中を見せながら済まなそうに言ってきた。

 

 ティエンチャオはかぶりを振る。

 

「いや、道中一度も襲われなかったから、危険な目にはあっていないよ」

 

 そう、ここへ来るまで、皇族一行は市井で暴れまわる黒服から攻撃を受けることがなかったのだ。

 

「もったいなきお言葉。ともかく、これでひとまずは安心と言えましょう」

 

「ああ……しかし、チュエや、他の民たちが心配だよ」

 

「心中はお察ししますが、今はどうかお忍びください。皇族(あなたがた)は国の旗印。旗印を失くした国は国にあらず。貴方がたさえ御無事ならば、国は立て直しが効くのです」

 

「そう……だね。そうかも、しれないね」

 

 それを聞いたティエンチャオは、無理矢理に微笑んだ。

 

 しばらく無言で歩き続ける一同。各自の足音と息遣いだけが、地下道に反響していた。

 

「あ、広い場所じゃ!」

 

 不意に、ルーチンが前を指差す。

 

 一本道の先に、広間があるのが見えた。

 

 出てみると、かなり広く、さらにひときわ明るい場所であることが分かった。

 天井には、いくつもの『鴛鴦石』が等間隔で輝いており、これでもかというくらい光を振りまいていた。壁面にはいくつか扉がある。あのいずれかが食糧庫だったり、厠だったり、寝所だったりするのだろう。

 

 一足早く広間の中へ達したジンクンが、ことさら明るい口調で言った。

 

「さ、ここが皆さまのしばらく過ごす場所でございます。陰気な場所ではありますが、当面の食料の保存はございますので、何卒ご容赦を」

 

「うえぇっ、食料ってなんじゃ? ここは百年以上も人が立ち入っておらぬのじゃろう? 保存しておいた食料なんぞとっくの昔に腐っておるじゃろう」

 

「きっと日持ちする酒類や『仙果(シェングォ)』だよルーチン。特殊な防腐処理を施した乾果で、千年経っても食べられる代物さ。まぁ、保存性重視だから、味は保証できないけれど」

 

「肉はないのかぇ、兄上ぇ?」

 

「無いよ。我慢なさい」

 

 ひどくしおれた表情のルーチンを、ティエンチャオは撫でてごまかす。

 

 全員が広間に入り終える。

 

 すると、いつのまにか壁際に寄っていたジンクンが、石材の一部をガコッと奥まで押し込んだ。

 

 ガラララッ、ガシャーンッ!! という耳に痛い金属音が、広間の両端から聞こえてきた。

 

 見ると、さっき入ってきた一本道を、鉄格子が遮っていた。太く、密度がある格子であるため、並の武法士では破るのにかなりの時間を要するであろう代物に見えた。

 

「こうしておけば、賊が入って来たとしても、やすやすと侵入を許すことはありませぬよ」

 

 ジンクンは気さくにこちらへ笑いかけながら、そう安心を説いた。

 

 それに対し、ティエンチャオは安心感を覚えるとともに、なんだか薄ら寒いものも感じた。

 

 自分たち皇族でさえよく知らないこの避難場所のカラクリ仕掛けを、この護衛官はまるで自分の家のように熟知している。

 

 こちら側の知らぬ点で生殺与奪権を握られていることが、なんだか怖かったのだ。

 

 だがそれは、(まつりごと)という名の腹の探り合いを生業とする皇族の思考がもたらす、悪癖であるとすぐに自覚する。地下室の仕掛けをよく知っている? むしろそれは褒めるべき点ではないか。護衛官という仕事をする上で大切な心がけだ。護衛官の鏡と呼びこそすれ、なにゆえ恐れることがあろう。

 

 そのジンクンは、広間の中央に移動すると、鋭く呼びかけた。

 

「集合っ!」

 

 途端、残った七人の護衛官が一斉にきびきび動き出し、隊長たるジンクンの前で綺麗に整列した。

 

 あそこにいるのはいずれも、手練れ揃いな護衛官の中でもさらに選りすぐりな精鋭達である。その中には、我が妹チュエの師でもある裴立恩(ペイ・リーエン)の顔もある。

 

「これより、貴官らにここでの任務を伝える。国家の一大事ゆえ、一言一句すべて聞き取るように。この国の存亡は、貴官らの双肩にかかっていると言っても過言では無い」

 

 護衛官らが、表情に隠しきれぬ緊張感を持つ。全員年季が入った精鋭であるはずだが、事態が事態ゆえ、新人のようなこわばりを見せていた。

 

 そんな部下らに対し、ジンクンは平坦な口調で言い放った。

 

 

 

 

 

「————この場で全員(・・・・・・)死んで欲しい(・・・・・・)

 

 

 

 

 ジンクンの姿が、霞のごとく消失。

 

 護衛官らの首から、血しぶきが華のごとく舞散った。

 

 消えたジンクンが、護衛官の整列の後方に再び姿を現した。

 

 致命的な部位から血を流し、事切れて倒れゆく護衛官。その音が連鎖する。

 

「…………何をっ」

 

 ただ一人、剣で首元を防御していたおかげで無事だったのであろうリーエンが、血のしたたるジンクンの直剣を信じがたい目で見てから、今度はその持ち主の顔を困惑混じりの睨み目で見据えた。

 

「何を……しているのですかっ!!」

 

 常に冷静な彼が滅多に出さない、焦ったような声色。

 

 ジンクンはそれをさらりと無視し、剣で血振るいをした。石質の床に円弧状の血痕が描かれる。

 

 護衛官の血で。

 

 ——それらを一部始終目に映していたティエンチャオは、十秒ほど経った今なお、今の光景の意味が分からずにいた。

 

 が、意味は分からずとも、何が起こったのかは分かる。

 

 ジンクンが、己の部下を斬った。血を流して死んだ護衛官と、抜身のジンクンの剣から流れた血。明白であった。

 

 だが、それを認識はできても、心中に受け入れることができない。まるで、怪物に追いかけられるといったような、非現実的悪夢を見せられている気分だった。

 

 だって、そうではないか。あれだけ皇族の警護という任務に身を捧げて尽くしてくれた、あのジンクンである。ティエンチャオだけでなく、皇族はみな彼に好意を持っていた。

 

 そんな好人物が、任務に反するどころか、国家に反するような行いをしたという事実が、信じられなかった。

 

「クククッ…………クハ————ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 

 だがジンクンは、そんな自分の考えをあざ笑うがごとく、高らかに哄笑した。

 

「そうだ、その顔だ。「ジンクンがこのような真似をするわけがない」「何かの間違いだ」「悪い夢を見ているんだ」……そんな声が言わずとも聞こえてきそうな顔だ。その顔を見るためだけに、我輩は今まで糞尿を飲み干す気分で貴様ら金蝿(きんばえ)に服従していたのかも知れぬなぁ? ハハハッ、ハハハハ、ハ————ハハハハハハハハハハハハ」

 

 心の底から愉快であるというような笑い声を、今なお止めぬジンクン。

 

 その笑声は、今の光景が夢ではないことを認識させてくれた。

 

「い…………いやああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 眼前に突如として訪れた凄惨な光景に耐えきれなかったのか、ルーチンが絹を裂くような悲鳴を上げた。

 

 リーエンが一瞬で近寄り、あと一歩で狂気の領域に足を踏み入れてしまいそうだった妹の口に布を当てた。なんらかの薬を嗅がせたのか、ルーチンはすとんと落っこちるように気を失った。

 

 ありがとう、というティエンチャオの発言を待たず、リーエンは凶行におよんだ上官へ目を向けた。

 

「……なぜです」

 

 自分と父が思っているであろう疑問を、リーエンが代弁した。

 

「貴方は……貴方の職務は何なのですか!? 皇族の方々をあまねく凶刃から護る剣や盾となれ——若輩者だった私にそう教えてくださったのは、貴方だったはずだ! だというのに……なぜその「守る剣」に、仲間の血を滴らせているのですか!! 答えなさいっ!!」

 

 尊敬していた上官の凶行に対し、一番狼狽しているのは彼かもしれない。

 

 ジンクンは噛み殺した笑い声をもらした。

 

「そうであったなぁ。確かにお前にはそう教えたとも。が……それは職務の内容を教えただけの話である。我輩の心は一瞬たりとも、そこの金蝿どもに忠誠を誓った覚えなどないわ」

 

「……であるのならば、何故、身を挺して余を刃から守ってくれたというのだ?」

 

 皇帝が落ち着いた口調でそう尋ねた。表情も一見すると普段通りだが、唇が逐一かすかに震えているのを、ティエンチャオは見逃さなかった。

 

 ジンクンは一笑し、

 

「ああ、我輩が隊長になったきっかけとなった、あの事件であるか。……あれは我輩の自作自演だ。我輩が【琳泉把(りんせんは)】を教えておいた手下に刺客を演じさせ、貴様を襲わせ、その刃に我輩が急所を外してワザと刺さったのだ。貴様の同情と信頼を得るべく、わざわざ【磁系鉄(じけいてつ)】の刃物まで用意し、硬気功を使わずに受けるための説得力も出したのである。……全ては貴様の信頼を手に入れ、この復讐計画を怪しまれずに進めるためにやったこと」

 

 ——【琳泉把】を教えた。

 

 ——この復讐計画。

 

 これらの文脈から、ティエンチャオはようやくこの騒動の輪郭が見えた。

 

 にもかかわらず、身を揺るがす驚愕が消えることはなかった。

 

「まさか、君は『琳泉郷(りんせんごう)』の……」

 

「生き残りである。ただ一人の、な」

 

 かすかに震えを帯びたティエンチャオの発言を、ジンクンはあっさりと肯定した。

 

郭金昆(グォ・ジンクン)とは仮の名。我輩の真名は——琳弓宝(リン・ゴンバオ)。察しの通り、『獅子皇』によって滅ぼされた『琳泉郷』の生き残りにして、今回の騒動の首謀者だ」

 

 その目的は、もう分かっている。ティエンチャオはそれを口に出した。

 

「ジンクン……いや、ゴンバオ。君の目的は……同胞たちの復讐だね」

 

「愚問であるッ!!」

 

 途端、皮肉げな冷静さを保っていたゴンバオが、突如として爆発した。

 

「貴様らに仕えるというこの上ない屈辱を甘んじて受け入れたのも、全ては同胞の仇を討つため!! 今上(きんじょう)よ、貴様の愚父が差し向けた(イヌ)どもによって、我が同胞は不当に傷つけられ、弄ばれ、そして皆殺しにされた!! 子供だからとかくまわれた我輩は、その幼き瞳にその惨劇を映した!! 玉座や温室でふんぞり返っているだけの貴様ら皇族に、その戦場の悲惨さ、それを目の当たりにした我輩の心境を、欠片も想像できるものかぁっ!!!」

 

 そう怒声で言い募るゴンバオの眼差しは、底光りする熾火(おきび)を連想させた。暗い闇の奥底で尽きることなく燃え続ける、憎悪と瞋恚(しんい)の火。

 

 ぞくり、と背筋が寒くなる。

 

 自分たちは皇族。この煌国の最高権力にして、太陽たる存在。今まで、跪き、敬われ、へつらわれた経験しか無かった。

 

 ゆえに、こうして、強く純粋な憎しみを直接ぶつけられるのは初めてだった。

 

 こうも恐ろしいものなのか、人の憎しみというものは。

 

「我輩はその日から、己が人生を貴様らへの報復のために使うと誓った!! それが、無念に散っていった同胞たちへの手向けになると思ったからだ!! 以来、我輩は手を尽くした!! 名を変え出自を偽ることも! 【盗武】で武法を盗んで鍛え上げて護衛官入りを果たすことも! そのかたわら、娘の墓参りと偽って、朝廷や世の中に不満を持つ人間に【琳泉把】を教えることも! 煌国各地で資金を作ることも! 軍内部に協力者を作ることも! なんだってやった!! 貴様らを絶望させ、無惨な死体に変えるためならば、我輩はどんなことだってできたのだ!!」

 

 語られた彼の人生は、復讐心に満ち溢れたものだった。

 

「……賊どもの使う武法は、【琳泉把】だったというわけだ。どうりで、武官の手に負えぬはずだ」

 

「その通りだ今上。もっとも、表の連中に教えた【琳泉把】は劣化版で、あれ以上強くなることはまず無いと言っていい。報復のためとはいえ、尊き【琳泉把】の真伝を、あのような連中に教えたくはなかったからな。……だが、貴様らの軟弱な武官どもを叩き潰す程度、劣化版で事足りる」

 

「だが、そなたは目標を見誤っている。狙うべきは我らであって、民に罪は無いはずだ」

 

「貴様ら金蝿をあがめている時点で、あの愚民どももまた我輩の敵よ。どうなろうが知ったことか。それに——」

 

 ゴンバオは剣尖を水平に突き出し、自分たち三人の顔をなぞるように動かした。

 

「貴様らをここへ呼んだのは、ただ殺すためだけではない。誇りも、尊厳も、何もかも削ぎ落とし、それから殺す。それだけは、他の者に譲りたくなかった。……まずは身動き出来ぬよう貴様らの四肢を切り落とす。それから【尚武冠】にいる第一皇女も捕らえ、手足を切り落としてやる。それから貴様と皇帝は残った肉を少しずつ獣に食わせ、第一、第二皇女は心が死ぬまで男どもの慰み者にしてやる。絶望の叫びを腹一杯堪能した後、貴様らをあの世へ解放してやろうではないか」

 

 ルーチンを寝かせておいて本当に良かったと思った。

 

 皇帝は、重いものを引きずるような声を発した。

 

「……仮に我々を殺したとして、それからそなたはどうしたい? 煌国の旗を引きずり降ろし、新しい旗でも掲げたいのか?」

 

「まさか。我輩に血生臭い玉座など不要。我輩は、ただ、貴様らを苦しめた上で殺し、同胞の無念を晴らしたいだけなのだ。後は野となれ山となれだ」

 

「勝手なことを言うでない! 我々の首を取れば、大変なことになるぞ! 皇族という旗印を失えば、国内にいる有力者たちが分裂し、二百年前のような戦乱の時代になってしまう!! そなたのやろうとしている復讐は、大勢の無辜の民を危険にさらし、世を退廃させる愚行だとなぜ分からぬ!?」

 

「散々その無辜の民とやらをいたぶり尽くしておいて、今さら賢君面(けんくんづら)をするんじゃあないっ!!!」

 

 皇帝の怒号を、それ以上の声量で一蹴するゴンバオ。

 

「もういい。ゴタクはここまでだ。貴様らの四肢を切り飛ばしてやる」

 

「……やはり、引き下がってはくれぬのか」

 

「くどいぞ今上! 今更どうして引き返せようか!!」

 

「そうか……」

 

 皇帝は目を閉じた。それは、落胆しているようにも見えれば、気持ちを落ち着けているようにも見える。

 

「確かに、そなたには我々を殺す権利があろう。我が父『獅子皇』が、そなたと、その同胞らに与えた苦しみを考えれば、当然のこと」

 

 だが! と力強く区切りをつけ、父は言った。

 

「それでもこの国の平和のため、この首、やすやすとくれてやる訳にはいかぬ。——裴立恩(ペイ・リーエン)!!」

 

「はっ」

 

「今日より、そなたに宮廷護衛隊隊長の任を与える!! その剣を抜き、逆賊ゴンバオをこの場で処刑せよ!!」

 

「……御意」

 

 頷くリーエン。剣をおもむろに抜き、構えた。

 

 だが、彼の返事には、どこか覇気が欠けていた。

 

 もっともだと思う。

 

 なにせ、自分が尊敬していた人物を斬らねばならないのだから。

 

 最高の護衛官だと心酔していた上官が、最悪の逆賊だった——その事実を突きつけられた今の彼の心境たるや、いかほどのものか。

 

 リーエンを見たゴンバオは、その復讐心に満ちていた表情を、かすかに緩めた。

 

「——なんて顔をしている、リーエン。その情けない姿が、王を守る者の姿であるか」

 

「……隊長、私は」

 

「黙れ。我輩はもう隊長ではない。ただの朝敵だ。そしてリーエン、その朝敵に対してどうあるべきかを、我輩はさんざんお前に教えたはずであるぞ。それが出来ぬなら早々に殺してやる。そうなれば、この国の未来もそこまでだ」

 

 リーエンはしばし動かなかった。

 

 だが、やがて意を決したように鋭く息を吸い込み、芯の通った構えを見せた。

 

「……そうだ、それでいい」

 

 ゴンバオもまた構えを深く取った。

 

「隊長、今まで、ご指導ありがとうございました。そして……これでお別れです」

 

 リーエンは決意に満ちた口調で、鋭く言い放った。

 

「——琳弓宝(リン・ゴンバオ)、朝廷に刃を向ける逆賊として、貴方をこの場で断罪します」

 

 悲しい一騎打ちが、始まった。



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強敵再び

 

 ――おかしい。

 

 ボクがそう思い始めたのは、ライライに横っ面を叩かれてから約三十分後だった。

 

 今やボクら遊撃班と黒服軍団は、拮抗していると言っていい戦況だった。

 

 ボクらのほうが人数は上のはずなのに、「優勢」ではなく「拮抗」である点に【琳泉把(りんせんは)】の凄さを感じるが、それでも、劣勢じゃない。

 

 そもそも、この戦いで、必ずしも優勢である必要はないのだ。街の人達の安全を確保し、食糧をある程度持ち帰り、あとは援軍が来るまでの間【尚武冠(しょうぶかん)】に立てこもりながら防衛すればいい。

 

 これは「殺し」ではないのだ。「守る」ための戦いなのだ——そう自分に言い聞かせ、槍にしたたる血から気持ちをそらした。

 

 それに「守る」という観点から言えば、ボクらの方が優勢と言えた。何せ、街の住民のほとんどを中央広場へ避難させることができたのだから。

 

 あとは防衛班が【尚武冠】前の軍勢を全滅させれば、逃走経路を確保できる。……聞けば、それももうすぐ達成できるとのこと。

 

 だが、しばらく戦っているうち、妙なことに気が付いた。

 

 

 

 そもそも敵は――何のためにここで暴れている?

 

 

 

 どれだけ戦っても、敵の目的が読めないのだ。

 

 連中の目的が、この国の陥落だとしよう。

 

 ならば、こんな市井ばっかり狙ってないで、宮廷へ一気に押しかければ済む話ではないか。

 

 しかし他の仲間から聞いたところ、そのような動きは一切無いらしい。

 

 それを考えると、敵の目的はこうかもしれない。

 

「陽動、かも」

 

 である。

 

 対し、ライライも下がってこちらへ歩み寄り、

 

「やっぱり、シンスイもそう思った?」

 

「うん。こいつらが暴れまわってる目的が分からないもの」

 

「――だったら、こいつに直接訊いてみればいいですわ。お姉様」

 

 皇女への伝言から戻ってきて、今は一緒に戦っているミーフォンはそう言って、ある方向を指さした。

 

 現在、ボクらがいる場所は、帝都南西に張り巡らされた裏通りの一角だった。そこに軒を連ねる建物の壁際に、ぐったりと横たわる黒服が一人。死んではいないようだ。

 

「【点穴術(てんけつじゅつ)】で麻痺らせておきました。しばらく動けないはずですから、尋問……いや、拷問でもしましょうか。この辺の敵は片付けましたし、ゆっくり話が聞けますよ」

 

 わざわざ「拷問」と言い換えたところに悪意を感じたのか、黒服が恐怖であえいだ。

 

 ミーフォンは容赦なく襟首を掴み上げ、あくどい笑みを浮かべて問うた。

 

「というわけだから、知ってること洗いざらい話しちゃいなさい」 

 

「ふ、ふざけんな! 言えるわけねぇだろ!? もしゲロしたら、後で俺が粛清を受け――」

 

 しゅぴん。ミーフォンが匕首(ひしゅ)を取り出し、その哀れな黒服の喉元へ突きつけた。

 

「その粛清とやらの前に、あたしに生殺与奪権握られちゃってるのを理解してる? いいから知ってること全部話せ。そうしたら、命だけは助けてあげる。あとは粛清されないように逃げればいいわ。そっちの方が生存率高いと思わない? 天使でしょあたし」

 

「っぐ……わ、わかったよ……」

 

 観念したような落ち込みを見せてから、黒服は語り始めた。

 

「……この市井で俺らが暴れている目的は、陽動だ。朝廷の眼が、市井にて行われる殺戮に向いているその隙を突く形で、首領が皇族どもを逃げられねぇ場へと誘導し、皆殺しにするっつぅ策だ」

 

「逃げられねぇ場、ってのはどこよ?」

 

「宮廷……【熙禁城(ききんじょう)】の地下にある避難場だと聞いてるよ」

 

 ソレを聞いて、ボクはあらゆる意味で衝撃を受けた。

 

 宮廷の地下にそんなものがあったことも初耳だが、それだけではない。

 

 「首領」というのは、こいつらのリーダーだろう。なぜそんなやつが、宮廷の地下に避難場所があるなんて、デリケートな事情を知っている?

 

 それを考えると、おのずと答えは出てきた。

 

 首領とやらは、宮廷内部の人間。

 

 それも、常に皇族のそばにいられるであろう立場。

 

 それはつまり――

 

「宮廷……護衛隊」

 

 その中に、黒服連中の音頭を取っている親玉がいるというわけだ。

 

 ライライ、ミーフォンも、ボクと同じ結論に至ったのだろう。顔がこわばっている。

 

「お、おい! もういいだろ! さっさと俺を解放してくれよ! もともと博打で作った借金のせいで自棄になって、首領の口車に乗っただけなんだよ! 本気じゃねぇんだ! 遊び半分だったんだよ!」

 

 そう急かす黒服の喉元に、ミーフォンは匕首の尖端をチクリと刺した。その顔には、冷厳な憤りの表情が浮かんでいた。

 

「……おい、今なんて言った? 遊び半分? その遊び半分とやらで、お前はなんの罪も無い人をいったいどれくらい殺した? もういい、お前はとっとと死ね。そのほうが世の中のためだわ」

 

「ひぃっ!!」

 

「やめろミーフォン! 約束は約束だ!」

 

 今まさに黒服の喉元を切り裂こうと動き始めていたミーフォンの匕首が、止まった。多少クールダウンした声で「はい……お姉様」と言った。

 

 ミーフォンは黒服にかけた【点穴術】を解いて麻痺から回復させると、思いっきり蹴っ飛ばして転がした。

 

「二度とその汚いツラ見せんじゃないわよ。そん時はマジで殺すから」

 

「へへっ」 

 

 まったく反省していないことを容易に分からせる笑声をかすかにこぼすと、その黒服は起き上がり、走り出そうとした。

 

 

 

 その首から上が突然消失した。

 

 

 

「裏切り者は粛清せよ――こいつも雇い主からのお命じの一つだぁ、悪く思うなぁ」

 

 突然聞こえてきた声。若いようで、妙に年季の入った男の声だ。

 

 ところどころ間延びしたその口調は、どこかで耳にしたことのあるものだった。

 

 あれは、そう……【甜松林(てんしょうりん)】の実質的支配者である富豪にして、「趣味」という形で娼婦を何人も殺していた真性の連続猟奇殺人者(シリアルキラー)馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷に潜入した時に戦った男。

 

 日本刀の一種「太刀」にそっくりな刀『苗刀(びょうとう)』を自在に操る凄腕の武法士。

 

 その刃は【硬気功】が通じない【磁系鉄(じけいてつ)】で出来ており、黒いのに虹色の光沢を放つ。そのことから、裏の世界では【虹刃(こうじん)】と呼ばれている。

 

 『人の心の機微を読める』という特殊な感覚を持ち、それによって難攻不落な強さを発揮する、盲目の人斬り。

 

(ジョウ)音沈(インシェン)……! なんでお前がここに……!?」

 

 あまりにも予想外すぎる人物の登場に、ボクは夢でも見ているような感覚を覚えた。

 

 ドレッドヘアーに酷似した無数の細い三つ編み。ヘソ周りを出した詰襟に長袖、カボチャパンツを思わせる膨らんだ長ズボンは、まるで道化師の衣装をスマートにしたような印象だった。

 

 突然現れた男、周音沈(ジョウ・インシェン)は黒服の首を斬った刀を血振るいすると、その金色の瞳をボクにまっすぐ向けた。……その目は全く見えていないはずなのに、まるで本当に見られているような気がしてならなかった。そんなぎらぎらとした輝きがあった。

 

「やぁ、久しいね、偽娼婦のお嬢ちゃぁん。おたくの【気】の揺らぎ方ぁ、あの屋敷での一戦から片時も忘れたことはねぇぜぇ」

 

「何でお前がここに……いや、そもそも、なんで生きてる?」 

 

「あぁ、あの一撃はぁ確かに死んでもおかしくなかったさぁ、並の人間ならなぁ。だが俺の【気功術】の功力はぁ並外れててなぁ、どうにか生きてられたのよぉ。まぁ、痛みはまだ少し残っちゃぁいるがなぁ」

 

 心底嬉しそうに微笑みながら、インシェンはボクが以前【冷雷(れいらい)】を当てた箇所を片手で撫でた。まるで宝物を抱えているように。

 

「それからすぐにぃ(ジャオ)……いや、新しい雇い主に拾われてなぁ。こうして帝都で暴れまわる任務を頂いたぁわけなんだがなぁ……まさかおたくとまた会えるたぁ思わなかったぜぇ。いやぁ、嬉しいねぇ、嬉しいねぇ」

 

 足元にある黒服の首なし死体を横へ蹴っ飛ばすと、インシェンは左半身を後ろへ引き、刀を左耳の隣で水平に構えた。切っ先は、ボクを向いていた。

 

「お兄さんなぁ、あの戦いからお嬢ちゃんのことが忘れられねぇのよぉ。これがぁ恋ってやつなのかねぇ。つーわけだかぁ、奇跡の再会を祝ってぇ――斬り合おうやぁ」

 

 ごぉっ!

 

 そんな暴風じみた擬音が聞こえてきそうなほどの分厚い威圧感が、肌にビリリと伝わってきた。

 

 やはり、あの時と同じ威圧感だ。それが、インシェンとの再会が「夢ではない」と思い知らせた。

 

 こんな時に、こんな化け物と戦わないといけないだなんて……!!

 

 おまけに、ここは行き止まりの一本道だった。大通りへ出るための通路は今、インシェンがふさいでしまっていた。あいつの横を通り過ぎるのは至難の技といえよう。

 

「そこをどけ! 今はお前の相手をしてるヒマはないんだ!」

 

「やぁなこったぁ。是が非でも斬り合ってもらうねぇ。恋は盲目ってことでぇ勘弁してくれやぁ。あぁ、もともと盲目だったなぁ俺ぇ。はははは!」

 

 分かりきっていたけれど、通すつもりはないようだ。

 

 どうすればいい? あの黒服の言うとおり、陛下やティエンチャオ様たちの命が危ないのだとすれば、一分一秒でも時間が惜しい。

 

 首領とやらは、おそらく、あの黒服連中の何倍も強いはずだ。下手をすると首領の【琳泉把】は、ボクよりも強いかもしれない。

 

 ソレを考えると、こうしている時間さえもったいない!

 

「シンスイ」

 

 ふと、ライライがボクの裾をちまちま引っ張ってきた。

 

「なにかな?」

 

「これ、貸しておくわ」

 

 そう言って手渡されたのは、一枚の純金製の円盤だった。その刻印された紋章は、玉璽(ぎょくじ)と同じものだ。

 

 これは、ライライが第二皇女ルーチン様の臨時の側付きとして雇われた時、宮廷を出入りするための身分証として渡された紋章だ。

 

 ライライは何も言わない。しかし、何を言わんとしているのかは分かる。

 

 この紋章を使って宮廷に入れ、と言いたいのだろう。

 

「どぉしたぁ? なぁんか武器でも貰ったのかぁい?」

 

 インシェンのその言葉に、ボクは合点がいった。

 

 そうだ。あいつは確かに感覚が鋭い。だけど目が見えない以上、物体の細かい容姿などは分からない。こっちからバラさない限り、これが宮廷に入るための証を意味することが分からないはずだ。

 

「ああそうさ! お前をやっつけるための絶好の武器さ! これでお前は死んだも同然だね!」

 

 ボクはそうハッタリをかます。

 

「へぇ、そこまで言い切るたぁ、興味が湧くねぇ。しかしこの匂い……鋼じゃあねぇなぁ。【磁系鉄】でもねぇしぃ。あまり嗅がねぇ匂いだぜぇ。だがぁ、嬢ちゃんの【気】は(はかりごと)を抱えているような揺らぎ方だぁ……こいつぁなんかあるなぁ」

 

 すんすんと鼻を鳴らしてひとりごちるインシェン。まずい。こいつは目が見えない分、他の感覚が鋭いんだ。早く動かないと怪しまれる。

 

「さあっ、行くぞ! 死ねぇ————!」

 

 我ながらキャラじゃないなと思いつつも、ボクはインシェン目掛けて突っ走った。

 

 盲目の人斬りは狂ったような破顔を見せ、戦う気迫を強めた。

 

 その間合いに体が入り込もうとしたその瞬間——

 

「今だ!!」

 

 ボクはそう発しつつ、インシェンの間合いを避けるように斜め前へと軌道を急変させた。

 

 途端、ミーフォンが投げつけた匕首が、一直線に飛んできた。

 

「うおぉ?」

 

 インシェンはおのれに向かってきたソレを難なく刀で弾いた。しかし、その声には拍子抜けした響きがあった。ボクが挑んでくると思っていたのに、その予想を破られたからだろう。

 

 さらに、双刀を手にしたライライが女豹のような俊敏さで肉薄し、その刃を振るった。長さは苗刀の方が上だが、手数は二本ある双刀の方が勝る。インシェンの意識は、弧を描いて連続でやってくるライライの双刃を防ぐことにのみ集中させられた。

 

 さらに、ミーフォンも落ちていた鉄製の天秤棒を持ち、突きかかった。ライライの左脇下をすれすれで通過してインシェンへと迫ったが、わずかに体をひねって避けられた。だがライライが伸ばしきられた天秤棒を真横から踏んづけるように蹴りつけ、テコの原理でインシェンへと振った。が、それも【硬気功】による肉体の硬化で受け止められ、ノーダメージ。

 

 ライライが深く腰を伏せさせる。すると、まるで示し合わせたようにミーフォンが回転。天秤棒に遠心力をつけながらインシェンの後方へと回り込み、やがてスイングさせた。けれど、それも【硬気功】で受けられてしまった。

 

 わずか五秒ほどの間に繰り出された二人の猛攻は、どれもインシェンには通じなかった。

 

 しかし、ボクがインシェンの横を素通りし、大きく差を開くくらいの時間は稼いでくれた。

 

「ありがとう! 無理しちゃダメだよ!!」

 

 インシェンを両側から挟み込むように立つ二人に向かって声高に言ってから、ボクは【煕禁城】に向かって全速力で走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くくっ、くくくくっ……なぁるほどぉ、そういうわけかぃ。ギリギリで純金の匂いだと思い出したがぁ、あの嬢ちゃんが持っていたのは武器じゃなくてぇ、宮廷に入るための通行手形みてぇなモンだったってぇわけかぃ」

 

 不気味な笑声を漏らしながら、独り言のようにつぶやくインシェン。

 

 シンスイが出て行った方向に立つミーフォン。行き止まり側に立つライライ。

 

 すでに戦闘は始まっていた。

 

 二対一。数の上では、こちらが優っている。

 

 だが、この怪物の力を考えれば、二人掛かりでようやく対等な気がしてならなかった。

 

「いやぁ、それにしてもよぉ、人がせっかく気持ちよく殺り合おうとしてたのによぉ、そりゃぁねぇだろぉ、おぃ。久々にお兄さんなぁ……ムカッと来たぜぇ」

 

 殺気が膨張する。

 

 しかし今度の殺気は、先ほどのように、分厚い壁のような質ではない。

 

 まるで、インシェンの身体中から栗のように剣が生え、こちらに突き刺さってくるような……そんな剣呑な質だった。

 

 シンスイとの戦いを邪魔されたことに怒っている。そう確信した。

 

「覚えとけぇ、お嬢様方ぁ。人の恋路を邪魔する奴ぁ——刀に斬られて死んじまうんだぁ」

 

 構えられた【虹刃】の放つ虹色の反射光が、ライライの目に刺さる。

 

 ゴクリ、と喉を鳴らすライライ。

 

 ——父さんは、こんな化け物を一人で倒したのよね。

 

 父から受け継いだ古流の【刮脚(かっきゃく)】を大切に守り、次の世代に残す。それが、自分の武法士としての目標の一つだ。

 

 だが、目標はそれだけではない。

 

 父を超えること。それが秘めたる目標の一つだった。

 

 その目標は、もともとはシンスイの師であり父の仇【雷帝】を殺すために打ち立てたものだった。父を超えられないようでは、【雷帝】の息の根を止めるなど逆立ちしたって無理だからだ。

 

 しかし、今は違う。

 

 超えたいから、超えるのだ。

 

 こいつを一人で倒せないと、父さんには届かない。

 

 自分でも正気を疑いつつも、ライライはミーフォンに言った。

 

「ごめんなさい、ミーフォン。あなたは下がってて。私一人にやらせて」

 

「はぁ!? あんた、気は確か!? 覚えてるでしょ!? こいつがどんだけヤバい奴なのかを! あたしとあんたの二人がかりでも敵わなかったのに、それを一人でやるだなんて……どうかしてるわよ!」

 

 当然ながら、ミーフォンはそう猛抗議してきた。

 

 だが、ライライは駄目押しに、微笑みを交えて頼み込んだ。

 

「お願い。ミーフォン。危なくなったら逃げるから」

 

 嘘だ。我ながらそう思った。

 

 自分はきっと、最後の最後まで、この男と戦い続けるだろう。

 

 だが、その嘘を信じたのか、それとも信じたフリをしているのか、

 

「……死んだら、許さないから」

 

 ミーフォンは子供のような睨み目をこちらに向けてそう言うと、シンスイが向かったのと同じ方向へと走り去った。

 

 ——ごめんね、ミーフォン。

 

 心の中でそう謝ってから、ライライは両手の双刀を構えた。

 

「そうかいそうかぃ、お嬢様一人で、ねぇ。俺も舐められたもんだぁ、おたくの【気】が、本当に勝ちに行こうとしている揺らぎ方をしてやがるしよぉ。くくっ、くくははは、ははは、はは————はははははははははぁ!!」

 

 顔を手で覆いながらけたたましい哄笑をひとしきり出しきると、インシェンは再び刀を構えた。

 

 常に余裕の笑みを浮かべているその顔には、憤怒の形相が浮かんでいた。

 

「テメェごときじゃ千年早ぇよ——ユァンフイの馬鹿娘」



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シャオメイとラーシン

 虎爪の形をとったラーシンの右手が、民家の壁面を豪快にえぐり取った。

 

 その一撃を伏せて躱したシャオメイは、真下から双手帯(そうしゅたい)の刃をラーシンの右腕に走らせた。斬り落としてやる。

 

 しかし、相手は腐っても歴戦の将。回転しながら退き、その遠心力で右腕を手前へ引き寄せ、シャオメイの刃から寸前で逃れた。さらにその遠心力そのままに、一周すると同時に右回し蹴りへと転じた。

 

 シャオメイは双手帯の刃で蹴りを受け、脚の損傷を狙った。が、用意周到に【硬気功】がかかっていたのでそれはかなわず、丸太でぶん殴られたがごとき圧力に押されて吹っ飛んだ。

 

「ははははははははははははははははぁ!!」

 

 シャオメイは即座に受け身をとって持ち直すが、すでに戦意で狂ったような笑みを浮かべたラーシンの顔が目前に迫って来ていた。打ち合いは避けられぬ距離。

 

 ラーシンの両手が、虎爪を模した形となる。

 

覇威(ハイ)覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威!!」

 

 けたたましい気合の連鎖に合わせ、その虎爪手を猛然と連発させてきた。

 

 直進、横薙ぎ、上下、斜め上下……あらゆる軌道で襲い来るそれらを、シャオメイは時に避け、時に武器で防ぎながらいなしていく。ひと時たりとも気が抜けなかった。この虎爪手の一つ一つには、シャオメイの柔肌を削ぎ落とすだけの功力が秘められているのだ。

 

「覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威——()!!」

 

 終わりの見えない虎爪の連続に辟易してきたその時、空圧の形が突如変わった。唐突に、破城槌のごとく蹴り伸ばされたラーシンの左足。シャオメイはその流れの激変を敏感に感じ取っていたため、その蹴りから最小限の動きで逃れ、隣を素通りさせた。そのまま後ろへ回り込み、背中を刺してやろうとした。

 

「ぬおぉ!!」

 

 が、ラーシンが突如として回身。反時計回りの遠心力を用いて、蹴り伸ばした右足を猛烈に後ろへ振った。武法では擺脚(はいきゃく)と呼ばれている蹴り方だ。

 

「ぐっ……!!」

 

 体に当たることはなかったものの、手元には当たった。太い石の柱で殴られるようなその蹴りは、シャオメイの双手帯を弾き飛ばした。しっかり握っていたはずだが、この蹴りの威力はその握力さえ上回った。

 

 後ろへ払った左足で、ラーシンはそのまま踏み込んだ。自重の移動に同調させる流れで、猛然と迫る石壁を連想させる掌打を発した。

 

 直撃。しかし、それほど痛くはない。掌の接触と同時に両脚を水飴のごとく柔らかく沈ませ、衝撃の大半を大地へ逃がしたからだ。【黐脚(ちきゃく)】という歩法だ。

 

 余った勢いで、シャオメイは後ろへたたらを踏んだ。

 

「くくくく、やるではないか。良い反応と頑健さだ」

 

 ラーシンは戦意に満ちた微笑を崩さず、そう賞賛してくる。

 

 ——この化け物め。

 

 一方、シャオメイは先ほど蹴られた両手を衝撃の余韻で震わせながら、心中でそう毒づいた。

 

 流石は、国軍指折りの使い手といったところか。

 

 その功力は、自分とはえらい差であった。

 

 今すぐ蹴飛ばされた双手帯を取りに行きたいところだが、この歴戦の将がそれをやすやすと許してくれるとは思えない。

 

 ——極限の鍛錬によって高められた功力は、ときに、流派の歴史さえも凌駕する。

 

 ラーシンが使う武法は【虎勢把(こせいは)】。

 その名の通り、虎の動きを模した技の集まりだ。

 その戦術は至極単純。相手に隙が生まれるまで延々と攻め、隙が生まれたらそこへ全力の一撃を叩き込むというものだ。

 どんな達人であっても、攻め続けられれば必ず大なり小なり隙を見せてしまう。【虎勢把】はまるで山に穴を掘って金を探すように、怒涛の連撃によってその「隙」を発掘する。大雑把なようで、非常に理にかなった武法なのだ。

 おまけにこの武法は、他に比べて習得が非常に速い。従来の武法と違って「易骨(えきこつ)」と「技法」を分けて修練しないからだ。【虎勢把】は、【拳套(けんとう)】を修行することで「易骨」「技の習得」を同時に行える。そういった習得の速さから、国軍を含む武官の必修科目に指定されている。

 

 この革新的な武法を作らせたのは、先代皇帝である『獅子皇』。

 それまでは、あらかじめ武法を身につけた人材を軍に引き入れるという方式をとっていたが、【虎勢把】の登場によってその必要は無くなった。自前で、かつ短期間で武法士を作れるようになったからだ。……この【虎勢把】は、問題ばかり残して逝った『獅子皇』の、数少ない功績として扱われている。

 

「だが、これで終わりではあるまい? 【太極炮捶(たいきょくほうすい)】宗家次期当主どのの力、どうか俺に見せてみよぉ!!」

 

 ぐおっ! とラーシンの巨体が迫った。

 

 これから使ってくるであろう攻め手を予想したシャオメイは、己が両手を【硬気功】で鉄のごとく硬くする。

 

「覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威覇威!!」

 

 思った通り、両の虎爪手で猛烈に連打してきた。

 

 【硬気功】を施した両手でどうにか受けるのだが、

 

 ——重いっ……!!

