いつまでもボコだと思うなよ (忍者小僧)
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1 もはやボコではない

注:ボコの一人称が「おいら」ではないのは、わざとです。


僕がボコという名前を捨てたのは、もうずいぶんと前の話だ。

うだるような暑さの中、とめどなく汗をかき、このまま消え去ってしまいたいと思っていた。

それは、僕が暮らす4畳半のアパートの一室での出来事であり、机の上には、食べかけのソーメンが置かれていた。

隣の部屋の若者は、下手なギターのリフをひっきりなしに練習していた。

シンコペーション。

僕はいつの間にか眠りに落ちた。

夢の中でいくつもの嫌な体験をした。

その頃の僕は、とあることが原因で不眠症を患っていた。

ボコでいることが嫌でたまらなかった。

何とかして、ボコでなく、別の存在になりたいと思っていた。

そして目覚めた時、僕はボコではなくなっていた。

こういうのって、感覚の問題に過ぎないのかもしれないが。

僕がボコである必要はないのだ、いつまでもボコと呼ばれる必要はないのだと、そう思った。

そう思った瞬間、僕はボコであることをやめたのだ。

ボコをやめてしまうと、非常に気持ちが良かった。

やっと一人の、まっとうな人間になれたような気がした。

ボコでなくなった以上、ボコらしく立ち振る舞う必要性はない。

これまではボコだから、いくつもの制限をされてきた。

ボコにとって、この人間社会は厳しい。

まともな仕事も見つからない。

僕は、自営業で何とか食いつないでいた。

でもこれからはボコではないのだ。

僕は、自分の会社を発展させることにした。

僕の会社は、地方の工場で作った部品を大手白物家電会社に紹介し、納めることを生業にしている。

言いようによっては、中継ぎ業。

考え方を変えれば情報提供業だ。

どれだけ、地方の腕の良い工場とネットワークを持ち、それらを的確に紹介できるかにすべてがかかっている。

これまでは所詮ボコなので、細々とうつむいて仕事をしていたが、もう何も卑下することはない。

僕は必死に働いた。

暇さえあれば、地方をめぐり、さまざまな埋もれた工場や職人を探し、繋がりを作ろうとした。

大手白物家電会社とのネットワークも途切れないよう、必死に営業をかけ続けた。

僕の会社の名前は、「アーバン・ネットワーク」と言う。

悪くない名前だ。

 

 

ところで、僕には、趣味らしい趣味はほとんどない。

唯一の趣味と呼べるものは、ジャズクラブやバーでジャズを聴くことぐらいだ。

物心ついた時から、ジャズが好きだった。

ふつう、ボコがジャズを好きだという一般論はないと思う。

となれば、僕はどうしてジャズを好きになったのだろうか。

ボコであることを捨ててから、記憶は曖昧としている。

だが、誰かがジャズを好きだったから、僕も好きになったのだというおぼろげな記憶がある。

僕はもともとは、ボコ。

ボコられグマのボコだ。

たぶん、きっと。

僕の以前の持ち主が、ジャズを好きだったのじゃないだろうか。

僕は眼を閉じ、想像する。

僕を大事にしてくれた、美しい少女。

少女は、クールで知的。

ナイトドレスがよく似合い、細い指先で、華麗にピアノを弾く。

幼いころから、母親にジャズピアノを教えられて育ったのだ……。

そんな空想をすることは、楽しい。

ボコも悪くないじゃないかと思えてくる。

あれ? だけど。

なぜ僕はボコをやめたのだろう。

 

 

 

 

続く

 



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2 島田愛里寿という少女

ある夜、ひどくハードな仕事があった。

僕はかなり難しい交渉を纏め上げ、そのことに達成感があった。

だが、幾分心に疲れを感じていた。

交渉をまとめる過程で、何度もなじられたからだろう。

繁華街を歩いていると、雑居ビルの二階のジャズクラブの看板が目に留まった。

悪くない。

自分へのご褒美だ。

僕は、そこで一杯ひっかけることにした。

ついでに、もしも良い演奏が聴けたら御の字だ。

レコードも好きだが、やはり、生の音というのはもっと好きだ。

 

 

ジャズクラブは、そこそこ込み合っていた。

木製の古めかしいテーブルが古き良き時代を連想させる。

バーテンダーはみな一様に物静かで、淡々と酒をつくっている。

客層も悪くない。

なるほど、流行るわけだ。

僕は、案内されて、窓際の丸いテーブル席に腰かけた。

ダルウィニー12年のロックを注文すると、すぐにロックグラスとチェイサーが運ばれてきた。

ステージでは、ピアノトリオがモダン・ジャズとフリージャズの境界線のような音楽を奏でていた。

僕はゆっくりと酒を飲んだ。

 

しばらく、そうしてジャズを聴いていると、隣の席に新しい客が座った。

それは、灰色のようなミステリアスな髪の色をした少女だった。

僕は不思議に思った。

こんなナイトクラブに、幼い少女?

たじろぐ僕を尻目に、少女は手慣れた様子で、ハイランドパークのソーダ割りを注文した。

運ばれてきたグラスのスコッチ&ソーダを一口飲むと、僕に微笑んだ。

彼女は自分のことを島田愛里寿と名乗った。

 

「愛里寿ちゃん。君は一人きりでこんな店にいるのかい?」

「そうよ。あなたを探していたから」

「僕を?」

 

少女は無表情に頷いた。

 

「こっちに来て」

 

手をひかれて、店の奥へと移動すると、そこには青い扉があった。

そのナイトクラブには、度々訪れている。

だが、そんな扉があることは知らなかった。

 

「ここは?」

「あなたに見せたいものがあるの。入って」

 

少女の言葉に、抗うことができなかった。

僕は少しばかり躊躇しながらも、その青い扉を開けた。

扉の先には、小さな部屋があった。

本当に小さな部屋だ。

人が数人いれば、狭く感じられてしまうほどに。

その小さな部屋の壁際に、一台のアップライトピアノがあった。

 

「よく見て」

 

少女の言葉に目を凝らすと、いつのまにか、ピアノの椅子には、小柄な女性が座っていた。

美しいが、どこかけだるそうな表情をしている。

彼女はピアノを弾いていた。

曲名は知っていた。

Guess I'll Hang My Tears Out To Dryだ。

感傷的な曲だ。

流れるような手つきから、彼女が達者な弾き手であることが見て取れた。

スムースで、癖のない音色だった。

 

「冷泉麻子さんよ」

 

愛里寿が言った。

僕は、名前を言われても困るだけだった。

やがて曲調が変わり、How Insensitiveが奏でられた。

こちらもスムースだ。

だがそれだけだった。

ところが、次に始まったメロディは、僕の心を打った。

それはどこか懐かしく、それでいて、強烈に僕を揺り動かすものだった。

 

「この曲は……いったい……」

 

僕が呟くと、愛里寿が、まるで答え合わせのように、ピアノに合わせて呟いた。

 

♪やってやる やってやる やってやるぜ♪

 

「その……歌は……」

 

僕は頭を押さえた。

ひどく頭が痛い。

なんなんだ、これは。

……あまりの唐突な痛みに目を閉じ、蹲った。

やがて痛みが引き、眼を開けると、音楽は止まっていた。

僕は、部屋の外にいた。

もとのジャズクラブだった。

僕は、壁際に一人で佇んでいた。

僕は手に、小さな箱を握りしめていた。

それがなんなのかわからなかった。

だが、それは、開けてはならないものであるような気がした。

弾けるようなリズムが聴こえた。

舞台で、新しいジャズコンボが演奏を始めたようだった。

中年のピアニストが、早い手つきで即興演奏をしていた。

その音は押しが強く、先ほどの冷泉という少女の演奏とは全く異なっていた。

僕は、ふらふらと自分の席に戻った。

そこには、何食わぬ顔で、愛里寿が座っていた。

 

「いったいどういうことなんだ?」

 

僕が問いかけると、隣のテーブルの老人が顔をしかめてこちらを睨んだ。

愛里寿が私に言った。

 

「音楽を聴いている人の迷惑よ。座って、小声で話した方がいいわ」

「それなら、この店を出よう」

 

僕の提案に、少女は同意した。

 

 

 

続く

 



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3 完成しない会話

僕たちは連れ立って夜の街を歩いた。

繁華街は猥雑で濃密だった。

若いころはその猥雑さが好きだったが、今では少し、煩わしさを感じる。

殊更、幼い少女を連れて繁華街を歩くことは少し嫌な気分がした。

まるで何かを疑われるかのようだ。

だが、愛里寿はまるで気にしないようだった。

 

「そこの店がいいわ」

 

少女が指差した先に、24時間営業のピザ屋があった。

僕は頷いた。

僕がホットコーヒーを2つオーダーすると、愛里寿はシーフードピッツァのSサイズをつけ足した。

 

「腹が減っているのか?」

「ええ」

「僕は食べないぞ」

「構わないわ。一人で食べられるもの」

 

愛里寿がカットされたピザを手に取る。

溶けたチーズがのびやかに伸びる。

彼女の小さな口の中へとピザの一切れが放り込まれた。

僕はその様子を見ながら問いかけた。

 

「そろそろ本題に入りたい。あの部屋はなんだったんだ?」

「あなたはあそこで何を見たの?」

「質問に質問で返すのか。僕が見たのは、一台のアップライトピアノだ。冷泉という少女が、ピアノを弾いていた。スタンダードが2曲。そのあとは……」

 

そのあとのことを思い出そうとすると、また頭が痛んだ。

 

「そのあとのことは、思い出せないのね?」

「あ、あぁ……」

「かわいそうな人」

 

愛里寿が私を見つめた。

その瞳は、吸い込まれるような色合いがあった。

瞳の色が、光を反射して様々に変わる。

まるで万華鏡だ。

僕は首を振った。

見つめていると、白昼夢に取り込まれそうだ。

駄目だ。

本題に入らなくては。

 

「気がつくと、これが手の中にあった。これは……いったい、なんなんだ?」

 

僕は、頭を押さえながら、小さな箱を机の上に置いた。

 

「気がついたら、これを手に持っていた」

「それを開けたの?」

「いいや。なぜか、開けて中を見る気にはならなかった」

「そう。今はその方がいいわ」

 

愛里寿が微笑んだ。

 

「それは、あなたにとってとても大切なものよ。無くさないように、しっかりと持っておいて」

「君は何を知っているんだ?」

 

彼女はその問いかけには答えなかった。

 

「もうすぐ、あなたは不思議な体験をするわ。その時に、その箱が必要になると思う。それから、おまけで連絡先を渡しておくわ」

 

小さなメモ用紙に、携帯電話の番号が書かれていた。

 

「困ったときにその番号を使って」

 

それだけ言うと、愛里寿は立ち上がった。

 

「お、おい、ちょっと待ってくれ」

 

その時、携帯が鳴った。

僕の携帯だ。

大切な取引先からの電話だった。

取らないわけにはいかなかった。

携帯をタップし、顔を上げると、もう少女はいなかった。

 

続く

 



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4 エア・ポケット

※投稿がうまくいっていなかったので、再投稿しました。


携帯の通話ボタンを押すと、取引先の工場長の声が聞こえた。

 

「ねぇ、うちで新しい機械を導入したんですよ。少し見に来ませんか? ちょっとした息抜きついでに、工場視察ということで。地元のおいしいものをお出ししますよ」

 

こういうお誘いは、時々あることだった。

僕の会社は、工場と販売会社の中継ぎ業だ。

工場の方から、自社の設備の売り込みが舞い込むことがある。

僕の会社が契約する工場の多くは、都心から離れた地方にある。

土地の値段や、環境の問題から仕方のないことだ。

その代わり、結果的に、視察に行くと、海の幸・山の幸と、地元料理に舌鼓を撃つことができる。

悪くない提案だな、と僕は思った。

確かに最近、疲れている。

たまには都会を離れるのもいいだろう。

 

「わかりました。視察に行かせていただきます」

 

そんなわけで、僕は飛行機に乗り、熊本に飛び立った。

飛行機の隣の席には、青白い顔をした中年が座っていた。

細身の今風のスーツを着ているが、痩せすぎているので、少し貧相に見える。

カルティエの時計が腕で光っていた。

金を持っているのだろうが、女にはモテないタイプだ。

中年が唐突に僕に話しかけた。

 

「出張ですか?」

「そうですね」

 

僕は気軽に答える。

 

「出張というほどのことでもないのですが、取引先の見学に行くのです」

「へぇ。それでは、会社か何かを率いておいでで?」

「どうしてそう思うんですか?」

「ああ、いえ。取引先があるとおっしゃるから」

「下っ端でも取引先に出向はしますよ」

「これは失敬」

 

中年が笑った。

 

「では、九州はよく行かれるのですか?」

「いえ、それほどには。例の取引先の関係で何度かは行っていますが、それだけです」

「そうですか」

「あなたは、よく行かれるのですか?」

「私はねぇ……。生まれが鹿児島でして」

「へぇ」

「親は止めたんですがね、どうしても都心に出てきたくて、高校を卒業してすぐに飛び出したんです。それ以来です」

 

僕は、中年に少し興味を抱いた。

 

「どうですか? 都心は?」

「息苦しいですね」

 

中年が答えた。

 

「足元を見ているとコンクリートばっかりで。気が滅入りますよ」

「そうですか」

 

僕と反対だなと思った。

僕にとっては、田舎の方が息苦しい。

それは、田舎というものが基本的に濃密な人間関係で出来上がっているからだ。

人間関係を支配・統括するボスがいて、異端は許されないのが田舎だ。

 

「僕はね、田舎は嫌なんです」

「ほぉ。なんでまた?」

「誰かに支配されたくないからですよ」

「そんな馬鹿な。都会こそ、時間や価値観に支配されている」

 

僕は首を振った。

 

「話になりませんね。僕たちはセンスが違う」

「センスじゃありませんよ。プライオリティを何に置くかの違いだ」

 

中年が食って掛かる言い方をしたので、僕は彼を睨みつけた。

痩せた中年の細い瞳が、アメーバのように歪んだ。

彼は笑ったのだった。

 

「まぁまぁ。そうカッカなさらず」

 

その時、飛行機がエア・ポケットに入った。

やや激しく、機体が揺さぶられた。

 

「おぉっと、危ない危ない。喧嘩両成敗って、天の神様が怒ってらっしゃる」

 

中年が呟いて、座席に深く身を預ける。

僕も、シートに深く体をうずめて目を閉じた。

そのうちに眠気がやってきた。

夢うつつで、中年の声を聴いたような気がした。

彼はまだ、僕に話しかけていたのだろうか。

 

「私はね、服の販売をしていたんです。東京で。服というものは、その人の体にフィットするべきものなんです。体を包み込むべきものなんです。けれども、あの街には、ファッションはあっても、本当の服を求めている人間がいなかった。みんな、その日その日の自分をどう見せるかということしか頭にないんです。そういう価値観しかインプットされないように出来上がってしまっている。それで私はまた、街を出たんです……そのあとは紆余曲折の人生を経ましてね、今は全く違う……」



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5 In Too Deep

強い振動で目が覚めた。

飛行機が着陸したのだった。

窓から外が見えた。

外は雨だった。

エアポートのターミナルが、激しい雨に濡れている。

やがて、シートベルトを外す許可が下り、僕はそれを外した。

立ち上がる時、中年は何も言わなかった。

機内で話し合ったことが嘘であるかのように、そっけなく機内を出て行った。

 

空港のロビーのベンチに、取引先の工場長がいた。

僕を見ると彼は人懐っこい笑顔で頭を下げた。

 

「ようこそ、熊本へ。車を用意しておりますので」

 

僕も小さく頭を下げた。

車はしばらくあぜ道のようなところを走ると、そのうち、大きな国道に出た。

 

「ここから、1時間半ほどで工場につきますので」

「わかりました」

 

途中からまた国道は細い市道に替わり、やがて、海へと続く道になった。

崖のようなところにせり立って、旋盤工場があった。

まるでそれは、スコッチの蒸溜場のようだ。

ウィスキーのラベルに、こういう海辺に立つ工場が描かれていることを僕は思い出した。

 

「どうしました?」

「いや、ウィスキーが飲みたくなって」

「ははは。視察が終わったら飲みましょう」

「焼酎以外もあるのですか?」

「九州だからと言って、焼酎ばかりじゃありませんよ。いいお店に連れて行ってあげます」

「それはありがたい」

 

僕たちが工場に入ると、入り口に立っていたスタッフが恭しく頭を下げた。

彼はまだ高校生ぐらいに見えた。

 

「今の子、若いですね」

「学校を出てすぐにここに就職したんです。ロクって言います。真面目な奴ですよ。あの年から働いてたら、30代の頃にはもう熟練の工です」

「へぇ」

「片方の目が、少し閉じぎみでしょう?」

「え?」

 

言われて振り向くと、確かに少年の目はちぐはぐだった。

右目に対してして、左目のまぶたが少しぶ厚く、肉が重なって見える。

 

「あれね、生まれつきじゃないそうですよ」

「はぁ……」

「彼は中学生の時、ずいぶんやんちゃしたみたいでね。地元の怖い人に喧嘩吹っ掛けて、『ヤキ』入れられたそうです。瞼にね。そんで、肉が戻らないみたいですね」

「それは……大変な体験ですね」

「でも、今はこうやって一途に働いている。人生やり直そうともがいてるんです。いじましいじゃないですか」

「そう……ですね」

 

それ以上どう答えていいかわからず、廊下を歩いた。

やがて、透明なガラスの向こうでさまざまに板鉄が切り整えられている様子に遭遇した。

のっぺりとした鉄のかたまりから、職人たちが特殊な機械を使って、さまざまな形を切り出していく。

それはまさに職人技だ。

 

「すごいな、これは」

 

僕はつぶやいた。

 

「生産が速いわけだ。これだけの人数の職人がいて、しかも、順序が最適化されている。工場の体制自体がよく練りこまれているというわけだ」

「その通りです」

 

工場長が言った。

 

「今時、地方の工場だからと言って、古臭い体制のままじゃやっていけません。熟練工が一人いたらそれでいいわけじゃない。どういう流れで作業を分担して、早く的確に仕上げるかが重要なんです。うちは、作業工程をシステム化して、スピードと精度の両方を維持しています」

 

僕は笑った。

 

「素晴らしいですね。おかげさまで、僕も本当に助けられている。あなたの工場に、納品で苦しめられたことがない。あなたの工場と関係性が構築できて、本当に良かった」

「そうですね。あなたの慧眼は素晴らしい。さすがは、もともとがボコなだけはありますね」

 

僕は男の言葉に驚きを隠せ得なかった。

 

「どうしてそれを?」

「おや? 隠しておられたのですか? 見ればわかりますよ。匂いというのかな。私らも、長年ボコときあっているから。わかるんです、そういうの。ね。やっぱり、こういう工場ですから。いろんな人間がいますので」

 

僕は押し黙った。

もうボコではないというのに、そんなことを言われたくはなかった。

 

「そうですか」

 

僕の声のトーンに不穏なものを感じたのだろう。

工場長が頭を掻いた。

 

「おっと。お気を悪くなされましたか?」

「さぁね」

「まぁまぁ。私はね、褒めたつもりだったんですよ。ボコってのは、ほら、独特の嗅覚があるじゃないですか。普通の人間とは、少し人生が違うし。それは、よい経験だと思うのです。もともとがボコで、それから成功した人はたくさんいます。芯が強いというのかな。ま、とにかく、この後は、良い店に行きましょうや。ぱぁっと景気をつけて。ね。女の子も用意してますから」

 



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6 愛里寿の影、みほ、沙織との出会い

工場長の誘いに、「女遊びか……」と少し憂鬱になった。

もともと人間でなかったからかもしれないが、あまり女遊びが得意ではない。

殊更につきあいのキャバクラなんてもってのほかだ。

僕の一番苦手なもののひとつだ。

しかも、いかにも洗練されていない、田舎のキャバレー?

頭が痛くなる。

僕は、骨休めのつもりで工場の視察に来たはずなのだ。

ゆったりと流れる空気の中で癒され、海の幸に舌鼓を打つはずだった。

それが、キャバクラだと。

いっそ断ってしまいたかったが、仕事の視察できている以上、そういうわけにもいかない。

『付き合い』というものは、人間社会で上手くやっていく上でかなりプライオリティが高い物事だ。

僕はこの数年間でそのことを学んでいた。

嫌なそぶりは押し隠し

 

「へぇ。それは良いなぁ。ぜひご紹介いただきたいですね」

 

と言った。

工場長は実にうれしそうに頷いた。

 

「そんじゃま、ちょいと焼き鳥でも食ってから、お姉ちゃんのお店へ繰り出しましょうか。18時ぐらいにホテルの前に集合でいかがです?」

「承知いたしました」

 

工場長は、自分の名前を湯浅と名乗った。

 

「これから一晩、仲良くやるんやさかい、ここはひとつ、俺お前の仲で行きましょうや」

 

そう言いながら僕の肩を叩く。

 

「その話し方……鹿児島の方ではないのですか?」

「はは。バレてもうたか。実は大阪出身ですねん。普段はできるだけ抑えてるんですがね。気軽な関係を築きたいと思ったら、ついつい故郷の言葉が顔を出しよる」

「へぇ……」

「もう長いこと九州やのに、なかなか抜けへんもんでなぁ。あ、そや。おもろい話ひとつしまひょか」

「なんですか?」

「自分の名前、湯浅や言いましたやろ」

「ええ」

「それがな、俺が生まれた町の駅前にも大きな電池工業がありましてん。湯浅電池。それやのに、社長さんとは何の関係もあらへん。俺は貧乏人の湯浅やったんですわ」

 

わはは、と下品に笑う。

僕は何一つ面白く感じられなかった。

お寒い限りだ。

だが、合わせないわけにもいくまい。

小さく唇の端で笑っておいた。

 

「ま、車に乗ってくださいや」

 

湯浅が自動車のドアを開ける。

僕はそれに乗り込んだ。

工場から駅前のホテルまでは、およそ1時間ほどかかった。

地方の小さな都市にありがちの駅前は、有り余った土地を利用した広い道路とタクシー乗り場・バス乗り場、そして地域の観光案内板があった。

だが、その広さに反して、ロータリーにはほとんど車はなかった。

観光案内版には、興味が引かれるようなものは何一つ書かれていなかった。

僕は湯浅と別れ、ホテルにチェックインを済ませると、鞄を部屋に置いて街に繰り出した。

18時まで、まだ時間があった。

僕は、出張先で、あまり知らない街を一人ぶらぶらすることが好きだった。

自分の知らない街に身を置いていると、自分が完全な他人になることができるような気がするからだ。

だが、もともとボコだった僕が今は、こうして人間という他者になっている。

それだけでも堯幸なはずなのに。

これ以上何になりたいのか。

わからない。

僕は自分の頬を叩いた。

そんなこと、どうでもいいじゃないか。

ふと目についた雑居ビルに吸い込まれるように入っていくと、そこは思ったよりも小奇麗なビルだった。

施工そのものは30年ほど昔のようだが、管理と整備が行き届いている。

案内を見ると、3階より上層はオフィスビル。

1階は小さな本屋とコンビニエンスストア、2階にはコーヒー屋が入っていた。

僕はエレベーターで2階にのぼり、コーヒーショップの入り口に掲げられたメニューを見た。

ブレンドが300円。

ドアガラス越しに覗いた店内は、静かで居心地が良さそうだった。

僕はそこで少し時間を潰すことにした。

 

「いらっしゃいませ」

 

年老いた老婆が、気の抜けた声を上げた。

 

「禁煙席はあるかい?」

 

僕が問いかけると、老婆は頷いた。

そして、弱々しい手つきで、窓際の席を指さした。

僕は、促されるまま窓際の席に座ると、カフェ・ラテを注文した。

ちょっとした気まぐれだった。

ホット・コーヒーを頼むつもりだったのだが、不意に口をついて、カフェ・ラテという言葉が出てきた。

やれやれ。

人生は気紛れだ。

だがそれも悪くはない。

僕はハットを取り、向かいの椅子に置くと、立ち上がりレジ脇に積んである新聞を取った。

老婆は恭しくお辞儀をして、奥に引っ込んでいった。

新聞を広げると、実にくだらないニュースが並んでいた。

どれもこれも、新聞が大げさに扱うから問題になるというだけのニュースだ。

世論を無理やりに作り上げようとしている。

だが、それがメディアというものだし、情報というものは、そういう性質のものだ。

それが新聞からインターネットに変わったところで、本質は同じだ。

誰かが騒ぎ立てる。

それが共有され、大勢が加わり争点化する。

その繰り返しだ。

そんなことを考えながらぼんやりとしていると、机の上にコーヒー・カップが置かれた。

老婆が、それを置いたところだった。

僕は小さく会釈して、そのカップを見た。

カップの中には、不恰好なハートマークが描かれていた。

ハートマークのできそこないのラテアート。

風邪を引いたか二日酔いのハートマークだ。

ぐにゃりと歪んでいる。

 

「わ、わわわ。おばあちゃん、それ、失敗作だから!」

 

と、厨房から声が聞こえた。

若い女の子が、コーヒーカップを持って、こちらに駆け込んでくる。

ボブの髪をした、かわいらしい少女だ。

 

「おや、そうだったのかい?」

 

老婆がとぼけたような声を上げる。

 

「そうだよ~」

 

苦笑いをしながら、女の子がこちらに頭を下げる。

そして、新しいカップを差し出した。

 

「お客様。申し訳ありません。お取替えさせていただいてよろしいですか?」

「あぁ。構わないよ」

 

僕は微笑ましくて笑いながら、古いカップを差し出した。

その時、女の子が呟いた。

 

「わっ。ボコだ!」

「え?」

「あ、す、すいません」

 

頭を下げる。

 

「あ、あの……つい」

 

まただ。

またボコだと指摘された。

僕が睨みつけたためだろう。

少女は、しゅんとした表情で僕を伺っている。

まるで小動物だ。

僕は頭を掻いた。

今更ボコと呼ばれることは不快だが、こんな少女をいじめたいわけではない。

 

「……よくわかったね、もともとがボコだったって」

「あ、あの。ボコの人って、なんか雰囲気が独特で。だからその、わかるっていうか。かっこよくて、私、ちょっと憧れてるんです」

 

少女は、西住みほと名乗った。

カッコいいとまで言われると、悪い気はしない。

僕は、仕方ないという風情に頷いた。

少女はうれしそうに、お盆を両手で抱えて微笑み、

 

「あの。ごゆっくりなさってください」

 

と言い、厨房へと戻っていった。

そのあと、めったに飲まないカフェ・ラテの不思議な甘さと格闘をしていると、視界の片隅に見覚えのある人物をとらえた。

島田愛里寿だった。

窓ガラス越しに見えるビルの外の歩道に、島田愛里寿がいた。

愛里寿は、歩道から、まさにこのビルに入っていった。

僕は立ち上がった。

 

「すまない。お代は机に置いておく!」

 

叫ぶと、立ち上がった。

急いで1階へと降りる。

だが、そこには誰もいなかった。

僕は頭を掻いて辺りを見回した。

本屋が目に付いた。

ここか?

