Fa#e/Grand∴Order (ワタリドリ@巣箱)
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Prologue
偶像の黄昏


 ―――忠誠こそ我が名誉。

 その言葉は、彼を突き動かす真理であった。

 

      †

 

 一九四五年五月一日、深夜。

 午前零時を疾うに過ぎているにもかかわらず、ベルリンの空は赤々と燃えていた。それは帝都を侵攻するソ連赤軍の赤。東方から襲来した赤い嵐が祖国を蹂躙している光景であった。

 赤軍がこの第三帝国の首都を包囲してから早一週間。帝都はもはや地獄の釜と化していた。

 辺りを見回すまでもなく、道端にかつて人間と呼ばれていた肉塊がごろごろと転がっているのが視界に入る。頭から血を流して倒れている兵士などまだ可愛いものだ。中には顔が半分以上欠けている者や、四肢が千切られて骨が剥き出しになっている者までもがいる。

 跡形もなく荒廃し、屍山血河に飾られた市街。絶え間ない銃声や砲撃音が耳朶を叩くその中を、親衛隊の制服に身を包んだ二人組の男たちが駆けていた。

「ちゃんと付いてこられているかい? 先生」

 人間が焼け焦げる異臭に顔をしかめつつ、そう言って肩越しに背後を振り返ったのは、小柄でずんぐりとした小男――総統秘書マルティン・ボルマンだ。

 そのボルマンに追随していたのは、彼とは対照的に、色白で手足の長い長身痩躯の親衛隊医師。ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガーというのがこの男の名だ。その肌の蒼白さや髑髏のような顔つきもあってどこか不健康そうな印象を受けるが、これでも総統の主治医を務めていた優秀な頭脳の持ち主だ。

「ええ、(わたくし)はかろうじて――」

 ですが、とシュトゥンプフエッガーが言葉を濁したのも無理からぬことだろう。ボルマンたちは三人で総統地下壕を脱出したのに、この場には二人しかいない。

「……さっきの砲撃でビルが崩れたからな。それに巻き込まれたのかもしれない」

 アルトゥール・アクスマン――東部戦線で片腕を喪いながらも生還したあの英雄も、遂に戦乙女の腕に抱かれてしまったか。

 いなくなってしまったものは仕方ない、とボルマンは即座に思考を切り替える。自分たちだけでも生き残って、総統の遺命を完遂することが、せめてもの手向けだ。

 

 第三帝国総統が()()()()()()()()()()()()総統地下壕――事実上最後の総統大本営にて自死を遂げたのは今から半日前のこと。

 その死を見届けた彼の忠臣たちは、総統からの授かった遺言をそれぞれの胸に抱いて、ベルリンからの脱出を図っているところだった。敵軍の目を掻い潜るためその行動は複数の組に分かれての分散的かつ散発的なものであり、ボルマンたちが地下壕から外に出る頃にはもう既に日付が変わろうとしていたところだった。

 それからシュプレー川沿いを走ること既に三十分近く。瓦礫で塞がれた道を迂回したり、敵兵の斥候をやり過ごしたりしながら、ようやくフーゴー=プロイス橋に差し掛かった。当面の目的地に設定していたレアター駅まではあと少しだ。

「…ッ!」

 しかしその時、前方にまたしても赤軍兵士の姿を認めて、ボルマンたちは咄嗟に物陰に身を隠す。橋の下はかろうじて夜の暗さが保たれており、ボルマンたちの身を包む黒衣も程良く迷彩の効果を発揮してくれた。敵兵たちは目と鼻の先に潜伏した高級将校たちに気づいた様子もなく、血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、別の方向へと走り去っていった。

 その背中を見送りながら、ふん、とボルマンは鼻を鳴らす。

「目の前の大物に気づきもしないとは、農民上がりの無教養さには恐れ入るな……。尤も、ひたすら殺し合いに明け暮れてくれるのは、僕たちにとって好都合ではあるけどね」

 スターリン仕込みの農兵どもは知る由もないだろう、たった今ここで行われている戦いが――事実上赤軍の圧倒的優勢でしか有り得ないこの殲滅戦の構図が、その実ボルマンたちによって仕組まれたものであるということを。

「ボルマン卿。悦に入るには、まだ些か早いのでは?」

 シュトゥンプフエッガーが片目を眇めてこちらを窺ってくるが、別に構わないさ、とボルマンは不敵な笑みを零した。

「最後に笑うのは僕たちだ。――僕たちが〝聖杯〟を手に入れた暁には、この忌まわしい黄昏を覆してやるともさ」

 忠誠こそ我が名誉。我が君の遺命、ここに果たしてみせようぞ。

 

