東方蝶跳躍 (のいんつぇーんSZZ)
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Prolog.Second Start
E1.みずのめるはっぴー


 どうか一つだけ、真っ赤な嘘をつくことをお許しください。


 ざぁざぁ、と。どこか心地のいい雑音が耳を打つ。

 ううーん、と無意識に身じろぎをした際に頬に涼しい空気を受けて、この音の正体がなんなのか、なんとなく察した。

 これは木々が揺れる音だ。風を受け、枝が揺れ、葉が擦れる音だ。

 

「……えーっと……?」

 

 薄く目を開けて、周囲を見渡す。そして目の前に広がっていた大自然にただただ困惑した。

 ここは少し開けた草むらのようだけれど、少し離れたところには木々が生え茂っている。どこもかしこも人が出入りしたようなわかりやすい痕跡はなく、鳥や虫の鳴き声が騒がしい、まさしく大自然の真っ只中だった。

 呆然と辺りを見回しているうちに、ふと、体を動かす感覚に違和感を覚える。

 いつもの自分の体ではない。子どものそれだった。いわば幼女とも呼ぶような、ほんの七歳程度の体躯しかない。

 付け加えるならば、頭からは触角が、背中からは翅が生えていた。触角は昆虫じみた二つの細い線、翅は鳥のような翼ではなく、刃物で少し切りつけてしまえばすぐに破れてしまいそうな印象を受けた。

 

「……え? ここどこ? っていうかわたし、こんなにちっちゃかったっけ……?」

 

 あいもかわらず胸のうちには困惑ばかり。

 蝶の妖怪、しろも。今日より生まれいづり参りました。

 

 

 

 

 

 わたしという存在が生まれ落ちて、どれくらいの時が経っただろうか。

 なにぶん大自然の中、時間を確認しようがない身の上なので具体的な数字はわからない。ただ、満月が数回ほど満ちては欠けてを繰り返していて、それがまだ二桁ほどには行っていないはずだということは間違いない。

 わたしが初めにいた場所は山の麓の森だった。そしてようやくその山の近辺での生活にも慣れてきたというところで、今日も今日とてふわふわと空中を漂っている。

 空中。初めは力が足りないのかうまく飛べなかったが、練習するうちに浮くことができるようになった。これはなにも翅があるからではなく、妖怪としての力、俗に妖力などと呼ばれるものを用いて飛行を実現している。

 蝶の妖怪と言えど生まれてすぐのわたしが飛べるくらいなのだから、力のある妖怪の大体は普通に浮遊することが可能だろう。

 そう、たとえば天狗とか。

 

「わっとと」

 

 森の一角から黒い翼を携えた妖怪が飛び上がってきたのを見て、わたしは慌てて地上に降下する。木の陰に隠れ、翼の妖怪――鴉天狗がこちらに気づかず飛んでいるところを見上げた。

 わたしが生活する森のすぐそばにある山は鬼が収めており、天狗はその配下とされている。山に住む妖怪の多くは鬼を畏怖しており、かく言うわたしもその一人に入る。

 わたしのような弱小妖怪が鬼や天狗に良い意味でも悪い意味でも興味を持たれることなど、滅多なことをしない限りはありえない。それでも彼らに振り回されて生き残れる自信なんて到底ないわたしは、鬼やその配下たる天狗の視界にはなるべくなら入りたくないと思っていた。

 木の陰に隠れたまま、天狗が飛び去っていくのを見送る。なにもしていないのだから当然だが、何事もなかったことにほっとはいた。

 しかしほっとしたのもつかの間、ぐぅー、なんて気の抜けるような音が唐突にこの場に響く。

 

「……お腹、すいたなぁ」

 

 今度は、はぁ、と。力のないため息をついた。

 飛行ができるようになったと言っても、まだそう長い間続けられるほどではない。一旦体を休めて体力を回復させようと、隠れていた木陰にそのまま腰を下ろす。

 妖怪の食料は主に人が抱く恐怖の感情や人間そのもの、とされているが、わたしは人は食べない。

 わたしが好むのは花の蜜、あるいは果物や木の実と言った甘味の類である。まさに蝶の妖怪らしい。

 ただ、甘味というものは人間妖怪問わずどんな存在にもわりかし人気なものだ。わたしが『発生』したように、わたしの住んでいる辺りには昆虫の妖怪、あるいは昆虫型の妖精が多数存在することもあって、その中でも生まれたばかりでとりわけ力のないわたしが普段手に入れることができるのは、大体酸っぱい未成熟の木の実か、枯れかけた花にわずかに残った蜜の粉程度だったりする。とても世知辛い。

 

「うー、お腹すいたー……」

 

 ぐぅー、と、再びお腹が鳴る。一ヶ月という時間の中で山の近辺での生活に慣れてはきた。慣れてはきたのだけれど、その生活が快適だとは限らない。

 ……一応、わたしはいずれ鬼が()()()()()()()()()()()()を知っている。今はまだ地獄として利用されている地底が廃棄され、旧地獄と呼ばれるようになる頃に、鬼はそこへ徐々に移民していくことを。

 その頃になれば、これまで鬼が支配していた領域にも少なからず立ち入れるようになって、果物や蜜の採取も幾分かマシにはなるかもしれない。

 もっともそれも希望的観測に過ぎず、そもそもその後は代わりに天狗が山を収めるようになるので、本当にマシになるかどうかは微妙なところだ。

 なんにしても、鬼がいなくなるのはまだ気の遠くなるほどずっと未来の話だ。わたしが生きている今の時代、鬼は現存している。そしてわたしが今、空腹だという事実にも変わりはない。

 あいもかわらず満たされない空腹感に、はぁ、と一つため息をついた。

 

「水でも飲みに行こうかなぁ」

 

 ちょっとは空腹を紛らわすことができる。というか、わたしが普段食べているような未成熟の木の実だとか蜜の粉だとかでお腹いっぱいになれるはずもないので、わたしのお腹は大体いつも空いていると言って過言ではない。毎回こんな感じに水を飲んだりして誤魔化し誤魔化し生きていた。

 わたしは妖怪だからなんとか生活できてはいるけれど、もしも人間だったならとっくに飢餓している。

 お腹がすきすぎて飛ぶことさえ億劫に感じたので、ずるずると足を半ば引きずりながら川に向かって歩き始めた。

 

「よーしひろさん、よしひろさん、お干しになった干し魚ー、ひとつーわたしにくださいなー……」

 

 誰だよヨシヒロさん、とつっこんでくれる相方はいない。というか友達自体いない。とどのつまりぼっち。

 なんでかぐすんと泣きそうな声になりつつ、歌いながら歩き続けること四半刻(さんじゅっぷん)。木々の合間を抜け、ようやく見慣れた川の際にたどりついた。ほとりには小石、あるいはそれなりの大きさの岩塊が転がったりしている。

 やっと水が飲める。水でしかないんだけど……。

 

「お腹すいてる時に水飲むとちょっと痛いんだよね、お腹……」

 

 川のほとりで、少し怖気づく。水面には、むー、と眉をしかめているわたしの顔が反射していた。

 肩に届くほどの長さをした白髪はハーフアップにしていて、ところどころ青色のメッシュがかかっている。服装は動きやすそうな、というか実際動きやすい白の半袖と水色のミニスカートを着込み、その上から少し大きめな青の上着を羽織っている。

 髪や服、肌などの人間的特徴が比較的明るい色合いをしているだけに、自身の妖怪としての証拠たる翅が少し浮いていた。

 わたしの翅。それは、夜の湖のような淡青色を主な模様とした、蝶の翅。自画自賛になるけれど、星や月の光を浴びたその翅の鮮やかさは相当な美しさだと自負していた。

 だからこそ、そんな紋様を汚すかのように塗りたくられた幾筋もの泥色の紋様が異質に映る。蝶の翅に黒い文様が入っていることは割と一般的のはずなのに、自らのそれはどうしてかまるで、初めは綺麗だったはずのものが穢れてしまったかのようにも感じられた。

 

「むー……」

 

 なんか……少し痩せた? いや痩せたっていうか……やつれた?

 最近なんにも食べてないし、当然のことかもしれない。ちなみに近々なにかを食べられる保証もない。

 あ、ダメだ。元気なくなりそう……。

 

「……はぁー」

 

 じーっ、と。しげしげと。このままいつまでも自分の姿かたちをまじまじと観察していてもしかたがない。怖がって思考をそらし続けても現実は変わらないのだ。

 多少はお腹が痛くなるのも我慢して、さっさとこの川の水でお腹を満たしてしまおう。

 そうそうと川の流れる音だけが支配していた岸辺で、ぱんぱんと頬を両手のひらで軽くはたく。

 ……よしっ。そう決意を固め、いざ水を飲もうと水面に顔を近づけた。

 

「痛いのは我慢、痛いのはがまんー……ん?」

 

 水に触れるまであと少しというところで、ふと、視界の端になにかがよぎった気がして顔を上げる。

 どんぶらこどんぶらこ。上流の方から、どこぞのきびだんご太郎のように意気揚々と珍妙な黒い影が流れてくる。大きさは、わたしより少し大きいくらいだろうか。

 葉っぱや花びら、木の枝やらが流れてくるところはたびたび見かけたことがあったが、あれほどのものは珍しい。

 いったいなにが流れてきているんだろうか。好奇心の赴くまま、目を凝らしてみた。

 

「って、人っ!?」

 

 十代前半くらいの背丈をした少女が、ばたんきゅー、と言った感じにうつ伏せの状態で、ゆらゆらと川の流れの勢いにされるがままたゆたっていた。

 人、と表現したものの、おそらく人間ではない。わたしが住むこの山は妖怪の山と呼ばれている場所であり、その名の通り数多くの妖怪が生息している。そんな川の上流から人間が流されてくるとは考えにくかった。

 ほとんどの妖怪は人間を主食とする。仮にそうでなくとも人間を襲うことこそが妖怪の本懐と言ってもいい。

 ゆえにこそ人間にとって妖怪とはまんべんなく敵とされている存在なのだけれど、同じ妖怪たるわたしにとってはその限りではなかった。

 

「と、とりあえず助けないと!」

 

 水面に近づけていた顔をばっと上げて、あわあわと右往左往する。

 わたしは生まれてこの方泳いだことがない。手を伸ばして引き寄せようにも、流れてくる少女は明らかに手の届かない距離に浮いていた。ならばなにか長い棒かなにかがないかと辺りを見渡してみても、それらしきものがそんな都合よく転がっているはずもなかった。

 

「どうすれば、どうすればーっ……そ、そうだ! 飛んだ状態から引き上げれば……!」

 

 かなりお腹が空いているせいか体力も妖力も少なく、割りかしきついけれども、そうも言っていられない。思い立ったが吉日、ふわりと自分の体を浮かせた。

 ふよふよと水上を漂い、川の中央辺りで停止して、妖怪の少女が流れてくるのを待ち構える。少女がちょうどわたしのところまで来ると、わたしはうつ伏せでいる妖怪の少女の背中に張りついて、その両脇の下に自分の腕を通した。

 

「よーし。そっと、そぉーっと……うぐぐぐぅー、んむむぅーっ! ……だ、だめだ。引きずってこう……」

 

 そのまま持ち上げようとしたものの、見た目と違わぬ人間の子どもレベルなわたしの貧弱な腕力ではそれは困難だったようだ。浮力のおかげでちょっとは持ち上がりかけるが、どうしても空中まで持っていけない。

 しかたなく、この状態で岸まで引きずっていくことに方針を変更することにした。

 若干水流の影響を受けつつも、ばちゃばちゃと川の流れをかき分けて、水上に数センチほど浮いたまま少女を運んでいく。

 

「うぅ、お腹が空いて力がー……で、でも、あと少し……」

 

 少女を引っ張っていくのにも体力を消耗する。わたし自身、すでに浮遊に力が割けなくなってきていて、足元が水面に浸かってしまっていた。それでももうすぐだからと踏ん張っていく。

 そんな時だった。わたしが抱えていた少女が身じろぎをして、うっすらと瞼を開けたのは。

 

「うみゅ……い、いかんいかん。気絶してたか……って、うんっ!?」

「あ、起き」

「ちょ、おま! なにしてんのさ! まさか私を食べる気か!? この野郎っ、はーなーせー!」

「いやちがっ、落ちつい、むぐっ!?」

「わぁっ!?」

 

 ばちゃんっ。腕の中にいた少女が突如暴れ出したせいでバランスを崩し、少女の上に覆いかぶさる形で川の中に落ちてしまった。

 一瞬溺れかけてしまったものの、幸いだったのは岸が近かったことだろう。全身は完全に水の中に浸かってしまったが、比較的近かった水底に足がついた。

 このまま流されてはたまらない。水底を全力で蹴って、足場が低い方向へ進む。そしてまた足をついて、地面を蹴って。腕の中には目が覚めた少女が未だ絡まっていて非常に重かったけれども、その状態のまま必死で岸を目指した。

 

「ぷ、はぁっ! はぁ、はぁ……けほっ、けほけほっ!」

 

 どうにか川辺まで戻ってくると、絡まっていた少女をさっさと解放して、砂利の上に膝をついた。

 少し水を飲み込んでしまった。何度も咳を繰り返し、必死に空気を取り込んで、朦朧とする意識をなんとか保つ。体力がまるでない状態で溺れかけたせいか膝も腕もがくがくと震えていて、しばらく立てそうになかった。

 そんなわたしのそばに誰かが近づいてくる気配がする。その正体がなんなのかはわかっていたが、顔を上げて確認する余裕はなかった。

 

「えっと……わ、悪かったよ。なんか勘違いしてたみたいだな。私を助けようとしてくれてたのか……」

「か、けほっ、か、構わない、よ……わ、わたしがかってに、やったことだから……」

 

 わたしが岸まで頑張って連れてきたおかげか、どうやら誤解は解けてくれたらしい。荒い息をはきながらも、どうにか謝罪の言葉を受け取る。

 

「……な、なぁ、大丈夫か……?」

「だい、だいじょう、ぶぁっくしょい!」

「大丈夫そうじゃないな……」

 

 全身が濡れたまま風に当たったせいだろうか。腕や足だけじゃなく、体全体が震えてきた。

 全身が凍えそうなほどに寒い。そのくせして頭や顔に熱がのぼってきている感覚もあって、そのアンバランスさがまたなんとも言えない気分の悪さを生み出していた。

 

「おーい、しっかりし……あれ、これ本当にまずそうだな。って、あ、おいっ! ちょ、起きろ! 起きてってばっ、しっかりしろー! おーいっ!」

 

 なんだか、段々と視界がおぼろげになってきた。耳に届いているはずの少女の声は遠くなり、感覚は夢の中に誘われるかのように、現実から徐々に剥離していく。

 ばたんっ、と。自分が倒れていることに気がついたのは、瞼が閉じる寸前、視界が横になっているのに気がついた時だった。

 自分の体が揺さぶられている感覚がある。なにか、声をかけられているような気もする。

 でもどれもどこか遠い出来事のようで、体力も妖力も気力もなにもかも使い果たしてしまったわたしの意識は、すぐに睡魔の闇に飲まれていってしまった。



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Z2.ともだちいないさっど

 ざぁざぁ、と。どこか心地のいい雑音が耳を打つ。

 ううーん、と無意識に身じろぎをした際に頬に冷たい水滴を受けて、この音の正体がなんなのか、なんとなく察した。

 これは大量の水が流れ落ちる音だ。落下した水流が水面に激突し、飛沫を撒き散らす滝の音だ。

 

「お、気がついたか? おーい、私の声が聞こえるかー」

 

 誰かに呼ばれたような気がして、まだ意識も曖昧なまま、薄っすらと瞼を開く。その瞬間に爛々と輝く太陽の明かりが目の中に差し込んできて、きゅっと反射的に強く目をつむった。

 だけどその光の刺激のおかげで、徐々に頭が回転を始めてくれた。

 自分が直前までなにをしていたのか。どうして眠ってしまっていたのか。いつもは一人で活動しているのに、なぜ誰かに心配されるような声をかけられているのか。一つずつ思い出していく。

 

「そう、だ……誰かを、引き上げようとして、それから……」

 

 再び、瞼を押し上げる。今度は強い光に臆することなく、はっきりと目を開き、そこに映るものを認識した。

 誰かが、横からわたしの顔を覗き込んでいた。

 純粋な、あるいは純水とでも呼ぶべき、青色の瞳。幼さが残る顔立ちが、今はほんの少しなにかを案じているような表情をしており、その対象がわたしだということはすぐに理解できた。

 若干外にはねた青い髪を赤い数珠のアクセサリーでツーサイドアップにしていて、その上に緑のキャスケット帽をかぶっている。青色系統が好きなのか上着もスカートも水色で統一されているが、隙間から見える上着の下は白いブラウスのようだ。スカートに大量のポケットがついていることと、紐で胸元に鍵を固定しているのが印象的だった。

 

「ん、やっと目が覚めたか。体調は問題ない?」

「えっと……誰?」

「私は河童のにとり。河城にとりだ。覚えてないの? あんたが助けようとしてくれてた妖怪だよ」

「河童……?」

 

 首を傾げつつ、そういえば自分はどこで寝ているのだろうか、と辺りを見渡した。滝の音が聞こえているが、わたしがいた川辺に滝なんてなかったはずだ。

 わたしが寝かされていたのは、谷の底にある岩場の一角のようだった。すぐ近くに谷の上から落ちてくる滝が存在し、そこから続く川の流れに沿うようにして、壁面に自然的な洞穴が数多く空いた渓谷が続いている。

 見上げれば、谷の上には木の枝や根が這い出しているのが見えた。おそらくこの上には豊かな木々が生い茂っているのだろう。

 こんなところには来たことはないが、川や滝が近くにあることから、わたしが気を失うより前にいた川をずっと上流に進んだ場所なのだと推測を立てる。わたしがいたのは麓の森であり、そこをさらに下りていっても滝にも谷にもたどりつかない。そしてこのにとりという少女は上流から流れてきていたのだから、彼女がわたしを運んでくれたのであれば元の場所に戻るため川をのぼったと考えた方が自然だった。

 

「で、お前の名前は? 私も名乗ったんだからあんたの名前も教えてくれよな」

「あ、うん。わたしは、しろも。仮縫(かりぬい)しろも。しがない蝶の妖怪、です」

「ふーん、しろもねぇ。聞いたことないな。大して力もないみたいだし当然だけど」

 

 体を起こそうとすると、わたしは自分の体に毛布がかけられていたことに気がついた。たびたび水飛沫が飛んでくるせいかちょっと濡れているが、それでもじゅうぶん温かい。

 わたしが起き上がったのを見て、にとりはすっとわたしの額に手を当ててくる。目をつむってしばらく唸った後、にとりは諦めたように首を横に振った。

 