本屋の中に入ると、元気のいい女の子の声が聞こえた。

 

「いらっしゃいませ~!」

 

カウンターに、茶色のウェーブがかった髪をした少女がいた。

それ以外には……誰もいない。

どういうことだ。

僕は、少女に問いかけた。

名札には、『武部』と書いてあった。

なかなか豊満な胸だ。

 

「あの、さっき、客が入ってこなかったかな? 小さな女の子なんだが」

「え? い、いえ。来ませんでしたけど……」

「くそっ!」

 

僕は店を飛び出した。

後ろで、カウンターの少女が、「なんなの一体。やだもー」と言っているのが聴こえたがそれどころではなかった。

夕刻が近づいた街には、にわかに人が増えていた。

愛里寿は見当たらない。

 

「探しましたよ」

 

唐突に、低い、いがらっぽい声が聞こえた。

振り替えると、湯浅がいた。

下品な笑みを浮かべて僕の後ろに立っていた。

 



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7 夜の彷徨い

焼き鳥屋は、ロードサイドにあるこじんまりとした店だった。

酒を飲むことを見越してだろう、湯浅はタクシーを使った。

店内は、何枚もの芸能人や野球選手のサインが、壁のいたるところに貼り付けられ、鶏を焼く煙で薄汚れて変色していた。

僕は流行に疎いのでそのほとんどの名前を知らなかった。

僕と湯浅は、ビールで乾杯し、まずは肝刺しを食べた。

新鮮でとても美味い。

ぷるりと弾力があるが、ぐにゃぐにゃとししすぎず、噛みごたえも兼ね備えている。

そのうえ、値段もひどく安い。

さすがは九州だ。

 

「これは……美味いですね」

 

僕が驚きを含めて言うと、湯浅が破顔した。

 

「そうでっしゃろ。そうでっしゃろ。都会から人が来たら、まずここに連れてきますねん」

 

自慢げにそう言ってから、焼酎を注文した。

月の中、という聴いたことのない焼酎だった。

焼酎の水割りと、焼き鳥の盛り合わせがテーブルに運ばれてくる。

僕は湯浅のグラスを眺めて言った。

 

「霧島とかじゃないんですね」

「あぁ、霧島もここやったらぎょーさん種類ありますけどね。俺はこれが好きですねん」

「へぇ」

「同じもの、飲んでみますか?」

「そうだな。そうしようかな」

「よっしゃ。店長、この人にも月ん中、入れたって。『妻』がええわ。俺の大事な客やねん。サービスしたってや」

「妻?」

「銘柄ですわ」

「へぇ」

 

眼前に差し出されたその焼酎はまろやかだった。

芋だということが信じられない。

確かに悪くない酒だ。

 

「いけますやろ?」

「確かに」

 

湯浅に酒を勧められたことで、幾分、気持ちが打ち解けたような気がした。

僕は多少饒舌になり、経営戦略や、これからの方針、社会情勢などを語った。

湯浅は、その一つ一つに相打ちを打ち、だが自らの意見はさほど口にしなかった。

やがて、〆の焼きおにぎりが運ばれてくると、湯浅が口を開いた。

 

「そろそろ、行きまひょか」

「そうですね。もう夜も遅いし。帰りますか」

「何言うてはりますねん」

「へ?」

「キャバクラですがな」

「あ……」

 

焼き鳥ですでに満足していたので、完全な蛇足だと思った。

いっそこのまま、ホテルに帰ってゆっくりとしたい。

だが、湯浅が鋭い目つきで僕を見据えた。

 

「さんざ自分の話ばっかしといて、俺のお楽しみには付き合われへんて言わへんやろうなぁ?」

「あ、も、もちろん……」

「ほな、よろし」

 

湯浅が優しげに眼を細める。

 

「お会計は任しといてや。経費やさかい」

湯浅に連れだって店を出ると、タクシーに乗り込んだ。

 

「楽しい店やでぇ」

 

湯浅はうれしそうにつぶやく。

タクシーはほんの10分ほど走り、繁華街の外れの雑居ビルの前に停止した。

薄暗い雑居ビルの3階と5階だけ、灯りがついていた。

どこからか素人の歌う下手な演歌が漏れ聞こえた。

 

「ダボが。騒音被害やぞ」

 

湯浅が唾を吐いた。

 

「5階のスナックや。あほな年寄りが演歌を歌いよったら五月蠅うてたまらん」

 

そして僕を見据える。

 

「これから行く店は、3階のヴィーナス言う店やから。5階と違って五月蠅ないし、ちゃんと若い子がいまっせ」

「え、えぇ」

 

僕はあいまいに頷いた。

意気揚々とビルに入っていく湯浅に従う。

エレベーターで3階に着くと、会員制と銘打たれた木製の扉を開けた。

 

「いらっしゃいませぇ!」

 

若い女の子の声が聞こえる。

 

「あら、湯浅のおじ様。お久しぶりね」

 

颯爽とした様子の、金髪の女の子が僕たちを迎えた。

若い。

そしてすごく綺麗だ。

なぜか、手に紅茶のカップを持っているけれど。

 

「やぁ。ダージリンちゃん。最近はおじさん、忙しくってなぁ。許したってや」

「お忙しいのは良いことですわ。お商売が上手く行っておられるのね」

「そんなことあらへんあらへん。貧乏暇無しってだけや」

「あらあら。それは大変ですのね。今日は、ご指名は? いつもの娘でよろしいのかしら?」

「せやなぁ。沙織ちゃんはもちろんやけど、なんか、新しい娘も呼んだって。沙織ちゃんのお友達がこの前、入ったんやろ? 聞いてるで」

「ねぇ。湯浅さん、こんな諺を知っておいでかしら? 二兎を追う者は……」

「しょうもないこと言わんでええから、はよ呼んだってや。おっちゃん、疲れてるんや」

「……は、はい」

 

金髪の少女が、湯浅に睨みつけられてくるりと回転し、店の奥へと戻っていく。

ガタガタと震えていたようだが、床は濡れていない。

紅茶はこぼさなかったらしい。

しばらくすると、もう一度戻ってきた。

 

「お、お席にご案内させていただきます」

「さくっとしてな」

「は、はい」

 

僕たちは、奥のソファ席に座らされた。

 

「ご指名の二人はすぐに参りますので……」

 

深々と頭を下げるとダージリンちゃんは去って行った。

 

「講釈垂れる女は嫌いやねん」

 

湯浅が、机の上に置かれていたウィスキーを勝手に開ける。

と、その時、別の少女が僕たちの席に現れた。

どことなく見覚えのある少女だった。

 

「ご指名ありがとうございまーす!」

「おぅ。沙織ちゃん。勝手に飲ませてもらってるでぇ。どうせテーブルのは飲み放題なんやからええやろ? 薄いウィスキーや」

「やだもー。もちろんだよ~。って、あれ? そちらの方は」

「おぅ。俺のダチよ。偉いさんやぞぉ会社の経営者様や」

「えぇ!? そうなの!? あの、夕方のおじさんですよね?」

「え!?」

 

少女が僕を見る。

 

「あ!」

 

思い出した。

あの、本屋の店員の少女だ。

 

「君、本屋の……」

「しーっ!」

 

少女の細い指が僕の唇に触れた。

 

「プライベートは口に出しちゃダメ!」

「す、すまない」

 

僕は頭を掻いた。

湯浅が怪訝な顔で僕を睨む。

 

「なんやぁ? どういうことやぁ!?」

「あはは。なんでもないよ~。やだもー」

 

沙織ちゃんが手をひらひらとさせた。

 

「そんなことよりも、湯浅のおじ様の飲みっぷり、見たいなぁ~」

「よっしゃ、見せたろ」

 

湯浅が、ウィスキーをあおる。

沙織ちゃんが嬉しそうに手を叩く。

その時、もう一人の女の子がやってきた。

 

「あ、あの。お邪魔いたします。み、みほって言います」

「おっ、新人ちゃんや。可愛いやないか」

「みぽりんは私のお友達なんだよ~」

「う、うん」

 

今度こそ、強烈な既視感があった。

みほと名乗る少女は、あの老婆のいた喫茶店の店員だった。

 

 



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8 キャバ嬢という仕事

「き、君は……」

 

僕は、みほちゃんを見てうわずった声を上げた。

すると少女もこちらに気がついた様子だった。

 

「あ! ボコのおじさん!」

 

言ってから、「あっ、しまった」というように舌を出す。

僕は、いいよ、という風に小さく頷いた。

すると少女は笑顔になった。

花が咲いたような微笑みだ。

華やかさと幼さ、純粋さが同居している。

 

「うわ~! こんなところで合えるなんて奇遇ですね!」

 

少女がにこにこと微笑む。

 

「えへへ。実は私、おじさんのことがあの後もずっと頭に残っていたんですよ。だから、こうしてもう一度会えるなんて、なんだかうれしいです」

 

僕は、頬が火照るのを感じた。

違う。

こんな少女にときめくはずがない。

僕はもう、いい歳をした大人なんだ。

これはきっと、酒を飲みすぎたせいだ。

 

「横、良いですよね?」

 

みほちゃんが問いかけながら、すでに僕の隣に腰掛けていた。

 

「お酒、お強いんですか?」

 

僕の飲みかけのウィスキーグラスを手に取り、濡れたグラスのふちを指で撫でる。

その指が、妙に艶めかしい。

 

「そ、そこそこ、だよ」

 

僕の声はまた上ずっていた。

これじゃまるで喜劇役者だ。

僕は額を押さえる。

 

「でも、ここに来る前にもう飲んでらしたんですよね?」

「あ、あぁ」

「すごいなぁ。私、お酒って強くないから、憧れちゃいます」

「き、君だってすぐに慣れるさ。こういうお店で働いているんだから」

「だと良いな……。まだ、日が浅いから、慣れなくって。今日は、おじさんが相手で良かった」

 

うるんだ瞳が、僕を見つめる。

僕がその瞳に吸い込まれそうになっていると、湯浅が会話に侵入してきた。

 

「お嬢ちゃん。みほちゃんって言うんやな」

「あ、は、はい」

「可愛い名前やなぁ。顔も可愛いわ。すぐに人気出るぞ」

「そ、そんな……」

「カマトトぶらんでええがな。そんだけ可愛いんや。男喰ってきたんやろ? ん?」

「…………」

「この社長さんはオボコイから。あんまりネンネのふりしてかどかわし過ぎんといたってや?」

「…………」

「だぁんまりかいな。やわこいほっぺやなぁ」

 

湯浅が、みほちゃんの頬に触れた。

柔らかい頬の肉に、指が食い込む。

 

「んん~。モチモチやなぁ」

「あはは。湯浅のおじ様、やりすぎだよ~」

 

沙織ちゃんが湯浅の隣で笑う。

 

「みぽりん。このおじ様、こういう人だから。ちょっと我慢して触らせてあげて~」

「う、うん」

 

みほちゃんはぎこちなく微笑んだ。

 

「女の子のお友達ごっこはおもろいなぁ。みほちゃんは経験豊富やでなぁ? 男の子にいぃっぱい触られてきたもんなぁ? これぐらい平気やでなぁ~?」

 

湯浅がにこにこと微笑む。

 

「へ、平気です」

 

みほちゃんも微笑んだ。

そんな様子を黙って見ていると、今度は僕に矛先が向いた。

 

「んぉ、社長さん、ジェラシーかいな? ジィッと見よってからに。 ん?」

「嫉妬なんて、そんな」

 

僕の言葉に、湯浅の目が細められた。

低い声で湯浅が言った。

 

「よぉ、ワレ。今、なんで言い直したんや?」

 

僕は驚いて口をあんぐりと開けた。

 

「え?」

「俺が今、ジェラシー言うたのに、お前、わざわざ嫉妬と言い直したやろ」

「そんなの、無意識で」

「ふざけんなや。俺がジェラシー言うのをダサいと思ってほくそえんどったんやろ」

「違う、そんなつもりは……」

「まぁ、ええわ」

 

また不意に湯浅の表情が変わる。

 

「ここは楽しい場や。許しといたろ。おら、酒飲めや」

 

なぜ貴様に許してもらわねばならない。

そう怒鳴りたい気持ちを抑えて穏便に答える。

 

「それぐらいにしといた方が……」

 

だがその言葉も湯浅には火に油らしい。

湯浅が声を荒げた。

 

「なんやとぉ!?」

 

そこに、沙織ちゃんが割って入った。

 

「まぁまぁ、湯浅のおじ様。お酒飲んで、お酒。ほら、おじ様のだぁい好きなウィスキー。さおりんがソーダ割りにしてあげたよ」

「ほな、口移しで飲ませてぇな」

「うぇ?」

「嫌なんかい?」

「しょ、しょうがないなぁ。もー。湯浅のおじ様だけだよ?」

 

へらっと笑いつつも、眼が笑っていない表情で、沙織ちゃんがハイボールを口に含む。

 

「んふふ~。ちゃんと口ゆすぐみたいにくちゅくちゅしてや?」

 

嬉しそうに湯浅がそう命令すると、沙織ちゃんは、ハイボールで口の中をくちゅくちゅとさせ、それから唇を湯浅につきだした。

 

「よっしゃよっしゃ。沙織ちゃんの口の中で混ぜ混ぜされたハイボール、おっちゃんが飲んだるぞ」

 

ぶちゅっと、湯浅が沙織ちゃんに口づけし、口と口を結合させる。

 

「んぐ、んく、んくっ」

 

そのまま、口移しというよりも、吸い取るかのように沙織ちゃんの口の中のハイボールを飲み干していく。

僕はその様子を見ていて、吐き気がしてきた。

と、みほちゃんを見ると、彼女は無表情に二人の様子を見ていた。

 



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9 いつまでもボコだと……

「あ」

 

みほちゃんが小さくつぶやいてこちらを振り向く。

目があった。

横顔を見ていたことを悟られたような気がして、僕は少しばつが悪くなった。

みほちゃんがぐいと体を近づけてきた。

 

「あの。おじさんは、どうして社長って呼ばれてるんですか?」

「あ、あぁ。自営業だからだよ」

「え? じゃぁ、本当に社長なんですか?」

「小さな会社だけどね」

「うわぁ! すごいです!」

 

手をポンと合わせ、それから、また僕のウィスキーグラスを手に取り、露を指でふき取る。

 

「社長のおじさん。もっと、ウィスキー飲まないと」

「あ、あぁ……」

 

みほちゃんの細い手が、僕のグラスにウィスキーを継ぎ足す。

 

「えへへ、美味しいのできましたよ」

「あ、ありがとう」

「私も、飲んでいいですか?」

 

僕は頷いた。

すると彼女は、慣れた手つきでハイボールを作った。

酒は僕たちが飲んでいるウィスキーとは違うものだった。

みほちゃんはお酒に強くないと言っていた。

酔いすぎないようにもともと薄めたウィスキーを用意しているのだろうか。

しばらく、会話が途切れる。

思い出したように、みほちゃんが問いかけてきた。

 

「あの……」

「なんだい?」

「おじさんって、もしかして、今でも、ボコなんですか?」

「…………」

「あ、こ、答えにくかったら、いいんです! その、忘れてください」

「いや、いいよ。確かに、僕はボコだったよ。でも、今はもうボコじゃない。ボコなんかじゃないんだ」

「あはっ!」

 

みほちゃんが嬉しそうに微笑む。

 

「がっかりしたんじゃない?」

「ううん。むしろ、昔そうで、今は全然違うって人の方が好き!」

 

きらきらした瞳を無邪気に向けられた。

また頬が熱くなるのを感じる。

 

「すごいなぁ。本当にすごいなぁ。昔ボコだったのに、今は会社の社長さんなんだ。かっこいいなぁ」

 

羨望のまなざし。

ちょん、と、温かいものが指先に触れた。

みほちゃんの指だった。

 

「あのさ、みほちゃんは、どうして、僕がボコでも気にしないの?」

「うん。だって。そういう男の人好きだから」

「好き……」

「うん……」

 

じっと僕の瞳を見つめてくる。

 

「あの、もう一杯、飲んでもいいですか?」

「え?」

 

言われてみると、彼女のグラスは空だった。

 

「あぁ。もちろんだよ」

 

僕の言葉に答えて、彼女はまた自分のハイボールを作る。

 

「えへへ。ボコのおじさんと飲むお酒、美味しいなぁ。酔っちゃいそう。こんなにおいしいお酒、初めてかも」

「そう?」

「うん。だから、その。もっと、おじさんの話、聞きたいな……」

「みほちゃん……」

「おじさんがボコだった頃のお話とか、いろいろ……。その……アドレスの交換、しませんか?」

「あ、あぁ……」

 

僕が背広の胸ポケットをまさぐった瞬間、湯浅が言った。

 

「よっしゃ! そろそろ、お開きにしよか!」

「あっ……」

 

みほちゃんが、しゅんとした表情でうつむく。

 

「お会計はもう済ましましたで。社長。早よ帰ろ、帰ろ。ぼさっとしてないで立っておくんなまし」

 

僕は舌打ちをする。

みほちゃんが、残念そうにつぶやいた。

 

「あの。また、来てくれますか?」

「もちろんさ」

 

僕は頷いた。

 

 

帰りのタクシーの中で、湯浅が小ばかにしたように言った。

 

「社長はん、あんた、意外にウブやなぁ」

「え?」

「ボコのくせに、女遊びはからきしかいな」

「どういうことです?」

「どうもこうもございますかいな。あんた、あの新人のねーちゃんに弄ばれとったやないか」

「何が言いたい?」

「怖い顔すんなや。ありゃ、わりとやり手の女やぞ。ガキのふりして取り入ろうって魂胆や。あんたさんが社長や聞いて、眼の色変えよったやろ。アドレスなんか教えてみい。金吸い取られる羽目になるで」

「そ、そんなことは!」

「あるがな」

 

湯浅がニタニタと笑う。

 

「あんた。あの短い時間に何杯お酒せがまれたんや。それも高い酒。ん?」

「高い酒?」

「せやがな。あのガキ、自分の分は響12年を入れよったで」

「響?」

「そんなことも知らへんのか。響とか山崎入れられたら、えらい金取られると思っときや。それも12年ものなんか、どえらいことになる。今回は、俺が誘ったから払ったったけどなぁ。貸しやで、貸し。今度、商売の方でなんか色つけてもらうで」

「そんな……馬鹿な……」

「馬鹿はあんさんやがな。それでよう、もともとはボコやっとたのぉ。ん?」

「ぼ、僕はもう、ボコじゃない」

「ボコはどこまで行ってもボコじゃ! ボケ!」

 

その言葉に、頭に血が上るのを感じた。

ひどく腹が立った。

僕は叫んだ。

 

「う、うるさい! いつまでも僕をボコだと思うな! その名前で呼ぶな!」

「うるさいのはお前じゃ!!」

 

湯浅がひときわ強く怒鳴った。

 

「あぁ、けったくそ悪い。コンビニ寄るで」

「コンビニに何の用だというんだ」

「酒買うんやがな。飲み直しや。あんたのホテルの部屋で」

「…………」

 

ふつふつと、怒りやら悔しさやらが湧いてきた。

僕は、いつの間にか、口ずさんでいた。

 

♪やってやる やってやる やってやるぜ♪

 



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10 取り調べ

ホテルの前のコンビニでタクシーを降り、コンビニで缶ビールとつまみを買った。

 

「これぐらいはあんたが出しいな」

 

湯浅に言われるがままに、会計を払う。

そしてホテルに入り、二人でエレベーターに乗り込んだ。

僕の部屋は、ホテルの17階だった。

エレベーターはゆっくりと上昇していく。

湯浅が鼻で笑った。

 

「17階かいな。お高い部屋に泊まっとるのぉ。やっぱ社長さんはぐぅ!!!!?」

 

ほとんど無意識だった。

僕は、強烈な右ストレートを、湯浅の顔面に叩き込んでいた。

 

「な、なにすりゅ、んぶっ!!!!!」

 

続けて、もう一発。

息も絶え絶えにうずくまった湯浅の脇腹に、今度は蹴りを入れる。

 

「ぶぎっ!!!!!!」

 

でくの坊のように転がった湯浅の体に馬乗りになり、タコ殴りにする。

殴る。

殴る。

殴る。

殴りまくる。

 

僕の拳の雨は、エレベーターが17階に上昇している間、延々と行われた。

 

 

翌朝。

部屋の鍵が開く音で目が覚めた。

僕はひどく酒に酔い、だらしない姿でベッドに横たわっていた。

鍵を開けたのは、警察だった。

 

 

「牧野総一郎。41歳。これで二度目の逮捕だ。あんた、もう人生詰んだな」

 

取調室の警官が、ニタニタと笑いながら言った。

僕は首を振った。

 

「二度目の逮捕? 何を言っているんだ。僕は今回が初犯だ。それに、あの夜は激しく酒に酔っていた。あの男……湯浅には、ひどい精神的苦痛を与えられていたんだ。あれはある種の正当防衛だ」

「何が正当防衛だ。ふざけんな」

 

警官が僕を睨む。

 

「20年前にも、あんた東京で暴行罪で捕まってんだろうが。忘れたとは言わさんぞ。あんたね、そういう病気なんだよ。病気。人を殴りたいって言うね。頭ん中のどっかがおかしいんだ」

「20年前の暴行!? 何のことだ! 僕はそんなこと知らない!」

「吉岡さん、そいつは、精神異常をきたしてますよ」

 

警官の後ろで、痩せた男が腕組みをしていた。

 

「あんたは……」

 

その男は、あの飛行機で隣に座った中年だった。

こいつ、刑事だったのか!?

 

「完全に妄想が入ってしまっている。統合失調症だね。どうにもね、この間接触した感じだと、自分のことをボコっていうぬいぐるみだと思い込んでるよ」

「な、何がだ! 僕は、ボコだ!」

「ボコは『僕』なんて言わねぇよ!」

 

中年刑事が言葉を吐き捨てた。

 

「気になって調べてみたんだ。あのぬいぐるみの一人称は『おいら』なんだよ。牧野さん」

「そ、そんな。それは、それは僕が、人間になったからで……」

「いいや。違うね。あんたは、ボコなんかじゃない。それどころか、ボコのことも、ろくによく知らない。ボコってのは、20年前、あんたが仲良くしてた少女のお気に入りのぬいぐるみだよ。あんた自身のことじゃない」

「な、なにを言って……」

「これ。見覚えあるでしょうが」

 

中年刑事が、一枚の古びた写真を見せた。

そこには、島田愛里寿の姿が。

両手で大切そうにぬいぐるみを抱きしめ、はにかんで笑っている。

 

「こ、この子は……」

「どうだい? 思い出したかね」

「あ、あぁ。むしろ自分の記憶に合点がいったよ。僕はやはり、ボコだ。このクマのぬいぐるみだったんだ。ここに写っているのが、僕自身なんだ。そうだ、そうだよ……思い出したぞ。島田愛里寿。僕が君を探していた理由、僕が君を懐かしいと思った理由が分かった。僕は君のぬいぐるみだったんだ。それがいつの間にか自我をもって……」

 

中年刑事がため息をついた。

 

「かわいそうにねぇ。もうネジが外れちゃってるわ。頭の」

「何が言いたいんだ!?」

 

僕は刑事をにらみつける。

刑事はせせら笑うような表情を見せた。

 

「あのね、ここは現実世界だよ。リアルワールド。ぬいぐるみは人間になったりしないよ。そんな漫画みたいなことは起こらないんだよ」

「でも僕は現実に……」

「黙れよ」

 

刑事が机をたたく。

 

「聞いてるとこっちが憂鬱になる。あんた、もういい加減、目を覚ませよ。あんたは心の病気を抱えた犯罪者なんだよ。前科者の」

「ち、違う! そんなはずない!」

「そんなはずあるんだよ。昨夜とおんなじように、人ひとりボコボコにした過去があるんだよ。それであんた、塀の向こうで臭い飯食らったんだ。出所した後、どこも雇ってくれないから、自営業始めたんだよ。それが最近はまた奇行が目立ってきてたんだ」

 

僕は激しく首を振る。

意味が分からない。

意味が分からない。

この男は何を言っている?

なぜ僕をこんなにも苦しめる?

これが人間という存在なのか?

ボコと比べて、なんて醜いんだ!

 

「違う! 違う! 違う! 僕は、島田愛里寿のボコだ。僕は最近、愛里寿に会ったんだ。愛里寿を追いかけたりもしたんだ」

「だから、それ、あんたの妄想でしょ?」

「違う! そうだ、愛里寿に、おかしな箱を手渡された。それがカギなんだ。きっと僕は、愛里寿に何かされたんだ。魔法か何かをかけられたんだ。おかしな世界に飛ばされたんだ。箱だ。ホテルの部屋に箱があったはずだ」

「これかい?」

 

奥にいた別の刑事が、カートに乗せた箱を運んできた。

それは、記憶よりも薄汚れ、経年劣化しているように見えたが、確かにあの箱だった。

 

「そ、それだ! 開けてくれ! それを!」

 

ため息をつき、刑事が箱を開けた。

 

 

その中には、ぬいぐるみが入っていた。

小さなぬいぐるみ。

傷んでボロボロの。

ボコのぬいぐるみだった。

それを見た瞬間、僕の記憶が、よみがえった。

 

 



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11 愛里寿との本当の出会い

それは20年前のことだ。

僕は21歳だった。

小さな工場で旋盤工の見習いとして働いていた。

技術を求められる仕事だ。

工場には荒っぽい男も多く、対人関係には苦労したが、やりがいがあったし、自分の腕が上達していくことに、満足感があった。

そんなある日、僕は一人の少女と出会った。

少女は、僕が働く工場の裏手にある空き地に、一人ぼっちで佇んでいた。

僕はたまたま、裏手に置いていた作業用具を取ろうとして、空き地にたたずむ少女を見つけたのだった。

少女は小柄で、まだ中学生ぐらいに見えた。

手にはクマのぬいぐるみを抱いている。

僕は不審に思った。

工場の裏の空き地は、公園と呼べるような場所ではなかった。

そこは、地権者が管理を放棄したまま捨て置かれたような土地で、土は乾いてひび割れ、雑草は生い茂り、ところどころに不法投棄されたタイヤやら鉄くずやらが転がっている。

子供の遊び場としては不適切だった。

かといって、唐突に声をかけることもためらわれた。

僕は、気に留めながらも、いったん工場に戻った。

一通りの作業を終え、工具を戻そうと裏手に回ると、空き地にはまだ少女がいた。

空き地に捨て置かれた、木材に腰かけている。

先ほど見かけてから、もう2時間が経過している。

空き地には、街燈も何も設置されていない。

これから夕暮れを過ぎると、どんどん暗くなる。

ためらいながらも、僕は少女に声をかけることにした。

工場裏手のフェンス越しに、女の子に向かって言葉を投げる。

 

「ねぇ、そこで何してるの? 具合でも悪いの?」

 

僕の言葉に、少女が振り向いた。

とても美しい少女だった。

僕は、その端正な美しさに目を奪われた。

少女が、口を開いた。

 

「……あなたは?」

「ぼ、僕は、そこの工場の従業員だよ。さっきから、君がずっとそこにいるから、気になって」

「ごめんなさい」

 

女の子が、立ち上がった。

 

「立ち入り禁止だって知らなかったの」

「あ、いや、違うよ。そうじゃない」

「え?」

「別に、工場の土地だから注意したとか、そういうのじゃないんだ。ただその、女の子が一人でずっとそんなところにいるから、気になって……。暗くなると危ないし……」

 

なぜそんな説明をしたのか、自分でもよくわからなかった。

本当なら、注意して立ち去らせればよかっただけだ。

だが、少女を引き留めたかった。

少女と、もう少し、話をしたいと思ってしまったのだ。

少女が、僕をじっと見つめる。

フェンス越しに僕を見据えるその瞳は、凛と澄んでいて、淡い憂いがあった。

 

「ありがとう。あなたって、優しいのね」

 

少女がほほ笑む。

 

「もう大丈夫よ。あなたに、素敵な言葉をかけてもらえたから」

「あ、いや、そんなことは……」

「ね、あなたの名前は何?」

「僕? 僕は、牧野総一郎だよ」

「私は、愛里寿。島田愛里寿よ」

 

 

この日以来、愛里寿は時折、工場の裏の空き地に現れるようになった。

僕たちは、お互いに時間を示し合わせ、落ち合って短い会話を交わした。

僕の思い違いでなければ、愛里寿は僕に会いに来てくれているようだった。

僕はなんとか、仕事の合間に少し理由を作って工場の裏手に行くようにした。

僕の直接の先輩である老旋盤工の中本という男は、時間にファジーな男なので、特段気にしていない様子だった。

僕は戸惑いながらも、愛里寿との短い邂逅を楽しむようになった。

 

「ねぇ、総一郎さんって歳はいくつなの?」

「僕? 僕は21だよ」

「ふぅん。でも、大人びているのね」

 

愛里寿の物言いはいつもあけすけだった。

それでも不思議と気にならなかった。

 

「大人びているって。いったい誰と比べてだい? 僕なんて、学校もろくに出ていないただの旋盤工だよ。人と関わることも少ないし。人生経験もろくにないのに」

「比べている相手は私の同級生」

 

僕は思わず笑ってしまった。

 

「君の同級生と比べられてもなぁ。まだ中学生ぐらいでしょ? そりゃ、君の同級生よりは大人だよ」

「ううん、違うわ」

 

愛里寿が首を振る。

 

「私は大学生よ。だから、私の同級生は、総一郎さんと歳は変わらないわ」

「え? 大学生?」

 

僕は愛里寿をまじまじと見つめる。

すると愛里寿はじとっと僕をにらんだ。

 

「いま、疑ったでしょ?」

「あ、いや、その」

「本当よ。私、飛び級をしているの」

「じゃぁ、すごく賢いんだ」

「そんなこと。別にないわ」

 

愛里寿が少し照れたようにうつむく。

そんな様子がかわいいと思った。

 

「でもさ、大学生と比べて大人びているだなんて、そんなこと言われるとは思わなかったよ」

「そう?」

「うん」

 

僕は少しうつむいた。

 

「あのさ。僕さ、今この歳になって、大学にいっときゃよかったなぁって思うことがあるんだ。その……高校のときはさ、ちょっと、荒れてて。もう勉強なんてうんざりだって思っててさ。誰が学校や教師の言いなりになるかよ、とか思っててさ。そんで、こうやって就職を選んだんだけど」

 

愛里寿が、黙って僕の紡ぐ言葉に耳を傾ける。

 

「でも、社会に出てみたら、学校よりももっと他人の言いなりなんだよな。上司とか、社長とか、ありとあらゆる人間に縛られて。学校ってのがどんだけ気楽で自由だったか、今になってわかるよ。そしたらさ、大学ってのに対して、今頃になって憧れを感じちゃってね。もしかしてちゃんと勉強して、大学に入ってたら、人生違ったのかな、って」

「そんなこと、ないわ」

 

愛里寿が僕に身を乗り出す。

僕は少しドキッとした。

 

「大学の男子なんて、あなたよりもずっと頼りない人が多いわよ。あなた自身が言っているじゃない。社会に出ると人に縛られるって。その縛りの中で総一郎さんは努力してる。だから、私の同級生よりもずっと大人びて見えるの」

 

その言葉に少し、心が楽になる。

 

「ありがとう」

 

僕がつぶやくと、愛里寿は微笑んだ。

 

「そろそろ行くね」

「うん。また」

 

愛里寿が駆けていくと、僕は胸ポケットから煙草を取り出し、一本だけ吸った。

心の負い目が溶けていくようだった。

そうだな。

僕は僕自身だ。

僕のできる仕事を頑張ろう。

そう心に誓っていると、後ろから声をかけられた。

 

「おい! 総一郎! いつまで油売ってやがる!」

 

振り向くと、工場の窓越を開けて先輩旋盤工の金田が怒鳴っていた。

やべっ。

僕は頭を下げて、急いで作業に戻った。

 



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12 金田

その日の夜、工場の仲間と居酒屋で飲んでいると、酔って顔を赤くした金田が僕に言った。

 

「なぁ。総一郎ってよぉ。ロリコンなの?」

「え? ど、どういう意味ですか?」

 

唐突な言葉に驚いて、僕は金田を見た。

金田は僕よりも5歳上で、体格のがっしりとした、よく冗談を言う男だった。

彼は、なかなか腕の立つ職人で、僕が工場に入りたての頃には、よく僕の面倒を見てくれた。

僕の技術力は、彼に教えられたことが基礎になっているといっても過言ではない。

 

「金田さん、何の冗談ですか? 僕、ロリコンじゃないっすよ」

 

僕が笑うと、金田がぐっと顔を近づけた。

 

「いやいや、冗談じゃなくてさ。お前、今日、工場の裏で女の子と遊んでただろ」

「え?」

 

それって愛里寿のことか。

見られていたのか。

僕は少しばつが悪くなった。

仕事をさぼっていたのを見とがめられたわけだ。

しかし、あれはちょっとした息抜きに過ぎない。

たばこ休憩やらなんやらを取っている連中はほかにもたくさんいる。

それに何よりも、僕がロリコンじゃないことは事実だ。

愛里寿と話すことは楽しいが、それは癒し的なものであって、恋愛感情ではないはずだし、彼女が大人びていて、小さな子供と話しているという感覚はあまりなかった。

だから、否定しようとすると、金田が先に言葉を紡いだ。

 

「いや、隠さなくっていいって。むしろ、同じ趣味のやつがいてうれしいんだよ」

「は?」

 

同じ趣味?

