喫茶店の少女に恋をした (rogee)
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喫茶店の少女に恋をした
俺の名前は森下一樹。
34歳だ。
しがない営業職をやっている。
俺は、今の仕事が大嫌いだ。
学生時代は社交的なお調子者で通っていた。
友達の数は多いほうだったし、酒にも強かった。
だから、社会人になれば営業の仕事が向いていると思っていた。
それは大きな誤算だった。
基本的に、友人と話すのと、仕事の付き合いで相手と話すのとは、全く交流の本質が異なる。
いくら表面上親しくなっても、契約に結びつかないときは多々ある。
それどころか、顧客の中には、なぜかはなからこちらに激しい悪意を投げかけてくるものもたくさんいる。
要するに、営業職で頭を下げるしかない俺を、ストレス解消の道具に使っているというわけだ。
そのことが分かってはいても、反抗することなんてできやしない。
無意味な接待に長時間拘束され、只酒を飲まれた揚句、さまざまな罵倒を受けることも日常茶飯事だ。
もちろん、契約などしてくれやしない。
そんな日々の疲れ果てた俺の、最近の唯一の癒しは、街の片隅にある古びた純喫茶でつかの間の休息をすることだ。
喫茶店の名前はラビットハウス。
ウサギ小屋だなんて客を馬鹿にした名前だと最初は思ったが、「家畜みたいな俺にぴったりか」と自嘲気味につぶやきながら入店して、その快適さに驚いた。
そこそこ広いのに、客が少ない。
あまりがやがやしておらず、アコーディオンによるミュゼットのようなフレンチ風の音楽が優雅に流れている。
店員はかわいらしい女の子が3人。
湧きあいといした様子が、実に微笑ましい。
俺の、ぎすぎすした毎日とはまるで異質な空間だ。
ほんの10分ほどの休息のつもりが、30分ほど居座ってしまった。
以来、外回りの合間を見計らって、自転車を飛ばして足繁く通っている。
ラビットハウスの位置は、俺が外回りにしている管轄の区域から微妙に離れている。
おかげで、偶然知り合いと出くわす可能性も低い。
まさに隠れ家というわけだ。
ビバ隠れ家。
隠れ家、最高。
※
その日は、いつも以上にひどく落ち込んでいた。
とれると思い込んでいた大口の納品が、すげなく断られてしまったのだ。
相手先は、とある中規模程度の会社だったのだが、うちが開発したシステムを導入してくれるかもしれないという色を出していた。
もしも導入してくれれば、俺の営業としての成績には大きなプラスがつく。
これを逃す手はないと思い、俺は、あの手この手でその会社の専務に媚を売った。
専務のおっさんも、こちらのそんな態度を見て、あれこれと要求してきた。
俺は彼を接待し、それどころか、会社の雑務まで手伝い、軒先の掃除まで命じられるがままにやった。
すべては契約のためだ。
そう自分に言い聞かせ、小間使いのように使われた。
しかし、今日。
そろそろ契約してくれないかなーと、会社を覗いたら。
「あぁ。もう、○○エンジニアリングさんとこのシステム導入しちゃったよ。ごめんね」
と悪びれもせず告げられたのだ。
「え? それってどういう? え? すでに導入済みなんですか?」
「そういうこと。そういうこと」
頭を角刈りにした専務のおっさんが軽い調子で答える。
「そ、そんな。聞いていませんよ。一体いつから……」
「うるさいなぁ。うちの会社の執務内容を君に答える義務があるわけ?」
「いえ、そういうことではなく」
「とにかく。今回は君の努力が足りなかったということで。もしも契約ほしいなら、今まで以上にうちの言うこと聞きなよ」
要するに、いいようにあしらわれたのだ。
すでに他社のシステムを導入することが決まっていながら、契約をちらつかせて、俺から接待を受け、只酒を飲んでいたというわけだ。
やられた。
完全に足元を見られて、なめられた。
悔しさが込み上げてきたが、怒鳴るわけにもいかない。
俺は一礼をして、その場を離れた。
くそっ。
くそっ。
いらいらする。
俺は自転車にまたがると、街を猛スピードで走る。
街の景色が、視界の中で流れていく。
工場や公営団地が多い、俺が仕事場にしている地区を離れると、だんだんと木組みの家が増えてくる。
小さな川が流れる、どこかメルヘンチックな街区に突入する。
ここまで来ると、自転車は無粋だ。
俺は川の橋のそばに自転車を止め、盗まれないようにくくりつける。
てくてくと徒歩で、ラビットハウスへと向かった。
ネクタイを少しだけ緩め、腕時計を見ると、15時だった。
昼下がりだ。
たぶん空いているはずだ。
あの、ゆったりとした時間が流れる喫茶店に、早く辿りつきたい。
ラビットハウスには、店員さんは3人いる。
3人とも女の子で、美少女ぞろいだ。
それにみんな、すごく若い。
年齢や名前はわからないけれど、たぶん高校生か中学生だろう。
ひときわ小柄な、青い髪の女の子は、ともすれば小学生ぐらいにも見える。
アルバイトの出来る年齢なのだろうか?