「うん。熱があるのかないのかよくわからんな。そもそも基準がわかんないし。っていうかよくよく考えなくても妖怪は熱なんて出さないからなぁ。うーむむ」

「えっと、たぶんもう大丈夫、かな。倒れちゃった時ほど調子は悪くないし。もしかしなくても看病してくれたんだよね? ありがとう、にとりちゃんのおかげだよー」

「にとりちゃんって、いきなり馴れ馴れしいな……」

「だ、だめ?」

「いや別にいいけどさ。まぁ、なんだ。元気になってくれたならよかった。ほら、あれだろ? 一応は助けようとしてくれた相手を川の中に突き落としちゃってそのまんまなんてのは、さすがに目覚めが悪かったからね」

 

 にとりちゃん、という部分でどことなくむず痒そうな表情をしていたが、呼び方を拒否されることはなかった。そっと胸を撫で下ろしつつ、あれ? と一つ疑問点が浮かび上がり、にとり――にとりちゃんの姿をまじまじと眺めた。

 

「なに? どうかした? そんな額にしわ寄せて」

「や、にとりちゃんって河童なんだよね? でもそれにしてはなんか溺れたみたいにぷかぷか流れてきてたような……あ、もしかして河童だけど泳げなかったり?」

「はぁ? そんなわけないじゃん。そもそも溺れてないし。っていうか本当なら、私が目を覚ました時点であんたの助けがなくたってなんにも問題なんてなかったんだよ」

「え、そうだったの? じゃあなんであんな気絶して……」

「あれはね……私は最初、そこの滝壺で仲間たちと一緒に遊んでたのさ。でも休憩中に滝の上からでっかい丸太が落ちてきて、それに頭をぶつけて気絶しちゃったみたいでね。ったく、あんなのが自然に落ちてくるわけないし、絶対あいつの仕業に決まってるじゃん。あーむかつくー」

「あいつ?」

「あー……まぁ、あんたは別に気にしなくたっていいよ。これは我々河童の問題だ。部外者には関係のない話さ」

 

 にとりちゃんのどこかそっけない言い草に、なんとなく疎外感を覚える。もしかして、あんまり歓迎されてないのだろうか。

 わたしは山の麓の森を住処としているが、妖怪の山に住まう天狗や河童と言った妖怪たちは、仲間意識が強い代わりに排他的な傾向にあると聞いたことがある。その山の頂点に君臨する鬼にはそんな性質はあまりないようだけれど、鬼は横暴かつ凶暴、それでいて最強の妖怪として有名な存在なので、そもそもこちらから関わり合いたくない部類に入る。

 わたしとにとりちゃんの間に沈黙が訪れた。わたしはにとりちゃんの無愛想な態度になにを言っていいのかわからなくなってしまい、にとりちゃんはそもそもわたしと親しくなろうという思考自体が存在しないように思える。ただ、気まずさだけがこの場に漂っていた。

 そんな空気に先に耐えられなくなってしまったのは、どうやらわたしの方だったらしい。

 ぐぅー、と。気の抜けたような音がこの場に響き渡る。

 にとりちゃんは目をぱちぱちとさせた後、訝しげに首を傾げた。

 

「……今の、なんの音?」

「え、えへへ……わ、わたしのお腹の音です……ごめんなさい……」

 

 ここ最近はろくなものを食べていない。にとりちゃんを川から引き上げようとした時だって、本当は水を飲もうとしていたところだったのに、結局はそれさえできずに気絶してしまった。

 いや、溺れかけた際にいくらか川の水を飲み込んでしまってはいたが、あんなものはお腹を潤すために飲んだもののうちには入らない。

 にとりちゃんは、あー、と困ったように頭をかいた。彼女はもうわたしを看病するという義理を果たしている。もう関わる必要はないのに迷っているということは、もしかしたら、わたしの空腹をどうにかしようと悩んでくれているのかもしれない。

 ちょっとばかり口が悪いところがあるものの、決して悪い妖怪ではない。それがこの短時間でわたしがにとりちゃんに抱いた印象だった。

 

「はぁー……まだ本調子ってわけじゃないみたいだし、しかたないか」

「えっと……」

「しろもって言ったっけ。あんた、普段なに食ってるのさ。こうなっちゃってるのは私の責任もちょびっとあると思うし、お詫びも兼ねてちょっとくらいなら取ってきてあげてもいいよ」

「ほ――――!」

 

 がしっ、と。気がついた時にはもうすでに、にとりちゃんの手を両手で力強く握りしめてしまっていた。

 

「ほ、ほんとにいいんですかっ? ほんとに、ほんっとうに! ほんっとうにいいんですかっ!?」

「え、な、なにっ!? 急にどうしたっ!? なんでそんな詰め寄ってくるの!?」

「結局にとりちゃんに迷惑かけただけだったのにほんとにいいの!? というか現在進行形で迷惑かけちゃってるのに……ほんとにいいの? ほんと? ほんとにっ!?」

「ちょ、近い近い近い! ちょっと離れてって! 本当っ、本当だから! このっ、いいから落ちつけ!」

 

 普段であれば、数日に一度でも枯れかけた花の蜜や未成熟の木の実にありつければいい方なのがわたしの日常である。普通ならそんな事態に陥るはずもないのだが、わたしの住処付近はわたしと同種の妖怪や妖精が本当に多いようで、餌の奪い合いは過酷を極めている。特にわたしは生まれたばかりゆえにその中でも最弱の部類なのでなおさらだ。

 食いしん坊と言われればそれまでかもしれない。だけどそもそもとして、このたび山の麓の森に生まれてからのこの数か月、わたしは他の誰ともまともな付き合いをしたことがなかった。

 同種の妖怪に話しかければ、付近の餌が枯渇気味な都合上敵意ばかり向けられ、へたに縄張りを侵せば攻撃までも浴びせられる。かと言って違う種族の妖怪には虫けらのようにうざがられ、自然の権化たる妖精からはいたずらばかりされる日々。

 そんな過酷な日常の中で突如こんなに優しくされれば、ころっといってしまうのもしかたがない。そう、しかたがないのだ。

 

「うぅ、ひっく……よ、よがっだ……わ、わだしなんがに優しくしてくれる妖怪(ようがい)さんも、ちゃんと存在(ぞんざい)じてくれでたんでずね……ずずっ」

「う、うん……な、なんか今まで大変だったんだな……」

「はいぃ、それはもう……ひっく」

「あーもう、そんな泣かないでくれよー……うぅ、やりにくい。こういう時ってどうすりゃいいのさ……」

 

 ひどく不慣れな感じで、ぽん、とわたしの頭に手が置かれた。撫でる動作をするその手はずいぶんと動きがかたく、気持ちよさはまるでない。だけどその手のひらからは、にとりちゃんがわたしを気遣う気持ちを確かに感じ取ることができた。

 

「……もしかして泣かせてる?」

 

 その声は、わたしのものでもにとりちゃんのものでもない。顔を上げれば、滝壺から一人の少女が顔を出していた。おそらく、にとりちゃんと同じ河童であろう。

 

「ち、違う違う。こいつが勝手に泣いてるだけだって。私は関係ない」

「ほんとにー?」

「本当だって! っていうかお前さっきからずっと水ん中からこっち窺ってたろ! ずっと見えてたんだからな!」

「あちゃー、ばれちゃってたか。残念」

 

 わたしは自分がにとりちゃんを困らせてしまっていることはわかっていた。これ以上彼女の手を煩わせるわけにはいかない。袖でごしごしと目元を拭って、もう大丈夫です! と言わんばかりな力強い表情を意識してみた。

 ……その直後に、体力が回復していない状態で泣きわめいたせいか、ふらりと上半身が倒れそうになって、にとりちゃんが慌てて支えてくれる。

 大丈夫とはいったいなんだったのか。まことに面目ない……今度は、しょぼんとうなだれる。

 

「この子結構面白いねぇ。で、にとりちゃんは自分を助けようとしてくれたこの子のためにご飯を調達してあげようとしてたんだっけ? この子普段なに食べてるの?」

 

 川から上がってきた河童の少女に、つんつんと頬をつつかれる。

 

「まだ聞いてない。というか聞こうとしたら泣かれた」

「わぁお、ばいおれんす?」

「それで結局しろもは普段なに食べてるんだよ。ちょうどいいパシリも来てくれたし、人肉でも尻子玉でもどんとこいだぞ」

「パシリって私のこと?」

「他に誰がいるのさ」

「まーいいけどね。にとりちゃんを助けてくれたお礼、私もしたかったし」

 

 同じ河童だけあって旧知の仲らしい。息の合った会話が目の前で繰り広げられる。わたしには、その関係がちょっと羨ましく見えた。

 なにはともあれ、普段食べているもの。にとりちゃんは人肉だとか尻子玉だとか言っているが、当然わたしの主食はそんな物騒なものではない。実際に食べられないこともないというか普通に食べられはするけれど、一番はやはり花の蜜や木の実などの甘味である。

 そのことをにとりちゃんともう一人の河童の二人に伝えると、彼女たちは目をぱちぱちとさせて顔を見合わせた。無理を言ってしまったかとも思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。むしろ、その逆のようだ。

 

「……そんなんでいいの?」

「要するにお花を摘んできてってことだよね。なんでもいいの?」

「えっと、うん。申しわけないけど、頼めるかな……?」

「それくらい余裕だよ余裕。だってそこら辺に生えまくってんじゃん。な?」

「取ってくるの私だけどねぇ」

 

 わたしの頭をぽんぽんと撫でると、河童の少女は、とんっ、と地面を蹴った。そしてふわりと宙に浮く。よじ登るのは相当困難な谷の壁も、空を飛ぶことのできる妖怪にとっては大した障害にはなり得ない。

 

「とりあえずあいつが戻ってくるまで体休めときなよ。立つのもきつそうだし。食べるくらいの体力は回復しとかないとどうにもならないぞ」

 

 河童の少女が去った後、わたしはにとりちゃんに促されるがまま、再び地面に横になった。にとりちゃんは滝壺の前で腰を下ろし、水面に足を浸しながら、上半身はごろりと寝転がる。

 どことなく、にとりちゃんは手持ち無沙汰で暇を持て余しているように思えた。本当は、わたしのお守りなんかよりももっと他にしたいことがあるのかもしれない。

 にとりちゃんはさきほど仲間とこの滝壺で遊んでいたと言っていたが、今この場にいるのはわたしとちゃんの二人だけだ。他の多くの仲間は別の場所にいるのだろう。そしてにとりちゃんはその場所を知っている。にもかかわらず彼女がわたしと一緒にいてくれるのはきっと、本調子ではないわたしを一人にしてしまい、他の悪意ある妖怪に襲われるようなことがないようにするため。

 会話はぼちぼちとしかなかったけれど、二人の空気はそう悪いものではなかった。にとりちゃんはそっけない返事をすることが多かったけれど、わたしと話すこと自体が嫌なわけではないような気がした。

 

「ね、ねぇ、にとりちゃんってさ」

 

 うつむき加減で、もじもじと。少しわたしの態度が変わったことを感じ取ったのか、にとりちゃんが生返事をやめ、気になったように目線を向けてきた。

 ここまでずっと明るく話しかけていたのに、急に言いよどみ出したわたしにしびれを切らしたのか、にとりちゃんが「なに?」と続きを催促する。

 わたしは意を決して彼女に向き直った。

 

「友達、いる?」

「……は? え、なんだって?」

「にとりちゃんって、友達いる?」

「……え、なにそれ。え、バカにしてるの?」

 

 にとりちゃんの表情が歪む。聞き方が遠回りすぎて、誤解されてしまったようだった。

 

「ち、違う違う違う!」

 

 わたしは慌てて腕をぶんぶんと横に振って、言葉を選び直していく。

 

「あの、えっとっ、その! わ、わたしこの世界友達一人もいない! ぜろ! ふ、ふれんどぜろっ! じゃなくて、えーとえーと、ふ、ふれんどのっといんっ?」

「いやそんな虚しいこといきなりカミングアウトされても……ってかなんで片言気味?」

「わたし、友達いないから、えっと、にとりちゃんはたぶんいて……でも友達ってほら、一人より二人! 二人より三人! わたしはぜろだけど……えっと、だから、その……友達、いる? 友達いりません? ふ、ふれんどせーる、やってりゅよっ?」

 

 噛んだ。

 

「あーはいはい、とりあえず一旦落ちつこうか。ほら、大きく息を吸ってー、吐いてー。ひっひっ、ふー、ひっひっ、ふー……あ、これ違うわ」

「ひ、ひっひひ、ふ、げほげほっ! あぅ、い、息が……」

 

 取り乱している状態で不安定な呼吸法を行ったせいだろう。むせてしまう。

 近寄ってきてくれたにとりちゃんに背中を支えてもらいながら、今度は正しく深呼吸をして、どうにか心を落ちつかせる。

 

「で、なんだって? ちゃんと一字一句、自分の言いたいことはっきりと伝えてよ」

「う、うん……その、にとりちゃん。にとりちゃんはたぶん、わたしのこと、ちょっと煩わしいって思ってそうだけど。義理を果たしたらさっさと出ていってほしいとか、思ってそうだけど……このみみっちいちんけな虫けら風情がとか思ってそうだけど……」

「いやそこまでは思ってないけど……」

「でもわたし、まだ生まれてから誰ともまともに話したことなくて。にとりちゃんが、その、初めてで。私はにとりちゃんにいっぱい迷惑かけちゃってるけど。これも迷惑だってわかってるけど……」

 

 どうしたものか、と額に手を当てているにとりちゃん。彼女には、次にわたしがなにを言おうとしているかわかっているようだった。

 困らせている。迷惑がられている。理解してはいたけれど、わたしはもう、途中まで言いかけたその言葉を引っ込めることはできなかった。

 いや、違う。引っ込めようと思えば引っ込められた。やっぱりなんでもないと。そう言えばいい。

 でも、断られるのだとしても、少しでも希望があるのなら。にとりちゃんの態度以上に、温もりに飢えたわたしの心が、そう思わずにはいられなかった。

 

「わたし、にとりちゃんと友達に――」

 

 だが、そんなわたしの言葉が続くことがなかった。

 ばちゃんっ! と。なにか大きなものが近くの滝壺に落ちてきた音にかき消されたのだ。

 何事か、とわたしとにとりちゃんの視線が向く。そこにいたのは一匹の河童だ。さきほどまで一緒にいて、花を取りに行ってくれた河童とはまた違う、わたしが出会う三人目の河童。

 どうやら谷の上から飛び降りてきたらしい彼女はにとりちゃんを見つけると、荒い息を吐きながら岸に上がってきて、尋常ではない様子で一つの事件を告げた。

 

「に、にとりちゃん! ここでずっと遠目でにとりちゃんたち眺めて楽しんでるって言ってた、あの子が……!」

「ああ、あいつならちょっといろいろあって花を取ってもらいに行ったけど……なんかあったのか?」

「あの子が木の深いところに入っていくのを見たんだけど、その時あの子が、あの子があいつに……!」

「あいつ? ……な、まさかっ、私に丸太を落としてきたやつと同じっ!?」

「そう、そいつ! 今度はそいつにあの子が、さらわれたっ!」

 

 疑いようもない必死の声音で突きつけられた純然たる事実に、にとりちゃんは苦々しげに顔をしかめ、わたしはただただ目を見開いていた。



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D3.ひとたすけたいうぃしゅ

 わたしとあの河童の少女にはなんの付き合いもない。

 好きになるほど会話を交わしていない。気に入ってもらえるほど交流を重ねていない。

 さきほど初めて会って、ちょっと話しただけの関係でしかない。だからわたしが関わる義理なんてない。

 にとりちゃんは言っていた。しろもわたしが不用意に彼女の事情に踏み込もうとした際に、これは我々河童の問題なのだと。

 きっとこれも同じだ。たとえわたしのために彼女が花を取りに行ってくれたのだとしても、それは彼女が決めて彼女が行ったことなのだから、わたしに責任はない。

 だけど、そんなこと関係なかった。

 あの河童の少女はさっきまでわたしの目の前で楽しそうに笑っていた。わたしに優しくしてくれた。頭をぽんぽんと撫でてくれた。

 たったのそれだけだったとしても、じゅうぶんすぎる。この世界でわたしに優しくしてくれた他人なんて、まだにとりちゃんとあの少女しかいなかったから。誰も味方がいなかった孤独な世界で、唯一初めて感じた温もりだったから。

 死なせたくない。

 

「にとりちゃん」

「……あん、なに? わかってるだろ? 今忙しいんだよ。用なら後にしてくれ」

 

 にとりちゃんは滝壺に落ちてきた河童の報告を耳にして、悔しそうに、そして若干の憎しみを込めた瞳を携えて、ずっと難しい表情をしていた。

 わたしが話しかけても、にとりちゃんはこれまで以上に乱暴に返してくる。

 わたしのせいで、とは思っていないだろう。ただ、なにも警戒せずに彼女を一人で送り出したことを後悔していると感じた。どうにかして取り戻せないかと、必死に頭を働かせているのがわかった。その思考にわたしは今、邪魔でしかないのだ。

 にとりちゃんはぶつぶつと、思考をそのまま呟き始める。そして彼女自身、それに気づかないほど真剣に入り込んでいる。

 

「ここ最近だと、あいつは丸太を私に落としてきた。どう考えても嫌がらせ……いや、私を仲間からはぐれた場所で一人にしたかった……? 本当は今回みたいに一人になった私を攫いたくて、でもしろものおかげで早く起きられたから……」

「にとりちゃん」

「私は助かった。そして予定が狂ったあいつは、次の獲物を探して……その次の獲物も河童。偶然のわけがない。我々河童に恨みがある、もしくは……とにかく初めからあいつは河童の誰かが一人になる瞬間を待ってた。他の誰もいない、逃げられることなく確実に攫える瞬間を……だとしたら」

「にとりちゃんってば」

「目的はただ河童を一人だけ食べることじゃない。ただ食べるだけならわざわざ攫うなんてめんどうなことはしなくていいはずだ。それをする理由はおそらく、あいつは一人の河童を餌に、大量の河童をおびき寄せるつもりだってこと……つまりは罠。くそ……けど、それはまだあの能天気河童が食われてない、死んでないってことだ。どうせ罠だって初めからわかってるんだ。リスクはかなり高いけど、どうにかあいつを出し抜ければ……」

「に、と、り、ちゃ、ん、って、ば」

「あぁー! もうっ、うるさいな! 今忙しいって言ったろ! 静かにしてろよっ、みみっちいちんけな虫けら風情が!」

 

 ぎろり、と睨まれる。あれ、やっぱり思ってたの……? そう落ち込みかけたものの、今はそんな場合ではない。首をぶんぶん横に振って気を取り直す。

 にとりちゃんがいらいらしているのは見ればすぐにわかった。これ以上突っかかれば嫌われるどころか、攻撃されて追い返される可能性すらある。

 それでも、わたしの記憶には、まだ頭を撫でてくれたあの少女の手の温もりが残っていた。にとりちゃんの不器用な優しさも覚えている。ここで引き下がる選択肢は初めからしもろの中にはない。

 胸の前でぎゅっと手を握って、にとりちゃんの鋭い視線にも怯まず、一つの事実を彼女に告げる。

 

