名探偵マーロウ (ルシエド)
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Jとの出会い/女子高生探偵マーニー

メモリガジェットの販促と木々津克久先生の探偵作品の宣伝布教を兼ねたなんちゃって探偵もの


 人は彼女を、『マーニー』と呼ぶ。

 外見に頓着しないボサボサ頭、背は小さく腕は細い、標準より少しだけ小柄な女の子の体格。

 今は高校の制服を身に着けているが、女の子らしいアクセの類は一切見当たらない。

 異性が見ても何とも思わないが、同性が見ると「この子そんなにモテなさそうだな」という印象を受ける少女であった。

 

「マーニー!」

 

「ちょ、パパ、声大きい」

 

 マーニーの父、『ロイド』が娘を叱っていた。

 この親子は普通に日本人であり、マーニーもロイドもあだ名である。

 あだ名こそヘンテコだが、彼らの間には確かな親子の愛情があった。

 ロイドが怒っているのは、マーニーが両足に分厚いギプスを付け、車椅子の上に座っている理由が原因だった。

 

「危険な依頼を一人で勝手に受けて、犯人に両足を折られるなんて!

 僕がどれだけ心配したことか! 警察が駆けつけるのが遅れていたら、今頃……」

 

「分かってる分かってる、今は本当に反省してるから。

 あと足は折れてないから。ヒビ入っただけだから。

 お医者さんは半年もすれば元に戻るって言ってたよ」

 

 二人は探偵事務所『ロイド・インベスティゲーション』の探偵とその娘だ。

 この探偵事務所は探偵として十分な技量を持つこの親子二人だけで経営されている。

 なのだが、マーニーは若さゆえに時々無謀なことをしてしまう。

 今回も勝手に依頼を受け、浮気調査中に調査対象に襲われて、両足を折られてしまったらしい。

 

 マーニーからすればうっかり不覚を取った形だが、親からすれば肝が冷える想いだろう。

 

「マーニー! お前はしばらく一人での探偵業禁止だ!」

 

「えー!?」

 

「えー、じゃない! その足で何をするつもりなんだ!

 というか、そこでえーと言ってる時点で何も反省してないじゃないか!」

 

「でも、受けた依頼が他に……」

 

「言ったろう、一人では許可しないと」

 

「?」

 

「マーニーがこれ以上無茶しないよう、君の仕事に手伝いと監視を付ける」

 

 ロイドはマーニーを車に乗せ、娘を連れてどこぞへと向かう。

 

「パパ、手伝いと監視って……誰?」

 

「実は一ヶ月前、僕は記憶喪失の青年を拾ってね。少し面倒を見ていたんだ」

 

「はぁ……記憶喪失」

 

「自分の名前も思い出せない。

 自分がどこから来たのかも思い出せない。

 なのに覚えてることが二つだけあった。探偵の技と、フィリップという人の名前だ」

 

「!」

 

「僕から見ても、一流に仕込まれたと言い切れる探偵の技術があったよ。

 記憶を無くす前から頭ではなく体で覚えるタイプだったんだろうね。

 彼の記憶は戻らなかったけど……彼は隣町で、小さな借宿に探偵事務所を開いたんだ」

 

「その、フィリップって人名は?」

 

「それも分からない。彼の家族か、親友か、恩人か……」

 

「ふーん」

 

「名前がないと不便だからね。

 そのフィリップって名前にあやかって、彼に『マーロウ』と名乗るよう勧めたんだ」

 

「探偵マーロウ。商売敵……いや、パパを恩人と思ってるなら、系列事務所になるのかな」

 

「彼は完璧な人間とは言い難いけど、マーニーを任せるなら彼が一番だよ」

 

「パパがそういう風に言うとは珍しい。なんで?」

 

「信頼できるからさ」

 

 マーニーは目を丸くする。

 

「何よりも大切なことだよ。信頼できるということは」

 

 マーニーはロイドの愛娘で、現在高校二年生のうら若き乙女。

 それを男に預けるというのだから、ロイドからその男への信頼の大きさというものが伺える。

 車が止まり、父に車椅子に乗せてもらったマーニーが見たのは、マーニーの住まいと同じ自宅兼事務所である小さな探偵事務所だった。

 事務所の扉には"ネコ探しうけたまわります"と書かれた張り紙。

 閉じられた入り口のドア。

 ドアノブの上には小さな猫の毛が一本乗っている。

 

 マーニーの洞察力は小さな情報を見逃さず、このドアノブに猫の毛が乗ってから一度も回されていないこと、ドアノブが回されず手で引かれて閉じたこと、つまり今事務所の中に居る者が猫を抱えていることを把握した。

 

(得意技は猫探しかにゃあ)

 

 ロイドが開けたドアの向こうへ、車椅子のマーニーが行くと、そこには黒い帽子をかぶった青年と、嬉しそうに猫を抱きしめる一般的な風貌の男が居た。

 黒帽子の青年は、得意気に格好つけている。

 顔は良いのだが、その所作が妙に三枚目臭を漂わせていた。

 

「お探しの猫はこいつですね?」

 

「おお! そうですこいつです!」

 

「また何かありましたら、このハードボイルド探偵……マーロウに連絡を」

 

 黒帽子の男はキザったらしくキメるが、全くキマっていない。

 あ、こいつだ、とマーニーは思った。

 この人で大丈夫だろうか、とマーニーは不安になった。

 信頼できるって嘘じゃないのか、とマーニーは挙句の果てに父の判断まで疑い始めた。

 

「猫見つけたくらいでハードボイルド探偵名乗るって恥ずかしくないんですか?」

 

「……」

 

「ともかく、うちの猫のユルセンを見つけてくれてありがとうございました。それじゃ」

 

 依頼人にまでそんな風に言われる始末。

 

「あああっ! 俺はちゃんとしたハードボイルドだってんだよチクショウ!」

 

 ロイドとマーニーが見ていることにも気付かず、黒帽子の青年は机を蹴り上げる。

 

「いってえっ!」

 

 そして盛大に痛がった。

 なにこのダメな人、というのがマーニーの第一印象。

 ただなんとなく、帽子が似合う人だなあと、マーニーは思った。

 

「大丈夫かい、マーロウ」

 

「ロイドのオヤジさん! 来てたんですか、声くらいかけてくださいよ!」

 

「悪いね、盗み見るようなことをしてしまって」

 

「ロイドのオヤジさんなら別に構いませんよ!

 右も左も分からなくなってた俺を、あんたは助けてくれたんだ。そのくらい……ん?」

 

「どうも」

 

 青年とマーニーの目が合い、マーニーが頭を下げる。

 

「……ああ! オヤジさんの娘さん! 話に聞いてたあの!」

 

「マーニーだ。よろしくしてやってくれ」

 

「オヤジさんに似てないっすね」

 

「君は本当にストレートに言うな、マーロウ」

 

 娘が可愛いと暗に言われて嬉しいのか、その娘と似てないと言われてちょっと傷付いたのか。

 ロイドは複雑そうな顔をしていた。

 

「で、どうかしたんすか? オヤジさん」

 

「実は―――」

 

 ロイドはマーロウに事情を語った。

 娘の足が両方共折れていること。

 それでも頑固な娘は無茶をするかもしれないこと。

 娘の探偵業を見張り支える人間が必要であるということ。

 軽い頼みではなかったが、マーロウは帽子の位置を直してニッと笑い、それを快諾する。

 

「分かりました。俺にどんと任せて下さい! このハードボイルド探偵マーロウが――」

 

「パパいいよ、私にこの人必要ないよ」

 

「――ってオイッ!」

 

「そうは言うけどな、マーニー……」

 

「だから心配いらないってば。足折れたって、できることだけしてやっていけばいいんだから」

 

 マーニーはそう言うが、無茶をして両足を折った後だとまるで説得力がない。

 彼女の言い草にマーロウは思わず頭を掻いて、しゃがんで彼女と視線の高さを合わせ、彼女の目をまっすぐに見て、格好付けずに口を開いた。

 

「おい、マーニー」

 

「なんです?」

 

「完璧な人間なんてどこにも居ねえ。互いに支え合って生きるのが、人生っていうゲームさ」

 

「……むっ」

 

「誰の助けがなくてもなんでも出来ると思うのは、ガキだけだぜ」

 

 過保護な父に対してちょっとだけ反抗する気持ち。

 流石にこの三枚目は頼りないんじゃないか、と侮る気持ち。

 マーニーの中にあった二つの気持ちがちょっとばかり氷解して、張っていた意地が消えてなくなっていく。

 

「……分かったよ。それじゃ、お願いします、マーロウさん」

 

「マーロウでいい。敬語も要らねえ。命の恩人に居丈高には話せねえさ」

 

 黒帽子の青年が手を差し出して、モジャモジャ髪の女子高生がその手を握る。

 

 最後に訪れた別れの時まで、彼らは街を守る探偵コンビであり続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女子高生探偵マーニー。彼女の仕事は幅広い。

 父の仕事を手伝うこともあれば、自分だけで仕事を受けることもある。

 学生間のトラブルを解決することもあれば、殺人犯に関わることもあり、街の子供の依頼を受けることもある。

 さて、今回の依頼は?

 

「で、マーニー。俺は何を手伝えばいいんだ?」

 

 マーロウは事務所を締め、依頼があればロイドの事務所に連絡するよう連絡先を書いた張り紙をドアに貼り、マーニーと共にマーニーの街へとやって来ていた。

 ロイドはロイドの仕事に向かったため、彼らは二人きりでの初仕事に挑むこととなる。

 

「ちょっと待ってて。ゆりかちゃんが持って来た依頼があるから、電話で確かめないと」

 

「ゆりかちゃん?」

 

「若島津ゆりか。私の友達だから、マーロウも会う機会はあるんじゃないかな」

 

 マーロウがいいと言ったとはいえ、外見だけで20代と分かるマーロウにいきなりこういう口調で話せるマーニーは相当に肝が座っている。

 もしかしたら、他人に遠慮させず親しみを持たせるマーロウの雰囲気がそうさせているのかもしれないが。

 

「ええと番号は……あったあった」

 

 マーニーはゆりかが紹介してきた依頼人に電話をかけ、依頼の内容を聞き始める。

 

『―――、―――、―――』

 

「はい、はい、ええそうですね」

 

 内容にもよるが、よっぽど酷い依頼でもなければ断る気はない。

 紹介してきた友人の顔を立てるためだ。マーニーは義理を欠かさない。

 

「承りました。日当五千円、経費は別で。マーニー&マーロウにお任せを」

 

 ピッ、と通話が切られる。

 依頼は受諾された。さあ、お仕事開始だ。

 

「ええっと、現場の場所は……」

 

「その足じゃあんまり動き回らない方がいいだろ?

 現場にはまず俺が行く。ゆっくり自宅で休んでおけよ、車椅子探偵」

 

 ぶーたれた顔になるマーニー。

 自分も行く気満々だったマーニーだが、マーロウに止められ、渋々退院してすぐの体を自愛するハメになるのであった。

 

 

 

 

 

 さて、今回の依頼は『息子を傷付けた犯人を見つけて欲しい』というものだった。

 

 事件は先日、夜間の学校の野球部部室で起きたそうだ。

 被害者は高橋という少年。

 この野球部部室は昔寄贈された何かを部室に改造したもので、窓がない。

 鍵は一つしかない上に最近学校が新調したため一つしかなく、合鍵もない。

 扉も当然一つしかない。

 この事件がややこしいのは、頭を殴られて部室内に倒れていた被害者高橋が部室の鍵を持っていたこと。つまりここが完全な密室だったということだ。

 

 部室は引っ越し作業中で、部室の中には被害者の高橋以外の何もなかった。

 そのため当然人が隠れる場所もない。

 窓がないため鍵付きの入り口以外からは出入りもできない。

 その入り口に鍵がかかっていたため、完全な密室になっていたというわけだ。

 

 被害者高橋は警察と病院の調査によれば、睡眠薬を飲まされ、頭を何か鈍器で殴られたと見られている。

 ところが被害者は当時冬用の野球帽、それも特別分厚いものを被っていたために、頭の傷から凶器を特定するのが難しくなってしまったのだとか。

 凶器に頭皮・毛髪・血痕が残っていることも期待できないそうだ。

 この帽子がクッションになってくれたお陰で死を免れたらしいので、不幸中の幸いと言っていいのだろうが。

 

 さて、当日何があったか。被害者と容疑者はどう動いていたか。

 次はそこを見てみよう。

 

 その時間帯、学校に居たのは被害者含め四人。

 マーロウが学校の隣の土木工事現場の男・伊藤に話を聞いたところ、その時間帯に学校に出入りしたのはこの四人だけで間違いないそうだ。

 四人はそれぞれが自主練のため夜間の学校にやって来ていて、自主練が終わり次第空っぽの部室に集まり、それぞれが持ち寄った晩御飯を分け合おうと計画していたらしい。

 勿論、先生には内緒だ。

 実に高校生の青春をしている。

 

 被害者にして野球部の高橋。

 高橋と同じ野球部の鈴木。

 サッカー部の佐藤。

 バスケ部の田中。

 この四人が事件の渦中の高校生四人である。

 そして被害者を除いた三人には、それぞれ怪しまれる理由があった。

 

 四人は学校までは一緒に来ていたが、その後高橋と鈴木は一旦部室に向かい、佐藤と田中は各々自主練を始めていた。

 部室に向かった高橋と鈴木もその後部室の前で別れ、各々自主練を始めた、とされる。

 だが部室の前で別れたと主張しているのは鈴木のみ。

 もしも鈴木が嘘をついていたと仮定するなら、鈴木が高橋に睡眠薬を飲ませて朦朧とさせた後に頭を殴り、高橋が空の部室に必死に逃げて、内側から鍵を締め、後に気絶したという仮説を立てることができる。

 これなら密室の謎も解けるのだ。

 

 野球部の鈴木だけでなく、サッカー部の佐藤も怪しまれている。

 彼はこの日の晩飯を、外国産の大きな鉄の箱に入れて持って来たのだ。

 彼はウケ狙いで持って来たと主張しているが、これを凶器の持ち込みなのではないかと疑う者は少なくなかった。

 密室トリックさえ解ければ、一番怪しい人物である。

 

 バスケ部の田中は動機が一番ハッキリしている。

 田中の彼女が被害者の高橋を好きになってしまい、田中をフッて高橋に告白し高橋と恋人関係になってしまったのだ。

 事件が発覚した時、鈴木と佐藤は真っ先に田中を疑ったという。

 『動機は何か?(ホワイダニット)』を重視するならば、この少年が一番怪しい。

 

 彼らはいつまで経っても高橋の姿が見えないことを訝しみ、どうしたのだろうと思っていると、突然変な音が聞こえてきたのだと言う。

 不安になって高橋の携帯に電話をかけたところ、閉じられた部室の中から音が聞こえることに気が付き、学校に連絡。

 入り口を工具でこじ開けたところ、そこで倒れている高橋を発見したらしい。

 救急車を呼び高橋を病院に運び、翌日事件性があると判断し、警察に連絡したそうだ。

 

「犯行が可能なのは鈴木だけ。

 わかりやすく凶器を持ち込んだのは佐藤だけ。

 動機があるのは田中だけ。

 被害者の高橋を朦朧とさせた睡眠薬は市販のもので、誰でも手に入れられる……」

 

 マーロウは事件の状況を整理しつつ、事件の舞台である椿山第二高等学校の学校へと辿り着く。

 真犯人を見つけてほしいという、高橋の親からのこの依頼。

 被害者の親が憤るのは分かるが、警察の見解が出るまでは大人しくしているという手もあっただろうに。

 よっぽど"真実が明らかになる前に犯人が逃げてしまう"可能性を嫌がったらしい。

 

「ありがとうございます、伊藤さん。

 すみませんね、わざわざ重機動かしてるの邪魔しちゃって」

 

「いえいえ、お気になさらずマーロウさん。

 この重機は特注の、百トン級の特大瓦礫をどかすものですからね。

 途中で中断しても特注の馬力で大抵どうにかなるものなんですよ」

 

「へー、そりゃ凄い」

 

「おかげで私はあの学校にも入ったこともないのに、学生さんが時々見に来るんですよ」

 

 土木業者の伊藤はマーロウに話すことを話した後、学校前の工事現場に戻っていった。

 さて、とマーロウは現場調査を始める。

 依頼者である高橋の親の名前を出せばあっさりと調査許可は降り、彼はまず現場の写真を撮ってマーニーの下へ送り始めた。

 

「バットショット」

 

 彼が懐から取り出したるは『メモリガジェット』と呼ばれる探偵ツール。

 バットショットはHD画質で画像二万枚、動画で12時間の撮影が可能であり、無線で遠方に画像と動画を送信可能な高性能デジタルカメラ型ガジェットだ。

 現場写真を片っ端から送っていけば、マーニーも自宅で休みながら推理することだってできるだろう。

 

(こいつは確かに密室だ。

 窓もない、出入りは一つしかない入り口以外では不可能。

 入り口に鍵がかかってて、その鍵は中にあった。だとしたらどうやったんだ?)

 

 マーロウは思考しながら、一通り現場写真を撮り終わる。

 

(実は鍵は密室の中にはなかった、とかどうだ?

 被害者の高橋を殴って、鍵を持って外から鍵をかける。

 そして入り口の鍵がこじ開けられ、中に第一発見者達がなだれ込んだ時……

 鍵をこっそり部室内に置き、最初から鍵がそこにあったかのように見せかけた、とか)

 

 真実を求めるのは探偵の常。

 

「いや、ねえな。

 そんなことしてたら、鍵の指紋の跡で一発で分かるはずだ。

 第一発見者達は当時手袋の類も付けてなかったと証言されてる。

 互いが視界に入ってたそうだから、鍵をこっそり部室内に捨てるのも厳しい……」

 

 が、答えは出ない。情報が足りないのだ。

 

「デンデンセンサー」

 

 次に取り出したのはゴーグル型ガジェット、デンデンセンサーだ。

 空気の流れや熱の動き、光を始めとする電磁波の動きさえも見逃さない高性能センサーが、部室の外側に妙な傷を見つける。

 この部室は正六面体、立方体だ。

 その側面の上端に、妙に()()()傷が見えたのである。

 

「ん? ここの傷だけ、妙に新しいな……」

 

 この部室の側面は、随分と傷だらけでボコボコだ。

 部活で飛んできたボールやら、台風で倒れたポールやら、様々な理由で付けられた傷が多く見える。

 築数十年くらいだろうか? 何かがぶつかった回数も十や二十では収まらなそうだ。

 

 マーロウは独立した立方体の部室を外から眺め、その土台部分に生えた雑草をかき分け、その土台周辺を調べる。

 

(土台にネジ止め。ここには寄贈の日付……40年前の3月12日)

 

 マーロウの直感が『真実』に手をかけた。

 

 

 

 

 

 一方その頃マーニーは、マーロウから送られてくる画像をパソコンで処理しつつ、『記憶』についてスマホで検索していた。

 記憶喪失は短期記憶ではなく長期記憶の障害だ、など。

 言語化できる記憶と言語化できない記憶がある、など。

 一般常識や言語能力は意味記憶、個人の体験や想い出はエピソード記憶、ドアを開けるために自然と動く体の記憶は手続き記憶、記憶による連想はプライミング記憶……と、検索結果が次から次へと山のように出て来た。

 

 こういった専門分野の知識には弱く、学校の成績も良いわけではないマーニーにとっては、理解できそうで理解できない話だ。

 

(日本語は使える。癖になっている言葉も言える。

 それは意味記憶であるから。

 探偵の技を覚えているのは手続き記憶。

 ならやっぱり、エピソード記憶だけが失われている、と)

 

 マーニーも過去に自殺志願者の記憶喪失者と出会ったことがある。

 その時は自殺志願の無謀さが記憶喪失後に勇気のような何かに変わり、自殺志願者はヒーローのような性格になっていた。記憶は消え、感情と衝動だけが残ったのだ。

 だから彼女は知っている。

 記憶喪失は、忘れる時は全部忘れる。記憶を全部持っていかれてしまうのだと。

 

「なら、自分のことを忘れても、人生全てを忘れても、覚えていた『フィリップ』って一体……」

 

 マーニーは折れた足をさすり、思案する。

 思考が思考世界(シンキングワールド)に入りそうになったその時、その思考を中断させるスマートフォンの着信音が鳴り響いた。

 

「はい、こちらマーニー」

 

『マーニー、ちょっといいか?』

 

「何か進展あった?」

 

『ああ、実はな……』

 

 マーロウが見つけたもののことをマーニーに語ると、マーニーはあっという間に結論と答えに行き着いた。

 

「……パック無しで箱の中に入れられた卵かな」

 

『どういうことだ?』

 

「つまり―――」

 

 マーロウが直感で得た情報を、マーニーが論理で組み上げる。

 答えをマーニーから聞いて、マーロウは電話の向こうで手を打った。

 

『……この違和感の正体はそれか!』

 

「つまり、真犯人はあの人さ」

 

 探偵に必要ものは推理、論理、そして証拠。

 真犯人が誰かは分かった。まずは、そのトリックが可能であるという証拠を見つける。

 

『マーニー、そっちで検索してくれ。キーワードは―――』

 

 その情報は、狙って探さなければ見つからないが、狙って探せばネットでも見つけられるもの。

 

『40年前の3月12日、寄贈、そして椿山第二高等学校だ』

 

 さあ、検索を始めよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マーロウは鈴木、佐藤、田中を『犯人が分かった』と言って呼び出した。

 次いで被害者の高橋の親を呼び出し、『証言をして欲しい』という理由で土木業者の伊藤も呼び出す。

 これで関係者は全員揃った。

 探偵の見せ場、事件の終わりに全ての真実を明らかにするパートである。

 

「む、マーニーという子はどうしたんだ?」

 

「あいつは今ここには居ません。不肖このマーロウが、真犯人が誰かを明かしたいと思います」

 

「真犯人が分かったのか!」

 

 高橋の親が声を荒げる。

 

「おい待てよ俺じゃねえぞ!」

「俺でもない!」

「僕もやってないぞ!」

 

「落ち着け、とりあえずは俺の話を全部聞け。お前らも真相を知りたいだろ?」

 

 マーロウになだめられ、三人の少年(ようぎしゃ)はぐっとこらえる。

 

「この事件の構図は簡単だ。

 真犯人は、トリックさえバレなければ疑われない自信があった。

 逆に言えばトリックさえ分かっちまえば、警察の捜査で全部分かるようなもんだった。

 そのトリックが可能であると立証さえしちまえば、いくらでも証拠が出るもんなんだよ」

 

「それは一体……?」

 

「まずこの部室、どう思う? 『箱みたいだ』とか思わなかったか?」

 

「言われてみれば……」

 

 マーロウは部室の表面をコンコンと叩いた。

 

「実はこれな、特製の『大型コンテナ』なんだ」

 

「は?」

「えっ!?」

 

「40年前の3月12日、この学校の校長の友人がこの学校に寄贈したものだ。

 当時の校長がそれを改造して、臨時の部室として使うようになったのさ」

 

 話しながら、マーロウは部室の土台周辺の雑草をかきわけ、ネジで止められた土台部分を彼らに見せる。

 

「側面には鉄板が貼られ、その上にペンキ等のコーティングがされてる。

 土台もほら見ろ、工業用のネジと鉄杭と固定具、石ブロックで留められてるだけだ」

 

「あっ……」

「ま、マジだ!」

「ああ、だから正方形っつーか立方体だったのか、これ!」

 

「この仕組みを知ってるやつなら、ネジを専用の工具で外すだけで土台から部室を切り離せる」

 

 トリックが何であるかさえ分かれば、警察の捜査でここのネジが最近外されていたかくらいは分かるだろう。そのトリックに気付かなければ、最悪誰も気付けないだろうが。

 

「当時の事件の流れはこうだ。

 被害者の高橋は鈴木と部室前で別れた後、真犯人と出会った。

 真犯人は自主練お疲れ、とでも言って睡眠薬入りのペットボトルを渡し、飲ませた」

 

「待った! 鈴木は犯人じゃないのか!?

 部室の外で鈴木が高橋を殴って、高橋が部室に逃げ込んで内側から鍵を締めた可能性も……」

 

「無いな。俺もそう思ってバットショットとデンデンセンサーで調べてみた。

 この部室の周辺は警察が現場保存してたろ?

 事件の夜に鈴木と高橋が何事もなく、まっすぐに部室に向かってる足跡が残ってたぜ」

 

「そうだったのか……」

 

「話を続けるぞ。

 睡眠薬入りの飲み物のせいで意識が朦朧とした高橋はこう言われたんだろう。

 『睡眠薬を飲ませてこれから殺してやる』とかな。それで高橋は部室に逃げ込んだ」

 

「それで鍵を締めて……いや待て探偵!

 高橋をそこから殴れるやつなんて居ない!

 それじゃ高橋は殴られることもなく、部室に逃げ込めたってことじゃないか!」

 

「いや、これで条件は整った」

 

 マーロウが強く、部室の外壁を叩く。

 

 

 

「真犯人は重機を使って、このコンテナを持ち上げ動かしたんだ。90°か、180°くらいな」

 

「―――は!?」

 

 

 

 一瞬、その場のほぼ全員が絶句した。

 

「部室は引っ越し作業中で空っぽだ。

 部室の中には高橋のみ。

 睡眠薬で眠った高橋は、部室の壁か天上に『落ちて』頭を打つ」

 

「嘘だろ!? そんなバカみたいな殺人計画、実際にやろうと思うのか……!?」

 

「で、部室を元の位置に戻した。

 第一発見者が音を聞きつけて、ここに来る気配を見せたからだな。

 真犯人は高橋が病院に運ばれた隙をついて、部室の土台をネジで留め直した。

 そして変なところに付いた証拠になる土や、重機のタイヤ痕などを消したんだ」

 

 警察が来たのは翌日だ。証拠隠滅の時間は十分にあっただろう。

 "犯人は現場に舞い戻る"という捜査鉄則は、犯人が現場に残された証拠を処分するからであるという。

 真犯人は、犯行の後に現場の証拠を消し去ったのだ。

 

 睡眠薬入りのペットボトルが見つかっていないことを考えれば、この段階での証拠隠滅は相当に計画的にやっていたと思われる。

 

「それができるのは、コンテナも容易に持ち上げる特製の重機を扱える人間」

 

 事前に綿密に犯罪の計画を立て、大胆かつ綱渡りな犯行を堂々と行い、明確な殺意をもって高橋を殺そうとした男。

 

「犯人はあんただ。土木業者の伊藤!」

 

 犯人は、学校向かいの場所で工事をしていた男、伊藤しかいない。

 

「ち、違う! 私は犯人じゃない!」

 

「動機や繋がりが見当たらねえから、あんたは捜査線上にも上がらない。

 重機で部室を動かした時に付いた傷は、傷だらけの部室の表面では目立たない。

 あんたの工作は完全に証拠を残さないものじゃなく、疑いが向く場所を操作するものだった」

 

「しょ、証拠は! 証拠はどこにある!?」

 

「さっき言ったろ、足跡の分析をしたって。

 重機のタイヤ痕とかは見つからなかったが……こいつを見ろ」

 

 バットショットとデンデンセンサーの応用で調べ上げた調査結果を、紙に印刷しその場の全員に見せつけた。

 人間が歩く時、無自覚に靴の外側に排出してしまう汗などを視覚化したそれは、伊藤が見落としていた『痕跡』を絵図にしたものだった。

 

「こいつはこの周辺に残された、肉眼じゃ見えない足跡の分析だ」

 

「―――!」

 

「鈴木、佐藤、田中の足跡があるのはいい。

 だが、あっちゃいけない足跡があるよな? 伊藤さんよ」

 

「あ……あっ……!」

 

「あんたを今日ここに呼んだのは、あんたの足跡のサンプルを取るためだ。

 見事に引っかかってくれたな、真犯人。あんたの足跡とこの足跡の照合、今終わったぜ」

 

 それは『この学校の中には入ったこともない』と主張していた伊藤が、この部室の近くを歩いていたという、ぐうの音も出ない絶対的な証拠だった。

 伊藤はがくりとうなだれ、その場で膝をつく。

 

「もう逃げられねえぜ……さあ、お前の罪を数えろ」

 

「罪……罪だと!?」

 

 マーロウのその言葉に、伊藤は膝をついたまま激昂する。

 

「あいつが悪いんだ! あいつが!

 こっちに野球ボールを転がしたから、拾ってやったのに!

 野球部員を何人も引き連れてたあいつに、投げ返してやったのに!

 礼を言うどころか、私を見て鼻で笑って、仲間にとんでもないことを言いやがった!

 『あんなドカタの底辺にはなりたくない』だと!?

 『給料安そう、あんな負け犬にはなりたくないな』だと!?

 ふざけるな世間も知らないガキが! だから私は、思い知らせてやったんだよ!」

 

「……言い訳したけりゃ警察にいいな。探偵に、法であんたを裁く権利なんてねえんだから」

 

「ちくしょう……ちくしょう……!」

 

 少年達は複雑な顔をしている。被害者の高橋の親も、憤怒と申し訳無さが入り混じった表情を浮かべている。

 マーロウは警察に連絡を入れ、帽子で目元を隠し、その場を去っていった。

 

 

 

 

 

 マーロウはマーニーに事件解決の一報を入れる。

 携帯電話型ガジェット・スタッグフォンが大活躍だ。

 

『正直に話すけど、マーロウがこんなにデキるって初対面の時思ってなかった』

 

「オイ」

 

 電話の向こうのマーニーは、割とストレートに本音を明かしてくる。

 

『でもその認識も改まったかな。

 過不足無く情報を送ってくれたし、情報の収集は私以上だった』

 

「そうか?」

 

『そうですとも。目に見えない足跡の調査とかは、私にもできないことだしね』

 

「そこに関しちゃ、警察が現場保存をきっちりやってくれてたお陰だな」

 

 探偵は足で情報を稼ぐのが基本、とも言われる。

 足が折れたマーニーには、自分の代わりに動いてくれる足が必要だ。

 そしてマーロウには、情報を論理的に組み上げてくれる、情報を検索で引っ張ってくれる頭脳が必要である。

 

『これからよろしく、マーロウ』

 

「こっちこそよろしく、マーニー」

 

 奇妙な出会いが、奇妙なコンビを誕生させていた。

 

 

 




 マーロウ……一体何者なんだ……?

 自分は西澤保彦とかも好きで赤川次郎も好きです(小声)


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Jとの出会い/運命のジョーカー

基本的にはタイトルで二話セット、話は一話完結、中編です


 マーニーがかつて解決した事件に、黒屋明彦と黒屋雪彦という双子が関わったものがある。

 兄・明彦は表向き優等生だったが、その分だけストレスをためがちで、それが爆発して家族相手に暴れることも多く、最終的に通り魔事件の犯人となってしまった。

 弟・雪彦は夜な夜な軽犯罪を行い街を徘徊する兄を止めるべく、自分も武装して兄を止めに夜の街へと駆け出し、最終的に雪彦が兄を現行犯で倒すことで決着が付いた。

 

 明彦は弟の手で警察に突き出されたものの、受験や周囲の期待などのストレスが考慮され、本人が表向きは反省した様子を見せたこともあって、ほどなくシャバに出て来てしまった。

 これが最悪の結果に繋がる。

 明彦は弟に止められたことをなんとも思わず、すぐにまた夜の活動を開始してしまったのだ。

 

 また夜に犯罪の下準備を行っていた兄を止めようと、弟の雪彦は兄に立ち向かうが、待ち構えていた兄の手で返り討ちにあってしまう。

 それから二日後。

 マーニーとマーロウは、病院に入院した雪彦から依頼を託された。

 

「アニキを止めてやってくれ。何かしてしまう前に」

 

 まだ大規模に事件が起こっていないがために、警察の動きも本格的ではないこのタイミングで、何もさせずに兄を捕まえてほしいという依頼であった。

 

「日当五千円、経費は別で。マーニー&マーロウにお任せを」

 

 車椅子のマーニーが、その依頼を受ける。

 マーニーとマーロウは雪彦の病室を出て、マーロウが車椅子を押し、ゆっくり外へと続く廊下を進む。

 

「彼に雪絵とか、霧彦とか、そういう名前の家族居ないか? マーニー」

 

「え? 名前が雪彦だったからって、そんな名前の家族がいるわけでは……」

 

 マーロウはどこか遠くを見て、虚空を探るように視線を彷徨わせている。

 マーニーは何かを察し、ハッとした。

 

「……失った記憶の中の人? その、雪絵と霧彦って」

 

「分からねえ。分からねえが、勝手に口をついて出て来た」

 

 頭で覚えていないことでも、体と心は覚えている。

 

「分からねえけど……その名前を聞くと、情けねえ姿見せられないって、そう思うんだ」

 

 マーロウ本人でさえもその理由が分からぬままに、彼の中に強い衝動が生まれていた。

 

 

 

 

 

 依頼の達成には二通りのやり方が考えられる。

 日中にどこかに潜んでいる明彦を見つけて捕まえるか、夜間に通り魔を始めた明彦を外で捕まえるかだ。

 明彦は弟を病院送りにした時点で家族からも見放されており、自宅にも帰っていない。警察も屋外で隠れられそうな場所を探しているが見つかっていない。

 昼間に探して見つけるのは骨が折れそうだ。

 

『警察がいくつか防犯カメラ等をチェックしてるけど明彦さんの姿は見つかってないみたい』

 

「夜も昼もか?」

 

『夜も昼も』

 

 現場で聞き込み中のマーロウがマーニーに電話で聞いてみたところ、雪彦が大怪我を負わされた夜の時間にも、それから二日間の間昼間にも、明彦は大体の防犯カメラに映っていないらしい。

 

『防犯カメラの配置と業者の情報ならこっちで独自にデータベース化してあるけど』

 

「よし、検索だ。

 キーワードは昨晩の夜六時から七時、防犯カメラのカバー範囲。

 その時間に動いてた監視カメラから、奴が通ったルートを特定するぞ」

 

『マーニーにおまかせを』

 

 ピッ、とスタッグフォンの通話を切る。

 任せるところはマーニーに任せ、マーロウは近隣住民の聞き込みを再開した。

 

「よう、渡辺婆ちゃん。足は大丈夫か?」

 

「おお、マーちゃん。心配ありがとねぇ。今日は調子がいいんだよ」

 

「こいつを飲んでもっと調子を良くしてくんな。体に良い茶葉なんだってよ」

 

「おやおや、マーちゃんはいい子だねえ。うちの孫もこのくらいだったらいいんだけど」

 

「渡辺婆ちゃんの孫と俺の歳が同じくらいなんだっけか? 妙な縁もあったもんだぜ」

 

 縁側で休んでいるお婆ちゃんとも親しげなマーロウ。

 この街に来てそこまで時間も経っていないだろうに、こうまで馴染んでいるのは人徳か、それともコミュ力の高さか。両方かもしれない。

 

「仕方ないのよ。私もボケが始まっちゃってねえ」

 

「そうかい? 受け答えもしっかりしてるし、話してて楽しいけどな」

 

「ありがとねぇ、そう言ってくれるのはマーちゃんだけよ。

 でもね、最近は冷蔵庫の中のものいつ食べたかも忘れちゃうのよ。

 気付いたら冷蔵庫の中のもの食べて、食べたことも忘れちゃってねえ」

 

「そいつはいけねえな。

 何か起こる前にヘルパーさんを頼んだ方がいいんじゃねえか?

 渡辺婆ちゃんがよければ、俺の方で優良なヘルパーさん探してやるぜ」

 

「その時はマーちゃんにお願いするわ。頼りにさせてねぇ、探偵さん?」

 

「任せな。探し物はこのハードボイルド探偵、マーロウにお任せを」

 

 マーロウはカッコつけているが、お婆ちゃんが彼を見る目はカッコいいものを見る目ではなく、微笑ましいものを見る目である。

 

「ところで最近、何か変わったことはないか?」

 

「変わったこと……

 お隣の山本さんの奥さんが浮気してたこと。

 少し前に家出してた中村さんちの息子さんが今日帰ってきたこと。

 近所の小林さんが誰かと酔っ払って喧嘩してたことかしらねぇ」

 

「浮気に、家出に、喧嘩ね」

 

「山本さんは昨日、旦那さんに浮気を疑われて大喧嘩になったらしいわ。

 中村さんちの息子さんは夜に公園で怖いものを見たみたい。

 小林さんは喧嘩した相手のことを覚えていないそうだけど、病院に行ったらしいわぁ」

 

「サンキュー、渡辺婆ちゃん。助かったぜ。じゃあ俺もう行くわ」

 

「捜査の用がない時にもうちに寄りなさい。自分の家だと思ってくつろいでもいいんだよ」

 

「その言葉だけでやる気が出るってもんさ。あばよ、婆ちゃん」

 

 マーロウは渡辺宅を離れ、ポケットの中で震えるスタッグフォンの通話を繋げた。

 

「こちらマーロウ。マーニー、どこかで明彦は見つかったか? 奴の夜間の移動経路は?」

 

『……無かった』

 

「は?」

 

『雪彦さんが明彦さんに殴られた場所は旗竿地だったのは知ってる?』

 

「旗竿地……建物に囲まれて、細い路地からしか入れない空き地のことか」

 

『そう。そしてそこに入る路地への入り口は、全部防犯カメラで見張られてた』

 

「なんだと?」

 

『電話で頼んで業者にチェックして貰ったけど……

 雪彦さんの姿は映ってる。でも明彦さんの姿は一度も映ってない』

 

「おいちょっと待て、じゃあ明彦はどうやってそこに入ったんだ?

 空き地だろうがそこに至る道が全部カメラで見張られてんなら、事実上の密室だぞ」

 

『いくつか考えられる可能性はあるけど……それは一旦脇に置いておいて』

 

 マーニーも色々と考えているようだが、彼女はマーロウの情報を頼りにしているようだ。

 

『そっちは何か情報あった?』

 

「こっちが聞いた話は……」

 

 マーロウが現場で集めた情報を元に、マーニーはいくつか立てていた推論の内一つを、確信をもって選び取った。

 

『明彦さんは雪彦さんを殴った時、通り魔の事前準備中だったのかもしれない。

 つまり犯行を行う前に身を隠す場所と、犯行を行った後に身を隠す場所を探してたのかも』

 

「なんだって?」

 

 マーニーはマーロウに『どうやったのか?(ハウダニット)』を説明し、彼らは真実を掴み取った。

 

『明彦さんが雪彦さんを殴った後、警察にも見つからずどこに潜んでいるのか。

 防犯カメラにも映らずに、どうやって雪彦さんを殴った現場に辿り着いたのか』

 

「マーニーの推理で間違いないと思うぜ。これで決まりだ」

 

『よし、私も現場に……』

 

「お前は自宅待機だ。怪しいところは俺が現場で張る」

 

『むぅ』

 

 電話を切って、マーロウは溜め息を吐く。

 両足が折れているくせに、通り魔の暴行犯の確保に出張ろうとする女子高生とは如何なものか。

 マーロウは街を一望できる高台の公園に移動し、夕日に照らされる街を目で眺めて、街に吹く風を肌で感じる。

 

「悪くねえ風だ。俺達の出番の風向きだな」

 

 黒屋雪彦は。マーロウが雪絵と霧彦という名前を連想した少年は。この街を守るために戦ったのだ。

 

 

 

 

 

 時刻は夜。

 張り込みの定番・アンパンを食べて腹の足しにしていたマーロウに、晩飯を食べ終わったマーニーが状況確認の電話をかけてくる。

 

『異常なし?』

 

「異常なし」

 

『ドラマを見ようとしましたがそっちが気になって集中できません、どうぞ』

 

「ちょっとぐらい俺を信用して任せろよ、どうぞ」

 

 何故俺は女子高生にこんなに舐められてるんだ? と、マーロウは訝しんだ。

 

『マーロウ、今回は特に気合が入ってるよね』

 

「そうか?」

 

『やっぱり昔のことを思い出しかけてるか、心に何かの感情が残ってるんだろうね』

 

「かもしれねえな。街を守った男がやられたんだ。

 その役目を引き継いだんなら、情けない姿は見せられねえ」

 

 少々熱くなっているマーロウだが、対照的にマーニーはどこまでも冷静だった。

 

『黒屋雪彦はそういう動機で動くような正義の味方じゃないよ』

 

「どういう意味だ?」

 

『彼が兄の蛮行を止める理由の最たるものは、兄へのコンプレックスだ』

 

「……」

 

『弟の彼は優等生の兄とずっと比べられてた。

 兄弟で遊ぶ時は兄がヒーロー、弟が悪役をやらされていた。

 悪いことをするようになった兄を弟が止めるのは―――』

 

「その反動だ、って言いたいのか」

 

『純粋な良心ではないんじゃないかなあ。

 前に兄が通り魔やってて弟が止めた時も、警察には通報してなかった。

 雪彦さんは明彦さんを自分の手で止め、倒すことにだけこだわってた』

 

「……本当に、それだけだろうか」

 

 少女はクールで、食い下がる青年はクールに憧れているだけのノットクールだった。

 

「マーニー、街から人がごっそり消えたら、街に価値ってあると思うか?」

 

『は? いや、そりゃただの廃墟になるだろうけど……』

 

「人が居なけりゃ、街はただの空虚な箱だ。次に人が入るまで、何の価値も無いガラクタになる」

 

 斜に構えた人間が鼻で笑うような理屈を大真面目で語るのが、この青年の性格なのだと、マーニーも理解し始めていた。

 

「街を守るってのは、人を守るってことだ。雪彦は明彦から街の人を守ってたんだろ?」

 

『それは、そうだけど……』

 

「街ってのは宝箱だ。人が詰まってりゃ宝箱、詰まってなきゃ空虚な箱」

 

 夜の街を見下ろすマーロウの目には、街に満ちる営みの光が、街という宝箱に詰まった素晴らしいものの輝きが、しっかりと見えている。

 街から人が居なくなれば、この輝きは一つ残らず消えてしまうのだ。

 

「お前も小学生の時とか、自分だけの宝箱とか持ってなかったか?

 ちなみに俺はある。何故か形のいい石ころとか枯れた草とか入ってたな」

 

『……そりゃまあ、あるけど』

 

「その中には何が入ってた?

 綺麗な物か? 価値のある物か? 違うだろ、お前にとって大切だったものだろ」

 

「―――」

 

 宝石箱は宝石箱を詰めるもの。宝箱はその人にとって大切なものを詰めるもの。

 

「この街だってそうだ。

 自分にとって大切だけど、他人にとってはそうじゃないもの。

 自分にとっては大切な人で、他の人にとってはそうじゃない人。

 そういうもんがたくさん詰まってる宝箱を、『街』って言うんだろ」

 

 マーロウはまだこの街に来て日が浅い。

 けれどもマーニーや雪彦がこの街を宝箱に見立てたなら、その宝箱に詰まっている『自分にとっての大切なもの』を、いくつも思い浮かべることができるだろう。

 

「雪彦は、その宝箱を守ったんだ。

 雪彦は兄がそれを壊そうとしたから、それを止めた」

 

『……まあ、そうかもね。

 行動の結果、守られた雪彦さんの友人が居たかもしれない。

 大きな犯罪を侵される前に明彦さんを止めたことで、両親の名誉が少し守られたかもしれない』

 

「だろ?」

 

 マーロウは理論的なことは何も言ってないというのに、つい人情的に流され説得されてしまい、マーニーは自分と彼に対して同時に呆れる。

 

(なんだかにゃあ)

 

 他人のいいところを少しでも多く見つけようとする人は、いい人だ。

 いい人ほど他人を好意的に解釈する。

 マーロウはいい人なんだなあと、マーニーは思った。

 

『マーロウは渋い男になりたいんだろうけど、それには性格が甘すぎる気がする』

 

「んだとぉ!?」

 

『ハードボイルドがブラックコーヒーなら、マーロウはマックスコーヒーだから』

 

「くぉら女子高生! あんま大人をからかうと痛い目見せんぞ!」

 

『はいはい、ごめんねごめんね』

 

 マーロウはお婆ちゃんからは可愛い孫のように見られ、温かい目で見られる。

 女子高生からは舐められ、親しみと信頼をもって接される。

 そういう性格(キャラクター)をしていた。

 

「俺の性格が気に入らなくてもほっとけよ、ったく」

 

『嫌いとは言ってないでしょ、もう』

 

 マーニーは相も変わらずマーロウの甘いやり方にツッコんでいるが、マーロウは何故か、彼女が自分に向ける声が少しだけ、優しくなった気がした。

 

『主人公が自分をハードボイルドって自称するハードボイルド小説なんて無いけど。

 それを自称するコメディならまあ、主人公を好きになる読者も居るんじゃないかな、って』

 

「コメディ!?」

 

『頑張って、ハードボイルド、ぷふっ、探偵さん』

 

「おいてめえ、今笑ったろ! なんだ! そのフレーズはそんなに言ってて恥ずかしいか!」

 

『待って、待って! バカにするつもりはなかったんだ! これ本当!』

 

 思わず吹き出してしまったマーニーが言い訳を並べようとするが、マーロウの目がその時街で動く人影を見咎める。

 

「マーニー、奴が動き出した。通話は切るが、帰ったら覚えてろよ!」

 

『ちょっ、待っ』

 

 黒屋明彦が、動き出したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が落ち、夜が来て、月が我が物顔で空に君臨する。

 黒屋明彦はこっそりと隠れ家から這い出して、夜空の下でニヤリと笑った。

 以前は弟のせいで捕まってしまった。今度は捕まらないよう下調べをちゃんとしていたが、その途中で以前と同じく弟に見つかり、鬱憤と口論からつい弟を痛めつけすぎてしまった。

 だがもう邪魔者は居ないはず、と思考し、明彦は夜の街を歩き出す。

 

「そこまでだ、黒屋明彦」

 

「!」

 

「俺はお前の弟に雇われた探偵だ。お前を止めに来た」

 

 その前に、黒帽子の男が立ちはだかった。

 何故この場所が、と明彦はうろたえる。

 

「防犯カメラの位置をお前が調べ上げていたとしても、疑問はあった。

 普通の道を通る限り固定カメラの録画からは逃れられねえ。

 てめえのやり口は、真面目な人間なら思いつくことも実行することもできないもんだった」

 

 明彦がこれ以上事件を起こす前に止めるためには、彼が昼間どこに潜んでいるか、そしてどこを通って狙った場所に移動しているかを特定する必要があった。

 その答えは、気付けば簡単。

 

「独居老人の家の『中』を、てめえは通り道に使ってたんだろ?」

 

「……ちっ、バレてたか」

 

「そして独居老人の家の押し入れなどを、勝手に寝床に使ってやがったんだ」

 

 『家』の中を強引に突っ切って行けばいい。

 押し入れやホコリまみれで使われていない部屋を、勝手に寝床に使えばいい。

 家の鍵を開けっ放しにしたり、使わない部屋は放置したり、多少の違和感はボケのせいにするアバウトな独居老人の家は、彼のその企みのターゲットに選ばれてしまったのだ。

 

「最近の独居老人は監視カメラとかのハイテクセキュリティをあんま家に付けねえらしいな」

 

「……」

 

「そういうセキュリティを一番徹底してるのは小さい子供が居る若い夫婦の家庭。

 だから空き巣のターゲットにも狙われやすいんだってな。マーニーから聞いて驚いたぜ」

 

 仮に老人に見つかっても、『処分』するのは容易だ。相手は老人なのだから。

 通り魔を躊躇わない人間は見つかった時老人を始末することも躊躇うまい。

 倫理的問題を考えなければ、良心を考慮しなければ、独居老人の家屋は犯罪に利用するのに便利な好条件がいくつも揃っている。

 昔は三世帯住宅で今は老人一人しか住んでいない、というタイプの家も多いために、なおさら利用しやすい家は多かった。

 

「独居老人の渡辺さんの家の食べ物がなくなってたのは、お前が勝手に食ってたから。

 お前は独居老人の家を通り道にするだけじゃなく、寝床にし、飯まで奪ってやがった」

 

 文字通り食い物にしてやがったわけだ、と、マーロウは吐き捨てるように言った。

 

「山本さんの奥さんが浮気を疑われたのは、家にお前が入った跡が残ってたからだ。

 そこもお前が勝手に入った家だったんだろ?

 中村さんは弟を血まみれにした後のお前を見ていた。だから家に帰った。

 お前は夜間に小林さんに見つかり、自分を見た人間を口封じするべく襲った」

 

 マーロウは十数人の人に聞き込みを行ったが、それで得られた情報からノイズを引き抜き、『整合性』という接着剤で組み立てたところ、得られた結論は一つであった。

 

「だったらどうする? 止めるのか? 防具も武器も持ってなさそうに見えるぜ、探偵」

 

「お前ごときにそんなものいるかよ」

 

「おいおい、雪彦から何も聞いてないのか?

 あいつは俺を止める時に防具も何も付けてなかったからああなったんだよ!

 昔オレを捕まえた時はきっちり防具着込んでたからオレに勝てたってのにな!」

 

 明彦は服の下に隠していた模造銃を取り出し、マーロウに向ける。

 マーロウは病院で見た雪彦の顔の痛々しい傷を思い出し、その傷を付けた凶器が何であるかをここで知った。

 

「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだぜ?」

 

「知るかよ! こいつは改造ガスガンだ、俺の邪魔する奴は全員こいつで……撃つ!」

 

 明彦は明らかに良心のタガが外れている。

 この状態で他人を撃つことを躊躇うはずもない。

 良心のタガが嵌め直されない限り、彼が清浄な社会に馴染むことはないだろう。

 

「顔は同じだが、てめえは街を守ろうとした双子の弟に似ても似つかない悪ガキだ」

 

 左手を銃の形にしたマーロウが、それを最終宣告として彼に突きつける。

 

「俺達が……俺が、ここで止める。さあ、お前の罪を数えろ」

 

 明彦は、それを挑発と受け取った。

 

「ほざけクソ探偵っ!」

 

 一瞬。

 一度のまたたきにも満たない時間の衝突だった。

 明彦が銃の引き金を引く。

 放たれた弾が、帽子の内側を盾としたマーロウにより受け止められる。

 受け止められた弾が路面に落ちる前に、マーロウは踏み込み、左手で帽子をかぶり、右の拳を突き出した。

 

 怒りの拳が明彦の顔面に突き刺さり、吹っ飛ばし、少年の体をゴミ捨て場に突っ込ませる。

 ゴミまみれになった明彦の体は汚れ、落ちるところまで落ちた彼の心を目に見える形にしたかのようだった。

 

「ぐあああっ!」

 

「お前は、実の弟の顔を撃った。

 顔だけを撃った。

 診断書を見てその辺は分かってたんだ。お前が真っ先に、相手の顔を撃とうとすることは」

 

 弾の軌道さえ分かっているのなら、本物の銃弾ならともかく、多少改造したガスガンの弾程度を防ぐ手段はいくらでもある。

 

「くそっ、くそっ……雪彦の奴、また邪魔しやがって……さぞかし俺を憎んでるんだろうな!」

 

「……」

 

 マーロウは叫んで明彦を責めようとして、ぐっと堪える。

 目元に浮かぶ怒りは、帽子を深くかぶって誤魔化した。

 そして懐から取り出した、サウンドレコーダー型のガジェットを起動させた。

 

「弟さんの伝言を預かってる。ちゃんと聞け」

 

《 FROG 》

 

「……?」

 

 このメモリガジェットはフロッグポッド。

 音声を録音し、それを操るサウンドレコーダーの探偵ツールだ。

 ここには病院でマーロウが預かった、雪彦が明彦に向けたメッセージが録音されている。

 

『罪をちゃんと償ってから帰って来いよ、アニキ。オレは待ってるから』

 

「―――あ」

 

 とても短い、その言葉が。

 一の法の裁きより、十の責め苦より、百の親の涙より、強く彼の胸を打った。

 

「顔をそんな銃で撃たれても。兄貴に病院送りにされるまで殴られても。

 雪彦はあんたに死んで欲しいとも、あんたに破滅して欲しいとも思ってなかった。

 ……あんたの犯罪を止めたいと思っていた。悪事から足を洗って欲しいと思ってたんだ」

 

「……雪彦っ……!」

 

 明彦は元々、周囲の期待がストレスになっておかしくなってしまった少年だ。

 おかしくなったまま戻れなくなってしまった少年だ。

 そんな彼に、雪彦は『待ってる』と言った。

 兄に酷い目に合わされてなおそう言った。

 弟は兄の暴走の原因が"兄の悪性"ではなく、"周囲が与えたストレス"であると思い、そのスタンスを最後まで崩さなかったのだ。

 警察に掴まれば罪は重くなる。兄が何かを起こす前に探偵に「止めてやってくれ」と依頼したことこそが、弟が兄を見放していなかったという証明である。

 

 良心のタガは嵌め直された。

 涙を流す明彦にとって、これからは良心が生む罪悪感こそが、最大の裁きとなるだろう。

 

「お前はお前の罪を数えた。罪を数えるのは、数えた罪をちゃんと償うためだ」

 

 マーロウはゴミまみれの少年に、迷うことなく手を差し伸べる。

 罪を裁く権利があるのは法であり、彼を許す権利も探偵には無い。

 彼に残された探偵の仕事は、これから明彦を雪彦の前まで連れて行き、謝らせることだけだ。

 

「罪を数えたお前がどう生きていくかは……これからのお前次第だ」

 

 差し伸べられた手を掴み、明彦は涙を拭って立ち上がる。

 

 全てが終わった後にマーニーに連絡したマーロウは、マーニーに「ハードボイルドじゃない男だからこそ、ってのもあるんだよ」と言われる。

 首を傾げるマーロウは、事務所に帰った頃にはマーニーに対して怒っていたことなど綺麗サッパリ忘れていて、マーニーにまた苦笑されるのであった。

 

 

 



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Lに花束を/得るものなし

基本的に緑川はマーニー世界線ではなく兄妹世界線の子(高校生、非マーニー部)


 『緑川 楓』はマーニーと同い年の、高校二年生の女子高生探偵である。

 緑川一族は代々警察の家系であり、楓の祖父である緑川宗達は『元警察官の名探偵』として戦後に伝説を残したほどの男であった。

 緑川楓は一言で言えば、伝説の名探偵の孫、という肩書きを持つ少女なのだ。

 

 祖父の血を受け継ぎ、自身もそれなりの才覚を持って生まれたため、探偵としては無能ではない……のだが、一年前ほど前まではやる気が空回りしていた困ったちゃんだった。

 謎や隠し事があればすぐに首を突っ込み、人の秘密を暴き立て、嫌われる。

 ついたあだ名が『探偵狂緑川』。

 「嘘や隠し事をする方が悪いんじゃないか」という正論を真顔でぶっ放す不器用少女である。

 

 ここ一年で随分丸くなり、二ヶ月ほど前にネットでも有名になっていたマーニーと出会った頃には、随分とマシになっていたが……それでもマーニーが『ちょっと困ったちゃん』と評価するくらいには、まっすぐ過ぎる女子高生探偵だった。

 

「え? 何? 協力して欲しい? 足が折れた? おいマーニー、詳しく……電話切りやがった」

 

 そんな真面目な彼女だから、雑に呼ばれても応えてしまう。

 恥ずかしがり屋という自分の弱点を隠すために、他人の視線を遮る壁になってくれる黒い帽子をかぶる。

 この帽子は伝説の名探偵と呼ばれた祖父の帽子と同じもの。

 子供の頃の彼女はよく、"祖父のような人間になりたい"と思い、"祖父のようにこの帽子に似合う者になりたい"と思い、この帽子をかぶっていた。

 

(マーニーとは互いが女子高生探偵だってことくらいしか話したことはない。

 顔と名前は一致してるし、電話番号も知ってるけど、他人の域は出ない……何故?)