 

「いや、俺もさ、ロリ趣味でさ。もう、JSかJCでなきゃ勃たねぇのよ。お前さ、どうやってあんな可愛いちびっ子と知り合ったわけ? マジうらやましいわ。今度紹介しろよ。もうヤったのか? ん?」

 

酒気を帯び、楽しそうにまくしたてる金田に、僕は言葉を失った。

その瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。

僕は、慌てて手を振った。

 

「ちょ、か、金田さん。違いますよ。僕はそんな」

「なんだぁ。隠してんのかよ。俺、マジだって。ほら、これ見てくれよ。俺のお宝。俺もお仲間なんだよぉ」

 

言いながら、金田が自分のスマホを操作する。

スマホの画面に、街中の少女を隠し撮った画像が現れる。

 

「え、か、金田さん、これって?」

「俺の趣味。な。俺も告白したんだからよぉ。次は総一郎の番だぜぇ?」

 

まずい流れだ、と思った。

この人、ガチなんだ。

そんなこと、知らなかった。

かといって、話を合わせるわけにもいかない。

僕と愛里寿はそんな関係じゃないし、金田みたいな性癖の人に、愛里寿のことを紹介するなんてもってのほかだ。

僕は、真剣な目で金田を見つめた。

 

「金田先輩。申し訳ありません。僕は、本当に違うんです。あの女の子とは、ただの知合いです。ちょっと相談ごとに乗っていただけなんです」

「え、あ……」

 

金田の表情が硬くなった。

酔いが覚めていくようだった。

 

「すいません、先輩。ただ、さっきの画像とか、性癖のことは他人には言いませんから」

「あ、あぁ……」

 

金田が、小さく頷いた。

その時、店内に数名の男が入ってきた。

体格のいい、雰囲気の荒い男連中だ。

僕はあまり付き合いがないが、見覚えがあった。

近くの工務店やら、プロパン屋やらの連中だ。

 

「よぉ、金田ちゃんじゃねぇか!」

 

男たちのうちの一人が手を挙げた。

 

「おぅ、島野」

 

金田も手を挙げる。

確か彼らは、高校の同級生か何かで、地域の祭りの実行委員会でも一緒だったはずだ。

 

「なんだ、浮かない顔をして」

「あ、いや何でもないんだ」

「一緒に飲もうぜ!」

「あ、あぁ」

 

島野と金田が一緒に飲み始めると、僕は立ち上がった。

 

「すいません。先に失礼します」

 

金田は、僕を一瞬にらんだ。

 

 

翌日、金田は僕に対して、どこかよそよそしかった。

びくついたように僕をちらちらと見ることがあった。

おそらく、自分の性癖をばらしてしまったことに怯えているのだろう。

僕としてはやや不本意だった。

別段、金田に対して恨みはないからだ。

ただ、愛里寿のことを、彼にこれ以上知られたくはなかった。

僕はその日、いつも通り空き地にやってきた愛里寿に言った。

 

「あの。ごめん。もう、ここで会わないほうがいいと思う」

「え? どうして?」

 

愛里寿がとても悲しそうな声を上げた。

僕は胸が締め付けられる思いだった。

でも、うまく説明することができなかった。

というのも、「ロリコン野郎に君のことを知られたからだ」なんて、言いたくはない。

そもそも愛里寿に、そんな単語を知ってほしくなかった。

僕がうまく説明できなくて、もごもごとしていると、愛里寿が僕に問いかけた。

 

「総一郎さん。なにか、隠してる?」

「いや、その……」

 

僕は頭を掻いた。

どうにも、見透かされている。

愛里寿には、嘘は通用しないみたいだ。

僕は、言葉を選んで愛里寿に告げた。

 

「実は、君と僕がこうして会っていることを、快く思っていない人がいる」

「快く思わない……どうして? お仕事の邪魔になるから?」

「まぁ、そんなところだよ」

「そっか」

 

愛里寿があっけらかんと答える。

 

「それは、確かにそうかも。総一郎さんは勤務時間に私と会ってくれているわけだし」

 

一人納得するかのように、愛里寿はうなづく。

 

「それじゃ、こうしましょ。次からは、仕事が終わった後に会いましょ?」

 



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13 ボコられグマ

僕は、金田の言動を心の片隅で気にかけつつも、愛里寿と会うことをやめることができなかった。

僕は彼女のことをすごく気に入っていたし、彼女も僕のことを気に入ってくれていたからだ。

僕は女性との付き合いの経験は浅いが、お互いがどことなく、心の深い部分で通じ合っていることはわかった。

愛里寿と一緒にいることは楽しかった。

彼女はまだ幼かったが、時折、僕よりもずっと知的に感じることがあった。

彼女の、話し方も僕には心地よかった。

子供の背伸びといえばそれまでだが、飾らない、大人びたクールさがあった。

工場の裏手で会うことをやめてからは、もっぱら、駅の裏手の商店街の古びた純喫茶が僕たちの会合場所となった。

サイフォンが置いてあり、モダンジャズをJBLのスピーカーで鳴らしているようなタイプの店だ。

看板には「月曜舎」と書いてあった。

 

「どういう意味かしら」

 

愛里寿が首をかしげると、年老いた店主が「六曜舎のパクリさ。大した意味はないんだ」とつぶやいた。

店主は無口な男だった。

お勘定以外で、それが僕たちの聞いた、唯一の彼の声だった。

 

あるとき、愛里寿が僕に言った。

 

 

「ね、ね。総一郎さんは、ボコって知ってる?」

 

唐突だったので、僕は思わず聞き返した。

 

「ボコ? なにそれ」

「えぇー。知らないの?」

「うん。残念ながら」

 

すると愛里寿は、頬を膨らませて、いつも脇に抱えているぬいぐるみを僕に押し付けた。

 

「えいっ!」

「わぷっ。な、なにするの」

 

ぬいぐるみをどけると愛里寿のいたずらに笑った顔が見えた。

 

「えへへ。これがボコだよ」

 

それは、彼女が年相応にふるまった珍しい機会だった。

僕は、そのあどけない微笑みが単純にすごくかわいいと思った。

 

「へぇ。いつも抱えてるこのぬいぐるみにそんな名前があるんだ」

「うん。ボコられ熊のボコ」

「ボコられてるの?」

「そうだよ」

 

あっけらかんと答える。

あぁ、だから包帯なのか。

しかし、ボコられているとはまた物騒な。

 

「負けてばっかりのキャラなの?」

「うん」

「そりゃ悲しいね」

「そうでもないよ」

「え、なんで?」

 

すると愛里寿は、すっくと立ちあがった。

 

「ボコはね、負けても負けてもめげないの! 前向きなの! そんなところが好き!」

 

なるほど、と僕は思った。

さすが愛里寿。

ただキャラクターのデザインが好きなだけじゃなかったわけか。

 

「負けてもめげない、か。僕もそんなメンタルが欲しいね」

 

何気なくつぶやいた言葉に、愛里寿が目を輝かせた。

 

「それじゃ、今度! 一緒にボコのアニメ見よ!?」

「あ、アニメ?」

「うんっ!」

 

きらきらと僕を見つめてから、はっと我に返ったように頬を赤らめた。

 

「あ、ご、ごめんなさい。はしゃぎすぎちゃった。総一郎さん、嫌なら言ってね」

 

そんな照れたしぐさが可愛くて、僕はちょっと愛里寿をいじめたくなる。

柔らかいほっぺをつんつんしながら言った。

 

「ぜんぜん嫌じゃないよ。むしろ、愛里寿の子供っぽいところを見れてうれしいかな」

「い、いじわるっ!」

 

ボコっ。

またボコを顔面に食らった。

 

 

数日後、僕は愛里寿の部屋にお呼ばれした。

ボコのアニメを見るためだった。

本当は僕の部屋に呼びたいところだったが、僕が住んでいるところは、工場の社員寮だ。

誰かに見られるわけにはいかなかったので断念した。

愛里寿の部屋は、ちいさなアパートの一室だった。

なんとなく、いいところのお嬢さんなのかなと思っていたので、少し意外だった。

もちろん、実家じゃなくてほっとしたが。

 

「一人暮らしなの?」

 

やや簡素なその部屋を見渡して僕は問いかけた。

 

「うん」

 

愛里寿がうなづく。

 

「実家は九州なの。大学に行くために上京してきたから」

「あ、そうか」

 

合点がいった。

しかし、いくらしっかりしているとはいえ、偉いな。

こんなに小さいのに、一人暮らしだなんて。

と同時に、すこし気になることがあった。

 

「それじゃ、ここって、大学の学生寮?」

 

僕の心配を見透かしたように愛里寿がほほ笑む。

 

「ふふふ。そんなに心配しなくても大丈夫。学生向けの安いアパートではあるけど、学生寮ではないわ。誰が出入りしても問題ないよ」

「そっか」

 

僕は胸をなでおろした。

ほっとした気持ちで、ベッドに腰を下ろす。

降ろしてから、気が付いた。

これって、愛里寿のベッドじゃないか!

何やってるんだ、僕は!

お、女の子のベッドに勝手に腰を下ろしちゃうなんて。

 

と、心の中で慌てふためいたけれど、愛里寿は気にしていないそぶりだった。

い、いいのかな。

おっかなびっくり、僕はベッドのシーツに手を触れる。

これが、愛里寿が寝ているシーツ……。

やばいぞ、ドキドキする……。

そのとき、壁にかけてある地図に目が行った。

それは、戦場の地図だった。

 

「これって」

 

僕の問いかけに、愛里寿がうなづいた。

 

「うん。戦車道の、戦略地図だよ」

 

戦車道。

最近はすたれつつあるけど、伝統ある女子のたしなみの一つだ。

そうか。

それは、知的でディーセントで芯の強そうな愛里寿にピッタリであるような気がした。

似合ってるね、と言いそうになって、愛里寿の表情が無表情なことに気が付いた。

 

「もしかして、何かあった?」

 

無神経かもしれないけれど、そう問いかけずにはいられなかった。

 



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14 愛里寿のお部屋で観賞会

僕の問いかけに、愛里寿は、少し目を伏せた。

それから、黒目がちなその大きな瞳で、僕を見た。

僕は言った。

 

「ごめん。いらない捜索だったかな」

「ううん」

 

愛里寿が首を振った。

 

「むしろ、聞いてくれてうれしいよ。やっぱり総一郎さんは優しいって思った」

「でも、それで君が何か、嫌な気分を味わうなら」

「大丈夫」

 

愛里寿が僕を制す。

 

「詳しくは話したくないけど。ほんの少しだけ、むしろ聞いてほしい、かも」

 

僕はうなづいた。

すると、愛里寿は、ちょこんっと、ベッドの僕の隣に腰かけた。

小さな肩が、僕に触れる。

 

「あのね。初めてあなたと出会った日の私、覚えてる?」

「うん」

「泣いてたでしょ?」

「うん」

「あれって、戦車道がらみ」

「うん」

 

深く知らないことにいい加減な言葉は与えられない。

僕は、肯首するだけに徹した。

 

「戦車道って、素敵だけど、時々嫌な世界。勝ち負けもあるし、選ばれるもの選ばれないものもあるし」

「それって、勝利の女神にってこと?」

「あらゆる部分で。勝者に選ばれるかどうか、選抜に選ばれるかどうか、才能に選ばれるかどうか……すべてが、まるでレースみたい」

「そっか」

 

僕は、愛里寿がなぜボコを心のよりどころにしているか分かったような気がした。

何があっても立ち上がるクマ、ボコ。

小さな体で、大学で頑張る愛里寿には、いろんな悩みがあるだろう。

 

僕は、無意識のうちに彼女の小さな頭を撫でていた。

 

「あっ」

 

愛里寿が、くすぐったそうに目を細める。

でも、嫌がらずに体を預けてきた。

 

「君は強いね」

 

僕はつぶやく。

 

「そんなことないよ」

 

愛里寿がつぶやく。

 

「ううん。君は強いよ」

 

愛里寿は、それ以上答えなかった。

その代わり、目を閉じて、僕にもたれかかってきた。

僕は、その小さな頭をしばらく撫で続けた。

 

「戦車道、それでも、好きなんだね」

 

小さな声で問いかけると、

 

「……うん!」

 

愛里寿が、うなづいた。

 

 

どれぐらいそうしていただろう。

時計が、18時を知らせてぼーんぼーんと鳴った。

愛里寿が頬を赤らめて、僕から体を少し離した。

 

「あ、あはは。そろそろ、ボコ、見なくちゃね」

 

照れ隠しのようにつぶやく。

 

「そ、そうだね」

 

僕もなんだか気恥ずかしくなって同意した。

愛里寿がテレビをつけ、DVDプレイヤーにディスクをセットする。

すると、歌が流れだした。

 

♪やってやる やってやる やってやるぜ♪

 

「面白い歌だね」

「うん。私、この歌大好き。主題歌なんだよ」

 

そういうと、再び彼女は僕に、肩を預けてきた。

どうやら、そのポジションがお気に入りになったみたいだ。

僕は、少女の高い体温を感じ、どぎまぎし、ほとんどアニメの内容が頭に入らなかった。

ただ、歌は強烈に印象に残ったけれど。

 

 

それからしばらくして、人事異動が発表された。

僕は、セクションの長に抜擢された。



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15 出世

人事部の林が僕を呼んだ。

 

「おい、総やん、ちょっとこっち来い」

 

林のイントネーションには、わずかだが訛りがある。

富山の出身だというが、富山弁というものがどういうものだか僕は知らない。

 

「あ、はい」

 

作業を止めて、立ち上がる。

周囲にいた同僚が茶化して僕の臀部をたたいた。

 

「なんかやったのとちゃうけ。減給かぁ?」

「あはは、それだけは勘弁っすよ」

 

笑いはしたが、内心、もしかして何かポカをやらかしたかと気が気でなかった。

びくつきながら、林の後を追って、事務室へと入る。

 

「あの、なんのご用件でしょうか……」

「まぁ、座ったらどうだ」

 

促されるままに、椅子に腰かける。

林が、眼鏡の位置を調節しながら言った。

 

「総やん、お前、セクションの長、やれや」

「え?」

 

一瞬、頭が追い付かない。

セクションの長?

 

「言ってる意味、わかるか?」

「え、あ、はぁ」

「だったらもっと、うれしそうな顔しろや」

「え、あ、す、すいません」

 

僕がぺこりと頭を下げると、林が頭を掻いた。

 

「お前なぁ。真面目なのはいいけど、無愛想だな。まぁ、そこがいいところだが」

 

そこまで言われてやっと、褒められていることに気がついた。

 

「あの。林さん」

「なんだ?」

「もしかして、僕、褒められてます?」

「もしかしなくても褒めてるよ」

「そ、そうですか」

 

頬の奥に、不思議なほてりを感じる。

人から褒められることを実感する機会は稀だった。

 

「総やん、全体の動きをよく見てるだろ。他人の邪魔にならないようにきっちりと自分の仕事を片付けている。それに、いらん口たたかないところがいいわな。俺はそこを気に入っている」

 

その言葉は意外だった。

工場の人間の中には、気性が荒いものもいる。

彼らは、オンでもオフでも、他人の行動にあれこれと注文をつけて、場の中心的存在だった。

どちらかというと社交的ではない僕は、自分がやや浮いた存在だと思っていた。

 

「でも、意外です。経験や年齢から言っても、金田さんとか、植村さんとかの方が先に抜擢されると思っていました」

「あいつらは態度が気に食わないんだよ」

 

吐き捨てるように林が言った。

 

「ここだけの話だがな。お前、人には言うなよ」

「は、はい」

「おれはな、あぁ言う態度のでかい連中が嫌いなんだ。若造のくせに、偉そうにしやがって。ちょっと技術持ってるからって、自分が偉いと思い込んでやがる。だいたいなんだ、特に金田だよ、金田。酒を飲んだら暴れやがって。あれは失敗するぞ、そのうち」

 

その言葉には答えようがなかった。

声がでかく、イニシアチヴを取っている連中を、むしろ人事の林が嫌っていたとは。

考えてみると、林は事務畑一本やってきた男で、うちの職場では珍しい大学出のインテリだった。

工場の一部の荒い男たちとはソリが合わないのかもしれない。

とはいえ……植村はともかく、金田は僕の直接の先輩だ。

あまり表向かって、批判はしたくなかった。

そこで僕は曖昧に微笑しておいた。

 

「まぁいい。そういうわけだから。総やん。これからもがんばってくれよ」

 

林が、僕の肩をぽんぽんと叩いた。

その叩き方には妙な温かみがあった。

 

 

セクションの長に抜擢されたということは、単純にうれしかった。

あまり出世には興味がないと思っていたが、自己が認められたということに想像以上に喜びを感じた。

一方で、これからのことに一抹の不安もあった。

それは、工場内のほかの先輩作業員たちが、僕のことをどう思うかだ。

殊更に金田のことが気になった。

僕が工場に入ったころ、手取り足取り教えてくれたわけだが、結果的に僕の方が先に出世することになってしまった。

そのことをどう思うだろうか。

愛里寿の一件以来、どことなく疎遠になってしまったが、金田には先に出世のことを話しておいた方がいいような気がする。

僕は、金田に連絡を取ることにした。

仕事が終わった後、金田の携帯を鳴らす。

少し緊張した。

疎遠になった人間に電話をするということは、こんなに精神を削られる行為なのか。

 



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16 芦刈

「もしもし」

 

やや無愛想な声が耳元に届いた。

それは聞きなれた金田の声だった。

無愛想に聞こえるのは、彼がまだ僕のことを警戒しているからだろう。

僕は、あえて明るい声を出した。

 

「あの、お久しぶりです。金田さん」

「あぁ、久し振り」

 

金田がつぶやくように答える。

 

「最近は、工場でもあまり顔を合せなかったもんな」

 

それは金田が僕を避けていたからだが、そのことは突っ込まないでおいた。

 

「えぇ。それでちょっと、久し振りに飲みたいなって思って。どうですか、今夜か、明日でも」

「……」

 

しばしの沈黙があった。

 

「……どういう、つもりだ?」

 

静かに金田が問いかける。

 

「どういうって、その。他意はありませんよ」

「他意がないだと? ふざけるなよ」

 

吐き捨てるように金田が言った。

 

「他意がなく、急に俺を飲みに誘うわけがないだろう」

「そんな。何を言ってるんですか。以前はちょくちょく飲みにいったじゃないですか」

 

それは事実だった。

僕は、金田とは時折、飲みに行くことがあった。

金田の声が幾分和らいだ。

 

「……すまない」

 

謝罪。

 

「……ちょっと、どうかしていた。でもよ、急に誘ってきて、他意がないことはないだろう? なにが目的だ?」

 

僕はため息をついた。

これは、僕の選択ミスだった。

他意が無いなどというべきではなかったのだ。

僕は正直に、自分の気持ちを伝えることにした。

 

「実は、僕は今度、セクションの長に抜擢されました」

「……へぇ」

 

金田が戸惑ったような相槌を打つ。

唐突の告白に理解が多いつかない様子だった。

 

「先程、人事からお達しがあったんです。まだ人に言うべきことではないですが、金田さんには伝えておきたかったんです」

 

そこで一呼吸おく。

こちらの気持ちを脚色せずに包み隠さず言うべきだと思った。

 

「金田さんには、入社したころ本当にお世話になりました。その金田さんを差し置いて、自分が先に長になる。そのことは、伝えておくべきだと思ったんです。言わないでおいて、嫌な眼で見られたくないと思ったんです」

「そうか」

 

金田が短く言葉を切った。

彼は、電話口の向こうで思案しているようだった。

何か見えない気持ちを天秤にかけて測っているような沈黙の時間があった。

 

「わかった。その説明なら納得がいくよ。総一郎は、俺に恨まれたくないんだな」

「言い方は悪いですけど、そうです」

「それを俺に言いたくて、飲みに誘った」

「はい」

「オーケイ。それなら、今から飲もう。出世祝いだ。奢ってやるよ。『芦刈』でどうだ?」

 

大衆居酒屋『芦刈』は、時折、僕たちが飲む店だった。

金田はその店の常連だった。

 

「ありがとうございます。ぜひ、行きましょう」

 

僕は同意した。

19時に店の前で待ち合わせる約束をして、電話を切った。

心に平穏が訪れた。

金田は僕に対する警戒を和らげたらしい。

そのことにほっとした。

 

 

約束の時間に「芦刈」に行くと、入り口の手前で金田が待っていた。

 

「よぉ」

 

金田が手を上げる。

僕も同じように片手を上げた。

 

「予約、してあるから」

 

僕との電話のすぐ後、店に予約を入れたらしい。

奥の個室が用意されていた。

 

「それじゃ、乾杯!」

 

僕たちは、生ビールをあおる。

きめ細やかな泡が喉に心地よい。

久しぶりに、美味いビールを飲んだような気がする。

これも、心の安寧がなせる業だろう。

店内では、カエターノ・ヴェローゾが流れていた。

そのこともまた心地良い。

ブラジルの海風を心が感じるかのようだ。

 

「総一郎、その。誤解して悪かったな」

 

一杯目のビールを飲み干すと金田が頭を下げた。

 

「いや、そんな。こちらこそ、ちょっと変なことになっちゃって申し訳なかったです」

 

僕もビールを飲み干し、つぎの一杯をお互いに注文する。

僕は芋の水割りを、金田は吟醸酒を。

農口という、少し珍しい酒が入荷したらしく、金田はそれを美味そうに舐めた。

 

「あのさ、俺さ。自分の性癖がまずいもんだってのはわかってるんだよ。心の奥底でさ」

 

なめろうを箸で取りながら、金田が呟いた。

 

「だからよ、お前とあの女の子の関係を誤解して仲間がいたって思っちゃったし、自分の性癖をばらした後、怖くなっちまったんだ」

 

僕は、焼酎をあおって、金田を見据えた。

 

「僕は軽蔑しませんよ」

 

口からそんなことがするりと這い出た。

ロリータコンプレックスについて、深く考えたことがなかったが、金田に対してそれほどの嫌悪感が湧き上がっていなかったことは事実だった。

 

「そっか。そっかぁ」

 

金田がうれしそうにうなづいた。

それから後は、仕事の話が中心になった。

今後、僕がセクションの長になるにおいて、気を留めておくべきことなどを金田は教えてくれた。

 

「俺も長になったことはないけどさ。見てるとわかる部分、あるだろ。こういうことはして欲しくないとかさ」

 

僕はうなづいた。

そして、彼が教えてくれることを携帯のメモ機能に書き込んでいく。

酒が入り、指の動きはつたなくなっていた。

文字の間違いが生じているが、あまり気にならなかった。

心が広くなっている。

それは、金田も同じだった。

彼が言った。

 

「俺さ、お前が正直に、俺がやっかむかもしれんと言ってくれたことに感謝してるんだぜ」

「そうですか?」

「あぁ。正直なやつは信用できるんだ。だから、お前は俺の性癖も人に言わないって確信できたよ」

 

言いながら、さらに酒を舐める。

銘柄は呉春に変わっていた。

 

「あのよ。アレだぜ、お前」

 

金田が机に少し身を乗り出させる。

 

「セクション長になると給料がぐっと上がるぞ」

 

僕はそのことに思いが至っていなかった。

そうか。

そういえばそうだな。

給料。

 

「つぎはお前が奢れよぉ?」

「えぇ。勿論です」

 

しかし、給料か。

勿論、増えることはすごくうれしい。

だが、趣味らしい趣味がない僕には、使い道がないかもしれない。

いや、待てよ?

給料に余裕があれば。

日々の食費や光熱費で消えていく以上の金があれば。

そうだな。

愛里寿にプレゼントを買ってやれるかもしれない。

ボコ……あのぬいぐるみ。

喜んでくれるだろうか。

 

「おい、総一郎? どうした、酔ったのか?」

「あぁ……いえ。少し、考え事を」

「なんだ? 彼女のことか?」

 

僕は頬を赤くした。

 

「ちょ、なんでそう思うんですか? っていうか、あの子は別に彼女では……」

「図星かよ」

 

金田がニヤニヤとする。

 

「総一郎さ。そういう趣味じゃないって言ってるけど、本当はそういう『ケ』があるって」

「な、何ですか、藪から棒に」

「いや、いや、本当に」

 

金田は顔を真っ赤にしている。

相当酒に酔ってきたらしい。

 

「でなきゃ、あの女のこのことばっか考えてねーって」

「いや、その」

「見てりゃわかるよ。お前、あの子に気があるんだってよ」

「う、ぁ……」

 

言葉が返せない。

否定しきれない。

しかし、僕はロリコン的な趣味ではなく、ただ愛里寿が可愛くって……。

 

「これ、見てみ? 可愛いと思わんか?」

 

金田がスマホを僕に向ける。

そこには、小柄な少女が写っていた。

先日のような盗撮画像ではない。

ちゃんとした写真だ。

黒い髪の、子供と大人の中間といった美しい少女が、ふわりとしたドレスを来てこちらに微笑んでいる。

その目はひどく冷めた目をしているが、どこか妖艶でもある。

僕はつばを飲んだ。

 

「たしかに、可愛いですね」

「だろう?」

「この子は?」

「擬似だよ、擬似。犯罪じゃねーんだ」

「擬似?」

「あぁ。冷泉麻子ちゃんっていってな。擬似ロリ系の女優よ」

「女優?」

「こういうこと」

 

こっそりと呟くと、金田が、スマホで動画を再生する。

そこでは……小柄な少女、冷泉麻子が、男に組みふされて性行為をしていた。

 

「な、なんですか、これ?」

「だから、擬似だって。この子、体が小さくてロリっぽいだろ? ガキにしか見えねーだろ? これでも大人なんだぜ」

「これは……」

 

確かに、麻子という女優は、少女にしか見えなかった。

体が小さい。

その細い体躯が、僕の脳裏で、愛里寿と重なる。

脳が、焼けるような気がする。

 

「夢中で見入ってるじゃん、総一郎」

 

金田が笑う。

 

「この手の女優って他にもいてさ。角谷杏ちゃんとか、カチューシャちゃんとか、有名な子がいるけどな。俺はこの麻子ちゃんが好きでな」

 

僕は顔を上げた。

金田は、あざ笑っているわけではなく、ただうれしそうだった。

 

「あの」

 

僕は、気になったことを問いかけた。

 

「どうして、この子はこんな、学芸会みたいなドレスを?」

「あぁ、そういうシチュエーションビデオなんだよ」

「シチュエーション?」

「そう。ピアノと美少女ってシリーズでな」

 

金田が、動画を先に進める。

そこには、ピアノの発表会で、椅子の代わりに男の上に乗りながら、ピアノを弾かされる麻子ちゃんがいた。

 

「こういう、シチュエーションを想定してるわけ。いろんなシリーズがあるんだよ。運動会とかさ、授業参観とかさ」

 

金田は動画の音を消していたが、耳に、ピアノの音が聞こえてきた。

僕が混乱して周囲を見渡すと、金田が驚いたようにスマホを隠した。

 

「な、なんだ? 店員が来たのか?」

「あ、いや、違って。その、ピアノの音がって」

「そりゃお前、店内放送だろ」

「あぁ……」

 

そうだった。

いつの間にか、カエターノ・ヴェローゾが終わり、今はジャズピアノが流れていた。

Guess I‘ll Hang My Tears Out To Dry。

感傷的で、スムーズだが、癖のなさ過ぎる演奏だ。

BGMにはもってこいなのだろう。

 

「すいません。ちょっと酔ってたみたいだ」

 

僕は頭を抑えた。

 

「ははは」

 

金田が笑う。

 

「そろそろ、出るか」

 

会計を済ませ、外に出ると、空気はどことなく涼しかった。

 

「これからも頑張れよな、総一郎」

「はい」

 

僕はうなづいた。

金田と別れた直後、携帯が何かを着信した音が聞こえた。

メールか何かか?

僕は深く考えず、帰宅をした。



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17 堕ちはじめる男

金田と別れた後、久しぶりに飲んだ酒に酔いながら、夜道を歩いた。

社員寮のアパートのそばの自販機で水を買い、それを飲み干す。

ふと、先ほどの着信音が気になった。

カバンに入れていた携帯を取り出し、メールフォルダをチェックする。

金田からのメールを受信していた。

どういうことだ?

