勇者の後始末人 (外清内ダク)
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勇者の後始末人

 

 

 夜が、怯えている。

 少女ナジアの目に、村の光景はそう映った。あちこちに焚かれた貧弱な篝火。広場に固まってじっと息を潜める住人たち。その周囲を取り囲み、彫像のように動かぬ数百の軍勢。言葉にならぬ緊張の中に、生温い夏の夜風が音もなく吹き付け、不吉な気配ばかりを運んでくる。

 騎士団が手にする槍は鉛のごとく。身体を包む帷子(かたびら)は氷のごとく。陣を守るはずの木柵さえ、今は牢のごとく思われた。武器も防具も、みな人を縛める鎖に過ぎないのやもしれぬ。なまじ剣など持ったがために、見え透いた死地に向かわねばならぬ。なまじ鎧を頼んだがために、逃げ出す機会を見失う――

「大丈夫だよ、姉ちゃん」

 今年で8つになる弟が、妙に大人びた優しげな手つきでナジアを撫でてくれた。

「怖くなんかない。勇者さまがやっつけるさ」

 ナジアはぷいと顔を背けた。弟の無邪気は幼さゆえか、男児ゆえか。彼より4年分ほど余計に世間を知ってしまったナジアには、弟の根拠なき楽観が耐えがたく不愉快だった。

「勇者さまなんて来やしない」

 小声で、早口に。恋人の不貞を咎めるがごとく、ナジアは呪詛を口にした。

「来てくれるわけがないんだ」

 

 

     *

 

 

 (ヴルム)が姿を現したのは、ひと月ほど前のことだった。

 はじめは村から丸一日分も離れた森の中で。熊狩りに出た狩人たちが、見上げるような巨体と遭遇したのだ。幸いその時は満腹であったらしく、狩人たちは生きて戻ることができた――5人のうち2人だけではあったが。

 それで人間の味を覚えたのか、(ヴルム)はたびたび目撃されるようになった。その都度犠牲者の数は増えていった。そしてその狩場は、日に日に村へと近づいてきたのであった。

 遠からず(ヴルム)は村を直接襲うだろう。そう予見した村長は、街に人を遣り救援を求めた。さる勇猛な騎士団が竜退治に名乗りを上げ、軍勢を引き連れて馳せ参じた。村人たちは勇者を讃え、盛大に出迎えた。これでもう安心だと誰もが口にした――ヒゲの立派な騎士団長も、村の大人たちも、そしてナジアの弟も。

 だが、ナジアの心が安まることはなかった。

 ――勇者など頼りになるものか。

 彼女の中には、冷たい諦観が満ちていたのだ。

 まだ母が生きていた頃、寝しなによく聞かせてくれた。魔王と戦う勇者のことを。

 伝説の魔剣に選ばれし勇者、その冒険の物語。苦難の旅路をともに歩むは、麗しき剣聖と謎めいた魔法使い。魔王軍に支配された街を解放し、並み居る魔物を蹴散らして、ついに宿敵、魔王を討つ――

 当時4歳だったナジアは、まるで見てきたように語る母の言葉に夢中になったものだ。勇者さまは人々の希望の光。苦しくても諦めてはいない。きっと勇者さまが助けに来てくれる。無邪気にそう信じていた。

 だがある日、母は魔獣に食い殺され、後にはナジアと乳飲み子の弟のみが残された。

 勇者は、来てはくれなかった。

 その時、ナジアは一切の希望を捨てたのだ。困った時には心優しい強者が都合よく助けてくれる、なんて、甘っちょろい夢物語だ。彼女は現実の世界を生きねばならなかった。弟も生かさねばならなかった。

 頼れるものはただひとつ。

 自分だけだ。

 

 

     *

 

 

 夜が深まるにつれ、重苦しい不安もまた膨れ上がっていった。この時にはもうハッキリと知れていた。騎士団も村の大人たちも、心から安堵していたわけではないのだ。大丈夫だと思い込まねばどうかしてしまいそうで、お互いにそう言い聞かせていただけなのだ、と。

 胸の張り裂けそうなほどの緊張に耐えかねて、ついにある兵士が口を開いた。

「一体、その――」

 年かさの農夫がそれに気づき、

「いけません」

 と、押し留める。

 兵が眉をひそめていると、農夫は岩の擦れるような声で続けた。

「山の言葉に言います。

 “獣を喚ぶ。獣は来る”」

 兵は黙った。いかにも迷信じみた言い伝えを信じ込んだものだろうか。あるいは――彼は由緒正しい騎士の家に生まれた血気盛んな若者であったから――泣き言を晒す恥を嫌ったのであろうか。

 ところが、その後の念押しが良くなかった。

「獣を恐れてはなりません」

 それを聞くや、若き兵は力強く地を蹴るさまを見せつけるように立ち上がった。老人の言葉は、若者の誇りに引っかき傷をつけるのに充分な鋭さを持っていた。真実を言い当てていればこそ。

 兵士は老人を睨みつけると、泣き叫ぶようにまくし立てた。

「恐れるものか! 竜など――」

 “獣を喚ぶ。獣は来る”

 喚び声に応え、世界が揺れた。

「来た!」

 ざわめきが拡がる。兵たちが一斉に腰を浮かせ、めいめいの武器を引っ掴む。子供が泣きだす。村人たちは団子に固まる。再び揺れる。揺れる。揺れる。振動は次第に激しさを増し、人々の不安を掻き立てていく。

 誰かの引きつった悲鳴が聞こえた。

 世界の主が、森の奥底から這い出てくる。

 途端、巨体が月も星も遮って、篝火の赤に浮き上がった。目にしただけで押しつぶされそうなほどの体躯。黒々とぬめる鱗。千年の大樹よりも太い両脚。無数に突き出した乱杭歯。瞼が、バチリと音を立てて開き、黄ばんだ瞳が矢のように獲物を射抜く。

 “鱗の(ヴルム)”!

「撃てェッ!」

 騎士団長が恐怖に駆られて怒号を飛ばす。矢が飛ぶ。(ヴルム)に降り注ぐ。訓練された兵たちが力の限り引き絞って放った矢の雨は、しかし、鋼よりも硬い鱗に弾かれ落ちる。事も無げに(ヴルム)が一歩踏み出す。揺れが恐怖となって下腹を突き上げ、弓兵の手が止まる。次なる命令が走り、槍兵たちが殺到する。

 だが押し寄せる軍勢に、(ヴルム)は、嬉しそうに目を細めた。

 ――ごはん、いっぱい。

 (ヴルム)が首を高くもたげた。腹の奥が蠢いて、塊が喉元にこみ上げた。来るぞ! 誰かが叫ぶ。逃げろ! 悲鳴が渦巻く。兵たちは走る。逃げる。誰かが転び、手を貸すものの一人とてなく、絶望の怨嗟が不気味な弦楽のように響き渡り。

 (ヴルム)の歯が火花を散らす。

 次の瞬間。

 口から噴きでた爆炎が、村の四半を薙ぎ倒した!

 炎の息、などという生易しいものではない。一瞬にして辺りを剥き出しの荒野に変える爆発。避ける術などあろうはずもない。騎士団の半数が息絶え、うち半数は五体ばらばらに千切れ飛び、さらに半数は跡形も無く消滅した。団長の姿ももはやない。残る兵たちは風に吹かれた塵のように四散していく。

 残り火を口元に揺らしながら、(ヴルム)は制圧した絶望の荒野をのし歩いた。

 目指すは身を寄せ合う村人たちだ。彼らは逃げない。逃げられない。頼みの綱の騎士団を、勇者たちを一蹴され、もはや村人には(すが)る先など残っていない。ただ恐怖に駆られ、縮こまることしかできないのだ。

 それが無性に腹立たしい。

 ナジアは突然立ち上がり、雄叫びをあげ、村人の輪から飛び出して、助走をつけた全力投球で(ヴルム)に石を投げ付けた。

 卵ほどの小石が(ヴルム)の鼻先に命中する。その不気味な怒りの眼が、ちっぽけなナジアをビタリと捉えた。

 ああ、怖い。怖くないわけがない。

 それでも。

 ――戦うんだ! 私自身が!

「こっちだ! 来いっ!」

 一声叫び、ナジアは逃げ出した。(ヴルム)が追って来ることを、心の中で祈りながら。

 

 

     *

 

 

 なぜあんなことをしてしまったんだろう。

 涙を浮かべ、息を切らせて林の中を駆けながら、ナジアは早速後悔していた。

 後ろを見れば、(ヴルム)が巨体を左右に揺すり、木々を薙ぎ倒しながら追ってきている。その目には興味とからかいの色が見える。

 本能でナジアは察した。やつは遊んでいるのだ。いきのいい獲物を追い回し、逃げ惑うさまを楽しんでいるのだ。

 どうして自ら飛び込んでしまったのだろう。こんな窮地に。

 楽に死のうと思えば簡単なことだった。あのまま目を(つむ)って、じっと丸まっていればよかった。そのうちに剣のような牙のひと噛みが、彼女を女皇さまの御許(あのよ)に送ってくれたことだろう。わざわざ辛い思いをして走る必要などなかった。ましてや、苦しみ抜いた末に無残な死を迎える必要など。

 それでもナジアは我慢ならなかったのだ。ただ座して、誰かの助けを待ち望んだまま、緩慢と死んでいくことが。

 それはささやかな復讐だったのかもしれない。あの日母を助けてくれなかった――そしてこの8年間手を差し伸べてくれなかった――あてにならない“勇者さま”への。

 やがて疲労が脚に絡みつき、ナジアはつまづいて転んだ。真っ暗な夜の林で転んだために、うまく手を付くこともできず、胸を強かに打ち付けてしまった。立ち上がろうとした途端、脚に激痛が走る。捻ったか、あるいは、折れたか。

 ――ああ、ここまでかあ。

 ついに――ナジアの目から、涙が零れた。

 なす術もなくへたり込んだまま、ナジアは(ヴルム)(かえり)みた。黒い影がゆっくりと迫り、目前に、山のごとく(そび)え立つ。

 ナジアの胸には満足感があった。これだけ時間を稼げば、弟も、他の村人たちも逃げることができただろう。ただ死ぬよりはずっと良かった。自分は生きた。そして、戦った。もう充分だ。

 ナジアそっと瞼を閉じた。

 ――ああ、それでも、本当は――

 牙が来る。

 

 

 その直後であった。

 

 

 絶叫。

 (ヴルム)の鼻先で光が弾け、闇が引き裂かれ、衝撃と轟音であたりの木々が震撼した。

 驚き、ナジアが(まぶた)を開く。彼女を噛み砕かんとしていたはずの(ヴルム)が、今や苦悶に身をよじり、仰向けに卒倒している。唸る地響き。巻き起こる砂埃。

 それら全ての脅威からナジアを庇い守るかのように、男が、そこに立っていた。

 身体を包む軽装の鎧。闇色をした分厚い外套。腰には長剣。背中には斧。腿にはナイフ。左手に槍。右手に(つぶて)を弄び、覆面の奥の狩人の目で、一分の隙もなく竜を睨めつける。

 その立ち姿は、さながら――

「勇者さま」

 呆然と呟くナジアに、男はひょいと肩をすくめた。

「違うね」

 肩越しに振り返った彼の目は、声に似合わず優しげだった。

「ただの害獣駆除業者さ」

 

 

 (うそぶ)きを残して“勇者”が奔る。(ヴルム)が怒りに狂って起き上がる。長い首が後ろに引いて(来る!)顎が矢よりも素早く迫るが、“勇者”の回避はそれより早い。(ヴルム)の牙は外套の裾を浅く切るのみ。

 その隙に“勇者”の槍が(ヴルム)の喉下に突き刺さる。無数の矢さえ弾ききった、鋼の鱗をも貫いて。

 再び(ヴルム)の悲鳴。パニックを起こした(ヴルム)は、丸太のごとき脚で“勇者”を蹴る。だが事も無げに彼は魔獣の腹の下に転がり込んだ。脚は虚しく中を薙ぐ。

 首を引くのは噛み付きの予備動作。

 喉元は鱗が薄い弱点。

 蹴りは足元に潜れば当たらない。

 “勇者”――否、獲物の全てを知り尽くした“狩人”の、剛猛なる斧が轟と唸った。

 分厚い刃が、(ヴルム)の膝を、横一文字に叩き割る!

 今度こそ恐怖の声を挙げ、(ヴルム)が真横に倒れ伏した。生まれて初めて味わう痛み。憐れを誘うわめき声。

 腹の下から飛び退くや、“狩人”は腰の剣を抜いた。が、とどめを刺そうと斬りかかったのもつかの間、横手から竜の尾が襲い掛かった。

 これは“狩人”さえ見たことのない攻撃パターン、全く予想外の一撃だ。避けきれず、恐るべき力で玩具のように弾き飛ばされ、彼は地面に数回跳ねた。

 痛み、と認識すらできない、全身が砕けたかのごとき衝撃。震える腕で身を起こそうとする。胃液が逆流する。血の混じったそれを吐き出す。

 這いずる“狩人”を狙い、苦し紛れに(ヴルム)が噛み付く。ほとんど転ぶようにして後退し、辛うじて避ける……が、剣を杖に立つのがやっとだ。

 “狩人”の苦しみようを目にして、気が奮い立ったのだろうか。(ヴルム)の瞳が、怒りに燃えた。

 首を高くもたげる。腹の奥から塊が込み上げる。あれは可燃性の液体を体内の燃料袋から吐き出そうとしているのだ。つまり――

 ――爆炎が来る!

 逃げられるか? 否、それよりも。“狩人”は弾かれたように振り返る。脚を負傷し、いまだ立ち上がることもできぬ少女がそこにいる。炎の息を放つのを許せば、彼女は確実に巻き込まれる!

 ――やるしかねえか。

 舌打ちひとつ。“狩人”は腰のナイフを抜いた。

「当たれよっ!」

 高く掲げた(ヴルム)の口めがけて、白銀の刃を投げつける。

 (ヴルム)の硬質の乱杭歯が、音を立てて噛み合う――その直前、ナイフが歯の隙間に見事突き立ち、火花の散るのを阻害した。

 喉元まで逆流してきた燃料液が、火種を奪われて不発に終わる。こうなれば燃料液は強酸性の薬液でしかない。(ヴルム)が呻いて、嘔吐する。

 その一瞬の隙を突き。

 “狩人”は疾風のごとく肉迫した!

 狙いは一点。鱗を持たず、一撃で致命傷を与えうる、(ヴルム)にとって唯一の急所。

 眼球。

 “狩人”の剣が真っ直ぐに走り、(ヴルム)の瞳を貫いた。それからひととき、静寂があって――

 やがて(ヴルム)は静かに身を横たえた。悲鳴も咆哮も挙げることなく、ゆっくりと眠るように息絶えた。

 それが(ヴルム)の最期であった。

 

 

    *

 

 

 ナジアは手近なところに木の枝を見つけ、それを杖代わりにしてなんとか立ち上がった。痛む足を引きずりながら、男の方へ近づいていく。

 ひと仕事終えた彼は、(ヴルム)の死骸のそばにへたり込み、全身虚脱といった面持ちで、ただ大口を開けて喘いでいた。一瞬の攻防ではあった――しかし、命を懸けた戦いは、ひとりの男を芯まで疲弊させるに充分なものであったのだ。

 彼はナジアに気付くと、軽く片手を振り、にやりと笑ってみせた。

「よう。無事か?」

「はい……勇者さま」

 男は気まずそうにそっぽを向く。

「だから違うって言ってんだろ……」

「違わないよ」

 ナジアは、杖を捨てた。

 痛みでふらついてしまったのを幸い、そのまま彼の胸に飛び込んだ。胸に頬を押し付けてみれば、力強く耳心地良い鼓動が伝わってくる。彼が戸惑っているのが分かる。ナジアの背中あたりで、彼の手が行き場なくうろついているのも。

 ばかなひと。抱き締めてくれても良かったのに。

 だから、こちらから行くことにした。ナジアは顔を上げた。そっと吐息を浴びせかけ、彼の鼻先で囁いた。

()()()()()()

 そしてもちろん、熱烈なキスを“勇者”に捧げたのであった。

 

 

     *

 

 

 勇者によって魔王が倒されてから、はや10年。

 世界は平和を取り戻したが、魔王軍残党たる魔族、魔獣、魔妖の類は統制を失って野生化・山賊化し、今なお人々を脅かし続けていた。

 

 そんな魔王の“遺産”どもを、金づくで始末する者たちがいた。

 かつて勇者にならんとして、果たせず挫折した中年男、ヴィッシュ。

 卓越した剣技を誇るも、生まれてくるのが遅すぎた女剣客、緋女(ヒメ)

 魔王の邪悪な血より創られし、呪われた天才少女、カジュ。

 

 歴史に名を刻むでもなく。人々の賞賛を受けるでもなく。煌めく伝説の裏側で戦う名も無き狩人たち。

 ひと呼んで――『勇者の後始末人』。

 



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第2話 “蝉の亡骸”
第2話-01 鍛冶屋ガーラン


 

 

 石畳の上に、蝉が一匹転がっていた。

 てっきり死んでいるのかと思ったら――やおら、黒い羽根をばたつかせて暴れ出す。熱した油の弾けるような泣き声をけたたましく撒き散らしながら、闇雲に飛び跳ね、墜落し、跳ね返る。

 もう終わりなのだ、こいつは。小さな虫のもがきは、哀れを誘う死の舞踏。

「蝉は10年土に埋もれる、て」

 ガーラン爺は蝉のような声で言った。

「やっとこ這い出てくると、あとは交尾して死ぬだけ、て。

 そんなら、飛び回るより、這い回るほうがずっと長い、つうて」

 内心を推しはかることさえできない無表情のままで、爺は鎚を振るい続けた。彼の手許で火花が飛ぶ。赤熱した鉄屑が綺麗な放物線を描き、次第に黒ずんで、やがて空気に溶け、消えた。

「そんなことは知ってるよ。それがどうかしたのか」

 ヴィッシュは穏やかに相槌を打ちながら、火花をじっと見つめていた。ヴィッシュの愛剣は今や太陽めいて赤く、打たれるたびに熱を増していくかに見える。ガーラン爺の何か――言葉にならぬものが、ひと打ちごとに刃に染みわたっていくかのように。

「蝉は本懐遂げたかや。いい女を捕まえたかや。そんで何かが残るかや」

 ヴィッシュは何も言えない。

「そこにおったんで、聞いてみただや」

「なんて?」

「どんな気分だ、つうて」

 

 

     *

 

 

 鍛冶屋のガーラン爺と出会ったのは、もう7年も前のことになる。近所(ところ)では有名な爺さんだった。たぐいまれな偏屈者で、どこのものとも知れない方言を話すと。そしてさらに有名だった。鍛冶の腕で右に出るものはないと。

 ヴィッシュからかけた言葉は一言、「頼む」とだけ。返答は火花と、打ち直された剣が一振り。それ以来、付き合いは絶えない。

 何しろ鉄と火花を心から愛しているような爺だ。剣だろうが槍だろうが鎚だろうが鎧だろうが、武具に限らず包丁、鍬、鋤、果ては鍋の鋳掛けから髪飾りまで、鉄と名の付くものなら見境なしに引き受けてくれる。そして、鋲一本にいたるまで納得のいく出来にならねば、決して品物を返そうとしない。

 それだけに、仕上がりは見事の一語に尽きる。おかげさまでヴィッシュの家の台所は、さながら爺さんの作品展示会がごときありさまだ。

「いい鍋には味がある。鍋の味が料理に染みつくのさ」

 今、ヴィッシュが得意気に振る鍋も、もちろんガーラン爺の作である。

「仕事上がりにこいつで肴の一つもこしらえて、夜風でも浴びながら孤独に一杯いくのが、俺の唯一の楽しみなんだが――」

 彼の眉がぴくりと震えた。

「――なんでそこにお前らがいるんだよッ!!」

「いい匂いがしたから」

「夕焼けに誘われたから。」

 台所から居間を睨んでみれば、そこに居座る女とガキの姿が見える。既にフォークをかまえて臨戦態勢。冗談じゃない。

 ひとりは、炎のような赤毛の女。年の頃は17、8。顔つきは幼いが目は猛禽のそれ。体は細身だが痩せているわけではない。雪のような肌の下には肉食獣のしなやかな筋肉が包まれている。東洋風の着物を艶めかしく着崩して、引き締まった股と胸をきわどいところまで覗かせている。それが寝椅子の上にあぐらをかいているものだから、ヴィッシュは目のやり場に困ってしまう。見るけど。

 名前は緋女(ヒメ)。どこがヒメだ。姫なんて上等なもんではない。断じてない。

 ふたりめは、長い金髪を自由放埒な髪型に編み込んだガキ。まだ10歳かそこらだろうか。ゆくゆくは素晴らしい美人になりそうに思えるが、他人を斜め上から見下(みくだ)すような目つきが全てを台無しにしている。

 名前はカジュ。ちょっと可愛い感じなのがまた腹立たしい。

「まったく、毎日毎晩タカりに来やがって……」

 ぶつくさ言いながら、ヴィッシュは完成した男の手料理を居間に運んでいった。今日のメニューは、夏野菜と豚肉のナッツ炒め。甘辛く濃いめの味付けに、コリコリと歯ごたえのある砕きナッツのアクセントがポイントだ。酒は泡酒(エール)か、麦の蒸留酒(スピリッツ)

 かぐわしい香りに、緋女(ヒメ)がヒクヒクと鼻をふるわせる。

「うんまそー♪ いっただっきまー……」

 がっ。と音を立て、振り下ろしたフォークがテーブルを貫いた。すんでのところでヴィッシュが皿を引っ込め、緋女(ヒメ)の向かいに座り込んだ自分の膝の上に乗せたのだ。

「やらん。俺のだ」

「あンだよ! ケチ!」

「金銭感覚に優れていると言ってもらいたいね」

「腹をすかしたイタイケな少女をほっといて、自分だけ食う気かよ」

「誰がイタイケだ、筋金入りのすれっからしが! そんなに食いたきゃ自分で作れ。キッチンくらい貸してやる」

「ひょっとすると台所が爆発しちゃうけどいい?」

「なんでだよ!? 一体何を作る気だ!?」

 いいかげん間の抜けたやりとりにも疲れて、ヴィッシュは大きく溜息を吐いた。こいつらが来るといつもこうだ。ヴィッシュはクールにいきたいのに、毎度毎度調子が狂わされる。これ以上はまっぴらだ。

「いいか? お前らとは前に仕事で一回関わっただけだ。仲間でもなけりゃ友達でもねえ! つきまとわれちゃ迷惑なん……」

 と、言いかけたところで、ヴィッシュは気づいた。

 さっきから沈黙を保っていると思ったら――ガキのほう、カジュが静かに、俯いている。ソファの隅に縮こまって。小さな細い肩を、もっと小さく震わせて。

「……おい?」

「……っく……」

 ――泣いてる!?

 ヴィッシュは慌てた。泣かせたのか? 俺が? 泣かれたって困る。こっちは理屈を言ってるだけだ。女子供だからといって泣けば何でも解決すると思うなよ。とは思うのだが――涙がこぼれた! 今、ついにこぼれた! 表情こそ見えないが、カジュの膝の上、握りしめた拳の上に、ふたしずくの涙が落ちて、小さな透明の円を描き出す。ヴィッシュは思わず膝の上の皿をテーブルに戻し、腰を浮かせて立ち上がる。

「おい、何を……」

「ごぇっ……ごめん……そんっ……」

「あのな、泣かれたって……」

「あーあ。泣ーかした」

 緋女(ヒメ)が茶々を入れる。

「うるっせえな!」

 ヴィッシュは声を裏返す。

 だが大声に反応してカジュの肩が一際大きく震えたのを見て取ると、それどころではないと思い直した。まずはとにかく、このガキを鎮火させるのが第一だ。柄にもなく床に膝を突いて身を屈め、座っているカジュの頭よりさらに下に自分の頭を持ってくる。上から目線じゃダメだ、こんなときは。

「おい、あのな、泣いてたって分からねえよ。言いたいことがあるなら言ってみな。別に怒りゃしねえから」

「……ぅ……ボク……この街で、知ってる人、いなくて……甘えちゃって……ごぇんなひゃい、友達じゃらいのに……!」

「いや、あのな、俺は別に、そういう意味で言ったんじゃないんだ」

「ないのか?」

 緋女(ヒメ)が茶々を

「うるせえって! ああクソッ、大声出して悪かった。泣くなよ……しょうがねえな……あーわかった、わかったよ。メシくらい食って行きゃいいだろ。その代わり、仕事の時にはお前らにも手伝ってもらうからな!」

「……じゃあ……」

 ヴィッシュは溜息を吐いて、そっぽを向いた。多分それは、照れ隠しだったのだが。

「ほら。さっさと取ってこい。そこの鍋にお前らの分もあるからよ」

「わーい♪」

「いっただっきまーす。」

 ……………。

「……おいチビ」

 ヴィッシュが唸るような低い声をあげると、さっそく鍋にたかりにいったカジュが、涙の「な」の字も見えない目で、冷徹にこっちに視線を向けてくる。

「カジュですが何か。」

「『何か。』じゃねーだろ! 嘘泣きか!」

「失敬だね……優れた一時的疑似感情表現と言ってもらいたいよ……。」

「嘘泣きじゃねーか! ……あれ? 俺の分は?」

「いやーウマかったーお腹いっぱい! あたしゃこの時のために生きてるのよー」

 と、ぽっこり出っ張ったお腹をさすっている緋女(ヒメ)の前に、どさくさ紛れに食い尽くされたヴィッシュの分の皿。

「やっぱ出てけお前らァ!!」

 そういうわけで――

 陰気で知られたヴィッシュの家が、最近見違えて賑やかになったと、近所ではもっぱらの評判である。

 

 

     *

 

 

 第2ベンズバレンは戦後復興計画の中核として建造された新しい港町だ。莫大な量の輸入品・輸出品を運ぶため、街の中央には背骨のような大通りが真っ直ぐに走っている。石畳に覆われた清潔な道、その幅は馬車十台が一列横並びになって走ってもまだ余裕があるほど。この道が巨大な城門を抜けてそのまま街道になっており、その果ては王都ベンズバレンの大広場にまで繋がっているという。まさに王国の大動脈――これが通称、“無制限街道”である。

 数日後には着工10周年の記念パレードがここで開催される。パレードには国王陛下も参列するという。その準備もあってか、大動脈は連日休むことなく脈打ち続けている。

 港を目指す人の波は絶えることなく、さながら悠然たる大河のようであった。頭に荷物を載せた女が、どこかの商家の丁稚小僧が、馬が、馬車が、観光客が、玩具を手にしたガキどもが、怪しげなごろつきやヤクザ者までもが、大河に身を浸し、共に流れ、時に支流へ別れ、混ざり合い、ぶつかり合いながら、今日という日を生きている。

「女子供は気楽でいいぜ、まったく」

 と、ぼやくヴィッシュもまた、その中の一人。どちらかというと、ゴロツキの一種。いつもの細葉巻を口にくわえ、背中を丸めて、難しい顔して歩いている。

 ざわめき蠢く大通りから脇道にそれ、複雑に折れ曲がる通りを進むうち、周囲の街並みはだんだんいかがわしく変化していった。旅人を迎え入れる石造りの大手ホテルは、下級船員御用達の木賃宿に。輸入の絹織物を扱う商店は、商品の出所も怪しい古着屋に。落ち着いた雰囲気の洒落たデュイル料理店は、湯気を立てる油麺が評判のボロ屋台に。お供を引き連れ馬車で行く令嬢は、肌も露わに男の手を引く美しい女達に。

 薄汚い裏通りだが、まあ、こっちのほうが落ち着くというのがヴィッシュの正直な感想であった。

 ガーラン爺の工房は、ここから更に奥まった、貧民街の一角にある。石畳もなく土剥き出しの小道を行けば、打ち捨てられた廃屋のような建物が目につき始め、徘徊する乞食や()()()()な傭兵くずれが、イヤな目で睨んでくる。

 人を見たら盗人と思え、というのはここのことだ。油断なく周囲に気を配りながら、ようやくヴィッシュは工房のある界隈までたどり着いた。浮浪者の姿もないうらぶれた路地の向こうに、目指す工房の姿が見える。

 と。

 ヴィッシュは足を止め、反射的に物陰に身を潜めた。ガーラン爺の工房から、出てくる男がひとりいたのだ。ボロ布のフードを目深にかぶり、顔を隠した見るからに怪しげな男。一瞬だけ見えた口許に思い当たるものがあって、ヴィッシュは眉をひそめる。

 ――あの顔、どっかで……

 ひとしきり悩むが、僅かな情報におぼろげな記憶ときては、思い出せようはずもない。

 そのうちに男はどこかへ姿を消した。

 ――ま、いいか。必要なことなら、そのうち思い出すだろ。

 

 

     *

 

 

 虫食い穴だらけのドアを開けば、そこは鍛冶道具で埋め尽くされたガーラン爺の仕事場だった。金てこ、鎚、(かまど)、火バサミ、炭の袋に、古い鉄釘、その他用途の知れない様々な何か。その中心で、自分も鍛冶道具の一つであるかのように胡座(あぐら)を掻き、爺さんは一心に砥石をいじっている。

「爺さん、俺だよ。仕上がってるか」

 返事はない。ただ、爺さんが白髪の奥の目を、ちらりとこちらに向けただけだ。よく見れば、爺さんが研いでいる剣は、昨日ヴィッシュが刃こぼれ直しを頼んでおいた愛剣であった。なるほど、今、最後の仕上げ中というわけだ。相変わらず愛想のない爺さん。ヴィッシュは思わず笑みをこぼす。

「分かった。しばらく中で待たせてもらうぜ」

 返事はない。なら、いいということだ。

 待っている間の手持ち無沙汰に、ヴィッシュは工房の中をあれこれ見て回る。ヴィッシュは道具が好きだ。金物屋で主の手に渡るのを待つ新品を見るのも好きだが、使い込まれた骨董品を眺めるのは格別である。何の変哲もない金鎚一つとっても、使い手の好みによって柄の太さ、長さ、形、重み、留め具の形状まで、全てが異なっている。その微妙な変化も、染みついた手垢の色も、爺さんの仕事ぶりを空想するには充分すぎた。

 ふと、自分がその鎚を振るっている姿を想像する。ずっしりと手に来る重み。持ちあげ、振り下ろし、飛び散る火花。鉄の硬さが跳ね返ってくるような、鎚越しの手の感触を思い浮かべるだけでワクワクしてくる。つい、鎚を触りたくなってくる。

 ……という具合に、以前、道具に触れてしまって、めっぽう爺さんに怒られた。今は我慢するようにしている。

 ふと、鍛冶道具の中に、場違いな髪飾りがひとつ飾られているのに気付いた。素材は銀か。今は見る影もなくくすんでしまっているが、かつては、貴族の令嬢の黒髪にも、花嫁の白いヴェイルにも、鮮やかに映えたに違いない。

「へえ。爺さん、銀細工もやるのか?」

 剣を研ぐ音が止まった。

 珍しい反応に、ヴィッシュは驚いて振り返る。爺さんが手を止め、何事かじっと考えるように、刃に映った自分の顔を見つめている。

「売り物じゃねえだや」

「大事なもんか」

「かみさんの」

 再び、爺さんの手が動き出した。砥石の上を刃が滑る、鋭い音が聞こえてきた。

「女皇さんにお呼ばれして。もう30年もどらねえ。

 みんなみんな、もどらねえ」

 ヴィッシュは頭を掻いた。悪いところに突っこんでしまっただろうか。話題を変えようと考えを巡らし、浮かんできたのは、さきほど見かけたうさんくさい男のことだった。

「なあ爺さん、さっき誰か来てただろ。客かい?」

 返事はない。

 沈黙が工房を支配した。

 しばらくして、爺さんはヴィッシュの剣を水で清めると、汚れた布でさっと一拭きし、壁の虫食い穴から差し込む陽光に刃を照らした。芯鉄が生き生きと伸び、刃金が線を引いたような繊細さで澄ましている。ヴィッシュは息を飲んだ。見よ、この迫力を。これだから、他の鍛冶屋に剣を預ける気が起きない。

 爺さんは無言で、だが完全な自信を湛えた目で、ヴィッシュに剣を差し出した。ヴィッシュは受け取った刃をじっくりと見つめ、惚れ惚れしながら鞘に収めた。

「お疲れさん。いい仕事してくれるぜ」

 と。

 そのとき、小さな音がした。初めは、立てかけておいた鞘か工具が、はずみで倒れたのかと思ったのだ。とても小さく軽い音だったから。だからヴィッシュは、何気なく視線を愛剣から持ちあげただけだった。

 事態を見て、声を挙げるまでには、思いのほか長い時間を要した。

「……爺さん!」

 倒れていたのはガーラン爺だったのだ。

 

 

(つづく)

 



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第2話-02 凶敵

 

 

 ヴィッシュにできることは限られていた。周辺住人に声をかけ、小遣いをやって医者を呼びに走らせる。その間に爺を工房の奥の、寝室だか居間だか分からないようなボロ部屋に運び込む。楽な姿勢を作って爺を寝かせた後、熱があることに気が付くと、汲んだばかりの冷たい井戸水に布を湿らせ、額を冷やしてやる。

 医学の知識などこれっぽっちもないのが恨めしい。そこから先は、医者をただ待つことしかできない。

 旧知のモンド先生は馬で駆けつけて来てくれた。そんなに呑気でいいのかとやきもきするほど冷静に、だが確実に、モンド先生は処置を施した。脈を取り、呼吸を計り、持参した薬を飲ませ、患者が落ち着いたのを見て取ると、自慢の口ひげを撫でながら、そそくさと出ていった。その間、言葉はたった一言、

「安静にな」

 とだけ。

 ガーラン爺が意識を取り戻したのは、モンド先生が出ていったその直後のことだった。

「わし、どうかや……」

 消え入りそうな声で爺は言う。

「医者、なんだ、つうて……」

 ヴィッシュは可能な限りいつも通りの笑顔を作り、

「俺は何も聞いてねえよ。ま、モンド先生は名医なんだ。言うこと聞いて大人しく寝てな」

 爺は何も言わない。表情からも、何も見えない。

 いたたまれなくなって、ヴィッシュは立ち上がった。

「俺、先生を送ってくるよ」

 

 

     *

 

 

 モンド先生を乗せた馬の手綱を引き、ヴィッシュは日の暮れ始めた貧民街を、足を引きずるように歩いていた。西に向かえば、沈みゆく夕陽が目に突き刺さる。影が後ろに長く伸び、どこまで続いているかも分からない。

 暗く、暗く、深く、深く、伸びて、広がって――

「どうですかね」

 やっとヴィッシュは一言発した。これだけのことを尋ねるのに、たっぷり30分は躊躇(ためら)っていたのだ。

「いかんなあ……」

 少し、無言。ややあって、

「いかん……ですか」

「ああ……いかん」

 モンド先生は、鞍の後ろにくくりつけた道具箱からパイプと刻み煙草の袋を取り出し、硫黄燧火(マッチ)で火を付けた。白い煙が、ほとんど見えないほどの細さで空に立ち上り、風に溶けて消えていく。

「血に毒気が回っとるし、内臓もあちこちやられとる。命があるのが不思議なくらいだわ」

「どのくらい保ちます?」

 冷静な自分に腹が立つ。

「そうなあ、まず5日……いや、10日は保たせよう。痛みも薬で散らせるよ」

「……よろしくお願いします、先生」

「そりゃいいが、あの爺さん、金は持っとるのかね? 薬代だけで金貨で6枚にはなるぞ。

 わし、人情でただ働きはせんよ」

 ヴィッシュは懐を探り、財布にしている小さな革袋の口を開くと、中身にちらりと視線を落とした。

 あるのは金貨が3枚きりだ。仕方なく、それを先生の小さな皺だらけの手に握らせた。

「とりあえず5日分。残りは後日」

「まいどあり。確かに10日分」

「え?」

 なっはっは、とモンド先生は軽く笑う。

「お前さんは運がいい。わし、今ちょうど半額セール中なんだわ」

 不器用な老人のウィンクに、ヴィッシュも思わず笑いを零したのだった。

 

 

     *

 

 

 夜は来る。人が落ち込んでいようが、楽しんでいようが、構うことなしにだ。

 日が沈み、第2ベンズバレンを夜のとばりが包み込み、丸い月が上天にかかってもなお、この街が眠りにつくことはない。昼間港や大通りにあふれていた人波は、日暮れとともに歓楽街へ飲み込まれていく。煌々と灯る色とりどりの光の下で、人々は、灯り油の無駄遣いをしながら夜の営みに勤しむのだ。

 夜通し続くお祭り騒ぎをどこか遠くに聞きながら、やはりヴィッシュも、眠れずにいた。居間に灯りもつけず、寝椅子に仰向けになり、暗い天井をじっと見つめたまま。

 夜は来た。いずれ朝も来る。夜と朝が過ぎ去れば、一日が手の届かぬ場所へ流れていく。簡単なものだ。寝ていても、歩いていても、笑っていても泣いていても、時間は滝のように落ちていく。

 1日。100日。1万日。繰り返し、繰り返し、飽くまで繰り返し、それでも飽くことすらできないその果てに――

「一体何かが残るかや……か」

「びっくりした。そんな暗いとこで何してるの。」

 頭上から、子供っぽいが冷めた声が聞こえてくる。寝椅子に転がったまま首を上に向ければ、そこには逆さまにひっくりかえったカジュの顔がある。珍しいパジャマ姿のカジュだ。こいつめ、知らないうちに2階の部屋で寝ていたらしい。

「いたのかよ。家主に断りもなく泊まり込みか? もう完全に我が物顔だな、おい」

「駄目なら出てくけど。」

 ストレートなやつだ。そう真っ直ぐに言われると、嫌味を言ったこっちが情けなくなってくる。

「いーよ、もう……文無しを路頭に放り出せるか」

 ところがカジュは、その答えに不満そうであった。小さな腕を薄い胸の前に組み、例の蔑んだ目でヴィッシュを見下ろしてくる。

「勘違いしないでよね。別に養ってもらおうってわけじゃないよ。」

「あん?」

「必要な時にはこき使ってくれていいよ。ボクも、緋女(ヒメ)ちゃんもね。」

 ドライなヤツ。思わずヴィッシュは笑いを零した。かわいくないガキだが、こういうところは好ましい。

「いいのか? 相棒に内緒でそんなこと決めて」

「ボク、緋女(ヒメ)ちゃんのマネージャーなんで。」

「頼もしいこった。幸せ者だぜ、緋女(あいつ)は」

「どうだかね。まあ、今は楽しそうだけど。」

 会話は一度、そこで途切れた。短い沈黙の後で、

「お前は……」

 ヴィッシュは口を開きかけ、やめた。

 何が言いたいんだ、俺は? 頭がぐるぐる回っている。何か聞きたいことがある。それが何なのか分からない。あるいは、とっくに分かっているくせに、口に出すのを躊躇(ためら)っているのか。

 思考は、言葉は、真っ暗闇の宝石箱だ。中に何が入っているのか自分自身にさえ分からない。望みのものを探り当てるのも一苦労。下手に手を突っ込むと、硬い金具が指に突き立つことだってある。

 突然黙り込んでしまったヴィッシュにやきもきしてか、カジュが先を促してくれた。

「なに。」

 向こうから背中を押されると、話しやすくはある。

「お前は、どうなんだ? 人生楽しいのか? ……不安とか、寂しいこととか、ないのか」

 カジュはしばらく無表情で黙っていた。いや、ただ黙っているのではなく、考えているのだ。やがて答えが返ってきたのは、窓の外を流れていた月が、隣家の影に隠れてしまった後のことだった。

「ボク、前は企業(コープス)にいたんだよね。」

 ほう、とヴィッシュは声を上げた。

 企業(コープス)は、内海地方全域に隠然たる影響力を持つ巨大商業組織である。いわば貿易商のオバケのようなものだ。最先端の魔法技術を商売の種にすることで知られている一方、色々と良からぬ噂も絶えない。

 カジュがそこに所属していたとは初耳だった。彼女の実戦的な魔術は企業(コープス)仕込みというわけだ。

「あそこだと、生活って保障されてるから……。」

「不安なし、か」

「逆だね。何のために生きてるんだろう、ってずっと思ってた。」

 言いながら、カジュは奥のキッチンに引っ込んだ。木のカップに水を汲み、両手で後生大事に抱えて戻ってくる。ヴィッシュの向かい側の寝椅子に、ちょこん、と腰を下ろして水を一口。

緋女(ヒメ)ちゃんと出会って、企業を飛び出して。保障が全部なくなって……。

 それからかな。楽しくなったの。」

「忙しけりゃ、暗いことを考えてる暇もねえ。ただがむしゃらに生きていられる」

「うん。毎日バタバタ。楽しいね。」

 思わずヴィッシュは目を奪われた。普段無表情なカジュが、珍しく微笑んでいる。不意に気恥ずかしくなり、さり気なく視線を逸らしはしたが、彼女の笑顔は目に焼き付いて、天井の闇にさえ浮かび上がるようだった。

「だがそれだけじゃないだろ。不意に立ち止まっちまう時もあるだろ」

「そのときは緋女(ヒメ)ちゃんと一緒に寝る。」

 ヴィッシュは笑い出した。おかげでカジュは元の無表情に戻ってしまった。カップをテーブルに叩きつける音が、不機嫌に響く。

「真面目に言ってるんだけど。」

「いや、悪い。ずいぶん子供っぽいことを言うからさ」

「子供なんだけど。」

「全然そんな気がせん」

 カジュは目を閉じ、肩をすくめる。

「不思議な人だね。ボクを子供扱いしないの、緋女(ヒメ)ちゃんの他にはキミだけだよ。」

「大人も子供もあるかよ。言葉が喋れりゃ、誰にだって考えはあるんだ」

 ふと、頭の中に浮かんだのは、ガーラン爺の物静かな横顔。

「いや。言葉にならなくたってな……」

 またしても沈黙。待ちくたびれたカジュが呆れ気味に言う。

「で、キミは。」

「ん?」

「ボクにだけ喋らせといて、自分は腹の内を見せないつもり。」

「俺か……」

 結局問題は、最初の疑問に立ち返ってくるのだ。

「なあ……俺は一体、何にこんなに打ちのめされてるんだ?」

 

 

     *

 

 

 言葉にならない。

 ヴィッシュは居ても立ってもいられず、その夜のうちに再びガーラン爺の工房へ向かった。看病には近所の女が交代でついているはずだ。そのために幾ばくかの銀貨を掴ませもした。しかしどうにも不安が消えなかった。胸の中に、灰色の何かがモヤモヤとわだかまっていた。

 なのにそれが、言葉にならない。

 こういうときは、動くに()くはなし。

 考えていても駄目なことが、歩き回っていて答えが見えることもある。伊達に30年も生きてない。対処法の心当たりは、色々あるのだ。

 夜道を足早に進み、ガーラン爺の工房にたどり着いた。ひっそりと静まりかえった、冷たい貧民街の夜。穴だらけのドアをノックしかけ、ヴィッシュはそこで異変に気づいた。

 静かだ。

 静かすぎる。

 人の気配が全くない。

 ノックもなしにドアを開け、奥の寝室に上がり込む。相変わらずの散らかった部屋。木と藁で作られた粗末なベッドは空だった。背筋を冷たいものが駆け上がっていく。ベッドのそばには、看病を頼んだ近所の女が一人、倒れ伏して寝息を立てている。

「おい!」

 抱き起こし、肩を揺すり、耳元で声を張り上げても、女が起きる気配はない。

「……魔法か!」

 歯噛みしてヴィッシュは耳を澄ました。聞こえてくる音。数人の気配。車輪が回り、車軸が挙げる軋み声。遠くない。まだ追いつける。

 思うが早いか、ヴィッシュは工房を飛び出していた。

 

 

     *

 

 

 貧民街の一角、影が色濃く淀むかのような狭い通りに、その一団はいた。

 黒いボロ布で鎧を隠した、見るからに盗賊然とした男達だった。中には荷車が一台。その上には、剣やら槍やら鎧やら、武具の類が山と積まれ、荒縄でしっかりと固定されている。

 そして荷車の横には――足を引きずり歩く、ガーラン爺の姿。

「待ちな!」

 追いついたヴィッシュが低く声を張り上げると、一団はざわめきながら足を止めた。

「その爺さんは、医者から安静を言い渡されてるんだ。連れ出してもらっちゃ困るんだがな」

「連れ出したのではない」

 応えたのは、致命の毒液を思わせる不気味な声。その声の主が歩み出るにしたがって、盗賊らしき者どもが左右に割れた。その光景は教導院の古い伝承を思わせる。海を割り、乾いた水底を悠然と歩む偽りの聖者――すなわち、天恵の者(カリスマ)

 天恵の者(カリスマ)は、全身をフード付きの黒い外套に覆い隠した、細身の男であった。時折外套の下に見え隠れするのは腰に提げた長剣か。全身黒ずくめの姿が奇妙なほどしっくりと闇の中に溶け込んでいる。一見して、特徴らしい特徴もない。

 だがなぜか、ヴィッシュには確信できた。

 ――あの男だ。

 昼間、ガーラン爺を訪れたとき、工房前で見かけた男だ。

 あの時は遠目で分からなかった。だが、今こうして近くで目の当たりにすると……この身のこなし。かなり、()()()

 天恵の者(カリスマ)が感情の籠らぬ冷たい声色で言う。

「こいつは自らついてきたのだ」

「なに……」

 天恵の者(カリスマ)が進み出た。ヴィッシュも僅かに間合いを詰める。距離は4歩あまり。ふたりはそこで対峙すると、申し合わせたかのように足を止めた。ここが互いに臨界点。突然仕掛けられても対応できるギリギリの間合いだ。

「どういうことだ。おい、爺さん!」

 ガーラン爺は何も言わない。

 だが、滅多に表情を変えぬガーラン爺が、心なしか躊躇(ためら)いを顔に浮かべたように見えた。夜の闇の中でのこと、気のせいであったかもしれないが。

「運の悪い男だ」

 天恵の者(カリスマ)が、言う。

「余計なことに首を突っ込まねば、安穏と生き延びられたものを」

 その手が、剣の柄に触れ――

 瞬間。

 閃光!

 刃交わり、光が散った。

 一瞬の煌めき、狩人の本能、それがヴィッシュを突き動かした。目ではない。頭でもない。ただ嗅覚と反射のみがそれを捉えた。天恵の者(カリスマ)が放った抜刀からの一撃。4歩以上もあった間合いを瞬時に詰めての抜き打ちだ。すんでの所でそれを受け止めたヴィッシュの愛剣は、まだ鞘から半分も抜かれていない。()()()()()()()()――

 ――こいつっ……

 悪寒が走る。恐怖が膨れあがる。

 ――強い!!

 思うが早いかヴィッシュは動く。男の腹を蹴りつけながら、その反動で飛び退る。流れる動きで剣を抜き、防御重視の中段構えで鋭い切っ先を真っ直ぐに向ける。男は早くも蹴られた蹌踉めきから立ち直り……いや、違う。蹴られる直前に自ら飛び退き、蹴りの威力を殺したのだ。

 対峙する。青く輝く満月の下。吹きすさぶ砂塵の中。

 やがて風は収まり、砂埃がそっと舞い降り――

 男が(はし)る。肉薄まで一息。地を舐めるかのような下段からのすくい上げがヴィッシュを襲う。それを叩き落としたのもつかの間、返す刀が横から、上から、無尽に迫る。ヴィッシュの捌きは几帳面で精密、だが受ける以上の余力などありはしない。

 舌を巻くような達人だ。息も吐かせず相手を追い込む強烈な攻めの剣術だ。ともすれば見落としそうになる斬撃を辛うじて受け、流し、あるいは避けつつ、ヴィッシュは必死に勝機を探る。いかに強くとも、攻撃一辺倒のスタイルならば必ずどこかに隙が――

 ――見えた!

 男が喉狙いの突きを繰り出した瞬間、その足捌きが微かに乱れる。猛攻が生んだ隙。それを見逃すヴィッシュではない。

 身を捻り、突きを受け流し、体勢を崩した男の肩に必殺の一撃を振り下ろす!

 が。

 次の瞬間、流されたはずの男の剣が、横手からヴィッシュの腕を狙った。

「なっ……!?」

 ――返し技だと!?

 驚き一色に意識が埋まり、それでもヴィッシュの脳はめまぐるしく動く。捌く? 無理! 後退? 間に合わない! いっそ前進? 思う壺だ!

 ――ならばこれしか!

 咄嗟(とっさ)にヴィッシュは自ら地面に倒れ込んだ。敵の剣は狙いを逸らされ、ヴィッシュの腕を軽く薙ぐ。そのまま転がり、片膝突いて身を起こす。

 予想外の対応に驚いたか、天恵の者(カリスマ)の動きが一瞬止まる。またしても隙だ。すかさずヴィッシュは打ち込みをかけ――

 半ば本能的に刃を引いた。

 代わりに地面を蹴って間合いを広げ、荒い息を整えながら仕切り直す。

 駄目だ。打ち込めない。こいつの隙は罠だ。抜刀術に始まる攻め一辺倒、隙の多い剣術と見せかけて、その実、わざと見せた隙からカウンターで討ち取る。

 この返し技への対策がない限り、隙への打ち込みはむしろ自殺行為。

 ――どうする? 考えろヴィッシュ!

 だが――

 男の猛攻がその暇を与えない。

 刃が迫る。

 

 

(つづく)

 



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第2話-03 9は3で割り切れる

 

 

 夜の裏通りを一匹の犬が歩いている。

 青白い月の光を浴びて黒々と輝く毛並みは、明るい陽光の元でなら鮮やかな深紅に見えただろう。堂々たる体躯を踊るように揺らし、しなやかで強靱な脚を軽やかに運び、犬は月夜の散歩を満喫していた。

 どことなく、その足取りに美しさすら感じられるのは気のせいだろうか。

 気のせいではあるまい。彼女は緋女(ヒメ)だ。

 獣人(ライカンスロープ)――狼亜(ローア)族の緋女(ヒメ)にとって、夜の散歩は日課のようなものだ。街を闊歩(かっぽ)するとき、彼女はもっぱら犬の姿でいることを好む。不思議な魔法の力によって服も剣もまとめて変身してしまえるから不便はないし、人間でいるより身軽。鼻も夜目も利くこの体なら、見えない物が見えてもくる。

 それが今夜は幸いした。貧民街にさしかかったころ、緋女(ヒメ)の鼻が不快な臭いを捉えた。ご機嫌な月夜の散歩が一瞬にして血生臭い緊迫の下に塗り込められる。よく知っている臭いだ。血の臭い。それもこれは――

 思うのと、四つ足で駆け出すのと、一体どちらが先だったのか。

 緋女(ヒメ)は地を蹴り、塀を伝い、長屋の屋根を跳び越えて、矢のように貧民街を駆け抜けた。一直線。目指すはわだかまる不快の源。血の臭い。

 臭いのもとへ辿り着き、野次馬が作った人垣をひとっ飛びに跳び越え、その中心に着地すると同時に人間へと変身する。靴底で砂埃を蹴り上げながら、緋女(ヒメ)は覆い被さるように彼のそばに(ひざまず)いた。

「ヴィッシュ! 起きろこら!」

 ヴィッシュは血だまりの中、月を仰ぎ見るように横たわっていた。緋女(ヒメ)が見たところ、腕と腹にかなり深い傷がある。一目で分かる、刀傷だ。

 緋女(ヒメ)の中にあった赤くて熱くて激しいものが爆発のように拡大した。髪が逆立つ。八重歯が血を求めて剥き出しになる。

「誰がやった!? ぶった斬ってやるっ!!」

 睨みつけるように周囲を見回すが、目に入るのは罪もない野次馬ばかり。どいつもこいつも、貧民街の住人達だ。武器を持っているやつなどいない。ヴィッシュほどの剣士をこんなにできるやつなど居ようはずもない。

 そのとき、ヴィッシュが小さく呻いて意識を取り戻した。

緋女(ヒメ)か……?」

「こんなかわいい子が他にいるかよ。おい、お前、死ぬんじゃないよな!?」

「……ちょっとしくじっただけさ」

 眼を細め、ヴィッシュは青い月を見る。

「死んでたまるか」

 どこからか聞こえてくる。

「死んでたまるかよ」

 夜鳴きする蝉の声。

 

 

     *

 

 

「魔族ぅ?」

 箸でつまんだ綿を傷薬のビンにペタペタ浸けながら、緋女(ヒメ)は思いっきり眉をひそめた。

「なに、お前、そんなもんに負けちゃったわけ?」

 何も言い返せず、ヴィッシュは渋い顔であった。

 あの天恵の者(カリスマ)に敗れたヴィッシュは、危ないところで野次馬たちに助けられた。派手なチャンバラ音を聞きつけた興味本位の観客たちを嫌い、敵は舌打ちしながら立ち去ったのである。人の目が集まるタイミングがもう少し遅ければ、ヴィッシュはとどめを刺されていただろう。

 間一髪。薄氷の上を幸運にも渡りきった、というところか。

 その後、緋女(ヒメ)に助けられたヴィッシュは、自宅まで運ばれ、手当を受けた。内臓にまで届いていた脇腹の重傷は、カジュの魔法で即座に治され、その他の細々した傷には薬が塗られた。その間ずっとヴィッシュは眠りこけていて、気が付いたら翌朝だったのだ。夜が明けたら、薬を塗り直そうということになって、体中の細かな傷に……

 べちゃっ。と、濡れたワタが擦りつけられた。

「痛ッてえ! もっと丁寧にやれよ!」

「ピーピー言うんじゃねーよ。そんなだから魔族とかに負けんだぞ。あんなの狩りの獲物じゃんか」

「簡単に言ってくれるぜ……」

 ヴィッシュは力なく溜息を吐く。

 緋女(ヒメ)の言うことも、乱暴だが正論ではある。言い返せないのが辛いところだ。

 魔族というのは、10年前、全世界相手に戦争をふっかけてきた魔王ケブラーの一族である。外見は人間とよく似ているが、体つきがやや華奢で筋力や体力に劣る。その代わり、手先の器用さと魔法の才能については、人間の及ぶところではない。ある政治的理由によって、“第11条指定種(エルフ)”とも呼ばれている。

 ヴィッシュを完膚無きまでに叩きのめしたあの男は、紛れもなく魔族であった。魔王軍の生き残りを始末するのが後始末人の仕事。そしてヴィッシュはこの道10年の大ベテラン。緋女(ヒメ)の言うとおり、魔族は獲物の一種に過ぎないのだ。それにこうも簡単に破れたとあっては沽券に関わる。沽券は信用に関わり、とどのつまりは、収入に関わる。

 ヴィッシュが落ち込んでいると、薬の買い足しから戻ったカジュが、

「お客さんだよ。」

 と、男をひとり連れてきた。演劇に使う仮面のように不気味な事務的笑顔を浮かべた、身なりのきちんとした男だ。

 ヴィッシュは眉間に皺をよせ、緋女(ヒメ)の体をどけながら立ち上がった。あまり歓迎したい客ではなかった。こいつが来ると、いつもロクな目に遭わないのだ。

「ごきげんよう。後始末人協会のコバヤシでございます」

 コバヤシと名乗った男は、定規をあてたように背筋を伸ばして、気さくに会釈を送ったのだった。

 

 

     *

 

 

 黒海牛の革をなめしたジャケットは、縁取りに金糸のさりげない装飾が入っていて、この男のために存在するかのごとく似合っていた。コバヤシはヴィッシュの向かいの寝椅子に腰掛け、カジュが出してくれた白湯を丁寧に啜っている。

 落ち着き払った礼儀正しい態度であったが、この男の場合、どんな礼節も笑顔も涙も、驚きや恐怖ですら道具に過ぎない。自分の体が放つありとあらゆる情報を、相手を誘導する手段としてのみ用いる男だ。

「いや、私も嬉しいですよ。あなたがたにチームを組んでいただけて」

「別にチームなんざ組んでねえ」

 にこやかなコバヤシに対して、ヴィッシュは仏頂面のまま目を合わせようともしない。つい先日の、緋女やカジュと出会った事件のときも、そもそもの発端はこの男が持ち込んできた依頼だったのだ。妙な居候に押し掛けられたのも、元をただせばコバヤシのせいなのである。

 そんなヴィッシュの内心を知ってか知らずか、コバヤシは天井に視線を送る。3階の部屋に引っ込んだ緋女たちの様子を想像しているのだろう。

「そうなんですか? 彼女たち、ここに住んでるんでしょう?」

「あんたのおかげで、とんだ苦労させられてるよ」

「しかし、ヴィッシュさんも明るくなりました」

 言われてヴィッシュは、苦虫を噛み潰したような顔してそっぽを向く。確かにそう。コバヤシの言う通りなのだ。多少は自覚していただけに、指摘されると余計に腹が立つ。

「……で? 始末の話か」

「ええ。本部から手配書が回って来ましてね」

 強引に話題を変えるヴィッシュに、コバヤシはにこりと笑って、懐から取り出した巻物を広げてみせた。質の悪い(わら)紙には、共通語で書かれた名前と特徴、それから見事な筆致で描かれた似顔絵。

 ヴィッシュは片方の眉を持ちあげた。どこかで見たような顔だ。それも、つい最近。

「魔族の剣士です。名前はゾンブル・テレフタルアミド」

「おい、その名前は……」

「テレフタルアミド王家――由緒正しい魔王の血統です。もっとも、かなり遠縁だそうですが」

 ヴィッシュは大きく深呼吸して、それから盛大に溜息を吐いた。寝椅子の背もたれに体を投げ出す。板張りの天井を仰ぎ見る。ほらみろ、この男が来るとロクな目に遭わない。

 魔族の剣士ゾンブル。昨夜ヴィッシュを叩きのめした、あの男だ。

「どおりで、取り巻きどもを引き連れてるわけだぜ……」

「は?」

「なんでもねーよ。敗残兵がすがりつくには、もってこいの天恵の者(カリスマ)ってわけだな」

「そうですね。既にこの男、魔族の残党を集めて、十数人規模の野盗団を組織しています。しかも、その組織の活動が最近活発化していまして」

「近所の村でも襲われた、か?」

「ええ。皆殺しにされました」

 ヴィッシュは目を丸くする。

「……マジかよ」

「マジなんです」

「キレてやがるぜ……後先考えてないのか」

「そこがどうにも不気味というわけで。後始末人協会としては、これ以上看過できません。しかしかなりの強敵ですので、ここは、第2ベンズバレン支部きっての優秀なチームにお願いしようと」

 一体何が嬉しいのやら、上機嫌にコバヤシは小さな革袋を取り出した。テーブルに載せるとき、コインがぶつかり合う素敵な音が、袋の中から漏れ聞こえてきた。袋の口を開いてみれば、中にはぎっしり詰まった金貨。

「前金で4000。後金でもう4000。いかがでしょう」

 協会も奮発したものだ。あるいは、国か市長あたりから大口の依頼を取りつけたのか。いずれにせよ相場の倍は行っている。相手は魔族が十数人以上。ヴィッシュひとりでは絶対に請け負えない仕事だが、今の彼には強力な剣士と術士という手駒がある。この戦力なら充分に対処できる相手だ。

 ヴィッシュは金貨に手を伸ばした。

「ま、そんじゃ引き受け――」

 と、彼の手が止まる。

「合わせて8000か」

「8000です」

 少し考え、

「やっぱやだ。後金を5000にしてほしい」

「珍しいですね、あなたが報酬を上げにかかるなんて。何か急ぎでご入り用で?」

「別に。危険手当だよ。ヤバい相手だろ」

「……ま、よろしいでしょう。その代わり、今後とも()()()()お願いしますね」

 悪魔の笑みを浮かべるコバヤシに、ヴィッシュは口をへの字に曲げた。ああ、やだやだ。おかげで、次に依頼が来たとき断りづらくなってしまったじゃないか。それというのも、全てはあいつらの――

 そのとき、確信めいた直感が、不意に頭をよぎった。

「……おい、あんた」

「はい?」

「ひょっとして、緋女(ヒメ)たちとケンカになったあの一件……俺たちを組ませるために、あんたが仕組んだんじゃなかろうな?」

 コバヤシはにこりと笑って――これは珍しく、作為のない本物の笑顔のように見えた。

「ご想像にお任せします」

 

 

     *

 

 

 コバヤシが帰った後、ヴィッシュは背もたれに体重をかけたまま、じっと金貨の詰まった革袋を見つめていた。40枚の金貨。かたぎの人間にはひと財産だ。とはいえ、それも彼の空しさを埋めてはくれない。金は最も安定な金属で、腐食しにくく、重く、柔らかく、光沢がある。ただそれだけだ。柔らかすぎて実用性には乏しい、ただの金属だ。

 こんなものが欲しいのではないのだ。

 しばらくして、上の階にひっこませていた女ふたりが、階段を軋ませながら下りてきた。獣のように軽やかな足取りと、夜の森のように静かな足取り。いつものように、背もたれの上で体をそらし、背後に立っているふたりを逆さまに見上げる。

「コバヤシ、なんだって?」

「仕事さ」

 ヴィッシュはテーブルの革袋をつまみ上げ、重みのある金貨をジャラジャラと得意気に鳴らして聞かせると、子供のように無邪気な笑みを浮かべたのだった。

「ひとり頭3000だ。乗るかい?」

 

 

 

(つづく)

 



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第2話-04 火花

 

 3人で思い思いにテーブルを囲み、作戦会議が始まった。まずはカジュに通信用の水晶玉を準備させ、

「カジュ。お前は魔術師仲間から《遠話》で情報を集めてくれ。30年くらい前、ベンズバレンで何か事件が起きてないか。こう……人が大勢死ぬような」

「なにそれ。関係あるの。」

「まだ分からねえ。とにかく、頼む」

 うなずき、水晶玉に手をかざして呪文詠唱にかかるカジュ。その肩に手を乗せ、水晶玉の上に身を乗り出すようにして、緋女(ヒメ)が顔を近づけてくる。その目のキラキラしたことと言ったら、お気に入りの玩具を前に、千切れんばかりに尻尾を振りまくる犬そのもの。

「ねねね、あたしは?」

「俺と一緒にガーラン爺の足取りを追う。お前の鼻が頼りだ」

「ガーラン? ゾンブルじゃなくて?」

「協会にも尻尾を掴ませてないなら、ゾンブルの潜伏は完璧だ。俺たちがにわかに動いたからどうなるってもんでもない。

 その点、爺さんは荒事には素人。しかも最近になって急に動いたふしがある。手掛かりが残ってるとすればこっちのほうだ。

 仕事のコツってのはな。いきなり高望みはせず、上手くいきそうなところから手を付けることなのさ」

 と、ヴィッシュはウィンクなどしてみせた。

 

 

    *

 

 

 もうすっかり通い慣れてしまった貧民街に、ヴィッシュと緋女(ヒメ)は足を運んだ。

 今の緋女(ヒメ)は犬に変身済みだ。長い艶やかな赤い体毛は、日頃からカジュにしっかりとブラシを当てられていて、陽光のもとで美しい光沢を見せる。人間の時の彼女も息を飲むような美形だが、犬の姿はまた格別に美しい。

 先ほどから緋女(ヒメ)は尖った鼻先を地面に近づけ、しきりにひくひくと動かしていた。ガーラン爺の匂いをたどろうというのだ。

「分かりそうか?」

 上から覗き込みながらヴィッシュが問うと、緋女(ヒメ)は睨むような目を返してくる。牙を剥き出し、軽く唸ってすらいる。ずいぶん険悪だが――と、ヴィッシュは彼女の視線が葉巻煙草に向いていることに気づいて、慌てて火をもみ消した。

「そうか。悪い悪い」

 ふんっ、と鼻を鳴らして、再び緋女(ヒメ)は臭いを嗅ぎ始める。

 と、いきなり緋女(ヒメ)が一方向に歩き出した。貧民街から、裏通りへ向かう方向だ。少し進んだあたりで緋女(ヒメ)はぴたりと足を止め、ぼんやりと眺めているヴィッシュに目を遣る。その目が言っている。

 ――なにやってんの、早く来いよ。

 思わずヴィッシュは口笛を鳴らした。

 彼女に案内されたどり着いた場所は、貧民街の片隅にある小さなあばら屋だった。

 緋女(ヒメ)が足を止め、じっと見上げるその先には、軒先から吊された粗雑な木看板がある。屋号がわりに掘られているのは、吸い付きたくなるような泡を溢れさせたジョッキの絵だ。識字率の低かろう貧民街住人への配慮というところか。木戸の中からは、何とも言えない揚げ油の匂いが漂ってくる。

 場末の酒場であった。

「ここ……か?」

 

 

     *

 

 

 調査を終えて家に戻ると、居間の寝椅子の上で、《遠話》用の水晶玉をかかえたカジュが何やら甲高い声を挙げていた。

「ありがとー、エイジくん! こんどデートしようね!」

〔いいの? マジで? 絶対そのうちそっち行くわ!〕

 これは本当に、あのカジュの声なのだろうか。普段の地獄から響く呪詛のような声とは似ても似つかない、脳に響くような甘えた声だ。相手の男ときたら、カジュの見え透いた演技にコロッと騙されているらしい。

 《遠話》を終えて、水晶玉の白い光が消え失せるなり、カジュは興味を失った玩具を放り出すように水晶玉を転がした。背もたれに大仰に体を預け、貫禄たっぷりに足を組むと、さっきまでの猫なで声とは別人のような重低音で、

「あー。おかえり。」

「頼もしいやつ……誰なんだ、今の男? お前の歳知ってるのか?」

「魔法学園のエイジくん23歳。そしてカジュちゃんは永遠の18歳です。」

「怖い女……」

 ヴィッシュは戦々恐々、カジュの向かいに腰を下ろした。緋女(ヒメ)はと言えば、疲れただの暑いだのとぼやきつつ、奥のキッチンに水でも飲みに行ったようだ。

 腹芸の「は」の字もない緋女(ヒメ)と、腹芸と魔術だけでできているようなカジュ。よくまあ、この対照的な性格でコンビを組めていたものである。いや、正反対だからこそ、うまくやれているのかもしれないが。

「で、何かつかめたか?」

「んー。確かに30年前、事件が起きてるね。

 啓示歴1282年風の月、おとなりハンザ王国の内戦で国を追われた難民が大発生。

 翌月には、万単位の難民がベンズバレン王都に殺到……。」

 歴史書の記述を読み上げるように淡々といいながら、カジュは立ち上がり、本棚の一番上に収められた羊皮紙の巻物を取ろうとつま先立ちになる。彼女の身長で届くわけもない。

 ヴィッシュが腰を浮かせて、ひょいとそれを取ってやる。カジュはふて腐れて寝椅子に胡座を掻いた。

 広げた巻物に記されているのは、ベンズバレン近隣の地図である。比較的新しいもので、着工10周年の第2ベンズバレンもちゃんと描かれている。第2ベンズバレンから“無制限街道”を北に進めば王都ベンズバレン。そこから街道を西に折れ、俗に言うところの“母無し峠”を越えると、隣国ハンザに辿(たど)り着く。

 “母無し峠”は街道の難所として有名で、峠越しのためには母すら見捨てねばならない、というのが名前の由来だ。むろん大げさな話ではあるが、戦火から逃げ出した難民たちが、峠越しで疲れ果てていただろうことは想像が付く。

「でも、面倒見切れないと判断したベンズバレンは、難民の受け入れを拒否。

 王都の防衛隊を動員してこれを制圧し、強制的に海岸沿いの僻地に追いやった……。」

 カジュの指が、王都ベンズバレンのあたりから南へ動き――第2ベンズバレンを指し示した。

「なるほどね……当時の僻地が、今や世界に名だたる第2ベンズバレンってわけだ。あの貧民街は、難民集落の名残なんだな」

「制圧するとき、けっこーヤバげな衝突があったみたいだね……。ずいぶん人が死んだって話だよ。」

「えげつないことすんなー……」

 腰に手を当てて仁王立ちした緋女(ヒメ)が、難しい顔で地図を睨み降ろしている。

 口には出さないが、ヴィッシュの意見は多少違っていた。王都ベンズバレンでも、人口はせいぜい十数万人というところ。そこに万単位の難民が雪崩れ込めば、治安の悪化程度では収まらない。食糧は不足し、都市システムは機能不全に陥り、最悪の場合、都市そのものが崩壊する危険性すらある。自国民を守るためと見れば、難民受け入れ拒否はやむを得ない判断だったのだろう。

 まあ、慈悲に欠けた判断であったというのは、否定できないが。

「んで? これが何の関係があんのよ?」

 ヴィッシュは腕を組み、慎重に考えを練りながらぽつぽつと語り出した。

「爺さんは職人気質(かたぎ)の人間だ。しかも、おそらく自分の死期を悟ってる。悪党に金目当てで協力するってのは考えにくい。

 だから、金以外の目的があったんだろう、と踏んだんだ」

「ああ、さっき聞いたやつ?」

「何の話。」

「爺さん、30年前に嫁さんを亡くしてるんだそうだ。それで、長いことこの国を恨んでいたんだとさ」

「つまり、ハンザからの難民だったんだね。」

 先読みして口をはさんだカジュに、ヴィッシュは確信を持って頷いて見せた。時期から見ても……そして、爺さんのどぎつい古ハンザ(なま)りから考えても、間違いあるまい。

「そう。つまり爺さんが復讐する相手ってのは」

 3人の視線がかっちりと一点で交わった。

『ベンズバレン王国だ!』

「じゃあなに? 爺さん、これから王都に行って城でも襲おうっての?」

「いいやあ。もっと手っ取り早い方法があるぜ」

 言ってヴィッシュは窓の外を眺め見る。

 この界隈の端の方には、典礼騎士団の訓練所がある。その広い敷地内では、今ごろ太鼓とラッパの音が響き渡っていることだろう。しんと耳を澄ませば、大通りの喧噪に混じって、微かに聞こえるマーチのリズム。本番を間近に控えて、訓練も大詰めというところか。

「3日後。第2ベンズバレン着工10周年記念パレード」

 彼の口の端には、全てを手のひらに載せた男だけが見せうる、完全に満足したほくそ笑みが浮かんでいた。

「狙うは国王陛下その人さ!」

 

 

     *

 

 

 ここがどこなのか解らない。

 これが何なのか解らない。

 老いたか。耄碌したか。あるいは、初めから解らないことだらけだったのか。

 一個の鍛冶道具として60余年生きてきても、迷うことなどほとんどなかった。あの時も迷わなかった。悲しみはした。だが悲しみは道を指し示す光明でこそあれ、視界を覆い尽くす闇ではなかった。

 そのはずなのに。

 今、ガーラン爺は、闇の中にいる。

 周囲は鉄に満ちている。剣と、槍と、鎚と、盾と、鎧と、兜と、鏃と。ハンマーを振るう。赤熱した刃から、目映い火花が弧を描く。ひとひら、赤い光が闇を切り裂き、やがて潰えて消えていく。

 消えていく。

 もう一度。

 やはり消えていく。

 そう思ったとたん、心臓を手で掴んで左右に(えぐ)り分けていくような感覚が、ガーラン爺の体の真ん中を直撃した。手が止まる。火花が止まる。ガーラン爺は呻きながら、祈るように(ぬか)ずいた。

「痛みで、体が動かないか」

 何とも言えないねっとりとした声が、ガーランの頭の上から投げ降ろされた。いたわりなど微塵も含まない乱暴な言い回しが、不思議と爺の自尊心に火を付ける。

 魔族の男、ゾンブル。それだけ認識すると、爺は無言でハンマーを拾い、再び無心に降り始める。その手が痛みに震えることも構わず。

 火花が弧を描く。

「そうだ。それでいい」

 赤い光を満足げに見つめ、ゾンブルは邪悪な笑みを浮かべた。

「お前が鍛えた剣は、我々の手足となり、やがて王を討つだろう。お前は王の首を手にするのだ」

 火花が弧を描く。

 ゾンブルは去り際、ふと立ち止まり、肩越しに振り返りながらこう言った。

「お前はまるで、蝉のようだな」

 火花が弧を描く。

「お前の中で30年、期を待ち続けた悪意は、たった一日だけ空に羽ばたき、そして本懐を遂げる」

 火花が弧を描く。

「どんな気分だ、ガーラン」

 問うだけ問うておいて、答えも待たずにゾンブルは去っていった。その姿は闇に溶け、再びガーランは(ひと)りになった。闇の中に。鉄に囲まれて。闇が問うた。答えるのは鉄だ。ゆえにガーランはハンマーを振り下ろす。

 火花が、弧を描く。

 

 

(つづく)

 



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第2話-05 路地裏の決戦

 

 

 3日は矢のように過ぎ去って、記念パレードの日はやってきた。

 一際背の高い教会の屋根の上に、ヴィッシュたち3人の姿があった。ぐるりと街を見回せば、あちらこちらの屋根の上に、文字通り高みの見物を決め込んだ連中が我が物顔で陣取っている。

 遠くで響く勇ましいファンファーレ。数千人が一斉に挙げる歓声。沖合の軍艦からぶっぱなされた祝砲。轟音がヴィッシュの下っ腹をズンズンと突き上げてくる。

 下の大通りを興奮して駆け回る子供達の気持ちがよく分かる。これが祭りというものだ。それぞれのねぐらから湧き出し、小道をさやさやと流れ来て、大通りという大河へ合流する人々のうねり。着飾った美しい女たち。それが目当ての軽薄な男たち。酒と怒号、歌声と笑い。露店の菓子から漂ってくる、むせ返るような糖蜜の匂い。

 仕事でなけりゃゆっくり祭りを楽しむんだけどなあ、などと羨ましく思っていると、そんな悩みとは無縁にはしゃいでいる脳天気な女が一人。

「うおー! ねねね、なにあれ、リンゴ飴! リンゴに飴かけてんの? 意味わかんね! 買ってきていい!?」

「いいわけねェだろっ」

 許可を得る前にもう屋根から飛び降りようとしていた緋女(ヒメ)を、ヴィッシュは首根っこ引っ掴んでたぐり寄せた。

「仕事だ仕事! お前が頼りなんだからな」

「えーっ、そう? 頼られちゃ仕方ねーなー」

「ヴィッシュくん、緋女(ヒメ)ちゃんの扱い上手だね。」

 屋根の天辺にまたがって、その膝の上に器用に水晶玉を乗せ、カジュは感心したように頷いた。やめろ、このガキ。なんだか微笑ましいものを見るような目でこっちを見るな。好きで上手に扱ってるわけじゃないんだ。仕事だ、これは。

 そう、仕事。手駒は緋女(ヒメ)とカジュ、そして自分自身。今までより圧倒的に戦力増強されてるが、圧倒的にやりにくくもある。みっつきりの貴重な駒を、どう動かしたものか。この3日、考え詰めに考えてきたのだ。

「カジュ。お前には戦況の把握を頼む。魔法で敵の位置を調べて、俺たちに伝えてくれ。いざって時には援護攻撃も頼む」

「あのさあ……。」

 カジュは不機嫌な顔をして、上目遣いにヴィッシュを見上げた。

「広域《遠見》と《遠話》ふたり分、おまけに攻撃の術まで同時制御させようっていうの。」

「無理か?」

「無理だね。そんなのできるわけないよ。」

 しかしカジュは、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべて、

「ボク以外にはね……。」

「期待してるぜ。で、緋女(ヒメ)

「まかしとけって! ゾンネルをブッ潰しゃいいんだろ?」

「ゾンブル。奴は俺がやる。お前は取り巻きの雑魚を頼む」

「えええええー?」

 緋女(ヒメ)は心から不満そうであった。この女には、相手が強いとか数が多いとか、厄介だとか負けそうだとか、そういう考えは一切ないらしい。自分自身に対する絶対の自信とでも言おうか。逆立ちしてもヴィッシュには持てないものだが、それが緋女(ヒメ)の持ち味だ。

「なんでよ? お前、負けたんだろ。あたし、勝てるよ」

「そりゃ、お前が勝てない相手なんか、そうそういないだろーけどなぁ……」

 ヴィッシュは憂鬱な顔で頭を掻いた。もちろん、彼だってできることなら緋女(ヒメ)に頼みたかったのだ。

「考えても見ろ、取り巻きだけで10人以上いるんだぞ。俺がそっちに勝てると思うか?」

 問われて緋女(ヒメ)は即答する。

「無理だな」

「へーへー、どーせ俺ァ弱いですよ……まあそういうわけだから、俺がゾンブルを食い止めるしかねぇんだ」

「勝算は?」

 ごもっとも。そこでヴィッシュは、引きずっていた紐付きの革袋を二人に見せた。ヴィッシュの身長ほどもある細長い袋の口を開けると、その中には金属で要所を補強された木の棒が入っている。もちろん先端には刃。つまり、槍である。今回の得物はこれだ。

「見てのお楽しみ」

 笑ってみせるが、笑っていられるほど自信があるわけではない。怯えていても始まらないから、気を張っているだけだ。

 そんな不安を嗅ぎつけられたのだろうか。カジュが小さく手を挙げた。

「はい。意見。」

「何だ?」

「パレードの護衛兵に連絡して、戦力出してもらったほうが確実じゃないかな。」

 ヴィッシュはそれに即答できなかった。

 どう答えたものか、迷う。ヴィッシュの選択は、確かに任務の成功率を下げるものであり、それはとりもなおさず、緋女(ヒメ)とカジュの命を危険にさらすものでもある。それに付き合えというのは、単にヴィッシュのわがままに過ぎない。

 過ぎないが――

 遠くで歓声が一際大きくなった。パレードが動き始めたようだ。

 と、緋女(ヒメ)がヴィッシュの腕を取り、引っ張り上げるように立ち上がらせた。いきなり立たされてヴィッシュはバランスを崩すが、緋女(ヒメ)は傾斜のきつい屋根の上でも安定したものだ。

「もう時間だろ。行くぜ」

「お、おう」

「カジュ、連絡よろしくなー」

「はいはい。いってらっさい。」

 どこから取り出したのか、カジュはおおぶりなハンカチをパタパタと振って二人を見送った。

 

 

     *

 

 

「爺さんは助けてやらねーとな」

 屋根の下に降り、大通りを監視できる脇道の物陰に待機の態勢を作り、いきなり緋女(ヒメ)が言ったのがそれだった。ヴィッシュは目を丸くする。

「お前、分かってたのか」

「分かるよ。ずっと気にしてたろ。匂うもん」

 そう……ヴィッシュが護衛兵に連絡しなかったのは、ひとえにガーラン爺の命を助けたい一心であった。もし増援を要求していれば、確かにゾンブルの一味を包囲することさえ可能だったろう。

 だが、追いつめられたゾンブルたちがどんな行動にでるか。何より、護衛兵たちがガーラン爺だけを特別扱いしてくれるかどうか。

 乱戦の中で爺が生き残るのは、糸のように細い可能性に思えた。

 だからヴィッシュは、自分たちだけで全てを解決する道を選んだのだ。それが後始末人のやり方でもあった。

 だが、そんな心情を、まさか緋女(ヒメ)に読み取られているとは思いもよらなかったのだ。

「でもなー、優しいだけだと損するぜ」

 そう囁く緋女(ヒメ)の声こそが優しい。

「分かってるよ……」

「分かんねーな」

「あ?」

「何が楽しくって、30年も前に死んだ嫁さんの復讐なんかするのかね? それで死んだ嫁さんが生き返るわけでもなし」

「……死んだ後に何が残るのか」

「何それ」

 きょとんとしている緋女(ヒメ)に、ヴィッシュは顔を背けた。

「爺さんがそう言ったんだ。どういう気持ちかは分からねえ。だが、多分……嫁さんが死んで、30年の間にそれを覚えてる人間が一人一人減っていって……

 ああ、何も残らねえ。そう考えたんじゃないのかな」

 ――俺は、一体。

「だってよ。自分が死んだら、嫁さんのことを覚えてる人間は、正真正銘だれもいなくなっちまうだろ」

 ――俺は一体、何にこんなに。

 緋女(ヒメ)は冷静だった。ひょいと肩をすくめて、冷たいとすら思える声でこう答えただけだ。

「何をどうしたって、死んだらそこで終わりよ」

「それじゃあ寂しすぎる」

「寂しくたってそうじゃん? たとえばよ、あたしが新しく国を作って、女王様になったとしてよ」

「住みたくねえ国だな……」

 げしっ。

 有無を言わさぬ蹴りがスネに食い込み、ヴィッシュは呻きながらうずくまった。

「そんだけビッグなことをやったって、何百年かすりゃ、どーせその国も潰れちゃうのよ」

「まあ、そりゃな……」

「生きてる間に何をやったって、いつか消えちゃうわけじゃん。

 じゃ、何を残したって一緒だろ。

 今、復讐で大騒ぎして、それで何十年か人の記憶に残って、でもどのみち、どっかで消えちゃうだろ。

 だったら、復讐なんて意味ないことするより、あたしなら残った時間を思いっきり遊ぶ。これでもかってくらい遊ぶ」

 気が付けば、ヴィッシュは蹴られたスネの痛みも忘れ、緋女(ヒメ)の言葉に聞き入っていた。

「……あと、トモダチに会う。全員会う。

 それで、最後は好きな人の所に行く」

 沈黙が辺りを支配した。

 何も言えないまま、少しの時間が過ぎた。出遅れた近所の子供がヴィッシュたちの横をすり抜け、慌てて大通りに駆け込んでいった。徐々にパレードの喧噪が近づいてきていた。熱気が街に渦巻いていた。

 どこかで、誰かが、笑った。

「お前……」

 やっとのことで、ヴィッシュは声を挙げた。

「頭カラッポじゃなかったんだな……!」

「なんだとこらあァァ!!」

「ぬおおお冗談じょーだんギブギブギブ!!」

 ヴィッシュの背後に回り込んだ緋女(ヒメ)が、首に二の腕を回して全力で締め上げる。ヴィッシュは即座に腕をバシバシ叩いて降参を宣言した。意識が飛ぶ直前で腕は解かれたものの、呼吸困難に陥ったヴィッシュは咳き込みながらへたり込む。

 ――ツッコミで殺す気か、おい。

 すると、緋女(ヒメ)もまた、ヴィッシュの後ろに座り込んだ。後ろから抱かれているような気さえする。脇腹に緋女(ヒメ)の膝が当たる。背中に手のひらが当たる。

 そっと、胸の中につっかえていたものを吐き出すように、ヴィッシュは言った。

「……そうだよな。お前が正しいよ」

 懐から吸い慣れた細葉巻を取りだし、ナイフで先を切り落とすと、舶来品の硫黄燐寸(マッチ)で火を付ける。葉巻の先が微かに赤く光ったかと思うと、すぐさまそれは黒くなり、やがて巻かれた葉の奥に隠れて見えなくなる。

「でもな……」

〔ふたりとも、聞こえるー。〕

 耳元で直接響いた声に、ふたりは弾かれたように立ち上がった。カジュからの《遠話》だ。距離が近いとはいえ、水晶玉の媒介なしに、ふたり同時に声を伝えてくるとは、すさまじい技量である。

〔敵発見。そこから大通りはさんで向かい側の裏路地、2ブロック南。大通りに向けて移動中〕

「よし。緋女(ヒメ)、ゾンブルと取り巻きどもの間に割り込んで分断する」

「まっかしとけ!」

「行くぞ!」

 

 

     *

 

 

 慎重と迅速は時として同義である。迅速な行動は相手のつけいる隙を作らず、往々にして最も安全な手法となりうる。慎重な心があればこそ、誰よりも素早く走ることを心がけるものなのだ。

 魔族の剣士ゾンブル・テレフタルアミドは、視線一つで10人以上もの部下を先行させた。影に塗られた細い裏道を、素早く、風のように、仮に目撃されたとしても誰一人対応できぬ間に、大通りへと急いだ。彼の計算通りであれば、部下達が大通りへ辿り着くまさにその瞬間、国王を乗せた大御輿(みこし)が正面に現れるはず。

 ゾンブルはガーラン爺と共に、一行の最後尾をゆったりと進んでいた。自分が出るのは最後でよい。先行する部下達が騒ぎを起こし、混乱を生み出し、道を切り拓き、万を持して自身は王に肉薄する。

 ふたり通るのがやっとの細道を移動ルートに選んだのも、それまで身を隠すため。部下の数を10人あまりに絞ったのも、事前察知されぬため。全ては練りに練った理であった。

 だが――思考は、その先を行く思考によって覆される。

 ようやく一行の先頭が大通りに出ようかというその時。

 ゾンブルの少し前を走っていた部下の頭上に、赤い稲妻が襲いかかった。

 あまりの速さに光の閃きとしか見えぬそれは、落ち様に部下の喉笛を咬みきり、着地しながら身を捻って食いちぎり、異変を察知して振り返ったもう一人の部下に飛びかかり――

 変身する!

 目を見張るゾンブルの前で、赤い犬であったそれは、人間の女へと姿を変えた。それと同時に振り抜かれる東方の曲刀。銀色の輝きは鮮やかな弧を描き、たった一太刀で部下の胴を真横に両断する。

獣人(ライカンスロープ)だと!?」

 驚きの声を挙げたのもつかの間、横手の物陰から突き出された槍の一撃がゾンブルを襲った。ゾンブルはとっさに身を捻り、辛うじて渾身の突きをかわしきる。続く二の槍。躊躇(ちゅうちょ)は死。迷うことなく飛び退り、間合いを放して()め付ける。

 物陰からのっそりと現れたのは、見覚えのあるにやついた男。

「よう。お久しぶり」

 かつてガーラン爺を巡って戦いになった、あの男である。

 ――部下達と引き離されたか。してやられたな。

 ゾンブルは小さく舌打ちしながら、腰の剣を抜きはなった。暗殺のためだけに造られた彼の剣は、刀身すらも闇色をしている。軽く反りの入った片刃の剣は、東方異国の品である。

 後悔がどっと押し寄せた。あの時、少々目立つことを厭うくらいなら、止めを刺しておくべきだった。この剣で。

「生きていたのか。しぶとい男だ」

「それだけが取り柄でね」

「何者だ。ベンズバレンの犬か」

「まさか。もっとやくざな商売だよ」

 男は油断なく両手に槍を構えてにやりと笑う。

「10年前、勇者は魔王を退治した。だが世界中に散らばった魔物たちは、今でもあちこちに生き残っている。

 そういう狩り残しを、きれいに(さら)うのが俺の生業」

 男の槍が、陽光を浴びて煌めいた。

「――ひと呼んで、勇者の後始末人」

 その名はヴィッシュ。

 少しの間、困惑と思考と、何より怒りに満ちた目で睨んでいたゾンブルは、やがて重い口を開いた。なぜだろうか。その口を吐いて出た声は、怒りとも憤りとも程遠いかった。むしろ、自分の前に現れたこの障害を楽しんでさえいるような。

「お前たち。そっちの女を片付けろ」

 部下たちに命令を飛ばすや、ゾンブルは壮絶なる笑みを浮かべた。

「こいつは私の獲物だ」

 

 

(つづく)

 



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第2話-06 後始末人の矜持

 

 

 出会い頭に片付けたふたりの亡骸を踏みつけながら、緋女(ヒメ)はぼりぼりと頭を掻いた。細い道の向こうには、まだ10人の敵がひしめき合っている。だがそいつらときたら、どいつもこいつも同じような没個性的顔立ちをしていて、しかもおあつらえ向きに、「相手は女ひとりだ!」とか、「さっさと片付けちまえ!」とか、言っているのである。

「オメーらなー……2秒でふたりやられといて、よくそういうこと言えるよなー」

「なんだとぉー!? 俺たちをなめるなよっ!」

「あーもーめんどくせ。いいからちゃっちゃと来いや」

 緋女(ヒメ)は白亜の如く白く、鞭の如くしなやかな腕をすっと差し出し、天を貫くかのように五本の指を立て、力強く手招きした。その口許に浮かんでいるのは、獣の笑み? 剣士の笑み? いや違う。

 小悪魔の笑みだ。

「メロメロにしてやるよ」

 挑発を浴びて――

 先頭の男が斬り掛かる。

 瞬間、緋女(ヒメ)の姿は忽然と消え、気が付けば男の背後。

 目視すらできない太刀筋は、男の腕を肩口から切り落とし、流れるように次の男へ。まだろくに剣を構えてもいないそいつの胸を、手応えさえなく切り払う一瞬の閃光。

 血を吹き出して倒れるふたり。返り血浴びて緋女(ヒメ)が笑う、ここまで僅かまばたきふたつ。

 慌てて残りの男たちが殺到する。だが細い路地のこと、同時に斬りかかれるのはふたりのみ。片方の刃を跳躍して交わし、もうひとりが繰り出した突きに、緋女(ヒメ)は犬へと変身する。突如縮んだ緋女(ヒメ)の肉体はやすやすと刃の間をくぐり抜け、着地するなり鋭角を描いて飛び上がり、相手の喉を食い破る。

 白目を剥いてのけぞる敵の喉に食いついたまま、赤い犬は宙返りしてその向こうへ――

 またも変身。

 人間に戻った赤毛の女は、噛みしめていた口を離して死したる頬に口づけひとつ。その勢いを殺さぬままに、手にした刃で竜巻の如く薙ぎ払う。

 腹、股、背。三者三様に切り裂かれ、悲鳴を挙げて倒れ込む。

「6人」

 つまらなそうに緋女(ヒメ)は言う。

「なんだ、もう半分終わったのかよ」

 と、次の犠牲者たるべき先頭の男が、震えた声を挙げた。

「なっ……なんだこいつ!? 化け物だ!」

 むかっ。

「ああん!? 誰が化け物だ! めっちゃかわいいだろーが!」

「そこですか!?」

 有無を言わさず緋女(ヒメ)はそいつを殴り倒し、もんどりうって転がる男の胸に馬乗りになる。血の付いた剣をしっかと握った手で、返り血も滴るいい女の顔を指さし、魔王も裸足で逃げ出すような笑顔で見下ろし、

「ほら。どーよ。かわいーだろ」

「は……はひっ! ちょーかわいーですっ!」

「分かりゃいーんだよ」

 言いながらアゴをぶん殴ると男は気絶した。

 そこでふと気づいて、緋女(ヒメ)は顔を上げた。残る敵は3人、そいつらが一斉に(きびす)を返し、ほうほうのていで逃げ出している。大通りに出られたらまずいことになる。

「あ、やべ。カジュ!」

 

 

     *

 

 

「ほいきた。」

 水晶玉経由で戦場を見ていたカジュは、片手を宙に走らせた。5本の指がそれぞれ全く異なる不規則な軌道を踊り狂い、しかし正確に光の幾何学模様を空中に描き出す。四層最密単位魔法陣(クアトロコンソール)。恐るべき早業。

「《石の壁》。」

 ずどん!

 派手な音がして、裏路地から大通りへ出る道に、巨大な壁が出現した。素材は石、厚みは両手を広げたほど、高さは二階建ての建物ほどもある。

 要するに、敵が緋女(ヒメ)から逃げる道は、これで断たれた。追い詰められた獲物たちの絶望顔が目に浮かぶ。

「ほい、しゅーりょー。あー、いい仕事した。」

 ギャーとかワーとか、哀れを誘う悲鳴を聞き流しながら、カジュは、ふわ、と欠伸した。

 

 

     *

 

 

 一体もう何度目か。

 ヴィッシュが突きを繰り出すと、ゾンブルの体勢が僅かに崩れる。あからさまな隙。そこを狙って穂先で払う。だが当然それはゾンブルの罠で、鮮やかな返し技が蛇のごとく速く迫ってくる。

 だがその為の槍だ。ヴィッシュは返し技を槍の柄で受け流し、軽く後ろに跳躍して、踏み込みすぎた間合いを離す。距離を取って戦える槍だからこそ、敵の返し技に対応する時間もある。得物が剣であったなら、とっくにヴィッシュの首は胴と離れていただろう。

 しかし楽な戦いという訳ではない。俗に、槍と剣では槍が3倍有利という。にも関わらず、ヴィッシュはろくにまばたきする暇もない。

 脂汗が額から流れ、鼻筋を伝って滴り落ちる。

「無駄なことを。護りを固めたところで、死を先延ばしにするだけだ」

 ゾンブルが野獣の顔で言う。確かに奴の言う通り。これでは時間稼ぎにしかなるまい。それすら一体いつまでもつか……

 改めてゾンブルは恐るべき達人だ。命を懸けた戦いの中でさえ、汗ひとつかかず、涼しい顔をしている。それは自分の剣技、あるいは戦術に対する自信の為せるわざか。なら――

 ――冷や汗をかかせてやるぜ。

 ヴィッシュは大きく胸に息を吸い込み――

 吐く!

 吐息と共に繰り出した渾身の突き。ゾンブルは曲刀でこれを受け流し、間合いを詰めようと踏み込んでくる。そうはさせない。槍を翻し、鉄で補強された柄を敵の頭に叩きつける。軽く身を捻ってこれをかわすと、またもやゾンブルに生まれる隙。誘っているのか。それとも。

 いずれにせよ、攻めるしかない!

 いったん腰溜めで引いた槍の刃先を、ゾンブルの首筋目がけて突き出す。瞬間、奴の姿が掻き消えたかに見え、次にはあらぬ方向から曲刀の閃きが迫った。これまでにないパターン。慌ててヴィッシュは身を屈め、横薙ぎの一撃を辛くも避けきると、そのままゾンブルにタックルを喰らわせた。

 魔族は転がり、しかし機敏に体勢を立て直し、ふたりは飽くほど繰り返した対峙へと戻る。

 ――これも駄目。

 折れそうになる心を必死で支え、ヴィッシュは荒い息を整えていた。

 耐えろ。耐えろ。光明はその先にしかない。

 そんな彼の心を知ってか知らずか、ねっとりとした低い声がヴィッシュを襲う。

「無駄なことはもうよすがいい。お前が何をしたところで世界は変わらん」

「世界だと?」

「私はこの世界を変えようというのだ。

 なるほど、勇者ソールは魔王を倒し、世界を変えたやもしれぬ。だがお前はどうだ? 所詮は生活に汲々とする労働者。どぶさらいのような甲斐無き仕事。仮に私を食い止めたところで、動き始めた流れは決して止まらぬ。

 よすがいい。無駄なことに命を賭すのは、愚か者のすることだ」

 ヴィッシュはじっと、敵の言葉に耳を傾けていた。ゾンブルの肩の向こうに、じっと戦況を見守るガーラン爺の姿が見えた。その顔が青い。身体の具合が悪そうだ。いつ倒れてもおかしくない。もうあまり、時間は残されていないのかもしれない。だが――

 胸の奥から笑いが込み上げてきて、ヴィッシュは溜まらずに声を挙げて笑った。

「何がおかしい」

「……いや。ありがとうよ、おかげさんで雲が晴れたぜ」

 晴れ晴れとした気分だ。ずっと闇の中にいた心が、よりにもよって敵の言葉をきっかけにして、こんなにもすっきりと晴れ渡るなんて。

 ヴィッシュの額に浮かんでいた汗は、いつの間にか引いていた。

「確かに俺は勇者じゃねえ。後始末人なんざ、何人でも代わりのいる仕事さ。お前を斬ることだって、できる奴はごまんといるだろう。

 だがね……俺はこう思う」

 再び。

「お前をここでぶった斬る。するとお前を斬ったのは俺だ。

 他の誰もお前を斬らなかった。

 ――()()()()()()()()()

 槍の穂先が光を浴びる。

「面白い。しかし」

 ゾンブルが柄を握り直した。

「それは斬ってから言うんだな」

 静寂――

 音が消えていく。

 緋女(ヒメ)が戦う音も、最高潮を迎えようとするパレードの騒音も、人々の歓声も、笑いも、涙も、怒号も、何もかも、遠い場所へと消えていく。暗闇の中に光が一筋。その中に舞い踊る小さな埃。埃が飛ぶ音が聞こえ、それすらも、しじまの向こうに潰えて消えた。

 吐息。

 鼓動。

 敵と、

 己。

 空気すら凍り付き――

 奔る!

 肉薄まで一瞬。刃交錯して二瞬。白銀、閃き、弧と直線がもつれ合い、咬み合いながら天へと昇る。振り下ろす槍。受け流す剣。渾身の突き。生じた隙に、突いては何も変わらない。ならばヴィッシュは腹を狙って蹴りつける。

 と。

 ゾンブルは身を捻り、ヴィッシュの蹴りを巧みに避けた……

 ――()()()!!

 

 

     *

 

 

「つまりな」

 と緋女(ヒメ)に話したのは、さっき、緋女(ヒメ)とふたりで待機していたときのことだ。

「奴が見せる隙は罠なんだ。わざと隙を見せて返し技で仕留める。そこに特化した剣術なんだな。だから、下手に隙を突いちゃまずい――」

 とん、と槍の入った革袋で地面の石畳を叩く。

「と、思わせるのが奴の狙いだったんだ」

「……はあ? どゆこと?」

「考えてもみろ。実戦の中でできる隙って、何パターンくらいある?」

「えーと? 1、2……いっぱい」

「だよな。状況次第で無限の形がある隙、全部に返し技を用意するなんて不可能だ。

 俺の予想が正しければ、返し技に繋がる隙――つまり、“罠”はせいぜい4種類。他のパターンは、本当に体勢を崩してできた、いわば本物の隙だ」

 これは一度戦った経験を、何度も何度も反芻して気づいた結論だ。以前に戦ったとき、かなりの回数打ち合ったはずなのだが、返し技の構成は3つほどしか確認できなかったのである。同じ太刀筋を複数回繰り返してくることもあった。

 とすると、意外にバリエーションは少ないのではないか、と読める。

「最初に華麗に返し技を決められると、どうしても『隙=罠』って印象が焼き付いちまう。すると、罠のない本物の隙にすら攻めにくくなる。そうして手が縮んだところを討ち取る戦術……理詰めだな」

「なんかむつかしいな……じゃあ、どうすりゃいいんだよ?」

 ヴィッシュは微笑んで、槍を抱き寄せた。

「タネが割れりゃあ、やりようはあるんだ。

 ――まぁ見てな」

 

 

     *

 

 

 そのゾンブルが、今、初めて隙を突く攻撃を避けた。

 ヴィッシュが得物に槍を選び、ひたすら敵の隙を突き続けたのは、これが狙いだったのだ。敵が張った罠と、本物の隙。それを見分けるには、幾度となく攻撃を仕掛けてパターンを読むところから始めるしかない。間合いを取って攻められる槍が相手を観察するには最も適任。

 罠なら返し技が来る。本物の隙なら――

 ゾンブルといえど、避けざるを得ない。

 ――これで……

 一旦距離を開け、敵に体勢を直させる。さっきと同じ対峙。同じ間合い。同じ呼吸で肉薄し、同じように刃を繰り出す。白銀、閃き、弧と直線。振り下ろす槍。受け流す剣。渾身の突き。

 同じ状況を寸分違わず再現すれば、寸分違わずそこに生まれる本物の隙。

 ――いける!

 瞬間、ヴィッシュは槍を投げつけた。

 思わぬ攻めにゾンブルの隙が拡大される。恐れるな。踏み込め。自分を信じろ! 返し技が来れば命がない間合いまで踏み込んで、ようやくヴィッシュの覚悟が決まる。腰に差しておいたいつもの愛剣。すれ違いざま、ゾンブルの脇腹を狙い、抜き打ちの――

 一閃!

 世界が止まる。

 鮮血が吹き出し、そして再び世界が動く。

 驚きと歓喜――それらがないまぜになった表情を顔に貼り付けたまま、ゾンブルは糸の切れた人形のように倒れ伏した。

 立ち上がったヴィッシュは大きく息を吸い込んで、胸一杯の不安と緊張を、安堵の溜息に変えて吐き出した。

「……あんた大した腕前だったよ。生きた心地がしなかったぜ」

 事切れたゾンブルを見下ろしながら、ヴィッシュは懐から細葉巻を取り出した。これが吸えるのも生きていればこそ。向こうで大暴れしてる緋女(ヒメ)の艶姿を眺められるのも。

 どっかへ消えていたはずのパレードの喧噪が、再び聞こえ始めた。せっかくの祭りだ。まだ日も高い。緋女(ヒメ)たちを連れて繰り出すか。

 そんなことを考えていると、背後で小さな音がした。

 カラカラに乾いた枯れ木が、力尽きて倒れるような。

 見れば、ガーラン爺が、建物の壁に寄りかかるようにして倒れていたのだった。

 

 

(つづく)

 



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第2話-07(終) 蝉の亡骸

 

 

 モンド先生の診療所は、戦場になった路地のほど近くにあった。これは幸運以外の何ものでもない。意識を失った爺さんは、近所から調達した荷車に乗せられ、即座にここへと運ばれた。

 モンド先生はいつも通り、白いヒゲをモサモサと動かしながら、爺さんを診察していった。

「あの、先生、爺さんは……」

 後ろで立ち尽くしていたヴィッシュが問うと、モンド先生は事も無げに答えた。

「そうな。あと6日ってとこかなあ」

「え?」

 モンド先生があと10日と診断したのが4日前。10ひく4は……

「え?」

「そんな口あけてぼんやりしとると、埃を食っちまうぞ。

 わしを誰だと思っとる? わし、モンド先生だ」

 

 

     *

 

 

 診療所のベッドでガーラン爺が目を覚ましたとき、傍らにはヴィッシュが付き添っていた。よう、と彼は気さくに手を挙げて挨拶した。ガーラン爺は顔を背けた。窓の外に木が一本見えた。

 蝉の声は、もう聞こえない。

「……すまね。迷惑、かけちまって」

「なに。こっちも仕事さ」

 どう声をかけたものだろうか。

 ゾンブルを倒す方法を模索する傍ら、ヴィッシュはずっとそのことも考え続けていたような気がする。戦い方には答えがあった。だがこれには、答えなどありはしないのだろう。仮に答えと呼べる物があったとして……

 果たしてその通りにすることが、正しいと言えるのか。

 全てはガーラン爺の胸の内にしかない。

 ならば自分の胸の内から回答を捻り出すしかないと思えた。たとえ満点の解答にはほど遠くとも。

「なあ、爺さん。見てたかい」

 ヴィッシュは愛剣を抜き放ち、刃を窓から差し込む陽光にかざして見せた。

「あんたが鍛えた剣だ。すげえ切れ味だったろ」

 ゾンブルを斬ったときの血はすっかり洗い流されていたが、細かな刃こぼれは誤魔化せない。刃物の宿命とも言える。使えば使うほど、刃は磨り減り、小さく軽くなっていく。

 だから鍛冶師は鋼を吹き付け、叩き、鍛え、剣を蘇らせる。研ぎ澄ますだけではやがて消え去る運命の剣に、鍛冶師は命を吹き込むことができる。

 だから、剣は――

「俺はこの剣を、一生手放せそうにねえよ」

 剣は――

 蝉の声が聞こえなくなれば、夏の祭りももう終わり。

 窓からは涼しい風が吹き込んでくる。ガーラン爺は大きく息を吸い込み、吐いた。やせ細った胸が静かに上下した。長い長い沈黙の末、爺はようやく口を開いた。

「なあ、あんた、分かっとらん」

 ヴィッシュは目を瞬かせる。

「まだまだ、上ぇ、あるだや」

 これだから、この爺さんは。

「そうこなくっちゃ」

 

 

     *

 

 

 それから8日後の朝のことだった。

 ガーラン爺が、診療所のベッドの上で息を引き取っているのが見つかった。

 ヴィッシュはとうとう、一度も爺さんの笑顔を目にすることが無かったが、死に顔は不思議と微笑んでいるようにも見えたという。

 彼が何を考え、何を思っていたのかは分からない。全ては爺の胸の中。

 爺さんの葬儀は、ヴィッシュの知人の神父によって簡単に執り行われた。家族のいない爺さんではあったが、近隣住人の参列は思いの外多く、狭苦しい教導院の礼拝堂から人が溢れるほどであった。

 それで、おしまい。

 ヴィッシュは家に戻ると、何もする気になれず、ただ寝椅子に転がって天井を見つめていた。

 最後に爺さんにかけた言葉は、単なる気休めに過ぎなかった。緋女(ヒメ)の言うとおりだ。生きた証の消滅を、ほんの数十年ばかり先延ばしにしたにすぎない。気休め。ただの気休め。

 だが、分かっていたはずではないか? 気休めのおかげで、人は生きていける。

 なのに何故、今になって迷いが消えない?

「万策のヴィッシュが聞いて呆れるぜ」

 つい、ぼやきが口を吐いて出る。

「本当にあれで良かったのかよ――」

「ばか。難しく考えすぎだぜ」

 突然頭の上からかかった声にぎょっとして見れば、緋女(ヒメ)が腰に手を当てて仁王立ちしている。何を思ったのか、珍しくエプロンなんぞ身につけて、片手には湯気の立ち上る料理の皿を持っている。

 ヴィッシュは、彼女の鋭い目から逃げるように視線を逸らした。

「考えなしで渡ってけるほど、甘かねェだろ、世の中は」

「考えだけで渡ってけるほど、甘かぁねェよ、世の中は」

 目をぱちくり。

 時々妙にうまいことを言う奴だ。感心しきりのヴィッシュに、緋女(ヒメ)は無愛想に皿を差し出した。またしても、目をぱちくり。厨房が爆発するとかなんとか言っていたわりに、見た目はまともそうではないか。

「生きてるヤツには、死ぬまで生きる権利と義務と本能があんの。

 だからメシ食や幸せなの。

 そういうふうにできてんの!」

 言って緋女(ヒメ)は、ヴィッシュの鼻先に皿を突き出し、

「ほれ。食え」

 しぶしぶ、ヴィッシュは起きあがって皿を受けとった。野菜炒めのような料理の中に、フォークも突き立っている。それを手に取り、匂いを嗅ぎ、大丈夫そうだと判断すると、恐る恐る口に入れる。

 まゆ毛と顔が一斉に“へ”の字にひん曲がった。

「……不味い。お前が作ったのか?」

「文句あっかよ」

 口をとがらせ、そっぽを向いて、緋女(ヒメ)()ねて見せた。やれやれ、とヴィッシュは皿を置いて立ち上がる。

「大ありだ。全く、任せちゃおけねえな。

 そこで大人しく座ってろ。職人技を見せてやるよ」

 彼が厨房へ入っていく、その軽い足取りを見送って、緋女(ヒメ)はほっと微笑みを見せた。階段の上からは、様子をうかがっていたカジュが降りてくる。ふたりして顔を見合わせ、親指突き出して、ニヤリと口の端を釣り上げる。

 どちらの立てた策だったのか、それは知るよしもないが。

 生きる糧を得るために、今日もヴィッシュは鉄を振る。

 

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 降りしきる雨の中、仲間たちとはぐれたヴィッシュ。雨宿りに逃げ込んだ謎の屋敷で、彼は奇妙な女中(メイド)に出会う。健気な奉仕者を(さいな)む“永遠の労苦”。突如襲い来る化外(けがい)よりの猛威。そのとき、後始末人が為した決断とは――?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第3話“テンプレート・メイド”

 Tinplate-Made

 

乞う、ご期待。

 



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第3話 “テンプレート・メイド”
第3話-01 雨に追われて


 

 

 降り出した雨は、一向に止む気配を見せない。

 成熟した森においては頭上を高木の枝葉に覆われ、地面まで届く光はごく僅かである。ゆえに低木の類はほとんど生育できず、足下に生えるのは丈の短い雑草や苔がせいぜい。雨に湿ればよく滑る。

 足をとられぬよう気をつけながら、ヴィッシュは息を乱して先を急いでいた。たった一人で。

 はぐれてしまったのだ。仲間達と。

 魔物退治の依頼を受けて、3人揃って森に入り、果たして森の奥で魔物の足跡を発見。手分けして近くを探そうということになり、別れた途端に突然の豪雨。視界はすっかり塞がれ、辺りは夜のように暗くなり、獲物を探すどころか、仲間との合流さえ難しい。

 とにかく雨が止まねば話は始まらない。このまま雨に打たれ続けては体力を消耗するばかり。そこでこうして、雨宿りできる場所を探してうろついているのだが――

 と。

 ヴィッシュは雨に霞んだ視界の向こうに、大きな白っぽい影を見た気がした。足を止め、そちらによくよく目をこらす。やはり間違いない。白く見えた物は積み上げられた石壁。森の木々の合間に、石造りの立派な屋敷が一軒、ぽつりと場違いに建っているのだ。こんなところに隠棲する物好きな金持ちでもいるのだろうか。

 いずれにせよ、ありがたい。雨宿りにはこれ以上の場所はあるまい。

 ヴィッシュは足早に、屋敷の方へと近づいていった。

 白い屋敷は身じろぎもせず、騒ぐ雨音の中、物言わぬ骸のようにうずくまっていた。

 森の中にぽっかりと空いた広場。小さいながら美しい庭園を満たす花々も、今は雨に濡れてうなだれている。門から玄関まで導くまっすぐな石畳が、雨粒に跳ね上げられた泥でいくつもの黒斑を付けている。それらを突っ切って、ヴィッシュは飛びつくように玄関の大きな木戸をノックした。

 返事はない。ノッカーに気付いて、叩いてみる。やはり同じ。

 苛ついたヴィッシュが腕に力を籠めると、意外にもドアはあっさりと開いた。

 家人に無断で立ち入るのは躊躇われたが、背中を叩く雨粒はいっそう強さを増している。

 追い立てられ物陰に隠れる獣のように、ヴィッシュはドアの隙間からするりと身を滑り込ませたのだった。

 

 

     *

 

 

 大きな樫のドアを閉めると、雨音は別世界のことのように遠ざかった。身を切る冷気も肌を打つ雨粒もここにはない。ようやく豪雨を逃れたヴィッシュは、大きく安堵の溜息を吐いた。

 全く、いい所にいい具合に屋敷が建っていたものだ。緋女(ヒメ)たちも、うまく雨宿りできていればいいが――

 仲間を思いながら雨避けの外套を脱ぎ、水気を払って辺りを見回す。

 玄関の奥は、まっすぐ続く廊下になっていた。床はよく磨かれた上質の大理石。染みひとつない壁には、ところどころ銀の燭台が掲げられている。

 その輝きの見事なこと。この一点だけとっても、家人の手入れが行き届いていることがよく分かる。銀は大変に曇りやすい。放置していると黒く曇り、輝きが失われていく。ゆえに定期的に磨いてやらねばならないのだ。

 思えば、外の庭園も丹念に手入れされているようだった。森の木々を倒して広場を作ると、とたんに雑草や低木が生え始め、ほんの1、2年で人の踏み込めない(やぶ)になってしまうものだ。そうなっていないのは、きちんと草刈りが為されている証拠。

 それだけに、濡れ鼠で勝手に上がり込んだことが気に病まれた。ヴィッシュは声を張り上げる。

「すいませーん。誰かいませんかー」

 残響だけが返答だった。

 屋敷の中は奇妙に静まりかえり、遠い雨音が獣の唸りのように響くばかり。

 と。

 ヴィッシュは弾かれたように後ろを振り返った。何もない。さっきヴィッシュが閉めた、樫のドアがあるばかりだ。じわりと肌が湿る感覚は、雨に濡れたせいばかりではない。

 今、誰かが、背後から見ていたような――

 そのとき。

 遠くの方で、重い音が響いた。

 思わずヴィッシュは剣の柄に手を伸ばした。耳慣れた音――金属音。あれは、全身鎧の騎士が立てる足音そのものだ。こんな森の中の屋敷で全身鎧だと? 屋敷の護衛に兵でも雇われているのか。でなければ、あるいは――

 再び、音。

 さっきより近い。

 油断なく剣の柄に手を掛け、いつでも抜き放てる体勢を保ち、ヴィッシュは足音の主が姿を見せるのを待った。足音は近づいてくる。少しずつ。正面に見える曲がり角の、左側の辺りから。

 一歩。

 また一歩。

 果たして、そいつは姿を見せた。

 騎士? であろうか? 角張ったブリキ製の全身鎧を(まと)い――その()()()愛らしい女中(メイド)服を着ている。

 ――いや違う! あれはっ!?

 ヴィッシュが驚きに身をすくめたそのとき、ブリキ鎧の隙間という隙間から白い高熱蒸気が吹き出した。その頭部がぐるりと回る。ふたつの目が血のごとく赤く光を放ち、ヴィッシュを正面から睨みつける。とたんに巻き起こる、空間を引き裂くかのような大音声。

【ニンゲン ハッケン! ハッケン! ハッケン!】

 突如、ブリキ鎧が()()()()! 膝関節が逆方向に折れ曲がり、ふくらはぎの車輪が床に付く。蒸気を吹きながら鎧の各部の隙間が開き、折り畳まれて身長が一回り小さくなる。肩が異様な角度に回転したかと思うと、床に突いた手のひらがぱっくりと割れてそこからも車輪が現れる。

 次の瞬間、背中に開いた噴射孔から爆発のように蒸気を吐き出し、その勢いでブリキ鎧が突撃してきた!

「うっ……うわあああああああっ!?」

 剣を抜く間もあらばこそ。後ずさったヴィッシュの目前で、ブリキ鎧は華麗にターン。床に車輪を擦りつけてぴたりと停止。ブリキの頭部がぐりんっ、と回転し、ヴィッシュに向いた。先程の変形手順を逆に辿り、見る間に人間型へと戻ると、ブリキ鎧は――

【オキャクサマ! イラッシャイマセ!!】

 両手を腰の前で揃え、慎ましやかに深々とお辞儀した。

 ……………。

「……は?」

 柄に手を掛け剣を抜こうとする姿勢のまま、ヴィッシュは茫然と、凍り付いたのだった。

 

 

     *

 

 

 錻力女中器(テンプレート・メイド)

 話には聞いたことがある。“自動人形(アウトマット)”と呼ばれる魔法の道具(フェティシュ)の一種だ。その名の通り魔力によって自動的に動く人形で、大きさは手のひらサイズから竜なみのものまで様々。つまりこの奇妙な……物体……は、全身鎧を着た人間などではなく、ブリキの体を持つ人形だったわけだ。

 ヴィッシュも実物を見るのは初めてである。何しろ自動人形は古代魔導帝国の末期になってようやく開発されたもので、しかも当時はほとんど見向きもされていなかった。再検証の末にその価値が認識されたのは帝国滅亡から数百年を経てのこと。その頃には帝国期の技術のほとんどが失われ、再現や修理はおろか整備ひとつまともにできない遺失技術(ロストテクノロジー)と化していた。

 ゆえに、現代では自動人形(アウトマット)は極めて希少な存在である。

 まして、こうして実際に稼働している自動人形(アウトマット)となると。

 ましてまして、わざわざメイド服を着せられてメイドをやってる自動人形となると。

【オ茶 ドーゾー!】

 案内された客間で待っていると、ブリキメイドが車輪をキュルキュル鳴らして戻ってきた。両手には見事な銀の盆。その上には湯気を立てるティーセット。ソファに身を沈めるヴィッシュの前で、ブリキメイドは時々関節から蒸気を噴きつつお茶を淹れてくれた。

 ……出されたカップを鼻に近づけ、まずは匂いを嗅ぐ。恐る恐る舌先でちょっと舐めてみる。ひとまず、おかしな味はしない。緋女だったら疑いもせずに飲むんだろうなあ、などと思いつつ、慎重派のヴィッシュは、結局飲まずにカップを皿に戻した。

 ふと横を見ると、ブリキメイドが、やかんのような円筒形の頭部を向け、ルビーの瞳をキラキラと輝かせてこちらを見つめている。

「……なんだ?」

【オ食事ヲ ゴ用意 シマスカ!?】

「あ、いや、結構」

【オ酒モ ゴザイマス!】

「今はいい」

【オ泊マリ ナラ オ部屋ヲ……】

「いらないって」

 ぴ――――、きゅるるるるるる。

 鳥の鳴き声のような甲高い音を立てて、ブリキメイドの頭部がくるくると3回転半。あちこちの関節から、弱々しく断続的に蒸気を噴き、落ち着かなげに身じろぎしているさまは、まるで命令を待ってウズウズしてるかのよう。

 キラキラ? ウズウズ? そんな馬鹿な。相手は歯車と魔力回路の集合体だ。

 頭を掻いて、苦笑する。ヴィッシュは懐から、いつもの細葉巻を取り出した。

「灰皿、ある?」

【ゴ用意 シマス! オ待チ クダサイ!】

 ブリキメイドの返答と行動の素早いこと。飛ぶように応接間を飛び出して、すぐさま陶器の皿を手に戻ってくる。それを、金属骨格と何かの(チューブ)が剥き出しに絡まった細い腕で、ヴィッシュの鼻先に差し出し、誇らしげに鼻から蒸気を噴き出す。

「ありがとうよ」

【ド イタシマシテ!】

 葉巻に火を付け、ふかしながら、ヴィッシュはソファに背を投げ出した。天井を仰ぎ見れば、曇りひとつないシャンデリアがぶらさがっている。だが蝋の欠片が全く付いていないところを見ると、手入れがしっかりしているというより、ほとんど使われていないという感じだ。

 やはりこの屋敷はおかしい。人気(ひとけ)がなさすぎること。自動人形(アウトマット)なんぞをメイド代わりに使っていること。そして……屋敷に入ったときから僅かに感じていた何者かの気配。

「なあ、ちょっと話し相手になってくれるかい」

【ハイ デス!】

「ここのことを知りたいんだ。今までにこの場所に起こったこととか……」

 と問うと、ブリキメイドは突然、用意した原稿を読み上げるかのように流暢に、

啓示前(BD)50億年ごろ、世界は単一存在たる魔皇(ジ・アー)から分化しました。最初の生物が誕生したのはそれから数億年後、最初の神が発生したのはさらに……】

「いやいやそんな昔じゃなくてだな……他に人間はいないのか? お前のご主人は誰なんだ?」

【ギルディン サマ デス!】

「ギルディン……?」

 ヴィッシュは腕組みして首を傾げた。どこかで聞いたことがあるような名前だ。それも直接の知り合いというより、何かの本とか、人から聞いた話とかで――

 あ、とヴィッシュは小さく声を挙げる。思い出した。

「……ロバート・A・ギルディンか!」

【デス!】

「じゃあ、お前にはもう、主人はいないんだな」

【イマス!】

「はあ?」

 話が通じない。しばらくヴィッシュは解釈に頭を捻り……ひとつの可能性に思い当たった。

 額から冷たい汗が噴き出す。顔から血の気が引いていく。

「まさか……ギルディンは、居るのか? この屋敷に、今でも?」

【デス!】

 ヴィッシュは絶句した。

 やっとのことで捻り出した声は、得体の知れない事実に遭遇した驚きと恐れでかすれていた。

「馬鹿言うな、あれはベンズバレン建国に携わった三賢者のひとり……120年も昔の人物じゃねえか!」

 

 

(つづく)

 



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第3話-02 永遠の労苦

 

 

 どうやら、状況が見えてきたようだ。

 ロバート・A・ギルディンはベンズバレン建国戦争の英傑に数えられる人物であり、この国での知名度はそれなりに高い。王と三賢者の武勲伝(いさおし)といえば、定期市でも旅芸人たちが決まって演じる定番の物語だ。ギルディンは数ある能臣たちの中でもとりわけ軍略に優れ、幾度となく建国王を窮地から救い出したという。

 そのころのギルディンは、すでに五十路(いそじ)を過ぎた老人であったはずだ。仮に本人が存命であったとすれば、今では170歳を超えているはず――いくら魔術を駆使したところでそこまでの長命が得られるはずもない。

 ならば、ギルディンは今、おそらく――

 主人に会いたい、と告げると、ブリキメイドはヴィッシュを2階に案内してくれた。寝室に彼は――賢者ギルディンは居るという。

 ブリキメイドの後をついていきながら、道々、ヴィッシュは問う。

「お前の主人は寝室から出てこないのか?」

【ハイ!】

「なんでだ?」

【ギルディン サマ ハ ゴ病気 デス】

 ヴィッシュは深く溜息を吐く。

「――いつから?」

【ズット デス】

 いよいよ、間違いあるまい。

 ヴィッシュは重苦しい気持ちを胸に抱えて、導かれるままに2階の一部屋に辿り着いた。ブリキメイドがドアをノックする。客が来たことを主人に告げる。ドアを開いて、ブリキメイドが音もなく滑り込んでいく。

 少しの躊躇いの後、覚悟を決めて、ヴィッシュは部屋に入った。

 こぢんまりとした居心地のいい部屋に、天蓋付きのベッドがひとつ、黒檀のテーブルがひとつ。ブリキメイドは、テーブルの上に広げられていた料理の、片付けにとりかかっていた。

 おそらく()()が作ったものであろう。香ばしく焼かれた丸いパン、少し焦げ気味なのは主人の好みに合わせてあるに違いない。野生のベリーで作ったジャムの香りが甘く漂う。スープの中の塩漬け肉は、風味を出すためカリカリに炒めてある。

 どれひとつとっても、いい加減な仕事ではない。手間暇をかけた立派な料理だ。

 なのにそれらが、一口も付けられぬまま――どころか、スプーンを手に取った様子さえ見えぬまま、放置され、冷め切って、テーブルの上に残されている。

 淡々と、ブリキメイドは、持参していたトレイに料理の皿を乗せていった。その背が寂しげに見えたのは、ヴィッシュの気のせいなのだろうか。機械に心などあるわけがない。そのはずなのに。

【失礼 シマス】

 彼女は一礼すると、トレイを持って寝室を出て行った。

 後に残されたのは、ヴィッシュと、そして、ベッドに横たわる人物。

 ヴィッシュは天蓋をめくり、中を覗き込んだ。

 予想通りの物が――者が、そこにいた。

 完全に白骨化した人の亡骸であった。

 環境にもよるが、死体が白骨化するのにかかる時間は意外に短い。よく乾燥して風通しのよい場所なら、最短で1ヶ月。湿った土中に埋められていたとしても3年とかからない。

 この遺体が賢者ギルディンのものだとすると、死後100年近く経っていてもおかしくない。骨がきちんと残っているだけでも奇跡のようなものだ。誰かが、骨の風化を遅らせるために環境を整えてやればともかく――

 ――誰かが? それは――

 ヴィッシュにはひとつ、思い当たる所があった。

 ふと、食事を片付けられたテーブルを見遣る。あのブリキメイドが、主人の死を理解できず、生前に与えられた命令を忠実に守り、100年もの間、毎日毎日、食べられることのない食事を乗せ続けてきたであろうテーブル。

 その隅に、一輪の花が置かれていた。外の庭園に咲いていたのと同じ花。

 と。

 ぞっとする冷気を背中に感じ、ヴィッシュは思わず剣の柄に手を掛けた。壁に背を付け、油断無く部屋に目を配る。誰もいない。何の物音もしない。感じたはずの異様な気配も、いつのまにか消え去った。吹き出した冷や汗を拭い、ヴィッシュは溜息を吐く。

 この屋敷に入ったときにも感じた。この気配は一体何だ? 単なる気のせい? それとも――

 と、そこにブリキメイドが戻ってきた。ヴィッシュのそばにちょこんと控え、時折少しだけ蒸気を出したり、頭を回転させながら、命令されるのを待っている。耳に聞こえるのは彼女の駆動音と、屋敷の木窓を叩く雨音ばかり。

「なあ、メイドさんよ。お前、名前はあるのかい」

【“ブリギット”!】

 ヴィッシュは微笑む。

「かわいい名前だな」

【ハイ!】

「……なあ、ブリギット。こんなことはもう止めなよ。お前の主人は、もう死んだんだ」

【……………?】

 くるくるとブリキの頭が回転する。

【? ??】

 ぶすぶすぶすぶす……

「おい! 煙! 煙吹いてるぞお前っ!」

【デス? デス? ??】

「いや、俺が悪かった! 考えんでいい、忘れろっ」

【デス!!】

 大慌てで頭を扇いでやると、徐々に煙も収まって、ほっと一息。どうしたものかと思案しながらヴィッシュが寝室を後にすると、ブリギットはその後をちょこちょこ付いてくる。

 ヴィッシュが足を止めれば、彼女もまた、ひたりと止まる。

「雨、まだ止みそうもないな」

 くるり、とブリギットの頭が回転した。

「この雨が上がるまで、どのみち身動きが取れないんだ。だから――せっかくだから」

 彼女に向けて微笑んで、

「メシをご馳走になろうかな」

 ブリギットは飛び上がりそうな勢いで変形すると、全身の関節という関節から勢いよく蒸気を噴射した。

【ゴ用意 シマス!!】

 

 

     *

 

 

 ブリギットが勇んで厨房に飛んでいき、何やらガチャガチャやりはじめて、ヴィッシュは再びひとりになる。僅かに開いた木窓から、吸い込まれるように入ってくるのは耳心地よい雨音と湿った冷気。食事ができあがるのを待ちながら、のんびりと一服。

 心を落ち着け、ヴィッシュは考える。

 何ができるだろうか?

 永遠に働き続ける人形と、永遠に戻らない主のために。

 カジュあたりなら、ブリギットの頭脳――魔力回路――に手を加えて、過去の命令を消去することもできるかもしれない。だがそれは同時に、ブリギットの記憶を抹消することを意味する。彼女の中に百年あまりに渡って蓄積されてきたであろう、この屋敷での思い出をも。

 果たしてそれが正しい選択なのだろうか。たとえ彼女を永遠の労苦から解き放つためであるとしても。

 考えても、考えても、答えは見当たらない。

 そのときヴィッシュは、階下から物音がすることに気付いた。誰かが乱暴にドアを開けるような音。続いて車輪の音。ブリギットが大慌てで出迎えに行ったようだ。ひょっとして、緋女(ヒメ)たちだろうか? ヴィッシュと同じように雨宿りの場所を探し、この屋敷を発見したのではないか?

 くわえ煙草のまま螺旋階段を下り、身を屈めて、手すりの隙間からひょいと顔を覗かせ、玄関の様子を見遣り――

 その光景を見るや、大慌てでヴィッシュは死角に引っ込み、壁に背を付けて身を隠した。その拍子に葉巻から焼けた灰がこぼれ落ち、ヴィッシュの手の甲を焦がす。思わず叫びそうになるが、必死の思いで我慢。灰を払い落として、火傷を舐める。

 ――畜生! こんなところで出てくるかよ!

 涙目になって、今度は慎重に、そっと顔半分で覗き込む。ブリギットが例によって客間に案内しようとしている相手は、身の丈2mを越える巨人。全身を長い剛毛に覆われ、手には木を乱雑に削っただけの棍棒をぶら下げ、ずぶ濡れで立っている。

 “岩砕き鬼”。

 あれこそまさに、ヴィッシュたちに始末が依頼された魔物だったのである。

 

 

     *

 

 

 “鬼”というのは、人類とは先祖を異にする知的種族の総称である。人に様々な人種が存在するように、鬼にも多用な種が存在する。知能の程度も千差万別で、賢いものは人間を遥かに上回る技術や知識を持っているとさえ言われる。

 岩砕き鬼はその中でも最も知能の低い種のひとつだ。扱う道具はせいぜい簡単な石器や木の棒まで。語彙数の少ないごく単純な言語しか持たず、まとまった個体数が社会生活を営むこと自体がまれ。それゆえ扱いやすくもあったのか、魔王軍は尖兵として岩砕き鬼を大いに用いた。おそらくこいつも、その生き残りの一体であろう。

 知能が低いとはいえ、その体躯からくる膂力は尋常ではない。岩砕きの名は、比喩でもなんでもないのだ。ちょっとした石壁程度なら、棍棒の一撃で軽く粉砕してしまう。並の戦士が正面から打ち合って勝てる相手ではない。

 もちろん、ヴィッシュにもだ。

 ――緋女(ヒメ)がいれば瞬殺なのになァ……

 まあ、いないものをアテにしても仕方がない。緋女(ヒメ)たちと合流するのを待つ手もあるが、少なくとも雨が止むまでそれは難しいし、仮に止んでもすぐに合流できるわけでもない。その間にせっかくの獲物に逃げられたり、1対1での遭遇戦という最悪の事態になったりしたら、目も当てられない。

 やるしかない。ひとりで狩るのだ。

 鬼もまた、この雨に追われて雨宿りの場所を探していたのであろう。馬鹿正直に案内しようとするブリギットを無視して、屋敷の中を我が物顔にうろつき周り、やがて気に入った部屋を見つけるとそこに入っていった。ちょうど、ヴィッシュが最初に案内されたあの客間だ。

 それを確認してから、ヴィッシュは足音を殺して厨房に移動した。かまどには火が焚かれ、ヴィッシュが頼んだ食事が調理しかけの状態で残されている。さて、ここでひと仕事。腰のベルトに提げた荷物鞄から小さな瓶をひとつ取り出し、調理台の上に出してあった塩漬け肉に、中身を振りかける。

 と、その時、金属のひしゃげる派手な音が遠く響いた。

 ヴィッシュは厨房の入口から、廊下をそっと覗き込んだ。さっきヴィッシュが案内されたあの客間から、ふらつきながらブリギットが出てくる。見ればその頭が、痛々しくへこんでいるではないか。ヴィッシュは沸き上がってきた怒りに顔をしかめた。

 ――やりやがったな、あの野郎。

 おそらく、付きまとってくるブリギットを鬱陶しがって、殴りつけでもしたものだろう。一撃で破壊されなかっただけ運が良かった。

 鬼の視界に入っていないことを確認して、ヴィッシュは廊下に姿を見せた。ブリギットがこちらに気付く。手招きしてやるだけで彼女はガチャガチャと寄ってくる。見つからないうちに彼女を厨房に引っ張り込み、声をひそめて、

「大丈夫か?」

【? ??】

「つまり、お前が壊れてないかって訊いたんだ」

【ハイ! 壊レテ ナイ! デス!】

「よし。なら、お前に頼みがある」

【デス!】

「俺の食事は後でいい。先にそこの材料で食事を作って、あの新しいお客さんに喰わせてやれ。腹が減ってるだろうから、きっと喜ぶぜ」

【デス!】

 命令を受けて、ブリギットは料理に取りかかった。手際もいいし、包丁捌きも一級品。惚れ惚れするような腕前だ。オマケに命令には忠実ときた。街に連れて帰れば、どこの料理屋でも欲しがるだろうに。

 その手腕を見物するかたわら、ヴィッシュは鞄から手のひらに収まるくらいの玉を取り出した。卵の殻を利用して作った(つぶて)である。

 これが、今回の仕掛け。緋女(ヒメ)とカジュがいなかろうが、問題などあるものか。今回は最初から相手の正体も分かっていたし、万一のための準備は万全に整えてきたのだ。

「見てろよ。ぶっ飛ばしてやるぜ」

 指の中で(つぶて)(もてあそ)びながら、ヴィッシュは低く呟いた。

 

 

(つづく)

 



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第3話-03(終) 安堵

 

 

 食事を出したら、すぐに部屋から出て厨房に戻るよう、ブリギットにはよく言い含めてある。ヴィッシュは彼女が山盛りの食事を載せた盆を運ぶ後ろについていき、部屋の外で壁に背を付け待機。

 待つことしばし。ブリギットがお辞儀しながら部屋を出る。命令通り厨房に戻るのを見届け、さらに待つ。部屋の中では鬼が食事に手を付ける物音。

 と。

 狂ったような咆哮が響く。

 ――好機!

 即座にヴィッシュは部屋に躍り込んだ。テーブルの上に載せられた料理を派手に散らかしながら、鬼が飲み込んだばかりの肉を吐き下している。

 ヴィッシュが先ほど肉に仕込んでおいたのは、粘膜を傷つける毒である。飲み込めば、喉や胃に激しい痛みを生じる。吐いてしまえばそれまでなうえ、相手を完全に行動不能にするほどの効果はないが、その代わりに無色、無味、無臭。五感の鋭い獣にも有効で、一瞬敵の動きを封じる程度のことはできる。

 そして、その一瞬で充分。

 気配に気付いた鬼が、血走った目をヴィッシュに向けたその瞬間、かねて準備の(つぶて)を投げつける。卵殻が鬼の顔にぶつかった衝撃で破裂して、粘着質の黒い液体を撒き散らした。

 ヴィッシュ特製の目潰し玉。相手の目を狙って当てるのは難しいが、毒で動きを封じた上でならこの通り。

 突如視界を塞がれ、混乱した鬼は咆えながら腕を振り回した。だが狙いも付けない大振りの一撃、身をかわすのは容易いことだ。軽々とその攻撃をかいくぐり、剣を抜きつつ肉薄すると、膝を狙って斬りつける。

 ヴィッシュの腕では、分厚い毛皮に覆われた丸太のような足を切断することは難しい。が、膝骨を叩き割ることなら不可能ではない。手応えはあった。鬼が悲鳴を挙げて倒れ伏す。巻き込まれぬよう、ヴィッシュはソファを跳び越えて距離を取る。

 毒で自由を奪い、目潰しで視界を塞ぎ、足を斬って行動を封じ、しかも会敵即離脱(ヒット・アンド・アウェイ)。卑怯というなかれ。順調に敵の力を削いでいるように思えるが、当のヴィッシュは内心冷や汗ものなのである。

 何しろ敵は岩をも砕く膂力の持ち主。一発でも食らえば、それだけで絶命しかねない。万に一つも攻撃を受けるわけにはいかないのだ。

 ――次は、腕。

 とにかく敵が混乱し、まだ目潰しを拭い取れずにいる内に、可能な限り畳みかけておく。ソファの横を走り抜け、身を起こそうと床に突いた鬼の腕に近づく。だが肘を狙って再び斬りつけようとした矢先、物音で察知したか、鬼がその腕を振り上げた。

 ヴィッシュは舌打ちひとつ、攻撃を諦めて後退する。せっかく目を塞いだのに、当てずっぽうで振り回しただけの腕に殴られてはつまらない。

 だがその時、予定外のものが視界に入った。

【? ?? デス?】

 音を聞きつけて駆けつけたに違いない。部屋の入口あたりに立ち尽くしたブリギットが、状況を理解できず頭を回転させている。

 その声に、岩砕き鬼が気付いた。

 振り上げた拳が、そちらめがけて振り下ろされる。

 ――まずい!

 思うのと。

 足が動くのは同時だった。

 ブリギットに駆けよって、彼女を(かば)うように抱きかかえ、そのままの勢いで押し倒す。間に合え、と祈るように念じるも虚し。ヴィッシュの背に鬼の拳がめり込んだ。

 肺が潰れ、背骨が軋む。ただの拳の一撃が、まるで鉄の棒を叩きつけられたかのよう。その衝撃で吹き飛ばされ、ヴィッシュはブリギットと一緒になって部屋の壁に身を打ち付けた。

 僅かな間、気を失っていたのだろうか。

 やっと正気に戻ったとき、岩砕き鬼は、目潰しを拭い、折れた片足を引きずりながら、こちらへ迫ってきていた。その手には粗雑ながら巨大な棍棒――

 慌てて立ち上がろうとするが、その瞬間、背中から全身に激痛が走る。呻きながらヴィッシュは膝を突く。まずい。今の一撃で、骨を折られたかもしれない。

 ――くそっ! 馬鹿か俺は! 何やってんだ!

 自分を呪う。自分の甘さを。何のために卑劣な手段を用いてまで、慎重にことを運んできたのだ? この状況を回避するためではないか。なのに情にほだされて――!

 岩砕き鬼が棍棒を振り上げる。このままでは終われない。奴が棍棒を振り下ろす一瞬が勝負。大振りの攻撃を懐に飛び込んでかわし、急所を狙って斬りつける。それしかない。

 痛みを気合いで抑えつけ、ふらつきながら立ち上がる。

 その頭目がけて、棍棒が振り下ろされた。

 ――今!

 床を蹴り、前に跳――

 ぼうとしたその時、痛みが電流のように体を駆けめぐった。

 跳べない。足がもつれる。為す術もなく倒れ伏す。棍棒が迫る。ヴィッシュの頭が叩きつぶされる――

 その直前で、ぴたりと、鬼の動きが止まった。

 思わず痛みも忘れ、茫然としてヴィッシュは鬼の顔を見上げた。苦しげに歪んだその形相。全身に筋肉が痙攣し、体を動かそうと藻掻いている。だがまるで強靱な鎖に縛り上げられてでもいるかのように、鬼は指一本動かせないまま、立ち尽くすばかり。

 ――なんだ?

 状況を理解できずにいるヴィッシュに、低くくぐもった声が届いた。

「戦士……斬れ……」

 他ならぬ、鬼自身の口から発せられた声が。

「何?」

「早く……憑……時間が……」

 ――まさか。

「ギルディン? 賢者ギルディン、あんたなのか」

「そう……頼む……守って……」

 悲痛な声と共に。

 一筋の涙が、鬼の目から零れた。

「あの子……ブリ……ギット……」

 ようやく、ヴィッシュは全てを理解した。

 屋敷に入った時。寝室に足を踏み入れた時。この屋敷に来てから二度感じた異様な気配。何のことはない、ブリギットが言っていた通りだった。この屋敷の主人は、ずっと屋敷の中に住んでいた。ここに居たのだ。死してなお、死にきれず。100年もの永きにわたって。

 彼の愛する女中(ブリギット)が、そうし続けたのと同じように。

「わかった……」

 痛みを堪えてヴィッシュは立ち上がった。

「後のことは任せろ」

 鬼の顔に、笑みが浮かんだように見えるのは気のせいか。

 ヴィッシュは両手に剣を握りしめる。

 雄叫び。

 瞬きひとつするほどの時間の後には、ヴィッシュの剣が、一刀のもとに鬼を切り伏せていた。

 

 

     *

 

 

 倒れた鬼を足で蹴り、完全に事切れていることを確認すると、ヴィッシュはその場にへたり込んだ。終わった。危ないところだったが、なんとかなった。いや、単に幸運に恵まれただけか。

 見れば、ブリギットが立ち上がり、またいつものように頭を回しながら、ヴィッシュに近づいてくる。衝撃でどこか壊れでもしたのだろうか。駆動音がおかしいのが気になる。カジュに頼めば直してくれるかもしれない。

 その時、鬼の死体が青く発光した。ぎょっとして、ヴィッシュは思わず剣を取る。だが青い光は吸い上げられるように死体から立ち上り、渦巻きながらまとまって、人の形を取った。神経質だが、不思議と安らいだ表情の、老人の姿。これは――

【ギルディン サマ】

 ぽつりと、ブリギットが呟く。

 ヴィッシュは弾かれたように、彼女に顔を向けた。

【イッテラッシャイマセ】

 慎ましく、深々と、心を込めて、彼女は体を軋ませながらお辞儀する。

 まだ事態を信じられないヴィッシュの目の前で、老人は微笑み、薄らいで、虚空に溶け、消えた。

 後に残されたのは、ただ、静寂。

 終わった。

 もう、全て、終わったのだ。これで、やっと。

 そう思った途端、静寂を金属音が切り裂いた。見れば、ブリギットが糸の切れた人形のようにくずおれていた。慌てて這い寄り、抱き起こす。声を張り上げて呼びかける。

 彼女が蒸気を吹き出して頭を回すことは、もう二度と無かった。

 

 

     *

 

 

 いつの間にか、雨はすっかり止んでいた。

 ヴィッシュは森の中に穴を掘り、寝室の白骨を集めて埋葬した。手近な岩を一つ転がしてきて、墓石代わりにする。庭園に咲いていた花を一輪そなえ――

 最後に、もはや動くことのないブリギットを、墓石にもたれかからせる。

 これは推測に過ぎないが、賢者ギルディンが亡霊化した原因は、ブリギットにあったのではないだろうか。自分を世話するように、という命令を解除せぬまま死んでしまって。主人の死を理解できぬまま、永遠の労苦に苛まれる彼女を、見ていることしかできなくて。

 だが、とヴィッシュは思う。

 本当に彼女は、主人の死を理解していなかったのだろうか?

 もちろん、答えは誰にも分からない。真相は全て闇の中。

 ヴィッシュは細葉巻に火を付ける。

「あっ。いたーっ! コラァー!」

 遠くから耳慣れた声がする。振り返れば、ぶんぶか手を振って駆けよってくる緋女(ヒメ)。その後ろをちょこちょこついてくるカジュ。

「よお。無事だったか」

「無事だったかじゃねーっつーの。何はぐれてんだよ、心配させやがって」

「そりゃお互い様だ」

「とにかく、雨も止んだし、早いとこ仕事済まそうぜ」

「もう済んだ。たまたま鬼と出くわしてな」

 ヴィッシュが言うと、緋女(ヒメ)とカジュは目を丸くして顔を見合わせた。

「片付けたの? あんた一人で?」

「ああ」

「やるじゃん」

「怪我したけどな。治してくれよ」

「いいけど。そのお墓、何。」

 カジュが指さす先は、ヴィッシュが作ったばかりの墓石。ヴィッシュは頭を掻く。

「それが……俺にもよく分からねえ」

「はあ?」

「うわ。すっげ。自動人形(アウトマット)だ。」

 カジュがブリギットの亡骸に寄っていって、しゃがみ込み、ぺたぺたとその体を触りはじめた。関節の隙間から中を覗き込み、目にはまった赤い宝石をじっと観察し、

「持って帰ろ。」

「あ、いや、待ってくれ」

 慌ててヴィッシュは制止した。

「これ、お金になるよ。」

「知ってる。でも……頼む。そっとしといてやってくれないか」

 自分でも、どうしてこんなことを口走っているのか分からない。

 ただ、墓石に寄り添い、安心しきった表情の彼女を見ていると――

「そいつはずっと、働きづめに働いて――

 今やっと、大仕事をやり遂げたところなんだ」

 煙草の煙を、秋風が吹き流していく。

 見上げれば空は、一欠片の白も黒もない。青。

 

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 夢。それは悪魔の誘惑なのか? 禁断の果実に触れた若者は、何も得られず死ぬだけなのか? 希望ゆえの焦燥。渇望ゆえの至誠。不条理という名の巨人が迫りくる。だから緋女(ヒメ)、刃の乙女よ、「怒りをこめてふり返れ」!!

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第4話“怒りをこめてふり返れ”

 Look Back in Anger.

 

乞う、ご期待。

 



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第4話 “怒りをこめてふり返れ”
第4話-01 夢持てぬ若人


 

 

 ――笑え、ゴロー。苦しい時こそ笑うんだ。

 父が遺したものはその言葉ひとつきりであったが、その僅かな遺産は10年を経た今でも磨り減ることなくゴローの中に残っている。はたまた、教訓通り生きるうちに身体と魂に染みついて、ぬぐいがたい習い性となってしまったのか。

 いずれにせよ、父の教えが数々のトラブルからゴローを守ってくれたことは疑う余地もない。今だってそうだ。取引先の執事(スチュワード)さまの傲慢な見下し顔に対して、ゴローは反射的に、ニヘラと無害そうな笑顔を返すことができた。

「受け取れないなァ。こう品質が悪くてはね」

 執事の声は、その言葉とうらはらに愉快そうであった。出入り業者(ゴロー)の愛想笑いで優越感を刺激されたものと見える。未来ある健康な若者が枯れ枝のような自分に媚びを売っている――その事実だけで非常な満足を得られるのだ。執事はそういう男だった。

 ゴローは、古い刀傷のある坊主頭をザラリと撫でて、しおれる雑草のごとく腰を折った。それで足りなければ平伏でもなんでもするつもりだ。今さら恥など覚えはしない。いつものことであったから。こうしていると、側頭部に彫った髑髏(ドクロ)の入れ墨がいい具合に歪んで、一緒に頭を下げてくれてるようにも見える。

「お願いしますよォ、オレに調達できンのはこのくらいが限界で。どうかお目こぼしを、閣下」

「閣下などと呼ばれる筋合いはないよ」

 言いながらも執事は上機嫌だ。すかさずゴローはたたみかけた。

「すんません、オレ、バカなんでよく分かんなくってェ。

 でも、みんな言ってるスよ。お屋敷の屋台骨は執事のブリアンさんだって。ほんとの閣下はあの人だって。違うんスか?」

「教育のない連中はこれだからね……」

 苦笑しながら執事は受取証のボロ布にサインを走らせた。そしてその上にいくばくかの金貨を放る。その枚数が少々たりないことは一目で分かった。しかし――ゴローは笑顔を崩さなかった。ここで不正を指摘して何になろう。得られたはずの魚を捕り逃すだけだ。

 ならば、掴めるものを掴むまで。金貨は金貨。たとえ侮りと蔑みがたっぷりまみれていようとも。

「毎度ありざぁす、ブリアン閣下」

 ゴローは深く深く頭を下げた。今度は尊称の誤りが指摘されることはなかった。

 

 

     *

 

 

 ――しみったれやがって、あのブリブリ執事が!

 心の中で悪態をつきながら、ゴローは屋敷の裏口から通りへ出た。

 気分が悪い。こんな日は楽しいお店へ行くに限る。おいしい料理とおいしい酒、おいしい女の子が彼を待っているのだ。何を悩む必要があろう? 彼は今のところ金持ちだ。

 ゴローが第2ベンズバレンに連れてこられて今年で8年になる。彼の父はシュヴェーア帝国の兵士だったが、魔王戦争で死んだ。孤児となったゴローは2年間ネズミのように暮らし、そのあと人買いに捕まった。そして急発展を遂げつつあったこの街に送られたのだ。穀物樽を詰め込むような気軽さで船倉に詰め込まれて。

 この街では、父の遺した教訓が大いに彼を助けてくれた。僅かな銀と引き換えにゴローを買い取ったケチな商人でさえ、彼の媚びた笑顔には気を許したものだ。だからといって待遇が良くなるわけではなかったが、少なくとも、気まぐれな怒りの拳を他の奴隷にそらす効果はあった。そして、脱走を可能とするだけの隙を生み出す効果も。

 ゴローは13歳の時に奴隷部屋を抜け出し、貧民街に転がり込んだ。笑顔はそこでも役に立った。若く従順であった彼はたちまち地元(ところ)の住人たちに好かれ、路傍の、雨が凌げる(ひさし)の下に寝起きすることを許された。

 それから5年。今のゴローは、仲買人(ブローカー)の仕事で口に糊している。

 仲買人(ブローカー)と言えば聞こえはいいが、その実態はチンピラまがいの故買屋だ。貿易の盛んな第2ベンズバレンには、泥棒、強盗、倉庫荒らしの類が掃いて捨てるほどいる。その中でも犯罪組織と繋がりのないモグリの連中を相手に、盗品や横流し品の仕入れを行う。仕入れたそばから蛇のように素早く売りさばく。

 利益は決して大きくない。仕入れ先が盗賊だけあって一筋縄ではいかないし、顧客のほうも足元を見て買い叩こうとする。商売の手を広げればたちまち警吏や組織に目を付けられる。危ない橋を渡ったことも一度や二度ではない。まったくろくでもない商売だ。

 そのうえ、苦労して得た僅かな儲けさえ、その日のうちに呑んでしまうのが常だった。金があるなら使うに限る。貯め込んで何になろう? 明日の幸福など知ったことではない。そもそも明日が来る保証がどこにある?

 ゴローは年代記通りのいかがわしい酒場に足を向けた。昼間から飲んだくれどもが集っているうえ、給仕娘と娼婦の区別をしなくてよいような面白おかしい店だ。ゴローが戸をくぐると、案の定酒場は大いに盛り上がっており、ナイフのような目をした不機嫌なゴローを歓声で迎え入れてくれた。

「おー、ゴローちゃん! イェー!」

 それを聞くなり、ゴローはあの小動物めいた笑顔を取り戻した。真夏の海、迫りくる波に全身で飛び込むようにして、ゴローは酔っ払いの中に身を投げ出した。酒臭い息が彼の身体を受け止める。もののついでに、給仕をしていた女の子の胸を揉む。頬を思いっきりツネられる。周囲で下品な爆笑が起こり、ゴローも満足げに笑った。

「うぉう、ごろちゃんー、ょうよー?」

「なんスかおっちゃん、真昼間からちょー飲んでんじゃねっスかァ! まじカッケー!」

「よれっけー!」

 泥酔した男が杯をくれるので、ゴローはカパッと一口にそれを飲み干した。あとはやんやの大喝采。ゴローは空の杯を大将首よろしく掲げ、店主に酒と肉を注文した。そしてどこか他に絡む相手はいないかと店内を見回し、隅の席に彼女を見つけた。

 その女は、酒場の薄暗がりを切り裂くかのような、光輝く赤毛をしていた。ゆったりとした東方風の着物をまとい、肉食獣のしなやかな手足をのんびりと投げ出している。彼女の目がゴローを捉えた。抗いがたく魅惑的な視線に、ゴローはいつも通り人懐っこく笑いを返した。

緋女(ヒメ)サン!」

 ゴローは酔っ払いたちの手を振り切って、赤毛の女――緋女(ヒメ)に駆け寄った。彼女は軽く杯を上げて挨拶をくれた。その動きひとつでゴローの心はフワリと舞い上がり、そのまま天に昇るかのようだ。

「よっ。久しぶり」

「んもー、最近ぜんぜん顔見せてくんなかったじゃないスか。ゴローちゃんさみしいっ」

(ワリ)(ワリ)ィ、ちょっと仕事忙しくてさ」

「へえ? また傭兵?」

「後始末人ってやつ。知ってる?」

「えー! 知ってる知ってる、バケモン退治するやつっしょ? まァーじスか! やっぱ緋女(ヒメ)さんヤベェ! まじ世界レベル!」

「あ? たりめーだろ? ナメてんのかコラ?」

「じゃ今日は緋女(ヒメ)さんの就職祝いだァ! 今日はオレのオゴリってことで! みんな、飲むぞー!」

 とたん、狭い酒場に嵐のような歓声が沸き起こった。酔っぱらいどもが大挙して押し寄せ、緋女とゴローを揉みくちゃにする。オゴリと聞いては悪魔だろうとまつりあげる、そういう即物的な人間の集まりだ。

 だが、それの何が悪いというのだろう。少なくとも、常識人ぶって刹那の盛り上がりから身を引いてしまう、そんなつまらない人間よりはよほど上等ではあるまいか?

 その日は楽しい酒になった。下品な冗談が休みなく飛び交い、3人が全裸で跳ねまわり、酒樽は4つ空になり、最終的にはもちろん全員がべろんべろんに酔っぱらった。散会の後は力尽きたものたちが床に転がり、さながら戦場のごときありさまとなっていた――だが、こんな幸せな戦場なら、いつだって大歓迎というものだ。

 

 

     *

 

 

 気持ちよく酔ったゴローは、自宅へ帰るつもりで、うっかり女の所に転がり込んでしまった。というよりも、気が付いたら良い匂いのするベッドにひっくり返っていたのだ。

 給仕女――それは、この界隈では娼婦の別名でもある――のコンスェラは、突然訪れた酔漢に対して親切極まりない対応をしてくれたものと見える。ゴローの服は帯紐も襟も緩められ、汗みずくの身体は清潔な手拭いで丹念に拭かれていた。そしてゴローが目を覚ましたと知ると、コンスェラは水差しを口元まで運んできてくれた。

「ゆっくり飲むんだよ。むせるといけないからね」

 娼婦の声は優しかった。もしゴローが母親というものを知っていれば、彼女の中に懐かしい母性の灯火を見出したかもしれない。あいにくと彼には懐古すべき思い出さえ存在しなかったが。

 喉を鳴らして水を飲み、ゴローはいつものように笑みを浮かべた。コンスェラが不思議そうな顔をしている。ゴローは彼女の頬に手を伸ばし、お世辞にも見目良いとは言い難い顔と、無残に痩せた腕と胸とを、執拗に撫でまわした。

「ありがとな。お前かわいいな」

「お世辞でもうれしいよ」

 とコンスェラは困惑気味に苦笑した。自分の容姿が男の目にどう映るかは、ほかならぬ彼女自身が痛いほどに心得ていた。ここ半年ばかり娼婦としての仕事が開店休業状態であったのは、それなりの理由あってのことなのだ。

 唯一の例外は、ゴローであった。彼だけは、金ができると、決まってコンスェラを抱きに来た。他の女もちょくちょく買っているのは知っている――しかし、コンスェラにとってはゴローが唯一の男であった。少なくとも、ここしばらくの間に限っては。

「なあコンス、オレ、悪い奴だよね。お前をいいように使うばっかでさ」

「そうさ、悪い子だよ」

「えっへへぇ……」

 ニヤつくゴローは、まるで悪戯な少年のようだ。まさに少年の無邪気さでもって、ゴローはズボンを脱いだ。その下にあったものがボロリと露わになって、コンスェラは思わず、ワッと歓声をあげてしまう。

「オレってやつが、なんだか特別なことになってるぜ」

「そうみたい」

「おいおいコンス、お前だってよォ、この特別な状態をいいように使わない手はないんだぜ……」

 コンスェラはケラケラ笑って、それから、ゴローの言う通りにした。彼の状態はまさしく特別で、その夜もまた、過去に例のない特別な夜となった。

 夜明けごろ、コンスェラは彼の腕枕で心地よくまどろみながら、その耳元でそっと囁いた。

「ねえ、あんた、怒らないで聞いてくれる?」

 ゴローの鼻が鳴った。返事だったのか寝息だったのかは分からないが、コンスェラは構わず先を続けることにした。聞いてほしい気もするし、聞かせるのが怖い気もする。だから、通じなければそれはそれで構わないと思ったのだ。

「ときどき思うんだ。いつか、所帯を持てたらって……」

「そんな金がどこにあるよ」

 ゴローの指がコンスェラの首筋をくすぐる。コンスェラは撫でられた猫のようにその手に頭を擦りつけた。

「貯めようよ。そんなにたくさん要るわけじゃないだろ、安く祝福をくれる神父さまだって探せばいい。それに……それに、あのネ……」

 返事はなかった。見上げてみると、ゴローは目を閉じていた。いつのまにか眠ってしまったらしかった。コンスェラは諦め、彼の腕の中で丸くなった。ひとまずのところ、この小さな幸せひとつで満足できないこともなかったのだ。

 一方ゴローの意識は夢と現実の狭間にたゆたい、そこでぼんやりと思索に耽っていた。いくら考えたところで、導かれる結論は、この10年毎日彼を縛めてきたのと同じものであったが。

 ――未来なんて、夢見てどうするよ。

   オレたちみたいな貧乏人が。クズみたいな人間が……

 

 

     *

 

 

「だが夢は見るべきだ。見ること、それ自体が夢の入り口なのだからな」

 数日後、いつものように酒場でくだを巻いていたゴローに、その男はそう囁いた。知らない男だ。今日知り合ったんだったか――いや、数日前だった気もする――深い酩酊状態にあったゴローには時間さえ判然としない。

「ン……なんてェ?」

「でかい仕事をするつもりはないか」

 男の赤ら顔に左右一対の浅い皺が刻まれた。それが不器用な笑顔なのだと気づいて、ゴローは背筋を正した。酔いが急ぎ足に逃げ出していった。笑顔を武器として使うゴローであればこそ思うのだ。

 ――この笑い方をするやつは、ろくでもないやつだ。

「どんくらいでかい……」

()()()()()()()()()()()

「ねえゴロー、お酒、もうないみたいよ」

 給仕娘としてのコンスェラが、店の中をうろつきまわる途中でゴローを気にかけてくれた。しかしゴローはいつものように笑って見せる余裕すらなく、不愛想に手だけ振って追い払った。

 改めて、赤い顔の男のほうに半身を向ける。

 なるほど、でかい稼ぎだ。彼の言うことが本当なら。

「なんでオレなの?」

「あんたが“探し屋”のゴローだからさ」

「……で、何が要る」

「聞いたからにはやってくれるんだろうな?」

 ゴローは何も言わない。

 赤い顔の男は、またあの不気味な作り笑いを浮かべ、岩の擦れ合うような声でこう言った。

()だ」

 ――鈴。

 しばらくの間、ゴローはその単語を頭の中でぼんやりと転がしていたが、その意味するところを理解するや、ぞっと悪寒に身を震わせた。コンスェラを呼びつけ、酒を大量に注文する。

 なるほど、でかい。でかい仕事だ。あまりにも大きすぎて――酔わねば正気ではいられない。

()()()か」

()()()さ」

 きつい酒を一気に胸に流し込み、ゴローは囁いた。怯え切ったネズミの声で。

竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)……!」

 

 

     *

 

 

 竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)――この業界に働くもので、その法具を知らないものはあるまい。魔王軍の“遺産”は数あれど、これほど強く恐れられている魔法の道具(フェティシュ)は他にない。ちっぽけな鈴ひとつで万の軍勢に匹敵する。ことによると一国家さえ揺るがしかねない。それほどの品である。

 かつて魔王軍は、戦力不足を補う手段として多種多様な魔獣を用いた。その要となったのが、“獣使い”の術士たちと、その手に握られた竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)であった。

 この鈴には魔獣を服従させる魔力が備わっているのだ。ちっぽけなその鈴がひとたび音を響かせるや、何十という魔獣たちが獣使いの意のままに暴れ狂う。魔王軍はその力を大いに用いて人間の軍隊を蹂躙した。たった3人の獣使いによって一国が滅亡した例さえ存在する。

 当然ながら、この危険な法具(フェティシュ)は国際条約で厳しく規制され、どこの国でも第一級の禁制品に指定されている。所持していただけで摘発される――どころか、その場で首を刎ねられても文句が言えないほどの代物だ。

 にもかかわらず、竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)の需要が絶えることはない。なぜなら、

「好事家にとっては垂涎の的だからな」

 ゴローの自宅に場所を変え、しばし密談を交わした後で、赤ら顔の男はそう言った。彼はレオと名乗った。なるほど、ぼさぼさに伸びたハシバミ色の髪とヒゲが獅子(レオ)めいて見えなくもない。それに獅子は狩り以外では極めて自堕落だという。ぴったりな名前と思えた。

 レオが笑う。獅子の作り笑い。

「忌まわしい魔法の鈴は、その邪悪にもかかわらずたいそう美しいらしい。いや、邪悪だからこそか」

「簡単には手に入らないよ……」

「分かっている。探してほしいということだ。これは当座の手間賃だが――」

 と、レオは机に小さな布袋を置いた。丁重に、教導院の神父さまが聖体を扱うような手つきで、だ。ふと、執事(スチュワード)ブリアンによるぞんざいな扱いが思い起こされた。この獅子(レオ)には、ゴローを軽んじるようなところがないのだ――少なくとも、目につく範囲では。

 ゴローはそっと袋の中を確かめた。そこにあった金貨の数は、ゆうに想像の3倍を超えていた。思わず手が引っ込んだ。その動きは怯えて巣穴に逃げ込もうとする野兎にも似ていた。

「現物にはこの10倍払おう」

「はっ……!?」

「10倍だ。契約書でも作ろうか?」

 レオのにやにや笑いは、全てを承知した者の特権だ。彼なりの冗談だったのかもしれない。契約書だなんて危険な証拠を、ゴローともあろうものが残したがるわけがない。何もかも分かったうえでからかっているのである。

「なあ、ゴロー。あんたは今のままでいいのか?」

 レオは椅子に深く体を沈め、我が家のように落ち着いた動きで、パイプの煙草に火を付けた。たまらない芳香が狭い家の中に漂い、ゴローの酸い汗の匂いを上から塗り潰していく。

「あんたのことは少し調べさせてもらったよ。悪く思うな、こんな仕事を頼むんだ、慎重になって当然だろう?

 あんたのことを知れば知るほど、この件を任せたくなった。いい腕をしているくせに、小金があるだけのクズどもにこき使われて、得るのは薄給。

 この境遇で満足か、と訊いているんだ」

「オレェ……」

「満足できないのなら、掴め。

 ただの金なんかじゃない。ここにあるのは、あんたの夢だ」

 ゴローは石のように固まって、金貨の袋を見つめた。汗が額にじわりと湧き、やがて玉になって、鼻先から流れ落ちた。その雫が垂れる音さえ聞こえるような気がした。

 

 

 

(つづく)

 



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第4話-02 闇の中に

 

 

 その日の夕暮れ、緋女(ヒメ)はいつもの酒場を訪れた。彼女が店に入るやいなや、花火玉の弾けるような歓声が巻き起こった。笑顔と挨拶とを返して緋女(ヒメ)は真ん中の席に腰かける。酔っ払いたちが群がってくる。彼女はこの店の顔なのだ。

 若い女、卓越した剣士、そのうえ美人。緋女(ヒメ)の周りに人が集まらないわけがなかった。

 その人垣を掻き分けるようにしてコンスェラが寄ってきた。コンスェラは、すけべ根性に動かされた酔漢どもとは違う。彼女には、注文を取るという大切な仕事があるのだ。

「何にします?」

泡酒(ビール)ー! あと、適当にお肉!」

「あい。緋女(ヒメ)さん、よく来てくれてうれしいな」

「最近この辺で仕事でさー。なかなかうまくいかなくって」

「そうなの? じゃ、また来てくれる?」

 コンスェラのすがるような気持ちは、むしろ、仕草より体臭に乗って現れた。獣人(ライカンスロープ)狼亜(ローア)族の緋女(ヒメ)は鼻が利く。人が放つ僅かな匂いの変化から、その感情をつまびらかに読み取れるのだ。

 緋女(ヒメ)は手を伸ばし、コンスェラの、節くれだってはいるが温かい手をそっと握った。

「どうかした?」

「ん……」

 ためらいがちにコンスェラが目を伏せる。

 緋女(ヒメ)は微笑んだ。偽りも(てら)いもない、心からの笑顔であった。

「いいよ。言ってみな」

 

 

     *

 

 

 ゴローは、夕暮れの裏通りを不機嫌にぶらついていた。秋口の真っ赤な夕陽で、ちっぽけな背中が焼かれるかのようだ。

 結局、ゴローは、金貨を掴めなかった。レオの依頼を断ったのである。

 大きな儲けになることは分かっていた。リスクに見合うだけの報酬が望めることは。だが、ゴローの命をこれまで繋いできた鋭敏な嗅覚が、手を出してはまずいと告げていた。これはあまりにも危険すぎる。魔王軍の遺産、それも一級の品物など、ちんけな故買屋の手には余る。品物を探す過程でどれだけの危険が待っているか分かったものではない。大組織の後ろ盾もなく引き受けられる仕事ではないのだ。

 だが、理性からくる冷徹な分析とは裏腹に、ゴローの鼻は、自分の中から匂い立つ激しい感情の気配をも嗅ぎ取っていた。怖気(おじけ)だ。

 理屈など後からついてきたものだ。要するに、ゴローは怖かったのだ。未来の幸福を夢見て現在の危険に手を伸ばす、その勇気がなかったのだ。

 自分の臆病に自覚的であればこそ、ゴローは苛立っていた。ベッドでコンスェラに囁きかけてやめた、あの言葉が思い起こされる。

 ――未来なんて、夢見てどうするよ。

 なぜなら彼は、夢見るべき未来さえ持ちえない。

 懐かしむべき過去を持たないのと同様に。

 ざわつく気持ちを抑えきれないままに、彼はいつもの酒場へ向かった。ポケットには、まだ小銭くらいは残っている。今夜一晩楽しむには足りるだろう――これがなくなったら、また新しい仕事を探さねばなるまい。難しいことではない。盗品の処理に困るような、目端の利かない泥棒はいくらでもいる。ゴロー自身と同じような境遇のクズどもが……

 うっぷんを吹き飛ばしてくれる大騒ぎを酒場には期待していたのだが、たどりついてみると、奇妙なことに店はしんと静まり返っていた。怪訝に思い、ドアの中を覗き込む。

 店内には、見慣れた()いたん()どもが普段通り集まっていたが、その辛気臭いことといったらなかった。誰も彼もが大人しく席に座り、ちびちびと舐めるように杯をすすっている。

「おいおい、なによみんな、ここは葬式かよォ」

 景気をつけてやろうと、ゴローは明るい笑顔を装って店に入った。が、客も給仕女たちも彼を一瞥(いちべつ)したのみで、それぞれの仕事なり酒なりに戻ってしまう。こんなことは初めてだ。

「なに……なんかあったの?」

「おいゴロー」

 呼びかけられて初めて気づいた。店の奥には緋女(ヒメ)が仁王立ちしていて、その背に隠れるように、コンスェラが縮こまっている。ゴローが目をしばたたせていると、緋女(ヒメ)がズイと進み出た。彼女の身長はゴローより少し低いくらいだが、その威圧感は伝説の鉄巨人“暁の騎士(ナイト・オブ・ドーン)”にさえひけをとらない。

「今からテメーに話がある」

「あ、はあ……?」

「言っとくけどな……真剣に答えなかったらブッ殺す!! 分かったな!!」

「うっす」

「よしッ!」

 緋女(ヒメ)に背を押されて、コンスェラが前に出た。

 ゴローはぽかんと口を開けたまま突っ立っていることしかできない。何が何だか、わけがわからない。

 コンスェラが、消え入りそうな声で喋り出した。

「あの、ね……あんた、あのね……」

「おう? どったの?」

「怒らないで聞いてくれる?」

「うん、怒んない」

「アタシのこと、好き?」

「好きよ?」

「ほんとに?」

「ほんとのほんと、(スーパー)ほんと」

 それを聞くと、コンスェラは微笑を浮かべた。見たことがなかった、こんな笑顔は。ゴローは圧倒された。背筋をぴんと伸ばし、それでいて固くもならず、優美な柳の枝のように立つコンスェラは、美しかった。その背から光が差しているような気さえした。まるで、教導院の大聖堂で一度だけ見た、聖女さまの絵のようにだ。

 コンスェラは言った。はっきりと。これまで人類の歴史に存在した、億千万の聖女たちと同じように。

「アタシ、()()()()()()()()()

 ……。

 …………。

 ………………?

 ゴローは、氷河が温んで融けるかのごとく、ゆっくりと、動き出した。自分の顔を指さし、右の酔っ払いの顔を見た。そのアホ顔で問う――オレェ? 酔っ払いが、赤ら顔を神父さまみたいに神妙にしてうなずく。今度は左の酔っ払いを見る。声は出ないが口だけは動く――まじでェ? 5人いた酔っ払いのうなずきがピッタリ揃っていることは、まるでよくよく訓練された親衛隊の敬礼のよう。

「やっ……」

 と、ゴローはうめき、

「やったァ―――――ッ!!」

 コンスェラに飛びついて力いっぱいに抱きすくめた。

「やった! やったァ!! まっじかよお前、やったじゃん!! お前、かあちゃんになるんだぁ……つか、オレとうちゃん? まじかよォ!! ィッひゃァーッ!!」

「あんた、喜んでくれるの、あんた……」

「あったりまえだろォ?

 分かった、分かったよ。

 やろうコンス、結婚しよ!!」

 その瞬間。

 竜巻めいた歓声が、酒場の屋根を吹っ飛ばした。吹っ飛ばしたかに思われた。吹っ飛ばしたようなものだった。もう吹っ飛ばしたでいいではないか! 酔っ払いたちの絶叫は、調子っぱずれな大合唱は、表通りをも震わすどころか隣の教区にまで響き渡った。ゴローとコンスェラは揉みくちゃに揉み潰されて、水入れて()ねられてパンになった。パンみたいなものだった。パンは聖体、幸福と神の肉。みんなが幸福のおすそ分けを期待して、寄ってたかって祝福しまくったのだ。

 緋女(ヒメ)はその光景を見て、ひとり涙ぐんでいた。酔っ払いがひとり、ヘヘヘ、と下品に笑いながら忍び寄ってくる。緋女(ヒメ)はそいつの頭をポカッと小突き、そっぽを向いた。泣いてねえよ、とその口が言っていたが、声は騒ぎに紛れて聞こえなかった。

 目尻の涙をぬぐい捨て、緋女(ヒメ)は、優雅な空中三回転半ひねり大ジャンプでテーブルの上に飛び乗って、

「っしゃァ! 今日は祝い酒だ! あたしのおごりだッ!! 好きなだけ飲め―――――ッ!!」

 ああ、そこからさきは、もうめちゃくちゃだ。

 止むことのない祝福の声に包まれ、その中でもコンスェラを――そしてお腹の中の我が子を――抱き庇いながら、ゴローは再び、あの言葉を思い起こしていた。

 ――未来なんて、夢見てどうするよ。

 それは、自分への問いかけでもあった。

 本当は分かっていた。ずっとずっと、分かっていたのだ。未来を見て、夢を見て、どうするべきか。

 ――夢見て……そして、創るんだよ!!

 

 

     *

 

 

 翌朝早く、獅子(レオ)の名とたてがみを持つ男の元へ、ゴローが姿を現した。レオは目を丸くした。彼が根城にしている宿をどうやって探し当てたものだろう? いや、驚くにはあたるまい。彼はゴロー。“探し屋”ゴローだ。

 ゴローは、燃えていた。

 レオはニヤリと笑い、王者の眼差しを彼に向けた。

「その様子では、気が変わったようだな」

 そして、昨日は拒絶された金貨の袋を彼の前に差し出した。

「思うに、あんたは何も知らないだけさ。

 そろそろ学んでもいい頃だ――“夢の見方”ってやつをな」

 

 

     *

 

 

 ゴローは駆けた。

 この広い第2ベンズバレン、30万の人口を抱える世界最大の都市の、ありとあらゆるところを駆けずり回った。心当たりの取引先をしらみつぶしに全て巡った。ツテで次々に新しい同業者を紹介してもらった。死を覚悟で暗黒街の密売組織に連絡(つなぎ)を取りさえした。

 息をつく暇さえない忙しさだった。睡眠時間は日に日に短くなっていった。探索の過程でどれだけの金をばらまいたかも知れない。何か嗅ぎまわっているというだけで疑われ、追われたことは6度。殴られたことは3度。命を落としかけたのが2度。

 さすがに物は一級の禁制品、伝説の呪具(フェティシュ)竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)だ。一筋縄でいくはずもない。

 かつての魔王軍の規模から推測して、内海地方に持ち込まれた竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)は多く見積もっても300個。その9割がたは条約にもとづいて回収ないし破壊されたとして、残されているのは30個――この広い内海全域で、だ。一体そのうちいくつが裏市場に出回っているものか。

 これほどの市場規模を誇る第2ベンズバレンでも、おそらく、現物は1つあるかないかというところだろう。(わら)の中に落ちた縫い針を探すようなものだ。

 だが。

 ――見つけてやる。

 ゴローの炎は、困難を前にしていっそう激しく燃え上がる。

 ――掴んでやる! ()()()()――

 今や彼の情熱は、執念へと姿を変えていた。それと同時に、彼は笑うことを忘れた。ニヤついた愛想笑いは滅多に見られなくなり、その代わり、研ぎすぎた剃刀のような表情ばかりが彼の顔面に張り付くようになったのである。

 

 

     *

 

 

「鈴か……まァ、出物の噂がないでもねェんだが」

 竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)を求めて訪れた小さな呪具屋の老店主は、苦虫を噛み潰したような顔をそむけた。ゴローは無言で彼の手をとり、そっと金貨を握らせた。店主の鼻が興味を惹かれてひくつくが、その重い口はまだ開かない。

 ――笑うんだ、ゴロー。

 父の声が聞こえた気がした。このところ笑顔を失っていたゴローは、ひさしぶりで卑屈に笑い、神にすがるように頭を下げた。

「そこをなんとか。おっちゃァん! たのんまっす!」

 店主は観念して溜息をつき、手の中の金貨を引き付け、数えだした。

「アテにゃァなんねェぞ。恨むなよ」

「うんうん」

一月(ひとつき)ほど前、どっかのお屋敷から鈴を盗み出した盗賊がいるらしい。

 そいつァあちこちの密売組織にブツを売り込んだんだが、何しろモノがモノだ。面倒事を嫌がって、みんな買取を拒否ったんだとさ」

「それガチィ?」

「今時のヤクザてなァ賢いもんさ。ヤバいシノギにゃ手ェ出さねえ」

「んー、で、その泥棒は?」

「さてね。地下に潜ったって話だが……アテになんねェって言ったろ?」

「いやァ、だいじょうぶ。役に立ちそうよ?」

 腕を組んで考え出したゴローの顔は、またしても、あのとげとげしい刃物めいた表情に戻ってしまっていた。彼の頭が回転する。彼に学はない。それゆえか、彼の思考は常にあるものを基盤としていた。他人の心である。

 高価すぎて売ることもままならない危険な盗品。そんなリスクを抱えた泥棒は、今頃何を思っているだろう? 無論、身の危険を覚えて震えあがっているはずだ。それと同時に、堪えがたい欲望にも苛まれているはずだ。

 はやくこれを金に換えたい。つきまとう危険を手放したい。そしてできることなら、この街から逃げ出してしまいたい……と。

 ならば、打つべき手は――

 

 

     *

 

 

 手を打ち始めて、3日目のこと。

 ついに努力の実る日がやってきた。その日、はるばる西教区にまで足を向け、へとへとになるまで心当たりを巡った後。夕食をとろうと入った小さな酒場で、その男はゴローに声をかけてきた。

「あんた、ゴローってんだろ」

「あァン?」

 男はひどく怯えていた。その姿はさながら、自分が狼だと信じて生きてきたのに、今さら自分の正体に気付いてしまった哀れな羊のようだ。ゴローは一目で見抜いた――盗賊だ。待っていたものが、釣り針にかかったのだ。

「どうかなあ」

「とぼけるな。聞いてるぞ、ヤバい物を探してるって」

「ヤバい物ォ?」

 男は苛立ち、顔を寄せ、囁いた。

(すず)が欲しいんだろうっ」

 ゴローが打った手はごく単純だった。これまで秘密裏に探し回っていた竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)を、大っぴらに名指しで探し始めたのである。密売組織や故買屋ばかりではない、時には表のまっとうな呪具屋をも訪れ、鈴の出物はないかと訊ねまわった。その大胆な行動に、誰もかれもが目を丸くしたものだ。

 当然、組織には完全に目を付けられてしまったし、警吏には一度牢にぶち込まれてしまった。保釈金はかさんだが、それだけの価値はあるはずだった。一級の禁制品を求めるうかつな仲買人(ブローカー)ゴローの名はたちまち噂になり、きっと届くはずだ。どこかで身を潜めている盗賊の耳にまで。

 そして、ゴローの策は、見事図に当たった。

 ゴローは盗賊を連れ出して、闇の中で何事かひそひそと話し合った。いったん別れ、人気のないあたりで再び落ち合った。その短いやりとりが済んだ後、夜道を跳ねるように駆けていくゴローの姿が見られた――手には、禍々しい瘴気を放つ小箱が握られている。

 笑いが零れた。心からの笑みだ。こんな笑い方を自分ができるだなんて思ってもみなかった。愉快で、愉快で。それは酒が作ってくれる仮初(かりそめ)の愉快とはまるで違っていて。蒸気をあげる間欠泉よりもなお熱く煮え(たぎ)っていて。

「ッしゃァ―――――ッ!!」

 突然の奇声に、通りの窓がいくつか開いたが、ゴローは気にも留めなかった。

 ()()()()()

 この手の中にあるものは魔法の道具などではない。未来だ。幸福だ。彼の夢そのものだ。でかい儲けになる。店を買おう。儲けは少なくてもよい、何か真面目な商売をしよう。そして。そして。

 やりなおすのだ。コンスェラと。まだ見ぬ我が子と。もう一度。永遠に喪ってしまったはずの“家族”を、はじめから!

 

 

     *

 

 

 さて、ここから先はゴローには知る由も()()()()ことだが――

 翌朝、西教区はずれの運河に、死体がひとつ浮かんでいるのが発見されることになる。その死体は執拗なまでに顔面を切り裂かれており、素裸で、所持品もなく、個人を特定できるような手掛かりを何もかも奪い取られていた。

 死体を検分した警吏は、何らかの犯罪組織の仕業であろうと結論した。しかしなにしろ徹底的に証拠隠滅がなされていたので、捜査はそれ以上進展しようもなかった。

 ゆえに――この死体が竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)なる呪具を盗み出した盗賊であり、その禁制品が“探し屋”ゴローの手に渡ったのだ、という事実は、ついに誰にも知られぬまま、闇に葬り去られてしまったのである。

 

 

 

(つづく)

 



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第4話-03 竜使いの鈴

 

 

 竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)を一目見て、レオは会心の笑みを浮かべた。その満足げなことといったらゴローの想像を遥かに超えていた。

 ゴローはふと、レオの笑顔を誇らしく感じている自分に気づいた。彼を満足させられたことが嬉しかったのだ。

 レオはゴローを正当に評価してくれた初めての男だ。確かに、買いかぶり気味の信頼に重圧を覚えもした。だが今や、彼は自らの手で証明したのだ。自分は期待通りの腕利きなのだということを。

 そのレオが、ゴローの肩を叩く。その手は確かに獅子の手だ。荒々しくも、鷹揚で柔和。

「よくやってくれた。お前は完全に役目を果たしたよ。

 さあ、依頼人の元へ行こう。危険手当をたっぷりふんだくってやろうじゃないか」

「今から?」

「早いほうがよかろう?」

 確かに、その通り。

 ゴローはレオに導かれ、闇に包まれた通りを歩いていった。夜の第2ベンズバレンはひんやりと冷たく、ゴローは何度か身震いをさせられた。あれほど暑かった夏はいつの間にか遥か彼方へと遠ざかり、季節はもうすっかり秋。

 ふと、ゴローは未来に思いを馳せた。

 子供が生まれるのは、いつごろになるだろう? たしか――そう、妊娠期間は七月七日(ななつきなのか)、なんて言葉を聞いたことがある。すると、出産は風月のころ。爽やかな春風が肌を撫で、美しい草花が舞い踊る季節。いいじゃないか。生まれてくるのにぴったりな、すてきな季節だ――

「えへへ」

「どうした?」

 ひとりでニヤついているのが気持ち悪かったのか、レオが眉をひそめている。

「いやあ。今まで、季節がすてきとかすてきじゃないとか、考えたこともなかったんでェ」

「何の話だ?」

「えっへへえ……」

 ゴローは坊主頭を撫でまわした。側頭部の髑髏(どくろ)の入れ墨が、一緒になって笑ってくれる。

 さて、レオの後をついて歩くうち、辺りはよく見知った風景に変化していった。あれっ、とゴローが声を上げる。この界隈には何度となく来たことがある。貴族や大商人の邸宅が並ぶ高級住宅街、遺産通り。

 やがてレオはある門の前で足を止めた。

「ここォ?」

 ゴローが驚いたのも無理はない。

 そこは彼のお得意先――あのしみったれな執事(スチュワード)、ブリアン閣下の勤める屋敷だったのだ。

 

 

     *

 

 

 ゴローは執事(スチュワード)ブリアンの前に通された。ブリアンはまるで初対面のような顔をしてゴローを迎え、商品を受け取ろうとした。ゴローは後ずさり、それを拒絶した。この執事がどんな人間であるか、短からぬ付き合いの中でよくよく承知していたからだ。

「金と引き換えっス。でないと渡せねェ」

 今回ばかりは万にひとつも買い叩かれるわけにはいかない。竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)は、ゴローの未来そのものなのだ。

 執事(スチュワード)ブリアンは露骨に不快の表情を浮かべたが、すぐに思い直し、重そうな革袋を取り出した。机に袋を載せるや、耳心地良くも重々しい金属音が聞こえてくる。反射的に顔をほころばせるゴローに、ブリアンは不機嫌に問う。

「確認する必要があるかね?」

「もちろん」

 小さな舌打ちは、決して聞き間違いなどではあるまい。

 ブリアンは袋の中の金貨を机に広げ、品質を確認するよう促した。ゴローは無作為に数枚を取り出し、口に入れてひと噛みした。どの金貨にもくっきりと不揃いな歯形がついた――本物の金だ。銀を混ぜ込んだ低品質の金貨であれば固くなるから、噛み跡は残らない。

 それから、全員で手分けして金貨を積み上げ、枚数を確認していった。その間、ゴローは片時も木箱を手放さなかった。油断してはいけない。まだ取引が済んだわけではない。いつ何を仕掛けてくるか分かったものではないのだ。

 数えるだけで、ちょっとした仕事になった。それが終わった後、ブリアンは溜息まじりに再び問う。

「前金の10倍だったな。文句があるか?」

「ないっス!」

 晴れて、取引は成立した。

 邪悪な法具(フェティシュ)の収められた小箱は執事(スチュワード)ブリアンの手に渡り、そして――ゴローは金を手に入れた。大きな皮袋にぎっしりと詰まった金をだ。ゴローは感極まって革袋を抱きしめた。掴んだ。やっと掴んだ。

 ――これが未来。オレの未来だ!

 涙が零れそうになる。

 もうそろそろ夜明けの時刻だ。それと同時にゴローの長い長い夜も明ける。そうしたら、まっさきにコンスェラの所に行こう。この金貨の山を見せてやろう。きっとびっくりしてくれる――あ、いけない。あんまり驚かせすぎて、お腹の子に障らないだろうか? だから、ゆっくりちょっとずつ匂わせて、たっぷりと焦らしてかわいがってやろう。それが済んだら、こう言ってやろう。「もう働かなくていいんだよ。子供のためにのんびりしてな……後のことは、オレがやるから」

「今回は苦労をかけたな、ゴロー」

 ゴローの幸せな空想を破ったのは、獅子(レオ)の力強い微笑みだった。

「ささやかだが、(ねぎら)いの酒を用意してある。ま、一杯やろうじゃないか。

 準備はできていましょうな、閣下?」

 執事(スチュワード)ブリアンは、小さく鼻を鳴らして出ていった。あれが彼なりの肯定の返事なのだ。枯れ枝のような背中がドアの向こうに消え、レオが聞こえがしにせせら笑う。

「は! しみったれが。

 気にするなよ、ああいう男なんだ」

 それからレオに促され、ゴローは部屋を後にした。

 酒、か。獅子(レオ)と飲む酒は面白いだろうか? いいかもしれないと思える。いつものバカ騒ぎとは違う、もっと有意義な、実りある話ができるかもしれない。いつのまにかゴローは、堂々たる百獣の王に畏敬の念さえ抱き始めているのだった。

 なのに――なぜ? 最前から、正体不明の悪寒が止まらない。

 先に立って歩くレオの背中が、妙に遠く、妙によそよそしく見える。乏しい灯りのせいだろうか。冷え切った石造りの廊下のせいだろうか。一足ごとに不安は深まり、ゴローの(はらわた)を蝕むかのようだ。

 何か、致命的な間違いを犯している――

 根拠も何もないはずなのに、そんな予感ばかりが、意識の片隅でずっと明滅を繰り返している。

 また臆病風に吹かれたのだ、とゴローは判断した。すでに金を掴んだ今になってなお、自分が抱いた夢の大きさと重さに押し潰されそうになっているのだ。その重圧を跳ねのけようと、努めて明るい声を作り、レオに話しかけてみる。

「ブリアンさんと知り合いだったんすねェ」

「ああ。白状すると、奴からお前のことを聞いたんだ。腕もいいし、働きぶりも真面目。なにより一匹狼というのが他に得がたい、とね」

「はあ……?」

()()()()()()()()()()()()()だろう?」

「ああー」

 振り返ったレオの笑顔はからかうように気楽で、ゴローも釣られて笑ってしまう。

 竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)を求めたのが執事(スチュワード)本人かその上の貴族様かは知らないが、あんなものを手に入れたということが世間に知られるわけにはいかない。その秘密を守るために、代理人を経由して一匹狼に依頼する、なんていう手の込んだ偽装も必要だったのだろう。

 歩きながら、不意に、レオは深い溜息をついた。その後ろ姿に、どこか愁いのようなものが見て取れる。

「うむ……やはり、お前には話しておくべきだろうな」

「なんスかァ?」

「俺はここ数年、大がかりな計画を進めていたんだ。さる高貴なおかたの命令でね。

 その計画を遂行するには、金と権力と隠れ蓑が必要だった。その全てを調達する手段として、俺は執事(ブリアン)篭絡(ろうらく)した。欲深な男は扱いやすいからな――おっと。このことは閣下には内緒だぜ?」

 ふたりして乾いた笑い声をあげる。

「ところがだ。計画の最終段階まであと僅かというところで裏切者が出た。最後の仕上げに絶対に欠かせない大切な品物を盗み出してくれたのさ。なにしろそれは貴重なものでな。どうしても取り戻す必要があった。

 正直言って困ったよ。俺たちが直接動くと、警戒してよけい深く身を隠すだろうし――」

「あのォ……」

 ゴローは、坊主頭をぼりぼりと掻きながら、一向に要領を得ないレオの話に割り込んだ。

「一体なんの話スか……? オレ、頭悪くってェ……」

「こういう話さ」

 熱。

 はじめゴローが感じたのは、小さな熱。それきりであった。右の腿に僅かな衝撃があったかと思うや、そこからジワリと熱いものが広がりだしたのだった。

 なんだろう? 呑気に自分の脚を見下ろし、ようやく気づく。

 腿の筋肉を貫いて、一本の短剣が深々と突き立っていた。

 悲鳴を上げてゴローは転がった。痛みが襲ってきたのはその後だった。レオが自分を刺したのだと気づいたのも。

「もともとこういう計画だったのさ。

 盗まれた鈴が手元に戻れば、お前の口を封じておく。そのためには身寄りのない貧乏人が一番いい――どこからも文句が出ないからな」

 気がつけば、そこは大きな石造りの別棟であった。いくつかの柱と壁が並ぶばかりのホールは、がらんとして寒々しく、濃密な暗闇に満ちていた。

 レオが、にっこりと微笑む。

 何故だろう。いつのまに、ゴローは忘れてしまったのだろう。初めてこの男と会ったとき、直感したのではなかったか? こいつはろくでもない男だと。他人を騙す、そのために、笑顔を武器として使える男だと。

 なのに何故。

 何故こうまで、この得体の知れない男を信じてしまった?

 今やゴローの魂の奥底で、獣の感性と心を持つもうひとりの自分が、絶え間なく警告を叫んでいた。

 ――逃げろ! お前は()()()()()

 だが、逃げる時間さえ、もはや残されていなかった。

()()()()だよ。これは必要なことなんだ」

 その瞬間。

 ゴローの左右の石壁が弾け飛んだ――ゴミクズを吹き散らすかのごとく、軽々と。

 

 

     *

 

 

 その光景を形容する術を、ゴローは持たない。

 もし彼に学があったなら。詩文の心得があったなら。美しくも残酷な言の葉でもって、己を待ち構える運命を色鮮やかに呪ったであろう。しかし持たざる者ゴローにできたのは、ただひとつ、その場に立ち尽くすことのみであった。

 事態は、彼に認識可能な領域をはるかに凌駕していたのである。

 壁に空いた穴からは、魔獣どもが次々に這い出してきた。鉄面皮ゴブリン。衝角猪(ラムボア)地獄の番犬(ヘルハウンド)。全く得体の知れない不定形のものども。異形の怪物が洪水のごとく押し寄せて、みな獅子(レオ)の前に(ひざまず)く。

 リン、と、どこかで鈴の音がした。

 その呼び声に応えるように、さらに巨大なものたちが姿を現す。

 丸太のような腕をした、毛むくじゃらの岩砕き鬼。

 大の大人すら一飲みにする大口から、不気味な唸りを垂れ流す象獅子(ベヒモス)

 鋼鉄の鱗を星灯りに(ぬめ)らせる邪悪と炎の化身――鱗の(ヴルム)

「計画発動を目前にして、情報を漏らすわけにはいかない。だから――」

 ――ああ。

 遠く鳴り響く竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)の音色に従って、獣どもが、一斉にその目をゴローに向けた。

()()()()()、ゴロー」

 ――死ぬんだ、オレ。

 そして。

 地獄が始まった。

 

 

(つづく)

 



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第4話-04(終) 怒りをこめてふり返れ

 

 

 殺到する。10、20、否、もはや数え切れぬほどの魔獣どもが、牙を剥いて。

 躍りかかるゴブリンを払いのけ、足首狙って咬みつく狼を蹴散らし、ゴローは悲鳴を上げて逃げ出した。だがレオに刺された脚の傷が彼の走りを鈍らせる。その隙を狙って狼が飛び掛かってくる。鉛の(おもり)のごとき獣に押し倒され、ゴローはその場に卒倒する。

 ――死ぬのは嫌だ!

 と思ったとたん、体はひとりでに動いていた。隠し持っていたナイフを抜き放ち、狼の喉元に突き立てる。痙攣する獣を押しのけて、ゴローは這いずるように立ち上がる。脚の痛みももはや忘れ、半狂乱でホールの扉に飛びついていく。

 (かんぬき)がかけられ、錠の降ろされた扉――開かない。

 震える手でゴローは2本の針金を取り出した。盗賊の七つ道具だ。彼にも鍵開けの心得と経験は少なからずある――裏通りに生きる者の例に違わず。だが命の危機に怯え、動揺しきったこの状況では、指が思い通りに動いてくれない。それに――ああ! 貴族様のお屋敷では、錠前ひとつがかくも上等なのか。()()()()()

 その直後、《運命》の(かみ)は、ゴローを見捨てて去った。

 魔獣に喰い千切られた彼の右腕と共に。

「ッぎゃぁぁああぁぁぁああッ!!」

 剃刀めいた魔獣の牙が、彼の二の腕を骨までこそぎ切り、血の滴る新鮮な肉をごっそりと持っていったのであった。痛み、なのかどうかさえ、もはやゴローには分からない。涙は滝のごとく。鼻汁と唾液は五月雨のごとく。そして血は、彼の命は、落ちて床を染め上げる――赤そのもののごとく、赤く。

 

 

     *

 

 

 その光景を遠くに眺め観ながら、レオは満足げに微笑んでいた。その傍らには、竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)を手にぶら下げた執事(スチュワード)ブリアンの姿もある。レオとは対照的に、ブリアンの顔面は蒼白であった。慣れない血の匂いに怖気づいたらしい。

「確かに鈴は本物のようですな」

 レオがからかうように言うと、ブリアンはよろめいて壁に背を付けた。

「ああ……」

「危ないところでした。これで期限に間に合う――明晩、計画を実行に移しましょう」

「本当にやるんだな? あの獣どもをけしかけて、第2ベンズバレン(このまち)を潰す――」

「そしてあなたは南ハンザの王となるのだ。ブリアン()()

 陛下。夢にまで見た尊称の中の尊称。ブリアンは下卑た笑みを浮かべた。額には小心からくる脂汗を浮かべたままであったが。

 それが彼らの計画であった。この第2ベンズバレンは、魔王戦争後の復興計画の要として建造された貿易都市だ。しかし、その発展は、当のベンズバレン国王の想定をすらはるかに超えていた。経済規模が爆発的に拡大し、この都市ひとつで王国全体の半分を占めるまでになってなお、適切な防衛体制を構築できずにいるのだ。

 成長戦略が図に当たればこその誤算。今や第2ベンズバレンを獲れば王国の半分を得たに等しいと言えるまでになってしまった。この街は、剥き出しのまま荒野に放置された類稀なる珠玉のようなものだ。

 彼らはそこに目を付けた。竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)の力で街を制圧し、本国に対して独立を宣言する。王は当然奪還に乗り出すだろうが、どうということはない。魔王に手も足も出なかった国の軍隊など襲るるに足らぬ――この鈴ひとつさえあれば。

 そう囁いて、レオは一介の執事(スチュワード)に過ぎないブリアンを焚きつけたのだ。

 ブリアンはすっかりその気になった――何もかも、レオの甘言に過ぎぬとは夢にも思わぬままに。

 ――そううまく事が運ぶわけがあるまい。しみったれのくせに欲をかくから騙されるのさ。

 レオは面で笑いながら、心ではブリアンを軽蔑している。否、それ以下と言ってもいい。彼は獅子(レオ)、百獣の王。他者は全て、獲物に過ぎぬ。

 おそらくは恐怖と罪悪感を紛らわせようとして、ブリアンは深く溜息をついた。そのまま地獄のような光景に背を向け、ホールを出て行った。ここから先は、より凄惨な血の宴が始まる。とても見てはいられないというわけだ。

 レオは肩をすくめ、ブリアンの後を追った。ドアをくぐるとき、悲鳴とともにのたうち回るゴローの姿を一瞥したが、その目にはもはや何の感傷もこもってはいなかった。

 当然のことだ。済んだ仕事を再び顧みる必要はないのだから。

 

 

     *

 

 

 あらゆる欺瞞の渦中にあって、激痛だけが真実だった。ゴローは走った。逃げた。角から角へ。再び角へ。ネズミだ。恐るべき殺戮者たる人間に追われ、小さな箱の中を隅から隅へ逃げ走り、そこにも逃げ道はないと思い知らされ、また来た道を引き返す、それ以外に何もできない哀れなネズミ。

 魔物たちは執拗にゴローを追い回したが、そのやりようは、飢えた獣というよりも、玩具をもてあそぶ子供であった。ゴローは遊び道具だったのだ。長い間檻に閉じ込められ、鬱憤(うっぷん)を溜め込んだ獣たちを、楽しませるための生餌。

 狼の牙が足をかすめた。猪の牙が服のすそをひっかけ、彼を軽々と投げ飛ばした。したたか背を打ち付けたゴローの前には、竜がいた――竜は楽し気に目を細め、大木のような脚で彼を蹴った。彼は石の床に三度跳ね、部屋の隅に転がった。

 眩暈がした。吐き気がした。震えはとうに止まらなくなっていた。息をするたび胸に痛みが走ることに気付いた――肋骨が折れたに違いなかった。なぜか冷静に分析している自分が妙におかしくなり、ゴローは思わずニヤついた。

 ――もうだめだ。オレ、頭おかしいわ……

 全てを諦め、ゴローはそっと、目を閉じた。

 ――痛ェよ……ねえ、助けてよォ、コンス……

 コンスェラ。

 彼女の顔が、あの愛らしい素朴な笑顔が、まぶたの裏に浮かんで、消える。

 そのときだった。

 閃光のように。雷鳴のように。確信は突如、やってきた。

 ――違う。

 ゴローの目が、開いた。

 ――そうじゃねえ。

   オレが今やるべきことは……助けをねだることじゃねえ。

 思い出したのだ。今しがた、魔物に追われた狂乱のさなか、聞くともなしに聞こえた話を。あの男は、ブリアンは何と言っていた? この魔獣たちと鈴を使って奴は何をする? “この街を潰す”――そう言った。確かにそう言っていた。“()()()()()()”と。

 このままでは、ダメだ。

 ――伝えなきゃ。

   誰かにこのことを知らせなきゃ。

 辛うじて残った片腕で。

 ――オレが……

 血で滑る床に我が身を支え。

 ――護るっ……

 ゴローが再び、立ち上がる。

 ――コンスェラ! お前()()だけは!!

「うぉぉぉあああぁああああッ!!」

 咆哮と共にゴローが走る。魔獣たちの中を死に物狂いで駆け抜けて、目指すは鬼。城壁さえ砕くという岩砕き鬼のそばに駆け寄る。鬼は一声唸りを上げて、この拳をゴローめがけて振り下ろす。

 ゴローは不信心者だった。教導院など滅多に足を運ばなかった。神様なんかあてにならないと思っていた。でもどうか。神様、どうか、お願いします。オレは地獄行きでいい。悔い改めるのは後でいくらでもやってやります。だから、どうか。

 ――神様! 今、この一瞬だけ、オレに、力を!!

 極限まで高まる集中力が、ゴローの身体を針の穴を通す精度で動かした――紙一重で拳を避けたのだ。

 破城槌めいた一撃はゴローから()れて背後の壁に命中した。その一撃が、頑丈な石壁を突き崩す。壁に空いた大穴。その先に見えるのは、白み始めた暁の空。

 突破口が、開けた。

 ゴローは迷わず全力疾走でその場を逃げ出した。もはや後ろを振り返ることはなかった。持てる力の全てを振り絞り、屋敷の庭園を走り抜け、壁に飛びつき、乗り越え、通りに背中から転がり落ちて、すぐさま立ち上がりさらに走った。

 目指す先は――居心地のいい年代記通りの酒場ではない。愛する女のねぐらでもない。押し寄せる魔物。この街の危機。恐るべき悪夢の来襲に、立ち向かえる力を持つ者を、ゴローはたったひとりしか知らない。

 行くのだ。

 四番通り。勇者の後始末人緋女(ヒメ)の元へ。

 

 

     *

 

 

 精神は時として肉体を凌駕する。だがそれは、所詮肉体を犠牲に捧げているに過ぎない。

 ゴローはがむしゃらに駆けた。刺された脚の傷も。喰い千切られた右腕も。その他数え切れぬほどの裂傷も。何もかも忘れてゴローは走った。しかし、たとえ心が忘れていようと、肉の身体は時々刻々と苦痛と流血に蝕まれていった――

 次第に目がかすみだし、足がふらつき、行く先さえ判然としなくなり始めた。息が上がり、ゴローはヒュウヒュウと、奇怪な風音を響かせながら喘いだ。と、胸の中に突如熱いものがこみあげ、ゴローは吐いた。

 口から(ほとばし)り出るのは、血、それのみ。

 折れた肋骨が肺を貫いたのだ――と認識することもできず、ゴローは倒れた。

 血の、海の中に。

 それをきっかけに、堰を切ったように全身の痛みが襲い掛かってきた。身体のありとあらゆるところが傷ついていた。もはや動かせる筋肉など残っていないように思われた。

 それでも。

 ――寝てる場合じゃねーだろ、ゴローちゃんよォ……

 拳を固く握りしめ。

 ゴローは、這い進む。腕一本だけに己を託して。

 ああ、とゴローは思いを馳せる。

 思えば、自分の人生はなんだったのだろう。家族を失い。財産を失い。人間である資格さえ失って、見知らぬ外国に売り飛ばされた。貧困にあえぎ。いくつもの罪を犯し。殴られ、蔑まれ、侮られ、ただ生まれと運が良かっただけの者どもにいいようにこき使われて、それでも生きるために生きてきた。

 それで何が掴めたというのだろう。

 何も掴んだことのないゴローには、掴むべき夢さえ分からなかった。だから、目の前に垣間見えた美しいものを――これまでの人生で見た中で最も美しいものを――掴んでみたいと願ったのに。

 後に残ったのは、苦痛と、死。それのみ。

 悔し涙が零れかけた――そのときだった。

 不意に、脳裏に蘇った。幼い日、父から聞かされたあの言葉が。

 ――笑え、ゴロー。苦しい時こそ笑うんだ。

 びっくりした。

 次に、心が静かになって。

 そして――理解した。

 ――ああ、そっかあ。そういうことだったんだね、とうちゃん。

 ゴローは、笑った。

 ニヤリと、満面の、会心の笑みを。(おの)が仕事をやり遂げたものだけが見せられる、完全な満足の笑みを。不敵な、自信に満ちた、この短い生涯で唯一、最高で最後の笑顔を。

 彼は浮かべた。

 彼の左腕が頭上に伸びて、自分の吐いた血を指に掬い取り、石畳の道に文字を記した。震える指で書かれた最後の言葉は、しかし堂々と威厳に満ちて、あの眩い朝日のように、赤々と輝きを放っていた。

 ――これでいいんだ。きっと、届く。

 ゴローはそっと、目を閉じた。

 ――あとは頼んます、緋女(ヒメ)サン……

 その願いは闇の中に没して消えた――彼の生命そのものと同じように。

 

 

     *

 

 

 ゴローの亡骸とメッセージが発見されたのは、その直後のことだった。

 その場所は四番通りの緋女(ヒメ)の住まいからほど近く、彼女は路上で巻き起こった悲鳴を聞き付け、すぐにそこに駆け付けた。ゴローが記した血文字はごく簡潔な文面だった――野次馬の誰かが読み上げた。

「“遺産通り、トローテン伯別邸、バケモノ”……なんだこりゃ?」

 緋女(ヒメ)の握り拳が(きし)む。

 遅れて警吏がその場を訪れた時には、もう、彼女の姿はとうに消え失せていた。

 

 

     *

 

 

 街から音が消えたかに思われた。

 この街が――夜もなく昼もなく、喧噪と胎動を繰り返し続けるこの街が、静まることなどあるはずもない。だがその日、確かにこの街の声という声が消え失せたのだ。津波の前に潮の引くがごとく。嵐の前に空の晴れ渡るがごとく。

 大勢の群衆のざわめきが、時として申し合わせたかのような沈黙に掻き消されることがある。その現象を、人は“天使が通った”などと呼ぶ。

 だが、その日通ったものが、天使などであるはずがない。

 ()()()()は、帯から大太刀をぶら下げて、その場所までやってきた。()()が僅かに身を縮める。かと思えば、固く引き絞られた(いしゆみ)の弦のごとく跳ね上がる。

 ひと蹴り。

 ただのひと蹴りで、屋敷の門が吹ッ飛んだ。鋼鉄で編まれた密な格子扉が飴細工のようにひしゃげ、歪み、庭園の中へと弾け飛ぶ。轟音けたたましく空を揺るがし、砂塵立ち込め荒れ狂う。中にいたレオが、ブリアンが、驚きに顔を持ち上げる。彼らの前にかしずく、百を超える数の魔獣どもまた。

 庭園にあった全ての視線が、予期せぬ来訪者に釘付けとなったのだ。

「なんだ――?」

 塵を切り裂き現れたもの。

 その名は――緋女(ヒメ)

「勇者の後始末人!?」

 レオの顔色が変わる。百獣の王たる男の動揺を、執事(スチュワード)ブリアンは敏感に嗅ぎ取った。

「なんだというんだ!」

「勘付かれたんだよ! 始末するぞ!」

 竜使いの鈴(ドラゴンルーラー)が魔性の音を響かせる。

 途端、魔獣の群れが緋女(ヒメ)に躍りかかる。

 そして緋女(ヒメ)は――

 刃を、抜いた。

 瞬間。

 血の竜巻が渦を巻いた!

 白銀一閃、したかと思うや(ヘルハウンド)の血が(ほとばし)衝角猪(ラムボア)の胴がふたつに裂ける。小鬼(ゴブリン)の悲鳴と鬼の絶叫が間髪入れずに天地を揺るがす。緋女(ヒメ)の姿ひととき掻き消え、目にも止まらぬ一撃が象獅子(ベヒモス)の首を()じり斬る。

 ――5匹。

 背後から迫りくる猪の牙を刃ではたき落すや返す刀で眉間を切り裂く。喉元目掛けて飛び掛かる狼を容易くかわしてその背に鋼鉄を叩き込む。岩砕き鬼が二匹がかりで巨大な棍棒を振り下ろしても、その時すでに緋女(ヒメ)の姿は遥か頭上。跳躍からの斬り下ろしで鬼を縦まっぷたつに両断する。

 ――9匹。

 魔獣どもの怯えは鈴の音の魔力に掻き消され、狂った軍勢が殺到するも、緋女(ヒメ)はもはや其処(そこ)には居ない。赤毛を炎のごとく逆立てて、剣士は(はし)る。声もなく(はし)る。その通り道で次々と爆ぜ咲く血の華は、さながら野を()く地獄の大火。

 ――23匹ッ!

 レオは震えあがった。ブリアンの顔はすでに水死体色だ。

 ――なんだ!? 何者なんだ――この、化け物は!?

「くッ!」

 こうなれば手段を選んでいられない。レオは半狂乱で鈴を掻き鳴らした。獣使いの命令に応え、半地下の檻をぶち破り、5つの巨体が()いだしてくる。

 見るがよい、“鱗の(ヴルム)”が、5頭! これだけで一国の軍隊にすら匹敵する戦力。第2ベンズバレン壊滅計画のための虎の子――いや、竜の子か。いかに強力な剣士といえど、たったひとりでこれに勝てるはずもない。

「奴を殺せ!」

 5頭の(ヴルム)が、咆哮とともに襲い掛かる――血の海の中で、静かに佇む緋女(ヒメ)の背に向かって。

 それがどうした。

 それが、なんだというのだ。

 ゴローは死んだ。

 ままならぬ人生に折り合いをつけ、苦悶の中で笑顔を絶やさなかったあの男が。現在(いま)の快楽にしか生きる理由を見いだせなかったくせに、過去(まえ)にも未来(さき)にも憧れを抱かずにいられなかったあの男が。やっと見つけた夢見るべき未来の姿を、命がけで掴もうとしたあの男が。

 死んだ。ゴミクズのように殺された。この世の不条理に圧し潰された。

 これを(ゆる)してなるものか。

 だから緋女(ヒメ)。刃の乙女よ。

 

 ――()()()()()()()()()()!!

 

「オォォォォオオオォオォァァアアアァッ!!」

 咆哮が彼女を獣に変えた!

 跳躍。竜を蹴りつけその反動で飛び上がり、次の竜に大上段から唐竹割を打ち込んで、鋼鉄さえ凌ぐ漆黒の鱗ごと頭蓋骨を粉砕する。飛び散る脳漿を総身に浴びつつ再び跳躍。真正面から別の竜の首筋に突っ込み喉に刃を抉り込ませる。その勢いのまま拳を脊椎まで捻じり込み、雄叫びとともに千切り取った背骨を引きずり出す。

 残り3匹!

 刃を引き出し矢のごとく速く地上に飛び降り、そこを狙った竜の牙をとんぼ返りで軽く避けると気迫と共に放った一撃で大木めいた首を斬り落とす。さらに遠くから爆炎を吐かんと身構える竜を一瞥(いちべつ)するや、他の竜の懐に飛び込み腹に太刀を突き刺して、

「嘘だろっ……」

「まさか!?」

 顔面引きつらせるレオどもの眼前で。

 緋女(ヒメ)は竜の巨体を()()()()、もう1匹目掛けてブン投げた!

 家一軒分はあろうかという巨大な肉体が紙切れのように飛来する。これをまともに喰らった竜は、爆炎を吐くこともできず燃料液を撒き散らし、そのままもろともに奥の屋敷に激突した。白亜の邸宅が脆くも崩れる。悲鳴が無数に巻き起こる。苦悶に呻く竜を追い、狂気が、怒りが、炎の緋女(ヒメ)が肉薄する。鈍い音。こだまする悲鳴。のたうち回る竜どもによってか暴れまわる剣によってか、屋敷が次々に崩壊していく。

「なんでだ……なんで、こんなこと……」

 呆然と佇む執事(ブリアン)の視界を、突如飛来した黒いものが塞いだ。

 緋女(ヒメ)に投げ飛ばされた、竜の死体。

 恐怖に震えあがったまま、その場から逃げ出すことさえ思いつかず――ブリアンは潰れた。後に死体が発見された後も、その死を悔やむ者はひとりとしてなかったという。

 

 

     *

 

 

 一方、レオは、その時とうに逃げ出していた。

 彼は用心深い男だ。この屋敷で数年にわたって計画を進めるうちに、万一のための備えはいくつも施しておいたのだ。魔獣を用いて街を潰すなどという破壊工作だ、いつなんどき誰に察知されるか分からない。逃げ道は用意しておくに限る。

 そのひとつがこれ――屋敷の地下に造った魔獣の檻の奥に、運河まで通じる隠し通路を掘っていたのである。

 計画が失敗した以上、()()()()()はレオを赦さないだろう。この国を離れなければならない。どこか遠い、()()()()()の手が及ばないところ――そう、デュワかフィナイデルあたりまで逃げるのが良い。

 再起を計る方法はいくらでもある。彼にはこの卓越した頭脳と話術があるのだ。どこの国にだって、扱いやすい欲深なバカはいる。そうした輩を舌先三寸で手駒にして、うまく稼ぐまでのことだ。

 しかし。

 隠し通路の奥――運河への出口近くに来て、彼は行く手から差し込む陽光が、なにかに遮られていることに気付いた。はじめ、彼は何かの見間違いと思っただけだった。なにしろ化け物のような女に襲われて、神経が高ぶっていたから。

 だが、一瞬遅れて気が付いた。

 そこにいるのが、紛れもない、逆光に浮き出たふたつの人影であることに。

「残念だったな」

 冷たく沈んだ男の声。

「通行止めでーす。」

 感情の籠らない子供の声。

 絶望するレオの前に、そのふたりは立ちはだかった――勇者の後始末人、ヴィッシュとカジュ。

 そして。

 真の絶望は背後から訪れた。

 煮え立つような殺気に振り返る。緋女(ヒメ)の姿がそこにある。悲鳴を上げて後ずさるも、出口はヴィッシュに塞がれている。追い詰められたレオは壁に背を擦りつけた――その頭を、緋女(ヒメ)の手のひらが鷲掴みにする。

 鈍い音が地下道に響いて、レオの頭が壁に叩き付けられた。

「まッ……待ってくれ! 俺はただ、命令でっ……」

 頭が締上げられる!

 緋女(ヒメ)の腕はさながら万力。その恐るべき膂力によって圧迫されて、レオの頭蓋がミシミシと不気味な悲鳴を上げる。猛烈な痛みに泣き叫びながら必死に手足をばたつかせるが、緋女(ヒメ)の身体はぴくりともしない。

「やめて! ちょっと待て! なあ! 俺は指示されただけなんだよ! ボスの名前、知りたいだろ……知りたくないか? すごい人だ! 金だってある! 金だって、いくらでっ……もォォゴァアアッ!!」

 脳が、ひしゃげていく。

「ヒィがうっ……俺は悪……悪くないんっ……」

 小さく。

 水音がして、あっけなく、レオの身体は崩れた。

 甘言を弄し続けた男の、それが、最期であった。

 

 

     *

 

 

 事態の収拾と真相の解明には数日を要した。

 屋敷の持ち主であるトローテン伯は暗愚で知られ、別邸で執事(スチュワード)が進めていた恐るべき計画については何ひとつ気付いていなかった。無論、本人がそう申告したからといって即座に信用されるはずもなく、トローテン伯の身柄は国王預かりとなり、今後数年にわたって厳しい取り調べを受けることになる。

 計画の内容は屋敷にいた生き残りの手下どもによってあらかた判明し、ゴロー殺害の経緯についても明らかとなった。ヴィッシュは調査のどさくさで、ゴローに渡されるはずだった報酬の金貨を回収した。金貨は緋女(ヒメ)に預けられた。

 彼女が自身でそれを望んだのだ。コンスェラに真実を伝える、もっとも辛い役目を。

「そう……」

 全てを聞いたコンスェラは、目を伏せて、消え入りそうな声でそう囁いた。

「バカだね。どんなにお金があったって……アタシは、あんたって人が……」

 後に残るのは、沈黙。

 緋女(ヒメ)はたっぷりと逡巡したのち、ようやく、つっかえながらも自分の思いを口にした。

「あいつ……最後、笑ってたんだ。

 あんた()()を護りきれた……そう思って、きっと、笑ったんだよ」

 それは、きれいな言葉ではなかったかもしれない。巧みな言い回しでも。詩的な響きを持ってもいなかった。だが、緋女(ヒメ)の言葉であった。果たして彼女が必死の思いで紡いだ言葉は、コンスェラに届いたろうか? 真実は分からない。人の心は闇、いつの時代も。

 緋女(ヒメ)が立ち去って、その姿が消えて、ようやくコンスェラは、泣いた。

 

 

     *

 

 

 さて――

 翌年の春のこと。コンスェラは無事、男児を出産した。母子ともに健康で、産後の肥立ちも良く、塞ぎがちだった彼女はみるみる元気を取り戻していった。その後、身体が落ち着くのを待って彼女は一軒の店を買い、飲み屋のおかみに収まった。愛想がよいのもあって店の評判は上々であった。

 生まれた子供はたいへんないたずらっ子に育ったが、なんともいえない愛嬌のある笑顔を見せるので、人々からよく愛された。長じて後はかわいらしい妻をめとり、母の飲み屋を継いだ。そして、老いた母にずっと付き添い、晩年までかいがいしく世話を焼いたということである。

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 その者は、静謐の空より現れた。

 古代遺跡を巡る争奪戦。そのさなか、ついに姿を見せた最強の宿敵。狂った道化師の刃が襲い来る。人知を超えた刃の冴えが、狩人達にもたらすものは? そしてその背後に隠された真の敵の正体とは?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第1部最終話 “邂逅”

 Reunion

 

乞う、ご期待。

 



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第5話 “邂逅”
第5話-01 発端


 

 

 遠い秋空は澄み渡り、黒も白もない、どこまでも青。

 彼方――太陽の反対側、遥か遠方から飛来する何かがあった。

 初め(にじ)んだ染みのようであったそれは、見る間に大きく、鮮明になり、その流線型を現した。鮫――悠然と巨体をくねらし、真っ直ぐに泳ぎ来る、何の変哲もない鮫である。ただし、それが泳いでいるのは暗く淀んだ海の深淵ではない。万物の頭上に横たわる、この広大な青空なのであった。

 知識あるものが見れば、その鮫の正体に気付いただろう。飛行魚、遥か南方の暗黒大陸に生息するという魔獣の一種だ。魔王軍はかつて、これら飛行魚たちを輸送手段として用いた。腹の下に大きな籠をぶらさげ、空飛ぶ船としたのだ。

 鮫がとある森の上空にさしかかった頃、腹の下の船体から離れて落下する、ふたつの小さな影が見られた。下へ、下へ、風に煽られ若干の曲線を描きながら、影は落ちていく。と、不意に落下速度が緩んだ。まるで鳥が翼を広げたかのように、ふたつの影はふわりと森の中に舞い降りる。

 人、であろうか。

 否。人のごとき姿をした、何か。

 

 

     *

 

 

 全身汗になってようやく運び出した発掘品に、しかし後始末人エリクスは顔をしかめる。近づいてきた壮年の騎士――今回の協力者、国軍の中隊を率いる隊長どのだ――は、口ひげを撫でながら、興味深げにムシロに広げた発掘品を覗き込んだ。

「どうだね?」

「だいぶ古いっすね……帝国初期と見ていいです。この調子じゃ、一体何が眠ってるやら」

 戦々恐々、エリクスは立ち上がった。50人近い国軍の兵たちは、見張りに人夫代わりにと忙しく働いてくれている。彼らの協力は不可欠だった。

 森の奥深く、大雨で土砂崩れを起こした山肌から、偶然見つかった遺跡の入口。エリクスたちが知らせを受けて駆けつけたとき、まだ入口は7割がた土に埋まっていた。内部に踏み込んでみれば、そこにあるのは見たこともない光景――石とも金属ともコンクリートともつかない謎の素材でできた壁と床、壁一面に描かれた謎の紋様、用途の想像もつかない謎の遺物。

 なにもかもが謎――すなわち、どれほどの脅威となるやも知れない遺跡である。国軍に協力を仰ぎ、興味本位の一般人やら、盗掘目当ての山師やらを追い払ってもらわなければ、危なっかしくて発掘どころではなかった。

 しかし、年代が古い。古すぎる。危険な遺跡かもしれない――後始末人協会が想定している以上に、だ。

「鬼が出るか蛇が出るか、てか」

「ま、慎重に行きましょう」

 隊長は頷いて、辺りの兵たちに声を張り上げる。

「今日はあがりだ、おつかれさん! 誰か、中のに伝えてこい」

 

 

     *

 

 

「おれが心配してるのは」

 エリクスは発掘品の片付けを進めながら、声をひそめた。サッフィーが大きな目を瞬かせながら、じっとこっちの顔を覗き込むように見つめてくる。その距離が思いの外近いことにエリクスはどぎまぎする。彼女はどうにも目が悪いものだから。

「情報が漏れてやしないかってことだ」

「どこから?」

「ここ、猟師が見つけたんだろ?」

 ああ、と納得の溜息を吐いて、サッフィーは発掘品の木箱に封をする。

「口止め、してるでしょ」

「口封じはしてない」

「ちょっと、ちょっと」

「いやあ、そういうとこが後始末人協会(ウチ)の甘さだとは思うぜ。まあ現実、そんな対応できるわきゃないし、してほしくもないけどさ。裏を返せば、情報は漏れてるもんだと思って動かなきゃならん、ということでもあるわけだ」

「仮に漏れたとして、誰がこんな遺跡狙ってくるっていうの?」

「そうだな、例えば――」

 と。

 思わず、エリクスは言葉を切った。

 異様な何かが冷気と共に辺りを吹き抜けた気がした。屈めていた身を起こし、辺りを見回す。崩れて露わになった山肌。数名の兵士に守られている遺跡の入口。その手前に、木を切り倒して作ったちょっとした広場がある。そこに幾つものテントと篝火が並び、野営の陣を構築している。

 行き交う兵たち、積まれた木箱と樽。そのむこう側には、年の近い兵士と楽しそうに話し込んでるウチの若い衆、ハンス――仕事しろバカ。

 さらにその奥。

 エリクスは眼を細めた。

 森の木々の中から、ゆっくりと、野営の陣に近寄ってくるふたつの人影があった――ほどなくして、人影が篝火の光にさらされる。その異様ないでたちに、エリクスの反応が一瞬遅れた。

 ひとりは、術士ふうのゆったりした法衣を纏った男。ただし、首から上は巨大なネズミの頭部。神経質に髭と耳をぴくつかせ、丸く黒々した目で挙動不審に辺りを見回している。

 もうひとりは、剣術遣いだろうか。左右の腰に一本ずつの直剣を差し、黒ずんだ僧服のようなものを着た――おそらく、女。少なくとも体つきは若い女のそれだ。推測しかできない理由は単純。顔は仮面に覆われていたからだ。

 不気味に笑う、道化の仮面に。

 

 

「ぶっとばしていい? ねえぶっとばしていい?」

 ネズミ頭がケタケタと笑いながら奇妙に甲高い声で言う。

退()いて()れ」

 道化は、涼やかな女の声で答えた。

「――(わし)()る」

 

 

 エリクスが我に返ったのはその時だった。

「逃げろハンス! 敵だ!!」

 ――瞬間。

 

 

     *

 

 

 滴が落ちる。

 ()たりを除いてもはや動く者のなくなった、その空間に。

 エリクスの血が滴る音が、篝火の揺らめきの中、異様な静けさに波紋を描くように響き渡った。

 おそらくもう、勝ち目はない。

 エリクスは、愛剣を杖にしてようやく立っているのだ。息は荒い。片目は血で塞がれた。脚の感覚がほとんどない。手に力が入らない。それから多分、(あばら)が何本かいっている。

 バカだなあ、とエリクスは冷静に考えた。さっさと逃げればいいのに。なぜ、勝ち目がないと思いながら、こうして遺跡の入口に陣取っているのだろう。何事も命あっての物種だ。命は大事なのだ。

 命は大事なんだよ。

 口で言うより。言葉にするより。ずっと。

 ハンス。サッフィー。名前も知らない50人の兵士たち。

 無造作に――(ゴミ)のように――切り捨てられた命の残骸を踏みしだいて、ぺちゃくちゃと他愛もないおしゃべりをしながら、無造作に歩み来るふたりの敵。

 バカだなあ。バカなことしてる。

「ふざけるな……」

 自覚しながら、それでもエリクスは叫ばずにいられなかった。

「お前たちだけは、絶対にここを通……!」

 エリクスは死んだ。

 どうということもない。道化はただ、おおざっぱに間合いを詰め、すれ違っただけだ。すれ違いざまに抜きはなった剣は、エリクスの胴を半ば以上まで切り裂き、切ったかと思えばもう鞘の中に収まっている。脂や血がついた剣をそのまま鞘に収めてはいけない? 刃が錆び付いてしまう? 心配御無用。充分に剣速があれば、刃には血の一滴さえ付くことはない。

「ねねね、ねーねー。その人今、なんかゆってたよ、シーファちゃん」

「左様か?」

 ネズミ頭に指摘され、道化は――シーファは足を止めた。後ろを振り返り、少しの間考え込むように押し黙って、やがて、不思議そうにこう問うた。

「――して、人とは一体()れだ?」

 

 

     *

 

 

 空は桟橋にしがみついて、海面に色だった。

 曇り気味の天気は5人、赤々と晴れ渡り、風が昼かに吹いてい。50の夜はどこまでも緑で、夕日には夜通し辟易するばかり。ひとり、じっとそこに立ち尽くす。そして見上げれば、空はそうだった――人々もまたそうだった。

 そこに何故かヴィッシュもいて、空から様子を見下ろしていたのが、自分も人だかりは、人垣に囲まれた中央。黒々と山のようなもの――竜の死骸や?――が転、その上にヴィッシュは立った。無数の目。無数の目。無数の目。押し潰されるような気がして、なんか話そう、と思うのだ、押し潰されるような気がしてそればかりが気がかりだ。無数の目。

「竜といったって対策を練ればこんなもんさ」

 得意気に見せて、ヴィッシュは語る。だが確信があったわけでも、そう言うべきだという確信は初めからあった。

「魔王軍が戦線を広げた今がチャンスだ。街道沿いを一掃するのも不可能じゃない」

 ――ああ。夢か?

 そう認識するや、ようやく世界がはっきりし始めた。これは、あの時の光景だ。

 漠然とそう思いながら、ヴィッシュは夢を俯瞰した。広場の中央には(ヴルム)の死骸が転がり、その周囲を一個中隊50名余がとりまいている。隊員のほとんどは若者だった。子供とさえ言える年齢の兵もいる。

 こんな部隊構成になった理由はごく単純。戦乱がベテランを殺す。若造が繰り上がる。ただ、それだけ。

 そんな理由で出世して、それでもなお無邪気に戦えるのは、ひとえに自分だけは死なないと思えばこそ。子供の発想である――ゆえに、それを取りまとめるべく声を張り上げるヴィッシュはガキ大将というわけだ。いささか(とう)の立ったガキ大将ではあったが。

「みんな! 俺たちはやった! 一兵の損害もなく“鱗の(ヴルム)”討伐を成し遂げた!」

 歓声が沸き起こる。

「これは反撃の始まりだ! やるぞ……俺たちが新しい“竜殺しの英雄”になるんだ!」

 兵たちの声はひとつとなって、若き隊長を褒めたたえた。自分たちの戦果を声高に叫んだ。ああ、それは10年前。魔王戦争さなかの頃。まだ“勇者”なる称号さえ存在しなかった時代――

 あの頃、ヴィッシュはまだ若く、ただ上だけを見て生きていられた。

 ふと、彼は隣に目をやった。入隊以来ずっと連れ添った相棒――ナダムがそこにいて、にやりと笑いながら親指を立てている。いつだってふたりでやってきた。これからもふたりでやっていく。いや、この50人でやっていくのだ。

 勝てないものなどあるものか。この頼もしい仲間たちが共にあれば。

 屈託なくそう信じるヴィッシュに、ナダムは笑顔のまま言った。

「そうやって、お前はおれたちを殺したのさ」

 

 

     *

 

 

 かはっ。

 ヴィッシュは苦しげに息の塊を吐きながら目覚めた。

 額に浮かぶ脂汗。火照る体。心地よい朝の寒気。木窓の隙間から差し込む朝日が、天井を青白く染めている。その木目をただただ見上げ、徐々に息を整えて、体の火照りを収めていく。ここはどこだ? 問いかけに答えるものはない。俺は誰だ? 何かが答えた――ヴィッシュ、と。

 ――それで、どこへ行こうと言うんだ?