 

 面識はあるが、そこまで頼られることをしただろうか。緑川は首を傾げる。

 そんなことを考えていたら、ほどなくマーニーの事務所に着いてしまった。

 "入っていいか"とマーニーにメールすると、すぐに"裏口開いてるから勝手に入って"とメールが返って来る。

 

「お邪魔しまーす」

 

 ロイドの事務所に足を踏み入れた緑川が見たのは、電源が点きっぱなしのテレビと、菓子や炭酸飲料が散らかった汚いテーブルと、テーブル前のソファーでくかーくかーといびきを立てて爆睡している、謎の青年であった。

 

「……何こいつ?」

 

 生真面目できっちりとした性格で、ミッション系名門校に通っている緑川は、年頃の少女特有の潔癖さもあって、彼に対して最悪の第一印象を抱いてしまう。

 青年は突然目覚め、"こいつ高い所から落ちる夢見たな"と見ただけで確信できる顔で、電源が点きっぱなしのテレビを凝視する。

 

「……はっ、いけねえ、『炎の左近寺』を見てたらつい寝ちまってた……」

 

 どうやら夜更かしして時代劇を見ていて、その途中で寝てしまったらしい。

 視聴者を自然に夜更かしさせる時代劇が悪いのか、睡眠が足りていない状態で時代劇を夜遅くまで見ていたマーロウが悪いのか。……マーロウが悪い。

 マーロウはぼーっとした顔で、自分の背後に立っていた緑川に、今一番気になっていることを思わず聞いてしまう。

 

「……なあ俺、この時代劇何話まで見てた?」

 

「知るか! なんで私にそんなこと聞くんだ! だらしない大人日本代表!」

 

「んだとぉ!?」

 

 警察官の家系で生真面目でだらしない人間に寛容でないという意味では、緑川はその性情の一部分が、照井竜のような性格をしていると言えた。

 

 

 

 

 

 マーニーが二階からせっせと降りて行くと、そこではいかなる理由か早くも反発しているマーロウと緑川が居た。

 

「おいマーニー、なんでこんな奴呼んだんだよ!」

 

「それはこっちの台詞だ。こんな奴を助手にするだなんて正気とは思えないぞ、マーニー!」

 

「あん?」

「おい、待て、凄むのはいいが顔が近い、近寄るな、私の目を近くで見るな」

 

「はいはい喧嘩はほどほどにネー」

 

 マーニーといい、緑川といい、マーロウはとことん女子高校生から敬意を持たれない男であるようだ。

 

「二人にはね、協力して如月アリアから来た依頼の解決を手伝って欲しいんだ」

 

「如月アリア!?」

「如月アリア!?」

 

 最近のナウい女子高生と比べれば芸能界に疎い緑川や、記憶喪失なマーロウでさえその名前は知っている。

 日本でも指折りのタレントで、それどころか番組作成の主導からプロデュース、事業経営にマネジメント等も行っており、才色兼備を形にしたような美女である。

 色んな意味で頭が良くて容姿もいい。テレビやマスコミに隙も見せない。

 大成功した女性社会人の見本、と言う人まで居るほどだ。

 

「なんで楓ちゃんに協力を頼んだのか、理由が聞きたい? マーロウ」

 

「当たり前だ!」

 

「マーロウに女性の扱いを期待してないからだよ」

 

「そういう理由かよ!?」

 

 ちょっと酷い理由だった。緑川は頼られた理由を理解したが、自分が頼られた理由をイマイチ理解できない。

 

「私でいいのか? マーニーなら他の女性の知り合いくらいは居そうだが」

 

「でも探偵で女性で、っていうと楓ちゃんしか居なかったから」

 

「ふむ」

 

「楓ちゃんって昔探偵業で活躍して表彰されたこともあるんだよね?

 勝手に調べちゃって悪いかなーって思ったけど、それなら能力にも不安はないし……」

 

「うっ……あ、あれの話はあんまりしないで欲しい。恥ずかしい記憶なんだ」

 

 緑川が顔を赤くして、マーニーと目線を合わせないよう帽子で目元を隠す。

 一方その頃マーロウは、テーブル上に置いた小さな鏡の前で髪型のセットをしていた。

 

「依頼人のアリアさんは今日来るから……何やってんのマーロウ?」

 

「如月アリアさんとお近づきになれるチャンスだぜ? バッチリ決めねえとな」

 

「ミーハーっ! ハードボイルドはどうした!」

 

「事件の時はきっちり決めるからいいだろ!」

 

 ハードボイルドを徹底しようとする意識がまるで見られない。

 美人のアイドルがラジオ局でもやっていたら、がっつりファンになって毎回聞いてそうなミーハー具合だ。

 

「第一お前らはなんだ!

 お前らの年頃はこう……年上のクールなお兄さんに憧れたりするもんじゃないのか!」

 

「はっ」

 

「おい今鼻で笑ったなお前」

 

 記憶喪失のくせに雑誌由来のいい加減知識で語るから鼻で笑われるのである。

 

「マーロウ、彼女持ちの男がモテるって話は知ってる?」

 

「ああ、それなら知ってる。本で読んだぞ」

 

「あれって要するに、女性と付き合うとガッツかなくなって、余裕がデキるって話なのさ。

 余裕があって落ち着きがあって、ガッツかないイケメンならまあモテるというわけで」

 

「ふむふむ」

 

「マーロウ余裕も落ち着きもないじゃない」

 

「てめえ!」

 

 緑川が仲裁するかしないか迷っている内に、事務所の呼び鈴が鳴った。

 

 

 

 

 

 如月アリアの到着である。

 芸能人如月アリア、記憶喪失探偵マーロウ、足折れ探偵マーニー、シャイ探偵緑川と、非常に探偵密度の高い空間が出来上がっていた。

 アリアはマーニーに促され、依頼の内容を話し出す。

 

「最初に疑問に思ったのは、テレビ局の駐車場で車のタイヤがパンクしてたことだったの」

 

 どこかで釘を踏んだかしただけだと思い、多少不思議に思っただけで、彼女は最初の事件を誰かの仕業であるとも思わなかったらしい。

 

「でもそれからエスカレートして……

 私の自宅の周りや仕事場の近くで、不審な事件や怪しい人物が散見するようになった」

 

「ストーカーでは?」

 

「ただのストーカーとは思えないわ。

 私のスケジュールをある程度は把握していて、最低でも数人で動いてるフシがあるの」

 

「集団の動き? それはちょっと怖いですね……警察に連絡は?」

 

「したわ。でも24時間守ってもらうわけにもいかないでしょ? マーニー。

 ここで必要なのは、犯人を探し出す仕事の方……つまり、探偵の出番ということよ」

 

 仮にだが、集団で拉致されたらどうなってしまうのか。

 アリアは年若く才色兼備な有名人という、こういったトラブルで狙われる要素に満ちている。拉致でもされれば、その先でどうなるかは想像に難くない。ロクなことにはならないだろう。

 美人の依頼という要素、罪のない人が危機に陥っているという要素、その両方がマーロウのやる気をかきたてる。

 

「オーケィ、レディ。このハードボイルド探偵、マーロウにお任せを」

 

「ええ、よろしく。ハードボイルドな探偵さん?」

 

「お任せ下さいっ!」

 

 しかもその美人が、滅多にハードボイルドと呼ばれないマーロウをハードボイルドと呼んだものだから、やる気は更に倍増した。

 一言で他人の心を的確に掴むこの手腕は、成程一流であると伺える。

 

「要はストーカー(仮)が誰かの特定か。私はまず警察に話を聞きに行こうかな」

 

 緑川は警察から当たるつもりのようだ。

 警察官の一族である彼女の父は警視正。警察から情報を引き出すこともできる。

 

「三人それぞれに日給一万円、経費は別で。これでどう?」

 

 アリアの提示した金額も文句はない。

 

「では、マーニー達にお任せを」

 

 マーニーが請け負って、この依頼は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現地で情報をかき集めるマーロウ。

 彼が集めた情報はとても多かった。

 それはマーロウが有能だったから、というだけの理由ではなく。

 如月アリアを狙う動機がある人物が、あまりにも多いことにも起因していた。

 

「流石マーロウ。この短期間でよくこんなに情報集められたね」

 

『アリアさんのマネージャーのおかげさ。

 彼女の職場周辺に入る許可と、関係者と話す機会がありゃ、こんぐらいはな』

 

 それでも、絞り込みはできる。

 今アリアに何かあっては困る人、アリアに何かあった場合のデメリットがメリットを上回ってしまう人……アリアが害されそうになった時、むしろそれを邪魔しそうな人間は除外できる。

 芸能関係、事業関係の容疑者から勘の良いマーロウが探し出したのもあって、犯罪にまで走りそうな人間はかなり少ない数にまで絞り込むことができていた。

 

「この情報だと、怪しいのは……」

 

『動機になる怨恨がある大物俳優の加藤。

 アリアさんが辞めて一番得する若手アイドルの吉田。

 事業経営で衝突を繰り返してる専務の山田だな』

 

「加藤に、吉田に、山田」

 

 マーニーは鳥の巣のようなモジャモジャ頭をガシガシと掻く。

 

『加藤はゴシップでネタにされるくらい、アリアさんに仕事を取られてる。

 吉田はアリアさんが消えた場合、レギュラー番組がいくつも増えると推測される。

 山田は事業の方針でアリアさんと何度もぶつかってる。内ゲバみたいなもんだ』

 

 仕事を取られたアリアの先輩。

 アリアが消えれば仕事が増える、別事務所だがアリアと仲の良いアリアの後輩。

 若い女に仕事をあれこれ指示されるのが嫌なオッサン社会人。

 簡潔に言ってしまえば、こうなる。

 

『アリバイを確かめる意味はねえ。

 複数人が絡んでるって時点で、主犯は動かなくていいわけだしな』

 

「何か怪しいものはなかった? 勘でいいから」

 

『何かって言われてもな……んー……』

 

 マーロウは直感に優れている。

 車を見て"あの車は泣いていたんだ"とか言い出して、最終的に真実に辿り着くような、感性部分が飛び抜けているタイプだ。

 簡単に他人を信じる甘っちょろい部分さえ無ければ、さぞかし有能な探偵だったことだろう。

 その直感を、マーニーは頼りにしていた。

 

『加藤は若い青年アイドル食ってるとか噂があったな。

 吉田は控室に廃棄物処理場のチラシがあったのが気になったぜ。

 山田は最近株に手を出したらしいが、その結果は誰も知らないらしい』

 

「ふーん……」

 

 判断が下せそうで下せない。

 未だ論理を推理で組み立てる段階には至っていないようだ。

 

「ありがとうマーロウ。また後で電話するから」

 

 電話を切って、マーニーは独自のデーターベースと、インターネット上に残っている記事の過去ログに検索をかける。

 

(過去の新聞記事、週刊誌記事に検索をかけて……キーワードは、容疑者の名前)

 

 色々と目につく情報もあったが、マーニーはその中に一つの共通点を見つけた。

 

(加藤は地元の後援会と癒着したヤクザAと交流あり。

 吉田は事務所がヤクザBと繋がってると騒がれたことがある。

 山田は昔はヤンチャしてて、その時の友人が組長をやってるヤクザCと友好が……)

 

 三者三様に、ある団体さんと繋がりがあったのである。

 

「全部ヤクザじゃないか!」

 

 マーロウの勘は正しかったが、話は非常に面倒臭い方向に進んでいた。

 

 

 

 

 

 関係者の話を聞いて回ったマーロウ、警察で話を聞いてきた緑川が合流。

 二人で情報を交換してもイマイチ状況が進んでいる気がしない。

 緑川はマーロウを連れてテレビ局に突撃し、休憩時間のアリアにド直球に――やや失礼に――皆が秘密にしているようなことを、根掘り葉掘り聞こうとしていた。

 

「あの、もっと踏み込んだ話できませんか?」

 

 ストレートなその物言いに、アリアは困ったように微笑んで、マーロウはうろたえた。

 

「おい緑川、そいつは……」

 

「黙ってろマーロウ。

 今回ずっと思っていたが、芸能界は隠し事が多すぎる。

 後ろ暗いことがあるんだろうが、これじゃ話が先に進まん」

 

 芸能界の暴露本が売れるのは何故か?

 暴露されたら驚かれる真実があり、その真実を覆い隠す体制があり、隠されている闇がいくつもあるからだ。

 アリアはそれを隠している。必要だと思う情報だけをマーロウ達に渡している。

 昔から秘密を暴き立てる性根持ちの緑川からすれば、そこが気になって仕方ないのだろう。

 

「ごめんなさい、話してしまうだけで不義理になってしまうこともあるの」

 

「いや、話したくないことでも全部話してもらわないと……」

 

 話したいけど義理で秘密にしておかないといけないことがあり、アリアはそれを話せない。

 それを話せと詰め寄る緑川を、マーロウは肩を掴んで止めた。

 

「依頼人にだって隠したいことはあるさ。

 訳ありの依頼人の秘密まで気にしてたら、探偵なんてできやしねえ」

 

「……そう言い切れるのか? 依頼人に騙されても?」

 

「まずは依頼人の味方になることを考える。探偵の鉄則だぜ」

 

 彼の迷いのない言い草に、少女は目を丸くした。

 自分の流儀を押し通すか。この男の甘い流儀に合わせるか。緑川は一瞬だけ逡巡し、迷い……溜め息を吐いて、この男の流儀に合わせることにした。

 

「……すみませんでした。お仕事、頑張ってください」

 

「いいのよ。ごめんなさいね、楓ちゃん」

 

 緑川もまた、自分の身の危険と、他人に通すべき義理を天秤にかけ、アリアが義理を選んでいたことに気が付いたからだ。

 アリアが去って、緑川は自分の肩を掴むマーロウの手を払い除け、気恥ずかしそうに一歩分マーロウから離れる。

 何か言いたげなマーロウの視線に、帽子の位置を直しながら、少女はぶっきらぼうに答えた。

 

「分かったよ。依頼人の味方なら、依頼人の聞かれたくないことは聞かない。これでいいか?」

 

「お、意外とノリいいじゃねえか。堅物かと思ってたぜ」

 

「堅物言うな! 友人によく言われるから、そこは少し気を付けてるんだ!」

 

 帽子の位置を直す少女は、位置を直すまでもなく帽子が似合っている彼を見て、帽子が似合う探偵と評された祖父のことを思い出す。

 

「マーロウを見てると、パパから聞いたおじいちゃんの話を思い出すよ」

 

(女子高生は父親をパパって言うのが一般的なのか。

 マーニーも緑川もそう呼んでるしな。やっぱ常識はこうやって学び直すのが一番か)

 

「おじいちゃんは帽子が似合う人だったんだとさ。

 そのおじいちゃんの口癖が『帽子が似合う奴は一流だ』って言葉。

 おじいちゃんは帽子が似合ってるかだけでも、その人のことが分かるって言ってた」

 

「おっ、そんなに似合ってるか? この帽子」

 

 得意げな顔になるマーロウ。

 帽子が似合っていても、これでは台無しだ。

 素直に褒める気が失せてしまう。

 

「満点が100点で50点くらい。まあ半分くらいかな」

 

「半分かよ!」

 

 100点満点が完璧なハードボイルドであるのなら、マーロウはどこまでも50点の探偵だった。

 良い意味でも、悪い意味でも。

 

「ああそうだ、警察はどうだった?」

 

「護衛は付けてるけど、警察の護衛が付けばそうそう事は起こされないと思ってるみたいだ」

 

 マーロウの奢りで、二人はテレビ局廊下の自販機が吐き出した飲み物を手に取った。

 

「警察と知名度はそれだけで威嚇になるのさ、マーロウ。

 有名人を害されれば警察は威信にかけて犯人を追い詰めようとする。

 警察が護衛してる人を害されてもそうだ。犯人を逃したらメンツに関わる」

 

「まあそうだな。大統領に殺意を抱いた奴の何%が、暗殺計画実行に移すんだって話だ」

 

 緑川がオレンジジュースを口元に運ぶ。

 

「アリアさんに犯罪行為をしたと発覚したなら、犯人は警察にもマスコミにも追われるだろうな」

 

「となると、アリアさんの口封じは最低でも必須であると、私は考える」

 

「殺人か」

 

「でもそうなると死体という証拠も残る。簡単な話じゃないと思うね」

 

 マーロウがカッコつけで選んだブラックコーヒーを口に運ぶ。

 

「あと、警察は犯人の目星がまだついてないそうなんだ。容疑者が多すぎて」

 

「そりゃそうか」

 

 集団で事を成すならアリバイの偽造も容易。アリアに何かがあって得する人間も膨大。何もかもがぼんやりとしていて証拠もない。霧中の如き状況だ。

 

護衛(ディフェンス)が警察、捜査(オフェンス)が俺達だ。

 俺達の仕事はアリアさんを守ることじゃなく、アリアさんの敵を見つけることだが……」

 

 コーヒーを飲み終わった後の紙コップを握り潰すマーロウだが、息を切らして廊下を走ってきた男を見るやいなや、ただ事でないことが起きたことを察した。

 

「マーロウさん、緑川さん!」

 

「おっ、アリアさんのマネージャーじゃねえか。仕事お疲れ――」

 

「如月さんが攫われました!」

 

「「――は!?」」

 

 握り潰した紙コップを、ゴミ箱の中に放り投げる。

 

「……風向き悪くなって来たな、クソッ!」

 

 マネージャーから話を聞き、マーロウはスタッグフォンを耳にあて駆け出した。

 

 

 

 

 

 マーロウがマーニーに電話で語った内容は、要約すればシンプルだった。

 なんと屋外での撮影中に、アリアの姿が消えてしまったらしい。

 トイレか買い物だと言う者も居たが、アリアが仕事に真摯であることを知っているマネージャーは、アリアが皆に黙ってどこかに行くなどありえないと断言していた。

 つまり、誘拐である。

 

 テレビの撮影中は多くの人がアリアを見ている。

 警察も"撮影の邪魔にならないように"という意識と、この油断が相まって、アリアが攫われる隙を作ってしまったようだった。

 これは警察の怠慢を責めるより、犯人側の手際の良さを褒めるべきだろう。

 撮影中の有名芸能人を、衆人環視の中目撃情報ゼロで誘拐するなど、芸能人の協力者・犯罪知識・綿密に立てた計画の三つが過不足無く必要だ。

 

 依頼人がさらわれ、危険に晒されていることに、マーロウは途方もない焦燥を感じる。

 

『時間がねえぞマーニー! 今はもう夜六時だ!

 本格的に暗くなったら法に反したこともやりやすくなっちまう!』

 

「待って」

 

 対しマーニーは、自宅で考えに考えていたことで、一つの結論に達しようとしていた。

 

「私考えてたんだけどさ、動機のある人の中から犯人探すんじゃ見つからないと思うんだ」

 

『どういうことだ? 犯行を企めた人間ってなると、もっと容疑者は多くなるぞ』

 

「そうじゃなくて。問題は犯行の後のこと」

 

『アリアさんの死体が見つかりでもしたら、警察が本腰入れるって話か?』

 

「そういうこと」

 

 そう、それだ。

 突発的・衝動的な犯行でなければ、あるいは犯人がヤケになった人間でなければ、普通は犯行を起こした後のことを考える。

 彼ら探偵が目をつけるべきだったのは、まさにそこだったのだ。

 

「こっちでいくらか検索してみた。そうしたら変なものが見つかったんだ」

 

『変なもの?』

 

「如月アリアについて変な噂を流してる人達。一部はデマ記事にまでなってる」

 

『!』

 

「如月アリアには高校時代の恋人が居て最近ヨリを戻した、だの。

 事業に一度だけ失敗して最近それで思い詰めてる、だの。

 親に結婚を反対された恋人が居て、その恋人との駆け落ちを考えてる、だの。そんな感じ」

 

『おい待て、それは……』

 

「ネットの人は皆邪推が大好きだから。

 適当に情報を流して、失踪理由を邪推させていけば、それが世論になる」

 

 事前に時間をかけて噂を浸透させ、証拠を残さず攫い、証拠を残さず殺し、死体を残さない。

 難しいことだろう。

 だが、不可能ではない。

 

「死体を発見させないこと。

 殺人事件であると断定させないこと。

 如月アリアが自分の意志で失踪しただけという可能性を残すこと。

 この三つを完璧にやり遂げれば、この案件は殺人事件として大規模に捜査されることはない」

 

『計画殺人か!』

 

 まるでマジシャンの大魔術だ。

 殺人事件を行方不明事件へと変える、事前準備がやたらと長い奇術の類。

 

「だとしたら次の問題は死体の処理になる」

 

『海にでも沈める、とかか……?』

 

「ううん、それだとすぐに見つかっちゃう。

 昔アスファルトに死体を溶かすってデマもあったけど、それも実際は不可能。

 死体の処理は炎で焼くか、薬で溶かすかの二択さ。

 地面に埋めても見つかるし、動物に食わせるにも限界があり、焼くなら1700℃は要る」

 

『人体サイズのものを燃やせる1700℃……それだと専門の機械が要るよな?』

 

「一時期から警察が規制してるから、それが出来る場所はそれなりに限られる」

 

 マーニーは手元にプリントアウトした地図を広げる。

 その地図をスマホで撮影して、その画像をマーロウのスタッグフォンへと送信した。

 

「例えば、廃棄物処理場とか」

 

『!』

 

 マーロウはアリアの後輩吉田の控室で見た、廃棄物処理場のチラシのことを思い出す。

 

「廃棄物の処理は、昔からヤクザと繋がりのあるところも多い。

 例えばコンクリートの不法投棄で億単位の利潤が出たとされることもある。

 そういった違法な処理を通じて、ヤクザと癒着してた業者も居るはずだ」

 

『そいつらも今回共犯になってるってわけか……』

 

「外国だとギャングと組んで十年以上、数百人分の死体を処理してた業者も居たりするね」

 

『こうしちゃいられねえ! すぐにでもアリアさんを助け出さねえと!』

 

「待って、今送った画像を見てよマーロウ。

 死体処理には特殊な設備や薬品が必要だって言ったでしょ?

 ならそれができる工場や処理場はそれだけ限られるんだ」

 

 チラシ、ヤクザ、処理場の場所。状況証拠は揃った。

 

「アリアさんの先輩・加藤と繋がりのあるヤクザはここが地元じゃない。

 アリアさんの仕事仲間・山田と繋がりのあるヤクザもそう。

 この近辺にある処理場と繋がりのあるヤクザに、殺人と事後処理を依頼できるのは……」

 

『アリアさんの後輩の吉田。こいつが真犯人だ』

 

 後輩の立場を利用しアリアの撮影スケジュールを盗み見て、今日の撮影でも現場でアリア誘拐の手引きをし、ヤクザを利用してアリアを芸能界とこの世から消そうとしている。

 吉田こそが、裏で全ての糸を引く黒幕だ。

 それが分かったのはいいが、問題なのはアリアの居場所は結局分からないということ。

 そして状況証拠しかないために、警察に全てを明かして吉田をしょっぴき、全てを吐かせるという手段も取れないということだ。

 

「でもアリアさんの居場所までは掴めない。

 工場か処理場に運び込まれた時にはアリアさんは既に死体だ。

 一刻も早く、アリアさんが何かされる前に何か手を打たないと……」

 

 マーニーがガシガシと頭を掻く。

 動かない足を恨めしく思い、無力感を思考で追い出そうとするマーニーの耳に、スマホ越しにマーロウの芯の通った声が届く。

 

『ありがとよマーニー。この情報はハッタリに使える』

 

「え?」

 

『任せろ。で、信じて待ってろ』

 

 通話が切られる。

 マーロウにかけ直すこともできただろうが、少女が彼にかけ直すことはなかった。

 付き合いが長いわけではないが、マーニーにもマーロウが頼りになる時と頼りにならない時の区別はつく。

 

「……これはスイッチ入ったかな?」

 

 帰って来たらすぐ食べられるよう、晩御飯でも作っておいてやるか、とマーニーは車椅子を動かし台所に向かって行った。

 

 

 

 

 

 マーニーとの通話を切ったマーロウが「ちょっとここで待っててくれ」と言って、どこかへ駆け出していくのを、アリアのマネージャーと緑川は目をパチクリさせて見送っていた。

 

「あの、マーロウさんは何を……?」

 

「さあ。私も会ったばかりの男だから」

 

 しかもすぐに戻って来る。何をしに行ったというのか。

 

「マーロウ、何を……」

 

「すぐ分かる。

 マネージャーさん、アリアさんと仲良いっていう吉田さんの電話番号分かります?」

 

「分かりますが、何に使うんですか?」

 

「こう使うんすよ」

 

 マーロウはまずフロッグポッドに声を吹き込む。

 吹き込まれた声は録音され、メモリガジェットの力で『怪しさ』を最大限に感じる、聞いているだけで不安になる声に変換される。

 彼はマネージャーから聞き出した番号にかけた携帯電話(スタッグフォン)に、録音機器(フロッグポッド)で変換した声を直接吹き込んだ。

 

『如月アリアにお前がしたことを知っているぞ。

 ヤクザと手を組んでいることも知っている。

 死体処理は向かいにローソンがあるあの場所でするつもりか?

 それとも川に面しているあの工場か?

 まあどうでもいい。それらの場所は全て我々が抑えている。

 お前がしていることは全て我々に筒抜けだった、ということだ。諦めろ』

 

 作った口調、演技の口調。マーロウの台詞は、真犯人を追い詰める一手となった。

 

 

 

 

 

 吉田の事務所と繋がりのあるヤクザは、この案件に若頭の一人とその部下約50人をあてた。

 アリアと親交のある吉田が内側から手引きしたとはいえ、顔も見せず、証拠も残さず、有名人を一人拉致した手際は優れたものだ。犯罪であるため、本当は賞賛するべきではないが。

 

 アリアは今、数十階という高さのビルの最上階に囚われている。

 目隠しと猿ぐつわを付けられていて、周囲を見ることも声を出すこともできない。

 犯人はアリアに顔も見せず、状況を説明してやることもしなかったが、アリアはその明晰な頭脳でこの状況を大体理解していた。

 

 若頭はアリアを一室に転がし、部屋を出て舌打ちする。

 

「ちっ」

 

 若頭が舌打ちした直後、彼が舌打ちした苛立ちの原因がやって来た。

 

「吉田の姐さん、如月アリアに手を出すなってどういうことっすか?」

 

「そのままの意味よ、若頭。今あいつを殺るのはマズいわ」

 

 今回の事件の黒幕、アリアの後輩・吉田である。

 如月アリアを殺って欲しいと頼んできたり、殺るなと急に指示を出して来たり、若頭から見れば吉田の指示には一貫性がない。

 アリアが消え、仕事が増えた吉田が事務所に膨大な金をもたらし、その一部がヤクザに還元される……そういう取引があったとはいえ、苛立つものは苛立つのだ。

 

「私の……私達の企みが、バレてるわ。脅迫電話が来たの」

 

「!」

 

「私達しか知らないはずの死体処理の流れのことまでバレてたわ。

 このまま殺せば、最悪私達は如月アリアの死体を抱えて警察に見つかるハメになる」

 

「マズいじゃねーかオイ、姐さんよ!」

 

「だから今はまだ殺すなってさっき電話して、私直々にここまで来たのよ!」

 

 マーロウの言葉は、"迂闊な行動はできない"という意識を楔のように打ち込み、彼女らがアリアを短絡的に殺してしまうことを防止していた。

 

「待った、姐さんはなんで捕まってないんだ?

 証拠があるなら、脅迫電話の前に姐さんが捕まっててもおかしくないだろ。

 それに脅迫電話をした意図がイマイチ読めねえ。

 なあもしかしてこれ、金を払えば黙っててやるっていう脅迫なんじゃねえか?」

 

「だとしたら今日中にもう一度電話がくるかしら……

 証拠がない警察のブラフという可能性もあるわ。

 ともかく迂闊には動けない。このホテルは安全なの?」

 

「このホテルの支配人には既に金を握らせてらぁ。

 50人を超える武器持ちの部下をホテルの中に配置してある。

 バカな奴が侵入してきたら、50を超える俺達全員で一気に袋叩きさ」

 

「そ。安心したわ」

 

 若頭も吉田も、揃ってホッとした様子を見せる。

 そこでホッとして欲が出たのか、若頭は獣欲にまみれた目をドアに向けた。そのドアの向こうには、如月アリアが居る。

 男が女に向ける、シンプルで下卑た欲が姿を見せていた。

 

「殺すのはダメでも……ま、ちょーっとイタズラするくらいはいいだろ?」

 

「好きになさい。

 先輩気取りで私に構ってきてたけど、さっさと消えてほしいってずっと思ってたのよ。

 私が得るはずだった仕事を、いつまでも上に居座って横取りし続けて……」

 

 そして吉田もそれを止めない。

 むしろ推奨している。

 証拠など犯人特定になるものを残さなければ何をしてもいい、と言わんばかりだ。

 

 男はドアを開け、吉田と一緒に部屋に入り、閉じ込めていた目隠しと猿ぐつわ付きのアリアににじり寄り、そして――

 

「おぅらぁっ!!」

 

 ――窓の外から突っ込んで来た黒帽子の男に、その欲望を邪魔された。

 

「!?」

 

 ここが何十階だと思ってるんだ、と突っ込む隙も与えず、飛び込んで来た男……マーロウは、アリアを抱えて後ろに下がる。

 若頭は銃を抜いて構えて下がり、吉田はその背後に隠れたので、両者の間に分かりやすく距離が空いた。

 

「何者だ!?」

 

「探偵さ」

 

 美人の前でデレデレしているマーロウに帽子は似合わないが、理不尽な暴力から女性を守っている今の彼には、とても帽子がよく似合う。

 

「どうやってここに……いやそもそも、なんで如月アリアの場所が分かったの!?」

 

「上着の下、スカートの背中側のベルト辺りを見てみな、吉田」

 

 ハッとした吉田がその辺りを探ると、上着でちょうど隠れていたその位置に、丸い発信機が取り付けられていた。

 

「まさか……発信機!?」

 

「スパイダーショックだ。

 あんたが黒幕だと知った直後に付けた。

 で、付けた直後にあんたにあの電話をかけた。

 不安にかられたあんたは、ヤクザどもに確認を取りに行くはずだと読んでな」

 

「あの電話まで! よくも……ここまでコケにしてくれたわね!」

 

 腕時計型ガジェット、スパイダーショック。

 このメモリガジェットは発信機を射出することが可能で、射出された発信機が服にくっついてもほぼ気付かれない。

 吸着力が高いため外れにくく、射出した発信機の電波は腕時計型ガジェットの方で拾うことができるため、高度な追跡が可能となる探偵ツールだ。

 

 マーロウはこれを使い、吉田にアリアの場所まで案内させるという作戦を立てていた。

 

「アリの巣の場所が知りたいなら、アリの一匹に目印付けてそれを追いかければいい」

 

「私が、アリですって……!?」

 

「落ち着け姐さん! ……いや待て探偵、お前が外から来た理由の説明になってねえぞ!」

 

 ここは数十階のビルの最上階。

 ヘリでも使わなければ外から来ることなどできないはずだ。

 なのにどうやって来れたのか。

 ビルの中のヤクザ警備を無視して、どうやって外から飛び込んで来たのか。

 

「決まってんだろ、ビルの外の壁をよじ登ってきたんだ」

 

「お前本当に探偵?」

 

 出て来た答えは、予想以上にぶっ飛んでいた。

 

 

 

 

 

 ビルの外で、緑川はマーロウの無茶に戦慄していた。

 

「あれはバカだ、とんでもないバカだ……」

 

 スパイダーショックにはもう一つの機能がある。

 それが、腕時計状態で射出する蜘蛛の糸……特製の強化ワイヤーだ。

 このワイヤーはとにかく頑丈で、おそらく車を吊っても切れることはない。

 しかも人間を引き上げられる巻き上げ力がある。

 

 マーロウはこれを壁のどこかに引っ掛け、巻き上げ、ビルの壁を上っていく。

 糸を全部巻き上げたら窓枠などを掴んで壁に張り付き、もう一度射出。そして巻き取り。

 これで最上階まで上がって行ったのだ。

 落ちれば死ぬことを考えれば、生半可な度胸で出来ることではない。

 

 ビルの内部でヤクザに足止めされる可能性、袋叩きにされる可能性を考えた末に、出来る限り早くかつ邪魔されずにアリアを助けるために彼が考えた策であった。

 

―――緑川、警察に連絡頼む。リアルタイムで警察に状況を話す奴も必要だろ

 

 彼女の役割は警察を呼ぶこと、警察に随時連絡すること、状況に合わせてビルの外側で動くことだ。

 アリアを助けた後は、このヤクザどもをまとめて警察に突き出すことも考えるべきである。

 そのために動いている彼女は、ビルの最上階に突っ込んだマーロウの姿を遠目に見ていた。

 

―――信じろ。"俺達"の依頼人は、俺が必ず守ってみせる

 

 今は彼を信じるしかない。

 アリアを守れるか守れないかは、一刻を争う事態なのだから。

 

「急げよマーロウ。警察は呼んだ。後はお前とアリアさんがそこから上手く逃げ出すだけだ」

 

 

 

 

 

 ビルの外側を登ってきた方法をマーロウ自身の口から聞き、若頭と吉田までもが戦慄していた。目隠しと猿ぐつわを外されたアリアもちょっと引いていた。

 

「……もっと他にいい方法あったんじゃないのか?」

 

 思わず若頭はそう言ってしまう。

 

「いいや、こいつが最善だ。間違いねえ」

 

「最短の道ではあっても最善の道ではないだろ絶対! バカかお前は!」

 

「はぁ? おい、いいことを教えてやる」

 

 マーロウは大真面目な顔をして。

 

「他人にバカって言ったやつが―――バカなんだぜ?」

 

 大真面目に、そう言った。

 

「小学生みたいなことを格好つけて言うんじゃねえ!」

 

 若頭は抜いた銃をマーロウに向けるが、遅い。

 

「おおっと危ねえ」

 

 マーロウはスパイダーショックの糸を発射し、銃に巻きつけそれを瞬時に取り上げた。

 

「く、くそっ……!」

「ちょ、ちょっと!

 あんたら暴力と反社会行動で金を稼いでる奴らでしょ!

 しっかりしなさいよ! こんな探偵一人にやられてんじゃないわよ!」

 

「探偵一人? 違えよ、探偵三人だ」

 

 マーロウに投げ捨てられた銃が、部屋のゴミ箱に放り込まれる。

 

「吉田。アリアさんは最後まで、アンタとヤクザに付き合いがあることは話さなかったぜ」

 

「そ、それが何よ……」

 

「不義理になる、って言ってな。

 最後まであんたの不利になることは言わなかった

 だがあんたは、その信頼を裏切った。……さあ、お前の罪を数えろ」

 

 アリアを庇うように立つその男が、指を突きつけ、罪を突きつける。

 憤慨したヤクザの若頭は、猛然とマーロウに殴りかかった。

 

「こんな女のワガママのために、捕まってたまるかよっ!」

 

 その鼻っ面に、マーロウのカウンターパンチが突き刺さる。

 

「共犯やっといて何言ってんだこの野郎っ!」

 

 殴られた時点で若頭は気絶し、吹っ飛んだ若頭はヤクザの後ろに隠れることしかしていなかった吉田に激突。ただのアイドルでしかない吉田を、その衝撃で気絶させた。

 

「あがっ……きゅぅ……」

 

「俺の依頼人に手を出そうとする奴は、許さねえ」

 

 依頼とは頼ること。依って頼るからこそ依頼。

 探偵への依頼とは、依頼人が探偵を頼るということだ。

 頼られたならば応える。それがマーロウという男の在り方だった。

 

「大丈夫ですか、アリアさん」

 

「ええ、ありがとう。探偵さん」

 

「すみません、依頼人を危険な目に合わせちまって。合わせる顔がねえ」

 

「なら、それを-1として、今助けてくれたことを+1として、帳消しにしましょう」

 

 地面にへたり込んだままのアリアは、マーロウに手を差し出す。

 

「ここで助け起こしてくれるなら、もう一つ+1してあげる」

 

「……そいつはいい。素敵な提案だ」

 

 その手を掴んで、マーロウは彼女を助け起こした。

 が。

 

「若頭! 今の音はなんですか!」

「姐さん! こっち来てるんでしょう姐さん!」

「おい見ろ! なんか知らない奴が居るぞ! 二人も倒れてる!」

 

 そこで部屋の外からヤクザがなだれ込んでくる。

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきたが、おそらく間に合わない。

 こんな狭い空間でアリアを守りながら数十人の武装した人間を倒すのは、流石のマーロウでも無理だ。

 

「すみませんアリアさん、行きますよ!」

 

「え、嘘、ちょっと、待っ」

 

 マーロウは彼女を抱え、窓に向かって一直線に突っ走り―――そのまま、外に飛び出した。

 

「いやああああああああああああっ!!」

 

 なんだあのバカ!? といった表情を、部屋に集ったヤクザの全員が顔に浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 外に飛び出した二人は、そのままビル近辺の底が深いプールに落ちる。

 普通なら死ぬ。

 マーロウが下になって衝撃を和らげたため、アリアは死なないだろうが、彼は確実に死ぬ。

 ……はずだった。

 

 なのに、マーロウは平然とアリアを担いで水の中から這い出てくる。

 

「はぁ……はぁ……しょ、正気なの!?」

 

「いや、なんか行ける気がしたんだよアリアさん。

 もしかしたら記憶を無くす前の俺は、ビルの高さから水に落ちたことがあるのかも……」

 

「どういう人生送ってたらそうなるの」

 

 プールに落ちて水浸しになったというのに、アリアの表情からは呆れや感謝の感情は見えても、水濡れにされたことへの不満は見て取れない。

 顔に出さないようにしているのかもしれないが、彼女が基本的に寛容で優しい人間であるからだろう。

 

「まあなんだ、水に落ちたらなんだかんだ死なない気がしたんですよ、俺は」

 

「水に落ちて死ぬ人は年間何人も居るでしょうに……」

 

 パトカーの音が随分近くなった。

 もう警察がホテルを包囲し、吉田とヤクザの全員を逮捕し始めている頃だろう。

 これにて事件は決着だ。

 マーロウは遠目に緑川を探し、アリアは服をギュッと絞ってとりあえず水を抜いている。

 

「これで依頼は完了ね。私は警察に証言をしに行ってくるわ」

 

「また何かありましたら、俺達に連絡を」

 

 水に落ちてもなくならなかった帽子の鍔を指で押し上げ、マーロウは人好きのする笑顔を浮かべた。

 アリアは美しく微笑み、そんな彼の右手を優しく取って、両手でしっかりと握る。

 

「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」

 

 特に調べるまでもなく、さらりと『マーロウ』という名前に合わせた引用が出来るのは、彼女の内の知性の証。

 

「ありがとう、優しくて頑張りやなハードボイルド探偵さん」

 

 そう言って、手を離して、彼女は去っていった。

 握られた手をグッ、パッ、と閉じたり開いたりして、マーロウはすぐさまスタッグフォンで電話をかける。

 

「マーニー! やべえ! 如月アリアに手ぇ握られた!」

 

『まずは仕事の報告するべきじゃないだろうかそこは!』

 

 クールで何事にも動じない鉄の男、ハードボイルドはまだ遠い。

 

 

 



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Lに花束を/リトルキッズ

緑川ちゃんだけ兄妹から出張してるのは、祖父という名探偵に憧れ、祖父と同じ黒帽子を身に着けていて、『緑』で探偵だからであります


 マーニーの学校復帰の日が来た。

 彼女には友人も居るため、自宅学習と友人のノートの書き写しを授業の代わりにするという学校側の裁定が下っていたが、ある程度治ってくればそれも撤回される。

 

 足の治療はいくつかの段階に分けられる。

 病院に居ないといけない段階。車椅子を使って自宅で療養してもいい段階。そして現在の、車椅子で学校に通ってもいい段階。

 車椅子がなくても歩ける段階、元通り走れるようになった段階、そのどちらもまだ遠い。

 マーニーは相変わらず車椅子のまま、学校に通うことになったのだった。

 

「いい風が吹いてるな」

 

 心配症な父親・ロイドの気遣いで、マーニーの登下校はマーロウが付き添うことになっていた。

 日差しが暖めた肌を風が少し冷やすのが心地いい。

 車椅子を押しながら風を堪能している青年は、街に吹く風一つとってもマーニーとは違う感想を抱く人間だった。

 

「これが季節によっては花粉症を引き起こす風に」

 

「嫌なこと言うなよマーニー……」

 

 風はいいものも悪いものも運んでくる。

 そもそもこのマーロウという男も、風のように突然やってきた男だった。

 

「しっかし今日は暑い……車椅子に座ってると、体と車椅子の間に熱がこもるとは……」

 

「おい男の前で服パタパタすんな。女らしさの欠片もねえな」

 

「見えないようにしてるから大丈夫」

 

 しっかり者なのか、適当なのか。

 この頭モジャモジャ女子高生は女子としての意識がちゃんとあるのか無いのかも、イマイチはっきりしない。

 

「はよーっすマーニー。足大丈夫?」

 

「ゆりかちゃん」

 

 そんな彼女に校門前で、ちょっと軽そうな印象を受ける女の子が話しかけてきた。

 挨拶一つ見てもマーニーの反応が柔らかく、特別親しい友人であるということが伺えた。

 そしてマーロウがマーニーとその子の関係を察すると同時に、その子もマーニーとマーロウの関係を多少察する。

 

 車椅子というものは案外、信頼関係が要るものだ。

 無防備な背中を相手に預け、自分の体の移動を相手に任せるのだから当然だろう。

 信用してない相手に自分が乗った車椅子を任せることは難しい。

 車椅子を押す人、押される人を並べてみると、なんとなく見えるものもある。

 

「マーニー、その子は?」

「マーニー、その人は?」

 

「ハモるなハモるな」

 

 何故初対面でこんなシンクロをしているのか。マーニーは目を細めた。

 

「マーロウ、こっちはゆりかちゃん。私の小学校からの友達。

 ゆりかちゃん、こっちはマーロウ。私の足が治るまで手伝ってくれてる探偵さん」

 

 どちらからともなく手を差し出し、二人はぐっと握手した。

 

「私若島津ゆりか。よろしくね、お兄さん」

 

「マーロウだ。よろしくな」

 

「へーマーロウ。名前がマーニーみたい」

 

「まあ名付け親は同じだしな……記憶喪失なんだよ、俺は」

 

 『記憶喪失』というワードに、ぴーんとゆりかが反応する。

 熱しやすく冷めやすい、面白そうなことにすぐ突っ込んでいくクセに口が軽い。

 それがこの少女の性格だ。

 そのあたりをよく理解しているマーニーは、ゆりかが面倒臭い絡み方をする前に会話を打ち切ることにした。

 

「じゃマーロウ、私達は授業あるから。お仕事頑張って。ほら行くよゆりかちゃん」

 

「おう、何かあったらすぐ連絡しろよ。花の女子高生」

 

「花の女子高生って言葉もう使わなくない……?」

 

 格好付けて去っていくマーロウに、登校中の高校生達が"なんでこんな暑いのにあの人は黒い帽子かぶってんだろう……"という視線を向けていた。

 

「ゆりかちゃん、車椅子押してもらえる?」

 

「はいはい、ゆりかちゃんにおまかせよ」

 

「何故私の決め台詞をパクった」

 

 なんやかんやゆりかに車椅子を任せるあたり、二人の関係が見える。

 

「マーロウさんって普段何してるの?」

 

「猫探しとか得意みたい。平日の昼間はバリバリ解決してるんだってさ」

 

「へー……探偵って感じじゃないね」

 

「何? 気になるの?」

 

「顔がいいからね!」

 

「だと思ったよ」

 

 マーニーも美形に弱くないわけではないが、流石にここまでではない。

 

「ねえねえ、性格はどういう人なの?」

 

「えーと……良い人だよ。立派な人でもなく、かっこいい人でもなく」

 

「へー」

 

 イケメンとお近づきになりたいなあ、という意志が見て取れる。

 が、イケメンと火遊びをしたいなあ、という意思は見て取れない。

 要するにミーハーなのだ、若島津ゆりかは。アイドルにハマるタイプではあっても、ビッチにはなれないタイプ。

 

「……お調子者でミーハーで妙な軽さがあるところだけは、ゆりかちゃんに似てるよ」

 

「はい?」

 

 鳥の巣頭の毛先を弄るマーニーの心境を、ゆりかが察することはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マーロウからの伝言が来たのは、昼の三時頃の休み時間だった。

 

『放課後校門前で』

 

 依頼が来たのかな、とマーニーは要件にあたりをつけるが、親友のゆりかは何やら邪推しニヤニヤしてマーニーを肘で小突いてくる。

 

「デート? マーニーも隅に置けないね」

 

「仕事でしょ」

 

「またまたー、そんな照れなくても」

 

「マーロウがこんなに自然に女性をデートに誘えるわけないじゃん」

 

「し、辛辣……!」

 

 あのイケメン何したの、とゆりかが問うがマーニーはガン無視。

 クラスメイトの波峰りあ、真希田マキの手を借りて昇降口まで辿り着き、マーニーは校門前でマーロウと合流する。

 なのだがマーロウの左右に、意外な顔を見た。

 

「あれ、良太郎君に葉香ちゃん」

 

「ご無沙汰してます、師匠」

「こんにちは、マーニーさん」

 

「おうマーニー。今日は暑いからな、ガリガリ君買ってきたぞ」

 

「いいねえ、さっすがマーロウ。あと師匠はヤメレ」

 

 マーロウの左右に居たのは小学生の男女。

 名を、久儀良太郎と町名葉香と言う。

 何度かマーニーが依頼を受けた小学生で、お遊びレベルではあるが、彼と彼女もいわゆる少年探偵というものをやっていた。

 

 マーニーと彼らの関係はちょっとややこしい。

 まずTV局のプロデューサーが、マーニーに関わりその能力を見たことで、マーニーをモデルにした番組を作った。

 それが久儀良太郎を探偵役として、大人の補佐を付け、番組で実際に依頼を受けてそれを解決するというもの。

 良太郎は要するに、マーニーをモデルにした番組の探偵役なのである。

 

 それから色々あって、良太郎は本物の推理力を持つマーニーを本気で尊敬しており、『師匠』と呼び慕っているのだ。

 良太郎と付き合っている葉香は、その度微妙な顔をするのだが。

 

 良太郎は形から入るタイプなのか、トレードマークは頭に乗せた大きな白帽子。

 白くて幅広な帽子が、周囲の人の目をよく引くようになっている。

 彼もまた、帽子をかぶる探偵だった。

 

「なんか知らんが良太郎って名前には親近感湧いてな!」

 

「凄いんですよ師匠! この人帽子落とさないようバック宙できるんですよ!」

 

 しかし何やらマーロウと良太郎の仲が良い。

 マーニーがちょっとビックリするくらい仲良くなっていた。

 良太郎が小学校を下校し、この学校の近くでマーロウと会って、その後校門前で話していたのだとしても、せいぜい一時間かそこらくらいしか接していないはずなのだが。

 

(『りょうたろう』って名前か、響きが似た名前の知り合いでも居たのかな……)

 

 ○ょうたろう系の名前の知り合いがマーロウに居たのではないか、という推論は一旦脇に置いておき。マーニーはぼーっとしている小学生女子の方に話しかける。

 

「置いてけぼりで寂しくなかったの? 葉香ちゃん」

 

「うーん、良太郎くん楽しそうだし……

 マーロウさん話聞きながら見てるだけでも面白いし……別にいいかなって」

 

「……彼女ほっぽって男とはしゃいでる彼氏にはビシっと言っていいと思うよ」

 

「彼女ほっぽって師匠とはしゃいでる時もあるので、別にいいかなって」

 

「うっ」

 

 寛容な葉香を見るに、どうやら割れ鍋に綴じ蓋らしい。

 好きに生きてる男の子と、男の子が好きな女の子。

 ある意味絵に描いたような小学生カップルだった。

 

「マーニー、お前弟子とか居たのか。俺はまったく知らなかったぞ」

 

「あ、そうじゃなくてですね! 僕にとっての心の師匠っていうか……」

 

「マーロウ、これ以上かき回さないで」

 

 いつの間にかマーロウが良太郎を肩車している。仲が良すぎじゃなかろうか。

 これ以上脱線すると本題に入れないと判断したのか、マーニーは良太郎と葉香に要件を聞くべく話を切り出した。

 

「それで、今日は何か依頼があるのかな?」

 

 依頼人は久儀良太郎。

 

 依頼は、『あるゲームを探して欲しい』というものだった。

 

「ワンダースワン?」

 

「ずいぶん古いゲームだなあ……」

 

 しかも、相当レトロなやつを。

 

「色、タイプはこちらの指定したものでお願いします。

 日当とは別にゲーム本体のお金も出しますので……」

 

「良太郎くん、やっぱり」

 

「葉香ちゃん、今依頼中だから静かにしてて」

 

 しかもカラーか白黒か、本体の色はどうか、という指定までついていた。

 これは相当難しい。

 なのだがマーロウの意識は、依頼の困難さにではなく、今一瞬小学生二人の間に垣間見えた、一抹の違和感に向けられていた。

 

(……?)