 

 それらの一手一手が凄まじく重く、受け止めるたびに手から体幹へ衝撃がビリリと伝わってくる。気を抜くと、その勢いで重心を崩されそうだった。

 

 何より、さっきの蹴りのせいで両手がかじかんだように震え、思うように動かせない。

 

 このままでは破られる。そう思ったシャオメイは一度距離を取ることにした。足から力を抜き去った状態で、真っ直ぐにやってきた虎爪を両手で受け止めた。足という土台の影響を受けず、体がそのまま吹っ飛んだ。受け身をとって立ち上がる。

 

 間隔を圧壊せんと近づくラーシン。その巨体とは不釣り合いな速さだった。

 

 シャオメイは己の体重を己の足で蹴っ飛ばし、突発的に宙高く跳ね上がった。さらにそこから斜め下へ向かって体重を蹴り、走っていたラーシンのちょうど真後ろをとった。【飛陽脚(ひようきゃく)】だ。

 

 ラーシンの反応は一流と呼んで良いくらいの迅速さだったが、いかんせん走っていた勢いが邪魔して、行動がどうしても一拍子遅れてしまう。だからだろう、走っていた勢いは逆らうことなく、前に転がってシャオメイの放った掌底の射程から逃れた。

 

 転がってからすぐに立ち上がり、回転しながら距離を詰め、その丸太のような剛脚を振り抜いた。シャオメイはどうにか地面を転がって蹴りの下をくぐれたが、目標を失った蹴りは代わりに民家の壁面をぶち破った。

 

「化け物め……!」

 

「褒め言葉だな!」

 

「ああ、だが私は、お前を超える馬鹿力の女を一人知っているぞ」

 

「俺も知ってる! 李星穂(リー・シンスイ)だろう!? 俺はあの女とも闘いたい! お前を亡きものにした後でじっくり探すとするさ!」

 

 ラーシンはバネのような突発的速度で詰め寄り、天高く振り上げた虎爪を重心ごと振り下ろしてきた。シャオメイはその攻撃から逃れるため、横へ動いた。

 

 しかし、それはシャオメイに望んだ反応をさせるための「囮」だった。ラーシンは踏み込まずに今の軸足ごと身を深く沈め、横へ動いたシャオメイめがけて突進を仕掛けた。右の虎爪が大気の壁をぶち破って爆進。

 

 しかし、シャオメイもまた、そんなラーシンの狙いを読んでいた。右虎爪を身のひねりで紙一重にかわし、そのままラーシンの懐へと入る。

 

 脊椎を通う【筋】を真上に張り上げて「上向きの力」を作りつつ、深く踏み込んで「下向きの力」を生み出す。一つの体に矛盾した二つの力が働くことで、両端から引っ張られた糸のような張力を得て、重心に強固な固定力をもたらす。その固定力を威力に転化した肘打ち【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】。シンスイから「盗んだ」技だ。

 

「ぐおぁっ!?」

 

 さすがの猛将も、【雷帝】譲りの一撃は効いたようだ。苦悶めいた声を出し、その巨体を大きく後ろへ滑らせた。

 

 しかし、この体術はいまだに慣れない。おまけに【打雷把(だらいは)】に対応する呼吸も知らないので、普通の技より消耗が激しい。乱発はできなそうだ。

 

 ラーシンは打たれた腹部を押さえながら、くつくつと嬉しげな笑声を漏らしていた。

 

「痛い……痛いぞ……! 久しいなぁ……痛みを与えられたのは! そうだ、これこそが戦! 感謝するぞ【太極炮捶】! 寝ぼけていた俺の寝耳に冷水をぶっかけてくれたことを!! さあ、続けようぞ、我らの戦をなぁ!!」

 

 ラーシンの姿が、視界の大半を覆った。

 

 ぞわり、と背筋を氷で撫でられるような感覚から目を背けつつ、シャオメイは斜め後ろへと跳んで、横薙ぎに走った虎の爪から逃れた。レンガでできた民家の外壁が深く削げた。

 

 ラーシンは暴風のごとく旋回しつつ、圧迫するように間合いへ近寄った。回し蹴りが迫る。

 

 一振りで強風が起こるほどの蹴りを避けながら、シャオメイは下がり続ける。

 

 再び、振り向きざまの回し蹴りがやってくる——かと思いきやその足で地を踏む。さらにその足で瞬発し、シャオメイの間合いへと急迫。虎爪に変えた両手を左右から振ってきた。

 

 シャオメイは前かがみになって頭の位置を下げる。さっきまでシャオメイの頭があった位置で、二つの虎爪手が挟み込むようにぶつかり合った。【双風貫耳(そうふうかんじ)】という、鼓膜を破る技。だがあの男の腕力では、鼓膜ではなく頭蓋骨がリンゴのように潰されかねない。

 

 右手で手刀を作り、その先端をラーシンの鳩尾に添える。そこから右足底の踏み切りに合わせて、ほんの小さな間隔を一気に押し潰す形で右掌を打ち込んだ。【扎掌(さっしょう)】という技だ。極めて近い距離から強い力を出せる上、その衝撃は体内へ浸透し、鳩尾に打ち込めば心臓を止められる。

 

「覇威ィッ!!」

 

 が、耳元でそんな凄まじい覇気が爆発した瞬間、ラーシンの体の奥底から力が跳ね返って来て、【扎掌】の衝撃波を押し返す感覚を感知した。——呼吸だ。呼吸によって筋肉に波動を生み出し、こちらの衝撃波を相殺したのだ。

 

 かと思えば、顔面から頭を鷲掴みにされ、軽々と持ち上げられた。

 

「ぬぉぉぉ!!」

 

 体が一気に横へ振られる感覚。壁に頭から叩きつける気だ。

 

 シャオメイは鋭く片足を持ち上げ、ラーシンの顎を真下から蹴り上げた。頭を掴む手の力がゆるんだところを狙って強引に引き剥がして脱出、着地し、その胸部に深い踏み込みの力を乗せた拳を叩き込んだ。ラーシンの巨体がいくらか押し流されたるが、シャオメイはいち早くその背後へと回り込む。回転しながら跳躍し、ラーシンの後頭部を思い切り蹴りつけた。

 

 大男でも、昏倒はまぬがれない一撃だった。

 

「ぬははははははぁ!!」

 

 しかしラーシンは微塵もひるむ様子を見せず、勢いよく振り向きざま、裏拳を繰り出してきた。

 

「ぐあぁっ!!」

 

 今なお宙を舞った状態だったシャオメイは、それを十分にかわせなかった。両腕で受け止めこそしたものの、巨大な鉄塊が矢の速度でぶち当たったようなその衝撃が押しつぶさんばかりに両腕を襲い、さらにその後ろにある胴体まで響いた。余剰した力で吹っ飛び、壁に叩きつけられて弾み、地に膝をついた。

 

 とどまって咳き込みたかったが、敵はそれを許さなかった。暴風じみた風圧をまとってやってきたラーシンの前蹴りを、シャオメイは横へ飛び退いて回避。それから転がり、流れるように立ち上がった。

 

 ラーシンはなおも攻め寄ってくる。その目は、屠り食すべき獲物を見る獰猛な虎の目だった。

 

 虎爪、蹴り技が次々とやってきて、シャオメイはそれをどうにか避けていく。一発でも当たれば大幅に体力と気力を削がれる攻撃の数々。

 

 ——この男の頭には、「敵を殺す」ことしかない。

 

 人は、どれほど物事に集中しようとしても、完全に雑念を取り払うのは難しい。例えば、戦いの時も、「相手より早く動かなければ」「相手が絶対に倒れる威力を出さなくては」といった雑念が混じる。それらは願いを叶えるどころか、かえってその願いから己を遠ざけることになる。だが、人はそう雑念を抱かずにはいられない。

 

 一方、この男はどうだ。

 

 先ほどの後頭部への蹴りは、意識を刈り取れなくとも、怯ませることはできた。しかしこの男は少しもそんな様子は見せず、猛然と攻撃を仕掛けてきた。

 

 おまけに、個々の技のキレも増している。

 

 それはこの男の精神に「殲滅する」という純粋な意思しか存在しないということだ。

 

 純粋であるからこそ、迷いがない。その迷いの無さが、技にも現れる。軌道に一切の迷いがない技はズレを無くし、余計な力の停滞が無くなり、結果的に速度も威力も上がる。

 

 今のラーシンは、たとえ片手片足が吹っ飛んでも、それを歯牙にもかけず、敵を殲滅せんと動き続けるだろう。

 

 超が付く鷹派という人格面を除けば、この男ほど武人向きな者はいないだろう。

 

「覇威ィィ!!」

 

 (たがね)を打つような深く鋭い踏み込みとともに、蝶の羽のように構えられた両掌が大気を圧潰しながら押し迫った。シャオメイは間一髪身をひねりながらその両掌から逃れた。ラーシンの踏み込みが大地をビリリと揺るがす。

 

 かと思えば、その両掌を地につけて深々と体を沈め、踏み込んだ足を軸として旋回した。もう片方の足がそれに合わせてぐるりと円弧を描き、シャオメイの足元をしたたかに払った。

 

 突発的な変化にうまく対応できず、重心を失って虚空を舞うハメになる。そんな状態の敵を、歴戦の武士であるラーシンが見逃すはずはなかった。

 

 回転しながら腰を上げたラーシンの蹴りがシャオメイの脇腹に当たるのと、シャオメイの脇腹に【硬気功】が施されるのは、全く同時だった。

 

 【旋風掃擺尾(せんぷうそうはいび)】と呼ばれる連続蹴りをどうにか防いだシャオメイだが、蹴りによる勢いだけは消せなかった。シャオメイは壁に肩口から勢いよく叩きつけられた。一瞬、息が止まる。

 

 ラーシンはなおも勢い付いて、攻撃を仕掛けようと虎のごとく伸びやかに、かつ鋭く追いかけてくる。

 

 このままでは防戦一方だ。なんとかしなくては。

 

 この男、悔しいが自分よりも功力が上だ。まして、国軍有数の猛将なのだ。まともにやりあっても、勝ち目は薄いかもしれない。

 

 しかし、自分の体には【太極炮捶】という最古の流派が歩んだ膨大な歴史の蓄積が内在している。その数においては、この男でも及びがつかない。

 

 正攻法にとらわれるな。自分は多くのものを持っているのだ。それらを上手に使えば、きっと勝てるはずだ。

 

 ラーシンの攻撃を決死の思いで避けながら、シャオメイは考える。まるで巨大な書庫の中を探り当てるかのように。

 

 そして見つける——上手くいけば、どんな敵でも確実に無力化できる絶技を。

 

 しかしそれは、【太極炮捶】の中でも、特に秘伝である技の一つ。なぜならば、それは「武法殺し」と呼ばれる技だからだ。これをひとたび他流の者に見られれば、すぐにでも対策を取られてしまい、「武法殺し」ではなくなってしまうだろう。

 

 シャオメイは【聴気法】で周囲の存在を確かめる——幸いなことに、人はいない。

 

 今しかない。そう思った。

 

 この怪物は、「あの技」を使って、ここで今確実に葬る。

 

 それができなければ死あるのみ。

 

 あの技が失敗し、自分が死ぬ結果となっても、【太極炮捶】の伝承に問題はない。

 

 自分には——まだ妹が二人もいる。彼女がどうにかしてくれるはずだ。

 

 腹を決めたシャオメイは、久しく攻めに出た。

 

「覇威ぃ!!」

 

 高速で薙がれたラーシンの虎爪を、シャオメイはその真下に潜ってかわし、さらに間合い深くへの侵入を試みる。今度は前蹴りが飛んできたが、それもどうにか避けた。まるで台風の中に入ろうとしている気分だった。

 

「シィィィィィ!!」

 

 ラーシンの懐へ侵入した瞬間、一息で無数の拳打を放つ【連珠砲動(れんじゅほうどう)】を繰り出した。それらの高速拳は、胴体表面にあるいくつかの経穴を決まった順番で素早く突いた。

 

 真上から、握り合わされた手が鉄槌のごとく振り下ろされる。シャオメイは背中に【硬気功】を施してそれを受け止めると、今度はラーシンの両腕にあるいくつかの経穴を決まった順に押した。

 

 足が動く気配を感じたので、素早く身を翻して背中を向けた。今なお【硬気功】が残留している背中に向かってラーシンの強大な前蹴りが激突。痛くはなかったが、大きく前へ飛ばされた。受け身をとって立ち上がる。

 

 衝撃の余韻が体の中に伝わり、思わずゲホゲホと咳き込む。しかし体は動かし続ける。ラーシンはこちらをひき肉にするまで止まらないはずだ。だからこっちも止まれない。

 

「オオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 ラーシンが迫る。その目には知性の光が無い。もはや理性をかなぐり捨て、内に刻み込んだ武技のみで動いているとしか思えなかった。

 

 あとは大腿部だ。そこにある経穴を突けば、「あの技」は発動する。そうすればこちらの勝ちだ。

 

 しかし、それが一番の難関だった。なにせ、ラーシンほどの武法士が、素直にこちらに後ろを取らせてくれるとは思えないからだ。

 

 タダでは取れまい。肉を切らせて骨を断つ覚悟で行かねば、自分が死にかねない。

 

 ラーシンが疾駆。シャオメイは両腕に【硬気功】をかけ、不可視の鎧をまとわせる。

 

 二者の間合いが接触。途端、ラーシンの右足が弩弓のごとく打ち伸ばされた。

 

 シャオメイは腹をくくり、その前蹴りを両腕で受け止める。下から上へ突き抜ける破壊的な衝撃に歯を食いしばって耐えてから、その脚を抱きかかえ、即座に経穴を決まった順に打った。

 

「おああああああ!!!」

 

 雄叫びとともに、抱きかかえていた右足がシャオメイごと横へ振られた。その猛烈な勢いによって、シャオメイの体が投げ出された。

 

 受身をとる。しかしこちらが立ち上がるよりも速く、ラーシンが間合いの中に自分を納めるほどにまで迫っていた。

 

 左足を持ち上げ、体重ごと一気に踏み降ろしてきた。体をわずかに横へ転がす。踏みつけた石畳が粉砕。シャオメイはその左足へ、即座に【点穴術】を施した。

 

 ——終わった。

 

 シャオメイはようやく立ち上がると、逃げることも身構えることもせず、ラーシンの眼前に身を置いた。

 

 戦いと殺戮に飢えた猛虎は、そんな自分へ向けて渾身の勁力を込めた掌底を放とうとした。

 

 

 

 

 

 全身のいたる部位から、血が吹き上がった。 

 

 

 

 

 

「ぬおぉっ……!!」

 

 こちらの薄皮一枚にまで迫っていた掌を引っ込め、片膝をついてうずくまるラーシン。

 

 ラーシンの体からはなおも血が溢れ出し、国軍の兵装を瞬く間に真っ赤に染め上げていった。

 

「な……何が、起こったというのだ……!?」

 

 ようやく理性を取り戻したらしいラーシンの驚愕した言動に、シャオメイは冷厳に返した。

 

「貴様の全身は今、至るところが裂けて血が溢れている。それをもたらしたのは、他ならぬ貴様自身の勁力だ」

 

「なんだと……!?」

 

「【太極炮捶】の極秘伝【通天五招(つうてんごしょう)】が一つ——【拆江(たくこう)】。四肢と胴体にある特定の経穴を突くことで、骨格に不自然な歪みを発生させる。……全身で生み出した勁力を流通させるのは、【易骨】によって理想的な形に整えられた骨格。つまりそれらが歪むということは、勁力の通り道が狭まり、生み出した勁力の循環不全を引き起こすことを意味する。……想像してみればいい。湖の膨大な量の水すべてを、ちっぽけな小川に一気に流し込んだら、どんなことが起こるかを」

 

 苦痛と驚きが入り混じった表情で、ラーシンがうめくように呟いた。

 

氾濫(はんらん)する、というわけか……!」

 

「そうだ。貴様の体の中で、貴様自身の勁力が氾濫を起こした。通り道から外れた力は外側を向き、結果、全身裂傷だらけというわけだ。【筋】もズタズタになっているから、貴様はもう、当分は動きたくとも動くことはできん」

 

 シャオメイはラーシンを刺すように見下ろす。

 

「——これが「歴史の差」だ、【猛虎将】。確かに貴様は一騎当千の猛将かもしれんが、所詮は生み出されて数十年程度の新興流派。何百年と代を重ね、技を磨き続けてきた我が一門の敵ではない。身の程をわきまえろ、小僧(・・)

 

 シャオメイはゆったり歩き、取り落とした双手帯を見つけるとそれを拾い上げ、またラーシンの前まで戻ってくる。

 

「……さて、これから貴様の首を頂戴するとしようか。この【拆江】は別名「武法殺し」と呼ばれる技でな、使う以上は必ずその相手を亡き者にしなければならん。生きて戻られたら【拆江】は対策を取られてしまい、「武法殺し」ではなくなってしまうからだ。——今見たこと聞いたことは、すべて墓場までお持ち帰り願おう」

 

 双手帯の刃を、手負いの猛将の首筋へ添える。

 

「それに……貴様は腐っても一国の将だった身。のちほど逆賊として処刑されるよりも、武人として戦場で果てた方が救いがあるだろう」

 

 ラーシンは、なにも言わなくなった。

 

「くくくっ……くくくくくっ…………」

 

 かと思えば、噛み殺すような笑声を漏らし始めた。

 

 それはすぐに、哄笑へと変わった。

 

「くくくくっ……くはははははははははっ!! いいぞ、いいぞ!! この戦、お前の勝ちだ【太極炮捶】!! さあ、俺の首を持っていくがいい!!」

 

 一瞬、死を目前にして狂気を抱いたのかと思ったが、ラーシンの顔を見て、それは違うと悟った。

 

 心底、痛快そうな笑顔だったからだ。見ているこちらがサッパリするくらいの。

 

「遠慮など無用!! ひと思いにバッサリいけ!! 戦場で生き、戦場で育ち、そして戦場で果てる、それこそが真の(つわもの)の生き様ぞ!! 俺は天上の神に感謝を禁じ得ぬ!! お前のような気骨ある武人に、我が首級を差し出せる僥倖(ぎょうこう)を与えたもうてくれたのだからな!! ハハッ、ハハハハッ、フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 シャオメイは何も言わず、目の前の猛将の首元へ一閃した。

 

 

 

 ——叩き落とされたラーシンの生首は、その痛快そうな笑顔で固定されていた。

 



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スイルンとフェイリン

 【尚武冠(しょうぶかん)】正門前では、今なお防衛班と黒服が、熾烈な攻防を繰り広げていた。

 

 駆けつけた趙緋琳(ジャオ・フェイリン)によって大幅に減らされた防衛班は、再び元の勢いを取り戻していた。数の優位という利点はなくなりつつあるが、それでも黒服を正門の向こうには行かせまいと、己が身を矛と盾にして奮戦していた。

 

 下火となっていた防衛班の士気が、再燃している理由。

 

 それはひとえに、フェイリンという難敵を——劉隋玲(リウ・スイルン)が圧倒しているからに他ならなかった。

 

「はっ!!」

 

 フェイリンが爆ぜるような吐気とともに、拳三発、掌底二発を文字通り「同時に」放った。「素早く五発打った」というより「拳三つと掌二つを一緒に出した」と言っても過言ではない尋常外の速度。——五発技を出すときにかかる「五拍子」を、【琳泉把】の能力で「一拍子」分の時間の中に圧縮させたからこそできる芸当だった。

 

 剣山のごとく、スイルンの眼前を覆う拳掌。

 

 しかしスイルンには、どれ一つとして刺さることはなかった。やってきた拳掌はすべて、スイルンの体を避けて通るかのように空を切った。

 

 しかしフェイリンは怯むことなく、次の「一手」に移った。一拍子の間に五回放った蹴りは、「五手」ではなく「一手」と呼んでさしつかえない脅威的速度でスイルンへ襲いかかった。死角を覆い尽くす位置へ突き進んだ蹴りは、逃げることを許さない檻のようだった。

 

 しかしである。スイルンはまたも回避して見せたのだ。体を蛇のようにしならせ、両腕を左右に開くという滑稽な動きをしたかと思ったら、自分が一瞬のうちに放った五発の蹴撃がすべてスイルンにかすりもせずに、明後日の方向へ流れたのだ。

 

 複数の拍子を「一拍子」に圧縮させる【琳泉把】。それを使った後、一瞬だが動作の流れに「断絶」ができる。その隙間を的確に突く形で、スイルンはこちらの間合いへ滑り込み、掌底を叩き込んできた。

 

 ——しかし、「断絶」を突かれてやられるのは、あの黒服の雑兵のように、劣化版の【琳泉把】を教わった半端者だけだ。自分と、その師でもある義父は真伝を受けているため、「断絶」を守る技術を身につけている。

 

 脚を脱力させ、スイルンの掌底を己の両掌で受け止め、その勢いを利用して後ろへ下がって距離を取った。

 

 転がって受身を取りながら、フェイリンは胸中に当惑を渦巻かせた。

 

(一体なんなんですの、あの動きは……!?)

 

 未だに、自分は一度もスイルンからまともに攻撃を受けていない。けれども、それでも、スイルンの異質な動きには緊迫を覚えずにはいられなかった。

 

 少し先の未来を見ながら動いている。

 

 そうとしか思えない身のこなしだった。

 

 フェイリンが仕掛ける直前、スイルンは決まってヘンテコな構えを取る。だが、そのヘンテコ極まりない姿の彼女を、自分の拳脚は少しも捕らえることができず、彼女を避けるように空を切る。

 

 ……未来を見ているとしか思えないほど、彼女の回避は変則的で、かつ確実なものだった。

 

 フェイリンはすぐに起き上がり、再び駆け出した。

 

 間合いに敵を捉えた瞬間、【琳泉把】を発動。拳や蹴りを、目にもとまらぬ速度で連打する。

 

 が、スイルンはまたも雨のごとき連撃の間隙をかいくぐり、懐へと入り込んできた。

 

 真正面から掌底――と見せかけて横合いへ移動された。スイルンはフェイリンの胸に右腕を添えると、足底の捻りから発生させた螺旋の勁力のまま回転。その舞踊のごとき美しい動きの渦中にフェイリンを巻き込んだ。

 

 小さな台風に巻き込まれるままフェイリンは回転させられる。回転が斜めにかたむき、フェイリンの身体が落下の軌道をとる。さらに真下から膝蹴りが来ることを察知した時には、後頭部に【硬気功】を施していた。スイルンの小さな膝がその部位へ直撃。

 

 美しくも悪辣な技法。それをこんな年端もゆかない少女が発したのだと思うと、肝が冷える思いだったが、今は何も考えず、防いだ膝蹴りの勢いを利用して身体を持ち上げ、そこから素早く「一拍子」で五歩距離を離した。

 

 一度対策を考えようと退いたわけだが、相手はその暇を与えてくれなかった。五歩退ききったのとほぼ同時に、フェイリンの眉間に石つぶてがぶつけられた。痛くは無かったが、いきなりの投石に身が一瞬すくんだ。

 

 その「すくみ」は、スイルンにとっては隙だった。即座に肉薄してきた小さな体が、自重を勢いよく衝突させる形で拳を叩き込んできた。 

 

「っがっ……!」

 

 小柄な体躯に不釣り合いな重い一撃で、胴体の表から裏へ衝撃が響く。フェイリンは激痛に苛まれながらも気をしっかり持ち、足で地を掴む。

 

 追い打ちをかけようとしてくるスイルン。

 

 間合いの奥底へやってきた瞬間、フェイリンは瞬時に頭の中で攻撃法を組み上げ、それを即座に実行に移した。

 

 「一拍子」の中に圧縮できる「五歩」を用い、スイルンの周囲を巡りながら拳を叩き込む。ぐるりと全方向を一瞬で囲んだその攻撃は絶対に避けられない。

 

 そのはずだった。

 

 しかし、この幼女は違った。

 

「な――!?」

 

 全方向から同時に放ったフェイリンの拳は、スイルンにかすりもしなかった。

 

 訪れた「断絶」。フェイリンは驚きつつも、防御を忘れなかった。両掌を前に構えて備えたが、その先にあの幼女の姿はない。――当然だ、構えられた両掌の「内側」にいたのだから。

 

 膝蹴りを放とうと考えるが、それは思考倒れとなった。

 

 ドフゥンッ! と打ち込まれたスイルンの双掌打が、それを許さなかった。

 

「あ――」

 

 なんとも形容しがたい不快感を伴った痛みが、全身に染み渡った。——浸透勁(しんとうけい)。双掌という大きな「面」に込められた勁は、肉体という名の巨大な水袋の内に波動を発生させ、内部に損傷を与えた。

 

 数歩たたらを踏んで距離を取る。己の意思とは関係なしに、片膝を付いてしまった。

 

 ――強い。

 

 単純な武技の腕も一流だが、この幼女の恐ろしさは他にもある。

 

 的確に相手の「隙」を突こうとする積極性、胆力。

 

 極めつけは――未来予知と言っても過言ではない、異常な攻撃予測能力。

 

 否。「未来予知」そのもの。

 

 もう疑いようがない。

 

 彼女は、こちらが行う数手先を先読みできるのだ。

 

 その能力に類似したものなら見覚えがある。この陽動作戦のために雇った凄腕の武法士、周音沈(ジョウ・インシェン)だ。あの男は、わずかな【気】の揺らぎから攻撃の意思を察知し、その上でいち早く行動を起こせる。

 

 だが、この幼女は違う。

 インシェンのように「攻撃してくるのが分かる」などという曖昧なものではない。

 「これから、この位置へ攻撃してくるのが分かる」といった、より具体的な先読み。

 

「貴女……何者、ですの……!?」

 

 そう訊かずにはいられなかった。これほどの使い手、煌国に知れ渡っていないわけがないだろう。聞けば分かるはずだ。

 

 スイルンは、何を考えているのか読めない無表情のまま、淡々と答えた。

 

劉隋冷(リウ・スイルン)。【道王山(どうおうさん)】で【太上老君(たいじょうろうくん)】の椅子に座っている」

 

 心音が高鳴った。

 

 とんでもない怪物と相対してしまった、と猛烈な危機感を抱いたからだ。

 

 【太上老君】が【黄龍賽(こうりゅうさい)】に参加しているということは噂に聞いていた。が、それとこんな形で会うことになるなんて。

 

 彼女の武法は、未だに世間には公表されていない門外不出の技ばかりだ。あの未来を見ながら避けたとしか思えない動きも、その「門外不出の技」の一つなのだろう。

 

「うっ……!」 

 

 浸透勁で受けた内傷の痛みが再発。数度よろけてしまう。

 

 まずい。このままでは負ける。この幼女は、自分一人の手に余る存在だ。

 

 それならば――

 

 フェイリンは懐から、掌におさまるくらいの角笛を取り出した。それを思い切り吹いた。

 

 (とび)の鳴き声にも似た甲高い音が戦場に響き渡り、それに黒服たちが反応を示した。――この音が出る笛を持った者が「指揮官」であると、義父からきちんと教えられている証だった。

 

「お前たち、【尚武冠】を攻めるのは後回しです! まずはこの小娘を八つ裂きになさい!!」

 

 フェイリンの指示が飛んだ瞬間、黒服たちは正門を守る防衛班から距離を取り、スイルンを一斉に見る。

 

 標的を確認した瞬間、黒服たちは津波のごとくスイルンへと殺到した。

 

 防衛班が、あわてて駆け寄ろうとするが、

 

「防衛班、そこを動くなっ!!!」

 

 スイルンの一喝を聞いた瞬間、すくみ上がったように動きを止めた。これまでのぼんやりした彼女らしからぬ、近距離で響いた雷鳴のごとき声だった。

 

 良い判断だ、と感心しつつも、彼女のこれからを憐れんだ。これほどの人数で一斉に来られれば、いかに未来予知に等しい先読みができたとしても必ず隙を突かれる。隙を全く作らない人間など、この世にはいないのだ。

 

 黒服がスイルンの間合いに徐々に近づき、やがて接した。

 

 迫る剣尖。それを何ともなしに避けた後、今度は軽く身を反らした。頭があった位置を、一瞬後に剣が貫いた。

 

 黒服が弧を描きながらスイルンの後方へぐるりと回り込んだ。完全に周囲を囲まれた【太上老君】。

 

 集まった黒服たちは、互いに斬り合わぬように円の空間を作り、その中にいるスイルンへ次々と刺突を繰り返した。

 

 しかも、ただ剣を突き出しているだけではない。

 「突いて」、「引く」――この二拍子かかる動作を、【琳泉把】の能力で「一拍子」の時間で行っている。なので、一人一人が刺突を連続させる速度が速い。

 

 スイルンは何ともなしに避けているが、この無数にやってくる剣尖を、一体いつまでしのぎ切れるのか、見ものである。

 

 それに、彼女は今、避けるばかりで、攻撃ができない。当然だ。攻撃を行えば、その瞬間が隙となり、一斉にメッタ刺しにされるからだ。

 

 だが――

 

()ッ」

 

 不意にスイルンが、細い気合いを発した。

 

 一体なにごとかと思った瞬間――黒服の一人が突然倒れた。

 

「哈ッ、哈ッ、哈ッ、哈ッ」

 

 さらに四回、またその細い気合いを吐き出した。その吐き出した回数と同じ数だけ、黒服が倒れゆく。

 

 いったい何事かと思って、倒れた黒服を見ると、その耳を覆う黒い布から——血がにじんで垂れていた。

 

 フェイリンは驚愕とともに、今の気合いの理由を確信した。スイルンは特殊な呼吸法で自らの声の振幅を細め、それをあの黒服の片耳に突き刺すように当てたのだ。それで鼓膜が破れ、身体の均衡を保つ身体機能が狂ったのだ。

 

 突然倒れた仲間たちに、黒服たちは動揺を見せた。一瞬、刺突の雨が止む。

 

 その「一瞬」を、スイルンは有効活用した。倒れた黒服へ転がり込み、剣を素早く奪い取る。右手に持ったその剣を上に横薙ぎにし、数人の敵の首筋を斬った。

 

 突如として咲き誇った血の華々に、黒服に再度の動揺が走る。その隙にもう四、五人斬り捨てる。

 

 ようやく我に返った黒服たちは、種々雑多な怒号を上げながらスイルンに殺到。

 

 しかし、四方を取り囲むという利点を捨てた連中に、勝機は薄かった。まして、スイルンは数手先の未来が読めるのだ。

 

 避けながら、剣で攻撃する。その二つの動作を同時に行い続けるだけで、黒服の死体がもりもり増えていく。スイルンは無傷。

 

 その様子を見て、フェイリンの中に猛烈な危機感が生まれた。

 

 数の有利はまだこちら側にある。しかし、スイルンの持つ「個の力」は数すら圧倒するだろう。おまけに、その数もどんどん減ってきている。

 

 この連中を見捨てて逃げるか――いや、それではスイルンに勝つことはまずできないし、陽動にもならない。

 自分は逃げて、黒服たちには再度目標を正門にして攻めさせるか――それもダメだ。それをスイルンが座視しているとは思えない。

 スイルンは自分一人で引受けるか――論外。負傷した自分では、勝ち目は黒服連中より低いだろう。

 

 頭の中にいくつもの策が浮かんでは消える。

 

 最後に、苦し紛れに思いついたのは――黒服全員と組んで、スイルンを殺すという手だった。

 

 それくらいしか、もうできることが無かった。

 

 しかし、やらなければならない。

 

 この女は危険だ。ここで殺しておかなければ、陽動に支障が出る。

 

 死ぬかもしれない。

 

 けど、構わなかった。

 

 愛しいあの人の――お義父様のためなら、(わたくし)は死すら厭いません。

 

 フェイリンは意を決した。黒服の亡骸が持っている剣を拾い上げる。

 

 闇雲には突っ込まない。慎重に目を凝らし、攻め入る隙をうかがう。それでいて、五拍子を圧縮した「一拍子」で踏破できる範囲内に、常にスイルンの立ち位置を置いておく。

 

 剣戟を繰り広げるスイルン。ガリガリと削られていく黒服の軍勢。

 

 見続け、見続け、見続け――見つけた。スイルンが、足底を蹴って生んだ勁力を剣尖に送り込もうとした、まさにその途中。攻撃を行おうとしている最中、人は嫌でも無防備となる。

 

 フェイリンは一切の迷いなく疾駆。吸い込まれたような速度でスイルンの姿が視界で急激に大きくなり、我が剣尖がその喉元へまっすぐ差し迫った。

 

 当たる。そう確信した。

 

 が、

 

 

 

そうくると思っていた(・・・・・・・・・・)

 

 

 

 スイルンの唇が、そう動いた。

 

 それに合わせたかのように、直前に斬り殺された黒服の亡骸が横倒しとなり、フェイリンの刺突を阻んだ。――しまった、誘い込まれた!

 

 剣が亡骸に突き刺さった。それでもフェイリンはあきらめない。その死骸を貫き通し、そのまま後ろにいるスイルンごと串刺しにしてやる。

 

 確かにフェイリンの今の刺突には、それができるだけの鋭い勁力が込められていた。

 

 惜しむらくは――死体を通してしまったことで、剣尖の速度が落ちてしまったことだろう。

 

 二人目に刺さる感触は、剣を伸ばしきった後も感じなかった。

 

 剣を引き抜こう。そう考えた時にはすでにスイルンに近距離を取られていた。

 

「かは……っ!」

 

 抵抗する間も与えられず、柄頭で経穴を突かれた。【発困穴(はっこんけつ)】という経穴だ。

 

「殺さない。あなたには聞かなければならないことが、山二つ分くらいある」

 

 どこまでも淡々としたスイルンのその言葉を最後に聞いてから、フェイリンの意識は深いまどろみへと引きずり込まれていった。

 



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ライライとインシェン

 

 久方ぶりに手を合わせることとなった盲目の人斬りは、相変わらず本当に盲目なのか疑わしくなるほど動きに迷いが無かった。

 

「そらよぉ!」

 

 その男、周音沈(ジョウ・インシェン)が放った真下からの斬り上げを、ライライは交差させた双刀の又で受け止めた。

 

 インシェンの細く長い黒刃が上へ振り抜かれ、胴体が丸見えになる。その隙を突く形で、ライライはすかさず双刀の片方でインシェンへ刺しにかかった。

 

 しかし、惜しい。インシェンはライライが攻勢に入る寸前に後ろへ跳ね、間合いを遠ざけてしまった。ライライの刀が空気を裂く。

 

 さらに黒い刀身を丹田辺りへ引き戻したインシェンは、身体を一瞬極限までちぢこませ、そこから一気に伸ばす勢いで刺突を走らせてきた。

 

 ライライはもう片方の刀を黒い刃へ擦りつける。その摩擦で刺突の行き先を歪め、左耳のすぐ近くを素通りさせた。刺突を避けたことで、我が身が自然と敵の刀の間合いに入る。

 

 首元めがけて刀を振るうライライ。だがインシェンは深くうつむいて頭を太刀筋の下にくぐらせて避けた。そこから回転しながら退き、黒い刀で薙いできた。それも双刀で防ぐ。

 

 両者が、遠間(とおま)の関係になった。

 

「相変わらず防御と逃げだけはぁ一丁前だぁ。さすがは鉄壁の防御を誇る【刮脚(かっきゃく)】の双刀術とぉ言ったとこかぁ」

 

 インシェンが余裕の表情と声でそう言った。

 

 対し、ライライは何も言えなかった。

 

 もうかれこれ十分は剣を交えているというのに、未だにかすり傷の一つも与えられていない。その焦りが心を支配しつつあった。

 

 やはりこの男は手ごわい。純粋な技の練度は、自分の数段上をいっている。

 

 おまけにこの男は、相手の【気】の揺らぎ方から攻撃の意思を判断し、その上で一拍子速く対処できるという特異な【聴気法】を持っている。そのせいで、いまだに一度も攻撃を当てられていない。

 

 インシェンは再び刀を構えた。

 

「だがぁ、それだけだぁ。【刮脚】の売りはぁ、変幻自在の蹴りだぁ。おたくはその蹴りでぇ、いまだに俺を一回も傷つけられてねぇぞぉ? ユァンフイの娘兼弟子とは思えねぇぜぇ。これが鷹が鳶を生むってやつかぁ、おいぃ」

 

「――っ。…………」

 

 あんまりな物言いにカッとなりそうになるが、気持ちを懸命に鎮静化させる。

 

 しかしインシェンは、構わず言いつのってくる。

 

「もし俺の目の前にいるのがぁユァンフイだったら、俺はもうくたばってるかぁ、あるいは逃げてるかだぁ。そのどちらでもなぁい、それはつまり、どういう意味だろぉねぇ……くくくっ」

 

「――言わせておけばっ!」 

 

 ライライはそう言って飛び出したが、心はきちんと落ち着いている。心を乱して勝てるような相手ではないと、ちゃんと分かっているからだ。

 

 インシェンもまた、こちらの心の機微が読める。やけっぱちになって突っ込んできたわけではないと分かるはずだから、舐めてかからないはず。

 

 両者の間合いが衝突。途端、一対の銀閃と一筋の黒閃が、あらゆる軌跡を描いて幾度もぶつかり合った。

 

 立ち位置を何度も変え、縦横無尽な剣戟を繰り広げる二人。

 

 武器の数が多い分、ライライの方が有利のはずだ。しかしインシェンの剣さばきは、そんな差などもろともしない密なる防御を見せ、そこからさらに斬りかえしてくる余力も見せた。

 

「ほらほらぁ、どうしたよ二刀流ぅ!? 二刀の利を活かせてねぇぞぉ!? そぉれぇ!」

 

 時折反撃してくるインシェンの刃を受け流しつつ、

 

「蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 ただ、同じことを何度もぶつぶつと呟いていた。

 

 自分の心にある雑念をこそぎ落とし、ただ「蹴る」という精神のみに研ぎ澄ませていく。そうして純粋なる「蹴る」という意識を完成させる。純粋な意識から発せられる技は、どんな技よりも速い。

 

 それこそが【無影脚(むえいきゃく)】。

 

 ライライは今まで、誰の邪魔も無い、止まった状態でしかそれを発動させることができなかった。だがこの三ヶ月の間、暇を見つけてはそれを改善する修練をしていた。

 

 結果、この【刮脚】の双刀術を使いながらなら、【無影脚】を発動させることができるようになった。

 

 【刮脚】の双刀術は『六合攔刀(ろくごうらんとう)』と呼ばれる。斬ることよりも、守ることに優れた刀術だ。それによって相手の刃を防御しつつ、隙を見つけて蹴りかかる。それが主な戦法だ。

 

 この刃の結界の中でなら、比較的安心して【無影脚】の準備ができる。

 

 ――無論だが、【無影脚】を発動させたところで、それだけではインシェンに勝つ見込みは薄いだろう。それは馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷での戦いで身をもって経験済みだ。

 

 しかしながら、その時の戦いからは、得たものもあった。

 

「――――蹴る」

 

 精神に、最後の一削りを与えた。

 

 途端、心が針のように細められたような感覚を味わった。今繰り広げている剣戟さえも、他人事のように感じられる。

 

 ぶつかり合う太刀筋。双刀の一本と黒い刀が力をぶつけ合い、一瞬だが"居着いた"瞬間を狙い、「蹴った」。

 

「うぉっ?」

 

 狙ったのはインシェンの右肩。身体の末端に神速の一蹴りを浴びた金眼の男は、それによってもんどりを打った。

 

 いわば「自分以外の力に踊らされた状態」に陥ったインシェンめがけて、ライライはもう二度「蹴った」。今度は両端を狙った蹴りだった。

 

 インシェンは合計三発の蹴りを受けても体勢を取り戻したが、ガクッと膝を屈しかけた。後に放った二発の蹴りは、左右側面を高速で蹴り込むものだった。一瞬で放たれた矛盾する力によって体の中に強い振動が生まれ、インシェンの体内を揺さぶっているのだ。【響脚(きょうきゃく)】という蹴りだ。 

 

()ッッ!!!」

 

 とはいえ、その振動波も、インシェンがひとたび呼吸で体内に波動を生み出して相殺してしまった。

 

 けれど、それでいい。たった一瞬隙ができればそれでいい。

 

 すでにライライは近づき、刀の一本を振るっていた。体重を乗せて放たれた太刀筋を、インシェンは苗刀の(みね)に手を添えて受け止めた。それによって力がぶつかり合い、居着いた瞬間を狙ってもう一度「蹴った」。

 

 転がるインシェン。しかし受け身を取る。そこへすかさずライライは石畳の破片を「蹴った」。破片が矢のごとき速力を得て真っ直ぐ飛ぶ。インシェンは腕で顔を守ってそれを防ぐ。それとほぼ同時に腕ごと「蹴った」。

 

 またも蹴り転がされた敵を、ライライはなおも追う。

 

 ――シンスイの戦法が、参考になっていた。

 

 馬湯煙(マー・タンイェン)の屋敷で、シンスイはこの男と戦った。

 

 シンスイはその時、あらゆる方法でインシェンを「硬直状態」に追い込み、そこを攻めるという戦法をとっていた。

 

 たとえ相手の「攻撃してくる意思」を察知し、いち早く反撃ができたとしても、自分の重心が安定していなかったり、変なところに力が入ってうまく動けなかったする「硬直状態」であったなら、その察知は宝の持ち腐れで終わる。動けないなら、対処のしようがないからだ。

 

 ライライもまた、そのシンスイの戦法に倣った。それだけの話だ。

 

「どっかで見た戦法だなぁ、(とんび)のお嬢ちゃぁん!!」

 

 だが、相手もそれだけで押し通せるほど甘くない。受け身から迅速に立ち上がり、近づくライライめがけて虹色に輝く黒刃を振るった。

 

 再び剣戟対決。金属がぶつかり合う耳の痛い音が幾度も連鎖。

 

 やはり、インシェンも馬鹿ではなかった。こちらがどういう戦術を仕掛けてくるのかが分かった今、何も対策を取らないなんてことがあるわけがなかった。余計な部位に力が入って「硬直」しないよう、滑らかで粘るような剣さばきに変えてライライの双刀を防いでいた。

 

 この短時間で慣れ親しんだ動きの質を変化させ、なおかつそれを使いこなして見せているインシェン。流石は刀一本で裏の世界に伝説を生み出した【虹刃(こうじん)】なだけはある。

 

 けれど、ひるんでもいられない。

 

 "【虹刃】ごとき"倒せなければ、父以上の武人になるなど荒唐無稽。笑止千万。抱腹絶倒。失笑噴飯。

 

 だからこそ、ライライは剣戟の間にがら空きとなったインシェンの胴体を見ながら「蹴った」。

 

「おみ足もらったぜぇぇぇ!!」

 

 これまでの例に洩れず、こちらの攻撃の意思を察知したインシェンは、がら空きの胴体を覆うようにして刃を振り上げた。【硬気功】による防御さえ許さないその一太刀に当たれば、ライライの美脚は途中から切断されていただろう。

 

 だが――誰が「胴体を狙う」なんて言った?