 混濁した意識が覚醒し、体温が下がっていく。汗の感触がたまらなくヴィッシュを悩ませる。べったりと湿った服。訳の分からない不条理な夢の残滓。気色悪い。ベッドは木板と藁とシーツだけで組まれた簡単なものだが、確かに保温効果は良い。秋口のこの季節なら、少々暑いくらいではある。

 とはいっても、この汗は異常だ。

 大きく息を吸い、吐く。

 ――またかよ。

 ヴィッシュは胸の痛みを堪える。

 また、夢を見たのだ。嫌な夢。いつもの夢。10年前の記憶を極めて恣意的に歪めてできた夢だ。魔王戦争の後、彼はずっとこの悪夢に苦しめられてきた。思い悩むあまり内臓をやられ、死んだ方がましだと思っていた時期さえある。

 だが時が過ぎ、傷は徐々に癒え――あるいは自らの手で覆い隠すことに成功し、もう何年も、この夢を見ることはなかったのだ。

 それなのに、どうして今さら。

 考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、肺を鷲づかみにするような重圧は増すばかり。苦しい――余りにも苦しい。まるで、重い何かが体の上にのしかかり、胸を押し潰してでもいるような――

「すぴょー……ょょ」

「ねむねむ……。」

 ……………。

 寝息を立てる何か温かいものが、ヴィッシュの胸に2段重ねで乗っかっていた。

「お前らかよ!!」

 ヴィッシュはふたりをはね除けた。

 シャツ一枚で半裸の緋女(ヒメ)と、レースのネグリジェ姿のカジュがころりとベッドから転がり落ちる。それでもカジュは起きる気配すらなく床に大の字。辛うじて緋女(ヒメ)だけが目を擦りながらむにゃむにゃと、

「あー、(わり)ー」

「悪いで済むか! どうして他人(ひと)の上に乗っかってんだよ!」

「なんかー? ちょと、寝相でー」

「そんな寝相があるか!」

「そんな寝相はねーぞう、なんつって」

 

 

 緋女(ヒメ)が部屋から蹴り出されたのは言うまでもない。

 

 

     *

 

 

「熊?」

 すっかり日も高く上ったころ、ヴィッシュは寝椅子にぐったりと座り込んだまま、ボンヤリとした調子で聞き返した。

(くま)。」

 向かいに腰を下ろしたカジュが、目の下を指しながら答える。

「熊型の魔獣か」

「違うって。目が死んでるよ。」

「お前にだけは言われたくねえ」

 溜息ついて、ヴィッシュは軽く眉間を揉んだ。早朝の緋女(ヒメ)たちの乱入のせいで、ヴィッシュは大変に寝不足である。

 あとでふたりによくよく話を聞いてみると、トイレに立ち、戻ってきたとき、寝ぼけて部屋を間違えたんだそうだが……迷惑なことこの上ない。若い者と違って、年寄りに寝不足は堪えるのだ。

 今日はこれといって仕事が入っていない。とはいえ、そんな日もやるべきことは山積みだ。普段なかなかできない鎧や外套(マント)の手入れ。煙幕弾や閃光弾等々、各種小道具の準備。冬に向けて保存食作りもしなければならないし、消耗品の補充も必要だ。仕事がないならないなりに忙しいものである。寝ぼけた頭には少々きつい。

「痛ッ」

 それに、あくび交じりに外套(マント)(つくろ)っていれば、指を刺しもする。

 血が玉になった親指を舐めながら見れば、カジュも裁縫仕事に悪戦苦闘している。どうやら冬服の白いローブを引っ張り出してきて、フードの所に何か三角形の布を縫いつけているようだ。

「それ、何を縫ってんだ?」

「ねこみみ。」

「……………」

「実用性に優れる。」

「わかった、わかった」

 あくびをもう一発。気合いを入れ直して繕い物に集中しようとしたそのタイミングで、バタバタとけたたましい足音が階段を駆け下りてきた。そちらに顔を向けもせず、ヴィッシュはただ顔をしかめる。ひょいと居間に顔を覗かせたのはもちろん、ウチのお緋女(ヒメ)さまだ。

「ねーねー、あたしのナイフ知んない?」

「知らねえよ。自分の物くらい自分で管理しろ」

「うっせーな。オカンかオメーは、っつー」

 緋女(ヒメ)の足音が台所に消えていき、ひとしきりガチャガチャとやらかして、再び戻ってくる。

「ねー、柄が赤いやつなんだけど」

「裏だよ、薪雑把(まきざっぽ)ンとこ! 昨日お前、あのへんで何かやってたろ」

「なんだよ知ってんじゃん。ありがとー」

 ヴィッシュはしかめっ面をひょいとそむけた。

「俺ァお前の母親じゃねえってんだ」

 するとカジュが縫いかけを差し出して、

「ここの縫い方教えて、おかあさん。」

「お前なあ……貸してみろ。こうだよ」

 そこに、威勢よくドアを叩く音があった。現れたのは素晴らしい笑顔を顔に貼り付けた身なりのよい男――

「みなさんこんにちは! 毎度おなじみコバヤシでございます。

 とびっきりのお仕事を、お持ちしましたよ」

 

 

(つづく)

 



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第5話-02 血の香りの追憶

 

 

 緋女(ヒメ)は面倒な話を嫌って屋根裏部屋に引っ込み、カジュも裁縫道具を抱えてそれに付いていった。ようやく居間は静かになり、ヴィッシュはほっと一息吐く。緋女(ヒメ)たちと話してるより、コバヤシと仕事の話をするほうがよっぽど楽というものだ。

「いや、上手くやっておられるようで、安心しましたよ」

 そんなヴィッシュの内心を知ってか知らずか、コバヤシはいつもの営業スマイルで言う。

「何が?」

「お仲間と、ですよ」

「……仲間なんかじゃねえ」

「そうでしょうか?」

 ヴィッシュの胸に、正体不明の苛立(いらだ)ちが沸き起こった。コバヤシの、何もかも承知といわんばかりの微笑みが、(かん)(さわ)って仕方ない。

「奴らとは何度か仕事をやっただけだ。この家にも勝手に寝泊まりしてるだけだ。押しかけられて困ってんだよ!」

「ですが、あのふたりはあなたを信頼しているでしょう?」

 信頼。何か胸にチクリと走る痛みがあって、ヴィッシュは思わず視線を逸らした。何気ない言葉が、黒い煙のようにわだかまって、胸の中から溢れようとしているようだ。コバヤシは困り顔で――無論彼のことだ、困っているという印象を与えるべくして与えているのだろうが――頭を掻く。

「この仕事は、あなたがた3人でないと、と思っていたんですがねえ」

「……仕事はするさ。今度は何が出た?」

「分かりません。それを調べて欲しいのです」

 コバヤシは持参した巻物を机に広げた。第2ベンズバレン周辺を描いた地図だ。コバヤシの指が、この街から徒歩で半日ほどの距離にある森の中を指す。

「実は先月、森の中に遺跡が見つかりました。恐らくは、古代魔導帝国の」

「初耳だな」

「言ってませんからね」

 古代魔導帝国。それは、今から5000年以上前に建国され、以来4000年余りに渡って全世界を支配し続けた、空前絶後の巨大国家である。その支配階級は類い希なる魔術の才能を持った種族――つまり魔族であった。

 帝国の技術は現代の人間が持ちうるそれを、遥かに上回っていたという。しかし1000年ほど昔、突如世界を襲った謎の異変によって魔法の力は急速に衰え、魔法に頼り切っていた帝国はそれに伴って国力を維持できなくなっていった。この隙に、かの有名な聖女トビアを旗印に掲げた人間勢力が各地で決起、数百年に及ぶ戦乱の末、ついに魔導帝国は滅びた。

 その遺跡には、当時の超技術の結晶が眠っていることがある。恐ろしい怪物、何が起きるか分からない道具、その他諸々の想像さえつかない何か。上手く用いれば素晴らしい利益ももたらしうるのだろうが、いずれにせよ、危険極まりない遺物であることに変わりはない。

「調査隊を送ったんですよ。うちから詳しいのを3名、国軍から兵を50名ばかり。もちろん術士もいましたんで、《遠話》で連絡を取っていたんですが――

 昨日夕方の定時連絡を最後に音信不通になりました。なにかとんでもないものを掘り出してしまったのか、あるいは――」

「誰かとんでもないのが襲ってきたか」

「――というわけです。いずれにせよ、放置できません。依頼内容は、遺跡の調査、調査隊の安否確認です。お願いできますか?」

「もし、音信不通の原因を解決できそうなら?」

「完全に解決してもらえるなら、ボーナスを出しましょう。しかし無理はしないでくださいね。これ以上戦力を失うわけにはいきません」

 ――戦力、か。

 ヴィッシュの脳裏に、緋女(ヒメ)とカジュの顔が浮かんだ。

 戦力。そう。戦力と、割り切ってしまえればどれほど楽か。

「引き受けていただけませんか?」

 ヴィッシュの沈黙を迷いとみたか、コバヤシが不安そうに問う。

 違う。不安なのはヴィッシュ自身の方だ。もやつく心を振り払うように、敢えてゆっくりと、力を込めて、机に差し出された前金の袋を掴み取る。

「言っただろ。仕事はするさ」

 まるで自分に言い聞かせているかのように。

「仕事はする」

 

 

     *

 

 

 あれがもう、10年も前の事になるのか――

 その日、ヴィッシュは緊張していた。策は練った。情報も充分に集めた。部下たちの練度も申し分ない。仕掛けは上々、細工は流々、あとは仕上げをご覧じろ、いうところだ。なのに出撃を目前に控え、ヴィッシュは――

 恥ずかしながら、膝の震えが止まらない。

「よう。なにビビってんだよ、大将」

 とっくに誰もいなくなった兵舎の中、ひとり、椅子に腰掛け居残っていたヴィッシュに、背中から声が掛けられた。びっくりして、振り返る。にやりと笑う奴がいる。いつだって余裕綽々の副長、ナダムが。

「俺は……」

「準備はしたろ? いつもと何が違う? 少々大がかりってだけだ」

「分かってる」

 ナダムには、ヴィッシュにないものがある。度胸だ。

 どんなに恐るべき敵と相対しても、ナダムは決して怯まない。無謀に突っこんでいく訳ではない。とにかく冷静――いや、「いつもどおり」なのだ。ヴィッシュにはそれが羨ましかった。彼には心に芯がある。どれほど状況に振り回されても微動だにしない軸がある。だから恐れがない。怯えもない。少なくとも、ないように見える。

 正直に言って、ヴィッシュより遥かに隊長に向いている、と思う。

 なのになぜか、彼は年下でキャリアも浅いヴィッシュを推した。魔王が襲ってくる少し前、騎士叙勲と中隊長への抜擢を辞退し、代わりにヴィッシュを推薦したのである。

 勝手なもんだ、と思った。何しろ推薦するとき、当のヴィッシュには確認ひとつしやがらなかったのだ。おかげで、彼が事態を知ったのは、もう拝命式の日程まで決まって、退くに退けない状態になった後のことだった。

 そのことについて文句を付けると、ナダムはあっけらかんとこう答えた。「切羽詰まらせないと迷うだろ? お前」と。

 それ以来、ナダムはずっと、副官としてヴィッシュの(かたわ)らにいる。

「なあ、ヴィッシュ。自分で言うのもなんだが、おれはこう、いい加減な男でな」

「知ってる」

「コノヤロウ……」

「自分で言っててなんで怒るんだよ!」

「自分で言うのはいいんだよ!」

「なるほど……」

「分かりゃいいんだ。でな、いい加減なもんで、おれは理屈屋なんだよな」

「それのどこがいい加減なんだ? 客観的に分析し、論理的に思考し、合理的に行動する。立派なもんじゃないか」

「おれもそう思う」

「自分で言うか」

「事実だからな! ともかく、合理的ってことは、理屈が退けといえば退くってことだ。おれにはそういう考え方が染みついてるし、それはおれの最大の武器なわけだが――同時に、限界でもある」

 腹の立つ言い回し。何でもかんでも、裏の裏まで見据えてござる、という調子。そしてそれが事実だから余計に腹が立つ。腹が立つが、しかし、いや、だからこそ、ヴィッシュは彼の話につい耳を傾けてしまう。

「ヴィッシュ。お前は、いざというときに理屈を捨てて、自分自身を信じられる男だ」

「何……」

「もちろん、合理や論理を否定してるわけじゃない。お前も基本的には思考を武器にしてる。でも、ここしかない、この瞬間しかない、っていう勝敗の分岐点で、お前は自分の中にある論理以外のなにものかに躊躇なく身を委ねることができる。

 それはひょっとしたら、とんでもなく危険なことなのかもしれない。少なくとも安定性とか安全性には欠ける。だがおれはこう思う。

 魔王が襲ってきて、人間が滅亡するかどうかの瀬戸際にいるこの時代、必要なのは、お前みたいな奴なんじゃないか――てな」

 しばらくの沈黙の後、ヴィッシュは立ち上がった。

 不思議と、膝の震えは止まっていた。

「どうでありますか! 隊長どののココは、なんて言っておられますか!」

 びしっ、と直立不動の姿勢を取り、ナダムがどん、と拳で胸を叩く。

 ヴィッシュの目に、もう迷いはなかった。

「出撃だ!」

 

 

     *

 

 

「おいこら」

 びくり。

 弾かれたように肩を震わせ、ようやくヴィッシュは我に返った。

 気が付けば、日は南の空にかかっている。強くなってきた海風が頬を撫でていく。ヴィッシュが呆けている間も律儀に走り続けていた馬は、もう随分息を切らしてしまっている。苦しげに喘ぐ馬の首を撫で、速度を緩めてやる。

 大きく胸に息を吸い、肺に溜まった(もや)を、丸ごと交換するように吐き下す。

 そうだ――コバヤシの依頼を受けたヴィッシュたちは、すぐさま2頭の馬を立て、遺跡に向けて出発したのだった。片方の馬にはヴィッシュ、もう一方には緋女(ヒメ)と、その背中にしがみつくカジュ。どうやら移動中、昔のことを思い出していたようだ。

 楽しい記憶。かけがえのないもの。

 なのにその思い出は、いつも体を引き裂かれるような痛みと一緒に蘇ってくる――

 ヴィッシュは、併走する緋女(ヒメ)に疲れた無表情を向けた。

「なんだ」

「なんだじゃねーだろ。呼んでも返事しねえしさ」

「すまん、聞こえなかった」

「あのさあ」

 なぜかそっぽを向いて、緋女(ヒメ)が問う。

「お前、朝から何を塞ぎ込んでんだよ」

「そうかな……」

「どーでもいいけど、メーワクなんだよ。目の前で暗くされるとよー」

「意訳:様子がおかしいからちょっと心配です。」

 ぶっきらぼうに言い放つ緋女(ヒメ)の後ろで、その背にしがみついたカジュがぼそりと補足する。

「……別に悩むのは好きにしたらいいけど、足手まといになられちゃ困るし」

「意訳:悩み事は置いといて目の前のことに集中してみたら。」

「黙ってないでなんとか言えよ」

「意訳:話したいなら愚痴に付き合うくらいするよ。」

「カぁジュっ!!」

「何か。」

「なんのつもりだテメーは!」

緋女(ヒメ)ちゃん専用外付け翻訳装置のつもり。」

「まじやめろ、殺すぞテメー……」

 緋女(ヒメ)は気恥ずかしげに頭を掻き、馬の腹を蹴ってスピードを上げる。ふたりを乗せた馬が前に行ってしまう。追い抜きざまに、カジュが悪戯な笑顔をこちらへ向けた。思わずヴィッシュは苦笑する。笑っている。

 笑えてしまっている。

 あの時と同じように。

 と。

 緋女(ヒメ)が唐突に馬を止めた。追突しそうになり、慌ててヴィッシュも手綱を引く。

「なんだ、どうした?」

「臭う……」

「何が?」

 ひらりと馬を降りた緋女(ヒメ)の額には、うっすらと、汗が滲んでいた。

「血」

 

 

     *

 

 

 地獄――と表現するのが、その場所に最も相応しかろう。

 辿り着いた遺跡の入口には、目を背けたくなるほどの惨状が広がっていた。調査隊の野営の後。テントは虚しく風にはためき、いくつかは完全に倒壊している。篝火は燃え尽き、虚しく立ち並ぶのみ。その周辺を、所狭しと埋め尽くす、死体、死体――死体。

 ざっと見たところ、4、50名分はある。コバヤシから聞いていた調査隊の人数とも一致する。何名か辛うじて逃げ延びた者もいるかも知れないが、おそらくは、全滅。季節は秋にさしかかったとはいえ、日中はまだ暑い。死体はすでに腐敗を始めており、辺りには吐き気を催すような腐臭が漂っていた。

 犬に変身した緋女(ヒメ)は、入念に匂いを嗅ぎながら、死体をひとつひとつ見て回っているようだった。カジュはといえば、猫耳飾りのついた可愛らしいフードの奥で、それに似つかわしくない凍て付くような目をして、辺りを見回すのみ。

 と、ヴィッシュは死体の中に、見覚えのある顔を見つけた。

「ハンス!」

 名を呼んで駆けよるが、返事などあろうはずもない。何度か顔を合わせたことがある。後始末人仲間、この稼業を始めたばかりの若者であった。即死だ。肩口から腹辺りまでを一撃で切り裂かれ、剣を抜く間もなく息絶えたと見える。

 彼がいるということは、他にも――見つけた。少し離れたところに、身軽な革鎧姿の女術士の亡骸。サッフィー。さらに、崖崩れでできた露頭、その中程にぽっかりと口を開けた遺跡の入口。そこを守るように――おそらくは事実守ろうとして――倒れた、傷だらけの後始末人。エリクスだ。

「くそっ……」

 エリクスの死体の側に、ただ茫然と立ち尽くし、ヴィッシュは悪態を吐くしかできなかった。その後をついて回っていたカジュが、ひどく平坦な声を挙げる。

「ひどいもんだね。」

 感情の感じられない棒読みはいつものことだが、いつにも増して抑揚のない声であった。あるいはそれが、彼女なりの感情の表れなのかもしれない。

「大丈夫か?」

「ご心配なく、死体なんて見慣れてるよ。一体何があったのかな。」

「全員刀傷……魔獣の類じゃねえ。軍隊でも襲ってきたってのか?」

「いや、ひとりだぜ、これ」

 緋女(ヒメ)が人間に変身し、顔をしかめながら寄ってきた。彼女の嗅覚は、人間の姿に戻ってもなお、常人より遥かに優れている。常人のヴィッシュにさえ少々辛い腐臭である。彼女にはなおさら耐え(がた)かろう。

「ひとり?」

「ふたりだけど、片方は見てただけだな。そんな匂いがする」

 馬鹿な。この人数の訓練された部隊をたったひとりで殺した? ヴィッシュ以上に腕の立つエリクスだっていたというのに? とても信じられることではない。

 そう思う一方で、緋女(ヒメ)の鼻に対する信頼もあった。チームを組んでからというもの、緋女(ヒメ)の嗅覚が的はずれだったことは一度たりともない。自分の中のつまらない常識と、仲間が自信を持って断言する調査結果なら、ヴィッシュは迷うことなく後者を信じる。

 そして緋女(ヒメ)の言うことが本当だとすると、相手は恐ろしいまでの達人だということになる。よもや緋女(ヒメ)が後れを取ることはあるまいが、勝負は水もの、何が起きるかは予測がつかない。

 不意にコバヤシの言葉が脳裏を過ぎった。“これ以上戦力を失うわけには――”

 戦力を、失う。

 じっとりとした脂汗が、ヴィッシュの額に浮かんでくる。

「で、どうするの。」

「……このまま帰ったんじゃ仕事にならん」

 それは自分を奮い立たせるための言葉であった。

「進むぞ。慎重にな」

 だが、そこに迷いがなかったと言い切れようか。

 

 

(つづく)

 



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第5話-03 邂逅

 

 

 暗闇の中、折れて砕けた柱の残骸に腰を下ろし、シーファは携帯食料の紙包みを開く。固く焼いた棒状のビスケットだ。道化の仮面を片手で少し浮かし、その下から携帯食料を差し込み、歯で少しずつ削り取るようにして(かじ)る。

 これといって味はない。小麦粉を満足に練りもせず固めたような、ぱさついた舌触りを、義務的に喉の奥に押し込むのみ。

 と、シーファの頭がぴくりと動いた。ビスケットの残りを一気に口に放り込み、仮面をかぶり直して、立ち上がる。

「何か来た」

 闇の奥にあぐらを掻いていたネズミ頭がそちらを向いた。これが、この部屋に入って以来丸1日の間に、初めてふたりの間で交わされたコミュニケーションだった。お互い喋る暇もなかったのだ。ネズミ頭は魔導装置をいじって遊ぶのに忙しかったし、シーファの方は暇つぶしの方法を考えるのに手一杯だった。

「敵かなー? 何人?」

「2、3人と()った(ところ)だ。()れ以上は判らぬ」

「じゃ、協会の探りかなー? そうかなー? そうだなー」

「位置を調べろよ、魔法遣い」

 シーファが命じると、ネズミ頭ははしゃいで飛び上がった。黒々としたネズミの目を輝かせ、長い髭をひくひく震わせながら、

「あ、殺っちゃう? 殺る?」

「協会が本腰を入れる(まで)の時間が、少しでも稼げよう」

「だーめだよシーファちゃん、そんなのどーでもいいくせにぃ。本音はー?」

 軽く伸びをすると、シーファは首を回して骨を鳴らした。

此処(ここ)は退屈でいかぬ」

 

 

     *

 

 

 拾った木の枝に《発光》の魔法をかけ、それを頼りにヴィッシュたちは遺跡を進む。

 中は身震いするような寒気に満ちていた。螺旋を描いて徐々に下っていく長い通路。壁、床、天井、いずれも材質は不明。石でもない、金属でもない、遺跡によく見られるコンクリートでもない。手触りは滑らかだが、光を当てても光沢はない。そんな壁や床に、無数の直線が描かれている。青や緑の線は、時折折れ曲がり、あるいは交差しながら、通路の奥へと流れていくようであった。

「いい仕事してますねー。」

 通路の壁をぺたぺた触りながら、カジュが呟いた。

「なんなんだ、これは?」

「たぶん都市か乗り物。この線は魔力回路の配線。見たところ原理操作系の魔法陣をエギロカーン効果に相当する技術で多層構造にしてるみたいだね。つまり質量場と素粒子の相互作用を情報場による干渉で無理矢理ねじ曲げて、質量自体を指数的に縮小させてるわけ。」

 ……………。

 ヴィッシュと緋女(ヒメ)は、ふたり揃って、黙々と通路を進んでいる。

「なんか、街が丸ごと空を飛んでたみたいだよ。」

「うっそ!? 街が!?」

「そんなことが可能なのか!?」

「解説した甲斐があってよかったよ。」

 いささか不機嫌になったカジュであったが、分かれ道にさしかかると、ぐるりと辺りを見回して、

「もし敵が中枢を目指してるとしたら……。こっち。」

 迷わず一方向を指し示したのだった。

 

 

     *

 

 

 そうこうするうちに、3人は広大なドーム上の空間に出た。

 ヴィッシュは天井を見上げ、思わず息を飲む。これほど巨大な人造の空間を、彼は見たことがない。以前にハンザで見たグールディング大聖堂がすっぽりと収まってしまいそうなほどの高さと広さがある。

 それでいて壁面には継ぎ目一つ見当たらず、ただあちこちに梯子、階段、空中通路が張り巡らされているのみ。まるで大きな一枚岩から削りだしたかのようだ。

「なんなんだ、こりゃあ……」

「バラストタンク。」

「何だそれ」

「話すと長くなるけど。」

「よし分かった。中枢とかいうのはどっちだ?」

 カジュが杖の先端で指す先は、ドームの反対側にぽっかりと口を開けた通路であった。そちらに向かって広い空間を横切り、ドームのちょうど中央あたりにさしかかる。

 緋女(ヒメ)がふと足を止めた。

「どうした?」

 答えはない。

 張り詰めたその表情で、全てを悟る。

 ――何かいる。

 3人はそれぞれの得物を構え、背中合わせになった。集中。動くもの、物音、空気の流れ、匂い。僅かな異常も見逃さぬため、神経の全てを尖らせていく。

 円形の空間。絡まり合う空中通路の森。

 どこに――

 と。

 カジュの猫耳飾りがぴくりと動いた。

「上っ。」

 瞬間、カジュが跳ぶ。次いで緋女(ヒメ)。反応の遅れたヴィッシュを背中から突き飛ばし、団子になってその場を飛び退く。一瞬遅れて頭上から襲いかかった白刃が、縦真っ直ぐに空を割る。

 地面に転がりながらヴィッシュは背筋を走る悪寒に震える。危なかった。緋女(ヒメ)が突き倒してくれなければ、今ごろ脳天をかち割られていたところだ。

 頭上、ちょうど3人の真上の空中通路に身を潜めていた敵――道化の仮面を被った女剣士の初撃によって。

 などとヴィッシュが考えている間に緋女(ヒメ)が身軽に体勢を立て直し、地を蹴り矢のように切り返す。抜きはなった曲刀が雷光さながらに道化を襲う。タイミング、速度ともに完璧。落下しながらの攻撃で態勢を崩した敵に、これを避ける術はない――

 はずだった。

 刃交差し、光が奔る。

 不安定な姿勢から無造作に振り上げた道化の剣が――

「なっ……!?」

「うそっ……。」

 ――緋女(ヒメ)の剣を、止めた!?

 思わず声を挙げるはヴィッシュとカジュ。当の緋女(ヒメ)は眉間にしわ寄せ歯を食いしばるのみ。すぐさま追撃。鍔迫り合いの交点を中心に、弧を描いて敵の懐に飛びかかる。頭部を狙って、身を翻しての浴びせ蹴り。だが道化は慌てるそぶりすら見せず、左手一本で軽く蹴りを受け流す。

 ――まずい!

 緋女(ヒメ)の体は完全に空中にある。この状況で蹴りを流され、一方的に体勢を崩された。今斬撃が来れば、避ける方法が存在しない。果たして道化の剣が空中の緋女(ヒメ)目がけて正確無比に振り上げられ――

 直前、緋女(ヒメ)は犬に変身する。

 突如として体のサイズが半分以下まで縮小される。さすがにこれは予想外だったか、敵の刃は見当違いの場所を虚しく過ぎた。そのまま緋女(ヒメ)は身を捻って着地、一旦距離を取るべく地を蹴るが、そこに道化の追撃が振り下ろされる。

 滅茶苦茶だ。速すぎる。横で見ているだけのヴィッシュにさえ、一体いつの間に刃を翻したのかすら分からない。これではとても避けられない!

「《火の矢》。」

 窮地を救ったのはカジュであった。タイミングを見計らっての援護射撃が道化に飛ぶ。このまま緋女(ヒメ)への攻撃を続ければ直撃は必至と見たか、やむなく道化は大きく飛び退り、距離を置いてヴィッシュたちと睨み合う。

 緋女(ヒメ)は変身を解いて人間に戻ると、仲間たちを庇うように立ちはだかり、油断なく刀を構えた。

「気をつけろよ……」

 低く押し殺した緋女(ヒメ)の声。その額には、びっしりと脂汗が浮いている。

「やばいわ、あいつ」

 言われなくても分かっている。

 緋女(ヒメ)は実力は嫌というほど分かっている。先日の、百近い魔獣の群れをたったひとりで蹂躙した鬼神めいた戦いも記憶に新しい。だがあの道化女は――その緋女(ヒメ)と互角。いや、それ以上とさえ思える。

 かつてヴィッシュが苦戦した魔族の剣士ゾンブルが赤子に見える。もはや達人などという生やさしいレベルではない。

 あれは正真正銘の化け物だ。

 情けない話だが、はっきりと言おう。

 緋女(ヒメ)が戦っている間、ヴィッシュは――ただの一歩も動けなかったのである。

「存外、(わる)うない」

 化け物が、面白がるような声を挙げた。仮面のせいでくぐもってはいるが、声色は確かに女――それも、緋女(ヒメ)と大差ない年頃の、若い女のそれであった。無邪気。だが同時に、声から漂い出る妖気だけで聞くものを圧し潰してしまいそうなほどに、重い。

()(ほう)、名は何と()う?」

「……緋女(ヒメ)

緋女(ヒメ)?」

 道化は笑う。

()れにしては髪が赤い?」

「あ?」

(わし)はシーファ」

「あ、そ」

()うでもない、事に()るとな。髪が事はお互い様でもあるし」

 と、言いながら道化は仮面の後ろに垂れ下がった青い髪をいじった。奇妙な色合いの髪だ。半透明の青い色水のような、不自然に透明感と光沢のある髪。美しいとも言えるが、それは間違いなく人間とは異質の美。

「外の連中は不甲斐なかった。興を削がれること(はなは)だしい。其方(そなた)らは()うでもあるまい?」

 狂気だ。話が通じない。

 道化の仮面には、ただ、不気味な笑みばかり貼り付いている。

「いざ。愉しく()ろう」

 

 

     *

 

 

 戦いは始まった。ヴィッシュと緋女(ヒメ)がふたりがかりで斬り掛かる。だが道化は、両手に持った2本の剣でそれらを苦もなくあしらっている。

 考えられないことだ。普通、二刀流は弱い。

 二刀流の戦闘スタイルは、片方の剣で受け、その隙にもう一方で斬るというものだ。だが相手が両手剣なら片手では受けきれず、刃を折られるか剣を弾かれるかするのがオチ。単に防御だけを考えるなら、盾の方が遥かに使い勝手はよい。受けにも斬撃にも使えるのが利点と見ても、利き手でない方で持つ剣の攻撃が、敵に致命傷を与えられるかどうか。

 諸々の理由で二刀流は邪道というのが常識である。事実、実戦の場で見かけることはまずない。

 にもかかわらず、道化は、二刀流でこのふたりを相手に互角に渡り合っている――いや、むしろ圧倒しているのだ。

 それがどれほどの技量を要することか。余裕のない緋女(ヒメ)の表情を見れば分かる。

 援護したいのは山々だった。しかし、カジュは動かない。

 斬り合う3人から離れ、じっと神経を研ぎ澄ませる。

 入口で緋女(ヒメ)が嗅いだ体臭はふたり分。奴らの狙いがこの遺跡の中枢、そこに眠っている制御エネルギーだとすれば、もうひとり、もろもろの作業を担当する術士が確実にいるはずだ。

 それが今、姿も見せず、表だった援護もしてこない。

 となれば、敵の狙いはたったひとつ。魔法による奇襲攻撃だ。それを防げるのは術士の自分しかいない。

 左手には身長の倍近い長杖を構え、右手の指一本一本には青い小さな光を灯す。唱え置きの呪文ストックである。

 ある程度の実力を持った術士は、あらかじめ魔法陣・呪文・身振りなどで構築した術を発動しないまま保つことができる。どの術を唱えておくかは先読みに頼ることになるとはいえ、詠唱のタイムロスなしに術を放てるのは魔法戦において圧倒的なアドバンテージになる。

 ストックできる術の数は術者の実力によって変わる。並の術士で1個か2個。達人でもせいぜい4個。そして、カジュなら5個。

 敵のストックを枯渇させれば勝ち。こちらが先に枯渇すれば負け。つまり読み勝ち、先手を打ち、主導権を握った者が勝つ。それが術士同士の魔法戦である。

 心、静かに。

 全てを索敵に集中させる。

 と。

 カジュの猫耳が――魔力を感知するセンサーが動いた。

 左手側、距離50、空中通路が交差する死角。そこから《火の矢》が飛んでくる。狙いは――緋女(ヒメ)とヴィッシュ。カジュはすぐさま《光の盾》を2枚飛ばして2人を守り、同時に走って敵との距離を詰める。誤差数cmで射程に飛び込んだ瞬間、次の術を発動。

 《爆ぜる空》。

 轟音響かせ敵の周辺空間が丸ごと爆発する。広範囲の空気を可燃性の気体に変化させて着火する、炎を使う術としては最強クラスの大量殺戮魔術。あの道化剣士とコンビなら、術士の方だって相当な腕に違いない。半端な術なら避けるか止めるかされかねない。なら対処は簡単。

 止められないほど強力な術で、避ける場所もないほど広範囲を吹っ飛ばせばいい。

 ――やったかな。だめか。

 猫耳センサーが反応。頭上。

 振り上げ見れば、ドームの天井近くに奇妙な男がひとり。術士らしい服装をしているが、頭部が巨大なネズミのそれ。獣人の類――いや、体を改造した人間か。そのネズミ頭が、いつの間にかカジュの頭上を飛行していた。

 《瞬間移動》、それに《風の翼》だ。厄介な防御術を使ってくれる。

 さらにネズミ頭の口から炎が溢れ出す……《炎の息》! 広範囲を炎で焼き尽くす術。味方を巻き込んででも、こちら3人をまとめて焼き殺す気だ。しかし。

 ――先読みドンピシャ。

 カジュの《水の衣》が発動。上から降り注いだ炎が、空中に生まれた水のカーテンであっけなく遮られる。同時に放つお返しの一打は一撃必殺の《眠りの雲》。

 ネズミ頭は40m近い高さを飛んでいるのだ。この状況で眠らせてしまえば、敵は術の制御を失い、墜落して終わりである。

 だが敵は一瞬意識を失ったものの、すぐさま目を覚まし、そのまま飛行で少し離れた位置に着地した。

 カジュはもくろみが外れ、眉をぴくりと跳ね上げる。ネズミ頭は、《療治》を、自分が眠ったり麻痺ったりしたときに自動発動するよう設定しておいたらしい。先読みドンピシャは向こうも同じか。

 そしてカジュとネズミ頭は、僅か数mの距離で対峙する。剣士ならまだ剣を抜く必要もない間合い。だが術士にとっては、とっくみあいにすら等しい距離だ。

 カジュは油断無く杖を構え、右手の指を走らせて魔法陣を描きながら、口を尖らせる。

「ストックは5つ、ボクと同格か……。なかなかやるね。」

 その呟きが聞こえたか、ネズミ頭がケタケタと笑った。

「あっ、あっ、やっだー! それ、なんてゆーか知ってるー?」

「知んない。」

「う・え・か・ら・め・せ・ん!」

「当たり前じゃん。」

 ふんっ、とカジュは鼻息を吹いた。

「ボクの方が上なんだよ。」

 無論、こんなお喋りを無駄にしているわけではない。これは互角魔法戦特有のインターバル。互いに尽きたストックを補充するための時間。カジュの指に、そしてネズミ頭の指に、常人に数倍する速度で、次々に呪文ストックの光が灯っていく。

 さて――次はどう出てくるか。

 壮絶な読み合いが始まった。

 

 

(つづく)

 



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第5話-04 狂気の道化、シーファ

 

 

 緋女(ヒメ)(はし)る。

 人から犬へ姿を変えて、稲妻の如く間合いを詰める。飛び上がりざま人に変身。横手から目にも止まらぬ薙ぎ払いを仕掛ける。剣の軌道を見切ったか、道化(シーファ)は片手の剣で易々とそれを受け流す。

 が、こちらはフェイント。

 刃がぶつかり合う瞬間、緋女(ヒメ)は意図的に力を()()()。太刀は過剰に大きく弾き返され、その勢いで逆回転。

 緋女(ヒメ)が着地したのはそのときだった。

 竜巻!

 としか言いようのない剣風を纏い、渾身の力を込めた本命の一撃を叩き込む。

 ――どうよ!!

 問を叩き付けるかのような一撃を、しかしシーファは逆手の剣で事も無げに受け止めて見せる。舌打ちひとつ、緋女(ヒメ)は地を蹴り後退する。またしても攻撃は不発。だが、ここにはもうひとりいる。

 ヴィッシュ。

 緋女(ヒメ)の背後、道化からは完全に死角となる位置をキープしていたヴィッシュが交代に飛び込んでくる。彼にできる最速の突きが、道化の喉元に襲いかかる。

 ――ダメだ、甘ぇ!

 緋女(ヒメ)にすらそれが分かった。踏み込みが8分の1歩浅い。ほんの僅か、指数本分の差しかあるまい。だがその僅かな間合いの差が、達人とそれ以外を分ける絶対の壁となる。

 道化が踏み込む、無造作に。その時、ヴィッシュの背筋に悪寒が走った。

 ――殺される。

 しかし、ヴィッシュは生きていた。

 道化は、何もしなかった。

 突きを避けるでもなく、単にヴィッシュの横をすれ違っただけだ。ただそれだけで渾身の力を籠めた突きは当たらない。そしてヴィッシュは、斬られるでもなく、蹴りや拳を叩き込まれるでもなく、放置された。

 まるでそこには()()()()()かのように。

 ――()らぬ。少なくとも、(わし)に害為し()る者は。

 道化(シーファ)の声なき声が聞こえた気がした。

 一瞬で永遠の沈黙が、辺りを支配した。斬る価値さえない、そう見捨てられたヴィッシュの背中が、霧に埋没するかのようにかすんでいく。

「手前ェッ!!」

 激昂と、怒声と、なにより恐るべき刃と共に、緋女(ヒメ)道化(シーファ)に飛びかかった。

 

 

     *

 

 

 ストックが完成したのは丁度その時。

 タイミングまで完璧。カジュはすぐさまストックをひとつ解き放つ。

 発動したのは《鉄砲風》。猛烈な突風が一直線に吹き付ける。狙いは正面のネズミ頭――ではない。緋女(ヒメ)の背中である。風が緋女(ヒメ)を加速し、同時に、その向こうにいるシーファの動きを鈍らせる。

 打ち合わせも何もない乱暴な即興の援護。だが緋女(ヒメ)なら体勢を崩したりしない。この風を利用して、最速以上の一撃を確実に叩き込める。

「うっ!?」

 これを見てネズミが一瞬たじろいだ。カジュがこのタイミングで援護を優先するとは、想像もしていなかったらしい。僅かな躊躇(ためら)いの後にネズミがストックを発動する。

 《瞬間移動》。ネズミはシーファの背後に出現。その背中に手を触れると、すぐさま二度目の《瞬間移動》で、道化と一緒に遥か後方に移動する。自分も仲間も守り切る完璧な防御策。

 だが、その動きはカジュの思惑通り。

「王手飛車取り。」

 ずどんっ!!

 シーファとネズミ頭の眼前に、巨大な《石の壁》が出現する。さらに《鉄砲風》。再び吹き荒れた突風が石の壁を突き崩し、無数の石礫(いしつぶて)となってふたりの頭上に降り注ぐ。

 カジュの読みはこうだ。ストック構成のバランスから考えて、《瞬間移動》は多くてふたつ。それを使い切らせた上で敵ふたりを同時に巻き込めば、仮に《光の盾》をひとつストックしてたにせよ助けられるのはどちらか片方。上手くすればふたりとも片付く。最悪でも敵の防御はほぼ打ち止めにできる。

 その時、焦り顔のネズミが次の術を発動した。途端、降り注ぐ石礫(いしつぶて)が、ぴたりと()()()()()()()()

「げっ。」

 カジュが思わず顔をしかめた。あれは《凍れる時》。一定範囲の時間を停めるという、大技中の大技だ。まさかあんな高度な術をストックに入れられるとは、ネズミ頭の技量も並大抵のものではない。

 だが、せっかくの強力な術を使い切らせた。大きなアドバンテージだ。

 石礫(いしつぶて)が停まった瞬間、シーファとネズミは素早くその下から抜けだした。道化は再び緋女(ヒメ)の方に向かい、凄まじい速度で肉薄して切り結ぶ。一方のネズミ頭は一直線にカジュとの距離を詰め、射程に捉えるや《鉄槌》を発動。

 一抱えほどもある鋼鉄の塊を生み出し、それを敵目がけて射撃する術である。直撃すれば竜すら仕留めかねない恐るべき質量兵器。これは攻撃力過剰というものだ。カジュがこんなものを喰らったら、一発で細切れの肉片になる。

 カジュはストックの中から、二つ目の《石の壁》を撃ちだした。敵と自分との丁度中間点あたりに壁が聳え立ち、鉄の砲弾を受け止める。だが、強度不足。壁はあっけなく突き崩される。

 ――ばーか! それじゃ自分がおいらの二の舞じゃなーいの!

 ネズミがほくそ笑む。崩れた壁が(つぶて)となってカジュに降り注いでいく。

 が、次の瞬間、壁の僅かに手前に、ほとんど重なるようにして、2枚目の《石の壁》が出現した。

「なっ……!?」

 ネズミが黒い玉のような目を見開いた。石礫(いしつぶて)が、そしてネズミ自身が放った鉄塊が、2枚目の壁に弾かれてネズミの方に勢いよく返ってくる。

 完全に予想外の防御――いや、攻撃。避ける? 雨あられと降ってくる石礫(いしつぶて)をか? いや、ひとつでも頭に当たればそれで終わりなのだ。最後に残った《光の盾》を使うしかない。

 ネズミは頭上に輝く盾を生み出し、石の雨を防ぎきる。

 これで互いにストック切れ。

 ここまでの展開は、全てカジュの狙い通りであった。

 最大5つの魔法ストックを、ネズミは《瞬間移動》2つ、《光の盾》《鉄槌》《凍れる刻》に使った。やや防御寄りだが、それでも攻撃と防御にバランスの良い構成だ。しかしこの構成を読み切ることは不可能だった。言動からして、ネズミ頭の性格は気まぐれでエキセントリック。その時の思いつきひとつで、攻撃的にも防御的にもなる可能性があった。

 だからカジュは自分のストックを極端な構成にした。《鉄砲風》ふたつに《石の壁》をみっつ、攻撃用の術はひとつもない。敵が攻撃一辺倒で来れば普通にこれを防御に使う。もし相手が防御重視ならば、これらを使い方の工夫で攻撃に利用する。

 その両面作戦で、ネズミが用意しておいた豊富な防御の術を全て使い切らせ――

 最後の最後まで主導権(イニシアティヴ)を握ったまま、「お互いストック切れ」の状態を生み出した。

 これこそがカジュの望んだ状況だったのだ。

 カジュは小さな体で一生懸命に走り、《石の壁》の死角から飛び出した。ネズミ頭の姿が視界に入る。彼はまだ《光の盾》で石礫(いしつぶて)を防いでいる最中だ。つまり――初動は確実にこちらが速い!

 走りながら呪文構築。呪文と魔法陣に杖の補助まで注ぎ込んで、全身全霊を込めた高速詠唱。瞬きする間に術は完成する。

「《光の矢》。」

 カジュの前に生み出された矢が、文字通りの光速でネズミめがけて飛んだ。

 敵に防御ストックはもはやない。そして後出しでは呪文詠唱が間に合うまい。

 ――勝った。

 カジュがほくそ笑んだ、その瞬間。

 目映く輝く《光の矢》が、一直線に貫いた。

 

 

 勝利を確信していたはずの、カジュを。

 

 

    *

 

 

「カジュ!!」

 ほとんど泣き叫ぶような悲鳴を挙げたのは、言うまでもなく緋女(ヒメ)だった。一体何が起きた? カジュは必殺の一撃を放ったはずだ。なのになぜカジュが倒れた? 疑問が緋女(ヒメ)の中で渦を巻き、同時に絶望と不安が心を埋め尽くす。

 その隙を突いて道化(シーファ)の一撃が迫る。慌てて緋女(ヒメ)は身を捻る。だが遅い。恐るべき鋭さで迫った剣先が、僅かに緋女(ヒメ)の右腕をかすめて過ぎた。ただそれだけで腕は骨近くまで抉られ、爆発のような出血と、猛烈な痛みが緋女(ヒメ)を襲った。

 だが痛がってはいられない。

 迷わず緋女(ヒメ)は左手に剣を持ち替え、シーファの心臓を抉らんと袈裟懸けの一撃。逆手では余りにも力不足。シーファはこともなく受け流す。だがそれで充分。緋女(ヒメ)は僅かに身を退き、体勢を立て直し、なおも果敢に攻め続ける。これ以上は退けない。

 退くわけにはいかない。

 今、ヴィッシュがカジュを助けに走ったところなのだ。

 ヴィッシュは倒れたカジュに駆けよりながら、抜きはなったナイフをネズミ頭めがけて投げつけた。後退しながらの《光の盾》が容易くそれを防ぐ。もとより、カジュの魔法で仕留められないものを、投げナイフ程度でどうにかなるとは思っていない。時間さえ稼げればそれでいい。

 カジュの前に跪き、ぐったりと力を無くした小さな軽い体を抱き上げ、同時に懐から小さな玉を取り出す。鎧の金具に導火線を(こす)りつけて着火、敵に目がけて投げつける。

 手製の煙幕弾である。小さな玉が破裂するなり、中から黄色い煙が吹き出してくる。煙は(またた)くまに広がって、道化とネズミ頭の視界を塞いだ。

「退くぞ、緋女(ヒメ)!」

 声。そして足音。

 道化は――シーファは、それを聞きながら、興味を無くしたように構えを解いた。剣を鞘に収め、ぼんやりと立ち尽くし、煙にじっと仮面を向けている。

「思いも()らなんだでのあろう? 自分達に(まさ)る遣い手が()ようとは」

 ヴィッシュ達が聞いているかどうかも定かではない。だが道化は語りかけた。煙に向かって。煙の向こうにいる緋女(ヒメ)に向かって。

(しか)し――()れが現実だ」

 しばらくして、煙は拡散し、薄れていった。当たり前の話だが、その向こうにヴィッシュたちの姿はない。その間、シーファはただぼうっとしていただけだ。何をするでもなく。何を考えるでもなく。

 ネズミ頭が、煙幕に咳き込みながら近寄ってくる。

「シーファちゃんシーファちゃん、追っかけてトドメ刺さなくてよかったのー?」

儂等(わしら)の仕事は殺戮(さつりく)(あら)ず」

「だーかーらーさー。本音はー?」

 シーファは肩をすくめ、ただ一言。

()いた」

 

 

     *

 

 

 せっかく目を開いたというのに、そこは全然知らない場所で、それどころか自分が何なのかもよく分からない。ただ天井が、白く連なって視界を覆っているのみだ。

「カジュ! カジュっ! 目ェ覚ましたぞ、おい!」

 賑やかな声、緋女(ヒメ)ちゃんの声。それから足音。誰かが体を触ってくる。やだなあ。えっち。

「ふうん。こりゃ運が良かったな、ぼうず。あと一寸(ちょっと)ズレとったら肺に穴があいとったとこだ」

「もう大丈夫なんですか、先生」

「意識が戻りゃなんとかなるわい。あとは薬で熱を下げてな……」

 カジュは頭を動かした。あ、みんないる。緋女(ヒメ)は涙目でこっちを見つめているし、ヴィッシュはいつもの不機嫌なしかめっ面をしている。なんか知らないおじいさんまでいるけど。ちょっと安心。

 緋女(ヒメ)が、カジュの細い腕にすがりついてきた。

「よかった……よかったよ、カジュ……」

「……おにのめにもなみだ。」

 顔をしかめる緋女(ヒメ)。笑顔になるヴィッシュ。

「こんにゃろォ」

「本領発揮だな。良かったじゃないか」

 ようやく意識がハッキリしてきた。と同時に、腹の辺りに凄まじい痛みが蘇ってくる。そうだった。《光の矢》で腹を貫通されたのだ。あれを生物にかけると、傷口は火傷のようになる。出血こそ少ないものの、たぶん内臓はズタズタにされているはず。まずはこれをなんとかしなければ。

「いちゃついてないでさ……。ボクの杖、とってよ……。」

「おい、何する気だ? 安静にしてなきゃ」

「いいから。」

 ヴィッシュは立てかけておいた杖を取ってきて、握らせてくれた。指先に力が入らないのを見ると、緋女(ヒメ)とヴィッシュがベッドの両側に立ち、杖を水平に支える。カジュは回らない舌でたどたどしく呪文を唱えた。杖から光が放たれる。光がカジュの全身を包む。しばらくして光が収まる。

 いきなり、カジュはがばっと起きあがった。

「ふっかーつ。」

「うお!?」

「なんとま」

 ヴィッシュと、知らないおじいさんが目を丸くしている。

「ま、意識が戻りゃ魔法でこんなもんだよ。」

「やだねえ、魔法、魔法か。おいぼうず」

「美少女術士カジュですが何か。」

「なんでもいいから、そんな技、おおっぴらにしねぇでくれや。わしの仕事がなくなっちまわ」

 ぼやきながら、おじいさんは病室を出ていった。

「誰、あれ。」

「モンド先生。名医だよ」

「なるほど。」

「お前が敵の術士にやられてな……その後、遺跡から逃げ出して、街に戻ってきたんだ」

「……そう。」

 そんなところだろうと思っていた。

 あの時、カジュは必殺のタイミングで、《光の矢》を放った。敵に魔法のストックは既にない。防御魔法を構築する時間もない。そのはずだった。

 カジュが敗れた理由はごく単純。敵の詠唱速度が異様に速かったのである。

 敵が《光の盾》の詠唱を始めたのは、カジュが既に《光の矢》の詠唱を半分以上終えた時点。そこからのスピード勝負で、術が完成したのは敵の方が先。おおざっぱに計算しても、倍以上の速度差があることになる。

 その後は、もはやカジュに勝ち目はなかった。無論、防がれるはずのない術を防がれたという驚きのせいもある。だがそれ以上に、ネズミ頭の反撃が発動するのが速かった。為す術もなく、カジュはただ一方的に腹を射抜かれた。

 あの速度はもはや人間業ではない。超速詠唱とでも呼ぼうか。

 ふーっ、と長く溜息を吐くと、カジュは大きく背伸びした。ふと見ると、緋女(ヒメ)の腕にも包帯が巻かれている。布で腕を吊って固定しているところから見ると、浅傷(あさで)というわけでもなさそうだ。

緋女(ヒメ)ちゃん、腕だして。」

「おう。頼むわ」

 万全の状態なら、この程度の怪我を治すのに杖の補助など必要ない。ベッドの上にあぐらを掻いて緋女(ヒメ)と向き合うと、カジュはその傷の周りに指で魔法陣を描き、軽く呪文を唱え、あっといまに傷を完治させてしまった。緋女(ヒメ)が包帯を解くと、もうその後には傷口一つ無い。

「あたしも復活! あんがと、カジュ」

「いーってことよ。」

 ヴィッシュは感心して溜息を吐く。

「モンド先生には、下手すると膿んで腕切断しなきゃならんかも、って言われてたんだぜ。全く便利なもんだな、魔法ってのは」

「魔法には魔法なりの制約もあるけどね。なんでもできるわけじゃないよ。」

 カジュは体をベッドに投げ出して、再び横になった。ぽふっ、と寝台が軽い音を立てる。

「誰にでも勝てるわけじゃないしさ――。」

 片腕を目の上にかぶせ、カジュはそれきり、動かなくなった。やがて小さく、いつも通りの棒読みで、声を挙げる。

「悪いけど、ちょっと出てってくれないかなあ。」

 なぜだかそれが、ヴィッシュたちの耳には悲痛に聞こえて――

 ふたりは何も言わずに出ていった。部屋に残されたのはひとりだけ。

 カジュは泣いた。

 

 

 

(つづく)

 



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第5話-05 反撃開始

 

 

 診療所から出ると、夜はもうとっぷりと暮れていた。見上げれば、大きく膨らんだ月が上天にかかり、嘲笑うようにこちらを見下ろしている。満月には数日足りないが、この不完全な青光ですら、ヴィッシュの目には(まぶ)しすぎる。

 秋風が吹き抜けた。並び立つヴィッシュと緋女(ヒメ)の隙間を、冷たく(へだ)てるように。

(ゆる)せねえ」

 緋女(ヒメ)がぽつりと呟いた。

「あの野郎……次は絶対に……」

「勝算はあるのか?」

「は?」

 ヴィッシュが冷めた調子で問うと、緋女(ヒメ)は露骨な怒りを込めて彼を(にら)んだ。喉笛を噛み切らんとする狼の牙にも似た視線。だがヴィッシュは動じない。まるでその場所ではないどこか遠くから、この光景を俯瞰(ふかん)しているかのように。

「シーファとかいう仮面女、お前より技量は上とみた」

「……だろうな」

「カジュも、ネズミ頭の術士には勝てなかった」

「そうだよ」

「もう一度戦って実力差が覆るわけでもないだろ」

「じゃどうしろってんだ!!」

 緋女(ヒメ)の拳が、ヴィッシュの胸ぐらを引っ掴む。

「このまま逃げてろってのか。ツレェやられて黙ってろってのか!

 ビビってんなら好きにしろよ。手前(てめえ)がやらなくても、あたしひとりでやってやらぁ!!」

 ヴィッシュを突き放し、緋女(ヒメ)は背中を向ける。

 その背中に満ちているのは、怒り。

 それ以上に――

「……コバヤシんとこに行ってくる」

 ヴィッシュはいつもの細葉巻を取り出すと、ナイフで先端を切り落とそうとして、気付く。そういえばナイフは投げてしまったのだった。切羽詰まって。反射的に。カジュを助ける時間を稼ぐために。

 これじゃあ、煙草を吸うこともできない。煙を吹かすこともできない。

 できないじゃないか。

 零れるのは、情けない溜息ばかり。

「お前はカジュについててやってくれ」

 驚くほど優しい声で言い残すと、ヴィッシュは背中を丸め、闇の中に消えていった。

 

 

     *

 

 

「敵の狙いが分かりましたよ」

 後始末人協会の支部は、こんな時刻でも動いていた。無理もあるまい。後始末人が3人死亡、2人負傷。これがたった1日の間に起きたのだ。第2ベンズバレン支部が開設されて以来の非常事態とさえ言える。

 ヴィッシュは駆け回る人々――協会の事務組――の合間を縫って、奥の小部屋に入った。しばらくしてコバヤシがやってきて、喋り始めた。だがヴィッシュは、ぼうっと壁を見たまま、座っているだけだ。

「あの遺跡、空を飛ぶ巨大な都市か何かのようだった、ということですが……古伝承の中に符合する物がありました。古代帝国の初期、このあたりには“ルルフォン”という名の空中都市が栄えていたそうです。それがある時、事故によって墜落し――」

 コバヤシは頭を掻く。

「聞いてます?」

「ああ」

「じゃ、いいですけどね。ともかく、敵の狙いはその都市のエネルギー源であった魔力結晶ではないかと思われます。そこらの呪具屋で売ってるホタル石を、何億倍も凄くしたようなものだと考えてください。

 それを都市のシステムから切り離すのにかかる時間は、少なく見積もって……3日。もう既に1日は経過してますから、最短で明後日には敵が目的を達成します」

「そうなれば、何が起きる?」

「なんでもかんでも。モノは莫大なエネルギー源です。使いよう次第で何が起きてもおかしくありませんよ。

 街ひとつ滅ぼすか。恐るべき魔導兵器を創り出すか。魔王の復活、なんて荒技だって可能かも」

 しばらくヴィッシュは沈黙し、やがて姿勢を直した。じっとコバヤシの目を見る。迷い、悩み、考えた末に、唇を動かす。

「はっきり言おう」

「なんでしょう」

「軍隊を動員しても無駄だ。ある程度以上の実力者でなければ、出会い頭に殺されて終わる」

「でしょうね」

「もしやる気なら、少数精鋭のチームを作り、奴らの不意を打つ。それ以外にない」

「ええ。いちいち私も同じ意見ですよ。

 私からも、はっきり申し上げてよろしいですか?」

「なんだ」

「あと2日以内に準備できる少数精鋭なんて、あなたがた以外にいやしませんよ」

 ヴィッシュは完全に言葉を失った。

 大きく息を吸い、吐く。懐から細葉巻(シガリロ)を取り出す。救いを求めるような目でコバヤシを見て、

「灰皿とナイフ、貸してくれないかな」

「禁煙です」

「そうだっけ?」

「ですよ」

 名残(なごり)惜しげに、葉巻は懐にしまわれた。ヴィッシュは考える。考える。苦しい理屈とは知りつつ、それでも言い訳じみた言葉が溢れ出る。

「他の後始末人たちは?」

「敵にやられたサッフィーとエリクスは、うちでも指折りの実力者でした――ご存知でしょう? 彼らより上となると、緋女(ヒメ)さんとカジュさんくらいのものです」

「首都の支部。《遠話》で連絡して、2日なら継ぎ馬でギリギリ間に合うだろう」

「ひとりすばらしい腕前の達人がいますが……運悪く彼は隣国(ハンザ)に出張中です」

「軍に誰かいないのか?」

「今、あなたが無駄だって言ったばかりでしょう? そもそもこの街はろくな軍備をしてないんですよ」

 コバヤシはさらに、指折り数えながら付け加える。

「あ、ちなみに、市井の道場やら、商人や貴族の私兵やら、果てはそこらでくだ巻いてる自称達人の類にまで既に当たっています。ぜんぜん使えそうなのはいませんけどね」

 分かっていたことだ。

 自分で挙げた選択肢はもとより、コバヤシが付け足したダメ元の心当たりも、全て検討済みであった。おそらく他に人材は見つからないだろうとも思っていた。冷静に状況を分析すれば、自分たちでやるしかないという結論に達することは、とうの昔に分かっていたのだ。

「……少し考えさせてくれ」

 ヴィッシュは立ち上がった。苦しみに潰されそうになりながら。

 

 

     *

 

 

 自分でも、どこをどう歩いたのか分からない。

 なのに足は、勝手に我が家を目指していたようだった。気が付くとヴィッシュは、自宅の目の前にいて、ぼんやりと壁を見上げていた。

 窓から柔らかな光が漏れている。屋根裏部屋と、1階の居間とに。

 ちょうどその時、居間の灯りが消えて、緋女(ヒメ)が外に出てきた。入口の手前でふたりはばったり顔を合わせる。驚いて、しかしなんだか気まずくて、どちらからともなく、ふたりは互いに顔を逸らす。

「帰ってたのか」

「うん。モンド先生がさ。治ったんならとっとと出てけ、ってさ」

「そうか……」

 そのまま、緋女(ヒメ)は通りに出て、どこかへ行ってしまった。その背を見送りながら、ヴィッシュは――何も声をかけられなかった。どこへ行くんだ、とも聞けなかった。

 聞いた方が良いのは確かだった。仲間なら、この状況で、お互いの位置を把握しておくのは当然のことだった。仲間なら。

 もしも、()()なら。

 ――俺に、仲間を持つ資格なんてあるんだろうか。

 

 

     *

 

 

 ヴィッシュは足音を殺して階段を上った。自分の家でどうしてこそこそしなければならないのか、自分でも分からない。だが今の彼には、この場所にいることすら罪悪と思えていたのだ。

 カジュはきっと、灯りのついていた屋根裏にいるのだろう。

 そっと梯子(はしご)を上り、頭だけを突き出して、ヴィッシュは屋根裏部屋の様子をうかがった。

 そこではカジュが、小さな蝋燭(ろうそく)の光を頼りに、木箱を机代わりにして、紙に何か熱心に書き付けていた。ペン先が紙を削る音が、ガリガリとせわしなくき渡る。時折横手に積んだ本を取り上げ、乱暴に(めく)る。望みのページを探し当てると、無言で視線を()わせ、すぐにまたペンを走らせる。繰り返し。繰り返し。その繰り返し。

 ヴィッシュは(まばた)きひとつできなかった。

 カジュの背中が震えている。

 泣いているのだと気付くのには、少し時間がかかった。

 怒濤のように、インクが、ペンが、紙を走る。魔法陣のアイディアが、メモ書きが、見る間に紙面を埋めていく。時折拳で涙を拭い、突き上げる嗚咽を必死に堪え、それでも零れ落ちる涙がインクを黒く(にじ)ませる。

 だがそれがどうしたというのだ。

 涙に濡れて読めなくなった分を、埋め合わせてなお余りあるほどの文字が、次から次へと書き下ろされる。涙が落ちるのは仕方がない。悔しさに胸が張り裂けるのはどうしようもない。なら、それら全部を消し炭にするほど、心に火を灯せばいい。

 勢いよく振り下ろしたペンの刻む一文字一文字が、まるで黒く灼け付くかのよう。

 ヴィッシュはとうとう、何も言えずに立ち去った。

 

 

     *

 

 

 夜の通りにただひとり。

 いたたまれなくて、家を飛び出して、逃げるように夜を走って。

 ついにヴィッシュはたまらなくなって、力尽きたように立ち止まると、拳を壁に叩きつけた。

 ――馬鹿野郎。

   俺はなんて馬鹿なんだ。あの時一体、何を考えていた?

   退くべきだが、それじゃ金にならない――だと?

 今になって自分の愚かさが悔やまれた。安全を重視するなら入口の時点で退却だった。攻める覚悟で行くなら出会い頭の奇襲狙いが当然だった。

 ところがどうだ。実入りがどうとか、今後の仕事に影響がどうとか、そんな理屈で誤魔化して、怯えていることも人の顔色ばかり見てることも覆い隠して、退きもせず、といって最速で攻めもせず、半端な覚悟と速度で戦場に()()を踏み込ませた。

 その結果がこれだ。

 ――俺に仲間を持つ資格なんかあるんだろうか。

 再び、呪いのような問いかけが頭をもたげ、

 ――あるわけねえだろ! 馬鹿野郎が!!

 ヴィッシュの心に火を付けた。

 ヴィッシュは走りだした。

 お前には行くべきところがある。胸の中の、失くしかけていた重たいものが、彼にそう告げていた。

 

 

     *

 

 

 夜の水路は、潮の匂いのする水を黒々と湛え、月と緋女(ヒメ)とを映していた。なにやら無性に腹が立って、緋女(ヒメ)は靴を脱ぎ、水路縁に座り込んで、投げ出した素足の(かかと)で水面を蹴っ飛ばした。

 蹴るたび黒い鏡は揺らめいて、緋女(ヒメ)も、月も、ぐにゅぐにゅに歪む。自分の知らない何かみたいに。

 ふと不安になる。あまりに水が波打って、自分の顔も、明るい空の月も見えなくなって。ホントはもう、みんないなくなったんじゃないかと思って。慌てて足を止める。足の裏で少しでも波紋を鎮めようと抑える。くすぐったくて、親指が思わず動いて、また余計な波を起こして。それでも精一杯我慢して、落ち着いてきた水面を恐る恐る覗き込む。

 心に安堵が広がっていく。自分もいる。月もいる。

 ついでに、どっかで見たような男もいる。

 ヴィッシュは街中駆け回ってでもいたのだろうか、ぜいぜいと肩で息をしていた。

「……なんだよ」

 水面に映った彼の顔だけをじっと見つめて、緋女(ヒメ)はぶっきらぼうに言う。

 ヴィッシュは大きく深呼吸して、息を落ち着けると、ぼそっと訊ねた。

「隣、いいか」

「いいよ」

 彼は緋女(ヒメ)の隣にあぐらを掻いた。ちゃぷり、と緋女(ヒメ)(かかと)が水を蹴った。

「コバヤシに次の依頼をされたよ。奴らを止めろ、とさ」

「良かったじゃんか。これで金も入るってもんだ」

「返事を保留にしてきた」

 どぼん。

 足首から下が丸ごと水面を叩く音。

「なんでお前はそうなんだよっ! なんでもかんでも、安全第一、慎重に、てか!」

「昔な」

 その声は、驚くほど静かで。

「俺、シュヴェーアの軍にいたんだ」

 まるで知らない誰かのようで。

 緋女(ヒメ)はぞっとして、彼の横顔を見やった。

「シュヴェーア? 海の向こうの?」

「でかい国さ。故郷の村を出て、兵隊になって。けっこう順調に出世していったんだ。20歳になる前には騎士(リッター)にもなって……平民上がりがだぜ?」

 子供みたいだ、と緋女(ヒメ)は思った。上機嫌で、自慢げで、無邪気で。なのに一転して彼の顔が暗くなる。緋女(ヒメ)もつられて。

「その頃だ。いきなり、魔王軍の侵攻が始まった。

 シュヴェーアは真っ先に滅ぼされた国のひとつだ。常識外れの攻撃をしてくる魔獣の軍勢に、一晩で首都が陥落し……地方に詰めてた兵力はずたずたに分断され、あとはもう、各個撃破されるのを待つばかりだった。

 そんな状況でも、俺たちの部隊は善戦できていた。どんな恐ろしい魔獣でも一定の攻撃パターンがある。それを読んで対策を練れば勝てる、ってことに気づいたのさ。俺は自分の部隊を率いて連戦連勝し、地元ではちょっとした英雄に祭り上げられた」

 彼は笑っている。だが――

「勇者になったつもりだったんだ」

 おそらく、(わら)っているのだ。

「ある時俺たちは、(ヴルム)を討伐するために出撃した。だがそれは魔王軍の罠だった。偽情報で俺たちを誘い出したんだ。俺たちは……俺は、まんまとそれに踊らされ――」

 そう。彼は、(わら)ってきたのだ。

「生きて帰ったのは、俺一人だった」

 ずっと――ずっと――

「それ以来、仲間と呼べる奴を持ったことはない。

 ……お前たち以外には」

 いつの間にか、緋女(ヒメ)は膝を抱き、背中を丸めて話を聞いていた。水面の波は不思議と収まって、並んで座るふたりの姿と、その間で目映く輝く月だけを映している。まるで、世界は全部それだけだ、というかのように。

 そしてきっと、それは、そのとおりで。

「わかった」

「そうか」

「わかんねえ」

「どっちだよ」

「わかんねえことがわかった」

 緋女(ヒメ)は立ち上がった。こうしてみると、ヴィッシュの姿はなんとも小さく、弱々しい。あれほど背の高い立派な男が。魔獣たちを相手にいつも奮戦している彼が。今はただ、寂しげに背中を丸めた情けない敗北者でしかない。

「そりゃ、辛かったんだろ。苦しかったんだろ。痛かったんだろ。10年ずっとさ。

 でも……だからって……ここでビビってグダグダしてて、それが何になるってんだよ」

「そうさ」

 彼は真っ直ぐな目でこちらを見つめ、深く頷いた。

「その通りだ」

 ヴィッシュは立ち上がる。どうして? さっき小さく見えたばかりの彼が、今や緋女(ヒメ)を見下ろしている。緋女(ヒメ)は負けじと見つめ返した。首をもたげて。背を弓のように逸らせて。見慣れたはずの彼の顔が、なぜだか今日はどきりとするほど高くにある。

 緋女(ヒメ)にはただ、囁くように言うしかなかった。

「悔しくねえのかよ。あいつは、お前を、ゴミクズとしか思ってねえんだ」

「分かってる。だから俺にも勝ち目があるんだ」

「え……」

「策はある。まあ見てな。

 だが、俺ひとりじゃ無理なんだ」

 月が見守るその下で、

「力を貸してくれ」

 望みが(いざな)い、火が(いら)える。

「俺にはお前が必要だ」

 確かにヴィッシュはそう言った。

 突然のことで、意味を脳が理解するのに少々の時間を要した。少なくとも緋女(ヒメ)は要したような気になった。体が奥の方から加熱されて、全身燃えるように熱くなってくるのが分かった。今どんな顔してるんだろ。たぶん滅茶苦茶だ。バカみたいな顔してるんだ。

 緋女(ヒメ)は視線を逸らしたくて、仕方なくて、でも、これだけは真っ正面から言わなきゃと思って、長い長い、躊躇いと、恐れと、期待と希望と覚悟と、全部言葉で、言葉にして、吐き出した。

「お。おう……」

 考えすぎて、ついに耳から煙が出た。

「……ふつつかものですが、よろしく」

「ん?」

 ヴィッシュが首を傾げる。もうだめだ。限界だ。目を逸らす。そっぽを向く。その場に立っているのも嫌になって、緋女(ヒメ)は大股開きに歩いていく。

「なあ、いいってことか?」

「……んぅー」

「大丈夫か? 頭から煙吹いてんぞ」

「ぅるせー! やるぞーっ!!」

 ヴィッシュはその背中をみて苦笑した。脱ぎ捨てられた靴を拾い、緋女(ヒメ)の後を追っていく。

 月は相変わらず頭上に輝いていたが、ヴィッシュはそんなこと、気づきもしなかった。

 

 

     *

 

 

 そして、2日が矢のように過ぎ去った。

牡蠣(カキ)()いて考えてみるが()い」

 その日、遺跡の遥か奥、中枢の闇の中で、シーファは立てかけた2本の剣に向かって、()()()語りかけていた。彼女が腰を下ろす折れた柱の周囲には、携帯食料の包み紙がむっつばかり転がっている。

 彼女の姿が青白い光に照らされた。部屋の中心を支えるひときわ大きな柱が、今や不気味な光を放ち始めていたのだ。ネズミ頭による切り離し作業が、佳境にさしかかった証拠であろう。

奴儕(やつばら)は実に()()える――1年(ごと)に3割増しに()る。(わし)()れが心配なのだ」

 シーファの言葉は噛んで含めるようで、いかに生徒が鉄の塊であろうとも、きっと理解できるに違いないほどだった。事実、剣たちは講義を物も言わず熱心に聞いている。ネズミ頭は、手元の作業を忙しく進めながら(わら)っている。

「仮に、最初に牡蠣(カキ)の貼り付いている海底面積を、1平方(メートル)としよう。年に3割ずつ()えると仮定すれば、75年後には(およ)そ3億5135万9275平方(メートル)()る。海底全てが牡蠣(カキ)で埋まって仕舞(しま)うのだ。心配であろう? (わし)()れが心配だ」

「ヒョー。こえーっす」

 ネズミ頭が震え上がった。と、シーファが唐突に立つ。

「何か来た」

「アルェー? また敵ー? あ、協会の本腰かなー」

 シーファは答えもしない。というより、聞こえてもいない。さっきまで生徒扱いだったふた振りの剣を、いそいそと腰に差し、足早に中枢を出ていく。ネズミ頭は髭をひくつかせた。

 まあ、いい。頭おかしかろうが、なんだろうが。仕事さえしてくれれば。

「しっかり足止めしといてよネー。ぼくちん手一杯だからサ」

 と、投げやりに言って、ネズミ頭は楽しい楽しい作業の仕上げに取りかかった。

 

 

     *

 

 

 一方その頃、遺跡が埋まった丘の上に、円陣を組む一団があった。法衣姿の術士が12名。コバヤシが各方面から集めてくれた、サポート要員の術士達である。彼らは直接戦闘に参加するわけではない。仮に参加しても、一瞬で殺されるのがオチだ。

 だがそれでも、本命を送り込むための道を切り開くことならできる。

 彼らは大きな魔法陣の周囲を取り囲み、それぞれに呪文詠唱に集中している。幾つもの異なる呪文が重なって、まるでそれはひとつの音楽のよう。彼らの間をカジュはパタパタと駆け回った。ぶかぶかの猫耳ローブを半ば引きずり、お気に入りの長杖を両手で抱え、あっちへ行っては空を見上げ、こっちへ行っては何事か呟き。

「ほい。測量おわり。」

 てててっ、とカジュは魔法陣の中央に駆けていった。そこで精一杯の大声を張り上げる。まあ、それでも、術士たちに聞こえるかどうか、ぎりぎりの大きさではあったが。

「この位置から俯角1.0000対7.4021×10の3乗、誤差1ケタ以内の気合いでいっちゃってくださーい。タイミングはボクが『せーの。』ってゆったら、『せーの。どん。』て感じで。」

 術士たちは神妙に頷いた。中には、その凄まじい要求精度に、冷や汗を浮かべている者もいる。初めはみな、幼いカジュを見て馬鹿にしていた。子供の手伝いなどという仕事に反感を持つ者もいた。

 だが、彼女の惚れ惚れするような手際、恐るべき知識量、追随を許さない計算速度、何より類い希な集中力を見て、今や、カジュを侮る者はこの場にひとりもいない。

 天才だ。

 本物の天才がここにいる。

「さあて。」

 天才が、にやりと悪戯に笑って、

「反撃開始だぜ。」

 

 

 

(つづく)

 



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第5話-06 決戦(前編)

 

 

 再びここに戻ってきた。

 2日前、為す術もなく敗北した、遺跡の奥のドーム。広大なその空間の中央で、ヴィッシュと緋女(ヒメ)は待っている。敵はあれほどの実力者だ。もうとっくに、こちらが侵入したことは掴んでいるだろう。人数が前回より少ないことに気付けば、そしてヴィッシュたちを侮ってくれれば、おそらく迎撃に出てくるのは――

 張り詰めた静寂の糸を、断ち斬るように靴音が響いた。

 中枢へ繋がる通路の奥に、ぼんやりと浮かび上がる白い影。狂気の笑顔を貼り付けたまま、ぴくりとも動かない道化の仮面。

 靴音がひとつ、ゆっくりと重なるごとに。その仮面がひと回り大きさを増すごとに、心臓まで凍て付く冷風がふたりを押し潰さんと迫ってくるかのよう。

「来たか。緋女(ヒメ)

 氷の声。

 ――シーファ。

 

 

     *

 

 

「分断完了。続きましてー。」

 カジュは大きく杖を振り上げた。

「せーのっ。」

『《暗き隧道》!』

 どんっ!!

 魔法陣のあった場所に、巨大な縦穴が口を開く。一定範囲の土を消し去り、トンネルを造る魔法である。本来なら人ひとりがようやく這って通る程度の穴しか空けられない、その長さも知れたものだが、12人の術士が共同すれば、丘の頂上から遺跡の中枢まで一直線に繋ぐくらいはできる。

 魔法陣の上に立っていたカジュは、ぽっかりと開いた穴にそのまま飲みこまれた。

「行ってきまーす。」

 カジュはまっすぐに落下した。心配そうに覗き込む術士たちの顔が、頭上の光が、見る見る遠ざかる。だがそんなこと気にも留めない。空中でくるりと反転し、頭を下にして落ちていきながら呪文を唱える。その落ち着き払った歌声は、荘厳なる聖頌歌めいてすらいた。

 相も変わらぬ半開きの目に、しかし凛とした光を湛えて。

 吹けば飛びそうな小さな体に、しかし折れることなき自信を抱いて。

 カジュは術を発動した。

「《風の翼》。」

 彼女の背中に陽炎のような翼が現れた。身をひるがえし、翼を羽ばたかせ、穴の底にふわりと舞い降りる。白き衣に身を包んだその姿は、まるで伝承にある天使のよう。

 カジュは長杖の先端を、まっすぐ敵に突きつけた。

「おひさ。」

 敵は――ネズミ頭は、突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に目を丸くしながら、しかし反射的に立ち上がった。一瞬で事態を把握し、ケラケラと、例の(かん)(さわ)る笑い声を挙げる。

「わーお! ぼくちゃんびっくりー! まぁーたキミかよ、邪魔してくれちゃってさー」

 ネズミの顔が醜悪に歪む。苛立ちと嘲りと、この世の悪意の全てを込めて。

「雑魚は死んだ方がいい。生きてる価値ねーんだよ」

 カジュは軽く鼻で笑って、

「あ、そ。」

 

 

     *

 

 

 シーファとヴィッシュたちは、数mの距離を置いて対峙した。まだまだ遥か間合いの外――そのはずなのに、なぜかヴィッシュは身動きひとつ取れない。下手な動きを見せた瞬間、斬られる。その光景が目に浮かぶかのようだ。

 ――だが、今度は呑まれてなるものか。

 ヴィッシュの決意を体現すべく、緋女(ヒメ)が一歩進み出た。

「よう。待たせたな」

 道化は深く頷いた。

「退屈だった」

「いいじゃねーか。我慢した分まで、たっぷりと――」

 緋女(ヒメ)の額には脂汗が浮いていた。緊張を隠すことはとてもできない。目の前にいるこの女は、緋女(ヒメ)の人生で最強の敵だ。生きるか死ぬか分からない、そんな戦いに身を置くのは一体何年ぶりだろう。

 だが、これこそが真剣勝負。

 緋女(ヒメ)が、不敵な笑みを浮かべる。

「愉しもうぜ、シーファ」

()(かな)

 三者が三様に、剣を抜いた。

 やがて、彼らから心が消えた。

 思考は果てしない空虚に飲まれ、あらゆる音もまた遠ざかっていった。残るのはただ、積雪の朝を思わせる澄み切った静謐(せいひつ)のみ。

 しん、と。

 沈黙が、3人の肩に降り積もる。

 刹那、

 弾ける!

 先手を取ったのは緋女(ヒメ)。地を蹴り駆け寄りその勢いのままに斬りつける。岩を砕き鉄を(ひし)ぐ必殺の一撃は、しかしシーファの剣にやすやすと受け流された。だがこれは想定内。この渾身の一太刀ですら挨拶代わりだ。

「オォラァ!!」

 裂帛の気合と共に緋女(ヒメ)の剣が唸りを上げた。目にも止まらぬ剣速で、右から左から四方八方から嵐のごとく繰り出される刃。(ヴルム)程度ならこの時点で細切れになっている――

 が。

 シーファを前にしてはそよ風にも等しい。

 道化の剣が走り、唸り、緋女(ヒメ)の猛攻をことごとく(さば)いていく。一瞬の間に為された17発の打ち込み全てを軽々とかわし切り――次の瞬間。

 道化の姿が、闇色に融けた。

 緋女(ヒメ)の目ですら追えぬ速度。あまりの速さに()()()()()()()()としか捉えられぬその動きで、シーファは緋女(ヒメ)の懐に踏み込んだ。絶え間なく攻めていたはずの彼女を一挙に死地にまで追い込んで、つまらなそうに囁く一言。

「――(ぬる)い」

 途端、シーファの放つ数十の斬撃が、()()()()()()()押し寄せる!

 凄まじい剣速は、まるで剣が幾十に分裂したかに見えるほど。緋女(ヒメ)咄嗟(とっさ)に犬に変身、辛うじて斬撃の隙間を潜り抜け、すぐさま人に戻って反撃を繰り出す。

 だが、不安定な体勢から仕掛けた苦し紛れの一撃、そんなものがシーファに通じるわけもない。

(ぬる)いわ!」

 鉄火闇を切り裂いて、剣戟の響き耳を(つんざ)く。

 初めて見せた激情と共に叩き込まれたシーファの剣が、すんでのところで緋女(ヒメ)の太刀とかち合ったのだ。だがその恐るべき衝撃を受け止めきれず、緋女(ヒメ)はそのまま後ろに跳ね飛ばされた。

 緋女(ヒメ)は空中で身を捻り、地面に手を突き反転し、足を滑らせながらも着地する。

 その肩が大きく上下する。彼女の息は苦しげに乱れていた。僅か数秒の間の攻防。しかしお互いに放った打ち込みの数は百に届くほど。これまでに経験したことのない密度の闘いが、緋女(ヒメ)(したた)かに疲弊させていた。

 だが――疲れがどうでもよくなるほどに、悔しい。

「てめェ! 本気出してねェだろ!」

 緋女(ヒメ)の雄叫びに、道化の面は歪んだ笑みを張り付けたまま答える。

「その価値が有らん()?」

 氷のように冷たい声だった。緋女(ヒメ)の腕の筋肉がにわかに膨れ上がり、音を立てて太刀の柄を握り絞る。彼女の胸が煮え(たぎ)っていく。怒り、であろうか? それとも憎悪?

 どちらも違う。これは奮起だ。

 これでは()()()()()()()()()

 ヴィッシュは緋女(ヒメ)()()()()()()。それを、

 ――こんなザマで終われるかァ!!

 咆哮とともに緋女(ヒメ)が走った。一息に肉薄。全力込めた斬撃を有無を言わせず叩き込む。

 シーファの剣が閃いて再び緋女(ヒメ)を弾き返す――

 が。

 地を踏み割るがごとくに踏み留まって、緋女(ヒメ)が怒りに牙を剥いた!

 肉食獣そのものの動きで彼女が繰り出したのは()()()()慮外(りょがい)の攻めにシーファの判断が一瞬遅れる。上体を仰け反らせて避けはしたものの、その足元に今度は鋭く足払いが迫る。

「む」

 小さく声を上げながら、シーファは跳んで回避した。そのまま空中から緋女(ヒメ)の脳天めがけて大上段から斬り下ろす。しかし踏み込む足場もなく腕だけで放った斬撃――これは弱い。

 緋女(ヒメ)の剣が爆ぜた。下から伸び上がりながらの薙ぎ払い。全身の筋力を残らず注ぎ込んだ正真正銘全力の一撃が、シーファの身体をその剣ごとに弾き飛ばす。

 飛ばされたシーファは膝立ちに着地した。()()()()()のだ――あの怪物(シーファ)が。

 千載一遇のこの好機を、緋女(ヒメ)が見逃すわけがない。

 風よりも速く駆けより斬りつけ、膝立ちのシーファと縦横に切り結ぶ。互いの刃が火花を散らし、その剣閃がひとつに溶け合い、太陽めいて闇を切り裂く。緋女(ヒメ)の放つ全てが会心の一撃。それを確実に受け流すシーファの技もまた神域のそれ。

 達人の域を超えた者同士の、力と力、技と技の真っ向勝負。

 制したのは――

 やはり、シーファ。

 シーファは無数の打ち込みを的確に(さば)きつつ、膝立ちから徐々に押し返し、立ち上がり、ついには逆に緋女(ヒメ)を押し返し始めた。これぞ文字通り()()的強さ。緋女(ヒメ)が奥歯を噛み締め踏ん張る――シーファは道化の笑みでじわりと攻め寄る。

(たの)しや!」

 そのとき、ついにシーファの剣が緋女(ヒメ)の太刀を弾き飛ばした。

 一瞬、ほんの一瞬、緋女(ヒメ)の脇ががら空きになる。声もなく音もなく、シーファの狂刃がそこに迫る。

 ――死ぬ!

 と、緋女(ヒメ)は閃光のごとく確信し――

 ()()()()()()()()()

 背後。

 完全にシーファの意識の外にあった死角から。

 ()()()()()の剣が突如襲った!

「!」

 声にならぬ驚きの声とともに、シーファが反射的に振り返った。

 蛇のように素早い一撃。タイミングも完璧、踏み込みも充分、まさにヴィッシュの全身全霊を込めた一太刀である。たとえシーファと言えど喰らえば死ぬ。緋女(ヒメ)との闘いに全力を注いでいたこの一瞬に限っては。

 これこそがヴィッシュの策だった。彼の実力は緋女(ヒメ)に遠く及ばない。ゆえにシーファは完全にヴィッシュを侮っている。どころか()()()()()()()()()()。それが狙い目となったのだ。

 緋女(ヒメ)の役目は陽動だった。彼女の技量をもってシーファの全力を引き出し、敵の目を惹き付けるのが仕事だったのだ。これによってヴィッシュの存在はますますシーファの意識の外に弾き出される。最終的には目の前の緋女(ヒメ)しか見えなくなるほど視野狭窄に陥るだろう。

 その一瞬にヴィッシュが斬り込む。たとえ超人的な剣達者といえど、これなら不意を衝けるはず。

 だが、シーファは恐るべき反応速度で異変に対処した。すなわち緋女(ヒメ)への打ち込みを中断、横手に転がりヴィッシュの剣を避けた。ヴィッシュの策は、いともたやすく無に帰した――

 しかし、このままで終わらせる緋女(ヒメ)ではない。

 こうまで燃えた緋女(ヒメ)の眼前で、こんな醜態を晒した――それがシーファの命取り。

 転がったシーファが体勢を立て直そうとするまさにその瞬間を狙い、緋女(ヒメ)最速の突きが繰り出された。

「く!」

 シーファが大きく後ろに跳んで離脱する。だが避け切れない。緋女(ヒメ)の刃が、その切っ先が、ついにシーファを捉えた。道化の仮面に食い込む刃、横一文字に走る亀裂。その衝撃でシーファの身体は放たれた矢のように弧を描いて弾け飛び、転がりながら倒れ伏す。

 すぐさま緋女(ヒメ)が止めを刺さんと走る――が、その足がピタリと止まった。

 シーファが起き上がる。

 彼女から放たれる気配が、変わった。

 ゆっくりと、陽炎のごとく揺らめきながら立ち上がり、シーファがそっと、仮面のひび割れに指を()わせる。まるでその傷を愛おしむかのようにだ。深い亀裂は偶然にも道化の仮面の口を広げ、笑みを大きくしたかに見えた。

 その口の端から、つうと一筋血が流れた。それと同時にシーファの含み笑いが聞こえ始めた。

嗚呼(ああ)(たの)しや」

 シーファがぽつりと漏らした言葉は、飾り一つない本音に思えた。

 緋女(ヒメ)とヴィッシュは並び立ち、狂気の湧き上がるさまをただ見つめていた。緊張の汗は引くどころか、なお勢いを増して溢れ出し、身体を不快に濡らしていく。ふたりは、全く同様にこう悟っていた。

 ――本番は、これからだ。

 

 

 

(つづく)

 



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第5話-07(終) 決戦(後編)

 

 

 《電撃の槍》が空間をひずませ、《鉄槌》がそれを受け止める。

 絶え間ない攻防のさなか、ネズミ頭が(ひげ)をひくつかせる。カジュは眉ひとつ動かさない。荒れ狂う魔術の嵐に壊され、砕かれ、弾けて飛ぶのは遺跡の柱と壁面ばかり。見る影もなく無惨に焼け焦げた床と跡形もなく消し飛んだ柱の残骸とを挟み、ふたりは一歩も動かず(にら)み合う。

 今のでお互いストックは切れた。

 つまり、本番はここから。

 ――唱えるがいいさ。なんだろうが。

 ネズミ頭は邪悪に笑う。ストック切れの隙を狙ってカジュが攻撃してくるのは目に見えている。だがネズミ男には超速詠唱という絶対的優位がある。相手の呪文詠唱を聞き、その狙いを把握してから返し技の詠唱を初めても、充分に間に合うだけの速さがある。

 果たしてカジュの詠唱が始まった。身振り。杖の補助。魔法陣と呪文。彼女なりに全てを注ぎ込んだ最速の呪文構築。もう分かった。《光の矢》だ。

 防御は《光の盾》で事足りる。これで矢を防ぎ、すぐさまこちらも《光の矢》で返せば、これに対抗できる者など居るはずもない。

 ――がっかりだぁ! 前と同じパターン!

 勝利を確信したネズミ頭の、《光の盾》が完成した。あとはいつでも、カジュが魔法を発動したのを見て防御するのみ。

 一瞬遅れて、カジュの呪文も完成し――

 

 

     *

 

 

 と。

 不意に、シーファが(はし)った。

 速い! 悪寒を覚える(いとま)さえ与えぬその動きに、ヴィッシュは反射的に身構える。だが彼の目前で、闇色の道化師は何の前触れもなく進路を変えた。その矛先は――

 ――緋女(ヒメ)

 ヴィッシュは一瞬で敵の意図を悟った。複雑化させて(けむ)に巻いてはいるものの、ヴィッシュの技量は大きく劣る。そんな相手を抑え込むには一瞬の牽制だけで充分――シーファはそう看破したのだ。

 ヴィッシュの援護に向かおうと動きかけていた機先を制され、緋女(ヒメ)の脳裏に動揺が走った。慌てて敵の剣を受け止めるも、あの怪物(シーファ)が放つなりふり構わぬ全力の強打である、受けきれようはずもない。

 緋女(ヒメ)は軽く蹌踉(よろ)めきながら後退し、すぐさま体勢を立て直そうとする。シーファは追う。懐に飛び込まんと足を踏み出す。

 その危機を救ったのは、ヴィッシュ。彼がとっさに放った煙幕弾が、シーファと緋女(ヒメ)の間に落ちて、勢いよく黄色い煙を吹き出した。

 視界が煙に覆われる。シーファの苛立った舌打ちが聞こえる。

(くだ)らぬ」

 この程度で止められる訳がない。それはヴィッシュたちだって百も承知。音か、気配か、何を用いてかは知らないが、視力抜きに至近距離の敵を(とら)える程度わけはあるまい。僅かな時間稼ぎにしかならないことは分かっている。

 しかし――

 濁り渦巻く空気の向こうで、シーファの気配が動いた。

 白煙断ち割り、道化の仮面が迫り来る。闇そのものを引き連れて、狂気じみた殺気を撒き散らして、氷のごとく冴えた刃が襲いかかる。この間合い、この剣速、この太刀筋、避けるすべは――ない!

「終われ」

 そして。

 必殺の突きが、ついに相手の腹を刺し貫いた。

「がッ……」

 響く悲鳴。

 噴き出す鮮血。

 道化の仮面に走る――戸惑(とまど)い。

 ――違う。

 シーファの剣に貫かれていたのは、緋女(ヒメ)の腹ではなかった。

 ()()()()()

 激痛を堪え、涙を食い止め、ヴィッシュはニヤリと笑みを浮かべた。

「……だから見てろって言ったろう?」

 瞬間、狂気の道化師シーファは悟った。全てはこの時のために積み重ねた布石。戦いは初めからこの男の策の中にあったのだ。自らに向けられた侮りを利用して身を隠し。味方の力を信じて任せ。絶妙な不意打ちで焦りを引き出した――そしてついには己自身を犠牲に捧げ、止められぬはずのシーファを止めた。

 全ては。

 ()()が放つこの一太刀を、最大限に()かすため。

 道化の背後に、怒りの炎が出現した!

「あたしの()()を」

 ――緋女(ヒメ)!!

「ナメんじゃねぇ―――――ッ!!」

 

 

     *

 

 

 魔術の矢が、胸に大穴を穿つ。

 ネズミ頭の術士の胸に。

 黒い目を見開き、髭を先端まで痙攣させて、ネズミは信じられない物を見るように自分の胸元を見下ろすと、やがて、倒れた。土埃が舞い上がる。吐血が、何物とも知れない素材の床を汚した。

 とてとてっ、と、愛らしく、上機嫌に、カジュは倒れたネズミに寄っていく。両膝かかえてひょいっとしゃがみ、彼の顔をじっと覗き込む。

「ほい、お仕事終了。おつかれさん。」

 ……あぇ……たす……け……

「え。助けないよ。雑魚は死んでた方がいいんでしょ。」

 その声は冷え切っている――ネズミの目に絶望の色が浮かんだ。

「まあ説明くらいしたげるよ。キミの超速詠唱に勝つ方法、色々考えたんだけどさ。

 まず第一に、とにかく威力を上げること。防がれようが何だろうが、防御魔法ごとぶっ飛ばしちゃえばいい。でもそれは、キミが防御魔法の質を上げれば結局同じ事になるだけだよね。

 次に考えたのが、詠唱速度で勝つこと。ギリギリ威力を保ったまま、極端に詠唱が短くて済む術を構築すればなんとかなるかなって。この方法は、キミの限界速度が読めないって危険があった。こっちが速くしたつもりでも、実はそっちがもっと速かったです。てなこともあるわけだしね。

 ――で、辿(たど)り着いたのが、これ。」

 指でカジュは魔法陣を描く。空中に描かれた光の陣を、よく見えるようにネズミの目の上にかざしてやる。その顔には自信たっぷり、満面の笑みが浮かんでいて、まるで新しい玩具(おもちゃ)を自慢する子供のよう。

 というより、そのものであったのか。

「カジュちゃん謹製オリジナル魔法。名付けて《見えない光の矢》。

 そもそも攻撃が見えなければ防ぎようがない。反応速度も詠唱速度も関係ないってわけ。ま、紫外線には気をつけようってこと……。」

 と、気分よく解説を披露していたカジュは、そこでようやく気付いた。

 ネズミ男が、もうぴくりとも動かなくなっていることに。

 カジュは指先で、死体をつついた。やはり、反応はない。

「なんだ。もう死んでたんだ。」

 カジュは立ち上がった。杖を両手に持って、んーっ、と大きく背伸び。それから、興味を無くしたような虚ろな目を、足下のネズミの死体に向ける。その顔は無表情。いつにも――いつにも増して。

「ボクより凄い術士……。」

 カジュは鼻で笑って、

「いるわけないじゃん。そんなもん。」

 

 

     *

 

 

 シーファの右腕が、二の腕の半ばから切り落とされた。自分の腕が鮮血を(まと)いながら宙を舞うのを感じ、シーファはこの戦いに見切りを付けた。迷い無く跳んで後退する。間合いを離し、賞賛すべき敵と対峙する。

 緋女(ヒメ)は即座に踏み出して、倒れたヴィッシュの前に庇い立った。彼女の全身から放つ殺気は今や燃え盛る炎のよう。仲間を守る、その意思に緋女(ヒメ)の魂は溶岩のごとく煮えている。

 一方のヴィッシュは、もはや息も絶え絶えといったありさま。腸は、シーファの剣によって完全に切断されているだろう。出血と衝撃で意識が朦朧としていようし、凄まじい痛みも走っているだろう。しかし、すぐに治療すれば命が助からないこともない。

 シーファは思わず溜息を吐いた。滅多にないことだが。

 ――惜しい。緋女(ヒメ)が、あの為体(ていたらく)でさえ()くば。

 と、その時だった。

〔あー、CQCQ。シーファちゃん、聞こえるかなー?〕

 陽気な男の声が、ドームの中に響き渡った。弾かれたように緋女(ヒメ)は辺りを見回す。だが誰もいない。声が妙にくぐもっていることも考えると、魔法でどこか遠くから声を届かせているのだろうか。

 シーファは滝のように血を吹き出す腕を、破った服のすそで縛り上げながら、

「邪魔をするな、コープスマン。今()(ところ)だ」

〔ワガママ言わないの。今日はお開きだよ、飛行魚(コバンザメ)に戻っておいで〕

「魔法遣いは?」

〔君ふうに言えば……()んぬる(かな)!〕

「ふ……まあ、()かろう」

〔おや、いつになく素直だね〕

「お預けにはお預けなりの(たの)しみが()る。逢えぬ時間もまた味さ」

〔風雅だねえ。んじゃ、また後で〕

 それっきり、奇妙な男の声は聞こえなくなった。

 じっ、と。シーファは緋女(ヒメ)を睨み――いや。見つめた。

緋女(ヒメ)

「あ?」

()のままにはして置かぬ。何時《いつ》か――其方(そなた)()()(はず)しに()よう」

「!?」

 緋女(ヒメ)の身体が緊張に強張る。彼女の左手が無意識に、首飾り(チョーカー)の青い宝玉に触れた。

 絶え間なく襲い来る猛烈な痛みの中、ヴィッシュは辛うじて眼のみを動かし、彼女の動揺を認めていた。一体何を狼狽(うろた)えているのか――いや、それ以前に、

「てめえ……()()()()()()()!?」

 だが、シーファは道化の面を他所(よそ)()らしただけだった。

(また)な」

 それだけ言い置くと、シーファは矢のように駆け出した。斬り飛ばされた自分の右腕を拾い上げ、遺跡の外に繋がる道の方へ。あれほどの深手を負っていながら、苦痛も疲労も感じさせない動きで、たちまち彼女の背中は闇に溶け、消えた。

 ――終わっ……た。

 緊張の糸が切れた緋女(ヒメ)は、刀をその場に放り出し、ヴィッシュのそばにへたりこんだのだった。

 

 

     *

 

 

 その後しばらく、ヴィッシュは寝転がったまま、高い高いドームの天井を見上げていた。腹の傷は深く、その痛みはただ耐えるにはあまりにも辛いものであったが、緋女(ヒメ)が貸してくれた膝枕が何もかも帳消しにしてくれるように思えた。

 それに、シーファの上役らしき男はこう言っていた。魔法遣いは「やんぬるかな(もうおしまいだ)」と。カジュは勝ったのだ。きっと、すぐに治療に来てくれる。

「な」

 緋女(ヒメ)が、浮かれた声で囁いた。

「ん」

「やったな」

「逃がしちまったけどな……」

「いーじゃんか。後始末人だろ?」

「ん……?」

「殺さなくたって、始末がつきゃ勝ちだよ」

「そうか。そうだな。そのとおりだ」

 緋女(ヒメ)の手が、そっと、ヴィッシュの髪を撫でた。

「ね」

「うん」

「お前、がんばったよ。えらいよ。な……」

 ――ああ。

 ヴィッシュは腕で、両目を隠す。

 ――どうして、ただこれだけのことが。

 いかにして応えよう? ヴィッシュは思考を廻らせて、あらゆる美辞麗句をこねくりまわし、はたして何の成果も得られず、結局、思ったままを口にすることにした。伝えたかったことではない。伝えねばと感じたことでもない。ただ、心に浮かんだ言葉を、そのままに。

「お前だってすごかった。惚れたよ、緋女(ヒメ)――」

 このうえ何の言葉が必要であろう。

「――緋女(ヒメ)

 ――ヴィッシュ。

 ふたりの距離は自然と縮まっていった。手のひらが頬を撫でる感触はどこまでも柔らかく優しく、刀傷の痛みを忘れさせるかに思われた。今やヴィッシュの目は穏やかに開かれ、紅玉めいた緋女(ヒメ)の視線と絡みつくように交わっていた。

 そっと、胸の中にヴィッシュの頭を掻き抱き、緋女(ヒメ)が身体をかがめていく。

 そしてふたりは、水の滴り落ちるがごとく、星の夜空を巡るがごとく、生命の朽ち果て、再び萌え出づるがごとく――互いの唇を、静かに触れ合わせたのであった。」

『……って勝手にナレーションつけんじゃね―――――ッ!!』

 ヴィッシュと緋女(ヒメ)の抗議の声が、脇でちょこんとしゃがみ込んだカジュ目掛けて沸き起こった。

 一体いつの間にそこにいたのか。戦いを終えて戻ってきたカジュが、寄り添うヴィッシュたちのすぐそばで、不服そうに口を尖らせている。

「いいとこだったじゃん。どうぞボクに遠慮なく。さあどうぞ。」

(ちげ)ーし!! そんなことしてねーし!!」

「えっ。じゃ、やりたくないんスか。」

「えっ……」

「どうなんすか。そこんとこどうなんすか。ねえ緋女(ヒメ)ちゃんっ。」

「あっ……やっ……」

 たちまち緋女(ヒメ)が耳まで茹で上がっていく。全身が火のついたように熱くなる。彼女の膝に抱かれたままのヴィッシュは、

 ――すげぇ踏み込みかたするなァ、こいつ……

 と戦々恐々カジュの顔色をうかがうばかり。

 緋女(ヒメ)はとうとう爆発した。

「ゥェァ―――――!!」

 奇声一発、ヴィッシュを放り投げ、暴走馬車よろしく逃げ去っていく。あとに残されたのは顔面から床に突っ込んだヴィッシュと、ケラケラ声を上げて笑うカジュのふたりきり。

「フハハハ。ゆかいゆかい。

 さて。傷見せてよ、ヴィッシュくん。」

「……おい」

「ほいさ。」

「あんまりいじめないでくれ」

 ヴィッシュの傷口に、慈しむかのように手を掲げ、魔法陣と呪文を紡いでいきながら、カジュは悪戯な笑顔をくれた。

「じれったいと背中押したくもなるでしょ、マイ・ボス。」

 

 

     *

 

 

 遠い秋空は澄み渡り、黒も白もない、どこまでも青。

 その空を、悠然と泳ぎ行く鮫の姿があった。大きさは、大型の帆船ほどもあろうか。その鮫の腹には、船の胴体に似た籠が吊り下げられていて、驚くべきことに、数カ所に空けられた窓の中には人の姿が見える。

 俗にいう飛行魚。正式名称を、“上陸用中型空艇魔獣ヌークホーン”。通称“コバンザメ”である。

「まーた派手にやられたねえ、シーファちゃん!」

 船内の一室で、シーファは椅子にどっかりと腰を下ろし、腕の治療を受けていた。微動だにしない彼女の姿を見やりながら、呆れ気味に男が頭を掻く。大変に珍しい視力調整器具――眼鏡というものをかけ、ぱりっとした服に身を包んだ紳士。

 彼はコープスマン。生粋の企業人(コープスマン)である。

 シーファはこの期に及んでも仮面を外そうとしない。あの道化の笑みの裏側で、どんな表情をしていることやら。少なくとも、彼女の声は浮かれ、上擦ってさえいた。どうやらかつてないほどに御機嫌のようすであった。

(たの)しかった。対等の勝負が出来る相手は貴重だ」

()()だって?」

 コープスマンは苦笑する。

「その仮面、眼の穴(アイホール)も空いてないんだろ?」

 そう。

 シーファが身につけ、外そうとしない道化の仮面。

 その目にあたる部分には、穴はおろか、切れ込みひとつ空いてはいない。

 視界を完全に闇に包む。そのためだけに被り続けている仮面。

 これが信じられようか? シーファはこれまで、己の目を完全に塞いだまま、緋女(ヒメ)の姿もヴィッシュの姿も全く見えないまま、あれだけの闘いを繰り広げていたのである。

「見るべき物など()りはせぬ。()の世は闇。(まった)き暗闇。()れが証拠に、仮面を外さねばならぬ相手など、(わし)の前には存在せぬ」

 道化の仮面は(わら)っている。

(ただ)(ひと)り――あの女を除いては」

 ――あのシーファにここまで言わせる相手……

 コープスマンは彼女から距離を置き、船体のガラス窓から地上の様子を見下ろした。眼下に広がるハンザ列島南部の緩やかな丘陵地帯。その向こうに霞んで見えるのは、混沌に満ちた新興巨大貿易都市、第2ベンズバレン。

 “企業(コープス)”にとっては、喉から手が出るほど欲しい市場――それでいて、王家、諸侯、サリチル同盟(しょうにんギルド)六人評議会(せいしょくしゃたち)、その他多彩な勢力に邪魔されて、いまだ食い込み切れずにいる都市だ。

 そして今日。企業(コープス)の事業拡大に向けた布石を妨げる、新たな勢力が姿を現した。

「勇者の後始末人、か」

 コープスマンの眼鏡が、陽光を反射して白銀に染まる。

「……邪魔だなァ」

 

 

 

THE END.

 



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後記
後記


 

 

 空は、野晒しの車軸から剥がれ落ちた鉄錆の色だった。

 ドース百連丘陵へは、普段の足なら3日、馬を乗り継げば1日というところだ。だが街道は敵の布陣によってズタズタに分断され、ヴィッシュたちは険しい山越えを余儀なくされている。鎧を脱ぎ捨て、武器は軽いナイフ一本きりに絞り、可能な限り身軽になろうと発案したのも、少しでも負担を軽くするためだ。

 にもかかわらず、敗戦で疲労困憊した仲間達は、行程の半ばを待たずひとりまたひとりと脱落していった。ヴィッシュは脱落者に何も残さなかった。食糧も、水も、言葉でさえも。死に()く者に貴重な財産を置いていく余裕はなかった。

 彼らも何も求めはしなかった。

 手向けるべき言葉も、それを紡ぐだけの力も、とうに(うしな)われていると知っていたのだ。

 彼ら討魔中隊が魔王軍の罠にはまり無残な敗北を喫したのは、4日前のことだ。この時点で生き残りは隊の半数以下。隊長ヴィッシュは拠点の街へ退却することを決めたが、物資のほとんどを失い、多数の負傷者を抱えた状態で険しい山岳地帯を越えるのは、自殺行為のようなものであった。

 それでも往くしかない――なぜなら、魔王軍に蹂躙されたこの国に、他の安息の地など残されてはいなかったからである。

 彼らは、ヴィッシュを恨んでいただろうか。間抜けにも偽情報に踊らされ、暗愚にも勝てぬ戦いに部下を追いやり、無能にも死の行軍に引きずり込んだ、この隊長とは名ばかりの若造を。

 その問いの答えはもはや知る由もない。答えは消失した――仲間たちの命とともに。

 敗残兵の一団は、ついにヴィッシュとナダムを残すのみとなった。

 今、ヴィッシュはナダムに肩を貸し、身を寄せ合い、ひとつの生物のように進んでいる。昨日ナダムが足を痛めた。今朝食糧が尽きた。数時間前の休息で水が尽きた。そして無限にも思える上り坂は、(そび)え立つ城壁のごとく、無情に行く手を阻んでいる。太陽は、ふたりを焼き殺さんと炎の息を吹きかけてくる――

 道の脇に、枯れかけた木が一本見えた。その根元に、身を畳めばふたり入れなくもない程度の狭い木陰があった。どちらからともなく休息を提案し、他方がそれに応えた。言葉でも身振りでもない不可思議な方法でだ。先述の通り、言葉を発する体力は互いに残っていなかった。

 ふたりは、倒れるように木陰に座り込んだ。

 今日に入ってというもの、休息の回数は目に見えて増えていた。自覚はしていたし、早く街に戻りたいのもやまやまだったが、だからといってどうしようもなかった。彼らの身体は既に限界を超えており、このうえ無理を重ねれば仲間たちと同じ運命に見舞われることは明白だった。

 少しずつ、少しずつ……辛うじて命を繋げる程度の休息を重ねながら、すり足のように前へ進むより他に、やりようは残されていなかったのである。

 どれほどの時間、地面に転がっていただろうか。突如、ナダムが笑った。

 驚いて目を遣ると、ナダムは本当に笑っていた。

「提案があるんだ、ヴィッシュ」

 喋るな、消耗する、と隊長(ヴィッシュ)が目配せでたしなめたが、相棒(ナダム)は聞き入れようとしなかった。

「おれを置いていけ」

 沈黙があった。

 ヴィッシュは何も言わなかった。目を合わせようともしなかった。ただ、狭い日陰に小さく畳んだ体を収め、じっとうずくまっていただけだった。予感がしていた。この腹の立つ相棒との付き合いは短くない。物も言わず、友の肩を借りて歩いている間、彼が何を考えていたのか、想像できないヴィッシュではなかった。

「お前にはまだ体力がある。怪我もしていない。頭も切れる。お前なら生き残れる」

 再び――沈黙。

「だが、このままおれを担いでいけば、お前は力尽きるだろう。そしておれも死ぬだろう」

 沈黙。

「なに、おれのことは気にするな。ここでのんびり待っているさ。街についたら迎えをよこしてくれりゃいい」

 沈黙。

 沈黙。

 沈黙。

 ヴィッシュは――拳を握り締めた。残された最後の力を絞り出して。

「言いたいことはそれだけか」

 沈黙。

「何のために俺が――仲間を見捨ててきたと思ってるんだ」

 沈黙。

「倒れたヤツらの水と食料を剥ぎ取って、ここまできたのは何故なんだ」

 沈黙。

「俺がお前を見捨てるっていうのか!」

 沈黙。

 その後に、理解の微笑みがあった。ヴィッシュは、親友のこの笑顔が気に入らない。こいつはいつもそうだった。したり顔をして、人の頭の中を覗き見たかのように言い当てて、一番腹の立つところを針の穴を通す正確さで突いてきて、そしていつも――

 そしていつも――

「お前は誰も見捨てちゃいない」

 いつも――

()け、ヴィッシュ。お前ならできるさ」

 

 

     *

 

 

「ドゥニル。

 メイタリヤ。

 ビックバック。

 アゼリ」

 今や、空は(くすぶ)り燃える炭の色に変じていた。

「アラン。

 ハッサン。

 ネーダ。

 ジガ。

 ソイム。

 ワッケーニ。

 ヤジ」

 ヴィッシュは歩む。闇に閉ざされた夜を、ただひとり。もはや共に歩むものはひとりもいない。ヴィッシュは真の孤独をこのとき知った。ひとたび知れば逃れられぬ。この後、彼は10年に渡って漆黒の道を歩むことになる。

「アダルブレヒト。

 ドミニク。

 エッボ。

 エアハルト。

 ヘルムート。

 ヤン。

 カールハインツ。

 ペーター。

 ラファエル」

 一歩、一歩、歩むごとに、ヴィッシュはひとつの名を呼んだ。今更彼らを懐かしんだとてなんになろう。死んでしまった者たちに、一体何をしてやれるというのだろう。せめてその名を忘れぬようにと呪文のごとく唱えたところで、その声がどうして彼らに届くと言えよう。

 それでも。

「スヴェン。

 イザベラ。

 ボイル。

 レミル。

 ジェラルド。

 リサ。

 クリス。

 レビン。

 デイビッド。

 コリン。

 ルーニヤ。

 ニコル。

 ヨーギー。

 ミケラ。

 チッコロ。

 フロント。

 スーデラ。

 メイルグレッド……」

 それでもヴィッシュは、彼らの名を、顔を、細かな想い出のひとつひとつを、我が胸に刻まずにいられなかった。

「ナダム」

 最後の名前を呼んだとき、ヴィッシュは、ついに峠を越えた。

 視界が開けた。場違いなほどに美しい光景がそこに広がっていた。空気。土。湿気と、熱気。闇と夜、木々と星。生と死とその狭間にあるものたち。何もかもが神々しい。なぜだろうか、涙が零れた。青白い月の光が遥か彼方の空から射し込み、ヴィッシュの瞳を()いた。

 これは、希望の光であろうか? それとも――

()け、ヴィッシュ。お前ならできるさ”

 ナダムのくれた言葉が蘇る。

「……やってやる」

 固く拳を握り締め、眩い月を睨み返し、ヴィッシュは獣のごとく咆哮した。

「死んでたまるか。

 見てろ! 俺は絶対に生きのびてやる!!」

 

 

     *

 

 

 あれから10年。

 ある朝、ヴィッシュは妙に静かな心持ちで目覚め、不意に思い立って、戸棚から小さな布片を取り出した。衣服に縫い付けられていたものを切れ味の悪いナイフで切り取ったであろうそれは、古ぼけた手縫いの紋章であった。

 シュヴェーア帝国軍、討魔中隊の隊章である。

「ごめんな、みんな」

 ヴィッシュは囁いた。紋章を撫でる彼の指には、10年前にはなかった傷がみっつも刻まれているのだった。

「きっとみんな笑ってるよな。いつまでいじけたままなんだ……ってさ」

 と、そのときだった。外の通りで悲鳴が上がる。ヴィッシュは窓を叩き開け、朝もや煙る第2ベンズバレンを眺め観る。その先に尋常ならざる魔性の痕跡を見て取ると、上の階めがけて声を張りあげた。

緋女(ヒメ)! カジュ! 起きろ!」

 廊下に出たところで、階段を駆け下りてきた仲間たちと合流する。何が起きた、と目で問うてくるふたりに向かって、ニヤリと不敵な笑みを返して、

「行こう。

 新しい仕事のお出ましだぜ」

 

 

「勇者の後始末人」第1部:結集篇

 

     完

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 氷のように冷えた朝、街を襲った恐怖の魔獣。かつてない数で迫りくる敵を相手に、後始末人たちは窮地に追い込まれる。迫りくる第2ベンズバレン壊滅の危機に、ヴィッシュが()み出した意外な秘策とは?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第6話 “万魔襲来”

 Bad Fellows

 

 第2部:胎動篇、堂々開幕――乞う、ご期待。

 



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第6話 “万魔襲来”
第6話-01 神よ、あわれみ給え


 

 

「……ああ、腹が空いた」

 凍てつくように冷え込んだ()る夜のこと。三人の聖職者たちが、震えながら街を巡り歩いていた。

 毎月(ついたち)の“灯火巡礼”は、啓示(オラシオン)教導院が最も重要視する儀式のひとつだ。今より遥か1300年の昔、天が太陽を(うしな)った“光無き419夜”に、聖女トビアは内海一周の大巡礼を成し遂げ、ついに太陽再生の奇跡を起こしたという。その故事にならい、暗闇に閉ざされた新月の夜、消えぬ信仰の象徴たる灯火をもって教区内すべての祭壇に火を配り回るのである。

 とはいえその敬虔な信仰も今は昔だ。長い年月の果てに儀式は形骸化し、現代の堕落した――もとい、“現実的”な聖職者たちにとっては、しょせん面倒な月例業務のひとつに過ぎない。愚痴もこぼれようというものだ。とりわけ、こんな過酷を極める夜には。

「ああ、腹が空いた」

 もう一度、今度は先ほどよりはっきりと不満を述べると、同輩の巡礼がその肩をぽんと叩いた。

「がんばれ。大聖堂に戻ればいいものが待っているぞ」

「いいもの?」

「このお役目は初めてか? 子羊よ」

 無言でうなずく“子羊”に、お調子者は神気取りで託宣を下す。

「おお、あわれなる子羊よ。聖なるところにおいて、聖なる焼き肉と聖なる熱燗(あつかん)(なんじ)を待つであろう」

「聖なるかな!」

 思わず祈り言葉が口をついた。“神”がにやりと笑う。

「うちの教区では、灯火巡礼の後にふるまい酒が出るならわしなのさ。いいぞお、脂たっぷりの牛肉をな、厚く切って網焼きに……」

「神よ、あわれみ給え」

「いちばん上等なワインを温めて、肉桂(シナモン)と砂糖をたっぷり入れて……」

「ここは天国だ!」

 この大げさな感謝の祈りには、さすがの神も困惑気味であったろう。(ここに言う神とは“気取り”ならぬ真の神のことだ――もし存在するのなら)

 とはいえ、焼き肉に甘いワインとくれば、戒律と財政事情のために質素倹約を強いられている聖職者にとっては確かに天国であった。普段彼らが口にするものといえば、酸味ばかりが際立つ饐えたワイン、すっかり固くなって口の水分を吸い取るばかりのパン、あとはからからに干からびたチーズのひと欠けがいいところ。新鮮な肉や砂糖など、もう何年味わっていないだろう。

 “子羊”と“神”はすっかり意気投合し、一緒になってはしゃぎ回った。眉をひそめるのは、一歩前を行く灯火係である。彼は他のふたりと違っていくぶん真面目な男であった。しばらくは黙って聞いていたが、やがて後ろの連中の不信心が我慢ならなくなったと見えて、キッと睨みつけながら叱り飛ばした。

「おい! 少しはわきまえたらどうだ」

 たじろぐ“子羊”の横で、“神”がふてぶてしく肩をすくめる。

「何をわきまえよと?」

「聖トビアの艱難辛苦(かんなんしんく)を思えば、この程度……」

「そよ風のごときものだと」

「そうだ」

「肉と酒に心動かされるなど堕落だと」

「そのとおり」

「すばらしい! ならば貴兄の()()は、我らが責任をもって引き受けよう」

「そ……」

 沈黙。

 やがて、

「……………それは、待て」

 クスクス笑いが漏れた。その笑いが聞こえないかのように、真面目ぶった巡礼は神に(ゆる)しをもとめている。「堕落したこの身を云々」などと。

 要するに、みな同じ穴の(むじな)というわけだ。“子羊”も“神”も“堕落”も、みんな分け隔てなく。

 食への欲求は大きいものだ。行く手に酒一杯、肉ひと切れさえ待っているなら、人は相当な地獄にも耐えられる。

 巡礼たちは大聖堂への帰路を急いだ。寒気のために膝はすっかり凝り固まり、足どりは鉄枷(てつかせ)を引きずる囚人のごとくであったが、気持ちだけは炎のように燃えていた。肉と酒。

 力を振り絞って歩むうちに、空が乳を流したように白みだし、陰気な石造りの建物が遠目に見えた。終点まであとわずか。この通りをまっすぐ行けば辛い巡礼行も一段落。ご馳走(ちそう)が彼らを待っている――

 だが、彼らは知らなかったのだ。

 自分たちと同じように、寒空の下、じっとご馳走(ちそう)()待ち構えていた者がいたのである。

 “神”が不意に足を止め、小さく声を上げた。他のふたりがいぶかり、彼の顔を覗き込む。どうした、と問うてみても、“神”は水面であえぐ小魚のように口をぱくぱくさせるばかり。

「それはなんの冗談だ?」

 “堕落”が尋ねた。いつもの他愛(たあい)ない戯れだと思ったのだ。

 戯れであれば、どんなに良かったことだろう。

「あ……れ……」

 “神”が指さすのに従って、三人そろって空を見上げる。

 天をつくような巨大な塔の影が、朝日の中に白く浮かび上がっていた。

 巡礼たちが呆気(あっけ)にとられて言葉を失う。あまりにも巨大すぎて距離感も掴みづらいが、塔の立っている場所は、おそらく大聖堂のすぐそばだ。昨晩、巡礼に出発した時には、確かにあんなものは存在しなかった。

 その時、“子羊”が救いを求めた――怯えきった震え声で。

「神よ、あわれみ給え」

 彼は見たのだ。

 不気味な塔の突端。そこに曙光を背負って停まり、眼を食欲にぎらつかせた――竜の姿を。

 竜がゆっくりと翼を開く。

 狩りが、始まった。

 

 

     *

 

 

「あーあ……もうメチャクチャ」

 翌朝、東教区大聖堂近くの三角屋根に、ちょこんと座る緋女(ヒメ)の姿があった。膝の上にぶらりと両腕を投げ出し、顔をしかめて大聖堂()の光景を見下ろしている。

 あの牢獄にも似たいかめしい建物は今や影も形もなく、敷石さえも綺麗にはぎ取られ、むき出しの空地と化していた。

 そしてその中心に、不気味な塔がそびえ立っていた。高さは見上げるだけで首が痛くなるほど。素材の質感は石灰岩に似て白く、人の背丈ほどもある大きな球体が無数に積み重なった形をしている。吹き上がりながら凝固した泡――あるいは卵のようにも見える。

 昨夜遅く、誰も気づかぬうちに、この塔が突如として出現したのだ。

 それと同時に現れた正体不明の魔獣によって、大聖堂を中心とする都市半ブロックあまりは壊滅状態となった。建物はことごとく損壊。死者・行方不明者は少なくとも16名。怪我人は数え切れぬほど。今ごろモンド先生の診療所は、押し寄せた患者でてんてこまいだろう。

 ふと、緋女(ヒメ)は話し声を聞きつけた。屋根の下をのぞき込めば、怖いもの見たさの物好きたちが数人、ひそひそと他愛もないことを噂しながら塔を見物している。めんどくさそうに溜め息をつき、緋女(ヒメ)は威圧的な声を作って叱り飛ばした。

「コラァ! 近寄るんじゃねーよ! 危ねえだろうが」

 突然頭上から降り注いだ声に、見物人たちは、巣穴を暴かれた小虫のような素早さで散っていった。

「おー。お仕事やってるね。」

 そこに、偵察のため飛び回っていたカジュが戻ってきた。《風の翼》を解除して屋根の斜面に降り立ち、足を滑らせかけて、緋女(ヒメ)の肩を掴んでとどまる。

 緋女(ヒメ)は不満そうに口を尖らせた。

「“人を近づけるな”、だろ」

「“俺が行くまで手は出すな”もね。」

 この指示が大いに不満だったのだ。何もせずに待つのは性に合わない。とりあえず暴れたい。しかし命令は守らねばならない。ムズムズする。

 はやる気持ちをごまかそうと、緋女(ヒメ)は首を傾け、カジュに擦り寄せた。

「えらいだろ。ほめろよ」

「えらいえらい。」

 カジュはその頭をワシワシと撫でてくれた。まあ、ちゃんと褒めてくれたのだから、我慢してやってもよいだろう。

「で、そっちは? 塔、見てきたんだろ」

「んー、かなり高いねー。目測で50m強ってとこかな。」

「なんかいた?」

「てっぺんに。でっかいのがね。」

 カジュが空から観察したところによると、塔の頂上には巣のようなものがあり、そこに魔獣が一体いたらしい。体格は馬より一回り大きい程度。全身が羽毛に覆われており、鳥に似ているが、おそらくは竜の一種だ。腹が満ち足りたせいか、翼をたたんで丸くなり、ぐっすりと眠り込んでいたという。

 話を聞き終えた緋女(ヒメ)はカジュの外套(マント)をちょいと引っ張り、

「じゃあさ、そいつ斬ったら終わりじゃね? 上まで運んでよ」

「腕ちぎれる。」

「あたしが自分でぶらさがるから」

「腰折れる。」

「じゃあ手足ぜんぶで抱きつくから」

「やや照れる。」

「照れんなよ」

 と、わけの分からない相談をしていた時だった。けたたましい男の悲鳴が、突然二人の話に割り込んだ。

「助けてくれ!」

 一瞬にしてふたりの神経がピンと張り詰める。臨戦態勢で声の出どころを探すが、見つからない。どこか死角にいるのか。魔獣のために遮蔽物(しゃへいぶつ)らしい遮蔽物(しゃへいぶつ)もなくなってしまったこの場所だ。もし死角があるとすれば、ただひとつ。塔の裏側だ。

「援護!」

「ラジャ。」

 とカジュが応えた時には、すでに緋女(ヒメ)は飛び出していた。目で追うことさえ困難な速度で屋根から駆け降り、崩れた壁を跳び超えて、塔の反対側に回り込む。

 そこで尻もちをついていたのは、顔面蒼白の野次馬。さっき緋女(ヒメ)に追い払われた連中のひとりだ。近くの運河に小さな手漕ぎ舟が停めてあるところをみると、どうやら緋女(ヒメ)の目を避けてわざわざ運河から裏に回ったらしい。

 そして男の目の前で目を光らせているのは、馬ほどもある巨大なヒヨコ――いや、竜の雛だ。

「オラァ!」

 肉薄、即、叩ッ斬る。抜き放ちざまに振り下ろした太刀は、雛の胴を真っ二つに断ち割った。

 あっけない――が、緋女(ヒメ)は類まれな聴覚によって察知していた。塔の表面、あの正体不明の球体の中で、いくつかの気配が蠢いている。

 塔の根本あたりを見れば、砕けて内部のがらんどうを晒している球体がひとつある。竜の雛はあの中から湧いたのか。ということは、やはりこの塔は――卵! この積み重なった球体全てが卵なら、その総数は千や二千どころではあるまい。もしこれが一度に孵化(ふか)しようものなら……

 危険だ。緋女(ヒメ)は油断なく塔を見据えながら、野次馬の男に怒鳴りつけた。

「逃げな!」

 だが、男は完全に腰を抜かしたと見えて、立ち上がることもできず震えるばかりであった。さらに折悪しく、卵みっつにひび割れが走った。竜の雛が3匹、内側から殻を突き破り、矢のように飛び出してくる。

 ――しょうがねえ!

 舌打ちひとつ、緋女(ヒメ)は男の襟首をひっつかみ、そのまま運河へ放り込んだ。豪快な水音を聞くと同時に刃を(ひるがえ)し、突進してきた雛の1匹を切り捨てる。続いて2匹目のクチバシを、上半身の捻りのみで巧みにかわし、地を這うような薙ぎ払いで、残る1匹もろともに脚をまとめて切り落とす。

 悲鳴を上げ、もつれあって倒れる雛たち。その間を潜り抜け、太刀を両手に構え直す。

 が、一息つく暇もなかった。塔の下部にあった卵が一斉に孵化(ふか)を始めたのだ。自ら殻を突き割り、次々に産まれ出る竜の雛。その数は目につく範囲だけでもざっと2、30。さらにまだまだ増えようとしている。

 さすがの緋女(ヒメ)もギョッとして、

「うえっ……おいカジュっ!」

 

 

     *

 

 

「今やってますよー。」

 悲鳴じみた援護要請を、カジュは上空で聞いていた。《風の翼》で戦場を見下ろせる位置に滞空し、杖を脇の下に挟んで構え、その先端を雛の一匹に向ける。片目を閉じて、慎重に狙いを定め――

「《光の矢》。」

 強烈な遠距離法撃が狙い違わず雛を射抜き、ただ一撃で息の根を止めた。

 が、これも焼け石に水か。地上では緋女(ヒメ)が暴れ回り、すでに10匹近い雛を片付けていたが、敵の数は減るどころか増え続けている。《爆ぜる空》あたりでまとめて焼き払いたいが、それだと緋女(ヒメ)を巻き込んでしまうし、近隣のまだ無事な建物まで粉砕してしまう。といって時間をかければますます手のつけられないことになる――

 と。

 考え込んでいたカジュは、何か弾けるような音を聞きつけ、徹底的に訓練された条件反射によって身をひねった。

 ジャッ、と空を裂き、弾丸のようなものがカジュをかすめて過ぎた。どうやら外套(マント)(すそ)にかすったらしく、白い布が焼け焦げたように黒く変色している。とっさに回避行動を取ったからよいものの、もしまともに食らっていたら、“痛い”では済まなかっただろう。

 ――酸か。

 塔の方を見れば、卵から頭だけを付き出した雛たちが、10匹余り顔を並べてこちらを見上げている。

 ――あ、ヤバい。

 次の瞬間、予想通り、雛たちが一斉に酸の体液を噴射した。その勢いはさながら弓兵部隊の対空射撃。カジュは必死に砲火の隙間を縫い進んだものの、ついには避けきれなくなり、

「《光の盾》っ。」

 辛うじて防御の術で難を逃れた。

 とはいえ安心してはいられない。すぐに第二射が飛んでくるはず。

 ――まずいな。これじゃ緋女(ヒメ)ちゃんの援護どころじゃない。

 だが眼下には、際限なく増え続ける敵を相手に苦戦を強いられる緋女(ヒメ)の姿。カジュは懸命に思考を巡らせて……とりあえず、ひとつの答えを導き出したのであった。

 

 

     *

 

 

「……で、こうなったわけか」

 遅ればせながら駆けつけたヴィッシュは、そびえ立つ壁を見上げ、ぼんやりと頭を掻いた。

 カジュのとった対策はシンプルなものであった。《石の壁》を連続して立て、塔の周囲をぐるりと取り囲んだのだ。酸の矢は射程距離の外に逃げれば飛んでこないし、空の飛べない雛たちにこの高さの壁を超える手段はない。壁を立て終わるまでに何匹か外に漏らしてしまったが、それは緋女(ヒメ)が片付けた。

 確かに、当面はこれで大丈夫だろう。とはいえ、その過程で緋女(ヒメ)は軽傷を負ってしまった。ほんのかすり傷程度のものではあったが。

 地面にあぐらをかき、カジュに手当してもらいながら、緋女(ヒメ)は後ろめたそうにそっぽを向いている。

「だってしょうがねえじゃんかー! あの場合よーっ!」

「別に責めちゃいねえよ。むしろとっさによくやってくれた」

「ヌゥ……」

「先に詳しく話しときゃ良かったな……ちょっと慌てちまって」

「それだよ。ヴィッシュくん何してたの。」

「警吏とコバヤシに協力要請。住民避難とか、立入禁止とか……まあ段取りだ。ちょっとおおごとになるんでな」

「一体何なんだよ、アレ。なんかヤバいやつ?」

 ヴィッシュは盛大に溜め息をついた。もう、名前を口にするのも嫌だ、と言わんばかりのしかめっ面で。

万魔(バッドフェロウズ)

 ――なんかヤバいやつだ」

 

 

 

(つづく)

 



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第6話-02 バッドフェロウズ

 

 万魔の竜(バッドフェロウズ・ヴルム)

 魔王が持ち込んだ魔獣の中でも、極めて厄介なもののひとつである。

 鱗が羽毛状である点で鳥に似ているが、四肢と翼を併せ持つ骨格構造から六肢類――つまりは(ヴルム)類に分類される。体長は馬より少々大きい程度。竜としては小柄で、身体能力もさほど高くはなく、炎を吐く力もないことから、単独では別段手強い相手ではない。

 なのだが……

 

 

     *

 

 

「ヤバいのは奴らの生殖方法なんだ」

 ヴィッシュが土の上に、簡単な塔の図解を描きながら説明していく。

凡食(はんしょく)性と言ってな。奴らはとにかくなんでも食う。動物、植物、土や岩までお構いなしだ。そうして周辺のものを食い尽くしたら、それを材料にして産卵を始める」

「あの塔だね。」

「ああ……ひとつの塔に産み付けられた卵は少なく見積もっても2万個。時にはそれ以上。この数の雛が1日から5日ほどで一斉に孵化(ふか)し、餌を求めて周辺に溢れ出る!

 本格的に孵化(ふか)が始まったら、万単位の軍勢でもなきゃ止められん。そうなる前に始末するのが俺らの仕事だ」

「どうやって?」

「頂上にいる母親を倒せばいい。戦ってみて分かったろ? 塔の雛たちは母親にコントロールされていて、外敵が近づいたら未熟な状態でも孵化(ふか)できるようになっている」

 緋女(ヒメ)とカジュは嘆息しながら顔を見合わせた。次から次へと数を増して襲ってきたり、一斉に酸の矢を吹きかけてきたり……あの一糸乱れぬ連携は母親からの制御があればこそだったのだ。

「ま、母体を守る一種の要塞ってなとこだが……そこが弱点にもなる。親さえ仕留めてしまえば孵化(ふか)を命じるものがいなくなり、あとは放っといても卵の中で死んでしまうってわけだ」

「はいボス。しつもん。」

「どうぞカジュくん」

「どうやって登るんすか。空からは酸の雨でとても近付けないんすけど。」

「……いい質問だ」

 ヴィッシュは苦虫を噛み潰したような顔で、塔の上を睨み上げた。今ごろ頂上では、母竜がのうのうと昼寝でも食らっていることだろう、腹立たしいことに。

「そこだよ。ほんと……そこなんだよなぁ……」

 

 

     *

 

 

「ほんっと……! これがっ……! 気が滅入るんだよ……なああっ……!」

 ヴィッシュは愚痴を垂れ流しにしながら、次の手掛かりに腕を伸ばした。下を見れば地面は遥か彼方。横手を見れば見渡す限り広がる第2ベンズバレンの街並。ああ、絶景かな。これで、絶壁の素登り中でさえなければ。

 対空砲火を避けて頂上にたどり着く方法は、極めて単純。(ふもと)から天辺(てっぺん)まで、この塔の外壁をよじ登るのである。と、言葉にするのは容易いが、ほとんど垂直に近い外壁を、腕力と脚力のみを頼りに、50mあまりも登りきらねばならないのだ。その労力たるや並大抵のものではない。

 ヴィッシュは過去に2度、これと同じ仕事をしたことがある。最後に塔を登ったのは7年前。あの頃でも充分に辛かったが、7年分歳をとった今では、消耗が骨身に染みわたるようだ。

 ――俺も歳食ったなァ……なんて思いたくはねェが。

 疲れる。時間かかる。そして何より、地味。もう少し華やかであったり変化に富んでいたりするならまだ耐えられただろうに。称賛もなくピンチもなく、ただひたすらにキツい仕事を淡々と続けなければならない……このしんどさは、まるで人生そのもののようだ。

 ところが隣では、緋女(ヒメ)がヒョイヒョイと猿のような身軽さで登っている。卵がたくさんの凹凸を作っているおかげで、手掛かり足掛かりには困らないのだが、それを差っ引いても、あの身体能力は超人的だ。そのうえ、登りながらヴィッシュに手を貸す余裕さえある。

「ホラ。がんばれよ。あとちょっとっ」

 緋女(ヒメ)が手を握って引っ張り上げてくれ、ヴィッシュは卵と卵の間の狭いくぼみに身を落ち着けることができた。ここなら座って休憩が取れそうだ。そこに緋女(ヒメ)も尻をねじ込んできて、ふたりギュウギュウ詰めのまま一休み。

「なんか、すまんな」

「んー?」

「俺は足手まといみたいだ」

「それキライ」

 チクリと刺すような言葉に驚いて、目を向けてみると、頬が擦れそうな距離に緋女(ヒメ)の不機嫌顔がある。

「テメーが何したか考えてみ?」

「そりゃあ……支援の段取りつけて。敵の正体調べて。作戦を立てた?

 ……仕事はしてる、か」

「ん」

「まあ、それはそれとして、今度ちょっと鍛え直してみるかなあ」

 緋女(ヒメ)は一転、にこにこと上機嫌に笑顔を見せた。

「すき」

「ありがとうよ」

 そこにカジュから《遠話》が飛んでくる。

〔イチャつきやがって。撃つぞコノヤロウ。〕

「勘弁してくれ」

〔じゃさっさと移動してくださーい。左上方卵みっつぶん先で孵化(ふか)しかかってるよー。〕

 言われてそちらを見上げてみれば、確かに、薄くなった卵殻の中でモゾリモゾリと動く姿が透けて見える。

 ヴィッシュは冷や汗が額を伝うのを感じながら、小さく囁き声を返した。

「……了解」

 

 

     *

 

 

 カジュの仕事は、手近な建物の屋根に待機、塔の様子を観測して登攀(とうはん)組を誘導することである。登っている途中で雛と遭遇したら対処が難しい。戦闘に気を取られ落下でもしようものなら目も当てられない。そんな事態を避けるための役割分担だ。

 昼食の肉はさみパンをもぐもぐとやりながら、カジュは観測用の水晶玉を指で叩いた。即席で術式を構築し、《魔法の目》で集めた情報を分析していく。今のところ異常はない。万事順調……の、はずなのだが。

 彼女の喉から低い唸り声が漏れる。

「……なんか変だな。」

 

 

     *

 

 

 一方、ヴィッシュたちは塔の先端まで残り10m弱のところまで進んでいた。果てしない崖登りも、ようやく終点が見えてきた。体力もいよいよ限界近い。そしてなにより、

「あぁー腹減ったァー!」

 緋女(ヒメ)がヴィッシュの気持ちを見事に代弁してくれた。何しろ今日は早朝に魔獣騒ぎで叩き起こされ、それからほとんど休みなく働きまわっていたのだ。疲労が心地よく食欲をかき立ててくれる。ヴィッシュは力強く鼻息を吹いた。

「畜生めっ。仕留めたら食ってやろうぜっ」

「え、あいつら? 食えんの?」

「極めて美味」

「まじか」

「肉質は鳥に似ているが、味はむしろ引き締まった牛の赤身に近い。噛めば噛むほど旨味が湧いてくる感じでな。胃袋にガツン! と来るんだなあコレが」

「そんで!?」

「煮てよし焼いてよしだが、俺ァシンプルに炭火で串焼きが最高だと思うね」

「塩? タレ?」

「ゆず胡椒」

「あーっ!! いい! いいなー!! まじかー!!」

「酒はパワフルに辛口の麦酒(エール)だ!」

「いやーあぁー! 死ぬー!!」

 と、ふたりで盛り上がっていると、ぱきり、と気味の悪い音が聞こえてきた。目を向けてみれば、横手の卵に大きなひび割れが走っている。孵化(ふか)しかかっているのだ。しかし、さっきと同じように避けてしまえば……

 その時、さらにふたつみっつの破砕音が重なった。いや、ふたつみっつどころではない。視界内にあるほとんど全ての卵が同時に(かえ)りはじめたのだ。

 ヴィッシュたちの背筋にゾッと冷たいものが走った。

「おい、なんだよこれ」

「まずいぞ、まさか……」

 そこにカジュの《遠話》が舞い込み、予想通りの報せをもたらした。

〔ヤバいよ。塔全体で雛が(かえ)りだしてる。〕

「一斉孵化(ふか)! もう始まったのか!?」

 早すぎる。これは完全に想定外であった。卵が産み付けられてから僅か半日足らず。これまで見聞きした中で最短の事例より、さらに丸一日分は早い。

 このタイミングでは、卵の中の雛はまだ充分に育ちきっておらず、飛ぶことさえままならない。当然、塔の高所から生まれ落ちた雛は大半がそのまま墜落死してしまうはずである。

 そのリスクを承知の上で、母竜は早期に一斉孵化(ふか)させる道を選んだのだ。そこにヴィッシュは、母竜の切迫した心理を垣間見た気がした。

「……一体何を焦ってるんだ?」

 だが、今は詮索していても仕方がない。動揺などはなおさら邪魔だ。素早く頭を切り替えて、作戦の修正案を立ち上げる。

「カジュ! 雛の数が増えれば壁も食い破られる。街に出さないように食い止めてくれ!」

〔イエス、ボス。〕

緋女(ヒメ)、お前は先に行け! 奴の足を止めろ!」

「任せなッ!」

 凛々(りり)しく一声吠えるや、緋女(ヒメ)は翼あるかのごとく跳躍した。

 類まれな脚力で卵から卵へ次々に飛び移り、ついでにヴィッシュの進路上で産まれた雛を何匹か斬り捨てながら、みるみるうちに駆け上っていく。最後のひとっ飛びで塔の頂上に躍り出ると、華麗な宙返りを決めて着地した。

 塔の上は、中央がくぼんだスリ(ばち)状の形をしていた。その中央で、羽毛に覆われた竜が一頭、鎌首もたげてこちらを睨んでいる。あれが今回の獲物、万魔の竜(バッドフェロウズ・ヴルム)――その母竜というわけだ。

『――思ったより早い到着だったな、人間よ』

 うおっ、と緋女(ヒメ)が驚きの声をあげ、髪の寝癖をピンと逆立てる。

「喋れんの?」

『人間ふぜいの原始的な言語など、我ら上位者が操れぬはずもあるまい?』

「なんかよく分かんねーけど……

 じゃあさー、迷惑だからどっか行ってよ。ここはあたしらの縄張りだからよ」

 竜は、何か咳き込むような音を発して――ひょっとすると、笑い声だったのかもしれない――こう答えた。

『いかにも獣の言いそうなことだ。

 ちょうどよい……食料を獲りに行く手間が省けたわ!』

 竜が叫ぶと同時に、緋女(ヒメ)の周囲で十匹以上の雛が一斉に卵を飛び出した。獲物を狙う飢えたクチバシが緋女(ヒメ)臓物(はらわた)目がけて殺到する。母竜が無意味に話しかけてきたのは、このための時間稼ぎだったのだ。

 だが、緋女(ヒメ)に焦りはなかった。彼女の犬並みの聴力が、足元で蠢く罠の気配をとうの昔に捉えていた。

 ――言葉は通じても話は通じねーか。

 緋女(ヒメ)が太刀の柄に手を掛ければ、覗いた刃が陽光に煌めき――

 一閃。

 なんたる速さ! 緋女(ヒメ)の姿は(かす)んだ残像と化し、攻撃の網目を縦横無尽に掻い潜る。走る刃はしなやかな絹糸のごとく。かと思えば次の瞬間、一斉に雛たちの首が飛ぶ。

 まさに電光石火の早業。想定外の事態に母竜がたじろぐ。雛を片付けた緋女(ヒメ)はその勢いのまま母竜に肉薄し、列帛(れっぱく)の気合とともに頭上から一撃を叩き込んだ。

 竜は慌てて身を捻り、辛うじて身をかわした。地面に食い付いた緋女(ヒメ)の太刀は、足元の卵をかち割るどころか、塔の上部に一文字の亀裂を走らせさえした。

 人間離れした膂力(りょりょく)――いや、剣の冴えか。竜は大急ぎにその場を離れ、次々に雛たちへ孵化(ふか)を促す波動を送りながら、憎々しげに悪態を垂れた。

『化物め!』

「てめーが言うなッ!」

 続いて産まれ出た雛たちが、またしても緋女(ヒメ)の前に立ち塞がる。緋女(ヒメ)は小さく舌打ちした。これでは地上で戦った時と同じだ。斬っても斬ってもキリがない。

 その上ここでは、雛たちが母竜の指示のもと、効率的な陣形を組んでさえいる。まず数匹が遠巻きに緋女(ヒメ)を取り囲む。更に数匹が前線で横陣になり、残りが母竜の前で壁を作っている。この構えはおそらく――

 ジャッ、と脂の焦げるような音がして、周囲から幾筋もの矢が飛来した。カジュを悩ませた酸の矢を、遠くの雛たちが吐き出したのだ。

 緋女(ヒメ)は、地面をひと蹴りした。

 彼女の身体は風となり、いとも容易く酸の雨を振り切った。その行く手を狙ってさらなる酸が襲いかかる。が、進路を切り返し、飛び上がり、あるいはひたすらに駆け抜けて、絶え間なく降り注ぐ矢をことごとくかわし切る。

 雛たちも黙って見てはいなかった。横陣になった雛たちが緋女(ヒメ)を押し包みにかかる。が、緋女(ヒメ)は一体目の脚を切り、二体目を蹴って跳躍し、落下しながらの一撃で三体目の胴を両断、続く四体目をむんずと掴み、酸の矢を防ぐ盾にして、焼け焦げ悲鳴を上げるそれを五体目めがけて投げつける。

 ここまでがわずか数秒のこと。

 次々に屠られていく雛たちを見て、母竜は戦慄した。

 ――とても(かな)わぬ!

 決断するや、竜の行動は早かった。自分の前で壁にしておいた雛たちを、緋女(ヒメ)にけしかけた。これでどうにかなるとは思っていない。ほんの数秒、羽ばたいて飛び立つまでの時間が稼げればよい。

 母竜は逃げにかかったのだ。せっかく我が身を痛めて産んだ卵塔は惜しいが、命には換えられない。母が生き長らえるための時間を稼いでくれたなら、それだけで産んだ価値があったというもの。子供はまた作ればよい。

 だが、致命的なことに、竜は気づいていなかった。

 時間を稼いでいたのは、狩人のほうも同じだったということに。

 母竜が大きく翼を広げた、そのときだった。

 突然背後から振り下ろされた剣が、片方の翼を半ばから切り落とした。

『ギャッ!?』

 悲鳴とともに振り向けば、そこにいたのは、もうひとりの狩人――ヴィッシュ。

 これが彼の立てた作戦だったのだ。緋女(ヒメ)をぶつければ竜を撃退することは簡単だが、飛んで逃げられれば面倒なことになる。また、万魔の竜(バッドフェロウズ・ヴルム)の性格から言って、危なくなれば雛をけしかけておいて自分だけ逃げる手に出ることは充分予想される。

 そこで緋女(ヒメ)を先行させ、適度に竜を追い込み、逃げにかかった瞬間を狙ってヴィッシュが仕留める案を考えたのであった。

 今や竜は全てを悟っていた。だがそれはあまりにも遅すぎた。

『おのれ! 身をやつしさえしなければ!』

 痛みと恐れを怒りによって塗り潰し、竜はヴィッシュに襲いかかった。大槍のようなクチバシが、ヴィッシュの首に向かってくる。

 が、その槍が届くことはなかった。

 雛たちを蹴散らした緋女(ヒメ)が、ひとっ飛びに駆けつけ、竜の首を叩き斬ったからであった。

 

 

 

(つづく)

 



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第6話-03 万魔襲来

 

 

 母竜を失えば、あとは脆いものだった。万魔の竜(バッドフェロウズ・ヴルム)の雛たちは、親によってその行動を徹底的に制御されている。よって、母竜のいない雛たちは状況を判断することすらろくにできず、ただ無目的に徘徊するだけの人形へと姿を変えるのだ。

 そんな獲物なら、たとえ少々数が多かろうと、どうということもない。ヴィッシュたち3人は、日暮れまでに全ての雛を片付けた。塔はそのまま残っていたが、中の雛が死ぬまで一週間ほど待ったあと、魔術で発破をかけてやればよいだろう。

 その夜、ヴィッシュは予告通り、竜の雛を(さば)いて豪勢な夕食に仕立てた。その素晴らしいことと言ったら! 緋女(ヒメ)がこう文句をつけたほどだ。

「犯罪」

「どうして?」

「もう他の肉食えねーわ……」

 これにはヴィッシュも、にまりと改心の笑みを浮かべるのであった。

 ともあれこれにて、一件落着。

 

 

     *

 

 

 ……と、誰もが思っていた。

 それは完全な誤りだった。事件はまだ、解決してはいなかったのだ。

 ヴィッシュたちがつかの間の休息を楽しんでいる間も、真の脅威は人知れず爪を研ぎ続けていた――そしてすっかり準備を整えてしまうと、熟れた木の実が爆ぜるように、突如人々に襲いかかってきたのである。

 2日後。

 急報が舞い込んだとき、ヴィッシュと緋女(ヒメ)は、早朝訓練から帰宅したばかりであった。走り込み、素振りに形稽古(かたげいこ)……朝食前に体を動かすのは元々ヴィッシュの日課であったが、一緒に暮らし始めてからは緋女(ヒメ)がそれに加わり、実戦訓練できるようになった。といっても、打たれるのは決まってヴィッシュの方ではあったが。

 ふたりそろって汗みずくで家に戻り、体を拭いたり水を飲んだり、剣術談議に花を咲かせたりしていると、誰かが慌ただしく戸を叩いた。

「ヴィッシュさん! 起きてください、大変です!」

 後始末人協会の事務方、コバヤシである。いつも冷静沈着な彼にしては珍しい慌てようだ。怪訝(けげん)に思って扉を開けてやると、コバヤシは生気の失せた青い顔で、食いつくように飛び込んできた。

「また出ました! あの……」

 と彼が言いかけたとき、けたたましい啼き声と、無数の翼の羽ばたく音が、嵐のごとく唸り狂った。

 ――この羽音は!

 ゾッと悪寒を覚えたヴィッシュは、コバヤシを押し退け、道に出た。一方、緋女(ヒメ)は手近な窓を開けて身を乗り出す。3階の部屋では、眠りこけていたカジュが目を擦って起き上がったところだった。

 三者が三様に見上げた第2ベンズバレンの空。そこに、無数の黒い影が渦巻いている。さながら街の上を闇色のヴェイルで覆い尽くさんとするかのように。

 鳥――などであろうはずがない。

 四本の脚に二枚の翼。立派な羽毛も生え揃い、もはやヒヨコとは呼べぬ姿に成り上がり、2万を超える大群で押し寄せた獣たち。あれぞまさしく――

万魔の竜(バッドフェロウズ)!!」

 

 

     *

 

 

 ヴィッシュはここにきて、自分の浅慮を大いに悔いることとなった。

 考えてみるべきだった。あの母竜には高い知能があった。大都市に営巣すれば後始末人から妨害を受けることは、充分に予測できたはずだ。罠を張って緋女(ヒメ)を待ち受けていたことも、それを裏付けている。

 にも関わらず、奴はわざわざ街の真ん中に卵を産む道を選んだ。なぜか?

 選んだのではなく、選ばざるを得なかったのでは?

 思えば妙なところはいくつもあった。まだ雛が未熟な、産卵後一日未満の段階で一斉孵化(ふか)を始めたこともそうだ。あの行為に、ヴィッシュは母竜の焦りを見た気がした。何かをひどく恐れているかのような。

 そして今際の際の、不可解なあの言葉――

『身をやつしてさえいなければ!』

 一体どこから“身をやつした”というのか?

 今となっては、答えは明らかだ。

 ()()()()()である。

 あの母竜は、より安全な産卵場所を巡って同族と争いになり、敗れたのだろう。そしてこの街に追いやられてきた。リスクを冒してでも餌が豊富な大都市に巣を張り、大急ぎで雛を育てなければならなかったのだ――競争相手が()()を荒らしに来る前に!

 彼女が恐れていたことは、今や現実となってしまった。それも、人間たちにとって最悪の形でだ。

 

 

     *

 

 

 その日は恐怖の一日となった。どこからか飛来した2万匹の飢えた竜たちは、食を求めて街中のいたるところに襲いかかったのだ。

 無論、ヴィッシュたちも果敢に応戦した。先にも述べたとおり、万魔の竜(バッドフェロウズ・ヴルム)はさほど強力な魔獣ではない。とはいえそれは1匹ならばの話。今回はあまりにも数が多すぎた。街全体を守るには、人手が全く足りなかったのである。

 結局、竜たちは街の北東部4分の1ほどに甚大な被害をもたらし、日暮れとともにいずこかへ飛び去って行った。人的被害はさほどでもなかった――若く体の小さい竜は、大勢でひとりを取り囲める状況でもない限り、警戒して人間には近寄らないのだ――が、建物、城壁、舗装、市場の売り物等々は容赦なく食い荒らされていた。

 荒れ果てた街を前にして、へとへとになった緋女(ヒメ)とカジュは、背中合わせで路上にへたり込んでしまった。

「あーっ……しんっど」

「人使い荒いよ、まったく……。」

「すまん。ふたりともよくやってくれた」

 ヴィッシュは精一杯に穏やかな声を作り、ふたりの労をねぎらった。しかし状況はお世辞にも良いといえるようなものではない。緋女(ヒメ)とカジュはほんとうによく働いてくれたが、それでも戦果はようやく120匹強。ヴィッシュや他の後始末人たちが仕留めた分を合わせても、300匹には届くまい。敵の総数は2万超――焼け石に水とはこのことだ。

「なあヴィッシュ。どーすんだよコレ」

 緋女(ヒメ)が肩で息をしながら訊いてくる。ヴィッシュは苦い顔をして、手近な瓦礫(がれき)に腰を下ろした。並べた手のひらに顔を埋めるようにして、茹だった頭を少しでも冷まそうとする。緋女(ヒメ)の問いはヴィッシュ自身の問いでもあった。

 どうする? どうすればいい?

「とにかく、人手を増やさなきゃいけない……」

「どうやって?」

 そう重ねて問われれば、ヴィッシュにはもう言葉がない。緋女(ヒメ)は彼の苦悩を見て、残酷な問いを投げかけてしまったことに気づいた。手を無意味に振りながら、慌てて取り繕おうとする。

「あー……えっと……じゃあさ、頼んでみたら? 警察とか、軍隊とか」

 それに答えたのはカジュであった。

「ところがどっこい。この街は人口のわりに警吏も兵士も少なすぎるんだよねー。」

「そうなの?」

「なにしろたった10年で想定外の人口流入があったからね。あれよあれよで30万人。警吏の数も泥縄式に増やしてきたけど、予算も人材も全然おっつかない。

 てなわけで、警吏を総動員したところでたったの300名。兵隊さんに至っては典礼部隊がひとつっきりで40人ぽっち。」

「じゃあさ! 他の街に応援頼むとか……」

「一番現実的なのは王様の近衛隊だろうけど。王都からじゃあ、到着は早く見積もっても10日後。その頃にはもう街が消えてると思うね。」

「うーっ、うーっ……」

 カジュの説明したことや緋女(ヒメ)の提案したことは、全てヴィッシュの考えたことでもあった。その上、彼は他にもいくつかの案を既に検討していた――たとえば、竜の巣を探して母竜を叩いてはどうか? これも無理がある。なにしろ塔の場所が分からない。山中に営巣されれば、巣の位置を特定するだけで一苦労。首尾よく発見できたとしても、巣に向かい、塔を登って母竜を討つのに軽く数日はかかるとみてよい。どう考えても街が壊滅するのが先だ。

 考え、悩み、袋小路に迷い込み、ヴィッシュは文字通り頭を抱えた。八方手詰まりだった。このままでは街が滅びるのを座して見ていることしか――

「おい」

 と。

 彼の前に、女がひとり進み出た。

 そそり立つ直剣のごとき立ち姿。言うまでもなく、緋女(ヒメ)である。

「メシだ! 晩メシ食うぞ!」

「……は?」

 あっけに取られるヴィッシュの両肩を、緋女(ヒメ)の手のひらが力強く叩く。

「戦ってもいねえのに負けてんじゃねーよ! テメーいま負けた気になってんだろうが!!」

「そ……! うかも、しれない……」

「だから食え。まず元気出して、話はそっからだ。違うか?」

 違わない。そのとおりだ。

 ここでこれが言えるのが緋女(ヒメ)だ。状況がいかに危機的であろうと、期限がいかに切迫していようと関係ない。誰もが挫けてしまうような困難の中にあっても決して道を見失わない。己の為すべきことを貫徹できる。まるで鋼鉄の刃のような、揺るぎない精神力の持ち主だ。ヴィッシュが好もしく思い、尊敬の念さえ抱いているのは、緋女(ヒメ)のこういうところなのだ。

 ヴィッシュは大きく深呼吸して、立ち上がった。

「何が食べたい?」

「肉!」

 即答である。ヴィッシュは苦笑した。鋼鉄製なのは精神ばかりではない、胃袋もそうであるらしい。

 カジュがひょいと肩をすくめて、山積みになった竜の死体に目をやる。

「まー、食材には事欠かないしねー。」

「それよ! 焼き鳥な!」

「焼き竜ね。」

「やっべーよなーアレ。いっぺん食ったらやめられねえ」

「重度の依存症を引き起こす危険食材っすわ。」

「炭火でジュッとな……」

「そこで炊き込みごはんとかどうよ。」

「おいカジュ! まじ神!」

「あがめよ。」

「分かった分かった。じゃあ今夜は串焼きに炊き込み……」

 と。

 その瞬間。

 圧倒的閃きが、ヴィッシュの脳内を駆け巡った。

「これだっ……この手があった!!」

 その声を聞くや、仲間たちの顔に明るい色が差した。緋女(ヒメ)が不敵に笑う。まるで、こうなることは分かっていた、と言わんばかりに。

「なんか来たな?」

「ああ。行けるぜ!」

「ボス、ご指示は。」

「まずはメシだな。竜をさばこう」

 キョトンとして顔を見合わす緋女(ヒメ)とカジュに、ヴィッシュはにやりと笑いかける。

「まあ見てな」

 

 

 

(つづく)

 



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第6話-04(終) 真に恐るべきもの

 

 

 ところ変わって、第2ベンズバレン北方30kmの山中。ここに、2匹目の母竜が作った卵塔があった。

 このあたりは地形が入り組んでおり、背の高い木々にも恵まれていて、身を隠すには絶好であった。彼女はこの場所に目をつけるや、先に営巣の準備を進めていた同族に喧嘩をふっかけ、個人的武勇をもって追い払い、ものの見事に奪い取った。

 彼女らの種族は10年前魔王によってこの地に連れてこられたが、あの時の戦争を通じて痛いほど或る事実を悟っていた。最も恐るべきは人間である、というシンプルな事実だ。

 人間は強い。そして極めて好戦的である(人間の多くが「自分は平和主義者だ」などと根も葉もないことを信じ込んでいるのは、全くもってお笑い種だ)。ゆえに、繁殖時に最も警戒せねばならないのは、人間による妨害なのだ。そのため、人間に見つかりにくい営巣場所は奪い合いをせねばならぬほど重大な価値を持つのだ。

 卵の産み方にも工夫をこらした――半径を大きくとり、そのぶん塔の高さを低く抑えた。この高さで、木々の中に隠してしまえば、そう簡単に見つかるものではない。

 万魔の竜(バッドフェロウズ・ヴルム)には知恵がある。その知恵は余すところなく使われた。身を守るために。人間どもが作った都市の、上質な食料を食い尽くしてやるために。

 人間の街は、旨い。これは彼女らの種族にしか分かるまい。土や石を好んで食べる彼女らであったが、人間が加工した建材は、自然の中に転がっている岩くれとは比べ物にならないほど美味なのだ。卓越した技術で正確に切り出され、美しく磨き上げられた大理石。カリカリに焼き上げられた香ばしい煉瓦。そしてヒンヤリと舌触りも滑らかな金属器! ああ!

 それらを思う存分味わうために、彼女は多くの策を巡らせた。それらはことごとく図に当たった。たっぷり時間をかけて孵化(ふか)させ、満を持して送り出した2万匹の子供たちは、素晴らしい食料を山のように集めてきてくれた。母竜はそれからというもの、何日も休むことなく美食に舌鼓をうち続けた。腹がいっぱいになれば巣の中でひと眠りすればよい。朝飛び立った子供たちは、夕暮れ時には新たな食事を運んでくる。目覚めた時には、目の前にごちそうがすっかり準備されている、という寸法。

 心血注いだ子育ての反動か、目の前の美食の魔力によるものか、母竜はつい、自堕落な生活を続けてしまった。狩りのことは子供たちに任せっきりで、新たな指示を送ることも、状況を確かめることもしなかった。その必要はないと思われたのだ。

 だから、彼女が異変に気づいた時にはもう5日が経過しており、事態は、すでにのっぴきならないところにまで進行してしまっていたのである。

 おかしい。

 その日、母竜の頭に、そんな言葉がふと浮かんだ。はじめにあったのは正体不明の違和感だけ。ゆっくりと状況を確かめ、ようやく彼女は何がおかしいのかに思い当たった。

 子供たちの数が、少ない。

 狩りから戻ってきた子供たちの影を遠くの空に認めたとき、異様な群れの小ささに母竜は疑問を抱いたのだった。

 母竜は子供たちに波動を送り、全員一斉に、自分の頭上で旋回させてみた。その密度と面積からおおよその数を計算する――結果は、約1300匹。おかしい。はじめの10分の1以下ではないか。そして、子供たちが持ち帰った食料の量も、初日とは比較にならないほど少なくなっていた。

 ――まさか!

 翌日、いてもたってもいられなくなり、母竜は久方ぶりに自らの翼で空に飛び上がった。目指す先は人間どもの都市。確認しなければならない。子供たちに何が起きたのか? その答えは人間の街にあるに違いない。

 小一時間の飛行で第2ベンズバレンに辿り着き、そこで母竜は見てしまった。

 信じられない光景を。

 都市の広場には人だかりができており、そこらじゅうに何か異様なものがうずたかく積み上げられていた。子供たちだ。子竜たちが、首を落とされ、羽毛を抜かれ、すっかり血抜きも済んだ状態で、食肉となって積まれているのだ。

 広場に集まった人間どもは、みな一様に、串焼きの肉に食らいついていた。誰も彼も恍惚の表情。ああ、また人間が硬貨と引き換えに焼き肉を手にした。手際よく肉を配り歩いているのは、威勢のいい女店員と、目つきの悪い小さな子供。

 そしてその喧騒の中心で、額に汗して肉を焼き続けているのは、ねじり鉢巻も似合いの男――

「へい、いらっしゃい!!」

 ヴィッシュであった。

 

 

     *

 

 

 ヴィッシュがやったことは、極めて単純。

 仕留めた竜を食材にして、広場で炭火串焼き屋台を出店したのである。

 はじめは新しいもの好きの酔漢たちが興味を持った。ひとくち食えば「旨い!」と叫ばずにはいられない。そして、そうと聞けば黙ってはいられない食通たちが、この街には何万人と存在するのだ。次第に客が集まりはじめ、串は飛ぶように売れだした。こうなれば後は芋づる式だ。2匹目のドジョウを狙う酒売り、果物売り、ポン引きにスリ、その他もろもろの人間がどこからともなく湧いてきて、またたく間に広場はお祭り騒ぎになってしまった。一夜にしてヴィッシュの屋台は大評判となったのである。

 さて、そこでヴィッシュは、客たちにこんなことを吹き込んだ。

「これは今朝やってきた竜の肉なんだ」

「奴らは大して強くない。2、3人で囲んでしまえば、素人でも簡単に狩れる」

「竜は明日も明後日もやってくるだろう……」

「つまり、捕りほうだいだ!!」

 噂はその夜のうちに街中に広がった。串焼きにありつけたものは、その素晴らしい味わいを力説した。食えなかったものは、まだ見ぬ味わいに無限の想像を巡らせた。

 結果。

 一夜が明け後、再び街に飛来した竜たちを迎えたのは――

 眼を食欲にギラつかせ、手ぐすね引いて待ち構えていた、総勢30万の狩人たちだったのである!

 

 

     *

 

 

 狩りが、始まった。

 人々は竜が街に舞い降りるや、先を争って棍棒で殴りかかった。あっちこっちで血の花が咲き、竜の悲鳴がこだました。

「あっちだー! あっちに出たぞー!」

「逃がすな!」

「ぶっ叩け!」

「おお“神”よ、そっちに逃げた!」

「あわれな“子羊”よ、挟み撃ちだ!」

「ああ……“堕落”した我が身を赦し給え」

「そう言いながら食ってるじゃないか、旨そうに」

「おい、まだ居たぞ!」

「よし囲め!」

「殺せ!」

「引きずり出せーっ!!」

 

 

     *

 

 

 かくして――

 2万匹いた竜の子らは、みるみるうちにその数を減らしていった。

 無論、竜とてただやられっぱなしではなかった。人間の側にも多少の怪我人や死人は出たことだろう。だがそれがなんだというのだ。美食を求める狩人たちにとって、そんなものは瑣末な問題に過ぎなかった。目の前に素晴らしい人参をぶら下げられたこの状態では、“誰か他人が怪我をした”なんていうどうでもいい情報には、誰も興味を示さなかったのである。

 食への欲求は大きいものだ。行く手に肉ひと切れさえ待っているなら、人は相当な地獄にも耐えられる。

 死の危険? それがなんだというのだ。究極の食材を前にしては!

 

 

     *

 

 

『馬鹿な……』

 母竜は、呆然と滞空したまま、弱々しい声で囁いた。

 それから、下から迫り来る殺気に気づき、視線を向けた。何かが地面からせり上がってくる。あれは……

「《石の壁》。」

 カジュの術。その名の通り、分厚い石壁を生やす術だ。なぜこんな魔法を? と疑問を抱いた直後、母竜は人間の狙いに気づいて震え上がった。

 壁の上に誰かが立っている。猛禽のごとき眼光が、噛み締めた犬歯が、そして鞘から半ば抜かれた、太刀の煌めきが、伸び上がる壁を踏み台にして、まっすぐこちらに近づいてくる。

「オラァ!!」

 跳躍と同時に閃いた刃が、ついに、母竜を縦一文字に両断したのであった。

 

 

     *

 

 

 後の世。

 この事件について、ある歴史学者が記録を取りまとめたが、そのとき彼はこう感想を述べたという。

「真に恐るべきは、捕食者たる竜などではない。

 その捕食者さえ捕食してしまう、したたかな人間たち(バッドフェロウズ)のほうであろう」と――

 

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 時は3年前。“企業(コープス)”の尖兵として造られた少女カジュに、突如奇妙な辞令が下る。入学者の1/4しか生き残れぬ悪名高き教育機関。そこで出会った謎の美少年クルス。小さな胸に萌え開く淡い恋心の果て、少女が見出した残酷な真実とは――?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第7話 “ハロー、ワールド。(前編)”

 hello, world.(Part 1)

 

乞う、ご期待。

 



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第7話 “ハロー、ワールド。(前編)”
第7話-01 最悪のクラスメイト


 

 

 生ぬるい溶液に包まれてカジュは目覚めた。

 目新しくもない、いつものことだ。どうせまぶたを開いても、見えてくるのは見慣れた光景。床から天井まで届く柱のような硝子(ガラス)チューブ。内部を満たす淡緑色の溶液。擬似的無重力状態の中、白く浮かび上がる自分の裸体。

 足下の排液口から大きな気泡が吹き出した。気泡はカジュの指を、脚を、腰を、(へそ)を、緩やかに弓なる腹と胸を(くすぐ)り、金色の髪を揺らして頭上へと消えていく。これが来ると溶液が排出される合図。実験終了を告げる鐘。何もかも、いつものこと。

 いつだって代わり映えのない、クロムと硝子(ガラス)と監視の目に囲まれたカジュのセカイ。

 眠たげに半分ばかり持ちあげたまぶたの奥から、カジュは全てを睥睨(へいげい)する。

 溶液が下に吸い込まれ、チューブが天井に巻き上げられ、カジュは濡れた裸足でクロム貼りの床に降りる。股まで伸びた髪が幾つもの房に別れて体に貼り付く。さながらそれは、白いドレスを彩る金糸の縫い取りのよう。

 それらを、横から差し出されたタオルが包み込んだ。さして大きな布でもないが、カジュの小さな身体はその中にすっぽりと収まってしまう。見上げれば、いつもの企業人(コープスマン)が、いつもの笑顔でカジュを見守っている。

「おつかれさま。これでテストシークエンスは全て終了だよ」

「そうなんですか? カジュは次、何したらいいんですか?」

 カジュは自分をカジュと呼び、抑揚の効いた少女らしい無邪気な声で問う。彼女は自分のこの声が嫌いだ。この声のせいでナメられる。企業(コープス)によって計画的に生み出され、計画的に育てられ、計画通りいずれ企業戦士となるべき自分に、そこらの平凡な女子のような声など必要ないのに。といって、生まれ持った声質はどうにもならないが。

 コープスマンが、仰々しく封筒を渡してくれた。

「“ワンフォース”」

「何それ?」

 カジュが眉をひそめながら中を見ると、そこには一枚の命令書。企業は羊皮紙など使わない。徹底した製法研究の結果、羊を育てるより木を砕く方が安上がりになることに気付いたのだ。水にも暴力にも弱い安物のペラ紙。おかげさまで、カジュはタオルで手をしっかりと拭き、髪から滴が垂れないように注意しながら、恐る恐る読まねばならない。

 ともあれ、紙にはこう記してあった。

『カジュ・ジブリール LN502号

 啓示歴(AD)1310年(4)月2日を以て高等教育学校ニ号館への異動を命ず。

 啓示歴(AD)1310年(3)月35日 人事部』

「……はあ。明後日すか」

「急だよねーっ。ま、決算間に合わせギリギリセーフってとこかな、ハハハ」

「高等教育学校って、イロハまでしか聞いたことないですけど。ニ号館って何するんです?」

「学園生活。お勉強さ?」

 彼の答えは、さも当然、と言わんばかり。

「――立派な企業戦士(オトナ)になるための、ね」

 そしてコープスマンは、愛嬌あるウィンクなどしてみせたのだった。

 

 

     *

 

 

 本社から街道を南へ、馬車で揺られること丸一日。企業が運営する高等教育学校は草原を見下ろす小高い丘の上にある。

 丘のふもとで馬車が停まった。荷台の重たい(ほろ)をなんとか(めく)り上げ、まずは放り捨てるように鞄と杖を地面に降ろし、その後に続いて、カジュもぴょん、と飛び降りる。

 (ほろ)付き馬車の薄暗さで慣れた目に、春の陽射しは(まぶ)しいくらいだ。

 頭の上で手を振って、去りゆく馬車に別れを告げる。大きすぎて不格好な背嚢(ランドセル)を背負い、身の丈を越える杖を両手で支え、いつもの半開きの目でカジュは丘を見遣(みや)った。

 緩やかにうねりながら丘を登っていく石畳。その先には飾り気のない塀と門。無意識に、学校の門までの距離を、三角測量で暗算してしまう。数値上は大した距離でもないはずだが、なぜだろう、それが無限にも思えてくるのは。

 《風の翼》あたりで、びゅーんと飛んでいきたいところだが、許可なしに魔法を使うとコープスマンに怒られるし。

 溜息吐いて、しぶしぶカジュは丘を登りはじめた。脚が痛い。息が切れる。全く、肉体というのはめんどくさい。

 道のりの半分ばかりを踏破し、軽く息が切れ始めたころ、カジュは行く先に妙なものを発見した。道ばた、丘から突きだすように立った木の陰で、腰を下ろしてのんびりと風を浴びている人の姿。見たところ、カジュと同じくらいの背丈しかない子供のようだ。男か女かまでは分からないが。

 ――なんで、あんなとこに?

 疑問が頭を過ぎり、それはほどなく興味に変わった。興味は自制に、そして(よそお)われた無関心に。カジュは疲れた体に鞭打って、その子の前を足早に通り過ぎた。挨拶もしないどころか、視線も向けない。気づきもしなかったかのように通過したはず。こちらからは何もしなかったはずだ。

 だが、驚くべき事に――反応が返ってきたのだった。

「こんにちは。いい天気だね。」

 ぎょっとして、カジュは足を止めた。振り返り、声の主を見る。座り込んでいた子は立ち上がり、尻についた草や土を払いのけながら、こっちに虚ろな目線を送っていた。そいつの声には、まるで感情が籠もっていないように聞こえた。平坦で抑揚のない、無風の湖面みたいな声色。

「ボクはクルス。キミ、新入生でしょ。」

「……そうですが何か?」

 クルスと名乗った子供が、無造作に近づいてきた。カジュは反射的に逃げようとして、猫に追いつめられた(ねずみ)のように震え上がっている自分に気付いた。動けない、指一本さえ。クルスがさらに近づく。もう目と鼻の先。なんだろう、この異様な気配。この距離に近づいたというのに、男か女かも判然としない、整いすぎた顔立ち。

 それが美貌と呼ぶものなのだと――自分が見とれているのだと――気付くには、カジュはあまりに幼すぎた。7歳であった。

「授業、明日から。」

「知ってます」

「急いだって、今日はどうせ暇なだけだよ。」

「だからなんだよ。カジュの勝手でしょ」

 いささかムッとした。その憤りがカジュを束縛から解き放ってくれたようだった。馴れ馴れしい男。こちらが丁重に話しているというのに、向こうは初めから友達気取りか。こんな奴ほっといてさっさと行こう、と決めて、カジュは身を(ひるがえ)しかけた。

 それを阻んで再びカジュを釘付けにしたのは、鼻先に突き出されたクルスの握り拳であった。

「遊んでいこうよ。烏野豌豆(カラスノエンドウ)が生えてるんだ。天道虫(テントウムシ)もいる。」

「はあ?」

「星が19個もあるんだ。」

 言って、クルスは拳を開いた。

()きてるんだよ。」

 カジュの背筋を悪寒が走った。開かれた手のひらには、黄色い小さな丸い虫が10匹以上も(うごめ)いていた。迷ったように輪を描いて歩き回るもの。逆さまにひっくりかえって脚をばたつかせているもの。物思いにふけって空を見つめているもの。一心不乱にクルスの指先目指して()い登り続けるもの。

 人差し指の先端に辿り着いた十九星の天道虫が、黄色い甲殻を開いて飛翔した。殻が真っ二つに割れる「がぱっ」という音が確かに聞こえた気がした。虫は飛んだ。一直線にカジュの顔目がけて。

「うっひゃあっ!?」

 思わず悲鳴を挙げて、カジュは逃げ出した。

 彼女は確かめもしなかったが――というより、確かめる余裕もなかったのだが――クルスはその後も、ずっとその場所に立ち尽くしていた。開きっぱなしの手のひらから、せっかく集めた天道虫たちが思い思いに飛んでいっても、それに頓着(とんちゃく)する様子さえ見せなかった。小さな脚を一生懸命ばたつかせて丘を駆け上っていくカジュの背中を、ただじっと見つめていただけだ。

 それが、奴とのファースト・コンタクト。

 第一印象は最悪だ。

 

 

     *

 

 

 ――むかつく。

 ニ号館は学園の片隅に建っていた。大きなクジラを思わせる丸っこいフォルムの中に、教室、寮、食堂、売店、演習場、果ては公園からスポーツコートに至るまで、あらゆる施設がまとまっている。普通に学園生活を送る分には一歩も建物から出なくて良いようにできているのだ。

 学園に到着した翌朝、カジュを含めた新入生はニ号館の大講堂に集められ、そこで入学に先だつ全体説明を受けていた。広い部屋いっぱいに机と椅子が並べられ、同年代の子供たちがそれを埋め尽くしている。その中にあって、カジュはただ一人、ずっと眉間に(しわ)を寄せていた。不機嫌であった。

 理由は簡単。いるのだ。アレが。隣の席に。

 (にら)むようなカジュの視線に気付いたか、クルスが、あのボンヤリとした目をこちらに向けた。カジュは慌ててそっぽを向いた。他に数百人もの生徒がいるというのに、なんでよりにもよって、あんなのと隣同士にならねばならんのか。全くウンメイというものは度し難い。空気読めと言いたくなる。

「まずは入学おめでとうと言いたい。当校のニ号館は一般に公開されていない施設です。この意味がお分かりかな? 君たちは、その全員が我が社の幹部候補ということです。これは引き抜きから諸君を守る手段なのです――」

「なーなー」

 突如、背中をつつかれて、カジュはびくりと体を震わせた。先生たちに気付かれないようそっと振り向けば、後ろには同輩がひとり。その少年の人なつっこいニヤニヤ笑いが、どうにもカジュの気に(さわ)る。

 少年は声を潜めて話しかけてくる。

「オレ、リッキー・パルメット。よろしくっ。キミ、名前なんてえの?」

「いま講話中ですが」

「バレなきゃ平気。ね、キミ、かわいいね。彼氏いるの?」

 ――そりゃどーも。

「死ねばいいのに」

 うっかり、本音と建て前が逆になった。だがリッキーとか名乗った少年は、少々邪険にされた程度ではひるみもしない。こういう――なんていうのだろう――ナンパ行為?にずいぶん手慣れているようだ。

 他にやることなかったのか、情けない、とカジュは思う。こっちが恥ずかしくなってくる。ホラ見ろ、リッキーの隣にいる女の子だって、恥ずかしげに顔を伏せて身をもじもじさせているではないか。

「ねえ知ってる? ニ号館は通称“ワンフォース”っていうんだと」

 ぴくり、とカジュの耳が動いた。

「240人の入学生が、卒業時には60人に減るんだって」

「ふうん……」

 ――それで1/4(ワンフォース)

 これでようやく、()に落ちた。ワンフォース。ここはただの学校ではない。校長が言うところの“我が社の幹部”、コープスマンが言うところの“立派な企業戦士”を、星の数ほどいる天才児の中からさらに選別するための施設なのだ。

 コープスマンは、学園生活だなんて、すっとぼけたことを言っていたが。今さらそんなヌルい扱いを受けるなんてどうしたことか、と不思議だったのだ。

 望むところだった。選別、試験、好きにすればよい。どんな試験であろうと勝ち残るだけの能力と自信を、カジュは既に持っている。

 と、一人で優越感に浸っていると、それが顔に出ていたらしい。気が付けば、隣のクルスがこっちの顔をじっと見つめていた。こっち見んな、と心の中で叫ぶ。その様子が、背後のリッキーからは見つめ合っているようにでも見えたのだろうか。

「え、そいつ、彼氏?」

 ――ありえませんが何か!?

 思わず叫びそうになるが、まだ講話中であることを思い出して自制する。

 そのとき、背筋の凍るような言葉が校長の口をついて出た。

「えー、諸君。張り出された座席表の通りに座っていますね? では、隣の生徒を見なさい。

 それが君のパートナーです」

 ……………。

 ――うそっ!?

 カジュは弾かれたように隣を見た。クルスが相も変わらず、身動きもせずにこっちを見ている。校長の残酷な説明は続く。

「これから一年、君たちは全ての講義、全ての実習、全ての試験をそのパートナーと一緒に受けてもらいます。年度途中でのパートナー交代は一切認められないし、いずれかの脱落はもう一方の脱落をも意味する。

 つまり――君たちはふたりでひとり。一蓮托生、協力しあわねばならないのです」

 ざわめきが大講堂一杯に広がった。カジュはといえば、あまりのことに、馬鹿みたいにぽかんと口を開け、珍しく丸々と目を見開いて、隣のクルスを、唐突に与えられたパートナーを眺めるばかりだった――()()()()()

 にこりと微笑む校長の顔は、生徒たちの反応を見て満足そのものであった。

「頑張ってくださいね。では、よき学園生活を!」

 

 

 

(つづく)

 



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第7話-02 パートナー

 

 

 校長の言葉が皮肉にしか聞こえないカジュにとって、今の状況は苦痛以外のなにものでもなかった。

 それからというもの、クルスはどこに行くにもカジュに付きまとった。講義も実習も、食事でさえもだ。もちろんそれは、やむを得ないことではあった。クルスをパートナーとすることは、それ自体が学校から与えられた課題だ。従わないわけにはいかない。命令には従う。言うまでもなく、カジュは今までそうやって生きてきた。たいがいの無理難題はこなしてきた身の上だ。

 問題は、このクルスという少年が、途方もなく無能で怠惰でちゃらんぽらんだったことである。

 クルスはしばしば、授業をサボろうとした……というより、開始時間を忘れて遊びほうけた。遊ぶと言っても、外の草むらや木の下に、ぼんやりと立つかしゃがみ込むかして、虫や草を見つめているだけ。一体何が楽しいのやら、全く得体(えたい)が知れない。カジュは彼の姿が見えないことに気付くたび、大慌てで学園中を駆け回り、彼を見つけ、首根っこを引っ(つか)んで教室へ引きずっていかねばならなかった。どうしようもなく時間が差し迫っていて、こっそり魔術を用いて――()()()()! このカジュが!――捜索したこともある。

 その上、教室でのクルスは、たいてい黒板を虚ろに眺めているか、カジュの横顔をじっと見ているかのどちらか。あれで講義が耳に入っているのかいないのか。ノートを取っている姿を見たこともない。実際、聞いちゃいなかったのだろう。先生に質問されても、彼の答えは決まって見当外れだった。やがてカジュは、彼が当てられると、大慌てでノートに正解をメモして、そっと彼の前に差し出す習慣を身につけた。おかげでクルスも優等生扱い。カジュと並んで。

 何よりひどかったのは実習の時である。魔法陣を書くための砂、石盤とチョーク、補助のために支給された杖や封霊器(ほうれいき)、実験用の多種多様な硝子(ガラス)器を、いつも物珍しそうに手の中で(もてあそ)ぶだけ。ひっくり返し、覗き込み、触り、時には舐め、まるで赤ん坊のように物に興味を示す。だが実習の準備や手順を進めることは一切出来ない。たぶん予習もしてきてない。というよりむしろ、そうした器具を見るのも触るのも存在を知るのも、これが初めてに違いない。

 何たる素人!! 今までの7年間何をやってきたのか! 7歳にもなれば、魔導書(グリモワ)の百や二百は読んでいるのが普通だろうに!

 (4)月、(5)月。春が過ぎ去る。(6)月。(7)月。夏がやってきた。カジュは溜息を吐くことが多くなった。

 このままではダメだ。なんとかしなければならなかった。卒業時、3/4の方に入るわけにはいかなかった。

 ならばやるしかない。パートナーが役立たずなら、自分ひとりでなんとかするのだ。

 カジュは努力に努力を重ねた。勉強に勉強を重ねた。自由時間を削り、睡眠時間を削り、食事の時間さえ切りつめて、体力の続く限り頑張った。

 それなのに。

 ああ、それなのに――

 

 

     *

 

 

 転機が訪れたのは、(7)月の末、第二次中間試験の結果発表のときのことだった。

 廊下に張り出された順位表……120組240人分の成績が、上から順にずらりと並んだ大きな貼り紙。生徒達はそこに群がり、競って自分の順位を確認していた。人垣の中からは大いなる悲鳴が、そしてごく希な歓声が聞こえてくる。カジュは人々を掻き分けて前に出ると、恐る恐る、自分と……クルスの名前を探した。

 第104位。全120組中。

 セカイが消え去った。

 カジュは人混みの中からはじき出され、ふらつきながら、やっとのことで廊下の窓際までたどり着くと、糸の切れた人形のように床にへたりこんだ。茫然。未体験の低評価。カジュはずっと頂点を走ってきた。どんなグループに放り込まれても、その中で常に他を圧倒して生きてきた。なのに今――

 順位が三桁だと。

 上から数えて86.7%だと。

「……死ねばいいのに」

 ぽつりと、本音を漏らした、ちょうどその時だった。

「いよっしゃあああああああっ!」

 (かん)(さわ)る脳天気な声が聞こえてきた。ぱたぱたと足音が近寄ってくる。見るまでもない、明らかにリッキー・パルメットだ。カジュは体に残った気力を振り絞って、杖にすがりつくようにして立ち上がった。いかにショックを受けようと、あんな奴に弱みを見せるつもりはなかった。

「よおっ、カジュ! 見て見てオレ! 9位ィ~ッ! トップテン入りィ~ッ!」

 百兆歩(ゆず)って自分の成績が悪かったのはいいとして、こいつに負けてると思うと納得がいかない。空気も読まずハイテンションなリッキーを睨む。彼は隣で身をすくめていた女の子の肩を、がしっと力強く抱き寄せた。おかげでますます女の子が恥ずかしげにうつむき、体を小さくしてしまう。

「オレたち頑張ったもんな! なっ、ロータス!」

「あう、あ……え……んっ……」

 ロータス、とはこの女の子の名前だ。入学式のとき、リッキーの隣に座ってもじもじしていた、あの気の弱い子だ。まともに喋ってるのを聞いたことさえほとんど無いが、魔術の才能はなかなかのものがあり、カジュも一目置いている。リッキーにはもったいないパートナーである。

「やっぱ努力すりゃ成果ってのは出るんだな、うんうん」

「カジュだって努力したよ!」

 思わずカジュは絶叫した。

 ここ数ヶ月の、血の滲むような努力が思い起こされた。休みたくても、遊びたくても、カジュは我慢して頑張ってきたのだ。なのにその結果がこれか? その報いがこれか? この学校の誰よりも豊富な知識と高い計算力と正確な技術を持っている自信があるのに。なのにどうして結果が出ない!?

 情けなくて、悔しくて、涙が溢れそうになる。泣かずに済んだのは、ただ、意地の為せる技。泣いてどうなる、涙を見せて何が変わる。自分を戒める強靱な意志が、挫折という名の最後の一線を越えることを、カジュに許さなかった。

 だがリッキーは……あの腹立たしい軽薄な男は、さも当然のように、不思議そうに、こう言った。

「いや、お前努力してねえじゃん」

 ――何?

「あ、いや、勉強は頑張ってるけどさ。すげーと思うけど……ここに集められた以上、オレらだってそれなりに天才児なんだぜ? 2対1じゃ勝ち目ねーだろ?」

 カジュは後ずさった。

 代わりに一歩踏み出したのは、さっきまでリッキーの隣でもじもじしていた、あのロータスであった。

「あっ、あの……クルスくん……待ってる、と思……から、あの……」

 カジュは、逃げた。

 小さな脚をぱたつかせて、必死に廊下を走って逃げた。分かっていた。本当は分かっていた。だからリッキーにああ言われても、何も言い返せず、受け入れてしまう。自分のやり方が間違っていることくらい分かっていた――だって、カジュは、天才だ。

 本当は。

 本当は、怖くて。

 カジュは走りながら指先で魔法陣を構築する。

 《広域探査》。発見まで32ミリ秒。楽勝だ。

 

 

     *

 

 

 カジュが息を切らせて辿り着いたとき、クルスはいつものように校庭の草むらにしゃがみ込み、じっと花を見つめていた。カジュはしばらく彼の背中を見つめて立ち尽くし、息が整うのを待った――いや、実際には、声を掛けづらくて躊躇(ためら)っていただけか。

 やがて覚悟を決めると、カジュは彼の背に声を掛けた。

「クルス」

「いいところに。ねえカジュ、今、精霊飛蝗(ショウリョウバッタ)がおんぶして……。」

 クルスは立ち上がった。あの虚ろな目を、(たぐ)(まれ)な美貌をこちらへ向けた。もうカジュは慣れていた。彼に見られても、身をすくめることもなければ、悲鳴を挙げて逃げ出すこともなかった。

 彼がこちらへ腕を伸ばした。手のひらに乗っていたオンブバッタが、ぴょんと跳んでカジュの服にしがみついた。黒いビーズ玉みたいな目が四つ、カジュをじっと見上げている。細いススキの穂みたいな触角が、それぞれゆっくりと8の字を描いている。カジュは優しく手のひらでバッタを包み、服から引き離すと、草むらに放ってやった。バッタは草むらの緑に溶けて、自分の世界へ帰って行く。

 初めて会ったときとは違う。物怖じしている暇などない。カジュにはやらねばならないことがある。

「今日、放課後、カジュの部屋に来て」

「なんで。」

「勉強。教えたげる」

「え。」

 クルスが、珍しく表情を変えた。

 初めは、驚き。そしてやがて、微笑み。嬉しそうな、本当に心躍る何かに出会ったような、そんな笑顔。カジュは心臓が爆発しそうになるのを感じていた。見たことがなかった。これまで7年の人生で、誰もこんな笑顔をカジュに向けたことは無かった。笑顔というのは人間関係を円滑にするための道具だ。それが常識だ。

 違うのだ。クルスは、そうではないのだ。

 そしてこの笑顔を誘発したのが、他でもない、カジュ自身であるという事実が、頭の中でぐるぐると渦を巻いた。その事実が何を意味するかも、なぜ自分がそんなことに衝撃を受けているかも、カジュは気付いてはいなかったが。

「必ず行くよ。ありがとう、ボクのために。」

 腹の底から怒りが爆発して、カジュは頭の天辺(てっぺん)まで真っ赤になった。

「お前がヘボいとカジュが困るんだよ! ばかッ!」

 まるで《火焔球》の術のように、怒りの形相で、肩肘張って、がに股に去っていくカジュ。その背中が見えなくなるまで、あるいは見えなくなった後も、クルスはじっと見つめていた。その光景は、初めて会ったときとそっくり同じ。

 いや。同じに見えて、ちょっとだけ、違う。

 

 

     *

 

 

 こうしてカジュとクルスの奇妙な師弟関係が始まったが、カジュを驚かせたのは、彼が思いのほか出来のいい弟子であることだった。カジュが手ずから教える知識や技術を吸収することは、まるで水を吸うスポンジのよう。

 半月でみっつの言語をあらかたマスターした。さらに半月で基礎的な魔術式を残らず把握した。計算力こそかなり劣るものの、呪文の文法構造と単語の活用から神への敬意度を計算する、恐ろしく複雑な偏微分方程式も理解した。これは非常に重要なことだ――強力な術になればなるほど、神への敬意度を間違った際の反動が大きくなる。僅かな活用形のミスで、幾人の一流術士が命を落としたことだろう。

 何より恐ろしかったのは、実際に呪文を構築する際、クルスがしばしば文法的ミスを犯すことであった。立ち会っているカジュのほうがぎょっとする。反動を消すために慌てて防御の術を構築したことも、一度や二度ではない。だというのに彼は一切動揺を見せず、アドリブで後半の文法や単語を組み替え、呪文を唱え終わった時には、敬意度の誤差を有効数字5桁以内に抑えてしまう。これはほとんど神業である――にもかかわらず、

「一体どうやって計算したの?」

「なんとなく。」

 これだから、カジュはもう舌を巻くしかない。

 つまり彼は、ハナから計算などしちゃいないのだ。魔術式も、エギロカーン方程式も、全部腹の底から理解している。計算などするまでもなく正しい答えを導き出せるほどに。人が意識せずとも息を吸って吐けるように。鳥が何も考えずとも空を飛べるように。

 本物の天才、というものに、カジュは初めて出会ったのだった。

 解せないのは、これほどの才能を持った奴が、なぜ今まで(くすぶ)っていたかということだ。ある日、勉強の合間にカジュは直接問いただしてみた。

「ねえ。今まで勉強してなかったの?」

「してたよ。でも、どうでもよかった。」

「どうでもよくないでしょ。カジュたちは企業(コープス)に生かされてんだよ。成績悪かったら処分されちゃうんだよ?」

「どうでもいいなあ。」

「変な奴」

 クルスは笑った。彼は最近、よく笑うようになっていた。カジュは溜息を吐くことが少なくなった。彼の笑顔に、いちいち動揺することもなくなった。しかし、

「でも今は、勉強が好きだよ。」

「なんで?」

「カジュが教えてくれるから。」

 さすがにこれには参った。カジュが背嚢(ランドセル)でクルスの頭を激しく殴打し、逃げるように部屋を立ち去ったのは言うまでもあるまい。

 いずれにせよ、クルスはめきめきと力をつけていった。ふたりの評価も、最悪の状態から、徐々に高まっていったのである。

 

 

     *

 

 

「LN量産機たちの調子はどうです?」

 校長室のソファにどっかりと背中を預け、にこにこ笑顔を貼り付けたまま、コープスマンが訊ねた。向かいの校長が茶をすする。彼もまた、能面のような笑顔を相手に向けている。立派な企業戦士(オトナ)たちの対峙であった。

「さすがにジブリール・タイプは優秀ですね。噂になるだけのことはあります」

「とはいえ、アレは魔王血因子(デモンブラッド)を組み込んだ第一世代、いわば実験モデルに近いものですから。ま、使えるものは使っとけ、てなもんでしてね」

「つまり不安定性を心配していらっしゃる?」

「そういうことです。120体のうち、一体どれだけが使い物になるやら……問題があれば、僕が技術部に伝えときますよ。きっと新型には反映されるでしょう」

 言って、ずずっ、とコープスマンは茶をすすった。

「いやあ、美味しいお茶ですなあ♪」

「山が近いでしょう? 雪解け水が湧くんですよ。今年ももうじき、一面の銀世界になります」

「羨ましい、いい環境だ。今から楽しみですよ」

「というと、(2)月の最終試験には立ち会われる?」

「そのつもりです。ですので」

 楽しそうに、コープスマンは言った。

「そこらへん、も少し詰めて打ち合わせましょうか」

 

 

 

(つづく)

 



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第7話-03 生徒消失

 

 30組60人が消えた。

 (12)月の初頭。最終試験を3ヶ月後に控えた、肌身を削り取るような寒気の差し込む朝のことだった。240名いた生徒の内1/4にあたる60人が、学校から忽然と姿を消した。

 異様であった。寮の部屋には荷物ひとつ残っていなかった。いつ、どこへ行ったのか、見た者は誰もいなかった。先生に尋ねても曖昧に微笑むばかり。何より他の生徒たちを――カジュも含めて――戦慄させたのは、彼らが消えたのが第四次中間試験の翌日であったということ。消えた面々が、成績の下位から数えてきっかり30組であったということ。数日後、何事も無かったかのように張り出された成績表からは、彼らの名すらも消えていたということ。

 集団脱走――などと思う生徒はひとりもいなかった。

 きっとどこか他の学校か部署へ異動させられたのだ、成績に応じたどこかへ。表向き、そういうことで誰もが納得した。

 だが噂はまことしやかに流れた。

 彼らは異動させられたのさ、《死》の国へ――と。

 思えば、ここに至るまで、ニ号館の生徒たちは考えた事もなかったのだ。1/4(ワンフォース)は分かる。選別された彼らは優遇され、企業の将来を担うのだろう。では、残る3/4は? 無能と断じられた人々は――何処へ?

 寮の部屋で、いつもの勉強机に(かじ)り付き、しかしカジュの勉強は全く進んでいなかった。冬服を着込んで、雪うさぎのようにもこもこと膨らんでいるにもかかわらず、体の震えが止まらなかった。恐怖。それもまた、カジュにとっては初めての感情。

 そこへクルスがやってきた。いつもの、何も感じていないかのような無表情で。

「勉強、しよ。」

「うん……」

 カジュは生返事を返したが、手はペンひとつ握れなかったし、魔導書のページひとつめくれなかった。

 ただならぬ彼女の様子に、クルスが首をかしげる。

「どうしたの。」

「知ってるでしょ? 同級生が消えたんだよ」

「処分されたんだね。」

 ぞっとして、カジュは彼の顔を見た。彼の表情には、恐れも憐憫(れんびん)も同情も、何も浮かんではいなかった。どうでもいい。いつか彼自身がそう言った。今は、虚ろな目の光が、平坦な眉が、整いすぎた顔が、はっきりとそう告げていた。言葉はなくとも。

「何とも思わないの?」

「思ったより早かったと思ったよ。最終試験でまとめて削るんだとばかり。」

「え……」

「キミたちにプレッシャーをかけるつもりなんだと思う。」

「そうじゃなくて! 怖くないの!? カジュたちだって……!」

 椅子を蹴って立ち上がり、カジュはクルスに食ってかかった。苛立ちと恐怖を八つ当たり気味にぶつけてしまっているのは分かっていた。しかし、そうでもしなければ、どうにかなってしまいそうだった。怖くて、胸が苦しくて――

 だがクルスは、落ち着いて、優しく、カジュを抱きしめた。

 突然のことに、カジュは驚きすら覚えられないほど驚いた。嫌がるとか、突き飛ばすとか、そういうそぶりを見せることさえ忘れて、ただ彼のからだの暖かさがありがたくて、抱かれるままに彼の胸に耳を擦り寄せた。

「大丈夫。怖くなんかないよ。」

「カジュは怖いよ……」

「怖くないよ。だって、どうせすぐ死ぬもの。」

 カジュは、彼の胸を突き飛ばすようにして、彼から離れた。

「なんだそれ?」

「誰にだって《死》は訪れる。《死》は怖いお(かた)ではないよ。

 死ぬまでの僅かな時間で、自分のやりたいことを成し遂げられたら、それでいい。ボクはそう思う。」

「そんな理屈で怖くなくなったら苦労しないよ!」

 ときめいて損した。カジュはどっかりと椅子に腰を下ろした。こんな奴に心を許してしまった自分に腹が立つ。腹が立つと、なんだか無性に勉強したくなってきた。要するに、勝てばいいのだ。1/4(ワンフォース)に残れば、何も心配なんて必要ないのだから。

「ほら、座って! さっさと始めるよ!」

「うん。今日は修辞的疑問文の係数計算を復習したいな。」

「おっけ。カジュも気になってたとこ」

 しばらくの間、部屋の中はペンを走らせる小気味よい音と、ふたりの息づかい、そして時折交わされる議論の声だけに満たされた。たっぷり夕暮れまで勉強を進めて、疲れ果てたふたりは小休止をとった。

 その時、ふとカジュの頭に疑問が浮かんだ。さっきの話で、どうしてもひとつ、心に引っかかることがあったのだ。

「ねえ」

「なに。」

「クルスはさ、やりたいことって、あるの?」

「あるよ。」

「何?」

「ひみつ。」

 思いっきりジト目で睨んでやった。クルスは気にしてもいない。軽く微笑んだだけだ。

「そういうカジュは、何がやりたいの。」

「え? えーっと、それは」

 沈黙。

 天井を見上げ、腕を組み、考えふける。

 その答えもでないまま、外では、降り始めた雪がセカイを真っ白に染め始めていた。

 

 

     *

 

 

 それから半月余り。死月も半ばを過ぎた。生徒消失事件について口に上ることもなくなった。忘れられたわけではない。仮説が一通り出そろい、決定的証拠の不足から結論を出せないことが明らかとなり、議論の価値がなくなっただけの話だ。

 あの事件の記憶そのものは、あらゆる生徒の心に(くさび)となって差し込まれていたことだろう。誰だって、処分なんてされたくないのだ。

 そんな折、新たな事件が起きた。

 リッキー・パルメットが消えた。

 午前の授業にリッキーが出席していないことが、ちょっとした騒ぎになった。先生たちは(ただ)ちに騒ぎを静め、何事もなかったかのように授業を始めた。だが水面下でリッキーの捜索が行われていたことは明白だった。時折見え隠れする捜索班の姿や、最新の魔導理論を講義する先生の微妙な表情の変化が、事態の重さを物語っていた。

 熱心な捜索の甲斐もなく、昼休みになっても彼の姿は学園のどこにも見出されなかったようだった。昼食を手早く済ませたカジュとクルスは、自分たちでもリッキーを探してみようと、校舎の中をうろつき回った。

 その途中、廊下の角を曲がりかけたところで、出くわしたのだ。その場面に。

 職員室前で、壁に手を突き、今にも倒れそうになりながら、ロータスが必死に何事かを先生に訴えていた。彼女の顔面は蒼白だった。体調を崩している――それもかなり深刻に――のは、誰の目にも明らかだった。

 何も考えずそちらに近づこうとするカジュの腕を、クルスが引っぱった。ふたりは曲がり角の手前に身を隠し、密かに話を盗み聞いた。

「リッキーは……わ、わた、わたしを……助けようと、モノモ草を……山に……!」

 モノモ草。薬草の一種である。かなり標高の高い山にしか生えない多年草で、その葉や実には生命の魔力が満ちている。昔から万病に効く薬とされてきたが、今では似たような成分が合成できるようになり、少なくとも企業(コープス)では使われていない。

 つまるところ、ロータスが病気になり、それを治すべくリッキーは山に入ったのか。それも、この真冬の雪山に! カジュは窓の外を見た。朝から降り出した雪は吹雪の様相を(てい)し始めていた。案の定、遭難してしまったというわけだ。あのあほう。

 それにしても、医務室に行けばちゃんとした治療が受けられるだろうに。なんでわざわざ、雪山に薬草取りなんか行くのやら。

「……なるほどね。」

 だが、隣のクルスは納得したようだった。カジュには、彼の得心(とくしん)のわけがよく分からなかった。

 その時、黙ってロータスの話を聞いていた先生の声が、こちらに漏れ聞こえてきた。

「残念だが、この吹雪では捜索隊は出せない。二次遭難の危険のほうが高い。リッキー・パルメット君のことは諦めると、職員会議で結論が出た」

「そんな……! あの……!」

 先生はすがりつくロータスを振り払い、冷たく職員室に入っていった。ぴしゃりと戸が閉められた。ロータスは力尽き、その場にくずおれた。慌ててカジュたちが駆けよる。彼女を抱き起こそうと体に触れると、その肌は火のように熱い。

「……これ、やばくね?」

「限界なんだ。」

「は?」

「技術部がいい加減な仕事をしてる……。彼女の部屋に運ぼう。」

「それより医務室でしょ?」

「無駄だよ。診てくれないから。」

 クルスは無言でロータスの脇に腕を通した。彼に促され、カジュも反対方向から同様にする。ふたり力を合わせてロータスを担ぎ上げ、廊下をゆっくりと歩き出す。歩きながら、ぽつりとクルスは呟いた。

「助けに行こう。」

 ふんっ、とカジュは鼻息吹いた。

「あったりまえだよ」

 

 

     *

 

 

 意識を失ったロータスを部屋に寝かせ、ふたりは二号館の屋上へ飛び出した。吹雪がふたりの前に立ちはだかる。だからどうした。こっちはカジュだ。

 カジュは杖を天に掲げ、指先で魔法陣を描き、圧縮呪文を口にする。最速最精密の呪文構築。完成まで僅か1秒。

「《広域探査》……ビンゴ!」

 人など他にいるはずもない雪山だ。リッキーの居場所を探り当てるのは造作もない。それは確かにそうなのだが、横のクルスが微笑むのを見ると、なんだか腹が立ってくる。()()()()()でこんなに探査系の術が得意になってしまったと思っているのやら。

 そのうえ、まるでこっちの考えを読んでいるかのようにクルスが言う。

「サボってるボクを探すのに比べたら楽勝だよね。」

「自分でゆうな」

 と、彼がいきなり、カジュを後ろから抱きしめた。吐血するかと思った。

「うへおあぁ!? なにっ!?」

「大丈夫、ボクに任せて。」

 クルスが早口に呪文を唱えた。《風の翼》だ。クルスの術が発動し、ふたりの体は空に舞った。雪に阻まれ視界も定かならぬ冬の空へ。こんな状態で飛んだら顔中雪だらけになってしまうかと思ったが、不思議なことに、雪は彼らの体に当たる直前に、見えない壁にぶつかって蹴散らされていく。

 どうやら彼の術にはアレンジが入っていて、体の周囲を結界で包んでいるらしい。いつのまにこんな術を組み立てたのやら――というより、よもや、今即興で考えたアレンジではあるまいな。なにしろアドリブ好きで無計画な男なものだから。

 ともかくこれで、雪山までひとっ飛びだ。視界がホワイトアウトしようが関係ない。カジュが術でリッキーの居場所を探知し続け、クルスをナビゲートすれば済むこと。カジュは真っ白な空の一点を指さし、

「あっち!」

「分かった。」

 背筋がぞわぞわした。

「うひっ! ちょっと、喋らないでくれる?」

「なんで。」

「息が変なとこあたる……」

「変なとこって。」

「だから喋るな! 分かってやってんでしょ!」

 やいのやいのと騒ぎながら、ふたりの姿は吹雪の中へ消えていった。

 

 

     *

 

 

 ほどなくして、リッキーは山頂付近の崖下で見つかった。

 岩場に倒れ、体の半分ばかりを雪で覆われた状態で――危険な状態なのは一目で分かった。ふたりは慎重に舞い降りると、リッキーの側に駆けよって彼の体を揺すった。耳元で声を張り上げる。うっすらと、リッキーがまぶたを開いた。

「カジュ……クルスもか……」

 意識はあるようだ。まずは良かった。カジュはニヤリと笑って、

「貸しだからね。後でプリン、オゴってね」

「ダメだ……オレ、もうダメだよ……」

「弱気になったら本当に終わるよ。」

 クルスの助言も、弱り切った彼には通じないようだった。リッキーは残る力を振り絞って、右手をカジュの方に差し出した。手にはしなびた草が握られている。特徴的なギザギザの葉――裏に生えた短い毛で類似の毒草と識別できる――間違いなくモノモ草だ。

「頼む……これ、ロータスに……」

「嫌だね。生き残って、自分で渡しなよ」

「はは……きっびしいなあ、お前……」

 とは言ったものの、どうしたものか。空模様は酷くなる一方。吹雪は今や嵐へと姿を変えていた。自分ひとりならともかく、とても他人を抱えて飛べるような状態ではない。リッキーの魔力は尽きかけているし、ここで夜を明かすのも危険。となれば。

 カジュはクルスに目を向けた。

「《瞬間移動》で校舎に送ろう。そのあとカジュたちは《風の翼》で帰ればいい」

「手伝うよ。」

「うん」

 ふたりは指を走らせ、リッキーの体を中心にして魔法陣を描き始めた。青白いカジュの魔力光と、赤いクルスの魔力光が、絡まり合ってひとつの紋様を紡いでいく。《瞬間移動》は大技だ。ここから校舎まで人間ひとりを転送するとなると、独力では気絶ギリギリまで魔力を消費してもなんとかいけるかどうか、というところ。しかし、ふたりがかりでなら安定して術を構築できる。

 やがて魔法陣は完成した。あとは術を発動するだけ。

 だが、その瞬間。

 カジュたちの頭上で、低い獣の唸りのような音が響き渡った。

 見上げれば、山が――山肌が落ちてくる。

 雪崩である。

 術は発動直前。今、主術者のカジュが持ち場を離れれば何が起きるか分からない。クルスは反射的に陣を離れ、カジュを(かば)うように立ちはだかった。その一瞬、言葉ひとつ、目配せひとつなくとも、ふたりは完全に意志を共有した。カジュは《瞬間移動》を完成させる。そして雪崩は、クルスが防ぐ。

 雪の怒濤がふたりに迫る。それが小さな子供達を飲み込む直前、クルスの術が発動した。

「《石の壁》。」

 ずどんっ!

 地面から巨大な石壁が天高くつきだした。だがこの程度で雪崩の勢いは防げない。そこへさらに次の術。

「《凍れる刻》っ。」

 一定範囲の時間を停止させる大技。対象は、いま立てたばかりの《石の壁》。

 時間停止した物体は、術の効果時間が切れるか解除されるかするまで、一切動けなくなる。本来は対象の動きを封じるための術である。だが一切動けないということは、一切()()()()()()ということでもある。自然の脅威の前には紙切れ一枚に等しい《石の壁》も、《凍れる刻》を重ねがけすれば、何物にも崩せない完全無欠の盾となる。

 雪崩が壁に激突し、白い飛沫を上げて弾け飛んだ。

 

 

     *

 

 

 ほどなくして、雪崩の音が完全に収まり、あたりを包んでいた白い粉雪が晴れてきた。どうやら助かったようだ。とはいえ、すぐにこの場を離れねばならない。《凍れる刻》の持続時間は短い。もはや効果は切れている。彼らを守ってくれた《石の壁》が、いつ、積み重なった雪の圧力に耐えかねて崩れ落ちるか、分かったものではない。

 クルスはカジュの方に目を遣り、目を見開いて、彼女に駆けよった。

 リッキーの姿はもはやない。《瞬間移動》は成功したようだ。

 だがカジュは、雪の中に力なく倒れ、身動きひとつしていなかった。

 (ひざまず)き、脈を取り、呼吸を測る。生きている。しかし呼吸は浅く、脈は遅く、体温が急速に失われつつある。

 明らかに、魔力枯渇の症状であった。

 

 

 

(つづく)

 



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第7話-04 最終試験

 

 優しい温もりに包まれてカジュは目覚めた。

 体が重い。指一本持ち上がらない。ああ、色々()()()()な、とカジュは察した。

 回らない頭を無理に回して、意識を失う前に起きたことを思い起こした。そう。リッキーを助けた。その仕事は完璧にやり遂げた。楽勝だ。だが、途中でクルスが儀式を抜けて、雪崩を防ぐ方に回ってしまったために、魔力の負担はカジュひとりに集中することになって――

 クルス。

 クルスは、すぐ側にいた。

 膝を抱えて、カジュをじっと見つめたまま、座り込んでいた。

 あたりは洞窟のようだった。いや、違う。自然洞窟にしては不自然に壁面がなだらかだ。おそらく《暗き隧道》の術で人工的な洞穴を造り、その中に逃げ込んだのだ。

「カジュ、大丈夫かい。」

「生きてるよ……多分ね」

「ごめん。ボクが途中で抜けたから。」

「何言ってんの。助けてくれたんでしょ」

 一言声を出すごとに、疲れが鉄の塊となってのし掛かってくるようだ。体が重い。胸が重い。肺と心臓が、徐々に働くのを嫌がりだしたのが分かる。不思議な暗いもの、ずっとどこかにわだかまっていたものが、気力を無くした心の空洞に吹き出してくるようだった。

「カジュ、死ぬのかなあ……?」

 クルスは何も言わない。

「死んじゃったら、言えないから、いまのうちに言っとくね。

 ありがと。

 カジュ、今まで誰かと一緒に勉強とか、したことなかったから……楽しかったよ」

 あるいは、何も――

「もっと、一緒に、したかったなあ……」

「ねえ、カジュ。」

 クルスは微笑みながら言った。カジュは気付いた。彼の微笑みの奥に、身を引き裂かれそうなほどの懊悩(おうのう)があることを。悩み、苦しみ、その末にようやく下した決断があることを。

「いつか訊いてたよね。ボクのやりたいこと。」

「うん……」

「見せてあげる。」

 言って、クルスは、懐から取り出したナイフの先端で、人差し指の腹を裂いた。

 血が、泉のように湧き出した。

 緑色に淡く輝く異形の血が。

「うそっ……それ……」

 見覚えがあった。淡緑色の溶液。生命の魔力に満たされ、呼気を、栄養を、媒介するもの。かつてカジュは何度となくそれを浴びた。飲んだこともある。学園に来る前、巨大な試験管の中で毎日のように体を調べられていた頃、カジュの体を常に包んでいたあの生ぬるい溶液だ。

 魔力溶媒。モノモ草と同じ成分を持つ、人工的に合成された物質。

 そんなものを血液の代わりに循環させているものが、ただの人間であるわけがない。

「“小さき者共(ホムンクルス)”……!」

「そう……ボクらは造られたもの。キミたちのパートナー――いや、課題となるために。」

「え……」

「二号館に所属する240名のうち、本物の生徒は半数だけだ。残り半分はホムンクルス。生徒にはひとりに一体ずつ“パートナー”の名目でボクらが与えられる。ボクらといかに協力するか、ボクらをいかに利用するか、ボクらをいかに成長させるか。それがキミたちに課せられた秘密課題のひとつだったんだよ。」

 クルスは苦笑した。今まで見せたことのない表情だった。

 初めて見た。彼がこんなに、怖がっているところを。

「ごめん。キミを(だま)して、友達(づら)をしていた……。」

「ばーか」

 思いっきり。

 全力で。渾身の力を籠めて。もうこれで死んでもいいってくらい命も魔力も体力も気力も振り絞って。

 カジュはクルスを睨んでやった。

「キミはカジュの友達だよ」

 それっきり、クルスの懊悩(おうのう)は雲散霧消してしまった。もはやクルスは迷わなかった。緑色の溶液に濡れた指を、そっと、カジュの口許へと差し出した。

「ボクの命を君にあげる。」

 ほんの少しだけ、カジュはためらい、やがて恐る恐る、彼女は舌を伸ばした。舌先でくすぐるように、彼の指をなぞった。微かな痛みが電流のようにクルスの背筋を震わせた。

 溶液がたどたどしい舌の動きに導かれて、カジュの喉へ、彼女の中へと伝い落ちていった。やがて言いようもない歓びが二人を突き動かした。カジュは口いっぱいに彼の指を含み、狂ったように舐めしゃぶった。他には何も要らない。この瞬間、必要なのはこれだけだ。絡み合う舌と指、とめどなく溢れ出る溶液と唾液、二人は混ざり合い、一つとなり、夜の帳の奥底で、誰も知らない秘密の場所で、その行為は尽くことなく繰り返された――

 一夜は時として、生涯全てにすら匹敵する。

 何も知らない子供同士。

 とはいえ、愛だけは知っていた。

 

 

     *

 

 

 その翌朝、天候が回復するのを待って、二人は《風の翼》で二号館へ帰還した。空から舞い降りる二人をいち早く発見したのは、医務室で手当を受けていたリッキーだった。彼は散々にわめき立て、医務室職員に抱えられるようにして校庭へ出てきた。ロータスも一緒であった。モノモ草の甲斐あってか、彼女は自分で歩けるまでに回復していた。

 彼らは抱き合って無事を喜んだ。特にリッキーの感謝たるや並大抵のものではなかった。ほとんどカジュにすがりつくようにして泣きじゃくった。自分が助かったのが嬉しいのか。あるいは、ロータスが助かったのが嬉しいのか。

 ロータス。彼女もまた、クルスと同じホムンクルスなのだ。ゆえに医務室では彼女を診てもくれなかった。所詮、彼女は備品に過ぎないというわけか――

 全てがまるで、悪い夢でも見ていたかのよう。

 体力が回復するのを待って、カジュとクルスは授業に復帰した。数日の勉強の遅れなど、彼女らにとっては問題とさえも言えなかった。

 それより気になったのは、先生たちから――つまり企業(コープス)からのお(とが)めが一切ないということだった。勝手に学園を抜けだし、勝手に魔術を使いまくり、処分されてもおかしくないだけの規定違反をしたはずのカジュたちを、処分、訓告はおろか、事情聴取さえしようとしなかった。

 なんとも不気味であったが、音沙汰がないものに怯えていても仕方がない。

 やがてカジュたちは日常に戻った。最終試験まで、残すところ二ヶ月半。

 カジュとクルスは一層勉学に励んだ。最近では、クルスがカジュの部屋に泊まり込みで一緒に勉強することも珍しくなくなった。時には朝まで一睡もせず、熱心に議論を交わすこともあった。結果、意見が分かれて大げんかになることも。しかしその翌朝、ふたりで一緒に朝ご飯を食べていると、きまって頭がすっと澄み切ってきて、意見の相違を解決する画期的なアイディアが浮かぶのだった。

 それでも、試験対策は万全、とは言えない。むしろ、勉強すればするほど、不安はどんどん膨らんでいく。

 これでいいのか。これで本当に充分か。怯え、無理をしそうになるカジュを、クルスはたびたび制してくれた。無理は長続きしない。長続きしなければ意味がない。クルスがいれば、カジュは冷静でいられる。子供みたいにワタワタしない。落ち着いて、目的と手段を見極められる。

 本当に、1/4(ワンフォース)に生き残れるのか――その不安が黒い雲のように立ちこめる最後のときを、二人は支え合い、歩んだ。

 果たして最終試験の日はやってきた。その日どんな試験が課され、それにどう答えたのか、カジュはさっぱり覚えていない。たぶん、ただただ、夢中だったのだ。

 その後はただ、クルスと並んでベッドに仰向けになり、天井をじっと見つめていただけ。

 一方で、数日後、壁に張り出された最終試験の順位を見たときのことは、カジュの記憶にはっきりと焼き付いている。順位表の前には人だかりができていた。同級生の中でも背の低い方だったカジュには、背伸びをしても表の全体を見ることは適わなかった。だがそんな必要はなかったのだ。クルスが無言で指さした先は、垣根を作る同輩たちのはるか頭上。背伸びなんかしなくたって、誰にでも見える場所。

 一番上。

 喜びの余り、カジュは、奇声を上げて隣の誰かに抱きついた。人垣を作っていた生徒たちが一斉にこちらに目を向けた。抱きついた相手がクルスなのだと気付いたのは、このときだった。反射的にカジュは彼を突き飛ばした。彼は尻餅を付き、反動でカジュもまたひっくり返った。

 廊下にぺたりと座り込んだまま、クルスを見ると、彼は笑っている。

 本人さえ気付いてはいなかったが、カジュもまた、笑っていた。

 カジュにとっては初めての、見たこともない新たなセカイ。

 カジュたちは、ついに()い上がってきたのだ。学内トップの地位に。

 だがカジュはまだ幼く、人生経験が浅かったために、知るよしもなかった。トラブルというのは往々にして、順調に行き始めた頃を狙い澄まして牙を剥くのだということを。

 

 

     *

 

 

 そこは、真っ暗で広大な部屋だった。

 最終試験の翌日。卒業を間近に控えた時のことだった。カジュは突然、職員室に呼び出された。カジュだけがだ。クルスにひとこと言ってから行こうと思ったのに、彼は部屋にいなかった。首を傾げながら、カジュは呼び出しに応えた。

 先生のひとりに連れられ、辿(たど)り着いたのは、今まで職員専用エリアとして立ち入りを許されなかった、とある小部屋であった。扉を開くと、その中には灯りひとつ灯っていない。

 先生が小さく呪文を唱え、魔法の光を指先に生み出した。か細く青白い光に照らされ、部屋の中の光景が浮かび上がった――何もない、床すらない、がらんとした空間。それが遥か地底へと繋がる吹き抜けで、壁には長い長い階段が螺旋状に備えられていることには、一瞬遅れて気が付いた。

 ――なにこれ。

 カジュの疑問など気にも留めずに、先生は靴音を響かせ、淡々と階段を下りていく。カジュは戸惑いながらもその後を追った。

 遥か深淵へ。闇の底へ。どれほどの段を踏みしめ、どれほどの時間を費やして降りただろう。下へと一歩足を踏み出すたび、心の中の不安が膨らむ。自分がどこか、辿(たど)り着いてはならない場所へ向かっているように思えて。

 それでもカジュに選択の余地はない――ただ、導かれるまま、彼女の前に造られた道を()き続けるしかない。

 不意に、背中に冷たい物が走った。弾かれたように振り返る。自分が降りてきた階段を見上げる。だがそこには何もない。自分が歩んできた螺旋の道は、もはや暗闇に閉ざされて、どこへ行ったやも分からない。

 辛うじて分かるのは、手さぐりで触れた壁の感触、靴底に触れる鋼鉄の段ひとつ、ふたつ。そして少し前を往く先導者の灯火。

 取り残されるかもしれない。言い知れない恐怖に突き動かされ、カジュは必死にその後を追う。

 やがてカジュは、穴の底に到達した。

 そこは、真っ暗で広大な空間だった。これほどの地下施設があったなんて、この上で丸一年ちかく生活してきて全く気付きもしなかった。

 案内役の先生は、カジュをその場に残して階段を引き返していってしまった。彼が残してくれたのはただ一言、奥へ進むようにという簡潔な指示だけ。灯火は無くなった。空間は漆黒に閉ざされた。汗が額に滲んでくる。カジュの中の無意識が、何か異様な気配を感じ取り、体の自由を奪っている。それでもカジュは、恐れと不安を押し込めて、闇の奥に向かって一歩を踏み出した。固い靴音が鳴り、反響すらせず消えていく。空間があまりに広すぎて、音は響くことさえできないのだ。

「……なんなんすか?」

 たまらずカジュは声を挙げた。返事はない。

「あのー……これから何が始まるんでしょう」

 と言って、ふと気付く。

「ひょっとして……雪山の件の処分?」

「いやあ! 処分だなんてとんでもない!」

 いきなり、返答は空間の奥から聞こえてきた。弾かれたようにそちらを見つめる。と、灯りがともった。ひとりの男が手にランプを持ち、空間の中にぽつんと立っていた。男はゆっくりと近づいてくる。徐々に強くなるランプの光が、暗闇に慣れた目は眩しすぎる。眼を細め、カジュは男の顔を見ようとする。どこかで聞いたような声。

「あの件はね、話を聞いたとき、僕は素晴らしいと思ったんだ。思いやり深くて大変結構。いい子に育ってくれて嬉しいよ」

「あ。お久しぶりです」

 ようやく、相手が誰なのか分かった。コープスマン。この学園に来る前の7年間、カジュの上司にして保護者であった男だ。眼鏡の奥の、貼り付いたような笑顔が懐かしい。なんだかんだで、カジュにとっては親代わりだった人物である。

「元気で何より。実はねー、僕も時々様子見に来てたんだよー、気付かなかっただろうけど」

「そうだったんすか」

「でね、縁あって、君の最終二次試験の試験官を務めることになったんだ」

 カジュは眉をひそめた。

「……二次試験?」

「そ。順位表は見たろ? 君は上位60組、つまり50%以内に勝ち残った。おめでとう! そこで、君には二次試験を受ける権利が与えられたわけだ」

「なるほど……で、この試験でさらに半分に絞り込む。生き残るのは1/4(ワンフォース)、と」

「ご名答! ま、キッチリ1/4が残るって決まってるわけじゃないんだけどね。この二次試験は、人数に関係なく、こちらの出した課題をこなせた生徒だけが生き残れるんだ」

「こなせなかった生徒は?」

「ご想像に任せましょ」

 ――殺すってことだね、やっぱり。

 カジュは溜息を吐いた。覚悟はしていた。そのつもりで心の準備をしてきたのだ。クルスと一緒に積み重ねてきた勉強も、努力も、全てはこの試験を乗り越えて生き残るため。クルスだってそうだ。彼もどこかで同じ試験を受けているに違いない。

 あれほど頑張ってきたのだ。

 ふたりで必ず生き残るのだ。

 彼女の決意を感じ取ったのか、コープスマンが上機嫌に笑って問いかける。

「さて――準備は?」

「いつでも」

「では始めよう。来たまえ」

 来る?

 横手で、闇の中で蠢く何物かの気配が発生した。ぎょっとしてそちらに目を遣る。じっと目を凝らす。次第に目が慣れてきた。ランプの光を浴びて、その人物の姿が浮き上がり始めた。

 カジュより少し高い程度の背丈。掴めば折れそうな細い腕、透き通るような白い肌、そして――

 全てを悟りきった諦観(ていかん)に満ちた、この世のものとは思えぬ美貌。

「……クルス」

「カジュくん。これが最終二次試験だ」

 コープスマンは言った。

()()()()()()()()

 

 

 

(つづく)

 



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第7話-05(終) ハロー、ワールド。

 

 

 ――なに?

「今から、()()が君を攻撃する。君は自由に魔術を用いて応戦し、()()を撃破するんだ。見事殺せれば合格。できなければ不合格。シンプルで分かりやすいだろう?」

「何言ってんすか! あれはクル……」

「“小さき者共(ホムンクルス)”。この試験のために特別に造られた人間型の教材だ」

 食ってかかるカジュに、コープスマンはにっこりと微笑む。

「大丈夫、人権はないよ――今のところ」

「そういう問題じゃないです!」

 カジュの言葉は、悲鳴以外の何物でもなかった。カジュは気付いていただろうか? 夢中で気付く余裕さえなかっただろうか。無表情のクルスが、僅かに、ごく僅かに、悲しそうに眼を細めたのを。

「あの子はクルスです……カジュの……大切な……」

 コープスマンは、微笑みを貼り付けたまま。

余所見(よそみ)をしてていいのかね?」

 気付けば、その視線の向く先はこちらではない。

「来るよ」

 閃光。

 横手から目を貫く目映い真紅。クルスの魔力光。呪文が聞こえる。陣が見える。アレを使う気か! 読んだ瞬間カジュは動いた。体が勝手に。身を守るために。呪文、魔法陣、印、杖の補助、全て総動員して最速の、

「《光の盾》!」

「《光の矢》。」

 クルスの手から放たれた矢が文字通りの光速でカジュに迫り、一瞬早く展開された盾に吹き散らされる。光が弾け、闇を切り裂き、ふたりの視界は白に塗り潰された。さながらあの時、雪山目がけて寄り添い飛んだ、あの時のように――

「本気なの……」

 涙に震えるカジュの問いに、

 ――もちろん、他に道はない。

 クルスの苦悶が確かに応えた。

 感傷にふける暇は――ない!

 術式構築の声がする。クルスが魔法ストックを創っている。カジュは涙を振り切った。(きびす)を返し、懸命に走って間合いを広げた。彼の腕ならカジュが誰よりよく知っている。クルスの最大ストック数は3個、カジュにはひとつ劣る。だが彼のことだ、どんな規格外の大技をストックに()じ込んでくるやら。

 呪文を聞いて彼の手の内を読む。内訳は――《烈風刃》《鉄槌》、あとひとつ不明。読まれないための無音構築か!

 ならばこちらも返し技。《鉄砲風》《鉄砲風》《闇の鉄槌》《闇の鉄槌》、隠す意味も理由もない。この一手で勝負を決める。

 互いにストック完成は同時。クルスが腕を振りかざす。《烈風刃》が来る。広範囲に不可視の魔力刃を嵐のごとく撒き散らす、タチの悪い大量殺戮術。術の性質上、《光の盾》では防ぎづらい。よってここは、

「《鉄砲風》!」

 放たれた刃の嵐を、カジュの生み出した暴風が吹き散らそうとした、その直前。

「《凍れる刻》。」

 空中に撒き散らされた不可視の刃が、周囲の空間ごと時間停止する。

「うそっ!?」

 やられた。予想外だった。隠し球はこれか! 自分の放った攻撃の術を自ら時間停止させ、返し技を防ぐとは。《鉄砲風》は時の止まった空間にぶつかり、為す術もなくそよ風となって拡散する。カジュとクルスの間に絶対の防壁が生まれたようなもの。これでは攻撃が通らない。2発目の《鉄砲風》で転ばせ、動きを止めたところに魔力をそぎ取る《闇の鉄槌》2発重ねで気絶させようと思っていたのに。

 だが、これではクルスからの攻撃だって――

 そこでカジュは気付いた。クルスのストックはあと一つ。

「《鉄槌》。」

 巨大な鉄球を生み出し、大砲のように射出する術だ。この術なら攻撃できる。

 曲射!

 クルスは生み出した鉄球を、斜め上方へ射出した。鉄球は弓なりに弧を描き、時間停止した空間を飛び越えてカジュに迫る。

 この手があったか! カジュの背筋に悪寒が走る。《鉄砲風》では《鉄槌》の質量は防げない。なんとか走って逃げるしかない。仮に避けられてもそろそろ《凍れる刻》の効果が切れる――《烈風刃》が解き放たれて再びカジュに襲いかかる。

 手詰まりだ。カジュの思惑は瓦解した。完全にクルスのペース。

 そう悟るが早いか、カジュは迷わず魔法ストックを全て破棄した。ストックを保ったままでは新たな術が構築できない。こだわっていては死ぬだけだ。フリーになったカジュの精神が最高速で術を構築する。

「《瞬間移動》!」

 儀式無し、大型陣なし、助手なしの急あつらえ。それでも大技は難なく発動し、カジュの姿は掻き消えた。一瞬遅れて《鉄槌》が落着。《烈風刃》が吹き荒れる。少しでも判断が遅れていれば自分がいるはずだったその死地を、10mばかりずれた場所に出現したカジュは歯噛みして見つめる。

 互いにストックを使い果たし、カジュとクルスは対峙する。

 単なる仕切り直しに見えて、実態は大差がついている。クルスは自分の居場所から一歩も動かず、魔力の消費も最小限。一方のカジュは3つものストックを無駄にされたうえ、即席の大技で魔力の消耗著しい。肩で息をしながら、カジュは彼を睨んだ――いや、見つめた。表情のない仮面のようなクルスの顔が、どうして今も、あのときと同じに見えるのだろう。

 ふたりで寄り添って明かした、愛に満ちたあの夜と――

「カジュくん!」

 遠くからコープスマンの声が聞こえる。ふたりの戦いに巻き込まれぬよう、彼はいつの間にか安全な場所まで避難していたのだ。

「全力でやりたまえ! 彼を殺すんだ!」

「嫌です……」

「彼を殺せば君には特権が約束される。夢のような幸福が待っているんだよ!」

「やめてください……」

「なら君が死ぬか? (ぼか)ァそうなって欲しくないんだよ!」

「いいからちょっと黙っててよ!!」

 カジュは叫んだ。たまらなくなって。

 もう何も見たくなかった。カジュは目を閉じ、顔を(うつむ)かせ、この世の全てを拒絶して、見えるもの全てを闇の中に葬り去った。なのに耳は、肌は、クルスの息づかいとクルスの温もりを感じ取ってしまう。なのに記憶は、唇は、彼の笑顔と彼の感触を思い出してしまう。クルスは強い。強くなった。カジュと一緒に強くなった。呪文の編み方も、ストックの組み方も、全部カジュが教えたのだ。カジュと共に学んだのだ。殺さず勝つなんてできない。殺すなんてできない。どうすることもできない! もうここから一歩も動けない!

「なんでこんなことしなきゃいけないんだよおおぉおぉぉぉおっ!!」

 反響すらなく。

 叫びは暗闇に呑まれて消える。

 カジュは(ひざまず)いた。

 もういい、と思った。

 このまま、この隙に、殺されるなら――

 ――投げ出さないで。

 聞こえる――クルスの声。

 ――ボクは初めから分かっていた。知ってたんだ、試験の内容を。

 ――どのみちホムンクルス(ボクら)は長く生きられない。

 ――制限時間が過ぎれば魔力が尽きる。ロータスのように。

 ――限られた命の中で、ボクは探し続けた。

 ――そして見つけたんだ。キミを。

 カジュは、泣いていた。

 いつの間にか、泣いていた。

 涙なんて、どこか遠いセカイの出来事だと思っていた。実感できない無機質なセカイの出来事だと思っていた。セカイの中に包まれながら、カジュはそこには居なかった。今もなお。悲しいって人はどこかにいるんだろう。好きって人もどこかにいるんだろう。でもそれらは全てガラスの向こう。生ぬるい溶液の中から睥睨(へいげい)したおぼろげなセカイの他人事。

 そのはずだったのに。

 ようやく今、カジュは初めて、涙を流した。

 セカイと相対した者のみが流しうる、魂の泉の底から湧き上がるような、涙を。

 ――ありがとう。今まで本当に幸せだった。

 ――だから――

 クルスの指先から、赤い魔力光が(ほとばし)る。

 あの日、雪山でクルスは見せてくれた。淡い溶液。緑の溶液。彼がヒトではないしるし。

 それが何だって言うんだ。

 指から滴る真紅の魔力は、まるで――

 ――ボクの命をキミにあげる。

 クルスは、最期にそう言った。

 完成した赤い魔法陣。術が湧き出す。殺意なき刃が吹き出す。みっつの攻撃が編み出され、牙となり、爪となって、カジュに躍りかかる。カジュは立った。涙はなかった。呪文を唱えもしない。魔法陣を描きもしない。杖はだらりと垂れ下がり、働くそぶりさえ見せはしない。

 なぜなら、()()()()()()()()

 必要なのはただ一つ。魂の奥底から引きずり出された、身が引き裂かれそうな程の――

 絶叫。

 瞬間、発動した四つの術が、セカイの全てを薙ぎ払った。

 

 

     *

 

 

 術の残滓(ざんし)が暗闇に溶け。

 へたりこんだカジュの前には、残骸だけが残る。

 今や胸と右腕と頭だけになってしまった、()の残骸が。

 涙は不思議と流れなかった。もう叫ぶこともなかった。ただ体中から力が抜けて、カジュは暗闇の中、ぽつりとただひとり、座り込んでいた。

 コープスマンが感嘆の声を挙げながら近づいてきて、彼女の肩を叩いた。きさくに笑って、無神経な称賛をくれた。

「よくやった! おめでとう、カジュ・ジブリール。君はこれで、晴れて立派な企業戦士だ! 快適な生活! 豊かな食事! 心躍る特権の数々! いやーホントおめでとう」

「……はい。」

 消え入りそうな彼女の声から、感情と呼べる物は、もはや消え去っていた。

「しばらくゆっくり休みたまえ。来年度からは、僕の部隊で頑張ってもらうことになる。おって辞令が行くからね」

「……はい。」

「じゃ、そういうことで! また会おう、カジュくん!」

「……はい。」

 静けさが戻り、暗闇に、ひとり。

 ただひとり、生き残ったのだ。

「ボクは……。」

 長い長い沈黙の後、カジュは、呟いた。かつてのクルスとそっくりな、抑揚のない、死者の呻きめいた声で。

「一体何のために生きてるんだろう――。」

 

 

 

Continued on episode #08.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 非道の“企業(コープス)”を脱走し後始末人となったカジュは、己の新たな生き方を模索する。卓越した力は行き場を失くし、小さな身体は暗夜を惑う。「何のために生きてるんだろう。」果てさえ見えぬ迷走の末、彼女が見出した答えとは?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第8話 “ハロー、ワールド。(後編)”

 hello, world.(Part 2)

 

乞う、ご期待。

 



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第8話 “ハロー、ワールド。(後編)”
第8話-01 セレン魔法学園訪問団


 

 

 リッキー・パルメットは逃亡した。

 “企業(コープス)”は、1年をかけた英才教育の仕上げとして、彼にひとつの試験を施した。並み居る天才たちの中で技を磨き、8歳にしてすでに宮廷術士なみの実力を持つリッキーにとって、それはごく簡単な試験に過ぎなかった。

 ただ、ひとりの人間を殺せばよい。

 1年間パートナーとして生活をともにした少女――小さき者ども(ホムンクルス)のロータスを。

 “企業(コープス)”によって“製造”されたリッキーは、これまでの経験から、“不合格者”たちの行く末をなんとなく察していた。教育の過程で落第し、徐々に数を減らしていった同級生たち。全く音信不通になってしまった彼らが()()()()()()()()、推測するのは難しいことではなかった。

 廃棄処分か。何かの実験台に流用されるか。いずれにせよ、命はあるまい。

 それが怖くて。死ぬのが嫌で。そのために、ここまでずっと、生き馬の目を抜く競争を潜り抜けてきたというのに。

 なのに――今、ロータスが殺せない。

 殺せるはずがあろうか。彼女は大切な友だちだ。仲間だ。恋人だ。そして、魔術によって創造され、孤独のみを道連れに育ったリッキーにとって、たったひとりの家族であった。殺せない。殺さない。

 たとえ自分の命を天秤にかけようとも!