「聞いて、にとりちゃん。わたしなら、あの時一緒にいた河童の女の子を追える。あの子が攫われた場所を見つけ出せる」

「……なんだってっ?」

「蟲の触角は敏感なんだよ。空気の振動で、音の反響で遠くの地形まで把握できる。においの残滓を追っていける。妖気のかすかな痕跡も探知できる」

 

 蝶の妖怪としての特性。普段は事前に危険を察知し、それを避けるために使用している。下から数えた方が圧倒的に早いほどにか弱いわたしがこれまで一人で生きていくことができたのも、これの恩恵が大きかった。

 触角があれど、わたしはにとりちゃんたち河童に危害を加えているという妖怪のことをよく知らない。だから単純にそれを探し出すことは難しい。

 だけど、一時でもわたしと一緒にいたあの河童の少女のにおいと妖気の感覚を、わたしははっきりと覚えている。目的の妖怪を探せなくとも、その妖怪が攫った彼女の居場所を突き止めることは不可能なことではなかった。

 

「にとりちゃん、行くならわたしも連れて行って。にとりちゃんたちにとっては、わたしなんてその辺の目障りな虫けらのうちの一匹くらいの存在かもしれないけど……それでも、わたしはにとりちゃんたちが優しくしてくれたのが、本当に嬉しかったんだよ」

「……お前」

「お願い、にとりちゃん。連れてって。こんな泥を啜るくらいしかできないちっぽけな虫けらでも、少しくらいならあなたたちの力になることもできると思うから」

 

 にとりちゃんをまっすぐに、力強く見つめる。そんなわたしの視線ににとりちゃんは静かに両目を閉じ、少ししてから大きく息をついた。

 再び瞼を開いたにとりちゃんの表情に、さきほどまでの敵意混じりの剣幕はない。それどころかわたしを正面から見つめ返しては、ばっと腰を曲げ、頭を下げる。

 

「わかった。頼むよ、しろも。あいつを取り戻すために、私に……私たち河童に手を貸してくれ」

「うん、もちろん」

 

 立ち上がる。いや、立ち上がろうとして、転びそうになった。

 それをにとりちゃんが支えてくれる。至近距離でお互いに目が合って、あははと笑い合った。

 

「……しろも。体力が回復し切ってないところ悪いけど、今すぐあいつの痕跡を追えるか?」

「今すぐ? にとりちゃんの仲間をもうちょっと集めた方が……」

「いや、それじゃ時間がかかりすぎる。確かに他の仲間を集めてからならどんな罠が来ようと柔軟に対応できるけど、それじゃたぶん……何人か死人が出る。一人を助けるのにそれ以上死んでちゃ本末転倒だ。今行くことが重要なんだよ。まだあいつが罠を張れてないだろう、私たちが来るだなんて思っていない今が」

「でも、そのあいつっていうのはにとりちゃんたち河童を狙って来たんだよね。だったらたぶんだけど、河童の水を操る力とかはあんまり通じないんじゃ……わたしたちだけで行っても、ミイラ取りがミイラになるだけかも」

「わかってる、わかってるさ。けど、私たちはなにも戦いに行くわけじゃないだろ。あいつの虚を突いて仲間を取り戻せればそれでいいんだ。そうすれば、あとは天狗さまに報告するだけでいい」

 

 この妖怪の山の支配種族たる鬼の一の配下とされる種族、天狗。さまざまな種類が存在するが、もっとも有名なのは鴉天狗だろう。彼らの飛行速度は全妖怪でも群を抜いて速く、振るう葉団扇は容易く竜巻を引き起こす。鬼は横暴かつ気まぐれなため、山の雑事は基本的に彼らが担当しているという。たとえば、山の秩序を乱す乱暴者の退治とか。

 天狗に報告をすれば、にとりちゃんの仲間を攫った妖怪は確実に駆逐できる。だがそれには少し時間が必要だ。とりわけ天狗は種族内でも上下関係を重視する。下っ端――それでも並みの妖怪では歯が立たない――たる白狼天狗に報告し、その白狼天狗へ提供した情報がさらに上の立場のものへ渡った後に、にとりちゃんたち河童を襲った妖怪の排除に躍り出る。さすがにそれを待っていては攫われた河童の少女は食われてしまう。

 今すぐには天狗の手は借りられない。だからこそ、にとりちゃんの言っていることは一理あった。今行けば、きっとまだ罠は完成していない。まだ来ないと思っているだろう相手の隙を突ける。河童の力が通じづらい相手かもしれなくとも、河童の少女を救出して即離脱するくらいならできるかもしれない。

 かもしれない。そう、かもしれない。できなければいったいどうなってしまうのか、にとりちゃんならわかっているはずだ。

 もっと他に方法はないのか、と。それを考えるくらいはいいんじゃないか、と。そう提言しようとして、言葉が止まる。

 支えてもらっているにとりちゃんの手が震えていた。

 

「……わかった。行こう。にとりちゃんの言う通り、今すぐに」

「よしきた!」

 

 歓喜の声、嬉々とした表情。見てすぐにわかった。虚勢だ。誰にも、それこそ自分の心をも騙すように、恐怖を誤魔化そうとしている。

 乱暴な言葉づかいをするくせに、仲間のためになら危険な選択ができるくせに、その心はどうやら結構な臆病者らしい。

 

「私はしろもと一緒にあいつを追う。お前は他の河童たちと、あと天狗さまにあいつのことを知らせてくれ。それから絶対に集団で行動するようにって」

「え!? まさか二人だけで行く気なの!?」

「んなわけないじゃん。途中で会った仲間も拾ってくよ。会わなかったら……まぁ、その時はその時ってことで」

「でも……」

「無茶はしないってば。心配するな。私だって自分が一番かわいいからな。薄情だけど、いざとなれば見捨てるさ。しろももいるし」

「……本当に、無茶はしないでね」

 

 にとりちゃんに報告をしに来た河童の少女が飛び去っていく。にとりちゃんもまたわたしに背中を向けて、わたしを背負った。

 今のわたしでは満足な飛行がままならない。だからおんぶしてくれたことに対してお礼を口にしようとしたけれど、にとりちゃんの視線がそれを静止する。手伝ってもらっているのはこっちだ、危険な場所に連れて行こうとしているのはこっちだ。彼女の視線がそう言っている。

 だからわたしは、口を開くのをやめて、そっとまぶたを閉じた。そうして触角の超感覚に意識を集中させる。にとりちゃんに期待に答えられるように、わたしはわたしのやるべきことをなす。

 

「にとりちゃん。飛んで、谷の上に」

「了解」

 

 攫われた河童の少女のにおいと妖気を追って、指示を出す。谷の上へ。草むらをかき分けて、先へ。広がる木々の奥へ。

 不用意に木の上に飛んだりということはしなかった。わたしとにとりちゃんがやろうとしていることは奇襲からの離脱である。これ見よがしに空を飛んでいては意味がない。

 ぴくぴくとわたしの触角が反応する。この先のにおいが濃い、ここから妖気が二種類混じっている。ここで彼女は攫われた。

 それをにとりちゃんに伝えると、彼女がごくりと唾を飲み込んだ。それでも立ち止まることはせず、足早にわたしの指示通り進んでいく。

 河童の少女を攫ったと思しき妖怪の移動速度はそう速くなかった。どんどんと距離が詰まっていることが、においや妖気の濃度、そして音の反射による独特の距離感覚で理解できる。

 にとりちゃんに背負われて行動し始めてからどれくらい経っただろうか。おそらく四半刻も経っていない。わたしの触角がこれまでにないほど、ぴくっぴくっ、と大きく反応する。

 

「にとりちゃん、ちょっと速度落として。あと木の影に隠れるように移動して」

「あ、ああ……もうすぐなのか?」

「たぶん。正確な距離は……ちょっとわからない。この先に池みたいなものがあって、そこでにおいが途切れちゃってるし。妖気の濃さからして、たぶんあの子を攫った妖怪はその水の中にいるとは思うんだけど……」

「池? こんな薄暗くてじめじめしたとこにそんなもんあったか……?」

 

 触角の超感覚を研ぎ澄ますのもほどほどに、視界や聴覚にも意識を向ける。

 少し足場が湿っているようで、振り返れば、にとりちゃんの足跡が通り道に残ってしまっている。枝や葉っぱが覆い隠すようにして空の光を拒み、その影響か、虫や動物たちの気配は極端に少ない。あるとしても生き物の気配からはほど遠い、生命としてのにおいよりも死のそれが濃い、忌避感を覚えるおぞましい気配だけだ。

 薄暗く、命の気配が希薄で、不気味なほどの静寂。わたしが目的の相手が近いと言ったことも相まって、にとりちゃんも緊張しているようだった。

 じりじりと木の陰を、先になにもないことを確認しながら慎重に進む。わたしの触角が池の周辺には敵がいないことを教えてくれはしたが、それを過信し油断をして足元をすくわれてはたまらない。わたしもまた、真剣な面持ちでにとりちゃんと同様に辺りを警戒していった。

 

「これは……」

「池、じゃなかったね」

 

 にとりちゃんとわたしがたどりついた場所。そこはほんの少し開けた場所にある、光の差さない小さな沼。

 それも、ただの沼ではない。窪地に満たされている水はもはや水ではなく、わずかすら透き通る性質を失った、単なる泥。それでいてその泥すべてから来るまでにところどころで感じたおぞましい死の気配と同種の妖気が充満していることを感じ取り、ぞっと怖気が走る。

 ただの沼ではない、ただの泥ではない。この沼の泥すべてが、河童を狙っているという妖怪が生み出した力の塊だ。

 

「なるほどな……うちら河童にちょっかいかけてくるなんて土蜘蛛かとも思ってたけど、相手は泥の妖怪か。私たち河童の水を操る能力は、水を吸収できる泥が相手じゃ確かに分が悪い……それに、泥は土が混じってるからまともに操ることだってできない。河童の天敵ってわけだ」

「……大丈夫? 結局誰にも会わずにここまで来ちゃったけど……」

「平気だよ、問題ない。なんにもな」

 

 声が震えていた。全然平気じゃないことは明らかだったが、指摘することはしない。それがにとりちゃんの選んだことなら。

 

「それより早くあいつを探そう。この辺に囚われてるはずなんだろ?」

「そのはずだけど、沼の中にいたりなんてしたら……」

「いや、たぶんそれはない。河童はどんな妖怪よりも息が長く続くけど、別に水の中で息ができるってわけじゃないのよ。普段は地上で暮らしてる。気絶した状態で泥の中になんていたら死亡一直線だ。それじゃ、うちらをおびき寄せる餌にできない。この沼の近くのどこかに縛りつけられるなりなんなりしてるはずだ」

 

 なるほど、と相づちを打つ。にとりちゃんはちらりとわたしの、正確にはわたしの触角を見やってきた。

 

「なぁ、その触角であいつの場所を見つけることはできない?」

「ごめん、ここまで別の妖怪のにおいや妖気が濃いと他のそれはかき消されちゃって……役に立てなくてごめんね」

「や、ここまで連れてきてくれただけでじゅうぶんだよ。あとは私の仕事だな。しろもはここでちょっと隠れててくれ。私があいつを探して、連れ戻してくる」

 

 そう言ってわたしを下ろそうとしたにとりちゃんの背中に、慌ててぎゅっとしがみついた。

 

「ま、待って待って! ひ、一人で行くつもりなのっ? さすがに無謀だよ!」

「いやだって、しろも戦力にならないし……第一、戦いに行くわけじゃないってここに来る前に言ったろ? 泥の妖怪に見つからないよう、攫われたあいつを見つけ出して救出できれば私たちの勝ちだ。それ以上は望まなくていい」

「で、でも、あの河童の子を攫った泥の妖怪のにおいはこの沼で途切れてるんだよ? こんなに色が濃くちゃどこに潜んでるかもわかんない。こんなんじゃ見つかったって気がついた時点でもう手遅れになっちゃう……」

「や……この泥の沼の主は、今はたぶんこの沼にはいない」

「えっ、けど、においはここで途切れて……」

「泥の妖怪ってことは泥の中を自由に動けるはずだ。で、それを前提に足元を見てみてよ。こんなに湿ってる。これも泥だ。おそらくなんだけど……あの泥の妖怪はこの湿った地面の下を移動できる。たぶん、普段はそうやって移動してるんだよ。じゃなきゃ、こんなに妖力の気配が強いくせに他の妖怪に容赦なく襲いかかるような凶暴なやつが、これまで天狗さまたちに見つからず生きてこれるはずがないし」

 

 目を細め、冷静に分析をするにとりちゃん。それは、危機の察知を触角の感覚のみに委ねてきたわたしにはできない、超越的な感覚能力を持たないからこそ培われてきた鋭い観察眼、そして知恵と知識。

 瞠目するわたしをよそに、「でも」とにとりちゃんが続けていく。

 

「今回は、河童を一人攫ったから地上を移動せざるを得なくなった。で、そのおかげで私たちはこれまで誰にもばれたことはなかっただろうあいつの巣までたどりつけた。はっ、いい気味だな。すぐ食わずに欲張るからこうなるんだ」

「にとりちゃん……」

「……あの泥の妖怪は自分の住処がばれるだなんて欠片も思ってないはずだ。今はたぶん、地面の下を通って沼の周辺に罠を仕掛けに行ってる。そう、私たち河童が仲間を取り戻しに来た時にそれを捕まえるための罠を。しろもは、頭のそれでなんかそういう気配は感じなかったか?」

 

 ここに来る途中で感じたもの。ところどころにあった、死の濃密な気配と妖気。思い返してみれば、あの時覚えた忌避感は確かに泥の沼から感じるそれと酷似しているように感じた。

 

「その様子だとあったって感じだな。なら行ける。安心してくれ。来る前にも言ったろ? 私は自分が死ぬつもりなんて毛頭ない。いざとなれば見捨てて逃げるさ」

「……わかった。どうせ私じゃ足手まといになるもんね。ここで泥の妖怪の気配を探りながら、待ってる。もし危険を感じたらすぐに大声で叫ぶから」

「あぁ、助かる。それじゃ行ってくるよ」

 

 ひらひらと手を振りながら一人で沼へ向かうにとりちゃんを見送った。彼女が本当は誰よりも怖がっていることはわかっていたが、今のわたしでは彼女の力にはなれない。せめてまともに飛べる程度の力は取り戻さなければ。

 いや――今のわたしでも、力になれる方法はある。

 ちらり、と自分の翅を見やる。月や星々を映した湖のように美しい淡青色の模様。その上から幾筋もの穢れた線が走った蝶の翅。

 わたしに宿る能力と、それを初めて使用した瞬間より生まれた副産物の力を解放しさえすれば、今のわたしでもにとりちゃんの役に立つことはできる。

 だが、能力の方はともかくとして、副産物に関しては、おそらく今のわたしではその負荷にそう長くは耐えられない。解放するにしても、それが可能な時間はほんの数秒程度。それもその後すぐに気を失ってしまう可能性が高かった。仮に使うにしても、使いどころを見誤るわけにはいかない。

 ……や、そんな心配はいらないかな。なにせわたしの能力にかかれば、使いどころを見誤るなんてことはありえない。

 普段は使用を制限している能力。本当に必要な場面でのみ使うこととしている力。そして、にとりちゃんを死なせないこと、攫われた河童の少女を助けること、わたしが生き残ること。そのどれもはわたしにとって大事なことだ。必要なことだ。

 だからこそ、決めた。この救出劇において、わたしは能力の使用を戸惑わない。

 必ず救い出す。能力を躊躇なく何度でも行使して、副産物の力を確実に、使うべき場面で的確に解放する。わたしにはそれができる。わたしの能力にかかれば、それがわずかにでも可能な未来の可能性が存在する限り、どんなことでも。

 すっ、と顔を上げる。にとりちゃんが沼へ行ってしばらく経った。そろそろ帰ってきてもおかしくない頃合いだ。触角には未だ泥の妖怪の反応はない。大きな物音もなかったので、おそらくは無事だとは思うけれど……。

 心配でそわそわと沼の方に視線を送っていると、木々の隙間から、にとりちゃんが一人の少女を抱えてこちらに向かって飛行してくるのが窺えた。背負われている少女は当然、わたしも見たことがある河童の少女だった



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V4.どろまみれぺいんふる

「しろも! 見つけた! 沼の上の木に固まった泥で縛られてた!」

 

 結果を報告しながら、すたん、とにとりちゃんがわたしの隣に着地する。にとりちゃんの背中にいる少女を覗いてみたが、苦しそうに呻くことはあれど、単に気絶しているだけで命に別状はなさそうだ。なにかされているわけでもなさそうで、ほっと息をついた。

 

「よかったぁ……」

「さ、目的は達成したんだ。さっさとこんなとこおさらばしよう。ここは枝が生い茂ってて飛べないけど、ちょっと離れれば空に逃げれる。そうすればあとは天狗さまの管轄内だからあいつは手出しできない。私たちの勝ちってわけだ」

「……まだ油断はできないね」

「うん。それでしろも、悪いけどここからは自分の足で歩ける? 私はこいつを背負ってかなきゃいけない。体力が全然ないってのはわかってるけど……」

「ううん、大丈夫。あとで倒れるかもしれないけど、ちょっと無理すれば少しくらい……」

「……悪い」

「いいよ。私だって助けたい気持ちは同じだったもん。にとりちゃんが気に病むことじゃない」

 

 それより早く行こう、と沼に背を向けて駆け出した。にとりちゃんもこくりと頷くと、わたしのあとを追い始める。

 にとりちゃんの言う通り、今のわたしは体力が回復し切っていない。それに加え、さきほどまではにとりちゃんに背負われていたが、今は全力で走っている。これでは触角を十全には機能させられない。索敵能力は最底辺のレベルまで落ちていると考えていい。

 さらににとりちゃんの予測が確かであれば、泥の妖怪は湿った地面の下を移動することができる。目を閉じてじっとして全力で集中すればぎりぎり察知することができなくはないと思うが、まず探知は不可能だと言っていい。

 つまり今の状況は、目の前の地面から突如泥の妖怪から湧き出てきてもまるで不思議なことではないということ。にとりちゃんもそれはわかっている。だからこそ彼女もまた最大限周囲を警戒しながら進んでくれていた。

 今のわたしには索敵はできない。だが、ここに来るまでに感じた罠の場所や気配は頭に入っている。それをもとに時折にとりちゃんに警戒を促しつつ、泥の妖怪の領域内を走り回った。

 

「確かもうすぐだったっけっ? あともう少しすれば空を飛んで逃げられるっ」

 

 にとりちゃんが叫ぶ。その声音には歓喜の感情が含まれていて、そう、わずかに油断してしまっていた。

 ぴくり、と。一瞬、わたしの触角が反応を示す。

 気がつかなくてもおかしくなかった。いや、普段なら絶対に気がつかない。気がつかず襲われて、手遅れになっていた。だが、すでに自身の能力を()()()()()()わたしはそれに感づく。

 

「にとりちゃんっ!」

「え、わっ!?」

 