 

 自分は確かに隙を見つけ、それを蹴った。しかし、それは胴体ではない。

 

 左肘だ。

 

「っ」

 

 インシェンが、間近に落ちた落雷に驚いたような顔をした。

 肘には、衝撃を受けると前腕部に稲妻が走ったようなしびれを訴える部位が存在する。刀を強く握る手である左腕にそれを感じたであろうインシェンは、柄を握る手を一瞬緩めた。

 

 左足でインシェンの手元を「蹴る」。――手と刀の柄がとうとう離れた。

 右足で苗刀の刃の腹を「蹴る」。――数々の血を浴びてきたであろう【虹刃】が、半ばから二つに折れた。

 

 脅威の一つであった【虹刃】を破壊した。これでこちらの勝利の機運は濃くなった。

 

 もはや何も守るモノがなくなったインシェンめがけて、ライライは双刀を放った。

 

 勝てる。そのはずだった。

 

 

 

 ライライの持つ一対の双刀が、ひとりでに崩れた(・・・・・・・・)

 

 

 

「……え」

 

 まるで包丁で切られた大根のように、双刀の刀身に切れ目が入り、そこからバラバラになったのだ。

 

 宙を舞う刀の破片と、血のしずく。

 

 自分の右肩から左脇腹にかけて、血の湧き出る極細の筋ができていた。

 

 斬られた。

 

 そんな馬鹿な。もう奴の武器は折った。なのにどうして。

 

 まだ何か武器を隠し持っていたのか。そう思ってインシェンの手元を見るが――素手だった。

 

 訳が分からぬまま数歩たたらを踏んで退き、止まり、ようやく焼けつくような痛みを自覚した。

 

 身を焦がすような苦痛。それを紛らすように、浅い呼吸を繰り返す我が身。

 

 すでに【無影脚】は解けていた。

 

 前に立つインシェンは、右へ、左へ、交互に揺れながら、幽鬼のようにこちらに歩み寄ってくる。

 

 何か気味が悪い。そう感じたライライは、ほぼ柄だけになった役立たずの双刀の一本を投げつける。

 

 インシェンはぶらぶら揺らしていた素手の左腕を、光のような俊敏さで振った。

 

 途切れた双刀が、さらに細切れになった。

 

「久しぶりだなぁ……「こいつ」を使うのはぁ。さっきまでは鳶だのなんだの言ったがぁ、失礼を詫びるぜぇ。おたく、前よりずぅっとユァンフイに近づいてるぜぇ」  

 

 今まで自分を認めなかったインシェンから飛び出した、称賛の言葉。

 

 しかし、それに喜ぶことはできなかった。むしろ、武器を折られてもなお悠々としたその態度に、胸騒ぎさえ覚えた。足が一歩退がる。

 

 何より、今の奇怪な技だ。素手なのに、鋼鉄の物質を紙屑同然に切り刻むという、正体不明の技。

 

 インシェンは再び、稲光のごとき速度で左腕を真横へ走らせた。左腕が通り過ぎた位置にあった民家の石壁が――細切れになった。

 

「イカしてんだろぉ、この斬れ味ぃ。物体ってなぁ、音速に達すっとぉ、衝撃波を生み出すんだぁ。例えばぁ、鞭を振った時に鳴る破裂音はぁ、その衝撃波の音なのさぁ。腕をその鞭みてぇに音速で振って衝撃波を起こすんだがぁ、その時にちょこっと指の操作を工夫するとぉ、衝撃波の形を変えられんのさぁ。つまりぃ、あれだぁ。特殊な指の動きでぇ、衝撃波を刃物みてぇな形に変えてぇ、見えない刃物にするんだぁ」

 

 細切れになった石壁の欠片がインシェンになだれ込む。だがインシェンの両腕が閃光と化して間合いの中を駆けめぐった瞬間、それらの欠片はさらに細かく切り刻まれ、砂利同然となった。

 

「俺はぁ、こいつを【不見刃(ふけんじん)】って呼んでるよぉ。いつかぁ、おたくの親父に仕返しするために作った技なんだがぁ、まさか娘であるおたくに使うことになるたぁ、因果だねぇ」

 

 その強力な技に、ライライは脅威を感じると同時に、親近感を覚えた。

 

 父を殺した男【雷帝】に報復するために、自分は【無影脚】を編み出した。

 

 それとおなじように、この男もまた父に仕返しをするために、あの技を作ったのだ。

 

 自分とこの男は、似ていた。

 

 しかし、今、決定的な違いがある。

 

 それは――自分の方が圧倒的不利であるということだ。

 

「それにしても、やってくれたなぁ、お嬢ちゃぁん。【磁系鉄(じけいてつ)】てなぁ加工にも金がかかるんだぁ。だからぁ、弁償しろたぁ言わねぇからぁ……この技の実験台になってくれやぁ!!」

 

 インシェンが加速する。

 

 間合いに入ってしまったら終わりだ。あっという間に輪切りにされる。なので、今は逃げるしかない。

 

 その両腕を閃光じみた速度で振り回してくるインシェン。それから懸命に逃れるライライ。

 

 動くたびに体の傷が痛みを訴えるが、それからは意識をそらす。

 

 逃げる。逃げる。逃げる。

 

「蹴る……蹴る……蹴る……」

 

 その最中、再び【無影脚】を発動させるべく、精神を研ぎ澄ませていく。

 

 痛みから意識をそらしつつ、それをしばらく繰り返すことで、奇跡的に【無影脚】を再発動させることができた。

 

「それそれそぉれぇ!!」 

 

 インシェンは滅茶苦茶に両腕を走らせる。その過程で、端にある石壁がバラバラの切れ端と化していく。

 

 ライライはその大小無数の切れ端の中で、小さめのものを「蹴った」。その切れ端がインシェンに向かっていく。

 

 両腕で顔を覆い、石つぶてを防ぐインシェン。

 

 腕が封じられているその瞬間を狙い、「蹴ろう」とした。

 

「忘れてねぇかぁ、俺のもう一つの「能力」をぉ!?」

 

 が、蹴りの直前、インシェンは立ち位置を横へ滑らせ、ライライの狙っていた場所から外れてしまった。

 

 ――しまった。【不見刃】にばかり気を取られていたせいで、もう一つの脅威である「攻撃の意思の感知」の能力から意識がそれてしまっていた。

 

 時すでに遅し。蹴りはもう真っ直ぐ伸びてしまっていた。

 

 インシェンの腕の一本が、閃きと化す。

 

 足を斬られる。

 

 そう思った瞬間、落下の最中だった大きな石の切れ端がその蹴り足に乗っかった。それによって、蹴り足が否応なしに素早く下ろされた。

 

 その嬉しい誤算のおかげで、インシェンの不可視の刃ははずれた。

 

 ――しかしながら、じぶんはその嬉しい誤算を有効活用することができなかった。

 

 ライライの蹴り足に乗っかった大きな切れ端は、そのまま足を地面に落下させ、地面と切れ端とで足を下敷きにした。

 

「あぐっ……!」

 

 ミシッ、と関節から音がした気がした。少しだけだが、関節が変な方向に曲がったようだ。

 

 痛むが、戦闘不能というわけではない。まだ立てる。戦える。

 

 しかし、石に足を取られた状態から立ち直らせてくれるほど、親切心にあふれた相手ではない。

 

「さよぉならぁ、お嬢ちゃん。あの世でぇ、親父と仲良くやりなぁ」

 

 インシェンが、自分のすぐ前に立っていた。

 

 万事休す。

 

 いや、まだだ。最後まであきらめるな。

 死ぬ寸前まで、すべての手を使い尽くせ。

 心を燃やせ。

 四肢を爆発させろ。

 たとえ無茶でもいい。

 この男を倒すことだけを精神に宿し、出来る限りのことをして自分を使い尽くせ。

 バラバラになってもいい。

 廃人になってもいい。

 命を刈り取られるその寸前まで、武法士であることをやめるな。

 

 蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ、蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ蹴れ―― 

 

「――――――――――――蹴れ」

 

 自然と、自分の口からそんな言葉が出てきた。

 

 瞬間、意識が闇の底へストンと落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝った。

 殺した。

 首を斬った。

 

 

 

 ――嘘をつけ。

 

 

 

 ならばなぜ、自分はあの娘から遠ざかっている?

 なぜ、腹に焼けるような痛みが宿っている?

 なぜ、あの娘は死んでいない?

 

 首を斬ろうとした瞬間、反撃されたからだ。

 

 目が見えずとも、インシェンは音で分かった。ライライが石壁の破片に足を取られ、身動きが取れない状態であったことが。

 

 もはや勝負は決した。そんな油断にも似た確信を抱いた瞬間、自分の腹を蹴飛ばしたのだ。

 

 攻撃を受けたことはまだ良い。それは油断していたこちらに原因があるだろうから。

 

 

 

 問題は――その攻撃の「予兆」が読めなかったことだ。

 

 

 

 インシェンは、相手の【気】の揺らぎから攻撃の意思を読み取ることで、その相手が動く一拍子前から回避やら反撃やらで先手を取ることができる。

 

 だが、今、それが読めなかった。

 

 相手の攻撃の予兆が読めるからこそ、インシェンは今まで見えている者以上に優位に立てていたのだ。それが読めなければ、暗闇の中から突然矢が飛んでくるようなものだ。目以外でなら知覚できるが、その反応はやはり【気】を読んだ時よりは遅れる。

 

 重心の均衡を取り戻してから、インシェンは【聴気法】でライライの【気】を感じ取った。

 

 

 

 炎。

 

 

 

 ライライの【気】は、まるで常に油を注がれている炎のごとく燃え盛っていた。

 

 それは、相手が攻撃の意思を思い浮かべた時に、一瞬見せる反応そのものだった。

 

 だが、今のライライの【気】には——その攻撃の意思が“常に”出ていた。

 

 どんなに攻撃的な人間でも、その【気】に揺らぎ方には必ず「緩急」がある。だから、常に攻撃の意思を発し続けるなんてできない。

 

 それができるのは、異常者だけだ。

 

 その異常者が、目の前にいた。

 

「おいおいおいぃ……どうしちまったんだぃ?」 

 

 ライライにそう尋ねる。少し震えた声だった。

 

 しかし、返事が返ってこない。

 

「そんな足じゃぁもう無理だろぉ? もぉやめときなぁ。所詮おたくはユァンフイに届く器じゃぁなかったのさぁ。諦めてぇあの世に行ったほうがぁずっと楽だぜぇ?」

 

 そんな挑発じみた言葉にも、彼女は【気】の燃え方を少しも変えない。まるで聞こえていないかのように。

 

 ――意識が飛んでいる。

 

 【気】を燃やしながら、ライライが急迫してきた。

 

「ぐはっ!?」 

 

 再び神速の蹴りを受ける。足がちょっと動いたと思った瞬間には、胴体を貫くような衝撃がぶち当たっていた。それほどの速さ。

 

 ――速すぎる。

 

 それは、ライライの【無影脚】を散々経験した者にとっては、今更過ぎる感想だった。

 

 インシェンが、物理的速度に脅威を覚えている——それは、【気】を読んだ上で一拍子速い動きで対処できていたインシェンにとって、あり得ないことであり、あってはならないことであった。

 

 だが、仕方がないではないか。

 

 

 

 "読めない"のだから。

 

 

 

 常に攻撃の意思で【気】が揺らいでいる人間。

 

 そんな奴から、どうやって「予兆」を読めばいい?

 

 インシェンは焦った。焦る間もなく敗北したシンスイとの一戦では味わえなかった感覚だ。茨のツタが足から徐々に上半身へと絡み付いてくるような、気味の悪い焦燥感。

 

「ごぉっ!?」 

 

 光のごとき速度で、ライライの蹴りが右上腕に直撃。

 

 激痛が走るが、やられてばかりでもいられない。左腕を音速で外から内へ薙ぎ、指先周辺にまとわせた空気の刃でライライの首筋を狙う。

 

「ぐぅっ……!!」

 

 が、その空気の刃は、首筋の肌を浅く切るだけで終わった。自分の【不見刃】と同等以上の速度で放たれたライライの右足が、こちらの左上腕部を内から外へ払うように蹴りつけたからだ。矛盾した方向同士の力がぶつかり合い、インシェンの尺骨に深い亀裂が入った。

 

 インシェンは見せた隙は微かなものだったが、ライライが仕掛けるのには十分長い隙だった。

 

 それからは、もはやされるがままだった。

 

 あらゆる方向から、流星のごとき速さと鋭さの蹴りがこちらの五体に殺到。竜巻に入ったような勢いであっという間にインシェンをズタボロにしてしまう。

 

 対処したかったが、どうしようもなかった。

 

 自分は今まで、目が見えないという足かせを、鋭い【聴気法】で補ってきたのだ。相手の攻撃の意思をあらかじめ感知できれば、一拍子速い段階から対処ができる。その能力で、自分は名を上げてきたのだ。

 

 だが、ライライの【気】は、常に攻撃の意思を持っている。だからこそ、「一拍子速い段階から対処ができる」という能力は意味をなさない。

 

 であれば、今のインシェンはただの盲人だった。むしろ目が見えないことが、これ以上ないほどの弱点になっている。

 

 ――この娘の心には今、「敵を倒す」ことしか無いのだろう。

 

 【無影脚】を発動させた状態で、自分をそんな精神状態に追い込んだ。それら二つの要素が結びつき、今の状態に至るというわけだ。

 

 自分の意識を、【気】の揺らぎの状態に影響を及ぼすほどまでに操作できる者は、非常に限られている。よほどの大名人くらいだ。それこそ、武林に雷鳴のごとく名を轟かせた【雷帝】のような。

 

 この娘の父、宮淵輝(ゴン・ユァンフイ)にさえ、ソレはできなかった。

 

 つまりライライは今、一定の分野においては父を完全に超えてしまったことになる。

 

 ――天才。

 

 自分は、とんだ読み間違いをしていた。

 

 鷹が鳶を生んだわけでも、鷹が鷹を生んだわけでもない。

 

 鷹が、この鳳凰を生んだのだ。

 

 すでにインシェンの身体は、目も当てられないほどにボロボロとなっていた。骨も何本か折れているだろう。

 

 不意に、雨あられのごとき蹴りが、ぴたりと止んだ。

 

 それは、嵐の前の、ほんのわずかな静けさだった。

 

 ライライの【気】が、正気を取り戻した揺らぎ方を見せる。かと思えば、丹田に【気】の塊を生み出し、

 

「ハッ!!」

 

 それを爆発させると同時に、蹴りを真っ直ぐ放った。

 

 【炸丹】を交えて放たれたその一蹴りは、凄まじい勢いと鋭さを兼備し――インシェンの胴体を貫いた。 

 

「がほっ……!!」

 

 自分の体内を異物が通過する、気味の悪い感覚。身を引き裂くような痛み。

 

 滝のように血を吐き出した。

 

 おおよそ、生きてはいられない損傷だった。

 

 ――ああ、終わった。ここで、自分の人生は幕を下ろすのだ。

 

 なかなか悪くない人生だった。常に全力で、己が身を使い尽くして生きてきた。

 

 最期も、病に冒されて徐々に腐っていくような死に方ではなく、自分を超えた武法士の手にかかって「パッ」と死ねるのだ。

 

 惜しむらくは、最期まで視力が戻らなかったことだ。

 

 自分は今まで多くの強敵と刃を交えてきたが、自分はそんな彼らの顔を全く知らない。

 

 惜しいことと言えば、それくらいか。

 

 つまりそれ以外は、良い人生だったわけだ。

 

 なら、それでいいか。

 

 さぁ、俺を早くあの世へ連れてってくれぇ。もぉ死ぬほど痛ぇんだぁ。

 

 そう思った時だった。

 

 

 

 

 

 病で視力を失った幼少期以降、白い(もや)がかかった風景にしか見えなかった視界に――色彩が浮かび上がった(・・・・・・・・・・)のは。

 

 

 

 

 

 ――おいおいぃ、マジかよぉ。

 ――最期の最期で、こんな我が儘がぁ叶うたぁよぉ。

 ――太っ腹ぁ、過ぎやしねぇかぁ?

 

 信じられなかった。

 

 自分の眼が、視力を取り戻しているのだ。

 

 視界に浮かび上がった色彩は、視界の端から徐々に色とりどりに広がっていき、街路を描いていく。

 

 やがて、自分と真っ向から見つめ合う女の姿を作り上げる。

 

 彼女の持ち上がった足はこちらへ真っ直ぐ伸びており、こちらの腹を貫いていた。

 

 つまり、彼女が宮莱莱(ゴン・ライライ)ということだ。

 

 

 

 美しい。

 

 

 

 大人の女の色香を宿しつつも、少女のような真っ直ぐな志を忘れていないような、そんな顔立ちをした美女が目の前にいた。

 

 胸が高鳴る。顔が熱い。息が苦しい。しかし、自分の全身を業火のごとく焼いている激痛さえ忘れてしまうほど、それは心地よい息苦しさだった。

 

 それが初恋であると、インシェンは自覚した。

 

 なんということだろう。最期の最期で目が見えるようになっただけでなく、初めて知る気持ちさえ与えてくれるとは。

 

 もう、何も思い残すことはない。

 

 インシェンは、満面の笑みを浮かべて、かすれた声で言った。

 

「あぁ、嬢ちゃん……いやぁ、ライライ、だったなぁ」

 

「……ええ」

 

「おたくとはぁ…………もっと違う形で出会いたかったぜぇ」

 

「……そうね」

 

 ライライは真顔で言った。

 

 インシェンは、肉体から魂が抜け落ちるまで、その想い人の顔をひたすら見つめ続けた。

 

 

 

 

 ――――それが、【虹刃】と呼ばれた男の最期だった。

 



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最後の希望

 

 二束の白い光芒が、日中のように明るい地下室を駆け巡り、何度もぶつかり合う。

 

 それらは、琳弓宝(リン・ゴンバオ)裴立恩(ペイ・リーエン)が振る剣光だった。

 

 皇太子の煌天橋(ファン・ティエンチャオ)は、壁際でその悲しき戦いを見守っていた。

 

 かつて自分が尊敬した人物を「賊」として斬り捨てなければいけないことに、リーエンは内心で苦しんでいることだろう。しかし、目の前のリーエンの切り傷が混じった顔には、そんな事はおくびにも出ていない。ただ、与えられた任をこなそうという冷淡さがあった。

 

 けれども、どれだけ心を殺して一心に当たろうとも、現実は非情だった。

 

 無傷なゴンバオ、ところどころ細かい切り傷が付いたリーエン。この二人の違いを見れば、力の差は歴然だろう。

 

 

 

 ――二人の戦いは、どう贔屓目で見たとしても、ゴンバオに軍配が上がるだろう。

 

 

 

 単純な技の練度や功力では、二人にそれほど差はあるまい。

 

 ただ、ゴンバオの武法【琳泉把(りんせんは)】が強すぎるのだ。

 

 まるで、自分たちより早く流れる時間の中に身を置いたがごとき、異質な速度……衛兵の報告の通りだった。

 

 リーエンが一手行う時間に、ゴンバオは七手分の動きが行える——リーエンは戦いの過程でその技の原理を見抜いた。

 

 しかし、分かっただけだ。どのようにそれを破ればいいのかが分かったのとは別問題。

 

 リーエンが使う【心意盤陽把(しんいばんようは)】は、【琳泉把】とあまりにも相性が悪すぎた。

 

 陰と陽を入れ替える――その意識的速度を肉体に及ぼすことで、重心を「陽」と見なし、それを左右の足で交互に入れ替える速度を高める。

 

 しかし、その陰陽転換がいかに早かろうと、相手は己が一歩踏み出す時間に七歩も踏み出せるのだ。

 

 無論、【心意盤陽把】にも【箭踏(せんとう)】という奥の手があった。遠い位置を「陽」と見なし、陰陽転換の速度を用いてそこへ瞬間移動のごとく重心を移す。修行を重ねれば重ねるほど、移動出来る距離は遠くなる。宮廷護衛隊次席の実力を誇るリーエンならば、その長さも推して知るべしだ。

 

 その【箭踏】を用いて、ゴンバオが「七歩動く時間」で移動できる距離よりも遠くに踏み出す。そうすれば、ゴンバオから逃げることもできるし、移動しそうな位置へ一瞬で先回りすることだって出来た。

 

 それが無かったら、リーエンはとっくの昔に血祭りにあげられていたことだろう。

 

 が、「奥の手を使ってようやく互角に近い」では話にならないのだ。

 

 まして【箭踏】は、他の技に比べて体力の消費が激しい。そう何度も連続できるものではない。

 

 結果的に、リーエンは劣勢だった。

 

 このままでは遅かれ早かれ敗北するだろう。

 

 武法の素人である自分がそれを分かっていて、リーエンに分からないはずはないだろう。

 

 だからこそ、それをどう脱却するのかを考えるはず。皇帝の肉壁たる宮廷護衛隊に「諦める」という選択肢はないからだ。

 

 逃げることは無論、不可能だ。元来た通路はすでに鉄格子で塞がれている。ここから地上へ逃げる出口があるはずだが、自分たちはそれがどこにあるのか知らない。探そうにも、ゴンバオがそれを許すとも思えない。

 

 つまり、自分たち皇族の運命は、リーエンの肩に委ねられている。

 

 不意に、二人の間合いが大きく離れた。

 

 そこから再び攻めるのかと思いきや、リーエンは腰を落とし、右手の剣を真っ直ぐ前に伸ばして構えた。

 

 その瞳には、我が身を粉砕させてでも眼前の敵を滅ぼさんとする、決死の覚悟が宿っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もはやこれが最後の一撃になるだろうと、リーエンは確信する。

 

 現在のジリ貧な攻防から脱する唯一の方法。

 

 それは、一撃で決着を付けることだ。

 

 防御をかなぐり捨て、攻めることのみに全意識と体術を集中させ、確実に敵を葬る。

 

 だからこそリーエンは、その構えを取った。

 

 剣は後ろに引かず、前に真っ直ぐ伸ばしきる構え。少しでも速く切っ先を敵に到達させるためだ。

 

 その剣尖を「陽」と考え、ゴンバオの心臓をその「次なる到達点」とみなす。

 

 つまり【箭踏】の要領で、神速の刺突を送るのだ。

 

 皇族を亡き者にせんと飛び掛かる輩へ瞬時に近づく。もともと【箭踏】はそのための技である。

 

 戦うためではなく、護るための技。

 

 今こそ、その真価を発揮する時に他ならない。

 

 ――護る。この身に代えても。

 

 それが、自分の使命なのだから。

 

「貴様……捨て身のつもりだな?」 

 

 ゴンバオは、少しだけ驚いた様子で口にした。

 

 リーエンは答えない。沈黙で是をしめす。

 

「……よかろう。ならば我輩も次で確実に貴様を斬り、【煕禁城(ききんじょう)】を墓標としてくれよう」

 

 ゴンバオもまた静かな殺気をまとい、剣を前にして構えた。

 

 地下室が静まり返る。

 

 誰一人として音を立てない。

 

 静寂が極限までに達した、次の瞬間。

 

 二つの強風が同時に吹いた。

 

「「()!!」」

 

 リーエンは【箭踏】を発動した。

 

 途端、切っ先とゴンバオの胸との距離が、引き合うような速度で縮まった。

 

 相手の肉体の一部を「陽」とみなしたこの一突きを避けることが極めて難しいことを、元護衛隊隊長たる彼はよく分かっている。ゆえに避けようとはせず、斬撃を側面からぶつけて剣を叩き折ろうとしてきた。

 

 だが、リーエンもまた、そう来るであろうことは予想していた。

 

 ゆえに、間合い同士が重なった瞬間に【箭踏】を中断し、真っ直ぐに向けていた剣先を後方へ引いた。

 

 リーエンの間合いが狭まり、剣を真っ二つに叩き折るはずだったゴンバオの太刀筋も下から上を素通りするだけで終わった。

 

 その剣技に泡を食ったであろうゴンバオの僅かな隙を狙い、今度こそリーエンは攻撃を仕掛けた。後方に引いた剣を、深い踏み込みに合わせて水平に走らせた。

 

 当たる。そう確信した。

 

 しかし、それは確信ではなく、願望で終わることとなった。

 

「……なっ」 

 

 剣が――途中で半ばから真っ二つに折れた。

 

 何が起こった。

 

 見ると、折れた箇所には、ゴンバオの左拳があった。刃に比べて脆い剣の腹へ、拳を鋭く叩きつけて折ったのだろう。

 

 そうして考えているうちに、リーエンの左肩から右腰にかけて刃が素早く撫でた。

 

「あ……!」

 

 吹き出す血しぶき。

 焼けるような痛み。

 不可解な現象に対する不気味さ。

 ――敗北の実感。

 

 刃の入った深さからして、これは戦闘不能に陥るほどの負傷だ。長年のカンがそう訴えた。

 

 負けたのだ、自分は。

 

 護れなかった。この国の旗印たる尊き者たちを。

 

 だけど、諦めきれなかった。

 

 自分が護ることを諦めるのは、死んだときだ。それまでには、どれだけみっともないとしても、希望的観測でも、可能性に賭けたいと思った。

 

 もうこの傷では勝つことは不可能。

 

 ならば、せめて、その剣を折ってやる。

 

「うおおおおおおおお――――!!」

 

 リーエンは、身体に残った気力を全て絞り出すように雄叫びを発し、折れた刃に全身の力を込めて振った。

 

 その刃は、ゴンバオの剣の半ばに直撃。耳が痛くなるような金属音とともに、剣身が分断した。

 

 腹を蹴られ、地面をみっともなく転がされるリーエン。その衝撃で、溢れ出す血の量が増える。

 

 しかし、それでもぎこちなく立ち上がる。

 

 ゴンバオではなく、壁際に立つ皇族の元へ歩んでいく。

 

 三人の皇族を、リーエンは両腕で抱きしめるように包み込み、壁に押し付けた。

 

「リーエン、君は……」

 

 皇太子が、気遣わしい声で呟く。こちらの考えを読んでいるかのような声だった。

 

「御三方……血で汚れる、でしょうが……辛抱…………なさって、ください……」

 

 そう。自分は肉の盾。最期の最期まで、この身を盾として使う。

 

 剣を折ったのは、刺突で自分を貫通して皇族を刺させないためだ。

 

 このまま死ぬまで皇族を守り続け、助けが駆けつけるのを待つ。

 

 バカな希望的観測だ。そんなことが叶う確率など、限りなく薄いというのに。

 

 しかし、もはやリーエンにできることは、祈ることだけだ。

 

 誰でも良い。ゴンバオを止められるくらいの武法士に駆け付けてきて欲しい。

 

 リーエンは薄れゆく意識の中、ひたすらに祈り続けた。

 

 誰か、誰か、誰か——

 

 

 

 

 

 巨岩が高速で鉄の扉にぶつかったような、けたたましい轟音が地下全体に響いた。

 

 

 

 

 

 耳を刺すほどの音に、リーエンを含む、地下室の誰もがその音源へ振り返った。

 

「あ……!」

 

 それを見て、リーエンは確信する——己の祈りが通じたことを。

 

 目に映るのは、見るも無惨に内側へひしゃげて破られた、鉄格子。

 

 その内側で、深く腰を落とした掌打の形で立っている、三つ編みの少女。

 

 それは、リーエンが数知る武法士の中で、最強とも呼べる面々に顔を連ねる一人。

 

(リー)……星穂(シンスイ)

 

 太い三つ編み一本を尻尾のように垂らした小柄な美少女の姿を、虚ろになりかけた瞳に映した。

 

 すでに満身創痍だというのに、その口元が希望でほころぶ。

 

 ——彼女ならば、できるかもしれない。

 

 武林において最強最悪の名を欲しいままにした【雷帝】。その一番弟子たる彼女ならば、この男……ゴンバオに匹敵するかもしれない。

 

 自分の腕の中にいるこの尊き方々を、救ってくれるかもしれない。

 

 この奇跡に心から感謝しつつ、リーエンは救いを願う信徒のように請うた。

 

(リー)女士……貴女に、恥を……忍んで…………お願いが、あります……」

 

「……はい」

 

「私は……もはやこれまで、でしょう…………だから……どうか…………」

 

 リーエンは最後の力を振り絞り、一番言いたい言葉を強く発した。

 

「どうか、皇族の方々を……この国を、救ってください。貴女しか、いないのです……!!」

 

 対し、小さな救世主は、迷いの無い口調ではっきり返した。

 

「——そのためにここに来た」

 

 その答えに安堵しきったリーエンは、満足げに微笑んだ。

 

 



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赤黒い憎悪

 

 ボクがここ――【熙禁城(ききんじょう)】地下にある避難場にたどり着くまでの道のりは、意外とさくさく進んだ。

 

 

 

 まず、【熙禁城】の正門前まで大急ぎで来た。当然ながら非常時なので衛兵や護衛官らが厳重に警備していたが、ライライから貰った紋章を見せると、裏戸からすんなり中へ通してくれた。

 

 問題は「外廷」に入ってからだった。

 まず、あの黒服が言っていた「地下の避難場」へ行く方法が分からなかったのだ。

 なのでボクは、外廷の中を当てもなく探し回るしかなかった。

 

 けれど、その問題はすぐに解決した。

 『混元宮(こんげんぐう)』……謁見の間として使われていたその建物だけが、他の建物よりも警備の数がちょっと多かったのだ。

 

 ボクは『混元宮』へ行き、紋章を見せ、通すよう訴えた。

 

 しかし、ここの警備の護衛官は慎重派なようで、どういう用件であるのかと訊いてきた。……見方を変えれば、慎重ということはつまり、それだけ『混元宮』が皇族の居場所に近いってことだ。

 

 ボクは悩んだが、一瞬で素敵な方便(ウソ)を思いつき、口に出した。

 

「実はボクは、チュエ殿下から極秘に連絡係を任ぜられた身なんだ。皇帝陛下に大至急お伝えしなければならない情報があるゆえ、お通し願うよ」

 

 対し、護衛官らはいぶかしげな表情を浮かべ、

 

「その情報とは何だ? 言ってみろ」 

 

「言ったら極秘にならないでしょ」

 

 もっともらしい意見を返す。

 

 護衛官らは信じるべきか疑うべきか、判断がつかない様子だった。知らされていない身としては、「極秘の連絡係」なんて聞いても信じられない。だが、ボクの持つ紋章の力は本物なので、疑いきることができない……彼らの心中はこんなところかな。

 

 あともう一押し必要だと感じたボクは、護衛官の一人に抱きついて、涙を蓄えた上目遣いで懇願した。

 

「お願いだよ! 通しておくれよ! もしこの任務を達成できなかったら、国は終わるかもしれない! 仮に賊を撃退できたとしても、任務をきちんとこなさなかった咎(とが)できっとボクは首チョンパだよぉ! もしここで門前払いならどのみちボクの人生オシマイだ!! なぁ頼むよぉ、なんでもするからぁ!!」

 

 我ながらナイス演技力だった。役者でもやろうかな。

 

 もっともらしい言葉で理詰めにされ、情にほだされ、さらに緊急事態であることを強調されるという三連撃で、ようやく護衛官は折れて『混元宮』の中へ通してくれた。

 

 謁見の間。

 

 だが、玉座の位置が、もとの位置より横にずれていた。

 

 見ると、もともと玉座があった位置には――地下へ続く階段があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここまで至る経緯は以上だ。

 

 しかし、長い一本道を抜け、たどり着いた先にあった地下の広間には、予想の斜め上をいく光景が広がっていた。

 

 ……いや、予想はしていた。最悪の事態として。

 

 ただ、その「最悪の事態」をもたらした人物が、驚くほど意外な人物だったのだ。

 

 ボクははっきりこの眼で見たのだ――護衛隊隊長のジンクンさんが、リーエンさんを斬りつけるところを。

 

 それだけじゃない。合計六人の護衛官が、血を流してこと切れていた。

 

 リーエンさんは今、皇族のお歴々を壁際で包み込むようにして抱きしめている。戦えなくなっても、せめて肉の壁として役立とうとしている。

 

 ジンクンさんは折れた自分の剣を投げ捨て、無感情な顔でこちらを見ていた。

 

「なにやってんだよお前っ!!」

 

 慇懃な言葉遣いなど忘れ、敵意を込めた声と視線で護衛隊隊長を射る。

 

「決まっているだろう。そこにいる蛆虫共を駆除しようとしているのだ」

 

 ジンクンさんは淡々とのたまった。その口調と態度は、初めて会った時の忠臣然としたものとはかけ離れていた。

 

 怒りと戸惑い。それらを半々心に秘めながら、ボクはすがるような怒鳴り声で詰問した。

 

「お前ふざけんなよ!! どうしてだ!? あんたは、皇族を守ることに命をかけているんじゃなかったのか!? 護衛官って立場に、誇りを持っていたんじゃなかったのか!? そのあんたが、どうして皇族と、自分を慕ってくれていた部下を手にかけてる!? 答えろ、この馬鹿野郎っ!!」

 

「貴様に見せた忠臣の顔など、全て演技に決まっているだろう。……我輩は一瞬たりとも、この連中のために命をかけたいなどと思ったことはないのである。この騒乱を引き起こしている者の正体、貴様ならば概ね検討はついているのであろう? 【雷帝】の一番弟子よ」

 

 ボクは喉を鳴らし、口元をこわばらせながら言った。

 

「……『琳泉郷(りんせんごう)』」

 

「その通りだ。黒服を着て暴れまわっている連中は、みな朝廷になにかしらの不満を持った者たちだ。我輩はそんな連中に数年前から【琳泉把(りんせんは)】をこっそりと教え、今回の騒乱を起こさせた」

 

 ギリギリと、拳が握られる。

 

「そうか……お前が「首領」か」

 

「誰にそれを聞いたんだ? ふん、まあ良い。ご名答だよ李星穂(リー・シンスイ)。我が真名は琳弓宝(リン・ゴンバオ)。察しの通り、朝廷の魔手によって滅ぼされた『琳泉郷』唯一の生き残りだ」

 

 ボクは驚きで喉元を緊張させた。

 

 【琳泉郷】の生き残りであることはすでに感づいていた。

 

 問題は、その名前に聞き覚えがあるということだ。

 

 その名前は――【琳泉郷】の村長(むらおさ)の息子と全く同じだからだ。

 

 レイフォン師匠に【琳泉把】を教えたのは、コイツの父。つまり師匠とこの男は師兄弟。

 

 だが、今更そんなのはささいな事。

 

 いずれにせよ、ボクがこれからやるべきことはただ一つ。

 

「やかましい。お前にくれてやるのは――コイツだけだっ!!」

 

 空気を穿つように鋭く駆け出し、一気にジンクンさん――否、ゴンバオに押し迫った。

 

 震脚で倍加させた体重を拳に込めて叩き込む基本の正拳突き【衝捶】を、身体のど真ん中めがけて打ち放った。

 

 しかし、拳に空虚な感触が訪れるとともに、周囲六ヶ所から衝撃を浴びた。

 

「がぁっ……!!」

 

 速い。ボクが一発打つ間に、六回は打たれた。地上で暴れまわっている黒服とは、明らかに桁外れな数値だ。

 

 たたらを踏みながら、ボクは石床を見た。ゴンバオのものである血の足跡のうち、一番水気がある……つまり新しいものは「六つ」。それらは、先ほどまでのボクの立ち位置を囲む形でべったり付いていた。

 

 ――六拍子。

 

 それが、この男が「一拍子」の中に圧縮できる拍子の数だと断定。

 

 五拍子しか圧縮できないボクより一つ速い。

 

 それに対して、気後れする時間さえ与えられない。

 

「ぐがあぁっ!?」

 

 ゴンバオの姿が消えた、と思った途端に一瞬で周囲から打ち込まれた六連撃。

 

 速すぎる。当たり前だが、とても目では追えない。追えても反応できない。

 

 同じ土俵に入らない者には一切の反撃を許さない、相対的な「最速」。

 

 ——けれど、【琳泉把】だって完璧じゃない。

 

 ゴンバオが姿を現した途端、ボクはそこへ突っ込んだ。

 

 【琳泉把】を歩き終えた瞬間、ほんの一瞬だけ足元が硬直する。それを「断絶」と呼ぶ。そこを狙うつもりだった。

 

 とはいえ、弱点に対策をもうけない訳がない。「断絶」の最中に我が身を守る手段も、当然【琳泉把】には存在する。踏み込みに交えて放たれた正拳【衝捶】を、ゴンバオは腕で下から上へ掬(すく)い上げるよう受け流した。

 

 右腕が持ち上げられる。だが、ボクは右肘を曲げて"するり"と前腕部とゴンバオの腕を滑らせ、懐深く踏み入る足さばきに合わせて肘打ちを叩き込もうと試みる。

 

 しかし、いま一歩遅かった。その【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】が直撃する寸前に、ゴンバオの硬直が解けた。その姿が消え、肘が空を穿つ。

 

 これからまた、周囲から見えない速度で連撃を受けるのだろう。

 

 だが、それは織り込み済みで、策もあった。震脚で踏み込んですぐその足を強く捻り込んだ。台風のような螺旋状の勢いが一瞬で全身にまとわりつき、身体を鋭く横へ展開させた。

 

 そんなボクに殴りかかったゴンバオは、大地の力で強化された螺旋勁に巻きとられ、重心を崩し、何も無い虚空に突然姿を現した。……螺旋の力の伝達は恐ろしく速い。足底をひねり始めた時点でトコロテンが波打つように一気に全身を覆う。たとえ相対的に最速になれる【琳泉把】であっても、触れればその力の流れに巻き込まれ、能力が強制終了する。

 

「はぁっ!!」

 

 重心の安定を崩したゴンバオめがけて【衝捶】を叩き込んだ。

 

 当たった。しかし……手ごたえが無い。吹っ飛ぶ勢いも弱い。

 

 案の定、ゴンバオは倒れることなく、地面に足を擦らせて勢いを殺した。

 

 ボクは重い目で敵を見る。

 

「……溶かしたな」

 

「よくわかったな、小娘」

 

 挑戦的にうそぶくゴンバオ。衝突する寸前に拳に掌を当てて手前へ引き、さらに重心も後ろへ引いて威力を大幅に「溶かした」のだ。

 

「だが……大したものであるな、小娘。リーエンとて、我輩とここまで上手く立ち回れはしなかった。流石は、【雷帝】の門弟といったところか」

 

 ボクは答えない。黙ってゴンバオを見据え続ける。

 

「……一方で、妙なところがある。お前も大したものであるが、リーエンとて相当な修羅場をくぐり抜けた強者。純粋な技巧でも貴様と同等か、あるいはそれ以上と見ている」

 

「だからどうしたんだ」

 

「妙なのである。貴様とそれほど実力の離れていないはずのリーエンが、防戦一方な戦いしか出来なかったのだ。が、貴様は奴以上に我輩と立ち回れている。そう——まるで我輩の武法がどのようなものであるのか、最初から知っていたかのようだ」

 

 企むように口端を吊り上げるゴンバオを見て、ボクは確信した。

 

