another SILENT HILL story 病める薔薇~ (瀬模拓也)
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~第1章  悪夢への目覚め ~

「それじゃあ、また明日。」

 



深く、深く、落ちてゆく意識を留めてドアを開ける人影を見つめる。

もっと多くの言葉を交わしたいのに唇からは微かな吐息しか出てこず

腕を伸ばそうにも闇色の荊に絡め取られて指一本満足に動かせないでいる。





いつもはこんなんじゃないのに・・・・





まるで神様が明日に備えて早く体を休めなさいと言っているみたい。

眠りを堪えるのをやめてゆっくりと瞼を閉じる。体が深淵に沈んで行くよう

な気がした。 明日は・・・・



ひんやりとした空気が喉元をなぞりロサラは目を覚ました。

 

ぼんやりとした頭で、ゆっくりと体を起こすと病院の硬いベッドの感触が手に触れる。いつもと変わらない目覚め、いつも通りにサイドボードの上に置いてある時計に目をやる。

 

「?」

 

 一瞬自分がまだ寝ぼけているのかと思った。時計の針は既に8時を回っている。起床時間はとっくに過ぎているのに誰も起こしに来た気配はない。

退院する患者は起こしに来ない、という訳でもないだろうに。

 

 とにかく着替えるため一度カーテンを閉めに窓辺へ近づく。

 

「何?」

 

 窓の外の景色にロサラは更に驚く。普段ならそこから見える病院の中庭は真っ白な霧で覆われていて何も見えない。

サイレントヒル、この町の病院に入院して半年、今までこんなことは一度もなかったのに。

 

 パジャマから洋服に着替えるとロサラは再び窓の外を覗き込み落胆した。

 

(この分じゃ、あちこち見て回るのは無理ね。)

 

 小さくため息を付くと昨日の会話を思い出す。

 

 

「ね。明日退院するのだし、そしたら町の中を見て周りたいわ。」

 

 ロサラが子供の様な笑みで傍らの兄にお願いをすると彼はちょっと困ったような笑みを 浮かべる。彼女の体を考えれば、まだ安静にしていた方がよいのだが。

 

「お祝いに。」

 

 ロサラは更に食い下がる。外に出ることも殆どない長い病院生活で彼女が退屈していた事も事実なのだ。

 

 

「分かった。明日、朝一番で迎えに来るからちゃんと支度しておくのだよ。」

 

 結局兄の方が根負けしてしまい、そう言って了承した。

 

「とにかく、支度しなくちゃ。」

 

 窓から離れるとロサラは退院の支度をする。とはいえ、殆どは寝付けずにいた昨日の夜の内にしてしまっていた。パジャマを畳み、時計を鞄にねじ込む。そこでふと入り口付近に目をやる。

 

 

 

 

 ―――院内が静か過ぎる―――

 

 

 

 

退院する事に浮かれていて今まで気付かなかったが、いつもなら聞こえる患者どうしの話し声や看護婦の足音がまったく聞こえないのだ。ドアをそっと開けると頭だけ出して辺りを見回す。

 

誰もいない。

 

普段忙しそうに歩き回っている医者やスタッフの姿は何処にも見当たらず院内はしんと静まりかえっていた。何が起きているのか分からないまま恐る恐る病室の外に出る。

彼女が入院していたのは病院の3階突き当りの部屋、もしかしたらここから見えないだけできっと他の階には人が居るはず。不安を拭い切れないまますぐ傍のエレベーターへ駆け出す、と視界の隅に何かが映り込む。

 

(何かしら?)

 

 彼女から見て廊下の端、病室棟の入り口近くに白いものが見えた。スタッフが落としていったシーツか何かがだろうか?

目を凝らすと、それは人に見えた。白衣を纏いナースキャップを被ったこの病院の看護婦。

 

シーツと見間違えたのは彼女が立っていなかったからだった。看護婦は足を投げ出し項垂うなだれる様に廊下に座り込んでいた。

 

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 ロサラが駆け寄りながら話しかけるが看護婦は顔を上げようとしない。

近づいてよく見てみると看護婦の鎖骨から胸元にかけて赤い染みが広がっている。それが血であることはロサラにも直に理解できた。

 

理由は分からないがこの看護婦は胸に致命傷とも言える大怪我を負っているのだ。あまりにも突然の出来事に体が震えだす。とにかく誰かを呼んでこなくては。そう思い震える足でどうにか一歩踏み出す。

 

 

 

 

 ぽたり――。

 

 

 

 

 看護婦の胸に血が一滴、滴り落ちた。

 

 顔を下に向けていることと、肩まで伸びた髪の毛で横からでは分からなかったがどうやら頭にも傷を負っているようだ。無意識の内に覗き込む様に彼女の正面にまわる。

 

「―――――――――――――――――――――っ!」

 

 悲鳴を上げることも忘れてそこから飛び退くと目の前の病室の扉に手を掛ける。乱暴に扉を開け倒れこむように中に入る。胃の中身が逆流してくるのを感じ、慌てて口を手で押さえると焼けるような喉の痛みに涙が零れていく。

 

 ・・・・目が・・・・・・鼻が・・・・・・いや、顔そのものがなかった・・。

 

 以前は患者達に明るい笑顔を振りまいていただろうその顔は、顔中のパーツを抉り取られ一個のグロテスクな肉塊へと変貌を遂げていた。

 

(何なの?何が起きているの?)

 

 

 蹲りながら荒い呼吸を何度も繰り返す。心臓が暴れるように跳ね耳の奥が熱くなる。

 

 ザアァ―――――ァァ・・・・・・・・・・。 

 

 不意に自分の息遣いに混じって無機質な機械音が聞こえてくる。

立ち上がって音のしている場所を確かめる。彼女が飛び込んだ病室は大部屋だったらしくベッドが四つ向かい合って置かれていた。

 

音は入り口の方のベッドに置かれたポケットラジオから流れるホワイトノイズだった。ベッドは先ほどまで誰かがいた痕跡を残している、まるでラジオを付けたまま持ち主だけがこの静寂に溶けてしまった様に思えた。

ページが開かれたままの雑誌、まだ湯気が立ち上るコーヒーカップ、よくよく見てみれば他のベッドも今し方までそこに人がいた形跡がある。

 

ならば患者や医者達は何処へ消えてしまったのだろうか。

 

いや、逃げ出したのかもしれない。廊下の看護婦の遺体、この病院が何らかの事件に巻き込まれたのは明らかだ。麻薬中毒か何かのならず者が病院に押し入って、あるいは入院患者がこっそりと刃物を持ち出して?

半年も入院していれば望まずともそういう患者が居るという話が耳に入ってくる。となれば彼女は逃げ遅れて凶器の餌食になってしまったのだろう。

もしかしたら避難した患者の中にロサラが居ないことに気付いて警察の制しを振り切り勇敢に助けに来てくれたのかもしれない。

 

「とにかく、逃げ出さなきゃ。」

 

口に出して言ってはみるものの、どうすればよいのか頭は未だに混乱していた。院内がこんなに静かなのは恐らく篭城した犯人と警察の間でこう着状態が続いているせいだろう。不用意にエレベーターや階段を使えば犯人と出くわす危険性がある。

 

ザアァァ―――――――。

 

纏まらない思考をホワイトノイズが余計にかき乱してゆく。

いったい何だと言うのだろうか、先ほどよりも音が大きくなっている気がした。持ち上げるとラジオの側面に白いマジックで〝ブルックへイヴン病院〟と書かれている。病院が患者に貸し出しているラジオなのだろう。

 

妙に不安を煽られ、このままここに居てはいけない気にさせる。

 

いっそ窓から助けを求めようかと思った時―――――。

 

ぺち、ぺち、ぺち。

 

ホワイトノイズの間から足音が聞こえる、それも靴音ではなく素足で廊下を歩くような音だ。ロサラは一瞬で凍りつく、犯人が逃げ遅れた患者を探して再びここまで来たのだろうか、いやもしかしたら彼女と同じ様に院内に取り残された患者がここまで逃げてきたのかもしれない。

 

 ロサラが開け放したままの病室の扉から足音の主は入ってきた。

 

 ぺち、ぺち、ぺち。

 

 その姿にロサラは腰が抜けたようにその場に座り込んでしまう。

 

 その生き物は、のっぺら坊な乳幼児に見えた。

大きさもロサラの膝位しかない、ただ何故か大人の女性の腕が、本来足があるべき場所から生えているのだ。ご丁寧に赤いマネキュアまで爪に塗られている。ちょうどオタマジャクシが蛙になる途中のようなアンバランスな体は戦慄と共に不快感をロサラに与えた。

 

「こっ、こないで!」

 

立ち上がる事もできないまま後退りする、これならジャンキーの方が幾分かマシだ。後ろに下がりすぎたためサイドボードに背中をぶつけてしまう。頭上から何かが落ちてくる、恐らくサイドボードに置かれていた物だろう。確かめる間もなくそれは金属音を立ててベッドの下に滑り込んでしまう。

 

おたまじゃくしの様なバケモノがロサラの足に爪を立てる。ブーツの上からだというのに食い込んだ爪が鈍い痛みをふくらはぎに与える。

 

「い・・・嫌!」

 

 無我夢中で振り回した腕がバケモノの体に当たると、あっさりとバケモノは入り口付近まで弾き飛ばされる。横倒しになったバケモノが蝉のような甲高い鳴き声を上げて体をばたつかせる。

どうやらアンバランスな体は一度倒れると中々起き上がれないようだ。

 

 その隙にロサラはベッドの下に手を伸ばす、武器に成りそうな物でなくてもいい兎に角あのバケモノとこのまま素手で対峙していたくなかった。

手に金属の冷たい感触が触れる、拾い上げるとそれは果物ナイフだった。純銀製だろうか、全体が白く光るそのナイフは刃の部分に蔦の模様が彫りこまれている。見事なまでの出来栄えに置かれている状況を忘れてロサラは見入ってしまう。

 

 が、――それも束の間のことだった。立ち上がるのを諦めたバケモノは這いずる様にしてロサラに突っ込んでくる。のっぺら坊に思われた顔に裂け目が入ると口が現れる、顔全体を覆う程大きな口からは鋭い牙が幾本も並んでいるのが見える。

 

あの牙で今度はブーツごとロサラの肉を食いちぎると言うのだろうか。

 

「やあぁぁっ!」

 

 突き動かされた様に立ち上がるとバケモノ目掛けナイフを振り下ろす。赤黒い血と共にバケモノが悲鳴を上げバタバタと暴れる、身をくねらせてロサラに噛み付こうともがく。降り飛ばされない様柄を両手で握り締めるとさらに深くナイフを差し込む。激しく暴れていた腕が徐々に緩慢な動きになり、遂には動かなくなった。

 

 死んだ・・・のだろうか?

 

 病室は再び静寂に包まれる。

 

「何なの?」

 

 恐らくナースを殺したのはこのバケモノなのだろう、ぐったりと床に体を投げ出してロサラは叫ぶ。

目尻に溜まった涙を指で拭うとベッドを伝いよろよろと立ち上がる。酷い焦燥感にこれ以上体を動かしたくなかったがバケモノの屍骸とこれ以上一緒にいるのはもっと嫌だ。

 

「兄さん・・・・・・」

 

 小さく呟くとふと気が付く、兄さんは何処?

 

時間的にはもう病院に来ていてもおかしくないのに。もっともこんな状況では警察が院内に入れてくれないだろうが、そうなれば病院の外で彼は今ロサラの身を案じているのかもしれない。

 

とにかく一刻も早く病院の外へ出ないと。自分に言い聞かせるように頷くとハンカチでナイフの刃の部分を包み自分のブーツに仕舞い込む。あのバケモノが一体だけとは限らない、もし逃げる途中で再び出くわした時のためにどうしても武器は必要だ。持ち主に心の中で詫びると病室を後にした。

 

 

 

身を滑らせるようにしてエレベータに乗り込むと1階のボタンを押す、ゆっくりと音を立ててエレベータが動き出した。ロサラは安堵のため息を付くとポケットからラジオを取り出す、先ほどの病室にあった物だ。悪いとは思いつつもこちらも持ってきてしまった。ニュースか何かでこの病院の現状を知ることが出来ればいいのだが、無情にもラジオからは先ほどと同様にホワイトノイズが小さく鳴り響くだけだった。

壊れているのだろうか?

 

エレベータは何事も無く2階を通り過ぎ静かに目的の階へとたどり着く、病室棟を走り抜け診察室等がある管理棟に足を踏み入れてもバケモノが襲ってくる気配はない。あの一体だけだったのだろうか、だとしたら何故この病院に?

 

「きゃあっ。」

 

予想していない出来事に思わず悲鳴を上げてしまう、思考は出入り口の脇に倒れているナースの遺体に再び遭遇したことにより途切れた。

彼女もまた3階にいたナースと同様に顔が潰されている。恐怖が足元から這い上がってくる、顔を背けるようにして扉に手を掛ける。自分ではもうどうすることもできないのだ。頭の中で言い訳のようにそう何度も繰り返す。

 

――そう、如何する事もできなかった―――

 

 

 

 

 

外に出ると病室で見たときよりもさらに霧が濃くなっているように感じた。自分さえ見失ってしまいそうな白い空気が肌や服にしっとりと纏わり付いてくる。

 

「嘘でしょ。」

 

 病院と外界の間には高く聳え立つ門扉があり、それが閉じられていた。ロサラは愕然とする。

今までこの門が閉じられた事などなかったのに、いやそもそも此処に門などあっただろうか。

 

「誰か、誰かいませんか?」

 

 扉を叩きながら叫ぶが返事は帰ってこない。途方に暮れて辺りを見回す。何処かに抜けられる場所は無いだろうか。不意にラジオからホワイトノイズが鳴り出す。霧の合間からこちらに向かってくる影が見える、それが人でないのはその形から十分理解できた。

 

(さっきのバケモノ!)

 

 咄嗟に近くの植え込みに身を隠す。ボリュームなど上げていないのにホワイトノイズ音は次第に大きくなっていく。

 

体中から冷や汗が噴出す、音量を調節しても音が小さくなることはない。

 

 芝生を踏みしめる足音が直近くで聞こえる。音は更に大きくなっていく。

 

 ロサラは慌ててラジオを上着の中に仕舞い込むと身を丸めてなるべく音が外に漏れないようにする。足音が目の前を通り過ぎる。植え込みの間から目を凝らして見ると病室で遭遇したのと同じバケモノが2体並んで歩いている。

 

(見つかりませんように・・・・)

 

 心の中で何度もそう唱える。幸いにもバケモノ達はロサラに気付く事無く通り過ぎて行った。安堵のため息を付くと上着からラジオを取り出す。不思議とノイズ音は消えていた。

 

 ふと、ロサラは思った。ラジオが鳴り出したのは先ほどと今、どちらもバケモノと遭遇する前に鳴り出しバケモノがいなくなると鳴り止む。もしかするとバケモノが近くにいるのを察知して音が鳴り出すのではないかと。理屈では説明できないが直感でそう感じたのだ。だとすれば諸刃の剣だ、音でバケモノに自分の居場所を知らせる事にもなりかねない。

 

 散々思案した挙句やはり持って行く事にした。上手くいけばバケモノと戦わないで逃げることが出来るかもしれない。

 

(後はどうやって此処から出るか、ね。)

 

 立ち上がろうとすると自分の腕を冷たい空気がなぞっているのに気が付く。よく見れば植え込みの少し先、壁に穴が空いている。大きさがロサラの膝ぐらいしかないので今まで気付かなかったのだ。それでも屈めば十分に通れる大きさだ。ロサラは思わず顔を綻ばせる。

 

(よかった。これで此処から抜け出せる。)

 

 這う様にして身を屈めると小さな穴に潜り込む。病院の壁はそんなに厚くないはずなのに酷く長く感じられた。

 

 ようやく穴から這い出ると服に付いた埃を叩き落とす。辺りを見回すも人の気配は無い。

 

「兄さん。あの誰かいませんか?」

 

 叫んでみるもののロサラの声は霧に空しく溶けてゆく。

それにしても―――この霧は何だとゆうのだろうか。この町に来て半年、いくら一度も外に出たことはないと言えこの事態が異常であることは分かる。町には人一人見当たらない。濃霧警報が出て皆外出を控えているのだろうか。

 

 ――だったら、こっちから会いに行くしかない。――

 

 ロサラは上着のポケットを探ると地図を取り出す。観光用の大雑把な地図だが一箇所赤く丸で囲ってある。『ウッドサイドアパート』兄さんが住んでいる場所、前に教えてもらった時に書いたものだ。その他にも教えてもらった名所などを自分で書き込んであるのだが今は無視することにした。

 