 がばっ! とにとりちゃんに飛びかかって押し倒した。服や肌が地面の泥で穢れ、にとりちゃんが背負っていた少女が放り出される。

 突然のことに文句を言おうとしただろうにとりちゃんが口を開いた直後、すぐ真上を泥の弾丸が過ぎ去って行った。

 目を見開き、そこでにとりちゃんもわたしがどうして急にこんなことをしてきたのは理解したようだ。すぐさま立ち上がって、離してしまった河童の少女を背負い直す。

 その間、わたしは泥の弾が飛んできた方向を見据えていた。

 少し大きな木の陰。その根本から這い出るように現れたそれは、まさしく泥の具現とでも言うような存在だった。

 わたしやにとりちゃんのように人の形をした肉体はなく、見た目は泥の集合体。大きさはわたしの四倍、人間の大人の二倍はあるだろうか。纏う妖気は河童の少女を救出した泥の沼で感じたそれとまったく同じ、死の気配が濃厚なおぞましいもの。

 泥の妖怪にあった、目と思しき二つの部分が妖しく光る。その瞬間わたしの能力が発動し、即座にわたしは体を横に投げ出した。

 

「う、っく」

 

 泥の妖怪の体から前触れもなく飛び出した泥の弾丸がわたしが一瞬前までいた空間を貫いた。そして背後にあった樹木に直撃し、その存在を大きく抉り取る。

 あんなものを食らってはひとたまりもない。妖怪は人間より丈夫にできてはいるが、わたしは弱小妖怪だ。今の弾丸を一発身に受けるだけでも戦闘不能どころか行動不能に陥ってしまう。

 

「しろも!」

 

 ふらふらと立ち上がったわたしの手をぱしんっと掴む手があった。にとりちゃんだ。河童の少女を再び背負った彼女は、わたしの手を引っ張って全速力で走り始める。

 けれど、泥の妖怪はそう甘くなかった。

 泥の妖怪が姿を見せている背後からの攻撃。そればかりを警戒していたから、この先にわたしが泥の妖怪が新たに設置していた罠があることに気がつかなかった。

 にとりちゃんがある地点まで足を進めると同時、どろりと地面がぬかるむ。足を取られたにとりちゃんが転びかけ、膝と手のひらを地面についた。ついてしまった。

 

「な、なんだこれ!? ぬ、抜けない……!?」

 

 足を取られた。腕を取られた。まるで意思ある底なし沼に取り込まれたかのように、暴れれば暴れるほどに腕や足が沈んでいく。

 それはわたしも同じだ。にとりちゃんと同じように泥と化した地面に囚われて、動けない。

これがきっとにとりちゃんが推測していた河童への罠なのだろう。そこへ踏み込んだものを自ら生み出した泥で捕まえ、取り込んでしまう罠。

 けれどわたしはにとりちゃんと違って冷静だった。ちらりと背後を、泥の妖怪と距離がまだ開いていることを確認すると、にとりちゃんの耳元に口元を近づけて、囁く。

 

「にとりちゃん、もっと前に進める?」

「む、無理だっ! 動けば動いただけ沈んでく……下手に動いたら埋まって出れなくなる!」

「大丈夫、大丈夫だから。人一人ぶんくらい……は巻き込まれるね。二人ぶん、二人ぶんでいい。それだけ前に進んで、首の下まで沈んだっていいから」

「な、なに言って」

「いいから。言う通りにして。どっちにしても、どうせこのままじゃ追いつかれて食われるだけだよ」

 

 淡々と、作業のように。恐怖なんてまるで感じていないかのごとく。

 まるで人が変わったかようなわたしの態度にあっけに取られたような目で眺めていたにとりちゃんは、しかし振り返って泥の妖怪を見やると、迷いを振り払うように首をぶんぶんと横に振った。

 

「くそっ、わかったよ! 考えがあるんだよなっ? どうせ私にゃどうしようもないんだっ、よくわかんないけど乗ってやる!」

 

 にとりちゃんが泥に沈みながらも奥へ進むのを尻目に、わたしは普段の透き通った色とは打って変わった、その濁り切った眼を泥の妖怪の方へと向けた。

 わかっている。わたしの能力が告げている。これはチャンスだと。

 あのまま罠を避けて進んだところでいずれ追いつかれる。ここら一帯はあの泥の妖怪の領域だ。わずかならば地形を操作することができることを、わたしは()()()()()。あのまま走っても領域の外に出ることはできず、泥の妖怪の支配領域でただただもてあそばれ続けるだけだ。

 だが、あの泥の妖怪は無様にも罠にかかった獲物を容易く仕留めたりはしない。限界まで近づいて、じゅうぶんに恐怖を植えつけた上で、それをスパイスにわたしたちを喰らう。

 なにせ罠にかかった時点で、にとりちゃんもわたしもなにもできはしないのだ。直前で反撃しようとしても、すでにわたしも腕の半ば以上が泥に沈んでしまっている。まともな攻撃などできはしない。

 あの泥の妖怪もそう思っている。だから無駄に余計な危害を加えようとしたりはせず、悠然と近づいてくる。より深く長い恐怖を植えつけるために。

 

「こ、これが限界だ。これ以上は無理だ」

 

 にとりちゃんの声が聞こえ、ちらりと背後を見やる。そこには肩のすぐ下まで沈んでしまっている、河童の少女を背負ったにとりちゃんの姿がある。

 

「うん。それだけ離れてくれれば大丈夫。ありがとう」

「そ、そうか……ほ、本当に手があるんだよな? この状況をどうにかできる策があるんだよな?」

 

 不安そうに問いかけてくる。わたしはただ、小さく微笑むことでそれに答えた。

 もうほんのすぐそばまで泥の妖怪が近づいてきている。もうにとりちゃんへの心配はいらない。わたしは体の正面を泥の妖怪へと向けた。

 そうしてわたしの能力が発動する。そしてそれが先の事象を。これからわたしがすべきことを明示する。

 わたしはそっと目を閉じて、小さく息をはく。そして再び、ゆっくりと瞼を開いた。

 

「……その、お願いがあるんですが、見逃してくれませんか?」

 

 ふるふると体を震わせて、おそるおそると言った様相を装って、泥の妖怪を見上げた。

 まずは下手に出る。そうすれば泥の妖怪は鼻で笑うようにして、さらに恐怖を与えるために近づいてくることを知っている。

 

「た、確かにわたしたちはあなたの住処に勝手に入っちゃいましたけど……お、お詫びはちゃんとします! これからは毎日供物を捧げます! 私にできることならなんでもします! だ、だから殺さないで、殺すのだけは……」

 

 次になにが一番怖いのかを知らせる。そうすれば泥の妖怪はさらに恐怖を与えるために、まっすぐ戸惑うことなくわたしへ近づいてくることを知っている。

 ここで一度、にとりちゃんに心の中で謝罪をした。次に口にすることは、彼女にとって不安で不快に感じてしまうことだろうから。

 

「ひっ……!? な、なら、わ、わたし以外の……そ、そう! 後ろの二人は食べてもいいです! で、ですからわたしだけは……わたしだけは助けてください!」

「なっ、おい!?」

「わたしは河童に顔がききます! だからもっとたくさんの河童を連れてくることができます! そうすればあなたにも得があるはずでしょうっ? もっとたくさんの河童を食べられるようになる……」

「しろも、お前……!」

 

 にとりちゃんには目もくれず、一見泥の妖怪が得をする、受けてもおかしくないような条件を提示する。そうすれば泥の妖怪は、興味を持ったかのように立ち止まるから。そうしたらわたしは、それに食いついたかのように話を続ければいい。

 

「か、河童が食べたいんですよねっ!? いくらでも連れてきます! あなたの言うことになんでも従いますから! どんなことでも……だ、だから殺さないで……わたしだけは生かしてください! お願いします!」

 

 あとは、頭を下げていればいい。そうすれば。

 泥の妖怪が、罠のある領域に入ってきたのが触角の感覚でわかる。この罠は当然ながらしかけた当人たるこの妖怪には機能しない。むしろ泥と一体化しながら、わたしにゆったりと近づいてくる。

 触角の感覚と、視界に影が差したことから、ついに泥の妖怪が真正面まで近寄って来たのがわかった。

 ここで顔を上げる。食おうとしないということは取引に応じてくれるということだ、と。そういう表情を張りつけて。

 

「あっ、ありがとうございま――」

 

 そうしてわたしは泥の妖怪に飲み込まれた。

 背後でにとりちゃんが息を呑んでいるのがわかる。ずっと憎々しげにこちらを睨んでいたのもわかっていた。

 そして、なにをどうしようとこうして結局は喰われてしまうことも。

 この泥の妖怪は意地が悪い。一見誘いに乗ったふりをして、その直後にそれを反故にする。そういうことを好んでする妖怪だ。すでに幾度となく能力を発動したわたしは、それをよく知っている。

 これがわたしの思い通りの状況なのだとも知らずに。

 

「……ところで」

 

 声が出る。泥の妖怪に全身を飲み込まれていながら、声が出る。

 だって、違うから。

 わたしは泥の妖怪に取り込まれてなどいない。

 逆なのだ。

 

「私の周りにある泥は、にとりちゃんが離れてすぐにわたしの《泥》にすり替えさせてもらってたんですが、気づきませんでした?」

 

 わたしが泥の妖怪に取り込まれたのではない。泥の妖怪が、わたしの翅を巡る《(クタイ)》に侵されたのだから。

 ――《泥》。ただそれの見た目が泥色の流動体のようなものだったから、わたしがそう名付け、呼称しているだけで、その効力は通常の泥とはまるで異なる。

 これは初めて能力を発動した瞬間より扱えるようになった、わたしの切り札だ。その正体はありとあらゆるものを侵食し、滅ぼす力。

 《泥》に触れた、なんの力もない水が混じっただけの土(ただの泥)を司る妖怪の体がぼろぼろと崩れ落ちていく。

 ずっとこの瞬間を待っていた。わたしのこの力は、ただ単に《泥》のすり替えにばれないよう、わたし本人の動きに釘付けにするよう、必死に怯える演技をしたかいがあったというものだ。

 悲鳴が上がる。おぞましく、聞くに堪えない、無様な音色が。

 

「う、っぷ……」

 

 ずずず、と。翅の付け根から、《泥》が呪いのように全身へ広がっていく。

 視界が明滅した。強烈な吐き気が胸を襲う。形容のしがたい苦痛に引き剥がれそうになる意識を抑えつけながら、絶え間なく翅を巡る泥を体に押し流した。

 そうして《泥》は、一秒もしないうちに体中に張り巡らされた管となる。あるいは血管、あるいは入れ墨、あるいは呪印。禍々しく、おぞましく、目の前の妖怪が生み出す泥なんてちっぽけに感じられるほど穢れ切った力。

 わたしは、その《泥》で濁り切った碧き眼で、完全に怯えてしまっている妖怪を射抜いた。

 

「さぁ……わたしにはとっくに通じてないけど、早くにとりちゃんたちを捕らえてるこの罠を解いてくれないかな。さっさとしないと、お前、消すよ?」

 

 《泥》に塗れた手をかざす。それだけで、体の半分以上を《泥》で侵された泥の妖怪はわたしに屈した。

 この妖怪にはわかるのだ。わたしが纏う《泥》が、自分のそれとどれほどかけ離れた歪なものか。忌むべきものなのか。なまじ力の性質が近いゆえに。

 泥が引いていく。罠が消失していく。泥が染み込むように土へ還元されていき、やがてそこには、ほんの二メートルほどの窪地が残った。

 にとりちゃんはわたしの再度の急な変わりようについて行けないようで呆然としていたが、とにかく彼女がきちんと解放したことを目線を向けて確認すると、泥の妖怪に向き直った。

 

「ご苦労さま。それじゃあ……」

 

 すでにこの妖怪からは敵対の意思は感じられない。だけど。

 胸の前で、ぎゅっと手を握る。心臓の鼓動が速い。いや――遅い。

 目に映る景色から色がなくなってきた。音もどんどん遠くなっていく。腕は痙攣し、肌は感触を失い、まるで自分の存在が体から剥離していくかのような。

 これ以上はもう《泥》を維持していられない。今すぐ翅に力を戻さなければ命にかかわる。

 けれどわたしが今倒れてしまったら、今は屈している泥の妖怪はきっと。

 口を開くことさえ億劫に感じながら、わたしは告げる。

 

「――邪魔だから死んでね」

 

 消さなければ。今すぐに。この世から、塵すら残さず。

 わたしの意志に従って放たれた《泥》が瞬時に泥の妖怪を包み込んだ。そして、すでに半分以上の侵食を終えていた泥の妖怪の存在そのものを、さらに深く侵していく。

 初めは悲鳴らしき雄たけびを上げていた。けれどそれもすぐに聞こえなくなった。

 やがて侵食を終えた《泥》が蒸発し、消滅する。最後に残っていたものは、《泥》色に濁り切った、おそらくはあの妖怪の核のようなものだったろう、小さな欠片だけ。

 そしてその欠片も風に吹かれ、塵となって宙空に溶けて消えてしまった。

 

「……ぅっ、けほっけほっ、はぁ、はぁ……」

 

 体内で血液と同様に循環させていた《泥》の力をすべて翅に戻すと、わたしは膝をついて何度も咳をした。

 ――危なかった。

 自身の能力を初めて使用した時よりこの身に備わった、副産物たる《泥》の力。非常に強力ではあるものの、その代償は耐えがたい苦痛をもって体現される。

 《泥》の力そのものに使用者たるわたし本人の体が耐え続けられないのだ。

 今だって、本当にぎりぎりだった。あと一秒でも遅れていればわたしの体が泥の妖怪と同じように崩壊していたことだろう。

 いや……今だって、平気と言えるかどうか。

 《泥》の力は翅に戻したはずなのに、体の調子が戻らない。全身が重い。立っていられない。意識が保てない。

 ふらり、と。自分が倒れたことと気がついたのは、目の前にぬかるんだ地面が映っているのに気づいてからだった。

 

「に、とり……ちゃん……」

 

 手を伸ばす。どこにいるかはわからなかった。わからなかったけれど、届いてほしくて、がむしゃらに手を伸ばす。

 言わなきゃいけないことがあったから。怖がりで、仲間思いで、不器用な一人の少女に、一言だけ。

 冗談でも、嘘でも、見捨てるようなことを言って。あなたの仲間を売るようなことを言って。不快な気持ちにさせて。

 

「ご……めん、ね……」

 

 すべての感覚が閉ざされていく。抗いようのない、泥のように暗い闇の中へ。

 本当に……ごめんね。

 そうして気を失う直前、伸ばしていた手を最後に誰かが取ってくれたような感覚を最後に、わたしの意識は完全に途切れた。



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F5.ともだちできるじょい

 夢を見ていた。

 昔の、わたしが今の世界に生まれるよりも前の夢。

 今みたいに一人じゃなくて、誰かと笑い合っていた頃の夢。

 手を伸ばす。もしかしたらまだ届くんじゃないかと、ぐぐぐ、なんて手を伸ばす。

 そして、その伸ばした手が誰かにぎゅっと握られたかのように、温もりを灯した。

 一瞬、夢に届いたのではないかと錯覚した。でもすぐに違うことに気がついてしまう。

 夢とは曖昧だからこその夢だから。だからその確かな温もりは、きっと、わたしを幸せな夢からさますための現実からの垂れ糸。

 見ていた夢に後ろ髪を引かれるような感覚を覚えながら、わたしの意識が、その手の温もりに引き上げられていく。

 

「――ん、む……」

 

 ざぁざぁ、と。どこか心地のいい雑音が耳を打つ。

 頬を打つ冷たい水滴、飛沫を撒き散らす滝の音。覚えのある感覚にまどろみかけつつも、わたしはゆったりと瞼を開けた。

 初めに見えたのは、赤い空。西に沈んだ太陽が寂しげに染めた紅色のキャンパスだ。

 次にそんな空の景色を遮るようにわたしの視界に入ってきたのは一人の少女である。心配そうに瞳を揺らす、口が悪くて怖がりだけど、根は仲間思いな女の子。

 彼女は薄く目を開けたわたしと視線が合うと、その頬をわずかに綻ばせた。

 

「気がついたな。どう? 体調は問題ない?」

「……にとりちゃん?」

「ったく、いきなりぶっ倒れやがって。あの後二人も抱えて泥まみれで帰ったこっちの身にもなれよな。まぁ……お前がいなかったら、そもそもこうして生きて帰れてないんだけどさ」

 

 そっぽを向き、照れくさそうに頬をかく。それが素直に礼を言えない不器用さゆえの仕草だということは、ともに一つの苦難を乗り越えたわたしはとっくに理解していた。

 

「ん、む……」

 

 体を起こそうとする。でも、うまく動かなかった。

 単に体力が回復していないだとか、疲労が溜まっているだとか、そういうわけじゃないことはすぐにわかる。

 わたしが《(クタイ)》と呼んでいる力を酷使した副作用だ。

 わたしはまだ生まれて数か月の弱小妖怪に過ぎない。加えて体調の優れない状態で、体に多大なる負荷のかかる《泥》の力を解放した。

 そもそも最後、泥の妖怪をこの力で消す寸前、その時すでにわたしの肉体は限界に達していたのだ。そこからさらに無理をして《泥》の力を行使することで、泥の妖怪をこの世界から消し去った。

 細胞や遺伝子のような、わたしそのものを構成する要素が根こそぎ削り取られている。そんな感覚がある。

 回復できないわけではない。ただ、時間が必要だ。いわば今のわたしは体内がめちゃくちゃに、ずたずたに引き裂かれている状態である。わたしは妖怪ゆえに回復速度は人間と比べればずば抜けているが、それでも数日程度は横になっておとなしくしていなければ元に戻れそうにもなかった。

 

「あんまり無理するなよ。もう危険は去ってるんだし、ゆっくり休んでればいい」

「……うん。にとりちゃん。あの子は? わたしのために、花を取りに行ってくれた……」

「あぁ、あいつなら――」

「あ、もう起きてる!」

 

 噂をすれば。わたしの前にいたにとりちゃんを押しのけて、見覚えのある河童の少女が勢いよくわたしの顔を覗き込んできた。

 

「よかったぁ。もう目覚めないんじゃないかって……」

 

 ぽろぽろと。二つの眼からこぼれ落ちた雫がわたしの頬を濡らす。

 

「にとりちゃんから聞いたよ。私のために無理してにとりちゃんと一緒に助けに来てくれたんだよね? それにその元凶も倒してくれたとか……にとりちゃんのことと言い私のことと言い、ほんとにありがとね。感謝してもし切れないよ」

「ううん、気にしないで。わたしが勝手にしたことだから。それより、あなたはどこも悪いとこないの? 泥の妖怪にさらわれたんだし……」

「私なんて全然平気だよ! うぅーん、やっぱりいい子だなぁ……ねーにとりちゃん。やっぱりいいでしょ? こんな優しい子を拒絶するなんて私にはできないよー」

 

 なにやら許可をもらうかのように、河童の少女がにとりちゃんを上目遣いに見る。

 なんのことだろう。わたしも一緒に、にとりちゃんをぼうっと見上げた。

 