 リッキー・パルメットは逃亡した。ロータスを奪い、試験官を焼殺し、試験会場を粉砕して。

 “企業(コープス)”による追跡は執拗なものだった。支社は世界のどこにでもあり、監視の目はいくらでもあり、つまるところ、世界のすべてが敵であった。

 リッキーは、ロータスを連れて内海各地を転々とした。一時たりとも心の休まらない、辛い旅だった。しかし後悔はなかった。大切な人と寄り添う暮らしは、楽しくさえあった。

 それでも、無理をすれば、限界はいずれ訪れる。

 1年後。永い、永い、永劫とも思える逃避行の果て、もはやリッキーに逃げ場は残されていなかった。暗殺者に追い詰められ、最後に行き着いたところは古代帝国の打ち捨てられた都市遺跡であった。

 寄り添う3本の尖塔。頂上に備えられた鐘突場。崩れかけた煉瓦(れんが)造りの冷たい床に、彼はじっと身を潜める。精一杯の慈しみを込めて抱きかかえる。虫の息の少女、ロータスを。

 小さき者ども(ホムンクルス)の寿命は短い。もう彼女には、声を挙げる力さえ残っていないのだ。薬や魔術による延命も限界を迎えていた。それでも彼は、ロータスを安らかに逝かせてやりたい一心で、今は必死に身を隠し、息を潜めているのだった。

 こんなことしかできない無力と。

 どんなことでもやりたい愛着と。

 そんなことすら叶わぬ理不尽。

 涙は出さない。ロータスを不安にさせたくない。だから泣かない。しかし心は涙に濡れていた。逃れられぬ運命の気配が、すぐそこまで迫っている――

 と。

 リッキーは弾かれたように顔を上げた。周囲に立ちこめた異様な魔力を敏感に嗅ぎ取ったのだ。情報場が歪んでいる。探知系の術がそこらじゅうをまさぐっている。なんたる速度。なんたる精度。仕掛けておいたありったけの探知防御にもかかわらず、空間の歪みは爆発さながらに伸び広がり、的確に範囲を絞り込んでくる。

 まさに神業。思わず、笑みが零れた。

 ――やっぱヤベーわ、お前。

 敵に対する心からの賞賛が生まれると同時に、リッキーをえもいわれぬ開放感が満たした。諦観。見つかるのは時間の問題だ。そして今度こそ逃れる術はない。穏やかに静まった心で、彼は自分の置かれた状況を見据えた。どうにもならぬのなら、果たして何をすべきだろう?

 《死》が、逃れられぬ運命ならば――?

 熟考の末に、彼は為すべきことを見いだした。

 すなわち、胸にロータスを抱き寄せ、優しくその髪を撫でたのだった。

「大丈夫。最後までオレがいっしょにいてやる」

 (ささや)きは口づけのごとく。

「好きだぜ、ロータス……」

 その時だった。

 夜の帳を身に(まと)い、ひとつの影が闇の中から舞い降りた。

 ゆっくりと目を()れば、懐かしい顔がそこにある。

 痩せこけ、骨筋張った頬。焦点の合わぬ虚ろな瞳。目の下にくっきりと浮かんだ深い(くま)。唇はひび割れ、玉のようだった肌は見る影もなくざらつき、無数の裂け目が走り、かさぶたに覆われ、今もまた、掻き(むし)られて剥がれた皮膚片が砂礫(されき)のように煉瓦(れんが)に積もる。背中に広がる《風の翼》が月光を不気味に屈折させ、右手に携えた身の丈を越える長杖は、まるで命を刈り取る大鎌のよう。

 黒衣の死神。いまや彼女は、そう呼ばれている。

 カジュ・ジブリール――無残に変わり果ててしまった、かつての学友であった。

「さすがだな、カジュ」

 リッキーは精一杯に強がって、悪戯な笑顔を作って見せた。

「手間かけさせてごめんな」

 死神がじっと獲物を見据える。凍り付いたような静寂の中、時間だけが無為に過ぎていく。

 リッキーは眉をひそめた。こちらに打つ手がないことは分かっているはずだ。張り巡らしていた罠は全て解除され、魔力も底をつき、あとはただ、非力な9歳の子供がたったふたり、抗う意志さえ失って座り込んでいるのみ。カジュの実力なら呪文さえ必要あるまい。視線ひとつ、意志ひとつだけで、虫けらのようにふたりを捻り潰せるはずだ。

 なら、この沈黙は一体なんだ?

「カジュ……?」

「キミがいけないんだ。」

 リッキーの声を遮り、カジュは早口にまくしたてた。低く、暗く、呪詛のように。

「弱いものには生きる資格もない。キミが弱いからいけないんだよ、リッキー。」

 死者よりも冷たく沈み果てた声。

 それを聞いた途端、リッキーは高らかに笑い出した。何かすばらしく愉快なものが、心の奥から湧き出してきた。()()()()。カジュは少しも変わっていない。殺人鬼へと堕ちながら、それでも心はあのときのまま。共に学び、ときに遊び、競い競われ切磋琢磨した、あのカジュ・ジブリールそのままなのだ。

 会心の笑みを浮かべたまま、リッキーは友に、言葉を贈る。

「カジュ、気をつけろ。お前も――」

 

 

 次の瞬間、逃亡者たちは炎に飲まれた。

 

 

 真紅の火柱が3本の尖塔を叩き割り、爆ぜ、燃え広がって、辺り一面を焦土に変えた。もはやここに動くものの姿はない。みんな燃えた。燃やした。殺してしまった。

 もう、何も。

 何も、ここにはない。

 黒衣の死神は夜空に浮かび、燃えさかる大地をじっと見下ろしていた。自分のしでかしたことを見つめるために。こんなことをしてしまった自分の気持ちを、確かめるように。

 腕がかゆい。首筋も。狂ったように掻き(むし)り、かさぶたになった皮膚が破れて血が噴き出しても、それでもカジュは掻き続けることしかできない。かゆい。かゆい。自分の肌に何かおぞましい物がまとわりついて、ずっと身体を蝕んでいる。

 彼女は唇を、真っ直ぐに結んだ。

 かつて自分に向けた問いかけが、今も頭を渦巻いている。

 ――ボクは、一体何のために生きてるんだろう。

 少なくとも、()()()()()のために生きてきたのではなかった――

 そのはずなのに。

 

 

     *

 

 

 それから2年近い時が流れ――その日、内海東部最大の港湾都市、第2ベンズバレンの船着場に、カジュ・ジブリールの姿があった。

 彼女は恋をしていた――糖蜜のように甘やかな恋だ。彼女の小さな胸には、()じ紐で製本した()()の束が抱かれている。その中に託した真情に思いを馳せるたび、胸の奥に疼痛(とうつう)にも似たときめきが走る。これを読んでほしい。そう願っているはずなのに、一方で、永久にその時が来なければよいのに、と祈る自分がいる。

 カジュは最前からずっと、相棒緋女(ヒメ)の肩車に乗り、ごった返す船着場に目を光らせていた。ここ、第2ベンズバレン港湾区の“脱出広場”は、世界最大の集散地といっても過言ではない。あらゆる人と物がここに集まり、ここから旅立っていく。ゆえにその混雑は並大抵のものではなく、大雨が過ぎたあとの濁流めいてすらいる。この中から特定の人物を探すのは至難の業である。いいかげん、寝不足の目がシバシバしてきた。

 だが、諦めるわけにはいかない。ずっと、こんなチャンスを待ち続けていたのだから。

「どお? いたー?」

 下の緋女(ヒメ)が、ポカンと口を開け、肩の上のカジュを見上げた。

「んー……。

 あ。いた。」

「え、マジ?」

 ひょい、と地面に飛び降りて、カジュは脇目も振らず走り出した。小さな身体を最大限に活かして人混みの隙間を潜り抜け、何度か人とぶつかりながらも、待ち焦がれた恋人の元へたどり着く。

 そこにいたのは、雑然とした港町には不釣り合いなほど落ち着いた物腰の、5人の紳士たちであった。

 デュイル風の優雅な衣服に身を包み、港の風景を物珍しげに見回す、旅行者とおぼしき紳士たち。上流階級の人間なのはひと目で分かる。しかし貴族ではない。引き連れた下男はわずかにふたり。荷物の量といい装いといい、貴族にしては質素に過ぎる。

 その中のひとり、誰よりも柔和な笑みを浮かべた紳士が、まことに楽しそうに連れに語りかけていた。

「ごらん諸君、この街並みを。たった10年でこの変わりよう。都市計画の緻密さと、それを具現化した法整備の周到さには舌を巻くばかりだよ。見事なものだねえ」

 その話し声は耳心地良い演説のよう。それを聞きながら、カジュはぼんやり立ちすくんでいた。

 自分でも信じられない。足が動かない――()()()()()()。物怖じなどしたためしがない、普段なら王族相手でさえ自分のペースを崩さない、あのカジュがだ。

 あの紳士に声をかけたかった。そのために来たのだ。何年もずっとこんなチャンスを待っていたのだ。それなのに――

 そのとき。

 どん。

 と、背中に何かがぶつかった。我に返って振り向くと、後ろには緋女(ヒメ)、頼れる相棒。彼女の手のひらがカジュの背を押してくれたのだ。何も言葉はなかったが、視線をだけで思いは伝わる。曰く――「がんばれ。楽しみにしてたんだろ」。

 カジュは無言でうなずくと、腹の下に力を込め、意を決して紳士たちの前に飛び出した。

「あのっ。」

 紳士たちの視線が、一斉にカジュに集まった。

 再び襲い来る混乱と圧迫。

 だが、

 ――負けない。

「セレン魔法学園の、先生がたですよね。」

 紳士のひとりが眉をひそめ、あからさまな不快を顔に浮かべた。次いで発せられた声は硬質で、言葉の冷淡さをいや増すかに思われた。

「何の用だ?」

 ムカついた。

 物乞いか何かと思われたに違いない。いずれにせよ、こんなチビの子供とまともに会話をする気はないのだ。お偉い先生がたとしては。

 そう気づいた途端、不思議なことに、身体の芯から力が湧いてきた。怯えはどこかに消えてしまった。(ひる)む理由など、もはやどこにもなかった。

 カジュはしっかと足を踏ん張り、叩きつけるように()()の束を差し出し、自信に満ちた不遜極まりない言い方で――つまりはカジュ・ジブリールそのものの声で、こう言い捨てた。

「読んでください。ボクの論文。」

 

 

     *

 

 

 セレン魔法学園。

 この名を知らぬ者はあるまい。異界の英雄セレンが設立した、世界初の大学である。

 啓示(オラシオン)教会の権限が今より遥かに強かった暗黒時代。内海世界の教育は、教会が主宰する教導院によってほぼ完全に独占されていた。そこへ突如として現れた英雄セレンは、異界の先進的な教育システムをこの世界に導入し、有能な人材を数多く育て上げ、その力によってついに邪悪な魔神の封印という偉業を成し遂げたのだ。

 このセレンの学び舎を発端とするのが、現在のセレン魔法学園である。開校以来300年、歴史に名を刻んだ卒業生は、まさに綺羅星のごとく。たとえば、デュイル神聖王国からデュワ王国への転換期に活躍した“呼春君”テネロープ。シュヴェーア帝国の“流血宰相”ドレニン。ベンズバレン建国王を支えた三賢者のひとり、“二倍偉大なる”ダイム・ダミアム。そしてもちろん、魔王を倒し世界に平和を取り戻した“剣を継ぐ者”勇者ソール……

 魔法学園は、学を志す者すべての憧れである。そこでは世界中の名だたる学徒、術士、聖職者たちが、日夜真理の探求に勤しんでいる。今は無名の者たちも皆、いつかは学園の門を叩き、己の研究を世に問わんと野望しているのである。

 

 

     *

 

 

 そして――ここに仁王立ちする天才術士カジュ・ジブリールもまた、煮えたぎるような野心を胸に抱えた学徒のひとり。

 魔法学園からの派遣団が王都の大学で講演を行う、という噂が流れてきたのは先週のこと。それを耳にしたとたん、カジュの胸は萌えいずる恋心で溢れんばかりとなった。会いたい。そして、自分の研究成果を学園の研究者たちに見てもらいたい。

 いても立ってもいられず、カジュは長い間書き溜めてきた草稿を、連日徹夜の大急ぎでまとめ上げ、入魂の論文に仕立たのであった。

 だが――

 派遣団の中のひとりが、露骨な侮蔑の笑みを浮かべた。さきほどカジュに冷淡な言葉を投げた、あの男である。彼は小さく鼻で笑いながら――むかつく。むかつく。――論文を受け取り、その表紙を一瞥(いちべつ)して片眉を跳ね上げる。

「やれやれ……」

「論文だって? どんな?」

「私にも見せてもらえます?」

「読む価値ありませんよ、副校長」

 好奇心をくすぐられた他の紳士たちが、ぞろぞろと集まってくる。カジュの論文が手から手へ回される。最後にそれを受け取ったのは、穏やかな――しかし確かな困惑を顔に浮かべた紳士だった。

 彼はページをいくつかめくり、中にざっと目を通して、それからひたとカジュを見下ろした。彼女が少しも(ひる)まないのを見て取ると、次は優しく微笑んで腰をかがめ、正面から顔をのぞき込む。

「執筆者はカジュ・ジブリールとなっていますね。あなたのお名前ですか?」

「はい。」

「はじめまして、カジュくん。私、ファラドと言います」

 あっ、とカジュは声を漏らし、頬を紅潮させた。

 マイクル・ファラド――魔法学園が誇る、当代屈指の大賢者である。貧しい身の上から己の才覚によって頭角を現し、若くして学園の副校長にまで上り詰めた男。その研究内容は、学界にいくつもの革命をもたらした。これからももたらしていくだろう。

 もちろんカジュも彼の名は知っている。どころか、学生時代からの大ファンである。

「あの、ボク、論文読んだっす。“クレクト分解”とか。“クレクト・モートリック回転”最高。」

「おやありがとう! 驚きました。その年齢で、あれが理解できたのですか?」

 カジュは肩をすくめる。

「ま、それなりに……。」

「素晴らしい。未来ある若者が学問に興味を持ってくれるとは嬉しい限りだ。

 学園の門は、学究の徒すべてに開け放たれています。もちろん、あなたにもね」

「副校長!」

 先ほどの嫌味な男が口を挟んだ。が、ファラドがピシャリと言い返す。

「今、私が彼と話しているのですよ」

 嫌味な男が口の中でもごもごと――「書写屋あがりが」などと――毒づくのも無視して、再びファラドはカジュに微笑んだ。いささかわざとらしいその親切が、子供扱いから来るものなのは分かっていたが、カジュは何も言わなかった。

「しかし、カジュくん。残念ながら、この論文はいただけません」

「なんでですか。」

 ファラドは悲しげに目を細めた。

一昨年(おととし)発表されたオースタイン卿の論文、“光誘発性マナ歪みに関する一考察”と酷似しているからですよ」

 カジュは絶句した。

 ファラドはカジュの論文をめくり、いちいち該当箇所を指さしながら、丁寧に、慎重に、決して責める声色にならないように、注意深く論文の問題点を指摘していった。

「理論も、証明の過程も、実験手法まで完全に一致しています。実験データの細かな数値や文章表現は異なっているようですが――」

「写してないっすよ。」

「ええ、分かっています。疑っているわけでは……」

 ――疑ってんじゃん。

 カジュは細く長く、胸の中の(おど)んだ息を吐き出した。

 カジュは他人の論文の模倣などしていない。彼女のプライドがそんな薄汚い不正を許しはしない。ただ偶然に一致しただけだろう。取り組んでいる問題が同じで、お互いに最良の解答を導き出したのなら、その内容が似てくるのは当然のこと。ただ、タイミングまで重なってしまったのが不運だったのだ。

 ファラドは先を続けた。とりつくろうような饒舌(じょうぜつ)さで。

「カジュさん、私はあなたの情熱を理解しているつもりです。だからこそひとつ助言を送りたい。まず、頑張って勉強を進め、王都の大学を目指しなさい。大学では充分に高度な知識と理論を授けてくれるでしょう。そしていつか、また論文を書いて、ぜひ学園に送ってください。それが何よりよい方法です。

 私はその日を楽しみに待っ――」

「あのー。いつまでこの国にいますか。」

 カジュが不意に割り込むので、ファラドは目を丸くした。

「えっ? そうですね……今から王都の大学に行って、仕事をして、帰りはまたここから船に乗りますから……半月ほどでしょうか」

「おっけーっす。」

 溜め息混じりにそう吐き出すと、カジュは(きびす)を返した。後ろで待っていた緋女(ヒメ)が首を傾げている。

「ん? もういいの?」

「もういいよ。行こ。」

 最後にカジュは、ふと立ち止まり、振り返って紳士たちのへ視線を投げた。世界の全てを見下したような彼女の目つきの中には、つい先ほどまでの驚きも落胆も、ほんの一欠片さえ残っていない。そこに燃えているものは、ただ、暗い情熱の炎だけだった。

()()()、お楽しみに。」

 あっけにとられる紳士たちを残して、カジュは雑踏の中に、消えた。

 

 

 

(つづく)

 



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第8話-02 ボクがここに在る理由。

 

 

「そりゃあ運がなかったな」

 帰宅したふたりから事の顛末(てんまつ)を聞いて、ヴィッシュは気の毒そうに眉を歪めた。

 彼がカジュの前に差し出したのは、精魂込めて焼き上げた特製カスタード・プリン。卵や砂糖をふんだんに用いた、たいへんに贅沢な焼き菓子で、ヴィッシュも実際に作るのはこれが初めてである。カジュの好物がプリンだと耳にして、試しに挑戦してみた、のだが。

 不機嫌絶頂のカジュは、せっかくの甘味を怒りに任せて口に掻き込むばかり。あれでは味もろくに分かるまい。カジュの喜ぶ顔を期待して、パン屋のオーブンを借りてまで焼き上げたのだが、タイミングが悪かった。うまく行かないものである。

 飲み物のようにプリンを飲み下し、カジュは小さく鼻息を吹く。

「“企業(コープス)”を辞めて以来、最新の研究にはほとんど触れてなかったからね。ボクの知識は2年前で止まってるんだ。」

「それはお前のせいじゃないだろ?」

「もっと気をつけてれば気づけたよ。要するにボクがヌルかったの。」

「まあ、学園ばかりが学問の道でもないさ……気長にあちこちアプローチしてみるこった」

「冗談じゃないね。」

 とプリンを睨むカジュの目が、暗い情熱の炎に燃えている。

「もう一本書くよ。今度は絶対カブらない、とっておきのテーマでね。」

「……あ? 書くって……連中が帰るまでにか!?」

 緋女(ヒメ)はよく意味が分かってないらしく、口をもぐもぐさせながら、そっとヴィッシュに耳打ちする。

「どういうこと?」

「論文ってのはな、ふつう何か月も何年もかけてコツコツ書いていくもんだ。それを半月でやろうってんだから……」

「へー。すごー」

「……絶対分かってないだろお前」

「えへ♪」

 気楽にプリンをぱくつく緋女(ヒメ)は置いておいて、ヴィッシュは唸りながら天井を見上げた。

「じゃあ、代わりの術士を手配しないとなァ……ロレッタあたりの手が空いてりゃいいが」

「要らないよ。仕事休むなんて言ってないっしょ。」

「おいおい。これから繁忙期に入ろうってときに。いくらなんでもそれは……」

「ボクを誰だと思ってんの。」

 カジュは机を叩いて立ち上がった。年齢以上に小柄な彼女は、立ってもなお、座っているヴィッシュと同じ背丈しかない。だが、その小さな身体から放たれる異様な迫力、いわば殺気のようなものに、ヴィッシュは圧倒されずにいられなかった。

「ボクは天才術士カジュ・ジブリール。それを奴らに思い知らせてやる。

 ごちそうさまっ。」

「味はどうだった?」

「甘すぎる。」

「そうか……無理すんなよ!」

 カジュの姿がバタバタと階段の上に消えていき、居間にはぽっかりと穴の開いたような静寂が訪れた。ヴィッシュは困惑を顔に浮かべて、半分近く残ったプリンを見つめる。程よく狐色に焦げたカスタードが、どこか寂しげに見えた。

「ケチつけられてやる気出す……か。あいつらしいけどな……」

 スプーンを手に取り、プリンを一口味見してみる……なるほど、確かに甘味がベタベタと強すぎる。菓子だからと思い切りよく砂糖を使ってみたのだが、加減を間違えてしまったらしい。どうも菓子作りは普段の料理と勝手が違う。思うに任せないものだ。

 思わずヴィッシュは溜め息をこぼした。

「難しいなァ」

 すると、緋女(ヒメ)がプリンをがばりと小皿に取っていき、

「あたしは好きよ」

 などと言う。慰めてくれたのか、はたまた頭に浮かんだことを口に出しただけなのか。いずれにせよヴィッシュは少し、頬を緩ませた。

「そうか。また作ってみるよ」

 

 

     *

 

 

 かくして、カジュの挑戦は始まった。

 屋根裏の勉強部屋に身を落ち着け、白紙を山と積み、墨を溶き、ペン、定規、参考資料のたぐいを万端整えて、いざ、執筆開始。

 カジュは書いた。書いた。猛然と書いた。時間の不足を補うため、下書きなしの一発勝負である。しかしペンは淀みなく走り、白紙の山はみるみる消え失せ、床一面がインク乾き待ちの原稿で埋め尽くされていく。

 恐るべきハイペースでの執筆。当然ながら疲れはある。だがその疲れさえ心地よい。書く者だけが味わえる、集中の果てにある快感の波。知的興奮と創造の喜びが()い交ぜになった、天上の法悦だ。

 と、最高に筆が乗ったタイミングを見計らうかのように、部屋の済に転がしていた水晶玉が輝きだした。遠方の知人から《遠話》が届いたのだ。

〔やっほーカジュちゃーん! おひさー! オレだよー! 元気ー? カッジュせんぱーい? おーい? いるー?〕

 底抜けに明るい少年の声が、しきりにカジュの名を呼んだが、ペンはちっとも止まらなかった。7回名前を繰り返されたところでようやく気づき、ちらと水晶玉に視線を送る。

「あー。ゴメン、なに。」

〔いたいた。さてはまた何か書いてんな?〕

 《遠話》の相手、通称“パン屋”とは、もう長い付き合いである。最後に顔を合わせたのは2年近くも前のことだが、今でも時折魔術を使って消息を交わしている。お互いに性格を知り尽くしているから、ほんの少しのやりとりだけで、やることなすこと伝わってしまう。その手っ取り早さが楽でもあり、また鬱陶しくもあり。

「悪いけど話してるヒマないよ。締切ヤバくてね。」

〔ふーん? 何書いてんの?〕

「“テンジーの呪文子仮説における無限縮退矛盾の解決”。」

 パン屋が言葉を失った。

 たっぷりと沈黙してから、彼は困惑気味におずおずと問いかける。

〔……え? ちょ……なにゆってんの??〕

 密かにカジュはほくそ笑んだ。思ったとおりだ。この反応が欲しかった。このテーマは、学生時代からコツコツ研究を進めてきた、まさにカジュのとっておき。知識のある人間ならば誰もが驚きを隠せまい。この手応えばかりは、ヴィッシュや緋女(ヒメ)からは得られない。

 筆は片時も休ませず、しかし上機嫌に、カジュは説明してやった。

「マナ密度が極めて低い条件下でもクローディスの排他原理が成立する、としたらどうか。」

〔なんで?〕

「実は二重延展効果はコボルの限界以下でも起きる。」

〔は!? マジ!?〕

「マジ。」

〔解決じゃん!! え!? は!? マジで!? おま……お前ヤベーな!? 世界ひっくり返す気かよ!?〕

「そのうちにね。」

〔はえー……やべーなお前、尊敬するわ……結婚しよ?〕

「死ね。」

〔あざまーす! ごほうびいただきましたァー! うぁっしぇーい!!〕

「ウザいんで切るね。」

〔了解。がんばれー〕

「ほいほい。」

 屋根裏に静寂が蘇り、カジュは再び、孤独な創作の世界に耽溺していった。彼女の中に渦巻いていた輪郭の定まらない憤りは、今や確固たる形を取り、明快な言葉として全身の細胞を突き動かしていた。

 ――示すんだ。

   ボクの力を。

   ボクがここに在る理由(わけ)を。

 そして、夜は更けていく。

 

 

     *

 

 

 はじめのうち、執筆は極めて順調に進んだ。

 ずっと胸の中に温めてきた新理論である。書くべきイメージはほとんど固まっており、後はそれを文字にするだけで良かったのだ。言葉は汲めど尽きぬ井戸のように溢れ出し、50枚の原稿が4日で完成した――これは、寝食と仕事の時間以外、片時も休まずペンを走らせるペースである。

 だが、5日目から徐々に筆が鈍り始めた。理論は完璧に仕上がっているつもりだったのだが、実際に書き出してみれば思わぬ欠点が露呈してくるのである。細部の練り直しをしなければならない。追加実験も必要だ。さらには、解決策の見えない致命的な問題が、新たにひとつ発見される始末。

 カジュは考えた。仕事中も食事中も、睡眠中さえも思考を巡らせた。夢の中でとびっきりの解決策を思いつき、わめきながら飛び起き、枕元のメモ用紙に殴り書きすることもしばしば。良いアイディアが浮かべば書き、書いては詰まり、また苦悩の唸りをあげる。そんな生活が続いた。

 

 

     *

 

 

 疲労が蓄積していたある日、こんなことがあった。屋根裏部屋で思考を巡らせていると、ヴィッシュがひょっこり顔を出し、

「なあ、俺、協会の寄り合いで呑んでくるから」

「んぁー。」

 返事、というより、それは巣穴に籠もった獣の鳴き声のようだった。

「飯、作ってあるからな。緋女(ヒメ)が戻ったらふたりで食えよ」

「あびゃー。」

「……行ってきます」

「おはようございまーす。」

 まともな会話さえできないありさま。不安に駆られたヴィッシュは家を出るのを躊躇いさえしたが、これも無理からぬ話だ。

 

 

     *

 

 

 また、こんなこともあった。最近風呂にも入っていないカジュが、身体から獣の匂いを放ち始めたので、緋女(ヒメ)が強制的に入浴させた。隣の空き地に湯を張った大桶を置き、裸にむいたカジュをドボンと放り込む。服を脱がされても湯に突っ込まれても抵抗ひとつしないばかりか、何か呪文のようにブツブツと唱え続けているのだから気味が悪い。

 そのまましばらくは、緋女(ヒメ)とふたり並んで、大人しく風呂桶に浸かっていた。

 だが突如、カジュはカッと目を見開いて、

「分かったあっ。」

 風呂を飛び出し、奇声を上げて、家の中に駆け戻った。

 ビックリしたのは台所で夕飯の支度をしていたヴィッシュである。いきなり全裸の美少女が裏口から駆け込んで来るものだから、あやうく包丁で指を切り落とすところであった。

「うお!? おま、服! 服!!」

「うはははははははははは。」

 奇ッ怪な哄笑とともに、カジュは風のごとく階段を駆け上り、屋根裏に行ってしまった。そこへ緋女(ヒメ)も戻ってきて、

「おいカジュー? なんだよあいつ」

「……ってお前も裸かよ!! ちょっと隠せよなあ!」

「えーいいじゃんもうメンドいしー」

「うちの女どもときたら……恥じらいもなきゃ有り難みもねえ」

 顔面を真っ赤に染めてそっぽを向き、必死に動揺をごまかすヴィッシュであった。

 

 

     *

 

 

 その上さらに、次々と舞い込む仕事の依頼が、執筆の重大な妨げとなっていた。

 ヴィッシュがぼやいていたとおり、晩秋から冬にかけては後始末人の繁忙期だ。森の動植物が不足するこの時期、魔獣が餌を求めて人里に迷い込むことが増える。象獅子(ベヒモス)毒樫木(ポイゾナスオーク)、食い詰めた鉄面皮ゴブリンの群れ……単に数が多いばかりか、油断のできない厄介な魔獣も少なくなかった。

 筆が乗ってきた時に限って、狙いすましたように緊急の依頼が入るような気さえした。気のせいなのは分かっていたが、執筆を中断されるたびに苛立ちがつのることは否めなかった。

 少しでも遅れを取り戻そうと、日中を仕事に費やした日は、夜、明け方まで実験に取り組んだ。泊まりがけの狩りがあった時は、書きかけの原稿を持って行き、野営の焚火を頼りに筆を進めた。

 しかし――そこまでしても時間が足りない。

 次第に深まっていく疲労と苦悩に、カジュの表情も普段と違って見えたのだろうか。ある夜、ヴィッシュが夕飯のスープをよそってくれながら、カジュの顔をのぞき込むようにして言った。

「大丈夫か? やっぱり、少し仕事休むか?」

 それは思いやりの言葉に違いなかったが、今のカジュには、責められているようにさえ聞こえるのだ。ゆえにカジュは、とっさに、矢を射返すような返事をしてしまった。

「要らないって言ったでしょ。」

 言ってすぐに後悔したが、吐いた唾は飲み込めない。

 無言でカジュはスープを(すす)った。とびきり旨いはずのヴィッシュの手料理が、今はなぜか、味らしい味もない濁り水のようにしか感じられない。

 

 

     *

 

 

 カジュは今や深い霧の中に迷い込んでいた。

 近すぎる期限、不十分な準備、多忙、少ない参考文献、睡眠不足、そして何よりも、壮大すぎるテーマ……様々な悪条件が、カジュを、経験したことのない泥沼に導いてしまった。

 書けば書くほど、書くべきことが増えていく。次から次に、構想段階では思いもよらなかった問題が噴出する。それらを泥縄式に解決し続けるうち、いつしか思考は途方もなく深い迷路に囚われる。

 ふと気が付けば、出発点はもう見えない。自分がどこにいるのかも分からない。

 ――ボクは今、何を書いてるんだろう。

   今まで何を書いてたんだろう。

   こんなもの、本当に書く価値あるんだろうか。

   そもそも――何のために書いていたんだ。

 そして言うまでもなく、辿(たど)り着くべき出口もまた、複雑怪奇な迷宮の向こうに埋もれてしまったのである。

 ついにカジュの筆が止まった。

 書けなくなってしまったのだ――ただの一文字さえも。

 ――ボクは、どこへ行けばいい……。

   一体、何を書けばいいんだ……。

 

 

 

(つづく)

 



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第8話-03 失態

 

 

 遠く離れた王都の宿で、魔法学園副校長マイクル・ファラドは夜空を見上げていた。

 カジュが去ったあと、彼はすぐに迎えの馬車に乗り、王立大学を目指した。王都までは通常の行程で片道4日半。大学についてからは無数の要人たちによる挨拶攻め。さらに盛大な歓迎会。たっぷりと気疲れしたあとで、ようやく本番――講演と意見交換会が始まった。

 数日前までののんびりした船旅が嘘のように、王都に着いてからは万事が慌ただしい。今日も、ついさきほどまで、討論会の打ち合わせで大学に籠っていたのだ。ようやく解放され、宿に戻ったのは夜半すぎ。宿の女将が下戸の彼のためにミルクを温めてくれ、彼はありがたくそれを頂きながら、つかの間の安らぎを噛み締めていたのだった。

 なのに、心は妙にざわついて、嵐の前の海面のように落ち着かない。港に降りたあの日からだ。

 彼は、あの日出会った少年――カジュの目が、どうしても忘れられないのだった。

 あの少年はまだ10歳かそこらといったところだろう。幼いばかりか、実績も名声もない、どこの誰とも知れないひとりの子供に過ぎない。それが突然彼らの前に現れて、数年前の画期的な論文とそっくりなものを突きつけ、自分が書いたと主張する。これが受け入れられようはずはない。

 彼はひとりの学徒として、大人として、なによりセレン魔法学園の機能と立場を守る者として、正しい対応をしたつもりだった。あの少年は、一足飛びに評価を求めるような性急さは捨てて、順を追って学ぶべきなのだ。それが最も良い道のはずだ。その考えは変わっていない。

 だが――

 あの目。周りの大人たちを、あるいは世の中そのものを、見透かし、見下し、諦めきっているかのような目。

 まぶたを閉じれば、驚くほどに冷たいあの眼差しが蘇る。

 ファラドは思う。ひょっとしたら、自分は大きな過ちを犯したのではないか? もし、あの論文を、本当に彼が独力で書いたのだとしたら? 世界最高峰の研究と同等のものを、ほとんど同時期に、まだ経験も浅い少年が成し遂げてしまったのだとしたら――?

 その可能性は極めて低い。だが、魔法学者たる彼はいくつもの前例を知っている。偶然にも、そして不幸にも、全く同時期に、全く同じ研究が、全く別々の場所で成され、ほんの数年の後先で明暗を分けてしまった例を。あるいは、どちらが先に発見したかという泥沼の論争に陥ってしまった例を。

 彼の論文がその例の新たなひとつではない、と言い切れるだけの根拠があるだろうか?

 薄弱な根拠のみで剽窃(ひょうせつ)だと決め込んでしまったのは、ひとえにあの少年が若すぎたからだ。ファラドの目が偏見に曇っていたからだ。もし彼が無実なのだとしたら。あのとき突きつけた正論は、暴力以外の何物でもなかったはずだ。真実を力でねじ伏せられた、その経験が、彼の心に取り返しの付かない傷を負わせてしまったのではないだろうか?

 ファラドは自分自身の少年時代を思い起こした。彼は平民の家に生まれ、教導院の聖職者から最低限の文字を学び、やがて書写屋の見習いとして就職した。まだ印刷機が一般化していないこの時代、本は書写によって増やすよりほかなく、都市部には、書写から装丁、製本までを担う専門業者があったのである。

 その工房で何冊もの本を写すうち、ファラドはその内容にも通じていった。彼は断片的だが価値のある学問の基礎を仕事の余録として学び取り、いつしか学を志すようになった。

 もちろん、それは大いなる思い上がりに過ぎなかった。体系立って学んだわけでもない彼の知識は、半可通以下の代物だった。ことによると無知よりたちが悪いとさえ言えたかもしれない。

 だが、書写屋の主人は彼の聡明さを愛し、たまたま手に入れた魔法学園の一般向け講義のチケットを、彼に譲ってくれたのだった。彼は講堂の最前列から身を乗り出し、一言たりとも聞き逃すまいと講義に耳を澄ませた。そして学び取ったことをノートして、あろうことか、講師であった高名な学徒に、思慕の手紙を添えて送りつけたのである。

 その講師がノートと手紙に興味を持ってくれたのは、全くの幸運だった。そうでなければ、彼は生涯の恩師と出会えぬままであったろうし、なにより、学園で学ぶ機会など得られるはずもなかっただろうから――

 思えば、ファラドが今、魔法学園の代表として働けているのは、あの日の思い上がりと、それを受け止めてくれた大人たちのおかげである。ならば、今こそ彼は、かつて受けた恩を返すべきではなかったのか? 今は亡き恩師や雇い主にではなく、これから学の道を歩まんとする若者たちに――

「副校長」

 彼の深い後悔は、横からかけられた声によって掻き乱された。見れば、部下がひとり、困惑を顔に浮かべて立っている。

「申し訳ない、何度もノックしたのですが?」

「いえ、よいのです。ちょっと考え事をしていました」

「お探しだった本を王家書庫で見つけましたよ。賢者ギルディンの原稿にかなり近い写本と見えます」

「借り出せたのですか!」

「良くも悪くも我々は特別扱いですね。肩の凝る宴会に我慢したかいがあったでしょう?」

「あはは、おおきにそうだ。これは素晴らしいニュースだ、まことにありがとう!」

 紳士――魔法学園副校長は、疲れも忘れて興味深い古書に飛びついた。だが、先人の美しい論理を堪能しながらも、彼はずっと、カジュの目を頭の片隅に置き続けていた。あの少年がもしこの場にいたら、きっと、未知の書に出会えた喜びを分かち合えただろうに――と、微かな寂しさを覚えながら。

 

 

     *

 

 

 疲労と混乱の果てに、カジュはとうとう致命的なミスをやらかした。

 それは、農村に湧いた衝角猪(ラムボア)を狩る仕事中のことだった。そいつはほとんど子象並みの体躯を持つ驚異的な大物で、差し向けられた討伐隊をたびたび返り討ちにしたという曰く付きの相手であった。とりわけその生命力は並外れていて、矢の雨を浴びせられながらも平然と突進し、射手たちの一団を粉砕したほどだという。

 たとえ緋女(ヒメ)といえども、こいつを一撃で仕留めるのは困難であると推測された。戦って勝てないことはないだろうが、時間をかければ取り逃がす恐れもあるし、なにより緋女(ヒメ)が危険に晒される。

 そこでヴィッシュが立てた方針は、ヴィッシュと緋女(ヒメ)のふたりが囮となって遠巻きに獲物を引きつけ、その隙にカジュが必殺の術を脳天に叩き込む、というものであった。

 だが、カジュの疲労はこの時すでに極限に達していた。しかもなお悪いことに、カジュ自身がそのことにまるで気づいていなかった。確かに論文には行き詰っていた。だが仕事の方はちゃんとできるつもりでいたのだ。

 その結果――《光の矢》でとどめを刺すはずのところ、()()()()()()()、《鉄砲風》を発動してしまった。

 衝角猪(ラムボア)は突風で僅かに足を止めた。が、それだけだった。不意の魔法を浴びてかえって勢い付き、突進の矛先をカジュに向けた。この期に及んでもまだ、カジュは自分のミスに気づいていない。閃光のように失態を悟ったのは、砲弾めいた巨体が目前に迫った後のこと。

 ――やばい。死ぬ。

 全身の毛という毛がザアッと音を立てて怖気立つ。衝角猪(ラムボア)の名の由来たる大牙がカジュに突き立つ――その直前、横手から矢のように飛び込んできた緋女(ヒメ)が、猪の横腹を打ちのめした。

 緋女(ヒメ)の太刀に腹を半ばまで切り裂かれ、猪は鋭く悲鳴を上げる。横倒しに倒れる。だが、まだ生きている。苦痛を怒りに変えて立ち上がり、再びカジュ目掛けて走り出す。

 ここでようやくカジュは我に返り、慌てて構築し直した《光の矢》で魔獣の眉間を射抜いたのだった。

 衝角猪(ラムボア)が動かなくなったのを見るや、カジュの腰がへたりと砕けた。ほどなくヴィッシュも駆けつけてくる。彼の顔は、当のカジュ以上に血の気を失っていた。

「無事か!?」

 カジュがひらひらと手を振って応えるので、ようやく彼は胸を撫で下ろしたようだった。

「びっくりさせるなよ……まあ、無事でよかった」

「やー。ゴメンゴメン。ちょっとボンヤリ。」

「……おい」

 頭上から突然降ってきた怒りの声に、カジュは視線を上げた。見れば、緋女(ヒメ)が猛禽を思わせるあの眼でカジュを睨んでいる。震えが走った。刃を突きつけられたような気がしたからだ。

「お前、ロンブンやめろよ」

「は……。」

「でなきゃ仕事休め。どっちかにしろ」

「何言ってんの。なんで緋女(ヒメ)ちゃんにそんなこと命令されなきゃいけないわけ。」

「あたしが助けなかったら死んでたろ」

 カジュは言葉に詰まった。ぐうの音も出なかった。確かにカジュが助かったのは、超人的な脚力と剣の腕を持つ緋女(ヒメ)のおかげだ。常人なら救援が間に合っていない――ヴィッシュが遅れて駆けつけたことを見てもそれは明らかだ。

 いや、カジュ自身が死ぬだけなら自業自得だ。ことによると仲間を危険に晒す可能性すらあったのだ。

 それは分かっている。

 分かっているが――カジュの頭は唐突なきつい苦言に混乱し、緋女(ヒメ)への反発心ばかりに支配されてしまった。敵意を剥き出しにして睨み返し、反論をぶちまけようとした。だが言葉が出てこない。言いたいことは分かっているのに、言うべきことが見つからない。

 カジュの沈黙を受容とみなしたのか、緋女(ヒメ)はヴィッシュに目を向けた。

「よお。代わりの魔法使い探してよ。できんだろ?」

「そりゃまあ……しかし腕は期待できねえぞ。“火の玉”のお嬢(ロレッタ)は別件入ったらしいし、あとはせいぜいガイルとか……」

「何でもいいよ。今のコイツよりゃマシだろー」

「え、緋女(ヒメ)、おま……」

 カチンときた。

「ふざっけんなよっ。」

 カジュは地面を蹴り割るように立ち上がった。疲れも迷いも一時的に消滅した。腸の奥から湧き上がってくる正体不明の激怒が、他の全てを弾き飛ばしていた。緋女(ヒメ)の冷たい視線が返ってくる。刃そのもののようなそれを、あえて総身に受け止めて、反撃の言葉を叩きつけた。

「なんでそんなこと言われなきゃいけないわけ。お前何様だよ。」

「何様はテメーだろ。ワガママ言ってんじゃねーよ」

「ボクより強い術士がいるんなら連れてきてみろよ。瞬殺してやるよ。」

「ロクに寝てもいねえ奴なんか危なくって使えねーっつってんだよ」

「そんなの関係ないって言ってんだよっ。」

「いま関係あったろうが寝ボケてんのか!」

「な、ふたりとも落ち着……」

「ならボクはもう要らないってことか。」

「寝ボケたままなら要らねーよ!」

「死んでもボクの勝手だろ。」

「ああ!? じゃ()()()()()()()()()()テメーは!? 殺すぞコラァ!!」

「やれるもんならやってみろっ。」

「あたしのツレに手ェ出す奴は許さねえ! たとえそれがテメー自身でもだ!!」

「やめろッ!!」

 ふたりをヒタと黙らせたのは、割って入ったヴィッシュの大音声であった。刀の柄に手をかけ、あるいは指先に魔法陣を編みかけた、互いに恐るべき技量を持つふたり。その間に身体をねじ込み、視界を塞いで、冗談では済まないところまで行きかけた(いさか)いを止めた。

 我が身を盾にした強引な止め方だった――一歩間違えば自分が斬られていたかもしれない。それでも止めねばならなかったのだ。

「カジュ……お前は疲れてるんだ」

 カジュが涙の浮いた目を(そむ)ける。

緋女(ヒメ)。お前も言いすぎだろ」

 緋女(ヒメ)が不機嫌にそっぽを向く。

「……もう帰ろう。とにかく今夜はゆっくり休め。後のことは……また明日だ」

 どちらからも返事はなかった。

 太陽は西の山際(やまぎわ)にかかり、今やその光を完全に失おうとしていた。寒風が不気味なうなり声を上げながら吹きつけた。どうやら今夜は、寒い、寒い夜になりそうだった。

 

 

 

(つづく)

 



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第8話-04 少なくとも

 

 

 仕事から戻った時にはもう、街全体がすっかり暗闇の海に埋没していた。カジュは帰るなり屋根裏に駆け上がっていき、夕飯ができたと声をかけても返事ひとつしなかった。ヴィッシュには何もできなかった。心を込めて作った手料理が、なすすべもなく冷めていくのを見守る他には。

 そのまま夜は音もなく更けていった。どうにも寝付かれず、ヴィッシュはストーブに火を入れ、酒を温め、ひとり酒を喰らっていた。横では緋女(ヒメ)が床にムシロを敷き、刀をバラして手入れしている。炉の炎がじわりと揺れて、剥き出しになった刀身の、息を飲むほどに華麗な刃紋を浮かび上がせる。

 ヴィッシュは迷っていた。緋女(ヒメ)に訊いてみたいことがあった。だが、自分に彼女らの内心に踏み込む資格があるのかどうか、いまひとつ自信が持てなかったのである。

 今となってはこのまま放っておくことはできない。拒絶は覚悟の上で、ヴィッシュはゆっくりと、口を開いた。

「なあ」

 緋女(ヒメ)は、刃の打ち粉を丹念に払いながら、鼻にかかった甘い声を返してくれた。

「んー」

「お前は……知ってるのか。なんであいつが、()()なのかを」

 吸い込まれるように刃が鞘に収まり、鯉口で、パチリと耳心地良い音がする。

「話してくれたことないなー」

「お前にも、か……」

「あのカジュが、よ……」

 溜め息がこぼれる。

 緋女(ヒメ)は刀を脇に置き、胸を弓なりに反らせ、暗い天井を仰ぎ見た。あの向こうにカジュがいる。しかし、その間は何層もの壁に阻まれ、いまだ彼女の全貌は見えない。

 心とは、元来そうしたものかもしれない。どれほど近づこうと、ひとつ屋根の下で同じ飯を食らおうと、ひとつの寝床に同衾(どうきん)しようと、決して正体が見えることはない。できるのは推測することだけだ。推して、測って、何度も重ねて、それでも暴けないのが人の心だ。

 緋女(ヒメ)は寂しげに目を細めた。

「ね。昔の話、していい?」

「ああ」

「あたしとカジュが初めて会った時ね。あいつ、“企業(コープス)”に使い捨てにされてたんだ」

 ヴィッシュの手の中で、杯に波紋が立った。

「ほとんど自殺みたいな攻撃させられてて。見殺しにされてて。あたしがそれを助けて。仲良くなって。いっしょに企業の奴らと戦ったりして。

 それから1年。お前と出会うまで、あっちこっちふたり旅。

 その間に治ったけど……最初、あいつヒドい顔してたんだよ。肌とかボロボロでさ。なんか(かゆ)くなるみたい。傷になってカサブタだらけなのに、また掻いちゃって。どんどんヒドくなってくの……

 ずっと酷い扱いされてたらしいんだ。嫌な仕事ばっかさせられてさ。あんまり話したがらないけどね……」

 

 

     *

 

 

 話してどうなることでもない。泣き言を言って、誰かに優しく守ってもらう、そんな甘えた生き方は本意じゃない。

 だからカジュはひとりで生きたかった。同情なんてまっぴらだ。自分の居場所は自分の力で勝ち取りたかったのだ。

 誰かに与えられる居場所の脆さ。与えられたものにすがることの危うさ。皮肉にも、“企業(コープス)”で生まれ育った経験が、それらを嫌というほど教えてくれたから。

 弱みを見せてはダメだ。たとえそれが、大好きな友達に対してでも。優しく親切な仲間に対してでも。

 それなのに。今は、その生き方が耐え難く、苦しい。

 カジュは屋根裏の巣に籠もり、人知れず泣いた。常にそうであるようにだ。やがて、涙が疲労を羽毛のように暖かく包み込み、彼女をまどろみへと導いていった。

 カジュは夢を見た。

 夢の中に()()が現れ、問うた。

 ――何のために生きているの。

 カジュは答えようとした。

 言葉は――出なかった。もう何年も、ずっとその答えを探し求めてきたはずだったのに。今ではもう答えを見つけ出してしまい、(かえり)みる必要さえなくなっていたはずなのに。それは妄想だった。答えを見つけたわけじゃない。解決できたわけじゃない。

 ただ、一時の(たの)しさが、辛い問いかけを忘れさせてくれていただけだ。

 ――分からない。

 カジュはようやく、そう応えた。

 ――まだボクには分からないんだよ――

 

 

     *

 

 

 そこで、目が覚めた。

 すでに太陽は高く昇りきっており、小窓の隙間からは眩い白光が射し込んでいた。表通りのざわめきが聞こえる。人々がそれぞれに(うごめ)いている。己の為すべきことをよく心得て――あるいは、心得ているかのごとく見せかけて。

 すっかり寝坊してしまった。今日は早朝から論文の続きに取り掛かるはずだったのだ。だが不思議とカジュに動揺はなかった。あれほど彼女を追い詰めていた焦燥が、たっぷりの睡眠のおかげで、まるで他人事のように片付いてしまっていた。

 書物机に頭を預けたまま寝ていたためか、首と肩が乾物のように凝り固まっている。大きく伸びをすると、骨と筋肉がバキバキと心地良い音を立てほぐれていった。思いっきり息を吸い込み、吐く。まるで10日ぶりに呼吸をしたような気がする。悪くない、息をするというのも。

 小窓を開けてみると、陽射しが鋭く目を刺した。そのまっしろなセカイの中に、カジュはふと、幻を見た。太陽の中に浮かぶ少年の幻だ。逆光のために顔は見えない。だが、顔など見えなくとも分かる。そこにいるのが誰なのかは。

「いつまでも進歩ないんだ。笑っちゃうよね。」

 カジュがささやき声で自嘲すると、少年はゆっくりかぶりを振った。

 ――キミは、とってもすてきだよ。

 思わずカジュは吹き出した。自分の頭だけで創った問答が、やけに()()()()()()()思えて。

「キミってそういうやつだよ。クルス。」

 それからカジュは、両の手のひらで頬を打った。小気味よい音が、弛緩(しかん)した心と身体を引き締める。見えた気がした。己の為すべきこと――少なくとも、今為すべきことだけは。

 そう。

 ――少なくとも、破滅するために生きてるわけじゃない。

「よっしゃ。やるかっ。」

 

 

     *

 

 

 居間に駆け下ると、ヴィッシュは(びっくり顔。)緋女(ヒメ)に(今は犬に変身中。シッポ振り回して超ごきげん。)昼飯の皿を(うまそう……。いや、あれ絶対ヤバいっしょ。)差し出しているところだった。カジュのお腹がいいタイミングでキュンと鳴き、

「食べ物ある。」

 と問いかけるのを後押ししてくれた。ヴィッシュは僅かに戸惑いながらも、ぐいと親指でテーブルを指し、

「座んな」

 

 

     *

 

 

 今日のメニューは“たっぷり牛肉の牛飼い煮(グーラシュ)”。

 バターを入れた鍋でタマネギを炒め、狐色になったところでスパイス、水、少量の酢を加え掻き混ぜる。ここに角切り牛肉をどっさりと加え、さらにジャガイモ、人参、トマトピューレ、刻みニンニク、ハーブ、塩を加え、煮込む。肉が柔らかく煮えたなら、小麦粉でとろみをつけて完成。

 ヴィッシュの故郷、シュヴエーア北部の郷土料理で、あちらでは黒パンを添えて汁に浸けながら食べるのが定番。今日はベンズバレン流に、ほかほかの白米といっしょにいただく。

 ごろりと大きな魅惑の肉をひとさじすくえば、トマトの香りも豊かな紅玉色のスープがとろおりと垂れる。空きっ腹にこれはたまらない。かぶりつくようにして口に入れる……とたん、爽やかな酸味が一陣の風のように舌の上を吹き抜けた。そしてそれに絡みつく牛肉の、柔らかなこと! よくよく煮込まれた肉は繊維の一本までほろりと解けるほどに柔らかい。飲み込めば脳を刺激する、あらがいようもない確かな満足感。

 ――うまい。

 こんなに。こんなに食べ物とは旨かったのか。

 腹の中に温かくどっしりしたものが満ちていき、カジュは恍惚(こうこつ)の溜め息をついた。腹から始まって、全身にエネルギーが行き渡りつつあるのがはっきりと感じ取れた。錯覚であることは分かっている。そんなに早く消化が進むはずがない。だが、いま身体を満たしつつあるこの感覚、元気は、紛れもない真実だった。

「ごちそうさま。さーて、続き書きますか。

 緋女(ヒメ)ちゃーん。暖房ー。」

「わんっ!」

 カジュはすっくと立ち上がる。緋女(ヒメ)が足元に擦り寄ってくる。犬になった彼女を抱いていると、膝がとても温かいのだ。

 階段を登りかけたところで、ヴィッシュに声をかけられた。優しげな声だった。いつもとなんら変わりなく。

「大丈夫か?」

 カジュはひょいと肩をすくめた――ヴィッシュがいつもやる仕草と口調を、そっくり真似して。

「まあ見てな。」

 

 

     *

 

 

 一晩の休息で蘇った頭が、たっぷりの栄養を得て走り出す。まずやるべきは計画の見直し。深い疲労は能率を落とすだけだとはっきり分かった。睡眠時間はきちんと予定に組み込んでおく。その上で、我欲と妄執を棄て、あと7日で実現可能な見通しを立てるのだ。

 まずは全体構成の簡略化。万全を期すなら言及すべき副次的な研究についての記述を最小限にとどめ、実験をひとつ省略。代わりに理論面からのアプローチを追加し、後続の検証に先鞭をつける。これなら頭の中にあるものを書くだけでよい。

 特殊な条件下のみで成立する存在性方程式には項を追加して一般化するつもりだったのだが、とても書ききれない。これも削除……またいつか、独立した論文にまとめることにしよう。

 あれも削り、これも削り、時間の不足は工夫で補い、なんとか形を作っていく。それでも削りようがない実験、それも大掛かりなのがひとつ残っていた。ここは、()()の力を借りることにする。極めて不本意ではあるが。

「おーい。パン屋ー。」

 遥か遠いリネットまで《遠話》を飛ばすと、待ってましたとばかりに陽気な声が応えた。

〔よーっすカジュ大先生ー! 実験準備できてるぜ!〕

 カジュは目を丸くした。

「まだ何も言ってないんだけど。」

 パン屋は気のいい笑い声を聞かせてくれ、

〔こないだ、お前しんどそうだったろ。頼ってくれるって信じてたぜ!〕

 この時カジュの中に生まれた感情は、言葉ではいまひとつ説明しづらい。気の利いた助力に感心したようでもあるし、暖かな友情に胸を打たれたようでもある。もっと別の甘やかなものが込み上げてきたのも、否定はできない。しかし同時に、正体不明の敵愾(てきがい)心や敗北感、悔しさのようなものが胸の中に入り混じっているのであった。

 やたらと早口で実験内容を説明したのは、複雑な胸中をごまかすためだ。パン屋は時折相槌を打ちながら聞き、いくつかの要点について質問を飛ばした。

 打ち合わせがすっかり済んだころ、カジュは不思議な気分になっていた。まるで昔に戻ってきたような。同年代の子供たちと、日々、学問というおもちゃで遊び回っていたあの頃。二度と戻りたくないはずの、苦い思い出ばかりであったはずの、あの頃に。

「……そういう感じで。手間なんだけど頼むよ。」

〔任せとけって。そのかわり、今度会えたらデートしてよな〕

 彼の愛嬌ある笑顔が目に浮かぶよう。

 カジュは、ふんと鼻で笑った。

「ま、1回だけならね。」

 パン屋の歓声の大きなことときたら耳が爆発するかのようだ。カジュは片耳に人差し指を突っ込んで、思いっきり顔をしかめたのだった。

 

 

     *

 

 

 そして再び、カジュは書いた。

 冷え込む夜、犬に変身した緋女(ヒメ)を、湯たんぽ代わりに足元へ抱いて。霧の朝、実験結果を元にパン屋と激論を交わして。いつのまにか届けられていた夜食に、ねじ切れそうな空腹を満たして。

 いくつもの手に頼りながら、カジュの魂を込めた論文は紡がれていった。決して満足のいく出来栄えではない。もっと良いものが書けたはずだ、充分な時間さえあれば。豊富な書庫があれば。自分にもっと、実力があれば。

 思い通りにならぬ作品に、苛立ちを覚えなかったといえば嘘になる。

 それでも、編まねばならない。

 たとえ最善ではなくとも。今のカジュに出せる最大限の“答え”を。

 

 

 それから七晩七夜が飛ぶように過ぎた。書き連ねた原稿は200枚超。その全てを束ねて製本し終えたのは、ある日の早朝――魔法学園の一行が帰りの船に乗る、まさにその朝のことであった。

 

 

 

(つづく)

 



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第8話-05(終) 焦がし砂糖は甘くて苦い。

 

 

 港はいつものごとく人混みに溢れていたが、学園の一行はいまや黄金そのもののように輝き際立って見えた。大混雑の中から、カジュは一目で彼等の姿を見出し、その行く手を塞ぐように前へ出た。手には大慌てで製本したばかりの、インクの香りも真新しい論文を持ち、足では港の石畳に食いつくように踏ん張って、学徒たちの顔を見上げている。

 一行の中に、ファラド副校長の姿は見えなかった。いるのは、感じの悪い目つきでカジュを値踏みしている連中ばかりだ。しかし、今のカジュには胸を張って対峙するだけの根拠がある。手の中の完成原稿が、彼女に無限の勇気とふてぶてしさをくれる。

「先日はどうも。」

 刺すように挨拶すると、学徒のひとりが不機嫌に眉を跳ね上げた。

「ああ。お前は、あの時の」

「書き直したんで、コレ。」

 差し出され分厚い紙束を、学徒は手に取った。表紙を一瞥(いちべつ)し、中を数ページめくる。

 カジュは黙ってその様子を(にら)みながら、とくとくと小さな胸を高鳴らせていた。自信がある。今度こそ、読めば分かってもらえるはずだ。見るものが見れば必ず評価される、そんな論文に仕上がっているはずだ。あの眉が今に緩むはず。あのしかめっ面を学術的驚異が支配するはず――

 だが。

 学徒は侮蔑の(わら)い声を上げ、カジュの論文を、無造作に投げ棄てたのだった。

「言うに事欠いて“無限縮退問題”だと? ばかめ!」

 叱責が、カジュの頭上に降り注ぐ。それは聞くに耐えない罵倒だった。昼日向(ひるひなた)に始まった騒ぎに、好奇の目が集まりだした。そして無数の視線に晒されながら、カジュは――じっと、身をこわばらせることしかできなかった。

「ガキにこんなものが書けるはずがあるまい。中を見る価値もない。おおかた、わけもわからずセンセーショナルなテーマをぶち上げ、ろくな論証もせず戯言ばかり書き連ねているのだろう。ええ? そうだろう、小僧? そんなに学園の名声が欲しかったか? 奇抜なことをして印象を残せば、誰かの援助を(かす)め取れるとでも思ったか! 恥を知れ、この物乞いが!!」

 ――殺す。

 と、カジュが殺気を膨れ上がらせた、その時だった。

 突然、学徒が錐揉み様に回転しながら吹き飛んで、挙句、遥か向こうの木箱の山に頭から突っ込んだ。

「……は。」

 あっけにとられるカジュの前に、鋼鉄の大盾のごとく(かば)い立った者。

 それは、緋女(ヒメ)であった。

 一体どこから現れたのか。というより、今日はひとりで来たはずだったのに。ともあれ、緋女(ヒメ)はどこかから矢のように飛び出して、その拳で学徒を殴り飛ばしたのである。

 緋女(ヒメ)の顔に表情はない。頬も、眉も、大理石の彫像のように凝り固まっている。その中で、ただ目だけが燃えていた。炎のように燃えていた。

 緋女(ヒメ)は走った。

 あまりにも速すぎて、霞か幻のようにしか見えない。一瞬で次の学徒に肉薄し、その鼻っ面に握り拳を叩き込む。ふたりめの学徒が卒倒し、ようやく残りの面々に恐怖が走る。悲鳴が上がる。背を向け逃げ出す。

 逃がすわけがない。

 緋女(ヒメ)は殴った。蹴った。投げ飛ばした。石畳は割れ、大樽は砕け、人が紙くずのように吹き飛んだ。命乞いにも容赦しない。反撃の拳も効こうはずがない。ちぎっては投げとはまさにこのこと。緋女(ヒメ)は今や吹き荒れる嵐であった。

 その間、緋女(ヒメ)は一言も発しなかった。

 それでもカジュには伝わってくる。言葉なんかなくても分かる。緋女(ヒメ)の眼が、拳が、筋肉繊維の一本一本が叫んでいる。

 ――あたしのツレをナメんじゃねえ!!

 カジュは静かに眼を閉じた。

 暗闇の中で己の心に向き合ってみれば、もう、どす黒い執着は、すっかり()えて消えていた。

 カジュは、鼻息も荒い緋女(ヒメ)に歩み寄り、服の裾をちょんと指で引いた。

「帰ろ、緋女(ヒメ)ちゃん。」

 学徒の胸倉を引きずりあげて今しも駄目押しの一撃を見舞おうとしていた緋女(ヒメ)が、すんでのところで拳を止める。

「……いいのかよ」

 カジュは彼女に、無理な作り笑いを投げかけた。

「うん。もういいんだ。」

 

 

     *

 

 

 マイクル・ファラドが所用を済ませて港に戻ってきたのは、ちょうど、カジュたちが広場を去った直後のことだった。

 ファラドはまず、倒れてうめく同僚たちに驚き、次に、遠くを去っていくカジュの背中に驚いた。幸い同僚たちは、手ひどく殴られてはいたものの命に別状はなく、この程度なら魔術で治すのも容易だろうと思われた。

 安堵の溜め息をついたとき、ファラドは、石畳に散乱した文書に気付いた。手にとった一枚には、目を奪われるような刺激的なタイトルと、几帳面な文字の著者名が記されていた――カジュ・ジブリールと。

 一体何が起きたのか、これで、なんとなく察せられた気がした。

 ファラドは困り顔で頭を掻き、それから、散らばった原稿を拾い集めにかかったのであった。

 

 

     *

 

 

 帰宅したふたりを出迎えたのは、なんとも抗いがたい、甘やかな香りであった。

 エプロン姿のヴィッシュが、上機嫌に鼻歌など歌っている。彼は仲間たちの姿を認めるなり、湯気を立てる耐熱皿をテーブルに運んできた。

「見ろよ、新作だぜ」

 と、自慢げに披露されたのは、焼きたてのプリン。新鮮な卵、ミルク、砂糖を混ぜ合わせ、耐熱皿に満たしてオーブンで焼く――前の失敗をふまえて今度はさらにひと工夫。フライパンで慎重に炒めた焦がし糖蜜を、上からとろりと垂らしてみた。

 ヴィッシュ特製“焦がし糖蜜のカスタード・プリン”、完成である。

「わー! うまそー!」

「ふーん。」

 飛びつく緋女(ヒメ)に、冷めたカジュ。ふたりそろって席に着き、ふかふかの生地を小皿に取る。

 カジュは、しばらくの間、たれ落ちる糖蜜を見つめていた。どこか優しげなカスタードの白。舞い踊るような焦がし砂糖の黒。ふたつがうねり、混ざり合い、ひとつのところに溶け合っていく。

 ひとさじ口にしてみれば、ヴィッシュが顔色をうかがいに来る。

「どうだ?」

 眠たげな眼を横手にそらし、カジュはボソリと呟いた。

「……まあまあだね。」

 

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

 

 さて。

 それからしばらく経ったある日のこと。カジュ宛に一通の手紙が届いた。余談とはなるが、以下にその内容を記しておく。

 

 

     *

 

 

「私は今、船の中でこれを書いています。

 まず、あなたにお詫びをしなければなりません。私の同僚たちが、あなたに大変な無礼を働きました。許されることではありません。彼らの上司として心より謝罪します。

 そしてまた、個人的にも謝りたいことがあります。実のところ、同僚たちばかりではなかったのです。私もあなたを侮っていました。あなたがあまりにも若いので、つい、とてもまともな論文など書けまい、と思い込んでしまったのです。

 それは大きな間違いでした。きっと、たいへんに不快な思いをなさったでしょうね。私の心ない言葉が、あなたを必要以上に追い詰めてしまったかもしれないと、罪の意識に駆られています。(ゆる)してくれとはとても言えないくらいです。

 でも、もし私を(ゆる)してくれるなら、もう少しだけ、この手紙の続きを読んでいただけないでしょうか。

 

 

 あなたの論文を読みました。

 大変に素晴らしかった。素晴らしすぎるあまり、はじめは我が目を疑ったほどです。しかしどうやら、あなたの理論は正しいようだと思えます。これは今までの常識を根底から覆しうる新説です。いえ、こんなこと言うまでもないでしょうね。この論文の価値は、誰よりあなた自身が最もよく分かっているに違いありません。

 私はこの論文を学園に持ち帰り、査読にかけてみるつもりです。おそらく審査員たちも私と同じ感想を抱くことでしょう。あなたさえ良ければ、学園を通じて全世界に発信したいと思っています。

 

 

 私は、今回の旅でひとつの収穫を得ました。それはどんなダイアモンドよりも大粒で、美しく、そのうえまだ誰にも知られていない、神秘的な宝石の原石です。ぜひ、この原石を世に送り出す手伝いを、私にさせてほしいと思うのです。

 そしてもし、ご不快でないなら――あなたを学友と呼ぶ権利を、私に与えていただけませんか?

 

 

 またお手紙します。

 

 

 あなたのファン 魔法学園副校長マイクル・ファラドより

 

 

 

 

 

 追伸

 

 さらに詳しく検証したところ、いささか気になるところが何点か見つかりました。実験データの不足が数か所。あきらかな論理の飛躍が一か所。

 これが査読で問題視されるのは、まず確実です。追加実験と考察の追記に取り組んでみてください。詳しくはまた査読後にお知らせします」

 

 

     *

 

 

 手紙を読み終わったカジュは、苦笑して、小さく一言呟いた。

「さすがに甘いだけじゃあないね。」

 

 

 

改めて―― THE END.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 病んだ剣士ギリアンは、死の床で過去に思いを()せる。自分の人生は一体なんだったのだろう? 何も掴めず死にゆく無念に絶望したそのとき、閃光の如くひとつの執着が蘇った。「最後にもう一度闘いたい。緋女――我が生涯で最強の相手と!」

 己の生きざまを刃に籠めて、剣士は最後の闘いに挑む。

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第9話 “最後の闘い”

 THE END

 

乞う、ご期待。

 



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第9話 “最後の闘い”
第9話-01 死にかけの剣士


 

 

 ある晩冬の午後、名医モンドは往診に出かけたが、これは気の進まぬ仕事であった。

 患者は30手前の男。住まいは貧民街の朽ちかけた小屋。そのような男に金の気配があろうはずもなかったが、まあ、それはよい。金が無いなら無いで、無いなりに手を尽くせば良いだけのこと。よくある話だ、(いと)う理由はない。

 彼の気を重くしているのは、その患者が死の床にあるという、ただその一事である。

 モンドが訪れた小屋は、いつもながら綺麗に片付いていた。というより、物らしい物がないのだ。家具といえば粗末な(わら)ベッドくらいのもの。その上には頬のこけた男が横たわり、(まぶた)を閉じて深く眠っている。あたりに漂う濃厚な死の気配は、どこか、神聖なる教会の静謐(せいひつ)をすら思わせた。

 臭いがする。仕事柄、これまで何百何千と嗅いできた――そのくせいまだに嗅ぎ慣れない――避けるべからざる運命の臭いだ。すぐ目の前にまで迎えに来た《死の女皇》さまが、ほのかにその体臭を漂わせているのだ。

 これを嗅ぐと虚しくなる。自分の仕事は何のためにあるのかと。人の命を救うのが役目のくせに、最後には必ず死を見届けねばならぬ因果な稼業。

 その困惑を顔に出すような名医モンドではなかったが――

「ギリアン。ギリアンくん。起きてるかね。ワシだよ」

 声をかけると、患者ギリアンは静かに目を開いた。首を動かす気力もないと見えて、ただ眼球のみをこちらに向ける。

「先生……今、起きました。今日は具合が良いようです」

「そりゃあ何よりだ。

 ほい、いじらせてもらうよ」

 モンドは患者のそばにあぐらをかき、服を脱がせた。

 ()せた体だった。まさに骨と皮、いや、それ以下とさえ思える。

 ギリアンは元々、屈強の剣士であった。その腕前を活かし、後始末人として幾多の魔物を狩り殺した。壮健だった頃の鋼のような肉体を、モンドも目にしたことがある。それが病ひとつでこうまで衰えようとは。

 モンドは汗を拭いてやり、床ずれに軟膏(なんこう)を塗って……と、流れるように作業を済ませていった。その間、ギリアンは指ひとつ動かしはしなかった。糸の切れた人形のように腕を垂らし、されるがままに任せていた。

 処置が終わりにさしかかった頃、ギリアンは不意にこう(ささや)いた。

「先生。私はもう長くありませんね」

「む……」

「いいのです。先生の見立てを教えて下さい」

「……そうだよ。君の言うとおりだ」

「あと、どれだけ?」

「さあ、2日か、3日……」

 と答えたところで、処置は全て終わった。再び服を着せ、最後に薬を飲ませる。薬といっても、今となっては体の痛みを和らげる程度の効き目しかあるまいが。

 ギリアンはベッドに横たわり、濁った目でじっとモンドを見上げた。

「先生、長い間ありがとうございました」

「なあに。こっちも商売だよ」

 モンドは笑ってみせたが、患者はくすりともしなかった。思えば、元気な頃から、滅多なことでは顔色を変えぬ男であった。死を目前にしたこの時に至ってもなお落ち着き払った態度を崩さずにいる。日々の鍛錬によって磨き上げた精神力のなせる技だろうか。

 もはやそれ以上の言葉はなかった。モンドは、耐え難い沈黙から逃げるように、小屋を抜け出したのだった。

 

 

     *

 

 

 その夜のことだった。

 ギリアンは夜の暗闇の中、静かに思いを()せていた。これまでの人生、さして長くも華やかでもなかった道程に。

 ――私の人生は、一体何だったのだろう。

 思うようには、生きられなかった。本当は、もっと違う生き方をしているはずだった。もっと違う死に方も。かつて彼は剣の道に命を捧げ、騎士として栄達を望んだが、果たすことなく、いつの間にかこの貧民街に落ちてしまったのだ。

 妻もない。子もない。親しい友もない。磨き上げた剣技を受け継ぐ弟子もなければ、歴史に名を刻むこともできなかった。

 何も遺せず。

 何も果たせず。

 ただ病だけを得て、無為な人生に幕を閉じる。

 涙が零れそうになった――辛うじて残った最後の矜持が、それを止めてくれたが。

 ――もう私には何もないのだ。何も。執着すべきものさえも――

 いつしか微睡(まどろ)みが彼に忍びより、夢の世界へと誘い込んだ。死の床の浅い眠りは現実と混ざり合い、夢の中でなお彼は考え続けた。何もない。本当にそうか? 残されてはいないのか? 為すべきことが――?

 朝日が差し込み始めた頃、彼は不意に覚醒した。

 ――ある。心残りが、ひとつ。

 ギリアンは、カッと眼を開き、震えながら身を起こした。ベッドのそばに立てかけておいた剣に手を伸ばす。革の鞘に触れると、ひやりとした感触が指に吸い付くかのようだ。

 ――あのひとと闘いたい。もう一度。

   緋女(ヒメ)

   我が生涯で最強の相手と!

 

 

     *

 

 

「そっちに行ったぞ、緋女(ヒメ)!」

 森の奥の廃村に、ヴィッシュの声が響き渡る。

 その声に追われるように、小鬼どもが湧いて出た。朽ちかけた農家の、壁に空いた大穴から、ぞろりぞろりと次々に――その数10匹あまり。

 鉄面皮ゴブリン。かつて魔王軍が雑兵としてこき使っていた鬼の一種だ。大した力はないが、繁殖力が高く、よく廃墟や打ち捨てられた古城などに群れで住み着く。そして近隣の村や街を襲い、野党まがいの真似をやってのけるのである。

 そのゴブリンどもを待ち受ける者がいた。大刀を軽々と肩に負い、両足に草を踏み蹴散らして、仁王立ちに行く手を阻む、目も(くら)むような美貌の剣士――勇者の後始末人、緋女(ヒメ)である。

「来な」

 その声も姿も、キンと真っ直ぐに張り詰めて、さながら剣そのもののごとし。

「まとめて片付けてやる!」

 彼女の挑発を理解できたわけでもあるまいが。

 ゴブリンどもは奇声を上げるや、緋女(ヒメ)に殺到した。棍棒、石、盗んだ農具。原始的とはいえ充分に強力な武器の数々が、あらゆる方向から襲いかかり――

 白刃一閃。

 次の瞬間には、小鬼どもが一斉に血の花を咲かせ、死体となって転がっていた。

 その中にただひとり、平然と立つ緋女(ヒメ)。フッ、と胸に溜め込んだ気合を吐き下したところへ、相棒の声がかかった。

「おお。流石だな」

 ヴィッシュは、足の踏み場もないほど散らばったゴブリンの死体を、ひょいひょいと飛び越えながら、緋女(ヒメ)に近寄ってきた。

 見れば、ゴブリンはみな、正確に頸動脈(けいどうみゃく)のみを切り裂かれている。大きく肉を切ったり骨を断ったりすれば、どうしても剣の切れ味は鈍ってしまう。よって、大勢を一度に相手取るなら、切っ先だけを用いて最小限の傷で(たお)すが最も良い。

 と、口で言うのは容易いが、実戦でその通りやってのけるのは至難の業。相変わらず緋女(ヒメ)の技量は舌を巻くほどであった。

 緋女(ヒメ)は、刀についた血をボロ布で拭いながら、口を尖らせそっぽを向いた。

「ほめられたって嬉しくねーからな」

 声はとても嬉しそうであった。これが犬に変身している時なら、意に反して尻尾がバッタバッタと振り回されていたところだ。

「そうか?」

「嬉しくねーし」

「はいはい」

「ころすぞテメコラァ!」

「さてー次はどこだー」

 と、そこへ仲間から《遠話》が届いた。耳元で響く声に曰く、

[CQCQ、こちら絶世の美少女(カジュさん)。でっかい群れ(クラスタ)はっけーん。]

「分かった、すぐ行く!」

 勇ましく返事をしたはいいものの、ヴィッシュは正直なところ疲労気味であった。何しろ昨夜から今朝まで夜通しゴブリンどもを追い回していたのだ。

「忙しいなァ」

 肩をすくめてヴィッシュがボヤく。緋女(ヒメ)は握り拳を突き出して、トンと彼の胸を打った。

「がんばろっ」

 こう素直に言われては、頷こうという気も湧いてくる。

「よし。やるか」

 

 

     *

 

 

 同じ頃、第2ベンズバレン四番通りの外れに、病んだ剣士ギリアンの姿があった。

 衰えきった彼には、貧民街からの僅かな道のりが千里にも万里にも思えただろう。痛みは絶え間なく襲い来る。疲れは一足ごとに積み上がる。それでも彼は歩み続けた。頼りは杖代わりの剣一本。こだわり抜いて仕立てた頑丈な鞘は、木の葉のように軽い病人の体を充分に支えてくれた。

 緋女(ヒメ)にまた会いたい。闘いたい。ただその一念が、死にかけの体を動かしていた。

 彼女を想うと、疲労も苦痛も不思議と気にならなかった。むしろ再戦を待ち望む気持ちがいや増して、胸の高鳴りさえ覚えてしまう。この情熱を言い表すだけの語彙(ごい)をギリアンは持たなかった。身体の中を駆け巡るのは声ならぬ声、言葉ならぬ言葉だ。

 緋女(ヒメ)

 彼女の剣を初めて目にしたのは、夏の終わりのことだった。

 あの頃、まだこの街に来てから日が浅い緋女(ヒメ)の仕事ぶりを、偶然にギリアンは見かけたのだ。彼女は街道沿いに湧いた戦車蟲(せんしゃむし)を狩っていた。象ほどもある巨大なカブトムシ。板金鎧なみの装甲を持つ厄介な相手だ。普通なら、大勢で取り囲んで鉄槌で外殻を叩き割るしか対処法はない。

 それを彼女は、ひょいと――湖畔でのんびりと釣り竿でも振るうような気軽さで――刀を走らせ、ただの一太刀で仕留めてしまったのだ。

 美しかった。あの太刀筋は完璧であった。一切の無駄なく正確無比に敵の要点のみを切り裂く、まさに剣の極めて至るべき型。(かすみ)の如く柔らかで、風の如く素早く、大地の如く落ち着いて、そのうえ(ほのお)の如く燃えている――

 あまりのことに、ギリアンは見惚(みと)れた。

 堪えようもない興奮を覚え、ギリアンはすぐさま彼女の元へ駆け寄った。そして息を切らせながら、頭を下げて丁重に頼みこんだのだ。手合わせを所望いたす、と。緋女(ヒメ)ははじめキョトンとしていたが、やがてニッカと無邪気に笑い、

「いいよー」

 と、気楽に答えた。

 日を改めて、ふたりは決闘を行った。結果は、散々なものであった。ギリアンの木剣は一度たりとも相手を捉えられず、緋女(ヒメ)の木刀は七度(ななたび)こちらを打ち据えた。愛撫するような優しい打ち方であった。事実皮膚には傷らしい傷も付かなかった。にもかかわらず、一瞬遅れて骨に重い衝撃が走るのだ。力の全てが身体の芯に叩き込まれているからだ。

 刀の芸術、と言うより他なかった。

 滅多打ちにされながらも、ギリアンは(よろこ)びを覚えた。もはやそれは法悦であった。この木刀を通じて、自分は神秘に触れたのだと、そう思えた。

 勝負の後、緋女(ヒメ)は軽く汗など浮かべながら、楽しそうに微笑んだ。彼女は、神聖なる嶺に凛然(りんぜん)と咲き誇る大輪の華。剣の巫女――いや、女神そのものであろうか。

 緋女(ヒメ)

 過去を思い起こしているうちに、ギリアンは目的の場所にたどり着いた。後始末人ヴィッシュの住まい、三階建ての細長い一軒家だ。戸を叩いてみるが、返事はない。ドアには鍵がかかっている。

 留守か、と落胆したところへ、背後から声がかかった。

「あら。ヴィッシュくんにお客さん?」

 振り返れば、よく肥えた中年の女性がひとり、喋りたくてたまらないといった顔をしてこちらを見ている。彼女はギリアンの顔をまじまじ見つめるや、胸の前で手のひらを打って、

「あらあら! ギリアンさんじゃあないの? ずいぶん()せたのねえ。

 わたしよォ、隣のパン屋の」

 と、隣家を指さす。正直に言って彼女の顔に覚えはなかったが、おそらくヴィッシュを訪れた時に紹介されたことがあるのだろう。興味のない相手のことは全く記憶に残らないのだ。悪い癖だと思ってはいたが、ついに最期まで直せなかったらしい。

緋女(ヒメ)さんに会いに来たのだ。お留守かね?」

「昨日から3人一緒にお仕事よ。確かトーレスでゴブリン狩りだって」

 トーレスは、ここから東に1日ほどの距離にある小さな街だ。たかがゴブリン狩りにあの3人が駆り出されたとなれば、獲物は並大抵の数ではあるまい。少なくとも50匹以上、ことによると100匹。ヴィッシュたちの力を以てしても、狩り尽くすには軽く丸一昼夜は要するに違いない。

 すると、帰宅は早くとも今夜遅く、あるいは明日のことになろう。

 それまで命がもつかどうか。仮にもったとしても、その時に剣を握る力が残されているかどうか――

「分かりました。ありがとう」

「どういたしまして。戻ったら、あなたのこと伝えとこうか?」

「いいえ、結構。こちらから出向きます」

 そう答えて、ギリアンは歩き出した。パン屋の女性は、枯れ草のように風に揺れるギリアンを見ると、不安に駆られ、再び声をかけた。

「ねえ、大丈夫? 出向くって……トーレスまで行くの? その体で?」

 ギリアンは何も答えなかった。無礼は承知であったが、今は、声をあげる体力さえも惜しかった。もう心を決めたのだ。身体に残った力の全てを、最後の闘いに捧げると。

 

 

 

(つづく)

 



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第9話-02 萌え木のごときルクレッタ

 

 

 第2ベンズバレンからは、3本の大街道が発している。北には、馬車10台分もの幅を持つ王国の大動脈、通称“無制限街道”。西には、古ハンザ時代から続く由緒正しき“アレフの道”。そして東には、広大な田園地帯を貫く“ヴェダ街道”である。

 ギリアンは東のヴェダ街道を歩きだした。気は()いていたが、無理が利かぬ身体なのは自分が一番よく分かっている。焦りを胸のうちに封じ込め、一歩一歩、確かめるようにギリアンは進んだ。

 途中、何人もの旅人に追い抜かれ、時には(いぶか)しそうに(にら)まれさえした。気にならなかったと言えば嘘になる。

 だが、彼は己に言い聞かせ続けた。

 ――比べるな。私は私の道を()け。

 第2ベンズバレンを出て、のどかな田園を越え、木の葉もまばらな寒々しい林に差し掛かった頃、彼の耳に悲鳴が届いた。

 見れば、林の中から焦げ色をした獣が一頭、飛び出してきたのであった。猪に似ているが、下顎(したあご)から長大な二本の牙が付き出している。“衝角猪(ラムボア)”、魔王の手になる危険な魔獣だ。

 前を歩いていた農民らしい母子が悲鳴を上げた。衝角猪がその声に刺激され、母子の方へ牙を向ける。

 ――いけない!

 と悪寒が背筋を貫くや、ギリアンの身体はひとりでに動いていた。小石を拾い、投げ付け、注意を引きつけておいて、走る。

 猪が来る。

 その動きが、細かな体毛の一本に至るまで手に取るように視えた。

 猪の突進を、僅かに半身(ひね)ってかわし、すれ違いざまに愛剣を走らせる。

 切っ先は線を引くように猪の脚を裂き、一秒遅れて血が噴き出して、腱を切られた猪は横倒しに倒れ伏した。

 あとは楽なもの、であった。もはや立ち上がることも出来ず、怨嗟(えんさ)の声を上げながらのたうち回るばかりの猪に、止めの一撃を突き立てた。

 死んだ魔獣に祈りを捧げながら、ギリアンは不思議に思っていた。今の動きは大変に良かった。強敵を一頭仕留めたというのに、自分は息ひとつ乱れていない。動きに無駄がないからだ。この病みきった身体であれほどの剣が振るえようとは、自分でも信じられない。

 死を目前にした今になって、彼の集中力はかつてないまでに高まっているようだった。

 勝てる、かも知れない。この剣の冴えがあれば――

 そこへ、先ほどの母子が恐る恐る声を掛けてきた。彼女らは愛らしく声を揃えて礼を述べ、何かお返しを、と申し出た。

 ギリアンは丁重に辞退したが、母子は引き下がらなかった。感謝の気持ちを形にせねば気が済まぬ、という素朴で熱烈な善意を感じた。どうしたものか、と思案するうちに、ふとギリアンは空腹を覚えた。

 空腹? まさか? 最近は流動食(おもゆ)さえ受け付けなくなっていたこの胃腸が?

 しかし、確かに空腹だった。さらに信じられぬことに、腹が鳴った。何ヶ月ぶりのことであった。

「では……朝から何も食べていないので」

 申し訳なさそうにギリアンは切り出した。

「何か食べさせてもらえないか」

 母子はそっくりな顔をそっくりに(ほころ)ばせ、ふたり揃って頷いた。

 

 

     *

 

 

 母子の住まいに招かれ、ギリアンは下にも置かぬ歓待を受けた。

 食事は大変に豪勢なものであった。カリカリに表面を焦がした塩漬け豚、濃厚な味わいのチーズ、豚の血の腸詰め、この冬に樽から出したばかりのみずみずしいワイン……ありふれたものではあったが、母子ふたり暮らしの農民には、とっておきの贅沢品であっただろう。

 ギリアンはありがたくそれらを頂いた。涙が出るほどに美味(うま)かった。胃の内側から熱い活力の炎が湧き出してくるかに思えた。まさか、再び食を(たの)しめる日が来ようとは。

 とりわけ、母親手作りの焼きたてパンは格別だった。(かまど)から引き出して、灰を払い()けて、アツアツのままかぶりつくのだ。これが、美味い。小麦の旨味が口の中で花開くかのようだ。もういくらでも食べられる。

 それに何か、懐かしい味だった。

 昔、こうして焼きたてを食べさせてくれた(ひと)がいた。

 そう、あれはもう10年も前のこと。

 あの頃、ギリアンはまだ17歳。成人してから5年目の、根拠のない全能感に取り憑かれた、どこにでもいる若造だった――

 

 

     *

 

 

 ギリアンは北部の小さな農家に生まれた。幼い頃から運動の得意な子供であった。とりわけ、騎士を真似(まね)て棒切れを振り回すのが好きだった。淡い憧れを抱いていたのだ。大人たちは、平民が騎士になれるはずはないと嘲笑(あざわら)ったが。

 ある時、剣の達人として有名な老騎士が村を通りかかり、ギリアンのチャンバラ遊びを偶然に見かけた。そしてすぐさま両親に掛け合い、ギリアンを養子として引き取ったのであった。

 その日から、老騎士はギリアンの師となった。老師にはいくら感謝してもしたりない。ギリアンに素晴らしい剣術を仕込み、平民に過ぎない彼を騎士見習いに取り立ててくれ、いずれは自分の騎士株を譲る約束さえしてくれたのだった。

 ギリアンは師のもとで修行に明け暮れ、その才能を見事に開花させた。達人仕込みの剣は鋭く、15歳の頃にはもう、王国に並ぶものなしと評されるまでになっていた。

 もちろん、平民上がりの彼に、貴族の子弟どもはいい顔をしなかった。なまじ実力があればなおさらである。

 有形無形さまざまの嫌がらせがあった。中には耐え難いものもあったが、彼はじっと我慢を続けた。

 それが可能だったのは、ひとつ、大きな心の支えがあったからだ。

 ああ、萌え木のごときルクレッタ。唯一無二の想い人よ。

 ルクレッタは老師の孫娘だった。一つ年下の彼女は、ギリアンを深く慕い、どこへ行くにもついてきたものだった。剣の修行で散々に打ちのめされるギリアンを、いつも親切に手当してくれた。衣服の(つくろ)いも弁当作りもかいがいしくやってくれた。早くに両親を亡くしたせいか、彼女はどんなことでも独力で器用にこなした。その指使いは見惚(みと)れんばかりであった。

 ギリアンは彼女を実の妹のように愛した――そして長じては、当然のごとく、ひとりの女として愛するようになっていた。

 いつか騎士の位についたなら、彼女を妻に迎えたい。彼はそんな夢を抱くようになっていた。愛しい人と寄り添い、憧れの職につく幸せな未来。それが目の前のことのように想像できた。

 もちろん、口に出して愛を語れるような度胸あるギリアンではなかったが、ルクレッタもまた同じ気持ちでいるはずだとは思えた。

 根拠のない妄想ではない。一度、成人したばかりのルクレッタに縁談が持ち込まれたことがある。縁談はすぐに立ち消えになった。ギリアンは詳しいことを聞かされなかったが、どうやら、ルクレッタ自身が強く(こば)んだらしいのだ。後で風の噂を耳にした。彼女が祖父にこう訴えたのだと。

「私、誰のお嫁さんになるか、ずっと前から決めてるの。お祖父(じい)様が誰より目をかけている人よ」

 ギリアンは舞い上がった。これが舞い上がらずにいられようか?

 以来、ギリアンはルクレッタを強く意識するようになったのだった。いったん女として意識してしまうと、それまでも充分に愛らしかった彼女が、この世に比類なき人とさえ思われるようになった。

 恋は魔法。今も昔も。

 とはいえ、快い魔法なら受け()れぬ手はあるまい。

 彼女も同じ気持ちだったろうか? 確かめる術はもはや無いが、少なくとも、その頃からふたりの距離が急速に縮まったのは確かだった。手足に触れる指も、以前とはその甘やかさを変えていた。時には、心臓が破裂しそうなほど近く寄り添って――

 ギリアンはこれまで以上に修行に身を入れるようになった。ほとんど執念にも近い思いを抱いて、ひたすらに腕を磨いた。

 成すべきことはただひとつ。

 騎士になるのだ。鍛え抜いたこの力でもって。

 

 

     *

 

 

 それから2年が過ぎ、魔王の侵攻が始まった。

 ベンズバレン王国にもその魔手は伸び、東部から北部にかけての地域で激しい戦闘が繰り返された。度重なる敗戦で軍は致命的な兵力不足に陥り、窮余の策として大規模な人材登用が行われた。その中に、騎士見習いの大量一斉叙任も含まれていた。

 ギリアンは、ついに騎士となったのである。

 老師はこれを大いに喜んでくれた。無論ルクレッタもだ。叙任式の夜は祝の宴会で家に戻れなかったが、翌朝、帰宅したギリアンを、ルクレッタは暖かく迎えてくれた。

 ふたりは、どちらからともなく抱きしめ合った。

 その途端、爽やかな性欲が湧き上がり、互いが互いをむさぼるように求めあった。この日、初めてふたりは愛を交わした。

 それはとろけるように素晴らしい出来事だったが――なぜか、あまり記憶に残っていない。おそらく夢中すぎたのだろう。

 それよりも鮮明に覚えているのは、昼過ぎてからルクレッタが作ってくれた朝食のことだ。

 あの日、寝床で、汗ばんだ彼女の裸体を、濡れた手ぬぐいで拭いてやった。彼女は心地良さそうに鼻息を漏らした。その体を抱き寄せてキスを奪った。もう一度、と甘い声でねだられて、今度はうなじに唇を()わせた。背中にも。乳房の上にも。最後はもちろん、再び唇に――

 それからルクレッタは、急に恥ずかしがりはじめ(つい今しがた、あらゆるところを惜しみなく開け広げたにもかかわらずだ)、いそいそと逃げるように衣を(まと)った。そして、速やかに妹の顔に戻ると、ギリアンのためにパンをこね始めたのだった。

 その時の、パンの焼けるうっとりするような香ばしさは、ルクレッタへの情愛と密接に結びついている。

 ギリアンは、ルクレッタを寝床に誘った。テーブルでは向かい合って座るしかないが、寝床なら横に寄り添うことができるから。

 ふたりは枝に並んだ小鳥のように身を寄せ合い、焼きたてのパンを分け合った。ひとつまみずつ千切り、互いに食べさせあった。何度も指が唇に触れた。パンと一緒に指先をねぶり合うこともあった。

 美味い、美味いパンだった。暖かく、柔らかく、何より甘く、ルクレッタの心が染み込んだようであった。一口ごとに活力が湧き出し、()け口を求めて体内を駆け巡った。期待は胸の内で膨らみ、膨らみ、膨らみ上がり――ついに弾けた。再びふたりは獣となった。荒々しい行為が済むや、すぐさまもう一度。さらにもう一度、もう一度――

 求め求められることの快楽を、ふたりは心ゆくまでねぶり尽くした。

 それが最後の逢瀬(おうせ)になるとは、夢にも思わぬままに。

 

 

     *

 

 

 農民の母子は、命の恩人たるギリアンをしきりに引き止めたが、彼は聞き入れなかった。手厚い歓待に礼を述べ、母子を振り切るように住まいを辞した。ふたりは街道に出て、ギリアンの姿が消えるまで見送ってくれた。

 ――ああ、よかった。

 ギリアンは、満ち足りた気分を味わっていた。

 少なくとも、今日自分が闘いに(おもむ)いたために、ふたりの命を救うことはできたのだ。それだけでも、この人生は無駄ではなかったと言えるではないか。

 ギリアンの表情には生気がみなぎり、先ほどまでとは別人のようにさえ見えた。いまだ体の痛みは治まらず、杖無しで歩けるわけでもなかったが、背筋はぴんと伸びていた。道はまだまだ遠かったが、必ず緋女(ヒメ)のもとへたどり着けると、無邪気な確信を抱いていた。

 意気揚々、ギリアンは街道を進んだ。

 途中で多くの旅人とすれ違ったが、その中に、大きな帽子で顔を隠した二人組の男もいた。彼らの片方は、ギリアンの横を通り抜けるやひたと足を止め、音を立てぬよう慎重に振り返った。もうひとりが(いぶか)って問いかける。

「どうした?」

「静かに。今の病人、奴だ」

「奴……」

 ふたりそろって帽子をそっと持ち上げ、ギリアンの背中を見やる。片方が、あっ、と小さく声を上げた。見る影もなく()せ細り、人相も変わってしまっていたが、あの後ろ姿には見覚えがある。

「ギリアン! ギリアン・スノーかっ」

「まさかこんなところで会うとはな。おい、これはチャンスだぞ」

 ひとりが、己の右肩をさすった。彼の右腕は肩の下までしかなかった。かつてあのギリアンに切り落とされたのだ。

 もうひとりもまた、指で顔の傷をなぞった。眉の上から頬にかけて、斜めにばっさりとやられている。ギリアンの剣によってつけられた傷だ。

「やろう。10年前の怨み、今ここで晴らしてやる!」

 

 

 

(つづく)

 



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第9話-03 心残り

 

 

 10年前。騎士叙任を受けたギリアンは第二師団に配属され、激戦の北部へ送られることになった。

 王都を離れるその日、彼はルクレッタと約束した。戦が終わって戻ってきたら結婚しようと。彼女は驚きもしなかった。ただ、微笑とともに頷いただけだった。きっと予想済みだったのだろう。結婚を申し込まれることも、そのタイミングも、ことによるとプロポーズの言葉までも。

 ともあれ彼は意気揚々と出陣した。浮かれているのは否定できなかった。が、剣さばきには一片の慢心も浮つきも見られなかった。常に己を(いまし)めよという老師の教えが、骨の髄まで染みていたのだ。戦場において為すべきことはただひとつ。絶え間なく襲い来る魔物どもに、己の持つ力の全てを粛々と叩きつけるのだ。

 彼の業前(わざまえ)と戦功はほどなく師団司令官の知るところとなった。士気発揚のためもあったのだろう、ギリアンは全軍の前で大々的に功績を賞され、勲章と恩賞を授けられた。

 多くの将兵はギリアンを讃え、また我も後に続かんと奮い立ったろうが、中には真っ直ぐに受け取れない者もいた。いつの世も、羨望を歪んだ形にしか発露できない者はいるものだ。

 彼らは高名な貴族の子弟、いずれは軍の要職に付くことを約束された者たち、であった。彼らにとって、下賤の出でありながら運良く騎士の位を掴んだだけの男(事実ではあった)は、決して許せぬ悪だ。ましてそんな下衆が勲章を授かるなど――言語道断。

 次の日から、ギリアンへの執拗ないじめが始まった。過失を装って泥水をかけられる、鎧を汚される、馬の(しり)を切られるなどは日常茶飯事。ひとりだけ命令を伝えられなかったり、きつい歩哨を不自然に数多く押し付けられたりもした。時には、剣の目釘を抜かれていたことも――もしギリアンが几帳面に点検を行う性格でなかったなら、刃がすっぽ抜けて大惨事になっていたところだ。

 いじめは次第に悪質さを増し、悪戯では済まされぬ領域にまで至りつつあった。直接的な暴力を受けたことも一度や二度ではない。それでもギリアンは耐え続けた。理由はいくつもあるが、まず、相手が有力者だけに反撃は面倒なことになる、と踏んだのがひとつ。いざとなれば自分の方が強い、と自負していたのがひとつ。そして、誰が自分を(おとし)めようとルクレッタだけは愛してくれる、と確信していたのがひとつ。

 ところがある時、ついにどうにもならぬ事態が出来(しゅったい)した。

 その日、師団はとある農村のそばに布陣した。偶然にもその村はギリアンの故郷であった。

 上官や仲のいい同僚たちは、家族に会ってきてはどうだと勧めてくれた。心遣いは嬉しかったが、ギリアンは断った。今の彼は老師の子。父母や兄姉らとは、もう他人となってしまったのだ。それに従軍中でもある。公私混同は避けたかった。

 石頭のお前らしい、と同僚たちは笑った。

 その話を、少し離れたところで耳ざとく聞いている者たちがいた。いつもギリアンに嫌がらせを仕掛けていた連中である。彼らが何かひそひそ話しているのをギリアンは目撃した。そのときは、また何か良からぬことを企んでいるのだろうと思っただけだった。いつものことだったからだ。

 異変が起きたのは、その夜のことだった。

 ギリアンの所属する中隊で、隊員が3名、野営のテントから消えているのが発覚した。脱走は言うまでもなく重い罪である。もし何か不祥事でも起こしたなら、部隊全体も連帯責任を問われることになる。そこで、残りの隊員たちによって深夜の捜索が始まった。

 ギリアンは妙な胸騒ぎを覚えた。

 居なくなった3人というのが、先ほどギリアンの故郷のことを聞いて密談を交わしていた、あの連中だったからである。

 ギリアンは、走った。故郷の村へ駆け込んだ。星空の下に広がる田園には、まだ青臭い稲や麦が、絨毯のごとく敷き詰められている。その根本では蛙たちが、陰気な歌声を飽くことなく響かせている――

 と。

 ある一角だけ、蛙の歌が途絶えているのが分かった。危険の気配を察して鳴き止んだのに違いない。

 穴の空いたような静寂に包まれているのは、まさに、ギリアンの生家であった。

 悲鳴が聞こえた。いや、嗚咽だ。

 ――姉の声だ!

 ギリアンはあぜ道を猛然と駆けた。かつて何度となく走ったこの道を、当時に数倍する速度で駆け抜けた。飛ぶように田畑を越え坂を登り、生家の戸を叩き壊さんばかりに押し開けた。

 中に広がっていたのは危惧したとおりの光景。鍛え抜いた騎士たちが、卑劣にも三人がかりで、ギリアンの姉を組み敷いている姿であった。

「やめろッ!!」

 ギリアンの怒声が、騎士たちを家ごと吹き飛ばすかに思われた。騎士たちの二人が立ち上がる。ひとりはまだ姉の上にまたがったままだ。あたりに目を配れば、父と母は頭を殴られたらしく、血の匂いを漂わせながらうずくまっており、幼い妹は震えるばかり。兄と弟の姿はない――きっともう結婚して家を出たのに違いない。兄たちさえいればきっと犯行を諦めていただろうに、この卑怯者どもは!

 姉にまたがったままの騎士が、にやにやと下卑た笑みをギリアンに向けた。

「おうギリアン。一緒にやるかい? 行き遅れの田舎女だが、この土臭いのがまあまあいけるぜ」

 むせ返るような邪悪の気配に、ギリアンの怒りは留まるところを知らず膨れ上がっていく。

「やめろと言っている」

「空気悪くする奴だなあ。こういう女は、後で金貨の2、3枚も投げてやりゃ納得するんだ。ノリが悪いんだよ、百姓上がり!」

「……これが最後だ。やめろ」

「やめないね。王都にいるお前の妹、あのブスだ、今度あいつにもいい思いさせてやるよ。あの顔じゃあどうせ嫁の貰い手も……!」

 それが、彼の最後の言葉となった。

 一瞬の出来事だった。ギリアンは音もなく、そよ風のように肉薄し、ただ一刀にて彼を斬り捨てた。反撃はおろか、悲鳴を挙げることさえできぬままに。

 驚いたのは、立ってギリアンの行く手を塞いでいた――はずのふたりであった。自分たちの間をギリアンがすり抜けたのに、彼らは気付きさえしなかった。その時点で彼らは思い知るべきだったのだ、圧倒的なまでの実力差を。しかし残念ながら彼らは、恐怖と驚愕に駆られて、剣を抜いてしまった。

 抜けば、もはや殺し合うしかない。

 ギリアンは振り返りざま、流れるように刃を走らせた。ひとりの顔面を斜めに切り裂き、返す刀でもうひとりの右腕を二の腕から切り落とした。余りにもその手際が良すぎたために、相手ははじめ、切られたとさえ認識できなかった。

 少し遅れて、血が吹き出し、ついで地獄の痛みが彼らを襲った。絶叫が響く中、ギリアンは溜め息をついた。姉と妹の肩を叩いて慰め、父母のそばに(ひざまず)いて容態(ようだい)を診た。どうやら命に別状はなさそうだった。

「ギリアン……あなた、ギリアンでしょう?」

 震える声で姉が言う。問には答えず、ギリアンは立ち上がった。

「すぐに軍隊の連中が来るだろう。恐れることはない、今夜起こったことを全て包み隠さず喋るといい。隊長は話のわかる人だ」

「あなたはどうするの?」

 ギリアンは、家の戸口へ向かった。

「さようなら。みんな、どうか元気で」

 その言葉だけを残して、ギリアンは生家を飛び出した。

 そのまま彼は軍を脱走した。どんな事情があろうと、名族の跡継ぎを殺した罪からは逃れられまい。たとえ軍法が(ゆる)しても、あの男たちの親が(ゆる)しはしない。

 己のしでかしたことの報いだ。潔く殺されてやるのも良いが。

 彼はまだ、命に未練があったのである。恥ずかしいことに――いや、当然のことながら――

 

 

     *

 

 

 ギリアンにやられたふたりの騎士は、今もなお、あの夜の怨みを忘れてはいなかった。

 軍法は彼らの蛮行を厳しく裁いたが、刑の執行はうやむやにされた。彼らの親兄弟から圧力がかかったことは言うまでもない。死をもって償うこともなく、地位を失うこともなく、少々配置換えと訓告を食らった程度で、彼らはのうのうと生き続けた。

 無論、無くしたものがないわけではなかった。切り落とされた腕は二度と戻らぬし、顔につけられた大きな傷は嫌でも目立つ。彼らの“若気の至り”、その報いたる一生ものの傷跡は、親族の間でも宮中でも物笑いの種だった。

 彼らは何度も屈辱に震えた。そして互いを慰めあった。いつか、あの悪党ギリアン・スノーを()らしめてやろう、と。

 あれから10年経った今、ついにギリアンを見つけたのだ。この好機を逃す訳にはいかない。

 二人組の騎士は、充分な距離をおいてギリアンの後をつけた。相手は死にかけの病人、容易いことだ。やがてふたりは何やらひそひそと申し合わせた。傷顔の方が街道を外れ、林の中に消えた。

 一方、ギリアンは歩きながら、妙に落ち着いた気分を味わっていた。

 午後の街道は平穏そのもの。作物が刈り取られた後の田園に雀の群れが舞い降りて、忙しく跳ね回りながら土を突く。一羽が虫か何かを捕まえ、口移しで他の一羽に分け与えた。

 ほう、とギリアンは感嘆の溜め息を吐いた。雀とは、あんなふうに獲物を分け合うものなのか。野鳥などという生き物は、早い者勝ちの奪い合いをしているとばかり思っていた。

 これは発見であった。皮肉なものだ。死を目の前にした今になって、新しく何かを知ったとて何になろう?

 ギリアンは、そんなことがどうでも良くなっている自分に気づいた。ただ目の前で懸命に糧を求める雀たちが、たまらなく愛おしく思えた。いつまでも眺めていたかった――

 ふと、腕が剣の柄に触れた。

 剣に叱られた気がした。甘えるな、と。

 ――行かねばならぬ。私は私の人生を。

 と、そのときであった。

 ギリアンは、ひたと足を止めた。道の先に、じっと立って行く手を塞いでいる男がいる。ただならぬ気配、殺意の臭いが鼻をついた。

 ギリアンは剣に手をかけた。残り少ない体力を振り絞り、その男に誰何(すいか)の声をかけた。

「あなたは誰だ? 私に何か用なのか」

 男は答えず、その代わり――剣を抜いた。

 と、そちらに気を取られていたのが悪かった。応戦しようとギリアンが愛剣を引き抜いたその時、背中に熱い衝撃が走った。

 背を、肩から腰まで、ばっさりと斜めに切り裂かれていた。

 よろめきながら振り返り、背後から襲ってきた二人目の敵を見た。あの邪悪に歪んだ笑み。切り落とされた右腕――ひと目で思い出した。そして理解した。

 ――あの時のふたり! 意趣返しか!

 片腕の男が、二の太刀を叩き込もうと振りかぶる。行く手を塞いでいた方、傷顔の男も迫ってくる。挟み撃ちだ。

 しかし。

 ――生兵法が!

 ギリアンは喘ぎながら剣を振るった。無造作に、力さえ込めず。

 刃は旋風(つむじかぜ)のように渦を巻き、前後の敵をただ一息にて薙ぎ倒した。ふたりの喉元だけを正確に掻き切って。

 敵が倒れたとたん、猛烈な痛みがギリアンに襲い掛かった。脂汗がどっと体中から噴き出した。膝を付き、呻き、朦朧とする意識の中で、彼は必死に痛みを堪えた。

 雀がそばによってきた。慰めてくれようとしたのだろうか? 妄想に過ぎぬとは半ば自覚しながらも、彼はその甘い妄想に(すが)りかけた。

 ここで倒れてしまいたい。心優しい小鳥たちに囲まれて、何もかも忘れて眠りたい――

 だが。

 ギリアンは、剣を杖に、立ち上がった。

 行かねば。

 行かねばならぬ。10年前のあの時と同じように。

 温かいもの、甘やかなもの、心潤わしてくれる愛、その全てを――かなぐり捨ててでも。

 

 

 

(つづく)

 



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第9話-04(終) 最後の闘い

 

 

 10年前の、その夜。

 ルクレッタは、家の窓辺にもたれ掛かり、じっと星を眺めていた。

 ギリアンが同僚を斬って逃亡した(むね)は、既に王都にも伝わっていた。その背後にある事情もだ。賢いルクレッタは、彼が逃げた理由まで察していた。そして、彼が次に取るであろう行動も。

 予感があった。日数から言っても、おそらくは、今夜あたり――

 と。

 ルクレッタは、窓の外の路上に、音もなくわだかまる影を見出した。夜そのものよりも黒い影。ルクレッタは窓を開けた。

 そして、2階から飛び降りた。

 影が慌てふためくのが気配で分かる。しかしルクレッタは平然と着地し、影のもとへ近づいていった。影、ギリアン・スノーのもとへ。

「お帰りなさい」

「ただい……ま」

 ギリアンは、面食らいながらも、彼女を抱き寄せた。ルクレッタは背伸びしてキスをせがんだ。触れ合った唇は炎よりも熱く、ひとつのもののように吸い付いた。

 このままもっと素晴らしいことをもしたいくらいだったが、今は、そうも言っていられない。

「事情は?」

 端的にギリアンが問えば、ルクレッタもまた端的に答える。

「聞きました」

「私は逃げる」

「一緒に行きます」

 こうなるだろうことを、ギリアンは完全に予測していた。

 そして、そのための心構えを決めていた。言うべき言葉、為すべきこと、全てあらかじめ用意しておいたのだ。

「だめだ。奴らの親は必ず私の命を狙うだろう。一緒にいれば、君も師匠も危ない」

「だから逃げましょう、遠くへ」

 答えは、用意していたはずなのに。

 彼女を目の当たりにすると、それを口にするのがこうまで辛いとは。

 胸の中で暴れまわる罪悪感と誘惑と後悔の予感、その全てを振り切って、ギリアンは言った。毅然として。

「だめだ」

 ルクレッタは、もう何も言わなかった。

 ギリアンは、彼女の肩をそっと押し退け、一方、身を後ろへ引いた。暖かな窓の灯りが遠ざかり、底知れぬ夜の闇が一歩近づく――

 それでも。

「私のことは忘れて、どうか幸せになってくれ」

 行かねば。

 行かねばならぬ。

 欲しかったものの全てをかなぐり捨てて。

「さよなら」

 彼は走り出した。

 闇が彼を飲み込んだ。

 ここが、これから彼の生きる世界。光の当たらぬ世界の裏側。こんなはずではなかったのに、堕ちるしかなかった淀み。

 ルクレッタとは、二度と会うことがなかった。

 

 

     *

 

 

 背中の傷は、炎のごとく燃えていた。

 溢れ出る血。背後に揺れる夕陽。遠ざかってしまった安息の日常が、彼の心をたまらなく惹き付ける。なぜこんなところへ来てしまったのだろう? こんなにも痛いのに。こんなにも熱いのに。治療のあてもない荒野の中を、どうしてひとり彷徨(さまよ)っているのだろう。

 振り返りたかった。引き返したかった。叶うことなら、もう一度。しかし――

 ――これは、もう、だめだな。

 妙に落ち着いている自分がいた。傷の具合、病状、そうしたものを、他人事のように冷静に分析していた。死ぬ。もう間もなく。そう確信した途端、それまで胸の中に封じ込めていた――10年に渡って隠し続けていたものが、熟した木の実の弾けるがごとくに噴き出した。

 ああ、ルクレッタ。唯一無二のルクレッタ。

 君はもう結婚したろうか。

 何処(どこ)かで、誰かと、別の幸せを掴んでくれたろうか。

 ギリアンは歩んだ。一歩。

 師匠はまだ存命であろうか。きっとふがいない弟子に憤っておられよう。だが一方で、厳しくも優しい老師は、今も私を心配してくれているに違いない。謝りたかった、一言、ただ一言でも。

 ギリアンは歩んだ。また一歩。

 故郷の家族。父と母、きょうだいたち。弟は立派に家族を守っているかな。父や母の傷は大丈夫だったのだろうか。今頃はみんな、種蒔(たねまき)の準備に大慌てだろうか。元気にやっていけているだろうか。

 ギリアンは歩んだ。さらに一歩。

 いつの間にか。

 彼の背から流れ出た血は、夕陽の(あか)に溶け込んでいた。

 背中のことだ、見えはしない。だが、見えずともギリアンにはそれが解った。はっきりと。

 ――なあんだ。“何もない”なんて間違いだった。

   あるじゃないか、私にだって。

   こんなにも、こんなにも――

 涙が零れた。

 子供のころから、ついぞ零したことのない涙であった。

 

 

     *

 

 

 ヴィッシュたち3人は、午後遅くになってようやくゴブリン狩りを終え、帰路に就いた。ヴェダ街道を西へ。

 3人じゃれ合いながら進んでいると、行く手に小さく人影が見えた。煌々(こうこう)と輝く夕陽の中に、やせ細った男の姿が浮かんでいる。よろめき、杖にすがり、何度も倒れかけながら、それでも歩むことを止めない。

 ヴィッシュは目を細めて見つめ、やがて気づいた。それが知った顔であることに。

「ギリアンじゃないか」

 駆け寄ってみれば、ギリアンの顔は逆光の中に青白く浮かび上がり、息は今にも絶えんばかりであった。それに、死を予感させるこの臭い。背中の致命傷が放つ血臭。

「どうしたんだ、お前、ひどい怪我じゃないか」

 ヴィッシュの言葉を(さえぎ)るように、ギリアンは一言、求める相手の名を呼んだ。

緋女(ヒメ)

 弱々しく、しかし、はっきりと。

「真剣勝負を所望する」

 ヴィッシュには訳が分からなかった。この男は後始末人である。その腕前はヴィッシュもよく知っている。緋女(ヒメ)が現れるまでは、間違いなく第2ベンズバレン支部で最強の男だった。だが、この病み衰えた体で、しかもあんな傷を負ったまま、緋女(ヒメ)と戦おうというのか? そんなことのために、ここまで来たというのか?

「馬鹿言うな、そんな体で……」

 と。

 横から剣のような腕が伸びて、ヴィッシュを黙らせた。

 緋女(ヒメ)の腕であった。

 彼女は炎の揺らめくがごとく、ギリアンの前に進み出た。刀の柄に手を掛けて、静かに一言。

「来な」

 言葉は、それで充分だった。

 ふたりは、それぞれの剣を抜いた。

 仲間たちが数歩下がって見守る中、ギリアンと緋女(ヒメ)は、じっと見つめ合った。身じろぎもせず、瞬きもなく、何百年も立ち続ける大木のように、ふたりはただそこに在った。鳥の声が消えた。風さえ止んだ。大地は凍り付いたかのようであった。

「……なんで始めないのかな。」

 術士カジュが呟いた。ヴィッシュは首を横に振る。

「始まってるさ。動けないんだ」

 ヴィッシュとて、それなりの使い手。腕前は彼らに到底及ばずとも、目に見えぬ応酬を感じ取ることはできる。

 ギリアンの集中力はかつてないまでに研ぎ澄まされ、緋女(ヒメ)の吐息ひとつにまでも鋭敏に反応している。故に緋女(ヒメ)は動けない。あらゆる打ち込みに、完璧な返しが来るのが()えるのだ。

 ありていに言えば――殺気。凄まじいまでの、殺気であった。

 あの緋女(ヒメ)を、完全に封じ込めてしまうほどの。

 見るがいい。それが証拠に、緋女(ヒメ)の額に汗が浮かんでいる。

 緋女(ヒメ)は、追い詰められている。

 ――初めて見た。これがあいつの本気なのか。

 ヴィッシュは息を飲んだ。

 もはや誰にも割って入れぬ。

 ここから先は、達人のみが到るべき(ところ)

 対峙は、いつ果てるともなく続き――

 そして。

 

 

 一瞬。

 

 

 刃が走った。

 緋女(ヒメ)の刀は真っ直ぐに、ギリアンの胴を断ち割った。その背後に揺らめき沈む、茜色(あかねいろ)の夕陽もろともに。

 ひととき、間をおいて、ギリアンは倒れた。

「おいッ!」

 首縄を解かれた猟犬のように、ヴィッシュは彼に駆け寄った。隣に(ひざまず)き、傷を診る。深手だった。緋女(ヒメ)に斬られたところは勿論のこと、背中の傷も極めて深い。

「カジュ! 治してくれ!」

「……無駄だよ。」

 カジュはそっと首を横に振る。

「ボクの術は、寿命を犠牲にして肉体の時間を巻き戻す。

 でも……その人の時間は、もう残っていないんだ……。」

「いいんだ、ヴィッシュさん。私はもう、どのみち……」

 消え入りそうな声で、ギリアンが言った。

「試してみたかったんだ。最後に、私が積み上げてきたものの全てを……」

 緋女(ヒメ)は、刀を鞘に納めると、ギリアンのそばに胡座(あぐら)をかいた。手を伸ばし、彼の頬に触れる。彼の体は急速に熱を失っていた。ずっと背負っていた熱いものが、体を離れて天へ昇っていくかのように。

 緋女(ヒメ)(ささや)いた。彼に、慈母の眼差しを向けながら。

「楽しかった。お前、強かったよ」

 思いがけない言葉。

 ギリアンは目を閉じた。その顔には微笑みが浮かんでいた。生涯で一度足りとも見せたことのない、心から満ち足りた笑顔。

「ありがとう……

 ここまで来て……良かったよ……」

 そしてギリアンは眠りに落ちた。

 微睡(まどろ)みの中に見た夢は、甘く優しいものだったが――やがて虚空に溶け、消えた。

 彼が最後に得たものは、ただ、安らぎであったのだ。

 

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 魔界(ドリームランド)――そこはあらゆる不思議が起きる場所。夏を目前に控え、“う”のつくアレ絶滅の危機に直面する魔界の住人たち。彼らは適切な資源管理を行えるのか? “う”のつくアレの命運は? そして――本当に世界観は大丈夫なのか!?

 ひと味もふた味も違うテイストで贈る、シニカル・ファンタジー・不条理・コメディ。

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第10話 “土用の丑の日は“う”のつくアレを”

 How should we attend the deathbed of "U"?

 

乞う、ご期待。

 



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第10話 “土用の丑の日は「う」のつくアレを”
第10話-01 絶滅危惧種の保存に関する緊急会議


 

 

 “魔界(ドリームランド)”。

 それは、実世界と薄皮一枚隔てたところにあるという並行世界のことである。人の夢を媒介として実世界と繋がっていることで知られており、時折、眠っていた人間が夢の深淵を通じて迷い込んでしまうことがある。術士であれば意図的に“(ゲート)”を開いて魔界に(おもむ)くことも難しくはない――もっとも、無事に戻って来られるのは卓抜した技量を持つ術士のみであるが。

 魔界の奇妙な性質については、ポンヌフ兄弟の研究に詳しい。彼らは著書“魔界――そこには()()()()()()()”の中でこう語っている。

『魔界を我々の常識で推し量ることはできない。魔界の時間、空間、その他もろもろに関する法則は我々の世界とは全く異なっており、というか、そもそも一定の法則を持っているのかどうかすら不明であり、つまるところ、何も解らないということしか言えないのである。

 そこでは、どのようなことでも起こりうる。およそ起こりそうにないと思えるようなことも、である。とりわけ、絶対に起きてほしくないと強く願うようなことに限ってあっさり起きてしまう傾向がある。

 我々の世界でも、術士は己の意識の中にイメージした事象を具現化させることができる。これが魔術である。とすれば、魔界についてはこう表現するのが最も適切であると言えよう。

 “そこでは、なにもかもが魔法なのだ”――と』

 要するに魔界とは“なんでもあり”の不合理極まりない世界であり、そこに整合性を求めるのがそもそも間違いなのである。そこには神もあれば魔もあり、神秘もあれば異形もある。ありとあらゆる不思議に満ちていながら、何が起きても不思議ではない。

 それが魔界なのだ。

 しかし、ポンヌフ兄弟は、著書の最後をこう締めくくってもいる。

『なるほど、魔界は幻想(ファンタジー)じみている

 だが真に幻想じみているのが我々のほうではないと、一体誰に言えようか?』

 さて――今回は、そんな魔界で起きた事件を、ひとつ紹介してみることにしよう。

 

 

   *

 

 

 その日、とある議場で、いささか気の抜けた会議が行われていた。扇状にずらりと並んだ議席はざわざわと私語に満ち、演台に立つ男ひとりが声を涸らして叫んでいる。

「ひとつの種が絶滅に瀕しているという事実を、あなたがたは真剣に考えているのか!」

 悲痛な訴えが議場を引き締めたが、それもいっときの事だった。再び湧き上がる緩みきったざわめきは、とても世を憂う声には聴こえない。捕獲業者、養殖業者、卸売、小売、板前、報道、研究、広告代理店、政府関係省庁からただの野次馬に至るまで、様々な立場を代表して集まった――集められた――有識者たちであったが、真面目にこの問題に取り合っているものは、そのうち一割にも満たなかったであろう。

「データをご覧ください」

 演台の男が、背後の大きな折れ線グラフを叩く。

「数字は無慈悲にひとつの事実を示しております。それは、長くとも数年以内に、種の保存について深刻な問題が生じるという事実であります」

「今年の捕獲量は増えたんだろう」

「資源回復してるんじゃないの?」

 面倒臭げなヤジに、とうとう男は怒鳴り声をあげた。

「過去の推移を見てみなさい! 今年の捕獲量は50年前の僅か一割以下なんだ! こんな低水準で誤差みたいな増減を繰り返している、これが回復していると言えますか!」

「ドクター、落ち着いて」

 と、隣に控えていた助手が腕に手を添えてくれた。彼女は、演題の男ドクター・ゲイナンの自制心そのものとさえ言える、大切な人物である。その冷静な声のおかげで、ゲイナンは辛うじて感情の手綱を取り戻したのだ。

 怒りに歪んだ顔を、再び義憤に燃える若き学士のそれに戻して、ゲイナンは聴衆に訴えかける。

「失礼。しかし、このままでは最悪の事態は避けられません。

 もって5年。あと5年で、我々の大切な食文化、すなわち――」

 静けさだけが充ちた議場に、絶望的な警句はむなしく響いた。

「“うつくしい乙女”は絶滅します!!」

 

 

     *

 

 

 ヴァンパイア族による“うつくしい乙女”食の始りは、古く先史時代にまで(さかのぼ)る。5000年前の遺跡から食べ残しの骨が見つかっているし、1300年前の文献にも“うつくしい乙女”を詠んだ詩が登場する。1000年前のヴァンパイア大衰退期には貴重な蛋白(たんぱく)源となって種の命脈を繋いでくれた。味にも栄養にも優れた“うつくしい乙女”は、古来ヴァンパイア族のかたわらにあったのである。

 状況が大きく変わったのは、今から200年前のことだ。それまではやや下等な食べ物とされていた“うつくしい乙女”であるが、この時代に画期的な調理法が開発された。これによって、ごつごつと骨ばっている“うつくしい乙女”を白くふんわりと仕上げることが可能になり、また調味料の工夫もあって、全世界的な大流行が始まった。

 この流行に、“うつくしい乙女”を(きょう)す飲食店による魅力的なキャンペーンが拍車をかけた。

 すなわち、『夏の土用の丑の日に“う”のつくものを食べると精力がつく』というキャンペーンである。

 ヴァンパイア族はこうした迷信を非常に重視する。()めぼし、()マの肉、()なぎなど、さまざまな食材が土用の丑の日に食されたが、“()つくしい乙女”はとりわけ好まれた。その後、他の“う”のつくものは廃れ、“うつくしい乙女”を食べる風習のみが現代に残された。

 以来、“うつくしい乙女”は、ヴァンパイア族の夏の風物詩となったのである。彼らの“うつくしい乙女”に対する思い入れは、工夫の凝らされた多岐にわたる調理法からも明らかだ。

 衣服を剥ぎ、そのまま血を吸う「(しろ)やき」。

 (ガマ)の穂でくすぐりながら吸い尽くす「(かば)やき」――「やき」とは乙女が焼かれたように身をよじることからいう。

 食す前にサウナで汗を流させ身を柔らかくする東方風。

 この工程を省いて引き締まった身体を愉しむ西方風。

 香りをつけた精油の風呂にいれたまま、くんずほぐれつしながら食す「ひまつぶし」――食事に極めて長い時間を要することから――などなど、枚挙に(いとま)がない。

 ところが近年の急速な消費拡大が、皮肉にも、彼らが愛して止まない“うつくしい乙女”を危機に陥れている。約50年前をピークに“うつくしい乙女”の捕獲量は減少の一途を辿り、深刻な資源の枯渇が問題視されるようになった。

 実のところ、“うつくしい乙女”の生態は極めて複雑で、未知の部分が非常に多い。とくに繁殖についてはほとんど何も分かってないと言ってよい。よって完全養殖は不可能であり、現在行われている養殖は、幼児期に捕獲した“うつくしい乙女”を適正年齢まで育てるだけのものなのだ。

 政府は資源管理のため捕獲制限をはじめたが、需要が縮小しない限り、リスクを負ってでも供給しようともくろむものは後を絶たない。無免許の密猟者が横行し、養殖業者や販売業者もまた闇ルートでの流通を事実上黙認した。政府による監視団体が業者と癒着し骨抜きにされることも珍しくはなかった。

 ゆえに、“うつくしい乙女”の減少に歯止めがかかることは、一切なかったのである。

 

 

     *

 

 

「そうは言うけど、50年も前から危なかったわりには、毎年ふつうに食べてきたじゃないか」

 広告代理店のヴァンパイアが偉そうに口を挟んだ。ドクター・ゲイナンが口を開きかけると、横で他のものが手を挙げる。

「それについては、私から説明しましょう。よろしいですか?」

 ドクターから演台を譲られた男は、小さく咳払いして、すばらしい営業スマイルを議場全体に振りまいてから、語り始めた。

「どうも、私、輸入業をしている者です。

 えー、このグラフにありますとおり、“うつくしい乙女”の捕獲量は、今から40年ほど前にはすでに急落を始めておりまして……このままでは供給が追いつかんというわけで、私どもが業界参入をいたしました。ま、つまり、代替品種の輸入ですな」

「代替品種?」

「“マアうつくしい乙女”だとか、“うつくしいカモシレナイ乙女”、“見ようによってはうつくしい乙女”などです。

 見てくれはいささか劣りますが、味のほうは遜色(そんしょく)なく……」

「なぁにが遜色(そんしょく)ないだ! あんなもんは“うつくしい乙女”じゃねえ!」

 遠くから聞こえた怒声は、板前のものである。輸入業者は苦笑する。

「ま、私のような庶民に充分な程度にはね。ともあれ、ここ30年ほどは、市場の大半を代替品種の輸入でまかなっていたような、そういう状況であったわけです、はい」

 ぺこりと頭を下げて、輸入業者が(だん)を下りる。と、それを待っていたように別の手が上がった。いちいち壇上に上がらせるのも面倒になり、助手に命じて魔法拡声器を持っていかせる。立ち上がってマイクテストをしている背広は、政府関係者である。

「あー、あー、あのね、僕、通産省です。

 いっときますが、今後はもう輸入は無理ですよ」

「なんでだー?」

「向こうの代替品種も個体数激減してんだよ! 貿易交渉でカードに使われて大変だったんだ! おまえんとこは世界中の“うつくしい乙女”を食い尽くす気か! ってスゴイ剣幕でねっ!」

「そこをなんとかするのが通産だろー」

 横手から飛んできたヤジに、通産省がキレた。

「うるせー農水! てめーんとこの大臣、業界団体から献金されてんだろ!」

「あっ、根も葉もない! 通産こそ接待漬けのくせに!」

「やかましーっ! 交渉の邪魔なんだよ! “うつくしい乙女”なんか業界ごと絶滅しろーっ!」

 その口げんかを皮切りに、議場の一同がそれぞれてんでバラバラ、好き勝手なことを言い始める。

「うーん、供給が減ったらね、我々小売としちゃあ困るので」

「これはあれかな。ひとつ、いっせーのーせで値段を上げて、ウチらの粗利(あらり)は確保するってことで」

「それは搾取だ! 談合反対! 低価格での安定供給を求める!」

「だれきみ?」

「消費者団体」

「とにかく本物の“うつくしい乙女”をよこせ! 味もわからねえあんぽんたんどもが!」

「黙れ板前っ」

「えー、生物学的見地から言いますとー、この問題は……」

「大事なのは供給がないものでも売りぬく広告だよ。広告。キャッチコピーで解決する」

広告代理店(おまえんとこ)はいつもそれだ」

「あ、明日の記事ね、見出し入れといてくれる? 『“うつくしい乙女”絶滅!? 食べるなら今のうち!』……」

 

 

「やあぁっかましいっ!!」

 

 

 ドクター・ゲイナンの激怒が、議場をしんと静まらせた。

 ついさきほどまでツバを飛ばし、なかば取っ組み合いの様相で怒鳴りあっていた有識者たちが、凍りついたように演台に注目する。助手が音もなく歩み寄り、ドクターの心を的確に読んで、彼の求めるものを差し出した。すなわち、声量MAXに調整された魔法拡声器である。

「もはや、“うつくしい乙女”の絶滅を避ける方法は、たったひとつしかない」

 有無を言わさぬ迫力で、ドクターはぴしゃりと言い放った。

「たった今! 即時! “うつくしい乙女”の完全禁猟! 流通の禁止! これを周辺各国とも共有! これしかない!」

「そんなの無茶だ!」

「無茶でもやるしかない!

 いいか? はっきり言おう。これだけのことをやっても、それでも“うつくしい乙女”の資源量が回復するかどうかは怪しい! 今、我々はそれほどのところにまで追い込まれているんだ!!」

 誰も、反論するものはなかった。

 だが納得したわけではない。ただ、聴衆はこう思っていただけだ。理屈はわかる。だがそんなことは実現不可能だ。周辺諸国は禁猟など納得しないし、闇業者の摘発は困難だし、なにより――大衆はそんなことお構いなしに“うつくしい乙女”を求め続けるだろう、と。

 身じろぎすらなく、衣擦れの音ひとつなく、しんと張り詰めた静寂が横たわり……

 やがて、ひとりがおずおずと手を挙げた。

「あの……」

 全員の目がそちらを向く。見れば、みすぼらしいヴァンパイアであった。正装はよれよれで、着慣れていないことは誰の目にも明らか。ただ、にぱりと、垢抜けない、憎めない笑顔を浮かべている。

 ドクターが目配せすると、助手が拡声器を持って飛んでいった。

「あの、(わたス)、北部の、農家の代表で、来まスたが」

「承りました。ご意見をどうぞ」

「あのォ……代替の品種っていうんじゃねえけども、代わりンなる食い物がありますんで」

 ざわめきが走る。

「それは?」

「“うつく()い少年”」

 農家は、連れに合図をして、彼の自慢の()()をステージに上らせた。薄絹を身に(まと)い、細い手足を衆目に(さら)し、耐え難い羞恥(しゅうち)と、絶望に満ちた諦めに、目を伏せ、しずしずと歩むその姿。誰もが息を呑んだ。なんと素晴らしい、“うつくしい乙女”たち――

 いや、違う。乙女ではない。少年だ。これが“うつくしい少年”なのだ。

 まさか、これほどのものとは!

「マアその、見てのとおりでスて、はい」

 農家がにこりと笑う。

「なかなか、ようございましょう。少()筋張(すじば)ってて、食べてみるとちょっと違いますけども、味付けでだいぶん分からなくなりますし。人によっちゃ、“うつく()い乙女”よりいいと、そうおっしゃるかたも、おるくらいで。

 ()かも“うつく()い少年”なら、あっちこっちに、まだまだたくさんおります。これで、問題は、解決すんでネェかと」

 途端。

 スタンディングオベーションが議場を包み込んだ。あらゆる参加者が満面の笑みで手を叩き、この新発見を歓迎した。なにより、壇上に(さら)された“うつくしい少年”たちの美貌が、彼らの心を完全に捉えていた。これなら誰もが納得する、そう思えるだけのものを、“うつくしい少年”たちは持っていたのである。

 だが――鳴り響く拍手の中にあって、ただひとり、ドクター・ゲイナンだけが苦虫を噛み潰していた。

 やがて彼は静かに(だん)を下り、助手と共に、声もなく議場を後にしたのである。

 

 

 

(つづく)

 



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第10話-02 吸血鬼どもの饗宴

 

 

 “うつくしい乙女”保存会議は成功に終わり――公式には、そういうことになっている――世は()け、月が天に昇った。ドクター・ゲイナンは、ひとり、城のテラスに佇み、やけくそ気味に杯を(あお)っていた。

 会議の会場となったこの城の大広間では、今、参加者たちをねぎらう宴が開かれている。そのざわめきが、石壁と夜風を伝わり、遠くこのテラスまで漏れてくる。溜息が零れた。もどかしい。鬱々(うつうつ)としたこの気持ちを、胸のうちに溜め込むことしかできない。

「ドクター」

 助手の(ささや)きを聞いて、ゲイナンは振り返った。見れば彼女は、淑女の装いで、じっと切れ長の目をこちらに向けている。決して豪奢(ごうしゃ)とはいえない、むしろ簡素なドレスであったが、彼女の知的な美しさには、これがぴたりと似合っていた。

「お疲れ様でした」

「何もできなかったがね……」

「前進はあったでしょう?」

 ゲイナンは苦笑する。助手が労わるように隣に並んだ。彼女が憧れをもって見上げるその視線が、今のゲイナンの胸には痛い。

「後退の勢いが少々緩んだに過ぎないよ。

 考えてもみてごらん。“うつくしい少年”が市場に出回ったとして、“うつくしい乙女”が駆逐されるだろうか?」

「いいえ……」

「だろうね。今後の市場で“少年”が占める割合は、どう高く見積もってもせいぜい5割。私の予測では3割といったところだ。焼け石に水。“乙女”は減り続ける。絶滅してしまうまでね。

 しかも問題はそれだけではない。今度は“うつくしい少年”が激減するだろう。10年後には、また同じことの繰り返しだ。きりがないんだ。資源を管理するという意識が、人々の間に徹底されるまでは、ひとつひとつ、種を食っては潰していく、そんなことばかりが……」

 強い酒を一気に流し込もうとするドクターの手に、助手が、そっと、白い手のひらを重ねる。

「いけません。お体に(さわ)ります。あなたが傷つくと、私は哀しいです」

 慰めあうようにふたりは近づいていった。腰を抱き寄せても、彼女は抵抗するどころか、半歩身を寄せてなすがままに任せた。何も出来なかった自分の無力を、自分を慕ってくれる女性の好意で埋め合わせている。その事実が、ドクター・ゲイナンにとっては涙が込み上げるほど情けない。

 と、そこに酔っ払いの声が聞こえてきた。弾かれたようにふたりは離れ、平静を装って無粋な闖入者(ちんにゅうしゃ)を迎える。

「やあドクター。ここにいたのかい」

 良い機嫌に千鳥足なのは、会議に参加していたどこだかの業者だ。彼は、ドクターと助手の距離を見ると、ニタニタと下品に笑ってみせる。

「なにか?」

「君を呼びに来たんだ。行こう、早くしないとなくなっちまう」

「何がです?」

「今のうちにたっぷり食べておかないと……」

 嫌な予感がした。怒りが腹の底から沸きあがってくるのが分かった。一歩詰め寄ると、業者は怯えて身を引いた。

「何がだ」

「メインディッシュだよ……“うつくしい乙女”さ」

 ドクター・ゲイナンは業者を突き飛ばして走り出した。倒れた業者の腕に、助手のかかとが追い討ちをかけた。ふたりは風のように消えていった。欲望に塗れた醜い豚の悲鳴などには、全く耳を貸すことなく。

 

 

     *

 

 

 その宴の豪勢なことといったら目も(くら)まんばかりであった。数千を数える水晶のシャンデリアに照らされ星のごとく(きら)めく佳酒(かしゅ)(ぜい)を極めた細工の杯。所狭しと並ぶ色とりどりの美食たち。広間の奥では耳もとろけるような弦楽が奏でられ、美しく着飾ったヴァンパイアたちが愛欲と陶酔を舞踏に乗せてひけらかす。

 その中にあって、ただひとり、炎色の髪をした女だけがウンザリと酒を(すす)っている。隅で息を潜めてはいたものの、目立たぬようにしようなど土台無理な話であった。これほどの美男美女の間にあっても、彼女の燃えるような魅力はあまりにも際立ちすぎている。

 自信たっぷりのスケベ面をしたヴァンパイアがふたり寄ってきて、ひとりは仰々(ぎょうぎょう)しく、もうひとりは気さくに口説いてきた。いっそ斬り捨ててやりたかったが、彼女は頬を引きつらせて愛想笑いを返すことしかできない。苦手なのである。演技というやつは。

 スカートをちょんとつまみ、駆け足で逃げ出し、背後からの苦笑も聞こえないあたりまで遠ざかって、ようやく緋女(ヒメ)は溜息をついた。

「おい、まだかよ。なぁカージューぅ」

 

 

     *

 

 

 テーブルクロスの下から手が伸びて、上の料理をひと皿さらった。確かに《不注意》の術をかけてあるから、大きな騒ぎを起こさない限り気づかれることはあるまい。それにしたって、これはあまりに図々(ずうずう)しい所業である。

 テーブルの下では、小柄な少女がひとり、あぐらをかきながらサンドウィッチをもぐもぐしている。ソースのついた指をねぶり、カジュは水晶玉をタップした。

「今やってるとこ。少し辛抱しなよ。」

〔もうやーだー! おケツさわられたー!〕

「金ぶんどってやれ。」

〔金もらってもヤなもんはヤダ!!〕

「価値観の相違だね……。ん、いけた。」

 

 

     *

 

 

〔へーいボース。おわったよー。〕

了解(コピー)

 (ささや)いて、ヴィッシュは一息に暗闇を突っ切った。本来ならこの通路に敷かれた《番犬》の術はネズミ一匹見逃さない。彼ほどの体格の男ならなおさらだ。しかしカジュの手に掛かればこの通り。術式構成を分解し、歪め、ループを作り、効力を根こそぎ奪い取ることも朝飯前。

 そして厨房で忙しく働きまわるヴァンパイアどもの死角を縫って、そっと奥に忍び込むようなことは、後始末人ヴィッシュの得意技である。

 勇者の後始末人は、魔物の始末をするのが生業。面倒はいつものことであったが、今回の面倒さはいささか度を超えていた。このところ頻発していた、魔界の住人による誘拐事件の解決、およびさらわれた少年少女の奪還。まず魔界に入り込むだけでおおごとなのに、ヴァンパイアの城に潜入せねばならないというのだからまともではない。しかも任務の性格からいって少数精鋭が適当。となれば、こんな厄介な案件は、“うちの支部きっての優秀な”チームにお(はち)が回るに決まっている。要は、おだてに乗せられたのである。

 ――損な役回りだなァ。

 こっそり溜息ついて、ヴィッシュはそっと曲がり角の向こうを(のぞ)き込んだ。石造りの湿った地下道、その奥にぼんやりと浮かび上がる鉄格子。すすり泣きと絶望の(うめ)き声。彼が寄っていくと、牢に囚われていた何十人という半裸の少女たちが、潮の引くように後ずさった。壁に身を寄せ、怯えた目でヴィッシュを見つめ、ただ慈悲だけを求めて震えている。

 途端に怒りが沸いてきた。こんなことを許してはおけない。さきほど失敬しておいた鍵束を取り出し、ひとつひとつ格子戸の鍵穴に当てはめていく。

「あの……」

 誰かが声を挙げかけたので、ヴィッシュは人差し指一本口元に当てて、へたくそなウィンクを送る。

「静かに。今助けてやるからな」

 声もない衝撃と歓喜が広がった。牢が開いた。少女たちがなだれ出て、そのまま感極まってヴィッシュに抱きつき押し倒した。泣きじゃくる、いずれ劣らぬ美しい乙女たちに、幾重にも取り囲まれ身を押し付けられては、ヴィッシュのごとき男は顔を紅潮させてたじろぐしかない。

「おおい、落ち着けって……困るぜ」

 だが本音のところはこうである。

 ――役得!

 

 

     *

 

 

「やっべえあいつ殴りてえ」

 緋女(ヒメ)が思いっきり目をすわらせて(つぶ)いた。

〔なんでよ。〕

「なんかデレてる気がする」

〔よし。やったれ。〕

「ぜってーボコす」

 鼻の利く女たちである。

 と、そのとき、彼女らの耳に騒ぎが届いた。緋女(ヒメ)がひょいと大広間を覗き込む。カジュもどこかのテーブルの下で、クロスをたくし上げて見ていることだろう。

 広間の奥、ヴァンパイアどもが卑猥なダンスに興じていたところの更に向こう、壮大な昇り階段の途中に、口論をする者たちの姿があった。ひとりのヴァンパイアに、別のふたりが食って掛かっている。彼らの後ろにずらりと並ぶのは、からだが透けて見えるような薄絹一枚に身を包む、素晴らしい美貌の少年少女たち。

 今夜のメインディッシュをお披露目せんと連れてきたのはこの城の主であり、そこにつっかかるふたり組は、言うまでもなくドクター・ゲイナンとその助手であった。

「ドクター、固いことを言わなくてもいいじゃないか」

「固いとか柔らかいとかの問題ではない! あなたがたは何のために集まったんだ? 希少動物を保護しようというその会議の夜に、よりにもよって“うつくしい乙女”を(きょう)するなど!」

「もう会議は終わったんだよ。資源維持の目処も立ったんだから」

「あれのどこに目処が……!」

「さあみなさん! 無粋な学問は無しにしましょう!」

 ホストの呼びかけに、広間を埋め尽くす賓客(ひんきゃく)たちの、上品で下劣な笑い声が呼応した。

 ドクターは愕然(がくぜん)として眼下の光景を見下ろした。ここにきて、ようやく彼は悟ったのである。彼に賛成するものは誰もいない。仮にいたとして、彼ら彼女らが声を挙げることはない。食欲と、肉欲と、経済という名の至高神、そして我が身さえ無事ならそれでよいという怠惰の悪魔。ヴァンパイア族の心の全てを、それらの悪徳が塗りつぶしているのだ――ということを。

「ご覧あれ。ここに集めた“うつくしい乙女”たちは、いずれも選び抜かれた一級品。このあとにもまだまだたくさんご用意してあります。みなさん心行くまでご賞味ください。

 なんたって、もうすぐ食べられなくなるそうですからね! 今のうちにしっかり食べておこうじゃありませんか!」

 信じがたいことに、これはウィットに富んだジョークとして述べられた言葉である。事実、ヴァンパイアたちは爆笑している。それをただ見ているしか出来ない保護論者の苦痛はいかほどであったことか。

 一方、テーブルクロスの下では、カジュが口を尖らせ水晶玉を忙しく叩いていた。

〔ヴィッシュくん、まだスか。〕

〔もう少しだ〕

〔ちょっとまずい状況で……。〕

「さあどうぞ! お好みの少女を、あなたの思うがままに……」

 さらなる呼びかけ。大勢が殺到する足音。ヴァンパイアどもが少女に手をかける。その衣を剥ぎ取り、剥き出しの首筋に唾液をしたたらせる。少女たちの怯えも、涙も、震えも、その全てが吸血鬼どもを奮い立たせる味付けに過ぎない。

〔やばいって。このパターンは。〕

〔ンなこと言っても〕

 カジュの焦りが最高潮に達した――そのとき。

 ()(はし)った。

 地を蹴り、跳び越え、一筋の雷となって、緋女(ヒメ)の体が宙を駆ける。いつの間にか抜き放った刃。スカートの中に隠し持っていた銘刀が、太刀風巻き上げたかと思った途端、ヴァンパイア5人の首を()ね飛ばす。

 目にも留まらぬ早業だ。少女に手をかけていた4人と城の主が、糸の切れた人形のように倒れ伏す。

 少女たちが、事態を把握できずにぽかんと口を開けている。彼女らに向けて、緋女(ヒメ)はにぱりと無邪気に笑った。肩に力強く刀を担いで。

「助けに来たぜ」

 階下のヴァンパイアたちがどよめく。突如現れた闖入者(ちんにゅうしゃ)に、闇の者どもが抱いた印象は第一に驚き。次に怒り。やがてそれは賞賛と狂喜に変わる。理由はこうである。

「あれは人間か?」

「仲間を救いに来たのか」

「素晴らしい腕前。そして勇気」

「だがこれはいささか蛮勇というもの」

「さぞかし腕に覚えがあるのでしょう」

「なるほど、これは面白い」

「それほどに満ちた自信を、(ひね)り潰し、蹂躙(じゅうりん)し、辱めの限りを尽くしたとき、あの赤い髪の“うつくしい乙女”がどんなふうに顔を歪めるのか」

「宴の興も増すというもの!」

 うんざりだ。

 緋女(ヒメ)は階段に仁王立ちして、眼下で(うごめ)くヴァンパイアを睥睨(へいげい)した。さきほどまで上品なドレスに身を包んでいた紳士淑女たちが、肩の筋肉を盛り上げ、絹を内側から突き破り、牙を大きく伸ばして、だらしなくよだれを滴らせ、化物の本性を露わにしていく。

「……あっそ。頭ん中は食い気だけか」

 それなら、もうこちらも大人しくスカートなんか引きずる必要はあるまい。刀で裾を裂いて捨て、動きやすいよう腿を(さら)け出して、戦闘準備完了。

「そういう了見(りょうけん)なら――てめえが喰われても文句はねェな!!」

 ひしめく化物どもの真っ只中に、緋女(ヒメ)は自ら踊り込んだ。

 

 

     *

 

 

「んもーっ。絶対こうなると思ったっ。」

 カジュはぶつくさ言いながら、テーブルの下から()い出した。相棒は上機嫌に血の雨を降らせている。こうなってしまっては仕方がない、こちらはこちらの仕事をするまでだ。

 《風の翼》で大乱闘の頭上をびゅーんと飛び越え、少女たちの背後に着地する。怯えた少女たちが一斉に振り返った。

「はいみなさん。二列に並んでー。」

 カジュは観光案内きどりで旗など振って、

「お帰りはこちら。」

 

 

 

(つづく)

 



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第10話-03(終) “う”の終焉を、我らは如何に見送るべきか?

 

 

 ドクター・ゲイナンは失意と混乱と恐怖とに頭の中を掻き乱され、ふらつきながら広間を逃げ出した。後ろにつきまとう助手の声も、もう彼には届かない。彼の耳を慰めるのは、広間から聞こえてくる血の宴の喧騒のみだ。

 それ見たことか。人間が“うつくしい乙女”を取り戻しに来たのだ。泣かせる話ではないか。力ではヴァンパイアに及ぶべくもない下等な動物が、同族を救うために命を賭して乗り込んできたのだ。腹の奥からなぜか笑いが込み上げた。手痛いしっぺ返しを喰らって、血に染まり、おおわらわのヴァンパイアども。万物の霊長ヴァンパイア族も、所詮はあの程度。

 思わず、笑いが零れた。その異様な形相に、助手は不安げな視線をくれる。

「あの、ドクター……」

「天敵だ」

「ドクター?」

「1000年前の大衰退は天敵がいた。天より舞い降りし古竜どもは……」

「ドクター!」

 悲痛な助手の呼びかけに、応えるものは狂気のみ。

「ヴァンパイアなど! 大自然の! 食物連鎖の! ひとつの部品にしか過ぎんと! 解らぬような愚か者ども()! 

“うつくしい乙女”が護られるなら――ヴァンパイアなど滅びればいい!!」

「ドクター、それは間違いです!」

 哄笑(こうしょう)が城の冷たい石壁に飲み込まれていく。助手はとうとう足を止めた。ドクター・ゲイナンはひとりで行ってしまった。愛し、尊敬していた偉大なるひとが、闇の奥に消えてしまうのを、彼女はただ、見送ることしかできなかったのである。

 

 

     *

 

 

 カジュと少年少女たちは、首尾よく城から抜け出した。そこに牢を破ったヴィッシュが追い付き、少し遅れて陽動を切り上げた緋女(ヒメ)が合流する。無事を祝う間もなく、3人は逃走を急いだが、歩みは遅々として進まない。なにせ何十と言う子供たち、それも色白で線の細い少年少女ばかりを引き連れている。そのうえこのあたりは岩地で、ただでさえ厳しい道のりなのだ。

 ――このままでは……

 ヴィッシュの額から焦りの汗が流れ落ちた。

 横で緋女(ヒメ)が弾かれたように振り返る。鼻がひくひくと動き、その目が敵を察知して鋭く尖る。

「伏せろっ!」

 緋女(ヒメ)が叫ぶが、子供たちは咄嗟(とっさ)には動けない。そこへカジュの《鉄砲風》が飛び、突っ立っていた少女たちを無理やり吹き倒した。と、一瞬の差で飛来した無数の《火の矢》が彼らの頭上をかすめて過ぎる。

 ヴィッシュが小さく舌打ちする。

 ――追いつかれたか。

「危険な猛獣どもだ。ここで根絶やしにせねばならん」

 恐怖を誘う低音とともに、周囲の岩陰から、追っ手が姿を現した。ひとり、またひとり、行く手を(さえぎ)り、あるいは逃げ道を塞ぎ、完全にこちらを包囲する敵の数は、ヴァンパイアだけで少なくとも30人。その他、猟犬やら魔鳥やらの怪物は、もはや数え切れないほど。

 ヴィッシュたち3人だけなら、切り抜けられないこともあるまい。だが、この子たちを護りきることは……

 ――どうする!?

 悩む時間を、敵は与えてくれなかった。

「行け! 殺せ!!」

 号令一下、敵が一斉に飛びかかろうとした――そのとき。

 

 

     *

 

 

 それらは、突如として顕現(けんげん)した。

 はじめに(うた)があった。その声は遥か地の底から湧き上がるようでありながら、その実天空から雷雨のごとく降り注いだ。不気味、恐怖、畏怖、その他もろもろのいかなる概念、言語を以ってしても名状しがたき呻きであった。あるものはそれを醜い豚の声と聞いた。またあるものは無邪気な赤子の声と聞いた。そして別のものは、翻訳のしようもない言語、緻密(ちみつ)に圧縮された意思そのものの塊として聞いたのである。

 次いで、空が裂けた。

 魔術を()くするものたちは、耐え難い耳鳴りに苦しめられ、うずくまった。霊感を持たぬものたちでさえ、胸を押しつぶしそうなほどの(ばく)たる不安を感じずにはいられなかった。

 そしてついに、()()()が降臨した。

 ぱっくりと開いた空の裂け目を、節くれだった指で向こう側からこじ開けるようにして、そのものたちは()い出した。大型帆船をみっつ繋いだよりも大きな紡錘状の胴体。細く伸びた首と、百あまりの目を持つ(いびつ)な頭。背には翼が生えていた――それが翼と呼べるなら。腕は6本。いずれも不ぞろいで、それぞれが好き勝手に戦慄(わなな)いている。

 そんな姿をした、数え切れぬほどのものたちが、空を埋め尽くす威容。

 その場にいる誰もが、争うことも怯えることも忘れて空を見上げた。

「なんだ……あれは」

 ヴィッシュがぽつりと呟くと、カジュがそれに答える。

「……古竜(ヴルム・アタウィル)。」

 

 

     *

 

 

 古竜がいかなるものであるかについては、ここに記す術を持たない。なぜなら、有史以来、古竜に関するまともな記録はただのひとつも残ってはいないからである。

 ただ、不確かな伝承によれば、かつてヒトが始祖人(オリジン)であったころ、まだこの世に神がなかったころ、始祖人(オリジン)たちと共に世界に在ったのは(ヴルム)ばかりであったという。また別の伝承にはこうある。古の竜たちは神々と争い、ここならぬどこかへ放逐(ほうちく)されたのだと。

 こんなことを言うものもいる。古竜はただ家に引きこもっているだけだ。ときおり気まぐれにこちらへ現れ、ちょっと買い物でもするかのような気楽さで、我々の世界を滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にかき回していくのだ、と。

 そして今、古竜(ヴルム・アタウィル)たちはやってきた。まさに()()()()に。

『やはり、エゴラ用のタ=ミナイエの日は、“う”のつくものを食べるに限る』

 古竜たちの語り合う声は、不思議と下界のものたちにも聞き取れた。

『特に“()ァンパイア”は最高だ』

『5万年前に比べて個体数は10分の1以下に減ってしまったが』

『もうすぐ絶滅するらしい』

『なら、今のうちにたっぷり食べておこうではないか』

 そして、殺戮(さつりく)が始まった。

 古竜が舞い降り、ヴァンパイアを飲み込んだ。ほんのひとくちで数十人もを持っていった。ヴァンパイアたちは悲鳴を挙げて反撃し、あるいは逃げ惑ったが、あらゆる肉体的な、あるいは魔術的な試みにも関わらず、全ては無駄に終わった。

 ひととおり近くのヴァンパイアを食べつくすと、古竜たちは魔界(ドリームランド)中に散らばっていった。ここにいる全てのヴァンパイアを残さず狩り尽くすために。

 その光景を、ドクター・ゲイナンは城の窓から見下ろしていた。彼は狂ったように笑い続けていた。嬉しかったのか、哀しかったのか、あるいはなんとも思っていなかったのか。自分でも判然としなかったが、それはすぐに、永久に分からぬこととなってしまった。彼も古竜の腹に収まったのである。

 

 

     *

 

 

 一方の人間たちは、恐るべき惨状を、ただ呆然と見守るばかりであった。古竜は、人間には興味を示さなかった。魚釣りにきた人間が、水辺の小虫になど目もくれないのと同じように。

 ヴィッシュはぽかんと口を開けて空を見上げ、ぽつりと、呟く。

「“()”でも……よかったのか……」

 次の瞬間。

 ばくう!!

 横手から突っ込んできた古竜の一匹が、“()”ィッシュを丸呑みにしてかっさらっていった。

「わー!! ヴィッシュ! ヴィッシュー!!」

 そして、大慌ての緋女(ヒメ)を尻目に、古竜は暗い魔界の空へ昇っていったのである――

 

 

     *

 

 

 さて。

 言うまでもないことであるが、その翌年はガルヴェイラ用のデュグラディグドゥの日にあたる。超極上位者(スーパー・スペリオル・オーヴァーロード)()ォルフィードたちの間で、この日に“う”のつくものを食べる風習があることは、まことに有名である。

 そしてもちろん、彼/彼女/それらが最も好むのは、古竜()ルム・アタウィルであった。

 その後の信頼できる記録によれば、この年、1億年ぶりに降臨した超極上位者(スーパー・スペリオル・オーヴァーロード)たちが「今のうちにしっかり食べておこう」とばかりに一生懸命捕食した結果、最後の一匹まで残らずすっかり食い尽くされ、ついに、古竜(ヴルム・アタウィル)は絶滅してしまったということである。

 

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 話はカジュの学生時代、まだクルスが生きていた頃にさかのぼる。年に一度の祝祭を控え、クラスメイトたちが浮足立つ中、カジュはいらだちを隠せずにいた。そんな彼女を襲うふいうち――それは苦楽を共にした相棒からの、クリスマスデートの誘いであった。

 

 次回、「勇者の後始末人」

 外伝 “恋人に、メリークリスマス。”

 Merry Christmas For Lovers

 

乞う、ご期待。

 

 



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外伝 “恋人に、メリークリスマス!”
外伝-01 戦装束(メイク・アップ)


 

 

 AD1310、死の月(12がつ)23日。

 “企業(コープス)”の教育施設“ワンフォース”に、幼き天才術士カジュ・ジブリールの姿があった。

 雪山遭難した学友リッキー・パルメットの救助を成し遂げ、死の淵にあったロータスの命を繋ぎ、そして、パートナーたるクルスとの絆を深めた――これは、そのしばらく後の出来事である。

 

 

     *

 

 

 カジュ・ジブリールは不機嫌だった。

 クリスマス。どいつもこいつもクリスマス。まったくもって気に入らない。

 どだい、クリスマスというもの自体が嫌いなのだ。あれは英雄セレンが異界(アース)から輸入した文化のひとつで、元々この世界の行事ではない。サンタクロースだかなんだか知らないが、得体の知れない異界の神ふぜいに、テンション上げてやる義理はない。

 ましてや、恋人同士がいちゃつくだけのくだらないイベントなど。

「さーいれんなぁー。ほぉーおりいなあー」

 が、クラスの愚民どもにとってはそうでもないらしい。浮かれた歌声が嫌でも聞こえてくる――お調子者のリッキー・パルメットだ。彼は早くも先週からトナカイの着ぐるみではしゃぎ回っている。うざい。

「よーよーよーよーカッジュせんせーっ! 何浮かない顔しちゃってんのぉ! あ・し・た・は、クリスマスイブだぜええ~っ?」

「だからどーした」

 授業後、講義室の机で教科書片付けているカジュに、リッキーが後からもたれかかってくる。トナカイの角がごっつんごっつんぶつかってマジうざい。

「どーしたって! お祭りだろ? 明日からクリスマス休暇だろ? みなぎってくるじゃねえかああ!」

「キミがみなぎるのは勝手だけどね。それにサンタ服でつきあわされてるロータスがかわいそうだよ」

 との言及を受けて、赤いふかふかのワンピースに身を包んだロータスが、顔を真っ赤にして、ポンポンつき三角帽子のすそを引き下げる。目もとを隠し、あの、あの、とためらいがちにカジュに耳打ちする。

「え? 実は? ちょっと楽しい?」

 こくこくうなずくロータス。

 このバカップルめ。

「はいはい。もう好きにして」

「オレが言いたいのは、だ!」

 ビシッとリッキーが指立てた。

「お前もクルスと行ってくりゃいいんじゃね?」

「どこへ」

「クリスマスデートだろ!!」

 ぞわぞわぞわぞわ。

 カジュの背筋が粟立った。

「……ぜんっっぜん興味ありませんが何か!?」

 

 

     *

 

 

 ふざけたことを言うものじゃない。

 クリスマスは恋人と過ごす日なのだろう。なんでそれをクルスなんぞと過ごさねばならないのか。

 クルスなんぞと――

 いや、“なんぞ”でもないのか?

 “だからこそ”なのか?

 先日、雪山遭難したリッキーを助けたとき、ふたりきりで夜を過ごしてしまった。あの時の高揚した気持ち、というか、赤面もののやりとりを、カジュとて忘れてしまったわけではない。それってやっぱり、“そういうこと”なんだろうと、思わないでもない。

 なら、やるべきなんだろうか。

 つまり、デート、とかを。

 でも、あいつはべつに、そういうのじゃ……

 思考が同じところをぐるぐる回る。そのせいで気づかなかったのだ。廊下の途中でクルスが現れ、声をかけてきたことにも。返事がないのをいぶかりもせず、横にぴったりついてきているのにも。耳元に、触れそうなほどに唇を寄せてきたことにも。

「ねえカジュ。」

「わあ!?」

 教科書抱いて飛び上がるカジュを、クルスはいつもの無表情で見つめる。男にしておくのがもったいないほどの美貌が、じっとまっすぐにカジュばかりに向けられる。この嫌な癖はいつものことだが、今日ばかりは我慢がならなくて、カジュは彼を振り払うように脚を早めた。

「どうしたの。」

「別に」

「そう。ねえ、劇団ナフトル、知ってる。」

 これはまた妙な単語が出てきたものだ。劇団ナフトルといえば今エズバーゲンで話題の歌劇団。胸にくる恋愛ものを()るとかで、昨年あたりからずいぶん人気が高まっている、とは聞いたことがある。もっとも、演劇などカジュには何の興味もない世界であったが。

「まあ、知ってるけど?」

「クリスマス公演があるんだ。」

「ふーん」

「行こうよ。いっしょに。」

 と、クルスが焼印が()された木札のチケットを2枚、唇の前に広げる。

「行こうって……」

 ごく落ち着いた声でそういいかけて、はた、とカジュは気づく。

 いま、こいつ、なんて言った?

 演劇?

 クリスマス?

 ――ふたりで!?

 みるみる頭に血が上っていく。今ならおでこで炭酸水素Na(ナトリウム)が熱分解させられる。石灰石とコークスを加熱して二酸化炭素を生成、アンモニアと塩化Na(ナトリウム)とCO2でNH4ClとNaHCO3、熱分解して炭酸Na、塩化アンモニウムは強塩基で弱塩基遊離でアンモニア回収再利用、物質量比1:1、めでたしめでたし!

「めでたくないし!」

「なにが。」

「なんでもないよ! なにゆってんの!!」

「……いやかな。」

 彼の表情が、(わず)かに(くも)る。

 悪いことをしたかも、と心に差した罪悪感が、うっかり本音を引き出した。

「やじゃないけど……」

「じゃあ、行こうよ。」

 心臓が、止まってしまう。

 カジュはからだじゅう真っ赤に()で上がって、壁にコツンとおでこを当てた。

「……ふゅん」

 どうやら“うん”と言ったらしい。

 クルスは微笑んだ。彼の乏しい表情が読み取れるようになったカジュには分かる。彼はほっとしているのだ。このお誘いが、彼なりに思い切った行動であったことに、ようやくカジュは気づいた。心底安堵した彼の笑顔に、カジュはおなかのあたりをザワザワとかき回されるような、背中を手のひらでくすぐられるような、快とも不快ともつかない感覚を覚えるのだった。

「よかった。ボク、ほんとうは……。」

「……ぅぉぉぉぉおおおリッキィィィィーキィィィィィーック!!」

 そのとき、いきなり背後からダッシュで突っ込んできたリッキーのドロップキックが、言いかけた言葉ごとクルスをぶっとばした。ふたり(から)まりあって倒れこみ、尻餅ついてケラケラ大笑い。

「よっしゃあああああああ!

 やっるじゃねーかクルスこのやろーっ! フロントチョーク!」

「ありがとー。クルスぼんばー。」

「おげぅ」

 締め技から抜け出したクルスの二の腕が、リッキーの(あご)の下にきれいにキマる。そのまま倒れたリッキーを押さえ込む。

「お、う、おい、キメろよな、クリスマスデート。あ、ギブ、ギブ」

「がんばってみるよ。きゃめるくらっち。」

「ぇぐぇ。ちょ、死ぬ、ちょ」

 そんなふたりをおろおろ見るばかりのロータスと、まだ壁にもたれたまま立ち直れないカジュ。そんな光景を、好奇心旺盛なクラスメイトどもが見逃すわけがない。いったいどこから湧いたやら、わらわらと人が集まり始める。アニもオーコンもデュイも、一般クラスのやつらまでも、人垣作ってはやし立てる。

「なんの騒ぎ?」

「クルスがカジュに(こく)ったって」

「マジで!?」

「デート誘ってたよ」

「クリスマスに」

 うおおおお、と歓声。

「劇団ナフトル」

「きゃー! なにそれすごくいいー!」

「クルスー! すごーい!」

「お幸せにー!」

「しっかりやれよーっ!」

 いつもの無表情をなんとなくアホ面ふうに崩して、リッキーに三角締めしながら、クルスは手を振り観衆に応える。

「うん。がんばるよ。」

 こいつ、こんな顔ができるやつだったか?

 こうなってはたまらないのがカジュだ。パートナーが今になって見せる思いもよらない側面に、ただただ圧倒されるしかない。いや、それ以前に……クリスマスに、デート? 観劇? クルスと、ふたりっきりで?

「……うわあああ! うわああああああああ―――――っ!!」

 突如として悲鳴をあげると、カジュは脱兎のごとく逃げ出したのであった。

 

 

     *

 

 

 そのまま矢のように寮の部屋に飛び込み、さあ、途方に暮れる。混乱した頭で最初に考えついたのは、定時馬車の時間を調べることだ。職員室の掲示によれば、朝、昼、夕の1日3便。夕方では夜の公演に間に合うまいから、昼に出発。向こうまで2時間ほどかかったとして、随分時間に空きがある。どうしよう。ごはん? 食べてもまだ余る。何する? どこいく? なんにも知らない! 慌てて図書館に飛び込んで、資料を探す。だが、法語(ルーン)の特殊構文事典(リファレンス)はあっても、観光ガイドなんてどこにもない。無限次元ベクトル空間は分かっても、デートのやり方は分からない。そうだ、肝心なことを忘れていた。服だ! 部屋に引っ返しクローゼットを漁る。何もない。そりゃそうだ、法衣と寝間着と普段着くらいしか持ってないのだ。いや、それどころではない。カジュは女だ、いちおう。ならば、化粧くらいするべきか? 7歳がやったらかえっておかしいか? 何が正解? 何が間違い? もうなんにもわからない!

 散らかりまくった部屋の中で、それ以上に散らかった頭を抱えて、カジュは力なくベッドに倒れ込んだ。

 心臓が、信じられないくらいに興奮している。

 それが、カジュには鬱陶しい。

 と、誰かが部屋の戸を叩いた。クルスじゃあるまいな。こんな顔、見せられやしない。

 だが、外から聞こえた声の主は、予想外の人だった。

「あの……わたし、ロータス……」

 安堵の溜息をつき、戸を開けてやると、サンタの衣装の奥でロータスが控えめにはにかんでいる。

「なに?」

「あの、これ……」

 彼女が胸に抱えているのは、鏡だった。脇には竹のバスケットも提げている。そのフタを開けて見せてくれたのは、よく分からない小瓶、筆のようなもの、ハサミ、そのたもろもろ。さながらちょっとした工芸用具。あるいは、外科手術器具のようにも見える。

 首を傾げるカジュに、ロータスは嬉しそうに言った。

「おめかし、手伝おぅ、と……思って……」

 消え入りそうな彼女の声が、こんなに頼もしく思えたことはない。

 彼女の“おめかし”は、実に手慣れたものだった。

 鏡の前にカジュを座らせ、後から髪を()いて、複雑に編み上げていく。カジュは思わず感嘆の声を挙げた。これが自分だろうか。ほんの少し髪を上げるだけで、薄桃色のブローチを噛ませるだけで、こんなにも違って見えるものなのか。

 ロータスの技は、さながら魔法のようであった。術師のカジュをしてそう思わせるほど、そこには驚異が満ちていた。

「いつもこんなことしてるの?」

「うん……」

「めんどくない?」

「あの、リッキーが……」

 頬を桜色に染め、言葉の最後は、やっと聞こえるかどうかの小声になって、

「かわいいって……言ってくれるから……」

「聞いたカジュがバカでしたーっ」

 髪型をいじり終わると、ロータスはカジュの正面に回りこんだ。小瓶に詰まった液体、粉、そういうものを筆か刷毛(はけ)のようなものにつけている。カジュはふと不安になり、

「化粧、するの?」

「ちょっとだけでだいじょうぶ……カジュ、きれいだから」

 そう言われて、悪い気はしなかった。そこで、美の魔法使いのなすがままに任せた。自分のからだをいいように(もてあそ)ばれる、どこか歪んだ快感。企業の研究員どもにいじられるのとはいささか異なる、蹂躙(じゅうりん)の心地よさ。

 ロータスの体温を間近に感じている間に、あっさりと化粧は終わった。

「……見て」

 言われるままに鏡を見て、カジュは言葉を失った。

 自分で言うのはおこがましい。だが彼女はとっさに思ってしまった。

 ――これは、美少女だ。

「どう……かな?」

「すごい……」

 鏡の向こうで、ロータスが声もなく笑っている。

「服も、貸してあげる……ね……」

「ありがと」

「きっと、クルスくん、かわいいって言ってくれるよ……」

 心臓がぎくりと痛む。

「かもね」

 鏡に映る自分の姿に――戦装束(メイク・アップ)によって変身を果たした自分自身にカジュは見惚(みと)れ、見惚れながら、一方で不安を覚えてもいた。

 確かに、これで多くの問題が解決した。ロータスには感謝の言葉もない。しかし彼女の手練の見事さが、かえってカジュを苦しめる。これが女子というものなのだ。勝負に挑む前段階でさえ、みんな、これほどの技術をもって変身を遂げるのだ。

 では、その先に――いざクルスとふたりきりになった後に、一体どれほどの手練手管が要るというのだ?

 着こなしや化粧や髪型作りと同じだけの、ひょっとしたらそれ以上のノウハウが、そこにはあるはずだ。なのにカジュは何も知らない。こればっかりはロータスの助けも借りられない。デートの場についてきてもらうわけにはいかないのだから。

「どうしたの……?」

 鬱々としたカジュの心を読んだか、ロータスがそっと肩に手を添えてくる。

「……なんでもない。服、見せて」

 彼女に、これ以上迷惑はかけられない。

 これは、自分で解決すべき問題だ。

 そんな気がした。

 

 

     *

 

 

 なのに答えは出ないまま、朝はいつもどおりやってくる。

 ロータスに借りた服、作ってもらった髪形、施してもらった化粧。その姿は全身鎧に長剣(ロングソード)凧盾(カイトシールド)を携えた騎士にも似て壮麗。完全武装で目指すは校門だ。そこに敵はいる。クルスがいる。ふたりで馬車に乗り、街に出かけ、そして、やるのだ、いろいろな、ことを。

 後れを取るわけにはいかない。

 これは女の戦いだ。

 胸の中でもやもやと渦巻くものを無理やり押さえつけ、怖気(おじけ)づきそうになる足を辛うじて奮い立たせ、カジュは、戦場へと、一歩を踏み出した。

 と、そのときだった。

「LN502号!」

 背後から製造番号を呼ばれて、カジュは、ギッと骨を(きし)ませ振り向いた。

 

 

     *

 

 

 待ち合わせは校門前。今日からクリスマス休暇。開け放たれた門から、学生たちが外の世界に溢れていく。丘の下へ駆け降りて行く者、ひさびさの外界をじっくりと眺めながら歩む者、他愛もないいつも通りのおしゃべりに興じる者。心のうずくようなざわめきと、我慢しきれず巻き起こる歓声。

 その中で、門柱に背中を預け、彼は白い息を吐きながら待っていた。コートのポケットに両手を突っこみ、足先で芝の上の霜を払ってやりながら――

 人ごみの中からその姿を見いだしたとき、カジュはうすぼんやりした不安に襲われた。冬の清らかな陽射しを浴びるクルスの姿は、白い光を放つかのように鮮やか。そこが踏み込むべからざる聖域に思えて、彼の元へ進む足が止まる。

 だが、校門に向かう人の波が、彼女のためらいを許してくれない。誰かに軽く背中を押され、カジュは列からはじき出されて、気が付けばそこはクルスのそば。

「やあ。」

 クルスが微笑む。

「……うん」

 不機嫌に顔を逸らしながら、それでもカジュはちらちらと彼の表情を窺う。いつもの無表情がほんの少しだけ緩んだ。

 クルスは囁いた。

「すてきだ。カジュ。」

 嬉しさと不安と緊張と興奮と、言い知れないからだのうずきが()い交ぜになり、カジュの中を駆け巡った。

 行こうか、と穏やかに言って、クルスが歩き出す。

 カジュはためらった。

 でも言わなきゃいけなかった。

 ――いや、言ってしまいたかった?

「クルス!」

 呼び止められ、彼が無表情をこちらに向ける。

「あの……ごめん。実験、入っちゃった」

 時間が凍りついた気がした。

 彼は何も言わない。

 カジュの舌が無用の流暢(りゅうちょう)さで動き回る。

「リガノフ先生にいきなり宿題出されちゃって。明日までにトーニキロン反応のデータ取っとけって。ふざけた話だよね。あれ先生の研究だよ。ていよく生徒を助手代わりに使ってくれてさ」

 沈黙。

「クリスマスは、また来年にしよ」

 沈黙。

「……ごめんね」

 沈黙――

 やがて。

 無限に思えるほどの時間が過ぎて、クルスはいつものように、優しく微笑んだ。

「そっか。しかたないね。」

 でも、カジュの目はごまかせない。

 気の抜けた言葉。今まで見せたことのない、カジュにすら感情の読めない、微妙な表情。

 クルスは寮のほうに戻っていった。

 ずきりと胸を痛めるカジュを、ひとり、その場に残して。

 

 

 

(つづく)

 



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外伝-02(終) 恋人に、メリークリスマス!

 

 

 実験室は、かつて一夜を明かしたあの雪山よりも冷たく、これまで過ごした幾千の夜よりも深く静まり返っていた。

 ひとり、ガラス器を手早く組み立て、薬品を調整し、ピペットで汲み上げては並べた容器に注いでいく。反応を起こす前に手早くレーベンス処理をせねばならず、その際の分圧比には有効数字3桁目の誤差さえ許されない。簡単に見えて、実はかなり微妙な操作を要求される実験だ。とはいえ、カジュの卓越した技術を以ってすれば――

 カジュはもう気づいていた。

 昨夜あれほどロータスの技に感動したのに、今となってはあれがただの児戯に過ぎなかったとはっきり分かる。美の魔法使いと呼ぶべきひとの技術は、おそらくあんなものではないのだろう。もっと崇高で、恐ろしくスマートで、素人目には凄みがさっぱり分からないほど、はるか高みに存在するもののはずだ。

 今、カジュが自らの手で進めている作業のように。

 リッキーが戸をあけて入ってきたことには気づいていた。だが彼女は無視した。何を喋っていいか分からなかったし、何か喋りたい気分でもなかった。

「手伝おっか?」

 呆れ半分に目を細めて、リッキーが言う。カジュは振り向きもせず、

「どういう風の吹き回し?」

「こないだ世話になったお返し」

「殊勝な心がけだね」

 カジュは肩をすくめる。

「でも、いいよ。セットしちゃえば計測は1時間おきだし。あのときの貸しは、もっと大事なときに返してもらうから」

「大事なときって」

 責めるような言葉が、背中に痛い。

 リッキーは溜息まじりに言った。

「……どうかしてるよ」

「いつもどおりだよ」

「いつものお前なら『こんなのやらされる筋合いありませんが何か』くらい言ってるよ!」

 カジュの手が止まった。

 単に実験操作が終わってしまっただけだ。彼の言葉に打ちのめされたわけではない。

 だが、手持ち無沙汰になってもなお、彼女は振り返りもしなければ、言葉を返しもしなかった。

「ほんとにいいのかよ? クルス、楽しみにしてたぞ。お前だって」

「行ってきなよ。ロータスと約束してるんでしょ」

 それっきり。

 ふたりの間に、言葉は無かった。

 リッキーの姿は消え、カジュは椅子に腰掛け、読書しながら暇を潰した。

 定期的に計測を行い、実験ノートにペンを走らせ。

 僅かな仕事を終えると、また本の世界に没頭した。

 夕日を浴びながら、ひとり。

 

 

     *

 

 

 器具を片付け、実験ノートを職員室に提出し、誰もいない渡り廊下を戻るころにはもう、半分近く欠けた月が東の山裾から昇り始めていた。

 もうじき夜半を迎える。クリスマス・イブが過ぎていく。もう少しで時間切れ。もう少しで終わる。もう少しで――

 ――もう少しで、解放される?

 溜息をついて、カジュは窓におでこをくっつけた。冷気が肌にはりつくようだったが、その寒さも罰として受け入れた。

 ――カジュは、ずるい。

 と。

 窓の向こうで、夜空にふわりと飛び上がる小さな人影があった。《風の翼》の術だ。背丈からして生徒らしい。じっと目を凝らし、それがよく見知った人物であると気づいたとたん、カジュは駆け出した。

 長くもない足を懸命にばたつかせ、慣れない運動に息を切らせて、中庭に飛び出すと、

「《風の翼》っ」

 不可視の翼を羽ばたかせ、少女は夜空に舞い上がる。

 澄み切った空。

 張り詰めた静謐(せいひつ)

 さざなみのように心ばかりが(はや)り。

 ついに彼の姿を見出した。

 鯨の背のような丸みを帯びた屋根の上に、彼はいた。クッションを敷いて、膝を抱えて、毛布に肩を包んで、じっと、街のほうの空を見つめているようだった。その後ろにカジュは降り立った。

 降り立って、黙った。

 この()に及んで、勇気がなかった。

 でも、彼もまた、何も言わない。

 その沈黙に導かれ、カジュは囁くように、呼んだ。

「クルス」

 クルスが振り返る。いつもどおりの無表情で。

「やあ。」

「……ごめん」

 彼はまた、自分の仕事に戻ってしまった。闇を見つめるという、大切な仕事に。

「もういいよ。」

「そうじゃなくて」

 言葉に詰まった。何をためらう。なぜここまで来た。言うなら今しかない。言わなければ生涯悔やむことになる。そんな気がする。だから、

 ――行けっ!

「邪魔が入って、今日、行けなくなって、カジュは……ほんとは……ほっとした」

 クルスは何も言わない。

「誘ってくれたのは、うれしかった。でも、何していいのかわかんなくて。何が起きるのか、わかんなくて。怖くて……カジュは、逃げた。

 だから、ごめん」

 白い息が、カジュの頬を包み込む。

「寒いでしょ。」

 振り返ったクルスは、微笑んでいた。

「おいでよ。ひとりぶんしかないけれど。」

 そう言って広げて見せた毛布と座布団は、確かに、ひとりぶんしかなかった。

 

 

     *

 

 

 いかにからだの小さいふたりとはいえ、ひとつしかないクッションを共有し、一枚しかない毛布を纏うとあっては、吐息がかかりあうほど密着するしかない。遠慮したせいでおしりがクッションからずり落ちそうになり、クルスの腕がそれを支えてくれる。腰に回された手の感覚にからだが熱くなり、同じように相手の体温も上がっていき、ぬくもりは混ざり合って融合した。ふたりはひとつのものとなって、四つの目で、同じところを眺め続けた。

「……ごめん。」

 彼の息が耳をくすぐる。

「実はボクも……。ほっとした。」

 訝るカジュに、クルスは苦笑する。

「わからなかったんだ。何していいか。」

「なんだそれ?」

「だいぶん勇気を出して、誘ってはみたんだけど。」

「無計画!」

「耳が痛いよ。」

 イタズラ心が起こり、カジュは、がぶりと彼の耳朶(じだ)を噛んだ。

「痛。」

「おしおき」

「受け入れよう。」

「なんだ、偉そうに」

「虚勢を張っているんだ。」

 ふたりは笑った。

 ふたつの口から発してさえ、笑い声は、ひとつだった。

 そのとき、遠くの空に光の花が咲いた。

 わあっ、と思わずカジュは声を挙げる。クルスはこれを待っていたのだ。そういえば、誰かが噂していた。夜には街で花火が挙がると。それを一緒に見た男女は、永久に想いがつながりあうとか、なんとか、それらしい伝説があるのだと。

 伝説なんてあてにならない。そんな都合のいい魔術が、そんじょそこらにあるものか。

 そうは思うが、しかし。

 隣を見れば、クルスの瞳の中に、色とりどりの花火が(きらめ)いていた。

「ねえ」

「うん。」

「“好き”って、具体的にどういうことかな」

「うん……。ぜんぜん分からない。」

 光。遅れて、音が届く。

「ねえ、クルス」

「うん。」

「カジュは……。」

 口をでかかった言葉は、花火の音にまぎれて消えて。

 かわりに、後ろから招かれざる客が現れた。

「イッエ―――――ッ!! メッリークリッスマァース!!」

 ぼぱぱぱぱん! ぼぱぱんぱん!!

 いきなり背後で乱射されたクラッカーに、カジュは思わず飛び上がる。こんなバカなことするバカはあのバカしかいない! 振り返れば、リッキーのバカがひとりで4本もクラッカー握ってバカみたいな奇声を挙げている。いや、バカみたいなのではない。バカだ。

「なんだよキミは!」

「なんだキミはってか! そうです! わたしがサンタさんです!」

「酔ってんじゃねえのか」

「酒に頼るよーな(にせ)テンションでリッキー・パルメットが務まるかーっ! 差し入れ持ってきたぞーっ!」

 後ろから《風の翼》でふわりとやってきたのはかわいらしいコート姿のロータスで、手にはごちそう山盛りのバスケットが提げられている。声も無く、彼女がはにかむ。

「あの……あの……うん」

「何も言わないのかよ」

「よっしゃああああ! クリスマスパーティじゃああああ! やろうども!!」

「誰がやろうどもだ」

「めりくりーっ!」

「……………!」

 リッキーに呼ばれて次々に屋根の上へ登ってきたのは、見慣れた顔のクラスメイトたちだった。デュイ、アニ、オーコン、その他3、4人。わらわらとひしめき合って、烏合の衆がガヤガヤやりはじめる。飲み物の栓が音を立てて弾け、ローストした肉とふかふかプディングをカラスのようにむさぼりだす。

「よーし食え食え!」

「はいめりくりーっ!」

「何回目だー」

「メリクゥール!!」

「メリクリウス・アントニヌス!!」

「メリクリウス・アントニヌス・テオッドトス!!」

「誰それ」

「知らねーのかよ!!」

「知るよしもねえよ!!」

 隣でクルスが笑っている。カジュは広いおでこに血管浮かす。

「あ――――も――――おまえらうるせ――――っ!」

「申し訳ねえええええええええ! お詫びのしるしに肉どうぞ!」

「食べるけど!」

「あ、花火!」

「たーまやー!」

「かーぎやー!」

「炭酸ストロンチウムー!」

「きれい……」

「じゃああれは?」

(シュウ)酸ソーダ……」

「からの、巨人鋼。」

 口を挟んだクルスに、周囲がおおっと声を挙げる。巨人鋼の炎色反応なんてそういえば見たことなかった。

「また来た!」

「硝酸バリ、と酸化銅?」

「はい質問! 配合比何対何でしょー!」

「知るかっ! 6:4くらいでしょ! 誰か分光分析してよ!」

「無茶言うなー!」

 ぜんぜん中身のない大騒ぎの輪から外れて、カジュは大げさに溜息をついた。横ではクルスがくすくす笑っている。睨んでやる。悪戯な微笑が返ってくる。

 カジュは彼以外の誰にも聞こえぬように、騒ぎにまぎれて、囁いた。

「メリークリスマス」

 応えもまた、ふたりだけのセカイの中に。

「メリークリスマス。」

 

 

 

With all Good Wishes for Christmas

and a Happy New Year!

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 山に面倒な魔獣が湧いた。依頼を受けて討伐に向かうヴィッシュたちであったが、時には悪い日もあるもの、どうにも意見が噛み合わない。小さなしこりを抱えたまま仕事にかかる3人に、予想外の敵が襲い掛かる。果たして彼らは、この難局を乗り切ることができるのか?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第11話 “齟齬+疎通”

 Conflict // Communicate

 

乞う、ご期待。

 



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第11話 “齟齬+疎通”
第11話-01 齟齬


 

 

 後始末人協会のコバヤシがヴィッシュの家を訪ねて言うにはこうだ。

「“樫鬼(オーク)”が湧きました。大規模な群生地(コロニー)です」

 ヴィッシュは地図を引っ張り出してきてテーブルに広げ、寝椅子に腰を下ろす。緋女が後ろから首を突っ込んできて、あごを彼の肩に乗せた。

樫鬼(オーク)って?」

「鬼の一種だが特徴は植物に近い。サイズは小柄な人間程度。腕力も人間並み。皮膚は木質で(かた)い。知能は低く、言語能力は動物の鳴き声レベルだ。

 たいした魔獣じゃないんだが、最大の特徴は……自家受粉で()えることだ」

「じかじゅふんか」

 緋女は真顔だ。真剣そのものだ。真剣に何も分かってない。

「種子だよ。花が咲いて種で殖える。しかも自分の花粉で自分のめしべに種を作れるんだ。つまり、一匹でも取り逃がすとまた()()()くる」

「雑草みてーだな」

「雑草そのものだよ。悪いことに肉食で貪欲な、な」

 そう言ってヴィッシュはコバヤシを睨んでやった。毎度毎度めんどくさい仕事ばかり振りやがって、の意味でだ。もちろんコバヤシは涼しい顔をして地図に指を伸ばし、説明の続きにとりかかった。

「場所は“戦更(いくさらん)街道”北側のファトリ山。すでに周辺の農村がいくつか襲われてます。何かご質問は?」

「最近ちょっと報酬ケチくねえ?」

地方豪族(スポンサー)界隈が昨今どうにも不景気でして」

「不景気って()や片付くと思ってんだからな」

「かーじゅー! 仕事行くよー!」

「……ぅぇぇーい……。」

 屋根裏の勉強部屋からの眠たそうな声を聴きながら、ヴィッシュは重い腰を上げた。

 

 

   *

 

 

 街道沿いに旅して2日。宿場町で補給を済ませ、森に足を踏み入れ半日。現場付近に到着。

 最初に痕跡を発見したのは緋女だった。林の中に足跡があるのを見つけたのだ。

「おい、足跡だ!」

「大声出すなよ気付かれるだろ。カジュ周辺警戒」

「ねむい……。」

「徹夜ばっかしてるからだ」

「声出さなきゃ呼べねーだろーがァ」

 ヴィッシュが寄っていき、足跡に剣をあてがって歩幅を測る。緋女はふてくされて犬に変身し、そこらの残り香を探しに行ってしまった。

 歩幅の違う足跡が少なくとも5種類ある。つまり5人がここを歩いたということだ。人間とは全く足の形が違うから、狩人やら豚飼いやらと見間違えることもない。樫鬼(オーク)5体が連れ立って森の奥に向かって行ったことは確実だ。何か重いものを引きずった跡が並んでいるのを見れば、どうやら、どこかの村へ略奪に行った帰り道らしい。

 ヴィッシュは地図を取り出し、太陽の位置や周辺の地形を眺めながら現在地を算出し、足跡の向かう先から群生地(コロニー)の位置を推定する。

「よし。しばらく足跡を追うぞ。いつ遭遇するか分からん、気を付けとけ」

 仲間たちから返事はなし。ヴィッシュは溜息をついた。ウトウトしているカジュの背中を軽く叩いて起こしてやり、そのまま森の奥へ歩き出した。緋女は地面の匂いをしきりに嗅ぎとりながら、少し先行していった。

 しばらく斜面を登るうちに林が途切れ、低い(やぶ)と切り立った岩が散在する山肌が見え始めた。

 行く手を眺め見ると、尾根のあたりで緋女がヴィッシュらを待っている。ぴんと耳を立て、地面に食いつくようにして身を低くかがめ、稜線の向こう側を睨んでいる。

 ――見つけたな。

 疲労困憊のカジュを励まし、緋女に追いつく。彼女の隣にヴィッシュも()い、尾根の裏側をのぞいてみた。

 すると……いる、いる。斜面の中ほどに崩れかけた古城らしきものが建っており、その周囲に木製の等身大人形のようなものがたくさんうろついている。あれこそまさに樫鬼(オーク)だ。数は見たところ20体以上といったところか。

 あんなところに古城があるとは知らなかったが、おそらく古ハンザ期のものだろう。傾斜のきつい斜面はほとんど断崖絶壁に近く、背後から攻めるのは困難。下から登って近づこうにも岩場ばかりで身を隠すところもない。戦国時代には要害として敵を苦しめたに違いない。

 よりにもよってこんな場所を群生地(コロニー)に選ぶとは、なかなかに面倒なことをしてくれる。知能の低い樫鬼(オーク)のこと、ただの偶然ではあろうが。

「厄介だな。どう攻めようか……」

 ヴィッシュは顔を峰の手前に引っ込め、あぐらをかいて腕を組む。その隣で緋女がいきなり人間に変身した。

「おら! 行くぜ!!」

「ちょ!! ちょおい!!」

 勢いよく飛び出していこうとする緋女の太ももに、ヴィッシュは必死でしがみ付いた。緋女はすでに荷物を下ろして刀を抜き放ち、やる気満々の臨戦態勢になっている。なんたる早業だ。抜刀の動きが見えないどころか、音ひとつ聞こえなかった。

「待てって! 突っ込むなよ!」

「“パッ!”ってって“ガッ!”ってこーぜ!」

「ここは慎重に隙を見るんだ」

「山ごとふっとばそうよ。」

「めんどくさくね?」

「危険だろうがっ」

「山ごとふっとばそうよ。」

「ケンカは度胸! 初手でビビらすんだよ!」

「かけるべき手間は惜しむべきじゃない」

「山ごとふっとばそうよ。」

「「それはダメッ!!」」

 豪快な進言を繰り返すカジュに対して、()しくもヴィッシュと緋女の意見はピッタリ一致した。

「そんなのつまんない! あたしが斬りたい!」

「城を離れてる樫鬼(オーク)がいたら獲り逃しちまう!」

 一致してなかった。

「楽なのに……。」

 ふわ、とカジュがあくびを垂れる。ヴィッシュは難しい顔して腕を組んだ。

「場所を変えて夜を待つ。交代で見張りながら休息だ。日暮れまでに城を離れる個体がいたらこっそり始末な」

「へえへえ。あんたがボスだよ」

「ねっむ……。」

「カジュからまず寝ろ。まったく……」

 

 

   *

 

 

 城の周辺をあまさず監視できる位置に移動し、尾根のそばの岩場に身を隠してキャンプ。カジュに睡眠をとらせることを優先し、見張りはヴィッシュと緋女のふたりでこなした。

 日暮れ直前の時刻、ヴィッシュは温かい飲み物を()れて、見張り番の緋女に持っていった。緋女は岩の上に寝そべり、遠くの古城をじっと睨んでいる。

「緋女、麦茶だ」

「また戻ってきた」

 と言うので、ヴィッシュも彼女の隣に並ぶ。見れば、樫鬼(オーク)が3匹、さらってきた豚を城へ引きずっている。緋女に飲み物を渡してやると、彼女は岩の手前に引っ込み、あぐらをかいてすすり始めた。

「あちい」

「多分これで全部だな」

「なんで分かるの?」

「習性だ。樫鬼(オーク)は光がないと動きが鈍る。狩場は日帰り圏内だけなんだ。

 念のため日没から少し待ったら仕掛けるぞ」

「はーい……あっつ! ベロ火傷した」

「じゃ冷まして飲めばいいだろ」

「熱いうちに飲みてーだろ」

「知るかっ」

 緋女が飲み終わるのを待って見張り役を返し、カジュにも指示を伝えに行く。すると彼女は、草地に布を敷いた上で仰向けになり、空中に向けて手をひらひらさせている。

 ――何やってるんだ? 魔法の儀式か?

 と、ここまで考えたところでヴィッシュは閃いた。

「お前、眠ってなかったな!?」

 カジュが寝返りを打ってこちらに背中を向ける。きまりが悪いときのお決まりの仕草だ。ヴィッシュは痛いくらいに頭を掻き、

「寝とけって言ったろう……」

「山ごとダメって言ったでしょ……。」

 返ってくるのは今にも眠りに落ちそうな声。寝ぼけているのか、全く受け答えになってない。

 溜息ばかりだ。ヴィッシュはあぐらをかいて、キャンプの撤収準備に取り掛かった。

 ――今日は、なんか、ダメだ。全然仲間と噛み合わない。こんな日もあるってことか……

 

 

   *

 

 

 日が西側の稜線に沈み、空が茜色から、波打つ赤紫、そして星散りばめた濃藍色に変わっていく。十六夜月(いざよいづき)が東の山際から昇りきる(午後7時前)のを合図に、狩人たちは動き出す。

「ふぁーぁぁー《爆ぜる空》ぁ。」

 口火を切るのは城の裏側の尾根に回り込んだカジュ。あくび交じりの術式が、城郭周辺の空気を可燃性の気体に変換し、

 着火!

 轟音。火炎が大輪の花開くように膨れ上がり、城の一角を粉々に打ち砕く。とたんに樫鬼(オーク)たちが十数体も、あたふたと城からあふれ出てくる。そのまま爆発の反対側、斜面の下の林に逃げ込もうと走っていく。

 この動きはヴィッシュの読み通り。

 鬼どもがようやく林に駆け込んだところで、ふっ、と、風が吹き抜けた。

 赤い風――緋女!

 林の入り口に待ち伏せていた緋女が、犬の恐るべき速力で駆け寄り、跳びかかる。跳躍しながら変身を解いて、太刀を樫鬼(オーク)の首に叩きつける。

 が。

 意外な手ごたえ。思ったより硬い。一撃で首を落とすつもりが、刃は首の半ばあたりに食い込んで止まった。

「おっ?」

 と緋女は嬉しそうに声を上げ、樫鬼(オーク)を蹴り飛ばして太刀を抜き取る。そして次には、先より丁寧に腰を落とし、へその下に鉄のごとく力を込めて、気迫の太刀を繰り出した。

 今度こそ両断! 樫鬼(オーク)は上下まっぷたつに分かれ、薪束がほどけて転がり落ちるように地面に転がる。

 緋女は腹に溜めておいた息を鋭く吐き、敵を睨む。話には聞いていたが、樫鬼(オーク)の身体の硬さはなかなかのものだ。本当に樫の丸太なみ。本気で打ち込まねば斬れない。一撃一撃が文字通りの真剣勝負になる。

 ――おもしれ!!

 大興奮の緋女は、そのまま残りの樫鬼(オーク)に踊りかかった。

 

 

   *

 

 

 一方、ヴィッシュは城のそばに身を潜めていた。はぐれた樫鬼(オーク)を見かけると音もなく忍び寄り、その背後から――戦斧(バトルアクス)の分厚い刃を叩っ込んだ。

 樫鬼(オーク)は硬い。ヴィッシュの腕前では、剣で斬るのは不可能。有効なのは、重量を生かした大型の刃物でぶった切ること。つまり木こりの要領だ。思惑通り、斧は樫鬼(オーク)の肩から腹あたりまでを一撃で裂いた。動かなくなって倒れた鬼に足をかけ、斧を引き抜いて肩に担ぐ。

 全てヴィッシュの作戦どおり。出鼻でカジュが敵を撹乱し、外に逃げたものは緋女が脚を生かして片付け、城に残ったものはヴィッシュが各個撃破する。知能の低い樫鬼(オーク)のこと、一度混乱させてしまえば自力で統制を取り戻すのは不可能だ。この後は各自ばらばらに動く敵を、ひとつひとつ地道に潰していくだけでよい。

 戦場では何が起きるか分からない。が、状況をルーチンワークに落とし込んでしまえば、あとは容易いもの。ヴィッシュのいつものやりくちだ。

 だが、順調な時にこそ落とし穴は潜んでいる。ヴィッシュは危機が迫りつつあることに気づいていなかった。

 2体目、3体目の樫鬼(オーク)を斧で断ち割り、一息ついて、次の獲物を探して首を伸ばした――そのとき、ようやく彼は異変を嗅ぎとった。

 周囲の暗闇の中に、動く影がいる。ひとつやふたつではない。城の中から、茂みの脇から、あるいは岩や遺構の裏側から、樫鬼(オーク)たちが次々姿を現す。

 その数、軽く30以上。完全に囲まれた!

「ウソだろ!?」

 思わずヴィッシュは叫んでしまった。想定外だ。緋女のほうに向かった数と、カジュの術で死んだ数まで合わせれば、すでに50体を超えているはず。樫鬼(オーク)の繁殖速度からの推定される数を大きく超えている。

 そこにカジュからの《遠話》が飛んできた。

〔警報。やばいよ。〕

「どうなってるっ!?」

 ヴィッシュは悲鳴めいた声を挙げながら、樫鬼(オーク)の体当たりを辛うじて避け、反撃に斧をぶち込んだ。しかしすぐさま次の敵が迫ってくる。斧を抜き取っている暇がない。

 舌打ちひとつ。ヴィッシュは斧を捨て置き、予備の鉄棍(メイス)固定(ロック)を解くと、次なる樫鬼(オーク)目掛けて力任せに振り下ろした。(おもり)樫鬼(オーク)の頭に食らいつき、表面に割れ目を走らすものの、一撃で屠るには至らない。やはり鈍器ではもうひとつ効果が薄い。

〔城から山ほど湧いてきてる。概数100。〕

 ――100!!

 異常だ。数が多すぎる。

 それだけではない。明らかにの樫鬼(オーク)たちはヴィッシュを待ち伏せしていた。最初に片付けた3体はヴィッシュを罠に誘い込むための囮だったのだ。とても樫鬼(オーク)の知能でできることではない。

「緋女に伝えろ!」

 と、叫びながらヴィッシュは、敵の噛み付きを鉄棍(メイス)で食い止め、胴を蹴り飛ばして難を避ける。

「敵は樫鬼(オーク)だけじゃない! どっかに“()()()”がいる!」

 

 

(つづく)

 



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第11話-02(終) 疎通

 

 

 それで全て説明がつく。攻めづらい要害に拠点を置いたのも“司令官”の知恵。異常に数が多いのは、おそらくどこかに樫鬼(オーク)()を作って計画的に()()したのだ。そして今や、そいつは混乱した樫鬼(オーク)たちに何かの術で落ち着きを取り戻させて操り、ヴィッシュを待ち伏せにはめて殺そうとしている。

 緋女は、手近な樫鬼(オーク)の最後の一体を斬り捨て、剣のような目を遠くの古城に向けた。

「いま行く!」

〔いらない。“司令官”叩いて。〕

「どんなやつ?」

〔魔族で術士。城を見てる。〕

「探す!」

〔『任す』。〕

 緋女は犬になって斜面を駆け上り、鼻に全神経を集中させて匂いを探る。城周辺で大きく弧を描いていき――ひとつの痕跡を発見した。鼻にツンとくる焦げた香草の匂い。魔族がよく用いる霊薬の匂いだ。

 緋女は走った。

 方向は、さっき彼女らが隠れていた峰とは反対側の尾根あたり。稜線近くに大きな岩が三つ並んでおり、その隙間のところに向かって匂いの痕跡が伸びている。かなり遠いが、犬になった緋女の脚力ならほんの数分の距離だ。

 と。

 遠い岩の上で、黒い人影がもぞと動いた。犬の目は近視で色も分からないが、かわりに夜目が利く。ごまかしは効かない。

 ――あれだっ!

 瞬時に岩の下まで迫り、稲妻のごとく左右に跳んで岩を駆け上り、魔族の頭上を飛び越えざまに人間に変身。落下の勢いそのままに銀の太刀を斬り降ろす。狙いたがわず一太刀で敵の脳天をかち割る――かに思われたそのとき、魔族の足元の岩が揺れて崩れた。

 魔族がよろめいて倒れ、ために狙いが逸れて太刀が空を薙ぐ。着地するや緋女は二の太刀を繰り出すが、それを阻むものがあった。()()がうねって伸びあがり、魔族の前で盾となって太刀を防いだのだ。

 無論、ただの岩がうねったり伸びたりするはずがない。

 緋女は舌打ちしながら背後に跳び、岩山から飛び降りた。彼女の目の前で()()()()()()()、城ほどもある巨大な人型をとる。その肩の上にいた魔族は、激しい揺れのために立っていられなくなり、頭部に必死にすがりついている。

 “ラク・ニーの岩山”。かつて魔王軍が発掘し、戦力として用いた古代帝国の人形兵器。神話に名高い半神の岩族(ロックフォーク)を模して造られ、神話そのものの破壊力を遺憾なく見せつけた。ほとんどは戦中戦後に破壊されたはずだが、まだ動ける状態のものが残っていたのだ。

 緋女は岩巨人を見上げながら、ぽかーんと口を開けていた。

 ――岩かー。鉄板くらいなら斬れるけど、んんー、岩のかたまりかーっ。

 魔族が緋女には分からない言葉で命令を飛ばす。岩巨人が拳を振り下ろす。緋女は素早く跳躍して難を逃れるが、巨人のパンチの威力は、拳から巻き起こる風圧だけで軽く体勢を崩すほどだ。まともに食らえば一撃で終わる。

「やっば!!」

 なぜか嬉しそうに、緋女は岩巨人に飛びかかっていった。

 

 

   *

 

 

 ――どうする?

 カジュからの《遠話》で緋女の状況を聞き、ヴィッシュは脂汗をたらす。横手から来た樫鬼(オーク)の拳をかわし、戦槌(メイス)の反撃を当てながら距離をとる。が、体重も乗らず、踏み込みも充分でない鈍器で、頑丈が売りの樫鬼(オーク)は仕留められない。そのうえ逃げた先にもまた別の樫鬼(オーク)

 早く状況を変えねば全滅する。ヴィッシュの脳が唸りながら回りだす。

 案1、緋女に合流し魔族を叩く。案2、緋女を城側に呼び戻し樫鬼(オーク)を叩く。案3、いったん撤退して態勢を立て直す。いずれもナシだ。こちらには樫鬼(オーク)を1匹残らず仕留めるという絶対目標がある。敵を逃がす可能性のある案は取れない。となると――分散したまま遅滞防御し、予備戦力で背後を叩く。

「カジュ! いい魔法ないかっ」

〔15分ちょうだい。樫鬼(オーク)仕留める。〕

「決まりだ。緋女へ、『15分もたせろ』!」

〔ROG。〕

 

 

   *

 

 

「おっけええぇぇェェェェィヤッ!!」

 緋女の斬り込みが岩巨人を打つ。気迫、踏み込み、ともに充分。会心の一撃と言ってよい一打だったが、岩巨人は――せいぜいのけぞり一歩退く程度。

 ――硬い!

 緋女は岩巨人の胸板を蹴飛ばしながら後退し、着地と同時に再び攻める。岩巨人を斬るのは無理。ならば狙いは肩の上の魔族だ。岩巨人の身体を目にも止まらぬ速さで駆け上り、一息にその頭上まで躍り出る。

 そのまま旋風(つむじかぜ)の剣速でひと薙ぎ。完全に捉えた!

 が、緋女の剣が魔族の首を断つその直前、魔族の皮膚が硬質化し岩になった。動脈のみをかすめ斬るつもりでいた緋女の太刀はさほどの威力もなく、あっさりその表面で弾かれてしまう。

 ――なんかまた魔法!?

 カジュなら見破っただろうが、これは《本質崩し》の術だ。生まれ持った人の本質をいったん()()()()()()にしてしまい、全く別の存在に創り変える魔術。理論上はどのようなものにでも変身できる一方、極めて制御の難しい危険な術でもある。ほんの少し調整を誤れば意図したのとは全く違う()()になり果ててしまい、()()を見失って二度と元に戻れなくなる。

 この魔族は身体を岩巨人に同化させて緋女の攻撃を防いだわけだが、こんな危ない術に頼ったということは、かなり精神的に追い詰められていたのだろう。

 しかし緋女にそんな事情は分からない。必殺のつもりだった攻撃をあっさり防がれ、彼女は少なからず衝撃を受けた。

 その緋女に、岩巨人の拳が飛んでくる。空中に跳びあがったこの体勢では、跳び退()こうにも足がかりがない。

 緋女は空中で犬に変身した。変身して体重の減った緋女はそのぶん一気に落下速度を増す。それを利用して緋女はかろうじて拳を避けた。

 カジュが言うところの“エネルギー保存加速”――緋女自身は魔法的根拠などさっぱり知らないが、この現象を回避や跳躍に使いこなすコツは、誰よりもはっきりと理解している。頭でではなく、肌と肉とでだ。

 着地した緋女に、すぐさま岩巨人の踏み付けが来る。緋女は素早く跳び、間合いの外まで退くと、地面に食い付くように踏ん張って岩巨人と対峙した。

 ――くそー、キツいな。

 岩巨人がゆっくりと一歩せり寄ってくる。緋女は踏ん張り、一歩も退かない。

 ヴィッシュ(ボス)は『倒せ』とは言わなかった。指示は『15分もたせろ』だ。

 ならば。

「慎重……慎重……慎重に……」

 岩巨人が来る。

「隙を……見る!!」

 岩巨人の蹴りがあたりを土砂ごと薙ぎ払う。緋女は針の糸を通す正確さで巨人の足元を潜り抜け、背後に回るや跳躍。完璧なタイミングで、背後から剣を叩き込む!

 巨人がよろめく。ただでさえ狭苦しい尾根での戦いだ。緋女の打撃でバランスを崩し、斜面に向かって倒れ落ちる。

 響く轟音。渦巻く土煙。絶好のチャンスを、緋女はしかし、離れて見張るのみで捨て置いた。いつもなら息もつかせず追撃していたところ。だが今の目的は、時間を稼ぐことだ。

 だから待つ。待ちに徹して動きを見れば、15分耐えきることは、たやすい。

 岩巨人が斜面に手を付き、ゆっくりと立ち上がる。

 緋女はチョイと手招きした。

「来な。のーんびりと遊んでやるよ!」

 

 

   *

 

 

 ヴィッシュは戦槌(メイス)を固く握り、ざっと周囲に視線を走らす。樫鬼(オーク)どもの囲みは着実に狭まり、完全に退路を塞いでいる。見事に統制された動きだ。このまま15分もたせるのは――無理。

 緊張の汗が額から垂れる。ヴィッシュはそれを、ぺろ、と舐めとり、

「喧嘩は度胸……初手でビビらす!!」

 不敵に笑うや、雄叫びあげて樫鬼(オーク)の群れに飛び込んだ! 手近な一匹に力任せの一撃を叩き込み、その周囲の樫鬼(オーク)たちに次から次へ、かかっては()ち、()ってはかかる。その暴れ狂いようは、さながら大雨で水嵩(みずかさ)を増した河がついに(つつみ)を破り、黒い水が渦巻きながら一挙に噴き出し、轟々(ごうごう)と肌身を震撼させる唸り声を立てながら、人も家も薙ぎ倒して暴れ狂う。まさにその濁流のように、ヴィッシュは樫鬼(オーク)の群れを蹂躙した。

 樫鬼(オーク)の中の勇敢な一匹が、ヴィッシュの背中に挑みかかった。硬い拳が背中に食い込み、ヴィッシュは蛙の潰れたように呻いた。が、次には先ほどにも(まさ)って恐ろし気な咆哮をあげ、樫鬼(オーク)を脳天から()ち降ろし、その首を()し折り、その勇敢な行動に()()を与えた。

 樫鬼(オーク)たちの中に恐怖が走る。うかつに攻めれば――殺される!

 しかし、狂気の化身を演じるヴィッシュは、その実、内心でずっと怯えている。彼は今、自分に言い聞かせ続けている。

 ――喧嘩は度胸、喧嘩は度胸、止まるな、動け! ほら動け!!

 敵の心理に恐れを生み、攻め手を鈍らせる……そのためにヴィッシュは、敢えて危険も不安もかえりみずに暴れているのだ。

 相手の恐怖が緩めば、死ぬ。

 ゆえにヴィッシュは再び叫んだ。己を奮い立たせ、敵を怯えさせるためにだ。休んではならない。休ませてはならない。ヴィッシュは後ずさる樫鬼(オーク)に迫り、次なる一撃を打ち込んだ。

 

 

   *

 

 

 時間が流れる。ゆっくりと流れる。戦闘の緊張の中で過ごす15分はあまりにも長い。

 岩巨人の攻撃をいなし続けて、さすがの緋女にも疲れが見え始めた。ヴィッシュは1秒たりとも立ち止まらずに敵を打ちのめし続けていたが、いよいよ戦槌(メイス)を持つ手が上がらなくなってきた。今やふたりは同じことを一心に念じ続けていた。

 ――まだか!? 早く!!

 疲労で足の鈍った緋女に、岩巨人の拳が振り下ろされる。

「やばっ」

 時間とともに恐怖に慣れた樫鬼(オーク)たちが、ついに総攻撃を仕掛けてきた。

「ダメか!」

 そのとき、ついにカジュの術式が完成した。

〔お待たせ。〕

 尾根の上で座禅を組んでいたカジュの、背中から陽光色の閃光がほとばしり出る。いや、閃光ではない、何百という数の《光の矢》だ。それが一様に天を向き、ずらりとカジュの背後に並ぶ。その姿はまるで、光輝の《翼》を羽ばたかせる天使のよう。

〔――《光の雨》。〕

 《翼》が弾ける! 《光の矢》が一斉に解き放たれる。けたたましい金切り音を立てながら上空に飛び上がった《矢》の束は、空から獲物に狙いを定めるや、鋭角に折れて地上へ降り注ぎ樫鬼(オーク)という樫鬼(オーク)を片っ端から粉砕した。避けた奴もいた。隠れた奴もいた。だが逃げても無駄だ。《矢》はそれ自体が命あるもののように、逃げる樫鬼(オーク)へ執拗に追いすがり、その背中から胴へ貫き爆発した。ただ一匹の例外もなくだ!

 阿鼻叫喚の真っただ中で、ヴィッシュは悲鳴を上げて身を伏せていた。が、巻き込まれる心配はなかった。《矢》は敵味方を完璧に見分け、敵だけを攻撃するように創られているのだ。やがて自分は安全だと気付き、ヴィッシュはようやく息をつく。

 一方、城で樫鬼(オーク)が全滅したことに気付いたのか、岩巨人――それと同化した魔族――の動きに動揺が走った。緋女はその好機を見逃さなかった。防御に徹して時間を稼ぎながら、彼女はじっと隙をうかがい、ついに見つけていたのだ。岩を(とお)すための(わず)かな隙を。

 右膝の皿の上端。そこに走った微かな亀裂。ここなら斬れる。

 緋女は跳んだ。

 肩の上に担いだ太刀を、渾身の力を込めて振り下ろす。踏み込み、体裁き、握り、太刀筋、全てが最高。緋女の力と技と心とを至上のかたちで刃に込めたその時、そのしなやかな一太刀は――()()()()()、文字通り。

 岩巨人の右脚が斬り落とされた。

 岩巨人が轟音を上げて倒れる。魔族は慌てて同化を解き、元の身体に戻って逃げようとしたが、それがかえって良くなかった。落下して地面に叩きつけられた挙句、飛び散った岩巨人の破片、ほんの握り拳程度の大きさのものに頭蓋骨を叩き割られ、あっけなく死んでしまった。

 緋女はぐったりと座り込む。

「勝……ったァァァー! ッシャー!!」

 もちろん、遠い古城で、尾根の上で、ヴィッシュとカジュも同じ気持ちで緋女の声を聞いていた。

 

 

   *

 

 

 仕事を終え、キャンプ地で合流。カジュが石の上に腰を下ろしてウトウトしている。ヴィッシュは荷物を片付けながら、

「あんな術が使えたんだな」

「“使えた”じゃないよ。“創った”だよ。」

「え? 今?」

「この3日でね。敵味方の識別は難しくて。まあ間に合ってよかったよ。」

 ふわあ、とカジュがあくびを垂れる。ヴィッシュは思わず片付けの手を止めた。

「まさか寝てなかったのは……」

「3徹はさすがにキツいす。あとわよろしく。おやす……。」

 カジュが目を閉じ、ふらありと横に倒れていく。ヴィッシュは慌てて駆け寄り、彼女を抱きとめた。腕の中でクウクウと安らかな寝息を立てているカジュを見ながら、ヴィッシュは困惑する。

「それならそうと……」

 と言いかけ、気付く。

「……言われるようになりたいな……」

 

 

   *

 

 

 帰り道、カジュはヴィッシュが()ぶって行った。ヴィッシュのぶんの荷物は緋女が分担した。翌日に夕暮れには宿場についたが、そのころにはもうヴィッシュも緋女も疲れ果てていた。

「腹減った……」

「晩飯なにすっかな……」

「そりゃお前……」

 とは言うものの、食欲がない。疲れすぎると食い気さえ枯れ果ててしまうものだ。

 だが、宿場の大通りに差し掛かったところで、屋台から、ぷんと出汁の香りが漂ってきた。緋女が鼻をひくつかせた。ヴィッシュが「おっ」と声を上げた。カジュまでたまらず目を覚ました。

 このたまらなく胃袋を刺激する香り。じっくりと骨を煮込んだスープに、甘い脂の気配まで混ざっている。

 これは、あれだ。かつて異界の英雄セレンが、故郷の味を懐かしんで再現し、ひとびとに振る舞い、以来、内海地方全域に広まったという――あの料理。

「「「ラーメンだ!」!」。」

 みっつの声、みっつの意見が、今こそピタリ一致した。

 3人、屋台に飛び込んで、汗だくの豚みたいな顔を横に並べて、すするラーメンは――うまい。

 

 

 

 THE END.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 緋女の危機を救ったのは、巨人の剣豪ゴルゴロドン。互いに剣の道を究めんとする者同士。天真爛漫の緋女と豪放磊落のゴルゴロドンは、意気投合して互いに友情を結び合った。しかし皮肉な運命が、ふたりを敵味方に分けてしまう……

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第12話 “ジャイアント・キリング”

 Giant Killing

 

乞う、ご期待。

 



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第12話 “ジャイアント・キリング”
第12話-01 “岩盤纏い”のゴルゴロドン


 

 

 荒野に、遠く砂埃が立ち昇りだす。

 聞こえてきたのは幾重にも連なる車輪の音。(ハヤブサ)を思わせる(とき)の声。鋼と鋼のかち合う響き。

 埃の中に、剣戟の火花が二三、爆ぜ。

 砂塵切り裂き緋女が飛び出す。

「オラァッ!!」

 気迫の一閃。跳躍しながら振るった太刀は敵のひとりを横薙ぎに両断。そのままの勢いで緋女は砂を蹴散らし駆け抜ける。が、それを追って三つの敵影が、車輪唸らせ疾走してくる。

 一見して、鬼の戦士を乗せた戦車。だが実は違う。鬼の腰から車輪が直接()()()()()のだ。

 “轢殺鬼(れきさつおに)”。数ある鬼の中でもとりわけ奇怪な変種のひとつ。轢殺鬼には脚がなく、かわりに腰の下に横穴が開いている。そこに“石臼貝(グラインド・シェル)”と呼ばれる二枚貝を装着し、車輪として用いるのである。これは一種の共生関係であると、術士カジュなどは説明する。

 が、緋女にとって学術的説明など問題ではない。

 問題なのは、7匹の轢殺鬼に追われているというこの状況だ。

 この鬼たちは、荒野に根城を置きこの一帯を荒らしまわっている魔物の野盗団の一員である。商隊(キャラバン)を襲う、村から奪う、などという定番の悪事ならまだかわいい。勢力を増すにしたがって野盗団は凶悪化の一途をたどり、ついには、広大な穀倉地を根こそぎ焼き払う、一村の女をことごとく凌辱する、果ては捕らえた人間の皮を剥いで革製品を作るなど、極悪非道と呼ぶほかない有様となった。

 ついにベンズバレン王国の名門“祭剣騎士団”が討伐に名乗りを上げた、というのが先月の話。それに先駆け、“勇者の後始末人”緋女たちに現地調査の依頼が来た。仲間と手分けして荒野を探り回り、敵の拠点と戦力の詳細を調べ上げた。

 その帰り道でのことだった。近道しようと街道を外れ、荒野を突っ切るルートを選んだのが悪かった。くだんの野盗団にばったり出くわしてしまい、なし崩しに乱戦へ。囲まれては面倒と、駆け回って逃げながらなんとか4匹までは(たお)したものの、そろそろ疲れが見えてきた。圧倒的な走行速度の集団との機動戦が長引けば、さすがの緋女も息が切れてくる。

 その隙を狙って、轢殺鬼の一匹が奇声を上げながら突っ込んでくる。槍を振り回して勢い任せに叩きつけてくる。緋女がすんでのところで身をかがめ、槍の横薙ぎを潜り抜け、反撃の打ち込みをかけようとしたときには、敵はすでに遥か彼方。轢殺鬼の走行速度は、犬になった緋女の全速力にさえ匹敵する。

 ――やりづれー!! せめて壁みたいなもんでもありゃスピード殺せるのにっ!!

 と、地団駄を踏みたい気持ちになった緋女の目に、天の助けか、荒野にぽっこりと頭を出した大岩が見えた。

 あれだ! と緋女は犬に変身、轢殺鬼を引き連れ、盛大に砂を巻き上げながら大岩の下に駆け込んだ。すぐさま人間に戻り、岩を背にして刀を構える。この大岩、近づいてみればほとんど岩山というくらいの大きさがある。これを背負って戦えば、正面と背後の突撃は完全に殺せる。警戒すべきは側面のみになる。

 これなら、斬れる。

 目論み通り、轢殺鬼たちの追う脚が緩んだ。轢殺鬼たちがゆるゆると左右に往復しながら、遠巻きに緋女を囲む。攻撃の機会をうかがっているのだ。

 敵を鋭く睨みながら、緋女が気炎を吐く。

「いいぜ。どっからでもかかってこいや!」

 が。

 その直後だった。

 頭上――背後の岩山の上で、突然、殺気が湧き起こった。

 反射的に振り返り、上を見上げる。逆光を浴びて、岩山の上にずらり横並びになる轢殺鬼の影。その数10、20……いや、それ以上!

 緋女はようやく気付いた。轢殺鬼たちの(とき)の声は、仲間を呼ぶ合図だったのだと。この岩山に相手を誘い込んだのではない、自分の方が狩場に誘い込まれていたのだと。

 緋女は慌てた!

 ――やべー! まじやっべー!!

 轢殺鬼たちが手にした得物を振りかざし、ぞろぞろと岩山から飛び降りて来る。緋女は奥歯を噛み締め身構える。さすがに危ないかもしれないが……やるだけやってやる!

 一人目の棍棒を半身にかわして返しに小手斬り、背後からの槍突きは音で見切って首を刎ね、左右から同時に突っ込んできた斧二丁の薙ぎ払いは空中跳躍からの兜割りで叩き伏せる。

 しかし、着地のその一瞬を狙い、敵の中の如才ないひとりが、剣を振りかざして襲いかかってきた。

 ――避け……きれねえッ!

 と判断するや、緋女は無事に逃れようという()()を捨てた。

 ――痛いぞおおおおお! 歯ァ食いしばれ―――――ッ!!

 ズ!! と鈍い音が響き、緋女の左腕が切り落とされた!

 しかし緋女は止まらない。激痛を奥歯で噛み潰し、目にも止まらぬ反撃の太刀を繰り出す。敵の頸動脈を正確に切断、自分と敵の血しぶきを混ぜ合いながら切り抜ける。

 緋女は避けきれないと見た時点で、片腕を斬らせてでも敵の命を獲る動きに切り替えたのだ。腕一本くらい失くしても、街に帰ればカジュに治してもらえる。とはいえ、出血は避けようもないし不利にもなる。そもそも腕を切断する激痛と恐怖は並大抵のものではない。とっさにこの決断ができるあたりが、達人の達人たるゆえんである。

 緋女は雄叫びを上げて剣を構え直し、気合で痛みを吹き飛ばした。出血はなはだ酷く、膝は崩れ、手は剣を取り落としそうになる。しかし意識だけはしっかと保ち、不屈の闘志で敵を()めつける。

 修羅の如き壮絶な姿に、敵は怯んだ。が、それもひとときのこと。絶好の機会だと思いなおしたか、敵が一斉に飛びかかってくる。

 まさしく絶体絶命の危機。

 だが。

「上等ォ」

 緋女がにやりと口の端に笑みを浮かべる。

「かかって来いやァーッ!!」

 脂汗を散らして緋女が応戦せんとした、そのときだった。

 どん!!

 と、重い音が響いて、地面から()()()()()

 敵の武器はことごとくその“壁”に食い込み、あるいは弾かれた。緋女は目をしばたたかせる。

 その“壁”が、巨大な()()()()であることに気付いたのだ。

「うっるさいのォ……」

 地面を揺り動かすような声がする。

()()()()で何をしようるんじゃ!」

 ハ、と気付いて緋女はその場から逃げ出した。

 気付かなかった轢殺鬼たちは、まともに足をすくわれ、岩山から転がり落ちる。

 岩山が、()()()()()()()()

 大量の砂埃。巻き起こる轢殺鬼たちの悲鳴。ぽかーんと呆けて見上げる緋女。大混乱のただなかで、ズンと天を衝くほどに屹立したのは、巨人。岩石から削り出した超重量の大鎧を纏い、遥か頭上まで(そび)え立つその有様は、難攻不落の城塞と見まがうばかり。

 今まで岩山と思っていたのは、この巨人の身体だったのだ。

「おちおち昼寝もしておれんわい!!」

 その怒声はさながら雷鳴。巨人は、たじろぐ轢殺鬼たちをじろりと睨み、脇に退いていた緋女を巨眼で見降ろし、鼻の頭あたりを指先で掻く。

「そこのお嬢、これは、どういう状況かな?」

「あいつら、わるもの。あたし、狩人。いま、仕事中」

「フーム。わるものか」

 轢殺鬼の中でもとりわけ勇敢な1匹が、無謀にも巨人に殴りかかった。

 ぼこ。

 と間抜けた音がして、棍棒が巨人の肌に弾かれた。巨人は意にも解していない。鬼が車輪を逆回転させて後ずさる。巨人はすうっと目を細める――轢殺鬼たちの腰巻が人皮をなめしたものであるのに気づいたのだ。(さら)った人々の皮から作った、極悪非道の戦利品だ。

「どうも、そうらしい」

 巨人が、足元に横倒しに転がっていた鉄の柱を拾い上げた……いや、柱ではない。剣だ。ベンズバレン王城の大黒柱かと見まがうほどのあれが、鋼鉄製の、黒光りする、巨大と呼ぶのもおこがましいほどの、超巨大剣なのだ。

「ならば!!

 ゴル族の戦士“岩盤纏い”のゴルゴロドン! 義によって助太刀いたす!!」

 ご!!

 大剣の一振りで竜巻が起こる!

 巨人の戦士が咆哮しながら横薙ぎに振りぬいた大剣が、轢殺鬼を10人以上もまとめて飲み込み()()した。斬撃のあまりの破壊力のために、真っ二つどころか、身体が粉々に弾け飛んでしまうのだ。

 轢殺鬼たちは悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。そこを見逃す緋女ではない。とうの昔に鬼たちの退路に回り込んでいる。

「逃がさねーぞォ。オラァ!!」

 太刀が閃き、轢殺鬼の3、4匹ばかりがあっという間に切り伏せられた。混乱し連携を失った敵の中を、緋女は右へ左へ駆け回り、手早く各個撃破していく。先ほどまでの苦戦が嘘のようにあっさりしたものだが、勝負というのは、機を掴んでしまえばこんなものである。

 片腕を失ってなお疾風の如く駆け抜ける緋女を見下ろして、巨人が感嘆の溜息を吐く。

「おおっ、これは良い剣士だ」

 負けていられぬ、とばかりに巨人が二度目の薙ぎ払いを仕掛け、また鬼の()()()()()()ほどを平らげて、振り抜いた剣を肩の上へ「よっこらしょ」と構えなおした時には、もう決着はついていた。あらかたの鬼は巨人の剣で粉微塵にされ、他の者も緋女の刃の露と消えたのだ。

 戦い終わり、巨人と緋女が視線を交わす。剣士同士、胸に相通ずるものがあった。

「お嬢、いい腕をしておるな。助太刀、いらなかったかのォ」

「んーん! 助かったよ、ありがと! お前強えな!」

「ヌフハ!」

 緋女の肌がビリビリ震える。これが巨人の快笑なのだ。

「これは快い出会いだ。

 お、一首浮かんだぞ!

 

 ひとり寝の 夢から覚めたら いい出会い

 寝過ごしたのも これで帳消し

 

 ――どうだ!?」

「んー? わかんない!」

「んん? わからぬか。うん、それもまた()し! ヌフッ、ヌフハハハハハ!!」

 

 

(つづく)

 



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第12話‐02 朝ぼらけの詩

 

 巨人ゴルゴロドンは、傷ついた緋女を家まで送ろうと申し出てくれ、緋女もまた、ウチで飯でも食べていってよ、なんて誘ったものだから、第2ベンズバレンの街は大混乱。

 なにせ屋根より高いこの背丈である。城門をくぐるのは(はな)から無理。城壁を乗り越えることは可能だが体重で壁を崩してしまう。それでとった手段が、河を渡って東側の港から上陸すること。一番深いところでも胸のあたりまで濡れた程度で足が付いてしまうのだから、堀の役目もあったものではない。

 上陸したらしたで大騒ぎである。第四通りの後始末人ヴィッシュの家の、となりの空き地に巨人が腰を落ち着け呑み始めると、見物人がどうと押し寄せ、存外愛想がよい巨人ゴルゴロドンからお流れの杯が振舞われ、なし崩し的に酒盛りが始まり、歌が始まり踊りが始まり、果ては出店が営業を始める始末。もう完全に通りを挙げてのお祭りである。

 当然のごとく役人が兵隊引き連れ問い(ただ)してきた。その巨人は魔物ではないのか、と。言い分至極もっとも。危うく剣呑な空気になりかけたが、

「ちょっとデカく育ちすぎただけのひとです。」

 という、カジュ()()()説得によって事なきを得た。

 なにしろカジュの天才ぶりは、今やこの街でも有名である。あのセレン魔法学園の副校長を唸らせたとか。この若さで歴史に名を残す大発見を成し遂げたのだとか。その偉い学者先生が言うんならそうなんだろう、ということで収まった。そんなわけない。

「ヌフ! わりと柔軟(ファジィ)な街だのう」

「適当でいいよなー」

 ヴィッシュの家の隣の空き地に向かい合って胡坐(あぐら)をかき、上機嫌に酒を酌み交わすゴルゴロドンと緋女。実際、緋女が犬に変身することも、もうこの街の住人は誰ひとり気にしていないのだ。もとが流れ者でできた街だからだろうか、異物もすっと受け流してしまうようだ。

 緋女は左手で杯を傾け――彼女の腕はカジュの魔法でもう治されている――中身が空だと気付くと、母屋の窓に向かって声を張り上げる。

「ねー! ヴィッシュ、ごはんもっとー!」

 眉間に皺を寄せているのは、母屋の台所に立つヴィッシュである。木窓のところにのし歩いていき、今や大宴会場と化した空き地を睨む。酔っ払いどもの真ん中で、緋女はもうべろんべろんになっている。

「冗談じゃねえ! 備蓄の食糧ぜんぶ食い尽くす気か!?」

 なにしろ迎えた客が巨人。胡坐をかいてなお、頭が3階建ての屋根に届いているほどの身長。食べる量も飲む量も生半可なものではない。ヴィッシュが懸命に料理しても、ゴルゴロドンにとってはほんの一口なのだ。

 その一口を、ゴルゴロドンはチョンと指先で口に入れ、地鳴りのような唸り声をあげる。

「ウーム。貴公、料理人なのか?」

「狩人だ。料理はただの趣味だよ」

「なんと! 趣味でこの腕前とは! 実に、うまい!」

「おう?」

「かつてリネットで高名な宮廷料理人フランソワの料理を食べる機会があったが……あの味に優るとも劣らぬ! いや全く見事なものだ。ゴル族の戦士ゴルゴロドン、まこと感服つかまつった!」

「へえ、そうかい」

 とヴィッシュは鼻を鳴らした。物欲しげに空いた杯をくわえた緋女を指さして、

「おとなしく待ってろ。もうすぐ次が焼きあがる」

 それから奥に引っ込んで、鼻歌など歌いだすのだから分かりやすい。宴会場でおこぼれにあずかっていたカジュは呆れ顔。

「ちょろい……。」

「それな」

「ヌフハハハ!」

 そこに焼き上がりを知らせるヴィッシュの声。

「カジュ! 皿持ってこーい!」

「ほいほい。」

 空き皿の2、3枚を拾い上げて、カジュが酔っ払いを掻き分け家に戻っていく。

 その背を微笑ましく見下ろしながら、ゴルゴロドンはちょいとお猪口(ちょこ)を――その実、ヴィッシュの家で水くみに使っている壺である――傾け、心地よさげに目を細める。

「お嬢、楽しい仲間を持っておるなあ」

「そうだね。あっちこっち旅してきたけど、なーんか最近、居心地よくってさー……」

 ごろり、と緋女は大の字になった。地面から巨人の顔を見上げ、問いかける。

「ね。お前、どこから来たの?」

「ドラグロアだ。魔王戦争のころ、たまたま王と姫君の行列を魔王軍からお守りしたことがあってな。こんなでくのぼうに、騎士の位をくださったのだ。(ヴルム)だの鬼だのを相手にずいぶん戦ったものだった。

 しかし戦争が終わると、どうもこの、大きすぎる身体が疎まれるようになってなあ。なにせ100人前は食うものだから。

 だんだん居づらくなってきたので、ふらっと(いとま)を頂戴してしまったのだ。それからは特にあてもなく、勝手気ままな浮雲暮らしよ。

 なあに、ドラグロアに恨みはないのだ。王は良くしてくださったし、別れを惜しんでくれる友もいたしな。しかしまあ……なんというか……戦がなければ、戦士なぞは無駄飯喰らいよ。わしの方でいたたまれなくなってなあ」

 と、遠い目。

 緋女がゴルゴロドンの膝に手を触れる。

「新しい居場所を探してるんだ?」

「ん?」

 ゴルゴロドンが目を丸くする。

「いや」

 2、3度口をぱくつかせ、

「うむ……」

 気まずそうに頭をぞろりと撫で、観念して苦笑する。

「まあ……そんなところだ。

 それよりお嬢の話を聞きたいのォ! あの剣は穿天流の分派と見たぞ。荒ぶる鬼神のようでいて、その実一片の無駄もないきれいな重心移動だった。もういっぺん見せてくれぬかのォ!」

「よしゃ! 見とけよ見とけよー、こだっ!」

 背筋のバネだけで跳び起きて、足捌きを実演してみせる緋女。そのしなやかな筋肉の、引き締まっては緩み、緩んでは絞られ、柔に剛にと千変万化するさまの美しいこと、さながら片時も姿をとどめぬ炎のよう。

 ゴルゴロドンは背中を曲げてカタツムリのように丸まって、地面に頬を擦り付けながら緋女の動きを観察する。

「ウウーム……()い!!