 

 勘が動いて目を走らせるマーロウに、マーニーはこの依頼の困難さを更に詳細に伝える。

 

「ワンダースワンはちょっと前にレトロブームが来た時に市場から消えちゃったんだ」

 

「マニアの手元にしかないわけか……捜し物は俺達の本領だが、さて」

 

 今では探しても見つからない、市場では絶滅した幻のゲーム。

 それがワンダースワンというゲームの評価であった。

 

「ま、いいか。日当五千円、経費は別で。マーニー&マーロウにおまかせを」

 

 本日のお仕事は、ワンダースワン探しである。

 

 

 

 

 

 一旦事務所に帰ったマーニー&マーロウだったが、そこで何故か居た緑川とかちあった。

 

「なんでお前居るんだ、緑川」

 

「今日友人と喧嘩して気不味いんだ、だから……」

 

「……あー、早めに仲直りしろよ」

 

 かくかくしかじか。マーロウが話して、緑川が聞く。

 

「なるほど、幻となったレトロゲーム探し……」

 

「悪いが手貸してくれないか? ちょっと人手が要るんだ」

 

「ほう……私の力が入り用か。いいぞ、ボランティアもたまには悪くない」

 

 どうやらこの少女、団体行動に誘って貰えただけでも嬉しいらしい。

 友達と喧嘩していてちょっと寂しく、人恋しいのだろうか。

 

「マーニーは?」

 

「二階で通販を片っ端から当たってる。

 マーニーは中古のゲーム買って遊ぶ趣味があるからな」

 

「それは女子高生ではなく男子高校生の趣味じゃないのか……?」

 

「はっはっは、探偵やってる女子高生とか変わり者しかいないに決まってんだろ」

 

「それは私にも喧嘩売ってるんだな? そうなんだな?」

 

 悪女ばかりの街もあれば、女子高生探偵が何故か複数居る街もある。

 多様性とはそういうものだ。

 

「さて、行くか緑川」

 

「どこからあたる?」

 

「中古のゲーム取り扱ってる店を片っ端から回るんだ。玩具店も含めてな」

 

「……地道な作業になりそうだ」

 

 黒帽子の青年と黒帽子の少女は、手分けしてワンダースワンを探し始めた。

 

 

 

 

 

 ワンダースワンは世界線によってはショボく終わる可能性も、天下を取った可能性もあったかもしれない。ゲーム機なんてそんなものだ。

 マーニーが色々と検索をしてみても見つからず、手詰まり感がし始めた所で緑川からの着信。

 もしや、と思い期待しながら電話を取るマーニー。

 

『ワンダースワンはなかったが、店員さんから四八(仮)というゲームを勧められたぞ』

 

「絶対買っちゃダメだよ楓ちゃん」

 

 自分は騙されるような人間じゃない、という意識があるから騙されやすい。緑川楓はよくあるそういうタイプであった。ほどほどにチョロい。

 期待を裏切られて通話を切ったマーニーは、そのしばらく後に今度はマーロウの電話を取る。

 時刻は既に夕暮れ時だった。

 

『さっきあたった店の人に聞いたんだがな。

 どうやら在庫のデータベースによると、その店の支店には在庫があるらしい。中古でな』

 

「ネット検索じゃ引っかからないローカルなデータベースかー。

 検索エンジンも万能じゃないし、やっぱり探偵は足がないと困るなあ」

 

『検索を頼む、キーワードは―――』

 

 マーニーが適当なワードで検索しても見つからなかったような通販注文ページを、マーロウが見つけた店名をキーワードにして発見する。

 

「あったあった。ようやく一個見つかった……」

 

 少女は安堵の声を漏らして、後で電話で予約を入れておこうと決め、ホームページに表記された電話番号をメモする。

 ついでに父のロイドが今日仕事でその店の近くに行っていることを思い出し、今日の帰りに買ってきて貰おうとも決める。

 

『これでとりあえずは依頼達成か』

 

「マーロウ今から帰って来る? それなら晩御飯ラップかけないで置いておくけど」

 

『いや、悪いがすぐには帰れねえと思う。ロイドのオヤジさんにもそう言っといてくれ』

 

 電話の向こう側で、帽子を髪に押し付けるマーロウの姿が、何故かマーニーの脳裏にありありと浮かんでいた。

 

『俺にはまだ、探さないといけないものがありそうだ』

 

 電話を切って、マーロウは空き地の前で袖まくりをする。

 スタッグフォンを鍬型虫の形態に、スパイダーショックを蜘蛛の形態に、バットショットを蝙蝠の形態に、フロッグポッドを蛙の形態に、デンデンセンサーを蝸牛(かたつむり)の形態に。

 それぞれ変えて、空き地の草場や土管の周りを数の力でくまなく探し始める。

 

「ここのどこかだな。さて、明日の朝までに見つかるか……」

 

 オレンジ色の夕陽の光と影が混じって、昼間ほど目当ての物が見つけにくい環境になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 依頼の翌日。

 普段起きないような早い時間に、久儀良太郎は目を覚ました。

 目覚ましはまだ鳴っていない。パパとママにも起こされていない。何故目覚めたのだろう、と思っていると、自分の体を揺らす二つの小さな影が見えた。

 

「……コウモリ? クモ?」

 

 バットショットとスパイダーショックが、良太郎の体を揺らしていた。

 大人になるとクモに触れなくなる人は多いが、子供の頃だと触れていたという人も多い。

 ましてやメモリガジェットはそこそこかっこいいデザインの小型メカなのだ。触れられている良太郎にも"かっこいい"という感想はあっても、嫌悪感は見られない。

 二体のメモリガジェットは、良太郎の袖を引いてどこかに連れて行こうとする。

 

「え、待って、待って、今着替えるから」

 

 良太郎は着替えて、ガジェット達に引かれるままにどこかへと連れられていく。

 その途中で、自分と同じようにフロッグポッドとデンデンセンサーに誘導されている町名葉香を発見した。

 

「葉香ちゃん? おはよう」

 

「おはよう、良太郎くん。そっちも事情は同じみたいね」

 

 どうやら四体のガジェットの目的地は同じようで、二人はガジェット達に連れられ早朝の道を歩いて行く。

 つまらないことを話して、なんでもないことで笑って、楽しい時間を二人きりで過ごした。

 楽しい時間は目的地までの道中をあっという間に終わらせて、公園で待っていた黒帽子の青年の前に、少年少女は辿り着く。

 

「悪いな、兎のメモリガジェットはねえんだ。不思議の国には連れて行けねえな」

 

 右手の上でスタッグフォンを転がすマーロウが、袖捲りして薄汚れた姿で、良太郎と葉香を公園のベンチにて待っていた。

 

「まずは依頼の達成だ。ほらよ」

 

 マーロウの左手には、注文通りのゲームがあった。

 

「ありがとうございます。でも、こんなに朝早くじゃなくても良かったのでは……」

 

「お前らからすれば、事が発覚する前に……少しでも早く手に入った方がいいだろ?」

 

「っ!」

「……全部お見通しでしたか」

 

 目を逸らす葉香。良太郎はレトロゲームを受け取って、申し訳無さそうな顔をする。

 

「違和感があって、それで疑問を抱いたんだ。

 最初に気になったのはお嬢ちゃんのその爪だ。

 身なりに気を遣うお嬢ちゃんだってのは服装や髪を見て分かった。

 だから気になってたんだよ。爪の中に土が入った跡が少し残ってたのがな」

 

「う」

 

 葉香がさっと手を後ろに回して隠すが、今更隠してももう遅い。

 

「履いてる白い靴に、取れない染みになった汚れはなかった。

 なのに靴には真新しい泥や汚れがいくつも付いてた。

 つまり普段は汚さない靴を、思わず汚してしまうようなことがあったってことだ」

 

「ご明察です」

 

「ちょっと聞き込みしたら面白い話が聞けた。

 葉香ちゃん、叔父さんが昔から大切にしてたゲーム機を借りてたんだってな」

 

「……っ」

 

「つまり君は、それをなくしてしまったんだ。

 君は焦った。良太郎はなんとかしてやろうと思った。

 だから同じゲーム機を、同じ色のを良太郎が買って誤魔化そうとしたわけだ」

 

 葉香は申し訳なさそうに俯いて、良太郎が頷く。

 テレビ出演で稼いでいる彼にとって、ゲーム機の一つや二つは安い買い物だろう。依頼自体を葉香が止めようとしていたことを考えれば、主導者は良太郎であったと推測できる。

 探偵に依頼をし、自腹でゲームを買い、彼女の失態を帳消しにしようとした。

 良太郎のその決断は、小学生ながらに男らしいものだった。

 

「依頼はそのゲームを探して欲しい、だったよな」

 

 良太郎の手の上においたワンダースワンの上に、マーロウはもう一つ、同じ色で同じ型のワンダースワンを置いた。

 

「こいつで依頼完遂とさせてもらうぜ」

 

「「 ……え!? 」」

 

 わけがわからない。

 何故二つあるのか。

 そう考えた二人の小学生は、後に置かれた方のゲーム機が、なくしてしまった方のゲーム機であることに気が付いた。

 

「お前らの友達にちょっと聞き込みさせてもらった。

 ゲーム機をなくした日と、その日お前らが遊んでた場所も分かった。

 そこを探したら、見つかったってわけだ。

 ま、遊んでる途中にうっかり落としたんだろうさ。よくあるこった」

 

 マーロウが薄汚れていた理由を、良太郎と葉香は理解する。

 彼はずっと探していたのだ。日が沈んでも、夜になっても、朝になっても、ずっとずっと。

 自分を頼ってきた依頼人に、最高の結果で応えるために。

 

「マーロウさん、なんでそんなに汚れてまで……」

 

「良太郎。お前が、誰かのために真実を隠して戦う男の目をしてたからだ」

 

「―――」

 

「十分だ。それ以上の理由は要らねえ」

 

 白い帽子をかぶった小学生探偵の小さな男気に、マーロウは応えてみせた。

 

「ごめんなさい!」

 

 そうまでされては、葉香も黙って周囲の厚意を受けているだけではいられない。

 彼女は深く頭を下げ、謝った。

 

「叔父さんの大切な物をなくしちゃって、本当は最低なことしてたって分かってて。

 謝ろうとして、でも怒られるのが怖くて、勇気が欲しくて良太郎くんに相談して。

 良太郎くんがなんとかしてくれるって言ってくれて。

 良太郎くんにそんなにお世話になるっていけないことだって分かってたのに……

 でも、助けて貰えたことが嬉しくて、強く止められなくて、なんだか強く止められなくて……

 ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……! ごめんなさい……!」

 

「気にすんな、リトルレディ。

 お前には最高のパートナーが居た。そいつを喜んでいいんだ、お前は」

 

 でも叔父さんにはちゃんと真実を言って謝るんだぞ、とマーロウが言えば、葉香は強く頷いた。

 申し訳なさそうにしている良太郎にも、彼は声をかける。

 

「お前はパートナーを助ける決断をした。

 その決断は間違ってねえ。俺が保証してやる。

 男の仕事ってのは要するに決断だ。決断できれば、残りは後からついてくる」

 

「マーロウさん……」

 

「次にその子がまた大切な物をなくしたら、お前が探すんだ。お前も探偵だろ?」

 

「……はいっ!」

 

 帽子を取って頭を下げる良太郎。それと同時に頭を下げる葉香。

 

「「 ありがとうございました! 」」

 

 小学生らしい元気な感謝の言葉に、マーロウはニカッと笑って、二人の髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を撫でた。

 女の子の葉香が文句を言ってくる前に、良太郎が照れて何かを言う前に、マーロウは二人に背を向けて去っていく。

 二人の子供をここに連れて来たガジェット達も、マーロウと一緒に去っていく。

 

「せっかくゲーム機が二つあるんだ。対戦でもして遊んでな。学校に遅れるなよ」

 

 青年が公園を出ると、そこには車椅子に乗ったマーニーと、車椅子の手押しハンドルに寄りかかる緑川が居た。

 

「悪いな、こんなに朝早く買った方のゲーム機届けてもらって」

 

「徹夜であの子達のゲーム探しておいてよく言うよ。お疲れ様」

 

 マーニーが呆れた顔でマーロウをねぎらう。

 

「あーもうお前、いくらなんでもその顔はないぞ。

 動くなよ、ほっぺたに着いてるその泥今取ってやる」

 

「おいバカやめろ緑川! お前は俺の母親か! 自分で拭けるっての!」

 

 ハンカチで頬の泥を取ろうとする緑川に、子供扱いに近いその扱いに抗議するマーロウ。

 

「ったく、お前らは……あーもう、俺は帰って飯食ってシャワー浴びて寝る! 決めたぞ!」

 

 マーロウが歩き出し、その横に車椅子のマーニー、車椅子を押す緑川が並ぶ。

 

「そう言えばマーロウ、あれは言わないのか?

 『お前の罪を数えろ』ってやつ。

 あの女の子に叔父に謝れと言ったということは、よくないことだとは思っていたんだろう?」

 

 緑川楓は思うままを口に出した。

 マーロウは呆れた顔になる。

 それが当然のことであると疑いもせず、彼もまた思うままを口に出した。

 

「子供に罪なんて問わねえよ」

 

 なんだかなあ、とマーニーは思った。

 本当に甘々だなあ、とマーニーは思った。

 でも、口には出さなかった。

 

 

 



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Cに気を付けろ/カメラ・サスピション

 最近人気のアイドルがカメラ趣味にはまり、カメラの宣伝を始めたらしい。

 若島津ゆりかは、そんな軽い動機で電器店のカメラコーナーを訪れていた。

 友人にケチと言われることもあるくせに、金の使い方に無駄が多すぎる。

 

(ったくマーニーのケチンボめ。

 ちょっとくらいお金貸してくれてもいいのに。

 探偵で稼いでるんだからこう、お金の無い親友に愛の手くらい差し伸べてくれても……)

 

 その上、宣伝されていたカメラが結構高かった。

 社会人と比べれば高校生二年生の財布は小さく軽い。

 ゆりかの財布の中身では到底買えそうになかった。

 

(なんか意外とかっこいいなあ……)

 

 見本のカメラは十数個も並べられていた。

 予想以上に秀逸なフォルムとデザインで、宣伝抜きでもちょっと心惹かれてしまう。

 それでも金が足りないのはしょうがないのだ。

 泣く泣く見本のカメラに背を向け、適当に店内をぶらつき、お手洗いの場所を聞いて、お手洗いの鏡でちょっと外見を整えてから電器店を出る。

 

 電器店前で鞄の中の自転車の鍵を探すゆりかだが、そこで変なものを見つける。

 鞄に入れた覚えのないカメラがあった。買った覚えも無いカメラだった。

 取り出して、首を傾げる。

 

「あれ?」

 

 まあいいかお店に返してこよう、と店に戻ろうとするや否や。

 店内から店長らしき人が現れ、ゆりかとその手のカメラを指差し、大声で叫んだ。

 

「あーっ! 泥棒っ!」

 

 ゆりかはぎょっとして、カメラと店長の間で視線を往復させる。

 

「……え?」

 

 何が何だか分からないままに、ゆりかは万引き犯として捕まってしまった。

 

 

 

 

 

 後日。

 探偵ロイドとの仕事を終え、事務所に帰って来たマーロウを出迎えたのは、半泣きで助けを求める若島津ゆりかであった。

 

「お願いします! 助けてくださいマーロウさん!」

 

「へ? いやまず事情を話せ!」

 

 ゆりかの話はあっちに行ったりこっちに行ったりと、焦りのせいか実にややこしく理解しづらかったが、要約するとこうなる。

 

「店の中で他人に鞄開けられた覚えもないし! ましてやカメラ盗んだ覚えなんて!」

 

 以前からあの電器店は時々商品が消えていたらしい。

 店長はこれにカンカンで、「万引き犯は必ず捕まえてやる!」と本気で怒っていたようだ。

 この電器店の防犯カメラは旧式で、防犯カメラがゆっくり首を振ることで広範囲をカバーする仕組みになっている。要するに死角が出来てしまう旧式品である。

 万引きされている、と思っても、万引きされた瞬間をカメラに収められないという欠点があったのだという話だ。

 

 そこで捕まったのがゆりかである。

 当然ながら彼女が盗った場面が防犯カメラに映っているということはなかったが、これまでも商品が消えた場面がカメラに捉えられたことは無かったので、電器店の店長はそれこそがゆりかが犯人の証拠であると断定した。

 警察の照合により、このカメラにはゆりかの指紋しか残っていないと断定される。

 店長もまた、このカメラは新品で箱から出さないまま棚に並べたと証言した。

 カメラが決定的な証拠となってしまったのである。

 

 しかし、ゆりかにとっては見に覚えのない冤罪だ。

 彼女は犯行を否認したが、店側も警察側も高校生が気の迷いでやった万引きと推測しており、数日中には学校や家族を巻き込んだ問題になるだろう。

 彼女が探偵を頼ったのは、当然の流れであった。

 

「警察も信じてくれない。店員さんも信じてくれない。

 マーニーも……まあ多分普段私にケチとか金払えとか言ってるから信じてくれない。

 マーロウさんくらいしか頼れる人は居ないってわけなんですよ!」

 

「なるほどな、こいつは厄介そうだ」

 

「それに今お金も無いし……」

 

「マーニーのダチの危機だ。こんな時に金なんて取らねえさ」

 

「ありがとうございます!」

 

 マーロウの顔はいい。三枚目キャラではあるが、それは確かなことだ。

 ミーハーなゆりかにはたまらないことだろう。

 身に覚えのない万引きの容疑でちょっと追い詰められていたところに、シンプルな善意を見せられたことも大きいに違いない。

 

「あの、私これから警察に行かないといけないのでまた明日来ます!」

 

「身に覚えがないことは言うなよ? お前が犯人じゃないなら、胸張って堂々としとけ」

 

「はい!」

 

 ゆりかが事務所を飛び出して行って、入れ替わりに隣の部屋からこの部屋へ、車椅子のマーニーが移動してくる。

 ゆりかはマーニーが留守だと思っていたようだが、実は彼女はずっと隣の部屋に居たのだ。

 

「どうしたんだよマーニー、親友の危機に出て来ないなんて」

 

「ゆりかちゃんの方も私に出て来て欲しくはなかったんじゃないかなぁ」

 

「なぬ?」

 

 何やら疲れたような、呆れたような、不思議な顔をしているマーニー。

 昔馴染みの友人だからこそ、分かることがあるのかもしれない。

 

「ゆりかちゃんはマーロウに隠してることがあるんだけど、それ分かる?」

 

「隠し事だって?」

 

「そ。それを知ったら、マーロウも幻滅するかもしれない隠し事」

 

 若島津ゆりかを理解している分だけ、マーニーは一段高い場所からこの事件に関するアレコレを俯瞰できているようだ。

 ゆりかは、マーロウに対しては何かを隠している。

 それもマーニーであればすぐにでも見破れるような隠し事を。

 

「マーロウは依頼人をいい人だと思いすぎじゃない?

 探偵の依頼で出来るのは信頼関係じゃなくて契約関係だよ。

 依頼だからってなんでもやるわけじゃない。

 依頼人が必ず正しい方だって保証もない。

 ゆりかちゃんだって単純に困ってるだけじゃなくて、まあ色々隠してるんだよ」

 

 ゆりかの依頼をあっさり受けたマーロウに対して、マーニーの口調はダウナーながらにどこかトゲトゲしい。

 

「訳ありの依頼なんて一々気にしてられねえさ。

 探偵のやることは変わらねえ。

 依頼人を信じること。依頼人を守ること。そして街の中でくらいは、誰も泣かせねえことだ」

 

「それじゃ依頼人にいいように使われるだけだ。

 疑うよりは信じて裏切られた方がいいとか、そういうこと言うつもり?」

 

 マーニーにあれこれ言われる中、マーロウは壁にかけた黒帽子をかぶる。

 

「さあな。でもな、事件の後

 『俺を信じるなんて馬鹿なやつだ』

 って言われるのと、

 『どうして信じてくれなかったの』

 って言われるの、どっちが嫌だ? 俺は後者の方が嫌だぞ、寝覚めが悪い」

 

 とりあえずで信じる人間と、とりあえずで疑う人間は、どちらが正しいとかどちらが上だとかではなく、ただシンプルに"違う"のだ。

 

「俺は依頼人を守るさ。誰であろうと、俺を探偵として頼ってくれたんだからな」

 

 そんなことを言って、マーロウは外に出ていった。

 すぐにでも捜査を始めて、少しでも早く無実を証明するという意志の現れだろう。

 マーニーは一人、事務所の中で溜め息を吐く。

 

「そりゃ私としてもゆりかちゃんが犯罪をやらかすなんて思ってないけどさあ」

 

 ゆりかはマーニーを頼らず、マーロウが一番熱意をもって動いているが、若島津ゆりかの無実を一番に信じているのは実はマーニーだったりする。

 

「ま、ゆりかちゃんにはいい薬になるかもってことで。ちょっと様子を見よう」

 

 マーニーにおまかせを、という台詞は今回お休みのようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、マーロウはまず電器店での聞き込みを開始した。

 この電器店の主な従業員は四人。

 店長と、チーフの佐々木という男、一人で事務をほぼ全てこなしている中年男の山口、店唯一の女性かつ美女なことで有名な松本だ。

 マーロウは"よその店でも万引事件があったため関連性を調べている"という建前を使って、彼らに対する聞き込みを開始した。

 

「あの娘が犯人に決まっとる! 店のものを何度も何度も盗みおって!」

 

 店長はゆりかが犯人だと完全に決めつけている。

 ロクに話も通じない様子だった。

 

「気になったこと? ……ここだけの話ですぜ。

 俺さ、犯人は絶対内部の人間だと思うんだよね。

 防犯カメラに隙間が出来る周期は、そりゃ調べれば外部の人間にも分かるよ。

 でもやっぱり店の商品をバレずに盗み続けるのは外部の人間には難しいと思うんだぜ」

 

 チーフの佐々木はいまいち本音が見えない男だった。

 彼はこの犯行が内部犯によるものと考え、ゆりかを疑っていない。

 

「こんな騒動、正直勘弁して欲しいですよ。

 変な噂が立てば店の打ち上げに響きます。商品が盗まれればその分だけ赤字です。

 消えた商品による損害額はもう百万超えてるんですよ!

 盗んだものを転売でもされれば、店が小遣い稼ぎの的になりかねません……」

 

 事務の山口は店の損害のことしか考えていない。

 ゆりかが犯人かどうかはどうでもよく、騒動が早く収まることを望んでいるようだ。

 

「可愛い子でしたね、万引き犯の子。

 警察が言うからにはあの子が犯人で間違いないのかなあ……」

 

 若い女性の松本は流されやすそうな性格に見えた。

 警察が言うから若島津ゆりかが犯人、という言い草からは、犯人が誰かという事柄に全く思考を割いていない、流れに合わせるだけの思考が読み取れた。

 

(他の従業員は連続万引事件が始まった後に雇われたバイトやパートばっかだな)

 

 ならこの四人に絞って考えるべきだろうかと、マーロウは思考する。

 他にも容疑者を増やそうと思えば増やせるだろうが、チーフの佐々木が言っていた内部犯説に対し、マーロウの直感がビンビンと何かを感じていた。

 

(ゆりかには身に覚えがない。

 なのにあいつの指紋だけが残ったカメラがあいつの鞄の中にあった?

 そりゃあり得るわけがねえ。自然にそうなるわけがねえ。真犯人はどこかに居るはずだ)

 

 ゆりかの無実を証明するにはどうするべきか。

 一番簡単なのは、真犯人を見つけることである。

 

「緑川頼ってみるか」

 

 家族のコネで警察と繋がりのある緑川にも通話で頼み、警察内部の情報を聞いてみる。

 マーロウが電話で緑川に頼み、緑川が警察の知人に話を聞き、緑川が電話でマーロウに伝えるという過程を経るため時間はかかるが、有益な情報を得られるという見込みはあった。

 

『そこの店は被害届が出されてて、警察は前々から横流しを疑ってたらしいな』

 

「横流しだと? 緑川、そのあたり詳しく」

 

『ネットオークションってやつさ。

 その店で盗まれたものは、インターネット上で転売されてる。

 それも大手のサイトを使わず、尻尾を掴ませないよう界隈の隙間でこそこそとな』

 

「……そういや、店の被害は百万超えてるって聞いたな」

 

『これは明らかに組織的なやり口じゃない。

 ちまちまと盗んでこっそりと売る個人的なやり口だ。

 出来心でやったことが上手く行ってしまって、その後も続けてしまっている小物の犯行だろう』

 

 ある意味これも転売屋か。

 法のセーフラインをド派手に越えている転売屋であるが。

 つまり警察は、その転売屋が若島津ゆりかではないかと疑っているわけだ。

 この冤罪の流れが最悪な方向に向かえば、彼女に相当な余罪が付くことは想像に難くない。

 

『さてマーロウ、この情報の情報料だが』

 

「情報料!? おい待て、今までそんなもの取ったことなかっただろ!」

 

『今までは好意でタダにしてやっていたが、普通情報はタダで貰えるものじゃないだろう?』

 

「ぐ……そりゃ、そうだが」

 

『なに、金をよこせと言うわけじゃない。

 ただこの前、マーロウのハードボイルド小説にコーヒー牛乳をこぼしてしまったんだ』

 

「おい」

 

『この情報でチャラということにしておいてくれ。

 まさかハードボイルド探偵ともあろう者が、情報を貰ってその対価を支払わないだなどと……』

 

「分かった! 分かった! チャラにしてやる! もう二度とこぼすんじゃねえぞ!」

 

 電話を切り、コーヒー牛乳をこぼされた愛用の小説のことを思い、マーロウは空を仰いだ。

 

「あんにゃろう! この一件終わったら覚えてろよ!」

 

 先に情報を渡してから対価の支払いを求めるとは中々の知将だ。

 知将緑川の策にはめられたマーロウ。黒白二つで一つのという意味ではファングジョーカーと大差ないコーヒー牛乳による損害。その痛みをぐっと堪えるのが、男の勲章である。

 

(ええい頭切り替えろ。今考えるべきことは……)

 

 彼からすれば悔しい話だが、緑川がくれた情報はかなり重要なものだった。

 

「問題になるのは、ゆりかの指紋だけを付けたカメラをいつ用意できたのか、だな」

 

 彼女に気付かれないよう鞄にいつカメラを入れたのか、はこれの後でもいい。

 まずはこちらを先に考えるべきだ。

 あのカメラがゆりかの容疑を固めているものであり、ゆりかが犯人であるという決定的な証拠である以上、どうやってあの証拠品を用意したのか考える必要がある。

 どうやってゆりかを狙い撃ちして証拠品を捏造出来たのか?

 何故ゆりかがこんな冤罪をかけられているのか?

 真犯人が他にいるのなら、ここに必ず手がかりがあるはずだ。

 

 考えをまとめるため、マーロウは一旦事務所に帰る。

 

「―――とまあ、今日の調査結果はそんな感じだ」

 

「ふーん」

 

 本日の夕飯はカレーである。

 マーロウの注文でハードボイルドな辛口のカレーが並べられた食卓に、今日の調査結果の説明が添えられる。

 マーニーも一見興味なさそうに見えるが、ちゃんと調査報告を聞いている辺り、ゆりかのことをどうでもいいと思っているわけではなさそうだ

 

「なあ、ゆりかが俺にしてる隠し事ってなんなんだ?」

 

「……あー、うーん。なんでゆりかちゃん私に頼まなかったと思う?」

 

「マーニーは信じてくれないからとか言ってたが……」

 

「あれ嘘。ゆりかちゃんは私に依頼すれば、私が味方になるだろうとは思ってたはず」

 

「何?」

 

 カレーのおかわりをよそっていたマーロウの手が止まる。

 

「ゆりかちゃんさ、私への依頼料結構溜め込んでるんだ。

 で、今私に依頼したら私にその辺り請求されちゃうじゃない?

 それに新しい依頼の分の依頼料も溜まっちゃうでしょ?

 けどマーロウなら、人情に訴えればタダで仕事を受けてくれる可能性が十分ある」

 

「それは……なんつーか、穿って見過ぎじゃないのか?」

 

「五年くらい前の子供の頃はね、ゆりかちゃんも純粋でいい子だったんだよ……」

 

 若島津ゆりかの隠し事とは、まさにこれのことだ。

 自分のピンチにも依頼料をケチり、親友にお金のことで色々言われたくないから親友にも依頼しない、という妙な度胸とケチっぷりが透けて見える。

 要するに、マーロウはゆりかの狙い通りタダ働きさせられてしまっていたというわけだ。

 

(ゆりかちゃんとしてはイケメンとお近づきになりたいみたいな目的もあるんだろうけど……)

 

 それは言わなくていっか、とマーニーはそっちの方の理由は語らない。

 

「なんでそんなやつと友達になったんだ?

 ゆりかはまあ悪人じゃねえ。それは間違いないと思う。

 だが言っちゃ何だが、お前と合わないタイプなんじゃないか?」

 

「あれはあれでいいところもあったりするんですよ」

 

 一見合わないような人間に見えても、最初は少し険悪だったとしても、最高の親友になれることはある。最高のパートナーになれることもある。

 

「マーニーとゆりかはどういう経緯で友達になったんだ?」

 

「……ま、色々ありまして。

 私、学校に転校してすぐの頃人殺しって言われてていじめられてたんだ。

 その時一人だけ初対面の私を庇ってくれたのがゆりかちゃん。

 一人だけ私の友達になろうとしてくれたのがゆりかちゃん。

 ゆりかちゃんが仲良くしてくれて、それがきっかけで周りの人の目も変わって……って感じで」

 

「ほー」

 

 利用されタダ働きさせられていたという事実が明かされ、マーロウの中で下がっていたゆりかに対する好感度が、ぐーんと上がっている雰囲気が目に見える。

 この人も大概チョロいなあ、とマーニーはまた呆れていた。

 

「ゆりかちゃんはミーハーだし薄っぺらいし。

 半端なところも多くて、危なっかしくて脇が甘いけど。

 性格はとことんブレないし、ああいう性格だから何か成し遂げる子なんだよね」

 

 完璧な人間なんて居ない。

 互いに支え合って生きて行くのが、人生というゲームだ。

 若島津ゆりかにはだらしないところや直すべき欠点も多いが、マーニーはそれをちゃんと知った上で彼女の友人をやっていて、その欠点があるからこそ彼女なのだということを認めている。

 ゆりかの人情に救われた記憶がある限り、ゆりかだけが手を差し伸べてくれた記憶がある限り、二人は永遠に友達だ。

 

「いい話を聞かせてくれてありがとな、マーニー」

 

「いい話? かなぁ」

 

「いい話だ。俺も気合いが入って、気合いが倍になったぜ」

 

 マーロウは大盛り二杯目のカレーを完食し、"ごちそうさま"とマーニーに言い、食器を片付けてから事務所の方へ向かう。

 

「お前の親友の無実、必ず証明してやらねえとな」

 

 事務所で事件の整理と推理を行って、まだ一人で頑張る気なのだろうと、マーニーでなくても推理できてしまうような分かりやすい行動だった。

 

「私の親友、か」

 

 マーニーは、マーロウの甘さを直すべきものだと思いつつも、その甘さに影響されつつある自分がなんだか不思議に思えて、カレーをひとすくい口に運ぶ。

 カレーの辛さで、その不思議な気持ちを少しばかり誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 また来たゆりかを連れて、マーロウは現場の電器店に向かっていた。

 警察や学校が問題を公にするのも時間の問題だ。時間が無い。

 マーロウは昨日一日の捜査の結果から、ゆりかと一緒にもう一度現場に行って調査し、決定的な何かを掴まなければならないと判断していた。

 

 マーロウは道中、マーニーから聞いたゆりかの話を――友達になった時の話などは抜いて――したりして、ゆりかとの会話に花を咲かせる。

 

「マーニーはもう自分を棚に上げてー。

 あいつだってイケメンには弱いですよ。

 うちの学校の一番人気のイケメンが微笑むと顔赤くしてますし」

 

「まあ女子高生らしいっちゃらしいのか……?」

 

「女子高生らしさなんて普通気にしませんよ。

 ゴリラみたいな女子高生も、根暗な女子高生も居ますからね。

 化粧の厚塗し過ぎで仮面フェイカーとか呼ばれてるのも居ますし」

 

「くそっ、記憶が無いからその辺の知識もなくなってんだよなあ」

 

 女子高生もまた化粧という仮面を被り、容姿競争という戦いを勝ち抜かんとする仮面の戦士。

 全員がそうというわけではないが、その仮面の戦士は都市伝説ではなく、確かに実在するのだ。

 

「お、見えてきたな。あれが事件現場の電器店か」

 

 そんなこんなで現場に到着……したのはいいが、ゆりかの姿を見た途端、店長が彼らの侵入を拒んできた。

 チーフの佐々木、事務の山口、美女の松本も引き連れて、だ。

 美女に弱いマーロウからすれば最後の松本が一番不味い。

 

「ここは通さんぞ! また商品を盗まれたらたまらんからな!

 警察も何をやっとるんだ! まだ捜査中だからと、こんな盗人を放置しおって!」

 

「おいおい、ちょっと待てよ店長さん。

 俺達は盗みに来たわけじゃなく、真実を明らかに……」

 

「黙れ! 嘘つきの探偵め!

 万引きの調査などと嘘を並べおって! お前もその女の仲間なんだろう!」

 

「ダメだ、てんで話を聞いちゃいねえ」

 

「ここは通さんぞ! もう警察も呼んだのだ!」

 

 店の前でこうして店長とその部下に足止めされてしまえば、店の中には入れない。

 調査もできない。

 これではゆりかの無実を証明することができなくなってしまう。

 

「どうしよマーロウさん」

 

「とりあえずゆりかは一旦帰れ。これで警察に任意同行でも求められたら面倒に……」

 

「いや、その必要はないよ。二人共ここに居て」

 

 足止めされたマーロウとゆりかの背中にかかる声。

 二人が振り向けば、そこには父ロイドに車椅子を押されるマーニーの姿があった。

 

「マーロウが集めた情報だけで、真犯人が誰かは分かるから」

 

「「 マーニー! 」」

 

 車輪が回る音と共に、マーニーはマーロウの横を通り過ぎる。

 通り過ぎる時、少女は小さな声で彼に言う。

 

「マーニーにおまかせを」

 

 マーロウはその意気を買い、無言で頷く。

 突如現れたマーニーに、店長は当然のように食って掛かった。

 

「真犯人、だと? 待て、それはどういう……」

 

「何度もこの店の商品を盗んでいた真犯人は、この中に居るってことです」

 

「―――!」

 

「それは勿論、ゆりかちゃんじゃない」

 

 マーニーの推理が導き出した犯人は、今この場所に揃った人間の中に居る。

 

「どういうことだ!」

 

「その前に。ゆりかちゃん、カメラコーナーでカメラ見てたんだよね?」

 

「え? あ、うん、そうだけど」

 

「じゃあその途中でいくつかカメラ触ったよね? ゆりかちゃんならそうすると思う」

 

「触ったね。適当に手に取ってただけだけど」

 

「じゃあその見本の中に、盗まれたカメラっていうのがあったんじゃない?」

 

「……あ!」

 

「そのカメラは見本の中の一つだったからじっくり見てなかった。

 鞄から取り出した時も少し見ただけで、すぐ店長さんに取り上げられた。

 その後は警察に証拠として没収された。

 だからゆりかちゃんは見本の内の一つだったって、気付きもしなかったんだよ」

 

 携帯電話のカタログを見た覚えなら、大抵の人はあるだろう。

 だがカタログの中身の携帯デザインをそっくり記憶している者はそう多くない。

 人は店で多くの電子機器を一気に見ると、『自分が買った物』、『自分が持っていたことがある物』、『買うかをかなり迷った物』くらいしか覚えていられないものなのだ。

 

「いや待ってよマーニー。見本だったら他の人も触ってるんじゃないの?」

 

 ゆりかが疑問を口にする。

 当然の疑問だ。

 あれが見本のカメラというのなら、複数人の指紋が残っていなければおかしい。

 

「ゆりかちゃん以外は触ってないよ。

 だってそのカメラは勝手に見本に出されて、ゆりかちゃんが触った直後に回収されたんだ」

 

「へ?」

 

「今の電子機器は指紋が付いてると購入者がうるさいから。

 出荷時点では指紋は無く、箱出しの時点でも無く、ゆりかちゃんしか触ってない」

 

 防犯カメラの隙を突けば、店員にはそれが可能だろう。

 こっそり出して、ゆりかが触った後に回収、後はゆりかの鞄の中に入れればいい。

 

「待ってマーニー、それだと私を狙い撃ちなんてできないんじゃ……」

 

「狙い撃ちなんて最初からしてない。真犯人は誰が触ろうが別によかったんだ」

 

「……え?」

 

「罪を被せられるなら誰でもよかった。

 警察に疑われてくれるなら誰でもよかった。

 罪を被せるのに適任な人が来るまで何度でも試すつもりだった。

 あの日あの時間帯にあのカメラコーナーに来た人なら、誰でもよかったんだよ」

 

 その場のほとんどの人間が、息を呑む。

 

「な……なんでそんなことを!」

 

「真犯人の動機を考えればおのずと分かるよ。

 この真犯人は、店員として昔から店の商品を盗んで転売してた。

 それなりに利益も出てたんだろうね。だから続けていた。

 でもそのせいで、店の人は段々とそれが店員の……身内の犯行だと気付き始めていたんだ」

 

 チーフの佐々木が言っていたように、店員達はそれに勘付き始めていた。

 

「真犯人はだからこの計画を立てたんだ。

 店に来た誰かを、誰でもいいからスケープゴートに仕立てる計画を。

 そうすれば店長はその人を疑う。他は疑いもしない。現に今がそうだったでしょ?」

 

「なっ……!?」

 

 店長が絶句する。真犯人は店長の単純で怒りやすく視野が狭い性格をよく理解していた。

 

「ゆりかちゃんが盗んだところが防犯カメラに映ってなくても問題にもならない。

 何故なら今日まで盗まれた商品も、防犯カメラに映らないように盗られたものだったから。

 店長さんは防犯カメラに映らず商品を盗んだということでさえ、疑いの要素とする。

 真犯人はこれまでの盗み全ての犯人がゆりかちゃんだって、店長さんに思い込ませようとした」

 

「わ、私、間が悪かったってだけで沢山罪を押し付けられそうになってたの……?」

 

「そうだよ、ゆりかちゃん。

 だってこれは盗むのが目的じゃない。

 誰かを陥れるのが目的でもない。

 自分に疑いの目が向く前に、その疑いの目を別の誰かに向けることが目的だったんだから」

 

 警察がゆりかを"疑わしきは罰せず"で解放したとしても意味はない。

 店長は犯人を追い詰めきれなかった警察を無能だと思うだけで、若島津ゆりかを犯人だと思い込んだままだろう。

 そうやって疑いの矛先を店の外に向けておけば、真犯人は安全圏を得る。

 

「無差別殺人の変形とも言える、『無差別冤罪』。それがこの事件の真相です」

 

 残虐でも極悪でもないが、真犯人はクズだろうと思えるような、犯罪のやり口だった。

 

「じゃ、じゃあ、真犯人は誰!?」

 

「それは当日のゆりかちゃんの行動と、いつカメラが鞄に入ったかを考えれば分かる」

 

 マーニーの追求に、店員達は自然と"誰だ"と言わんばかりの目つきで身内の面々を見る。

 

「ゆりかちゃんはカメラコーナーを見て、その後お手洗いの場所を聞いた。

 そしてお手洗いで容姿を整えて、その後すぐに店の外に出て、鞄の中のカメラに気付いた」

 

「お手洗い……?」

 

「そう、お手洗い。ゆりかちゃんも少なくともクシか髪留めくらいは鞄から出したよね?

 鞄を開けて、道具を鞄から出して、道具を鞄に戻すまでは、鞄の口は開けっ放しだった」

 

「……あ!」

 

「変装でもしてゆりかちゃんの隣の鏡を使ってるフリでもすればいい。

 そうすれば開きっぱなしのゆりかちゃんの鞄に、カメラを入れる機会はいくらでもある」

 

 若島津ゆりかの鞄が開いたのは一度だけ。

 手洗い場で髪留めやクシ、整髪料などが入った箱を鞄から取り出した時だけだ。

 その時に盗んだカメラを入れられるとしたら、その人物は店員であり、『女子トイレに入れる』存在であるということになる。

 

「この店の店員で女性ってあなた一人しか居ないんですよね? 松本さん」

 

「―――っ」

 

 しからば、犯人は一人しか居ない。

 

「近年はバッグを持たず手ぶらで来る客って少ないそうですね。

 元々鞄持ちの客などは多かったものの、レジ袋の有料化からそれがぐんと増えたとか」

 

「それが何……? 私が計画的にそんな犯罪をやったって言うの……?

 濡れ衣だわ! それなら他にもできる人はいるはず! 私が犯人って証拠はあるの!?」

 

「ありますよ」

 

「っ!?」

 

「女子トイレに移動しましょうか。トイレの中の人払いをお願いします」

 

 父に任せた車椅子を進め、マーニーと共に皆が店の女子トイレの中に移動する。

 

「ゆりかちゃんは、防犯カメラにも映ってるけど女子トイレの場所を聞いてから行ったんだよね」

 

「だね。知らなかったから」

 

「だから松本さんはゆりかちゃんがここに来ることを事前に知れた。

 知った時点で先回りして、トイレの個室の中に潜んだんだ。

 そして個室の中から、ゆりかちゃんがトイレに来るタイミングを伺っていた。

 ゆりかちゃんが来たらすぐに個室から出て、カメラをその鞄に入れるために」

 

 マーニーの手の甲が、トイレの個室の扉をコンコンと叩く。

 

「この個室は防犯カメラと同じで、一昔前の古臭さがある。

 個室がきっちり密封されて、個室毎の換気扇で換気するタイプだ。

 扉を閉めれば外に音は漏れない、外の音は聞こえない。プライバシーを守るタイプ」

 

「それがどうしたんだ?」

 

「だけど、扉は薄い。扉に耳を当てれば、個室の外の小さな音でも聞き取れる」

 

 松本がピクリと反応したが、その反応を必死に隠し、あくまで"マーニーの指摘は間違いだ"と周囲に思わせようとし続ける。

 

「松本さん、ここに耳を当ててたんじゃないですか?」

 

「当ててたわけないじゃない! 何を証拠に!」

 

「耳紋」

 

 だが、もはや言い訳でどうにかなる段階は終わっている。

 マーニーは言ったのだ。

 『証拠はある』と。

 

「耳紋……?」

 

「耳にも指紋ってあるんですよ。

 一人一人違うんです。

 警察が調べれば、どのくらい強く押し付けてたかさえ一発で分かります」

 

 さあっと、松本の顔から血の気が引く。

 その顔を見て、店長から店員まで全員が、彼女が真犯人であることを確信した。

 先程"当ててたわけないじゃない!"と断言した彼女の耳紋が個室のドアから見つかれば、もはや言い訳のしようもないだろう。

 

「警察呼んで言い訳してもいいですよ?

 トイレの個室の中でドアに耳を当てて外の音に耳をそばだてる。

 そんな不自然な行為をしていたことに、上手い言い訳を思いつくならですが」

 

 チェックメイト。

 もはや、松本が自分の罪をゆりかになすりつけるという企みは、完全に破綻していた。

 松本は周囲の人間を押しのけ、突き飛ばし、逃げ出そうとする。

 

「どきなさい! どいて!」

 

 その額に、バットショットが強烈な体当たりをかました。

 

「ふぎゃっ!?」

 

「ナイスだ、バットショット」

 

 松本がひっくり返り、空を舞うバットショットがゆりかの肩に優しく止まる。

 

「こ、コウモリ……!?」

 

「こいつはバットショット。あんたに仲間を利用された、意志ある(AI付き)カメラだ」

 

 マーロウは痛みに悶える松本を、適当な紐でふんじばる。

 

「おいゆりか、お前も一発殴る権利があると思うぞ」

 

「んー、バット君が今いい一発入れてくれたから、割とすっきりしたかな」

 

「バット君ってお前……」

 

 ゆりかは肩に止まったバットショットを、ペットに対しそうするように撫でてやる。

 

「これにて一件落着。まったく、ゆりかちゃんはホントにトラブルメーカーなんだから」

 

 そしてやれやれ、と肩を竦めているマーニーにニヤニヤしながら絡みに行った。

 

「もーマーニーはホント素直じゃないなー!」

 

「ちょっとゆりかちゃん! 暑苦しい! ベタベタしないで! 今何月だと思ってんの!」

 

「頼んでもないのに来ちゃうんだもんねー!」

 

 結局のところ、ゆりかの無実を一番に信じていたのも、その無実を最後に晴らしたのも、マーニーであった。

 きっとそれは、若島津ゆりかの親友である彼女が果たすべき役目であったのだろう。

 

「クソ、なんで、なんで、上手く行くはずだったのに……!」

 

 うだうだと愚痴る松本に、マーロウがイラッとした顔で罪を突きつける。

 

「他人に押し付けそこねた自分の罪くらい、素直に数えろ」

 

 自分の罪を数えず、自分の罪を他人に押し付ける悪女に、好感など抱けるはずもない。

 松本が逃げないよう縛り終えたマーロウの肩に、マーニーから自然と離れたロイドが手を置く。

 ロイドは、とても優しい目をしていた。

 

「君もお疲れ、マーロウ」

 

「あざっす、ロイドのオヤジさん。

 いいところはあいつらに持ってかれちまいましたが……ま、今日の主役はあの二人ってことで」

 

「だろうね。うちの娘も大きくなったもんだ」

 

 それは、娘の成長を肌で感じられたからなのかもしれない。

 娘に仲のいい友達が居ることを実感できたからなのかもしれない。

 娘が頼れる探偵として、マーロウが力を貸してくれるようになったからなのかもしれない。

 いずれにせよ、娘やゆりかやマーロウを見るロイドの目は優しくて。

 

 マーロウもまた、探偵事務所の所長な父とその娘が死に別れず、幸せな日常と探偵業をこなしているこの親子関係に、よく分からない嬉しさのようなものを感じていた。

 何があろうと守るのだと、記憶と繋がっていない部分の心が、胸の奥で何故か叫んでいた。

 

 

 




 所長が死んでその娘がスリッパを持ち出したらあら大変


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Cに気を付けろ/チャイルド・ミステイク

 この事務所には、ロイドとマーニーが飼っているエリオットという猫が居る。

 名前の由来は、1973年に公開された名作映画『ロング・グッドバイ』でフィリップ・マーロウを演じた名俳優、エリオット・グールドに由来している。

 この名演は『当時日本で理想とされた探偵像』や『ハードボイルド』のイメージをがっちりと固め、『タフで優しく在ること』を人々の心に刻み込んだという。

 

 「さよならを言うのは、少しの間死ぬことだ」という言葉も、このロング・グッドバイが初出である。

 死は永遠の別れ。

 さよならは一時の別れ。

 だからこそ、さよならは少しの間だけ死ぬということなのだ。

 フィリップ・マーロウは、これを別れの言葉としていた。

 

 さて、ではそんなカッコいい男達の名前を貰った青年・マーロウと、猫・エリオットは探偵事務所ロイド・インベスティゲーションで今日は何をしているのか。

 

「バカお前ひっかくんじゃねえ! この餌で満足しろってんだよ!」

 

「ふしゃー!」

 

 ……本気で喧嘩していた。

 

「高い餌で舌肥えさせてんじゃねえ! ただの猫なんだからこの値段の餌でいいだろうが!」

 

「ふっー!」

 

 エリオットのみだれひっかき。マーロウにはこうかがばつぐんだ!

 

「いってぇっー! てめえこの野郎! あんま調子乗ってると飯抜きにすんぞ!」

 

「にゃー……」

 

 エリオットは渋々といった様子で、安い餌を食べ始める。

 ロイドはエリオットに無難な餌をやる。

 マーニーはエリオットに甘いので、エリオットがねだるとすぐに高い餌を買ってしまう。

 マーロウは毎度のようにエリオットと喧嘩しながら、最終的には安餌で妥協させる。

 どうにもこの猫、マーロウをライバル視しているフシがあった。

 

「ほらよ、猫用ミルクだ。残すんじゃねえぞ」

 

「にゃ」

 

 猫と本気で喧嘩する男もどうかと思われるが、喧嘩した後猫と戦友みたいな雰囲気を醸し出すこともあるので、差し引きゼロ……ゼロになるかもしれない。

 

「……何やってるんだお前は」

 

「げっ、緑川!」

 

「猫と本気で喧嘩してる大の大人を見た私のこの気持ちはこう……なんだ……?」

 

「その目をやめろ」

 

「ああそうか。

 お前が猫探しが得意な理由が分かった。

 マーロウは猫と対等に喧嘩してしまうくらい、猫の気持ちが分かるんだな……」

 

「その目をやめろ!」

 

 エリオットがマーロウを鼻で笑った……ように見える動きをした。

 マーロウは気を取り直し、夏場の暑さのせいでダラダラ汗をかき、無駄に長い髪が首や頬にひっついている緑川に要件を問う。

 

「で、何か用か? また友達と喧嘩したのか?」

 

「う、うるさい! 私の地元の友人は関係ない!」

 

 緑川がビシっと突きつけてきたのは、無地のケースに入ったブルーレイディスク。

 マーロウの直感が、やけに嫌な予感を流出させていた。

 

「知り合いが貸してくれたんだ。

 なんでも、今の季節にピッタリで、皆で一緒に見るものらしい。見るか?」

 

 それを地元の友達と一緒に見ないってことはまた喧嘩したってことじゃねーか、とストレートに言わないだけの優しさが、マーロウにはあった。

 

 

 

 

 

 今の季節は夏。

 夏に相応しい映画とは何か?

 

「ホラーものかよ!」

 

 タイトルは"呪怨VSリング 終末世界の最終決戦!"。

 呪怨からじとお、リングからングを抜き取って、巷では『ジオング』と呼ばれている名作だ。

 幽霊には足がないもんね! と業界からも好評を受けている今流行りのホラー映画である。

 前作『貞子vs伽椰子』も好評なため、二作品まとめてオススメされることが多いらしい。

 

「どうしたマーロウ、ビビってるのか!? 私はビビってないがな!」

 

「ビビってねーよ! 俺がビビってるって思ったってことはお前がビビってるってことだろ!?」

 

「二人共声がいつもの三割増しにうるさい」

 

 巻き込まれたマーニーはご愁傷様としか言う他無い。

 マーニーも緑川も、"探偵はオカルトを排除しロジックで考えるべし"という思考体系を持つ生粋の探偵だ。が、マーニーと違って緑川はこういうものに強くなかった。

 三人で夏の夜にホラーを楽しもうという話の流れになったのはいいが、この手の映画に眉一つ動かさない耐性を持つのは、マーニーくらいしかいない。

 

「このパッケージとか全然怖さ感じないからな!

 俺は怖さ感じてないから部屋の中の電気とか消せるし!」

 

「私事前にCM見てたけど全然怖くなかったからな!

 廊下まで電気消してドアとか全部開けておけるからな!」

 

(これで映画が怖いだけでつまんなかったら私どうしよう)

 

 しかも平気じゃない二人が加速度的に自分を追い詰めていく始末。

 この映画はパッケージからして怖く、CMが怖すぎてクレームにより放送中止になったという伝説まで持つ映画だ。

 そんなものを、三人で視聴すればどうなるか。

 

「―――っ」

 

 まず緑川が目を瞑って耳を塞いだ。

 帽子で目元を隠し、目を瞑っていることを隠すという徹底っぷりである。

 マーニーはつまらなそうにポテチを食べていた。

 

「うおわぁ!?」

 

 幽霊が溜めに溜め、おどろおどろしいBGMでたっぷり緊張感を高め、ガバッと意識的死角から現れる。これにはマーロウも思わず大声を上げてしまった。

 マーニーはコーラを飲んでいる。

 

「ひっ」

 

 ホラー映画は"BGMのリズムだけで人の心を動かす"ことと、大一番で人をビックリさせることにかけては映画ジャンルの中でも最高峰だ。

 耳を塞いでいても、小さく聞こえるリズムと、指の隙間から入って来る怨霊の叫びまでは防げない。緑川も思わず声を漏らしてしまっていた。

 マーニーはチョコと飴玉どちらを食べようか迷っている。

 

「うおおっ!?」

 

 そしてクライマックス。

 太陽に落とされた貞子と伽椰子の復活を最高のホラーに仕上げた、この映画で最も評価された最も怖いシーンにて、マーロウはとても大きなリアクションを取る。

 マーニーはあくびをしていた。

 

「……あ、終わり? じゃあ電気つけてきて、マーロウ」

 

「あ、ああ……」

 

 映画が終わった頃には、マーロウ&緑川とマーニーの間に、電子レンジに入れたが中まで熱が通っていなかった食べ物のような温度差が生じていた。

 

「ま、マーロウ。お前めっちゃビビってたな! 悲鳴が聞こえたぞ!

 私は一度も悲鳴を上げなかったというのにな! あー情けない!」

 

「はっ、俺は幽霊が怖かったんじゃねえ。

 やけに雰囲気を作る音楽と、突然出てくる幽霊に、ちょっとビックリしただけだ!」

 

「ふん、どうだか! 幽霊なんていう居るわけもないものにビビってたんだろう!」

 

「おいおいおい、立ってるのに膝が笑ってんぞ緑川ぁ!」

 

「こ、これは武者震いだ!」

 

「武者震いはそんな便利に使えるワードじゃねえから!」

 

 ホラーは確かにそういうものだ。雰囲気作りの音楽、見せる範囲を限定するカメラワーク、霊が持つ一種の理不尽さ、緊張を高めてからの奇襲で人の心を揺らすのである。

 驚かせ怖がらせるための計算と積み重ねこそがホラーの要であり、勇気があろうがハートが強かろうが、ホラーに心揺らされてしまうことは多い。

 

「というか二人共、うるさい。

 今が夜だってこと分かってる?