 怒られるかもしれない、勝手に病院を抜け出してこの霧の中を歩き回っているのだから。それでも、行かなくてはいけない。この病院の惨状を伝えないといけないし何より心細かった。

 

「兄さんに、逢わなきゃ。」

 

自分の居る場所と向かう場所を地図でもう一度確かめる。

 

ロサラは小さく頷くと霧の支配する町へと足を踏み出した。

 

  

 

 

 

 



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~第2章   異形の悪夢(前) ~

キャロル街道を北へ。

 

歩くたびに霧は一層濃さを増し前方からロサラに向かって吹き付けてくるような気がした。街中に自分の靴音だけが響くのはどことなく薄気味が悪い。

 

「?!」

 

目の前に現れた物体にロサラは足を立ち止めた、ネイサン通りに抜ける直前の道は工事中らしく鉄の金網とビニールで出来た壁が延びている。さらに間の悪い事にラジオのホワイトノイズが鳴り出したのだ。慌てて近くの建物に身を隠す、遠くの方に動く影が見えるがあれは人ではないという事なのだろう。動く影はこちらにくることなく霧の中へ消えてしまう。安堵のため息を付き別ルートを探すため地図を取り出す、そのときふと足物に落ちていた紙に目が止まる。どうやら身を隠した建物は劇場だったらしく紙は次回公演のチラシで大きな文字で『オフィリア』と書かれている。首を傾げて少しだけ思案する、オフィリアとはつまりハムレットに出てくる悲劇のヒロインの事だろう。チラシには真っ白なドレスを纏いベールに顔を隠した女性が描かれている。きっと劇作家が趣向を凝らしてヒロイン目線で物語を作ったのだろう、こんな状況でなければ観にいってみたい気になっただろう。何気なくチラシの裏を捲ると今度はそこに稚拙な文字で

 

 

―純粋なまま死ねる人間などいないのに。―

 

と書かれている。この物語の事だろうか?それにしてはチラシを傾けると赤いインクがまだ滴り落ちてくる。

 

(純粋なまま・・・・)

 

何故だかその言葉は酷く頭の中に刺さる気がした。

 

 

 

 

 

 

多少遠回りだが道を南下しても行けることが判ったので今度はサンダース街道を目指す。幸いにも今度は、道は何処も塞がれておらず道なりに進む事が出来た。だが再びラジオが鳴り出す、慎重に足を進めるものの音はどんどん大きくなっていく。アパートのある通りに出た時ついにバケモノと対峙してしまう、病院で会ったのと同じオタマジャクシのバケモノがロサラに気付く。それでも引き返すわけにはいかない、アパートはもう目と鼻の先なのだ。意を決して走り出す、バケモノの脇を通り抜けてアパートを目指す。自分を追ってくる湿った足音が聞こえる。アンバランスな体は歩みが遅いらしく追いつく事が出来ない様だがロサラの方も息が上がってきている、長い入院生活で体力は心許なくなっていたのだ。

 

何とか息が上がりきる前にアパートのフェンスにある扉に手を掛けると勢いよく中に滑り込み鍵を掛ける。思うように肺に息が送り込めずに目眩を覚える。それでもどうにか目的の場所へ着く事ができたのだ。

 

『ブルー クリーク アパート』

 

ここに兄さんが居るのだ。息が整うのを待たずに中へと入る。

 

アパートの中は停電が起きたように薄暗く静まり返っている。そこでロサラは重大な事に気付く。

 

(兄さん、何号室に住んでいるのかしら・・・・)

 

とは言え引き返すことも出来ずにロサラは途方に暮れてしまう。頼みの綱である郵便受けは文字が擦れてどれも読めない。仕方がなく直傍の階段を上がり最初に突き当たった部屋のドアをノックする。

 

「すみません。誰かいませんか?」

 

返事はない。今度は強めにノックし声を上げる。

 

「あの、お聞きしたい事があるのですが!」

 

ドアノブを回してみても鍵が掛けられて開く事はない。隣の部屋も、向かい側も同じ事だった。

 

「兄さん。いないのかしら。」

 

町にもバケモノが跋扈していたのだ、アパートの住人全員がどこかに避難している可能性は大いにある。

 

諦めの気持ちで突き当たりの部屋のドアノブを回すと今度はあっさりと開きロサラを部屋の中に招き入れる。

 

「あの、どなたかいませんか?」

 

入り口で声を掛けるも矢張り返事が返って来る気配はない。

 

いや―何か音が聞こえる。

 

あー・・・あー・・・あ・・・・・

 

人の声と言うよりは鳴き声が奥の部屋から聞こえてくる。だがそれと同時にポケットのラジオも小さなホワイトノイズ音を響かせるそこに居るのはバケモノなのか?それとも廊下の方だろうか?

 

―二者択一。ロサラは恐る恐る奥の部屋へと入って行った。

 

「きゃあ・・・!」

 

部屋に入って直に自分の選択が間違いである事に気がつく。簡素なリビングルームなは鳥籠が床にころがり無数の羽が散らばっている。その鳥籠を中心に大きな赤い血溜りが広がっている。量からして小鳥のものではないのだろう。

 

あー・・・あー・・・・

 

ホワイトノイズの音が激しくなる。続きの部屋のドアがゆっくりと開き声の主が入って来る。

 

猫。そう呼ぶには余りにもその容貌は酷すぎた。大人の両腕ほどもある身体は半分近く焼け焦げ肉が爛れており、片目は潰れている。籠の鳥を狙う悪戯な猫などという可愛らしいものではない。この生き物は小鳥の飼い主ごとその腹に収めてしまったのだろう。

 

あ・・・・あー・・

 

妙に甲高い声が耳に障る。黄色の瞳がロサラを捉えるとその大きな姿に似合わぬ素早さで飛び掛ってくる。間一髪で避けるが掠った上着の袖が引き千切れてしまう。ソファーの上に着地した猫は次の攻撃の態勢に入る。出口とは逆に逃げてしまったためロサラは動けずにいた。あの生き物をブーツに入れてあるナイフで仕留められる自身はない。

 

あれは?ふと目をやった机の上にオートマ式の銃が置かれているのに気がついた。家人の持ち物なのだろうが、丁寧にも弾丸の入った箱まで置かれている。腕を伸ばし手に取ると猫が再び襲い掛かる前に引き金を引く。

 

「くっ・・・・・・!」

 

反動で手が痺れたが弾丸が猫の腹に命中するとそのまま倒れ絶命する。

 

一息付いてロサラは手に持つ銃に目をやる。持って行くべきだろうか?だがナイフとは違う攻撃力はロサラに安心感を与えた。結局弾丸の入った箱もポケットにしまうと部屋を後にした。

 

 

 

階段を上がり3階の廊下に出ると先程の焼け爛れた猫が道を塞いでいた。この猫も病院で出会ったバケモノの仲間なのだろう。狙いを定めるが今までに銃を撃ったことなど無いロサラにとって動く敵に狙う事は簡単な事ではなかった。上着の裾の一部を引き換えに倒した時には弾丸は空になっていた。再装填させて階段に一番近いドアへ入る。

 

「!!!」

 

動く物影に身構えるが、意外にもそれは人であった。薄ぼんやりとした部屋の中央に一つだけ置かれた椅子に女性が気だるそうに座っていた。

 

「行き成り入って来てすみません。あの、人を探していて・・・それで。」

 

緩慢気に女性が顔を上げる、目はお互いに合っている筈なのにどこか遠くにいる印象を受けた。

 

「あの、ここに住んでいる人でフェザーガーデンと言う人なのですが・・・」

 

今日初めて人に会えたと言うのに落ち着かない。

 

「御免なさい・・・判らないわ。私もこの部屋の住人じゃないの。バケモノに追われて、此処まで逃げてきたのだけど。」

 

言葉を次ごうとしたロサラを遮るように女は話し出し終わるとまた俯いてしまう。よくよく見ればロサラとあまり年も変わらない感じだが彼女の持つ独特の疲れの様なものがその顔をずっと年老いて見させる。

 

「私はもう行くわ。気をつけてね。」

 

どうすべきか考えあぐねているロサラより先に女は立ち上がるとドアを開けて出て行ってしまう。

 

「気をつけて。その、なるべく早くこの町を出て行った方が良いと思うわ。」

 

慌ててどうにかロサラはその背中に向かって言う。本当なら自分も早くこの町から逃げ出したい。

 

「ええ、きっとその方が良いのでしょうね。」

 

振り返った女は寂しげにそう笑って答える、悪い人では無いのだろう。

 

(もっと色々と話せよかった。)

 

誰も居ないドアを見てロサラは自分を窘めた。

 

「?」

 

ふと先程まで女が座っていた椅子から明かりが辺りを照らしているのが見える。よく見れば首から提げるタイプのポケットライトが置かれている。部屋全体が薄ぼんやりとして見えたのはこれのせいだったのだろう。ちょうどこの薄暗いアパートを移動するには具合が良いので拝借する事にした。もし先程会った女の持ち物なら次に会った時に返せるだろう。目の前を照らす明かりに勇気付けられえうような気がした。

 

 

 

 

「!!」

 

3階の奥の部屋はどれも鍵が掛かっており矢張り誰も居ないのかと諦めかけた時その音は聞こえてきた。

 

甲高い女性の悲鳴のような声。兄では無いにしろこのアパートの住人だろうか、それとも先程会った女だろうか。いずれにせよ断末魔に近いその声は一刻の猶予も感じさせない。急いで声が聞こえた方の部屋のドアに手を掛ける、施錠はされていないらしくあっさりとドアノブは回る。部屋の中を見て周るが人の影はおろか気配すら感じない。だが奥にあったベッドルームに来て理由は判明した。ちょうどベッドの枕側の窓が無くなっていたのだ。ガラスが割れたわけでも取り替える寸での所に出くわした分けでも無い。窓枠ごとすっぽりと消えてしまっているのだ。覗き込んで見ると向かいのアパートの窓も開いているらしく悲鳴はそこから聞こえる。距離も差ほど離れておらず病院生活の長かったロサラにも簡単に跳び越えられる程だがロサラは躊躇ってしまう。

 

「やだ・・・・」

 

確かにアパートの3階ともなれば誰でも躊躇してしまうだろう。遥か下の地面を見下ろしてしまえば尚更だ。

 

けれどもそれ以上の何かにロサラは捕らわれてしまう。身が竦み、足が震える。

 

落ちたら?

 

しんじゃう?

 

 

頭の中に浮かんだ迷いを断ち切るように一度目を瞑り、考えを払うとロサラは意を決して隣のパートへ跳び移った。

 

 

 

 

「!」

 

薄暗い室内に目が慣れる間も無くロサラはその光景に愕然とする。悲鳴の主は確かにその部屋に居た、しかしそれは人間では無かった。跳び越える前のアパートでロサラと散々対峙した焼け爛れた猫が何匹も、無残にも事切れて床に散らばっている。それ以上にロサラを戦慄させたのがその猫を切り刻んでいる生き物だった。

 

人では無い。元は白だったのだろうか、ドレスらしき物を着ているが長い年月と返り血で黄ばみ至る所がボロボロに擦り切れている。顔の部分にあるベールも同じように風化しているが顔は隠れていて見えない。今までのバケモノより人に近い姿だが、纏う空気は人のそれとは全く異なっている。

 

(あのチラシの・・・)

 

劇場の近くで見たチラシに描かれた女性にその姿はそっくりだった。まるで何百年も前に書かれた己の結末が不服で絵の中から抜け出したように。

 

躊躇いも無くドレスを着たバケモノは手に持っていた鉈らしき刃物を猫に振り下ろすとロサラの方に向かって歩いて来る。敵の敵は見方と言う安易な考えには至れない、間違いなく目の前のバケモノはロサラの身体を切り刻むだろう。あの鉈一振りでロサラなら背骨など簡単に折れてしまう。

 

「来ないで!」

 

幾ら叫んでもバケモノ歩みは止まる事が無い。緩慢だが確実にロサラに向かっている。

 

背中を見せれば一気に襲い掛かって来るような気がして向かい合ったままロサラはじりじりと動きながら横にあった部屋に飛び込む。

 

「そんな・・・」

 

部屋に入り、ロサラは更なる絶望を味わう。飛び込んだ部屋は出口では無く袋小路、簡素なバスルームであった。それどころかドアに鍵さえ付いていない。

 

最後の抵抗ともいえるようにロサラはバスルームの奥へ避難するとバスタブに穴が開いている事に気付く。穴、と言うよりはバスタブの底そのものが無くなってしまっている。ここから降りれば少なくともこの部屋から脱出できる。けれどもバスタブの底は暗くポケットライトで照らしても先が見えない。もし下の階に繋がっていなかったら?改装工事か何かで下まで床が無かったら?玄関の床で冷たくなっているロサラを見て興味半分で忍び込んだ少女が誤って足を滑らせた位にしか誰も思わないだろう。

 

迷うロサラの耳にドアノブが回される音が届く。

 

来た。

 

シャワーカーテンで姿が見えないがその向こうに居る。

 

飛び降りれば先は無いかもしれない、けれどもこのままでいれば確実に自分は殺される。ロサラはバスタブの淵に足を掛けると暗闇にその身体を委ねた。

 

 

 



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~第3章 異形の悪夢~

大きな耳に大きな目、真っ赤なオーバーオール

 

あれは・・・・ピンク色の・・・・

 

ウサギ・・・・・?

 

ウサギのヌイグルミだ。

 

そう、何年か前の誕生日に兄から貰ったものだ。

 

「もう、子供じゃないのよっ!」

 

少し拗ねてはみたけど何時も的外れな贈り物をする兄らしからぬプレゼントが本当はとても嬉しかった。 

 

「サイレントヒルにある遊園地のマスコットでね、他にもキャラクターが色々といるんだけどそのウサギが一番可愛いと思うよ。」

 

誇らしげにそう話す兄が可笑しくてそう言われて吹き出してしまった。

 

その日から枕元に置いたウサギのヌイグルミに朝夕挨拶をして遠い避暑地とそこで働く兄に思いを馳せるのがロサラの日課になった。

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・・・兄さん?」

 

黴臭い。ベッドの感触がするが此処は入院していた病室でも自分の部屋でもない。漸くはっきりと意識が戻り辺りを見回す。

 

板張りにされた窓から辛うじて光が差し込んでいる部屋は埃が此処の居住者だと言わんばかりにそこ彼処に積みあがっており人が住んでいる気配は感じられない。自分はこの部屋の一角を占めるベッドの上に運良く落ちたらしい。

 

それにしてもバスタブに飛び込んだはずなのに、随分と雑な造りだ。家主は上から漏れてくるかもしれない水滴に文句はないのだろうか。

 

「嘘?」

 

見上げた天井にロサラは思わず声を洩らす。先程彼女が落ちてきただろう場所はぴったりと塞がっている。いや、もとから穴など無いように天井が天井として存在しているのだ。まさか気絶して床に倒れているロサラを誰かが此処まで運んだとは思えない。薄気味悪さからロサラはベッドから飛び降りる。

 

「兄さん・・・どこにいるのかしら。」

 

服の埃を払いのけながらロサラは再び思案を廻らせる。

 

迎えに来るはずの時間に病院には居なかった、アパートにも兄はおろか居住者達全てが消え失せてしまったように居なかった。兄はどこに居るのだろうか。この霧の中、彼もまた同じようにロサラを探し回っているのだろうか。それとも何処かに閉じ込められて出られなくなってしまったのだろうか。

 

「会社、かな?」

 

考えられない話では無い。病院に来る前に残りの仕事を片付けようと会社に出向いたものの濃霧警報で外に出られなくなってしまったとしたら。

 

「うん、行ってみよう。」

 

 ここに居ても仕方が無い。薄気味悪さもさることながらあのバケモノとまた遭遇しかねない。

 

 

「たしか・・町の入り口近くだったのよね。」

 

 思い出すようにそう口にしながら部屋の外へ出たロサラは顔を顰める。床には至る所に亀裂が入り壁紙が殆ど剥がれ落ちた壁には赤黒い錆びの様な物がこびり付いている。どうやらこのアパートは改装どころか取り壊しが決定したのに違いない。再び鳴り出したラジオにロサラは思わず銃を握り締め身構える。

 

ポケットライトに照らされた廊下の先にうごめく姿が見える。アンバランスなその格好は病院で遭遇したオタマジャクシもどきのバケモノだ。こんな所にまで居るなんて。

 

怯えよりも苛立ちの方が湧き上がる。とは言え手持ちの弾薬は少ない、ロサラの腕では一撃で仕留められる自身は無い。窮地に備えて安易な戦いは避けるべきだろう。

 

幸いにも直手前のドアに手を掛けると簡単に開いた。覗き込むと下へと続く階段が見える。急いで階段を駆け下り1階へ辿り着く。

 