 そうか。踏み出しの前に、既に身体の芯は動き出しておるのだな。おおっ、鮮やか鮮やか!」

「お前の薙ぎ払いも、アレやばいよな。あんなデカい剣あんな速度で振れるの、あれ筋力じゃねーよな?」

「おっ! 分かるかね? 嬉しいのう! しからば型を披露して進ぜよう。あー諸君、酒宴中悪いがちょいと場所を空けて……そうそう。ではゆくぞ! こうしてな……こうだ! ここでおへその下あたりをグッと固めるのがコツだ」

「こう?」

「もう少し脚がこう!」

「こうか!」

「さよう!」

「すげえ速い下段。これ怖いな」

「なにぶん身長が高いのでな、たいていの相手は下におるのだ。人間同士でなら相手の踏み込みに()(せん)取るのに使えるぞ。それからな、それからな、たとえばこういう型ならば……」

 剣術談義は大盛り上がり。達人ふたりが目の前で見せてくれる演武に衆人はやんやの大喝采。誰からともなく我も我もと参加者が増え、いつのまにか緋女とゴルゴロドンの剣術教室が始まった。なにしろ荒っぽい港町のこと、喧嘩の腕を磨きたいという血の気の多い若衆はいくらでもいる。

「何この状況。」

 と茫然立ち尽くすのは、焼き肉の皿を持ってきたカジュ。周囲の酔いどれどもが彼女の小さな手に棒切れを握らせてやり、

「やってみ、やってみ」

 と囃し立てる。

「なんでだよ。えいっ。」

 つっこみながらも見様見真似で大上段から素振りを披露するカジュ。その一生懸命なたどたどしい動きに、周りみんなで大拍手。

「「カジュちゃんかわいーい!」」

「あたりまえだ。」

「何やってんだ?」

 続いて眉をひそめるのは、酒瓶を抱えてきたヴィッシュ。もちろん緋女が無理やり剣を押し付ける。

「おらー!! ヴィッシュくんのー! かっこいいとこ見てみたいー!! シュヴェーア剣術いってみー! はい、雄牛の構えーっ!!」

「ムッ!」

「あもう全然ダメ」

 バキッ、と緋女が棒を一振り、容易くヴィッシュの構えを崩す。がら空きになった胸に緋女が飛び込んで行って、力いっぱい抱き締める。ほおずりまでしてしまうくらいだから、酒が緋女の自制心をすっかり奪いきっている。

「切先ブレてるんだよー♡ だから懐に入られるー♡」

「うるせえよ……お、おい、離れろよ」

「やーだーよー♡」

「うっとうしいので《大爆風》。」

 炸裂した風の爆発が、宴会場の全てを吹き飛ばした。その一部始終を眺めながら、巨人ゴルゴロドンは祭り太鼓の轟くようにして呵々大笑しているのだった。

 

 

   *

 

 

 その夜。

 陽が沈むと、てんやわんやの宴会も潮の引くように静まって行った。出店も片付けられ、人々もねぐらへ帰り、空き地や路上には酔い潰れたのんだくれが10人ばかり転がるのみとなった。その中には酔い潰れたヴィッシュやカジュの姿もある。

「みんなだけ先に酔っちゃってさァ」

 緋女は口を尖らせて、杯の酒をズルリと啜る。彼女の胡坐を枕にしているカジュの頭を撫でてやる。不明瞭な寝言を漏らして、カジュが夢の中で笑っている。

「いつもちょっと寂しいんだよな。最後、あたしひとりだもん」

「強者の孤独か。酒も剣も同じよな」

 頭の上から巨人ゴルゴロドンの声がする。見上げてみると、ゴルゴロドンがくだんの壺から酒をちびちびやっていた。緋女が(つぼみ)の解け花開くように破顔する。

「今日は寂しくないよ」

「ヌフッ。わしもだ。礼を言うぞ。ほんとうに旨かった。そして楽しかった。

 ……望外の思い出を得たよ」

「ね。お前さ、狩人、やってみない?」

「ほう?」

「お金、稼げるし。けっこう楽しいよ」

「この身体だしなあ。受け入れてもらえるかな?」

「だいじょうぶだよ。ヴィッシュに『おねがい?』って言うし」

「んん?」

「『なんとかして?』って」

「ヌフ! 頼りにしておるのだな」

「こいつが『まあ見てな』って言うとね、いっつも、なんとかなるんだよ」

 実際のところ、魔王戦争が終わって居場所を失くした兵隊に、後始末人はちょうどいい稼業である。

 なにせ魔王軍の勢いはすさまじいものであったから、通常の軍備ではとても対抗しきれず、どこの国もにわかな増員を余儀なくされた。しかし勇者に魔王が倒され平和が戻ってみれば、それほどの軍勢を維持する余力がない。必然的に失業した元兵士が溢れる。故郷に戻って畑仕事ができる者はまだ良かったが、戻る故郷さえ失くした者や、潰しの利かない身体になってしまった者も少なくなかった。

 裏の荒事屋や野盗に身をやつす退役兵がごまんといる中で、後始末人という仕事は彼らの大きな受け皿となった。切った張ったしか能がない荒くれ者が、辛うじて社会と折り合いをつけるための、貴重な手段のひとつなのだ。

 巨人ゴルゴロドンは顎を撫でた。真剣に迷っているのがありありと見て取れた。

「魅力的な提案だのォ……

 しかし……

 ウム。わしには、ちょいと、やらねばならぬことがあってなあ」

「そっかあ」

「ありがとうよ、お嬢。おぬしの厚意は、ありがたく受け取っておくよ。

 ……ああ、いかん。もう、いかん。

 なあ、お嬢。初めておぬしを見たときから、こう……むらむらと、湧き上がる衝動があるのだ。もう辛抱たまらんのだ」

 ドン、とゴルゴロドンは胡坐の両ひざに手をついた。

 緋女が口の端に笑みを浮かべる。

「オメーもかよ。実は……あたしもなんだ」

「これは奇遇な。ではふたり同時に言ってみようか?」

「名案」

「しからば」

 巨人、立つ。

「一太刀の!」

 緋女、受けて立つ。

「手合わせを!」

 ふたりの剣気が天を撃つ。

「「所望する!!」」

 互いを真剣の間合いに捉え、ふたりは夜の街に対峙した。

 ゴルゴロドンは低く唸った。大上段に構えた巨大剣、これをかすらせでもすれば彼の勝ちだ。なのにそこへ至る勝ち筋が見えない。振り下ろせばかわされ脚の腱を斬られる。フェイントをかければ見切られ懐に飛び込まれる。蹴りで攻める奇手はかえってこちらの体勢を崩されよう。

 ――想像以上よ。なんたる業前(わざまえ)

 緋女の額にもまた脂汗が浮かんだ。下段に降ろした自慢の太刀、一撃で命を獲る自信はある。だが相手には隙が無い。これほど巨大な身体の脚にも、脇腹にも、小手にも、針を通すほどの油断もない。打てば先を取られる。つまり死ぬ。

 ――やべーわコイツ。めちゃくちゃ強え!

 こう攻めれば、ああ取られる。ああ捌けば、そう来る。脳内でふたりは激しく剣戟を交わし、絶え間なく殺し、殺され、斬っては斬られ、斬られては斬り、数千の勝敗を分かち合った。それは会話であった。お互い剣の至境に達した者同士でなければ交わしえぬ言葉による、深く愉しい語らいだったのだ。

 呼吸(いき)が止まる。

 見つめ合う。

 夜風が過ぎる。

 月光が、刃に明々映える。

 長い長い対峙の末に、ゴルゴロドンは胸の息を心地よく吐き出し、剣を下ろした。

「フゥー……良い、立ち合いであった」

 緋女も肩の力を抜いて太刀を収める。

「はぁー……いや、まじでな」

「さぁーて! 疲れたら眠くなったのう」

「あたしもー」

「ここらで眠らせてもらおうよ」

「だいじょうぶ? こんな狭いところで寝られる?」

「なあに、慣れている。こうしてな、膝を丸めて横になれば、どこでも寝られるのだ。城ではいつもこうしていたものだ。おやすみ、お嬢……」

 ゴルゴロドンは横になるなり、すうすうと穏やかな寝息を立て始めた。まるで乙女のように品のいい眠り方。この寝方といい、穏やかな酒の飲み方といい、型を大事にした剣捌きといい、確かに身体は常人離れして大きいかもしれないが、見かけによらず繊細な男なのだ。

「おやすみ、ゴルゴロドン」

 緋女はカジュのそばに寄って行き、彼女を包み込むように抱いて一緒の毛布にくるまり、ほどなく眠りに落ちた。

 

 

 翌朝、緋女が目を覚ました時には、もうゴルゴロドンは消えていた。

 少し遅れてヴィッシュが目を覚ますと、緋女がひとり、毛布を手からぶらさげて、空き地の真ん中にぼんやりと立ち尽くしている。

「おはよう。巨人の旦那は?」

「これ読んで」

「これって?」

 緋女が脚元を指さす。

 そこでやっとヴィッシュは気付いた。緋女の隣に並んで立ち、地面を見降ろす。

 土を削り、空き地いっぱいに、別れの詩が刻まれていた。

 

 朝ぼらけ 君の寝顔に さようなら

 さえずる鳥に しぃっと指立て

 

「とぼけた詩だぜ」

 と苦笑するヴィッシュに、

「腹減った」

 と緋女。

「朝ごはん」

「手伝え」

「おう」

 ヴィッシュは家に戻っていく。緋女も後に続いたが、なにか後ろ髪を引かれる気がして、空き地の詩をかえりみる。

「愉しかったよ。今度会ったら、またやろうな」

 

 

(つづく)

 



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第12話-03 野盗団討伐

 

 

 結論から言えば、緋女のこの願いは、彼女が望んだのとは全く異なる形で叶ってしまうことになる。

 緋女たちの乱痴気騒ぎから、2日後。

 無制限街道からやや外れた荒野の一角に、ぱっくりと口を開いた巨大な地溝帯がある。“大喰らいの喉口”――遥か神代に起きた神々と力ある九頭竜(パワー・ナイン)との戦争でついた傷跡と言い伝えられるこの亀裂は、険しい地形が災いして踏み入る者もなく、今では魔獣や魔族、野盗どもの格好の隠れ家と化していた。

 その奥に、ひとりの、傷を負った魔族の姿があった。

「死ぬものか……死んでたまるか……」

 魔族は伏したまま、竹で組んだ粗雑な寝床の縁を軋むほどに握りしめた。過日の戦いで切り落とされた左腕の切り口が、痛烈に疼いた。射貫かれ潰れた右の眼球が、高熱を発して絶え間なく彼の脳を苛み続けた。

 彼の命は尽き果てようとしていた。それでも必死に生にしがみついている。全てはただ、

「復讐だ! 私は人間どもに……復讐を果たすのだッ!!」

 この一念のためだけに。

 魔王が勇者に倒された後、補給も退路も失った魔王軍は、絶え間なく襲い来る残党狩りに必死で抗いながら、地を這いずり、泥を啜り、時に仲間の血肉さえ糧にして――比喩ではない、文字通りだ!――生き延びてきた。彼はその生き残り。最後のひとりだ。

 今では彼は、魔獣や鬼を率いる野盗団の頭目。頭目などと言えば聞こえはいいが、周囲にいるのは野蛮な獣ばかり。住処は荒野の崖の横穴。食うものも食えず、愉しみも将来への希望もなく、傷ついたとて治療のあてさえない、最悪のその日暮らしだ。

 それでも彼は耐えてきた。生き抜いてきた。どんな悪逆非道も厭わなかった。村を焼いて奪い、子供を殺して食い、年端もいかぬ少女を攫って部下どもの慰みものとしてきた。それがどうした。生きねばならぬ!!

 彼の名は、ムードウ。

 戦時中には“刃糸吐き(ブレイドスピナー)”ムードウと恐れられた術戦士である。

「まだか! あの男はまだなのか! 報告を!」

 ムードウは熱に浮かされながら、朦朧とした意識の中で部下たちに絶叫した。配下の小鬼(ゴブリン)が醜い身体を跳ねさせながら駆けてくる。ムードウに仕える小間使い、名前は小蝿(コバエ)。コバエは小鬼(ゴブリン)の中では飛びぬけて知能が高く、簡単な言葉を話せるうえ、命令を30分も覚えておくことができるので、ムードウは重宝して側に置いているいるのだった。

「コバエ。あの男は来たか」

「来ねえ、だんな。来た、ほかの」

「他だと?」

「ほか()()

 ぞっとムードウの背筋に悪寒が走った。萎えた四肢を奮い立たせ、洞窟の壁に縋りつきながら外に出る。そこは深い地溝の絶壁。崖面にはいくつもの横穴が開いており、その入り口が、藁のように頼りない足場や梯子で辛うじて繋がれている。何年もかけ、頭の悪い鬼どもを指揮して、苦労して造った野盗団の根城だ。

 その根城の上に、普段と違う形の影が差すのに気付き、ムードウは崖上を見上げた。

 ムードウの目が裂けんばかりに見開かれる。

 崖の上から、じっとこちらを見下ろす影がある。

 ひとつやふたつではない。ずらり並んだその数、ゆうに百を超える。鎧が鳴る。馬がいななく。ムードウはよろめき、崩れ落ちる。

「騎士団だッ!!」

 その声を号令にしたかのように、騎士団が矢の雨を降らせてくる。ムードウは這いずって横穴の奥へ逃げ込む。飛()が唸り声をあげて襲い掛かり、ろくに身構えもしていなかった鬼や魔獣を針山のような姿に変えていく。

 ムードウは全く気付いていなかった。ここ半月ほど、後始末人たちが――ヴィッシュのチームである――この近辺を嗅ぎまわっていたことに。

 彼ら後始末人は、野盗団を退治して功を立てんと意気込む若き騎士団に依頼され、根城の位置を探っていたのだ。数日前にはもうこの根城は発見されており、満を持して騎士団の出撃となったのだ。いささか特殊な依頼ではあるが、自分で魔物を狩るばかりが後始末人ではないというわけだ。

 そんな事情を知らぬムードウにとっては青天の霹靂。

 ろくに動かぬ身体を引きずって、ムードウは横穴の中に逃げ戻った。寝床の前を横切り、さらに奥の隠し扉を開く。この先に、万一のために作っておいた外への抜け穴がある。今は逃げるしかない。

 だが。

 抜け穴の角を曲がったところで、ムードウは恐怖のために凍り付いた。

「あっ」

 と間の抜けた声を上げたのは、敵兵! 鉢合わせとなったのだ。

「“刃糸吐き(ブレイドスピナー)”だ!」

 敵が恐怖に駆られて叫ぶ。

 ムードウは咄嗟に術式を編んだ。驚くべきことに、死にかけていたはずの肉体と頭脳は全盛期を思わせる機敏さで反応し、4条の極細超硬ワイヤーを手首から打ち出した。ワイヤーは彼の舞うような動きに従って敵兵の首や胴に絡みつき、一息に引き絞られるや、敵の身体を切断した。

 これがムードウの二つ名の由来。肉眼ではほとんど見えないワイヤーの刃を魔術と体術で操り、相手の肉体を切り刻む技。

 敵兵から血が噴出する。血の噴水を浴びながらムードウは膝をつく。体が震える。今の一瞬の攻撃は、突如訪れた極度の緊張が、一時的に肉体の機能を蘇らせたに過ぎないらしい。

「いまの聞いたか?」

「こっちだ、気を付けろ!」

 奥からさらなる敵兵の話し声が聞こえてくる。

 ムードウは喘ぎながら引き返し始めた。敵は、最後の手段として備えておいた秘密の脱出路まで発見していたのだ。無論、ヴィッシュの仕事である。さすがにそつがない……ムードウにとっては最悪の事態だ。

 ムードウは元の寝室に戻り、そこで、はたと立ち止まった。

 ――逃げてどうなる? 表は表で戦場だ。

 聞こえる。騎士団が野盗団を蹂躙する音が。剣戟の響きと、悲鳴と、喊声。

 ムードウはその場に座り込んだ。気が遠くなる。四肢が萎えていく。もういい、眠ってしまえ。復讐も延命も、もうどうでもよい。死ねばいい。死んでしまえば楽になるのだ――

 

 

 少しして目が覚めた。

 穴の中に、耳障りなコバエの大騒ぎが反響している。ムードウは眉をひそめた。自分は死んだのか? いや、そうではないらしい。外から歓声が聞こえてくる。人間の声ではない、魔獣たちの雄叫びだ。ムードウの手下たちが喚いているのだ。

 おかしい。騎士団の襲撃を受け、野盗団は壊滅するはずではなかったのか? それがなぜ、ああして騒いでいられる?

 ぼんやりとした興味を覚え、ムードウはよろめきながら立ち上がった。穴の入口へ向かう。太陽の光が目を差すように降り注ぐ。

 痛烈な逆光の中に、巨大な黒い影を、ムードウは見た。

 ムードウの目から涙が零れる。

 崩れ落ちて跪く。

 手がひとりでに、神を称える印を結んだ。

「来て……くれたのか」

「遅くなってすまぬな、友よ!!」

 雷鳴の如く巨人が叫んだ。

「一日千秋の思いで待っていたぞ」

 感涙にむせびムードウが応えた。

「我が生涯の友、“岩盤纏い”のゴルゴロドンよ!!」

 屹立する巨人ゴルゴロドンの足元は、騎士団の血肉で赤一色に染まっていた。

 

 

   *

 

 

「祭剣騎士団が全滅!?」

 ヴィッシュは驚きのあまり手の中の卵を握りつぶしてしまった。手を拭きながら台所を出、居間のコバヤシに寄って行く。コバヤシは物憂げに首を振り、聞き間違いでも勘違いでもないことを保証した。

「生還者は1割にも満たず、団長も戦死。組織としては再起不能でしょう」

「そんな馬鹿な話があるか。拠点の構造も敵の戦力も完全に調べたし、数の上でも圧倒してる。顧客サービスで戦術案のアドバイスまでしてやったはずだ。負ける要素がどこにある?」

「皆さんの仕事に遺漏はないんですよ。ただ、敵方に想定外の増援がありまして。

 生き残った兵の話によれば、岩の鎧に身を包んだ、巨人の戦士、だとか」

 二度目の衝撃。

 背後に気配を感じてヴィッシュは振り返った。ちょうど階段を下りてきた緋女が、目を丸々と見開き、唇を一文字に結んでいる。かける言葉を見つけるより早く、緋女がこちらに迫ってくる。

 一歩足を踏み出すごとに、怒りの炎が、(おこ)り、膨らみ、爆裂する。

「なにそれ。なんだよ。なんだってんだッ!!」

「落ち着け緋女。俺にも分からん」

()()()が魔族の味方をしたってのか!?」

 そのとき、緋女の脳裏にふと、巨人ゴルゴロドンの言葉が蘇った。後始末人にならないかと誘った時、彼はこう答えた――『やらねばならぬことがある』と。それが魔族の野盗団に加勢することだったのだろうか。

 一方、コバヤシはヴィッシュの側に寄り、耳打ちする。

「先日のお祭り騒ぎは知れ渡っています。一朝(いっちょう)(こと)あるたびに()()()()に熱中するような方々にもね」

「俺たちが魔族と通じている、か?」

「既にそんな話が出始めています。この疑念を払拭するには……」

「俺らで始末をつけるしかない……な」

 なにしろ祭剣騎士団の依頼を受けて敵勢調査を行ったのも、敵に加勢した巨人と楽しく酒盛りしていたのもヴィッシュたちだ。何か災害が起きるごとに原因と責任の押し付け先を探し回るような手合いはいくらでもいる。そいつらにしてみれば、ならず者同然の後始末人なぞは格好の標的、手ごろな娯楽というところだろう。

 放置しておけばこの街にいられなくなる可能性もある。対処するしかない、のだが。

 ちら、と緋女を見れば、彼女の目は既に炎の如く燃えていた。

「すぐ出るだろ。カジュ連れて来るわ」

「大丈夫か?」

「平気」

 と言いながら緋女が階段の柱を掴むと、恐るべき握力のために柱が軋みだす。

「あいつに直接聞く。あたしたちを騙したのか。ほんとは悪い奴だったのか」

 静かな声色の奥で、炎は確かに赤熱している。焼けた黒炭が灰の中で恐るべき熱を保ち続けるように。

 緋女は階段を上って行ってしまった。ヴィッシュは歯噛みする。今は何を言っても逆効果だろう。下手なアドバイスは彼女を混乱させてしまうだけだ。戦場においては些細な精神の混乱が死に直結する。

 だから言えない。しかしヴィッシュには、未来に待つであろう困難な問いが既に見えていた。

 ――騙されてたなら簡単だ。斬ってしまえばそれでいい。

   だが、もしも彼が()()だったら……一体どうする気なんだ、緋女?

 

 

(つづく)

 



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第12話-04 狩り

 

 

 ムードウは騎士団撃退に成功するなり、野盗団を率いてその場を離れた。ひとまず勝利したとはいえ、今の根城は損傷が激しく内部の構造も完全に暴かれていると考えてよい。このまま留まれば第2次攻撃に耐えるのは難しい。

 彼らが目指したのは、北の谷合にある第2の拠点である。そこは左右を切り立った崖に挟まれた天然の要害で、出入り口は前後の2か所のみ。そこに柵を立ててあるから、いかなる大軍にも攻め寄せられるものではない。

 仲間の数が増えたとき、野盗団を2つに分け、この新しい根城を作ったのだ。もともとは街道の異なる地点を襲いやすくするための工夫だったが、思わぬところで役に立った。第2拠点に合流すれば兵力も補充できるし、当面の蓄えもある。

 ろくろく休憩もしないままの強行軍の末、その日の夜半には第2拠点へとたどり着いた。着いた時には手下の鬼たちもさすがに疲労困憊し、そこらじゅうに座り込んでしまい、狭い谷間が鬼たちで埋め尽くされるような有様だった。

 くたびれきった手下たちを見回し、ムードウはコバエを呼びつけた。

「コバエ。酒をふるまえ。肉も出せ」

「わかる。たべる?」

「そうだ。お前もたっぷり食え!」

 コバエはギャッギャと歓喜の奇声を発しながら飛んでいき、そこらの大鬼2、3匹の背中に蹴りをかまして立ち上がらせ、食糧庫へ引き連れて行った。連れて行ったというよりも、大鬼のほうが蹴られた仕返しをしようと追いかけているのだが、追いかけ回しているうちにいつのまにか食糧庫に誘導されており、気が付いた時には荷を背負わされているのだった。

 このあたりのコバエの巧みな手腕は、いっそ魔術的とさえ言える。

 貴重な酒と肉の在庫が放出され、野盗たちの大宴会が始まった。ムードウが音頭を取って(とき)の声を上げさせ、鬼どもが訳も分からず唱和する。あちらで笑い声が起こり、こちらで喧嘩が始まり、コバエはその足元をちょろちょろ駆け回り、あちらこちらの皿から食いかけや飲みかけを器用にちょろまかしていく。

 根城の中の喧噪を嫌ってか、巨人ゴルゴロドンは、柵の外の広場に胡坐をかいていた。彼の膝の影には、地面に座り込んで苦しげに喘いでいるムードウの姿もある。

「大丈夫か。傷が痛むのだろう」

「なあに、これしき……」

「おぬしが一番傷ついていただろうに、よくここまで歩きとおしたものだ。そのうえなぜ宴会なのだ?」

「鬼どもに大義はない。ただ、飯と酒への期待と、暴力への恐怖で従っているだけだ。死の恐怖にさらされ敗走した鬼たちをそのままにしておけば、明日の朝にはみな散り散りになっている。今夜のうちに餌を与えておかねばならないのさ……」

 ムードウが脂汗まみれの顔を上げ、ゴルゴロドンに向かって悲痛な苦笑を見せる。

「それに弱った姿も見せられん。つけあがらせてしまうからな」

「難儀なことよ……気苦労が多いな、友よ」

「それも今日までだ。ゴルゴロドンよ、お前が味方についてくれれば文字通り千人力だ。たとえベンズバレン中央軍が攻めてこようが後れを取るものではない」

「さて……」

「謙遜するな。騎士団ひとつを独力で蹴散らしたお前じゃないか」

「人間を甘く見てはならぬ」

 断固とした口ぶり。ムードウは戸惑った。そういえば、あの酒好きのゴルゴロドンが、今は一滴も飲んでいない。なぜだ? 酔っぱらって技が鈍るのを恐れているのか? 彼がそうまで調子を整えねばならないほどの戦いを予感しているというのか?

「よしてくれ。ドラグロアでの武勇伝だって聞いているぞ。魔王軍四天王最強と名高い“武勇の(ヴルム)”様と対等に渡り合ったそうだな。そのお前が……?」

「ああ。怯えておるよ」

「一体誰に?」

 ゴルゴロドンが拳を握る。筋肉の軋む音がムードウにまで聞こえてくる。

「“勇者の後始末人”――あれは、強いぞ」

 と、そのときだった。

 突然の爆発が夜空に紅蓮の花を咲かせ、野盗団の根城をあたりの山ごと震撼させた。

 ――なんだ!?

 とムードウが立ち上がって叫ぶよりも早く、さらなる爆発。爆発。爆発! 大混乱に陥った鬼たちの咆哮が響く中、派手な爆発に紛れ、ズッ、と鈍い音が聞こえてきた。ムードウが青ざめる。()の狙いが読めた。これは岩山に発破をかけたときの音だ。

 気付いた時にはもう遅い。谷間の根城の頭上で崖が崩壊。巨岩が雨あられと降り注ぎ、根城の入り口を塞いでしまう。

 間一髪で外に逃げ出してきた鬼は僅か10名足らず。それに向かって、ムードウは戦慄を押し殺しながらわめいた。

「誰か見た者はいないか!? どれほどの大軍が攻めてきたのだ!?」

「大軍などであるものか。敵はおそらく……3人だな」

 ゴルゴロドンは冷静に言うと、巨大剣を手に取り立ち上がった。

「慌てるな、友よ。残った手勢をまとめ、落ち着かせるのだ。

 闇夜の奇襲、対手(たいしゅ)は寡勢。浮足立てば同士討ちになるぞ!」

 

 

   *

 

 

「……と、冷静に指揮されたら台無しだ。よってあらかじめ分断する!」

 爆破作業を終えたヴィッシュは崖の上に膝をつき、野盗団の混乱を見下ろしていた。

 第2ベンズバレンを発して野盗団の第2拠点――無論、先の調査でこちらも把握済み――に到着するまで丸一日近く。その間にヴィッシュは攻略の策を立てておいた。道すがら仲間たちに説明したところは、こうである。

「ゴルゴロドンはあれだけの巨体だ。身を落ち着けられる場所は限られている。まず東西いずれかの入り口の外、広場となっているあたりとみて間違いない。

 これを野盗団本隊と切り離すため、まずカジュの法撃で敵を混乱させ、その隙にゴルゴロドンがいる側の崖を爆破して道を寸断。巨人の参戦を阻んだところで、連携を欠いた敵陣のド真ん中にウチの主力を放り込む」

 ヴィッシュは片耳を手のひらで塞ぎ、カジュの《遠話》を経由して指令を飛ばした。

緋女(しゅりょく)投入だ。暴れてこい!」

 

 

「オォォォォォラァッ!!」

 雄叫び上げつつ敵の頭上から飛び込んだ緋女、その太刀が篝火に赤く煌めいた、かと思えば鬼3匹の首が飛ぶ。突如の血しぶき。浮足立つ鬼ども。思い思いの得物を手に挑みかかってくるそれらの腕を、脚を、あるいは胴を、すれ違いざまの刃が縦に横にと斬り落としていく。

「次!」

 怒れる緋女の挑発を受けてか、谷間の奥から鬼の群れが姿を現す。手には棍棒、足元には車輪。先日緋女を大いに苦しめた、あの轢殺鬼の部隊だ。10を超す轢殺鬼が矢のように疾走して迫りくる。緋女にとっては相性の悪い敵。

 だが、今日は仲間がいる。

「カジュ!」

 《風の翼》で敵陣上空を飛行していたカジュから、見事なタイミングで支援の術が飛んだ。

「ほいきた。《でこぼこ》。」

 緋女の周囲の足元で、突如、土が盛り上がり、あるいはへこみ、まさに《でこぼこ》に変形した。

 不整地を平らに(なら)す《整地》という土木工事用の術があるのだが、カジュはそれをちょちょいと改造して、術の作用を正反対にひっくり返したのだ。結果として出来上がった新術は足場をちょっと悪くするだけのものに過ぎないが、この状況では効果抜群。

 移動を車輪に頼る鬼たちは、突然生じた凹凸に足を取られ速度を落とさざるを得なくなる。それはごく僅かな減速だったが――緋女にとっては僅かで充分。

 緋女が飛ぶ。鬼を斬る。慌てて退散せんとした別の鬼に、疾風の如く駆け寄り、斬る。この足場でなら緋女の方が速いのだ。

 後続の轢殺鬼たちが予想だにしない事態にたじろぐ。そこに緋女が獣の咆哮を上げて突っ込んでいく。体勢を立て直す暇さえ与えない。斬る。引き裂く。叩き潰す。当たるを幸い薙ぎ倒し、みるみるうちに死体の山を築いていく。

 逃げ足さえ封じてしまえば、轢殺鬼などはもとより緋女の敵ではない。壊滅は時間の問題である。

 このとき、頭の回る小鬼(ゴブリン)が3匹ばかり、緋女の背中に弓矢の狙いを付けていた。緋女は――目の前の敵に心を奪われ、後ろの殺気に気付いていない!

「うつぞっ、うつぞっ」

「きづいてないぞっ」

 楽しげにひそひそ囁き合ってる小鬼(ゴブリン)たち。

「お前らもな」

 背後からかかった声に、小鬼(ゴブリン)たちが一斉に振り返る。

 ヴィッシュ!

 彼の片手剣が素早く左右に閃き、小鬼(ゴブリン)2匹の胴を切り裂く。残る1匹が大慌てで矢を放つが、ろくに狙いもせずに撃った矢は見当違いの方向へ弧を描いて飛んでいく。その小鬼(ゴブリン)が次の矢をつがえるか逃げ出すかと迷っているうちに、駆け寄ったヴィッシュの突きがその胸を貫いた。

 谷の奥を見やれば、緋女と野盗団主力部隊との戦いもほぼ決着がついていた。谷を埋め尽くさんばかりに連なる鬼の死体。その上に背中を丸めて立ち、血塗れの刀を無造作にぶら提げ、荒い息を吐いている緋女。

 その尋常ならざる目つきにヴィッシュは身震いした。緋女の様子にいささか恐怖を覚えはしたが、まず、作戦は成功と言ってよい。

「よし。緋女、残りをやるぞ! 巨人の旦那が出てくる前にカタを付けたい!」

 ヴィッシュの呼びかけは緋女に届いていたのだろうか? 緋女は大口を開け、牙を剥きだしにして、背中を膨らませるようにして息を吸い、先ほどの爆発さえかすむほどの大音声で絶叫した。

「ゴルゴロドォーンッ!! 出てこいッ!! 勝負しろォ―――――ッ!!」

 すると、この挑戦に応える雄叫びがあった。

「おお―――――ッ!!」

 崖を塞いでいた大岩が、向こう側から蹴り除けられる。すさまじい重量の岩石と土砂とが羽毛のごとく吹き飛ばされてくる。ヴィッシュは悲鳴を上げて身を隠す。緋女はその場から動かない。飛来する岩を完全に見切り、最小限の身体のひねりだけでかわしている。

 土埃を掻き分けて、恐るべき巨体が姿を現す。

 巨人の戦士、ゴルゴロドン。

「……呼びつけてどうすんだよっ」

 ヴィッシュが頭を抱えている。

 そのヴィッシュが、突如湧き起こったむせ返るような殺気に気付き、とっさに地を蹴り飛びのいた。頭上から敵が襲い掛かってくる。その周囲に銀色の光のようなものが煌めいた、と思ったとたん、あたりに散らばっていた小鬼たちの死体が細切れに切り裂かれて四散する!

 ――なんだ、今の攻撃は!?

 ヴィッシュは地面を転がりながら辛うじて難を逃れ、手早く立ち上がって剣を構える。対峙する相手は、血の海の真ん中にうずくまるように着地した、隻眼隻腕の魔族――話には聞いたことがある。

 こいつが野盗団の首領……

「“刃糸吐き(ブレイドスピナー)”のムードウ……てのは、あんたのことかい」

「いかにも」

「つまり今のが、噂に名高い“刃糸(ブレイド・ウェブ)”ってわけだ」

「単分子線というのだ。偉大なる大魔導帝国の遺失技術(ロストテクノロジー)。ワイヤー全体が単一の高分子で構成されており極めて強靭……と説明したところで、人間ふぜいには解るまいがな」

「まァ、ある程度は理解したぜ。あんたを倒すのに充分な程度にはな」

 にやつくヴィッシュに、ムードウは怒りをほとばしらせる。

「やってみろ!! 猿がッ!!」

 

 

(つづく)

 



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第12話-05 緋女vsゴルゴロドン

 

 

 だらり、と脱力し、太刀をぶら提げる緋女。

 巨大剣を肩に担ぎ、対峙するは巨人ゴルゴロドン。

 遠くに爆発と怒号とが起こり、消え。

 緋女の奥歯が上下かち合い、火花を散らす。

 雄叫びとともに緋女が突っ込む!

 ゴルゴロドンが顔色を変える。

 ――速いッ!!

 対応が間に合わない! 妨害する間もなく瞬時に間合いを詰められ、跳躍した緋女は既に巨人の胸元。恐るべき速度を丸ごと乗せた強烈無比の斬撃がゴルゴロドンの装甲を打つ。さすがに分厚い岩盤鎧、一撃で砕かれさえしなかったものの、予想外の衝撃で彼の体勢が後ろに崩れる。

「ヌオオッ!?」

 よろめきながらもゴルゴロドンは反撃の剣を振り下ろす。が、所詮は崩れた姿勢から腕力のみで放った打ち込み。剣速も狙いも全く甘い。緋女は空中で身をひねるだけで容易く刃の脇をくぐりぬけ、あろうことか巨人の剣を踏み台にしてさらに跳躍。

 ひとっ飛びに巨人の頭上まで躍り出ると、

「だりゃァッ!!」

 気迫一閃、大上段から渾身の一撃を叩き込む。

 まともに当たれば必殺の打ち込みだったが、ゴルゴロドンが直前で首をひねり、兜へ斜めに当たるよう刃を受けた。緋女の太刀は狙いを逸らされ勢いを殺され、巨人の肩に食い込んだ。

 が、ただそれだけで、肩の装甲が真っ二つに叩き割られてしまう。

 なんたる威力。あの小さな身体のどこにこれほどの力を秘めているのか。一発でもいいのをもらえば命がない。接近戦を許している限り、ゴルゴロドンに勝機は、ない。

 そう見極めるや、ゴルゴロドンは前に出た。脚を踏ん張り、体当たりの要領で緋女を押し返す。桁違いの体重差である。緋女はなすすべもなく空中に放り出される。

 そこを狙ってゴルゴロドンの第2撃。

 空中の緋女を正確に狙った巨大剣の横薙ぎ。足場のない空中では避ける方法もあるまい。

 というゴルゴロドンの見積もりは次の瞬間脆くも崩れ去った。緋女が犬に変身したのだ。

「なんと!?」

 急激に質量が低下したために緋女は空中で一気に加速、あっさりと巨人の剣をくぐりぬけ、難なく地面に着地する。

 驚きながらも巨人は手を休めない。着地した緋女を狙ってさらに剣を振り下ろすが、ただでさえ素早い緋女の脚が、犬に化けることでさらに強化されている。風のように地面を駆け抜け、ゴルゴロドンの股下をくぐり、背後に回ったとたんに人間に変身。岩と崖とを交互に蹴って再び空中に跳び上がり、ゴルゴロドンの首を狙って横一文字に太刀を振るう。

 ゴルゴロドンは一瞬、迷う。前へ出るか? 横へ跳ぶか? あるいは振り返り剣で受けるか? いや、いずれも間に合わない。このままでは確実に首を()ねられる。

 ――()むを……得ぬ!

 ゴルゴロドンは決心して、()()()()()()()()

 緋女の刃に敢えて近づいたのだ。それがために、緋女の打ち込みは速度が充分に乗るより前にゴルゴロドンに()()()()()()()

 緋女の眉がぴくりと震えた。

 ――浅い!

 緋女の剣は巨人の分厚い皮膚を抉った程度で、食い込んだまま止まった。そこにゴルゴロドンの巨大な手のひらが迫る。蚊を叩くようにして緋女を叩き潰そうとする。

 緋女はゴルゴロドンの首に両足をつき、剣を引き抜きながら飛び退いた。間一髪で巨人の平手を避けたのも束の間、後ろの崖に足をついた緋女に、振り返った巨人の拳が襲い掛かる。緋女はそのまま崖を蹴って走り抜け、次々に降り注ぐ拳の雨――いや、そんな生易しいものではない。肉の隕石群だ!――を潜り抜けながら間合いを離した。

 距離を置いて、ふたりは再び向かい合った。お互い肩で息をしている。気迫が全身の皮膚から陽炎のように立ち昇り、汗が爽やかに身体を洗う。

 そう、爽やかに。

 巨人ゴルゴロドンは心底愉しげに破顔した。

「ヌフッ! やはり強いなあ、お嬢!」

 対して緋女は――

 先ほどまで憤怒と殺意に燃えていた顔をくしゃくしゃにして、泣き出しそうに目を細めた。声を()らして問いただした。

「なんでだよ!? なんでこんな奴らに味方するんだ!?

 だってお前……こんなに()()()()なのに!!」

 そう。

 ふたりは感じ合っていた。お互いの剣境の高さ。剣の道に対する真摯さ。磨き上げた技。鍛え上げた肉体。太刀筋のひとつひとつに宿る、隠しようもなく好ましい人柄を。

 打ち込みが、身のこなしが、足捌きのひとつひとつが言葉だった。ある程度以上の実力者同士でしか通じ合えない、しかしこれ以上ないというほど濃密な、対話だったのだ。

 それなのに()()()()()()()

 ()()()()()()()はずなのに――敵対しあうしかない。()()()()()()()()

 ゴルゴロドンにも、緋女のこの戸惑いが手に取るように分かったに違いない。深い溜息を吐き、巨人は穏やかに語りだした。

「そうか……お嬢、好意を持った相手と殺し合うのは、これが初めてか?」

「真剣勝負は、前にしたけど……」

()()わな。勝負と、殺し合いとは」

 緋女はうなずいた。ゴルゴロドンの目が優しく、分かるぞ、となだめていた。

「わしはなあ……昔、ここの大将に命を救われたのだ」

「そいつ魔族だろ?」

「魔王戦争が始まる前のことだ。無論、戦では敵味方に別れはしたが、だからといってわしらの友情には手出しはさせぬ。

 生涯の友が傷つき、困窮し、(わら)にもすがる思いで、わしに助けを求めてきたのだ。どうしてじっとしていられよう?

 つまりこれは、義、なのよ」

「わかんない」

「やらねばならぬこと、ということだ。ひととして、友として、戦士として、為すべきこと、正しいふるまい。それが義だ。

 世間が決める義もある。時代が強要する義もあろう。

 しかしこれは、わしが、自ら定めた義なのだよ」

 緋女は、太刀の柄を、軋むほどに握りしめた。

 歯噛みして、目を潤ませて、友の穏やかな微笑を見上げた。

 ようやく絞り出した言葉は、慟哭だった。

「わかんねえっ……全然わかんねえよバカ野郎!」

 緋女が走る。悲壮な心境を刃に乗せて。

「バカは承知! それでもわしの戦場は、ここだッ!!」

 ゴルゴロドンが大剣を振り下ろし、足元の岩盤を圧し折った。

 

 

 一方、ヴィッシュと“刃糸吐き(ブレイドスピナー)”ムードウもまた死闘を続けていた。

 ムードウがゆらり、と僅かによろめく。

 ――刃糸(ブレイド・ウェブ)が来る!

 ヴィッシュは即座に反応し、地を這うほどの低い姿勢で転がりながら横に跳ぶ。その直後、微かな銀の煌めきがうねりながら空を裂き、背後で鬼の死体が切断された。辛うじて難を逃れ、ヴィッシュは軽く安堵の息を吐く。

 さっきの()()()()刃糸(ブレイド・ウェブ)を飛ばす予備動作だ。何度か手傷を負いながらヴィッシュはそれを見切っていた。要するに鞭のような武器なのだと考えれば、不可視の刃糸(ブレイド・ウェブ)といえども攻撃の軌道は読める。間合いを離しておけば敵は直線的にこちらを狙わざるを得ず、予備動作さえ見逃さなければ回避は可能。

 だが、反撃の手段がない。

 遠間からでは剣は届かず、投げナイフや(つぶて)程度では決め手にならない。といって接近すれば、ムードウに刃糸(ブレイド・ウェブ)の薙ぎ払いという厄介な攻撃方法を与えることになる。

 つまり今はお互い膠着状態。ムードウも自ら間合いを詰めようとはしてこないところを見ると、どうやら長期戦を望んでいるらしい。狙いは明白、こちらを疲れさせて仕留める気なのだ。気を張り詰めて相手の一挙一動に対応せねばならないヴィッシュと、主導権を握って好きなタイミングで仕掛ければよいムードウ。どちらがより神経を使うか、考えるまでもない。

 ――くそーっ、ものの考え方が俺と似たタイプだ。やりづらい! 俺もあの武器欲しいなーっ!

 などとないものねだりをしている場合ではない。

 このままでは、負ける。

 焦るヴィッシュに向けて、ムードウは嵐の如く刃糸(ブレイド・ウェブ)を飛ばし続けながら、くつくつと不愉快に嘲笑する。

「どうした、劣等な猿よ? 先ほどの大言壮語はどこへいった? 所詮貴様ら人間などは、人類の中でもとりわけ劣悪な奴隷種族に過ぎぬのだ。無能な種は、有能な種にきちんと管理され、はじめてその労働力も社会に生きる! そんな当たり前の理屈も分からんのだろう、猿どもは!!」

 ムードウの差別意識満々の罵詈雑言は、本心半分、挑発半分といったところだろう。怒ればそれだけ疲労の蓄積も早くなり、動作も雑になる。言葉も武器のうち、というわけだ。

 ――ならそこが狙い目だ。

 ヴィッシュは何度目とも知れない刃糸(ブレイド・ウェブ)の攻撃を回避すると、軽く口笛を鳴らした。

「へえ、よく舌が動くな。さすがは魔族(エルフ)だ」

 その途端。

 ムードウの全身の筋肉が、怒りのために膨れ上がった。

 エルフ――“大議定11号指定種”。戦後、娼婦に身をやつした魔族女性を指す法律用語だ。当然、魔族に対しては、耐えがたいまでに敗北感と劣等感を刺激する、最大級の蔑称となる。

 深窓の貴婦人も、卓越した女戦士も、知性溢れる魔女も、みな敗北し、捕らえられ、以来10年、人間の男たちの玩具にされ続けている。今もどこかで劣悪な男に圧し掛かられ、薄汚い身体を舐めしゃぶることを強要され、ねばついた精液を体内に吐き出され続けている。それを想像するだけで、魔族ムードウの誇りがどれほど傷つけられるか。どれほどの義憤が湧きおこるか。

 ムードウが激怒に瞳を燃やし、獣じみた咆哮を上げながら飛び込んだ。間合いを詰めて刃糸(ブレイド・ウェブ)の薙ぎ払いで勝負を決める気だ。

 ――こんな汚い言葉は使いたくなかったが……

 ヴィッシュは冷静に剣を下段に構え、

 ――手段を選んでられないんだ!

 地を蹴り一気に前へ出る!

 ムードウが驚愕で顔色を変えた。

 逃げ回るヴィッシュを追って仕留める気でいたのが、ヴィッシュの方から突っ込んできたのだ。当然間合いが狂う。攻撃のタイミングがズレる。刃糸(ブレイド・ウェブ)を操り自分の周囲に刃の渦を作るつもりが、その前に懐に踏み込まれる。

 これがヴィッシュの狙いだったのだ。言葉を武器として用いる、かなり強固な差別主義者。それは裏を返せば自分の種が差別されることに敏感ということでもある。相手にかける罵倒は、往々にして自分が一番言われたくないことであったりするものだ。

 その弱点を突いてヴィッシュはムードウを挑発した。そして思惑通りムードウが性急な攻めに転じると、さらにその不意を打った。

 言葉を武器にするものには言葉が通じる。差別を鎧にするものには差別が効く。攻めの勢いに乗ったものこそ攻めには弱い。

 ヴィッシュは渾身の力を込めて、ムードウの胴にすれ違いざまの打ち込みをかけた。避けられるタイミングではない。

 ――()った!

 と確信したのも束の間。

 ムードウの身体が予想外の方向にぐらりと揺れ、ヴィッシュの剣は浅く脇腹を薙いだのみに終わった。

 驚きながらもヴィッシュはそのままムードウの横を駆け抜け、距離を取った。仕留めそこなったなら長居は無用。もたもたすれば敵の刃糸(ブレイド・ウェブ)の餌食となるだけだ。

 充分に間合いを離し、振り返り、油断なく剣を構える。

 ムードウは転んでいた。

 そう、転んだのだ。転ばされたわけではない、単に足元のでっぱりにつまついで倒れただけだ。だからこそその動きはヴィッシュには読めなかった。

 ムードウは小刻みに震えながら、片腕でどうにか立ち上がろうとしている。衣服の裂け目から刃糸(ブレイド・ウェブ)鞭の取っ手が数本、転がり落ちる。

 明らかに弱っている。よほど好機という気はするが、ヴィッシュは近づかない。ムードウは刃糸(ブレイド・ウェブ)を魔法で操れるのだ。罠かもしれない。たとえ倒れていても下手に距離を詰めるのは危険。

 そのとき、ヴィッシュの鼻に、吐き気をもよおすような腐臭が臭ってきた。

 ――この臭いは……

 と、眉をひろめるヴィッシュの背後で、轟音が響いた。

 ちらと後ろの様子に目を配り――その光景を見るやヴィッシュは叫んでしまった。

「緋女ッ!?」

 

 

(つづく)

 



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第12話-06 苦い夜明け

 

 

 緋女は巨人の一撃に弾き飛ばされ、なすすべもなく崖に身体を叩きつけられた。

「緋女ッ!?」

 ヴィッシュの悲痛な叫びが聞こえたのはこの時だ。緋女の身体が軋む。何本もの骨が音を立てて砕ける。口から鮮血が吐き散らされ、壊れた人形のようにして緋女の身体が地面へと滑り落ちる。それでもなお握りしめて離さない太刀が、岩にぶつかり乾いた音を響かせる。

 緋女が苦悶の呻きを漏らした。どうやら肋骨が折れている。肺を圧迫するか、あるいは刺さっているやも。一息ごとに堪えがたい苦痛が緋女を襲う。手足が動かない。戦いたいのに。怒りはまだ燃えているのに。身体が言うことを聞かないのだ。

 激戦の末に、緋女はたった一撃、巨人の打ち込みを喰らった。直前で太刀で受け、真っ二つにされることは防いだが、その圧倒的な膂力(りょりょく)は木の葉のように小さな緋女に致命傷を与えるには、充分すぎるものだった。

 ――強い。こいつ……あたしより強い!

 緋女が歯を食いしばり、必死に視線だけを持ち上げて、巨人ゴルゴロドンを睨みつける。

 そのゴルゴロドンが、胸に溜めた息を吐く。

「力量ならば、お嬢が上だ」

 緋女は目を見開いた。まるでこちらの考えてることを読まれているかのよう。巨人は静かに先を続けた。

「筋力と体力ではわしが優ろうが、技の冴えと速度ではお嬢に及ぶべくもない。そして剣の勝負は一撃必殺の世界。体格の有利などは技量と剣速でいくらでも覆せるものよ」

 ――じゃあ、なんであたしが負ける?

「覚悟の差だ。最後の一瞬、お嬢は迷った。斬るか、斬らぬかを」

 ゴルゴロドンの巨体が。

「おぬしの剣には義が足りぬからだ!!」

 山脈の如く立ち塞がる。

 太刀打ちできぬほどに巨大すぎる頭上の存在が、緋女を押し潰さんばかりの大音声で滔々(とうとう)と説いていく。緋女が今まで考えもしなかった、目を逸らし続けていたことを。

「お嬢の剣には、致命的に欠けているのだ。

 何を切るか?

 何故切るか?

 すべからくこうすべし、という確たる基準……ありていにいえば、斬る動機がな。

 ゆえに、剣を振るときといえば、仲間を傷つけられたり、怒りに駆られたり、なんとなく仕事で入用になったときばかり。

 無論、感情を否定はせぬ。大切なことだ。剣に気迫も乗るだろう。立ち上がり得ない身体を奮い立たせることもできるだろう。

 だが、情に任せた剣は、往々にして迷う。

 ひとの感情は時々刻々うつろいゆき、そのたびに矛先が変わるからだ。

 それが太刀筋を鈍らせる。ほんの僅かな鈍りではあるが、達人同士の戦いではその僅かな差がすべて。

 ゆえに! 同等以上の力の持ち主には、とたんに勝てなくなる!! 心当たりはないか!?」

 緋女の唇が震えた。

 脳裏に浮かんだのだ、ある女の顔が。この国に来てから唯一の敗北。技量において緋女を完全に上回った、生涯で最強の敵。

 道化の仮面――シーファ!

「つまり……おぬしの剣は、所詮、弱いものいじめに過ぎぬのだッ!!」

 激情が、緋女の意識を赤一色に塗り潰した。

 ――テメェ……言いやがったなァ―――――ッ!!!

 痛みも苦しみもかなぐり捨てて、緋女が太刀を杖に立ち上がる。立たなければ。戦わなければ。やつを斬って勝たなければ! 精神力が彼女を突き動かす。雄叫びを上げんと口を開く。

 しかし絶叫の代わりに飛び散ったのは、どす黒く染まった血の塊だった。

 血が大地を打つ。緋女がくずおれる。前のめりに倒れ伏す。

 とどめの一撃を打ち込まんと、巨人が剣を振り上げた。

 そのとき。

「プランBだ!」

 叫びながらヴィッシュが飛ばした(つぶて)が、巨人の顔面に命中した。とたん、真っ黒なタール状の液体が巨人の目を塞ぐ。完全な不意打ちに一瞬気を削がれたゴルゴロドンの足元で、今度はぼそりと少女の声。

「《暗き隧道(すいどう)》。」

 どんっ!

 土を消滅させトンネルを掘る《暗き隧道》の術。それがゴルゴロドンの右足の真下に大穴を作り出す。当然ゴルゴロドンは体勢を崩し、横倒しに倒れ始める。いったんバランスを崩せば、この巨体である。途中で踏みとどまることは不可能。

「ヌオオオ―――――ッ!?」

 重力に引かれてゆっくりとゴルゴロドンの身体は転倒し、落着の瞬間、爆発めいた砂煙を巻き起こした。砂交じりの猛風の中、ヴィッシュが緋女に駆け寄り担ぎ上げる。ふたりの姿が砂煙に呑み込まれていく。

 そこへ“刃糸吐き(ブレイドスピナー)”ムードウが駆けつけた。だが辺りは砂と暗闇に閉ざされ、鼻先さえ見えないありさま。ムードウは苛立ち、もうもうと立ち込める砂塵に向かって喚きたてた。

「ゴルゴロドン! 友よ! 無事か!? 生きているのか!?」

「ここだ、ムードウ! わしはここだ! 目が見えぬ……」

 ムードウは煙を掻き分けるようにして声の方へ近づいて行った。そうこうするうちに砂埃が収まり始め、ようやく視界が開けた時には、もう、ヴィッシュたち3人の姿は影も形も残ってはいなかった。

 ムードウは、倒れたゴルゴロドンの側に寄り、目潰しにやられた目を診てやった。一瞬の緊張の後、ムードウはほっと胸を撫でおろし、ゴルゴロドンの頬に手を乗せた。

「大丈夫だ。これは薬剤で洗えば落ちる。待っていろ、少し在庫があったはずだ」

「おお……友よ。大丈夫なのか。敵は、後始末人たちはどこだ」

「逃げたようだ。お前が無事でよかった……」

 と労うムードウの声が、言葉尻とは裏腹に、まったく“よかった”ふうではない。彼が薬を探しに行く足音を聞きながら、ゴルゴロドンは頭を抱える。

 ――ああ、いかん。お説教に夢中になって大魚を獲り逃すとは。偉そうに他人(ひと)のことを言える身分ではないなあ、わしも。

 

 

   *

 

 

 戦いは終わった。全体的に見れば作戦はほぼ成功。敵戦力の中核は破壊し、拠点も機能の大半を喪失せしめた。主要な目的はあらかた達成したのだからヴィッシュたちの勝利といってよいはずだったが、この勝利に喜びはない。

 3人は街道沿いの岩場まで撤退し、そこで苦い朝を迎えた。

 緋女の怪我は極めて重篤なものだった。全身の裂傷からの深刻な量の流血。骨折箇所は数えきれず。内臓には致命的な損傷。命があったのが不思議なほどである。緋女でなければ即死していただろう。

 それほどの大怪我も、カジュの術をもってすればたちどころに全快する。

 だが、魔法で傷は治せても、心までは癒せない。

 意識を取り戻し、昨夜の戦いを思い出してからずっと、緋女は岩の上に座り込んだまま、ぼんやりと地平を眺め続けていた。一言も口をきかず、ろくに身じろぎもせず。これまでになかったことだ。ヴィッシュはもちろん、カジュでさえ、彼女のこんな姿を見たことはなかった。

 朝食の支度を手伝うかたわら、カジュがそっとヴィッシュに耳打ちする。

「大丈夫かな……。」

 だがそれに対してヴィッシュは淡々と一言。

「ほっとけ」

「は。」

 カチンと頭にきて、カジュが僅かに目を細める。表情はほとんど変わらないが、猛烈な怒りの気配が肌身から針のように鋭く放たれている。ヴィッシュは取り合わず、黙々と兎をさばき、刻んだ野草を擦り込んでいく。

 保存食のビスケットと、兎の香草焼きで陰鬱な食事を済ませる。誰も何も言わない。

 それからヴィッシュは布切れに消し炭で文章をしたため、丸めて結わえて持ちやすくすると、緋女の側に寄って行った。

「緋女、仕事だ。重大な任務だぞ」

「……うん」

「これをコバヤシに届けてくれ。最悪の場合、街で戦闘になる。そのための備えが書いてある。この情報は極めて重要だ。お前に任せる」

「わかった」

「届けたら戻ってこい。夕方にプロピオン宿場の東の丘で落ち合おう」

 緋女は億劫そうに立ち上がり、街道を駆けて行った。

 じっとその背を見送るヴィッシュを、横からカジュが不機嫌に責める。

「ちょっと。」

「ん?」

「優しい言葉とかないんすか。」

「む……」

「ちょっと冷たくないすかね。」

「……こんな時に必要なのは言葉じゃない。仕事だ」

 その言葉を実践してみせるかのように、ヴィッシュは野営の片づけに取り掛かった。いつものように手際よく。しかしいささか荒っぽく。いつになく雑なその手つきが、彼の内心の動揺を如実に語っている。カジュの目から、怒りが融けた。

「緋女は今、嫌になってる。何故戦うのか、何と戦うのか、それと向き合うことに疲れている。ここが正念場なんだ。心底嫌気がさしちまったら、あいつはもう、立ち直れなくなる。その前に動き出すしかない……なんでもいい、少しでも前に進むしかないんだ」

「経験者かく語りき……か。」

「ああそうさ。だがあいつは俺とは違う。緋女は強い。緋女は必ず立ち上がる」

 荷物をまとめ、肩に担いでヴィッシュは立った。悲痛な目に切々たる願いを込めて。

「まあ見てろ」

 

 

   *

 

 

 緋女は走った。

 走り、走り、走って……走った。

 息が切れる。四肢の筋肉が心地よく引き締まっていく。街道は流れてせせらぐ小川となり、田園風景は融け崩れて輪郭を失う。空も大地も草木も鳥も、みな油絵具のように混ざりゆく中で、ただ駆け抜ける緋女だけが鮮烈に、赤。

 彼女は気付いているのだろうか? これほど精神的に落ち込み、肉体も疲れ果て、士気も下がり切って、それでもなお、誰より速く走れるのだということに。彼女は向き合っているのだろうか。腰に()いた太刀を一振りすれば、いかな強敵もたちどころに両断できるのだという事実に。

 これほどの力を持ちながら。

 いや、これほどの力を持てばこそ。

 力の使いみちを自ら(えら)ばねばならない――あまりにも単純で、残酷な現実。

 緋女は足を止めた。

 苦しく肩で息しているのは、走り疲れたせいではない。首筋から陽炎が立ち昇っているのは、熱に浮かされているせいではない。胸の中に耐えがたい衝動がある。敗北。勝負。ヴィッシュ。カジュ。ゴルゴロドン。ややこしい状況。ポケットにしまい込んだ手紙、託された仕事。

 もうだめだ。爆発しそうだ!

「ォォォォオオオオアアアアアッ!!」

 緋女は雄叫びを上げ、剣を抜いた。

 乱暴に大上段に振り上げ、力任せに振り下ろす。刃が唸る。空気が裂ける。世界そのものまで真っ二つにしてしまいそうなほどの恐るべき威力。もう一度。もう一度! もう一度!! 振り回す。繰り返す。ただがむしゃらに、あてもなく、胸から湧き出る暴力の衝動に任せて凶器で虚空を打ちまくる。見る者が見れば戦慄するだろう。妙技に舌を巻き、あるいは恐れてひれ伏すだろう。だがそれがなんだ。竜を(たお)した。達人に勝った。それが一体なんだというんだ!

「こんなんじゃダメだ! ダメなのに……

 一体、あたしはどうすればいいんだよ!?」

 斬りたいものを斬れないんじゃない。

 斬りたくないものを、斬ってしまえる。

 板挟みが緋女の心を疲弊させる。

 緋女はとうとう、その場にへたりこんでしまった。

 動く気になれなかった。

 街に着いてコバヤシに手紙を渡せば、緋女は戦場に戻らなければいけない。戻れば戦わなければいけない。ゴルゴロドンに太刀打ちできるのは緋女だけだ。分かっている。緋女がやるしかないのだ。

 だから、もう、動けない。

 緋女はその場に座ったまま、しばらくぼんやりと空を眺めていた。白い綿雲がゆったりと流れていく。鳥が数羽、直剣を思わせる軌道で飛びぬけていく。風がそよぐ。遠くで林がざわめき、また、静かになる。

 どれほどの間、そうしていただろうか。完全に呆けた緋女は、街道を馬車が来るのにも気付かなかった。道端にあぐらをかいている緋女を見とがめ、荷馬車が止まった。馬と目が合った。かなり歳をとった馬らしく、瞳はすっかり濁ってしまい、落ち着きというより諦めと無関心の色だけを残していた。

「あれェ……ひょっとして、あの、緋女さんっすか?」

 荷馬車の御者が、馬車の上からぐいと身を乗り出してくる。緋女は目をしばたたかせる。

「……誰?」

「いやァー、すんません! 一方的にこっちが知ってるだけでェ。あの、第2まで行くんすか? ひょっとしてお仕事? 魔物狩りのっ?」

「そうだけど」

「マァジィー!? すっげーっ! あ、良かったらァ、乗ってってくださいよ! 今、荷台あけるんで。ね、ね!」

 そう言いながら、御者の青年は荷台に飛び移り、木箱を隅に寄せて座る隙間を作り始めた。緋女は茫然と立ち上がる。今さらになって、第2ベンズバレンまで行くと正直に言ってしまったことを後悔しはじめていた。なにしろ彼女は嘘が付けない性格。咄嗟のときには、つい思ったことがそのまま出てしまう。

 緋女が二の足を踏んでいると、突然、ぼとぼとと重い音がした。老馬が元気よく大量の糞を落としたのだ。たまらない悪臭が無遠慮に鼻を衝く。まるで、こんなところに留まるな、さっさとどこかに行け、と馬糞に笑われているみたいだ。

 緋女が顔をしかめていると、御者の青年が荷台から身を乗り出して、馬の足元の糞を覗く。

「ローディじいちゃん、今日も健康的だなァ」

 そして御者は、人懐っこく笑いながら手を差し伸べた。

「どうぞ緋女さん! ひとりくらい増えても大丈夫っすよ。コイツおじいちゃんだけどォ、パワーあるんで!」

 

 

(つづく)

 



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第12話-07 義の一槍

 

 

 魔族ムードウは夜明けを待って状況の確認に取り掛かり、小一時間をかけてようやく残存戦力を把握し終えた。

 その結果見えてきた惨状は、想像を遥かに超えていた。

 防護柵や櫓、生活設備、備蓄などは根こそぎ焼き払われ、拠点機能はほぼ完全に喪失。主力となる鬼の部隊は片っ端から斬られ、あるいは逃亡し、残った手勢は僅か20名足らず。しかもそのほとんどが、並の人間にすら体格で劣る臆病な小鬼たち。最初の爆発で戦意喪失し逃げ隠れしていたから生き残っていたような連中だ。

 後始末人の手腕は見事なものだった。たった3人でこちらの陣容をいいように掻き回し、まとまった反撃を許さぬままに戦力の中核を破壊。手際よく、的確で、そのうえ徹底的。完全にしてやられた。もはや組織だった行動はとれまい。

 つまり――実質的に、野盗団は崩壊したのである。

 ムードウは膝をつき、むせび泣いた……

「ウッ……ウオオッ……!

 10年だ! 10年かけて、私はこつこつと部下を集め……拠点を築き、戦いに明け暮れ……ようやくここまでの組織を作り上げたというのに……

 なのに、これだけか! 残ったものは、たったこれだけなのかあっ……!」

 人目もはばからぬ友の号泣。小鬼のコバエが心配そうに周囲をうろつき回る。ゴルゴロドンがそばに座り込む。小鬼の頭脳では慰めの言葉も浮かばないが。大きすぎる巨人の手では肩を撫でてやることもままならないが。

「ああ、友よ……」

「酷い! 酷すぎる!! 私の人生はいったいなんだったのだ!? なんのために今まで! 魔王様亡き後、泥水をすすり、生傷に悶え、薄汚れた血で我が身を穢して、それでも生き抜いてきたというのに……私の人生の価値は、たったこれだけだったというのかッ!?」

「我が友よ、ムードウよ、今は退こう。森に逃げ込めば軍隊を動員したとて追いきれるものではない。潜伏して再起を図ろう。次の機会を待とう。それが何より良いことだ」

 ムードウが大きく溜息を吐いた。

 ゆらりと、陽炎のように立ち上がる。

「……行くぞ、ゴルゴロドン」

「どこへだ?」

「第2ベンズバレン」

 巨人ゴルゴロドンの眉が跳ね上がる。()()()、とその表情が如実に語っている。()()()()()()。しかしムードウは友の顔を見てもいない。空と大地の間あたりを、虚ろにじっと見降ろしたまま、狂気じみた炎を瞳孔の奥に燃やしているだけだ。

「最後の戦いだ。あの街を潰す」

「無茶だ。死にに行くだけだ」

「親友よ。気付かないか? 鼻が()()()()()にありすぎて、この臭いが届かないのか?」

 ムードウは左の袖をまくり上げ、失くした腕の切り口を朝日の下に晒した。その有様を見て、ゴルゴロドンが絶句する。

「私の腕は腐り始めているんだ。じきに血に毒が回る。もう助からん……」

 ムードウは震えていた。

 死の恐怖にか。口惜しさにか。どうしようもない生の無常に対してか。

 救いを求めるような囁き声は、やっとのことで巨人に耳に届いた。

「兵はなくともお前がいる。きっと勝てるさ。なあ、ゴルゴロドン……」

 巨人ゴルゴロドンは目を伏せる。

 ――なんと悲惨な……

 ムードウは、死を覚悟している。何もかも分かったうえで、全て諦めたうえで、それでも動かずにはいられず、向かうべき先を求めている。目標と言えば聞こえはいいが、その実、ただ死にざまを選ぼうとしているだけだ。もはやそれ以外に、彼の意思で選びうるものなど、何ひとつ残ってはいないのだ。

 どうして今のムードウを見捨てられよう。

「分かった」

 ゴルゴロドンは立ち上がった。

「いっしょに行こう。なあ、友よ」

 

 

  *

 

 

 一方、ヴィッシュたちは荒野から南下。第2ベンズバレンの北方約5km、プロピオン宿付近の小山に登っていた。この辺りには住人が薪採りや豚の放牧に使う穏やかな里山が連なり、その谷間には、ほとんど地元民しか使わない細い山道が何本もうねり進んでいる。

「次の戦場はこのあたりになるな」

「なるのか。」

「なるさ。説明しようか」

 ヴィッシュは手近な枝を折り取り、土の上に地図を書き始めた。第2ベンズバレンから北の荒野までの概略図である。しゃがんで覗き込むカジュの目の前で、魔法のように淀みなく印や矢印が書き込まれていく。

「ここが街。ここが俺たちの現在地。敵の拠点はここ。おそらく敵は、こう……いう……ルートで明日未明を狙って街に攻め込む」

「いやいや。当たり前みたいに言いますけどね。」

「敵は戦力の大半を失い、残る手勢は多くて小鬼30匹。首領の魔族と助っ人の巨人は健在だ。この状況で考えられる行動は大きく分けて2つある」

「ひとつはどこかに潜伏して再起を図ること。もうひとつはヤケを起こして大胆な攻撃に出ること。」

「正解」

「後者と断定する根拠は。」

「戦闘中、魔族ムードウから腐った臭いがした。負傷後の処置がかなりまずかったんだろう、おそらく傷から壊死しかかってる。奴はもう長くない」

 カジュが目を丸くする。あの激しい戦闘の中でそんなところに目を付けていたとは。

「それでヤケクソパターンか……。」

「仮に潜伏パターンでも問題はないんだ。首領が死ねば残るは知能の低い鬼だけ。遠からず野盗団は自然消滅する。いずれにせよ、俺たちが備えるべきは第2ベンズバレンへ襲撃のみ、ってことさ」

「うーん、さすが……。」

「手分けして罠を仕掛けよう。城壁に取りつかれる前に食い止めるのが理想だ」

「あいあいさー。」

 

 

   *

 

 

 御者の青年は度を越えたおしゃべりだった。

 名前はパンチ。馬車曳く老馬はローディ。第2ベンズバレンと王都ベンズバレンを仕事場にしている輸送業者で、月に4回も両都市を往復しているのだという。荷馬車なら片道4日ほどの行程だから、ほとんどひっきりなしに移動し続けていることになる。

 パンチの年齢は19。好きな食べ物は第2ベンズバレン名物スルメの天婦羅(フリッター)。揚げたてをつまみに麦酒(エール)()りながら、趣味の大道芸人巡りをするのが休日お決まりのパターン。最近のいちおしは港広場で聖アブシャールのパロディをやっている仮装芸人コンビ、バッケラ&イバッテラ。よりにもよって教区大聖堂のド真ん前で聖人のパロをやるところが最高にクール。

 ほんの小一時間で十年来の友人ばりに素性を知ってしまった。それほどパンチは喋りまくった。いつもの緋女ならこういう出会いは大歓迎。愉快に盛り上がって、街につく頃には完全に友達になっていただろう。

 だが今は、そんな気にもなれない。

「それでっすね、最近は王都もけっこういいんすよォ。2、3年前はやべえ暗え頭ガッチガチの街でしたけど、第2で評判になった芸人がちょっとずつお貴族様とかに呼ばれてるみたいで。いやァー、いい流れっすよこれは! ストリートの芸人が上にウケ始めたら、こりゃ、爆発的お笑いブーム到来の予感っつーんすか? 10年後ぜってーこの国はお笑い先進国っすよォー!」

「あー、(わり)ィ」

「はい?」

「ちょっと、疲れててさ。少し、寝てていいかな……」

「あーどうぞどうぞどうぞどうぞ! ローディ、揺らさないように歩けよォ」

 ぶしゅん、と馬がくしゃみで応える。

 緋女は木箱に背を預け、目を閉じた。

 眠りは音もなく忍び寄り、緋女はなすすべもなく夢の世界に吸い込まれていった……

 

 

 夢の中で緋女は、日課の素振りに取り組んでいた。

 まだ凍てつくように冷たい氷霧の早朝。まっすぐに地平へと切先を向けた正眼の構え。剛刀の柄を噛みしめるように丁寧に握り、ゆっくりと、大上段に持ち上げる。緋女の両目は目前をつぶさに捉えながら、同時に、さらにその向こうを、脳裏に描いた敵の心理の奥深くまでもを眺め、また睨んでいる。全身の筋肉の動きが感ぜられる。()り糸が解けるように筋肉を緩め――刹那、絞る。

 恐るべき剣速で刃が真一文字に振り下ろされた。霧が裂ける。風が唸る。その音が、振りの後から遅れて聞こえる、それほどの速度。

 だが。

 緋女は目を固く閉じ、唇をへの字に歪めて結んだ。

 ――ぜんっぜんダメだ。

 その気になれば板金鎧さえ両断するだろう、それほどの振りであったが、それでも緋女には満足いかない出来だった。並の剣士なら感心して言うだろう、「その太刀筋でなんの不足があるのか? 充分じゃないか」と。そうかもしれない。この剣でも斬れるものはいくらでもあるだろう。

 だが、()()()は斬れない。

 この剣では――届かない。

「素振りってのはね。自分自身との対話なのよ」

 背後から懐かしい声がした。

 振り返りたかった。なのに身体が動かない。姿を一目見ることもかなわない。誰の言葉かはすぐに分かったのに。

 師匠。緋女に剣を教えてくれた――緋女を“ひと”にしてくれた恩人。彼女はかつて、繰り返し繰り返し、噛んで含めるように諭してくれた。その言葉が、一言一句たがわず蘇る。

「ひと振りごとに問いかける。

 あたしは何を斬る? なぜ斬る? どうやって斬るんだ?――ってね。

 でも、そんな思考は刀を振るうちに消えてしまわなきゃいけない。

 問いも、答えも、残してはいけない。

 彼も無く、我も無くなったその時、目的と手段は肌身の奥に染み付いて、刃と一体化し、太刀筋となる」

 ――分かんねえよ、師匠。

 気力を失い、刀を下ろし、苦しげに目を伏せる緋女。

 辛うじて柄を握る拳を、背後から、優しい手のひらが包んでくれた。

「焦りなさんな。あんたはもう、ちゃんと()っているわ」

 手を通じて、不思議な温もりが緋女の身体に注ぎ込まれた。

()()()()()()()()()()()()()

 じっくり見つめてごらんなさい。あんたというひと振りの剣が、どこから来て、どこに在って、どこへ進んでいくのかを。さあ、手に力を込めて――」

 緋女は大きく胸に息を吸い、ゆったりと、細く吐き出した。目の前で霧が渦を巻く。

 もう一度。

 緋女は剣を振る。

 汗が弾け。

 呼気が切れ。

 四肢の筋肉が引き絞られる。

 フ! と、気迫が霧を切り裂いた。

 

 

   *

 

 

 宿場町から少し外れた里山の山道に、魔族ムードウ率いる野盗団残党の姿があった。コバエが小鬼たちの指揮を取り、即席のソリに積んだ丸太の山を曳いている。その後ろには十数本の丸太を軽々と小脇に担いだ巨人ゴルゴロドン。ムードウはソリの上に横たわり、死んだように目を閉じている。

 ここまでくる道すがら、ゴルゴロドンは友人の状態を時折確認した。お世辞にも体調が良いとは言えない。今では苦しげな様子さえ見せなくなり、ただただ青白い顔でか細く呼吸をしているのみだ。ムードウはそれでも周囲に気を配り、ゴルゴロドンの視線に気づくと、大丈夫だ、とばかりに笑って見せた。

 ――心配いらぬ。まだ()()よ。

 彼の生気のない表情がそう語っている。

 その顔を見るたび、ゴルゴロドンの胸が痛む。

 この瀕死の友に対して、自分が一体なにをしてやれるというのか。何もできはしない。ただ見ているだけだ。こんな巨大な身体と、(ヴルム)さえ引きちぎる膂力(りょりょく)を持ちながら、自分はあまりにも無力だ。

 やがて一行は目的の場所に辿り着いた。ある小山の、まばらな樹木に覆われた斜面の中腹。この位置からは、遥か6kmも南にある第2ベンズバレンの城壁が、遠く地平線上に(かす)んで見える。コバエが小鬼たちに命じてソリを止め、ピョンピョンと魔族ムードウの元へ跳ねてくる。

「ついた。ついた」

「……ああ。よくやった、コバエ。よくやった……」

 ムードウが震えながら身体を起こした。コバエは顔の右半分で褒められたのを喜び、左半分で主人の衰弱を心配していた。歪んで繋がった半々の表情が妙におかしく思え、ムードウは声もなく笑った。

「コバエよ。よくここまでついてきてくれた。お前は知っているだろう、拠点の奥の隠し部屋。そこに残った財産をしまっておいた。ほんの僅かだが……お前にやろう」

 コバエは何も言わない。話が長すぎて理解できなかったのだろう。ムードウは改めて、平易に簡略に繰り返す。

「隠し部屋。宝物。お前にやる」

「なんだ?」

「行け。逃げろ。お前まで死ぬことはない」

「なんだ!」

 コバエが手を伸ばし、ムードウに触れようとする。助け起こそうとしているのだ。いつも病床でしてくれたようにだ。ムードウは身体に残る力を振り絞り、コバエの手を払いのけた。痛む肺に息を吸い込み、気力だけで声を張り上げた。

「行け! はやく行けッ!!」

 一喝されてコバエは震えあがり、飛ぶように退散した。他の小鬼たちはそれを見て我先にと散っていく。小鬼たちの賑やかな鳴き声が消え、あとにはうずくまるムードウと、一部始終を見守るゴルゴロドンが残るのみ。

 ムードウは脂汗さえ浮かばなくなった死にかけの顔で、ゴルゴロドンに目配せする。

 ――心残りはもうない。さあ、やろうか。

 ゴルゴロドンは静かに頷き、丸太の一本を掴んで、立ち上がった。

 

 

   *

 

 

 罠の設置を進めていたヴィッシュの耳に、不意の重低音が届いた。はたと顔を上げ、立ち上がって耳を澄ます。音がもう一度来た。どこかで樹木が倒されているのだ。しかし木こりの仕事にしてはおかしい。間隔が短すぎるし、斧の音も聞こえない。まるで何か()()()()が、腕力で無理矢理木々を薙ぎ倒しているような……

 ――まさか!

 ヴィッシュは走り、見通しのいい斜面に登った。

 うねるように連なる、森林に覆われた小山。そのうちひとつの斜面で、木々が不自然にざわつき、悲鳴にも似た音を響かせながら倒れていく。その向こうに巨大な頭が見える。

 ――巨人の旦那(ゴルゴロドン)?!

 このタイミングは想定外だ。ヴィッシュの読みでは、敵の第2ベンズバレン襲撃は今夜。少数精鋭で攻めるなら、相手の混乱を誘うために夜陰に乗じるのが鉄板の戦術だ。こんなに日が高いうちに姿を現してもメリットはないはず。

 ふと、ヴィッシュはゴルゴロドンの手元に目を留めた。

 巨人ゴルゴロドンが、何か長い、槍状ものを持っている。あれは――丸太?

 と、そのとき。

「ヌオオオオオ―――――ッ!!」

 雷鳴よろしく咆哮轟き、丸太が空高く投擲された。

 その勢いはさながら電撃。轟音立てて空を切り裂き、丸太の槍がヴィッシュの頭上を通過する。その風圧でヴィッシュはたじろぎ、数歩後ずさりさえした。

 その数秒後。

 轟音とともに、丸太の槍が――6()k()m()()の第2ベンズバレン城壁に命中、堅固な石壁に大穴を穿(うが)った!!

「……は……?」

 ヴィッシュが皿のように目を丸め、

「おいッ!? 冗談だろォっ!?」

 まともに声を裏返した。

 なんという常識外れ! 第2ベンズバレンの城壁は遥か彼方、地平線上に薄く霞んで見えるほどの位置にあるのだ。こんな飛距離の()()()など完全に想像を超えている。しかも、ただの丸太一本がこの威力。何発も受ければ城壁の一角が完全に崩壊するし、もし壁を飛び越えて中の街に命中したら――考えるだに恐ろしい。

「ヴィッシュくんっ。」

 唖然とするヴィッシュの頭上に、《風の翼》でカジュが飛んでくる。

「カジュ! あれは魔法か!?」

「筋肉だね。」

「まさかだろ」

「巨人くんの身長から筋肉量を推定、力積と丸太の質量から初速を計算すれば水平到達距離は通常の100倍に達すると見積もれる。」

 槍投げの名手なら80m以上は飛ばす。その100倍と考えれば、

「この距離でも充分に射程圏内、か……!」

 などと分析している間に巨人の槍投げ第2射。再び辺りを震撼させて巨大槍が飛び抜けていく。これは狙いを外して城壁の少し手前に落着したようだが、その威力たるや、丸太が深々と地面をえぐり、周囲に爆炎と見まがうばかりの砂埃を巻き起こすほど。

 長引かせるとまずい。ヴィッシュは武装を手早く拾い上げて駆けだした。

「ちっくしょう、仕掛けが全部無駄になった! 予定変更だ、槍投げを止めるぞ!」

「イエッサー。」

 

 

(つづく)

 



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第12話-08 良心の呼び声

 

 

「緋女さん!」

 名前を呼ばれて目が覚めた。

 気が付けば馬車は第2ベンズバレン大通り沿い、コバヤシが経営する酒屋の前に止まっており、御者のパンチが緋女の顔を覗き込んでいた。緋女はもう一度目を閉じ、大きく伸びをして、起き上がる。

「着いたかぁーっ」

「ここでいいっすか?」

「ん。OK」

 ひょいと荷台から飛び降りて、緋女はコバヤシの店に入った。コバヤシは素晴らしい手際で帳簿纏めを進めているところだったが、緋女の姿を認めると腰を浮かせた。

「緋女さん? おひとりで? 何かありましたか?」

「お前もヴィッシュも、そういうとこ、よくホイホイ分かるよな。はい手紙」

 ヴィッシュから託された布片を手渡す。コバヤシは中の文面に目を通すと頼もしく頷いた。

「分かりました。街のことは任せてください」

「よろしくー。あたし戻る」

「緋女さん?」

 去り際に呼び止められた。振り返ってみると、コバヤシが眉をひそめている。

「……大丈夫ですか?」

 弱みを見せないように、胸を張っていたつもりだったのに。

「……ほんっと、そういうとこ」

 緋女は目を伏せた。ヴィッシュもそう。カジュもそう。ゴルゴロドンもそう。コバヤシだって。緋女の胸の中を、みんなして明け透けに覗いてくれる。頭のいい連中はこれだから。何も隠し事はできないし、演技で誤魔化すこともできないし、時には、緋女自身が気付いていないことさえ、彼らには分かってしまう。

 でも。

 たとえ全てを見抜かれようと……

 緋女は己の胸に手を当て、悪戯っぽく笑う。

苦悩(これ)()()()()だ。お前にはやらねえ」

 言った自分で驚いた。どうしてこんなことを口走ったのだろう。まるで自分で考えた言葉ではないみたいだ。なのに妙にしっくりくる。ずっと前から胸にあったような気がする。

 ――()()()()だ。そうだ。あたしだけのものだ。

 肩で風切り、緋女は店を飛び出した。外ではパンチが緋女を待ってくれていた。

「どうすか?」

「うん。だいじょうぶ」

「お役に立てましたかねえ、へへえ」

「助かったよ」

「いやァ、当然っすよ。このくらいでも恩返ししないと……」

「恩返し?」

 首を傾げる緋女に、パンチが照れ臭そうに頭を掻く。

「俺たち、緋女さんに助けてもらったことあるんすよ。ほら、(ヴルム)が街に山ほど来たとき」

 パンチがローディの首を撫でる。

 あ、と緋女は声を上げた。

 昨年の初冬、万魔の竜(バッドフェロウズ・ヴルム)が襲来した事件のことだ。あの時緋女は、カジュと一緒に100匹余りもの(ヴルム)を狩り殺した。その過程で、襲われていた人を助けたこともあったかもしれない。あの時は時間に追われていたし、あまりにも数が膨大だったから、ひとつひとつを記憶できてはいないが。

「正直覚えてないでしょ?」

「うーん、ごめん」

「いいんすよ、緋女さん忙しそうだったし。でも俺ェ、あの時ほんとヤバくって。前の日に彼女に結婚申し込んだばっかで! 『今度の仕事から帰ったら結婚しような』って。いやーマジでやばいっしょ! これ絶対死ぬやつっしょ! って思ってたらマジで襲われて『やべえマジ死ぬ』って! だからもうホント怖くてェ……そのとき助けてもらったから、俺、もう……憧れてたんす。感謝してます! 絶対いつか恩返ししなきゃって思ってて! まさかこんな日が来るなんて! あっすんません、俺ひとりで喋っちゃって」

 緋女は目を丸くして聞いていた。懐かしいものが胸の奥からこみ上げてきた。この男の喋り方、人懐っこい性格、意外な義理堅さ。以前の友人によく似ている。

 “探し屋”のゴロー。力になりたかった。でも助けられなかった。苦すぎる思い出……

 ちょうどその時だった。ゴルゴロドンの()()()が、第2ベンズバレンの城壁に突き刺さったのは。

 突如の爆音が街を揺るがす。大通りでざわめきが起き、パンチが恐怖でわあわあ騒ぎ出す。ローディは何もかも諦めた風で、しかし落ち着かなげに尻尾を振っている。にわかに巻き起こる混乱の中、緋女だけが事態を察していた。

 ――来たな。

 緋女は刀の柄に手をかけた。

「ね」

「はい?」

「した?」

「え?」

「結婚」

 ああ、とパンチが手を掲げる。その指には、安物ながらも眩しく輝く、結婚指輪が填められていた。

 緋女は微笑んだ。心からの祝意を込めて。

「おめでとう。あと……ありがと」

 助けたかったもの。

 助けられなかったもの。

 気付きもしないうちに助けていたもの。

 その全てが緋女の過去。これまで振り続けてきた剣の軌跡。そして、これから振りぬく刃の行く先。

 緋女という、一条の太刀筋。

「あたし、仕事してくるわ」

 パンチの顔から、ひと撫でに恐怖が拭い去られた。

「そっかァ! 緋女さん!」

 緋女が駆けだす。混雑する人々の頭上を飛び越え、屋根の上まで跳躍し、矢のように走り去っていく。見る見るうちに小さくなっていくその背中に、パンチは力限りの激励を送る。

「緋女さん! がんばって―――――ッ!!」

 街の屋根を真一文字に駆け抜けながら、緋女は火炎の威勢で咆哮した。

「任せなッ!!」

 

 

   *

 

 

 槍投げ第3射。第4射。それらはあえなく狙いを外したが、第5射が再び城壁に命中。街では否応なしに恐怖と混乱が広がりだす。遥か彼方に霞む砂埃を苦々しく見つめながら、巨人ゴルゴロドンは6本目の丸太を掴む。

 そのとき、横手の茂みからひとりの剣士が飛び出し、裂帛の気合とともに巨人の脛に切りかかった。ヴィッシュだ。

 が。

 分厚い皮膚と筋肉であえなく剣は弾き返され、ヴィッシュが焦燥に唇を歪める。文字通り、刃が立たない。

 ゴルゴロドンは低く唸りながらヴィッシュを蹴り飛ばしにかかる。慌てて後退し難を逃れるヴィッシュ。そこを狙い、煌めく銀糸が輪を描いてヴィッシュを取り囲む。

 ――刃糸(ブレイド・ウェブ)! ムードウ!

 とっさにヴィッシュは身をかがめ、襲い来る糸の下を潜り抜けた。すぐさま駆けだし距離を取り、木の陰に隠れながら魔族ムードウの姿を探――そうとした彼の目の前に、横一文字、煌めく刃糸(ブレイド・ウェブ)が迫っていた。

「ウオッ!?」

 避ける暇もあらばこそ。剣を目の前に構えて辛うじて糸を防ぎ、その一瞬の間に刃糸(ブレイド・ウェブ)の下を転がり抜ける。だがその途中で帽子に糸が食い込み脱げ落ち、剣が絡めとられて手から離れる。予備のナイフを抜きながら走り逃げるヴィッシュの背筋に、今さらながら悪寒が走った。

 狩り装束の帽子には鋼糸が編みこまれ、軽量ながらもある程度の攻撃を防げるようになっている。そうでなければ、今頃ヴィッシュの頭は刃糸(ブレイド・ウェブ)に切り裂かれていただろう。まさに間一髪。

「逃げ回るだけか。情けないな、猿め」

 頭上からムードウの声がする。どうやら奴は、樹上の枝のどこかに潜み、上から刃糸(ブレイド・ウェブ)を垂らして攻撃しているらしい。見えづらく長さがある武器ならではの戦術だ。本当に便利。うらやましい。

 などと感心している場合ではない。このままでは、まずい。

 敵を誘き出そうと、ヴィッシュは余裕綽々の顔を装う。

「猿を相手に逃げ隠れか? 大したもんだな、高貴な魔族様は」

「狩りとは安全圏から獲物を追うものだ。そんな単純な事実さえ、獣ふぜいには分かるまい!」

 森の中にいくつもの煌めき。刃糸(ブレイド・ウェブ)が来る! ヴィッシュはその間を巧みにすり抜けながら、内心で歯噛みしていた。

 ――挑発に乗ってこない! 昨日より腰が据わってやがる。死の覚悟……か!

 

 

 ゴルゴロドンはヴィッシュへの対処をムードウに任せ、槍投げの体勢に入った。もともとそういう約束だったのだ。勇者の後始末人たちは必ず槍投げの妨害に来る。その時はムードウが足元を食い止め、その間にゴルゴロドンは1本でも多く第2ベンズバレンに投げつけてやるのだと。

 ムードウは死ぬ気だ。自分に残された命を、可能な限り使()()()()つもりなのだ。

 そのあまりにも悲壮な覚悟に、応えずにはいられなかった。

 ――見ておれ、ムードウ。お前にはわしが付いているぞ!!

 天地震わす咆哮とともに丸太の槍が投擲される。人智を超えた剛力によって槍は亜音速にまで加速され、猛烈な轟音と豪風を撒き散らしながら空を貫かんと飛んでいく。

 が、その槍の進路上に、不可視の翼をはばたかせて小さな影が立ち塞がった。

「《光の盾》《光の盾》《光の盾》《光の盾》《光の盾》。」

 カジュ。空中で《風の翼》までキャンセルし、自由落下しながら魔術ストック5枚分を全力投入。五重に張った《光の盾》で亜音速の槍を受け止める。とはいえ槍の持つエネルギーは圧倒的。《盾》は次々に貫き割られ、光の残滓となって散っていく。

 しかし、目的を果たすにはこれで充分。

 《光の盾》を突き破るためにエネルギーを使った槍は大きく減速。街に届く遥か手前で勢いを失い、何もない草むらに落着した。

「なんと!」

 驚くゴルゴロドンの目の前に、墜落直前で再び《風の翼》を発動したカジュが飛来する。その小さな手のひらには赤く輝く光の玉。巨人の鼻先目掛けてそれを投げつけ、

「《爆ぜる空》。」

 淡々と唱えた呪文が炸裂する。

 巻き起こる爆発。ゴルゴロドンの巨体を丸ごと飲み込む爆炎。常人なら中隊ひとつをまとめて薙ぎ倒すほどの威力がある大量殺戮の術だが、相手は巨人ゴルゴロドンだ。これでもどこまで通じるか……

 案の定、炎を左右に引き裂いて、ゴルゴロドンが堂々たる巨体を現す。損傷は、皮膚を少々焦がす程度。

「やっぱダメかー。」

 などと呑気にぼやいてる間に、ゴルゴロドンの拳がカジュに迫る。カジュは全速力で飛んで逃げ、再びゴルゴロドンと街を結ぶ線上に陣取った。それだけで彼女の意図はゴルゴロドンに通じたらしい。巨人が丸太を掴み上げ、構えを取る。

「OK。勝負だ。」

 カジュの指にひとつずつ、術式の光が灯されていく。

「止めてあげるよ、何度でもね。」

 

 

 ヴィッシュが走る。目を凝らし、微かな刃糸(ブレイド・ウェブ)の煌めきを捉え、針の穴を通すような精度でその隙間を潜り抜ける。うまく避けているようではあるが、その実、とてつもない集中力を要する動きだ。そろそろ気力も体力も限界。遠からず死の糸に絡めとられる時がくる。

 ――くそっ、このままじゃ……

 歯噛みしながらヴィッシュは樹上の葉の中にナイフを投げつける。糸の動きからムードウの位置を予測したのだが、これは外れ。悪態を吐く暇もなく、次なる刃糸(ブレイド・ウェブ)の下を潜り、上を飛び越え、身体を半身にずらして縦糸を裂け、その向こうの安全圏へ抜ける。

 と安心したのも束の間、今度は四方八方を糸が取り囲み、一気にヴィッシュへ迫ってくる。

 咄嗟にヴィッシュは木の枝を折り取り、薙ぎ払うように振り回した。糸の数本が枝に絡め取られ、包囲に隙間が生じる。その枝を踏みつけて包囲の外へ逃げ出す。しかし僅かに避け損ねた。左腕を浅く刃糸(ブレイド・ウェブ)が撫でていく。

 ただそれだけで肌が裂け、鮮血が破裂するように勢いよく吹き出した。

「うおッ!」

 木材や金属のような固い物には絡まるだけだが、相手が柔らかい肉であればこの破壊力。首あたりを絡み付かれたらそれだけで命を取られる。

 そのとき、ヴィッシュの周囲をこれまでにない量の刃糸(ブレイド・ウェブ)が取り囲んだ。彼の負傷と焦りを好機と見て、一気に勝負を決めにきたか。ヴィッシュは歯噛みし、脂汗を滴らせる。

「貴様の罪を貴様自身の血で償うのだ」

 樹上のどこかから魔族ムードウの罵り声が聞こえる。

「己の血の海で溺れるがいい!! 猿がァーッ!!」

 刃糸(ブレイド・ウェブ)がくる。

 逃げ場は――ない!

 

 

(つづく)

 



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第12話-09(終) ジャイアント・キリング

 

 

 微かな風切り音が森に流れ、ひとときの静寂が戦場を支配する。

 次に聞こえてきたのは、絶句したムードウの、呪わしげな呻き声だった。

「間一髪ってとこだ……」

 ヴィッシュが、地に這うように身を低くかがめ、荒い息を吐きながら苦しく笑う。

 彼の頭上では、刃糸(ブレイド・ウェブ)がピタリと動きを止めていた。

 お互いにもつれ合い、複雑に絡まり合って、何ヶ所もの結び目で固定されていたのだ。

「……馬鹿な!? 何故!?」

 ようやく事態を悟り、ムードウが頓狂な声を上げる。ヴィッシュは刃糸(ブレイド・ウェブ)の隙間を慎重に確認しながら立ち上がった。

「仕掛けは簡単。()()だ」

 ヴィッシュが小枝を拾い、頭の側の刃糸(ブレイド・ウェブ)を一本、ピンと弾いた。その糸の両端は、最初に取り落としたヴィッシュの剣と、さきほど樹上に投げたナイフの柄に結ばれている。

 昨夜の戦いのとき、ムードウは転んだ拍子に刃糸(ブレイド・ウェブ)の鞭を何本か取り落とした。ヴィッシュはそれを抜け目なく回収していたのである。

 この糸をあらかじめ剣とナイフに結び付けておき、取り落としたと見せかけて剣を足元に設置。あとはうまく結び目を作るようルートを計算しながら逃げ回り、敵の刃糸(ブレイド・ウェブ)の間を縫い通していったのだ。さながら、織り姫が精緻な綿布を織り上げるように。

「糸ってやつは一度縦横に絡みついたら滅多なことではほどけない。頑丈な素材だからこそ切ってほどくことも難しい。そもそも視認困難な刃糸(ブレイド・ウェブ)なんてものは、初見殺しの暗殺用兵器。それを何度も得意げに披露したのが……」

 ヴィッシュは木の枝を刃糸(ブレイド・ウェブ)の結び目に当て、力任せに地面へ押し付ける。

「あんたの不覚なんだッ!」

 自分の糸に引きずられ、樹上から魔族ムードウが墜落した。痛々しい激突音が響き、ムードウが眼球をこぼさんばかりに目を見開く。辛うじて即死は免れたようだが、この高さから無防備に落下したのだ。骨折程度では済んでいないだろう。

 もはや手足を震わせる体力さえ残っていない。耐えがたい苦痛に上げる呻き声さえ消え入ろうとしている。悪逆非道の魔族の、あまりにも痛々しい姿。

 ヴィッシュは溜息を吐き、手投げ用の小さなナイフを抜いた。

「長く苦しませはしない。すぐにとどめを刺してやる」

 

 

 その悲惨な光景を、目の当たりにした者があった。

 巨人、ゴルゴロドン。

 親友の敗北を視界に捉え、ゴルゴロドンは丸太の槍を取り落とした。大地よりも重く強靭な腹の底から、地鳴りにも似た重低音が湧き上がってくる。眼孔の奥の熱く(たぎ)る脳髄から、溶鉄にも似た涙が溢れ出してくる。

「ムゥ―――――ドォ―――――ッ!!」

 絶叫し、ゴルゴロドンはムードウの方へ飛びかかった。突然の襲来にヴィッシュが大慌てで逃げていく。ゴルゴロドンは雑草でも掻き分けるように森の木々を左右に掻き分け、跪き、嘆きむせびながら、両の掌で、虫の息の親友を、そっと、周囲の土ごとに掬い上げた。

「ムードウ……おお、わが親友よォッ……!」

 涙は滝となって流れ落ち、ムードウの身体を湿らせた。長い長い戦いの日々で渇ききったムードウの心に、それは恵みの雨の如く染み込んだ。ムードウ自身の涙が雨に混ざる。か細い懇願が、彼の口からこぼれ出る。

「たの……む……ともに……」

 ゴルゴロドンは、ゆっくりと、うなずいた。

「ああ、いっしょだ。最後まで、わしがいっしょだよ」

 友の身体を手のひらの中に包み込み。

 ゴルゴロドンが立ち上がる。

 鬨の声で天を震わせ、脚のひと蹴りで大地を踏み割り、ゴルゴロドンは走り出した。突如の突進で風は竜巻めいて渦を巻き、空中のカジュはまともにそれに巻き込まれ、木の葉のように吹き飛ばされた。

 巨人が走る。走る。走る。山を越え、川をまたぎ、宿場町の上をひとっとびに飛び越えて、ただ一直線に――第2ベンズバレンへ。

 常人の10倍の歩幅、10倍の速度だ。街の城壁はみるみるうちに近づいていく。もはや目と鼻の先だ。

 ――やるぞ、友よ。

   見ていろ、ムードウ。

   わしは征くぞ! お前の()()()()()()に、一歩でも、近く!!

 

 

「やっば。」

 その様子を見たカジュが大慌てで《風の翼》の制御を取り戻し、地上のヴィッシュのもとへ舞い降りる。彼は疲労困憊して木の根元に腰を下ろし、負傷した腕に包帯を巻いているところだった。

「治すよ。急いで追わなきゃ。」

「いや、心配ない」

 ヴィッシュは苦痛に脂汗を浮かべながらも、不敵な笑みをカジュに返す。

()()()()()()

 

 

 まさに、その瞬間。

 巨人の胴鎧が――()()()()()に粉砕された!

 突然の衝撃。恐るべき痛打。巨人ゴルゴロドンは一瞬意識を失い、なすすべもなく背中から卒倒する。大地は震撼し、土煙はもうもうと立ち込め、鳥も、獣も、城壁から不安げに見守る衛兵や住人たちも、誰もが音を殺し、固唾を飲んで見守る中、巨人を打ち倒した()()が――いや、剣士が、凛然と巨人の前に立ち塞がる。

「……立てよ、ゴルゴロドン。

 あたしが、テメーを」

 その姿は、研ぎ澄まされたひと振りの太刀。

「メッロメロにしてやるよ!!」

 “刃”の緋女!!

 その呼び声に応え、勇ましい雄叫びが土煙の中から湧き起こった。

 ゴルゴロドンが重々しく立ち上がる。山脈そのものの巨体で緋女と正対する。巨人のどす黒い眼光が緋女を捉えた。彼女の瞳は火の如く燃え、一点の曇りさえなく燦然輝いている。

 ――さらに一段、強くなったな、お嬢!

 なんと嬉しいことだろう。なんと武人冥利なことだろう。人生の()()に得た最大最強の好敵手が、苦悩を越え、躊躇を断ち、己の前に向き合ってくれる。全身全霊を込めて正々堂々の戦いを挑んできてくれる。これほどの幸福が他にあろうか!

 ゴルゴロドンは、魔族ムードウを、そうっと、後ろの木陰に寝かせた。

 緋女の前に進み出て、背中の巨大剣を正面に構える。

 ふたりの達人が、ひとつの戦場で対峙した。

 もはやこれ以上の言葉は、無用。

 風が流れ。

 草木がなびき。

 やがて風景の全てが消える。

 天もない。地もない。山も、谷も、林も岩も、何もかもが意識の外へ追いやられる。あるのはただ、刃と一体となった肉体。静かだが力強い剣気を湛える対手。間合いの内か、あるいは外か、その一事のみが存在する空間。絶え間ない修練の過去。生と死の可能性煌めく未来。それら全てを了解し、不断に見つめ続ける自己。その拠って立つ場所。現在(いま)此処(ここ)

 心、静まる。

 無限に思える対峙の果てに――ふたりは、動いた。

 刹那、光が爆ぜた。

 あまりの早業。その場にいた誰にも、剣士たちの動きは見えなかった。卓越した技は常人の目には留まらず、ただ結果が残るのみだ。気が付けば緋女とゴルゴロドンは互いの横を切り抜け、背中合わせに立ち尽くしていた。岩のように微動だにせず。

 人々が息を飲む。

 ひとつの岩が、揺らいだ。

「見事……だ……!」

 ゴルゴロドンという巨大な岩が。

 ゴルゴロドンは血を吐いた。巨体が重力に任せてゆっくりと傾いていき、ついに地鳴りを起こしながら倒れ伏した。

 途端に街から湧き起こる大歓声。城壁の上から、あるいは街道から、戦いの様子を見守っていた人々が、声を()らして緋女の勝利と栄誉を称える。無敵だ、英雄だ、救いの主だと、好き勝手に大仰な肩書を付けて。

 しかし。緋女は一顧だにしなかった――ただ、好敵手の方を振り返り、仰向けに寝返りを打った彼の、横顔を寂しげに見つめるばかりだったのだ。

 言葉がない。

 緋女は己を呪った。己の無知を。あるいは無能を。お喋りは好きだった。話すのは得意なはずだった。なのにこんな時、一番言葉が必要なこの時、死に逝く友にかけてやる言葉が見つからない。

「ヌフッ……そんな顔をするな、お嬢。わしはな……満足しておるよ……」

 ゴルゴロドンが温かく笑う。ついこの間、酒を酌み交わしながら笑いあった、あの夜と同じように。

「因果な商売よな、戦士とは……

 わしはのう……ほんとうは……戦士なぞより、詩人になりたかったのだよ……酒と、風月を愛し……雅と情のなかを、漂泊して……」

「聞かせてよ」

 ゴルゴロドンが吃驚(びっくり)して、緋女に横目をやる。

「お前の(うた)。もうひとつ」

 巨人は目を閉じ――高く、清く、(うた)いだす。

 

 道の果て ()うて別れて 琢磨の友……

 

 そこで声が止んだ。

 緋女はひとり、天を仰いだ。

 空は無神経に青く、どこまでも澄み渡っているのだった。

 

 

   *

 

 

 ひとつの仕事が片付き、後始末人たちは日常に戻った。

 朝起きて、身体を鍛え、飯を食い、仕事を探し、道具を買い揃え、勉強し、付き合いに顔を出し、剣を手入れし、酒を楽しみ、よく眠る。いつも通りの、新たな仕事に備える日々。

 それから1ヶ月ほどした、ある夕暮れのことだった。

 カジュが居間の机で勉強に勤しみ、ヴィッシュが台所で夕食の支度をしている側で、緋女は床にあぐらをかき、太刀を念入りに手入れしていた。

 窓から射し込む夕陽を浴びて、刃が茜色に煌めく。

 軽快にペンの走る音。魚の脂がよい具合に焦げていく香り。光がつんと目を刺して、緋女は、すう、と目を細める。

 なぜだろうか。

 そのとき不意に、かつて味わったことのない衝動とともに、胸の奥から言葉が湧き出した。

 

 道の果て ()うて別れて 琢磨の友

 夢の中なら また戦える

 

 静寂。

 緋女は苦笑する。

「ダーメだあ。ぜんぜんダメ」

「いや」

 振り返れば、ヴィッシュは、おかしいくらい真面目な顔をしていた。

「いいんじゃないか。俺は好きだぜ」

 まばたきをふたつ。

 緋女が太刀を鞘に納めると、鯉口がキンと、澄んだ声で哭いた。

「ありがと」

 

 

THE END.

 

 

 

■次回予告■

 

 足切りの刑を受け追放された詩人は、両目を潰された鬼の赤子と出会う。寄る辺を持たぬ者同士、山中で親子の如く暮らすふたりであったが、やがて目覚めた鬼の本能がその平穏を壊していく――

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第13話 “暗闇の中に、ひとつ”

 

乞う、ご期待。

 



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第13話 “暗闇の中に、ひとつ”
第13話-01 詩人と鬼子


 

 

 暗闇の中に、ひとつ。

 詩人は月明かりだけを頼りに荒野を這った。這うよりほかなかったのだ、脚切られた不具の身をもってしては。

 自業自得ではあった。素晴らしい美貌と美声、巧みな弁舌。歌の研鑽もそっちのけで取り組んだ下半身の技が、いったい幾たりの娘を快楽の泉に引き込み、幾たりの妻の獣性を解き放ったであろう。だが、彼女らに与えた悦びとは裏腹に、彼の手練手管は、彼自身にはろくなものを与えなかった。恐るべき罵倒、たっぷりの暴力、失われた片脚に、寄る辺もない放浪……

 今となっては、月も濃密な煙に遮られ、頼りなく空にかかるのみ。

 いい気味だ、と詩人はほくそ笑んだ。あの煙は街から上るものだ。魔王が隣国に侵攻したらしいとは、少し前に聞いた。その魔手がついにこちらへも回ってきたのだ。街を包む火が、遠くおぼろげに見える。今ごろあの煙の下では、《死》が刈り入れに奔走し、《陵辱》が下卑た笑みを浮かべながら闊歩していよう。

 追放され、苦難の中に彷徨えばこそ、詩人は難を逃れた。

 皮肉な運命に、彼は笑わずにはいられなかった。

 と。

 彼は、自分の笑いに奇妙な唸り声が呼応するのを聞いた。

 聞き違いではない。いささか不真面目とはいえ、それなりに鍛えた詩人の耳であった。子供のようだ。苦しんでいる。かすかな声色のみでそこまで察した詩人は、興を惹かれて、這いずっていった。なぜこんなところに子供が? という好奇心。呻く病人を見物してやるのもよい。という悪趣味。

 苦労して近くの岩の裏側まで回りこむと、果たしてそこに子供はいた。

 見たところ、ほんの2、3歳の幼児である。短い手足に大きな頭はまさしく幼子のそれであった。だが、かわいくはない。腕も脚も痩せて細く、頬に赤みもなく、無邪気なさえずりの代わりに、辺りの全てを怨む呪詛の声を挙げている。

 なにより、短く尖った角が左右一対、頭から突き出していたのだ。

 鬼。

「おまえ……」

 ついつい、声が出た。鬼の子は、それで他人の存在に気づいたようだった。いっそうけたたましく、怯えた犬にも似た悲鳴を矢継ぎ早に吐き出した。幼いなりに、精一杯の敵愾心を込めた声であった。だが、かつて詩人を襲ったあの罵倒に比べれば愛おしくさえある。詩人はもう少し這い寄った。幼子の声が増した。

 そのとき、月を隠していた煙が薄れ、子供の顔が照らし出された。ぞっと背筋に悪寒が走る。この子がこれほど怯え、警戒しているわけがわかった。

 鬼の子の目は、ふたつとも、なにか鋭い刃物で抉られていたのだ。

 恐らくは、魔王軍にゆかりの子であろう。魔王は鬼の軍勢を遣うというから。そして何かの事情で戦に巻き込まれ、こんな体にされてしまったのだ。とすれば、この子から光を奪ったのは人間か。詩人と種を同じくする、つまらなく弱いくずどもか。

 憐れな。と思うと同時に、自分の抱いた心情に驚いた。今までさんざん世間を舐めてかかり、他人など、敵か、金づるか、気持ちの良い穴か、くらいにしか考えていなかった彼だ。それが今、見知らぬ、ひとですらない餓鬼一匹を、抱きしめたいと感じている。

 それは同じ不具の身であることからくる同情か。それとも――

 どちらでもよいような気がした。

 もはや彼は迷いもしなかった。手を伸ばし、幼子を抱き寄せた。幼子が震えた。その丸い牙が、詩人の腕に噛み付いた。必死になって。血が滲むほどに。男は驚きもしなかった。少々ちくりとするだけだ。そのまま胸のうちにくるんでやり、角のそばを撫でた。腕の痛みが僅かに緩むのがわかった。

 詩人は歌った。たったひとつの、得意技であったから。

 歌声は甘く。

 いつもながら愛に充ち。

 いつもならざる愛に充ち――

 幼子はついに口をはなし、男の傷から漏れる血を、舌先に、舐めた。

 いつの間にか、月がふたたび戦火の向こうに隠れていたが、今となってはどうでもよい。

 月明かりなど、もう要らない。もっと温かな灯火を、こうして手に入れたのだから。

 

 

   *

 

 

 鬼が奔る。谷を、翼あるように。

 三つの岩を飛び、五つの木を叩き、七つの茂みを蹴散らして、青空に踊り出る。心まで引き締まる春先の寒気。まっすぐに肌を炙る澄んだ太陽。眼下には緩やかにうねる一面の緑。吸い込んだ息が、胸の奥で歌いだす。

「うッ、うッ」

 体いっぱいに風を浴び、鬼はあらんかぎりの声を出した。

「う―――――っ!」

 山という山がこだまを返す。肌がぴりぴり震えて痺れる。上機嫌にニパリと笑い、体をひねって宙返り。鬼は崖下の草地に勢いよく着地した。

 そこには一軒の丸太小屋が建っている。素人仕事のドアが軋んで開き、中から男が現れる。無くした片足を杖で補い、いくらかは筋肉もつき、目つきもすっかり穏やかになってはいたが、紛れもなく、あの詩人であった。

「ナギ。首尾はどうだ?」

 詩人が問うと、鬼は右手をぐいと掲げた。引きずってきた鹿は、鬼の体躯を超えるほどである。若き狩人の誇らしげなことといったら。思わず詩人は頬を緩め、彼女の凱旋を祝福するのであった。

 

 

   *

 

 

 あれから――鬼の子と出会ってから、はや10年の月日が流れた。

 詩人は鬼の子をナギと名づけた。故郷に伝わる、荒ぶる女神の名だ。あの時、まず汚れた体を洗ってやろうと思いついたのが幸いだった。でなければ、女の子だと気づかないまま、いささか不適切な名をつけていたかもしれない。

 この10年というもの、詩人とナギはたったふたり、彷徨いながら暮らしてきた。幼子を抱えた不具の身である。どれほどの苦労があったか知れない。詩人は子を背負って近隣の村々を巡り、歌物語を活計(たつき)とした。中には親切なものもいたが、おおむね客は傲慢でけちだった。わずか碗一杯の雑穀のために、()もすがら歌わされたこともあった。

 だが不思議と不平不満は湧かなかった。あれほど好きだった女にも、手を出す気さえ起きなくなった。背中でもじもじと動くナギの感触が、彼を、ただ生きのびることのみに集中させた。

 やがて少しずつナギは大きくなり、角が伸びて、人里を連れ歩くのが難しくなった。

 同じ頃から、ナギはひとりで山中を駆け回り、食い物を採って来るようになった。はじめは木の実や茸がせいぜいであったが、やがて魚を、兎を、飛ぶ鳥すらも捕らえはじめた。

 彼女の目はぐちゃぐちゃに潰れたまま治ることはなかった。目元は帯布を巻いて隠しているのだ。にもかかわらず、耳と鼻だけで獲物を察知し、見事に狩ってのける。

 暮らしは、一気に楽になった。

 以来、ふたりはこの山に丸木小屋を建て、定住するようになったのである。

 

 

   *

 

 

 鹿の解体を終えたころには、もう日暮れが迫っていた。今日の夕餉はごちそうだ。水に晒してあく抜きした肝を、切って、ただ焼く。これ以上の贅沢はない。じゅっと湧き出す脂の香り。かまどに身を乗り出した詩人の背に、ナギもまた、甘えてもたれかかってきた。ウッ、ウッ、と浮かれた声が耳元で跳ねた。彼女の手が詩人の肩を叩いて急かした。口元のよだれを隠しもしない。

「もうすぐだよ」

「うー」

「まだまだ」

「う……」

「よし焼けた」

「うっうー!」

 皿にあげた焼きレバーに、ナギは手づかみで飛びかかった。さすがに熱いと見えて、なんどかお手玉しながら、それでもがぶり、と豪快にかじりつく。

「きゅーっ」

 甲高い喜びの唸り。ふたくち。みくち。止まらない。気づけば指は、脂でしとどに濡れている。その一滴さえ愛おしく、舌で丹念に嘗め回す。

 ふと気づいて、ナギは肝のひとかけを差し出した。かまどの番で両手が塞がっていた詩人は、彼女の手から直に食う。口に入れた肝は実に甘く、旨く、少し、ナギの味がした。

 満ち足りた食事が終わると、ナギは寝床にもぐりこんだ。藁と板とむしろで組んだだけの粗末なものだ。狩りに疲れ、腹も膨れて、彼女はたちどころに眠りに落ちた。その寝息を背中に聞きながら、詩人はもう一仕事にとりかかる。太い木の枝から、ナギのために棍棒を削り出すのだ。俊敏なナギも、刃物の扱いは苦手である。狩りの武器にも棒か石しか使おうとしない。

 それゆえ、こうした細かい手作業は詩人の役目だ。ナギは野山で食い扶持を狩る。詩人は彼女にできぬことをする。たとえば、裁縫、洗濯、料理。時に人里に降り、金を稼いで文明の産物を得ることもあった。もちつもたれつ、ふたりはここまでやってきた。

 都市にかぶれていた頃には想像さえできなかった安寧が、ここにはあった。

 背後でナギが寝言を言った。

 振り返れば、ナギは派手な寝返りでむしろをすっかり剥いでしまって、どころか、服もはだけてしまって、柔らかく上下する胸を無防備に晒している。詩人は思わず声を挙げた。この子も、もう13歳くらいになる。すっかり女のからだになった……

 照れながら詩人は彼女の襟元を調え、肩までむしろを掛けてやった。ナギの頬が不意に緩み、嬉しそうに唸った。楽しい夢でも見ているのか。夢の中でも、野山を駆けて獲物を追いまわしているのか。

 詩人は、仕事の続きに戻った。

 小さな仕事。小さな驚き。小さな喜び。小さな温もり。

 朝が来れば、鳥の声に目覚め。

 腹が減れば飯を炊き。

 夜が来れば、寝床で互いを暖めあう。

 ただそれだけの暮らしが、どれほど詩人を癒したであろうか。

 そしておそらく、それは、ナギにとっても。

 

 

   *

 

 

 あるとき、ナギが人間を()ってきた。

 出迎えた詩人はあんぐりと口を開け、しばらく声もでなかった。なにしろナギは、いつも鹿や兎をそうするように、誇らしげに人間の男を掲げて見せたのだから。

「うー!」

「ばか! これは食い物じゃない」

「う?」

 ふだんと違う父の反応に、ナギはこくんと首をかしげた。杖を頼りに詩人が寄っていく。ひざまずいて男の容態を見る。中年で小太り、旅装束ではあるが旅慣れてはいなさそうだ。怪我は頭にひとつ。派手な出血があるが、傷は深くない。ナギの棍棒に目をやる。血はついていない。

 おそらくどこかの崖に転落でもして、気を失っていたのだろう。ナギはそれを拾ってきただけだ。我が娘が襲いかかったのでないと判ると、ほっと安堵の溜息をつき、

「家の中に運ぶんだ。手当てをしてやろう」

「う」

「中だ」

 家のほうを指差す仕草で、辛うじて言わんとするところは理解したらしい。不承不承、ナギは男を引きずっていった。

 困ったのはそのあとだ。詩人はしょせん詩人に過ぎない。医者ではない。傷の手当など、野山の薬草を摘み、それをすり潰して傷口に貼ってやる程度のことしかできない。乏しい知識で行う頼りない素人仕事だ。あとはただ、祈り続けるしかなかった。

 ナギはその間、しきりに怪我人を気にして、匂いを嗅いだり、つついたり、時には舐めてみたりした。詩人が声をかけると、ぱっと飛ぶように離れて、部屋の反対側の隅に膝を丸める。しかししばらくすると、また、そろそろと患者に這い寄っていくのだ。

 彼女が詩人以外の人間をまともに見るのは、これが初めてと言ってもいい。右も左も分からない幼児の頃に、詩人の背中に負ぶわれたまま人里を訪れて以来だ。単に人間がものめずらしいのだろうか。あるいは他に、特別な興味があるのだろうか――お世辞にも見目良い男とは言えないが。詩人の胸に、雲のように湧き上がるものがあった。雲はやがて小さなしこりとなって、彼の(うち)に凝り固まった。

 

 

(つづく)

 



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第13話-02 目覚め

 

 

 翌朝、怪我人は目を覚ました。ナギには朝早くから狩りに行かせておいた。彼女の角を見られては厄介なことになる。

「ここは? あなたは?」

 商人ふうの訛りで男は言った。詩人は食事の皿を運んでやり、

「わたしの家です。わたしのことは、名もなき世捨て人で結構」

「これは一体どういうわけで……」

「娘があなたを拾ってきました。それ以上のことはわかりませぬ」

「そうだ、崖から脚を滑らして……助けてくださったのですね。娘御に、ぜひお礼を」

「どうかお構いくださらぬよう。あれは……その、言葉がわからぬので」

 ああ、と商人は溜息をついた。腑に落ちた、お気の毒に、と言わんばかりに。彼がちらりと詩人のなくした脚を見たことにも気づいていた。気に食わないやつだ。表向きの言葉遣いが慇懃(いんぎん)なぶん、かえって態度の不躾(ぶしつけ)さが増すように思えた。

 出された食事を、さして旨くもなさそうに食いながら、商人は、ところで、と切り出した。

「わたくしは、第2ベンズバレンで商いを営むものです。道楽で伝承や神話の類を研究しておりまして」

「ほう」

「ここには、奇妙な魔物がいるという噂を聞きつけて参ったのです」

 思わず詩人の眉が動いた。詩人は空になった皿を片付けるふりをして、商人に背を向けた。

「山の狩人に、見たというものがおるのですよ。翼あるように駆け回る鬼の姿を。魔王軍の生き残りか……ひょっとしたら、太古の種族が未発見のまま生き残っていたのやもしれません。おおかた見間違いでしょうが、ま、ロマンですなァ」

 ひとりで勝手に喋り、勝手に笑う。詩人は何も言わない。

「何かご存知ありませんか?」

「知りませんね」

 ぴしゃりと詩人は答えた。

「ここで暮らして7年になりますが、太古の種族など見たこともない。ただの噂でしょう」

「そうですか」

「それに、鬼なんてものがもしいるのなら、あなたの身が危ない」

「というと?」

「見つかったら喰われてしまいますよ」

 商人は大笑いした。もっともだ、まさにそのとおりだ、と、膝を叩いて笑い転げた。もうすっかり傷の具合は良いようだ。詩人はくすりともせず、じっと商人を睨み続けていた。

「あなたのおっしゃるとおりですな。気分もよいし、脚には傷もないようだし」

 商人は寝床から降りて、グッ、グッ、と床を踏みしめる。

「これ以上怪我しないうちに、わたくしは山を降りるとします。まことにお世話になりました」

 と、彼は懐から金貨を取り出し、詩人に押し付けた。商人は去っていった。しばらく詩人は、手の中の金貨を見つめていた。やがて、じわじわと、さっきのしこりが膨らんでいくのを感じた。しこりはざわめきとなって詩人を突き動かした。

 不安。何の不安か。寂しさ。それもある。

 いてもたってもいられず、詩人は杖を手に取った。

 ナギ。どこだ。

 

 

   *

 

 

 速く。

 そう焦るほどに、ままならない自分の体が呪わしい。得体の知れない不快。漠とした(かつ)え。逢いたい。ナギに。その一心で足を動かす。杖に擦れて腋が痛む。息が切れる。脂汗が噴き出す。遅々として歩みは進まない。心はとうに彼女の元へ飛んでいるのに、体がそれに追いつかない。

 ナギはきっと、いつもの渓流にいるはずだ。いつものように水に戯れ、いつものようにはしゃぎまわっているはずだ。靄のようだった不安が、突如形をとって詩人の脳裏に現れた。商人を名乗ったあの男は山を降りると偽り、ナギを捕らえに向かったのではないか? 奴がナギを打ち据える、ただその姿を想像しただけで喉が詰まる。肺が捩れる。心臓が何者かに握りつぶされ、行き場をなくした血潮が体を煮立てる。

 やっとの思いで、詩人は河原に辿り着いた。

 大岩に手をつき、そっと、向こうを覗き見る。

 目の覚めるような緑。その下で、淵は墨色に横たわる。水面に編み上げられた複雑な波紋がひたりと止まったかに思える。音もない。動きもない。その光景が、時の流れから切り抜かれた絵画となって、詩人の眼前に現れた。

 ナギが、そこにいた。

 全身を彩る、しなやかで引き締まった筋肉。筆を滑らせたかの如き曲線。健康的に焼けた肌は吸い込まれそうなほど深い。小ぶりな乳房が、吐息に合わせていきいきと弾む。濡れた薄布の下に浮かび上がる、女のからだ――

 詩人は息をするのも忘れ、見惚れた。

 いったいどれほどの間、そうしていただろうか。

 突然、足が滑った。詩人は転んだ。懐から金貨が転げ落ち、河原の岩に当たって甲高く泣いた。それでようやく、彼は、自分がナギに歩み寄ろうとしていたことに気づいた。知らぬ間に彼女に引き寄せられていたのだ。

 その音を聞きつけて、ナギが跳ねるようにこちらを向いた。警戒心がありありと伝わってきた。立ち上がろうにも、体が酷く痛む。詩人は伏したまま娘を呼んだ。

「ナギ!」

 その一声で、通り雨の過ぎ去るようにナギの警戒は解けた。元気よく水を掻き分け、駆け寄ってくる。その無邪気さには一片の曇りもない。その姿が詩人を安心させた。誰かに危害を加えられた様子はない。杞憂であった。あの商人は、言葉通り大人しく山を降りたのであろう。

 詩人のそばまで寄ってくると、ナギは小首をかしげ、しゃがみこみ、手探りで詩人の姿を探した。彼が倒れているのに気づくと、(いたわ)りを込めて腕や脚を撫でさすってくれた。詩人は身を起こそうとした。すかさずナギが手を貸してくれた。半ば抱きしめるようにして、彼の体を支えてくれた。

 ようやく、座位にまで起き上がると、詩人は疲れをそっと吐き出し、岩に背中を預けた。

 川は、脚を伸ばせばかかとが浸かるほどの所にあった。そうしてみると、実に心地よかった。むやみに熱く(たぎ)ったものが、すっと冷めていく。そして隣にはナギがいる。彼女は甘えて、ずっと詩人に抱きついたままだ。頬が二の腕に擦り付けられた。角がちょうどいい具合に腋の下に潜り込んできた。

 反対の腕で角の付け根を撫でてやると、それに応えるように、彼女の指も詩人の首をなぞった。

 時はゆったりと流れだす。風が吹き、緑をざわめかす。水面に魚が跳ねた。温もり、涼しさ、どちらも肌で感じられる。えもいわれぬ幸福感があった。ずっとこうしていたかった。

「ナギ」

「う?」

「お前は俺の娘だよ」

「うー」

 詩人は苦笑した。言葉で言っても通じまい。

 だから彼は歌った。

 それは愛の歌だった。かつて脚が2本あったころも、絶えず歌い続けてきた歌だった。いまにして思えば、どれほど空虚な歌声だっただろう。愛を歌い上げながら、愛を信じてはいなかった。理解してもいなかった。

 今は解るか? 感じてはいる。

 今は信じられるか? そう、少なくとも。

 ナギの頭がもぞりと動く。頬の代わりに、唇が二の腕に触れた。舌先が詩人の肌をくすぐった。ぞくりと、快楽が背骨を這い上がった。驚いた詩人の視界に、転がった金貨が入る。金貨の浮き彫りが、黄金色の瞳で詩人を見ている。

 と、閃光のような痛みが腕を刺した。

 思わず詩人は悲鳴を挙げた。何事かと見れば、ナギが腕に噛み付いていた。鋭い牙が2本、詩人の薄い皮膚を突き破っていた。ナギが我に返る。弾かれたように飛び退く。詩人の傷口には、赤黒い血が玉を作る。

「ナギ?」

 その呼び声にびくついて、ナギは恐る恐る再び寄ってきた。申し訳なさそうに、舌を出して傷口を舐めはじめた。

 娘の舌にくすぐられる快感も忘れ、詩人はナギを見つめた。一体どうしたというのか。別に大した傷ではない、彼女も悪意あって噛んだわけではなかろうが。遊びのつもりが力が入りすぎた、のだろうか。子犬がじゃれあうとき、やってしまうように。

 そうなのだろうか。

 ふと見ると、渓流の淵は濁り、月のない闇夜にも似て、黒々と揺蕩っている。

 気がつけば、我が足先もまた、深淵に浸かり溶け込んでいくかのようであった。

 

 

   *

 

 

 さて、そのふたりの様子を、遠眼鏡で覗き見る男があった。あの商人である。

 商人、それは本当だ。魔物の噂目当てに来たのも間違ってはいない。

 ただ、ロマンを追い求めているという話、そこだけが嘘だ。

 彼が求めるものはただひとつ。金である。

 この小太りの中年男は、特別な人材派遣業である。奴隷商人と呼ぶ者もいる。本来の仕事は、貧しい僻地の農村などから女を安値で(さら)ってくることだ。土臭い娘ほど、ひねくれた金持ちには好まれる。風呂に入れて、化粧をしてやり、下品にならないぎりぎりの所まで肌を晒せば、仕入れの100倍近い値が付くこともある。

 それにつけても欲望というのは不思議なものである。どれほど渇望したものであろうと――いや、強く望むほどに、かえって――手に入れた後には虚しさばかりが残る。満ち足りなくなる。別のものが欲しくなる。別の、もっともっと素晴らしいものが。

 こうして膨らみ続ける欲求を常に満たしてこそ、りっぱな奴隷商というものである。とはいえ、最近は少々行き詰まりを感じていたのだ。人間の娘に対して、少年に対して、時には動物に対して、あらゆる悦楽の技を試みたお客さまがたは、もはやまともな方法では満足できなくなりつつあった。何かが必要だ。これまでとは一線を画す、極めて斬新な何かが。

 そんなおり、仕入れに訪れた農村で噂を聞いた。野山を駆けずり回る、鬼の娘の噂を。

 聞いた瞬間ピンと来た。となれば、さすがに商売で財を成した男である。持ち前の行動力を発揮して、奴隷商はすぐさま山に分け入った。

 その鬼とやらが商品になるかどうか。見極めは、誰にも任せられない。長年鍛えた自分の眼でなければ。

 日ごろの運動不足が祟って転落事故を起こしたのも、むしろ幸いだった。おかげで世捨て人を名乗る貧乏人に出会えた。ひょっとして、と思ってかまをかけてみた。見事にアタリだ。世捨て人のあの行動。魔物の話を聞いて、思わず眉を動かし、表情を読まれないように背を向けた。奴隷商は見逃さなかった。

 いるはずだ。この近くに。世捨て人とともに生活し、よく人間に慣れた、鬼の娘が。

 そこで一計を案じた。わざと世捨て人を不安がらせるようなことを言っておき、山を降りるふりをして、小屋のそばに隠れる。あとは、養女を心配して飛び出す養父の後を追うのみ。相手の体はあのありさまだ。不慣れな山道といえども、尾行するのは難しくない。

 奴隷商の機転は見事に図に当たり、彼はついに目当てのものを見つけ出したのだ。

 遠眼鏡を下ろし、彼は深くため息をついた。

 すばらしい。

 これほどの原石が、このようなところに転がっていようとは。

 あの娘は美しい。捩れた角と潰れた眼が玉に(きず)、と素人ならば言うところ。奴隷商に言わせれば、それすら異形の美を際立たせるものでしかない。あれならば、いくら積んでも惜しくないというお大尽が、ごまんと現れるだろう。

 そうと分かれば、もうここに長居することはない。すぐさま荷物をまとめ、彼は山を降りた。あの鬼子は是非にも欲しい。だが焦りは禁物。人手を集め、入念に準備を整え、万全の態勢で挑まねばならない。

 奴隷商は大胆な行動力の持ち主でもあったが、他方、慎重で周到な男でもあったのである。

 

 

   *

 

 

 河原で詩人に噛み付いたあの時以来、ナギは明らかに豹変した。

 ひとくちに言えば、詩人を避けているようであった。朝早く、詩人が目覚めるより前に狩りに出る。戻ってくるのはとっぷりと日が暮れてから。作ってやった飯に口をつけないことすらあった。そして夜には詩人とは別の場所でひとり丸くなって寝るようになった。

 古今、娘は年頃になると父親を疎むものである。ナギにもその時が来たということなのだろうか。

 一方で、奇妙な気配を感じることもあった。ナギがじっと彼の背中を見つめている気配。彼女には眼がない、見えるはずがない。なのになぜか感じるのだ。確かに見られている、と。

 折悪しく、多雨の季節に差し掛かりつつあった。何日にも渡ってしつこく雨が降り続けた。狩りにも出られず、ナギはずっと家で悶々としていた。声をかければ寄ってくることも、逃げていくこともあった。時折、意味もなく獣のように唸ったりもした。

 ある日、痺れを切らしたナギは、ついに雨の中に飛び出した。

「おい!」

 詩人が呼ぶと、土砂降りを浴びながら振り返る。しかしそれも一時のこと。彼女は黒々と雲の重なる空の下、逃げるように木々の間へ消えていった。家の中を見れば、愛用の棍棒を置いたままだ。得物も持たずにどうしようというのか。

 だが、詩人には追うことも探すこともできない。この雨の中、彼の体で、逃げようとするナギに追いすがることなど到底不可能だ。

 一体何が、こうも彼女を苛立たせているのだろう――

 それから数時間。不安を拭えぬまま針仕事で気を紛らわせていると、誰かが小屋の戸を叩いた。

 ナギが戻ってきたのか? いや、違う。彼女はノックなどしない。誰何(すいか)してみれば、ドアの向こうの男が応える。知らない声だ。

「旅のものなんですが。雨宿りさせちゃもらえませんか」

 薄く戸を押し開ける。

 ずぶぬれの赤犬を連れた、背の高い男が、善良そうな笑みを浮かべてそこに立っていた。

 

 

   *

 

 

「助かりました。雨具の用意はしてきたんですがね、こうも激しくちゃ」

 雨合羽を脱ぎながら男が言う。なるほど彼の言うとおり、猛烈な雨水が、あの頑丈そうな耐水革さえ貫いて、じっとりと染みこんでいるようだった。足元の犬が全身を振り回して水を飛ばす。

「冷てッ! おい緋女」

「ぐるるうーう」

「いま拭いてやるよ、まったく……」

 荷物から引っ張り出した布で擦ってやると、犬は上機嫌に尾を左右させた。詩人が差し出した白湯に、男は丁重に礼を述べる。悪人ではなさそうに思える。が、警戒心を拭うことはできなかった。あの商人は言っていた。ナギのことが噂にのぼっていると。ひょっとしたら、この男も彼女を狙って来たのかも知れない。

 犬を拭き終わると、男は荷物を探り、煙草を取り出した。舶来の葉巻煙草だ。さっきの雨合羽といい、身なりといい、この煙草といい、金の掛かったりっぱなものだ。男が煙草を勧めてくる。世捨て人には過ぎた贈り物だ。一度は断ったものの、雨宿りの礼だと言って愛想よく差し出されては、我慢できるはずもなかった。

 かまどで火をつければ、懐かしい香りが口の中に広がる。昔はこうした良い煙草も、好んで呑んだものだった。

 煙が垣根を覆い隠したのであろうか。ふたりは他愛もない話に興じた。この男の話は実に興味深かった。魔王戦争から10年、ろくに接点のなかった世俗の変化。王都やハンザのことは詩人も知っているが、新たに建造されたという第2ベンズバレンの威容は聞くだけでも胸が躍る。その賑わい。機能的に絡まりあった巨大な街道と運河。息つく暇もなく来たりては去る異国の船。無数に立ち並ぶ屋台に、老若男女の笑い声。

 まるで眼に浮かぶよう。詩人はつかの間、街の喧騒に遊び、潮の香りに酔いしれた。

「あなたは街で何をしておられるのです?」

 問われて、男は頭を掻いた。

「ま……何でも屋、みたいなもんです」

「こんな山中に、いったい何のご用で」

 つう、と男は紫煙を吐いた。

 その目が急に鋭く尖り、詩人を射抜く。

「あんたに会いに来たんですよ」

 詩人はとっさに腰を浮かせた。男は構わず続ける。

「結論から言いましょう。あんたは、あの子と別れたほうがいい」

「お前は何者だ!」

「俺の名はヴィッシュ」

 男の声は、飽くまでも静か。

「勇者の後始末人だ」

 

 

(つづく)

 



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第13話-03 心と、肉と

 

 

 何かが自分の中にいた。

 そうとしか思えなかった。言葉を知らぬナギには、それを訴える術はなかったが。

 内側で暴れる何者かに突き動かされ、ナギは山を駆けた。細部まで知り尽くしていたはずの山々が、今は全く違って視える。眼ではない、肌が違うと感じている。降りしきる雨。暗闇の肌触り。光なき世界。

 野兎が身を潜めるのを聴いた。と思ったときには、既に獲物は手中にあった。兎の肉を力任せに引きちぎった。はらわたが溢れ出た。それを牙もて噛み千切り、雨水交じりの血を啜る。歓喜の雫が喉を潤す。

「あ!」

 ひとときの充実が、声となって漏れた。

 だが、欲望は不思議なもの。

 もっともっと、欲しくなる。

 もっともっと、素晴らしいもの。

 と、そのとき、森の木々がざあっと揺れて、何かがナギの上に覆いかぶさった。それは大きな投網であったが、眼も効かず知識もないナギには知る由もない。ただ混乱を来たし、突如戒められた自分の体に苛立ち、暴れ狂うのみだ。

 その耳でナギは足音を聞いた。ひとつ。ふたつ。たくさん。森の獣とは全く違う、鈍重で二本足な足音。

「おうおう、いきがいいねえー」

 心底うれしそうに、男は言った。

 ナギには見えまいが、そいつは小太りの中年の――あの奴隷商であった。両脇には屈強な男たちが数名。そのうえ魔法使いじみた格好の者もいた。

「野性味が残るくらいがいいからねえ。料理したあとでも」

 けだものの声でそう言って、奴隷商は、笑う。

 それを聴きながら、ナギは何を思うだろう。

 怒り。ではない。

 恐れ。違う。

 彼女をたったひとつのものが埋め尽くす。

 嬉しい。

 鬼が牙を剥いた。

 

 

   *

 

 

「“腑分け鬼”って知ってるか」

 詩人が怒りを顔面に貼り付けたまま何も言わないのを見て、ヴィッシュは一方的に続けた。

「魔王軍が創り出した魔物のひとつさ。鬼をベースとして、人肉を好んで食うように操作が施されている。もちろん、味方の魔族はお好みじゃないって寸法だ」

「あの子がそうだというのか」

「幼いうちはまだいいが、成体になれば本能的に――」

「ナギはそんなことはしない!」

「もう、ひとり食われてるんだ」

 雷鳴が走った。

 体が石にでもなったかのようだった。

 この男が何を言っているのか、詩人にはとても理解できなかった――いや、理解したくなかったのだ。

「5日前、この近くで狩人が襲われた。その相棒が逃げ帰って言うには、襲ってきたのは女の鬼なんだと。年のころは12、3。目元に眼帯を巻いていたそうだ。

 心当たりはないか? 人肉に執着を示していたり。長いこと家に戻らなかったり。よそでたらふく食べてきたようなそぶりだったり……」

 全てに思い当たるふしがあった。

 詩人は、浮かした腰をむしろの上に落とした。体中の筋肉という筋肉が萎え、まるで他人の体でもあるかのように、重荷となって彼に圧し掛かった。

「うちの若いもんに言わせりゃあ、鬼とヒトが似てるのは、収斂(しゅうれん)進化ってものに過ぎないらしい。たまたま似た形になっただけ……種としてはなんの関わりもないし、混血を作ることもできない。

 あの子は俺たちとは別物だ。

 あんただって例外じゃない。このままじゃ……あんた、あの子に食われるぞ」

「そんな……わけがない……」

 詩人の声は、雨音に掻き消されそうなほどに、細く。

「ずっといっしょだったんだ……

 わたしとナギは、通じ合っているんだ……」

 ヴィッシュはたっぷり時間をかけて、長く長く煙を吐くと、短くなった煙草をかまどの火に投げ込んだ。

「たとえ心が通じ合っても、肉の体は――」

 と。

「わん!」

 そばで丸まっていた赤犬が、ぴんと耳を立て跳ね起きた。一声、勇ましく吠え立て、体当たりで戸を開け飛び出していく。何か聞きつけたのだ、と察したヴィッシュは急ぎ後を追う。

「あんたはここにいろ! いいな!」

 そう言われて、大人しくしていられるはずがなかった。

 あのヴィッシュという男は、ナギをどうするだろうか。

 始末人らしく、魔物を始末するのだろうか。

 それを許せるわけがない。

 詩人は杖を手に取った。

 

 

   *

 

 

 猟犬が走る。矢のように。

 ヴィッシュには必死に後を追った。緋女が聞きつけたのは荒事の音であろう。もはや一刻の猶予もならない。腑分け鬼は――ナギは、人肉の味を知ってしまった。ふたたび同じことを繰り返せば、もう二度と戻れなくなる。

 こちら側には。

 ――ほとほと甘いぜ、俺も。

 軽く舌をうち、茂みを飛び越え、その先で、はたとヴィッシュは足を止めた。

 先行していた緋女が止まっている。耳を立て、尻尾をじっと寝かして、油断なく気配を探っている。

「どうした?」

 問いに答えたのは猟犬ではなかった。山道の奥から、足を引きずり現れた、ひとりの男。

「助け……ばけもの……」

 男は、倒れた。

 豪雨が洗い流してなお、止まることなく吹き出る血。地面がどす黒く染まっていく。

「……遅かったか」

 苦虫を噛み潰した顔で、ヴィッシュは呟く。猟犬と狩人は、慎重に、一歩ずつ歩みを進める。獣道。深い茂み。得物の鉄棍を片手に構え、そっと、向こう側に回り込む。

 獣が、そこにいた。

 倒れた男が、みっつ。そのうちのひとつ、小太りな中年の奴隷商、だったものの上に、股を開き、圧し掛かり、身をかがめ、下腹部に口よせ、そこを、刃よりも鋭い牙もて食い千切る、鬼。

 欲望に閉ざされた眼で。

 血塗れの臓物をぶらさげた口で。

 鬼子は、ニパリと笑みを浮かべた。

「馬鹿野郎ォ!」

 狩人が走る。大振りに薙いだ鉄棍。鬼は地面に手を突き宙を舞い、その一撃を軽々と避ける。だがこちらは陽動。本命は、着地を狙って喉元へ――緋女の牙。

「あっ!」

 歓喜の声。鬼が身を捻る。蹴りは一陣の風となり、犬の横腹に食い込んだ。悲鳴と共に転がる緋女。無事でいろよ! と祈って狩人が踏み込む必殺の間合い。体を張って仲間が作ってくれた隙。鉄棍が唸る。

 だが。

 板金鎧さえ(ひし)ぐ一撃を、鬼は片手で受け止める。

「なッ……」

 反撃の拳が来る。咄嗟の判断、棍を放して後ろへ跳ぶ。その腹に鬼の鉄拳が食い込んだ。革鎧を抜け、筋肉の守りを破り、衝撃が臓腑へ貫き通る。漏れる苦悶の呻き。逆流する胃液。直前に後退した機転がなければ、背骨の一つも折れていた。

「あっは!」

 奪い取った鉄棍を、鬼は嬉しそうに振り回す。

 敢えて選んだ得物が裏目に出た。ヴィッシュは歯噛みする。甘く見ていた。なるべくなら殺したくない、10年ヒトとして生きてこれた、その事実を切り捨てたくない、なんてぬるい考えだった。

「こいつは切れすぎンだよ……」

 懐から、取り出したのは白く短い棒。剣の柄だけを切り取ったかのような。

「もう加減はできねェからな!」

 棒の先端が爆ぜ飛んだ。弓なり風切る、親指の先ほどの錘。その後ろ、雨粒を裂いて一筋の線が走るのが分かる。細く、あまりにも細く、雨滴がなければ眼にも見えなかったであろうそれが、ヴィッシュが手に入れた新たな切り札。

 細く強靭な刃糸(ブレイド・ウェブ)を組み込んだ魔法の鞭――名づけて、“ワームウッド”!

 短く息吐き、ヴィッシュの手が舞う。不可視の鞭は彼の意のまま、生き物のようにうねり渦巻き鬼の周囲を取り囲む。本能で危険を察したか、鬼が後退する。が、その肩が鞭にあたった途端、ぱくりと裂けて血を迸らせた。

 これが刃糸(ブレイド・ウェブ)の威力。極限まで細く作られた糸は、柔らかい物なら抵抗すらなく切断する。

 鬼の悲鳴が怒りに変わった。逃げられぬと判断したか、鬼は真っ直ぐヴィッシュに向かって走る。振り上げる鉄棍。この動きは予想済み。柄の引き金を引き、魔導機械で鞭を巻き上げ、短くした糸で前方に輪を描く。鞭の壁、いや待ち伏せの罠だ。知らずに突っ込んでくれば相手の体はずたずたになる。

 が。

 そこに飛び込む直前、鬼は地を蹴り跳躍した。

 狩人の背筋に悪寒が走る。鞭の壁を飛び越え、宙返りして鬼が来る。振り下ろされる鉄棍を、辛うじて横っ飛びに回避する。その拍子、予期せぬ動きで舞い上がった刃糸(ブレイド・ウェブ)がヴィッシュ自身の腕をかすめた。身が捩れるほどの痛みが走り、堪えきれずに声が零れる。

 痛みで一瞬、体勢を立て直すのが遅れた。鬼が仁王立ちして鉄棍を振り上げる。

 ――やられる!

 が、これを緋女は待っていた。

 鬼がヴィッシュひとりに夢中になり、緋女から意識を放すこの瞬間を。

 風よりも速く、馳せ寄った猟犬が、間欠泉の如く鬼の喉下に喰らいつく。

 鬼がのけぞる。緋女を狙って拳を繰り出す。長居は無用、とばかりに口を離し、猟犬は軽々と四足に着地した。鬼はふらつきながら踵を返し、森の奥に逃げていく。犬が追う。ヴィッシュも、いつまでも転がってはいられない。

「情けねえ。いつまで迷う気だ」

 吐き棄てるように言った言葉は、幸い雨音に紛れ、緋女の耳には届くまい。腕の痛みを堪え、鞭の残りを巻き上げ、ヴィッシュもまた、ふたりの後を追った。

 

 

(つづく)

 



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第13話-04(終) 暗闇の中に、ひとつ

 

 

 分かり合うことはできるのだ。

 心は通じあえるのだ。

 たとえ人ではなかろうと。

 詩人がいた。詩人はひとりだった。詩人は闇を彷徨い、詩人は探し求めた。何を? 我が娘を。共に暮らしてきた愛しいものを。彼女に捧げたこの10年を。だがここには何も無い。森は閉ざされ、雨は容赦なく頬を打ち、ずぶぬれの衣服が鉛のようにぶら下がる。彼には猟犬の鼻もない。狩人の健康な肉体もない。

 どうすれば、逢える?

 必死に頭をめぐらし、思いついたことはひとつであった。

 歌。

 幾度となく聞かせた。狂おしいほどの、愛の歌。

 

 

   *

 

 

 速い。ナギの肌がぞっと粟立つ。どれほど走ろうと、どれほど飛ぼうと、猟犬はぴたりと背後を付いてくる。こんなことは初めてだった。自分に追いつける獣などいるはずがなかった。ナギは狩人だった。生まれて初めて、彼女は狩られるものの恐怖を味わっている。

「あッ……」

 救いを求めて、ナギは鳴いた。

 救いを、誰に?

 そのとき聞こえた。かすかに届く、愛おしい歌。

 詩人が、ナギを呼んでいる。

「うっ、うっ、うーっ!」

 ナギは叫んだ。腹のそこから、全てを吐き出し、必死の声で歌に応えた。もはやそこに狂気はない。血は雨が拭い去った。眼が潰れ、涙を流せぬ身の上であった。だのに、誰の耳にも明らかだった。彼女の放つ声、そのひとつひとつが涙であった。

 と。

 ナギの頭上で轟音が響いた。追いすがる猟犬はその目で見て、ナギは経験と感性で、事態を察した。この豪雨で崩れた土砂が、まさにこのあたり目掛けて襲い掛かりつつあった。ナギは逃げた。緋女は追った。度胸の差が明暗を分けた。すなわち、勇敢に後を追う緋女だけが、僅かに逃げ遅れて土の洪水に巻き込まれたのであった。

 犬の咆え声が後ろに遠ざかり、ようやく死の恐怖から解き放たれて、あとはただ、一心不乱にナギは走った。行くべき場所はただひとつだった。歌声はまだ聞こえている。ずっと彼女を待っている。行かねばならない。帰らねばならない。生半可な理屈など、この渇望の前にはどれほどの意味があろう。

 歌が、近くなる。

 ナギが、呼ぶ。

 つかの間の、心躍るふたりの対話。

 九つの泥を避け、十一の雨をくぐり、十三の藪を貫いて、ナギは暗闇に踊り出る。

「う―――――ッ!!」

 その先に。

 詩人はもろ手を広げていた。

 ナギは迷わず、その胸の中に飛び込んだ。

 

 

   *

 

 

 近くに手ごろな洞穴があったのは幸いだった。洞穴というよりも、斜面の下の山肌に出来た僅かな窪み程度のものではあったが、一夜の雨を凌ぐには充分だ。問題は、日が暮れて厳しく肌を突き刺し始めたこの寒気だ。春先とはいえ、夜ともなればまだまだ冷える。そのうえ、雨具をつけてきた詩人はともかく、ナギは全身ずぶぬれだ。

 詩人が服を脱がしにかかっても、ナギは抵抗ひとつしなかった。彼の手の為すがままにまかせた。彼女の瑞々しいからだが、月の光に晒された。詩人は息を呑む。何もかも忘れて裸体に見入る。彼の指が、ナギの腕に触れた――そこで我に返った。残りをさっさと脱がしてしまい、自分もぼろぼろの雨具を外した。

 濡れていない布は、詩人が身につけていたものだけだ。それをふたりで共有し、身を寄せ合って丸くなる。ナギの頬が詩人の腕をさすった。いつものように角が腋に擦れた。肩を抱き寄せると、彼女は嬉しそうに笑った。

「ごらん、西の空には雲がない」

 ナギは不思議そうに、詩人の顔を見上げた。吐息が顎の下をくすぐる。

「夜が明けて、雨が上がったら、ここを離れよう。どこか遠くへ行こう。狩人たちも、後始末人も、追いかけてこないような、遠い場所へ……」

「うー」

 言葉の意味は、分かるまい。

 それでも、この腿をくすぐる彼女の手のひらには、全幅の信頼が籠もっているのだ。

 放すものか。

 離れるものか……

 何日かぶりの温もりに、詩人はいつしか浅い眠りに落ちた。

 

 

 まどろみの中で夢を見た。どんな夢だか覚えていない。ただおぼろげな印象があるだけだ。言いようもなく激しく、この世の何よりも甘やかに、全てをかなぐり捨てて何かを求めていた。

 

 

 夢の途中で目が覚めた。月は天頂にかかり、雨音はもはやなく、隣には、自分に寄りかかって少女が寝息を立てている。

 ふたりを包むひとつの雨合羽が、わずかに、ずれた。

 少女の無垢な乳房が、零れ落ちるように、詩人の前に現れた。

 ここは――?

 いまは――?

 目覚めは現し世と常世のはざま。

 これは夢の続きか、それとも。

 定かならざる意識の中で、詩人の指は、彼のものではないかのように動き、滑り、乳房の先に、触れた。

「ぅ……」

 眠ったまま、少女が息を漏らす。

 おんなの声で。

 その瞬間、彼の何かが壊れた。

 優しさはどこかに消え失せた。粗暴が彼の全てとなった。引き寄せ、押し倒し、覆い被さり、夢中で少女の唇を奪った。少女が目覚める。暴れ始める。だが、自分を蹂躙する男が、自分の良く知る者だと知ると、一切の抵抗を諦めた。それどころか、

「ぁ……」

 と悩ましく吐息を零して、彼の背に腕を回したのだった。

 抱き寄せられるまま少女と肌を合わせ、暗闇の中で少女をまさぐる。なんと滑らかな肌か。なんと柔らかい肉付きか。誰にも許したことのないからだの全てが、いま男の手中にある。

 全て俺のものだ!!

 恐るべき肉欲の爆発が彼を奮い立たせ、今にも愛の茂みに分け入らんとした――そのときだ。

「ぎゃぁぁぁああああぁあああッ!!」

 詩人の悲鳴が音も無き夜空を覆いつくした。

 飛び退いた。狂って、喚いて、地面に手を突こうとして、体を引き裂かれたかのような痛みに悶え苦しむ。

 詩人は愕然とした。

 肩の肉を食い千切られた。

 涙が零れた。嗚咽が漏れた。脂汗は、止まることを知らぬ血と混ざり合って滝となり、重く岩を叩いて爆ぜた。

 月の下。

 あれほど魅惑に充ちた肢体が、今や、口から滴る血に濡れて。

 あまりにも美しく。

 あまりにも凄絶に。

 鬼がそこに立っていた。

 

 

   *

 

 

 ヴィッシュは、声を聞きつけ顔を上げた。

「……言わんこっちゃない」

 隣で横になっていた猟犬が、首を持ち上げ、鼻を鳴らした。その体には何箇所か包帯が巻かれている。土砂崩れに巻き込まれた時に負った傷だ。本来ならあの程度で負傷する緋女ではない。だが、なるべく殺すなというヴィッシュの指示が仇になった。

 彼は責任を感じていたのだ。

 ゆえに、立ち上がろうとする相棒を手で制し、彼はひとりで走り出した。

 たとえもう、すべてが手遅れであったとしても。

 

 

   *

 

 

 鬼が、鉄棍を持ち上げた。

 ひたり。ひたり。迫る足音を聞きながら、詩人はようやく理解した。

 たとえ心が通じ合っても、肉の体は――

 後始末人の言葉が蘇る。

 そうだったのだ。

 心と乖離した自分の体に気づき。思い通りにならぬ己の中の獣に怯え。それゆえナギは、詩人を避けた。

 どうにもならない食欲に、耐え続けていくために。

 詩人が、我が娘への肉欲を隠し続けていたのと同じように!

「わたしは……わたしは間違っていた……」

 涙が零れ、血に混じる。

「救ってやるつもりで、ずっとお前を、苦しめていたんだな……」

 決して溶けることなく、ふたつ、別れる。

 ナギの体はもう、眼と鼻の先にあった。

「すまなかった……」

「ぬるいことを――」

 声。

「言ってんじゃねえッ!!」

 上から。

 後始末人が舞い降りる。

 渦巻く不可視の鞭。鬼が飛び退り、しなり迫る刃の糸を、音のみを頼りに避ける。だが甘い。鞭はヴィッシュの手足の如く自在に動き、複雑な軌道を描いて絶え間なく鬼に襲い掛かる。ひとつ、ふたつ、小さな切り傷が肌に赤く線を引き、鬼はたまらず後退した。

「やめてくれ!」

 詩人は懇願した。見ていられなかった。ナギをこれ以上傷つけたくなかった。

「わたしはナギに食われるなら本望――」

「お前を食ったら、あの子はどうなる!」

 詩人が絶句する。

「まだあの子を苦しめる気か!!」

 ヴィッシュを黙らせようとでもするかのように、鬼は鉄棍を両手に構えた。

 ここからが本番だ。

 汗が額に玉となり、伝い降りて鼻から落ちる。

 雫が岩に跳ね返り――

 来る!

 鬼が走る。棍が唸る。ヴィッシュは鞭を巻き戻し、再び射出。手首を捻り、糸を棍に絡ませる。突如手元に生まれた抵抗、鬼は一瞬動きを止め、しかしすぐさま得物を棄てた。迷いのない動き。やってくれる、アテが外れた。

 舌打ちしつつヴィッシュは横に跳んだ。鬼の爪は僅かにヴィッシュの袖をかすめる。避けた、と息をつく暇もなく、鬼は着地するなり方向転換、恐るべき脚力で飛びかかる。この崩れた体勢で避けるのは、無理。

 ヴィッシュは手元の引き金を引き、最速で鞭を巻き上げた。

 先端に絡まっていた鉄棍が、唸りを上げて引き寄せられる。鬼がはっと気づいたときにはもう遅い。鉄の塊が背後から迫り、鬼の背中を強かに打つ。喘ぎ、倒れる鬼を睨んで、ヴィッシュは転がりながら立ち上がる。

 鞭の射出口を、鬼に向ける。

「いま楽にしてやる!」

 だが。

 その視界を塞ぐ影があった。

 詩人。

「おま……」

 一本きりの脚に全ての力を込めて、詩人がヴィッシュに飛びついた。驚きのあまり避けることも忘れ、重い一撃をみぞおちに喰らう。そのままもつれ合って倒れこむと、詩人は声を嗄らして叫び狂った。

「ナギ! 逃げろ!」

「何を……」

「行け! 走れ! 遠く離れればっ……」

 鬼が、ゆらりと、立ち上がる。

 弛緩した脚が、辛うじて肉体を支えている。

 ヴィッシュは焦り、詩人を引き剥がそうともがいた。だが、一体どこにこんな力を隠していたのか。枯葉のように軽いはずの詩人は、今や鉛よりも重くヴィッシュを押さえ込んでいる。

「たとえからだが傷つけあっても、想いは――!」

 迷いの気配がした。

 悲しみの匂いがした。

 最後には、ただ愛のみが残る。

 ようやくヴィッシュは、詩人を押しのけ立ち上がったが、そのときにはもう、ナギの姿は森の最奥へと消えていたのだった。

 

 

   *

 

 

「任務失敗、か」

 翌朝、猟犬を連れて山を降りる後始末人の姿があった。

 その瞳に力はなく、その背中に覇気はない。犬が心配して顔を見上げる。きゅうん、と鼻を鳴らす。ヴィッシュは苦笑した。

「しょうがないさ」

 彼は懐を探った。だが取り出した細葉巻は、昨夜の豪雨ですっかり湿気ていて、とても火がつきそうもない。諦めの溜息は、紫煙の代わりにはならなかった。このやるせない敗北感を、包み隠してはくれなかった。

「しょうがなかったのかな……」

 

 

   *

 

 

 詩人はそれから、またあの小屋で生活を始めた。

 ふたりの思い出に充ちた家は、ひとりになってしまったことを否応なく彼に突きつける。だがそれでよいと思えた。ここで、ナギを想い、苦しみ続けることで、せめて自分自身に罰を与えたかったのかもしれない。

 幸い、この10年の暮らしで鍛えた体は、山での生活にも充分堪えた。村々を巡って歌物語で稼ぐ手腕も、いつのまにか磨かれていた。必死でナギと歩んできた足跡のひとつひとつが、彼の新たな糧となってるかのようだった。

 ある夜、彼は懐かしい声を聴いた。

 慌てて小屋から飛び出し、辺りを見回す。耳を澄ます。何も聞こえない。静謐なる山の夜が広がるのみだ。ただの聞き違いだったのか。ナギを想う心が聞かせた幻だったのか。

 いや、しかし。

 彼は、その場に胡坐をかいた。

 そして歌い始めた。ナギのよく知る、ふたりを繋ぐ、あの歌を。力の限り声を張り上げ、いくつもの山々を越えて、遥か彼方のナギへ届けと願いを込めて。

 歌のこころは、誰も知らない。聴くものもなければ、伝えるものもなかったから。だが、ふたりだけが知っていた。その歌声は道しるべ。行く先も見えぬ現し世に、仄かに、あかりの灯るが如く。

 暗闇の中に、ひとつ。

 

 

 

THE END.

 

 

 

■次回予告■

 

 幼くして両親を亡くした貴族の令嬢アンゼリカ。疑うことも知らぬ無垢な少女は伯父のもとへ引き取られたが、それは果て無き凌辱の始まりであった。夜毎淫らに作り変えられていく心と体。渦巻く愛欲の海の底、溺れる天使は何を見出す?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第14話 “淫らな聖女、アンゼリカ”

 Angelica : the Sacred Prostitute

 

乞う、ご期待。

 

 

■注

第14話“淫らな聖女、アンゼリカ”は性描写を含むため、こちらのサイトでの公開を見合わせます。ご了承ください。

次回は“序章 189日前”を公開いたします。



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序章 “189日前”
序章 “189日前”


 

 ある日の夕暮れ、“堕ちたルルフォン”の古聖堂にカジュの姿があった。石壁の裂け目から洩れこむ夕陽の中を、ぴょい、ぴょい、と大股に跳び進む。慎重に確かめながら跳んだつもりだったが、うっかり粘液溜まりのひとつを踏みつけてしまい、カジュは潰れた蛙のように顔をしかめた。

「汚いなー、もう。」

 靴を持ち上げると粘液が糸を引いて付いてくる。そこらの石床に靴底を擦り付けてぬぐい取る。そうこうするうちに、ヴィッシュも聖堂に入ってきた。

「緋女! 外は大丈夫かーっ? よし。

 悪いなカジュ。お前に押し付けたくはなかったんだが……その、こんな……場面の後だし……」

「生殖行為でしょ。珍しくもないよ。

 ほいこれ。東西南北に設置。正確にね。」

 と、カジュが魔法の測定器具が詰まった袋を投げ渡す。ヴィッシュは袋の中身を探りながら、

「あの男が自然に変異したとは考えにくい。誰か黒幕がいたはずなんだ。調査してみる価値があると思う……」

「平気だってば。気、遣いすぎ。」

 言い訳がましく饒舌なヴィッシュに、カジュは肩をすくめた。仕事は仕事。少々の痛いのしんどいの、汚いの臭いのは我慢できる。我慢ならないのは軽んじられること、認められないこと、正当な対価を払われないこと。フェアな取引の範疇でなら自由に使ってくれてかまわないと、ずっと以前にちゃんと明言したはずなのに。

 ――ま、それがヴィッシュくんのいいところ、か。

 カジュは汚れていない祭壇に飛び乗り、腰を下ろした。膝の上に小径の水晶玉を乗せ、手を当てて意識を集中する。

 青年オーデルは、己の中の《悪意》に肌身を共鳴させ、魔獣に堕した。意味が物質の在りようを規定するように、意志がひとの在りようを変質させる。それ自体はこの世界の基本法則であり、決して珍しい現象ではない。緋女が犬に変身するのも、カジュが《光の矢》を撃ったり空を飛んだりできるのも、全てこの原則に基づいている。

 しかし、その結果としてヴィッシュにすら手が出せないほどの魔獣に変化した、となれば、これは相当な大技である。通常ならば、高度な器具を用い年単位の時間をかけて少しずつ身体を作り変えていく必要がある。それを即席で行ったとなれば、術者の力量は並大抵のものではない。

 それだけに術式の痕跡は大きく残る。追跡するのは決して難しいことではないはず。容易い仕事だ。

 ほとんど遊び半分にカジュは水晶玉の中へ己の意識を差し込み――

 ふと、手を止める。

「ヴィッシュくーん。はやく置いてよー。」

「ん? さっき置いてきたぞ」

 声は思いのほか近くから返ってきた。計測用の魔術装置の設置はとうに終わり、ヴィッシュはカジュの後ろで結果待ちをしていたのだ。

 ――うそ。

 カジュが弾かれたように水晶玉へ向き直り、再び魔力の線に指を走らせる。ヴィッシュが頭を掻いた。

「あれ? すまん、方角ズレてたかも」

「違う……。」

 ()()()()()()。間違いない。ヴィッシュの仕事に遺漏はない。計測器は正しく配置され、きちんと機能している。

 にもかかわらず()()()()()()()()。何者かが防壁を張っている――?

 と、そのとき。

 恐るべき強度の魔力の渦が、探知の網からカジュの水晶玉へと洪水のように逆流した!

 ――罠だっ。

 《対抗呪文(カウンター・スペル)》。敵対的な干渉に反応して自動的に発動するよう仕込まれた魔術の罠。それがカジュの支配下に置かれた魔法力線へと強制的に割り込み、水晶玉から異質な漆黒の弧雷(アーク)が迸らせる。電撃は勝手気ままに聖堂の中を暴れ狂い、床を、石壁を、崩壊寸前の天井を、舐めては焼き、焼いては砕く。その中の一条が頭上に伸びあがったかと思うと折り返し、カジュの背中に襲い掛かってくる。

 とっさにヴィッシュがカジュの背を抱いた。盾となってカジュを庇い、背中を雷に貫かれて、ヴィッシュが痛々しい悲鳴を上げる。肉が焦げる匂いがする。それらの事態を全てを強引に意識の外へ追い払い、カジュは自分の魔法に全神経を集中させる。

 術式を編む。両手を動員して印を組む。四層最密単位魔法陣(クアトロコンソール)の8枚重ねを聖堂全体へと展開する。カジュの額に脂汗が浮く。彼女が全力を出してさえ容易には打ち破れないこの術式。強力無比。高度で精緻。こんな代物を創れる者は世界にたったひとりしかいない。

 ――これは()()()()()()

「まるパクりかよあの野郎ッ。」

 その瞬間。

 轟音と閃光を撒き散らしながら、水晶玉が魔法陣ごと爆発した。

 

 

「おい! どうした!?」

 爆発音を聞きつけた緋女が、外の見回りを中断して駆け込んでくる。聖堂の奥の壁際には、体中を弧雷(アーク)に焼かれたヴィッシュが座り込んでおり、その前でカジュが治療の術を施していた。ヴィッシュは苦しげに顔をしかめながらも、腕を振って無事を知らせた。

「大丈夫だ。すぐに治る……」

「何があったんだよ。調べ物じゃなかったのか?」

「ごめん。」

 そこでようやく、ヴィッシュと緋女は気付いた。

 空中に治療の術式を描くカジュの指先が、小刻みに、震えていることに。

「……ボクのせいだ。油断してた。」

「謝らなくていいさ。お前だから死ぬ前に敵の罠を止められたんだ」

「ごめん……。」

 ヴィッシュがカジュの肩を撫でる。緋女がそばにしゃがみ込んで慰めの言葉をかけてくる。今の音で付近の魔獣が集まってくるかもしれないと、ヴィッシュが緋女を外に差し向ける。ふたりの緊迫したやり取りが、まるで別世界の出来事のように、遠い。

 カジュの意識は御しがたい感情の渦に翻弄され、右へ、左へ、木の葉のように頼りなく揺れ動く。

 ありえないはずの異変の予感。

 なのに否定しようもない事実への困惑。

 遠くない未来、自分を襲うであろう破滅の運命に、カジュは、震えを止められない。

 ――どうして、今さら――

 救いを求めるように持ち上げた視線の先に、懐かしい背中がかすんで見えた気がした。

 ――どうして――キミが。

 

 

 

 

 

 

 序章 “189日前”

 

 

 どこへ行ったんだろうな、あの手紙は。

 あの時もそうだ。奴が頼りないものだから、世話を焼いてやったっけ。ヌイグルミみたいに可愛らしい黒髪のメイルグレッドさ。あの育ちのいいお嬢様が、ずっと奴のこと、好きだったんだって。ルーニヤなんかにうっかり喋っちゃまずかったな。でもまあいいんだ。口の軽い赤毛の筋肉女はあいつなりに熟慮して、おれのところに来た。それで中隊内の問題がおれの耳に入ったから対処も可能になったんだ。大事なことさ。人間関係の重大な問題だよ。

 なんたって、若き勇者様と、それに付き従う聖職のご令嬢だもんな。よく似合ってる。キス程度を恥ずかしがってる場合じゃないんだぜ。はやくセックスしろー! 話はそれからだーっ! て、言いたいところだが、そんな言い方したら逆に身持ちが固くなっちゃうよな。

 な。そうだろ、()()()

 そういう男さ。お前って奴は。

 さて、どうしたものかな? と、おれは頭をひねったものだった。ここからが中隊一の知恵者の腕の見せ所よ。特におれは優れた魔法使いであると同時に、帝国じゅうでも指折りの色男であったから、恋愛にまつわる人生経験は誰より豊富なんだ。それに奴のことはものすごく詳しく知っている。よく恋人関係と間違われたくらいだ。ひょっして本当にそうなんじゃないかと自分でも不安になって、一度試しにキスしてみたことさえある。奴の心を掴む演出は心得てる。任せとけ。

 で、メイルグレッド嬢に手紙を書かせた。文面はシンプルが一番だ。『ずっと好きでした。つきあってください』てな。奴にはこういうのが一番いいんだ。

 だのに、あの、お嬢ときたら。土壇場で照れちゃって、せっかく封をして花の香まで纏わせた手紙を、ずっと懐にしまいっぱなしなんだぜ。この作戦が終わったら渡せよ、絶対渡せよ、必ずうまくいくからな、って、おれとルーニヤのふたりがかりで、出撃前に4時間も励ましまくった。それでメイルグレッドもその気になってたんだ。

 その気になってたんだよ。

 なのに、あの子は死んだ。

 ルーニヤもだ。ボイルも。レミルも。リサ・ワクラも……みんなみんな、死んだ。

 どこへ行ったのかなぁ、あの手紙は。

 死体と一緒に(ヴルム)に食われたのかな。火の息に焼かれて灰になったかな。それとも冷たい土の中に埋もれちまって、ゆるやかに腐り果てて、見る影もなく恐ろしい姿になり果てたかな。メイルグレッドの愛らしい笑顔がドロドロに腐り崩れるように。

 ああ、どこへ行っちまったんだろうな……あの温かな日々は。

 そして、おれは――おれは、どこに()()()()()()んだ――?

 

 

 ――肉の器の()るべき世界(ところ)

 

 

 何者かの声に呼び起され、()は目覚めた。

 初めには混乱のみがあった。重い。冷たい。息苦しい。何か恐ろしく狭い場所に閉じ込められている。土が身体の上にのしかかり、彼の手足を鉛の鎖のように締め付けている。彼は半狂乱であがいた。嫌だ。こんなところは嫌だ。こんなのは嫌だ!

 必死にもがいた甲斐あって、頭上に小さな穴が開いた。穴の向こうから刃のように冴えた月光が目を突き刺した。彼は身をよじり、あらん限りの力を振り絞り、少しずつ少しずつ頭上の穴を押し広げていった。やがて外気が肌に触れ始める。猛烈な激痛が皮膚を掻きむしる。なんだ!? これは一体なんだ!? 訳も分からぬまま、恐怖に駆られて彼は暴れ続ける。

 ついに、彼は穴の上に這い出すことに成功した。

 どことも知れない山中の、草木もまばらな乾いた谷間の、誰の物とも分からない墓の下から。

「おれ……は……?」

 記憶が混乱している。

 自分が誰なのか。ここがどこなのか。なぜ墓の下に埋まっていたのか。何も分からない。思い出せない。まるで()()()()()()()、知性の全てを地底に流し去ってしまったかのようだ。

 朦朧とした意識の中で、彼は必死に思考のよすがを探り――ようやく、か細い(わら)のような手がかりを見出した。

「帰らなきゃ……おれたちの……故郷へ……」

 

 

   *

 

 

 彼は歩いた。月光の下を。酷風の中を。熱砂の上を。身を焼かれながら。肌を(ついば)まれながら。精神の奥底を、黒々とした不安に蝕まれながら。

 歩き続けるうち、少しずつ彼の記憶が蘇りだした。そう。この道は知っている。あの山も。記憶のとおりだ。ここは東シュヴェーア。麗しの故郷。彼は戦ったのだ、愛する祖国を守るため。大切な人々を魔の侵略から救うため。そうだ。この先に街がある。彼の属する中隊が拠点として使っていた街だ。彼らが魔王軍から解放した街だ。敵を駆逐した後、街中から湧き上がるような歓声を以て迎えられた。あの日の光景が目に浮かぶ。

 通りを埋め尽くす街の住人たち。高らかに合唱される感謝と称賛。美しい女たちがキスの嵐をくれ、中でもとりわけ大切なひとが、炎のように熱い抱擁を彼にくれた。いくつの昼と夜を彼女とともに過ごしただろう。一緒に花を見に行った。祭りの輪の中に飛び込み踊った。有り金をはたいてプレゼントもした。鏡を贈ったのだ。彼女がもっともっと美しさに磨きをかけられるように。彼女は大喜びで、その夜は普段の3倍も激しく汗をかいた――

 ――おれたちは街を守った。そうだ。おれたちは頑張ったんだ。

 彼が街に着いた時、辺りは夜のとばりに覆われていた。

 人通りのない通りを、彼は足を引きずりながら徘徊した。街の様子は昔とずいぶん変わってしまった。建物が増え、道も新たに舗装され、城壁の外にまで街区がはみ出している。大いに発展を遂げたのだ。喜ばしいことだが――彼がここを去ってから、一体どれほどの時間が経ったのだろう?

 知った場所を探し求め、ついに彼は、見覚えのある建物を見つけ出した。この路地は知っている。あの頃のままだ。彼の心にほんのりと温かな期待が湧き上がった。そうだ。この奥の、秋になるとたっぷり実を付けるハシバミの木のところを曲がり、道なりに少し行ったところに――

 懐かしい家は、あった。昔と全く変わらない佇まいで。

 ここにシェリーが住んでいる。

 彼の恋人。いずれ結婚しようと約束した仲。帝国で一番の美人。そう紹介すると彼女は「ハードル上げるな、ばか」と怒ったけれど、彼は改めようとはしなかった。誰がなんと言ったって、彼女は最高の美人だ。異論を述べるような奴はぶっ飛ばしてやる。彼にとってはシェリーが世界一なのだ。

 ああ、声が聞こえる。窓の木枠の隙間から、家の中の灯りとともに、彼女の愉しげな囁きが漏れてくる。元気でいてくれたんだ。この家で待っていてくれたんだ。彼は窓の灯りに引き寄せられた。そっと、家の中を覗き込んだ――

 シェリーが、誰か他の男と寄り添い、膝枕で眠る幼い息子の頭を撫で、幸せそうに――本当に幸せそうに――目を細めて微笑んでいる――

「シェリー」

 名を呼ばれ、シェリーが窓に視線を送る。

 直後、恐怖の絶叫が夜の街を引き裂いた。

 彼は驚き後ずさった。シェリーは狂ったように喚きながら息子を掻き抱いた。男は薪割り斧を手に取ってドアの外に飛び出してきた。彼は茫然としていた。目の前に殺気立った男が立ち塞がる。窓から中を見れば、シェリーがぼろぼろと涙を零しながら必死に息子を庇っている。

 まるで、まるで、恐ろしい怪物と出会ってしまった、みたいに。

「シェリー」

 もう一度、彼は彼女の名を呼んだ。

「シェリー。おれだよ。シェリー!」

 男が斧で襲い掛かってくる!

 彼の身体は反射的に動いた。

 彼は戦士だ。魔法使いだ。人外の魔獣を相手に一歩も引かず戦い抜いてきた男なのだ。素人が力任せに振り下ろしただけの斧など容易くかわせる。お返しに拳を叩き込む。男がのけぞり、尻もちをつく。

 それと同時に、激痛が彼を襲った。

 彼は愕然とした。殴りつけたその腕が、折れた。たった一発のパンチで拳が砕けてしまったのだ。

 ――なんでこんなに脆い!?

 ここへ来て彼はようやく、自分の身体に疑問を抱き始めた。一体この身体はどうなってしまったのだ? 妙に重い。妙に苦しい。耐えがたい痛みが常に全身に走っている。まるで皮膚が腐り落ち、神経がむき出しになったかのように。

 不安と緊張に鼓動が高まり、息が荒くなる――と思ったところで気付いた。

 ――おれは、息をしていない。

   おれの心臓は、動いていない!

 たまらなくなって彼は家の中に駆け込んだ。シェリーの目の前に向かい合い、叫んだ。助けを求めて。救いを求めて。

「シェリー! おれだ! 分かってくれ! ()()が……()()なんだよォォッ!!」

「嘘だ! そんなはずない! だって彼は……1()0()()()()()()()()()()!!」

 そのとき、戸棚の上の、卓上鏡が目に入った。

 かつて彼が、シェリーのために贈った鏡。

 そこに映っていたものは……

 肌は腐り、肉という肉に蛆が湧き、片方の眼球を失くし、朽ちた腸の名残を腹から垂れさがらせた――

「お……れ……?」

 その瞬間。

 彼の魂は、狂気に呑まれた。

 

 

   *

 

 

 次に気が付いた時、彼は、血の海の中で力なく跪いていた。

 殺した。みんな殺した。男。子供。そしてシェリー。何もかも殺した。かつてシェリーと愛を交わした懐かしい家は、嵐のように荒れ狂った殺戮の果てに、黒々とした血で塗りたくられ、言葉ひとつ、音ひとつなく、それ自体が棺のように、ただ、冷たく横たわるのみ。

 泣きたい、と思っても、自分が涙も出せない身体になっていることに気付くばかりだった。

「どうして……こんなことに」

 彼はかすれ声で呟く。

「おれは……こんなことがしたいんじゃなかったのに……!」

 と。

 その時だった。

「――哀しいね」

 氷河を思わせる異様な重圧が、背後から押し寄せてきたのは。

「ひとは哀しい存在だ。

 望んだものを望んだように得られないというだけじゃない。

 望んだものを望んだように()()ことさえままならない。

 なのにひとは、いつだって希望(ヴィッシュ)を追わずにはいられないんだ。

 光を求め彷徨う羽虫が、我が身を炎へ投じるようにね――」

 彼は、顔を上げた。

 振り返ったそこに、()()()()は、いた。

 初めに見えたのは、闇。わだかまる暗闇そのものが、まるで命あるように蠕動している。黒い切れ端を夜に溶かし、溶けたそばからまた夜を喰い、微細な拡大と縮小とを無限に繰り返しながら、闇の塊は蠢き続ける。

 その中央。闇の懐に抱かれ、ぼんやりと白く浮かび上がるものがある。

 首。

 非現実的な美貌の下から、黒い血を際限なく垂れ流し、それでもなお妖艶な微笑を浮かべ続ける――少年の頭部。

 それが、蠢く闇の中心に、ぽつりと浮かんでいたのである。

「なん……だ……!?」

 彼は戦慄した。震えていたのだ。肉の身体は腐り果て、心臓は鼓動を止め、呼吸すらままならなくなった彼の身体が、それでもなお震えていた。生死を越えた根源的な恐怖が、彼の背骨を揺るがして止まなかった。自分は今、とてつもないものと対峙している。(まみ)えてはならぬものと(まみ)えている。その確信だけが、彼の淀んだ魂を締め上げていく。

()()()()()()()()()()()

 闇の中で、少年の頭が囁いた。血の泡立つ音の混ざった、聞くに堪えない濁声で。しかし奇妙に心をくすぐる、祈りにも似た誠実さで。

「でも、口に出すのが大切なんだ。

 ()()()()()()()()

 ふたつが揃い、初めて君は、向こう側(アーゼング)へと招かれる。

 これは世界の法則だ。ひとつの質量が他の質量を惹き付けるように。漆黒の中にあってこそ星が燦然と輝くように。君には選ぶ余地がある。ひとを異界へ連れ出すものは、常に意志と意志の発露だ。

 もしも君が、己の言葉を紡ぐなら。

 この僕が、君を導く(ともしび)となろう――」

 いつのまにか。

 彼は、闇の前に(ひざまず)いていた。

 震える手が前へ伸びた。骨のみの指が闇の裾を撫でた。痛みと苦しみ以外の何も感じ取れなくなったはずの身体に、なぜか、指に触れる闇の感触が暖かい。彼は呻き、そして問うた。己の居場所を問うかのように。

「お前は――お前はいったい、何なんだよ――?」

「――《大破壊(ホロコースト)》」

 少年が詠う。()いてはならぬものの名を。

「あるいは、《死の対手(たいしゅ)》。

 《殺戮の担い手》。

 《ひとが創りしひとの敵》。

 《最も古き智の庫(ライブラリ)》。

 《第十の九頭竜(パワー・テンス)》。

 《黒よりもなお黒き蓮(ブラッカー・ロータス)》。

 《全き滅びをもたらすもの》。

 即ち――」

 

 

「魔王、クルステスラ」

 

 

 

「勇者の後始末人」 第2部:胎動篇 完

 

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 懐かしい故郷から届いた訃報。仇討ちに燃えるヴィッシュを待っていたのは、故国を埋め尽くさんとする死霊の軍勢だった。危機の背後に見え隠れする黒い影。再び首をもたげる痛恨の過去。墓穴に秘められた冷たい真実を見出すとき、後始末人最大最後の戦いがその幕を開ける。

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第15話 “さよなら、パストラール 前編”

 Pastoral // Catastrophe (Part1)

 

 第3部:再起篇、堂々開幕――乞う、ご期待。

 

 

 



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第15話 “さよなら、パストラール 前編”
第15話-01 私だけの王子様


 

 

 夕暮れの桟橋に座り込んだまま、7本目の煙草に火を点ける。穏やかな波が支柱に打ち寄せ弾け散る。海猫が漁船を追いかけ甘え啼く。どこか遠いところから、酔った水夫の古い舟歌が聞こえてくる。苦い煙が渦巻きながら肺へ滑り込み、ヴィッシュは――(むせ)た。

 その咳を聞き咎める者さえなく、ひとり。

 ヴィッシュは煙草が嫌いだ。

 にも関わらず煙草を呑むようになったのは、他に身の落ち着けどころを見つけられなかったから。不意に過去を思い出しそうになった時、彼は吸う。いたたまれない時、辛みに耐えかねた時、そんな自分の貧弱な性根を隠してしまいたい時、つい細葉巻に火を点けてしまう。煙は包み隠してくれる。都合の悪いものも、見せたくないものも、見たくないものも、何もかも。

 第2ベンズバレンは居心地のいい街だった。

 大都市は混沌だ。そこにはあらゆるものがあり、だからこそ、何もない。誰もが自分の道を走ることに精一杯で、他人のことになど関わっては来ない。みんな彼を放っておいてくれる。煙に巻かれている気分だった。孤高と呼ぶには素朴すぎる孤立。孤立と呼ぶには快適すぎる自由。

 ずっとこのままでいいと思っていた。

 過去も思い出さず。未来にも関わらず。現在を生きる仲間さえも、二度と持たず。

 それでいいと思っていた。

 そのはず……だったのに。

 7本分の灰が海に飲まれて消えていき、8本目に手をかけようとしたところで、懐が空であることに気付く。

 目をそらし続ける時間は、これでおしまい。

 きっと、準備のできたお姫様が、そわそわしながら家で待ってる。

 ヴィッシュはゆっくりと腰を上げた。

 街と海と港とは、いつまでも微風の中に留まっていた。この10年、ずっとそう在ってくれたのと、なにひとつ変わらない姿で。

 

 

   *

 

 

「そんでね、憧れだったの。“王家の庭園”亭って言えばさァ」

「縁がないよね、庶民(ボクら)には。」

 ある夕暮れ。自宅の三階の部屋に、ちょんと慎ましく座った緋女がいる。椅子の後ろにはカジュが立ち、髪にブラシを当ててくれている。豚毛のブラシは毛髪の輝きを増すという。そのおかげだろうか。窓から射し込む夕日を浴びて、緋女の美しい赤毛は、炎のように燃えている。

「……っていう話をずっと前にして。それから時々、行きたいなー行きたいなーって言ってたらァー。こっそり予約取っててくれてェー!! え―――――っ!? って! なった!! の!!」

「なるよねー、それは。」

「なるよなー。やっぱなー。なっちゃったなー」

 興奮して身をよじる緋女に、カジュがどれほど温かい目を向けていたことか。

 “王家の庭園”亭は、広い第2ベンズバレンの街でも最高、どころか内海最高とさえ賞される高級料理店だ。

 貴族が客を招いた時には、自身の邸宅に雇っている専属コックにもてなしの料理を作らせるのが普通である。だが一流の腕を持つ料理人は数少なく、その賃金は並の騎士の俸給など軽く凌駕する。そのうえ第2ベンズバレンは歴史が浅い街。ここに住む貴族の大半は王都に本宅を持っており、専属の料理人もそちらに置いていることがほとんど。

 要するに、料理人の需要に対して供給が極端に欠乏していたのだ。

 この状況に目を付けたとある貿易商が、本場デュイル神聖王国から宮廷料理人を引き抜いて料理店を開いた。それが“王家の庭園”亭である。売り文句は「王都と変わらぬもてなしを、港でも」。要するに、本来自宅で行うべき接待の代行業なのであった。

 その性質上、“王家の庭園”亭の顧客は貴族階級に限られる。平民は基本的に門前払い。例外は貴族に準ずる名声と財産を持つ豪商くらいのものである。ただの狩人に過ぎない後始末人などには生涯味わうことができない、一流の味なのだった。

 ところがその店の予約を、なんとヴィッシュが取り付けてきた。いったいどんな裏技を使ったものやら。実のところ、昔ヴィッシュが助けたとある貴族からの、紹介の、紹介の、そのまた紹介で、無理をこっそり通してしまったのだった。その交渉の詳細について緋女は何も知らないけれど、想像することは容易(たやす)い。

 彼がどれほど真剣に駆けずり回ってくれたのか。それを想うだけで、緋女の胸は、きゅんと熱くなっていく。

「お化粧するよ。こっち向いて。」

「うん」

 目を閉じた緋女を、カジュは手際よく変身させていった。かつてカジュが、友達から――“小さき者ども(ホムンクルス)”のロータスから習った通りのやりかたで。あの頃のカジュは、恋愛という未知の戦場に戸惑うばかりだった。今は多くのことを了解したうえで、大切な親友の背中を押そうとしている。

 緋女に口紅を差してやりながら、いっそその唇を奪ってしまいたいと、思わなかったといえば嘘になる。だがカジュは何も言うつもりはなかった。

「ね、カジュ、ほんとに行かないの?」

 顔面をなすがままにされながら、緋女が問うてくる。カジュは頬紅を綿に付けながら肩をすくめた。

「論文の直しがギリギリでね。」

「んー……じゃあ、なんかおみやげ買ってくるよ」

「屋台の飲み屋じゃあるまいし。自分の晩ごはんくらい自分でなんとかするって。ほい完成。」

 ぽん、とカジュが肩を叩く。緋女は目を開け、磨き上げた小さな青銅の鏡を見やった。薄く赤みがかった鏡面に大写しになる緋女の顔。溜息が零れる。

「あたし、かわいいな……」

「気にせず楽しんでおいでよ、お姫様。」

 カジュは吊るしておいたドレスを手に取り、ぴょんと椅子の上に飛び乗った。首元から垂らしたドレスは目の覚めるような真紅の中に、銀色の糸で薔薇を描いた見事なもの。普段表情の乏しいカジュが、ドレスの肩口からにんまりと笑顔を覗かせる。

「年上の王子様と、ふたりきりで。」

 

 

   *

 

 

 優しくノックされ、ドアを開けた緋女は、その場で丸々目を見開いた。玄関前の道路には立派な二頭立ての屋根付き馬車(クーペ)。御者台には年かさの雇われ御者。その脇で、物珍し気に寄ってくる近所の悪ガキどもの頭を撫で、「馬に寄るなよ、噛まれるぞ」と言葉穏やかに諭しているのは、騎士めいた正装の紳士。彼が緋女に視線を送る。

 緋女は小悪魔めいた笑みを浮かべ、ドレスのスカートをちょんとつまんで見せ、

「どうだ」

 と、ドキドキさせてやるつもりだったのに。

「きれいだ」

 なんて返されて、自分の方がときめいている。

 ヴィッシュ。緋女だけの王子様。

 彼のエスコートで馬車に乗り、石畳の道を揺られていく。まるで夢でも見ているよう。ふわりと柔らかな座席に身を沈め、バランスを崩したふりして彼の肩に寄り掛かる。彼は何も言わない。彼の吐息が髪を撫でる。彼の鼓動が頬に伝わる。その激しく乱れた音といったら。

 緋女は思わず吹き出してしまった。

「なに緊張してんだよー!」

「そりゃ緊張するだろ」

「固くなるなって。あたしがついてんだろっ」

 彼の肩をばしばし叩く。彼はほっとしたように顔をほころばせ、

「お前なァ、店についたらそういうノリは無しだからな」

「あん?」

「今夜は淑女だ」

「OK、レディな。こうか?」

 緋女は肖像画で見たような澄まし顔。彼は深く頷いた。

「いいぞ。そのまま10秒キープ」

 3秒で爆笑してしまう。

 あとはもう、笑いも収まらないまま店に到着だった。彼にそっと手を引かれ、クスクス笑いながら馬車を降りる。門前では店の給仕たちがずらりと並び、丁重な礼で迎えてくれた。最も年長の給仕長が音もなくふたりの前に進み出た。

「シュヴェーア討竜騎士、ヴィッシュ・ヨシュア・クルツティン卿でいらっしゃいますね。ようこそお越しくださいました。奥方様もご機嫌うるわしゅう」

 奥方様。緋女がきょとんとしている。ヴィッシュが苦笑する。

「いや、妻ではないんだ。妻ではないが」

 つないだ彼の手のひらが、僅かに血潮の温もりを帯びる。

「私の――大切な人なんだ」

 思わず彼の横顔を見上げた。緋女のその熱っぽい表情を、彼に見られず済んだのは幸いなのか。

 ずっとずっと後になって、この店の料理について感想を問われたとき、緋女はこう答えたという。

「味なんか、もう分かるわけない。

 入る前からお腹いっぱいだったよ」

 

 

   *

 

 

 ふたりが帰ってきたのは、とっぷりと日の暮れた後のこと。ぐでんぐでんに酔っぱらった緋女を支えて馬車から下ろしてやり、御者には迷惑料含めてチップを握らせ、片手で鍵穴を探って扉を開けて、とヴィッシュはあれこれ忙しい。緋女はひたすら寄り掛かり、上機嫌ににやにやしている。

「たのしいなー! うたおうぜー!」

「朝になったらな。みんなを起こしちゃ悪いだろ……ほらっ、もう一歩。寝かすぞ。いいか」

 緋女を居間の寝椅子に寝かせてやり、ヴィッシュはようやく一息ついた。だが緋女の腕はまだ物欲しそうにフラフラ揺れている。

「水ゥー」

「はいはい。お前こんなに弱かったか?」

「……気づけよ、ばーか」

 口の中の囁き声は、ヴィッシュの耳には届かない。甘えたくて酔っぱらったふりをしているんだ、なんて、万策のヴィッシュといえども想定外。緋女はそれがなんだか嬉しくて、つい、そのまま演技を続けてしまう。

 ヴィッシュが背中を支えて抱き起してくれる。水の入ったカップを唇にまで運んでくれる。そのごつごつした手のひらを包むように、緋女は彼から水を受け取った。向かいの椅子に彼が遠ざかっていく。ほんの一歩か二歩の間合い。戦場だったらいつでも斬って捨てられる距離。なのにその僅かな空間が、肌が触れあっていないという事実そのものが、今は妙にもどかしく、寂しい。

 ヴィッシュが水を口にして、低く唸った。

「いや、それにしても……美味かったな」

「お前のとどっちが美味いかな」

 にやりと不敵にヴィッシュが笑う。

「味は覚えた」

「さすが! 今度作ってよ」

「ああ、もちろん……」

 と。

 ヴィッシュが言い淀み、言い淀んだ事実を誤魔化すように、水差しから自分の杯に水を注ぐ。

 緋女は、深く……深く……溜息を吐く。

 夜の、美しいまでに純粋な沈黙が、涼しくふたりの間を流れていく。

「ね」

 斬り込んだのは、緋女だった。常にそうであるように。

()()()()()()

 ヴィッシュの、水を注ぐ手が止まる。

 一口に飲み干す。

 次を注ぐ。

 口元に付け。

 僅か、唇を湿し。

 全てを諦め、ヴィッシュは杯を机に置いた。

「なんで……分かっちまうのかな……」

 ゆっくりと背を丸め、ヴィッシュは床に視線を落とした。膝の上で握った拳が、凍えて震え、静寂の中に小さな衣擦れの音を立てた。

 しかし。

「もう料理は作ってやれない」

 言わねばならない。伝えねばならない。黙ったままではいられない。

「俺はこの街を出る。これでお別れだ――緋女」

 せめて、まっすぐに見つめながら。

 

 

(つづく)

 



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第15話-02 NO KIDDING!

 

 ぽつり、ぽつり、とヴィッシュは語りだした。一語一語、暗闇の中、手探りで自分の心の形を確かめるように。

「前に話したよな、帝国にいた頃のこと。俺のミスで全滅させてしまった中隊。その中に、ずっと……本当の兄弟みたいに思っていた人がいたんだ。

 名前はナダム。腹の立つやつだった。如才なくて。口が上手くて。何するにも器用で。いつもいつも、俺より一歩先回りして。何やっても敵わない。そう思ってたけど、でも、あいつは……いつだって俺を買いかぶってくれていた。

 ナダムには恋人がいた。

 帝国一の美人のシェリー。素敵な人だった。白状するよ。俺も彼女が好きだったんだ。でも、彼女の心を掴んだのはナダムの方だった。嫉妬もしたけど、でも、あいつのためなら喜んでやれる。心からおめでとうと言える……って。そう、思ってたんだ」

 美しい思い出。それを懐かしむヴィッシュの微笑みに、青白い死の色が差す。ヴィッシュの大きな手のひらが、震えながら顔面を覆う。頭に、こめかみに、頬に、爪が毒牙の如く食い込んで、筋肉と骨の軋みが悲痛に響く。

「俺は……彼女に合わせる顔がなかった。

 俺がナダムを殺してしまった。

 一体……一体なんて謝ったらいい? どんな償いをすればいい? 償えるわけない。背負えるわけない……だから俺は逃げた。誰にも言わないで。何も話さないで。ただ故郷から逃げて。逃げて、逃げて……!

 ずっと逃げていればいいんだと思ってた。ひとりで苦しんでりゃいいと思ってた。俺なんかにはそんな人生が似合いなんだ。俺はもっと苦しむべきなんだ!!

 そう思ってた。その……はず、なのに……」

 ヴィッシュは懐から小さな封筒を取り出した。流麗な文字で宛名が記された手紙は、きつく握りしめられたために折り目と皺が付き、反りあがって、慟哭を浮かべているかに見えた。

「彼女は死んだ。殺されたんだ」

 彼の震えが止まった。

「犯人はおそらく魔族。だがまだ捕まっていない。もう半年以上も前のことらしい。全然知らなかった。当たり前だよな。俺が悪いんだよ。誰にも行先を言わなかったんだ、知らせようがなかったよな。でも最近、立て続けに大きな仕事を片付けたせいで、シュヴェーアにも俺の名前が伝わったらしくて。居所を知った古い知り合いがこの手紙をくれた。それで、知った……つい先週のことだ」

「……どうしたいの?」

「故郷に帰る。仇を討つ。この、俺の手で」

「わかった」

 緋女は剣のように立ち上がった。

「あたしも行く」

「でも、お前は……」

()()()()、なんて()()()()()()?」

 ヴィッシュは言葉を失った。

 この目。この声。この気迫。

 彼の胸を一突きに貫く、緋女と言う名の一筋の刃。

「もうこれでお別れだから? 高いお店で素敵なディナー?

 冗談じゃねえ!!

 お前はあたしの頭だ。あたしはお前の剣だ。あたしたちで戦うんだ。今までずっとそうしてきた。だから! これからも、そうする!!」

 炎に心の氷を融かされて、ヴィッシュは力なくうなだれる。濡れた草木が(こうべ)を垂れて天に許しを請うように。大きな体を小さく折りたたみ、猛火のように襲い掛かってくる好意と厚意とに必死で耐えた。

 気を抜けば、涙を零してしまいそうだったから。

「……怖いんだ。

 みんなを死なせて、ひとりだけ生き残ったこんなクズが、最高の仲間に囲まれて、毎日楽しくて、充実して、こんなにも……

 こんなにも、幸せでいいのかって……

 許せないんだ。分からないんだ。考えても、考えても、もう……どうしようもないんだよ……」

「分からなくていい」

 緋女がヴィッシュの背中に回り、そっと後ろから抱きしめる。

「あたしのこと、どう思う?」

 ――ああ、そっか。それなら、分かる。

「好きだ。緋女」

 緋女は照れくさそうにはにかんだ。

「あたしも」

 初めてのキスは糖蜜のように甘く、少しだけ、アルコールの香りがした。

 

 

 同じころ、カジュは屋根裏の勉強部屋で論文の執筆に行き詰まり、頬杖を突いていた。その彼女の耳に、階下の声が届く。カジュは思わず手から頬を離す。息さえ止めて、耳を澄ます。

 それはまるで、荒々しくも美しい野生の獣が、春の訪れに躍動する心をそのままに歌い上げたような。そんな悦びに満ちた声だった。その生き生きとした調べがカジュの小さな胸を打つ。

「……やっとか。」

 ――言いたい文句は、山ほどあるけど。

 彼女が浮かべた表情は、安心半分、口惜しさ半分。

 生涯の親友であり、最高の相棒であり、実の姉のようにも思っていた(ひと)と。

 頼れるボスであり、優しい父であり、密かな片思いの相手でもあった(ひと)

 一口には言い表せない複雑な想いを、まるごと腹の中に飲み込んで、カジュはペンを手に取った。

 今なら書ける気がする。

 緋女とヴィッシュが愛を交わす声が、カジュには快い協奏曲に聞こえる。詰まっていたはずの文章が、不思議にすらすらと浮かんでくる。カジュは上機嫌に、夢中でペンを走らせた。

 ――大丈夫。

 遠く聞こえる愛の歌が、無限の創造力をくれる。

 ――おめでとうって言えるよ。キミたちになら。

 

 

   *

 

 

 翌朝遅くに目を覚ましたヴィッシュは、彼の脇の下に頭をすっぽりと収めて眠っている緋女を見出した。自分も彼女も裸のままで。窓から射し込む陽光に、緋女のむき出しの乳房は生き生きと光り輝いていて――

 これほど誰かを愛おしいと思ったことはなかった。

 これほど自分を誇らしいと思ったことも。

 緋女は素晴らしいひとだ。強く、まっすぐで、炎のような生命力に溢れている。どんな美人だって貴人だって、緋女と並べば見劣りする。一年足らずの間いっしょに暮らしてきて、ヴィッシュは今や、そう確信している。

 なのに、それほどの緋女が、自分を愛してくれた。自分の愛を受け入れてくれた。認めてくれた。

 それが嬉しくてならず、ヴィッシュは緋女に顔を寄せていった。

 だがもう少しというところで緋女が眼を開く。彼女の手がヴィッシュの頬を押しとどめ、口づけを拒む。いたずらな笑顔が吐息がかかるほどの距離で花を咲かせる。

「キスしてあげない」

「えー……」

「ちゃんと言って」

 ヴィッシュは苦笑した。何もかも彼女の手のひらの上。だがそれもいい。ひとりでは本音も出せないほど弱い自分なら、仲間と言う火に、胸の内にあるものを沸騰させてもらえばいい。

 それを赦せるようになることは、弱くなることではないはずだ――きっと。

「一緒に来てくれ、緋女。俺にはお前が必要だ」

「言えたね」

 緋女がヴィッシュを抱き込んで寝返りを打ち、彼を身体の下に組み敷いた。触れ合う寸前まで唇を近づけ、甘く、甘く、官能を囁く。

「ごほうび」

 熱く、たっぷりとして、とろけるほどに丹念なキスは、なるほど、最高のごほうびに違いなかった。

 

 

   *

 

 

 だが、しかし。

 世界のどこかの夜で、善意と愛が共寝(ともね)する時。

 別のどこかの暗闇で、苦痛と悪が目を覚ます。

 とある名の知れた王国の、歴史ある都。その中央に、見る者を圧倒する壮大な王城が立っていた。月明かりの中に堂々と浮かび上がるその威容は、さながら眠れる巨人。王の人気もまずまずで、都の住人たちは生活の折々に城を見上げ、王権を称えるのが常であった。

「玉座に乾杯!」

 誰かが酔ってそんなことを叫ぶと、辺りに居合わせた街の住人たちが次々に声を合わせたものだ。

「繁栄に乾杯! 復興に乾杯!」

 時には騒ぎが玉座に届き、国王その人が窓から手を振って応えることもあった。白く輝く石造りの城郭は王都の賑わいの象徴。ひいては王国の明るい前途の象徴でもあった。民は城を見、その足元に立つ己をも見出す。自分が大いなる繁栄の一部であることを、雄大な巨人の姿から思い出すのである。

 なのにその王城が今、漆黒の夜の中で、氷河に閉ざされた険山の如く不気味に静まり返っている。

 篝火のひとつも灯されず、窓には蝋燭の炎さえ見えず、普段なら夜通し城壁の上や下を行き来している警邏(けいら)兵の姿もない。鎧がこすれる音もない。足音もない。息遣いさえ聞こえない。まるで吹き抜ける風までもが息を潜めているかのよう。巨大な墓石を思わせる石造りの城の前から、あらゆる日常の気配が雪崩うって逃走を始めたかのよう。

 昼には陳情に訪れる国民で溢れかえり、夜には勤勉な官僚たちが忙しく行きかう大回廊には、重苦しい、濃密な死の気配ばかりが満ちている。どこからともなく腐臭が漂ってくる。不快な熱気が闇に紛れて忍び寄ってくる。内臓を鷲掴みにするかのような邪悪の予感が急速に高まっていく。

 その《悪意》の源は、城の最奥、玉座の広間の中にあった。

「おれは卓越した術士であると同時に、当代最高の知恵者でもあるわけだから、もちろん計算だって得意分野だ」

 影が、耳障りにくぐもった声を挙げる。嘲弄の色を隠しもせずに。

「1378人。死んだのは、たったそれだけさ」

 そこに、凄惨な光景が広がっていた。

 死体。死体だ。玉座の広間一面を埋め尽くし、さらに積み上げられて山を為すほどの死体。兵士、下女、文官、武官、果ては馬や犬猫まで。身分の区別もなく、性別も種族も問わず、あらゆるものが()()()()()()()()。あるものは首の骨を折られ、またあるものは臓物を(さら)け出し、しかしみな一様に歪んだ恐怖を顔面に貼り付けたまま、殺され、無造作に打ち捨てられている。

 その死体の山の上に、だらりと前かがみに座ったひとりの男があった。男は全身を薄汚れた黒衣に包み、大股を広げ、膝の上に両腕を投げ出し、のんびりと見下ろしている。この城に残ったたったひとりの生者の姿を。

 死体の山の下で必死に()いずる、国王リハルト2世の醜態を。

「わた……しは……? どうなっているのだ……? わたしは……?」

 唾液をなすすべもなく垂れ流しながら、狂気に呑まれかけた声で国王が問う。彼の肉体で原形をとどめているのは頭部のみである。胴体は空気の抜けた風船のように薄く(しぼ)み、左腕は7つの関節を持て余して無闇にわななき、右腕はびっしりと生えた数百の眼球の重みを支えきれず床に寝そべり、両脚はと言えば、大きく弧を描いて弓のように反り返ったかと思うと、足先が背中の肉と融合して決して(ほど)けぬ輪を作っている。これは比喩ではない。誇張でもない。王の肉体の今のありさまを、ただ見たままありのままに表現したに過ぎない。

「これはッ!! 一体なんなのだーッ!?」

 王が泣き叫んだ。

 黒衣の男は爽やかに笑いながら、身軽にひょいと死体の山から飛び降りてきた。

「ヘイヘイヘイヘイ! なあ王様? あんた王様だろ? いけないよぉ、自分のことばっか気にしてちゃ。ちゃんと国民のこと第一に考えてあげなきゃ。貴人の務め(ノブリス・オブリジュ)ってやつ」

 男は王の前にしゃがみ込み、不愉快な含み笑いを言葉の節々に挟み込みながら、さも親し気に語り掛ける。

「いいかい王様? もう一回言うぜ。

 1378人死んだ。あと2万8千人残ってる。

 あんたの決断ひとつで、今なら()()()

「屑め……貴様は屑だッ!

 死術士(ネクロマンサー)ミュート!! 腐り果てた汚泥にさえも劣る奴!!」

()()

 黒衣の男――死術士(ネクロマンサー)ミュートが冷たく囁く。その《遠話》が届いた瞬間、遥か遠くのどこかから、この世の物とは思えない恐怖の絶叫が、何千と湧き上がり渦巻き轟音と化し、王の耳にまで押し寄せた。誰ひとり生きた人間のいなくなった石の城において、声は不自然なまでによく響く。普段なら聞こえるはずもない悲痛の音色を余すことなく伝えてしまう。

「今のはザーム通りね。人口は1000人くらい? 残り2万7千人、と」

「やめろ……やめてくれ……

 私に何を……しろというんだ……」

「貸してほしい物があるんだよ。去年の秋ごろ、この国の地下遺跡から発掘された魔導帝国時代の動力源。あんたはそれの所有権を主張し、魔法学園の監視付きという条件を飲んで、後始末人協会から譲り受けたはずだ」

「何の……ことだ……」

「まったまた! とぼけちゃってえ。そのために学園の副校長が監査に来たんだろ? 表向きは王立大学での講演ってことにして、な。

 おれの大事な友達のために、()()がどうしても必要なんだ。ほら、なあ、王様。教えてくれよ。

 ――《魔王の卵》は、どこにある?」

 王の苦悩の声がこだまする。だが、聞き入れる者はもはや――ない。

 

 

(つづく)

 



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第15話-03 故国への帰還

 

 

 ヴィッシュたち3人はシュヴェーア経由でクスタへ向かう商船に便乗して、第2ベンズバレンから出港した。

 内海の大規模な商船はその多くが快速の喚風(アイリー)船である。喚風(アイリー)船は帆船の一種で、魔術で生み出した風によって走行するものを言う。常に順風を得られるため巡行に極めて有利であり、風任せで大きく所要日数が変動しがちな船旅をかなり安定させることができる。小回りが利かないため海上戦には向かず、高給取りの術士を雇うコストもかかるが、大型の貿易船ならそうしたデメリットは問題にならないというわけだ。

 波の穏やかな季節ということもあり、船旅は苦も無く順調に進んだ。出港から10日目、水夫の良く通る声が船中に響き渡った。

「陸が見えたぞ!」

 暇を持て余していたカジュは、待っていましたとばかり甲板に飛び出し、船の舳先(へさき)から身を乗り出して行く先を眺め見た。水平線の向こうから、陸の建物が背の高い順にせり上がってくる。港の灯台、教導院の三角屋根、そしてシュヴェーア帝国の港町ドロスブルクの街並みと、その周囲に広がる緑に覆われた大地。

「おー。上陸までどのくらいっすか。」

 近くで甲板磨きに勤しんでいた船員に尋ねると、うきうきと弾んだ答えが返ってくる。

「昼飯時には着くよ。旨いものが食えるぞ」

「よしよし。」

 とカジュが胸を撫でおろすには訳がある。ちょうどその時、聞くのも苦しいような嗚咽が船の裏側から聞こえてきた。様子を見に行ってみれば、ヴィッシュが海に向かって激しく嘔吐し、心配顔の緋女にずっと背中をさすられている。

 ヴィッシュは出港から数日して、かなり重い船酔いにかかり、以来ほとんど四六時中こうしているのだ。食べた物も飲んだ物もほとんど身体に残ってはいまい。船旅が長引くようなら真剣に命の危険を心配せねばならないところだった。

「あと1時間で上陸だってさ。」

「そっか。おい、もうちょっとだぜ。しっかりしろ、あたしがついてる」

「ぅ……ああ……」

 緋女の看護は実にかいがいしいものだったが、症状の改善はほとんど見られなかった。それどころか、カジュの目には、シュヴェーア帝国が近づけば近づくほど酔いが酷くなっているように見える。

 ――ほんとに船酔いなのかね……。

 かつて重度のストレスで心と身体を壊した経験があるカジュだからこそ、ヴィッシュを襲っているものの正体が分かる気もする。だが、分かったからといってどうしてやることもできない。彼の精神が故郷の土を拒み続け、しかもその場所に向かい続ける以上、どんな励ましも慰めも効きはしないだろう。

 ――明日は我が身か。

 カジュは自分自身の不安を喉の奥に飲み込み、平静を装う。

「ボク、荷物まとめてくる。」

「あ、あたしもー」

「いいよ。みんなの分やっとくから。そばにいてあげなよ。」

 呻くヴィッシュの背中をチラと見やり、カジュは船室に向かう。その背中に緋女の大声がかけられる。

「カジュー! 好きー!」

「知ってまーす。」

 ぱたぱた後ろ手を振り、カジュは扉の奥へ入っていた。

 だがそのとき、異変が起きた。

「おい! なんだあれ!?」

 水夫の慌てた声が船中の注意を引く。誰もがひととき手を止め、港の方へ視線を移し、次々に騒ぎ出す。

「煙だ!」

「港が!?」

「火事なのか!?」

 その声を聞くなり、カジュは甲板に駆け戻り、《風の翼》で空へ飛び上がった。船の帆よりも高い所から陸を見下ろし、カジュはすうっと目を細める。

 ドロスブルクの港。そのいたるところから立ち昇る黒煙。煙の狭間で残忍に揺らぐ炎の舌。ただの火事ではない。声が聞こえる。何百何千という人間が恐怖に駆られて叫ぶ声が。あの火の正体がカジュにはすぐに分かった。あまりにも見慣れすぎた光景だった。

「……戦争だ。」

 

 

   *

 

 

 ドロスブルクは300年の歴史を持つ、帝国でも最も古い港町だ。建国帝“名もなき竜殺しの英雄”が邪竜討伐のため上陸したのもここなら、魔王戦争で国を追われた現皇帝が再起戦の旗を上げたのもここ。きめ細かい東シュヴェーアの材木をふんだんに用いた街並みは風光明媚で知られ、多くの文人、詩人が愛した宿や聖堂、カフェなどがそこかしこに現存する。

 それら全ての歴史が今、無慈悲で貪欲な炎に蝕まれ、邪悪で執拗な黒煙に飲み込まれ、灰燼(かいじん)に帰そうとしている。

 恐慌に陥り、行くあてもないまま逃げ惑う住人たち。街の警備隊は必死に声を張り上げ、避難者たちの誘導に努める。たった今も、ある兵が、すすに汚れた母子を火事の中から救い出し、広場の方へと送り出したところだ。彼は脂汗まみれの顔を左右に振って、次に為すべき仕事を探した。仲間がそれに気付いて手を振ってくる。

「こっちだ! 手を貸せ!」

「分かった、すぐ行……」

 だが、彼はもうそれ以上、誇りある役目を果たすことができなかった。

 物陰から突如飛び出した錆だらけの剣が、背中から、彼の胴を貫いたのだった。

 愕然として彼は後ろを振り返る。

 生命の気配すらない虚ろな眼孔に異様な赤い光ばかりを爛々と輝かせた、骸骨(スケルトン)の戦士が、そこにいた。

 兵が力尽きて倒れたのを合図に、物陰にびっしりと詰まっていた骸骨(スケルトン)どもが洪水のように溢れ出す。途端、街に絶叫が走る。兵士たちはとっさに槍を構えて応戦するが、敵の数は少なく見てもこちらの十倍。食い止めるどころか、勢いを緩めさせることさえできず、警備隊はなすすべなく死霊(アンデッド)の群れに踏み潰される。

 警備隊長ボンゴ・ロンゴ率いる部隊が駆けつけたのはその時だった。野生の熊ほどの体躯を持つボンゴ・ロンゴでさえ、目の前の絶望的な光景に一瞬怯む。だが逃げてはいられない。押し寄せる死霊(アンデッド)どもの前には、追い立てられ懸命に走る住民たちがいるのだ。

「野郎どもォーゥ!」

 ボンゴ隊長は口髭をビリビリと震わせ叫んだ。

「粉砕せェ―――――ィ!!」

『粉砕せェ―――――ィ!!』

 地鳴りにすら似た(とき)の声をあげて兵士たちが突撃する。数では劣れど、こちらは名にし負う“内海最強”シュヴェーア帝国軍。兵卒のひとりに至るまでが剛勇無双の豪傑ばかり。勇猛果敢に敵陣に飛び込み、一糸乱れぬ連携ぶりで鉄槍振るうそのさまは、さながら大地を薙ぎ払う大暴風。両軍激突するや否や骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)どもが斬られ、砕かれ、吹き散らされて、白骨の飛沫を天に飛ばす。

 だが。

 何物をも恐れぬはずのシュヴェーア軍の動きが、一瞬、戸惑いのために止まる。

 頭蓋を砕かれた敵が。肋骨を割られた敵が。脳天から縦一文字に両断されたはずの敵が。

 何事もなかったかのように、平然と立ち上がり、再び掴みかかってくる!

「こいつら死なねえ!」

 シュヴェーア兵の悲鳴が巻き起こった。血が吹き出す。恐怖がすさまじい勢いで全軍に伝染する。ボンゴ隊長は自らも槍で骸骨(スケルトン)を突き倒しながら、蒼白な顔面で戦況を見た。

 いけない。味方は潰走寸前だ。無理もない。こちらは一傷で倒れるのに、敵は殺しても死なないのだ。このままでは全滅する。といって……住民たちが安全圏まで逃げ切るには、まだ時間がかかる。撤退命令はまだ出せない! なすすべもなく殺されていく部下たちを目の当たりにして、ボンゴ隊長は焼けるように熱い涙を浮かべ、断腸の思いで再び号令を下す。

「踏ん張れ踏ん張れ踏ん張れ―――――ィ!!

 お前らの強いとこ見せてやれェ―――――ッ!!」

 それが部下に死を命じることに等しいとは知りながら。

 だが、決死の奮起さえ、圧倒的な戦力差の前では塵にも等しい。味方の陣の一角が、ついに突破された。骸骨(スケルトン)どもが雪崩れ込んでくる。後ろに回られた。挟撃される。もはや勝ち目は、ない。

 誰もが絶望にすくみあがった――そのとき。

〔みなさん伏せてー。〕

 ぼそぼそと呟くような少女の《配信》が、その場の全員の脳内に響いた。

 その直後、空に、白い影が矢のように飛来する。

「《光の雨》。」

 カジュの呪文に応え、天空から現れた数百の《光の矢》。それが豪雨の如く降り注ぎ、正確に、骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)だけを撃ち抜き蒸発させていく。そしてひととき勢いを緩めた死霊(アンデッド)軍の中心には、

「お次どうぞ。」

「任せとけ!」

 真紅の竜巻が突入する。

 振るう大太刀が敵を巻き込み、暴れ、轟き、粉砕する。骸骨(スケルトン)の骨と言う骨を当たるが幸い叩き割り、走り抜けた後ろには白骨が累々連なり山を為す。あっけにとられるシュヴェーア軍の眼前で、艶めかしく舞い踊る肉食獣の肢体――緋女!

「ありゃあ……なんだよう?」

 茫然呟くボンゴ隊長。彼は緋女とカジュの猛然たる戦いに目を奪われ、すぐ足元で立ち上がる骸骨(スケルトン)に気付いていなかった。骨のこすれ合う不気味な乾燥音を聞きつけ振り返ったその時には、既に骸骨(スケルトン)の赤目は鼻の先。

 ボンゴ隊長が死を覚悟した、その直後、横手から叩きつけられた盾が、敵の頭蓋骨を打ち砕いた。盾の持ち主はひとりの戦士。彼は気迫を鋭く吐き捨てながら盾の縁を骸骨(スケルトン)の脚に打ち込み、大腿骨を真っ二つにする。

 不死身の死霊(アンデッド)といえど足を砕かれては這いずることしかできない。無様にのたうつばかりの頭蓋骨を、戦士の脚が力強く踏み割った。

 ――そうか! こうすればいいのか!

 殺すのではなく、動きを止めるのだ。無力化すればそれでよいのだ。死霊(アンデッド)への手慣れた対処に感心しきりのボンゴ隊長。彼の興奮を知ってか知らずか、盾の戦士は深呼吸。息を整えながら油断なく盾を構えなおす。

「やれやれ。着いた途端にこの騒ぎかよ」

 その声に、ボンゴ隊長は、聞き覚えがあった。

「ま、酔い覚ましにはいい薬だ」

 親しく苦笑してみせる、その戦士は――

「ヴィッシュ……? お前! ヴィッシュじゃないかよ―――――ぅ!!」

 雷鳴めいた大声を聞いて、シュヴェーア軍の兵卒たちがざわつきだす。

「ヴィッシュ?」

「ヴィッシュって()()?」

「“討魔隊長”?」

「“百竜殺し”!?」

「“東の勇者”ァ!!」

「ヴィッシュ・ヨシュア・クルツフェンだーっ!!」

 途端に湧き上がる兵士たち。士気は一挙に沸騰し、何百もの槍が天を突きあげヴィッシュを称える。予想だにしなかった大歓迎に、当のヴィッシュが大困惑。

「足を狙え、ボンゴ!」

「分かった!」

 と早口にアドバイスを送るやいなや、その場を逃げ出すかのように仲間たちの元へ駆けて行く。ボンゴ隊長は熱々の蒸気のような鼻息を勢いよく吹き出して、部下たち目掛けて号令を鳴り響かせる。

「よぉーっしゃー! 野郎ども! 盾殴り(シールドバッシュ)! (あし)(ころ)せェ―――――ィ!!」

(あし)(ころ)せェ―――――ィ!!』

 軍勢の威勢が天を揺るがすかの如く響き渡り、死霊(アンデッド)ども目掛けて猛然と反撃を開始した。

 

 

 出会う骸骨(スケルトン)をひとつひとつ潰して回りながら、ヴィッシュは戦況を確認した。ボンゴ隊長の命令を受けたシュヴェーア兵は、効率よく敵を無力化しはじめた。徐々に敵勢を押し返しつつある。

 どうやら勝敗の分水嶺は乗り越えたようだ。こうなれば敵の壊滅は時間の問題だ。

 ――よし。これで街は()()な。

「カジュ! そっちはどうだ?」

〔えぐいの来たっす。〕

 と珍しくカジュが弱音を吐く。ヴィッシュが見やれば、遠くそびえる港町の城壁を、何か巨大な怪物が一突きに突き崩している。

「げっ!」

 ヴィッシュは顔をしかめた。あの怪物。熊さえ一飲みにする巨大な顎。城壁を容易く打ち砕く剛力の爪。そして、緋女の打ち込みさえも弾き返す、異常な強度を誇る白骨の身体。

 “不死竜(ドレッドノート)”。死霊(アンデッド)化した(ヴルム)である。

 冗談ではない。ただでさえ(ヴルム)の肉体は強靭無比。鱗は鋼鉄をも弾き返し、骨は分厚い岩盤をも貫く。それでも生きた竜ならば急所を狙って仕留めることは可能だが、もし、死んだ竜の身体を、痛みも感じず出血もしない死霊(アンデッド)として蘇らせたらどうなるか?

 答えはこれ。緋女ですら斬るのに難渋し、カジュの術ですら焼き殺せない、最強クラスの魔獣ができあがる。過去には、とある邪悪な術士が操る不死竜(ドレッドノート)が、たった一頭で一国を滅ぼした例もある。こいつを何とかしない限り、街の壊滅は免れまい。

〔作戦よろしく。〕

「……よし……決めた! 注目を集めておけ! 俺が仕留める!」

〔がんばれ緋女ちゃん。〕

「やってる……よォ!」

 不死竜(ドレッドノート)が前足を叩きつけ、緋女はその一撃を皮一枚で潜り抜ける。そのまま敵の脚を踏み台にして頭上へ跳躍。頭蓋骨目掛けて裂帛の気合と共に大上段からの大太刀を叩き込む。が、巨人さえ一刀のもとに切り伏せたほどの刃が、辛うじて頭蓋の一部を割り、角の一本を斬り落としたのみ。

 ――(かて)ェ!

 まるで分厚い岩盤に斬りつけたかのような手ごたえ。少しでも打ち込みの角度が狂えば剣を圧し折ってしまうところだ。厄介な敵。だが、緋女はぺろりと舌なめずりして、不敵な笑みを唇に乗せる。

 ――見せろよ相棒。あるんだろ、策が!

 着地するなり再び緋女は跳び、右へ左へ不死竜(ドレッドノート)を翻弄しながら執拗に打ち込みを続ける。

 その姿を横目に見ながらヴィッシュは不死竜(ドレッドノート)の足元に駆け込み、折れた竜の角を()(さら)っていく。

 ――もちろんあるさ。見ててくれよっ!

 敵が緋女に気を取られている隙に、後ろ脚の間近にまで駆け寄る。足首の関節に竜角の先端を差し込み、腰にぶら下げていた戦槌(メイス)に持ち替える。大きく横に戦槌(メイス)を振りかぶると、(くさび)を打ち込む要領で、竜角を関節に叩き込む。

 その途端、衝撃に耐えかねた関節が粉砕され、バランスを崩した不死竜(ドレッドノート)が斜めに傾き尻もちをつく。

 竜の骨は確かに硬い。並の武器で傷つけるのは難しい。

 なら、同じ硬さを持った武器を使えばよい。幸い、あたりには緋女やカジュが斬り落とした牙や角がごろごろしている。

 それらの一本を再び拾い上げ、ヴィッシュは走りながら仲間たちに声を張り上げた。

「次、前足! 援護!」

「よっしゃ!」

「イエスボース。」

 自分の身体の異変の原因、ヴィッシュに目を付けた不死竜(ドレッドノート)。赤い目で睨みつけ、大口を開けて彼の頭上に襲い掛かる。だがその一瞬を見事に突いて、緋女の太刀が割り込んだ。頭蓋に食い込む白銀の刃。反射的に不死竜(ドレッドノート)の爪が緋女へ向けて振るわれるも、待ち構えていたカジュの《光の盾》があっさりと弾き返す。

 ちょうどその時、2本目の(くさび)がヴィッシュの手で打ち込まれた。左前脚の膝関節が完全に崩壊する。

 片側の脚2本を失った不死竜(ドレッドノート)は、巨体を支える手段を失い、横倒しに倒れはじめた。圧し潰される直前で竜の下から転がり出て、ヴィッシュが吼える。

「緋女! 今だ!」

 その命令を予期していたかのように、緋女は太刀を肩に担ぎ、不死竜(ドレッドノート)の目前に着地する。

「立ってる物を斬るのは難しいんだよ。フラフラするしよォ。けどな!」

 太陽目掛けて跳躍した緋女の、刃が大上段に振り上げられる。

「まな板の上に載ってりゃァ―――――ッ!!」

 飛び降りざまの縦一文字。最速の刃に渾身の力。緋女会心の一撃が、不死竜(ドレッドノート)の頭蓋と頸椎とを脳天から真っ二つに断ち斬った。

 その途端、不死竜(ドレッドノート)の生命を維持していた魔法力線が物理的に遮断され、その活動を停止した。巨大な肋骨が、腰骨が、膝が、ひとつひとつ砕けて分かれ、砂埃を立てながら崩れていく。

 巨体の崩壊を背に、緋女は、すぅ……と穏やかに深呼吸した。

 そのそばにヴィッシュが歩み寄り、カジュが降り立つ。一仕事終えた3人の後始末人は心地よい疲れの汗を浮かべながら、互いの顔を一瞥(いちべつ)し、やがて、3つの拳をコツリと突き合せた。

 ヴィッシュは顔を背けて背中を丸めながら。

 緋女は小悪魔めいて笑いながら。

 そしてカジュは、手を届かすため、ピョンと軽やかにジャンプしながら。

 

 

(つづく)

 



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第15話-04 招待状

 

 

「ヴィッシュ! ヴィッシュよぉ―――――ぅ!!」

 不死竜(ドレッドノート)を片付けて港へ戻るなり、肌がビリつくほどの大音声で迎える男がひとり。シュヴェーア帝国軍ドロスブルク港警備隊長、ボンゴ・ロンゴである。大樽のような身体を左右に揺すり、地震でも起こすのかというほどの足音で駆け寄り、ヒグマと見間違うほどの太い腕で問答無用にヴィッシュを抱きしめる。

「うおおー! うおおおー! まさか! まさかこんなピンチに……お前が帰ってきてくれるなんてよーぅ! うおおおーん!」

「おいおい。泣き虫は変わらねえな」

 いい年をした中年男が、別の中年男を胸に掻き抱き、子供みたいに泣いている。周囲の部下たちは、上司の醜態を、しかし微笑ましげに見ながら、くだけた口ぶりでからかってくる。

「涙目の隊長ー! また泣いてんですかァ?」

「うるせえ! こりゃ、おめえ……汗だ!」

「すごく汗っかきっすねー! 戦況落ち着きましたぁ」

「よくやった! 怪我人を教導院に集めろィ。お医者さん手配してあっから!」

「はいサー!」

 気合の入った敬礼を返して、兵士たちは駆け足で仕事に向かった。上官とこれほど打ち解けた関係でありながら、礼節は失わず、命令には手足の如く従い、任務への熱意も高い。シュヴェーア軍は精強だ。かつてヴィッシュがいた頃と少しも変わることなく。

 その働きぶりを懐かしみ、ヴィッシュはそっと、目を細める。まだ泣いている旧友の背を、そっと撫でてやる。

「お前がドロスブルクの隊長か。出世したなあ、ボンゴ」

「馬っ鹿言えぇ。もし帝国に残ってりゃ、お前は今ごろ将軍閣下だよ」

 ――買いかぶりだよ……

 と、ヴィッシュの本心は、苦い。だが顔を上げたボンゴ・ロンゴの目には、冗談も世辞もない。彼の言葉は丸ごと本心だ。心からヴィッシュを評価してくれているのだ。

「なあヴィッシュ。オレは、ずっとお前が心配でよう……いきなり消えちまいやがって。

 お前のことだから……『全部俺のせいだ』って。『俺なんか苦しめばいいんだ』って。ずっと……ずっと……自分を責め続けてるんじゃないかと思ってよう……!