 

 ――聖杯。

 それはかつて、救世主の血を賜ったとされる聖なる杯。

 そして、手に入れた者のあらゆる願いを叶えるとされる、万能の願望機。

 即ち――不可能を可能にする奇蹟の具現。

 しかし真実の聖杯を手にした者はおらず、だからこそ伝説の域を出ないともされている。

 事実、遺産継承局が八方手を尽くして探し回ったらしいが、それでもやはり聖杯を見つけ出すことは叶わなかったらしい。

 ならば、とそこでコロンブスの卵を立てたのは、果たして誰だったであろうか。

 或いはそれは、職員の誰かが冗談交じりに発した一言に過ぎなかったのかもしれない。

 ――「ならば我々の手で聖杯を造り上げてしまえば良いではないか」

 

 聖杯錬成――伝説上に謳われる〝万能の釜〟を、人の手を以て再現しようとする試み。

 そんな夢物語が現実味を帯びたのは、遺産継承局の門を叩いた一人の少女の存在だった。

 一九三九年十二月二十四日。とある高官と青年士官が束の間の邂逅を果たしたその直後に、運命は動き出していた。彼らと入れ替わりに、白い少女が舞台へと登壇していた。

 魔道の名門〈アインツベルン〉の出身だと名乗るその少女は、こう宣った。

 そも聖杯とは救世主の血を賜った聖なる杯。然らば――それに匹敵するだけの質と量の血を器に注げば、聖杯の召喚が叶うというのもまた道理、と。

 

 

「カイザー・ヴィルヘルム教会、ブランデンブルク門、帝国議会議事堂、ベルリン大聖堂――」

 自然と口を衝いて出たその地名は、帝都を象徴する名所の数々。

 そしてボルマンの意を汲んだのか、シュトゥンプフエッガーもまたその髑髏のような相貌に薄い笑みを貼り付けて、彼の言葉を引き継いだ。

「シャルロッテンブルグ宮殿、勝利記念塔(ジーゲスゾイレ)工芸学校(バウハウス)、そして最後は……ああ、ペルガモン博物館でしたか」

「そうさ。その八ヶ所で血の紋が開かれる。――この帝都(まち)総統の御印(ハーケンクロイツ)が刻まれるんだ、さぞや絶景だろうね!」

 スワスチカ――都市に刻まれた鉤十字。聖杯を顕現させるための巨大な魔術礼装。

 その各所において生贄を捧げることで聖杯が成るという仕組み。そして偶然か必然か、この帝都ベルリンに張り巡らされた霊脈はまさしくスワスチカを敷設するにうってつけの形状をしていたのだ。

「総統閣下の慧眼には恐れ入ったよ。あの方の都市改造計画が実現していれば、もっと効率よく聖杯錬成を実現に漕ぎ着けられただろうにね」

 その一方で、この事実もまた認めざるを得ないだろう。〈アインツベルン〉の継嗣を名乗るあの白い少女――儀式の成就を見届けることなく姿を消した謎多き魔女の言に、しかし何一つ間違いはなかったということを。

 周囲の喧噪が過ぎ去った一瞬を見逃さず、ボルマンは橋桁の下を出て再び路地へと駆け上がる。

「さあ、行こうぜ、先生。レアター駅からなら見届けられるはずさ、この儀式の結末を。総統閣下の追い求めた理想が成就するその光景を」

 それらを余すところなく見聞きし、そしていずれ黄泉の淵より甦られる総統閣下にお伝えするのだ。それこそがボルマンに課せられた使命――総統より携わった遺命。

 かっ、とボルマンは刮目する。これから繰り広げられるであろうありとあらゆる事象を、この双眸に焼き付けるために。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()まで、きっとこの光景を忘れることはない。堅固な誓いを胸に抱いた、その瞬間。

 

 ―――――〝彼女〟の絶叫が鼓膜を震わせた。

 

 否、それは正確には鼓膜よりもずっと奥深くにある何か。体内の最深奥に宿る何か。

 霊覚を通じて感じ取った悲鳴が、魂を震わせたのだった。

 一体何が起こったのか。ボルマンの頭脳が高速で回転する。真っ先に思いついた可能性は、聖杯錬成に何らかの瑕疵が生じたということ。理屈ではなく直感として、そういうイメージが脳裏を駆け抜けていた。