 早めに寝たパパが起きたら私怒るからね」

 

「「 あ、はい、すみません 」」

 

 それにしたって、夜に叫んだり騒いだりするのはよろしくない。

 この家が街の中心から離れた山にポツンと建った一軒の事務所であるとしてもだ。

 

「しかしなんだ、私も帰るにしても外はもうすっかり暗いな……」

 

「……」

 

 マーニーの視線の先で、緑川がうろちょろしている。

 どうやらホラー映画のせいで夜道を帰るのが怖いらしい。

 

「カーテン開けっ放しじゃねえか、閉めねえとな」

 

 マーロウが格好付けてカーテンを閉める。

 真っ暗な外が見えるのが怖い、なんか木々の間に幽霊見えそうで怖い、という本音を隠せているつもりなのだろうか。

 

(こ、この二人……)

 

 やけに気丈な人間が、巷でも有名なクソ怖いホラー映画を見て、部屋で一人で居る時頻繁に背後を振り返るようになる。やたら夜道を怖がるようになる。風呂場で髪を洗っている時に鏡でチラチラ背後を確認するようになる。よくあることだ。

 しかしながら帽子探偵が二人揃ってこんなになってる上、背後を時々気にしているのは、誰の目から見てもシュールである。

 

「……マーニー。そういえば今日、私の家には誰も居ないんだ。ここに泊まっていっていいか?」

 

「あーはいはいどうぞ」

 

「今日は朝まで起きていたい気分だな……マーニー、ババ抜きしようぜ」

 

「動画サイトで猫の動画でも見てなよ、朝まで二人で一緒に。私寝るから」

 

 何が悲しくてクソ怖いホラー映画を見て一人で寝れなくなった成人男性に付き合って徹夜せねばならないのか。

 マーニーは寝て、翌朝起きて、朝ご飯の支度でもしようかと台所に向かう。

 

「おいマーロウ、これさっきの黒猫の方が可愛かったんじゃないか」

「ばっかお前、この三毛猫の動きの機敏さを見ろ。こいつは間違いなく一流だぜ」

 

「……」

 

 そして結局徹夜で猫の動画を見ていたバカ二人を無視して、味噌汁を温め直すため火を入れた。

 あの二人はもう既に、自分達が何故動画を見てるのか、何故自分達が朝まで起きていようと思ったのか、それさえ忘れているに違いない。

 冷蔵庫の中のサラダを出して、鮭の切り身を焼いて、温め終わった味噌汁とタイマーで炊き上がったご飯と一緒に、おまけ程度に納豆を添えて食卓に並べる。

 起きて来たロイドと、朝になったことに気付いたおバカ二人が美味しい匂いに誘われて、自然と食卓に引き寄せられていく。さあ朝食の始まりだ。

 

 これにてホラー・ドーパントの恐怖の話はおしまい……に、なったかに見えた。

 だがなんと、この話は終わらない。

 これより二日後。

 「墓場に現れた幽霊を退治して欲しい」という依頼が来て、彼らはまたしても幽霊のお話に挑むことになるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 依頼はマーニーの同級生だが非クラスメイト、でもクラスメイトの大半より仲良くて、他クラスの人間の中では最も仲が良い同級生……というポジションの、舞城天という少女だった。

 マーニーは全く手を入れていないモジャモジャ頭が目につく少女であったが、この舞城天という少女は、癖の無い髪を三つ編みにして背中側に流している少女だった。

 

「舞城天です。どうぞよろしくお願いします」

 

「マーロウだ。よろしく」

 

 物腰は丁寧だが微笑みは無い。

 この少女からはどことなく不器用な印象を受ける。

 

「天ちゃんはこの辺の峠を自転車で攻める……まあ自転車ライダー(控え目表現)なんだ」

 

「ほー、ライダー。響きがスタイリッシュだな」

 

「そうでもないです」

 

 簡潔な言葉を言い切り、次の言葉を繋げない話し方。

 典型的な口下手、それも無口ではなく寡黙なタイプ。

 話すべき時には人並みに話すが、そうでない時は一気に口数が減る人種のようだ。

 無愛想なのも合わせて、考えていることが分かりづらく、誤解されやすそうな性格である。

 

「私の家の近所にあるお寺の墓地で、幽霊騒ぎがある。真実を突き止めて欲しい」

 

 彼女の依頼は、寺の墓地に現れるという幽霊の正体を突き止めるというものだった。

 

 始まりは――正確な時期は不明だが――おそらく一年ほど前らしい。

 その頃から墓参りに来る人達が、墓の周りで不思議な気配を感じるようになったらしいのだ。

 人によっては幽霊だと怯え、人によってはあの世から故人が帰って来たと喜んだ。

 だがそれも時々聞くだけの話であったので、風や小動物が小さな物音を立てて騒がれているだけだと、寺の関係者は判断したらしい。

 

 だが、ここ一ヶ月ほどで、事態は急変する。

 夜中に墓地で人魂を見た、という証言が相次いで現れたのだ。

 一人や二人なら見間違いで済むが、一ヶ月もの間ずっと報告が相次いでいるとなれば、流石に寺の側も看過できなくなってくる。

 

 幽霊が現れると聞いて、寺にも墓地にも近づかなくなった人が居た。

 幽霊の噂を聞きつけ、それを見るためだけに墓地に来るような迷惑な人が現れた。

 お坊さんなのに幽霊に対処もできないのか、と言う人も居て。

 幽霊騒ぎを自演してまで人呼びたいのかな、と邪推する人も居た。

 

 ともかくこれ以上続けば色々な仕事に支障が出かねない。

 趣味のサイクリングの最中にここをよく通る舞城天は、その縁もあって学校でマーニーに頼み、放課後にマーロウも巻き込んでその依頼は受諾された。

 

「日当五千円、経費は別で。マーニー&マーロウにおまかせを」

 

 クローズ系のSNSで話題にしたところ、緑川は「かーっ、今日は用事があるからなー! 幽霊なんて居るわけないし怖くないけど仕方ないなー! 行けなくて悔しいなー!」みたいなコメントを残して拒否。いや拒絶した。

 マーロウもホラー映画のダメージを引きずっているように見えたが、それ以上に『依頼人の頼みを突っぱねたくない』という意識が勝ったようだ。

 依頼人のため、という思いでホラーの想い出を一蹴していた。

 

「幽霊、か。オカルトはあんまり、ハードボイルドっぽくはねえからな……」

 

「ハードボイルド」

 

「そう、ハードボイルド。いかなる事態にもうろたえずクールに解決する、鉄の男だ」

 

 マーロウ、舞城天にハードボイルドを語る。

 本来探偵は理論と証拠を積み上げるもの。「幽霊は壁をすり抜けられる、幽霊が犯人だ!」と現代社会で叫ぶ探偵が居たなら、アホを通り越して精神病院案件だろう。

 探偵とは幽霊のような『説明できない事象』を推理に組み込まないものなのだ。

 

 当然ながら、ハードボイルドと幽霊も食い合わせが悪い。

 人の怖さをタフな探偵が打ち砕くのがハードボイルドなら、基本的に打ち砕かれない恐怖そのものである幽霊とは、とことん相性が悪いのだ。

 ハードボイルド、というワードを聞いた天は、最近贈答品として貰ったが使う機会のなかった小道具……煙管(キセル)を取り出し、マーロウに手渡した。

 

「キセル咥えてみますか」

 

「キセル……?」

 

「キセル咥えてる男性は、それだけで和製ハードボイルドですよ」

 

「わ、和製ハードボイルド……!」

 

「天ちゃん、記憶喪失の人にあまり変なこと吹き込まないで」

 

 マーニーが天の鞄の中にキセルを押しやり、元の場所に戻す。

 

 キセルは戦国時代に外国から入って来た喫煙具であるが、江戸時代に「これ吸ってる姿カッコよくね?」と言われ始め、その時代には既にファッション道具になっていた。

 更に明治維新後の廃刀令により「刀が無いよう……不安だよう……そうだ、金属製のキセルを普段から使って、いざという時はこれで戦えばいいんだ!」というアイデアが普及。

 後に時代劇などでキセルを格好付けに使ったり、キセルを武器にしたりするシーンが生まれ、日本におけるかっこいい男の風味付けに使われるようになったというわけだ。

 

 だがハードボイルド、と聞いてキセルを手渡す天は少々ズレている。

 タバコも吸わないくせにキセルを使おうかと考えるマーロウも大分ズレている。

 非喫煙家でカッコつけのためだけにキセルを咥える若い男が居たとしたら、その男は間違いなくハードボイルドではなくコメディアンだ。

 

「小道具でハードボイルド感出してどうすんの。

 ハードボイルドって在り方とか心の問題じゃないの?」

 

「ぐっ」

 

 マーニー、マーロウ、天は夜になる直前の夕方頃に現場に到着した。

 学校が終わってから現場に移動したのでこの時間帯になったようだ。

 幽霊探しのことを考えれば、ちょうどいい時間帯であったと言える。

 

「住職さん、幽霊はどの辺で見られてるんだ?」

 

「あの辺りです」

 

 マーロウの前で、住職は幽霊がよく見られる方向を指差す。

 そこには背の高い木がズラッと並べられた林があり、墓の周囲を覆うように立つその木々は、墓という霊の安息の場所を人の視線から隠す役目を担っている。

 

「この木々……所々刃物で切った真新しい跡が見えるな」

 

「おお、分かりますか探偵さん。

 実はあまりにも鬱蒼としていた上に虫が湧くので、業者に切って貰ったのですよ」

 

「それはいつ頃の話で?」

 

「一ヶ月ほど前ですな」

 

「……」

 

 木々は墓に近い木々も、墓から遠い木々も、木々の合間の木々も、そつなく全体的に剪定されていた。

 おかげで身長170半ばほどのマーロウでも、頑張れば木々の合間を抜けることは可能な様子。

 木々の隙間を縫うように、かつ這うように前へ前へと進んでいくと、木々の向こうにはやがて道路のカーブとガードレールが見えた。

 そこを、高そうなロードバイク……つまり自転車が通り過ぎていく。

 

(そういや、あの子は自転車乗りだって言ってたな。

 この道の辺りをよく通るから、寺の住職とも話す機会があったわけか)

 

 道路の一般人から墓を隠すのがこの林の役目。

 道路とお墓を、林が仕切りとなって区切っている、とも言える。

 

「だが大人が何かここに仕込んで悪戯しようにもな……」

 

 マーロウはまた頑張って、林の中を抜けて墓の方に戻る。

 墓に戻った頃には、マーロウは服も帽子も枝や葉っぱまみれになっていた。

 

「マーロウ、どうだった?」

 

「ダメだマーニー。こりゃ林の中に何か仕込むのも難しいぞ」

 

 マーロウとマーニーは、これが誰かの悪意ある悪戯ではないかと疑っていた。

 誰かが林に巧妙な仕掛けをしていたのではないか、と疑っていたのだ。

 

 だがこの林は、剪定されてなおマーロウでもかがまなければ進めないような林であった。

 身長150程度でも厳しいかもしれない。大の大人がここに何かを仕込むのは難しく、仕込むとしても枝を大量に切らなければならないため、痕跡は必ず残るはずだ、とマーロウは推測している。

 

「林の中を人が行き来してたって線は薄いかもな」

 

 マーロウが帽子のゴミを取り、天が無言で彼に見えない背中側のゴミを取り、マーニーは思案する。どうやら思考世界(シンキングワールド)に入ってしまったようだ。

 こうして集中すると周囲が見えなくなるのがマーニーの欠点だが、その分早く事件が解決することを考えると、ある意味長所ではある。

 

「サンキュー天」

 

「いえ」

 

 会話が続かないが、マーロウはそれに嫌な顔一つせず笑っており、彼のそういう雰囲気が無言の天にも嫌な気持ちを感じさせない。

 

「マーニーは考え込むと、俺がいくら声かけても返事すらしないんだよな……」

 

「休憩しましょうか」

 

 自動販売機の前に行きマーロウが「奢ってやるよ、何がいい」と言えば、天が「アクエリアス」と言い、深々と頭を下げて礼を言う。

 礼を受け取って、自分は何を飲もうか考えていたマーロウは、懐の中で震えるスタッグフォンを手に取った。画面には先日会った少年探偵、久儀良太郎の番号が表示されていた。

 

「ちょっと失礼」

 

 天から少し離れて、通話を繋ぐ。

 

『もしもし、マーロウさんですか? 今ちょっと時間貰ってもいいでしょうか?』

 

「どうした、陽が沈みかけのこんな時間に」

 

『そちらにある小学校の、昔の友達が相談してきたんです。

 最近そこの小学校で親に反抗して家出するのがブームになってるらしくて……』

 

「は? 家出ブーム?」

 

『親の間で問題になってるらしいです。

 マーロウさんは何か知らないかなあ、と思った次第で』

 

 良太郎からあれこれと話を聞き、ちょっとの世間話を終え通話を切った頃には、マーロウは一つの推論に辿り着いていた。

 

「どうしました?」

 

 表情が変わったマーロウを見て、不思議そうに天は問う。

 

「人間ってのは、見慣れない光を見て人魂だと思っちまうことがままあるらしい」

 

「?」

 

「昔の幽霊の正体は、大体枯れ尾花だったらしいぜ?」

 

 マーロウは真実に辿り着いたが、マーニーはまだ思考の海に全身浸かったまま帰って来ていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼が長く、夜が短くなる季節。

 もう半ばほど夜になったその時間に、マーロウは依頼者である住職と天を林の前に連れて来ていた。

 

「幽霊騒ぎの真実が分かったとは本当ですか、探偵さん」

 

「ああ。つっても、すぐにこの騒ぎは終わると思うぜ」

 

 話を真剣に聞いている住職や天と違って、マーニーはまだ色々と考え込んでいる。良太郎の情報がない分マーロウより推理に時間がかかっているのだろう。

 そんな彼女に格好のターゲットだと目をつけ、蚊がたかってくる。

 その蚊を一匹一匹、マーロウが空中でつまみ潰していく。

 女の子を守っている探偵、と表現すれば聞こえはいいが、絵面がかなりシュールだ。

 

 とはいえ蚊を片っ端からつまみ潰すモーションは尋常ではなく、"この人ただ者じゃない"感を住職に与え、ちょっとばかり彼の推理に説得力を持たせることに成功していた。

 

「住職さん、片目でものを見ると遠近感が掴めないって話を知ってるかい?」

 

「え? ええ、そのくらいなら」

 

「あれって普段は実感しにくいんだ。

 偶然片目の視界が塞がった時に、一瞬だけ片目で見たものを見間違えたりするのさ」

 

 マーロウが林の一部を指差す。

 そこでは沈みかけの夕陽の光が、葉と葉の合間をくぐり抜けてくる過程で少しだけ不思議な形と色合いに変化していて、いつもの夕陽とは違う形に見えていた。

 

「葉の向こうの光は近いのか遠いのか分からない。

 夜中に林の向こうの光の一部が葉の合間に見えても、だ。

 葉と幹が光の大きさを絞って、薄い葉が光に色を付けて……車のライトを人魂に見せた」

 

「そうか、向こうのカーブ!」

 

「そういうことだ。人魂の正体は、この林が形を変えさせた車の光だったのさ」

 

 木漏れ日、という現象がある。

 木々が太陽の光を普段と違う形に見せる現象だ。

 夜という状況、墓場という環境、林という色付きの偏光膜が、普段あまり見ない光の形を人魂に見せたのだと、マーロウは主張する。

 

「ひと月前の剪定が偶然こんな状況を整えちまったんだろう。

 つまりこの幽霊は、枝と葉が伸びれば自然と消える程度のものだったんだ」

 

「よかった……自然となくなるものだったんですな」

 

 住職がほっと息を吐く。

 彼もこの墓地のことを心底案じていたのだから、当然か。

 天も無愛想ながら、住職に祝いの言葉を届ける。

 

「よかったですね、住職さん」

 

「ええ、あなたもありがとうございます、舞城さん。

 墓は死者に思いを馳せる場所。

 死者に怯える場所ではありません。

 これでようやく、この墓地もあるべき姿を取り戻すことでしょう」

 

 死者は蘇らない。

 ゆえにこそ墓地は、人にとって特別な場所で在り続けるのだ。

 そこを守り続けるこの住職は、天にもマーロウにも、心底感謝していた。

 

「舞城さんが払うはずだった依頼料もこちらで支払わせていただきます。

 本当にありがとうございました、探偵さん。あなたのおかげで助かりました」

 

「探偵として当然のことをしたまでさ。

 依頼料は天を通して後日渡してくれりゃ、それでいい」

 

 事件に一区切りがついた頃、マーニーが思考世界(シンキングワールド)から帰還する。

 

「……あれ? もしかしてもう終わってる?」

 

「終わった終わった。悪いが天、マーニーを途中まででいいから送ってってくれ」

 

 天が頷き、マーロウは何故か自分の手でマーニーを送っていこうとせず、ここで一旦マーニーと別れようとしていた。

 

「マーニー、俺は用事があるから先に帰っててくれ。多分途中で追いつく」

 

「んー……分かった」

 

 マーニーは一瞬何かを考え、髪をガシガシかき混ぜて、その頼みを了承した。

 天とマーニーは帰路につき、住職は寺へと戻る。

 そしてマーロウは全員がその場を去ってから、林の中に突っ込んでいった。

 

(依頼料はまだ貰えねえ。本当の依頼達成はここからだ)

 

 葉っぱまみれになり、枝に肌を切られ、靴と服に泥をつけながら、進んだ先で。

 

 マーロウは、懐中電灯片手にうろうろしている小学生を発見した。

 

「そこまでだ、ガキンチョども」

 

「!?」

「げえっ、大人!?」

 

 幽霊の、正体見たり枯れ尾花。

 

 懐中電灯に照らされた小学生の『秘密基地』が、林の中でポツンと存在を見せつけていた。

 

 

 

 

 

 真相はこうである。

 

 このお墓の近くの林は、一年ほど前から小学生の秘密基地が作られていた。

 一年ほど前から聞こえていた小さな物音というのがこれだ。

 そして一ヶ月前、林の枝葉が剪定で一気に減少したことにより、子供達は一気に秘密基地の中身を拡充した。

 それが、木々が絡んで出来た空間に貰い物のダンボールを貼り付けて完成した、この秘密基地なのだ。

 

 子供達は自分達だけが知っていることを親に秘密にすることに、不思議な快感を覚える。

 数年後には反抗期として芽生える、反抗期の種のようなものだ。

 "親に見つかれば壊されるかも"と思いながら、その背徳感を喜びに変え、子供達は秘密基地という聖域を守る。

 家出したらここに来る。

 親に心配させながら、ここで寝泊まりする。

 小学生達の間で家出がブームになったのは、間違いなくこの秘密基地が原因であった。

 

 マーロウが大人ではこの林に悪戯できないと断言していた。かがんで歩かないと身動きもできない林の状態を身をもって証明していた。

 が、小学生ならそれも問題はない。

 マーロウの身長は170半ば。対し小学生達は140と少しくらいしかない。

 動き回るのにさして支障は無かったことだろう。

 

 そして夜に動き回っている時に、懐中電灯の光が林の葉の隙間を抜けてしまえば、それが人魂に見えてしまうというわけだ。

 子供がうろうろすれば、光は揺らめいて更に人魂に近く見えることだろう。

 これが幽霊の正体。この騒ぎを起こした枯れ尾花というわけだ。

 

「しかしいい出来だな、これ。

 木が絡み合って出来た空間の内側に、ダンボール貼り付けてあるのか。

 木の外側には葉付きの大きな枝を山盛りにしてるから、遠目に見ても分かんねえな……」

 

「へへっ、そうだろ?」

「これのよさがわかるとは、中々の大人みたいだなー」

 

 マーロウは秘密基地の良さが分かる男であった。

 小学生がその辺で拾い、"なんか剣みたいだ"と思って振り回している大きめの枝の良さが、分かってしまう男だった。

 

「おっ、いい枝だな。これはそうそう見つからねえサイズと形だ」

 

「わかんのかあんた!」

 

「あんたじゃない、マーロウだ。もしくはお兄さんと呼べ」

 

 子供もこういうノリの大人相手だと、秘密基地に隠していた自分の宝物を見せてくる。

 剣みたいな枝だったり、異常に大きなネジだったり、金のエンゼルだったり、子供が宝石だと思いこんでいる綺麗な石だったり。

 

「ほー、こりゃ学校のグラウンドに撒く塩化カルシウムの塊か。レアだな。

 形がいいとこんな感じに、ちょっと宝石っぽい感じに見えるんだよなあ」

 

「え、宝石じゃないの!? 宝物だったのに!」

 

「下手な宝石よりももっとレアなもんさ。運が良かったな」

 

「本当!?」

 

 マーロウは子供達の警戒心をあっという間に粉砕していた。

 その結果として子供達からの友情を得た。尊敬ではない、友情だ。

 

「ぬ、この基地、下にはダンボールを敷いて、その上にシーツを敷いてあるのか。

 タオルケットも置いてあって、こっちは虫よけネット……

 夜も寒くないこの季節なら確かにこれで十分か。

 この箱はお菓子入れか?

 成程な、ここを使った奴はここにお菓子を入れないといけない。

 それで溜まったお菓子を夜に食べれば、家出の時の食べ物問題も解決するわけだ」

 

「すげー! お兄さん見ただけで全部分かるのか!」

 

「ふっ……ハードボイルド探偵だから、な」

 

「ハードボイルド探偵すげー!」

 

「お前らもよく頑張ってここまでのものを作ったな。凄えじゃねえか」

 

「へへっ」

 

 褒めて、褒めて、褒めて。

 けれど、言うべきことは言う。

 

「でも、今日でおしまいだ。分かるだろ?」

 

「……」

「……」

 

「子供の秘密基地ってのは、大人に見つかったらおしまいなんだ」

 

 この林は子供達のものではない。

 他人に迷惑をかけてしまっている以上、続けさせるわけにもいかない。

 秘密基地は、いつかは終わるもの。いつかは消えるものだ。

 自分が大人になった頃、子供の頃に作った秘密基地を見に行こうと思っても、きっとその秘密基地は残っていない。そういうものなのだ。

 

「ここの裏にはお墓がある。

 お墓で眠ってる人達のために、お墓の近くに秘密基地を作るのはやめようぜ。な?」

 

「……はい」

 

 マーロウは優しく諭しつつも、彼らの秘密基地を解体し、それで終わりにするつもりだった。

 幽霊騒動を解決し、それと同時に子供達が騒動のせいで怒られるという未来を回避し、それで終わりにするつもりだった。

 それ以上関わるつもりなど無かったのだ。

 なのに、しょぼんとする子供達を見ている内に、マーロウの内側に彼らしい気持ちが湧き上がってきてしまった。

 

「ああもう落ち込むな!

 俺も一緒に考えてやるから!

 見つかりにくくて、壊れにくくて、カッコいい秘密基地の作り方!」

 

「本当!?」

「ホント!?」

 

「ああ、男に二言はねえ! だからここは撤収するぞ。

 俺の依頼人が……このお寺に関係のある人達が、ちょっと困ってるんだ」

 

「するする! 次の秘密基地作ろう!」

「今度はもっとすげーの作ろうぜ!」

 

 木からダンボールをひっぺがし、ダンボールを組み上げて運搬用の箱にして、そこに秘密基地の中身を全部放り込む。

 小学生の体の大きさに合わせた秘密基地は相応の小ささで、箱とその中身という形にすれば、小学生二人でも運べる容量になっていた。

 

 子供達は秘密基地が壊れてしまった今日の悲しみをもう忘れて、明日の秘密基地に思いを馳せている。

 未来だ。子供達は未来だけを見ている。

 だから大人と違って色んなことに躓きやすいが、楽観的に、幸せそうに生きている。

 

 そんな子供達の服の胸ポケットに、マーロウは自分の名刺を差し込んだ。

 

「俺はマーロウ。探偵マーロウだ。初回は無料にしてやるから、困ったらここに連絡しな」

 

「秘密基地!」

「秘密基地作って欲しい!」

 

「それとは別でな! ああもう!」

 

 子供の帰りが遅くなったら親が大騒ぎするこのご時世に、秘密基地での野宿をするような行動力ある小学生達だ。

 何かやらかすかもしれないし、やらかさないかもしれない。

 そしてやらかした時は、彼が解決するのだろう。

 彼は子供の依頼でも、それが本気の依頼なら、ないがしろにはしないだろうから。

 

「あばよ。また会おう」

 

 お墓側から出て行こうとする子供達に背を向け、"子供達に背を向けて格好良く去る"というシチュエーションを実現するためだけに、彼は道路側から出て行く。

 

(決まった……今日の俺は完璧に決まった。完璧にハードボイルドだった)

 

 林を抜ければ、そこから道路に出て帰ることができる。

 マーロウは今日の自分のハードボイルドっぷりに身震いし、ニヤニヤしながら大満足なこの雰囲気を堪能し、林を抜けたところで、自分と小学生達の会話を全部聞いていた天と目が合った。

 

「え」

 

 天は何を考えているか分からない顔をしてスマホを操作し、『松田優作』の画像検索結果をマーロウに見せる。

 

「これが堅茹で卵(ハードボイルド)

 

 天は松田優作を指差し、その指でマーロウを指差した。

 

「あなたは半熟卵(ハーフボイルド)

 

「へー、ハーフボイルド……って誰がハーフボイルドだこらぁッ!」

 

 天の評価は至極妥当で、彼女は八割がた褒める意図でこの称号を彼に与えたのだが、顔にも声にもあまり感情を乗せていなかったので盛大に誤解された。

 なんとなく怒られそうだと思ったので、天は学校からここまで押してきた自転車に乗り、坂を利用し脱兎の如く逃走した。

 

「あ、待てこの……速い!? なんつーライダーだ……」

 

 車並みの速さであった。自転車ライダー舞城天は今日も速い。

 自転車が見えなくなると、代わりに歩道でじっとしていた車椅子がマーロウに近寄って来た。

 

「マーニーも居たのか」

 

「天ちゃんここに連れて来たのは私だから、そりゃね」

 

「お前か! ……そりゃそうか、お前が見抜けないわけもないか」

 

「この近くに小学校があること思い出すのに、少し時間がかかっちゃってさ」

 

 マーロウよりも少ない情報で真実に辿り着き、マーロウの性格と選択を完全に読みきった上でここで待っていたのだとすれば、相当な推理力だ。

 全部分かった上で、子供達が怒られないよう、あの住職がこれ以上迷惑を被らないよう、あちらもこちらも立てようとしていたマーロウを、彼女は見守っていたのだろう。

 

 マーニーは林から出て来たばかりの時の、マーロウのニヤニヤ混じりのキメ顔を思い出し、プッと吹き出す。

 

「『ハードボイルドにキメたぜ』みたいな顔してるのはさ、その……

 マーロウはいいかもしれないけど、見てる方からするとこっ恥ずかしいよね」

 

「マーニーてめえっ!」

 

「なにさ、ハーフボイルド」

 

「ハーフボイルド言うな!」

 

 舞城天が発案のこの二つ名は、あっという間に定着したらしい。

 

 

 




人間の自由と平和のために戦うかのヒーロー達は、正義の味方で子供の味方


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突き抜けるT/天定まって亦能く人に勝つ

 マーロウがマーニーと組むようになってから約二ヶ月。

 マーニーが依頼を受けるのは基本的に学校、依頼人は同じ学校の学生か先生であるため、必然的にマーロウの存在も学生に知られるようになってきた。

 だからか、マーニーを通さず直接彼に話を持ちかけてくる人間も出て来たようだ。

 

「陸上部三年の那智勇一です。はじめまして、ご高名はかねがね承っております」

 

「マーロウだ、よろしく。高名っつーほど何かした覚えはないけどな」

 

 年上に対しガチガチの敬語、ガチムチの筋肉。那智は絵に描いたような体育会系だった。

 ここは学校近くの喫茶店。

 そして那智とマーロウだけでなく、何故か舞城天も居た。

 

「マーニーと、それと舞城から聞きました。

 そして確信しました。オレのこの依頼を頼むべきなのは、貴方であると」

 

「おい天、お前何吹き込んだ?」

 

「……」

 

「そこでだんまりは反応に困るからやめてくんねえかな!?」

 

「悪口など言っていないことはオレが保証します。

 人情味に溢れ、一度受けた依頼は必ず達成し、皆が笑顔になれる方向を目指す探偵、と」

 

「天お前……俺のことハーフボイルドとか言ってたくせに、陰ではそんな風に……」

 

「……」

 

 情に流されやすく、時に頑固なくらい強情で、甘ちゃんオブ甘ちゃんのハーフボイルドと仮に天が言ったとしても、上記の褒め言葉とは矛盾しないのが面白い。

 

「では依頼の話を。最近のことですが、アイアンの一人が……」

 

「アイアン?」

 

 マーロウが天を見る。説明頼む、という目つきだ。

 天が那智を見る。那智先輩説明してくれないかなあ、という目だ。

 那智は1mmも引かず天の目を見返した。説明を求められているのはお前だ、というド正論を叩きつけてくる目だった。

 天はどう要約しよう、とちょっとだけ考えて、ほどほどな長さで説明した。

 

「うちの学校はいくつか派閥に別れています。

 その中でも特に大きな派閥が四つ。

 家がお金持ちの『セレブ』。生徒会長の派閥です。

 恋愛や遊びを楽しむ『フラワーズ』。顔がいい人の派閥です。

 不良集団『スティンガー』。裏カジノを開き何十万と学生から巻き上げてると聞きます。

 そして那智先輩がトップをやっている体育会系・運動部の集まりである『アイアン』です」

 

「お前ら学校で何でそんな面倒臭いことしてるんだ……?」

 

「さあ」

 

 天が首を傾げると、那智が少しだけ補足する。

 

「舞城はアイアンではないんです、マーロウさん。

 彼女はマーニーと同じ一匹狼(アウトロー)という派閥未所属の総称派閥に……」

 

「面倒臭いな高校生!」

 

「彼女が部活に所属していない体育会系であったので、俺は多少の繋がりがありました」

 

 "ですがそれだけです"と彼は言い、"では話を戻します"と話の流れを修正する。

 

「依頼は今街で話題になっている集団、暴走族やロックンローラーの類の奴らのことです」

 

「暴走族、ロックンローラーの類?」

 

「はい。その名も自転車爆走原理主義歌劇派……『ビートライダーズ』」

 

「自転車爆走原理主義歌劇派」

 

「初期メンバーが全員ブリヂストンのビートって自転車に乗っていたそうです。

 それで自転車だけでなく、音楽活動もしていたことから、音楽(ビート)ライダー」

 

「そうかぁ……自転車爆走原理主義歌劇派かぁ……」

 

 音楽と自転車乗り、両方でてっぺんを目指す暇人の集まり。

 それがビートライダーズ。最近ちょっと話題になっている集団だ。

 

「奴らは最近、街の様々な場所で問題を起こしているそうです。

 ライブハウスでは喧嘩騒ぎ。

 自転車では他の自転車乗りを煽ってレースを仕掛ける。

 喧嘩や速度出し過ぎでの自転車転倒などで、既に怪我人も出ていると聞きます」

 

「つまり誰かれ構わず殴りかかってるってことか?」

 

「おそらくそうなのではないでしょうか。

 誰かれ構わず勝負を仕掛け、その結果他人と争いになりやすくなっているのではないかと」

 

「ふーん……?」

 

「うちの学校の運動部(アイアン)が、そのせいで一人軽い怪我をしました。

 歩道を歩いている時に、車道を猛スピードで走っていた奴らと腕がかすったそうで」

 

 話が見えてきた。つまり、那智は危惧しているのだ。

 今回は後輩は軽い怪我で済んだが、これがエスカレートしていけば、もっと大きな怪我を負わされてしまう後輩も出て来るかもしれない。

 

「今の奴らは得体が知れない。女性では危険かもしれない。だからこそ……」

 

「女の子のマーニーじゃなくて、俺への依頼か」

 

 それを避けるには、敵を知る必要がある。

 

「奴らが何を求めて暴走しているのか。

 奴らの目的は何なのか。

 それを調べていただきたい。それが悪いものであるのなら、妨害と通報もお願いします」

 

「オーケイ、承っ……いや、違うな」

 

 黒帽子に息をフッと吹きかけ、埃を飛ばして帽子をかぶる。

 

「マーロウにおまかせを」

 

「お願いします!」

 

 深々と頭を下げる那智を置いて、マーロウは喫茶店の外に歩き出す。

 その後に天が続いて、早足の天がマーロウの横に並んだ。

 

「ビートライダーズが居そうな場所には私が案内します」

 

「天がか?」

 

「ビートライダーズに怪我させられた人を、保健室まで連れて行ったのは私だから」

 

 天がここに居るのは、流された結果だ。

 被害者を見捨てられず保健室まで運んで、そのことを後に那智に知られ、口下手ゆえに体育会系のグイグイ来るノリを上手くかわせず、事件のことを話せるマーロウの知人として、那智に頼まれここに連れて来られてしまった。

 

「奴らは私達自転車乗りにも喧嘩を売ってる。私にも、あいつらを止める理由はあります」

 

「……お前意外と熱い所あるんだな」

 

 だが、どんな経緯を経たとしても、彼女は最終的にマーロウに協力していたことだろう。

 彼女は無口なだけで無感情ではなく、喧嘩を売られたらすぐに買い、お気に入りの峠を荒らされたら普通に怒る。ただ、顔に出さないだけで。

 一見冷たそうに見えるだけの熱い(ヒートな)女、とでも言うべきか。

 

「あいつらが走る道にも、心当たりがあります」

 

「成程な。頼りにしてるぜ」

 

 舞城天の感情の昂りは、マーロウにも分かるようになっていた。

 

 

 

 

 

 まずはビートライダーズを見つける必要がある。

 マーロウはバットショットを飛ばし、バットショットが見ている光景をスタッグフォンに送信し監視する形で、上空からビートライダーズの捜索を開始した。

 

 デンデンセンサーの最高走行速度が15km/h、フロッグポッドの最高航行速度が90ノット、スパイダーショックの最高走行速度が35km/h、スタッグフォンの最高飛行速度が45km/h、そしてバットショットの最高飛行速度が120km/h。

 バットショットの飛行速度と索敵能力は群を抜いている。

 天が『走り屋が好む道』をマーロウに教えたのもあって、ビートライダーズを見つけるのに時間はかからなかった。

 

「見つけた」

 

 マーロウは駆け出し、この街のどこかで自分と同じようにビートライダーズを探している天の携帯電話に一報を入れる。

 一人では自転車珍走団の奴らを追い込むのは難しい。

 だが、二人なら?

 

「天、奴らを追い込んでくれ!」

 

『了解!』

 

 自転車乗りの天がレースを装ってビートライダーズを誘導し、マーロウが待ち構えて彼らを袋小路に追い詰められるよう、多少考えて罠を仕掛ければいい。

 メモリガジェットを使えば、一度止めた自転車達の逃走を妨害することくらいは難しくないからだ。

 

「こいつは、一体どういうことだ?」

「リーダー……」

「どうやら誘導されたようですな」

 

 噂に聞くビートライダーズの危険性を鑑みて、マーロウは天を少し遠ざけ、自分一人で彼らに相対する。

 

「ビートライダーズだな。ちょっと話を聞かせてもらおうか」

 

「なんだなんだてめえら、オレ達に何か用か」

 

「お前らが最近起こしてる騒動に、聞きたいことがあって来た」

 

 ビートライダーズの目的が悪であればここで止める。

 そうでなければ説得を試みる。

 腹を決めたマーロウは、ここで全員を一人で相手取ることも覚悟の上だった。

 

「どういう目的でやってやがるんだ?

 特に理由が無いなら即刻やめろ。そいつで迷惑してる奴らも居るんだよ」

 

 マーロウの問いかけに、ビートライダーズのリーダー格が一人応える。

 

「オレ達は、真剣勝負がしたいんだ。迷いなく引退するために」

 

「引退……?」

 

「オレ達はやっちゃならねえことをした。

 なのにこんなことを続けるなんてスジが通らねえ。

 最後に最高の勝負をして、それを最後に引退しようと思ってたんだ」

 

 彼ら曰く、本気の引退試合をするため、目をつけた相手に片っ端から勝負を挑んだのだという。

 

「それで喧嘩を売って回ってたのか?」

 

「それは……申し訳ねえと思ってる。

 やり方がとことん不味かった。

 ライブハウスでは相手の感情を逆撫でして殴られちまった。

 レースはレースで、速度の出しすぎで転倒するような奴に勝負を仕掛けちまったなんてな……」

 

 本当にすまねえ、とリーダー格の男が頭を下げた。

 他の男達も次々と頭を下げていく。

 素直に謝られるのも、引退を考えているというのも、マーロウの予想の範囲外だ。

 天は彼らがその場しのぎの嘘だと思っているが、基本的に信じる人間であるマーロウは既に半信半疑であった。

 

 彼らの応対に、マーロウの頭の中の何かが引っかかる。

 直感が、彼らの悪評に対しよく分からない違和感を覚えていた。

 

「……? あんた、見たことあるな。山の探偵事務所の探偵だ」

 

「マーロウだ。お前らの目的を調べ、内容によっては止めてくれと頼まれてる」

 

 彼の名前と職業と目的を聞いて、ビートライダーズは後退るどころか、目の色を変えて詰め寄ってきた。

 

「あんたの話は聞いてるぞ、頼む! オレ達の依頼を受けてくれ!」

 

「は!? おいちょっと待て、俺はお前らに対して別の依頼を……」

 

「同時に受けてくれて構わん!」

 

 逆にマーロウがその勢いのせいで後退ってしまう。

 

「ビートライダーズの本懐……歌と自転車で、本気の勝負ができる最高の相手を探してくれ!」

 

「本気の勝負ができる相手、だと?」

 

「ああ! オレ達が満足できる最後の勝負を競えるような奴を……頼む!」

 

 ビートライダーズの目的は分かった。

 彼らが周囲にかけている迷惑を止める方法も分かった。

 探偵の仕事とは基本的に、捜し物を見つけることにある。

 

「いいぜ、ただし約束しろ。

 その最後の勝負の相手は俺が必ず用意する。

 だからその最後の勝負まで、他人に絶対に迷惑をかけるな」

 

「ああ、約束する!」

 

 何やら話が変な方向に行き始めたが、この約束が守られるなら、とりあえず街に何か迷惑がかかることはないはずだ。

 約束が破られてもすぐに分かる。

 ほっと息を吐くマーロウの背後で、ビートライダーズの一人が天に声をかける。

 

「お嬢ちゃんもあのあんちゃんの仲間なのか?」

 

 その男からすれば優しく声をかけたつもりだったのだろうが、自転車で一般の人を怪我させたビートライダーズに、天はあまりいい感情を持っていなかった。

 むすっとして、その質問を跳ね除ける。

 

「人に迷惑をかけるマナーのなってない走り屋が、私に質問をするな」

 

 そして自転車を手で押して、早足でずんずんとその場を立ち去って行った。

 

「おい待てよ天!」

 

 マーロウがその後を追い、ビートライダーズから随分と離れた所で、天はピタリと足を止める。

 

「天定まって亦能く人に勝つ、と言います」

 

「どういう意味だ?」

 

「要するに『悪は必ず滅びる』、です」

 

「へー、そりゃいい。悪くないな、その言葉」

 

「必ず勝ちます。だから……自転車の方は、任せて下さい」

 

 歌と自転車で勝負をするのであれば、自転車の方は任せて欲しいのだと、マーロウが初めて見るような顔で、舞城天は頼み込んでいた。

 

 

 

 

 

 翌日。

 どういう勝負をするのか、という細かい話がビートライダーズとの間で決まった。

 自転車の方は峠攻め。山の麓から坂を上がり麓に戻るという道筋。

 この街の走り屋が好む山沿いのコースがセレクトされた。

 歌の方は小さいライブ会場をビートライダーズが借りることになった。

 普段はヒーローショーなどもやっている、空が見える開けた屋外のステージである。

 

 こんなつまらない話にプロを呼んでも来てくれるわけがないが、ビートライダーズもライブしてチャリで走っているだけのアマチュアだ。

 アマチュアでも十分に勝てる可能性はある。

 歌の上手い人間を集めるため、歌を歌った記憶が全く無いというマーロウのため、マーニー・緑川楓・若島津ゆりかという絶妙に心強くないメンツが集まってくれていた。

 

「頼んだぜ、お前ら。歌上手かったら手伝ってくれよ」

 

「え、マーロウまさかこのメンツも対ビートライダーズ歌手の候補なの?」

 

「本で読んだが、今時の女子高生は皆カラオケ行ってるから歌上手いんだろ?」

 

「偏見ッ!」

 

 今時の女子高生とやらをなんだと思っているのか。

 皆が思い思いの曲を入れる中、マーロウはこっそりマーニーに耳打ちする。

 

「マーニー」

 

「何? 手伝って欲しいなら、それもやぶさかじゃないけど」

 

「なんか違和感があるんだ。俺とは別方向から調べてみてくれないか?」

 

「マーロウのいつもの勘か。分かった、マーニーにおまかせを」

 

 今回は珍しく、マーロウが受けた依頼をマーニーが手伝うという形になったようだ。

 カラオケ初体験のマーロウに皆が色々教えつつ、各々思い思いに歌い出す。

 

「―――♪」

 

「お、普通に上手いな」

 

 緑川は不可ではない、といった塩梅。あまりカラオケに行かないけど音痴ではない、というレベルのようだ。

 

「―――♪!」

 

「うお、すげえ上手え!」

 

 リア充寄りのゆりかは単純に上手い。声がしっかり出ていて、メリハリがある。

 元の曲のテンポもキッチリ守られていて、カラオケに来た回数で言えば一番多そうだ。

 

「―――♪゛」

 

「……………………………………………お前、これは流石にちょっと」

 

 マーニーは音痴だった。酷いレベルの音痴であった。他に言うことはない。

 

「マーロウも歌いなよ」

 

「知ってる曲なんて全然ねえぞ……あ、一つあった」

 

「頑張れ頑張れ。ヘタクソだったとしても笑わないから」

「はい入力、『Finger on the Trigger』」

 

「おい! ったく、しょうがねえな、勝手に入力しやがって」

 

 かくして、彼は流される形で人生初のカラオケに挑み。

 

 対ビートライダーズの歌担当が決定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラオケタイムの更に翌日。

 マーロウはビートライダーズを歌で負かすべく、歌勝負の会場にやってきていた。

 噂を聞きつけたのか、大きな宣伝もしていないのに観客席が2/3ほど埋まっている。

 このお客さん達の投票によって勝敗を決める、というのがこの勝負の決着方法だった。

 

 マーロウは決戦を前にして、依頼人の那智と通話している。

 

「俺はこれから会場入りだ。そっちはどうだ?」

 

『会場の周りに怪しい動きはありません。

 驚きですが、ビートライダーズは本気で正々堂々と戦うつもりのようです』

 

「だろうなぁ。あいつらの目は本気だった」

 

『……オレは、にわかには信じられませんが』

 

 那智も会場に来ているらしい。

 マーロウは歌勝負の会場に居て、天は山の麓でレースの開始を今か今かと待ちわびている。

 歌と自転車の勝負開始は同時になるよう設定されており、フル二曲と歌手交代で10分と少し……そんな短い時間で、両方の勝負が決着するよう調整されていた。

 レースコースも10分と少しでゴールできるものがチョイスされている、というわけだ。

 

「気合い入ってるじゃねえか那智。後輩のためか?」

 

『オレは一年の時、先輩に何度も助けて貰いました。

 そして今、オレの後輩が奴らに怪我させられました。

 ここで後輩のために動けなかったら、オレは先輩に申し訳が立たないんですよ』

 

「高校生やってんなあ」

 

 那智はといえば、ビートライダーズが暴力に訴えてくる可能性をまだ捨てきれておらず、いざとなれば体を張って探偵を守ろうとしている。

 彼はこの案件に本気でぶつかっているようだ。

 先輩後輩という関係と運動部の代表という立場が、彼に強固な責任感を発揮させている。

 

「なあ、お前の後輩が怪我して天が保健室に運んだって事件あったろ?

 それってお前も事件を見たのか? 事件当日に天や被害者に会ったのか?」

 

『? いや、友人に聞いたんです。

 そういう事件があったことと、その当事者が居たことを。

 被害者がオレの知り合いというのは分かっていますが、誰かまでは知りません。

 舞城にその後そういう事件があったかを聞いて、あったという返答を貰いました』

 

「……そうか、伝聞か」

 

『それが何か?』

 

「いや、気にすんな。お前の依頼は必ず果たす」

 

 にわかに客席が湧き、人の声が徐々に多く聞こえるようになってくる。

 勝負が始まり、天がペダルを強く踏み、ビートライダーズの歌手が曲のイントロをかけた。

 先攻のビートライダーズが歌い始める。

 アマチュアレベルではかなりのものだと言える、そんな歌声だった。

 

 通話を切ったマーロウは、やたら緊張している緑川の様子を伺う。

 そう、マーロウは今日の勝負に二人で歌う曲をチョイスし、その相方に彼女を選んだのだ。

 

「肩の力抜けよ緑川。客なんて対して入ってるわけでもねえぞ」

 

「少しでも居たらキッツいだろう!

 というか若島津で良かったんじゃないのか!? あいつがお前の次に上手かったろ!」

 

「英語部分だけならお前の方が上手かったろ。

 この曲は英文の合いの手みたいなもんが居るから、そこだけやってくれりゃいいんだよ」

 

「お前一体どういう胆力してるんだ……?」

 

 緑川はステージの方から聞こえるビートライダーズの歌唱、観客席からの歓声を聞いて、もう既にいっぱいいっぱいになってしまっている。

 

「行ける行ける!

 昨日カラオケで延長してまでさんざん練習しただろ!

 今日のお前は探偵緑川じゃねえ! 緑の探偵シンガーだ!」

 

「雑に励ますんじゃない!」

 

 肝が座った時のマーロウは、いかなる『恐怖』も踏破してしまいそうな強さが見える。

 そんな彼と話していると、何故か自分の中の恐怖までもが薄らいでくる気がする。

 緑川楓もまた、彼と話している内に、やけくそ気味に覚悟を決め恐怖を蹴り飛ばしていた。

 

「ああもういい! わかったわかった! 今日の私達は二人で一人の探偵シンガーだ!」

 

「その意気だ。クールに決めるぜ、緑川!」

 

 先攻のビートライダーズの曲が終わり、彼らがステージに上る。

 

『続いては新進気鋭の探偵コンビ! "Finger on the Trigger"でお届けします!』

 

 司会の声さえ、もう二人の耳には入っていなかった。

 

 

 

 

 

 坂を降る天の耳に、歌勝負の司会の声が届く。

 

『続いては新進気鋭の探偵コンビ! "Finger on the Trigger"でお届けします!』

 

 それに少し遅れて、マーロウと緑川の声が聴こえてくる。

 天がペダルを踏む強さが、倍になった。

 

「な、なんだあの女の子!」

「誰だ『勝負にならねえだろ』とか言ってたやつ!」

「クッソはええじゃねえか!」

 

 速い。舞城天のロードバイクの走行は、とにかく速かった。

 ビートライダーズと並んでいたのはスタートの時だけで、そこからはもうぶっちぎり。

 全てを振り切る速さでビートライダーズを置いてきぼりにし、なおも加速していた。

 

「ああっ、思い出した!」

 

 その走りを見ていたビートライダーズの一人が、叫ぶ。

 

「この峠でやってるレースでの女子最速!

 最年少チャンプ!

 賞金王!

 様々な異名を持ち、オンロードのみならずバイクトライアルレースでも勝った女子王者!」

 

「と、トライアル……!?」

 

 活動範囲は広くないものの、その活動範囲の中では最強最速。

 金をかけたレースでも連戦連勝。

 知名度は低いが実力は高いバイクライダー。それが、彼女であった。

 

(ここの直線とカーブにかけていい時間は……9.8秒!)

 

 直線も速く、カーブは無駄なく、減速してからの立て直しも早い。

 グングンと加速していくその姿は、無駄がないためか一種の美さえ感じ取れる。

 折り返しはとっくに過ぎて、レースの道残りもあと半分。

 マーロウの歌声が、天の自転車を更に加速させていた。

 

 

 

 

 

 熱唱するマーロウの目に、山の坂を駆け降りて行く天の姿が遠目に見える。

 対戦者のビートライダーズを置き去りにして走るその姿が、マーロウの歌声に更に大きな力を乗せた。

 

「―――♪!」

 

 彼の歌の力に応じるように、観客席の歓声が大きくなる。

 まるでやまびこのようだ。

 声を発する者が力を込めれば込めるほどに、返って来る反応は大きくなっていく。

 

(こ、こいつ……記憶が無くなる前は何やってたんだ!?)

 

 付いて行くので精一杯な緑川は、まるで過去の行動を再演することで本来の自分を取り戻しているかのようなマーロウに、歌を通してガンガン引っ張られていく。

 

(探偵に歌唱力とか全く必要の無いものだろう!)

 

 観客の反応で分かる。

 もう決着はついている。

 この歌が終われば、観客の投票を待つまでもなく、彼らの勝利が決まるだろう。

 

(甘さといい、歌といい、無駄なこだわりといい!

 なんでこいつは探偵に必要じゃないものばっかり、こんなに備えてるんだ!)

 

 歌が終わる。マーロウがマイクをスタンドに置き、観客席の皆の声に礼を言う。

 

「お前らっー! 付き合ってくれてサンキューなっー!」

 

 その後、観客席から吹き出した大歓声が、今日一番にステージを揺らした。

 ビートライダーズのリーダーが、満足した顔で肩を竦める。

 『最高の相手を探してくれ』という依頼に、探偵は最高の形で応えてくれた。

 

 それだけで、十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自転車勝負は天の勝ち、歌勝負はマーロウコンビの勝ち。

 完膚なきまでにビートライダーズは敗北した。

 ビートライダーズ、那智、天、マーロウと関係者が皆集まり、後は引退を宣言するという段階でマーニーがやってくる。

 

「マーロウ、今日のアレちゃんと録画したから、晩御飯の時にパパに見せるよ」

 

「や め ろ」

 

「まあ冗談はほどほどにして、ちょっと耳貸して」

 

 マーロウがかがんでマーニーに耳を貸し、こしょこしょと少女が囁く。

 それでマーロウは何か納得した様子で、帽子の位置を直しつつ、立ち上がった。

 

「今まで本気でやってたことを捨てるのは、名残惜しいが……

 約束通り、これを最後の勝負にする。

 オレ達はもう音楽も自転車も辞めるよ。もう誰にも迷惑はかけねえと約束する」

 

「待ちな。俺がここに全員集めたのは、そんな台詞を聞くためじゃねえぜ」

 

 ビートライダーズの引退宣言を、何故かマーロウが止める。

 

「マーロウさん、何を……」

 

「那智、お前は勘違いしてることがあるぜ。

 俺が受けた依頼はビートライダーズが何を求めているのか、何が目的なのかの調査。

 そいつを俺はまだお前に完璧に報告してねえ。お前はまだ真実を知らない」

 

「真実……?」

 

 那智も、天も、ビートライダーズも。全てを知っていたわけではなかった。

 

「那智、お前の後輩がビートライダーズと接触して軽い怪我をしたのはいつだ?」

 

「え? それは……最近、では」

 

「二週間以上前だ。ビートライダーズが暴走を始める前なんだよ」

 

「!?」

 

「ビートライダーズの暴走のせいでその後輩が怪我をしたっていうのは、根本的に矛盾してんだ」

 

 今全ての真実を知る者は、マーニーとマーロウのみである。

 

「変だと思ったんだ。

 那智から聞いた接触事故の話を、俺は聞いた覚えがなかったからな。

 街中でそんな危険な事件の届け出が出されていたなら、噂になってない方がおかしい」

 

「い、いや! そんな前というのはおかしいはずです!

 本人がそういった理由で怪我をしたなら、二週間も報告しないはずが……」

 

「そうさ。お前の後輩は怪我をした後、ビートライダーズを庇って何も話さなかったんだ」

 

「―――!?」

 

「だから事故現場を見た人間の噂話だけが流れた。

 噂話は遠回りして、二週間かけてお前の下に辿り着いた。

 お前に話した奴もそれが二週間前の事件のことだなんて思ってなかったんだろうがな」

 

 例えばの話だが、「今日○○先輩が車に轢かれたんだって!」という噂があったとする。

 この噂話は文を省略され「○○先輩が車に轢かれたんだって!」という形で話される。

 噂話は何月何日何時に起きた、という部分を省略してしまうことが多い。

 人から人へ伝わる過程で情報は欠損していってしまう。

 

 那智も、その話を聞いていたマーロウも、ビートライダーズの暴走時期のことを詳しく知らなかった天も、那智の後輩はビートライダーズが暴走していたせいで怪我してしまったのだ、という誤解を持ってしまったのだ。

 

「俺もお前の話を聞いた時、完全に錯覚してたぜ。

 ビートライダーズの暴走が始まった後に、お前の後輩が怪我させられたんだ、ってな」

 

「で、ですが、それを何を意味するのでしょうか?」

 

「ビートライダーズが暴走を始めた後、直接的には誰も怪我させていない、としたら?」

 

「―――」

 

「ライブハウスはビートライダーズが勝負を挑んだ。

 それにキレた他のバンドがビートライダーズを殴った。

 ビートライダーズだけに怪我人が出て、噂が広がる。

 『あいつらが他のバンドに喧嘩売って怪我人が出たぞ』って噂がな」

 

「!」

 

 ビートライダーズの行動の結果怪我人が出た、という部分は間違っていない。

 だが明らかに、人から人へ伝わる時に情報が欠損した跡が見える。

 

「自転車の方の怪我人は言うまでもねえな。

 ビートライダーズに勝とうと張り切りすぎてコケた奴が原因だ」

 

 那智の依頼にはある問題があった。

 それは、街の噂に聞いたこと、そして学校で聞いたことを、細かな事実確認もしないまま依頼の動機にしてしまったことだった。

 

「ま、待って下さい! 話を整理させて下さい!