 生きててくれて良かったよぅおおおお―――――! ヴィッシュよお―――――ぅ!!」

 ボンゴ・ロンゴの号泣が、ヴィッシュの胸には、火傷するほど熱くて……

 緋女が、ヴィッシュの背中を優しく叩く。

「いるじゃねえかよ。いい友達が」

 その足元を、カジュが手を振りながら追い抜いていく。

「お仕事手伝ってきまーす。」

 何か冗談を言い合いながら去っていく仲間たちを見送りながら、ヴィッシュはぽつりぽつりと呟き、ボンゴを抱擁した。

「ああ。ほんとうだ。ほんとうだよ……」

 

 

   *

 

 

 その日は焼け出された住民の救助や残敵掃討だけで終わってしまい、ヴィッシュたちはドロスブルクに泊まることになった。ボンゴ・ロンゴが警備隊の宿舎を貸してくれ、緋女とカジュはそちらへ。ヴィッシュは、久々に酒を酌み交わそうという誘いに乗って、ボンゴの家へ。

 ボンゴの立派な一軒家には、しかし彼と若い下女ひとりしか住んでいないらしかった。下女のケチャはそばかすが愛らしい、イモ畑の土の匂いがするような16歳の娘で、実にしっかりした働き者だった。彼女が用意してくれた夕食は、山盛りの()かし芋と腸詰、そしてもちろん、目が覚めるほど苦い麦酒(ラガー)。ヴィッシュは大喜びだ。

「おっ、これこれ! これこそシュヴェーア味だ」

「ケチャや、ありがとうよ。あとは自分でやるから、もうお休み」

「はあい。だんなさま、飲みすぎちゃいやですよ」

「散らかしたらちゃんと片付けるよう」

「ちがいます! 肝臓が悪いって、お医者さまに言われたじゃないですかあ! だんなさま死んだら、ケチャ泣きますからねっ!」

 べっ、と舌をだして下女は自分の部屋へ引っ込んでいった。にやにや笑いで掬い上げるように友を見上げるヴィッシュ。照れてほっぺたを掻きむしるボンゴ・ロンゴ。麦酒(ラガー)の杯をコンとかち合わせ、一気に飲み干すなり、ヴィッシュがからかう。

「かわいいじゃないか」

「うむう」

「お前まさか?」

「違うんだよう! あの子の方から部屋に来るもんだから……それでつい……」

「おおーっとォ! 予想外の事実が来たぞ!」

「わあ! しまったあ!」

「ははは……! まあ、お互い一人前の大人同士だ。別に悪いことじゃない」

 余談であるが、この内海においては12歳で成人とされるのが一般的である。結婚年齢は都市部ほど高くなる傾向はあるものの、おおむね16歳前後といったところ。すると、ケチャなどは充分に大人と言えることになる。

 とはいえ、親子ほども年の離れた男女関係なら、からかいの的になるのは確か。人によっては顔をしかめることもあろう。ボンゴがケチャのことをあっさり漏らしたのは、そんな堅苦しいことを言うヴィッシュではないと知ってのことだったに違いない。

「でも責任はとれよ?」

「分かってる、分かってる」

「じゃあ今夜は祝杯だ」

 早くも2杯目を注ぎ、笑いの中で口をつける。故郷の味、故郷の酒、気の知れた古い友。ヴィッシュは訊いた。あれから10年、シュヴェーアで起きた大小さまざまの出来事を。ボンゴも聞きたがった。狩人に転身した友の、成功失敗とりまぜた武勇伝を。そしてふたりで口を揃えた。かつてこの国で、肩を並べて戦った頃の――世界的には最悪の時代であったはずの魔王戦争での、懐かしい思い出話を。

 歳を取った。

 語り合えば語り合うほど、ふたりにはそれが実感された。10年という時間は、重い。かつての戦友が、それぞれ全く異なる世界で暮らし、全く異なる仲間たち、全く異なる敵と、戦い続けてきた。昔は一本であったはずのその道は、分岐点を過ぎて遠く遠く離れ、今や、ふたりに全く異なる景色を見せているのだ。

「変わったよな。お互い」

 ヴィッシュが腸詰をつまむ手を止め、寂し気に呟くと、ボンゴが顔をしかめて胸を反らした。

「太った、って言いたいのかよう」

「正直それはあるぞ」

「お前だって。ちょっと髪、薄くなったんじゃないかあ?」

「知ってるよ。ま、遅かれ早かれだ」

「男前が台無しだよう」

「いいんだよ。髪の量しか見ないような女は好みじゃないんでね」

「あの女剣士はちゃあんとお前の中身を見てくれるってわけだな?」

「そりゃ、お前……」

「オレは白状したぞう」

「ああそうだよ!! あいつが好きでいてくれりゃそれでいいんだ!!」

「あははーん? 責任とれよーう?」

「この野郎」

 ひいひい笑い転げるボンゴ・ロンゴの額を、ヴィッシュの指がピンと弾く。あまりに彼が楽しく笑うものだから、ヴィッシュの仏頂面も(しま)いには融けた。ふたり分の笑い声が混ざり合い、窓から漏れ出し、涼しい夜風にのって流れていった。

 やがて笑いが収まると、ボンゴはふと、暗い色を顔に浮かべた。

「本当に、良かった。お前が、帰ってきてくれて」

 こう切り出されると、ヴィッシュとて歴戦の(つわもの)である。ボンゴの言わんとすることを察して、杯をテーブルに置いた。

死霊(アンデッド)のことか」

「今、帝国はメチャクチャなんだ。半年ほど前、ノルンの街から死霊(アンデッド)が湧き始めてよう……覚えてるだろ? あのノルンだよう」

 ヴィッシュは無言で頷く。忘れるはずがない。ノルンはかつて、ヴィッシュが率いる中隊が魔王軍から解放し、以来中隊壊滅までの拠点となった街。ヴィッシュにとっては第二の故郷とさえ言える場所だ。

 この旅の目的地もそのノルンの街であった。シェリーが夫や子供と一緒に住んでいたのは――そして何者かに殺害されたのは――まさにそのノルンなのだ。

 ボンゴはいつのまにか目尻に涙をためていた。身体こそ大柄ながら誰よりも繊細で、涙もろい男。部下たちから“涙目の隊長”などとあだ名されるような男が、どれほどの心労を胸にため込んでいたのか。想像に難くない。

「初めは、せいぜい小隊規模の骸骨(スケルトン)肉従者(ゾンビ)くらいのものだった。それが日に日に数が増えて……不死竜(ドレッドノート)みたいな化物まで出るようになって……

 中央の連中も救援に来てくれたんだが、間に合わず。ついに先月、ノルンが落ちた」

「冗談だろ? 帝都軍団が押し返せなかったのか?」

「敵の数が多すぎるんだよう! 帝都軍団でも、街道の要所を押さえて死霊(アンデッド)が溢れ出るのを防ぐので手一杯らしい。まるで魔王戦争の再現……いや、ひょっとしたらそれ以上かも」

「そんな話、ベンズバレンには全然伝わってないぞ」

「当たり前だよう。こんな弱みを国外に知られたら四方八方から攻め立てられるに決まってる。必死に隠そうとしてるんだよう。でももう、それも限界なんだ……」

 ヴィッシュは絶句した。

 当初の予定では、ここからノルンの街に向かい、そこでシェリーを殺害した魔族を探すつもりだった。だがどうやらそれどころではない。今の話どおりならノルンに入る、どころか近づくことさえ難しい。

 腕を組んで考え込むヴィッシュの顔色を、ちら、とボンゴがうかがってくる。ヴィッシュはそれに気づき、

「なんだよ?」

「いや……その……

 うん……やっぱり……

 お前に言うべきかどうか、迷ったんだけど、いちおう、言っておくよう。気を悪くせんでくれよ、こりゃ、ただの噂だからよう」

「分かった。なんだよ」

「ちょうど、死霊(アンデッド)が湧き始めてからなんだ……

 ()()っていう人がいるんだよ……」

「何を?」

()()()。あいつが、()()()()()()()

 ヴィッシュは。

 茫然と口を開け、無意識に腰を浮かせて、立ち上がった。

「……あ?」

「だから! 怒るなよう! ただの噂だって。オレも信じちゃいないよう。

 でも……でもよ。ちょうどその頃に、その……嫌な出来事があって……あんまり何もかも時期が重なったもんだから、つい、繋げて考えちまって」

「シェリーが殺されたことか?」

「あ……知ってたのか……」

「おいおい。お前が手紙をくれたんだろ?」

「手紙ィ?」

 ボンゴ・ロンゴが目を丸くする。

「手紙なんか書かねえよ。()()()()()()()()()のに」

 愕然。

 今度こそ、ヴィッシュは言葉を失い、その場に凍り付いた。

 

 

   *

 

 

「緋女! カジュ! 状況が変わった!」

 ヴィッシュは警備隊の宿舎に駆け込み、息を切らせて緋女たちの部屋へ飛び込んだ。刀の手入れや水晶玉いじりで思い思いに夜を過ごしていたふたりが、ヴィッシュの形相にただならぬ気配を察して身を起こす。

「俺にシェリーのことを伝えてきたこの手紙。差出人はボンゴ。だが彼はこれを書いてない」

「ん? どういうこと?」

「偽手紙か。」

「ボンゴが記憶喪失でもなけりゃあな。俺たちはハメられたかもしれん」

 ヴィッシュが床にしゃがみ、手紙を広げて見せる。そこに書かれた文面は緋女には読めないが、カジュには、親密な友人が書いた共通の知人の訃報に見える。文章の中には古い思い出話や、当人たちの間でしか通じない隠語らしき言葉も含まれている。

「……身内の手紙としか思えないね。」

「ああ。俺たちのことに詳しいなんてもんじゃない。ボンゴの文章の癖まで知り尽くしてる。そんな人間が、シェリーの死を俺に伝えてきた。なら俺がどう反応するかも予想がついたはずだ」

「お前をこの国に誘い出した、ってこと?」

 緋女の推測に、ヴィッシュは苦々(にがにが)しげに頷いた。

「どうやらこの手紙は、俺への招待状だ。

 あるいは――()()()への、な」

「あたしらを罠にはめて殺すため?」

「逆にベンズバレンから遠ざけるため。」

「ことによるとその両方、だ。

 いずれにせよのんびり構えていられなくなった。俺は今夜のうちに発つ。この手紙の送り主、心当たりを探ってくる。お前たちは明日すぐにノルンの街へ向かってくれ」

「作戦目標は。」

「とりあえず街の状況調査だ。死霊(アンデッド)発生の原因を排除したい。俺も用事を済ませたらすぐ合流するが……くれぐれも無理はするな。敵はこれまでにない大軍だ」

「りょーかい。んじゃー、馬借りよっかー?」

「ああ、それはいいな。頼んできてくれるか」

「ボクも馬見るー。」

 立ち上がって部屋を出ようとしたカジュの手を、そっと、ヴィッシュの手が掴む。カジュが視線を向けると、彼は――

「なあ、カジュ。教えてくれ」

 彼は今にも泣きだしそうな顔をして、しかし、歯を食いしばって堪えているのだった。

「魔法とか、何か、そういうもので――()()()()()ことって、あるのか?」

 

 

(つづく)

 



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第15話-05 運命は斯く扉を叩く

 

 

 ドロスブルクから街道を東へ走り、ドース百連丘陵の麓を駆け抜け、ユミルの山道に飛び込む。ヴィッシュは馳せた。旅慣れた脚、知り尽くした道であった。一人前の狩人が日に夜を継いで歩き続ければ、常人の3倍もの速さで旅は進む。2昼夜。たったの2日だ。()()()()に辿り着くまで。

 あのとき、ユミルからドースまでに費やした17日間が嘘のよう。

 傷と、飢えと、極限まで蓄積した疲労のために、ひとりまたひとり、仲間たちが倒れていった――あの地獄が、何かの間違いであったかのよう。

 間違いであればどんなにいいか。

 今、ヴィッシュは、あの時と同じ道を逆に辿っている。それはまるで、置いてきてしまった何かを取り戻しに向かうかのようだった。10年前、大勢の友の命と一緒に、あの戦場に棄ててきてしまった、かけがえのない、あまりにもかけがえのない――何か。

 一体、何を置いてきてしまったのだろう。

 一体、何処へ来てしまったのだろう。

 涙を奥歯で噛み殺し、苦しみを憤激にすりかえて、彼は駆けた。駆けた。駆けた……

 道すがら、出発前にカジュが話してくれたことが脳裏をよぎる。

「死者蘇生の術……ボクも考えてみたけど、可能性は3つだね。

 ひとつめ。死後に魂が現世に残った場合。いわゆる幽霊だけど、これは『蘇った』というより『ちゃんと死んでなかった』というほうが正しい。肉体は普通に朽ちていくから、いずれ霊魂だけの存在になる。

 ふたつめ。死体に《命の皇》の魔力を吹き込んだ場合。術士が肉従者(ゾンビ)骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)を動かすのはこの術。根本的には自動人形(アウトマット)と同じ理屈で、ボディが金属か死体か、程度の違いでしかない。新鮮な死体で脳の保存状態が良ければ記憶や人格が再現されることもあるけど、魂は《死の女皇》の元にあるままだから、ま、せいぜい記憶をコピーした人形、ってとこかな。

 で……みっつめ。死者が、神へと転生した場合。」

「人間が神様になるってのか?」

死の担い手(ネクロマンサー)ドゥザニア、始皇帝ヴァーネンタリウス、黒衣のドド。歴史上それなりに例のあることだよ。高位の神の力を借りて魂を《死》から取り戻し、存在を根本から規定しなおすんだ。

 そんな大技が可能なのは最低でも十二皇十帝クラスの神様だけど……まともな(やつ)なら手を貸すわけない。最高神たる《死の女皇》に正面からケンカ売ることになるからね。」

「つまり、()()()()()()()()ならやりかねない」

 何も言わないカジュに、ヴィッシュは苦々しく先を続けた。

「たとえば……魔王の力の根源。《悪意の魔神》ディズヴァード……だとか」

 長い長い溜息だけが返答だった。

 カジュの言葉を何度反芻(はんすう)してみても、ひとつの答えにしか辿り着けない。ヴィッシュは淀みなく歩き続けながら、しかし脳内では必死に別の可能性を探っていた。何か他にあるのではないか? もっと、もっと違う、もっと楽な道が、他に……

 とうとう彼は堪えきれなくなり、突如足を止め、道のわきに膝をついて、吐いた。

 胃の中身が血を思わせる赤に染まり、饐えた味と匂いを伴って、次から次へと逆流してきた。ヴィッシュは喘ぎ、咳き込み、何度も不愉快な唾を吐いて、体中をわななかせ、拳の中に土を固く握り込み、獣の如く、唸った。

 こんなに辛くても。

 こんなに苦しくても。

 この道を歩む者は――自分ひとり。

 震える膝で、立ち上がる。

 ヴィッシュは進んだ。

 その日の夜になって、彼はついに辿り着いた。ユミル山脈の中腹。険しい峠道の途中。

 彼が()()()()()()()()()()に。

 満月が輝いていた。あの夜も。今と同じように。

 その青白い月光に照らされて、傾いた墓標が暗闇に浮かび上がる。かつてここを通りかかった旅人が、親切にも墓を作ってくれたのだと聞いていた。銘のない墓石。歴史の狭間に声もなく消えていったはずの、名もない兵士の生きた証。

 それをヴィッシュは、ただ、茫然と見下ろすばかり。

 何もなかった。

 墓穴は暴かれ、中で眠っていたはずのナダムの亡骸は、忽然と消え失せていたのである。

 ヴィッシュが震える。

 糸の切れた人形のように、力を失い、崩れ落ちる。

「なんでだよ……」

 慟哭は、世界全てを呪うかの如く。

「どうしてこんな……こんなことに……!」

 

 

   *

 

 

 死霊(アンデッド)の軍勢に占領されたというノルンの街。その街並みを見渡せる小高い丘の上、立ち並んだ針葉樹の下に、表情を曇らせた緋女の姿があった。彼女は木の幹に体重を預け、ともすれば身体を突き動かしそうになる衝動を、力づくで腹の中に閉じ込めようとしている。

 そこに遠方の空からカジュが飛来した。《風の翼》を解除してふわりと緋女の隣に降り立ち、並んで街の方に目をやる。トン、と土を叩く杖の音が、カジュの焦燥を物語っている。

「そっちはどう。」

「全然だめ。街中死霊(アンデッド)だらけ。(ヴルム)のやつもいたぜ」

 カジュが杖の先で、地面に市街の概略図を描いた。緋女はその前にしゃがみ込み、手早く三か所指で示す。

「こことここ。(ヴルム)はこのへん」

「総勢3万は超えてるね……シュヴェーア本隊が手をこまねくわけだよ。」

「生きてる人は……もういねえな」

「たぶんね……。」

 ノルンの状況は想定を遥かに超えていた。というよりボンゴ隊長が掴んでいた情報が半月ほど古かったのだ。

 緋女とカジュは、ヴィッシュの指示通り2日かけて慎重に調査してきたが、その間にも状況は時々刻々と悪化していた。死霊(アンデッド)の数は増え続け、そのうえ、徐々に組織的な動きを見せ始めている。放っておけば、遠からず街から死霊(アンデッド)の大軍が溢れ出るだろう。そうなる前に発生源を潰さねばならないのだが……

「よお。これヤバくね? ヴィッシュはいつ来るんだよ」

「旅程から考えて合流は明日の昼あたり、のはずだけど……。」

「ハズじゃ困んだろー! その前にあいつらが動き出しちゃったら……」

 と、緋女が口にした、そのときだった。

 足の裏から下腹部まで、突き上げるような重低音がふたりを襲った。爪先が痺れるほどの震動が大地を通じて伝わってくる。百戦錬磨のふたりは一瞬にしてこの揺れの正体を悟った。

 ふたり同時に、弾かれたように街を振り返る。

 城門を突き破り、蟷螂(カマキリ)の子が卵から溢れ出るようにして街道へ飛び出てくる――数千数万の死霊(アンデッド)軍。

 その進軍の足音が、地震さながらに大地を揺らしているのだ。

 恐れていた事態が起きてしまった。それを認識した瞬間、緋女はもう走り出していた。

「行くぞ!」

「やるしかないかーっ。」

 犬に変身して矢のように駆けて行く緋女の後を、カジュは《風の翼》で追いながら、しかし漠とした不安を殺しきれずにいる。恐るべきことが起きつつある。その確信がカジュにはあった。目の前の死霊(アンデッド)3万体などがかわいく思えてくるほどの、想像を絶する強大な敵の予感が。

「……やるしかないか。」

 もう一度自分に言い聞かせ、カジュは戦場へ飛んでいく。

 だが、策は――ない。

 

 

   *

 

 

 まさにその時、とある山道で、ひとりの旅人が足を止めた。彼は小柄で、ともすれば少年と見間違うほどに幼い顔立ちをしていたが、背には似つかわしからぬ巨大な剣を背負っていた。流浪の戦士、であろうか。だが傭兵にしては、表情が世間ずれしていなさすぎる。

 その旅人が、道の真ん中にじっと立ち止まり、木々の中を流れる風の声に耳を傾けている。明るい黒髪が、木洩れ日を浴びて鮮やかな緑色に照り輝く。風が止み、葉擦れの音が収まってもなお、彼は動こうとしない。

「あの……旦那?」

 旅人の一歩後ろを歩いていた連れの男が、おずおずと声をかける。この男は近くの町で雇った道案内。このあたりを縄張りにしている魔物狩りの狩人――後始末人である。仕事がら山道に詳しく、隣町までの約束で旅人が協力を求めたのだった。

「しっ」

 旅人が人差し指を口の前に立てる。

「聞こえませんか?」

「へえ……?」

「軍勢が動く音だ」

 道案内の狩人は、それを聞くなり震え上がった。彼もシュヴェーアで働く後始末人ならば、自分たちが目指している先の街――ノルンで起きている異常事態については、嫌と言うほど耳にしている。

「まさか! ノルンの死霊(アンデッド)が!?」

「そうみたいです。急ぎましょう!」

 と旅人は歩き出したが、連れが動こうとしないことに気付いて振り返る。道案内は旅人の視線を受けて、首を左右に振り回し、半歩ずつ後ずさっていく。言葉こそないが、その怯えた目が如実に語っている。「無理だ。これ以上は近づきたくない」と。

 旅人はそっと目を伏せ、一呼吸した。次に目を開いた時には、旅人の表情は一転して明るくなっている。

「ノルンまでは、もう道なりにいくだけですよね?」

「あ、ああ……」

「この先はぼくひとりで大丈夫です! ここで別れましょう」

「いいのか?」

 道案内の男はホッとするやら決まりが悪いやら。旅人は彼を安心させようと、屈託のない笑顔を見せた。

「はい! 帰り道、お気をつけて!」

 道案内はこれ幸いとばかり、脱兎の如く逃げ去った。旅人はその背中を見送ると、肩に食い込む大剣の位置を直して、戦場へ向けて歩き出す。背中の剣は、彼の小さな身体にとっては、あまりにも重い。だがずっと背負い続けてきたのだ、これまでも。そしてもちろん、これからも。

 立ち止まっている時間など、彼にはない。

 寂しさに心を揺らす自由など、彼にはない。

 なぜなら――英雄(ヒーロー)はいつだって、ひとり。

 

 

   *

 

 

 数千体も連なる骸骨(スケルトン)の大軍勢に、真紅い閃光が突入する。犬の脚力で敵の足元を駆け抜け、敵陣の中央まで達したところで人間に変身。跳び上がりざまの横薙ぎで骸骨(スケルトン)5体を両断する。すぐさま緋女に目を付ける死霊(アンデッド)ども。目の赤光を爛々と燃やして四方八方から殺到する。

 が。

 緋女が跳ぶ。押し寄せる骨の壁の一角を恐るべき勢いの突進で突破。先刻まで緋女がいた位置で団子になる死霊(アンデッド)どもの背後に回り込むと全員まとめて斬り捨てる。

 本来なら剣での攻撃をほとんど受け付けないはずの骸骨(スケルトン)だが、緋女の剣はあまりにも鋭すぎる。常識外れの威力によって骨と言う骨が粉々に砕かれ、ただ一撃で行動不能に陥る。

 しかし敵の数はあまりに多すぎた。多勢が相手でも敗れるような緋女ではないが、手は足りない。街の外へ進軍する敵全てを食い止めることは到底不可能。事実、死霊(アンデッド)軍の大半は緋女を気にせずそのまま先へ進んでいる。

「あー! ばか! こっち来いや! コラ!」

〔考えなしに突っ込むからだよ。〕

 と脳内にカジュからの《遠話》が響く。緋女は後ろから飛びかかってきた骸骨(スケルトン)を切り伏せながら、

「助けてカジュー! びじん! てんさい!」

〔よく言われるよ。《石の壁》×2。〕

 どんっ!

 カジュの呪文に応え、緋女の左右に巨大な壁が出現した。必然、彼女の横を抜けて進もうとしていた死霊(アンデッド)たちは行く手を遮られ、すり鉢状に配置された壁の流れに従って、唯一の出口――緋女の方へ集まってくる。

「ええー? 全部あたしひとりでやれってか?」

〔なんか不満か。〕

 太刀を悠然と肩にかつぎ、緋女がにやりと不敵に笑う。

「いや。面白(おもしれ)ぇ!」

 

 

 数千の骸骨(スケルトン)相手におおはしゃぎで暴れまわる緋女。その姿を見守りながらカジュは上空を飛びぬけた。

 外へ出ようとする骸骨(スケルトン)は、これでしばらく食い止められる。だが城門付近を埋め尽くすかに思えるこの軍勢さえ、ノルンの街全体に溢れかえる死霊(アンデッド)軍の中ではごく一部に過ぎない。緋女といえど無限に体力が続くわけもなく、いずれ押さえきれなくなるのは必至。

 ――先手を打って数を減らすしかないな。

 城壁の上を飛び越え、街の中へ。生きた住人を失った大通りは、代わりに、無数の死霊(アンデッド)で埋め尽くされている。さながら街は墓地。家々は立ち並ぶ墓標。揺れ蠢く死体の群れは不吉な枯草の草原。

 この一帯だけでも、ざっと見て2万近い敵がいる。狭い城門につっかえて外に出られず、軍勢の大半がここで足止めを食っているらしい。うまい具合に密集している今なら、まとめて叩くことも不可能ではない。

 ――街ごと吹っ飛ばしていいなら手はあるんだ。

 カジュは城門の上に着地。街の中の死霊(アンデッド)軍に向けて握り拳を突き出し、指を1本ずつ開きながらその指先に火を灯しはじめた。

「《は》。」

 人差し指。

「《ぜ》。」

 中指。

「《る》。」

 薬指。

「《そ》。」

 小指。

「《ら》。」

 最後に親指に火をつけるなり、5つの炎を拳の中に握り込み、眼下の死霊軍目掛けて投げ下ろす。

「《5倍爆ぜる空》っ。」

 その直後、恐るべき規模の大爆発が死霊(アンデッド)軍を飲み込んだ。炎と爆風が容赦なく大地をなめ尽くし、立ち並ぶ家々もろともに骸骨(スケルトン)たちを粉砕していく!

 魔法の同時使用ストックを5枠全て《爆ぜる空》に注ぎ込む大技だが、その破壊力と効果範囲は単に《爆ぜる空》5発分に留まらない。同系統の術を重ねることでより大きなエネルギーを引き出せるようカジュのアレンジが加わっている。

 その威力のほどは――前方の都市数ブロック分が一瞬にして荒野と化したほど。おぞましいまでに密集していた2万の骸骨(スケルトン)は、今や9割がたが粉砕され、累々と積み重なり骨片の山を成している。

 カジュは自分の仕事の出来栄えを眺め見て、うーん、と低く唸った。

「いまいちだな。」

 これほどの破壊力にもかかわらず、不満そうであった。いずれ来るであろう強大な敵との決戦に向けて新たに開発した術だったのだが、思ったほどの効果を得られなかったようだ。

 ――これじゃ勝てない。()()()には。

 

 

 一方そのころ。

「オラァ!」

 気迫の一撃でさらに1体の骸骨(スケルトン)を叩き切ったところで、緋女はふと異変に気付き、手を止めた。死霊(アンデッド)軍の動きが変わった。さっきカジュが城門の向こうで仕掛けた大爆発を聞きつけてなのか、城門の外にいた軍勢が反転し、街の中へ戻ろうとし始めたのだ。

 ――何が起きた?

 首を傾げる緋女。どうするべきか考えたが、いまひとつ状況が掴めないので、とりあえずカジュと合流しに向かう。行きがけの駄賃に骸骨(スケルトン)の10体も斬り捨てながら軍勢の中を切り抜け、城門まで辿り着くと、身軽な跳躍で壁の上へ飛び上がる。

 カジュは身じろぎもせず、荒野と化した街を睨み続けていた。

「おいカジュ! なんか変!」

「来たみたいだよ。」

「何が?」

「本命が。」

 と、そのときだった。

「そのとおーり! いい勘してるぜ、美人のお嬢さん」

 骨片連なる爆心地から、朗々と響き渡る場違いに陽気な声。緋女とカジュが睨む先で、地面にうず高く積み重なった死霊(アンデッド)の残骸が、乾いた音を立てて、崩れる。その奥から。死体の狭間に見え隠れする暗闇の底から。

 闇そのものが形を得たかの如く、ひとりの男が這い出てくる。

 緋女が太刀を構える。

 カジュの額に脂汗が浮かぶ。

 張り詰めた殺気が、毛先までもを痺れさせていく。

「主役は遅れてやってくるもんさ。なにしろおれは、優れた魔法使いであると同時に、如才ない演出家でもあるものだから。場を盛り上げるための手練手管ってやつは知り尽くしてるんだよなァ。

 まあ簡単に言えば? どこのグループにも1人はいる、『パーティ大好き人間』ってこと」

 ぺらぺらと饒舌におどけて見せるその男。肌という肌をことごとく汚れた包帯でくるみ、その上からボロボロの黒衣を纏い、薄い裂け目のような口に不愉快な笑みを浮かべている。ふざけた物言い、ふざけた態度。しかし、その男の異様な気配のために、緋女やカジュさえ身動きが取れずにいる。下手に動けば命を取られかねない。そんな確信がふたりの中にある。

「てめえか。街をこんなにしたのは」

 静かな憤怒を湛えた声で問う緋女に、黒衣の男が優雅に両腕を広げて応える。

「おれはミュート。

 死術士(ネクロマンサー)ミュート。

 以後お見知りおきを――勇者の後始末人諸君!!」

 

 

(つづく)

 



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第15話-06(終) 寂

 

 緋女とカジュは順に城壁から飛び降り、死術士(ネクロマンサー)ミュートと対峙した。いつでも斬れる間合い。いつでも術に巻き込める距離。だがミュートは意にも解さず、その場にひょいとしゃがみ込み、砕けた頭骨の破片を拾い上げた。肩をすくめ、後ろの夕陽目掛けて欠片を放り捨て、これみよがしに溜息を吐く。

「あーあ。冗談じゃねェよ。いまので2万は潰されたぜ。

 あんたら分かってんの? 自分のパワーがどれだけ不公平(アンフェア)かってこと! ほとんど不正(チート)だよ、ホント」

「いるよね、こういうやつ。」

 と冷たく切り捨てるのはカジュ。

「自分が負けた時だけ不公平(アンフェア)だの不正(チート)だの(やかま)しいやつ。人生に向いてないんじゃないの。」

「タハー! かわいい顔して手厳しいなァ。でも、負けたって決まったわけじゃあないぜ」

「この状況でよく言うよ。」

「まだ()()()()()()()()()()()

 死術士(ネクロマンサー)ミュートが片腕を上げ、軽快に指を鳴らす。その合図に応え、周囲に無数の赤光が()()する。死霊(アンデッド)の軍勢! カジュの術で吹き飛んだ街の残骸の下から、背後の城門の向こうから、あるいはミュートの背後から、おぞましい数の骸骨(スケルトン)肉従者(ゾンビ)が姿を現す。

 というより、突如そこに()()()感じだ。遠方にいた軍勢が近づいてきたのなら、緋女がその気配を察知しないわけがない。

「……なんか変だな」

 緋女がミュートを睨んだまま小声で囁くと、カジュが周囲に目を配りながら頷く。

「気を付けて。《瞬間移動》っぽい術だと思う。」

 ミュートは包帯の隙間の細い口に、悪魔の如き笑みを浮かべ、沈みゆく夕陽と黒紫に染まる空とを背負い、紳士の礼を気取ってみせる。

「レディース! エーン・ジェントゥーメーン! 第2幕の、はっじまりだよーっ!」

 陽気な挨拶を合図にして。

 死霊(アンデッド)軍が殺到する!

 緋女とカジュを目掛けて四方八方から押し寄せる死者の洪水。カジュの先制《爆ぜる空》が背後の一団を吹き散らし、隙間を縫って飛び込んできた肉従者(ゾンビ)を緋女の太刀が両断する。別の方向へは《暗き隧道》で長大な塹壕を掘り、転落した骸骨(スケルトン)数十匹の頭上に緋女が我から飛び込んでいく。

 旋風の如く剣を振るう緋女の姿が地下に隠れたところで、カジュの無差別広範囲法撃が炸裂する。

「《爆ぜる空》+《大爆風》。」

 2術同時発動。《爆ぜる空》で空中に生み出された可燃性の気体が《大爆風》で広範囲に拡散しながら着火。周囲一面を飲み込む大火焔が巻き起こる。

 しかし火に飲まれたはずの骸骨(スケルトン)たちは無事だった。何事もなかったかのように立ち、赤目を煌々と燃やしたままだ。爆炎が拡散した分だけ威力が落ちてしまい、骨を粉砕するには至らなかった、のだが――

 骸骨(スケルトン)が再び脚を踏み出したその時、地面についた所から、足の骨が砕けた。

 一歩踏み出すごとに骨にひび割れが走り、脚を這い上っていき、やがて全身に伝播して、骸骨(スケルトン)がばらばらに砕け散る。一匹だけではない。周囲の骸骨(スケルトン)の軍勢ことごとくに同じことが起き、見る見るうちに白骨の山が積み上がっていく。

「うおっ!? なんだこれ!?」

 一部始終を見ていた死術士(ネクロマンサー)ミュートが驚愕に目を丸くする。カジュは生き残った肉従者(ゾンビ)を順に《光の矢》で撃ち抜きながら、嘲りの鼻息を吹いた。

「人骨の成分はリン酸Caにタンパク質と水。強熱すればリン酸Caのみが残って脆くなる。」

「おお!? うーん、やっぱ学のあるやつァ違うなあ。おわっ」

 余裕綽々で感心していたミュートの笑みが、突如、歪む。緋女が塹壕から飛び出し、赤い矢となってミュートへ躍りかかったのだ。戦慄の鋭さで繰り出される斬撃。ミュートは大慌てで後退しながら小枝のように細い指を震わせる。

 その震えが魔法陣の描出であることにカジュは気付いた。

 ――やばい、緋女ちゃん。

 警告を発しようとしたのも束の間、地面から骨灰色の大剣が飛び出した。それは無数に絡まり合った人骨が、融けて練り固められたかのような――いや、事実そうして創ったものかもしれない――異形の刃だった。“骨剣”とでも呼ぶべきそれが、十本あまりも次々に地面から生え、伸びあがりながら緋女を襲う。

 が。

「ふ!」

 緋女の回答は、鋭く吐きだす呼気ひとつ。

 まるでこの攻撃を予知してでもいたかのように、襲い掛かる骨剣の隙間を紙一重の見切りですり抜け、ほとんど速度を落としさえせず死術士(ネクロマンサー)ミュートに肉迫する。無論予知などではあるまい。緋女の武器は反射神経。獣なみの野生の勘。攻撃を見てから超反応で避けるのみ。

「オラァ!!」

 気合と共に繰り出された横薙ぎの一撃がミュートの胴を完全に捉えた。刃が身体に食い込む直前、ミュートは地下から生み出した骨剣の一本で辛うじてその斬撃を受けた。が、想像を超えた剣圧を受け止めきれず、ミュートは骨剣もろとも、木っ端のように横に吹き飛ばされる。

 地面を転がり、身体の包帯をいたるところで擦り切らせながら、ミュートは何とか四つん這いの姿勢で瓦礫に食らいつき、止まる。

「ちくしょう化物! こいつはどうだ!?」

 ミュートの咆哮。それに応えて新たな死霊(アンデッド)が姿を現す。今度は肉従者(ゾンビ)の集団だ。苦しげな呻き声を上げながらカジュと緋女に突っ込んでいく。とはいえこんな雑魚、どれほど数がいようと彼女たちの相手ではない。

 カジュの《光の雨》が暴れ狂う。緋女の斬撃が肉片の花を咲かせる。当たるを幸い薙ぎ倒されていく死霊(アンデッド)たち。背後から襲って来た肉従者(ゾンビ)に、緋女は振り返りざまの一撃を食らわせ、首を刎ねる。

 そこで、緋女の手が止まった。

 絶句する。

 その肉従者(ゾンビ)は、頭を失ったことに気付きもせず、いまだ生きているかのように、とぼ、とぼ、緋女へ歩み寄ってくる。

 5歳か、6歳くらいであろうか――愛らしいワンピースに身を包んだ、首のない少女の肉従者(ゾンビ)――

 足元には斬り落とされた少女の首が転がっている。今にも泣きだしそうな目に、しかし異様な赤光を灯して。皮膚の腐り落ちかけた唇を、切なく、寂しげに震わせて。少女は今も、無心に助けを求め続けていた。

「ママ……? ママでしょ……?」

 他ならぬ緋女を。たったいま首を刎ねた緋女を。自分の“ママ”と勘違いしたまま。

 この時にはカジュも、襲い掛かってくる敵の正体に感付いていた。先ほどまでの完全に肉を失った骸骨(スケルトン)たちとは違う。つい最近まで日常生活を送っていたかのような、普段着姿の肉従者(ゾンビ)たち。男、女、老人、子供、果ては犬猫や牛馬まで。ただでさえ表情の乏しいカジュの顔が、石のように凝り固まっていく。

 ――この街の人を肉従者(ゾンビ)にしたのか。

 少女の肉従者(ゾンビ)が、緋女にさらに歩み寄っていく。首を切られて視界さえ失ったのであろう、短い手をしきりに左右に振り、手探りで緋女の姿を探し求めている。

 緋女は、息を吐いた。

 吸った。

 そして、斬った。

 縦真っ二つに両断され、少女は、動かなくなった。

 一瞬の沈黙。

 ミュートの無神経な声が、それを引き裂く。

「よーし、時間稼ぎ完了っ」

 気が付けば、死術士(ネクロマンサー)ミュートは、半壊した教導院の、傾いた三角屋根の頂点に登っていた。そこに地響きが届く。屋根の裏側から、竜の頭蓋骨が姿を現す。不死竜(ドレッドノート)。遠方にいた切り札を呼びつけたのだろう。そのためだけに肉従者(ゾンビ)たちを使い捨てたのだ。

 ミュートは不死竜(ドレッドノート)の頭上に飛び移り、そこから悠然と緋女たちを見下ろした。彼の口にはまた、あの笑みが戻っている。余裕の笑み。何もかも手のひらの上だと言外に伝える、ひどく不愉快な笑い方。

「さァて。そんじゃあ」

 不死竜(ドレッドノート)が、その巨大な前足を振り上げる。

「そろそろ終幕と行くかァー!」

 振り下ろされる丸太のような骨。城塞さえ打ち砕く(ヴルム)の強打が、緋女の小さな身体に直撃した。

 響き渡る轟音。巻き起こる土煙。勝利を確信して両腕を掲げるミュート。

 カジュがひとり冷徹に、すぅっ、と目を細める。

 ――あーあ。()()()()

 静寂。

 音は要らぬ。

 言葉は要らぬ。

 ただ――大地を踏み締める脚があれば。

 巨竜の腕を受け止める大刀があれば。

 怒りの炎を真っ赤に燃やす、灼熱の如き瞳があれば。

 一体何の不足やある!!

「ォォォォォォオオオオオオアアアアアアアアアアアア―――――ッ!!」

 緋女が吼えた! と思った瞬間(とき)には彼女は既に竜の鼻先。視認さえ不可能な神速の太刀で竜の牙を叩き割り、反撃の噛み付きが来るより速く竜の顎を蹴りつけ下へ。焦るミュートが着地を狙って繰り出した地面からの骨剣は、緋女の影さえ貫けずに終わる。

「速っ……」

 敵が文句を言い終わるより速く、緋女は空中で掴んだ竜牙を後ろ脚の膝関節に叩き込んでいる。

「カジュ!!」

「《鉄槌》。」

 狙いすましたカジュの術。超重量の鋼鉄の塊が打ち出され、寸分違わず竜牙の楔にぶち当たる。叩き込まれた楔は不死竜(ドレッドノート)の膝を粉砕し、大きくバランスを崩した竜の上から死術士(ネクロマンサー)ミュートが転がり落ちる。

 緋女の咆哮からここまで僅か3秒。前回あれほど苦戦した不死竜(ドレッドノート)。だがヴィッシュから攻略法を学んだ今ならこのとおり。伝説級の最強魔獣さえ、もはや緋女やカジュの敵ではない。

 ――冗談だろッ!?

 ミュートは歯噛みしながら、最速で《風の翼》の術式を編む。しかしカジュの方が速い。

「《鉄砲風》。」

 上空から吹き降ろした猛烈な風圧が、容赦なくミュートを墜落させる。強かに背中を打ち付け、地面で二度も大きく跳ね、呻きながら転がるミュートに緋女の刃が猛然と迫る。それでもミュートはまだ諦めない。この状況でなお余裕の笑みを顔面に貼り付け、

「来いよ大将ォ!」

 烈火の如き緋女を迎え撃つ。

「禁呪、《死の舞踏(ダンスマカブル)》!」

 ミュートの呪文に応え、緋女の足元から骨剣が突き出す。一本を(かわ)せばまた一本。緋女の行く先々を狙って際限なく出現する刃、その数実に百余り。骨の剣で針山と化していく地面の上を、緋女は針の穴を通す正確さで切り抜けていく。

 ――いつまでも避けきれるもんじゃねえぜ!

 上機嫌のミュート。彼はただ無闇に骨剣で攻撃しているわけではない。これは罠だ。剣の出現場所を調整し、その実、敢えてミュート本体へ肉迫する道を残している。緋女をその場所に誘い込み、仕掛けておいた残り全ての骨剣で討ち取るために。

 その思惑通りに緋女は僅かな活路を見抜き、見抜くや否やミュート目掛けて駆けだした。

 緋女が罠に飛び込んで来る。

 ――今!

 ミュートの意識内に編まれた術式に従い、全力の骨剣が貫いた。

 緋女――が、つい一瞬前までいた場所を。

「あ?」

 緋女はいつの間にか、骨剣の効果範囲外に後退していた。罠に飛び込む直前、突如として進路を変え、距離を取ったのだ。ミュートの思考が一瞬、状況を掴めず凍り付く。なぜ下がった? 何故とどめを刺しに来ない?

 そこでミュートはようやく気付く。

 緋女の視線が、ミュートではなく、その頭上へ向けられていることに。

 ――まさか!?

 振り返った時には時にはもう遅い。

 ミュートの頭上には――漆黒の夜空に跳躍し、刃糸(ブレイド・ウェブ)の鞭を渦巻かせる、後始末人の姿があった。

()()()()()!!」

 刃糸鞭(ワームウッド)が輝き唸る。不可視の刃がミュートの腕と胴に絡みつく。そのとたん彼の肉体は真横に両断され、弾けた肉と骨が耐えがたい死臭を周囲にばらまく。

「なうっ!?」

 千切れ飛ぶ身体。魂を刺し貫くかのような衝撃。痛みはなくとも苦しみはある。苦悶の中でミュートはようやく状況を把握した。一体いつかは知らないが、緋女はどこかの時点でヴィッシュの到着に気付いていた。彼の位置取りを見ただけで彼の意図を察した。追い込んだのだ。死地に、ミュートを。そして自分が囮となって使い切らせた。ヴィッシュの攻撃を受けるための武器となる骨剣を、一本残らず。

 罠に誘い込まれたのはミュートのほうだったのだ。

 阿吽の呼吸。見事な連携。一個の生き物のようにまとまったチーム。いくつもの修羅場を的確な指示で乗り切り、少しずつ信頼を構築してきた証拠だ。

 ――さすがだよ。そうでなくちゃ。

 空中で弧を描き、瓦礫の上に落ちるミュートの上半身。ヴィッシュが鬼気迫る顔でとどめを刺しに来る。

 だがミュートは次なる術を発動した。辺りに散らばっていた人骨が寄り集まり、うねる蔦のようにしてミュートを絡めとり、空中にまで持ち上げていく。剣が届かぬ高さまで持ち上げられたミュートを茫然と見上げるヴィッシュ。緋女とカジュが咄嗟に動こうとするが、そこに横手から牽制するものがあった。

 2体目の不死竜(ドレッドノート)が、左手側の家を破壊しながら姿を現したのだ。いや、それだけではない。右からも。背後の城壁からも。事前調査ではどこにもいなかったはずの不死竜(ドレッドノート)たちが、次々に集まってくる。

 10頭余りの不死竜(ドレッドノート)に取り囲まれ、ヴィッシュたち3人は互いに背中を合わせて敵と向き合う。その竜のうち一頭の上に、ミュートはそっと横たえられた。震えるミュートの指が辛うじて魔法陣を空中に描き、それに呼応して、彼の胴の切断面から新たな身体が生えてくる。

 それは死体の身体であった。彼が武器として使う骨の剣と同様、無数の人骨が――部位も大きさもばらばらの骨が、無造作に寄せ集められ、融かし固められて、辛うじて人間のような形になったもの、とでも言おうか。

 新しい身体を思い通りに操り切れず、ミュートはふらつき、何度も転びかけながら、辛うじて竜の首に(すが)りついて立ち上がる。

「……やってくれるぜ。危うく()()死ぬとこだった」

「どうして……だ……」

 震えている。

 鞭の柄を握りしめるヴィッシュの拳が。

 怒りに、悲しみに、懐かしさに、愛情に、どうにもならない憎悪と罪悪感とに、堪えようもなく震えている。

「俺はずっと……お前に憧れて……

 一番強くて……

 一番かっこいいものを……

 真似して! なりきって! 演じ続けて! どうにか今まで生きてきたのに!

 なのにっ……

 どうしてお前が!?

 なんでこんなことを!?」

 絶叫に応えるものはただ、(しじま)

「答えてよ!! ()()()!!」

 

 

 

To be continued.

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 言葉無き死者の帰還。蘇る苦悩。仲間を失い、目指すべき手本を失い、ヴィッシュは甘えた追憶の淵に身を投じた。10年の年月を以てしても克服しきれなかったこの絶望。だがそのとき、彼に囁く声があった。立て、ヴィッシュ。戦え、ヴィッシュ。己の為すべき本質(こと)を見よ!

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第16話 “さよなら、パストラール 後編”

 Pastoral // Catastrophe (Part2)

 

 乞う、ご期待。

 

 



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第16話 “さよなら、パストラール 後編”
第16話-07 重荷


 

 11年前のあの日――ノルン大聖堂の庭園に()し掛かる曇り空は、半端なヴィッシュの内心そのままの黒灰色に淀んでいた。たまらなくなって視線を落とす。肩が酷く痛む。つい今しがた臨時政府の皇帝名代に剣の腹で叩かれたばかりの肩が。生まれて初めて袖を通した騎士装束は腕も持ち上げられないほど堅苦しく、そのくせ丈が長すぎる。

「ヘイヘイヘイヘイなあ大将! その服似合わねえな、フフフ」

 と無神経に後ろから飛びつき首に腕を回してくるのは、言わずと知れたナダムだ。みぞおちに肘鉄を食らわせてやったが、彼は平然としている。ヴィッシュの刺すような視線もなんのそのだ。

「誰のせいだと思ってんだよ」

「そらもう、偉大な先輩であると同時に頼もしい兄貴分でもある、このナダム様のおかげだよ。叙爵おめでとう、討竜騎士ヴィッシュどの!」

 晴れがましい称賛にも関わらず、ヴィッシュは表情を曇らせた。逃げるように大股で歩き出し、人気(ひとけ)のない静謐(せいひつ)の庭園を進んでいく。ナダムはその後をちょろちょろ追いかけながら、右の眉をひょいと持ち上げる。

「あ? どうしたよ、ヴィッシュ?」

「……重荷だよ、ナダム」

「たかが騎士位がかあ?」

「たかがとはなんだ!」

 ヴィッシュはいきなり足を止め、振り返ってナダムの胸に指を突きつけた。腹が立った。(わめ)かずにはいられなかった。今、世界は滅亡に瀕している。魔王によってシュヴェーア帝国は一夜にして滅亡。皇帝も行方知れず。魔王軍の侵攻はいよいよ勢いを増し、今や遠く内海の西の果て、フィナイデル王国やエズバーゲンにまで魔手を伸ばしているという。

 こんな状況だからこそ、ヴィッシュのような平民上がりが騎士叙勲などという栄誉を得ることもできた。そしてこんな状況だからこそ、ヴィッシュもまた、故郷のために命を懸けるという並々ならない覚悟をもって騎士位を受けたのだ。

 それなのにこのナダムという男は!

「お前はいつもそうだ! ひとの成果を褒めたかと思えば、次の瞬間には同じものを軽々と腐す。お前にはこだわりがないんだろ。地位とか、社会とか、そういうものへの。だからそんなことが言えるんだ! 俺がどんな気持ちで……!」

「分かってる」

 突きつけられた拳を、ナダムが握る。

「分かってるさ。お前がどれほど真剣に考えてるかは。だから推薦したんだ」

 分かっているのだろう。こう言われて、なお声を荒げられるヴィッシュでないことも。

「……ばか」

「ばかとはなんだ。押し倒すぞこのやろう」

「お前が言うと洒落にならない!」

「そんな嫌うなよぉ。またキスする?」

「するか!! 寄るな!! 抱きつくなッ!! こないだのは……気の迷いだ!!」

「ハハハ! ほらな。今までと何が違う?」

 ぽん、と背中を叩いてナダムがヴィッシュを追い抜いていく。

 そうだ。本当は分かっていた。

 地位など飾りだ。

 やるべきことは、為すべきことは、今ここに立つ自分自身の身体と心は、立場や称号なんかで変わりはしない。

 いつだってそうだった。ナダムはヴィッシュの前に先回りして。あれもこれも分かっていて。腹が立つくらい人の心の中を見抜いていて。そのうえで、いつだってヴィッシュを認めてくれた。

「さあ行こうぜ、()()()。ちょいと世界を救いによ!」

 曇り空は、いつのまにか、抜けるような青。

 ヴィッシュは力強く頷き、燦燦(さんさん)と降り注ぐ陽光の下に、最初の一歩を踏み出したのだ。

 

 

 それなのに。

 

 

 そのはず――だったのに。

 

 

「みんなお前がやったのか……」

 ヴィッシュは震え、ヴィッシュは問う。周囲には不死竜(ドレッドノート)の群れ。背後には脂汗を浮かべ身構える仲間たち。そして彼の正面には、(ヴルム)の頭上に黒々と立ち、青白い月光を背負い、生ぬるい夜風に貫頭衣(ローブ)の裾をはためかせる男。

 死術士(ネクロマンサー)ミュート――そんなたわけた名を名乗りながら、ナダムがそこに立ちはだかっている。

 ヴィッシュの口から出た問いは、今や悲鳴にすり替わっていた。そしてミュートはその悲鳴に応えた。ひとつひとつ丁寧に。宥め、慰めるかのように。

「あの手紙をくれたのは……」

「おれだ」

「この街を滅ぼしたのは……」

「おれだ」

「あのひとを! シェリーを! 殺したのは!?」

「もちろんおれだ」

「なぜだ!?」

「お前がそれを問うのか!? おれを殺した、おれたちを殺した、なにもかも見棄てて自分だけ生き延びた、そのお前が!?」

 ヴィッシュがすくみあがる。

 手が震え、刃糸鞭(ワームウッド)の柄が鎧を小刻みに打ち鳴らす。眼が(うる)む。脚が半歩後ずさる。息が急速に乱れていき、心臓は破裂せんばかりに高鳴りはじめ、もつれる舌がやっとのことで言い訳を紡ぐ。

「言ってくれたじゃないか……

 “()け”って……

 “お前ならできる”って……

 背中を押してくれたじゃないか……!」

「そう言うしかなかったおれの気持ちがお前に分かるか? 諦めるしかなかったおれの気持ちが? お前の背中を見送っているときの。お前が行ってしまったあとの! “ひょっとしたら助けに来てくれるかも”なんてありえない望みばかりに(すが)りついて!! 身動きもできないまま自分の肉が腐っていくのを待ち続けていたおれの気持ちが!! お前に分かるってのかよ!? だからおれはお前を――ずっとお前だけを――!」

 その瞬間。

 何の前触れもなく、突如赤い閃光が跳んだ。

 緋女。目にも止まらぬ速度で不死竜(ドレッドノート)に肉迫し、その前足を蹴って稲妻の如く駆け上る。標的はひとつ。(ヴルム)の頭上で驚愕を顔面に貼り付けている死術士(ネクロマンサー)ミュート。

 ――無粋! 話の途中でしょうが!

 ――待つ義理なんざ()ェ!!

 緋女は判断したのだ。これ以上の対話はヴィッシュを追い詰めるだけだと。そして確信したのだ。ヴィッシュにミュートを斬ることはできないと。

 ――斬れねえものを斬るのが剣士(あたし)の仕事だ!

 漆黒の殺意を刃に込めて、緋女の斬撃がミュートを襲う。ミュートは《骨剣》を不死竜(ドレッドノート)の頭蓋骨から出現させ、緋女の剣を受け止める。だが甘い。今の緋女は気迫が違う。冴えわたる太刀が《骨剣》を真っ二つに両断し、そのままミュート本体へ喰いかかっていく。

 しかし敵もさるもの。ミュートは冷静に背後へ跳んだ。敢えて(ヴルム)の頭上から転落して斬撃を避けたのだ。さらに落下中に《風の翼》を発動して飛び上がり、そのまま緋女から距離を取る。いかに腕が良かろうと剣士は剣士。足場のない空中で距離を取ってしまえば何の危険もない。

 はずだった、が。

 ――逃がさねえ!

 緋女は迷わず、(ヴルム)の頭の上から前方へと飛び出した。足場のない空間に向かってだ。ミュートが眉をひそめる。このままでは落下していくだけだ。一体何がしたいのか……?

 と、(いぶか)ったのも束の間。緋女の行動を完璧に予測していたカジュの術が発動した。

「《石の壁》。」

 術の発動地点は、()()()()()。そこからミュートの浮遊する場所までまっすぐに《石の壁》が伸び、即席の橋を造り出す。

「うッ!?」

 ミュートの背筋を駆け抜ける悪寒。緋女は《石の壁》の橋を矢のように突き進み、瞬きひとつする間さえ与えずミュートへ肉迫。ミュートは慌てて後退する、が、遅い。閃光の如き剣が右腕をかすめ、一瞬の後、爆発にさえ似た衝撃とともにミュートの腕が千切れ飛ぶ。

「うおおッ!?」

 恥も外聞もかなぐり捨ててミュートは逃げた。上空に飛び上がり、緋女の間合いの外へ出る。ようやく一息ついて見下ろせば、《石の壁》の上に立った緋女が野獣の眼光でミュートを狙っている。ずっと後方にはこれまた術式ストックを作りながら状況を注視するカジュ。

 そのふたりの中間には、戦うどころか一歩も動けぬままの――ヴィッシュ。

 やり場のない怒りに、ミュートの脊椎が震えだす。寄せ集めた骨と腐肉の身体が(かす)れた軋み声をあげはじめる。

「おい……ふざっけんなよ……

 いい仲間たちに囲まれて……

 こんなにみんなから愛されて……!

 ヘタレてんじゃねェぞ甘ったれがァーッ!!」

 咆哮と共にミュートの《配信》が不死竜(ドレッドノート)たちに飛んだ。途端、カジュやヴィッシュを取り囲んでいた10匹の(ヴルム)が赤眼を燃やして一斉に動き出す。

 狙いはひとり――ヴィッシュ!

「《魔法の縄》。」

 この動きは予想済み。即座にカジュの術が飛び、不死竜(ドレッドノート)2頭の脚と脚とを結び合わせた。並大抵の術で不死竜(ドレッドノート)を止めることはできないが、この方法ならば――(ヴルム)自身の怪力が災いし、文字通り足を引っ張り合って、2頭同時に転倒する。

 また別の方向には、

「《凍れる(とき)》。」

 時間停止の術。最前列にいた1頭をこれで道の中央に固定する。時間停止した物体には何物も干渉できない。傷つけることも動かすことも不可能。ゆえに後ろから来ていた2頭は、時間の止まった1頭に進路を塞がれ立ち往生。

 ――あと5頭。

 さらに別の方向を振り返ったカジュの目に、情けなく立ち尽くすヴィッシュが映る。正面から来る不死竜(ドレッドノート)に対して、なんの動きも取れずただ死を待つばかり。無論そんな獲物を見逃すほど甘い敵ではない。(ヴルム)の剛腕が容赦なくヴィッシュの頭上に振り下ろされる。

「《光の盾》。」

 ヴィッシュの頭上に出現した円形の光が、不死竜(ドレッドノート)の爪を弾き返す。が、それに驚いてヴィッシュは尻もちをついてしまう。唖然とするカジュ。()()()()()()。ヴィッシュは完全に戦意喪失している。カジュは(すが)りつくような思いで助けを呼んだ。

「緋女ちゃんっ。」

「オラァ!!」

 矢のように引き返してきた緋女が、ヴィッシュを狙っていた不死竜(ドレッドノート)の頭蓋を打つ。斬り落とした角を空中で掴みながら着地。楔を打ち込む例の戦法で、またたく間に(ヴルム)の後ろ脚を粉砕する。

 ひとまずヴィッシュは無事。だが彼はこの期に及んでまだ立ち直れずにいる。空中のミュートを見上げたまま、なすすべもなく震え続けている。緋女が歯噛みする。カジュが表情を凍り付かせる。ふたりは彼を挟んで背中合わせに陣取り、得物を構えて庇い立った。

 が。

「健気だねェ、お嬢様がた! だがまだまだあるんだぜーっ!」

 空中の安全圏で、死術士(ネクロマンサー)ミュートが憤怒に任せて絶叫している。彼の言葉通り、新たに5頭の不死竜(ドレッドノート)が建物を蹴散らしながら顔を出す。

 ――嘘だろ!?

 緋女の顔に焦りの色が浮かび、カジュの目には一筋暗い影が差した。

 カジュの思考が冷徹に走る。緋女とカジュのふたりだけなら、切り抜けて逃げることは可能だろう。だがヴィッシュをどうする? 彼がこの戦闘中に精神的ショックから抜け出す見込みは……ない。彼を庇いながらこの数の不死竜(ドレッドノート)を倒すのはなおさら不可能。いっそ《瞬間移動》でどこかへ逃がすか? いや、儀式なしの長距離《瞬間移動》では確実にカジュが魔力枯渇で行動不能に陥る。といって短距離の移動では無意味。この街全体が敵の領域なのだ。

 ――やばい。やばいぞ。本格的にやばい。

 しかも、ミュートは充分に思考する時間を与えてはくれなかった。

「情けねえなァ!! 足手まといになっちまってなァ!! ええ……なんとか言ってみろよ、ヴィッシュよぉーッ!!」

 不死竜(ドレッドノート)が押し寄せてくる。

 緋女が跳んだ。カジュが術を解き放った。顎に痛打。膝に《鉄槌》。大上段から全力の打ち下ろしで脊椎を叩き割り、足元からの《石の壁》で2頭まとめて転倒させる。だが敵の数が多すぎる。前進を止めきれない。緋女の脇をすり抜けた不死竜(ドレッドノート)の鉤爪が、容赦なく横薙ぎにヴィッシュを襲う。

 ――諦める……しかないかっ。

 カジュが唇を固く結んだ。これ以上ヴィッシュを庇いきれない。今ここで彼を守るために《光の盾》ストックを使えば、次の瞬間カジュ自身が敵に引き裂かれている。見棄てるしかない。そう決断したカジュの小さな胸が、ささくれ立ち錆び付いた刃で抉り込まれたかに痛む。

 だが。

 ――諦める……しかないか。

 同じ確信を抱いた緋女の顔は、不思議なほどに穏やかだった。

 緋女が走る。風の如く、ヴィッシュのそばへ。彼の襟首を掴んで投げ飛ばし、その直後、竜の爪が緋女の身体に食い込んだ。

 轟音が駆け抜ける。ヴィッシュの身代わりとなった緋女の身体が、紙屑のように弾け飛ぶ。遅れて鮮血が噴き出し、月光の下に弧を描き、カジュの頬に数滴、赤く点を描いた。

「……緋女ちゃんっ。」

 カジュの悲鳴が悲痛に響く。ストックしていた術全てを周囲の敵へ手あたり次第にばらまきながら、カジュは緋女に駆け寄っていく。骸骨(スケルトン)の残骸の上に倒れ、呻きながら手をついて起き上がろうとする緋女。その側に(ひざまず)き、カジュが全速で術式を構築していく。

「緋女ちゃんっ。緋女ちゃんっ。緋女ちゃんっ……。」

 その光景を、手近な屋根の上に腰を下ろし、白骨の脚をぶらつかせながら、愉しげに眺め見ている者がいる。

 ミュート。

「ようやくすばしっこいのが止まってくれたな」

 彼の指が、とっておきの魔法陣を描き出す。

「この瞬間を待ってたぜ!」

 直後、カジュの足元に漆黒の闇が出現し、円形に渦を巻きだした。

 当然カジュはすぐに気づく。だが今は緋女の治療の途中。対応して術式を造る余裕がない。その隙にカジュの脚は闇の中に飲み込まれた。徐々に身体が沈み込んでいく。

 ――《転送門(ポータル)》っ。神出鬼没の(タネ)はこれかっ。

 《転送門(ポータル)》とはその名の通り、遠く離れた2地点を繋ぐ魔法の門のことである。あらかじめ準備してあれば大陸をまたいだ長距離移動が可能で、技量次第では異世界にさえ転送できるという。しかし安定した門を開く技術は古代魔導帝国の崩壊とともに失われ、現代では小さな門ひとつにも命の危険が伴う。まともな術士なら手を出さない、いわゆる禁呪の一種である。

 腰まで《転送門(ポータル)》にはまり込んだところで、ようやく緋女の治療が完了した。カジュは考え付く限りのあらゆる対抗術式を編み、《転送門(ポータル)》の解除を狙う。だが、いずれも効果なし。ほとんど知られていない特殊な術だけに、解除する方法も知られていないし、一から開発するには時間がなさすぎる。

 そのとき傷の癒えた緋女が事態に気付いた。咄嗟にカジュの腕を掴み、《転送門(ポータル)》から彼女を引き上げようとする。が、《転送門(ポータル)》の拘束力は異常な強さだった。踏みしめた地面の方が削られ、緋女までが《転送門(ポータル)》に引きずり寄せられる。両側から引っ張られたカジュが小さく悲鳴を上げた。

 無理だ。引き戻すよりカジュの腕が千切れるほうが先だ。

 緋女が目を細める。

 助けられない。それなら、むしろ――

 ヴィッシュが我に返ったのは、ようやくこの時だった。

「緋女……? 緋女!」

 立ち上がり、転びかけながら緋女たちの元へ走り、緋女の腕を掴んで引こうとする。

 だが、緋女は彼の手を払いのけた。

 思わぬ拒絶にたじろぐヴィッシュ。緋女は彼に脂汗まみれの顔を向け、苦しく、しかし不敵に、笑いを浮かべて見せる。

「――後は任すぜ、相棒」

 そして緋女は、自ら《転送門(ポータル)》へ飛び込んだ。

 ヴィッシュが驚愕して彼女の名を呼ぶ。緋女は取り合わない。彼女の心は既に決まっていたのだ。

 カジュを助け出すのは無理。ならむしろ、ふたり揃って捕まるほうがいい。行先がどこかは分からない。だが、カジュひとりでは切り抜けられない局面でも、ふたりでならどうにかできるかもしれない。

 緋女はその可能性に賭けた。

 ふたりが黒い《転送門(ポータル)》に吸い込まれていく。拒絶された手を虚空に泳がせ、ヴィッシュは茫然と、見守ることしかできない。仲間が消えていく。奪われていく。なのに()()()()()()()()――!

 やがて緋女とカジュは完全に《転送門(ポータル)》の向こうに消えた。

 無慈悲に頭上で輝き続ける青白い月と。

 孤独を浮き彫りにする静寂だけが、後に残される。

 ヴィッシュは崩れ落ち、膝をついた。

「これでまた丸裸、ってわけだ」

 ミュートがゆらりと屋根の上から降りて来る。その(しもべ)不死竜(ドレッドノート)たちが、ふたりを取り囲み逃げ場を塞ぐ。闇の中に明々と輝く赤眼が、まるで死そのもののようにヴィッシュを責め苛む。

「スタート地点に戻された気分はどうだ? なあ、()()

 ヴィッシュは呻いた。

 死にかけの狼が、闇溜まりの奥で必死に痛みを堪えるかのように。

 

 

(つづく)

 



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第16話-08 拒絶された逃走

 

「説明しましょーう! まず呪文場平衡空間上にテンポラリな排他的領域を確保しまーす。そしたら物理世界からその領域への写像を作成しィー、物質粒子に右からかけ算してやればァーっ……」

 ミュートはぴこぴこと人差し指を振りながら、右へ左へうろつきつつ、講師気取りで上機嫌に解説を披露した。魔術的な専門用語などヴィッシュに理解できるはずもないが、そんなことはおかまいなしに。

 やがて彼はヴィッシュの正面までくると、左右の腰に両手をついて、自慢げに胸を張って見せた。

「なななァーんと!! 物体を転送できちゃうんですねーっ! すごーいっ! さっすがミュートくん天才っ! 拍手ーっ!!」

 周囲の不死竜(ドレッドノート)たちが一斉に後ろ脚で立ち上がり、前足を叩き合わせ始める。無論、自分の意思でしていることではない。全てミュートの操作で動いているだけだ。ただの茶番だ。しかしそのゴツゴツと重苦しい拍手に大満足で、ミュートはヴィッシュの目の前にしゃがみ込む。

「はやい話が、あの2人は異世界に捕まえた。助ける方法はひとつ。おれを殺すことだけだ」

「……殺してくれ」

 ミュートのにやにや笑いが固まった。

 やっとのことで持ち上げたヴィッシュの顔に嘘偽りはなかった。彼は本気で、殺してくれと懇願しているのだ。

「わかるよ、ナダム。すごく……わかる。

 だから、殺してくれ。好きなように恨みを晴らしてくれ。

 殺されてもいいよ、お前になら……」

「うん……」

 ミュートはゆらりと立ち上がり、後頭部を掻いた。頭蓋骨に辛うじてへばりついていた皮膚がひとかけ、千切れ落ちて地面にへばりついた。たまらない腐臭がそこから立ち昇り、ヴィッシュの鼻を衝く。

 ミュートは息を吸った。溜息を吐くために。既に死んだ彼の身体は、呼吸を必要としない。ならば息を吸うのはただ、言葉を放つため。意思の切れ端を、世界という暗闇の中でひととき閃かせるためだけだ。

「やっぱ、そうだよな……

 正直分かってた。お前ならそう言ってくれると思ってたんだ。おれのためなら、お前は喜んで死んでくれる。本当に変わらない。昔から優しい男だったよな、お前は……

 だから」

 ミュートの目に再び淀んだ狂気が燃える。

「お前を()()()()ことにしたんだ」

 包帯の下に、異様な笑顔が浮かび上がる。

「おれァね、色々考えたよ。この腐った脳みそなりに色々な。殺しちゃだめだ。お前を楽にしてやるだけだ。ならどうすれば復讐になる? 一番苦しめられる? おれの大好きなヴィッシュくんは、一体何を一番嫌がるんだ?

 結論! それは! お前の大切なものを何もかもブチ壊して!! 何もない不毛の荒野にお前ひとりを生き残らせることだ!!」

 ミュートが鼻先にまで迫りくる。ヴィッシュの頬を優しく撫でる。友情と慕情と、愛とを籠めて。

「“わかる”と言ったな? “すごくわかる”と?

 ……勝手に“わかって”んじゃねェよッ!!

 《悪意(これ)》はおれのものだ。おれだけのものだ。お前の《悪意》とは別物なんだ。だからおれがお前の《悪意》を示してやる。恋人を。仲間を。友達を。仲良く付き合ってきたご近所さんを。かつてその手で救い出し、今は幸せに暮らしている人々を。みんな引き裂き、磨り潰し、苦痛と狂乱の末に殺し尽くして、おれが《悪意(そこ)》へ導いてやる。おれたちって、いつもそういう関係だったじゃないか?」

「やめろッ!!」

 すさまじい悪寒と恐怖のために、ヴィッシュは無意識に立ち上がった。両手でミュートの肩を掴み、涙の浮いた目で彼の濁った眼球を直視した。包帯の奥のミュートの目は揺らぎもしない。迷いもしない。ただひたすらに黒い炎のような《悪意》を湛え、まっすぐにヴィッシュを見つめ返してくる。

 その視線が、肉と骨を引き裂かれそうなほどに痛々しい。

「そんなことして何になる!? 何の意味がある!? 緋女やカジュは関係ない! 他の人たちもだ! ナダム、お前はいつだって理詰めの男だったじゃないか。誰より賢くて、誰より冷静で、道化を装っていたっていつも未来を見通していたじゃないか!」

「そうさ。今だって未来を見てる」

 ミュートが自嘲して笑う。疲れ果てた笑い声の、なんと空虚なことか。

「おれさ……もう、食べ物の味が分からねえんだ。

 何食べても砂を噛んでるみたいでさ……無理矢理食っても胃袋の中で腐っちまって、結局吐き出すことになる。食事だけじゃない。睡眠も、セックスも。生き物が生きるためにする快楽の全てを、おれは喪ってしまった。

 分かるか、ヴィッシュ? これが()()だ。

 おれはただただ腐っていく。

 ()()()()()()()()()()()()

 とん、とヴィッシュを突き放し、ミュートは《風の翼》で飛び上がった。不死竜(ドレッドノート)の頭上に降り、月光を背負ってヴィッシュを見下ろす。逆光に黒々と浮かぶ彼の姿は、さながら凝り固まった暗闇そのもの。

「仲間を助けたければ、インネデルヴァルの古城に来い。パーティの準備をして待ってるぜ。

 ほおーら! いつのまにか立ってるじゃねえか! アッハ! やっぱりお前にはシンプルなのが一番いいのさ。な? そうだろヴィッシュ。ハハハハハ!」

 (ヴルム)たちの足元に大型の《転送門(ポータル)》が開く。1頭また1頭と、死の赤眼が地面の下へ沈んでいく。やがてミュートの姿もまた闇の中に飲み込まれて消えた。

 茫然と立ち尽くすばかりのヴィッシュを、生者なき街にひとり、置き捨てたまま。

 

 

   *

 

 

「どわっ」

 いきなり暗闇に投げ出された緋女は、なすすべもなく地面に転落した。というか少なくとも、地面のようなところへ。というのは、周囲は光の一筋さえ差さない漆黒の闇に包まれており、暗視能力のある犬の目でさえ何ひとつ見ることができなかったのだ。

「なんだここ? カジュいるーっ?」

「そりゃいるよ。」

「うわ!?」

 いきなり耳元でぼそりと囁かれ、緋女が驚いて飛び上がる。確かにカジュの匂いはするが、やはり姿は見えない。手探りで闇の中をまさぐると、指先が固いものに触れた。

「あー、いた」

「灯りつけるよ。」

 カジュの呪文に応えて《発光》が発動し、白い光の玉があたりを照らし出した。見えてきたのは泥まみれになった緋女の顔と、相変わらずのカジュの仏頂面。とりあえず大きな怪我などはないらしいと確認して、お互いほっと溜息を吐く。

「で、ここ、どこ?」

 見回したその場所は、完全に常軌を逸した空間だった。

 一見して、途方もなく深い井戸の底のようである。ただしその半径は家の数軒を建ててなお余るほど。一体どれほどの深さがあるのか、上を見上げても空らしきものは全く見えず、ただただ暗闇。そもそも天井に塞がれているのかもしれないが。

 床や壁の材質は荒く削り出した岩のようだが、見る角度を変えると、木のようにも、肉塊のようにも見えてくる。触れてみれば磨き上げた鋼鉄に似た感触で、そのくせ、どこかほんのりと人肌めいて温かい――

「……わけわかんねーな?」

「これが噂に聞くアビスホールかな……分かんないけど。」

「なにそれ?」

「まあ異世界みたいなもんだよ。」

「冗談じゃねえ。早く帰らないと」

「見込み薄でしょ。」

「なんで?」

 カジュはそこらの壁をペタペタと撫で、いくつかの魔法陣を指で描いて空中に投げている。光が瞬いては消える。一体何をしているのか緋女には全く分からないが、おそらくカジュなりにあれこれ試してみているのだろう。

「内部から抜け出すのは多分無理だね。となると、術者に解除させるか、殺すしかない。」

「ふんふん」

「さて、誰が死術士(ネクロマンサー)ミュートを殺してくれるでしょうか。」

「ヴィッシュがいるだろ?」

「だから見込みないって言ってんの。」

「なんで?」

 カジュは苛ついて頭を掻いた。

「もうはっきり言おうか。ちょっとヴィッシュくんに幻滅してる。」

 そう吐き捨てるカジュの視線の、見たこともないような刺々しさ。《発光》の光球が、ゆっくりとふたりの間に割って入る。カジュが小さな胸を精一杯に膨らませ、小動物の威嚇そのものの切実さで、早口にぶちまけていく。

「あのていたらくは何だよ。完全に戦意喪失しちゃってさ。おかげさまでこのザマでしょ。一歩間違えば誰か死んでた。ひょっとしたらそれはボクかも、緋女ちゃんかもしれなかった。

 まあ気持ちは分かるよ。辛いだろうよ。殺し合いたくないだろうよ。

 でもね。それとこれとは別問題でしょ。目の前に仕事があるなら片付けるのが大人でしょ。座り込んで泣きわめいてゲーゲーやってたって物事解決するわけじゃない。10年も昔のトラウマでいつまでウジウジ言ってんだって話だよ。」

「大人だから泣きたいこともあるんだろ」

「子供だって泣きたいことばっかだよっ。

 なんだよ甘やかして。一回セックスしたくらいで嫁さん気取りかっ。」

 睨み合うふたり。

 木霊(こだま)する吐息。

 緋女とカジュは、お互い同時に顔を逸らした。

「……何なの。あの、ナダムってひとは。」

「兄弟みたいに思ってたって……それしか知らない」

「そっか……。」

「うん……」

 そのとき、ふたりは弾かれたように顔を上げた。周囲の壁には小さな横穴が無数に口を開けているのだが、その暗がりの奥に蠢いているものがいたのだ。《発光》の光を反射して、黒々とした眼球がぬらりと煌めいた。

 どうやらこの異世界には魔獣まで棲みついているらしい。緋女がにやりと口の端を吊り上げた。

「ありがてえ」

「なにが。」

「ケンカする暇なさそうじゃん?」

 太刀を構えながら肩越しに振り返る緋女の表情は、本当に心から嬉しそう。そんな無邪気な顔をされると、文句を付ける気も削がれてしまう。カジュはひょいと肩をすくめ、緋女の隣で杖を握った。

「ずるい人だよ、ほんと。」

「来るぜェ!」

「ほいさ。」

 

 

(つづく)

 



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第16話-09 希死念慮

 

 

 あれはもう何年前のことになるのだろう。

 ヴィッシュはまだ成人したばかりの若者で、シュヴェーア軍では入隊したての一兵卒に過ぎなかった。痩せてひ弱く、平民のくせに学問の下地を仕込まれており、妙に冷静で、正しいと思ったことは誰に対しても直言する。こんな生意気な新人では、上から目を付けられるのに時間はかからなかった。

 その日もヴィッシュは、駐屯地の物陰に引きずり込まれ、そこで年長の兵たちから拳闘の訓練と称した私刑(リンチ)を受けた。はじめ1対1だった勝負はやがて1対2になり、最終的には1対3になった。背後から側頭部を殴られ意識朦朧となったヴィッシュは為すすべもなく倒れ、あとはただ、執拗な暴力に耐え続ける道しか残されていなかった。

 一体どれほどの時間、そうして背中や足腰に蹴りを浴び続けていただろうか。痛みさえ感じなくなり、いよいよヴィッシュが死を覚悟したその時、陽気に声をかけるものが現れた。

「おーっ! いいねいいね、盛り上がってるねェー!」

 敵の蹴りが止まった。ヴィッシュが腫れあがった(まぶた)を薄く開くと、幕舎の板塀に片手で寄り掛かり、ふてぶてしくニヤニヤ笑いを浮かべる男が見えた。ヴィッシュを蹴っていた兵士たちに、さっと緊張が走る。そのうちのひとりが、悪戯を見とがめられた子供のように、詰まり詰まり返事をする。

「ああ……ナダム。なんだよ……何か用か?」

「用ってほどでもねえけどよ。格下のガキを3人で囲んで蹴りまくるとかメチャクチャ楽しそうじゃん? おれも混ぜてくれよーっ、やっぱ抵抗もできないやつを安全圏からいじめるのは最高だよなーっ!」

「それは皮肉ってやつか?」

「あっれえー? 皮肉に聞こえちゃった? ひょっとして自覚あったんだ? 自分たちがクソみてえに情けねえことしてる、ってよォ……?」

「ふざけるなこのっ……!」

「おい、よせ。行こう」

 激昂しかけたひとりを、脇のふたりが押しとどめた。明らかにあのナダムという男を恐れているのだ。3人組が揃って苦虫を噛み潰したような顔をして、ナダムの横をすれ違っていく。

 ヴィッシュは息を吸った。

 助かった。生き延びた。その思いと同時に、自分でも想像もつかなかったような激情が腹の底から湧き出した。怒り? そうだろうか。悔しさ? そうかもしれない。だがそれ以上の、いまだかつて味わったことのない、煮え(たぎ)る溶岩のような興奮が、溢れ出て止まらないのだ。

「待てッ!」

 鋭く叫び、ヴィッシュは震えながら、地面に手を突いた。

「……ん」

 ナダムがその姿を見て、小さく感嘆の声を挙げる。

 ヴィッシュは立ち上がった。体中を打ちのめされ、ひょっとしたら何ヶ所か骨をやられているかもしれない、その身体で。

 彼の目は敵3人組を見るよりも、その手前のナダムを見ていた。睨んでいた。目指していた。本能によってヴィッシュは直感したのだ。ここでだけは負けられない。徒党を組まねば喧嘩ひとつできない3人組などに、ではない。今、自分を助けてくれた、このナダムという立派な男に、この人にだけは、負けたくないのだ。

 見栄を張るならなら。格好つけるなら。戦うなら――今だ。

「戦え。まだ勝負は終わってない!」

 戸惑ったのは3人組のほうだ。彼らはナダムに邪魔されたことで興を削がれ、すっかり終わったつもりになっていたのだ。それに実際、ナダムが止めてくれていなければ、勢いでヴィッシュを殺してしまっていたかもしれない。殴る蹴るは日常茶飯事とはいえ、さすがに殺人となれば軍法で裁かれることにもなろう。いじめる側としても、このあたりが切り上げ時だったのだ。

 だが、このヴィッシュと言う男は、戦え、と言う。

 勝負はまだ終わっていない、などと。

 勝負! 馬鹿げている。3人組には(はな)から勝負などというつもりはなかった。これはただの遊びだ。

 そのはずだったのに。

面白(おもしれ)え。やれよ」

 心底面白そうに余計な口を挟むのはナダム。

「ただし1対1でな。おれが審判してやるよ」

「おいナダム! 俺たちはもう……」

「あ、そう? じゃあつまり、ビビって逃げるんだな? あのガキから……?」

 この一言が決定打だった。

 逃げられない。逃げられるわけがない。入隊したばかりの新人に1対1の勝負を持ち掛けられ、それを拒んで逃げたなどと! もし部隊内に知れ渡ったら、明日からいじめの対象になるのは自分たちだ。そしてナダムなら。ああ、あの生きた広告塔男なら! シュヴェーア全軍に噂が広まるのに3日もかかりはしないだろう。

 かくして試合が始まった。

 勝敗は一瞬でついた。蜂の一刺しのようなヴィッシュの拳が、相手の(あご)に鋭く突き刺さったのだった。

 

 

 ナダムは勝者に肩を貸した。

 軍医の幕舎へ向かう道。夕陽が山際で揺れている。ヴィッシュの呼吸が、ひゅうひゅうと苦しげに、しかしどこか誇らしげに、耳元で鳴っている。ナダムは笑った。吐息の音がこちらへ向いた。ヴィッシュの目が声もなく問いかけていた。何が面白いんだ、と。

面白(おもしれ)えさ。まったく愉快だ。

 お前さ、どうして立ち上がったんだ? やり返したいってのは分かる。でも、今戦ったって勝ち目は薄いだろ。理屈で言えば、身体を治して後日再戦ってのが順当なとこだ。だろ?」

「……分からない。ただ、戦うなら今だと思った。それだけだ」

 ――正しい。

 おくびにも出さないが、ナダムは内心、舌を巻いている。はっきり言ってヴィッシュは大して強くない。入隊したての新人で、年齢的に肉体も完成していないのだから、弱くて当然だ。では、なぜ彼は格上の兵士に勝てたのか?

 理由はひとつ。相手の意気を(くじ)いたからだ。

 相手の連中は、もう終わったつもりでいた。そもそも対等の勝負をする気もなかった。それが予期せず真剣勝負に巻き込まれ、明らかに動揺していた。しかも向こうには勝って得る物はなく、負ければ“新人に負けた”という汚名ばかりが付いてくる。これで戦意が湧くはずがない。むしろ日を改めて再戦となれば、相手も相応に準備し、精神集中もするだろう。そうなれば勝ち目は全くなかった。

 一瞬の隙を逃さず衝いたから勝てたということだ。まるで手練れの喧嘩屋の手管(てくだ)だが、それをこのヴィッシュという新人は嗅覚だけでやってのけたのだ。

 ――気に入ったぜ。

 ナダムは上機嫌に、ヴィッシュの肩を撫でてやる。

「おれはナダム。ボイル小隊だ。お前は?」

「ヴィッシュ……コンラット小隊」

「コンラットおぉぉぉー! あそこはカスの集まりだよ。よし決まった! お前、ウチに来いよ。異動させてやる」

「はあ?」

「軍人が全員クソ野郎ってわけじゃねえ。ボイルさんはいい人だぜ」

「あんたも一兵卒だろ。そんな権限があるわけない」

「そ・こ・が! このおれ、ナダム先輩のすごいとこよ。何しろおれは? 有能な軍人であると同時に、帝国いちの色男でもあるわけだから? 中隊長が囲ってる愛人と最近仲良しで」

「おいおいおい」

「バーベキューしたりとかね?」

「そういう仲良しかよ!」

「あっれー? なに想像したのかなー? んー? 純真無垢なヴィッシュ君はーっ?」

「ち……鬱陶しい……」

「で? 嫌か?」

 ヴィッシュは言葉に詰まった。

 考える。歩む。殴られた傷が無性に痛む。だが、ナダムの肩に預けた半身だけが、たまらなく温かくて。彼の筋肉の肌触りが、岩盤のように頼もしくて。

「……嫌じゃない」

「OK! おれがうまく段取りしてやる」

 ナダムが器用に、憎みようもないウィンクを送ってくれた。

「まあ見てな」

 

 

   *

 

 

 ナダムは――否、死術士(ネクロマンサー)ミュートは、ご機嫌に鼻歌など歌いながら、廃城の大広間を忙しく駆け回っていた。そこら中にかかった蜘蛛の巣を払い、朽ちかけたカーテンを新品と交換し、大テーブルに層をなす埃を丁寧にふき取る。次には城中の銀の燭台を掻き集め、磨き砂でもってひとつひとつぴかぴかに磨き上げていく。

 ミュートは燭台磨きに勤しみながら、頭の中では休みなくこの後の段取りを思い描いていた。掃除が済んだら買い出しに行こう。蝋燭の在庫もないし、庭を照らす篝火(かがりび)の薪も必要だ。酒だって麦酒(ラガー)ってわけにはいかない。ちゃんとしたワインを用意せねば。それから余興に、なにか愉快なゲームでも考えよう。誰でも参加できて、ルールが複雑でなくて、そのくせ熱くなれるものがいい……

 パーティの準備、であった。彼はヴィッシュに宣言したのだ、パーティの準備をして待っているぞ、と。彼は言葉通りにやっている。それだけのことだ。

「あっ」

 思わずミュートは声を挙げた。燭台磨きの手が止まる。

 ――しまった、音楽がない。今から詩人が捕まるかなあ……?

「あ、あ、あ、あの、ミュートさま……」

 横から声がかけられた。見れば恰幅のいい中年の男が、かわいそうに、怯えた子犬のように震えながら立っている。彼の持参したトレイの上では、湯気を立てた料理の皿が小刻みに揺れて金音を鳴らし続けている。

「ああ、料理できた?」

「ひ、はははいっ、それであのっ」

「分かってる。味見な。持ってきてくれって頼んだもんな」

 ちょいちょい、と指で床を指すが、料理人は震えたまま一歩も動けない。ミュートが僅かに身を乗り出すと、料理人の頬が悲痛に引きつった。

「ここに置いて。そぉーんな怖がんなよォー! ぼくちゃんショック受けちゃうでしょーっ? 大丈夫大丈夫、床でいいよ。おれはおおらかな男だから」

 料理人が決死の思いで膝をつき、トレイをそっと床に置いた。ミュートが燭台を脇に寄り、料理に擦り寄る。地元の郷土料理、牛飼い煮(グーラシュ)。いささか田舎っぽくはあるが、仲のいい同郷の友を招くパーティにはぴったりだ。

「おほ! うっまそー! いっただっきまーす!」

 ぱくり、と、スプーンにしゃぶりつくように一口。

 噛んで、噛んで、噛み締めて……

 眉間に皺をよせ、肉を吐き捨てる。

 料理人が震えあがった。

「すみませんっ! お口に合いませんでしたか……」

「口に? そりゃ、合わねえよ。おれ、味が分かんないもん」

「え?」

「ん?」

 ミュートの夜色の瞳が、初めて料理人の目を捉えた。

「お前、今、思った? “じゃあなんで味見するんだよ”って……?」

「いえ、そんな……」

「“余計な仕事させるんじゃねえよ”って……?」

「思ってません!!」

「じゃあ今の“え?”は何なんだ“え?”はよお―――――ッ!!」

「いッ……ぎゃあああああああああ!!」

 突如床から生えた数本の《骨剣》が料理人の下半身を滅多刺しにした。さらに剣。さらに剣。さらに剣。下から順に這い上るようにして皮膚と肉とを(えぐ)られ、恐るべき苦痛に料理人は絶叫する。ミュートもまた叫ぶ。どうにもならない憤怒を爆発させて。

「悪いか!? いけないか!? ひょっとしたら食べられるかも! うまくいくかも! いつのまにか治ってるかも!! そんな期待を持って悪いか!? おれが希望を抱いちゃいけないってのかよ! 食えなくたってなあ!! 味が分からなくたってなあ!! 食欲だけは!! 美味いもの食いたいって気持ちだけは!! 今でも変わってねェんだよ―――――ッ!!」

 切り刻み、踏み潰し、すりおろして――

 どれほどの時間が経ったかも分からないが、ミュートが我に返った時、あたりには血と肉片と骨の欠片と、それらと見分けがつかなくなった牛飼い煮(グーラシュ)とが、混ざり合ってぶちまけられていた。

 ミュートは茫然と立ち尽くす。針山のように連なっていた《骨剣》が、役目を終えて風化し、崩れた。

 べったりと脳漿(のうしょう)のついた燭台を取り上げ、彼は目を伏せ、首を横に振る。

「……あーあ。掃除のやり直しだよ」

 

 

   *

 

 

 夜が明けた。昼が過ぎた。また夜がやってきた。

 ヴィッシュはまだ、死に絶えたノルンの街に留まっていた。

 戦いが終わり、ぼんやりと空が白み始めた頃、ようやく彼は立ち上がり、のろのろと歩き出した。それから丸一日。ミュートの待つインネデルヴァル古城を目指すでもなく、かといってベンズバレンに逃げ帰るでもなく、ただ漫然とノルンの街をうろつき回っていたのだった。

 この10年で大いに発展したとはいえ、見覚えのある通りや建物はそこかしこに見つかった。だが胸にこみ上げる懐かしさも、今は冷たい秋風のようなもの。虚しく通り過ぎ、ヴィッシュの心には何も残さない。

 懐かしんで何になろう。この街は死んだ。ミュートにみんな殺された。在るのはただ骸だけ。骸同然のヴィッシュ自身だけ。

 ふと気づくと、彼はシュヴェーア軍の兵舎の門前に立っていた。無意識のうちに脚は昔の習慣通り動いていたのだった。ヴィッシュは吸い寄せられるように兵舎に入った。中はほとんど昔のままだった。壁際にずらりと並べられた竿槍。薪のように束ねられ、積み上げられた剣。格子型の棚にひとり分ずつ押し詰められた鎧兜。修練場には藁人形、木剣、生々しい血の痕跡。荒っぽいシュヴェーア流の戦闘訓練が目に浮かぶ。

 ルーニヤは強かったな。一度も勝てなかった。ワッケーニの投げナイフは百発百中だった。ペーター、誰より勤勉だった。チッコロ、少し見習えよ。メイルグレッドに治癒魔法かけてもらいたくてわざと怪我してるだろ、お前は……

 ヴィッシュは一歩一歩、思い出を踏みしめるように奥へ進み、宿舎に入った。昔と同じ寝台が、他の誰かの名札をかけられて静かに佇んでいる。だがこの寝台の主が戻ることはもはやあるまい。今はただ、ここに横たわるものは虚無のみだ。

 そこに身体を投げ出してしまいたかった。横になり、目を閉じて、永遠に眠ってしまいたかった。だがベッドに入ろうとすると、異様な吐き気と頭痛に襲われ、ヴィッシュは床に座り込んでしまった。寝台の柱に背中を付け、膝を抱えて丸くなる。

「……帰りたいな」

 ヴィッシュは呟く。

 だれひとり聞く者のない暗がりの奥で。

 

 

(つづく)

 



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第16話-10 さよなら、パストラール

 

 

 ヴィッシュは目を開いたまま夢を見た――それが夢と呼べるなら。おぼろげな意識で暗い宿舎の壁を見つめながら、同時にそこに幻を見ていたのだ。追憶と現実が選り分けようもなく混ざり合い、次々に目の前に現れる。手を伸ばせば触れられるほどの存在感で。

 ヘルムートとドミニクが取っ組み合いの大喧嘩を始めた時。命懸けでヴィッシュが割って入り、ふたりを(ひざまず)かせて訓戒していたら、そこにナダムが乱入して茶化して踊ってめちゃくちゃにひっかきまわしていったっけ。

 小兵のピッケバッケがルーニヤに惚れて、公衆の面前で愛を打ち明けたこともあった。「私に勝ったらやらせてやる」なんて返されて。もちろんぎったぎたに叩きのめされた。あれから20回は挑戦を繰り返していた。勝てたことはないけれど、その根性をルーニヤも憎からず思っていたらしかった。

 アランには手がかかった。身体が弱すぎて、訓練しても体調を崩すばっかりで……だが誰よりも真剣に国の未来を憂えていた。故郷を守るために必死で戦っていた。その志が無性に好ましかった。ナダムとふたりがかりで、慎重に丁寧に稽古をつけてやったものだった。そのかいあってか少しずつ彼も成長していった。

 メイルグレッド! 彼女が入隊してきたときは参った。漆を流したような美しい黒髪の下で、朝露に濡れた野の花のように愛らしい瞳を(きら)めかせて、ヴィッシュをぽうっと見つめてくるのだから。とどめに「よろしくお願いいたします、勇者さま」だって。あのあと夜明けまでナダムにからかわれ続けたのだ――

「俺は勇者なんかじゃないよ」

 宿舎の書き物机で作戦計画書と格闘しながら、ヴィッシュは溜息を零した。ナダムは2段ベッドの上で仰向けになり、呑気に酒香木(ワインウッド)の小枝を噛んでいたが、それをチョイとつまみ取って、ヴィッシュの方に差し下ろしてきた。

「乙女の憧れを無闇に蹴散らすもんじゃねえぜ」

「俺はお前みたいにはできないよ、ナダム」

 小枝を受け取り、口にくわえる。奥歯でひと噛みすると、葡萄酒に似た微かに甘い香りが、口いっぱいにふわりと広がってくる。心に重く圧し掛かっていた気後れが香気に溶け流されていくようだ。

「女遊びの話じゃねえ。勇者のことだ」

「どういう意味?」

「ガキの頃からずーっと考えてきたことがあってさ……」

 ベッドの縁に(あご)を預け、ナダムは優しく微笑んで見せた。

勇者(ヒーロー)の条件って、なんなんだろうな?」

 

 

 記憶が途切れ、混乱する。脳の中を砂嵐が吹き荒れていく。身(もだ)えするほど不愉快な雑音が耳の奥で響き、それが収まった時、ヴィッシュの追憶はがらりと場面を変えていた。

 石畳の整備が間に合っていない、土むき出しの凸凹道。

 建設途中の石壁、雨ざらしのまま立ち並ぶ木の柱、雑草ばかりがのさばる空き地。

 そこを行きかう職人の、軍隊を思わせる勇ましい掛け声。商機を逃すまいと駆け回る商売人。荒々しく石くれを蹴散らしていく荷馬車の列――

 ここは第2ベンズバレン。10年前、まだ着工から間もない時期の。未完成で、異形で、そのくせ火傷しそうな熱気に溢れた混沌の都。

 その片隅の道端の、先日の雨でできた泥だまりの中に、ヴィッシュは膝を抱えて座っていた。

 何日も、何日も、そうしていた……

 毎日のように新しい建物ができていく。毎月数千の人間が流れ込んでくる。一年もすれば見違えるほどの大都会になるだろう。むせかえるように濃密な生命の息吹。血潮さながらに躍動する人々。中には親切な通行人もいて、ヴィッシュの足元に、数枚の貨幣を放ってくれた。

 生きよ、と、ちっぽけなコインが囁いていた。

 どうでもいい。

 心の底から――どうでもいい。

 転がされたままにしていたコインは、翌朝、他の誰かが抜け目なく(さら)って行った。

 それでいい。欲しい者が持っていけばいい。生きればいい。この世界には生きたい者だけが生きるべきだ。希望を失くした自分は、もう立ち直る気も失くした自分は、このまま道端で、ごみのように座り込んだまま、漫然と死を迎え入れればいい。

 ヴィッシュは目を閉じ、膝の間に頭を埋めた――

 ある夕暮れ、けたたましい鴉の叫び声で目が覚めた。僅かに頭をもたげ、ヴィッシュは空を見た。紺と朱の狭間で不安げな紫色に波打つ空。その中で2羽の鴉が格闘していた。激しく絡み合い、ぶつかり合い、小さな黒い(くちばし)に殺意を籠めて、剣のように戦わせていた。

 やがて1羽が敗れ、墜ちた。

 ヴィッシュの正面、道を挟んだ向かい側の泥の中に。

 負傷した鴉は、無様に喘ぎながら、しきりに翼と脚をばたつかせていた。だが、流血するほどに傷ついた翼だ。飛べるはずがない。無駄なあがきだった。

 ヴィッシュはじっと、鴉がのたうつさまを見た。

 やがて鴉は動かなくなり、泥の中で丸くなった。

 ヴィッシュもまた、目を伏せた。納得と安心の闇の中に、己の意識を埋没させて。

 

 

   *

 

 

 ミュートは廃城の尖塔の上にだらしなく座り、そこから《骨剣》を投げ下ろした。城の中庭では、ぴったり16人の()()が狂ったように逃げ惑っている。周囲を石壁に囲まれ、門や壁の裂け目は《骨剣》の棘に(はば)まれ、それでも人々は生き延びる希望を求めて駆け回る。絶壁に(すが)りつく。よじ登ろうとする。肌身を引き裂かれること覚悟で棘の垣根の隙間に身体を滑り込ませていく者もある。そこへ頭上から《骨剣》が来る。背中から串刺しにされる。頭蓋が真っ二つに割れる。左足を失くし泣き叫ぶ少女にはとどめの一撃が降り注ぐ――

「あっ! 逃げんなよ逃げんなよ……逃げるとあたらないだろーっ」

 ブツブツ文句を垂れながら、ミュートは撃つ。撃つ。ひたすら撃つ。

 意味などない。ただの遊びだ。暇つぶしだ。

「っしゃ! おらっ! はい楽勝ー!」

 ついに標的を全滅させて、ミュートは握り拳を高々と突き上げた。大急ぎで脇に据えておいた蝋燭をもみ消す。燭台をつまみ上げ、じいっと水平に蝋燭を見る。あらかじめ目盛りを刻んでおいた蝋燭に火を点け、燃えた長さで時間を計っていたのだ。

「あ―――――! 惜っしい―――――! 自己ベスト更新ならずっ! ハハハ……」

 誰にも祝われず、誰にも慰められず、誰にも咎められず、ミュートはひとり、笑っている。

 泣きながら、泣きながら、笑っている。

 

 

   *

 

 

 緋女は、血の滴る生肉に豪快にかじりついた。口を閉じてもぐりもぐりと吟味して、飲み下してから、うん、と頷く。

「けっこういけるぜ、これ」

「たくましいことで……。」

 カジュが《光の矢》を飛ばながらげっそりと顔をしかめた。緋女が味見しているのは、背後に積み上げられた魔獣の肉である。蛸とエビと狼を足して皮膚を裏返しにしたような不気味な代物。カジュなどはとても食べようという気にならないが、緋女に言わせれば、腹が減っては戦はできぬ、である。

「で。腹ごしらえ済んだなら交代してよ。」

「OK、休んでな!」

「はーどっこらしょ。」

 カジュが後ろに下がって座り込む。その背に魔獣が飛びかかる。が、代わりに前へ進み出た緋女の太刀が、一撃でばっさりと魔獣の首を斬り落とす。

 ふたりはもう丸一日以上、交代で休憩しながら、無限に湧き出る魔獣と戦い続けているのだ。

 この異世界から脱出することは不可能。できることは()()がミュートを倒してくれるまで耐えることだけ。カジュの調査でその結論に達した。

 だから戦う。

 1分でも、1秒でも長く。

 悲壮感はまるでない。不平不満も。後悔も恨み言も。

 緋女とカジュにあるのは、計画と行動。それのみ。

「オラァー! かかってこいやァー!」

 元気よく挑発する緋女に、新手の魔獣が殺到する――

 緋女の大暴れを音楽のように聞き流しながら、カジュは、つん、と爪先で魔獣の死骸をつついた。確かにおなかは減っている。背に腹は替えられぬ、という言葉もある。うーん、と唸って腕を組む。

「……火を通せばなんとか……。」

 

 

   *

 

 

 夜の暗闇が、深く、深く、世界を包む。ヴィッシュはまだ夢の中にいる。

 現在が見えた。静かで安らかな孤独。

 過去が見えた。優しく甘やかな仲間たち。

 死に絶えた街の兵舎の壁と、遥か昔に失くしたかけがえのない友達の笑顔が融け合い、そこに、1羽の鴉が紛れ込む。頭が痛い。耳の奥でキンと不愉快な高音が響き続けている。ヴィッシュは目を開いた。鴉がいる。倒れている。自分は何を見ているのだろう。現在でもなく、過去でもないなら、これは。

 あの鴉だ。

 不意にヴィッシュの意識が覚醒した。

 そうだ。あの日。第2ベンズバレンの泥の中で迎えた朝。

 鴉が動き出した。

 ゆっくりと差し始めた曙光を浴びて、傷ついた鴉が頭をもたげる。朝日を見つめ、空を見つめ。自分がそこにいるということに今初めて気づいたとでも言わんばかりに、戸惑い気味に視線を振る。白い光が徐々に翼を温めていく。

 鴉が揺れながらもがいた。

 立ち上がろうとしているのだ。泥の中に足をつき、重い身体を支えようとしているのだ。

 まるで太陽に戦いを挑むかのように。

 よろめき、ぐらつき、たたらを踏んで、しかし鴉は、立ち上がった。

 2本の脚のみで泥の底から自分自身を押し上げた。

 ヴィッシュは思わず身を乗り出した。目が離せなくなっていた。彼が見つめる前で、鴉は大きく羽を広げた。羽ばたいた。あの傷ついた翼では飛べるはずもないのに。傷口はいまだ塞がらず、血さえ乾ききっていない。血飛沫(ちしぶき)(むご)く飛び散り、土の上に斑点模様を描きだす。だが鴉は諦めない。羽ばたく。できるはずだ。俺は飛べるはずだ。闇色の眼が力強くそう主張していた。

 いつしかヴィッシュは拳を握り締めていた。

 手の骨が震えた。食い縛った歯が(きし)んだ。眼は涙の海に没していた。ヴィッシュは鴉を見守った。がんばれと、負けるなと、飾ることもできない素のままの言葉が彼の口を衝いて出た。聞こえたのか? 声が届いたのか? 鴉が、ぐん、と躍動した。

 飛んだ。

 鴉はついに地を蹴り、飛び上がった。太陽へ。真っ白な朝日の中へ。恐れも知らず挑みかかって行った。漆黒のはずのその全身が、白紫に燃えていた。

 やがて鴉の姿が空の果てに融けて消え。

 気が付けば、ヴィッシュは、立ち上がっていた。

 立っている自分に驚き、そして――

 

 

「正義ってやつは難しい。

 何が正しくて何が間違いか。そんなのは人によって違う。正義と正義がぶつかり合うこともある。正義のつもりでしたことが他の誰かには最悪だってこともある。口うるさく他人の正義にケチ付けてくる奴もいる。とかくこの世はめんどくさい……」

「分かるよ。魔族にだって魔族なりの言い分はある。そういうことだろ」

 ナダムはゆっくりと頷いた。

「だから正義を行うやつは、友達なんか持てねえのさ。信じられるのは自分の胸にある愛と勇気だけだ。共に戦う仲間たちは友達じゃねえのか? まあ世間流に言えば友達かもな。でも、だからといって大目に見たりはしない。もし悪に染まったのなら、()()()()()()()()()()()

 分かるか? 勇者(ヒーロー)は本質的に孤独なんだよ」

 いつのまにかヴィッシュは書き物の手を止め、ナダムの話に聞き入っていた。酒香木(ワインウッド)の枝も脇に置き、じっと彼の目を見つめた。ナダムの期待が、信頼が、希望が、彼の目を通じてヴィッシュに流れ込んでくる。

「つまり――勇者(ヒーロー)ってのは、ひとりで戦う者を言うのさ」

 

 

 ――()()()()()()()()()()()

 暗い宿舎の中で、ヴィッシュは茫然と立ち尽くしていた。過去が、未来が、現在(いま)の自分と共にある。追憶の残響が脳の奥で囁いている。ナダムの声が遠く、しかし確かに彼の中にある。

()け。お前ならできるさ」

 ヴィッシュは宿舎の入口に立った。いつのまにか長い夜は明けていた。朝日が東の屋根の上からまっすぐにヴィッシュの目を刺した。だが彼はもうひるまない。逃げない。右手で剣の感触を確かめる。左手で鎧の乱れを整える。

 肩越しに兵舎の中を振り返ると、そこに、白い埃がゆったりと舞い、まるでヴィッシュを見守っているかのよう。

「さよなら、みんな」

 安らぎに背を向け、太陽に挑む。

「――ちょっと世界を救いに行ってくる」

 

 

(つづく)

 



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第16話-11 光、一条

 

 

 陽光に敢然と立ち向かい、逆風を肩で切り裂いて、荒野の果てからヴィッシュが来る。

 その姿を認めたミュートは、ひゃは! とはしゃいだ歓声を上げて尖塔の上に立ち上がった。空中に指を走らせ《風の翼》の術を編み、柔らかな曲線を描いて城壁の方へ飛び降りていく。とうに門扉の朽ち果てた正門の真上に立ち、胸壁から身を乗り出し、子供のように胸躍らせて到着を待つ。

 自分を殺しにやってくる、無二の友の到着を。

 やがてヴィッシュは門前に辿り着き、鋭くミュートを睨み上げた。

「仲間を返してもらおうか!」

「いいぜ。ほらっ」

 とミュートが手の中に握っていた筒形の物を放り投げた。ヴィッシュは落ち着いて帽子を脱ぎ、その中に筒を受け止める。直接手を触れなかったのは罠を疑っているからだ。ミュートから片時も目を離さないのは不意打ちを警戒しているからだ。この張り詰めた気迫。研ぎ澄まされた刃の如き殺意。先夜の甘えた温さはひとかけらも残っていない。ミュートは身震いした。恐怖にではない。喜びにだ。

 ――よく集中できてるじゃねえの。こうでなきゃ面白くねえ!

 ヴィッシュはちらと視線を下ろして帽子の中の物を確認した。それは磨き上げられた柱状の宝石だった。彼の顔色が変わる。

 宝石の中によく見知った女性ふたりの姿が映し出されていた。緋女。そしてカジュ。どうやら戦っているらしい――周囲を膨大な数の魔獣に取り囲まれている!

「お嬢様がたはその中にいる。異世界だよ」

「ここから出す方法は!?」

「言ったろ。おれを殺せばいい」

 ヴィッシュが無言で宝石を取り上げ、腰の狩り道具入れにしまう。鋼線入りの帽子をかぶり直し、剣を抜き放ち、縦一文字に振りかぶる。ミュートは思わず天を仰いだ。なんと懐かしい姿だろう。シュヴェーア剣術“屋根の構え”。この国の軍人なら誰もが徹底的に叩き込まれた、基本中の基本にして究極の奥義。

「……嬉しいぜ、相棒。お前が本気になってくれて!」

 ミュートが軽快に指を鳴らす。その合図で、城壁の上にびっしり配置されていた音楽家たちが一斉に立ち上がる。笛吹き、ギター弾き、竪琴弾きに歌姫、詩人。ミュートがこの1日で国中から掻き集めてきた楽団だ。一体どんな脅しをかけられたのであろう、死の恐怖と涙と脂汗で顔をぐちゃぐちゃにしながら各々の楽器を構えている。

 さらに楽団の背後から、朽ちた城門の向こうから、ヴィッシュの周囲の土の下から、骸骨(スケルトン)が、肉従者(ゾンビ)が、屍鬼(レブナント)どもが、数え切れぬほどに()い出てきた。十重二十重に連なる亡者どもに、ヴィッシュは無感動な視線を配る。

 ミュートは腕を大きく左右に広げ、高らかに声を張り上げた。

「さあっ、ひとつ派手に騒ごうじゃねえか!

 パーティの始まりだ―――――っ!!」

 音楽隊の陽気な演奏。歌姫の震え声の美声。津波のように押し寄せる亡者どもの邪悪な呻き。ヴィッシュが奥歯を噛み締める。剣を握る手が軋む。体中の筋肉が隆起する。彼の猛獣めいた咆哮が、全ての雑音を吹き飛ばす。

「このバカ野郎がァ―――――ッ!!」

 牙剥き出してヴィッシュが走る。死霊(アンデッド)の軍勢に襲い掛かる。骸骨(スケルトン)(すね)を断ち割り肉従者(ゾンビ)の首を斬り落とし、背後から不用意に飛び込んできた屍鬼(レブナント)をするりと半身に回転していなすと袈裟懸けの一太刀を叩き込む。次なる敵が5匹まとめて踊り掛かってくるのを目にするや、道具入れの(つぶて)をひとつ放りつつ、敵の足元を転がり抜ける。

 直後、(つぶて)死霊(アンデッド)どもの中心で炸裂した。

 火薬と鉛玉をたっぷり仕込んだ炸裂弾だ。腐肉が猛烈な悪臭と共に撒き散らされ、戦場に大輪の花を咲かせる。しかし死霊(アンデッド)に恐怖や衝撃はない。仲間が粉砕されたのを意にも解さず第3波がヴィッシュに迫る。

 だが、既にヴィッシュの仕掛けは完成していた。

 飛びかかってきた肉従者(ゾンビ)どもが、4匹まとめて横一直線に両断される。右の屍鬼(レブナント)も。左の敵も。まるで見えない刃に斬られたかのように、ヴィッシュの周囲に近づくや否や、ばらばらに刻まれ砕け散る。

 刃糸鞭(ワームウッド)。炸裂弾を投げて作った一瞬の隙に、不可視の刃糸(ブレイド・ウェブ)を自身の周囲に渦巻かせていたのだ。一種の結界――接近した者はことごとく肉体を切断される。

「いいぞいいぞ! コレはどうだ!」

 ミュートは城壁から身を乗り出して、観客気分でやんやの喝采。その声に応えるように進み出るのは骸骨(スケルトン)の群れ。刃糸(ブレイド・ウェブ)で斬れるのは柔らかな肉や布だけ。骨のような固い物には歯が立たない。が――

 ヴィッシュは、フ、と鋭く息を吐いた。

 次の瞬間、ヴィッシュの身体が空中へ飛んだ。

 跳んだのではない、飛んだのだ。掴みかかろうとする骸骨(スケルトン)たちの頭上を、魔術でも用いたかのように軽々と飛び越え突き進む。目指す先は一直線に――城壁の上のミュート!

「飛んだァ!?」

 全く予想外の動きに、ミュートの判断が一瞬遅れた。ヴィッシュが城壁の上に降り立ち、そのままの勢いでミュートに肉迫する。ヴィッシュの手が宙を走る。刃糸(ブレイド・ウェブ)の煌めきがミュートの周囲を取り囲んでいるのが微かに見える。いつの間にか逃げ場は失われている。

 咄嗟にミュートは足元に《転送門(ポータル)》を開き、城の中庭へと移動した。難を逃れ、ヴィッシュの方を見上げれば、彼は胸壁の上に仁王立ちして刃糸(ブレイド・ウェブ)を鞭の柄に回収しているところだった――()()2()()()()()

 ――なるほどね。そんな使い方もあるのか。

 仕掛けはこうである。ヴィッシュは左手の刃糸鞭(ワームウッド)肉従者(ゾンビ)を蹴散らしながら、右手では剣を鞘に納め、かわりに2本目の刃糸鞭(ワームウッド)を取り出して城壁の上へ鞭の先端を引っかけていたのだ。

 この状態で糸を巻き取れば、ヴィッシュの身体は刃糸(ブレイド・ウェブ)に引かれて城壁の上まで飛び上がることになる。強靭な刃糸(ブレイド・ウェブ)ならばこその芸当である。

 ミュートは哄笑した。楽しくて仕方なかった。あのヴィッシュがたったひとり真正面から突っ込んできた時点で何かあるとは思っていた。それがこれだったのだ。ミュートの性格上、手下をけしかけておいて自分は高みの見物としゃれこむことは読めていたのだろう。その甘さを狙った一撃必殺の策。実に痛快。実に惜しい。

「おいヴィッシュ! お前ってやつはどんだけおれを楽しませてくれるんだよ! こっちだって負けちゃいらんねェなァ!」

 彼の手が空中を走り、大型の魔法陣を描き出す。その光が弾けるや、ヴィッシュが立つ歩廊の左右で城壁がにわかに崩れ出した。必死に演奏していた音楽隊が崩壊に巻き込まれ消えていく。代わりに土埃を切り裂いて、巨大な赤眼が姿を現す。

 不死竜(ドレッドノート)。ヴィッシュの前後左右を完全に塞ぐ形で、6頭。

「さあどうする!? 見せてくれよ! 次はどんな作戦で来るんだよォーッ!?」

 不死竜(ドレッドノート)6頭が殺到する。ヴィッシュが城壁の上で身構える。唇に垂れてきた脂汗を舐め取り、熱情を瞳の奥に燃やし、雄叫びをあげてヴィッシュは(ヴルム)の群れへ挑みかかった――

 

 

 一瞬。

 何が起きたのか分からなかった。気が付けばヴィッシュは、崩壊した城壁の瓦礫の上に倒れており、辺りには濃密な砂埃が立ち込めていた。異様な咆哮が頭上で響く。ヴィッシュは呻きながら身体を起こした。音のする方を見上げ、そして、見た。

 光、一条(ひとすじ)

 白く空を駆け抜ける。

 次の瞬間、恐るべき轟音がヴィッシュの耳を(つんざ)いた。何かの粉砕される音がそれに続き、数秒後に巨大な骨の破片が雨あられの如くヴィッシュの周囲に降り注いだ。ヴィッシュが目を見張る。これは不死竜(ドレッドノート)の骨。緋女の剣さえ弾き返したあの強靭な骨が、土くれのように破砕されている。

 ――なんだ!?

 ヴィッシュの疑問を晴らすように、一陣の風が砂埃を吹き飛ばす。

「てめえは!?」

 ミュートの焦燥が木霊(こだま)する。

 その直後、瞬く間に不死竜(ドレッドノート)6頭を倒し終えた()()が、時空そのものを両断しながらミュートの腹を貫通した!

「いッ……ぎゃあああああああああああああああッ!!」

 絶叫するミュート。死体の集積体である彼の身体が中央から粉砕され、脚が、腕が、胸が、爆裂し飛散していく。まるで一抱えの炸裂弾を至近距離で爆発させたかのよう。想像を絶する威力。だがまだ()()は止まらない。空中で放物線を描くミュートの上半身に、稲妻のように切り返して襲い掛かる。

「ちッ……くしょう! ついに来たかよ不正(チート)野郎ォ!!」

 ミュートは苦痛を必死で堪え、《瞬間移動》を発動した。()()の突進が命中する直前、ミュートの姿は虚空に溶け、消えた。

 茫然と跪き、事態を眺め見るばかりのヴィッシュ。その前に()()が降り立つ。輝きが収まる。砂と瓦礫と竜の死骸の破片とが、ばらばらと地面を叩き、やがて静かになる。その中央に立っていたのは、ちっぽけな、ひとりの男。

「誰だ……?」

 子供のように小柄な男だった。太陽の光を浴びて緑色に輝く髪。とても戦場には似つかわしくない童顔。だがその柔和そうな表情の奥に、年季を重ねた不安の色が拭いがたく染み付いている。そんな男が、身の丈を超えるほどの大剣を担ぎ、ゆっくりと、ヴィッシュの方へ歩み寄ってくるのだ。

「話は後で。ミュートはおそらく城の中です」

 男が穏やかに言う。

「ここはぼくが引き受けます。ヴィッシュさんは彼を」

 男はヴィッシュの背後、城門の外に蠢く死霊(アンデッド)の群れを油断なく睨んでいた。ヴィッシュはようやく我に返った。立ち上がり、男と向き合った。百万もの疑問が次々に浮かび上がってくる気がした。一体何者なのか? なぜヴィッシュの名を知っている? ミュートとの関係は? だがその疑問を解決する暇を、敵は与えてくれなかった。死霊(アンデッド)どもの呻きが迫ってくる。死霊(アンデッド)軍が、不死竜(ドレッドノート)が、周囲から次々に姿を見せる。

 ヴィッシュは拳を握りしめた。

「……頼む」

「お気をつけて!」

 ヴィッシュは緑髪の男を置いて駆けだした。

 朽ち果てた古城の奥へ。

 ミュートが――ナダムが――待ち受ける場所へと。

 

 

(つづく)

 



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第16話-12 闇、一滴

 

 ヴィッシュは走る。生命の温もりをとうに失くした、抜け殻のような城の中を。石壁は固く、空気は冷たく、陰鬱な静けさばかりがあたりを満たす。それなのに、床は丁寧に掃き清められ、天井の蜘蛛の巣は片っ端から払い落とされ、あちこちに備えられた銀の燭台はどれもピカピカに磨き上げられ、真新しい蝋燭がひとつひとつ差し込まれている。朽ちかけた城には不釣り合いなまでの几帳面さで。

 このインネデルヴァル城は30年以上昔の内乱で陥落した後、政情の変化によって軍事的な価値を失い、以来ずっと放置され続けていた廃城だ。手入れする者など誰もいなかったはずだ。ただひとり、あの男を除いては。

 目に浮かぶようだ。口笛でも吹きながら、たったひとりでこの広い城を大掃除していく彼の姿が。上機嫌に、寝る間も惜しんで、胸をわくわくと躍らせながら……

 ――お前は何も変わっちゃいない。お前は、俺の……

 ヴィッシュは駆け抜けた。彼のやり方は知り尽くしていた。あのお祭り好きのお調子者が待ち受けているとすれば、それは最も仰々しく見栄えのする場所。

 玉座の間。

 ヴィッシュは錆び付いた大扉に肩を当て、体重をかけて押し開いた。その加重で腐った蝶番(ちょうつがい)が砕け、扉が轟音を立てて倒れ込む。巻き起こる白い埃の渦。息を切らせて立ち尽くすヴィッシュ。そして。

 孤独の玉座に、ミュートは、背中を丸めてぼんやりと座り込んでいた。

 ヴィッシュが息を吐く。

 ヴィッシュが息を吸う。

 にやりと笑って、声をかける。

「パーティに遅刻しちゃったかな」

 ミュートが寂しげに笑顔を返す。

「いいさ。待ってる時間も恋の味だ」

 疲れの鎖を振りほどくようにミュートが立ち上がった。数歩慎重に足踏みし、手のひらを握って開いてを繰り返す。つい先ほどあの緑髪の男に粉砕されたミュートの身体は、すでに新たな死体を寄せ集めて復元されていた。その動作確認だった。

「新しい身体を造るたびにこれだ。面倒臭いがしかたねえ。元の身体はほとんど残っちゃいないしな。

 ……本当は、もっといろいろ準備してたんだ。料理に果物に山ほどのワイン! でもさ……だめだった。味見ができなくて。もてなし役(ホスト)が美味いって思えない物を、招待客(ゲスト)に食わせるのもどうかと思うだろ?

 こういうとき不便だよな、味覚がないってのは」

「俺……俺は……」

「やめようぜ、ヴィッシュ」

「お前に聞きたいことが山ほどあるんだ!」

 ミュートはそっと、首を横に振った。

「おれに勝てば全部教えてやるよ。そのほうが盛り上がるし、それに……負ければどうせ知る意味もない」

 彼の手に青い術式の光が灯る。

 ヴィッシュの剣が、苦悩の鞘から抜き放たれる。

「さあ、はじめようぜ」

 その声を最後に、残るは静寂。

 空気が凍り、冴えわたり――

 動いた。

 先手はヴィッシュ。矢のように懐へ飛び込みながら真っ向勝負の一突き。ミュートは半身に捻ってこれを避け、右手に生み出した《骨剣》で切り返す。この動きを読み切っていたヴィッシュは身体を低くかがめるのみで斬撃の下を潜り抜け、姿勢が下がったのをよいことに敵の脚へ斬りつける。

 だが読み切っていたのは向こうも同じ。軽い跳躍で剣を飛び越えたミュートが構築済みの術式ストックを解き放つ。

「《死の舞踏(ダンス・マカブル)》!」

 地面から連続して《骨剣》を召喚する大技。ヴィッシュの足元から3本の《骨剣》が伸びあがる。すぐさま横っ飛びして難を逃れたヴィッシュを、第2第3の《骨剣》が執拗に追いすがる。広間の床という床へ針山の如く乱立していく刃から、全力疾走で逃げ回る。

 その醜態を眺め見ながら、ミュートがつまらなそうに肩をすくめた。

 ――逃げるだけか? 策は無しか?

 失望は、直後、歓喜に変わった。

 ヴィッシュが鋭く進路を変え、まっすぐミュートへ向かってくる。

「ハッハー!」

 ミュートは笑い声を飛ばして身構えた。ヴィッシュの意図は手に取るように分かる。《死の舞踏(ダンス・マカブル)》にミュート自身を巻き込もうというのだ。追尾型の術に対しては定番かつ有効な反撃。しかしそうと知れていれば対処は容易だ。

「《風の翼》!」

 浮遊して安全圏へ退避。突っ込んできたヴィッシュの頭上を飛び越え、あとは右往左往する彼を高みの見物……

 と、ほくそ笑んだその時。

 突如ミュートは何か強烈な力で空中から引きずり降ろされ、そのまま床へと叩きつけられた。

 ――なんだ今の!?

 衝撃と驚愕のために一瞬ミュートの動きが止まる。その腹と胸へ、一挙に5本の《骨剣》が突き刺さった。

「うッごおッ!?」

 そこでようやくミュートは、ヴィッシュの罠に気付いた。いつのまにか彼の胸を刃糸鞭(ワームウッド)の先端が貫通している。そして床には、石畳の隙間にがっちりとはめ込まれた鞭の柄。

 最初に刃を交わした時にこの仕掛けを施しておき、タイミングを見計らって鞭を巻き上げ、浮遊するミュートを床へ引きずり落としたのだ。

 彼の最大の得意技《死の舞踏(ダンス・マカブル)》の性質を逆利用された。痛みを感じない身体のせいで鞭を差し込まれても気付かなかった。空中に飛んで避けると読まれていた。この状況は完全にヴィッシュの手中。

 好機と見たヴィッシュが矢のように間合いを詰める。駆け寄りざまに剣を振り抜く。ミュートは《死の舞踏(ダンス・マカブル)》を解除、すぐさま《瞬間移動》を構築してその場から消えた。出現場所は広間の壁際。どさり、と彼の身体が落ちる音を聞きつけ、ヴィッシュが弾かれたように振り返る。

 ミュートは石床に伏せ、小刻みに痙攣していた。肉体を再構成する術をかけ、傷口を新たな死体や骨で埋めていく。ヴィッシュは油断なく剣を構えたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。止めを刺すつもりだ。全く容赦なしだ。ミュートはそんな彼の姿を目にして、震えながら笑い出した。

「ハ……ハハハハハ! いいぞ。さすがだ! それでこそ、お前はおれの……うっ」

 膝立ちになったミュートの身体が、突如崩れ出した。右腕が塵となる。腹が真っ二つに裂けて上半身が床に落ちる。悲痛な泣き声を混じらせながら、ミュートが必死に呪文を唱え続ける。どうにかこうにか再び肉体を補修していくが、治したそばから皮膚や肉片が剥がれ落ちているのがヴィッシュにも分かる。

 ミュートの肉体は限界に達しつつあった。この数日だけでも緋女に斬られ、ヴィッシュに斬られ、緑髪の男に爆砕され、今また自分自身の術をもろに受けてしまった。そのたびに召喚した死体を材料に修復を繰り返してきたが、無限に直し続けられるわけではなかったのだ。

「お前……」

「ハハ……ごめん、ちょい待って。すぐ直るから。このッ、言うこと聞け、コラッ!」

 ミュートが崩れようとする肉体のあちこちに、手のひらを叩きつけて魔法陣を貼り付けていく。そのかいあってか、やがてミュートの身体の崩壊は止まった。ようやく落ち着き、彼は揺らめきながら立ち上がる。喉の奥からは低い笑い声がずっと漏れ続けている。

「これでよし。ハハハ……」

「どうしてこんなことに……」

 唇を噛むヴィッシュに、ミュートはそっと顔を伏せた。

「……こんな話を知ってるか?」

「え……」

「人間の身体は常に自分を更新してる。毎日少しずつ肉を壊して、作り直し、いつも新鮮に保ってるんだと。だから4、5年も経てば、人間ひとりの身体は、ほぼ完全に新しいのに取り替えられちまってるんだとさ。

 そうするとさ、今の自分と5年前の自分は、肉体的には全然別人ってことになるよな? 不思議だよな。怖くなるよな。“自分”ってのは、一体何なんだろうな? 人の身体は食った物でできてるんだから……つまり、過去5年に食った物の集大成が“自分”……ってことになるのかな?

 じゃあ……もう物を食えなくなっちまったおれは……?

 おれは何なんだよ……?

 なあヴィッシュ。覚えてるか? 昔さあ……中隊で宴会するとき、よく牛飼い煮(グーラシュ)作ってくれただろ……」

 涙はない。

「あれは……美味かったなあ……!」

 ただ、言葉のひとつひとつが、涙。

()()()()()()()()

 静寂の(かいな)が抱擁を求めて開かれ、

()()()()()()()

 希望の(つるぎ)が心臓目掛けて伸びあがる。

 視線を優しく絡ませたまま、ふたりは(じっ)と、静止した。

 言葉なき言葉で語り合うひとときが、10年の時を超越する。

 温かな至福がふたりを抱き込んで――

 刹那。

 刃が(はし)る。骨が伸びあがる。駆け寄り、肉迫し、互いの剣で風唸らせる。ミュートの腕から生えた《骨剣》が下段からヴィッシュの胸を捉える。肺も心臓も切り裂き一撃で死をもたらす必殺の太刀筋。それをヴィッシュの剣が……

 受け、なかった。

 すり抜けた。

 己へ迫る死を防ごうともせず、我が身を(かえり)みもせず、ヴィッシュはまっすぐ、ミュートの喉首目掛けて剣を振り抜く。言葉よりも明瞭に剣の煌めきが叫んでいる。

 ――殺されてもいいよ。お前になら。

 永遠にも思えるほどの一瞬が過ぎ。

 ()ね飛ばされたミュートの首が、緩やかな弧を描いて、落ちた。

 

 

「わあ!?」

「ぬお。」

 緋女とカジュの驚きの声が広間に響く。ふたりはヴィッシュの腰にぶら下げられた荷物入れの中の魔法の宝石から、ぽーんとボールのように放り出された。身軽に宙返りして着地する緋女。顔面から床に叩きつけられそうになるカジュを、緋女が寸前で受け止める。

 ふたりとも疲労困憊、ぜいぜいと肩で息をしていた。突然変わった風景に驚き、あたりを見回す。どこか古い城の大広間。あたりには砕けた《骨剣》の残骸、倒れたミュートの胴体、なすすべもなく転がるミュートの首と――そのそばに、剣を収めることも忘れ、ただ茫然と立ち尽くす、ヴィッシュ。

 それですっかり状況を把握して、カジュは、ほうと安堵の溜息を吐いた。

 そのカジュの背を、緋女がばっしばっしとご機嫌に叩く。

「ほらな! だから言ったじゃねーか!」

「うるさいな。分かったよ。分かったって。」

 だがヴィッシュは、仲間の帰還に気付くこともできなかった。あらゆる音が彼の世界から締め出されたかのようだった。完全な静寂。何もない世界に、在るのはたったふたり。自分と、そして――

「ひとつ、訊いていいか……?」

 呼吸さえままならず、魔術によって辛うじて言葉を発するばかりの、ミュート。それのみ。

「なぜ……防がなかった……?

 なぜ、おれが……()()()()()と分かった……?」

 そう。

 最後の一撃、相打ち覚悟と思われたあの一撃を、ミュートは直前で止めたのである。剣士としてはせいぜい並の技量でしかない彼には、咄嗟にできることではない。初めからそのつもりだったのだ。自分だけがヴィッシュの剣を受け入れるつもりだったのだ。

 ヴィッシュが笑う。汗でぐちゃぐちゃに汚れた顔で。

「分かるさ。お前……()()()()()()()んだろ……?」

 ミュートは言葉を失った。ヴィッシュは続ける。言い訳がましく。己を責めるように。

「偽手紙で俺を呼び出し、タイミングを合わせてノルンを滅ぼし、殺すこともできたはずの緋女とカジュを、わざわざ生きたまま捕まえて。

 みんな俺を焚き付けるためだ。ここまでしなきゃ戦えない、俺にはお前が殺せないと、そう読み切っていたんだろ。違うかよ、()()()……」

 ミュートの――否、ナダムの口元に、笑みが浮かんだ。嘲りでも狂気でもない、本心からの穏やかな笑みが。

「……いつもそうだった。悔しかった。憧れてた。こいつにだけは(かな)わねえって、ずっと思い知らされ続けてた。

 本当に、お前ってやつは……

 いつもいつも好き放題に、おれの頭の中を見透かしやがってよ……!」

 愕然とした。

 ヴィッシュは膝から崩れ落ちた。

 想像だにしなかった。ナダムに対して抱いていたのと同じひけめを、彼の方でもヴィッシュに抱いていたなんて。生涯敵わないと憧れ続けたナダムが、同時に自分に憧れていたなんて。そんなことがあるわけなかった。

 信じられるわけがない。ナダムが零す、この涙を目にしていなければ。

「辛ェのさ。こんな身体で生きていくのは。いや、生きてるなんてもんじゃねえ。ただ死んでないってだけだ。だったらさっさと死ねってなもんだが……ハハ。いくじなしなんだ。怖かったんだよ。自分で自分を殺すってのは、思ったよりもさ……」

 ヴィッシュは床に手をついた。指先が石畳に食い込み、音を立てて軋んだ。肺の入口あたりが()じ切られたように痛んだ。喉の奥から絞り出せたのは、言葉とも慟哭ともつかない(しゃが)れ声だけだった。

「ごめん……

 見棄ててごめん……

 お願いだ。(ゆる)してくれ、ナダム……!」

「……馬鹿野郎」

 そう、ナダムはなだめるように囁いた。だがその直後、彼の顔に鬼神の憤怒が湧き上がる。隠しようもない本音が、飾りようもない素のままの欲望が、生命の尽きかけた口から噴き上がった。

(ゆる)すわけがねェだろうが!!」

 ヴィッシュの顔面が凍り付く。

 死者が責める。不実を責める。その言葉は今まで受けたどんな刃よりも炎よりも、鋭く、熱く、(はらわた)(えぐ)る。

(ゆる)してもらえるだろうなんて思い込むなよ。死人だからって勝手におれの気持ちを代弁してんじゃねェぞ! てめえはおれを裏切った! おれを見棄てた! 見殺しにした! おかげさまでこのザマだ。うまい飯も食えねえ。セックスもできねえ。毎日身体が腐り落ちてく! 憎いに決まってんだろ。殺したいに決まってんだろ!

 でも……殺したくねえんだッ!!

 大切なのに憎いんだ!

 殺したいのに好きなんだ!

 いっしょに戦ったあの頃が、温かくて、懐かしくて、(まぶた)の裏でいつもキラキラ輝いてて!

 それなのに……この腐った身体から《悪意》が溢れて止まらねえんだよ!!」

 涙はとめどなく流れ落ち、ナダムを悲嘆の海に沈めるかに思われた。彼の声が少しずつ、しかしはっきりと分かるほどに、か細く、力を失くしていく。彼の腐った肉体を今日まで支えていたもの、それは《悪意》に他ならない。それを吐き出し、受け止められ、ナダムは真の死へと急速に近づいていく。

「こんなことなら蘇りたくなかった!

 いつまでもお前の思い出の中で、気のいい兄貴分のままでいたかった!

 なのに……なんでだよ、ちくしょう……

 (ゆる)さねえ! 絶対に(ゆる)さねえぞ! ()()()()()()()()()()()()()が顕現する。とっておきの《悪意》をくれてやる!

 苦しめ! 苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて!

 ずっと……ずっとっ……! 忘れないで……

 お前は……おれ……の……」

 声は潰え。

 静けさのみが残される。

 ヴィッシュは彫刻のように動かない。

 カジュはそっと顔を伏せる。

 緋女がヴィッシュの背に歩み寄る。

 やがてヴィッシュは、懐に手を入れた。痙攣する手で煙草入れを探り出し、一本取り出して(くわ)えようとする。

 その途端、緋女の眼に怒りが燃え上がった。

 彼の前に回り込み、平手で細葉巻を叩き落した。驚き、ヴィッシュが緋女を見上げる。濡れた子鼠のような目を彼女に向ける。緋女が彼の胸倉を引っ掴み、乱暴に引き寄せる。

「なに格好(かっこ)つけてんだ」

 気が付けば、彼女の眼にも、涙。

「我慢してんじゃねェよ馬鹿野郎ッ!!」

 堤を破るものは、常に最後の一滴(ひとしずく)

 緋女の言葉がヴィッシュの心に染み込むや、彼の堤は崩壊した。10年、否11年、ずっと()き止め続けてきたものが、ついに流れる先を得て溢れ出た。

 ヴィッシュは泣いた。

 声を挙げて泣いた……

 初めて彼が見せてくれた涙を、緋女は胸で受け止めた。力強く彼の背を掻き抱き、歯を折れんばかりに食いしばる。慟哭が肺に響いてくる。いつしか緋女も一緒になって泣いていた。カジュも向こうを向いたまま震えていた。

 ずっと、ずっと。

 癒えることのない哀しみを、それぞれの胸に抱き続けたままで。

 

 

THE END.

 



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第16話-(終) カタストロフ

 

 ――まだだ。まだ終わってない。

 にわかに空に暗雲が湧き出し、乾燥した冷たい風が古城を洗い始めた。カジュは窓から外を見上げ、軽く鼻息を吹く。広間の中に視線を戻せば、ヴィッシュはまだ緋女の胸に顔を埋め、子供のように肩を震わせ続けている。その背を撫でる緋女の手は母の優しさ。

 気持ちは分かる。だが今は、他にやるべきことがあるはずだ。

 カジュは意を決してふたりに歩み寄って行った。杖を床に突き、ノック替わりに音を立てる。

「で。まだ何も解決してないよね。」

「おいカジュゥ」

「……いや。カジュが正しい」

 ヴィッシュはようやく緋女から顔を離した。汚れた泥が涙で溶けて、ひどいありさまになっている。それを拳で乱暴にぬぐい取り、立ち上がり、緋女を軽く抱き寄せ、そしてついに彼はひとりで立った。まだ右手は緋女の手を握っていたが、もう誰にも寄り掛かってはいない。

「ナダムが蘇ったのは魔神の力によるもの……そうだったな?

「それに彼が最後に言ってた。“おれは成し遂げた”。“あのおかたが顕現する”。」

「ってことはつまり、“あのおかた”ってのは……」

「そういうことだね……。」

「どういうことだよ!」

()()()()()()()、ということさ」

 瞬間。

 3人は弾かれたように飛び退いた。揃って一方を睨み、太刀を抜く。魔法陣を編む。剣を両手に握りしめる。三者三様の驚愕が彼らの中を駆け巡っていた。どこから現れた? なぜ匂いも感じなかった? どうして《警報》の術を破られた!?

 あらゆる疑問を一身に受け止め、少年が、暗闇の奥に佇んでいた。

 少年。年端も行かない子供。カジュと同年代の、10歳かそこらであろうか。全身を漆黒のローブに包み、目深にかぶったフードの下に微笑の口元のみを覗かせている。あの赤い唇の、なんと艶めかしく優美なことか。気を抜けば見惚れてしまいそう――それでいて、吐き気をもよおすほどに非人間的。

 そんな少年が、誰にも何の気配も察知させず、全く突然に、3人のすぐそばに出現したのである。

「なんだ……てめえ」

 緋女の額から脂汗が垂れる。彼女の苦しげな表情が如実に語っている。この少年が放つ、圧し潰されそうなほどの存在感を。巨人ゴルゴロドンと対峙したときも、道化の剣士シーファと斬り合ったときでさえも、これほどではなかった。

 いや、それらとは全く異質。強い弱いなどという尺度では測ることさえできないかのような。

 少年はくすくすと無邪気に笑う。

「それはとても難しい、しかし極めて価値のある問いかけだ。僕自身ずっと問い続けているけれど、いまだ明確な答えを見出せずにいる。そういう意味では、僕も君たちと変わらない。この宇宙にあまたある、生命というちっぽけな星の、はかない煌めきのひとつに過ぎない――」

「……お前か」

 ヴィッシュの剣の柄革が、固く握り締められ苦しげに軋む。

「ナダムをあんな目に遭わせたのはお前かッ!?」

 少年の微笑が、

「半分はそうさ。残り半分は――君がしたことだろう?」

 嘲笑に見えた。

 ヴィッシュが走る! 打ち込みをかける。猛火のような憤怒が彼の剣に力を与え、かつてないまでの剣速で少年の脳天に襲い掛かった。が、刃が軽く弾かれる。少年のすぐ頭の上に生み出された《光の盾》が、いとも容易くヴィッシュの剣を受け止めたのだ。

 ――行くぞ!

 ――了解。

 目配せひとつで意思を固め、緋女が少年に肉迫する。と同時にカジュが魔術ストックを5つまとめて発動する。《光の矢》《闇の鉄槌》《刃の網》《火焔球》そして隠し玉は《見えない光の矢》。どれひとつとっても必殺の術。しかも特定の返し技でまとめて防ぐこともできない組み合わせ。既にあの少年は《光の盾》を発動している。仮にカジュを上回るストック6枠と見ても防御だけで手いっぱいのはず。その後に来る緋女の太刀は防げない!

 その、はずだった。

 一瞬の後。その場から微動だにせず、優しく微笑んだまま立ち続ける少年の姿がそこにあった。

 《空気圧縮》で《光の矢》を屈折させ、《精神防壁》で《闇の鉄槌》を弾く。《解呪》を《刃の網》に、《水の衣》を《火焔球》に。《見えない光の矢》は《波長変化》で無力化する。そして首筋を狙った緋女の斬撃は――あろうことか()()()()()()()()()

「冗談だろ……?」

 思わずヴィッシュが本音を漏らした。

 緋女の剣を避けた奴はいた。

 カジュの術を速度で封じ込めた奴もいた。

 だが、3人がかりで好きなように攻撃させておいて、その全てを受け入れ平然としている――そんな敵はかつてなかった。

 少年がヴィッシュに冷たい笑顔を向ける。

「最悪の事実は、往々にして冗談にしか思えないものさ」

 ――悪寒!

 緋女が飛び退いた。ヴィッシュも退いた。だが間に合わない。少年の周囲に突如漆黒の闇が湧き起こり、鞭のようにしなってふたりを薙ぎ払った。辛うじて緋女は太刀で闇の鞭を受け流したが、反応の間に合わなかったヴィッシュはまともに腹に攻撃を喰らった。

 途端。

 激痛が彼の脊髄を駆けあがっていく。

「ッがああああああああああああッ!?」

 絶叫しのたうちまわるヴィッシュ。床に転がる彼に、カジュが懸命に駆け寄り治療の術を編み始める。その前には緋女。素早く庇いに入り、両手に太刀を構えて少年を睨む。

 とはいえ、攻めて来られれば防ぐ自信など全くない。強すぎる。格が違いすぎる!

「なんなんだよッ! てめえは!」

 繰り返された問いに、少年は少し困り顔で首を傾げた。

「そうだね……こういうのはどうかな? 僕自身が僕を定義することは難しい。だが他者との関係を紐解けば、そのものの在りようを解明することができるかもしれない」

「タシャぁ?」

「最適なひとが近くにいるんだ。ほら――来たよ」

 まるでその声に呼ばれたかの如く。

 窓から、一条の白光が飛び込む。

 緑髪の男。先ほどヴィッシュを死霊(アンデッド)の軍勢から救ったあの戦士が、大剣をまっすぐに構え、光の矢と化して少年へと突っ込んでいく。すさまじいまでの速度に、豪風が古城の屋根と壁とを吹き飛ばし、雷鳴さながらの轟音が暴れ狂う。

 閃光が走った。

 一瞬遅れて音が静まり、続けて風が溜息を吐くように収まっていき、粉塵の中に、ゆらりと緑髪の男が立ち上がる。彼は油断なく大剣を手にぶら下げたまま、ゆっくりと背後を振り返った。その視線の先には、あの少年。崩れた瓦礫の上に腰かけ、いつのまに拾い上げたのであろう――ナダムの生首を膝に乗せ、愛おしげに撫でてている。

「さすがだね。今のをまともに食らえば、僕といえども無事では済まなかった」

「……遅かった。してやられた。むざむざとお前を復活させてしまうなんて」

 緑髪の男が、決意の瞳で少年を睨む。

「でも、お前はぼくが倒す!

 もう逃がさないぞ――魔王クルステスラ!!」

 予想だにしなかった名前に、緋女が唖然と口を開ける。聞きたくもなかった名前に、ヴィッシュとカジュが顔を曇らせる。ただひとり、少年――魔王のみが愉快そうに、くすくすと静かに笑っている。

「ほらね。やはり君と僕が揃わなければ話は始まらない。これでようやく物語が幕を開けるんだ。そう考えると、なんだかわくわくしてくるよ。

 そうは思わないかい? 《剣を継ぐ者》――()()()()()よ」

 

 

To be continued.

 

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 闇の中に潜み続けた巨悪がついにその暗幕(ヴェイル)を脱いだ。大地を蹂躙する死の軍勢。迫る最終禁呪発動の時。英雄は倒れ、あらゆる希望は捻じ伏せられ、世界滅亡を告げる絶望の調べが鳴り響く。残る光はただひとつ――人類の未来は、今、勇者の後始末人に委ねられた!

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第17話 “世界滅亡の序曲(オーヴァチュア)

 Overture:Ruin of the World

 

 乞う、ご期待。

 

 

 

■この続きは鋭意執筆中です。

定期更新は今回で終了し、次回以降は完成次第更新してまいります。

今しばらくお待ちいただきますようお願いいたします。



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第17話 “世界滅亡の序曲”
第17話-01 最強 対 最強


■前回までのあらすじ

 突如舞い込んだ旧友の訃報。仇討ちのため故郷シュヴェーアを訪れたヴィッシュたちは、街を埋め尽くす死霊(アンデッド)の軍勢に遭遇する。それを率いるは不死の死術士(ネクロマンサー)ミュート。しかしてその正体は、11年前に死んだはずの親友、ナダムであった。

 緋女とカジュを(さら)われ戦意喪失するヴィッシュだったが、苦悩の末にミュートを倒し、仲間を救い出すことに成功する。しかしその直後、影からミュートを操っていた真の敵が姿を現した。

 その名は――()()()()()()()()

 魔王の圧倒的な実力に、ヴィッシュたちは為すすべもなく敗北。絶体絶命の危機に陥ったその時、光り輝く魔剣を携えた謎の剣士が駆けつけた。魔王が笑みを零し、謎の剣士に語り掛ける。その口から明かされた剣士の正体は、驚くべきものであった。

「やはり君と僕が揃わなければ話は始まらない。これでようやく物語が幕を開けるんだ。そう考えると、なんだかわくわくしてくるよ。

 そうは思わないかい?

 ――()()()()()よ」

 

 

 

 「勇者の後始末人」

 第17話 “世界滅亡の序曲(オーヴァチュア)

 Overture:Ruin of the World

 

 

 

01.最強 対 最強

 

 

 暗雲立ち込める空の下、朽ちた古城に邪気が渦巻く。()せ返るような《悪意》の霧を引き裂いて、剣戟の火花が弾け散る。閃く白刃。膨れ上がる闇。ふたつの影が宙におおきく8の字を描き、直後、勇者の咆哮が轟雷の如く鳴り響いた。

「だ―――――っ!!」

 勇者が吼える。勇者が走る。剣を真正面に突き出して、狙うは一点、魔王の首。稲妻さながらの打ち込みが魔王の5重《光の盾》に激突し、行き場を失った突撃のエネルギーが爆風と化して(ほとばし)る。吹き飛ぶ城壁。倒壊しながら砕ける石柱。破片が刃混じりの暴風となり、辺り一面を薙ぎ倒す。床も、大地も、天空の分厚い雲さえも、人智を超えた激闘の余波で紙屑同然に引き裂かれていく。

 ――冗談じゃないっ。

 ヴィッシュたち3人の頭上に瓦礫の雨が降り注ぐ。とっさにカジュが飛ばした《光の盾》が破片を遮断する。だが爆風が強烈すぎる。鋭い石片や()じ切れた蝶番(ちょうつがい)がひっきりなしに押し寄せる。矢継ぎ早に《光の盾》を張り直さねば防ぎきれない。カジュの額に浮かぶ脂汗。そのとき更なる脅威の影が彼女らの頭上に覆いかぶさり、カジュはくわと目を見開いた。

 根本の砕けた石柱がこちらへ向けて倒れ込んでくる。あの大質量は、カジュには到底止められない。

 それを悟るや、緋女は迷わず跳躍した。大太刀を抜き放ち、空中の石柱へ刃を叩き込む。

「どっ……おらァ!!」

 弾き飛ばされた石柱は軌道を変え、危ういところでカジュとヴィッシュの横へ落着した。だが《光の盾》の防御範囲外へ飛び出してた緋女は、無防備のまま瓦礫の嵐を浴びてしまった。彼女の美しい肌に、生き生きと盛り上がる筋肉に、汚れた石と鉄の刃が容赦なく次々に食い込んでいく。皮膚の裂ける不気味な音がぶちり、ぶちりと耳を騒がし、カジュは地上から悲鳴を上げた。

「緋女ちゃん戻ってっ。」

 着地した緋女が《光の盾》に逃げ込み、力尽きて膝をつく。血に塗れ、顔も腕も腹も足も棘山のような破片に突き刺され、それでもなお緋女は口の端に笑いを浮かべて見せる。

「だいじょうぶ……だな。よかった……」

「喋らないでっ。」

 カジュは片手で《盾》を維持しながら、もう片手を緋女に添え、早口に治療の呪文を唱え始めた。だがその唇に、他ならぬ緋女の人差し指が当てられる。

「あたしじゃない。ヴィッシュの方が……重傷、だよ……」

 緋女はとうとう、ヴィッシュの隣に卒倒してしまった。激痛にのたうつヴィッシュ、とめどなく血を流し続ける緋女、ふたりの間に挟まれて、カジュは癇癪を起した幼子のように悲痛にうなる。

「うーっ。うーっ……。うううぅぅぅっ……。」

 涙が止まらない。不安が片時も収まらない。だが泣いて何になる!! 泣きじゃくりながら、わめきながら、首を左右へ折れんばかりに振り乱しながら、それでもカジュは懸命に呪文を唱えた。魔法陣を描いた。意識下で術式を編み続けた。ふたりを治せるのは自分だけだ。手を止めるな! 絶望するな! いや、絶望しても構わない。

 ――絶望しながら、それでも動けっ。

 胸張り裂けんばかりのカジュの苦悶を、ヴィッシュは途切れそうな意識の中で聞いている。

 ――情けねえっ……

 たかが余波がなんたる威力か。カジュも緋女も、ただ自分たちの身を護るだけでこのありさま。今こそ自分が働かなければいけない時なのに、ヴィッシュは出会い頭で魔王にやられ、その傷の激痛のために立ち上がることさえできずにいる。

 握りしめた拳の骨が、折れんばかりに哭いている。

 ――俺には……見上げることしかできないのか!?

 ヴィッシュの視界に、遥か頭上の光景が映った。

 常人には決して手の届かぬ高みを彗星の如く自在に飛び交いながら、斬り合い、打ち合い、引き裂き合って、人智を超えた戦いを繰り広げるふたつの影。

 ――これが魔王……

 見上げた世界が、血涙色に濡れていく。

 ――これが……勇者!!

 

 

 《風の翼》で逃げた魔王を追い、勇者は上空へ跳び上がった。勇者の身体能力は、もはや並外れているなどいうレベルではない。彼の脚は地上においては音速を超え、その腕力は剣のひと振りで城壁さえも破壊する。跳躍すれば空飛ぶ魔王へたちまち追いつき、圧倒的な剣速によって斬撃は一筋の稲妻と化す。

 とはいえ魔王もさるもの。仮面のように不自然な美貌へ取ってつけたような微笑を貼り付けたまま、《光の盾》で勇者の突き上げを受け止める。剣と盾がひととき絡まり、その一瞬の隙を狙って魔王の《闇の鞭》が振り下ろされる。勇者は冷静に剣を引き、身を翻して鞭を魔剣で受け止めた。

 魔王の一撃によって、勇者は地上へまっさかまに打ち落とされた。そのまま床に激突し、石畳に亀裂を走らせる。単なる鞭の打撃がまるで大砲の直撃。常人ならばこの時点で即死だろう。

 だが、彼は勇者だ。止まりはしない――()()()()では。

 突如勇者の姿が掻き消えた。空中の魔王が目を見開き、僅かに驚きを顔に表す。《瞬間移動》したのか? いや、術式の気配はなかった。では勇者はどうやって……どこへ行った? 魔王が訝しんだその直後。

 背後へ勇者が出現した。

「う!?」

 魔王が反射的に《光の盾》を飛ばす。背中へ襲い掛かった魔剣の一撃を辛うじて受け流すも、間髪入れず今度は右からの斬撃が来る。次は下から。正面から。さらに加速してまた背後――と思いきや頭上から。四方八方上下左右、あらゆる角度から襲い掛かる嵐の如き連続攻撃。まるで数十人の勇者が一斉に斬りつけてくるかのよう。

 無論そんなわけはない。勇者は()()()()()()()()()戦っているだけだ。跳躍し、斬りかかり、弾かれ落ちては位置を変え、再び跳躍して剣を振るう。それを愚直に反復し続けているだけだ。毎秒10回以上という非常識なまでの速度で。

 策はない。細工もない。ひたむきに鍛え続けた肉体の力を、ただまっすぐに叩き込む。

 これが勇者の戦いなのだ。

「なるほどね」

 魔王の額から汗が伝い落ちる。

「最強なわけだよ、勇者ソール!」

 称賛と同時に勇者の斬撃を弾くと、魔王は素早く地上へ飛び降りた。彼の指先から血赤色の魔力光が蜘蛛糸めいて走り、地面に無数の魔法陣を描き出す。

 勇者は新たな術を警戒し、魔王から距離を置いて着地した。彼の睨む前で、魔法陣の下からずるり、ずるりと人型のものが這い出でてくる。魔王だ。魔王と全く同じ姿かたちをした分身が次々に立ち上がり、勇者を取り囲む。その数ざっと4、50。

「《幻影の戦士》か……」

 勇者が油断なく周囲に視線を配りながら呟くと、50人の魔王たちが一斉に微笑んだ。

『そのとおり。君の神業に対抗するなら、これくらいの芸は見せなければね……』

 芸などという生易しいものではない。《幻影の戦士》は闘術士――魔術と武芸を組み合わせる流儀の戦士――がしばしば用いる、それなりにありふれた術だ。だが発生させられる幻影の数は通常3体程度。達人でもせいぜい5、6体が限界だ。50体ともなると、人智を超えているとしか言いようがない。

 緊張の面持ちで剣を構えなおす勇者に、魔王はくすくすと笑い声を漏らす。

『ずるい、だなんて言わないでくれよ。常識外れはお互いさまさ。こんな時でもなければ全力を発揮する機会さえないのが超人の寂しさだ』

「違うよ」

 勇者の言葉は、手中の魔剣にも劣らず冴えわたる。

「きみはまだ知らないだけだ。()()()使()()()()を」

 魔王の表情が、一瞬、凍る。

 だがすぐに魔王は元の、絵にかいたような微笑を取り戻し、愉悦に目を細める表情を作って見せた。無数の魔王たちが一斉に《闇の鞭》を手の中に生み出す。勇者の視線が周囲を走り、本物の魔王の気配を探る。

 魔王たちの詠うような声が、崩壊した古城の、巨獣の骨のごとき瓦礫の中に、朗々と響き渡った。

『さあ、存分に戦おう!

 それが魔王と勇者(ぼくら)に課せられた、(いにしえ)の格式というものさ!』

 

 

   *

 

 

 ――急がなきゃ。速くっ。

 カジュは内心の焦りを必死に押し殺し、涙を流れるがままに捨て置いて、ヴィッシュの治療に全力を注いだ。魔王の《闇の鞭》で打たれた傷はとうに塞いだが、激痛は一向に治まらないようだ。どうやらこれはただの肉体的負傷ではない。魂の奥底まで引き裂く傷、一種の呪いのようなものだ。解呪できなければヴィッシュは永遠にこの苦痛を味わい続けることになる。ものの数時間で充分に人を発狂させうるほどの痛みを。

 ――急げ。急がなきゃいけないのに……。

「難しいっ……。」

 カジュの歯が擦り減らんばかりに食いしばられた。知識と技術を総動員して分析を試みているのに、複雑極まる妨害術式に阻まれ、解呪の手がかりさえ見つけられない。もう認めるしかない。術者の技量に差がありすぎる。魔王の魔法的な実力はカジュを遥かに()()()()()、彼女では足元にも及ばぬ高みに到達している。

 カジュの頬を洗う滂沱の涙を、ヴィッシュは激痛の中ですがるように見つめていた。この一年一緒に暮らしてきたヴィッシュには分かる。普段のふてぶてしい態度とは裏腹に、カジュは誰よりも繊細だ。彼女の胸中には、今どれほどの苦悩が渦巻いているだろう。

 もうこれ以上、手をこまねいている時間は――ない!

「緋女っ……やれそうか」

 かすれ声で呼びかけると、緋女は呻き声を返した。彼女の手から血の付いた瓦礫の破片が投げ捨てられる。緋女は最前からずっと、自分の身体に突き立った破片を自力でひとつひとつ抜き取っていたのだ。言葉で言うのは容易いが、破片に触れるたびに肉を抉る激痛が走るのだ。並大抵の根性でできることではない……

「さーな……目で追うだけで精一杯だったけど」

「頼もしいね。見えてはいるってわけだ」

「へへ……やる気だな? いいぜ、付き合うよ」

 突然わけのわからないことを言い出すふたりに、カジュが悲鳴めいた早口でまくしたてる。

「まだ無理だよ無茶しないでっ。」

「頼むカジュ。痛み()()でも止めてくれ」

 カジュが術式構築の手を止め、信じられないものでも見るように、ヴィッシュの顔を凝視した。彼の眼に灯る光にカジュは息を飲む。一片の曇りも混ざらぬ澄んだ瞳。彼は本気だ。

「……地獄を見るよ。」

 ヴィッシュが強がって見せたウィンクは、へたくそにしたってあんまりな出来。

「――これがくたばってられるかよ」

 

 

(つづく)

 



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第17話-02 125

 

 

『《光の矢》』

 50人の魔王が一斉に術を解き放つ。勇者を襲う豪雨の如き《光の矢》。これもほとんどは幻影のはずだが、真偽を見極める方法はない。

 ならば。

 ――全部避ければいい!

 勇者は迷いなく走り出した。降り注ぐ《矢》を避け、くぐり、あるいは剣で叩き落とし、片時も速度を緩めることなく縦横無尽に駆け回り、目につく端から魔王を斬り伏せていく。これは幻。これも。これも。だが何度しくじっても構いはしない。50人全て斬り捨てていけばいずれ本体に辿り着く!

 勇者必死の奮闘に、魔王たちの哄笑が海鳴りの如く鳴り響いた。

『あははは。実に君らしい選択だ。まっすぐでシンプル、ゆえに最強。しかしいささか――』

 べらべらと緊張感のない戯言を垂れ流す魔王を勇者が袈裟懸けに両断する。魔王の姿が雲散霧消する――これも幻影。勇者はすぐさま次の魔王へ狙いを定める。

 その時、背後から勇者の()()に囁き声。

「――正直にすぎる」

 ――魔王本体!

 後ろを取られたと認識するや、勇者は振り返りざまに剣を振るった。魔王が繰り出す《闇の鞭》が危ういところで勇者の喉を貫きかけるも、白金の刃で切り落とされる。不意打ちが失敗に終わったと知った魔王は未練なく背後へ跳躍し、また幻影たちの中へ混ざり込んで姿を隠す。

『友達がいはありそうだがね。フフ……』

 そこで勇者は、あっと声を上げ立ち止まった。魔王の幻影の数がおかしい。ここまでで20体近く片付けたはずなのに、明らかにさっきより幻影が増えている。どうやら勇者に幻を潰される一方で、魔王は新たな幻を次々に生み出し続けているらしい。このままでは永遠に魔王を倒せない。

 剣を構えたまま動きを止めた勇者に、魔王たちが優しく微笑みかける。

『おや。もう攻撃は終わりかい? では、手番(ターン)を譲ってもらおうか』

 魔王たちが動き出す。数体が《闇の鞭》を構えて勇者に飛び込み、別の数体が《光の矢》を手の中に生み出す。さらに別の数体は空中に飛び上がって《鉄槌》《烈風刃》《炎の息》の術式構築。幻影の中から本物を探しあてる手段はないが、全てを回避するには術の種類と数が多すぎる。

 ――どうする!?

 対策を考える暇もなく魔王の術が押し寄せる。勇者にできるのは、歯噛みしながら剣を構えることのみ。いくらかの術は喰らうことを前提に、精一杯避け続けるしかない。

 だがその時、厳冬の寒風のように冴えた声が飛んだ。

「《光の雨》。」

 術の名称そのままに降り注ぐ《光の雨》。ひとつひとつが必殺の威力を持つ雨粒が、《幻影の戦士》50体あまりと攻撃魔術の幻影全てを瞬く間に吹き散らしていく。たちまち丸裸にされた戦場には、微かな驚きを顔に浮かべてぽつんと立ち尽くす魔王がひとり。そこへすかさず二筋の剣閃が走る。

「おおッ!」

 ヴィッシュ!

「オラァ!!」

 緋女!

 左右から打ちかかる狩人の剣に、魔王は両腕から《闇の鞭》を走らせた。緋女の神速の剣に鞭が幾重にも絡みつき、完全な死角を狙ったヴィッシュの剣も漆黒の触手に弾かれる。魔王の口から溜息が漏れる。

「君たちでは相手にならないと――」

 その小さな身体から膨れ上がる、()せ返るような《悪意》の黒煙。

「――学ばなかったかな?」

 途端に暴れ出す《闇の鞭》。魔王の袖から一気に10本以上もうねり出た鞭の束が、毒蛇さながらに襲い掛かってくる。複雑に絡み合う攻撃の軌道を刹那で見切り、紙一重に身をかわすヴィッシュ。鼻先をかすめて過ぎる黒色の輝きに、焼けつくような恐怖が蘇る。つい先ほど味わわされた狂わんばかりの激痛。緋女が命懸けで庇ってくれた傷。カジュをあんなにも泣かせてしまった苦悶。

 ――二度と喰らってなるものか!

 怖気を気迫で強引にねじ伏せ、ヴィッシュは猛然と斬りかかった。緋女の剣もまた唸りながら渦巻いた。ふたりの剣が歯車の如く精密に、しかも竜巻の如く激しく荒く、魔王の急所という急所へ滅多打ちに打ち寄せる。

 それでも魔王は無言で眉を動したのみ。繰り出した剣はことごとく鞭に受け流され、魔王の身体に微かな傷を刻むことさえかなわない。やはり実力が違いすぎる。ヴィッシュたちでは到底及ばない。

 だが、力が足りなければ足りないなりの仕事がある。

「カジュ!!」

 ヴィッシュの合図が飛んだその瞬間、魔王の()()から目映(まばゆ)い白光が伸びあがった。

「《大きな光の矢》っ。」

 直視もできぬほどの強烈な光が魔王を飲み込む。通常の《光の矢》より魔力消費も術式構築の時間もはるかにかさむが、威力も数倍に跳ね上がる必殺の術。それをカジュは、この大広間の()()()から真上に向けて撃ち上げたのだ。

 カジュは最初の攻撃の後、すぐさま《風の翼》で城外に飛び出し、階下へと回り込んだ。一方のヴィッシュと緋女は、がむしゃらに斬りかかると見せかけながら魔王を狙った位置へ誘導。機を見計らってカジュに攻撃の合図を出した。さすがの魔王にもこの不意打ちは避けられないはず。

 《大きな光の矢》は、今のカジュが使える対単体最強の術……つまりヴィッシュたちに出せる最大火力だ。この直撃でも仕留め切れないなら、もはや彼らに魔王を倒す術はない。

 柱のように太い光が、次第次第に細りながら、その輝きを薄れさせていく。目を細めて見守っていたヴィッシュは……その光の中に動くものの姿を認めて、息を飲んだ。

「もう一度だけ言っておこう」

 ()()。傷ひとつなく。着衣を乱すことさえなく。あの人形のような固い微笑を顔面に貼り付けたまま、平然と空中に浮遊している。

「君たちでは、相手にならない」

 そんなことは百も承知。

 ヴィッシュと緋女は、迷うことなく左右へ別れて飛び退いた。

 直後、魔王の微笑が凍り付く。

 ――身体が、動かない!?

 一体いつのまに結び付けたのであろう、淡く輝く光の線が、魔王の両腕をそれぞれヴィッシュと緋女の剣へがっちりと繋ぎ止めている。《魔法の縄》。カジュの仕業だ。彼女の《大きな光の矢》は、必殺技と見せかけて実はただの目くらまし。本当の狙いは、どさくさ紛れの《魔法の縄》で魔王の動きを封じること。

 無論、魔王の実力をもってすれば《解呪》することは容易い。だがそれには少なくとも1秒か2秒はかかる。

 ようやく魔王はヴィッシュの真意に気付いた。彼の狙いは初めから――

「勇者!!」

「だ―――――っ!!」

 勇者ソールの全力突撃が、無防備な魔王の胴体に突き刺さる。

 その瞬間、勇者の剣から魔力の閃光が(ほとばし)り、爆風となって辺り一面を薙ぎ倒した。

 

 

   *

 

 

 空の暗雲は風に吹き散らされて姿を消し、穏やかな陽光が射し始める。堂々と(そび)えていた古城の面影はもはやない。勇者と魔王の激闘によって建物も城壁もことごとく崩壊し、今や朽ちた木材や石くれが無秩序に山を成すのみだ。

 積み上がった石のひとつがコトリと動き、その下から緋女が身体を持ち上げた。大きく伸びをする彼女の下には、抱き庇われたおかげで傷ひとつ負わずに済んだカジュの姿がある。ふたりは瓦礫の山と化した城を見回し、声を張り上げる。

「ヴィッシューっ! 無事かー!?」

「かー。」

「どこだー!?」

「だー。」

 それに応える呻き声。

 緋女とカジュは瓦礫の上を昇り、飛び越え、小走りに走り、うずくまるヴィッシュを見つけ出した。彼は落ちてきた瓦礫で片足をぐちゃぐちゃに潰され、額には脂汗を浮かべていたが、余裕のある表情で手を振っていた。カジュが先ほどかけた痛みを麻痺させる術がまだ効いているらしい。すぐさまカジュが駆け寄り、足に治療の術をかけてやる。

「みんなお疲れ。なんとかなったみたいだな」

「めでたしめでたし!」

「いやまだ謎だらけでしょ。なんでいきなり出てきたの、あの人。」

「さあ、それだ。勇者はどこへ行った?」

 傷の治療も済み、3人は勇者の姿を求めて歩き始めた。ほどなく、折れた石柱の上に倒れた勇者の姿を見出した。爆発の余波を至近距離で浴びたためか、相当な深手を負っている。カジュが治療の術を施してやると、すぐに意識を取り戻した。

「やったな、勇者さんよ」

 ヴィッシュがにやりと笑いかけるも、勇者は沈痛な面持ちで首を振る。

「……いいえ、まだです。

 なんてことだ……まさか、これほどとは……」

 そのとき。

「伏せろッ!」

 緋女が叫ぶ。《闇の鞭》が走る。まだ傷の治りきらない勇者を的確に狙った一撃は、しかし緋女がすかさず繰り出した太刀によって、すんでのところで斬り落とされる。緋女が仲間たちの前に進み出て仁王立ちに剣を構える。ヴィッシュとカジュに緊張が走る。勇者は萎えた四肢に活を入れ、震えながらも立ち上がる。

「衰えたね、勇者ソール」

 うず高く積み上がる瓦礫の山の頂上に、逆光で影色に染まったひとりの少年の姿がある。

「異界英雄セレンの剣。

 妙なる《月の皇》。

 触れる全()()に真の死をもたらす終焉の刃。

 《だれにもどうにもならぬもの》。

 またの名を《月魄剣(ツキシロノツルギ)》……

 君たちが“勇者の剣”と呼ぶ()()()()()の力を完全に引き出せていたならば、今ごろ僕の命はなかった」

 魔王クルステスラ。

 その壮絶なありさまに、ヴィッシュたちは絶句する。

 勇者の一撃によって、魔王の胴体には子供がくぐって通れるほどの風穴が開いている。傷口からは滝のようにどす黒い血が噴き出し、剥き出しになった骨の断片を絶え間なく濡らし続ける。千切れかかった四肢や首は微風の中で不安げに揺れ、ついに左腕が肩口からもげ落ちた。ここまで酷い損傷を受けてなお、魔王の顔面には、今までと全く変わらぬ穏やかな微笑が貼り付いているのだ。

 異様。それでいて、背筋が凍るほどに妖しい、美。

 まるで魔王の立ち姿は、鑑賞者の理解を拒む前衛的な芸術作品のよう。

「だが……不完全でさえこの威力。やはり放っておくわけにはいかないようだ」

 魔王の口からひゅうと風音が漏れた。口笛を思わせるその音色が呪文の詠唱だった。一体どのような術によってか、傷口から肉が盛り上がり、骨が見る見るうちに伸びあがり、魔王の肉体が修復されていく。もののついでに衣服まで元通りに再生する。

 ほんの数秒で無傷の身体を取り戻した魔王から、これまでにない猛烈な《悪意》の黒煙が立ち昇った。それと同時に彼の指先が空中を走り、血赤色の魔法陣を矢継ぎ早に描いていく。とっさにカジュが《光の矢》を飛ばした。緋女が有無を言わさず斬りかかった。ヴィッシュの鞭が渦巻き、勇者の突進が襲い掛かった。

 だがその全てが、あっさりと魔王の術に弾かれる。その一方で、魔王は次々に術式を完成させていく。ひとつ、またひとつ、空中に描かれ固定されていく術式の陣。《火の矢》《鉄槌》《光の矢》《炎の息》《火焔球》《光の盾》《石の壁》《烈風刃》《凍れる刻》《幻影の戦士》……

 ――バケモノめ。

 カジュが固く歯を食いしばる。術式の同時制御は高等技術。並の術士なら一度に1個の術しか操れないのが普通で、達人でも3個、カジュですら5個が限界だ。ところが魔王はその倍をいく術式10個の同時制御。カジュ2人分の仕事を、カジュを遥かに上回る精度でこなせる、と考えれば、これがどれほど途方もないことが分かる。

 だが逆に言えば、それだけのものでしかないということでもある。魔王とはいえ神ではない。所詮はひとの延長上の存在。一度ストックした術式を使い切れば、次の詠唱まで隙が発生するという大原則からは逃れられない。

 つまり、この全力攻勢を凌ぎさえすれば、勝機はある。

 4人はそれぞれの得物を構え、神経を尖らせた。どこからどの術が襲ってきても対処できる構えを見せた。だが次なる魔王の言葉が、彼らの甘い見積もりを根底から覆した。

「見せてあげよう。魔王の()()がどれほどのものかを」

 《爆裂火球》《亀裂》《焼き締め》《漆黒力場》……

 目を見開くヴィッシュの前で、さらなる魔法陣が積み重なる。

 《疾風迅雷》《流れる大地》《枯渇》《ねばねば》……

 さらに。さらに。止まることなく魔王の魔力光が血文字の如く空中を踊る。

 《大きな光の矢》《絶対零度》《剣を鋤に》《爆ぜる空》《完全な幻覚》……

 そして唖然とする勇者たちの周囲に、光の陣が、一斉に花開いた。

 《解呪》《火の太矢》《鉄壁》《鋭い刃》《空間湾曲》《発火》《炎の鞭》《火の矢》《炎の壁》《大暴れ》《窒息》《光の盾》《剛力招来》《木人》《魔力砲》《閃光》《灰色の魔法》《見えない刃》《酸の雨》《大きな光の矢》《石の壁》《爆裂火球》《強打》《光の矢》《稲妻の槍》《火焔球》《炎の息》《石片嵐》《火焔球》《火炎破》《水の刃》《心臓貫き》《水の衣》《光の槍》《魔法の縄》《招雷》《大爆風》《鎧通し》《吸引》《溶岩流》《鉄砲風》《超力招来》《電撃の槍》《竜火》《闇の鞭》《火の矢》《絡めとる蔦》《脱水》《闇の鉄槌》《炎の息》《光の槍》《揺るぎなき体躯》《ぼろぼろ》《石の従者》《壊死》《眠りの雲》《赤熱剣》《光の矢》《鉄槌》《不死鳥》《風の翼》《小さな炎》《爆ぜる空》《速射》《爆裂火球》《爆殺》《鉄槌》《毒矢》《矢返し》《剛打》《鋼の身体》《電光石火》《光炎の剣》《活性力場》《やきごて》《立ち昇る炎》《電撃の槍》《王者の咆哮》《烈風刃》《血の祝福》《血の矢》《氷縛結界》《電撃の槍》《闇の鉄槌》《石の槍》《光の盾》《暗黒》《氷球》《牙刃》《刃の網》《烈風刃》《夢幻力場》《青の衝撃》《王者の一撃》《宝石爆弾》《激震》《爆殺》《山津波》《踊る剣》《石の壁》《撹乱》《悲しみの残り滓》。

 ()()

 それ以外の、どんな形容ができただろう。

 術式同時制御数、1()2()5()

 周囲を完全に埋め尽くした多重積層魔法陣を前に、ヴィッシュは、緋女は、カジュは、そして勇者さえもが、言葉を失い立ち尽くす。

「さあ」

 ただひとり、安全圏の魔王のみが、無機質な微笑を頬に浮かべた。

()()()()()()()()

 

 

(つづく)

 



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第17話-03 世界滅亡の序曲

 

 

 《火の息》に追い立てられ散開してしまったヴィッシュたちへ、《火の矢》《電撃の槍》《電光石火》が襲い掛かる。ヴィッシュはすんでのところで《火焔球》の直撃を避けるも行く手を《石の壁》に遮られ、足が止まったその瞬間を《鉄槌》に狙われる。危機に飛び込む緋女の太刀。渾身の力を籠めた一撃で《鉄槌》を弾き飛ばしたその瞬間、周囲から包み込むように迫る《烈風刃》。

「《凍れる刻》っ。」

 とっさにカジュが術を飛ばし、一瞬の猶予を得たヴィッシュたちは危地を脱した。だが魔王の攻撃は止まらない。走る《激震》。吹き寄せる《鉄砲風》。《ねばねば》に足を取られた隙に《竜火》が猛然と襲い掛かる。人間はおろか岩巨人ですらひと撫でで蒸発させる超高温の炎は、もはや炎とさえ呼べない白色の閃光となってヴィッシュたち3人をまともに飲み込む。

 かと思われたその直前、もうひとつの閃光が3人の前に飛び込んだ。勇者ソール。彼が気迫とともに繰り出した魔剣は、《竜火》の高熱と白光とを同時に()()、無へと返した。

 そのときカジュは確かに見た。右往左往する彼らを悠然と眺め見る魔王の口許に、会心の笑みが浮かんだのを。

 《闇の鞭》が蛇の如く素早く走る。ヴィッシュたちを庇うために全神経を集中していた勇者の手に、足元から伸びあがり食らいつく。途端に勇者を襲う激痛。さすがの彼もこの痛みには耐えかねて、小さく呻きながら魔剣を手放してしまう。

 放物線を描いて放り出される勇者の剣。そして無防備になった勇者へと、魔王の術が四方八方から殺到する。《火の太矢》《招雷》《石の従者》《超力招来》《光の槍》《炎の鞭》《爆裂火球》《大きな光の矢》《魔力砲》……!

 ――しまったっ……!

 戦慄する勇者。逃れる術はない!

 そのとき、咆哮と共に飛び上がる影があった。彼は空中で()()()()()()()()()、魔王の術めがけてがむしゃらに剣を振り回した。《火の太矢》が、《大きな光の矢》が、《魔力砲》が、白金の刃に吹き散らされて消えていく。包囲の一角に穴が開いた。と悟るや、勇者はすぐさまその場を飛び退き難を逃れる。

 勇者の背後に術が着弾し爆発を起こす。吹き飛ばされて地面を転がり、すぐさま態勢を立て直し、勇者は驚愕に目を見開いた。

「……痛ぇ!」

 毒づきながら立ち上がるのは、ヴィッシュ。土砂に塗れ、血と汗に濡れた彼の手には、勇者の剣が握られている。

「無事……なんですか」

「あ?」

 茫然と呟く勇者ソールに、ヴィッシュは眉をひそめる。勇者の顔に浮かんだその表情を、ヴィッシュは理解できずにいる。なぜだ? この危機の中にあって、なぜ勇者は頬を緩ませている? まるで、()()()()()()()とでも言わんばかりに――

「ヴィッシュさん、まさかあなたが……!」

 だが彼の真意を問いただしている暇はない。動きの鈍った彼らの頭上へ、残るありったけの術が雨霰の如く降り注ぐ。ヴィッシュが吼える。カジュが歯を食いしばる。緋女は無言で身構える。そして勇者は、誰よりも速く先陣を切った。常にそうであったように。

 だが、彼らが全力を尽くしてなお、魔王はあまりにも……強い。

 

 

   *

 

 

 全てが収まり、静寂が戻る。

 魔王は空中に浮遊したまま、地上の光景を見下ろしていた。

 緋女は太刀を握りしめたまま前のめりに倒れ伏し、カジュは血の海に横たわってぴくりとも動かず、ヴィッシュは路傍の(ごみ)の如く転がるばかり。ただひとり、勇者ソールのみが、微かな呻き声をあげながら、必死に立ち上がろうともがいている。

「かつて先代魔王ケブラーは、勇者を侮ったがために滅びた」

 魔王の囁き声は乾いた風に乗り、勇者の耳へと運ばれていく。

「“セレンの剣”を受け継いだ少年……その存在を察知していながら、多忙にかまけて部下に対処を丸投げし、結果、かえって君の成長を促してしまった。

 だが僕は彼ほど甘くはない。魔王の脅威となるものは最初の一手で徹底的に排除する。ずいぶん苦労しておぜん立てをしてきたけれど、ようやく報われる時が来たようだ」

 魔王が《風の翼》で上空へ舞い上がっていく。勇者の遥か頭上の空で、闇色の衣を翼のごとくはためかせながら、魔王が呪文を唱え始める。この世の物とは思えぬ不気味な声が狂風と化して辺りに吹き荒れ、魔王の手足から伸びた血赤色の光が天を覆い尽くすほどの巨大魔法陣を描いていく。

 ――ああ、これは、だめだ。

 とてつもない術が来る。魔王が全身全霊を込めて放つ最大最強の一撃が来る。その確信がかえって勇者を奮い立たせた。彼はそういう男だ。まだ仕事が残っている、やらなければならないことがある、その事実が、朽ちかけた肉体の奥底から魂の力を引きずり出す。勇者は懸命に這いずって、ヴィッシュの側へ寄って行った。彼の腕に手のひらを触れ、その温かさにほっと胸を撫でおろす。

 ヴィッシュはまだ生きている。

 希望はまだ、潰えてはいない。

 勇者が小声で呪文を唱えると、ヴィッシュの身体が淡く発光し始めた。緋女も、カジュもだ。《転送門(ポータル)》の術。一歩間違えば命を失いかねない危険な禁呪……魔術が苦手な勇者ならなおさらリスクは大きい。だがそれは、裏を返せば、命を捨てる覚悟なら使って問題ないということ。

「ヴィッシュさん……

 あとは……頼みます……!」

 ヴィッシュたち3人の姿が光の中に飲まれて消え、たったひとり残った勇者は、剣を杖にして立ち上がった。ゆっくりと身体の調子を確かめていく。右腕の骨は完全に砕け、内臓は3つほど破裂し、片足は根元から千切れかかっている。長くはもたない。

 勇者の剣を振るえるのは、あと一度が限界か。

 ――よかった。あと一度なら戦える。

 勇者は顔を上げた。

 天空を埋める魔王の魔法陣。その中央に忌々しい真紅の光が収束し、巨大な、あまりにも巨大な、光の球体を形作っていく。あの魔王が、これほどの時間を費やして編み上げた術だ。どれほどの威力を秘めているか、想像に難くない。

 だが勇者は笑っている。

 希望はいつも、絶望の先に立ち上がる。

「エイジ! ぼく、ついに見つけたよ。ベンズバレンの後始末人ヴィッシュさん……彼こそぼくらの探してたひとだったんだ!

 まだ希望は潰えていない。

 あとのことはお願い。

 いままで……ほんとうに……ありがとう」

 魔王の術式が完成した。

 禍々しい赤の光球が、悪魔の絶叫を思わせる金切り声をたてながら、眼下の大地めがけて投げ降ろされる。

「最終禁呪――《世界滅亡の序曲(オーヴァチュア)》!」

 そのおぞましい光を正面に見据え、勇者は跳んだ。

 魔剣を構え、一直線に最終禁呪めがけて飛び上がった。

 なぜなら彼は、勇者ソールだ。

 勇者の戦いはつねにまっすぐ。

 為すべきことへ、常にまっすぐ!

「だ―――――っ!!」

 ふたつの光が天地の狭間で激突した。

 

 

   *

 

 

 爆風が大地を薙ぎ払い、火焔と黒煙が天を埋め尽くす。渦巻く暗雲のただなかに、魔王はひとり、悠然と浮遊している。感情の籠らぬ双眸(そうぼう)が眺め下ろす先には濃密な粉塵が立ち込めている。何ひとつ見通せぬ闇。まるで世界がこれから歩む道を暗示するかのように。

「さすがは勇者だ。命を賭して禁呪の威力を殺したか」

 風が吹き(すさ)ぶ。煙と塵とが洗い流されていく。地上の光景が見え始める。

 そこには、何もなかった。

 広大な土地が精密な真円形に切り取られ、完全に消滅していた。残されたのは遥か地平の彼方にまで広がる巨大なクレーターのみ。その外縁の崖が砂山のように脆く崩れ始めた。裂け目から内海の水が流れ込み、大穴の底を潮の中に沈めていく。

「大陸ごと吹き飛ばすつもりだったのに」

 魔王は、少し不満げに苦笑した。

()()()()()()消せなかったよ」

 

 

   *

 

 

「あ!?」

 声にならぬ声を上げ、ナダムは跳ね起きた。状況が掴めない。悪夢の中から突如現実に引き戻された不愉快な朝のように、記憶と認識が混濁している。辺りを見回す。ここは……城だ。石造りの壁に立派なベッド。そこに横たえられていた自分。

 腕を持ち上げてみる。完全に腐り果てた皮膚を、包帯でぐるぐる巻きにして辛うじて覆い隠した、どうしようもなく醜悪な腕。ナダムは膝を曲げ、背を丸め、ここまで全く呼吸をしていなかった自分に気付き、喘ぐように息を吸った。

 彼はミュート。死術士(ネクロマンサー)ミュート――ナダムではなく。

「ちくしょう、またか」

 囁きながら自嘲気味に笑う。死んでいる間に夢を見ていた気がする。ペチュニアの鉢植えか何かに生まれ変わる夢だ。詳しいことは何も思い出せないが、穏やかな暮らしを求めていたのに周囲の環境がそれを許してくれない、という不愉快さばかりが頭に残っている。ちくしょう、またか。どうにもならない諦観と絶望の中で、ミュートは再び毒づく。ようやく望みが叶ったと思ったのに、ゆっくり死なせてももらえないのか。それはそうだ。一度蘇らせることが可能なら、何度だってできて当然……

「は!」

 ミュートは己の境遇を笑い飛ばし、軽業師顔負けの身軽さでとんぼ返りしながらベッドを飛び降りた。新しい身体はすこぶる快調。身体を覆う包帯も真っ白な新品。巻き方は、へたくそというか、気まぐれというか、あっちに巻いたりこっちに巻いたり落ち着きがないが、少なくとも下手なりに懸命ではある。間違いなく()の仕事だ。

「ん~。魔王様が手ずから包帯巻いてくれるなんて、愛情感じちゃうね!」

 部屋の窓を押し開ければ、憎いくらいに晴れ渡った青空が広がっている。見覚えのある風景だ。ここはベンズバレン王国、王都ベンズバレン。はるか上空には、浮遊する魔王の姿が豆粒のように小さく見える。魔王の周囲に鮮やかな赤の魔力光が駆け巡り、巨大な魔法陣を描き出していく。

 《遠話》の術式に似ているが、かなりアレンジが入っている。より広範囲に、無差別に声を送ろうとしているらしい。名付ければ《演説》とでもいったところか。

 それにしても、しっちゃかめっちゃかな術式の組み方だ。術者の性格がよく出ている。あっちで歪み、こっちで間違え、しかしその後のアドリブで見事に辻褄(つじつま)を合わせて、結果として精密無比な魔法陣を完成させる。

 彼がここで、こんな術を使っているということは、いよいよ行動開始というわけだ。練りに練った計画が、発動する日がやってきたのだ。ミュートは窓辺に頬杖を突き、恋する乙女の視線で魔王を見上げた。

「かっこいいじゃない。ワクワクしてくるねえ、大将!」

 

 

   *

 

 

 その日、魔王の声は、突如として全世界の人々へ届いた。

『もう、我慢しなくていいんだよ』

 ある者は明るい陽光の下でそれを聞いた。またある者は穏やかで満ち足りた食事のさなかに声を受け取った。大多数の者たちは、不意に耳元で響きだした不思議な囁き声に眉をひそめ、(いぶか)り、小さな不快感を覚え、あるいは気にも留めずに聞き流した。

 だがそうはできぬ者たちがいた。

 ある魔族の剣士は、路地裏の暗がりの中で魔王の声に気付いた。彼は怯え、警戒し、つい今しがた犠牲者の血を吸ったばかりの剣を油断なく構えた。彼は暗殺者だった。彼は震えていた。追い立てられ、狩り殺される危険から逃げ続けてきた。この11年、人の世の闇の中でずっと。眠る暇さえないほどに。

『もう、怯えなくていいんだよ』

 別の街では、売春宿の寝床の上で、裸の太った男がうつぶせの娼婦の尻を撫でていた。彼は魔王の声に首を傾げるばかりだったが、娼婦は違った。白く美しい肌を好き勝手に揉みしだかれ、その屈辱に歯を食いしばって耐えながら、魔王の囁きへ慎重に耳を傾けていた。彼女はエルフだった。敗北し、肉体を略奪されつくした、魔族の娘の成れの果てだった。

『君たちには、牙を()き抗う権利がある』

 人里にほど近い森の中では、一匹の小鬼(ゴブリン)が、狩人の追跡から逃げ惑っていた。道なき道を喘ぎながらひた走る。猟犬はぴったりと彼についてきている。狩人の弓矢がそこらじゅうの物陰で狙いを定めている気がする。腕も、脚も、腹も、顔も、身体という身体にあまさず傷を負い、疲労の限界にありながらそれでも足を止めることは許されない。泣きながら逃げ続ける小鬼(ゴブリン)、彼の名はコバエと言った。

 彼は駆けながら魔王の声を聴いた。平易な単語を選んで練られた魔王の言葉は、知能に劣るコバエでもところどころ理解することができた。

『僕が力を与えてあげる』

 

『我が名は魔王、クルステスラ』

 

「うー……」

 雨に濡れた山頂に、盲目の娘がうずくまる。娘は鬼だった。言葉は分からなかった。だが愛の歌は知っていた。なぜだろう、魔王の言葉が音楽的に彼女の胸に響く。思い出すたび切なく胸を締める、大好きなひとのあの歌声のように、魔王が彼女を魅了する。

 鬼の娘は立ち上がった。使いすぎて半ばで折れて、それでも握りしめて離さずにいた手作りの棍棒が、ぶらりと腕から垂れ下がる。

「うっ、うっ……うーっ!」

 

『愛するものを得んとして、得られず悶えるものたちよ』

 

「ボスゥ! なんすかこの声!?」

 焼け野原と化した辺境の街で、竜人(ヴルムフォーク)の盗賊が声を裏返した。竜人はその名の通り、ヒトと(ヴルム)の血を共に引く一族。全身は強靭な鱗に覆われ、四肢には大鬼や巨人すら凌駕する筋肉を備え、(ヴルム)そのものの頭部からは爆炎を吹くことさえあるという。

 その圧倒的な武力でもって辺境を荒らしまわっていた盗賊団が彼らであった。

 竜人盗賊団の首領が、のそり、と長い首を持ち上げた。彼は戦いが済んだ後、後始末を手下どもに任せ、自分は面倒くさそうに横になって牛の丸焼きをつまんでいたのだ。それがぎらりと黄ばんだ眼を輝かせ、大地さえ振るあげるほどの大音声を響かせる。

「なんでえコイツァ。魔王だあー?」

 首領が地面を踏み割り立ち上がる。足元の牛の死体が風船のように弾け潰れる。まっすぐに立った首領の体躯は、他の竜人たちが子供に見えるほど。彼は近くに突き刺しておいた分厚い鉄板を――否、巨大という表現さえ追いつかないほどの巨大剣を、玩具のように軽々と肩に担ぎ上げる。

「いいね!! おもしろ強そうじゃねーかァ―――――ッ!!」

 

『平和の時代の狭間に埋もれ、振るうべき力を持て余したものたちよ』

 

「うふっ、うふふふふ!」

 コープスマンは上機嫌に笑っている。彼が意気揚々と歩みを進めるは、超大型飛行魔獣“マンタレイ”の中央通路。ついにこの日がやってきた。“企業”の将来を占う超大型プロジェクト、その総責任者として、コープスマンは慎重に慎重に計画を練ってきた。耕し、種をまき、丹念に水やりをして、愛情たっぷりに育ててきたのだ。

 その集大成、“魔王計画”が、ついに花開く時がやってきた。

「さーてみなさん! 大変長らくお待たせいたしました!

 シーファちゃーんっ! 出番だよーっ!!」

 彼の呼び声に応え、闇の中から()()()()()が滲み出る。

 

『正義という暴力に押し殺され、自らを磨り潰すしかなかったものたちよ』

 

『君たちの懊悩が、僕には分かる。

 君たちの苦悶が、僕には聞こえる。

 力ある者どもが、ただ力あるというだけで、他者の人間性を蹂躙する権利を持つのなら、僕らが立場を逆転させて何の問題があるだろう?

 君たちの望みは、分かっている。

 願いは扉。

 言葉は鍵。

 ふたつが揃ったとき、僕らは新たな世界へ導かれる。

 ゆえに集え。世界の隅々で苦しみ続けるものたちよ。

 刃を取れ。いじめられたもの、奪われたもの、まつろいきれぬものたちよ。

 我が名は魔王、クルステスラ。

 僕が君たちに、戦う力を与えてあげよう!』

 

 

 魔王が世界の中心で、両腕を振りかざし舞い踊る。彼の動きのひとつひとつが術式と化して力を放ち、地の底から地獄の亡者どもの朽ちかけた肉体を引きずり上げた。湧き出た血の結晶に城の石壁が覆われていく。複雑に絡み合う骨がおぞましい城壁となって(そび)え立つ。城の中心からは血赤色の天守が雲を貫かんばかりに伸びあがる。荘厳華麗でしられたベンズバレンの王城は、今や悪夢の如く禍々しく、しかし妖美と形容するほかない姿へ生まれ変わった。

 魔王城の完成だ。

 そこに世界中から魔物どもが集まってくる。魔族の剣士が、術士が、娼婦に身をやつしていた姫が、あるいは生きるために小さな盗みに手を染めるしかなかった小物たちが。小鬼(ゴブリン)が、岩砕き鬼が、大鬼が。墓の下から這い出してきた雲霞の如き死霊(アンデッド)の群れが。ひときわ異彩を放つ巨人ゴルゴロドンの巨大骸骨が。大小さまざまの魔獣どもが。(ヴルム)が。どさくさに紛れて人間社会のつまはじきものどもが。一縷の希望にすがるように、魔王の元へ馳せ参じてくる。

 それら魔物どもを率いるは、いずれ劣らぬ英傑たち、ひと呼んで魔王軍四天王。

 死を超えた者――死霊軍団長、玉杯のミュート。

 盲目の鬼娘――魔鬼兵隊筆頭、契木(ちぎりぎ)のナギ。

 一騎当億――ドラゴン旅団長、竜剣のボスボラス。

 魔王軍の金庫番――財務主任、奇貨のコープスマン。

 そして、最強――狂気の剣士、道化のシーファ。

 彼らは城の大広間にひれ伏し、一様に頭を垂れた。

 城を埋め尽くす魔物たち。それらから向けられる尊崇と畏怖と野心の全てを平然と受け止めながら、魔王は、ひょいと食卓につくような気楽さで骨灰色の玉座に腰を下ろす。

「さあ、ちょっと世界を滅ぼしてみようか」

 魔王は悠然と片肘をつき、にこりと無邪気に微笑んで見せた。

「なにしろ僕は、魔王だからね」

 

 

 この瞬間、人間たちの勝利と栄光の時代は終わりを告げた。

 時代が動く。

 戦いが始まる。

 後の世、この戦いは“第二次魔王戦争”と呼ばれることになるだろう。

 “後の世”などというものが、残っていればの話だが。

 

 

(つづく)

 



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第17話-04 勇者と後始末人

 ――何が勇者だ。

 11年前のあの日、煮え切らない薄曇りの空の下で、ソールは焦土に膝をついていた。ここにはもう、何もない。家も。道も。行き交う人も。生活の息遣いも。かつて在ったあらゆるものが戦火のために灰燼と化し、今はただ、廃墟の上に血と骨の残滓が(うずたか)く積もるのみ。

 街中に立ち込める腐臭と瘴気。逃げ場を求めた人々に遺体が層をなす井戸。半壊した教導院の石壁には、(ヴルム)の巨大な爪痕が痛々しく刻まれている。ソールは足元の灰を掻き分け、汚れた人形を掘り出した。大切に両手で抱き上げたそれは、ぼろ布の切れ端を縫い合わせ、細切れの藁を詰めただけのもの。きっと誰か器用な大人が、身近な子供のために作ってあげたのだろう。どこかの少女か少年が、この他愛もない玩具を友として空想の中に遊んでいたのだ。その思い出は誰にも語られることなく、死と忘却の深淵へ呑まれて消えた――永遠に。

 ――何が勇者だ。何が英雄だ。

 ソールは人形を胸に掻き抱き、呻きながら背を丸めた。

 『魔王ケブラー、勇者ソールによって討伐せらる!』その報に世界が湧いたのはつい数ヶ月前のことだ。彼と仲間たちは行く先々で万雷の拍手をもって迎えられた。彼自身も浮かれていた。平和と称賛の果実に酔っていた。歓待を愉しみ、大いに歌い騒ぎ、恋人に結婚を申し込みさえした。

 調子に乗っていたのだ。

 戦争はまだ終わってなどいなかったのに。

 なぜ今まで考えもしなかったのだろう。魔王が死んだからといって、世界中に散らばっていた魔王軍が一気に消滅するわけではない。むしろ魔物たちは統率と精神的支柱と補給とを一度に失い、自分自身が生き残るために必死の戦いを始めた。目的を失った軍勢は、私欲のために吹き荒れる暴力の嵐と化したのだ。結果、それまで幸運にも戦乱を逃れていた戦略的価値皆無の村落までが、魔獣の標的となってしまった。

 もしソールが魔王を倒さなければ……急激に状況を変えたりしなければ……この街が襲われることはなかった。この人形の持ち主が、この地に息づくふたりとないひとりひとりが、理不尽に焼き殺されることはなかった。“勇者”さえ余計なことをしなければ……!

「ここにいたの、ソール」

 背後から聞こえる声は、共に魔王を倒した仲間――剣士デクスタ。凛とした長身、総髪(ポニーテール)に纏めた豊かな金髪、腰に()くは勇壮武骨の剛刀。見惚れるような()()()で数多くの女性を虜にしてきた彼女の顔にも、今は鬱々と影が差している。デクスタがソールの側に片膝をつき、そっと背をさすってくれる。

「気にするな、ってのは無理だろうけど……悩みすぎちゃだめよ。混乱が治まるには時間がかかる。あんたのせいじゃないわ。

 ……なんて、言ってもあんたは聞かないか」

「……うん」

 短く強く息を吐き、ソールはゆっくりと立ち上がった。目尻に浮かぶ涙を拳で拭う。沈みゆく血赤色の夕陽を、それに染め上げられた滅びた街の光景を、瞳の奥に焼き付ける。忘れるものか、この気持ち、この胸の痛みを。

 勇者とは戦う者。戦うことしかできない者。

 だから、“自分”などもう要らない。

 だから、“暮らし”などもう要らない。

「だから、戦う。()()()

 彼の決意の咆哮が、剣の如く天地を貫く。

「ぼくは“勇者”――勇者ソールだ!!」

 

 

   *

 

 

 第2ベンズバレンの海は、今日も素知らぬ顔で波打っている。空も、土も、山も、太陽も、自然界の何もかもが、何万年も変わることなく己の在りかたのままに活きている。なのに人間だけが毎日持ち上がる困りごとに振り回されて、慌てたり騒いだり、恐れたり暴れたり、ふと冷静に我に返り、自分のしでかした愚行に気付いて震え上がったり……

 ヴィッシュは桟橋にあぐらをかき、うねる海面を何時間もじっと眺め続けていた。魔王軍によって王都が占領され、ベンズバレンの国体は崩壊寸前だ。戦乱の気配を敏感に察した貿易商たちがこぞって手を引いたために、港に出入りする船はずいぶん減ってしまった。ここ数日は荷揚げの仕事にあぶれた人夫たちが生活の不安から苛つきはじめ、あちこちで暴力沙汰を起こしているという。

 それでもここには平和がある。少なくともまだ戦場ではない。

 血も、腐敗も、暴力の嵐も。本格的に襲いかかって来るのはまだ先の話。

 不安に押しつぶされそうになり、ヴィッシュは喘ぎながら仰向けに寝転がった。

 魔王との戦いの後、意識を取り戻したヴィッシュたちは、自分たちがベンズバレン王国領にいることに気付いた。勇者がかけてくれた《転送門(ポータル)》の術だ。あの死地から、彼がヴィッシュたちを安全圏に逃がしてくれたのだ。

 疑問が百万個も湧き出てきたような気分だった。戦いの結末はどうなったのか? 帝国の命運は? なにより、勇者は無事なのか? ひとまず第2ベンズバレンへ帰還する道を急ぎながら、彼らは巷の噂話に耳を傾けた。シュヴェーア帝冠領バル王国は謎の大爆発で()()、内海と繋がり巨大な湾と化したこと。ベンズバレン王都が蹂躙され、魔王の本拠地、魔王城とされてしまったこと。そして、勇者ソールが――人類唯一の希望が――魔王に敗れて戦死したこと……

 第2ベンズバレンに戻るや、ヴィッシュは後始末人協会の情報網を頼りに噂の真偽を確かめた。多少の誇張と誤りこそあれど、噂はおおむね真実だった。

「すぐに行動が必要です」

 コバヤシは、彼らしくもない早口でまくしたてた。

「第2ベンズバレンに独立都市としての運営能力が与えられていたのは幸いでした。ここを拠点に地方領主を纏めれば魔王軍に対抗できます。今は都市内の有力勢力にこの方針への了解を取り付けているところで……」

 ヴィッシュは困惑気味に手を上げて、コバヤシの言葉を遮った。そのまま立ち去ろうとするヴィッシュに、コバヤシは悲鳴じみた声を上げる。

「一緒に戦ってくれないんですか!?」

「……俺に何ができる」

「実績もある。名声もある。あなたなら諸侯連合軍をまとめられる……ヴィッシュさんっ!」

「俺は……勇者にはなれないよ……」

 それからずっと、ヴィッシュはこうして、ただ時間を潰している。

 家には帰れない。帰れば緋女とカジュがいる。ふたりはきっとヴィッシュに失望しているだろう。無様に敗北し、魔王の圧倒的な力に恐怖し、戦う気力を完全に失ったヴィッシュに、唾でも吐きたいと思っているだろう。みんなに合わせる顔がない。もうどこにも、行き場がない……

 ――いや、違う。勝手に仲間たちの気持ちを決めるな。

 ヴィッシュを軽蔑しているのは、唾棄すべき弱さに失望しているのは、他の誰でもない、ヴィッシュ自身。

 深く深く溜息を吐き、ヴィッシュは静かに目を閉じた。このまま眠れば楽になれるだろうか。それとも、悪意に(さいな)まれるばかりだろうか。

 ――なあ勇者さん。なんであんたは俺なんかを助けた? 大切な命まで犠牲にして……

「情けねえ」

 突然頭上で男の声がした。ヴィッシュは目を開け、身を起こす。肩越しに振り返ってみれば、見知らぬ男がこちらを睨んでいる。黒の貫頭衣(ローブ)、紋様入りのとんがり帽子、宝石のはまった真っすぐなステッキ。いかにも術士然とした格好だが……やはりどれほど記憶を辿ってみても、こんな人物には見覚えがない。

 だが男の方ではよくヴィッシュを知っていると見えて、それこそ唾でも吐き捨てるように罵りかけてきた。

「こんなやつが後継者とはな。ソールも浮かばれないぜ」

 男の口から出てきた勇者の名に、ヴィッシュは眉をひそめる。

「あんた、誰だ」

「自分の組織のトップくらい知っとけよな。セレン魔法学園教務主任にして後始末人協会副会長エイジ・エインズワース。そして今は……ただのソールのともだちだ!」

 エイジと名乗った男は、手の中の物を怒りに任せてヴィッシュへ投げつけた。危うく取り落としそうになりながら受け止めてみれば、それは手のひらに収まる程度の淡青色の結晶だった。同じものを以前に見たことがある。“過去視の水晶(パストビューア)”……映像を記録し、後で見られるようにする一種の呪具(フェティシュ)だ。

「再生方法は?」

「知ってるが……」

「じゃあな」

「おい! 待てよ、これは一体どういうことだ?」

 問いには答えずエイジは立ち去ろうとする。ヴィッシュは慌てて立ち上がり、彼の肩を掴んで引き留めた。それが(かん)(さわ)ったとみえて、エイジは振り返りざまにヴィッシュの胸へ、乱暴に指を突き付けた。

「言っとくけどな! オレはソールの頼みだからそれを届けてやっただけだ。

 オレはお前を認めない! お前なんかのために、ソールは……あいつはもう……!」

 エイジの目尻に、じわりと浮き上がる涙の滴。

 今度こそ彼は足早に港を立ち去っていった。ヴィッシュは訳も分からず取り残されて、ただ茫然と立ち尽くすばかりだった。右手の中に、結晶の固い感触がある。指の関節に角が食い込み、ひどく痛んだ。

 

 

   *

 

 

 エイジはソールの同級生。とはいっても()()には天と地ほどの差があった。エイジは万年不動の学年首席で、ソールは億年不変の最下位だ。正反対のふたりだが、なぜか幼い頃から一緒に行動することが多かった。別に気が合ったわけではない。エイジにはエリートとしての義務感があったのだ。落ちこぼれを助け上げるのは、実力者の責務だ。持てる者は、持たざる者へ親切であらねばならない。

 実際のところ、実習、実験、レポート作りに試験対策と、あらゆる局面で要領の悪いソールを、エイジはいつも手助けした。

 魔王戦争の時だ、その関係が根底から覆されたのは。落ちこぼれだったはずのソールが“セレンの剣”に選ばれ、魔王を倒すための旅を続けるうちにめきめきと力を付けていき……最下位だったはずのソールは、世界の頂点に煌めく英雄となった。力関係は逆転した。エイジは完全に追い越されてしまったのだ。

 それを素直に喜べない自分を見出した時、はじめてエイジは、長年自分の中にあった慢心に気付いた。

 なにがエリートだ。なにが実力者の責務だ。単に手元に“格下”を確保しておいて、自分は凄いんだぞ、とアピールし続けたいだけではないか。そんな自分がどうしても許せず、考え込み、苦しみ抜いた末に、彼は当のソールに全てを打ち明けた。

 悔恨の表情で呻くように謝罪するエイジに、ソールは、いつもの屈託ない笑顔でこう答えた。

「そんなこと関係ないよ。たとえどんな気持ちが理由でも、エイジがしてくれた親切の価値は、ぜんぜん変わらないよ!」

 出会ってから既に7年近くが経過していたが、その時ふたりは、はじめて友情を交わすことができたのだ。

 それから2年ほど過ぎたある日のこと。魔法学園卒業を目前に控え、研究論文の準備に奔走していたエイジの元へ、クラスメイトの悲鳴じみた急報が舞い込んだ。

 “勇者”ソールが、重傷を負って担ぎ込まれたというのだ。

 治療のために駆けつけたエイジは、ソールの顔を見るなり絶句した。彼はまるで別人のようにやせ細っていた。玉のようだった肌は見る影もなく乾き、眼は骸骨のように落ちくぼみ、顔からは表情が失われて、それでいて、殺意にも似た気迫だけは全身から溢れんばかりに漂い出ている。まるで研ぎすぎた刃物。

 なにより異様だったのは、どう見ても致命傷としか思えず、泉のように血を噴出させていた傷が、ベッドへ運ばれている間に早くも塞がりかけていたことである。

「ソール、お前、いったい……」

 彼が勇者として世界中を飛び回り、魔王軍残党から人々を守る戦いに明け暮れているのは知っていた。魔王さえ倒したソールなら、そんじょそこらの魔物など相手にならない。心配する必要はない、と、今の今までエイジも思い込んでいた。

 だがこの様子は尋常ではない。この疲れようはなんだ? 精神にも変調を来しているのではないか? そもそも異常なまでのこの回復力はなんだ?

 エイジはソールの全身をくまなく探し回り、ゴテゴテと何重にも装着された呪具(フェティシュ)を見つけ出した。胸元に輝く首飾りは“沈まぬ太陽の宝玉”。眠気を取り除き、いつまででも起きていられるようにする。“苦行者のベルト”は空腹感を消す道具。“酩酊の指輪”で傷の痛みも感じずに済む。“不死鳥の刻印”で肉体の傷を瞬時に再生し、その代償として蝕まれた体力は“活力の腕輪”で強引に補う……

 エイジの背筋にぞっと悪寒が走った。ちょうどその時、ソールが目を覚ました。

「ん……あ、エイジ……」

「ソール。オレたち、友達だよな?」

「えっ? そりゃあ、うん……」

「じゃあ本当のことを話してくれるよな?」

 ソールは黙り、顔をそむけた。その顔面を手のひらで両側から挟み込み、無理やり自分の方に向き直らせ、エイジはすがりつくように責め立てた。

「バカ野郎!! お前、いつから寝てないんだ!?」

「えっと……その……1年半くらい……」

 やはりだ。この勇者バカは、寝る暇も食う暇も傷の治療をする暇すらも無駄として切り捨て、一切休息を取らずに戦い続けてきたのだ。1年半もの間ずっと! たしかにそれなら1日に常人の倍以上の仕事ができる。勇者の戦闘力も加味すれば、ひとりで千人分働けると言っても過言ではないだろう。理論上は呪具(フェティシュ)の効力で万全の状態を保てるかもしれない。

 だが、眠気も食欲も失くしたって、睡眠や食事が要らなくなるわけではない。魔術で帳尻を合わせているだけの暮らしは、確実にひとの心身を蝕んでいく。こんなことを続けていれば、遠からず魂が限界を迎え、ソールは死ぬ。

「休め。いいな?」

 だがソールは首を振り、痛みを堪えて起き上がろうとさえする。まるでひとの話を聞いていない。

「でも、ぼくがやらなきゃ。ぼくが戦わなきゃ、たくさんの人が死んじゃう……」

 ああ、もうダメだ。エイジはそう確信した。

 この男はこういうやつだ。まっすぐすぎるほどまっすぐなやつだ。彼の信念は正しい。確かに勇者が休めば、その分だけどこかで人間が死ぬだろう。今はそういう情勢なのだ。

 それを知ってしまった。だからソールは、もう止まれない。

 説得しても無駄だ。勇者ソールを止める方法は、この世にただひとつしかない。そうと決めたら、エイジも伊達に世界最高学府の首席学生ではない。類まれな頭脳と行動力が、唸りを上げて燃え始めた。

「おいソール! お前、ちょっと名義貸せっ!」

「へ?」

 

 

 その僅か数か月後、新たな組織が動き出した。

 エイジが設立したその組織は、基本的には同業者組合(ギルド)の一種である。魔王討伐後、残党の魔物は内海全域で社会問題化しており、それと戦う狩人たちが各地で自然発生していた。エイジはこの狩人をまとめ上げ、効率的に魔物狩りを行う組織を創り上げたのだ。

 といっても、生半(なまなか)な方法では海千山千の狩人を指揮下には置けない。彼らを統率するには利益あるのみ。協会に所属するメリットが大きければ自然と組織は回りだす。そのためには採算を取るしかない。採算を取るには、地方領主や国王を顧客化することが必要不可欠。

 “勇者”ソールを名義上の協会長に置いたのは、為政者たちを顧客として取り込むための看板が必要だったからだ。

 かくして後始末人協会は発足した。

 以来、勇者の立場は劇的に変わった。これまで彼ひとりに舞い込んでいた魔物退治の要請、その大半は狩人たちが引き受けてくれるようになったのだ。そのぶん勇者には、最も重く厄介な敵との戦いが任されるようになったが、それでも以前より大幅に負担が軽減されたのは間違いなかった。

 だが、全ては遅すぎたのかもしれない。

 戦いの日々が。ヒトの身の丈を超えた“勇者”の力が。少しずつ、少しずつ、ソールの肉体を蝕んでいたのだった。

 

 

(つづく)

 



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第17話-05 これでお別れってわけじゃないから

 

〔もう喋っていいの?

 えっ!? わっ!! えっと!!

 ぼく、あの、ソールっていいます! いちおう、みんなからは“勇者”って、言われてる……んですけど……

(固いぞー! にっこり笑えっ! 勇者スマイルー!)

 だってえー! もおっ、やめてよエイジ!

 あ、えっと。

 これは万が一のために残しておく記録映像です。だからあなたがこれを見てるということは……ぼくはもう、直接説明できる状態ではないのかもしれません。覚悟はしてるけど、すごくつらいです……

 自分が死ぬことじゃなくて。あなたに……ぼく以外の誰かに……こんな重荷を押し付けることが……

 でも、これは大切なことだから。

 どうか、落ち着いて聞いてください。

 

 あなたは、

 勇者の後継者です。

 

 ぼくが持っているこの“勇者の剣”は、触れたものすべてに死をもたらす最強の魔剣。

 でもそれは、剣を振るうぼく自身さえ例外ではない。

 ぼくの身体は、魔剣の力の反動によってもうボロボロになっています。おそらく、もってあと数年……でも、ぼくらは戦いをやめるわけにはいかない。ひとに《悪意》がある限り、魔王は何度でも蘇る。なのに、その時ぼくは、もうこの世のものではないかもしれない。

 だから、遅かれ早かれ必ずやってくる“その日”のために、“剣を継ぐ者”が必要でした。

 それが、あなた。

 常人なら柄を握るだけで魂ごと消滅してしまう死の魔剣を、自らの力として振るい得るもの。

 300年前《死の女皇》から剣を託された“異界の英雄”セレンの末裔。この世界に何人残っているのか、というより本当に残っているのか、もう誰にも分からなくなってしまった……その一族のひとりが、あなたなんです。

 ひょっとしたら……というか、ぼくが誰かに負けたのなら、充分ありえる話ですけど……既に魔剣は破壊されてしまってるかもしれません。でも大丈夫。これはただの剣じゃない。これ自体が一種の上位神……らしいです。だよね?

(あってるよ。自信もっていけ)

 うん!

 えーっと、つまり、ひとに《死》への畏れがある限り、“勇者の剣”は何度でも蘇る。逆に言えば、たかが刀身を消滅させた程度でなんとかできるような生易しいものじゃないってことです。

 だからこそ、この剣が希望になる。

 もし魔剣が失われていたのなら、北のグランベルギア山脈へ向かってください。クー・レンスクから“妖精の森”を抜けた先にある、《死》の神殿遺跡……その最奥で、きっと“勇者の剣”が新たな宿主を待っているでしょう。

 ……勝手なことを言っているのは分かっています。

 隠しだてはしません。魔剣を振るうたびにあなた自身も重大な障害を負う。最悪の場合、即死することさえあるかもしれない。

 でも、すべて承知のうえで。

 ぼくは、このメッセージを……

 世界の未来を……

 たったひとつ残された最後の希望を……

 あなたに託します。

 啓示暦1309年(12)月10日。以上、記録終わりっ!

(はいおつかれー! いいねー、この調子でケイちゃんに愛のメッセージでも贈ってみない?)

 ひぇっ!? そっ、そんなの、やだよお……

(ああ? じゃあお前は嫁さんのこと愛してないっていうのか! どうなんだ! ソール!)

 そんなわけないっ! それは、もちろん……愛してるよ、ケイちゃん……

 ……?

 あ―――――っ!? 録画しっぱなしじゃないか―――――っ!!

 ちょ……止めてっ! やだぁ―――――!!〕

 

 

 真っ赤な顔して掴みかかってくる勇者を最後に、映像はぷつりと途切れた。

 人気のない路地裏で、湿気た木板の壁に寄り掛かり、手の中の結晶を見つめ続けていたヴィッシュは、溜息を吐いてのけぞった。こつり、と後頭部が壁にあたる。屋根と屋根の間から僅かに覗く空の中を、鴉が一羽、鋭く横切っていく。

「世界の危機だ。今こそ立ち上がれ、選ばれしものよ! ……てか?」

 ヴィッシュは思わず苦笑する。

「いまどき英雄(ヒーロー)モノじゃあるまいし」

 

 

   *

 

 

 第2ベンズバレンの大通りは馬車10台が横並びに走れるだけの広さがあるが、昼過ぎともなるとその大半が露店で埋まる。粥、油麺、焼肉に焼き魚。ここ半年ばかりは焼き(ヴルム)と看板をぶら提げてその実ただの焼き鳥屋、という怪しげな店もずいぶん増えた。外食ばかりではない。小麦、乳製品、菓子に茶葉。古着や小間物や金物の鋳掛なんてのもある。魚売りは水揚げされたばかりの新鮮なやつを桶いっぱいに詰め、旬の魚の美味さを声張り上げて宣伝する。

 ヴィッシュはその喧噪の中を、ポケットに手を入れ、背を丸めながら、ひょいひょいとそぞろ歩いていた。そこへ、なじみの魚屋の声がかかる。

「兄貴! ヴィッシュさん! (スズキ)のいいのが入ってるよ!」

 足を止め、道端に降ろした桶を覗いてみれば、光り輝くようにいきのいい(スズキ)が、まだ生きているように澄んだ瞳でヴィッシュを見つめ返してくる。たっぷりと脂ののった、見るからに食べ応えのありそうなやつだ。ヴィッシュの頬がほろりとほころぶ。

「いいな。もうこんな季節だったか」

「どうです? お姫様がたも喜びますよ」

「商売上手め。半身でもらおうか」

「ありがとうございますっ」

 魚屋は威勢のよい返事が終わるか終わらないかのうちに包丁を抜き、桶に入れたままで器用にヒョイヒョイと魚を(さば)いてしまった。目を見張るような早業、これもまたひとつの神業だ。そう素直に褒めると、魚屋は照れ臭そうにはにかんで、草の葉で包んだ魚を手渡してくれる。

 自宅へ足を向ける。4番通りにさしかかる。裕福な家の子らが、連れだって遊びに駆けて行く。きゃっきゃと耳を付く子供の声とすれ違った時、ヴィッシュはふと、彼らを恨めしそうに見つめる別な少年の姿に気付いた。商家の息子。幼いころから店の手伝いに明け暮れ、同年代の連中と遊ぶ暇も与えられない子だ。

 本音では、他の子らと一緒になって駆け回りたかっただろう。だが彼は使いの途中だ。すぐに店に帰らねばならない。そうしなければ親に叱られるから……ではない。両親の店が、彼の働きを必要としているから。そうでなければ商売が立ち行かないからだ。

 ヴィッシュは商家の息子に声をかけた。

「今日もがんばってるな」

 少年がぽかんと口を開けてヴィッシュを見上げる。

「負けるなよ」

 少年は、一文字に口を閉じ、ヴィッシュにぺこりと頭を下げた。そのまま彼は走っていく。子供たちの遊びの輪の中へ、ではない。彼の戦場、彼の仕事場に向かってだ。

 その小さな背中が、陽光を浴びて、まばゆい。

 少し進んだところで、運河を行く船頭の舟歌とすれ違う。曲がり角では、辻占いの婆が恋占いの真っ最中。一枚一枚めくられるカードをはらはらと見守る娘の赤い頬が愛らしい。こなたの道端では、腰を下ろした吟遊詩人が調子っぱずれの歌声を懸命に響かせる。詩人に銅貨を放りながらぱたぱたと家を飛び出すのは、これから出勤の娼婦。その美しさに見惚れた農夫が足を止め、ぽかんと口を開けて、揺れるお尻を目で追いかける。突然主人が荷車引きを手伝ってくれなくなったものだから、ロバは彼を横目に睨み、ぶるんと抗議の声をあげた。

 家に帰りつけば、となりの空き地から鋭い風切り音が聞こえてくる。緋女が日課の素振りに勤しんでいる。大上段の構えから、空間そのものさえ切り裂かんばかりに振り下ろされる白銀の刃。締まる筋肉。弾ける汗。生き生きと(ほとばし)る吐息が、音楽的なまでに好もしく響く。

 再びゆっくりと剣を持ち上げ、長い深呼吸をひとつして、背の筋肉を隆起させながら緋女が声を発した。

「晩メシ、魚だ」

 こちらに背を向けたまま匂いだけでメニューを察するとは、さすがに緋女だ。ヴィッシュは苦笑し、(スズキ)の包みを持ち上げる。

「手伝えよ。職人技を見せてやるぜ」

 剣が唸る。満足のいく太刀筋を得たのか、緋女は上機嫌で振り向いた。うんっ、と元気よく返事するその表情は、乙女の笑顔そのものだった。

 

 

   *

 

 

 まずはムニエル。切り身に塩コショウで下味をつけ、小麦粉をまぶしてバターで焼き上げる。淡白な白身にはバターの濃密な甘みが抜群によく合う。お次は多めの油でカリカリの揚げ焼きに。オリーブオイルとバジルのソースをかけ回せばたまらない風味が出る。仕上げはヴィッシュの独創料理――昆布と乾燥イワシから取ったスープの中に薄切りの魚肉をスッと泳がせ、僅かばかり火を通す。これに醤油のタレをチョンと付け、そのまま口に放り込めば……

「うっ……ま!? あぁーい!? なんだ!? なにこれ!? なんだこれ!?」

「……………。」

 ひとりでお祭り騒ぎする緋女。無言でひたすら喰い続けるカジュ。いい気になって次々に料理を運んでくるヴィッシュ。なにしろ仲間たちの喰いっぷりが()いから、料理人としても作りがいがある。

 季節はすっかり夏。この暑さだからエールがいい。杯に並々と注いでからカジュに頼めば、《冷却》の術で霜が降りるほどに冷やしてくれる。脂の乗った旬の魚に、豪快な泡酒。爽やかな夜風が窓から窓へ吹き抜けていき、ヴィッシュはたまらず、唸り声をあげた。

「うまい。いいぞ、うまくできた」

「ふーん。うまくできない時もあるんだ?」

「毎日作ってりゃ失敗もあるさ」

「まずいって思ったことないけど」

「そうか? ありがとうよ」

「うーん……」

「なんだ?」

「やっぱさあ……あたしも料理、できたほうがいいかなあ……」

 緋女がフォークを口にくわえて、ぴこぴこと上下に振っている。

「まあ、できないよりできたほうがいいだろう。飯を作るってのは生きるために大事なことだ。やらなきゃいけないかどうかはまた別だがな」

「うー。シバさんと同じこと言うー」

「シバさん?」

 カジュに視線を向けるが、彼女も知らない名前と見えて、首を横に振るばかり。緋女は上目遣いに身を乗り出し、小悪魔の微笑みでヴィッシュを見つめる。

「気になる?」

「誰だよ」

「はじめて好きになったひと」

 食卓に、衝撃走る。

「待って正座する。」

「どんなやつだ!?」

「声でけー。」

「んー、年上?」

「何歳。」

「えっと、じゅう、にじゅう……」

 指折り数える緋女。一本指が折られるごとにカジュの眼が丸く広がっていく。ヴィッシュは平静を装いながら、エールをひたすらすすっている。

「五十の次ってなに?」

「ろくじゅう。」

「そのくらい」

「年上好きは筋金入りかよ。」

「優しかったもん。あとね、料理が上手」

「なるほど……。」

「ヴィーッシュ! 怒るなよお」

「怒ってねえよ」

「怒ってんじゃん! お前だっているだろ、そういうひと。はい! ヴィッシュの初恋は?」

「おいおいおい! 馬鹿言え、そんなの誰も興味ないだろ……」

「待ってメモ取る。」

「なんでだよ!! そんな……おい、ほんとに話すのか、これ?」

 息をぴったり合わせて頷く女性ふたり。ヴィッシュは呻きながら後ろを向き、ぼつぼつと語りだす。

「俺は、その……人じゃない。絵なんだ……」

「絵?」

「5歳くらいの頃かな……村に芸人の一座が来てさ。その紙芝居の主人公に……恋をした。

 なんだか面白い物語でな。ある国のお姫様が主人公なんだが、その子は剣の達人なんだ。で、魔王にさらわれた王子様を助けに行く。その戦いぶりがかっこよくて、きれいで、すてきで……

 紙芝居屋に頼み込んで、古くなった絵を一枚、売ってもらったんだ。毎晩その絵を抱いて寝たよ。今はもう、戦争で村ごと焼けてしまったけど……」

 恥ずかしそうに小声で話すヴィッシュに、緋女はきらきらと星空のような視線を向ける。

「ロマンチック……」

「そうかなあ。」

「カワイイ!」

「そうですか。」

「じゃあじゃあ、初めて付き合ったひとは!?」

「俺ェ!? また俺か!?」

「知りたい」

「うーっ……

 昔、シュヴェーアの軍にいたって話はしただろ。その時俺が指揮してた部隊に、メイルグレッドっていう聖職のお嬢様がいて……

 なんだか知らんが、やたら俺の周りについてきてさ……ナダムの馬鹿が『付き合っちゃえー』とか『はやく結婚しろー』とか、もうしつこくってだな……」

「あー。言いそう」

「それで逆に打ち明けづらくなっちゃったんだが……

 実は、みんなには内緒で、既に付き合ってた」

「きた―――――っ。盛り上がって参りましたっ。ねー緋女ちゃん。」

 隣を見上げてカジュがギョッと凍り付く。緋女が膝の上に頬杖をつき、猛獣の眼でヴィッシュを冷ややかに見つめていたのだ。

「今でも好き?」

 問われてヴィッシュは視線を手元へ落とした。酒に口をつけ、目を細め、遠い日の思い出に思いを馳せ、静かにまぶたを閉じる。やがて彼は、ゆっくりと確信をもってうなずいた。

「……ああ。好きだ。ずっと大切に思ってる」

「よし!!」

 破顔した緋女が立ち上がり、ヴィッシュの肩を自分の方へ引っ張り上げるようにして抱き寄せた。カジュがほっと胸をなでおろす。

「ああ。それで正解なんだ。」

「そうだよ。だから好きになったもん」

「ああ、はい、《爆ぜる空》投げますね。」

「おい、俺はもう話したぞ。ずるいぞ。お前もなんかないのか」

「ボクか。あんまり面白い話じゃないよ。」

「あ、嫌なら無理にとは……」

「別に嫌じゃないよ。

 “企業”の学校にいたころね。教育の一環でチームを組まされたクラスメイトが……。

 いや、ともだちが……。

 あー。もういいや。彼氏がいて。」

 ひょい、とカジュはこともなげに肩をすくめる。

()()()()()()()。」

 あまりにもするりと言いのけてしまったから、数秒、ヴィッシュと緋女はカジュの言った意味が理解できず、じっと固まっていた。やがて固い地盤の表面から雨水がじわじわと土中を潤していくように、ふたりはカジュを理解した。ほんとうに? ほんとうに。少なくとも、この気丈で、健気で、誰よりも責任感の強いこの少女と、通じ合えたと確信できる程度には。

 緋女は無言でカジュの小さな身体を包み込み、力いっぱいに抱きしめた。されるがままのカジュが、首を人形みたいに揺らして、緋女の胸に顔を埋める。涙はない。もう泣く必要などない。ヴィッシュが代わりに泣いてくれていたから。

 温もりの中で時はゆったりと流れ、やがて涙も流しきり、ヴィッシュは、ポケットの中の物をテーブルに置いた。

「ずっと考えていたことがある。俺たちには何ができるのか。今、それがようやく形になった気がするよ」

 勇者の遺言が籠められた水晶。そこから迸る閃光が、狩人たちの眼に火をつけた。

「聞いてくれ。

 魔王を倒す策がある」

 

 

(つづく)

 



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第17話-06(終) 旅立つ希望の序曲

 

 

 窓の隙間からまっすぐ差し込む朝日にまぶたをくすぐられ、カジュは猫のように背伸びしながら目覚めた。ベッドの上で身体を起こす。まだ頭が寝ぼけている。いつもとなりで一緒に寝ている緋女の姿は既にない。もう日課のトレーニングに行ってしまったのだろうか。

 寝間着のまま、木製の階段をぺたりぺたりと降りていく。きっと下では、ヴィッシュが朝ごはんの支度をしている。夜更かしが多いカジュはいつも起こされてばかりだったけれど、たまには手伝いのひとつもしようか。彼のことだ、きっと嬉しそうに歓迎してくれる。料理は不慣れだから、卵を焦がしてしまうかも。大丈夫、きっと緋女が笑って平らげてくれる。

 楽しい想像の中に遊びながら、寝ぼけ(まなこ)をこすり、カジュは、ひょいと階段下の居間を覗いた。

「おはよー。」

 静寂のみが、それに応えた。

 薄暗い、からっぽの部屋。夜の間に冷え切った寝椅子。定規で線を引いたようにまっすぐ注ぐ陽光の中で、ゆっくりと流れていく白い埃。飲み水の壺の、ふたの裏にたまった露が、また壺に戻ってぴちゃりと声を上げる。息を吸い、息を吐けば、その微かな音さえもが哀歌のように家中に響く。

 カジュは左右の腰に拳をあてて、ふん、と勢いよく鼻息を吹いた。

 

 

   *

 

 

 第2ベンズバレンから少し離れた丘の上に、一匹の赤犬の姿があった。彼女は夜明け前に街を抜け出し、街道を北へひた走ってきたのだ。だがこの丘の上に上り詰めたところで、何か後ろ髪を――いや、尻尾を引かれる思いがして、背後を一度だけ振り向いた。遠くに第2ベンズバレンの巨大な城壁が見える。あの壁の向こう、ここからでは見えないどこかに、きっと、彼女の大切なひとがいる。

 赤犬はその場に尻を降ろし、長い舌を口の中へきちんとしまって、鼻先を天高く突き上げ、遠吠えした。涙を誘う歌声が、初夏の野原に響き渡った。この声が、仲間たちに届いたろうか。ちょっと期待できない。人間たちは、なにしろ耳が遠いから。

 でも、きっと心は、届いている。

 ――ばいばい! あたし、行くね!