「開かない?」

 

 フロアへ出られる筈のドアはノブをいくら回しても開かない。錆び付いてしまっているのだろうか、押しても引いても軋む音さえしない。

 

「どうしよう。出られなく、なっちゃった?」

 

途方に暮れるロサラは思わず呟く。先程来る途中で確かめた3階へのドアもまた硬く閉じられているのだ。打つ手立ても無くもう一度2階に戻ろうとしたロサラの目にそれは飛び込んできた。階段の下通常ならば用具入れや物置になっていそうな場所に扉が付いておりそれが僅かに開いているのだ。縋るような思いで更に扉を開くと暗闇の中、地下へと道が伸びている。

 

「他に道はないしね。」

 

 自分にそう言い聞かせて意を決したロサラは扉をくぐる。ロサラの身長の半分程しか高さが無いので腰を屈めなければ入れない。

 

それにしても、崩れそうなアパートなのにどうしてこの扉だけ出来たばかりの様な木製で出来ているのだろう。

 

扉の奥は黴臭さと湿り気に満ちており腰を屈めながら進むロサラを更に不快にさせる。それでも開け放して置いた扉の光が届かなくなった頃から徐々に天井が高くなり普通に歩ける高さまでになった。

 

 

不意にロサラは昔やった肝試しの事を思い出した。ロサラが幼い頃夏休みにキャンプに行くと必ず夜に肝試しをしていた。最初は意気込んで歩くが途中から怖くなってしまい泣き出してしまうロサラを兄がおぶってゴールするのが常だった。今は流石に暗闇が怖くて泣き出すことは無いけれども何時までこの道は続くのだろうか。もう随分と歩いた気もするが。それに先程から不思議音が辺りに響いている。ゴウゴウと重く響くその音は進む程大きくなりそれと同時に湿度も上がっていく気がする。

 

 

引き返そうかと不安に駆られた頃ようやく道の終わりが見えた。ポケットライトの光を跳ね返す鉄のドアがロサラの前に現れる。長年放置された気配を漂わせるそのドアは赤い錆が血の様にべったりとこびり付いている。響いている音もこのドアの先に元凶があるらしい。最早耳の奥まで音が届いて痛い位だ。

 

錆が手に付く不快感を我慢しドアをくぐるとむせる様な熱気といよいよ煩くなる音が押し寄せる。

 

 

蛍光灯で照らされた小さな部屋には蒸気の漏れる機械やメーターがその殆どを占領している。詳しい名前までは分からないがそこがボイラー室である事はロサラにも理解出来た。上のアパート部分が機能しなくなってもここはだけまだ動いているのだろうか。

 

「っ・・・?」

 

 あまりの暑さに熱風を少しでも振り払おうと扇いでいたロサラの手が止まる。機械の陰に動く姿が見えたのだ。

 

複雑に絡む機械をくぐりその姿と対峙したロサラが凍りつく。

 

3階で出遭ったベールを付けたバケモノだ。吹き付ける蒸気がベールを揺らしているというのに相変わらず顔は見えない。ロサラの存在に気付いたバケモノはゆっくりと近付いて来る。手には相変わらずの大きな鉈を持って。

 

「どうしてっ!」

 

 急いでドアまで引き返したロサラはそう叫んでしまう。先程は簡単に開いたドアが今は全く動かないのだ。焦りからドアノブが壊れる位廻し助けを求める様に激しくドアを叩いても結果は同じだった。

 

バケモノは直傍まで来ている。

 

「来ないでっ!」

 

 そう叫び銃を構えるがバケモノの歩みは止まらない。意を決しドアを背にロサラは銃弾を放つ。かなりの至近距離、外す事は無い。

 

「そんな・・・」

 

 これだけの蒸気に囲まれていると言うのにロサラの体は一気に冷たくなる。銃弾は確実にバケモノの体に命中した。それなのにバケモノは痛みにのた打ち回る事も衝撃で怯む事も無い。

 

銃弾はまるでバケモノに当たる直前に霞の様に消えてしまったみたいだ。

 

続け様に何度も銃弾を放つが当たる事は無い、バケモノの歩みが止まる事も。

 

ついにその時が着て来てしまう。オートマ銃の銃弾が尽きたのだ。ボイラーの重たい音の中空の弾層を弾く音が妙にはっきりと聞こえる。

 

バケモノがまるで死刑の執行人の様にゆっくりと鉈を振り上げる。

 

パニック映画のヒロインならばここで頭を抱えてしゃがみ込むのかもしれない。

 

だがロサラは動けない、体中に染み渡った恐怖がその場に立たせ鉈の行方を凝視させる。

 

ああ、死ぬのだな。と自分でも驚くほど冷静な考えが頭に浮ぶ。

 

 

ガッ―

 

だが寸での所で刑は中断してしまう。鉈が振り下ろされる直前に天井に張り巡らされた配管にその切っ先が当たったのだ。

 

「きゃあっ。」

 

 鉈により切れ目の入った配管から蒸気が吹き出し室内に蔓延してゆく。火傷する程では無いがそれでもかなりの熱がロサラを襲い悲鳴を上げてしまう。

 

 

一体何の配管ならばこれだけの蒸気が溢れ出すのか、気が付くと室内全てが白い蒸気に覆われている。目の前に居た筈のバケモノも見当たらない。この蒸気でロサラを見失ってしまったのだろうか。壁に背を付け今度こそゆっくりと身を屈め、息を殺す。どちらにせよあんな大きな鉈を無茶苦茶に振舞わされたら命は無い。ゆっくりと機械の間へ移動し身を潜める。ここならば少なくとも一撃の内にやられる事は無い。

 

徐々に蒸気が追い払われ視界もはっきりとしてくる。けれども幾ら注意深く目を凝らしてもバケモノの姿は見えてこない。

 

蒸気が完全に払われても同じだった。物陰に潜んでいるかもしれないと辺りを確かめるが蛍光灯の消えた薄暗い室内には誰も居ない。それどころかあれだけ煩く響いていたボイラー音も消え去り室内は静まりかえっている。

 

「ひゃっ。」

 

 立ち上がる時に思わず手を付いた機械の感触にロサラは頓狂な声を上げてしまう。

 

先程まで活動していた筈の機械が冷たいのだ。

 

驚くロサラの頬を風がなぞる。蒸気とバケモノの体で隠れて見えなかったが来たドアとは丁度逆に扉があり開け放たれたそこから外気が入って来ている。蛍光灯が消えても薄っすらと室内が見えていたのはこの扉から洩れる光によるものだった。

 

 

あの蒸気はバケモノにも予想外の展開だったのだろう。迫る熱風にこの扉から逃げ出したのかもしれない。

 

ロサラは洋服のホコリを払うと迷わず出口に向かう。何故バケモノが居なくなったのか、動いていた筈の機械が冷たいのかそれは後で考えよう。

 

今は一刻も早く外の空気を思いっきり吸いたい。

 

 

 

 

 

扉の先の非常階段の様に上に伸びる階段を駆け上がり格子の様な突き当りのドアを開ける。ようやくアパートから抜け出せた安堵からロサラは思い切り背伸びをする。相変わらず町は霧で覆いつくされている。だが息を吸い込んだまま凍り付いてしまう。出て来た場所には見覚えがあった。何故なら自分は先程ここを通ったからだ。いや、もっと正しい言い方をすれば―

 

振り返りたくない思いを抑え、ロサラは恐る恐る振り返る。そこにはまぎれも無く自分が先程まで居た場所『ブルー クリーク アパート』が建っている。バケモノに追われ自分で鍵を掛けた筈の扉から自分は出てきたのだ。地下の階段を通って。

 

だがいくら覗き込んでも地下への扉は無い、地面にはアパートへの石畳があるだけだ。まさかここでずっと白昼夢でも観ていた訳でも無いだろうに。

 

「兄さん・・・」

 

 混乱と不安から泣き出してしまいそうになったが何とかそれを押し留める。

 

とにかく今は進まなければ―

 

振り切るように一度頷くとロサラは再び歩き出した。

 

 

 

 



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~第4章 よく似た悪夢~

それを見つけ出したのは本当に偶然の事だった。

 

 

 

ラジオから聞こえたホワイトノイズにロサラは慌てて近くの店に飛び込んだのだ。そこは喫茶店だったらしく整然と並べられたイスとテーブルが冷たくロサラを見詰めていた。タバコの吸い殻やカウンターの上のトーストなど病院と同じで人だけがここから切り取られてしまった様な感じだ。

 

店内を見回していたロサラは床に散らばる紙の一群に目を引かれた。バーの呼び込みチラシの隣に「サイレントヒル」と言う言葉を見つけたのだ。

 

拾い上げてみるとゴシップ雑誌の一部らしく千切られていて読めない所もあったがどうやらサイレントヒルにまつわる古い伝承をまとめた物らしい。

 

 

 

 

―その事に関して我々は当時16歳の少女を見つける事は叶わなかった。しかし我々はサイレントヒルに伝わる禍々しい儀式に付いて知る事になった。

 

 

その生贄の儀式は男の胸に――突き立て。穴を穿ち、吹き出す赤い血にて祭壇を濡らすと神を慰め、――忠誠を示すためである。

 

また「死者を甦らせる儀式」と言うものもあり関連は―――同等と考えられる。尚「希望の―――・・・・・・

 

 

 

      

 

読み終えたロサラはゆっくりと首を振る。気分が良いかと聞かれれば全くそうではない。サイレントヒルの病院に入院して一年、兄はおろか病院内でもこんな話は聞いた事が無い。まったく、一体どこから拾って来たのかと感心する程だ。こう言う雑誌は2~3人が言ったあやふやな話をまるで誰もが知っているかの様な言い方で面白ろ可笑しく誇張してしまうのだ。それほどまでに平穏は彼等にとって忌み嫌う物なのだろうか。

 

 

 

嫌な気分のまま奥のキッチンに入ると弾丸の箱が置かれていた。空っぽだった弾倉にそれを詰めると少しだけ勇気付けられる気がした。

 

「でも何だか慣れてきそうで怖いな、銃を使う事にも勝手に持ち出しちゃう事も・・・」

 

思っていた事を口にしているのに気付きロサラは苦笑する。1人だとどうしても声をだしたくなる。

 

目を閉じて息を吸い込むと焼き菓子の甘い匂いがした。

 

無事に帰れたらお菓子を沢山作って食べよう。一年振りだから上手く出来るかしら?それからベッドの上で本を読んで、サイレントヒルにある遊園地にも行ってみたいな、ああその前にシャワーを浴びるのが先じゃない。

 

先ほどの嫌な気分を落ち着かせる様に幸福な想像で頭を満たしてゆく。おかげで目を開ける時には気分も少しだけ良くなっていた。

 

 

 

 

ネイサン通りから郊外に抜ける道は例えロサラが走り幅跳びの選手でも飛び越えられない程広く深く陥没していた。まるで刃物でも入れた様に綺麗に切り取られた道路を見てロサラは溜息を付いたもののそれ程気は滅入らなかった。直傍に迂回出来る道があったからだ。

 

 

「ローズ ウォーター パーク」

 

園内に植えられた沢山の薔薇とどこまでも続くトルーカ湖が展望出来るサイレントヒルの名所の一つだ。満開を迎える初夏は勿論のんびりと湖面を見ながら散策するオフシーズンも魅力的な場所なのだと以前兄から聞かされていた。

 

流石に今は優雅に散歩と洒落込む気にはなれないが話しに聞いて憧れを抱いていた場所を前にロサラは少しばかりの期待を込めていた。

 

けれども園内に入って直にロサラは困惑する事態にぶつかった。北欧風の石段を一段降りるたびに霧が濃くなっていき、終にはほんの数ヤード先すら見えなくなってしまったのだ。今や霧はベルベットの様に重たくロサラに纏いつきこれ以上進むのを拒んでいるかのようだった。

 

「きゃっ。」

 

湖を隔てる柵にぶつかり身を乗り出したロサラは眼下に広がるその姿を見て驚いた。ここは本当に湖なのだろうか、本来ならば昼過ぎの日差しを煌かせる湖面は乳白色の霧に覆われかつての面影を垣間見る事さえ出来ない。まるで湖の水全てが蒸発してここから溢れ出ている様だ。

 

 

溜息を付いたロサラは柵を背に凭れる。本当にこの町はどうなってしまったのだろうか。

 

 

不意にほんの少しだけ霧が薄れた気がした。霧の合間から売店のカラフルな屋根が見える。

 

「・・・誰っ!?」

 

白く霞んだ視界の中に動く影をロサラは見つける。動きから人の様にも見えるが先程のバケモノと言う事も考えられる。

 

影はロサラの切迫した声に応じずこちらに向って来る。ロサラに緊張が走り銃を取り出そうとするが普段そんな動きなどした事の無い彼女にとって銃を構える事は簡単では無い。

 

もたついている間に腕を影に掴まれてしまう。

 

「はっ・・離してっ!」

 

恐怖に駆られ片手に銃を持っている事さえ忘れロサラは掴まれた腕を離そうと両手で暴れる。

 

「まっ待った!離すからっ!離すから。」

 

あっさりと解放された腕にロサラは自体を飲み込めずに跳ねるようにその場から数歩退いた後銃を構えた状態で放心していた。

 

 

―今しゃべったのは誰?

 

―兄さん?

 

 

荒い息を付いて声の主、影の姿を凝視する。

 

 

風など吹いていない筈なのに目の前の霧が散って行く。

 

 

そこに居たのは一人の青年だった。

 

ロサラの気を宥めようと笑みは浮かべているが銃を突きつけられているため両手を挙げて完全に無抵抗を示している。

 

「その・・・ただこの町について聞きたい事があるんだ。」

 

しどろもどろとした人間らしい雰囲気は逆にロサラの気持ちを落ち着けた。

 

そして未だに自分が銃を突きつけている事に気付く。

 

「あのっ・・・ごめんなさい。」

 

慌てて銃を仕舞い謝罪する。

 

「いや・・・俺の方こそいきなり悪かった。」

 

暴漢の疑いが晴れた青年は手をヒラヒラさせる。

 

「俺の名前はアレックス。」

 

そう言って人懐こい笑みを浮かべる。よく見れば兄と年齢も近いようだ。

 

「ロサラよ。」

 

良い名前、とアレックスは笑ったが直に真面目な顔でロサラに向き直る。

 

「どうなってるんだ、この町は?誰1人居ないし、それにこの霧は・・・」

 

改めて問われるとロサラは困窮してしまう。自分にも分からない事だらけだ。

 

「分からないの。私も今朝起きたらこんな風になっていて。今までこんな事なかったのに。」

 

手すりに寄りかかりもう一度トルーカ湖を眺める。霧の海は相変わらず何も答えてくれない。

 

「君は・・・どうしてこの霧の中を?」

 

詮索好きというよりは会話を途絶えさせたく無い口調でアレックスが尋ねる。

 

「私は・・・兄さんを探して、今朝迎えに来てくれる筈だったのに何所にも居なくて。」

 

口に出すと朝からの疲労が重く圧し掛かる気がした。

 

「だからって、この霧の中を。それに、あんなバケモノだってウロウロしているのに。」

 

「平気よ。私強いもの。」

 

強がりだとバレていてもロサラは笑って銃を構え直す。

 

内心アレックスの一言で安堵していた。本当はサイレントヒルは霧に覆われてなどいなくてまるで夢遊病者の様にロサラ一人だけ誰も町に居ないと思い込んで今まで彷徨っていたのではないかと不安を抱いていたのだ。

 

 

「アレックスはどうしてサイレントヒルに?」

 

「えっ?」

 

今度はアレックスが驚いた様な顔をした。

 

彼がこの町の外から来たような言い方だったからそう聞いたのだが違ったのだろうか。

 

「あぁ・・・その、彼女の見舞いに来たのだけれど。この霧で迷って・・車はハイウェイパーキングに止めた途端に動かなくなるし・・・・」

 

そう言うアレックスはどこか遠い所を見ている気がした。

 

「病院・・・かぁ。」

 

サイレントヒルにはロサラが入院していた病院以外にも幾つかあった筈だ。その内の何所なのだろうか。

 

「そうだ。私地図を持っているからあげるわ。それを見れば・・・」

 

困った時はお互い様だ。先程の事のお詫びもかねてロサラは地図をアレックスに差し出す。

 

「でも、君はどうするんだ?」

 

「私は町の入り口の方を目指すわ。兄さんの会社がそこにあるから。」

 

ここからなら道なりに行けば地図が無くても迷わない筈だ。

 

ロサラは心配無いと言った素振りをして見せたがアレックスは地図を受け取るのを躊躇っている様に見えた。

 

「待った。俺も一緒に行くよ。」

 