タウン誌にラビットハウスの記事が載っているのを見たことがあって、そこでは看板娘の3姉妹と書かれていた。
あまり似ていないけれど。
3人の内訳は、小柄な青い髪の女の子と、茶色い髪に半分の花の髪飾りを付けた女の子、そして強気そうなツインテールの女の子。
小柄な青い髪の女の子は、無口だけど、しゃべると少し毒舌そうな独特な雰囲気を持っている。
茶色い髪の髪飾りの女の子は、ちょっとアホの子だ。
そそっかしいらしく、よく注文を取り間違えている。
強気そうなツインテールの女の子は、凛とした雰囲気のしっかり者という印象だ。
俺は3人の中でも、その一番大人びた、ツインテールの女の子がお気に入りだ。
クールで、大人びたオーラが出ていて、素敵だと思う。
あの子がコーヒーを運んで来てくれるといいな。
あぁ、俺の会社にもあんな子がいたらなぁ……。
そんなことを考えているうちに、ラビットハウスに到着した。
年季の入った木製の扉を開けると、からんかんっと気持ち良くベルが鳴る。
「あっ! お客さんだ! いらっしゃいませー!」
はしゃいだような、うれしそうな声が聞こえてきた。
ててててっと、花びらを半分に割ったような髪飾りを付けた女の子が駆け寄ってくる。
「こんにちは。お一人様ですか?」
いつも通りの、陽気で無邪気な声を上げた。
「うん。一人だよ」
「かしこまりましたっ!」
女の子は、店内を見回し、
「それでは、こちらのお席にどうぞ!」
と、窓際の広いテーブルに案内する。
「いいの? 俺、一人だけど」
「うん! 今、すいてるから。窓際のほうが景色がいいし、広いお席のほうがゆったりとできるよっ」
にっこりとほほ笑むその表情は、柔らかくて、親しげで、裏表が感じられない。
少女の優しさがダイレクトに伝わってくる。
あぁ……やっぱりいい店だ。
「ご注文は何になさいますか?」
注文を取るのが楽しくてたまらない、というように少女が問いかけてくる。
「それじゃ、ブレンドで。ミルクはいらないよ」
「はーい!」
女の子がカウンターのほうへ軽やかなステップで駆けていく。
元気だなぁ。
「チーノちゃんっ! ブレンド一つオーダーだよっ!」
カウンターの向こうにいる青い髪の小柄な少女に声をかける。
その様子は、まるで子犬がご主人様に褒めてもらいたがっているかのようだ。
外見で考えると、花の髪飾りの女の子のほうが確実に年上に見えるのだが、関係性はむしろ逆のようにも見える。
店内を見渡すと、客は俺以外いない。
そして、店員さんは……二人だけだ。
チノと呼ばれていた小柄な少女と、注文を取りにきたちょっとそそっかしい少女。
俺のお気に入りの、ツインテールの女の子はいないのか……。
少しだけ残念に気持ちになった。
ぼんやりと、窓の外の景色を見ていると、コーヒーが運ばれてきた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーです」
先ほどの花飾りの女の子が、眼前に立っている。
お盆を両手で抱えて、こちらを見つめる。
大きくてつぶらな瞳だ。
「ありがとう。いい香りだね」
俺がそう言うと、うれしそうに身をよじった。
「えへへ、褒めてもらっちゃったー」
そのまま、カウンターに戻らず、俺に話しかけてくる。
「ねぇねぇ。おじさんはいつもブラックだよね? 苦くないの? 大人になると苦くなくなるの?」
子供っぽい問いかけに苦笑する。
「どうだろう。それは人それじれじゃないかな。俺は子供のころからブラックだったなぁ。親父がいつもブラックで飲んでたから、自然に真似しちゃってたな」
「え~! すごい! 子供のころからブラックで飲んでるんだね! 私ね、たまに挑戦してみるんだけど、苦―い!ってなっちゃうよ」
「あはは。コーヒー屋の店員さんがそれで大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ? 最近は、コーヒーの味も当てられるようになってきたし……」
おいおい、コーヒー店の店員さんが味をあてられないのか?