 緋女は再び立ち上がり、燎原の火の如く駆けだした。

 なすべきことが、目指すべきところが、きっとこの道の先にあるから。

 

 

   *

 

 

「すみませんでした。私も……動転していました」

 港まで見送りに来たコバヤシが、珍しく心からの謝罪を口にした。ヴィッシュはそれを笑い飛ばし、荷物を肩に背負い直す。コバヤシらしくないというか、なんというか。こちらは、何のことを謝っているのかさえ、始めは分からなかったくらいだというのに。

「すまないのはこっちも同じだ。この非常時にやる気をなくしてちゃ、情けないって思われて当然だよな」

「ですがこんなつもりで言ったわけではなかった。本当にいいんですか? “勇者の剣”を使えば、ヴィッシュさんの身体は……」

「なしにしようぜ、湿っぽいのは。それより後のことを頼む」

 コバヤシが力強く頷く。その頼もしさが、ヴィッシュの中に最後まで残っていた躊躇いを押し流してくれた。

 

 

   *

 

 

 小麦の粉を水で溶き、岩塩をほんのひとかけ、ナイフで削り入れる。かまどの灰の中から火種を掘り起こし、少しばかりの炭を足して、火の準備は完了。身長が足りないので、かまどの前に踏み台を持ってきて飛び乗る。フライパンを熱し、油を馴染ませ、小麦粉のタネを流し込む。いい加減に焼けたところで皿に移し、今度は戸棚からビン詰めの漬物や肉を取り出し、さきほどの生地で巻いていく。今日はぜいたくに、半熟の目玉焼きも一緒に巻き込んでしまおう。

 ヴィッシュがよく作ってくれた朝ごはん、その見よう見まねだ。ひとりで作り、ひとりで水のカップと皿を並べ、ひとりで食卓につき、ひとりで感謝の祈りを唱える。

「いただきまーす。」

 豪快に手づかみでガブリ。

 ――うーん。

 何か一味、足りない気がする。というかまあ、端的に言って、まずい。ヴィッシュが作ってくれたものは、感動するほど美味しいというわけではなかったけれど、いくらでも食べられた。今の今までそれがあたりまえだと思っていた。それを同じように再現してみたつもりだけれど、どこか少し違うらしい。

 ――やっぱりすごいんだなあ、職人技は。

 手ずからやってみて初めて分かる、“あたりまえ”の凄味であった。

「ごちそうさまでした。」

 とにかく栄養を腹の中に突っ込んでしまい、カジュはてきぱきと後片付けにとりかかった。洗い物を済ませ、フライパンを壁の釘に吊るし、火の元に水をかけて念入りに消火する。壺の中に余った飲み水は裏の運河に流してしまう。食材の棚を確認すると、保存食がいくらか。少し考えた後、カジュはそれを抱えて隣の家に持って行った。

「よかったら食べてください。腐らせてももったいないんで。」

 隣家のよく太った中年女性は、怪訝そうに眉を寄せた。

「出かけるのかい? そんなに長く?」

「仕事っす。」

 カジュはぺこりとお辞儀して駆け戻った。

 家じゅうの戸締りを確認し、フィールドワーク用の服に着替える。勉強机の上に重ねたままの書きかけの論文は、とりあえず束にして書類箱へ突っ込んだ。最低限の荷物を詰め込んだ背嚢(ランドセル)を背負い、2m以上もある本気勝負用の長杖を手に取り、全てをきっちりと片付けたうえで、カジュは玄関のドアノブに手をかけた。

 なにか超自然的なものに、呼び止められた気がした。

 振り返れば、いつもと変わらぬ居間の光景がそこにある。

 たくさんの時間を、ここで過ごした。

 ヴィッシュの夜食をつまみ食いして叱られた。

 夜中に喉が渇いたら、台所にはいつも清潔な水が用意してあった。

 あの机で勉強をした。

 行儀悪くも階段に腰かけ、時間を忘れて読書に(ふけ)った。

 荷物棚の一番上の巻物に手が届かなくて、ヴィッシュに取ってもらってムカついた。

 冬にはあの壁際のストーブの前に、きまって緋女が寝そべっていて、挨拶すると、尻尾をひとふりして愛想を返してくれた。

 身の上話をした。

 作戦会議もした。

 緋女とふたりでくすぐり合戦して。

 ヴィッシュがプリンを作ってくれて。

 毎朝ここに集まって、“おはよう”の言葉を交換しあった……

 一年分の暮らしと愛着。その全てを、我が家という宝石箱にそうっとしまい込み、カジュは外からドアを閉めた。

 錠の降りる乾いた音が、まるで見送りの挨拶のよう。

 せいいっぱいに胸をはり、カジュは今、日常に別れを告げる。

「行ってきます。」

 

 

   *

 

 

 街道や航路が物流の線なら、港はその結び目である。船に荷車に馬車に人夫、複雑に絡まり合った人と物の流れは、放っておけばたびたび衝突し、もつれを生じる。ゆえに港湾には多種多様な任務が要求される。船を操り、荷を運ぶばかりが仕事ではない。毎日山のように押し寄せる手続き書類を捌いていくのも仕事なら、樽のひとつひとつに荷札を貼っていくのも大事な仕事。

 混沌の中に渦巻くそれらの業務を淀みなく進行させるためには、角笛(ホルン)の音色が欠かせない。角笛(ホルン)吹きは港湾区の要所要所に配され、出航と入港の許可を海上の船に知らせる重大な役目を担っている。もし彼らが多彩なメロディを吹き分けることができなければ、港はたちまち大渋滞を起こし、物流がぴたりと止まってしまう。それどころか、衝突事故が起きれば人の生死にすら関わりかねないのだ。

 その責任の重さを誰よりも深く理解しているのが、角笛(ホルン)吹き見習いの少年ロトであった。少年は海際の(やぐら)の上に立ち、最前から懸命に唇を震わせていたが、角笛(ホルン)はかすれた音を立てるばかりで、ちっとも歌声を聞かせてくれない。

 少年は目に涙を浮かべ、後ろを振り向いた。しかし師匠は厳しい視線を少年に返すのみ。鼻の頭と目元以外をぜんぶ髭の中に埋め込んでしまったような師匠だから、表情を読もうにも読むところがない。ただ、矢じりさながらの眼光が、少年にじっと突き付けられているだけなのだ。

「師匠……やっぱり、おれ、無理ですよう……」

「あれほど練習しただろうが」

「あと半年は練習あるのみって言ったじゃないですか。どうしていきなり……」

 師匠は何も言わない。

 角笛(ホルン)は、難しい。楽器それ自体は単なる丸い管でしかなく、音は唇を震わせて出す。音階を調整する機能なども一切ないから、メロディを奏でるには、唇の震動の具合や息遣いを微妙に変えてやるしかないのだ。いっぱしの奏者になるには長い修練が必要とされる。それゆえ港湾の角笛(ホルン)吹きは子供を弟子に取り、幼いうちから少しずつ仕込んでいくのが普通であった。

 少年自身が泣き言を言った通り、彼はまだようやく音階らしきものを吹き分けられるようになったばかりで、複雑な曲を演奏できる段階にはない。そんなことは師匠とて百も承知のはずだ。

 なのに師は、どうして突然、未熟な少年に()()()()を任せたのか。それには今の情勢が大きく関係していたが、師の厳しさしか知らない少年には、その心が分からなかった。

「できると思ったから、やらせるまでだ」

 師匠は岩山が身じろぎするようにして唸った。

「さあ、もう一度だ」

「でも……」

「お(めえ)、名が泣くぞ。おかあさんが付けてくれたんだろう、異界の英雄の名をよ。ええ……お(めえ)、つよい男だろう。

 思い切ってやってみろ。おれがここで見ているぞ」

 少年は、唇を一文字に結び、再び海と向かい合った。

 角笛(ホルン)を握りしめ、口へ運ぶ。怖気と気後れを、胸の奥から湧き出す若々しい勇気によって払いのけ、少年は胸の中にたっぷりと息を吸い込み、吹いた。力いっぱいに唇を震わせた。

 音色が、高らかに響き渡った。

 少年は奏でた。力強いファンファーレを。何千回も、何万回も、この時のために修練を重ねた、あの由緒あるメロディを、今、少年の角笛が歌い上げたのだ。

 ――できた。

 自分の成し遂げたことが信じられず、少年は茫然と立ち尽くす。その少年のかたわらで、出航許可を得た港の船が動き出した。船が動いた――合図が伝わったのだ。その事実が、これは夢ではないと少年に教えてくれた。弾かれたように振り返る。背後でしっかりと見守っていてくれた師匠が、髭もじゃの顔の前に、ビッと親指を立てて見せた。

 少年はうなずいた。再び角笛(ホルン)に口をつけた。やるべきことは、もう分かっていた。

 

 

 角笛(ホルン)の歌声が躍動し、空と海とのはざまを満たす。

 少年は知らない。自分の演奏が、船の上のある旅人を、大いに励ましていたことを。

 その男は甲板の隅で丸くうずくまっていたが、どこか耳懐かしい音色を聞いて、ゆっくりとその場に立ち上がった。

 揺れる船から母なる港を顧みる。第2ベンズバレンの街並みから、幾筋も立ち昇る炊事の煙。海原の果てまで届かんばかりに響き渡る人々の声。今日も30万の人々が、歩き、休み、また立ち上がり、時には争い、時には愛し、情熱と知恵と肉体のるつぼの中で、確かな体温をもって息づいている。

 ――今なら分かる気がする。なぜ勇者が、俺を守ってくれたのか。

 しっかと固めた拳の内に勇者の記憶の結晶を握りしめ、旅人は第二の故郷へ背を向ける。

 ――それを守るために、俺も行くよ。

 

 彼は勇者になれなかった男。

 だが、これからもなれぬと誰に言えよう。

 

 旅人が今、海原を()く。

 その背を見送り讃えるは、幾多の英雄を鼓舞した音色。

 旅立つ希望の序曲(オーヴァチュア)

 

 

 

 

 「勇者の後始末人」

 第17話 “旅立つ希望の序曲(オーヴァチュア)

 Overture:Revival of the Wish

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 春の嵐吹き荒れる夜、ヴィッシュを訪れる懐かしい顔。見る影もなく豹変した後輩のありさまに彼は強く動揺する。時を同じくして闇の中に蠢き始める奇怪な敵。絶え間なく襲い来る苦痛と絶望。どうにもならぬ執着の果て、若き狩人はいかなる道を択ぶのか?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第14.5話 “一矢一途に”

 Only You

 

 乞う、ご期待。

 

 

(注)

・次回更新日は8/1(土)の予定です。

・次のお話は、第14話と第15話の間に挟まる独立した短編エピソードです。メインストーリーの続きとなる第18話は、次々回から再開の予定です。今しばらくお待ちください。

 



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第14.5話 “一矢一途に”
第14.5話-01 春の嵐


 

 

 ひどい雨の夜のことだった。

 分厚い雲に遮られ月の光も届かぬ街を、大粒の雨が洗っていく。細い石畳の路地を、頼りない蝋燭の灯りがひとつ、ゆらり、ゆらり、不安定に揺れながら近付いてくる。やがてぼんやりと浮かび上がってきたのは、死人のように無表情な旅人の顔。ひょろりと蟷螂(かまきり)めいて背が高く、手には軋むほどに強く弦を張った弓を握り、もう一方の手には防水提灯(ランタン)を不気味にぶら提げている……

 と、不意に旅人が脚を止め、提灯(ランタン)を足元へ()えた。

 矢筒から一矢を引き抜き、そっと弓につがえ、口を開いて息を吸う。一息ごとに緊張は高まり、高まるごとに呼吸が荒れていく。不思議なことに、荒れれば荒れるほど、乱れれば乱れるほど、かえって意識が弓矢と的とに集中していく。

 ()

 彼は瞼をくわと引き剥き、雨だれの黒空を凝視した。()()()。灯りは足元の提灯(ランタン)ひとつきりで、伸ばした腕の先さえ黒い影としか捉えられないこの闇夜に、しかし彼は獲物を()()。四肢がしなやかに伸びあがる。弦が力強く引き絞られる。血走った目が獣ごとく敵を威迫し、矢が咆哮とともに放たれる。

 直後、甲高い悲鳴が雨音の奥から湧き上がった。空中の獲物が落下する、湿った激突音が聞こえる。旅人は提灯(ランタン)を取り上げ、またゆらりゆらりと獲物に歩み寄っていく。

 照らし出された死骸は、奇妙な怪物のそれだった。一見して人間の女のようではあるが、全身は青黒く半透明の――クラゲに似た質感。全身を幾重にも覆う(ひだ)は豪奢なドレスのようにも見える。そして本来手足があるべき場所には、腸のように波打つ細い触手が、一束ずつぐったりと垂れ下がっているのだ。

「近づいている……やっぱり第2に戻ってるのかい」

 (ひざまず)いた旅人が、死んだ獲物の耳元に口を寄せ囁いた。憎い敵に向けるような声色ではない。むしろ心から愛する誰かに、愛の言葉を贈るかのような。切なく、温かく、悲しく澄んだ声だった。

「きっと僕が仕留めるからね。ただ、この一矢で」

 しかし、降りやまぬ雨の夜のこと。

 街を打つ雨音に飲み込まれ、彼の言葉は誰にも届かぬまま、消えた。

 

 

   *

 

 

 こうして自宅の居間に籠っていると、木窓を叩く雨だれが胸を打つ哀歌のようだ。その重厚なリズムに乗せて、冷たく忍び込む隙間風がランプの灯りを踊らせる。気ままに揺れ動く光ばかりを頼りに、ヴィッシュたちは居間の机を思い思いに囲み、明日の仕事の段取りを打ち合わせている。

「……なので、最初は谷の西側尾根からだ。グルッと回り込んで追い詰める。質問は?」

「ん。」

「ないでーす」

「以上だ。雨が止んだら出発だな」

 ヴィッシュは地図を丸めて荷物にしまい、緋女は寝椅子から立ち上がって大きく背伸び。

「んじゃ先に寝るね。おやすみー」

「おう。おやすみ」

「雨、止むかなあ」

「降った雨が止まなかったことは歴史上一度もありません。」

「わかんねえぞ、史上初かもよー?」

「む。一理あるな……。」

「あるかよ」

 苦笑するヴィッシュを残し、他愛もない言葉を交わしながら3階(うえ)の寝室へ上がっていく緋女とカジュ。階段の軋む音が遠ざかって聞こえなくなり、ひとりになったヴィッシュは、寝椅子へ横に座って脚を投げ出した。だらしなく背中を壁に預け、不精にも座ったまま指を伸ばして酒瓶と杯を引き寄せ、舐めるようにしてのんびりと、呑む。

 心に染み入る雨音。街のどこかを吹き抜ける風の唸り。お気に入りの酒と、ひとりきりの気楽な夜。風雨が彼を包み込み、世間の喧噪から切り離してくれているかのよう。

 ――春の嵐、か……

 えも言われぬ(おもむき)に、ヴィッシュは感じ入って溜息を吐いた。

 と、その時だった。外から扉をノックする音が、無粋に彼を呼び立てた。こんな夜更けに来客とは。コバヤシが大至急の仕事でも持ってきたか? 杯を片手にぶら提げたまま扉に寄って行き、片腕で壁に寄り掛かりながらぞんざいに誰何する。

「どちらさま?」

「ヴィッシュさん……僕、ドックスです……」

 扉越しに聞こえる、くぐもった男の声。ヴィッシュは驚きに目を見開き、大慌てで鍵を開けた。扉を押し開ければ、外の激しい雨音が家の中へ雪崩れ込んでくる。冷風が刃のようにして襲い掛かってくる。

 大雨に長いこと襲われ続け、雨具の裏まで雨水が染みて、ずぶ濡れに濡れた旅人がひとり、戸口に寂しげに立っていた。

 ヴィッシュは息を飲んだ。この男の顔に見覚えがあったのだ。無残にやつれ果て、かつての若々しく溌剌とした姿は見る影もないが、この糸のように細い目と、その奥に確かに灯る意志の輝きは、昔とちっとも変わっていない。

 男の名はドックスという。かつてこの第2ベンズバレンで働いていた後始末人のひとりである。

「お久しぶりです、ヴィッシュさん」

「無事……だったのか……! まあ入れよ、こんなに濡れちまって」

「いえ、ここで……」

「遠慮するこたぁない」

「いいんです。一言お礼を言いに来ただけなので」

 礼。礼だと。ヴィッシュに罪の意識が湧き上がる。ドックスには恨まれる覚えこそあれ、礼を言われるようなことなどありはしないのに。

「色々ありがとうございました。ヴィッシュさんがいなければ、()()とも出会えなかった。命だってなかったかも」

「大げさだよ。でも……面白かったな、あの時は」

「ええ。本当に」

 しばらく会わないうちに、どんな苦労を重ねてきたのだろうか。元々表情豊かな方ではなかったが、今やドックスの顔面は岩のように凝り固まり、笑顔を作ることさえ苦しげに見える。

「それじゃ僕はこれで。夜分にすいませんでした」

 早口に別れを告げると、止める暇もなくドックスは雨の中に走り出した。ヴィッシュは慌てて外へ半身を突き出し、深夜であることも構わず声を張り上げる。この激しい雨の中だ、叫ぶくらいでなければ届くまい。

「おい! またこの街に住むんだろ? 仕事、回すからな! また来いよ!」

 ドックスが雨の中に立ち止まる。

 振り返り、無言で小さく礼を返してくれはしたものの、それっきり。再び走り出した彼は、そのまま夜の中へ消えてしまった。

 それをヴィッシュは、茫然と見送ることしかできない――

「今の誰?」

 と怪訝に声をかけたのは、水を飲みに階段を下りてきた寝間着姿の緋女。我に返ったヴィッシュは閉めた扉を見つめながら、低く呟くように答える。

「まえの狩人仲間だ。この街を去って、もう3年になるか……」

 不意にヴィッシュは顔を上げ、出かける支度(したく)をはじめた。剣を腰に差し、雨具をしっかりと着込み、防水の靴に履き替える。水を飲み干した緋女が、片方の眉を跳ね上げる。

「仕事?」

「いや。ただ胸騒ぎがするんだ……寝ててくれていい、鍵は持って出るから」

 ヴィッシュが家を出たのと入れ替わりに、カジュが顔に保湿の軟膏を塗りながら降りてきた。

「なにかあったの。」

「なんか、嫌な思い出があるみたい」

 緋女は洗い物の桶にちゃぽんと陶器のカップを沈め、不満そうに唇を尖らせる。

「辛いことはすぐ隠そうとするんだから」

 

 

 雨の夜をヴィッシュは走る。

 アテはあってないようなもの。ドックスが街を去ってからの僅か3年で人口は倍近くに膨れ上がり、街並みもすっかり様変わりした。ドックスも戸惑っているだろう。馴染みの場所も大して残ってはいまい。なら彼はどこへ向かうだろう。なぜ急にヴィッシュを訪れたのだろう。そしてあの追い詰められた気配はなんなのか……

 思えば、ドックスは昔から思いつめる性質(たち)だった。それが彼のおかしみでもあり、親しみやすいところでもあった。だが、今は、それが不安ばかりを掻き立てる。

 ヴィッシュの脳裏にドックスとの思い出が蘇ってくる。そう、あれはもう5年も昔。緋女やカジュと出会うより、ずっと前のことだった――

 

 

   *

 

 

「ドックスが病気?」

 ある昼下がり、ヴィッシュの独り住まいをコバヤシが訪れ、狩人ドックスの不調を伝えた。

 ドックスは当時ようやく18歳になったばかりの若者だった。ヴィッシュもかなり長身のほうだが、ドックスはそれよりさらに頭半分ばかりも背が高く、体つきが細いこともあって随分(ずいぶん)ひょろりとして見えた。口数少なく、性格は控えめ。いつも糸のように細い目をして、人の輪の片隅に添え物のように立ち、笑っているのか、困っているのか、曖昧な表情ばかり浮かべて場を取り繕っているような男だった。

 ところが、そんな煮え切らないドックスが、弓矢を取らせれば天下一品だった。動いている的にも十中の八、九は当てるという凄腕で、この街はおろか国中探しても並ぶ者はないと言われるほど。

 ヴィッシュも彼の腕前を高く評価し、難しい仕事で幾度か手助けを頼んだことがある。他人とつるむことを極端に嫌がっていたこの当時のヴィッシュには珍しいことだ。余計なことを喋らず人の懐に決して突っ込まないドックスの淡白さが、人付き合いを拒絶するヴィッシュにはむしろ好ましかったのだろう。

 このように知らぬ仲というわけでもなかったはずだが、ヴィッシュは彼の病状を聞いても、仮面のように表情を強張らせたままだった。寝椅子に足を投げ出し、壁にだらりと背中を預け、無関心を装って煙草をふかした。そして煙交じりに冷たい言葉を吐き捨てた。

「俺は医者じゃねえ。モンド先生のとこでも行くんだな」

「それがもう(さじ)を投げられた後でして」

「なおさら俺の仕事じゃねえ」

「気の病だというんですよ」

 拒絶の気配を強引に押し退けて、コバヤシが彼の向かいに座る。ヴィッシュは舌打ちして背を向ける。かまわずコバヤシは話をつづけた。たとえそっぽを向いていようと耳に入ったことはしっかり聞いている、ヴィッシュはそういう男だと、コバヤシはちゃんと心得ていた。

「何人もの医者に診てもらったのですが、みな口を揃えて言うことには、身体はどこも悪くないと。ですが事実としてドックス君は呼吸も荒く、食も細り、ベッドから起き上がることもできなくなった。

 これはどうやら心を病んでいる。何か深く思い悩んでることがあるのだろうと、そういうわけでして」

「だから俺に何の関係が……!」

「本人に尋ねてみたんですよ。悩みがあるなら言ってくれ、私たちでできることならなんでもするから、と。しかしどうしても話してくれない。誰にも言えない。ところが、彼がぽつりと漏らしたんです。ヴィッシュさんになら話してもいいと」

「俺ェ?」

「何度か仕事で一緒になったでしょ。よく面倒見てたそうじゃないですか。慕われてるんですよ、ヴィッシュさん」

「馬鹿言うな……」

「話を聞いてやってくれませんかね」

 しばし、無言。

 やがてヴィッシュは喉に物の詰まったような声で答えを返した。

「……俺の知ったことかよ」

「そうですか……」

 聞えよがしの溜息とともにコバヤシが立ち上がる。沈んだ挨拶を残して彼が去り、静まり返った我が家にヴィッシュひとりが取り残された。表でチィチィ啼く小鳥の声が木窓の隙間から()れ込んでくる。定規で線を引いたように伸びる陽光の中で埃がゆっくりと舞っている。

「くそぉっ」

 吸いかけの煙草を灰皿で揉み消して、ヴィッシュはやけくそ気味に立ち上がった。

 

 

   *

 

 

 第2ベンズバレン東教区6番通りの界隈と言えば、下町気質で知られたところだ。大通りからは少し距離があり港湾区からも随分遠いこのあたりは、地価も店賃も割合に安く、土むき出しの路地の両側に平屋建ての集合住宅がずらりと並んでいる。金のない若者や外国からの移住者がたむろし、そうした客が目当ての安くて怪しげな露店がそこかしこに(むしろ)を広げ、一度通りを行き過ぎる間に三度は喧嘩と出くわすという、荒っぽくも元気に溢れた街である。

 その一角にドックスの住まいはあった。ノックしたヴィッシュを迎え入れたのは若き狩人2人。金のない彼らは1軒の借家を3人で借り、部屋を共有して暮らしているのだ。と言葉で言うのは容易いが、実際にはよほど気の合う仲間でなければできることではない。それだけに病気の友を心配すること一方(ひとかた)ならぬものがあろう。それが証拠に狩人たちの顔には重苦しい不安の色が浮かんでいたが、ヴィッシュの顔を見るなり、そこに一筋の明るさが差し込んだ。

「ヴィッシュさん! 来てくれたんすね」

「ドックスの具合はどうなんだ?」

「全然だめで……今日はもう一口も食べません」

 奥の部屋に通されたヴィッシュが見たものは、ベッドの上に死体のように横たわり、虚ろな目で天井を見上げるばかりの狩人ドックスの姿。身体は痛々しくやせ細り、もともと乏しい覇気が完全に消え失せ、一気に10も20も歳をとったかに見える。ドアを閉めてふたりきりになり、ヴィッシュはベッドの横の椅子にそっと腰を下ろした。

「よう。辛そうだな、ドックス」

 ドックスの眼がのろのろと動き、ヴィッシュを捉えた。目尻に涙が浮かび、痩せた体を震わせて起き上がろうとする。ヴィッシュは彼の肩に手を添えて、いいから、と囁きながら再び寝かせてやった。

「話は聞いたよ。俺でよければ話してみてくれ。役に立てるかどうかは分からないが……」

「ヴィッシュさん、僕は……僕は……!」

「何も泣くこたぁないよ。困ったときはお互い様だ。象獅子(ベヒモス)狩りの時には随分助けてくれたじゃないか、な……遠慮せずに言ってくれ、一体何を悩んでるんだ」

「笑わないで聞いてくれますか?」

「ああ。笑わないよ」

「きっと聞いたら笑われると思うんです。僕が聞くほうだったとしてもきっと笑うから……でもヴィッシュさんなら、ちゃんと聞いてくれると思って」

「約束するよ、笑わない」

「実は僕……」

 ドックスが震える指でヴィッシュの手を握る。

「僕、恋しちゃったんですっ!!」

 ヴィッシュの顔が固まった。

「……こい? っていうとその……ラブ?」

 ドックスの眼は真剣そのもの。

「ラブです!!」

 

 

(つづく)



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第14.5話-02 約束

 

 

 ドックスが語ったところはこうである。

 10日ほど前のこと。仕事を終えて街に戻った彼は、若い乙女が悪漢に絡まれているところに遭遇した。女性は年のころは17、8。鮮やかな花模様の縫い込まれたドレスに身を包み、小さな丸顔にくりくりと木の実のような目をした、なんとも愛らしいひとであった。それが3人の水夫風の男に囲まれ、裏路地の壁際に追い込まれていたのだ。

 それを見た途端、かあっとドックスの頭に血が上った。物静かな彼にはかつてないことであった。助けなければならない! あの女性(ひと)を傷つけさせてはならない! ドックスは夢中で悪漢たちに立ち向かった。とはいえ刃物を持った敵が3人では分が悪い。そこで出会い頭に相手の小手先をスパッと浅く切り、動じている隙に乙女の手を引いて走って逃げた。無論敵も追ってきたが、そこは各地の港を渡り歩く水夫と、道を知り尽くした地元の狩人。地の利を生かして見事逃げおおせた。

 さあ、その後だ。ここまで逃げればもう安心、と立ち止まって振り返れば、慣れぬ逃走で息の上がった乙女が、ぽうっと上気して頬を染め、潤んだ目でしっとりとドックスを見つめている。握った手の中で彼女の指がもじもじ動き、その爪の先がドックスの手のひらを言いようもなく心地よくくすぐるのだ。

「あの……」

 と乙女が声を挙げるので、ドックスは思わず手を放して後ずさった。

「わっ、うわっ、何も言わないで! 心臓が止まりそう」

「でも、あの、お礼を……」

「いいんですっ! お礼とかその……当然の……あの、あれを……」

「せめてお名前を……」

「なま。なまえ!? 名前とか……ないです!」

「ないってことはないでしょう」

「それはまあ、そうですけれども、あの……さよなら、さよなら、さよなら!」

 で、脱兎の如く逃げ出して、それっきり。

 一目惚れしたその乙女。もう一度会いたいと願っても、どこの誰とも分からない。会いたい、会えない、会いたい、会えない、会えないならばいっそ死んでしまいたい。思いつめたドックスは食も細り、身体に力も入らなくなり、寝込んでしまって今に至る……と、そういうわけなのだった。

 ヴィッシュは頭を抱えた。

「そのとき名前聞いとけば済んだ話じゃねーか!」

「だって……こんな気持ち初めてで! どうしていいか分かんなかったんですよう……」

 しくしくと乙女のように泣き始めるドックス。その気持ちも分かるだけに、ヴィッシュはそれ以上何も言えなかった。

 齢18での初恋だ。色恋に不慣れなうちは、好きな女性のそばにいたって何をしていいか分からない。もっと近づきたい、気持ちを打ち明けたい、抱きしめて口づけしたいと思っても、嫌われたらどうしようか、気持ち悪がられたらどうしようかと不安ばかりが心に募る。挙句の果てに好きなはずの相手を恐れ、とにかく逃げ出して安心を得ようとしてしまう――ヴィッシュだって昔はそうだった。

 ヴィッシュはドックスをなだめ、寝かしつけてやると、その足でコバヤシの経営する酒屋を訪れた。

 事情を聴くなりコバヤシは爆笑した。

「なあんだ! 恋患(こいわずら)い、なるほど、そういうことでしたか! あはははは」

「笑いごとか。当人は死ぬ気で悩んでんだぞ」

「いや、これは失礼。確かにそうですね。ですがそれなら話は早い。その女性を探して引き合わせてあげれば解決ですよ」

「簡単に言うな! 第2ベンズバレンの人口も今年でついに15万人、その中からたったひとりの女を探そうだなんて……」

「ふーむ。何かいい知恵はありませんかね」

「まずドックスがその女に出会った場所が羽毛通りの入口あたり。花柄刺繍のドレスって身なりからして裕福な家の娘だが、本格的なお嬢様なら侍女のひとりも連れているはず」

「ということは……?」

「繊維品貿易でにわかに儲けた布商人あたりが一番ありそうだ。ちょうど明日が布市だから行ってみるさ。まったく余計な仕事を増やしやがって。なんで俺なんか指名するかね、ドックスのやつは!」

 ぶつぶつ言いながらヴィッシュは去って行った。その背中を見送り、コバヤシは苦笑する。

「そうやって親身になってくれるから、ですよ」

 

 

   *

 

 

 勇者の後始末人ヴィッシュと言えば、このころにはもう手練れの狩人として仲間内で一目置かれる存在になっていた。とりわけ限られた情報から獲物を追い詰める手腕には定評があった。そのヴィッシュが本気で探索にかかったのだ。別に隠れようとしているわけでもない女性ひとり、探し出すのはわけもないことだった。

 2日ほどで彼はあっさりとドックスの想い人を見つけ出した。彼女の名はスエニといい、推理したとおり羽毛通りに店を持つ織物商の次女であった。驚いたことに、ヴィッシュが織物商を訪ねてみると、娘は気鬱の病で寝込んでいるところだという。というのも、街中で危ない目に遭ったとき颯爽と助けてくれた若き()()()に恋してしまい、居所も名前も分からない相手を思い思って思いつめ、いっそ死んでしまいたいとまで言い出したのだという。

 なんとも気の合う話である。

 こうなると気を揉むのもあほらしい。似た者同士相性もぴったり。もうさっさとやっつけてしまえ、というわけで、その日のうちに婚約成立。ヴィッシュがぶつくさ文句垂れながら宴の準備やら神官の手配やらに駆け回り、ほんの数日でふたりを夫婦にしてしまった。

 急展開に頭が追い付かないのは新郎新婦当人である。妻スエニの父親が小ぢんまりとした感じのいい新居を用意してくれ、部屋には友人知人からどっさり贈られた祝いの品が山となった。その中心のベッドの上にふたり並んでなぜか正座し、ポカンとばかみたいに口を開けたまま壁を見つめる新婚初夜。

「結婚……しちゃった」

「しちゃいました……ね」

「えー!?」

「わー!?」

「これホントですかー!?」

「ホントみたいです、どうしましょう!?」

「結婚って、前にもっとこう……」

「色々あると思ってました……」

「運河の脇に腰かけて一緒にお弁当食べたりとか……」

「広場にお芝居見に行ったりとか……」

「詩を贈りあったりとか……」

「手を握ってお祭りを巡ったりとか……」

「ですよね!」

「気が合いますね!」

 と興奮して互いに視線を向ければ、相手の顔は目と鼻の先。ひとつ寝床にふたりで居れば、肌すり合うほどに接近するのは当然の道理。ところがあまりに恋人の顔が近いものだから、ふたりはそろって恐れおののき、悲鳴を上げて倒れてしまう。

「あの……スエニさん、でしたよね」

「そういうあなたは、確かドックスさん」

「こうなったからには、ひとつ覚悟を決めましょう」

「そうしましょう。どうぞ、スエニって呼び捨てにしてください」

「僕のこともドックスで。それに“ですます”もやめませんか」

「いい考えだと思います」

 ふたりは寝返り打って見つめ合い、そっと手を握り合わせた。

「よし! 頑張って一緒に()()()()()()、スエニ!」

「うん! これからよろしくね、ドックス!」

「お弁当とか、芝居見物とかは……」

「これからやればいいんだ!」

 こうして打ち解けてしまえば、あとは若いふたりのこと。情熱は炎のように燃え盛る。

 詳しいことはちょっとここには書けないが、あまりの仲睦まじさに苦笑いするヴィッシュや友人たちの表情を見れば、おおよそのところは推し量れようというものだ。

 

 

   *

 

 

 しかし、天は無情、世は無常。

 幸せは長く続かなかった。結婚から一年も経たないうちに、妻スエニが病に倒れたのだ。医師モンドの診立(みた)てによれば子宮に腫瘍ができる極めて難しい病気で、今の医術では手の打ちようがないという。

 悲報は狩人仲間の間を突風のように駆け抜けた。つい昨年街中の狩人が集まって結婚の宴でバカ騒ぎしたばかりだというのに。ヴィッシュも含め、突然の不幸に衝撃を受けない者はなかった。他人事であってすらそうなのだ。まして夫であるドックスの抱える哀しみは、どれほどのものであっただろうか。

 ドックスは駆け回った。

 街中から医者という医者を引きずってきて、妻を診察させた。そればかりか術士、呪い士、教導院の神父、街角の占い師、果ては森に住む怪しげな魔女にまで泣きついた。あらゆる手段が講じられ、そして、なんの成果も得なかった。

 日に日に痩せ衰えていく妻を、ドックスは、見ていることしかできなかった……

「帰ってくれ! 役立たず! 何が王都の名医だ……帰れ!」

 最後の希望として呼び寄せた王都の医者も、結局首を横に振るだけだった。ドックスは声を荒げて医者を追いだした。普段そんな口を利く男ではなかったのに、まるで人が変わったようであった。

 ふらつきながら妻の病床の脇に戻り、ひざまずいて彼女の手を握る。妻が残る力を振り絞るようにしてこちらへ首を向ける。満開の花のようだった丸顔はやせ細ってしまっていたが、木の実のように大きくつぶらな目は元気なころのまま。それがかえって彼女の衰弱ぶりを浮き彫りにしてしまい、たまらずドックスは悲哀に顔を歪める。

 スエニは細く口を開く。ドックスが耳を寄せると、彼女は消え入りそうな声で囁いた。

「ね、ドックス……」

「うん、なんだい」

「私、あなたの仕事、見たことなかったね」

「だって魔物狩りは危ないもの。きみが傷ついたら嫌だよ、僕は」

「もう一度見てみたいなあ。あなたのかっこいいところ」

 スエニがしきりにそう願うので、ドックスは彼女を抱き上げて家の裏庭に座らせ、背の後ろにクッションを10も20も重ねて支えてやり、自分は狩り道具の弓矢を取ってきた。小さな裏庭の端に立っていた木の幹に的の板を括り付け、庭の反対側の端から――射貫く。

 矢が軽快な風切り音を立てたのも束の間、的は真ん中から真っ二つに割れ、あとには幹に食い込んだ矢のみが残る。ドックスが妻を見やると、妻は、ぽうっと上気して頬を染め、潤んだ目でしっとりとドックスを見つめていた。

「私も撃ってみたい。教えて?」

「そんな無茶な」

「無理かなあ」

「……じゃあ、こうしよう」

 ドックスは半分に割れた的の一方を拾い上げ、妻の正面、ほんの数歩のところの石に立てかけた。それから妻の後ろに回り、後ろから彼女を抱くようにして、座ったまま弓を握らせる。妻の手に自分の手を添えたまま、いっしょに弦を引き絞る。

 ふたりで放った矢は、見事に的に突き立ち、石に当たって跳ね飛んだ。それを見たスエニが、嬉しそうにきゃっと声を挙げる。

「あたった!」

「あたったね! 筋がいいよ」

「練習したら、ひとりでできるようになるかなあ?」

 ドックスは言葉に詰まる。

「そしたら、あなたと一緒に働けるかなあ」

 たまらない。もうたまらない……

 ドックスは妻を抱きすくめた。彼女の首元に鼻を埋めた。辛うじて出した声はひどくかすれて、聞けたものではなかった。

「うん。きっとできるよ。元気になったら練習しよう。教えるよ、僕……」

 スエニの首筋に温かい涙が零れ、胸の方へ伝い落ちていく。まるでそれは、愛を籠めて抱きしめる、優しい腕のようであった。

 

 

   *

 

 

 数か月後、スエニは死んだ。

 かつて結婚を祝った狩人仲間たちが、そっくりそのまま、今度は葬儀に参列する羽目になってしまった。まだ若いスエニの死を悼むこともひとかたならないものであったが、それ以上に彼らが心配したのは、残されたドックスのことであった。

 結婚して明るくなったと評判のドックスだったのに、葬儀の後には以前にも増して陰気になってしまった。十日以上誰とも口を利かず引きこもり、かと思えば突然仕事に復帰し、ほとんど捨て身の凄惨な狩りに身を投じる。ある時は凶悪な魔獣の巣に単身飛び込み、またある時は拷問通りに巣食う魔族の犯罪組織に喧嘩を売る……無謀、無茶を通り越して、ほとんど自殺志願のようなものであった。

 持ち前の弓の腕によって辛うじて生き延びはしたものの、このままではいつ命を落とすか分からない。ヴィッシュは足しげく彼の独り住まいに通い、口酸っぱく叱事(こごと)を言った。まず自分を大事にしろ、難しい狩りなら一緒にやろう、と。しかしドックスは聞いているのかいないのか、曖昧な作り笑いを返すばかり。

 あるとき、協会の狩人のひとりが、ドックスに再婚を勧めてはどうか、と提案した。彼の知り合いで、同じように(つま)と死別してしまったけれども、まだ若く心根も優しい女性がいるのだという。

 良い案ではないかと思われた。同じ傷を抱えた者同士だからこそ、互いをいたわり支え合えるかもしれない。無論当人たちが相手を気に入ればの話ではあるが。

 ヴィッシュもその提案に賛成し、ドックスに話を持ち掛ける役を引き受けた。

 ヴィッシュは今でも、あの時の自分の浅はかさを悔やみ続けている。

 家を訪れたヴィッシュが再婚の話を持ち出した途端、ドックスは烈火のごとく怒りだした。立ち上がり、ヴィッシュに詰め寄り、その襟首をひねり上げた。予想外の反応にヴィッシュは茫然とし、されるがままに壁へ背中を叩きつけられた。ドックスが全体重をかけて鼻先に迫ってくる。瞼が上下に引き剥かれ、狂気じみた目が露わになる。

「言っていいことと悪いことがあるぞ! ヴィッシュさん、あんたね、知ってますか。スエニが最後にねだるんですよ。弓矢をね、『私も撃ってみたい。教えて?』だって。かわいい言い方だね。でもあの痩せた腕じゃ弦を引けやしないでしょう。だから僕が手伝ってやって、一緒に的を射貫いたんです。いやあ喜びましたね。なんでかなって思ったら、『練習したら、ひとりでできるようになるかなあ?』って。『そしたら、あなたと一緒に働けるかなあ』なんて。いじらしいじゃありませんか。僕は答えましたね! 『きっとできるよ。元気になったら練習しよう』、そう約束したんですよ! 嘘になるって分かってて、僕は嘘を吐いたんですよ!! こんなのってありますか……ええ? それを知ったうえで、あんたはそんなこと言うんですか!? ヴィッシュさん!!」

 知るわけはない。知るわけはないが――それが何の言い訳になるというのか。

「行かなきゃ。スエニのところへ」

 ドックスはヴィッシュを突き放し、家を飛び出した。

 そしてそれっきり、二度と戻ってこなかったのだ――この街には。

 

 

(つづく)



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第14.5話-03 雨の中の再会

 あれからもう3年も経ってしまった。今、嵐の中を駆けながら、ヴィッシュは痛いほどの悔恨に苛まれている。スエニが病に倒れた時も、彼女が死んでしまった後も、なにひとつ役に立てなかった。それどころかドックスの一番触れてはならない傷へ、無分別にも触れてしまった。その結果彼は生来の繊細さを悪い方へ働かせ、誰にも行く先を告げることなく、姿を消した。

 自分ひとりの責任だ――などと自惚(うぬぼ)れるつもりはない。

 だがもしあの時、ほんの少しでも、彼の気持ちを和ませてやれていたら。

 時間が心の傷を癒し、血を洗い流してくれるまで、待つことができていたら。

 結果は全く違うものになっていたのではないか?

 正直に言えば、ヴィッシュはドックスがとうに死んだものと思っていた。どこかの辺境か、あるいは知る者のない異国の都市へ流れ行き、そこで寂しく息絶えてしまったのだろうと。それが生きて、無事に顔を見せてくれたというだけで、どれほど嬉しかっただろう。

 だからこそドックスの奇妙に静かな態度が気にかかった。

 思えば、玄関口でのあの口ぶりは、まるで最期の挨拶のようではないか。

 死にたがっていた男が、3年の時を経て、生きて古巣へ戻ってきた。ひょっとして――死ぬために帰ってきたのではないか?

「ドックス! どこだ!」

 声を張り上げ、彼の名を呼ぶ。

 その呼び声も、けたたましい雨音に飲まれて消えた。

 

 

   *

 

 

 雨が身体を洗うに任せ、ドックスは街を彷徨(さまよ)い歩く。射殺すべき敵の気配を求め、不確かな提灯(ランタン)の光ばかりを頼りに、危うい足取りで歩を進める。一歩ごとに呼吸が乱れていく。瞬きひとつごとに目に狂気の赤が充満していく。不安に駆られ背中に手を伸ばす。弓はある。矢もある。大丈夫、ここにある……

 途中で二度、雨の中客待ちをしている気の毒な娼婦とすれ違った。ひとりはドックスを慎重に避けて裏路地へ引っ込み、もうひとりはドックスの形相を目の当たりにして小さく悲鳴を上げた。

「亡霊だよ」

 その娼婦はなじみの男の家へ逃げ込み、震えながらそう訴えたという。

「亡霊射手を見ちまった。私、殺されちまうよ……」

 言い得て妙。確かに今のドックスは幽霊のようなものだ。3年前、この世の全てとさえ思えたものと死に別れてしまった。あの日ドックスは死んだのだ。その亡霊が弓を握り、ただ魔物狩りの中に己の居場所を見出しているなら、“亡霊射手”よりふさわしい渾名(あだな)はあるまい。

 一体どれほどの間、雨に濡れた石畳を歩き続けたか知れない。亡霊射手ドックスは大通りの広場にいきあたり、そこで、ひたりと足を止めた。提灯(ランタン)を足元へ据える。大きく息を吸い、細く長く吐く。背負った弓を手に取り、矢を慎重につがえる。心臓の鼓動が際限なく音量を増していき、耳の奥で轟音となって響きだす。目が見開かれる。肩の筋肉が病的に蠕動し膨れ上がる。顔面が歪み、怒れる亡者の表情を形作っていく。

「い……た……」

 弦がにわかに軋み、

「そこに!」

 直後、恐るべき俊敏さで虚空へ矢が放たれた。雷光さながらに闇を貫いた一矢が、肉を抉る耳障りな破裂音とともに敵の胸へ突き立つ。夜の街に響く悲鳴。空中の魔物の痛みに暴れ狂うさまが、提灯(ランタン)の光で淡く浮かび上がる。

 好機と見たドックスは息もつかせず二の矢、三の矢と畳みかけた。二本目が腰に()たり、三本目が敵の腕で払い除けられ、四本目を放つより速く敵が反撃に出た。青黒い半透明の身体を持つ淑女、そうとしか表現しようのない魔物が、風のように宙を飛んでドックスの懐へ迫ってくる。

 ドックスは焦りながら弓を引き、至近距離からの矢を脳天へ撃ち込まんとした。だが動きを読まれている。“淑女”は空中で身を捻って矢を避けると、そのままの勢いで触手をしならせドックスへ叩きつける。ドックスは咄嗟に背後へ跳んだ。が、間に合わない。

 腕が触手に絡めとられ、その瞬間、想像を絶する激痛が彼の脊髄で暴れ狂った。

 毒である。この“淑女”の触手には、ほとんど目に見えない小さな毒針が無数に生えているのだ。即死するほどのものではないが、痛みは強烈。怪我や苦痛には慣れているはずのドックスが、痛みに耐えかねて弓を手放してしまうほど。

 その触手がさらに20本余り、“淑女”の周囲へ大輪の花の如く広がり、ドックスを抱き締めんと覆いかぶさってくる。

 あんなものに包み込まれたら、死なぬまま激痛だけをひたすら味わわされ続けることになる。自分を待ち受ける恐るべき運命に恐怖し、ドックスが叫び声をあげた――そのときだった。

「ドックス!」

 彼の名を呼ぶ声。それに反応して“淑女”の注意が一瞬横に逸れる。その一瞬の隙を見逃さず、ドックスは抜き放ったナイフで己の右腕を絡めとる触手を切断した。苦痛に呻く“淑女”。そこへ救い主の剣が鋭く走る。

 ヴィッシュである。

 駆けつけざまの一閃は横一文字に“淑女”を薙ぎ払い、脚の触手を数本まとめて斬り落とした。“淑女”が半狂乱で逃げ出し、間合いの外へ後退する。ヴィッシュはドックスの前に庇い立ち、敵を睨んで剣を構える。その口からドックスにかけられたのは、彼らしく簡潔で厳しい問いかけ。

「やれるか?」

「……やれます!」

 ちら、と顔半分だけ振り返るヴィッシュの視線の優しさが、ドックスの瞳に宿る狂気を僅かに薄めてくれた。

「あてにしてるぜ、ドックス」

 ヴィッシュが走る! 弾丸のように一直線に“淑女”に接近する。それを迎撃せんとして“淑女”が触手の鞭を繰り出す……が、ヴィッシュのこの動きは囮。敵の攻撃が届く直前、ヴィッシュは素早く横っ跳びに跳んで回避。

 その直後、ドックスの矢が“淑女”の右目を狙いたがわず貫いた。

 ヴィッシュが真正面から突っ込んだ理由はただひとつ、自分の背後にいるドックスの動きを敵の視界から隠すためである。ヴィッシュが横に逃げて射線を空け、ドックスの姿が敵の目に入った時にはもう手遅れ。矢は放たれた後というわけだ。

 悲鳴を上げて“淑女”が怯む。その好機を無論ヴィッシュは見逃さない。すぐさま石畳を蹴って折り返し、横手から剣の一撃を“淑女”の胴に叩き込む。幾本もの矢をその身に受け下半身まで失った“淑女”が、ふらつきながらも空中へ飛び上がり逃れようとする。

 しかしその動きも折り込み済み。

 触手を避けた時ついでに射出しておいた刃糸鞭(ワームウッド)が、頭上の“淑女”の肩に絡みつく。視認困難なほどに細い刃糸(ブレイド・ウェブ)は装甲に対しては無力だが、全身がクラゲのような質感の“淑女”が相手なら効果絶大。

 刃糸(ブレイド・ウェブ)によって斜めに切断された“淑女”は、ついに力尽き、まっすぐに石畳へ墜落すると、湿った音を立てて潰れてしまった。

 再び動く気配は――ない。ヴィッシュは安堵の溜息を吐いた。

 刃糸(ブレイド・ウェブ)を取っ手に巻き上げながら、ドックスの様子を確かめる。彼はさっきの一矢で集中力を使い果たしたと見えて、今は石畳に膝をつき、大きく肩を上下させて苦しげに喘いでいる。ヴィッシュは彼を刺激しないように努めてゆっくり歩み寄り、そっと肩を撫でてやった。

「腕に磨きがかかったな。あの距離で目を狙って射貫けるとは恐れ入ったよ」

「……ちがう……ちがうんだ……」

「何が違う?」

「あれじゃない……()()()()()()()()……!」

 ドックスが上の空で呟いた、そのとき。

 ぞわり、と脊髄を掻きむしるかのような不快感がヴィッシュの全身を這い上り、彼は納めたばかりの剣を反射的に抜き放った。見れば、墜落して無残に潰れ、雨に打たれ続けている“淑女”の死骸。その周囲に――いる。

 夜の暗闇にぼんやりと浮かび上がる、黒い影。初めは見まちがいかと思った。降りしきる雨が風で吹き流されているだけかと。だが違う。あるものは地に跪き、またあるものは宙を頼りなく浮遊し、仲間の死を悼むかのように死骸を取り囲んで、じっと雨を浴び続けている。

 “淑女”の群れ。その数、少なく見ても30以上!

 ――うそだろ!?

 ヴィッシュに衝撃が走る。まさかこれほどの数の魔獣が街に入り込んでいようとは。通常ならありえないことだ。街には城壁もあれば門もあり、数は不足しているとはいえ夜警の兵も配置されている。1匹や2匹ならともかく30匹以上も侵入していて、何の騒ぎにもなっていないのは不自然すぎる。

 何かある――それは確かだが、敵は思考する暇を与えてはくれなかった。“淑女”の瞳の、闇の中で瞬く異様な青光が、一斉にヴィッシュを捉える。“淑女”たちのうち3体が、悲哀と憤怒の入り混じった咆哮をあげ、ヴィッシュ目掛けて触手を振り上げる。

「ドックス!」

 警告を飛ばす、が、いけない。ドックスは先ほど受けた毒が効いているのか、膝をついたまま立ち上がれずにいる。敵はこの数。しかも動きの鈍ったドックスを庇いながら戦うのは無理。彼を連れて逃げることさえ難しい。なのに敵の触手は容赦なく迫ってくる。

「おらァ!!」

 その瞬間、横手から閃光のように飛び込んできた真紅の煌めきが、全ての触手を正確無比に切断した。かと思えば、閃光は眼にも止まらぬ速度で石畳を蹴り、“触手”3体の真ん中へ肉迫。彼女らに痛みを感じる暇さえ与えず、竜巻の如き一太刀で3体まとめて斬り捨てる。

 なんたる早業。ヴィッシュには目で追うことさえままならない。こんなことができるのは――

「緋女! すごい!」

 雨に濡れた石畳の上へ、余勢で滑るように着地し、太刀を肩に担いで緋女は力強く鼻息を吹く。

「もっとほめろ!!」

「かわいい!!」

「えっ……ばか……ころすぞ」

 緋女が照れてもじもじしていると、その後ろから、《発光》の杖と雨傘で両手を塞がれたレインコート姿のカジュが、長靴で水たまりをぱしゃぱしゃやりながら現れた。

「は―――――。ためいき。は―――――。《闇の鉄槌》。」

 無造作にカジュが放った闇色の球体は、緋女の耳の横をかすめて飛ぶと、その背後に忍び寄っていた“淑女”を撃ち抜いた。

「うお。ありがとカジュ」

「いちゃついて気ィ抜いてんじゃねーですよー。」

 横に並んだ緋女とカジュが、“淑女”の群れを睨みつける。仲間があっさり倒されたのに恐怖したか、あるいは不利を察したか、“淑女”たちは一瞬戸惑いの色を見せると、鳩の群れが一斉に飛び立つようにして宙へ浮かび上がった。それに反応してカジュが術を飛ばすが、撃ち落とせたのはほんの1、2匹。残りは夜空の中へ溶け込み、消えてしまった。

「逃げられちゃった」

「しょうがないね。街ごと吹っ飛ばしていいならやれたけど。」

「すまない、来てくれて助かった」

 ヴィッシュが剣を納めながら寄ってくる。その無事な顔を見るや、緋女は激怒して赤毛をぶわりと逆立てる。ずいずいヴィッシュに詰め寄っていき、指で彼の胸を小突いて小突いて小突きまわす。

「アホ! テメ! この! コラ!」

「無事でよかった、すごく心配したんだよ、と申しております。」

「オー!? ああ? テメー! ゴラァ!!」

「ひとりで抱え込まないで、ちゃんと話してよ、と申しております。」

「カジュァ!!」

「なにか。」

「ありがと」

「なんのなんの。」

 自分は良い仲間と巡り会えた。その実感がこそばゆくて、ヴィッシュは逃げるようにして狩人としての仕事に戻ってしまった。“淑女”の死骸のひとつ、うつぶせに倒れているものそばにしゃがみ込み、直接触れないよう気を付けながら剣の鞘でひっくり返す。

「で、一体こいつは何なんだ?」

「なんか変なの。あんまり匂いもしねえしさあ」

「不意打ちを喰らいかけてたのはそのせいか。つまり普通の生き物じゃない……カジュの領分か?」

「心当たりはあるけどね。」

 ひょい、とカジュが《発光》の杖を“淑女”の上に掲げた。それまではドックスの提灯(ランタン)の、弱弱しい光でしか見えていなかった顔が、明るい魔法の光に照らし出される。それを見て、ふとヴィッシュは息を止めた。

 見覚えがある。

 この顔を……ヴィッシュは知っている。

「貸してくれ!」

 カジュから杖を借り、他の“淑女”の死体へ向かう。これも。これも。全て同じ女性の顔。ヴィッシュは愕然として、ついさっきまでドックスがうずくまっていた方を振り返る。

「ドックス! これはどういう……」

 だが、いない。ほんの少し目を離した隙に、ドックスの姿は忽然と消え失せていた。

「ドックスはどこだ?」

「えっ? あれ?」

「いない……。」

 馬鹿な。ありえない。魔獣ならともかく、ドックスは生きた人間である。匂いもあれば音もたてる。彼が移動したなら緋女が察知できないわけがない。しかし現実に、彼は誰にも悟らせず姿を消したのだ。ということは……

 もはや疑う余地はない。ドックスの身に、何か異常なことが起きている。その確たる証拠、足元に転がる“淑女”の死骸を見下ろす。旧知の女性とうりふたつの顔。苦悶に歪んだその表情を見つめながら、ヴィッシュは彼女の名を漏らした。

「どうして君なんだ、()()()

 

 

(つづく)



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第14.5話-04 偽りの神智

 

 

 ドックスは彷徨(さまよ)い続けている。3年前、この街を去ったあの日から、ずっと。

 気の迷いだった。ほんとうに、いっときの気の迷いだったのだ。

 妻スエニが死んでから半年ほどが過ぎた頃。自傷行為に等しい無謀な狩りで己をどれほど苦しめても、彼女を失くした心の穴は少しも埋まらないと悟った頃。寂しさのあまり、猛烈な人恋しさのあまり、彼は、娼婦を買った。

 娼婦は年のころ18ほどの小柄な娘だった。名前は知らない。何か名乗ってくれたはずだが、覚えてはいないし、どうせ本名ではあるまい。彼女は顔が小さく目が大きく、なんとなくスエニに似ていた。それでつい、目を惹かれた。

「あーあ。お兄さん、こんなに濡れて」

 その日はぬるい雨が朝から降り続けていたが、ドックスはろくに雨具もつけず、一日中仕事に走り回っていたのだ。一方、娼婦の方は宿の軒先でぼんやり座り込んで客待ちをしているところだった。雨の日は客足が遠のく。ふらりと通りかかったドックスが、一体何時間ぶりの通行人だっただろう。これを逃しては飯の食い上げ、とばかり、娼婦はいつも以上の親切さでドックスの腕に絡みついた。

「かわいそう、冷え切ってる。おいでよ。いい具合に温めてあげるね」

 手を引かれるままにドックスは売春宿に上がり、服を脱がされ、ひとつの寝床に引き込まれた。やるべきことをやり終え、その後に来る無感動な恍惚の中で、ドックスは泣いた。娼婦は優しい娘だった。なぜ自分の上で客が泣いているのか、事情は全く分からなかっただろうに、気味悪がるでもなく彼を撫でてくれた。

 その温かな手のひらが、ドックスの肌には――()()()()()の如く、()()

 その時だった。娼婦が突如、耳元で金切り声を上げた。彼女はドックスの背後、天井のほうを見て、恐怖に目を引き向いて震えていた。驚いたドックスが振り返ると、そこに“スエニ”がいた。

 ドックスは娼婦もろともに寝床から転がり落ちた。娼婦が這いずるように逃げ出すのも構わず、ドックスは茫然とその場に立ち上がった。スエニ。確かにスエニだ。身体は青黒く半透明になってはいたが。手足の代わりに不気味な触手が垂れさがってはいたが。部屋の天井近くへ、支えもなく浮遊してはいたが。顔は確かにスエニだったのだ。

 “スエニ”がドックスへ触手を伸ばし、抱きしめるように包み込む。

 その途端、恐るべき激痛がドックスを襲った。まるで身体中を無数の針で突き刺されたかのよう。電撃が四方八方から一斉に肌を貫いたかのよう。皮膚という皮膚を剃刀(かみそり)で薄く剥ぎ取られ続けているかのよう。あまりの痛みのために悲鳴を上げることさえできず、ただただ痙攣し、虚しく顎を震わせ、その場に崩れ落ち、それでも痛みは止まらない。

 無限にも思える苦痛の時間の中で、ドックスはしかし、微笑んでいた。

 ――スエニ。来てくれたのか。僕の浮気を叱りに……戻ってきてくれたのか!

 やがて階下が騒がしくなり、階段をやかましく軋ませながら宿の男衆が駆けあがってきた。彼らが部屋に飛び込むや、“スエニ”の姿はすうっと薄れ、消えてしまった。唖然とする男たち。気を取り直した彼らが、床で蛆虫のようにぴくついているドックスを助け起こしてくれた。あの小柄な優しい娼婦は、裸体にシーツを巻いただけの姿で心配そうに見守ってくれていたが、もう、どうでもいいことだ。

 今となっては、何もかも。

 身体の痺れが取れ、身動き取れるようになるや、ドックスは荷物をまとめて旅に出た。やるべきことはひとつ。“スエニ”を狩るのだ。

 後始末人たるドックスには無論分かっていた。スエニは何らかの魔法によって蘇り、魔獣と化してしまったのだ。ならそれを討つのは狩人の役目。いや、その役目を担うべき者が、ドックスをおいて他にあろうか。

 “スエニ”はドックスの行く先々に現れた。街道に。森の奥に。街の裏路地に。洞窟の中に。ドックスは背骨のあたりに感じる“スエニ”の気配を追い、どこまでもどこまでも旅を続けた。そして“スエニ”を、己の愛妻を射殺し続けた。不思議なことに何度殺しても彼女はまた現れた。それが……

 それが嬉しくてならなかった……

 何度でもまた会える。ずっと彼女を殺し続けられる。

 だからドックスは、彷徨(さまよ)い続けている。

 3年間、1日も休むことなく、ずっと。

 

 

   *

 

 

 雨宿りのため、ヴィッシュたちはひとまず運河へかけられた橋の下へ逃げ込んだ。ぶるぶる全身を震わせて水気を切る緋女。橋の下から降り続く雨の空を見守り、敵を警戒しているヴィッシュ。乾いた石の上へひょいと腰かけたカジュが、ぽつりと敵の名を呟いた。

「“神智くらげ(ゾフィザリア)”。」

 耳慣れない単語に、ヴィッシュが眉をひそめる。

「聞いたことねえな……」

「見るのはボクも初めてだよ。

 最も低級な神の一種。普通はマナ・プールの中で上位の神と共生しているけど、ごく稀にはぐれ個体が物質世界(こちらがわ)に顕現することがあるんだ。あんまり低級すぎて自力では存在を維持できず、他の精神体、多くの場合は人間に寄生し、その()()()()()()。」

「存在感?」

「そんなもん食えんの?」

「美味しいかどうかは知らないけどね。

 喰った存在感を材料にして“神智くらげ(ゾフィザリア)”は仮霊体(プロキシー)を構築する。ゆえにその外見は、宿主の心理を強く反映するんだ。つまり……。」

「宿主はドックス……」

「そして彼自身はそのことに気付いていない。

 魔獣化し何度でも復活する妻を、我が手で始末し続けている……と思ってるはず。

 殺せば殺すほど“神智くらげ(ゾフィザリア)”は新たな仮霊体(プロキシー)を産もうとする。ますます存在感を喰い取られる。そのたびに身体中を何万もの針で突き刺されたような激痛が走る。3年間ずっとその繰り返し。

 ……まあ、控えめに言っても地獄だっただろうと思うよ。」

 沈黙を、雨音が飲み込んだ。ヴィッシュは石像のようにじっと空を睨み続ける。橋の支柱を握る手に力が籠り、皮手袋が痛々しく軋む。雨宿りなどしながら、安らかに息をしている自分。頼りになる仲間たちがすぐそばに居てくれる自分。戦いのさなかにふざけてじゃれ合うことさえできる自分。

 そして、なにひとつ持たない――ドックス。

「どう戦うのが正解なんだ」

 絞り出した問いに、カジュの答えは極めて流暢だった。さも『そう来ると思ってましたよ。』と言わんばかりに。

「1、あの人を捕まえる。

 2、ボクが“神智くらげ(ゾフィザリア)”と彼との接続(リンク)を遮断する。

 クラゲにしてみれば、せっかく寄生した宿主を横から掻っ攫われた形になるので……。」

「はいはいはい! わかった! クラゲ本体が邪魔しに来る。そこを斬っちまえばいいんだ!」

「正解。それが3番ね。」

「やったぜ。やっと話についていけた」

 心底嬉しそうに両手の拳を突き上げている緋女の姿が、微笑ましいやら物悲しいやら。

「それはいいけど、気を付けてよ緋女ちゃん。ひとり分の存在感を分配したようなものだから、ドックスさんも“神智くらげ(ゾフィザリア)”も存在が極めて希薄。各種感知に引っかかりにくいからね。」

「匂いも気配もしないってこと?」

「そゆこと。ましてこの雨、隠れるには絶好でしょ。」

 逆に言うと、ヴィッシュたちにとっては最悪の条件。

 ヴィッシュは覚悟を決めた。もはや自分ひとりでどうこうできる話ではない。ドックスを地獄から救い出すには仲間たちの力を借りるしかない。仕事でもなく、金にもならないことのために、仲間を危険に晒すことになってしまうが。

 そして彼女たちに頼るなら、自分の弱弱しい心根を、包み隠さず打ち明けるのが筋だ。

「実は……」

 緋女とカジュがヴィッシュへ目を向けた。

「ドックスとスエニを引き合わせたのは俺なんだ。

 ずっと責任を感じていた。俺が余計なことをしなければ、ふたりが不幸になることもなかったんじゃないかって……分かってる。これは思い上がりだ。少し関わっただけで全部俺のせいにしてしまえるわけじゃない。

 でも……だから……俺はあいつを助けたいんだ」

 仲間たちの視線を、ヴィッシュは堂々と受け止める。

「力を貸してくれ。今夜のうちにカタを付ける!」

 

 

   *

 

 

 第2ベンズバレンの街は、ドックスの想像以上に複雑な変貌を遂げていた。大雨の夜で視界が悪いのも災いした。そこに3年間ですっかり薄れてしまった曖昧な記憶が追い打ちをかけた。なじみの通りひとつ見つけるのにも小一時間を費やし、見つけてからも迷路のような路地にさんざん悩まされた。先の戦いで味わわされた苦痛がいまだ残る身体を引きずりながら、ドックスはひとつところを目指して歩き続けた。

 かつてスエニと共に暮らした、あの家。

 やっとのことで辿り着いた古巣は左右を真新しい3階建てに挟まれ、暗がりの中に肩身狭く縮こまっていた。

 扉にはひどく錆びた錠がかけられていた。ドックスがナイフの柄で力任せに叩くと、錠はいともあっさり砕けて落ちた。扉を(きし)ませ、中に滑り込む。

 家には何も残っていなかった。

 テーブル、食器、壺や桶、ふたりで毎夜明け方近くまで愉しみあったひとつの寝床。壁の燭台、狩り道具の棚、下足箱に物干し紐に歯ブラシ、櫛、果てはかまどの灰に至るまで。ありとあらゆるものが取り払われ、人の暮らしの痕跡が執拗なまでに消し去られていた。

 ただひとつだけ残っていたのは、壁の片隅に石灰石で描かれたらくがき。子供がいたずらしたのだろう、父親と、母親と、子供がふたりと、やけに大きく描かれた犬……

 スエニが死に、ドックスが失踪した後、名義上の家主であったスエニの父はこの家を投げ捨てるようにして売り払った。彼にとっても辛い思い出の象徴なのだ、無理もない。家は別の地主の手に渡って貸し家とされた。若い子持ちの夫婦が借りて2年余り住んでいたようだが、子供が大きくなったのを機にその一家もよそへ移り、それからは空き家のままろくに手入れもされず放置されていたのだ。

 ドックスは拳を岩のように固く握りしめる。

 ここにはもう、何もない。ここがドックスの居場所であったのは、拠り所であったのは、もうずっと遠い昔の話なのだ。蛾が炎に惹かれるようにしてここへ戻っては来た。しかし得るものは何もなかった。

 ドックスは裏口を開け、あの狭い裏庭に出た。かつてすがすがしい青空が見えていた板塀の向こうは、背の高い石造りの建物の外壁に塞がれている。スエニが季節の花などを植えてかわいがっていた花壇では、廃材が横倒しに放置されたまま朽ちかけている。そして、ふたりして腰を下ろし、いっしょに弓の弦を引き絞ったあの場所は、雑草に覆い尽くされて土を見ることさえできない。

「い……たい……」

 ドックスは喘ぎながら身を折り、両腕で己の身体を懸命に抱きしめた。恐るべき苦痛が突然彼の意識に襲い掛かってきたのだった。妻との思い出。かつての幸せ。本来温かく甘やかであるはずの記憶が、今、かえって残酷に彼の心を抉る。庭の草に膝をつく。為すすべもなくうずくまる。雨滴のひとつひとつが鋼鉄の針のように突き刺さる。

「いたいよ、いたい……!」

 彼は気付いていなかった。いつのまにか虚空から出現していた“神智くらげ(ゾフィザリア)”が、頭上に浮遊し、垂れ下がる触手の先端で彼の身体を撫でまわしていたことに。ドックスの存在が喰い取られていく。“楽しかった”記憶、“幸せだった”という認識、それらが執拗に時間をかけてすり潰され、“なかったこと”にされていく。魂を引き裂く激痛が肉体をも駆け巡る。ドックスは喘ぎ、痙攣し、ついには呼吸さえままならなくなり、赦しを請うようにひれ伏した。生きながらにして肉を削ぎ取られているようなものだ。正気でいられようはずがない。

 “神智くらげ(ゾフィザリア)”は満足げに邪悪な笑みを浮かべ、触手をドックスの頭部へと引き上げ始めた。彼の脳髄、もっとも()()()()()()()に喰いつこうというのだ。かつて、娼婦の胸で泣くドックスに対してそうしたように。

 だが、クラゲの触手がドックスの頬を撫でようとしたまさにその時、風を裂いて飛来したナイフが深々と触手に突き刺さった。悲鳴を上げて反射的に手を引く“神智くらげ(ゾフィザリア)”。その声に驚いて上を見上げ、クラゲの存在に気付いて硬直するドックス。その彼の手を、ぐいと力強く引き寄せる者がある。

 ヴィッシュ!

 彼はドックスを庭から家の中へ引き込み、間髪入れず合図を飛ばした。

「カジュ!」

「《石の壁》。」

 どん! と中庭に突き上がった《石の壁》が、庭と家を繋ぐ戸口を塞いでしまう。まさにドックスを追おうとしていた“神智くらげ(ゾフィザリア)”は、突如目の前に現れた障壁に驚き停止。そうこうするうちに、ヴィッシュは既にドックスを表の通りまで連れ出している。

「走れ!」

「ヴィッシュさん!? 一体……」

 ドックスが戸惑い足を止めかける。それをヴィッシュは強引に手を引いて走らせる。

()()はスエニじゃない。姿を真似た偽者だ。お前、食いものにされてたんだよ!」

 ヴィッシュは後ろを確認し、暗い雨の夜空に違和感を認めた。雨の中に揺らいで浮かび上がるシルエットがある。半透明のものが宙に浮かび、雨粒を遮りながらこちらへ向かってきているのだ。

 “神智くらげ(ゾフィザリア)”だ。数は、ざっと20余り。

「大挙しておいでなすったな。走れ、罠に誘い込むぞ!」

 

 

(つづく)



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第14.5話-05 拒絶

 

 

 長征通りから拷問通りへ。降りしきる雨の中、ひた走るヴィッシュとドックス。背後には執拗に追いすがる“神智くらげ(ゾフィザリア)”の群れ。何度も追いつかれ、触手に触れられそうになるのを、ヴィッシュが咄嗟に斬り払い、あるいはドックスが駆けながらの速射で射落とし、なんとか予定地点まで辿り着く。

「こっちだ」

 足を滑らせながら丁字路を曲がれば、そこは審判通りの細路地。路地の真ん中に刀を担いで仁王立ちするは、赤毛の剣士緋女。彼女の横を走り抜けざまにヴィッシュは叫ぶ。

「頼む!」

「任せな」

 と不敵に笑う緋女の視界には、わらわら押し寄せるクラゲたち。

 直後、緋女の肢体が炎の噴き上がるが如く跳躍した。

 跳んで斬る。壁を蹴り再び跳ぶ。跳んでは斬り、斬っては跳び、縦横無尽に剣を閃かす早業で、10匹近くものクラゲどもが両断される。その間ほんの一呼吸。これを見てたじろぐ“神智くらげ(ゾフィザリア)”たち。その恐怖の視線を一身に集めながら、緋女は背中を丸めて着地する。

「狭いとこの方がいいってこういうことかあ。やっぱ賢いなあいつ。斬り漏らす心配ないもんな」

 ゆらりと花咲くが如く身を起こし、緋女は咆哮した。

「おらおらどんどん来いやァーッ!!」

 

 

   *

 

 

 緋女が敵を食い止めている間にヴィッシュは路地の奥へ。予定通りの地点に《風の翼》で舞い降りるはカジュ。ほとんど初対面のドックスが戸惑い警戒しているので、ヴィッシュは軽く紹介してやった。

「俺の仲間。術士だ」

「カジュでーす。《一時停止》担当しまーす。」

「ヴィッシュさん、これは一体……?」

 眉をひそめているドックス。無理もない、彼にとっては急すぎて状況が掴めまい。だが納得いくまで説明してやる時間はない。いつ緋女の妨害を“神智くらげ(ゾフィザリア)”が突破してくるか分からないのだ。

 ヴィッシュはカジュに合図の視線を送り、彼女に術の準備を始めさせながら、ドックスの両腕へ手を添えた。混乱するドックスの目をじっと見上げ、低く落ち着いた声色で、ゆっくりと説明してやった。

「いいか。あのクラゲのようなものは、“神智くらげ(ゾフィザリア)”という魔獣なんだ。お前に取り憑き、記憶を吸い取って、スエニのふりをしていた」

「ゾフィ……ザリア……?」

「ああ。俺も今回初めて知ったよ。すごく珍しいやつらしいぜ」

 ヴィッシュがニコと微笑みを挟む。つられてドックスも笑ってしまう。笑おうと思って笑ったのではない。単に習慣化した社交辞令的な愛想笑いが出ただけだ。笑いながらドックスは唇を小さく震わせた。何か言おうとしている。舌がもつれる。ヴィッシュは彼が自分の言葉を紡ぎ出すのを、目をそらさず、辛抱強く待った。

「じゃあ……あれは……スエニじゃない……?」

「そうだ。スエニじゃなかったんだ」

「じゃあ……僕は、どうすれば……?」

「大丈夫だ、俺たちに任せろ。カジュの術でお前とクラゲとの魔法的な繋がりを断つ。すると敵はお前を奪い返そうと姿を現す。そこを討ち取る。

 すまないが囮役をやってくれるか? お前にしかできない、とても大事な役目なんだ。どうかな?」

「あ……はい……」

「よし、よく言ってくれた。心配は要らない、分からないことがあったらカジュに聞けばいい……」

「ヘイ、ボス。第2波。」

 カジュの《発光》の杖が、路地の向こう――緋女が頑張っているのとは反対側を指す。杖の灯りに照らされて、雨の夜空にざわめく影がある。“神智くらげ(ゾフィザリア)”の一部が大きく迂回し背後に回り込んできたのだ。このままでは挟み撃ちになる。

「俺が食い止める。後は頼む!」

「あいさー。」

 ヴィッシュが得物を抜きながら敵に向かって駆け出したちょうどその時、カジュも魔法陣を完成させた。暗い石畳の上に青白い光の環が浮かび上がり、カジュの意識に合わせて次々に幾何学模様を描きはじめる。

 ドックスはヴィッシュを追いかけようと一歩踏み出すが、その行く手をカジュの杖が阻んだ。

「陣から出たらダメっすよ。」

 と、カジュは足元の魔法陣を凝視したまま淡々と言う。彼女は自分の仕事に集中していた。ドックスとは目を合わせようともしなかった。そもそも人付き合いの苦手なカジュであり、今日初めて会った人物とふたりだけで取り残されては無理からぬことだ。

 だがこれが後に仇となってしまった。もしドックスの様子に注意を向けていれば、気付くことができたかもしれない。

「スエニ……じゃない……なら僕は……どうすれば……?」

 ドックスの顔面に張り付いたまま凍り付いた笑みの、奥で静かに蠢きだす狂気の気配に。

 

 

   *

 

 

 ヴィッシュは地を這うかというほどに身を低くかがめながら、“神智くらげ(ゾフィザリア)”の群れに駆け寄っていく。抜き放ちざまの切り上げで手近な一匹を狙うが、これは宙へふわりと浮いてかわされる。

 その隙に敵の2匹ばかりがヴィッシュの左右をすりぬけ、ドックスを目指して飛んでいく。

 が、その2匹が突如、空中で真っ二つに切り裂かれ、ただのぬめる肉塊と化して落下した。

 あまりに唐突すぎる仲間の死に、クラゲたちがたじろぎ、動きを止める。何が起きたか分かるまい。無論、これはヴィッシュの仕掛けた罠である。

 この細路地を決戦の場と決めたヴィッシュは、道の特に狭いあたりを選び、あらかじめ刃糸(ブレイド・ウェブ)を張り巡らせておいたのだ。左右を挟む2階建ての家屋、その屋根の突起や窓の手すりなどに引っかけて、上から下まで全部で5往復。そうと知らずに突っ込んできた獲物は、不可視の鋼線によって身体を切断される。

 安全に抜けられる場所は、足元の僅かな隙間のみである。さきほどヴィッシュが走るとき、異様に身をかがめていたのはこのためだったのだ。

 前回の戦闘で分かった敵の弱点は2つ。1つは、身体が柔らかいために刃糸鞭(ワームウッド)が極めて有効だということ。もう1つは、どういうわけかあまり高くは飛べないらしいということ。こちらの攻撃に対して上空へ逃げる手もあったはずだが、剣がギリギリ届く高さより上には一度も昇ろうとしなかった。最高高度は高く見積もっても2階建ての屋根程度。この高さまで罠を張れば、空中からの突破は不可能。

 そうとは知らない“神智くらげ(ゾフィザリア)”たちは、どうしてよいか分からず数秒硬直。その隙を待ち構えていたヴィッシュが間髪入れず剣を繰り出し、2匹ばかりをたちどころに切り捨てる。正気に返った1匹が触手をしならせ打ちかけてくるが、その軌道を見切ったヴィッシュはすんでのところで転がり避けた。

 これでいい。緋女とヴィッシュで前後はがっちりと塞いだ。あとはのらりくらりと敵をいなしながら、カジュが術をかけ終わるまで時間が過ぎるのを待てばいい。

 とはいえ。

 周囲の“神智くらげ(ゾフィザリア)”10匹ほどが、一斉にヴィッシュへ目を向けた。どうやらこの路地の突破を諦め、ひとまず目の前の敵を排除する方針に出たか。剣をぶら提げ、荒い息を吐きながら、ヴィッシュは強がりへらへら笑い。

「へへ……やっぱ楽はさせてくれねェか?」

 クラゲの触手が来る。ヴィッシュは鋭く息を吐き、石畳を蹴って跳躍した。

 

 

   *

 

 

 ヴィッシュと緋女が敵を食い止めている間に、カジュの術式構築は猛然と進行していた。ドックスの精神外殻配列パターン解析完了。世界内外接続ルート確保。自己了解系をマナ・プール内の一時的作業領域にマッピングし、“神智くらげ(ゾフィザリア)”本体の隠れ場所を特定。

 ――ほい発見。ちょろいね。

「もうちょっとっすよー。」

 と忙しく手指を走らせながらカジュが告げるが、ドックスの耳には聞こえていない。彼は青い魔法陣の中心に(ひざまず)き、ただひたすら、小声で何か呟き続けていた。石畳を叩く雨滴を濁った眼で見降ろしたまま。行き場のない想いを我ひとりの胸に抱え込んだまま。

 

 

 ふと気が付くと、ドックスは光も音もない黒一色の世界の中に、ただひとりで立っていた。

 あたりを見回す。どちらを見てもあるのは闇。己の手を見る。足元を見る。不思議なことに、灯りひとつないこの世界において、なぜか自分自身の存在だけはぼんやりと浮かび上がって見える。ドックスはたまらない不安感に呼吸を乱し始めた。

 ここはどこだ?

 なぜこんなところに?

 他に誰かいないのか?

「スエニ」

 助けを求めて口から出たのは妻の名。スエニ、スエニ、繰り返し呼びかけ、返事がないのを知ると、彼は闇の中を歩き始めた。妻を探さねばならない。大切なひとなのだ。この暗闇の中で、どこへ行けばいいのか、一体何が待っているのか、なにひとつ分からないが。それでも行かねばならないのだ。

 やがてドックスは走り出した……

「スエニ。僕がどれほど君が好きだったか、百万回も伝えたかったけれどその機会はなかった。君の思いやり深さが好きだった。努力家で勉強熱心なところも。人付き合いが苦手で、特に初めて会う他人とはうまく話せないけれど、それでも意志をやりとしようと懸命に話しかけに行く、その健気さが愛おしかった。これはみんな君に言ったことだ。でも足りはしない。5回や10回伝えたところでなんだというんだ。この何十倍も……何百倍も……僕は囁くつもりだった! 20年、30年という時をかけて、少しずつ……少しずつ……」

 暗闇の中に、雨が降りだす。大粒の雨が石くれのようにドックスの頭を打ちのめす。全身ずぶぬれになり、あざだらけになり、それでもドックスは止まらなかった。彼は聡明な男だ、既に分かっていた。どれほど探し求めようと、もはや二度と妻に会うことはできないのだという真実を。

 だからどうした。

 正しさがなんだ。

 愛を追い求めるこの脚を、現実ごときが止められるというのか!

 声なき声でそう吼えた途端、雨粒がことごとく鋭い鋼鉄の針に変わった。降り注ぐ何万もの針がドックスの全身に刺さる。刺さる。容赦なく刺さる。一瞬のうちに彼は噴き出した鮮血にまみれた。身じろぎするごとに、一足踏み出すごとに、身体中に突き立った針が互いに擦れ、傷口を抉り、さらなる激痛が彼を(さいな)んだ。零れ出た涙は血に混ざり、ぬめりながら一滴、また一滴と足元に垂れた。

 これでいい。

 ドックスは、笑っていた。

 苦痛に涙を流しながら、同時に彼は笑っていた。

 暗闇の中に、小さな光を見出したのだ。

 ずっと、ずっと、探し求めていた光を。

「そうだ。この痛みこそ……」

 

 

 そのとき、カジュの術式が完成した。

「《一時停止》。」

 彼女の呪文に応え、魔法陣の青光が煌々と輝きを増す。良い出来栄えだ。カジュは自信満々に鼻息を吹く。

 だがその直後、にわかに魔法陣が血赤色に染まり、ぱきん! と音を立てて砕け散った。

「は。」

 カジュが驚き、一瞬硬直。

 ――失敗したっ。

 と認識するや、さすがにカジュである。すぐに我に返り、探査の術をかけて失敗の原因を探りはじめる。数秒後、カジュは絶句した。予想だにしない事態だった。

 ()()()()()()()()()()()

 “神智くらげ(ゾフィザリア)”の本体が《一時停止》を感知して妨害に出ることはもちろん承知の上。それゆえ少々のことでは打ち消されないよう、何重にも対抗措置を施しておいた。

 だが被害者自身が治療の術を拒むなど全くの想定外。当然、何の対策もしていない。念じさえすれば術を打ち消すことは確かに可能。可能ではあるが……

 ――なんなんだこの人。治りたくないのか。

 眉をひそめて顔を上げたカジュは、そこに驚くべきものを見、弾かれたようにその場を飛び退いた。いつのまにか立ち上がっていたドックスが、血走った眼を見開き、大きく開いた口から唾液を零しながら、小刻みに痙攣している。

 その喉の奥から――毒々しい赤と青に染まった半透明の触手が溢れ出て、周囲をぺたりぺたりと手探りしていたのだ。

 ドックスの精神内に潜んでいた“神智くらげ(ゾフィザリア)”が、本体を実体化させようとしている。それはすなわち、ドックスに残された僅かな存在感が食い尽くされようとしていることを意味する。このまま実体化させればドックスは死ぬ……いや、それどころか、この世界に()()()()()()()ことになる。

 もはや一刻の猶予も……ない!

 カジュは小さな胸いっぱいに、力強く息を吸い込む。

 ――えーい、愚痴ってられるか。ここはボクの持ち場だっ。

 

 

(つづく)



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第14.5話-06(終) 一矢一途に

 

 

 気合を入れなおしたカジュはすぐさま呪文詠唱。まずは、

「《魔法の縄》。」

 暴れないようドックスの脚を地面に、両腕を左右の建物に拘束。さらに、

「《暗黒力場》。」

 魔法の働きを阻害する黒色の魔法陣をドックスの周囲に展開。これは彼を守るための措置である。“神智くらげ(ゾフィザリア)”のような魔法生物ならこの力場を嫌って逃げ出すはずだ。

 仕上げに、杖の先端に魔力を籠め、ドックスの口許に近付ける。この魔力はいわば餌である。すぐさま“神智くらげ(ゾフィザリア)”の触手が嗅ぎつけ、カジュの杖に喰いついた。

 つまりカジュは、杖を釣り竿にして“神智くらげ(ゾフィザリア)”を釣り上げようとしているのだ。かなり強引で乱暴な処置だが、もう他の策を講じている時間がない。

「ちょっとしんどいけど、我慢してよねっ。」

 カジュが杖を一気に引き上げると、ドックスの喉の奥から“神智くらげ(ゾフィザリア)”本体が引きずり出される。

「おゴッ!?」

 苦しげに呻くドックス。気の毒には思うがカジュは術を止めない。触手はドックスの口からずるりずるりと伸びあがる。1m、2m……長い。カジュは《風の翼》を発動し、上空へ向かって飛び上がり、全力で杖を引き上げた。5m。10m。ついにクラゲの全体がドックスの喉から吐き出された。急に抵抗がなくなった反動で、カジュは空中に投げ出される。

「おわっ。」

 術を制御し、空中で静止。カジュは状況を確認し――唖然とした。

 ついに姿を現した“神智くらげ(ゾフィザリア)”本体は、淑女”形の仮霊体(プロキシー)たちとは似ても似つかない、いかにもクラゲ然とした姿をしていた。しかし異様なのはその大きさ。触手まで含めて全長15m以上。空中に浮遊する胴体だけでも象獅子(ベヒモス)並み。

 “神智くらげ(ゾフィザリア)”の外見は、宿主の精神を反映する。ということは……

「どんだけ存在感でかかったんだよ、あのひとの中で。」

 夜風に吹かれ、“神智くらげ(ゾフィザリア)”がふわりと浮かび上がる。長々しい触手がゆっくりと広がり、四方八方の屋根をさぐるように撫で始める。早くも新しい宿主を探そうとしているのだ。

 そうはさせじとカジュから《光の矢》が飛び、触手の一本を切り落とす。《風の翼》を操って次の触手へ向かいながら、同時に《遠話》を仲間たちへ飛ばし、早口にまくしたてる。

「作戦失敗したけどいいかんじにフォローしたんで実質成功だから全員集合はやくきてっ。」

 

 

   *

 

 

 本体の出現と時を同じくして、“神智くらげ(ゾフィザリア)”の仮霊体(プロキシー)たちは一斉に消滅した。散在していた魔力を本体に集め、新たな宿主に寄生しなおすためである。

 ヴィッシュと緋女がそれぞれの敵の消えゆくさまを目にしたところで、カジュからの救援要請が飛んでくる。

「わかった、すぐ行く!」

 とヴィッシュが返事したときには、既に緋女は走り出している。カジュの居場所は目と鼻の先。犬に変身した緋女の脚なら到着までほんの5秒。地面には芋虫のように丸まり嘔吐を続けるドックス。夜空を飛び回り空中から術を飛ばしているカジュ。そしてドックスの真上には、四方八方へ大きく触手を広げた“神智くらげ(ゾフィザリア)”の巨体。

 その不気味な半透明の身体が、まるでドックスを雨から庇う、大きな雨傘のようにも見える。

 どこか違和感を覚えた緋女だったが、ためらっている暇はない。執拗に《光の矢》を撃ち込むカジュに、クラゲから反撃の触手が伸びる。緋女は人間に戻りながら建物の壁を蹴りつけ跳躍、鋭く斬り上げ、空中で触手を切断。その刹那、飛翔するカジュと緋女の軌道が交差する。

 ――やるぞ!

 ――当然。

 合図は視線ひとつのみ。

 カジュが飛ぶ。術を次々打ち込みながら一直線にクラゲの横を飛び抜ける。痛みに怒ったか生存本能か、カジュを絡め捕らんとしてクラゲの触手が3本ばかりも背後に追いすがる。だがこれはふたりの思惑通り。触手が束になったところを狙って屋根の上から緋女が跳躍。全身を一振りの太刀の如く走らせ、全てまとめて叩き斬る。

 クラゲが戦慄(わなな)き、今度は緋女に狙いを変えた。左右から触手が彼女に迫る。空中にあっては緋女も無防備。しかしカジュが振り返りざま放った《鉄砲風》が緋女の身体を吹き飛ばし、安全圏の屋根に着地した緋女はすぐさま身を翻し三度跳ぶ。雷光さながらの早業で、ついでとばかりにさらなる触手を切り落とす。

 ヴィッシュがようやく駆けつけたのはこの時だった。頭上の“神智くらげ(ゾフィザリア)”は触手の半分近くを失い瀕死のありさま。ほんの数秒でこれである。打ち合わせもなしにこの連携、あのふたりでなければできない仕事と、感心するやら空恐ろしいやら。ともあれ、敵の処理は緋女とカジュに任せておいて問題なさそうだ。

 ――すると、俺の仕事は……

 ドックスに駆け寄り、膝をついて抱き起してやる。彼は石畳の上に這いつくばり、雨と泥と吐瀉物にまみれて喘ぎ続けていたが、ヴィッシュの手に背をさすられ、ようやく正気を取り戻しはじめた。

「ヴィッシュさん……」

「安心しろ。あとはあいつらがやってくれる。ここは危険だ、動いた方が……」

「……ずっと……」

 ドックスが、微かに囁く。

「夢を見ていたような気がする……そうか……スエニはもう、死んだんですね……」

「お前……」

「知らなかったわけじゃないんです。ただ、今、はじめて()()()()

 彼は自分を抱くヴィッシュの腕を丁重に拒み、自分の脚のみで立ち上がった。まだ膝が震えてはいたが。穢れと痛みが全身を片時も途切れることなく苛み続けてはいたが。狂気と鋭気が、脳髄の中で等しく渦巻いてはいたが。

 弓をこの手に握ることはできる。

 やるべきことがひとつある。

 彼は素早く矢をつがえ、キッと天目掛けて弓引いた。頭上を覆うは血管色の巨大な傘。周囲を飛び回るふたりの狩人によって触手の全てを失い、丸裸にされた“神智くらげ(ゾフィザリア)”の成れの果て。

「やらせてください! 最後は、僕に!」

 彼の叫びを耳にして、緋女とカジュが、潮の引くように離れていく。

 

 

 その一瞬、ドックスは呼吸を忘れた。

 呼吸ばかりではない。思考も、思念も、あらゆるものから彼は解き放たれた。的に()てようという()()は、皮一枚を隔てた現実世界へ放逐した。矢は己。的は世界。彼と我とは自ずからひとつ。

 その瞬間、ドックスは視た。弓を引き絞る自分の手に、そっと、外から添えられる小さな白い指があるのを。肌の触れ合うその場所から、懐かしい温もりが伝わってくるのを。

 ――そうだ、スエニ。求める必要なんてなかった。君はずっとここにいたんだ。

 確信が彼の脊髄を走った。

 

 

 我に返った時、既に矢は離れ、的は中枢を射貫かれていた。

 茫然と見上げるドックスの頭上で、“神智くらげ(ゾフィザリア)”の巨体が斜めに傾き、表面から霧散し始めた。同時に東の空が白みだす。かつて魔獣であった赤や青の飛沫が、穏やかな朝日の中に煌めき散っていく。

 ドックスは静かに、弓を下ろした。

 そっと彼の肩に手のひらが添えられた。振り返ればそこには、安堵の笑みを見せるヴィッシュ。ドックスは目を閉じ、ずっと忘れていた息を吸い込み、吐きながら再び瞼を持ち上げる。

 静寂。

 ふと気づくと、あれほどしつこく振り続けていた雨もようやく弱まり、止む気配を見せ始めていた。

 

 

   *

 

 

 それから半月ばかりが過ぎた頃。

 第2ベンズバレンから少し離れた森林の中に、脱兎の如く逃げ回る魔獣の姿があった。“地獄ウサギ”というやつで、大仰な名前のわりに強くはなく、人を襲いもしないのだが、とにかく食欲旺盛。1匹が1シーズンで農村5つ分の畑を喰いつくすという厄介者である。そのうえ臆病で逃げ足が極めて速く、敵の気配も敏感に嗅ぎ分ける。狩人にとってはこれ以上ないというくらい面倒な相手であった。

 これを最前から追い回しているのが、赤犬に変身した緋女である。驚くべきことに緋女の全速力をもってすら追い詰めきれない。“地獄ウサギ”の素早さがどれほどのものかよく分かる。

 だが今回、緋女の任務は獲物を斬り捨てることではない。しつこく追いすがりながら敵の行動範囲を削り、ある一点へと追い込むことだ。

 逃げ続けるうち、唐突に森の木々が途切れ、ウサギは小さな沢へと飛び出した。突然のことで進路を変えるのもままならず、“地獄ウサギ”はそのまま沢へ突っ込む。身体の半分ばかりも流れ水に浸かり、脚を取られて僅かにその速度が緩む。

 ――今だ!

 と緋女が念じたその瞬間、まるで彼女の合図が聞こえたかのように、横手から飛来した矢が“地獄ウサギ”の耳の下に突き刺さった。

 その衝撃で横倒しに倒れ、沢の中に沈むウサギ。追いかけてきた緋女が数歩たたらを踏みながら足を止め、人間に戻って獲物を確認に行く。脳を射貫かれ即死した“地獄ウサギ”の、首辺りを掴んで引っ張り上げ、森中に散らばった仲間たちへ報告のひと吼え。

「仕留めた―――――!!」

 

 

 矢を放ったのは、狩人として復帰したドックスであった。

 今回は敵の特性上、いつもと違う面々で臨時のチームを組んで仕事に臨むことになったのだ。緋女と他3人の狩人が獲物を追い立て、射線が通り敵の脚も鈍る沢に追い詰めたところで、ドックスの弓矢で止めを刺す。先の一件で気配が希薄となったドックスなら、敵に待ち伏せを察知されることもない、というわけだ。

 この場にはいないが、人選も含めてヴィッシュが立てた作戦である。勢子(せこ)の配置も仕留める場所も事前の計画通り。あまりにスムーズに進んだために、3日の予定の仕事が半日で片付いてしまった。

 ――やっぱすげえなあいつ。

 と感心しながら、獲物を担いで街への帰り道を進んでいると、先頭を行くドックスがなにやらブツブツ言い始めた。彼の眼は左手側、誰もいない空中の一点へ向けられている。

「ありがとう。君のおかげだ。いい仕事ができたよ……え? いやあ、そんなことはないよ……」

 片方の眉を持ち上げる緋女。その背後でひそひそと囁き交わす3人の狩人。

「なんだあいつ……」

「死んだ嫁さんの幽霊が見えてるんだとさ」

「勘弁してよ、気持ち悪いって……」

 聞こえないよう言っているつもりだろうが、いかんせん、緋女の聴力は並外れている。聞こえてしまえば、彼女の性格上、一言言わずには言われない。緋女は歩きながらくるりと振り返り、後ろの連中に冷たく言い放った。

「直接言えば?」

 それで狩人たちは黙った。

 ――で、黙るのかよ。

 緋女は小さく鼻息ひとつ。脚を早めて狩人たちから距離を取り、ドックスの横に並んだ。彼がにこやかにくれる笑顔には、狂気の色など微塵も感じられないのだった。

 

 

   *

 

 

「一体ドックスに何が起きたんだ? クラゲは倒したはずだろ……なぜまだスエニの幻覚が見えてるんだ」

 自宅ではヴィッシュが寝椅子に腰を下ろし、膝の間に組んだ両手を、沈痛な面持ちで見つめていた。奥の階段に腰かけたカジュが、膝の上に頬杖をついて、むーんと低く唸っている。

「本格的な説明するなら半年分の講義になっちゃうけど……。

 めちゃくちゃかいつまんで言うと、ドックスさんが“神智くらげ(ゾフィザリア)”を取り込んでしまってた。存在の本質レベルで融合しちゃった、と言ってもいい。ボクが強制的に切り離すより前にね。あの時倒したのは、融合できてない部分だけだったってわけ。」

「じゃあ、ドックスの中にあのクラゲはまだ生きてる……?」

「生きてるねえ……。」

「大丈夫なのか?」

「大丈夫なわけないよ。もうこれで彼とクラゲを切り離すのは不可能。彼は一生存在感を喰われ続けることになる。

 ただし、喰った存在感で生み出されるのも彼自身の魂の部分コピーになるので、クラゲの仮霊体(プロキシー)が実体化することもないし、喰われた魂の傷も自然と埋まる。彼に見えてる幻覚はその部分コピーだね。」

「あ? ちょっと待て、混乱してる。

 えっと……つまりドックスは、自分の魂に自分を喰われて……喰った分で喰われたところを埋めて……元に戻ったらまた喰われる……それを繰り返す? 一生?」

「理解が速くて先生はうれしい。」

「あいつを苦しめてた痛みはどうなる?」

「感じるだろうね。前よりはだいぶマシだけど。」

「なんとかしてやれないのか!?」

「無理でしょ。仮にできたとしても、やるべきかどうか。」

 カジュはお手上げとばかりに両手を掲げ、そのままだらりと背中を階段の柱にもたれかけた。

「彼は自分で選んだんだよ、苦痛を感じながら生き続けることを。誰がそれを邪魔できるっていうの。」

 長い長い溜息。

「他人として尊重し、他人として距離を置く……それ以外に、できることはない……か」

 深く沈み疲れ果てたヴィッシュの声に、カジュはたまらなく憐みを覚えた。

「ハグしてあげよっか。」

「いや? 気持ちだけでいいよ。ありがとう……」

「あ、そ。」

 

 

   *

 

 

 緋女はそこから第2ベンズバレンに帰り着くまで、ずっとドックスの隣を離れなかった。

 彼女のことだから、ヴィッシュやカジュが語っていたような理屈を承知していたわけではない。単に並外れた嗅覚によって、彼との最も適切な距離を理解していただけなのだ。横に一歩半。家族でもなく、敵でもなく。仲間ではあっても、友ではなく。

 ドックスはよく喋った。

 大半が、彼だけに見える“妻の霊”との会話ではあったが。

 彼は笑っていた。あの夜、ヴィッシュに釣られて見せた笑顔とは違う。心からの微笑み。愛に満ちた目線。ふと胸に響くものがあって、緋女は、彼の会話が途切れたときを狙って問いかけてみた。

「あのさ」

「はい?」

「なに話してたの? 今」

「ああ、いや。別に大したことじゃなくて……」

 照れて彼が頬を掻く。

「今日のごはん、何が食べようか、って」

 ――ああ。やっぱりな。

 緋女はしっくりと得心した。

 彼の中で、スエニは活きている。ドックスは何もかも飲み込んでしまう道を選んだ。感傷からでもなく、罪悪感からでもなく、自分自身が生きるためにだ。死んでしまった妻の霊と、今夜の献立について話し合う。明日の仕事について話し合う。時には人付き合いや、夜の生活についても話し合うだろう。生きるためにこそ、死と語り合う。それがドックスの選択なのだ。

 なら、これ以上なにを干渉する理由があろうか。

 緋女は、ニカと笑ってドックスの肩に腕を回し、引き寄せた。ひょろひょろと背の高い、枯れ枝のような彼の身体が、よろめきながらされるがままに寄ってくる。

「じゃあうちに来いよー! 晩飯食おうぜーっ!」

「ご迷惑じゃないでしょうか?」

「あたしがお願いしたら一発よ」

「ああ。惚気(のろけ)られちゃった」

 そしてふたりで笑いあう。

 ヴィッシュは無論、こうなることを意図して緋女とドックスを組ませたわけではない。だが期せずして絶妙の人選となったようだ。これができるのが緋女なのだ。ヴィッシュのように、関わった人々へひたすら親身になってしまうでもなく。カジュのように、注意深く他人との距離を取り続けるでもなく。他人を他人としたまま、馴れ合いではなく、しかし親しく肩を叩き合えるのが緋女なのだ。

 緋女は力強くドックスの首を抱えたまま、ひょうきんにウィンクして見せる。

「優しいボスが、きっと美味い物作ってくれるから、な」

 

 

THE END.

 

 

 

 

■次回予告■

 

 言葉はなくとも(うた)はある。一匹の孤独な獣に過ぎなかった緋女は生涯の師と巡り合う。思いもよらなかった学びと信頼の日々。ひとつひとつ輪郭を帯びてゆく世界。だが未分化な幼い本性の火が、最も大切なものを滅却した。今、緋女は最悪の過去と対峙する。魔王に抗う最強の力を手にするために。

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第18話 “愛の火を探して”

 Such das FEUER der Liebe

 

 乞う、ご期待。

 



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第18話 “愛の火を探して”
第18話-01 原点


 

 

 青草そよぐ秋晴れの山道を、野火の如く駆け上る影がある。真紅の体毛。躍動する四肢。鋭く天を刺す三角耳。犬と呼ぶには勇敢に過ぎ、狼と呼ぶには愛嬌あり過ぎる、この獣こそは勇者の後始末人。緋女の変化した姿である。

 仲間たちのもとを旅立ってはや二ヶ月。ベンズバレンから山越えに隣国ハンザへ入り、南岸航路の貿易船で密航。適当な寄港地でするりと船を抜け出して、あとは陸路をひた走る。幾多の野山を乗り越えて、緋女はここへ帰って来た。少女時代の大半を過ごした土地。もっとも多感な十代前半の思い出が詰まった、第二の故郷と呼ぶべき場所。

 懐かしい()()()()が、そこで緋女の帰りを待っていた。

 海を見渡す崖のふち、大きく枝を伸ばす七色樫の根元に、ひとりの女剣士が佇んでいる。総髪(ポニーテール)の金髪をゆるりと垂らし、東方風の衣を風になびかせ、遠い水平線をじっと見守っている。その背からほんの5歩まできたところで、緋女は息を飲み、足を止めた。

 女剣士が、腰の剛刀を音もたてずに抜いたのだ。

 緋女は人間へ変身した。気圧(けお)されている。声も出せない。息もつけない。ただ背筋の凍る緊迫感に駆り立てられて、緋女も太刀を抜き放った。

 秋風が止む。玉の汗が鼻筋へ伝い落ちる。緋女が構える。対手は()()()()。なのにあの……無造作に剣をぶら下げ、いまだこちらへ背を向けたままのだらしない姿勢に、緋女ほどの剣客ですら隙を見出すことができないのだ。

 ――やべえ。

 直感が走った。

 ――間合いのうちに……入っちまった!

 次の瞬間。

 ふたりは刃を激突させた姿で()()()()()()

 そう、静止である。見えないのだ。わからないのだ。早業、などという次元ではない、()()()()()()()()()()光速の太刀。ふたりは今の一瞬、恐るべき速度で距離を詰め、剣を繰り出し、太刀筋を読み合い、無言の駆け引きを戦わせ、ついに互いに決め手を欠いて、互角に剣を噛み合わせたまま動きを止めた。初動から終わりまでが10分の1秒にも満たぬ間の出来事。ゆえに常人には、全てが終わった後の結果しか認識できない。

 まさに一瞬の死生。その境目をどうにか乗り越えて、緋女の顔面からどっと滝の汗が溢れ出す。

 対して女剣士は、にやりと不敵に笑いながら剣を引いた。

「ま、サボってはいなかったよーね」

「こ……のっ……心臓に(わり)ィんだよクソ師匠!!」

「あっはっはーっ! この悪態も5年ぶりだわねーっ!

 そろそろ来るころだと思ってたわ。おかえり、緋女!」

 緋女は口をへの字にひん曲げ、太刀を納めながらそっぽを向く。

「……ただいま」

 この女剣士の名は、デクスタ。

 緋女を育てた剣の師にして、討魔三英傑がひとりに数えられる女。剣閃の鋭きこと弧雷の如く、心技の冴え渡ること蒼天の如く。勇者と共に魔王を倒した古今無双の武勲(いさおし)で、生きた伝説とさえ讃えられる最強の剣客。

 “剣聖”デクスタ、その人である。

 

 

   *

 

 

 本当のはじまりがいつだったのか、それは緋女にすら分からない。自分がいつ、どんな親から生まれたのか、それすら定かではないからだ。ようやく物心つきはじめた頃にはもう、緋女は森の奥で野獣のように暮らしていた。

 うりふたつの顔をした()と、たったふたりで。

 おそらく双子であろうこの姉妹は、千年前に絶滅したはずの伝説的種族、狼亜(ローア)族の末裔である。古伝承が語るところによれば、ローアは人から獣へ、獣から人へ、自在に変身する能力を持つという。この特別な力が、親も家族もない双子を過酷な自然の中で生きながらえさせた。獣の姿で獲物を狩り、ひとつの臓物をふたりで千切り合うように(むさぼ)る。鳥の羽をむしったり木を登ったりするときは人間の手足が役に立つ。姉妹でじゃれ合い、ケンカをし、すぐに忘れてひとつの寝床に丸くなる。野生そのものの、満ち足りた暮らしであった。

 この頃のふたりには自分と相手の区別さえあいまいだった。すべて概念というものは言葉によって成る。数限りない要素が絡み合う混沌の世界において、ただ言語表現のみが「あれ」と「これ」の境界線を作りうる。生まれたばかりの赤子は、自分に世話を焼いてくれる親のことを己の手足の一部のように勘違いするというが……言葉を知らぬ双子はまさにそのように、お互いを自分と一繋がりの存在と思い合っていたのである。

 転機が訪れたのは、双子が5歳――あくまで推定だが――になった頃のこと。

 ある旅狩りの老猟師が、素裸のまま野山を駆け回る双子の女児を発見したのだ。

 どのような意図があったのかは分からないが、ともあれ猟師は双子とコミュニケーションを試みた。元より言葉は通じない野生児だ。野犬を手懐ける時のやりようで、何日もかけて距離を詰めていった。餌付けをした。無防備に寝ころんでみせた。好奇心をくすぐる狩人歌で誘った。

 先に興味を示したのは、姉の方。

 緋のような赤毛の少女。生来の外交的な血が騒いだのだろうか、猟師が無害であると確信するや急速に接近していった。たちまち彼の手から餌を食うことを覚えた。そしてやはり獣ではなくヒトである証拠にか、猟師の粗野な言語まで真似し始めたのだ。

「来るか? 俺ン()

 問われた言葉の意味はまだ理解できない少女だったが、意図はなんとなく察したらしい。距離を置いて縮こまっていた妹へ駆け寄り、ぎゅっと抱き寄せて、上目遣いに猟師を見た。

 ――ふたり一緒なら。

 燃えるように赤い眼が、そう訴えているように見えた。

 かくして野生の双子は山を下り、老猟師と共に暮らし始めた。服を着た。調理された食い物の美味さを知った。屋根のある住まいや藁を敷き詰めたベッドの素晴らしさに酔い痴れ、言葉というものの面白さと必要性を痛感した。そして言葉によって互いを区別し想い合うこと――“名前”を得た。

 燃える赤毛の姉は緋女。

 ()おる銀髪の妹は游姫(ユキ)

 ふたりの姫。老猟師シバが付けてくれた名。

 義侠の男であった猟師シバは、双子を実の孫のようにかわいがってくれた。大自然の中では望むべくもなかった安心。緋女の、人好きのする明るい性格は、この時期に(つちか)われたと言ってよい。幼少期に注ぎ込まれた愛情がひとの自信を育む、その好例である。

 1年が過ぎ、2年が過ぎ、双子はすくすくと成長した。ふたりは猟師シバを無邪気な信頼で喜ばせ、またひどい悪戯で怒らせもした。学び始めが遅れたせいか言葉はあまり得意でなかったが、知能そのものは高く、技術の飲みこみも早かった。いずれ自分の跡を継がせよう、とシバが考え、狩人仲間の寄り合いに双子を連れて行くようになったのも自然なことであった。

 が、この行為が、思わぬ事態を引き起こすことになる。

 猟師シバと暮らし始めて4年後、双子が推定9歳になった頃。

 ひとりの女剣士がシバの山小屋を訪れた。

「よっ! おっちゃん久しぶりィ!」

 気さくに手を振る女剣士に、シバは薪割りの手を止めた。割った薪を運ぶ仕事をしていた双子が、来訪者にそれぞれの反応を見せる。緋女は好奇心で眼をらんらんと輝かせ、游姫(ユキ)は薪を放り出して姉の背中へ隠れこんだのだ。

 シバは暫時、いぶかしげに女剣士の顔を見つめていたが、やがてその目鼻立ちに古い知人の面影を見出した。

「や……? おまえ、まさかデク助か?」

「あっはっはー! また懐かしいアダ名ねえ。元気そうでよかったわ、シバさん!」

 女剣士デクスタは、苦笑しながら手土産の酒瓶を持ち上げてみせた。

 

 

   *

 

 

 緋女と游姫(ユキ)はたちまちデクスタに懐いた。

 なにしろデクスタは魔王と正面から渡り合った当代随一の剣士である。身体能力はほとんど超人の域にある。それが本気で鬼ごっこやら相撲やらの相手をしてくれるのだから、歯ごたえのない遊びに飽き飽きしていた双子の野生児にとっては最高の()()であった。

 庭で逃げ回るデクスタを、緋女が追う。游姫(ユキ)が待ち伏せる。ついにはふたりピタリと息を合わせて挟み撃ちを狙ってくる。9歳の子供とは到底思えない身のこなしと狩りのセンスに舌を巻き、しかしデクスタもさるもの、ひらりひらりと身をかわす。やがて双子が熱くなってくる。わざと隙を作ってやる。すぐさま緋女が足に絡みつく。動きが鈍ったところへ游姫(ユキ)が食らいつく。

「うわー! 捕まったー!」

 などと悲鳴を上げながら倒れるデクスタ。

 こうなれば、もう双子は夢中である。

「もーいっかいっ! もーいっかいっ!」

「……もーいっかい、もーいっかい」

 片や火のように元気よく、片や雪のように冷静に、同じことをねだっては、繰り返しデクスタに挑みかかった。

 こんな調子で日が暮れるまで遊び倒せば、夜は寝床に入るなり熟睡である。眠りながら無意識に犬に変身した双子が、互いの尻尾を絡め合ってあどけない寝息を立てている。その毛並みをひと撫でし、布団をかけているうちに、猟師シバが美味い(さかな)をこしらえてくれていた。川魚のつみれをネギ味噌で和えたものに、さっと塩茹でした初夏の山菜である。

「あらっ、コゴミじゃないの~! あたしゃコレが好きでねえ!」

「ガキの時分からツマミみてえな物に目がなかったよなァ。おら、(こっち)もイケるようになったんだろ?」

 と、猟師シバが酌をしてくれる。グッと一息に盃を空け、返杯する。清酒のふくよかな香気がふたりの頬をほころばせる。

「いい飲みっぷりだ。立派になったな、デクスタ」

「ふふっ……ありがと」

 デクスタと猟師シバは同郷の出である。都市国家レンスクの属領クー村……といっても知っている者はほとんどいない、辺境の山間部にひっそりと根付いた狩人の村だ。デクスタも代々猟師の家系で、幼いころから祖父に厳しく狩りの技を仕込まれてきた。シバはその修業時代に何かと面倒を見てくれた大先輩だったのだ。

 7年前、12歳で成人するや、デクスタは祖父と大喧嘩して村を飛び出した。猟師シバと顔を合わせるのもその時以来。この7年間にデクスタは剣士として修行を積み、卓越した技を身に着け、ついには魔王討伐という偉業を成し遂げ“剣聖”の名跡を継いだ。そのまばゆいまでの栄光が、猟師シバは嬉しくてならない。

「さすがは剣聖様だぜ」

 と、シバはベッドの中の双子へ目をやる。

「俺ァもう、あいつらの身軽さに身体がついていかねーんだ」

「ま、チャンバラより鬼ごっこの方が、ナンボか世の中の役に立つってもんよ」

「世界を救った英雄(ヒーロー)たァ思えねえセリフだな」

「やればやるほど見えてくるのよ。どんなに哲学的理屈で飾ろうと、しょせん(こいつ)は殺しの道具。あたしもロクな死に方はできないだろう……ってね」

「猟師も同じさ。罪深ェもんだ……」

「だから、拾った?」

 猟師シバの杯が一瞬、止まる。

「かも、しれんし……」

 不意に緋女がわうわうと寝言を言い、游姫(ユキ)がうにゃうにゃと寝言で答えた。シバは子供たちを見つめたまま頬を緩める。

「……単に潤いが欲しかっただけかもな」

 それからしばし、ふたりは無言で酒を交わした。猟師シバは学こそないが、勘働きの鋭さはどんな賢人にも負けない。デクスタが旧交を温めるためだけに来たのでないことは、とうに見抜いていたのだ。

「で。話は双子(あいつら)のことなのか」

 デクスタはきまり悪そうに頭を掻く。

「うーん……まいった」

「良くねえ話か」

「ものすごくね……」

 猟師シバが盃を置く。

「……聞こう」

「“失われし(まこと)のローア”」

 耳慣れぬ名を唱える剣聖の目は、すでに懐かしい知己へ向けるそれでなく、世界の命運を背負う英雄のものへと色を変えていた。

「あの双子は、あたしたちを滅ぼすために顕現した……人類の天敵かもしれないのよ」

 

 

(つづく)



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第18話-02 力ある九頭竜

 

 

 古伝承は語る。まだこの世に神々さえ居なかった頃、世界には3つの種族が繁栄していたと。

 源人(オリジン)

 (ヴルム)

 そして(ローア)

 3つの古代種は時に助け合い、時に殺し合いながらも、調和を保って共存していた。

 だがあるとき、世界に第4の存在が加わった。源人(オリジン)が思い描いた幻想(ファンタジー)の中から、神が生まれたのだ。

 概念の化身にして大自然の具現である神は、数え切れぬほどの恩恵をもたらした。農耕、冶金(やきん)、建築、医療、そして魔術……神に(まつろ)う道を選んだ源人(オリジン)の子らはいっそう栄え、やがてヒトへと進化していくことになる。

 しかし、神による支配を頑として拒む者たちもいた。(ヴルム)(ローア)の2種族である。

 彼らは種族中で最強の9頭を(おさ)に頂き、神に対して戦を仕掛けた。(おさ)たちの力はすさまじく、最上位の神ですら敵わぬほどだったという。一方で神々もまたしぶとい。ヒトの想いを力の源泉とする神は、この世に想いがある限り決して死なないのである。決着のつかぬまま戦乱は万日の万倍を万回重ねたよりも長く続き、いつしか戦いに()み疲れた両陣営は、全勢力を結集しての最終決戦を志向するようになっていった。

 この決戦で、多くの神々がその司る概念ともども滅尽し……

 竜獣の(おさ)たちも、9頭すべてが八つ裂きにされて死んだ。

 その死の間際、(おさ)は神々へこう告げたという。

「今は栄えるがよい、言葉から生まれし者たちよ。

 だが――()()()()()()()()

 肉の願いは常に我らと共にあり、必然、汝らも獣の(ことわり)からは逃れられぬ。

 楽しみにしておくがよい。我等は何度でも蘇る。(ローア)の中に。(ヴルム)の中に。そして他ならぬ、ヒトの血潮と肉の中にだ」

 後の世、悠久の時の流れの中で(ローア)の名は忘れ去られ、9頭の(おさ)はもっぱら最凶の(ヴルム)としてのみ語り継がれるようになった。

 人々が“力ある九頭竜(パワー・ナイン)”と呼び恐れているものが、それである。

 

 

狼亜(ローア)族の血統は1300年も昔、聖女トビアの従者ウルリカを最後に途絶えたわ。でも不思議なことに、その後も何度か(ローア)の出現が確認されてる。いずれも両親は狼亜(ローア)族と何の血縁もない人間や魔族……

 この事実から魔法学園はひとつの結論を導いた。

 『かつて神々に滅ぼされた“力ある九頭竜(パワー・ナイン)”が、何らかの術式によって定期的に転生を繰り返している』とね……」

 滔々と語られるデクスタの言葉を、猟師シバは押し黙ったまま聞いていた。いつのまにか彼の顔は横へ背けられ、乾ききった盃は机の隅へと追いやられていた。彼の拒絶が痛いくらいにデクスタへも伝わってくる。しかし口を閉ざすわけにはいかない。彼女は剣聖だ。人々を守るために戦うのが役目だ。

「あの双子もおそらく両親は人間のはず。変身能力のせいで化物扱いされて、赤ん坊のころに山へ捨てられた……とか、まあそんなとこでしょうね。皮肉なもんよ、その力のおかげでここまで生き抜くことができたんだから」

「どうするつもりだ」

 山刀で切りつけるようなシバの問いに、デクスタは苦しげに目を伏せた。

「あの子たちを学園で預かりたい。“力ある九頭竜(パワー・ナイン)”の力が伝説通りなら、1頭でも充分に世界を滅ぼしうる。最悪の事態になるまえにあの子たちの中にあるものを調査して、危険であれば手を打たなきゃ……」

「書生どもの実験道具にしようってのか」

「そんなことさせない。苦痛も与えない。楽しく暮らせるよう最大限努力する。もしその気があるなら学校にだって通わせて……」

「あいつらに()()()()()()()ってんだろーがッ!」

 思わず口をついて出た怒声。猟師シバはハッと我に返り、ベッドの双子へ慌てて目をやる。緋女が寝返りを打ち、游姫(ユキ)がもぞりと身じろぎしたが……それだけだった。どうにか起こさず済んだらしかった。

「……帰れ」

「シバさん……」

「帰ってくれ。お前とケンカはしたくねえ」

「……わかった。でも最後にこれだけは言わせて。

 300年と少し前……ひとりの(ローア)が覚醒し、人類を絶滅寸前にまで追い込んだわ。その時は異界英雄セレンと六使徒の力で事なきを得たけど、奴の力と意志は今もなお世界を脅かし続けてる。

 その名は“真竜(ドラゴン)”――あるいは魔神《悪意(ディズヴァード)》。

 あの子たちの中に眠ってるのは、それと同等の存在なのよ……」

 何も答えない猟師シバを残して、デクスタは山小屋を後にした。

 魔法の灯りを頼りに夜の山道を下りながら、彼女は何度も山小屋を振り返った。

 シバが動揺するのも無理はない。家族同然に過ごしてきた子供たちが実は化物かもしれない、といきなり言われて受け入れられるほうがどうかしている。だがこのままにしてはおけない。幸い、シバは話の分かる男だ。時間をおいて、彼の気持ちが落ち着いたころにまた訪ねてみるしかない……

「嫌な役目だわねえ」

 デクスタは満天の星空を仰ぎ見る。

「こんなことのために腕を磨いたわけじゃ、ないんだけどねえ……」

 

 

   *

 

 

 それ以来、シバは双子を人前へ出さなくなった。

 普段山中で暮らしている猟師でも、取引のために里へ下りることは無論ある。狩人仲間との連携も欠かすことはできない。いずれ双子を跡継ぎとするのなら、今のうちから交渉や寄合を体験させておくのは必要なことだ。だからこれまでシバは何度も里へ双子を連れていき、狩人仲間や取引先にも紹介していたのだ。

 だが教育のつもりでしたこの行為が、彼女らを危険に晒してしまった。“獣に変身する不思議な双子”の噂話から、魔法学園は彼女らの存在を察知したのだ。となれば、他にも気づいた連中がいるのではないか? あの双子がデクスタの言うような恐るべきもの、言い換えれば価値あるものであるならば、もっと強引な方法で狙おうとする者も現れるのではないか?

 ここはもう、危険だ。

 そう判断したシバは、大急ぎで引越しの準備を始めた。幸い彼は猟師。山さえあればどこででも暮らしていける。問題は新たな住居を確保することと、移住先の猟場で狩猟権を得ることだけ。伝手(つて)を頼って方々に交渉し、どうやらよい反応を得たと見えて、ひと月も経たぬうちにシバたち一家は忽然と姿を消してしまった。

 

 

 しかし、その年の冬。

 新しい土地にようやく身体が馴染み始めた頃。

 やつらは現れた。

 新居で朝餉の支度をしていたとき、突如、奇妙に不安な物音が頭上から響いてきたのだ。シバは素早く窓際に貼り付き、細く開けた木窓の隙間を覗き込んだ。

 上空に3頭の()()が泳いでいる。輸送用空艇魔獣“コバンザメ”――木々と納屋とを雑に圧し潰しながら着陸したその船体から、ピンとした身なりの男が、大勢の兵隊を伴って降りてくる。

「隠れろっ。ベッドの中だ」

 シバは声を押し殺しながらも厳しく双子へ命じた。双子は経験のない事態に、わけもわからず硬直している。

「早くしねェか!」

 その一喝で双子は飛び上がり、先を争って寝藁の中にもぐりこんだ。児戯のような隠れ場所だが、それでも少々時間を稼ぐことはできよう。ふたりの姿が完全に見えなくなったのを確認すると、シバ自身は愛用の弓矢と槍をとり表へ出た。玄関先へ仁王立ちして正体不明の来訪者どもに対峙した。

「なんでェ、てめえら」

 相手の男は眼鏡の裏で柔和な笑みを浮かべている。

「こんにちは! わたくしコープスマンと申します者で。こちらに()()()()()()()お子さんがいらっしゃると、小耳にはさみましてねえ……?」

 “企業(コープス)”の代理人(エージェント)、コープスマン。彼が指を鳴らすと、後ろに控えた部下たちが足元へドンと金塊を積んだ。

「実はその双子ちゃんをスカウトしに参ったのですよ」

「スカウトだァ?」

「いやー今のご時世、有能な人材はどこへ行っても取り合いでして。青田買いと言っては聞こえが悪いですが、大人になってからの雇用をお子様のうちに約束させていただければ、そちらは将来安心、こちらも良質な人材を確保できてまさにWin-Win! 金塊(これ)はほんの契約金でございまして……」

 だがシバは金を一瞥し、鼻で笑った。彼の手はすでに弓の弦にかかっている。

「ひとン()の納屋ァ()っ潰しといて何ぬかす」

「あらっ? おや。あははーっ、こりゃ失敬。では損害賠償と慰謝料を上乗せいたしまして……」

「ナメてんのかッ!」

「いーえいえいえいえいえとんでもない! むしろそちらさまを尊重しておりますので! 当社といたしましてはいくらお金を積んでも惜しくないという気持ちなのでございますよ。双子さん揃ってご入社いただけましたら莫大な給与に充実の福利厚生、週休2日と年2回の長期休暇が保証されたうえ家賃補助・医療補助からお誕生日のお祝い金に至るまで、可能な限りの手厚い待遇を……」

「嘘だな」

「ほんとです」

「ほんとに高待遇で迎えようなんてェつもりなら、軍隊チラつかせて脅す必要がどこにある?」

「おっと? ……これは鋭い」

 コープスマンが他人事のように目を丸くする。

 この態度が真相を物語っている。“企業(コープス)”が求めているのは人材などではない。実験動物だ。貴重な魔物としての(ローア)、デクスタが言っていた“力ある九頭竜(パワー・ナイン)”とやらいうものだ。

 そんな連中に大事な家族を渡せるわけがない!

「失せろッ!! なんでも金で買えると思ってんじゃねェぞコラァ!!」

 激高したシバが弦に矢をつがえ、まっすぐにコープスマンの心臓へ狙い定める。

「ま、確かになんでもお金で買えるわけじゃあありません」

 コープスマンは残念そうに苦笑し、人差し指でコリコリと頭を掻いた。

「が……なんでも手に入るだけの()()は、お金で買えちゃうんですなあ」

 その瞬間。

 四方から殺到した《光の矢》が、シバの身体へ針山の如くに突き立った。

 一瞬にして手足の腱を貫かれ、肺と喉とを焼き潰され、矢を放つことも、逃げろと叫ぶこともできぬまま、シバは倒れた。虫の息の彼を平然と踏み越え、“企業(コープス)”の軍勢が家へ侵入する。ほどなく双子が発見され、わずかな格闘の物音があり、やがて……網に捕らわれたふたりの少女が引きずり出されてくる。

 網の中から、緋女は見た。游姫(ユキ)は見た。優しかったシバが。温かかった()が。冷たい屍と化して倒れている。“企業(コープス)”が、()が、シバの死体を踏みつけにして通り過ぎていく。

 憤怒の炎が、緋女の(うち)から湧いて出る!

 その瞬間。

 緋女をヒトの枠に()め込んでいた(たが)が、音を立てて千切れ飛んだ。

 

 

   *

 

 

 ――遅かった。

 ようやく尾根まで登り切ったデクスタは、その向こう側の光景に絶句した。息を落ち着けることも汗をぬぐうことも忘れ、呆然と眼下の地獄を見渡した。一面に広がる焦土。あらゆる草木が消し炭ひとつ残さず燃え尽き、土は飴の如く融けて固まり、高熱によって生成された硝子(ガラス)が夕陽を受けて残り火のように(きら)めいている。生命はない。痕跡さえない。ただ死と空虚だけを孕んで地平の果てまで延々続く、美すら感じさせる異形の世界……

 目覚めてしまった。あの双子のどちらか――あるいは両方の中に眠る、“力ある九頭竜(パワー・ナイン)”の力が。

 シバが秘かに住まいを変えた後、デクスタは必死に彼の行方を捜していた。さすがにシバは熟練の狩人、居所を見つけるのは容易なことではなかったが、諦めるわけにはいかなかった。馬鹿な連中が余計なことをしでかす前に、どうにか双子を保護しなければ……その一心で捜索を続け、ようやく足取りを掴んだ時には、もう全ては終わっていた。

 ()()()から突如噴き出た超常の業火が、3つの山と1つの川、周辺十数村と都市国家レンスク、そこに住まう鳥獣虫魚と人間のことごとくを、一夜にして滅却したのだ。

 雪が降り始めた。

 赤熱する大地を慰め潤すかのように、しんしんと雪が降り始めた。

 固くデクスタは拳を握る。

 ――なにが剣聖だ。なにが英雄(ヒーロー)だ。

 それは、かつて親友が漏らしたのと同じ弱音。

 ――だから戦う。でも……なにと?

 

 

(つづく)



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第18話-03 愛の火を探して

 

 

「情緒の獣が人間として生きるなら、折り合いの首輪を受け入れるしかないのだ。

 それが解らぬ貴公でもあるまい……剣聖デクスタ」

 デクスタは剣のように背筋を立て、薄暗い部屋の中心にじっと佇んでいた。セレン魔法学園が寄越した詰問の使者たちは(まばた)きもせず、およそ人間味を感じさせない無表情を剣聖へ向けている。デクスタの顔色、息遣い、髪の一房(ひとふさ)の微かななびきに至るまでを、一切見逃さぬよう目を凝らして。

「あの双子、失われし(まこと)のローア」

「“力ある九頭竜(パワー・ナイン)”が一柱……全てを飲みこんでなお飽き足らぬ貪食の業火、“火目之大神(ヒメノオオカミ)”」

「その顕現であることはもはや疑う余地もない」

企業(コープス)どもが目を付けたのも確信あってのことだ」

「奴は世界を滅ぼしますぞ、剣聖!」

 次第に熱を帯びていく使者たちの“説得”。諸国の王をすら黙らせてしまう学園の権威にも、デクスタは眉ひとつ動かしはしなかった。静かに眼を伏せたまま、鋭く一声、問い返したのみだ。

「――殺せと?」

「それが最善。次善はこれ」

 使者のひとりが席を立ち、剣聖デクスタへひとつの呪具(フェティシュ)を差し出した。

 首輪、である。希少な鉄剣竜(フェラム・ヴルム)の皮革で作られた黒い首輪(チョーカー)。留め金は巨人鋼製で、中心には超純ホタル石の小さな結晶が吊るされている。一見すれば単なる装飾具。しかしこれには、世界最高の術士たちの手になる強力な呪詛が編みこまれている。

「“折り合いの首輪”。身に着けた者の全筋力と魔力を封じ、暴走を完全に防ぎます」

「そして()()()に生きていけと言うの。立つことも、話すことも、食事も排泄も自分ではできない肉の牢獄へ、9歳の子供を閉じ込めたまま……」

「遺体さえ残さず滅却されたレンスクの住人1万2千、その無念を思えばこれでも軽い。人類(われわれ)にできる最大限の妥協です……お辛いなら、実行はこちらで」

 デクスタは目を開けた。

 首輪。人が背負った業の象徴。この世の醜さを煮詰めた澱。人類が快適に生き延びるという大正義のためならば、子供ひとりがどのような地獄を味わおうと構わない……そんな吐き気のするような生物種としての本音を、あからさまに体現する呪物。

「あたしがやる」

 使者の手から、デクスタは首輪をむしり取る。

「そのかわり……ひとつ約束してもらうわ」

「は?」

 眉をひそめている使者を、デクスタは切りつけるかの如くに()めつけた。

 

 

   *

 

 

 あれから3日。収まるどころか刻一刻と激しさを増す吹雪の中を、双子はひたすら逃げ続けた。

 猟師シバの死を目の当たりにしたあの時、緋女の中にいた怪物が目覚めた。彼女の口から、髪から、目から、手から、皮膚のあらゆるところから、一斉に真紅の炎が噴き出し、生きた獣の如く周囲を暴れ狂って、20余りもいた敵を一瞬で()()させたのだ。

 その後なにがどうなったのか、緋女自身にも分からない。ただ無限に湧き出る猛烈な憤怒に突き動かされ、ひたすら叫び続けていたことしか覚えていない。ふと気が付くと、渦巻き状に融け固まった焦土の中心で、游姫(ユキ)が自分を抱いてくれていた。

 炎はいつのまにか消えていた。

 ふたりはすぐさまその場を離れた。久しく忘れていたこの感覚……野性の勘が、ここに留まっては危険だと告げていた。敵は明らかに緋女と游姫(ユキ)を狙っていた。なら、きっとまたやってくる。その前に少しでも遠くへ逃げ、身を隠さねばならない。幸い双子には、犬に変身する能力がある。野山で鍛えた足腰がある。走ることなら大得意だった。

 しかし誤算があった。この吹雪である。猟師シバは移住先として故郷にほど近い北方の辺境を選んだが、その寒さは双子にとっては未経験のもの。犬は寒さに強い、といっても限度はある。猛烈な寒気がふたりの体力を容赦なく奪い、ついに游姫(ユキ)は雪山の真ん中でうずくまってしまった。脚が凍傷になりかかっている。これ以上は走れまい。しかし足を止めれば敵に追いつかれる。

 ここで幼い緋女は必死に考えを巡らせ、どうにか対策を捻り出した。

 人間の姿に戻って、妹を背中に担ぎ上げたのだ。

「よーし! やるぞー!」

 ふーっ!! と力強く鼻息吹いて、緋女は再び歩き出す。

 緋女の血肉は野生のたくましさで出来ている。()り潰さんばかりに叩き付ける吹雪、執拗に足腰へ絡みつく積雪、猛禽の(くちばし)さながらに切り立った山肌。環境全てが敵に回るこの状況で、しかし緋女の胸に湧く感情はただ、闘志。嵐が迫れば我が身を妹の盾となし、妹が倒れれば自らの疲労も忘れて背に()ぶう。疑問も愚痴も頭に過ぎりさえしない。それが緋女という人物なのだ。

「……おねえちゃんの熱血は、わたしにはちょっとあつすぎる」

 と、游姫(ユキ)がこぼした苦笑の意味も、緋女にはもうひとつ飲みこめない。

「どうゆういみ?」

「いいの」

「あ! バカにしてんだあ? ねえちゃんアホってェ」

 唇とがらせる姉が愛しくて、すがりつく腕に力がこもる。

「尊敬してるの」

「わかんない!」

「すきってこと……」

 游姫(ユキ)の息が耳にあたり、緋女はくすぐったそうに笑った。

 真っ白な吹雪の壁に包まれ、ここには姉妹ふたりきり。ずっとこのままでいられたらいい、と游姫(ユキ)は思う。だがそれが叶わぬ願いであることは分かっている。シバから習った狩人の技で、ふたりは足跡をごまかし、匂いを消し、わざと見当違いの方向へ痕跡をつける工作もした。知りうる全ての手段を駆使してここまできた。だが敵はそれでもふたりの背中へついてきている。執念深く、じわじわと、しかし確実に距離を詰めてくる。諦めるつもりはないらしい。

「おねえちゃん」

「ん?」

「シバさん、しんじゃったねえ」

「しんじゃったねえ……」

「しんだら、どうなる?」

「んー……」

「どこ、いくのかな、わたしたち……」

「しなせないもん」

 緋女は己自身の不安を踏み潰すかのように、力任せに雪を踏み締めた。

「しなせないもん!」

 そのときだった。

 不意に游姫(ユキ)の身体が強張った。その異変を緋女もまた背中を通じて感じている。緋女が足を止めてふり返る。その耳元で游姫(ユキ)が声を震わせる。

「きた」

 奴らだ。敵だ。姿は見えない。匂いも音も感じない。だが游姫(ユキ)の感覚は、緋女のそれを遥かに上回って鋭敏だ。彼女が来たと言うからには、相手は確かにそこにいる。

「よし」

「こわいよ、おねえちゃんっ……」

「こわくない!」

 そんなわけない。だが緋女の中のいささか暴走気味な勇気が、恐怖など存在しないのだ自分自身に思い込ませた。そしてひとたび思い定めれば、どのような客観的事実にも増してそれが真実。

 緋女の頭脳、というより野獣の直感が、ここではまずいと叫んでいた。こうも開けた場所では簡単に見つかってしまうし、魔法や弓矢で狙うのも簡単だ。もっと身を隠す物のある場所がいい。ざっと辺りを見回すと、少し離れたところに大きな岩がひとつ見つかった。妹を背から降ろして岩を指差す。

「はしれ」

「でも」

「うるせーいけっ!」

 一喝に怯え、妹が雪玉のように(まろ)びながら岩の影へと逃げ込んでいく。

 緋女自身は背後を振り返り、雪を踏み締めて敵を待ち受けた。()()、と己の中の()()へ呼びかける。輝くような赤毛を逆立て、瞳を炎そのものの如くに燃やし、満々に吸い込んだ息で胸をふたまわりほども膨らませ、激情の熱を制御不能の領域にまで引き上げていく。

 悟っていたのだ。たった一度の暴走で、自分の中にとてつもない化物が潜んでいることを。学んだのだ。実体を持たぬ精神の力でしかないはずの感情を、“こちら側”へ顕現させる方法を。理屈でも理論でもなく、ただ経験と感性のみによって。そして求めてしまった。

 ――()()

 己の情念という幻想、我が身すらも焼き滅ぼす貪欲の炎、その再臨を。

 ――()()()()()()()()!!

 吹雪の(とばり)の向こう側で、敵が魔術の凶光を閃かせる。

 その瞬間、()()が緋女の願いに応えた。

 

 

 “企業(コープス)”の追跡部隊は足を止めた。ネズミの頭を持つ異形の術士が3人と、大鬼なみの巨躯を誇る戦士が4人。忌々しい禁呪によって“企業(コープス)”が生み出した怪人たちだ。

 彼らは捜索3日目にしてついに双子を発見し、すぐさま予定通りの行動に移った。ネズミ頭の術士が遠距離から《光の矢》を打ち込み、足止めしたところで鬼人戦士が近づいて捕えようとしたのだ。殺しさえしなければ手足の1本や2本もいでもよい、と指示されている彼らに躊躇はない。

 だが《光の矢》が炸裂し、その閃光が収まったところで、彼らは予想だにしなかった事態を目の当たりにして硬直した。

 緋女がいない。

 《光の矢》は確かに緋女の脚に命中したはずだ。動けるはずがない。仮に死力を振り絞って逃げたとしても、あの一瞬ではほんの数歩すら進めるはずがない。鬼人戦士たちが駆け寄り、辺りを確認する。雪の中へ埋もれたのでもない。坂の下へ転がり落ちたのでもない。正真正銘、忽然と消えた。手負いの子供が、一体どこへ――?

 困惑した怪人たちが、互いに顔を見合わせた……そのとき。

 くぐもった悲鳴が、吹雪の中にこだました。

 全員の視線が声のした方へ集中する。

 そこに()がいた。

 燃えるような赤毛は今や本物の火炎に姿を変え、全身の皮膚から立ち上る火は豪風の中でうねり狂い、口から洩れる呼気は灼熱の陽炎となって漂い流れる。だらりと伸ばした腕の先には、鷲掴みにされた鬼人戦士の首。完全に炭化したその首が、ぼろりと崩れて転がり落ちる。

 絶句する敵へ向けて、

「オオォォォォォオアアアアアアッ!!」

 緋女の咆哮がほとばしった。

 緋女が跳ぶ。姿が消える。鬼人戦士が剣を構えるより速くその首元に緋女は取りつく。直後、緋女の手を通じて恐るべき高熱の火炎が鬼人の身体へ燃え移り、たちまち全身を包み込む。絶叫。人の脂の焦げる匂い。みるみるうちに炭と化す鬼人。融け、蒸発し、川を為しはじめる足元の積雪。戦慄する敵を睥睨(へいげい)し、緋女は次の獲物へ跳ぶ。悲鳴が起きる。怒号が飛ぶ。殺意と敵意と悪意の中を縦横無尽に緋女は駆け抜け、次々に敵を消し炭に変えていく。

 その姿はまるで、いくら喰っても満たされぬ、無限の餓えに駆られた野獣のよう。

 震えあがるネズミ頭を、緋女の炎眼が捉えた。

 

 

 少し離れた空の上、空艇魔獣コバンザメの船室で、呑気にナッツなどつまみながら、コープスマンはその光景を眺めていた。望遠鏡を覗き込む彼の眉が呆れたふうに持ち上げられる。

「あーあ、見ちゃいられないなァ。現場のひとに伝えてくれる?」

「どのように?」

 コープスマンは望遠鏡を下ろし、部下へ気さくな作り笑いを向けた。

「『難しい仕事に取り組むコツは、簡単なとこからやっつけることだよ』……ってね!」

 

 

 最後の1人が身体を火炎に包まれ、絶叫しながらのたうち回るのを睨みつつ、緋女は炎色の息を吐く。

 その耳へ甲高い悲鳴が届いた。弾かれたように振り返る。吹雪の向こうにかすむ大岩の下に、敵の別動隊の影が見える。そのうちのひとり、鬼人戦士の腕の中には、羽交い絞めにされた游姫(ユキ)の姿がある。

 “企業(コープス)”の狙いは(ローア)の入手。双子の最低限どちらか一方を確保できればそれでいいのだ。ならば暴れまわる緋女よりも、未覚醒の游姫(ユキ)を狙う方が遥かに安全で簡単ということだ。

 緋女は吼えた。四つん這いになって駆け出した。走りながら身体が勝手に変身していく。手足に鉤爪と体毛が生え、頭の後ろへ三角耳が伸び、口元からは刃物のような牙がせり出した。だが胴体や顔の大部分は人間の特徴を残したままだ。

 緋女にはもう、自分というものが分からなくなりつつあった。人、獣、そして炎、3つのかたちの境界線が次第に曖昧になり、全ての形質をないまぜにした、何物ともつかない異形のものへと変化を始めていた。だが緋女は自分の変質に気付かない。気付けない。

 なぜなら緋女には、言葉が足りない。

 炎獣人と化した緋女が、わめきながら飛びかかる。

 だが敵は既に緋女の捕獲を諦めている。游姫(ユキ)を捕らえた鬼人は後退し、他の者が進み出て壁となる。どうする!? と判断に迷って一瞬足を止めた緋女へ、左右からネズミ頭たちの魔術が飛来する。咄嗟に身をかわす緋女。さらに追いすがる《光の矢》の連射。そうこうするうちに游姫(ユキ)は空艇魔獣へ運び込まれようとしている。

「おねえちゃん!!」

 泣きわめいた游姫(ユキ)を、鬼人が平手打ちして黙らせる。ただの平手でも、あの丸太のような腕で叩き付けられればどうなるか。意識朦朧とした游姫(ユキ)がぐったりと手足を落とす。抵抗しなくなった少女の身体を、鬼人が満足げにぶら下げていく。

 緋女が爆発した。

 憤怒、激怒、激高、憎悪、殺意、どんな言葉でも表し足りぬ()が、爆発した!

 赤が弾けた。炎が跳んだ。敵が燃える。融ける。骨まで残さず蒸発する。もはや高熱と呼ぶのもおこがましいほどの超常の熱が周囲の万物を滅却していく。怪人どもは何が起きているのかすら分からず、なすすべもなく片っ端から蒸気と化していく。游姫(ユキ)を抱えていた鬼人が恐怖に駆られて緋女を振り返る。その顔面へ一直線に突っ込んでいく。鬼人の体液が沸騰する。

 情念の火が、あらゆるものを焼き尽くす。

 敵も。世界も。

 そして。

「あつすぎる」

 この世でたったひとりの――妹さえも。

 ようやく鬼人の腕から奪い返した我が妹を、緋女は抱きかかえ、呆然と見下ろした。白雪のように清らかな游姫(ユキ)の肌。その上へ黒く焦げ目が走りだす。寝床のように心地よい游姫(ユキ)の背中。そこへ真紅の炎が燃え移る。緋女からほとばしり出た情念の熱が、游姫(ユキ)の身体を焼いていく。

「あつすぎるよ、おねえちゃん……」

 寂しそうに、苦笑して。

 游姫(ユキ)は骨になり、蒸発して、消えた。

 

 

「撤収」

 望遠鏡を覗いたまま、コープスマンが淡々と言う。

「撤収ですか?」

 思いもよらない急な指示に部下が戸惑う。コープスマンは一瞥もくれない。

「死にたくなければね」

 

 

 その直後、緋女から――否、緋女()()()()()から噴き出た火炎が、見渡す限りの天地万象ことごとくを消し飛ばした。

 

 

(つづく)



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第18話-04 絆

 熱風渦巻く夜空をどうにかうねり進む空艇魔獣“ハンマーヘッド”。その白い腹が、不気味な緋色の光を浴びて明滅する。絶え間なく振動し続ける船室には、窓へ貼り付いた剣聖デクスタ。彼女の眉が痛恨に歪む。一文字に縛った唇の奥で奥歯が軋む。

 地上(した)で、炎が()いている。

 “炎は獣。ひとたび牙剥けばもはや止まらぬ。世の万象を喰い尽くすまで”

 古伝承が語るその警句を、デクスタは焼け付くような苦渋の中で思い起こしていた。大気さえ凍り付くはずの極北の冬に充満する熱気。山肌を一面に覆っていた銀雪はことごとく融けて滝川を為し、あちこちで起きる爆発が超高温の蒸気を間欠泉めいて噴出させる。ついには足元の土砂までもが飴の如くに歪んで流れ出し、大地を、山を、溶岩の沼に変えていく。

 “企業(コープス)”の後先考えない干渉がために、緋女は完全に炎を暴走させてしまった。これが、この熱が“(ローア)”の真の力。あの子の情火――魂の叫びなのだ。

 デクスタは地上の一点へ視線を張り付けたまま、操縦席の術士へ叫びかけた。

「もっと寄せて! 火の中心部へ!」

「無茶ですよ、船体が燃えてしまう!」

「高度をあげればいい! できるでしょっ」

「いいんですね? ……知りませんよ!」

 炎が巻き起こす予測不能の突風にたびたびあおられながら、なんとかハンマーヘッドは火災中心部の直上へとたどり着いた。乗り込み口を蹴り開け見下ろせば、地面は目もくらむほどに遠い。だがデクスタは、恐れるそぶりさえ見せずに太刀やら荷物鞄やらを身に着け始めた。術士の顔が青ざめる。

「なにするつもりですか、剣聖!?」

首輪(コレ)()めれば炎は止まる。学園の最高傑作じゃなかったかしら?」

()められればの話でしょう! あんな炎に飛び込めば、いくら貴方だって……」

 ほとんど泣き叫ぶように制止する彼へ、デクスタはおどけてウィンクなどして見せた。

「“誰が猫に鈴をつけるのか”……ってね!」

 そして、とうっ! と気炎を吐くや、船の外へ飛び出した。

 眼下に広がる火炎地獄へ真っ逆さまに落ちながら魔術を発動。まずは防火に《水の衣》。さらにギリギリまで地面を引き付けておいて《重力軽減》。融解しぬかるむ地面へ流星の如く着陸するや、デクスタは雷光の速さで駆け出した。

 立ち止まっている暇はない。彼女の魔術の腕は並以下、術式の出来も褒められたものではない。周囲の恐るべき高熱で《水の衣》は早くも破られはじめている。猶予は長く見つもって、あと10秒。

 走る剣聖の左右から、業火が蛇のようにしなって襲い掛かった。だが彼女は止まらない。太刀風唸らせ、炎を千々に斬り散らし、速度を緩めもせずに駆け抜ける。

 しかし斬っても斬ってもキリがない。炎はデクスタの動きへ呼応するかのように次々噴き上がり、行く手を塞ぐ壁となる。

 ()()()()、とデクスタは直感した。この炎には意思がある。デクスタの接近に気付き、火の壁を立てて拒絶しているのだ。

 逆に言えば――この道で正解!

「どっおりゃあ―――――っ!!」

 気合一閃、デクスタは正面の炎壁を切り裂いて、業火の最奥へと侵入した。

 思ったとおり。そこで“炎”が、()いていた。

 “炎”。そう、炎と呼ぶしかない姿だ。辛うじて全身の輪郭が少女の形を留めてはいる。牙や耳や手足の爪が獣の本性を物語ってはいる。だが、全身から(ほとばし)る炎に絶え間なく自身を焦がされながら、火傷の激痛に泣き叫び続けるその姿は、もはや生物のそれではない。神でもない。魔でもない。もっと素朴で、もっとありふれた、誰の心にも眠っている愛の火。誰だって自分の想いの熱量に我が身を焼かれたことはある。これはその――最悪の具現なのだ。

 “炎”は腕をわななかせ、胸の前の虚空を必死に抱き寄せようとしていた。炎色の涙を流す緋女の目が、そこに何を見ているのか。あの腕が、一体何を取り戻そうとしているのか。言葉はなくとも分かる気がした。何が彼女をこうまで狂わせてしまったのか、その仕草ひとつでデクスタは察してしまった。理解してしまった。分かってしまった。

「でもね」

 デクスタは胸を息で満たす。

「それでも“大人”は、やるしかないのよ!!」

 咆哮とともにデクスタが走る。光を思わせる超高速の踏み込みで瞬く間に緋女の眼前へ肉迫する。ここでようやく緋女が反応を見せた。怯え、恐怖、それを塗り潰すための悲痛な敵意が、実体ある炎となって噴き出し、緋女の全身にまとわりついて鎧と化す。その姿はさながら火炎の巨狼。巨狼が唸る。灼熱の牙を剥きだし迫りくる。

 対してデクスタは、反射的に太刀を握り締め。

 直後、()()()()()()

 予想外の行動に戸惑いながら、それでも巨狼は剣聖の首へ喰らい付いた。ついにその火力を防ぎきれなくなり、《水の衣》の術式が崩壊した。凄まじい熱気が一挙にデクスタへ襲い掛かる。肌が焦げる。炭化する。それでもデクスタは攻撃しない。少女の魂の熱量を、あるがままに全身で受け止める。

 生きながら身体を焼かれる激痛に襲われていたはずだ。死の恐怖に魂をえぐられ続けていたはずだ。それでも、にやり、と不敵な笑みを口元に浮かべ――

 ――“大人”のやることなんて、ひとつでしょ。

 デクスタは緋女を抱きしめた。

 炎が止まった。

 困惑が火炎を通じてデクスタの肌にも伝わってくる。緋女を守っていた炎の鎧が一瞬緩み、その隙間に、素裸の肌がさらけ出された。

 ――今なら!

 好機を見出した途端、デクスタの手が走った。“折り合いの首輪”を少女の首へ巻き付け、流れるように留め金を()めた。

 緋女の身体が小さく痙攣した。口から弱々しく啼き声が漏れた。

 炎が急速に薄れ始めた。地を焼いていた火炎は風に吹かれ、寒気に冷まされ、みるみるうちに雲散霧消していく。明々と照らし出されていた天に、漆黒の夜が戻ってくる。緋女は意識を失い、その場に崩れ落ちた。デクスタが慌てて手を伸ばし、倒れる寸前で抱きとめる。が、そこでデクスタ自身にも猛烈な痛みが走り、支えきれなくなって、ふたりもろともに転がり倒れた。

 終わった。

 とにかくどうにか、火は止まった。

 もはやデクスタには立ち上がる気力も残っていなかった。何しろ身体は半分以上炭になりかかっているのだ。今まで動けていただけでも奇跡のようなものである。

 しばらくそのまま仰向けに寝転がっていると、遠くから術士たちの歓声が聞こえ始めた。誰かが残り火の消化を命じ、他の誰かがデクスタの名を呼ぶ。デクスタは倒れたままパタパタ手を振り上げる。

「こ~こよ~」

「あっ……剣聖! ご無事で!?」

「あんま無事って感じじゃないわねえ」

 なんとも気楽な調子で答えるデクスタへ、術士が魔法の光を向ける。彼女の身体のありさまを直視し、術士が「うっ……」と低く呻く。

「おい! 《大治癒》ができる者、全員来い! 《復活の奇跡》も……最優先だ急げっ!!

 ……お疲れ様でした、剣聖。これは偉業ですよ。あなたはまた世界を救ったんだ!」

 興奮気味の術士へ、デクスタは疲れた果てた顔で、どうにか笑みを作って見せた。

 治療の術を受けながら、デクスタは、己の腕の中でいまだ眠り続ける少女へ視線を落とした。その首には、しっかりと首輪が()められている。どんな外力によっても断ち切ることのできない首輪。魔力も筋力も完全に封印し、ひとを物言わぬ人形へと変える呪物。

 これでもう、二度と“炎”が暴走することはない。だがその代償に、この子は生きる力を失った。歩くことも、喋ることも、手を伸ばして物に触れることもできない。ベッドの上で誰かに世話されながら、一生涯の退屈をやり過ごすことしかできない。

 これが()

 少女を社会へ縛り付ける首枷。

 デクスタは腕に力を籠め、小さな緋女を抱きしめる。

「大人の都合を……押し付けてごめんっ……」

 唸るように囁かれた慚悔は、幸いにか、呪わしいことにか、周囲に聞きとがめられることはなかった。

 

 

   *

 

 

 それから2ヶ月。

 緋女は毎日ずっと天井を見ていた。ベッドの上に手足を投げ出し、枕の中へ頭を沈めて、ひたすら木目の流れを追っていた。

 好きで見ていたわけではない。寝たくて寝ていたわけではない。魔法学園が技術の粋を凝らして創った“折り合いの首輪”は、十全にその力を発揮した。手も、脚も、首も、指も、舌ひとつすらも、緋女は動かせなくなっていたのだ。辛うじて操れるのは(まぶた)と唇のみ。それもごくゆっくりと、重い石材を引きずるかのように開け閉めするのが精一杯。

 体中ひどい火傷になっている、と聞かされてはいたが、皮膚の感覚が失われたから痛みらしい痛みもない。まともに咀嚼(そしゃく)できないから、食事はゆるい粥を流し込んでもらうしかない。排泄欲も排便の感触もないまま汚物が垂れ流しとなっていることは、時折取り替えてもらうオムツの匂いでそれと知るのみだった。

 こうなってしまえば、肉体なぞは重荷に過ぎない。無意味な生をこの世へ繋ぎ止める脱出不可能の牢獄に過ぎない。

 息を吸い、吐き、(まぶた)を開き、そして閉じ、匂いが鼻まで来てくれるのを待ち、遠い遠い話し声に耳を傾け、そこに交じれない疎外感だけを味わう。

 これが、自分。

 これが、人生?

 これが、いのち……

 肉の中で生きていく、ということ……

「緋女ーっ! おっまたせ! お昼ご飯ができたわよーん!」

 陽気に声を弾ませながら、剣聖デクスタがやって来た。胸には似合わないエプロンを着け、手には粥の皿をつまんでいるのが視界の隅に見える。ベッドの脇に椅子を引き寄せ腰を下ろし、緋女の上体を助け起こし、背の後ろに丸めたクッションを挟んで支え、

「お腹空いたでょー? 今日のは最っ高にうまくできたと思うのよね! お口に合えばいいんだけど!

 はい、あーん」

 などと口走りながら、粥の匙を口元まで運んでくる。

 この2ヶ月、ご丁寧に毎日毎日、繰り返し続けた行為。耐えがたい空腹がために受け入れるしかなかった媚態だ。だが緋女はこの日、口を開こうとはしなかった。

 固く唇を結んだまま、じっと、壁の染みを睨んでいた。

 吐息の漏れる音。

 遠い梢の鳥の声。

 匙が皿の上へ戻され、小さく鳴った。

「……ま、お腹が空かない日もあるか」

 見当違いの作り笑い。デクスタはそばのテーブルに皿を置き、今度は他愛もないおしゃべりを始めた。今日はあったかいわね、とか。いよいよ梅のつぼみが膨らみだしたのよ、とか。最近このあたりに野良犬が迷い込んできちゃって、とか。どうでもいいことを、一方的に。うるさいと思っても、鬱陶しく感じても、拒絶する方法さえ緋女にはない。黙らせるための声も、逃げ出すための足も、既に失われた。保護者(づら)のこの女が満足するまで耳ざわりな雑音を我慢するしかない。話は続く。とりとめもなく。言葉は響く。ただ空虚な部屋の中にのみ。

 思いは届かない。緋女の心は、閉ざされている。

「……おっと。今日は出かける用事があるんだったわ」

 ようやくデクスタは話を切り上げ、重い腰を上げた。

「オムツはまだ大丈夫そうね。ごめん! ちょっと行ってくるわ、夕飯までには戻るから」

 騒音は消えた。あの見飽きた天井も、緋女の視界にまた戻ってきた。

 

 

 用事がある、というのは半分本当。もう半分は、あの場から逃げ出すための口実。

 デクスタは己の住まいへ緋女を引き取った。かつて魔法学園との交渉の終わりに、デクスタが提案した条件がこれだったのだ。

「封印はあたしがやる。そのかわり、後はあたしに任せてほしいの」

「任せろとは、具体的には?」

「世話する。育てる。一緒に暮らす。

 “(ローア)”が暴走さえしなければ満足でしょ? だからもう、あの子の人生に口出ししないでほしい。残された命を、せめて自由に生きさせてやりたい。責任は……あたしが取るわ」

 学園の使者たちは互いに顔を見合わせた。ひとりが頷き、他も無言で賛同した。

「よろしいでしょう。“首輪”さえ()めてあるならば」

 こうして緋女の養育を自ら買って出たデクスタなのに、わずか2ヶ月で(はや)音をあげている。仲良くなりたい、信頼されたい、そう願えば願うほど、かえって緋女の心は遠ざかっていくようだ。嗅ぎ取っているのだ。浅ましいへつらいの臭いを、残酷なまでに鋭敏なあの鼻で。

 粥の皿を台所に戻したデクスタは、胸に重い息を吸い込むと、握り拳を己の頬へ叩き付けた。

「……へたくそっ」

 

 

(つづく)



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第18話-05 再誕

 

 その日以来、緋女の容態は急速に悪化していった。当然だ。食を拒絶しているのだから。無理もない。生きることを諦めたのだから。無駄な食膳を運んでくるデクスタの笑顔が、日々すこしずつ固くなっていく。夜、あたりが静まり返った後には、どこか別の部屋ですすり泣く声が聞こえたこともあった。

 緋女は、そんな数少ない外界の情報をさえ、完全に意識から締め出してしまった。何もかもがどうでもいい、価値のない、平坦なことに思えた。日が昇る。目が覚める。粥の匂い。鳥の声。涙の跡をぬぐわれる感触。排泄物の臭気。さっぱり洗われた新しい下着。なすがままに世話されている裸の自分。絶え間なくかけられる言葉。優しい声色。たあいない笑い話。游姫(ユキ)と一緒にいた頃なら、きっと笑えたはずの話。

 ぜんぶ幻。すべては夢想。楽しいという気持ち、赦せないという怒り、泣きたくなるほどの寂しさ、あの日感じた温もり、家族という絆、自分という肉体、自分という魂、自分がここにいるという確信、愛。なにもかも、意識が勝手に作り出した、見せかけだけの虚構の世界。

 つまらないもの。くだらないもの。ただの嘘。

 やがて緋女の意識に霧がかかり始めた。著しい栄養失調がために脳が働かなくなったのだ。起きていても寝ているような、眠っていても醒めているような、夢と現実の間の曖昧な世界に緋女は沈み込んでいった。

「この子はもう限界なのよ! どうにかできないの、あんた魔法使いでしょ!?」

 誰かのわめく声が、夢の中でぼんやり聞こえる。

「食事を拒絶する子をどうやって生かせというのです。

 人は誰しも死にたくなくて狂い、苦しむ。なのに心の底から死にたいと願って死んで行けるなら、むしろ救いというものではありませんか?」

 

 

 ふと気づくと、部屋には緋女がひとりきり。

 青白い月光が、戸口から剣のように差し込んでいる。

 その光の中に、一頭の犬が佇んでいた。

 輝くように白い毛並みの、素晴らしく美しい犬だった。飢えた狼を思わせる鋭い身体。深く澄みきった眼。しばらくじっと緋女を見つめていたかと思うと、犬は音もなく緋女の寝床に歩み寄った。

 鼻先が、緋女の手に触れた。少し濡れた、冷たい感触。まるで雪。舞い落ちる雪を手のひらで受け止めたとたん、滴となって流れ去る……あの雪解けの手触り。

 ――あつすぎるよ、おねえちゃん。

 声が聞こえた気がした。

 ――すきってこと……

 

 

 そこで目が覚めた。

 妙に冴えた頭で、緋女はあたりの様子を探り始めた。表通りを駆け抜けていく子供の足音。すぐそばに、嗅ぎなれた女の体臭。首も胴も回らないが、どうにか眼球だけを動かして脇を見る。椅子に身を沈めていたデクスタが、驚きを顔面に貼り付けてこちらを見つめている。疲れ果てた頬、乱れたままの髪、そして、おそらくは緋女のために泣きはらしてくれたのだろう、充血したふたつの眼。

 緋女は口を開いた。閉じた。何度も繰り返した。

 自由になるわずかなものを最大限に活かして、己の意志を示したのだ。

 ――はらへった! めしくわせろ!!

 と。

 デクスタが思わず腰を浮かせた。

「あ……待ってなさい! すぐ持ってくるわ!!」

 ばたばたとみっともなく走り去っていく足音を聞きながら、緋女は言葉ならぬ言葉で己の想いを確かめていた。

 ――こんなじぶんはもういやだ。

 涙の最後の一筋を、絞り切るように(まぶた)を結ぶ。

 ――ねえちゃんは生きるぞ、ユキ!!

 

 

   *

 

 

「そーねぇ、たとえば……

 緋女、あんたの(まぶた)は、今どこにある?」

 ある日、食事の後でデクスタが問うた。もとより緋女に答える声はないが、瞳の光が如実に心を代弁している。すなわち、「なにゆってんの。ここにあるじゃん」と。

「そう。今、あんたの(まぶた)はふつうに開かれた位置にある。

 んじゃー、ちょっと閉じてみて……そうそう。今度はぐわーっ! って大きく開ける! うん、いいわよ。分かるわよね、それぞれどの位置に(まぶた)があったか。そんでね、次は」

 ぱんっ!!

 と、デクスタは唐突に、緋女の鼻先で手を叩いた。突然の音と手の接近に驚き、緋女は思わず眼を閉じてしまう。

「はいストップ!

 今、眼は閉じられてるわね。

 さて、ここからが本題です……あんたの(まぶた)は、いつ、どんな軌道をたどってそこへ動いた?」

 緋女は丸く眼を見開いた。

 言われてみれば、よく分からない。そんなこと全く気にかけていなかった。最初と最後の位置はなんとなく分かるが、途中でどういう風に動いたかなどということは……全然分からない。気が付いたらこうなっていた、としか言えない。

「……ってことよ。

 人間は、自分の身体を動かすことを()()()()()()()()()()。たとえば歩くことひとつをとっても、できて当然だから、どこがどうなってるか意識もしない。

 でも実際には足だけじゃない。眼で前や足元を見、耳や鼻で異変を常に探り、バランスを取るために腕を振り、それらの動きを胴体が支え、全てが連動してはじめて歩行というひとつの動作が組み上がる。

 それを完全に意識すること。自分の心と身体が今どこにあり、どんなふうに動いているか、常に識閾下(しきいきか)に置くこと。いや、むしろ意識と無意識を融合させるっていうほうが正確かもね。

 “集中”、“没入”、“ゾーンに入る”……名前は色々あるけど意味するところは同じ。ウチの流派では、この境地を“三昧(サマーディ)”と呼んでる。

 これを極めりゃ五蘊(ごうん)の諸相を掌握できる。掌握できれば操れる。すなわち自由自在となる!

 つまり! その身体を、動かせるようになるってことよ!」

 驚きが緋女の瞳に滲み出る。希望が光となって湧き出てくる。デクスタはにやりと不敵に笑い、力強くうなずいて見せた。

「これは嘘でも誇張でもない。過去にこの方法で全身不随から立ち直った例がいくつもあるの。

 ただーし! 修行の厳しさはハンパじゃないわ! めちゃくちゃ苦しい! 死ぬほどつらい! 嫌々やっててできるよーなことでは当然ないっ!!

 それを覚悟のうえで、それでもやる、というのなら。

 教えてあげるわ。この剣聖の真髄(こころ)技巧(わざ)、そのすべてを」

 何をか言わんや。

 緋女の眼は、一言、「(やる)」と告げていた。

 剣聖デクスタは太陽のように破顔した。

「今日からあんたはあたしの弟子だ。よろしくね、緋女!」

 

 

   *

 

 

 半年。半年もかかった。半年でやり遂げた。まずは(まぶた)や唇をゆっくり開閉しつつその動きを意識し続ける修行から。来る日も来る日も進展のない努力を続け、粥のまずさと下の世話を他人に任せる屈辱に耐え、しかし気迫は片時も失わず、緋女は愚直に戦い続けた。その岩をも通す一念が、半年後、ついに実を結んだ。

 指が動いた。

 呪いの首輪に封印され、二度と動かぬはずだった指が……緋女の意志で動いたのだ!

 そこからは早かった。指は手に、手は腕に、腕は肩に、上半身に。ひとたびコツを掴むや、緋女はたちまち回復していった。もう食事も自分で食べられる。トイレにもどうにか自力で行ける。声が出せる。叫べる。話せる!

 言葉を取り戻したその日、デクスタは力いっぱい緋女を抱きしめた。

「おめでとう!! よく頑張ったわね、緋女!!」

 対して緋女が8ヶ月ぶりに話した第一声は、

「うっせーくそ師匠(ししょ)! ぶっころちゅ!!」

 いまだうまく動かぬ舌で、せいいっぱいわめいた可愛らしい殺し文句に、デクスタは涙を流して大笑いした。

 歩行ができるようにさえなれば、萎えた脚の筋肉も蘇ってくる。走れる。跳べる。ひとっとびで屋根まで飛び上がれるほどの、超人的な野獣の力が戻ってくる。そう、獣。犬に変身するあの能力も取り戻した。赤い、燃えるような体毛の犬。風となって野山を駆ける。大地と草とがぐんぐん背後へ流れ去っていくこの爽快感。緋女は今、初めて真に動くことの歓びを知った。生きることそれ自体がどれほどの美しさに溢れているか、失くして、取り戻して、初めて見えた。

 そして――剣!

 なにしろ同居人は当代最強の剣聖デクスタである。朝夕太刀振る彼女の雄姿が、自然、若き緋女を魅了した。あるとき木陰からデクスタの素振りをじいっと見つめていると、デクスタは緋女を引き寄せ、太刀を握らせてくれた。

「やってみる?」

 一も二もなく頷き返す。

 小一時間振り回してみた後には、もう緋女は剣術の(とりこ)

 ――こんなに楽しいものがあったんだ!!

 長さ3尺の棒切れを我が身の一部として振り回す、ただそれだけのことの中に、どれほど深遠な理論と技巧が含みこまれているか。無論、緋女のことだから言葉で理解したわけではない。デクスタが手を添えて作ってくれた構え、目の前でやって見せてくれた型、ときどき鋭く飛んでくるわずかな助言、それらの中から剣の真髄を全身で感じ取ったのだ。

 ある夜、夕餉(ゆうげ)の席で、緋女は単刀直入に切り出した。

「師匠。あたし、剣やりたい」

 するとデクスタは、ふーむ、と唸りながら少し考え、

「そんなら……ぼちぼち頃合いかもね!」

 デクスタは前々から転居を考えていたのだった。

 魔法学園との約束は、「首輪を外さない限りにおいて、緋女を自由に生きさせる」こと。約束はちゃんと守っている。首輪はびくともしていない。ただ、外さないまま動けるようにしただけである。

 ……などという甘い言い訳で納得する連中ではないだろう。いずれ緋女の現状は伝わる。学園が干渉してくるのは目に見えている。そうなる前にどこかの山にでも隠れてしまおうと、緋女が快復した直後から計画していたのだ。剣術を学びたいというならなおさら好都合。険しい山林の環境は心身を鍛えるにもってこいだ。

 思い立ったが吉日である。早くも翌日、デクスタと緋女は住まいを引き払い、ふらりと何処(いずこ)かへ消えてしまった。

 

 

   *

 

 

 それから3年後の、うだるように暑い夏。

 鮮緑映える七色樫の、わずかに差し込む木洩れ日の下で、12歳の少女へ成長した緋女が暴れている。

 陽光は(ほとばし)る鉄火の如くであったが、それにもまして緋女の身体は燃えている。胸の奥から湧き出してくる、若さと言う名の無限の熱量。手にした木太刀にそれを込め、めったやたらに師匠へ打ちかかっていく。師はと言えば、この炎天下でも涼しい顔して、ひらりひらりと弟子の打ち込みを(さば)いているのだ。

「動きに無駄が多いわよっ! 集中! 振りかぶらない! 振り抜きすぎない! 狙うは鋭く急所一点! ほらここ、来いっ」

 と、デクスタが手元へわざと隙を作ってくれる。それがどうにも気に食わなくて、緋女は咆哮しながら突進した。矢のように間合いを詰めつつ側面からの小手打ち。怒りに任せた大げさな動作は無論師匠に見抜かれている。完全に太刀筋を読み切った師が、呆れ顔で緋女の剣を受け流す――

 かに思われたその時、にわかに緋女は木刀をひるがえした。師の剣の下をするりとすり抜け、流れるように突きを繰り出す。隙を生じぬ二段構え、というより最初の小手打ちはフェイントだ。これには師匠も顔色を変え、ぎらりと眼光走らせた。

 カン!

 と、乾いた音が木々の間へ木霊する。

 緋女の木刀の切っ先は、すんでのところで弾き退けられ、虚しく師の(わき)の下を貫くのみに終わっていた。

 刃を絡め合ったまま、師弟はしばし、見つめ合う。

 緋女は大きく嘆息した。

「だめかあー……」

「あっはっはーっ! あたしに勝とうなんざ10年早いのよーん!」

「うっせーくそっ! くそくそのクソ師匠っ!!」

「でも、今のはちょっとドキッとした。上達してるわね、緋女」

 緋女はぷくっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。熟れた桃のように頬が赤らんでいる。褒められたのが嬉しくてしかたないという顔だが、素直に喜びを見せようとしない、それでいて隠しきれずに気持ちが漏れる。いかにも緋女らしい愛嬌だった。

「なー師匠ォー。いちばん(つえ)ぇー技ってなに?」

「んー? そうねえ……」

「あるんだろ、究極奥義! 教えてよぉ、ねーねーねーねー、ねー師匠ォー!」

「今はだめ。もっと強くなったらね」

「けち! んじゃいつになったら教えてくれる?」

「決まってんじゃない。この剣聖(あたし)に勝てたらよ」

 悪戯っぽくウィンクする師に、緋女は絶叫した。

「ムリダ―――――!!」

「ムリじゃな―――――いっ!!

 あんたならでき―――――るっ!!

 さあ次は鬼ゴッコの修行じゃーい! あたし鬼! つかまったらー……くすぐりの刑じゃー!!」

「うっきゃー!」

 嬉しそうに歓声あげながら林へ逃げ去っていく緋女。地面から樹上へ、枝から枝へ、眼にも止まらぬ早業で飛び移っていく緋女の元気の良さに、デクスタは思わず頬を緩める。修行は遊び。緋女は訓練を楽しんでいる。だから()()()()。強くなる。見よ、鳥獣でさえ追いつけないあの身のこなし。あっというまに緋女の背中は森の奥へ消えてしまった。

「もーいーかーい!」

 デクスタの呼びかけに、

「もーいーよー!」

 森のどこかから緋女が応えた。

「っしゃ行くぞォ!!」

 一声吼えてデクスタは走り出した。彼女の長身は風となり、またたく間に木々の間へ消えた。

 

 

   *

 

 

 しかし――その日の夜。

 思いもかけない事態が、デクスタを襲った。

 夜中、急な不快感に目を覚まし、台所で水を口に含んだデクスタは、そのまま口の中のものを土間へ吐きだしてしまったのだ。

 吐瀉物を受け止めた手が、ぬめる。

 悪い物でも食べてしまったか? いや、違う。手のひらから滴り落ちるそれは、胃液ではない。

 喀血(かっけつ)。血を吐いたのだ。

 しばし、己の手の中にあるものを茫然と見つめ……やがてデクスタは小さく呟く。

「マジか」

 独り浮かべた強がり笑いを、眼にしたものはただ、夜のみ。

 

 

(つづく)



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第18話-06 犬は涙を流さない

 

 さらに2年。

 七色樫が真紅に燃える喜びの春。朝の爽気がはりつめる中、緋女はもろ肌脱ぎに裸を晒して無心に剣を振っている。

 剥き出しになった肩と乳房で汗が清らかに煌めき爆ぜる。内から磨かれた肌と肉とに命の力が満々みなぎる。跳躍の鋭さ獣に敵し、身の艶めきは舞姫に優る。無駄なく鍛え抜かれた四肢から放つ迷いのない一太刀は、まるで世界そのものを真一文字に断ち割るかのよう。

 今や卓抜の剣士へと成長した14歳の緋女。その肉体美の輪郭が、朝日の中へ浮き彫りになる。

 ようやく満足のいく振りを得たのか、緋女は静かに呼吸を整えながら太刀を納めた。七色樫の根元へ置いていた水筒から一口含み、手拭いで汗を拭いとる。服へ袖を通しながらふもとを見やる。

 ここからなら、山と海の間に横たわる草地が一望できる。しかし青草が風にそよいでいるばかりで、歩く者の姿はない。

 ――おっせーなぁ師匠。もう3日目だぞ。

 デクスタは、ちょっと用事があるとかで麓の街へ行っている。そのあいだ緋女はもちろん一日も欠かさず一人稽古していたが、想像の中の敵を相手に剣を振るのもいささか飽きた。それに新しい技のアイディアもいくつか閃いている。それを早く師匠にぶつけてみたくて仕方がないのであった。

 

 

   *

 

 

 同じころ、剣聖デクスタは街の小さな講堂で、またしても詰問を食らっていた。椅子の上で悠然と足を組む剣聖へ、魔法学園の使者ふたりが挟み込むように詰め寄っている。しかし彼らの圧迫を、デクスタは涼しい顔で一蹴した。

「約束でしょ。緋女の養育は一任するってね」

「首輪を()めてあるならば、とも言ったはずです」

「ちゃんと()めてるじゃない」

()めたまま動けるようにしては意味がない!

 確かに我々はあの首輪を、いかなる外力によっても破壊できないように作ったつもりです。しかし理論は理論。想定外の事態はいつでも起きうる。身動き取れない者を守るのは簡単だが、自分の意志で好き勝手に動く者を監視し続けるのはほとんど不可能に近い。我々がこの5年間あなたの行方を完全に見失っていたようにね、剣聖デクスタ!」

「皮肉が利いてるわねえ」

「茶化さないでください。これは我々の意志。“我々”とはこの場合、勇者ソールを含みます」

 ぴくり、と、ここで初めてデクスタの眉が動いた。

「ソールが言ったの? あの子を狩ると?」

「学園の監視下に入ることをどうしても了承しないならと」

 デクスタは静かに目を閉じ、胸が痛むほどに息を吸い、吐いた。再びもちあげた(まぶた)の裏には、微かな煌めきが宿っている。

 彼女は理解している。学園の使者がふたりがかりで会見に臨んだのは、戦闘になるのを覚悟してのことだ。そしてまた察してもいる。実は使者がもうひとりいて、この場を魔術で監視しながらいつでも学園本部へ報告できる態勢を整えているのだと。たとえ交渉が決裂しても、万一デクスタが暴れだしても、すぐさま適切な対処ができる二重三重の備え……人類(かれら)は本気だ。勇者ソールの話も嘘ではあるまい。

「……そう。辛いとこだわね」

 デクスタは席を立ち、ひとり勝手に部屋を出た。その背に使者の声が飛ぶ。

「猶予は5日です。分かってください! 我々はあなたと敵対したくないんだ!」

 デクスタはぷらぷらと後ろ手を振り、外の陽光に溶け込むように姿を消した。

 

 

   *

 

 

 デクスタが山の隠宅へ戻ったのは、とっぷりと日が暮れた後のことだった。緋女は夕食――といっても、森で捕らえたウサギを(さば)いて焚き火に放り込んで黒焦げになるまで焼いただけの乱暴な代物――にかぶりついていたが、山道を登ってくる師の足音を聞きつけると、飛びつくように玄関を開けて出迎えた。

「しっしょー! おっせーよ! おかえり!」

「たっだいまーっ。お? いい匂いさせてるわねえ。もらっていい?」

「うん、いい……け、ど」

 デクスタは緋女の脇をすりぬけて家に入り、椅子に身体を沈めた。よほど腹が減っていたと見えて、木皿の上の焦げたウサギ肉を手づかみでむしり、ガツガツ口に放り込む。その背を、緋女は玄関に立ち尽くしたまま見ていた。彼女の鋭敏な嗅覚は、すでに異変を嗅ぎとっていた。

「師匠?」

「突っ立ってないで一緒に食べましょーよ」

「新しい技考えたんだ。あとで見てくれる?」

「んー……いいわよ。にしても焦がしすぎよ、これ。あんたももう少し料理覚えたほうがいいかもねえ」

「師匠」

 食い続ける動きで感情をごまかそうとしていたデクスタの、背中のそばに緋女は立った。

()()()()()()()()()()

 デクスタの手が止まった。

 無理して口に突っ込んでいた肉を、どうにか飲み下す。

「ほんっと……勘が良すぎて困っちゃうわ」

「なんて言ってきたの?」

「あんたを学園の監視下に置くって。おそらくはデュイルの学園本部で暮らすことになる」

 デクスタは無理な笑顔を作って振り返った。

「だーいじょうぶ! 心配いらないわ。首輪は効いてるんだし、拘束まではしないと言質も取った。最初の予定通り“保護”するだけよ。痛いこともされないし、その気があれば勉強もスポーツもさせてくれる。いい機会じゃない? あんたもほら、習ったほうがいいかもよ。文字とか教養とか、お料理とかもね~」

「師匠は?」

 沈黙。

 その一瞬の躊躇が全てを物語っていた。

 緋女は師に背を向け、部屋の隅の道具箱を漁り始めた。次々に取り出し床へ並べるのは、ベルト、小刀、頑丈なブーツに腰巻きの荷物鞄。さらには壁に掛けてあった太刀――師から譲り受けた東方由来の大切物(おおきれもの)――に緒を巻いていく。

 デクスタは立ち上がった。

「何する気?」

「ブッ潰す」

 武具一式を身に着けた緋女が、すっくと立って師に向かい合う。

「ケンカ売ってくんなら学園だろーが企業(コープス)だろーが関係ねえ。あたしがブッ潰してやる!!」

「ばか! 向こうには勇者がいるの。とうてい(かな)う相手じゃないわ。だいいちワガママ通してるのはこっちなのよ!」

「じゃあ我慢しろってのか!? あたしはあいつらに捕まって、また……」

「大丈夫よ、安全は保証されて……」

「そんでもう師匠と会えなくなるのか!? そんなの嫌だ! あたしはずっと、師匠がいい!!」

 童女のように純で熱いこの訴えが、師の胸を打たなかったわけがない。素朴で熱烈なこの愛着を、嬉しく思わなかったはずがない。だがデクスタは、剣聖は、大人としてわきまえねばならない。師としてわきまえさせねばならない。ひとりの少女をここまで育て上げた責任を、いまこそ果たさねばならないのだ。

 ゆえにデクスタは威儀を整え、弟子のまなざしに正対した。

「緋女。

 あんたは何故、剣を振る?

 感情に任せて暴れるためか?

 ……この5年、ずっと教えてきたはずよ。何を斬り、何故斬り、如何(いか)に斬るか。問い続け、答え続け、いつしか問いも答えも消え失せ、我も彼も(くう)となったその時、はじめてあんたはひとつの太刀筋となるのだと。いっときの執着、目の前の憤怒、そんなものに囚われた剣では、()()()()()ことはできないと。

 あたしの教えを、大切に思ってくれるなら。

 聞き分けなさい。これが一番……正しい道よ」

「……ずるいよ」

 一言一句噛み締めるように聞いていた緋女は、火の中の薪が弾けるようにして呟いた。

「師匠はいつだって、あたしに間違わせてくれない」

 緋女が家から弾丸のように飛び出て行く。蹴り開けられたまま軋むドア。音に驚きひととき静まる森の虫たち。虚しい風が吹き込んで、デクスタの金髪をかすかにそよがす。

「効くわね……がむしゃらの一撃は」

 

 

   *

 

 

 緋女は、決断した。

 走りながら太刀の緒を腰に結わえ、七色樫の幹にさっとひと撫でして別れを告げ、そのまま崖から飛び降りた。犬に変化し重力に任せて落下して、着地直前で人間に戻る。重くなった身体にかかる急減速を利用して苦も無く着地、そのまま森の中をひた走る。

 ――あたしは、旅に出る!

 爛々と輝く炎色の眼が、決意の熱さを物語っていた。

 これ以上のワガママは言えない。勇者と魔法学園は人類の脅威になるもの――緋女の中の“(ローア)”を是が非でも支配しようとするだろう。ここに留まれば戦いになる。土壇場になれば師匠はきっと緋女の味方をしてくれる。

 つまりそれは、師匠に、戦友たちとの殺し合いをさせてしまうということだ。緋女ひとりの我執がために。

 そんなのは嫌だ。

 では学園の支配を受け入れ、見世物の猛獣のように檻の中へ飼われるか?

 そんなのも嫌だ。

 なら道はひとつしかない。

 家を出るのだ。

 旅立つのだ!

 師匠と別れ、過去も忘れ、広い、広い、果てしない世界へと足を踏み出すのだ。

 ひとりで気ままに旅していれば、魔法学園の組織力でもそう簡単には見つけられまい。何も知らせず去ってしまえば、デクスタが勇者と争う理由も無くなる。そして緋女は自由になれる。首輪もない、檻もない、ただ一匹の野良犬として好きなようにどこへでも行ける。

 ――だからあたしは旅に出る!

 駆けながら、駆けながら、緋女は奥歯を噛み締める。

 ――寂しくなんか……寂しくなんかっ……

 立ち止まって、初めて気づく。

 あの時以来で、目尻へ浮かんだ、涙。

 人間だけが流すことができるもの――悲涙。

 振り返れば、反りかえるような険しい山の中腹に、温かな家の灯りが見える。緋女の優れた眼は、この闇夜の中ですら、崖際に立ってこちらを見つめるひとの影を捉えることができた。

 いつまでも、いつまでも、じっと見守ってくれる師デクスタの姿を、すぐそばにあるもののように見ることができた。

 緋女は犬に変化した。

 なぜなら――犬は涙を流さない。

 長い長い遠吠えが、谷間から天まで伸びあがるように響き渡った。幾たびも幾たびも木霊(こだま)して、緋女の心を伝えてくれた。

 ――師匠、あたし、行ってくる。

 再び駆け出す緋女の足には、もはや一片の心残りもない。

 ――そして……強くなって帰ってくる!!

 

 

   *

 

 

 それから矢のように月日は流れた。

 幾多の出会いと別れがあった。

 数え切れないほどの学びを得、知りたくもなかった暗闇をも知り、心も身体も大人になって、ようやくたどり着いた、現在(いま)

 丸5年に渡る武者修行から帰郷した緋女が、懐かしい七色樫の幹へそっと手を触れている。秋の葉は、どっしりと腰のすわった深緑。再会を喜ぶ緋女へ、涼風にそよいだ葉が応えてくれたような気がした。

「ぅおーい、緋ー女ーっ! 昼飯まだでしょ? 来なさいよーっ」

「うーん!」

 家の戸口で師デクスタが大きく手を振っている。緋女は崖際の稽古場を離れ、5年ぶりの我が家へと坂道を駆けのぼっていった。

 と、家の窓に、見知らぬ女の顔がある。緋女よりひとつかふたつ若いくらいの歳だろうか。黒く日焼けした、暗黒大陸風の顔立ち。ゆるりと垂れた眼には、しかし異様なまでに鋭い警戒の色が浮かんでいる。

 緋女の視線に気づくと、女は家の中へ姿を隠してしまった。

 師に招かれるままに家へ入ってみれば、女は素知らぬ顔をして、台所で昼飯の支度をしている。

「誰?」

「あんたの妹弟子(いもうとでし)ってとこかしらね。もう弟子を取る気はなかったんだけど、頼み込まれたら断りきれなくってねーっ! それに」

「強そう」

 立ち居振る舞いのみで相手の力量を見抜いた緋女に、デクスタは満足げに笑ってみせた。

「筋がいいのよ。ま、せいぜい追い抜かれないようにしなさい。

 ミラージュさん! こいつが緋女よ。仲良くしてちょーだいね」

 ミラージュ、と呼ばれた女性は、ほとんど睨むような目を緋女に向け、不承不承会釈した。緋女が屈託なく笑って「よろしく」と手を上げた時には、もうミラージュはこちらへ背中を向けている。

 ――なんだあ? なんか悪いことしたか、あたし?

 いささか腹立たしくはあるが、このくらいのことで喧嘩を吹っ掛けるような短気は……まあ、以前はよくやらかしたが……今はもう卒業した。思えば第2ベンズバレンで3人暮らしを始めてから、ずいぶん性格が丸くなったものである。

 さて、ふたりが席に着くと、ミラージュは音もなく昼食の皿を運んできた。新鮮な川魚を香草蒸しにしたものへ、塩漬けにした梅の実のソースが添えてある。大皿に積んだ焼きたての無発酵パンは野麦を挽くところから手作りしたものか。その香ばしさときたら、内海各地の美食を食べ歩いてきた緋女が思わずうなり声を上げるほど。

「うお」

「すごいでしょー! あたしゃーもうすっかり胃袋つかまれちゃてねー! さささ、みんなで食べましょ。いっただきまーす!」

 舌鼓を打ちながらに話は弾む。5年の旅の中で、師匠に聞かせたい話のストックは荷物袋から溢れそうなほどに溜まっていたのだ。

 フィナイデルで竜退治した話。クスタの棄民集落に肩入れして王国軍にたったひとりで張り合った話。卓越の術士カジュと果てしないどつきあいの末に互いを認め合って親友となった話。ふたりでシュヴェーアの魔族盗賊団7000人を壊滅させた話。ひょんなことから立ち寄ったベンズバレンで、素敵な男性と出会った話。

 そしてすっかり昼食を平らげ、ミラージュが後片付けに取り掛かったころ、緋女の話はとうとう本題に――最も辛い部分にたどりついた。

「そんでね……勇者とも会ったよ。ドタバタで話す機会もなかったけどさ」

 食後の茶を一口して、デクスタは目を伏せた。たとえこんな辺境でも、噂が届いてないはずはなかった。ベンズバレン王国に根城を構え、世界滅亡へ向けて動き始めた巨悪、魔王。その魔王と戦い、脆くも敗れ去った人類の希望、勇者。だがデクスタの振舞いに動揺はない。茶のカップを静かに脇へ置き、緋女の眼をじっと覗き込んだだけだ。

「どう感じた?」

「一目で分かった。あのひとの強さ。何を考えて、どんなふうに剣を振ってきたか。すごいと思うよ。伝説だなって。

 でも……負けた。

 手も足も出なかった。

 師匠のともだちが殺されたのに……あたしには何もできなかった。

 ()()()()()()()()()()()()

「それが悔しくて、帰ってきたの?」

 緋女は立ち上がった。爆炎の巻き起こるようにではなく、黒々とした炭の奥で静火が赤々と光を放つように。

「あの時の約束を果たしに来た。

 勝負だ、師匠。そんで勝ったら……究極奥義を教えてもらう!」

 がちゃり。

 と、ミラージュが洗いかけの食器を取り落とす。

 蒼白となった新弟子には一瞥もくれず、デクスタは例の不敵な笑みを顔面一杯に浮かべて応える。

「そうこなくっちゃ面白くない。

 お望み通り、この剣聖が相手になっちゃるわいっ!」

 

 

(つづく)



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第18話-07 斬苦与楽

 日が沈む。

 ほの白く、月が夜天へにじみ出す。

 七色樫が墨の弾け散るように(こずえ)の影を伸ばす下、ふたりは静かに対峙した。

 片や魔王をその剣で斬り、生きた伝説となった剣聖、デクスタ。

 此方(こなた)快刀乱麻の活躍で、勇名響かせ始めた気鋭、緋女。

 この師弟のいずれが優っているか、(しか)と言える者がどこにあろう。緋女の構えは基本の正眼。対する剣聖は無造作に刀をぶら提げ無形の位。体勢の完成度まで五分と五分。このまま刃を交えれば、いずれかが生き、いずれかは死ぬ。その運命を予感させずにおかない緊迫した気配があたりに走る。

「お師匠様、おやめください」

 と、二番弟子ミラージュが水を差した。緋女にとっては、初めて聞いた妹弟子の声であった。

「無益です。お師匠様が勝つに決まっています。真剣勝負をする意味など……」

「ミラージュさん」

 デクスタの声色は、たしなめるでもなく、叱るでもなく、どこか優しげな、なだめるような響きがあった。

「心配ないわ。よく見てなさい」

 それが緋女には、むかむか来るのだ。

 妙に親しげな師と妹弟子の関係に嫉妬している、というわけではない。ただ、今は勝負の最中。剣士が一度「やる」と決めたことに口をはさむミラージュもミラージュなら、集中を解いてまで返事をしてやるデクスタもデクスタだ。ぬるい、と緋女には思えた。目の前にいるのは緋女だ。真剣を抜いた刃の緋女だ。侮っているのか? 片手間であしらえると思っているのか? 勝負の場では一瞬の油断で首が落ちると、剣士の心得を教えてくれたのは師匠なのに。

 ――ナメんじゃねーぞコラァ!

 緋女が圧縮した気迫を息に乗せて吐き捨てる。

 その一瞬で、あたりの気配が一変した。ミラージュの身が凍り付いた。デクスタの顔色が変わった。恐るべき剣気。三昧(サマーディ)の境地――全神経を剣に集中させた究極の心理状態に、緋女はこの一瞬で没入したのだ。異変を察知した虫がひたりと鳴きやむ。夜風が肌をひりつかせる。月光までが息を飲み震えだす。

 デクスタの額に汗が一筋走った。

 “折り合いの首輪”に縛られた緋女は、三昧(サマーディ)を常に維持しなければ動けない。だがそれは飽くまで入口の段階に過ぎない。自分の身体機能を把握するのと、戦場の全事象を掌握するのとでは格が違う。この段階へ至るために、かつての緋女は何十何百と剣を振り回すことを要した。試合の中で少しずつ気持ちを盛り上げ、ようやく精神を高みへ導いていたのだ。それが今やたった一呼吸(ひといき)

 ――ここまでやるようになったか、緋女。

 今の緋女には、デクスタの動きが髪の毛一本に至るまで掌中のことのように感知されているはずだ。そこへ磨きぬいた剣技が加われば、対手の動きにはことごとく先手を取り、仮に不意を打たれても即座に最適の返し技を放つことが可能。

 これ即ち、無敵。

 デクスタの知る限り、ここまでの剣境に至った人物は他にただひとりしか存在しない。

 剣聖デクスタ、彼女自身である。

 ――愉しみに待った甲斐があったわ!

 剣聖の眼が、ぎらりと光る。

 固唾を飲んで見守るミラージュの前で、剣の師弟は睨み合い……

 ()()

 刹那、

「うわッ!?」

 叫ぶミラージュの眼前で巻き起こる旋風。矢よりも音よりも速い、光、としか思えぬ太刀の一撃が左右から激突し火花を散らす。闇夜へ響く剣戟の声。渦巻くように互いの剣が絡まり圧し合い弾かれ合って、ふたりは土砂を蹴散らし互いに後退、間合いを置いて再び睨み合う。

 唖然とするしかない。

 ミラージュとて腕には覚えのある女。世間では若き天才などともてはやされたこともあるのだ。その彼女にさえ、全く見えなかった。ほとんど人間の領域を超えつつある速度でのぶつかり合い、その余波が辛うじて捉えられただけだ。

 見れば瞬きひとつほどの間に、緋女はすっかり息が上がっている。おそらくこの一瞬に何十合も刃を交わし、神経をすり減らすような駆け引きを繰り返したに違いない。

 一方の剣聖デクスタはいまだ涼しい顔。構えの時点では互角に見えたが、実のところは力の使いかたに差がありすぎる。同じ動きは可能でも、体力の消耗は緋女の方が数段大きい。

 それでも――行く!

 意志を剣に込め緋女が走る。狙いは胴。が、これは悪手。いきなりの胴打ちは大ぶりすぎる。勝負を焦っての一撃必殺狙い、その浅はかさを師の剣は的確に咎める。神速の打ち下ろしで緋女の剣を弾き落とし、そのままの勢いで緋女の小手へ切先を打ち込む。

 勝負あり――と思われたその時、太刀の軌道から緋女の手が消えた。

 剣を弾き落とされた勢いを逆利用して素早く腕を下げ、小手打ちを避けたのだ。しかも、いつのまにか緋女の構えが下段に切り替わっている。

 狙いは……

 ――足斬り!? 卑怯!

 ミラージュが眼を見開く。

 ――いや、(うま)い!!

 デクスタの脳裏に戦慄走る。

 かつて緋女に敗北を味わわせた巨人戦士ゴルゴロドン、彼に教わった異色の技がデクスタの足に喰いかかる。不意を打たれたデクスタは小さく跳躍、太刀の上を飛び越えてこれを避けるが、この対応こそまさに緋女の狙うところ。いかなる達人であろうと地に足が付いていなければ回避は不可能、打ち込みにも力は乗らない。今や無防備となった空中の剣聖へ、緋女の掬い上げるような一撃が襲い掛かる。

 が!

 と、鈍い音が暗闇へこだました。

 全てが終わった後、月明かりの中へ浮き出てきたのは、ひとつの彫刻のように絡み合い、ぴたりと静止した師弟の姿だった。

 渾身の力を込めた緋女の一撃は、師が振り下ろした太刀によってあえなく横へ弾かれ……

 師デクスタの剣は、わずかに緋女の肩口を捉えそこない、紙一重で空を斬っていた。

 引き分け、である。

 沈黙。

 示し合わせたように同時に飛び退き、互いに感嘆の溜息を送り合う。

 今デクスタが使ったのは、穿天流“体”の奥義“浮島斬り”である。基本的に対魔獣を想定しているこの流派に甲冑の弱点を狙う足斬りの技は存在しないが、相手から仕掛けられた場合の対処法は伝えられている。そのひとつがこれ……体裁きの妙によって、どのような不安定な体勢からでも、どのような不安定な相手に対しても、充分な威力の剣を繰り出すことができる。極めれば、地に足のつかぬ空中からでさえ緋女の剛剣を弾き返してしまえるのだ。

 無論、門弟である緋女も同じ技を会得している。師がこの奥義で反撃に出ることは読めていたはずだが、それでも仕掛けたのは剣速で押し切る自信があったから。あのタイミング、あの踏み込みなら回避は不可能のはずだったのだ。

 つまりこれは、純然たる技の練度と精度の差。緋女もまだ、剣聖デクスタの領域には一歩及んでいない……()()()()のこと。

 悔しさを奥歯で噛み潰す緋女へ、デクスタが向けた微笑みは、慈母の如くに優しかった。

「悔やむことはないわ。いい攻め手だった。この5年、あんたがどんなふうに頑張ってきたか、剣を見ればすぐ分かる。

 よく、よくここまで……」

「ごめん。あたし、勝手ばっかして……」

「それが嬉しいのよ。あたしが教えた以上のことを、あんたはこの世界から学んでくれた。これならもう、何も心配することは……」

 と。

 そのときだった。

 にわかにデクスタの言葉が途切れ、その顔面が土気色に変じた。ミラージュが小さく声をあげる。緋女はわけも分からず立ち尽くす。ふたりの弟子の目の前で、デクスタは急に、血を吐いた。

「お師匠様ッ!!」

 悲鳴を叫んでミラージュが駆け寄る。抱き支える。膝をつかせる。激しく咳き込み、喘ぐデクスタ、その口から真紅の、火のように熱い鮮血が、二度も、三度も走り出る。妹弟子が師の背をさすり、勇気づけようと懸命に呼びかけているのを、緋女はただ茫然と見下ろすことしかできない。

「何をしている!」

 ミラージュが緋女へ一喝した。

「水を汲んで来いッ! 貴様、一番弟子だろうが!!」

 あっ……と我に返り、太刀を放り捨てて緋女は駆けだした。すぐさま戻った緋女の手から、ミラージュは水差しとカップをひったくる。ようやく咳の落ち着いたデクスタに一口含ませ、うがいをさせ、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて飲ませてやる。

 緋女はなすすべもなく立ち尽くし、やがて、震える拳を握り固めた。

「師匠、病気……なのか」

 答えはない。

「だから勝負を止めようと……?

 だからあんな言い方を……!

 ……いつからだ!?

 テメーっ……あたしが旅立つ前から悪かったんだな!? 師匠ッ!!」

 デクスタは血をぬぐい取り、血の気の引いた顔に、しかし強がり笑いを浮かべる。

「しかたなかったのよ。

 いつかあたしの元から卒業させなきゃ、と思ってた。でも知ってしまえば旅立てなくなる。あんた、優しいからね……」

 見上げる恩師のまなざしが、緋女の心をくちゃくちゃにする。

「騙してたことは事実。

 ごめんね……緋女」

 剣聖が。魔王をその剣で斬った女が。土をも融かす業火の中から緋女を救い出した勇猛の士が。何度打ちかかっても、どれほど懸命に挑んでも、まったく歯が立たなかった無敵の師匠が。緋女の意識に10年ものあいだ壁として立ち塞がり続けた偉大な目標が。この世の他の誰よりも、いちばん尊敬しているひとが。

 こんなに弱々しく。

 こんなに隙だらけで。

 緋女の眼に、しおれた本音を晒している。

 緋女はもう立っていられなくなり、崩れるように、デクスタの目の前へ座り込んだ。

「……いいよ。許してやる」

 固く閉じた(まぶた)の裏に、浮かぶものは旅の想い出。

「この5年間、いろんな人と話して。戦って。一緒に暮らして……ちょっと分かった。

 人間はみんなウソつきだ。

 悪いやつは、酷いウソを……

 いいやつだって、優しいウソを……

 他人を(だま)して。

 自分を(だま)して。

 どうにもならない困りごとに、ギリギリのところで都合をつけて。

 それでどうにか、()()()生きてる」

「幻滅した……?」

 緋女は首を横に振る。

「それでもあたしは師匠が……この世界が大好きだ」

 師の口から、こぼれるものは安堵の微笑み。

「……いい出会いをしてきたようね」

 よっ、と気合を入れて、師が身体を起こした。転がっていた愛刀を拾い上げ、月光に照らして刃の具合を確かめている。戦いを続けようというのだ。勝負の続きをやろうというのだ!

 慌てて止めにかかるミラージュを押し退け、デクスタは口の中の血塊を吐き捨てた。緋女に向かい、師の威厳そのままに問う。

「答えを聞こう。

 あんたは何故、剣を振る」

 緋女もまた立ち上がり、己の刀を掴んで応えた。

「苦を斬り、楽を与えるために」

 互いを見据えて構えを取る。五体の機能、五感のはたらき、それらを超えた森羅万象への理解、すべてを太刀というひとつの筋へ集約する。今や己と世界に区切りはなく、彼と我とに境はない。かつて言葉を持たなかったころ、ただ本能によって身を置いていた境地へ、緋女も、デクスタも、深く深く沈み込んでいく。

 確信があった。

 おそらくこれが、最後の()()

 万感の、思いの果てに――

 走る。

 デクスタの(とい)が夜気を裂く。緋女の(こたえ)明々(あかあか)燃える。師弟の刃が交わり絡み、微かな苦悩の軋みが走り、その直後。

 一方の刀が、真っ二つに折れ飛んだ。

 デクスタの、剣聖の巧技を乗せて打ち込まれた剣が。

 愕然としたのは緋女の方。信じられぬものが目の前にある。

 緋女の剣の刀身から、目もくらむような緋色の炎が灼灼と燃え上がっていたのだ。

 この炎の()()()()()が、師の太刀を()き斬った。その色に、輝きに、そしてなにより肌にチリつく熱量に、緋女は覚えがあった。

 ――まずい!!

 背筋を駆け抜ける悪寒。脳裏に蘇る最悪の記憶。緋女は奥歯を噛み締めながら総身の力を剣に注ぎ、刃の走りを引き止めんとした。もういやだ。意思が(ほとばし)る。もう二度と! 魂が叫ぶ。二度と真情(こころ)()き棄てたくない!

 ――それが生きるってことだろ! 游姫(ユキ)!!

 一瞬の葛藤、その後に。

 緋女の最後の一撃は、師デクスタの喉……その一寸手前で静止した。

 ――止まっ……た……

 脂汗まみれであえぐ緋女の目に、刀身の炎が揺らぎ映った。役目を終えた“(ローア)”の火は、たちまち薄れ、夜風の中に溶けていく。

 その一部始終を(しか)と見届け、デクスタは口許に痛快の笑みを浮かべる。

「見事よ、緋女……」

 そして再び血を吐き、倒れた。

「師匠!?」

「お師匠様ッ!!」

 ミラージュが泣き出す。緋女が駆け寄り抱き起す。ふたりの愛弟子が懸命に呼びかけてくれる声を聴きながら、剣聖デクスタは静かに――眼を閉じた。

「師匠……?

 師匠っ……

 師匠ォォ―――――ッ!!」

 慟哭は夜空を駆けた。雲を越え、星を越え、果て無き宇宙の暗闇さえもついに尽き果てる無限の彼方まで。

 

 

(つづく)



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第18話-08(終) 卒業

「……なぁーんて!! 号泣しちゃう緋女ちゃんキャーカッワイイー!!」

「ッざけんなブッころすぞクソがァァァァ!!」

 翌日。

 ケロッと健康笑顔満々で目覚めたデクスタに、緋女はわりと本気で掴みかかった。それを剣聖デクスタは、病床の上に座ったままの姿勢からグッとつまんでポーイと窓の外へ放り捨てる。「のわーっ」などと悲鳴あげつつ外の草の中に転げ落ちる緋女を見れば、病み衰えたりとはいえ剣聖デクスタ、恐るべき腕力と技量であった。

「ふっ! まだまだ甘いわバカ弟子め!」

 しかしそのデクスタにも頭が上がらない相手がある。目尻を三角形に吊り上げて、ものすごい剣幕(けんまく)で上から叱りつける二番弟子ミラージュである。

「『まだまだ甘いわ』じゃありませんッ!! これで死にかけるの何回目だと思ってるんデスかーッ!! 今度無茶したら3週間おやつ抜きの刑ですからねッ!!」

「ひー!? お代官さまどーかそれだけは平にご容赦おおぉおおーっ」

 ぷりぷりと肩を怒らせて台所へ引っ込んでいくミラージュ。へこへこ頭を下げる情けない師の姿を、窓枠に頬杖ついた緋女が呆れ顔で見つめている。

「まったく……テメーと居るとマジメにやるのがアホらしくなってくんだよクソ師匠……」

「あっはっはー! まー、こーゆーノリが生まれついての性分でねーっ。

 でも、あたしのために泣いてくれたこと。嬉しかったのはホントよ、緋女」

 眉間に深く皺をよせ、しかし照れた頬の赤みは隠せず、無言でそっぽを向く緋女の、この愛おしさは9歳のころからちっとも変わっていないのだった。

 昨夜、緋女との最後の対決で息絶えたかに思われたデクスタだったが、実は生きていた。というより、精魂尽き果てて気を失ったのを、弟子たちが勝手に死んだと勘違いしただけなのである。

 まだ息があることに気付いたふたりは、デクスタをベッドに運び、夜通しで看病した。それでようやく今日の昼、意識を取り戻したのだ。ホッと胸を撫でおろしたところにさっきのからかいであるから、緋女が怒ったのも無理はない。

 緋女は窓枠から寝室に身を乗り出し、照れ隠し半分に昨夜からの疑問を口にした。

「そんでさあ。夕べ、あたしの剣から火ィ出たじゃん?」

「出たわねえ。いつか出るとは思ってたけど」

「あの火ってひょっとして……」

「そ。あれは、あんたの愛の火。

 その胸の中で眠る真の(ローア)、《火目之大神(ヒメノオオカミ)》……その一端よ」

 緋女は身軽に窓枠を乗り越えて家に入り、壁にかけておいた太刀を取った。刃を抜き、正眼に構え、じっと心を落ち着けて、昨夜の境地を再現していく。数度、深く呼吸を繰り返すと、刃から緋色の炎が立ち上りだした。デクスタがその火の美々しさに目を細める。

「ちゃんと操れているようね」

「火は“首輪”で封印したんじゃなかったのかよ」

「最初に教えたでしょ。“三昧(サマーディ)”を極めれば五蘊(ごうん)が自由自在ってね。

 自由になるのが()()()()、なんて言ったつもりはないわよ」

「あ!? じゃあ、最初からこのために!?」

「外からの()によって折り合いを強要された獣……でももし真に己の内的世界を制御しきれたなら、首輪の封印をすり抜けて炎を発揮することもできる。細かな砂が(ふるい)の隙間をこぼれ落ちるようにね」

「悪っりィやつゥー! それって学園の連中を……」

「裏切り! (だま)し! ペテンだよーん! でもデクスタちゃん嘘ついてないもーん! 約束通り首輪はつけっぱなしーっ!」

 爆笑するふたり。楽しげに絡み合う師弟の声に、台所ではミラージュが頬を緩めてもいた。

 ひとしきり笑って笑い疲れて、笑いすぎの涙に目尻を擦りながら、デクスタが続ける。

「でも、そのためにはあんた自身が“三昧(サマーディ)”の極意に至り、それ以上に心身を強く鍛え上げる必要があった。さもなくば(ローア)の火は再びあんた自身を燃料に燃え上がり、世界を焼き滅ぼそうとするだろう。

 これが、『もっと強くなったら』といつか約束した技。

 あたしが考案し、あんたが完成させた究極奥義。

 名付けて――“斬苦与楽”!

 今のあんたに、斬れないものは何もない。世界だろうが、魔王だろうがね!」

 緋女は、太刀を納めて、腰に()いた。

 振り返ったその眼の中に、炎が熱く燃えていた。

 師は力強くうなずいた。

「もう教えることは何もない。さあ! 胸を張って行ってきなさい、緋女!!」

 背筋を伸ばし、肩を張り、総身を一振りの刀の如くして、緋女は凛然と(こうべ)を下げた。

「師匠!! ありがとうございました!!」

 大音声の震えも収まらぬ扉を開き、火の玉と化して緋女が飛び出す。

 いざ、仲間の待つ戦場へ。猛然と山を駆け下りていく緋女の背を、デクスタは窓から見守り続けた。10年。かつて世界の身勝手に翻弄され、何もかもを失くした少女が、10年の時を経て今、世界を救いに駆けていく。世界が好きだと叫んでいる。世界を滅ぼすはずの炎が、世界を守るための(つるぎ)に変わる。

 頬を伝い落ちた一筋の涙。おそらくは人生で最後に流す涙が、これほど温かいことに、デクスタは感謝せずにはいられなかった。

「よっしゃー! あたしの人生、完了ーっ!!」

 大きく手足を投げ出して、デクスタは仰向けに寝転んだ。

「さーてとっ。残り時間でどんなことしてやろーかなっ?」

 その不敵な悪戯顔に、食事を運んできたミラージュは、くすくす笑い声を漏らしたのだった

 

 

THE END.

 

 

 

 

 

 

 同じ頃。

 極寒の険阻、グランベルギア山脈。その巨大な岩塊を一文字に断ち割ったかの如き谷底に、ヴィッシュはひとり、(ひざまず)いていた。

 山の天気は急変する。つい数刻前まで青々と広がっていた空はにわかに雲に覆われ、雪を降らせ始めた。たちまち風が唸り吹雪を起こした。叩きつけ、圧し潰すような猛烈な雪。崖が、山肌が、ヴィッシュの身体の右半分が、骨灰色に染まっていく。

 ――触れたもの()()を殺す剣。掛け値なしとは恐れいったぜ。

 ヴィッシュの右手には、見慣れぬ長剣が握られている。飾り気のない柄から伸びる、曇りひとつない白銀の刀身。一見してどこにでもありそうな品だが、見る者が見れば、剣全体から立ち昇る禍々しい気配をはっきりと捉えたことだろう。

 右腕が痛い。

 夜中、眠りに落ちる前、なぜか不意に()がたまらなく怖くなり、涙を流して丸まって、己自身を抱きしめる……あのときの胸の痛みと同じ痛さで、剣を握るこの手が痛い。

 ヴィッシュは視線を腕へ下ろした。剣に触れた手のひらから肘の近くにかけて、皮膚が白変していた。いや、皮膚ばかりではない。残る左腕でさすってみれば、指に触るのは石くれのように固い感触。()()しているのだ。皮膚も、肉も、汗も、血も、ひとの身体であったはずのあらゆるものが、氷のように冷え切った骨の塊と化しているのだ。

「……安い代価じゃねえな」

 それでもヴィッシュは、口の端へ薄く笑みをつくる。

 苦痛を堪えて立ち上がり、背後の谷へ視線を送る。そこに積み重なっていたのは、死体。魔獣の、魔族の、妖魔の、竜の、谷を埋め尽くし、流血が川をなすほどの、無数の死体。

 ヴィッシュが狩り殺した敵のなれの果て。

 この剣――“勇者の剣”の最初の餌食となったものたちである。

「ま、お買い得ではあるけどな」

 

 

To be continued.

 

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 魔王の侵攻により瓦解したベンズバレン。残された人々は恐怖と困窮の地獄の中で、暴虐の魔手から逃げ惑う。だがそこに、魔の者共を狩り殺すひとたりの死神がいた。希望とは呼べぬ。英雄にはなり得ぬ。ただ狂気じみた執念の鎌で死を撒き続ける孤高の少女。その名は――“灰色の魔女”カジュ・ジブリール。

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第19話 “死を賭すワケは。”

 the Face of Death

 

 乞う、ご期待。

 

 



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第19話 “死を賭すワケは。”
第19話-01 灰色の魔女


 第2ベンズバレン――焼け付くような活気で満ちあふれていたあの街が、今、恐怖の坩堝(るつぼ)と化している。

 かつて人混みでごった返していた大通りを、骸骨(スケルトン)の軍勢が洪水の如く蹂躙する。見渡す限り立ち並ぶ三角屋根の上空を、骨飛竜(ボーンヴルム)が我が物顔に旋回する。魔族の術士に操られた鬼兵の群れが大聖堂の門を打ち破り、中で震えていた避難民たちを無残な肉片へと変えていく……

 昨夜ついに総攻撃を開始した魔王軍は、またたく間に城門を突破して都市内部に侵入した。王国全土から掻き集められた2万の抵抗軍(レジスタンス)は必死の抵抗を試みたが、圧倒的な戦力差はいかんともしがたい。大通りが、広場が、港が、街の要所が次々に敵の手に落ちていく。逃げ遅れた住人が刺され、千切られ、腸を食い荒らされて、その惨状を目にした人々が恐慌に陥りさらなる混乱を引き起こす。

 5ヶ月前に王都を襲った恐怖の渦が、ついにこの街をも飲みこんだのである。

 その街の一角。左右を煉瓦造りの住宅に挟まれた路地を、必死の形相で逃走する3人の女たちがいた。いずれも髪を千々に振り乱し、埃にまみれた衣服をはだけさせ、裸足の裏から石畳に点々と血の跡をつけながら、痛みも苦しみも忘れて走っている。顔面を恐怖に歪め、ひきつるような悲鳴を断続的に漏らし、心臓を破裂せんばかりに高鳴らせながら、それでも足を止めることができない。

 象獅子(ベヒモス)が、狭い路地に巨体を無理矢理ねじ込んで、左右の壁をぶち破りながら執拗に追ってきているのだ。

「はっはァー! もう一発っ」

「ずるいぞ、俺の番だろうが! 替われっ」

 象獅子(ベヒモス)の背にまたがった3人の魔族がやんやと騒ぎ立てる。うちのひとりが仲間を押し退け、片目をつぶって狙いを定め、《火の矢》を撃ち出した。矢はわずかに的をはずれ、女の足元へ突き刺さる。女が恐怖に絶叫する。足を速める。魔族が手を叩いて爆笑する。射手は顔を赤くして弁明した。

「いや、今のは練習。ノーカン! な?」

「1回交代だよ、当てたやつが総取りなんだから」

「なんだよ! じゃあ1巡したからジャンケンな」

「しょうがねえな……はい、じっけった! あーらった! たっ……」

 遊んでいるのだ。玩具にしているのだ。逃げる女たち3人を誰が()()かを、賭けの種にしてふざけているのだ。しかし魔族どもに問えば、何が悪いと開き直ることだろう。第2ベンズバレン攻略作戦に従事する彼らは略奪勝手を言い渡されている。すなわち、財産を見れば奪ってよい。男を見れば奴隷にしてよい。女を見れば犯してよい。生かすも殺すも意のままだ。これは魔王から認められた正当な権利であり、給与報酬の一部なのである。

 だが奪われる側はたまったものではない。息せき切って逃げ走る女たちの前に、不意に明るく視界が開けた。大通りに飛び出たのだ。ここまで来れば抵抗軍(レジスタンス)が陣をはっているはずだったのだ。

 だが彼女らがそこで出会ったものは、通りを埋め尽くさんばかりの死霊(アンデッド)と鬼兵どもだった。大通りに陣取っていた抵抗軍(レジスタンス)は、とうに潰走した後だったのである。

 脇道から突然飛び出てきた3人の女たちを、鬼兵どもが血に飢えた目で一斉に捉える。女たちはその眼光にすくみ上がり、希望の光を完全に見失って、抱き合うようにへたり込んだ。その後ろから象獅子(ベヒモス)がひょっこりと顔を出す。

「あ。大通りに出ちゃった」

「貴様ら! 何を遊んでおるかッ!」

 魔族たちを叱り飛ばしたのは、この方面を任されている魔族の部隊長である。部隊長は居並ぶ鬼兵を掻き分け、隙間から身をひねり出して部下たちを睨み上げる。だがその怒りの形相に、象獅子(ベヒモス)の上の魔族たちはへらへらと浮ついた笑いを返すのみ。

「しかしですねえ隊長どの、これは魔王様から認められた正当な……」

「後にせい! こちらへ迫ってきているのだ」

「何がです?」

「“灰色の”……」

 と、忌々しげに口にしかけた、その時。

 天空から降り注いだ《光の雨》が、部隊長と周囲の鬼兵十数匹の頭蓋を撃ち抜いた。

 たちまち巻き起こる轟音。怒号。戦慄の雄叫び。一撃必殺の高等攻撃魔術《光の矢》、それを数十本単位でまとめて叩き込む超高等術式《光の雨》。防ぐ間も逃げる間もありはしない。竜の咆哮を思わせる炸裂音と共に、閃光が心臓を、脳を、さもなくば脚を焼き貫き、軍勢を玩具の兵隊でも蹴散らすかのように薙ぎ倒していく。

「なんなんだァ!?」

「奴だ! 魔女だ!」

「逃げろ!! “灰色の魔女”――」

 頭上、ぶ厚い暗雲の隙間からのぞく太陽の中に、死神の大鎌がきらめく。

「――カジュ・ジブリールだあッ!!」

 ()()!!

 鈍い音を立て、カジュは象獅子(ベヒモス)の脇を飛び抜けた。その直後、一軒家ほどもある象獅子(ベヒモス)の胴が横一文字に両断された。

 カジュが手にした身の丈に数倍する長杖、その先端から三日月を思わせる光の刃が伸びている。《死神の鎌》――かつて企業(コープス)の尖兵として戦わされていた頃、幾多の罪なき人々を地獄へ落としてきた、呪わしい近接攻撃魔術。その威力のほどはこのとおり。

 死の大鎌を担いつつ《風の翼》で稲妻の如く飛び回り、灰に汚れたローブの下で不気味に眼光ぎらつかせるその姿は、まさしく“灰色の魔女”。

 魔族たちは半狂乱となり、空中のカジュへ目掛けてありったけの術を打ち上げた。大通りのいたるところから連打される《火の矢》、《火の矢》、《火の矢》。さらには上空で旋回していた骨飛竜(ボーンヴルム)が3匹ばかり、カジュを狙って急降下してくる。驟雨(しゅうう)の如き猛攻を、カジュは網の目を縫うように潜り抜けながら魔族へ《光の矢》で撃ち返し、骨飛竜(ボーンヴルム)に鎌を振るう。倒れる魔族。墜落する竜。次々巻き起こる爆発と死が、魔王軍に恐怖を伝播させていく。

「畜生、止まれェ!」

 と、魔族が声を裏返して絶叫した。見れば人間の女性――象獅子(ベヒモス)に追われていた3人のうちの1人が、魔族に羽交い締めにされている。魔族は指先に《火の矢》の魔法陣を光らせ、人質のこめかみに乱暴に押し当てる。

「動けばこいつの命は……」

 要求の言葉はそこで止まった。

 一切の躊躇なくカジュが放った《光の矢》が、魔族の心臓を撃ち抜いたのだ。

 のけぞり倒れる魔族。だがそのとき、絶命した魔族の指から術式が発動し、《火の矢》が人質の頭を撃ち抜いた。頭蓋を破られ、脳を焼き潰された女性は、魔族ともつれあった倒れ付す。残る2人の女性が死体にすり寄り泣き叫ぶ。

「エミリア! エミリアァー!」

「人殺し! 魔女め! どうして見殺しに!」

 非難に耳を貸している暇はない。その間も敵の軍勢からカジュに集中砲火が浴びせられているのだ。カジュは戦い続ける。避け、弾き、撃ち、潰す。ゼンマイ仕掛けの機械人形のように淡々と魔族を殺す。骸骨(スケルトン)を粉砕する。骨飛竜(ボーンヴルム)を斬り捨てる。カジュの乾いた唇が微かに震え、不可解な呟き声を漏らしたことに気付くものはない。

「……四百七。」

 と。

「うーっ!!」

 突如、頭上から飛び込む甲高い雄叫び。恐るべき殺気に背筋を凍らせながら、カジュは目を引き剝いてその場を飛び退く。

 聖堂の屋根から襲い来たのは細身の鬼女。その手には竜骨から削りだした長大な棍棒が握られている。棍の先端から乱杭歯のように突き出た棘を、鬼女は飛び降りざまにカジュの脳天目掛けて振り下ろした。

 間一髪。すんでのところで身をかわしたカジュは、空中を後退しながら《光の矢》を撃ち返した。鬼女はこれを竜骨棍で弾き飛ばし、そのまま四つ足で身軽に着地。

 カジュが追い打ちをかけんとしたその時、さらに別方向からもうひとりの敵が出現した。カジュの背後の建物を粉砕し、石壁を下生えの草のように蹴散らしながら、大通りへと踏みでてくる巨大な影は、屋根をも越える背丈の骸骨巨人(ボーン・ジャイアント)

『ごら!!』

 天地を揺るがす大音声と共に、巨人が剣を、いや、あまりの大きさのために鉄柱としか思えぬものを、容赦なくカジュ目掛けて振り下ろした。カジュは《風の翼》をひるがえして全速回避。どうにか巨大剣の下をくぐり抜けるが、そこへ鬼女の竜骨棍が襲いかかる。

「チッ。」

 回避は無理。迎撃している暇もない。カジュは舌打ちと同時に《光の盾》を発動、かろうじて竜骨棍を弾き返し、そのまま敵に背を向け距離をとった。完全に間合いの外まで後退してから屋根の上に着地。大通りに並ぶ2人の強敵を一瞥(いちべつ)し、めんどくさそうに目を細める。

「うっう――――っ!!」

 鬼女が天高く吼え声を響かせるや、その号令に応えて、そこらじゅうの路地から、建物から、屋根の上から、おびただしい数の鬼兵どもが姿を現した。知恵もなく、社会性もなく、ただ我執と暴力のみに生きるはずの鬼が、まがりなりにも軍隊の形を保っているのはなぜか? あの鬼女が統率しているからだ。“誰よりも強い”、ただその一事のみによって。

 魔鬼兵隊筆頭――魔王軍四天王、契木(ちぎりぎ)のナギ。

 魔王の紋章入りの目隠し布を巻いた顔。ひとならざる血筋を物語る、左右一対の小さな角。かつてヴィッシュや緋女が狩り逃した盲目の鬼娘が、どういう巡り合わせで今の立場にのし上がったのか、カジュは知りもしないし興味もない。重要なのは、この5ヶ月で4度に渡って衝突しながら、一度も決着をつけられなかったという事実。厄介な相手だ。数万の雑魚を相手にするより、奴ひとりのほうがよっぽど怖い。

 そしてもう一方はなおさら性質(たち)が悪い。

『ごれ……? ごわ……ごな……』

 首をかしげてしきりに唸り続けている骸骨巨人(ボーン・ジャイアント)。彼の剛力はカジュも我が身で味わった。あの豪腕で振るう鉄柱剣の一撃は、《光の盾》の5枚重ねでも受けきれるかどうか。奴にかかれば城壁などはあってないようなもの。万の軍勢とてたちまち踏み潰されてしまう。

 緋女に倒された巨人戦士ゴルゴロドン……その死骸の成れの果て。死術士(ネクロマンサー)ミュート配下の死霊(アンデッド)の中でも、文句なしに最強の1体である。

 ――さて、どうするかな。

 油断なく敵に目を配りながら、カジュは小考した。四天王(クラス)2人に加えてあれだけの数の鬼兵を相手取るのはさすがに辛い。全力を出せば勝てないことはないかもしれないが、巻き添えで街を荒野に変えては防衛戦の意味がない。といって手を抜いていられる相手でもない……

 ちょうどそこへ、味方からの《遠話》が届いた。

〔カジュさん! 第2ベンズバレンは現時点を以て放棄。全軍撤退します。そちらも!〕

「……負けか。」

〔避難民はあらかた収容済み。やれるだけのことはやりました。生き延びてください〕

 ちら、と目を遣れば、友の死骸にすがり付いて泣きじゃくっていたあの2人の女性の姿はもはやない。カジュが敵の目を引き付けている間にうまく逃げおおせたようだ。

了解(アイコピー)。」

 淡々と返答すると、カジュは敵に背を向け、第2ベンズバレンから飛び去って行った。

 

 

   *

 

 

 企業(コープス)にいた頃カジュが住んでいた個室は、石棺のようなものだった。安らぎなどとは無縁の、冷えた混凝土(コンクリート)壁。金属製の書き物机と、恐ろしく硬いベッド。衣服も、食事も、毎日決まった時間に届く。洗い物とゴミは決まった所に置いておけば、専門の職員が浚っていく。トイレは廊下の向かい側に共用のものが一ヶ所。他人と顔を合わすことはない。合わせたいとも思わない。目覚め、仕事に向かい、片付け、戻り、食事を喉に捻じ込み、倒れ、眠り、また目覚める。ただそれだけの日々。身体が痒い。皮膚はひどく荒れ、自分自身の爪で(えぐ)った場所に数え切れないほどの瘡蓋(かさぶた)ができている。食事の味は半年ほど前から分からなくなった。暑くないのに汗が止まらなくなった。寒くないのに震えが来るようになった。

 ()()()()()()のに、涙が溢れるようになった。

 ある日、人体に必要な栄養素を全て練り込んだ味のないクラッカーを口に押し込んでいると、不意に()のドアを開く者があった。

「やあカジュくん! どうしたんだい、最近スコアが落ちてるみたいじゃない」

 ニコニコと明るい笑顔で許しも得ずに入ってきたのは、カジュの直属の上司、()()()()()()部長コープスマン。彼はカジュが座るベッドへさも親し気に並んで腰を下ろし、大げさに身振り手振りしながら流暢にまくしたてた。

「ニキエの住民掃討のとき体調不良で遅延しちゃったんだって? うーん、いけないねえ、報告書を見る限りじゃあ、そのせいでざっと300人は殺し損ねてるじゃないか! まあ誰にだって不調はある。君ほどの天才も例外じゃない。でも僕は期待しちゃうんだな。リッキー・パルメット、ホムンクルス・ロータス、その他君と同格の実力を持つ社規違反者をもことごとく片付けてきた強行市場開拓部のエースじゃないか! 君ならもっとやれるよ! 僕は信じてる。ねっ、カジュくん?」

「……はい。」

「今日はね、リハビリにぴったりな仕事を用意してきたんだよっ」

 うきうきと声を弾ませて、コープスマンが書類数枚の束をカジュの膝の上へ乗せた。

「ほらここ、ホウシァンの自治体と高度ホタル石の採掘権で揉めててね。1000人ほどのちっちゃな町だし、戦力らしい戦力もない。君にとっては半日で片付く簡単な仕事さ。ぱぱっと()()()()()きて! なんなら全滅させたって構わないし……聞いてるかい?」

「……はい。」

「これは僕の親心だと思ってほしいな。どんなに成績が悪くたって、君を処分するようなはめにはなりたくない。君のことは、実の子のように思っているんだからね。

 じゃ、出発は今夜だよ! カージュくん、がーんばってー」

 コープスマンはひらひら手を振りながら隙間風のようにするりと去っていった。カジュは手の中に握り込んでいたクラッカーの残りを口元に持ち上げた。指が震えた。何かひどく大きなものを喉に捻じ込まれたように思えた。と、カジュは呻き、部屋を飛び出てトイレに駆け込んだ。

 亡者の呪詛のように唸りながら、カジュは吐いた。

 食べたばかりのクラッカーを残さず吐き出し、胃が痙攣(けいれん)するほどに胃液を絞り出し、それでも悪心(おしん)は収まらなかった。もう何も残っていない体の中から、ただ、嗚咽ばかりを吐き出して、カジュは便器にすがり付きながら、ただひたすらに震え続けた。

 ――何のために生きてるんだろう。

 百万回も繰り替えし、一度たりとも答えを得られなかった問いが、()えた体液の臭いと共にこみ上げる。

 ――ボクは一体、何のために生まれてきたんだろう……。

 

 

   *

 

 

 ――つまんないこと思い出したな。

 第2ベンズバレンから遥か北西、森の中にひっそりと設営された抵抗軍(レジスタンス)の仮拠点で、カジュはひとり、吐いていた。

 木々の狭い隙間に捻じ込むように建てられた幕舎の裏に隠れ、草むら目掛けて胃液を吐き下す。何年ぶりだろうか、臓物を万力で締め上げられるようなこの感触は。出したくもない呻きが漏れる。口の中が不快な粘液に(けが)されていく。口許から糸を引いて滴り落ちる己の体液が耐えがたく汚いものに思えて、カジュは狂ったように何度も唾を吐いた。

「カジュさん……」

 その背に声をかける男があった。木の葉で口を(ぬぐ)って振り返れば、後始末人協会のコバヤシが難しい顔をして立っている。彼も今や抵抗軍(レジスタンス)の同志。カジュが遊撃術士として大立ち回りをしているのと同様、彼も物資の調達やら分配やらの裏方仕事で軍を支えているのだ。

「かなり消耗したようですね」

「問題ないっす。」

「みえみえの嘘はやめてください。時間の無駄です」

 コバヤシが差しだしてくれた水筒を、カジュはひったくるように受け取った。乱暴に口をゆすいで吐き捨て、食道につっかえた吐瀉物(としゃぶつ)残滓(ざんし)を、水で胃袋に押し戻す。決して目を合わせようとしないカジュへ、コバヤシは大上段から斬りつけるように詰め寄った。

「今日はもう休みなさい」

「休んだ分だけ人が死ぬでしょ。」

「あなたが倒れればそれ以上に死にますよ!」

 そこへ、ふたりの話し声を聞き付けてか、ひとりの兵士が駆け寄ってきた。この拠点に疲れていない者などひとりもあるまいが、彼もまた例外ではなかった。すがりつくような目の周りには、今にも倒れそうなほどに色濃く(くま)が浮き出ていた。

「カジュさん、ここにいたんですか! 診療所の方を助けてもらえませんか、お願いしますっ」

「行きます。」

 コバヤシの横をすり抜けて行こうとするカジュ。その肩をコバヤシが固くつかんで引き留める。

「もう3日も寝てないはずだ。食事だってろくにとってない。これ以上無理を重ねれば……」

「コバさん。」

 カジュは彼を睨み上げ、水筒を胸に突き返して、黙らせた。

「時間の無駄。」

 大股に去っていくカジュを為すすべもなく見送りながら、コバヤシは軋むほどに歯噛みした。

 トップクラスの技量を持つ術士はどこでも引っ張りだこになる。敵の撃滅、都市の防衛、味方の援護、偵察、遠方との連絡、怪我人の治療や陣地の設営まで、何でもできるということは、あらゆる仕事が舞い込んでしまうということでもある。カジュの負担を減らすためにコバヤシはあちこちの勢力との調整に駆け回り、可能な限り仕事を他へ回して、組織の潤滑剤としての役割を十全に果たした。この5ヶ月、彼は彼なりにやってきたつもりだ。

 だがそれでも日一日と戦況は悪化し、ついに第2ベンズバレン陥落の憂き目をみた。当然、困難な案件はますます増える。カジュでなければ対応しきれない、カジュならばどうにかしてしまえる仕事が、到底こなしきれないほどに積み上がる。そして誰よりも責任感の強いカジュは、迷いなく――悪く言えば安直に――我が身を削る道を選んでしまう。

 ――もう彼女は限界だ。

 水筒を握り締め、コバヤシは北の空を仰ぎ見た。

 ――まだですか、ヴィッシュさん。早く……早く!

 

 

(つづく)



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第19話-02 今、できること

 

 

 つい数日前まで市内にあった抵抗軍(レジスタンス)の診療所も、今では森の拠点の隅の天幕ひとつきりになってしまった。当然、患者は溢れる。天幕の前に寝かされた患者で地面が見えぬほどになる。その間を医師モンドはくたびれた脚でまたぎ歩き、ただ眼光ばかりを鋭くぎらつかせて、手早くひとりひとり診察を下していく。

「2。0。0。これも0」

 患者に機械的に番号が割り振られていく。そこへ年かさの兵士が荷車を引きずって駆け込んでくる。

「先生、追加です!」

 荷台には槍傷からどくどくと血を流し、悲痛に泣き叫び続ける若い兵がひとり。モンドは傷を一瞥(いちべつ)し、

「1だ」

「よし、運べ!」

 男衆が手分けして怪我人を運んでいく。番号ごとに別の場所へだ。

 1は、すぐに手当てする者。

 2は、手が空くまで待たせておく者。

 そして0は、とうてい助けられぬ者。

 限られた医者の手を最大限に生かすため、怪我の具合で選別(トリアージ)して、救えそうなものだけ救う。手をかけなくても生きられそうなものには耐えてもらう。どうにもならぬ者には、死んでもらう。

「さて、やるかいね」

 モンドは死人のごとき冷淡さで仕事をこなし、また次の仕事のために天幕をくぐった。見殺しにされることも知らぬまま他所へ運ばれていく0番の患者たちには、それっきり眼を向けようとさえせずに。

 

 

 こうして陣営の裏手へ運ばれた0番の者は、野ざらしのまま草地へ寝かされる。彼らの間を駆け回るのは、何の技術も知識も持たない子供たちだ。

 その中に少女ナジアの姿がある。もう1年半も昔、鱗の(ヴルム)に襲われていたところをヴィッシュに救われた、あのナジアである。

 魔王軍の侵攻によって故郷から焼け出された難民は数知れない。ある者はまだ無事な街に転がり込み、ある者は辺境や異国に逃げた。だが逃げるばかりではない。少なからぬ難民が抵抗軍(レジスタンス)に参加し、祖国のための戦いに従事し始めていた。

 ナジアもその中のひとり。無論、力のない子供に武器を取って戦うことは無理である。だが意志の固さは大人にも負けない。己の無力は承知の上で、できる範囲の仕事で役立とうと懸命に働いているのだ。

 ナジアに与えられたのは、怪我人に水を配る仕事だった。

 水差しとコップを持って巡回し、患者の要求に応えて喉を潤してやる。ナジアらが相手するのは既に見捨てられた者たち。医師に「もう助からない」と判断され、一切の医療を受けられぬままただ死を待つだけの者たちだ。

 すがるような目で見つめる瀕死の怪我人を、助け起こしてやり、背を支えてやり、水を口元まで運んでやり、

「気を強く持って」

 と気休めを言い、

「もうすぐ先生が来ますからね」

 と見え透いた嘘を並べて、最期の時までただ見守る。それがナジアの仕事。どんな高度な医療よりも尊く、ひょっとしたら神聖でさえあるかもしれない任務……

 だが当のナジアにとって、それは地獄の責苦でしかなかった。

「来てくれ、来て……たのむ……」

 ある瀕死の兵士のそばを通りかかったとき、彼がナジアに訴えかけた。ナジアはいつものように兵士のそばへひざまずき、助け起こしてやった。だが兵士が震える手を伸ばした先はコップではなかった。

 彼はナジアの手のひらを、ひどく強く握りしめたのだ。

 筋張った大人の男の手の感触。握り潰されそうなほどの握力。知らない男の強引な接触がナジアを少なからず驚かせた。恐怖を覚えすらしたかもしれない。振り払いたくなかったと言えば嘘になる。

 だが兵士の表情を目の当たりにして、ナジアはこの小さな暴力を受け入れることにした。

 兵士は泣いていた。涙が顔面の泥を溶かして、白い筋をつくっていた。

「手を……握らせてくれ。あと少しでいいんだ。たのむ……たのむよ……」

「大丈夫。そばにいますよ」

 ナジアは笑い、兵士の手を握り返した。

 兵士がその厚意に驚きをあらわにし、次いで安堵の微笑みを浮かべた。魅力的な笑顔だった。きっと故郷には恋人のひとりもいたであろう。青年はナジアの手の温もりによってひととき青春のうずきを思い出し――笑いながら、死んだ。

 ナジアは彼の手を放した。

 再び水差しを握った。次の患者へ向かわねばならないことは分かっていた。

 だが、立てない。

 脚が言うことを聞いてくれない。

 身体は石となり、腕は棒となり、思考は深い(もや)の中に迷い込んでしまっていた。

「奥の方にまだ息のあるのが。やれる範囲で……」

「おけ。」

 背後で囁きあう声が聞こえた。振り返れば、小柄な少女がナジアのそばを大股に横切っていくところだった。有名人だ。灰色の魔女、カジュ・ジブリール。彼女と一瞬目が合った。その淀んだ視線を浴びたナジアは、ようやく自分の顔が涙でぐしゃぐしゃになっていたことに気付いた。

 握り拳で涙をぬぐい、ナジアは立ち上がった。高名な魔女様がこんなところへ何をしに来たのか……カジュの背後に近寄り、首を伸ばして手元を覗いてみる。

「あっ……」

 そこで起きた奇跡に、思わずナジアは声をあげた。カジュが怪我人のそばに佇み、呪文を唱えながら空中に魔法陣を描くと、どくどくと血を流していた致命傷がたちまち塞がってしまったのだ。ナジアはカジュの仕事を食い入るように見つめた。ひとり、またひとり、カジュは淡々と瀕死の人々を蘇らせていった。

 どうやら治すのは最小限、命に係わる重傷の部分だけらしい。いや、それでも充分だ。生き延びることさえできれば細かな傷は自力で治せる。ナジアの顔に希望の光が差し込んだ。これなら。この力なら!