少し考えた後に頷いたアレックスはそう切り出した。

 

「えっ。でも・・・・」

 

病院はどれも町の中心に集中して建てられている。ロサラが向う方向とは違う。

 

「こんな危ない場所で女の子を1人にさせられないよ。」

 

そう言い首を傾げておどけるアレックスにロサラは笑い出してしまう。

 

「ありがとう。」

 

頼もしい道連れが出来た事と独りきりだった心細さから解放された安堵感からロサラは喜んでその申し入れを受け入れた。

 

 

 



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~第5章  紺碧の悪夢 ~

「兄さんの会社は行った事は無いけど、ここからそう遠くはないはずよ。」

 

そう言ってロサラはアレックスに笑いかけると黙ってしまう。

 

元来おしゃべり好きな方だが状況が状況なだけに口も結びがちになってしまう。

 

けれども歩く足音が一つだけでは無いと言うだけで何と勇気付けられる事だろう。先程よりも強く、はっきりとロサラは霧の中を歩く事が出来た。

 

 

けれどもその勇みもサンダース通りに入った瞬間に鳴り響きだしたホワイトノイズ音に萎んでしまう。

 

霧の奥、蠢く影が見える。核心は持てなかったが動きからして恐らくオタマジャクシモドキのバケモノだろう。

 

 

ここまで来て―

 

 

観光代理店は目と鼻の先なのに。

 

「この先なんだろ。」

 

躊躇うロサラの心を見透かした様にアレックスが声を掛ける。彼の目にもバケモノは見えているようだ。

 

「突っ切るしかなさそうだな。」

 

覚悟を決めたように言うアレックスにロサラも深く頷く。

 

そうだ、今は一人ではない。

 

町の外への道が一つしか無い以上あのバケモノを倒して進むしか道は無い。

 

 

「アレックスは後から来て。」

 

それだけ言うとロサラは駆け出す。

 

元々は自分に付き合ってここまで一緒に来てくれたアレックスに先人を切らせる訳にはいかない。それに、ロサラの腕では誤って銃弾を彼に当ててしまう危険もある。

 

 

 

「邪魔しないでっ!」

 

目測で当てられる距離まで近寄ると続け様に3発銃弾をバケモノに打ち込む。

 

血飛沫と悲鳴を上げて倒れるバケモノの後で影が躍る。

 

重なるようにしてもう一体いたのだ。

 

 

赤黒い口を開けて咆哮しようとするバケモノをアレックスが体当たりで制した。

 

横倒しになり藻掻こうとするバケモノの頭をアレックスが手に持っていた鉄パイプで叩く。

 

 

 

 

渾身の力を込めて振り下ろされた鉄パイプはバケモノの頭に減り込み一撃でバケモノは動かなくなった。

 

 

 

 

「だからって無茶するなって。」

 

息を切らせながらアレックスがそう言葉を継ぐ。

 

「ごめんなさい。」

 

改めてロサラは自分の取った行動に驚いていた。彼の助けが無ければバケモノの攻撃は免れなかっただろう。そう考えると身震いが起きた。

 

 

「アレックスっ!」

 

今一度彼の方を見たロサラが声を上げる。彼の手には薄っすらと血が滲む傷が出来ていた。

 

 

「ああ。これはコイツを車からもぎ取る時に掠っただけだよ。慌てていたから。」

 

そう言って鉄パイプで数回地面を叩くとバケモノにやられたのでは無いと手をヒラヒラさせた。

 

 

「だからって放っておけないわ。」

 

今度はロサラが嗜める。

 

どちらにせよ自分が無茶な行動を取った所為である事に変わりは無い。

 

 

 

ハンカチを取り出そうとしてロサラはハッと気が付いた。ハンカチはナイフを包む時に使ってしまったのだ。バケモノの血が付いている可能性もあるし清潔とは言い難い。

 

「平気だって。それよりまたバケモノが来ない内に急ごう。」

 

そう笑うとアレックスは歩き出してしまう。

 

 

せめて包帯と傷薬位病院から出る時に持って来ればよかった。ロサラは失念した事を後悔しながら後を歩いた。

 

尤もあの時はそんな余裕は無かったし、あの広い病院でそれだけを探すにも一苦労だったろうが。

 

 

 

 

 

サンダース通りを西へと歩く。

 

 

と、霧の白の中鮮明な色が目に飛び込みロサラは一瞬ギョッとした。

 

 

地面一箇所が真っ赤に染まっているように見えた。

 

最初は血かと思ったが近付いて良く見ればそれは真っ赤なバラだった。

 

元は一抱えの花束だったその一群は無残にもグシャグシャになり真紅の花弁をあちらこちらに散らばらせている。

 

 

「見舞いに持って行くつもりだったんだけど―」

 

アレックスがバツが悪そうに口を開いた。

 

 

「その辺りでバケモノと出くわして―・・。」

 

それだけ言うと恥ずかしそうに頭を掻いて黙ってしまう。

 

成る程―。バケモノと対峙した時に揉みくちゃになって落としてしまったのだろう。

 

誰だってそうなる。きっとロサラなど無我夢中で振り回してもっと酷い事になっていた筈だ。

 

 

「大丈夫。きっと会いに来てくれるだけで嬉しいはずよ。」

 

退屈な入院生活では外からの来訪者はそれだけで嬉しい存在だ。自分も兄が来てくれるとどんなに嬉しかったか―。ましてやこの霧とバケモノの跋扈する中まるで騎士の様に勇敢に自分に会いに来てくれているのだ。

 

 

「そう言って貰えると安心するよ。」

 

そう言ってアレックスは笑った。彼は人を安心させるのが上手い様だ。

 

 

 

 

コンクリート造りの簡素な建物。ガラスドアには青い文字で『ウィドマーク旅行代理店』と書かれている。

 

 

此処に兄さんが―

 

 

でも、もし此処にも居なかったら―?

 

 

込み上げてくる不安を打ち消すように深呼吸をすると意を決してドアに手を掛ける。

 

 

「――っ!」

 

「どうしたの?」

 

 

不意にアレックスが何かに気付いたように建物の裏手に走り出す。

 

 

「今その先で何かが動いた気がして―・・」

 

 

体ごと振り返りアレックスがそう告げる。

 

 

人、だろうか?  もしそうならば何かこの事態について話を聞けるかもしれない。

 

ああ、でももしバケモノだったら?ラジオは何の反応も示さないが完全にそうでないとは言い切れないし―。

 

 

「待って、アレックス!」

 

「いいから。君は先に中へ―。」

 

それだけ言い残すとアレックスは霧の中へと消えてしまう。

 

―が、直に慌てたように踵を返して舞い戻って来る。

 

「そうそう、何かあったら直に大声出すか何かしてくれよ。」

 

そう付け加えるとアレックスは再び霧へと姿を消してしまう。

 

今度は―無茶するなよ。―と言う言葉を残して。

 

 

一瞬呆気に取られたがロサラは直に吹き出してしまう。

 

無茶をしているのはどっちなのやら。

 

 

けれどもその言葉に勇気を貰い後押しされる様にドアに手を掛けた。

 

 

 

 

 

 

薄暗い室内に目が眩む。

 

こうなると日の射さない霧の中でも幾分明るかった事が判る。

 

 

ラジオの反応は無し。

 

暫くじっとして目が慣れるのを待つと次第に暗闇から色々な物が飛び込んでくる。

 

 

受付カウンター、待合用のイス、パンフレットを詰めたラック、壁にはあちこちにサイレントヒルを写したポスターが楽しげな謳い文句と共に飾られている。

 

 

一通り見回してもう一度視線を戻すとカウンターの奥にドアがありその先がまだあることを教えている。

 

 

近付くとロサラの胸が高鳴る。

 

 

灯りだ――。

 

 

外から射し込む明りとは別にドアの上のガラスから人工の灯りが洩れている。

 

きっと誰かがここに居る。

 

兄さん―?そうで無くてもこの会社の人間ならきっと行き先を知っている、もしかしたら何か伝言を預かっているかもしれない。

 

 

 

期待に胸を弾ませドアを開ける。

 

 

中はロサラの想像通り、如何にも会社と言う雰囲気で向かい合わせに並べられたデスクと書類やファイルを入れた棚が幾つかあり、雑然としながらも可動性の良さを窺わせていた。

 

ただ一つ想像と違ったのは灯りが点いていたのは部屋の手前の部分だけで奥の方は薄暗くぼんやりと壁が見える程度だった。

 

 

そして一番手前のデスク、ロサラと真向かいの席に人が座っていた。

 

頬杖を付いていた女性、はロサラの方を向くと妖しげな笑みを浮かべた。

 

その派手な装いは大よそこの地味な場所に相応しく無い。

 

 

「こんにちは。」

 

 

目を引く赤い口紅から洩れた言葉がロサラの心をザラザラと撫でて行く。何故だろうか?本能的な部分が彼女を遠ざけよとしている。

 

「初めまして。私はメリルよ。」

 

そう言ってゆっくりと立ち上がると手を差し出す。

 

「ロサラよ。」

 

名乗られたから名乗り返しただけで、手を差し出されたから握り返しただけで、自分からはしなかっただろうと言う気がした。

 

自分は何にそこまで彼女に警戒をしているのだろうか。

 

 

「あのっ、ここにフェザーガーデンと言う人を探しているのですが―どこかへ行ったとか、何か聞いていませんかっ!?」

 

 

それでも聞かないわけにはいかない、手を離すよりも先にロサラは一気に言葉を吐き出す。

 

 

「貴方の質問はそれだけ?」

 

 

ゆっくりと手を離すとメリルは再び小首を傾げて笑う。

 

どうも動作の一つ一つがこの霧の世界に合っていない。

 

 

「じゃあ、答えるわね。悪いけど、そう言った名前の人は知らないわ。だから何所へ行ったかも知らない。私はこの会社の人間じゃ無いの。」

 

 

薄っすらと予想はしていたが矢張り直接云われるとショックを隠しきれない。先程まで抱いていた希望が大きい分反動も大きい。

 

 

「今度は私から質問するわね。ロジャー・ウィドマークって云う男に会わなかった?この時間に会う約束をしてたのだけど。私、ジャーナリストなのよ。」

 

動揺するロサラなどお構い無しにメリルは言葉を続ける。

 

どうにか首を振り答えを返すのが精一杯だった。

 

「そう、ありがとう。」

 

小さく溜息を付きながらメリルは笑う。

 

こちらも答えを大よそ予想していたらしい。

 

「あの、この街の人じゃないの?」

 

彼女は何とも思わないのだろうか、此の状況を。

 

「ええ、今朝来たばかりよ。酷い時に来ちゃったけどね。」

 

その言葉には緊迫感が微塵も感じられない。唯の濃霧程度にしか思っていないのだろうか。

 

「それじゃ、私は行くわね。次の取材の時間もあるし。貴方のお気に召さない存在みたいだから。」

 

腕時計を見ながらメリルはそう言い外へ出ようとする。

 

不仕付けな物言いだがロサラの心を読まれてしまったその言葉に慌てて否定しようとする。

 

「あなたは平気なの?このバケモノの中をっ―。危険でしょ!」

 

支離滅裂ながらどうにか彼女を引きとめようとする。

 

「――平気よ。危ない事には慣れてるから。」

 

ドアから半身だけ出しメリルは一瞬考え込んだ気がしたが小首を傾げて笑うとそれだけ言い残し出て行ってしまった。

 

 

 

「兄さん。ホンとにどこ行っちゃたのかしら。」

 

未だザラつく心を振り払うように少し拗ねた言い方で呟くとデスクを一つ一つ調べて行く。

 

何かメモの様な手がかりが残っていれば良いのだが。

 

 

けれども何の手がかりも無いまま一番奥のデスクまで来てしまう。

 

机の上の物をよく見ようとポケットライトのスイッチを入れると予想していないものが映し出される。

 

壁にドアノブがあるのだ。

 

壁だと思っていたのは大きな衝立でどうやらワンルームをこれで二つに区切って居る様だった。

 

 

 

 

 

 

中に入ると先程と同じ作りで先程よりも小さな空間が広がっていた。

 

違いは分からないが別の部署なのだろう。

 

 

ぐるりと部屋を周るロサラは先程の部屋とは決定的な違いを発見した。

 

 

一番奥のデスクに血がべっとりと付いているのだ。

 

まだ乾いていない鮮血は机からイスへ滴り落ちその下の床も赤く染め上げていた。

 

 

ロサラは震えが止まらずに口を両手で押さえると後ずさる。

 

 

一体誰が――

 

 

目を配らせても被害者の姿も加害者の姿も見えない。

 

 

ここにもバケモノの手が及んだのだろうか?

 

それともまさか―?

 

 

ロサラの頭に先程出会った妖艶な女性が浮かび上がる。

 

 

眉を顰めるロサラの目にある物が映る。

 

写真立てがデスク上の血の海に倒れているのだ。

 

今日ここで出会えた最大の手がかりかも知れないのに何と言う悲劇だろうか。

 

 

躊躇いに何度も手を引っ込めながらロサラはどうにか血の付いていない部分を摘み写真立てをひっくり返す。

 

 

その中には一組の男女が写っていた。血が染み込んでしまった所為か顔までは分からないが仲良く腕を組んでいる。

 

 

ロサラは長い吐息を付き力が抜けそうになる。

 

取り敢えずこの机は兄の物では無い事が分かった。彼ならばこんな写真を飾ったりはしないだろう。

 

尤もこの被害者がこの机の持ち主とも限らないが。

 

 

 

ならば兄は、街の人たちは何所へ消えてしまったのか。

 

 

再び混迷に追い詰められロサラは天井を仰ぎ部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外へ出るとちょうど霧の中からアレックスが走って戻って来たところだった。

 

「どうだった?」

 

不安げにロサラが尋ねる。

 

「いや駄目だ。見失った。」

 

息を付きながらアレックスが答える。

 

彼はメリルに会わなかったのだろうか。ふとそう思ったのだがこの霧では無理なのかもしれない。

 

「そっちは?」

 

呼吸を整えたアレックスがロサラに聞く。

 

ロサラは小さく首を振る。

 

言うべきなのかもしれない。メリルの事も、あの机の血も。

 

 

けれどもロサラは口を開けずにいた。何か、疲れていると言う理由意外で。

 

 

「そうか。入れ違いになったかも知れないし、一度病院に戻ってみたらどうだ?」

 

 

落ち込むロサラを兄が居なかった所為だと思ったらしい。

 

慌ててアレックスはこの提案を挙げる。

 

「ええ、そうね。他に探すところも無さそうだし。」

 

ロサラも心配無い、と言うように微笑を向ける。

 

 

「何所の病院だ?」

 

辺りを見回しながら聞くアレックスにロサラが答える。

 

「ブルックへイヴン病院よ。」

 

その答えを聞いたアレックスが顔を強張らせ困惑する。

 

それは誰が見ても明らかな変化だった。

 

 

「どうしたの?」

 

驚いたロサラが聞く。

 

「いやっ・・・・丁度彼女もそこに入院しているからさ・・・」

 

どうにかぎこちなく笑うが言葉は尻すぼみになる。

 

 

「大丈夫よ。ちゃんと説明すれば。私からも言うわ。」

 

その姿にロサラはクスクスと笑ってしまう。確かに見舞いに来た恋人が別の女性と来れば誰だって勘繰ってしまうだろう。

 

 

「そう、だな。」

 

アレックスも漸く落ち着いた様に見えた。

 

 

「行きましょ。」

 

ロサラは霧の中へ来た道を戻る。

 

 

もう暫く彼と居られる、つまり一人では無いのだ。

 

 

その安心がロサラの心を落ち着かせていった。

 

 

 

 



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~第6章 平定する悪夢 ~

霧の中、ブルックヘイヴン病院はロサラが外に出た時と変わらぬ静けさを保っていた。

 

 

(兄さん・・・病院に居るかしら?)

 

 

何度も空振りを繰り返していたためロサラの心の中には期待よりも不安が多く占めていた。

 

 

躊躇ためらうロサラの脇でアレックスが門に手を掛ける。

 

 

「待って。アレックス!」

 

「えっ?」

 

 

門が閉じられている事を伝えたかったのだが予想を反して門扉は錆び付いた音を立てて開かれる。

 

 

「そんな・・・? 私が出て来た時は全然開かなかったのに・・」

 

 

 

 

この門を通れるならそれに越した事は無いのだが、拍子抜けする程あっさりと開いた姿に思わずロサラは門を睨み付ける。

 

 

「君が外に出た後に誰かが開けた・・って事かな。内側か外側かは分からないけど。」

 

 

少し考えて出されたアレックスの考えにロサラの鼓動が跳ねる。アレックスが自分の言葉を信じてくれた事も嬉しいが、つまり中に誰か居るかも知れ無いと言う事だ。

 

 

それはもしかしたら、兄さん―?