「……拒絶もなにも、別に私は嫌だとか一言も言ってないだろ」

「じゃあいいの?」

「いいか悪いかで言えば、まぁその、なんだ。悪くはないというか……」

「なにそれ。こういう時くらい照れてないではっきりしてよー」

「て、照れてなんかないってば!」

 

 頬を少し朱に染めて否定する。本当になんのことだろう。一層わたしの首が斜めに傾いた。

 今度は無言で、じーっと責めるような河童の少女の視線。にとりちゃんはしばらくそっぽを向いて相手にしていなかったが、わたしの疑問に満ちた瞳と河童の少女の詰問するがごとき目線に、数秒もすれば耐え切れなくなったようだ。

 にとりちゃんは、はぁ、としかたがなさそうに肩をすくめ、それからこほんと咳払いをした。

 そうしてぶっきらぼうに、わたしとは視線を合わせないで、そわそわと視線を彷徨わせながらそれを口にする。

 

「……しろも。お前、私たち河童の盟友にならないか?」

「盟友……? うーんと、それってどういう……」

「あー、えっと……盟友ってのは、その、つまり……」

 

 言葉を濁し、ひたすらに右往左往する視線、頬をかく仕草。煮え切らないにとりちゃんの態度に、隣の河童の少女の目線がじとーっと再び責めるようになってきたところで、にとりちゃんは迷いを振り切るかのようにがしがしと頭をかいた。

 

「つ、つまり、私たち河童と友達になろうってことだよ!」

「……友達?」

「そう、友達! ほら、あの時はこいつが捕まったって知らせが来たせいで聞き切れてなかったけど、お前、友達が欲しかったんだろ? お前は川を流れてた私だけじゃなくて、その命をかけてまで私たちのために手を貸してくれた。そんな大恩を忘れて繋がりを結ぶことを拒むだなんて河童の名がすたる。だから、なんだ。お前がいいって言うんなら、その、私たちと……私と、友達になってほしい」

 

 すっ、と。少しだけ控えめに、わたしの前に手が差し出される。

 目をぱちぱちとさせて、まじまじと見つめる。にとりちゃんはあいかわらず、そっぽを向いたまま照れくさそうにしていた。

 

「……わたしで、いいの? わたし、にとりちゃんの前でにとりちゃんたちを見捨てるみたいな、ひどいこと言ったのに……」

「うちらを助けるためだろ。感謝こそすれ恨みなんてしないって」

「あの泥の妖怪を消した、わたしのあのおぞましい力も、にとりちゃんは見たはずだよ。怖くないの? 生まれたばっかりの弱小妖怪のはずなのに、あんな得体の知れない力を隠してたりして……」

「あの後すぐぶっ倒れたやつがなに言ってんだ。あの力、相当体に負担がかかるんだろ? 今のお前を見てりゃそんくらいわかる。そんなきついものをうちらを守るために使ってくれたんだ。それで文句なんてあるわけがないじゃん」

「でも……」

「あぁ、もう!」

 

 にとりちゃんとしては、わたしは即座に目を輝かせて手を取ってくるとでも想像していたのだろう。それに反し、盟友の話を持ちかける直前のにとりちゃんのように煮え切らないわたしの態度にしびれを切らしたかのごとく、にとりちゃんの方からわたしの手をがしっと握りしめた。

 

「もうお前がなにを言おうが知るか! お前は私たち河童の盟友だ! もう撤回なんてできないぞっ、残念だったな!」

「……あはは、強引だね。にとりちゃんらしくないよ」

「今日会ったばっかなのにらしいもなにもないだろ。つーかそういうしろもだって、そうやってしおらしくしてるの全然似合ってないからな」

「似合ってない……?」

「今日初めて会った時みたいに、もっとアホ面で馴れ馴れしく元気に接してこいってこと。私の隣にいるこいつみたいにさ」

「む、それって私のこと?」

 

 にとりちゃんの言い草に、河童の少女が聞き捨てならないとばかりに突っかかる。そうして小さく言い合いを始める二人を眺めながら、わたしはにとりちゃんの言葉を頭の中で反芻した。

 しおらしいのは似合わない。もっと元気に、わたしらしく。

 正直に言えば、自分らしいというのがどういうものなのか、わたしにはよくわからなかった。

 なにせ今の世界に生まれ落ちてから、これまで誰とも親しい関係を築けなかった。わたしをわたしらしいと評してくれる相手がいなかった。

 誰とも話せない。誰とも笑えない。一人というものは、わたしが想像していたよりもはるかにきついもので。

 でも今、わたしの前にいるにとりちゃんと河童の少女は、それが当たり前かのようにいろんな表情を浮かべている。にこにことした笑顔だったり、ぷんぷんとした怒り顔だったり。

 そんな彼女たちが言ったのだ。今のわたしはわたしらしくないと。元気さこそがわたしのいいところなのだと。

 それならきっと、そうなのだ。わたしにはわからなくても、彼女たちがそう言ってくれるなら、きっとそうなのだ。

 だからわたしは、ぱんっ! と思い切り自分の頬を叩いた。未だ夢を名残惜しく思っていた自分を否定する。もしかしたら怖がられて拒絶されるんじゃないかと怯えていたわたしを否定する。

 そうして、急に自分の頬をはたいたわたしを驚いたように固まって見つめる二人へと、わたしは精一杯の笑顔を浮かべてみせた。

 

「えへへー。そっか、そうだよね! わたしたち友達になったんだもんね! これが嬉しくなかったらなにが嬉しいんだってなるもんね!」

「お、おう」

「むー、にとりちゃんの方からもっと元気そうにした方がいいって言ったのに、なんでそんな微妙な反応なの?」

「いやだって、さっきまで落ち込んでたのに変わり身早すぎだろ……まぁいいや。こっちの方が私もやりやすい」

 

 にとりちゃんが頬を綻ばせる。わたしも口元を緩める。河童の少女もつられて笑っていた。

 ふと、わたしの近くを誰かが通り過ぎる気配がしたものだから、周りを見回してみる。そうして目を瞬かせた。横になって空や二人しか見ていなかったから気づけなかったが、今更ながら、この場にはこの二人以外の河童もたくさんいるようだった。

 

「あぁ、言ってなかったっけな。この辺は私らの住処なんだよ。別に水の中に住んでるわけじゃないけど」

「そうなの? でも最初にとりちゃんに連れてきてもらった時はわたしたち以外誰もいなかったよね?」

「あん時は他にいろいろやることあったからな。私も本当はそっちに行くはずだったんだけど、しろもを放っておくわけにもいかなかったし。隣のこいつは知らん」

「私はにとりちゃんが心配だったから残っただけだよー。心配するまでもなかったみたいだけどね」

 

 そうなんだ、と再度辺りを見渡す。たくさんの河童たち。時折物珍しそうにこちらを見てくることはあれど、わたしがここにいることを嫌がるような素振りはなかった。わたしがにとりちゃんの隣にいる河童の少女のために死力を尽くしたことを、盟友として認められたことをすでに知って、了承しているのだろう。

 自分がいるということを否定されない。受け入れられている。それがまたわたしにとってはどうにもたまらなく心地のいい感覚で、むふふと笑みが浮かんだ。

 夕焼け空はすでに日が沈み、純粋な夜へ移り変わろうとしていた。未だ薄い、けれど確かな姿を見せ始めた月に、なんとなく手を伸ばしたりしてみる。

 

「わたしたち、もう友達なんだよね」

「そうだねー」

「……まぁ」

「あはは、今更照れくさそうにしないでもいいのに」

 

 軽く答えた河童の少女と、しぶしぶと言った様子で小さく口を開いたにとりちゃん。わたしは再びくすくすと笑った。

 

「それでね、そのー……不躾ながら二つほどお願いがあるのですがー……」

「あん? お願い? ふーん、なに? 盟友の初めての頼みだ。できる限りこたえてやるよ」

「あ、ありがと。それで内容なんだけどね、えっと……」

 

 ちょっと恥ずかしくて口ごもっていると、ぐぅー、と。どうやら先に待ちきれなくなってしまったらしいお腹さまの方が、早くご飯を寄越せとねだってきた。

 縮こまるわたしと、顔を見合わせるにとりちゃんと河童の少女。一泊置いて、河童の二人はくすくすと合わせるようにして忍び笑いをした。

 

「そうだったそうだった、ずっとお預けしてたっけな。確かこいつが寝てる間に取ってきてたろ? どこにあったっけ」

「ここだよー。はい、じゃーんっ。小さなお花畑ー。私たちのためにいっぱいいっぱい頑張ってくれたしろもちゃんへのご褒美と感謝の気持ちだよー」

「お、おぉお……!」

 

 小さなお花畑。そんな表現がまさしく当てはまるほどたくさんのお花が詰め込まれた竹かごを差し出されて、わたしの目がきらきらと輝いた。

 

「わ、わたし、こんないっぱいのお花見たことない! いつも枯れかけた花とか花粉とか酸っぱくすらない木の実ばっかで……い、いいのっ? ほんとにこれわたしが全部食べちゃっていいのっ!?」

「お、おう。うちらそんなもん食べらんないしいくらでも食っていいけど……お前」

「ぐすん、しろもちゃんこれまで大変だったんだね……よしよし、今日はちゃんとしたものが食べられるからね、元気出してー。あ、もう元気だったね」

 

 竹かごの中から一輪の花を摘んで、すんすんと鼻を動かす。

 あぁー、甘い……甘いにおいがするぅ。とろけちゃうー。えへ、えへへ、うぇへへー。

 その時のわたしは気づいていなかったが、においを嗅いだだけでさぞや幸せそうな表情をするわたしに、にとりちゃんと河童の少女は若干引いていた。

 このまま丸ごと花を食べてしまうこともできる。だけどそれじゃもったいなさすぎる。

 ぺろり、とまずは花弁を舐めてみた。うぇへぁ。

 

「ひぇぁあー、おいしーぃー……あぅー、しあわせぇー……」

「……え、こいつ大丈夫か? この花変な成分とか入ってなかったよな?」

「は、入ってないと思うけど……そんなに美味しいのかな。すっごい幸せそう……うぅ、私も一口くらい食べてみたりとか……」

「やめとけ! 絶対やめとけ! 今のしろも見る限りろくなことにならないぞ絶対!」

 

 夢中でゆっくりゆったり味わいながら食事を楽しむわたしを、二人の河童はひどく微妙な表情で眺め続けていたそうな。

 ちなみに二つお願いがあると言った割に一つしか言ってなかったことに気づいたのは、まともな食事という幸せな時間を過ごし終えた次の日だったようである。



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Part One.Lucid Dreaming
E1.ふゆぎらいでぃすぺあー


今話から第一部となります。
時系列ですが、西暦で大体1100とか1200とかその辺です。割と近代です。
今後もどうかよろしくお願いいたします。


 時は巡る。

 わたしが今の世界に生まれ落ちて、すでに一年と半年ほどが過ぎ去っただろうか。

 一年。悠久を生きる妖怪にとっては一瞬にも等しい時間ではあるが、それだけの期間を経てわたしも多少は強くなった……と思う。少し前までは木を殴っても「ぺちっ」って感じだったけれど、今は「とんっ」と小気味いい音が鳴る。

 身長も少しだけ高くなったのではないかとも感じる。七歳程度だったものが八歳程度になったくらいの本当に少しではあるものの、今の世界に生を受けた以前の記憶にある姿に近づいていく感覚はそう悪いものではなかった。このまま順調に成長していけたらな、と思っていた。

 にとりちゃんや他の河童たちの盟友となり、体の調子が戻った後は、わたしは普段過ごしている麓の森へ戻っていた。

 あれから変わったことと言えば、河童たちから盟友のよしみでたびたび花を贈られるようになったことだろう。にとりちゃんたち河童の住処付近は蟲の妖怪も少ないようで花などいくらでも取れるそうだが、わたしが住む辺りは競争率が高い。あいかわらずわたし一人では食糧を確保し続けるのは困難だったりするので、たまにと言えど花の贈り物をしてくれる彼女たちには感謝してもし切れなかった。

 そんなに餌が取れないなら別のところに住処を移せばいいのに、とはにとりちゃんの言だが、まったくもってその通りである。ただ、すぐにはそうできない事情がわたしにもあった。

 まずそもそもとして、わたしはこの妖怪の山の勢力図を詳しく把握できていない。鬼が頂点でその一番の配下が天狗、そしてそんなヒエラルキーの比較的上の方に河童がいることは理解しているが、それだけである。

 意図せずして他の強力な妖怪の領域に不用意に入ってしまい、排除の対象になんてしまったらたまらない。

 たとえば、盟友になった今こそ親しい関係を築けているが河童とは実際はかなり排他的な種族だ。その排他的を突き詰めれば、他とは一切の不干渉を望む山姥(やまんば)という妖怪だっているという。そしてその山姥はにとりちゃんいわく、住処に足を踏み入れたものは誰であろうと――たとえ相手が鬼や天狗であろうとも――排除しようとするというからたちが悪い。

 わたしはこの一年ちょっとの時間でようやく自分の住む辺りの事情に精通してきたくらいだ。そこから急に住処を移すとなると、未知数の危険がはびこる中で一からまたその危険を紐解いていかなければならなくなる。ちょっとした隠し玉はあるものの、わたしなんてしょせんは新米の弱小妖怪に過ぎない。未知の危険に自ら飛び込んでいく無謀な度胸はなかった。

 たとえひもじい生活が続くのだとしても、今の住処で一生懸命生き続けること。それが大した力のないわたしにできる一番安全な未来の選択なのだ。

 ……なんだけど……。

 

「おなか……すいた……」

 

 ふらふらー、と。時折倒れそうになりながら、わたしは森を歩く。

 一歩一歩と足を進めるたびに、ざくざくと耳ざわりのいい効果音がともに響くけれど、とっくに聞き慣れてしまったわたしにとってはただ単に歩きにくいだけだった。

 冬。木々の葉は秋のうちにほとんど枯れ落ちて、今は代わりに雪が枝に集っている。視界いっぱいに広がる銀世界は美しいと言われれば美しいかもしれないが、それを味わったわたしが覚える思いは感動なんかよりも絶望の感情が圧倒的に濃かった。

 わたしは蝶の妖怪である。花が好物なのである。木の実も好きである。とにかく甘いものが好きなのである。

 それがこの森の無残なありさまはいったいどういうことなのだろう。花なんて大体雪に埋まってるというかそもそも咲いてない。樹木に蜜なんてあるはずもないし、その枝には実どころか葉っぱすらない。

 冬にも花は咲く。そんなことを言ったのは誰だったか。確かにその通りかもしれない。

 でも考えてもみてほしい。わたしは春や夏と言った植物が盛んな時期ですら食糧難に陥っていたのだ。かろうじて枯れかけた花とか未成熟の木の実とか、腐りかけの木の実とか……。

 そんなわたしが過酷な冬において貴重な冬の花を確保できるのか。当然答えはノーである。いいえなのである。

 

「おなかぁ、おなかがぁ、ぐぅぐぅ鳴ってぇ、あぅあー」

 

 自分がなにを言っているのかもわからなくなりながら、あえぐように空腹を叫ぶ。

 今ならば冬眠をするクマの気持ちがよくわかる。餌もなんにもないこんな季節、まともに活動していて生きていけるはずがない。どこか温かい場所でくるまって、ずっと眠って空腹の悪夢を乗り越えたりだとか、温かいうちに確保した食糧をちょびちょびと消費しながら乗り越えるのが一番正しく、賢い選択なのだ。

 わたしもそうしたい。切実にそうしたい。温かい場所で毎日花を愛でながら植物の心のように過ごしたい。

 けれど何度も言うようにわたしは春や夏でさえ食べるものに困るほどのひもじい生活が(デフォ)である。冬を乗り越えられるだけの体力を保持して眠り続けたりだとか、大量の食糧を確保しておいたりだとか、そんなことできるはずがなかった。

 

「やっぱり……もう、あれをやるしかない……」

 

 ぼうっ、と。わたしの力ない瞳にわずかに火が灯る。

 わたしには実はとっておきの策があった。

 そんなものがあるならさっさとやっておけという話だが、この策には少なからずリスクがあるのだ。他の妖怪の領域をおかしたせいで報復される、というほど強烈なリスクではないものの、似たような危険がある。

 ずるずると体を引きずるようにして、わたしはいつもは向かわない方向、妖怪の山と逆の方向へ歩き始めた。

 わたしは一年と半年を越える時を生きてきた。それはつまりすでに一度冬の辛さを経験し、今が二度目ということである。

 一度目の冬もかなりきつかった。にとりちゃんたちの支援がなければ飢え死にでもしていたかもしれないくらいに。

 だからこそわたしはこの二度目の冬が来るまでの間、ずっと考え続けていた。いったい次の冬はどうやって乗り越えればいいのかを。

 そうして出した結論がこれだ。

 

「もう、人間を襲うしかない……!」

 

 森を抜け、林に入り。林を抜け、人が通った跡のある道の近くの茂みまで。

 一度目の冬を経験してから必死に練習してきた変化の術を行使し、自身の妖怪としての特徴たる翅と触角を保護色で消す。

 

「ふっふっふ、これで準備万端……」

 

 わたしは花や木の実などの甘味が好きなのであって、別にそれ以外のものが食べられないわけではない。妖怪の主食とされている人間も食べようと思えば普通に喰らうことができる。

 ただ補足しておくと、今回わたしは別に直接人間を食べようとしているわけではなかった。というか、そんなことを繰り返していてはわたしなど陰陽師にたやすく退治されてしまう。

 陰陽師。人間でありながら妖怪を倒す術を持つ者。鬼や天狗のような強大な妖怪にかかれば歯牙にもかけない程度の存在に過ぎないかもしれないが、わたしのような弱小妖怪にとっては畏怖すべき対象だ。

 わたしは今回、人間が抱く恐怖という感情を食べるつもりである。妖怪であれば、誰しも自身へ抱かれる恐怖の感情を食べることのできる力を持っている。わたしも例外ではない。

 わたしの計画はこうだ。この茂みの前にある道に人間が一人で通りかかったところに弱ったふりをして歩み寄り、この幼い体躯を駆使して目一杯油断させる。そしてわたしを完全に信用し切ったところで、妖怪としての力を、こう、ばーんっ! どかーんっ! と見せつけてやるのだ。当然相手は気絶する。

 完璧な作戦である。我ながら末恐ろしい。

 あんまり派手にやりすぎるとやはり陰陽師が出張ってくるかもしれないが、実害さえ出さなければ大した実力者は来ないはずだ。

 ……来ないはずである。来ないでほしい。

 とにかく、陰陽師が来たのならばさっさと逃げてしまえばいい。わたしも仮にも妖怪だ。大した実力がない相手ならそれくらいはできる。たぶん。

 そういうわけで、木陰に身を隠して準備万端となったわたしは、早速そっと小道を覗き込み始めた。

 

「…………誰も来ない……」

 