 コイツは間違いなく知っている。

 

 ボクが【琳泉把】の使い手であることを。

 

 だがそれはよくよく考えれば当然のこと。ボクの師匠は、【琳泉郷】の村長……つまりコイツの親父さんから【琳泉把】を学んだのだから。

 

 その時に師匠とコイツが顔馴染みになっていたとしても、何ら不思議ではない。

 

「そんなものではなかろう、お前の力は。言っておくが、今のままでは我輩に勝つことは不可能であるぞ? 死にたくなければ出し惜しみなどせず、全力を出し尽くすがいい」

 

 それを知ったうえで、ボクに【琳泉把】を出すよう、暗に促してきている。

 

 だが、それに乗る気はない。

 

「買い被り過ぎだ」

 

「そうか。ならば死んで後悔しろ」

 

 言うやいなや、またもゴンバオの姿が消失。

 

 それにタイミングをぴったり合わせる形で、ボクは両腕で顔を守り、【硬気功】で背中を硬化させた。

 

 途端、全方向からマシンガンを撃ち込まれたように、全身のあらゆる場所に衝撃が叩き込まれた。防御が間に合ったおかげで大したダメージはなかったが、背中に浴びた最後の一発には特別重さが込められていたため、前のめりに弾き飛ばされた。

 

 倒れてしまうと、立ち上がるのに時間を食ってしまい、そこが大きな隙となる。なのでボクは両手で着地し、腕をバネにして前へ回転。円周の流れで足を地につけて立ち上がった。いわゆるハンドスプリングの要領だ。

 

 ゴンバオは、一瞬の「断絶」状態に入っていた。その僅かだが貴重な隙を利用して、ボクは丹田に【気】を集中し、震脚と同時にそれを炸裂させた。

 

 【炸丹(さくたん)】で威力を増幅された震脚は、床の石材を広く粉砕。舞い上がった無数の破片がゴンバオにぶちまけられる。

 

「ぬっ……」

 

 奴は両腕で、破片から顔を守る。

 

 ボクはガレキの雨の流れに乗る形で、そんなゴンバオの懐近くまで到達する。地を思い切り蹴っ飛ばして爆進。強烈な震脚に合わせて拳を真っ直ぐ突きのばす【衝捶】で、ガラ空きの胴体を貫きにかかった。

 

 しかしながら、流石は腐っても護衛隊隊長になった男だ。ボクの狙いにすぐに気づいたようで、こちらの放った拳を下から蹴り上げた。そのまま蹴り足の軌道を変え、ボクの胸部へ蹴撃を放つ。

 

 ボクは素早く斜め前へ立ち位置を移動させ、当たる寸前でことなきを得た。そのまますれ違いざま、【衝捶】を放とうと試みる。

 

 が、次の瞬間、ゴンバオの姿が消えた。

 

「ぐはっ!?」

 

 背後に叩きつけられる衝撃。

 

 【衝捶】を行う途中の勢いも相まって、ボクは大きく前へ転がされた。

 

 転がって受け身をとる。足と地面の摩擦で残りの勢いを封殺する。ボクが最初に破壊した鉄格子の前あたりで止まった。

 

 ボクは足元に落ちていた細かい床の破片を一瞬でかき集め、前にばら撒いた。ゴンバオが腕で両眼を押さえた状態で止まる。その数瞬の隙を使い、ボクは部屋の直角へと全速力で移動した。

 

 ゴンバオが再び動き出そうとしたが、ボクの立っている場所を見て、やめた。……流石は元護衛官だ。ボクの手前へ来るたび幅が狭まるこの直角では、攻撃を進ませられる面積もまた狭まり、軌道は「真っ直ぐ」に限定される。いかに神速の【琳泉把】といえど、どの辺りからどんな攻撃が来るのかが分かっていれば脅威ではない。自ら死地に飛び込む愚かな行為と悟ったのだ。

 

「そうか……是が非でも「あれ」を出したくないというわけであるか」

 

 その元護衛官は、独り言のように呟く。

 

「ならば、さっさと「本命」を狙うとしよう」

 

 言って、ゴンバオは——皇族へ目を向けた。

 

 ボクの心臓が早鐘を打った。まずい、あいつ、皇族を先に殺す気だ。

 

 壁で皇族を抱きしめるようにして守っているリーエンさんからは、まだ【気】が感じられるため、生きていると分かる。でも、もう戦える状態じゃない。今ゴンバオに近づかれれば、全員容易にくびり殺されるだろう。

 

「やめろっ!」

 

 ボクの静止を聞き流し、ゴンバオは一瞬で皇族のもとへと近寄り、リーエンさんの首根っこを掴んだ。

 

 走り出さなければ。しかし、ここからあの場所まで結構な距離があった。ボクが駆けてたどり着くよりも速く、あいつの握力がリーエンさんの頸椎を粉砕するだろう。

 

 あそこまで一瞬でたどり着く方法はただ一つ——【琳泉把】。

 

 だが、あれは禁拳だ。使う事自体がご法度。まして皇族の御前である。

 

 もし使えば、ボクは間違いなく罰を受ける。

 

 だが、リーエンさんだって、いつ命を落としてもおかしくない状態だ。

 

 ――もう、ボクに選択肢など、無かった。

 

 

 

 覚悟を決めた次の瞬間、世界が灰色に包まれた。

 

 

 

 ボクの目の焦点に灰色のインクを一滴こぼし、それが一瞬で空間全体に染み渡ったように、世界は何もかもが灰色に染め上げられた。

 

 「灰色の世界」の流れは、ものすごく緩慢。

 

 その世界でただ一人、色彩を持つボクだけが、普通の速度で動ける。

 

 ——【琳泉把】が今、発動した。

 

 ボクがこの世界を一度に歩ける歩数は、五歩まで。

 

 なので、出来るだけ大きな歩幅で進む。

 

 一歩、二歩、三歩、四歩目を踏み出してから跳躍。——途端、世界が色彩を取り戻す。【琳泉把】は地と足が離れると、自動で中断される。歩法ありきの技術だからだ。

 

 しかし、限界である「五歩」全てを使い切っていなければ、足の硬直による「断絶」は発生しない。

 

 つまり、足は動く。

 

 ボクは跳躍の慣性に従ってゴンバオに肉薄し、その脇腹に回し蹴りを叩き込んだ。

 

「ぐっ……」

 

 敵の唸りは軽い。やや威力不足が否めない蹴りだったが、それでもリーエンさんから引き離すことには成功した。

 

 ゴンバオが後方へたたらを踏む。そんな風にバランスを崩している間にボクはすぐさま着地し、再び【琳泉把】を発動。再び緩慢な灰一色の世界に訪れ、その中でボクはゴンバオめがけて四歩進み、五歩目を踏み出すのと同時に拳を打ち込んだ。——世界が元の色と速さを取り戻す。

 

 ボクに限界である「五拍子」を出し切ったことで、足元に刹那の硬直が起こる。しかしゴンバオは拳の勁をまともに食らって大きく後方へ押し流されていたので、反撃の心配は無い。

 

 ……やっぱり、【琳泉把】の勁撃は威力が物足りない。ここに【打雷把】の勁撃を加味できれば、鬼に金棒なのに。

 

「げほっ、ごほっ! …………くくっ、くふふふふ……!」

 

 咳を交えながら、噛み殺したような笑いをもらすゴンバオ。

 

 次の瞬間、俯かせていた顔をバッと上げた。その壮年の顔には、心底愉快そうな表情がくっついていた。

 

「面白い! 面白いぞ李星穂(リー・シンスイ)!! やはり貴様も「同門」だったか!! ははっ、はははははは!!」

 

 「同門」。その発言のせいだろう。皇族の方々の驚愕しきった視線が、ボクに突き刺さるのを感じる。

 

 その視線に痛みを覚えつつも、ボクは否定しなかった。

 

「……そうだ。ボクとあんたは同門だ。あんた、【琳泉郷】の村長の息子だろう? ボクの師匠は、あんたの親父さんから【琳泉把】を学んだんだ。さらに師匠からボクに伝承が与えられた。それだけの話だ」

 

「我輩も貴様の師と同じく、父上から武法を学んだ。つまり我輩は、貴様の師伯(おじ)というわけだ」

 

 おもむろに、ゴンバオは掌を前に出した。まるでその手を取れとばかりに。

 

 親愛の情を感じさせる微笑が、ボクへ向けられる。

 

「どうだ、李星穂(リー・シンスイ)? 今からでも遅くはない。我輩の仲間にならぬか? 武法における同門の絆は血と同じくらい濃い。まして、この世で【琳泉把】の真伝を知る者は我輩と義理の娘、そしてお前の三人だけだ。そこの害虫どもに凌辱し尽くされた【琳泉把】の正統なる伝承を、今こそ復活させようではないか!」

 

「……ああ。たしかに、ボクとお前は同門だよ――事実上はね」

 

 ボクは片足を引いて半身の立ち方になり、慣れ親しんだ構えを取って「敵対」の意思を表した。

 

 構えた前手の指先越しに、ゴンバオを睥睨する。

 

「そう、「事実上」だ。罪の無い人達を大勢殺し、今まさに皇族をも殺そうとしているロクでも無いお前を、ボクは同門とは死んでも思わない」

 

 指先の延長線上にいるゴンバオもまた、親愛の笑みを消し、愚か者をあざける眼光を向けてきた。

 

「愚かな選択をしたな、小娘。生き残る最後の好機を自ら潰すとは。では代わりに親愛ではなく――死をくれてやろう」

 

「気が早いんだよ。まだ勝負はついちゃいない」

 

 ゴンバオもまた構えを取った。

 

 動かぬ両者。場を静寂が包み込む。

 

 地下室であるため、わずかな呼吸さえ耳に入ってくる。六人の呼吸の中から、ゴンバオの呼吸を探り当てる。

 

 同門であるボクら二人の呼吸を、重ね絵のように重複させる。

 

 重なり、一つになった呼吸が、鋭さを得た。

 

 ボクらは全く同じタイミングで【琳泉把】を発動させた。

 

 周囲の景色の動きが遅い「灰色の世界」に、ボクらは二人そろって訪れた。二人とも、その世界で色彩を持っていた。

 

 一拍子行う時間に、ボクは五拍子分の動きができる。

 

 しかし、ゴンバオは一拍子に六拍子分の動きができる。なので、必然的にボクよりも速かった。少し早回しになったテープみたいな動きで、一気に近寄ってくる。

 

 確かに速い。けれど――さっきまでと違って動きがハッキリと見える。だからさっきと比べると幾分も対処しやすい。

 

 押し迫る掌底。ボクはその射程から外れようと横へ歩を進めるが、いかんせん速さが足りないため逃げ切れず、掌底を肩にかすめてしまう。

 

「うわ!」 

 

 そのせいで体勢が大幅に崩れ、それと同時に呼吸も乱れる。【琳泉把】が中断された。

 

 体勢を立て直したその瞬間、突然視界にゴンバオの姿が大きく現れ、勁力を込めた掌打が強く押し当たった。突き抜けるような衝撃に呼吸が一瞬止まる。しかし倒れたら思うツボだ。足指で地を噛んで掌打の勢いをねじ伏せる。

 

 はるか遠くに離れたゴンバオが、六拍子を使い切って束の間の「断絶」に入っていた。そこから再び姿が消失。また【琳泉把】を使ったのだ。

 

 ボクもそれと全く同じタイミングで【琳泉把】を発動。両者同時に灰色の加速空間に転移する。

 

 ゴンバオがこちらへ迫り、ボクがそれから逃げる。

 

 案の定、速度の速いゴンバオが、ボクへあっという間に追いついた。

 

 ――だがボクは、まだ持続できるにもかかわらず、途中で【琳泉把】を中断。

 

 足指で大地を掴み、脊柱を上へ張らせて【両儀勁(りょうぎけい)】を発動。天地の間に楔(くさび)を打つように盤石な重心を作った。

 

「ふごっ――!?」

 

 そんなボクの背中に向かって、ゴンバオが激しく衝突した。前方車両がいきなり急停止したら、後方車両は急に止まれず玉突き事故を起こす。それと同じ理屈だ。いきなり止まって、ゴンバオと玉突きしたのだ。

 

 【琳泉把】の稲光のごとき速度で、【両儀勁】で山のごとき盤石な固定力を持ったボクにぶつかることは、まさしく自殺行為。岩に全速力でぶつかりに行くようなものだ。自分のスピードで自分を傷つけることになる。

 

 さらにボクは振り向きざま、【移山頂肘】へと移行。震脚によって何倍にも増幅させた体重を肘に込めて打ち込もうとする。

 

 予想より早く痛みから立ち直ったゴンバオが、【硬気功】で背中をコーティングする。その上で、ボクの肘の両側に伸びる前腕と上腕を手で受け止めた。肘という、勁力が最も集中する部分との衝突を避ける形で。

 

 ゴンバオは冗談みたいな速度で吹っ飛び、壁に構えられた扉の一つに激突。さらにその扉も粉砕して中へ転がり込んだ。

 

 ボクはすでに【琳泉把】を発動していた。臨界点である五拍子目で跳躍し、空中で刹那の硬直をやり過ごしてから転がって受け身を取り、破られた扉の中に入った。

 

 そこは一目で「寝室」と分かる部屋だった。両の壁際にいくつも備え付けられた寝台。それらに挟まれる形で細長い通り道があり、その一番奥の壁には砕けてできた凹みと、それを作ったであろうゴンバオが立っていた。

  ボクは体勢を立て直される前に一気に距離を詰める。震脚で踏み込んだ右足に鋭い捻りを加えて全身を左へ展開、その猛烈な勢いに乗せる形で右拳を突き出した。【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】。

 

 けれど、その拳は虚空を貫く。同時に、ボクの胸の前をゴンバオの拳が爆速で通過した。見ると、ゴンバオはボクの右拳を上へ掬うようにいなしながら、中腰で両足を揃えた体勢で右拳を突き出していた。【心意把(しんいは)】の正拳だった。そうだ、コイツはこれも使えたんだった。

 

 けど、これで終わりじゃない。ボクの右拳を掬い上げる形で受け流していたゴンバオの左手を、開いた右手でそのまま掴み取った。さらに胸の前で伸びた左拳の手首も捕まえる。

 

 ゴンバオの眉が不快げにピクリと動く。当然だ。なにせ、敵に掴まれている状態では、【琳泉把】は使えないのだから。

 

 引き剥がさんと、両腕を外側へと振るゴンバオ。しかしそれは、胸をガラ空きにすることと同義だった。

 

 お望みどおり手を離しながら、歩を間合いの内側へ進める。その足で大地を殴りつけるように震脚し、それに付随させた肘鉄【移山頂肘】をガラ空きの胸部へ激突させた。

 

 強烈な勁力を受けたゴンバオは吹っ飛び、壁に激突してバウンドして戻ってくる。

 

 ボクはまだ手足を休めない。足底、骨盤、腰部、胸骨を同ベクトルにねじり込み、前足の震脚に合わせてその鋭い螺旋勁を拳でゴンバオに伝達させた。【拗歩旋捶(ようほせんすい)】。

 

 またも勢いよく弾かれ、壁に跳ね返って戻ってくる。

 

 まだ技はやめない。コイツは強敵だ。手心を加えたらこっちが危険である。だから容赦はしない。技が通じる時には遠慮なくぶちかます。

 

 ボクは【衝捶】を放った。一直線に拳が疾駆し、またも直撃——かと思いきや、まるで真綿を殴ったような、柔らかく、手ごたえに欠ける感触。

 

 ゴンバオは衝撃を受け流したのだ。ボクの拳を両手で受け、それを水車のように回転力へと転化させ、トンボを切りながらボクの頭上を飛び越えた。

 

 しかし【打雷把】の強大な勁撃を二発も食らったダメージはでかいようだ。上手く着地することが出来ず、余った勢いに流されるまま床を転がり、扉を外された寝室の外へと投げ出された。

 

 ボクはゴンバオを追いかける。うまく動けないでいる今のうちに、出来る限り攻撃を加えよう。

 

 しかし、思った以上に立ち直りが早かった。

 

「なっ……まだ立てるのか!?」

 

 すでにゴンバオは起き上がっていた。足もしっかり地を踏んでおり、いつでも【琳泉把】を使える状態だ。

 

「……やってくれたな、小娘」

 

 打たれた部位を押さえながら、うめくように言うゴンバオ。その表情には苦痛の色が濃く浮かんでいるが、それに反して呼吸はしっかりしていた。

 

 ボクはその打たれ強さに驚愕しつつも、立ち止まり、その呼吸のリズムに耳を傾ける。もし【琳泉把】を使う呼吸が少しでも聞こえた場合、ボクもそれに合わせて【琳泉把】で加速するつもりだった。

 

「……褒めてやるぞ。たかだか十と五、六ほどしか年数を生きていない小娘が、この我輩にここまでの手傷を負わせようとはな。…………流石は、あの最強最悪の【雷帝】の弟子といったところ、か」

 

 ん?

 

 ゴンバオの繰り返す呼吸が、少しずつ変化している。

 

「舐めてかかっては、我輩の方が死にかねん」

 

 その呼吸は、【琳泉把】に似ているようで、少し違っていた。

 

「ゆえに……我輩も出し惜しみせず、本気を出す必要がありそうだ」

 

 例えるならば、速さと激しさを内包した——嵐。

 

 

 

 目の前が一瞬、真っ白になった。

 

 

 

 それはさながら、間近で落雷が落ちた時の閃光のようであった。

 

 爆風のごとき空圧。

 

 そして、想像を絶するほどの、強大極まるインパクト。

 

「かはっ——」

 

 激痛を通り越し、何も感じなかった。重みを受けたという事しか知覚出来なかった。

 

 抗う術など何もなかった。ただその正体不明の衝撃に押されるまま、弾丸のごとき速度でカッ飛ぶのみ。

 

 ボクの体にかかったエネルギーは、壁に激突してもなお足りぬとばかりに体を奥へとめり込ませた。全身が埋まる感覚。

 

 しばらくして、ようやく凄まじい痛覚を自覚した。

 

「げほっ、がはごほげほっ!! がはっ、げほっ…………うおぇぇっ!!」

 

 喘息じみた激しい咳とともに、赤黒い血液をドバッと吐き散らした。

 

 勝手に涙が浮かんでくる。

 

 なんだ、これ……痛すぎる…………!! 

 

 衝撃を吸収、分散する武法士の骨格には、損傷はなかった。しかし、余剰した衝撃が内部に波動として浸透した。そのため、無事ではなかった。

 

 朦朧とした意識のまま、先ほどボクが立っていた場所をどうにか見繕う。

 

 

 

 そこには——【心意把】の突きの構えを見せたゴンバオが立っていた。

 

 

 

 ボクには、今、目に映っているモノが信じられなかった。

 

 だって、さっきのボクとゴンバオは、一歩や二歩では差を詰められないくらい間隔を開いていたはずなのだ。

 

 だが、先ほどこの男は、その差を文字通りの「一瞬」で縮めたのだ。それが出来る技は【琳泉把】以外考えられない。

 

 そうして一気にボクへ近寄り、【心意把】による強大な勁撃を当てたのだろう。

 

 だからこそだ。ボクが驚いたのは。

 

 

 

 ——なんで、【琳泉把】を使いながら【心意把】を使えている?

 

 

 

 それはありえないことだ。

 武法の流派には、それぞれ技を用いる上での「呼吸」が違う。

 そのため、異なる流派の技同士は、いわば水と油だ。

 「流派Aの技」を使っている途中に「流派Bの技」を使おうとすると、二つの呼吸同士が噛み合わず、体が硬直してしまうのだ。

 

 しかし、この男はその不可能を可能にしてみせた。

 

 おまけに、あの威力は【心意把】のものではなかった。いくら威力重視の【心意把】であっても、今のようなバカバカしい破壊力は出せっこない。

 

 それこそ、【心意把】の勁撃数発を、一拍子の中にまとめていっぺんに打ちでもしない限り——

 

「……まさ、か」

 

 呻きながらそう発すると同時に、ボクは壁面から剥がれ落ちた。両膝と両手で着地する。

 

 そんな馬鹿な。信じられない。

 

 けれど残念なことに、ボクの予想が今、目の前で現実化していた。

 

 考えうる限りの、最悪の予想が。

 

 衝撃の余韻で咳き込みながらも、ボクはこっちへ歩んでくるゴンバオを強く見据えて問うた。

 

「お前は――【琳泉把】と【心意把】を融合させたのか」

 

 ゴンバオはにやりと笑った。

 

 それは限りなく「是」であった。

 

「貴様の師が【琳泉把】に抱いた期待は想像に難くない。一撃必殺級の力を持った自分の拳技に【琳泉把】の速さを混ぜることで、絶対的攻撃力、絶対的速度を併せ持った最強の武法を作ろうという魂胆なのだろう? 済まなかったなぁ――先を越してしまって(・・・・・・・・・)

 

 まるで心の中を覗きこまれた気分だった。気分が悪くなる。

 

「……元々この【心意把】は、『琳泉郷』の人間だと知られぬために得た「代用品」に過ぎなかった。だが、我輩は考えた。【琳泉把】の速さに【心意把】の威力を加えれば、途轍もない武法が生まれるのではないかと」

 

「新しい流派を、作ったっていうのか……!?」

 

「その通りだ。だが【琳泉把】の正伝を無視したこの拳技——【心意琳泉把(しんいりんせんは)】は邪道の拳。よほどのことが無い限りは使わず、誰にも伝承することもなく墓場へ持っていくと決めていたが……貴様は思ったよりも危険な存在なようだ。だからこそ、邪法に手をつけてでも、この世から消し去ってくれよう」

 

 ゴンバオは構えをとった。いつでも動き出せる状態だ。

 

 衝撃の余韻は今なお体に残り、全身のあちこちが凄まじく痛い。けれど、このまま伏していたらただ殺られるだけだ。歯を食いしばって強引に我が身を立ち上がらせ、呼吸を整える。

 

 あいつの呼吸を読み、それを手掛かりにして【琳泉把】の発動を感知。それに合わせてボクも【琳泉把】を発動して、同じ加速空間へと転じる。……それでもあいつの方が少しだけ速いが、目にも留まらぬ速さで嬲り殺しにされるよりずっとマシだ。

 

 やがて、ゴンバオの呼吸が変わった。【琳泉把】を発動させる予兆を読んだボクも、すかさず同じ技を発動。

 

 二人とも、周囲の時間がゆっくりな灰色世界へ訪れた。

 

 ゴンバオがテープの早回しみたいな速度で向かってくる。呼吸の空圧によって体内で生み出した回転力と、震脚で倍増させた自重の衝突力を込めた掌を斧のように振り下ろして来た。ボクは横へズレることでどうにか回避に成功。

 

 しかし、その空ぶった掌打の軌道がカクン! と急変し、真横に立つボクへ向かって鞭のごとく迅速に迫った。

 

 扇状になぎ払う軌道であるため、回避はもう間に合わない。なので両腕を構えて防御するが、その腕刀に込められた勁力はそんなもので防げるほど優しいモノではなかった。

 

「ごはっ!?」

 

 巨人が振り薙いだ丸太のような衝撃が、背中までジンッと突き抜ける。華奢で軽いボクの身体は、紙屑同然に吹っ飛ばされた。

 

 ボクの【琳泉把】が解ける。

 

 ゴンバオの【琳泉把】はまだ続いている。

 

 追い打ちをかける形で、ゴンバオの重々しい正拳が再びのしかかった。吹っ飛ぶ勢いがさらに強まり、壁にめり込んで激突。

 

「がっ!?」

 

 激痛に苦悶する暇も与えられなかった。首根っこを無骨な手で掴まれ、めり込んだ壁から引っこ抜かれた。

 

「く、かはっ……」

 

 ボクの首を掴むゴンバオの手が、ギリギリと凄まじい力で締め上げてくる。気道が狭まって息が苦しい。頸椎がきしむ。

 

 首を握りつぶして殺す気だ。

 

「こんっ……のっ!」

 

 ボクはなけなしの気合いを腹の底からしぼり出し、ゴンバオの顎へ片膝を叩き込んだ。

 

 それによってひるんだのか、一瞬首を絞める力が緩む。

 

 その隙に手を引きはがして着地。ひるんでいるゴンバオの胸部に拳を添え、全身の急激な捻りの勁を用いて体を横へ展開させ、その拳をゼロ距離から爆進させた。拳が錐のごとく食らいつく。——【打雷把】最速の勁撃、【纏渦(てんか)】。螺旋勁は伝達が凄まじく速く、全身を捻り始めた瞬間から全身に勁が伝わる。これだけは【琳泉把】の使い手も逃げることはできない。

 

 ゴンバオは大きく足を後方へ滑らせる。

 

「……ふふふ、なんだこれは? 今までの技に比べて随分と優しいではないか」

 

 不敵に微笑むゴンバオ。……この【纏渦】はスピードは速いが、他の技に比べて威力が弱い。おまけに奴の【心意把】は、呼吸の訓練を通して体内の力も強靭に鍛える。それらを込みで、あまり効かなかったようだ。

 

 ボクは構わず前方へ突っ走る。

 

 当然、ゴンバオは【琳泉把】を使おうとした。

 

 だが、その瞬間を見計らって、ボクは口の中に残っていた血反吐を霧のように吹き出した。

 

「ぬおっ……!?」

 

 赤い霧にさらされた奴は呻いて、ごしごしと腕で目元を拭った。目に入ったようだ。

 

 それは刹那の隙だったが、ボクはそれを使ってゴンバオの間合いへ入り込むことができた。

 

「——なんてな」

 

 ボクが【衝捶】を放つべく地を蹴った瞬間、ゴンバオは憎たらしいしたり顔を見せた。

 

 誘い込まれたと気づいた時にはすでに遅かった。ボクはすでに瞬発力で動き出しているため、すぐには方向転換できない。そんなボクのドテッ腹に、まるで予定調和のような流れでゴンバオの掌底が埋まった。

 

 鈍い痛覚と、体の中に手を伸ばされたような気持ち悪い感覚。……浸透勁。

 

 攻撃はこれだけにとどまらなかった。

 

 気味の悪い鈍痛に苦しみながらたたらを踏むボク。

 

 目の前からゴンバオの姿が消失し、

 

 

 

 雪崩のような圧力が、ボクの身に押し寄せた。

 

 

 

 【心意把】の勁撃を、一拍子に六発叩き込んだのだ。数発といっても、常人が一つの動きをする時間で六発なので、実質、「六発分の威力が乗った“一撃”」。

 

 再び勢いよく壁に激突し、深くめり込む。

 

 度重なる衝撃で体が悲鳴を上げている。うまく動かない。かろうじて意識を保つことしかできない。

 

「力の差は歴然であるな。これで貴様に「勝つ」という選択肢は無くなった。あるのは「楽に死ぬか」「苦しんで死ぬか」の二択のみ。……せめてもの情けだ、その二択くらいは選ばせてやる」

 

 余裕のあるゴンバオの言葉に、ボクは歯噛みする。

 

 ――強すぎる。

 

 強大な勁撃と、並ぶ者なき速さ。

 

 今のゴンバオが使う技は、師匠が理想とした武法そのものだ。

 

 それがいかほど凄いのかを、こんな形で思い知ることになるだなんて。

 

 本格的にマズイ。過去最大の危機だった。

 

 おそらく、動けたとしても、繰り出せる技はあと一発のみ。

 

 絶望しかない。

 

 心が折れそうだった。

 

 

 

 ――いや。

 

 

 

 まだ可能性が一つある。

 

 【打雷把】には、ほぼ確実に相手を死に至らしめる絶技が存在する。

 

 【雷霆万鈞(らいていばんきん)】——【打雷把】の中で最強の殺傷性を誇る技の結集。

 

 そのあまりの威力と凶悪さゆえに、ボクは使用を自粛していた。

 

 だが、この状況では、使わない手はなかった。

 

 ――殺す。

 

 それは、口にするだけでも、心の中で呟くだけでも恐ろしい言葉だ。

 

 けれど、今はそうするつもりでいかなければ、あの男には勝てない。

 

 それに【雷霆万鈞】ならば、殺すのはたやすい。

 

 あと一回しか技が使えない? 一回あれば事足りる。その一回で、確実に殺せる技がある。

 

 ボクは最後の力を振り絞って、壁から我が身を引き剥がした。ガレキを振り撒きながら四つん這いになって、そこからゆっくりと立ち上がった。

 

 肩をしきりに上下させながら、構えた。

 

 四肢が震えをきたしている。無理をしているのが一眼で分かる状態だ。

 

 だけど、まだ立って動くことがてきる。

 

「……なるほど、苦しんで死ぬ方を選んだか。いいだろう、ならば望み通り、苦しみぬいて逝くがいい」

 

 ゴンバオが構える。

 

 ボクはその呼吸に細心の注意を払った。

 

 これが正真正銘、最後のチャンスだ。

 

 逃すことは、そのままボクの死に直結する。

 

 ここで死んだら……もう一度、生まれ変わることができるだろうか?

 

 そんな考えが浮かんだと自覚した瞬間、打ち消した。

 

 自分の命を軽んずるような考えは抱くな。

 

 今ある「生」に執着しろ。

 

 それにいまボクが倒れれば、ゴンバオの毒牙は今度は皇族に向くだろう。それだけはなんとしても阻止しなければならない。

 

 ――絶対、勝つ。

 

 ボクとゴンバオは、同時に【琳泉把】を発動させた。

 

 高速の世界へ没入する二人。

 

 何度も言うが、ゴンバオの方が速い。ボクの方が遅い。

 

 けれど、これも何度も言うが、それでも動きが目視できるだけ対処しやすい。

 

 ボクは両腕に【硬気功】をかける。その両腕で、ゴンバオが打ってきそうな部位を読んだ上であらかじめ守っておく。

 

 ズンッ!! 突きの一発が片腕をかすめる。拳はその腕との摩擦で、ボクの耳元スレスレを通過。

 

 次々と放たれる重拳の数々。それらを【硬気功】を込めた腕で防ぎ、流す。

 

 ここまででほとんど気功術を使わなかったことが幸いした。【気】にはまだ余裕がある。これなら、しばらくは守り通せる。

 

 防戦一方ではあるが、その「防戦」の中で、ボクはあるものを探していた。

 

 それは、ゴンバオの肉体のどこかに存在する『虚星(きょせい)』だ。

 

 『虚星』とは、人間の身体を流動的に移動する「意識外の部位」。意識の外にあるその部位はとても柔らかく、とても脆い。

 

 その部位へ渾身の一撃を叩き込み、そこから勁力の衝撃を体内へ稲妻のごとく浸透させ、五臓六腑をズタズタに破壊して死に至らしめる殺手。それが【雷霆万鈞】の一つ――【冲星招死(ちゅうせいしょうし)】。

 

 防ぎながら、敵の五体の隅々まで意識を送る。

 

 『虚星』は、人間の意識の動きによって目まぐるしく位置を変える。

 

 その『虚星』の位置と、隙の位置が噛みあった時が、最大の攻め時だ。

 

 しかし、相手は凄腕中の凄腕。なかなか付け入る隙を与えてくれない。

 

 【硬気功】を使いすぎてボクの【気】が空っぽになるのが先か、相手が『虚星』付きの隙を見せるのが先か。

 

 これは、そういう勝負だった。

 

 何度も相手と【琳泉把】のタイミングを合わせ、何度も相手の攻撃を【硬気功】で受け続ける。何度もそれを繰り返し、体力気力ともに徐々に減っていく。

 

 意識がぼやけてくる。地を踏む足の力も、粘土みたいにふにゃふにゃになっていく。

 

 万事休すか。

 

 そんな思いを抱いて、ゴンバオと【琳泉把】効果切れによる「断絶」のタイミングを合わせた時だった。

 

 

 

 ――見えた。

 

 

 

 胴体を守る両腕。そのうちの左肩。

 

 そこに『虚星』を見つけた。

 

 そこに渾身の勁撃を叩き込めば、その衝撃は相手の体内を雷のような速度と勢いで駆け巡り、五臓六腑をズタズタにし、死を約束する。

 

 そう、あと一歩。

 

 だがゴンバオと同じく、ボクもまた「断絶」。

 

 つまり、足が硬直して動かない状態。

 

 まして、【琳泉把】を使っている最中だ。【打雷把】を使おうとしても、今度は足だけでなく全身が固まって動かなくなる。

 

 

 

 ――――それがどうした。

 

 

 

 目的を阻む壁があるなら、力任せにぶち破ればいい。

 

 いつだってボクはそうしてきた。

 

 それが【雷帝】と呼ばれた師匠の生き様であり、ボクが受け継いだ生き様そのものだ!

 

「ッッ――――――――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!」

 

 血を吐くように、喝を発した。

 

 否。本当に血をいっぱい吐き出した。

 

 口からだけではない。身体機能の法則に真っ向からケンカを売るようなボクの愚行に、全身の至るところから裂傷、鮮血という抗議が湧き出した。

 

 あっという間に、血まみれとなった。

 

 

 

 しかし――――動けた。

 

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 紅の吶喊(とっかん)。

 

 持てる力のすべてを後足につぎ込み、床の石材に広大な亀裂を広げるほどの力で地を蹴り、一筋の閃電と化す。

 

 異質な者を見る表情を浮かべたゴンバオの姿が、あっという間に視界いっぱいになる。

 

 

 

 その左肩めがけて――全身全霊の一撃を叩き込んだ。

 

 

 

「ごはっ……!?」

 

 その一撃は、壁まで吹っ飛び、そこに体がめり込んでなお釣りが来るほどの威力を内包していたはずだった。

 

 だが、目を大きく見開き、言葉を失っているゴンバオの立ち位置は、ほとんど動いていない。

 

 その理由はすぐに表層化した。

 

 まず、ゴンバオの両目、両の鼻穴、両耳、口……それら「七孔(しちこう)」と総称される顔の穴から、ドス黒い血がボタボタと湧き水のように垂れ流された。

 

 さらに、素肌が出た部位――両手、首、顔に、稲妻状にいくつも枝分かれしたドス黒い筋が浮かび上がった。雷に打たれて生還した人間の皮膚上に現れる、リヒテンベルク図形のように。

 

 ボクの打ち込んだ衝撃は、余すことなくゴンバオの体内を破壊し尽くしたのだ。だからこそ、威力に反して吹っ飛ぶことがなかった。

 

「ごぽ……ごろろっ、ごろっ、ろろろろろ」

 

 すでにゴンバオの足元には、バケツの水をひっくり返したような大量の血溜まりが広がりを見せていた。

 

 血を流し続ける口元を泡立たせ、うがいみたいな声を発するゴンバオ。

 

「ごろろろっ、ごろっ、ずっ、ごろろろ、す」

 

 血で真っ赤になった眼球から放たれる憎悪の光。

 

 その赤い眼には、ボクの姿が鮮明に映っていた。

 

「ごろろ、すっ! ごろろろろろろろぉずぅぅぅぅ!!」

 

 ぐしゅり、ぐしゅりと、水気のある足音を響かせ、こちらへ向けて歩いてくるゴンバオ。

 

「……っ!」

 

 ぞくっ、と皮膚が粟立った。

 

 あの様子では、もう命は助からない。亡者も同然。

 

 だというのに……いや、だからこそ、鬼気迫るものを感じた。

 

 まるで、死してなおボクを呪い殺さんとしている幽鬼を連想させた。

 

「く、来るな! 来るんじゃないっ!!」

 

 恐慌に駆られたボクは思わず逃げようとするが、すでに足は限界を超えていた。ほとんど動かすことができず、仰向けに倒れた。

 

「ごっろろろろろろろろろろろろ」

 

 ゴンバオは、そんなボクに覆いかぶさってきた。

 

 両手でボクの首を掴み、力を入れてきた。

 

「う、うわっ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 ボクはこれ以上ないくらい悲鳴を上げた。

 

 首を絞める力は、大したことなかった。

 

 だが、憎悪にとりつかれたような恐ろしい形相が間近にあり、なおかつその口と眼から流れる赤黒い血がボクの身体にしたたり落ちているという事実に、耐え難い恐怖と嫌悪感を覚えた。

 

「ごろろろろろろろろろろろろろろろず!! ごろろろろろ!!」

 

 真っ直ぐ注がれるその憎しみだけで、ボクは死んでしまうかもしれないと思った。

 

「ごろろろ……ろろ……ろ…………」

 

 だが、首を絞める手の力がフッと消えた。

 

 かと思えば、ボクの上にゴンバオが全身を預けてきた。

 

 恐る恐る、口元と脈に手を当ててみる。

 

「……息が無い」

 

 すでに事切れたようだ。

 

 そのことに安堵したからか、あるいは極度の疲労からか。

 

 ボクの意識は、暗い深淵へと沈んでいったのだった。

 



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闇の世界

 そこは、黒以外何もない、無の世界。

 

 一面に墨汁をぶっかけただけで何も描かれていない絵のように、空虚な闇の世界。

 

 そんな世界に、唯一色彩を持つボクは、ふわふわと雲のように闇の世界を漂っていた。

 

 なぜ、ボクはこんなところにいるのだろうか。

 

 どういう経緯を経て、ここへ訪れたのだろうか。

 

 何も思い出せない。

 

 この闇の世界には何もない。出口さえもない。

 

 まるでこの世界そのものが、ボクを逃すまいとしているように感じられた。

 

 だとするなら、この世界は牢獄だ。

 

 罪人の自由を束縛し、外の世界から隔離するという、世界からの阻害。それがボクに課せられた罰なのか。

 

 だが、罰には必ず、罪という前提があるもの。

 

 その「罪」とは?

 

 考えた。

 

 でも、ここにくるまでの経緯どころか、以前の記憶がまったく無い。全部抜け落ちていた。

 

 ボクの罪とはなんだ?