 

 

「でも、ロサラはどうやって外に出たんだ?」

 

極ごく当たり前のアレックスの質問にロサラは思わず顔を赤くしてしまう。

 

 

「それは・・・えっと・・。壁の穴から抜け出して。」

 

 

あの時は夢中だったが今思えばかなり突拍子も無い行動だったかもしれない。

 

 

「あはは。」

 

俯いて真っ赤になったロサラが面白かったのかアレックスは吹き出してしまう。

 

 

「っ他に出られる場所がなかったんだからっ。」

 

 

むくれて睨むロサラにアレックスは「穴が開いてて良かったね。」と更に笑いながら付け加えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病院の中は相変わらず薄暗く静寂に支配されている。

 

 

「・・・っ!」

 

「どうした?」

 

 

暗さになれたロサラの目に飛び込んできた光景に息を呑む。

 

そこには何も無くリノリウムの床と壁があるだけだった。

 

 

そう、何も無い。だがそれがおかしいのだ。

 

「その、出て来る時ここにナースが倒れていて。」

 

 

 

 

ロサラの中でも説明が付かずアレックスに説明はしていなかったのだ。出来るなら思い返したくも無かった。

 

 

「? 気絶から回復して歩けるようになったんじゃ無いか?それなら門を開けたのも―。」

 

「そんなっ!だってあれはっ!」

 

 

―どう見ても死んでいた。

 

 

安置室へと遺体は運ばれたのだろうか。だとしたら何故院内がこんなに静かなのだろうか。

 

 

それとも―

 

本当に意識を失っていただけで彼女はこの病院内を彷徨っているのだろうか?

 

―顔が潰れたままで―

 

 

「・・・・・!」

 

上手く考えが纏まり切らずアレックスに説明出来ずに困惑するロサラに何かに気付いたアレックスが人差し指を口に当てる動作をする。

 

 

呼吸を落ち着かせ耳に神経を集中させると微かに何か物音がする。

 

最初は分からなかったが暫く音を辿って行くと正面の診察室、扉の奥から音は漏れているようだった。

 

 

 

 

 

ラジオに耳を当てるがホワイトノイズは聞こえて来ない。

 

と、なればバケモノでは無い。

 

 

お互いに息を殺して扉の前まで近付く。紙が捲られるような音、人の気配―

 

 

いったい誰が―

 

 

期待と不安が身体を駆け回り指先まで届くと一気にロサラはドアノブを廻し扉を開いた。

 

 

 

 

 

「院長先生!!」

 

 

ロサラは驚きに声を上げる。

 

目の前に居た人物には見覚えがあった。ロサラの主治医であり、この病院の院長。

 

 

「院長?」

 

オウム返しに聞き返したアレックスにロサラは無言で頷く。回診の時も殆ど話さず会う機会も少なかったがその顔に間違いは無かった。

 

 

一方ロサラに呼ばれた初老の男性は捲っていたカルテらしき束から目を離し向き直ると目を大きく開き信じられないといった表情を浮かべる。

 

 

 

 

「そんなっ・・・君達はっ・・・・・っ」

 

驚きに声を詰まらせロサラとアレックスを交互に見る。それでも落ち着かず何度も首を振る。

 

 

「あの・・・」

 

「あんたが院長か?聞きたい事があるんだ。ここに入院していたリリーと言う名前の女性を知っているよな!」

 

 

ロサラが話すよりも先にアレックスが詰め寄る。彼もまた何かに追い立てられている様な気迫を持っている。

 

 

「許して欲しい。私は弱い。平穏を求めたっ・・」

 

 

アレックスの声が聞こえていないのか2人を凝視したまま院長は途切れ途切れ言葉を洩らす。だが声よりも息の方が多く洩れていて良く聞き取れない。

 

 

「質問に答えてくれ!」

 

「見てみぬフリをした・・・・。それが・・・その時は最善だと思ったからだ!」

 

会話は咬み合わないのに二人のボルテージは同じ様に上がっていく。

 

 

だが、何故だろう?

 

院長の言葉はロサラの心に刺さっていく。それは酷く痛むようなものでは無く寧ろ苛立ちに近い蟠わだかまりを与えた。

 

 

「今でも間違いだとは思っていない。だが君達はここへ来た!」

 

 

それだけ漸く吐き出すと持っていたカルテの束を後ろ手に診察室の机に乱暴に置き

 

院長は診察室の奥へと駆けていってしまう。

 

 

「クソッ。」

 

直にドアの鍵が閉まる音にアレックスが悪態を付く。

 

 

「アレックス・・・・」

 

「あぁ・・・すまない。取り乱しちまって。」

 

 

不安げに声を掛けるロサラにアレックスも漸く落ち着きを取り戻す。けれどそんな彼を詰る事は出来なかった。

 

会えないかもしれない、と言う不安が彼の中にもあるのだ。

 

 

「とにかく。今は病室へ行ってみましょ。」

 

何かを知っている様子だった院長も気になるが今は何かを聞ける状態では無かった。もう少しすれば彼もまた落ち着きを取り戻してくれるかもしれない。

 

ロサラはドアを開けてアレックスを診察室の外へと促した。

 

 

 

 

 

 

エレベーターのボタンを押すと病院特有の大きな扉が静かに開き二人を招き入れる。

 

3階へのボタンを押しモーターが回る音がするとゆっくりとエレベーターが動き出す。

 

 

「・・・・・」

 

本来キャスターで患者も運べるように開く作られた箱は2人だけだとどうしても空間が出来てしまう。

 

エレベーターの灯りが間も無く3階を指そうとしている。

 

 

背後に誰か居るような居心地の悪さを感じてアレックスの横顔を見るとふとした疑問が湧いてくる。

 

 

このまま自分の病室へ向って良いものなのだろうか。

 

この誰も居ない霧の中アレックス自身も恋人の事が心配で気が気で無いのではないだろうか。

 

 

だとしたら先にアレックスの目指す病室へと行くべきではないだろうか。今まで一緒に居てくれた事に報いる程の行為では無いが、せめてこれ以上の迷惑を掛けないためにも。

 

 

ロサラがそう提案しようとしたその時――

 

 

「きゃあっ!」

 

一瞬の凄まじい衝撃。エレベーターの床に体ごと投げ出される。

 

立ち上がろうとするよりも先に異質な物音が耳に届く。

 

「何?」

 

金属の嘶いななく音が頭上から降り注ぐ。

 

 

ロサラは青ざめて天井を見上げる。

 

 

切れている?

 

エレベーターのワイヤーが?

 

違う―

 

切っている?

 

 

ロサラの脳裏にアパートで遭遇したあの大鉈を持ったバケモノが思い浮かぶ。

 

 

けれどもそれも束の間の出来事だった。

 

 

ガタリ――

 

 

ワイヤーと壁のぶつかる一際大きな音の後支えを失った金属の箱はただ下へと落ちていく。

 

 

(嫌っ・・・・・)

 

体中を蝕む様な浮遊感に悲鳴さえ上がらない。

 

 

3階から一気に奈落へ―。いや、この病院は地下があるからそこまでだろう。

 

 

エレベーターも病院も金属だから落ちてもぺしゃんこには成らない。

 

体が地面に叩きつけられて、折れた骨があちこちから飛び出して―

 

 

そう考えると衝撃を体に受けるよりも先に意識が途切れていく。

 

永遠に続く様な下へと落ちる感覚。その最中に思い出したのは小さい頃教会で聞いた「悪い事をしたらそれなりの報いが起きる」と言う神父の説法だった。

 

 

 

私は――

 

死んだら天国へ行けるのかしら―?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新緑に映える木々の中を車が軽快に走り抜けて行く。

 

後部座席に座るロサラは車窓から見える景色を無感情に眺めていた。

 

葉末の間からキラキラと零れる光も古き良きレンガ造りの町並みもロサラの心を沸き立たせてはくれない。

 

夜の闇よりも暗い感情が心から滲み出しロサラを支配していた。

 

ふいに誰かに話し掛けられる。

 

聞きたくも無い声―

 

それは―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背中に伝わる冷たい感覚にロサラはぼんやりと瞼を開く。

 

―天国にも非常口ってあるんだ―目を開けて最初そう思う。

 

 

緑と白のEXITの文字が煌々と光っている。

 

 

そこで漸く違和感に気付き飛び起きる。

 

薄暗い辺りを見回すと何と云う事は無い、そこは病院の地下だった。

 

丁度エレベーターから仰向けに投げ出される格好でロサラは倒れていたのだ。

 

 

けれどもそれはロサラを混乱させるのには十分過ぎた。

 

あの高さから自分は一体どうやって助かったのか。

 

 

背後にはエレベーターが扉を開いたまま鎮座している。損傷の跡は何処にも見られない。

 

中に入りボタンを押すが反応は無い。

 

 

何がどうなっているのか―。

 

 

「アレックス?」

 

いつの間にか彼も消えていた。

 

明るいエレベーターの中孤独が影を落とす。

 

「もう、いや・・・・」

 

壁に背を預けたままロサラは崩れ落ちる。

 

助かった安堵感よりも混乱の方が大きい。今朝からこんな事ばかりだ。

 

心細さに涙が滲んでくる。

 

 

私はおかしくなってしまったの―?

 

 

否定したい疑問を自分に投げ掛ける。

 

 

「病室に行かなきゃ。」

 

きっと兄さんが待っているはず。

 

僅かな希望がそれでも体を動かした。

 

 

 

 

一階へと続く非常階段は鍵が掛かり閉ざされている。ならば後ろ手にあるドアを開けて地下の部屋から探すしかない。

 

きっと何処かの部屋に鍵が、あるいは何処かへ通じる場所がある筈。今までだってそうだったのだから。

 

 

アレックスの事が気がかりではあったが同じ状況だった自分が生きているのだ、彼もまた無事できっとこの院内の何処かに居るはず。

 

そう不思議な確信がロサラには何故か持てた。

 



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~第7章 約束された悪夢~

病院の地下にロサラは今まで一度も訪れた事は無かったがそれでも其処が普通ではない事は理解出来た。

 

 

赤黒い汚れが至る所にこびり付いた壁はその硬質さを無くし生き物の様に輪郭がぼやけて見える。ふとしたら脈さえ打ちそうな生々しさがあった。

 

罅割れ所々剥がれ落ちた廊下を奥へと進む。

 

何処と無く湿気が充満していて息苦しい気がした。

 

 

堆く詰まれた車椅子や薄汚れたシーツが掛けられたキャスターがあちこちを塞いでいたがそれでも開きそうなドアを見つけた。

 

錆だらけのノブを回すと軋んだ音を立ててドアが開く。

 

 

 

中に入ると奥の方にぼんやりとした白い影が見える。

 

蜃気楼の様にゆらゆらとロサラに近付く影に背筋が冷たくなる。

 

 

それはロサラが今日初めて会った、病院の廊下で顔を潰され絶命したはずのナースだった。

 

 

「こないで・・・!」

 

怖さに小さく息を飲み、銃を構える。

 

けれどもロサラの制止など聞き入れるはずも無くナースは尚も近付いて来る。

 

よく見れば手には赤く錆びた医療用のハサミを持っている。そのハサミで次に何をするかは明らかだ。

 

 

狙いを定めるが今までのバケモノとは違うヒト型がロサラを躊躇わせる。

 

本当は彼女は生きているのではないかの。

 

自分に起きた非業の事に怯え、錯乱し地下まで逃げ今も尚ロサラを自分を襲った相手思い込み身を守ろうとしているだけなのでは。

 

 

そんな考えが行動を遅らせた。

 

ロサラが引き金を引くよりも先にナースがハサミを振り下ろす。

 

だが振りが大き過ぎた所為でナースの体はバランスを崩しハサミはロサラを掠める。

 

ナースの体が直接ロサラにぶち当たる。鼻をツンと刺すような腐敗臭、矢張りもう彼女は死んでいるのだ。

 

渾身の力を込めてナースを突き飛ばす。

 

その反動でロサラの体は逆さまに詰まれたベッドの山に激突してしまう。

 

 

バランスを失ったままナースはハサミを振り回す。関節を曲げる事が出来ない大きな振り。死後硬直が始まっているのだ。

 

ロサラはドアのほうに目をやる。

 

このまま走って行けば逃げ切れるかもしれない。でも一瞬でも背を向けるのは嫌だった。

 

―何より

 

銃を構え引き金を引く。

 

今度は躊躇いは無かった。

 

悪魔の所業か現世への強い恨みか彼女を死後も動かしている理由は分からない、けれどもこのままにして良いはずが無い。

 

胸に三発の銃弾が命中するとナースの体は今度こそ完全にバランスを失いどう―、と床に崩れ落ちる。

 

無くなった筈の口元からあぁ―、と悲痛な断末魔が洩れた気がした。

 

 

 

暫しの沈黙が戻る室内。

 

もっと悲しみや罪悪感が込み上げて来るものだと思っていたがロサラの胸には少しの疲弊がしか感じないのはナースが元々遺体だったからだろうか。

 

 

それとも―

 

もし―

 

本当に―?

 

 

「私は人を殺しちゃったのかな?」

 

 

心無い三流役者の台詞の様にそう呟き病室を後にした。

 

 

 

 

 

 

けれども進むに連れてロサラはそんな事を思う余裕すら無くなってくる。

 

どの部屋にも先程と同じ様なナースが何体もおりロサラ目掛けて襲い掛かって来る。途中ベッドの下から弾薬の箱を見付ける事が出来たがそれも突き当たりのドアの前に来る頃には弾倉は空っぽになっていた。

 

 

恐る恐る中へ入ると幸いにも室内には誰も居ない。

 

整然と並べられたキャスターの間を縫って他の部屋よりも幾分大きな室内を確かめる。

 

尤も不自然に盛り上がったキャスターのシーツまでは捲れなかったが。

 

 

壁に掛けられた白衣のポケットから鍵と折畳まれた紙が出て来た。鍵はきっとロサラが望んでいた物だろう。一緒にあった紙を開くとどうやら日記の一部の様だ。端っこに動物だか人だか分からない絵が描かれている。

 

 

「5月9日

 

この目に見えているものが本当の物事で無くてもそれは些細な事でしかない。

 

大概は誰も気付かず何も知らずに過ぎていく。

 

この世に必要なのは良い人間では無く都合の良い人間なのだ。」

 

 

日記と言うよりは哲学の論文に近い文面にロサラは考える。

 

 

もし今まで自分が見てきた物が本物でないとしたら―

 

オタマジャクシもナースも誰も居ない町も全部偽者だったとしたら?

 

違う!

 

アレックスも同じ物を見ている

 

だから―

 

 

けれども思考は何気無く後ろを振り返った瞬間に霧散した。

 

入り口間際にあのベールを被ったバケモノが音も無く、煙の様に現れたのだ。矢張りエレベータを落としたのはこのバケモノだったのだろう。

 

相変わらずの緩慢な動きだが着実にロサラとの間合いを詰めて来る。

 

手には大きな鉈を持って。

 

 

キャスターの影に隠れるように攻撃を避けると部屋の奥へと後退する。入り口から逃げるにはバケモノを擦り抜けて行かねばならない。銃弾が効かない相手に突っ込んで行くのは無茶だ。ましてや今はその銃弾さえ無い。

 

ロサラは先程から見えていた入り口とは反対にあるドアを目指す。幸いにもバケモノは煙の様に現れても物質は通過できないらしい。キャスターに遮られ緩慢な動きが更に鈍くなっている。

 

 

迷わずドアを開け中へ飛び込む。

 

扉は非常口だったのだろう。薄汚れた広い廊下がどこまでも続いており、それが等間隔にフェンスで区切られて行き先を蛇腹にしている。

 

大よそ建物の構造を無視したその広さに眩暈を感じたがそれでもロサラは走り出す。

 

 

長く長く、永遠を思わせる廊下に体力も気力も底を尽きそうだったが走るのを止める訳にはいかない。

 

角を曲がる際にバケモノが見えたからだ。緩慢な動きの筈なのに何故か角を曲る度に目の端に映る。

 

 

「・・・!」

 

永遠の終わりは突然現れた。

 

1階へと続く階段。酸欠で目が眩みながらも力を振り絞り駆け上がるとドアへと飛び込む。

 

白衣のポケットに入っていた鍵を差し込む。

 

カチリ、と小さな施錠の音と共にロサラは膝から崩れ落ちる。

 

 

これで地下からは上がって来られない筈だ。

 

煙の様に現れる相手にどこまで常識が通用するかは分からないがロサラが肩で息をする間も現れる様子は無い事からどうやら地下に閉じ込める事に成功した様だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

案の定一階も二階も地下と同じ酷い有様だった。まるでロサラだけを残して何十年も経ってしまった様に。おまけに地下で遭遇したナースやオタマジャクシのバケモノが室内外を問わずに跋扈していた。

 

逃げ込んだ病室で再び弾薬を見つける事が出来たがもう連中に構っては居られない。隙を見てバケモノを避けるとどうにか三階へと辿り着く事が出来た。

 

 

煩い程に鳴っていたホワイトノイズが急に止み静寂が辺りを包む。

 

それでも慎重に、様子を窺いながら病室へ向う。

 

「兄さん。」

 

本当に居るだろうか。もし居たとして―

 

(無事でいて・・・)

 

そう祈りながらドアを開けた。

 

 

 

「アレックス?」

 

ドアを開け驚くのは今日何度目だろう。

 

何故地下で消えた彼が自分の病室に居るのか。

 

 

 

声を掛けられたアレックスは驚いた様に振り返りロサラの姿を捉えると更に困惑の表情を浮かべる。

 

「どうして・・・ここに?」

 

そう尋ねたのはアレックスの方だった。

 

「だって・・・。ここは・・私が居た部屋だもの。」

 

答えるロサラの方がしどろもどろする。

 

他の病室とは違いこの部屋だけは変わらずロサラが今朝起きた時のままだ。ただ一つ違いがあるとすればベッドに血が、観光代理店で見たデスクの様にべったりと広がっている。

 

 

誰の―?