先ほどの着信音は金田からのメール?

別れた直後に僕にメールをしたのか?

少し不思議に思いながら、受信したメールを開く。

 

≪プレゼントだ。≫

 

そんな簡潔な一文とともに、添付ファイルがあった。

添付ファイルにアクセスすると、動画が流れ出した。

 

「!!」

 

驚いて僕はすぐにその動画を閉じる。

それは、先ほど金田が僕に見せた冷泉麻子のポルノ動画だった。

誰かに見られなかったか、僕は周囲を見渡す。

擬似とはいえ、ロリ系の女優だ。

他人にいらぬ誤解を与えたくない。

…………。

幸い、周囲には誰もいなかった。

真夜中の漆黒の闇が、空洞のような道路を覆っている。

僕は胸をなでおろした。

 

「テロかよ」

 

呟きながら、自室の鍵を開ける。

部屋に入ると、疲れが湧き出してきて、僕はベッドに突っ伏した。

金田にメールを打つ。

 

≪プレゼント、見ましたよ。まさかあの動画とは≫

 

すぐに返事が来た。

 

≪うれしいだろ? 楽しめよ、総一郎。≫

 

僕はため息をついた。

 

≪せいぜい楽しませていただきます≫

 

皮肉交じりの返信をする。

メールを打ち終えると、仰向けになり、アパートの天井を眺めた。

安っぽい、ぼろいアパートだ。

電球が吊り下げられた殺風景な天井は、薄汚れている。

ふと、鼻先に柔らかい匂いがしたような気がした。

花のような匂い。

女の香水のような。

だが、それは気のせいだろう。

香りは一瞬で消えてしまい、もうそれを辿ることはできなくなった。

女……。

体が、猛烈に女を求めていた。

だが、この部屋には女はいない。

安アパートの、薄汚れた天井、染みのにじんだカーテン、壁際に捨て置かれたカップラーメンの空容器。

これが、これが僕の世界か!

愛里寿!

愛里寿!!

君がいなければ、僕の世界はこんなにも真っ黒だ。

君だけが僕の世界を変えてくれる。

なのに、この深夜、君はここにいない。

僕は、携帯を手に取った。

愛里寿の声が聞きたかった。

電話をしたかった。

だが、時刻はもう23時を回っていた。

幼い少女に電話をかける時間ではない。

…………。

………………。

胸の奥がうずいた。

激しい波がやってきて、僕の根っこを揺さぶるようだった。

まるで、『セクシュアル・ヒーリング』のマーヴィン・ゲイだ。

荒れた海を漂うちっぽけな船だ。

酔っていた。

頭が、判断力をなくしていた。

僕は、携帯のメールフォルダにアクセスした。

金田の送ってくれた動画。

まだ、消していなかった。

それにアクセスする。

画面の中に、小柄な少女が現れる。

冷泉麻子。

冷泉麻子。

冷泉麻子。

小さな、幼い少女に見える。

この女は、まるで愛里寿みたいな年齢に見える。

くそっ!

くそっ!!

僕は、画面に見入る。

見入る。

見入る。

画面の中で、少女が、大柄な男に上から押さえつけられている。

男は犯罪的な大きさだ。

小さな冷泉麻子との対比が凄い。

そんなに大きい男が、冷泉麻子のような小柄な女の上に乗り、押しつぶさんばかりに腰を振っている。

飛び散る汗・汗・汗。

なんだ、これは!!

なんなんだ!!!

何で僕は!

 

こんなにも、興奮、しているんだ!!!!?

 

僕は、しごいていた。

自分のペニスを。

飛び散る。

飛び散る。

飛び散る。

それは。

 

きっと僕の汗だ。

 

 

息も絶え絶えに、ベッドに仰向けになる。

やってしまった。

金田の、擬似ロリ動画で、ヌいてしまった。

動画……。

消さなくて、よかった。

それが、そのときの僕の、正直な気持ちだった。

金田から送られてきた瞬間は、部屋に戻ったらさっさと消してしまおうと思っていたのだが。

まさか、こんなにも、『使えるもの』だとは。

頭の奥がチカチカとした。

感情や感覚、価値観が、塗りかえられている。

 

…………。

 

僕は、携帯を、握り締めた。

もう、それなしでは生きていけないような気がした。

 



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18 麻子が頭に棲みついた

週末の喫茶店は、どこか人いきれで息苦しかった。

せわしなく動き回るウェイトレス、ひっきりなしに聞こえる注文の声。

そんな喧騒に混じって、アンディ・ギブの懐かしい歌が聞こえた。

ラジオが流れているのだろうか。

I Can‘t Help Itと題されたその歌は、文字通りいとしい女に「もう我慢ができない」と歌っている。

だが、アンディが我慢できないのは女ではなく、ドラッグだった。

アンディ・ギブはこの歌を歌った10年後、深刻なドラッグ中毒に悩まされながら死んだはずだ。

一方で、僕が今、我慢できなくなってしまっているのは、『動画』を見ることだった。

金田に送りつけられた冷泉麻子のポルノ動画を見て以来、それを見ることをやめることができなくなってしまった。

動画を見ることができない状況でも、脳裏に、少女の肢体が浮かんでくる。

冷泉麻子の肢体。

細くて華奢な、その体。

 

「あぁ!」

 

僕はため息をつき、こめかみを押さえた。

また思い浮かんできた。

また思い浮かんできた。

股間が熱くなる。

疼く。

僕は立ち上がり、携帯を片手にトイレへと駆け込んだ。

幸い個室が開いている。

個室の中に入り、鍵をかけ、動画を再生する。

それを見ながら、熱くなった股間の処理をする。

こういうことは日常茶飯事になっている。

我慢することができない。

工場でも、トイレにいく振りをして、動画を見ることがある。

さすがに処理をする勇気はないが、そのうち一線を越えてしまうかもしれない。

トイレの個室では、店内のざわめきがないからだろう。

ラジオの歌がより鮮明に聞こえる。

やはり、アンディ・ギブは「I Can‘t Help It」を歌っている。

僕は、うろ覚えのまま、さびの部分を合わせて歌う。

 

 

家に帰っても、夜になると必ず動画を再生するようになった。

それは、僕にとって甘美な時間だ。

ベッドの毛布をかぶり、携帯の液晶に目を凝らす。

冷泉麻子が。

幼い少女にしか見えない女が、男に犯されている。

男の手さばきは、見事だ。

彼は、学芸会のピアノ発表の練習をしている冷泉麻子に声をかける。

そして、さも当然というように、彼女の太ももに手を触れる。

冷泉麻子は、少し戸惑う表情をしながらも、さほどの抵抗をしない。

男の指が、スカートの中に入り込む。

くすぐったそうに身をよじる麻子。

だが、それだけだ。

抵抗をせず、男を受け入れていく。

こんなにも簡単に。

美しい少女が、男を受け入れていく。

 

 

一月が過ぎた頃、僕はセクションの長になって最初の給料をもらった。

これまでよりも、手取りにして5万円も増えていた。

勿論、そのすべてが自由になるわけではない。

セクションの長として、人に飯をおごることもあった。

それはこれまでの長も伝統的にやってきた事で、僕の代で急にやめるわけにはいかなかった。

それでも手元には万札が残った。

僕はそれを使って愛里寿にプレゼントを買うことにした。

もともと、給料が上がればそうするつもりだったので当然だ。

何を買うかはもう決めていた。

愛里寿の好きな、あのぬいぐるみだ。

ボコられグマのボコ。

僕からすれば、どこが可愛いのかぴんと来ないのだが、プレゼントなのだから、相手が喜ぶものを買うべきだろう。

愛里寿は、先日遊んだとき、ボコのぬいぐるみの限定版を欲しがっていた。

それを買うために、地下鉄と私鉄を乗り継ぎ、大手のアニメショップへと向かった。

 

趣味らしい趣味をあまり持たない僕は、これまでアニメショップに行ったことがなかった。

アニメショップというのだから、オタク的な中年のたまり場なのかと思ったが、雑居ビルの4階にテナントとして入っているその店は、清潔感があり、意外に若い少女が多かった。

コミックよりもグッズが多く、ちょっとしたファンシーショップ風だ。

片隅に、ボコられグマの特設コーナーがあった。

そこまで人気のある作品ではないのか、さほど大きな扱いではなかった。

携帯ストラップやタペストリーに混じって、お目当てのぬいぐるみが置いてあった。

それは、いつも愛里寿が抱えているぬいぐるみよりも一回り以上小さかった。

しかし、つくりは数倍精巧だった。

毛並みや表情、包帯といったディティールが洗練されている。

有名なぬいぐるみ製造会社が特別に企画した限定品だった。

僕はそれを手に取った。

まるで、生きているかのようだ。

ディフォルメされたデザインであるにもかかわらず、どこかリアリティを感じさせる。

アニメやぬいぐるみに興味のない僕が見ても、それは引き込まれる魅力を持っていた。

僕は、ぬいぐるみの毛並みを撫でた。

柔らかい。

本当に、そこに、このボコという生物がいるかのようだ……。

僕は、タグを見た。

2万5000円。

特別な限定品であるだけあって、高い。

だが、もう心に決めたことだった。

僕は意を決したように、それを持ってレジへと向かった。

 

「会員登録をなさっておられますか?」

 

レジ係の若い女性の店員が、僕に問いかけた。

ふわっとした髪をしたにこやかな女の子だ。

名札には、秋山って書いてある。

 

「会員登録?」

「はい」

「いや、していないよ。別に登録なんてしなくていいよ」

 

僕がそう言うと、店員が笑顔で言った。

 

「ぜひ、登録なさってください。今キャンペーン中で、会員登録なさってくださったお客様の初回のお買い物を10パーセントオフしているんです。お会計が2万5000円ですから、2500円引きになりますよ。大きいお金ですので、ぜひ」

 

なるほど。

確かに、それは大きいな。

2500円も引いてもらえるなら、価値はある。

余ったお金で、愛里寿にケーキでも買ってあげられるな。

僕の脳裏に、愛里寿の喜ぶ顔が浮かんだ。

ぬいぐるみとケーキのダブルパンチだ。

いいかもしれないな。

 

「わかったよ、登録するよ。どうすればいい?」

 

僕が問いかけると、店員が答えた。

 

「お客様、携帯はお持ちですか?」

「あぁ」

「では、携帯でアプリをインストールして、ご住所・氏名等を登録していただきます」

「了解」

 

僕は、何気なく携帯の画面を開いた。

すると。

先ほど、我慢できず、ちらりと見ていた冷泉麻子のポルノ動画が画面に出たままだった。

 

「きゃっ」

 

店員が、それを目にして頬を赤らめる。

 

「え、エッチな動画でありますか」

 

まずい。

僕は急いで、動画の画面を閉じた。

 

「あ、あはは」

 

苦笑いをする。

どことなく気まずい雰囲気で、会員登録を終え、会計を済ませた。

 



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19 プレゼントはそのうちに

「失敗したなぁ」

 

恥ずかしさで頬にほてりを感じながら、店を出た。

馬鹿なことをしてしまった。

まさか、動画を開いたままだったとは。

擬似ロリなわけだし、問題はないといえばないのだが……しかし、恥ずかしい。

でもまぁ、仕方がないか。

僕はため息をつきながら帰宅した。

 

 

ボコの限定品を愛里寿にプレゼントするのは、再来週にした。

再来週が、愛里寿の誕生日だからだ。

それに合わせてサプライズする方がいいだろう。

それまでに、愛里寿と遊ぶ機会が日曜日に一度あった。

僕は早くプレゼントを渡したくて仕方がなかった。

彼女の喜ぶ顔が見たかった。

だが、ぐっと我慢をした。

その日は、愛里寿の誘いで二人で映画を見に行った。

映画はどちらかといえば子供向けのものだった。

犬をかわいがっている少女が、引っ越しでその犬と離れ離れになるが、犬が引っ越し先まで追いかけて来てくて再会する……そんなお話だ。

まぁ、たわいのないお話だが、少女役の子役は可愛かった。

その点だけまだ見れるものだったなと僕は思った。

だが、愛里寿の方はというと……。

 

「うぅっ。ぐすっ」

 

映画館を出る時には、感動で盛大に涙ぐんでいた。

 

「再会できて本当によかったね」

 

ぐしぐしと瞳をこすりながら、僕に問いかける。

僕は曖昧に頷く。

映画はどうでもよかったが、あの他愛もない映画でこんなに感動できる愛里寿の純粋さがたまらなく可愛い。

 

「そうだな」

 

僕は愛里寿の頭をなでた。

 

「えへへ」

 

愛里寿がうれしそうに身をよじる。

……よかった。

つい、無意識で頭に触れてしまった。

嫌がられないかと思ったが、そうでもないみたいだ。

映画館を出ると、まだ陽が高かった。

映画を見るというざっくりとした予定以外に何も考えていなかったので、少し手持ち無沙汰になる。

 

「どこか、行きたい所ある?」

 

問いかけると、

 

「う~ん」

 

と、愛里寿が悩ましげに唸った。

 

「わかんない」

 

あっけらかんと答える。

 

「普段は大学と戦車道で一杯で、あんまり外で遊ばないから」

 

僕は頭を掻いた。

考えてみれば、愛里寿はまだ幼いのに、飛び級をしていて、しかもスポーツをやっている。

子供らしく自由に遊ぶ時間を犠牲にしているのだろう。

目の前の少女が、少しかわいそうに感じられる。

 

「そっか。それじゃせっかくだし、街をぶらついてみない? 興味があるところが見つかったら、入ってみるといいよ」

「うんっ!」

 

愛里寿が楽しそうにうなづいた。

そんなわけで、僕たちは、午後の街を歩く。

道路沿いには街路樹が植えられ、ところどころ木漏れ陽がつくられている。

それがひどく心地よい。

休日の街ってこんなにキラキラしているものだったっけ。

木漏れ陽が差し込むと、愛里寿が時々眩しそうに目を細める。

そんな様子が、子猫みたいで愛らしい。

愛里寿は今日もいつものボコのぬいぐるみを胸に抱いている。

道ですれ違った二人組の女子高生が微笑ましそうにそんな愛里寿を見る。

 

「見てあの子。大切そうにぬいぐるみ抱いてる。可愛い」

「お兄さんとお出かけかな?」

 

愛里寿の兄と思われたことに、少し心が高揚する。

愛里寿を見ると、不機嫌そうに頬を膨らませていた。

 

「あ、愛里寿? どうしたの?」

「さっきのお姉さんたち、私のこと子供扱いした」

 

あ、そういうことか。

 

「違うよ、愛里寿」

「そう?」

「うん。可愛いって言ってたでしょ。ボコを抱いてる愛里寿は実際に可愛いんだから。子供扱いとかじゃなくて、そのままの事実を言っただけだと思うよ」

「そっか」

 

愛里寿は機嫌を直すと、意気揚々と、ボコのテーマソングを歌いながら歩き出した。

いつもは冷静沈着だけど、急に子供っぽくなる。

そういうところが魅力なんだけど、彼女には言わないでおく。

片手でボコを抱き、大きく手を振って歩く彼女の後ろをついて歩くと、カラオケ店が目に入った。

 

「ね、愛里寿」

「なぁに? 総一郎さん」

「あそこ、入ってみない?」

 

愛里寿がきょとん、と、僕が指さしたビルを見る。

 

「歌おうぜ広場?」

「知らない? カラオケ店だよ」

「カラオケ……行ったことないわ」

「ボコの歌が入ってるよ、きっと」

「ボコ!」

 

愛里寿が目を輝かせる。

 

「もしかして、伴奏つきでボコを歌えるの?」

「もちろん」

「行く!」

 

ふんすっと擬音が立たんばかりの勢いで、愛里寿が元気に手を挙げた。

 



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20 愛里寿とカラオケデート①

カラオケ店は、雑居ビルの5階と6階だった。

受付が5階ということで、エレベーターでそこまで上がる。

愛里寿は緊張した面持ちだった。

僕も始めてカラオケに行った子供の頃はドキドキしたな。

そんなことを思い出すと自然と頬が緩んだ。

5階に着き、受付でアルバイト店員の少女に声をかける。

 

「2名、1時間で」

 

とりあえず、それぐらいの時間でいいだろう。

僕はともかく、愛里寿はボコのテーマソング以外、歌える歌がないかもしれないし。

受付の少女が僕たちに問いかける。

 

「承知いたしました。機種のご希望はございますか?」

 

少女は、ボブぐらいの髪形にした可愛い少女で、名札には西住と書いてあった。

僕は、少し思案した。

カラオケは何度か来ているが、ボコの歌なんて歌ったことはない。

まぁ、アニメ化されている作品なわけだから、そこそこの知名度はあるはずだ。

しかし、もしもその歌が入っていない機種を選んでしまったら、愛里寿をがっかりさせてしまうだろう。

一応確認しておいた方がいいのかもしれない。

 

「あの、こういうこと聞いて、調べてもらえるかどうかわからないのですが。ボコられグマのボコのテーマソングを歌いたくて。それが入っている機種ってわかりますか?」

「え!? ボコですか?」

 

受付の少女の目の色が変わる。

ぐぐぃっ、と、こちらに身を乗り出してきた。

ふわりと、少女の髪から、シャンプーのいい匂いがする。

 

「お客様、ボコがお好きなんですか!!?」

「あ、いや。その。ぼ、僕というよりは、この子がね」

 

愛里寿を指さすと、西住という名札の少女が、愛里寿に目をやる。

そして、愛里寿が抱いているぬいぐるみを見てうれしそうな声を上げた。

 

「あ~! ボコだ!!」

 

愛里寿の背が低くて、カウンター越しでは、彼女のぬいぐるみが見えなかったのだろう。

受付の少女は興奮した様子で、愛里寿に微笑む。

 

「ボコが好きなの?」

「うん」

 

愛里寿がうなづくと、

 

「うわぁ~」

 

受付の少女が楽しそうに嘆息する。

 

「いいなぁ。ボコのぬいぐるみ。可愛いなぁ」

「あの、あなたも、ボコが好きなの?」

「うん。大好きだよ」

 

二人、見つめあう。

お互いに心と心が通じ合ったような表情。

 

「あ、あの……」

 

僕がおずおずと声をかけると、受付の少女がはっと我に返った。

 

「ご、ごめんなさい。つい。あの、ボコの歌なら、どの機種にも入っています。でも、こちらの機種の方がお勧めです!」

 

自信満々に、機種名を言う。

 

「こちらの機種なら、ボコの動画に合わせて歌うこともできるし、劇中のアレンジヴァージョンとか、レアなのも入ってるんです!」

 

えっへんと胸を張る。

 

「私、その機種にする!」

 

愛里寿が目をキラキラさせる。

 

「わかった。そうしよう」

 

僕は頷いて、

 

「それでお願いします」

 

と受付の少女に告げた。

 

「はいっ!」

 

受付の少女がうれしそうにほほ笑んだ。

 

「ねぇ。お姉さんも一緒に、歌お?」

 

愛里寿が、受付の少女に問いかける。

 

「お仕事があるから……でも、一緒に歌いたいよ~」

 

少女が心底惜しいといった様子で言った。

 

「良い人だったね」

「うん」

 

僕たちは、6階の禁煙室に階段で登る。

部屋番号は608。

気を遣ってくれたのか、そこそこ広めの部屋だった。

 

「これ、どうするの?」

 

愛里寿がマイクを持って僕に問いかける。

 



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21 愛里寿とカラオケデート②

「カラオケってのはね、まず曲を選択するんだよ」

 

僕はテレビの前においてあるリモコンを手に取る。

 

「これを使って歌いたい曲を探して、予約するんだ」

「総一郎さん、操作して?」

「オッケー」

 

リモコン画面の、『曲を探す』をタップする。

 

「愛里寿、ボコの曲名ってなんだっけ?」

「え、えと……」

「ん? どうしたの?」

 

何やら愛里寿はもじもじとしている。

 

「さ、最初に歌うのは恥ずかしいから、まずは総一郎さんが何か歌って……」

 

あぁ、そういうことか。

まぁ、初めてのカラオケだしな。

まずは僕が見本を見せるべきか。

といっても、そんなに持ち歌があるわけでもない。

音楽は好きだけど、子供のころからもっぱらジャズと洋楽を聴いて育った。

日本の曲といえば、昔のアングラ・フォークぐらいしか興味がない。

流行りの曲を知らないんだよなぁ。

会社の付き合いだと好き勝手歌うとTPOをわきまえろと言われそうだから、そもそもマイクを握らないようにしてるし。

 

「あのさ。僕、あまり流行の曲を知らないんだよ。適当に好きなの歌っててもいいの?」

 

問いかけると愛里寿がうなづいた。

 

「うん。気にしないよ。私もボコしか歌えないと思うし」

 

それもそうか。

そう言われると、ちょっと気が楽になる。

 

「それじゃぁ……」

 

曲目検索で、適当に知っている古いヒット曲を打ち込む。

『キー・ウェスト』

ビリー・ヒギンスの1980年代のスマッシュヒットだ。

僕は子供のころ、この曲を聴いて初めて、アメリカの南に第3世界が広がっていることを知った。

普段カラオケなんてしないから、えっちらおちらなんとか歌いきると、愛里寿が小さく手を叩いてくれた。

楽しそうだ。

緊張もほぐれたみたいだし、僕は彼女に問いかけた。

 

「次は愛里寿の番だよ」

「う、うん!」

 

愛里寿が立ち上がる。

 

「ははは。まだ曲を入れてないよ」

「あ、そっか」

「曲目は何にいたしますか、お嬢様?」

 

僕が気取って言うと、愛里寿が笑った。

 

「あのね、ボコのテーマはね、『おいらボコだぜ』っていうんだよ」

「承知いたしました」

 

リモコンを操作すると、簡単にその曲が現れた。

予約をする。

数秒後、イントロが流れ出した。

 

「あ、あわわ。始まった!」

 

愛里寿が両手でマイクを握って再びスタンダップ。

緊張しているのか、少し調子はずれで歌いだす。

さすがにボコられグマのテーマだけあって、なかなかバイオレンスな歌詞だ。

だが、それを愛里寿の可愛い声が歌っているので、ギャップがあって妙にほほえましい。

僕は途中から手拍子を入れていた。

そんな僕を見て、愛里寿が嬉しそうに手を高く上げる。

ハイタッチ!

最後には、二人で『イェーイ!』って声を合わせた。

 

「ちゃ、ちゃんと歌えたかな?」

 

一生懸命歌ったからだろう。

うっすらと汗をかいた愛里寿が僕に問いかける。

僕はサムズアップした。

 

「うん! 歌ってるとこ、すっごく可愛かったよ」

「も、もぉ。そういうこと訊いてるんじゃないのっ!」

 

ボコっ。

またボコのぬいぐるみでアタックされた。

最近この攻撃が定番になってきてるなぁ。

 

「つ、次は総一郎さんの番だよ」

「うん。……といっても、僕はそんなに歌う曲もないからなぁ……あ、そうだ。愛里寿、ボコの歌、いろんなヴァージョンがあるよ」

「そういうと、受付のお姉さんが言ってたね」

「うん。ほら、映像付きとか、デュエット版とかあるよ」

「デュエット?」

 

あれ?

そっちに反応した?

映像のほうに反応するかと思ったんだけど。

 

「デュエットって、総一郎さんと一緒に歌えるってこと?」

「まぁ、そうなるね」

「やりたい!」

 

愛里寿がキラキラの目を向けてくる。

ま、まじか。

 

「あんまりボコの歌、上手に歌えるかわからないけど」

「私もそうだよ。一緒に歌お?」

「わ、わかった」

 

僕はデュエットヴァージョンを選択する。

おなじみのイントロが流れ出す。

 

「まずは私が歌うね」

 

ちょっと背伸びした感じで愛里寿が僕に言う。

お手本を見せてくれるらしい。

その様子が逆に子供っぽくてかわいい。

 

「さ、次は総一郎さんだよ?」

「お、おぅ」

 

マイクを手渡されて、僕もうろ覚えで続きを歌う。

愛里寿は僕の歌に合わせて、うなづいたり、手を叩いたり、「あ、ずれてるよ」って表情をしたりする。

最後のコーラスを二人で一緒に歌って、終了。

なんとか歌いきることができた。

 

「やったね! 総一郎さん!」

「なんとかね!」

 

それなりの達成感があった。

ほっと一息つく。

 

「愛里寿、喉乾かない?」

 

ふと見るとドリンクのグラスが空になっていた。

 

「入れてきてあげるよ」

「ありがとう」

 

愛里寿のと自分のグラスを手に、部屋を出る。

ドリンクバーは、細い通路の先にあった。

まっすぐと通路を進む。

ドリンクバーの向かいの大部屋の前を通った時、唐突に高田渡の「自衛隊に入ろう」が聞こえてきた。

大部屋の団体さんが歌っているみたいだ。

古っ。

今時歌ってる人、初めて遭遇するよ。

しかも、声を聴く限り、若い女の子たちだ。

……。

ちょっと、興味が引かれて、ちらっと扉のガラスの向こうを垣間見る。

『知波単魂に栄光あれ!』と書かれた旗を振って、高校生ぐらいの女の子たちが「自衛隊に入ろう」を熱唱していた。

あぁ、あれって、戦車道の制服かな?

そういや、知波単学園ってあったなぁ。

愛里寿がやっている影響で、僕も最近は多少戦車道に詳しくなっていた。

今日は戦勝会か何かか?

しかし、内容を知ってて歌ってるんだろうか。

「自衛隊に入ろう」は、『花と散っちゃう』歌なんだが……。

あ、いや、ある意味、知波単らしいのかな。

たしか突撃好きのチームだったし。

 

「やれやれだよ」

 

僕は苦笑しながら、ドリンクバーでジュースを入れる。

氷でひんやり冷えたグラス片手に通路を戻った。

 

「愛里寿、ただいま!」

 

ドアを開けると、愛里寿がソファに身を乗り出してテレビの前に刺してあるリモコンを見ていた。

 

「あ、総一郎さん。おかえりなさい」

 

愛里寿がお尻をこちらに突き出した格好で、顔だけ振り返る。

ス、スカートが!!

僕は思わず目を見張った。

愛里寿は気が付いていないようだけど、ソファに膝をついて四つん這いになっているから、短いスカートがめくれて、パンツが丸見えになっていた。

ぼ、ボコだ!

愛里寿のパンツは、白い綿パンツで、お尻のところにボコのプリントがしてあった。

その、中学一年生にしては少し幼いパンツに、僕の心臓が高鳴る。

早鐘のように心臓が脈打つ。

 

「な、なにしてるの、愛里寿?」

「あのね、もう一つあるこのリモコンは何かな?って」

 

愛里寿が身を伸ばして、テレビの前のもう一つのリモコンを取る。

手に持って、僕に向き合うように体勢を変えたので、もうパンツは見えなくなった。

それでも、今日は少し短いスカートを穿いているからか、ソファに座った状態でも、細い膝小僧が露出している。

僕は、そこから目をそらすことができない。

 

「ねぇ? 総一郎さん?」

「あ、ご、ごめん」

 

僕は慌てて愛里寿が差し出したリモコンを手に取った。

や、やばい。

何してんだ、僕は。

 




いちゃいちゃ書きたいけど……難しい……。


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22 愛里寿とカラオケデート③

頬をパチンと叩き、正気を取り戻す。

大事な愛里寿を相手に、何を考えているんだ。

それに、愛里寿はまだ子供なんだぞ。

あんな幼い、ボコのプリントパンツを穿いているぐらいなんだ……。

だが。

脳裏に焼き付くように、まさにその幼いパンツが思い浮かぶ。

くそっ。

僕は邪念を振り払うように首を振り、愛里寿の手から、リモコンを受け取る。

その時、彼女の細い指先が、僕の指先にちょんと触れた。

小さい。

そして、温かい。

子供の体温だ。

そのことに、ドキッとする。

 

「総一郎さん?」

 

愛里寿がきょとんとした目で僕を見つめる。

僕は言った。

 

「ごめん。ちょっとぼんやりしてた。こっちのリモコンはね、フードメニューを頼むためのリモコンだよ」

 

自分の声が上ずらないか心配だったが、思ったよりも冷静に言葉を紡ぐことができた。

 

「フードメニュー?」

「うん。ほら、こうやってクリックすると、いろいろオーダーできるよ」

「わっ。本当だ!」

 

愛里寿はもの珍しそうに目を輝かせる。

 

「どんなメニューがあるのか、見てもいい?」

「うん」

 

すると、奥の真横にピタッと肩を並べて座る。

小さな体が僕に密着する。

 

「総一郎さん、次のページにクリックして?」

「う、うん……」

 

僕は再び、高まる心臓の鼓動を感じながら、リモコンのフードメニューを次々に表示していく。

 

「あ、今の! 止まって?」

 

愛里寿がメニューの一つを指さす。

それは、おいしそうなソフトクリームだった。

 

「食べ物だけじゃなくて、おやつもあるんだ……」

 

感心したようにつぶやく。

 

「愛里寿、食べたいの?」

「食べたいっていうか……」

「??」

「ほとんど食べたことないなって思って」

「え? ソフトクリームを食べたことないの?」

「うん。お母さまが厳しいから。島田流の跡を継ぐものとして、徹底的な体調管理を推奨されていて、お菓子とかもいろいろと制限があるの」

 

なるほど。

さすがは、戦車道の家元の家系だ。

逆を言えば、そこまでの努力があるからこそ、こんなにも幼いのに飛び級をするほどの実力と業績を獲得することができたのだろう。

僕は、先ほどまでの、欲にまみれた自分が恥ずかしくなった。

愛里寿い、めったに食べたことのないソフトクリームを食べさせてやりたくてたまらなくなった。

けれども、それが彼女を苦しめることになりやしないかも心配だった。

ちょっとした気の迷いでソフトクリームを食べて、それが体調管理に悪影響を及ぼしたら……。

いや、だけど。

今、彼女に、年相応の喜びを与えてやれるのは僕だけのような気がする。

僕は、意を決して愛里寿に問いかけた。

 

「ねぇ、愛里寿。ソフトクリーム、注文してみない?」

「え?」

 

愛里寿が、じっと僕を見る。

つぶらな瞳に吸い込まれそうだ。

その瞳は、まるで僕を値踏みしているようにも見える。

だ、ダメか?