 

 ——がしっ。

 

 ふと、浮遊感以外の新しい感触が、ボクの足首にまとわりついた。

 

 人間の手だ……血塗れの。

 

「ひっ!?」

 

 ボクは喉からもがり笛のような声を出して震え上がる。

 

 その手を視線でたどり、持ち主を見つける。

 

 琳弓宝(リン・ゴンバオ)。

 

 その姿を見て、ボクはすべて思い出した。

 

 以前までの全ての記憶。

 地球で死に、異世界で生まれ変わり、武法という究極の体術に心惹かれて没入し、その生き方を認めぬ父を認めさせるために【黄龍賽(こうりゅうさい)】で優勝することを決意し家を飛び出し、予選で優勝し、帝都へ向かう道中にて馬湯煙(マー・タンイェン)の猟奇殺人を暴き、帝都で本戦に出場し、勝ち抜き、決勝戦を始める直前に武装集団が帝都を荒らし回り、仲間とともにそれらと戦い、皇族を助け出すために宮廷の地下へ行き、

 

 この男と戦った。

 

 そして、殺した。

 

 ならば、ボクの罪とは……

 

 ゴンバオは、声なく、唇の動きだけでこう言った。

 

 

 

 ——お前が殺した。

 

 

 

「ひぃっ!?」

 

 小さく悲鳴を上げ、肩を震わせるボク。

 

 姿形はゴンバオだが、目だけは違った。眼球ではなく、血を眼窩に溜め、その深い赤色にボクをはっきり映していた。

 

 逃げたい。ここから解放されたい。

 

 でも、どこへ逃げればいい。

 

 そうだ、ここは牢獄なのだ。逃げられるわけがないのだ。

 

 あらゆるモノを破壊する威力を誇る【打雷把(だらいは)】でも、何もない場所を砕けっこない。

 

 濁流のように思考を渦巻かせている間に、一本、一本、また一本と、血の塗れた手がボクの四肢へ掴みかかった。

 

 ゴンバオ以外のその者達は、皆、同一の格好をしていた。……帝都の市井で戦った、黒服たちだった。

 

 ボクが殺めたのはゴンバオだけじゃない。こいつらも殺した。

 

 その黒服の亡者たちも、眼窩に赤黒い血を溜め、それを頬へ涙のようにこぼしながら、口々に言った。

 

 オマエガコロシタ。

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 オマエガコロシタ。

 オマエガコロシタ。

 オマエガコロシタ。

 

「あああああああああああああ!! やめろ!! もうやめてくれよぉぉぉぉぉ!!!」

 

 ボクはとうとう錯乱した。

 

 耳を塞ぎたい。だけど亡者たちに腕を掴まれていてそれができない。

 

 怨念が何重にも重複し、ボクの耳へとなだれ込んでくる。

 

 オマエガコロシタ、オマエガコロシタ、オマエガコロシタ、オマエガコロシタ、オマエガコロシタオマエガコロシタオマエガコロシタオマエガコロシタオマエガコロシタオマエガコロシタオマエガコロシタオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガオマエガ

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああ!! ああああああああああああああああああああああああああ————」

 

 

 

 

 

 

「うあああああああっ!!!」

 

 ようやく体の自由がきいた! と思った瞬間、闇一色だった世界が急激に明るくなった。

 

 新鮮な空気の匂い——匂いがある。

 

 色彩もある。

 

 ばくばくと早鐘を打ち続ける心音を実感しながら、ボクは周囲をぐるりと見回した。

 

 豪華な一室だった。部屋のところどころに、きらびやかな飾りや調度品が邪魔にならない位置に置いてある。その中の一つでも売ってしまえば、ひと財産築けそうなくらいの価値がありそうだった。

 

 ボクが今背を預けていた寝台(ベッド)も、その部屋をいろどる華美な飾りの一つだった。庶民が寝るような硬質的な寝台ではなく、綿飴(わたあめ)を思わせるほどのふかふか敷布団と、羽毛がふんだんに詰まった掛け布団。寝台の四隅からは垂直に柱が伸びており、紗(しゃ)を周りに垂らした天蓋を支えている。真上を見ると、金糸の刺繍で描かれた美しくきらびやかな絵。

 

 まるでお姫様が眠るような寝台だ。なんでボクが、こんなところで寝ているのだろう。……さっき見ていたのは、夢だったのか。

 

 見ると、ボクは見たことのない薄手の寝衣を身にまとっていた。その下にある肌はぐっしょりと寝汗をかいていて気持ち悪い。三つ編みが解けて下された長い髪もなんかベタベタする感じ。

 

「お風呂入りたい……」

 

 今ちょうど思った事を口にした瞬間、その部屋に唯一ある扉が勢いよく開かれた。

 

 思わず身構えようとしたが、体に激痛が走ってうずくまる。痛った……なんだこれ。

 

 上目遣いで扉を睨むと、そこにはよく見知った顔と姿があった。

 

 ミーフォンだった。

 

「おねえ……さま」

 

 一日ぶりに見た感じがする妹分は、信じられないとばかりに目を大きく見開き、ボクの姿を凝視していた。

 

「ミーフォン、おは……」

 

 ボクはとりあえず挨拶しようとして、途中で止まる。

 

 見開かれた彼女の目元に、大粒の涙が浮かんでいたからだ。

 

 その涙滴をボロボロと数滴床にこぼしたかと思うと、ミーフォンはこっちへ向かって跳ねるように駆けてきた。

 

 ぶつかるようにボクの胸に飛び込み、背中にきつく腕を回して抱きついてきた。

 

「いってぇ——————っ!?」

 

 ぶつかった拍子に、衝撃以外の鋭い痛みを覚えて叫ぶボク。

 

 抗議の声をかけようとしたが、

 

「おねえさま……おねぇさま…………おねぇさまぁぁぁぁぁ……!!」

 

 ボクの胸の中で涙混じりのくぐもった声を出しているのに気づき、それは思いとどまった。

 

「ああああぁぁぁぁぁぁぁん…………!! うえええぇぇぇぇぇぇぇぇん……!!」

 

 泣いている。それもかなりひどく。

 

「どうしたの、ミーフォン」

 

 泣く子をあやすような口調で話しかける。

 

 ミーフォンは顔を上げた。ようやく母親に会えた迷子のような泣き顔だった。

 

 そんな妹分ににこりと微笑みかけると、

 

「あああああああああああああああんおねぇさまぁぁぁぁぁぁ!! ああああああああん!! うおおおおぉぉぉん…………!!」

 

 また大泣きしてしまった。

 

 こりゃ……落ち着くまで待った方がいいな。

 

 ワンワン泣き続けるミーフォンの背中を優しく撫でさすりながら、ボクは落ち着くのを待った。

 

 しばらくしてようやく落ち着きを取り戻したミーフォン。しかし涙としゃくりは止まらないようで、そのまま幼児のようにたどたどしく話し始めた。

 

「おねえさま……ここしばらく、目をさまさなかったんです。血まみれで医務室にはこばれてきて、医師も、よだんをゆるさない状況って、それで治療して…………そのままおきなくて……」

 

「しばらく目を覚さなかったって……ボクは何時間寝てたの?」

 

「一ヶ月」

 

 あっさり出されたべらぼうな日数に、ボクは仰天した。嘘だろおい。

 

 ミーフォンは涙の量としゃくりを増やしながら言葉をつむいでいく。

 

「ひくっ、それで、一命はとりとめたけど、ひぐっ……おねえさま、ぜんぜん、ひぐ、目をさましてくれなくて…………あたし、もういっしょう、ひくっ、起きてくれなかったらどうしようって、ひぐっ、しんぱいでしんぱいで……しんぱいしすぎてしんじゃいそうでした」

 

「ミーフォン……」

 

 どうやら、かなり気苦労をかけたようだ。

 

 その頭を撫でてやろうとした瞬間、ミーフォンは泣き顔を上げて吐き出すように言い募ってきた。

 

「おねえさまのばかあほ!! おおうそつき!! 死なないっていったじゃない!! すっごくしんぱいしたんだからっ!! おねがいだからもう無茶しないで!! あたしをひとりにしないでよぉっ!!!」

 

 ぽかぽかと、ボクの体を叩いてくる。

 

 ああ、ボクは悪い女だな。

 

 この子を、泣かせちゃった。

 

 でも、泣かせたなら、泣き止ませればいい。

 

「めっ」

 

 ボクはミーフォンの頭を軽く叩いて、優しく叱るように一声。

 

 こちらを見上げてポカンとしている彼女を見つめ、口元を微笑ませながらゆっくり言った。

 

「嘘つき、じゃないでしょ? 目の前にいるボクは、お化けなのかな?」

 

「ううん……」

 

「だよね。ちゃんと生きてるよね。ちゃんと生きて君の側にいるじゃない。それでも、不満かい?」

 

「ううん」

 

「だよね。なら、それでいいじゃない」

 

「よくないっ!」

 

 ミーフォンはキッと泣き顔でボクを睨む。

 

「これから先、またこういう事が無いとも限らないんです!! お姉様は優しいから、すぐに人のために頑張ろうとする!! あたし、お姉様のそんな所が大好きだけど大嫌いっ!! そうやって人のために頑張って、それでボロボロになったり死にそうになったりして、それを見て傷つく人の気持ちに気づかない!! 馬湯煙(マー・タンイェン)の時といい、今回といい、あたしがどんな気持ちでお姉様を見つめてきたか、分かりますかっ!?」

 

 刺すような口調でそれを言われたボクは、心に刺さるものを感じた。

 

 確かに、この子の言う通りかもしれない。

 

 自分は自分だけのものではない。そんな基本的なことを、ボクは忘れていたのかもしれない。

 

 ボクだって、ミーフォンが意識を失ったまま何ヶ月も目覚めなかったら、きっと気が気でなくなってただろう。

 

 けど、ボクも誰彼かまわず身を捧げるほど、バカじゃない。ちゃんと、大義があったのだ。

 

「ボクはね……そんな小説の英雄みたいな女じゃないよ。いつも目先のことに必死なだけさ」

 

「なら、なんでお姉様はそんなに頑張るんですか!?」

 

「……それは、ボクにしかできない事だったからだ。その状況で、その状況を打破できるのが、ボクだけだったからだよ。ただそれだけの話さ。タンイェンの時も、今回も」

 

 ボクは、気を失う直前のことを思い出しながら、素直な気持ちを口にした。もしあの場でボクがゴンバオと戦わなければ、皇族は必ず殺されていただろう。そうなればこの国は乱れ、権力を持った者たちが宙に浮いた帝位をめぐって争いを繰り広げたことだろう。

 

 そう、あの場でボクが戦い、勝たなければ、そうなっていた。だから戦ったのだ。

 

「でも……心配をかけたのは事実だ。ごめんね、ミーフォン」

 

 そう言って、ボクはそっとミーフォンを抱き寄せた。鼻をくすぐるこの子の香りが、なんだか懐かしく感じられた。

 

「お姉様……」

 

「お詫びと言ってはあれだけど、何かして欲しいことがあったら言ってごらん。出来ることなら何でもしてあげるから」

 

「じゃあ、お姉様の腋舐めたいです」

 

「やだってば」

 

「ふふっ」

 

 二人してくすぐったそうな笑みをこぼす。

 

 しばらくそうやって抱き合っていると、落ち着いた足音が近づいてくるのを聞き取った。

 

「っ! シンスイ! 目を覚ましたのね!」

 

 その足音の主であるライライは、開けっ放しな扉越しにボクの姿を確認すると、嬉しそうに声を弾ませて笑った。

 

「一ヶ月くらい寝てたらしいね。随分心配かけちゃったな」

 

「まったくだわ。血塗れの状態で内廷(ないてい)に運び込まれたってチュエ殿下から聞いた時は、血の気が引いたわよ。まったくもう」

 

 責めているような苦笑をこちらへ向けるライライに、ボクはごめんねと謝った。

 

 ……ん? 今、妙な単語を聴いたぞ?

 

「ライライ、ボクは内廷に運び込まれたの? ……ということは、ここは内廷なの?」

 

「そうよ。救国の英雄に対する最大の処置として、名医を呼びつけて治療させたそうよ。そんな名医の目から見ても、あなたは生きてるのが不思議なくらい酷い怪我だったみたい。どんな無茶をしたらここまでボロボロになれるんだ、って驚いてたって」

 

 ……救国の英雄。

 

「ライライ……帝都の暴動は?」

 

「完全に鎮圧したわ。武装集団を圧倒できたこと、スイルンが司令者の趙緋琳(ジャオ・フェイリン)って女を無力化させたこと、そしてシンスイ……あなたが敵の親玉を倒して、皇族を守り抜いたおかげでね」

 

 その言葉を始まりに、ライライは聞かせてくれた。

 

 戦いの終わりに至るまでの経緯を。

 

 

 

 

 

 戦いは、その日のうちに終わったという。

 

 市井の人たちを含む非戦闘員を全て【尚武冠(しょうぶかん)】に避難させたらしい。

 

 しかし、それでめでたしめでたしとはいかなかった。

 

 人を殺して回るという目的がなせなくなった武装集団は、今度はもぬけの殻となった市井の家々を略奪しに回ったという。

 

 それも、遊撃班の手によって防がれたが。

 

 もはや帝都で自分たちにできることなど何もないと悟ったのだろう、武装集団は帝都から逃げ出そうとした。十人くらいを捕まえることには成功したが、それ以外は逃げてしまった。

 

 それから、国と民が最初に始めたことは、市井の復興だった。敵の撒き散らした薬による麻痺からようやく回復した兵士たちも、それに積極的に協力した。有事の際に何もできなかった後ろめたさもあったのだと思う。

 

 ……ちなみに【黄龍賽(こうりゅうさい)】の決勝戦だが、街の復興などの事後処理のため、争乱終了から三ヶ月後に延期となったという。これにはボクもホッと胸を撫で下ろした。もしボクが眠っている間にスイルンの不戦勝になっていたら、ボクは家で官吏になるための勉強地獄か、あるいはミーフォンのお嫁さんという究極の二択を迫られていただろうから。

 

 閑話休題。

 

 あれだけ活気があって整然とした大通りは、まるで台風でも通過したかのような酷い荒れようだったという。火災が起きている家も何軒かあり、燃え移りを防ぐために隣の家を破壊しなければならず、さらにゴミの量を増やすことになった。

 

 さらに、当然ながら死体なんかもそこら辺に転がっていたので、埋葬も行った。死体の家族がいたらその人たちに引き渡し、いなければ無縁墓地に集団埋葬するとのこと。

 

 大切な人に死なれた人は少なくなく、その人たちはみんな泣きながら自分の家を片付けていたという。どれだけ悲しくても苦しくても、時は流れていく。立ち止まっている暇などないのだ。

 

 その悲しみが『琳泉郷(りんせんごう)』への憎しみへと変わるのは必然という他なかった。

 

 黒服の残党十人と、それらの指揮官たる趙緋琳(ジャオ・フェイリン)という女。彼らに対して「殺せ」という声が相次いだ。

 

 無論、皇帝の膝下たる帝都を恐怖と混乱に陥れたのだ。朝廷とて死罪が妥当と判断していた。しかし、ここで残党を消してしまえば、『琳泉郷』のその他の情報もそのまま闇に消えてしまう。なので朝廷は、残党に対して尋問を行なったという。

 

 だがその途中、一番尋問したかった相手であるフェイリンが脱走した。見張りの兵はみな首をへし折られて絶命していたという。

 

 この事は、一部の者を除いてまだ知らない。もし知れたなら、民に不安を煽ってしまうか、もしくは暴動を起こさせてしまうからだ。なので箝口令(かんこうれい)をしいて行方を調査中とのこと。

 

「え? 箝口令? そんなことをボクなんかに話しても良かったのかい?」

 

 そこまで話を聞いたボクは、至極まっとうな意見をライライたちへぶつけた。……ちなみにライライはルーチン様の近侍という立場上耳に入ってしまい、ミーフォンは【琳泉把】の弱点をチュエ殿下に伝えたという功績を認め、知ることを許されたらしい。

 

「——今更すぎる意見だぞ、我が友よ」

 

 また一つ、違う声が部屋に響いた。

 

 扉にいたのは、第一皇女のチュエ殿下だった。ただし普段着仕様なのか、その衣服の煌びやかさは控えめだった。

 

 その隣にいたのは、

 

「リーエンさん! 生きてたんですね!?」

 

 そう、地下室で満身創痍だったリーエンさんが、普通に護衛官の赤い制服を着て皇女殿下のそばに控えていた。もう助からないかも、と思っていたボクにとって、それは数少ない朗報の一つだった。

 

「貴女の負傷に比べれば、擦り傷のようなものでした。……貴女こそ、よく生きていてくださいました」

 

 いつも淡々と言葉を述べるリーエンさんだが、今回は少し口調が柔らかくなっている気がする。口元にもうっすら笑みが浮かんでいる。

 

 そんなリーエンさんの足を、皇女殿下は軽く蹴った。非難がましい口調で、

 

「何が擦り傷だ、この痴れ者めが。医師から止められているにもかかわらず、無理を押し通して任務に出ているくせに」

 

「……そう思っておられるのなら、蹴らないで頂きたいのですが。それに休んでばかりもいられません。私は今や、宮廷護衛隊の隊長なのです。隊長たるこの身が柔らかい寝台で寝転がっていては、部下に示しが付きません」

 

 大きくため息をもらしながら言うリーエンさん。いつもの状態に戻った。

 

 そういえば、隊長だったゴンバオがもう死んだから、必然的に位が一コ下のリーエンさんが隊長になるのか。

 

 ……ボクの心が、ガラスの破片が刺さったように鋭く痛むのを感じた。

 

「すみません、リーエンさん……あなたの尊敬していた人を、ボクは殺してしまった」

 

 リーエンさんに対する、そんな罪の意識ゆえであった。

 

 対して、彼はやや気落ちする様子を見せたものの、すぐに普段通りの醒めた表情に戻った。

 

「謝る事など何もありません。貴女は彼を打ち倒し、この国の未来を護ったのです。……貴女は、この煌国の英雄だ。尊敬の念を抱きこそすれ、なにゆえ恨む事がありましょう」

 

「……でも、ボクは」

 

「【琳泉把】を使えるから英雄の資格がない、か?」

 

 その先に続けようとしていた言葉を、皇女殿下が代弁した。

 

 ボクは頷く。

 

 ちょっと家柄が良いだけのボクを、内廷の医務室で手厚く看護している理由が、分かる気がするのだ。

 

 「これは、隔離なのではないか」と。

 

 ボクは、【琳泉把】が使える。いわば危険人物なのだ。そんな輩を野に放てば、伝承を流出されるかもしれない。そう思って、自分たちの手の届く場所に囲い込んだのではないだろうか。

 

 そんな考えを読んでいるのかいないのか、皇女殿下はふるふるとかぶりを振った。

 

「シンスイ、我々はキミに罰を与えるつもりはない。キミはリーエンの言う通り、この国を危機から救ってくれた救国の勇者だ。キミがゴンバオとやらと同じように【琳泉把】を広めたりしない限りは、我ら一同、何も見なかったことにしよう」

 

「……本当に、よろしいのですか」

 

「無論だ。むしろキミのお陰で、【琳泉把】のより詳しい実情と、その対処法を明らかにできた。我が祖父『獅子皇』は、【琳泉把】の情報の流出を恐れて、自分で得た情報まで闇に葬るという徹底さを見せていたからな。だから我々にも、【琳泉把】のことがはっきり分からなかったのだ。それゆえ、キミにはむしろ感謝しかないのだ」

 

 ボクはその寛大な処置に、胸がじんわり熱くなるのを感じた。

 

 最悪、隙を見て逃げ出して逃亡生活を送ることも視野に入れていたのだ。今ではその企みがかえって恥ずかしくなった。

 

「……だが、その代わりと言ってはなんだが、キミに一つ、やってもらいたいことがある」

 

「やってもらいたいこと、ですか?」

 

 うむ、と景気良くうなずくと、その高貴な美貌にニンマリといい笑顔を浮かべ、次のように要求した。

 

「——歴史に名を残してもらう」

 



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勇者

 治世とは、ごまかしと詭弁、おためごかしがモノを言う世界である。

 

 『琳泉郷(りんせんごう)』による今回の争乱で、帝都駐留軍は敵の策略で木偶の坊にされるという大失態を犯した。帝都を守るために鍛えられた精強な戦いのプロたちが、強力な武法を少しかじっただけの山賊にしてやられたのだ。潰された面子の数は計りしれない。

 

 君主が権力という武器を振り回しながら威張り散らして、国を動かす。それが帝政だ。しかし、威張り散らしたいのなら、民に王様や朝廷の力を信用させなければならない。今回の争乱のような大失態は、その信用を大きく崩すことになりかねなかった。

 

 だからこそ、そんな失態から民の目を逸らさせるための「英雄」が必要だった。

 

 その「英雄」として白羽の矢が立ったのが、ボクであった。

 

 政治的意図は確かにあるが、それだけではないと皇女殿下は言った。

 

 ボクが皇族を助けたことで、国が救われたことは紛れもない事実。それを讃えない訳にはいかないとのこと。

 

 どのみち、ボクは【琳泉把(りんせんは)】を習得、使用するという罪を犯してしまっている。それを見逃してもらうという約束を果たすには、これは避けて通れない道だ。

 

 ——そういうわけで、ボクは今『混元宮(こんげんぐう)』の謁見の間に来ていた。

 

 何度見ても目に痛いくらい豪勢な内装。

 

 壁の端々には、めかし込んだ老若男女が大勢立っていた。あれはみんな貴族だったり、高級官吏だったりという「お歴々」であるらしい。

 

 そのやんごとなき人だかりが、奥の玉座に座するさらにやんごとなき御仁へ向かって一本道を開けている。

 

 そんな現実離れした高貴な光景に、ボクは緊張せずにいられなかった。

 

 ボクが身にまとうのはいつもの服装ではなく、赤と金を基調とした豪奢な礼服。皇女殿下の御召し物を借りたものだ。そのせいか、胸の辺りだけブカブカだった。胸囲の格差社会。

 

 足がうまく前へ進まない。まるで関節が錆び付いているみたいだ。

 

 しかし、このまま動かずにいたら失礼にあたるだろう。早く動かなきゃいけない。

 

 ああっ、緊張するなぁ……!

 

 周囲の人だかりも、レーザーでも照射せんばかりにこちらを凝視している。その視線が「早く行け」と訴えているような気がしてならなかった。

 

 ……その中に一つ、知っている目を見つけた。

 

 それは何と、ボクの父である李大雲(リー・ダイユン)であった。

 

 そういえば父様も、位の高い官だったな。なら、ここにいてもなんら不思議じゃないか。

 

 その父様は、ボクとしばし視線を合わせていたが、すぐに背を向けて人だかりの奥へ消えていった。

 

 まるでお前の功績など興味も無いとばかりに。

 

 ……ふん。ハナっから好意的な反応なんか期待してなかったよ。

 

 ボクは心中で鼻を鳴らした。ていうか、興味ないなら来るなよ。

 

 けれど、そんな父親への反感のおかげなのか、さっきまで身を凍らせていた緊張が嘘のように消えていた。

 

 いつもはうっとうしいだけな父様の存在が、少し救いになった気がした。

 

 ボクは人だかりの一本道を通り、玉座へと近づく。

 

 玉座に座する皇帝陛下と、その両隣に立つ皇太子、皇女両殿下前で立ち止まった。……当然ながら、ルーチン様はおられなかった。ライライと一緒に遊んでるのかも。

 

 片膝を付き、こうべを垂れる。

 

 席を立つ音がし、足音がこちらに近づく。

 

「面(おもて)を上げよ」

 

 皇帝の言葉に従い、顔を上げた。

 

 厳格だが、どこか誠実さを感じさせる陛下のご尊顔が目に入った。

 

「此度(こたび)はよくぞ、余と我が子らと、そしてこの国を救ってくれたな。命を削って尽くしてくれたそなたには、感謝の言葉もない」

 

「勿体なきお言葉」

 

「身体の具合はどうだ」

 

「まだ所々傷みますが、手厚い治療と保護のおかげでこうして生き長らえております」

 

「であるか」

 

 そこまでは世間話でもするかのような軽めの口調だったが、次からは重々しく厳かな響きに変わった。

 

「ここまで素晴らしい働きをしてくれたそなたには、何か褒美を与えねばなるまい。……何を望む、李星穂(リー・シンスイ)よ」

 

「褒美……」

 

 ボクはぽかんとした表情を浮かべつつも、内心ではめっちゃ混乱していた。

 

 てっきり、なんか勲章みたいなものを渡されて終わりだと思っていたから、こういう展開は予想外だぞ。

 

 どうしよう、何もらおうか。考えてるけど、全然答えが出ない。意外と無欲だったのね、ボク。

 

 ……いや、欲はあるにはある。

 

 それは【黄龍賽】で優勝することだ。

 

 けれど、いくら皇帝といえど、強引に優勝者をボクに仕立て上げることなんかできないだろう。【黄龍賽】は完全実力勝負なわけだし。

 

「どうした? 思いつかぬか」

 

 陛下のそんなお声によって、ボクはハッと我に返った。

 

「……も、申し訳ございません。褒美をいただけるなどとは夢にも思っておりませんでしたので、気が動転して答えが浮かびません、はい」

 

 微笑ましげな笑声が、人だかりからくすくすと聞こえてきた。

 

 ボクは顔が熱くなるのを感じながら、陛下に恐る恐る問うた。それこそ、崖から飛び降りるくらいの心持ちで。

 

「あの……申し上げにくいのですが、答えは……保留ということには、できませんか?」

 

 めちゃくちゃ恐れ多い質問だったと思う。

 

 微笑ましげな笑声を発していた人だかりが一転、不穏なざわめきを立てた。好意的な空気でないのは明らかだった。

 

 けれども、その不躾(ぶしつけ)な質問をぶつけられた本人である陛下は、可笑しそうにからから笑った。横に控える皇太子皇女両殿下もくすくす笑いしていた。

 

「余にそのような願い出をしたのは、そなたが初めてだぞ李星穂(リー・シンスイ)。あの生真面目なダイユンの子とは思えぬほどの、型破りな娘であるな」

 

 人だかりの中からまた微かな笑声が聞こえた。……それが嘲笑っぽかったのは、きっと気のせいだと思う。

 

「……良いだろう。褒美を渡すのは保留としておこう。そなたにはもう少し療養が必要のようだし、それに【黄龍賽】が再開されるまでは帝都にとどまるのだろう? その間に熟慮してもらいたい」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 ボクは慌てて頭を下げた。

 

 陛下は部屋全体へ声高に訴えた。

 

「皆の者、我々は今ここに立つ、救国の勇者の姿を未来永劫忘れてはならぬ! 余が、我らが今こうして笑っていられるのは、この小さな勇者の武と勇があったがゆえ! だが、勇者にばかり頼ってはならぬ! 我々は、我々自身の手で、この煌国を恒久に光り輝かせ続けなければならぬことを、努努(ゆめゆめ)忘れぬように! 次は、我々自身が……この李星穂(リー・シンスイ)と同じ「勇者」となるのだ!!」

 

 瞬間、人だかりから溢れんばかりの拍手が轟いた。

 

 耳に痛い。

 

 しかし、悪くない。

 

 こうして平和な日々が戻っている。

 

 こうして笑い、拍手することができている。

 

 地獄と化した帝都の風景を思い出すと、そんな何気ないことが、かけがえのない奇跡みたいに感じる。

 

 ……ボクの流血は、報われたのだ。

 

 が、同時に、心の中に、井戸の底からささやきかけるようなおぞましい声が、小さく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オマエガコロシタ。



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最悪の置き土産

 さらに二週間が経過した。

 

 怪我は、ほぼ完治にいたっていた。

 

 念のため、まだ療養は続くようだ。病み上がりなので無理はできないけれど、外を出歩く程度のことは可能だという。

 

 ずっと宮廷に篭りっきりだったので、そろそろ外へ出たいと思った。

 

 昼時の時間帯、ボクは【熙禁城(ききんじょう)】から出た。出てすぐにライライとミーフォンに出くわし、二人もついて来ることになった。

 

 そこまではまあ、普通だったのだが、

 

「街中で自分をシンスイだと名乗っちゃダメよ? 私たちも呼ばないから。さもないと面倒なことになるからね」

 

 市井へ向かう直前、ライライがそのようなことを口にした。

 

 理由も「行けば分かるわ」とはぐらかされた。

 

 ミーフォンも、まるで事情が分かっているかのようにウンウン頷いていた。ボクを見つめるその眼差しは、なんだかすごく誇らしげに輝いていた。

 

 二人の反応に、ボクは小首を傾げる。

 

 いったい、市井で何が起こっているのだろう?

 

 そういうわけで、ボクら三人は市井へ訪れたのだが、

 

「……流石に、まだ完全回復ってわけにはいかないみたいだね」

 

 久しく市井の風景を目の当たりにしたボクは、そう力無く呟いた。

 

 木片や死体がそこらへんに転がっていた時と比べると、石畳の舗装路は随分ときれいに片付いていた。しかし、ところどころ血の跡が消えきらずにべったり残っていて、人々はそれを避けて歩いていた。

 

 ……これから先、あのドス黒い血痕を見るたび、帝都の住民はあの頃の惨劇を思い出すのだろう。そう考えると、とても気の毒に思えた。

 

 軒を連ねる建物も、ところどころ崩れたり穴が開いたりしており、それを木材で補強したり塞いだりしている姿がなんとも痛ましい。

 

 それでも、人々の目は死んでいない。

 

 失ってもなお、明日を見つめて生きている者の目だ。

 

 これなら大丈夫だろうと、ボクは思った。

 

「ところで、もう具合は平気そう?」

 

 そこでふと、ライライが話しかけてきた。気遣わしげな表情だった。

 

「うん。とりあえず平気だよ。かなり完治に向かってるみたいだから」

 

「そう、それは良かったわ」

 

 彼女はそう言って小さく微笑んだ。

 

 二週間前は、ちょっと激しく動くと痛くてたまらなかったが、すぐにそれも治まってきた。

 

 この調子なら、決勝戦までには余裕で完全回復していることだろう。

 

 視界の端から、心配そうなミーフォンの顔がニュッと生えてくる。

 

「無理してませんかお姉様? 辛かったら、あたしがおんぶしてあげますからね?」

 

「いいよ、大丈夫だって。それに、ボクより背の低いミーフォンにおんぶなんかさせられないよ」

 

「いいんですあたしは! お姉様がお望みなら、おんぶでも馬の真似でもなんでもしてあげますから! 鬱憤が溜まってるなら、夜の相手だって何回でも!」

 

「ごめん、全部イラナイ」

 

 相変わらず愛が重い妹分の熱烈サービスをお断りしながら、ボクは久しく訪れた市井をぐるりと見回す。

 

 そういえば、ライライが「市井ではシンスイって名乗らない方がいい」って言ってたけど、それはどうしてなのだろうか。

 

「ん……?」

 

 真南の門まで真っ直ぐ伸びた大通りをしばらく進んでいると、あることに気がついた。

 

 道ゆく女の人の髪型。太い一束の三つ編みという割合が異様に多かった。

 

 それは、ボクが普段しているのとおんなじ髪型だった。

 

 まるでボクがいっぱいいるみたいだ。

 

 最初は気のせいだと思っていたが、進むたび、通り過ぎる女性の三つ編み率がどんどん増えていった。ここまでくると、なんか妙だと感じた。

 

 商業が盛んな南門寄りの辺りまで来た瞬間、とうとうその理由が明らかになった。

 

「な……なんだこれぇ!?」

 

 ボクは目の前に広がる光景に、そう声を上げずにはいられなかった。

 

 大通りの左右に所狭しと連なる商店。

 

 それらが掲げる旗には——ボクの名前。

 

 『シンスイまんじゅう』『シンスイ飴』『シンスイ揚げ』『シンスイ黒糖』『激辛シンスイ月餅』…………

 

 所狭しと「シンスイグッズ」が並んでいたのだ!!

 

「これは一体……」

 

「見て分かるでしょう?」

 

 何を言わんやとライライが突っ込みを入れてくる。

 

 いや、うん、何が起こっているのかは分かるんだけどね。だけどそれを信じられないっていうか。

 

 ミーフォンが嬉しそうにボクの腕に抱きついて、キラキラした上目遣いで見上げながら言った。

 

「お姉様は、今や帝都を救った英雄なんです。二週間前の式典の後、お姉様の人気が爆発的に高まって、結果がコレです」

 

 ボクはミーフォンの視線につられるまま、もう一度この空前絶後のシンスイフィーバーを見回した。

 

 ……なるほど。ライライが言っていたのは、こういうことだったのか。

 

 道行く女性までもが、髪型をボクそっくりに変えるほどなのだ。もしボク本人が現れたら、軽く騒ぎになるかも知れない。

 

 おまけに『シンスイ飴』という、ボクそっくりな造形の飴細工まで売られているのだ。その飴から、ボクに容姿は簡単にバレてしまいそうだった。

 

「シンスイ、三つ編みも解いたほうがいいかも知れないわ」

 

 ライライがそう耳打ちしてきたので、言う通りに解こうとした。

 

 が、そこで思わぬ邪魔が入ることとなった。

 

「……李星穂(リー・シンスイ)? 久しいな。怪我の具合はどうだ」

 

 ボクの名を堂々と呼びかけてきたのは、ミーフォンの姉である紅梢美(ホン・シャオメイ)であった。

 

 久しく顔を合わせる彼女は、いつになく好意的な笑みだ。しかし今のボクには、それが悪魔の笑みに見えた。

 

 ——バカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?

 

 街中のざわつきに変化が生じたのは、それからすぐだった。

 

 

 

「ねぇ、今、シンスイって言わなかった?」「ああ、言ったよな、確かに」「てことは、あの女の子が李星穂(リー・シンスイ)?」「いや、同名の別人かも知れないぞ」「多分本人だぞ。見ろ、小柄で細身で胸が無くて、めちゃくちゃ可愛い太い三つ編みの女の子だ。情報通りだろ」「おまけに「お姉様」呼びしてる禁断の恋人までいるわよ。噂じゃ、結婚を前提にお付き合いしてるらしいわ」「あら〜」「やだ、シンスイ様ってそういう趣味の人?」「ということは、禁断の恋人の他にいるもう二人は愛人?」「噂じゃ本戦で倒した相手全員お手つきらしいわよ」「本人だ。本人確定」

 

 

 

 

 周囲の目は、明らかにボクに向いていた。好奇の視線が幾本も刺さる。

 

 しかも何やら失礼な会話も聞こえてくる。

 

 これは……

 

「逃げた方が、いいよね」

 

 ボクの呟きに、ライライもミーフォンも頷きを示した。

 

 この状況を作り出した元凶であるシャオメイは、何が何やらとばかりに小首を傾げていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嬉しい悲鳴って、こういうのを、言うのかしら」

 

「わ、分かんない。悲鳴であるのは、間違いないんだけど」

 

 ライライのやや息の上がった口調に対し、ボクも同じような感じで答えた。

 

 喧騒から離れた場所——帝都から出て東側の草原まで逃げのびたボクら三人。

 

「もう、気軽に帝都を歩けないよ……」

 

 ボクはすごく疲れたようなため息を交えて言った。体ではなく、心が疲れた。

 

 あれからボクらは、帝都のいろんな所へ遁走した。しかしどの場所でも、ボクの事を英雄シンスイと声高に讃える声が大きかった。もうボクの心休まる場所は市井のどこにもないと断定し、こうして外へ出た次第である。

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべたライライが冗談めかした言い方で、

 

「ふふ、すっかり有名人みたいね、シンスイ」

 

「そう……みたいだね」

 

「しかもあたしの事を「禁断の恋人」ですって! お姉様、あたし達の仲が世間で認知されてますよ! もうこれは結婚するしかありませんわ!」

 

「はいはい……」

 

 ミーフォンを軽くあしらいつつ、街中の商店の風景を思い出して顔を熱くする。

 

「いや、英雄扱いはまだいいんだ。けれど……『シンスイまんじゅう』っていうのは、ちょっと……ついていけない…………」

 

 頬張ると【雷帝】の一撃のごとき凄まじい辛味が襲う『シンスイまんじゅう』、本物さながらの造形美と精巧さでかたどられた『シンスイ飴』、かじったら全身に稲妻じみた感覚が走ってしばらく動けなくなる『シンスイ干魚』……いっぱいあった。

 

 ……なんか事件性がありそうなのが混じってるのは気のせいだ。

 

 地球ではモデルの承諾無しの海賊品として余裕でしょっぴかれる代物ばかりだが、ここは異世界だし、ボクもただ恥ずいだけで不満はない。なので放置することにした。

 

「んぷ、良いじゃありませんかお姉様。もむっ、これで武林の伝説に、もぷ、お姉様の名が、んむ、強く刻み込まれましたよ。はむっ、国を救ったっていう、ほむ、功績からして、んんっ、【雷帝】よりも凄い名声、ちゅぷ、かもしれませんよ」

 

「そんなもんかなぁ……ってミーフォン、それ『シンスイ飴』じゃん! しかも十本も!? いつの間に買ったのさ?」

 

「逃げてる途中、サクッと払ってサクッと手に入れましたわ。ああっ、この飴すごくよく出来てます! あたしの舌でお姉様を蹂躙してる気分で興奮しますぅ!! お姉様の裸体を模したものも売られませんかね!? そしたらあたし帝都に移住して毎日十本買いますぅ!! そして腋の辺りを重点的に!!」

 

 まるでご褒美を与えられた犬よろしく、ボクそっくりの飴を高速でぺろぺろするミーフォン。引くわー。

 

 ……とまあ、この通り、市井では今、空前のシンスイブームが起こっているのである。

 

 騒がしいし、恥ずかしいのだが、ボロボロの廃墟じみた争乱中の帝都を思い出すと、今の状況はかなり良い方だと思う。

 

 争乱の負の記憶を和らげるため、趙緋琳(ジャオ・フェイリン)を取り逃したという失態から少しでも人民の目を背けさせるため、やんごとなき方々が積極的に喧伝したというのもあるだろう。

 

 だが、それでも街が元気を取り戻すために使われたのなら、それで良いかもしれない。

 

 ライライが気持ちを改めるようにため息をついてから、

 

「それより、これからどうしましょうか」

 

「そうだね……もうしばらく市井には遊びに行けないし」

 

 何をしようか思案するボク。

 

 宮廷に戻っても、何もやることがない。寝台に横になるくらいだ。

 

 なら……

 

「ねえライライ、ちょっと組手の相手をしてくれないかな?」

 

 もはや、すがりつくのは武法しかないと思った。小さい頃から好み、育ててきた武法しか。

 

 ライライはボクに気遣わしい視線を向けながら、

 

「え……大丈夫なの? 一応、まだ病み上がりなんだし、無理はしない方が……」

 

「もう一か月もしてないんだ。もうそろそろ限界だよ。それにあと二ヶ月くらいで決勝戦も始まるわけだし、すぐにでも鈍った体を叩き直さないと。大丈夫、もし何かあっても、それはライライに組手を所望したボクが悪いってことにするから」

 

 言いながら、ボクは腕ごと肩を上へ伸ばす。可動域は以前よりほんの少し短かくなっていた。長い間動かしてなかったせいか、体が全体的に硬くなっている感じだ。

 

「……分かったわ。ただし、無理そうだと判断したら、すぐにやめるからね」

 

「それでいいよ」

 

 ライライの言葉に、ボクはうなずいた。

 

 ボクは準備運動をしてから、距離をとって構える。前手越しに、ライライの姿を見つめる。

 

 確かに一ヶ月ちょっと休んだが、それでも長年とってきた構えは、箸を使うのと同じくらい体に馴染んでいた。

 

 ひさびさに、武法ができる。

 

 歓喜にせいか、四肢が微妙に震えていた。

 

「……始め!」

 

 ミーフォンの一声で、ボクらの間の空気が引き締まった。

 

 最初に動いたのはライライ。鹿のように軽やかで、しなやかな足取りで近づいてくる。

 

 ボクの間合いのギリギリ前まで来ると、前蹴りの予備動作をかすかに見せた。いきなり大技で蹴りかかると隙になるため、きっと小手調べか、誘い込みをかけるための牽制。だが、彼女の足はボクの手足より長く、牽制でも間合いが長い。

 

 遠心力で振る回し蹴りではなく、下から上へ登る前蹴りであった。ならば、内側へ入るという手は自殺行為。横へずれて避けよう——そう即決し、慣れ親しんだ足さばきで横へ動こうとした。

 

 

 

 

 

 ————オマエガコロシタ。

 

 

 

 

 

 真っ直ぐこちらを向くライライの顔に、赤黒い眼をした亡者のソレを幻視した。

 

「うわあああああああああああ!!!」

 

 あまりの恐怖に、最初に考えた対処法など頭から吹っ飛んでしまった。

 

 歩法もなにもあったもんじゃない素人同然の足取りで退いたボク。途中で両足同士がぶつかって重心が崩れて、昼下がりの青空を仰ぐようにして転んだ。

 

 またあの亡者が襲ってくるのではないか。そのことに恐怖を持続させたボクは、両腕で頭を抱えてうずくまった。

 

「あ、ああ……ああっ……!!」

 

 意思とは関係なしに全身が震えをきたす。

 

 そんなボクの背中に、そっと手が添えられる感触。

 

「ひぃっ!!!」

 

 さらに震えを強くしながら、ボクはさらに体を強く丸める。

 

 何か言葉が聞こえてくるが、聞きたくない。耳を両手で塞いだ。

 

 「誰か」の手は何度もボクを揺さぶってくるが、すぐにそれが止んだかと思うと、今度は右耳を塞ぐ右手を強引に引っぺがし、

 

 

 

「——シンスイ! 落ち着きなさい!!」

 

 

 

 耳奥に叩きつけるようにして響いてきたその声に、ハッと我に返った。

 

 体の震えが消える。呼吸が落ち着く。

 

 ボクは両手を地につけ、右を向く。

 

 ライライ。

 

「大丈夫? 私が分かる?」

 

 ひどく心配そうに尋ねてきたライライに、ボクは力無くうなずいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 確かに、ボクは武装集団やゴンバオを倒し、この国を救ったのかもしれない。

 

 

 

 けれど、彼らとの戦いは、ボクの完全勝利で終わったわけではなかった。

 

 

 

 ゴンバオは、ボクにとんでもない置き土産を置いて逝ったのだ。



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絶望

 【熙禁城(ききんじょう)】正門のすぐ横の小さな扉から出てきた宮莱莱(ゴン・ライライ)を早速出迎えたのは、ひどく心配そうに表情を曇らせたミーフォンだった。

 

「お姉様は大丈夫そう?」

 

 その質問に首を縦にも横にも振れぬまま、ライライは濁した答えを出した。

 

「シンスイは眠ったわ。体にも異常はなかった。けれど……」

 

「けれど?」

 

「心が……深刻みたい」

 

 体内に重々しくドロドロした沈殿物を溜め込んだような気分で、二の句を継いだ。

 

 

 

「——恐怖」

 

 

 

 ビクッ、とミーフォンは肩を震わせた。

 

 この一言だけで十分だっただろう。シンスイの身に、何が起こっているのかの説明は。

 

「きっかけは分からない。けれど、これだけははっきり言える。あの子は……シンスイは、闘うことに強い恐怖を抱いてしまったのよ」

 

 「恐怖」とは、武法士と隣り合わせな感情だ。

 

 だが、一口に「恐怖」と言っても、その種類、性質は異なる。

 

 例えば、刃物が怖いのは誰だって同じだ。だがこういった単純な恐怖心は、鍛錬次第である程度は克服可能である。実物の刀で寸止めされる訓練などだ。まして、武法には【硬気功】という防刃法が存在する。