 何故、怪我させられた俺の後輩はビートライダーズを庇い、事実を黙っていたんですか!?」

 

「マーニーが確認を取った。その少年は、ビートライダーズのファンだったんだとよ」

 

「―――え」

 

 那智が呆けて、今度はビートライダーズが慌ててマーロウに食って掛かってきた。

 

「ふぁ、ファン!? オレ達のライブなんて満員になったこともないのに!? あの子が!?」

 

「どんなアマチュアだろうが音痴だろうが、ファンは付くもんだろ。

 ファンは一人かもしれないし、百人かもしれない。

 だが居るって事実だけは変わらねえ。この少年は、お前らのファンだったんだ」

 

「ファン……オレ達が怪我させてしまったあの子が……」

 

 信じられないくらい才能が無い歌手にだって、ファンは付くものだ。

 ビートライダーズは音痴ではないので、尚更ファンは付いていたことだろう。

 

「罪悪感が増したか? そうだよな。

 お前らは街を走ってる時にその子を軽く怪我させてしまった。

 その罪悪感から、ビートライダーズを解散して引退するって決めたんだもんな」

 

「―――」

 

 ビートライダーズが目を逸らし、那智が顔を上げ、ビートライダーズに掴みかかる。

 

「おい! 今マーロウさんが言ったことは本当か!」

 

「……ああ、本当だ」

 

「お前は……お前達は、人を軽く怪我させたことだけを理由に、引退を決めたっていうのか!?」

 

「子供に怪我させた後に、平気でビートライダーズ続けられるほど、俺達は面の皮厚くねえよ」

 

「―――っ」

 

「人に迷惑かけても平気で続けられるほど、立派な趣味でもねえしな……」

 

 時系列順に並べてみれば分かりやすい。

 

 まず、ビートライダーズがファンの子をそうと知らずに自転車で怪我をさせてしまう。

 子供に怪我をさせてしまったビートライダーズは償いのため、解散と引退を決意。

 最後を綺麗に締めようとするが、不運が重なって綺麗に最後を飾れないばかりか、変な噂が広がって街の人から嫌われてしまう。

 そして怪我をさせられた子供が事実を隠したため、噂話での情報の劣化や、口下手な天が那智に必要だった情報を言いきれなかったため、誤解が更に広がってしまった。

 

 那智は以前からあったビートライダーズの暴走により、最近後輩が怪我をしたと勘違いした。

 天はビートライダーズの暴走はもっとずっと前からあったのだと勘違いした。

 マーロウもフィルターのかかった情報のせいで、最初は勘違いしていた。

 

 今回の依頼に至る事情は、そういったややこしい流れの中に隠されていたのである。

 

「これが真実だ、那智」

 

「……これが、真実」

 

 那智が肩を落とし、顔を覆う。

 ビートライダーズを勘違いし、後輩の意を汲み間違えた結果がこれだ。

 体育会系で真っ直ぐな性格なのはいいが、今は彼も自分を見つめ直したい気分だろう。

 

 落ち込んでいるのは那智だけではなく、ファンを怪我させてしまったと知ったビートライダーズも同じ。

 マーロウは彼らへのフォローも忘れない。

 

「そんでもってビートライダーズ。

 怪我させた子がお前らのファンだと知らなかったお前らにも、サービスだ」

 

「サービス……?」

 

「お前らも那智と同じで一応、俺の依頼人だからな」

 

 マーニーのポケットの中から、緑色のカエル――メモリガジェット・フロッグポッド――が跳び出して来て、マーロウの手の中に収まった。

 

「お前らが怪我させた子のメッセージが、このカエルに録音されている」

 

「!? ほ、本当か!?」

 

「頼むぜ、フロッグポッド」

 

 サウンドレコーダー型メモリガジェットが、話の渦中に居た那智の後輩の声を、その場の全員に聞こえるように響かせる。

 

『那智先輩、ごめんなさい。マーニーさんに聞きました。

 僕が変に隠したせいで、那智先輩にも無駄に時間を使わせてしまって……ごめんなさい。

 でもビートライダーズの皆さんは悪くないんです。僕が車道に寄りすぎてしまっていて』

 

「違う! オレ達が、ロードバイクで歩道に寄りすぎていたから……!」

 

『ビートライダーズの皆さんも気にしないで下さい。

 悪いのは僕です。僕の不注意で皆さんにはとても大きな迷惑をかけてしまいました』

 

 それはこの事件に関わった者達の罪悪感を加速させるものであり、同時にこの事件を終わらせる最後の一撃となるものでもあった。

 

『……レコーダー越しで、卑怯だと思います。

 でも言わせて下さい。僕は一人のファンとして、皆さんに解散して欲しくないです!』

 

「―――」

 

『マーニーさんが、反論を許さないためにこうして伝えるのが一番だと言っていたので……

 ……迷いましたが、こうしました。

 僕はビートライダーズの引退に反対するファンの一人です。

 一方的に言葉を伝えるなんていいことではないと思いますが、これが僕の精一杯の気持ちです』

 

 那智も依頼人。

 ビートライダーズも依頼人。

 だからマーロウは、依頼人のためにやれることを全てやった。

 

『次のライブ、楽しみにしています』

 

「ああ、ああ……解散も、引退もしない。少なくとも、君がまた来てくれるまで……!」

 

 涙ぐむビートライダーズが何人も見える。

 後悔と嬉しさが入り混じった涙だった。

 夢破れることを決めて進んだ先で、ファンが夢を繋いでくれたから流れた、そんな涙だった。

 ビートライダーズを敵視していた天も、少し後悔した面持ちで、ぼうっと呟く。

 

「怪我をさせてしまったことは悪いことかもしれない。

 その後、最後を綺麗に飾ろうとして周りに迷惑をかけたのは悪いことかもしれない。でも」

 

 その手が、ぐっと自転車のハンドルを握る。

 

「自転車が好きな人間が、それを捨ててまでケジメを付けようとする気持ちは、その辛さは……」

 

 ハンドルの感触が、舞城天にビートライダーズがつけようとしていたケジメの重みを、しかと伝えていた。

 

「……私にも、分かる」

 

「ん、そうだな」

 

 各々が泣いたり後悔しているこの空間の中心で、マーロウがよく通る声を上げる。

 

「このカエルに声を吹き込んだ子は、自分の罪を数えたわけだ」

 

 皆の注目を集めて、マーロウは促す。

 

「人に迷惑や苦労をかけた奴!

 噂を信じて変な疑いかけちまった奴!

 自分の罪を数えたんなら、まずここですることがあるよな?」

 

 まずは謝って、それからだと促す。

 疑ったことを、酷いことを言ったことを、迷惑をかけたことを各々が謝り合う。

 ちゃんと謝って、謝られて、それがおかしくてくすっと誰かが笑った頃には、後悔と涙を塗られたこの場の雰囲気は、すっかり明るいものになっていた。

 

「よし、これで手打ちだ!

 怪我させた子にも謝ったら、そこで全部終わりにしようぜ。お前ら変に引きずるなよ?」

 

 街は人が居なければ空虚な箱となってしまう。

 人が居て初めて、街は宝箱になる。

 マーニーは、彼が見ている宝箱(まち)の中にどれだけ多くの宝物が入っているのか、ちょっとだけ見てみたい気持ちになっていた。

 

 

 




 観客席にはマーロウが歩道橋を渡るの手伝ってあげたお婆ちゃんとか、切符の買い方を教えてあげた小学生とか、不良に絡まれてたところを助けてあげたOLとか、仕事サボって来ている顔見知りの警官とか、猫とか、住職とか、小学生カップルとか、変装した如月アリアとか、まだちょっとギクシャクしている双子の兄弟とか、そういう人達がこっそり居ました


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突き抜けるT/タフガイなパパ

 ロイド・インベスティゲーションにその日舞い込んだ依頼は、まさに街をすり抜ける一陣の風だった……と、マーロウは脳内でナレーションをする。

 

「最近引っ越して来た二つの家族を調べて欲しい?」

 

「はい。とはいっても、自分も最低限の近所付き合い程度にしか知らない家なんですが」

 

 依頼者は井上と名乗る、神経質そうな雰囲気と優しそうな顔つきを持つ男だった。

 少し話した感じでは、他人のことを気にしすぎる優しい男、という印象を受ける。

 彼の依頼は、最近近所に引っ越してきた木村という家族と、林という家族について、調査して欲しいというものだった。

 

「見た感じの印象だと、親が三十代、子が小学生……に見えます。

 彼らは山間の田舎の家から出て来たらしいんです。

 人も居ない、物もない、店もない。

 派出所もなく、食べるものを買うだけでも車で片道一時間以上かかるようなところから」

 

「ヤバい限界集落みたいなところだな……

 そんなところに若い親子が住み続けていたなんて今時珍しい」

 

「そう! そうなんです! 自分もその話を聞いた時はそう思ったんですよ!」

 

 信号も無いような道を車でかっ飛ばして一時間以上、それも『品揃えがいい店』ではなく『最低限食べ物が売ってる店』まで一時間以上かかるとなれば、相当な田舎だ。

 現代でも携帯電話の電波が届かないほどの田舎である可能性が高い。

 マーロウはそんな所に若い家族が居たことに物珍しさを感じたが、話を先に進めさせた。

 

「二つの家族の家族構成は両方共に父親と息子のみ。母親は居ないらしいです」

 

「父子家庭というわけですね。それで、何故我々に依頼しようと思ったのですか?」

 

「二つの家族がすれ違う時、異様な雰囲気があるんです。

 上手く言葉にできない、背筋がゾッとするような雰囲気が。

 こう言うと笑われてしまうかもしれませんが……『殺気』が、あったような気がするのです」

 

 殺気とはただごとではない。

 木村という父子家庭と、林という父子家庭。

 まだ何も事件が起こっていないのなら、警察も動いてはいないだろう。

 依頼者の井上も"何か起こるかもしれない"とは思っているだろうが、"必ず何か起こる"という確信は持っていないに違いない。

 だからこその、探偵への依頼だ。

 

 依頼者は探偵に二つの家族の写真と、その二つの家族が元々住んでいたという村の住所のメモを渡して頭を下げる。

 

「それが彼らのプライバシーに関わるものであったなら、私に報告する必要はありません。

 そちらの方で握り潰して貰って結構です。勿論その場合も、依頼料はお支払いたします」

 

 依頼者は真実が知りたいわけではない。

 問題が無いならないでいい。問題があるなら警察への通報でいい。

 彼が求めているのは、真実ではなく平穏だった。

 

「分かりました、お引き受けします」

 

 ロイドが依頼を受け、探偵事務所の三人で挑む依頼が始まった。

 

 

 

 

 

 ロイド、マーロウ、マーニーはまず木村家に向かう。

 林家の父親は今日は休日出勤中で、親子揃っているのは木村家だけという話を聞いたからだ。

 ロイドの車で木村家に向かい、家の前の塀でグローブとボールを用いて壁当てしている子供を発見し、マーロウは子供の方へと向かう。

 

「マーニー、オヤジさん、先行っててくれ。俺はこの子にちょっと話を聞いてくからさ」

 

「気を付けてね」

 

 大人が隠していることを子供がポロッとこぼすこともある。

 子供に聞きに行くのは悪くない選択だ。

 依頼対象に探偵が探っていると気付かれないのであれば、ある程度踏み込んだ調査をするのも探偵の動きとしてはアリだろう。

 

 ロイドとマーニーは車を止め、ロイドは車の中から気付かれないよう木村家周辺を開始。

 マーニーはその辺りを歩いて調べつつ、ロイド同様気付かれないように木村家を覗く。

 近場に高台と公園があったため、そこから双眼鏡を使えば家の中を覗くことができた。

 

(父、母、子で家族三人の写真。背景は山?

 飾ってあるのは家族三人の写真だけで、父子だけの写真はない。

 お母さんが亡くなられたのが最近? それともお母さんのことを忘れないように?)

 

 家の中にはポツンと置かれた写真立てがあった。

 特におかしなものではないが、マーニーはそれが妙に気になる。

 家財道具や庭の状態から引っ越してすぐであるということも分かった。

 

(家に引っ越してきたのが最近というのは間違いなさそうだ。

 引っ越しのきっかけも最近あった何かなのかもしれない。

 なら最近まで車で片道……二時間くらい? の距離を移動して、子供を小学校に送っていた?)

 

 険悪になった切っ掛けはここから見ている分には見当たらない。

 マーニーは個人的に父子家庭での虐待も疑っていたのだが、家の中の状態からもその可能性は排除された。

 

(街中なら何かあれば目撃者が居てもおかしくない。

 でも田舎なら?

 そこで起こったことが当事者以外の誰に知られてなくてもおかしくはない。

 同じ場所から二つの家族が引っ越して来たなら、仲違いの原因はそっちで起きたことかな)

 

 木村家の父は、何故か林家がある方向を警戒している。

 家の前で壁当てをしている息子とマーロウがキャッチボールを始めたのもチラッと見ていたが、林家がある方向しか警戒していない。

 露骨に警戒心の配分がおかしい。

 とはいえ警戒心があるのは確かなことで、これでは探偵の仕事も少々やりづらい。

 

(なんでか警戒してるなー。

 これだと気付かれないように調べられる場所が限られちゃう。

 台所くらいしか……ん? 包丁は有るけど、フライパンが無い?

 一番多用してる痕跡があるのは、レンジと電気ポット、それにヤカンか……)

 

 台所は料理の道具を壁に並べられる、一応棚にも入れられる、そういう構造になっていた。

 木村家は料理道具を全て壁に並べているようで、ほとんどの料理道具は壁に見えるのだが、包丁が見えるのにフライパンはない。

 マーニーの家も父子家庭だ。家事を普段からやっている彼女には、なんとなく気になるものが見えているらしい。

 

「ナイスボール! いいぞその感じだ! 投げる時はそんなに足開かなくてもいいぞ!」

 

 真面目に気を張って分析していたマーニーだが、木村家の方からマーロウのよく通る声が聞こえてきて、なんだか気の抜ける心持ちになってしまう。

 しかも子供から話を聞くため、子供の心を開かせるために始めたキャッチボールに熱中しすぎたらしく、家から出て来た木村家父と顔を合わせてしまっていた。

 

(探偵が調査対象者と会ってどうすんの!)

 

 マーニーは心中にて叫んだ。

 

「すみませんね、うちの息子が」

 

「いえいえ、俺は子供が一人で遊んでるのが気になっただけですんで」

 

 これでマーロウは迂闊に行動できまい。

 何度も彼に姿を見られれば、"最近うちの周りをうろついている怪しいやつ"と認識されて調査に参加することが難しくなってしまうからだ。

 マーロウは取り繕って、子供にひと声かけて立ち去っていく。

 

「忘れんなよ坊主!

 キャッチボールは自分の気持ちを投げて、相手の気持ちを受け止めるんだ!」

 

「うん!」

 

 去り際のマーロウのその言葉が、異様に危うい雰囲気を纏っている木村家の父の心に、不思議な感傷を引き起こしていった。

 

「……気持ちのキャッチボール、か」

 

「パパ?」

 

「なんでもない。そうだな、もう最後なんだ、お前とちゃんと遊んでやるべきか」

 

 父と子は一緒に遊び始め、マーロウはマーニーに電話で怒鳴られ呼び出される。

 

「もう何やってんの!」

 

「悪いな、収穫もあんまりねえ。

 核心的なところを聞こうとするとあの子だんまりでな。

 時間かけて心開いてやらないと、本当のところは何も教えてくれなさそうだ」

 

「しかも収穫なしって!」

 

「ただ、何かあるってことは確信が持てた。これは依頼人の勘違いじゃなさそうだ」

 

 む、とマーニーは口を噤む。

 

「子供が

 『お父さんは正しいんだ』

 って自分で言い聞かせるように言ってたんだ。

 普通に暮らしてる子供の口からは、滅多に聞かない台詞だと思うぜ」

 

 事件が起こるか半信半疑だった彼らが、事件が起こる可能性をしかと認識した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 二人仲良く公園から見張りをする二人をよそに、ロイドは車内で警察の人間と連絡を取っていたらしい。

 "警察から面白い話を聞けた"と、ロイドに二人は呼び戻され、車に乗って動きのない木村家から離れていた。

 

「警察に毛利って知り合いがいるんだ。

 確認を取ったが、特に事件の報告があったわけでもないそうなんだ」

 

「今のところ手がかりになりそうな事件はない、と」

 

「だが、依頼の時に調査対象が居た村の場所を聞いただろう?

 その村のことを話したら面白い話が聞けたんだ。

 どうやらその村の老人が何人か、痴呆症などを理由にこちらに運ばれて来たらしい」

 

「なるほど、その人らに話を聞ければ……」

 

「ここに引っ越してくる前にあった出来事を、聞けるかもしれないね」

 

 運転席のロイドの話を聞きながら、マーロウは助手席で腕時計(スパイダーショック)の時間を確認する。

 

「田舎の村の方には既にバットショットを飛ばしてます。

 距離を考えれば、もうそろそろスタッグに画像送信できる距離まで戻って来てるはず……」

 

 バットショットは最高速を維持できれば、一時間ほどで片道60kmの道のりも往復可能なほどの速度で飛行する。

 車で山中を走って一時間以上かかるような田舎村も、あらゆる信号・渋滞を無視し、曲がり道も回り道も無視できるバットショットならもっと早く着けるだろう。

 バットショットは村全体を動画・画像でくまなく保存し、それを持って帰還する。

 

「マーロウ、バット君戻って来たよ」

 

「おお、戻って来……まさかお前、ゆりかのせいでそのあだ名定着仕掛けてるとかないよな」

 

 バット君のために窓を開け、飛び込んで来たバット君を操作し、画像と動画を確認してマーロウは目を見開く。

 

「ロイドさん、マーニー、この村……既に廃村だ。人っ子一人見えやしねえ」

 

「「 ! 」」

 

 誰も居ない村。

 病院に運び込まれた痴呆老人。

 殺意すら感じるほどに険悪な二つの家族。

 ロイドはハンドルを握る力を強め、病院に到着してすぐに二人を降ろした。

 

「これは思ったよりヤバい案件かもしれない……二手に分かれて調査を急ごう。

 僕はこの廃村に向かってみる。マーニー、マーロウ、病院での聞き込みを頼めるかな?」

 

 病院での老人への聞き込み、村での現地調査。

 ここで必要になるのは、離れていても発揮される連携力。

 

「マーニーにおまかせを」

「分かりました。ボケ老人相手に聞き出せるか分かりませんが、やってみます」

 

「頼んだぞ」

 

 ロイドは半分閉じた車窓から拳を突き出し、マーロウの胸に軽く当てる。

 

「マーロウ、くれぐれもマーニーを頼む」

 

「オヤジさんに貰ったこの名前にかけて、必ず」

 

 父親から娘を預かったという責任感を胸に抱き、車椅子を押すマーロウ。

 休日だからか、患者を入院させる設備も整っているその大病院は、かなりの数の人でごった返ししていた。

 

「私が受付行って病室聞いてくるから、マーロウはちょっと待ってて」

 

「ああ」

 

 対人演技・会話能力・嘘をつく技能で言えば、マーニーはマーロウの数段上を行く。

 素の自分で接して仲良くなる技能ならマーロウの方が上だろうが、嘘をついて入院患者の老人に話を聞ける状況を作るなら、マーニーが話した方がいいだろう。

 マーロウはマーニーを常に視界に入れつつ、病院内をうろつく。

 

「って危ねえ!」

 

 が、そういう時にも誰かの危機に駆けつけてしまうのが彼だ。

 階段から落ちそうになっていた車椅子と子供が目に入り、考える前に彼の体は動いていた。

 高い瞬発力が風のように体を動かし、ひっくり返った車椅子から落ちて来た子供を受け止める。

 そして階段上に跳ぶように現れた白衣の男が、車椅子を上から掴んで落ちるのを止めた。

 

 この手の車椅子落下事故は、重い車椅子ともみくちゃになって階段を落ちて行くので、本当に凄惨な事故現場になることが多いのだが、マーロウと白衣の男のおかげで子供には傷一つ付いていなかった。

 

「ひゃ、ひゃっ、あ、ありがとうございます……!」

 

「せ、セーフ……!」

 

「セーフ、セーフ……!」

 

「あ、あんた、ここで働いてる人か。助かったぜ」

 

「いえ、こちらこそ助かりました……」

 

 車椅子の子が礼を言い、マーロウと白衣の男も礼を言い合う。

 

「階段の近くでは気を付けなよ、って皆いつも言ってたよね?」

 

「す、すみません、ぼくよそ見してて……」

 

 どうやら白衣の男はここで働いている人間らしい。

 子供を軽く叱って、子供をしょんぼり反省させていた。

 子供を叱った後は、マーロウに頭を下げてくる。

 

「すみません、こちらの監督不行き届きで……」

 

「あんたのおかげで助かった命だ。胸張っていいと思うぜ」

 

 謝る彼の肩を叩き、マーロウがそのインターセプトを褒め称えると、横合いから子供が飛び出してきた。

 顔つきが白衣の男によく似ている。親子なのかもしれない。

 

「そうだよパパ!」

 

「お前のパパか? もっと褒めてやりな。この人は今、一つの命を救ったんだ」

 

「いや、そんなに褒められると……まいったな……」

 

 照れる白衣の男を尻目に、車椅子の子は去っていく。

 

「本当にありがとうございました!」

 

 子供の言葉に少し売れそうに鼻下をこするマーロウだったが、その時不意に白衣の男が胸に付けたネームプレートが目に入り、事務所で見た写真を思い出した。

 服が違うからすぐには分からなかったが、この男は……

 

(……こいつ、さっき行った家の親子と険悪だっていう、林家の親子じゃねーか!)

 

 しかもよく見ると、木村家の父親に感じた危うい雰囲気をこの男からも感じる。

 依頼者が言っていた「殺気があった」という評価にも納得の雰囲気だ。

 またしても調査対象にうっかり見つかってしまったマーロウは、林家の親子との会話を打ち切るべきか、ここで深く探るべきか、一瞬迷う。

 直感は探るべきではない、と言っている。

 

「当病院には誰かのお見舞いでいらっしゃったんですか?」

 

「あ、ああ。まあな。そっちは子連れで仕事してるのか?」

 

「いえ、私はここでの仕事。この子は見舞いを終えて帰るところです」

「うん!」

 

 そして直感を信じ、会話を打ち切った。

 

「ありがとうございました、それでは」

 

「じゃーね帽子のお兄さん!」

 

 ああ、これはあいつに怒られるだろうな、とマーロウは思った。

 親子と別れ、振り返ると、少し離れた場所で他人のフリをしているマーニーが居た。

 マーニーは責めるような目つきで、マーロウを見つめていた。

 

「……だから調査対象者と顔合わせるなと……」

 

「俺としたことが、こうも連続にうっかりミスっちまうとはな」

 

「……マーロウは、大一番以外では結構うっかり多くない?」

 

「言うな!」

 

 またしても調査対象者に見つかったマーロウに呆れ、マーニーは窓の外を見る。

 八月の空から、ぽつぽつと雨が振り始めていた。

 

 

 

 

 

 雨粒が数を、大きさを、勢いを増していく。

 痴呆で入院した老人から話を聞くことは難しかったが、マーニー&マーロウのコンビにかかれば一時間半ほどあれば十分だ。聞きたいことはまるっと聞けた。

 ロイドも車を飛ばしたおかげか、現地での調査を既に終えたらしい。

 マーロウとロイドは、電話で情報交換を行う。

 

 マーロウは真実に辿り着いていた。

 ロイドも真実に辿り着いていた。

 だから情報交換はただの確認作業でしかない。

 確認作業を経て確信に至る。彼らが辿り着いた真実は、やはり同一のものだった。

 

「……マジっすか。警察には?」

 

『連絡してある。これはもう、本来探偵だけで丸く収められる事件じゃないな』

 

「ですが俺達も放ってはおけねえ。依頼を途中で投げ出すわけにはいかねえはずです」

 

『……かも、しれないな』

 

「今ガジェットを全部動かして二つの家族を探してます。まだ見つかってませんが」

 

『マーニーは?』

 

「俺の近くに。流石にこの状況でマーニーを一人にさせるのは怖いんで」

 

『そうか。娘を守ってくれてありがとう』

 

 この事件が始まってから、どうにもロイドの様子が変だとマーロウは感じる。

 言葉のニュアンスや、行動の選択がどうにも違和感を感じるのだ。

 特にマーニーに対する行動や言動にマーロウは特に大きな違和感を覚え、ロイドが娘のことを特に意識しているのでは、と推測してしまう。

 

「何かあったんですか? それともこの事件に何かあるんですかね?」

 

『どういうことだい?』

 

「ロイドさんの様子が、なんつーかおかしかったんで」

 

 気にしなくてもいいことを気にするから、"自分には関わりのないことだ"と切り捨てられないから、ハーフボイルドと天に呼ばれてしまったのだというのに。

 心配そうにマーロウが声をかけてくるものだから、ロイドは電話越しに苦笑してしまう。

 

『彼らが両方共に父子家庭だから、他人事に思えなかったのかもしれないな』

 

 面と向かっては話せなくても、電話越しになら話せることがある。

 

『僕は昔酷い父親だった。

 いや、今も変わらないかもしれない。

 昔警察官だった僕は、その仕事に誇りを持っていた。

 妻も僕も仕事に熱中しすぎた挙句、幼いマーニーを家に一人残してばかりだった』

 

「最低だったんすね」

 

『うっ、ストレートに言うなぁ』

 

「ロイドさん自身が最低だと思ってるんじゃないですか?」

 

『……それもそうだ。君の言い分は正しい。

 娘の呼びかけを鬱陶しく思って、怒鳴ってしまったこともあった。

 あんな最低なことを平気でしていた僕は……正義の味方気取りで居たんだろう、きっと』

 

 正義の味方は優しさを忘れてはならない。流れる涙を見逃してはならない。

 そうでなければ、正義の犠牲になった者は泣くしかないからだ。

 ……ロイドが語ることはないだろうが。ロイドが娘を任せるほどにマーロウを信頼する理由は、()()にあった。

 

『そんな時、"メカニック"って犯罪者が起こした事件にマーニーが巻き込まれたんだ』

 

「メカニック?」

 

『記憶喪失の君は知らないだろうな、その名前を。

 それが引き金になって、僕は妻と別居した。

 僕は部下を殺された責任を取って警察を辞めた。

 今の事務所、町外れのボロ屋だった所に引っ越さないといけなくなった。

 マーニーはよくないものを色々と見てしまって……笑えなくなってしまっていた』

 

「……」

 

『マーニーが笑うようになったのは、ゆりかちゃんと会うようになってからだ』

 

 自責の念。ゆりかへの感謝。妻への複雑な感情。マーニーへの罪悪感。正義への後悔。

 電話越しにも伝わる複雑な感情が、マーロウに"彼という父親"を理解させていく。

 マーロウはロイドをお人好しで穏やかで娘を溺愛する父親、という印象を持っていた。

 だが彼はそうなるまでに、随分と遠回りをしてしまっていたようだ。

 

『だから決めてるんだ。

 子供を泣かせる親を見逃さないようにしようと。

 泣いている子供が居たら、それを見過ごさないようにしようと』

 

 ロイドは探偵として、父親として、本気でこの事件に臨んでいる。

 マーロウは、それが何故だか嬉しかった。

 

「ハードボイルドですね、オヤジさん」

 

『……ありがとう、マーロウ』

 

 通話を切って、窓際から外を見る。

 雨脚は段々と強くなってきていた。

 夏場のじめっとした空気が、陽光を遮る分厚い雲が、不快指数を跳ね上げる雨が、無性に不安をかき立てる。

 

「パパとの電話終わった?」

 

「おう、終わったぞ」

 

 マーニーはマーロウと話したそうに近寄って、開けた窓に近寄ったところでマーロウに押し戻される。

 

「もうちょい下がれ、雨が当たる。女の子が濡れてもいいことねえぞ」

 

「おっ、その行動はポイント高いよ。普段からできれば」

 

「何のポイントだよ……」

 

 だがマーロウの視線はマーニーの頭部に向かう。

 

「しっかしお前の頭湿気で凄いことになってんな。モンジャラみてえだ」

 

「どーしてそういうデリカシーの無いこと言うかなこのハーフボイルド!」

 

 だからお前はモテないんだ、と暗に言うマーニーのハーフボイルド呼びに、「なにおう」とマーニーは食って掛かる。

 

「……パパ、何か言ってた?」

 

「推理の答え合わせ。それと、お前を守ってくれってよ」

 

「そ」

 

「何があろうとお前は守るさ。お前が大怪我でもしたら、涙を流す奴が多過ぎる」

 

 マーニーは少し嬉しそうにして、けれどそれを隠すため、話題を戻すフリをして話題を変える。

 

「パパの話だけどさ、昔は『僕』とか言ってなかったんだよね」

 

「そうなのか?」

 

「今でも昔の知り合いに会う時は『オレ』って言ってたり」

 

「へぇ……」

 

「パパは気にしいなのさ。昔のことをずっと気にして、引きずってる」

 

「……」

 

「私はパパのことを嫌いだと思ったことはあったけど、好きでなくなったことはなかったのに」

 

 プラスの感情は、マイナスの感情が生まれたからといって消えるわけではない。

 マイナスの感情は、プラスの感情から生まれることもある。

 人はシンプルな想いだけでは生きられない。

 

「パパとママの道は別れちゃったけどさ。

 でもパパもママも、互いへの愛が無くなったわけじゃない。

 ただ、そのまま一緒に居たら両方共幸福になれなかった。それだけなんだ。

 子供の頃の私はそれが分からなくて、納得できなくて、何度も癇癪起こしてたなあ……」

 

 ロイドとマーニーは、最初から何の欠点も無い親子関係ではなかった。失敗があり、間違いがあり、罪があった。罪を数えて、償いと反省の先に出来上がった親子の関係があった。

 

「でも今は、そうじゃない。そうだろ? マーニー」

 

「もう何年も前のことさ。マーロウとも出会ってないくらい前、何年も前のこと」

 

 ロイドとマーニーという父子は、木村と林という家の父子を救おうとしている。

 マーロウは探偵親子のその意志を、絶対に形にしようと決意している。

 彼の手の中でスタッグフォンが震えた。

 デンデンセンサーが雨の中、調査対象者を見つけて知らせてくれたようだ。

 

 こんな雨の日には、カタツムリの活躍がよく似合う。

 

「見つかったぞ。さあ、止めに行くぜ」

 

 雨の中、二人は傘を握って踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「入院した村の老人の話と、パパが村で見つけた日記が、私達に真実を教えてくれた」

 

「村っていうのは、時に壁が無いだけの閉鎖空間になってしまう」

 

「村八分という言葉があるように、閉じた空間は世界から切り離された異常な世界を作る」

 

「その村もそうだった……らしい。私は、それを直接見たわけではないけれど」

 

「始まりは村に残った二つの家族の対立だった」

 

「村が好きで最後まで残った若い夫婦を含む、二つの家族。家族構成も同じだった」

 

「祖父母が一組、夫婦が一組、そして息子が一人。木村家、林家、両方の家族がそうだった」

 

 

 

「最初は木村家がきっかけだったらしい。木村家の祖父母が林家の家族を不快にさせた」

 

「でもそれは個人の感性で判断が別れる程度のもので、木村家は悪口を言ったつもりは無かった」

 

「そして林家が嫌味を返す。木村家からすれば、突然の悪口だ。不快になったことだろう」

 

「悪口はエスカレートし、互いの家族が互いを憎み合うまでになった」

 

「そして、その日が来た。林家の祖父母が、木村家の車の鍵を肥溜めに捨てたんだ」

 

「店も無い田舎だ。買い出しに使う車を使えなければ、餓死するしかない」

 

「林家の祖父母は、それで木村家が泣いて謝ると思っていた」

 

「自分の家の、林家の車を借りに来ると思ってたんだ。それで鬱憤を晴らそうとした」

 

「でも、違った。木村家の祖父母は、それを林家の殺害宣言だと受け取った」

 

「飢えて死ねと言われていると、そう思ったんだ」

 

「だから木村家の祖父母は、林家の祖父母を殺した。殺される前に、殺したんだ」

 

「おそらくは、自分の家族を守るために」

 

 

 

「木村家の祖父母が林家の祖父母を殺した。

 その反撃で、林家の奥さんが木村家の祖父母を殺した」

 

「鍵を肥溜めに捨てたくらいで人を殺すなんて、ともっともらしい理由を付けて」

 

「林家の奥さんが木村家の祖父母を殺した。

 だから、木村家の旦那さんと奥さんが林家の奥さんを殺した」

 

「もうここまで来るとパニックだ。

 『あいつらが悪いのに』『家族が殺された』『殺される前に殺さないと』

 とほぼ全員が思っていただろうね。そしてこの村に、暴走を止める警察は居ない」

 

「林家の旦那さんは、ここで切れた。

 愛する妻を殺された林家の旦那さんは、木村家の奥さんを殺し返した」

 

「両方の家の祖父母と奥さん、合計で六人が死んだ。

 パパの調べによると、家の裏に埋められた六人分の死体が見つかったらしい」

 

「もう警察にもそれは通報された。明日には大変なことになっているだろう」

 

「心的ショックで痴呆が進んだケースもある。

 痴呆老人の入院は、この惨劇を見てしまった心的ショックが原因だったんだ。

 事件の目撃者の総入院。これが最終的に村から全ての人を消すトドメになった」

 

 

 

「林家の旦那さんは、ここでほんの少しだけ正気に戻った。

 だから逃げるようにして村を出て、昔のツテで病院に勤めるようになった」

 

「木村家の旦那さんはそれを許さなかった。

 スペアキーで車を動かし、すぐに林家を追って引っ越しした」

 

「だから木村家には殺人の道具(ほうちょう)はあっても調理の道具(フライパン)は無かった。

 カップ麺やレトルトを作る道具ばかりに使われた跡があった。

 そりゃ当然だね。木村家の方の引っ越しは、突貫工事にもほどがあったんだから」

 

「木村家が追ってきて、林家も腹を決めた。

 こんなにも諦めず追ってきて殺しに来るなら、逆に殺してやるんだ、ってね」

 

「林家は木村家が全部悪いと思ってる」

 

「木村家は林家が全部悪いと思ってる」

 

「互いを憎んで、家族も皆死に、家族の仇すら多くがもうあの世に行っている」

 

「これが真相」

 

「彼らは両方が被害者で、加害者で、復讐者だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨の中、二人の男が対峙する。

 自分が幸せに生きる道も、愛する妻も、目の前の男に奪われた哀れな二人だ。

 木村と林という違いはあれど、それ以外は全てが同じ。

 もはや復讐をしていなければ、彼らは立っていられない。

 

「お前に殺された妻は! 俺の子を身ごもっていたんだ!

 お前は……俺の妻ごと、俺の新しく生まれてくるはずだった子を殺したんだ!」

 

 男が叫ぶ。

 

「お前に殺された私の妻は、物心ついた時から一緒だった!

 最初は幼馴染で、その後が妻で……親よりも長い時間を一緒に過ごした、半身だった!」

 

 男が叫ぶ。

 

「祖父母をお前らに殺された後の、俺の息子の涙が、忘れられない……!」

 

 男が叫ぶ。

 

「まだ親孝行も何もしてなかったんだ! 私も妻も、老人になったあの二人を、ずっと……!」

 

 男が叫ぶ。

 

 プラスの感情は、マイナスの感情が生まれたからといって消えるわけではない。

 マイナスの感情は、プラスの感情から生まれることもある。

 人はシンプルな想いだけでは生きられない。

 家族を強く愛しているものほど、家族を殺されれば大きな憎しみを抱くだろう。

 

 この復讐劇の殺し合いに、正義はない。ハッピーエンドも無い。

 現場に辿り着いたマーロウとマーニーは、彼らにかける言葉を見つけられずにいた。

 雨は降り続いている。

 雨の中、木村と林が包丁を突きつけ合っている。

 マーロウは傘を閉じ、雨のシャワーを防いでくれる帽子に感謝しつつ、閉じた傘をマーニーに渡す。

 

「マーニー、ここを動くな。絶対にあそこに近付くんじゃねえぞ」

 

「……マーロウ」

 

「俺達にできることは……」

 

 マーニーを離れた安全な場所に置き去りにして、マーロウは歩を進める。

 何を言えばいいのかも分からない。

 何をすればいいのかも分からない。

 ただ、何もしないことだけは、その心が許さなかった。

 

 雨に濡れるマーロウが、二人の男の間に割って入る。

 

「何だお前は! ……いや、お前は、息子とキャッチボールをしていた……」

「邪魔をするな! ……あ、お前は、病院で車椅子の子を助けていた……」

 

 包丁を突きつけ合う二人の間に割って入ったマーロウは、二人の包丁を強く握った。

 

「!? ば、バカなことはやめろ!

 そんなことをしたら、下手したら一生消えない後遺症が……」

 

 包丁は動かそうとしてもピクリとも動かない。

 マーロウが包丁を握る手から血が流れ、降り注ぐ雨の中に溶けていく。

 木村と林の脳裏に、自分の家族が殺された時の光景が……『何の罪もない人間が殺された時』の光景が、苦悩と共にフラッシュバックする。

 

「やめろ……やめてくれ……!」

 

 虫も殺せないような人間も、憎しみがあれば人を殺せる。

 逆に言えば、人を殺した人間でも、憎しみを剥げば人を殺す覚悟さえない人間に戻せる。

 マーロウの流した血と赤い想いが、地に流れて彼らの正気を引き戻していた。

 

「あんたらが互いを傷つけようとする限り、俺は間に入って止める。何度も、何度でも!」

 

 この包丁が人を傷つけるために持ち込まれたなら、自分以外の誰も傷付けさせはしない。

 

 それが、マーロウが胸に秘めた覚悟であった。

 

「ただし、覚悟しろよ。お前らの復讐相手と違って、俺は簡単に刺し殺されてなんてやらねえぞ」

 

 二人が気圧され、包丁を手放す。

 マーロウも包丁を手放せば、血塗れになった二本の包丁が、流れた血で真っ赤に染まった泥の中にボチャリと落ちて行った。

 

「い、痛くないのか……?」

 

「痛えに決まってんだろ……だがな!

 あんたらの秘密と家族のことを知った心の痛みに比べりゃ、大したことねえんだよ!」

 

「―――」

 

「こんな痛みをこれ以上増やしてたまるか。あんたらにこれ以上罪を重ねさせてたまるか!」

 

 雨がぶつかるマーロウの顔が、何故か泣いているように見えた。

 手から流れる赤い雫が、何故かマーロウの涙に見えた。

 この男は自分達のために泣いてくれているのだと、木村が思った。林も思った。

 

「根っからの悪党じゃない人が!

 薄汚え欲望で罪を犯したわけでもねえ人が!

 憎しみに背中を押されて罪を重ねちまうなんて!

 ……悲しいだろ! 誰も救われねえだろ! 誰の涙も止まらねえじゃねえか!」

 

 マーロウは、救われて欲しいのだ。

 それが殺人という罪を犯してしまった男達であったとしても。

 悲しみ(なみだ)が拭われる結末であって欲しいと、そう願っているのだ。

 

「その気持ちは嬉しい。だが、もう、止まれるものか……!」

 

 血塗れのマーロウに心を打たれ、されど復讐者達は止まらず、懐からナイフを抜く。

 マーロウは血塗れの手で拳を握り、なおも二人の復讐の刃をその身で止めようとする。

 そんな彼を見かねたのか、マーニーまでもが突っ込んできた。

 

「無茶しないでマーロウ! そういうのホント困るから!」

 

「マーニー! 危ねえからこっち来んなって言ったろ! お前に何かあったらオヤジさんに……」

 

「じゃあマーロウが無茶するのやめなっての!

 パパはマーロウに『大怪我してでもマーニーの安全優先』なんて絶対言ってないでしょうが!」

 

 マーニーはマーロウから預かっていたメモリガジェットを全て起動し、自分の肩や頭や膝の上に乗せている。

 マーロウが救われない者達のためにここに立っているのなら、マーニーはマーロウを守るためにここに居る。

 

「……あ」

 

 そんなマーニーを見て、林と木村は思い出す。

 自分を守ろうとして、自分を庇って殺された妻の姿を思い出す。

 マーロウを守るマーニーの姿が、夫を守る妻の姿と重なった。

 

 復讐心が吹き出すが、復讐心よりもよっぽど大きい悲しみが、心の全てを塗り潰す。

 悲しみが手を止め、足を止める。

 止まった父親の背中に、隠れてこの復讐劇をずっと見ていた二人の子供が抱きついた。

 

「パパ、もうやめて!」

 

「パパ! 嫌だよもうこんなの!」

 

「なっ」

「な、なんで……」

 

 息子にまで止められてしまい、彼らの中に燃えていた復讐の炎は、決定的に熱を失ってしまう。

 そして村から車をかっ飛ばして来たロイドが、遅れて現場に現れる。

 

「頼む。その刃を、下げてくれ」

 

 ロイドは一人の父親として、妻の敵討ちをしようとする二人の父親に、言葉を渡した。

 

「子供はいつだって親の背中を見てる。

 親の失敗を、親がしてしまったことを覚えている。

 あなた達も人の親なら……子供に見せる『父親の姿』くらいは、選んでくれ」

 

 本物の父親にしか言えない言葉。

 心揺らがす、実感のこもった言葉。

 それが、男達の手の内からナイフを滑り落とさせた。

 涙が流れる。

 復讐相手を許してもいない、復讐心も悲しみも消えてはいない、怒りにまだ心を蝕まれている、なのにもう復讐を続けることができなくなった……そんな男達が流す、心の涙だった。

 

「うっ……ううっ……ぐっ……くうぅっ……!」

 

 マーロウはやりきれない顔で、彼らに最後の一言を送る。

 

「あんたらの復讐は終わりだ。……さあ、お前達の、罪を数えろ」

 

 数えられた罪が、いつの日か全て償われることを願って。

 

 

 




 父親の探偵


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Hを傍らに/早すぎるギムレット

 昼休み、校門に車椅子の背をくっつけて弁当を食べるマーニー。

 その隣で校門に背中を預けてパンを食べるマーロウ。

 マーロウに呼び出されたマーニーは、彼の下に届いた二つの依頼の話を聞いていた。

 

「詐欺に関する依頼と裏カジノに関する依頼?」

 

「ああ」

 

 マーロウは腕の大怪我のせいでたいそう食いづらそうにしている。

 

「手伝おっか?」

 

「なぁにこの程度の傷、大したことねえさ。かすり傷みたいなもんだからな」

 

 マーニーが食べさせてやろうかと言っても、強がる彼はその厚意を受け取らない。

 

 マーロウの手は、あと少しで筋や神経を切断してしまうところまで行っていたらしい。

 奇跡的に後遺症が残らない形だったものの、包丁を素手で掴んで止めるという荒業は、それ相応のダメージを彼の手に残していた。

 手に跡が残るか残らないかは回復力次第、とは医者の談だ。

 

 おかげでマーロウの手にはゴツいくらいに包帯とガーゼが巻かれており、マーニーの夏休みが終わってもなお手を自由に動かすことができないでいた。

 事件当日はマーロウが貧血になるくらいの大出血だったという。

 それだけの大怪我で後遺症が残らなかったのは、むしろ幸運だったかもしれない。

 

 その日からは『健康な方が怪我人を心配する』という関係が、マーニーとマーロウの間で逆転したり。

 手が使えないくせにガンガン前に出てマーロウが結果を出したり。

 甘い考えで行動したマーロウのピンチをマーニーとその友人達が助けたり。

 色々とあった一ヶ月であった。

 

「話を戻すぞ。カジノに関する依頼はもうロイドのオヤジさんが動いてる。

 以前如月アリアさんの依頼を受けた時、一斉検挙されたヤクザが居ただろ?」

 

「ああ、居たねえ。もうあれから……四ヶ月くらい経ったんだっけ」

 

「あいつら、裏カジノを経営してたらしい。

 らしいってのは、どこでやってたのかさっぱり分かんねえからだ。

 主が居なくなったそのカジノを、どこぞの不良チームが乗っ取ったんだと」

 

「ヤクザが使ってた『警察に見つからない工作』をそのまま流用してるのかなぁ」

 

「多分な。その場所を見つけて、警察に教える。そういう依頼だそうだ」

 

 アンパンと牛乳しか買っていないマーロウの栄養バランスを整えるべく、マーニーが唐揚げを投げる。唐揚げが綺麗にマーロウの口の中に飛び込み、マーロウの栄養となった。

 

「詐欺の方の依頼は?」

 

「唐揚げご馳走さん。

 そっちの依頼はまだ詳細な内容は聞いてない。

 依頼者は斎藤って言って、酒屋をやっていたそうだ。

 んで詐欺にあって、有り金根こそぎ奪われた……らしい」

 

「どういう手口で取られたかによるなぁ……

 法的な問題だと私達より弁護士向きだし。

 夜逃げした詐欺師を見つけるとかなら探偵の仕事かもね」

 

「ロイドさんは俺達にはこっちにあたってくれってよ。

 依頼者は今日、店の方で俺達を待ってるんだそうだ」

 

「そっか、それなら……」

 

「マーニー!」

 

 校門であれやこれやと話している二人だったが、そこでマーニーに女子生徒が呼びかけてきた。

 マーニーと身長は変わらないが、マーニーより少し細く感じる体格に、目立つそばかすが年相応の少女らしさを印象づける。

 話しかけてきたその少女は、マーロウを見て首を傾げた。

 

「誰々その人? マーニーのカレシ?」

 

「ないない」

 

「はじめまして、だよな? 俺はマーロウ。

 ハードボイルド・オブ・ハードボイルドが何たるかを探求する探偵だ」

 

「ああ、ハーフボイルドの人か。

 話には聞いてるよー、マーニーとか若島津から。

 私は真希田マキ。マーニーのクラスメイトやってます」

 

「……ああっ、ハーフボイルドって呼称が定着してる、俺のハードなイメージが崩れる!」

 

「わぁ、マーニーとか若島津から聞いてた通りの人だ」

 

 もうマーロウの評判は手遅れと言えるかもしれないし、妥当なところに落ち着いたと言えるかもしれない。

 

「で、何々? カジノとか聞こえたけど」

 

「お嬢ちゃんには関係のない話さ。

 俺達探偵が、裏カジノを探して調べ上げなきゃならねえってだけの話だ」

 

「へー、裏カジノ。ねえねえマーニー、それはまた私の助力が必要な奴じゃない?」

 

「悪いがお嬢ちゃん、俺達は遊びでやってるわけじゃ……」

 

「ちょっと待っててねマキちゃん。マーロウ耳貸して」

 

 校門の表側に回り込んで、マーロウの耳元にマーニーが囁く。

 

(なんだ、どうした?)

 

(マキちゃんは何年か前は子供マジシャンとしてテレビに出てたくらいの凄腕でさ)

 

(子供がテレビの前でトチらずマジックか。そりゃすげーな)

 

(彼女のお姉さんは今駆け出しのプロマジシャンやってるくらいなんだ。

 例えばマキちゃんがポーカーでイカサマしたら、私だとまず見抜けない)

 

(マーニーの洞察力でも見抜けないのか? そりゃとんでもないな)

 

(というか、他人のプレイスタイルを分析する洞察力なら……

 悔しいけど、マキちゃんの方が私より上くらいだよ。心まで見透かされそうなくらい)

 

(マジかよ)

 

 マーニー曰く、カードを使うギャンブルという土俵の上でなら、彼女以上の人材は見たことがないほどであるらしい。

 

(マキちゃん隠してるけど、どうもガチな賭けカジノでサマやったことあるフシがあるんだ)

 

(……凄えな女子高生って生き物は。女子高生探偵って肩書きが霞むぜ)

 

(いや正直頼るかどうかはかなり迷うよ。

 イカサマを見抜く能力や、ギャンブル知識は私より凄いし。

 でも時々熱くなりすぎる人だし、裏カジノが絡むなら危険もあるし……)

 

(危険、危険かぁ……そうだよな)

 

「あのさ、ちょっといい? 二人のひそひそ話、全部聞こえてたわけなんだけど」

 

「「 ! 」」

 

 マキが二人の間にひょっこり顔を差し込んでくる。

 

「私が知る限り、二人は周りを見てるけど自分をあんまり見てないタイプなんだよ」

 

「む」

「……む」

 

「でも二人共怪我してるでしょ? 手と足。

 それでいつもの感覚で前に突っ込んでいったら、そりゃ危ないよ」

 

「……それは、まあ、確かに」

 

「でも私が近くにいればあんまり危ないことはできないんじゃない?

 私の安全を考えたらちょっと慎重に動けると思うんだ。

 怪我人二人なんだからいつもよりずっと慎重に動くための枷があった方がいいんじゃない?」

 

「あれ、予想以上にまともな提案が出て来た」

 

 マーロウは手、マーニーは足。それぞれがあまりよい状態ではない。

 

「それにマーロウさんは手を怪我してるんでしょ?