 

あきらめかけたころ、愛里寿がほほ笑んだ。

 

「そうね。総一郎さんが勧めてくれるなら、ソフトクリーム食べたい!」

 

僕は自分が認められたような気分がしてうれしくなった。

 

「それじゃ、さっそく注文しよう!」

「あ、私がやってみたい!」

「いいよ。ほら、ここをタップして?」

「こう?」

「そうそう。そうしたら、個数を選択して……」

「総一郎さんも食べるよね?」

「あ、僕は甘いのは……」

「一緒に食べようよ」

 

愛里寿に頼まれると、断れない。

ソフトクリームを二つ注文した。

その間、特段歌う歌もないので、なんのなくボコの映像付きのカラオケを流す。

愛里寿は喜んでそれに見入っていた。

やがて、ソフトクリームが運ばれてくる。

ノックの音。

 

「はーい!」

 

愛里寿が扉を開けると、例の受付の女の子がいた。

手にはお盆を持っている。

 

「ありがとう! でも、お客様は開けてくれなくても大丈夫だよ?」

 

優しげに微笑んで、二つのソフトクリームを机に置く。

 

「お姉さん、見て?」

 

愛里寿が受付の女の子……西住という名札の子の袖を引っ張って、画面を指さす。

 

「ボコのPVだぁ!」

 

西住さんが嬉しそうに言った。

腕時計をちらっと見て

 

「一小節だけ歌ってもいい?」

 

愛里寿に問いかける。

愛里寿が大きくうなづくと、手にマイクを持っているフリをして、Aメロを少しだけ歌う。

目を閉じて、振り付け込みだ。

すごいな、この子。

歌詞を覚えているのか。

 

「それじゃあね~」

 

西住さんが出ていくと、愛里寿が僕に言った。

 

「私、あのお姉さん好き」

 

確かに二人は気が合いそうだ。

 

「愛里寿、続きを歌う?」

「ううん。ボコの映像を見ながら、ソフトクリームを食べるわ」

「そうだね」

 

僕は、テーブルのソフトクリームの一つを手渡した。

 

「ありがとう」

 

僕も、自分の分を食べる。

久しぶりに食べると、甘くておいしいな。

そのことを伝えようとして、顔を上げると。

愛里寿の股間の白い布が目に入った。

彼女は、さっき扉を開けた後、僕のちょうど向かいに座りなおしていた。

狭い部屋ならテーブルが邪魔で見えなかったかもしれないが、受付の西住さんが少し広い部屋に通してくれていたせいで、向かいに腰掛ける愛里寿の股間はなんの障害もなく見えていた。

ソファに腰掛けた拍子に、スカートがめくれあがったのだろう。

そんなことに全然気が付かず、一生懸命ソフトクリームを舐めている愛里寿の、細くて柔らかそうな太ももとその付け根がすっかり露出していて、パンツの一部も、見えてしまっている。

なんてすべすべとした雰囲気の太ももなんだ。

そして、色白で、きゃしゃで。

その細い太もものつけね、股間の部分を覆い隠す、白いパンツ。

少しもこっとした素材感が、いかにも子供らしい。

足ぐりの部分の中ゴムのぴちっとした感じが、アンバランスで、何ともいえないエロスを感じさせてしまう。

もう少しスカートがめくれたら。

お尻の部分だけではなく、前面にも、ボコのプリントがあるのだろうか?

見たい!

それを、見たい!

僕は、息が荒くなっていることを自覚していた。

やばい、やばい、やばい。

血が頭に上っている。

 

ぽたっ。

 

その時、何か冷たいものが、僕の手の甲に落ちた。

 

「え?」

 

それは、ソフトクリームの滴だった。

 

「あ、わわわ」

 

しまった。

溶け始めている。

僕は慌てて、ソフトクリームを舐める。

 

「ふふふ」

 

そんな僕の様子を見て愛里寿がほほ笑んだ。

 

「総一郎さん、ソフトクリームは苦手?」

「そ、そんなことはないよ?」

「総一郎さん、なんか、可愛い」

 

可愛いだと?

僕が?

たった今僕は、頭の中で君に、劣情を抱いていたんだぞ?

気が付いていないんだ。

だからこんなに無邪気なんだ。

くそっ。

 

僕は聞こえないように小さく舌打ちして、気を紛らわせようと、曲検索を始める。

歌うのは苦手だけど、なにか、なにかしていなくちゃ、おかしくなりそうだ。

何か、落ち着いたもの……そうだ……ジャズ、ジャズのスタンダード……。

『ジャンル』のジャズをタップして、アルファベット順に、曲名を眺めていく。

やがてその中に、『Guess I’ll Hang My Tears Out To Dry』が現れた……。

 



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23 壊れる

Guess I’ll Hang My Tears Out To Dry。

そのタイトルを目にした途端、脳の中が焼けきれるような感触があった。

脳の組成が組み変わり、自分の意識の奥底に植え付けられたものがふいに迫り出してくるような。

冷泉麻子。

あのポルノ女優の細い指先が、僕の脳の中に現れて、脳漿をぐちゃぐちゃに耕していくかのようだ。

その指は、ピアノを弾いている。

流麗なピアノ。

ジャズ・スタンダードをスムーズに弾いている。

美しく淀みないが、通り過ぎて消えていくかのような音楽。

なのに、どうして。

僕の脳裏にこんなにも張り付いているんだ!?

まるで焼き鏝でつけられた印字のように。

僕の脳内で、冷泉麻子が。

あの幼い少女に見えるポルノ女優が、ピアノを弾く。

ピアノを弾く。

ピアノを弾くかのように、僕の脳を耕していく。

僕の脳裏に、彼女の映像が蘇る。

大柄な男に、組み伏せられ、腰に体を打ち付けられる麻子。

獣のようにつながる麻子。

麻子、麻子、麻子。

僕は……血走った眼で、顔を上げた。

そこには愛里寿がいた。

まだ、ソフトクリームを食べている。

永遠とも感じられた時間は、ほんの一瞬だったのか。

スカートは……まだめくれ上がったままだ。

すべすべとした、柔らかそうな細い太もも。

その奥に、そっと垣間見える白い綿パンツ。

よく凝視すると、割れ目の形に筋ができている。

あれが、あの奥が。

愛里寿の秘所なのか?

視線をじっくりと上げると、愛里寿と目が合った。

少女は無邪気にほほ笑む。

僕を信用しきっている。

僕は、息が荒くなる。

さらに荒くなる。

僕は、再び視線を落とす。

もう一度、あの柔らかな太ももと、白い綿パンツを、その筋に沿った食い込みを、見つめるために……。

 

その時。

 

唐突に、部屋の電話が鳴った。

僕は体の底から飛び上がりそうになった。

それは愛里寿も同じだった。

 

「総一郎さん、何が起こってるの?」

「あぁ、フロントからのお知らせだよ」

「フロント?」

「そう。あと10分で一時間だって知らせてくれてるんだ」

 

僕は、立ち上がって受話器を取った。

受付の西住という少女の朗らかな声が耳をくすぐる。

 

「あ、お時間、10分前です」

「ありがとう」

 

僕はそう答えて受話器をおいた。

愛里寿が笑った。

 

「急に鳴ったから驚いちゃった」

「カラオケは初めてだから、仕方ないよ」

 

視線を、少女の股間に移す。

もう、スカートは戻ってしまっていた。

下着も、太もものつけねも見えなくなってしまっていた。

僕は舌打ちを打つ。

 

「あと、10分だから。僕はトイレに行っておくよ」

「うん」

 

扉を開け、再び通路を歩く。

股間が疼いた。

まるで、熱量を持ったカンフル剤を、股間に打ち込んだかのようだ。

さきほどの大部屋の前を通ると、ちょうど知波単の少女たちが出てくるところだった。

大勢の少女たちの横を通り過ぎる。

ふわりと、花のような香りと、それをかき消すかのような、むっとした汗や体臭のにおいが混じる。

少女たちの香水と、カラオケを熱唱した熱気の汗の匂いか。

どうしようもなく、後者に興奮する。

僕はこめかみを抑え、ふらふらと、トイレへと向かう。

トイレの個室は、埋まっていた。

誰かが使っている。

僕は舌打ちする。

くそっ。

誰が使っているんだ、開けろ。

そこを開けろ。

だが、個室の扉は開かない。

僕は、もう一度舌打ちをすると、足を蹴り上げる。

個室の扉を、蹴り上げる。

鈍い音がして、扉の表面が少しへこむ。

個室の中で、息をのむ音が聞こえたような気がした。

僕は、唾を吐いて、外へ出る。

くそっ。

股間が、熱い。

通路には、もう知波単の少女たちはいなかった。

少女たちの残り香だけが、夢か幻のように、そこに鎮座している。

それは、時間の一瞬に切り取られ、張り付けられた残滓だ。

僕はそれを標本にしたいが、そんなことは人間にはできない。

唇が緩やかに動き、知波単の少女たちが歌っていた、高田渡の古いフォークソングを口ずさもうとする。

その時、彼女たちが使っていたあの大部屋のドアがかすかに開いたままであることに気が付く。

僕は誘われるように、そこへと入っていく。

部屋の中に、少女たちの香りが、充満しているはずだ。

だが。

部屋にはもう、少女たちの残滓は感じ取れない。

くそ。

僕はまた、舌打ちを打つ。

明かりが消えた広いカラオケボックスに、青白いテレビの電子光だけが映えている。

そこには、歌の履歴が表示されている。

僕は目を凝らす。

そこには。

 

『Guess I'll Hang My Tears Out To Dry』

 

!?

 

ずらりとその曲名。

10曲分は並んでいる。

そんな馬鹿な。

そんな馬鹿な。

と、今になって気が付くのだが、カラオケボックスのスピーカーは、Guess I’ll Hang My Tears Out To Dryのピアノ伴奏を垂れ流している。

スムーズで、灰汁のないピアノ。

そんな馬鹿な。

これは冷泉麻子の演奏じゃないのか。

あの細い指で弾いた。

最後の一曲が予約されたまま知波単の少女たちは部屋を出たのか?

やめろ、やめろ。

そんな、垂れ流すな。

廃棄物みたいに、垂れ流すな。

僕は、揺らめいて、大部屋を出る。

すると、通路には愛里寿がいた。

 

「あ……」

 

少女が、僕を見つめる。

その手には、部屋の会計札が握られている。

 

「何してるの、総一郎さん」

 

少女の声が響く。

だが僕は、ずっとその膝小僧を見つめている。

珍しい、愛里寿の、丈の短いスカート。

そのスカートからは、膝小僧がむき出しになっている。

けれども。

あの、かわいらしい、綿パンツは、見えない!

 

「もう、時間だよ?」

 

愛里寿がつぶやく。

 

「10分、経っちゃった。帰ってこないから、部屋を出たの」

 

僕はあいまいにうなづく。

 

「トイレが混んでいたんだ」

 

やっとの思いで、それだけを答える。

 

「そう」

 

だが、僕の脳内は、まったく別のことを考えている。

畜生。

もっと。

もっと、あの、パンツを。

僕に見せろよ。

 

 

僕は、愛里寿から、会計札を奪うと、5階の受付へ向かう。

もう、西住と名乗る少女はいなかった。

アルバイトの時間が終わったのだろう。

似ても似つかない、ひょうきんな顔をした大学生風の女が、受付に立ち尽くしている。

僕はそこで代金を払い、愛里寿と連れ立って、カラオケを出た。

外に出ると、まだ夕刻にも達していなかった。

外の空気は明るく、相変わらず街路樹から、木漏れ日が歩道に差し込んでいる。

まるで街が、描かれて静止した絵画のように見える。

僕と愛里寿がカラオケの中にいる間だけ、別の時間が流れて、そして街に戻るとまた、時間が止まってしまうかのようだ。

愛里寿が、ぎゅっと僕の手を握った。

 

「楽しかった」

 

しみじみとつぶやく。

 

「また、遊ぼ? 総一郎さん」

 

僕はうなづいた。

 

「愛里寿」

「なに?」

「実は、君に渡したいものがあるんだ。来週、家に行ってもいいかな?」

「うん。もちろん」

 

愛里寿がほほ笑んだ。

 



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24 マトリョシカ

愛里寿と別れてから……僕の頭の奥底では、何かがうずき続けていた。

それはまるでアイスピックだった。

氷を砕くアイスピックのように、僕の頭の奥を削り続けていた。

削られるごとに、自分の心の表層が剥がれていく。

剥がれていくごとに、僕の知らない自分が現れる。

その、新しい僕は、これまでの僕と違う欲望を持っている。

それは……愛里寿への性欲だ。

僕は、彼女の下着がもっと見たい。

あの子供っぽいボコのプリントパンツが。

そして、首筋やふともも、素肌がもっと見たい。

ボコのプリントパンツの向こう側に隠された大切な部分が見たい。

僕は、携帯電話を手に取っていた。

あるところにコールをかける。

数秒の呼び出しで、聞きなれた声が返事をした。

 

「どうしたんだ、総一郎?」

 

金田の声だ。

僕は、金田に、今の自分の気持ちを正直に伝えようと思った。

うまく説明できるだろうか。

言葉は詰まりづまりになる。

センテンスが途切れ、うまく転がっていかない。

それでも僕は、言葉の切れ端のようなものをつなぎ合わせ、金田に、今の僕の欲望を語る。

金田は、感嘆したような声を上げた。

 

「お前もとうとう、こっち側の人間か」

 

その声音はどこか嬉しそうだ。

僕はこめかみを押さえながらつぶやいた。

 

「まさか、自分でも信じられないんです。でも、金田さん。どうやら、そうみたいだ」

「俺はわかってたよ」

 

金田が言った。

 

「で?」

「え?」

「そんな告白だけが、目的じゃないんだろう?」

 

この男はお見通しらしい。

僕は、半ば苦笑いしながら自嘲気味な声を上げた。

 

「実は、さっきからずっと金田さんに以前見せてもらった写真のことを考えていたんです。冷泉麻子のポルノ動画ではなく。盗撮風の画像の方です」

「ふむ……」

「あれって、どこかから拾ってきたものではなく、金田さん自身が撮影したんでしょう?」

 

短い沈黙があった。

僕の緊張を打ち砕くかのように、金田が爆笑した。

 

「いいな! 総一郎! お前は面白いよ!」

「か、金田さん?」

「お前は本当に最高だ。何をそんな、当たり前のことを、慎重に問いかけてるんだ? そうだよ。そう。俺が撮影した」

 

ほっと胸をなでおろす。

 

「そ、そうじゃないかと思っていました。その。それで、ですね……」

 

僕は金田に、盗撮のための機材を貸してくれないかと問いかけた。

僕が今陥っている欲望の状況をつつみかさず話そうとすると、制止をかけられた。

 

「まぁちょっと待てよ、総一郎。おまえどこから電話しているんだ?」

「どこって」

 

言われて初めて、僕は往来で携帯電話を握りしめながらとんでもないことを口走ろうとしていることに気がついた。

 

「そ、外ですね……」

「イかれちまったのか? うちに来い、総一郎。機材を貸して、使い方もレクチャーしてやる」

 

 

金田の家は、工場から国道沿いに15分ほど歩いた場所にあった。

住宅密集地の一角だが、比較的大きな家だった。

 

「総一郎、こっちだ」

 

金田が、二階の窓から手を振った。

 

「ここが金田さんの家なんですね。完全に地元民じゃないですか。さすが、遅くまで飲んでも帰れるわけですね」

「しがらみみたいなもんさ。あのな、俺の親父もあの工場で働いていたことがあったんだ」

「え? そうなんですか?」

「あぁ。20年ぐらい働いてな、別の仕事に変えたんだが、付き合いは残っててな。それで、高校卒業しててぶらぶらと働いてなかった俺を、あの工場にぶち込んだわけよ」

「ぶち込んだってそんな、刑務所みたいな」

「刑務所じゃない。動物園さ。そうじゃなきゃ精神病棟だ」

 

言いながら、金田が冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。

 

「ほらよ」

「あ、ありがとうございます」

「俺はなぁ、総一郎」

「はい」

「いつも、こんなんが俺の本当の人生か?って思ってる。お前、そういう感覚ってないか?」

「本当の人生?」

「あぁ。まるで、ここにいる自分が何かの間違いみたいに感じるんだ。すべてがまがい物みたいな。でもよぉ、いくら過去を考えてもよぉ。学校でろくに勉強しなかったのも、将来設計も立てずぶらぶらとして暮らしてたのも、今あの工場しか居場所がねぇのも、全部俺自身の選択なんだよな。俺が選択したはずなのに、何だか俺じゃないみたいなんだ」

 

僕は首を振った。

わかるような、わからないような気がした。

僕は金田の顔を見た。

頬がほのかに赤い。

そして、テーブルには数本の缶ビール。

僕が電話をした時点ですでに飲んでいたのだろう。

 

「それじゃ、どうやったら本当の自分になれるんですかね……」

 

僕の何気ないつぶやきに、金田が答えた。

 

「そりゃな、よくわかんねぇよ。でもよ、あの、マトリョーシカってあるだろ。名前あってるっけ? ほらあの、ロシアの入れ子状の人形よ」

「あぁ、ありますね」

「あれみたいによ、その。俺の『外側』を一つ剥いじまえばよ、中身が出てくるんじゃないかなってよ。そういう想像をすることがあるんだよ」

 

僕は缶ビールのプルタブを開け、一口飲んだ。

頭の中で、金田の外側の皮を一枚ずつ剥いでみた。

薄皮を一枚剥ぐごとに金田は涙を流して痛がり、やがて数枚剥いだ時点で、血にまみれた肉塊になって死んだ。

 

「総一郎」

「なんですか?」

「おかしな話をしちまったな」

「そんなことはないです」

 

僕は笑った。

 

「なんかわかりますよ、そういうの」

「そうか」

 

金田もつられたように笑った。

 

「それで、どういう撮影をしたいんだ?」

「これです」

 

僕は、持ってきた箱を取り出した。

 

「これは?」

「中には、こんな人形が入っています」

 

僕は、携帯でインターネットに繋がり、そこから、先日購入したボコのぬいぐるみの画像を取り出す。

箱をここで開けるつもりはなかった。

愛里寿に渡す大切なボコを、金田の薄汚れた手で触らせたくなかった。

それを触っていいのは、僕と愛里寿だけだ。

 

「これを、女の子にプレゼントする予定なんです。このぬいぐるみの中に、ビデオカメラを設置したいんです」

「へぇ……」

 

金田が僕を見据える。

 

「こりゃまた、大層なことだな。知り合いを狙うのか」

「いけません

か?」

「いいや。ただ、俺とは方向性が違うなと思っただけだ。俺は見知らぬ他人専門だからな」

「…………」

「そんな怖い顔をするなよ」

 

金田がすっくと立ち上がる。

飲み終わった缶ビールをもう一本机の上に置き、机の引き出しを開ける。

しばらくがさごそと何かを探しているかと思うと、一枚の紙切れを取り出した。

 

「これ、やるよ」

「これは?」

「俺が盗撮機材を買う時の仕入れ元だ。ここに連絡して、事情を話すといい。俺はそういう遠隔操作的な機材は持っていない。ここから買うことだな」

「……ありがとうございます」

僕は、じっとその紙切れを見つめた。

そこには、9桁の数字が書いてあった。

 



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25 伊丹

金田から渡された電話番号にかけると、しゃがれた声が返事をした。

 

「はい。伊丹ですが」

 

低くて太い声を、特殊な鉈で薄くスライスしたような不思議な声だった。

しゃがれてはいるが、それが高齢のためなのか、煙草の吸いすぎのためなのか判断がつかなかった。

僕は、自分の名を告げた。

すると伊丹と名乗った男は、事情は聴いていると答えた。

話が早い。

あれこれと説明が必要かと思っていたので、僕は少し気が楽になった。

 

「あんた、今から来れるのか?」

 

男が言った。

時間を見ると、夜に差し掛かっていた。

 

「行けますが、場所はどこでしょうか。お酒を飲んでしまったので、車には乗れません。終電で帰れる場所なら、今すぐ行きます」

 

男が告げた住所は、国立だった。

今からでも行って戻ることは不可能ではなかった。

僕は、男の指定した場所に行くことにした。

国立駅で降りて北上すると、バス道沿いに集合住宅が立ち並んでいる通りがあった。

その中の一角に、下層階がテナントで、上層階がマンションという物件があった。

不思議な物件だった。

おそらく、階層は10階ぐらいだろう。

70年代に建てたと思われる少し草臥れた外装をしている。

5階から上が住居のようだが、建物がそれほど広くないので、大した戸数ではないだろう。

テナントに入っている会社の人々が住んでいるのかもしれない。

男が指定した住所は、そのビルの地下だった。

ビルのファザードに、上り階段と下り階段がついていて、薄暗い階段を降りると、そのまま地階だった。

エレベーターは設置されていない。

地階には、通路があり、扉が3つあった。

2つは薄暗く、閉じられていた。

一つの扉だけ、扉の小さな窓から明かりが漏れていた。

窓には内側から薄い紙が貼ってあり、中が見えないようになっていた。

薄い紙に、太いマジックインキで『パンダ商会』とだけ書いてあった。

僕はその扉をノックした。

 

「入って」

 

男のしゃがれた声がした。

扉を開ける。

すると、扉のすぐ向こうに男が立っていた。

男……というよりも、老人だった。

皺だらけの顔にひげを蓄え、目を細めて笑っていた。

淡いクリーム色というよりはオフホワイトに近いシングルのスーツを着て、頭には鼠色の帽子をかぶっていた。

シャツは鮮やかなミッドナイトブルーだった。

おかしな組み合わせだが、不思議と洒脱さを醸し出していた。

もっと陰気な雰囲気の男を想像していたので僕は面食らった。

 

「ほら、入って」

 

男……伊丹老人のしゃがれた声が僕を促す。

僕はうなづいて、部屋の中に入った。

一見して、何をやっている会社なのかよくわからなかった。

大きなパーテーションで部屋を二つに区切っていて、奥には大量の段ボールが積んであった。

区切られたこちら側には、机と椅子、そしてノートパソコンとコーヒーメイカーがあった。

 

「あいにく豆を切らしていてね」

 

僕がコーヒーメーカーを見ていると思ったのか伊丹老人が言った。

僕は慌てて首を振った。

 

「まぁ座りなさいよ」

「は、はい」

 

促されるままに椅子に座る。

硬い椅子だった。

とてもじゃないが、座り心地がいいとは言えない。

 

「あんた、ぬいぐるみに仕込みをして盗撮がしたいんだって?」

 

単刀直入な問いだ。

僕は目を伏せた。

 

「ちゃんと答えなくちゃわからない。そういうことがしたいんだね?」

 

僕は、うなづいた。

 

「わかった。お金は持ってきている?」

「え、ええ。ある程度は」

「それだけじゃわからないよ」

 

伊丹老人のしゃべり方は独特だった。

答えを次から次へと聞いていくスタイルだ。

僕は、隠しても仕方ないので今持っている金額を言った。

 

「それなら十分だ。で、仕込みたいぬいぐるみってのは?」

 

僕は携帯を取り出して画像を見せた。

 

「ほぉ。ボコか」

 

意外だった。

 

「ボコを知っているのですか?」

「町内会で、見回り隊をしている。子供がそのキャラクターのグッズを持っているのをよく見かける」

「へぇ」

 

盗撮グッズの販売をやっている人間が、町内会か。

どこか違和感があったが、世の中はそういうものなのかもしれない。

 

「面白い話がある」

「え?」

「町内活動で知り合ったある女性の話だ。子供が大きくなってから、手がかからなくなり、何もすることがないらしい」

「はぁ」

「旦那は毎日仕事で忙しい。日中は一人ぼっちだ。時間だけが有り余っている。だが裕福ではない。彼女は、毎日昼過ぎに家を出て、ショッピングモールに行くそうだ。そして何も買わずに戻ってくる」

「ええ」

「その繰り返しだ」

 

その会話に何の意味があるのかわからなかった。

それがどうしたというのだ?

 

「そんな風にして、使い果たされる時間というものが世の中にはある」

 

僕の心の中の問いかけにこたえるかのように伊丹老人が言った。

だが、だから何だというのだ。

 

「ボコを見せてくれ」

 

伊丹老人が、僕の目を見据えた。

 

「えと、それは……」

 

言葉に詰まる。

金田に対してもそうだが、この老人にも。

ボコを愛里寿以外に触らせたくなかった。

それを僕以外に最初に触るのは愛里寿でありたかった。

処女性。

ボコの処女性。

 

「見せてくれ。実物を見なくちゃどういう商品がいいかわからない」

「……」

 

僕は仕方なく、ボコの箱を机に置いた。

丁寧に慎重に包みのリボンを説く。

 

「ふむ」

 

伊丹老人が、つぶやいた。

 

「これなら簡単だ。内部にいろいろ仕込んで、レンズを突き出す。ぬいぐるみの毛並みでごまかされて、レンズには気が付かないだろう」

 

言いながら、ボコを手に取る。

 

「あっ」

 

僕がつぶやく間もなく、それを持ってパーティションの奥へと引っ込んでしまった。

しばらくして、伊丹老人が戻ってきた。

ボコには、大理石風の美しい台座とペンダントがつけられていた。

ペンダントが淡く光っている。

 

「中の一部を繰りぬいて、小型カメラと無線ルータを入れた。レンズはここにある」

 

ぬいぐるみの毛並みをかき分けると、小型の精密なカメラが現れた。

 

「毛並みが映り込みすぎないように位置は工夫してある」

「ペンダントは?」

「電源を利用するためのフェイクだ。実際には電源は、ペンダントを光らせるためだけではなく、中のルータとカメラの駆動に使われるようになっている」

「台座は?」

「バカか、あんたは」

 

伊丹老人が軽蔑するように笑った。

 

「ぬいぐるみを相手に渡して、手に持って遊ばれたらどうなる?即座に中身がばれるぞ。台座を設置することによって、このぬいぐるみは置物になる。光るペンダントがついていたらなおさらだ。これはおもちゃから『飾り物』に変化したんだ」

 

僕はうなづいた。

 

「映像は、どうやって取得するのですか?」

「ルータで飛ばすことができる。スマホかPCを持って相手宅から15メートル圏内に行くといい。保存した映像を取得できる」

「そのためのルータなんですね」

「そういうことだ」

 



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26 設置

伊丹老人から受け取った盗撮のための改造ボコは、およそ一週間後の愛里寿の誕生日に合わせてプレゼントした。

正確には愛里寿誕生日は平日で、僕の仕事の都合で会うことができなかったのだが、その代りにその週の日曜日に彼女の部屋でささやかなパーティをした。

僕がかねて用意しておいた『愛里寿ちゃん、お誕生日おめでとう!』とチョコレートで書かれたケーキを見せると、愛里寿は目をうるませて喜んだ。

 

「総一郎さん、本当に、ありがとう」

「そんな、これぐらいのもの用意するのは社会人にはどうってことないんだよ」

 

僕がそう言うと、愛里寿は首を振った。

 

「ううん。これだけじゃないの。総一郎さんは私にいろんなものをくれたよ」

「いろんなもの? 僕が?」

「うん」

 

愛里寿が満面の笑みを浮かべる。

 

「大学であまりお友達ができなかった私の、一番のお友達になってくれたし、カラオケとか、ほかにもいろいろ、私が知らないものを教えてくれたでしょ。そのどれもが私の宝物だよ」

「愛里寿……」

「それにね、カラオケのお姉さん」

「西住って子のこと?」

「うん。西住みほさん」

「あれ? いつの間に下の名前を知ったの? 名札には確か名字しか」

「総一郎さんがトイレに行ってる時に、ちょっとお話してアドレス交換したんだ」

「へぇ……。あれ? でも、会計の時にはもうあの子は受付にいなかったような」

「ちょうどアルバイトが終わって私服に着替えてお店を出るところだったの。総一郎さんを探して廊下に出た私を見かけて声をかけてくれたの。それで、アドレス交換しない?って言ってくれて。もっとボコの話ししようねって」

 

確かに、ボコの話題で盛り上がっていたしな。

 

「それでね、仲良くなって。お友達ができたの、総一郎さんのおかげだよ。総一郎さんがカラオケに連れて行ってくれなかったら、出会えなかったもの」

「そっか」

 

僕は少しくすぐったいような照れくさいような温かみを感じた。

愛里寿が続ける。

 

「これ見て」

 

ブローチを取り出す。

ボコのデザインだ。

 

「お誕生日の日にね、みほさんがプレゼントしてくれたの。お誕生日会を開いてくれたんだよ」

「え……」

「えへへ。これ、おそろいなんだぁ」

 

お誕生日会?

誕生日の日に?

なんだって、そんなこと聞いていないぞ。

僕がせっかくの愛里寿の誕生日に、あのつまらない工場で汗水たらして働いていたというのに、その間に西住みほは、僕よりも先に愛里寿のお誕生日を祝っていたというのか!?