 

 ……しかし、心に強く刻み込まれた恐怖は、取り除くことが非常に困難である。

 

 死の淵をさまよった者の中には、その時の恐怖が心に刻み込まれ、それを再び感じまいとして無意識に戦いを遠ざけたがる者もいる。

 

 人を殺してしまった者の中には、人の命を奪うことの恐怖に怯え、二度と戦いをしなくなってしまう者もいる。

 

 そういった恐怖を抱いた武法士は、往々にして武法から足を洗うのである。

 

「でも、どうしてよ!? お姉様、あたし達とは普通に一緒に戦ってたじゃない!」

 

「そうね。でも……それが無理をしてたのだとしたら?」

 

 息を飲むミーフォン。

 

「あの子ね、人を殺すのを嫌がっていたの。そりゃ、誰だって嫌かもしれない。だけど、みんな普通に戦ってた。その中で、シンスイだけが、殺人を行うことに人一倍忌避を感じていたのだとしたら?」

 

「そんなこと! だって、あれは帝都を守るために仕方なくやってた事じゃない!」

 

「ええ。でも、それは理屈。感情は必ずしも割り切れるとはいえないわ。それに……私達と別れて宮廷に向かってから、何かあったのかもしれない。シンスイの心に深い傷を刻み込むほどの「何か」が」

 

 おそらく、いや、きっとそうだ。

 

 宮廷での戦いで起こった「何か」が、シンスイの勇敢な心を殺したのだ。

 

 ライライは友として至らなさを覚え、唇の下で歯噛みする。

 

 自分はシンスイの「勝利」にしか目が向いていなかった。その時に何が起こったのかなど、まったく気にしていなかったのだ。知っていれば、自分に何かできたかもしれないのに。

 

 ……いや、たとえ知っていたとしても、自分にできることなど片手で数える程度しかなかっただろう。それも、限りなく効果が薄い手段ばかりだ。

 

「……君達、ここは宮廷前だ。雑談は不敬だぞ」

 

 そこでふと、横槍を入れてくる声が聞こえた。

 

 振り向くと、そこには見知った顔があった。

 

 シンスイの父である、李大雲(リー・ダイユン)であった。何やら冊子を数冊抱えている。宮廷に何か用事があって来たのだろう。

 

 ライライは一礼し、

 

「ごめんなさい。その通りですね。場所を変えます」

 

「待ちたまえ。先ほど、シンスイがどうとか言っていたようだが……娘に何かあったのか」

 

「それは……」

 

 一瞬、ライライは返事に窮した。シンスイは父親に対し、きまって強気に振る舞っていた。その父親に弱みを教えることは、彼女の自尊心を傷つけてしまうことになるかもしれないと思ったからだ。

 

 けれど、どれだけ対立したとしても、この厳粛そうな男はシンスイの父なのだ。

 

 教えておく必要がある。そう思い、ライライは事情を話した。

 

「……そうか」

 

 ダイユンはそう言ってしばらく黙った後、次のように一言。

 

 

 

それは好都合だな(・・・・・・・・)

 

 

 

 ライライは我が耳を疑った。

 

「こう、つごう?」

 

 自分の代わりに、ミーフォンがかすれた声でそらんじた。

 

「そうだ。これであの娘は武林などという野蛮な世界から足を洗える。官吏になるための最大の障害はこれで無くなった。決勝戦などそうそうに棄権させて、実家で勉学に励ませられる」

 

 そうのたまうダイユンの顔には、微かながら笑みさえ浮かんでいた。まるで憂いが晴れたかのような。

 

 心に怒気が蓄積されていく。

 

 だが、溜まりきるのはミーフォンの方が圧倒的に早かった。自分より大柄なダイユンの胸ぐらに掴みかかり、憤怒の形相で発した。

 

「ふざけんな!! あんたそれでも親!? 娘が傷ついたっていうのに、なんだそのニヤケ面はっ!!」

 

「親なればこそ。このように、神聖なる宮廷の門前で屯(たむろ)し、なおかつ胸ぐらを掴んで暴力行為をほのめかす粗野な者達が吹き溜まる武林という世界から抜け出せるのだ。喜びこそすれ、なにゆえ気に病む必要がある?」

 

「…………この、クソジジイッ!!!」

 

 いよいよ限界に達したのか、ミーフォンは空いた手を握り締め、それをダイユンへ叩き込む前兆を見せた。

 

「ごめんなさい」

 

 取り押さえるのは間に合わないと瞬時に悟ったライライは、そう一言謝ってから、ミーフォンを横へ蹴り飛ばした。遠くへゴロゴロと転がっていく。

 

 拘束から解放されたダイユンは、乱れた襟元をわずらわしそうに整えていた。

 

 ライライは一礼し、

 

「……失礼しました。今のは聞き流してください」

 

「ふん」

 

 何も言わず、一回鼻を鳴らしてから宮廷へ歩み去っていくダイユン。

 

「クソ親父」

 

 姿が見えなくなった途端、ライライは唾を吐くように小さく毒づいた。ミーフォンの側へ歩み寄り、

 

「ごめんなさい。間に合わないから、蹴っ飛ばしてしまったわ」

 

「……いいわよ。別に。正直マジムカついたけど、あのオッサンを殴っても……お姉様の心が晴れるわけじゃないから」

 

 気落ちした声。

 

 ごろんと仰向けになり、目元を片腕で覆いながら、悔しげに呟いた。

 

「どうすれば……いいのよ」

 

 ライライも同じ気持ちだった。

 

 しかし、その問いに答えられる者は、その場にはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに自分の部屋のように慣れ親しんだ内廷の寝室には、夜闇がとっぷり落ちこんでいた。

 

「はぁ……」

 

 ボクは灯りをつけることなく、寝台の上で膝を抱えてうずくまっていた。

 

 ライライたちと別れた昼頃から、ずっとこんな風に過ごしている。

 

 今は夜と分かるが、理解できるのは「暗い」ということだけで、どれくらいの時間帯なのかは分からない。

 

 いい加減このままでいるのも飽きてきた。

 

 ボクはおもむろに寝台を降り、白い素足で床を踏む。

 

 腰を落とし、呼吸を整える。

 

 片脇に拳を引き絞り、足からの力を手に伝達させて矢の如く突き放とうと——

 

 

 

 ——オマエガコロシタ。

 

 

 

 したが、途中でその拳は伸びを止めてしまった。

 

 歯を食いしばるのに合わせて、伸びかけた拳をギリギリと強く握り、床に叩きつけた。

 

「……ちくしょうっ!!」

 

 床にしがみつくようにうずくまりながら、何度も何度も床を殴る。

 

 自分の情けなさに強く憎悪していた。

 

「なんで……簡単な技すら出せないんだよ……!?」

 

 ——ボクの体が、武法を拒否している。

 

 いや、より正確には、ボクの心の奥底に付けられた深い傷が、ボクの肉体に無意識のうちにストップをかけている。

 

 人間には、生存本能というものがある。なので、いくら自殺をしようとしても、必ず本能が拒否反応を示す。

 

 それと同じくらい、ボクの心に強く刻み込まれたのだ——「恐怖」が。

 

 きっかけは間違いなく、ゴンバオとの戦いだ。

 

 ボクの必殺の一撃【冲星招死(ちゅうせいしょうし)】を受け、生きていられないほどの重傷を負ったゴンバオだが、それでも強烈な執念と憎悪で死にゆく身を動かし、目から赤黒い血を流しながらボクへ近づいた。

 

 ボクは首を絞められただけで、大したことはされなかった。だが、自分の死を悟ってもなおボクを道づれにしようとしたその凄まじい情念は、ボクに恐怖を刻み込んだ。

 

 それによって、ボクは知ったのだ。

 

 どんな大義名分を掲げたところで、殺された相手はあの世でボクを憎悪するのだと。

 

 殺された相手でなくても、その相手を大切に思う人間から憎しみを買うだろう。その憎しみはいつか、実在する本物の脅威となってボクに襲い掛かるかもしれない。

 

 一回拳を打つたびに、ボクは一つの憎悪を買うかもしれない。

 

 ボクの歩く道は、血塗られた道なのだ。

 

 ボクが武法を愛する気持ちは、今も変わらない。

 

「なら、なんで体が動かないんだよっ!!」

 

 大好きなのだ。

 

「だったら動けよっ!!」

 

 二度目の人生を、全て武法に捧ぐと決めたのだ。

 

「ならこの体たらくはなんなんだよっ!!」

 

 ドン! と両の拳を床に叩きつける。

 

 全身を震わせながら、床で丸くなる。

 

 目に溜まった涙が視界を水面のように揺らし、大粒の滴を落とす。

 

「ちくしょう……ちくしょう………」

 

 ……大好きな武法が、できなくなってしまった。

 

 その現実を認識しつつも、それを認めることができなかった。

 

 武法がなくなれば、ボクはいったい、何をよりどころとして生きていけば良いのだろう。

 

 わからない。

 

 誰かわかるなら、どうか教えてほしい。

 

「ボクは……どうすればいいんだよ…………」

 

 闇の中に、ボクの声が寂しく響く。

 

 それに答えてくれる者は、やはりいなかった。

 



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オマエガコロシタ

 それからというもの、ボクは無為な日々を過ごした。

 

 寝室に運ばれてくる食事を機械的にとり、何もせずに窓を見つめ、朝から夜に移り変わる様子を眺め続ける。そして眠りにつき、また次の朝を迎え、また似たような一日を過ごす。

 

 まるで同じ日を何度も何度も繰り返しているような錯覚を覚える。

 

 でも、時折ライライや、皇女殿下が部屋に来てくれるため、どれくらい時間が経ったのかは知っていた。

 

 一週間……二週間…………一ヶ月。

 

 何も変わり映えしない日々に、ボクは一ヶ月も費やしていた。

 

 それでもなお「出て行け」と言わない宮廷の配慮が、ありがたく感じる。

 

 ああ、そういえば、こういう生活、初めてじゃなかったなぁ。

 

 ……前世でさんざん経験した生活ではないか。

 

 不治の病という鎖をはめられて生まれてきたボクは、毎日を病院で過ごした。

 

 毎日同じようなものを食べ、毎日本を読んだりして時間を浪費し、眠り、また同じような一日を始める。それを十数年繰り返し、ボクは逝った。

 

 何の実りもない前世だった。

 

 けれど、この異世界に転生したとき、ボクを縛る病魔はなかった。

 

 まるで監獄から解放されたような気分で、ボクは毎日を楽しく過ごした。

 

 いろいろと困難もあったけれど、ボクはそれさえも面白がっていたような気がする。

 

 そんな楽しい毎日が、ずっと続くと思っていた。

 

 ……しかし、また新しい鎖が、ボクを縛っていた。

 

 そして、また現世のように、変わり映えしない人生を送ろうとしている。

 

 時折、そんな自分に強い嫌悪感を抱く。そうして拳をぎゅっと握りしめる。

 

 その拳の握り方は、師匠から教わった、人を打つ時の正しい握り方だった。

 

 拳を作ると、思い出すのだ。武法に対する、強い意欲が。

 

 ボクの中には、まだ武法を愛する気持ちが残っている。

 

 だが、握ることはできても、突き出すことはできない。

 

 そんな拳に、いったい何の価値があるというのか。

 

 情熱が一転、強い自己嫌悪に変わる。

 

 握らなきゃよかったと、後悔する。

 

 そうしてまた今日も、無駄な一日を終えるはずだった。

 

 予期せぬ訪問者の存在で、ボクの一日に変化が起こった。

 

「……父様」

 

 この世界におけるボクの父親、李大雲(リー・ダイユン)だった。

 

 父様は冷厳な眼差しでボクを見下ろし、開口一番言った。

 

「帰るぞ」

 

「え……」

 

「実家へ戻ると言っているんだ。早く支度をしろ」

 

「なんで……」

 

 なんでボクを連れて行くのか。

 

 呆然と考えたその言葉を読んだように、父様は言った。

 

「もう武法はできないのだろう? ならここに留まっていても時間の無駄だ。さっさと家に戻ってこい」

 

 ……そんなことだろうと思った。

 

 この人には感情論は通用しない。できるか、できないか。それだけで物事を判断する。

 

 こちらの気持ちも知らないで。

 

 ふつふつと沸き上がってくる父様への苛立ち。

 

「……帰らない」

 

 その苛立ちを強引に押し留めたような呟きをボクは発した。

 

 が、その刹那、父様の無骨な手がボクの腕を掴んで強引に引っ張り込んできた。

 

「黙ってついてこい!! いつまでも血税を使った自堕落を許すつもりはないぞ!!」

 

 その無遠慮な力とやかましい怒声に感情を刺激され、ボクは久方ぶりにカチンときた。

 

 長年鍛えた腕の【筋(きん)】の馬力にものを言わせ、父様の手を振りほどく。父の無神経な厳つい顔を真っ直ぐキッと睨めつけ、ボクは溜め込んだ体内の毒素をぶちまけるように言いつのった。

 

「うるさいな! 分かったよ! 出て行くよ! とっとと出てけばいいんだろ! 今日限りで出て行ってやるよ!! だからもうボクに構うな!! あんた一人で帰れ!!」

 

「シンスイ!!」

 

「やかましい!! とっとと消えろよ!! もう目障りなんだよ!! 耳障りなんだよ!! ボクは昔からあんたが大嫌いだったんだ!! 同じ空気を吸うのだって嫌なほどだよ!! あんただって、自分の思い通りに動かない娘なんか要らないんだろ!? だったらとっとと勘当にでもなんでもしたら!? その方がボクも清々するよっ!!」

 

 バシッ。

 

 平たい衝撃が頬を殴った。

 

 父様に横っ面を叩かれたのだ。

 

 全然痛くなかった。

 

 父様の顔を見上げる。そこにはいつものような、厳格な官僚然とした表情はなかった。まるで、何か恐ろしいものを見るような、そんな顔でボクを見つめていた。

 

 どうしてそんならしくない顔をしているのか。

 

 そんな風に問う余裕は、今のボクにはなかった。

 

「……どけよっ!!」

 

 黒々とした衝動のまま、ボクは父様を押し退けて部屋を飛び出した。

 

 まだ寝衣だし、髪も下ろしっぱなしだ。だけど、そんなの構ってられなかった。

 

 ちくしょう! ちくしょうっ!

 

 悔しくて恥ずかしい。

 

 あんな子供の癇癪みたいな返し方しかできない自分が情けない。

 

「くそっ!!」

 

 目的地も定まっていないまま、ボクはただひたすらに走り続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 いったい、どれだけボクは走ったのだろう。

 

 気がつくと夕方になっており、ボクは森の一角に迷い込んでいた。

 

 薄闇が溜まったような場所だった。乱立する広葉樹の梢が重なり合って天蓋のようになっていて、その隙間から夕空が覗ける。

 

 ここはどこだろう。知らない場所だった。

 

 いや、この森がどこにあるのかは覚えている。帝都の東に広がっている森林地帯だ。そこへ入ったところまでは記憶にあるのだが、そこからは闇雲に走ったので、道のりは全然覚えていない。

 

 どれくらい走った末に、ここで立ち止まったのだろう?

 

 息はあまり上がっていなかった。武法による呼吸法の鍛錬によって、ボクは普通の人よりかなり疲れにくくなっている。呼吸の荒さは手がかりにならない。

 

 ここは分からない、知らない場所だ。

 

 どうやったら戻れるのだろう?

 

 誰も教えてはくれない。それを知るには、この森の中を進むしかない。だがそれは、さらなる迷いと隣りあわせの行動だ。

 

「……もう、戻らなくても、いいか」

 

 ボクの全身から力が抜けた。まるで何かから解放されたような清々しさを覚えながら、バタンと大の字に寝転がった。

 

 もう、何もかもがどうでも良くなってしまった。

 

 武法ができなくなった。かといって【黄龍賽(こうりゅうさい)】を諦めるでもなく、父様について行くでもなく、中途半端な立ち位置を見苦しくたゆたっている。

 

 もう、全てを捨てて、一からやり直したかった。

 

 これは「諦め」だ。

 

 諦めると、人はこんなにも心地良くなれるのだ。

 

 ああ、これ、前世でも味わったなぁ。

 

 前世の父さんは、わがままを言うボクをこっそり外出させたせいで、母さんと看護婦さんに怒られてたっけ。それ以来、ボクは外に出たいと言わなくなったし、思わなくもなった。

 

 諦めたのだ。

 

 それが叶わないと悟り、足掻くのをやめると、こんなにも楽だ。

 

 

 

 ……本当にそれでいいのか。

 

 

 

 心の内にいる、もう一人のボクが訴えかけてくる。

 

 だって、どうしようもないじゃないか。

 

 体が動かないんだ。

 

 技を習得してても、それを普通に使えないのでは、習得していないのと同じだ。

 

 ボクの体は、武法を捨ててしまったのだ。

 

「どうしようか……」

 

 だけど、武法を捨てたにせよ、このまま何もせずにというわけにはいかない。

 

 人間、黙っているだけでも腹が減るし、喉は渇く。何もしないままではいられないのだ。

 

 どうしたものかと考え始めた時、カサカサと草をかき分ける音が、木立の闇の奥から聞こえてきた。

 

 ボクは思わず身構える。獣だろうか、それとも人?

 

「ご機嫌よう——李星穂(リー・シンスイ)」

 

 後者だった。

 

 出てきたのは、上品な佇まいを保つ、麗人っぽい女の子だった。

 雪のような白髪を短めにしており、前髪の下には中性的だが上品に整った顔立ち。眼の色は血を固めたような真紅。

 

 その眼を見た瞬間、ボクの心臓が飛び跳ねた。

 

 血のような赤い眼。それは、ボクがここ最近強く妄想する……眼窩に血を溜めた亡者を連想させた。

 

 手が震える。足がかすかに笑う。呼吸が乱れる。

 

「あな、たは?」

 

 かろうじてそう聞けた自分のことを褒めてやりたい。

 

 だが、そう尋ねてから、ボクは遅れて気がついた。……彼女はボクを「李星穂(リー・シンスイ)」とはっきり呼んだのだ。つまり、あっちはボクの事を知っている。

 

 もしかして、帝都の争乱後にできたボクのファンだろうか? だとしたら、こんな情けないボクを見て幻滅したことだろう。

 

 しかし、口元に手を当て、妖しさを感じさせる笑声をクスクスこぼしている所を見ると、ボクのファンであるという仮説はすぐに吹っ飛んだ。

 

 極め付けは——左腰の鞘から稲妻のように引き抜かれた短剣。

 

「うわ!」

 

 赤眼の女は突風のように身を寄せ、抜剣と流れを合わせたなぎ払いを放ってきた。大きく後ろへ跳ね、どうにか当たらずに済んだ。

 

 凶刃を当て損ねた女は小さく舌打ちしてから、ニヤリと禍々しく口角を吊り上げた。

 

「反応速度は獣並みですわね。ですが、こうでなくては愉(たの)しくない」

 

「なんだ君は……何をするんだ!?」

 

 ようやく反論が口から出た。

 

 赤眼の女は立ち方を一度正してから、次のように名乗った。

 

「申し遅れましたわ。私(わたくし)の名は趙緋琳(ジャオ・フェイリン)」

 

 その名を聞いた瞬間、ボクの中の警戒心が一気にピークに達した。

 

 半身の立ち方をとりながら、

 

「君が……あの趙緋琳(ジャオ・フェイリン)か」

 

「あら? 私のことをご存知でしたの? ふふっ、ならば好都合ですわ」

 

 言うや、フェイリンは手元でくるくると短剣をもてあそぶ。

 

 雅に微笑んでこそいる。だが、ボクを真っ直ぐ見据えるその眼は、全く笑っていなかった。

 

「私は、今回帝都を襲った武装集団『琳泉郷(りんせんごう)』の指揮官。そして——貴女が殺した琳弓宝(リン・ゴンバオ)の義理の娘ですわ」

 

 ぞくっ。

 

 全身の毛が、針のように立ったような錯覚を覚える。

 

 ボクは一歩下がる。フェイリンは一歩縮める。

 

「私が、どうして脱獄なんてしたのか、分かりますかしら?」

 

 ボクは一歩下がる。フェイリンは一歩縮める。

 

「愛しのお義父様を殺めた仇を探しだし、この手で意趣返しをするためですわ」

 

 ボクは一歩下がる。フェイリンは一歩縮める。

 

「仇……すなわち、貴女を殺すためですわ」

 

 ボクは一歩下がる。フェイリンは一歩縮める。

 

「貴女がお義父様を殺した」

 

 ボクは一歩下がる。フェイリンは一歩縮める。

 

「貴女がお義父様を殺した」

 

 ボクは一歩下がる。フェイリンは一歩縮めてくる。

 

「貴女が…………お前が殺した!!」

 

 

 

 ——オマエガコロシタ!!

 

 

 

 妄想した血眼の亡者と、目の前の赤眼の女。

 

 それらの姿が、ぴったりと重なった。

 

「う…………うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 背筋に絡みついてくるような恐怖感に駆られ、ボクは泣きながら逃げ出した。

 



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原点回帰

 木々が不規則に立ち並ぶ森の中を、必死に、闇雲に進む。

 

 響く二つの足跡。

 

 一つはボクのものだ。

 

 そしてもう一つは、

 

「追いかけっこですのー? いいですわ、付き合って差し上げましょう。お前が恐怖に怯えながら逃げ惑う姿を眺めるのは愉しいですしねー」

 

 愉快そうに笑い、しかし赤い眼には濃い殺意を光らせながらボクを追いかけてくるフェイリン。

 

「ひぃっ!!」

 

 追手の顔を見るたびに、心臓を握り潰されそうな恐怖が襲い掛かる。

 

 あの赤い眼だ。あの赤い眼が怖い。血を固めたようなあの赤い眼がボクを睨んでいる所を見るたびに、どうしようもないくらい怖くなる。

 

 それでも何度も見ようとしてしまうのは、引き離せたんじゃないか、という希望的観測ゆえだった。

 

 しかし、フェイリンとの差はまったく広がらない。

 

 みっともなく逃げ続けるボク。

 

「ほら、反撃に出てみてはいかが? お義父様を殴り殺したみたいに、私もその拳で葬ってごらんなさい。何故そうしませんの?」

 

 フェイリンは愉悦のにじんだ声でそう訊いてくる。

 

 こいつが【琳泉把(りんせんは)】を使えることは、すでに聞いている。あえてそれを使わないのは、ボクをいたぶるためだろう。

 

 それを考えたら、今すぐぶっ飛ばした方が良いのだろう。

 

 しかし、武法が使えない今のボクにそれは不可能だ。

 

 なので、ただただ逃げるしかない。

 

「分かってますわ。お前が反撃に出ることなく兎のようにみっともなく逃げ続けている理由——お前は、「怖い」のでしょう?」

 

「っ!」

 

 図星を適格に突かれた。

 

「お前が処女を捨てた(・・・・・・)のは、あの争乱の時なのでしょう? そして、その自責の念が頭から離れない。どれだけ殺す覚悟を決めたとしても、処女は処女。処女膜を失った者の気持ちが理解できるとは思えませんわ。だから殺してから、初めて己の罪深さに気づくのですわ」

 

「うるさい! 君に何が分かるんだ!?」

 

「分かりますわ。私も経験ありますもの」

 

 恐怖以外の理由で心音が跳ねた。

 

 その言葉の意味を深く追求したいという衝動に駆られるが、今はそんな余裕などなかった。

 

 一刻も早く、この女から遠ざかりたい。それしか考えられなかった。

 

 まだまだ余力はある。まだ逃げ続けられる。

 

 だけど、フェイリンはその気になればいつでも【琳泉把】を使ってボクを殺せるだろう。つまり、生殺与奪権はあいつに握られているのと同義である。

 

 逃げ道がこれからも続くのか怪しかった。

 

 行く先に、夕方の光が見えた。

 

 木々が乱立して進みにくいこの森から出られると思い、ボクは足を速めた。

 

「しまった……!」

 

 だが、それは最悪の選択だった。

 

 光に中に入った瞬間目に入ったのは、断崖絶壁。もう先へは進めない。

 

 追い詰められた。文字通りの崖っぷち。

 

 おそるおそる振り返る。

 

 暗い笑みを浮かべたフェイリンがいた。赤眼をギラギラ光らせながら、じわり、じわりと距離を詰めてくる。

 

「ひっ!」

 

 思わずすくみあがる。

 

 あの赤い眼が怖かった。怖くてたまらない。

 

 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。

 

 脳裏で、亡者たちの怨念がざわめく。

 

 それは耳を塞いでも延々と響き続ける、拷問に等しいものだった。

 

 フェイリンは嘲笑する。

 

「この大嫌いな醜い眼でも、お前を怯えさせることができたのなら、あってよかったと思うべかしら」

 

「何を……」

 

「お前も聞いたことがありませんかしら? この国において、女の赤い眼は「毒婦の象徴」。この煌国という国が興るよりはるか昔、赤い眼の美女が皇帝を籠絡し、裏から操り、勝手気ままを働いてその国を凋落へと導いた。すぐにその国は滅びましたが、その赤眼の美女はまた別の国でも同じ事をし、その国を崩壊させた。その後、その女は処刑されましたわ。……そんな「伝説の毒婦」の伝説になぞらえ、赤い眼の女は、皇族や貴族の間では疎んじられる対象となっているのです」

 

 まるで別の世界に没入しているかのような顔で、フェイリンは語り口を続ける。

 

「この赤い眼は、親の遺伝を無視して稀に生まれてくる。私はその稀な事例の一つでしたわ。おまけに産んだ母親が貴族なのだから尚更タチが悪い。父親にも母親にも無い赤眼を持つ私は「不貞の子」の烙印まで押されて、母もろとも勘当されて家を追われました。それでも母は私を恨まず、十二になるまで私を必死で育て、流行り病で命を落としましたわ。……その後、母の家と対立関係にあるという家柄の貴族が、身寄りの無い私を引き取ってくれました。最初は幸運が舞い降りたのだと思ったけれど……甘かったですわ」

 

 フェイリンは、心底汚らわしいとばかりに我が身を抱き、吐き捨てるように言った。

 

「……その貴族の当主は大の幼女趣味で、幼い女児をかどわかしては狼藉を働く最低の男でした。つまるところ、私の体が目当てだったのですわ。突然私を寝台に組み伏せ「家賃を払え」とニヤついた笑みを浮かべて服を引き裂き始めたのです。錯乱した私は手近な短剣を手に取って、そいつを刺し殺しました。その後屋敷から逃げ出し、しばらくしてから後悔と罪悪感で苦しみましたわ。そのまま何日も飲まず食わずでさまよい続け、もう限界と思ったその時に出会ったのですわ……お義父様と」

 

 途端、まるで恋する乙女のように恍惚とした笑みを浮かべ、とうとうと語った。

 

「全ての災厄を招いたこの眼をえぐり出してやろうとしたのを止めてくださったのが、お義父様だったのです。お義父様、言ってくださいました。「そんな行動に意味はない」と。そしてさらに私を引き取ってくれるとまで言ってくださいました……私、最初は警戒しましたわ。この男も、私によからぬ欲望を抱いているのではないのかと。けれどいくら口汚く罵っても、あの方は私に優しかった。「お前は我が輩によく似ている。だから放っておけん」と言い続けてくれました。おまけに、自分の持つ秘伝の武法を私などに教えてくれました。……私は、お義父様の優しさに救われました。あの方は私を娘のようにしか思っていなかったでしょうが、私はあの方を愛していた。あの方が望むならば、身も心も、命だって差し上げてもいい。本気でそう思っていましたわ」

 

 ふと、そこでフェイリンがまとう空気の質が変わった。

 

「そんなお義父様を……お義父様を…………お前はその拳で殺したんだっ!!」

 

 総身が震え上がった。

 

 体の隅々まで塗り潰しそうなほどの、濃く猛烈な憎しみ。

 

 それを発する今のフェイリンは、義理の父親の死に際と瓜二つだった。

 

「お前を殺してやるっ! だけどタダでは殺さない! 少しずついたぶって、早く殺してくださいと泣き喚いてもいたぶって、もはや抵抗する気力を失うほどに心が死ぬのを確認してから肉体も殺してやる! お義父様が受けた痛みの何億倍もの痛みを味わわせてから、心も体も殺してやるっ!!」

 

 体から絞り出すように発せられた、憎しみの怒号。

 

 この状況、あの時と全く同じだ。

 

 憎しみだけでボクを殺さんとしてくるゴンバオ。対し、何もできずに引き下がったボク。

 

 だけど今の状況で、あの時の異なる点が二つある。

 

 一つは、相手の憎しみに、確かな殺傷力が付与されている点。

 

 もう一つは、退いたら崖から落ちて死ぬという点。

 

 つまり、この状況を打破する手段はただ一つ。

 

 戦うしかない。

 

 だけど——手が出せない。

 

 拳を握っても、それを前に突き出すことができない。体がそれを拒否している。

 

 だけど……本当にそれでいいのか?

 

 確かにボクの体は、武法を恐れている。

 

 だけど心には、まだ確かに武法を愛する気持ちが残っている。

 

 さらに心はもう一つ、こうも思っているはずだ。

 

 武法への愛を貫いていた、以前の自分に戻りたいと。

 

 もし、この状況で戦わなかったら、肉体的にも、武法士としても、ボクは完全に死んでしまうだろう。

 

 ならば——戦え!

 

「シッ!!」

 

 鋭い気合とともに、フェイリンが風のごとく歩を進めてくる。

 

 【琳泉把】は使っていない。が、それでもかなり速い。

 

 右手の短剣を、まっすぐ突き出してきた。

 

 

 

 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。

 ——オマエガコロシタ。

 

 

 

 またも彼女に、亡者の怨念を幻視する。

 

 体が条件反射で震えをきたす。

 

 だが、唇を噛み、その痛みで強引に恐怖を誤魔化し、

 

「やかまっ————しぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」

 

 怒号を叫びながら、握り締めた左拳をまっすぐ振り放った。

 

 その左拳は短剣とすれ違い、フェイリンの顔面を重々しくとらえた。ボクシングで言うクロスカウンターと同じ要領だった。

 

「んぐぉ!?」

 

 骨同士の激突する音が、彼女のうめきと重なった。ボクの腕力とフェイリンの走行の勢いがぶつかり、その弾みでフェイリンの体が勢いよく弾かれた。

 

 もたついた足取りで退がりつつ、重心を安定させるフェイリン。その鼻からは、血が滴っていた。

 

 ボクは彼女を殴った自分の拳を見る。

 

 ——やれた。攻撃できた。

 

 ここ二ヶ月の中でずっと出せずにいた拳を、突き出すことができた。

 

 少しばかり、勇気が湧いてきた。

 

 大丈夫だ。ボクは戦える。

 

 戦えるんだ!

 

 そう、自分に言い聞かせる。

 

「……ふふふ、なんだ、手が出せるじゃありませんか。ですがこれで、私も本気を出さなければならなくなりました。【琳泉把】を使って、知覚する間も無く串刺しにしてやりますわ」

 

 鼻腔からの流血などまるで意に介さず、眼をギラつかせながら獰猛に笑うフェイリン。

 

 落ち着け! あいつの呼吸、微弱な動き、すべてに気を配れ! 【琳泉把】を少しでも使う素振りを見せたら、ボクも同じように【琳泉把】だ!

 

 大丈夫、今のボクならきっとやれる!

 

 ばくばくとうるさい心音から意識をそらし、全神経を読みに集中させる。

 

 ………………ここだ!

 

 ボクはフェイリンが【琳泉把】を発動させるのに合わせて、同じ技を使った。

 

 灰色一色の世界に舞い降りる。自分と、向かい合うフェイリンだけが色彩を持つ。

 

 二人疾駆する。近づく。……ゴンバオの時と違い、互いに速さの違いがない。つまりフェイリンが圧縮可能な拍子は、ボクと同じ「五拍子」。

 

 内から外へ水平に斬りかかってくるフェイリンの短剣。ボクはその短剣を持つ右手を受け止めて剣の進行を止め、そのまま彼女の腕を掴み取ろうとした。が、それを読んでいたのだろうフェイリンは、短剣を手前に引き寄せながら一歩退き、戻る足に合わせて再び刺突を見舞ってきた。喉を狙ったそれを、ボクは身を開いて紙一重で回避。

 

 ——世界が色彩を取り戻す。

 

 両者の足に、ほんのわずかの間だけの硬直が訪れる。ただし手は動く。

 フェイリンは突き出した右手の短剣の切っ先をこちらへ向け、首へ素早く近づけてきた。ボクもその攻撃は読んでいたので、【硬気功】をほどこして首を守り、切っ先が刺さるのを防ぐ。ボクは左手ですかさずフェイリンの右前腕部を捕まえて、短剣を振れなくする。

 

 そのまま、上半身を傾けて、二人仲良く横倒しとなった。

 

 ゴロゴロと転がりながらも、ボクは必死にマウントをとりにかかる。どうにか、ボクが覆いかぶさった状態になって止まった。

 

「くっ、この……!」

 

 ボクは両手でフェイリンの短剣を強引に奪おうとする。

 

 フェイリンは空いた左手でボクの脇腹をドスドス殴ってくるが、我慢し、思いっきりの力で短剣を奪い取った。それを使おうと一瞬思ったが、あいにくボクは短剣術には明るくない。なのでそれを後ろへ思いきり投げ、断崖絶壁の下に捨てた。

 

 フェイリンは柔道でいう巴投げの要領でボクを後ろへ蹴り転がした。ボクは転がる流れで立ち上がる。

 

「害虫並みにしぶといですわね、お前はっ!」

 

 またしても【琳泉把】を使うボクとフェイリン。

 

 灰色の世界で何度か手を交え、再び色彩ある世界に立ち戻った瞬間、怒涛の手技の応戦を繰り返す。

 

 しかし、手技の巧妙さに関しては、相手の方が上だった。一発顔面を打たれて一瞬ひるんだ隙を突く形でボクの両肩を掴み、足の捻りの力を用いて投げ飛ばした。

 

 どうにか断崖絶壁から落ちる前に体勢を整えられたが、次の瞬間、右側頭部、左脇腹、右大腿部に衝撃を受けた。視界に星が散る。

 

 ボクに一度に三撃与えたフェイリンが煙のように目の前に現れ、ガッと首根っこを掴んできた。

 

 その細腕に似つかわしくない怪力で、ボクを持ち上げた。首がぎりぎりと締まり呼吸が妨げられる。

 

 眼下のフェイリンを見下ろす。憎しみに燃える紅玉のような赤眼が、ボクを強くとらえていた。

 

「ふふふ、苦しそうですわね。……ですがお義父様が死に際に味わった苦しみはこんなものではありませんわ」

 

 経穴を思いきり殴られた。特に激痛を感じる場所だ。

 

「っ! あがああああああ!!」

 

 何度も何度も殴られる。

 

「くっふふふふふふふ!! 苦しんで死ね!! 穴という穴から液体垂れ流して死ね!! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 赤い眼をギラギラ光らせ、口角を泡立たせながら狂ったように呪詛を吐き続けるフェイリンは、病に冒された狂犬のようだった。

 

 幾度も襲いくる激痛と、頸部を圧迫される苦痛の二つにさいなまれながら、ボクはうっすら思った。

 

 ——ああ、これが呪いなのか。

 

 ボクが手にかけてきた亡者達の怨念。

 

 それらが今、フェイリンという形をとってボクを殺そうとしているのか。

 

 

 

 ……なんだこれ、意外と大したことがないな。 

 

 

 

 少し工夫すれば、乗り切れそうだ。

 

 彼女たちには、彼女たちの言い分があるのだろう。

 

 だけどボクも、守りたい何かがあって、彼らを殺したのだ。

 

 そもそも、悪と呼ばれる行いをしたのはあいつらだろう。

 

 それなのに、どうして報いなんか受けなきゃいけないんだ。完全に逆恨みじゃないか。

 

 ……そうだ。これは逆恨みなのだ。

 

 ボクはボクの正義を貫き通したのだ。ならば、それに胸を張れ。

 

 やられっぱなしで……いられるか!

 

 ボクはフェイリンの顎を蹴り上げた。

 

「おごっ!?」

 

 ひるんだ声と同時に、ボクの首を掴む力が弱まった。両手で強引に引っぺがして着地し、強烈な震脚に合わせた正拳突き【衝捶(しょうすい)】をたたき込んだ。

 

 今度はうめき声さえ上げず、ものすごい勢いで吹っ飛んだ。彼女の姿が一気に遠ざかり、森の奥へと吸い込まれていった。

 

 訪れる束の間の静寂。

 

 

 

 ボクの五体を満たすのは——懐かしい高揚感。

 

 

 

 相手へようやく有効打を与えられたことによるカタルシスではなかった。

 

 ——技を使うことそのものに、体が、心が、喜びを感じていた。

 

 懐かしい。この感覚。

 

 その感覚を引き金に、昔の記憶が蘇る。

 

 それは幼少期、用心棒兼武法教師として李(リー)家に招かれたレイフォン師匠に、【打雷把】を習い始めた頃のこと。

 

 最初は武法の基礎中の基礎である【易骨(えきこつ)】が上手く進まず、悩んでいた。だけど師匠の岩をも打ち砕く一撃を脳裏に浮かべながら一生懸命に修行し、ようやく体の感覚が変わって【易骨】が成ったことを自覚した瞬間、心身が喜ぶのを感じた。

 

 それからも同じような具合で技を身につけていき、そして同じような具合で快感を得た。

 

 それは、酒で酔ったり、賭け事で大勝ちしたりなどで得られる即物的快感とは根本的に質が異なる、尊く、得難く、かけがえの無い快感だった。

 

 しばらくして、さくさくと草木を踏み荒らす足音が森の奥から聞こえ、その足音の主であるフェイリンの姿が見えてきた。

 

「殺す……殺す……殺してやる…………!」

 

 【打雷把】の一撃をモロに受けたのだ。当然打たれた腹部を押さえながら、ところどころよろけながら歩いていた。だが、赤い双眸は殺意の光をなおも剣呑に放っていた。

 

 まだ戦いは続く。彼女はボクを帰してはくれないだろう。

 

 そんなフェイリンの呼吸に意識を集中させる。

 

 ある程度距離を近づけてから、彼女に合わせる形で【琳泉把】を発動。灰色の世界に没入する。

 

 接近する二人。

 

 だけど、そのまま打ち合うことはしない。【琳泉把】の使い方では、彼女に確実に一日の長がある。同じ土俵では戦ってやらない。

 

 なので、ボクは接近した瞬間、彼女の片腕を掴んだ。【琳泉把】の効果が切れるまでそうして捕まえ、「断絶」が解けた瞬間に強烈な一撃を見舞うためだ。

 

 そんなボクの魂胆に気付いたフェイリンは、懸命に突いたり蹴ったりを仕掛けてくる。だがボクはそれらを難なく抑える。

 

 【琳泉把】が解け、「断絶」で足が動かなくなる。

 

 「断絶」が解けた次の瞬間、ボクは間伐入れずに【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】を放った。

 

 風に吹かれた病葉同然に跳ね飛ぶフェイリン。

 

 そして、また思い出す。昔の修行の記憶を。

 

 いよいよたまらなくなり、ボクは戦闘中にもかかわらず【拳套(けんとう)】をその場で演じた。ボクが長年にわたって育ててきた、努力の結晶を。

 

 技を使うたびに、その技を覚えるまでの軌跡を思い出し、快感を思い出す。

 

 それはまるで、武技の一つ一つの尊さを、心身が再確認しているかのようだった。

 

 ……楽しい。

 

 そうだ。楽しいんだ。

 

 ぼくの心身は、武法士としてのボクの原点を思い出しつつあった。

 

 ——楽しいから、面白いから、武を学ぶのだ。

 

 それこそが、ボクが武法を始めたきっかけだった。

 

 確かに、武法は戦闘や殺戮のために研究、開発されていったものだ。ゆえに、殺し合いという土俵から目を背けることはできない。

 

 だけど、それだけじゃない。

 

 人を殺すこと以上に尊いものがあることを、ボクは知っていたではないか。

 

 人を殺す苦しみよりも、武法を学ぶことの方がはるかに尊いことを、ボクは知っていたではないか。

 

 それなのに、ボクは……

 

 大きく息を吸い込む。

 

「ばっっっっっっっっっかやろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 そして、今までの自分に対する罵倒を、思っくそ叫んだ。

 

 なんという視野狭窄! 

 なんという盲目! 

 なんという間抜けさ!

 

 小事にばっかりとらわれて、大事に目が全然行ってなかった!