 或いはそれは一抹の不安が見せた幻覚だったのかもしれない。けれども一度そういう感情を懐いてしまった以上、ボルマンは焦燥感を無視することができなかった。

「くッ…!」

 弾かれたようにボルマンは駅の中へと駆け出していた。背後からシュトゥンプフエッガーが制止する声など耳に入らない。

 認めぬ。認めぬ、認めぬ、――認めぬ。

 断じて認めぬ。聖杯錬成の成就は総統の悲願にして至上命令。聖杯なくしては総統の復活は有り得ない。総統の帰還を果たせない。

 ゆえに認めてはならぬ。このような結末を、断固として――。

 そして――変化は唐突に訪れた。

 ぐしゃり、と足場が崩れ落ちるかのような感覚に囚われたのは、駅の構内に転がる赤軍兵士の遺体を塵も同然に踏み抜こうとした時だった。奇妙な感覚にふと足許を見下ろすと、右足の膝から先が砂塵のように崩れ去っていた。

「……え?」

 痛みはなかった。幻肢痛すら抱く余地がなかった。最初からそういうものであったと言わんばかりに、体の一部が忽然と消え失せていた。

 否、今なお消失は続いている。

 左足が、右手の中指が、顎の先が。全身が砂像と化しては、たちまちさらさらと零れ落ちては、何者かに喰らわれているかの如く、虚空へと呑み込まれていく。

 何だこれは。何なのだ。

 疑問符が脳裏の片隅でで明滅する一方で、ボルマンのその怜悧にして冷徹な頭脳はこの事態が意味するところを正確に理解していた。

 即ち――聖杯錬成は失敗したのだと。

 少なくともそれは彼の、彼ら総統閣下の忠臣たちの思い描いた形にはならなかったのだと。

 そして眼球の消失と共に、その視界も虚無に覆われていった。

 

「…………」

 ボルマンの意識は、悲嘆という名の波が荒れ狂う涙の海に沈んでいるところだった。

 言うまでもなくこの涙は百人や二百人どころの流したものではない。千人でもまだ足りない。万人でも未だ及ばない。おそらくは――二十五万人。

 ボルマンは気づく。これは涙の形を以て現れた絶望だ。聖杯錬成のための尊い犠牲となったドイツ国民たちの悲嘆と憤慨が、涙の海という形を成して、聖杯の中で渦巻いているのだ。

 やがて自分もまた、この海の一部として溶けていくのだろう。予想でも悲観でもなく、ただの現実として、その事実をボルマンは甘受していた。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと。涙の海を揺蕩いながら、微睡みの中でふとボルマンは思う。

 彼らの目指した聖杯錬成は成らなかったが、しかし現にこうして聖杯を造り上げることには成功していた。それは誇るべき栄誉だろう。総統もお喜びになられるに違いない。

 だからこそ、忘れてはならない。この聖杯は誰がためにあるものなのかを。

 忠誠こそ我が名誉――この聖杯は総統にこそ捧げられるべきもの。否、総統にのみ捧げることが許されるもの。他の誰でもなく、総統閣下ただ一人だけが、この聖杯を賜るに相応しい。

 ゆえに――この聖杯は誰にも渡さない。

 総統を除く誰一人として、この聖杯に手を触れてはならない。

 ボルマンは最期の気力を振り絞って、あらん限りに声を上げた。最後の忠臣として、意識が闇へと呑み込まれるその寸前、彼は迷わず己の義に殉じることを選んだ。

 

「―――聖杯を望む者に災いあれッ! ジークハイル…、ヴィクトーリアァァァッ!!」

 



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悲劇の誕生

 ―――――気がつけば、焼け野原にいた。

 

 美しかった帝都の街並みは廃墟と化し、地面は瓦礫と灰燼に埋め尽くされていた。

 男が死んだ。女が死んだ。老婆が死んだ。赤子が死んだ。

 犬が死に、牛馬が死に、驢馬が死に、山羊が死んだ。

 滅尽滅相――息ある者は一人たりとも残らなかった。

 その中で、原形を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。

 この周辺で生きているのは自分だけ――少女は一人呆然と立ち尽くす。

 誰に呼びかけても、何に呼びかけても、返ってくる言葉はない。

 ただ遠く、銃声と砲音によって奏でられる葬送曲が耳朶を叩く。

 当て処もなく、少女は歩き出す。逃げるように、少女は走り出す。

 ここにいてはいけない、と彼女の直感が囁いていた。

 思い出してはならない、と彼女の理性が叫んでいた。

 だが残酷にも、すぐに少女は追い着かれてしまった――理解が追い着いてしまった。

 そう、これは当然の帰結だと。

 なぜならば――全てを喰らったのは他ならぬ彼女自身なのだから。

 かくして少女の絶叫は、遠く忠臣たちの魂を震わせたのであった。

 