やっぱりこの子はアホの子のようだな。
俺は苦笑しつつ、問いかける。
「そういうと、今日は、もう一人の子は?」
「リゼちゃんのこと?」
「そういう名前なのかな? あの、ツインテールの」
「今日はお休みなんだ~。風邪ひいちゃったんだって」
「へぇ……」
やっぱりそうか。
今日はいないのか。
残念だ。
まぁそれはそれで仕方がないな。
俺は、腕時計に目をやる。
今日はあと3軒回ったら外回りは終了だ。
18時までに会社に戻ればいいから、多少余裕がある。
30分ぐらいこことでゆっくりコーヒーでも飲むか。
コーヒーカップを手に握り、口元に運ぶ。
すると、花の髪飾りの女の子が覗き込んできた。
びっくりして吹き出しそうになるが、そんなことお構いなしに問いかけてくる。
「ねぇねぇ、おいしい?」
いつの間にか、向かいの椅子に座っていたらしい。
仕事しろよ……。
カウンターのほうに目をやると、青い髪の小柄な少女が「しょうがないですね」というあきれた表情でこちらを見ている。
注意しろよ……いや、注意しても無駄だからあきれているのか?
もう一度花のかみお飾りの少女に目をやると、相変わらずこちらを見ていたらしく、目があった。
「えへへ~」
無邪気に笑う。
仕方がないから
「おいしいよ。味は完ぺきだね」
と答える。
すると、
「チノちゃーん。おじさん、おいしいって! よかったね~」
と、カウンターの女の子に声をかける。
「もう。いいから、仕事してください」
カウンターのチノちゃんがお決まりのセリフを口にするが、花の髪飾りの女の子は、
「でもでも、お客さんいないから。やることないんだもん。もうカップも拭きあきちゃったよ。ね、ね。お客さんが来るまでおじさんとお話してていいでしょ?」
と言う。
俺は思わず、こっちの同意は無しかよ、と突っ込みたくなった。
「もう。お客様が来るまでですよ」
「わーい。やったぁ! チノちゃんの許可が出たよ! ねぇねぇ、おじさんは歳はいくつなの?」
興味しんしんという様子で問いかけてくる。
ゆっくりのんびりするはずが、女の子とのおしゃべりタイムになるとは。
予想外だが、ここまでくれば仕方がない。
付き合ってやるか。
「34歳だよ」
言ってから、自分が歳をとったことを実感する。
独身のまま、仕事ばっかりでもう30代半ばか……。
「34歳! 私の倍以上生きてるんだ! すごい!」
ということは、目の前のこの子は16歳か17歳ぐらいなのかな。
高校生か。
ちょっと子供っぽいけど。
そんな俺の考えを知らずか、テーブルの下で足をぶらぶらさせて、さらに問いかけてくる。
「このお店ね、男の人のお客さんって少ないんだよ。おじさんは、どうしてこのお店を気に入ってくれたの?」
「うぅん、そうだな。やっぱり、落ち着くからかな」
「落ち着く?」
「うん。なんていうんだろう。雰囲気が好きなんだ。ここのお店の。コーヒーが美味しいとか、内装が味があるとか、そういう魅力ももちろんあるけど。それだけじゃなくて、お店の中に流れている空気が好きなんだ。楽しそうで優しげな空気感が」
「え、えへへ~」
女の子が、ふにゃっと柔らかい微笑みをした。
それはいかにも間抜けっぽい無防備な微笑みだった。
けれど、その無防備なその柔らかさが、少しだけ俺の心を刺した。
それは、俺が普段社会で触れることのない柔らかさだ。
大人の社会では許されない無防備さだ。
「うれしい! 私もね、ラビットハウスの雰囲気が大好き! チノちゃんも、リゼちゃんも、お客さんも、みんな大好き!」
あっけらかんと、心の底からの言葉が出てくる。
少女のそんな様子に、また心がうずいた。
心の底から素直に他人を好きだなんて、俺は一度でも言えただろうか。
特に、社会に出てからは。
少しばかりの、自責の念と、少女の言葉の温かみに戸惑いながら、
「そっか。よかったね」
と、答える。
「うん! だからね、おじさんが、このお店の雰囲気が好きって言ってくれて、すっごく嬉しいの」
「そ、そっか」
俺は、なんだか気恥しくなって、コーヒーを飲んでごまかそうとした。
口に含むブラックのコーヒーは、ほろ苦い。
この苦さが当たり前だと思っていたけれど、砂糖やミルクを入れた甘いコーヒーには、また違った魅力があるのだろうか。
「あ! そうだ!」
唐突に女の子が立ち上がった。
「私、いいこと思いついちゃった。おじさん、ちょっと待っててね」
そういうと、厨房のほうへと駆け込んでいった。
せわしなくて、まるで台風みたいだ。
しばらく待っていると。
「じゃーん! これ、どうぞ!」
小皿に、一切れのパン。
「これって?」
「シュガータルトって言うんだよ。甘くておいしいの。苦いコーヒーと合うかな?って思って」
「もらっていいの?」
「うん!」
普段、甘いものはまったく食べないのだけど。
せっかくだから、と思って、それを口に放り込む。
あ、甘い。
さすがシュガーと銘打っているだけのことはあるな。
ちょっと、苦手かも。
「だ、ダメだった?」
女の子が心配そうにのぞきこむ。
俺は、首を振って、コーヒーを口に流し込んだ。
すると。
あれ?