 5人ばかりに治療の術を施したところで、カジュは片耳を手のひらで覆った。どこかから救援を求める《遠話》が舞い込んだのだろう。

「……すぐ行きます。」

 ぼそり、と答え、カジュは他の怪我人の列から離れて行った。ナジアは衝動的に追いかけた。《風の翼》の呪文を唱え始めたカジュを、ナジアは半ばわめき散らすようにして呼び止めた。

「カジュさんっ!」

 カジュが振り返る。魔王軍の肉従者(ゾンビ)よりもなお淀んだその目が、ナジアを怖気づかせる。

「……なんすか。忙しいんすけど。」

 いらだちを隠せぬカジュの声。ナジアは一瞬言葉に詰まったが、気圧(けお)されてはいられない。

「あのっ! さっきの、魔法……ですよね?」

「そうですが。」

「私にも教えてくださいっ!」

 カジュは黙った。ナジアが詰め寄る。まとまり切らない胸の想いを、思いつくままにまくしたてる。

「魔法ができたらみんな治せる。私でも救える。ひとりでも多く。私それをしたいし、やらなきゃって思うし、弟が死んだからってだけじゃなくて、今の世の中がこうだからって、ひどすぎるって文句より、私の仕事をしなきゃって! 思ったから動くの。思うように動きたいの! だから……だからっ……」

 カジュは無言でナジアに歩み寄った。わめきながら涙を撒き散らしていたナジアの顔を、頭ひとつ分下から掬い上げるように見上げ、握り締めた拳でナジアの胸へそっと触れた。

「ボクは天才だ。そのボクでも2年かかった。」

 ナジアは絶句した。2年。2年? それは今のナジアにとって、無限とすら思える時間。そうだ。当たり前だ。誰にでも使える魔法ならみんな学んでる。

 己の甘さと無能さを、刃物でえぐられたような気がした。

「……無いもの強請(ねだ)りは後にして、今できることをやるんだね。」

 とん、とナジアの胸を突き放し、カジュは《風の翼》を発動した。

 泣き崩れるナジアを見下ろしながら、天高くカジュは舞い上がる。

「四百十。四百十一。四百十二……。」

 救援要請のあったポイントへ進路を向けながら、カジュは小声で何かを数えた。彼女にとって、ひどく大切な()()()の数を。

 

 

   *

 

 

 魔の都、と人は呼ぶ。

 建国以来絶えることなき繁栄に煌めき続けたベンズバレン王都は、今や、重苦しい瘴気の立ち込める暴虐の(ちまた)へと姿を変えた。王国全土から集まる人と物と情報とに沸き返っていた大通りへ、跋扈(ばっこ)するものは鬼兵と死霊。詩人が競って歌いあげた英雄たちの(いさおし)は、悲鳴と呪詛にとってかわられた。生き残った人々は固く門を閉ざして息をひそめ、ただ災いが我が身に降りかからぬことを祈りながら身を寄せ合うばかり。

 この寒々とした魔都の中央に、さながら人類世界の墓標であるかのごとく、魔王城が(そび)えている。

 なんたる威容であろう。なんたるおぞましさであろう。城壁を成すものは幾重にも絡み合う亡者どもの白骨。宮殿の屋根を成すものは巨大な魔獣の臓物の(ひだ)。鮮血そのものが結晶化した紅の宝玉がいたるところを飾り立て、螺旋状に伸び上がった巨竜の脊椎(せきつい)が雲を貫かんばかりの天守を支える。

 太陽も、青空も、ひとの希望となりうるものは余さず全て覆い隠して、魔王城の影は都の頭上を塞いでいるのである。

 始めこそ王都の住民たちは抵抗軍(レジスタンス)の反撃に期待をかけていた。都を奪われ、玉座を穢されたとはいえ、王国各地の諸侯は健在。その連合軍がひと月かふた月のうちには王都を解放してくれるものと思っていたのだ。

 だがそれがどれほど甘い見積もりであったかは、数ヶ月の攻防によって明らかとなった。魔王城の周囲は三重の城壁と竜骨製の門に固く守られ、内部には魔族と鬼兵と死霊(アンデッド)がひしめき合い、触れただけで死を招く魔法の罠も数限りなく張り巡らされている。これまでに4度の総攻撃を仕掛けた抵抗軍(レジスタンス)はそのたびに蹴散らされ、甚大な被害を受けながら、ついに第一の門を突破することすらできずに撤退した。

 救いの手が来ることはもはやないのだと、王都住民に悟らせるには充分すぎるほどの惨敗だった。

 緩やかに、しかし確実に、希望は衰えていった。そしてその隙間を埋めるように、絶望は日一日と深く人々の心に蔓延(はびこ)っていったのである。

 

 

「……ってな具合で、都での《悪意》収穫は順調だ。

 だがな大将、本来ならこれに第2ベンズバレンの分が加わってたはずなんだぜ、3ヶ月も前の段階でな」

 魔王城天守の中ほどにある一室で、魔王は朝議のために身支度を整えていた。彼に(かしず)く侍女たちは、由緒正しい魔貴族(マグス・ノーブル)の姫にして輝くような美貌の持ち主ばかり。それが着物を汚すのも構わずひざまずき、あるいは口づけせんばかりに頬を寄せ、魔王の足を洗い、爪を磨き、衣を着せ、髪を整え、奴隷のようにかいがいしく立ち働いているのだ。

 それでいて、どの侍女の顔にも隠しきれぬ歓びが溢れ出ている。世界の支配者たるべき最も高貴な存在、魔王。それを崇拝する姫君たちは、我が身の汚れを(いと)うどころか、むしろ法悦とさえ感じているのだ。魔王が一言命じればどんな汚辱も進んで受け入れ、命すら投げ出すことだろう。

「魔王様、新しいお召し物、とても良くお似合いですわ」

「なんと美しい黒でしょう。まるで夜の闇をそのまま編み上げたかのよう……」

 魔王を囲み、頬を染めながら囁く()()()()に、魔王はにっこりと温かい笑顔を返してやる。

「ありがとう。君たちが磨き上げてくれたおかげさ。

 さあ、みんな下がっていいよ。朝議が済むまでは休んでおいで」

 侍女たちが優雅に挨拶しながら滑り出ていく。部屋に残されたのは、すっかり王侯らしく着飾った魔王と、椅子へ前後さかさまに座った不機嫌顔の死術士(ネクロマンサー)ミュートのみ。

「ちぇっ。魔王様はモテるのに苦労がなくていいな」

「人気取りも仕事のうちさ。今ごろ向こうでもやきもち焼いてるよ。大事な話はいつもミュート様とふたりきり。まるで本当の夫婦みたいだ、ってね」

「へ! そんじゃ()()からひとこと言わせてもらいますがね。どうにか第2は落とせたが、予定通りなら魔鬼兵隊と魔王直属軍だけでとっくの昔にカタがついてたんだ。死霊軍(おれのてぜい)に虎の子の骸骨巨人(ボーン・ジャイアント)まで引っ張り出すハメになった原因は、ひとえにあのガキにある」

「灰色の魔女カジュ・ジブリール……か」

「ガキひとりと侮っているうちに、あれよあれよで一個師団レベルの戦力が奴に食われた。第2ベンズバレンの占領も遅れに遅れ、住民の大半は避難済みで旨味も半減。5ヶ月分の戦費をさっぴけばメリットと相殺でほぼトントンだ。

 これ以上野放しにはできんぜ。いかにお前さんの恋人でもな!」

「君の策は良し。だが肝心の実行役がいない。彼女に太刀打ちできる人材がいるかい?」

「それよ。正直おれでも荷が重い。で、相談なんだがな。四天王の中でもあの化物と渡り合える奴と言やァ……」

 と、そのときだった。

 突然、足元から突き上げるような振動と轟音が魔王城を根本から揺るがした。ミュートは数歩たたらを踏み、揺れが収まるや窓へ貼り付く。

「なんだァ!? 見えやしねえ」

「正門が破られたね」

「あァ!? 無能かよ歩哨どもっ!」

 すぐさまミュートは《遠話》を飛ばして衛尉――魔王城の防衛責任者へ怒鳴り散らした。

「おいコラァ! どこの敵だ!? なんで攻撃されるまで気付かなかった!?」

〔すみませんミュート様! しかしその……敵じゃないんです〕

「あ?」

 包帯の上からでもはっきり分かるほどに眉をひそめるミュートの後ろで、魔王がくすくすと楽しげに笑いを漏らしている。

「ふふ……困ったものだね、()のやんちゃにも」

「ああ?」

〔ドラゴン旅団ッ! 四天王ボスボラス、謀反です!!〕

 悲鳴じみた衛尉の報告は、その直後、肉の潰れる鈍い音に掻き消された。

 

 

 竜人(ヴルムフォーク)

 数ある源人(オリジン)の子らの中でも巨人と並んで最強の種族。外見は直立する(ヴルム)そのもの。皮膚を覆う鱗は鋼鉄よりもなお硬く、(いわお)の如き肉体の力は大鬼を片手であしらうほど。さらに口から爆炎を吐く能力まで備えているとあれば、まさに無敵。

 総勢たった500名の竜人部隊“ドラゴン旅団”は、魔王城に帰還するや、突如その城門目掛けて突撃を開始した。予想外の出来事で呆気に取られた守備兵の目の前で、竜鱗に覆われた肩を叩き付け城門を破壊、勢いそのままに城内へと雪崩(なだ)れ込む。

 ここでようやく異変に気付いた城内の魔族が、骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)やら鬼兵やらをけしかけた。しかし竜人たちは止まらない。手にした得物を思い思いに振り回し、小虫の群れでも払いのけるかのように雑兵どもを揉み潰し、またたく間に第二の門に到達した。

「おのれボスボラス! 乱心したか!」

 二の門の上で魔族が叫び、腕を振り上げ部下たちへ合図する。彼らの手に生まれた《火の矢》が、一斉に竜人たちへ降り注ぐ。しかし竜人は避けようとすらしない。貧弱な魔術が鱗で弾かれ霧散していくさまを、ただニヤついて見ていただけだ。

 愕然とする魔族たち。彼らの恐怖の目が見下ろす前で、不意に、竜人の隊列が左右に割れた。

「乱心……だと?」

 敵ばかりか味方までも震え上がらせる重低音。凄まじい体重と脚力によって足元の石畳を踏み割りながら、竜人たちの間をゆっくりと進み出る者がある。

 巨漢ぞろいの竜人たちの中にあってもひときわ異彩を放つ巨躯。陽の光を浴びて黒鉄色に鈍く輝く強靭な鱗。巨木の幹ほどもある巨大な剣を、物干しざおか何かのように軽々担ぎ、耳まで裂けた大口をニマリと邪悪に吊り上げる。

「とんでもねえ! オレ様はいつだってオレ流よ!!」

 蛮声一発、巨大剣が城門目掛けて振り下ろされた。

 その瞬間、門は消滅した。

 崩壊ではない。消滅である。常軌を逸した膂力(りょりょく)によって叩き付けられた超重量の大剣が、門を、城壁を、あたりの地面の土砂までもを、粉微塵に破砕して吹き飛ばしたのである。その衝撃で地震が起きる。余波があたりの守備兵たちを薙ぎ倒す。あとに残ったクレーターの中心で、竜人は悠々と巨大剣を担ぎなおす。

「魔王サマに伝えてくれや。

 最強四天王ボスボラス、ただいま参上! ってなァ―――――ッ!!」

 

 

(つづく)



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第19話-03 最強四天王ボスボラス

 

 恐れを知らぬ豪傑の群れが、怒涛の勢いで魔王城を蹂躙する。通路を塞ぐ鬼兵隊を血と肉片の雨に変え、四方八方から間断なく降り注ぐ魔術を皮膚と鱗で弾き返し、時には眼前の壁さえぶち破りながらドラゴン旅団は突き進む。

 一直線に目指すは最奥、神聖なる玉座の間。その扉の目前にまで押し入った竜人たちの行く手に、ひとりの術士が立ちはだかる。

「クソッ! チンピラがァ!」

 四天王筆頭、死術士(ネクロマンサー)ミュート。憎々しげに毒づきながら、包帯で覆った腐肉の腕で、宙に四重の魔法陣を描き出す。

「《死の舞踏(ダンス・マカブル)》!」

 発動するは死術士ミュート最強の術。床、壁、天井、柱、ありとあらゆるところから無数の《骨剣》が鋭く突き出し、竜人たちへ襲いかかる。さすがの竜鱗も四天王の奥義までは弾ききれず、先頭を走っていた竜人数名が全身を串刺しにされて悲鳴を上げた。

 だが部下の惨状を目の当たりにしても、ボスボラスは怒るどころか興味津々。瀕死の竜人に突き立った《骨剣》を指でちょいとつまみ、その硬さや鋭さを確かめながら、

「おほっ? やるねェ旦那。四天王の名前も伊達じゃねェな」

 ばきっ! と軽い音を立て、指の力のみで《骨剣》の一片を折り取った。

「だがオレ様はもっと(つえ)え!!」

 ボスボラスが突進する!

 すぐさま迎撃する《死の舞踏(ダンス・マカブル)》。しかしボスボラスは、超重量級の体格からは信じられぬほどの足(さば)きで稲妻の如く軌道を変え、《骨剣》の中を華麗に潜り抜けてしまう。

 ――やばいっ!!

 とミュートが術を切り替えかけた時にはもう遅い。ボスボラスの巨躯が石壁のようにミュートの鼻先を塞いでいる。

「歯ァ食いしばんな」

 余裕綽々、ボスボラスが拳を握り固めた。

 

 

 轟音!!

 粉砕された扉の破片もろともに、ミュートは玉座の間へと吹き飛ばされた。たちまち巻き起こる悲鳴と怒号。広間の左右へ居並ぶは、朝議のために集まった魔王軍幹部、魔貴族(マグス・ノーブル)たち。ざわめく彼らへ機嫌よく手など振りながら、竜人ボスボラスが乗り込んでくる。

「ようようようよう! ゴキゲンよろしゅう皆々様(みなみなさま)。ご挨拶といきてえんだが、ちょうどケンカの最中でよ。パパッと()っちまうから……ちょっと待ってな!」

 先の打撃で完全に失神したミュートへ向けて、容赦なくボスボラスが走る。巨大剣を高々振り上げ、シャンデリアと天井と巻き込みながら振り下ろす。一撃で城門をすら粉々にしたあの大剣だ。いかに不死のミュートとて喰らえばただでは済むまい。一切の遠慮呵責なきとどめの一撃に、その場の誰もが息をのむ。

 そのとき、頭上の天窓を突き破り、ひとりの女剣士が乱入した。

 女剣士は落雷の如く飛び降りながら双剣を抜き、巨大剣へ打ちかかる。絡みつくような横打ちで巨大剣は軌道を逸らされ、ミュートの脇の床へ食い込む。衝撃で砕ける石床。自ら穿(うが)った大穴に足を取られ、わずかにぐらつくボスボラス。その一瞬の隙を突き、女剣士が巨大剣の上に飛び乗る。

「お」

 と感心する暇もあらばこそ。女剣士は刃の上を蛇の如く駆け上がり、一瞬にしてボスボラスへ肉迫。彼の喉首目掛けて双剣を突き入れる。

「おおッ!?」

 驚嘆の叫び声をあげるボスボラス。凄まじい剣速。この体勢では避けも受けも不可。ならば、とボスボラスはとっさに左腕を持ち上げ、切っ先を腕の鱗と皮膚とで受け止めた。

 いかなる術も剣も弾くはずの竜鱗を、いともたやすく双剣が貫く。肉を(えぐ)り、骨をかすめ、腕の反対まで貫通したふたつの切っ先は、ボスボラスの喉笛に食い込む寸前でビタリと動きを止めた。ボスボラスが腕に力を籠め、筋肉の硬直によって剣を握り止めたのだ。

 彫像のように絡み合ったまま静止するふたりの剣士。ボスボラスの腕から流れ出た鮮血が、剣を伝って女剣士の細指を濡らす。いかに最強四天王ボスボラスとはいえ、腕を貫かれて痛くないはずもなかろうが、彼が漏らしたのは、称賛の言葉のみだった。

「いいねえ……このオレ様の剣をいなし、手傷まで負わせるか」

 値踏みするような彼の視線を受け止めるのは、狂笑を張り付けた()()()()()

「道化のシーファ! ()()とは思ってたがこれほどとはなあ!!」

 シーファ――古代帝国の遺産を巡る戦いの折り、あの緋女をすら凌駕する実力を見せた狂気の女剣士である。黄昏色の改造僧服に包まれた身体は、竜人の屈強な体躯に比べれば枯れ枝のように貧弱だ。しかしその細腕で、誰にも止められなかったボスボラスを止めた。この事実がシーファの並外れた技量を如実に物語っている。

「面白くなってきた! どうだいシーちゃん? どっちが四天王最強か、ここらでハッキリさせてみるってのはよ?」

「……望みとあらば」

 空気をも凍り付かせる一触即発の気迫。かたや、魔王城の守備を紙切れのように打ち破り、死術士(ネクロマンサー)ミュートさえ赤子の手を捻るように一蹴した竜人ボスボラス。こなた、そのボスボラスと互角の実力を垣間見せた道化のシーファ。個の武力ならば紛れもなく魔王軍の双璧をなすふたりの対峙を、周囲の文武百官は戦々恐々と見守ることしかできないでいる。

 ところがその緊迫に、()()()と割って入る男があった。

「まーまーまーまー! そう興奮しないで仲良くやりましょうよボスボラス先生(せーんせ)っ! ほら、シーファちゃんも抑えて抑えて」

 人垣の隙間から身体をひねり出してくるのは、ニコニコと満面の営業スマイルを貼り付けた眼鏡の男。けばけばしく着飾った貴人たちの中にあっては、無機質なねずみ色のスーツがいかにも浮いている。

 企業(コープス)代理人(エージェント)、強行市場開拓部長を経て、今や魔王軍四天王などという大仰な肩書を得たコープスマン。魔王軍の財務管理と物資・兵員の調達を一手に引き受ける魔王軍の金庫番……いや、()()()()()()とすら言える男だ。

 彼は大げさに手もみなどしつつ、火花を散らす狂戦士たちの間に平然と割り込んでいくのである。

「いやー本当、お強いですねえボスボラス先生! 四天王最強の前評判そのまんまとは恐れ入りました。こんな頼もしい味方がいてくれて(ぼか)ァ心強いなあ。ねっ、シーファちゃん?」

「……知らぬ」

 このコープスマン、戦いなどとは一切無縁、腕力ではそこらの小鬼にすら敵わないような軟弱者だが、それが無敵の竜人ボスボラスにすり寄って、べらべら良く回る舌でおべんちゃらを並べているのだ。ひとつ機嫌を損ねればすぐさま叩き殺されように、くそ度胸というか、無神経というか。はたで見ている魔貴族たちのほうがハラハラしてしまうほどである。

「まあ、ひとにはエゴがありますから、利害の衝突は起きますけどね。なんてったって僕らは仲間、ひとつになって魔王軍なんですから、どうでしょ? ここはひとつ、お互い腹割って話してみませんか? それに先生がどれほど最強かってことは、みなさんにも()()()()()()()と思いますしねえ」

 ボスボラスは鼻で笑って、腕の力を緩めた。解放された双剣をシーファがやや不満げに引き抜き、鞘へ納める。

 このコープスマンという男、舌先三寸で煙に巻いているようでありながら、その実、ボスボラスの意図はきっちり押さえている。この謀反の目的のひとつは、ボスボラスの実力を魔王軍内に示すこと。その気になればいつでも魔王城を潰せる――この事実を存分に見せつけた今、これ以上暴れる理由もないのである。

「ま、いいだろ。オレ様も暴れたくって暴れたわけじゃ……」

()()んです?」

()()けどよ? ま、チョビっとだけな! うっははははは!」

「あははは、先生はユーモアのセンスもお持ちでいらっしゃる! あは、あはあは」

 肌が痺れるほどの声で大笑するボスボラスに、迫真の愛想笑いで応じるコープスマン。この弛緩した空気でようやく恐怖から解放されたのか、ひとりの魔貴族が厳めしい顔を作って進み出た。

「……おのれ、逆賊ボスボラス! 無礼であろう!」

「あぁん?」

「我が力を誇示せんがため王城へ挑み、同胞を殺傷し、あまつさえ玉座を踏みにじるなど! これは魔王様へ唾するに等しい蛮行だ!」

「なァーにお行儀いいこと言ってやがる。大将の大演説を忘れたか?

 “(つえ)(もん)(えれ)え!!” それが魔王軍(ウチ)の方針だったはずだ。この大原則を否定するのはそれこそ魔王の意思に背くこと! 違うかい、お偉いお貴族さまよォ!?」

 思いがけない反駁(はんばく)。魔貴族は言葉に詰まる。ここからが謀反の第2ラウンド、舌戦の始まりだ。ボスボラスは大げさに腕を振り上げ、雄弁家気取りでアピールしながら、虫の息のミュートへ歩み寄っていく。

「つまり!! (つえ)えやつは、(よえ)えやつに何したっていいんだよ!!」

 ボスボラスの脚がミュートの胸を踏みつける。巨岩の如き体重と、(ヴルム)を越える脚力で、ミュートの身体が()し潰される。骨と肉の砕ける悲惨な音が、玉座の間の中に幾重にもこだました。

「だいたいてめえらは口を開けば魔王、魔王、魔王サマと! ただ崇めてりゃいいと思ってやがる。なぁんにも分かっちゃいねえ! “力こそ正義”が信条ならば、“魔王”ってのァ何者(なにもん)だ!? ひしめくエゴの塊を力ずくで纏める者、それが魔王様だろうが!

 ならば!! いちばん最強なやつこそ魔王!!

 より(つえ)(もん)が現れたなら交替するのがスジってもんよ!!」

 あからさまな王位簒奪宣言にどよめきが起きた。悪戯好きの子供が大人の右往左往を嘲笑うように、ボスボラスが衆人へ下卑た笑みを振りまいた。

 と、そのとき。

「同感だよ、ボスボラス」

 不意に、氷の如く澄んだ美声が広間に響き渡った。

 誰もが悪寒を覚え、反射的に広間の最奥へ目を向けた。数段の(きざはし)の上、人骨めいた意匠の荘厳な玉座に、いつのまにか、ひとりの少年が悠然と腰かけている。

 底知れぬ洞穴の闇を思わせる黒衣。その縁へ金糸を以て縫い取られた目も眩むような法語(ルーン)紋様。王冠は結晶化した金剛竜(ヴァサラ・ヴルム)の黒牙から成り、首元には星光を封じ込めた宝珠が夜空そのものの如く(またた)く。

 だが、かくも物々しい装飾の数々すら、身に着けた当人の前では色あせて見える。相対した者全てを――魔貴族(マグス・ノーブル)を、コープスマンを、そして傲岸不遜のボスボラスをすら、畏怖させずにはおかない強烈な重圧(プレッシャー)

 魔王、クルステスラ。

「……おいでなすったな御大将」

 ボスボラスの表情が、緊張のためにかすかに強張る。魔貴族たちが、コープスマンが、道化のシーファまでもが一様にひざまずいて(こうべ)を垂れる中、ただボスボラスのみがその場に踏ん張り魔王を睨み続けている。敵意を満々に(たた)えたその視線に、しかし魔王はゆったりと脚を組み、片肘ついてくつろぎながら、冷えた微笑を返すばかり。

「所詮は利害が繋いだ仮初(かりそめ)の絆。百万の身勝手をひとつに束ねうるものは、ただ暴力があるのみさ。

 皮肉だね。真に魔王(ぼく)を理解する者が、僕に背こうとする君のみだとは」

「胸を張んな。そこまで承知でオレ様を受け入れたアンタの器も大したもんだ。

 ゆえにその器、権勢(ちから)、すなわち玉座」

 巨大剣を肩に担ぎ直し、正面からぎらりと魔王を睨み、竜人ボスボラスは咆哮した。

「このボスボラスがいただくぜェ―――――ッ!!」

 巨木の如き脚が床を蹴る。

 途端に巻き起こる轟音と豪風。走った、ただそれだけで巻き起こった嵐が魔貴族どもを薙ぎ倒す。超人的な脚力によって一瞬にして音速を突破したボスボラスが、手にした巨剣を、いや鉄塊を、勢いそのままに魔王の脳天へ振り下ろす。

 が!!

 鈍い音が響いたその直後、その場の誰もが、そして誰よりもボスボラス自身が、驚愕に目を見開いた。

 堅牢無比なる魔王城の城門をすら一撃で塵と化した斬撃が……あろうことか、魔王の()()()()()()()のである。

 術で止められた? 違う。巨大剣の刃は確かに魔王の肩口を捉えている。だが鉄床(かなとこ)(つち)で打つように、巨岩を鶴嘴(つるはし)で叩くように、大地を脚で蹴りつけるように、傷ひとつ負わせることもできぬまま、やすやすと跳ね返されてしまったのである。

「おいおい……マジかよ……」

 呆然自失のボスボラスへ、魔王は柔和な笑顔を向ける。

「胸を張るといい、ボスボラス。僕の《龍体》に傷をつけるなんて余人にできることではないよ。ほら、ここのところ。()()()()()赤くなってるだろう? 明日あたり青あざができちゃうかもね。

 君は武将としてのあらゆる美徳を備えている。勇気は凛々、知恵にも優れ、力は充分すぎるほどだ。しかし惜しむらくは――」

 ぞんっ!!

 魔王の足元から伸びあがった《闇の槍》が、ボスボラスの腹をぶち抜いた。

「おッごあァァァアアアアッ!?」

 耳を(つんざ)く苦悶の声。天地を揺るがすような絶叫が、広間の者たちを、魔王城の兵卒たちを、魔都で身を寄せ合う人間たちをも震え上がらせる。ひとり魔王のみが、管弦の調べに聴き惚れるように、うっとりと目を細めながらボスボラスの耳元に唇寄せる。

「慎みが足りない」

 槍が走る。

 絶叫が、再び魔王城を震撼させた。

 

 

(つづく)



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第19話-04 対決、四天王

 

 

 二の槍。三の槍。魔王の容赦ない責め苦がボスボラスを(さいな)む。その激痛は肉体より先に精神を破壊しかねぬほどのもの。だがボスボラスは膝をつかない。剣を手放そうとはしない。そのボスボラスの苦痛の表情をそっと手のひらで労わりながら、魔王は穏やかに言葉を継いだ。

「思い上がってはならない。ひとは(おそ)れるべきなんだ。自然の摂理。情緒と神秘の奔流。己の力ではどうにもならない領域が、世界には確かに存在する。それをひとは時に神威と呼び、時に《悪意》と呼ぶ。

 王とは、それら畏敬の対象となるべく発明された象徴物さ。無論、魔王も例外ではない」

 四の槍。

「でも勘違いしないでほしい。こんな仕打ちは本意じゃないんだ」

 五の槍。

「君たちと仲良くやっていきたい。腹を割ってなんでも話し合える、打ち解けた関係でいたいんだよ」

 六の槍。

「偽らざる本当の気持ち。分かってくれるかい、ボスボラス?」

 七。八。九。

 全身から突き出た《闇の槍》で針山と化しながら、なおボスボラスの眼は生きている。憎悪と敵愾心と尊大な自信を烈火の如く燃やし、魔王を睨む。痙攣する腕で柄を握り締め、必死に剣を振り上げようとしている、その事実が唯一の答え。

 魔王は次なる呪文を唱えた。

 《闇の槍》が消え失せ、今度はボスボラスの上体が海老反りに反り上がりはじめた。鈍い音を立てながら、ボスボラスが()()()()にされていく。《黒の万力》――不可視の巨大な万力によって敵をじわじわと締め上げる拷問の術。再び響く苦痛の絶叫。竜人ならではの強靭な骨格によってどうにか耐えてはいるが、脊椎はもはや()し折られる寸前である。

「もう一度だけ訊く」

 魔王の()()()()()に、血と汗すらも凍り付く。

魔王(ぼく)を分かってくれるかな……?」

「分かったっ……分かったァーッ!! オレ達は友達だ! 仲良くやろうぜ大将ォーッ!!」

 屈服の叫びが城中へ充分に響き渡るのを待ってから、《黒の万力》の力が消滅した。解放されたボスボラスが地響きとともに倒れ伏す。投げ出された巨大剣が転がり床を砕く。魔王はその上をひょいとまたぎ越え、喘ぐボスボラスの頭のそばへ静かに歩み寄った。

「魔王の力の根源、《悪意》。その最大の特性を知ってる?」

 脂汗にまみれたボスボラスの眼が、呪わしげに魔王を睨み上げた。魔王は、どこからともなく取り出したナイフで、己の人差し指に小さく傷をつけている。

「《融合》だよ。

 《悪意》はいかなる概念とも容易に融け合い、無尽蔵の活力を与える一方、相手を己の領域へ引きずり込みもする。魔王の血肉を拝領し、かつその暴威を御しきった者だけが、魔王の後継者たる資格を得るのさ」

「何する気だ……てめっ……!」

 血の溜まった人差し指を、魔王がボスボラスの頭上にかざす。触れてはならぬものへの本能的な恐怖が、豪傑ボスボラスをすら震わせる。

()()()()()()()()

 わけてあげるよ。君自身が望んだものを」

 血が、落ちた。

 三度(みたび)の絶叫。もはや苦痛などと認識することもできない苦痛。肉体ではなく魂の尊厳を内側から食い破られる激痛。ボスボラスが泣きわめく。のたうち回る。魔王の血が、呪わしき《悪意》のかけらが、あの屈強な竜人を(むご)たらしく蹂躙していく。

「力を得るか。《悪意》に飲まれて灰と化すか。

 君の実力次第だよ――ボスボラス」

 

 

   *

 

 

 ――おかしい。

 寒々しい枯れ木の間を《風の翼》で飛び抜けながら、カジュは次なる術式を編んだ。森から飛び出したそこは左右を切り立った崖に挟まれた谷道の上空。下には鎧をかち鳴らして必死に逃走する抵抗軍(レジスタンス)兵の一団。その後を追うは魔王軍、鬼兵と魔族の混成部隊で総数20余り。

「《光の雨》。」

 カジュの背に生まれた光の翼が、繊維状にほどけ無数の矢と化して、敵の頭上へ降り注ぐ。たちまち巻き起こる悲鳴、(ほとばし)る鮮血。撃ち漏らした敵が《火の矢》や投石を浴びせてくるのを《光の盾》であしらいつつ、牽制の術を撃ち返して注意をこちらへ引き付ける。その隙に味方は無事に谷を通過。あとは残った敵を適当に蹴散らして、撤退支援の任務は完了、なのだが……

 灰色の魔女にはとても敵わぬと悟ったか、すぐに敵は後退を始めた。カジュはひとまず谷底に降り、《風の翼》を解除する。と、

「うわっ。」

 不意に膝が崩れ、カジュはその場にへたりこんでしまった。

 想像以上の消耗だった。普段気軽に使っているが、《風の翼》による魔力消費は決して小さなものではない。発動中ずっと駆け足で移動しているようなものだし、最高速度を出せば疲労は全力疾走なみになる。それをカジュはほとんど不眠不休で、もう連続20時間以上も維持し続けていたのだ。そのうえで攻撃に防御に援護にと惜しみなく術をばら撒いてきたのだから、今まで意識を失わずに済んでいただけでも超人的魔力である。

 だが、汗すら枯渇するほどの疲労にも関わらず、カジュの胸を支配していたのは全く別の疑念であった。

 ――やっぱり変だ。脆すぎる。

 昨日の日没頃のこと。抵抗軍(レジスタンス)の小規模な拠点が襲撃されたと報告を受け、援護のためにカジュは飛び出した。報告通り3つの拠点が同時に攻撃を受けており、カジュは《遠話》で味方の連携を補助しながら、自身も縦横無尽に飛び回って直接支援を行った。

 が、あちらを助ければこちらが襲われ、こちらの敵を片付ければそちらに新手が湧き、次々に起きる問題にひとつひとつ対処しているうちに、ふと気付けばカジュは抵抗軍(レジスタンス)の勢力範囲から大きく離れた位置にまで来てしまっていた。なまじ敵が弱すぎるために、つい深入りしてしまったのだ。

 これではまるで――

 カジュが杖を頼りに立ち上がり、眉間に皺を寄せた、そのとき。

「そうよ」

 彼女の背に巨大な影が覆い被さった。

「袋のネズミっつうわけよ!!」

 息を飲みつつ最速構築。背後に一斉展開した《光の盾》の5枚重ねで()の巨大剣を受け止める。だが威力が想定を遥かに越えている。《盾》が次々に叩き割られる。最後に残った1枚でどうにか直撃だけは避けたものの、その衝撃は容赦なく《盾》ごとカジュを弾き飛ばす。

 10m近くも飛ばされ、墜落寸前で《風の翼》を発動。体勢を立て直し、(かかと)で地面を削りながら着地、すぐさま地の利を求めて宙へ飛び上がる。

 が。

 不用意に浮遊してしまったカジュを、左右の崖上から爆炎が襲った。

「うっ。」

 カジュは焦燥の呻き声を上げ瞠目(どうもく)した。この爆炎は魔術ではない。術なら発動前にカジュが気付けなかったはずがない。つまりこの炎は純然たる物理現象。肉体の機能によって生み出されたもの。ということは敵は――

 轟音が、彼女の思考を打ち砕いた。炸裂する爆炎。衝撃で崩落する崖。もうもうと巻き起こる砂煙を唖然と見つつ、敵、竜人ボスボラスがわめきだす。

「あ……あーっ!! てめえコブン! なァんてことしやがるっ!? 勝手に手ェ出すなつっただろーがァー!!」

 大音声で叱られて、崖の上からひょっこりとひとりの竜人が顔を出す。カジュに爆炎を浴びせたのはこの男である。

「すんましぇーん! なんか役に立ちたくってつい……」

「ありがとうよっ! だが殺す!!」

「ヒェー! 許してくださいボスゥー!」

 本当に殺しかねない剣幕でぎゃあぎゃあやっていたボスボラスだが、風に流れはじめた砂埃の中に動く影を認め、たちまち機嫌を直した。影が《死神の鎌》の一振りで、周囲の砂塵を吹き散らす。積み上がった土砂の上に仁王立ちする“灰色の魔女”カジュ・ジブリールへ、ボスボラスはさも愉快そうに口の端を吊り上げる。

「ほお。ちっちぇえ身体で頑張るねえ。うちの若い衆の爆炎を耐えきるたあ立派なもんだ。魔術かい?」

 カジュは無言。《水の衣》と《鋼の体》の同時発動で熱と衝撃の両方をしのいだのだが、手の内を明かす義理はない。ボスボラスは大口を開けて馬鹿笑い。

「うっははははは! うっかり口滑らすこともねえか。(わけ)ェのに戦い慣れしてやがらァ!

 いやね、聞いてくれるかいお嬢ちゃん。くそボケ魔王がよ、どーしてもお前さんと()れって言うもんだからよ。やんなきゃ首が飛んじまうのよ……比喩表現でなしに」

 ボスボラスは憎々しげに顔をしかめ、首元を指さした。握り拳大の腫瘍がボスボラスの肩の付け根あたりで不気味に拍動している。あれはおそらく魔王の血か肉の一部を移植したもの。聖体の拝領、といえば聞こえはいいが、要ははねっかえりの部下をいつでも制圧できるように爆弾を埋め込んだというわけだ。

 ――苦労してるね、()()()も。

 目を細めるカジュに、ボスボラスはひょいと巨大剣を担ぎなおす。

「そんなわけでだ! お前さんをおびき出さしてもらった。まァ弱い者いじめは趣味じゃねえんだが、どうやら遠慮も要らなさそうだしな。

 そうら! 出てこいてめえらァ―――――ッ!」

 呼び声に応え、谷の左右の崖上から筋骨隆々の猛者どもが姿を現す。いずれも背丈は軽く3m超。ぶら下げた斧や棍棒は目を疑うほどに重厚。堅牢無比の竜鱗には《爆ぜる空》すら通じるかどうか。耳まで裂けた大口で、百万の釣鐘を打ったが如き咆哮を轟かせる彼らこそ、魔王軍最強部隊“ドラゴン旅団”。ボスボラスは剣を振り上げ咆哮し、竜人どもが天を引き裂かんばかりに呼応する。

「言ってみろ!!

 世界でいちばん(つえ)えのは!?」

『ボス!!』

「誰より男前なのは!?」

『ボス!!』

「この世の天辺(てっぺん)()るべきなのは!?」

『ボス! ボス! 我らがボス!!』

「そぉぉぉぉよ!! ここなるオレ様こそが最強無敵のボスボラス!!

 “灰色の魔女”カジュ・ジブリール! いざ尋常に、勝負せいやァ―――――ッ!!」

 大喝采を背負ってボスボラスが走る。凄まじい速さ。あの巨体、あの体重で、身の軽さは緋女にすら匹敵している。カジュの目では到底捉えきれるものではない……が、敵がごちゃごちゃと場を盛り上げている間に対策の術式は構築済みだ。

「《暗き隧道》。」

 ずどん!!

 カジュ自身の足元を中心としてすり鉢状に穿(うが)たれる落とし穴。これなら動きが見えようが見えまいが関係ない。剣の間合いまで接近したボスボラスは「うおっ」などと呻きながら落下。カジュは同時に発動しておいた《風の翼》で浮遊し、真下のボスボラスへ向けて次なる術を投げおろす。

「《砂の侵略》。」

 岩や土壌を乾燥した細かな砂に変える術。本来は土木工事で邪魔になる岩盤などを崩すための術だが、それを落とし穴の側壁にかければどうなるか?

 崩れ始めた砂が四方八方からボスボラスを押し包み、たちまちのうちに巨体を腰ほどまでも埋めてしまう。無論ボスボラスも這い上がろうとするものの、そのたびに新たな砂が崩れ落ち、藻掻けば藻掻くほどにかえって深く埋もれてしまう。

「なんだこりゃァ!? うおわっ」

 蟻地獄の原理である。どれほど力に優れようと、いや力があればあるほどに、自重と腕力のために砂を激しく崩してしまう。ここから自力で()い上がることはどのような剛力の戦士にも不可能。

 これはカジュが対ボスボラス用に練っておいた戦術。この5ヶ月、カジュはただ戦争に身を投じていたわけではない。いずれ来る決戦のために、四天王それぞれの特性に応じた対策は考案済みである。

 ボスボラスの足を止めておいて、カジュは悠々と落とし穴の縁まで移動し、着地。谷間へ朗々と呪文を響かせて、五指にひとつひとつ炎の輝きを灯していく。

「は……ぜ……る……。」

「お、おい、なんだその技? お嬢ちゃん?」

「そ……ら。」

 5つの炎を握り固め、穴底目掛けて投げ下ろす。これがカジュの最大火力。

「《5倍爆ぜる空》。」

「ちょっとタンマァァ!?」

 大爆発がボスボラスを飲み込み、その巨体を大地ごと吹き飛ばした。

 

 

(つづく)



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第19話-05 闇への招待状

 

 

 立ち上る炎。轟く爆音。巨獣の如く伸び上がる黒煙。爆発で生じた窪みの底へカジュが降り立つ。吹き飛ばされた砂粒が鋭く頬を打つのを感じながら、深呼吸を繰り返す。疲労は既に限界に達している。今の《5倍爆ぜる空》はなけなしの魔力を振り絞った一発だ。ここから先は命を削りながら撃つことになる……が。

 煙の中から聞こえてきたのは、悪夢の声。四天王ボスボラスの、心底愉快そうな高笑いだった。

「うはははは……うっはははははは!! すげえぞ嬢ちゃん! すげえ火力だ! ミュートが持てあますわけだぜ! うはははは……」

 ――これでも仕留めきれないか……。

 カジュは一文字に唇を結び、すぐさま気を取り直して呪文を唱え始めた。枯渇しかかった魔力の代わりに肉体の生命力を注ぎ込んでの術式構築。確実に寿命は縮まるが、そんなことを気にしていられる状況ではない。

 竜人ボスボラスが煙を割いて姿を現す。一歩踏み出すそのたびに大地が割れて陥没する。振動がカジュの爪先から脳天までを痺れさせる。カジュの《5倍爆ぜる空》には城を消し飛ばし、ぶ厚い鋼板を融解させ、竜の群れすら一撃で屠るだけの威力がある。だがその直撃を受けてなお、ボスボラスは――焦げた鱗から白煙を立ち上らせつつも、平然と笑っているのだ。

「いんやァ? さすがのオレ様も直撃だったらヤバかったかもな。

 だがよ! ここでオレ様ァひらめいた! とっさに足元を剣でブッ叩き、ドカーン!! と爆発! その反動で蟻地獄を脱出、直撃を避けたっつうわけよ。どうよ、最強だろ? ()めてくれよ~お嬢ちゃんよ~。無口だなあ。ファインプレイは()め合おうぜ~?」

「《光の矢》。」

 軽口叩くボスボラスの鼻先に問答無用の一撃。これをボスボラスは、あろうことか握り拳の一振りで払いのけてしまう。だが(はな)から通用するとは思っていない。初撃は単なる目くらまし。着弾点で弾けた光が視界を塞ぐのを見計らい、カジュは《風の翼》で全速突撃。ボスボラスの脇を飛び抜けながら《死神の鎌》で胴を薙ぎ払う。

 しかし《鎌》が命を刈り取る直前、ボスボラスの姿が忽然と消えた。

「そいつァ下策だ」

 再び出現したボスボラスの位置は、カジュの背後。

 剛腕が唸る。豪風纏って剣が来る。カジュは悪寒を覚えつつ全術式を緊急破棄、《光の盾》5枚重ねを今度は斜めに展開し、剣を止めるのではなく受け流して()らす策に出た。しかしボスボラスの人智を越えた膂力(りょりょく)の前では小細工は無意味。カジュの小さな身体は剣圧によって横に吹き飛ばされ、その勢いを殺す余裕すらないままに背中から崖に叩き付けられる。

「か……はっ……。」

 苦悶の呻き。口から飛び散る唾液の滴。

 だが苦しんでいる暇はない。ボスボラスは黄ばんだ眼球を爛々(らんらん)とギラつかせ、一歩ずつこちらへのし歩いてくる。カジュは痙攣する腕を掲げ、残る気力と体力を振り絞って術を撃つ。《光の矢》。《鉄槌》。《電撃の槍》。次々炸裂する術の全てを(いわお)のような胸板で弾きながら、ボスボラスは悠然と迫ってくる。

「おいおい嬢ちゃん。そうじゃねーだろ? お前さんの持ち味は敵を妨害し、足を殺し、射程外から一方的に火力を叩き込むことだ。さっきの蟻地獄は満点だったぜ? だが《鎌》で接近戦ってのァ良くねえ。ザコを蹴散らすにはいいが、近間の専門家相手じゃ後れを取って当然だ。小技の連打もダメ。牽制にもなりゃしねえよ。

 ま、ンなこたァ百も承知か。てことはいよいよ……」

 《火焔球》。

 正真正銘、最後の余力で放った術を、ボスボラスは頭突きで打ち砕く。鱗の上で揺らぐ残り火をうっとうしそうに払いのける。

「限界、か?」

 ボスボラスが再び消えた。筋肉の塊のような脚をバネにして、一瞬にしてカジュの目前まで接近。そのままの勢いで、鉄拳をカジュの腹へ叩き込む。

 反吐(へど)を吐きながら身をくの字に折るカジュ。握り拳の上からカジュの身体がずり落ち、横倒しに地面へ転がる。死んではいないが……完全に失神している。

 ドラゴン旅団の竜人たちが一斉に歓声を上げた。砂煙を上げながら崖を滑り降り、あるいは地響きと共に飛び降りて、声をからしてボスボラスの名と強さを讃える。舞い上がった竜人コブンがカジュの腕を掴んで吊し上げ、

「やったァーッ!! ボスゥ、こいつブチ犯していいっスかァー!?」

 しかしボスボラスは苦い顔。

「アホゥ。ブチ殺されるぞ」

 吐き捨てながら、鉤爪で肩の腫瘍を掻きむしる。魔王に植え付けられた《悪意》の血肉……支配の証。敗北の証明。

 ――見てろよ……最後に勝つ奴が“最強”だ。

 ち、と不機嫌に舌打ちし、ボスは八つ当たり気味に怒鳴り散らした。

「魔王様の()()()()()()()だ。丁重にお連れしろとよ!!」

 

 

   *

 

 

 血が止まらない。カジュは級友のそばに駆け寄り、ひざまずき、物言わぬ彼を抱き起こした。リッキー・パルメット。彼の腹の半ばまでを裂く血赤色の傷口。肌へまとわりつく粘質の夜の中、カジュは懸命に呪文を唱える。識閾上領域に陣を描く。慣れた仕事だ。百万回もしてきたことだ。なのになぜか今日に限って、いつまでたっても術式が完成しない。何度やっても計算が合わない。リッキーの血が止まらない! どうして? 血が出る。また噴き出る。もう周りは血の海だ。ぬかるんだ手で傷口を押さえる。押さえながら泣き叫ぶ。もう呪文でもなんでもない。止まって。止まってと。カジュ自身の《鎌》で切り裂いてしまったリッキーの傷を、この手で刈ってしまった命を、ただ元通りに戻したくて、友情と思い出を失うことがひたすら怖くて、カジュは彼を抱きしめ泣きじゃくった。

「泣くなよ、相棒」

 腕の中から聞こえた優しい声に見下ろすと、カジュが抱いていたのは緋女だった。死人色の肌をして、ガラス玉のように眼球を静止させて、緋女が腹から血を流してる。怖気(おぞけ)が走る。喘ぎが漏れる。死なないで緋女ちゃん! こんなの嫌だ!! 殺したくなかった!! どうしてあの時……

「自分が死ぬことを選べなかった。ま、それもいいさ」

 ヴィッシュが倒れる。そして死ぬ。

 いいわけあるか!!

 勝手に決めるな! 優しく言うな! みんな殺して自分だけのうのうと生きる、そんなカジュなのに、血が止まらない。ロータス、デュイ、オーコン、アニ、リッキー、緋女ちゃん、ヴィッシュくん、止まらない!

 血が止まらないんだよ、クルス!!

 

 

   *

 

 

 深い深い眠りの海底から、浮かび上がるようにしてカジュは目覚めた。

 初めに目に入ったものは、聖トビアの啓示を描いた流麗なる天井画。広い静かな寝室に、響くものは己の吐息のみ。夢中で噛み締めていたのだろう、奥歯と(あご)がひどく痛む。不快な寝汗が首から胸まで滴が垂れるほどに濡らしている。

 カジュはベッドの上にゆっくり身を起こし、あたりを見回した。雪花石膏(アラバスタ)の壁に彫刻された守護聖獣は今にも走りださんばかりの精巧さ。黒檀(エボニー)の調度は光を放つほどに磨き上げられ、ゆうに5人は眠れそうなベッドは尻が沈み込むほどに柔らかい。

 これではまるでおとぎ話――お姫様の寝室だ。

 カジュはここでようやく、自分自身もお姫様になっていることに気付いた。彼女が着せられていたのは、薄いシルクレースの寝間着(ネグリジェ)。精緻なバラの花紋様の下に、乳首やへそや、それ以上の秘所が透けている。

 ――誰の趣味だよ、このエロいの。

 羞恥より失笑が先に立つのがカジュという人物だ。冷静に寝間着(ネグリジェ)の裾をめくりあげて下腹部をのぞき、続けて腕と脚と、その他もろもろの様子を確かめていく。特に危害を加えられた形跡はない。ボスボラスに殴られた傷も――骨の5、6本は折れていたはずだが――残っていない。むしろ熟睡して気分爽快なくらいだ。

 と、いうことは。

 ――ナメた真似してくれるよ、魔王様。

 カジュは溜息交じりにベッドを降りた。

 さすがにこんな裸みたいな恰好で出歩くのは気分が悪い。クローゼットをあさって薄桃色の上着を引っ張り出し、羽織りながら寝室のドアを押し開ける。隙間からそっと外を覗き見て、おおむね予想通りの光景に目を細める。

 どうやらここは、魔王城内の宮殿の2階部分であるらしい。寝室の前を走る廊下は端がかすむほどの長さ。向かい側の手すりから身を乗り出せば、常緑樹と芝の植えこまれた広大な中庭を見下ろせる。廊下にも庭にも動くものの気配はなく、ただ乾いた微風が耳元を静かに吹き抜けていくのみ。

 少し廊下を歩いてみる。血と骨と肉をあしらった魔王城のおぞましい造りは、どうやら外観だけであるらしい。宮殿の内装は荘厳かつ清潔。廊下の石柱は整然たる騎士の隊列を思わせ、柔らかな絨毯は裸足を包み込んでくすぐる。凍り付いたように動かない庭木の(こずえ)から、ときおり小鳥がさえずりを聞かせてくれ、剣の如く床へ突き立つ陽光の中では、真っ白な糸埃が静かな舞を続けている。

 なんだろう、この静けさは。

 意識がとろけるような、この安らぎは。

 一足ごとに現実感が薄れていく。甘ったるい気配に記憶と思考が飲みこまれていく。初めて目にする場所なのに、確かに()()を知っている――まるで幻想(ファンタジー)の世界だ。カジュのためにおとぎ話を語り聞かせてくれた人などいない。だからカジュは自力で読んだ。猛烈な勉強の合間に紐解(ひもと)いた、書物の中の虚構の世界。竜と騎士。魔法とお姫様。子供っぽい迷信だと鼻で笑いながら、ページを()る手を止められなかった。あの他愛なくもかけがえない耽溺の時と同じ、どこか切なく、どこか不安な、この世ならざる異界の空気……

「どうにかしなきゃいけない」

 幻想から不意に現実に引き戻され、カジュは足を止めた。

 ひとりの魔物が廊下へ座り込んでいる。

 何者だろう。魔獣や妖魔にはそれなりに詳しいカジュだが、あのような生き物は見たことがない。一見して人型。肌は(ろう)のように白く、異様なまでに()せた体つきは骸骨(スケルトン)と見間違わんばかり。それが大きな毛布1枚を身体に巻き付け、とめどなく涙を落としながら、震える声で何事か呟き続けているのだ。

「このままじゃみんな政治に殺される。嘘だらけの政治はもう終わりにしよう。今こそ行動を始めるときだ。庶民の声を聞こうとしないリーダーなんてもう要らない。今度こそ私たちから独裁政治へNOをつきつけましょう。世の中には……」

 彼――仮に“蝋人(ろうじん)”と呼ぼう――の果てしない繰り言は唐突に途切れた。一体何を思い立ったのだろうか、蝋人は落ちくぼんだ目を引き剝き、意味不明の言葉をわめきながら立ち上がった。そのまま身体を引きずるようにして中庭への螺旋階段を降りて行く。続いて庭の方でどよめきが起きる。

 目に見えぬ何かに(いざな)われて、カジュは蝋人の後を追った。螺旋階段を半分ほども降りたところで足を止め、植木の隙間から庭をのぞき見る。息を止め、手すりを固く握りしめる。

 庭には大勢の魔物たちが、芝生を覆い隠すほどにひしめき合っていた。

 異形。誰も彼もが異形。4本の腕を無意味にわななかせる者。身体中に貼りつく無数の眼球をしきりにぎょろつかせる者。巨大な甲虫としか思われぬ者。大鬼のような巨躯の左半分を無残に削り落とされ、片手片足のみで()いずる者。あらゆる関節が逆側に曲がり、仰向けに四つん()いとなっている者。全身が融け爛れ今にも息絶えんとしている者。さっきの蝋人の姿もある。これほどの数が揃いながら、ひとりとして同じ形のない、何百通りもの異形たち。それが何重にも輪を作り、芝の上に(ひざまず)いて、一心に祈りを捧げているのだ。

「救いを……どうか救いをください」

「よるべを、我が身を置いてもよい場所を」

「どうか、どうにもならない歪んだ僕らに、収まる器をお与えください……」

 異形の祈りを受け止めて、ひとりの少年が微笑する。

 彼もまた、異形。この世ならざる完璧の美という異形である。

『我等が主、我らが救い手、《悪意》の御子、魔王クルステスラよ――』

 斉唱された願いに応え、異形の王は手を伸ばした。

 その手のひらが蝋人の頬を(さす)る。蝋人はひとつ鋭く震え、恍惚の声を漏らす。すると、蝋人の身体がしぼみ始めた。もとより骨と皮のみだった四肢が小枝ほどにも細り、胸と腹が卵の殻を押し割るように窪んでいく。

 吸われている、とカジュは看破した。あれは《融合》。蝋人の肉体と魂の全てが、触れ合った肌を通じて魔王の中へ取り込まれているのだ。だのに蝋人は、感涙している。自身が失われていくことを、恐れるどころか感謝と歓びをもって受け入れている。

 こぼれた涙を親指で受け止め、魔王は低く囁いた。

「おいで。全ての苦から解き放たれ、僕の中で共に生きよう」

 絶頂の喘ぎひとつを残して、蝋人は跡形もなく消滅した。

 歓声が起きた。魔物たちが魔王に群がりすがり付き、我先に()()を懇願した。しかし魔王は彼らを穏やかに見すえ、優しくほぐすように微笑むばかり。

「焦ってはいけない。救いの道は長くて遠い。いま、ここにある命を全うする者にこそ《悪意》の手は差し伸べられる。

 でも、安心していいんだよ。僕はいつもそばにいる。君たちが真に必要としたその時、僕は必ず、君たちとひとつに融け合うだろう」

 魔王への賛美の声が、愛を歌うようにして渦まいた。魔王は彼らをひとりひとり慰撫してやりながら、螺旋階段へ――カジュの方へと近づいてくる。

「彼らは“夢見人(ゆめみびと)”。人間社会に取り残された旧魔王軍の生き残りにとって、この世は地獄そのものだった。報復、暴力、飢餓、凌辱……世界に絶望しきった彼らは、己のねじけた心に合わせて肉体まで異形に変えてしまったんだ。

 蝋肌の男の呟きを聞いたかい? 彼は正義感溢れる青年だった。社会の矛盾を正そうと懸命に働き、魔王の傘下に降ることで理想を実現しようとしたが、ただ、能力が足りなかった。誰にも支持されず、つまはじきにされ、やがて妄執に囚われて、いもしない敵への恫喝を呟くだけの存在に成り果てた。

 幻想(ファンタジー)は、それを幻想(ファンタジー)と知る者にのみ現実を生き抜く力を与える。でもそうでない者は、現実をこそ煮え湯のような幻想(ファンタジー)に変えてしまうのさ」

 カジュは身じろぎもしなかった。挑んでも到底(かな)いはしないし……なにより、彼は何の害意も抱いていないからだ。

「……で、救世主ごっこってわけだ。」

 魔王は苦笑した。

「再び掴んだこの命を何のために使うのか。考えながら実践するうちに、いつのまにかこうなっていただけさ。

 魔王(ぼく)の中に融け合えば、幸せではないにせよ、苦しみからは解放される。《悪意》は百億通りの夢とエゴを飲みこみ癒す。古来《死》がそうしてきたようにね……」

 かつて木漏れ日の中で交わした想い。

 空の白むまで語りあった言葉。

 カジュだけへ注いでくれたのと同じだけの愛を込め、彼は今、微笑みかける。

「ずっと君に逢いたかった」

 魔王クルステスラ。

 いや。

 初恋のひと――クルス。

「プレゼントがあるんだ。受け取ってくれると、うれしい」

 

 

(つづく)



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第19話-06 舞踏

 

 

 寝室に戻ると、4人の侍女がカジュを待ち受けていた。教養と美貌を兼ね備えた魔貴族(マグス・ノーブル)の令嬢たちは、棒立ちするカジュに群がり、てきぱきと仕事にかかった。服を脱がせる。手指と足を洗い清める。(とろ)けるように(かお)り高い香油を丹念に肌へ擦りこむ。爪を磨く。眉を整える。髪を絹糸のように滑らかに(くしけず)る。

 輝かんばかりの素裸の女神が仕上がったところで、魔王からの贈り物を運んでくる。

 それは、カジュさえ知らない古代魔術で月光そのものから織り上げた光輝のドレスだった。滑らかな生地は見る角度によって白銀にも黄金にも色を変え、精緻極まる銀糸刺繍は魔法の力で持ち主の魅力をいっそう引き立てる。手にすれば羽毛の如く軽く、身にまとえば、大きな腕で優しく抱きしめられたかのように心地よい――

「こんなの似合わない。」

 袖を通すなりぼやいたカジュへ、侍女のひとりが微笑みかけた。

「いいえ。とてもよくお似合いですわ」

「キミさあ……。」

「スペクトラと申します。お見知りおきを」

「なんで親切なの。“灰色の魔女”の噂は聞いてるでしょ。」

 侍女スペクトラは微笑を崩さぬまま背後へ回った。カジュのうなじのそばから手を差し込み、髪をまとめて器用に結っていく。彼女の指が首筋へ触るたび、カジュに小さな緊張が走る。この体勢なら、首を掻き切ることなどわけはないのだ。

「ボクはキミらの仲間を何万人も殺してきたんだ。」

些事(さじ)ですわ」

 ようやく答えた侍女スペクトラの声は、(ひょう)の如く固く冷えていた。

「貴女は魔王様の想いびと。いずれ我らの女王となるべきおかた」

「それじゃあ判断基準を魔王に預けてるだけじゃないか。」

「いけません?」

 こともなげに返され、カジュは言葉に詰まる。

「そんな幸せが、存在してはいけませんか?」

 幸せ。

 スペクトラ――彼女も魔族の娘として戦後を生抜いたのなら、相応の地獄を見てきたはずだ。人間への恨みは到底忘れられるようなものではあるまい。なのに、困窮と暴力によってひととしての尊厳を踏みにじられ続けた女が、同胞の殺戮をすら“些事”と言い切る。憎き“魔女”にかしずくことを恥とも思わず、こうも甲斐甲斐しく立ち働く。

 それを“幸せ”と、彼女は言う。

 言わせてしまう。魔王へのひたむきな崇拝が。

「仕上がりました。ご覧くださいませ」

 侍女たちが総がかりで、大きな姿見を運んでくる。

 そこには、幻想(ファンタジー)の世界から抜け出してきた本物のお姫様が、仏頂面して立っていた。

 

 

   *

 

 

 舞踏室の中では、もう楽師たちが陽気なワルツを奏で始めていた。扉を守っていた鬼兵たちが、侍女スペクトラの命令によって両脇へ退(しりぞ)く。召使いの手で押し開かれた扉の間から、むせかえるような音楽と熱気がカジュの頬へ吹き寄せてくる。

 初めて経験する王侯の宴。その雅やかさは想像をはるかに超えていた。見上げれば首が痛くなるほど高い天井。宝石、貴石を惜しみなく散りばめたシャンデリア。数え切れぬほどに(ひだ)なす天鵞絨(ビロード)のカーテン。演奏に合わせて優雅に踊る人々は、いずれも堂々たる魔貴族(マグス・ノーブル)(あやぎぬ)と金銀とで着飾った紳士淑女が手を取り合って舞うさまは、さながら夜空に(またた)く綺羅星のよう。

 だが、かくも(きら)びやかな光の中にあれば、最も衆目を集めるものは、一筋の光すら放たぬ純然たる闇だ。

 幾重にも連なる人の輪の中心に、ひとりの少年の姿がある。黄昏よりも暗き衣。血の流れより赤き宝玉。その姿はまるで満天の星空にただひとかたまり浮かぶ黒雲。その一挙一動に星々は震え、あるいは歓び、燦然輝く月ですら飲みこまれずにはいられない。

 天稟(カリスマ)。そう表現するしかない存在感を隠すことなく示しながら、彼はこの場のすべてを掌握していた。

 魔王クルステスラ。

 彼はカジュの訪れに気付き、微笑しながら歩み寄ってきた。その行く先の人垣が、海底を歩む聖者の伝承のように左右へ割れる。

「着てくれたんだね。とっても素敵だ……きれいだよ、カジュ」

「美人は何着たって似合うんだよ。」

 くす、と魔王は笑い声を漏らす。

「ならば、世に並ぶものなき美少女よ。僕と踊ってくれないか?」

 気取って差し出された魔王の手。

 カジュはそっと、(おの)が手を重ねた。

 

 

 ふたりが中央へ歩み出るのを待っていたかのように、楽師たちが曲を切り替えた。明るく跳ねるリズムから、胸へ染み入る囁きのようなメロディへ。どうしてよいか分からず立ち尽くしているカジュの不安を魔王は微笑で解きほぐす。彼女の細い腰を、そっと抱き寄せる。

「基本のステップは単純さ。リズムに合わせて、ゆっくり、ゆっくり、速く速く……」

 耳元で囁かれる通りに、カジュはたどたどしく足を運ぶ。ダンスなど生まれて初めての経験だが、何も心配は要らなかった。うっかりバランスを崩しても、魔王の腕が支えてくれる。ステップを間違えても、魔王が自然に合わせてくれる。

 カジュはただ、彼のなすがまま身を任せていればよかった。次第に心地よく火照り始める肉体と情念に、ただ耽溺していればよかった。

「その調子。さすがに呑み込みが早いね。とりあえずこれだけでいくらでも踊っていられるよ。あとは興に任せて、好きに動いてみればいい」

「どこで覚えたの、こんなこと。」

「この日のために練習したんだ」

「誰と。」

「あんまり(いじ)めないでほしいな。君に嫉妬されるのも嬉しいけどね」

「相変わらず無邪気なやつ。こっちは針の(むしろ)だってのにさ。」

「どういうこと?」

「……これだ。」

 呆れかえって溜息を付き、カジュは舞踏室の魔貴族たちへ視線を流してみせた。

「スペクトラさん。踊ってる連中。ご歓談中のお歴々。みんなご寵愛を受けたがってんだよ、魔王様。」

「やめてくれ。僕はクルス。君の前ではただのクルスだ」

 魔王はカジュへいっそう身を寄せた。密着する腰と腰。こすれ合う肌と肌。肩を、胸を、うなじと頬を、温め合うものは互いの吐息。固く握り合った手のひらに、己の想いのたけを込める。繋がりあった心と心に、行き場のない切なさを共鳴させる。幼すぎたあの頃、人目ばかりを気にして、やりたくてもできなかった愛の行為。あれから長い時を過ごし、いくつもの愛の形を知って、ようやく素直に表せるようになった感情。カジュとクルスはようやくここまでたどり着いた。抱きしめ合える距離にまで、やっと近づくことができたのだ。

 なのに、それなのに――

「何も()いてはくれないんだね」

 魔王が不満をこぼしたところで、カジュは異変に気付いた。彼女らの周囲に、不可視の魔術防壁が張られている。

「そのまま気付かないふりをして」

 鋭く耳に刺さる魔王の囁き。なるほど、とカジュは嘆息する。極めて巧妙に術式が秘匿されているが、これは《防諜》の術だ。その名の通り魔術による各種探査を遮断する術である。これをかけたうえで密接距離で会話をすれば、盗み聞きされる恐れは完全に排除できる。こんな小細工を(ろう)するということは、()()に監視されているということ。つまり……

「……ダンスは内緒話のためか。」

「君とだけは忌憚なく話がしたかったんだ」

 ギラッ。

 とカジュが至近距離から睨むので、魔王は思わずのけぞった。

「なんだい?」

「別に。」

「なにを怒ってるの?」

「なんて()いてほしかったわけ。」

「なぜ生きているの、とか」

「察しはついてるよ。《悪意(ディズヴァード)》なんぞの力を借り、《死の女皇》ドゥザニアにケンカ売ってまで死者を蘇らせる……こんなクソ不敬をやってのける倫理観の腐った組織は、ボクの知る限りひとつしかない。」

 

 

「へっくしょん!」

 と、コープスマンは盛大にクシャミした。

 ハンカチで鼻を拭きながら執務室の隅に目をやった。そこでは道化のシーファが床に座り込み、愛用の双剣を分解して手入れにいそしんでいる。

「ねえシーファちゃん。ひとに噂されるとクシャミが出るってホントかなあ?」

「知らぬ」

 つれない返事。コープスマンは唸りながら大きく背伸びする。長時間労働には慣れている彼だが、さすがにここ5ヶ月の多忙にはいささか辟易しているのだ。執務室に並べた机でばりばり仕事をこなす6人の部下たちも同じ思いだっただろう。

 彼が魔王軍の財布を管理していることは先にも述べたとおりだが、これはまことに大変な仕事である。今や総兵力30万に達する魔王軍、それだけの魔族や鬼や魔獣たちを食わせていくのは並大抵のことではない。加えて魔王城の修復、維持、インフラ整備、占領した都市からの税徴収、占領に要する各種の出費、論功行賞の手配、さらに今夜のような慰労の宴会があればその費用の捻出と、仕事は文字通り山積み。そのうえ他の四天王は死術士(ネクロマンサー)ミュート、竜人ボスボラス、鬼娘ナギと武闘派ぞろいで、経理の「け」の字も知らないようなやつばかり。

 必然、事務はみんなコープスマンの担当になる。企業(コープス)から連れてきた部下を総動員してどうにか回しているものの、今夜も魔王城奥の執務室で、夜遅くまでたっぷり残業する羽目になってしまった。

 ごきり、ごきりと首を鳴らし、肩を回して凝りをほぐして、コープスマンは立ち上がる。疲れた顔の部下たちに満面の笑みを振りまいて、

「さあみんな、もうひと頑張りやってみよう!

 なぜなら僕らはー?」

『お金儲けが大好きーっ!!』

 声をそろえて疲れを吹き飛ばし、企業戦士たちは次なる仕事にとりかかった。

 

 

 魔王は小さく頷いてカジュの推測を肯定した。

「“魔王計画”を知ってる?」

「なにそれ。」

企業(コープス)の悲願にして機密中の機密。古代魔導帝国の魔王を人工的に再現する計画だ。魔王など造ってどうする気なのかは知らないが、300年以上に渡って奴らがこのために動いてきたのは間違いない。

 なのにあと一歩というところで、計画の要となる《魔王の卵》を奴らの手からもぎ取った者たちがいたんだ」

「ふうん。いったい誰でしょね。」

 悪戯っぽく笑う魔王にも、カジュは素知らぬ顔。

 昨年の秋、第2ベンズバレンから少し離れた山中で帝国の遺跡が発見された。その奥にあった動力炉――《魔王の卵》を奪取しに現れたのが、企業(コープス)の尖兵、シーファ。そして、それを撃退して《卵》を守り抜いたのが、他ならぬカジュたち3人である。

「あの瞬間、勇者の後始末人は企業(コープス)のブラックリストに載ったのさ。

 だが奴らは狡猾(こうかつ)だ。事態を悟らせぬよう水面下で準備を進め、機を待った。君たちの出自を調べ上げ、罠を張り、ベンズバレンから引き離したうえで事を起こす。おかげで僕は誰にも邪魔されることなく魔王に転生することができた……」

「ちょっと待ってよ。てことはキミやミュートが蘇ったのは。」

「君たちへ揺さぶりをかけるための人選だよ。

 魔王様、だなんてお笑い草だ。得体の知れない計画の中で、定められた役割を演じる役者……僕は今でも、企業(コープス)の操り人形に過ぎないのさ」

「しかし、いつまでも操られてるつもりはない。」

 “我が意を得たり”――魔王が浮かべた会心の笑みは、背筋が凍るほどに純粋な《悪意》に満ちている。

「そうだ。魔王(ぼく)は企業を滅ぼす。

 いや、企業だけではダメだ。発展、公益、利潤と富貴を求める風潮、すなわち需要がある限り、同様の組織が何度でも生まれ、人を人とも思わない愚行を繰り返すだろう。ひとつの欲望が満たされたとき、次に立ち上がるのはさらなる欲望……なぜなら、満たされた思いそのものが、新たな思いを生起するからだ。

 君も見ただろう? 哀れに地を()う“夢見人(ゆめみびと)”たちの惨状を。確かに旧魔王軍は侵略者だっただろう。人間たちが怨みを抱くのも分かる。だが過剰な意趣返しが彼らを傷つけ、辱め、11年を経た今まで続く混乱を醸成したんだ。君たちが生業にする“後始末”とやらいうものも、見方を変えれば弱い者いじめにすぎない。旧魔王ケブラーの瞋恚(しんい)が抗争の種を撒き、勝者たちの慳貪(けんどん)が絶望の花を育てた。かくして苦しみは連鎖する。

 誰かを滅ぼすことに意味はない。

 誰かを救うことにも意味はない。

 だから僕は、全てを救う。

 この世の誰も知らない《最終禁呪》によって、終わりなき欲望と苦の輪廻――すなわち世界を滅尽させる。

 その後に築かれた楽土では、生きとし生ける者全てが永遠の安らぎを得るだろう。

 これが僕の究極目的。魔王の玉座、勇者の排除、ベンズバレン征服……全てはこのための布石。死を賭してでも成し遂げる価値のある事業だよ」

 魔王はカジュの手を我が手で包み、瞳を覗き込みながら唇を寄せた。あとわずか、紙一枚ほども押し出せば誓いの口づけを交わせるところにまで。

()()()()へ来てほしい。

 手を貸してくれ。僕の……魔王クルスの妃として」

 曲が終わった。つかの間の静寂。幾組もの男女が、(むつ)まじく囁き交わしながら部屋の隅へ、あるいはもっと親密に過ごせる別室へ引き下がっていく。新たな踊り手たちが続々とフロアへ進み出、楽師たちが次なる舞曲を奏で始め、世界が再び回り出す。

 カジュはじっと押し黙っていた。魔王に身体を寄り添わせ、腰を支えてくれる彼の指を感じながら、いつでもキスできるところにある彼の唇の前で、冷たい女神像のように立ち尽くしていた。目を閉じる。彼の吐息が聞こえる。彼の鼓動が、皮膚ではなく、肉ではなく、もっともっと奥深いところに直接響く。

「……シュヴェーアの。」

 キスの代わりに、カジュは呟く。

「国ごと消された400万人はどうなる。今も殺され続けてるベンズバレンの人たちはどうなる。」

「仕方のない犠牲だった」

 どん!

 と、カジュは魔王を突き飛ばした。

 よろめきながら半歩後退した魔王の顔が、死人の如く色を失う。カジュは魔王の眼差しを正面から受け止め、それよりもなお冷たい目で睨み返した。

「もう骨の髄まで魔王だよ、キミは。」

 身をひるがえし、スカートを颯爽とたなびかせ、大股に舞踏室を横切り去っていくカジュ。その背を冷然と見送る魔王の顔に、一切の感情は見いだせない。ただ周囲の魔貴族たちのざわめきが、(わずら)わしく響いていただけだ。

「大将」

 いつのまにか、魔王の背後に死術士(ネクロマンサー)ミュートが立っていた。彼は長身を折りたたむようにかがめて、魔王の耳元に口を寄せた。

「予定通り……構わないな?」

「……君に任せる」

 ミュートはカーテンの影に溶け込み、姿を消した。そして魔王はそれ以上一言だに口にすることなく、闇色の衣を引きずりながら何処へともなく立ち去って行った。

 

 

 一方、舞踏会の一部始終を、はるか遠くの城壁からじっと盗み見ていた者がいる。竜人戦士、名前はコブン。四天王ボスボラスいちの子分を自称する彼は、胸壁の隙間から鼻先を出し、目を細めて、舞踏室の窓を小一時間あまりも睨み続けていたのだ。

「あーあ、魔王様フラれちゃいましたよォ? いい気味ですねっ、ねえボス!」

 彼のそばには、いまひとりの竜人の姿がある。四天王ボスボラス。彼は城壁の上にだらしなく寝そべって、(きつ)い蒸留酒でちびちび月見酒としゃれこんでいたのだ。

「アホゥ。他人(ひと)の色恋を(わら)うんじゃねーよ」

「へへえ。ボスも案外ロマンチストっスねえ」

「そんなんじゃねえ。相手の感情、力、信念、ぜんぶ認めたうえで真正面から叩き潰す。それが最強ってもんだ。

 それよか確かなんだろうなァ? てめえの、読唇術とかいうのは」

「任してくださいよ、これだけが特技なんスから」

 魔術による盗聴を防いだうえで、耳元に口を寄せて囁けば、誰にも会話を聞かれることはない……その見積もりが魔王の甘さだ。己の魔術に自信を持つあまり、単純な身体能力の効能を軽視し過ぎている。数km先の文字を読み取るほどの視力に、唇の動きだけで言葉を知る神業。そんな力を持つ者が身近にいようとは想像もしていまい。

「『骨の髄まで魔王だよ』……か。泣かせるねえ、お嬢ちゃん」

 盃の残りをグッと飲み干し、ボスボラスは口の端を吊り上げる。

「オレ様ァそうは思わねえがな」

 

 

   *

 

 

 冷えた王宮に靴音響かせ、カジュは無人の寝室へ戻った。部屋の隅の調度の上にカジュの法衣と靴が置かれてある。そばの壁には愛用の長杖も立てかけられている。カジュは辺りを見回した。ひとの気配は全くない。が、おそらくこれは()の機転だ。

 ――ありがとうドックスさん。気を付けて。

 月光のドレスを脱ぎ捨て裸になる。素肌に灰色の法衣を纏う。ガラスの靴ほど優雅ではないが、象獅子(ベヒモス)革のブーツは荒野や泥沼をものともしないほどに頑丈だ。(きつ)く靴紐結んで立ち上がる。杖を握る。歯を食いしばる。おそろしく透明度の高いガラス窓から夜空を見上げる。

 満月が、痛いほどに煌々と、天頂から光を注いでいる。

 と、月光の中を不気味な黒い影が横切った。宮殿の外の芝の上に、無数に蠢く何者かの姿も見えた。カジュは黙したまま握り拳を横に突き出し、一本ずつ指を広げながら術式を編む。

「は……ぜ……る……そ……ら。」

 指先に灯る5つの火種を拳の中に握り込み、壁へ目掛けて投げつける。

「《5倍爆ぜる空》っ。」

 轟!!

 爆音が魔王城を震撼させる。火焔と爆風が夜空の下で荒れ狂う。頭上を旋回していた骨飛竜(ボーンヴルム)が豪風のために吹き散らされ、眼下で弓を構えていた骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)が骨片にまで粉砕される。もうもう立ち込める噴煙を肩で切り裂き、砕けた石壁を(また)ぎ越え、《風の翼》を静かに広げて進み出るは“灰色の魔女”。吹けば飛びそうな小さな身体に、しかし弾けんばかりの意志をみなぎらせ、並み居る死霊(アンデッド)軍を()めつける。

「ボクはボクの道を行く。」

 羽虫のような音を立て、長杖の先から《死神の鎌》が走り出た。

「止めれるもんなら止めてみろッ。」

 

 

(つづく)



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第19話-07 夜のひとかけら

 

 

 殺到する骨飛竜(ボーンヴルム)。一斉に矢を放つ骸骨(スケルトン)。半身に捻って(くちばし)(かわ)しつつ飛竜を《鎌》で撫で切りし、《大爆風》を撃ちおろして矢を射手ごとに吹き飛ばす。《風の翼》を唸らせながら飛竜の間を飛び抜けて、振り返りざまに

「《石の壁》。」

 ずどん!! と生えた壁に、竜どもは行く手を阻まれ正面衝突。自分自身の速度がために骨を砕かれ翼を折られ、次から次へ墜落する。

 この隙にカジュは一気に高度を上げて、魔王城の上空へと飛び出した。もたもたしている暇はない。四天王や魔王本人に追いつかれれば今度こそ命はないのだ。

 だが、身をひるがえして飛び去ろうとしたその時、上から、下から、前後から、《火の矢》が一斉にカジュへ襲いかかった。

「ん。」

 迫る《火の矢》を《水の衣》で蒸発させつつカジュは油断なく視線を配る。《風の翼》を背に揺らがせて飛来する敵は、魔族の女4人。満月の光で照らされたその美貌には見覚えがある。舞踏会の前にカジュの着替えを手伝ってくれた、スペクトラを筆頭とする侍女たちだ。

「キミたちじゃ相手にならない。黙って通して。」

「貴女というひとが分からない」

 重く、重く、岩と岩とが(こす)れ合うようにして呻くスペクトラ。その苦悩の形相を、カジュは眉も揺らさず見ている。

「無駄死にを喜ぶ魔王(あいつ)じゃない。見逃したって(とが)めはしないよ。」

「そうよ! それほど貴女は()()()()を解ってる! ()()()()だって貴女を愛してる! なのにどうして彼の胸へ飛び込まないの!?」

 手の中で、握り締めた杖が(きし)んだ。

「力強い男性に抱擁され、その手となり足となって活きる歓び……貴女が投げ棄てようとしているものに私たちがどれほど焦がれているか知っていて? 尽くしても、求めても、心と身体を捧げても、あのかたは貴女だけを想ってる! 貴女だけを見つめてる! それなのに貴女はこうもたやすく奉仕の幸せを踏みにじる! 死を賭してまで……何故!?」

 絶叫しながらスペクトラが術を発動した。彼女の手から赤黒く輝く光の剣が伸びる。《血の刃》――原理はカジュの《死神の鎌》に近い、魔法の刃物を生み出す術。己の体液を操る血術の奥義である。対抗できないほど厄介ではないが、油断できるような術でもない。少しでも刃が皮膚に食い込めば、血液を侵食されて即死に至る。

 ならばとるべき手は――

「《閃光》。」

 不意打ちの目くらましがカジュの頭上で弾けた。暗闇に慣れた目に突き刺すような光を浴びて、侍女たちが悲鳴を上げる。その隙にカジュは身をひるがえし、高度を落としながら逃げ出した。事態に気付いたスペクトラの号令一下、侍女たちが後を追ってくる。

 散発的に飛んでくる《火の矢》を右へ左へ避けながら、カジュは王都の大通りを石畳すれすれで飛び抜ける。街から飛び出し、堀を越え、広大な休耕地にまでついたところで次なる呪文を唱え始める。背後を睨み、侍女たちがしっかり付いてきているのを確認してから、振り返りざまに発動。

「《絶入の雲(スタン・クラウド)》。」

 杖の先端から噴き出た黒紫色の雲に、侍女たちは避ける暇もなく頭から突っ込んだ。

 戸惑いの声。次いで咳き込み。侍女たちは《風の翼》の制御を失い、算を乱して畑の中に墜落していく。土の上に四つん()いになり、唾を吐きながら喘ぐ彼女らが、ひとり、またひとりと気絶する。

 《絶入の雲》は、脳への血流を一時的に阻害し意識を失わしめるカジュ独自の術である。《眠りの雲》よりさらに即効性が高く、煙をひと吸いすれば象獅子(ベヒモス)(ヴルム)さえ昏倒してしまう。

 カジュは《風の翼》を解除して着地し、うつぶせで気絶した侍女たちを仰向けにひっくり返し始めた。こうすれば窒息の危険はない。術式を即興アレンジで弱めておいたから脳障害が残ることもあるまい。小一時間ばかりぐっすり眠るだけのことだ。

 だが、最後のひとりの肩に手をかけたその時、侍女の身体の下で赤い光が閃いた。《血の刃》! 伸び上がるように突き出された不意打ちを、カジュは反射的に飛びのいてかわし、後退しながら《死神の鎌》を再び構える。

 スペクトラ。ただひとり気絶を免れた彼女が、ゆらめきながら立ち上がる。

 カジュは唇を横一文字に結び、スペクトラの形相を睨んだ。《絶入の雲》が効かなかったわけではない。事実スペクトラの顔面は水死体の如く青ざめ、《血の刃》を握る手は小刻みに痙攣している。だのに意識を保つことができたのは……

 ――血術。おそらくは、静脈から強引に血液を逆流させてる……。

 カジュの額を汗が伝い落ちた。無茶である。たしかにこれで一次的には脳を動かせよう。だが生理による自然な制御に逆らって魔術で無理矢理身体を動かせば、一体どんな後遺症を残すか。

「もうやめろ。そうまでしたってあいつは……。」

「殺す。魔王様のために」

「やめろっ。他人のために死に急ぐなよっ。」

 輝かんばかりの美貌を土気色に染め、鼻血で唇を粘らせながら、スペクトラが走り出す。

「誰もが貴女ほど強くなれるわけじゃない!!」

 恐るべき鋭さで繰り出される《血の刃》。速すぎる。脚力も剣速も一流の戦士並みである。これは彼女本来の身体能力ではない、血術で強引に筋力を増強しているのだ。防がねば。無力化せねば。だが別の術を構築している時間が――ない!

 (もだ)してカジュは《鎌》を振る。

 すれ違いざまに薙ぎ払われたスペクトラの身体が、上下ふたつに割れて、転がる。

 無音の夜。

 己の口から漏れる呼気。

 乾いた冬風は無感動に流れゆく。

 遠く、魔王城の方角からは、魔獣の咆哮が聞こえ始めた。

 《風の翼》を再び広げ、カジュは西の空へ飛び上がる。

「四百……二十……五……。」

 その呟きに耳を傾ける者は、いない。

 

 

 ただひとり、魔術によってその光景を見ていた魔王クルステスラを除いては。

「かくして悲劇は連鎖する。

 ひとがひとである限り、いついつまでも、代代(よよ)に、永久(とわ)に」

 暗闇の奥の玉座から、魔王は重く立ち上がった。

「その勇ましい決意もまた、無知が生み出す業だというのに」

 

 

   *

 

 

 西へ、ただひたむきに飛び続けるカジュの、体勢がぐらりと揺らいだ。気が遠くなる。術の制御を失いかける。ぞっと悪寒を覚えながらどうにか術式を再構築して持ち直し、額に吹き出た冷や汗をぬぐう。

 ヴィッシュと緋女が旅立ってから5ヶ月。ほとんど休む間もない連戦で消耗していたところに、第2ベンズバレンでの撤退戦、竜人ボスボラスとの死闘、そして魔王城からの脱出だ。精神に最も負担のかかる術式破棄に何度も追い込まれ、大技も数え切れないほど撃ってきた。心も体も疲弊しきっていることは自覚している。たかが一晩寝入ったくらいで回復しきれるものでもない。

 それでもカジュは、飛ぶしかない。この荒野の先、壁のように連なる山地の向こうに、抵抗軍(レジスタンス)の拠点がある。そこまで逃げ込めばひとまず休める。命など惜しくはない。が、今死ぬわけにもいかない。ヴィッシュと緋女が()()を得て戻るまで、この地で魔王軍を足止めするのがカジュの役目。それを果たすまでは、石にかじりついてでも生き延びるしかない。

 残るわずかな魔力を振り絞って飛ぶカジュの背後で、やがて空が白み始めた。

 ――カジュ。

 誰かに呼ばれた気がして、カジュは振り返る。

 幼い身体を巡る血が、青く凍てつき彼女を震わせた。

 背後――地平の彼方から伸び上がる曙光の中に、ひとかけらの夜が揺蕩(たゆた)っている。

 墨を流したかの如き黒衣。空間すら歪ませる濃密な魔力。大地と空とを震わせながら、猛然と()が迫ってくる。

 魔王クルステスラ!

 ――追いつかれたっ。

 最悪の敵。色濃く眼前に浮かび上がる死の予感。だがそのとき、なぜか頭に()ぎったのは、ヴィッシュの苦笑いだった。疲労で色を失くした頬を、額からの汗が伝い落ちる。乾ききった唇が恐怖のために痙攣する。それでもカジュは精一杯に胸を張り、友を真似て強がり笑い。

「なんとかするさ。まあ見てなっ。」

 最高速度で術式構築。一直線に突っ込んでくる魔王の鼻先へ、いきなり出し惜しみなしの《5倍爆ぜる空》。朝未来(あさまだき)の空に大爆発の花が咲き、しかしその爆炎を無傷で突き抜け魔王が来る。

「ですよねっ。」

 などと軽口叩きつつカジュも突進。唸る《死神の鎌》。蠢く《闇の鞭》。ふたりの得物がぶつかり合って耳を(つんざ)く共鳴音を撒き散らす。

 ――いけるっ。

 カジュは確信した。近接攻撃用の超高等術式、構築精度のみなら互角。これなら充分戦いになる。《鎌》と《鞭》が互いを侵食し合い、全く同時に爆裂崩壊。その反動でカジュと魔王は逆方向の空へ弾き飛ばされる。

「もう説得はしないよ、カジュ!」

 《風の翼》を羽ばたかせながら(たけ)る魔王。

「望むところだあんぽんたんっ。」

 空を踏みしめるように体勢を立て直しつつ吠えるカジュ。

「「誰が分からず屋だっ。」!」

 同じ叫びをぴたりと揃え、ふたりは8の字を描いて旋回。再び真正面から意地と意地とが激突する。

「《光の矢》っ。」

「《暗黒力場》!」

 放った術が空中でぶつかり白光と黒霞を炸裂させる。これが目くらましになることまで想定していたカジュは続けざまに《電撃の槍》。しかし魔王はこの手を読み切り、高度を落としてやすやす回避。そのままカジュの下側をすれ違いながら《火の矢》数十本を撃ち上げる。

 数十本! 初歩の術といえどもこれだけの数を同時発動。この時点で人間業ではないが、カジュにしてみればこんな小細工はそよ風同然。

「《鉄砲風》っ。」

 使い慣れた得意技で《火の矢》をことごとく吹き散らし、鋭角に軌道を折って魔王を猛追。彼の背へ向け《光の矢》を、《闇の鉄槌》を、《電撃の槍》を連打する。一方の魔王は矢継ぎ早の攻撃をひとつひとつ術で防ぎつつ、散発的に反撃を撃ち込んでくる。

 ぎら、とカジュの目が鋭く光った。この挙動、魔王は明らかに戸惑っている。本来逃げる立場であるはずのカジュが、自分から距離を詰めてくることに不審を抱いたのだ。

 この状況はカジュの策略である。ヒントをくれたのは他でもない、あの四天王ボスボラス。カジュの持ち味は敵の足を止め、間合いを取り、一方的に火力を叩き込むこと……確かにその通り。術士の基本戦術である。そして術士である以上、それは魔王も同じのはずだ。思えばシュヴェーアで勇者と戦った時も、魔王は徹底的に距離を離して立ち回ろうとしていた。

 つまり魔王は、接近戦では一段弱い。

 無論こんなものは小手先の策。魔王が腹をくくり、接近戦を受けて立つ気になったなら、精神的な優位は即座に消える。

 ゆえに、その前に勝負を決める!

「《鉄槌》。」

 巨大な鋼鉄の塊を出現させ、砲弾の如く撃ち出す術。魔王は、ふ、と息を吐き出しただけで《光の盾》を発動、あっさりと《鉄槌》を弾き飛ばす。

 同時に魔王は手の中に《闇の鞭》を生み出した。執拗に間合いを詰めることで困惑させようというカジュの意図を見抜いたのだ。魔王は空中で急停止、迫りくるカジュを迎え撃つ――

 が、その時。

 強烈な力が、不意に魔王の身体を下に引いた。

「う!」

 反射的に下へ目を向ける魔王。いつのまにか、彼の腰に淡く光るロープのようなものが貼り付いている。そしてそのロープの先は……さきほど払い除けた《鉄槌》に結びついている。

 ――《魔法の縄》!

 一目で魔王は事態を悟った。あの《鉄槌》は罠。カジュは《魔法の縄》を同時発動して撃ち出し、《鉄槌》を弾いた瞬間に魔王の身体へ《縄》が吸着するよう仕掛けていたのだ。落下する鉄塊の勢いによって魔王は下へ引きずり落とされる。無論、彼の実力なら《縄》を切る程度造作もないが、動きは確実に一瞬鈍る。

 その一瞬に、

「《死神の鎌》っ。」

 カジュ必殺の一撃が、魔王の首を刈りに来る。

 避けられる体勢ではない。《光の盾》もあの《鎌》には斬り破られる。《闇の鞭》での迎撃も間に合わない。ならば。

 《鎌》の青白い刃が首を刎ねる寸前、魔王の身体は忽然と消え失せた。《瞬間移動》の術。合計125枠もの術式同時制御数を誇る魔王ならば、この緊急避難手段を常にストックしていて当然である。《鎌》は虚しく宙を薙ぎ、魔王はカジュの背後に出現する。

 それこそがカジュの狙いだとは夢にも思わず。

 魔王の手札に《瞬間移動》は有って当然。ゆえに()()、対策はその前提で組む。

 対魔王用に練りあげたカジュオリジナルの切り札が、魔王出現の瞬間を狙って今、発動した。

「《凍れる(とき)の結晶槍》っ。」

 ぞん!!

 脊椎(せきつい)(えぐ)る恐るべき音を響かせて、漆黒の巨槍が魔王の胸を貫いた。

 

 

(つづく)



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第19話-08 死を賭すワケは。

 《凍れる(とき)の結晶槍》――その名の通り、《凍れる(とき)》の応用技。時間停止空間を槍型に形成し、それを以て敵を貫くのだ。

 時間が止まった空間に対しては、誰も何も干渉できない。侵入することも物を動かすことできない。では逆に、時間停止空間の方を人間にぶつけたらどうなるか? 絶対不可侵の空間が食い込んでくれば、どんな壁でもどんな鎧でもその動きを止められない。それはつまり、防御不能の攻撃になる。

 理論上、この《結晶槍》は誰にも防げない。どんな鎧も魔術も無駄である。魔王とてただでは済まないはずだ。

 だが……

「……素晴らしい。素晴らしいよ、カジュ」

 我が胸を貫く《結晶槍》へどす黒い血を垂らしながら、しかし魔王は微笑を崩しさえしなかった。《槍》を片手で掴み、肉と骨と肺臓とを自らえぐりつつ身体を横へ動かす。そのまま《槍》を腋の下から体外へ出すと、魔王は、半分以上もえぐり取られた自分の胸を見下ろして肩をすくめた。

 凄絶。あまりも凄絶な姿。臓腑の切れ端を傷口からぶら下げ、とめどなく黒血を溢れさせる魔王の姿は、いっそ美しくさえ見える。

 カジュは寒気を覚え、再び間合いを離さんとして――いや、その実ただその場から逃げ出さんとして、《風の翼》を羽ばたかせた。しかし魔王は血塗れの手を剣のように鋭く伸ばし、カジュの首を鷲掴みにする。

「がっ……。」

 頸椎(けいつい)()し折らんばかりに喉を締め上げ、魔王は、ゆっくりとカジュへ顔を近づけていく。彼の口から漏れる濃厚な血の匂いが、百戦錬磨のカジュをすら震わせる。

「思いもよらない発想。それを具現化する勤勉。そして魔王(ぼく)を相手に一歩も退かない類まれな胆力。やはり魔王の妃となるべき女性は、君以外に存在しない」

「だま……れっ……。」

 窒息寸前のカジュは、呻くように拒絶を口にし、魔王の指を振りほどこうともがく。しかし、おそらくは魔術で強化されているのであろう彼の握力は、カジュにはどうにもならないほどに固く、強い。飽くまでも抵抗する彼女に、魔王は寂しげに目を細めた。

「絆。希望。そして愛。全てはひとを苦しみに縛り付ける《悪意》の罠。ゆえにこそ人類(ぼくら)はそれを(こく)さねばならないのに、どうして解ってくれないんだい? 君ほどの知性の持ち主が、これほど明々白々の道理を」

「解ってないのは……そっちだろうがっ……。」

「解っているさ。スペクトラを殺した君よりは。企業(コープス)の言うがままにひとを焼き、クラスメイトをさえその手にかけてきた君よりは! 僕はそんな苦しみから、君を解放するためにこそ戦ってるのに!」

「違う……。」

「何が!?」

()()()()()()()()()()()()()()()()ッ。」

 絶句。

 呆然……そして、

「な……に……?」

 弛緩。

 魔王が手を離す。カジュは首を押さえ、喘ぎ、肩を荒く上下させながら、潤んだ目をそっと伏せた。

「キミを殺して……。

 (ひと)りで生き延びて……。

 たどり着いた場所は、地獄だった。

 毎日来るんだ、新しい仕事が。街を焼いたり、敵を殺したり、敵でもなんでもないひとを……殺したり……。

 1年経って、リッキーの居場所が見つかった。始末しろって言われた。でも嫌だった。もう誰も、殺したくなかった。

 だから逃がした。死体も残らないほど焼き尽くすフリして、逃げる時間を稼いだんだ。」

「嘘だ!」

「今も時々連絡とってる。リネットでパン屋の見習いやってるんだ。やっとパン種に触らせてもらえたって。同業者の寄合にも紹介してもらえたって……うれしそうに言ってたよ。

 デュイはね、フィナイデルの書写屋勤めだったけど、ファラド先生に拾ってもらって入学しなおし。やっぱ学園はすごすぎる、なんて愚痴ってた。

 アニはクスタ。親切な人の養子になって、目下花嫁修業中。もう勉強は嫌だって。素敵なひとのお嫁さんになって、子供を産んで育てたいって……そうだよね。そういう道も、あっていいよね……。

 でもね……ロータスは、救えなかった……。

 オーコンは、殺すしかなかった……。

 助けられたのは数人だけだ……。そうだよ。世界は酷い。歪んでる。でも一番(ゆる)せないのはボクなんだ。命令を拒みもせず、我が身かわいさに、いくつもの街を滅ぼし、千人万人のひとを殺し、その何倍もの人生を滅茶苦茶にしたっ。こんな馬鹿げた世界の歯車になり下がったボクを、ボクは一番殺したいんだっ。

 でも。

 そんなボクを抱きしめてくれるひともいるっ。

 こんなボクの代わりに泣いてくれるひともいるっ。

 だから生きてる。空と大地の間の()()で、みんなみんな生きてるんだよっ。

 それなのに……今ここにある大事なものを踏み潰して、その上に組み立てる理想なんか、今の腐った世界と何が違うっていうんだよっ。」

 いつしかカジュは涙を浮かべ、魔王の胸へ手のひらを預けていた。否、魔王ではない。彼女の触れる相手クルス。幼い日を共に過ごし、共に学び、共に遊んだ、この世でたたひとりの恋人、クルス。

「魔王なんかもう辞めちゃえっ。

 一緒に逃げよう。どっか大きな街に行って、ふたりで小さな雑貨屋さんをやろう。“魔法堂”とか、“ヤドリギ堂”とか、そんな気取った看板出してさ。ちょっとした魔法のアイテムを手ごろな値段で譲ってあげて、街の人たちの個人的な悩みを解決する。名声なんかない。お金だってない。でもそんなもの、食べていけるだけあればいい。みんなの笑顔がいちばんのごほうび。そんな暮らしを、ふたりで、一緒に……。

 理想なんか置いとけよ……。

 地に足つけて歩いていこうよ……。

 “汚い”よりも“きれい”を見ろよっ……。」

 涙が、弾ける。

「だって……。」

 心が、解ける。

「ボクらはっ……。」

 あの辛すぎる別離以来、4年も封じ込めていた真実(ほんとう)の声が、カジュの口から走り出る。

「幸せになるために生まれてきたんじゃないか!!」

 沈黙。

 沈黙。

 沈黙。

 どれほど長くとも決して足りはしない……沈黙。

 やがて魔王は、重い扉をこじ開けるように口を開いた。

「……我が名は魔王。戻れはしない」

「だと思ったよ《四角四面》っ。」

 泣き顔を一瞬にして氷の仮面に封じ込め、問答無用の不意打ちを魔王へ叩き込む。《四角四面》、これも対魔王用に構築した新魔術。対象の上下左右前後六面を《石の壁》で覆い尽くし、立方体に閉じ込める技だ。無論この程度魔王なら一息で粉砕されるだろうが、ここにさらに術を重ねる。

「《凍れる(とき)》っ。」

 時間停止空間には魔王ですら干渉できない、ということは先ほどの《結晶槍》で確認済み。時の流れから切り離された立方体は空中にビタリと静止し、脱出不可能の(おり)と化す。間髪いれずカジュは《風の翼》をひるがえして立方体に飛び乗ると、識閾(しきいき)上領域から全術式を破棄(リリース)、新たな呪文を高速詠唱しはじめる。

 発動したのは《鉄槌》。手の先から放たれた鋼鉄の塊は、足元の立方体に激突。弾き飛ばされ遥か彼方へ飛んでいく。さらに《鉄槌》。またも《鉄槌》。《鉄槌》、《鉄槌》、《鉄槌》《鉄槌》《鉄槌》《鉄槌》《鉄槌》《鉄槌》《鉄槌》《鉄槌》《鉄槌》! 一度に制御できる術式は5つまでだが、他の術を制御せず脚も止めたこの状態なら構築即発動を繰り返して魔力の続く限り連打はできる。《凍れる(とき)》の効果時間一杯まで数百発の《鉄槌》を叩き込み、その全ての力積を蓄えたうえで時間が動き出せばどうなるか?

 これが対魔王用最後の秘策。

「さよなら、《流星落ちるとき(メテオ・ストライク)》っ。」

 瞬間、石の檻が流星となる!

 天地を引き裂かんばかりの轟音を立て、一直線に大地へ突き刺さる石の檻。着弾の衝撃波が、崩壊した岩盤が、周囲の地形すら変えながら超音速で撒き散らされる。爆風が大地を(えぐ)り取り、立ち込めた暗雲を吹き飛ばし、凄まじい熱によって岩塊を融解させていく。

 嵐の如き余波が収まった後、静寂の中へ姿を表したものは、眼下に穿(うが)たれた巨大なクレーター、それのみ。

 動くものの気配は、ない。

「うわっ。」

 それを確認したとたん、安心がカジュの集中を崩した。《風の翼》の制御を失い、鶏のようにみっともなくバタつきながら、どうにかこうにか、カジュはクレーターの中へ軟着陸した。気力も体力も魔力も使い果たしたカジュは、そのまま膝から崩れ落ちてしまう。

 両手をついてなんとか四つん這いの姿勢を保ち、肩を大きく上下させ、喘ぐ。溜まった唾液で息がつまりそうになり、飲みこんではまた激しく息づく。

 今の《流星落ちるとき(メテオ・ストライク)》は、正真正銘、死力を振り絞った一撃だ。もう《火の矢》一本打つ力も残っていない。だが効果はあったはず。かつて勇者ソールが魔王と戦ったときの例から、魔王がどの程度の攻撃まで防げるのかは計算済み。それを超えるエネルギーを叩き込めば、少なくとも無傷では済まないはず……

 そのとき、カジュの耳に、予想だにしない方向から重苦しい地鳴りの音が響いてきた。疲れ果てた筋肉に鞭うって、座ったまま振り返る。

 遥か地平の彼方に、もうもうと、砂埃が舞い上がっている……

「あっ。」

 カジュは目を見開いた。

 死霊(アンデッド)軍! 骸骨(スケルトン)肉従者(ゾンビ)屍鬼(レブナント)、さらには不死竜(ドレッドノート)まで、少なく見積もっても総勢3万。死術士(ネクロマンサー)ミュート旗下の疲れを知らぬ軍勢が、こちらへ猛然と迫ってくる。

 絶望と恐怖を振り払い、カジュは立ち上がって術式を編み始めた。が、意識が薄れる。組みかけた術式が制御を離れて雲散霧消する。半ば倒れるようにへたりこんでしまう。脚に力が入らない。術を構築できるだけの集中力さえ得られない。完全な魔力枯渇状態。

 ――やばい、死ぬっ……。

 が、カジュが死を覚悟したそのとき、思わぬことが起きた。カジュの眼前にまでたどり着いた死霊(アンデッド)軍が、座して眺めるカジュの横を、なんの興味も示さず通過したのである。

 手を伸ばせば届くような所を素通りしていく骸骨(スケルトン)。その目に灯る赤光を、カジュはただ呆然と見送るばかり。

「なんで……。」

 と呟いた次の瞬間、カジュの顔面が青ざめる。

「やられたっ。」

 

 

「そ! ボスボラスを差し向けた所からここまで全部おれの策ってわけだ」

 遠く離れた魔王城、その宮殿の三角屋根にまたがって、ミュートは頬杖つきつつほくそ笑む。

 彼が制御する《遠視》の術は、支配下の死霊(アンデッド)を媒介とする。骸骨(スケルトン)たちが見ている光景がミュートの目にも見えるのだ。彼の視界に映るものは、愕然とし、義務感に突き動かされ、懸命に立ち上がろうとするカジュ。あれほど疲弊してもなお死霊(アンデッド)軍を止めようとする健気な“魔女”の姿だった。

「魔力も体力も限界寸前、そんな魔女様が逃走する先には何がある? 回復できるか、あるいは少なくとも身を隠せるような場所……

 たとえば抵抗軍(レジスタンス)の拠点、とかな!」

 

 

 一方、抵抗軍(レジスタンス)拠点に入る唯一の峠の入り口では、見張りの兵が色めき立っていた。突然に荒野で巻き起こった大爆発。その直後に見え始めた死霊(アンデッド)どもの不気味な赤眼。兵士たちは震えあがり、声を涸らして叫びながら峠の奥へ逃走していく。

「やばい! 逃げろ、みんな逃げろーっ!

 魔王軍が来た! こっちを狙ってる!!」

 

 

「くそッ。」

 毒づきながらカジュは立ち、《爆ぜる空》を構築しながら死霊(アンデッド)軍の後を追って走り出す。だが、足がもつれる。(まろ)び倒れる。術式が指の隙間から漏れ出て消える。呪文の代わりに砂を()み、追走のかわりに地面を()い、かすれる視界に敵を捉え、懸命に身を起こそうともがく。

 甘かった。疲労で頭が回っていなかった。そうだ。今にして思えば、なぜボスボラスはカジュを殺さなかった? なぜ魔王城の守りはああも手薄だった? 魔王軍が本気を出せば、あるいは四天王や魔王本人をあの時点で投入されていれば、カジュはここまで逃げることすらできなかった。泳がされていたのだ。敵の目的はカジュひとりではない、抵抗軍(レジスタンス)本隊との一挙両得を狙っていたのだ。こんな簡単なことにも気付けなかったとは。

「いいや、悔やむことはない。君はほんとうによくやったよ」

 いつのまにか、カジュの前に魔王クルステスラが立っていた。全身全霊を込めた《流星落ちるとき(メテオ・ストライク)》を受けてなお、衣服に砂埃ひとつついてはいない。いや違う。再生したのだ。《凍れる(とき)の結晶槍》で空いた胸の大穴も、さっきの術で砕け散った四肢も、魂の内に秘めた無尽蔵の魔力によってたちまち補われてしまったのだ。無論その分の魔力消費はあったろうが……あれだけの手間をかけて、少し消耗させるのが精一杯か。

「自分を責めないで。君の仕事は素晴らしかった。術の威力は勇者の一撃をすら超えていたし、この5ヶ月で魔王軍が受けた損害はそれに数倍する。だが、それももう終わり」

 魔王は腰をかがめ、カジュの首を掴み、腕の力のみで吊し上げた。喉を締めあげる手のひらの内に、じわりと、闇色の光が灯る。

「残念だ。ほんとうは、君と一緒に歩みたかった……」

 カジュは固く目を(つむ)る。

 ――ごめん。護り切れなかった。

 逃れられぬ死が、カジュの喉を貫く――

 

 その刹那。

 

 炎が(はし)る。

「ッ!?」

 声にならぬ声。駆け抜ける熱風。稲妻をすら凌駕する超高速の剣が視界を縦横に()せ巡る。緋色の閃光としか思えぬ()()が、魔王の腕を斬り、空中でカジュを抱き、退(しりぞ)きながら連射される魔王の《闇の矢》をかすらせもせず潜り抜ける。閃光が走り魔王に肉迫。下段から掬い上げるように襲いかかるは()()()。魔王が発動した《光の盾》の10枚重ねがどうにかそれを受け止める。

 が。

 止められない! 全ての《盾》を薄紙の如く両断し、炎刃は心臓めがけて喰らい付く!

「うッ!?」

 紙一重、直撃を受ける寸前に魔王は《瞬間移動》で身を引いた。10歩余りも離れた場所へ出現し、魔王は敵を見据えて微かに呻く。

「僕の《龍体》を切断しただと!?」

 魔王の右腕は、ひじの下でばっさりと斬り落とされている。持ち上げてみれば、その断面は鏡の如く滑らか。卓越した剣技なればこその切れ味だが、いかな達人といえどもただの剣でこんなことができるはずはない。事実、魔王の身体は、城壁を粉砕する竜人ボスボラスの打ち込みをすら弾いたのである。勇者の剣以外でこんな真似ができるものは――

 細く、長く、陽炎を吐き。

 ()がそこに立っている。

 片腕に親友(カジュ)を抱きかかえ、いまひとつの腕に太刀をぶら下げ、その刀身から緋色の炎を太陽の如く立ち上らせる業火の化身。世界を焼き尽くすその火より、なお灼灼と瞳を燃やし、凛然と魔王に立ち向かう無敵の剣士。

()()()()()っ。」

 歓喜に震える友へ向け、緋女は弾けるように破顔した。

「お待たせ!

 こっから先は――あたしに任せなッ!!」

 

 

(つづく)



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第19話-09(終) 反撃の狼煙

 

「オラァ!!」

 緋女が走る! カジュという荷物を抱えたまま超音速で間合いを詰めるや、奥義“斬苦与楽”を纏った太刀で横薙ぎの一閃。魔王は軽く息を吐きながら半歩後退して身をかわす。が、甘い。そこから緋女の剣は半歩()()()。彼女の足捌きは魔王のそれなど及びもつかない高みにある。わざと最適距離の半歩手前から打ち込み、対手に間合いを見誤らせたのだ。

 避けきれない、と悟った時には既に死地。魔王はやむなく《瞬間移動》で後退。その出現地点へさらに攻め寄せる緋女の眼前に、次々立てられる防御の術。だが緋女は止まらない。《石の壁》を()き斬り、《水の衣》を蒸発させ、ついには何人にも干渉できぬはずの《凍れる(とき)》すら両断する。緋女の炎はただの火ではない。この世のあらゆる概念を喰らい尽くす神話の炎。その恐るべき熱量が、凍り付いた時間を融かしたのだ。

 あの炎剣を術で防ぐのは不可能と断じるや、魔王は三度目の《瞬間移動》で追撃を避け、10m以上もの上空に出現した。いかに卓越した技量を持とうと緋女はしょせん一介の剣士。自力で空を飛ぶことはできないし、カジュは魔力枯渇でサポートする余裕もあるまい……というより、カジュは緋女の腕の中でぐったりうなだれ、失神しかけている。

「こ……の……アホ犬ーっ。ひとを抱いたまま音速突破するやつがあるかっ。」

「あ。(わり)(わり)ー、ちょっとはしゃいじゃって♡」

「『て♡』でひとを殺す気かっ。あーいや、それより魔王(あんなの)と遊んでる暇はないんだ、抵抗軍(レジスタンス)がヤバいっ。」

「心配ねーよ」

 空中から冷然と見下ろす魔王へ、緋女は不敵な笑みを向けた。

「めちゃくちゃ強くなってんぜ、()()()

 

 

   *

 

 

 死霊(アンデッド)の大軍が、一直線に峠の入り口へ突入する。草むらに偽装した逆茂木も、幾重にも張り巡らせた木柵も、砂の城を踏み潰すが如くに蹴散らして、おびただしい数の骸骨(スケルトン)が峠道へと雪崩れ込む。

 両脇を断崖に挟まれたこの隘路(あいろ)を抜ければ、抵抗軍(レジスタンス)拠点のある森は目と鼻の先。第2ベンズバレンからの難民を大量に抱えた今、避難はとうてい間に合わず、まして防衛なぞは望むべくもない。これから始まる殺戮の予感が、地鳴りとなって山を揺るがす。

 だがその時、死霊(アンデッド)軍を見下ろす崖の上で、ひとりの男が立ち上がった。

 眼は死体の如く冷え、唇は石くれの如く乾き、息は病み人の如くかぼそい。立ち込める寒気と鳴り響く軍勢の足音の中へ、糸引くように白く息を吐き、男は背の大剣の柄を握った。

「砂塁はすぐに崩れるが、山林の土砂は容易なことでは流れない。

 なぜか?

 それは、森が育てた土壌の粒子が互いに結合しあっているからだ」

 低く独り()ちながら、男は剣を地面へ突き立てる。銀よりも白金よりも清純なる女神(ドゥニル)鋼の魔剣。森羅万象に死をもたらす、“勇者の剣”の切っ先を。

「ゆえに、その結合力を殺す!」

 ()()の命を受け、剣が白光を(ほとばし)らせる。幾筋もの光が伸び、折れ、数え切れぬほどに分岐して、大樹の根の如く土壌の中を駆け巡る。これは《死》の光。《死》は全てに訪れる。生物だけにではない。物体にも、記憶にも、歴史にも、見ることも触れることもできない概念にすらも、《死》はいつか手を差し伸べる。

 避けられぬ《死》の抱擁を受け、土砂の結合を殺された崖が、砂山さながらに崩れだす。

 魔王城から《遠視》していたミュートが異変に気付いたときにはもう遅い。死霊(アンデッド)軍に後退命令が届くよりも早く、土砂の洪水が骸骨(スケルトン)を、屍鬼(レブナント)を、巨大な不死竜(ドレッドノート)をも、圧砕しながら飲みこんでいく。

 もうもうと立ち込める砂埃が収まったあとに見えてきたのは、崩れた山の下へ埋葬された死霊(アンデッド)どもの末路のみ。

 吹き抜ける乾いた風に身を晒しながら、()()()()()()()は右手の指を微かに震わせた。

「……あまり無駄使いはできねェな」

 

 

   *

 

 

「……そうか。いや、君の責任じゃない。ああ。一度戻るよ」

 魔王は緋女を睨み下ろしつつ、嘆息交じりに呟いた。ミュートからの《遠話》によれば、抵抗軍(レジスタンス)の撃滅作戦は失敗。それどころか、先手を打って完全に潰したはずの()()が、今になって舞い戻って来たという。

「……旧魔王ケブラーの苦労が分かった気がするよ」

 魔王は眉をまげて苦笑した。

「“魔王はどうして勇者が成長するまえに殺さないのか”……そんなのは典型的な後知恵だね。事実、ケブラーの二の舞とならないために僕は初手で勇者を殺した。なのに今度は思いもよらない所から新たな脅威が湧いてくる。

 生態系と同じさ。ひとりの英雄が滅びれば、誰かがその隙間(ニッチ)を埋める。結局、大事業を成し遂げるには、次々持ち上がる難題へひとつひとつ立ち向かっていくしかないんだろうね」

 魔王が斬り落とされた右腕を一振りすると、その傷口から新たな腕が生えてくる。指を曲げ伸ばしして具合を確かめ、新品の手に満足すると、魔王は眼下のふたりへ慇懃に辞儀してみせた。

「また会おう、新たなる勇者諸君。

 次こそは、全ての決着をつける時だ」

 背後の虚空から闇色の霧が噴き出し、渦巻きながら魔王を包み込む。その暗雲が晴れたときには、もう魔王は忽然と消え失せていた。

 後に残ったのは雲ひとつない晴れやかな青空。戦いの後の澄み切った静寂のみである。

「逃げられた。ま、しょーがねーか」

 緋女は太刀を口元へ持ち上げて、蝋燭の火でも消すかのように、(ローア)の炎を吹き消した。そのまま鞘へ納めようとしたところで、カジュの様子がおかしいことに気付く。彼女は緋女の腕の中で絶え間なく震えながら、頬をこちらへ押し当て続けているのだ。

「……カジュ」

 緋女の指が、カジュの髪と耳たぶを撫でる。

 5ヶ月ぶりの優しさに、カジュの眼から涙が落ちた。

「……四百二十五人。」

 ずっと、ずっと、たったひとりで(こら)え続けてきたものが、カジュの口から溢れ出る。

「四百二十五人……救えなかったっ……。」

 むせび泣くカジュの身体を、緋女はただ、言葉もなく抱きしめたのだった。

 

 

   *

 

 

 魔王城直下、はるか地底の奥深くに、広大な半球状の空間がある。

 古代魔導帝国の都市遺跡。かつてベンズバレン建国王はこの遺跡から様々な魔法の品を持ち出し、その力によって独立を勝ち取った。昨年に第2ベンズバレン近郊で発見された遺跡もこれと同質のもの……というより同じ施設の一部であるらしい。もとはこのハンザ島全体がひと繋がりの巨大な空中都市だったのではないかと研究者たちは推測するが、調査は進んでいない。遺産の流出を恐れた王国政府によって遺跡は固く封印され、存在自体も秘匿されてきたからである。

 王都を占領した魔王クルステスラは、この空間を自身の研究室に仕立て上げた。この5ヶ月、彼はこの場所で未知の儀式に取り組み続けてきたのだ。

 暗闇を頼りなく照らす魔法の灯り。床に刻まれた精緻極まる魔法陣。その中央に直立し、魔王は、目の前にうずくまる()()を見上げている。

「カジュの言動。

 《火目之大神(クレイジー・バーン)》の現出。

 そして《月魄剣(つきしろのつるぎ)》の継承者……」

 巨大な、ひどく巨大な()()が脈打つ。生物? このような生物があろうか? 体躯は山と見紛(みまご)うばかり。大きすぎる自重を支えきれぬ骨肉は崩壊と魔術による再生を繰り返す。皮膚も備わらず、血管も剥き出しで、ただ巨大な心臓だけが異様な熱をもって律動し続けている。

 このおぞましき()()こそ、この世界に完全な滅尽をもたらす魔王の切り札。そのはず、だったのだが。

()()()()()()()()()()()

 魔王の眼に、浮かびあがる疑念。

「どういうことだ、《悪意(ディズヴァード)》……」

 

 

   *

 

 

 執務室の窓辺に佇み、右往左往する魔族たちを眺めながら、コープスマンは満足げに笑っている。勇者。(ローア)。魔王。魔神《悪意(ディズヴァード)》。長い長い時をかけて打ち続けてきた布石。ついに全ての駒が、手を伸ばせば届くところにまで出そろった。

「いよいよだ。僕らの計画が実を結ぶ時は近い」

 ひょいと脇に視線を落とせば、道化の仮面が物憂げに虚空を見つめている。シーファは鞘口に手をかけて、(つば)を浮かせ、納め、浮かせ、納め。落ち着きなく金音を響かせる。目を細めたコープスマンの、顔面に浮かぶものは純然たる悪意。

「楽しみだねえ、シーファちゃん? うふふふふ……」

 

 

   *

 

 

「んがっ。」

 鼻を鳴らしながらカジュは目を覚ました。

 高いびきで眠り眠って目覚めた時には翌々日の昼下がり。実に2日半も眠りこけていたことになる。起き上がってみるとそこは戦陣の天幕の中。草の上へ布を重ねただけの簡易ベッドに寝汗がじっとりと(にじ)んでいる。外から聞こえる慌ただしい人の足音。幕の隙間から滑り込んでくる活気の風。

 王宮のお姫様ベッドほど豪華ではないが、こっちのほうがどれほど居心地よいだろう。

「おっはよー!」

「腹減っただろ。ちょうどできたとこだ」

 どこか懐かしい呼び声と食欲をそそる香りに目を向ければ、緋女とヴィッシュが食事を運び込んでくるところだった。緋女がスープの鍋を木板の上に置き、すぐにまた立ってヴィッシュのパン籠を代わりに持つ。

 カジュはこの時ようやく気付いた。ヴィッシュが右足を棒のように引きずっていることに。

「その足……。」

「ああ。死を招く剣の副作用ってやつだ」

 ヴィッシュは緋女の隣に腰を下ろし、袖をまくり上げた。右手の指先から筋肉が骨状に変質している。驚いて見上げれば、苦笑する彼の頭髪も右1/3ほどが灰白色に染まり切っている。

「末端から少しずつ()()らしい。右の爪先から(すね)までと、肘から先はもう使い物にならない。

 まあ心配するな。不思議なことに、勇者の剣を握ってる時は元通り動くんだ」

「……お腹空いた。ちょうだい。」

「おっけー」

「コバヤシから話は聞いたよ。カジュ、お前ひとりに……」

「すとっぷ。」

 ヴィッシュのそばに膝を寄せ、カジュは彼の唇を人差し指で塞いだ。仲間たちの間に尻をねじ込み、緋女が注いでくれたスープの皿を膝の上に載せる。

「“苦労かけたな、すまなかった”……なんてのは、全部やりきってからにしようよ。お互いに。」

「……だな」

「ほらヴィッシュのぶん! 自分で食える?」

「ありがとう、左は動くよ。で、魔王の方は?」

「期せずして裏が取れた。ヴィッシュ君の読みは当たってる。魔王(クルス)の本質は学生時代と何も変わってない。徹底的な利他性。常識を解さず、だからこそ大胆で的確な行動。最終目的も読めたし、魔王軍内の人間関係もはっきりした。」

「勇者の剣。あたしの奥義。カジュが整えてくれた舞台。全部予定通りだよな」

「ああ。ピースは全て出そろった」

 頷き交わし、3人はパンにかぶりつく。むさぼるようにスープを食らう。食糧の乏しい戦陣の食事だ。焼き固めて何日も経ったパンに、森で調達したであろう根菜をわずかな岩塩で煮込んだだけのスープだ。なのにそれが、どうしてこうも美味いのか。腹に染みるほど温かいのか。

 風が天幕の垂れ布を吹き上げれば、その向こうに澄んだ蒼天が広がっている。そこへ一筋伸び上がる炊煙こそが、人間たちの反撃の狼煙(のろし)

「さあ、こっからが本番だ。

 奴らに目に物見せてやろうぜ!」

 

 

To be continued.

 

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 新勇者ヴィッシュ率いる抵抗軍(レジスタンス)の反撃が始まった。歓喜に湧く人々に、しかし襲い来る新たな恐怖。犯される貞節。弄ばれる純愛。何が毒か薬かも定かならぬ混沌は、やがて双方全軍による一大決戦へと結い上げられる。運命の糸を繰る者は神か、魔か、(いや)さ、あるいは――?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第20話 “果てしなき世界から”

 From the Boundless World

 

 乞う、ご期待。



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第20話 “果てしなき世界から”
第20話-01 出陣、勇者ヴィッシュ


 

 

 ――勝ったな。

 疾駆する馬の背で、魔貴公爵ギーツはほくそ笑む。

 第2ベンズバレンの北に広がる田園地帯を彼はもう半日あまりも猛進している。ギーツ公に付き従ってもうもうと土煙を立てるは頼もしき魔王軍精鋭部隊。そして前方にある蟻の群れのように小さな影は、意気地なく敗走する人間どもの背中である。

 壊滅寸前の抵抗軍(レジスタンス)が新勇者登場でにわかに勢いづいたのは、半月ほども前のこと。奴らは“勇者軍”などと仰々しく自称し、身の程知らずにも魔王軍へ攻勢をかけたのだ。

 狙われたのは街道沿いに点在する交通の要衝ばかり。南部の占領統治を一任された太守ギーツ公がこの事態に苛立ったのは言うまでもない。第2ベンズバレンに駐留する魔王直属軍総勢8万、それが日々消費する食料等の物資は莫大な量にのぼるのだ。無論いくらかの備蓄はあるものの、流通が止まれば遠からず飢えはじめるのは自明である。

 早急に街道の防備を固め、補給線を確保せねばならない……が、勇者軍のちょこまかと鬱陶しい挙動がそれを許さなかった。魔王軍があちらへ出向けば勇者軍はこちらへ引っ込み、こちらへ駆けつけたと思ったとたんにフラリとそちらへ襲い掛かる。神出鬼没と言えば聞こえはいいが、要はこそこそ逃げ回っているだけの勇者軍。そんな軟弱者にいいように翻弄され、決定的な打撃を加えられぬまま時間ばかりが過ぎていく。そうこうするうちに勇者軍の勢力範囲はじわじわ広がり、とうとう13もの重要拠点が彼奴(きゃつ)らの手に落ちた。かくして魔王軍は完全に糧道を断たれてしまったのである。

 ギーツ公の苛立ちが頂点に達した今朝未明、ついに千載一遇の好機が訪れた。各地に放っておいた斥候が、勇者軍の尻尾を掴んだのだ。「敵はイゼット宿場付近で休息中」……その一報を聞くや否やギーツ公は旗下のほぼ全兵力を()して出撃。油断しきった勇者軍の横腹へ怒涛の如く襲いかかった。

 この電撃的な攻撃に、勇者軍はたちまち瓦解した。押し返すことはおろか戦線を維持することさえできず、人間たちは千々に乱れて敗走し始めた。ギーツ公率いる魔王軍は勝ち波に乗ってこれを追撃。勇者軍も幾度か踏み止まって反撃を試みたものの、不安定な体勢から出る苦しまぎれの反撃など、余勢を駆った魔王軍には蚊が刺したようなものである。

 戦うこと5度。その都度魔王軍は快勝し、ギーツ公は確信を得た。

「勇者なにするものぞ! しょせんは小勢。正面切って戦う力がないからこそ、奴らは遊撃戦に頼っていたのだ」

 始めこそ慎重に戦列の中ほどで様子を見ていたギーツ公だが、勇者軍恐るるに足らずと知ったとたん、はりきって先頭に躍り出た。自慢の駿馬に鞭を入れ、狂笑しながら敵を追い回し、目につく端から攻撃魔術を撃ちまくる。時が経つのも忘れて追撃に熱中するうちに()や半日。枯草が黄金の海の如く波打つこの草原で、いよいよとどめを刺さんというところまで勇者軍に肉迫したのだ。

 だがそのとき、ギーツ公の高揚へ、不意に水を差す者があった。

「閣下! ギーツ公! 馬をお止めください!」

 後方から必死の加速で進み出てきたのは、ギーツ公に仕える副官である。(くつわ)を並べて走り始めた彼に、ギーツ公は一瞥(いちべつ)すらくれない。

「愚なり! 機を逃して戦がなるものか!」

「しかし後続が追いつけません」

「む」

 そう言われて道理が分からぬほどの愚か者ではない。馬脚を緩め、背後をかえりみれば、ついて来ているのは騎兵や俊足の魔獣たちのみ。主戦力の魔族歩兵と鬼兵隊の姿ははるか後方に(かす)んでいる。

 これでは勇者軍を追い詰めたところで充分な打撃力を発揮できない。ギーツ公は嘆息しながら兵に停止を命じ、自らも不承不承(ふしょうぶしょう)馬を休ませた。

「ええい……今彼奴(きゃつ)らを逃せば、いつまた見つけられるか分からんというに」

「空艇魔獣を敵の頭上に貼り付けておりますれば、見失う心配はありますまい。それよりも閣下、なにやらおかしくありませぬか」

「何がだ?」

「ここまでで我々が討った敵兵は何人ほどだと思われます?」

「うん? ……三、四千がところか?」

 副官はかぶりを振る。

()()です」

 眉をひそめるギーツ公。副官は馬を寄せ、脂ぎった額を近づけて、周りの兵卒に聞かれぬよう低く囁く。

「5度戦って5度勝ちながら、我らは一兵卒の首すら得ておらぬのですよ」

「馬鹿を言うな。ひとりも戦死せぬうちから、なんで奴らが敗走する?」

「それです。そこが妙だと……」

 ここでギーツ公は弾かれたように顔を上げ、辺りを見回した。先ほどまで見通しのいい田園を走っていたはずが、いつのまにか盆地の草原に踏み込んでしまっている。見渡す限りを覆う枯れ草。乾ききった冬の大気。草原の南北を挟む山並は、越えようとして越えられぬほどではないにせよ、大軍を機敏に動かすのが困難な程度には険しい。

「ここはなんという土地だ?」

「人間どもがセレズニア谷と呼んでいるあたりでしょう」

「左右を山に挟まれ入口狭く、地に草木深く繁って乾きたるは……」

 一字一句違わず丸暗記した兵法書の文章を(そら)んじながら、徐々に目を丸く引き剥いていく。

「いかん! これは罠だ!」

 ギーツ公が絶叫した、まさにその時。

 草むらへ一斉に放たれた火が、たちまち魔王軍を飲みこんだ。

 

 

 王国南部に駐留する魔王軍は兵力8万。対する勇者軍はまともに訓練も受けていない義勇兵をかき集めてなお1万足らず。そのうえ太守ギーツは第2ベンズバレンの城壁内で堅く守って動かない。質でも量でも地の利でも歴然の差があるこの状況で、正面からぶつかって勝利が得られるはずがない。

 ゆえにヴィッシュは奇策に打って出た。まず、戦い慣れしたベテラン兵2千ばかりを選出して遊撃隊を作り、街道の要所を狙って襲撃する。総勢8万の魔王軍南方占領部隊といえどその大半は第2ベンズバレンの中にあり、各所の砦に配置されている兵力は一ヶ所につき数十人からせいぜい百余りといったところ。当然、これは勝てる。

 街道を押さえれば物流は止まる。この5ヶ月で貿易商が軒並み避難してしまったために、海路もろくに動いていない。魔王軍は飢える、焦る。勇者軍遊撃隊を討伐するため、いくらかの兵力を()いて差し向けるだろう。

 今度はその討伐隊を翻弄してみせる。正面衝突を徹底的に避け、神出鬼没に各所を攻めるのだ。無論そんな戦い方では占領地を維持することは不可能。奪い、奪われ、また奪いを繰り返すことになるが、それでいい。きりのないイタチごっこに敵は苛立つ。短気で気位(きぐらい)の高い太守ギーツならばなおさらだ。

 ここで仕掛けるは偽兵の計。旗指物(はたさしもの)や鳴り物などを数多く用意し、近隣住民の協力を得て軍隊のふりをしてもらう。また野営の時には必要以上に焚火を増やし、幕舎の杭の痕も多数残す。こうして兵力を多く見せかけるのである。単純なトリックだが上手くやれば効果はてきめん。魔王軍はこちらの戦力を実態の数倍、ことによると10倍以上にも見積もったことだろう。

 こうして丹念に布石を重ねたうえで、最後の仕上げに取り掛かる。あえて隙を晒し、敵の斥候にこちらを発見させてやるのだ。さんざん焦らされた太守ギーツはもっけの幸いとばかり出陣する。この機で確実に殲滅すべく、偽兵の計で過大評価したこちらの戦力をさらに上回る兵を引き連れてくる。まず全兵力のほとんどを投入することになるはずだ。

 そこからが正念場だ。魔王軍相手に戦っては敗け、戦っては敗けを繰り返し、あえて敵を勢いづかせて、徐々に主戦場へ誘導する。目標地点はセレズニア谷。広からず狭からずの細長い盆地。山は突破は難しく伏兵を置くにはちょうど良い程度の険しさで、入口出口は特に狭隘(きょうあい)。しかも、この季節には枯草が一面に生い茂っている。

 火計にはうってつけの死地である。

「放て!」

 将軍の号令一下、山の上に潜んでいた勇者軍の伏兵たちが一斉に立ち上がり、数百の火矢を撃ち上げた。山なりに飛んだ火種が草原に点火。また別の方角からは術士部隊の《火の矢》が飛び、反対側の山麓からは歩兵隊の松明が投げ込まれる。四方八方から続々と火の手が上がり、魔王軍を紅蓮の炎に包み込む。

 

 

 魔王軍は大混乱に陥った。おりしも吹き始めた冬風が火を(あお)り、みるみる火勢を強めていく。初めこそ魔術で消火を試みていたギーツ公も、すぐに諦めてしまった。これは到底消し止められるような規模ではない。

「閣下ァ! ここは谷の外まで離脱ギャブェ!」

 副官の進言は潰れた声とともに中断した。勇者軍の放った矢が、彼のこめかみから下顎(したあご)まで貫通したのだ。さらに容赦なく降り注ぐ矢の雨に副官は針山と化して(くら)からずり落ちる。絶命した彼の形相にギーツ公の背筋が凍る。動揺から立ち直る暇もないまま敵の第2射が降ってくる。ギーツ公は引きつった悲鳴を漏らしながら逃げ出し、馬の首にしがみつきながら周囲の軍勢に半狂乱で怒鳴り散らした。

「後退だ! 谷の外へ退けっ!! 吾輩を守れェッ!!」

 だが恐怖した兵たちが口々に怒号を上げる中では、命令は容易には届かない。そのうえ伝達が徹底される前に指揮官が率先して逃げ出してしまえば、もう混乱は収めようがない。ギーツ公に続いて後退を始めた者はごくわずか。残りはどうしてよいか分からず右往左往するうちに、片っ端から火に巻かれるか矢を浴びるかして倒れていく。

 

 

 もちろん魔王軍とて無能ぞろいではない。隊列の後方に遅れていた歩兵部隊の中には、現場の判断で危地から脱した者もいた。たとえばある小隊は、冷静に火の動きを見極め、比較的火勢の弱いところを突っ切ることで強引に風上へ逃れた。運悪く衣服に火が移って焼け死んだ者もいたが、小隊員のほとんどは無事である。

「どうします隊長?」

「盆地の入口には伏兵があるとみていいですよね……」

 ざわつく部下たち。小隊長は毛先に燃え移った火を揉み消し、聞えよがしに舌打ちした。

「山越えに田園へ出てボンクラ閣下と合流でしょうが! もうひと働きするんだよ、クソッ」

「へぇーい……」

「ですよねー」

「ん?」

 そのときだった。ひとりの兵が、北東の空に小さな影を発見したのは。

「あ……あっ……ああああああ!?」

 彼が空を指し、恐怖に膝を震わせる。幾人かが指された先を見上げ、絶望がために凍り付く。彼らは嫌というほど知っている。あの()の正体を。ようやく難を逃れたはずの彼らに一切の容赦なく飛来する()()。手には青くぎらつく長杖。背には空間を歪めて伸びる《風の翼》。指先に灯る赤い火は一撃必殺の――

「《爆ぜる空》。」

 轟!!

 悲鳴すら爆風で消し飛ばし、カジュは壊滅した小隊の頭上を切り裂くように飛び抜けた。

 

 

 また別の戦線には、恐慌を起こすどころか、火を見てかえっていきり立つ一団もある。魔王軍中で最も凶悪な暴徒の群れ、鬼兵隊である。

 鬼どもは手近な山肌に勇者軍の姿を見つけると、蛮声を響かせて猛然と山を登り始めた。勇者軍の弓兵たちは斜面上にずらりと並び、矢継ぎ早に撃ち下ろす。だが鬼は怖気(おじけ)を知らない。味方がばたばたと倒れても、5本10本という矢を浴びても、彼らの足は止まらない。矢の雨をものともせず、仲間の死体すら平然と踏み潰し、憤怒を叫びながら攻め寄せてくる。

 この狂気の軍団の先頭に立つは四天王“契木(ちぎりぎ)の”ナギ。しなやかな四肢を躍動させ、絶え間なく撃ち降ろされる銀の雨を打ち払い、飛ぶように斜面を駆け登る。わずか数秒で山上の勇者軍に肉迫し、天高く跳躍しながら竜骨棍を振りかぶる。

「うっうー!」

 乱杭歯の如き棘を(そな)えた凶悪な棍棒が、弓兵の頭蓋を喰い破らんとした――まさにその時。

 ぼ!!

 音速突破の衝撃波を撒き散らし、横から()が飛び込んだ。

 繰り出される神速の太刀。殺気に気付いたナギが咄嗟(とっさ)に棍で受けに回る。だが()()の刃の冴えはもはやこの世のものではない。魔王すら斬った炎の刃。その人智を超えた熱量が、竜骨棍をバターのように溶断する。

 棍を真っ二つにされ体勢を崩したところへ間髪入れず痛烈な腹蹴り。その衝撃で吹き飛ばされたナギは山肌の岩へ強かに背をぶつけながら転がり落ちた。ようやく四つん這いに土を掴んで斜面に喰らい付きはしたものの、牙を()いていきり立つ鬼娘の(めしい)た目に、見え隠れするものは怯えと困惑。そこへ冷えた視線を投げおろす、炎の如き赤毛の剣士。

「緋女さん!」

「うおー! 刃の緋女だ!!」

「“巨人殺し”だ!!」

「かっこいい!」

「男前ーっ!」

 やんやと喝采する弓兵たち。緋女は、にぱっ、と愛くるしい笑顔を返す。

「ありがと♡ オラオラ撃ちまくれテメーらァ!!」

『応!!』

 気炎を(ほとばし)らせて矢を放つ弓兵たち。斜面を駆け登る鬼兵どもが銀の雨を浴び針山と化して転がり落ちる。中には凄まじいまでの気迫で強引に矢の中を突っ切ってくる鬼もいるが、そんな手合いは緋女が斬る。斬る。ことごとく斬る。

 味方が倒れようが自分が傷つこうが命ある限り驀進(ばくしん)する鬼兵隊。その狂気がこれまでは人間を震え上がらせてきた。だがどんな豪胆も時を選ばなければ匹夫の勇である。この状況では自ら(まと)になりに行くに等しい。みるみるうちに鬼兵の数が減っていく。

 そうはさせじと闘志を燃やし、四天王ナギはふたつになった竜骨棍を両手に握って緋女の背中へ躍りかかった。

 が、格が違いすぎる。

 ただ暴れるだけの獣に堕したナギと、獣の情火を刃へと鍛え上げた緋女。剥き出しの《悪意》を振り回すばかりの爪牙など、今の緋女の敵ではない。

 あっさりと。振り向きざまに走らせた炎刃が、ナギの胸を斜めに裂いた。

 傷口から、一瞬遅れて鮮血が噴き出す。錐揉み回転しながら転倒したナギは、そのまま急斜面を転げ落ちていく。

 四天王のあまりにもあっけない敗北を見て、さすがの鬼兵たちも足を止めた。勝手放題に暴れたがる彼らの頭を、実力によって押さえつけてきたのが四天王ナギだ。そのナギがこうも容易く一蹴されてしまったのだ。命知らずのはずの鬼どもに、動揺と恐怖が伝播し始める。

 そこへ喰らい付く。緋女の剣が、牙の如く。

 噴き上がる鮮血。轟く悲鳴。狂戦士の群れが、今や狂気さえ失った……鬼兵隊の全滅はもはや時間の問題である。

 

 

   *

 

 

 もうどこをどう走ったかも覚えていない。魔貴公爵ギーツは無我夢中で炎の戦場を逃げまくった。

 彼も魔貴族(マグス・ノーブル)の名家の出なれば、術士としてはまず一流の腕の持ち主である。《水の衣》《矢そらし》《烈風刃》と魔力の続く限り術をばらまき、どうにか血路を切り開いて田園まで撤退することには成功した。

 が、そこで振り返ってみれば、ついて来ているのは20騎にも満たない騎兵のみ。途方に暮れるギーツへ、近くの騎士がおずおずと進言する。

「閣下、少し待ちましょう。落ちのびた者が合流するかもしれません」

「うむ……」

 やがて騎士の言葉通り、ギーツ公の元へ敗残兵が集まりだした。重い火傷を負い、鎧に突き立った矢をまだ引き抜いてさえいないような者が、ひとかたまり、ふたかたまり、足を引きずりながら寄ってきて、疲れ果てて座り込む。

 こうして集結したのは負傷兵ばかりが3千余。出陣の時には7万を数えた手下たちが、いまやたったのこれだけ……

 ギーツ公の歯ぎしりが、最後尾の兵卒にさえはっきりと聞きとれた。

 ――おのれ勇者! 次に会ったらただではおかぬ!

 しかしどれほど(いきどお)ろうと、この寡兵ではどうにもならない。ひとまずギーツ公は号令をかけ、残兵を引き連れて第2ベンズバレンへ馬を向けた。街に戻ればまだ1万ほどは兵が残っているし、高い城壁を活かして籠城もできる。10日も凌げば魔王城からの増援も到着するだろう。捲土重来を期すにしても全てはそれからである。

 勇者軍の追撃に怯えながら馬を潰す覚悟で休みなく進み、ようやく第2ベンズバレンの城壁前へたどり着いたときには、もうとっぷりと日が暮れていた。無制限街道へ繋がる正門には鋼鉄の大扉5つが整然と並び、堅く街を守り続けている。その頼もしさにギーツ以下全将兵の目が潤む。あの門さえくぐってしまえばもう安全。傷の手当も食事もできる。安心して眠ることもできるのだ。

 気がせいたのか、ギーツ公は数名の騎士を伴って城門のそばに駆け寄った。暗くてこちらの姿が見えないのか、門は沈黙したままである。ギーツ公は見張り塔を仰ぎ見て声を張り上げた。

「吾輩は太守ギーツである! 開門!」

 しかし。

 ――おや?

 ギーツ公が眉をひそめる。妙である。塔も城壁も静まり返り、門を開くどころか返事してくる気配すらない。

「どうした!? 門を開けぬか! 我はギーツ、魔貴公爵ギーツなるぞ!」

 焦れたギーツ公が再びわめいた、そのときだった。

 にわかに城門の上に銀光がきらめき、鋭い音が風を切った。

 ――あっ……

 と思った時にはもう手遅れ。城壁上へ一斉に立ち上がったおびただしい数の弓兵部隊、彼らが撃ちおろした矢の雨が魔王軍に降り注いだのだ。兵たちが次々射倒される。大混乱が巻き起こる。ギーツ公は《光の盾》で頭上を守りながら、弓兵たちへ怒鳴り上げる。

「馬鹿者! 味方だ、撃つな! 撃つなと言うにッ!」

「違います閣下! あれは……」

 そばにいた騎士がギーツ公に駒を寄せ、後退させようと腕を引く。別の誰かが《発光》の術を投げ上げ、城壁上を照らし出す。(あら)わとなった弓兵の顔に、ギーツ公は愕然とする。

 魔族……ではない。人間! 城壁の上で弓の弦を軋むほどに引き絞っているのは、紛れもなく人間の兵士である。

 ――しまったッ!!

 ようやくギーツ公は事態を悟った。

 第2ベンズバレンは、既に勇者軍に占領されていたのである。

 初めから勇者軍の目標はこれだったのだ。魔王軍が総出で決戦へ向かっている隙に、空き家同然となった第2ベンズバレンを奪う。全てはそのための布石だったのだ。

 そして最後の決め手を打つべく、第2ベンズバレンの城門が今、重低音と共に開きだす。

 門の向こうから姿を見せたのは騎兵の一団。その先頭に立つ男こそは――

()()()()()()()だとォ!?」

「突撃!!」

 ヴィッシュの号令一下、勇者軍の騎兵部隊が走り出す!

 轟く馬蹄。唸る剣戟。勇者軍は猛然と魔王軍に襲いかかり、その中核を粉砕しながら駆け抜ける。ようやく我に返った魔王軍が武器を構える。体勢を立て直そうと号令を飛ばす。だが勇者ヴィッシュの指揮によってひとつの生き物と化した騎兵部隊がその(いとま)を与えない。飛ぶように走り、滑らかに取って返し、魔王軍の横腹へ痛烈な第2撃を叩き込む。一糸乱れぬ連携、燃え上がらんばかりの士気、そして魔剣を振るって先陣を切る勇者の威容。この猛攻で縦横に陣形を引き裂かれた魔王軍に、太刀打ちできようはずがない。

 魔王軍の兵卒たちは斬られ、突かれ、踏み潰され、軍規も命令もかなぐり捨てて潰走し始めた。将や騎士が必死に怒鳴りつけても耳を貸す者はいない。一度(ひとたび)軍隊としての体裁が崩壊すれば、いかな名将にも立て直すことは不可能。まして机上の学問でしか兵法を知らぬギーツ公では為すすべもない。とうとう恐怖のままに泣き叫びながら逃げ出した。

 その背めがけて勇者軍が喊声(かんせい)響かせ突撃する!

 

 

   *

 

 

 やがて曙光が射し始め、戦の帰趨(きすう)が明らかとなった。

 魔王軍南方占領部隊、総兵力8万のうち……

 捕虜が5000。

 戦死者・重傷者6万余。

 分取り品は積めば山ができるほど。

 太守ギーツおよび四天王ナギの生死は不明なれど、ベンズバレン南部の魔王軍はこれでほぼ一掃されたことになる。

 対する勇者軍の被害は、負傷者2400。戦死者はわずか132。

 圧勝。戦史に例がないほどの、圧倒的な勝利である。

 追撃戦でおもうさま首級をあげた各部隊が、続々と第2ベンズバレンに集まってくる。兵たちは想像を超えた大勝に沸きかえり、解放を喜ぶ街の民衆は快哉を叫んでこれを迎えた。

 セレズニア谷の火計を指揮した抵抗軍(レジスタンス)司令官ブラスカ将軍も、さわやかな朝日を浴びながら意気揚々と帰還した。彼は勇者ヴィッシュと対面するなり、白髪交じりの髭を上機嫌にもこもこさせながら、大きな腕で包み込むように彼を抱きしめた。

「おおーっ勇者殿! そなたの計略、みごと図に当たったぞ!」

「いや、いや、俺の力じゃありませんよ」

 ヴィッシュは苦笑しながら将軍の腕から抜け出そうともがいた。このブラスカ将軍はベンズバレン王国譜代の老将で、他の家臣たちが国を見限って去っていく中、ひとり留まって抵抗軍(レジスタンス)を指揮しつづけたという気骨の男だ。齢60を過ぎてなお、雄々しくそびえる山脈のような肉体は少しも衰えていない。その膂力(りょりょく)はヴィッシュにも振りほどけないほどである。

「偽って敗走するのは難しいもんです。疑われれば元も子もないし、一歩間違えば本当に総崩れになる。全ては将軍の采配と、お鍛えになった抵抗軍(レジスタンス)の練度があればこそですよ」

「わしのおかげか? ぬはは! お世辞でも嬉しいことを言ってくれる。だが貴公こそが兵達のアイドルでもあるのだぞ」

 老将ブラスカはヴィッシュの肩を抱き、大通りへ向けて手を振った。街の大動脈を埋めものは、1万の兵卒と、それに数倍する第2ベンズバレンの住民たち。口々に叫ぶ勇者への称賛がうねるように響いてヴィッシュを圧倒する。

 ――あ。

 とヴィッシュは目を見開いた。群衆の中に、少女ナジアの懐かしい顔を見つけたのだ。身をよじりながら黄色い声を上げる少女の姿に、よくぞ無事でいてくれた、とヴィッシュは思わず涙ぐむ。

()()()()()

 もう遠い昔のように思えるあの日。(ヴルム)を倒したヴィッシュへそう囁き、ナジアは、やわらかなキスを捧げてくれた。

 あのひたむきな憧憬が怖くて、ヴィッシュは逃げた。

 素直に受け止めればよいのだと、今なら分かる。

 ブラスカ将軍に背中を押され、ヴィッシュは腹をくくってうなずいた。人のあふれる大通りに駆け込み、手近な馬車の荷台に勢いよく飛び乗る。そして幾万の期待の声を胸で受け止め、お返しとばかりにあらん限りの声を張り上げた。

「聞け!」

 しん……と、街が静まりかえる。彼の声、英雄の言葉を、一言一句たりとも聞き逃さぬために。

「俺たちは勝った! ブラスカ将軍と抵抗軍(レジスタンス)の尽力がこの大勝を導いた!

 だが、まだ足りない。

 戦は続く。

 俺にはお前らが必要だ!」

 高々と掲げた勇者の剣が、天を貫かんばかりに伸び上がる。

「我が剣に集え!

 みんなの力を貸してくれ!

 この勇者ヴィッシュが、必ずお前らを……魔王の手から救ってみせる!!」

 歓声が爆発した。

 民衆は声を枯らして叫びに叫び、兵は武具を鳴らして()えに()え、街を震わし、大地を揺らし、新たな英雄の登場に熱狂した。人々の頭をずっと押さえ続けてきた戦争と敗北の不条理。その暗雲を打ち払う希望を、彼らはヴィッシュの中に見出した。もうこの流れは止まらない。王国の南端から溢れ出した濁流は、やがて全土を飲みこむ大海嘯となる。

 燃え上がるような人々の熱気、その渦の中心に立つ友の雄姿を、ふたりの女性が脇から温かく見守っている。壁に尻をもたれさせた緋女。木箱に腰かけ膝をぶらつかせるカジュ。やがて()()を終えたヴィッシュが、ひとの輪を掻き分け、歓声を背負いながら彼女らの元へ戻ってくる。

 3人の視線が(から)む。笑みが交わる。

 彼らの間に言葉はない。必要ない。誰からともなく拳を突き出し、コツンと小気味よく打ち合わせれば、ただそれだけで分かち合える。

 寿(ことほ)ぎも。志も。ちょっぴりの不安も、何もかも。

 

 

(つづく)



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第20話-02 疑念の萌芽

 

 

〔『このうえは貴公の支援なぞ無用! 我が配下の精鋭部隊でニワカ勇者ごとき粉砕してくれよう!』〕

 似ている。

 四天王筆頭死術士(ネクロマンサー)ミュート、彼は何をやらせても人並み以上にこなしてしまう多芸な男だが、まさかモノマネまで得意とは。魔貴公爵ギーツの声と口調そっくりそのまま。眼を閉じて聞けば当人と区別がつかないほどの再現度であった。

〔なァーんて? 大口叩いたのはどこの誰だったかなァ?〕

 ミュートの挑発的な上目遣いに、ギーツ公が握り拳を震わせていたのは言うまでもない。

 ここは第2ベンズバレンから北へ1日のところにある森の中。勇者ヴィッシュの攻撃で残り少ない手勢さえ失ったギーツ公は、死にたくない、の一念のみで逃げて、逃げて、夢中で逃げて、どうにかこうにか追撃を振り切り、ここまで落ち延びてきたのである。

 こうなってはもう魔王城に帰還するよりほかどうしようもないが、その前に彼には太守としての義務が残っている。それは城へ――魔王軍全軍を束ねる総司令官ミュートへ、この惨敗を報告することだった。

 あぐらを掻くギーツ公の前の地面には、片手で掴めるほどの大きさの薄い水晶盤が立ててある。“通じ合う者の鏡”なる呪具(フェティシュ)。《遠話》と《遠見》を同時に媒介し、遠く離れた相手と対面して会話ができる便利な代物である。が、今のギーツ公にとってはその高機能もかえって鬱陶しいばかりだっただろう。

〔なあギーツ、おれァ言ったよな? 堅く守れ、決して打っては出るなってよ。それをテメエは……〕

「お言葉だが! 街道を断たれれば補給線が……」

〔そこも言った。最悪魔都との往復路が確保されてりゃいいとな。

 攻めと守りの非対称性ってやつさ。街道網のいたるところに200以上はある急所。物流を()き止めるだけならそのうち10ヶ所も取れば事足りる。だが守る方は全部を守らなきゃならないから戦力を分散させざるを得ない! あっちもこっちも均等に兵隊置いてりゃいいように各個撃破されて当然だろうが家柄だけの無能魔族がッ!!〕

 叩きつけるような叱責に、ギーツ公は言葉をなくした。自身では気づいていまいが、目には薄く涙さえ溜まっている。その情けない表情に、ミュートは鼻で笑って追い打ちをかける。

〔言われた仕事もできないんじゃしょうがねえ。手勢をまとめて魔王城に戻ってこい。道中、魔王様への弁明でも考えとくんだな!〕

 《遠話》はミュートの側から一方的に切断された。

 ギーツは唸り、震え、歯を鳴らし、握り締めた水晶盤を岩に投げつけ叩き割った。

「おのれ元人間ふぜいがァッ!!

 太鼓持ちで魔王様に取り入りおってェーッ!!」

 荒れに荒れてわめき続けるギーツ公の背中を、周囲の兵たちはただ(わずら)わしげに見流すばかりであった。

 

 

   *

 

 

 魔王城、地下研究室。ところどころに灯る《発光》の術のみが頼りの広大な暗がりに、巨大な()()が胎児のように丸まっている。

 魔王クルステスラがこの研究室に籠り始めて、今日でもう10日目になる。その間、魔王は不眠不休で“胎児”の肉体構築に取り組んでいた。一切の妥協なく強靭な骨格を練り上げ、緻密極まる筋繊維を編み上げ、絹糸のように細い神経の一本一本を寸分の狂いもなく全身に縫い込んでいく。苦労の甲斐(かい)あって“胎児”は急速に成長していった。外気に晒されていた剥き出しの筋肉はいまや大半が竜鱗で覆われ、黄ばんだ眼球と牙もここ数日で出来上がった。ようやく整い始めた生物らしき外観。その印象を一言で表すなら、“竜”。

 (ヴルム)などという(まが)い物ではない。この世にただ一柱(ひとはしら)、全生命体の頂点に君臨する獣の王。すなわち――

「“真竜(ドラゴン)”! いよいよ完成が見えてきたな!」

 うきうきと声を弾ませながら、ミュートが《転送門(ポータル)》をくぐって現れた。

 魔王は心臓への逆止弁取り付け作業に没頭しているところだった。血脂でべっとりと濡れた手を休めようともせずに、たったひとりの股肱(ここう)の臣へ、ただ疲れた視線を流す。

「……ああ。予定より3ヶ月は遅れてるけどね」

「《悪意》の収穫に手間取っちまったしなァ。んで申し訳ねえんだが、さらに悪い知らせだ」

「そのわりには嬉しそうだ」

 魔王は苦笑しながら、手を血だまりから引き抜いた。ミュートへは背を向け、桶に溜めておいた水で手を洗い始める。

「ギーツがしくじったかい?」

「勇者様が大活躍さ。第2に置いといた8万はほぼ全滅とみていいな」

「対策も考案済みだろうね」

「ご(めい)(さつ)ぅ!

 いいか? 勝ち波に乗った勇者軍は破竹の勢いだ。ゆえに、まずその勢いを殺す!

 簡単さ、相手にしなけりゃいい。街道の要所を塞ぎ、砦を築いて守りを固める。もともと総合力なら魔王軍(こっち)が格段に上なんだから、それだけで勇者軍(やつら)の動きは止まる。

 で、この冬場だ。支配領域は第2ベンズバレン周辺のみで農作物の収穫も当面見込めない今、備蓄が尽きれば飢えが来る。勇者だってそれを百も承知だから短期決戦志向なんだろうが、付き合ってやるいわれはねえ。待ってりゃ必ず軍勢を維持しきれなくなって内輪揉めが起き始める。おれたちが打って出るのはそのタイミングだ!

 兵法の極意は“実を避けて虚を撃つ”! つまり! 相手の充実した所はスルーして、不得意な所を狙えってことさ!」

 ミュートは練り上げた策を開陳しながら魔王の前へ回り込み、ぐぐっと腰を曲げ、魔王のうつむけた顔を下から覗き込んだ。「どう?」などと首を(かし)げ、おどけて見せる。だが魔王は曖昧な微笑を口元に貼り付けたままだ。

「異論はない。任せるよ」

「よし! 具体的な段取りは今日中に文書であげとくわ。勇者(あいつ)の好きにはさせねぇぜ。まあ見てな」

 口笛吹いて《転送門(ポータル)》の術式を編み始めるミュート。上背のある彼の横顔は、小柄な魔王からは見上げるほどに遠い。あの呪われた夜の出会いから()や1年余り。魔王には一度も見せたことのない(きら)めきがミュートの眼に浮かんでいる。

「……君は、勇者ヴィッシュと張り合うために蘇ったのかもしれないね」

「あ?」

 足元に開いた《転送門(ポータル)》へ踏み込みながら、ミュートは照れくさそうに耳の後ろを掻いた。

「ああ……そっか。そうかもな」

 彼はそう穏やかに笑い、黒い門へ沈み込んで消えてしまった。

 再びひとり取り残されて、静寂だけが戻ってくる。

 魔王は完成間近の我が作品を――“真竜(ドラゴン)”の巨体を仰ぎ見た。

 この広大な研究室は、さながら未成熟の竜を孕んだ子宮のよう。ならば胎児と共にここへ籠った魔王は何だ? 父権の担い手のつもりでいた。創造主か、あるいは少なくとも産婆として神の創造に携われている気になっていた。だが(わずら)わしい外界から逃れ、孤独に甘えて丸まっている今の彼は、“真竜(ドラゴン)”と共に出産を待つ――無力な嬰児(みどりご)でしかないのではないか?

 魔王は思い起こす。4年前、企業(コープス)が課した最終試験でカジュと戦い、死んで――()()()に経験した出来事を。

 

 

 あの場所、ひらたく言えば“死後の世界”については、やや記憶が曖昧だ。記憶と呼んでよいのかすら分からない。何も見えず、何も聞こえず、いかなる感覚も思考も成立しない暗闇の時空に、彼はただ漂っていた。正確には闇ですらない。虚無ですらない。()()()()()()()()()()()()()()、完全なる(くう)。そこではあらゆる認知が意味をなさず、ゆえに苦はなく、肉体という形も精神という器もなく、ただ自由のみが漫然と横たわっている。そうとしか言いようがない状態。

「これが《死》。」

 かすかに残った()の切れ端が、認識するでもなくそう認識した。

「《死》は怖いお(かた)ではないよ。」

 と生前にクルス自身が(うそぶ)いたとおり、《死》は恐ろしくなどなかった。《死》は癒し。冴えた刃。五体に絡みついたどうにもならない厄介事の糸を、ひと振りで切り(ほど)いてくれる。やがて温かな《死》の懐で最後に残った()も溶けて、何も気にする必要のない至上の(らく)が彼を包み込んでくれるだろう。

『だが』

 そのとき、唐突に()()が囁いた。

『本当にそれでよいのか?』

 誰だ? という疑問さえ浮かびはしない。《死》の世界に感情は無いからだ。論理などますます無いからだ。なすすべもなく揺蕩(たゆた)う死者は、生死という概念を超えた()()()の干渉に、ただ揺さぶられるしかない。

『知りたくはないか?

 見てみたくないか?

 そなたの愛した、ただひとりのひと……

 あの白き乙女が、いかなる運命を辿(たど)るのかを』

 その瞬間、クルスは()()()()()()()

 ――見たい。

 と。

()()()()()()()()

 微かに含み笑いのような声が聞こえ、次の瞬間、クルスの()()は辺境の都市遺跡の上空にあった。

 元は聖堂ででもあったのだろうか。身を寄せ合うように立ち並んだ3本の尖塔が、厳しい夜風をじっと耐え忍んでいる。その頂上に崩れかけた鐘突場がある。風化しきった石の床の上、不安げに揺れる月光の下、ひとりの少年が瀕死の少女を掻き抱き、顔をくしゃくしゃに歪めながら、必死に頬をひくつかせ、笑顔を作ろうともがいている。

「大丈夫。最後までオレがいっしょにいてやる」

 囁きは口づけのごとく。

「好きだぜ、ロータス……」

 彼の名はリッキー・パルメット。かつて企業(コープス)の教育施設でクルスやカジュと切磋琢磨した同輩だ。リッキー! とクルスは呼びかけた。だが死者の想いは声にはならず、意味のない思念の風としてその場を通り過ぎるのみ。近づこうとしたが動けない。術式を編もうにも呪文ひとつ浮かばない。何もできない。してやれない。リッキーがあんなに追い詰められているのに、ロータスが今にも死のうとしているのに、手を差し伸べることも、寄り添うことも、慰めてやることもできない。ただ世界を俯瞰する、それが《死》の世界の住人にできる唯一のこと。

 そのとき、無力感で胸ざわつかせる彼の前へ、夜空の暗闇から、ひとりの少女が舞い降りた。

 夜の(とばり)を身に纏う、影そのものの如き少女。背には《風の翼》を禍々しく広げ、手には《死神の鎌》を(たずさ)え、無慈悲な空虚の眼で()()をじっと見据えている。

 カジュ!

 クルスは叫ぶ。無駄なこととは知りながら。

「キミがいけないんだ。」

 カジュは早口にまくしたてた。ダメだ、カジュ! 低く、暗く、呪詛のように、()()()()()冷たく沈み果てた声で。カジュ、その先は!

「弱いものには生きる資格もない。キミが弱いからいけないんだよ、リッキー。」

 キミだけは()()()に行かないでくれ、カジュ!

 次の瞬間、逃亡者たちは炎に飲まれた。

 轟音を響かせながら立ち上った火柱が、尖塔を叩き割り、辺り一面を焦土に変える。その猛烈な熱風に吹き散らされて、クルスの()()は《死》の世界へと舞い戻った。

 身を引き裂かれるほどの痛恨。カジュ。心の中で唱えた愛しいひとの名が、刃物のようにクルスの胸へ突き刺さる。キミがリッキーを殺すなんて。キミまでが企業(コープス)の論理に()まれてしまうなんて。暗闇の中で背中を丸め、クルスは呻いた。僕のしたことが……キミをこんな地獄に堕としてしまった!

 そう叫んだ瞬間、クルスは愕然として顔を上げた。

 痛恨? 胸? 背中……()()()!?

 クルスは己の姿に視線を落とした。手がある。足がある。つい先ほどまで肉体はおろか精神さえほとんど消えかかっていた彼が、いつのまにか生前の姿でここにいる。

 ()だ。《死》に飲みこまれ、完全な(くう)へと帰するはずだった彼の()が、再び個の形を取り戻してしまったのだ。背筋にぞっと悪寒を覚え、辺りを見回す。上下左右どの方向にも、無明の闇が彼を圧し包むかのように横たわっている。

 脂汗が、クルスの(ひたい)から(にじ)み出る。

「お前は誰だ」

 闇へと投げかけた問いに、気品ある忍び笑いが応えた。

「一体僕に何をした!?」

(わらわ)は何もせぬ。するのは常に、ひとのほう。

 それ――もうひとつ見せてやろう』

 再び()()が世界のどこかへ移る。

 そこで見せられたものは、地獄だった。

 延々と広がる大地の上に、地虫の如く湧き出る生物、ヒト。あるところに兵があり、隣国の領土へ攻め入って幾万を殺し、幾万を犯す。またあるところには商人があり、下人の貧乏につけこんで休む間もなく働かせ、死ねば路傍に放り捨てて次の家畜を探しに行く。親を亡くした少女は伯父に引き取られ、その屋敷の奥で何年も辱めを受け続ける。人間社会に取り残された魔王軍の残党たちは毎日のように吊し上げられ、投石をもってなぶり殺される。またその(あだ)(むく)いんと、魔族の野党団は人間を捕え生きたままに皮を剥ぎ、なめして靴や鞍にする……

 ひとの世、という名の地獄。そこで行われる悪魔の所業。苦痛にまみれた(むご)たらしい死。ひとの尊厳への徹底的な凌辱。何百万、何千万、何億というひとびとが味わった全てのおぞましい()()の記憶が、怒涛のようにクルスの知覚へ流れ込んだ。クルスは叫び、のたうちまわり、耳を塞ぎ、眼を塞ぎ、休みなく襲い来る残酷な()()から逃げようとした。だが止まらない。止まってくれない。一千万回も彼は殺され、一億回も彼は犯され、数限りない残虐な拷問に彼は泣き(わめ)いた。

 そして涙と血と穢れに(まみ)れ尽くした彼が、最後の瞬間見たものは――

 人間どもに“魔女”として蔑まれ、耐えがたい汚辱を受けた末に、処刑台へ上げられる――()()()()()()

「やめろ」

 クルスが叫ぶ。

「やめろ―――――ッ!!」

 振り下ろされた斧によってカジュの首が飛んだその瞬間、()()は終わった。

 情報の嵐の中から自分個人の感覚へと不意に引き戻され、クルスは闇の中に倒れ込んだ。だが、常人ならばとうに精神の崩壊を引き起こしているはずの情報の暴力に晒されながら、クルスはまだ、そこに()る。憔悴(しょうすい)しきった身体を震わせ、しかしなお、いまだ砕けきらぬ意志をもって闇を(にら)み続けている。

「何が望みだ……こんなものを見せてどうしようというんだ」

 その姿を満足げに見下ろしながら、闇の奥から()()が姿を現す。

『こんなものとは心外だ。

 これは愛。(わらわ)とヒトの、愛の記録。

 現在、過去、未来に渡る《悪意》とヒトの蜜月の姿。

 見たであろう? そなたの最も大切な少女が、ヒトに穢され、殺されるさまを。

 あれこそが真実。

 避けることのできぬ未来の形だ』

 クルスは言葉を失った。生物としての根源的な畏怖が彼を凍り付かせた。

 そこにいたのは一頭の(ヴルム)――いや、ヴルムなどではない。あの程度の動物とは()()()()()()。確かに姿は似ている。鞭のようにしなる長い尾、剣の如き鉤爪を備えた四肢、広げれば天さえ覆い尽くすかに思われる巨大な翼。形は竜そのもののようではあるが……淑女の品格を漂わせる立ち居振る舞い。妖しく濡れる優美な瞳。魂が感じ取る印象は、凡百の竜と天地の隔たりがある。

 ()()こそは遥か太古、まだ神さえ存在しなかった時代から、この世界を牛耳り続けてきた獣の王。

 “力ある九頭竜(パワー・ナイン)”筆頭、真竜(ザ・ドラゴン)

 またの名を――

「《悪意の皇》……魔神ディズヴァード……!」

 妖艶な目をすうっと細め、ディズヴァードはクルスへ、甘えるように囁きかけた。

『聞いてくりゃれ、小さきものよ。実はのう、(わらわ)(たか)ってくる小うるさい羽虫どもがおるのだよ。奴ばらは《悪意》の一端を召喚し、その力で魔王のまがいものを造ろうと画策しておる……』

 ようやくクルスにも話が飲みこめてきた。ディズヴァードの言う羽虫とやらは企業(コープス)の事に違いない。彼らが進めている“魔王計画”に関しては生前資料を目にしたことがある。

『我慢がならぬのさ。ひとが《悪意》に堕ちるのはよい。だが《悪意》をひとに堕とされてはな。

 数年後の未来、そなたはあの虫どもに蘇らされ、魔王の依り代となるだろう。適任であろうなあ。(わらわ)の本質に触れながらいまだ()を保っているそなただ。魔王たるに充分な素質よ』

「……僕に何をしろというんだ」

『そなたの望みは、分かっている』

 死の世界の暗闇に囚われ、一歩も動けぬクルス。ディズヴァードは長い身体をくねらせ、クルスの周りを包み込むように取り巻いた。《悪意》の鱗が肌に触れ、意外な温もりで驚かせる。耳元で真竜(ドラゴン)が囁き、その甘い響きで彼の心を(とろ)かしていく。

『救いたいのだろう、愛するひとを。

 変えたいのだろう、この世界を。

 未来を変えてあの少女を守るには、企業(コープス)を潰さねばならぬ。だが奴ばらは欲望の所産。たとえひとつ潰しても、新たな組織が必ず現れ、あの娘の力にしゃぶりつく。

 商人の次は()()。狩人の次は()()。いついつまでも果てることなく搾取され続けるのがあの子の宿命。

 ならば、そなたの想いを遂げるためには――』

「人類の……醜い我執の全てを滅尽するしか……ない」

『それゆえに我らは利害を共有できる』

 《悪意》は全てと《融合》する。

 生理とも。

 社会とも。

 (きら)めくように純粋な、愛とさえも。

『ヒトよ――《悪意》の共犯者とならぬか?』

 

 

 かくしてクルスは、魔王になった。

 世界の真実を知り、この手で変えねばならぬと確信し、力と意思の全てをこの事業に注ぎ込んできた。全てはカジュを守るため。彼女をやがてくる確実な破滅の未来から救うため。

 だが……

 ――あのとき知った世界と()()

 カジュは語った。リッキー・パルメットは生きていると。そんなはずがない。クルスは確かに見たのだ。あの寒々しい尖塔で、カジュが級友を焼き殺す瞬間を。

 それだけではない。“力ある九頭竜(パワー・ナイン)”が一柱、《火目之大神(クレイジー・バーン)》。“勇者の剣”を受け継ぐ新勇者ヴィッシュ。なにもかも、あの時見た世界の未来には存在し得ない事象。

 かつて確かに見たはずの真理が、眼前に広がるこの世界と、徐々に食い違い始めているのだ。

「起きているんだ」

 出来かけの真竜(ドラゴン)にすがるように手を触れて、魔王は眉間に苦悩の皺を刻んだ。

「この世界に……想定外の異変が」

 

 

(つづく)



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第20話-03 布石

 

 

 魔王軍が敗戦処理と再編成に追われる一方で、勇者軍は着実に勢力を増強しつつあった。

 まず、解放した第2ベンズバレンの住人たちが義勇兵として多数参入。度重なる敗戦で各地へ散り散りとなっていた抵抗軍(レジスタンス)の離脱者も勇者の活躍を聞きつけて戻ってくる。さらに、これまで表向き魔王に恭順しながら裏では抵抗軍(レジスタンス)を支援していた日和見の地方領主や騎士たちが、()()()()()()()のを目ざとく見極め我先にと旗揚げを表明しはじめた。

 それらの軍勢が続々と第2ベンズバレンへと集結し、今や勇者軍は兵力10万を(よう)するまでに膨れ上がったのである。

 にわかに活気を取り戻した第2ベンズバレン。かつて交易の商人や違法営業の屋台でひしめき合っていた大通りには、諸侯の軍勢が所狭しと幕舎を張る。彼らが持ち込んだ物資と金で経済も動き出した。華々しい戦の予感に街中が身震いし、酒と肉とを(きょう)して勝利を祈る。いささか(うわ)ついた狂騒ではあるが、恐怖の象徴たる魔王に挑むには、加熱した狂気に酔いしれることもまた必要だろう。

 しかし、采配を振るう者に陶酔は無用である。せっかく集まった10万の将兵を、酔っぱらいの指揮で死地に飛び込ませるわけにはいかないのだ。

 その夜もヴィッシュは(ひと)り、奥まった路地の小さな天幕で、うず高く積まれた書物に囲まれていた。遠い大通りの馬鹿騒ぎは耳にも入らない。莫大な量の報告書を手際よく読み込み、地図を指でなぞりながら照らし合わせ、目印の駒を置き、倒し、滑らせ、不意に立ち上がったかと思えば、唸りながら狭い天幕の中をぐるぐるぐるぐるうろつき回り、頭を掻きむしりながらまた椅子に腰を落とす。腕を伸ばして兵法書を引き寄せ、とうに暗記している文章をすがりつくように読み返し、再び報告書へ目を向ける。

 彼がこれほどまでに悩むのは、状況が決して(かんば)しくはないからである。

 第2ベンズバレンの陥落後、魔王軍は行動を一変させた。街道の要所を封鎖し、防御に専念し始めたのだ。何度か攻撃を仕掛けてはみたが、(つつ)けど(つつ)けど動き出す気配がない。ただ砦に近づいた者へ魔術や弓矢でおざなりの応戦をするのみである。

 これは間違いなくナダム――否、四天王ミュートの采配による持久策だ。

「くそっ……さすがに痛いとこ見透かしてくれるぜ、ナダム……」

 勇者軍の物資は今ある備蓄が全てである。参戦した領主たちの供出を計算に入れても、そう長くは軍勢を維持できない。もし主要街道が使えれば他の地域から食料を買い入れることも可能だろうが、無制限街道もヴェダ街道も敵に押さえられている状況ではとうてい不可能。陸路が駄目なら海路、という手段も当然模索しているが、第2ベンズバレンが解放されたとはいえ情勢はまだまだ不安定。異国の貿易商はのきなみ腰が引け気味である。ヴィッシュ。使者を送って貿易再開に向けた交渉は進めているが、果たしてどれだけの商人が味方についてくれるか……

 要は、つい先日まで魔貴公爵ギーツが苦しんでいた状況に、一転して勇者軍が置かれてしまったわけである。元来が貿易都市である第2ベンズバレンは交易による物資の流通を前提として成り立っている。おい。とりわけ内海屈指の穀倉地帯たる王都との連絡は文字通りの生命線である。交通と輸送と取引がこの街最大の強みであり、ゆえにこそ、最大の弱点でもあるわけだ。

 ならばどうするか? おいってば、コラ。最終決戦に向けた経路図(ロードマップ)はとうに出来上がっている。敵にミュートがいることは分かっていたのだから、こちらの苦境が見抜かれることも想定済みだ。対策は既に動き出しているが、問題はそれまでいかにして勇者軍を維持するか。そして計画をいかにして加速させるか。考えても考えてもその穴が埋まらな……

「おいコラァ! シャキッとしろやヴィッシュ!!」

「え!?」

 ヴィッシュは弾かれたように顔を上げた。

 いつのまにか目の前に、緋女が赤毛を逆立て仁王立ちしていた。

 彼女の右手には、湯気を立てる羊肉の皿と、パンの籠。左手には蒸留酒の瓶がぶら提げられている。

「メシ。食わないともたねーぞ」

 緋女は少し前に天幕に入ってきて、それからずっと呼びかけていたのに、策を練るのに没頭しきっていたヴィッシュは彼女の声に気付きもしなかったのである。集中していた、といえば聞こえはいいが、これはいささか囚われすぎというものだ。

 ヴィッシュは胸の中に溜め込んでいた息をほっと吐き出し、背もたれに身体を沈めて、凝り固まった眉間を揉んだ。

「あっ……ああ……そっか。すまん。

 なんか最近、お前に届けてもらってばっかだな」

「ほっとくと食うのも忘れるからだろ」

「……そうだな。助かる」

 地図や報告書の山を脇に退()け、そこへ夕食を広げる。緋女は椅子を引っ張ってきて向かい側に腰かけ、羊肉を一切れつまんで、ヴィッシュの口許へ差し出した。

「はい、あーん」

「ええ? よせよ」

「あーんっ!」

「むう……」

 観念したヴィッシュは苦笑しながら緋女の手から肉を食べた。もぐもぐやってるヴィッシュの顔を、緋女は頬杖しながらじいっと覗き込む。

美味(おい)しい?」

「ああ……あ? お前が焼いたのか?」

「練習したもん」

「旨いよ。塩加減もちょうどいいし、火の通りだって浅からず深からず……それに」

 三十男がするにはいささか無邪気すぎるはにかみ顔を、彼女にだけは隠さず見せる。

「お前の手料理だからなおさら美味(おい)しい」

 そんな甘い言葉を聞かされては、緋女もたまらず身体をのけぞらせて笑いだす。

「きゃはははは! いひひひひ! なんだテメー! あたしのこと大好きかっ!」

「そうだよ」

「ばーかばーかぶっころすぞ♡ あたしも食べよー。んー旨いっ! さすがあたし!」

「自分で言ってりゃ世話ねェな」

 ふたり額を突き合わせて、笑う。

 

 

 そうして笑い交わすふたりの声を、少し離れた四つ角で聞いているカジュの姿もある。

「うーむ。」

 彼女は壁に背を付けて、串焼肉にかぶりついた。この焼肉、ヴィッシュのためにと思って持ってきたものである。だが同じことを考えていた緋女が一足早く天幕に入っていき、ほどなく楽しそうにいちゃつきだして、それから恋人たちの(ひそ)めき声がやまないので、どうしたものかとカジュは立ち呆けているのだった。

「あ、魔女様!」

 と、そこに明るく声を弾ませて駆けてくる少女がひとり。前に少し話して以来、挨拶を交わす程度には親しくなった顔見知り、ナジアである。

「あのっ、勇者様見ませんでした?」

「なんか用。」

「用っていうか、えっと……お食事、お持ちしたので……」

 ナジアがホウと頬を赤らめる。『お持ちしたので』どころではない。彼女に肘にかかる籠からは、何か素晴らしく香ばしい香りが漂い出ている。いじらしくもヴィッシュのために手料理などこしらえて来たのだろう。

 ――おモテになりますねえ、()()()

 カジュは肩をすくめ、壁から背を離して、さりげなくナジアの進路を塞いだ。

「さっき食べたとこだよ。お腹いっぱいなんじゃないかな。」

「そっか……ですよね……」

「それ、ボクがもらっていいかな。」

「えっ?」

「あっちで一緒に食べよう。」

 カジュはナジアの手を握り、大通りの方へ引っ張っていった。ヴィッシュたちの天幕から彼女を引き離そうというのだが、そんな意図をナジアは想像だにしない。

「あの、あの、魔女様?」

「いいじゃん。代わりに魔術教えてあげる。」

「ほんとですかっ!?」

「勘違いしないでよね。基礎だけだよ。」

「それでも嬉しいっ」

「おや、カジュさん?」

 またもカジュに声をかけてきた者がある。珍しく同年代の子と連れ立って歩いているカジュに目を丸くしているのは、後始末人協会のコバヤシ。手には酒瓶だのパイの皿だの。

「ちょうどよかった。ヴィッシュさん見ませんでした? お食事を届けようかと……」

「あんたもかーい。」

 さらにさらに、(いか)めしい口髭を生やした立派なおっさんの群れが、どやどやと通りの向こうから押し寄せてくる。先頭に立っているのは老将ブラスカである。

「おおカジュくん! 勇者殿の居場所を知らんかな?」

「言うと思った。」

「駆けつけてくれた騎士諸君ががぜひ救国の英雄と杯を交わしたいというのだ」

「勇者は寝てます。あきらめろ。」

「そうか。疲れてるところに押しかけるわけにはいかんかなあ」

「あのなあキサマら。」

 カジュは口をへの字に曲げて、周囲を取り囲む壁のような大人たちへ、生意気千万にも指を突きつけた。

「勇者より、まず目の前の美少女をチヤホヤしてはどうか。」

 一瞬の沈黙。

 次いで爆笑。

「おお! これはしたり!」

「おっしゃる通り!」

「いやまことに失敬、気が付きませんで」

抵抗軍(レジスタンス)を支えた功労者に乾杯!」

「灰色の魔女に乾杯!」

 ナジアとふたり、ブラスカ将軍の両肩それぞれに担ぎあげられ、やんややんやの喝采浴びつつ大通りへと運ばれていく。街の住人やら幕舎の兵卒やらが何の騒ぎかと顔を出せば、噂に名高い天才魔女が幹部連中に神輿(みこし)の如く担がれているのだから血が騒がないわけがない。たちまちひとの輪ができ、酒と食い物が持ち寄られ、歌が始まる。踊りが始まる。即席の祭りができあがる。

 その喧噪の中心で、人々に揉みくちゃにされながら、まんざらでもない気分でカジュはほくそ笑んでいる。

 ――あーあ。なんて友達思いなボク。

 

 

 夜が深まり、宴も果てて、月すら沈んだ暗闇に、(またた)くものは星光のみ。窓から覗く満天の星々を見つめるうち、ヴィッシュはたまらなく人恋しくなり、ひとつ寝床の隣に寄り添う緋女の裸体に腕を()わせた。彼女の乳房に顔を(うず)め、他の誰にも聞かせられない本音を零す。

「……ありがとう。お前やカジュが、いてくれてよかった」

 緋女の頬が緩む。

 ――なんだこいつ。かわいいな。

 緋女は太腿を彼の腰に絡め、片手で背を、もう片手で頭を、力強く抱き寄せた。そのまま頭を撫でてやれば、ヴィッシュは吸い付くようにいっそう緋女へ身を寄せる。

「言ってよ」

 緋女が囁くと、ヴィッシュは首を曲げて彼女をすくい見た。

「つらいことも、恥ずかしいことも。心配してんだぞ、みんな」

「……うん」

 ヴィッシュは仰向けに転がって、右腕を天井へ差し上げた。まだ肩は動く。肘も大丈夫。しかしその先の手首と指は、完全に骨化して動かない。星の光に照らされた己の身体の無残な姿に、ヴィッシュは目を細める。もう右手では緋女を愛撫することもできないが、その寂しさを飲み込んだまま次へ向かうしかない。

「症状の進み具合から見て、勇者の剣の力を使えるのはあと三度か四度……どうにか軍略だけで決戦までは持ち込みたい。残りは魔王との戦いにとっておきたいんだ」

「それで一生懸命だったんだ?」

「そう。まあ、考えてたのは次の次あたりさ。直近の布石はもう動き出してる」

「すげーじゃん。フセキって?」

「話すと長くなるけど」

「聞かして聞かして!」

「いいか、最大の問題は彼我(ひが)の戦力差だ。数こそ膨れ上がったとはいえ勇者軍の半分は実戦経験のない義勇兵。対する魔王軍は死術士(ネクロマンサー)ミュートの死霊(アンデッド)軍、魔貴公爵ギーツの魔王直属軍、竜人ボスボラス率いるドラゴン旅団、道化のシーファ、そして魔王クルステスラご本尊……どれひとつとってもこちらを全滅させられるだけの実力がある。正面切っての戦いでは100%勝機はない。

 だが、魔王軍にはひとつ致命的な弱点があるんだ」

 緋女はヴィッシュの肩に頬を乗せ、星灯りに目を(きら)めかせて、彼の語りにうっとりと聞き入っている。この天性の聞き上手へ、ヴィッシュはいつもの不器用なウィンクを投げてみせた。

「次はそこに(くさび)を打ち込む。

 まあ見てな」

 

 

   *

 

 

 同じ頃。魔都から半日ほど北上したあたりの岩場で、竜人ボスボラスは生あくびを噛み殺していた。

 もっか彼の任務は北方面の街道警邏(けいら)である。勇者の登場以来各地で蠢きだした人間たちの抵抗勢力は、たびたび魔王軍の荷駄隊を襲って物資を略奪している。これを食い止めたいというのが表向きの理由。勇者軍へ呼応する気配を見せた北部諸侯への牽制、というのが第二の理由。しかし本当の理由は、ボスボラスとドラゴン旅団を最前線から引き離しておきたかった……これだろう。

 魔王はともかく、死術士(ネクロマンサー)ミュートは竜人ボスボラスを極端に警戒している。ドラゴン旅団を対勇者戦に動員すれば()()()()()が起きかねない。だからボスボラスをすぐ目の届くところに配置し、あたりさわりのない仕事を与えて飼い殺しにしているわけだ。

 ボスボラスは、山のような巨岩が立ち並ぶ岩場にだらりと身を横たえて、尻を掻きながら鼻息を吹く。

 ――信用ねえなあオレ様は。ま、正解だがよ?

 クックと独り笑いするボスボラスだが、内心は面白かろうはずがない。まずミュートに指図されるのが気に入らない。魔王軍の実務的なトップにミュートが君臨しているのも納得がいかない。「強い者が正義」を方針とする魔王軍において、明らかに自分より弱い男が魔王の寵愛をかさに着て大きな顔をしている。不満を覚えるなというほうが無理というもの。

 なにより、こんな簡単な任務ばかりでは退屈すぎる。

「あー! なんかこう、腹にズンとくる面白(おもしれ)ぇバトルはねーのかよォ!!」

 ボスボラスの子供じみた要求に天が応えたわけでもあるまいが、ちょうどそのとき、ドラゴン旅団の副将コブンが岩の向こう側からやかましく呼びかけてきた。

「ボスゥー! ちょっと来てくだせぇ、ボスゥー!」

「あァー? なんだァー?」

「おもしれーもん捕まえましたァ!」

 ――面白い、ねえ。

 下っぱどもは、とかくつまらないものに大騒ぎしがちである。コブンの言う「面白いもの」にも、はたしてどれほど()があるやら。とはいえこのままダラダラ寝ているよりマシではあろうか。

 半信半疑、望み薄、という顔をして街道へ降りて行ったボスボラスだったが、そこに集まっていた一団を一目見るなり、

「……ほお?」

 と目の色を変えた。

 ボスボラスの声を聞きつけ、コブンが身を低くして擦り寄って来、媚びた声で囁く。

「北から魔都へ上ってきてた連中ですがね。ちょいと、おもしれえでしょう」

「らしいな」

 街道のど真ん中にたむろする十数名の竜人兵。彼らが輪を作って取り囲んでいるのは、怯え切った人間の集団であった。箱付きの立派な馬車が3台に、護衛の兵士が20人余り。ちょっとした小隊というところだが、なるほど、そこらに転がっている野盗まがいとはいささか気色が違う。

 兵士はいずれも手の込んだ家紋入りの板金鎧を身に着け、立ち居振る舞いにも()()()()()()が現れている。おそらくはどこかの騎士家の次男坊や三男坊の集まりだ。一兵卒に至るまで貴族出身者で固めた部隊。となれば、彼らが護衛する対象は……

「いや……およしなさい! 手をお放し!」

「お(ひい)さま! お(ひい)さま! 無礼なるぞ、貴様ァ!」

 竜人兵のひとりが馬車の扉を腕力で打ち破り、中からふたりの人間を引きずり出した。ひとりは枯れ木のような老人。はいずるように竜人へ掴みかかり、蹴りひとつで吹き飛ばされている。そしていまひとりは、姫君。匂い立つように()れた果実を思わせる、みずみずしい美姫だった。

 ――やっぱな。王侯クラス、か?

 ボスボラスは姫君に歩みより、腰をかがめてその顔をのぞき込んだ。姫の顔面は恐怖がために青ざめ、むちむちと膨らんだ蠱惑的な唇は小刻みに震えていたが、目と眉だけは今なお凛と尖って、高貴なる血の矜持を荒くれの竜人へ示し続けている。

「いい女だ。どうしてこんな()がここにいる?」

 姫の細い(あご)へ、ボスボラスが太い指を()わせる。と、老人が喉を引き裂かんばかりに絶叫した。

下郎(げろう)ッ! お(ひい)さまに触れるでないッ!」

 しかし吹けば飛ぶような痩せ老人に、鋼の肉体を誇るボスボラスをどうこうできようはずがない。拳を固めてボスボラスへ突き出すも、人差し指一本で額をピンと弾かれて、ただそれだけで卒倒してしまう。部下の竜人兵は呻く老人を見て大笑い。老人の首を掴み、子猫でも持ち上げるかのように吊るし上げる。

「おのれッ……おのれッ……」

「おーおー、健気だねえ爺さま。だがそいつァ年寄りの冷や水ってもんだ」

「馬鹿にするなッ! 信義も知らぬ(けだもの)どもが……話が違うぞ! 魔王軍は約束も守れぬのかッ!?」

「……あ?」

 ボスボラスは顔色を変えた。

 姫君から手を離し、老爺のほうへ迫っていく。

「“約束”ってなんだ? “話”がどう違う?」

 ここで老爺は明らかな狼狽の表情を見せた。彼の目が()()()()と語っている。()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 竜人ボスボラス、彼は頭の回る男だが、その感性と思考力はひとつのことに特化されている。相手の隙を見抜くことである。どこに弱みがあるか。どこを突いてほしくないか。それを誰よりも鋭く看破し、容赦なく攻め立てる。つまりはケンカのためだけにある知性なのだ。老爺のこの慌てようを彼が見逃すはずがない。

「ようようようようよう爺さん! 聞いてくれや、オレ様の名推理! あんたら魔王軍(オレたち)に襲われずに魔都へたどり着けるはずだったんだな? そういうふうに()()()()()()。違うか? ああん?」

 老爺が青ざめる。唇を震わせる。必死に秘密を守ろうとする相手に口を割らせるのに、拷問など無用である。最良の手は、“こちらはすでに事情を察している”と思わせること。そうして暴露のリスクを軽くしたうえで、自白のメリットを明確に示してやれば、たいていの人間はコロリと転ぶ。

「なあ爺さん、オレ様も男気で売ってるボスボラスだ。素直に話せば殺さねえよ。あんたも、かわいいお(ひい)様もな。護りてえんだろ? あのしゃぶりつきたくなるような綺麗な顔を、血で汚したくはねえよなあ……?」

 他に選ぶべき道があろうか。

 老爺はうつむき、か細い声を喉の奥からひねり出した。

「……話す。話すから、どうか、お(ひい)様だけは……」

「おうよ。おい、放してやんな」

 竜人兵の(いまし)めから解放され、老爺は地面にへたりこむ。ボスボラスは彼の前にしゃがみ、槍を突き入れるようにしてその目を睨み込む。

「さあ爺さん。誰にどう話が通ってたんだい?」

 老爺は、震える声で名を囁いた。

「……()()()()

 ざわめきが走る。

 老爺が苦悩に呻く。

 ただボスボラスだけが痛快に口を吊り上げる。

「四天王、死術士(ネクロマンサー)ミュート! 私らはあの男に、お(ひい)様を届けるところだったのだッ! 友誼(ゆうぎ)を結ぶための……貢物として!」

 老爺は額を地に擦り付け、そのまま声をあげて泣き出した。ボスボラスが立ち上がる。

「コブン」

「へい?」

「その女はてめえらにやる。好きに遊べ」

「え!? やったァー! いいんすかボスゥー!?」

 大喜びで姫に群がり、裸に引き剥きはじめる竜人たち。絹裂く悲鳴。暴かれる肌。信じられぬ光景を目の当たりにして老爺が飛び上がる。もう言葉にもならぬ非難の声をあげながらボスボラスに飛びかかる。だが戦う力もない老人に何ができよう。ボスボラスは鬱陶しそうに腕を振って老爺を弾き飛ばした。男に指一本触れさせたこともないであろう姫君の肉体が、凌辱の渦に飲まれる。恐怖の叫びと官能の歓びが夜明け前の空にこだまする。唐突に始まった肉欲の宴に、ただひとりボスボラスのみ無関心に背を向けて、邪悪な笑みを南へ――魔王城の方角へ向けている。

「いいね……クールな追風(おいて)が吹いてきたようだぜェ!」

 

 

(つづく)



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第20話-04 茶番劇

 

 

死術士(ネクロマンサー)ミュートが内通だと!?」

 魔王城内の小宮殿の、厳重に人払いした小部屋。そこで魔貴公爵ギーツは声を裏返した。

 隣で背を丸めていた別の魔貴族(マグス・ノーブル)が人差し指を立てて(とが)める。

「しッ! お声が(たこ)うござる」

「確実なことではありませぬ。ただ、そんな疑いが出ているというだけで」

 この秘密会議に出席している5人の魔貴族(マグス・ノーブル)は、みな旧魔王ケブラーに幹部として仕えた譜代の臣ばかりである。つまり魔王軍の大半を占める魔族勢力の頂点に立っていながら、誰ひとりとして四天王に任命されなかった者たちの集まりなのだ。「四天王は飽くまで名誉の位。新参者や鬼たちに出世の夢を持たせるための象徴なのだ」とは魔王クルステスラ当人の弁。理屈は分かる。その場ではうなずきもした。だが自尊心の塊のような魔貴族(マグス・ノーブル)たちが、こんな扱いに心から納得できるはずもない。

 鬱屈した不満を抱えていたところに、四天王筆頭死術士(ネクロマンサー)ミュートの内通疑惑である。()()に群がる鯉のように彼らが食らいつくのも当然のことと言えた。

「で、どこから出た話なのだ、その疑いとやらは」

「ボスボラスですよ。3日前、夜陰に紛れて密使が来ました。

 その者が言うには、北部の雄ヘディ辺境伯からミュート殿へ贈られた美姫を捕らえたと。来たるべき魔王城決戦に向けて固く(よしみ)を結ぶための貢物だとか……」

「あの男、()()なのではなかったか?」

「見たり触ったりの(たの)しみようはありましょう? この道ばかりは執念ですよ」

「待て待て諸君。いくらなんでもそれだけでは証拠が薄すぎる」

 魔貴公爵ギーツは眉をひそめ、痩せた身体を背もたれに預けて足を組んだ。

「辺境伯が一方的に送り付けたのかもしれんし、そもそもボスボラスは玉座を侵さんとした謀反人ではないか。目の上の(コブ)を除くために偽りを言っている可能性は充分にある」

「他にもあるのです。なあ?」

「はい。実は今朝、第2ベンズバレンから捕虜たちが帰還して参りまして……」

「なに? 生きてか?」

「それはそうです。市街追放処分となったそうで……」

 ギーツ公は眉間に皺を寄せる。捕虜というのは、先の第2ベンズバレン解放戦で捕えられた魔族兵、つまりは元々ギーツ公配下であった者たちである。魔族と人間の間に横たわる根深い憎悪を思えば生かされていただけでも驚きだが、市街追放などという軽い処分で釈放されるのは驚愕を通り越して異様としか言いようがない。

「捕虜の言うことには、まず城壁の外にいくつか大きな穴を掘らされまして。穴ができたら、何組かに分けてその中に押し込められ、入口を柵で塞がれて、その中に閉じ込められていた。で、何日かすると勇者が――そうです、勇者ヴィッシュ本人だったそうです――柵の前に現れて、こう尋ねたというのです。

 『お前たちは誰の配下か? 魔貴公爵ギーツか? 四天王ミュートか? 他の誰かか?』」

「なんだそれは?」

「そこでギーツ公の部下と答えた組は即処刑……しかし、ミュート殿の部隊だと答えれば助命されるのだそうで」

「なんだそれは!」

「変でしょう」

「何かの間違いではないか?」

「しかし生還した兵が口を揃えて言うのですから」

「うーむ……」

 魔貴公爵ギーツは難しい顔をして腕を組む。別の魔貴族(マグス・ノーブル)が、テーブルの上にずいと顔を突き出して囁く。

「今にして思えば奇妙な点はいくつもありました。抵抗軍(レジスタンス)は巧みに逃げ隠れして全滅を(まぬが)れ、勇者は数倍もの戦力差があるギーツ公をああもあっさり罠にはめた。こちらの情報が筒抜けでなければできぬことです」

「……確かにな。内通者でもいなければ、あの大敗は説明がつかぬ」

 大敗した当人がこれを言う滑稽さに、ギーツ公自身は全く気付かない。周りの魔族たちも敢えて指摘はしない。ただ「然り、然り」と話を合わせてうなずき合わせるばかりである。

「しかしこれは状況証拠だ。ミュートを吊るし上げるには弱い」

彼奴(きゃつ)めは魔王様のお気に入りだからな……」

「とはいえ悪宦官が王を惑わし国を滅ぼした例は無数にある。早いうちに除かねばならぬが」

「さよう。それこそ正義」

「ではどうするか……?」

 魔貴公爵ギーツはしばし考え込み、ややあって、同志たちの前へ指を立てた。

「使者を送ってみよう」

「使者? どこへです?」

「勇者ヴィッシュへ。一時停戦の申し入れという名目でな。戦力に劣る人間どもには渡りに船。魔王軍(こちら)のタカ派は『勇者軍の勢いを(くじ)く策』とでも理由を付ければ封じ込められよう。そうして我らの手の者を送り込み、勇者軍の内情を探るのだ」

「なるほど! 証拠が掴めるやも」

「そして失敗しても損はない。さすがにギーツ公は古今の兵法に通じておられる」

「なに、おだててくれるな。

 それより諸君、我等は同志であるぞ。魔王軍から奸物(かんぶつ)を追い払い、誤った政治を正すのだ。この志を忘れてはならぬぞ!」

 彼らは一斉に手のひらを差し出し、指を揃えて互いに重ね合わせた。魔族の伝統的な誓約の身振り。彼らの目には一片の曇りもない。心の底から、魔王のため、世界のため、正義のために働いていると信じ切っている。

 その純粋さの中に《悪意》が棲んでいる……などとは、露ほども思わずに。

 

 

   *

 

 

 使者一行は翌日さっそく魔王城を発ち、勇者への進物を馬車に満載して無制限街道を南下した。荒れた冬の田園地帯を通り過ぎ、林の中を貫いて、山間の隘路(あいろ)に築かれた砦を抜ければそこはもう勇者軍の勢力範囲。街道付近を警戒していた勇者軍の一部隊がすぐさま使者たちを見とがめ、殺気立って駆け寄ってくる。

「魔族ども! 何しにきやがった!」

 ち、と使者は聞こえよがしに舌を打った。ザドゥという名のこの使者も、さほどの名族ではないとはいえ魔貴族(マグス・ノーブル)のはしくれ。古代魔導帝国時代から使われている伝統的な使者の旗印さえ解さない野蛮な人間の物言いには我慢がならないようだった。

 が、それは私情。使者としての公務は果たさねばならない。使者ザドゥは腕を広げて非武装であることを示し、馬車に立てた旗を指さした。

「この旗を見よ! 我等は魔王軍より使者として参上した者である。たとえ敵同士といえど使者には敬意を払うのが戦場の常識。勇者ヴィッシュたるものがよもやその道理を知らぬわけもあるまい!」

 これを聞いた途端、勇者軍の兵士たちは態度を変えた。一斉に下馬して使者ザドゥへ敬礼し、誰何(すいか)の無礼を()びたうえで第2ベンズバレンまでの護送を申し出た。無論、護衛というより監視の意味合いが強いのだろう。受け入れないわけにもいかないが、不愉快を覚えなかったと言えば嘘になる。

 ところが第2ベンズバレンへ到着するや、この印象は一変した。思いもよらない大歓迎が使者ザドゥを待ち受けていたのである。

 門前にて使者ザドゥが名乗りを上げると威勢の良い号令とともに城門が開く。街へ足を踏み入れれば高らかに鳴り始める管楽の声。目を丸くする使者一行を迎えるものは、大通りの左右へ整然と並んだ精鋭の雄姿に、住民たちの熱烈な歓声。

 ――なんだ、この活気は!?

 使者ザドゥは内心舌を巻いている。常にどんよりと暗い気配の漂う魔王城とは正反対の、明るく動的な風潮が人々の表情にありありと現れている。血色の良さは食糧の豊かさを、よく手入れされた武具や衣服は経済の活発さを物語る。これでは陸路を断って飢えを待つという死術士(ネクロマンサー)ミュートの策は全くの無意味である。元来ここは貿易都市。おそらく海上貿易網がすでに動き始めているのだ……

 使者がそう判断したのも無理からぬこと。だが実は、これは勇者ヴィッシュが仕組んだ偽装工作である。勇者軍の物資欠乏は今も全く解決していない。陸路は魔王軍に塞がれたままであるし、海上貿易は再開したといってもせいぜい日に1、2隻が入港する程度。これは平時のわずか60分の1程度でしかない。

 にもかかわらずなぜ第2ベンズバレンの住民はこうも活気づいていたか? それは先触れによって使者の到来を知ったヴィッシュが、軍の食糧庫を開いて住民たちに大盤振る舞いし、お祭り騒ぎの下地を整えておいたからである。つまりは後先考えず物資を放出して一時的に街を盛り上げておいただけなのだ。

 しかしそうとは知らない使者ザドゥは、街をあげての演出に完全にはまってしまった。

 ――これはいかぬ。我が方は負けるぞ!

 肝を冷やす使者ザドゥを、さらなる戦慄が襲った。勇者ヴィッシュが軍勢を引き連れ、自ら出迎えに現れたのである。

 陽光に煌めく白の甲冑は、ヴィッシュの長身へ線を引いたようにぴたりと似合う。勇者が飛ぶように下馬すれば、背後の親衛隊は一糸乱れぬ動きでそれに続く。一目で分かる、精兵だ。勇者によって見事に統率された彼ら親衛隊は、命令ひとつで燃え盛る火の中へでも突撃するだろう。しかし(たくま)しい猛者たちの前にあって、勇者当人はいたって柔和。白い歯を見せて気さくに笑い、武器を隠し持っていないことを示すべく両手をゆったりと広げ、悠然と使者へ歩み寄ってくる。

「御使者、遠路はるばるの御到来まことにいたみいります。私はヴィッシュ・ヨシュア・クルツティン。身に余ることながら“勇者”などと呼ばれております」

「御英名はかねがね。直々の丁重なるお出迎え恐悦至極に存じます。此度(こたび)は我が主より貴公への伝言を預かり参上した次第」

「後ほどじっくりと(うかが)いましょう。まずはささやかながら歓迎の宴を用意してございます。どうぞこちらへ……」

 勇者自らに案内されて奥の屋敷へ入ってみれば、“ささやか”などというものではない、まるで王侯を迎えるかのような贅を尽くした酒宴が使者ザドゥを待っていた。山と積まれた美食に佳酒。隣の席の勇者が直々に酌をしてくれたうえ、気楽な世間話や季節の風物を詠う詩で心をも楽しませてくれる。宴席の左右を埋めるのもこれまた勇者軍の名将ばかり。老将ブラスカ、智将フレッド、ベンズバレン王立大学ネビア教授などの首脳陣に、ネーヴェ伯、ツオノ公、騎士テンペスタをはじめとする地方領主たち。これらそうそうたる豪傑たちが使者ザドゥへ挨拶しようと列をなし、へりくだって杯を捧げ、時には自ら余興の歌舞を披露しさえする。下にも置かぬ扱いとはこのことだ。

 しかし、おかしい。敵国の使者にも礼を尽くすのが常識とはいえ、これはいささか度が過ぎている。使者が不審に思い始めた頃、ほろ酔い加減の勇者が、半ば寄り掛かるようにして使者ザドゥへと身を寄せてきた。

「おや、酒が進んでいませんな」

「いや、充分にいただいております」

「遠慮は無用ですよ。それ以上に価値あるものを頂くのですから……」

「はあ」

 眉をひそめる使者ザドゥに、勇者はからからと高笑い。悪戯っぽく眼を細め、顔を寄せて耳打ちなどしてくる。

「それで、今回ナダムは何と?」

「は? ナダムとは?」

「ああ、ご存じありませんでしたか? 本名ですよ、ミュートの。先の大戦では(くつわ)を並べて戦った仲です」

「そ……! れは、まことで?」

「最も信頼できる親友でした……もちろん今でもね! それで彼は何と言って来たのです」

「いや、私は……」

「心配いりません。ここにいるのは信頼できる者ばかり。外に漏れる気遣いはありませんから」

 使者ザドゥの顔色が変わっていく。これで全て繋がった。人間どもから届けられた貢物、いともあっさり釈放された捕虜、そしてこの大歓迎。死術士(ネクロマンサー)ミュートの内通は事実だったのだ。そして誇り高い魔貴族(マグス・ノーブル)たる使者ザドゥにとってこれは耐えがたい侮辱である……人間どもは、あろうことか、ザドゥを裏切り者(ミュート)の使い走りだと誤解しているのだ!

 使者ザドゥは憤然と椅子を蹴って立ち上がり、唾を散らして怒鳴りつけた。

「どうやら勘違いしておいでのようだ! 私はミュートの手先ではない。魔王様の使者として停戦交渉に参ったのだ!」

 しん……と、座が凍り付く。

 あの瞬間の異様な空気を、使者ザドゥは生涯忘れないだろう。想像だにしなかった事態への驚き。まだ状況を把握しきれずにいる者の困惑。そしてひとり、またひとり、“やってしまった”と気付きはじめる、背筋を虫が()い登っていくかのようなあの気まずさ。

 やがて勇者は居住まいを正し、咳払いして立ち上がった。

「そう……でしたか。失礼、何か行き違いがあったようです。

 いかがでしょう、御使者。酒はこのあたりで切り上げて交渉に入るというのは?」

「無論(いな)やはない」

「では別室へ案内させましょう。準備して参りますのでしばしお待ちを」

 宴の列席者たちは競い合うようにそそくさと逃げ出し、使者もまた下人の案内で別の建物へ移らされた。

 移った先というのがまたひどい。いつ崩れてもおかしくないような木造の民家で、とうに日も暮れたというのに灯りひとつもなければ壁の埃さえ払ってはいない。つい先刻までの目の回るような大歓迎から一転してこのぞんざいな扱い。露骨にもほどがある。

 使者は狭い部屋の中を落ち着きなくうろつき回り、何事か呪文を唱えた。その術に呼応して何者かの気配が現れたのを察知すると、部屋の隅の暗がりへ向けて囁きかける。

影魔(エイマ)。いるか、影魔(エイマ)よ」

『戻りました、我が(あるじ)

 声はすれども姿はない。だが見えなくとも確かに彼はそこにいる。“影魔(エイマ)”――《影の従者》なる秘術で生み出された魔法生物である。黒色のひどく重い霧状の気体に意志が宿ったもので、地面すれすれに広がれば本物の影にしか見えない。とうてい生物とは思えぬ姿だが、知能もあれば会話もできる。熟練の影術士がしばしば用いる、隠密行動に適した使い魔だ。

 使者ザドゥは第2ベンズバレンに到着する直前にこの影魔(エイマ)を召喚し、己の影の中に潜ませた。影魔(エイマ)は隙を見てザドゥの元を離れ、主人がくだらない宴会につきあって時間を稼いでいる間に、街を探索していたのである。

「どうであった? 街の様子は」

『ここは危のうございます。(あるじ)さまに口封じすべく敵兵が集まっております』

「おのれ、やはりかっ。私をミュートからの使いと勘違いするとは、いくら人間でも間抜けすぎるわ」

『証拠も手に入れました。勇者の居室にミュートからの密書が』

 影魔(エイマ)は一通の封書を闇色の霧でくるんでふわりと持ち上げた。指先に《発光》の術をかけて読んでみれば、羊皮紙の上に死術士(ネクロマンサー)ミュートのひどい癖字がびっしりと並んでいる。内容は魔王軍の戦力配置や作戦計画を事細かに伝えるもの。実情ともぴたり合致している。これは確かに魔王軍内部の人間にしか書けない文書だ。

「よくやった! これは魔王軍を危地から救う大手柄だ。是が非でも生きて魔王城へ届けねば」

『では?』

「うむ。やるぞ」

 使者が腕を広げると、影魔(エイマ)は暗がりから大きく伸びあがり、主の身体に絡みついた。黒い霧が使者ザドゥの全身をくまなく覆えば、その姿はさながら立ち上がった影そのもの。《影纏い》という高度な隠密術……この切り札があればこそ、ザドゥは使者役を買って出たのである。

 影と化した使者ザドゥは入口近くの壁に貼り付き、そのままじっと時を待った。ややあって、バン! と乱暴にドアを蹴り開け兵たちが突入してくる。彼らは抜き身の剣を構えて部屋の奥へ迷いなく踏み込んだものの、そこに狙う相手の姿がないことに戸惑って動きを止めた。

 間抜けな刺客どもの背中へほくそ笑みながら、使者ザドゥはそっと、開きっぱなしのドアから外へ抜け出した。

 

 

 こうなればあとは容易い。夜の大都市には潜伏できる影がいくらでもある。ザドゥは勇者軍の包囲網をあっさりとすり抜け、人目につかない辺りまで出ると、《風の翼》で城壁を飛び越えてやすやすと街から逃げおおせた。

 ザドゥは会心の笑みを浮かべていたに違いない。彼の手の中にある封筒、これで戦況は一変する。内通者ミュートを失った勇者軍はもう魔王軍の裏をかくことができなくなる。となれば後は純粋な戦力勝負。地力で優る魔王軍はたちまち勇者軍を粉砕するだろう。

 だが、彼は気付いていなかった。夜空を切って飛び去っていく彼の一挙一動を、三角屋根の上にちょこんと腰かけたひとりの少女が《広域探査》で監視し続けていたことに。

「ヘーイ、ボス。うん。今逃げてったとこ。」

 カジュはニマリと唇を吊り上げ、いたずらな笑みを夜空へ向けた。

「ボクらの茶番も捨てたもんじゃないってことだね。」

 

 

(つづく)



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第20話-05 弱点

 

 

 充実している。

 軍の再編、訓練、配置、論功行賞に作戦立案。資金と物資の調達はコープスマンをどやしつければ済むにせよ、占領統治の指揮や人材配置はミュートの仕事。日和見領主を日和見のまま釘付けにするにも飴と鞭がいるし、西では隣国ハンザが漁夫の利を狙って蠢きだした。小規模な抵抗軍(レジスタンス)だって毎日のように旗挙げしている。勇者ヴィッシュの登場をきっかけに巻き起こったトラブルの嵐に、ほぼミュートひとりで対策を講じているのだ。ほとんど殺人的な忙しさだが……その多忙が、むしろ嬉しい。

 ――いいぞヴィッシュ、もっと暴れろ。

 望まぬ復活を遂げて以来ずっと嫌々生きてきた彼が、今、初めて生きがいを感じている。

 ――お前の策は全部おれが叩き潰してやる!

 高揚のあまり廊下で突然笑い出した彼を、通りすがりの魔族が気味悪げに盗み見ながらそそくさと逃げ去っていく。そんなことも一度や二度ではないが、ミュートはひとの目など気にも留めない。

 彼の胸を占めるものはただひとつ。ヴィッシュはどう動く? ヴィッシュは何を考えている? ヴィッシュはおれの胸の内を、どんなふうに読んでいる? それ以外のどんな疑問も情報も彼にとっては価値がない。今やただ勇者ヴィッシュだけが、ミュートの人間性をこの世に繋いでいるのである。

 今日も今日とて朝から広間で幹部会議だ。といってもこの独裁体制でのこと、ミュートひとりが戦略を開陳し、居並ぶ幹部たちへ仕事の指示をするだけの集会なのだが、そうして全軍へ指図するのが最近は楽しくてたまらない。

 が、その日は様子が普段と違っていた。ミュートは常のようにうきうきと鼻歌など歌いながら広間の扉を叩き開け、大股に部屋へ踊り込んだ。

「お待たせ諸君! 対勇者の秘策をひっさげ四天王ミュート様ただいま参……じょ……お?」

 おどけ半分に名乗りを上げたミュートは、広間を満たす異様な殺気に眉をひそめた。

 石造りの広間にひしめいているのはいつも通りの顔ぶれ。魔貴公爵ギーツ以下魔貴族(マグス・ノーブル)数十名、四天王奇貨のコープスマン、そして奥の玉座に鎮座する魔王クルステスラ。このところ地下研究室の“真竜(ドラゴン)”に掛かりきりで会議を欠席しがちだった彼が顔を見せてくれたことは喜ばしい。

 だが、この刺々(とげとげ)しい気配はなんであろう。ミュートへ向けた魔族たちの目は敵意に血走り、さながら飢えた狼のよう。困惑しつつ魔王を見やれば、彼もまた氷のような眼差しをじっと床へ向けているのだ。

「なんだなんだァ? お通夜かここは……あ、ごめん、おれ遅刻だった?」

「構いませんな、魔王様?」

 ミュートの()()()()は黙殺し、魔貴公爵ギーツがふんぞり返る。魔王は眉間に深く(しわ)を刻んだ。

「……是非もなし」

「捕らえよ!!」

 ギーツが腕を振りかざし朗々と声を響かせたその直後。ミュートの背後に人影が出現した。

 竜人ボスボラス。

 稲妻の如き速度で瞬時に間合いを詰めた魔王軍最強の戦士が、ミュートの腕と肩を引っ掴んで石の床へと捻じ伏せた。恐るべき早業。もとより体術ではとうてい敵わぬ相手である。そのうえ不意打ちでは抵抗のしようもない。ミュートは胸を強打し、潰れた肺から苦悶の息を漏らす。

「がッ……てめえ! 何しやがるこのッ……」

 必死の抗議は強引に中断させられた。ボスボラスの指がミュートの首根っこを鷲掴みにし、万力のように締め上げながら乱暴に床へ押し付けたのだ。

「おおっと! 黙ってろよ旦那ァ。特に呪文なんかはいけねェ……こんな細首1秒で()し折れるんだからな」

「馬鹿野郎ッ! なんで……おれが何したってんだ!」

「さてもさても(にぶ)い男よ。この期に及んで(しら)を切るとは!」

 会心の笑みを浮かべつつ歩み寄ってくるのは魔貴公爵ギーツ。勇者にやられて半べそかいていたのと同一人物とは思えぬ堂々たる物腰で、ミュートの眼前に仁王立ちする。

死術士(ネクロマンサー)ミュート! 我が軍の情報を勇者へ漏洩した内通疑惑によって、貴様を拘束する!」

「はァァァァ!? 内通だァァァッ!?

 寝言は寝て言えボンクラがァ!!」

「確たる証拠はここにある! 覚えがあろう、このミミズののたくったような汚い字! 明らかに貴様の書いた密書だ、四天王ミュート……否、シュヴェーア討竜中隊副長ナダムよ!」

「あ……!?」

 ミュートの背筋が怖気(おぞけ)だつ。その名。この腐れた身体になり果てた時に棄てた美しい思い出の中の名前。それをヴィッシュ以外の男がこうも気安く呼び捨てる。なぜギーツが“ナダム”の名を知っている? この状況はなんだ? 何が起きた? それにあの書状は……魔貴公爵ギーツが勝ち誇って突きつけてくる、あのあからさまな偽造の密書は!

 ミュートは押さえつけられた首をどうにか傾け、奥の魔王へ目を向けた。魔王は今や固く眼を閉じ、疲れ果てた身体を玉座に沈めている。この事態に何も言わない……

 いや。言えないのだ。口を挟むわけにはいかないのだ。なぜなら、既にギーツ派が魔王軍を掌握しているからだ!

 ようやく彼は事態を悟った。どういう推移でかまでは分からないが、ミュートへの内通疑惑はもう魔王軍全体の共通認識となっているのだ。無論、冤罪(えんざい)である。魔王にそれが分からぬはずはない。だが今ここでミュートを(かば)えば、あるいは力ずくでギーツたちを黙らせれば、魔王軍の大部分を占める魔族勢力の士気は谷底まで転がり落ちる。離反者も出る。最悪の場合は魔王軍そのものが空中分解しかねない。ゆえに魔王はミュートの無実を確信しながら身動きがとれないのだ。

 完全な手詰まり。全く気付かぬうちに最悪の状況に追い込まれてしまった。これは間違いなく、()()()が人間関係の隙間へ打ち込んだ(くさび)

 ――やりやがったなヴィッシュ(あのヤロウ)!?

 

 

   *

 

 

「魔王軍の致命的な弱点。

 それは仲が悪いってことさ」

 緋女と水入らずで束の間の安らぎを味わっていたあの夜、ヴィッシュはそう言って得意げに笑ってみせた。緋女は恋人の胸に頬を乗せ、目をきらきらと輝かせて、彼の言葉に聞き惚れている。

「そもそも魔王と企業(コープス)は対立関係。竜人ボスボラスは造反の前科持ち。魔王とミュートは『つう』『かあ』の仲でも、魔族連中はミュートを心底嫌ってる。あいつ昔っから()()だからな……自分より格下と見るととたんに当たりがキツくなるんだ。だから魔族のプライドはガタガタになるし、反動で異人種や鬼兵たちを見下し始めればそっちからも反発が湧いてくる。これだけの軋轢を魔王ひとりの存在感で強引にまとめ上げてるのが今の魔王軍なんだ。

 まあ自業自得だよ。『力こそ正義、強い奴は何してもいい』……そんな触れ込みで募集をかければ、腕ずくで他人を()じ伏せようっていう乱暴者ばっかり寄ってくるに決まってる。

 そこへさらに、独裁の構造的欠陥も影響し始める」

「こうぞうてきけっかん」

「二番手争い。

 独裁政権はトップのカリスマで成り立つが、全ての仕事をひとりでこなせるほど国家経営は楽じゃない。だから実務に()けたナンバー2が補佐を受け持ち、必然的に権力を握ることになる。

 となると周りは黙っちゃいないよな。『魔王様はあいつをひいきしてる』『あいつは魔王様の寵愛をかさに着て強権を振るってる』そんな不満が湧いてくる。目立たない所から小さな権力争いが起き始め、正当性を主張するために独裁者個人崇拝の深さを競い合うようになり、それが徐々にエスカレートして、気付いた時には組織が派閥でまっぷたつ。

 独裁者だって内輪もめは止めたいが、それも簡単なことじゃない。なぜなら、ひとつの派閥を助けることは自動的に別派閥への攻撃になり、最悪の場合は組織全体の崩壊に繋がっちまうからだ。こうして不平不満と抗争を調整しきれなくなれば、保身と不信に支配された各派閥は完全に連携を失い、士気は地に落ちて、トップからの勅命がない限り誰も何もしようとしない組織ができあがる!

 独裁ってのは最終的に必ずこうなるのさ。魔王軍ももうその直前まで来てる。俺たちは、その(かなめ)となる人物を、ちょいとつついてやればいいんだ」

「魔王軍の(かなめ)……魔王?」

「いいや」

死術士(ネクロマンサー)ミュート?」

「違うんだな、これが」

「じゃあ、コープスマン? 竜人ボスボラス? まさか鬼のナギ?」

「全部はずれ。

 正解は? だらららららっジャーン! 魔貴公爵ギーツだ!」

「えぇー? あいつゥー?」

「と、魔王もミュートも思ってるのが狙い目だ。考えてもみろ、第2ベンズバレン攻略戦のとき、ギーツは軍司令としてとことん無能だったろ。なのになぜあれほどの高い地位に収まっていたか? それは、別の側面では極めて有能な男だからだ。

 政治力! 魔貴公爵ギーツはひとを集めて派閥を形成するのが抜群に上手い。典型的な調整型の政治家、治世の能臣だな。いつ空中分解してもおかしくない魔王軍がまがりなりにも軍隊の形を保ってるのは、ギーツが個人的に魔王に心酔し、そのギーツを他の魔貴族(マグス・ノーブル)が信頼してるからなのさ。

 高潔、素直、天性のおひとよしって性格も、合戦場では欠点だがひと付き合いではむしろ美点。そのうえ人一倍正義感が強いから、内通疑惑には絶対喰いついてくる。あとはいくつか証拠らしきものさえ用意してやれば、あっという間に根回しを済ませてミュート排斥に動き出してくれる。

 いったん(かなめ)がグラつきだせば、魔王軍は一気に崩壊へ向かう。もう誰にも止められはしない……魔王自身にさえな」

 

 

   *

 

 

 ――クソッ! 完全にハメられた!

 歯噛みしても後の祭りである。

 ミュートに対する離間の計など、本来なら成功するはずがなかった。魔王クルステスラは彼を深く信頼しているし、こんな見え透いた計略にはまるような愚物でもないのだ。

 だが魔王の下に蠢く幹部たちなら御しやすい。権力欲に駆られた魔貴族(マグス・ノーブル)たちはミュートの排除を虎視眈々狙っていたのだし、竜人ボスボラスも権力の階段をひとつ登れるなら喜んで同調するだろう。常に安全圏から作り笑顔で事態を見守っているコープスマンとて、魔王を操る上でミュートを邪魔者と見ていたかもしれない。

 要するに、この場の全員の利害が一致してしまったのだ。

 この状況ではもう魔王すらミュートを庇えない。庇えば魔王軍に決定的な亀裂が走る。ミュートを取るか、魔王軍の残りすべてを取るか……この2択なら、答えは当然、決まっている。

「さあ魔王様! この裏切り者に公正なる裁きを!」

 魔貴公爵ギーツは芝居がかった仕草で腕を振り上げ、己の存在を誇示するかのように玉座をかえりみた。

 魔王は、しばし黙し……

 その後、石のように重いまぶたを持ち上げ、立ち上がった。

「四天王筆頭、死術士(ネクロマンサー)ミュートよ。

 魔王軍全軍の裁量権を、僕はひとり、君に(ゆだ)ねた。

 ならばこれは君の仕事だ。裁くがいい。君を、君自身の良心によって」

 奇妙な命令。ミュートに対する刑罰を、ミュート自身に決めよというのだ。魔族たちにざわめきが起きる。魔王の静かな、しかし濁った視線が、ミュートの熱を帯びたそれと交わる。

 ――オーケイ、大将。分かってる。

 ミュートは苦笑し、目を伏せた。

「手ェ放せ、ボスボラス。てめえ相手じゃどうせ逃げられやしねえだろうが」

「ま、そりゃな」

 竜人が鼻で笑いながら手を離す。ミュートは衣服の埃を払いながら立ち上がる。

「四天王ミュートが被告ミュートに判決を言い渡す。

 内通疑惑ありといえども物証は偽造が容易な書状のみでもあり確実ではない。しかし内通の可能性を放置すれば今後の悪影響は計り知れない。よってミュートから全ての身分と権限を剥奪、地下抗魔牢へ無期限禁獄処分とする」

 弥増(いやま)すざわめきを、魔王の一声が制した。

「慎め」

 水を打ったように静まり返る魔族たち。魔貴公爵ギーツへ投げかけられた魔王の声は、さながら氷の刃のよう。

「判決は下された。異論はあるまいね、魔貴公爵ギーツ?」

「は……ございません」

「では連行せよ。

 ミュート退任後の軍統括は、魔貴公爵ギーツ、竜剣のボスボラス、奇貨のコープスマン、以上3者の合議で執り行え」

 後ろ手に縛られ、呪文封じの(くつわ)を噛まされ、兵卒たちに引かれていくミュート。彼は去り際、ひととき魔王と視線を絡め合った。それだけで互いの意思は充分に伝わる。

 ――気付いてるよな、大将?

 ――ああ、気付いてる。

 ――偽造とはいえ、あの密書は内部情報に精通していなければ書き得ない代物だ。つまり……

 ――本物の間諜(スパイ)が他にいる!

 ふたりのこの洞察は正しい。魔王城には、5ヶ月も前……魔王軍の旗挙げ直後にはすでに間諜が入り込んでいたのである。魔王をはじめ熟練の術士がひしめき合っているこの魔王城で、全く感付かれることなく5ヶ月も潜伏し続けたとは信じがたいことだ。しかしこの困難な任務を成し遂げられる人物がひとりいる。

 亡霊射手ドックス。ヴィッシュの後輩の狩人で、魔物に取り憑かれた後遺症によって存在感が極めて希薄になってしまった男。彼はヴィッシュの依頼によって魔王城に潜入し、以来ずっと抵抗軍(レジスタンス)に魔王軍の情勢を報告し続けていたのである。

 話にならないほどの戦力差にも関わらず抵抗軍(レジスタンス)が5ヶ月しぶとく生き残れたのは、彼のもたらした情報によるところが非常に大きい。また先日カジュが魔王城に囚われたときには、その脱出の手助けをもしている。第2ベンズバレン解放戦の大勝利も彼の功績があったればこそである。

 ――だが、おそらくはもう……

 ――安全圏に逃げた後、だろうね……

 ミュートと魔王の推察通り、ドッグスは数日前に魔王城から脱出済である。今回の謀略で間諜の存在を察知されると見越したヴィッシュの指示だ。今ごろは第2ベンズバレンに到着し、長期にわたる多大な貢献を皆から賞賛されているところだろう。

 ――何もかもあいつの手のひらの上! おれとしたことが!

 ミュートは敗北の苦味を噛み締めながら、地下牢に引かれていった。ここには対術士用の特別牢が用意されている。壁にも格子にも《警報》と《術式塞ぎ》の術式がびっしりと張り巡らされている。囚人が魔術での脱獄を(くわだ)てたなら、《術式塞ぎ》で術の発動を遅延させ、その間に城中へ《警報》が鳴り響く仕組みである。高位の術士を収監するためにミュートが考案したこの特別牢へ、まさか彼自身が押し込められることになろうとは。

 ミュートは自らの足で地下牢に入り、恐ろしく冷えた石の床へ、一文字に唇結んで座り込んだ。

 一方彼のはるか頭上においては、魔王が疲れ切った身体を玉座へ沈めていた。全身を包み込むように柔らかく居心地良いはずの玉座が、今の魔王には氷の拷問椅子に思える。(きざはし)の下を見下ろせば、今後の方針について侃々諤々(かんかんがくがく)議論を交わす幹部たち。彼らの熱を帯びた言葉は、早くも互いをあげつらう個人攻撃に――単なる政争の具に()しつつある。

 いなくなってしまった。

 魔王の内心を思いやれる者も、魔王が心情を吐露しうる相手も、ここにはもう、誰も。

 

 

   *

 

 

 城内の政変をよそに、道化のシーファはひとり、つまらなそうに南の空を眺め続けている。

 魔王城の三角屋根の上へ()だるげに座り込み、笑みの張り付いた仮面を寒々しい冬の田園へ向ける。この仮面はシーファの遊び心だ。強すぎるのだ。無敵なのだ。世の中が雑魚ばかりで何の面白みもないのだ。だからのぞき穴も空けていない仮面で視界を塞ぎ、己の力を何百分の一にも制限して戦うことで、無味乾燥な世界にどうにか娯楽を見出そうとしている。そうでもしなければわざわざ生きる意味すら見いだせない……

 シーファにとって、世界とはその程度のものでしかなかった。企業(コープス)の計画にも魔王の理想にも興味はない。美食、芸術、性的快楽や権力の喜び、何もかもどうでもいい。微かに心を動かすものは、遊戯としての戦いのみ。人生などは、しょせん死ぬまでの暇つぶし。

 だが、もしも。

 ()()()()()()、そんな相手がこの世に現れたなら。

 それはシーファにとって、灯りひとつない暗黒の夜空にただひとつ(またた)き始めた鮮烈な明星に等しいものだ。

()だか」

 とん、とシーファは剣の柄を指で叩いた。

()だ来ぬか、緋女」

 

 

(つづく)



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第20話-06 果てしなき世界へと

 

 

 備えよ! 決戦の時は近い!