僕が一番に祝ってあげるはずだったのに。

それに、『お揃い』だと?

愛里寿と?

僕だってお揃いのものなんて何ひとつ持っていないのに!?

くそっ。

西住とかいうカラオケの受付の娘、まだ学生風の容姿だったな。

平日に暇があったのか。

畜生!

毎日必死になって働いている社会人を舐めやがって!

畜生!

 

「あ、愛里寿。どうしてそんな、誕生会なんて」

「え?」

「あ、いや。な、なんでもない……」

 

僕は、荒くなった息を抑え込む。

悔しいが、愛里寿を攻めたって仕方がないじゃないか。

しかし、くそっ。

僕は心の中で西住みほにつばを吐きながら、何とか平静を装って、大きめのバックの中に隠しておいたボコのぬいぐるみの箱を取り出した。

 

「ねぇ、愛里寿。これ……」

「総一郎さん?」

「実はね、プレゼントはケーキだけじゃないんだ。これ、貰ってくれないかな」

「いいの?」

「もちろん」

 

愛里寿が箱を見つめる。

 

「開けてみて?」

「うん」

 

小さな手が、慎重に、プレゼント包装のリボンをほどく。

その丁寧な手つきが微笑ましい。

包装用紙を、破かないようにそっと剝していく。

露になった白い箱を開けると、愛里寿が感嘆の声を上げた。

 

「すごい……! すっごく奇麗なボコ!」

「うん。限定版なんだ。愛里寿が喜んでくれるかなと思って」

「す、すごく、すごくすごく嬉しいよ!!」

 

これまで見たことがないほど興奮する愛里寿。

 

「ほら、これ。コンセントが付いているでしょ?」

「うん」

「電気を通せば、ペンダントが淡く光るんだよ」

「見てみたい!」

 

上手くいった。

僕は心の中でほほ笑む。

 

「それじゃ、僕が設置してあげるね」

 

これで主導権を握った。

設置場所を僕が選ぶことができる。

僕はコンセントの位置を確認し、部屋全体がうまく盗撮できそうな位置の棚の上にボコを置く。

伊丹老人の改造によって、台座がついてあるから、据え置きにしても全く違和感がない。

実際には内部に仕組まれた無線ルータへとつながっている電源をコンセントに差し込み、ペンダントの裏にある内蔵電池のボタンを押して、ペンダントを光らせる。

美しい淡いブルーの光を放つ。

 

「わぁ~」

 

愛里寿が目を輝かせた。

 

「きれいだろ?」

「うん!」

「これ、派手な光じゃないから、日中もつけっぱなしでいいと思うよ。電気消費量もすごく少ないから。それと、台座が付いている据え置きタイプだから、ここに置いておこうね」

「わかった!」

 

すべてがうまくいった。

これで、作戦成功だ。

西住という娘には少し出し抜かれたが、ぬいぐるみの設置がうまくいったことで帳消しだ。

いやな気分も吹っ飛んだ。

これで、数日後にでも映像を取得すればいいだけだ。

部屋の中の様子を盗撮する。

きっと、愛里寿の着替えも映るはずだ。

なんて、なんて楽しみなんだ。

あの細い足、可愛いパンツ、そして。

もっと、すごいものが見られるかもしれない。

 

「総一郎さん!」

「な、なんだい?」

 

愛里寿の声に我に返る。

 

「本当に、ありがとう! 大好きだよ」

 

この無邪気な瞳が、僕の本当のたくらみを知らないことに、すざまじいまでの興奮を覚えた。

 



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27 君がほしい

愛里寿の家に盗撮用の改造ボコを設置してからは、まるで足が地につかないふわふわとした毎日だった。

朝起きて、工場へと向かい、仕事をしている間も、まるでうっ血した血液が頭の内部を破壊していくかのように心が熱を帯びていた。

それは風邪をひいたときの気分に少し似ていた。

頭がぼんやりとし、細胞が覚醒と懈怠を目まぐるしく繰り返しているような。

心の奥底には恐怖もあった。

改造ボコの中身がばれてしまうのではないか。

もしもそうなったら僕はどうなる?

もちろんお終いだ。

僕はたくさんの物事を失うだろう。

だがそういった理性で押さえつけられることは、もはや意味をなさなかった。

理性を鈍いアンカーが海の底に沈めて動けなくさせていた。

そう、アンカー(碇)だ。

僕の理性は今、深い深い海底に張り付けられている。

そして僕の欲望は、高く高く舞い上り、海から顔を出している。

欲望……。

愛里寿の幼く美しい体を見たい。

その素肌を映像に収めたい。

僕の所蔵する永遠の美術品にしたい。

そういった欲望が、すべてに勝っている。

僕は今、欲望の塊だ。

カチコチに硬くなって怒頂点をつきそうな欲望の塊だ。

突き破る。

突き破る。

僕は突き破る。

欲望の塊となり、理性の壁を突き破る。

なんだ、この熱は。

何かに似ているぞ。

そうか、これは、僕のペニスだ。

初めて勃起したペニスに触れた時の驚きと似ている。

あの、蓄積された熱。

解き放たれず折れ曲がり醜くゆがんだ熱量。

だがそれは生命だ。

僕のすべてだ。

僕は今ペニスになっている。

僕は今、この上なく純粋に、純血に、愛里寿を愛している。

君がほしい。

君がほしい。

君がほしい。

あぁ。

ハーモニカが吹きたい。

唇をべたっとつけて。

ハーモニカを吹き散らかしたい。

そしてフォーク歌手のように歌うのだ、君がほしい、と。

 

僕は、早朝のジョギングをこの数日の新しい日課とした。

明け方にジャージ姿で家を出る。

目深に野球帽をかぶって、顔を隠している。

ジョギングのルートは、河川公園の脇をとって、愛里寿の住んでいるところを通り過ぎ、その先にある寂れた商店街を通り過ぎたところでUターンすることにしている。

愛里寿。

君が待ち遠しい。

僕は愛里寿の部屋の前を通り過ぎるごとに、胸の疼きを覚える。

なんて切ないんだ!

愛里寿!

君がほしい、君に会いたい。

早く、君の映像がほしい。

君はどんなパンツをはいているんだい?

君はどんな乳首をしているんだい?

君はどんな脇腹をしているんだい?

君はどんな鎖骨をしているんだい?

愛里寿!

君の体はきっと華奢だろう。

君のパンツはきっと幼いだろう。

君の乳首はきっと小さくてつんと澄ましていて、苺のようにピンクだろう。

君の脇腹はすらりと柔らかいはずだ。

君の鎖骨は君の薄い肉付きなら、きっと浮いて見えるはずだ。

触れたい。

触れたい。

見たい。

見たい。

僕は……。

気が狂いそうになっている。

飛び上がりそうになっている。

君の家の前を通り過ぎるとき、こんなにも切ない思いを抱えているんだよ。

君のことをこんなにも想っているんだよ。

愛里寿、愛里寿。

君をこんなにも想っている男がいるんだ。

僕に気付いてくれ。

 

会社にいる間、僕は憂鬱で死にそうになる。

この工場には、女の子の柔らかさに似たものが何もないからだ。

波状ストレートの灰色の壁、削れた金属の粉っぽい匂い、職工たちのため息。

僕を痛めつけ、苦しめるものばかりだ。

愛里寿の美しさ、柔らかさを知っている僕の脳は、こんなものを受け入れられない。

まるで、ここで働いている間は、監獄にいるみたいだ。

僕は、息苦しいのが嫌いだ。

愛里寿。

早く君に会いたい。

 

僕が、設置した改造ボコの画像データを受信したのは、一週間後だった。

 



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28 あ、愛里寿ちゃん、そういうこと知ってたんだね……

本来ならば、毎日でも画像を受信したかった。

それぐらいに心が疼いていたが、あえて一週間待った。

一週間というのが人間の行動をはかるうえで一つの区切りだと考えたからだ。

それに、ジョギングのついでに通り過ぎるだけならばともかく、人の家の前でノートパソコンを広げてデータを受信している姿を頻繁にさらしたくはなかった。

夜間に受信に行くか、日中に受信に行くか、早朝に受信に行くか迷った。

一瞬、深夜にしようかとも思ったが、考え直してあえて日中にした。

真夜中にノートパソコンを広げていると、ノートパソコンの光で目立って仕方がないからだ。

僕は就職のときに使ったスーツを着込み、ビジネスマンがノートパソコンを広げているのを装うことにした。

幸い、愛里寿のアパートのそばに小さな児童公園があった。

無線ルーターが電波を飛ばすことができる範囲は半径一五メートルだ。

そこはぎりぎり射程範囲に入っていた。

街には、小さな児童公園が点在していた。

法令上、児童公園の近くにはラブホテルなどのいかがわしい施設を作ることができない決まりがある。

風俗上の規制のために、ある時期に児童公園を次から次に作ったのだろう。

だが、その気遣いが、逆に今、この僕に盗撮のために利用されている。

そのことに強い興奮を覚えた。

データを受信し、自宅に帰る道すがら、勃起が抑えられなかった。。

スーツを着用しているときに勃起すると、随分と股間が気持ち悪い。

普段作業着しか着ない生活をしているから、それは新しい発見だった。

家に帰り、ノートパソコンを机の上に置く。

受信したデータファイルをクリック。

とうとう、愛里寿の部屋の盗撮画像を見る時がやってきた。

画像は予想以上に鮮明だった。

音声もそこそこクリアに撮れている。

技術の進歩はすごいものだ。

画像は、僕が愛里寿の部屋にいるところから始まっていた。

一週間前の画像だ。

改造ボコを棚の上に設置し、僕が帰っていく。

手を振って僕を見送ってくれた愛里寿が、にこにこと微笑みながら部屋に戻ってきた。

愛里寿は部屋に戻ると一直線に、ボコに近づいてくる。

可愛い顔が画面に大きく映る。

すごくうれしそうな笑顔で、いとおしそうにボコを見つめている。

 

「ボコ……かわいい」

 

愛里寿がつぶやいた。

 

「えへへ。これから、ずっとお友達でいてね」

 

それはボコへの言葉だ。

僕はその言葉に胸が締め付けられそうになる。

ぬいぐるみに話しかけているんだね、愛里寿。

なんて子供っぽくて愛らしいんだ。

 

「お名前、どうしようかな」

 

愛里寿がほんの少し思案顔をした。

 

「総一郎さんがくれたから……そ、総一郎ってつけちゃおうかな」

 

愛里寿が頬を赤く染める。

そして、ボコに向かって、呼びかける。

 

「きょ、今日からあなたは、総一郎よ……。あぅ、な。なんかやっぱり恥ずかしい! ぼ、ボコ! やっぱりボコはボコだよね、うん、あなたはボコ!」

 

僕はきっとこの瞬間、画面上の愛里寿よりも頬を赤くほてらせていただろう。

僕は、画面の中の愛里寿を抱きしめたくなる。

 

「ボコ……」

 

愛里寿が、うるんだ瞳でボコを見つめている。

 

「総一郎さんが、くれた、ボコ……」

 

紅潮した彼女の頬が、妙に艶っぽい。

あんなに幼くて、無垢なはずなのに、どうしてなんだ。

女の匂いが、ここまで感じられそうだ。

 

「……んっ」

 

愛里寿が、うつむいて、吐息を漏らした。

何やらもじもじとした様子で、スカートの裾をつかむ。

どうしたんだ、愛里寿?

 

「……あぅっ……」

 

愛里寿は、恥ずかしそうに、何かに戸惑うかのように、スカートの裾をつまんだ指に力を込める。

そして、一瞬のためらいの後、スカートの内側に、手を入れた。

それは、信じられない光景だった。

愛里寿の細い腕が、自らのスカートの中に入っていく。

もぞもぞとした動き。

スカートではっきりとは見えないが……まさか、股間をまさぐっている?

愛里寿?

まさか、君は、オナニーをしているのか?

 

「ん、んぅっ」

 

愛里寿の幼い細い声が、信じられないような色っぽい喘ぎを上げた。

 

「あ、あぅ……」

 

慣れない手つきでもぞもぞと、まるで自分自身の行為におびえているような表情をする。

そして彼女は、ちらりと、ボコを見た。

ボコと目が合った気持になったのだろうか。

恥ずかしそうに目を伏せる。

そして。

 

「ボ、ボコは、見ちゃダメ……」

 

そう呟いて、ボコの顔に、可愛いレースのハンカチをかけた。

そのせいで、画面がほとんど見えなくなる。

けれども、うっすらと、愛里寿の行動は見えた。

彼女は、ベッドへと移動している。

そして、おそらくは、四つん這いになって、お尻を突き出して。

下着越しに、股間をまさぐり始めたのだ。

僕は心臓が止まる思いだった。

何か着替えでも映ればと思っていたが、まさか。

愛里寿のオナニーに遭遇するなんて。

 

「んくっ、んぅぅぅ……」

 

画面にはうまく映っていないが、ガサゴソという衣擦れの音と、ぬちぬちと何かをこする音、そして愛里寿の、もどかし気な声が聞こえる。

はっきりと見えないことが悔しい!

くそっ。

僕は、心が破裂しそうになった。

 

しばらく後、ボコの顔を覆っていたハンカチがどけられた。

頬を上気させ、照れたような表情の愛里寿がそこにいた。

彼女は、スカートを脱ぎ、かわいらしい下着を露出させていた。

今日はボコのプリントパンツではなかった。

淡いブルーに、細かいドット柄が入ったスポーティーな雰囲気のパンツだった。

スーパーで売っているような、安っぽい子供パンツだ。

そのことがなおさら僕の嗜虐心を駆り立てた。

うまく映りきっていない。

そのパンツ越しに、割れ目をこすったのか?

大事なところのカタチ沿いに、湿っているのだろうか?

 

「ぼ、ボコ……。目隠し、しちゃって、ごめんね」

 

愛里寿がうつむく。

あぁ、ぬいぐるみ相手に本気で恥ずかしがっている。

その様子がたまらなくいとおしい。

 

ピンポン。

 

「え?」

 

唐突に、チャイムが鳴った。

戸惑いの声を上げたのは、僕も愛里寿も同じだった。

だ、誰だ?

誰がやってきた?

画面の中の愛里寿も、わたわたと慌てている。

もう一度、チャイムが鳴る。

愛里寿が、慌ててドアスコープをのぞき込む。

そして、はっと驚いたようになり、「い、いま開けます」と言っているのが聞こえる。

ど、どういうことだ?

愛里寿が急いでスカートを穿く。

そして彼女は、扉を開けた。

 



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29 画面の向こう

映像の中の愛里寿が部屋の扉を開ける。

扉の向こうから登場したのは、見覚えのある少女だった。

西住みほ。

そう、あのカラオケ店の受付のアルバイト少女だ。

僕は舌打ちをした。

またこの女か。

顔立ちは悪くはないが、どうにも気に入らない。

今は愛里寿を見ることが目的だというのに、どうして部屋に入ってくるんだ!

くそっ。

そういうと、先日も部屋にやってきて誕生会をしたと愛里寿が言っていたな。

頻繁に遊びに来るようになっていたのか?

 

「み、みほさん……どうしたの?」

 

愛里寿が頬を火照らせたままの表情で問いかける。

先ほどまでしていた自慰行為の余韻がまだ、体の奥底に残っているのだろう。

僕は、その表情を僕に向けてほしいと思う。

画面の中の西住みほが、愛里寿にこたえる。

 

「どうって? 遊びに来ただけだよ?」

「そ、そうだよね」

 

西住みほが、にっこりと笑った。

 

「この間、言ってくれたよね? 『みほさん、お友達になってくれてありがとう。いつでも遊びに来てね』って。私、あの言葉忘れてないよ?」

「あ……う、うん」

 

愛里寿がばつが悪そうに曖昧にほほ笑んだ。

僕には愛里寿の心の中が目に見えるようだった。

愛里寿は友達を欲しがっていた。

西住みほは、大切な友人だ。

そんな彼女の気分を害したくないし、遊びに来てほしい、そのことは事実なのだろう。

だが、タイミングが悪い。

だって愛里寿は、ついさっきまで自慰をしていたところなんだぞ?

 

「ふふふ」

 

西住みほが唇の中で完結するような笑い方をした。

 

「ね、アルバイトが終わってすぐに来たんだよ? ちょっと走ったから疲れちゃった。座ってもいい?」

「う、うん」

 

愛里寿がうなづくと同時に、西住みほは部屋の中ほどに移動し、そこから右手へ折れる。

 

「え?」

 

愛里寿が小さく声を上げた。

椅子とは反対方向へ歩いたからだ。

 

「えいっ」

 

かわいい掛け声とともに、西住みほはベッドに腰かけた。

 

「あっ」

 

愛里寿が目を見張る。

 

「えへへ、ふかふか。いいベッドだね」

「あ、その……ありがとう」

 

何か言いたげな愛里寿の瞳を、彼女のベッドに腰かけた西住みほが見つめる。

 

「どうしたの? もしかして、嫌だった?」

「そんなことは……」

 

ずるい問いかけだ。

この問いかけはずるい。

行為を成し遂げてから是非を問うなんて、断らないことを強制しているのと同じだ。

案の定、愛里寿はうつむき、思案し、しかし、ベッドに座った西住みほを拒否することもできず、唇をかむ。

言えるわけがない。

そのベッドはさっきまで私が自慰をしていたベッドなの。恥ずかしいから座らないでとでも言えばいいのか。

愛里寿がそんなこと、言えるわけがないじゃないか。

僕は、画面にくぎ付けになる。

画面の中の二人に、静かな緊張感が走っている。

西住みほが、手に持っていたトートバッグを床に置き、空いた手でベッドのシーツを撫でた。

愛里寿の羞恥心が強くなっているのがわかる。

愛里寿は明らかに先ほどよりも頬を赤らめている。

何かを探るように西住みほは右手でシーツを撫で続ける。

一か所ではなく、少しづつ範囲を移動させていく。

 

「あ、あっ……」

 

愛里寿が声にならない声を上げるが、西住みほは動じない。

右掌が、ある一点にたどり着いた時、けげんな表情を作った。

 

「んん? ここ、湿ってる?」

「ふゃ!」

 

ぼんっと、音を立てて蒸気せんばかりに、愛里寿が沸騰した。

真っ赤になってとうとう言葉を紡ぐ。

 

「み、みほさん、ダメ!」

 

西住みほが顔を上げた。

 

「すごい声」

「ご、ごめんなさい」

「びっくりしたよ。何がダメなの?」

「え、えと、それは?」

「この湿ってるのと何か関係があるのかな?」

「そ、その……」

 

西住みほが立ち上がった。

シーツの湿った部分に触れた手のひらを匂い、それを舐める。

その動作が妙になまめかしい。

その動作を続けながら、愛里寿へと近づく。

 

「みほさん……?」

「隠さなくてもいいよ」

「ふぇ?」

 

ふぁさっと柔らかい衣擦れの音を立てて、愛里寿のスカートが捲り上げられた。

もちろん、西住みほの手によってだ。

スポーティーな水玉模様の、子供パンツが露わになる。

 

「み、みみみ、みほさん、な、ななにを!?」

「やぁっぱり、ここの匂いだ」

「ふぇぇぇぇ?」

 

西住みほが、にこやかに笑いながら、愛里寿の股間に鼻をくっつけた。

すんすんと音が聞こえそうなぐらいに、下着越しに股間の匂いを嗅ぐ。

 

「愛里寿さんの割れ目の匂い、シーツの匂いとおなんなじだね♪」

 

気が狂いそうなぐらいに無邪気な笑顔で、そんな言葉を吐く。

 

「あ、あぁぁぁ……」

 

すべてを見透かされたことを悟ったのだろう。

愛里寿は、もはや言葉をなくしていた。

呆然とも絶望ともいえる表情に、ありったけの羞恥をちりばめ、涙目になって、口をパクパクとさせる。

そんな愛里寿を見上げ、西住みほがつぶやいた。

 

「ふふふ、可愛い」

 



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30 もうすべて成し遂げられたこと

「怒ってなんていないよ」

 

この上もないほどに優しい声が聞こえる。

その声は、西住みほの声だ。

彼女は今、愛里寿のスカートを捲り上げ、下着に鼻先をつけながらつぶやいている。

 

「ふぇ……」

 

怯えた声を上げる愛里寿を諭すように、西住みほが言葉をつなぐ。

 

「いい子だね……怖がらないで。お姉ちゃんはね、ちっとも怒ってないんていないよ? 愛里寿さんがオナニーしていたことを咎めたいんじゃないんだよ?」

 

西住みほの手が、愛里寿の細い太ももに触れる。

ゆっくりと、いとおしげにそのすべすべの肌を撫でる。

 

「ねっ。お姉ちゃん、愛里寿さんと、もっと仲良くなりたいな。愛里寿ちゃんって呼んでもいい?」

「う、うん」

「ふふ。きれいな足だね。愛里寿ちゃんのすべてがきれいだよ。こんなにきれいでかわいくて、まだ小さいのに、オナニーしちゃったんだね」

「み、みほさん」

「大丈夫、大丈夫。ちっとも怒ってないかね。怖がらないでね」

 

小さい子供をあやすように呟きながら、西住みほの指が、愛里寿の股間に触れた。

 

「んぅ」

 

愛里寿が吐息を漏らす。

そして、下着越しにそっと大切な部分を撫でていく。

愛里寿が、くすぐったいような、せつないような声を上げる。

 

「まだ、よくわかってないんだよね? オナニーのこととか。それで、自分が悪いことをしてるんじゃないかって戸惑ってるんだよね? 大丈夫だよ。お姉ちゃんが、ゆっくり教えてあげるから」

「あ……み、みほさん……」

「ほら、ここ。もうぐしゅぐしゅだよ?」

 

西住みほが、下着をいじっていた指を離す。

するとかすかに糸を引いたように見えた。

 

「ね。お姉ちゃんが、もっといろんなことを、ちゃんと教えてあげる。だから、ベッドに行こ?」

 

西住みほが、愛里寿を見つめる。

あのつぶらな瞳を、じっと見つめる。

……僕は、画面のこちら側で歯ぎしりした。

やめろ。

やめろ。

やめろ。

このっ。

僕の愛里寿に、おかしなことを吹き込むな。

西住みほ!

くそっ。

僕は画面の枠を強く揺さぶる。

そしてやっと、それがノートパソコンの画面であることに気が付く。

なんてことだ。

なんて遠いんだ。

僕と、彼女らの世界は離れている。

こんなにも隔てられている。

これは、画面の向こうで起きていることだ。

僕は、画面の向こうへと手を伸ばすことができない。

いや、待てよ。

それどころか。

これは、この画像は、この動画は。

一週間前に録画されたものだ。

それはすでに、起こったことなのだ。

この出来事はすでに完結し。

もうすべて成し遂げられた出来事なのだ。

その事実に思い至った時、僕は愕然とした。

あまりの恐怖に、足が震えた。

これから、画面の中で起こる事実に、僕はもう干渉できない。

僕は、愛里寿と西住みほに。

もう干渉できないのだ。

僕は。

血走った眼で、画面をにらんだ。

画面の中では、西住みほが、愛里寿の肩を抱き、耳元で何かをささやいでいた。

僕の耳が、そのつぶやきのような吐息のような声をとらえた。

 

「ね? 怖がらないで? お姉ちゃんと、しよ?」

 

くそっ。

くそっ。

愛里寿は、西住みほに耳元でささやかれ、頬を赤く染め、戸惑うようなそぶりを見せている。

けれども、肩に触れられた手、西住みほのいやらしい手つきを、拒まないでいる。

どうしてなんだ。

どうして拒まないんだ、愛里寿!

その女はおかしい。

異常性愛者だ。

君を犯そうとしている。

ペドフィリアの変態レズビアンだ。

拒め。

拒んでくれ、愛里寿。

頼む。

頼むから。

そんな女の言いなりにならないでくれ。

君には僕がいるだろう?

君を愛している僕が。

僕の愛里寿になってくれ。

なって……くれ……よぉ……。

 

「うっ、く。うぅぅ」

 

気が付くと、とめどもなく涙がこぼれていた。

なぜならば、画面の中ではすでにもう、愛里寿が西住みほの行為を受け入れていたからだ。

はじめは照れ臭そうに、怯えながら。

だが徐々に、快楽におぼれ。

西住みほという、美しい年上の少女の、柔らかい体に抱きしめられ。

愛里寿の華奢な幼いからだが、初めて知る女の悦びに震えていた。

二人の汗がとめどなくベッドに染み込み、二人の喘ぎ声が、アパートの部屋に響き渡る。

その様子を改造ボコのレンズは冷徹に見つめていた。

僕の設置した改造ボコのレンズを通して、僕の愛しい少女が奪われ乱れ喜ぶさまが、今この僕の部屋に再現されている。

それはあまりにも皮肉でゆがんだ状況だった。

これは一体、何なんだ。

これは現実なのか?

そうか、これが、現実なのか。

これがすべて、もう。

成し遂げられて終わった出来事なのか。

 

僕は、へなへなとしゃがみ込み、天を仰いだ。

 

「うぁぁぁぁぁ……」

 

うめきとも、叫びともわからぬ声が、歯ぎしりの間から漏れた。

今、画面の中では、事を終え汗だくになった二人の少女が、ぐったりと抱き合いながらベッドで息をついていた。

西住みほが、いたずらをする子供のように、愛里寿の頬を撫でる。

くすぐったそうに微笑んだ愛里寿がつぶやいた。

 

みほさん……大好き……

 

愛里寿のその、幸せそうな言葉を聞いた時、僕の中の何かがひび割れた。

僕は、体の奥底から沸き起こる、かつて感じたことのないほどの悔しさを覚えた。

僕は立ち上がり、歌っていた。

なにを?