 冬の風が木々を揺らす。少し遠くの方で、どさりと枝に積もった雪が落ちたような物音がした。

 ぐぅー。お腹の音が鳴る。もはや聞き慣れすぎて、それに落ち込むことすらない。

 とっくに空腹は限界に達していたが、人が通るまでの我慢だと言い聞かせて耐え続けた。

 そうしてどれほどの時間が経過しただろうか。あいかわらず、ひゅぅひゅぅと寒い風だけがずっと吹きすさぶ中、ふと、なにやらわたしの体調に変化が訪れてきた。

 

「なんか……ぼーっとしてきた……」

 

 くらりくらりと頭が揺れる。それに、なんだか眠くなってきた。ずっと寒かったはずなのにいつの間にか全身がぽかぽか温かくなってきたような感覚もあって、意外な心地よさにえへへと笑みが漏れてくる。

 心の中のにとりちゃんが「寝るな! 寝るなー!」と叫んでいるような気もしたが、うつらうつらとしてしまうことは避けられなかった。

 そんな時だ。すたすたと、人の歩く足音がわたしの耳に届く。

 びくりっ、と体が震えた。そして堕ちかかっていたわたしの頭が覚醒する。変わらずぐぅぐぅと空腹を訴えるお腹の欲求が、しかし今回は途切れかけたわたしの意識を繋ぎ止めてくれた。

 そうだ、思い出せ。今日は何日かぶりのまともな食事の日だぞ。こんなところで眠気に負けてすやすやしてる場合じゃない。

 わたしの瞳にわずかながら再び火が灯る。ぐっ、と手を握って、わたしの潜む木陰の近くをやってきた人物が通りかかるまでじっと待ち続けた。

 そうしてその人物がわたしの存在に気づかず、すぐそばまで足音がやってきたところで、わたしはふらふらと弱ったふりをして道へ一人躍り出た。

 

「うぅ……誰か……」

 

 弱ったふり、弱ったふりだ。決して本当に弱ってなんかない。

 木陰から突如姿を現したわたしを見て、その人物は足を止めたようだった。なにぶん弱ったふりのためにお腹をおさえて顔を伏せているからよく見えない。ただ、足元の辺りを見て、女物の着物を纏っていることだけはわかった。

 

「えっと……あなた、一人なの? こんなところでどうかした? なにかあったの?」

 

 尋常でないわたしの様子に、着物の女性が心配そうな声とともに近づいてくる。さすがしろもちゃん、迫真の名演技。

 演技、演技だ。何度も言うが本当に弱ってなんかない。ないのだ。

 まだ早い。もう少し、もう少し……。

 女性が近づいてきてくれたとは言っても、まだ距離は開いていた。わたしははやる気持ちをおさえつけて、その間隔をおぼつかない足取りを意識して自分から少しずつ詰めていく。

 

「困ったことがあるなら言って。力になれるかもしれないわ」

 

 心配そうな声。わたしの視線に合わせるように、女性が自らの手に膝を置いたのが見える。

 この瞬間だ、とわたしは感じた。

 

「それなら……一つだけお願いします。どうかわたしに――――」

 

 脅かすために着物の女性に飛びかかろうと、ぐっ、と足に力を入れた。

 そうしてさらに足を前に踏み出して、変化の術を解こうとしたところで。

 ずるり、なんて。

 

「――へぶっ!?」

 

 どうやら気合いを入れすぎたらしい。足を滑らせ、ぼふんっ! と雪が積もった地面に顔を打ちつけた。

 ひゅぅー。冬特有の冷たい風が木々の合間を吹き抜ける。それが原因か、それともわたしが倒れた衝撃か。偶然にもわたしの近くにあった樹木の枝がわずかに揺れ、そこに積もっていた雪が一気に落下した。

 当然、それは倒れていたわたしを押しつぶすかのように。

 

「え、だ、大丈夫!? えっと、えっと……と、とりあえずこれをどかしてあげないと……!」

 

 真っ白なものに包まれて真っ暗になった雪の中で、くぐもるような音質で女性の声が響く。

 わたしは体を動かそうと頑張ってたが、全身を包む冷気の塊をどかすことはかなわなかった。弱小かつ蟲の妖怪ゆえに元々筋力はそんなにないうえに、空腹でそのそんなにない力さえ十全に発揮することはできない状況だったのだ。それもしかたがないと言える。

 着物の女性の奮闘もあって、どうにか、短時間でわたしの顔の辺りだけは雪を取り除くことに成功したらしい。日差しが目に入り、光度の変化に目を細める。だがそれ以上に雪の中では困難だった呼吸が解放されたことで、わたしははぁはぁと一気に荒い息を繰り返した。

 

「あ、あり、ありがとう、ござい、ます……」

「ええ。少し休んでて。残りの雪もどかしてあげるから」

 

 女性はわたしに積もった雪を、しかも素手でのけようとしてくれる。その手が少なからずかじかんでいるのが見ただけでわかった。

 そんな懸命に尽くしてくれる姿と、彼女がいなければこのまま寒さと呼吸困難で死んでいたかもしれないという事実が、わたしの心にじんじんと響く。なんだか今にも涙が出てしまいそうな気分だった。

 

「はい、もう安心よ。全部どけちゃったわ。どう? 体は大丈夫?」

 

 わたしを心配する言葉をかけながら、いそいそと羽織を脱いだ女性が、そっとわたしにそれをかけてくれた。自分も寒いはずなのに。

 何気ない、だけど確かな温もりを感じるやわらかな心遣い。もう耐えることはできそうになかった。「うぅ」と感極まったわたしの目から、塩を含んだ雫がこぼれ落ちる。

 それに着物の女性が、やはりどこか打ったのではないかと気遣ってくれることが、またわたしの心を揺さぶってきて。

 

「うぅ、ぐすっ……あり、ありがと、うみゅ、ござ、ございますっ……」

 

 もうわたしには、この女性を怖がらせようという考えは微塵もなかった。ただひたすらに感謝と好感だけが胸のうちに存在し、その気持ちと騙そうとしていた罪悪感がとめどなく涙を溢れさせる。

 それにまた、辛いことがあったのね、なんて。よしよしと頭を撫でてくれる。こんなに誰かに優しくされたのは、にとりちゃんたちと盟友になって以来初めてのことだった。

 だからなのだろう。誰かを脅かそうとわずかに緊張していたわたしの心が完全に解されて、余裕のできた心が、今日まで常々抱いてきたある一つの願望を、わたしの意思にかかわらず外界に訴えようとし始める。

 それはわたしとしては非常に馴染み深く、着物の女性にとってはあっけにとられるような、なんてことはない現象だった。

 ――ぐぅー。

 わたしのお腹の音が、二人の間で鳴り響く。

 

「えっと……」

「あぅ、ぐすっ……」

「……お腹、すいてるの? その、おにぎり持ってきてるんだけど……どう? 一緒に食べる?」

 

 困ったような、それでいて、優しい声音。

 おに、ぎり? おにぎりって、あのおにぎり? おこめがいっぱいの? しかも、それをわたしに?

 呆然とする。そしてまた大粒の涙がとぼとぼと流れてきた。

 どうやらこの着物の女性はわたしにとっての、まさしく女神さまだったらしい。

 未だ体の前面を雪に埋めた態勢のまま、わたしは心の中で、この女性の存在をまるで本物の神さまのように崇めたのだった。




西暦1100とか1200とかにはおむすびさんなんてないでしょうが、そこはフィクションということでどうかお許し下さいませ。


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Z2.とんじきおいしいりらっくす

調べました。
おむすびは主に東日本での言い方で、おにぎりは西日本で呼ばれることが多いそうです。
すごいですね。


「はむっ! はむぅ! うぅー、えへへ……」

「ふふっ、あなた、おいしそうに食べるわねぇ。こっちまで楽しくなってきちゃうわ」

 

 なんてことはない、枝に積もっていた雪が落ちた枯れ木の下。着物の女性と並んで座って、彼女が持ち歩いていたおにぎりを二人して食べていた。

 わたしの好物はあくまで花の蜜ではあるが、人間の抱く恐怖然り今食べているおにぎり然り、それ以外のものが嫌いで食べられないわけではない。むしろこのおにぎりはただの米の集合体のくせして絶品と言えるほどだ。塩が適度に効いていて、いくらでも食べられそうである。

 早々に一つ目を食べ切ってしまって、無意識に、着物の女性が持っている食べ途中のおにぎりに目が行ってしまう。ずっとわたしをにこにこと眺めていたらしい彼女は目ざとくわたしの視線に気づくと、すっとそれを差し出してきた。

 

「食べる?」

「食べっ、い、いや! た、食べ、食べないですっ。恵んでもらった身で、そこまで厚かましいこと……」

「そんなこと気にしなくてもいいわよ。おいしそうに食べているあなたを見てると、私も幸せな気分になれるんだから」

 

 にこにこ。とてつもなく眩しい笑顔である。

 こんないい人が本当に存在するのだろうか。もしかして幻だったり……。

 思わず袖で目元をこすっていた。だけどなんと夢ではないようで、変わらず彼女はそこにいる。突然目元を拭い出したわたしにも小首を傾けるだけで、一向に眩しさが散る気配はない。感無量だった。

 そしてだからこそわたしは再度首を横に振る。受け取れないと押し返す。そして、言うのだ。

 

「こ、こんなにおいしいもの、独り占めなんてできません。食べたくはありますけど……それより、その、わたしもあなたがおいしそうに食べてるところみたいです。そっちの方が、今は幸せになれる気がします」

「あら、おんなじこと言われちゃった。ふふ、小さいのに優しいのねぇ。いい子いい子」

「ふにゃぁ」

 

 頭を撫でられて格好を崩す。優しく温かい手のひらに、わたしの心は完全に弛緩していた。しろもちゃんちょろすぎである。

 そんなこんなで食事を続けることしばらく。気がついた時には、おにぎりはとっくになくなってしまっていた。それも当然であろう。元はこの着物の女性のぶんしかなかったものを二人で分けて食べたのだ。

 それにしてはそれなりの大きさのものが四つあった気もするのだが……。

 おにぎりを食べ終わっても、わたしと着物の女性は食事直後ということで樹木の下に座ったままでいた。食べている間も、こうして食べ終わった後でも、すぐそばの道を誰かが通ることはなかった。今のところわたしが見かけたのは隣りに座るこの着物の女性くらいである。

 聞けば、ここは人里から少し離れた位置の道であり、その道の先にも大したものがあるわけでもないので、ここは人通りが少ないのだという。わたしは妖怪の山の自分が住んでいる付近の事情しか知らなかったから、当然そんなこと知るよしもなかった。

 人が通らないところで人を待ち伏せするという意味不明なことをやっていたという事実に、ここに至ってわたしはようやく気づく。着物の女性が通りかからなければ、あるいはいつまでも待ち続けて餓死か凍死でもしていたかもしれない。本当に本気で感謝感激雨あられな気分だった。

 

「あれ? でもそれなら、なんであなたはこんなところを歩いてたんですか? この先にはめぼしいものなんてなんにもないんですよね」

「ただの散歩よ。暇つぶしのね。というか、それを言うならあなたもよ? 聞きそびれちゃってたけど、あなたみたいな小さな子どもがこんなところでなにをしてたの?」

「うぐっ、わ、わたしはそのー、えーっと」

 

 実は妖怪で人間を襲おうとしていた、なんて言えるはずもない。

 ど、どうやって誤魔化そう……。

 言いにくそうに口ごもってしまうわたし。しかし着物の女性は無理に聞くつもりはないようで、わたしが答えに窮していることを察すると、小さく肩をすくめた。

 

「まぁ、いいんだけどね。でも、本当に注意しなきゃダメよ? こんなところで一人でいたら妖怪に襲われたって不思議じゃないんだから」

「そ、そそそそうですよねっ!? よ、妖怪に襲われるかもしれませんもんね! こ、ここ、これからは気をつけますぅっ!?」

 

 めちゃくちゃ狼狽えながらの返答ではあったが、着物の女性は割と脳天気なようで、特に疑うような様子は見せなかった。むしろ急に大声を上げたわたしを「元気になってきたわね」と微笑ましそうに眺めてまでいる。能天気すぎた。

 それでも今にも疑われかねないと勘違いしていたわたしは、自分に向いている話題をそらそうと必死に思考を巡らせる。なにを言えば自分のことから話をそらせられるのか。考えに考えた結果たどりついたのは、同じ質問を返すことである。

 

「わ、わたしもそうですけど、あなたも気をつけた方がいいと、思います。えっと、その。がおーっ! って妖怪に襲われたりしたら、人間なんてひとたまりもありませんし……」

 

 襲おうとしていた自分が言うことじゃない、と思いつつも。

 ちらちらと、わたしは着物の女性の様子を窺う。誤魔化すために返した質問とは言え、ここまで優しく接してくれたこの女性が襲われるのはわたしにとっても好ましいことではない。八割くらいは本気で心配していた。

 しかし着物の女性はなぜか不敵に笑いながら、心配ご無用とばかりに、つんとわたしの鼻を突いた。目をぱちぱちとさせるわたしに、女性はその豊満な胸を張りながら言う。

 

「大丈夫よ。私にはちょっとした力があるから。低級妖怪くらいならそれで簡単に追っ払えちゃうわ」

「力、ですか? えっと、それって……?」

「ふふ……まぁ、あんまり大きな声で言えるような清潔な力じゃないんだけどね。教えてほしい?」

 

 もちろん気にはなる。低級妖怪を払える力、つまりわたしくらいは容易に退けられるほどの力ということになる。

 ……あれ? ってことは、もしもあの時転ばずにこの人を襲っちゃってたら、もしかしなくても……。

 ありえたかもしれない未来を想像し、ぶるり、と全身が震える。

 あ、危ないところだった。あの時転んでてよかった……そうじゃなきゃ、今頃わたしは未だ雪の中にいた。

 わたしくらいどうとでもできただろう着物の女性の力。気にはなる。気にはなる、が。

 

「いえ、言いたくないことなら、別にいいです。たぶん会ったばっかりのわたしにそう簡単に言えることじゃないはずなので……」

 

 わたし自身、妖怪であることを隠している。それでいて他人の秘密だけを暴こうだなんて、いくらなんでも身勝手がすぎるというものだ。

 着物の女性は目をぱちくりとさせていた。わたしのような子どものことだから、すぐに知りたいと言い出すと思っていたのかもしれない。

 

「……気を遣ってくれたのかしら。聡明なのね」

 

 そう言った着物の女性の口元がわずかに緩む。

 

「でも、なんだかちょっと残念かも」

「残念、ですか?」

「せっかく『ひ、み、つ』っておでこをつついてあげる準備をしてたのに、無駄になっちゃったもの。ぷくーって頬を膨らませちゃうあなたが見たかったんだけどなー」

「秘密って……むー、最初から教えるつもりなかったってことじゃないですか」

「うふふ、ごめんなさいね。でも私のことを思ってくれたご褒美に、本当のことを一つだけ。私に力があるって言ったのは嘘じゃないの。それこそ、住職さんみたいな人たちには絶対に言えないような力がね」

 

 力があると口にした時と同じように、不敵に微笑む着物の女性。要領を得ない『本当のこと』とやらに、わたしはひたすら首を傾げていた。

 能力。そうまで呼ぶべき力をわたしのような妖怪ならばまだしも、この女性のように人間が保有していることは非常に珍しい。

 なぜならそれは、人間は妖怪のように特別な『いわれ』を持たないからだ。天狗のように、風を操るとされているわけではない。鬼のように、怪力を誇るとされているわけでもない。河童のように、水を自在に操っては自由自在に泳ぎ回るとされているわけでもない。

 というよりも、そもそもとして普通の人間には到底持ち得ない人から乖離した力こそを能力と呼ぶべきなのだから、基本的に人間が能力を持たないことも逆説的に当然の話である。

 わたしが誇る能力。空を飛ぶこと……は大体の妖怪にできるから微妙か。でも、虫の妖怪ならではの触角の超感覚なんかはじゅうぶんに能力の範疇と言える。そして翅に宿る《(クタイ)》の力や、わたしにしか使えないわたしだけの本当の意味での特別な『能力』も。

 

「……そういえば、私、あなたの名前まだ聞いてないわ」

 

 唐突に着物の女性がそんなことを言い出す。すっ、と立ち上がって少し前に出て、後ろ手に両手を繋ぐとくるりと踊るように半回転した。

 散りきって雪の積もった寂しい木々と、赤髪がかった空、その向こう側からちょっとだけ覗く太陽の光。それを背景にわたしを覗き込んでくる彼女を、まるで冬に咲く桜木のようだ、とわたしは思った。

 木枯らしに舞う桃色の髪、優しげな微笑みと、楽しそうに細まったやわらかい瞳。女性らしい細い体つきに儚げな着物を纏った彼女の姿は、なんだか今にも散って飛んでいってしまいそうで。

 絵画のように。いや、そんな確かなものではなくて、ずっと昔の思い出のように懐かしく、美しい。

 まるで、いつかどこかで見たことがあるような感覚。知っていたかのような感覚。

 そしてそれはきっと気のせいではない。なにせ、わたしはすでに確信していた。

 

「わたしの名前の前に……ふっふっふ、あなたの名前を当ててあげましょう」

「私の名前を?」

 

 自信満々と言ったわたしの言いように、着物の女性が訝しげに小首を傾ける。

 今の彼女の姿をこの目で見た時に、わたしはふいと思い出していた。

 わたしはこの女性のことを知っている。これまでは頭の片隅の方に追いやられていただけだった。

 だが今はもう完璧である。ゆえにこそ名前を当ててみせると宣言する。大胆不敵に、今度はこちらが狼狽えさせる番だと。

 ふぅー、と息をはいて。すぅー、と思い切り息を吸って。わたしは大きく口を開いた。

 

「ずばり、ゆーこ!」

 

 きりっ。どや顔で告げる。

 決まった……。

 名前を叫ばれた着物の女性は当然、なぜ知っているのかと困惑したように目線を彷徨わせて。

 

幽々子(ゆゆこ)ですけど……」

 

 誰にでも間違いはあるものだ。

 大事なのは間違いを認めることなのだ。

 皆それをわかっていない。

 でもしろもちゃんはわかっている。偉い。

 わたしは素直に頭を下げた。

 

「知ったかぶりました……」

「え、ええ。大丈夫、大丈夫よ。惜しかったじゃない。当てずっぽうなのにすごいわ」

 

 なんかフォローされる。単に記憶違いというか、思い出し切れていなかっただけなのだが、それを言うとどういうことだとつっこまれてしまうので、さすがに口を噤んだ。

 前の世界のことについてはにとりちゃんにだって話していないことだ。いくらわたしに優しくしてくれた女性とは言っても、会って一日すら経っていない相手に明かそうとは思わない。

 けれども、名前の方はもちろん別である。

 

「とりあえず改めて……幽々子。西行寺(さいぎょうじ)幽々子。それが私の名前よ。さ、あなたの名前を教えてくれる?」

「わたしはしろもです。仮縫しろもって言います。仮に縫うで仮縫、それにひらがなでしろもです」

「じゃあ、しろもちゃんね」

「しろもちゃん、ですか」

「嫌?」

「いえっ、全然嫌じゃないですっ。むしろそう呼ばれる方が好きですっ」

 