 車椅子は手で押すものなんだから、マーニーの車椅子を押す人、必要だと思うな」

 

「うう、合理性で殴られると反論しづらい……」

 

 微妙に断りづらい感じにグイグイと来る。

 真希田マキにマーニーが押し切られるのも時間の問題だろうと判断したマーロウは、マーニーの代わりにマキの願いを受け入れた。

 

「いいぜ、よろしく頼む、マキ。

 だが一つ条件がある。俺達の指示には、絶対に従うことだ」

 

「もちろん!」

 

「詐欺事件も裏カジノも、どっちも危険がある案件だ。警戒は怠るなよ」

 

 自分達だけでは能力不足だと判断したのか、女に甘いハーフボイルドが発動したのか、マーニーの代わりをやっただけなのか、はたしてどれか。

 

「マーロウ、それは……」

 

「カジノに連れて行かなけりゃいい。

 どうせ俺達は先に詐欺事件の方に当たるんだ。

 あいつが興味津々の裏カジノに関しては、直接関わらせなければいいだろ」

 

「まあそうなんだけどさ」

 

 身の危険さえ無いのなら、よりギャンブルに詳しい者に意見を聞くのは正しい考えだ。

 マーロウはそれに加え、どこぞへと電話をかける

 ……かけようとする。

 手の怪我のせいで、盛大にもたつく。

 

「番号打つだけなら私がやるよ?」

 

「……悪い、頼むわ」

 

 手の平の内側が切れているため、手の平の内側にスタッグフォンが当たると一々傷んでしまうようだ。マーニーが代わりに番号を打つが、マーニーはその番号を見て目を丸くする。

 

「楓ちゃんも呼ぶの?」

 

「緑川が最近新しい護身グッズ買ったって自慢してぎゃーぎゃーうるせえんだ。

 呼び出して、いざとなったら使わせてやる。活躍できればあいつも満足するだろ」

 

「この雑な扱い……」

 

 ただその電話に、マーロウが手の怪我の分の戦力減を緑川なら補えるという信用を込めていることを、マーニーはちゃんと理解していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さてさて放課後。

 マキを連れ、マーロウとマーニーは詐欺にあったという依頼者の斎藤の酒屋に向かう。

 

「あー、マーニーの車椅子押してくれる奴が居ると違うな。移動が楽だ」

 

「でしょ? マーロウさんの手にも悪いだろうしね」

 

「ま、一番楽なのはマーニーなんだろうけどな」

「まーね。マーロウに押してもらわないと、自分の手で車輪回さないといけないし」

 

「そんなマキに朗報だ。

 九月になっても暑い今日この頃に、車椅子押し代としてジュース奢ってやるよ」

 

「マジですか! ありがと、マーロウさん!」

 

 自動販売機の前で足を止める三人。

 昔は8/7以降が残暑だったらしいが、今や地球温暖化で九月でさえも残暑に含まれることが多々ある。

 九月に入ったこの季節でも、熱中症で倒れる人は多い。

 水分補給は大事なことだ。

 

「え? マーロウ私は? 私もこのクソ暑い中頑張ってる女子高生なんだけど」

 

「便乗に迷いがないなマーニー……いいぞ、好きなの選べ。俺はどれにするかな」

 

 ごっくん馬路村を飲むマキ。

 ペプシゼロを飲むマーニー。

 ブラックコーヒー(無糖)をカッコつけて飲むマーロウ。

 マキはこれから自分達が行く場所が酒屋であることを思い出し、手の中で缶を揺らす。

 

「お酒ってこのジュースより美味しいのかな?」

 

「酒の味が分かってこその大人。

 酒を嗜んでこそのハードボイルド。

 お前らも後五年くらいすりゃ分かるさ」

 

「へー」

 

(マーロウが酒の味を分かるとは思えないんだけど、それは言わないでおいてあげよう)

 

 やがて彼らも酒屋に到着。閉まっていた引き戸を開けて、その向こうに呼びかけた。

 

「失礼しまーす。ロイド・インベスティゲーションの者でーす」

 

「お、来てくれたか! 今ちょっと手が離せないから、その辺にあるの飲んで待っててくれ!」

 

 店の奥から返って来た声に応じて、三人は店の中に入る。

 店の左右には、古今東西多くの酒がずらりと並んでいた。

 おそらく酒蔵にはもっと多くの酒があることだろう。

 品揃えを見ただけでも、相当に稼いでいるということは理解できた。

 稼いでいるということは、詐欺のターゲットにされやすくなるということである。

 

 マキはその辺をキョロキョロ見回し、テーブルの上のコップを見つける。

 

「これかな? ジュースかな……」

 

「やめい」

 

「あいたっ」

 

 そんなマキにチョップして、後ろからマーロウがそのコップを取り上げる。

 

「高校生にギムレットは早すぎるっつうの」

 

 マキはぎょっとする。

 彼女の感覚では、客の迎えに使われるのは水・茶・ジュースであるのが当然だった。

 

「ギムレ……え、まさかこれお酒?」

 

「酒屋だしな。ハードボイルドを志す者なら誰でも知ってる酒さ」

 

 だからマーロウに言われるまで、それが酒であるということにも気付いていなかったようだ。

 ギムレット、と微かな匂いと見かけだけで酒の種類を当てられて、店の奥から出て来た依頼者・酒屋の斎藤はどこか上機嫌だった。

 

「ほー、分かるんか探偵さん」

 

「分かるさ。男の飲み物だぜ?」

 

「話が分かる探偵さんで何よりだ」

 

 ギムレットはフィリップ・マーロウを象徴する酒の一つである。

 記憶喪失のマーロウもハードボイルド小説で情報を再取得し、ハードボイルドな探偵に憧れ何度か飲んだことがあった。そして今また、勧められるままに口に運ぶ。

 が、記憶の中のその味と、今飲んだ酒の味が、どこか違う気がした。

 

「……あれ、こんな甘かったっけ?」

 

「テリー・レノックスがフィリップ・マーロウに勧めた酒がこれなのさ。

 彼曰く『本物』のギムレットは、結構甘い酒なんだ。

 意外だったかな? ハードボイルドには甘さが添えられているものなのだと、私は思うね」

 

 フィリップ・マーロウマニアの酒屋・斎藤。

 ハードボイルドと甘さを平行して語っているために、普段から甘いだのハーフボイルドだの言われているマーロウからすれば、ちょっと対応に困る相手であった。

 自己紹介の時、マーロウが今の名前を名乗っただけで好感を持ってくれたので、それだけは幸運であったが。

 

「依頼の話をしよう。間抜けな話だが、聞いて欲しい」

 

 詐欺られた経緯は、斎藤本人にもよく分かっていないようだった。

 

 最初は、マニアならば垂涎の高級酒を勧められたのだそうだ。

 高い酒は贅沢という域を超え、数千万から億という値段がするという。

 当然ながら斎藤は取引に慎重になるが、一度その高い酒の数々の現物を店に持ってこられたことで、それなりに信用してしまったらしい。

 契約書を交わし、いい買い物をした……と、その時は思っていた。

 

 後々、斎藤はこの時の酒が、売る気も渡す気も無い、所謂『詐欺のための見せ品』であることを理解したらしい。

 

 商品を購入した斎藤の下に数日後、『それは盗品だ』という電話がかかってきた。

 盗品であるかどうかの確認が不十分でない状態で購入してしまったため、買った酒を返還するか罪を問われるかの二択だ、と言われたのだそうだ。

 その後日には警察を名乗る者から『そちらに盗品が流れているという疑いがありまして』という電話がかかってきた。

 おまけに記者を名乗る男から『取材をしたい』という電話までもがかかってきた。

 

 畳み掛けるように来た複数の電話と問い合わせに、斎藤は「このままでは犯罪者になってしまう」と慌て、完全に主導権を奪い取られてしまったのだという。

 

 酒を斎藤に売った後、いくら問い詰められても詐欺ではないと主張する販売者。

 "この法に抵触しています"と()()()()()説明する情報提供者。

 詐欺の疑いがある、でも確証があるわけではない、と繰り返す警察。

 酒屋の斎藤にただひたすら話を聞く記者。

 斎藤は『誰を信じれば良いのか』とたいそう悩んだことだろう。

 誰を疑えば良いのか、たいそう迷ったことだろう。

 その時点で、『全員嘘つきだ』という正答に辿り着く可能性はゼロになっていたというのに。

 

 気付けば金だけ毟り取られ、購入した商品は手元に一つも残らなかった。

 

 詐欺被害者を動揺させ、冷静な判断力を奪い、()()()()()()()()()()

 複数人を演じて電話をかけ、その複数人の内一人だけが悪者で、それ以外は信じていいと信じさせるトリック。

 詐欺の常套手段だ。

 被害者が冷静さを取り戻した時にはもう遅い。

 気付けば金は取られていて、全てが終わった後だったというわけだ。

 

「電話詐欺ですね」

 

 マーニーは話を聞き終え、きっぱり言い切った。

 

「電話詐欺と言うと、オレオレ詐欺とかの?」

 

「それとはまた別です。

 この場合は売り手役・騙し役・警察役・マスコミ役の四人組の詐欺でしょうか」

 

 マーニー曰く、オレオレ詐欺ほどにTVではあまり取り扱われないが、それなりに有名な詐欺の手口であるらしい。

 

 足がつきにくいレンタルの携帯電話や、電話番号を弄れるIP携帯電話などを駆使し、警察署の電話番号に似せた電話番号も駆使するのだそうだ。

 一ヶ月ほどのレンタルオフィスを借りて狩場に仕立て上げ、一稼ぎしたら捜査の手が伸びる前に撤退する、なんてこともするらしい。

 IP電話は電話番号をそれっぽく偽装し、簡単に人を騙せるものでありながら、取得の際に行われる確認過程がザルで、警察でもここから詐欺師を取り締まることは困難であるのだとか。

 

 酒屋の斎藤は、この詐欺にハメられて踊らされてしまったというわけだ。

 

「そ、そんな詐欺が……」

 

「一時期は毎月40億~50億のペースで詐欺被害が報告されていたらしいですよ」

 

「お、億!?」

 

 一年間に振り込め詐欺などで使われていた電話を調べたところ、その回線の八割がこのIP電話とレンタルの携帯電話で占められていた、という調査結果もある。

 インターネットで複数の回線と契約し、複数の人間を演じて、誰か一人を叩きのめすのと似ていなくもない。

 悪質なものというのは、最終的に似てくるものであるようだ。

 

「曾祖父さんの代から受け継いできた酒屋なんだ。私の代で潰したくない」

 

 金を取り戻すか、できなければ詐欺師を警察が捕まえられるように、つまり裁判で争えるようにして欲しい、というのが依頼人の依頼であった。

 

「何か手がかりは?」

 

「実は大手の探偵事務所にも依頼しててな。

 そっちは金は取り戻せない、って結論を出したみたいだが……

 業界のツテで、手口から詐欺師の名前だけは調べ上げられたって言われた」

 

「詐欺師の名前は?」

 

「詐欺師の清水。汚水の如き詐欺師、と裏社会で呼ばれているらしい」

 

(名前が売れてる詐欺師って時点で、有能なんだろうけど警察に捕まる直前臭い……)

 

「分かりました。マーニー&マーロウにおまかせを」

 

 依頼を受諾して、店の外に出る三人。

 依頼の交渉は二人の探偵に全面的に任せていたマキが、二人に問いかける。

 

「で、探偵さん達はどうするのさ?」

 

 難しい案件だったが、するべきことはシンプルだ。

 

「「 金を取り戻して、警察がこいつを逮捕できるようにする 」」

 

「悪党は死ねってことかな?」

 

「そういうことだ、マキ」

 

 この二人、話に聞く以上に息合ってるなあ……とマキは思いつつ、適当な話題を振ってマーロウという青年を知ろうとする。

 

「さっきのギムレットっていうの飲んでみたかったな」

 

「だから高校生には早すぎるっての」

 

 が、マキが会話を広げようとするやいなや、彼らの前に遅れて緑川楓が現れた。

 

「ようマーロウ! 私の助力が必要だそうだな!」

 

「お、緑川。学校終わってからこっち来たんだろ? 早かったじゃねえか」

 

「ふん、まあな。そして持って来てやったぞ、お望みのものを。

 男と女の力の差をゼロにする、高出力スタンガンを始めとする道具をな……!」

 

「なんでそんな気合入ってんだよ緑川」

 

「いや、だって……お前ばかりズルいじゃないか。

 なんだあのメモリガジェットとかいうの。

 私の推理力がお前に負けてなくても、探偵七つ道具で差がついてはどうしようもないだろ!」

 

「……メモリガジェットに対抗心あったのかよ!」

 

 マーロウ、マーニー、緑川、マキ。とりあえず頭数だけは揃った。

 全員イニシャルがMなのはご愛嬌。

 

「まずこの閃光弾だがな。違法でないものながら強烈な閃光が―――」

 

「マーニー、緑川の話を聞き流してやれ。俺はロイドさんに一回報告入れる」

「ん、パパによろしくね」

 

 対抗心バリバリに語り始めた緑川をよそに、マーロウはロイドとの情報交換を始めた。

 

「もしもし、こちらマーロウです」

 

『やあマーロウ。こっちも色々と調べてみたけど、裏カジノの場所は見つからないね』

 

「こっちは依頼を受けて、話も聞いたんですが―――」

 

 マーロウが色々と伝えると、ロイドは電話の向こうで少し驚いたようだった。

 

『……これは、珍しいこともあったものだ』

 

「と言うと?」

 

『そのカジノの利用者らしき人間を何人か特定できていたんだ。

 僕はその人間の尾行をしてカジノの場所を探ろうとしていた。

 その内の一人が、詐欺師の清水。汚水の如き詐欺師と呼ばれている男だった』

 

「マジすか!?」

 

『詐欺師が御用達にしているとなれば、十分ガサ入れの理由になる』

 

「あとは、そのカジノの場所さえ見つけられれば……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一日が経った。

 二日が経った。

 三日が経った。

 四日が経った。

 まだカジノは見つからない。

 ロイドは毎日朝から晩までカジノの手がかりを探し、マーニーと緑川はコンビを組んで慎重にカジノの手がかりを探している。

 

 一方その頃、マーロウは自宅謹慎を食らっていた。

 マーロウは「最近手をいたわっていますか?」と医者に聞かれ、ありのままを話したところ、「治す気あんのかテメー」と怒られてしまったのだ。

 医者はロイドとマーニーにも厳重注意をし、マーロウも今日くらいは大人しくしていろ、と言われて事務所に放り込まれてしまった。

 

「あー……暇だー……」

 

 暇しているマーロウの前で、真希田マキもゴロゴロしていた。

 マーロウが勝手に出て行かないよう、お目付け役である。

 マーニーからマキのスマホに、「この十枚の画像の中からカジノがありそうな場所があるとしたらどれ?」というメッセージと共に十枚の画像が送られてきて、マキが一枚選んで返信する。

 返信を終えて顔をあげると、マーロウが手の包帯の交換やら消毒やらで悪戦苦闘していた。

 

「私手伝いますよ?」

 

「悪いな、頼むわ」

 

 マーロウの手は表面だけはくっついているが、内側までは完全にくっついていない。誰かにビンタでもすればパックリ裂けてしまいそうだ。

 マキが素人目に傷口を直接見ても、抜糸してあるのかしていないのかの判断もつかない。

 両手に残った黒黒とした傷跡は、ちょっと食欲がなくなりそうなグロさだった。

 

 そのくせ本人は『依頼人を守ったという男の勲章』といった感じで誇らしげに見ているのが、微妙に憎たらしい。

 普段マーロウの手の包帯などを変えているであろうマーニーの心情はいかばかりか。

 マキはちょっと同情した。

 

「学校で私と話してる時の、マーニーがさ」

 

「ん?」

 

「もうそろそろ車椅子も要らなくなるから、早く走れるようになりたいって言ってたんだ。

 マーロウさんより早く治して、自分の代わりの足になってもらった分、代わりの手になるって」

 

「……へっ、高校生が余計な気を遣いやがって」

 

 マキは彼の手を消毒して、消毒された状態が維持されるように包帯等を手にあてていく。

 悪態をつくマーロウは嬉しそうな様子を隠せてもいない。

 なんか可愛いなこの人、とマキは思った。

 

「マーニーは車椅子のままでもやる奴だ。緑川もかなりやる。

 緑川が手伝えば、マーニーは必ずカジノか清水の居場所を見つけられるはずだ」

 

「へー、マーロウさんはマーニーを信頼して、あの帽子の子は信用してるわけだ」

 

「ん? ……そう言われてみると、そうなのか」

 

 人をよく見てるんだな、とマーロウは感心した。

 成程、この人間観察力があるならば、マジシャンとして客の視線をコントロールすることも、対人ギャンブルでマーニーが褒めるほどの強さを発揮することも可能なのだろう。

 

「はい、手の処置終わり。マーニーをあんまり泣かしちゃダメだよ」

 

「あいつが俺のことで泣くか? イメージすらできねえぞ」

 

「あっはっはっは!」

 

「おい何故大笑いした?」

 

 何故か大笑いを始めたマキのスマホが震え、マーニーからの連絡を受け取ったマキが親指を立てた。

 

「カジノ、見つかったって。そこの住所マーロウさんにも伝えてくれってさ」

 

「よっしゃやったな! 信じてたぜマーニー!」

 

「ちょっ!」

 

 思わずガッツポーズしそうになった――全力で拳を握ろうとした――マーロウの手をマキが慌てて掴んで止めて、マーロウの胸ポケットでスタッグフォンが震える。

 画面に表示された番号は、四日前に依頼を受けた依頼人の妻が、連絡先にと教えてくれた携帯の電話番号だった。

 

「酒屋の斎藤さんの奥さんだな。依頼人の奥さんがどうしたんだ……?」

 

 予想通り電話をかけてきたのは依頼人の奥さんで、事態は急転直下する。

 

「……何!? 旦那さんが失踪した!?」

 

 告げられたのは、依頼人の失踪という望まぬ知らせであった。

 

 

 

 

 

 裏カジノと詐欺師清水の捜索で遠方に行っている者達は、すぐには帰ってこれないようだ。

 マーロウとマキだけで酒屋に向かい、依頼人の斎藤が消えた件を調査に向かう。

 そこで彼らが見つけたものは、依頼人の書き残し……否、()()であった。

 

『この遺書は読み終わった後、燃やして欲しい。

 私は三日後、店の開店記念日のその日に、保険金が下りる形で死を選ぶ』

 

 遺書の文にマーロウは目を見開き、マキは口元を抑えた。

 

『その保険金で店が立て直せれば御の字だ。

 探偵さん達には悪いことをしてしまった。

 が、もう時間が無い。

 今回の形の詐欺被害だと、取られた金を取り戻すには別の裁判が要るそうなんだ』

 

 詐欺師が被害者に返す金を持っているか?

 詐欺師の金は被害者の誰から順に返済すべきか?

 裁判だとそういうところにも焦点が当たってしまう。

 斎藤はそれを知り、どうにかなるかもしれないというのに、早とちりで自殺以外に偽装した自殺を行うことを決めてしまっていた。

 

『裁判で金を取り返すとなると、金が必要な日までに金が用意できないんだ』

 

 彼にとっては自分の命より、曽祖父から受け継いだこの店の方が大事だったのだ。

 

『探偵さん、依頼料は妻から受け取って欲しい。

 ありがとう。

 私とこの店のために頑張ってくれたあなた達には、感謝しかない』

 

 詐欺師に対する恨み言もあっただろうに、あえてそれは綴られておらず、家族や探偵への感謝の言葉が綴られていた。

 

『それと、マーロウさん。

 テーブルの上に"本物のギムレット"を置いておいた。

 その一杯で気持ちを酔わせて、私のことなんて忘れてくれ。

 そのギムレットを飲んでしまえば、私が君にした依頼は完了だ』

 

 遺書が置かれていた部屋のテーブルに、一つのグラスが置かれている。

 四日前に飲んだものと同じ、ギムレットだった。

 

『私の人生最後の酒を探偵に捧げる。

 酒で探偵の仕事の最後を締めくくる。

 ハードボイルド小説が好きな私の憧れを、最後に叶えて欲しい』

 

 マーロウはそれを飲まない。

 遺書をグラスの上に置いて、誰も飲まないようにする。

 斎藤が自殺するまで三日。おそらくは心の整理をつけるための時間でもあるのだろうが、その三日を待つまでもない。

 決着は、今日つける。

 

「マーロウさん……」

 

 マキを引き連れ、彼女の声を背に受け、マーロウは店の外に歩き出す。

 

「まだ、ギムレットを飲むには早すぎるぜ」

 

 黒帽子が、マーロウの後ろ姿によく似合っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 裏カジノとくれば犯罪者が居てもおかしくない場所だ。

 マーロウはマキを適当なところで振り切り、単身マーニーから場所を伝えられた裏カジノへと向かう。

 医者に怒られたことや、医者の諌言のせいでロイドとマーニーに「事務所に居ろ」と言われたことも、すっかり頭から追い出されている。

 

「カジノなら、あいつは動かしても問題がない『浮いた金』を使うはずだ。

 ここで詐欺師の清水にタイマンを挑み、奴が巻き上げた金を取り返してやる……!」

 

 『依頼人を救う』という想いだけが、彼の頭の中に満ち満ちていた。

 

「はいはい、マーロウさんストップ。ここは、ええっと……マーキーにおまかせを」

 

「……!? なんで居るんだマキ!? お前、バス停辺りでまいたはずじゃ……」

 

「マーニーがカジノの場所教えたの私の携帯で、マーロウさんに教えたの私じゃん」

 

「そうだったー!」

 

 とことんハードボイルドに決まらない。

 

「私達も居るよ」

「お前はなんというか……なんだ、バカだな」

 

「げ、マーニー、緑川!」

 

「手を怪我してるくせに一人で行くとか何考えてるのさ」

 

 裏カジノという、警察からこそこそ隠れている悪の巣窟を前にして、仲間達が揃った。

 とりあえず現実主義のマーニーは父にメールを一本入れて、服の下でいつでも通報できるよう近場の警察署の番号を短縮コールに入れておく。

 

「とりあえず私がいつでも警察にコールできるよう、服の下でスマホ構えて、っと」

 

「私は……そうだな、マーニーのそばで退路を確保しておくか。

 マーロウ、発信機持ってたろう。一個念のため私に付けておいてくれ」

 

「で、私が荒稼ぎすればいいのかな?

 タネが分からないマジックも見抜けないイカサマも同じ同じ」

 

「闇落ちしたマジシャンってこんなんなのか……」

 

 通報担当、護衛担当、イカサマジシャン担当。そこそこ隙のない布陣になった。

 

「マキ、俺の財布を使え。依頼人を助けるには元手が要るだろ」

 

「え、いいの?」

 

「勝てよ。じゃないと俺のなけなしの生活費が消える」

 

「せ、切実……!」

 

 財布を苦渋の決断で差し出すマーロウ。男の仕事の八割は決断である。

 

「マキちゃん後で返してよ?」

 

 マーロウが差し出したんなら私も出すしかないか、と財布を出すマーニー。

 

「…………………………………………しかたない」

 

 嫌そうに、けれど友情を理由に緑川も財布を出してくれる。

 

「ありがとっ! この財布、全部一万円づつ増やして返すからね!」

 

「増やす量が生々しいな!」

 

 実際、マキの腕は確かであった。

 この後カジノに入ってから、マキが座ったブラックジャックの台を立つまでの記憶が、マーロウ達の中にはほとんど残っていない。

 そのくらいに圧倒的で、一方的な勝利だった。

 

「これで持ち金三百万くらいになったかな? ペース上げようか」

 

 黒服の男がギャラリーに混じり始める。

 マーニーと緑川は離れたところから見ていて、マーロウは勝ちすぎたマキが連れて行かれないようその横に立っていた。

 彼らは待っている。

 種銭を増やしながら、ターゲットが来るのを待っている。

 

(まだか、詐欺師の清水)

 

 マーニーの調査によると、最近は詐欺で稼いだ金を毎晩のようにここで増やしているらしい。

 今日も来るはずだ、というのが彼らの共通認識だ。

 腕時計(ガジェット)で時間を見ていたマーロウの肩を、そこで緑川がこっそり叩く。

 

「マーロウ、清水が来たぞ。入り口に姿が見えた」

 

「やっとか、待ちくたびれたぜ」

 

「私のじいちゃんは帽子を頭に乗せている間、一度も悪には負けなかったらしい。

 分かるな? その帽子の重みが分かっているなら、あんな奴には負けるなよ」

 

「ああ」

 

 用心のため緑川の肩に戦闘要員(バットショット)を乗せ、マーロウはカジノに現れた詐欺師の男へと視線をやった。

 

「外でも随分と荒稼ぎしてきたようですね、先生」

 

「ワシの生き方は、地獄を楽しめるやつじゃなきゃ手に余るんだよ!

 カジノで負ける地獄も、他人の地獄も楽しめなくてはな! ガハハハ!」

 

 詐欺師の清水は、他人に地獄を押し付けて平気な顔をしているような男だった。

 マーロウの心から、手心を加えてやろうという慈悲が微粒子レベルで消滅する。

 

「―――やるぞ、マキ」

 

「マジシャン的には、ここからが私達のステージって感じかな?」

 

 もうマーロウにもマキの力量を疑う気はない。

 マーロウが清水の前に立ちはだかり、マキは自分で稼いだコインを移動させる。

 

「おい、清水。そこのテーブルに着け。

 お前があくどい方法で稼いだ金、ポーカーで巻き上げてやる」

 

「……はっ、またか。

 時々居るのだ、ワシのせいにしてここに来る負け犬がな。

 そのことごとくがワシの豪運の前に更に金を巻き上げられていったが」

 

「やる気があるなら席につきな。俺が……俺達が」

 

 指差されるはポーカーのテーブル。

 

「てめえにてめえの罪を数えさせてやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マーロウが一番得意とするトランプ種目はババ抜きである。

 ポーカーは役と基本ルールを今日簡単に教わった程度だ。

 とはいえ詐欺師サイドから見ればそんなことは知ったことではない。

 マーロウは彼ら視点、数合わせの子供を連れていながら自信満々に勝負をふっかけてきた大人であり、腕に包帯・手つきも怪しいクセのある男だ。

 清水からすれば、マーロウはイカサマをしますと宣言してから席についたに等しい。

 

 ポーカーはマーロウとマキ、清水とその部下の四人だけが参加し、中立のディーラーがカードを配る対戦形式で始まった。

 ちなみにジョーカーは一枚あり、手札交換も一度、四人の手番の順番はディーラーが適度に変えるというポピュラーなルールである。

 清水とその部下は、自然な流れで自信満々のマーロウの手元に注目した。

 

(ワシを舐めているのか? あの手元の包帯、疑ってくれとばかりだ)

 

 だが清水は、マーロウのおぼつかない手つきや大仰な包帯は囮であると思い、手元以外にも気を配る。

 そこはそれなりに場馴れした詐欺師といったところか。

 ……マキの方を見なければ、イカサマに気付けるわけがないのだが。

 

(ラッキー。事前に30セットちょい用意しておいたトランプの内一つと柄が同じトランプだ)

 

 マキはさらりと手札のスペードAを袖のハートAと換え、残り四枚も数字と柄が同じな四枚と交換する。手札の中でフラッシュが完成した。

 コインをあまり上乗せせず、目立たない程度に押さえてコール。

 

「ワンペア」

「フラッシュ」

「ツーペア」

「ツーペア」

 

 普通の十代の女の子と、何故か自信満々で不自然に手元に包帯ぐるぐる巻きの男。どっちが怪しく見えるか、と言えば普通は後者だ。

 マキが一度勝ったところで、まぐれだと思いマキだけを集中して見ることはない。

 二巡目のマキはハートAが来てくれた幸運に感謝し、手札のハートAを袖のスペードAと交換してカードの枚数を調整。

 二回目は、偽装のためにわざと負けてやった。

 

「ノーペア」

「ノーペア」

「スリーカード。ワシの勝ちだな」

「ワンペア」

 

 清水がニヤリと笑う。

 マキは特に笑わず、手札の五枚を山に戻した。

 

(やっぱヤクザの賭場をチーマーが乗っ取った程度の賭場なんてザルだな。

 私のサマも見抜けてないし……マーロウさんには、もうちょっと囮になってもらおう)

 

 マキが持ち込み、このテーブルで使われているトランプと交換しているトランプは、マキにしか判別できないマーキングがされている。

 1プレイで五枚入れ替えれば、五枚分のカードを透視できるようになる。

 今のプレイで五枚入れ替えたため、今は十枚透視できるようになっている。

 バレたとしても「カジノが用意したトランプじゃないか」と言い張れる王道のイカサマだ。

 

 マキは三巡目でちょうどいいところにカードが来たので、二枚捨てて山から二枚引き、"マーロウが次に引くカード"まで調整して見せる。

 

「ストレートッ!」

「ワンペア」

「スリーカード……」

「ツーペア」

 

「っしゃあ!」

 

 また山にマキが透視できるカードが増える。

 清水は今のストレートで、勝つ気満々自信満々のマーロウがイカサマをしているという疑いを強めたようだ。

 が、何をしているかまでは理解できないでいる。

 それも当然。

 マーロウは本気で勝ちに行っているだけで、マキがどこでイカサマしているかさえも気付いてはいないのだから。

 

(そうそう、そうやってマーロウさんがサマやってると勘違いしててね)

 

 マーロウに周囲の視線が集まっているが、マーロウは事前にマキに言われた「基本フルハウス・フラッシュ・ストレート・スリーカードだけを狙って」という指示を守っているだけである。

 ちなみにジョーカー有りルールでフルハウス・フラッシュ・ストレートが初手に揃っている確率は合計5.99955%。

 交換を行い、十数回のプレイを行うのであれば、マキが何の手も貸さなくてもマーロウが自然と組み上げる可能性は十分にある。

 マキが手を貸せば、手を作れる確率は更に上がる。

 

 勝負が十巡目を超えたあたりで、マキは山と手札の大半を見透かせるようになっており、山から誰が何を引くかもある程度コントロールできるようになっていた。

 それでも皆マーロウばかりを警戒している。

 

 人の視線を狙った場所に誘導する。

 人の意識と注意の向きを操作する。

 誰も見ていない所で小細工を弄して、奇跡のタネを見抜かせない。

 ミスディレクションを操る彼女のような人種を、人は―――魔法使い(マジシャン)と呼んだ。

 

「フルハウス!」

「ツーペア」

「ストレートフラッシュ!」

「ノーペア」

 

「その程度でワシに挑むとは片腹痛いぞ、探偵!」

 

「ちっ……詐欺師が調子に乗りやがって」

 

 けれども、酒屋の斎藤が巻き上げられた金額に、まだイマイチ届いていない。

 要所要所で詐欺師の清水が豪運だけで大物手を作り、そのせいで勝ちが積み重ならないのだ。

 この詐欺師はどうやら、多少の迂闊さを運の良さでカバーできるタイプの詐欺師であるらしい。

 

(しっかし運良いなこの詐欺師……流石に初手五枚に大物手があると、差が広がらない)

 

 "怪しまれること覚悟でロイヤルストレートフラッシュでもやってやろうか"とマキが考えている内に、当初予定されていたラストゲームの回数にまで到達してしまった。

 

「お客様。次でラストゲームでございます」

 

 マキはまた小細工を盛る。

 マーロウに大物手を運び、マーロウの初手五枚にフラッシュを作った。

 なのに、マキが清水の手札を見透かしてみると、清水もまた『運だけで』ストレートフラッシュを作っていた。

 

 マーロウがスペードの2、A、K、Q、J。

 清水がダイヤのK、Q、J、10、9。

 あと一歩というところでマーロウが負ける、そういう手札の関係だった。

 

(……どういう運だちっくしょう)

 

 清水はここぞとばかりに金を上乗せ(レイズ)してきた。

 テクニックがラッキーに負けるというのか。マキは顔に出さないよう歯噛みする。

 敗北を確信し、勝負を受けず降りることを考えるマキの横で、マーロウはスペード2を捨てた。

 勝負を受ける、という意思表示である。

 

(!? ば、バカー!)

 

 そしてマーロウの前に、清水の部下が山から二枚引く。

 マーロウがその次に引く一枚を見透かして、マキは目をしばたかせた。

 

(……え)

 

 マーロウは清水の部下が引く前にカードを捨てただけ。

 そして清水の部下の後に引く順番が来るだけ。

 だから、そのカードを引ける。

 

(マジか、この人)

 

 驚くマキの眼前で、清水は意気揚々と手札を広げる。

 

「最大数字に限りなく近いストレートフラッシュ! これで終わりだ!」

 

 マキは驚かない。

 少女の視線は、マーロウの手札にのみ向けられている。

 マーロウはテーブルにスペードのA、K、Q、J、そして―――最後に引いたジョーカーを並べた。

 

 

 

「どうやら切り札(ジョーカー)は、俺のもとに来てくれたようだぜ」

 

 

 

 最後の最後にジョーカーを引いての、『ロイヤルストレートフラッシュ』である。

 

「……な、なっ……!」

 

 スペード・テンからスペード・エース。

 最強の中の最強の役が、清水が悪どく稼いだ金を根こそぎ奪い取る。

 観客が拍手を始め、カジノの店員までもが思わず拍手を始め、言葉にも感性にもならない偉業への感動が、その場の全員の心を飲み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キッチリ酒屋が巻き上げられた分の金を回収し、彼らは帰路についた。

 

「いやー、途中は本当ハラハラしたよ……」

 

「お疲れマキちゃん。マーロウもお疲れ」

「私とマーニーは後ろで見ていただけだったが、よくやったな二人とも」

 

「俺は何もしてねえさ」

 

 マーロウの"何もしてない"に、マキが真正面から食って掛かる。

 

「何もしてないなんてとんでもない! 最高だったよ、特に最後の!」

 

「へっ、よせよ。運が良かっただけだ」

 

「今日の私の一番の切り札(ジョーカー)は、間違いなくマーロウさんだよ!」

 

「おいおい、今日一番の主役(エース)が何言ってんだ」

 

 悪党相手にマーロウが発揮する爆発力はとんでもない。

 そこにだけはずば抜けて非凡なものが感じられるほどだ。

 マーロウには不思議と、『一人を選んで全て託すならこいつだ』と思わされるような、そんな不思議な信頼感がある。

 本人は割と中途半端なハーフボイルドであるというのに。

 

「さて、そろそろいいか……出てこいよ、清水!」

 

 そして、善人が善人らしく在るように、悪人は悪人らしく在る。

 マーロウが声を張り上げると、彼らの背後から清水とその部下達数十人がわらわらと出現した。

 

「気付いていたか。なら、ワシの要件も分かるな?」

 

「博打で取られた金取り返しに来たんだろ? 強欲な悪党が」

 

「分かっているなら話が早い……やれっ!」

 

 カジノで負けたら自分を負かした人間を闇討ちし、金を奪う。なんと浅ましい思考か。

 そんな悪党に負けて金を奪われでもしたら、末代までの恥である。

 

「緑川、煙玉投げろ!」

 

「任せろ!」

 

 マーロウが叫び、緑川が買いたてホヤホヤの煙玉を喜々として投げた。

 煙玉はぶわっと煙を広げ、光を遮り、清水とその部下の視界を全て奪う。

 そしてマーニーが、煙の中にバットショットをぶん投げた。

 

「行け、バット君!」

 

《 STAG 》

《 SPIDER 》

《 FROG 》

《 DENDEN 》

 

 それと一緒に、ガジェット達が全て煙の中に突っ込んでいく。

 

「あっ、いでっ!?」

「あがっ!?」

「な、なんでこんな煙の中……うごあっ!」

 

 メモリガジェットはスタッグフォンを通じて、全てナビゲーション機能で繋がっている。

 デンデンが煙の中を見通して、その視界データを他ガジェットに送り、ガジェット達が悪党を煙の中でボコボコにする。

 煙が晴れたその頃には、一人残らず気絶させられた男達が路上に転がっていた。

 

 緑川が手の中の二つ目の煙玉を見て、ガジェットを見て、煙玉を二度見して、思わずマーロウに頼み込んでしまう。

 

「……なあマーロウ、一つくらいくれないか、そのメモリガジェット」

 

「こいつら俺の記憶の唯一の手掛かりなんだが」

 

「一つ! 一つでいいから! 緑川家に貸し一つやるくらいのつもりで!」

 

「やめろ、離れろバカ! やれないつったらやれないんだよ!」

 

 メモリガジェット達はどうやら最近、女子高校生探偵の間で人気が高まっているようだった。

 

「それより手伝え。

 こいつらの携帯電話全部取り上げて警察に届けるぞ。

 警察がこいつら有罪にする証拠になるし、被害者のリストアップもしてくれるだろ」

 

「お、いいね」

 

「ついでにカジノも……あ、いや、そっちはもうロイドさんが通報してるか?」

 

「あのカジノも短い命だったね……南無」

 

 後日。カジノとこの詐欺師達は、残らず警察にしょっぴかれたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう先がない。

 そう思い、酒屋の斎藤は店を離れた。

 探偵や家族への申し訳ない気持ちはあっても、店のために死ぬ覚悟は揺らがない。

 彼は自殺に見えない死に場所を探し、街を歩いていた。

 

「……?」

 

 そんな彼の前に、蜘蛛が現れる。

 自然界の蜘蛛ではない。メモリガジェット・スパイダーショックだ。

 スパイダーショックは彼の前に、紙袋に入った札束と、小袋に入ったマーロウおすすめのコーヒー豆を置いていく。

 コーヒー豆はおそらく、飲ませてもらったギムレットの礼だろう。

 

 驚いて札束とコーヒー豆を見る斎藤は、マーロウの字で書かれたメッセージカードを、スパイダーショックに投げ渡される。

 

『いい酒作れよ by マーロウ』

 

 かっこいいセリフを書こうとして、気恥ずかしくなって無難な短い文しか書けなかった、そんな感じの半端者のメッセージカードだった。

 

「……ああ、そうか。蜘蛛はブラックコーヒーを飲むと、酒のように酔っ払うんだっけか」

 

 蜘蛛、コーヒー、酒屋。マーロウの精一杯の演出が、そこにあった。

 

「ありがとうよ、フィリップじゃないマーロウ君」

 

 今日もまた、探偵は街の涙を拭ったのだ。

 

 

 




 堂々とイカサマして「ザルだなこりゃ。やっぱ素人のカジノじゃ……簡単なトリックも見破れないか」とか思っちゃうくせに最終的に負けちゃうマキちゃんが結構好きです


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Hを傍らに/ハーフボイルドとヒートの女

 その日は初めて、緑川楓がマーロウに依頼した日になった。

 

「私とヤバい事件に挑んでみる気はないか?」

 

「たっのしそうな顔してんな、オイ」

 

 マーロウの手から包帯は取れたが、まだ痛々しい傷跡が残っており、医者が「喧嘩とかで激しく動かすなよぶっ殺すぞ」と忠告する程度の治り具合。

 そんな状態の彼に、緑川は挑発的な顔で話しかける。

 

「お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう?

 史上最悪の愉快犯と呼ばれた犯罪者、『メカニック』。

 知能犯でも、虐殺者でも、多重犯罪者でもなく。愉快犯として名を轟かせた男だ」

 

「あー……名前くらいは、前に聞いたな」

 

「メカニックは既に逮捕され獄中だ。

 奴の関連組織もほぼ壊滅している。

 ……だが、数人規模で、残党として活動している奴らが居る」

 

「メカニックの残党、ね」

 

「潜在的な協力者はもっと多いかもしれないがな。

 そいつらをまとめてブタ箱に放り込む手伝いを、お前に依頼したい」

 

 普段から緑川は生真面目だ。

 だが今日はそれに輪をかけて真面目に見える。

 マーロウの方も思わず姿勢を正してしまうような真面目さが、この依頼にかける彼女の想いが、ピリピリと伝わってきた。

 

「マーニーには頼らないのか?」

 

「マーニーには頼らない方がいい。理由はすぐに分かる」

 

 本気の依頼なら、断る理由もない。

 

「マーロウにおまかせを、ってな」

 

 その依頼を受け、マーロウは彼女の味方となった。

 

 

 

 

 

 緑川に連れられ、マーロウは警察の資料室に足を踏み入れる。

 彼女は許可証を貰ってあると言っていたが、案の定警察はいい顔をしない。

 しかし緑川が目的を告げれば、手の平を返して協力を申し出てくれた。

 彼らのその反応からは、"どんな手を尽くしてでもメカニックの味方を根絶したい"という警察の本音が、ありありと見える。

 資料室に足を踏み入れた後も、マーロウの脳裏には、メカニックの名前を聞いた瞬間の――途方もない嫌悪感に満ちた――警官の顔が焼き付いていた。

 

「そこからここまで全部がメカニックの資料だ、マーロウ。

 紙媒体だが本庁の方のコピーだそうだから、汚さなければ自由に見ていいぞ」

 

「こんなにあるのか……」

 

「メカニックは資料を一纏めにされている。

 世紀の犯罪者だからな、資料も一際多いんだ。

 事件の整理番号だけでもゆうに千を超えているという話だ」

 

 緑川は適当なパイプ椅子に座り、メカニックの資料を読み始める。

 メカニックの残党を見つけるために、メカニックの資料を漁る。妥当な考え方だ。

 マーロウもまた、メカニックという犯罪者のことを一から調査し始めた。

 

(劇場型犯罪者、メカニック。

 依頼されれば完璧な犯罪のプランニングを行い、依頼者に一線を超えさせる犯罪者。

 正確にはこの名前を使用していた犯罪者は二種類存在する。

 善人の依頼や犯罪でない依頼も請け負う、オリジナルのメカニック。

 オリジナルが影武者として育て、残忍で残虐な犯罪者となってしまった二代目メカニック)

 

 メカニックは二人いる、らしい。

 

(前者のメカニックの名は鴻上有。

 後者のメカニックの名は夜刀。

 メカニックの悪名は、残虐な後者のメカニックが起こしたものがほとんどである……か)

 

 資料を見ているだけでも分かる。

 鴻上は『面白ければいい』で動く敵にも味方にもなるタイプであるが、夜刀は『得た力を振るい快感を得られればそれでいい』という邪悪そのもの。

 鴻上は依頼達成の過程で他人の苦しみを無視できるが、夜刀は自分の権力で他人を苦しめること自体を楽しめる人間だ。

 

(プロファイリングによれば、この二人のメカニックは明確に違うという。

 鴻上有は善意に善意で応える傾向があり、夜刀は善意に悪意で応える……最悪じゃねえか)

 

 資料によれば、彼らは二人で一人のメカニックであったらしい。

 だが方針の違いから、次第に対立するようになっていったのだそうだ。

 

(供述資料によると……マーニー!? マーニーの名前があった!?

 マーニーがかつて、死にかけた鴻上の命を救った。

 鴻上はそれに感謝し、マーニーに感化され活動方針を善良なものにやや変化……

 夜刀はそんな鴻上に反発し、メカニックはもっと残忍なものである、と強弁に主張)

 

 マーロウは別の資料に載っていた、夜刀の性格分析にも目を通す。

 

(夜刀は元々ただの浮浪者。顔が瓜二つだからと鴻上に拾われただけの者。

 鴻上の影武者として育てられたため、能力的には鴻上とほぼ同一……

 みじめだった自分の過去を忘れ、メカニックの名に執着している。

 メカニックの名は彼にとって成功の証、誇りであり、『自分のもの』だった)

 

 時たま聞く話だ。

 社会の底辺から掬い上げられ、影武者として力と金を振るえる立場を手に入れた者が、それを自分の物であると勘違いし、オリジナルを殺して全てを奪おうとする。

 何も持っていなかった夜刀という男にとって、メカニックという名前、メカニックが持つ力、自分が定義した『メカニックはこういうものだ』という定義は絶対のものであり、それを揺らがす者はオリジナルのメカニックであろうと排除対象になってしまっていた。

 

(面倒臭い抗争してんなこいつら)

 

 マーニーと出会い、少しばかり善良な方向に変化したオリジナルの鴻上(メカニック)は、コピーの夜刀(メカニック)にとって、もはやメカニックという名を穢す害悪でしかなかった。

 

(優しさなどという甘い感傷はメカニックが持っていいものではない、と夜刀は主張していた)

 

 そして、鴻上と夜刀は決別する。

 かくしてメカニックがその名を世に轟かせる大事件は発生した。

 人を自分の手で殺したこともない鴻上というメカニックと、殺人を手段や舞台作り程度の気持ちで行える夜刀というメカニックの衝突は、最悪の結果を生み出してしまった。

 

(夜刀が鴻上を追い詰めるため大規模犯罪を実行した。

 街中で犯罪者が機関銃使用、警官にも死傷者多数発生……

 現代日本で警官が犯罪者をやむなく射殺するという事態……

 子供21人の誘拐、その親へ『自宅へ火を着けろ』という要求……

 ビルなどへの放火……結果、積み上がる死傷者に、燃える街か)

 

 街という規模で起きた大事件。

 燃える街、流れる涙、日本という国で真っ昼間の街中にて起きた銃撃戦。

 銃殺される死者。

 誘拐された子供に、子供にくくりつけられる爆弾。

 当事者の一人は、この事件を『地獄だった』と表現したという。

 そのくせ事件資料には「一般人の被害は最小限に抑えられた」と記入されていて、夜刀がどれだけ恐ろしい仕込みをしていたのかが伺える。

 

 資料に添えられた燃える街の写真が、街に上がる凄惨な黒煙が、マーロウの頭蓋の裏側をガリガリと掻くような不快感をかき立てる。

 何故自分が"燃え上がる街"にこれほどまでに不快感を覚えるのか、マーロウ自身にもよく分かっていなかった。

 

(メカニックは子供を爆薬で殺そうとしていた、と。

 その誘拐された子供の一人がマーニー。こりゃ、キツかっただろうな……)

 

 幼少期に燃える街の中で、狂気の犯罪者に殺されかけた恐怖はいかばかりか。

 マーロウはマーニーに同情しつつも、その根底にある強さと優しさのルーツはここにあったのかもしれない、と推測する。

 恐れを知りそれを超えてこその勇気。

 痛みを知り共感してこその優しさ。

 辛い過去をバネにして成長した人間の心は、強い。

 

(事件の後は……

 子供達はそのほとんどが精神的なケアを必要とした。

 事件の大きさから報道も容赦なく、生存した子供へのいじめも報告されている。

 鴻上が全責任を取り自首し、夜刀は地下に潜って組織を拡大、犯罪行為を継続……)

 

 頭の痛くなる結末だ。

 結局オリジナルの方のメカニックは敗北し、悪い方のメカニックが残ってしまったらしい。

 時期を考えれば、この事件のせいでマーニーの両親は違う道を進んでしまい、マーニーは小学生ながらグレて、学校で事件のことを引き合いにしたマーニーいじめが始まったのだろう。

 

(緑川がマーニーを頼らないわけだ。

 あいつはマーニーを『被害者』だときっちり線引きしてたんだな)

 

 この案件にマーニーを関わらせないのは、緑川なりの気遣いと優しさだったのだろう。

 

(それから五年後。

 夜刀は組織を拡大、『本物』のメカニックとして悪行を重ねていた。

 警察は自分達だけでは対処できず、超法規的措置として鴻上を牢から出す。

 鴻上はかつて自分が作った組織の全てを味方につけた夜刀と対立……これが去年のことか)

 

 マーロウがロイドとマーニーと出会った時点から見れば半年以上前、今現在この時点から見れば一年近く前だろうか。

 

(鴻上はかつて自分の命を助けてくれたマーニーと共闘。

 マーニーは鴻上の力を借りて夜刀を逮捕までもっていく……やるじゃねえか、マーニー)

 

 マーロウは途中から、警察の資料でしかないそれにどんどん没頭していった。

 途中からそれは事件の目録ではなく、メカニックという巨悪に立ち向かう、マーニーという主人公の戦いの物語であったから。

 憎いはずの仇さえも殺さず、法に裁きを委ねた彼女の選択も、マーロウが好む結末だった。

 

(夜刀はやりすぎたためほぼ死刑確定。

 逮捕が今年の春前、つまりだいたい半年前だな。

 罪状全部上げてから死刑執行……に持っていくため、今は裁判の途中なのか)

 

 マーニーが巨悪を打ち倒す物語は既に終わっており、悪は刑の執行を待つのみだ。

 

(鴻上は夜刀をブタ箱に放り込んだ後失踪。

 つまり俺が今回の依頼でどうにかすべきなのは、この夜刀の部下の方か?)

 

 鴻上の方はマーニーに感化されたのもあって、今はほぼ放置されていると言っていい。

 どこに居るのかも分からない。

 この資料を見る限り、残党として犯罪行為を行っているのも、逮捕を免れた夜刀の部下の残党と見て間違いないだろう。

 

(……メカニックという名前を奪い取り、継承した巨悪か)

 

 名を継ぐ、ということは大きな意味を持つ。

 それは名を貰うという形であることも、無断でその名を名乗るという形であることも、その名を奪うという形であることもある。

 家名を与える親が居て、家名という家族の証を貰った子が居て、親子の関係は成立する。

 仮面ライダーと呼ばれた者、それに倣い仮面ライダーの名を名乗る者が居る。

 ミュージアムと名付けられた組織、ミュージアムを継ぐと宣誓する組織が居る。

 メカニックという名で呼ばれた者、メカニックの名に焦がれた者が居る。

 

 ()()()()()()なのだ。

 

「どうやらある程度理解はできたみたいだな、マーロウ」

 

「緑川」

 

「……話すのを迷ったが、やはり隠すのは不誠実だ。私の動機を話そう」

 

 緑川は黒帽子を脱ぎ、手元に抱える。

 マーロウもそれに合わせ、黒帽子を小脇に抱えて、彼女としっかり目を合わせた。

 恥ずかしがり屋の彼女が帽子も無しに、冷静な状態で男性としっかり目を合わせていることからも、彼女が話そうとしていることの重さは伺える。

 

「前に祖父の話はしたな?」

 

「帽子が似合う、伝説の名探偵……だったよな。戦後に活躍したんだろ?」

 

「ああ、それで合ってる。

 祖父は名探偵として、多くの犯罪の謎を暴いた。

 ……そして、それに満足せず、警察に隠れ社会の闇で悪人を私的に殺していたんだ」

 

「!?」

 

「私の祖父は組織を作った。

 その組織は60年間、法で裁けない悪人も、これから犯罪を行う悪人も殺し続けていた。

 私の憧れた名探偵は……私が目指した背中は……どこの誰よりも、汚れていたんだ」

 

「……クソ真面目なお前には辛かっただろ」

 

「過ぎたことだ。……でも、気遣ってくれてありがとう」

 

 戦後の時代に生まれ、数十年もの間警察の陰に隠れ、悪人を私的に処刑し続けていた組織。

 動機こそ正義だが、その在り方は間違いなく悪の組織のそれだった。

 

「その祖父の仲間に、鴻上の……メカニックの支援者が居た。

 メカニックを助ける代わりに、悪人を裁くための知恵と情報を貰っていたんだ」

 

「―――!」

 

「悪人を殺すために、犯罪者の力を借りてたってわけさ」

 

 それは善ではない、独善だ。彼女の祖父は法に逆らって人を殺していただけの話。

 それは悪でありながら、悪の敵だ。彼女の祖父は悪を許さなかった。

 それは正義であると同時に、別の正義に討たれるものだ。

 緑川楓は、その私刑を許してはならないと考えている。

 

「祖父は悪の敵になった。

 ここまで大きな独善だと、祖父やその仲間の中には……

 自分達が正義そのものになったという意識さえ、あったとしてもおかしくない」

 

 孫娘は偉大な祖父に憧れ帽子をかぶった。祖父の罪を知り、孫娘は祖父への憧れを捨てた。それでも目指した場所、なりたい自分に変わりはなくて……彼女は今も、その帽子をかぶっている。

 

「子供の頃はこの帽子がただ誇らしかった。

 いつからかこの帽子が重くなった。

 帽子が似合わない自分が嫌になることもあった。

 ……まあ最近はお前を見てると、もっと肩の力抜いてもいいんじゃないかと思ったな」

 

「お前は真面目ちゃんだからなぁ」

 

「お前やマーニーほど不真面目じゃないだけだ。

 ……ああ、そうだ。私の祖父はマーニーとも無関係じゃない。

 私の祖父が作った悪人を私刑にする組織が、メカニックに力を貸してたんだから」

 

 少女は帽子を天井に向けて投げるも、帽子はまた手元に落ちてくる。

 手放しても、放り投げても、かつて一度は見限ったはずの帽子(あこがれ)は戻って来た。

 

「私は、祖父がかつて犯した罪を贖うために……メカニックの残党を捕まえようとしている」

 

「緑川……」

 

「黙っていてすまなかった。だけど、お前の力が必要だったんだ」

 

 自分の中に流れる祖父の血に、自分なりにケジメをつけるには、少女一人の力では足りない。

 力の足りなさを自覚しているのなら、強がる気持ちをぐっと抑えるだけでいい。

 彼女がマーロウを頼ったのは、ひとえに彼に対する信頼ゆえのものだった。

 

「私は、私がどのくらい無力であるかを分かっている。

 祖父がどれだけ人を救ってきたか、どれだけの罪を重ねてきたかを知っている」

 

 祖父を真似た黒帽子を、少女は髪の上に乗せた。

 

「だから、今はこう考えてるんだ。

 この帽子をかぶっている限り、私は悪の敵ではなく、正義の味方で居ようと」

 

 マーロウもまた帽子を頭に乗せて、朗らかに笑って彼女の帽子を褒める。

 

「お前は似合わないと思ってるかもしれねえが、俺はその帽子似合ってると思うぜ」

 

 緑川もまた、嬉しそうに笑って彼の帽子を褒める。

 

「お前も十分、帽子が似合う男だよ」

 

 帽子が似合うと告げた二人の言葉に、嘘偽りは一つも無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メカニックの残党は、部下の中でも逮捕されなかった一部の人間が集まって構成されている。

 この人間は、大まかに二種類に分かれているようだ。

 つまりメカニックに利用された被害者だと判断された人間と、あまりにも末端過ぎて警察の捜査の網に引っかからなかった小物である。

 

 メカニックの残党はこの二種類の人間をかき集め、徐々に勢力を増している。

 逆に言えばそれに該当する人間を確保できれば、そこからメカニックの残党へコンタクトを取ることができるかもしれない。

 残党の場所に見当がつかないなら、かつてのメカニックの仲間を張ればいい。

 

「……信じられねえな」

 

 緑川楓が真っ先に挙げた、網を張るべき人間の名は―――如月アリアと言った。

 

「アリアさんがメカニックの元仲間? 悪い冗談だぜ」

 

「これは表沙汰になってない極秘情報だ。外に漏らすなよ、マーロウ」

 

「ああ」

 

 如月アリアは以前、マーロウに命を助けられた依頼人だ。

 雰囲気に滲み出るほどの高い知性と、それが嫌味にならない柔らかな物腰、それらを抜きにしても優れた美人であることで、マーロウもガッツリ彼女のファンをやっている。

 彼の驚きはかなり大きなものだっただろう。

 

「如月アリアは昔からメカニックの協力者だった。

 彼女の経営手腕やマネジメント能力などは、メカニックが仕込んだらしい」

 

「その言い方だと……知識を仕込んだのは鴻上の方か?」

 

「そうだな。

 メカニックは文字通り『如月アリアを作った男』であるわけだ。

 言い方を変えれば、国内でも指折りのタレントを意図して作れる男だったとも言える」

 

「あのアリアさんが、か」

 

 以前アリアがロイドにではなく、マーニーへ依頼を持って来た理由も、マーロウは今頃になってようやく理解した。

 アリアはマーニーの能力を、夜刀を打ち破った少女の能力をよく知っていたというわけだ。

 

「如月アリアは夜刀逮捕の前に、毒を飲んで入院した。

 詳しい経緯は不明だが、夜刀がマーニーに飲ませるため用意した毒だったらしい」

 

「!」

 

「警察はそれを、メカニックと如月アリアの決別と判断。

 更には司法取引と情状酌量も込み。

 如月アリアが社会に与える影響も鑑みて、彼女を極秘裏に被害者と扱ったんだと」

 

 資料を見ても、緑川の話を聞いても、如月アリアの立ち位置は見えてこない。

 メカニックとはもう仲間ではないのか。

 今でもメカニックを信奉しているのか。

 メカニックの残党に誘われたなら、アリアはその仲間に入るのか。

 

 その答えを確かめるべく、マーロウと緑川はアリアにアポを取り、会いに行った。

 

「さあ、虎穴に入るぞ。虎は居ないとは思うが、虎が居る可能性もゼロじゃない」

 

 マーロウはかつての依頼人が敵に回るかもしれないという不安に、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

 

 

 

 

 マーロウがそんな顔をしているものだから、アリアは思わず吹き出しそうになってしまった。

 彼の勘はアリアがいい人だと言っている。

 一度は依頼人だったアリアを信じたいと思っている。

 信じられる根拠を挙げるというより、信じたい理由を探している感じだ。

 そんな甘さが――芸能界で幾多の表情を見てきたアリアには――ひと目で分かるくらいに、彼の顔に出てしまっていた。

 

 とはいえ、会うやいなや相手の顔を見て笑うのは大変失礼なことなので、アリアは微笑みのポーカーフェイスでそれを隠した。

 

「聞きたいことがあります、如月アリアさん」

 

 複雑そうな顔をしているマーロウとは対照的に、緑川は微笑むアリアにぐいぐい行く。

 緑川がいくらアリアに質問をぶつけても、まるで柳に風だ。

 質問への動揺も、変な回答も返っては来ない。

 

「残念だけど、私がメカニックの残党に加わっている、なんて事実はないわ」

 

「本当ですか? 嘘をついても……」

 

「楓ちゃん、何か勘違いしてないかしら?」

 

「へ?」

 

「メカニックはね、『個人』なのよ。

 とてつもなく強力な個人こそが、組織の心臓なの。

 鴻上は叡智と愉快に全てを操るようなカリスマで……

 夜刀は残虐な知略と恐怖で他人を支配する圧政で……

 メカニックの組織と、その関係者を支配していたのよ?」

 

 返って来るのは、推理とはまた別の論理で組み立てられる理詰めの言葉であった。

 

「『メカニック』が居ない残党なんて、俗物しかついて行かないわよ」

 

「そ、それは……確かに、そうかもしれませんが」

 

「検察、弁護士、警察、官僚、政治家、富豪、社長……

 かつての『メカニック』はあらゆる分野に繋がりを持っていたわ。

 繋がりを持っていたのは人たらしの鴻上の方だったけど……残党ならその繋がりもない」

 

 アリアが見るに、メカニックの残党に大した力はない。

 警察の手に負えないほどの脅威になりかけていた二人のメカニックと比べれば、ゾウとアリほどに格の差がある。

 せいぜい数人規模の組織にしかならず、数人程度の人を殺すのが関の山である、というのがアリアの推測であった。

 

「二人で一人の犯罪計画者、メカニック。

 最高の相棒だった二人が憎み合うようになった時点で、終わりは決まっていたんでしょうね」

 

 アリアはそれを惜しむ様子も、悲しむ様子も見せない。

 ただ追憶に浸り、川辺の清流のような雰囲気で、静かに佇んでいた。

 

「悪いが、聞かせてくれ。アリアさん」

 

 素の自分を全く見せないアリアに、緑川を脇に押しのけたマーロウが詰め寄る。

 

「あんたはもう本当に、悪党の仲間じゃないんだな?」

 

「ええ」

 

 相手が悪であることを探る言葉でもなく、相手を疑う言葉でもなく、価値のある情報を引き出すための言葉でもなく。その人を信じるための確認作業でしかない言葉。

 この期に及んで彼は甘くて、アリアは自覚無しに少しだけ素の自分を出してしまう。

 

「私はね、あなたが思ってるほどいい人じゃないわ。

 あなたやマーニーのような、いい人にはなれないの」

 

 緑川は口を出そうとし、何も言わずに口を噤む。

 アリアはマーロウを、マーロウはアリアを見ていて、アリアの表情は先程まで見ていた一面とは違うものに見えたから。

 

「でもね、夜刀はともかく……

 鴻上も、あなたが思ってるほど悪い人じゃないのよ。

 あの人は誰かに理不尽に涙を流させるようなことは、私にはやらせなかったから」

 

「……そうか」

 

「鴻上は誰かの依頼を受けて初めて動く、誰かの正義の味方だったから。犯罪者だけどね」

 

 人それぞれに正義があるのなら、復讐を手伝う犯罪幇助もまた正義の味方……と、言えるのかもしれない。それは紛れもなく、悪であるというのに。

 

「でも、あの人は他人の手助けしかしなかった。

 他人が犯罪者になる時手助けしても、犯罪者になるのを止めはしなかった。

 その人が間違った道を進もうとした時、背中を押すのか止めるのか、どっちが……」

 

 アリアの脳裏に記憶の風景が蘇る。

 復讐の助力を頼む依頼人と、その依頼を受けるメカニックの姿の記憶が蘇る。

 そしてアリアは目の前の青年を見る。

 

 ……この青年なら何が何でも復讐を止め、言葉と心を尽くすのだろうかと、アリアは思った。

 

「その人が間違った道に進もうとしていたら、体を張ってでも止める。

 俺にはそのくらいしかできねえ。だが、それだけは死ぬ気でやり遂げてみせるさ」

 

 その甘さを悪くないと思う心が、彼女の胸の奥にあった。

 

「マーニーと鴻上は、どこかがよく似ていたわ。

 違うのは、あの人は計画屋(プランナー)、あの子は解決者(セトラー)

 そしてマーニーは、決して犯罪なんてことはしなかったという点」

 

 マーニーと鴻上が似ているのだと彼女は言う。

 

「逆にあなたは鴻上とも夜刀とも似ていないわね。

 あなたは探偵のスペシャリストで、鴻上は計画立案のプロフェッショナル。

 ただ、そんな言葉を使わなくても……もっと根本的な違いを挙げることはできる」

 

 マーロウは鴻上とも夜刀とも似ていないと、彼女は言う。

 

「メカニックは強いから頼られる。

 マーニーは誠実だから愛される。

 あなたは真っ直ぐだから信じられ、託されるのよ」

 

 何かが起こるという予感が、アリアの中にはあった。

 それがよくないことであるという確信があった。

 マーニーを選んで託そうとしていた彼女は、心変わりし選択を変える。

 

「タフでなければ生きていけない。優しくなれなければ生きている資格がない」

 

 アリアはマーロウの手の中に、こっそりと折り畳んだ紙を握らせる。

 

「頑張って。私も信じてるから」

 

 アリアは彼を切り札(ジョーカー)に選んだ。

 

 去っていくアリアを見送り、マーロウは渡された紙を広げる。

 

「緑川」

 

「それは?」

 

「……メカニックの残党への合流を呼びかける、招集の手紙だ」

 

 メカニックの残党に加わっていない、というのは本当のこと。

 けれども手紙を貰ってないとは言っていない。

 とことん、食えない女性であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつてメカニックは、血を大量に用意して塗料とし、建物の壁面に自分の紋章を大きく描いていたという。

 ルミノール反応を視覚化できる特殊なサングラスを使い、身内にしか見えない目印にしていたそうだ。

 その手口はどうやら、部下の一部に継承されていたらしい。

 

「見えたぞ緑川。メカニックの紋章だ」

 

 特殊塗料を使って身内にしか見えないようにした、メカニックの残党のアジトへと身内を誘導するメッセージ。そんなもの、デンデンセンサーで見抜けないわけがないのだ。

 

「これを辿っていけばアジトに辿り着けるわけだな、マーロウ」

 

「ああ。頼むぜ、デンデン」

 

 一説には、隠されたメッセージには、オーソドックスなものが二種類あるという。

 特殊な手段を使わないとメッセージに変換できない暗号。

 そして、特殊な手段を使わないと目に見えないメッセージだ。

 後者であれば、デンデンセンサーに見抜けないものはない。

 

「この門と入り口の先にアジト……っと、止まれ緑川。

 赤外線センサーと監視カメラがある。

 デンデンセンサーで安全なルートがどこか確かめながら行くぞ」

 

「やっぱそれ一つくらい欲しいんだけどなー……私の誕生日に一つくらいは」

 

「ダメだっつーに」

 

 監視カメラが拾う光の波長の位置を把握し、赤外線をデンデンで可視化し、さあ先に進もうとしたところで――

 

「Freeze」

 

 ――前ばかり見ていた二人は、後ろから銃を突きつけられてしまった。

 

「げっ」

「しまった!」

 

「おっと、ガジェットとやらを動かすなよ?