わかるだろ。

あの、ボコの歌だ……。

僕は立ち上がり、もぞもぞと着替え始めた。

体の動作が鈍い。

ジョギングに使っているジャージと野球帽をかぶるのだけに21分を浪費してしまった。

時間がのっぺりとしている。

のっぺりと引き延ばされ、息も絶え絶えと嘲笑っている。

 



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31 そして、ボコになる……

家を出ると、西住みほがアルバイトをしている例のカラオケ店に電話を掛けた。

若い男の声が返事をした。

 

「あの、西住みほさんはいますか?」

 

僕はできるだけ冷静な声で問いかけた。

 

「え?」

 

受付の男が素っ頓狂な声を上げた。

 

「西住みほさんです。そちらで働いているでしょう?」

「あの、それが何か?」

 

戸惑った声。

畳みかければうまくいきそうだった。

 

「僕は彼女の親戚です。竹原といいます。緊急の連絡があるのですが、彼女の携帯番号を知りません。そちらで働いていると思ったのですが」

「あ……この時間はいません」

 

男が答える。

 

「困ったな。今日はアルバイトの日ですよね? 何時からですか?」

 

これは賭けだった。

今日がアルバイトだとは限らない。

だがビンゴだった。

 

「えと、18時半からです……」

「そうですか。ありがとう。彼女が来たら竹原から連絡があったと伝えてください」

 

僕はそう言って電話を切った。

上出来だった。

先日見た限り、カラオケ店の受け付けはアルバイトの学生ばかりだった。

コンプライアンス教育など行き届いていないだろうと予想して正解だった。

青年は僕のことを怪しんではいたが、急な状況に判断が追い付かない様子だった。

僕は時計を見た。

15時50分だった。

西住みほがアルバイトにやってくるまで十分な時間があった。

僕は河原へと向かうことにした。

僕たちが住んでいる街には、国土交通省が管理する大きな河川があった。

河川を隔てて向かいが別の市域になっている。

河川敷には、幾多の砂利や小石があった。

僕はその中から、握りやすい大きさのものを一つ選び、バックパックに入れた。

そして、ゆっくりとカラオケ店に向かった。

到着したのは、17時30分だった。

この時間だとまだ西住みほは到着していないはずだ。

案の定、受付を除くと髪を短く刈り込んだ学生風の男が退屈そうに立っていた。

僕は彼に、フリータイムでカラオケを申し込んだ。

空いていたのだろう。

案内された部屋は広かった。

僕はそこで18時半まで息をひそめた。

18時半になると同時に、リモコンを操作して『おいらボコだぜ』を予約画面がいっぱいになるまで入れた。

5回目のイントロが流れたときに、インターフォンで受付に連絡を取った。

 

「はい」

 

若い女の声だった。

記憶に違いがなければ西住みほの声だ。

間違えるはずがなかった。

あの動画の中で、さんざんに聞かされた声だ。

僕は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「注文をよろしいですか?」

「はい、どうぞ」

「あの、コカ・コーラを一つ」

「かしこまりました」

 

いい返事だった。

透き通った声と優等生ぶったトーン。

ペドフィリアの変態レズビアンのくせに。

僕は、受話器を置くと深呼吸した。

そして、マイクを取り、歌い始めた。

 

♪やってやる やってやるぜ♪

 

こんこん、とノックの音がする。

こちらの返事を待たずに、西住みほが扉を開けた。

 

「お待たせいたしましたぁ。コーラお持ちいたしましたぁ」

 

明るく元気に言い放ち、机にコーラを置く。

そしてつぶやいた。

 

「あっ。ボ、ボコの歌だぁ!」

 

まるで先日の焼き直しだった。

安っぽいタイムリープモノの3文芝居を見ているかのようだ。

 

「あ、あの、お客様、ボコがお好きなんです……か?」

 

嬉しそうにこちらを見た瞳が見開かれる。

 

「あ……」

 

僕は笑った。

 

「なんだよ。僕に何かあるのか」

「あ、いえ、その」

「なぁ、西住みほちゃん」

 

西住みほが僕をにらんだ。

 

「あなた……愛里寿のお友達の人、ですよね?」

「呼び捨てかよ」

「え?」

 

僕は吐き捨てた。

 

「お前、もう愛里寿を呼び捨てかよ。えぇ?」

「わ、悪いんですか?」

「悪いよ。お前最悪だよ。お前さぁ、愛里寿に何やったんだよ。え? 愛里寿の部屋でよぉ」

「あ、愛里寿から、聞いたの?」

「んなわけねぇだろ!!」

 

僕は怒鳴りつけた。

 

「んなこと、愛里寿の口から聞きたかねぇよ。あのかわいい口からよぉ。僕はな、ちゃんと見てたんだよ。あの部屋をな」

「み。見てたって、どうやって」

「どうでもいいだろ、んなこと」

「へ、変態!」

 

西住みほが叫んだ。

 

「この、変態! どこかから覗いていたんですか? あなた、最初からおかしいと思っていたんです。あんな小さい子と仲良くして。あなた、おかしな性癖があるんでしょ!」

「変態はてめぇだろうが!!」

 

僕は机を叩いた。

 

「変態はてめぇだろ。このレズビアン。僕の愛里寿を汚しやがって。それは僕がやるべきことだったんだ」

「あぁ、やっぱり!!」

 

西住みほが薄ら笑いを浮かべた。

 

「とうとう白状した! 僕がやりたかったですって! この、ロリコン! 犯罪者!」

「それはお前だろうが」

「全然違います!」

 

西住みほが、おとなしそうな容貌の奥に隠していた強気な瞳を僕に向ける。

 

「全然違います。私は同性。あなたは、男でしょう? あなたはロリコンの性犯罪者予備軍なんです。私はあの子を守ったお姉さん。あなたとは全然違う」

「へぇ」

 

僕は彼女に近づいた。

 

「女なら、幼女犯しても犯罪になんねぇのかよ」

「そ、そうよ!」

 

もう一歩、近づく。

 

「そりゃ大した世の中、だな」

 

言うと同時に、拳を振り上げた。

 

「ふぇ?」

 

予想外の行動だったのだろう。

間抜けな声を上げた、西住みほは、よけることもできず、僕の拳をその顔面に振り落とされた。

 

「ぶぎっ」

 

とても女の子があげたとは思えない、ひしゃげた声。

僕は拳に、鼻血がこびりつくのを感じた。

僕は右手に、先ほど河原で拾った石を握っていた。

そのまま彼女の鼻先から拳を離し、反復動作でもう一発お見舞いする。

 

「ぎゃぶっ」

 

醜くつぶれた声が上がる。

そこへさらにもう一発。

 

「びべっ」

 

もう一発。

 

「んぼっ」

「ぐぶっ」

「びぎっ」

 

面白いほどに醜悪な、息を吐きだすような音を立てて、西住みほが顔を前後させる。

僕はそんな彼女の後頭部を押さえつけ、床に引き倒すと、マウンティングして両手でこぶしを打ち下ろした。

執拗に顔を殴打していく。

血がどんどんと宙に散る。

僕の拳を汚していく。

僕は何度も何度もこぶしを往復させる。

まるで工事現場のクレーン車の振り子のように幾度も幾度も。

途中から西住みほは声をあげなくなった。

僕は、そこで、これで終わりだとでも言わんばかりに思いっきり、彼女の口元めがけてこぶしを振り下ろした。

がこっ、っという音を立てて、前歯が内側にめり込んだ。

強い衝撃で頭が動いて、床に打ち付けられる鈍い音が聞こえた。

彼女は失禁していた。

僕はそんな股間を蹴り上げた。

もう彼女は反応しなかった。

声を上げることもなく、ただ少し体をびくつかせただけだった。

音楽はまだ流れていた。

予約画面にはいまだにボコの歌がずらりと並んでいた。

僕は少し入れすぎたらしいと後悔した。

肩がこわばっていた。

んんっと伸びをした。

そして振り向くと、若い男の店員が、扉越しにこちらを見ていた。

先ほどの受付の青年だった。

僕は扉を開けて彼に言った。

 

「なに?」

「あ、い、いえ」

 

彼は不思議な表情をした。

自分でもどういう表情をすればいいのかわからなくて、うまく表情が作れないといった様子だった。

僕も、就職して初めての飲み会に行ったとき、よくそういう表情をしたものだ。

青年は、床に倒れている西住みほをちらりと見た。

そしてすぐに目をそらした。

 

「気になる?」

「え、えと、その……それって、うちの店員の西住さん、ですよね?」

「うん」

「そうっすか……」

 

青年がうつむいた。

 

「どうしたの?」

「あ、いえ、その……俺、わりとその子のこと、可愛いなって思ってたので。その。顔とか、潰れちゃったのかなって」

「悪いね。たぶん、潰しちゃったよ」

「そ、そうっすか……」

「どいて。外、出るから」

「だ、だめっす」

 

青年が僕をにらんだ。

 

「そ、その。もう、警察、呼びましたから」

 

その足は震えていた。

僕はやれやれと肩をすくめた。

 

「そうか。わかったよ。もう一軒、行きたいところがあったんだけど。実はそちらに関して少し悩んでいたんだ。僕はその子のことがすごく好きだったから。これで踏ん切りがついた」

 

そして、ソファに座った。

先日よりも柔らかいソファだった。

 

「ここで警察を待つことにするよ。それまでの間、歌っていてもいいかな? 予約がまだたくさんあるんだ」

 

青年は、小さく頷いた。

 



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32 記憶を取り戻した僕は

僕は深くため息をついた。

すべて思い出したからだ。

首を回すと少し音がした。

2年前の秋口ごろからずっと首が痛かった。

回すとごきごきと骨が動くような音が聞こえる。

歳をとったのだ。

あのころ……島田愛里寿に夢中になり、西住みほをボコボコにした日から、もう20年が経過している。

あれから、無理ばかりして生きてきたような気がする。

僕は時計を見た。

意外だが、5分も経っていなかった。

しかし、脳の処理速度というのはそういうものかもしれない。

自分の中に、自分の想像を超えた機関があるのが人間だ。

僕が一瞬、茫洋としたように見えたのだろう。

目の前の刑事が問いかけてきた。

 

「おい、あんた。大丈夫か?」

「あぁ、問題ないよ」

「そうかい」

 

僕が淡々と答えると、彼は再びこちらを小馬鹿にするような微笑みを取り戻した。

 

「んで、牧野さん。そのぬいぐるみを見てなんかわかったの?」

 

僕は彼の言葉に促され、手元を見た。

そこにはぼろぼろのボコのぬいぐるみがあった。

僕は小さく首を振った。

 

「いや、なんでもないんだ」

「なんでもないったぁなんだよ、その言い草はよぉ」

 

刑事が舌打ちを撃つ。

僕は眼を閉じた。

 

「言い方が悪かった。観念したってことだよ。確かに僕は犯罪者だ。これで2度目だ。前は女の子を一人ボコボコにした」

「ほぉ……」

 

目の前の刑事が目を見開いた。

それから嬉しそうにこちらに顔を近づけた。

 

「あんた、諦めるの早いねぇ。牧野さん。もっと粘るかと思ってたよ。弁護士呼んだりとかさ、心神喪失の記憶喪失装うとかね」

 

彼の言葉に、後ろ手の中年の刑事が眉を動かした。

彼はつづけた。

 

「ま、こっちは楽でいいわな。いまどき取調室でいたぶることもできん。ゲロせんヤツの相手しても面白くないんだわ」

「僕の方からも一つ聞いていいかな?」

「なんだ?」

「刑事さんさ、取調室で殴ったり蹴ったりするのが楽しくてその仕事に就いたの?」

「あぁん?」

 

目の前の刑事が僕を強く睨んだ。

 

「ふざけたこと言ってるとマジでぶっ殺すぞ、こら」

「単純に疑問に感じただけだよ」

「おぉ、テメェ。あんまマッポ舐めんなよ。あぁ?」

 

その時だ。

取調室の入り口の扉がノックされた。

もったいぶったような遠慮したような鈍いノックの音だった。

刑事たちが後ろを振り向いた。

 

「ちょっと待ってろ」

 

刑事が立ち上がる。

扉を開けると、向こうにいた別の男が頭を下げた。

彼は警官の制服を着ていた。

二人が何かをぼそぼそと話す。

時折、刑事が「あぁ? そりゃどういうことだ!」と怒鳴っているのが聞こえた。

後ろ手に立ったままだった中年の刑事が僕に問いかけてきた。

あの飛行機で出会っていた刑事だ。

静かな声だった。

 

「なぁ。あんた、本当に正気なのか?」

「たぶん」

 

僕は簡潔に答えた。

そう答える他になかった。

中年の刑事は考え込むように顎を撫でた。

 

「俺はあんたがおかしいと思っていたんだがなぁ」

「一枚岩じゃないですね」

「組織ってのはそういうもんなんだ」

「わかります」

「あんたさぁ」

「はい」

「自分をボコだと思い込んでたろ?」

「えぇ」

「そりゃまた、どうして?」

 

僕は少しうつむいた。

自分のことを深く掘り下げるのは少し息苦しかった。

 

「うまく言えないんですけど。……僕は20年前、女の子をボコボコにして。ブタ箱喰らって。そしたら再就職とか。困難で。しょうがないから、自営業でやり直そうって思ったんです。でも、実名報道されてたから。いろいろ、つらくて。気が付いたら、自分じゃなくてボコになってたというか」

 

僕は、いつの間にか、自分を呼ぶ他人の言葉を『ボコ』に置き換えていた。

僕を、『前科者』と呼ぶ声は、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。

僕を、『犯罪者』と呼ぶ声も、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。

僕を、『ワル』と呼ぶ声も、僕を『ボコ』と呼ぶ声に。

そうして精神のバランスを保ってきた。

そうなんだ……と……思う。

 

「ふむ……」

 

中年刑事が顎を撫でた。

その時、大きな音を立てて、扉の向こうで話していた刑事が戻ってきた。

 

「おい、牧野」

 

彼はとげとげしい声で僕を呼んだ。

 

「釈放だ。あんた、不起訴だってよ」

「え?」

 

僕は驚いて彼を見た。

彼はいかにも不機嫌そうに口元を歪めていた。

 

「相手さんだよ」

「相手?」

「あんたが殴った相手さん。もういいんだってよ。示談成立ってわけだ」

 

彼は、ふざけやがって、と吐き捨てるように言った。

僕はわけがわからないまま、立ち上がった。

少し足元がふらついた。

疲労が蓄積していた。

僕は、刑事の言葉の意味を頭の中で咀嚼した。

不起訴。

相手側がもういいと言っている。

湯浅が?

どうすればいいのか分からず、ぼんやりと立っていると、中年の方の刑事が僕に言った。

 

「ぬいぐるみ。あんたのなんだから忘れないで」

 

僕は曖昧に頷いた。

書類にサインし、ぬいぐるみを手にとって、のたのたと歩いた。

警察署の入り口で湯浅が待っていた。

彼は、顔にいくつものガーゼを張り付けていた。

僕を見ると、微笑もうとしたらしかった。

 

「いやはや、牧野さん」

 

ややくぐもった声で、言葉を区切るように言った。

 

「えらい目に合いはりましたなぁ」

 

彼は目を細めた。

 

「まさかこんなことになるとは思ってもみませんでしたわ。いや何、警察をよんだんは俺じゃありまへんねん。俺はただただ気絶しとってな。ホテルのもんが勝手に呼んだんですわ」

「湯浅さん……」

「社長さんは、大事な大事な契約相手やさかい。怒らせてもうたんはこっちや。今回のことはお互い水に流しまひょ。これからもうまくやっていきましょうや。な」

 

彼は大げさな身振りで僕の肩をばしばしと叩いた。

 

「さて。いろいろついてもたケチを払いに行きましょか」

「え?」

「いややなぁ。飲み直しですがな。仲直りのしるし、させてもらいますわ」

 

続く

 



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33 これが本当の仲直り?

「飲み直すって、どこへ行くつもりなんですか?」

 

僕が問いかけると湯浅は楽しそうに笑った。

笑ってから、頬が痛むらしく、ガーゼの上から頬の傷を押さえた。

 

「ここから歩いていける距離に、よく知ってるバーがありますねん。そこやったら何でも融通効きよりますから」

「バー……」

「あぁ、ちゃうちゃう」

 

湯浅が大げさな身振りで手を振る。

 

「バーゆうたかて、昨日みたいな店とちゃいます。オーセンティックなバーですわ。いいお酒が置いてるんです」

「そうですか」

「さ、行きまひょ。仲直りや、仲直り」

 

歌うように「仲直り」を連呼して、湯浅が歩いていく。

僕は仕方なくその後ろを歩いた。

警察に拘束されているうちに、昼過ぎになっていた。

日差しが強い日だった。

昨日の夜からの出来事が長かったせいか、日の光を浴びるが久しぶりであるような気がした。

歩道沿いの街路樹からこぼれてくる強い日差しが時折僕の目を刺した。

僕はそのたびごとに目を細めた。

歩いていると、すれ違う人々が僕たちを見ていた。

確かに、見られて仕方のない二人だった。

湯浅は僕に殴られて、顔にいくつものガーゼを張り付けている。

僕はといえば、浮かない表情で、薄汚れたボコのぬいぐるみを抱えている。

しかも、髪もろくにとかしていない。

こんな奇妙な中年二人組が日中の路地を歩いているのだ。

目立たないわけがない。

 

「ねぇ、湯浅さん」

「ん?」

「タクシーに乗りませんか?」

「もうすぐそこやさかい」

 

湯浅は僕の言葉を聞き入れず、ずんずんと歩く。

やがて、Y字路を右に曲がると、雑居ビルの一つを指さした。

 

「ここの二階ですねん」

 

比較的小さな雑居ビルは、薄暗かった。

階段を使って二階に上がると、「バー・シンシナティ」と書いてある木目の板が見えた。

 

「さ、入りまひょ」

 

湯浅がドアを押すと、それは少し軋みを立てて開いた。

鍵が掛かっていないようだった。

だが、中は真っ暗だった。

湯浅がドアのすぐ近くのボタンを押して明かりをつけた。

狭い店だった。

カウンターと、テーブル席が3つ。

カウンターにはずらりとウィスキーが並んでいた。

様々な種類のグレンリベットと銘打たれたウィスキーが行儀よく鎮座していた。

まるで通学バスを待つお嬢様学校の生徒たちのように品の良いたたずまいだった。

悪くない雰囲気だと思った。

 

「お昼からやっているのですか?」

「いやいや」

 

湯浅が首を振った。

 

「ここは俺と同郷の奴がやってる店ですねん。いわば九州で働く関西人の同盟って感じなんですわ。だからいろいろと融通が利くんです。さっき無理言って、貸し切りで開けてもらったんです。マスターがやってくる夕方まで、二人占めですわ」

「へぇ」

 

僕はカウンターに座った。

 

「そんな、カウンターに座らんと。奥のテーブルにゆったり座りましょ」

「いや、こっちのほうが落ち着くんです」

「ほなそれでもよろしいけど」

 

湯浅が、慣れた様子でバーカウンターの向こう側に移動し、キャッシャーのそばに置いてあるアイポッドをいじくった。

聞きなれた音楽が流れた。

若いころに時々聞いた音楽だった。

ブライアン・フェリーの『ベールを剥がれた花嫁』の1曲目だ。

 

「いいな」

 

僕は無意識につぶやいた。

 

「へ?」

 

湯浅がこちらを見る。

 

「何か言いはりましたか?」

「あぁ……いえ。ブライアン・フェリーだ、と思っただけです」

「この歌ですか?」

「ええ」

「ふぅん」

 

湯浅はそっけなく返した。

 

「俺は音楽はよう知りませんねん。マスターがいつもこれをかけてるんですわ。そやから、真似しただけです」

「そのアイポッドはお店のですか?」

「さいです」

 

店内をもう一度見まわすと、カウンターの奥に小さな額があり、ロキシー・ミュージックの『AVALON』のジャケットが収められていた。

店内の内装で、美術らしいものはそれだけだった。

悪くない、と思った。

あれこれごてごてとジャケットを貼っているバーよりも、『AVALON』一枚だけという方が、雰囲気が統一されて、小粋だと思った。

『AVALON』の、甲冑を着た騎士が海峡を見つめている写真は、なかなかに風情があって、この店を浪漫のある空間にしていた。

 

「社長はん」

 

湯浅の声に我に返った。

 

「音楽はようわかりませんけどな。酒なら詳しいで。この店な、えらいええもんあるんや」

「と言いますと?」

「これや、これ」

 

彼は、スツールの奥に並んだウィスキーをいくつかどけて、後ろ手から、一本の古びたボトルを取り出した。

 

「なんですか、それは?」

「ポート・エレンって言いましてな。もうずっと前に閉鎖された蒸留所のものですねん」

「閉鎖?」

「あぁ、そうか、社長はん、お酒にはあんまり詳しゅうないんでしたな。昨日のお店でも確かに……おっと」

 

失礼、失礼、とつぶやきながら口元を押さえる。

 

「まぁとにかく、大変なレアもんですわ。そりゃ東京やったらもしかしたら手に入るかもしれへんけどな。それでもとんでもないお値段のもんや。今日は、特別にこれ開けまひょ。俺のツケにしておきますさかい」

「いいんですか?」

「特別、特別」

 

湯浅がうれしそうに目を細めた。

恵比寿目というやつだった。

僕はむしろウィスキーよりもビールが飲みたくなった。

恵比寿ビールをだ。

湯浅がポート・エレンの栓を抜くと、芳醇なにおいが漂った。

それをストレートグラスに注ぐ。

 

「さ、ぐっと行ってくださいな」

 

僕は苦笑いした。

 

「無理ですよ。せめてロックにしなきゃ」

「いいウィスキーはストレートで味わわんとあきまへんで」

「いやぁ、しかしですね」

「しゃぁあらへんな」

 

ロックグラスを用意し、そこに氷を入れて、再びウィスキーを注ぐ。

 

「ちょびちょびでもええから、後でストレートも飲んでつかぁさいや」

「えぇ……」

 

僕は、差し出されたポート・エレンのロックを口に含んだ。

それはまろやかだか味わいが深く、とても美味しいものだった。

 

「美味いですね。湯浅さんも飲んでくださいよ」

「俺は、いつも飲んでるもんがありますねん」

「そうなんですか?」

「えぇ。取ってきますさかい、ゆっくりしててください」

 

そう言って、湯浅がカウンターの左奥にある扉を開けた。

向こう側ががちょっとした倉庫になっているらしかった。

店の作り上、細長くて奥行きがあるらしい。

僕は息を吐きだした。

そしてもう一口、ウィスキーをすすった。

音楽が耳を撫でた。

確かに、悪くない空間だった。

昨日の夜の店よりもずっと良い。

酒を口に含むごとに、美しい深海に沈んでいくようだった。

『AVALON』の騎士が見つめる海峡はどこの海なのだろうか、そんなことを想った。

ドーヴァー?

ジブラルタル?

僕にはよくわからない。

 

やがて、かすかに物音が聞こえた。

湯浅が戻ってきたようだった。

少し時間がかかっていた。

飲みたい酒が見つからなかったのだろうか。

 

「社長はん……」

 

ささやくような声で呼ばれ、そちらを振り向いた瞬間、拳が降ってきた。

僕はそれをよけられず、額に強い衝撃を受けた。

殴ったのは湯浅だった。

彼は自慢げに拳を突き出し、息を荒げて叫んだ。

 

「このダボが。ここで殺したるぞ、こら」

 

僕は殴られた額を押さえて言った。

 

「許したんじゃないのか」

「誰が許すかこのボケ。警察にお前が捕まったら司法の裁き受けるだけやろが。俺はなぁ、自分が殴られた分は自分で殴り返したい性格なんや。だから示談にして連れてきたんや。ここでボコボコの半殺しにしたるからなぁ。覚悟せえよ」

「へぇ」

 

僕はつぶやくと同時に立ち上がり、湯浅の顔面を殴った。

多少酔ってはいたが、十分俊敏に動けた。

一発お見舞いすると即座に、ほとんど反動をつけずもう一発お見舞いした。

続いてさらに数発撃ちこんだ。

スピードが勝負だと思った。

湯浅の顔が鼻血で濡れた。

僕は気にせず殴り続けた。

相手の動きが鈍くなったことを確認すると、今度は体重を乗せて強く殴った。

二発目で湯浅が壁に倒れこんだ。

僕はカウンターに置いてあったウィスキーの瓶を取り、それで思いっきり湯浅の頭を殴った。

瓶が割れ、強いウィスキーの匂いが広がった。

湯浅はぴくぴくと痙攣していた。

彼は真正の間抜けだった。

人を殴るなら、もっと酔わせてから殴り掛かるべきだった。

 



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34 ポイント・オブ・ノーリターン

いみじくも湯浅自身が言い放ったとおり、バー・シンシナティには誰もいない。

ゆえに今回は、目撃者のいない暴行だ。

過去の2回は僕自身、心神喪失に近い状態で現場から逃げ出そうともしなかったが、今度は違っていた。

妙に頭が晴れ渡っていた。

僕はカウンターの向こう側に移動し、手を洗った。

ついでに、体に血が飛び散っていないかも確認した。

シャツに多少の血痕があった。

湯浅の血だ。

左奥の倉庫に移動し、備品を点検する。

従業員用の白いシャツがあった。

平均的な体型のものだったので、着ることができた。

まずまずの状況だった。

バーカウンターに戻るとき、壁にかけてある『AVALON』のジャケットが再び目に入った。

今は、そこに描かれている海峡が、現実の場所ではないような気がした。

どこにもない海峡。

その場所にたどり着くと、もうどこへも行くことのできない陸の果て。

ポイント・オブ・ノーリターン。

僕は馬鹿らしくて頭をかいた。

そういえば、まだブライアン・フェリーが流れているのだろうか、と思って、ふと耳を澄ました。

すると、ピアノの音が耳をくすぐった。

クリアで流暢な音だった。

いかにもイギリスのロックらしいくぐもった太い音質のブライアン・フェリーとは全く異なっている。

いつの間にか次のアルバムに変わっていたのか?

いや……。

ちょっと待てよ……。

僕は頭を押さえた。

脳の深いところを揺さぶられるようだった。

当然だ。

今、この店に流れているのは、≪冷泉麻子が奏でるピアノ≫だった。

曲目はもちろん『Guess I’ll Hang My Tears Out To Dry』だ。

そんな馬鹿な。

僕は激しく頭を掻いた。

そんな馬鹿な。

ありえない。

たしかに、ピアノによるジャズはバーにはお似合いの音楽だ。

だが冷泉麻子はただの素人だ。

あの子はただのピアノが弾けるだけの疑似ロリータポルノ女優に過ぎないんだ。

あれは正規のジャズアルバムではない。

そんなものがここのアイポッドに入っているはずがない。

そうだ。

そんなわけがない……。

僕はきっと勘違いをしているんだ。

『Guess I’ll Hang My Tears Out To Dry』自体は、有名なスタンダード曲だ。

それをソロピアノで流麗に奏でているアルバムなんて、掃いて捨てるほどある。

きっと、たまたまアレンジが似ているだけだ。

どこかのプロの演奏だろう。

僕は深呼吸をした。

深呼吸をすれば、こんな気の迷いのような思い過ごしは消え去ると思った。

しかし駄目だった。

それは、いくら聞いても、あの冷泉麻子の演奏そのものだった。

スムースで、流れがよく、しかし癖がなさすぎる演奏。

ピアノの音が、奏でられた一音ずつ空中に消えて霧散していくようなとりとめのない演奏。

消えてしまうがゆえに、僕の体に染み込み、どうかしてしまうこの音。

 

「くそっ」

 

僕は叫び、バー・カウンターを乗り越えた。

キャッシャーのそばに立てかけられたアイポッドを手荒く掴む。

画面に表示されたタイトルを見ようとすると、画面が見えなかった。

それはのっぺらぼうだ。

僕は、目を凝らした。

何度も何度も目をこすった。

だが、何をどうしようとも、アイポッドの画面がよく見えなかった。

 

「なんなんだよ、畜生!」

 

僕はアイポッドの接続を引っこ抜き、それを思いっきり地面に叩き付けた。

鈍い音が聞こえた。

アイポッドはひび割れ、壊れた様子だった。

そのとき気が付いたのだが、音楽が止まっていた。

店内は、静寂に包まれていた。

ということは……あれは耳鳴りなどの類ではなく、アイポッドの収録されていた音楽なのか?

僕は自分の短絡的な行動を後悔した。

アイポッドを割ってしまったことにより、もはや確かめる術はなくなってしまった。

そもそも、アイポッドの接続を抜いた瞬間に音楽は止まったのか?

思い出せない。

どうすることもできなかった。

 

「くそっ! くそっ!」

 

恐怖のあまり、僕は地団駄を踏んだ。

怖かった。

僕は、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

何が何なのかわからない。

混乱している。

まるで迷宮にいるみたいだ。

僕は、いつからこんな迷路に踏み込んでしまったんだ?

もうずいぶんと前からのような気がする。

 

「うぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

再び頭を掻きむしった。

昨日から風呂にも入っていないためだろう。

ふけのようなものがはらはらと散った。

頭を掻きちぎり、指で脳みそに触れたかった。

自分の感情や感覚のおかしくなってしまったことを、そうやって直したかった。

だがいくら頭を掻いても、ふけが散るだけだ。

血が指先につくぐらいに掻き毟って、嘆息すると、視界に薄汚れたぬいぐるみが入った。

例のボコだった。

それを見た瞬間、急速に頭に血が上るのを感じた。

僕は言葉になりきらない獣じみた叫び声をあげ、そのボコを殴った。

小さなぬいぐるみは簡単に吹っ飛んだ。

僕はそれを拾い上げ、腕を持ち、思いっきり壁に叩き付けた。

ぬいぐるみが裂け、中綿が飛び散った。

多少の快感があった。

 

「さすがボコだ。殴られるのには向いているらしい」

 

僕は薄ら笑いを浮かべ、床に転がったボコを踏みつけた。

ぐりぐりと靴で踏みにじると、さらに中綿がはみ出した。

その様子を見ていて、一つ気が付いたことがあった。

 

このボコは、僕の改造ボコではないのではないだろうか?ということだ。

 

なぜなら、踏みにじられ、中綿がはみ出たそれの内部には、盗撮器も何も備えられていなかったからだ。

 




おそらく、次回最終回の予定でございます。


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35 変容とヴァリエーション

すいません。
前回、次回最終話と書きましたが、あと一話続きます。
昨日データが消えてしまい、書き直してたら長くなっちゃいました。


おいおい、どういうことだ?

これは悪い冗談か何かなのか?

僕はこめかみを抑える。

頭が重い。

誰か僕の頭の中に鉛の板でも仕込んでいったか?

そんな馬鹿な。

苦笑いしながら床に転がったボコのぬいぐるみを手に取る。

それは非常に柔らかい。

ふかふかの毛布のようだ。

試しに指の腹で強く押してみる。

ぶちゅっと押した部分がひしゃげて中綿がさらに飛び出した。

痛々しい光景だ。

だがそのことに嗜虐心をそそられもする。

僕は夢中になってボコのぬいぐるみを握りしめる。

首をひねり、頭を押さえつける。

どこかでこういう行為を読んだことがある。

リョナだ。

リョナ系の同人誌だ。

大柄なオークが、妖精やエルフの少女を両手で握りつぶしたりするのだ。

若いころにネットサーフィンをしていてたまたま目にしたことがあった。

その内容を強烈に思い出す。

僕はそれを真似ることにする。

ボコのぬいぐるみの裂け目かにそって親指と人差し指をかき入れる。

中綿をかき分け、無理矢理に拳を突っ込む。

フィストファックだ。

泣け。

泣きわめけ。

ボコ!

だが、ぬいぐるみは一言もしゃべらない。

涙一つ流さない。

それはただ、同じ表情で潰されていくだけだ。

僕はかっとなり、中綿をつかめるだけつかんで引き抜く。

ボコの体が裂ける。

死んだ、死んだのだ、こいつは。

僕はニヤニヤが止まらなくなる。

だがそれもじきに止んでしまう。

だってボコの中には何も入っていないことが証明されたからだ。

手から力が抜けていく。

再びボコ(いや、ボコだったものの残骸)が、床に投げ出された。

ぶちゃっという格好の悪い音がした。

それがお前の断末魔なのか?

僕は、ふらふらとバーカウンターの椅子に腰かけた。

考えろ。

考えなくちゃいけない。

どうして僕のボコから、盗撮機が失われているんだ?

いいや、待てよ。

そもそも僕はどうして、このボコを、以前に僕が盗撮機を仕組んだボコだと思い込んでいた?

あれはもう20年も前のものだぞ。

それをどうやって手に入れた?

ほんの数日前の出来事が、頭に霧がかかったように不鮮明だ。

それでも僕は霧の中を果敢に飛ぶ飛行士の気分で、記憶に探りを入れる。

そうだ……そうじゃないか……あれは、この出張に出る少し前の晩だ。

僕はバーで島田愛里寿と出会い、箱を渡されたんだ。

箱にはボコが入っていた。

…………。

島田愛里寿!?

僕は思わず飛び上がりそうになる。

それぐらい狼狽しても仕方のないことだ。

島田愛里寿だと?

一体どういうことだ。

なぜ僕は忘れていた?