 

 

誰が―?

 

 

「違うんだ!」

 

心を読んだかの様なアレックスの叫びに驚いて顔を上げる。

 

けれども目が合うとそれは思い違いだった。

 

「違うんだ。彼女が・・・居るわけが無いんだ。一年も前に死んだのに。」

 

「どういう事?」

 

何が何だか分からない。

 

彼は恋人の見舞いにこの町に来たのでは無かったのか。

 

「死んだ筈だったんだ。でも手紙が・・・・この町に居るって。彼女の文字で・・。」

 

悲痛なまでの狼狽。

 

 

死んだ人間から手紙が来たら誰でも嘘だろ思うだろう。悪い冗談だと。

 

それでももしかしたら、と思ってしまうのも人だ。

 

僅かな奇跡に縋ってこの町に来た彼を笑う事など出来はしない。

 

誰も居ない町やバケモノの存在、常識では考えられない出来事が彼の「もしかしたら」に拍車を掛けた筈だ。

 

 

けれどもロサラの登場によってその期待は壊れてしまった。自分がこの病室に居たという事は彼女の死を肯定すると言う事なのだ。

 

掛ける言葉も見つからずに病室をそっと出る。

 

今彼は恋人の死にもう一度直面してしまったみたいなものだ。会えるかもしれないという期待が大きかった分そのショックは自分と同じ位、いやそれ以上だろう。

 

一人にして気持ちの落ち着きを取り戻して貰う位しか今のロサラに出来る術は無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トボトボと宛ても無く屋上まで歩いて来てしまった。

 

 

 

それにしてもアレックスの恋人と自分が同じ病室だったとは。

 

 

 

自分が入院する半年前に亡くなった女性。

 

 

 

 

 

 

近くから遠くから、間接的であるのに死は自分達の心に爪を立てて傷付けていく。

 

 

 

その痛みは不定期に、それでいて忘れ去る事を許さずに訪れる。

 

 

 

まるで己の存在を誇示する様に―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―誰?」

 

 

 

思いに沈んでいたロサラの耳に響いたドアを閉める音。

 

 

 

辺りを見回すと霧の奥、屋上の脇に小さな小屋が建てられているのが分かった。

 

 

 

 

 

 

中に入るとリノリウムの床と寝台、医療器械がロサラを迎えた。

 

 

 

その様子は以前何かのテレビ観た事があった。恐らく救命処置室、と言うものだろう。

 

 

 

入院していたロサラは一度も訪れた事は無いが病室とは違う独特の空気が漂う。

 

 

 

 

 

 

それにしても何故それが屋上にあるのか。急を要する患者に階段を登らせて病院の一番上に運ぶなど聞いた事が無い。

 

 

 

 

 

 

医薬品や器具が納められた棚の横の壁に日記の一部が並べて貼り付けてある。

 

 

 

理由は分からないがロサラが白衣から見つけた日記はここから取られたものらしい。

 

 

 

 

 

 

「5月10日。

 

 

 

 物事は全て集約され結びつき融合して行く。

 

 

 

私も、心も。

 

 

 

 いつ全てが剥れバラバラになるかは分からないが。」

 

 

 

 

 

 

「5月11日。

 

 

 

 どう足掻いても外部からの影響を受けない事は無理だろう。

 

 

 

 世界が私を望まなければ望む姿に変えなければならない。

 

 

 

 私自身も気付かない間に―。」

 

 

 

 

 

 

「5月12日。

 

 

 

 本当の私は誰なのかと尋ねるのは愚かな事だろう。

 

 

 

 誰も何も見えないまま生きて行く。

 

 

 

 掴んだと思っていてもいつの間にかそれは逃げてゆく。

 

 

 

 ならば生きる理由を問う事は尚愚かだろうに。

 

 

 

 人は何故追い求めるのだろうか。」

 

 

 

 

 

 

「5月13日。

 

 

 

 人の身体は幾度となく病に侵される。

 

 

 

 同じ病気に、違う病気に。繰り返し繰り返し。

 

 

 

 心も同じなのだろう。

 

 

 

 悪化と弛みを繰り返して

 

 

 

 そして最後には―」

 

 

 

 

 

 

ずるり―

 

 

 

 

 

 

読み入っていたロサラの耳に奇妙な音が響く。 

 

 

 

 

 

 

ずるり―

 

 

 

 

 

 

何か重たい物を引き摺るような音。

 

 

 

 

 

 

ずるり―

 

 

 

 

 

 

水の腐ったような臭い。室内を圧迫する気配。

 

 

 

 

 

 

ずるり―

 

 

 

 

 

 

意を決して振り返るとそこには見たことの無いバケモノが居た。

 

 

 

まるで巨漢が寝転がった様なぶよぶよとした白い肉塊。体のあちこちに腕が生えておりそれが本体を移動させている。

 

 

 

 

 

 

気持ちが悪い―。 

 

 

 

 

 

 

醜悪な姿と恐怖から反射的に銃を撃つと銃弾は腕の付近に当る。

 

 

 

すると腕が肉塊からずり落ち藻掻き出す。

 

 

 

 

 

 

セミの様な甲高い鳴き声。

 

 

 

 

 

 

オタマジャクシのバケモノだ。

 

 

 

 

 

 

ロサラが今まで遭遇したのに比べると若干頭が小さいが間違いない。

 

 

 

この肉塊こそが親玉なのだろう。

 

 

 

続けざまに銃弾を放つと肉塊から血が噴出しオタマジャクシのバケモノが床に転がるが体が大きい分余りダメージを受けないのだろう。体をうねらせながら尚もロサラに近寄ってくる。

 

 

 

 

 

 

まるでロサラが憎い相手であるかの様に。

 

 

 

赤い爪の腕を動かして―

 

 

 

 

 

 

バケモノの体が邪魔をして部屋から出る事は出来ない。

 

 

 

じりじりと後退するロサラの目に医薬品が納められたガラス棚が映る。

 

 

 

 

 

 

あれを倒せれば―。

 

 

 

 

 

 

それなりに重さもありダメージを与えられそうだ。化け物を倒せないまでも怯ませてその間に逃げる事が出来れば。

 

 

 

 

 

 

壁伝い注意深くバケモノを避けながらロサラは棚に近付く。

 

 

 

手を掛け歯を食いしばって動かそうとするがガラス瓶や金属が目一杯入った棚は中々言う事を聞いてくれない。

 

 

 

棚の端が少し浮き上がるが重さでまた戻ってしまう。

 

 

 

もう少し。

 

 

 

 

 

 

「きゃあっ!」

 

 

 

 

 

 

バケモノの腕がロサラの足を引っ掻く。

 

 

 

僅かに血が滲んだ感覚。

 

 

 

 

 

 

どうして―。

 

 

 

 

 

 

どうして私を憎むの―?

 

 

 

 

 

 

オタマジャクシの仲間を殺したから―?

 

 

 

 

 

 

貴方を殺したから―?

 

 

 

 

 

 

そんなの―。

 

 

 

 

 

 

そんなの貴方が悪いんじゃない―!

 

 

 

 

 

 

貴方が―

 

 

 

 

 

 

貴女が私の―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

再び棚の端が浮かび上がる。今度はバランスが手前の方に入ったらしく。バケモノ目掛けて倒れていく。

 

 

 

 

 

 

ガラスの割れる音が響き渡る。

 

 

 

塩素か硫酸が入った瓶があったのだろうか。バケモノの体から焦げ付く様な臭いと共に白煙が登る。

 

 

 

 

 

 

低く、くぐもったバケモノの咆哮を最後に辺りは白い光に包まれて行った。

 

 



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~第8章 殻の中の悪夢~

煉瓦畳のスロープ、流麗な細工の噴水達、古くも美しいその佇まいは貴婦人と讃えられるに相応しかった。

 

けれどもあれ程憧れたその姿を見ても心は晴れない。

 

重々しくも荘厳的な扉が開かれる。

 

幾つにも重なったオルゴールの柔らかい音が漏れてくる。

 

後姿を見ないように咲き乱れたバラ達を眺めながら室内に入る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・。」

 

薬品とアルコールの混ざった独特の甘いような匂いがする。入院していたロサラには慣れた臭いだ。

 

何時もの感覚で瞼を開くとベッドの足と目がぶつかる。

 

どうやら自分はリノリウムの床に寝転がっていたようだ。勿論誤ってベッドから転がった訳ではない。

 

屋上でバケモノと対峙して、それから・・・

 

「ここは―?」

 

起き上がり辺りを見回すと何処かの病室のようだ。幾つものベッドが並んだ室内は相変わらず人の気配が無いがそれでも古く汚れた部分は無く病室は普通に戻っていた。

 

 

夢―、では無いのだろう。ロサラの手にはまだ銃がしっかりと握られていた。

 

 

ドアを開け院内を見回しても今朝と何も変わらない。バケモノもナースの死体も無さそうだ。

 

 

 

アレックスの事が気になり階段を上がろうとすると診察室から物音がした。

 

もしかしたら院長が平素になり戻ったのかもしれない。

 

期待を込めてドアを開ける。

 

「あら、また会ったわね。」

 

そう言いメリルは妖艶な笑みを浮かべた。

 

「どうして、ここに?」

 

彼女が態々ここまで診察を受けに来たとは思えない。ジャーナリストと病院、これと言った接点は無さそうだが。

 

「この病院の院長に取材をしようと思って。勿論アポ無しで、だけど。ねぇ、見かけなかったかしら。」

 

「そこのドアの奥に居ると思うけど・・・」

 

そこでロサラは次に何と言えば良いのか分からなくなってしまう。院長が病院の一室に立て籠もるなど考えて見ればおかしな話だ。

 

「そう。ありがとう。」

 

メリルは読んでいたであろう書類を傍のデスクに戻し別の書類を引っ張り出す。

 

「今日は空振りばかりね。」

 

どうやら既に隣の部屋は調べたらしい。となれば院長は何処へ行ってしまったのだろう。

 

「サイレントヒルの伝承について記事を書くのだけれど・・」

 

社交慣れした話し方でメリルが続ける。

 

「今度貴方にも話を聞かせて貰うわね。」

 

彼女なりにロサラに気を使ったのかもしれない。

 

それでも。

 

「私、ずっと入院していたから何も分からないわ。」

 

突き放すようにそう言い部屋を出てしまった。

 

サイレントヒルの伝承以上に不可思議な今朝からの出来事ならば話せそうな気がしたが何故かそうする気にはなれなかった。

 

メリルがこの状況に物怖じしていないだけで無く何かがロサラに暗い影を落としていた。まるで町の霧がロサラの心の中にまで侵入してしまったように―。

 

 

ふと足を止める。

 

入り口付近の案内板に何かが書き込まれている。ポケットライトに照らされた文字には見覚えがあった。

 

それは彼女の兄の筆跡と同じ、間違いなく彼が書いた物だった。

 

滑る様な書き方で『歴史資料館へ―』と書かれている。

 

暗澹たる気持ちが一気に晴れる。

 

矢張り兄はここへ来ていたのだ。ロサラを待っていて、理由は分からないが病院を後にして歴史資料館へ行ったのだろう。そしてその場所で彼は待っているのだ。

 

 

逸る気持ちを抑えられずに地図を開き場所を確かめる。ネイサン通りを西へ、ここからそう遠くは無い。

 

地図を仕舞うと案内板の脇へ自分も書置きを残す。アレックスへ宛てたものだ。これ以上自分に付き合って貰う訳にはいかないが突然消えては失礼だろうし心配するかも知れない。

 

 

「やっと会えるんだ。」

 

何を話そう。今朝からの事、ちゃんと伝えられるかしら―

 

まだ会っても居ないのにそう考えるだけで心が弾んだ。

 

書き終わると病院の外へ勢い良く飛び出した。

 

 

 

 

外は既に闇が支配する夜へと変わっていた。それでもポケットライトに照らされる先に白い霧が濃く漂っているのが見える。

 

交わる事の無い白と黒の世界。

 

いったいこの霧は何処から来るのか。

 

そう不思議に思うロサラの耳にラジオのホワイトノイズが鳴り響く。昼間よりも更に見難くなった視線の先に蠢く影。

 

 

釣り人形の様な歪な動き、病院で遭遇したナースだ。宵闇と共に病院の外へ迷い出た様に彷徨い動いている。

 

銃を再装填すると狙いを定めナースに銃弾を放つ。

 

 

―ジャマしないで!―

 

 

恐怖よりも苛立ちがロサラを急き立てる。

 

銃弾は胸に命中し引き攣った動きのままナースは後ろへと倒れた。

 

 

けれどもホワイトノイズは鳴り止まない。見れば通りの反対側に、曲がり角の奥にナースや焼け爛れた猫のバケモノが跋扈している。

 

 

夜は不浄のモノの支配する時間なのだろう。

 

 

足早に歴史資料館への坂道を上る。

 

病院との距離はさほど無い、けれども其処彼処に現れるバケモノと対峙する事は一度や二度では済まなかった。

 

 

まるでロサラの行く手を拒む様に動き回るバケモノ達を銃で制し相手が動かなくなるのを見る度に罪悪感や苛立ちとは違う感情が胸の奥に染み出してくる

 

 

それは禁じられた行為を犯す快楽の様な、まるで親に内緒でお菓子を食べてしまうような秘密の喜び―。

 

そんな感情に満たされきる前に、そして幸いにも銃弾が尽きる前に歴史資料館へ辿り着く事が出来た。

 

 

(兄さん。ここに居るのね。)

 

息を整えながらもロサラは喜びで鼓動が更に高鳴るのを感じた。会える嬉しさが体中に広がり痺れすら起きてきそうだ。

 

 

これで長い一日がきっと終わる―。

 

 

歴史資料館の中は建物と同じく小ぢんまりとした造りになっており町の人達が古い物を持ち合わせて作ったような濃やかさがあった。

 

 

「兄さん。どこなの―?」

 

呼びかけるが室内は静まり返り人の気配さえ無い。

 

狭いロビーを抜けて続く絵画の展示室へと入る。壁に掛けられた絵は何枚かが外されており名前と説明のプレートだけが飾られていた。

 

 

残された壁の絵画達を見回すと幾つかはロサラにも見覚えのある景色が描かれていた。

 

 

『―霧のトルーカ湖

 

開拓時代以前より神聖視されてきた場所であり同時に畏怖されてきた場所でもある。

 

特に霧の立ち込める日は現地信仰では祭事が行われ豊穣と死者復活の儀式が執り行われていた』

 

 

ロサラは驚きに息を呑んだ。壁の絵がいつの時代の物かは分からないが大昔にもこんな霧の立ち込める日があったのだ。そして喫茶店で見つけた記事、あれも本当の事だったのだ。「死者復活の儀式」ロサラの兄も病院の誰も知らないずっと昔に消えた存在。

 

それにしても―。

 

「畏怖されてきた場所」兄の話を聞いたり写真を観る限りではそんな様子は全く見られなかった。あの静かな湖の底に何かあるのだろうか?