 慌てたように答えるわたしに、幽々子はくすくすと笑った。

 

「うーん、そうねぇ……しろもちゃん、その敬語」

「はい?」

「私には敬語を使わなくてもいいわ。なんたって一緒におむすびさんを食べた仲なんだもの。私たち、もうお友達でしょう?」

「友達……ですか?」

「ええ、友達。私と友達は嫌?」

「そんなことないですっ!」

 

 ばっ、と素早く立ち上がる。

 むしろ大歓迎だ。この世界にうまれ落ちてから、わたしの友達は未だ河童の彼女たちのみである。他の親しくしてくれる相手ができるのならば是非もない。

 幽々子はあいかわらず口元に笑みを浮かべながら、すっ、とわたしの唇の前に人差し指を置いた。

 

「それなら、敬語」

「……じゃあ、その……こ、これからよろしくね、幽々子。えっと……こ、これでいい?」

「ええ、合格。まだ拙いけれど、それはきっと、あなたがまだ私を目上の相手だと思っているからね。あなたがご飯をいただいたと認識しているから。でも、きっといずれそれも時がほぐしてくれるでしょう。だから今はそれでいい」

 

 そう締めて、幽々子は西の空を見つめた。すでに太陽は沈みかけ、空には気の早い一番星が浮かんでいる。

 妖怪にとって月の光とは太陽のそれとなんら変わらない。だから妖怪には昼も夜もない。だけど人間は当然違う。

 ろくな明かりのないこの時代において、人間にとって太陽が沈むということは一日の終わりと同義である。

 

「そろそろ帰らなくちゃいけないわね。あなたは、一人でも大丈夫? もしよかったら送ってくわよ?」

「いえっ、わたしはその、い、家が近いので大丈夫ですっ。心配いりません」

「敬語」

「あ、えっと、家が近いから大丈夫だよ! 心配してくれてありがとね!」

「……そう。でも、ちゃんと暗くなる前に帰るのよ。夜は妖怪の時間だもの。いつどこから襲われるかわかったものじゃないから」

 

 その妖怪が自分なのだけど、なんて後ろめたい気持ちを抱きつつも、こくんと素直に頷いてみせる。幽々子もまたそんなわたしに、よろしい、と満足気に首を縦に振った。

 そして幽々子が背を向けた去り際にちょっとだけ不安になって、ただ一つだけ、質問を投げかける。

 

「また、会えるよね?」

 

 幽々子は振り返ると、やはり、優しげに小さく微笑んで。

 

「もちろん。だから約束しましょう? 私たちはまた何度でもここで会う。そうして次は好きな朝食の話でもするの。その次は好きな昼食、その次は好きな夕食」

「た、食べ物ばっかりだね」

「でも、素敵だと思わない?」

「……うん。とってもいいと思う」

「じゃあ約束ね。はい、指切りげんまん」

「えぇっと、嘘ついたら針千本のーます」

 

 幽々子は交わした小指を顔の前に持ってくると、少し残念そうに眉を落とした。

 

「うぅーん、私もさすがに針千本はおいしくいただけそうにないわね……」

「じゃあ、ちゃんと約束守らないとね」

「ふふっ、そうね」

 

 ばいばい、と。お互いに手を振って、今度こそさよならをした。

 ひゅー、と。冬の風が吹く。

 一人残されて、少し寂しかった。暗くなっていく空がまたそれを助長しているようで。

 だけど、普段はお腹が空くだけで恨めしかっただけの雪景色は月の光に照らされていて、久しぶりに、なんだかちょっと美しく思えた。



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D3.ともだちあうはっぴー

 幽々子との交流は、わたしが当初想像していた以上に数多く行われた。

 多い。本当に多い。

 わたしとしては正直一週間から三週間に一回くらい会えたらいいなぁ、くらいの心持ちだった。人間は妖怪とは違う。毎日食事をきちんと取らなければ生きていけないし、一日一日を生きるのに忙しい。

 わたしだって毎日の生活が世知辛くはあるが、お腹がすいた状態がデフォルトのせいで飢餓にも慣れてきてしまったのか、食事に関してはおにぎり一つでニ日は保つ。それを過ぎても体力や気力が著しく低下するだけで、しばらくはなんとか活動できるだろう。

 それに、わたしの世知辛いは妖怪としての話だ。人間は夜中に比べれば少ないにせよ、昼間だって妖怪に襲われる危険にさらされている。いくら幽々子に類まれなる能力があるにしても、その辺をふらふら散歩している時間なんてそう多くは取れない。わたしはそう考えていた。

 それが今の状況はどういうことだろうか。幽々子と初めて会った次の日に試しに顔を覗かせてみれば、彼女は前日一緒におにぎりを食べた場所に座り込んで鼻歌を歌っていた。その次の日も、またその次の日も。さすがに吹雪の日に訪れることはなかったが、特別な用事でもない限りはほぼ毎日同じ時間にあの場所に来てくれていた。

 

「ねぇ、幽々子はこんな頻繁にわたしのとこに来たりしてて大丈夫なの?」

 

 両手で掴んだおにぎりをぱくぱくと口に運びながら、ずっと気になっていたことを問いかけてみる。

 初めて会った時にお腹をすかせていたのがよほど印象的だったのか、幽々子は会う時会う時いつもこうしておにぎりを持ってきてくれていた。それもこれまた出会った時とは違って、幽々子とわたしのきちんと二人分。入っている具が毎日異なっているので、わたしは幽々子と会う際にいつもおにぎりの中身を楽しみにしている。

 今日はどうやら焼き魚の身が入っているようだ。ご丁寧に小骨が一つ残らず取り除いてくれているようで、口の中や喉に骨が刺さる心配などせず安心して食べられる。味付けはシンプルに塩だけのようだけど、ご飯も焼き魚も塩とは相性が抜群なので、むしろその質素な味付けがそれぞれの魅力をダイレクトに引き出してくれていた。

 隣を見れば、幽々子も口元を緩め、頬に手を当てて幸せそうにしている。

 彼女とまた会う約束をした際に食べ物の話ばかりが出たように、彼女はどうやらお食事の時間が大好きなようだった。不本意ながら最近腹ペコキャラが定着してきてしまっているわたしとしても、たいへん同意する心境である。

 

「大丈夫って、どういう意味での大丈夫なのかしら」

 

 口に入っていたぶんのおにぎりを咀嚼し終えた幽々子が、そっと顎に手を添える。

 

「いつも暇そうにしているけど家の方は大丈夫かの大丈夫? こんな辺鄙な小道に毎日のように来て、妖怪に目をつけられたりしないかの大丈夫? それとも、おにぎりを毎回持ってきてくれているけれど、気を遣わせているんじゃないかっていう意味での大丈夫?」

「うぅーん、全部かな」

「あら。欲張りな答え」

 

 幽々子はくすりと笑うと、食べかけのおにぎりを竹の皮の上に置いて、雲の流れる青い空をぼうっと見上げ始めた。

 

「一つ目。私ってね、結構いいところのお嬢さまなのよ。そうねぇ、いわゆる深窓の令嬢ってやつかしら? ふふっ、自分で言うのもおかしいけれどね。でもそんな感じなの。そういうわけで生活の方は全然余裕があるから心配はいらないわ」

「じゃあ、妖怪に関しては? 幽々子は自分には妖怪を退ける力があるって言ってたけど、それでも、こんなとこに毎日来るのはやっぱりあんまりいいことじゃないよ」

「うーん……それ、うちの居候にも言われたんだけどねぇ」

 

 はぁ、と幽々子が物憂げなため息をつく。どことなく儚げな雰囲気も相まって、どこか絵になる仕草だった。

 

「というか、今日は出かけるの止められそうになったよね。いつも食べてるおむすびさんもその居候が作ってくれるんだけど、今日は頑なに作ってくれなかったし。もう、私が平気だって言ってるから平気なのにね」

「え、じゃあ今食べてるこれって」

「そうよ。私が作ってみたの。どう? おいしいかしら?」

 

 こくこくと迷わず首を縦に振る。確かにいつもよりちょっと大きい気はしていたが、味の質はなんら変わりなかった。無論、握り飯なんて具材を入れて味付けしただけであることはわかっているのだけど……。

 わたしの反応に、幽々子はふふんと得意げにしていた……ように見えて、ほっとしたように息をついたのがわかった。

 案外、と思う。想像でしかないけれど、もしかすれば幽々子はいつもは食べる専門で、今日初めてこうしてなにかを作ってみたのかもしれない。それはもちろん自分のためだけじゃなくて、一緒に食べるわたしのために。

 そう考えると、手に持っているこれがとてつもなく価値があるものに思えてきた。心なしか、味もまた一層際立って感じられてくる。なんだかちょっとだけ、食べるのがもったいない。

 口に運ぶのを躊躇して、だけどすぐにぶんぶんと首を横に振った。

 違う。幽々子はわたしに食べてほしくてこれを作ってくれたのだ。だったら、食べないと逆に失礼に当たる。

 一粒一粒噛み締めて、きちんと味わおう。そう心に決めて、わたしはおにぎりにかぶりつき、咀嚼する。

 幽々子もまたそんなわたしを見ると、竹の皮に置いていた自分のおにぎりを手に取って、再び口に運んだ。

 

「この寒い冬空の下で、お友達と一緒にお昼を食べる。最近、そういうのが私の中でのはやりなの。いくら妖怪に襲われる危険があるからって、これだけはやめる気になれないわ」

「えへへ、そう言ってもらえるとすっごく嬉しい、けど……わたしのせいで幽々子が危ない目に合うのは、その」

 

 不思議な気分だった。初めは襲おうとしていた側だったくせに、今はまるで逆。

 自分のせいで幽々子の身が危険にさらされるのは、ちょっと嫌だ。

 

「……明日からはここに来る頻度を減らそう、って考えてる?」

「うぇっ!? そ、そんなことは……」

「わかるわよ。もう一か月近くの付き合いになるもの。あなたの純粋な心からの優しさも、寂しさも。他にもいろいろと」

 

 再び遠くを見るように空を見上げる幽々子。わたしはなにかを言おうと口を開いては、どうしてか言葉が出てこなくて、すぐに閉じる。お互いに、すでに自分のぶんのおにぎりは食べ切ってしまっていた。

 ……な、なにか言った方がいいのかな……。

 沈黙。会っても毎回座って話しているだけなので、会話がないことは珍しいことではない。けれど今回のこれはいつもののんびりとした空気とはまた違った、どこか気まずさを感じさせる微妙な雰囲気に満ちていた。

 そんな中、幽々子が唐突に息を大きく吸って。それを思い切りはいて、すっくと意を決したように立ち上がった。

 

「ねぇ、しろもちゃん」

「ふぁ、ふぁいっ?」

 

 気まずい空気を破った幽々子の一言に、びくりと肩を震わせる。

 それから、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 次に彼女が言い放つ一言が、今のわたしと幽々子の心地のいい関係を少し変えてしまうような予感がして、ちょっとだけ怖かった。

 平静を装おうとしながらも、わずかに怯えを含んだ表情をする。そんなわたしに、すっ、と。幽々子はその華奢な白い手を差し出した。

 

「しろもちゃん。今日はこれから、私の家に遊びに来てみない?」

「え、幽々子の家に?」

「ええ」

 

 目をぱちくりとさせる。てっきりわたしは「お互いのためにも私たちはもう会わない方がいい」くらい言われるんじゃないかと戦々恐々としていただけに、なんだか拍子抜けした気分だった。いや、もちろん幽々子がそんなことを言い出す理由がないことなんてわかってはいるけれど。

 

「さっきも言ったけど、最近出かけすぎてるせいか、うちの居候が居候のくせにうるさくてね。今日は抜け出してきちゃったのもあるし、実際、しろもちゃんが気を遣ってくれなくても次こうして会うのを明日明後日すぐにってわけにはいかなさそうなのよ」

「そ、そうだったの?」

「今日はね、最初からこの話をするつもりだったの。せっかくだからこの機会にしろもちゃんを私の家に招待するように……違うわね。ごめんなさい、嘘をついたわ」

 

 言葉の途中で、幽々子がふるふるとかぶりを振る。どことなく自嘲でもするかのように。

 

「嘘……」

「そう、嘘。本当は、ここに通える頻度が少なくなることだけを言うつもりだったの。しろもちゃんは私のことを心配してくれたけれど、それ以上に、しろもちゃんみたいな小さな子がこんなところに毎日通ってるだなんて、絶対よくないことだから」

 

 それは無用の心配だ。そう、心の中で否定する。

 だって、わたしは妖怪なのだ。自分の住処周辺の勢力図だってここ一年で大体把握した。事前に危険を回避するための触角の超感覚もある。ここに通うくらいのことは危なくもなんともない。

 だけどそれを伝えることはかなわない。だってわたしは、まだ幽々子に自分が妖怪だとは打ち明けていないのだから。幽々子と会う時は、いつも必ず変化の術を行使して人間のふりをしているから。妖怪とは人間に忌まれるべき存在だから。

 まったくしろもちゃんのへたれめ、なんて。

 後ろめたい気持ちを抱くわたしと同様に、幽々子もまた、やましいことでもしてしまっているかのような。そんな表情で、差し出した自分の手を見下ろしていた。

 

「でも、私ったらダメね」

「ダメ?」

「最初はね、こんな毎日会うつもりなんてなかったのよ。しろもちゃんにも都合があるだろうから、そんなこと無理だって思ってた。でも初めて会った次の日に試しに行ってみたらしろもちゃんも来て、また次の日もなんとなく行ってみたらしろもちゃんも、そのまた次の日も……そんな日がずっと続いたせいかしら。なんだか名残惜しくなっちゃったのよ。ほんの少しの別れでも」

「……そんなのわたしも同じだよ。そうじゃなきゃ、こんな他に誰もいないとこ、毎日来たりしないもん」

「ええ、知ってる。あなたが私に会いたいと思ってくれていることを、おんなじようにここに通っていた私は、よく知っているわ。だからあなたをうちに招待しようと思った。これは私のわがままだけれど……これからは思った風に会えなくなる。だからあなたに私の住む場所を知って、これからもしも暇があったら、あなたの方からそこに遊びに来て欲しい。そんな風に思っちゃったの」

 

 傲慢ね、なんて幽々子は自重した。

 でもその傲慢は、わたしにとってなによりも嬉しいものだ。大切なものだ。かけがえのない思いだ。

 すべての絆と関係がリセットされ、今の世界では未だにとりちゃんたち河童しか良いと言える交流を築けていないわたしにとって、自分を思ってくれる相手というものはなにものにも代えがたい。他に比肩するものなんてない。

 だから迷う要素も、その必要すらもなかった。

 わたしはまっすぐに手を伸ばして、幽々子の手を取る。強く、強く。自分を責める友達を、ありがとうと温めるように。

 

「友達の家に遊びに行くくらい、なんてことないよ。それくらい友達なら当たり前のことだもん」

「……ふふ、ありがとう」

「でも、楽しみだなぁ。幽々子って結構いいところの生まれって言ってたよね。幽々子のお家ってどれくらい大きいのかなぁ」

「うーん、そんなに期待されても大したものはないのだけどね……行きましょうか」

 

 幽々子に手を引かれて、歩き出す。幽々子とこうして逢引じみた付き合いをし始めて一か月近く経つが、この道端からともに離れるのは初めてのことだった。

 幽々子が立ち上がって、こちらに手を差し伸べてくる際に覚えた感覚。二人の関係が少しだけ変わってしまうかのような予感。あれが正しかったのだと、今更になって知る。

 わたしと幽々子の関係はこの道端で停滞していた。ただ待ち合わせをして少し話すだけの間柄でしかなかった。それが今日、その家を訪れるまでになる。

 ……でも、と思う。

 わたしを家に招待してくれると言ってくれた幽々子は、嘘をついたことを謝って正直にすべてを話してくれた。彼女は友達であるわたしに対して、どこまでも誠実だった。

 でも、わたしはまだ幽々子に嘘をついている。

 いや、広義ではついていないと言えるかもしれない。わたしはただ、言っていないだけ。聞かれていないから、自分が妖怪だと伝えていないだけ。

 けれどそんなものどちらでも変わりなんてない。わたしが幽々子を騙していることに違いはないのだ。

 

「……しろもちゃん、寒いの?」

「え? や、別にそんなことは……」

「うーん、でも震えてるし……あ、しろもちゃん、ちょっと手を緩めてくれる?」

 

 絡むように繋いでいた手が一瞬だけ解かれて、今度は大きい方の手が、小さい方の手を包み込むようにして結ばれる。

 幽々子はやはり優しげに微笑んで。

 

「はい。気休めだけどね。どうかしら」

「……あったかい」

「ふふ、よかった」

 

 本当に、温かい。

 このやわらかい手のひらも。人の心も。人の思いも。

 それはまるで嘘を明かせないわたしの惨めささえ、醜ささえも甘く優しく包んでくれるみたいで、涙が出てしまいそうなくらい、どこまでもひたすらに温かかった。



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V4.かいだんのぼるとらいんぐ

近々話数が少ない今のうちに全話一人称方式に修正するかもしれません。


 幽々子が住むという屋敷に向かう途中、わたしと幽々子の間に会話はあまりなかった。

 けれどその沈黙は、幽々子と会う頻度を減らそうなどと考えていた時のように気まずいものでは決してない。いつも通りの静かながら居心地のいい空気。侘しさをたたえる冬の景色の中を、その風情と繋いだ手の温もりを感じながら、散歩でもするかのように上機嫌に足を進めていく。

 幽々子の屋敷とやらは人里から少し離れたところにあるようで、人里に入るようなことはなかった。それでも笠をかぶった人間とすれ違うことは何度かあり、そのたびにわたしはどうしてか反射的に幽々子の後ろに隠れたりしてしまっていて、幽々子から「大丈夫、大丈夫」とあやすように頭を撫でられたりした。

 その撫でられた頭に、繋いでいる方とは逆の手を乗せてみて。それを目線のすぐ前にまで持ってきて、なんとなく、思う。

 お姉ちゃんがいるのってこんな感覚なのかな。

 妖怪はほとんどが皆、孤独で生まれる。親がいる妖怪もいるにはいるが、それは獣から妖怪になる妖獣に多い例であり、通常の妖怪が人の業を用いて産まれることはほぼないと言っていい。基本的にはわたしが『発生』したように、なにもないところからひとりでに生まれ落ちる。

 そもそもとして妖怪に親なんてものは必要ないのだ。妖怪は、生まれた時から存在が完成している。人を超える力、知恵、あるいは特性。赤ん坊として生まれるわけではないゆえに、他の誰かの助けを必要とすることはない。

 それはわたしにとってもそうだ。必要はない。必ずいないといけないわけではない。

 だけどわたしは、自分を思ってくれる心の温もりを知っていた。

 だから、欲しかった。必要がなくとも、ただただ欲しかった。解けることのない誰かとの確かな結びつきを。なにがあろうと決して違えることのない、たった一つの繋がりが。

 

「……わたし、幽々子みたいに優しいお姉ちゃんが欲しかったなぁ」

 