僕はほんの数日前に島田愛里寿と再会している。

しかし、いや、そんなはずがない。

彼女は20年前のままの姿だった。

そんなことがあり得るわけがない。

人間は必ず年を取る。

もう彼女は30代になっているはずだ。

僕は首を振った。

30代になった愛里寿なんて見たくもない。

想像するだけで吐き気がする。

あの美しく華奢な少女が脂肪をため込んだ中年になってしまうなんて。

あってはならないことだ。

しかしここで僕ははたと気が付く。

大人になっても幼い少女に見える疑似ロリータポルノ女優の冷泉麻子のことだ。

彼女もまた、僕の前に二度現れている。

一度目は、金田から渡された映像として。

そして二度目は、東京のジャズバーのピアニストとして。

おかしい。

何かがおかしい。

僕は、僕の前に二度姿を現した人物についてさらに考える。

みほ。

西住みほという少女。

あの女もまた、二度現れている。

一度目はカラオケ店の店員として。

そしてたった昨日、熊本のキャバ嬢として。

さらに言えば、僕の行為も繰り返しだ。

僕は20年前、西住みほをボコボコに殴った。

そして今日と昨日、今度は湯浅をボコボコに殴っている。

ただし、これは全くの繰り返しではない。

それぞれの人物の振る舞いや職業は変動している。

僕が殴る相手も異なっているし、今回は僕自身殴られ、そしてまだ警察に捕まってはいない。

警察……。

警察の行為もどこかおかしい。

特にあの、僕を尾行していたという中年刑事だ。

彼とは飛行機の中で隣り合わせた。

そんな尾行があるものか。

あれは何だったのか?

僕は目を閉じた。

目を閉じると、真空の中に浮くようだった。

僕は一台の孤独な飛行機になり、ずんずんと飛んでいく。

エアポケットがやってきた。

僕はがくんと揺れる。

揺れを感じて目を開ける。

足元に転がった湯浅だった。

彼はうめき声をあげ、僕の靴に手を触れていた。

僕は唾を吐き、彼の手の甲を蹴り上げた。

もう少し眠っておいてもらおうと思う。

脇腹に3発ほど蹴りを入れると、再びおとなしくなる。

その時、ポケットから何かがはらりと落ちたことに気が付く。

拾い上げると、それは折りたたまれた紙切れだった。

小さな白い紙きれだ。

僕はそれを開く。

するとそこには11桁の数字が記されている。

11桁。

電話番号だ。

それは、20年前の記憶をくすぐる。

伊丹老人だ。

あの老人の電話番号も、こんな紙切れに書かれ、金田から手渡された。

だが。

この紙切れは違う。

それは数日前に手に入れたものだ。

東京のジャズバーのあの狭い部屋で、島田愛里寿から渡されたものだ。

頭がうずく。

感覚がマヒしてきている。

ほんの数日しか経っていないだというのに、東京にいたのが恐ろしいほど遠い昔に感じられる。

もうずっと、この迷宮にいるような気がする。

あの、狭いおかしな部屋で、島田愛里寿は僕に言った。

 

「困ったときにその番号を使って」

 

その言葉は鮮明に記憶に残っている。

彼女はそう言って、僕にこの紙切れを握らせた。

あの時に触れた小さな手の感触が脳を焼いた。

僕は勃起しそうになった。

子供の手の高い体温が僕を興奮される。

畜生、僕はまだ、愛里寿を愛している。

僕は紙切れを丁寧に伸ばし、バーカウンターの上に置いた。

それはまるで秘密の刻印のようだった。

勇者に与えられた秘密の呪文だ。

あるいは、奴隷の肌に刻まれた焼き鏝か。

僕はどちらだろう?

5分ほど考えたが、答えは出なかった。

通りで大きなクラクションが鳴った。

ビルの向こうの道路で渋滞が起こっているらしい。

だがブラインドを閉め切ったこの部屋からは何も見えない。

ここは海の底だ。

深海だ。

アンビエントでインヴィジブルな世界だ。

モーダルなものからかけ離れた、ここだけの世界だ。

僕は息をついた。

落ち着け。

落ち着け、総一郎。

これは誰の番号だ?

よく考えろ。

僕はバーカウンターにピンと伸ばして置いたその11桁を見つめる。

まるでカウンターの木目が浮かび上がってくるぐらいに。

僕は考える。

この数日間、20年前と似た主題が繰り返し僕の周辺に起こっている。

しかし、それらは少しづつ違っている。

まるでヴァリエーション、アレンジメントだ。

変奏曲だ。

変奏曲?

そう、まるでモダン・ジャズだ。

巧みなジャズ奏者が、同じコード進行を使用して新しい曲を作るときのようだ。

即興演奏。

素晴らしいインタープロバイゼーション。

出来事はそうだが、登場人物はどうだ?

島田愛里寿、冷泉麻子、西住みほ。

それぞれ、立場や職業は変化しているが、容姿は同じだ。

僕は頭をかいた。

20年前僕の前に登場して、今度登場していない重要人物は誰だ?

金田か?

伊丹老人か?

ほかに思いつかない。

20年前にも、紙切れに書かれた番号の主は伊丹老人だった。

とすれば、この番号の主は、今回も伊丹老人か?

そうなのかもしれない。

そして彼なら、何かしら僕にアドヴァイスをくれるのにふさわしいような気がする。

 

「困ったときにその番号を使って」

 

島田愛里寿のあの言葉が、再び僕の脳裏で響いた。

窮地。

そうだ、確かに僕は今、どん詰まりにいる。

どうしたらよいかわからず、この場所から動けない。

僕は店内を見渡した。

キャッシャーのそばに、年代物のダイアル式の電話があった。

アンティークな置物かと思ったが、コードが引かれている。

どうやら実用されているらしい。

僕は、紙切れを手に取り、電話機に近づいた。

指が震える。

ダイアル式を回すのは子供のころ以来だった。

うまく回すことがむつかしい。

悪戦苦闘して、ようやく番号を正確に回し切る。

コールはまるで、闇夜に投げかけられているようだった。

深夜の海に投げ込まれる釣り糸のようだった。

海の底が違う世界につながっているのだ。

そんな想像をしていると、ようやく相手が電話に出た。

不信感をあらわにした、若い女の声だった。

 

女?

 

僕は絶句した。

頭の中が真っ白になった。

女だと?

どういうことだ。

伊丹老人でも金田でもないのか?

もうプレイヤーは他にいないだろう?

僕が茫洋とし、逡巡していると、女の声が問い詰めるように言った。

 

「一体何なんですか。黙りこくって。いい加減にしてください」

 

そしてぷつりと、糸が切られた。

僕の投げかけたコールは、闇夜の向こう側に置き去りにされた。

それは息だえ、駆逐された。

僕はそろそろと受話器を置いた。

頭痛がした。

女の声は若かった。

だが、西住みほとも島田愛里寿とも異なっていた。

聞き覚えがある声かと言われればそうであるような気もするし、違うといわれれば違うような気もした。

女の声音は状況と相手によって全く変化するのだ。

 

続く



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36 最終話① 運命の電話

書き終えましたが、およそ8000字を超えたので、分割します。残りはあとがきも添えて、今夜22時ごろまでに投稿します。


受話器を置いた直後、後悔の念が襲った。

軽率だった。

いくつか可能性が考えられた。

相手は明らかに不信感をあらわにしていた。

それに電話に出るまでにかなり間があった。

見知らぬ番号からの電話に戸惑ったからではないのか。

次に、電話を切られるまで言葉一つ発することができなかった僕の行動。

せめて自分が何者か説明するべきだった。

そうすれば相手の反応も変わっていたかもしれない。

電話に出るのが伊丹老人だと勝手に思い込んで、とっさの反応ができなかった。

明らかな過失だった。

僕は、自分の周囲が壁で囲まれていくように感じた。

重要なカードを無駄遣いしてしまった。

次にどうすればいいのか、見当がつかなかった。

足元に転がっている湯浅を一瞥する。

死んではいない。

僕はとりあえずまだ、殺人者にはなっていない。

そのことに妙な安堵を覚えた。

バーの壁に備え付けられた時計を見た。

短い針がアラビア文字の4を指していた。

16時だ。

まずいかもしれない。

そろそろ、バーのマスターがやってきてもおかしくない。

僕は自分の胸元を見た。

着替えたので、血痕はついていない。

店を出るしかなかった。

鞄と電話番号の書かれた紙切れを持って扉を開けた。

階段を駆け下りる。

外に出ると、むっとした大気と強い日差しが僕を迎えた。

熱を含んだ湿度に頬をはたかれているようだった。

僕は手のひらで自分の頬を叩いた。

弱気になっている。

気合を入れなければならない。

僕は通りを抜けて、細い路地に入った。

 

 

 

路地に入ると、唐突に≪ジャック・ケルアック≫という単語が頭の中に浮かんだ。

どうしてだろう?と思うと、路地の片隅にそう書かれた看板が見える。

知らず知らずに目に入っていたのだろう。

何の店かはわからない。

だがおそらくはジャズ関連のライブハウスかレコード店だろう。

≪ケルアック≫は、若いころにジャズに夢中になった人間ならだれでも知っている名前だ。

それは、≪路地≫と同義語だ。

路地ではなく、≪≫で囲われた路地。

それは路地を象徴する記号であり、路地そのものではない。

そしてケルアックは、人名が、人物をはみ出して記号としての意味を持つ数少ない一例だ。

僕は看板に向けてウィンクする。

ウィンクを終えると、一目散に駅へと走り出した。

駅への道筋は大体覚えている。

昨日の深夜湯浅と歩いた時とは、少し様相が変わっている。

街というのは不思議だ。

夜と昼で全く違って見えることがある。

だがそんなことは気にしない。

記憶を頼りにずんずんと歩く。

駅に近い中心市街地に近づくほどに、道が広くなる。

都市計画道路というやつだ。

歩道が整えられ、コールタールからブロックタイルに変わっていく。

それと同時に、背の高いオフィスビルが増えてくる。

全面ガラス張りのひときわ高いビルは、まるで東京のオフィスビルディングと変わらない。

東京にはそんなビルが至る所にある。

違うのは、この街にはそんなビルが一つしかないというだけだ。

そのたった一つのこじゃれたビルディングの後ろに、古めかしい建築物があった。

ひび割れた淡いブルーのコンクリート(それは淡いブルーの色ゆえにカビが生えているかのように見える)のファサードに『郷土史図書館』の文字が見える。

 

「図書館ね……」

 

僕はつぶやいた。

そのまままっすぐに通りを進むと、小規模の公園に出た。

まだ日が落ちておらず、公園には木漏れ日が降りそそぎ快適そうに見えた。

僕はふらふらとそこへと向かった。

公園のベンチに腰掛ける。

見渡すと、公園にはほとんど人がいなかった。

平日の16時過ぎならそんなものかもしれない。

たった一人だけ、小学校低学年ぐらいのおさげ髪の女の子が私服で一輪車の練習をしていた。

遠目に見ても体躯が細くすらっとしていて、可愛い子だった。

デニム生地のミニスカートで一輪車に乗っているのでスカートがめくれ上がり、白い下着が露出していた。

だが僕はちっとも興奮を覚えなかった。

ただそこに少女がいる。

ただそれだけだった。

あの子供は、島田愛里寿でも冷泉麻子でもない。

僕を夢中にさせたりはしない。

この時になってようやく僕は、自分がロリコンではないことに気付いた。

先ほどの≪ジャック・ケルアック≫と同じだ。

僕はロリータに興奮していたのではない。

≪島田愛里寿≫および≪冷泉麻子≫に興奮していた。

彼女たちの存在は、彼女たち自身をはみ出してロリータの象徴だった。

だが、それは象徴ではあるのだが、ロリータそのものではない。

≪≫で閉じられたロリータは、ロリータそのものではないのだ。

なんだ、簡単なことじゃないか。

僕はなんだかうれしくなる。

僕を狂わせていた人生の謎が一つ、ほどけたような気分だ。

僕は笑い声をあげた。

それは実に久しぶりの笑いだ。

大人になったら、笑う機会などめったにやってこない。

ここで笑わないで、どこで笑えというのだろう。

ベンチに座り、一人笑いを漏らす僕を、一輪車の美少女が怪訝そうに見えていた。

僕が顔をあげると、彼女はどこかへ立ち去って行った。

ひとしきり笑い終えると、少し気持ちが落ち着いた。

僕はこれからすべきことを整理しなくてはならないと思った。

さて、今の状況は相当にこんがらがっている。

糸が縺れ、わだちは蛇行している。

僕はわけのわからない状況にいる。

とりわけ、僕には二つの問題がある。

 

1、湯浅を再びボコボコにしてしまったことについて

2、過去の出来事の整合性について

 

前者はある程度想像がつく。

もうすぐ、店を開けるためにマスターがバーにやってくるだろう。

その時に湯浅は発見されるはずだ。

だが、だからといって彼らはどうする?

警察に被害届けを出すだろうか?

その可能性は低い。

そもそも、先にこちらに殴りかかって来たのは湯浅のほうだ。

人知れず僕を殴るために無人の店まで用意している。

これこそまさに犯罪のはずだ。

店を利用して僕をはめようとした以上、バーのマスターも湯浅とグルだろう。

共謀的なことをして暴行を支援していることになる。

こんなグレーな案件を、自ら警察に連絡するだろうか?

僕なら連絡しない。

それに湯浅は「やられた分は自分でやり返す性分」だと言っていた。

今後、もしもありうるとすれば、僕に対する直接的な報復だろう。

仕事上の付き合いを通じて、僕の東京の住所は割れているので、報復自体はやろうと思えば何とでもできる。

手間暇さえ惜しまなければ。

それはもしかしたら、きっちりと筋の悪い連中を雇ったうえでの行動になるかもしれない。

いずれにせよ時間がかかる。

今すぐではないだろうし、湯浅がそこまでのことをする人間かどうかわからない。

泥沼になることが目に見えているからだ。

このまま泣き寝入りが関の山ではないだろうか。

となれば、今第一に考えるべき問題は後者の方だ。

僕が先日再会した島田愛里寿は何なのか。

ボコのぬいぐるみにはなぜ盗撮機が入っていなかったのか。

わからないことだらけだ。

僕は、こめかみを掻いた。

また悪い癖が出てきた。

イライラとすると、すぐにこめかみを掻く。

ここ数日ひっきりなしに掻いているせいで、皮が捲れ赤くなっている。

だが、掻くことをやめることができない。

 

どんなに考えても、ヒントも何もない。

誰かの手助けが必要なのは明白だった。

僕は、ポケットに入れていた、くしゃくしゃになった紙切れを取り出す。

やはり、これが蜘蛛の糸だった。

不思議な現象に対して、僕が質問を投げかけることができるのは、この番号しかない。

何とかして、もう一度この番号にコールを投げかけたい。

その時、ふと思い至った。

ちょっと待てよ、僕はバカか?

携帯電話があるじゃないか。

僕は、鞄から携帯電話を取り出す。

あまりにも気が動転していてこんな簡単な方法に思い至らなかった。

先ほどのバーの電話番号は、不審な番号として警戒されているだろう。

だが、僕の携帯電話なら、違う番号だ。

僕はもう一度だけ、やり直すチャンスを得たというわけだ。

深呼吸する。

そして、紙切れの番号をタップ。

今度は数コールで相手が出た。

 

「はい。もしもし」

 

それは鈴の鳴るような少女の声だった。



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37 最終話② 武部沙織

遅くなりました。最終話です。


鈴の鳴るような声。

やはり若い女の声だ。

だが、さっきとは違う。

警戒心がむき出しではない。

僕は、素早く自分の名前を告げた。

 

「あの、唐突のお電話申し訳ありません。僕は、牧野総一郎といいます」

「え?」

 

女の子が素っ頓狂な声を上げた。

それから、嬉しそうに答える。

 

「あぁ~! うわっ。うれしい! 電話してくれたんだ~」

 

あまりにもフランクな口調に面食らう。

どういうことだ?

これはいったいどこに繋がっている?

僕がしばし沈黙すると、少女の声に心配そうなトーンが加えられた。

 

「あ、あれ? 違ったかな? あの……違いました? 牧野さんって、昨日の社長さんですよね?」

「なぜそのことを知ってる?」

「やだも~。湯浅のおじさまがバラしちゃってましたよ。社長さんだって」

 

湯浅?

昨日の夜だと?

混乱する頭が、一つ重要なことに気が付いた。

やはり、この少女の声には聞き覚えがある。

 

「君は……もしかして。昨日のキャバクラの少女か?」

「はい。そうですけど」

 

脳裏に、ウェーヴのかかった茶色い髪とにこやかな笑顔が蘇る。

確か、沙織ちゃん。

湯浅のお気に入りで、口移しでハイボールを飲まされていた少女。

 

電話口に、くすくすという笑い声が聞こえた。

 

「昨日も思っていたんですけど、おじ様って渋いですよね。『昨日のキャバクラの少女か?』って、なんだかハードボイルド映画の探偵さんみたい」

 

何が可笑しいのか、くすくすと笑い続ける。

その声はまるで不気味なエコーのようだ。

しかし、僕の中に一つの確信ができた。

これで、プレイヤーが揃ったという確信だ。

先ほどバーのカウンターで考えたときは、足りないプレイヤーが誰なのかわからなかった。

それは伊丹老人か金田だろうと勝手に想像していた。

だが、違ったのだ。

足りなかったプレイヤーは武部沙織だ。

僕はこの少女のことを失念していた。

 

なるほどな。

以前は伊丹老人だった役割を、今度の変奏曲では武部沙織が奏でるというわけだ。

このチャンスを逃がしてはならない。

僕は、できるだけ真剣なトーンで告げた。

 

「いろいろと、知りたいことがある。君と会って、直接話がしたい。会えないだろうか?」

「きゃっ。やだも~、大胆」

「真剣なんだ」

「えへへ。うれしいな。いつがいいですか?」

 

思案するまでもない。

早ければ早い方がいい。

 

「できれば、今日。今日の夜、空いてないかな?」

「うわっ。攻めますね。さすが社長さんなのかな。ちょっと待ってくださいね」

 

電話口の向こうで何かをめくる音が聞こえる。

スケジュール帖でもチェックしているのだろうか。

 

「うん。いいですよ。今夜会いましょうか」

「何時がいい? 場所は?」

「おじ様のご予定は?」

「今日なら何時でもいい」

「ん~。それじゃ、19時に駅裏のオブジェの前でどうですか? 細長い棒みたいなのから水が湧き出している大きなオブジェがあるんです。晩御飯食べさせてくれたらうれしいな」

「金ならある。なんでも奢ってやる」

「やった。それじゃ、そのあとどこかに行きましょう」

「あぁ。任せるよ。僕は、任せることしかできない身だ」

「その言い方もなんかカッコいいですね。それじゃ」

 

電話が切れた。

少女のよどみない声が触っていた鼓膜が、唐突な沈黙にしゃっくりでも起こしそうだった。

気が付くと勃起していた。

ズボンの中が熱い。

携帯電話をしまうと、スーツの上から股間に触れた。

いじらしいほどに固くなっていた。

武部沙織の声に興奮したらしい。

僕はまた、ひとりでに笑い出した。

公園の幼女には反応しなかったというのに。

どうやら僕は、この物語のプレイヤーにだけ、性的興奮を覚えるみたいだ。

公園には、ナショナル製の大きな時計が設置してあった。

その針が、17時を指している。

待ち合わせまではまだ時間がある。

ふと、先ほど目についた図書館のことが気になった。

立ち上がり、来た道を引き返す。

図書館につくと、17時20分になっていた。

入口の自動ドアが開く。

カウンターにいた中年の女性が、にこやかに微笑みんだ。

僕は会釈をした。

 

「いらっしゃいませ。当館のご利用時間は18時までとなっておりますがよろしいでしょうか」

「わかりました」

 

そうか。

公共施設系は、閉まるのが早い。

多少時間が余るが仕方がないだろう。

こじんまりとした図書館には、ガラスケースが多かった。

図書館というよりも展示室だ。

ケースの中には、様々な地図や古文書のようなものが陳列されている。

 

「ここは、郷土史の資料室でもあるんです」

 

女性が柔らかい声音で言った。

 

「へぇ」

 

僕はあいまいに答える。

あまり興味のないことだった。

古い地図よりも、人生の地図がほしいものだ。

何か、読み物はないかと見渡すと、新聞のバックナンバーを集めたコーナーが目についた。

何気なく、その中の一つを手に取る。

20年前の新聞だった。

20年前……。

怖いもの見たさが、ふと心を襲った。

僕は、自分が事件を起こした数日後の新聞を探し出す。

周辺数日をチェックすると、思ったよりも大きな扱いで自分の記事が載っていた。

 

工場で働く男、少女に暴行。盗撮など余罪ありか

 

周辺がぐにゃりとゆがむような気がする。

だが僕は持ちこたえる。

ここで耐えなければ、前に進まないような気がした。

今まで僕は、現実から逃げてきた。

僕は、バックナンバーコーナーを振り返る。

そこには新聞だけではなく、雑誌も大量に置いてあった。

新聞での扱いは思ったよりも大きかった。

もしかしたら、雑誌の記事にもなっているのではないか?

とある大衆雑誌に、僕が起こした犯罪のその日の翌々月の号に、まさにその記事はあった。

 

 

日本の珍品⑰ 変態男の、とめどない性欲

 

そんなふざけたタイトルが躍る。

僕は少女に性欲を覚える変態暴力男として面白おかしく描かれている。

思わず歯ぎしりをする。

強くなじられてバカにされているように感じる。

だが、何とか持ちこたえ、記事を読み進める。

と、その時。

おかしなものが目に入ってきた。

それは、ちっとも美しくない、さえない少女の顔写真だった。

 

なんだ、これは?

 

写真の下の説明を読む。

そこには、『暴行を加えられた少女N。少女自体の素行にも問題が』と書かれている。

どういうことだ?

これが、僕が暴行をした少女?

全然顔が違う!

こんなものは、あの西住みほではない!

僕は慌てて、ほかの大衆雑誌を探す。

数分後、もっと露骨に実名公表されているものを見つける。

そこには、実名で、似ても似つかない西住みほの写真が掲載されていた。

さらには、盗撮の被害者だという少女Sも。

西住みほよりは幼げではあるが、これっぽっちも美しくない。

あの工芸品のような、触れば折れてしまうような、島田愛里寿ではない!!

どういうことだ!

僕は叫びそうになる。

だが、そこが図書館であるので、何とか思いとどまる。

少女Sに関しては、盗撮の被害者に過ぎないためか、実名報道さえない。

僕はふらふらと立ち上がる。

そして、トイレへ行き、そこで携帯を使って、冷泉麻子の検索をする。

すると、彼女は確かに、疑似ロリータポルノの女優として、日本AVタレント名鑑に名前が残っていた。

そこに写真もある。

あの冷泉麻子だった。

僕は息をついた。

だがそれもつかの間だ。

彼女は、27年前に死亡していた。

原因はストレスによる拒食症。

ネット上ではそのように、まことしやかにささやかれている。

何分古い記事なので、ろくな情報はないが……。

27年前?

僕が金田から映像を渡された時点で、すでに彼女は死んでいた?

そんなバカな!

 

あれは過去の映像だったのか?

僕は、あの女優のことを何度も考えてきた。

今でも目を閉じれば脳裏に思い浮かべることができる。

だが、すでにいない?

僕は、すでに死んでしまった女のポルノ画像で、性的に興奮し、自慰行為を行っていたのか?

 

妙な感覚だ。

時間というものの不可逆性の中で、貼り付けられ、とどめられた映像記号が、僕を性的に興奮させていた。

妙な感覚だ!

 

僕は図書館を飛び出した。

そして、街中を彷徨った。

体が激しい熱を帯び、そしてすぐに蒸発し、また冷却されていく。

そんな不確かな感覚の中、自分が消えてなくなりそうになりながら、街中を歩いた。

どうすればいいか、皆目見当がつかなかった。

気が付くと、駅の横手に付属した建築物の、その裏に来ていた。

駅舎は洒脱なデザインで、接続された建築物との境界も壁面の一部がガラス張りになっていて、向こう側が見渡せた。

つまり、駅舎の奥の広場が見えているという状態だ。

図書館を出てから、かなり歩いた。

汗が額に張り付いている。

鞄の中で振動がした。

携帯電話だ。

それを取り出すと、武部沙織からの着信があった。

携帯の画面に表示された時刻は、すでに19時を10分近く過ぎていた。

 

僕は首を振る。

なんて一日なんだ!

武部沙織との待ち合わせ場所は、偶然にもすぐ近くだった。

そのことに戦慄を覚えた。

僕はつい先ほどまで、早く彼女に会いたいと思っていた。

そして、このおかしな状況についての助け舟を出してほしかった。

だが、今は感覚が変わっている。

どうして、西住みほの顔が違う?

島田愛里寿が別人だと?

僕は、怖い。

ひたすらに、怖い。

だが、このままでいるわけにもいかない。

そっと、ガラスの向こうを覗く。

この位置から、ちょうど駅舎の奥の広場が見える。

そこが待ち合わせ場所だ。

吹き抜けになった広場に、武部沙織の指定した巨大なオブジェが見える。

それは確かに、まるでゲロか何かのようにとめどなく、水を噴出している。

ゲロ。

ゲロ。

僕だって、吐き出したい。

何を?

それはわからない。

たぶん、溜まりに溜まったものを。

オブジェの後ろ側に、ふわりとした茶髪が見えた。

手には、デコレーションされたスマートフォン。

間違いない。

そこにいるのだ。

武部沙織が。

僕は息をのむ。

足が震える。

もしも、直接、武部沙織の顔を見て、それが違っていたらどうなる?

僕のすべての足元が、感覚が、ここに立っている前提が崩れてしまうような気がする。

僕は……僕は、心臓のある部分の胸の位置を、背広越しに押さえた。

息が詰まりそうだ。

その時、僕を脅迫するかのような震えが伝わった。

また、振動だ。

僕の手の中で、携帯電話が震えている。

着信番号はもちろん、武部沙織だった。

 

どうする?

 

僕は意を決し、通話ボタンをタップした。

携帯電話の小さなスピーカーから、聞きなれた少女の、少しなじるような、すねたような声音が届く。

僕は、肯首する。

そして、緩やかに、ガラスの向こうへと向かった。

 

 

 

 

 

【完】

 




お疲れ様でした。
まずは、皆様に、お礼を言わせてください。
ありがとうございました。
このわけのわからない物語を、最後まで読み進めていただき、本当に感謝の念に絶えません。
本当にありがとうございます。

本作では、『ボコ』に焦点を定めてみました。
もともとガルパンは、テレビシリーズから入ったのですが、自作としてキャラクターを掘り下げたいと思ったのは、辻さんと、意外にも劇場版に出てきたボコでした。
辻さんは前作で書いたので、次はボコを書きたいと思いました。
しかし、ボコは所詮、ただの無機物。
どうするか?
ということで、ボコに意味を持たせることにしました。
僕は昔から、前科者というものに興味がありました。
というのも、僕自身、10代の若いころはやんちゃをして、3度ほど警察に捕まったことがあるからです。
暴力や器物破損などの罪です。
たまたま相手側の落ち度などもあって、すべて不起訴に終わり、その後の人生を真面目に歩んでいました。
ところが、自営業を始め、自分で会社を動かしていた矢先、仕事で知り合ったとある県議会議員から恐喝を受けたことがありました。
彼は、僕の過去の逮捕歴をどこかで知り、金銭を要求してきました。
「社長さん。体裁悪いだろ。今後の契約とか発注とかに響くだろ。ばらされたくなけりゃ金払えや」
ってことです。
結局無視したら脅しで終わりましたが、このことは僕の中で、忘れがたい記憶として残りました。
そこで、傷ものの人生というものを描いてみたくなったのです。

しかし、ただ単にそういうものを描いても面白くはない。
そこで、サイケデリックというか、パラノイア的なものをテイストの中に投げ入れることにしました。
具体的には、昔から大好きな、『ローズマリーの赤ちゃん』のテイストです。
病的な思い込みと周辺の状況。
その中で何が真実かわからない。
そういうものを目指しました。
それゆえに、種明かしが遅くなり、読み手には不透明さを感じさせることになりました。
読み進めればわかることですが、この物語の主人公は完全にパラノイアです。
例えば、後半の武部沙織(or伊丹老人)の電話番号ですが、あんなものは、たんにキャバ嬢の沙織が、前日の夜に主人公に自分の連絡先を渡していただけです。
そういった、些細なことが、主人公にとって世界の秘密を読み解くかのような思い込みに見えるように描きました。
一方で、ただそれだけでは面白くないので、やや『はみ出した衒学性』も大切にしました。
無意味にいろんな考察のかけらみたいなものを詰め込んでみました。
このあたりは、昔から大好きなトマス・ピンチョンの小説への拙いオマージュです。
今作全体を読んでいただければ、「特に意味のない法則性」や「物事の連続と変化」というようなものが見えてくると思います。
それは、詩の連作に近いものです。
それゆえに、最後は、宙吊りで終わらせました。
やはりこの物語は、主人公が武部沙織に会いに行く直前で終わらなければならないと思うのです。



さて。
作者にとっては、これまでで一番の難産であった『ボコ』が終わりました。
次は、もう一つのボコか、別の話を書きたいと思います。
そのためにも、お手数なのですが、どうか、本作の感想や問題点・改善の余地のある点などをコメントいただけましたら幸いです。
切磋琢磨いたしますので、どうか、簡単なもので結構ですので、よろしくお願いいたします。
厳しい意見もお待ちいたしております!
どうか、一言でも!

あと、活動報告にて次回作のアンケートを行ってみます。


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