 

 

その隣の額には写真が飾られておりプレートに「レイクビュー・ホテルの落成を喜ぶ人々」と書かれていた。

 

ロサラは写真を見入る。

 

貴婦人と称されるその佇まい。ロサラがローズウォーターパークと同じ位、いやそれ以上に憧れ行きたがっていた場所だ。

 

アールヌーボー形式を取り入れた重厚ながらも繊細さが目を引く建物は古さを歴史と言う洗礼された美しさに変えていた。

 

目を閉じると咲き乱れたバラの香りがするような気がした。

 

 

 

 

更に奥へと扉を開けると何も無い小さな部屋に出た。

 

それまでの部屋とは違う金属の壁は薄汚れており床にぽっかりと大きな穴が空いて下へと続く梯子が掛かっている。

 

 

暗い穴を覗き込みながらロサラは考える。

 

下へ下へと何処までも続く様な暗闇。

 

こんな所に兄が居る筈が無い。

 

でも―

 

 

何故かこの先へ進まなければいけない気がした。

 

滑ら無い様に気をつけながら鉄の梯子を下って行く。

 

長い暗闇はどれだけ降りても底が見えない。

 

 

この梯子は何処へと繋がっているのだろう?

 

地球の裏側だろうか?

 

それとも地獄だろうか?

 

 

この梯子自体が幻覚なのでは無いかと思い始めた頃漸く下へと到着した。

 

古びたドアを開けると広い室内に出る。

 

薄暗い室内には木製のイスやテーブルが土の床に積まれている。至る所にスプーンやコップなど食器が転がっていてどれも埃を被っている。奥にはスープの代わりに蜘蛛の巣が詰っていそうな寸同の鍋が置かれている。

 

 

使われなくなって随分と経つが、どうやら此処は大勢が食事出来る施設らしい。退屈だった歴史の授業をどうにか思い返す。第一次世界大戦頃の防空壕だろうか。

 

 

「だれ?」

 

そう尋ねたのはロサラでは無かった。柱の影から体を重たそうに引き摺りながら現れた影。

 

「あなたは・・・」

 

見覚えがある容姿。アパートで出会った女性だ。虚ろな目がロサラを捉えると女性の方も気が付いたようだ。

 

「怪我、してるの?」

 

傷は深くは無さそうだが女性の手からは血が滲んでいて見ていて痛々しい。

 

「平気?薬なら私・・・」

 

「えっ・・・・?」

 

そう言ってロサラが近付くと女性は怯えた様に後ずさる。

 

「私はロサラよ。前にアパートで会ったわよね。」

 

ロサラは怖がらせないように微笑むと女性が落ち着くのを待つ。きっと彼女も自分と同じ様に怖い思いをして来たのだろう。

 

「スーザンよ。」

 

「ねえ、スーザン。手当てをしても良いかしら?」

 

スーザンは俯いたままだったが警戒は解いた様だった。ゆっくりと彼女の手を取り傷の手当をする。こっそりと病院から薬を持って来たのが役に立った。

 

「この街は本当にどうなってしまったのかしらね。」

 

「そうね・・・・。」

 

何が彼女の心を虜にしているのだろうか。スーザンは相変わらず遠くに感じる。

 

「一緒に行かない?ここは何処も危険だわ。2人なら・・・」

 

「・・・っ。来ないで!」

 

立ち上がりそう提案するロサラをスーザンが悲鳴に近い声で拒絶する。

 

驚いて彼女の方を見るが沈んだ瞳には暗い炎が宿っている。

 

「知っているんでしょ!優しいフリをして私を責めているのよ。みんなみんな・・」

 

ヒステリックにそう叫ぶ彼女は目の前に居るロサラを通り越して虚空を睨んでいる。

 

「待って。スーザン」

 

慌てて彼女を宥める。一対一の状態に薄っすらと恐怖を感じた。

 

「あ・・・・。ごめんなさい・・・。」

 

解けるように正気に戻ると憑き物が落ちた様にぐったりとイスに崩れ落ちる。

 

「私はもう少しここに居るわ。」

 

スーザンは再び虚ろな目で答える。

 

そう言われるとロサラもそれ以上何も言えなくなってしまう。正直彼女の豹変振りが少し怖かった。

 

「そう、気をつけてね。」

 

「貴方も、探してる人が早く見つかると良いわね。」

 

弱々しく微笑む彼女の目は相変わらず虚空を見詰めていた。

 

 

 

 

 

 

 

厨房奥のドアを開けると薄暗い通路に出る。所々が切れた蛍光灯が弱々しく剥き出しの床を照らしている。

 

細く長い通路に足を踏み入れた瞬間にロサラは背筋を凍らせる。

 

左右には壁と鉄格子で区切られた狭い部屋がどこまでも続いていた。

 

(刑務所?)

 

踏み出した足を一歩退ける。

 

何故地下にこんな施設が作られているのか。

 

これ以上進みたくない。そう思う気持ちとは反対に進まなければいけない事を頭の奥が告げていた。

 

厨房に他のドアは無かったし何より真実がその向うにある様な気がしたのだ。

 

 

恐る恐る足を伸ばし銃を構える、先程からホワイトノイズが鳴り続けていた。

 

ベッドが置かれただけの独房は錆と汚れが視界から白を奪い何かが腐った様な臭いで充満していた。

 

使われなくなって大分経つらしい。まるでアルカトラズ島の様だ。

 

「きゃ・・・」

 

ロサラは小さな悲鳴を上げる。ポケットライトに照らされた間近にオタマジャクシのバケモノが居たのだ。

 

けれどもバケモノは鍵の掛かった独房の中に居て外に出る事が出来ずに頭をゴンゴンと鉄格子にぶつけていた。

 

 

襲い掛かってくる事はなさそうだがロサラは安心する事が出来なかった。

 

まるで押さえ込んだ何かが突き破って出て来るような、バケモノを見ているとそんな風に思えた。

 

 

通路の奥のドアを通ると広い空間に出た。何も無い室内の中央にポツリと建っている物がある。

 

木製の台には頭がすっぽりと納まるような窪みが空いており大きな斧が刺さっていた。

 

ロサラは青ざめる。

 

 

断頭台だ―!

 

 

ギロチンが開発される以前に使用されていた野蛮で残酷なる処刑方。

 

それが何故ここにあるのか。

 

まさか刑務所の死刑囚達を―?

 

 

先程の独房の造りと比べると余りにも時代がかけ離れているが木製の台には赤黒い血が、あのオフィスで見たようにぽたぽたと滴り落ちていた。

 

 

「もう、嫌・・・・」

 

ロサラは泣き出しそうだった。進みたくも無いけれど戻るのはもっと嫌、今日何度そんな風に思っただろうか。

 

 

項垂れて視線を落とすと台の手前にある篭の中が見えた。

 

そこには数え切れない程の人形の首が犇ひしめき合っていた。

 

人形はどれもガラスの目ではなく人間の様な白く濁った目でロサラを見詰めている。

 

 

驚いて顔を上げたロサラは更に怯える。

 

先程は背にしていて分からなかったが壁一面に首の無い、体だけの人形が打ち付けられているのだ。

 

太い杭の様な物で一箇所を留められた胴体は操り人形の様にだらりと手足を垂らしている。

 

恐怖で喉が張り付いて声も出ない。一体何が起きているというのか。

 

 

ふと篭から声が洩れた気がした。

 

 

罪には相応の罰を―

 

 

罪人よ、此方へ来い―

 

 

汝が罪状は―

 

 

 

 

「いやっっっ!!」

 

 

声を掻き消すように悲鳴を上げると部屋の隅にあるドアへと駆け出した。

 

耐えられなかった。

 

たとえ声が恐怖の余り自分が作り出した幻聴だとしてもこれ以上聞きたくない。

 

 

ドアの向うにどんな恐ろしい事が待っていたとしても此処に居るよりはずっと良い。

 

ロサラは勢い良くドアを開けるとわき目も振らずに中へと飛び込んだ

 

 

 



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~第9章  微笑する悪夢~





UFO、UMA、イルミナティ、都市伝説・・・・・・

 

ハミルやヘミングの様なジャーナリストを夢見てこの世界に入ったが現実は真実よりも嘘を好む三流以下のゴシップ記事を書いて日々を繋いでいる。

 

 

夢を諦めた訳では無い。過去の自分に対して後ろめたさが無い訳でも無いが現実とはそんな物だろうとも思う。

 

 

誰しもが道を真っ直ぐに歩いている訳では無い。迷い見失うことなど始終あるしそれを揶揄する事など誰にも出来ないだろう。でなければ夢を諦めずに成功を掴んだ人間がメディアで持て囃される事も無いだろう。

 

認めたく無い部分を認めろと言う訳では無い。

 

認めたく無い部分があると言う事を認識すれば亡霊の様な後ろめたさから少しは開放されるのだ。

 

喩えその代償が地に足の着かない浮き草の様な生き方だとしても不自由は無い。

 

 

あの少女はどうだろうか?

 

今日何度か遭遇した彼女は何処と無く現実離れしていて自分とは違う物を見ている様な気がした。

 

彼女は誰もが時折そうする様に、起きているのに夢を見ている様な不条理さと都合の良さを瞳に宿していた。

 

現の夢から醒めた時彼女はどうするのか?

 

そんな事を考えながらメリルは誰も居ない静かな霧の街を歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何処をどう走ったかもう分からない。恐怖が体を支配するままにロサラは地下の迷宮を彷徨っていた。

 

扉を抜け階段を下り気が付くと狭い通路へと辿り着いていた。

 

人が一人通れる程の通路は混沌とした水が足元を流れ、枝分かれした先は多くが袋小路に続いていた。もしかしたら通路では無く用水路なのかもしれない。

 

あの刑務所から随分降りた筈だ。

 

 

こんな場所でバケモノに襲われたら逃げようが無い。慎重に道を選ばなければならない現実が頭を冷静にさせていった。

 

 

ブーツに水が入らないように注意しながら先へと進む。

 

 

途中オタマジャクシのバケモノと遭遇した。

 

壁を背にしていた為逃げる事が出来ずに銃を構える。長い手で水の中を器用に泳ぐ相手は中々狙いが定まらない。

 

どうにか足元まで来たバケモノに銃弾を浴びせると黒い水を赤く濁らせて沈んで行った。

 

長い間暗く狭い場所に居ると罪悪感が鈍って行く気がする。

 

 

 

更に先へ進むとロサラの前に白い影が揺らいだ。

 

ベールを掛けた例のバケモノだ。

 

まるで暗い記憶の様にロサラを執拗に追い掛け決して許してはくれない。

 

彼女に殺される事が自分の運命だと言うのか。

 

「いや・・・・」

 

 

数歩後退すると脇道へと駆け出す。銃の効かない相手に狭い場所で対峙しても勝てる筈が無い。

 

幾度も道を曲り突き当たりに出くわさないよう祈りながら走る。

 

ドレスの裾は完全に水に浸かっているのに水を掻く音は聞こえてこない。それでもまるで水の中を滑るように動き振り向くロサラの視界から消える事は無い。

 

バケモノは相変わらず緩慢な動きながら確実にロサラを追い詰めている。

 

 

「・・・・!」

 

終にその時が来てしまった。

 

角を曲ったロサラの先には暗い壁が広がっていた。

 

両脇に道は無く角には既にバケモノの姿が見えていた。

 

絶体絶命。

 

 

それでも立ち止まる事無く走ると希望の光が見えて来た。

 

 

ドアノブがあった。

 

 

壁だと思っていた場所は実は扉で、錆で全体が黒くくすんでいたのだ。

 

躊躇う事無くドアに手を掛けると軋む扉を力ずくで開き中へと飛び込んだ。

 

 

 

 

「アレックス!」

 

 

飛び込んだ場所は小さなリノリウムの部屋で中央を鉄格子が区切っている。上の刑務所とは部屋の造りが違うが此処も独房の様だ。

 

けれどもロサラを驚かせたのはその事では無かった。

 

鉄格子を挟んだ向こう側の部屋には簡素なベッドと机が置かれておりそして病院で別れた筈のアレックスが居たのだ。

 

 

「どうして、ここに?」

 

 

慌てて駆け寄り鉄格子に手を掛ける。

 

 

「君の書置きを見て。一人で探し回るのは危な過ぎる。」

 

 

真剣な瞳でそう諭されてロサラは胸が苦しくなる。心配を掛けまいと自分がした事が余計に彼を心配させてしまったのだ。

 

 

「ごめんなさい。でもこれ以上私に付き合ってアレックスが危ない目にあったら・・」

 

 

「言っただろ、危ない目には合わせられないって」

 

 

アレックスの方も緊張が解けたのかそこで漸く笑う。

 

 

「それに、諦めが悪いかもしれないけれど俺には彼女が何処かに居るような気がしてならないんだ」

 

 

それが本心なのかロサラに心配を与えない為の言い訳なのかは判断出来ないがアレックスの笑いは哀しげな物になった。

 

 

「ありがとう。私も兄さんに会えるって信じてる」

 

 

格子越しに会話をしていると面会をしている様に感じる。

 

 

「待っててアレックス。そっち側に行くわ」

 

 

明るくそう言いロサラは反対側のドアへと駆ける。

 

 

「でも・・・・っ」

 

 

慌てて止めようとするアレックスにロサラは笑顔で答える。

 

 

「大丈夫よ。平気だもの、それ位はまかせて」

 

 

あのバケモノがまだ外を徘徊しているかもしれない。銃の効かない相手なのだ。不用意に飛び出してアレックスに危険な目に会って欲しくは無い。

 

 

「直にそっちに行くから」

 

 

もう一度念を押してロサラは部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

慎重に辺りを窺う。どうやらバケモノはまた煙の様に消えてしまった様だ。ラジオからも何も聞こえない。

 

アレックスの側にも扉はあったがどうやらロサラの出たドアとは直結していないようだ。前と同じ細く長い通路が何処までも続いている。

 

受刑者の脱走を防ぐためか通路どうしが更に複雑に交差している様に見えた。

 

 

けれども今のロサラには先を進むしかない。

 

道に迷わない様に来た通路を必死で覚えながら角を曲る。行き止まりを避け柵で塞がれた通路を後退する。焦る気持ちとは裏腹にどんどんと奥へと迷い込んで行く。

 

突き当たりにあった鉄格子を上ると今までとは違う場所にでた。

 

刑務所と下の下水道の丁度中間層なのだろう。

 

コンクリートの無機質な空間は埃と煤で汚れていたが下が水浸しで無い分動きが撮りやすい。

 

上手くいけば先程の部屋の近くに降りられるかもしれない。

 

焦りが増すのを感じながらロサラは早歩きになる。

 

この場所に来てからずっと消毒薬の臭いが充満している。床にはボロボロになった新聞やカルテが散乱しておりその合間には注射器やアンプルが転がっていた。

 

うっかりと注射器の一つを踏んでしまい辺りに甲高い音が鳴り響く。

 

 

辺りにバケモノが居ないとは限らない。ロサラは神経をラジオと周囲に集中させる。

 

一瞬の沈黙の後ラジオから微かにホワイトノイズが鳴り出す。

 

それとは別に物音が奥から聞こえて来た。

 

 

ロサラは暫し躊躇った。バケモノが出している音なのかもしれない、けれども同時に人の気配も感じるのだ。

 

こんな場所に誰が―?

 

上の階で会ったスーザンだろうか、それともアレックスが自分を探しに此処まで来たのだろうか。

 

 

それとも―

 

 

人に良く似たバケモノだろうか?