 

 今までの自分の愚かさに、もうバカと言うほかなかった。

 

 

 

 

 

 ——もう、大丈夫だ。

 

 

 

 

 

 ボクはもう、これからどんなことがあっても、この気持ちを忘れはしないだろう。

 

 再び、フェイリンが戻ってくる。やはりまだ動けるか。さっき【移山頂肘】を打った時の手ごたえがなかったから、きっと後ろへ飛ぶなりして衝撃を逃したんだろう。

 

 殺意で炯々と輝き続ける赤い眼。

 

 ……もう、亡者の姿を連想することはなかった。

 

 ボクは大きく息を吸い込むと、半身の立ち方を取り、構えた。

 

「終わりにしよう——趙緋琳(ジャオ・フェイリン)」

 

 決着をつけるために。



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趙緋琳(ジャオ・フェイリン)

 ——趙緋琳(ジャオ・フェイリン)は驚愕していた。

 

 今、命のやり取りをしている相手は、李星穂(リー・シンスイ)。父を惨たらしく殺した、生涯憎み続けるべき仇。

 

 この女は今まで、まるで逃げる事しか能のない兎同然の体たらくを見せていた。図々しくも、父を殺したことに対する強い自責の念を抱き、それにとらわれ、動きが素人のように鈍っていた。まるで五体が武法の動きを拒否しているようだった。

 

 今更罪悪感を抱いたところで許すつもりはさらさら無いが、この状況はフェイリンにとって都合が良かった。楽だからだ。この女を殺すのは難しいと踏んで襲い掛かったが、これは嬉しい誤算だ。

 

 この恐怖に歪んだ顔をさらに歪ませ、【点穴術(てんけつじゅつ)】で動きを麻痺させ、指を一本ずつ短剣で切り落としていき、早く殺してくださいと泣きながら懇願しても聞く耳を持たず、腹をかっさばいて生き肝をもてあそび、心が死にきったところで肉体も殺す。そして野ざらしにして獣の餌にする。

 

 そうしたとしても、父を奪われたフェイリンの恨みは消えないだろう。だが、晴れやかな気分にはなる。

 

 晴れやかな気分になるために、フェイリンはこの女をいたぶり続ける。

 

 

 

 ——そのはずだった。

 

 

 

 だが、しばらくすると、恐怖しか浮かんでいなかったシンスイの顔に、希望の明るさが浮かんできていた。

 

 まるで長い悪夢から解放されたように、晴れやかな顔になっていた。

 

 変わったのは顔や雰囲気だけではない。

 

 動きも各段に良くなった。

 

 技にキレと重さが戻った。

 

 最初はフェイリンの優勢だったその戦いは、いつのまにかシンスイが押し返しつつあった。

 

 ——フェイリンは驚愕していた。

 

 そして、困惑していた。

 

 なんだこれは。何故急に動きが良くなった? 何故自分が押されている?

 

 何故、あの女は心を取り戻した?

 

 ……父を殺した事への罪悪感が晴れたから。

 

 それを確信した瞬間、フェイリンの頭が沸騰したように熱くなった。

 

 ふざけるな。そんなことは許さない。お前はお義父様への罪悪感を抱いたまま私(わたくし)に切り刻まれなければならないのだ。罪悪感を忘れるなんて、神が許しても私が絶対に許可しない。

 

「お義父様にしたことを忘れるなっ!! 李星穂(リー・シンスイ)っ!!」

 

 怒声を発した次の瞬間、フェイリンは【琳泉把(りんせんは)】を発動。シンスイも同時に【琳泉把】を発動させた事によって、二人一緒に灰色の世界へ転移した。

 

 突いて受けられ、反撃をかわし、さらに次の反撃にまともに当たり、足が大きく後方へ滑る。

 

 灰色の世界に色彩が戻る。

 

 シンスイが叫び返した。

 

「忘れてない! だけど、それでもボクにはボクの正義があったんだ!」

 

 フェイリンは鼻を鳴らして嘲笑し、

 

「はっ? 正義って何ですの? お義父様を惨たらしく殺した畜生の分際で、正義を傘に着るとは見苦しいですわよ!!」

 

「違う! あの時キミの親父さんを手にかけなかったら、この国の多くの人が絶望していた! ボクはそれを防ぐために戦ったんだ!」

 

「一人の犠牲を使って、大勢の人を助けたと? ああそれは大層素晴らしく尊いですこと! お前、あの無能な皇族よりよほど政治の才がありますわ!」

 

「何と言われようが、ボクは琳弓宝(リン・ゴンバオ)を手にかけたことを残念には思っても、後悔は絶対しない!! キミが身勝手な考え方を押し通そうとするように、ボクもボクの正義に胸を張って生きるっ!!」

 

「その口でお義父様の名を吐かすんじゃねぇよ!! この売女(ばいた)がっ!!!」

 

 フェイリンはこれまで以上の憤怒のおもむくまま、撃ち放たれた矢のごとく走り出した。

 

 シンスイの呼吸を感じ取りつつ進み、互いの間合いが重なった瞬間、【琳泉把】を同時に発——

 

「もぱっ——」

 

 突如やってきた布切れが顔面を覆い、さらに吸気によって口元に吸い寄せられて呼吸が妨げられた。【琳泉把】の発動、ならず。

 

 布を透かしてうっすらシンスイを見ると、身にまとっている寝衣の末端が破かれていた。

 

 その切れ端でこちらの呼吸法を妨げる策と気づいた時には、もう遅かった。

 

 シンスイの姿が消えたと思った瞬間には、五発分の重々しい衝撃が全身を覆っていた。【琳泉把】による、一拍子の中に凝縮した五発の勁撃。

 

 自分の得意とする武法で出し抜かれた事への悔しさを覚えながら、フェイリンは勁撃の勢いに踊らされるまま宙を舞った。

 

 浮遊感を全身で味わいながら、フェイリンは二転三転する風景を見るともなく見る。

 

 浮遊の軌道が、上昇から自由落下へと変化。自分が落ちる位置は——断崖絶壁の奥。

 

 ああ、私、死ぬんだわ。

 

 意外にすんなりと、己の死を受け入れられた。

 

 断崖絶壁の奥へ真っ逆さまになると思った瞬間、腕を強く掴まれた。

 

 落下は掴んできた手によって阻止され、フェイリンは宙吊りとなった。

 

 ここにいる人間は、自分ともう一人だけ。

 

「……な、何のつもりですの?」

 

 シンスイだった。

 

「あの世に高飛びしようったってそうはいかない。キミには然るべき場所で正当な裁きを受けてもらう。罪を償って、真っ当に生き直せ。逃げる事は許さない」

 

 何を言っているのか、一瞬、分かりかねた。

 

 正当な裁き? 

 

 真っ当に生き直せ?

 

 ……馬鹿かこいつは。

 

「ぷっ……くくくくく…………あっっはははははははははははははははは!!!」

 

「な、何が可笑しい?」

 

「そりゃ笑いもしますわよ!! 罪を償って生き直せ? お前、どこの楽園の倫理観でモノを言っているんですの? 本気でおっしゃっているのならおめでたいですわね!! 私には、生き直すどころか、償う機会さえ与えられませんわ!! 私は賊軍の領袖(りょうしゅう)!! 朝廷にとっては存在しているだけで邪魔な存在ですわよ!? そんな輩に、朝廷が人情味溢れる裁きを与えてくれると思いまして!? 拷問で残党の情報を搾り尽くされてボロボロにされて、果てに見せしめに処刑される光景が容易に想像できますわよっ!!」

 

 前半は嘲笑混じりで、後半は怒声混じりで言い募った。

 

 自分が何をしでかしたのか、当事者であるこの女ならば知っているはずだ。

 

 知った上で、さっきのような甘ったるい考えを抱いている。

 

 馬鹿すぎて本当に可笑しかった。

 

 そして——非常に腹が立った。

 

 そんな甘い幻想のまま、他人の生殺与奪権を平然と握ろうとする傲慢な精神が腹立たしい。

 

 自分たちの都合で、こちらの人生を意のままに操ろうと考える思想に吐き気がする。

 

 幼い自分を毒牙にかけようとした、あの貴族の男を酷く思い出させる。

 

「私の人生と命は……お義父様と、そして私だけのモノです!! お義父様亡き今、私の末路は私自身の意思で決めるっ!! 私を散々弄んできたこの世界に…………もう二度と決定を委ねてたまるものですかっ!!!」

 

 フェイリンは掴まれている腕に捻りを加えた。腕はシンスイの掌の中でずるりと回転し、その勢いで拘束を振り解いた。

 

 絶望的な表情でこちらを見下ろすシンスイ。

 

 それが見れただけでも、良しとする。あの偽善者の心に、かすり傷くらいはつけることができただろうから。

 

 普段ならば身の毛がよだつであろう浮遊感も、今では心地良かった。

 

「お義父様……お一人では逝かせません…………私達は、どこまでも一緒ですわ……」

 

 ——それが、趙緋琳(ジャオ・フェイリン)という女の最期の言葉だった。



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開戦

 フェイリンが断崖絶壁から落下した後、ボクはその事をすぐさま宮廷に報告しに行った。

 

 宮廷側はうなずくと、酷く残念そうな反応を見せた。『琳泉郷』の主犯格に逃げられたのが残念なのだろう。これで、重要な手がかりがあの世へ消えてしまった。

 

 だが一方で、これで【琳泉把(りんせんは)】の真伝を知る人物がまた減り、再び反乱に悪用されるリスクは少なくなったと言える。今や【琳泉把】の真伝を知るのは、この世でボク一人ということになった。

 

 さらにボクは次の日、ライライやミーフォンに会いに行った。

 

 恐怖が消え、心が蘇った旨を伝えた。

 

 ライライは目に少し涙を溜めて微笑み、ミーフォンは大泣きしながら抱きついてきた。

 

 そんな二人の反応を見て、ずいぶんと心配をかけてしまっていたのだと実感した。

 

 だけど、そんなボクのことを諦め、待ち続けていてくれた二人に、強い感謝の念を抱いた。

 

 しかし、喜んでばかりもいられない。

 

 なぜなら、延期された【黄龍賽(こうりゅうさい)】決勝戦まで、残り一ヶ月を切っていたのだ。

 

 おまけにボクは、二ヶ月間の武法のブランクがある。それを残りの一ヶ月で取り戻さなければならない。

 

 早速、ボクは修行を開始した。

 

 やはりというべきか、練習をサボってきた影響で、勁撃の体術を行う上で数ヶ所ほど硬くなっている部分があった。そういえばフェイリンは、【打雷把(だらいは)】の一撃を二度くらってもなお戦えた。きっと、威力が落ちていたんだと思う。

 

 まずは全身の凝り固まった部位をほぐし、勁撃の体術を滑らかに行えるようにしなければならなかった。

 

 それからは、対人訓練だ。

 

 ぶっちゃけ、師匠が亡くなってからは、ずっと一人稽古中心だったため、これは以前も今も変わらなかったりする。

 

 だが、相手はあのスイルンだ。打てる手は出来るだけ打っておきたい。

 

 そういうわけで、ライライやミーフォンに協力をあおいだ。

 

 ミーフォン経由で、シャオメイにも協力を求められた。

 

 ライライ経由で、トゥーフェイと、皇……センランにも協力を求められた。

 

 なんと、五人も集まってくれた。まさしくご馳走攻めであった。

 

 それからというもの、ボクの猛特訓が始まった。目標は、ブランクの解消、および多才な戦法に順応できる能力の向上。

 

 前者の練習は早朝と夜に、後者の練習は昼間に行った。

 

 前者はいい感じに進んだが、後者がかなり大変だった。なぜなら、強敵五人と同時に対人練習をするからだ。いわば五対一。かなり手こずった。

 

 だけど、あきらめずに、少しでも技や戦いが向上するように努力した。

 

 思えば、あまり休んでいなかったかもしれない。

 

 でも、不思議と苦痛はなかった。

 

 そんな風に、残りの一ヶ月を費やしていった。

 

 やがて……運命の時が訪れた。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

「さぁっ!! とうとうこの時がやってまいりました!! 長かった【黄龍賽】も、いよいよ今日で最後となります!!」

 

 特殊な発声法で増幅された司会役の声が、【尚武冠(しょうぶかん)】の闘技場と、それを囲うすり鉢状の観客席に高らかに轟いた。

 

 会場全体が、花火のように沸き立った。

 

「思わぬ事態が起きてしまったために、この日は三ヶ月も伸びてしまいましたが、その時間もすでに過去のもの! 今、ようやく訪れたこの瞬間を、皆で喜ぼうではありませんか!!」

 

 さらに会場が沸き立つ。

 

「では、始めましょう……【黄龍賽】本戦、決勝戦を!!」

 

 どぉっ!! と歓声が爆発した。

 

「思えば、今年の【黄龍賽】は強豪ぞろいでした!! 特に、今年も楽々優勝かと思われた【天下無踪(てんかむそう)】姫兎飛(ジー・トゥーフェイ)選手が敗れた光景には、誰もが目を奪われたことでしょう!! そんな凄まじい今年の【黄龍賽】の頂点を争うのは……このお二人っっ!!」

 

 闘技場の真ん中に立つのは、ボクと、劉随冷(リウ・スイルン)。

 

 その二人に向かって、割れんばかりの大喝采。

 

「大丈夫?」

 

 不意に、スイルンが訪ねてきた。

 

「どういう意味?」

 

「二つの意味がある。一つは帝都での争乱時に負った怪我の心配。もう一つは、心の心配。あなたの心に恐怖が宿ったと、あなたの父君から聞いたから」

 

「……喜んでいたんだろ、あのおっさん」

 

「是(ぜ)でもあり、否(いな)でもある。確かにあなたが武法から離れるかもしれない状況に喜んでこそいたが、同時に心配もしている様子だった」

 

 ボクは耳を疑った。

 

 父様が、心配していただって?

 

「冗談だろう?」

 

「わたしから見たら、という言葉付き。信じる信じないはあなたの自由だ」

 

 スイルンはおもむろに、抱拳礼を作った。左拳を右手で包む、真剣勝負の意思を表す形。

 

「けれどわたしは、今あなたがこうやって目の前に立っている事実を、とても好ましく思っている。わたしは、【雷帝】の弟子であるあなたを公衆の面前で倒し、【道王山(どうおうさん)】の力を示す」

 

 ボクもまた、同じような抱拳礼。

 

「ボクだって、負けるつもりはない。せっかく思い出した武法への想いを、二度と忘れないために」

 

 ——これが、最後の戦いだ。

 

 勝利で幕を降す以外の結果はあり得ない。

 

 この一戦で、ボクの中にある全てを出し切る。

 

「では、決勝戦————————開始ッ!!!」

 

 最後の戦いの始まりを告げる銅鑼が、鳴り響いた。

 



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決勝戦〈上〉

 かくして始まった決勝戦。

 

 相手は【太上老君(たいじょうろうくん)】。【道王山(どうおうさん)】という大流派の中で最高位の力を誇る極め付けの人物。

 

 それでも、李星穂(リー・シンスイ)は、迷わず真正面から突っ込んだ。

 

 劉随冷(リウ・スイルン)の使う【太極把(たいきょくは)】は、受け身に特化した武法。いかなる強大な「陽」も、術理の力のみで「陰」に帰し、無力化する。超攻撃型の【打雷把(だらいは)】とはまさに対極の技。

 

 「最強の矛」と「最硬の盾」の衝突。それがこの決勝戦の本質であった。

 

 だが、矛盾はあり得ない。勝者と敗者に分かれるのが必然。

 

 自らが勝者となるべく、二人は力を尽くす。

 

 大地を揺るがす震脚を伴ったシンスイの正拳。基本だが必倒の威力を誇る【衝捶(しょうすい)】である。

 

 だがスイルンには、卓越した分析力、計算力から少し未来の攻撃軌道を観る【看穿勁(かんせんけい)】がある。なのでシンスイのその一撃を躱すことは容易かった。少し横へズレただけで、剛槍のごとき突きは空気を穿つ。

 

 しかしながら、その【看穿勁】の能力を、シンスイもまた織り込み済みだった。だからこそ、息つく暇もなく攻撃を連打させた。

 

 【移山頂肘(いざんちょうちゅう)】、【拗歩旋捶(ようほせんすい)】、【碾足衝捶(てんそくしょうすい)】、【迅雷不及掩耳(じんらいふきゅうえんじ)】……慣れ親しんだ技を矢継ぎ早に繰り出す。ここ一ヶ月の特訓の成果もあって、それらの技がすんなりと体から出た。

 

 スイルンの未来視をもってすれば、いくら素早く連打しようとも、所詮は予定調和。回避は造作もない。

 

 シンスイもそれを踏まえて連打していた。

 

 なぜなら、この連打の目的は、攻撃ではないからだ。

 

「っ」

 

 スイルンが、その無表情な顔をピクリと震わせる。

 

 その背後には、壁。

 

 壁が背にあれば、逃げる場所は左右に限定される。

 

 さらにシンスイは両腕を開いたまま、渾身の体当たり【硬貼(こうてん)】を仕掛けた。この技は肩だけでなく、胸や背中でも打てる。仮に横へ逃れても、開いた両手で掴んでやるつもりだった。

 

「残念。今一歩」

 

 だが、【硬貼】が当たる直前に、スイルンの姿が消えた。城砦さえ揺るがす体当たりが壁を打つ。壁面に小さくヒビが入った。

 

 いや、消えたのではない。

 スイルンは、シンスイを飛び越えて背後に着地したのだ。

 

 だが、これも想定の範囲内。シンスイは一切まごつくことなく次の行動に移った。素早い震脚で一歩退くのに合わせて【移山頂肘】。

 

 その肘打ちにスルリ、とスイルンの手が絡みつき、螺旋を描く。瞬間、肘一点に集中していた勁の指向性が紐のようにほどけ、霧散した。受け流されたのだ。

 

 そのままシンスイの懐へ潜り込み、蝶の羽のようにつがった両掌で打とうとしてきた。両掌という大きな面で打ち込まれれば、その衝撃は体内へ浸透する。

 

 危険と判断したシンスイは、両掌が直撃する寸前を狙って一気に腰と足底をひねった。

 その強引なひねりによってシンスイの重心が崩れ、体が傾いた。だが、両掌の衝突は間一髪避けることはできた。

 

 倒れる前に手で受け身を取って、空中で転がるように回ってから立ち上がる。

 

「やっぱり、そう簡単にはいかないか」

 

 シンスイは苦笑混じりに呟いた。

 

 やはりこの相手に小細工は通じにくい。

 

 それでも、まだいくつか手はある。

 

 互いの間合いが再びぶつかった途端、シンスイは拳ではなく、手を伸ばした。相手に掴みかかるためだ。

 

 しかし、どれもスイルンからは観えているため、放った手のことごとくが空気を掴まされる。

 

 だがシンスイも、闇雲に手を伸ばしているわけではなかった。

 

 右手を避けるために、スイルンはシンスイから見て右へ体の位置をズラす。

 シンスイは、今度はその右手で彼女の髪を掴もうとする。それも後ろへ下がって避けられる。

 さらにそんなスイルンの頭部に左手を伸ばした。スイルンは頭の位置を下げて回避。

 

 そこへ、シンスイは右手を素早く出しスイルンの左腕を掴んだ。

 

 ——何度も手を伸ばすことで自分の望んだ場所へと敵を誘導し、その瞬間に本気で掴みかかる。それがシンスイの作戦だった。

 

 さらに、相手に掴まれた状態では、いくら未来を読めたって効果が半減する。

 

 しかし。

 

「相手を掴んだということは、己も掴まれたということを意味する」

 

 スイルンが言いながら、全身を動かした。

 

 途端、全身の「力の流れ」を掌握された。背丈で勝るはずのシンスイの体が、幼子のような手によって紙のように操られる。

 

 そのまま、制圧されそうになる。

 

「逆もまたしかり、だよ!」

 

 だがシンスイは自分の動きを、スイルンの「力の流れ」になぞる形で動かした。

 

 両者の流れが同調し、やがてその主導権をシンスイが握った。

 

 そして、力の流れを思いっきり外側へ放り出した。スイルンの小さな体がそれに流された。

 

「っ!」

 

 スイルンが、珍しく驚いた顔を見せる。

 

 してやったり、という気分にさせられる。

 

 彼女が力の流れを支配して、シンスイを動けなくしようとするであろうことはすでに「織り込み済み」だ。

 

 力の流れを支配して相手を制圧する。それを実現するには、【筋(きん)】の優れた柔軟性が必要だ。

 

 なら、その柔の技法についていくには、自分もまた体を柔らかくすれば良い。

 

 シンスイがここ一ヶ月の間に特に力を入れた修行の一つが、その柔軟性の向上だった。相手の力に合わせて自分の体を動かす訓練も徹底的にやった。

 

 全ては、スイルンの柔法に対抗するため。

 

 無論、それがそのまま勝利に直結するわけではない。けれど、相手の持ち札を封じることには繋がる。それが、勝利への道となる。

 

 シンスイはスイルンを見据え、言った。

 

「それなりの対策は取ってきたってことさ」

 

「そう」

 

 そう返事しただけで、止まったままというスイルンの基本戦法は変わらない。

 

 ——それが【太極把】に流儀だからだ。

 

 スイルンは【道王山】の頂点、【太上老君】。

 

 立場上、【道王山】の教えを最も墨守しないといけない。

 

 だからこそ、この「攻めを含んだ守勢」は崩さない。

 

 シンスイが近寄り、震脚と肘を先んじて出してくる。【移山頂肘】。

 

 スイルンはシンスイの横へと足を運び、肘打ちを素通りする。そのまま、目の前にあるシンスイの背中へ掌底を打ち込もうとした。

 

 その掌底の直撃する寸前、シンスイは回りながら跳ねた。敵の位置がズレ、掌底が空を切る。

 

 シンスイの回転に従って片脚が円弧を描き、スイルンへと猛然と迫った。

 

 スイルンは顔を引いた。蹴り足が通り過ぎる——と思いきや、シンスイがもう片足を大地につけて強引に遠心力をねじ伏せて蹴り足を止めた。さらに軸足を跳ねさせてスイルンへ迫り、浮いた蹴り足でもう一度蹴りかかってきた。靴裏が鋭く直進する。

 

 スイルンは横へ動いて避ける。しかし次の瞬間、即座に踏み替えて振り放たれたシンスイの回し蹴りが、スイルンの二の腕をしたたかにとらえた。

 

「……っ」

 

 じんっ、と、衝撃が体の芯に伝播する。

 

 その変幻自在な蹴り技に、スイルンは二度目の驚愕を味わった。

 

 こちらの反応を利用された。

 

 確かに未来は「観えて」いた。だが自分がシンスイの足裏蹴りを避けるべく横へ動いた瞬間、まるでそれを待っていたかのように即座に回し蹴りが飛んできたのだ。スイルンが退く方向から飛んできたため、とっさにうまく動くことが出来ず、それを甘んじて受けることになった。

 

 ——【縫天脚(ほうてんきゃく)】。【打雷把】の緻密な足の操作技術を最大限に活かして放たれる「必ず当たる蹴り」。

 

 たたらを踏むスイルン。その隙を見逃さず、シンスイが身を寄せつつの【衝捶】へ繋げた。

 

 スイルンはやってきた拳の側面に掌をぶつけ、拳を真横に弾く。

 

 だが、拳を弾いたと思ったら、今度は肩を先に突っ込んできた。……その体当たり【硬貼】が持つ性質は【衝捶】と同じく、「自重を使った突撃」。つまり、拳を出している途中に払われても、肩口を使った【硬貼】へ繋げられる。

 

 当たる——そう悟ったスイルンは回避を諦め、足を緩めた。両手で体当たりを受け止め、吹っ飛んだ。

 

 馬鹿げた衝撃が体を突き抜ける。しかし、足をゆるめて流れに身を任せたため、それほど損傷にはなっていない。背中に【硬気功】をほどこし、壁の激突による衝撃から身を守った。

 

 シンスイが虎のような俊敏さでこちらに近づいてくる。こちらが倒れるまで手を休めない気だ。

 

 スイルンはすぐに体勢を立て直した。

 

 もうこれ以上、隙を見せてはならない。【看穿勁(かんせんけい)】による未来視がある以上、シンスイは「未来が見えてもどうしようもない状況」を集中的に狙ってくることだろうし、その状況へ自分を追い込もうとしてくるはずだ。それを阻止しつつ主導権を握り、勝ちを得る。

 

 シンスイは強烈な震脚を伴った勁撃を拳、肘、肩、背中と、あらゆる部位で連続させてくる。

 

 【看穿勁】の未来視にしたがって回避しつつ、反撃に出るスイルン。だがシンスイはその巧みな足さばきを利用して細かく体の位置を移動させ、ことごとくスイルンの反撃を回避。また連続勁撃を繰り返す。

 

 同じところをぐるぐる回るように、目まぐるしく、激しく立ち位置を入れ替える二人。何度も一定の箇所に震脚が繰り返され、闘技場の床の石材にヒビが入る。

 

 一瞬たりとも気の抜けないやり取りだった。先に気を抜いた方が瓦解する。そんな緻密な攻防。

 

 先に気を抜いたのは、シンスイだった。

 

「うわ……!?」

 

 震脚で砕け、転がった石片。それを踏んだ拍子に石片が床を滑ってしまい、重心が崩れた。

 

 スイルンの武法士としての本能が、そこを打てと五体を動かした。

 

 だが、右掌底に勁力を乗せる踏み出しが完了しようとしていたまさにその瞬間、スイルンの理性が電撃的な警鐘を鳴らした。

 

 ——シンスイは、底面の広大な神殿のごとく盤石な重心を持った武法士である。そんな彼女が、あんなちっぽけな石で足を滑らせるなんて考えにくい。

 

 罠だと気付いた時には、掌底で伸ばした右腕にシンスイの左手が掴みかかっていた。その後、シンスイはすぐに足の踏ん張りで滑りを止め、スイルンの懐深くへ歩を進め、その動きに右肘を付随させた。【移山頂肘】。

 

 スイルンは覚悟を決めた。飛び跳ねながら両膝を胸まで持ち上げ、やってきた肘をその又で受け止めた。両の太ももで受けた衝撃が背中まで波及するのを感じた瞬間、スイルンの軽い体が飛んだ。

 

 受け身を取って立つ。起きてすぐ、追いすがってきたシンスイの姿を視界に大きく捉える。

 

 蹴りが鋭く疾る。スイルンは未来視にしたがってソレを避けるが、すぐにまた次の未来軌道が脳裏に浮かび、それも躱す。また次が浮かび、それも躱す。

 

 水のごとく変幻自在に、蛇のごとく執拗に食らいつかんとしてくるシンスイの蹴り。巧妙極まる脚法【縫天脚】である。

 

 このままではジリ貧だとわかっているが、この蹴りはまるで蜘蛛の糸のように、しつこく、しつこく、しつこくスイルンを襲う。

 

 受け流そうともするが、この蹴りの動きは非常に巧妙で、受け流そうとするスイルンの手法すらも巧みにかいくぐって、新たな蹴りを打ち込んでくる。

 

 そして——いつかはさばききれずに当たる。

 

「ぐっ……」

 

 二の腕を蹴られた反動で流されるスイルン。その反動が働いている間にシンスイは距離を詰め、身を寄せながらの【移山頂肘】を仕掛けてくる。

 

 その未来は見えていた。しかし避けられない! 足もまだおぼつかない。手だけが唯一思い通りに動く。

 

 なので、一番威力の乗った肘先ではなく、その肘の上腕部に掌を滑らせた。

 

 途端、竜巻に巻き込まれたような圧力が全身を巻き込み、スイルンの体が高速でもんどりを打った。ものすごい速度で回る世界をしばらく眺めた後、地面に手を付き、体の回転力に任せて身を転がした。ものすごい勢いでシンスイとの距離が出来上がる。

 

 受け身を取りつつ、スイルンは考える。

 

 このままでは負ける。

 

 【太極把】が、自身の知る限り最高の武法であるとは思っているし、信じている。

 だが、シンスイはその特徴を知った上で、その対策をしてきている。

 

 どんな大国であれ、侮りや驕りは最悪の毒だ。その毒に冒され、取るに足らないと見下していた弱国に滅ぼされたという話は、歴史上、枚挙にいとまがない。

 

 ここで対策を講じないことは、怠慢である。

 

 ならばどうするか?

 

 「守勢からの絶対的攻勢」を主義とした【太極把】の考え方を、技術の根底が歪まない程度に変化させる。……つまり、相手からの攻撃は待たず、こちらから攻めていく。

 

 それは【太上老君】として褒められた行いでないことを、スイルンは自覚していた。しかし、主義を多少歪めなければ勝てぬ勝負もあるだろう。

 

 それに【太極把】の技術をもってすれば、攻撃力も高められることをスイルンは分かっていた。最硬の盾は、最強の鈍器にもなり得る。

 

 スイルンは気持ちを変化させた。——討つべきは、相手の攻撃ではない。相手そのものだ。

 

(……なんだ? スイルンの構え方が変わったぞ?)

 

 シンスイもまた、そんな敵の不可視の変化を敏感に感じ取っていた。

 

 スイルンが動き出した。その小柄な体が、滑るように懐深くへ入ってくる。

 

 シンスイは、そんなスイルンの入り身に反応出来なかった——否、反応することが許されなかった。スイルンには、自分へ迫る未来の攻撃軌道が見えるのだ。もし攻撃すれば受けられるどころか、自分に隙を作るキッカケになりかねない。

 

 水平に滑るような足さばきで体重を移し、その流れに掌の動きを同調させて放たれた掌打。シンスイは【打雷把】お得意に緻密な歩法を用いて、必要最小限の動きで回避した。そのまま動かず、スイルンの背中が目の前に流れてくるのを待ち、そこへ【衝捶】を入れようとした。

 

 だがその正拳突きは外れた。スイルンが軸足をしなやかに屈し、体を前のめりに倒すことで【衝捶】の真下をくぐったのだ。スイルンの小柄さを活かした避け方であった。

 

 次の瞬間、スイルンの体がまるで地面を弾んだ鞠にように急反発して跳ね上がり、回転しながら虚空に浮く。その回転力を乗せた蹴りを、シンスイは間一髪頭を引っ込めてかわした。

 

 しかし回転はなおも続き、今度は踵が断頭台の刃のように振り下ろされる。シンスイは今度は両腕を交差させ、二撃目をその又で受け止めた。骨が軋み、体が地面に押し込まれる。

 

 スイルンの今の蹴りは、技とは呼べぬ、名も無い動きだった。ただ、地面から垂直に伝わった反力を自身の回転力に変換し、その勢いをそのまま蹴りに利用しただけである。だがこれは柔法と螺旋を重んじる【太極把】だからこそできた離れ技であった。

 

 さらに、蹴りつけたシンスイの腕を足場代わりに使い、跳ねる。股下にシンスイの頭を置いた瞬間、勢いよく足を閉じて頭部を狙った。しかしシンスイは頭を前に傾けて回避。

 

 シンスイは背中を向けたまま、虚空を舞うスイルンめがけて勢いよく接近。後足による震脚で踏み出しながらの【移山頂肘】へとつなげた。肘がものすごい速度と圧力をもって迫る。

 

 しかし、その軌道はもちろんスイルンに筒抜けだった。やってきた肘の上に掌を置き、その肘先に込められた勁の赴くままに従った。途端、スイルンの体が水車のごとく回転し、その回転力をそのまま蹴りへと転化させた。蹴りという形で跳ね返ってきた己の力を、シンスイは避けきれずに胴体へ受けた。

 

「がはっ……!」

 

 大地に叩きつけられ、シンスイは思わずうめきを上げた。

 

 ここ最近、自身の威力を自身で受ける機会が多くなっていると思いつつも、痛みをこらえ、強引に体を起こす。しかし衝撃の余韻はまだ残留しており、ゲホゲホと咳き込んでよろける。

 

 スイルンは滑るように近寄り、掌底を当ててきた。小柄な体に込められた重さは微々たるもの。しかしそれが高速で打ち当たれば、大砲に匹敵する威力と化す。

 

 衝突。シンスイは吹っ飛んだ。よろけていたせいで防御が間に合わなかった。……いや、たとえ防御が可能でも、あの掌底が当たる未来は変わらなかっただろう。

 

 未来が見えること。

 これは防御だけでなく、攻撃にも役に立つ。

 

 いや、むしろスイルンは、この能力は攻撃の時にこそ真価を発揮する能力であると考えていた。

 

 相手の攻撃軌道があらかじめ分かっているのなら、その未来の軌道を避けて進んでいけばいい。そうすれば、自ずと相手の隙までたどり着く。

 

 スイルンが見せた「攻めの【太極把】」の攻撃能力は——正確性だけならば、すでに【打雷把】を凌駕していた。

 

 シンスイは足を踏ん張らせて勢いを殺す。

 

 前を見るが、スイルンの姿は無かった。

 

「がはっ!?」

 

 平たい衝撃がシンスイの背中に衝突。スイルンが回り込んで打った掌底だった。

 

 シンスイは負けじと、右回し蹴りをスイルンに放った。

 

 スイルンはやはり身をかがめてその蹴りの下を潜る。だがシンスイはスイルンの真上で蹴り足をピタリと停止させ、直角の軌道を作る形で真下へ踵を振り下ろした。

 

 しかしスイルンは横へ逃げることはせず、それどころかさらに加速。……「絶対当たる蹴り」が謳い文句の【縫天脚】は確かに当たった。しかし、かかと落としの太腿に当たったに過ぎないので、その威力は無いに等しかった。

 

 スイルンは、抱きつくようにシンスイへぶつかった。

 

「うわ!?」

 

 股の間に頭を当てる形でぶつかったので、その勢いでシンスイの体が持ち上がった。

 

 お尻からびたーん、と落下するが、すぐに立ち上がった。

 

 しかし次の瞬間、周囲から衝撃と痛みが訪れた。

 

 スイルンは、シンスイの周囲を優雅に回転しながら、回し蹴りを何度も何度も行っていた。水面でひるがえる水蓮を思わせるその美しくも激しい蹴りは【転纏擺蓮(てんてんはいれん)】という技法だ。

 

 スイルンの蹴りに合わせて、シンスイもまた苦痛の舞を踊らされる。

 

 隙を見たスイルンは踏み込み、掌底。

 

 シンスイはそれを間一髪、最小限の動きで避ける。すかさず、回し蹴りへとつなげる。

 

 しかし、やはりそれは見えていた。スイルンは予定調和を踏襲するかのようにゆるりと頭を下げ、蹴り足の下をくぐりながら、シンスイへとぶつかりにいった。

 

 直撃寸前、シンスイの姿が霞のように消えた。避けられた回し蹴りの勢いを利用し、スイルンの進行方向から身を逃したのだ。

 スイルンの横合いを取ったシンスイは、すかさず踵を振り下ろした。

 しかし、真上から垂直に走る「未来の軌道」を読み取っていたスイルンは、その軌道上から自身の体を外しつつ、一瞬後にやってきたシンスイの蹴りを柔らかく受け取った。

 

「しまっ——」

 

 蹴り足にかかった力を柔法で溶かし、なおかつシンスイは宙に浮いた状態。スイルンの裁量でいかようにもできる状態。

 

 スイルンは身を寄せる。胡蝶をかたどった両掌を先んじて、もたれかかるように接した。

 

「がはっ」

 

 痛いというより、気持ち悪い。両掌という大きな面での衝突は、シンスイの体内に勁力の波紋を駆け巡らせ、内部に損傷を与えた。浸透勁。

 

 シンスイの意識が遠のきかける。

 

 しかし、渾身の意志力で、意識をこの世につなぎとめる。

 

 下半身の安定を保ちつつ、スイルンから距離を取る。

 

 やはり強い。これまで戦ってきた相手の中では、ダントツの実力だ。

 

 でも負けられない。取り戻した「強さ」を無駄にしないために。

 

 シンスイは着地するが、浸透勁の余波はまだ響いており、下半身がよろけた。

 

 まずい。体の不調が続いている。

 

 しかも、相手は自分の未来の動きを読んで攻防を行う。

 

 今までシンスイが攻め続けられていたのは、スイルンが守勢に徹していたからだ。それは、自分の武法の流儀に則ったもの。だがその縛りから脱した今のスイルンは水を得た魚。これまでとは比べ物にならない精度で攻めてくる。

 

 相手は、こちらの未来の動きが分かる。つまり、二拍子も三拍子も先に動けるということ。あのインシェン以上だ。

 

 このままでは負ける。

 

 ならば、どうすればいい?