 死術士(ネクロマンサー)ミュート失脚の事実は勇者ヴィッシュによって大々的に宣伝された。魔王と並んで恐怖の象徴となっていた最側近の脱落に人々は沸き返る。魔王軍は今、混乱の渦中にある。最終決戦を仕掛けるならこの時をおいて他にない! 士気は天を()かんばかりに燃え上がり、出撃へ向けて第2ベンズバレンの全住人が一斉に動き出した。

 編成、訓練、細かな作戦の詰めと打ち合わせなどの軍務ももちろんだが、なんといっても最大の急務は兵糧作りである。戦場においては調理する時間が取れないこともざらにあるし、短期決戦ならばますますそう。ゆえにあらかじめ携帯性に優れた保存食を作り、兵士ひとりひとりに配っておかねばならない。

 メニューはチーズ、岩塩、水筒、そして革袋一杯の二度焼きパン(ビスケット)というところ。どうということのない簡素な品揃えだが、これを10万人分用意するのだから並大抵の仕事ではない。食糧庫からありったけの小麦を運び出し、街中の石臼で粉に()く。それを何千人もの手が一斉にこね、昼夜を問わず燃え続ける(かまど)で焼き締める。老若男女区別なく、動ける者はひとり残らず動員して、とうとう作業場の方が足りなくなれば、路上に煉瓦(れんが)で新しい炉を組み立てる者さえ現れる。

 こういう状況だから、乳飲み子を抱えた若い母親なども感化され、少しでも役立とうと立ち上がる。ビスケット作りの作業場に混ざり、懸命に小麦粉をこねる。だが負ぶった赤子には世間の事情も母の熱意も関係ない。腹が減れば泣き、おしめを濡らせば泣き、何もなくてもとりあえず泣く。周りの女たちは相手が年若いと見るとなめてかかり、子供のぐずりをネタにして嫌ないじめ方をする。

「ちょっとあんた、うるさいじゃないの!」

 そう怒鳴るのは、このパンこね場の頭領のような立場にある中年女だった。ような、というのは、別に頭領などという役職があるわけではないからだ。要は主婦仲間の内で声の大きい者が、なんとなくみんなを仕切るうちにリーダー(づら)をし始めて、いつのまにかそれが定着してしまっただけなのだ。

 ともあれ頭領は片方の眉をぴんと跳ね上げ、若い母親へ唾を散らす勢いでまくしたてた。

「まあ泣くのは仕方ないけどさ、仕事の手がこうたびたび止まるんじゃ、勇者様に申し訳ないだろ。そう思わないの、ええ?」

「すみません、すみません、すぐ済みますから……

 よしよしよし、どうしたの、ミルク飲んだしおしめも替えたばかりでしょ……」

「ちょっと! あっちでやんな! 勇者様の兵糧に汚いのがうつったらどうするの!」

 事あるごとに勇者を都合よく持ち出す、実に卑劣な罵倒である。新参のうえに年若(としわか)で立場の弱い母親は、何も言い返せず台所の隅に縮まってしまう。

 そのとき、いまひとりの女性がずいと進み出て、頭領と母親の間へ割って入った。

貴方(あなた)、お子さんはいらして?」

 頭領の目をじいっと覗きながら静かに問うこの女性、どうやら貴族の出であるらしい。言葉尻にも立ち居振る舞いにも、行き届いた教育の気配がありありと現れている。さっきまで威勢はどこへやら。この貴人の迫力がために、頭領はいっぺんにたじろいでしまった。

「あ、はい、奥様。もう18になりますが……」

「その子があのくらいの歳のころには、貴方も随分、肩身の狭い思いをしたのではございません?」

「まあ、そりゃもう、手のかかるガキでしたから、はい」

「なら同じ苦労を背負(しょ)った母親同士。いがみ合うより助け合う方が気持ちがいいじゃありませんか」

 これでもう頭領は何も言えなくなった。

 若い母親は目を白黒させて、突然現れた救い手を見つめている。と、そこへ10歳ばかりの少年が元気よく駆けてきて、どこかから抱えてきた椅子を彼女の側へそっと()えた。

「ご婦人! どうぞ、おかけください」

 などと、10歳の少年がいっぱしの社交人のような顔をして椅子を勧めてくれる。何倍にも背伸びしたその振る舞いが、他人の目から見ても愛おしくてたまらない。若き母親は小さな紳士の厚意に甘え、丁寧にお辞儀してから椅子に身を落ち着けた。

「まあ、ありがとう」

「当然のことです。かわいいお子さんですね」

 などと赤子を見て頬を緩める少年紳士は、自分自身もどれほど“かわいいお子さん”なのか、全く自覚していない様子だった。

()()()()、こちらへ来て手伝いなさい」

「はい、母様」

 あの貴族の女性が、少年紳士を呼び寄せる。母子だったのだ。ああ、この親にしてこの子あり。若き母親は親子の姿の眩しさに目を細めた。

「まあ……立派なお坊ちゃんですねえ、奥様」

「あら、貴方まで。“奥様”はおやめになって。国も当主も失った没落騎士家に何の値打ちがありましょう。

 私はただ一縷(いちる)の望みをかけてやって来ただけの女。勇者軍の中にひょっとしたら我が夫がいるのではと……馬鹿よね。もうあのひとが生きているはずはないと、とっくに悟ったはずなのに」

「分かりますわ。アタシもねえ、あの活気を見てると、そんな気がしちゃいましてねえ。(やど)も生きてりゃ、さぞ戦いたがっただろうに……」

「……なんだか私たち、似てますわね」

左様(さい)ですねえ」

「私は()()()()()。あなたは?」

「名乗るほどでもございませんけれど、()()()()()と言いまして、しがない飲み屋の給仕女でございます」

「あ!」

 突然、赤子が叫んだ。つい最前までぎゃあぎゃあ泣いていたのが嘘のようにすっきりと泣き止み、今は短い腕を伸ばして、不思議そうにギリアン――()()()()()()()()()小ギリアンを見つめている。小ギリアンは小麦粉をこねる手を止めないよう気を付けながら、ちらちらと赤子を気にしているが、そもそも経験のない仕事に気もそぞろではうまくやれるはずもない。彼の手の中の生地はまとまるどころか乾いてボロボロに崩れだしている。

 くすり、とコンスェラは笑いをこぼした。

「坊ちゃん、抱いてみませんか」

「えっ、良いのですか?」

「お願いします。子守とパンこねを交代しましょ。さ……腕を首の後ろに、頭の重みを支えるようにして……お上手ですよ」

「重いな! 僕はこんなに重いものを持ったことがない!」

 命の重みだ。

 微笑み交わしながら、母親たちは並んで仕事に取り掛かる。小ギリアンが赤子の手のひらをつつくと、赤子は意外なほどの力強さでぎゅっと彼の指を握りしめた。

「君も(てて)無しなら僕の兄弟だぞ。がんばろうな!」

 

 

 第2ベンズバレンが沸いている。さながら街全体が一頭の巨獣となって、活気と情報という血液で動脈を激しく収縮させているかのよう。間近に迫った戦いに向けて、力と気迫をじっと溜め込んでいるかのよう。

 その戦意のうねりをびりびりと素肌に感じながら、しかし緋女は、髪一本さえ揺らすことなく静かに呼吸を整えている。

 石造りの商家の平屋根の上に、太刀をぶら提げて立った緋女。その目は前を見るでもなく、奥を見るでもなく、ぼんやりと、四方八方現在過去未来を別の()()()から俯瞰するかに見える。

 と、光が飛んだ。カジュの《発光》だ。前後2方向から唐突な挟み撃ちを仕掛けてきた光を、緋女の炎剣が目にも止まらぬ早業で切り落とす。次は右。さらに左。と見せかけ意表をついて足元から。だがどれほど巧みなフェイントも、三昧(サマーディ)の境地に没入した今の緋女には通じない。彼女には戦場のあらゆる動きが見えている。見えてしまえば、鍛え抜かれた足捌(あしさば)きと体捌(たいさば)きでどうとでも処理できる。ひとの域を超えた脚力によって瞬間的な最高速度は音速を超え、周囲に爆音と衝撃波を撒き散らしながらあらゆる攻撃を避け、弾き、あるいは()き斬っていく。

 そこへ、

「とどめっ。」

 とばかりにカジュが生み出したのは、実に50近い数の《発光》。それが全方位から一斉に、いや厄介なことに微妙にタイミングと軌道を変えながら、ひとり緋女めがけて殺到する。

 炸裂した光が辺りを真っ白に染め上げて……

 閃光が収まった後そこにあったのは、どこか遠くをじっと睨んで炎を揺らめかせ続ける緋女と、仏頂面で胡坐(あぐら)をかくカジュの姿であった。

 緋女は燃える太刀を口元まで持ち上げ、その火をフッと吹き消した。そしてカジュへにっぱりと破顔する。

「いえーい! 全撃破ァー! あたしの勝ちィー!」

「うっさいな。見たら分かるよ。」

「な? 腕上げたろ? 強くなったろー、ほめて?」

「あーすごいすごい。隠し芸感覚で音速突破しないでよねまったく……。」

 ぷうっと頬を膨らませ、カジュは大通りの方へ顔をそむけてしまった。まあ、本当に腹を立てているわけではない。ふたりは訓練がてらゲームをしていたのだ。《発光》を身体に当てられたらカジュの勝ち、全部避けきったら緋女の勝ち。負ければそれなりに悔しくもあるが、しょせんは他愛もない遊戯でのことだ。

 緋女はそのままカジュのそばで素振りを始めた。鋭く唸る風切り音。音楽的に耳心地良いそれを聞きながら、カジュは屋根の縁に両腕を敷き、その上に頬を寝かせて、大通りの人ごみを見下ろした。

 カジュの視線の先には、太陽を浴びてまばゆく輝く勇者ヴィッシュの甲冑姿がある。このところ彼はほとんど休む暇もなく街中を駆け回っている。将たちとの打ち合わせ。兵の士気の鼓舞。さらには兵糧作りに従事する主婦たちに混ざって激励がてら仕事を手伝いまで。

 ヴィッシュがカジュの目に気付いた。カジュが屋根の上から手を振ってやると、ヴィッシュは力強く親指立ててそれに応える。いきいきと躍動する勇者の姿。この多忙が嬉しくてたまらない、という顔に見える。

 見えるが、そんなわけはない。

 無理しているのだ。

 ほんとうは日陰の生き物なのだ。彼も、カジュと同じように。

 ヴィッシュの才覚は、ひとの上に立つときに最も色濃く発揮される。カジュや緋女はそれを身をもって知っているし、コバヤシはそれがために一匹狼だった彼にチームを組ませたがった。亡霊射手ドックスも彼を深く慕い、死術士(ネクロマンサー)ミュート――かつてのナダムは、誰より早くヴィッシュの力を見抜いていたからこそ彼を騎士に推した。

 それなのに、ヴィッシュ自身はいつだって孤独志向なのだ。寂しがりなのに他人が嫌いなのだ。心を許したわずかな相手にはやりすぎなほどに自分を晒す一方、それ以外の者からは十歩も百歩も身を引いてしまうのだ。

 ――才能と性格の不一致。辛いよね、そういうのも。

 おそらく今のヴィッシュは、多くの人々の命運をその手に(ゆだ)ねられたことでひどく苦しんでいるはずだ。岩山のように重い責任に()し潰されそうになっているはずだ。威勢のいい言動は重圧を跳ね返すための強がりなのだ。

 これまでなんとなく感じてはいた彼の心理だが、はっきりと言語化できたのはつい最近。1年一緒に暮らして、ヴィッシュのことはなんでも分かっている気になっていた。だがこうして、今も毎日のように新たな側面が見えてくる。良きにつけ、()しきにつけ、共に過ごした時間の分だけ発見がある。多分それが、ひとと付き合っていくということなのだろう。

 ()()()を、いついつまでも、共に歩み続けることだけが――

「緋女ちゃん。」

「んー?」

「これで最後かもね。こんなふうに、一緒にいられるのは。」

 緋女の太刀が、音を立てて空を裂いた。

「……かもな」

「なんっかさー。」

 カジュはごろんと仰向けに転がり、冬の色あせた空を眺めあげた。短いのも、長いのも、並んで横たわる数え切れないほどのすじ雲。その果ては、ちょっとここからでは見えそうもない。

「もっと色々やりたかったなあ。

 おしゃべりしたり。

 遊んだり。

 仕事したり。

 ケンカしたり。

 一通りアレコレやったと思うけど。」

 どうせ見えないから、腕で目の前を覆ってしまう。

「ぜんぜん足りないや。これっぽっちじゃ。」

 ひゅん。

 と緋女は太刀を翻し、鞘に納めた。

「師匠ン()いく途中でクスタ通ったんだよね」

「あん。」

「あの国、夏は海で泳ぐんだぜ。“水着”つってェ、海入る専用の服あって。こんーな! こんーな! すんげェー露出度で! みんなでばちゃばちゃキャーキャーやんの。潜ったり魚とったり、砂浜でバーベキューしたりさあ」

「かわった風習だねえ。おもろそうじゃん。」

「行こ? 今度の夏。3人で」

 カジュが半目で親友を見上げながら身を起こす。

「赤くなるんだよ、日焼けすると。」

「いいじゃん。たまには」

 不意に吹き抜ける冬の風。風に乗って街中から届く雑踏の喧噪。喧噪の中に時折混じる子供の嬌声、馬蹄の響き。馬車を追ううちに港からこんな奥まで迷い込んでしまった海猫(うみねこ)が、カジュの隣にチョンと留まる。海猫(うみねこ)はカジュと視線を絡め、小首を傾げ、何かとても大切なものを忘れてきてしまった、とでも言わんばかりに、空高く羽ばたいて風の中へ溶け込んでいく。

「……まあね。」

 カジュは立ち上がり、指先に《発光》の輝きを灯した。

「もう1戦どっすか。」

「よっしゃ来いやァ!!」

 

 

(つづく)



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第20話-07 殺意

 

 

「どうにもならん」

 ついに月まで昇り始め、夢見人(ゆめみびと)は下腹を掻き回されるような恋慕の苦痛に嘆息した。隣の者はなにもかも諦めきった顔でうなずく。

「そうかもな。わしらにできることは何もない……今に始まったことじゃあないが」

 その場にひしめく百あまりもの夢見人たちの間に、愁嘆は疫病の如く広がっていく。

 魔王城内の中庭で、彼らはもう、丸5日余りも魔王の訪れを待ち続けている。過日カジュが目撃したあの奇妙な“儀式”のためにだ。夢見人の中から毎日1人が選ばれ、魔王に《融合》する神秘の儀式……意志も肉体も持たない純粋なエネルギーと化して()()()()()()の中へ融け込めば、苦しみも不安も消滅する。そのうえなんの取り柄もない自分たちが、魔力の源として魔王の役に立てるのだ。とうの昔に現世への希望を失くした夢見人にとって、これが唯一の心のよりどころなのだった。

 だが、死術士(ネクロマンサー)ミュートが失脚したあの日を境に、魔王はふつりと姿を見せなくなった。

 夢見人はこの庭に集まり魔王を待った。朝は空の白み始めるころから、夜はとっぷりと日の暮れて鼻先も見えぬような真っ暗闇に包まれるまで。夜中は見張りを立てて交代で眠る。食事は係を決めて取りに行かせる。いつなんどき魔王が現れてもよいように細心の注意を払って待つこと1日、2日。魔王は来ない。5日が過ぎた。今日も来ない。

 それでも夢見人は諦めなかった。常人には考えられぬほどの辛抱強さで、ひたすら魔王の到来を願い続けた。心と体が歪みきり、もはやひととして世界に受け入れてもらえなくなった夢見人は、その代わりにか、ひたむきな――見ようによっては愚かとすら言えるほどの――信仰を得るに至ったのだった。

 それなのに、魔王は来ない。夢見人たちの祈りに応えてはくれない。誰かが消え入りそうな声で不安を漏らす。

「なあ……このままでいいのかな」

「魔王様を心待ちにする以外、俺たちにできることがあるか?」

「いや……ない」

「なのにどうして魔王様は来てくださらないのだろう」

 夢見人たちがざわつきだした。確たる情報がない時には、つい憶測に頼ってしまうのが人情というもの。誰も彼も千差万別の異形をした者どもが、それぞれの口を――ひとつずつとは限らないが――働かせ、次々に妄想をさえずり始める。

「俺たちが嫌いになったのかな」

「あり得る話だが」

「私たち、また見捨てられたのかな……」

「いや、そこは魔王様を信じようよ」

「あんなにお優しかったじゃないか」

「この世でただひとり、わしらをひととして扱ってくれたじゃないか……」

「じゃあ病気?」

「魔王様が病気なんかに負けるもんか」

「私達のことが嫌いになったんだ」

「違うってのに」

「きっかけは別にある」

「ミュート様が牢に囚われてからだ」

「あたし、あのひと、嫌い。ばかにするもの」

「賢いおひとだから魔王様が頼りにもするんだろ」

「そんなら不安なんだ」

「どうして?」

「友達がいなくなったから……」

 ひた、と夢見人たちが口をつぐむ。一瞬の後、(せき)を切ったように反論が巻き起こった。

「まさか! 俺たちじゃあるまいし」

「魔王様はすごいんだ!」

「不安なんてあるもんか」

「そうだろうか」

「でも、たとえ魔王様だって、大切なひとを()くしたら……」

「辛かろうな」

「寂しいんだ」

「ねえ……私達で……寂しさを埋め合わせてさしあげられる?」

「無理だよ……」

「くそつまらない人間だもの」

「何も創れない」

「何も働けない」

「若くもない」

「裸だって、見て面白いものじゃない」

「俺たちにできることは、ただ食って、蠢き、(くそ)()ることだけ」

「なあ、誰かひとりくらい、何かできるんじゃないか? ひとを楽しませることが」

「できないよ」

「歌も、踊りも、楽器も、絵も、彫刻も、物語も、夜伽も、遊戯も、なにも」

「誰もできない……」

 濃霧のように立ち込める諦観。絶望のみに支配された静寂。

 だがそのとき、ひとりの夢見人が声を上げた。

「いや。できるかもしれん」

 一同の目が彼に注ぐ。彼はおそろしく太った、手も足もない肉の玉のような姿の男だった。芸事(げいごと)を身に着けているようには到底(とうてい)見えない。彼の(なり)を見て他の夢見人が舌を打つ。

「ちっ。でまかせを」

「そんな気の利いたやつがいるもんかい」

「いや、いや、まあ聞けよ。ひと月ほど前だ。俺はその夜、急に死にたくなって、でも死ぬのが怖くて、城壁のすみっこの植木の裏に丸まって、どうしようもなくて泣いていた」

「そんなのはいつものことだ」

「ところがその夜は違ったんだ。歌が聞こえてきたんだよ」

「歌……?」

「詩人さ。どこかで歌ってたんだ。すごい歌だった。その歌を聞いてると、俺ァ、死にたいって気持ちがすうーっと楽になっていって……歌が終わるころには涙が止まってたんだ。信じられるか? 夜通し泣かずに済んだんだぜ。歌は城壁の外から聞こえてるようだった」

「それで、どうした」

「行ったね。門番に拝み倒して外へ出て、詩人を探した。こんな身体だから通りを()いずるのは簡単じゃなかったけど、そのとき歌の続きが聞こえ始めたんで、どうにか声の主に会うことができたんだ。

 見れば、片足のちょん切れたボロ雑巾みたいな男が、四ツ辻の(すみ)に座って歌ってるじゃないか。おかしなもんだね、あんな汚い男があんな綺麗な声を出せるんだから」

「わしらの同類かな……?」

「あるいは少なくとも、同類に近いやつ」

「それで? それで?」

「俺は言ったね。『もっと歌ってくれ』と。

 詩人はぼんやりと笑って答えた。『歌は薬であり、毒でもある。いちどきに多くを聴きすぎれば心と体を害しましょう』

 そこで俺は抜け目なく頼んだよ。『じゃあ、今度また歌ってくれるかい』」

「詩人はなんて言ったんだ?」

「『真に歌を必要とする者があれば、必ず』」

「真に歌を必要とする者……?」

 夢見人たちが顔を見合わせる。

「魔王様だ!」

 

 

   *

 

 

 幼稚である。何十万の手下を抱え、身内のエゴの相克と外敵の容赦ない侵略に苦悩する魔王を、歌で癒やしてあげようなどと!

 だが、これが夢見人たちにできる最大限の思いやりであるというのも、また確かな事実だった。

 かくして夢見人たちは魔都へ繰り出し、手分けして詩人を探し始めた。容易なことではない。なにしろ全員が例外なく化け物じみた異形である。それが徒党を組んで街を練り歩けば百鬼夜行の様相を呈す。住人たちは震え上がる。詩人の行方を尋ねようにも人間は出会ったそばから悲鳴をあげて逃げてしまう。追えばますます心証は悪化する。家の戸を叩いても返事さえもらえない。

 さらに、魔都の警邏(けいら)にあたっている魔族や鬼兵などは夢見人を心底見下しているから、顔を合わせれば殴られる。蹴られる。夢見人が魔王にかわいがられていることは周知の事実で、城内にいれば迫害を受けることもなかったが、一歩門の外に出れば話は別なのだ。

 しかし、それがなんであろう。

 暴力。侮辱。いわれのない差別。そんなものには飽き飽きするほど出くわしてきた。他人の横暴には慣れている。(こら)えかたなら知っている。孤独であれば痛みに耐えかね自死すら選んだかもしれないが、今の夢見人たちはひとりではない。胸に大切なひとがいる。

 魔王。

 魔王様のためと思い定めれば、苦しさも、悔しさも、痛くはあれど、怖くはない。

 夢見人の気迫が天に通じたのだろうか。連日連夜の徘徊が、ついに実を結んだ。魔都のはずれの貧民街を探っていた夢見人――6本の脚を持つ()せた女――が、(くだん)の詩人を探し当てたのだ。

 詩人は倒壊寸前のあばら家で、みすぼらしい身なりの子供たちへ、冒険叙事詩を歌い聞かせているところだった。小ぶりの琵琶(リュート)が奏でる勇ましい旋律に乗せて、詩人の口から溢れ出る英雄の(いさおし)。名もなき竜殺しの英雄が邪竜シュヴに単身挑み、姫君をその手で救い出して、シュヴェーア建国帝へと成り上がる、血湧き肉踊る冒険活劇。

 夢見人が()()()()()()脚を蠢かせながら現れたのは、ちょうど“狂気の森”の怪物が主人公に襲いかかってくる段を歌っているときだった。ただでさえおどろおどろしいシーンに没入していたところへ、この奇っ怪な闖入者(ちんにゅうしゃ)。子供たちは驚く。恐れる。金切り声を上げて泣きわめく。最も年上の勇敢な少年は、とっさに木の棒を掴んで夢見人へと打ちかかる。

「痛い。あ、痛」

 夢見人は腕で頭を(かば)いながら丸まった。抵抗の素振りも見せない彼女を見て、詩人が子供たちを手で制した。

「おやめなさい。どうも敵ではないらしい」

 少年は殴るのをやめなかった。身を焦がすような熱い憎悪が彼を支配していた。詩人が目配せすると、周りの子供たちが背中から羽交い絞めにして少年を止めた。それでもまだ少年は荒く鼻息を吹き、(いまし)めを逃れようともがきながら、「化物! 死ね化物! お前らのせいでエリーは……」と唾を散らしている。

 詩人は苦悩を深く眉間に刻み、杖なしでは立ち上がれぬ不具の身をずり動かして、夢見人へ近寄って行った。

「ご無礼を。

 しかし、無用の争いを求めに来るものではない。親兄弟を皆殺しにされた子供たちの気持ちを思えば、あなたをこうして(かば)うことも悩ましいのだ」

「ええ、ええ……よく分かります。あたしも殺されました。誰も彼も、人間どもに……」

 少年がわめくのをやめた。まだ棒を手放してはいない。唇も一文字に結んだままだ。だが憎悪に燃えていた彼の目には、確かな困惑の雲が湧き始めていた。

 夢見人は顔を上げた。そして詩人の手を握り、伏し拝むようにして懇願した。

「無理は承知でお願いします。歌を、歌を聞かせてくださいませ」

「君にかね」

「あたしなどはよいのです。どうとでも生きていけるし、いけなくても、そのときはそのときです。

 でも、あなたのお歌を、心底必要としておられるかたがいらっしゃるのです。そのかたは太陽。わたしどもの黒い太陽でございます。人間たちが空のましろな太陽を必要とするように。魔物たちが夜更けのまっくら闇を必要とするように。夢を見るように生きるわたしどもには、黒く燃える太陽が必要なのでございます」

 詩人はしばしの沈黙ののち、夢見人の真摯な目をじっと(のぞ)き込み、問うた。

「その者の名は」

 夢見人は答える。畏怖に震えながら。

「魔王、クルステスラ」

 

 

   *

 

 

 あくる朝。紛糾する朝議の場に、くたびれ果てた魔王の姿があった。

 玉座の左右を埋める魔貴族(マグス・ノーブル)たち。その最前線に立った魔貴公爵ギーツが頭ごなしに指示を飛ばし、竜人ボスボラスが鼻をほじりながら拒絶する。不遜な態度に苛立って徐々に白熱していくギーツ公をコープスマンがなだめるが、ボスボラスが絶妙なタイミングで憎まれ口を挟むから揉めるばかりで何も決まらない。

 とにかく思い通りにことを運びたいギーツ公と、それをおちょくって遊んでいるだけのボスボラス。ミュートという支柱を失って以来、朝議はいつもこの調子であった。魔王も相当うんざりしていると見え、最近は鶴の一声で何もかも結論を下してしまう。だがそうして細かな実務に関われば関わるほど、もっと重要な仕事――いよいよ完成間近となった“真竜(ドラゴン)”の仕上げ――に注ぐ時間が奪われる。その苛立ちを顔に出すような魔王ではなかったが、皮膚から漂いでる徒労感はごまかしようもない。

 事件が起きたのはそんな朝のことだった。さまざまな思惑が絡み合って煮え立つ鍋の如くなった会議の中で魔王がじっと(もだ)していると、外から騒ぎが漏れ聞こえてきたのだ。

 一体何の声であろう。祝祭の神輿(みこし)担ぎか何かのような、威勢の良い掛け声がだんだんに近づいてくる。と、不意に玉座の間の扉が開け放たれ、見張りの魔族兵を人波で押し流すようにして、ぞろぞろと夢見人たちが雪崩れ込んできた。

 これを見て刃物のように鋭く目尻を吊り上げたのは、魔貴公爵ギーツである。

「何事か! 恐れ多くも玉座の御前で騒々しい!」

 しかし、恐れおののいて床にひれ伏す夢見人を目にすると、魔王はむしろ安堵したように頬を緩めた。

「構わないよ」

「はっ? はあ、左様で……」

「でも、あまり会議の邪魔をするのも良くないな。僕に用があるのかい、夢見人たち」

「は、はは、はいっ」

 肉玉の夢見人が震えた声で答える。彼は最初に案を出した功績によって、皆を代表して魔王に奏上する大役を勝ち取ったのである。

「ああ魔王様! すばらしい魔王様! 偉大なる偉大なる偉大なる、ついでにもひとつ偉大なるおかた! 俺たちは、えー、そのう……」

「おい、がんばれよ」

「はっきり言えっ」

「うるっせえな、今やってるだろっ」

 仲間たちの応援だか茶々だかを小声で一喝し、咳払いなど挟んで肉玉は続ける。

「ええ、そのですね、考えました」

「何をだい?」

「はあ、魔王様はなんで来てくださらなくなったかと……それはきっと、心が疲れておられるんだろうと……はい。それで話し合いまして。どうにかお元気を取り戻していただけんものかと、ささやかな贈り物を……あの、ご迷惑でなけりゃあなんですが……」

 魔王はそっと目を閉じた。

 魔貴公爵ギーツは険しい顔で眉間を揉んでいる。コープスマンは無関心に肩をすくめ、竜人ボスボラスなどはまともに失笑さえしている。

 しかし魔王だけは、違う。面倒極まりない現状。暑苦しい幹部たちの軋轢。乱立する醜いエゴを王として御するために冷たく凍りつかせていた彼の胸が、じわりと融け始めていた。細く眼を開いた魔王の顔にはもう、夢見人たちにいつも見せていたあの慈愛が蘇っている。

「迷惑などと、なぜ思うだろう。

 君たちの心尽(こころづ)くしを嬉しくいただくよ。何を用意してくれたんだい?」

 平伏する夢見人たちの中に、歓喜のざわめきが波のように広がる。肉玉は転がりだしそうなほどに胸をそっくり返らして声をうわずらせた。

「ああよかった! いえね、物じゃないんです、ひとなんです。連れてきたんですよ。魔都でいちばんの、いやたぶん、世界で一番の詩人なんじゃないですかね。なんせ俺らは世界中からの寄せ集めでしょう。なのに誰も、このおひとほどの歌い手は知らねえと言いますもんで。

 おい、いいってよ! お連れしろ!」

 夢見人の群れが左右に割れる。彼らが空けた道を通り、詩人は(にじ)み出るように姿を現した。泥そのもののように汚れた衣服。歩むたびに頼りなく左右へぐらつく身体。失った片足の代わりに床へ突く杖が、奇妙に音楽的な響きを広間に満たす。路傍の塵芥を思わせるみすぼらしい姿に、不釣り合いな琵琶(リュート)の流線美ばかりが際立って見える。

 (きざはし)の前まで進み出ると、詩人は半ば倒れ込むようにして膝を折った。

(おもて)を上げよ」

 (うなが)されるままに身を起こす詩人。奇怪な男だった。一介の力なき()()()()でありながら、魔王と魔王軍幹部たちを前にして微塵の怯えも感じさせない。といって敵愾心(てきがいしん)に燃えている風でもない。まるで風が吹けば稲穂がざわめき、雨が降れば水かさが増す、そうした摂理に従って動き続ける自然の事象であるかのように、淡々とひれ伏し、淡々と顔を上げる。その目はぼんやりと宙を捉え、魔王を見るでもなく、といって他所を見るでもなく、まるで、この世界と薄皮一枚を隔てた別の次元から世の諸相を傍観しているかのようだった。

 魔王は悠然と肘をつき、詩人の曖昧な目を探るように見つめ返した。

「名を聞こうか」

「名乗るほどの者でもございません。名もなき辻詩人で結構」

「なるほど。知られざる達人が僕を癒してくれるというわけだね」

 沈黙。いや、躊躇いである。

 詩人は首を巡らし、背後の夢見人たちを盗み見た。誰ひとりとして同じような者のない何百通りもの異形の目が、一様に期待を孕んできらきらと輝いている……

「……お詫びせねばなりませぬ」

「何を?」

「彼らの純真無垢なる想いを踏みにじりました。

 私は、癒しに参ったのではない」

 詩人の眼差(まなざ)しが、このとき初めて生気に燃えた。

「貴方を殺すために来たのだ――魔王クルステスラよ」

 

 

(つづく)



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第20話-08 果てしなき世界から

 

 

 魔族たちに緊張が走る。指先に死の炎を灯し、この身の程知らずへ叩き込まんと身構えた者すらいる。だが彼らの動揺を魔王は腕のひと振りで制した。不穏な静寂の中、魔王は詩人へ凍てついた問を投げかける。

「功名を求めて無謀な戦を挑む男には見えないが?」

 詩人は色を正し、凛然と魔王を見つめ返した。

「貴方から奪い返したいものがある。

 魔王軍四天王、契木(ちぎりぎ)のナギ……私が貴方に打ち勝った暁には、あの子をこちらへ頂戴(ちょうだい)したい」

「何故?」

「かつて共に生きました。親と子、のように」

 その時、脳の中を乱暴に掻き回されたかのような不快感が唐突に詩人を襲った。魔王が詩人の記憶を(のぞ)き込み、魔王に挑戦してまでナギを求める理由を読み取ったのである。魔王が口元に浮かべた表情は嘲笑に他ならない。

「互いの欠落を埋め合わせるように、だろう?」

 しかし詩人は微塵も臆することはなかった。誰に恥じる必要があろう。何を隠す必要があろう。彼は彼の信念によって魔王と対峙しているのだ。

「弦は、谷に張らねば鳴りませぬ。

 笛は、穴を空けねば響きませぬ。

 もとより(うた)は欠落より生じるもの。

 ひとの欠落から走り出て、ひとの欠落へと染み入るもの。

 それは果てしなき世界からの呼び声にございます。

 恐れながら魔王様、貴方も必要としておられるようだ。

 貴方だけに突き立つ、貴方だけの(うた)を」

戯言(ざれごと)だね」

()()()()?」

 今度こそ。

「その小さな胸の内を(うた)の光に暴かれるのが、それほど怖いかと()いている」

 魔王の眼の中に、隠しようもない怒りの火が()いた。

 魔族たちが慄然と硬直する。夢見人たちは険悪な雰囲気に飲まれて震えている。コープスマンは静かに眼鏡のずれを直し、ひとり竜人ボスボラスのみが詩人の度胸を面白がっている。魔王は、底のない深淵を思わせる口を開き、幾百万の悪霊たちが一斉に呪詛を唱えたかの如き声を発した。

「……死を賭す覚悟はあるのだろうね」

(うた)で命を(あがな)う暮らしであった。しくじれば死ぬるは常のこと」

「ならば歌え。

 我が欠落、埋められるものなら埋めてみよ!」

 詩人はもはや一言も(いら)えはしなかった。

 彼は歌い手。ならばその赤心は、ただ(うた)をもって示すのみ。

 胡座にした足の上へ琵琶(リュート)の胴を据え、その弦を、ひとつ、ひとつ、確かめながら爪弾き、詩人は静かに歌い始めた。落ち葉の積もる土壌の下から清浄なる泉が湧き上がるように。夕暮れ時の西の空から、紫がかった夜空がひたひたと歩み寄ってくるように……

 

 

 千早振(ちはやぶ)

 詩神女(うため)(うた)え 声高く

 天は八雲(やくも)の果てまでも

 地は八州の(すえ)までも

 (われ)詩人(うたびと)()(しもべ)

 ()が口 ()が目 ()が指よ

 天に(ばく)されし()に代わり

 いざや(かな)でん いざ(うた)わん

 乞い願わくは 我が舌に

 (うた)(こころ)の宿らんことを……

 

 

 この歌声を、遠く離れた部屋の中で耳ざとく聞きつけた者がいる。

 盲目の鬼娘、四天王ナギである。

 先の戦いでナギは完膚なきまでに敗れた。胸を半ばまで焼き切られる重傷を負い、息絶えるのを待つばかり。しかしその時、ナギはひとりの部下によって窮地を救われたのだった。

 駆けつけたのはコバエという名の小鬼である。コバエは自分の何倍もあるナギの身体を背負い、火に包まれた地獄の戦場から必死の思いで彼女を運び出した。コバエとナギの間にどのような感情があったのか、なぜコバエが我が身を危険に晒してまで彼女を救ったのか、それは誰にも分からない。ともあれふたりは運よく魔族の術士と合流を果たし、その治療によってナギは一命をとりとめたのである。

 だがその日以来、ナギはすっかり変わってしまった。

 あれほどの蛮勇を誇ったナギが。どんな強敵にも恐れることなく喰らいついたナギが。今や恐れを知ってしまった。ナギは傷が平癒してもなお、魔王城内の寝室に引きこもり、一歩も外に出ようとしなかった。四六時中寝床の上で枕を抱いて震え、窓の外でさえずる小鳥にすら怯えるありさま。部屋に入ることを許す相手はひとり、小鬼コバエのみ。彼が世話をしてやらなければ飯を食うこともできないのである。

 そのナギが……今、魔王城天守の玉座の間から漏れ聞こえてきた歌声に反応した。汚れた寝具を跳ね()け、背をぐんと伸ばして耳をそばだてた。そばにいたコバエが異変に気づき、首を傾げている。

「なんだ?」

「うー……」

 ナギはコバエの手を振り払い、喉を逸らして遠吠えした。

「うっう――――っ!!」

 

 

 今は昔

 大気は涙の色に澄み

 土は雪花(せっか)の香に満ち

 (きず)なきことは金剛(アダマス)

 清さ限りを知らぬが(ごと)

 (くに)(ひと)りの王ありき

 

 若かりし頃 かの王は

 民を思い (くに)思い

 (いくさ)挑むこと 幾万度(いくまんたび)

 脇目も振らず 勝ち進み

 (つい)(おこ)したり 理想郷

 

 散るも愛しき 花しぐれ

 風(きよ)らなる 寝待月(ねまちづき)

 色も失せたる 山水に

 積もる白雪 影涼し

 

 王は静けき野に()でて

 民とたわむれ ともに舞う

 民、おお、民は 雪よりも

 白く乾きたる 髑髏(されこうべ)

 

 (そのかみ)

 王は求めき 清浄を

 王は願いき 平穏を

 されど ひとの()る限り

 楽土が得られるはずもなし

 さらば ひとの欲望も

 悪意も我執も滅ぼして

 築いてくれんと思い定めた

 その道の果て この世には

 もはやひとりの 生者ぞ()らぬ

 ()るは乾きたる 髑髏(されこうべ)

 

 王が歌えば 白雪の

 寝床を出よや 骨人形

 王の魔術に 糸操(いとく)られ

 陽気に踊ろ 骨人形

 

 ジグ ジグ ジグ ジ 墓石(はかいし)

 墓穴(ぼけつ)()らぬ 我らには

 墓参(まい)ってくれる朋友(とも)もない

 人類(ひと)の滅びた この世には

 

 ジグ ジグ ジグ ジ 哀しみも

 喜びも()らぬ 我らには

 (かかと)叩いて 踊らば陽気

 生命(いのち)滅びた この世なら

 

 王よ! そなたは孤独にあらず

 見よや 我らがともにある

 ジグ ジグ ジグ ジ 輪になって

 一緒に踊ろ 骨の王

 ジグ ジグ ジグ ジ いつまでも

 手を取り踊ろ 骨の王

 たとえ鶏 高く()

 (あかつき)の時 告げようと

 ジグ ジグ ジグ ジ 永遠に

 ()()()()()() 骨の王――

 

 

 ()()!!

 突如響き渡った強烈な破砕音に、歌が止んだ。

 その場の誰もが、いつのまにか――呼吸(いき)さえ止めて聞き入っていたことに、今、ようやく気付いた。そして理解した。先ほどの音。魔貴公爵ギーツが青ざめながら床に視線を落とせば、一筋のまっすぐな亀裂が広間を両断するように走っている。竜人ボスボラスが戦慄しながら窓の外を見やれば、亀裂の先は遥か城壁を越えて城下町にまで届いている。

 王だ。魔王が、拳を固く握りしめ、その圧倒的な憤怒の魔力によって、()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 あの指が、あとほんの少しでも深く折られていれば――この場の全員が魔王の掌中で圧死していた。

 なのにただひとり、琵琶(リュート)を抱いた詩人のみが、冬風のように冷えた眼で、平然と魔王を睥睨(へいげい)している。

「うっうー!!」

 そのとき、甲高い甘え声を響かせながら乱入してきた者があった。盲目の鬼娘、四天王ナギである。彼女はまるで見えているかの如くまっすぐに詩人へ駆け寄り、彼に背中から抱き着いた。詩人の首に口づけし、腕を絡ませたまま全身を擦り付け、子猫が母猫に甘える、まさにあのやりようで彼に甘えた。詩人はしばらく身じろぎもせず、養女にして恋人たる娘のなすがままに任せていたが、やがて琵琶(リュート)を傍らに置き、ナギの頭をそっと胸に抱き寄せてやった。

 魔王が、宵闇の、地平より湧き出すが如く、立ち上がる。

「……見事だ。褒美を取らせよう」

 詩人の顔色が変わった。血の気の失せた彼の顔面から汗が次々に吹き出し垂れる。動けない。まるで鋼鉄の鎖で縛り上げられたかのように、突如として身体を動かせなくなったのである。魔王の術。魔術の知識がない詩人には何をされたかは分からない……だが魔王の腹の奥からふつふつと湧き上がる怒りだけは感じ取れる。

 詩人の狼狽を見つめながら、一歩、一歩、歩み寄る魔王の、(かんばせ)に浮かんだものは――壮絶な微笑。

()()()()()()()()

 受け取るがいい。君が望んでやまなかったものを」

 魔王の指が、詩人の額に触れた――

 その直後、詩人の絶叫が広間に木霊(こだま)した。突如身体に走った激痛がためにのたうちまわる詩人。その胸や腕に手を触れ、心配して鳴き続けるナギ。

 やがて詩人の、かつてつまらない罪を犯した代償として失った片足、その傷口から――肉の触手が洪水のように溢れ出た。

 足が生えた? いや、違う。足と呼ぶにはつくりが粗雑に過ぎる。骨もなく関節もない肉の紐、それが十本以上も束になって傷口から生えてきただけだ。歩く役にはとうてい立ちそうもないしろもの……それでも神経だけは通っていると見えて、詩人は新たな足からくる()()()()した感触に眉をひそめる。魔王を見上げる。魔王は、目に邪悪の光を(たた)えたまま、じっとこちらを見下ろしている……

 そのとき、ナギが詩人の足に反応した。

 ひく、ひく、鼻を動かして匂いを嗅ぎながら、詩人の新しい脚へと鼻先を寄せていく。「あッ……」思わず詩人が声をあげる。「うー」ナギの口許から()()()()()()()

 次の瞬間、ナギは牙を剥き、素早く詩人の足にかぶりついた。

「ッぎゃああああああああああッ!?」

 苦痛がために詩人が叫ぶ。ナギは恐るべき(あご)の力で彼の足の触手数本を噛み千切り、(ほとばし)る血を浴びるようにして喰らいはじめる。咀嚼し、飲み込み、また喰らいつく。再びの激痛。詩人の絶叫。父の足を喰らう娘。その娘を愛してやまない父。彼らの血みどろの()()()()を、魔王は狂気の笑みで観賞している。

 あっというまにナギは詩人の触手を食べ尽くし、満足げに腹をさすった。詩人は、半ば気を失いかけ、しかしどういうわけか気絶することもできず、ただ恐るべき痛みのみを漫然と受け止めながら、脈打つようにして床に転がっている。

 と、不意に彼は、食い取られた足の傷口に、再び()()()()とした感触を覚えた。驚き見やれば――なんたること!

 足が! 足がまた生えてくる!

 肉の触手が……()()()()()()()()()()()()!?

 戦慄する詩人の前に、魔王が、ちょこんと膝を曲げた。

「かつて君は、人食い鬼のナギと親子として愛し合いながら、互いに傷つけあう結末を恐れて別離を選んだ。

 だがもし、()()()()()()()()()()()があったとしたら?」

「魔王ッ……貴方は……!」

「食われても、噛み切られても、君は死なない。好きなだけ()()()()()()()あげられる。

 なあに、痛いことばかりではないよ。君も彼女の肉体を貪るがいい。彼女だってまんざらではなさそうだし、それに――」

 魔王の視線が動いた。詩人は震えながら首を巡らせ、彼の見る先に目を向けた。ナギが嬉しそうに口を開き、再び詩人の足に唇を寄せようとしている。

「相応の対価は払っているんだからね」

 絶叫。

 美声の詩人の音楽的な苦悶を背中に聞きつつ、魔王は大扉へと歩み寄っていった。夢見人たちは一様に平伏し、自分たちの行為の思いもよらない結果に……目を覆うような残虐な処刑に、歯の根も合わぬほどに震えている。魔王は大股に広間を去った。彼らの怯えの目から逃げ出すかのように……

 いや。事実、逃げ出したのだ。

 ――違う。

 魔王はよろめきながら、城の中をさまよい歩く。どこまでも、どこまでも、果てしなく続くかに思える寒々しい廊下。すがりついた壁は地底から引きずりあげた亡者どもの骨によって成り、手のひらに噛みつくかのように冷たい。魔王は(あえ)ぐ。病とも老いとも無縁の身体を得たはずの彼が、収まることを知らない吐き気がために顔面を蒼白に染め上げている。

 ――僕は、あんなことを望んではいない!

 ほんとうに?

 誰かが()()()()()。魔王を、果てしなき世界の淀みから。

「空と大地の間の()()で、みんなみんな生きてるんだよっ。」

 カジュの声を借り。

「シャキッとしろよ大将! おれはあんたの理想に賭けたんだ」

 ミュートの声を借り。

「どうか我らをお救いください。我らの頼みは、もうただひとり――魔王様!」

 夢見人たちの声を借り。

「きみはまだ知らないだけだ。()()()使()()()()を」

 勇者ソールの声を借り。

 とめどなく、()()()の呼びかけが溢れてくる。

 ――僕は……僕のしていることは……?

 握りしめた拳の中で、爪が己の手のひらを刺す。

 ――僕は一体、()()()()()()()()()()()()()()()()()!?

 

 

   *

 

 

 ――()()()

 ヴィッシュは確信した。

 ミュートの失脚、魔王軍内の軋轢、そして魔王自身の動揺。無数に打ち連ねてきた布石が実を結んだ。この状況を見越して進めていた戦力増強と決戦準備も完了。各地の味方勢力も根気強い交渉の甲斐あって動き出した。

 魔王との直接対決に挑むときが、ついにやってきたのである。

 ヴィッシュはその日、第2ベンズバレン中央広場へ全軍を招集した。仮設の壇の上から群衆を見下ろす。10万を数える英士たちは眼に闘志をみなぎらせ、街中の窓や屋根から見つめる住人たちの肌には希望が色濃く浮かび、彼ら彼女らが巻き起こす歓声は嵐の如く空を駆け巡っている。

 ヴィッシュは手を振り上げた。民衆の声が止んだ。希望の勇者ヴィッシュの声を、全人民が求めている。

「――時は満ちた」

 静かに、波がそっと浜辺へ打ち寄せるように、ヴィッシュは語りだした。

「11年前。

 勇者ソールは魔王を倒し、俺たちみんなを救ってくれた。

 ……何故だ!?」

 民衆にどよめきが起きる。何故? そんなことは――

()()()()()か?

 勇者なら! 英雄なら! 罪もない人々を守って当然! 世界を救って当然!

 ……本当にそうか?

 勇者だってひとりの人間だ。幸せを求め、恐怖に怯え、日々を懸命に生きている人間だ! それが命を賭けて巨悪と戦うことが、本当にあたりまえのことなのか!?

 違う!!

 勇者ソールだって怖かった。

 つらかった。

 俺たちと同じように苦しんでいた!

 それでも彼は、守りたかったんだ!!

 この街の!

 あの村の!

 ひとつひとつの家庭の中の!

 懸命に毎日を生き続ける――」

 ヴィッシュの目尻に煌めくものは、この世のどんな宝石よりも純で美しい、一粒の涙。

()()()()()()()()!!」

 人々が息を飲む。もはや誰ひとりとして疑問を口にする者はなかった。不安をこぼす者はなかった。押し寄せるようなヴィッシュの言葉の迫力に、今、世界が飲み込まれようとしていたのだ。

「そのために勇者ソールは死んだ!!

 なのに俺たちはこのままでいいのか!?

 この美しい国が!

 思い出あふれる街が!

 自分の身体の一部のように愛しく大切な家族と友が!!

 殺されていくのを黙って見ていられるか!?

 俺はできない!!

 ゆえに、俺は勇者になった!!

 君たちはどうだ!?

 もし、君たちが同じ気持ちなら。

 武器を手に取り、戦列に加わり、あるいは、戦いを支えるための働きをしてくれるなら……

 ()()()()()()()!!

 ()()()()()()()()()()()()!!」

 その瞬間、民衆の声が爆発した!

 喉も裂けよ、胸も割れよとばかりに咆哮する十数万の民衆。口々に叫ばれるひとつの意志。「勇者だ!」「私が勇者!」「俺も勇者!」誰もが胸の中にぼんやりと抱えていたやりきれない憧れと諦め――「()()()()()()()()()()()()()」――その諦観の霧が今、ヴィッシュの言葉によって吹き飛ばされた。ヴィッシュひとりの確信は、今や民衆全てに共有された。数え切れぬほどの勇者の群れが、()()()が、ここに真の産声をあげたのである。

「時は満ちた! 決戦の時だ!

 目指すは王都、魔王城!

 狙うは魔王の首ひとつ!

 ()くぞ!

 勇者軍、出陣だ―――――っ!!」

 

 

   *

 

 

「ま……魔王様ァ!」

 転がるように朝議の場へ駆け込んできた魔貴公爵ギーツ。暗雲の如く玉座に身を沈めていた魔王は、その闇色の眼をギーツ公へ向けた。もともと血色の悪いギーツの顔面は、今や完全に血の気を失っている。

「一大事ですッ!」

「勇者が動いた……か?」

「勇者のみではありません!

 北より北部諸侯軍!

 西よりハンザ王国軍!

 東では占領諸都市の一斉反乱!

 南方より来たる勇者軍に呼応して……全方位から人間の軍勢が魔王城へ向け侵攻を開始しましたッ!

 もはや一刻の猶予もなりません! このままでは魔王城は完全に包囲されてしまいます!」

 魔王は細く息を吸い、長く、長く、吐き出した。周辺勢力の一斉決起、これも偶然ではあるまい。勇者ヴィッシュ、彼の手引きだ。おそらく勇者は最初からこれを目標にしていたはず。自分たちの戦力だけでは魔王軍に太刀打ちできないのは明々白々。ならば可能な限り多くの味方を戦に引きずり込まねばならない。だが北部諸侯は魔王によって領土安堵されて沈黙し、東部諸都市にはせいぜい地下抵抗運動程度の勢力しかなく、西の隣国ハンザは漁夫の利を虎視眈々狙いながらも魔王軍を恐れて手をこまねていた。および腰の各勢力を動かすには、実績が要る。勝てるという確信が、利がもぎとれるという目算が要る。

 そのための第2ベンズバレン奪還。

 そのための四天王ミュート失脚。

 そのために継いだ“勇者”の名跡()……

 ――どうする?

 朝議の場に集結した幹部たち。魔貴公爵ギーツ。竜剣のボスボラス。奇貨のコープスマン。道化のシーファまで。誰もが魔王の判断に注目している。王の(かなえ)軽重(けいちょう)を問うている。

 もしこのとき、わずかでも立ち止まり、自己と向き合うことができたなら。

 あるいは胸の苦悩を打ち明け、他人(ひと)と分かち合うことができたなら。

 魔王の運命は大きく変わっていたはずだ。

 しかし彼は、選んでしまった。

 最も気高く。

 最も強く。

 ゆえに最も、孤独な道を。

「ギーツ」

「は!」

「ボスボラス」

「おうよ」

「コープスマン」

「はいな♪」

「シーファ」

「……」

 煮えたぎる《悪意》が、魔王の口から走り出る。

「――滅ぼせ。

 全てを、我が迷いとともに!!」

 魔物どもは慇懃に頭を垂れつつ口を揃える。

「――御意(ぎょい)のままに」

 

 

   *

 

 

 かくしてここに両軍は決戦へ向けて動き出す。

 飛ぶ鳥落とす勢いで迫るは(たけ)き勇者軍。

 百戦錬磨の古だぬき、老将ブラスカ麾下(きか)の精鋭、近衛騎士団30000名。

 青銅坂の合戦で勇名()せたる智将フレッド、疾風騎士団、数4000。

 王立大学ネビア教授の導く猛火法撃隊、手練の術士が3000余。

 期待の新鋭男爵ランポは命知らずの罪人を5000以上も駆り集め、その豪胆でまとめ上げる。

 王国南部地方領主はピオージャ、ネーヴェ、ツオノ、カルドら手勢ことごとく率いて参戦。その数ゆうに16000。

 心強くも馳せ参じたる騎士はウミディタ、グラディ、ヴェントー、テムペスタからヌヴォーラまで、合計20家、兵9000。

 そして王国民衆からは、名乗りを上げた義勇兵、闘志満々勇者の群れが実に50000の大軍をなす。

 これに亡霊射手のドックス、灰色の魔女カジュ・ジブリール、巨人殺しの剣客緋女、その他手練れの狩人加え、勇者ヴィッシュに率いられたる意気も盛んな(つわもの)どもが(つど)いも(つど)ったり10万名。

 また王国の北からは、武名も轟く北部諸侯108家、ヘディ辺境伯を先頭に猛兵4万率いて参戦。

 敵占領下の東部では、反抗軍が主要6都市一斉蜂起。魔王軍占領部隊を撃滅しながら西進する。

 加えて山脈の向こうから、虎視眈々と漁夫の利狙う隣国ハンザの軍勢が8万の大軍で国境を侵す。

 これら全てを合計すれば、なんと兵力25万。未曾有の数で魔王城へと押し寄せる。

 この猛攻を迎え撃つは、おぞましくも強大なる魔王軍。

 まずは魔貴公爵ギーツ麾下(きか)、魔王直属精鋭部隊。卓抜の術士、恐るべき魔獣、ひしめき合って11万。

 最強四天王ボスボラス、彼に従うドラゴン旅団は500の竜人ことごとく一騎当千豪傑ばかり。

 心の病もすっかり癒えた四天王ナギは鼻息荒く、鬼兵20000を引き連れて今にも暴れださんばかり。

 死霊(アンデッド)軍8万は、主を失いいまだ沈黙しているが……

 コープスマンの背後には無尽蔵の資金あり。

 不気味な狂笑仮面に貼り付け、道化のシーファも蠢きだす。

 無論彼らの頂点に立つは、他の追随を許さぬ強者。圧倒的な魔力を秘めた恐怖の魔王、クルステスラ。

 ここに両軍相見(あいまみ)え、まさに(しのぎ)を削らんとする。

 長い苦難の道の果て――世界と人類の命運賭けた最大最後の決戦の、幕が今、切って落とされる!

 

 

(つづく)



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第20話-09(終) 開戦

 

 

 口火を切ったのは北部戦線。曇天の午后(ごご)、王国北部の大盆地にて魔王軍の一部隊が北部諸侯軍4万と衝突した。

 ベンズバレン北部には王国から大きな自治権を認められた諸侯の領邦が連なっている。気候が冷涼で穀物の収穫に乏しい北部民は、略奪と戦争によって身を立ててきた伝統からか、まことに気質が荒々しい。野盗山賊同然の小領主たちが互いに侵略や合従連衡でまとまっては離れ、たまたま大勢力ができあがれば南下して中央を脅かす、ということを有史以来ひたすらに繰り返してきたのだ。

 かつてのハンザ王国も北部諸侯には手を焼いたものだが、120年前のベンズバレン建国王はそこを逆手に取った。北部諸侯に独立後の広い自治権を約束してやり、ハンザからの独立戦争における強力な味方として引き込んだのである。

 度重なるハンザとの領土紛争やシュヴェーア帝国からの侵略戦争で、北部軍は多大な武勲を立ててその名を内海に轟かせた。今や北部諸侯108家の軍はベンズバレン中でも指折りの精兵、一種の戦闘民族であるとの評を確固たるものとしている。

 だが、それが……かくも精強なる北部兵が……

「彼我戦力比1:80、かァ」

 草木一本残らぬ焦土の上に、累々と連なる屍の山。その頂点に巨岩の如くそびえ立ち、暴れまわる部下たちを見下ろす黄ばんだ眼。今しがた吐いた爆炎の残り火が、心地よげな笑いとともに口許から微かにこぼれ出る。

「いいんじゃねーの? ()()()()愉しめた……ぜ!」

 ()()

 竜剣のボスボラスとドラゴン旅団、わずか500足らずの手によって……北部諸侯軍4万余、全滅である。

 

 

   *

 

 

 同じ日の夕刻。西より国境を侵して布陣したハンザ王国軍にも異変が起きた。沈む夕陽を追うように、ふらり、と戦陣の門を訪れたのはひとりの女。華奢な身体を紺の僧服に包み、両の腰にはそれぞれひと振りの直剣を帯び、なにより異様なことには、顔を不気味な道化の仮面で覆い隠している。

「おい! お前、何者だ!?」

 と誰何する門番も愚かなら、指さして目を丸くする相方も呑気。

「あれ? 仮面の……女……ってまさか、四天のっ……」

 ず。

 と、微かな摩擦音を立てながら、門番たちは斜めに裂かれて倒れ伏した。すれちがいざま無造作に振るわれたシーファの双剣によって。

 陣中の幾人かが異変に気付く。叫び声が起きる。武器を手に取る者もいる。そこここの天幕から虫の湧くようにしてぞろぞろ出てくるハンザ兵に、シーファは見回すことさえせずに――

 走る。

 血が(ほとばし)る。人が死ぬ。「あっ……」誰かが間抜けた声を出す。シーファは、道化の剣士は、突然の出来事にまともに抗戦すらできぬ敵の間を雷光の如く駆け回り、刃を振るい、振るいては殺し、殺しながらにひた走り、みるみるうちに死体の山を築いていく。「わ!」ようやく悲鳴があがる。あげたそばから悲鳴の主が肉片に変わる。

 ひとりの司令官が事態に気付いた。ひとかどの男であろう彼は声をうわずらせながらも命令を飛ばし、ようやくハンザ王国軍全軍がシーファを狙って動き出す。戦列を組む前衛兵。一斉に矢をつがえる弓兵たち。しかし雲霞の如く眼前を埋め尽くす大軍勢を前にして、

「5万人。()()1()()として」

 シーファの仮面はただ、笑う。

「朝(まで)遊べる」

 

 

   *

 

 

 北部諸侯軍とハンザ王国軍のあっけない壊滅が、両陣営に激震を走らせた。

 南方占領軍の大半を失い、ミュート失脚によって死霊(アンデッド)軍も沈黙したとはいえ、魔王軍残存兵力は13万を数える。いまだ数の上でも質の上でも勇者軍をはるかに上回っているのだ。これをどうにか互角にまで引き上げるため、勇者は他勢力との連携を頼みとしていたに違いない。

 だが、頼みの綱の友軍が、出会い頭にあっさりと全滅。北部諸侯軍はボスボラス率いるドラゴン旅団500名に。ハンザ王国に至っては道化のシーファたったひとりによって、である。この事態に恐れをなした東部反抗軍(レジスタンス)も、たちまち意気消沈して振り上げた矛を下ろしてしまった。今頃は喧々囂々(けんけんごうごう)、これから先の身の振り方で揉めているに違いない。

 勇者ヴィッシュにとってこれは大誤算。もとより勇者側勢力は一枚岩ではなく、素人の義勇兵も数多く、要するに烏合の衆である。これをどうにか戦力として勘定するために勝ち戦という()()が必要だったのだが、それすら一撃で打ち砕かれてしまったのだ。

 一方、南面して布陣し勇者軍を待ち受ける魔貴公爵ギーツは笑いが止まらない。

「フハハハハハ! さすがは人間、なんとも脆い! どうやら勝負は決まったようだ!」

 魔王城から南へ1日半ほど進んだところにある丘の上の本陣で、魔貴公爵ギーツは呪具(フェティシュ)“通じ合うものの鏡”を前に高笑い。鏡の中に映っている話し相手は四天王コープスマンである。

〔まだそちらの勇者軍が残ってますよ?〕

杞憂(きゆう)であるぞ、コープスマン殿。第2ベンズバレンから魔都へ至る“無制限街道”は良道だが、それでも狭隘(きょうあい)な地点はいくつもある。そこに砦を築いて封鎖し、本隊は3つほどに分割して周辺の山上に陣取れば、砦を抜くのに手間取っている敵軍の側面・背後を自在に衝ける。さすれば戦慣れしていない勇者軍の大半は大混乱に陥り、大軍ゆえにかえって制御不能となる。我らの勝利は確実よ!

 フフ……これまさに鉄壁の布陣! 勇者ヴィッシュ恐るるに足らず! 破れるものなら破ってみるがよい! フハハハハハハハ!!」

〔なーるほどっ! いやぁーさすがはギーツ公、()()()()()()()()()ですなあ!〕

 おだて文句に乗せられて笑い声をいっそう高くするギーツ公。生来性根が素直な彼は、コープスマンのお世辞の中に隠された小さな棘にも気付かない。上機嫌ににやつきながら鏡へぐいと身を乗り出し、

「なあに、貴公の金勘定も捨てたものではない。ミュート亡き後、魔王軍を差配するのは吾輩だぞ。仲良くしておこうではないか? ん?」

〔光栄です……おやあ? なんだか騒がしくありません?〕

「失敬、仕事に戻らねばならぬようだ。まったく落ち着きのない奴らだ……」

 ギーツ公は眉をひそめて席を立ち、帷幕(いばく)を跳ね上げて外へ出た。周りの将兵たちがそわそわと落ち着きなく囁き交わす、その小声が集まって耳障りな雑音と化している。ギーツ公は舌打ちしながら近くの将を怒鳴りつけた。

「うろたえるなッ! 魔族たるもの何事にも動じぬものだ! 何があった?」

「敵です! 勇者軍が現れました!」

「ようやくか。《遠話》を打て! 全軍に戦闘準備をさせよ!」

「違うんです! ここではなく、城に……

 ()()()()()に! いきなり勇者軍が()()しましたッ!!」

 ぽかん。

 と間抜け顔を晒していたギーツ公が、まともにうろたえて声を裏返す。

「なんだとォォォッ!?」

 

 

   *

 

 

()()()()()に布陣してくれるなら、裏をかくのも簡単だ」

 魔王城正門前に整然と並んだ勇者軍10万。その戦列の最前面に立ち、ヴィッシュは黒々とそびえたつ魔王城を睨み上げる。

 彼らは一体どうやって魔王城まで辿(たど)り着いたのか? 答えは単純。街道を塞ぐ魔王軍を迂回(うかい)して、別の道を通ったのである。

 第2ベンズバレンから王都へ至る無制限街道はまだ完全開通して10年ほど。ではそれ以前はどうやって王都まで往来していたのか? 東のヴェダ街道、戦更(いくさらん)街道を経由して山林と荒野の真ん中を突っ切る古ハンザ時代の間道を使っていたのだ。地図にも載っておらず、通行人もほとんど絶えたこの道を知っているのは、今では地元の山を知り尽くした狩人のみ。

 つまりは、人生の裏街道を己の足で踏みしめてきた者にしか見いだせぬ活路である。

 ろくに整備もされていない悪路を10万の大軍で進軍するのは容易なことではなかったが、歩き慣れた狩人たちが道案内となり、燃えたつような闘志を抱いた勇士たちを導くならば、まるで不可能なことでもない。

 

 

 完全に意表を突かれたギーツ公は狂乱の(てい)で馬に飛び乗った。

「いかん! いかんいかんいかんいかんいかぁーん!! 魔王城が丸裸だァーッ!!

 全軍直ちに進発! 城へ引き返せ! 魔王様をお守りしろーッ!!」

 

 

 だがもう遅い。魔王軍本隊が予備の武具も食糧も打ち捨て、体力の消耗も考えず全速力で駆けつけたとしても、戦場まで軽く半日はかかる。この半日で魔王を倒す。奇策に通じたミュートを失脚させたのも、教科書通りの布陣を好む魔貴公爵ギーツが台頭するよう仕向けたのも、すべてこのときのための布石。

 すなわち――対魔王戦第1の秘策、“魔王軍(かわ)し”!

「勇者たちよ!!」

 馬上のヴィッシュが剣を抜く。“勇者の剣”の白刃が、魔王城から漂う暗雲を切り裂くかの如く閃光を放つ。

「全軍吶喊(とっかん)

 攻撃開始―――――ッ!!」

 その瞬間、巨獣と化した勇者軍10万が、咆哮を(ほとばし)らせながら突撃した!

 雷鳴の如く鳴り響く(とき)の声。天を塞ぐほどに舞い上がる土煙。勇者たちが地を蹴るその衝撃が地震を起こして魔王城を震わせる。その恐るべき勢いに魔王城のわずかな守兵は恐怖に駆られながらも反撃を開始した。城壁のあちこちから散発的に打ち出される《火の矢》。しかしこんな手ぬるい反撃が何になろう。1本打ち込めば10本、10本打ち込めば数百本の矢が撃ち返され、次々に城壁上の魔族を射殺していく。魔族たちにできるのは、ただ城門を閉め切って立てこもることのみ。

 だが勇者たちは、その弱気な望みさえ打ち砕く。

 びゅん、と鋭く風を切り、ふたりの戦士が勇者軍の前方へ躍り出たのだ。

「いくぞ相棒ォ!」

 刃の緋女。

「おーきーどーきー。」

 灰色のカジュ。

「どっオリャァァァーィ!!」

「《凍れる刻の結晶槍》っ。」

 気合一閃。神代の炎を纏った緋女の太刀と、世の理すら引き裂くカジュの術が、魔王城の堅固な城門をただ一撃で突き破った。

 (かんぬき)を叩き割られ、蝶番を()じ斬られ、城の中へ吹き飛ばされる大扉。もうもうと砂埃を立てながら地面に倒れたそれを踏み越え、間髪入れずに勇者軍先鋒部隊が魔王城内へ雪崩れ込む。

 その前に立ち塞がるはやけくそ気味に闘志を奮い立たせた魔族、鬼兵の守備部隊。だが勇者軍の勢いはとどまるところを知らぬ。勇気凛々にみなぎらせた10万の勇者たちが、当たったそばから敵を跳ね飛ばし、()き潰し、()()のように蹴散らして、勢いのままに二の門目指して突き進む。

 が。

 その時だった。

『ごば!!』

 第2城壁の向こうから響くすさまじい轟声。直後、城壁を内側から突き破って巨大な影が姿を現す。影が振るった巨大剣――というより鋼鉄の柱の如きものが、大地ごと、城壁ごと、並み居る勇者軍将兵を文字通り粉々にブチ砕く。

「ひっ……」

 目の前に立ち塞がった異様な巨体に、兵たちは本能的な恐怖を覚えてすくみあがった。

『ごえ……? ごり……? ごと……?』

 巨人。城壁をも上回る背丈の、完全に白骨化した巨人戦士。眼には不気味な赤光を爛々と光らせ、しきりに首を(かし)げながら、叩き割った城壁の隙間を左右に掻き広げつつ歩み出てくる。その一歩に足元の兵士5人が踏み潰された。無造作に振るった巨大剣が20人の兵を肉片に変えた。かつて第2ベンズバレンを恐怖に陥れ、またこの半年の間にも数え切れぬほどの抵抗軍(レジスタンス)兵を葬り去ってきた暴威の象徴。

 骸骨巨人ゴルゴロドン!

 間違いなく四天王級の実力の持ち主。それだけでも厄介だが――より本質的な問題が他にある。

 それは死霊(アンデッド)が動き出したという事実だ。見れば、置物のように城内に転がっていた骸骨(スケルトン)が、肉従者(ゾンビ)が、骨飛竜(ボーンヴルム)が、命を吹き込まれて赤い眼光を宿し、続々と立ち上がり始めている。この事態はつまり、()()()の復帰を意味している。

 立ち上がるなり勇者軍へ不意打ちを仕掛けた骸骨(スケルトン)の数体を緋女が斬り捨てる。上空から兵士の頭を喰い千切ろうと舞い降りた骨飛竜(ボーンヴルム)をカジュの《光の矢》が撃ち落とす。油断なく勇者の剣を構えつつ、ヴィッシュは骸骨巨人の肩を見上げて目を細める。

「……ここまで全部手のひらの上か」

 骸骨巨人の肩の上へ、ゆらりと立ち上がる影がある。

「嬉しいぜ。最後の相手に、他ならぬおれを(えら)んでくれたことが」

 痩せた身体を余すところなく覆い隠す汚れた包帯。隠しきれない眼と口許に醜く貼りつく歪んだ狂気。彼は気付いていたのだ、ヴィッシュの狙いに。この状況を見越して、自ら禁獄の辱めを受け入れたのだ。

 全ての戦いに決着がつくこの時、この場所で、再びヴィッシュと対峙するために。

 彼の名はナダム。

 否――魔王軍四天王筆頭、死術士(ネクロマンサー)ミュート!

「勝負だヴィッシュ。

 今日、この日のために、おれは蘇ったんだ!!」

 

 

To be continued.

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 時は来た! 戦乱の(ほむら)。剣戟の(ひびき)。我執と悪意の戦場に、両軍(たけ)く火花を散らす。退くも地獄、行くも地獄、ならば進む他になし。いくつもの思惑が交錯する最終決戦を制する者は果たして誰だ!?

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第21話 “戦い(前編)”

 The Battle (Part 1)

 

 乞う、ご期待。

 



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幕間劇 “夢を信じて、また。”
幕間劇-01 あ、ほ、く、さ。


 

 

※注

 このエピソードは、作中の時系列では「第20話-03 布石」と「第20話-08 果てしなき世界から」の間に挟まる掌編挿話です。

 

 

 (ユメ)寝目(イメ)。眠りながら見る(はかな)い幻。ただそれだけの意味だった言葉へ勝手に“願望”だの“希望”だのの意味を付け加えるから話がややこしくなる。この世は物理法則によって成り、法は数学によって成り、数学は論理と公理によって成る。そこへもってきて「私、魔法使いになるのが夢なんですぅ♡」とか、「困ってるひとの助けになるお仕事がしたいの」とか、「夢のためにがんばるぞー!」とか。はー。

 あ、ほ、く、さ。

 というのがボク、カジュ・ジブリールの正直な感想だった。

 まあ要するに。“あの子”のことが、どうしようもなく苦手って話だ。

 ある夜、ちょっとひとりになりたくて、知り合いが全然いない戦陣に(まぎ)れ込んで篝火(かがりび)で手のひらを(あぶ)っていたら、ススッと寄ってきたのが“あの子”――ナジアだった。ボクは「ども。」なんて最小限の挨拶だけで済ませようとしたけれど、彼女は目をキラキラ……もとい、ギラギラさせて顔を寄せてくる。

「先生! 魔法教えてください!」

 ……これだよ。あーやらかした。先日その場のノリで「魔術教えてあげる。」なんて口約束しちゃったのはまずかった。あれ以来ほとんど毎日、いや日に3度も4度もボクのとこに来て同じセリフを繰り返すのだ。「いま忙しい。」ではぐらかすのもそろそろ限界。客観的に見ても完全にヒマしてたとこだしね……。

 なんでそんなに魔術を学びたいのか、と()いてみれば、先述のような夢の話を心底楽しそうにする。はっきり言おう。こういうひと、好きじゃない。偽善的、世間知らず、幼稚……いろんな言い方はできるけど、とにかくこの脳ミソお花畑みたいな感じがボクは苦手だ。魔術さえ学べば全部うまくいく、という考えの甘さにも腹が立つ。ひとつ新術をこしらえるのにボクら術士がどんだけ苦労してると思ってんだ。思春期のガキならこんなもんなのかな……4つも年上だけど。

 しかしいったん約束しちゃったものを反故にするのは信義にもとる。そういうわけで、大変不本意ながら、素人相手に魔術の個別指導をやるはめになってしまったのだった。

「じゃあまあ、そこらへん座って……。

 えー、まず、前から気になってたんだけどキミ、魔法と魔術の区別ついてないでしょ。」

「えっ? 違うの?」

「同じなら術語わけたりしないよ。では問1、魔術とは一体なんでしょう。」

「んー……なんだろう。なんでも思い通りにできちゃう力、とか?」

「違うね。正確には“なんでも思い通りにできちゃう()()()()()技術”。」

「……?」

「魔法の本質は『こうなって当然』という認識なんだ。

 たとえばこうして小石を拾い上げ、手を離せば地面に落ちる。あの篝火に手を突っ込めば火傷する。誰も不思議に思わない。なぜなら『そうなって当然』だから。

 誰もが『当然』だと思っている……()()()()()()()()()。それがこの世界の物理法則。

 ならば、『当然』という認識を改めたらどうなるか。

 石が下から上へ浮き上がるのが『当然』。皮膚で火炎を跳ね返すのが『当然』。指先から《火の矢》が出るのが『当然』。

 そういうふうに認知と意識を書き換えれば、()()()()()()

 石は飛ぶ。炎は防げる。指にこうして火が灯る。」

 語りながら組んだ術式によって、ボクの指先に小さな火が生まれた。蝋燭のように頼りない灯火だけど、これもまさしく魔術の驚異。ナジアは身を乗り出して見入ってくれている。

 興味津々か。まあ熱心に講義を聴くのはいいことだ。

 ……別に、気を良くしたわけではない。

「この、自然界にもともと存在する『当然』の系が“(ロジック)”。

 人為的に書き換えられた新しい『当然』が“魔法(マジック)”。

 そして法の隙間に魔法を書き加える行為を“魔術(マジカルアーツ)”と呼ぶんだ。

 とまあ言うのは簡単だけど実現するのはけっこう大変。自分だけが思っててもダメで、周囲の世界のほうにも『これが当然』と思い込ませなきゃいけない。

 そのために術士はあらゆる手段で世界に訴える。呪文、文字、魔法陣、身振り手振り、特別な道具。絵や歌なんて変わり種もあるし、熟達すれば脳内妄想だけでもいける。要は表現ならなんでもいい。自分の中の『当然』を世界に納得させるための構造物(ストラクチャ)、これを総称して“術式(アーティファクト)”と言う。」

「そっか……つまり、自分勝手にやりたいことを押し付けるんじゃなくて、世界と相談しなきゃいけない……ってこと?」

「そうだね。その相談相手の“世界”のことを古伝承では“神々”と呼び、啓示教導院は“3倍偉大なる唯一神オラシオン”と呼び、巫術士(シャーマン)は“精霊”と呼び、魔女術(ウィッチクラフト)呪術(ソーサリー)界隈では“神秘”と呼ぶ。名前は色々あっても面倒くさい制約に縛られてるという認識は同じ。というわけで“なんでもできる”ってわけにはいかない……ってのが従来の定説。

 でもそこに異を唱え、実はなんでも実現できるんですよ、と主張したひともいた。ウィリアム・テンジーの呪文子仮説。これは魔術の時代区分の境目になるくらい画期的な理論なんだけど未解決の大きな矛盾も抱えていて、ボクら人類の『魔術には一定の法則がある』という認識自体が『なんでもできるわけじゃない』という魔法を具現化してしまい、具現化した魔法がまたボクらの認識を強化する。これがいわゆる無限縮退矛盾というやつで、ために呪文子仮説はいくつもの常識を超えた術式の実現に貢献してるにも関わらず全面的に正しいとは認められてない。ところがここに突破口があった。2つの矛盾する魔法が重なった場合に双方の対消滅が起きるというクローディスの排他原理はこれまでマナ密度の極めて低いコボルの限界以下の条件では“実在空間におけるエギロカーン方程式からのズレ”のせいで成立しないとされていた。ところが実際はエギロカーン方程式には従来見逃されていた第4の項が存在していて、係数を適切に設定すればコボル限界以下でも二重延展効果が起き、クローディスの排他原理が適用可能な水準までマナ密度が補正される。これによって本当にどんな術式でも実現可能だということが……。」

 はっ。

 としてボクは言葉を止めた。いつのまにやらものすごい早口になってしまっていたが、これは半年前に「追い論」したばっかのボクの最新研究テーマ。「追い論」は「追い論文」、つまり「魔法学園に加筆修正分を送り付けた」の意だ。まあ()()()()がんばりすぎて文章量が4倍近くに膨れ上がったのを“加筆”の一言で片づけていいのかどうかは議論の余地もあろうけれど。

 いずれにせよ、ド素人のナジアさんに初手から垂れ流すような話ではない。ちょっと反省。別に彼女の飲み込みが早いので気を良くしてペラペラ喋ってしまったわけではない。ないかな……。いや、あるな……。うーん……。

「ゴメン、後半は忘れて。

 閑話休題、以上の基本を踏まえて、一番かんたんな練習法はコレ。」

 ボクは腰の荷物鞄を探り、ソラマメ大の水晶玉を取り出した。わけもわからず目をぱちくりさせているナジアの手に、その水晶玉を握らせてやる。

「これ、ひょっとして魔法のアイテム?」

「ぜんぜん。ただの水晶だよ。

 これを魔術で光らせてみて。」

「でも私、呪文も何も知らない……」

「さっき言ったじゃん。法語(ルーン)の呪文や魔法陣は効率のいい手段のひとつに過ぎない。その形式に囚われれば、かえって魔術の本質から遠ざかる。

 大事なのは『光って当然』という認識。

 水晶玉って元々、光に当てたらキラキラするでしょ。だから『ちょっと日陰だけど光るかもしれない。』『真夜中だけどひょっとしたら光るかも。』『いや光って当然なんだ。』っていうふうに段階的に認識を書き換えやすい。自然の法からかけ離れた魔法ほど術式の難易度は上がるけど、既にある法を部分的に書き換えるだけなら比較的簡単なわけ。

 水晶、水盤、宝石なんかを光らせるのは初心者が最初にやる修行の定番中の定番。ボクも2歳のときにコレから始めたんだ。

 キミなりの言葉で構わない。光が湧き出るイメージを練り上げながら『光れ』と唱え続けてみ。そのうち術が発動するかもね。」

 ……ま、素質があれば、の話だけれど。

 魔術の素質を持ってる人間は、おおむね100人に1人程度だと言われている。素質がなければいくら勉強しても仕方がない。こればっかりは理屈じゃないのだ。事実、先代勇者ソールは魔法学園の卒業生で、最新の理論を全て学んでいたはずなのに、自力ではほとんど術を発動できなかったという。

 ナジアが術を発動できる見込みは、まずないだろう。

 ナジアは早くも水晶玉をにらみ、熱心にブツブツ唱え始めている。ボクは無言で立ち上がる。彼女はしばらく修行にかかりっきりになるだろう。でもその努力が実を結ぶことはない。いつか術士になれることを夢見て、無意味な挑戦を続けるのだ。

 それを知りながら、彼女の猛追から逃れるために水晶玉を押し付けたボクは、卑怯だろうか……。

 いいじゃないか。夢だって言うんだから。ナジア自身が言ったことだ。“希望”、“願望”、そのための夢。夢を追っていれば明るく生きられる。夢見ている間は嫌な現実に負けないでいられる。そのための夢。たとえ実現可能性皆無の空夢(そらゆめ)で終わろうと。

 ……ばかばかしい。

 ボクは足音を殺して立ち去ろうとしたつもりだったのだけど、ナジアは耳ざとくそれに気付いてしまった。

「先生!」

 ナジアのばかでかい声が、夜の戦陣に響き渡る。勇者軍の兵が何人か、なんだなんだとこっちへ目を向けてくる。ボクは思いっきり顔をしかめている。

「私、先生みたいになりたい! コレができるようになったら、他の魔術も教えてね!」

 カチンときた。

 「え、なんで?」と諸君はお思いだろう。自分でもよく分からない。特に無礼でも無神経でもない。なのになぜか、とにかくこの言葉がカンに(さわ)ったのだ。ボクは肩を怒らせながら――ああ分かってますよ、こんなチビが(すご)んだって怖くもなんともないでしょうよ。――振り返り、ナジアを睨みつけてやった。

「できてから言いなよ。」

 そう吐き捨てて、ボクは逃げ出した。

 言い間違いじゃない。確かにこの時、ボクはナジアから逃げ出したんだ。

 

 

(つづく)



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幕間劇-02 いやいやいやいやいやいやいや。

 

 

 よく他人から羨まれはするけれど、記憶力が良すぎるのもしんどいものだ。ボクは1歳半ごろからの経験をほぼ完璧に記憶している。図書館で読み漁った本は目を閉じればいつでも読み返せる。AD1310年6月18日の4時限目は修辞法の講義、テーマはレゲメント型飛び越え短縮式の理論的導出について。生まれて初めて術式を発動できたのは1305年11月2日風曜日の午後。ほらね、完璧だ。

 あの日、まだ2歳だったボクは、企業(コープス)本社の広大な敷地全体に響くほどの大声でわめいていた。嬉しくって居ても立ってもいられなかったんだ。小粒の水晶玉がボクの手のひらの中で淡青色の光を放っていた……。ここ何日か夢中になって取り組んだ課題をやりとげたんだ。

 ボクは短い脚をヨチヨチさせて駆け回り、ある人物を探した。彼は東棟の2階の小会議室にいて、他の大人たちと何か難しい経営の話をしていたけれど、乱入したボクを見るとだらしなく目尻を垂らしてしゃがみ、大きな手でボクを抱き留めてくれた。

「おやおやカジュくん、困った子だね。こんなところに入ってきちゃいけないよ。なにかあったのかい?」

 ()()()()()()。彼の笑顔の鼻先に、ボクは手のひらに乗せた水晶玉を突き出す。

「光った!」

 小会議室の大人たちがどよめいたのを覚えている。でもその賞賛と驚嘆がどうでもよくなるくらい、ボクはただ一途に彼の言葉を待っていた。ボクは成し遂げた。自分の為した成果を、他の誰でもない、コープスマンに見て欲しかった。コープスマンが感嘆の溜息をもらす。大きな、大きな、ボクの全身が包まれてしまいそうなくらい大きな手のひらで、ボクの頭を撫でてくれる。

「すごいじゃないか! もうこんなにはっきりと術式を構築できるなんて、やっぱり君は天才だよ!」

 それが嬉しくて。ただその言葉だけが欲しくって。もっともっと期待してほしくって。幼稚なボクは大口をたたく。

「カジュね、世界一の魔法使いになるのよ? 困ってるひとをみんな助けてあげるの!」

「ああ……それはすてきな夢だねえ」

「ユメェ?」

 夢。

 その単語を始めて耳にしたのは、確かにその時だった。あまりにも幼すぎて、営業スマイルと本物の笑顔の区別さえついていなかったあの頃。

「そうよ! カジュの夢よ!」

 覚えたての言葉を、ボクはさっそく無邪気に使う。目の前の大人の性根にどんな薄汚いものが詰まっているか、想像しようとさえせずに。

 

 

   *

 

 

 ボクには夢なんかない。あるのは計画と実行のみだ。ヘラヘラ笑って夢を語るような奴は、実現もできない口先の目標を掲げて満足感をむさぼっているだけ。この世界がどんなふうに成り立っていて、その中に自分がどんなふうに投げ込まれていて、その相克がどれほど痛く苦しいことかに目を向けようしてないだけ。ああ腹が立つ。

「私、先生みたいになりたい!」

 なればいいだろ。なってみろよ。なって後悔してみろよ。

 ボクのことなんか何も知らないくせに。

 それからしばらく、ボクは自分の仕事に没頭した。魔王との最終決戦に向けて考えておかなきゃいけないことが山ほどある。どうやって主導権を握るか。敵がどんな戦術で来るか。それに対してどう返すか。術式を組み、改良し、昔読んだ魔導書(グリモワ)を思い返して復習する。

 ふと気づくと、ボクはまた夜更かししている。悪い癖だ。治らない。さんざん仲間たちから(たしな)められたのに、気持ちがネガティヴになるとついつい自分を追い込む方に(かじ)を切ってしまう。徹夜はボクなりの代償行為。イライラして、やるせなくて、いてもたってもいられない時、ボクは誰かのために身を粉にすることで自分を慰める。ひとの役に立ちたいんだ。助かったよって言ってほしいんだ。抱き締めて、キスをして、ボクを認めてほしいんだ。そのためにボクは、寿命と睡眠時間を削って働くという手段しか知らない。

 分かってる……ボク、もう11歳だよ。自分の欠点も、思考パターンも、みんなとっくに自覚してる。なのにやめられないから中毒っていうんだろ……。

 ある朝、徹夜明けのイラつきをそのまま表情に貼り付けて通りを歩いていた時、ふと目を向けた裏路地にナジアの姿を見かけた。彼女は建物が作る深い日陰の中で壁に背を付け、手のひらにじっと視線を落として集中していた。視線の先にあるものはもちろん、水晶の小球。忙しく開閉する唇が、「光れ」「光れ」と繰り返し呪文を刻み続けている。

 ボクは気付かないふりして顔を背ける。

 そのまま通り過ぎようとしたボクの耳に、彼女の一途な訴えが届いた。

「光れ。輝け。輝こう。大丈夫、輝けるよ。君ならきっと、夢を真実(ほんとう)に変えられる……」

 なにその呪文。

 なんで水晶玉を励ましてんの。

 どういう発想だよ。

 たまらなくなってボクは走った。ナジアに気付かれてないことを祈りながら。分からない。自分がなにかひどく打ちのめされていることは分かるのに、その正体が分からない。ナジアのことが嫌い。でもそれだけじゃない。なにか他の、言葉にできないどろどろした感情がボクの中で暴れてる。

 なんだよちくしょう。なんなんだこれ。

 

 

   *

 

 

 むしゃくしゃした時は暴れるに限る。ボクは《風の翼》で街中飛び回って緋女ちゃんを探して「ゲームしようぜ。」ともちかけた。訓練がてら時々やってるバトルゲーム。ボクが《発光》を飛ばして緋女ちゃんにぶつける。緋女ちゃんはそれを避けたり切り落としたりする。砂時計が空になるまでに命中させればボクの勝ち。全部避けたら緋女ちゃんの勝ち。

 今までの戦績は587勝601敗、勝率49.4%……のはずだったんだけど、今日はとにかく調子が悪かった。5戦して1勝4敗。いや調子が悪いっていうか、奥義を身に着けて帰ってきてから緋女ちゃんの動きがちょっとおかしい。生身で音速超えるんじゃねえよ。チートだろそれ。

 そういうわけで、ストレス解消するはずがかえってモヤモヤが溜まってしまった。そんなボクを思いやってか、勝負の後で緋女ちゃんが「なんか食べ行こーぜー」なんて誘ってくれる。兵隊向けに営業してる屋台村へ足を運び、おいしそうな匂いのもとをキョロキョロしながらぶらつくボクら。ボクはなんとなく、緋女ちゃんと手を繋いだ。普段こんなことしないけど、彼女はこっちへ目を向けもせず、そのまま自然に握り返してくれた。右の店の鍋には卵粥。左の店の金網には名物(ヴルム)焼き。緋女ちゃんに手を引かれるまま、あっちへぷらぷら、こっちへぷらぷら。あんまり食欲もなかったはずなのに、こうして物色してるとだんだんお腹も減ってくる。

「今日は何の気分かなーっ!」

「甘いものだね。」

「じゃカルメラ?」

「なんかもうひとつ。プリン屋台とかあればいいのに……。」

「なーカジュ」

「ん-。」

「なんかあったろ?」

 あ、ラーメン。ラーメンというのは小麦粉生地の麺を茹でて塩味の利いたスープに()けたもので、元々は異界の英雄セレンが異世界“アース”から伝えた料理なのだという。彼女が六使徒にふるまったものがあまりに美味(うま)かったため、またたく間に内海全域に広まって定着し、今ではそこかしこの土地で地元の食文化を生かしたラーメンが作られている。

 ぜんぜん甘いものじゃないけど、甘くないならいっそ思いっきり逆張りだ。ボクは緋女ちゃんを引っ張っていって、ラーメン屋台のギシギシうるさい椅子にぴょんと飛び乗った。

 注文する。ふたり並んで出来上がりを待つ。街の喧噪が遠く意識の外へ切り離された、ふたりきりの時間。

「……あったよ。」

「聞こうか?」

「これは自分で解かなきゃいけない宿題っていうか。」

「そっかあ」

 ラーメンが来た。第2ベンズバレンのラーメンは、港町らしく魚介出汁。麺の上に載ってる具は、なんたることか、これまた第2ベンズバレン名物スルメの天ぷらである。イカの乾物を細く割いて、衣をつけて油で揚げたものなのだが……。せっかくカラッと揚がったフライをスープにぶち込むこの暴挙。この屋台の店主、メチャクチャやりおる。こんな掟破りが美味(うま)いわけが……。

「……美味(うま)い。」

「マジだ、たまんねーなコレ。うおおっ、脂が染みる……」

「ね。」

「おう」

「なんかさ。」

「うんうん」

「『こいつ嫌い。』……ってわけでも、ないんだけど……。なんか顔見てるとイライラして、やることなすこといちいちカンに(さわ)る……。そんなひとと出会ったこと、あるかな。」

「あるある! 山ほどある!」

「そんなとき、どうする。」

 緋女ちゃんは箸を持つ手をお行儀悪く握り固め、グイッと突き出して唇を(とが)らせた。

「そーゆー時はァー、こう胸ぐら(つか)んでェーっ……」

 鬼神の形相から、袈裟懸けにバッサリ斬りつけるような一声。

「好き!!」

 街の騒ぎを吹き飛ばすほどの大音声。間近で聞いたボクは皮膚がビリビリ震えて痺れてしまう。

「って言う」

「は。」

「『好き』って言う」

「聞こえてたよっ。ひとの話聞いてたのかこーのアホワンコっ。ムカつくんだって言ったじゃんっ。」

「だからよ。ケンカだろ?」

「まあね。」

「ケンカは先手必勝ォ! 出会い頭にガツンとやって、あとは流れでボコボコよ!」

「意味わかんねーよ。」

「えー!? なんでェー!? ホントだって、絶対効くんだってばァー!」

「緋女ちゃんに聞いたボクがバカだったっ。」

 やけくそ気味にラーメンをすすりながら、ボクはそっぽを向いた。まったくなに言ってんだか。嫌い、イラつく、カンに(さわ)る。それがなんで「好き。」になっちゃうの。それじゃあまるでボクがナジアのこと……。

 ……………。

 ……は。

 いやいや。

 いやいやいや。

 

 

 いやいやいやいやいやいやいや。

 

 

(つづく)



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幕間劇-03(終) 困ったもんだ。

 関係ないんだよ。どれだけ(つら)くても、苦しくても。ゲーゲー吐きながら、毎晩《眠りの雲》を自分にかけながら、血尿だしながら仕事してたって、他人にはそんなこと関係ない。誰だって自分の現実だけを生きてる。他人の痛みを感じることはできない。それはどんな悪人だって善人だって同じなんだ。「世の中のひとのために役立つ仕事をするのが夢」……。ご立派。でもね。そんな子供(だま)しの善意なんか、もっと狡猾な大人に(だま)され食い物にされるだけなんだ。

 もう3年近くも昔のあの日。次の仕事に向かうために、生まれたての子馬みたいに震えながら立とうとするボクを、コープスマンは無感動に眺め降ろしていた。そばの同僚へ囁くことには、

「そろそろ限界かもね」

 だろうね。ボクもそう思うよ。

 土気色になった顔をどうにか持ち上げ、垣間見たコープスマンの表情は()()()()()()にこにこ笑顔。ボクの頭を撫でながら大げさに褒めてくれたあの時と同じ。くすぐったいくらい励ましてくれたあの時と同じ。ボクの誕生(ローンチ)日においしいプリンをプレゼントしてくれたあの時と同じ。

「ボクを見て……。」

 自分がなんでそんなこと言ってるのかも分からない。ただボクは今にも消えそうな声でブツブツ訴え続けていた。なんの意味もないのに。お願いしたって聞いてくれるはずがないのに。

 もう夢なんて、叶うはずがないのに。

「ボクを使って……。

 ボクを棄てないで……。

 ボクは……。」

 ボクは……。

「ボクはまだ……戦える……。」

 

 

   *

 

 

 別に用があるわけでもないのだけど、なんとはなしにフラフラと、ボクは名医モンド先生の診療所に足を運んでいた。抵抗軍(レジスタンス)の拠点で負傷者の治療にあたっていた彼も、第2ベンズバレン解放とともに街へ戻って来た。でも、のんびり一息というわけにはいかない。戦況が小康状態となっても今までの患者が急に治るわけじゃないし、ひとが大勢集まれば病気や事故は次々に起きる。国外逃亡や戦死で医者の絶対数も減っている。モンド先生は大勢の助手を右へ左へ駆け回らせ、自分も列をなす患者の診察に追われ、以前よりかえって忙しいほどだそうだ。

 この診療所で、ナジアは働いている。

 抵抗軍(レジスタンス)の仮設診療所で下働きしてたのを、モンド先生が気に入って、そのまま正式に雇ったんだとか、なんとか。別に彼女がどうしてるか気になったわけじゃない。単に気がくさくさして、少し散歩でもしようと思い立って、道の途中にたまたま診療所が見えたので、何気なく窓から様子をのぞいただけだ。

 ナジアは風通しのいい病室の奥で、怪我人の身体を拭いているところだった。つんと鼻をつく悪臭。あの患者、たぶんどこかが壊死しかかってる。もう起き上がることはおろか、ろくに四肢を動かすこともできないらしい。糸の切れた人形のように病床に横たわり、ナジアの手のなすがままにされながら、なにかぶつぶつ呟き続けている……。

「そのときだ、ナジアさん。俺の前に鬼が立ち塞がった。でかいやつだったよ。屋根まで届くような巨漢だ。石柱に取っ手を付けたような棍棒を持ってね、力任せにブンブン来るんだ」

「怖い! そんなの、どうするの……」

「さあそこよ。俺も死を覚悟した。でも思ったんだ、どうせ死ぬ気ならひとつ暴れてみるかってね。そうしたら不思議と、相手の動きがゆっくりに見えだしてさ。棍棒を振り下ろしてくるのを冷静に見極めて、脇を潜り抜け、伸び上がりざまへ喉へ一撃! ザクッ! バターン!」

「すごいすごい! やっつけちゃったの? 鬼殺しだ!」

「そうなんだよ、まあ、なんていうの、日ごろの鍛錬の成果ってやつ? へへへ……な。すごいだろ。俺、がんばったよなあ……」

「がんばったよ。すごいって思う。ピンチで諦めなかったところがすごい」

「うふ。ありがと。まあそのあと膝をやられちゃったけどさ……戦うのはもう無理かなあ」

「他の仕事ならきっとできるよ」

「そうかな」

「勇気のあるひとはなんだってできるもん」

「そうだよな。さすがナジアさん、分かってる! 男の値打ちは腕っぷしじゃない、中身なんだ。やっぱそうだよ」

「治さないとね」

「ああ、治さなきゃ……」

 もうそれ以上聞いていられなくて、ボクは足音を殺して退散した。誰かに声でもかけられたら、どんな顔すればいいのか分からない。

 それなのに、足早に路地へ出たボクは、横手から呼び止められてしまった。

「来てたのか、ぼうず」

 ぎょっとして声のした方を振り返れば、建物の脇の物陰で、積み上げた木箱の上に腰を下ろしてパイプをふかしている老人がひとり。立派な口ひげの名医モンド先生だ。

「……ども。」

「おう。なんか、わしに用だったか?」

「いや、別に。」

「そんなら結構。医者なんぞには用がねえのが一番だ」

「いいんすか、こんなとこでサボってて。」

()()()みてえなこと言いやがる。タバコ休憩くらいさせろぃ」

 モンド先生は頭を掻いて苦笑している。()()()ね。あのひとの働きぶりがどんなものか、先生の表情だけでなんとなく見える。

「奥の患者さんと、ばかみたいな雑談してた。」

「大したもんだろ。落ち込んでる男を勇気づけるのが天才的に上手い」

「治るんすか、あのひと。」

「……いや」

 モンド先生は行儀悪く、パイプを叩いて灰を道へ落とした。懐から次の葉をとりだしてパイプへ押し込み、舶来物のマッチで火をつける。細く立ち上る白紫色の煙。最近ヴィッシュくんが全然吸わなくなったから、久しく嗅がない――()()()()()()()

「やれるだけのことはやったが、総身に回った毒血はどうにもならん。もって半月」

「ナジアはそれを……。」

「知ってて喋ってる。いつものことさな」

 ボクはもう、何も言えない。

 ボクの術であの患者さんを治してあげられればいいんだけど、そういうわけにはいかない。ボクの回復術は、正確には傷を治しているのではない。肉体の時間を(さかのぼ)らせて怪我を()()()()()()にしているだけだ。その代償として術をかけられた者の命の時間――つまり寿命を削ってしまう。負傷してから時間が経てば経つほど代償は大きくなる。現実的に考えて治せる怪我はせいぜい1日以内のもののみ。それ以上は、術をかけたせいでかえって寿命が尽きる可能性のほうが高い。

 本格的に戦争するとなると、「寿命と引き換えに致命傷を完全治癒」なんて大雑把(おおざっぱ)な術だけじゃ小回りが利かなさすぎる。こんなことなら癒術もちゃんと勉強しとくんだった、と最近痛感してる。学生時代は仲間内に治療の得意な奴が何人もいたし、企業(コープス)には専門の医療班も控えてた。ボクの出る幕はないだろ、自分の得意分野だけ伸ばせばいいや、なんてタカをくくってたんだ。

 つまりはこれがボクという術士の限界。全知全能にはなりえないボクらが、誰しも必ず直面する壁。

 なのにその断崖絶壁に、ナジアはああして寄り添っている。もう長くは生きられない患者へ、哀しみも同情も匂わせず、自然な笑顔で励ましの言葉をかけ続けている。事実を偽ってまで希望を持たせることが正しいのかどうか、それはボクには分からない。でもその嘘のおかげで、あの瀕死の男は笑顔を失わないでいられる。たぶん、死を迎えるその瞬間まで……。

 無言で目を伏せたボクの頭を、モンド先生のひらたい手のひらが優しく撫でた。

「……とどのつまり、この世の人間は誰も助からん。誰だって最後には怪我か病気か老化に負ける。医者にできるのは、そこまでの道中を(ちい)とばかり延ばしたり楽にしたりすることだけよ。

 ()()()はその道理を肌で分かってる。そのうえで手前(てめえ)のやるべきことを笑ってやりとげる強さがある……ま、傑物だわな」

「うん……。」

「誇っていいんだぜ。あの子にアドバイスくれたんだろ?」

「なんの話。」

「『無いもの強請(ねだ)りは後にして、今できることをやれ』」

「あー。あれは別にアドバイスとかじゃ……。」

「とぼけてないで胸を張んな。

 いっぱしの看護師をひとり生んだんだよ、お前さんは」

 

 

   *

 

 

 これで話は終わりだ。

 ……なんか不服っすか。

 これ以上話すことなんかない。ボクはもう、今でははっきりと悟っている。結局、ナジアの言動にあれほどイラついていた理由はごく単純。

 彼女が羨ましかったんだ。

 ボクの人生には、いろいろあった。企業(コープス)による古代魔導帝国の生物兵器《天翅(てんし)》の再現計画……その試作品“ジブリール・タイプ”として製造され。身体中をいじくられ、調査されながら大きくなり。学校では命懸けの競争を強要され。自分自身より大切なひとをこの手で殺すことを強いられ。耐久性テストを兼ねた酷使で心と身体を壊されて……。

 ボクには夢を見る暇なんてなかった。そんな余裕を与えられはしなかった。今だってそうだ。ボクはこれから、魔王との決戦に挑む。生き残ろうなんて考えちゃいない。そんな生ぬるい覚悟で太刀打ちできる相手じゃない。

 だから、羨ましかったんだ。

 こんな暗い世の中で。自分も家族を失って。それでも他の誰かのために、行く手に広がる未来のために、明るい夢を抱き続けられるナジアの強さが。

 ()()()()()()()()()()()()自分の弱さより、()()()()()()()()()()()()()彼女の強さに憧れた。

 死ぬ前に気付けて良かった、と思う。

 

 

 そしてついに、出陣の日がやってきた。魔王クルステスラを討ち滅ぼすべく集結した勇者軍10万名。第2ベンズバレン門外に列を為した軍勢が、先鋒から順に整然と進軍を開始する。目指すはベンズバレン王都、魔王城だ。

 なんだか現実感がない。まるで夢でも見てるみたい。中軍の列に混じって出発の順番待ちしていたボクは、先鋒部隊の背中を他人事みたいにぼんやり見送っていた。そこへ、緋女ちゃんが馬をひっぱってくる。

「いいのかよ」

「何が。」

「あの子と話、してねーんだろ」

「誰のことっすかね。」

 自然にとぼけたつもりでも、緋女ちゃんの嗅覚には通じない。緋女ちゃんは親指で、城門のほうを指した。

「あの子」

 緋女ちゃんの指さす先には黒山のひとだかりがあった。第2ベンズバレンの住人たちが、最後に勇者軍を見送ろうと詰め寄せていたのだ。

「カジュ!」

 密林の木々のようなひとごみを掻き分けて、身体をひねりだしてくる女の子がいる。ナジア。彼女はひとだかりの前へ飛び出すと、ボクに目をつけ、ほとんど転びそうになりながら、息を切らして駆け寄ってきた。そしてボクの前に手のひらを差し出す。

「できた! 私、できたよ!!」

 ……は。

「うっそ。」

 と、これは素の反応。弾かれたように目を向けてびっくり。ナジアの手のひらの上では、ボクが渡したあの水晶玉が……なんの変哲もない単なる二酸化ケイ素の結晶が、穏やかな橙赤色の光を放っていたのだ。

「できてる……よね?」

「うん、できてる……。えーっ。まじかー……。」

 信じられない。ありえない。素質のある人間がちゃんとした教師の指導を受けながらやっても半年はかかろうかという課題だ。ボクですら初めて光らせるまでに6日もかかった。それを、この年齢まで文字すら学んだことがなかったド素人が、これほどの短期間で成し遂げてしまうなんて……。

 これだけで判断しきれることではないけれど、おそらく、ナジアにはかなりの魔術の素質がある。今からでも理論を学べば相当な術士になれるはずだ。そう、とりあえず基本の法語(ルーン)は絶対として、古典表敬法、エギロカーン演算学。修辞法……は向いてないかな。タイプ的に言ってガチガチに理論で固めるより神秘学方面からのアプローチのほうが伸びるかも……。

「カジュ?」

 不意に顔をのぞきこまれて、ボクはギョッとして身を引いた。

「できたよね?」

「うん。」

「だから、約束」

「は。」

「続き、教えてくれる?」

 まるで、頭の中を見透かされたみたい。

 深い深い優しさを(たた)えた彼女の目を見た、その瞬間。

 ボクの脳裏に閃光が走った。

 今こそ本当に理解した。

 まさか……。

 まさか、あれほど魔術に固執していたのは……。

 ()()()()

 ボクに……()()()()()()()()()()()()()

 ボクは勘違いしていた。ボクは分かっていなかった。何が「今でははっきりと悟っている。」だ。「ナジアのことが羨ましい」、それすらボクの本音の一側面でしかなかった。きっと本当は、最初からずっと分かってたんだ。気付いていたのに気づかないふりをしていたんだ。大事なことから目をそらし続けていたんだ。

 ボクは腕を伸ばした。

 ナジアの胸ぐらを引っ掴み。

 頭突きするほどにおでこを寄せて。

 精一杯の声量で叫んだ。

「好き。」

 それは、囁くほどの小声でしかなかったけれど。

「……みたい。ボクは。キミの。ことが。」

 ナジアは頬を紅潮させて、照れくさそうにはにかんだ。

「うん。私も!」

 

 

 ボクには夢がある。

 出陣の順番が回ってきて、ボクは緋女ちゃんと同じ馬にまたがり、第2ベンズバレンを後にした。何度か振り返ってみるたびに、こちらをじっと見送るナジアと目が合った。合ってたのかな……。いや、合ってたんだと思う。どこが目でどこが鼻なのかも分からないほど遠ざかってしまっても、彼女がボクをずっと見ていてくれてるのが分かる。

 戻ってきたら、彼女に講義の続きをしよう。教えなきゃいけないことは山ほどある。読んでもらわなきゃ話にならない本だって。他人に魔術を教える、なんてやったことがないボクだけど。弟子を取るとか、教育するとか、そんな大層なことじゃないんだ。ボクが今まで学んだことのほんの一部でもいい、他の誰かに伝えたい。そしてその誰かが、ボクから受け取ったものを人生に役立ててくれたら……それってすごく、素敵なことだって思える。

 なんか今、見えてしまった。

 唐突に、気づいてしまった。

 ボクには夢がある。

 ボクは“先生”になりたい。

 それがボクの夢だったんだ。

「よかったな、カジュ」

 ボクが前に座っているから、緋女ちゃんのアゴはボクの頭の上にある。この位置で話しかけられると、骨から直接、緋女ちゃんの声が脳髄に響いてくる。

「何も言ってませんが。」

「言わなくたって分かるよォ! いい顔してるぜ、今」

「……やれやれ。」

 目を伏せ、溜息をつくボクへ、緋女ちゃんは(いぶか)しげな視線を下ろす。ボクは心底迷惑そうに肩をすくめて見せた。

「困ったもんだ。

 うっかり死ねなくなっちゃったよ。」

 

 

THE END.



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第21話 “戦い(前編)”
第21話-01 死闘、魔王城


 

 

「避けろォッ!」

 勇者ヴィッシュの絶叫(むな)しく、

『ごお!!』

 骸骨巨人ゴルゴロドンの超巨大剣が轟き唸る!

 地を薙ぐ鉄塊。渦巻く旋風。人智を超えた膂力(りょりょく)によって振り回された剛刀が、兵舎もろとも勇者軍を粉砕する。弾ける肉片。吹き荒ぶ血風。砕けた瓦礫が嵐と化して身に突き刺さる地獄絵図へ、死霊(アンデッド)の群れが容赦なく追撃をかけてくる。

 たった一撃で先鋒は半壊。しかしこちらとて泣く子も黙る勇者軍。これしきで怯む弱卒はない。

「4番から6番、2列横隊! 一歩も退()くな!」

(おう)ッ!!』

 勇者の号令に気炎で応え、屈強の勇士が地響きとともに進み出た。鋼の筋肉を躍動させて、死霊(アンデッド)に突き込む(ほこ)と盾。両軍真正面から()み合って、骨打ち砕き血飛沫(ちしぶき)飛ばし鉄華乱れ咲く大混戦に突入した。

 ――ここは任せた。頼むぜ皆。

 ヴィッシュは眼光鈍く敵陣睨み、勇者の剣を振り上げる。

巨人(ヤツ)を狩るぞ! 俺に続けェッ!」

 精鋭中の精鋭たる勇者親衛隊を引き連れて、突入する先には鉄壁の如き骸骨巨人(ゴルゴロドン)。敵死霊(アンデッド)の軍勢をふたつに切り裂き敵陣深く侵入するや、ヴィッシュは甲高く合図の口笛飛ばす。

 ぴゅいっ!

 親衛隊が左右に割れた。横手を塞ぐ骸骨(スケルトン)を蹴散らしながら強引に戦線を押し広げ、ゴルゴロドンを両側から挟み込む。

 この1ヶ月、夜を日に継いで訓練してきた機動だ。(よど)みはない。遊撃隊は獲物にすり寄る大蛇のように巨人を包囲しながら周辺の建物の陰へ身を隠す。

 魔王城は、ベンズバレン王都の7割近い面積を潰した広大な跡地に建っている。本城天守を守る3重の防壁の間には、十余万の軍勢が生活するための兵舎、食堂、厩舎や倉庫が密集しており、実態はほとんどひとつの都市に近い。よって隠れる場所がいくらでもある、のだが……

 ――問題は隠れて何するかだろ。

 死術士(ネクロマンサー)ミュート。彼は骸骨巨人の肩に立ち、上機嫌に頬を緩めた。勇者を殺すために術式を構築しながら、その実むしろ勇者の行動にこそ胸躍らせている自分がいる。

 ――さあ来いヴィッシュ! おれをガッカリさせるなよ!

「撃て!」

 号令一下、物陰から一斉に飛び出す勇者軍。彼らの手中に握られているのは、

投石紐(スリング)ぅーっ?」

 落胆のあまりミュートは声をあげてしまった。投石を補助する極めて原始的な武器、投石紐(スリング)。威力は案外侮れないし、安上がりで習熟も容易だが、それは対人戦での話。骸骨巨人ゴルゴロドンを前にしては石礫(いしつぶて)など砂粒同然。何百発喰らおうが痛くもかゆくもない。

 それでもかまわず勇者軍は(つぶて)を投げ上げた。ミュートは溜息を吐き――

 その直後。

 ぼ!!

 軽快な音とともに(つぶて)が内側から破裂した。

「あ!?」

 ミュートの顔色が変わった。(つぶて)から噴き出したのは、赤青黄色、色とりどりの濃密な煙幕。石礫(いしつぶて)ではなく目くらまし用の煙玉(けむりだま)だったのだ。ということは狙いは――

「ぉおおおおッ!」

 背後から咆哮。ミュートが弾かれたように振り返る。煙幕を肩で切り、魔剣をぎらつかせ、矢のように飛来する英雄の影がそこにある。

 ヴィッシュ!

 なるほど、煙に(まぎ)れて刃糸(ブレイド・ウェブ)を巨人の肩に引っ掛け、巻き上げの勢いで跳躍したか。死霊(アンデッド)軍を全員まとめて片付けるには死術士(ネクロマンサー)を仕留めるのが確かに上策。だが初手から一点狙いとは強欲にして大胆不敵。これは確かに彼のやりくちだ。

「こう来なくちゃなァ! 勇者様ァァッ!」

 喜悦満面、ミュートは《鉄砲風》を発動した。魔剣が彼に突き立つ直前、勇者を猛烈な突風が襲う。空中で態勢を立て直す手段を持たないヴィッシュは、なすすべもなく弾き飛ばされる。

 が。

 ここまで全て作戦のうち。万物に絶対の《死》をもたらす勇者の剣すら、術を無駄打ちさせるための布石に過ぎない。木の葉のように飛ばされながらヴィッシュが叫ぶ真打(しんうち)の名は――

「緋女!」

「ッシャァ―――――ッ!!」

 緋色の剣が疾走した!

 飛燕の速さ。雷火の(はげ)しさ。瞬時に間合いを詰めるや壁を、屋根を、巨人の身体を蹴り(のぼ)り、敵の頭上へ(おど)り出る。狙いは一点、ミュートの首。大上段に振り上げた太刀先からうねり出るは紅蓮の炎。世の(ことわり)ごと万物を溶断する剣聖奥義、“斬苦与楽”!

『ごぐ!』

 しかし敵もさるもの。骸骨巨人ゴルゴロドンは咄嗟(とっさ)に左腕を振り上げ、炎剣を骨で受け止める。

 鉄柱の(ひし)げるような音をたて、巨人の前腕骨が斬り飛ばされる。衝撃で刃筋がわずかに()れる。その“わずか”、距離にすればたかだか拳ひとつ分の軌道のズレを完璧に見極め、ゴルゴロドンが身を反らす。

 ミュートの脳天を両断するはずだった緋女の太刀は、虚しく彼の鼻先をかすめた。

 そのまま落下していく緋女を、今度は巨人の膝蹴りが襲う。下から突き上げる丸太のような大腿骨。緋女は咄嗟(とっさ)に犬へ変身、体重を軽くし速度を上げて、紙一重で膝の横をすり抜け着地。すぐさま間合いを離してヴィッシュの隣へ駆け戻り、人間へと転じて太刀を構え直した。

「ふーっ……」

 緋女は胸に溜まった緊張を呼気に乗せて吐き出した。額から汗がひとすじ伝う。()めれば舌も(しび)れる濃厚な塩気。まるで五体に(みなぎ)る覇気がそのまま溶け出てきたかのよう。

「……やっぱ(つえ)えわ、お前」

 つい、口元が緩んだ。

 なんと素早い見切りと覚悟か。ゴルゴロドンは緋女の奥義すら(しの)いでみせた。腕一本を犠牲にして主人を守りぬいたのだ。『この命あるかぎり(あるじ)には指一本触れさせぬ』、と総身で宣言するかのように。

 恐るべき対手(あいて)だ。すばらしい敵だ! 彼とぶつかり合える喜びが、緋女の胸をときめかせる。たとえ道を(たが)えようと、亡者の姿に成り果てようと、彼は確かにゴルゴロドンだ。緋女が認め、尊敬し、愛した、誇り高き剣友なのだ……

 一方、緋女とは異なる形で、ミュートもこの戦いにたまらぬ愉悦を覚えている。

 彼は巨人の肩の上で背中を丸め、狂ったように笑い続けた。笑っちゃいけない、笑ってる場合じゃない、と思えば思うほどかえって笑いがこみ上げてくる。ほとんど痙攣と区別のつかない病的な笑いが。

「いいよお……すごくいい。まじかっこいいよ勇者様ぁ……」

 彼を突き動かすものはただ、執着。

 それこそが生命の最後のひとかけら。

 身も腐り、脳も()け、心らしきものすら風化して、それでも残った唯一のもの、妄執。今やただそれだけが、彼の()ちかけた自我をこの世に繋ぎ止めているのだ。

「おれはずっと!

 あの頃からずっと!

 ()()()()()()見たかったんだよォォーッ!!」

 絶えぬ狂笑に操られ、骸骨巨人が大地を踏み割り進み出る。緋女は流水の滑らかさで太刀を持ち上げる。ヴィッシュは(へそ)を押し固めるように息を吸い、肩を隆起させ身構えた。

「長丁場になる。集中切らすな!」

「こっちの科白(セリフ)!」

 獣の如く吼え合わせ、ふたりは敵へと跳躍した。

 

 

   *

 

 

 一方カジュは、別戦線の上空を流星と化して突き進む。

 行く手を(はば)死霊(アンデッド)軍。幾重も連なる木柵の裏へ無数にひしめく骸骨(スケルトン)弓手(アーチャー)。厩舎の屋根を突き破り次々飛び立つ骨飛竜(ボーンヴルム)。そして奥の暗がりでのそりと首をもたげるは小山の如き不死竜(ドレッドノート)

 だが数千の亡者を前にしてカジュは微塵も(ひる)みはしない。最高速で真っすぐ突っ込み、拳の中の術式を敵軍めがけて投げ放つ。

「《爆ぜる空》っ。」

 轟!

 まずは景気づけの一発。これで地上の骸骨(スケルトン)を一掃。続いて骨飛竜(ボーンヴルム)が四方八方から殺到するのを《魔法の縄》で絡め捕り、不死竜(ドレッドノート)大顎(おおあご)開けてカジュをひと()みに()まんとすれば、その喉の奥に

 ごり!!

 《凍れる(とき)の結晶槍》を叩き込む。

 脊椎(せきつい)を突き割られて不死竜(ドレッドノート)が倒れ伏す。竜の巨体に()し潰されて、何十もの肉従者(ゾンビ)が血の染みと化す。

 出会いがしらのわずか数秒で死霊(アンデッド)軍は総崩れ。制空権を得たカジュは、戦術目標を冷たい(まなこ)睥睨(へいげい)した。

 狙いは第2防壁、魔王城中枢を守る3重城壁の2枚目である。地獄の亡者を建材に、魔王の魔力を接合剤にして練り上げたこの壁は、並の石壁を遥かに上回る強度を誇る。これが立ち塞がっている限りいかな大軍でも魔王城は攻め落とせない。だが悠長にひとつひとつ城門を突破する暇も義理もない。

 ならば手はひとつ。

〔発破します。〕

 勇者軍に注意喚起の《配信》をしながら、崩壊した敵陣を一息に飛び越え、カジュは防壁に取り付いた。壁に手を突き、(まぶた)を閉じて、最高速で識閾上(しきいきじょう)領域に術式展開。この日のために半年かけて練りたあげた渾身の術――

「《暗き隧道(すいどう)》。」

 ……ず!

 どんっ!!

 地震が走る。雷音轟く。魔王城そのものを揺るがして、城壁に、数百人が横並びに通過できるほどの巨大な穴が開く。

 魔王城決戦第2の秘策、“城壁トンネル”! 魔王城だろうがなんだろうが壁は壁。ならば《暗き隧道(すいどう)》で突破が可能。無論言うは(やす)し行うは(かた)し、理論上は可能でも魔王の術を強引に打ち破るのだから至難の(わざ)ではある。だが天才カジュに充分な準備時間さえ与えれば、結果はこれこのとおり。

 このトンネルが開くのを今や遅しと待ち構えていた者たちがいる。勇者軍東面部隊1万5千。その先頭に立つ将軍は、道が開けたと見るや高々と(ほこ)を振り上げた。

「歩兵隊前進ーッ!」

 号令一下、軍勢が雄叫びあげて駆け出した。敵の残存兵力を津波のごとく()み潰し、魔王城第2層へ突入。中にいた死霊(アンデッド)軍の増援が戦列も整えきれずにモタモタしているその横腹へ、己の肉体を弾丸となして一気呵成(いっきかせい)に激突する。

 たちまち巻き起こる大混戦。骸骨(スケルトン)を大盾で突き倒し、肉従者(ゾンビ)の頭を戦槌(メイス)でカチ割り、おびただしい死体を踏み越えて、戦線を力押しに押し上げていく。

「よしっ。いい仕事した。」

 味方の快進撃を空から見下ろし、カジュは会心の笑みを浮かべた。

 彼女の任務は勇者軍別働隊のサポートである。目下(もっか)最大の脅威は四天王ミュートと骸骨巨人ゴルゴロドン。これをヴィッシュと緋女とで押さえている間に、勇者軍は部隊を分割。北門と東南門から同時に魔王城を攻め立てる算段なのだ。

 あわよくばこのまま最終防壁を突破し、魔王城中枢へ――宮殿や天守閣の立つエリアへ雪崩れ込んでしまいたい。おそらくは魔王もそこにいる。魔王さえ倒せば、たとえどれほどの損害を出そうとこの戦いは勝利なのである。

 そのために、さて、次はどこを援護すべきか……

 と、カジュが小考に気を取られた、そのときだった。

 ぞっ……

 と、異様な不快感がカジュの背筋を()い上る。この感覚は(まぎ)れもなく術式構築の気配。出どころは……

 ――上かっ。

 弾かれたよう見上げれば……不覚! 一体いつのまに上を取られたのか、太陽を背にして6つの影が上空に浮遊している。敵の術士だ。しかも奴らが構築中の術式は――《爆ぜる空》!

〔法撃する気だっ。頭上防御っ。〕

 カジュは全軍へ注意喚起の《配信》を飛ばすと同時に《烈風刃》を打ち上げた。刃と化した烈風が敵術士のひとりを飲み込み、ずたずたに引き裂く。

 だが敵は冷静だった。1人が構築中の術を破棄して瞬時に《空気圧縮》を発動。《烈風刃》の軌道を歪めて見当違いの方向へ吹き散らしてみせたのである。

 ――こいつら()()()っ。

 カジュは音を立てて歯噛みした。

 咄嗟(とっさ)の攻撃に対するこの的確な対処。それを可能にする並外れた構築速度。間違いなく一流の手練(てだれ)。やられた。今の《烈風刃》はたまたま保持していた最後の術式ストック。今からでは大技を編む時間がない。敵の法撃はもう止められない。

 それでも一縷(いちる)の望みをかけて呪文を唱えるカジュ。しかし無情にも、その構築が終わるより先に、敵術士の手から術式の光が走り出る。

『《爆ぜる空》』

 広範囲大量殺戮術の光弾が4発同時に投げ降ろされる。

 ――させるかっ。

 これに対して、一瞬遅れてカジュが発動したのは《酸欠》。広範囲の空間からごく短時間だけ酸素を消滅させる術である。上手く効果範囲にかぶせれば《爆ぜる空》等の火炎・爆発術を不発させられる……が、巻き込めたのは2発だけ。残り2発はそのまま勇者軍に突き刺さり――

 轟!!

 

 

(つづく)



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第21話-02 だから、ボクは魔女になる。

 

 

 駆け抜ける灼熱火炎と衝撃。数百の将兵が一瞬にして肉片と化し、悲鳴と怒号が荒れ狂う。混乱をきたした勇者軍へ死霊(アンデッド)が猛攻を仕掛ける。態勢を立て直す暇もないまま血しぶきが吹き上がり、先刻までの優勢が一転、勇者軍が押されだす。

 これが法撃の怖さだ。射程外から一方的に撃ちこまれる広範囲高火力の攻撃魔術は士気を大きく(くじ)く。目の前へ叩き付けられた死の恐怖には、どんな猛兵とても一時(ひととき)(ひる)む。今はどうにか持ちこたえているが、こんなことを何度も繰り返されれば勇者軍は遠からず瓦解する。

 ならば、

 ――その前に術士を片付けるしかないっ。

 思い定めるが早いかカジュは動き出した。手近な敵術士に狙いを定め、術式を編みながら一直線に上昇。急接近しつつ《光の矢》を放つ。

 敵は《光の盾》で、あっけなく《矢》を弾き……

 直後、胸から鮮血を噴いて絶命した。

 カジュ独創の暗殺術、《見えない光の矢》である。雑に放った1撃目をあえて防がせ、そちらに気を取られた隙に不可視の攻撃を差し込んだのだ。

 墜落していく仲間を目の当たりにして、残る4人の術士たちの目がカジュに集中した。彼らはカジュを取り囲むように散開し、それぞれに術式を編み始めた。達人クラスを相手に4対1。絶体絶命というところだが、

 ――食いついたな。

 これこそカジュの望んだ状況だ。まず我が身を(おとり)にして勇者軍への法撃を止める。そのうえで時間をかけて敵の数を削る。言うほど楽な仕事ではない。が、ヴィッシュ(ボス)に見込まれ任されたからには石にかじりついても成し遂げる。

 カジュが飛ぶ。その軌道を先読みして敵が攻撃魔術を撃ち込んでくる。《炎の息》《光の矢》《刃の網》そして《闇の鉄槌》。性質の異なる4種の術を同時に繰り出し対処を困難にする鉄板戦術。並の術士ならこれで一巻の終わり。だがあいにくカジュは並ではない!

 《水の衣》で火を弾き、射線を読んで《矢》をかわし、網を《鉄槌》で弾き飛ばして《闇》を《鋼の意思》で受け止める。必殺の布陣をあっさり破られ一瞬たじろぐ敵へ、カジュは甲高い風切り音とともに一瞬で肉薄。

 術士の弱点は接近戦だ。ゆえに最も有効なのは至近距離からの――

「《死神の鎌》っ。」

 すぱんっ!

 軽快な音を立て、杖から伸びた月色の刃が敵の首を()ね飛ばす。すぐさまカジュは翼を(ひるがえ)し次なる敵へ急接近。光の大鎌を振りまわし敵の胴へと叩き込む。このタイミング、この間合いなら術士にこの斬撃を避ける(すべ)はない。

 ……が。

「うっ……。」

 呻くカジュの目の前で《鎌》が止まった。

 敵が発動したもうひとふりの《死神の鎌》が、カジュの《鎌》を受け止めたのである。

 刃と刃が絡み合い、銀白の火花が目を突き刺す。(まぶ)しさに思わず目を細めながら、眉間に(しわ)を刻むカジュ。《死神の鎌》は()()()()()が独自に開発したもので、その術式は完全な機密事項。となればこの術士たちの正体は――

 などと考えている暇はない。つばぜり合いでカジュの動きが止まったのを良いことに、他の連中が術を構築し始める。

 ――ってオイっ。

 その呪文を耳にしてカジュは顔色を変えた。これは《爆ぜる空》! 今、カジュは敵とほとんど密着状態なのである。こんな間合いで発動すれば仲間はおろか、術者自身すら巻き込まれかねない。

 ――自爆辞さずか、イカれてるっ。

 カジュは《鎌》を押し出し眼前の敵を突き飛ばし、即座に術式ストックから返し技を発動した。

「《雷神》ッ。」

 自分の周辺広範囲へ静電気を撒き散らす術。派手な名前とは裏腹(うらはら)に威力は低く、一瞬痺れさせる程度が関の山。攻撃としては心許(こころもと)ないが、呪文詠唱を妨害するならこれで充分。

 突然走った刺すような痛みに敵術士たちは悲鳴を上げた。時間稼ぎは成功。カジュはすぐさま発動中の全術式を破棄、超高速で追撃の術を編む。

 だがそれが発動せんとした矢先、敵の姿が掻き消えた。《瞬間移動》だ。状況を不利と見て、一斉に後退したのだ。

 再び敵が出現した位置は、はるか遠方の死霊(アンデッド)軍の頭上。完全に有効射程外。いったん仕切り直すしかない。

 カジュは作りかけの術式を破棄して風に流し、敵影を睨みながら溜息をついた。

「あーあ……。

 完っ全に忘れてたよ、()()()のことを……。」

 カジュにはもう、敵術士たちの正体が読めている。おそらく彼らがかぶっているフードの下には、ネズミを模した頭部が隠れているはず。(ローア)を人工的に再現する計画の副産物。万物の霊長とされるネズミを合成することで、霊的能力を極限まで強化した人造人間。正式名称、偽獣法師(イミタティオン)

 つまり奴らの背後の黒幕は――

「出てこい。

 どこかで見てるんだろッ。」

流石(さすが)! お見通しだなァ、カージューくんっ!〕

 耳元にキンキンと響く、ふざけきった《遠話》の声。浮遊する偽獣法師(イミタティオン)たちの頭上から、一匹の飛行魚が舞い降りてくる。その背に(しつら)えた革張りの座席に足など組んで悠然と腰掛け、ひとりの男がブンブカと、カジュに向けて手を振っている。

 この距離では表情までは読み取れない。だが奴がどんな不愉快なニヤケ面をしているか、目に見えなくとも目に浮かぶ。清潔なシャツと上質のスーツ、そして満面の作り笑いを武器にして、戦争の中にさえ営業をかける筋金入りの“企業”戦士。企業(コープス)強行市場開拓部長。いまや魔王軍四天王。金儲けのこと以外なにも考えていない究極の守銭奴。

 すなわち、“奇貨”のコープスマンである。

 コープスマンは指のひと振りで偽獣法師(イミタティオン)に何やら指示を飛ばした。声が急に聞こえやすくなったところを見ると、《遠話》の音質調整でもさせたのだろう。それはまあ良いにしても、あの態度の尊大なことといったら。

〔“魔王計画”は僕の(きも)いりでねぇ。苦労して社内派閥をまとめたのに頓挫させたくないんだよね〕

「あっそ。関係ないね。」

〔そうでもないさ。カジュくん、会社に戻って来ないかい?〕

「……は。」

〔君は大きく成長した。これほどの実績があれば以前より遥かにいい待遇で働ける。最新の実験データや充実のライブラリにもアクセスし放題! 最近画期的な論文をものしたそうじゃない? 君の研究も、きっとはかどると思うよ〕

「寝言は寝て言え。」

〔本気さ! 僕のそばへ戻っておいで。今なら良好な関係が築けるはずだ。僕は君を買ってるんだよ、カジュくん!〕

 乾いた風が、そっと髪をなぞって流れていく。

 死闘を続ける勇者軍の咆哮が、他人事(ひとごと)のように靴の裏へ虚しく響く。

 地を埋め尽くす亡者どもの(うごめ)きすらも、今はただ遥かに遠い、()いだ海面のうねりのよう。

「どうして今さら……そんなことが言えるんだ。」

 奴は聞いていたろうか。

 長杖を、悲痛に握りしめるカジュの手の、小さな骨が(きし)むのを。

 少しでも感じていたろうか。

 喉から染み出るこの呪詛の、嗚咽にも似た切なさを。

「『死んでほしくない』って……。

 『実の子のように思ってる』って……

 あの時ボクに、()()()()()()くせにっ……。」

〔今でも思ってるけど、それが何か?〕

 ――()()!!

 激情は閃光。決断は疾風。怒れば怒るほどに氷の冴えを見せるカジュの術式が今、かつてないまでの制御精度で戦場一面に展開された。地面、城壁、敵兵、死体、舞い散る砂礫(されき)一粒子から空気の分子に至るまで、その場に存在する全物質に一瞬で刻み込まれた超高密度積層魔法陣。「えっ……」偽獣法師(イミタティオン)どもがヒゲを震わす。〔まずい〕コープスマンが顔色を変える。

〔対処! 早く!〕

 コープスマンの絶叫に応えて偽獣法師(イミタティオン)が動き出すが、もう遅い。

()()()()、《世界滅亡の序曲(オーヴァチュア)》っ。」

 その瞬間、滅びの光がその場の全てを無に飲み込んだ!!

 

 

   *

 

 

()()()を使っただと」

 魔王は弾かれたように顔を上げた。

 魔王城、地下研究室――魔王は最前からこの静かな密室にこもり、地上の戦況から目を(そむ)け、薄暗闇の中でひたすら“真竜(ドラゴン)”の最終仕上げ作業に没頭していた。何もするな、とミュートからきつく(いまし)められていたためだ。

 一見勢いづいているようだが、勇者軍の地力は魔王軍より遥かに劣る。小賢(こざか)しく策を(ろう)するのも、数的質的な不利を補うためだ。長期戦になれば魔貴公爵ギーツの魔王軍本隊が戻ってきて、あらゆる努力が水泡に帰す。この現実を痛いほどに自覚している勇者ヴィッシュは、必ず短期決戦を挑んでくる。

 つまり勇者の狙いは、戦場に姿を現した魔王を集中攻撃しての一発逆転、これ以外にない。

 ゆえに魔王は引きこもっていればよい。時間さえ稼げば勝てる勝負。何があっても出てくるな! そう言い聞かされた魔王は、友の忠言を不承不承受け入れたのだ。

 だが……胸が、ざわつく。

 魔王は憤然と立ち上がった。真竜(ドラゴン)の脊椎から引き抜いた手指を、どす黒い血脂が伝い落ちる。握りしめた指の隙間から、肉の欠片が滑り出る。このとき魔王の心を(むしば)み始めたのは、等身大の素朴ないらだちだった。魔王の地位も崇高な計画も関係ない。不実の恋人に対して抱く、あたりまえの人間としての生々(なまなま)しい不平不満だったのだ。

「僕を叱った君が……どの口で?」

 

 

   *

 

 

「この口で。」

 カジュは数度の深呼吸で息を整え、きっぱりとそう言い切った。

 最終禁呪の爪痕は、カジュの眼前に深々と刻まれている。まず4人の偽獣法師(イミタティオン)()()()()()()。地上の建物、地を埋め尽くすほどにひしめき合っていた死霊(アンデッド)ども、果ては地盤、大気、()()()()までもが球形に(えぐ)られ滅尽している。後に残ったものはただ、(しん)なる(くう)……そこへ周囲の気体や光子が細氷(ダイヤモンドダスト)めいた光耀(こうよう)を伴いながら流れ込んでいく。

 これが《世界滅亡の序曲(オーヴァチュア)》の作用。この世の全概念が本質的に有している「自分はここに()る」という認識――すなわち“世界”を否定し、滅尽させる。ゆえにこの術を受けた事象は存在することをやめ、「存在しない」という概念すら存在しない、完全なる(くう)へと帰着するのだ。

 ひとが扱うには禍々しすぎるこの禁呪は、《悪意の皇》ディズヴァードの力を借りて発動するものだ。かつて魔王が王国ひとつを消してみせたのに比べれば、規模は数億、いや数兆分の一でしかない。しかし術の原理は同じである。

 《悪意》の下僕(しもべ)()した魔王(クルス)をあれほど鋭く咎《とが》めたカジュが、自ら《悪意》を道具に使う。この矛盾に、きっと魔王は今頃()()()()しているだろう。

 しかしカジュは、堂々と胸を張る。

 確かに、わきまえることを知らなければ、ひとは愛すべき幻想(ファンタジー)にさえ()まれて己を魔物に変える。

 だが、()み込まれさえしなければ。

 自分と世間から目を()らさず、両者を繋ぎ合わせ続けていれば。

 ひとは、《悪意》すら正義の力に変えられる。

 それは正義を《悪意》の沼に沈めることとは――違う。

「だから、ボクは魔女になる。

 なんだって使うよ。キミともう一度向き合うために……。」

 切ない響きを伴って漏れ出た断固たる決意。それを塗り潰さんとするかのように、遠くから不気味な重低音が押し寄せてきた。魔王城防壁に開いた大穴の向こうから、膨大な数の骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)(うめ)き声を木霊(こだま)させながら雪崩れ込んできたのだ。

 さらに、魔王城天守閣のバルコニーから、やぶ蚊の群れのような影がひとかたまり、《風の翼》で飛び立ちこちらへ向かってくる。偽獣法師(イミタティオン)の増援、数はざっと30人余り。

「おかわりも手配済みか。手際のいいことで。」

 カジュは気楽に肩をすくめた。この反撃の指揮を取っているのはコープスマンだろう。奴は死んではいない。《世界滅亡の序曲(オーヴァチュア)》が発動する直前、《瞬間移動》で逃げたのを確かに見た。今頃はおそらく魔王城天守閣あたりに避難して、安全圏から部下をアゴでこきつかっているはずだ。

 ――よろしい。肉迫してやろうじゃないの。

 カジュが杖を水平に構える。刃物のように細めた目のそばで、術式の光がバチリとひと()ぜ。

〔前へ出ます。フォローよろしく。〕

 《配信》に応えた味方の轟くような鯨波(ときのこえ)が、追い風となってカジュの背を()した。

 

 

(つづく)



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第21話-03 膠着

 

 

 かくして緒戦は勇者軍の快勝に終わり、戦況は次なる局面へ移行した。

 出会いがしらの攻防で、勇者軍は魔王城3重防壁のうち2枚目までもを突破。ますます勢いづく勇者軍に対して、死霊(アンデッド)軍は兵力の再配置に大わらわとなった。ひとつの勝利が優位をもたらし、優位がさらに有利な状況を産む、正の連鎖の典型例。ヴィッシュの速攻策は8割がた図に当たったと言ってよい。

 しかし、ここからが……長かった。

 最終防壁まであと一歩のところで、勇者軍はビタリと足止めされてしまったのだ。

 停滞の原因は、死霊(アンデッド)どもの桁外れのしぶとさにある。死霊(アンデッド)を完全に沈黙させるには、体内の魔法力線を物理的に粉砕するしかない。それには背骨が粉々になるまで延々(えんえん)打撃を叩き込まねばならない。そこで次善の策として、手足のみを潰して無力化する対処法を採用した。完全に倒さずとも戦闘能力さえ()げば実質的には撃破も同然というわけだ。

 これでずいぶん楽にはなるが、それでも生身の人間を相手どるよりは遥かに面倒である。生きた人間なら頭や胴に一撃でも攻撃を通せばそれで終わるものを、足を砕き、腕を砕き、場合によってはアゴも砕いて……と念入りに処置をしておかねばならない。この一手間二手間の積み重ねが、将兵の疲労という形で少しずつ(あら)わになっていく。

 さらに厄介なことに、敵には死術士(ネクロマンサー)ミュートがいる。彼は開戦以来かたときも休まず死霊(アンデッド)製造の術を維持し続けている。ゆえに味方に死人が出れば、それがすぐさま死霊(アンデッド)と化して敵に回ってしまう。数の上でも精神的にも、これは(つら)い。

 必然的に、損害を極力避けようという意識が生まれ、安全重視の立ち回りがさらなる停滞をもたらす。

 こうなると、緒戦の勝利がかえって悪い方に働きさえする。「敵は弱い」「いつでも勝てる」という侮りが、本来抱くべき焦りを打ち消してしまったのだ。気付かぬうちにじわじわと進軍速度が(にぶ)り、機動が緩んだところへ死霊(アンデッド)の増援が押し寄せて来、その対処に個々の将兵が忙殺されているうちに、いつの間にか状況は……完全な膠着(こうちゃく)

 もちろんヴィッシュは、矢継ぎ早に飛んでくる観測部隊からの《遠話》によって、この状況を正しく認識していた。打開策も分かり切っている。まずミュートを討つこと、これしかない。

 だが……

 

 

   *

 

 

「ッらァ!!」

 沸騰した汗を飛び散らせつつ、緋女がゴルゴロドンの腕を切り落とす。巨人の攻勢が一瞬緩む。好機と見たヴィッシュが、すかさず勇者の剣を突き入れる。

 だが彼の刃が届くより先に、ミュートの術が発動した。

「《兀骨鳳嘴(ゴツコツホウシ)》!」

 死術士(ネクロマンサー)の呪文に応え、巨人の腕の断面から、亡者の骨が(あふ)れ出る。

 これは一種の召喚術だ。魔界(ドリームランド)と現世をアビスホールで橋渡しし、《転送門(ポータル)》経由で地獄の底から亡者どもを引きずり出す。傷口から噴出した何十人分もの白骨は、伸び上がり、絡まり合い、融け合い、固着し、巨人の新たな腕と化す。

 かつてミュートが自身に用いた再生の術。それを巨人ゴルゴロドンに(ほどこ)しているのだ。

 腕を取り戻した骸骨巨人はすぐさま攻撃を再開した。怪物並みの間合い(リーチ)と達人の技量から繰り出される猛攻は、ほとんど物理的な結界に近い。この刃の嵐を()(くぐ)って止めの一撃を差し込むことは、ヴィッシュの腕では困難……いや不可能。

 ――クソ! またか!

 唇を一文字に結び、断腸の思いでヴィッシュは後退した。

 絶好のチャンスを逃したのはもう6度目。ヴィッシュと緋女は、すでに6度もゴルゴロドンを追い詰めている。あと一撃、たった一撃、巨人の脊椎(せきつい)に緋女の炎剣か勇者の剣を叩きこめば完全に命脈を断つことができる。

 なのに、その一撃が入らない。

 あと一息というところで、ミュートがたちまち巨人を回復させてしまう。

 この決戦のために準備していたのはヴィッシュたちばかりではない。ミュートもまた、勇者たちの武器に対抗するため策を練り続けていたのだ。その解答が再生術《兀骨鳳嘴(ゴツコツホウシ)》と骸骨巨人ゴルゴロドンの相乗(シナジー)効果。“勇者の剣”や“斬苦与楽”は防御不可能。なら、斬られてから再生すればいい。

 もちろん負けないだけでは勝てないが、勇者軍最強のふたりを足止めできれば実入りは充分。長引けば長引くほど戦況が死霊(アンデッド)軍有利に傾くことは先述の通り。いずれは各地の魔王軍勢力も戻ってくる。ミュートにしてみれば膠着(こうちゃく)は願ったり叶ったりなのである。

 こうして互いに決め手を欠いたまま、戦い続けること――実に3時間。

 いつ終わるとも知れない真剣勝負が、ふたりの体力を着実に()ぎとっていく。あの緋女ですら水でもかぶったかのように全身汗みずく。ヴィッシュなどは完全に息が上がってしまっている。

「やりづれーなあ」

 緋女は疲れた口元になんとか笑みを作り、隣のヴィッシュへ悪戯っぽく流し目を送った。

「どっかで見たようなやりくちじゃん?」

 ヴィッシュにはもう軽口を返す余裕もない。ただ喘ぎながら頬を引きつらせるばかり。

 緋女の言うとおり。味方の持ち味を引き出し敵方の強みを殺す、この立ち回りはまさしくヴィッシュの得意技。当然だ。彼を一人前の戦士として仕込んだのは、あのミュートなのだ。戦術も発想も似ていて当然。ヴィッシュにはミュートの考えが手に取るように分かる。相手もまた同じだろう。互いに手の内を知り尽くしているからこそ、余計に勝負が長引いてしまう。

 ――まずいな……

 限界に達しつつある疲労に、焦燥までもが追い打ちをかけていく。

 

 

   *

 

 

 そしてさらに半時間。

 遅々として進まぬ作戦が勇者軍全体の意気を鈍らせ、揺らいだ闘志の隙間に不安がそっと(くさび)を差し込む。一進一退の攻防は、今や緩やかな後退に姿を変えはじめていた。

 ここへきてようやく勇者軍の武将たちも状況に気付きだした。自分たちは思ったほど勝てていない、という焦りが()らぬミスを引き起こす。鉄壁のように立ち塞がる死霊(アンデッド)軍に、性急な攻撃を仕掛けて被害だけが増えていく。

 ここでもう一手何かがあれば、一気に形勢が傾きかねない……そんな最悪のタイミングで、最悪の一報が全軍に電流を走らせた。

〔王都北西に敵増援!!〕

 ――まずい! 早すぎる!!

 《遠話》を聞くなりヴィッシュは顔色を変えた。彼の計算を根底から(くつがえ)したのは、よりにもよって最強の敵。

〔ドラゴン旅団……

 四天王ボスボラスですッ!!〕

 

 

「勝ったァッ!」

 ミュートの喜声(きせい)が戦場を走る。最強四天王ボスボラス! 奴の人間性は心底嫌いだし、一度殺されかけた個人的恨みもあるが、その実力は文句なしに魔王軍最強。さらには彼が率いるドラゴン旅団はわずか500で魔王軍10万に匹敵するほどの精鋭である。

 勇者軍は今、死霊(アンデッド)軍と正面衝突しているところ。その背後を一騎当千のドラゴン旅団が()けば、文字通り勇者軍は壊滅する!

 ……が。

 ここで事態は誰も予想だにしなかった方向へ転がりだした。

 魔王城を目前にして、ドラゴン旅団が突如転進。小山の山頂に位置取ると、あろうことか、そこに腰を据えて陣地を設営しはじめたのである。

「……は?」

 ぴく。と、ミュートの頬が引きつった。

 

 

   *

 

 

「ボスぅ。ホントにいいんスか? 加勢しなくて」

 ドラゴン旅団副長コブンは首を(かし)げる。彼の背後では竜人兵が忙しく駆け回り、土木作業に精を出している。柵を立て、天幕を張り、土を掘って(かまど)や便所の準備をし……と、完全に長期戦の構えである。

 確かにこの小山は、魔王城の死闘も(たなごころ)にあるように観測でき、野戦築城にはもってこいの地形ではある。とはいえミュート率いる死霊(アンデッド)軍はどう贔屓目(ひいきめ)に見てもジリ貧状態。それを尻目にのんびり穴掘りしていてよいものか?

 至極もっともなコブンの疑問を、しかし四天王ボスボラスは一笑に付した。

「ハ! 素直だけじゃあ生き抜けねえぜ、コブンちゃん」

「ってえと?」

「加勢して何のメリットがある」

「じゃあ魔王様を裏切るんで!?」

「それを馬鹿正直ってんだ。

 いいか? オレ様の見立てじゃあ、勇者と魔王はほぼ互角だ。このまま戦闘が長引けば双方グダグダに疲弊する。どっちが勝つにせよ余力は残らねえ……」

「あ、そっかァー! そこで乱入! 勇者も魔王もブッ殺しゃあ……」

「「世界はぜんぶオレらのもの!!」」

 声を揃えて高笑いするふたり。コブンは胸の前で揉み手などして、絵に描いたような(へつら)いようである。

「さっすがボス! 発想がゲスいっ!」

「おだてるなって。まァ、そういうわけだから、しばらく適当に遊んでろや」

「えっへへへぇ……そんじゃまあ、お言葉に甘えて……」

 

 

 コブンが足を向けたのは、戦陣の奥にいち早く建てられた天幕である。見れば、既に2、3の竜人兵たちが助平(すけべ)(づら)を揃えて列をなしている。

「あっ、お前ら! サボってんじゃねーぞ」

「サボりませんよォ、ボスに殺されちまう。オレら大急ぎでノルマ片付けたんスから」

「好きだね、お前らも……」

「コブンさんだって」

 と、顔つき合せて下品に笑う。

 彼らの目当ては“お姫様”。以前ミュートへの捧げ物として送られてきたところを竜人に捕縛された、あの哀れな少女である。

 あの日の輪姦は半日にも渡って続いたが、それでもなお彼女の地獄は終わらなかった。あれ以来、竜人どもはどこへ行くにも彼女を連れ回し、暇さえあれば玩具(おもちゃ)にしている。姫君のために専用の天幕すら用意され、即席の娼館に竜人が我先にと押し寄せる。夜も昼も絶え間なく響き続ける()()()()。少女には、性器の乾く暇さえなかった……

「まあしょうがねえか。あの抱き心地を味わっちゃあ……」

「なんともいえず、こう、ぷにぷにっとしてねえ。たまらない抱き心地で……」

「ウラガナガルがヤりすぎて腰抜かしたって本当?」

「テントでくたばってますよ……おい! ちょっと長えぞ、早く替われよ」

 いらだって天幕を持ち上げてみれば、中からムワ……と漂い出てくる濃密な熱気と体臭。大岩のような竜人の下に組み敷かれ、姫君が、裸の肢体を汗に湿らせ、じっと、濡れた目をコブンたちへ向けてくる……

「だめだ」

 下半身からこみ上げてくる欲情に突き動かされ、コブンは、前の男がまだ果てていないのを承知の上で天幕へ踏み込む。

「我慢できねえ。皆でやろう」

 

 

   *

 

 

「あ……ンのドチンピラァァァァァ!

 露骨なマネしやがってェェーッ!」

 ミュートは激怒にまかせて頭を()(むし)る。あまりの勢いに肉まで(こそ)ぎ取ってしまう。包帯の隙間から露出した頭蓋骨が粘質の腐血にまみれて痙攣している、それに気づかぬほどの猛烈な怒り。無理もない。将としては勇者軍の圧力をひとりで支え、戦士としてはヴィッシュと緋女を相手に粘り通してきた彼だ。待ちに待った援軍の身勝手なふるまいが逆鱗に触れるのも当然のこと。

 だが、己の怒りを制御できなかったのは大失態だ。ヴィッシュはミュートの絶叫を当然聞いた。そして瞬時に状況を悟った。

 ――布石が活きたか!

 第3の秘策、“ボスボラス造反”。開戦前にさんざん(あお)ってきた魔王軍内の軋轢(あつれき)は、ひとりミュート失脚のみを狙ったものではない。最終決戦の土壇場でボスボラスが第三勢力となってくれることを期待してもいたのだ。

 もちろんボスボラスが思い通りに動くかどうかは運次第。正直に言って「あわよくば」程度の不確かな策でしかなかった。これは僥倖(ぎょうこう)。思いつく限り四方八方に打っておいた布石のひとつが活きて、勇者軍は九死に一生を得た。

 ならばこの好機に――

「踏み込め! 緋女!」

「ッシャアァーッ!!」

 稲妻と化して飛び込む緋女。裂帛(れっぱく)の気合と共に繰り出された太刀が、巨人の(すね)へ喰いかかる。

 対して巨人は迷わず前進。骨の髄にまでこびりついた武士の本能が、亡者ゴルゴロドンを突き動かした。正解である。神速の攻め足を持つ緋女を相手に、半端な退()きは愚の骨頂。むしろ自ら前へ押し出て、力と力のぶつかりあいに持ち込んでこそ勝機はある。

 ところが、ゴルゴロドンに迷いはなくとも、彼を支配するミュートの方が迷ってしまった。

 ――ボスボラスはもうアテにならねえ! ここで粘る価値あるか!?

 長年(つちか)った兵士としての役人根性が、彼をして道を見誤らせた。優れた戦術家であればこそ、ミュートは反射的にメリットとデメリットを天秤(てんびん)にかけた。ここで踏ん張って魔王軍本隊の到着を待つか? いったん後退・再編成して反撃するか? 悩んだ挙げ句、彼は選んでしまった。最も無難で損害の少ない道を。

 ――下がれゴルゴロドン! 一度退くぞ!

 この()()を、たちまちヴィッシュが厳しく(とが)める。

 支配者の命に従い一歩後退するゴルゴロドン。そのふくらはぎへ、

 ガッ……

 と、不可視の糸が引っかかる。

 ――刃糸(ブレイド・ウェブ)!?

 驚愕にミュートが目を引き()く。彼の思考と選択を完璧に読み切りヴィッシュが瞬時に張った罠、ワイヤートラップ。ゴルゴロドンはまともに足を取られて倒れはじめる。

 そこへ、

 ――情けねえ!

 緋色の炎が肉迫する! 斜めに(かし)いだ強敵(とも)の身体を一直線に駆け上り、緋女は太刀を振り上げる。その刀身に赫赫(かくかく)(たぎ)るものは怒りの業火。

 我慢ならない。見ていられない。ゴルゴロドンなら、本当の彼なら、絶対ここで退()いたりしない。勝負を逃げるはずがない。それが今、ミュートごときに操られ、メリットだのデメリットだのとつまらぬ邪念に気を取られ、(けん)(おか)さず()えても()たさず、安全第一のくそつまらない戦いしかできないデク人形に()とされて、唯々諾々(いいだくだく)と暴力の刃を振っている!

「それがテメーの()()()()()()かァ―――――ッ!!」

 一閃。

 激情の炎が、剣友(ゴルゴロドン)の頭蓋を縦一文字に両断した。

 

 

(つづく)



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第21話-04 サイレントライン

 

 

『ご……る……!』

 巨人が倒れる。大の字に投げ出された巨大な腕が兵舎の屋根を押し潰す。地響きとともに舞う砂塵の奥で、赤い眼光が数度(かな)しく(ままた)き――消える。

 物言わぬ(むくろ)へと(かえ)った親友の、頬骨のそばに緋女は降り立つ。羽毛のように柔らかに、慈しむように穏やかに。巨人殺し(ジャイアントキリング)の再現を()の当たりにして勇者軍は興奮を一気に沸騰させる。嵐のような称賛が渦巻き緋女を包み込む。しかし緋女は一顧(いっこ)だにしない。ただ眼をじっと爪先へ向け、太刀の切っ先を砂に落として、どこかくすんだ緋色の髪を虚しく風に揺らすのみ。

 言葉は無い。

 必要ない。

 (はがね)の如き屈強の背が、隆々(りゅうりゅう)膨らむ雄々しき肩が、常軌を(いっ)した熱量で砂すら融かしはじめた炎の剣が、百万言(ひゃくまんげん)を費やすよりも(なお)雄弁に物語る。焼け付くような激情と(あい)。握った(つか)(きつ)(きし)ませ、暗雲の湧き上がるように振り返り、怒りに燃えた灼熱(しゃくねつ)の眼で背後を屹度(きっと)刺し穿(つらぬ)けば、そこに(ゆる)せぬ(かたき)がひとり。巨人の肩から振り落とされ、術の発動も間に合わぬまま地面に(したた)か打ち付けられて、ようやく今、震えながら身を起こした不死の術士――

 ――ミュート。

「オォォォアアァァァァァァアッ!!」

 緋女が疾走(はし)る! 緋女が咆哮(ほえ)る! 一陣の熱風と化して吹き寄せた緋女の太刀が縦に横にと閃き冴える! わずか一瞬、時間にして百分の一秒にも満たぬ刹那の果てに、ミュートは七つの肉片と化して腐血とともに破裂した。破裂である。緋女の太刀があまりに速すぎ、激しすぎ、斬られたミュートが爆発的に弾け飛んだのである。

「ぐっ」

 頭の右半分と右肩のみになったミュートが、くぐもった声を漏らす。最前から構築し続けていた術がようやくこのとき発動。《転送門(ポータル)》……異界を経由して長距離を移動する禁呪。空中へ開いた闇色の門の中へ、ミュートの肉の数片が飲まれて消えた。

 

 

   *

 

 

「っが!」

 魔王城第3防壁……その見張り塔のひとつへ転移したミュートの肉片は、空中の《転送門(ポータル)》から投げ出されて床へ潰れ落ちた。すぐさま全精力を傾けて肉体の再生にとりかかる。地獄から亡者を引きずり出し、これを練り上げて身体の部品と成す。こんな邪法に頼れば亡者どもの拒絶と抵抗が激しく魂を掻きむしり、生皮を()ぐような苦痛に絶え間なく(さいな)まれることになる。頭、首、胸、肩から腕……拷問のようにゆっくりと襲い来る激痛。ようやく口をきけるまでに再生が進んでも、飛ばすのは薄汚い唾罵(だば)ばかり。

「クソッ……クソォッ……! クソッ! クソッ! クッソがァァーッ! どいつもこいつもっバカどもが! おれ以外全員バカばっかりだクソがァァッ!!」

 (わめ)き、(ののし)り、呪いの言葉を()き散らし、ようやく再生できた上半身で、見張り塔の胸壁(パラペット)()い登る。

 痙攣(けいれん)する(まぶた)を気迫でこじ開け見下ろせば、戦況は最悪だ。巨人とミュートを撃退したヴィッシュたちは精鋭を引き連れ第一層西方面を前進中。第二層南東方面では、カジュが企業(コープス)術士部隊と互角の競り合い。そして勇者軍公称10万が西門、北門、南東門の3ヶ所から死霊(アンデッド)軍を踏み潰しつつ押し寄せてくる。

 このまま行けば、西と北の敵軍はほどなく第2城壁を突破し、中の死霊(アンデッド)軍を前後から挟撃し始めるだろう。おそらく、もってあと半時間。その前に敵の侵攻を遅滞させねばならないが、それには機動力のある大型死霊(アンデッド)が必須。ところが頼みの綱の不死竜(ドレッドノート)骨飛竜(ボーンヴルム)は既に東側戦線に投入済みで、しかもカジュひとりを相手に大損害を受けている。

 ――ダメだ。戦力がまるで足りねえ。

 ここまで接戦を演じていたかに見える死霊(アンデッド)軍だが、実のところ余裕はない。すでに予備戦力まで使い果たし、継戦能力の限界に達していたのだ。とはいえ苦しいのは勇者軍とて同じこと。ここでもうひと支えできれば、いずれ援軍が……魔貴公爵ギーツ率いる魔王軍本隊や四天王たちが戻ってくる。一気に形勢逆転できる。そこまで耐え抜きさえすれば。

 戦力だ。手駒が()る。敵の快進撃に(くさび)を打ち込めるだけの実力を備えた、四天王と同等以上の手駒が……

〔僕が出よう〕

 その時、低く沈んだ少年の声が、ミュートの耳にそっと流れ込んだ。

 

 

   *

 

 

 魔王城地下の研究室で、魔王は屹度(きっと)地上を(にら)み上げた。彼は《真竜(ドラゴン)》の製造作業に一段落つけ、手指の血汚れを洗い落とし、防御の呪文を縫い込んだ戦闘用の黒衣に着替え、すでに万端準備を整えている。魔王の目に揺らめくものは、暗い暗い怒りの炎。

「雑兵の10万ごとき相手じゃない。僕が戦えば済むことだ」

〔ダメだ〕

「なぜだい? 合理的な理由があるなら聞きたいね!」

〔お前ともあろう者が、そんな(とげ)のある言い方してるからだよ!〕

 

 

   *

 

 

 ようやく再生しかけた脚で立ち上がりながら、ミュートは口の端に優しく笑みを浮かべた。よろめき、胸壁(パラペット)を支えに踏みとどまり、慎重に慎重に膝と腰を伸ばしていく。おかしな形に曲がって癒着していた関節が、骨の爆ぜる音を立てながら、どうにか動かせる程度に(ほぐ)れだす。

「なあクルス。お前気付いてねえだろ? 今、自分がどんだけ動揺しているか。

 一見常に冷静沈着、何事にも動じないようでいて、お前は誰より繊細だ。今までずっと、細かい出来事にイチイチ傷ついてきたじゃねえか。

 ヴィッシュはそのへんちゃーんと心得てるぜ? だから力ではなく心を攻めた。お前を焦らせ、戦場に引っ張り出すために。おそらくは一撃必殺の罠を仕掛けたうえでな。

 分かるか?

 勇者の剣や剣聖奥義が奴らの手に渡った時点で、魔王(おまえ)は無敵でもなんでもねェんだ」

〔だから僕に見捨てろと言うのか!?

 たったひとりの親友が、なぶり殺しにされているのを!?〕

「そのとおりだよ!!」

 ミュートは天を仰ぎ見て声高に呪文を編み始める。皮肉だ。“たったひとりの親友”……友を守りたい一心で魔王が発した悲痛な叫びが、かえってミュートの心に火をつけた。

「あるじゃねえかァ! 兵隊のタネが、ここによォ!」

 振り上げた右手に狂気の赤光をまとい、手刀を胸壁に突き入れる。鋼鉄を凌駕する強度を持つはずの亡者の壁が、煮凝り(ゼリー)のように柔らかに彼の腕を飲み込んでいく。これは彼独自の死術(ネクロマンシー)。死骸に自身の一部を《融合》させて、歪んだ生命を吹き込む禁呪。

 魔王城の防壁は、魔王が地獄から引きずり出した亡者によって出来ているのだ。つまりは死体。数え切れぬほどの死体の山。これを材料にすれば造れる。死霊(アンデッド)兵を、その気になれば何百万でも。

〔やめろミュート! それはただの死体じゃない。《死》の御許から《悪意》によって収奪された(けが)れの(おり)、いわば《悪意》の結晶だ。制御しきれるものか! 君の方が飲み込まれるぞ!〕

 魔王の警句をミュートは肌で実感している。一寸深く亡者の中へ分け入るごとに、全身を恐るべき激痛が貫く。爪を無限に鉗子(ペンチ)で剥がれるような。目玉を刃物で何百回も(えぐ)り取られ続けるような。これは肉体ではなく心が喰い破られていく痛み。少しでも気を抜けば待っているものは魂の破滅だ。

 それでも退()けぬ勝負なら――笑って強がるほかはない。

「オタオタしてんじゃねーよ、大将。

 王様ってのはなぁ……

 民が死のうが……

 国が滅ぼうがっ……!

 後ろの玉座にドッシリ構えて!

 他人(ひと)をコキ使うのが仕事だろうがァーッ!!」

 赤光がミュートの全身から(ほとばし)る。光はうねり、分岐し、蔦葛(つたかずら)の如く物見塔の外壁を()い降りて、魔法力線を亡者どもの中へ刻み込んでいく。やがて重々しい地響きと共に、塔そのものが(うごめ)きだす。緩やかにしなり、高く伸び上がって頭をもたげ、束縛の鎖を引きちぎるように周囲の城壁を蹴散らして、一個の巨大な死霊(アンデッド)となって進み出る。

 その姿はさながら、妄執を糸として()りあげた狂気の縛縄(ライン)。対峙する全ての者に死の沈黙(サイレンス)を強いる大蛇。

 名付けて、“妄黙の骨蛇(サイレントライン)”。

(つら)けりゃ目を塞いでな」

 妄黙の骨蛇(サイレントライン)の頭にもう胸までも融け込んで、ミュートは魔王を守る城そのものと化す!

「ここはおれの戦場だァ―――――ッ!」

 

 

   *

 

 

 おおおおお!

 おおおお、おおおおおおお!

 ()()()()()()。魔王城のいたるところで城壁が不気味に蠕動(ぜんどう)を始めた。ぶ厚い城壁が真ん中から膨らみ、(まゆ)を思わせる球体を作り、やおら(まゆ)を内から破って怪物が躍り出る。あるいは天高く伸び上がり、あるいは地の生者たちを()き潰し、口々に咆哮を響かせる魔物ども……10匹を超える骨の大蛇、妄黙の骨蛇(サイレントライン)

「おっ……応戦しろォべっ!?」

 勇ましく号令かけたひとりの騎士を、直後、妄黙の骨蛇(サイレントライン)が食いちぎる。飛び散る鮮血。駆け抜ける恐怖。果敢に抗戦を試みる者も少なくないが、まるで勝負になっていない。長時間に及ぶ戦いで疲れ果てたところに凶悪な大型魔獣の急襲だ。たちまち勇者軍の中に悲鳴が轟き、大混乱が巻き起こる。

「みんな落ち着けっ。」

 カジュは仲間たちの頭上を飛び越えながら《石の壁》を打ち立てた。いましも勇者軍の隊列に()みつかんとしていた妄黙の骨蛇(サイレントライン)が、頭から《壁》に突っ込んで瓦礫(がれき)に埋もれる。

 しかしこの程度で仕留められるわけはない。瓦礫(がれき)の下では、早くも蛇が藻掻(もが)き始めている。死術士(ネクロマンサー)ミュートがなりふり構わず投入してきた切り札だけに破壊力も耐久性も一級品。小技の応用で片付けられる相手ではない。倒しきるには相応の術が必要……だがカジュにはその余裕がない。

「キャハ!」

 甲高い狂笑と共に、敵がカジュへ殺到する。ネズミ頭の偽獣法師(イミタティオン)、その数のこり24人。

 達人級の術士30人を相手に4時間近く戦って、仕留められたのはわずか6人。なにしろ味方への援護射撃も絶やさず撃ち続けてのことだから、これが精一杯だったのだ。

 このまま何時間でも粘り通してジワジワ数を削ってやるつもりだったが、その前に戦況が変わってしまった。妄黙の骨蛇(サイレントライン)を早くなんとかしなければまずい。だがカジュが蛇どもの相手に回れば偽獣法師(イミタティオン)は喜んで勇者軍への法撃を再開する。

 敵から飛んできた《光の矢》を《盾》で彼方へ弾きつつ、カジュは額に汗を浮かべた。

「どうしたもんかな……。」

 

 

(つづく)



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第21話-05 邂逅、再び

 

 

「お得意の手で行きます……かっ。」

 鋭く呼気を吐き捨てて、カジュは翼をひるがえす。全速力で逃げるカジュの背に、偽獣法師(イミタティオン)藪蚊(やぶか)の如く群がってくる。矢継ぎ早に撃ち込まれる《火の矢》《熱線》《電撃の槍》。その軌道をカジュは即座に見極めて、最小限の動作で回避しながら指先に術式の光を溜めていく。

 術式ストックは数秒で完成。敵がストックを使い切った隙を見計(みはか)らって……今!

「《石の壁》。」

 ずどん!!

 数枚の《壁》がカジュの背後に出現し、敵の進路と視線を塞ぐ。無論、《風の翼》で高速飛行する敵は容易(たやす)く壁の左右をすり抜けて来る。そこへ再び《石の壁》。また《石の壁》。《石の壁》。しつこいまでの乱打によって、戦場に迷路ができあがる。

 地上の迷路などに付き合う義理は敵にはない。偽獣法師(イミタティオン)たちは高度を上げて壁を飛び越え、一度見失ったカジュをすぐさま捕捉した。偽獣法師(イミタティオン)3人が目配せで合図。三方向に分かれてカジュを包み込み、一気に肉迫するや《死神の鎌》の青ざめた刃を走らせる。

「きぃあ!」

 三方からの同時攻撃。打つ手も逃げ場もありはしない。窮地のカジュ、その細い腰に光の《鎌》が(えぐ)り込み、身を上下ふたつに()じり斬る!

 ……と。

 無惨(むざん)に断たれたカジュの身体が、微風に揺らいで、溶け、消える。

「!」

 驚愕に凍りつく偽獣法師(イミタティオン)。《幻影の戦士》だ! 《石の壁》で死角に入ったその一瞬に、カジュは《幻影》と入れ替わっていたのだ。

 では本物はどこに?

 その答えを求めて視線を動かすより早く、

 ざ!!

 と、赤い熱風が彼らの喉元を吹き抜けた。直後、天高く()ね飛ばされる偽獣法師(イミタティオン)首級(くび)3つ。

 緋女!

 巨人ゴルゴロドンを倒した彼女は、その場をヴィッシュに任せて転進。苦戦中のカジュを支援すべくこの場へ駆けつけたのだ。緋女の到着に気づいたカジュは、《石の壁》乱打で敵の視界を塞ぐと同時に足場を作り、緋女もまた一目でカジュの意図を察して《壁》蹴り跳躍、ただ一太刀で偽獣法師(イミタティオン)3人までを討ち取ったのである。

「ぃよっと」

「ぐっじょぶ。」

「おうっ」

 華麗に着地する緋女。背中合わせにカジュも空から舞い降りる。互いの背後を補い合って警戒の目を走らせる。彼女たちに合図は()らぬ。咄嗟(とっさ)の時にもすぐさまひとつの生物の如く連携できる。ゆえに打ち合わせも最小限。

「作戦は?」

「誘い込み漁。」

「おっけぇ!」

 火花の爆ぜるようにふたりが飛んだ。緋女は《壁》の迷路に身を隠し、一方カジュは《幻影の戦士》を展開。上空にいた偽獣法師(イミタティオン)たちが《幻影》含めて6人のカジュを発見し、手分けして追跡を開始する。

 迂闊(うかつ)な動きだ。緋女の到着にまだ気付いていないのだ。わざわざ自分から戦力を分断してしまった偽獣法師(イミタティオン)が、たちまち緋女の跳躍斬りで各個撃破されていく。

 彼らが戦術ミスに気付いたときにはもう生き残りは10名を割っていた。ここまで来れば完全に手遅れ。体勢を立て直すどころか状況の確認さえできないままに、緋女とカジュの連携攻撃で散々に叩きのめされ、嘘のようにあっさりと全滅してしまった。

 

 

   *

 

 

〔つうわけで片付いたよ。〕

「よっし! いい仕事だ!」

 勇者の剣で骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)を叩っ斬りつつヴィッシュは隣の兵士に目を向ける。兵士は喜色もあらわに(うなず)き返し、声張り上げて味方の快勝を(しら)せに走る。疲れ顔の勇者軍にもひととき元気の色が差していく……味方の活躍は共有するに()くは無し。とりわけ緋女とカジュは勇者軍みんなのアイドルだから鼓舞の効果も層倍である。

 ひとまずここまでは順調だ。カジュの方は早くも最終城壁に取りつかんとしているし、ヴィッシュ率いる精鋭部隊も敵を撃滅しながら怒涛の勢いで驀進(ばくしん)中。ミュートと巨人ゴルゴロドンさえいなければなんとも(もろ)い。しかも死霊(アンデッド)軍の密度が目に見えて薄まっている。おそらく予備戦力まで使い切り、手薄な戦場に支援を飛ばすことさえできていないのだろう。

 戦の勝敗は、とどのつまり数で決まる。千と2千がぶつかりあえば2千が勝つのが当然の理。ゆえに数的有利を保つため大勢集めて陣を組み、局地的な数的有利を掴むため機動と法撃で敵を分断する。そうした工作を妨害するには自分も機動し、陣形を千変万化させねばならない。戦はひたすらその繰り返しだ。だから状況に応じて柔軟に動ける予備戦力が必須になる。

 畢竟(ひっきょう)、予備戦力の枯渇とは、相手のあらゆる攻撃に対して無防備となることに他ならないのだ。

 それを百も承知のミュートがこのまま手をこまねいているはずはない。必ず何か仕掛けてくる……

 と思ったその矢先、前方の味方から天地を引き裂くような絶叫が聞こえてきた。

 見れば、異様な怪物の姿がそこにある。無数の骸骨で造られた巨大な蛇――妄黙の骨蛇(サイレントライン)。全長は象獅子(ベヒモス)を軽くひと巻にできるほど。とぐろを巻いて頭をもたげれば2階建て兵舎の屋根より遥か上まで伸び上がる。それほどの巨体をうねらせ戦場を()いずり、行く手の兵士を片っ端から()き潰していく。

 こんな化け物が合計5匹! 敵の気配など全くなかった場所から突如出現し、勇者軍の突出部を包囲してしまった。まずい。いったん安全を確保してからの進軍だったので油断していた。先鋒を援護する態勢ができていない。

「カジュ! バカでかい骨の蛇が出た。あれはなんだ?」

〔即席死霊(アンデッド)。パワーは不死竜(ドレッドノート)同等だけど強度は並の骸骨(スケルトン)とそう違わないよ。〕

「一体どこから湧いて出やがった」

〔魔王城の城壁から作ったみたいだね。〕

 ――なるほど。

 なるほど、脅威だ。確かに強力。実際、勇者軍の将兵は顔色を変え、懸命に立ち向かいながらも身は恐怖に(おのの)いている。

 が、ヴィッシュの見方は違う。

 ミュートはついに、死守すべき魔王城そのものをすら切り崩しはじめたのだ。これで一時的に戦力は補強できようが、妄黙の骨蛇(サイレントライン)を作れば作るほど城壁の穴は広がっていく。中長期的に見れば間違いなく自殺行為。それが分からぬミュートでもあるまい。ということは……

「……いよいよ後がないな」

〔同意。なお、術士の腕前から考えて、同時に制御できる蛇はせいぜい20匹と予想。〕

「よし。今は企業(コープス)の介入が一番怖い。お前と緋女はコープスマンを潰せ」

〔ラジャ。蛇とミュートは。〕

「俺の仕事だ」

 ヴィッシュは勇者の剣を背中のホルダに納めると、手近な兵舎の屋根へよじ登った。ここからなら戦況が手に取るように分かる。妄黙の骨蛇(サイレントライン)の猛攻を受け、自身や戦友の血で濡れながら、一歩も退かず戦い続ける勇者軍。その頭上へ向けてヴィッシュは高々と声を張り上げる。

「前衛、槍を横腹にブチ込め! なければ(くい)でも木材でもいい! 刺したら後退してよし!

 破城槌(はじょうつい)隊、攻撃準備! 急げ!」

「?」

 その場の全将兵が、一斉に頭へ疑問符を浮かべていたに違いない。槍を刺すだけ? しかも城門もないのに破城槌(はじょうつい)

 しかし戸惑いも一瞬のこと。ここまで魔法のような采配で見事に自分たちを導いてくれた勇者への信頼が不審に(まさ)った。

 槍兵は我先にと進み出て、次々に妄黙の骨蛇(サイレントライン)の横腹へ突き刺しては逃げていく。その過程で圧殺される者も少なくないが(ひる)みはしない。さらに槍を持たない者は、崩れた建物の(はり)やら柵やらを引き抜き、数人がかりで抱えて妄黙の骨蛇(サイレントライン)へ突っ込んでいく。

 やがて蛇は左右に突き立ったいくつもの棒で針山のようになってしまった。無論相手はしぶとい死霊(アンデッド)(くい)を刺した程度では倒せない……

 が!

 けたたましい音を立て、不意に妄黙の骨蛇(サイレントライン)の巨体が大きく(かし)いだ。全身に突き立った槍と丸太が、周囲の建物に引っかかったのだ。

 無論、妄黙の骨蛇(サイレントライン)には建物を()ぎ倒すだけのパワーがある。しかしそれは正面からぶつかればのこと。横に張り出した杭の先端に力を受ければ回転力(モーメント)が生じることは避けられない。むしろ突進の勢いが大きければこそ反動は巨大な回転力(モーメント)と化して骨蛇を襲い……

 妄黙の骨蛇(サイレントライン)は尾を空中へ振り出して派手に横転、そのまま横腹から地面に叩きつけられた。

「今! 破城槌(はじょうつい)、背骨を()し折れ!」

 大型の四輪車に乗せた破城槌(はじょうつい)が、屈強の男4人に押されて妄黙の骨蛇(サイレントライン)へ突撃。直後、耳を覆うような轟音とともに蛇の脊椎(せきつい)がふたつに折れる。痙攣して(もだ)える妄黙の骨蛇(サイレントライン)、そこに周囲の歩兵たちが殺到し、これでもかとばかりに戦槌(メイス)や大盾を叩き込む。

 やがて妄黙の骨蛇(サイレントライン)は完全に沈黙し、かわって勇者軍の歓声が湧き起こった。竜並みの怪物をこうもあっさりと我が手で打ち倒したのだ。士気に与える影響は計り知れない。この様子を見た別部隊の大将たちも真似をしはじめる。ヴィッシュは手近な術士を呼び寄せ、東方面の本隊にもこの戦法を伝えさせる。指示が済めばすぐさま次の蛇に狙いを定め、手勢に号令をかけはじめる……

 ――これであと2歩……いや、1歩半。

 ヴィッシュは忙しく立ち働きながら、ひととき、魔王城中枢の方角へ目を向けた。彼はあそこにいるはずだ。最終防壁の前で、自ら魔王を守る城と化して立ちはだかっているはずだ。

 四天王、死術士(ネクロマンサー)ミュート。

 ――待ってろ。俺が王手(チェック)をかけに行く。

 

 

   *

 

 

 ――来い! 返り討ちだ!

 そう高らかに宣言するかの如く、死霊(アンデッド)軍は残る力を結集しての最終攻撃を開始した。魔王城最終防壁の前を埋め尽くすほどにひしめく骸骨(スケルトン)。そこここに妄黙の骨蛇(サイレントライン)が大樹のように林立し、高みから勇者軍を睥睨(へいげい)する。不死竜(ドレッドノート)骨飛竜(ボーンヴルム)、その他生き残りの全兵力を惜しみなく投入した魔王軍最終防衛ライン――死術士(ネクロマンサー)ミュートの底力そのものと言うべき大軍が、亡者の呻き声を轟かせながら津波のごとく押し寄せてくる。

 これに立ち向かうはも意気も盛んなる勇者軍。もはや敵に余力無し、泣いても笑ってもこれが最後の一戦と、最高潮に達した士気で幾万の(とき)を轟かせ、魔王城を震撼(しんかん)させる。

 ――みんながんばれっ。

 応援の声を喉の奥へ飲み込みながら、カジュはぶつかり合う両軍の頭上を飛び越えた。味方を援護したいのは山々なれど、彼女らには為すべきことがある。空中のカジュへ嵐のように矢弾(やだま)撃ち上げる死霊(アンデッド)。その軍勢の真ん中めがけてカジュが構築済みの術式を解き放つ。

「《べたべた》。」

 地面を粘着質に変える術。単純だが効果的な妨害に足を取られ、あちらこちらで骸骨(スケルトン)が将棋倒しになる。さながら骨の絨毯と化した敵陣を、

「いっくぜェ―――――ッ!」

 緋女が炎風となって駆け抜ける。

 骸骨(スケルトン)を踏み割り、不死竜(ドレッドノート)()き斬り、横手から喰いかかってきた妄黙の骨蛇(サイレントライン)大顎(おおあご)をあろうことか空中回し蹴りで蹴り倒し、

「カジュ!」

「《凍れる(とき)の結晶槍》。」

 空中から投げ下ろされたカジュの必殺技が、倒れた妄黙の骨蛇(サイレントライン)の頭をブチ抜く。

 勢いそのまま敵陣切り裂き、ふたりはものの数秒で最終防壁の前に到着。カジュが立てた《石の壁》を足場にして緋女は防壁を軽々飛び越えた。

 向こう側に着地して、緋女は、はっと息を飲む。

 壁の奥に隠されていたのは、別世界のように雅趣あふれる庭園だった。

 丹念に刈り込まれた庭木と芝生。しずしずと淀みなく水を伝え続ける噴水。清雅なる空気の奥に、白亜の宮殿が完璧な左右対称(シンメトリー)で調和する。そして中央に(そび)え立つ天守閣は、5基の尖塔が数限りない(はり)によって精緻な蜘蛛の巣の如く繋ぎ合わされ、星まで届かんばかりの威容を遥か天空へと貫き通している。

「きれい……」

 つい、素直な感想が口から漏れた。

 血を(たぎ)らせて殴り込んだ緋女さえ、思わず目を奪われる……それほどの美々(びび)しさ、清らかさ。静寂(しじま)の中にひととき立ち尽くし、緋女は深く息を吸う。

 ここが――魔王城中枢。

 太刀を握る手に力が籠もる。柄糸(つかいと)(きし)んで鈍く鳴く。火照(ほて)った額を汗がひとすじ(つた)い落ち、止めようもない武者震いが緋女の身体を突き動かす。

 ここが魔王の鎮座する地。

 ……最終決戦、その舞台!

()ったらァァァァァッ!!

 カジュァ! どこだァ!」

〔天守閣8階に目標発見。〕

「っしゃあ!!」

 気合一発緋女が跳ぶ。宮殿の壁蹴り、屋根越え、(はり)と柱を足掛かりにして尖塔の外壁を昇竜の如く駆け(のぼ)る。

 標的はひとり、四天王コープスマン。奴を討ち取り、企業(コープス)の干渉と増援を止める。

 一息に壁を登りきり、勢い余って目的階を通り過ぎ、上の階の手すりを掴んで静止して、腕力ひとつで上下反転。

「オっ……ラァ!」

 流星のように天井蹴って降下。硝子(ガラス)の窓をブチ割りながら部屋の中へ突入した。

 そこは四天王の執務室。クスタ織りの上等な絨毯、壁面を埋める書類棚。いささか窮屈(きゅうくつ)に詰め込まれた黒檀デスク7台の脇に身を寄せ合う男たち。いずれも高名なテイラーの手になる高級スーツに身を包み、しかし顔面は恐怖で蒼白に染めた企業(コープス)社員、それが6名。

 戦う気概もなさそうな企業(コープス)どもに拍子抜けして、緋女は片眉を跳ね上げる。

「どいつがコープスマン?」

 彼女の背後、窓の外の空中に、カジュがふわふわ降りてくる。

「部下を盾にしてコソコソ隠れてる奴だよー。」

 ぎく!

 と肩を震わせる男の気配が、確かに社員たちの向こうにある。

 緋女は深く深く溜息をついた。なんだか殺す気も失せてくる。

退()いてろ。邪魔しないなら斬らねえ」

 面倒くさそうにパタパタ手を振る緋女に、社員たちは海辺のフナ虫を思わせる素早さで部屋の隅へ逃げ寄っていく。その後ろから、中年男の卑屈に丸めた背が見えてくる。引きつった()び笑いに焦りの汗をひとすじ落とし、コープスマンは逃げ腰で数歩あとずさる。

「や、やあ」

「じっとしてろ。痛くないようスパッとやったる」

「待て! 待て待て待って、チョト待って! チョットだけでいいんだホント!」

「うっせーなァ、斬り間違えたら(いて)ーぞ、嫌だろ?」

「仕事を残して死ぬのはもっと嫌だっ! 僕は企業戦士なんだよ? 抱えてる案件が山ほどあるんだ。それにケリをつけるとは言わないまでも、せめて後を誰かに託す段取りはしとかなきゃ死んでも死にきれない! 分かるでしょっ? 人情だよこれは!」

 コープスマンは媚態(びたい)をなして緋女にすり寄ってくる。この時もしコープスマンが(わず)かでも逃げるそぶりを見せていたら、緋女は迷わず斬り捨てただろう。だがあまりにも情けなさすぎるコープスマンの態度が緋女の闘志を鈍らせた。見よ、あの(てい)たらくを。ズレた眼鏡に()れた上着。ボサボサに逆だった髪を撫でつける余裕すらないミジメなありさま。こんな奴はいつでも斬れる。それに戦う意志もない者を一方的に惨殺(ざんさつ)するのも気が引ける……

「頼むよ! 少しだけ時間をくれ!」

「……どのくらいだ」

「待ってくれるの!?」

 このやり取りを窓の外で聞いていたカジュが顔色を変えた。

「緋女ちゃん、耳を貸しちゃダメだ。」

「いやあー仁義があるなあ! さっすが剣聖の一番弟子!」

「うっせー!! やることあんならさっさとしろや! どんだけ待ちゃいいんだ!?」

「だーいじょうぶ! 長々待たせはしませんよっ! なぜならば……」

 ぬるり、とした異様な質感の笑みを浮かべて、コープスマンは眼鏡のズレを片手で直した。

()()()()()()()

 瞬間。

「緋女ちゃんっ。」

 鋭く響くカジュの叫声(きょうせい)。転瞬身を引く緋女の神速。そのいずれよりも一息速く――

 縦二条(ふたすじ)

 氷河よりなお冴えた刃が、緋女の両肩を斬って裂く!

「がッ!?」

 苦悶。噴血。ぐらつく緋女のその前に、ひとり剣士が立ち上がる。知っている。緋女は、この女を。待っていた。再びの邂逅(かいこう)を。だのに奴はつまらなそうに……露骨な失望を声に(にじ)ませ、たじろぐ緋女に吐き捨てる。

(ぬる)い」

 紺の僧衣(そうい)に身を包み、異様にギラつく抜身の双剣ぶら下げて、()()()(もた)げる氷の微笑。底知れぬ狂気を暗く宿した悪夢の如き()()()()()

()其様(そん)(ところ)(くすぶ)ってるのか、緋女」

 5人目の四天王――シーファ。

 

 

(つづく)



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第21話-06 交刃の約

 

 

 魔王城上空の曇天を、不吉の影がうねり行く。大きな頭と長々しい尾を持て余し気味に揺するその飛行魚は、企業(コープス)の小型空艇魔獣コバンザメ。

 信じられようか? シーファはあそこから降ってきたのだ。流星さながらの速度で落下し、天守の外壁をぶち破り、幾層も重なる床と天井を薄絹のように切り裂いて、一息に緋女の懐へ飛び込んだのだ。人間業(にんげんわざ)とは思えない。だがこれは現実だ。緋女が、いかにコープスマンの舌先三寸で油断させられていたとはいえあの緋女が、何の対処もできずに斬り伏せられた。これは錯覚でも悪夢でもない。

 ――ヤバいっ。

 カジュは条件反射レベルの判断で執務室に飛び込み、最速構築の術を撃つ。

「《大爆風》ッ。」

 たちまち巻き起こる強烈な暴風。術式に一手間(ひとてま)加えて効果範囲の境界線を緋女の鼻先、シーファとのわずか数十cmの隙間に引いた。つまりこちらは無風地帯に残し、敵だけを背後に吹き飛ばす。

 さすがの怪物シーファもこの《爆風》に靴底を滑らせずり下がる。と同時にカジュは緋女の背中へ抱き付き、すぐさま次の術を発動。

「《(さかのぼ)(とき)》。」

 肉体の時間を巻き戻し、あらゆる負傷を無かったことにする治療術。完全に傷が消えるまで長くて10秒。《大爆風》を連発すればどうにか稼げる……

 と、直後カジュは戦慄(せんりつ)した。

 シーファが一歩、進み出る。

 コープスマン、企業(コープス)社員、果ては黒檀の家具調度までが豪風に吹き飛び渦巻く中で、ひとり道化のシーファだけがその場にしっかと踏み止まって、早くも体勢を立て直し、左右の双剣を構え始めた。

 まずい。見積もりが甘すぎた。治療術はかなりの大技。《大爆風》以上の制圧力がある術を併用するのは流石に不可能。といって小技では何発撃っても奴を止められる気がしない。文字通り抵抗の(すべ)が見当たらない。

 ――死ぬっ……。

 シーファの双剣が音速を超え、カジュへ容赦なく襲いかかる!

 が!!

 刹那、剣が凍りつく。

 双剣の刃が、カジュの頬と紙一重(かみひとえ)の距離で静止している。右は太刀を打ち合わせ、左は敵の手首を掴み、緋女が斬撃を止めたのである。

 無茶だ。緋女の傷はまだ治りきっていない。シーファが()()と踏み込むだけで、緋女の両肩から鮮血が吹き出て道化の仮面を染める。その苦痛やいかほどか。意識も飛びかけ、身体に力も入るまい。

 それでも緋女は前へ()く。不利な体勢。(むご)い流血。震えがくるほど強大な敵。だから緋女は不敵に笑う。

「上ッ……等ッ……だァァーッ!!」

 苦痛と恐怖を闘志に変えて緋女がシーファを押し返す。力負けしてシーファの膝が崩れる。立て直すためにシーファが一歩後へ退()く。この隙にこちらも間合いの外へ……

 ――退()くもんかァーッ!

 むしろ前進! 緋女は瞬時に間合いを詰めて、音速の太刀で薙ぎ払う。狙いは足。ゴルゴロドン(とも)に習った足斬りの技。恩師デクスタですら跳躍して避けるしかなかった必殺の邪剣。それをシーファは左の剣で()()と下へ叩き落しつつ縄跳びよろしく飛び越えて、そのまま流れるように右の剣を緋女の肩口へ振り下ろす。高速回転しながら左右の剣で繰り出す連撃はさながら勢い任せの喧嘩(けんか)独楽(ごま)

 以前の緋女ならここで防戦に追い込まれていた。だが今、緋女は刮目(かつもく)し、

 ――見える!!

 極限の集中と決死の気迫で敵の太刀筋を完璧に見極め、最小限の重心移動で斬撃の線を(かわ)して進む。進むと同時に反撃を打つ。回避の動きをそのまま次撃の予備動作と為す攻防一体の体捌(たいさば)き。相手が神域の達人ならば「防御と攻撃」では遅すぎる。守れば体を崩される。攻めれば足を(すく)われる。ゆえに両者をひとつに纏め、さらに位置取りの駆け引きまでも融合させて、あらゆる意図を一挙動の内に詰め込むしかない。

 ――止まれば死ぬぞ! 死ぬ気で攻めろ!

 猛攻。乱打。2人の刃が嵐の如くぶつかり合って火花で部屋を明々(あかあか)照らす。剣戟の響きが轟音と化して耳を突き刺す。速すぎる太刀はもはや閃光の炸裂としか見えぬ。見えるのはただ肉の躍動。薄闇の中に浮き上がる、(あで)やかな舞の如き2人の肢体。

 息つく暇もない攻防は時間にしてわずか数秒。その数秒で緋女は完治。手が空くやカジュはすぐさま術式構築。

「《光の雨》。」

 緋女の背中に抱きついたまま肩越しに撃ち出す無数の光線。《光の雨》は《矢》を数十本同時に撃ち出し敵を自動追尾させる大技である。1本でも受ければ即致命傷の弾幕を前に、さしものシーファも一歩後退。わずかに空いた《雨》の隙間を()()()縫って回避する。

 まさかこの至近距離からの《光の雨》を避けきるとは。例によって化物じみた身のこなしである。だが元よりこれで仕留められるとは思っていない。カジュの狙いはただひとつ。剣聖奥義発動のための一瞬の猶予を作ること。

 ――緋女ちゃんっ。

 ――了解ッ!

 以心伝心相棒の心を悟り、緋女は精神を集中させた。胸の戦意を焚きつけとして太刀から(ほとばし)る緋色の炎――“斬苦与楽”。

「らァッ!!」

 気迫と共に間合いを詰めて炎剣をシーファへ叩き込む。魔王すらも斬った奥義だ。肌にかすれば骨ごと()かす。剣で受けても剣ごと()き斬る。受けの利かない剣を(かわ)し続けることはいかな達人にも絶対不可能。太刀筋も完璧。剣速も充分。たとえシーファでもこれを切り抜ける(すべ)はない。

 ――()った!

 と確信した……その直後。

「な……?」

 (うめ)きが漏れた。

 緋女の切り札、万物を溶断するはずの炎剣が……

 止まっている。

 シーファの双剣に(から)め取られ、空中にピタリと静止している。

 ――止めた!?

 ――(うっそ)だろっ。

 愕然と息を飲むふたりの前で、

「ふ。うふっ……」

 仮面から()れる愉悦の声。

「……(たの)しや」

 シーファが動く!

 ()られる! と確信するより速く身体が反応した。緋女は咄嗟(とっさ)に太刀を引き戻すと同時に後退。蛇の如く襲い来るシーファの剣を、縦横に受け流しつつ緋女は額に汗を浮かべる。

 おかしい。変だ。すでにこの炎剣と十合余りも打ち合っているのにシーファの剣には融けるどころか切れ味が鈍る(きざ)しすらない。左右いずれの剣も氷のように冴えたまま――

 いや。

 事実刃が()()()()()()()ように見えるのは気のせいか?

「くっ……そ!」

 とうとう緋女は連撃をいなしきれなくなり、大きく背後へ跳躍した。ここはすでに執務室の外、張り出したバルコニーの縁である。追撃を警戒して手早く剣を構えなおす緋女に、シーファは背を丸めて笑い出す。

()……うっ()()……()ぁっ()()

 ()い。実に()いなあ……」

「あ?」

「今のは中中(なかなか)熱かった。本当に強く()った。待った甲斐(かい)()ったわ」

「なんだァそりゃ……?」

 緋女の眉間に刻まれた(しわ)が、みるみる深くなっていく。

「じゃナニか? 前は見逃してくれたってのか?

 もっと楽しい対戦相手に……あたしを成長させるために!?」

「うん。()う」

 こいつ!! 沸騰する憤怒に全身の体毛が産毛(うぶげ)の一本まで残らず逆立つ。ヒリつく肌が「ナメんじゃねえ」と凄んでいる。鋼のような肉の強張りが「ぶちのめしてやる」と吼えている。

 だのに緋女は動けない。

 こんなことは初めてだ。普段の緋女ならもう手が出ている。怒りに任せて斬りかかっている。そんな気性が骨まで染み込んでいるはずの緋女が、今、一歩も動けない。刃も届かぬこんな遠間で握り拳を戦慄(わなな)かせ、溢れる激情をただ奥歯で噛み殺している。

 悟ってしまった。今挑んでも負けるだけだと。気付いてしまった。まるで(シーファ)に及ばぬ自分に。かつて()(すべ)もなく敗退し、ヴィッシュの奇策に頼ってどうにか撃退した最強の敵。次は負けぬと心に期して、一日も欠かさず鍛錬を積んだ。幾多の実戦で技を磨いた。格段に腕が上がった自信もある。なのに奴には敵わない! 立ち向かい方が……見当たらない!

 過去に経験のない強烈な怯懦(きょうだ)が緋女の四肢を引き()らせる。シーファが()()と顔を(もた)げる。無機質な狂笑を貼り付けた仮面が、こくり、と少女ようにあどけなく(かし)げられる。ゆらり、ゆらり、陽炎のように揺れながら、道化師が間合いを詰めてくる。

嗚呼(ああ)……()う待ち切れぬ。

 此処(ここ)(とど)めて仕舞(しま)おうか……?」

「ダーメだよ、シーファちゃん」

 シーファの足が止まった。

 彼女の背後には、吹き飛ばされた時に痛めたらしく、腰をさすりながら膝立ちになるコープスマンの姿がある。落としたメガネを手探りで拾い上げ、スーツの破れ目を未練がましくいじくりながら、うんざり顔で立ち上がる。

「あーあ、ボロボロだァ。高級品は長持ちするから逆にコスパがいい! って思って奮発したんだけどなあ。補修できるかしら……」

五月蝿(うるさ)い。下がって居ろ」

「そうはいかないよ。計画を台無しにする気なら、会社(こっち)にも考えがあるけど?」

 沈黙。

 数秒の葛藤の後、

(はあ)……」

 聞こえよがしの盛大な溜息を()き、シーファは双剣を鞘に納めた。無警戒に緋女に背を向け、コープスマンにずかずか歩み寄る。「コバンザメまで運んで……」と言いかけた彼を、荷物同然に片腕で肩に(かつ)ぎ上げ、「ちょっ、シーファちゃん? 乱暴だよ? 僕上司。聞いてます? シーファ様ーっ?」なんて抗議を黙殺し、最後に緋女へ仮面を向ける。

 なぜだろう。()()の仮面に描いただけの作り物の眼が、どこか惜別(せきべつ)の情を孕んで見えたのは。

(また)な」

 短く言い残してシーファは跳躍し、先ほど自分でぶち抜いた天井の大穴へ飛び込んでいった。床だか壁だかを蹴って駆け上がる足音が次第に遠ざかり、やがて、完全に気配が消える。

 取り残された者たちを、居心地の悪い沈黙が包む。

 逃げられた……

 いや。

 逃がしてもらった、のだ。

「ッ!!」

 声にならぬ声で憤怒を叫び、緋女は握り拳を壁へ叩き付けた。材木が(きし)む。朽ちかけの天井から石膏(せっこう)の破片が降ってくる。無力感と(いきどお)りとがないまぜになった緋女の形相(ぎょうそう)を、見捨てられた企業(コープス)社員たちが震えながら遠巻きに見つめている……

 カジュは無言で緋女の背から降りた。

 カジュは心配していない。緋女なら大丈夫。敗北しても、軽んじられても、私憤にかまけて道を見失うような人ではない。今は戦争の最中だ。ひとつ済んだら次の任務が待っている。緋女ならすぐに立ち直り、仕事にとりかかれるはずだ。

 それよりも気にかかるのは、コープスマンが口を滑らせたあの一言。

「“計画”、ね……。」

 奴の口ぶりでは、()()()()()()()ことが計画の一部であるかのようだ。“魔王計画”の話にしては辻褄(つじつま)が合わない。ということは……

 ――何かある……このうえ、まだ。

 

 

(つづく)



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第21話-07 形勢逆転

 

 

「……逃げやがったな日和見野郎」

 空を泳ぎ去るコバンザメを見上げ、死術士(ネクロマンサー)ミュートが吐き捨てる。

 彼の周囲では残り少ない死霊(アンデッド)どもが、やる気なく(うごめ)きながら淡々と戦いをこなしている。骸骨戦士(スケルトン・ウォーリア)はあと1万体。骨飛竜(ボーンヴルム)は12匹。不死竜(ドレッドノート)に至ってはこれが最後の1頭だ。城壁に穴を開けてまで製造した妄黙の骨蛇(サイレントライン)すら次から次に攻略されて、今や7頭を残すのみ。

 この状況でのコープスマン逃亡は痛い……本当に痛い。増援のアテがひとつ潰れたというだけではない。そもそも占領地の統治運営は企業(コープス)の莫大な資金によって成り立っていたのだ。その企業(コープス)の撤退は、政治組織としての魔王軍の崩壊を意味する。仮にこの戦いを乗り越えたとしても魔王軍は再起不能。もはや野盗に毛が生えたもの以上にはなり得まい。

 一方それに対する勇者軍の、なんと意気盛んなことか。

 死霊(アンデッド)がどれほど攻め立てようと、勇者軍はびくともしない。各部隊が柔軟に陣形を組み替え、あらゆる状況変化を受け止めてしまう。それができるのは兵卒の訓練が行き届き、また指揮官の命令が遺漏(いろう)なく伝わり実行されているからだ。そのきびきびとした一挙一動は、敵であるミュートから見ても気持ち良い。

 歴然たる士気の差が、そのまま戦力の差となり重くミュートにのしかかってくる。

 劣勢だ。もはや壊滅は目前だ。

 それでも。

「負けるかよ。お前にだけは」

 濁りきった両の(まなこ)で睨みおろした先にいるのは、軍勢の先頭に立ち一所懸命に魔剣を振るう白銀の英雄、勇者ヴィッシュ。

 勇ましく(あで)やかな益荒男(ますらお)ぶりに熱いときめきを覚えながら、ミュート=サイレントラインが彼に()り寄る。

「行くぞ相棒ォーッ!!」

 死術士(ネクロマンサー)の咆哮の中で、命なき軍勢が最後の突撃を開始した。生きた証をこの世に刻み込まんとするかの如く。

 応えて勇者軍が進み出る。横1列に整然と並び、雄叫びを合図に走り出す。

 双方から押し寄せた両軍が、火花を散らして激突する。たちまち巻き起こる剣戟(けんげき)の響き。唸る鋼刃、弾ける鮮血。戦槌(メイス)の強打が亡者の骨を粉砕し、骸骨の歯が猛者(もさ)の首筋を噛み千切る。上空から弾丸の如く飛来する骨飛竜(ボーンヴルム)を魔術の光が迎え撃ち、大地を踏み締め迫りくる不死竜(ドレッドノート)へ屈強の命知らずが大挙猛然(いど)みかかる。

 大混戦のなか勇者の剣を縦横に振るい、手当たり次第に死霊(アンデッド)を斬り捨てる勇者ヴィッシュ。そこへミュート=サイレントラインが狂叫(きょうきょう)響かせ猛進してくる。勢いそのままヴィッシュの頭上へ伸び上がり、()し潰さんと倒れ込む。

「っく!」

 ヴィッシュは咄嗟(とっさ)に全力疾走、辛うじて巨体の下から転げ出た。間一髪圧死は(まぬが)れたが窮地からはまだ脱せていない。体勢を立て直すより早くミュートが()い走り、長い尾でヴィッシュの周囲を取り囲む。

「抱きしめてやるッ!」

 急速に輪を狭め、ヴィッシュを締め殺さんとするミュート。逃げ場はない。絶体絶命。

 その時。

「きも。」

 ごあ!!

 地面から伸び上がった《凍れる(とき)の結晶槍》が、妄黙の骨蛇(サイレントライン)の胴を串刺しにして跳ね上げた。衝撃に目を白黒させるミュートの鼻先を、風切り飛び抜けていく少女の影。

 ――カジュ!

 シーファとの戦いを終えた彼女が、早くもこちらへ駆けつけたのだ。

「相手の気持ちも考えずに『抱きしめてやる』ってさあ。」

「あァ!?」

「ないわー。」

「うっせえわクソガキ! 待てコラァ!!」

 蠅のようにミュートの眼前を飛び回り、散発的に術を撃つカジュ。もちろん、ただおちょくっているだけではない。敵の目を()き、ふたつの時間を稼いでいるのだ。ひとつはヴィッシュが安全圏まで退避する時間。そしてもうひとつは――

「オッラァ!!」

 緋女が加勢に来るまでの時間。

 無警戒の所に横からブチ込まれた炎剣が、妄黙の骨蛇(サイレントライン)の太い胴を前後ふたつに()じり斬る。何十もの骸骨(スケルトン)を押し潰しながら墜落する大蛇の頭。高々と吹き上がる砂埃の中で、ミュートは(あえ)ぎ、慟哭に乗せて術式を編む。周囲の死霊(アンデッド)どもを材料に使って後半身の再生を始める。急がねばまずい。隙を(さら)せば奴が来る。

 恐れたとおり、砂塵切り裂き飛び飲んでくる白銀の勇者。

 ――ヴィッシュ!

「うおおッ!?」

 雄牛の構えから突き込まれた魔剣の切っ先。ミュートは慌てて身をひねり、すんでのところでどうにか回避。再生したばかりの胴をうねらせ、()()うの(てい)で間合いを離し、死霊(アンデッド)軍の陣に逃げ込んだ。

 間一髪だ。相手は万物に絶対の《死》をもたらす勇者の剣。妄黙の骨蛇(サイレントライン)部分ならやられても切り捨てれば済むが、蛇の頭部に埋め込まれたミュート本人の肉体に直撃を浴びればその時点で終わっていた。あれだけは絶対に避けねばならない。そのためには……

 などと、自分のことにばかり気を取られている間に、周囲の戦況が一変している。

 ただでさえ劣勢のこの状況に、緋女とカジュという爆弾が投げ込まれたのだ。右翼方面で歓声が湧いたかと思えばたちまち溶断される妄黙の骨蛇(サイレントライン)死霊(アンデッド)の頭上を飛び抜けざまに《爆ぜる空》の雨を降らせる灰色の魔女。法撃の火炎が吹き上がる中を舞うが如くに太刀が駆け抜け、たちまち死霊(アンデッド)軍の陣形を()()微塵(みじん)に突き崩す。

 彼女らの戦いには(はな)がある。人々の目を()かずにいない。それが兵を強くする。英雄に憧れたひとは()てして英雄を真似るもの。そして英雄の真似とて苦難に挑まば、(すなわ)ち凡人も英雄なのだ。

「ちくしょう。いい仲間だなあ」

 ミュートは声を()まらせ、天を仰いだ。

 綺羅星の如き勇者軍。それに引き換え魔王軍(こちら)はどうだ? 隙あらば主君の寝首を掻こうと手ぐすね引いてる野心の塊(ボスボラス)。中途半端にひとを焚き付けておいて我が身が危なくなればスッといなくなる利権の権化(コープスマン)。そして普段偉そうな口を叩いていながら肝心な時にこの場にいない間抜けな魔貴公爵(ギーツ)閣下! まったくロクなのがいない。

 いつもそうだった。シュヴェーアの軍にいた頃だって、ヴィッシュの周囲には、いつも才気溢れる素敵な仲間(メリー・メン)が集まってきた。

 一方ミュートに……ナダムにすり寄ってくるのは、腹に一物抱えた油断ならない奴ばかり。

 日頃さんざん他人をバカにしてきたツケ、自業自得だ、とは考えない。かつて自分もヴィッシュの「素敵な仲間」だったのだ、なんて事実も慰めにならない。悪いことは世の中のせい。評価されても不満たらたら。腐った男の性根は所詮(しょせん)そうしたものだ。

 それでも――腐った者には腐ったなりに、譲れないものがある。

「負けられねえ……負けたくねえ……」

 ミュート=サイレントラインが伸び上がる。長々しい尾でとぐろを巻いて、塔の如くに屹立(きつりつ)する。それは精一杯の誇示。威嚇にして求愛。己の力と存在を彼の目に焼き付けんとする自己主張。

「ずっとお前が」

 羨ましかった。

「いつかお前を」

 乗り越えたかった。

「お前にだけは」

 なめられたくない。

「お前はおれの」

 英雄(ヒーロー)なんだ!

 だから今、ミュートは叫ぶ。

「大っ嫌いだ!!

 おれを見てくれェ―――――ッ!!」

 天地引き裂く絶叫の中、骨の大蛇が憧れの勇者へと暴走する。

 

 

   *

 

 

 一方、そのころ。

 魔王城の外に設営された勇者軍の後陣に、ロバの背からノソノソと荷物を(ほど)く青年の姿があった。

「包帯の在庫ォ! おっそいんだよォ!」

「へいへい、ただいまァー。

 ……畜生、これじゃー普段と変わんねーっつーのォー」

 通りすがりの上官から怒鳴りつけられ、愚痴りながら医薬品満載の袋を下ろすのは、若き兵士、名はパンチ。かつては王都・第2ベンズバレン間で馬借をしていた彼は、戦乱で仕事を失い、義憤に駆られて勇者軍に参加した。『俺も緋女さんみてーな英雄になってやらァー!』なんて野望もあったかもしれない。だが本人の希望とは裏腹に、パンチは後陣での輸送任務に回されてしまった。

 後陣は前衛の支援が主任務。とめどなく後送(こうそう)されてくる負傷兵を引き受け、戦場全体に斥候(せっこう)と《遠話》を送って現場指揮官に情報をもたらし、場合によっては援軍を編成して適宜戦線の穴を埋める。全軍の要となる重要な役目ではある。

 だが、地味だ。華々しい活躍に憧れて入隊した若者には、いささか退屈だったかもしれない。

 溜息をつくパンチのそばでは、長年の仕事仲間、ロバのローディおじいちゃんが、気ままに枯れ草をもぐもぐしている。

「ま、しゃーねーかァ。お前にまたがって『騎士でござーい!』ってのも格好(カッコ)つかねーもん。なあ?」

「ぶしゅ」

「あん?」

 ロバのローディが不意に顔を上げた。つられてパンチも腰を伸ばし、ローディの凝視する方へ目を向ける。

 そちらは魔王城とは反対方向。この半年手入れする者もなく放置され、ほとんど荒れ野のようになってしまった耕作地の間を、広い街道が緩やかにうねり走っている。その道の果て、南の稜線へ吸い込まれていくあたりに……

 淡い、煙……のようなものが、立ち上っている。

 はじめパンチは目の錯覚を疑った。眉間に(しわ)を寄せ、じっくりと南方へ目を凝らし、やがて。

「あ……ああっ……?」

 ()の正体を悟り、膝からガタガタと震えだす。

「来た……来たッ! 来た来た来たァー!?

 隊長! 将軍! いや皆ァ! 来た! 来ちまったあああああ!!」

 

 

   *

 

 

「や……やったッ!?」

 無数の靴が巻き上げるもうもうたる土煙の中で、ひとりの男が歓声をあげた。半ば倒れ込むように足を止め、疲労困憊(こんぱい)の上半身をガクガクと笑い続ける膝でようやく支え、息も絶え絶えに肩を上下させながら、汗みずくの顔面を持ち上げる。

 自慢の名馬は長時間の全力疾走で潰れてしまった。そこから先は自分の足で走って来た。運動らしい運動などしたこともない、なんなら衣服の着替えひとつさえ召使いに手伝わせるほど高貴な彼だ。この強行軍は身体に(こた)えた。ほんとうに(こた)えた。

 だがやりとげた! 破裂しそうな心臓に鞭打ち、鉛のような足を引きずり、柳の枝さながらにふらつく身体を気合と根性で奮い立たせて、ついに辿(たど)り着いたのだ。

「やっ……ぅぇっぽ! やったぞッ! まおゥゲホ!! オウエ!! ゲッ!! ぶっふ」

「閣下、閣下、深呼吸、落ち着いて」

「ぅんえい! 落ち着いてなどいられるかっ! ィやったぞハハッ! それ見たことか、吾輩(わがはい)の言ったとおりじゃないか! 急いで帰れば落城前に間に合うとなっ!」

「いかさま!」

「愚か! 愚か! 人間! 愚か! この吾輩(わがはい)が駆けつけたからには、魔王様には指一本触れさせぬ!」

 男は意気揚々と右腕を振り上げる。彼の隣には、牙を()いて唸る盲目の鬼娘。彼の背後には、街道を地の果てまで埋め尽くす雲霞(うんか)のごとき大軍の影。その全将兵が、溢れんばかりの殺気を胸に抱いて今や遅しと彼の号令を待っている。

「魔貴公爵ギーツ!!

 四天王ナギ!!

 そして魔王軍本隊13万!!

 ただいま参上であ―――――るっ!!」

 

 

   *

 

 

「まァじかっ!?」

 この有様を死霊(アンデッド)の目を通じて見てとるや、ミュートは狂喜に身をよじる。

「まじだ! 来た! 来やがったぞあの阿呆(アホ)ボン! 到着! 到着ッ! 援軍到着ッ! やっとだよ畜生! 援軍とうちゃぁぁっく!!」

 高笑いを戦場に轟かせ、ミュートはひとりヴィッシュを見下ろした。見よ! 勇者が立派な兜の奥で緊張に眉寄せるあの表情を。彼にあの顔をさせたい一心で身命を()して粘りぬいてきた、その成果がついに出た。

「見たかよヴィッシュ!

 これで……形勢逆転だァァッ!!」

 

 

(つづく)



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第21話-08 愛:ないしは現在・既在・将来にわたる可能性の了解

 

 

 急げ! 急げ! 魔王様を守れ! その一念に突き動かされ、魔王軍本隊13万は走って走って走り抜いてきた。

 ヴィッシュの策にまんまとはまり、城まで丸一日はかかろうかという距離におびき出されてしまった彼らだ。一度は魔王城陥落不可避、と暗い諦観に落ち込みもした。

 だが魔貴公爵ギーツは諦めなかった。決戦に是が非でも間に合わせねばならぬ。絶対に魔王を討たれてはならぬ! 大演説で将兵を引っ張り、馬をことごとく乗り潰し、魔力も惜しみなく使ったうえに兵糧・武具まで打ち捨てて、当初見積もりの半分近い短時間で魔王城へと駆けつけたのだ。

 着いてみれば城は既に最終防壁まで押し込まれ、あわや陥落、焦眉(しょうび)の急。

「この危急存亡の(とき)に奮い立たねば魔族じゃなぁいっ!!

 全っ軍っ! とっつげきィィ〜ッ!!」

 ギーツ自ら先頭に立ち魔王城へと全速驀進(ばくしん)手下(てか)13万が怒涛と化して後を追う。無数の軍靴(ぐんか)が大地を揺すり、雄叫び轟き天を震わす。

 勇者軍の後詰部隊は矢の雨でこれを迎え撃つ。魔王軍は無理な行軍の疲弊もあって《光の盾》を充分貼れず、少なからぬ兵が撃ち倒された。だがいかんせん数が違う。千にも満たない小部隊では戦に(はや)る13万を食い止めきれるわけがない。

「あんな小勢(こぜい)()き潰してしまえい!」

 頭上を《光の盾》で守りつつ部下を励まし走るギーツ公。そこへ城内から《遠話》が届いた。

〔おっせえんだよトンチキ閣下!〕

「あっ、貴様ミュート!? なんで牢から出てきてる?」

〔言えた義理か! ここまで誰が城を支えたと思う〕

「ボスボラスは?」

〔裏切った〕

「コープスマンは」

〔逃亡した〕

「なんと!? では貴公が!? この大軍を……たったひとりでか!?」

〔文句あるかよ! テメーが着くのをこっちゃァ死ぬような思いで……〕

「かっ……感動したあッ!!」

〔は?〕

 ギーツ公、戦場のド真ん中で足を止め、天を仰いで号泣しだした。周囲の部下は大慌て。この瞬間も矢やら石やらがひっきりなしに降ってきているのだ。大勢で必死に術を飛ばし、陶酔中の主を守っているのは言うまでもない。

「吾輩は今、涙を禁じ得ないッ! 貴公を見誤っていた!」

〔お、おう〕

「よもや、よもやそれほど……

 それほど吾輩を信じてくれてたとはッ!!」

〔いや別にそーゆーんじゃ……あーもういいやそれで。とにかく前はおれが塞いでる! テメーは背後から殲滅(せんめつ)しろ!〕

「承知!! ともに戦いぬこうぞ忠烈の士よ!」

〔これはこれで気色(わり)いなあ……〕

 ミュートがぶつくさ言うのもギーツの耳にはもう入らない。ひとり勝手に盛り上がり、興奮そのままに号令飛ばす。

「そぉーれ! ひと揉みに揉み潰せぇーい!」

 勇者軍の後陣へとたちまち押し寄せる大軍勢。土煙がもうもうと暗雲のごとく巻き起こり、太陽をさえ(かげ)らせる。勇者軍が懸命に矢を射かけ、槍兵を前に出して応戦するも、圧倒的な数の差はいかんともしがたい。激突した途端に陣を崩され、みるみるうちに押し込まれていく。

「ウムッ! 好機である!」

 魔貴公爵ギーツが目をギラつかせる。

「さあナギ殿、ここで追い打ちを!」

「うーッ!!」

 ギーツ公がポンと背中を押すと、退屈そうに付いてきていた四天王、盲目の鬼娘ナギが進み出た。鋭く吠えて敵軍に飛びかかる鬼娘。両手の竜骨棍をめったやたらに振り回し、手当たり次第に居並ぶ兵を薙ぎ倒す。手下の鬼兵隊こそ先の戦闘で壊滅したが、彼女の豪腕はいまだ健在。この半年の戦いで、四天王ナギの強さと恐怖は勇者軍の(はらわた)に嫌というほど染み込んでいる。そんなナギが敗色濃厚の不安の中で暴れだしたらどうなるか?

「嫌だ! 死にたくない、嫌だァー!」

 勇者軍の兵たちは恐慌をきたし、三々五々に潰走を始めた。

 思い通りに事が運んでギーツ公は得意満面。ここまで戦場においては良いところのなかった彼だが、多勢をもって小勢をひねり潰すのはまことに上手い。勝利の爽快感に笑いが止まらない。

「フッ、フハッ! フハハハハハハハ! 情けないなあ人間どもめっ! 弱い! (もろ)い! (やわ)い! (ぬる)い! ()えない! しがない! 他愛(たわい)ないっ! えー他に何かないか……まあよい行け行け! 突き進めーっ!」

「うっうー!」

 ギーツ公は鬼娘ナギと並んで最前線に立ち、攻撃魔術をばらまきながら突き進む。途中立ちふさがる敵は当たるを幸い蹴散らして、目指すは魔王城の奥。ミュートの軍勢と競り合っているところを背後から()いて挟撃すれば、いかな精鋭といえどもたちどころに粉砕できよう。

 考えてもみるがいい。勇者ヴィッシュは小賢(こざか)しく策を(ろう)して魔王軍本隊を決戦の場から引き離した。裏を返せば、正面切って戦うだけの実力がないと吐露(とろ)しているようなものだ。その策が(つい)え、魔王軍が城に帰還した今、もはや勇者軍の命運は風前の(ともしび)

「勝てる! 勝てるぞお!

 勇者ヴィッシュ敗れたりーっ!!」

 ギーツ公が声高に勝利を宣言した――

 

 

 そのとき。

 

 

「閣下ァ!?」

 金切り声。振り返る。部下は空を凝視している。つられてそちらを(あお)ぎ見やれば、大輪の花の如き閃光が、十も、二十も、いや三十も、天に乱れ咲いている。

「……は?」

 呆然。

 一瞬遅れて、ギーツは悟る。

「法撃ィィィ!?」

 直後、42発の《爆ぜる空》が魔王軍の只中(ただなか)で炸裂した!

 

 

   *

 

 

 耳を(つんざ)く大爆音!! もはや音とすら呼べない、衝撃波そのものと言う他ない轟音が、遠く離れた()()()()()にまで襲い来る。あらかじめ着弾タイミングを知って耳を塞いでいたからよいものの、そうでなければ聴力をやられていただろう。まして至近距離で爆発を浴びた魔王軍は、たとえ生きていても鼓膜の破裂と網膜の焼き付きで今ごろのたうち回っているはずだ。

「猛火法撃隊、第1射着弾確認!」

「つづけて第2射、術式構築に入ります」

「弓は」

「まだです。ツオノ伯が配置に手間取っています」

「武功の立て時を譲ってくれるとはご親切に、と言ってやれ」

「自分で言ってくださいよう」

 部下の困り顔に呵々大笑(かかたいしょう)しているのは、百戦錬磨の老将ブラスカ。彼の背後に膝立ちで整然と控えているのは、勇者軍きっての精鋭、近衛騎士団3万名。彼らが潜伏していたこの場所は、魔王城の――ベンズバレン王都の西に広がる広大な共有林の中である。

 ひとが生きるには森が()る。森は薪炭の供給源であり、家畜を養う餌場であり、狩場であり、釣り場であり、薬草や山菜の採取場である。ゆえに大都市は例外なく近隣に充分な森林を持ち、その恵みによって発達する。

 もちろん王都ベンズバレンも例外ではない。かつて都民の生活と(いこ)いの場であったこの森を、最後の潜伏場所に選んだ老将ブラスカに、特別な意図がなかったはずがあろうか。

「とどつまりは“暮らし”の勝ちよ」

「といいますと?」

「勇者は狩人として懸命に暮らしていたらばこそ良い仲間たちに恵まれた。万民は己のささやかな暮らしを守るために立ち上がって団結した。そして今、王都の民の暮らしの場が、わしらに最良の隠れ家を与えてくれている」

「なるほど、いかさま」

「いかなる理想も哲学も、暮らしに根付かねば花は咲かぬよ。この歳になるとしみじみ分かる……」

「老け込んでいただいては困ります……ツオノ伯、弓兵隊配置完了。いつでもいけますよ!」

「そうかえ。そんでは老骨に鞭打つかね。

 第2射着弾と同時に曲射開始。わしらも突っ込むぞい」

 老将ブラスカは馬首(ばしゅ)を巡らして振り返る。3万の猛者が立ち上がる。6万の目が燃えている。彼らは皆、王都陥落後の絶望を半年にわたって戦い抜いてきた者たちだ。なみなみならぬ闘志が胸の中にみなぎり、炉の中で赤熱する火種のように、発火の時を今や遅しと待っているのだ。

「諸君。ここまでよくぞ耐えた。よくぞ(しの)いだ。わしらの苦しい戦いが、ついに結実する時が来た」

 そのとき、高い風切り音を立てて、彼らの頭上を数十の火球が飛び抜けた。後列の術士たちが放った法撃の第2射だ。火球は横一列に並んで緩やかな弧を描き、やがて、魔王軍の蛇のように長い隊列の横っ腹に着弾する。

 再びの轟音。目に突き刺さる太陽の如き閃光。同時に老将は槍を天高く突き上げる。

「このうえもはや遠慮は無用!

 溜まった鬱憤……今こそ晴らせェーッ!!」

 (とき)の声を轟かせ、3万の大軍が走り出る!

 

 

   *

 

 

「なっ……!? なあっ……!? あっ……!?」

 瓦礫(がれき)の下から砂まみれの顔で()い出して、どうにかようやく身を起こしながらギーツ公が切れ切れに(あえ)ぐ。右を見ても、左を見ても、魔王軍(みかた)はほとんど壊滅状態。多くの将兵が《爆ぜる空》で爆発四散し、生き残りも土と埃と血汗にまみれてのたうち回っているありさま。あの四天王ナギですら、どこかに重傷を負ったのか、悲痛に泣きわめくばかりで立ち上がることさえできずにいる。

 この惨状に敵が来る。

 西の方角、さして遠くもない森の中から、目を血走らせた3万の軍勢が怒涛のように迫ってくる。

「嘘っ……そんなっ……やめてっ……なんでっ……」

 寒気。身震い。滝の汗。しまいには涙と鼻汁さえ滴らせ、魔貴公爵ギーツが絶叫する。

「伏兵だとぉぉおわひーッ!?」

 身を引き裂くような彼の悲鳴を勇者軍の馬蹄(ばてい)が踏み潰す!

 

 

   *

 

 

「伏兵だとォ!? なんでンなとこに!?」

 勇者軍の前衛を相手に獅子奮迅の戦いを繰り広げながら、ミュートは声を裏返す。彼の叫びは()しくもギーツ公のそれと一致している。観測用に配置された死霊(アンデッド)の眼が、休みなくミュートに城外映像を送ってくる。すなわち、突如現れた勇者軍伏兵によってなすすべなく蹂躙(じゅうりん)されていく魔王軍の姿を。

 魔王軍本隊は、遥か南方の砦から魔王城まで強行軍で帰還した。通常ならば丸一日の道のりを、半日足らずで駆け抜けたのだ。長距離を休憩なしで走るために魔術も惜しみなく使い、重荷と見れば武具まで捨てた。当然、参戦時点で疲労困憊(こんぱい)の状況にある。

 さらに、無理な行軍が隊列を乱した。馬に乗っていた者、足の速い者は先行し、体力や魔力に乏しい者は遅れがちになる。結果、陣形は縦に縦に伸びていき、やがては地の果てまで延々(えんえん)つづく糸のように細い列になってしまったのだ。13万の大軍も、これでは力の重厚を欠く。極めて脆い状態になる。

 こんなありさまの魔王軍へ、横腹から予想だにしない一斉法撃。さらに長弓兵の援護射撃、間髪入れず精鋭部隊の突撃だ。支えきれるわけがない!

 たちまち魔族たちの悲鳴が轟きだした。疲れ切った魔族たちは術も使えず剣も振るえず、片っ端から勇者軍の槍に突かれて死んでいく。勇者軍は勢いそのまま魔王軍の隊列を前後に分断。千切れた大蛇の上半身と下半身の如き残敵を、3方から包み込んで攻め始める。

 魔王軍が()される。食われる。踏み潰される。どうにか抵抗せんとの動きを見せる部隊も少なからずあったが、そんなときには決まって視界外から一筋の矢が飛来し、正確に指揮官の頭を射抜いて潰してしまう――幽霊射手ドックスの狙撃だ。

 凄まじい勢いで切り崩されていく魔王軍。これはもはや戦闘ではない、殺戮(さつりく)である。この調子では13万の大軍が融けて消えるのも時間の問題……

 ――これがお前の策か、ヴィッシュ!?

 その通りである。開戦前、ヴィッシュは無制限街道で魔王城を目指す、と見せかけてギーツ公を南方へおびき出し、間道によって脇をすり抜け魔王城を直接攻めた。あれは魔王軍本隊との直接対決を避けるため……()()()()()()。真の目的はむしろその後。ギーツ公を焦らせ、手段を選ばぬ無理な移動で疲労させ、その弱体を()いて一挙殲滅(せんめつ)することにあったのだ。

 これが魔王城攻略第4の秘策――“城を囲みて兵を滅ぼす”!

 だが、

 ――ありえねえだろ! ふざけんな!

 森の中に伏せていたのは老将ブラスカ率いる近衛騎士団3万名。魔王軍に対してしぶとく戦い続けた抵抗軍(レジスタンス)の生き残りだ。彼らは実戦経験が最も豊富で練度も士気も最高レベル、精鋭中の精鋭である。つまりヴィッシュは今の今まで最も頼りになる味方を温存していたことになる。

 あの近衛騎士団を最初から前面に出していれば、今ごろとっくに魔王城は落ちていたはずだ。

 ミュートの混乱の理由はこの一点にある。“城を囲みて兵を滅ぼす”は分かるが、ヴィッシュの最終目標は魔王のはずだ。たとえ魔王軍に痛打を加えても、魔王そのものを討ち取れなければ世界の滅亡は止められない。ゆえに短期決戦で城に侵入し、魔王を直接叩く。それ以外の方策はありえない。

 にもかかわらず、ヴィッシュは主戦力を出し惜しみし、あえて戦いを長引かせた。わざわざ魔王軍本隊の到着を待つかのように……

 ――()()()()

 魔王を叩く絶好のチャンスをふいにしてまで魔王軍本隊を乱戦に引きずり込んだ。一見愚行としか思えないこの行為に、合理的な理由があるとすれば、それは――

「まさ……か……」

 ミュートが、身体中の骨を(きし)ませながら震えだす。

 気付いたのだ。

 ようやくたどりついたのだ。

 想像だにしなかった、ヴィッシュの真意に。

 奇策? そんな生易しいものではない。非人道的。狂気の沙汰。まともな神経をしていれば絶対に取るはずのない選択肢。だが間違いない。これしかない。ヴィッシュの狙いは――!

 爆発!

 ミュートの思考を粉砕するかのように、カジュが《爆ぜる空》を叩き込んだ。残りわずかな死霊(アンデッド)の軍勢が爆風によって宙を舞い、砕けた骨が雨となって降り注ぐ。この一撃で戦線に大穴が開き、そこを狙って勇者軍が身を()じ込むように突撃を仕掛けてくる。

 その先頭を駆けるのは、光輝の鎧を纏う英雄――勇者ヴィッシュ。

 塔のように(そび)え立つミュート=妄黙の骨蛇(サイレントライン)の正面に、勇者の雄姿が対峙した。

 このうえふたりを隔てるものは、もはや何も、ない。

 その瞬間、ミュートの腐れた胸から、予期せぬ激情が湧きだした。これは? 戸惑いながら自分を支配する熱い思いに目を()らす。これは、憤怒? いや違う。ならば苛立ち? 似ているが。

 おそらく一番近いのは、愛。

 狂おしいほどの情愛、憎悪、憧憬、恋慕、尊敬、倦厭、惰性、渇望、それら全てをないまぜにしたもの――愛。

 だからこそ、ミュートは彼を(ゆる)せない。

「……馬鹿野郎」

 ミュート=妄黙の骨蛇(サイレントライン)が全身をうねらせ、勇者の胸へ躍り込む。剣の如き牙を()き、亡者の身体をおぞましく(きし)ませ、とめどない狂気の愛を口から、全身から(ほとばし)らせて。

「それが勇者のやることかァ―――――ッ!!」

 ふたりの影が、ひととき交わり、

 ぎ!!

 硝子を掻きむしったかのような、ひどく狂おしい残響。

 ひととき、静寂が戦場を満たし――

 ミュートの肺から、血が(あふ)れ出る。

 勇者の剣に真正面から胸を突き刺され、ミュートは、勇者の腕に身を預けるように崩れ落ちた。

「……ちっくしょう」

 傷口から肉体の白化が進んでいく。触れた全概念に死をもたらす究極の魔剣“勇者の剣”は、不死者の()()()をすら殺してしまう。死にきれぬ亡者をより集めて構築したミュートの身体は、今、真の《死》に向けて急速に生気を失いつつある。腐れた肉が、白い白い乾いた骨に変わっていく。ミュート自身の胸から腹へ。更にその先の大蛇の頭へ。はいずるように、だが着実に、ミュート=サイレントラインが滅びていく……

「おれは……ここで終わるのか……

 結局……お前に勝てなかったのか……」

 そのとき。

 懐かしい温もりを帯びた腕が、そっと彼を抱きしめた。

「そんなことない」

 ヴィッシュ。

「ずっと……大好きだよ、()()()

 (こぼ)れ落ちた熱い涙が、彼の胸の氷を融かす。

「かなわねえなあ、お前には……」

 くすぐったそうにそう笑い、ナダムは親友(とも)に看取られ――死んだ。

 

 

 

(つづく)



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第21話-09(終) R.P.G.

 

 

 妄黙の骨蛇(サイレントライン)どもが倒れる。廃墟に立ち並ぶ石塔の倒壊するが如くに崩れていく。蛇どもばかりではない。棒立ちとなった直後に砕けて散らばる骸骨(スケルトン)。空中で制御を失い、城壁に頭から突っ込んで沈黙する骨飛竜(ボーンヴルム)。今しも緋女に()みつかんとした、その姿のまま凍り付く不死竜(ドレッドノート)

 魔王城の全ての死霊(アンデッド)が一斉に機能停止したのだ。死術士(ネクロマンサー)の命と魔力が尽き果てたのと、時を同じくして。

 事態を悟った勇者軍の将兵たちが、ざわり、ざわりとざわめき始める。ざわめきはほどなく勝利の雄叫びにかわり、狂騒的なうねりを伴って天までも伸び上がった。ついに討ち倒したのだ。この半年間で何万、何十万の命を奪い、数え切れぬほどの悲劇を生んだ(にっく)(かたき)、四天王筆頭死術士(ネクロマンサー)ミュートを!

 勝敗は決した! ここまで魔王城をひとりで支えていた死術士(ネクロマンサー)ミュートの脱落は、戦況を一気に傾けるに充分すぎるものだった。前方の圧力から解放された勇者軍はすぐさま部隊を再編し、二手に分かれて走り出した。

 一隊は背後へ転進、老将ブラスカと呼応して魔貴公爵ギーツを挟撃。もう一隊は最終城壁を突破し、魔王城中枢の占領へ向かう。

 魔貴公爵ギーツ率いる魔王軍本隊は、伏兵によって隊列をずたずたにされたところへ更なる追い打ちを受け、大混乱に陥った。戦おうと前に出ればたちまち槍で串刺しになる。隙間をぬって逃げだせば法撃と矢の雨に射抜かれる。といって守りに徹しても、多方面から押し込まれ、行き場をなくした者から()り潰される。軍の統率は乱れきり、情報は錯綜するどころかろくに伝わりもしなくなり、もはやどこで誰が誰と何のために戦っているかすら分からない(てい)たらく。

 一方、魔王城中枢においても(おびただ)しい血が流れようとしていた。

 ひとたび最終防壁を抜いてしまえば、中にあるのは防衛には不向きな宮殿ばかり。戦闘員も配置されておらず、残っているのは荒事(あらごと)に不慣れな文官・侍女のみなのだ。

 そんな別天地に眼を血走らせた軍勢が雪崩れ込めば何が起きるか?

 蹂躙(じゅうりん)だ。

 精緻な細工を施された門扉(もんぴ)破城槌(はじょうつい)でひと突きに倒され、目にも(あで)やかな毛織の敷物は泥まみれの足で踏みにじらる。庭園を満たす静謐(せいひつ)は怒号と悲鳴に引き裂かれ、恐怖が宮殿に雪崩(なだ)れ込む。

 侍女たちは美しい顔を悲痛に歪めて奥の一室に転がり込んで、重い家具を必死に引きずり扉へ内からつっかえをした。外へ敵が攻め寄せてくる。粗野な掛け声とともに扉へ鉄槌(ハンマー)が叩き込まれる。侍女たちは最低限の教養として学んだきりの攻撃魔術を思い出し思い出し構築しながら、抱き合い、震え、涙を落とす。扉に走ったひび割れに、己を待ち受ける過酷な運命を予感しながら。

 また、宮殿最奥の玉座の間には、夢見人(ゆめみびと)たちが立て籠もっていた。魔王の特別の厚意を受けて、最も安全なはずの玉座に避難していた異形の者たち。だが今や勇者軍の攻撃はこんな所にまで及んでしまった。外から丸太を叩き付けられ竜骨の扉が大きく(たわ)む。罵声が隙間から漏れ込んでくる。

 この危機に、しかし夢見人(ゆめみびと)たちは泰然として、他人事(ひとごと)のように達観していた。夢見人(ゆめみびと)たちは誰もが怪物そのものの(なり)だ。だが戦いに役立つような気の利いた能力は誰も持たない。だから皆落ち着いている。持たざる者は、なんでもかんでも受け入れるしかない。不条理な蹂躙。道に外れた虐待。耐え難いまでの侮辱と凌辱。まるで他人の食べ残しを漁るように、どんな汚れも受容して、むしろ糧にして命を繋ぐ。それが弱者がたどる運命、どうにもならない世の(ことわり)と、腹の底から諦めている。

 だから勇者軍にも恨みはない。敵もただ“生き残りたい”、その一念で必死なだけだ。その必死が、生への渇望が、より良い世の中にしたいという()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼らを(とが)められはしない。この半年、魔王軍に友を殺され、家族を犯され、必死の働きで築き上げてきたごく(ささ)やかな幸福を根こそぎ魔族に奪われたのだ。文字通り我が身の一部を喰い千切(ちぎ)られた者たちなのだ。絶望の反動による報復の苛烈さを、一体誰が(とが)められよう。これは応報、当然の帰結。そして誰かが振るった暴力のしわよせは、いつだって一番弱い者の所へ行く。

 十数度目の打音の後、ついに扉が突き破られた。敵兵が潮の満ちるように駆け込んでくる。玉座の周りで団子になった夢見人(ゆめみびと)たち。あまりにも醜すぎる怪物を目の当たりにして、引きつったうめき声が兵から洩れる。

「化け物だっ……殺せ!!」

 夢見人(ゆめみびと)たちは、もはや抵抗しなかった。諦観に満ちた(うつ)ろな目で、己へ迫りくる正義の槍を見つめた。どうにもならない世界という名の牢獄へ、せめてもの抗議の意を表すように。

 夢見人(ゆめみびと)たちの身に、冷たい刃が今、突き刺さる。

 ……と、そのとき。

 

 

 !!

 

 

 音にさえならない。

 声にさえできない。

 “意志”という概念を超えて圧縮された情報の塊が、稲妻と化して戦場の全員の脳を貫く。それと同時に天守閣から空へ駆け(のぼ)る漆黒の雲。殺気を(はら)んだ暗闇が滑るように頭上を塞ぎ――

 次の瞬間、無数の《闇の雷》が戦場めがけて降り注いだ!

「が!」

「ぎゃっ」

「ひ……!」

「何……」

「避け……」

「ッラ!」

「《盾》ッ。」

「あっ?」

()()!!」

 駆け抜ける絶望。暴れ狂う恐怖。魔王城の下にある全人民が、(あるじ)の来臨を直感した。だが気づいても何になる? 身構えたから何ができる? 《死》を予期したとて避ける(すべ)など無いように、《悪意》を知ったとて捨て去りきれはしないように、あらゆる抵抗がここでは無価値。

 ひとり絶対者の憤怒の前に、今、世界の全てが平伏(ひれふ)す。

 

 

「来てくださった」

 夢見人(ゆめみびと)が感激に吐息をもらす。まだ生きている。死ぬはずなのに、殺されるはずだったのに、彼に迫った鋼の槍は胸に突き立つその寸前に、持ち主もろとも《雷》に()かれ、(ちり)と化して吹き散らされた。剣もまた。(つち)もまた。玉座の前に充満していたあらゆる武具が、猛り狂う兵士と共に一掃された。

 夢見人(ゆめみびと)の六対の目から、滂沱(ぼうだ)の涙が流れ落ちる。

「カスみてえな俺らを救いに……()()()()()だけは」

 

 

 天地を貫く《闇の雷》がヴィッシュの左半身を捉えた。

 ――ヤベぇ!!

 と思うより速く緋女が疾走(はし)った。音速の太刀に“万物を斬る”炎を纏い、飛び上がりざまに《雷》を切断。肉体の半分炭化しかけたヴィッシュを抱えて疾風の如く離脱する。

「カジュ!」

「任せて。」

 緋女の腕の中で痙攣するヴィッシュにカジュがすぐさま治療の術を施す。間一髪だ。あと10分の1秒遅ければ彼は完全に(ちり)に帰していた。

「ハッ……! ふっ、くっくっ……ほらな!」

(しゃべ)っちゃだめ。」

 カジュの制止すら耳に入らず、勇者は――否、ヴィッシュは額に脂汗を浮かせてほくそ笑む。

「ざまあ見やがれっ……

 引きずりだしてやったぜ……!」

 

 

   *

 

 

「――哀しいね」

 うずたかく積み上がる(かばね)の上に、ひとりの少年が立っている。そっと差し伸べた手のひらから、乾いた骨灰が風に溶けていく。一縷(いちる)の望みを託して施した術は無駄に終わった。この死屍(しかばね)を材料にして、三度(みた)(ミュート)を蘇らせんとしたのだ。

 友の形を成すことなく崩れ去っていく骨の硬さが、取り返しのつかない残酷な事実を少年の皮膚に突きつけてくる。人間たちが“勇者の剣”と呼んでいるあの存在――至高神《死の女皇》の愛剣にして自身も十二皇が一柱(ひとはしら)たる《月魄剣(ツキシロノツルギ)》は、その気になればこの世そのものすら殺しうる究極の《死》だ。あの剣に下賜(かし)された真の《死》は、もはや魔神(ディズヴァード)の力をもってすら覆せない。

 ミュートはもう、帰らない。軽妙な冗談でからかってくれない。積み上がる難問に共に頭を悩ませてくれない。魔王の重責に苦しむ彼を、二度と励ましてはくれない……

「あ……ああ……ああぁあっ……!

 これがっ……これが本当の哀しみなのか……!

 すまないミュート! 僕が不甲斐(ふがい)ないばっかりにっ……」

 灰を抱きしめ少年は震える。()まぬ慟哭を聞きつけて雑兵たちが集まってくる。「あれは?」「まさか」「奴だッ!」「魔王!?」有象無象の敵意の声が後から後から湧き上がり、酷く耳障(みみざわ)りに少年へ群がる。

「……そうかい」

 少年は、王者の尊大さをもって振り返る。その背から漂うものは血染めの憤怒。その指を走り出るのは濡鴉(ぬれがらす)の決意。彼を(かろ)うじてヒトの枠に留めていた最後の(たが)、ミュートはもはやこの世にない。

「震えるがいい、悔悟の風に。

 (つくば)うがいい、銷魂(しょうこん)の沼に。

 君たちがどうしてもそれを望むなら、演じてみせよう、究極の役割(ロール)を」

 膨れ上がる《悪意》を止められるものは、もう何処(どこ)にも存在しない。

「我が名は魔王!

 クルステスラ!!」

 

 

to be continued.

 

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 戦火渦巻く魔王城についに姿を現す魔王。超絶的な魔力の脅威が人々の奮闘を嘲笑(あざわら)うように暴れる中で、狩人は静かに、静かに時を待っていた。張り巡らせた究極の罠が、獲物を絡めとるその瞬間を!

 

 次回、「勇者の後始末人」

 第22話 “戦い(後編)”

 The Battle (Part 2)

 

 乞う、ご期待。



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