 

 

危険だが他のドアには鍵が掛かって入れないのを確認するとロサラは奥へと続く通路に賭ける。

 

殆ど走る勢いで奥へと進む。

 

 

ホワイトノイズは大きくなるのに物音は微かに響く程度だ。

 

消毒薬の臭いがどんどん強くなる。

 

 

突き当たりにあるドアへ手を掛けた。

 

 

 

 

 

室内に飛び込んだロサラは一瞬自分が外へ出てしまったと錯覚した。

 

地面も壁も苔生していて落ち葉が散らばっていた。上を見上げても吹き抜けのようにくらい穴が空いているだけで何も見えない。それでいて何処からとも無く枯れた茶色の葉が舞い落ちて来る。

 

 

そして部屋の中央に何かが居た。

 

 

まるで子供が作った大きな泥人形の様な真っ黒な生き物が、海中の水草の様にゆらゆらと体を揺らして突っ立って居るのだ。

 

 

止め処なく落ちてくる葉が視界を狭くさせる。無駄だと分かっていても手で葉を払うロサラの耳に消えそうな悲鳴が響く。

 

 

ごめんなさい―

 

 

ごめんなさい―

 

 

見ると部屋の隅にスーザンが蹲っていた。

 

 

「スーザン!」

 

 

駆け寄ろうとすると部屋の中央に居たバケモノがロサラに向って大きな腕を振り回して来た。

 

寸での所で屈んで避ける。その体制のまま銃弾を放つとボロボロと肉片が零れ落ちる。

 

 

泥人形が振り返った。

 

 

裏も表も無いバケモノの腹部に白い物体が浮んでいる。

 

 

青白い子供の首だ。穴の空いた暗い眼光でロサラを睨んでいる。

 

 

恐怖で体が凍り付く。続け様に銃弾を打ち込むが震えた手では首には当らず泥人形の体のあちこちに被弾するばかりだ。

 

バケモノが再び腕を振り回す。しゃがんだ状態でロサラは転げる様に避けるが腕の先がこめかみに当たり吹き飛ばされる。

 

 

目の前が暗くなる。

 

 

寄るな―

 

 

見るな―

 

 

大人の男と子供の声が合わさって頭の中に響く。バケモノが腕を振り回し尚も近付いて来る。

 

まともに攻撃を受ければロサラの頭は割れ脳が零れるだろう。

 

死への恐怖がバケモノに対する恐怖を押さえつけた。

 

 

痛みを抑えて残りの銃弾をバケモノに浴びせる。

 

泥人形の中央部分に向けて放った内の一つが首に命中する。

 

 

髪を振り乱しながら子供の首が声にならない咆哮を放つ。

 

それに呼応するかのように泥人形の体も小刻みに震えながら砕け落ち土塊へと変わってゆく。

 

子供の首と目が合う。

 

首が一瞬ニヤリと笑うと泥人形の体ごと地面へと消えていった。

 

 

 

「スーザン。しっかりして」

 

 

駆け寄り抱き抱えようとするが彼女の手がロサラを拒む。

 

 

「いやっ。こないで」

 

 

「私よ!」

 

 

落ち着かせようとするがロサラを見詰める目には暗い炎が宿っている。

 

 

「あなたも同じ!同情したフリをして楽しんでるんだわ」

 

 

「えっ?」

 

 

「本当は私が犯人だって思ってるんでしょ。影で笑ってるクセに口では御可哀そうにって・・・!」

 

 

激しい剣幕で捲し立てる彼女に圧されロサラは怯む。

 

刺し殺されそうな怒気が其処にはあった。

 

 

「落ち着いて」

 

 

感情を逆なでしない様に慎重に近付くと憑き物が落ちた様に彼女の目から光が消える。

 

 

「あ・・・・。ごめんなさい。私また」

 

 

そう話すスーザンは沈んだ瞳に戻っていた。

 

 

「ねぇ、スーザン。やっぱり此処は危険だわ。一緒に・・・」

 

 

伸ばしたロサラの手をスーザンは避ける。それはロサラに怯えているようにも見えた。

 

 

「だめよ。だって私は・・・・」

 

 

体を引き摺るように出口へ向う彼女は―まだやる事が―と取り憑かれたようにそう洩らした。

 

 

「気を掛けてくれてありがとう」

 

 

それでも漸く振り返るとそう告げる。

 

 

「ねぇ、ロサラ。貴女と私は同じ匂いがするわ」

 

 

「えっ?」

 

 

ロサラの疑問には答えずそれだけ言うとスーザンは出て行ってしまった。

 

 

「同じ―」

 

 

一人残されたロサラは告げられた一言に戸惑いを隠せずにいた。

 

 

私と、彼女が―?

 

 

頭の中で何かが揺らぐ。

 

 

だから―

 

 

だからこの町に迷い込んだの―?

 

 

 

いつの間にか舞い落ちる葉は消えていた。

 



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第10章~繋がれる悪夢~

中間層を抜けて漸くロサラは先程の場所へと辿り着いた。

 

「アレックス!」

 

勢い良く飛び込んだが室内にアレックスの姿は無い。自分を探しに彼もまた部屋を出てしまったのだろうか。

そう思ったロサラの目に鮮やかな色が飛び込んで来た。

赤と黒を混ぜたその色は室内にあったベッドを濡らし床へと染み出している。

 

血だ―!

 

病院で、観光代理店で見たのと同じ血がそこにあった。

 

(アレックス?)

 

即座に彼の顔と鉈を持ったバケモノの姿が浮んだ。此処で襲われて―

だからアレックスは何処かへ逃げた?

 

けれどもベッドに広がる血の量は致命傷を感じさせる。

 

また頭にバケモノがアレックスの遺体を引き摺っていく姿が浮んだが血溜りはベッドの周り数センチで終わっていた。

 

「生きてるわよね?」

 

弱々しくそう呟く。それでもロサラの心には彼が何処かで無事でいる様な気がした。これがアレックスの言っていた確証なのだろうか。

今のサイレントヒルならきっと何が起きても不思議では無いのだろう。ロサラはそう思い始めていた。

 

けれどもだとしたらこの血は、病院の血は、観光代理店の血は誰のなのだろうか―?

 

 

 

 

通路を抜け小ざっぱりとした回廊に出た。無機質なドアが両隣に並び中間層で嗅いだのと同じ消毒液の匂いがする。

 

ドアを開けるとまるでその場に似つかわしくない部屋が現れる。

独房でも無く病室でも無いその部屋は壁一面をピンク色に塗られ天井からは蝶や馬のモールが釣り下がっていた。

棚を埋め尽くすヌイグルミや床に散らばったオモチャから見ても此処は子供部屋の様だ。ロサラはピンク色の絨毯の上に座る。ドールハウスや揺り木馬に囲まれると小さい頃を思い出す。

このままずっと此処に居たい気持ちに駆られ手を伸ばすと散らばった本に触れる。『オズの魔法使い』や『不思議の国のアリス』はロサラも好きだった本だ。手に取り持ち上げると装丁が砕け散りページが散乱する。

良く見ればそれはどれもゴシップ誌の一部の様だ。表紙だけ挿げ替えられていたのだ。その中の一枚が何故かロサラの目を引いた。

 

『名門ホテルの事故  訴訟問題未だ決着せず!

 

 ――以前ホテル側と遺族の対立は続き―――

 ―警告はあったとホテル側は主張――

 ―管理体制に問題が――検察側の調べで―

 ――遺族側の悲しみは続き――唯一の目撃者― 』

 

所々は掠れて読めなくなっていたが何故か心を掻き乱す。それはこの部屋に似つかわしくない物だからだろうか?

 

考えるロサラの頬を風が撫でる。

ドアは閉めた筈だ。

慌てて確かめるがドアが開いた気配は無い。風の出所を探すとベッドの下から吹いている様に思えた。

子供用とは言え金属製のベッドを動かすのは容易では無い。引き摺るようにしてどうにかベッドの位置を変えるとその下から大きな穴が現れた。

まだ地下が続いているのだろうか。

ポケットライトで照らしても底は見えない。鉄の梯子が掛かっているので降りられない事は無いが―

 

ロサラは子供部屋を一瞥する。

部屋全体がロサラを引き止めている様に感じた。

それとも―?

 

心を引き止められているのは自分の方なのだろうか?

 

「でも、私兄さんに会いたいの」

 

棚のヌイグルミ達に言い聞かせるように自分に言うとロサラは鉄梯子に足を掛けた。

 

下へ下へ・・・・・・

 

それでもロサラが思うよりも早く終わりは来た。

 

「きゃっ」

 

鉄の梯子は途中で切れており暗闇に覆われ気付かなかったロサラは足を踏み外しそのまま身体が中に舞った。

 

それも束の間の事。直ぐに激しい水音と共にロサラは地面に着いた。

水のおかげで大した痛みは無かったものの酷い匂いがする。

此処も下水の何処かなのだろう。濁った水が辺りを覆っていた。

「!?」

立ち上がったロサラの目に白い影が映る。けれどもそれは例のバケモノで無かった。

「院長先生!?」

ロサラの主治医であり病院の院長である彼が白衣を着てそこに立っていたのだ。

けれどもロサラを驚かせたのはそれだけでは無かった。

彼の手にはショットガンが握られており銃口はロサラの方を向いていた。

 

「・・・・」

 

水の上を転げるように逃げるのと銃弾が撃たれたのはほぼ同時だった。

 

「どうして!?」

 

訳が分からずに立ち上がろうとするロサラの脇を再び銃弾が飛び水飛沫を上げた。

間違いない。彼は自分を殺そうとしている。

 

「私は弱かった。誰の味方でも無かった」

 

動き難い水の中をどうにか飛んで銃弾を避ける。

早く、銃を取らないとーーーーー

 

「ずっと目を背ける事しか出来なかった」

 

彼の眼はロサラを捉えているのに。彼女を見ている様では無かった。

 

「唯、正しいと云う振りをしてお前達の世界に介入した」

 

でも、相手は先生なのにーーーーー

 

「許して欲しい。私は、こうなる事を望んでいなかった」

 

だったらーーーーーーーーー

 

ロサラの中で何かが跳ねた。

耳の奥が熱くなり血液が血管を流れるのが分かる。

 

どうして放って置いてくれなかったのーーーーーー?

 

ロサラが銃を放った。

銃弾は彼の足を掠めると痛みに院長は膝を折った。

 

今度は反対にロサラが立ち上がる。

 

懇願するようにロサラを見上げる。

その周りの水から白い腕が飛び出して来た。

 

何本も何本も

水から伸びた腕は院長の身体の至る所を掴んでいく。

 

「・・・・・っ」

 

ロサラは恐怖で張り付いていた。

先程までの怒りはもう何処かへ飛んでしまった。

体中が震える。

 

膝丈しか無い筈の水に掴んだ腕たちは院長をひきずり込んでいく

まるで底無し沼の様に身体は徐々に水の中へ沈んで行く

 

最後に何かを叫ぼうと院長は口を開けたがその言葉が放たれる事は無く幾つかの泡を残してその姿は消えて行った。

 

震える身体を引き摺りながら院長がいた場所まで行ったが彼の姿は水面には無く水も矢張り膝あたりまでしか無かった。

 

「何なの・・・・」

 

泣きそうな声が静かに響いた。

 

―彼は何をしたのか

 

―何の許しを斯うていたのか

 

もう何もかもが分からない、滅茶苦茶だ。

 

「私は・・・・・・」

 

彼を連れて行ったもの。

それは怨霊なのか、それとも彼自身だったのだろうか。

 

白く濁った頭と汚れた身体を引き摺ってロサラは水の流れてくる奥へと進んで行った。

 



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第11章~開眼する悪夢~

足に絡みつく水をかき分けて進む。

暗澹とした世界はロサラの心を映しているようにも思えた。

 

いったいどれだけ歩いたのか、長い長い水の通路。けれどもどれだけ歩いても頭の中が晴れ渡る事は無かった。

 

 

進むしかない-。

 

そう、何かが心の中で呟く。

 

そして再び訪れる突然の終わり。

広いフロアに出ると上へと続く階段が伸びている。亡霊のような足取りで階段を上がり古い木製の扉を開ける。

 

 

不意に差し込んだ眩しさに目を細める。相変わらず周囲は濃い霧に包まれているがそれでも昼と夜では明度の差が歴然としている。

いつの間に夜が明けたのだろう。

けれどそんな疑問すら今のロサラにとっては些細な事だ。

 

 

 

 

霧の中に姿を見せた優美な佇まい。

 

レイク・ビューホテルだ。

 

 

どうやら地下水道はトルーカ湖を縦断していたらしい。

ロサラが出てきたのは湖の脇にある小さな小屋だった。ホテル側が宿泊客にレジャーを提供する施設なのだろう、手漕ぎのボートが何隻か繋がれていた。とは言えこの霧の中を一人ボートで渡るのは危険すぎる。歩いてこれた事にロサラは安堵の溜息を吐いた。

 

 

 

整備された石段を上りホテルの庭に入る。

青々とした蔓薔薇のアーチ、彫像が飾られた繊細な噴水や目を引く煉瓦畳も濃い霧の所為でロサラの沈んだ心を上げてはくれなかった。

 

まるであの時の様にー

 

 

「兄さん」

 

それでも期待せずには居られなかった。きっと此処にいる。此処で自分を待っていてる筈。

 

重厚な扉を開けてもロサラを出迎える者はいなかった。ここも他の街と同じ様に人の気配は無く、薄暗いロビーが奥へと続いていた。正面を突っ切るように進み大きな扉の前に出る。扉には『改装中』と札がかけられており鍵が閉められていた。

 

しかたがなく引き返し進める場所を探す。階段横にあるレストランのドアを開けると大きなガラス窓が見えた。庭に面したその窓からは色とりどりの薔薇が咲いている。今は時期では無いのに、狂い咲きだろうか。

 

 

「あら、こんな所まで来るなんて」

 

妖艶な声がロサラを絡め取る。

 

「随分熱心なファンが私にも出来たものね」

 

メリルがおどけたように小首を傾げて笑う。

 

「どうして、ここに?」

 

「結局医院長には会えなかったからね。先に別の仕事を済ませようと思って。貴方は?お兄さんには会えたの?」

 

ロサラは力なく首を振る。

 

「そう。でもここにはいないんじゃないかしら。割と前から営業していないし」

 

メリルのその言葉がロサラの心臓を抉る。

 

「そんな・・・・嘘よ。・・・・だって私は・・・・・」

 

ロサラの来たかった場所。

退院したら連れてきて欲しいと兄に頼んだ。

メリルは何かを勘違いしている。

 

「私も忍び込んでるからあまり大きな声では言えないけど。何か資料でも残って無いかと思って。あの事件の-」

 

肺から空気が搾り取られる。蔓延する霧が室内に入ってきたかのように呼吸が出来なくなる。

 

「貴方は何か知らない?例の事件の事-」

 

窓の外の薔薇が首から落ちていく。いくつもいくつも、落ちては転がり重なり合い庭を埋め尽くしていく。

 

 

「私は・・・・ここで兄さんと会わなくちゃいけないの!」

 

突き放す様にロサラは叫ぶとレストランを飛び出してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

階段を駆け上がり呼吸を整える。思わず飛び出して来てしまったがメリルが追い掛けてくる気配は無い。

 

「私は、変なんかじゃ無い」

 

自分に言い聞かせるようにそう呟く。彼女は何かを勘違いしているのだ。そう思いつつも気まずさから避けるように階段を上っていく。

途中、いくつも並んだ客室を一つ一つ調べていく。室内を念入りに調べ弾薬を補充する事は出来たが兄の姿は無かった。

 

三階の客室を調べ終わり、更に上へと続く階段を上る。ビロードの絨毯が敷き詰められた今までも階段とは違いその階段は板が見え、埃が積もり所々に瓦礫が散乱している。

荒廃した姿に一瞬メリルの言葉が頭を過ぎったが、直ぐに頭を振って否定する。

きっと改装中なのだ。一階の扉にも書いてあったでは無いか、一部を修繕しつつもホテルとしては機能している話は良くある事だ。

 

 

思案を巡らせながら階段を上りきると屋上へ出た。ホテルに入る前よりも深さを増した霧が屋上の縁を消している。

数歩進むと木材の軋む音が響く。歴史あるホテルとは言えここの改修は早急に行った方が良さそうだ。

 

 

 

「兄さん?」

 

霧の中に動く影を見つけた。懐かしい面影を頼って近付くが直ぐにその足を止めた。

 

ベールを着けたバケモノが霧の中から現れたのだ。

 

逃げようと引き返すが先ほど上って来たはずの階段は消えていた。

 

 

「来ないで!!」

 

彼女は何故執拗なまでに自分を追い掛けるのかー

彼女は何をロサラにさせたいのかー

何を思い出させたいのかー

 

 

振り下ろされた鉈を掠めるように避けてバケモノの脇を走り抜ける。

バケモノの動きは緩慢ながら出口の無い此処ではロサラの方が圧倒的に不利だ。

 

攻撃を避けては走り抜ける。霧の屋上をまるでバケモノと追いかけっこをしているみたいだ。

 

 

「きゃっっ!!!」

 

追いかけっこの終わりは突然訪れた。

 

端に逃げ過ぎた所為で屋上の縁から身体を滑らせてしまったのだ。

 

 

辛うじて片手が縁を掴むが、体重の全てが片腕に掛かってしまい痺れていく。

 

下には霧が渦を巻いている。地面は見えないが落ちたら助からない高さなのは間違い無い。

 

もう片方の腕も伸ばすが虚空を掴むばかりで身体を支えられない。

 

 

バケモノの気配が近くまで感じられる。

 

 

 

漆黒の花弁が開く様に記憶が解けていく。

 

 

ー思い出してはいけない

ー思い出せば二度と元には戻れない

 

 

ドレスの裾が見える。

 

ーそれでもーー

 

 

見上げているのに相変わらずベールの中は見えないが濡れた鉈の刃は目に焼き付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー思い出した!-

 

 

 

ー私はここでー

 

 

鉈が振り下ろされる。

 

 

ーここで兄さんを殺したーーーーーーーーーーーーーーー!!!

 

 

 

 

 

 

手が縁から離れる。

 

ロサラの身体は真っ白い奈落へと落ちて行った。



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