 お前らが動かないように厳命させるんだ。

 ちょっとでも動いてるガジェットが見えたら、その前にお前らの脳天に穴が空くぜ」

 

(ガジェットのことまで……)

 

 二人は手を上げ、銃口という拘束具に動きを止められてしまう。

 敵は八人。全員が銃を持っていた。

 事前情報によれば、この八人でメカニックの残党は打ち止めである。

 ならば全滅させればそれで終わりであるのだが……流石に銃弾より速く動くメモリガジェットはないために、銃を突きつけられてしまえばどうしようもない。

 

 ましてやマーロウは、か弱い女の子一人を守らなければならないのだから。

 

「お前のことはずっと警戒してたんだよ……

 あのマーニーとかいう忌まわしいガキの仲間の、()()()()()()使()()

 

「……ガイアメモリ?」

 

「お前を捕まえて、ついでに吐かせてやるよ!

 ガイアメモリとかいうものがなんなのかって情報もな!」

 

 ガイアメモリ、という単語がマーロウの頭に理解しがたい痛みを走らせるが、今はその痛みの正体を探っている場合ではない。

 

「メカニック抜きで組織が再建できると思ってんのか?

 鴻上は組織を捨てどこぞへと逃げて行方不明。

 夜刀は死刑執行間近だ。

 お前らは頭が無いのに歩き回ってるゾンビみたいなもんだろ」

 

 マーロウがついた悪態に、残党の男達は爆笑で応える。

 

「あのお方は必ずこの社会に蘇る……再起動の日は近い!」

 

 どこか宗教めいた、狂気じみた信頼に、マーロウの背筋に怖気が走る。

 そして男達は、一斉に銃口を緑川に向けた。

 

「用があるのは男の方だけだ。女の方はやっちまえ」

 

「っ!」

 

 マーロウが少女を庇う。

 間に合わない。全身を庇えない。

 同時にガジェットを使おうとする。

 間に合わない。引き金を引くだけの一瞬では何もできない。

 

 その一瞬、緑川は死を覚悟して――

 

「ここが、今日の私達のゴールだ」

 

 ――頭上から聞こえてきた声に、耳を疑った。

 

 引き金を引く指が止まる。それも当然だ。

 何せ、近場の下り坂で思いっきり加速して来た自転車がジャンプして、高いところにある道路から低いところにあるこの場所まで、一直線に飛び込んで来たのだから。

 残党達は慌てて命からがら自転車を回避して、マーロウはその自転車に乗っていた見覚えのある顔に驚愕する。

 

「天! ……と、マーニー!?」

 

 マーニーの車椅子はもうお役御免で返還された。

 だから今日はリハビリも兼ねて天と一緒にサイクリングしていたはずだ……と、マーロウが思ったところで、天と違って空中でバランスを取れなかったマーニーが、自転車から放り出されて落ちてくる。

 

「わああああああっ!」

 

「危ねえ!」

 

 そんな彼女をマーロウがなんとかキャッチ。

 マーニーの自転車は単独で派手にかっ飛んで、メカニック残党の内二人を「ぐえっ」と押し潰していた。

 

「マーニー! お前どうしてここに!」

 

「リハビリの途中で二人を偶然見かけて、天ちゃんが行こうって言って……

 で、拳銃突きつけられてたのが見えたから、その後は私も天ちゃんも流れで」

 

「流れかよ!」

 

 マーロウにキャッチしてもらったマーニーと違い、天は自転車で華麗に着地、その後も颯爽と駆け残党の行動の邪魔をする。

 緑川が残党の落とした拳銃をドブに蹴り落としている内に、マーロウは一番速く動けるメモリガジェットを起動した。

 

「バットショット!」

 

《 BAT 》

 

 バットショットが男達の手に体当りして、拳銃を次々と叩き落としていく。

 そして拳銃を失いただのチンピラまがいと化した彼らに、マーニーを抱えたままのマーロウの蹴りが次々と突き刺さって行った。

 

「寝てろ悪党!」

 

「ぐえあっ!?」

 

 銃さえ無ければ、マーニーという重荷を抱えてなお圧倒できる。

 チンピラとハーフボイルド探偵の間には、そのくらいに戦闘力の差があった。

 敵を軒並み片付けたマーロウは、マーニーが何やら恥ずかしそうにしていることに気付く。

 

「……あー、ほら、重いようなら降ろしていいよ?」

 

「……お前、背が低くて胸もないくせに地味に重いな」

 

 マーニーパンチが、マーロウの顎にクリーンヒットした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃ロイドは、事務所に一番近い警察署に足を運んでいた。

 

「噂は聞いていましたよ、名刑事のロイドさん。

 もう警察を辞めてしまったと聞いて寂しかったものです。

 ですが今回の拾得物の確認がしたいとは、どういうことですか?」

 

「大した理由はないさ。

 オレは最近拾った記憶喪失の男を一人面倒見てやっていてな。

 そいつが見つかった場所の近くで変な物が見つかったと聞いたから、もしやと思ったんだ」

 

「その記憶喪失の方の持ち物かもしれない、と」

 

「そいつはメモリガジェットっていう不思議な道具を使うんだ。

 不思議としか言えない道具なら、奴の持ち物……記憶のキーである可能性も高い」

 

 箱の中に入れられた物を、警察官がロイドの前でずらりと並べる。

 

「こちらが当日発見された物の中でも、特に理解が及ばなかった物です」

 

「これはまた……よく分からないな」

 

 並べられた物は、一見ただのUSBメモリに見えるものですら、彼らの理解の範囲外だった。

 

「それはどうやら、人体に有機的なコネクタを作る装置のようです」

 

「コネクタ……?」

 

「人体を直接機械に接続できるコネクタ、ということです」

 

「人体に直接!?」

 

「人体に機械と接続可能なコネクタを作る技術。

 人体に接続し使用できる機械を作る技術。

 どちらもありえない技術です。ハッキリ言って、現代科学のものとは思えない……」

 

 軽く分析しただけでも、『何かがおかしい』としか思えないオーバーテクノロジーの数々。

 

「この世界の外から来た、と言われた方がまだしっくり来る技術ですよ」

 

 警官が異世界のものなんじゃないか、と思ってしまうほどに、それらの道具は異常だった。

 ロイドが並べられた物の内一つを手に取り、操作してみる。

 

《 JOKER! 》

 

「……玩具かなにかか?」

 

 操作された小さな『それ』は、どこかの誰かと呼び合っていた。

 

 

 




 あと二話で完結


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Mにさよなら/マーニーの依頼

 急なあれこれで投下できる土地にいなくて、投下遅れてすみませぬ


 ロイドは今日も警察署を訪れていた。

 メカニックの残党をマーロウが警察に突き出した、という話を聞いたからである。

 ロイドにとってもメカニックは忌むべき敵であり、メカニックが起こした過去の事件は、彼から多くのものを奪い去り、危うく愛娘のマーニーの命まで奪われるところだった。

 

 そんなメカニックの取りこぼしをマーロウが捕まえたと聞いて、ロイドは奇妙な運命と少しの嬉しさを感じる。

 彼は昔のツテで警察署に入れてもらい、カメラを中継に使って取調室の中を見ることができる部屋に入った。

 部屋では警察官が画面を見ていて、画面の中ではメカニックの残党がヘラヘラと笑っている。

 

「どうも、失礼します。奴らは何か吐きましたか?」

 

「どうもロイドさん。奴ら相も変わらず、ペラペラ喋ってますよ。

 重要な所は何も知らされてないようです。

 本人もその自覚があるのか、致命的な情報を喋ってしまうことを恐れていません」

 

 取調室の中では、ケラケラ笑う男が警官の追求にからかうように応じていた。

 

「ガイアメモリ、とはなんだ?」

 

「もう手遅れなんだよ。俺達は何も知らねえ。

 知ってるとしたらあのマーロウってやつだけだ。

 俺達はあいつが持ってる知識とギジメモリってのを奪って来いって言われただけなんだぜ」

 

 ロイドの頭の中で、マーロウが持っているメモリガジェットという道具、拾得物として警察に届けられた例の機械が記憶として想起される。

 『マーロウの持ち物で狙われそうな物は何か?』という彼の推理が真実を掴み、ロイドは嫌な予感がして取調室に飛び込んだ。

 

「ロイドさん、ちょっと!」

 

「おい、そのメモリってのまさか拾得物として保管されていた、USBメモリ状の機械のことか?」

 

「けっけっけ、使えるメモリが一本だけとかシケてやがる。

 でもまあしょうがないな。

 『ここ』には『外』から持ち込まれたメモリしかないって話だったしな」

 

「……警察にまだメカニックの信奉者が居たのか!? おい、確認を!」

 

 ロイドが怒鳴って、慌ただしく警官が確認に動く。

 ほどなく、警官の一人が血相を変えて取調室に戻って来た。

 

「た、大変です! 化石のような外装の付いていたあのUSBメモリ状の機械がなくなってます!」

 

「なんだと!?」

 

「それと、人体にコネクタを作るあの機械もありません!」

 

「あっはっはっはっ!」

 

 男が笑う。

 どこかメカニックに似た笑いだった。

 笑いは真似できても、能力や技能は何一つ真似できなかった者の笑いだった。

 

「バカだよなあ、あいつは!

 記憶をなくしてなけりゃあ!

 自分が落として警察が拾った荷物の中に!

 盗られちゃいけねえもんがあるってことも覚えていてられただろうに!」

 

「……マーロウのことか?」

 

「あいつも終わりだ! もうメカニックに目え付けられちまったんだからなぁ!」

 

 悪党の哄笑が取調室に響き渡り、同時、警察署の外と取調室の間にあった壁の全てが粉砕され、外からこの場所へと続く一直線の道が出来る。

 

「な―――なんだ!?」

 

 その穴から、二つの影が現れた。

 一つは黒色の刺々しい怪物。

 全身の半分ほどをくまなく覆うように生えるそのトゲは、硬い甲殻で出来ているのか、角質の上を強固な皮膚が覆っているのか、はたまた金属製なのか、まるで分からなかった。

 

 そして、もう一つの影は……かつて人々に、『メカニック』と呼ばれた男のもの。

 狂気に満ちたその目を見るだけで、邪悪な方のメカニック・夜刀であることを理解することは、容易なことであった。

 

「ご苦労、『ジョーカー・ドーパント』」

 

 突如現れた、世界の常識を覆す怪物。

 当然のように脱獄を果たしたメカニック。

 それを驚きもせず、ただ喜び迎え入れたメカニックの残党。

 ロイドはそれらを見て理解する。

 この男は、メカニックの夜刀は、投獄されてからも密かに街で悪党を動かしていたのだと。

 

「め……メカニック!?」

 

「待ってましたぜ、メカニック様!」

 

 ジョーカー・ドーパントなる怪物を連れ、メカニックはあっという間に警察署を占拠する。

 残党の言葉を信じるのであれば、メカニックが保有するガイアメモリは、マーロウがここに持ち込んでしまった一本のみ。

 ゆえに怪物も一体のみ。

 だが、その一体のみで『無敵』を名乗るには十分過ぎる戦力であった。

 

「さて、ゲームを始めるか。……まずはお前からだ、三人目のメカニックさんよ」

 

 警察官達を制圧し、ロイドも捕らえ、けれどもメカニックはそれらの誰も見ていない。

 

 その目はどこか遠く、遥か彼方の宿敵へと向けられていた。

 

 

 

 

 

『緊急速報です、今入りました情報によりますと――』

 

『――警察署は占拠され、その時点で警察署内に居た全員が人質に――』

 

『――警察署周辺は近隣警察署からの応援で封鎖され、詳しい状況は――』

 

『――記者会見での発表によれば脱獄した史上最大の愉快犯、メカニックは――』

 

『――要求は未だ――』

 

『――経過を――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 若島津ゆりかは、ニュースを見るやいなやSNSで知り合いに知らせを飛ばし、家を飛び出した。

 ニュースで見た『メカニックに捕まった人質』の中に、マーニーの父親の姿があったことに気が付いたからだ。

 使える移動手段を駆使して現場の警察署近くまで辿り着き、警察が封鎖している外縁に到着。

 集まった野次馬の合間を抜けようとしても抜けられず、ゆりかはむすっとした顔でどこか警察署の様子を伺える場所はないかと、歩き出す。

 

「よう、ゆりか」

「何やってんのゆりかちゃん」

 

「あ、マーロウさん、マーニー! どうなってんのこれ!?」

 

「俺達もそこまで詳しい状況は把握してねえよ。

 だが……警察署を占拠した犯人の要求が、俺とマーニーを呼ぶことだったんだ。

 俺とマーニーが二人だけであの警察署に行かなければ、人質は全員殺すってな」

 

 ゆりかが眉を顰める。

 どうしようもないくらいに罠だ。

 分かりやすすぎるくらいに罠だ。

 が、マーニーの父親も人質に取られているため、応じないという選択肢はないわけで。

 

「……大丈夫なの?」

 

「人質を取るなんて小物のやり口だ。安心して待ってな、ゆりか」

 

「その根拠のない自信っ! ちょっと不安だけど、まあ信じて待ってるよ」

 

 ゆりかは「マーニーをお願い」と小声でマーロウの耳元に囁く。

 

「マーニー、無理はしないでよ?」

 

「はいはい、ゆりかちゃんも余計なことしないようにね」

 

 珍しく本気の心配をするゆりかに、それを軽くあしらうマーニー。

 普段は軽率で軽薄なゆりかにマーニーが真面目な警告をして、ゆりかがそれを軽くあしらうという関係があるだけに、それが逆転した今のこの光景が際立つ。

 マーニーはゆりかの対応の違い、自分とマーニーに対するそれの違いを比べて、"親友だな"としみじみと思った。

 

 ゆりかを置き去りにして、人混みをかき分けながら進むマーロウは、まだ足が治ったばかりのマーニーを守ろうという決意を固める。

 人混みの向こうで野次馬をせき止めていた警察官の一人が、マーニーの姿を視認して、彼ら二人を警察の封鎖の内側に入れてくれた。

 

「来たかマーニー」

 

「毛利さん、状況は?」

 

「警察署の職員は全員無力化され捕まっている。メカニックが署を完全に制圧した状況だ」

 

 どうやらその警察官は、マーニーの知り合いであったらしい。

 とはいえマーロウとは初対面。自己紹介をしたいところだが、今は一刻を争う時だ。

 

「初めまして、毛利だ。時間が惜しい、自己紹介は後回しにして、簡潔に説明させてもらう」

 

 毛利という名の警官は簡潔に状況を語る。

 現在メカニックは警察署の最上階に陣取っており、その部下が一階のエントランスホールに集めた人質を見張っているらしい。

 現在警察署敷地内に踏み込むことは困難で、警察署を肉眼で捉えられる距離に一般人を入れないという対処療法しかできていないのだとか。

 

 他の署から駆けつけて来た警察が何もできないで居る理由は、ただひとつ。

 ジョーカー・ドーパントを名乗る怪物が、警察が動けば即座に現れるからであった。

 

「怪物……? 毛利さん、見間違いとかトリックではないんですか?」

 

「私が先程見た時、撃った銃弾は容易に弾かれた。

 後々問題になることも覚悟で撃ったのだが……歯牙にもかけられず、無視されたよ」

 

「……怪物、か」

 

 マーニーは半信半疑で、けれどのその怪物の強さを認め、マーロウは何故か頭の内側で蠢く記憶の渦に浸っている。

 

「行こう、マーロウ」

 

「……ん? ああ、行くか」

 

 マーニーの折れた足は以前の通りとまでは行かずとも、治っている。マーロウの手もだ。

 二人が互いの怪我の分を補い合う必要は、もう無い。

 補い合うのではなく、力を合わせるべく二人は今肩を並べていた。

 肩を並べて、彼らは警察署に歩いて行く。

 

「奴の目的は私とマーロウであることに間違いはないと思う。

 鴻上さんを釣れたら御の字、くらいの期待はしてるかな?

 何にせよ、人質を解放させた後が本番だ。

 ……毛利さんから聞いた『怪物』から、私達二人だけで逃げ切らないといけない」

 

「だな」

 

 夜刀が人質を解放するかは分からないが、人質の解放は第一目標であり、それを達成してからが本番である。

 そこから先を生き残れるかも問題なのだ。

 マーニーは、今日だけで終わる一つの依頼を口にした。

 

「日当五千円、経費は別で。私の依頼を受けてくれないかな」

 

「お前が、俺に依頼を?」

 

「依頼内容は、『必ず私達二人で生きて帰ること』」

 

 依頼人はマーニー。依頼を受ける探偵はマーロウ。

 考えるまでもなく、彼はその依頼を快諾する。

 

「任せろ。その依頼、必ず達成してみせるさ」

 

 パン、と二人の間で二人の手の平が打ち合わされ、小気味のいい音が響く。

 

 それが、最初で最後のマーニーの依頼だった。

 

 

 

 

 

 正面入り口から入ろうとするマーロウとマーニーの足を、署内備え付けのスピーカーからの声が止める。

 

『裏口から入れ。お前達が最上階まで来た時点で、人質は解放する』

 

 悪のメカニック、夜刀の声であった。

 どうやら施設内のスピーカーは全て掌握しているらしい。

 監視カメラと集音マイクも併用しているのか、マーロウとマーニーの位置や声まで、あらゆる情報を拾っているようだ。

 マーロウは声だけを飛ばしてくる夜刀に、喧嘩腰で声をぶつける。

 

「本当に人質を解放するんだろうな?」

 

『おいおい、信じろよ。

 お前達を呼び寄せた時点であいつらは用済みだ。

 フェアなゲームにしてやろうっていうオレの善意さ。分かるだろ?』

 

 裏口から二人が警察署に入ると、同時に一階エントランスホールで夜刀の部下が人質を解放し始める。

 マーロウ達が階段を登っていくにつれて徐々に人質は解放され、それは階段を登る過程で窓から外を見ている彼らもその目で確認していた。

 

「あ、パパ」

 

 ロイドが解放されたのを見て、マーニーがホッとする。

 彼女が安心するやいなや、夜刀は小馬鹿にするような声色で茶々を入れてきた。

 

『どうせあんなゴミ共は自由にしても問題はない。

 現代の技術力で作られた武器では、この怪物は倒せないと身に沁みてるだろうからな』

 

(怪物)

 

 警察署をほぼ単独で制圧したという怪物。

 銃は効かず、誰も殺す必要さえなく、それなりに動けるはずの警官ですら子供扱いし捕縛したという怪物は、最警戒対象だ。

 理性と力を併せ持つなら、それがおそらく最大の脅威となる。

 二人は最上階に辿り着き、扉を開いて、その向こうに夜刀と傍に控える怪物を見た。

 

「ようこそ、ステージへ。

 相変わらず無意味な情に流されて生きているようだな、マーニー」

 

「夜刀……」

 

「それとそっちの、マーロウだったか」

 

 夜刀の言動は一見楽しそうに聞こえる声色だが、その裏側には怖気がするほどにじっとりとした憎悪が感じられた。

 かつてマーニーの活躍で捕まったのなら、その憎悪も当然か。

 その憎悪の一部は、マーニーの身内であるマーロウにも向けられていた。

 マーロウは夜刀からマーニーを庇うように立つ。

 

「分かる、分かるんだよ。

 お前くらいに分かりやすい奴は見りゃ分かる。

 オレとは絶対に相容れない、気持ちの悪い偽善者だ」

 

「はっ、そうかよ。こっちもお前みたいな野郎と仲良くする気はねえさ」

 

 マーニーは夜刀との因縁故に憎まれている。

 だがマーロウは、その性質故に夜刀に敵対視されていた。

 『擁護のしようもない悪』にとって、絶対的に相容れない人種というものは実在する。

 

「さて、マーニー。お前はかつて、オレをハメるために三人目のメカニックを名乗ったな?」

 

「……そんなこともあったね」

 

 夜刀の口の形が、上弦の月の形から、三日月のそれへと変わる。

 僅かな口の動きからも感じられる狂気と悪意。

 保身も利益も考えず、ただ復讐だけをしようとする空っぽな目。

 マーロウは何にも先んじて、マーニーの命が危ないことを直感した。

 

「メカニックはオレ一人でいい」

 

 鴻上という一番目のメカニックも、マーニーという三番目のメカニックも、夜刀という二番目のメカニックには邪魔でしかない。

 マーニーを殺すつもりの夜刀を、マーロウは鼻で笑う。

 

「一番目と三番目を殺せば、自動的に二番目が唯一無二の本物になる、ってか。

 サル山のてっぺん取るためにボスに挑む猿でも、もうちょい複雑に物事を考えてるぜ?」

 

「探偵マーロウ、強がりはやめろ。

 その挑発はマーニーが心配であるがための挑発だ、そうだろう?」

 

 だが夜刀の切り返しに、返答に窮してしまった。

 他人の弱点を見つける悪辣さと、そこを突く悪意という二点において、夜刀は稀代の犯罪者に相応の能力を持っている。

 

「ゲームをしようじゃないか、マーロウ。

 とりあえずそのゲームに勝てば、お前達がこの警察署から出て行くのを見逃してやる」

 

「ゲームだと?」

 

「鬼ごっこさ」

 

 夜刀は恐ろしい形に口を歪めて、マーニーに手錠を投げ渡す。

 

「マーニー、その手錠でそこの柱に両手を固定しろ」

 

「……」

 

「そうしたら、エントランスホールの最後に残った人質を解放してやる」

 

「……分かった」

 

 マーニーは背中側に手を回し、背中側で手錠を使って両手を固定する。

 手元を隠せるのと、夜刀が近付いてきた時に蹴り飛ばしやすい、という考えでのことだった。

 夜刀はマーニーの両手が固定されたのを確認し、指を振って、無言のまま何も話さないジョーカー・ドーパントを動かす。

 

「マーロウ、お前は俺の部下と鬼ごっこだ。

 こいつに捕まらないようにしてこの部屋に戻ってきて、オレから鍵を取れればお前の勝ち。

 この鍵があればマーニーの手錠は外せる。お前らはこの警察署から逃げられるだろう」

 

「いいぜ、上等だ」

 

「逃げ切れるとは思わんがな。ああ、ハンディをやるよ。

 オレはお前をモニタリングするが、オレの部下にお前の情報はやらないでおいてやる」

 

「後悔すんなよ?」

 

 夜刀はこの怪物の強さに絶対的な信頼を置いている。

 逃げ切れないことを確信している。

 対しマーロウは、身長2mはありそうな怪物にガンつけつつ、一歩も引いていなかった。

 どこか慣れた様子さえ感じられる。

 

 怪物にガンを付けているマーロウをよそに、夜刀はマーニーの耳元に囁いた。

 

「どちらにしようか迷った。最後まで迷ったんだ。

 父親とマーロウ……どちらを目の前で殺せば、よりお前は絶望するかってな」

 

「―――」

 

 夜刀の股間を蹴り上げようとしたマーニーの足が、ピタリと止まる。

 

「結論は出た。

 父親を殺せばお前は家族愛ゆえに絶望するだろう。

 だが、マーロウを殺した時の絶望は違う。

 あの男は、もっと漠然とした……鴻上やお前が信じていたものの象徴だ」

 

 マーニーの顔色が変わり、止まった足が空振った。

 避けた夜刀は、変わらずマーニーに囁き続ける。

 

「正しく生きること、義を捨てないこと。

 大抵の人間が掲げてるくっだらねえ綺麗事の象徴なんだ、あいつは。

 この街に正義の花束があるなら……そいつを殺して、葬送の花にしたらどうなる?」

 

 マーニーの脳裏に、ここ数ヶ月ですっかり街に馴染んだマーロウの人懐っこい笑顔が思い返される。

 マーロウに依頼を達成してもらい、笑顔になった人達の笑顔が思い返される。

 彼に猫を見つけてもらった飼い主、彼に面倒を見てもらっていた子供、奇妙な交流ができた高校生、マーロウと気軽に話していた大人や老人の姿が、思い返される。

 

「探偵マーロウが殺されて絶望するのは、お前一人では済まない気がするな」

 

「夜刀っ!」

 

 マーニーの頭に血が上り、行動を起こそうとしても手錠に阻まれ、夜刀は笑う。

 そう、この警察署という舞台は。

 彼女の前で彼女の大切な人間を殺し、かつて自分に逆らったことを後悔させるためにあった。

 

「ゲームスタートだ」

 

 夜刀が手を振ると、ジョーカー・ドーパントが同じように腕を振るう。

 ただそれだけで、この部屋の壁が粉砕され、粉砕された壁は吹き飛んで別の壁を粉砕し、警察署の外へと繋がる大穴が空いた。

 怪物、と言う他ない膂力。

 

「―――!?」

 

 マーロウは怪物から距離を取ろうとするが、あっという間に距離を詰められ、首根っこを掴まれてしまう。

 

「く、ぐっ……!」

 

 早い。そしてあまりにも速い。小細工を弄さなければ、回避さえ許されないスピードだ。

 

(こいつ……この動き、()()()()人間のそれじゃねえ!)

 

 一も二もなく、怪物は壁の穴からマーロウを外に投げた。

 警察署の最上階の高さから、青年は一気に落下する。

 

「マーロウ!」

 

 マーニーの悲痛な叫びと夜刀の笑い声を耳にしながら、マーロウは腕のスパイダーショックを素早く操作した。

 

「う、おおおおおっ!」

 

 腕時計から放たれた蜘蛛糸が、最上階の手すりを捉える。

 スパイダーショックが落下速度を減速させつつ、マーロウの体をゆっくりと地面に降ろす―――かに、見えたが、そう上手くは行かなかった。

 ジョーカー・ドーパントの全身から生えたトゲが、刃となって蜘蛛糸を切る。

 結果、マーロウは勢いよく背中から地面に落ちてしまった。

 

 コンクリートの路面が、彼の背中を強打する。

 

「がっ―――!」

 

 肺から空気が叩き出され、横隔膜が痙攣し、呼吸が止まった。

 

(息ができねえ……! いや、落ち着け!

 背中を打って息ができないのは、"息が吸えない"だけだ!

 こういう時は連続で短く息を吐く。息を吐けば、自然に生理作用で肺に新しい空気が――)

 

 マーロウはうめき声を上げながら、必死の思いで膝立ちになる。

 

(――この知識、俺はどこで教わったんだっけ?)

 

 その記憶がどこから来たのかを考える間もなく、マーロウは横に跳んだ。

 一瞬前まで彼が居た場所に、怪物が落下してくる。

 銃弾を弾く強度と硬度の肉体は、落下の衝撃でコンクリートの路面を粉砕しつつ、何のダメージもなさそうにマーロウに狙いを定めた。

 

「っ!」

 

「逃げてもいいぞマーロウ! その場合マーニーがどうなるかは分かってるだろうがな!」

 

 最上階から夜刀が煽ってくるが、元より逃げるつもりなど無い。

 マーロウはふらつく足で、迷いなく警察署内に戻った。

 既に人質も全員解放された署内は、マーロウの味方など誰も居ない処刑場となっている。

 

「見えるか? マーニー。奴が縊り殺されるところもこれでちゃんと見ることができるぞ」

 

「……本当に、悪趣味な!」

 

「そう、その顔だ! その顔が見たかった!」

 

 少女の苦悶の顔を見て高笑いする夜刀は、彼女の指摘通り悪趣味極まりない人物だった。

 

「知ってるかマーニー? あの男はな、おそらくあの怪物と戦っていた男なんだ」

 

「……え」

 

「あの化石のようなメモリを持っていたということは、そういうことだ。

 今日までの日々の中、奴の記憶は蘇りかけている。

 ドーパントと戦えば戦うほどに、奴の内にはかつての記憶が蘇る。

 お前達が最終的に無様な逃走を選んだとしても、結末は変わらないだろう」

 

 イカサマ師(メカニック)と呼ばれた男の仕込みは、いつだって綿密だ。

 そして夜刀に限ればその仕込みは悪辣だ。

 

「記憶を取り戻した奴は、必ずお前から離れていく。

 ……その前に奴が、命惜しさにお前を見捨ててここから逃げ出すかもしれないがな」

 

「―――」

 

「お前達に待つ不可避の結末は、永遠の別れだ」

 

 夜刀は()()()()()()()を、マーニーの目の前にチラつかせる。

 マーニーはその言葉に動揺しているフリをしながら、夜刀が警察署全体を見張るために持ち込んだモニターを見つつ、体で隠したスマホでメールを送信する。

 メールの送り先はマーロウ。

 このために彼女は、わざわざ後ろ手に両手を手錠で固定したのである。

 

(後ろ手にはメールを送ることもできる……私は、私にできることを!)

 

 ただし、計算外が一つだけ。

 

 動揺したフリをして夜刀の目を欺こうとしたマーニーの心は―――()()()()()()()に、本人の予想以上に動揺してしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛む背中を抑え、マーロウは警察署内に飛び込む。

 ジョーカー・ドーパントもその後を追うが、マーロウの姿を見失ってしまっていた。

 

「どっち見てる、こっちだ!」

 

 左から聞こえた彼の声に、ドーパントがそちらを向く。

 "マーロウの声を出したフロッグポッド"の方をドーパントが見た瞬間に、マーロウはその背後から――フロッグポッドとは逆方向から――、怪物の後頭部にバットショットを投げつけた。

 

(行けっ!)

 

 マーロウの投擲で初速を得たバットショットが、フルに加速し時速120kmで怪物の後頭部へ激突する。

 後頭部は指折りの人体急所だ。

 相手が人間だったなら、確実に脳まで潰れる一撃であった。

 

 だが、ジョーカー・ドーパントは後頭部を打たれた直後、ダメージを食らった様子も見せずにバットショットに手を伸ばす。

 素早く鋭い手の動きが、空中で姿勢制御を行っていたバットを捕らえ、握撃でそれを破壊した。

 更には囮役になっていたフロッグポッドも、怪物の足に踏み壊される。

 

「くっ……!」

 

「……いい、とても素敵だ、このメモリは。

 力が無限に湧いてくる。いや、力以上に技の完成度が増してくる!

 普段の僕にはできないような技が、動きが、こんなにも簡単にできるなんて!」

 

 酒に酔ったような――薬に脳を侵されているような――怪物の言動が、妙に子供のようであるこることに、マーロウは疑問を持つ。

 

「……子供か?」

 

 ジョーカー・ドーパントの動きが止まった。

 怪物がその左眼に手をやると、左眼からメモリが排出され、怪物が人間の姿に戻る。

 メモリを体外に排出した、ただそれだけで、怪物は童顔の少年へと戻ったのだ。

 

「そうさ、僕は浮井和雄。

 君の仲間のマーニーが通ってる学校に、去年まで通ってた一人だ」

 

「夜刀の野郎、こんな子供を怪物に……!」

 

「違うよ……僕はただメモリに一番適合してただけ……怪物になったのは、僕の意志だ」

 

 浮井和雄。

 マーニーと直接の面識はないが、マーニーの二つ上の先輩であり、メカニックにそそのかされて殺人事件を起こし、マーニーがその事件を解決する前に失踪した少年である。

 

「そうだ、僕の意志だ!

 怪物になったのも! 小さい頃に僕を虐めた男を殺したのも!

 何もかも僕の意志で決めたことだ! そうだ、復讐は僕の意志!

 夜刀さんは僕が選びたいと思う選択肢を、いつだって僕の前に置いてくれる……!」

 

「! ……お前、あいつにそそのかされて、人を……」

 

「違う! そそのかされたんじゃない! これは僕の意志だ!」

 

 道を踏み外した少年。

 大人は子供に道を踏み外すなと言う。

 社会のルールを守っていれば、社会のルールが守ってくれると耳にタコができるほど言う。

 それは何故か?

 嘘つき、卑怯者……そういう悪い子供こそ、本当に悪い大人の餌食になってしまうのだと、大人は知っているからだ。

 

「だから! 後悔なんてあるわけない!

 人を殺したことも! 怪物になったことも! 僕が後悔するわけない!

 何も怖くないから後悔なんてしていない!

 メカニックは、夜刀さんは何も悪くない! 僕も悪くない! だから後悔なんてしないんだ!」

 

 必死な顔でそんな言葉を必死に叫んでも、本心は絶対に隠せない。

 人を殺して悪の手先となった少年を見て、マーロウの心中に湧き上がるのは、激しい怒りと静かな悲しみ。

 少年を利用し操っている夜刀への怒りと、少年に同情する心が生み出した悲しみだった。

 

(こんな子供に罪を重ねさせやがって……!)

 

 良太郎達の時とは違う。

 浮井和雄には数えるべき罪があり、罪と向き合っていないがための苦悩があった。

 

 あと二年もすれば成人するであろう少年は、自分が犯した殺人という罪の罪悪感をしっかりと感じ、殺人者が社会の中でどう扱われるかをしかと認識している。

 自分の罪がそこにあることを分かっていながらも、その罪から目を逸らし続けている。

 逃げ続けている。

 大人の一歩手前という年齢が、苦痛に蝕まれる少年に逃避を選ばせていた。

 

 そんな風に苦しんでいる子供を操るのは簡単だ。

 囁き、煽ればいい。

 「その罪は償えない」と囁やけばいい。

 「この社会には受け入れられない」と囁やけばいい。

 「割り切れ」と囁やけばいい。

 「オレの言うことを聞いていればいい」と囁やけばいい。

 「オレがお前を部下として使ってやる」と囁やけばいい。

 「でなければまともに生きていけないぞ?」と囁やけばいい。

 

 そうすれば、人の心は容易に縛れる。

 殺人の罪悪感という首輪を一度付けてしまえば、何もかもが簡単だ。

 社会に出たことがない未成年が相手であるために、その難易度は更に下がる。

 

 夜刀はそうして、少年の心を操り怪物に変えた。

 マーロウはそれを理解した。

 怒りと悲しみが、マーロウを力強くそこに立たせる。

 

「……Nobody's Perfectだ。誰も完全じゃない。

 互いに支え合っていかなけりゃ、人一人にできることなんて限られてる」

 

「そうだよ! 僕は完璧なんかには程遠い!

 だから、"メカニックの助け"がなければ、僕にできることなんて何も――」

 

「だがな。完璧でないことも、弱いことも……

 悪党に与する免罪符にはならねえ。

 悪いことをしていい理由にはならねえ。

 ましてや、自分で選ぶことを諦めて誰かに自分の運命を委ねるなんてもってのほかだ!」

 

「――っ!」

 

「弱い奴にも半端な奴にも!

 諦めない権利と、誘惑してくる悪党の顔に唾吐く権利くらいはあるんだからな!」

 

 マーロウという男に特殊な体質はない。特別な能力もない。特異な技能も無い。

 だがその心は、いつだって悪に立ち向かい、間違ってしまった者を立ち上がらせるべく手を差し伸べ続ける。

 

「そして、罪は逃げるもんじゃねえ。償うもんだ」

 

「償、う……」

 

「償うのはやり直すためだ、浮井」

 

 夜刀に凝り固められた、夜刀にとって都合のいい心の形が、浮井少年の内側でぐらつく。

 

「復讐なんてもう終わってるってのに、いつまでそいつにしがみついてるつもりだ!」

 

「……うるさい。うるさいうるさいうるさい!」

 

 生まれついての悪でもなければ、人間は自分が"悪いもの"であることに大なり小なり苦しみを覚えるように出来ている。

 「後悔なんてしてない」と浮井少年は言った。

 「助けて」と言っているように、マーロウには見えた。

 ならば、選択肢は一つだ。

 

「浮井!」

 

 浮井和雄の背中を押し、殺意でなかった感情を殺意に変え、その背中を押したのは、夜刀という汚れた悪だった。

 悪に触れれば触れるほど、悪に助けられれば助けられるほど、自分の心も体も汚れていく実感があって、少年は自分を自分で見下していった。

 

「メモリを捨てろ! お前がこれ以上人を傷付ける必要なんてねえんだ!」

 

「うるさいって、言ってるだろっ!」

 

 汚れて、汚れて、汚れて……その果てに、少年は"きれいなもの"を見た。

 今ここで、悪に染まらない"きれいなもの"を見た。

 "きれいなもの"は自分に手を差し伸べていた。

 手を伸ばせば、汚れた自分の手も取ってくれそうだと、浮井少年は思った。

 

「僕が信じるのは、僕を助けてくれたあの人だけだ!

 僕の心の底の願望を見抜いて、背中を押してくれたあの人だけだ!

 僕が一番辛かった時に助けてくれもしなかった奴が! 僕の心を乱すな!」

 

 そう思ってしまった自分を、嫌悪した。

 

「そんな目で、僕を見るなッ!」

 

《 JOKER! 》

 

 少年の眼球が裏返り、白目に刻まれた生体コネクタがメモリを飲み込む。

 

「止めてやるよ、俺が……俺達が! お前はまだ、やり直せる!」

 

《 STAG 》

《 SPIDER 》

《 DENDEN 》

 

 怪物に変わった少年に、マーロウは再び飛びかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジョーカー・ドーパントが壁を破壊する音が響き渡る。

 技と力を併せ持つドーパントの攻撃をスタッグフォンが避け、回避されたパンチが警察署の壁を紙切れのように千々に砕いていた。

 マーロウは瓦礫の陰に身を隠しつつ、スタッグフォンを下げ、代わりにスパイダーショックとデンデンセンサーを前に出して撹乱に動かす。

 

 着信を受けているスタッグフォンをキャッチし、マーロウは物陰に隠れたまま通話を繋いだ。

 

「前置きはいい、すぐに報告頼む」

 

『警察署内にマーロウ、マーニー、メカニック、怪物以外に人影五人』

 

「サンキューな、天。気になってたんだ。

 あいつが『この怪物と鬼ごっこ』じゃなくて『俺の部下と鬼ごっこ』って言ってたのが」

 

『まだ増えるかもしれない』

 

「引き続き頼むぜ、ライダーガール」

 

 スタッグフォンに電話をかけてきたのは、舞城天であった。

 ゆりかがSNSで話を回してくれたお陰で、マーニーとマーロウに好意的な人間が何人もこの警察署の周辺に集まってくれていた。

 そして、力を貸してくれていた。

 

 舞城天もその一人。彼女は山を登り、最適な位置から望遠鏡を使い、遠方からずっと警察署の廊下の窓を覗いている。

 彼女経由で、マーロウは敵の人数を把握した。

 

『警察官はやっぱり子供探偵の僕相手だと脇が微妙に甘くなりますね。

 警察署で人質に取られていた人の名簿照会が終わったらしいです。

 今、署内で人質になってるのはマーニーさんだけで間違いないです、マーロウさん』

 

「サンキュー、良太郎」

 

 久儀良太郎からの情報で、予想外の人質がないことを確認。

 

『マーロウさん、怪しい車がいくつか封鎖されてる地区の外側ウロウロしてるんスよ。

 もしかしてメカニックはこいつのどれかにこっそり乗って最後には逃げるつもりなんじゃ』

 

「危ねえ、見逃したら逃げられるところだったな……お手柄だぜ、雪彦」

 

 黒屋雪彦からの情報で、敵の手札を何枚か透視する。

 

『うちの陸上部の後輩にその手の機械に詳しい奴が居るんですよ。

 そいつによれば特定周波の電波が煩いくらい警察署の周り飛んでたそうです。

 後輩に頼んでそいつを妨害させてましたが、構いませんよね? でなければ止めます』

 

「ナイスフォローだ、那智。助かる」

 

 那智勇一を通して、夜刀とその部下達の通信手段の一部を妨害する。

 

『卒業した先輩と浮井先輩の家族に、浮井先輩の話聞いてきたよ。

 メモる余裕も二回聞く余裕も無さそうだから、一回聞いて覚えてね』

 

「ああ、悪いマキ、少しゆっくりめに言ってくれ」

 

 警察署の周辺には来なかった真希田マキも、マーロウの頼みで浮井和雄(ドーパント)の情報を集めてくれていた。

 最後に緑川に――探偵の腕を信用している彼女に――電話をかけ、警察署周辺の細かな状況を教えてもらう。

 

『警察署周辺の人混みの中にメカニックの仲間が混じっているぞ、マーロウ』

 

「警察署の内外にメカニックの部下が居んのかよ……」

 

『あいつが脱獄したという話が広まれば、まだ増えるかもな。

 奴らは外側から警察を見張っているようだ。

 警察が変な動きをすればすぐにでもメカニックに連絡が行くんじゃないか?

 奴らが警察を、私が奴らを見張っている形になっている……と、思う』

 

「そっちは頼む。いざとなれば、警察に話を通して捕まえてくれ」

 

『もう警察に話は通してあるぞ?

 後は事実上の人質になっている、お前達がそこから逃げ出すだけだ』

 

 唯一探偵として動いてくれている緑川に頼りがいを感じつつも、マーロウは彼女のその洞察力が自分に向けられている自覚を持っていなかった。

 

『……無理はするなよ』

 

「おいおい、心配性か――」

 

『アバラが折れた奴の声ってのは、それ相応に変に聞こえるもんだ』

 

「――ぬ」

 

 通話が切れる。

 マーロウは骨が折れた胸に手を添え、何もかもを分かった上で援護してくれている彼女に、心の中で感謝した。

 

「……敵わねえな、ったく」

 

 マーニーのメールをスタッグフォンで確認し、自分の姿を見せないままジョーカー・ドーパントの位置を確認、見つからないようにマーロウは移動する。

 

(バカなお人好しばっかりだ。その助力のお陰で、俺もまだ生きて居られている)

 

 マーロウの『バカ』という心の声には、『好き』という心の声に似た響きがあった。

 

(こんな化け物、俺が一人だったらすぐに俺を殺せてただろう。

 なのに俺はまだ殺されてない。

 俺が怪我してもなお、こいつは俺を殺せてない。

 きっと俺の命と体が半分なくなってしまっても―――あいつらが、その半分を補ってくれる)

 

 マーロウはきっと、体の半分を吹き飛ばされても止まらない。

 

(立ち回りを考えろ。失敗すれば、おそらく一瞬であっさりと死ぬ)

 

 ジョーカー・ドーパントは最上階へ繋がる道をきっちり警戒している。

 少しは怯ませないと、マーニーを夜刀から助け出すことは不可能だろう。

 マーロウは仲間達の援護を受け、ガジェットを回収しつつドーパントの背後を取り、襲いかかった。

 

 そして、信じられない超反応を行った怪物に迎撃されてしまう。

 

「今の僕は超人……いや、神に近い!

 なんでもできる! なんでも分かる!

 もう我慢しなくてもいい……悪夢も見なくていいんだ! 僕は強くなったんだから!」

 

 ドーパントのパンチを、マーロウは余裕をもってかわす。

 その圧倒的な拳圧が、かすってもいないのにマーロウの黒帽子を上方へと吹き飛ばした。

 続き怪物は足払い。

 マーロウは跳んでそれをかわして、そのまま空中で左手を帽子のキャッチ、右手を変形させたデンデンセンサーを投げるのに使う。

 

「道具で強くなる心なんざあってたまるか!」

 

 投げられたデンデンセンサーは、ドーパントの目に張り付いた。

 

「デンデン! 目を潰せ!」

 

 このガジェットは暗視を可能とするガジェットだ。

 つまりセンサーが得た光学的情報を、光量を増幅して出力することができる。

 日中の光を最大倍率で増幅し、ジョーカー・ドーパントの視界を一時であっても潰す……それがマーロウの作戦であった。

 

「あはっ」

 

「―――っ!」

 

 だが、通じなかった。

 ガジェットの光はドーパントの目を焼くには力が足らず、メモリが一般人でしかない浮井の技を極限にまで引き上げることで、デンデンが光で視界を塗り潰した状態でも、怪物は何の問題もなくマーロウに攻撃を仕掛けていた。

 ノールック・アタック。

 古来より格闘技の達人の技として、様々な形で語られる秘奥である。

 

 ジョーカー・ドーパントが視界に頼らない拳撃を放ち、咄嗟にスタッグフォンがその拳撃に体当りして、拳の軌道を逸らす。

 スタッグフォンの大顎がへし折れ、軌道がズレたドーパントの拳がマーロウの右腕の袖口にかすった。

 袖口は破壊され、一瞬服ごと引っ張られた右腕が、右肩からゴキンと外れる。

 

「くっ、ぐぁっ……!」

 

「あ、はははははは! 小細工沢山してるみたいだけど、僕にはまるで敵わないじゃないか!」

 

 かすっただけで人間離れした破壊を起こす。

 銃弾も効かない。ガジェットだけで勝つのも極めて難しい。

 これが、ドーパントだ。

 人並み外れて頑丈なマーロウでもなければ、その前に立つことさえ許されない。

 

 ジョーカー・ドーパントは自分の目にひっついていたデンデンセンサーを剥がし、強く握ってバキンと機体を破壊する。

 これで完全に破壊されたガジェットが三つ。

 破損して戦えなくなったガジェットが一つ。

 満足に動くガジェットはスパイダーショック一つのみ。

 

「……? ちっ、面倒な……」

 

 だがマーロウは、ドーパントがデンデンを破壊するためそっちに意識を割いた一瞬に、既にその場を離脱していた。

 追い込めば追い込むほどしぶとくなっているようにすら感じるマーロウのあがきに、ドーパントは思わず舌打ちする。

 そのしぶとさは、既に強さの域だった。

 

 

 

 

 

 ゴキッ、と体内に伝わる鈍い音と共に、肩の脱臼をはめ直す。

 

「っ」

 

 途方も無い激痛を、なけなしの気合いとやせ我慢で乗り越える。

 折れた骨や脱臼した肩の周辺は痛く、熱い。動きも悪く、遅い。

 されどもその目は死んでいない。

 スパイダーショックだけでどう奴を突破するか、と考えるマーロウの元に、楽しげな夜刀の声が届く。

 

『やあ、ごきげんいかがかな? 名探偵マーロウ』

 

「……てめえ、夜刀!」

 

『お前の声は集音マイクで、こちらの声はスピーカーで届く。楽しくお喋りと行こうじゃないか』

 

「高みの見物かよ、いい趣味だな」

 

『そう言うな。今のお前の位置を浮井和雄に教えていないのは、オレの善意だぜ?』

 

 この男の『善意』ほど、信用できないものもない。

 

『少しお喋りでもしようじゃないか。

 そうだな……トマス・モアの"ユートピア"を知ってるか?』

 

「ああ、お前の性格が少し分かった。

 お前知識自慢や世界の汚さ知ってる自慢で、会話でマウント取ろうとするやつだな」

 

『そう言うなよ、寂しいだろ』

 

 獲物を前に意味もなく遊び、いたぶり始める。

 やり口は下衆で邪悪で三流だが、その隙を補う程度の知力は夜刀にも備わっていた。

 

『トマス・モアが提唱したユートピアは、どこにもない場所という意味の言葉だ。

 変じて、理想の社会を意味する言葉でもある。

 外側の無い閉じた世界。

 社会全体が一斉に決まった時間に食事を摂る。

 労働の時間は決まっていて、皆が割り振られた仕事をしなければならない。

 食料等の消耗品は皆で作り、皆で溜め、皆で共有し皆で消費する。

 堕落する娯楽は存在しない。

 休日は文化的な活動を行うべきと定められている。

 国民全てが軍人として活動できる訓練を義務付けられる。

 全員が同じ価値観を持ち、個性はほぼなく、争いは起こらない。

 完成された社会であるがために、社会に変化が起きることもない、そんな理想郷さ』

 

「おいおい、それは理想郷じゃなくて、地獄って言うんだろ」

 

『いいや、理想郷だろうさ。

 もしもこの理想郷を作った誰かが居れば、そいつにとってこれはまさしく理想郷だ』

 

 良心や人情というストッパーはなく、ただひたすらに権力と支配を求め、邪悪な感性を満足させようとする危うい犯罪者。それが、夜刀という男の本質。

 

『素敵なもんだろう?