口の中で、シュガータルトの甘さと、コーヒーの苦さがまじりあって、すごくおいしい。
こんな食べ方があったのか。
「お、おじさん?」
まだ心配そうにしている女の子に、俺はサムズアップした。
「すごくおいしかった。俺さ、普段甘いものって苦手なんだけど、おいしかったよ。君に教えてもらえなかったら、多分一生知らなかったかも」
「よかった!」
女の子が満面の笑みに。
「それねそれね、私が焼いたんだよ!」
ぴょんぴょんと跳ねんばかりの雰囲気で、うれしそうに言う。
「え? そうなの?」
役立たずのアホの子かと思ったら、意外な才能があったのか!
「実家がパン屋さんで、パンを焼くのは得意なんだ~!」
鼻高々だ。
「すごいね。本当においしかったよ」
「えへへ。あのね。実は、前からおじさんを見るたびに、何か甘いお菓子を食べてみてほしかったんだ」
「え? そうなの?」
「このお店、男の人のお客さんは珍しいって言ったでしょ?」
「うん」
「だから、いつも一人で来て、ブラックのコーヒーだけ飲んですぐに出ていっちゃうおじさんのこと、気にかかってて。いつも、難しそうな顔をしているし」
そ、そうなのかな。
俺は、頬をなでる。
そういえば、営業の作り笑いはよくしているけれど、心の底から笑ったのなんて、ずっとないかも。
表情筋、硬くなっちゃってるかも。
「だからね。甘いお菓子で、ニッコリさんになってほしかったんだ~!」
女の子がほほ笑む。
その笑顔は、心の底からの微笑みに見える。
俺にはできない微笑みだ。
この子のこと、そそっかしいアホの子だとしか思っていなかったけど、俺が大人になって忘れてしまったものを、たくさん持っている素敵な女の子なのかもしれない。
「私もね、逆に、苦いコーヒーって苦手だって言ったでしょ?」
「あぁ」
「でもでも。いろいろ挑戦してみようって思って。甘いお菓子と一緒に食べてみたら、すごくおいしいって発見して。それからは、時々苦いコーヒーも楽しめるようになったんだよ」
「そっか。確かに。いろいろ試してみなくちゃ、わからないものね」
「うん!」
俺は、少女の言葉に胸を撃たれた。
大人になって、社会で揉まれて。
いっぱしの苦労をして、何でも知っているような気分になっていたけれど。
その実、心は凝り固まって、視点が定まって、楽しむすべを忘れていたのかもしれない。
俺は、この目の前の少女の倍も生きているのに、彼女よりもずっと、人生を楽しめていないかもしれない。
今日の営業の嫌なことだって。
もしかしたら、見方を変えたら、俺にも落ち度があったかもしれない。
やり方を変えたら、もっとうまくいったかもしれない。
からんからんっ。
扉のベルが鳴る。
お客さんがやってきたようだ。
「ココアさん。お客様がいらっしゃいましたよ」
カウンターの青い髪の女の子が、声をかける。
ココア。
そっか。
この子の名前はココアちゃんか。
「はーい。チノちゃん。私の接客術を見ててねー!」
女の子……ココアちゃんが立ち上がる。
と、こちらを振り向いて。
「おじさん。おしゃべりに付き合ってくれてありがとう! ゆっくりしていってね!」
とても素敵なウィンクをくれた。
俺の胸が、熱いものに満たされる。
うわっ。
この気持ちって。
もしかして、惚れたかも。
年甲斐もなくおっさんが。
高校生の少女に?
俺は、自問自答する。
おいおい。
それはないだろう。
ほんの数分前までは、ほとんど興味がなかったんだぜ。
このお店で一番のアホの子だと思ってたんだぜ?
だけど。
俺はもう一度、ココアちゃんをチラ見する。
なんだか、すごくかわいく見える。
……。
オーケー。
観念するよ。
正直に言おう。
俺は年甲斐もなく。
喫茶店の明るくて優しい少女に、恋をしたみたいだ。
(完)
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