 

 決まっている。今までとやり方は変わらない。「見えていても、防げない攻撃」を出せば当たる。

 

 だが、積極攻勢を決め込んだ今のスイルンに、それを取るのは難しい。

 

 ならばどうする? 二度目の疑問。

 

 ……答えは、一つしかなかった。

 

 だが、あの技は禁じ手だ。

 

 しかし、もはや【打雷把】だけでは、勝つ見込みは薄過ぎる。

 

 勝利。

 保身。

 シンスイはこの二択を迫られていた。

 

 ——ならば、勝つ方を選ぶ。

 

 「あの時ああしていればよかった」と思いたくないから。

 

 腹を括った。

 

 間合いへ攻め入ってくるスイルン。その掌底が打ち込まれる寸前に使った——【琳泉把(りんせんは)】を。

 

 人が、建物が、鳥が、雲が、空が、世界が灰色に染まる。その時間の流れは、まるで雲の流れのように緩やかである。

 

 唯一、色彩と普通の時間の流れを持つシンスイは、ひどく緩慢にやってくるスイルンの掌底を一歩で避け、残りの四歩をスイルンへの打撃に費やした。

 

 五歩歩き切ったことで、この世界にいられる歩数を全て使い切り、世界が元の色彩と流れを取り戻した。

 

 途端、スイルンはまるで磁石に吸い寄せられたかのような速度で離れた。

 

 複数の拍子を「一拍子」に圧縮して扱うことで、相対的な最速を手にする武法【琳泉把】。一撃の威力は【打雷把】よりずっと低い。だが拍子の圧縮を使い、数発を「一発」として扱えば、その威力は重複されて大きくなる。

 

 ——対し、スイルンは内心で動揺していた。

 

 なぜ、あの少女が、帝都を荒らした賊徒と同じ技を使ったのだ。

 

 まさか、シンスイも奴らの仲間だったのか——そんな憶測が浮かぶが、すぐに振り払う。彼女は賊徒の首領を止めるために瀕死の重傷を負い、一時期だけだが心まで病んだのだ。そんな彼女が賊徒だとは考えにくい。

 

 ——だが、その他大勢の考えはその限りではなかった。

 

 救国の英雄たるシンスイが、帝都を恐怖と殺戮で覆い尽くした反徒と同じ【琳泉把】を使ったことで、会場は水を打ったように静まりかえっていた。

 

 しかし。

 

「なぁ、あれって【琳泉把】じゃねぇか……?」

 

 観客席にいた誰かが、そう一言。

 

 ……それはさながら、水面に落ちた一滴の雨粒だった。

 

「【琳泉把】って何?」「知らないのかよ。帝都を襲ったあの連中が使ってた武法だぜ」「聞いたことある。確か『獅子皇(ししおう)』が叩き潰して失伝させたっていう幻の武法でしょ?」「そうだったよな」

 

 ぽつり、ぽつり、ぽつりと、次々に雨粒が落ちてくる。静まりかえっていた水面に、波紋がいくつも生まれる。

 

「でもそれって噂だろ? 本当に【琳泉把】なのかよ」「本当だって。あの連中、自分たちを『琳泉郷(りんせんごう)』って名乗ってたんだぜ?」「ってことは、帝都での事件は、そいつらの復讐ってわけ?」「そうとしか考えられない」「でも、そいつらはもう死んだり捕まったりしたから、一件落着でしょ」「でもシンスイ様、今あの連中と同じ技使ったんじゃない?」

 

 雨足が強まった。波紋の数が数え切れないくらい増える。

 

「じゃあ何か? シンスイたんも『琳泉郷』の残党だってことか?」「嘘だろ? 俺たちのシンスイちゃんが、帝都をめちゃくちゃにした畜生共の仲間だったなんて……!」「俺は信じないぞ! 死にかけてまで国を守った彼女が、そんな……!」「馬鹿野郎、現実見ろよ。今あの女が使った技が事実を雄弁に物語ってんだろ」「嘘だ、そんな……」「何言ってんの。ならなんでシンスイ様は死にそうになってまで国を守ったのよ? 言ってみなさいよこのスカタン!」「良いぜこのスカタン、よく聞けや。全部、あのしたたかな娘っ子の自作自演だろ」「自分で騒ぎを起こして、自分でそれを食い止める。そうすればあら不思議、救国の英雄様の一丁上がりだ」「わざわざ死にかけてみせたのも、自作自演を真実っぽく見せるためだろうな」「意味分かんない。なんでそんな無意味なことするわけ?」「武法士として名声を手にするためだろ。都で武名を轟かせるのが、田舎の武法士の喜びらしいからな」「なんだよそれ、最悪じゃねぇか」「私の夫は、あの女の自己満足のために殺されたってこと……!?」「ハッ、さすがは【雷帝】の弟子、根性の意地汚さもしっかり受け継いでいるわけか」「最低」「信じてたのに」「裏切られた」「ひどい」「殺してやる」

 

 かまびすしく雨音が連なる。静かだった水面はもはや波打っていない部分がないほどに、波紋で埋め尽くされていた。

 

 いくつも寄り集まった無数の雨粒と波紋は——やがて濁流(だくりゅう)へと変わった。

 

『残党だ!! あの女も『琳泉郷』とグルだったんだ!!』

『殺せ!!』

『八つ裂きにしろ!!』

『俺たちを騙しやがって!! この女狐が!!』

『首をはねろ!!』

『殺した分だけ死ね!!』

『俺の子を殺した畜生め!!』

『私の夫を返してよ!!』

『今すぐ処刑しろ!! 処刑!!』

『腹かっ捌いて犬にハラワタ食わせろ!!』

『死ね!!』

『殺してやる!!』

『売女(ばいた)が!!』

 

 大地を揺さぶるほどの憎悪の波。

 

 シンスイは青ざめながら、その波を全身の骨でビリビリ味わっていた。

 

 甘く見ていた。

 

 まさか【琳泉把】を使っただけで、ここまで下衆の勘繰りを広げられ、いわれの無い非難を受けるとは思わなかった。少し物議をかもす程度だと甘くみていた。

 

 シンスイは知らなかった。大衆の心理というものを。

 

 衝動的な行動を後悔しかけていた、その時だった。

 

 

 

「静まりなさいっっっ!!!!」

 

 

 

 憎悪の波を貫くようにして、尖った一喝が響いた。

 

 スイルンだった。

 

「愚にもつかない憶測を並べるのはあなた方の勝手だ!! だがその憶測でこの一戦を汚すことは何人たりともわたしが許さない!! もしも邪魔をするのなら、我が【太極把】があなた方に牙を向けることになる!! それが怖くない者から、戯れ言をたれるがいいっ!!!」

 

 滅多に出さないであろう声量は、この会場どころか、会場の外へまで遠雷のごとく波及するほどだった。

 

 当然、それを近くで聞いたシンスイや観客は、まるで目の前に雷が落ちたような耳をつんざく音量に驚いていた。

 

 あっという間に静まりかえった会場。

 

 観客はおろか、シンスイさえポカンとしていた。

 

 スイルンはくるりとシンスイの方を向くと、まるで何事もなかったかのように言った。

 

「再開する。準備はいい?」

 

「あ、うん……」

 

 再び構える。

 

「その……ありがとう」

 

「気にしなくて良い。それよりも、その技は……」

 

「今は、聞かないでもらえるかな?」

 

 こくん、と頷くスイルン。

 

「いずれにせよ、わたしはあなたを信じる。経緯などは不明だが、あなたには何ら後ろ暗いものはないことは確信している」

 

「ありがとう」

 

 シンスイがもう一度感謝をすると、スイルンはもう一度頷き——鋭く飛び出してきた。



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決勝戦〈下〉

 

 来た。

 

 シンスイは緊張感を心に帯びさせる。

 

 今のスイルンは、あらゆる攻撃をかいくぐって確実に攻撃を当てに来る。それを実行する力がある。

 

 それを可能にしているのは、未来予測。

 

 ……ならば、その予測が追いつかないくらいの速さで動くか、もしくは予測できても避けきれないくらい攻撃を連打すれば良い。

 

 【琳泉把】ならば、それが可能。

 

 スイルンが間合いへ入った瞬間、シンスイは再び使った。【琳泉把】を。

 

 灰色の世界。緩慢になる時間の流れ。その中で唯一、色とまともな速度を持つ自分。

 

 スイルンの掌底を、斜め前へ一歩進むことで回避。それから一歩進めて正拳を叩き込む。

 

 だが、正拳が彼女の体に触れた途端——まるで油でも塗ってあるかのように拳が体の表面を滑り、明後日の方向へと逸れた。

 

 奇妙な現象に驚きながらも、シンスイはもう一拳打ち込んだ。だがまたしても、彼女の表面を滑ってしまい、衝撃は与えられなかった。

 

 三撃、四撃も、同じようにいなされる。

 

 その奇妙な現象への驚愕を覚えながら、シンスイは【琳泉把】の効果が切れるのを実感した。

 

 一瞬だが、動かなくなる下半身。

 だがその「一瞬」は武法の戦いにおいては致命的であるため、シンスイは守りへ移行した。

 

 スイルンの小さな体が砲弾のごとく駆け、肘打ちが迫る。シンスイはその肘の二の腕に己の片腕を差し入れることで、ぶつかってくるスイルンの力を利用し、ワザと吹っ飛ばされた。

 

 もんどりを打ちつつも、どうにか受け身を取り、立ち上がった瞬間に一気にスイルンへと駆け寄り、もう一度【琳泉把】。

 

 再び、「一拍子」の時間の中で五発叩き込む……が、またしても攻撃全てがスイルンの体を滑って無効となる。

 

 世界が元に戻る。

 

 スイルンが真っ直ぐ押し迫る——と思った瞬間にその姿が消え、

 

「がはっ!?」

 

 背中に重々しい衝撃がぶち当たった。回り込んで蹴られたのだ。

 

 前のめりに流されながらも、足元の安定を保ち、振り向く。苦し紛れの【衝捶】をしかけた。

 

 スイルンは、やってきた拳の側面に手を擦らせる。次の瞬間、その手の周囲に小さな竜巻のような力場が生まれ、シンスイの拳を外側へ弾いた。それによってガラ空きとなった懐へ滑り寄り、掌底を打ち込もうとしてくる。

 

 シンスイは膝を突き出す。スイルンの掌はそれを防ぐために使われたので、どうにか攻撃は受けずに済んだ。後方へ跳んで距離を取る。

 

「そういうことか……!」

 

 シンスイはようやく確信する。【琳泉把】による攻撃をすべて退けた、あの「滑り」の正体を。

 

 ——螺旋の勁力だ。

 

 全身のとぐろを巻くような螺旋状の勢いをまとい、その力で打点を逸らしていたのだ。

 

 「螺旋」は、最も伝達速度が速い力の形だ。ひねり始めた瞬間から、トコロテン式に力が端から端へ行き届く。【琳泉把】を使われる瞬間に身にまとえば、容易に螺旋の力場で自分を守れる。

 

 おまけにスイルンは、相手の数手先の未来が見える。その未来の攻撃を見た上で、それを避けられるように螺旋の力場を調整すれば、さっき見たように、滑るように受け流せる。

 

 流石は防御に特化した武法。

 

 これを攻略するには、どうすればいいか。

 

 決まっている。ひたすら攻めまくるのみ。それも【琳泉把】だけに頼るのではなく、ほかの技も利用する。

 

 スイルンが走る。

 シンスイも走る。

 

 両者の間合いがぶつかった瞬間に放たれた、スイルンの掌底。

 

 シンスイは蹴りで掌底を弾こうとする。だが踏み込む直前にその掌を引っ込められ唐突にもう片方の掌に交換し、踏み込みに合わせて打ち出された。その掌は容易くシンスイの防御をすり抜けて懐へ入り込み、胴体をしたたかに打った。

 

「ぐっ……!」

 

 撞木(しゅもく)を打つような衝撃。それでも歯を食いしばって敵を見続ける。

 

 スイルンがまたも迫る。ギリギリで重心の安定を取り戻したシンスイは、回転しながらしゃがみ、円弧の軌道で払い蹴りを足へ放った。スイルンはそれを跳ねてやり過ごす。

 

 この瞬間、シンスイは【琳泉把】を発動。——地から足が浮き上がったスイルンには、螺旋の力場はまとえない。五拍子を「一拍子」に圧縮した時間の中で、シンスイは五撃たたき込んだ。

 

 これには流石のスイルンも対処できなかった。鞠のように吹っ飛ぶスイルン。

 

 シンスイは再び希望を見出した。「みずから不利な状況に飛び込まなければ避けられない攻撃」を放つことで、「避けたくても避けられない状態」を作り出すことができる。

 

 それは、スイルンも承知していた。

 

 だからこそ、

 

(——「枷(かせ)」を外す必要があるかもしれない)

 

 そう考えた。

 

 スイルンは受け身を取って立ち上がると、自身の経穴を、特定の順番に突いていった。

 

 シンスイは、すぐに何かするつもりだと判断。止めようと走りだす。

 

 攻撃を繰り返してスイルンを止めようとするが、今の状態でもスイルンは【看穿勁】を使える。あっさり回避されて懐への侵入を許し、螺旋の勁で弾き飛ばされた。

 

 シンスイが吹っ飛んでいる間に、スイルンはさらに作業を進める。

 

 すぐに受け身を取って立ち上がり、もう一度攻め寄ってくるシンスイ。

 

 だが、彼女が間合いへ触れたその瞬間に——すべての作業が完了した。

 

 途端、脳裏に無数の「軌道」が網の目のように広がった。

 

 今からシンスイが放とうとしている攻撃の軌道だけではない。その次も、その次も、その次も……遠い未来の「軌道」さえも頭に入ってくる。

 

 それらの「軌道」はすべて赤色だが、到来が近いモノほど赤の濃度が高い。なので、軌道の中で色の濃いモノから順に避けていく。

 

 シンスイが放つ攻撃は、その避けた軌道をあやまたずに沿い、空振る。

 

 何度も何度も、打撃が空気を打つ。

 

 しばらくはまったく気にする表情を見せなかったシンスイも、やがて焦ったような、驚愕したような表情を顔に浮かべた。……スイルンの中に生まれた「変化」に気付いたのだ。

 

 ——【看穿勁】には、一定の性能以上を出せないように「枷」がかかっている。

 

 もしそれを外せば、思考速度、予測能力が常時の数十倍にまで跳ね上がり、遠い未来の「軌道」さえも計算し尽くせる。その予知を元に算段を立てれば、相手が人間である限りはまず確実に勝利できる。

 

 まさしく対人戦最強の能力と言えるが、その代償として、【看穿勁】を使用する時に多大な精神疲労を強いられる。当然だ。遠い未来の出来事さえも完璧に計算し尽くすほどの能力なのだ。負担が無いわけがない。まさに諸刃の剣。

 

 だが、この諸刃の剣に頼らなければ、この相手は超えられない。

 

 逆に言えば、諸刃の剣を使えば……超えられるということだ。

 

 スイルンは歩き出す。

 

 シンスイは、そんな彼女にどうすべきか分からず、立ち止まったまま構えている。

 

 二人の間合いが触れ合う。——瞬間、スイルンの脳裏におびただしい数の「軌道」が浮かび上がった。同時に、ピキンと凍るような頭痛。

 

 シンスイがいよいよたまらず【衝捶】を突き出すが、その「軌道」も脳裏に浮かんでいた。散歩するような気安い動きで回避。

 

 すかさずスイルンが掌打。

 

 シンスイが避け——

 

「もぷ!?」

 

 それは掌打に見せかけた掴みだった。シンスイの顔面が小さな掌に覆われる。

 

 引き剥がそうと考えた瞬間、シンスイの脇腹に衝撃。回し蹴りだった。

 

「このっ!」

 

 シンスイは一瞬怯みはしたものの、すかさず【衝捶】。

 

 しかし、そう来ることが手に取るように分かっていたスイルンは、まるで散歩でもするような歩調で軽く避け、またも掌底。

 

 シンスイは吹っ飛ばされる。しかしすぐに持ち直し、再び突っ込もうとするが、スイルンの姿を見て思わず息を飲む。

 

 ただ歩いているだけなのに、不気味なほどに隙がない。

 

 その歩様に、気圧される。

 

 そこが隙となり、一気に近づかれる。

 

 思わず焦って【琳泉把】を使ってしまった。

 

 無駄な攻撃であるにもかかわらず使ってしまったが、すでに遅い。ならばせめてできることをしてやろうと思った。

 

 緩やかに時間の流れる灰色の世界の中で、スイルンへ真っ向から五撃。しかし、やはり滑るように手答えがない。

 

 世界が色を取り戻す。

 

 足が、動かなくなる。

 

 スイルンが、近づいてくる。手元には双掌。

 

 まずい。今浸透勁を打たれたらさらに動けなくなる。

 

 動け。動け。動け!

 

 ちくしょう、やっぱり動かない。

 

 せめてこの状態から、【打雷把】が使えたら!

 

 だが、それをやれば、結局同じだ。動けなくなって、自分の負けが決まる。

 

 こうして考えている最中も、スイルンが近づいている。

 

 どうすればいい!? どうすれば——

 

 

 

 待てよ?

 

 

 

 あの時、ボクは【琳泉把】の使用中、【打雷把】を使った。

 

 そして、血塗れになった。

 

 けれど、無理をしたところで、一つの武法を使用している最中に他の武法は使えるのか?

 

 不可能だろう。

 

 なら、なぜあの時、自分は【打雷把】が使えた?

 

 ——「呼吸」を、見つけたから?

 

 もしも、あの流血が、「無理をしての負傷」ではなく「呼吸の発見」だとしたら?

 

 その仮説が正しければ——

 

 あの時の呼吸を思い出せば、【打雷把】を使える。

 

 思い出せ。

 

 どうせどちらを取っても、動けなくなるのだ。

 

 なら、黙ってやられるより、思い切ってやってやる。

 

 呼吸を整える。

 

 あの頃の記憶を呼び起こし、そこでの自分と呼吸を同調させる。

 

 近づいてくるスイルンから今だけ意識を外し、ひたすら自分の呼吸に集中する。

 

 そして、

 

 

 

 

 動いた。

 

 

 

 

 

 

 これは【衝捶】……すなわち【打雷把】の体術。

 

 血は……出ていない!

 

 使えた。【琳泉把】の最中に、【打雷把】が使えた。

 

 向かってきたスイルンが、驚いたように目を見開く。さしもの予測能力も、土壇場での限界突破を予測することは叶わなかったようだ。

 

 放った【衝捶】と、スイルンの双掌がぶつかった。

 

 力の差は歴然だ。スイルンの体が、紙屑のように吹っ飛ぶ。

 

 壁にぶつかる前に、受け身をとって勢いを殺した。起き上がり、再び構えた。

 

 そんなスイルンを見ながら、シンスイは一つの「進化」を実感していた。

 

 

 

 ——今、自分は二つの武法を重複させた。

 

 

 

 【琳泉把】を使っている最中に、【打雷把】を使った。

 

 それはつまり、それら二つが「一つ」になったということ。

 

 「一つ」とは、「新しい武法」のこと。

 

 「新しい武法」とは——

 

 

 

 

 

「————【雷公把(らいこうは)】」

 

 

 

 

 自身が師事した最強の男、強雷峰(チャン・レイフォン)が目指した理想にして、最強の武法。

 

 「絶対的威力」と「絶対的速度」を併せ持った、絶対無敵の武法。

 

 「雷のように」ではなく、「雷そのものになる」武法。

 

 師の夢を、今、自分が実現してみせた。

 

 だが不思議と、興奮も、歓喜も、シンスイの心には無かった。

 

 どこまでも冷静だった。

 

 シンスイは走った。

 

 距離が縮まった瞬間、【琳泉把】を発動。

 

 だが放つのは、【琳泉把】の技だけでなく、【打雷把】の技。

 

 無論、全て受け流されたが、スイルンの顔にはこれまで以上の驚愕が貼り付いていた。

 

 彼女もまた確信する。シンスイが新たな武法を作り上げたことを。

 

 この最中に作り上げるとは、あまりに予想外だった。

 

 これは、もうひとときたりとも気が抜けない。

 

 スイルンは集中した。

 

 シンスイが近寄る。

 

 五拍子を「一拍子」に変え、相対的な「最速」を手にする。ゆっくりとなった相手の周囲から、強大な威力を込めた勁撃を連発させる。

 

 だが、スイルンも負けていない。それらの来る場所をあらかじめ先読みし、その上で螺旋の力場を全身にまとい、受け流す。

 

 「一拍子」を終える。足に一瞬の硬直が来る。そこを攻めてくるスイルン。

 

 シンスイは【琳泉把】ゆずりの手法で防ごうとするが、その守りを完璧に読んでいるスイルンの掌は、構え手をすり抜けるようにして懐へ入ってきて、直撃。

 

「ぐぁっ……!」

 

 一瞬息が止まり、弾かれる。

 

 受け身をとって立ち上がる。

 

 接近してくるスイルンを見て一瞬焦りを覚えるが、すぐに心を沈める。

 

 ダメだ。五拍子じゃ足りない。——もっとたくさん(・・・・・・・)必要だ(・・・)

 

 シンスイはそう思い、今度は五拍子ではなく、十拍子を「一拍子」へ圧縮。

 

 ……それらの思考と行動に、シンスイは何の疑問も抱かなかった。不思議と「それができる」と思い、実行していた。

 

 ゆっくりな世界へ訪れる。だが周囲の流れの緩慢さは、五拍子の比ではなかった。かなり遅くなっている。

 

 シンスイはもう一度、スイルンの周囲から勁撃を発した。

 

 だが、まだスイルンの予測できる範疇なのだろう。一瞬で放った十撃は、全てスイルンの表面を覆う螺旋状の力場を滑らされた。相手の攻撃を予測した上で、それらを受け流すのに最適な力の配分と角度を割り出して螺旋勁をまとったのだ。

 

 まだ足りない。

 

 ならば——今度は二十拍子だ。

 

 ゆっくりな世界が、さらに緩慢になる。

 

 もう一度、周囲から攻撃を仕掛ける。

 

 だが、それさえも通じない。まるで霞を殴ったみたいに手ごたえが感じられない。

 

 ——三十拍子。

 

 まだ当たらない。

 

 ——四十拍子。

 

 まだ当たらない。

 

 ——五十拍子。

 

 まだ当たらない。

 

 五十五、六十、六十五、七十……どんどん加速を続ける。

 

 しかし、未だにスイルンの体には届かない。油で滑ったみたいに軌道を逸らされる。

 

 シンスイの体は、すでに周囲からは見えない速度で、目まぐるしくスイルンの周囲を回っていた。

 

 周囲から見えるのは、神速で重複される踏み込みでひとりでに壊れていく床の石材。

 

 だが、シンスイはなおも止まらない。

 

 ——八十拍子。

 

 シンスイが見にまとう衣服すべてが、凄まじい空気摩擦によって一気に燃えカスとなった。

 

 一糸纏わぬ姿になるが、それでも動き続ける。

 

 少しでも動きを誤ったら、勢い余った勁が全身を粉々に吹き飛ばしてしまうだろう。

 

 そんな崖っぷちの状況。

 

 だがシンスイは、どこまでも冷静だった。

 

 見ているのは、勝利のみ。

 

 ——九十拍子。

 

 もはやここまで来ると、周囲の風景がぼやけて見えなくなった。

 

 集中しているスイルンの姿だけがはっきりと見える。

 

 だが、今なおスイルンには隙が見られない。

 

 シンスイはここまで来ると流石に驚嘆を禁じ得なくなる。これでも彼女には届かないのか。彼女の予測能力の恐ろしさを見た。これでは【打雷把】だけでも【琳泉把】だけでも勝てなかっただろう。

 

 だが、それでもシンスイのやる事は変わらない。

 

 当たるまで、加速するだけだ。

 

 もうここで砕け散ってもいい。

 

 ありったけの力を注ぎ込んでやる!

 

 九十一拍子、

 九十二拍子、

 九十三拍子、

 九十四拍子、

 九十五拍子、

 九十六拍子、

 九十七拍子、

 

 九十八拍子、

 

 九十九拍子、

 

 

 

 

 ——————百拍子(・・・)

 

 

 

 

 

 シンスイの周囲の風景が、眩い光を発した。

 

 真っ白な光で、情景が視認出来なくなる。

 

 観客も、スイルンも、何もかもが真っ白に漂白される。

 

 だが、一つだけ……小さな暗い「点」があった。

 

 何故か分かった——アレを打てば、勝てると。

 

 それを確信した瞬間、シンスイの体が動く。

 

 【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】【衝捶】————

 

 これら百発の(・・・・・・)衝捶(・・)()

 

 「一拍子(・・・)に圧縮するっ(・・・・・・)!!

 

 瞬間、シンスイは稲妻になった。

 

 

 

 

 

 

 その刹那に起こった現象は、観客全員の度肝を抜いた。

 

 今まで見えない何かが大地を踏み砕いていた。それがシンスイであることは明白だった。

 

 だが次に起こったのは、それよりもさらに衝撃的な現象だった。

 

 闘技場の端から端へ、巨大な光芒が光速で横断したのだ。

 

 その速度は、まさしく稲妻のソレであった。「横断した」と分かったのは、その光芒が止まった位置へ光が尾を引くのが一瞬だけ見えたからだ。

 

 光がなくなった後に見えた光景は、人々の心をさらに寒からしめた。

 

 光芒が通った道が、深く半円状に抉れていたのだ。

 

 無理矢理力で掘り起こしたようには見えない。まるでそこにある物体だけがくり抜かれたようになっていた。それくらい綺麗な跡だった。

 その巨大な溝の中に、人が横たわっていた。

 

 気を失っているのは、双馬尾(ツインテール)の小柄な少女。……スイルンだった。だが上半身の衣服の半分がまるで焼け落ちたような破れ方をしており、素肌が露わになっていた。

 

 さら、光芒の到達点にもう一人。

 

 シンスイだった。こちらは見にまとう何もかもが綺麗に剥がれた全裸の状態で、拳を前に突き出した構えをかろうじてとっている。三つ編みが解けた長髪が無造作な開き方をしており、荒い呼吸を何度も繰り返している。少女の形をした幽鬼を思わせた。

 

 ……シンスイがその時に放った技の数は、百撃。

 

 しかし、その他大勢の人々には、それは「一撃」にしか見えなかった。

 

 その「一撃」は、人々の心にこう思わせた。

 

 あれは【琳泉把】なんて可愛いものではない。もっと凄まじく、おぞましい【何か】だ——と。

 

 

 

 

 

 

 官吏が、横たわったスイルンに恐る恐る近づく。

 

 スイルンの様子を確認した後、手振りで司会役へ伝える。

 

 そして。

 

「劉随冷(リウ・スイルン)、意識喪失!! ——勝者、李星穂(リー・シンスイ)!!」

 

 この【黄龍賽】の頂点を駆け上がった者の名を、高らかに叫んだ。

 

 しばらく、静まりかえっていた。

 

 だが、すぐに爆発せんばかりの大歓声が膨れ上がった。 

 

 人々の畏怖の感情は、すぐに新たな王者の誕生を祝うものに変わった。

 

 ……シンスイの【黄龍賽】優勝の悲願は、今、ここにようやく成ったのだ。

 

 だが、その心には、歓喜もなければ、興奮もなかった。

 

 その心は、ただただ細波のごとく静かだった。

 

 だが悪い静けさではない。やり遂げた静けさだ。

 

 人は、何かへ本気で取り組み、それが成就した瞬間、喜びよりも安堵が先行するものだ。

 

 心地よい安堵。

 

 それを心に感じながら、歓声を肌で浴び続けたのだった。

 



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一撃公主

 

 決勝戦を終えた後、スイルンとボクは一緒に医務室へ運ばれた。

 

 とは言っても、怪我がひどいのはスイルンで、ボクはそれほどでもなかった。

 

 しかし、服が【雷公把(らいこうは)】の度重なる酷使によって燃え尽きてしまい、素っ裸の様相だった。

 

 布で体をくるんだまま医務室の寝台で座っていると、チュエ皇女殿下の使いであるという女官がやってきて、服を貸してくれた。

 

 これから表彰式だというので、予備っぽい簡素な服ではなく、とびっきり煌びやかな衣装だった。

 

 着方を女官さんに教わりながら、それを身につけた。やたらと窮屈でかさばるが、今は我慢しよう。

 

 そうして、表彰式へと向かおうとした時、医務室に飛び込んできた一人の男。

 

 李大雲(リー・ダイユン)。父様だった。

 

 その顔はなんだかやたらと必死そうで、額にも汗が浮かび、息も絶え絶えだった。

 

「父様……?」

 

 ボクは顔をしかめる。

 

 いったい何しにここまで来たのだろう。

 

 まさか、ボクの表彰を妨害するつもりか。

 

 ……いや、父様はダイヤモンドとタメはる位の石頭だが、そんなみっともないことはしない人だ。

 

 それ以外の理由を考えている間に、父様は急いた足取りでボクへ歩み寄って、両肩を掴んできた。

 

「何故だ……何故なんだシンスイ」

 

 父様の顔を見て、ボクは目を見開いた。

 

 その顔には、今までのような厳つい傲岸不遜さは見る影もなかった。

 

 まるで……許しを乞うような、追い詰められたような形相が濃く浮かんでいたのだ。

 

 ボクは唖然とすると同時に、何か引っかかるものを覚えた。

 

 父様がボクに部法をやめさせたがっていたのは、官吏になって欲しいからだ。

 

 だが、理由はそれだけなのか?

 

 ただ官吏にしたいという理由だけで、ここまで必死になるものなのか。

 

 何か、他に理由があるのではないのか?

 

 そう思っていた時、父様は嘆くような語気で二の句を継いだ。

 

 

 

「何故お前は——姉さんと同じ末路を歩もうとする?」

 

 

 

 姉、さん?

 

 その言葉に、ボクは思わず質問を返した。

 

「ま……待ってください父様! 父様は確か、一人っ子だったんじゃ……?」

 

 そうなのだ。

 

 父様に兄弟はいないのだ。一人っ子なのだ。

 

 じい様がそう言っていたし、父様もそれに何も言わなかった。

 

 そんな父様の口から、「姉さん」という言葉が出てきたことに、驚かずにはいられなかった。

 

 父様は重々しい表情でかぶりを振った。

 

「シンスイよ……私は以前言ったな。我が李(リー)一族は、三代にわたって全員が文官登用試験の合格者だと」

 

「……はい」

 

「だが……実は一人だけ「例外」がいたのだ。——それこそが、私の姉だった人だ」

 

 父様は、多少落ち着いた口調で語り始めた。

 

「姉は、私よりもずっと聡明で、活発な方だった。勉学に関しては私より才があり、よく勉強漬けだった私を外へ連れ出してくれ、いろいろな遊びを教えてくださった。幼かった私は、そんな姉を心底敬愛していた。そして何より——姉は大変に武法を好む方だった」

 

 武法、という単語に、ボクはピクリと反応した。この話がどういう流れになるのか、なんとなく分かったからだ。

 

「姉の登用試験合格はほぼ確実と言われていた。しかし姉は官になることは望まず、武法の道を歩むことを望んだ。当然、両親からは反対され、口論の末に姉は勘当。李一族には「存在しなかった者」として扱われた。……確かに李一族は全員、登用試験を通過している。勘当された姉を除いてな」

 

「父様……」

 

 つまり父様は、慕っていた姉とボクとがかぶって見えたのだ。

 

「だが、それだけならばまだ良かった。たとえ親子の縁が切れても、生きていればまたいつか会うことができる。だが私が官吏となってしばらく経った後に耳にした——姉の訃報(ふほう)を」

 

 父様は、悔やむような顔で、かすれた声で言った。

 

「姉は鏢士(ひょうし)として、盗賊どもとの戦いの末に刺殺されたのだと聞かされた。私は生きた心地がしなかった。仕事も手につかなかったほどだ。何度も悪夢と悲しみに苦悶し、何度も食った飯を吐いた。その状態から脱するまで、一年は費やした」

 

 今まで聞いたことのない、父様の辛い過去。

 

 ボクは父様という人間を、誤解していたのかもしれない。

 

 父様のことを、骨の髄まで鋼鉄で出来た鉄人か何かだとずっと思っていた気がする。

 

 だが今の話を聞いたことで、初めて父様に強い「人間臭さ」を覚えた。

 

 父様はボクの両肩を掴む力を強め、懇願するような表情で言った。

 

「なぁ、分かるかシンスイ? お前が歩もうとしているのは「そういう道」なのだ。いかに華々しい武勇伝が多くとも、その武勇伝の下には広大な屍山血河(しざんけつが)が広がっているのだ。お前もまた、そこに沈み果てるかもしれないのだ」

 

 ……父様。

 

「思えば、武法をメキメキと身につけていくお前の姿を見るのが、私はずっと怖かった。お前の顔つきや仕草、立ち方、筋肉のつき方が、日に日に姉さんに似てくるからだ。いつかお前も私のもとを離れ、どこか知らない場所で果ててしまうのではないか……その不安ばかりが募った。そして案の定、お前は姉さんと同じように「武法を愛している」と言い出した。そんなお前を、私は諦めさせたかった。安全で、安泰な道を歩ませたかった」

 

 初めて明かされる、父様の真意。

 

「いくらお前が強(チャン)老師の愛弟子であろうと、【黄龍賽(こうりゅうさい)】に優勝するなど無理だと思っていた。その国を挙げた大舞台で挫折し、己の矮小さを思い知れば、お前の考えも少しは変わると思っていたのだ。……だが、お前は破竹の勢いで勝ち進み、そしてとうとう優勝してしまった」

 

 傲慢な態度の裏にあった、父様の真意。

 

「今のお前は……悲しいくらいに姉さんそっくりなのだ」

 

 哀切な訴え。

 

「私は……姉さんに続き、お前まで失いたくないのだ」

 

 それらは、ボクの中にあった「傲慢な父様」像を打ち砕くには、十分すぎる破壊力を持っていた。

 

 ボクは……自分が恥ずかしくなった。

 

 せっかく生まれ変わった人生を無駄にしたくないと、ボクは我を通し、何度も父様に反抗してきた。「大嫌い」と罵りさえした。

 

 ちゃんと本音を言ってくれなかった父様にだって、一因はあると思う。

 

 でも、親が子供を心配しないわけがないのだ。そんな基本的なことをすっかり忘れていた。

 

 ボクには前世の記憶がある。

 前世にいた両親こそが「真の親」と考えているところがあった。

 この異世界でボクを産んだ両親を「血の繋がりがある他人」と考えているところがあった。

 

 だけど、いくら前世の記憶があるからといっても、この異世界における「李星穂(リー・シンスイ)」という人間は、この人が血を分けたからこそ存在しているのだ。そうである以上、この人もまたボクの父なのだ。

 

 ボクは、目の前にいる「もう一人の父親」の頭をそっと抱きしめた。

 

「父様……ううん——“お父さん”。ごめんなさい」

 

 この「ごめんなさい」には、二つの意味が含まれている。

 

「ボクは今まで、お父さんにずいぶんひどい事言ってた。今更だとは思いますが、そのことを謝らせてください」

 

 一つは、今まで邪険にしてきたことへの「ごめんなさい」。

 

「お父さんがボクの身を案じていてくれたこと、よく分かりました。ボク自身も、もうお父さんに心配させたくないって思っています。でも——やっぱりボクはこれから先も「武法士」でいたいです」

 

 もう一つは、さらなる心配をかけてしまうことへの「ごめんなさい」。

 

「今から言うことは、信じても信じなくても構いません。——ボクには、別の世界で生きた前世の記憶があるんです。前世のボクは今みたいに活発じゃなく、ずっと病気で寝込んでいるだけでした。だから、こうしてこの世界に、元気な体に生まれ変わることができて嬉しかった。さらに武法に出会えたことも幸せだった。だからボクは新しい人生を、この武法に捧げたいんです」

 

 側から見れば、「何言ってんだ」としか思われないようなことを口にしている。その自覚はある。

 

 ボク自身も、この秘密は墓場まで持っていくつもりだった。

 

 だけど、今、言わずにはいられなかった。

 

「もし、どうしても許していただけないのなら、ボクを勘当してくださっても構いません。親子の縁を切って赤の他人になってしまえば、お父さんはボクを心配しなくてよくなります。ボクが願いを叶えられて、お父さんが心を痛めずに済むのであれば、ボクは勘当でもいいです」

 

 お父さんは勢いよく顔を上げた。悲しむような、怒ったような表情。

 

「なんと残酷なことを言う!! お前に、姉さんと同じ仕打ちをしろと!? 姉さんを失って苦しんだ私に、それをさせようというのか!?」

 

「でしたら——どうかボクを信じて待っていてください」

 

 お父さんは目を大きく見開く。

 

「ボクは叔母(おば)様ではありません。だから、叔母様と同じ末路を歩むつもりはありませんし、歩むはずがありません。目の前にいるあなたの娘は、【黄龍賽】で優勝するほど強い女なんですから」

 

 しばらく呆然としていたお父さんだったが、

 

「…………好きにするといい。どのみち、お前は私との賭けに正々堂々勝ったのだからな」

 

 やがて諦めたような笑みを浮かべて、ため息めいた口調でそう口にした。

 

 どこか憑き物が落ちたような、スッとした笑みに見えた。

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 正午の晴天の下で、表彰式はとり行われた。

 

 闘技場には、シンスイの最後の「一撃」が刻み込んだ深い傷跡が刻まれており、戦いの激しさを強く示唆していた。

 

 しかし、中央に立つ二人——【黄龍賽】優勝者であるシンスイと、現皇帝という二人の大人物の存在が周囲の大歓声を誘発し、荒れた闘技場に華々しい雰囲気を作っていた。

 

 皇帝の御前にて、こうべを垂れて片膝をついているシンスイ。その衣装は赤を基調とし、ところどころに金糸で優美な刺繍がなされている華美で高貴なものだった。

 

「面(おもて)を上げよ」

 

 シンスイは顔を上げる。ねぎらうような笑みを浮かべた皇帝の顔が目に入る。

 

「ふふ……そなたには本当に驚かされるな。あの【雷帝】の弟子であり、その武法の腕をもってこの国の危機を救い、極め付けには【黄龍賽】で優勝するとは…………そなたの名は、我が国の歴史に強く刻み込まれるであろう」

 

「恐縮です」

 

「……ところで李星穂(リー・シンスイ)よ、先程使ったあの武法は【琳泉把(りんせんは)】ではないのか?」

 

 そう問うた皇帝の口元には、なにかを企んでいるような、子供っぽい微笑が微かに浮かんでいた。

 

 この雲上人(うんじょうびと)の言葉の意図を察したシンスイは、何食わぬ顔で告げた。

 

「いえ、あれは——【雷公把(らいこうは)】。我が師が目指し、そしてとうとう完成には至らなかった、最強の武法にございます」

 

「そうか。ならば安心であるな。救国の勇者を獄につながずに済む」

 

 ははは、と軽く笑う皇帝。——この人も、結構いい性格をしているみたいだ。

 

 皇帝は咳払いをすると、表情をおごそかに引き締め、誠実な眼差しでシンスイを見つめた。

 

「——李星穂(リー・シンスイ)よ、よくぞここまで上り詰めた。数々の強者を敗り、武人としての栄光をよくぞその手に掴み取った。そなたにはこれから莫大な賞金が渡されるが、そなたがこれまで歩んできた道のりは、千金や万金よりもずっと価値あるものである。生涯、忘れるでないぞ」

 

「はい」

 

 頭を下げ、シンスイは思い浮かべた。

 

 実家を飛び出し、ここまでに至る闘いの日々を。

 

 楽しい時もあれば、苦しい時や絶望した時もあった。

 

 だが、過ぎてみれば、それらは全ていい思い出と呼べる、かもしれない。

 

 ……いや、いい思い出だ。

 

 歓声に混じって、二人の少女の声が聞こえてくる。

 

「お姉様ぁぁぁぁぁぁぁ!! 愛してますぅぅぅぅぅぅぅぅ!! 結婚しましょぉぉぉぉ!!」

 

「こら、ミーフォン! 闘技場に乱入しようとするんじゃありませんっ!」

 

「ちょっ、ライライ、離しなさいよー!」

 

 御前であるにもかかわらず、シンスイは思わず吹き出してしまった。

 

 うん、確かにいい思い出だ。

 

 だって——あんなに面白くて、大切な友達に出会えたのだから。

 

 

 

 

 

 こうして、【黄龍賽】は一度幕を降ろした。

 

 煌国という国が存続する限り、国中の猛者が集まり覇を競うこの武の祭典は、未来永劫繰り返される。

 

 ……その【黄龍賽】の歴史の中で、李星穂(リー・シンスイ)という武法士の名は、特に強く刻み込まれることになるだろう。

 

 シンスイが決勝戦の最後で見せた「一撃」。

 

 あれを超える「一撃」を出せる武人は、きっと数千年を経ても現れない。……そう人々に確信させてしまったのだ。

 

 そんな「一撃」への畏怖と畏敬を込め、シンスイは未来永劫、こう呼ばれることになる。

 

 

 

 ————【一撃公主(一撃のプリンセス)】と。

 

 

 

 ◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 ボクは無事に【黄龍賽】優勝者となった。

 

 その後、陛下のおっしゃった通り、莫大な賞金がもらえた。本当に莫大な賞金だった。

 

 ……だが、ボクはそれをたった一日で使い切った。

 

 別に、豪遊したり、倍額を目指したワンチャン違法賭博に興じたりしたわけではない。

 

 皇帝陛下に頼んで、帝都の復興費に当てさせたのだ。

 

 まだまだ、帝都には壊されっぱなしの建物や施設が多い。家を失い、雨露すらマトモにしのげていない人だって少なくない。そういった諸問題の解決に少しでも役立てて欲しかった。

 

 陛下は正気を疑うような顔をしたが、ボクはいたって真面目だった。

 

 やがて、陛下は諦めたようにため息を吐くと、快く承諾してくれた。その瞳の奥に尊敬の色が浮かんでいたように見えたのは、きっとボクの自意識過剰というやつだろう。

 

 だがボクも、何も貰わずに去るほど、お人好しではなかった。

 

 「国を救った褒美は何が良い?」という問いへの答えを、まだ保留にしたままなのだ。

 

 ボクはその場で、ある品々を下賜(かし)してくださるよう陛下に奏上(そうじょう)した。

 

 ——馬車と、それを引く馬。日持ちする食料。

 

  陛下は拍子抜けした表情を見せたが、これらはボクの次の目的のために必要だった。

 

 次の目的とは——旅に出ることだ。

 

 ボクは武法が好きだし、たくさんの武法を知っているつもりだ。

 

 でも、この国には、まだまだボクの知らない武法があるに違いない。

 

 それらを探し、この目に焼き付けたいのだ。

 

 そんなボクのわがままに対し、陛下は笑顔で頷いてくださった。

 

 

 

 

 

 ——そして、一週間後の昼。

 

 帝都を囲う巨壁。その真西に構えられた大きな門。

 

 その大門を中心にして、濃い密度の人だかりが広がっていた。

 

 開放された大門の前には、一台の馬車。

 

 その馬車の御者台(ぎょしゃだい)にはボクが、馬車の中にはライライとミーフォンが乗っていた。

 

「……本当にいいのかい? 故郷に帰りたくないの?」

 

 ボクは二人に対し、そう訊いた。ここ数日間、何度もした質問だった。

 

「良いのよ。故郷へ帰っても、あんまりやる事ないし。だったら、あなたについて行ったほうが楽しいじゃない」

 

「あたしは地の果てまでも、お姉様と一緒ですっ!」

 

 二人もまた、ここ数日間のうちで繰り返してきた答え方をした。

 

 ……この二人とは、長い付き合いになりそうだ。

 

 皇女殿下への挨拶は済ませた。

 トゥーフェイへの挨拶も済ませた。

 シャオメイは一足先に帝都を去った。

 

 ——もう、この帝都でやり残したことはない。

 

 旅立とう。

 

「じゃあ、行くよ! 二人とも!」

 

 ボクは手綱でぴしゃりと馬の尻を叩いた。

 

 動き出す馬車。

 

 離れゆく街並み。

 

 さようならー! ありがとー! 元気でなー! などといった声援が、後方の人だかりから聞こえてくる。

 

 開かれている大門から、ボクらを乗せた馬車は外へ出た。

 

 帝都の分厚い外壁をくぐり抜ける。

 

 巨壁の威容さえも、徐々に遠ざかっていく。

 

「シンスイ、これからどこへ行こうかしら?」

 

 不意に、ライライが訊いてきた。

 

 ボクは振り返り、満面の笑みを浮かべて言った。

 

 

「——行ったことのない「何処か」だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここでひとまず、ボクの波乱と闘いの日々は幕を降ろす。

 

 しかし、ボクのこの異世界での人生は、まだまだこれからだ。

 

 ボクの武法士としての日々は、これからも続くのだ。

 

 

【おわり】



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