 製作者が定義した価値観以外は許されない理想郷。

 人間のためのシステムではなく、システムのために人間を変えるこの思考。

 人間から自由に生きる権利と平和に生きる権利を全て奪った世界こそが、ユートピアだ』

 

 マーロウとは絶対に相容れない、自由と平和を奪う悪そのもの。

 

『一度くらいは作ってみたいもんだな。山奥辺りに一度遊びで作ってみるか』

 

 夜刀と話しているだけで、マーロウの胸の内に湧き上がる力と、頭の隅で刺激される戦いの記憶があった。

 

「一人きりの理想郷で満足してろ、クズ野郎」

 

 マーロウと話しているだけで、夜刀は苛立ちと忌々しさを胸の内に積もらせていく。

 

「人が生きるのに理想郷なんて要らねえ……街一つあれば、十分だ」

 

『本当に趣味が合わねえな、オレとお前は』

 

 やがて、ジョーカー・ドーパントがまたしてもマーロウの前に現れる。

 

「どいつもこいつも……!

 お前も! 僕のことを嫌ってるんだろう!

 人を殺して犯罪者になった僕のことなんて、軽蔑してるんだろう!

 それならもう僕が生きられる場所は、メカニックさんの傍しかないんだよ!」

 

 浮井和雄のその思い込みを、マーロウはマキ経由で手に入れた情報で打壊した。

 

「そう思ってんのはお前だけだ!

 お前の家族は、まだこの街に居るだろう!」

 

「―――あ」

 

「今でも、お前の帰りを待ってる!」

 

「―――え?」

 

「お前を心配してる奴はまだ居る。

 お前の居場所は、帰る家は、まだ残ってる。

 俺だってお前を嫌ってなんかねえさ。罪は憎んでも、人は憎まねえ」

 

 怪物の動きが止まる。夜刀に変な思い込みを持たされ、思考を固定されていた心に、ゆらぎが生じる。

 マーロウは怪物に、怪物になってしまった少年に、手を差し伸べた。

 

「さあ、もう終わりに……」

 

『本当にお前に帰る場所があるのか? そいつが嘘をついてるんじゃないか?』

 

 だがそこで、夜刀が茶々を入れる。

 罪を犯した人間を正道に戻す人間が居れば、正道を歩いている人間に罪を犯させ、犯罪者にする人間も居る。夜刀はまさしくそれだった。

 

『なあ、お前は恨みで人を殺しただろう?

 どう殺した? 覚えているよな?

 何せオレの部下を手引き役に遣わしてやったんだ、忘れてるわけがない』

 

「夜刀! 黙れ!」

 

『黙らせたければ最上階までくればいいだろう。そこのドーパントを倒して、な』

 

 行けるわけがない。

 この怪物をどうにかしなければ、最上階に行くことなどできはしない。

 

『お前の家族は、お前が恨みで人をどう殺したか知っても、受け入れてくれるかな?』

 

「……あ」

 

『人殺しが何故重罪か知ってるか?

 してはいけないことだからさ。

 普通の奴は、実行に移せないからさ。

 お前は普通の人が思い留まることをやらかしたんだ、自分の異常さは自覚してるだろ?』

 

「あっ、あ……!」

 

『お前の居場所は、オレの下だけだ。

 迷うな、オレがお前に怪物として役立つ舞台を与えてやるよ』

 

「夜刀ッ!」

 

「あああああああああああああああっ!!」

 

 ジョーカー・ドーパントが絶叫し、マーロウへと襲いかかる。

 

「ちくしょう……なんでこうなっちまうんだよ!」

 

『ははははははははは! もう少し楽しませてくれよ、名探偵!』

 

 折れたアバラの痛みを抑え、マーロウは逃げる。

 だが逃げた先の曲がり角を曲がったところで、とうとうドーパント以外の夜刀の部下と出会ってしまった。

 仲間のナビゲートでここまでずっと避けていたというのに、浮井の説得に時間をかけすぎてしまったのだ。

 

「居たぞ!」

「例の探偵だ!」

 

「次から、次へと!」

 

 夜刀の部下は二人、両方共に銃を持っている。

 だが反応はマーロウの方がはるかに早く、銃が構えられる前に片方は足を蜘蛛の糸に取られ、マーロウの腕に引かれて転ばされていた。

 

「がっ!?」

 

 転ばされた男は頭を打って気絶し、その手を離れた拳銃が宙を舞う。

 仲間が倒されたことで生まれた敵の隙を突き、マーロウは一瞬で踏み込んだ。

 彼は宙を舞う拳銃を蹴り飛ばし、もう一人の部下の顔面に当て、痛みで回避を封じてから首筋に蹴りを叩き込む。

 

「あぐっ!?」

 

 流れるように二人を無力化したマーロウだが、これは致命的なタイムロスだった。

 

(やべえ、ドーパントが……ん?)

 

 怪物に捕まることも覚悟していたマーロウであったが、怪物の視線は別の方向へ向いていた。

 その視線の先にある曲がり角から、新たに三人の部下が現れ、怪物は何故か一も二もなくその男達へと襲いかかっていった。

 

「僕の……僕の仕事を、邪魔するな!

 夜刀さんに僕が使えるってところを見せられなかったら! 捨てられるだろうがっ!」

 

「なっ、何?!」

「ば、馬鹿野郎!」

「どうなってんだ!? う、浮井の奴はこんな性格じゃ……ぎゃあああっ!」

 

 何故浮井がそう考えたのか、理解できなくもない。

 どうしてその行動を取ったのか、分からないでもない。

 だが、決定的に破綻した思考であった。

 明らかに正気を失った結論であった。

 

 熱に浮かされたような言動、ドラッグを服用したかのような精神状態、正常な状態からかけ離れている在り方。

 これがガイアメモリの副作用であると、夜刀の部下達は知りもしなかった。

 

「メカニックにとって利用価値がある者は、僕だけでいいんだ!」

 

「ひっ、た、助け……!」

 

 銃を奪われ、攻撃され、あわや殺されるかと思った夜刀の部下が命乞いをする。

 ドーパントは止まらない。

 だが、背後からその攻撃をマーロウが止めた。

 スパイダーショックの特殊ワイヤーがドーパントの腕を絡め取り、敵であるはずの夜刀の部下の命を救ったのだ。

 

「っ、探偵……!」

 

「これ以上、お前に罪を重ねさせるかよ!」

 

「犯罪者は……人殺しの犯罪者なんて、死んでもいいやつのはずじゃないか! なんで守る!」

 

「死んでもいい人間なんて居るわけあるか、この馬鹿野郎!」

 

 これ以上罪を重ねさせない、という強い意志。

 殺させない、という強固な信念。

 それは頭で考えて生み出すものではなく、記憶がなくとも彼の心の奥底より湧き上がるもの。

 

 人殺しは殺されても文句は言えない、と思い込み絶望していた浮井少年は、マーロウのその言葉に救われた気持ちになった。

 そして同時に、『死んでもいい人間なんて居ない』という言葉が、人を殺してしまった罪悪感を倍加させる。

 許されているという嬉しい気持ちと、許されていないという苦しい気持ちが、まぜこぜになって少年の胸の奥をかきむしる。

 

 良心が残っているからこそ、人を感情で殺してしまう弱さがあるからこそ、苦しい。

 

 これがガイアメモリ。

 ()()()()()し、精神を狂わせ、心の中に最初からあった思考を増大させて、体だけでなく心までもを化け物へと変える悪魔の端末。

 ある者はこれを、『メモリの形をした麻薬』と呼んだという。

 

「その目を、やめっ……そんな目で、僕を見るなあああああっ!!」

 

 怪物は絶叫し、またしてもマーロウに襲いかかった。

 マーロウが立ち向かい、怪物の一撃がスパイダーショックを砕き、怪物は狂乱する。

 誰の目から見ても明らかな、地獄絵図だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モニターを通して、その全てを夜刀は見ていた。

 人間を正道から蹴落とし自分の同類にすることにも愉悦を感じるのが夜刀だ。

 自分の反対側の存在を見れば苛立ち、その存在が説得に苦心してボロボロになっていく姿を見れば喜ぶ。彼がモニターを見ている理由は極めてシンプルだった。

 

「浮井の説得という策も失敗。万策尽きたか?」

 

 口元を歪める夜刀の言葉を、マーニーは冷たい声色で切って捨てた。

 

「夜刀。マーロウは、そんな策なんて考えられるタイプじゃない」

 

「ん?」

 

「あの人は本気で、あの怪物に罪を重ねさせないため、救うため、戦ってるんだ」

 

「……はっ、愚か者の代表者みたいな男だな」

 

 夜刀は嘲笑し、スピーカーを使って廊下を歩くマーロウへとまた語りかけた。

 

「頑張るな。そんなにマーニーを助けたいのか?

 こいつにそんな価値は無いぞ。むしろ、オレの同類の殺人者だ」

 

(こいつ、今度は何を……)

 

『マーニーとお前が同類とか、天地がひっくり返ってもありえねーよ』

 

 訝しむマーニー、鼻で笑うマーロウをよそに、夜刀は言葉を続ける。

 

「マーニーはな、お前にも隠してる秘密がある。

 学校の誰にも話していない、親友にも話していない過去がある。

 何故話さないか? 話せば、自分から離れて行ってしまうんじゃないかと恐れてるのさ」

 

「―――、夜刀! 黙れ!」

 

 マーニーの顔色が、さあっと青くなった。

 

「怖いかマーニー?

 そうだよな、知られたくないよな。

 こいつに幻滅されたくないんだよな?

 いい顔だ、オレに逆らった奴がそういう顔をするのはとてもいい」

 

「夜刀!」

 

 だが、後ろ手に手錠で捕縛されている現状では、マーニーは夜刀の語りを止められない。

 

「昔のことだ。マーニーが小学生の頃だったかな?

 オレはマーニーを含む21人の子供達を誘拐した。

 子供達に爆弾を付けて、マーニーだけを見せ、マーニーの父親含む刑事達にオレは言った。

 オレに手を出すなと。マーニーを助けようとするなと。

 そうした場合、別の場所に隠した子供達の爆弾を起動する、ってな」

 

『―――!?』

 

「ハハハハっ、あの時は最高だったぜ。

 犯罪者を捕まえられなくて歯ぎしりする刑事達!

 20人の子供のために、自分の娘を見捨てるロイド!

 いい歳こいた大人が、見知らぬ子供のために愛娘を見捨てて泣く!

 正義の味方気取りの刑事の内側で、正義感と心が折れた音が聞こえるようだった!」

 

 それは、多くのものが壊れ、多くのものが失われたある悪夢の日の話。

 

「その後マーニーに言ったのさ。

 選べと。

 20人の命と自分の命、どちらか選んだ方だけを助けてやると。

 選ばなければ両方殺すと。燃える街を見渡せるビルの屋上で、オレは彼女に問うた」

 

 夜刀という悪魔が語る過去を、マーニーは血相を変えて止めようとする。

 

「夜刀っ! やめろ!」

 

「静かにしてな、マーニー。

 分かるだろ? マーロウ。マーニーはお前の同類じゃなく、オレの同類なのさ」

 

 20人の子供の命と、自分の命。

 爆弾とナイフを突きつけられ、選択を迫られ、過去のマーニーは選んだ。

 

「マーニーはそれで、自分が助かりたいと、涙を流して選んだんだ」

 

『―――』

 

「くははははっ! 最高だろ?

 その時もな、マーニーは他人を犠牲にする選択なんてできないと信じてた奴は居た。

 だがな、マーニーはその信頼すら裏切ったんだ! 死にたくない、という気持ちだけで!」

 

 それはかつてマーニーが犯し、今でも心の奥にこびりついている過ちの記憶。

 

「こんなやつ見捨てればいい。

 隠し事してたやつなんて見捨てればいい。

 そうすればお前の命だけは助かるぞ?」

 

 見捨てろ、と夜刀は言う。

 

 恐怖があれば人は折れる。

 絶対的な恐怖の前で人は自分らしさを貫けない。

 恐怖(テラー)とは全てを律し全てを圧する、一種の王のようなものだ。

 夜刀は恐怖で他人を縛り、恐怖で他人を操るやり方を好む男だった。

 

 過去を語れば、マーニーに対し幻滅させることができる。

 怪物に殺される恐怖を煽れば、マーロウだって思うように動かせる。

 マーニーを見捨てさせることができる。

 夜刀は、そう思っていた。

 

 それは、正しさと善を一度はそのやり方で折ったという成功体験から来る、信用された成功パターンのようなもの。

 子供の頃のマーニーという、鴻上(メカニック)を変えたほどの善人を、恐怖で折って思い通りに動かしたという過去が、夜刀にこのやり口を愛用させていた。

 

『ああ、そうだな……』

 

 だが、マーロウは――

 

 

 

『お断りだ』

 

 

 

 ――いつだって、予想外の場所から、悪党の思惑をひっくり返す男だった。

 

「おいおい、まだ偽善者気取りで意地を張るのか?

 それとも自己犠牲に酔ってるのか?

 正義のヒーローさんは死ぬまでそんな道化で居続けるのかよ?」

 

『偽善とか、自己犠牲とか、そういうもんじゃねえよ。

 ただの……探偵の矜持だ。俺の依頼人は、命をかけても必ず救う』

 

「―――」

 

『誰が正義を謳おうが知ったこっちゃねえ。

 誰に正義と呼ばれようが知ったこっちゃねえ。

 俺が探偵の矜持を捨てるわけねえだろ、このタコ』

 

 忘れてはならない。今はマーニーが依頼人で、マーロウはその依頼を果たそうとしているのだ。

 依頼内容は、『必ず二人で生きて帰ること』。

 マーロウは転ばない人間ではなく、転んでも必ず立ち上がる人間であるがために、他人の失敗や罪に優しくなれる。

 "罪を犯した人間"と、"悪党"が別物だということを知っている。

 

 記憶がなくても、その心が知っているのだ。

 

『悪党と被害者の違いが分からねえのはバカだけだ。

 被害者の手を汚させるよう仕込みをした悪党が

 「こいつも最悪なことしてたんだぜ?」

 とか言ってても、単にその悪党に対して腹立つだけだろうが!』

 

 過去語りでマーニーに幻滅などするものか。

 湧き上がるのは、小さな女の子にそんなことをさせた悪党への怒りだけだ。

 

『よう、マーニー』

 

 集音マイクを通して、マーロウがマーニーに語りかける。

 マーニーは何を言われるかという怯えから、肩をビクッと動かしてしまった。

 

『それがお前の、始まりの瞬間(ビギンズナイト)だったんだな』

 

 とても優しい声だった。

 

『お前が困ってるやつに優しい理由が、少し分かった気がするぜ』

 

「……あ」

 

 モニターの向こうでマーロウが笑い、帽子を深くかぶり直す。

 

「おいおいマーロウ。

 善性ってのは多少揺さぶられたくらいで捨てるもんなのか?

 そりゃ弱さだろ! マーニーが悪でないってんなら、そいつはただの弱さだ!」

 

『それが弱さだとしても、俺は受け入れる』

 

「……は?」

 

『そいつが、ハードボイルドな男の流儀だ』

 

 甘っちょろいその在り方はハードボイルドでなくハーフボイルドだと、マーニーは思った。

 彼がハーフボイルドであることに、マーニーは感謝した。

 その言葉に、マーニーは救われた。

 救われたのだ。

 

『待ってろマーニー。すぐにハードボイルドに助けてやるからよ』

 

「……うん」

 

 マーロウがどんなにズタボロでも、不安はなかった。

 ここに来て助けてくれるという確信があった。

 信頼があった。

 

「はっ、ジョーカー・ドーパントを突破して、ここまで来れるわけが……」

 

「来る! 必ず来る!」

 

 夜刀はマーニーの前でマーロウを殺し、彼女を絶望させようとした。

 だが、それは間違いだった。

 

「私の……私達の切り札(ジョーカー)は! お前の切り札(ジョーカー)なんかに負けない!」

 

 夜刀は、自分の目的を達成したかったのなら……マーロウだけは、絶対に関わらせてはいけなかったというのに。

 

 

 

 

 

 マーロウは歩く。

 もう走るのも厳しくなってきた。

 じんわりと内出血は酷くなり、折れた肋骨は今にも内臓に刺さりそう。

 外れた肩は腫れてきて、動かすのもキツい。

 手元に残ったメモリガジェットも、大顎が折れて戦えなくなったスタッグフォンだけとなった。

 

(仲間のナビゲートがなけりゃ、とっくに死んでたなマジで……)

 

 ジョーカー・ドーパントに仕掛けることを諦めない。

 マーロウは警察署の一室に隠れ、その辺りを物色して武器を手に入れようとしていた。

 その過程で、電話番号が書かれた紙が貼られた金庫を見つける。

 

「? なんだこれ?」

 

 その番号は、どうにも警察の共用の電話の番号に見えた。

 誰がこの紙を貼ったのか、ひと目見ても分からないようにする工作だろうか?

 個人所有の携帯電話の番号を書けば、夜刀程の相手には全て見透かされてしまう可能性があるとはいえ、用心深いことだ。

 マーロウは、その番号に電話をかける。

 

『君ならそれを見つけてくれるだろうと、信じていた』

 

「……ロイドのオヤジさん!?」

 

『奴らに取られないよう、怪物に捕まる前にその箱の中に隠したのさ。

 一番頑丈で、一番開けにくそうなやつに。

 僕にはまるで使い方が分からなかったが……君になら、分かるかもしれない』

 

「この箱の中には、一体何が?」

 

『君が忘れた、忘れ物だ。金庫の番号は19550420』

 

 マーロウは番号を入力し、箱を開ける。

 

 中に入っていたのは、警察が回収したものの中から、浮井が使ったガイアメモリと生体コネクタ設置手術器を除いたもの。

 通常のガイアメモリとは違う、夜刀には使い方が分からなかったもの。

 純正化されたガイアメモリと、その稼働機(ドライバー)だった。

 

「……こいつ、は」

 

 スタッグフォンを耳に当てたまま、マーロウは絶句する。

 急速に蘇る記憶があった。

 劇的に漲る気力があった。

 地球の記憶(ガイアメモリ)変身用のベルト(ロストドライバー)を掴むマーロウの耳に、ロイドの携帯へと吹き込まれる皆の声が届いていた。

 

『あ、ちょ、待っ、携帯取らな――』

『おいマーロウ! まだか! 心臓に悪い、早く戻ってこい!』

『マーロウさんマーロウさん、TV中継来てますよ! ここはかっこよくなんかやって!』

『そっちはどうですか!? オレ殴り込みましょうか!?』

『警官隊の人が踏み込むべきか迷ってるけど何て言う?』

『いえーい私ゆりかだけど声聞こえてるー? 頑張ってー!』

 

 皆の声が聞こえる。

 どいつもこいつも、どこか彼の記憶を刺激する者達だった。

 男が居て、女が居て。子供が居て、老人が居て。

 誰も彼もが、マーロウとマーニーを応援している。

 

 するとその時、ジョーカー・ドーパントが部屋のドアを破壊して飛び込んで来た。

 吹っ飛ばされたドアはマーロウをかすって壁にぶつかり、壁に大穴を開ける。

 怪物が開けた大穴が、部屋の風通しをよくしてくれていた。

 

 大穴から入る風が、部屋の飾りの風車を回し、マーロウの背中を優しく押してくれる。

 

「なんだ? 切り札になる仲間でも来てくれたのか? 僕には勝てないけどねぇ!」

 

「来てもらう必要なんてねえよ。声だけ貰えれば十分だ」

 

 少年はもうガイアメモリの侵食で、喋り方さえ怪しくなってきた。

 もはや救えないのか。

 それとも救えるのか。

 どちらでもいい。

 彼は既に、少年を救うと決めているのだから。

 

 救えないのなら、その運命さえ覆せばいいだけの話。

 

「俺自身が―――切り札(ジョーカー)だからな」

 

《 JOKER! 》

 

 マーロウの左手が、ガイアメモリを励起させる。

 マーロウの右手が、腰にロストドライバーを装着させる。

 今、この瞬間に。

 彼の記憶は、その全てが蘇った。

 

「変身」

 

《 JOKER! 》

 

 マーロウが変わる。

 全身黒の超人へと変わる。

 黒と棘の怪物がジョーカー・ドーパントの個性であるのなら、極限まで余分な装飾を取っ払ったスマートな姿こそが、その超人の個性だった。

 赤き複眼も、銀の触角も、紫のラインも、全身を覆う黒の体色を鮮やかに彩っている。

 

 怪物を倒すがために人が身に着けた、怪物と似て非なる正義の力。

 

「……なっ」

 

「俺は、俺の記憶(メモリ)を取り戻したぜ」

 

 思わず、浮井は後退った。

 何故自分が後退ったかも分からない。

 だが、意識せずとも本能的に一歩引いていた。

 『勝てない』という一言が脳裏を駆け抜けて、反射的に少年は叫び声を上げる。

 

「なんだ……なんなんだお前は!?」

 

 青年は、静かに応える。

 

 

 

「―――左翔太郎。仮面ライダージョーカーだ」

 

 

 

 浮井和雄のように、神や仏が救わなかった人間はどこにでも居る。

 彼らは救われないのだろうか? いや、救われる。

 救おうとする者が居れば、きっと救われる。

 信じるものは救われる。だから信じればいい。

 

 神や仏が居なくても、人を救う仮面ライダーは、街のどこかに居るのだと。

 

 

 




『M』にさよなら
この街に正義の花束を


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Mにさよなら/また、いつかの未来で

MOVIE大戦MEGAMAXはエナジーの撃破から半年後、って説があるそうですよ奥さん


 仮面ライダー・ジョーカー。

 『切り札の記憶』を宿したジョーカーメモリ、相棒との友情の証であるロストドライバー、ジョーカーメモリと高い適合率を誇る左翔太郎の三位一体で完成する戦士だ。

 翔太郎自身の強さを、メモリの力で純粋に強化した超人。

 絶対的な力も、圧倒する強大さも無いが、見る者が見ればその強さは分かる。

 

 純正化されていないジョーカーメモリを使っている浮井和雄にも、メモリ同士の共感からか、その強さがうっすらと理解できていた。

 

「……変身前に、あんなにボロボロだったんだ、戦えるはずがない!」

 

 メモリが強さを本能に理解させたのに、メモリの毒素に犯された理性が理解を拒絶する。

 ドーパントは無策に、力任せに棘だらけの腕で殴りかかった。

 仮面ライダーの左手がその一撃をはたき落とし、右半身を前に出し、右拳のショートアッパーをドーパントの顎に叩き込む。

 最小限の動きで最大限の威力が込められた、頭を揺らすカウンターであった。

 

「なっ、くっ!」

 

 ドーパントは一歩引いて大振りの右ストレートを打とうとするが、小ステップで距離を詰めたジョーカーの右ジャブを顔面に喰らい、怯まされ、攻撃をキャンセルされてしまう。

 怯んだ怪物の顔面に、間髪入れずライダーの左ストレートが叩き込まれた。

 

「―――!?」

 

 パンチで押し込まれた怪物に、今度はライダーの蹴撃が迫る。

 ハイキックとみせかけてローキック。

 ローキックと見せかけてミドルキック。

 ローキックと見せかけて別のキックをするように見せかけて、強くローキック。

 変幻自在の蹴りの応酬で、彼はじわりじわりとドーパントの肉体にダメージを蓄積させていく。

 

「モーションが大きすぎるんだよ、お前は」

 

「違う! 僕は何も恐れなくていい、何の罪も気にしなくていい存在になったんだ!」

 

 ジョーカー・ドーパントが棘を逆立て、頭から突っ込むようにタックルを仕掛ける。

 仮面ライダー・ジョーカーが対応し、棘を手で払いながらその頭に膝蹴りを叩き込む。

 怪物のタックルは、怪物の頭部にダメージを残すだけの結果に終わった。

 

「くそっ!」

 

「お前、夜刀にそそのかされる前は、喧嘩さえしたことなかっただろ?」

 

「っ」

 

「もうやめとけ。お前は……喧嘩や争いが向いてない人間なんだよ。多分な」

 

「うるさい!」

 

 ドーパントは飛び蹴りを放つが、気付けば脇腹に掌底を叩き込まれ、着地を失敗して床に転がされていた。

 

(強い……なんで!? 腕力では僕が勝ってる! 速さでも僕が勝ってる!

 こいつは怪我をしてるから、動きも時々ぎこちない! なのに、なんで!?)

 

 怪物が殴れば、超人のガードは崩れる。

 超人がいくら殴っても、怪物は頑強な体でそれに耐えてしまう。

 スピードは怪物が上回っており、単純な速度勝負で超人はこの対手に敵わない。

 メモリの毒素にトリップしているがために、疲労や負傷の影響も、怪物はほぼ無視することが可能だった。

 

 なのに、怪物は敵わない。

 攻撃を仕掛ければ巧みに反撃され、攻撃を防ごうとすれば鮮やかに防御の隙を突かれ、今また強烈な一撃を貰ってしまった。

 

「くあっ!?」

 

「今お前を、悪魔の呪縛と悪魔のメモリから解放してやる」

 

 夜刀という悪魔。ガイアメモリという悪魔の道具。

 ヒーローが見据えた倒すべき敵は、その二つのみ。

 後は、救うべき少年くらいしかその目には映っていなかった。

 

「……なんでそんなに、僕にこだわる!」

 

「俺もな、お前くらいの年頃に……

 立派な大人の探偵に弟子入りして、ただの不良から探偵になったからだ」

 

 昔の話だ。

 左翔太郎が街の番人を名乗る不良だった高校生時代を終え、前々から弟子入りを志願していた一人の探偵に手を差し伸べられ、半人前の探偵となったことがあった。

 誰にでも変わるチャンスはあり、やり直す機会はある。

 罪を憎んで人を憎まず。

 それが、風都という街で人々が仮面ライダーに望んだものだった。

 

「おやっさんならお前を見捨てねえ」

 

 鳴海荘吉という探偵から全てを受け継いだ者として、彼が貫くべき生き方だった。

 

「あの人は探偵だから見捨てねえ。大人と子供だから見捨てねえ。俺だって見捨てるかよ!」

 

 少年が声をあげ、翔太郎が言葉を返す度に、少年の心は揺らいでいく。

 

「お前を見捨てないのは、単にそれが当たり前の話だからだ!」

 

 飛び上がる仮面ライダーに対し、浮井少年は既に憎悪を向けることすらできなくなっていた。

 

 

 

 

 

 一方その頃、警察署の最上階では。

 

「マーニー!」

 

「パパ!」

 

 超人と怪物の戦いから離れ、一人マーニーを助けに行ったロイドが、"マーニーしか居ない"部屋の中へと踏み込んでいた。

 

「そうか、捕まっていてもそうやって後ろ手に携帯を操作していたのか……

 マーニーが僕に連絡をくれた時は罠かとも思ったが、夜刀はどうしたんだい?」

 

「……逃げた」

 

「!?」

 

「逃げたよあんにゃろう! マーロウが変身してすぐに! ああもう!」

 

 どうやら夜刀はさっさと逃げ、マーニーがロイドを助けに呼んだらしい。

 ロイドは大型のニッパーのような形状の専門器具を使い、手錠の鎖をバチンと切ってマーニーを拘束から解放する。

 鍵は夜刀が持っていってしまったようだ。

 とことん他人を嫌な気持ちにさせる男である。

 マーニーはどこぞへと逃げた夜刀に向けて、悪態をついた。

 

「ピンチになるとさっさと逃げる悪党が一番面倒だっていうのに!」

 

「……そういえば昔、夜刀はマーニーを殺すことにこだわって逃げなかったな。

 その結果捕まっていた。

 逃げずに無駄にこだわって捕まってしまった過去から、やつも学んだのか」

 

 自分で用意した舞台すら簡単に捨てる。

 自分が敷いたルールすらあっさり破る。

 夜刀は控えめに言って最低だった。

 そのくせ、自分の失敗から何かを学ぶ男だった。

 

「ともかく逃げるぞ!」

 

 ロイドが娘のために先を行き、安全を確保しながら警察署からの脱出経路を走る。

 マーニーもその後に続いたが、廊下を走り抜ける際、駐車場で戦っている超人と怪物の戦いが窓から見えてしまった。

 

「……あ、マーロウ」

 

 思わず足を止める。

 思わずそちらを見る。

 少女に打算や計算はなく、ただ心の赴くままに彼の戦いを見た。

 惹き込まれるように彼を見た。

 

 間違ってしまった子供を叱るように、かつ間違った子供の罪を過度に責めぬように、手を差し伸べるが如く拳を振るう。

 器用ではない男の戦い方(在り方)が遠目にもよく見える。

 

「かーっくいー」

 

 少女の褒め言葉は、どこか上ずった声だった。

 

「マーニー、早く」

 

「うん、今行く……って、あ!」

 

 父に呼びかけられ、マーニーは窓から離れようとして、そこでとんでもないものが飛んできているのを見てしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正義のジョーカーと悪のジョーカーが激突する。

 一人は救うために。一人は今の居場所を守るために。

 青年は体の痛みを意志で克己して、少年は恐怖と不安で自分の意志を抑え込んでいる。

 左翔太郎はメモリを使い、浮井和雄はメモリに使われていた。

 

「僕を迷わせるな! いい加減倒れろ!」

 

 怪物のハイキックに、超人のローキックが合わせられる。

 敵の大振り右足ハイキックを、敵の左足を小キックで払うことで防ぐ高等防御術。

 ジョーカー・ドーパントは転倒したが、ダメージは少なくすぐ立ち上がる。

 

「いいや、倒れるかよ! 一緒に生きて帰ろうと、依頼人に請われたもんでな!」

 

 怪物が殴る。

 超人が殴る。

 ドーパントは顔面を一発、ライダーは各所を三発殴った。

 浮井の渾身の一撃は翔太郎のスリッピング・アウェイで流され、翔太郎の拳は軽快に眉間・顎・鳩尾の三ヶ所を連続で撃ち抜いた。

 僅かに、怪物の口から痛み混じりの息が漏れる。

 

「同じ種類のメモリを使ってるはずなのに、なんで!

 力も速さも頑丈さも! 肉体的には何もかもが僕の方が上なのに、なんで!」

 

 勝てる気がしないんだ、という言葉だけは、必死に飲み込んだ。

 

「肉体的にお前の方が上ってことは、俺の心がお前の心より強いってことだ。そうだろ?」

 

「―――!」

 

「俺の心が格別強いだなんて思わねえが、お前ほどに弱くもねえさ」

 

 翔太郎のその言葉に、浮井は納得してしまった。

 『それが勝てない理由』であると確信してしまった。

 ―――その時点で、その思考が、勝利の可能性をゼロにしてしまったというのに。

 

「それにな、俺は今一人じゃない。お前は最初っから……多勢に無勢だったんだよ!」

 

 色んな人の想いを乗せて、仮面ライダーの蹴りがドーパントを蹴り飛ばし、距離を離した。

 一歩や二歩では詰められぬ距離。

 そこで、翔太郎はベルト前面部のガイアメモリを取り外す。

 

「終わりにするぜ、浮井」

 

 外されたメモリがベルト側面部のスロットに装填されそうになった瞬間、"アレはヤバい"と反応したドーパントが踏み込んだ。

 メモリがその意志に呼応し、一瞬のみその瞬発力と走行技術を限界以上に高める。

 

「くああああああああっ!!」

 

 限界を超えた一瞬が終わる前に、浮井は翔太郎が手に持っていたメモリを、蹴りで弾き飛ばしていた。

 

「僕にだって! 意地がある! 一方的にやられたままでいられるか!」

 

「ちっ、往生際が悪い!」

 

 ここに来て少年も――翔太郎が浮井の意志を引き出したせいで――、意地を見せてきた。

 どうやら翔太郎が少年の心を悪の呪縛から解放しつつあるせいで、心とメモリの調和が取れ、メモリとの適合率が高まってきてしまっている様子。

 

 ガイアメモリは、この二人の力の源だ。

 メモリがなければ超人にも怪物にもなることはできない。

 ベルトにメモリがセットされていなければ、時間経過に従い仮面ライダーの姿を維持することも難しくなっていってしまう。

 トドメを刺そうとした瞬間に反撃されてしまったことで、先程まで優勢だったというのに、仮面ライダーは一気に不利になってしまった。

 

「メモリを拾う隙は与えない! 僕の勝ちだ!」

 

 そうして、仮面ライダーの手から弾かれたメモリは遥か彼方に飛んで行き―――警察署の窓から身を乗り出したマーニーに、キャッチされた。

 

「は?」

 

 呆気に取られる怪物の視線の先で、身を乗り出しすぎたマーニーがあわや落ちそうになるが、落ちそうになった娘をロイドが抱きとめ、落下を阻止した。

 

「危ないじゃないかマーニー! パパそんな風に育てた覚えはないぞ!」

 

「こう育ったことに今更文句言わないでよ! マーロウ! 受け取れっー!」

 

 そしてマーニーが投げたメモリを、仮面ライダーがキャッチする。

 

「やるじゃねえかマーニー! 助かった!」

 

 受け取ったメモリを、ベルト側面部のマキシマムスロットに装填。

 

「お前を苦しめてるもの、今壊してやる。これで決まりだ!」

 

《 JOKER! MAXIMUM DRIVE! 》

 

 メモリから放出された最大の力が、仮面ライダージョーカーの右足に収束する。

 

「ライダーキック!」

 

 そして、飛び蹴りが怪物の胸へと叩き込まれた。

 

「く……ああああああああっ!!」

 

 防御さえ許さない、意識の隙間を縫うような神速の飛び蹴り。

 蹴りに込められたマキシマムドライブの破壊力は、浮井和雄の体をほぼ傷付けることなく、その体と一体化していたメモリだけを破壊する。

 破壊されたメモリが体から排出され、怪物の体は少年の体へと戻り、排出されたメモリは人体を傷付けない大きなエネルギー爆発を起こした。

 

 自分を傷付けない不思議な爆炎に包まれて、少年は膝を折り、意識を失っていく。

 

「この街は俺の街じゃない。

 だが、これだけは分かる。

 この街はいい街だ。掛け値なしにな」

 

 消え行く意識の中で、左翔太郎と名乗った青年の声が聞こえて。

 

「お前一人くらい受け入れてくれる懐の深さはあるさ」

 

 メモリと一緒に、心の中の淀んだものを全て砕かれたような気がして。

 

 自然と、目から涙がこぼれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メカニック・夜刀は街中をゆっくりと逃げていた。

 彼が約束を破ることを躊躇うことはなく、それを恥に思うこともない。

 恥知らずで残虐で、なのに頭がいい。史上最悪の愉快犯の名は伊達ではないのだ。

 

(さて、面倒なことになったな。

 だがあの男のおかげで綺麗な方のメモリの使い方は分かった。

 人質を取るか、寝込みを襲うか、食事に毒を盛るか……確実性が高いのはどれだ?)

 

 仮面ライダーへの対策も考えた上で、新たにメモリを確保する算段もつけている。

 夜刀は計算に計算を重ね、合理と計算によって街の人目と警備の穴を見つけ、夜刀を探す人間が絶対に彼を見つけられない逃走経路を駆けていた。

 

(オレが警察署を占拠したというセンセーショナルな事件は既に報道された。

 メカニックの名とオレ達が積み重ねた実績は強い。逃げ切った後、また金と人を集める)

 

 再起の方法はいくらでもある。

 世に名が知られる悪党は、とてもしぶとく、とても厄介で、身一つで一からやり直して何度でも組織を作り上げられるものなのだ。

 

(奴らが推理と計算、もしくはただの人海戦術でオレを捕まえようとする限り、絶対に――)

 

「あ、うんそーそー。

 前に私がマーロウさんにパフェ奢って貰ったレストランの裏。

 分かるでしょ? 早めに来てねマーロウさん、ほんとに早く、こう、ダッシュで」

 

 思わず、その声に振り返る夜刀。

 何故か、何故か、何故か。完璧な逃走経路であるその道の先に、若島津ゆりかが居た。

 

 マーニーの助手で深く考えない単純バカの、マーロウが彼の目論見を打ち砕き。

 マーニーの親友で深く考えない単純な子な、ゆりかがチェックメイトをかけた。

 

「……なんで居るんだ?」

 

「それは私の台詞なんだけど」

 

「いや、間違いなくオレの台詞だ。

 おかしいぞ、ここは合理的に考えれば誰も見張ってない場所で……」

 

「え、いや、皆でアンタ探す流れになってたからさ。

 とりあえず何も考えず適当にどっか見張っておけばいいかなって。

 私が見つけられなくても他の誰かが見つけてくれるよね、って思ってたから……」

 

「……」

 

「いやーびっくりびっくり」

 

 やる気のない半端者の適当な行動が、夜刀の完璧な計算と予測を崩した形となった。

 もしもここにマーニーが居たなら、こう言っていただろう。

 「ゆりかちゃんは周りに害の無いクズだから」と。

 若島津ゆりかが友達であることを少し誇らしそうに、その名を口にするはずだ。

 

「殺す」

 

「ちょっとー!?」

 

 まだ、まだ終わっていない。

 翔太郎(マーロウ)に連絡された時点で詰みであるはずなのに、夜刀は往生際悪く諦めていなかった。

 この女をさっさと殺してすぐここから逃げればまだなんとかなるはずだ、と自分に言い聞かせてナイフを握る。

 

 ナイフを握りゆりかににじり寄る夜刀の前に、ゆりかを庇うように緑川楓が立ち塞がる。

 

「いいや、殺させない」

 

「あ、緑川ちゃん」

 

 緑川楓の手には、護身用の強力なスタンガンが握られていた。

 そして彼女が駆けつけたということは、ゆりかがぎゃーぎゃー騒いだことで、夜刀を探していた色んな人がここに集まって来ているということだ。

 もう時間はない。詰みは近い。

 

「チッ、緑川宗達の孫娘か」

 

「犯罪者より億倍まともなバカを悪党から守るのも、探偵の仕事だ」

 

 緑川がゆりかを庇った数秒と、このまま逃げるか殺してから逃げるかの選択を夜刀が迷ってしまった数秒で、そうして彼は詰みへと追い込まれた。

 

「そんじゃま、頑張ってるやつを守るのは俺の仕事だな」

 

 舞城天という人力バイクに運ばれた、左翔太郎(マーロウ)の到着。

 これで、夜刀が逃げ切る目はなくなった。

 

「マーロウ!」

「きゃー! きたきたマーロウさん!」

 

 マーロウは今にも倒れそうなくらいにボロボロで、なのに倒れる気配がまるでない。

 天のママチャリの荷台から降りた彼の背中を、無表情な自転車ライダーが軽く叩く。

 

「頑張って」

 

 曲がっていた背筋が伸びた。

 これほどまでに『他人のおかげで強くなれる男』もそうは居まい。

 仲間の窮地にちゃんと間に合う翔太郎の間の良さに、夜刀は思わず笑ってしまった。

 

「さっき、理想郷の話をしてたよな、夜刀。

 お前を受け入れてくれる理想郷(けいむしょ)が、お前を待ってるぜ」

 

「……はっ」

 

 夜刀は恐れで他人を操る。

 浮井和雄も、かつてのマーニーも、それで操っていた。

 だが、子供の頃は夜刀を恐れていたマーニーも、今は彼を恐れない。

 夜刀が倒さねばならない悪であったがために、翔太郎は夜刀に対し怒りはすれど、ただの一度も恐れを抱いたことはなかった。

 

 残酷な悪を恐れぬ者が、恐怖を知った上で踏破する者こそが、いつの時代も悪を討つのだ。

 

「オレにとって最大の目標は鴻上だった。

 オレにとって最強の敵はマーニーだった。

 ……そうか、お前が、オレの最後の敵だったか」

 

「史上最悪の計画犯罪者、夜刀。さあ――」

 

 夜刀がナイフを振り上げる。

 

「――お前の罪を、数えろ」

 

 翔太郎の生身の拳(ライダーパンチ)が、その顔面を撃ち抜いた。

 

 

 

 

 

 この事件の終わりは、浮井少年がメカニックに別れを告げて締めくくられたという。

 少年は夜刀に「ごめんなさい」と言い、「今までありがとうございました」と頭を下げた。

 事実上の絶縁宣言に、夜刀はもはや何を言っても少年を闇に落とせないことを知る。

 最後に「つまらない人間になったな」と吐き捨て、夜刀は口を閉じる。

 「誰かの涙を拭える、そんなつまらない人間になりたいんです」と、少年は言った。

 それが、夜刀が死刑になる前に他人と交わした、最後の会話であった。

 

 この後、怪物や超人の存在は都市伝説のように語られるも、すぐに霧のように霧散する。

 仮面ライダーの名は、その正体を知る者達の頭の中だけに残った。

 都市伝説になることもなく、街に吹きすさぶ風のような風の噂になることもなく、仮面ライダーは皆の思い出となる。

 

 そして―――別れの時が来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木々の合間で、翔太郎はメモリを掲げた。

 

《 JOKER! 》

 

 メモリの励起が、空間の穴を掘り返す。

 翔太郎はいかな理由か、ここではない所から来た。

 風都という街とこの街を繋ぐ穴が、これであったというわけだ。

 

「マーロウ……翔太郎さんは、ここから来たんだねえ」

 

 彼の見送りはマーニー一人。翔太郎とマーニーで相談して決めたことだった。

 本当の名前を呼んで、けれども何故か違和感が拭いきれなくて、マーニーは彼を下の名前で呼び捨てにする。

 

「いややっぱ慣れないから、翔太郎って呼び捨てでいい?」

 

 しょうがねえなと、翔太郎は許した。

 マーニーは屈託なく笑う。

 これが最後の会話になるだろうと、翔太郎は思っていた。

 

「また会える?」

 

 会えないだろうと、翔太郎は言う。

 翔太郎は昔、ダミー・ドーパントとの戦いの中、ディケイドというライダーに関わり世界の壁を越えたことがあった。

 この街に来た時の感覚は、それにとてもよく似ていた。

 翔太郎はここが別世界であり、風都に帰ればまた来ることは二度とない世界であると、そう推測している。

 

 別の世界で同姓同名のそっくりさんと出会っても、それは別人だ。

 かつて翔太郎がディケイドの導きで、別世界の『翔太郎を知らない鳴海荘吉』とひととき顔を合わせた、その時のように。

 それは、再会ではないのだ。

 

 彼はここで別れれば、マーニーとまた会うことは二度とないだろうと考えている。

 

「ま、そうだよね」

 

 マーニーが言葉の裏に隠した悲しみと寂しさは、翔太郎に見抜けるものではない。

 それを見抜くには、ちょっとばかり女性経験が足りていなかった。

 

「今までありがとう。

 たくさん助けてもらって、本当に感謝してる。

 今までごめんなさい。

 何度も何度も迷惑かけた気も、私にできないことを任せちゃった気もするから」

 

 マーニーが多くの感謝と謝罪を述べる。

 翔太郎も同様に多くの言葉を贈っていた。

 今何かを言い損なえば、伝えられなかった言葉が一つでもあれば、一生後悔し続けなければならない……なんて、考えているかのように。

 

「この街に残る気は……やっぱり無いか。

 そりゃそうだ、左翔太郎の居るべき場所は、ここじゃないんだから」

 

 マーニーも翔太郎が帰ることを決めた時、引き止めた。

 だがそれだけだった。翔太郎を過剰に引き止めることはなく、食い下がることもしなかった。

 それはマーニーが、"何を言っても引き止められない"ということを知っていたからだろう。

 

 記憶を失っている間、どんなに親密になっても、彼はマーニーを相棒とは呼ばなかった。

 

「残ってくれたら嬉しかったよ。

 でも帰るんでしょ?

 それでいいんだ。私には私が守るべきものが、あなたにはあなたの守るべきものがある」

 

 だからマーニーも、彼を相棒とは呼ばなかった。

 それは彼に対する敬意であり、彼の在り方に対する尊重。

 左翔太郎の相棒は、どんな世界であろうとただ一人。フィリップ以外にありえない。

 ならば、相棒が待っているその場所(まち)に、彼が帰らないわけがないのだ。

 

 ―――翔太郎はマーニーではなくフィリップを選び、マーニーはそれを受け入れた。

 

「これが一時の交差だったとしても。

 僅かな間、私達の道が交わっただけのことだったとしても。

 私はこの記憶を忘れない。絶対に忘れない。私の記憶(メモリ)に、ずっと刻みつけておく」

 

 出会いがあれば、別れもある。

 

 『街』とは、人が出会い別れていく場所に付けられた名前だから。

 

「名探偵マーロウ。だから、あなたも忘れないでいてくれると嬉しいかな」

 

 ああ、と翔太郎は微笑んだ。

 俺が好きになれたこの街を守ってくれ、頼んだぞと、翔太郎はマーニーに依頼をする。

 

「マーニーにおまかせを」

 

 その依頼を、探偵マーニーは承って。

 左翔太郎は、この世界から消えていった。

 

「さよなら」

 

 話の途中から、ずっと彼女の目から溢れていた涙が。

 こらえきれずに、その瞳から流れ落ちていた雫が。

 顎を伝い、地面へと落ちる水滴が。

 

 一つ、また一つと土に染み込み、染みを残して消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風都に帰った翔太郎は、街の大時計を見る。

 彼が謎の機械の暴走に巻き込まれた時から10分と経っていなかった。

 右を向けば壊れた機械。

 左を向けば倒れている白服の悪人。

 あの街での数ヶ月の戦いは、この世界ではほんの数分の出来事だったようだ。

 

「財団Xめ……また妙にヘンテコな機械盗みやがって。

 だがまあ、普通に生きてたら行けなかったあの街に送ってくれたのは、感謝してやるよ」

 

 ここは風吹く街・風都。

 左翔太郎の故郷であり、何があっても彼が最後に帰る場所だ。

 翔太郎は警察署の照井竜(ゆうじん)に一報を入れ、財団Xなる悪の組織の処理を警察に頼む。

 そして、帰る家であり仕事場でもある『鳴海探偵事務所』へと帰った。

 

「おかえり、翔太郎。早かったね」

 

「おう、今帰ったぜ、フィリップ」

 

 相棒・フィリップの顔さえ懐かしい。

 フィリップからすれば依頼のために出ていった翔太郎がすぐ帰ってきた、くらいの感想なのだろうが、翔太郎は記憶をなくして数ヶ月も過ごしていたのだ。

 感想に差が出るのも当然というものだろう。

 

「ああ、そうだ。

 今回の依頼人に依頼した人が来てたよ。

 確か今回の依頼人は、自分が受けた依頼の達成のために、この事務所に依頼したんだろう?」

 

「ああ、そういやそうだったな。

 俺達に依頼した男の名前が鴻上。

 鴻上に依頼したのが……緑川ルリ子、だったっけか」

 

「どうしたんだい? 昔のことを思い出すような顔をして。今日受けたばかりの依頼じゃないか」

 

「ああ、まあ、そうなんだが。気にすんな」

 

 誰かの依頼を達成しようとする誰かが、鳴海探偵事務所に助力を頼む。よくある話だ。

 

「それと鴻上って人が手紙を残していったよ。読むといい」

 

「手紙? あの鴻上ファウンデーションの関係者の手紙とか、嫌な予感しかしねえな」

 

 白紙の本に目を通しているフィリップに『ガジェット全部壊したから直してくれ』という頼みをどう切り出すべきか、ちょっと言い辛そうにしていた翔太郎は、問題を先送りにして依頼人の手紙を読み始めた。

 

『まず非礼を詫びよう。オレの仕事は、君にこの仕事を依頼した時点で終わりだったんだ』

 

「あん?」

 

 開幕謝罪。どういうことかと、翔太郎は本腰入れて手紙を読み始める。

 

『まず今回の問題になった機械の出自を説明しよう。

 あれは鴻上ファウンデーションが作った時空に干渉する機械だ。

 あの会社は大きなエネルギーが時間を歪めることに気が付いた。

 それを実用化しようと考えたんだ。

 今回使用された機械はとても大きかったが、いずれは小型化されるだろう』

 

 鴻上ファウンデーション。日本三大何をやっているのかよく分からない企業の一つであり、今回の依頼人はそこのトップの甥を名乗っていた。

 

『そのエネルギー源に選ばれたのが、地球の記憶。

 君と財団の人間があの機械の前でジョーカーメモリを使ったせいで……

 あの機械は、連鎖的に暴走してしまった。

 オレの調査によればあれは地球のコアに近い所から発掘されたらしい。

 "地球記憶の泉の欠片"と呼ばれるそれにメモリを近づけるのは、危険かもしれない』

 

 じゃあ最初から言えよ、と翔太郎はちょっとだけイラッとした。

 

『多分君は怒ってると思うが、まあ怒らないでくれよ?

 オレは昔、鳴海荘吉の敵だったり味方だったりした。

 結局あの人にはまっとうには一度も敵わなくてな。

 勝ち逃げされたことはとても悔しいが……その弟子なら、問題ないと思う気持ちもあった』

 

 手紙の内容が翔太郎の気を引いて、手紙を読む速度が、少しだけ早くなった。

 

『他にも、今回の依頼に関することを書き連ねておく。

 鴻上の研究室から機械を盗んだのは財団Xという組織だ。

 ミュージアムの隠し倉庫から非純正化ジョーカーメモリを盗んだのも財団X。

 地球の記憶以外のエネルギーを模索しているとのことだが、それ以上は分からなかった。

 奴らは今回得た時間に干渉する機械の技術を使い、何かをすることを企んでいるらしい。

 オレも罪を償い終わり、今では警察に協力もしてる。困ったらオレに連絡してくれて構わない』

 

 今度は何企んでやがる財団X、と翔太郎は目を細める。

 

『さて、本題に入ろうか。全ての種明かしだ』

 

 そして、目を見開いた。

 

『世界の壁と時間の壁はとても良く似ているらしい。

 世界間移動だけでなく、過去と未来を行き来する時にも穴は空く。

 君が世界の移動だと思っていたのはまさにこれだ。あの機械は時間にのみ干渉した』

 

 翔太郎の勘違いの訂正、全ての始まりにして全ての終わりの解説が始まる。

 

『夜刀がメモリの使い方を知っていたのは、ミュージアムを知っていたから。

 スパイダー・ドーパントがかつて風都で起こした大事件を知っていたからだ。

 君の街・風都の警察にガイアメモリ含む超常犯罪捜査課が作られたのは……

 ドーパントに警察署を一度占拠されたことで、警察がガイアメモリを特別警戒していたからだ』

 

 あの日、あの時、あの場所で。

 マーニーとマーロウが失敗した時のため、警察署を遠くから見ていたメカニック・鴻上は、左翔太郎の勇姿と顔をずっと覚えていた。

 

『オレは今回脇役だ。

 女の子の"彼を探して欲しい"という依頼を果たすためにこの事務所に来ただけだ』

 

 メカニック・鴻上有は、計画を立てただけ。

 その計画の通りに全てが動くよう、全てを計算して動いただけ。

 彼が立てた計画は、ここに全てが完遂した。

 

『最後に、ここに礼を書かせて貰う。

 ありがとう、仮面ライダー左翔太郎。

 夜刀はオレのかつての相棒で、最高のパートナーだった。

 奴を最後に止めてくれた君に、オレはオレのやり方で応えさせてもらう』

 

 二人で一人のメカニック。

 かつて鴻上にとっての夜刀は、翔太郎にとってのフィリップだった。

 鴻上は翔太郎への恩返しのため、面白い仕込みを残していった。

 

「翔太郎。さっき言った依頼人の依頼人が来たよ」

 

 手紙を読み終わった翔太郎が顔を上げると、事務所の外から声が聞こえてくる。

 

「ありがとうございます、津村さん。案内、助かりました」

 

「真里奈でいいわよ、真音(まりおん)ちゃん。

 私も翔ちゃんに煮物のおすそ分けに来ただけだから」

 

「では私もマーニーと。

 本名は真音(まりおん)と言うんですが、親しい人は皆マーニーと呼びますので」

 

「私達、名前似てるわよね? マリナとマリオンで」

 

「ですね。あだ名がマリとかだったら二人共呼び名が同じだったかもです」

 

「そこはマーリーとかでしょ?」

 

「あははっ」

 

 扉が音を立てて開き、津村真里奈に背中を押されて、二人の女性が部屋に入ってきた。

 

「緑川ルリ子、というのは偽名だ。祖母の姉の名前を借りた。びっくりしただろう?」

 

 緑川を名乗る女性が、黒帽子を脱いで脇に抱える。

 すっかり"祖父よりも帽子が似合う女性探偵"になった女性が、そこに居た。

 

「最後の挨拶、『さよなら』じゃなくて『また会おう』の方がよかったかな?」

 

 モジャモジャ頭の、最後に泣いて翔太郎を見送った少女が、すっかり女性らしい姿になってそこに居た。

 

「生意気言いやがって。いくつになった?」

 

「22歳」

 

「じゃあまだ年下だな。年上は敬えよ」

 

「あはは、寝てないのに寝言言ってるー」

 

「んだと!」

 

 けれど、関係は変わらなくて。

 

「今ちょっと面倒な依頼受けてるんだ。手伝ってよ、名探偵マーロウ」

 

 女の名探偵は、男の名探偵に助力を頼む。

 

「いいぜ。その後、成長したお前の同級生にでも会いに行くか? 名探偵マーニー」

 

 男の名探偵がニッと笑って、女の名探偵が嬉しそうに微笑む。

 過去も、現在(いま)も、きっと未来も。

 探偵は誰かを救い続けることだろう。

 

 今日もどこかで、街のどこかで、流された涙は拭われる。

 

 

 




街を泣かせる悪党に、彼らが永遠に投げかけ続けるあの言葉―――


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