     †

 

 とある少女の話をしよう。

 誰よりも理想に燃え、それゆえに絶望することとなった少女の物語を。

 

 その少女の夢は初々しかった。

 この世の誰もが幸せであって欲しいと、そう願ってやまなかっただけ。

 心優しき少女であれば、誰もが一度は胸に抱いたことがあるだろう、崇高な理想(ユメ)

 けれども、どれほど心清らかな少女であろうとも、現実の大きさと重さはその手に余ることを理解し諦めてしまう、幼稚な幻想(ユメ)

 けれどもその少女は違った。

 彼女が内側(こころ)に持っていたのは、善良さと謙虚さ、誠実さと素朴さ、そして信心性。――ただ、それだけだった。

 つまるところ彼女は誰よりも愚かだったのかもしれない。どこか壊れていたのかもしれない。

 理想と現実との間にどれほどの乖離があるのかということを、彼女は理解していなかった。或いは理解してなお、それを問題としていなかったのかもしれない。

 そして幸か不幸か――その少女の非凡さは心の有り様に限られたものではなく。

 彼女の外側(からだ)は特別だった。超人と呼ばれる類の、常識を逸した資質を秘めていた。

 究極の母胎――そう呼ぶに差し支えのない稀少な肉体だった。

 

 ――聖杯の器。

 彼女がその名誉ある任を賜ったのは、一九四二年の夏のことであった。

 元より彼女も所属していた〈ドイツ女子同盟〉は優れた母胎を開発するために運営されている組織であるが、その真の目的は聖杯を受胎するに相応しい人材を発掘することであったらしい。尤も、その辺りの政治的な事情など彼女にはあまり関心がなかったが。

 彼女はただ、夢を叶えたいだけだった。この世の誰をも幸せにしたいと、幼い頃から胸に抱いていたその夢を、現実にしたいだけだった。

 だから彼女にとって、その話は天恵も同然だった。聖杯――万能の願望機。本当にそのようなものになれるのであれば、きっと自分は世界中の人々に幸せを分け与えることができるに違いない。彼女はそう希望を懐いて、その使命を受け容れた。

 あたかも天使になったかのような心地で、太陽を目指して羽撃いていった。

 

 しかし――それが蝋で塗り固められた偽りの翼に過ぎなかったことを、彼女は事ここに至ってようやく理解した。一九四五年五月一日。偶像の黄昏を目の当たりにして、初めて己の浅薄さを自覚した。

 崩落する帝都。その裏で執り行われる聖杯錬成の儀式。

 市街の各所で開かれるスワスチカ。無数の魂が一斉に彼女の胎内へと雪崩れ込む。彼女の意思とは無関係に喰らわされていく。形なき思念を咀嚼し嚥下する。

 憎、恨、忌、呪、滅、殺、怨。総勢二十五万にも及ぶドイツ国民の絶望が――ありとあらゆる負の感情が彼女の裡を浸蝕する。

 人格が摩耗されていく。自分が自分でなくなっていく。自分が磨り潰されていく。

 遂には正常な感性の耐えうる許容量を超えて、自然とその喉の奥から絶叫が迸る。

 おそらくこの瞬間に、彼女の心は完全に死んだのだろう。けれどもその肉体は限りなく不死に近く、ゆえにその人格の残滓が、生きているふりをするために、ゆるりと首をもたげる。

 刷り込み(インプリンティング)。その少女が目覚めと共に耳にしたのは、一人の男から放たれた渾身の願い。さながら殉教者を思わせるほどの凄烈な渇望。涙の海をたちまちに染め上げる一滴の墨。

 ―――聖杯を望む者に災いあれ。

 生まれたばかりの願望機に捧げられた、最初で最後の祈り。

 

     †

 

 その願い、確かに聞き届けたぞ。少女はにぃと唇の端を吊り上げる。

 

 男を殺せ。女を殺せ。老婆を殺せ。赤子を殺せ。

 犬を殺し、牛馬を殺し、驢馬を殺し、山羊を殺せ。

 

「滅尽滅相――息ある者は一人たりとも残さない」

 



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