 ぽつりと呟くと、幽々子が照れくさそうに頬に手を当てた。

 

「嬉しいこと言ってくれるわねぇ。私も、しろもちゃんみたいにかわいい妹がいたら、毎日がもっと楽しく過ごせてたんじゃないかと思うわ」

「もっと楽しくって、今の生活に不満があるの?」

「そういうわけじゃないけどね。私、子どもの頃は能力のせいであんまり同い年くらいの子と遊んだりとかできなかったのよ」

「え。ゆ、幽々子の能力ってそんな危険なものなの?」

「ああ、違う違う。危険ってわけじゃなくて、力の性質のせいで価値観や考え方が違ってきちゃうというか……ごめんなさい。こんなこと言ってもわからないわよね。私の能力がなんなのかも伝えてないのに」

「や、しかたないよ。誰にでも話したくないことはあるって、初めて会った時幽々子も言ってたでしょ? それとおんなじ」

 

 言いながら、わたしは幽々子の言葉を振り返っていた。

 力の性質のせいで価値観や考え方が違ってくる。それは人の身でありながら人ならざる能力を保有する人間にはありがちな話だ。

 幼い頃より、なまじ他者とは隔絶した力を持つがゆえに、形成される自意識の根本に能力の有無が組み込まれる。他人よりはるかに早く成熟してしまったり、思考回路がまったく違ってしまったり、他人と話が合わないことが多々あると聞いたことがある。

 そしてその当人はそれが自覚できず、自覚できたとしても修正することはできない。当然だ。根本から違う価値観をどう修正しろというのだろう。

 できることと言えば、理解し合うことを放棄し、自分と他人は違う存在なのだと折り合いをつけて付き合っていくことだけだ。他人との関係に線引きをして、関わるにしてもあくまで理知的に。自分の価値観、考え方、感情で語ることはない。

 幽々子もそういう生活を送ってきたのだろうか。そっと、彼女の顔を覗き込んでみる。

 誰かを思い優しげに細まった眼。ほんの少しのいたずら心が秘められた口元の微笑み。わたしに向ける感情に虚偽はなく、語る言葉に嘘はない。

 わたしにはどうにも、彼女が他人に冷たく事務的に当たる姿なんてちょっと想像できなかった。

 少なくとも幽々子は今、わたしと冬空の下を歩いているこの瞬間を楽しく感じてくれている。それだけは確かなように思えた。

 わたしが幽々子をじっと見ていることに幽々子も気がついたらしく、再び彼女はわたしの頭に手を乗せる。ぽんぽん、と軽く撫でる。ふにゃり、とわたしの頬が気持ちよさに緩んだ。

 

「まぁ、しろもちゃんになら、もうそろそろ私の力のことを教えてもいいかなって思ってるんだけどね」

「え?」

「むしろ知ってほしいくらいかしら。もちろんそれで嫌われるのは嫌だけど、あんな他に誰も訪れない道端でずっと私のことを待ってくれていたあなたには、もっと私のことを知ってほしい。それから、あなた自身のことも」

「わたしのこと?」

「ええ。私はしろもちゃんのことももっと知りたい。しろもちゃんがどこに住んでいて、普段どんな生活をしてるのか。私と会う以前はどんな風に毎日を過ごしてたのか。そういう他愛のないことが知りたい」

「それは……」

 

 それを話すことはつまり、わたしが妖怪であることを明かすことと同義である。

 一瞬だけ言葉に詰まったわたしを、けれど幽々子は笑みを浮かべたまま、その頭を撫で続けた。

 

「大丈夫、無理に聞くつもりはないわ。しろもちゃんが自分のことをあんまり話したくないって思ってることなんて、ここ一か月近く付き合ってきてじゅうぶん理解してるつもりだもの」

「え、べ、別にそんなこてょ、ことはなぃ、ないよ?」

 

 噛みすぎだった。幽々子は苦笑しながら、わたしの頭から手を離す。

 

「これは単に私のわがままよ。私のことを知ってほしい、あなたのことをもっと知りたい。ただそれだけ。教えてくれてもくれなくても、私とあなたが友達だってことに変わりはない。でも少しだけ……少しだけでいいから、どうか考えておいてくれると嬉しいわ」

「……うん」

 

 幽々子に、自分が妖怪であることを明かす。それは言われるまでもなく、これまで何度も何度も考え続けて、そして絶対にできないと思い続けていたことだ。

 これはわたしだけの問題ではない。妖怪は人間の敵、絶対に相容れない。それが今の時代の常識だ。少しでも妖怪と繋がりがあると知られてしまえば、たとえその相手が人間であろうと、退治されることは――殺されることは避けられない。

 ゆえに明かしてはならない。誰にも。ばれてはならない。決して。わたしのためだけじゃなく、他ならぬ幽々子のために。

 

 ――そう、思っていたのだが――――。

 

「さ、そろそろよ。あの長い階段をのぼった先にあるのが私のお家」

 

 幽々子に誘われるがまま、並木道の階段に足をかけ、のぼっていく。雪が積もって若干すべりやすいとのことなので、一段ずつ注意して着実に進んでいった。

 雪に少し足が取られるせいか、段々と足が重くなっていく。

 こんな階段、飛んでいけばすぐなのに……。

 そんな風に思ってため息をはきかけたわたしの背中を、ぽん、となにが押す。

 幽々子の手だった。目をぱちぱちとさせるわたしに、幽々子は「もう少し」と。あと少しだけ、頑張って。こくりと頷いて、わたしは足を進め続けた。

 振り返れば、少し遠くまでの景色が見渡せる。わたしと幽々子は人里を通ってはこなかったが、ここからは遠くの方に里の様子を見下ろすことができた。忙しない、人間の営み。いつかあの里にも、この足が踏み入れる日が来るのだろうか。

 わたしを呼ぶ声がした。少し上の方で、階段の頂上で幽々子がわたしが来るのを待っている。

 わたしは景色を見下ろすことをやめて、少し足早に幽々子のあとを追った。

 

「このお屋敷が、幽々子の家……」

 

 門を通って塀を越える。そこには非常に広く大きなお屋敷と、これまたそれ以上に広大な庭園が広がっていた。

 とても整えられた、美しい庭だった。庭石の配置は絶妙で、庭木や花壇などの手入れに無駄はない。池はほどよい広さと透明さを保ち、何匹かの鯉が悠々とすいすい泳いでいる。池の奥には、今は枯れているにせよ数多くの桜の木が所狭しと並んでおり、春には絶景の桜が見られるだろうことは想像にかたくなかった。

 なによりも、そんな庭のさらに奥。他のどんな木の倍近く大きく力強く、妖しいほどに美しき気配を放つ桜木がある。

 

「すごい……なんていうか、すごい」

 

 すごいとしか言葉が出てこない自分の語彙の少なさに絶望してしまうくらい、それは美しい光景だった。

 

「こんなことなら春に来ればよかったかなぁ。それでそうしたら、もう感動して何分かはずっとぼーっとしてたかも」

「期待にかなったみたいでなによりだわ。ただ……あの一際大きい桜の木には、あんまり近づかないようにね」

「へ? なんで? あんなに太くて大きくて力強くて、どう見てもこのお庭の主役なのに……」

「それはそうなんだけど、ちょっとね。気になることがあるっていうか……木だけに?」

「……うん」

 

 ひゅー。

 ……冬の風は冷たい。

 

「……屋敷の中、入りましょうか」

「うん」

 

 何事もなかったように。というかなんにもなかったので、外を歩いてきて冷えた体を温めるためにも、二人はまず屋敷の中で暖を取ることにした。

 屋敷の入り口の前にまで来て、先に幽々子が「ただいまぁ」と入っていく。わたしもそれに続こうとして、しかし誰かが屋敷の裏、庭とは逆の方向からなにか音が聞こえた気がして、ふと足を止めた。

 すたすたと石床を歩く足音。誰かが近づいてきている。

 

「幽々子、帰ったでござるか。まったく、拙者が見ておらぬ間に勝手に抜け出しおって。何度も言うようだがな、いくらおぬしに人ならざる力があろうと妖かしものは――む?」

 

 現れたのは、背と腰にそれぞれ刀を佩いた――背にあるそれは長く、腰のそれは短い――、一人の青年だった。格好は紋付羽織袴。髪は汚れのない刀身のように綺麗な銀色をたたえ、瞳は穏やかな色に満ちてはいるが、奥底には刃物のごとき危険な鋭利さが垣間見える。

 青年はわたしの姿を認めると、ぴたりとその足を止めた。そうして徐々に、その目が険しく細まっていく。

 幽々子の名前を呼んでいた辺り、彼は幽々子と知り合いということだ。確か居候がいると言っていたが、彼がそうなのだろう。

 ちょっと怖かったが、挨拶は大事だとして、わたしは一歩踏み出した自分の胸の前に手を置いた。

 

「えっと、わたしは幽々子の知り合いで、仮縫しろもと」

「――おぬし、妖かしものだな」

「えっ?」

 

 かちゃり、と青年が背に携えた刀の柄に手を添える。

 

「無防備に幾度と外を出歩く幽々子に憑いてきたか。やはり妖かしとは油断ならぬものだ」

「な、なんで……」

「悪いが斬らせていただく。恨むならば(うぬ)を拙者と鉢合わせた天運を恨め」

「ちょっ、待――」

 

 弁明する暇もない。次に瞬きした時にはすでに青年はさきほどまで立っていた場所にはおらず、すぐ目の前で刀を振りかぶっていた。

 わたしの素の反応速度だけではまず間違いなくその段階で斬られてしまっていた。だけどわたしは触角の超感覚によって一足早く接近に気づくことができており、すでに真横に体を投げ出している。

 ひゅんっ、と背後から空気を切り裂く音がした。そして同時に、石床を大きく抉るような嫌な破砕音も。

 一瞬でも遅れていれば、間違いなく両断され、殺されていた。わたしの額を冷や汗が流れ落ちる。

 

「躱したか。しかし二度目はない」

「ひぅっ!?」

 

 かちゃり。まるで油断のない、暗く鋭く殺意に満ちた眼。思わずわたしの口から情けない悲鳴が漏れた。

 青年が再び刀を振りかぶる。さきほどは上段に構えてからの振り下ろしだったが、今度は腰だめに構えての横への一閃のようだった。

 わたしは一応妖怪として人間を超える身体能力を保有してはいるが、しょせん弱小妖怪でしかない。それ以前にそもそもこの青年は普通の人間どころかわたしよりも圧倒的に速く、そして戦闘慣れしているようだった。

 文字通り、二度目はないだろう。後ろに躱そうとしたって、さらに踏み込まれて斬られる。直前で上に飛んだって二の太刀で斬られる。わたしが青年よりも素の身体能力で劣る以上、逃げることはほぼ不可能。

 ならばどうするか。

 自身の能力を――わたしが『夢を見る程度の能力』と名付けた力を使うことも考えて、けれど、まだその時ではないと判断する。

 あれは本当に必要な場面でのみ、なにがなんでも果たさなければならない目的がある場合にのみ解放すると決めている力だ。

 まだ、今のわたしには完全に打つ手がないわけではなかった。

 素早く息を吸って、はく。一度、心を平静に戻す。

 この幽々子の知り合いらしき青年が何者なのかはわからない。わからないが、確かなことが一つだけある。

 この青年はわたしを殺そうとしている。つまり、わたしの敵。消すべきもの。この世界からなくすべきもの。これを排除しなければ、わたしに未来はない。

 わたしはこんなところで死ぬわけにはいかない。こんなところで終わるわけにはいかない。相手がなんであろうと、どこの誰であろうと、わたしの前に立ちふさがるのならば。わたしの邪魔をするのならば。

 

「……消す必要があるんなら」

 

 ずずず、と。触角と翅のカモフラージュを解き、翅の付け根から《(クタイ)》を全身へ広げていく。

 視界が明滅し、強烈な吐き気が胸を襲う。意識が肉体から無理矢理引き剥がされそうな形容のしがたい苦痛に耐えながら、翅に巡る混沌の力を絶え間なく体に送り続ける。

 そしてすぐに《泥》が現界に表出する。全身に浮き出る呪印、あるいは血管。禍々しく、おぞましく、穢れ切った力の具現。

 わたしの碧く無邪気に輝いていた瞳もまた、深淵を覗いたように濁り出す。

 

「消すだけ。跡形もなく」

「消えるのは、貴殿だ」




居候こと妖忌さんですが、原作では設定のみのキャラクターなので口調とかその他諸々趣味で決めました。


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F5.こころかよわせるびゅーてぃふる

 わたしの突然の変化に目を見開いていつつも、青年のその太刀筋に迷いはない。ただ、わたしの首を裂くように横に一閃。

 さきほどは触角の超感覚に身を任せ、刃が振るわれるよりも前に回避行動に移ったが、今はもう斬撃が繰り出された後。けれど今のわたしには、その軌道がはっきりと捉えられていた。

 これもわたしの保有する能力の副産物たる《(クタイ)》の力。この《泥》は、かつてわたしがその能力によって切り捨てた()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ゆえに今のわたしの身体能力や反射神経は解放する前のそれをはるかに凌駕する。

 普通に避けることも可能だった。だけどそれはしない。わたしの《泥》がどんな特性を持つのかも知らず、せっかく素直に斬りかかってきてくれているのだ。

 ここは敢えて、避けずに受ける。

 

「っ、これは……!」

 

 首を斬られるのさえ避けられればいい。わたしはただ、斬撃の行き先に片腕を置いた。

 刃がわたしの肉を斬り裂いていく。刀身がわたしの腕にのめり込む。青年は、わたしの腕を斬り飛ばし、その勢いのまま首を両断する未来でも見えていたのかもしれない。

 だが、そんな可能性はありえない。能力を使うまでもなく、わたしの《泥》がそれを証明する。

 刀身はわたしの腕の骨にまで到達した段階で、がちんっ、と鈍い音を立てて止まった。まるで切れ味が完全になくなって、ただの棒が腕の骨に衝突しただけのように。

 

「斬れないだとっ?」

 

 今、わたしの全身には泥が張り巡らされている。それはつまりすべての体液に《泥》が織り交ぜられているということだ。

 わたしの肉を裂き、《泥》の混ざった血液を付着した刀身は、骨に到着するよりも前に《泥》が持つありとあらゆるものを侵食する力によって鋭利さをなくした。ただそれだけの話である。

 

「ならばっ!」

「無駄だよ」

 

 刀身を引き、まだ血液が触れていない綺麗な部分でわたしの骨を裂こうとする。そうくることはとっくに読めている。

 だからわたしは、青年が動くよりも先に自分から腕を引き裂かせた。

 ただし斬らせるのは骨ではなく、あくまで肉の部分。血を刀身に塗りたくらせるように肘から手首までを派手に斬り裂かせる。

 痛みはなかった。いや、実際には脳がその感覚を発しているのかもしれないけれど、それをわたしが認識することはない。《泥》を解放している間は肉体の感覚が曖昧になっている。そしてなによりもそれ以上の苦痛を、自らの《泥》が魂を侵そうとする不快感をすでに味わい続けている。

 もうこの長物に脅威はない。刃の鋭さはすべて侵して消した。であれば、剣士であり、二刀の剣を携えた青年が次にどう行動するか。そんなもの、やはり予想するまでもない。

 青年はただの細い鈍器に成り下がった刀から手を離すと、わたしから距離を取りながら腰に佩いた短い刀の柄に手を置いた。一本が鈍らになったのならば二本目を用いる。当然の一手だろう。

 追撃することもできたが、それよりも確実にこの青年を始末するべき手段がわかっていたわたしは追うことはしなかった。

 代わりに《泥》を手の中に集約する。無残に引き裂かれ、ぽたぽたとこぼれ落ちては蒸発する《泥》混じりの血液。それを手のひらに集めていく。《泥》を一つの塊と為す。

 傍目からはただ《泥》を集めただけの球体に見えるかもしれない。だけどそれは間違いだ。これは《泥》の濃度が段違いに高い。ただ指先で触れただけでも、一瞬のうちに肘までが変色し崩れ落ちる。

 青年もまた、わたしの手のひらの上にあるその塊に、血液に混じっていただけの中途半端な《泥》とは比べ物にならない力を感じたらしい。半身を引き、重心を下げ、引き絞るように。居合の構え。

 

「消えて」

「何度も言わせるな。消えるのは貴殿だ、禍津なる妖かしよ」

 

 互いに踏み出す。わたしは《泥》の塊を前へ、青年は腰に佩いた刀を飛び出した勢いのままに解き放つ。

 わたしはただ、一部分にでも塊を触れさせられればそれでいい。だから横に大きく凪ぐように。

 《泥》に触れた時点で斬れ味が消失してしまうことを青年はすでに理解している。無駄な斬撃は斬れ味を鈍らせるだけ。ゆえにこそ彼が狙うのはただ一点、わたしの首。一度骨まで刃を届かせた後、それを押しつけながら瞬時に引くことでわたしの首を断ち切り、絶命させるために。

 互いの全力の一撃。そして二人がお互いに相手を仕留めるつもりである以上、その技が衝突し合うことはない。

 わたしの《泥》の塊は青年の胴体へ。青年の刀はわたしの首元へ。刹那のうちに攻撃は繰り出され、そうして。

 

「――やめなさい妖忌!」

 

 そんな声が聞こえて、ぴたり。青年の刀がわたしの喉元数センチ前で止まった。

 この声の主が見知らぬ相手だったなら、わたしは構わず力を行使し続けていただろう。けれどこれは確実に、この一か月間何度も耳にした、聞き覚えがあるひどく馴染み深い声音。

 わたしもまた、危うく接触する直前だった《泥》の塊をすんでのところで停止させた。

 妖忌と呼ばれた青年は刀を止めても下ろすことはせず、未だわたしの首元近くに刀身を添えたまま、ちらりと声の主を――屋敷の中から大急ぎで飛び出してきた幽々子を見やる。

 

「幽々子。なぜ止める。見てわかるだろう。こやつは妖かしものだ。大方おぬしを誑かし、ここまで連れてこさせたのでござろう。斬って不足なぞないと思うが」

「不足しかないわよ、この辻切りバカ。バカだバカだとは常々思ってたけどここまでとは思ってなかったわ。この大バカ」

 

 怒り心頭。そんな様子で、幽々子が二人の間にずんずんと入り込んでくる。

 《泥》を幽々子に触れさせるわけにはいかない。わたしは慌てて《泥》の塊を幽々子から遠ざけ、蒸発させて消した。全身に巡らせていた《泥》もすべて翅へと戻す。これで、わたしはもう無害な弱小妖怪に戻った。

 自分の存在が剥離していく苦痛から解放されたわたしに、ふと。

 

「ぅ、っぷ……」

 

 《泥》に内蔵をごっそり持っていかれたかのような脱力感と吐き気。そして見るも無残に斬り刻まれている腕の痛みがわたしを襲ってきて、立っていられずがくりと膝をついた。

 倒れかけたわたしを、幽々子が大急ぎで近寄ってきて支えてくれる。

 

「っ、幽々子っ! そやつに触れるな! そやつの力は触れるものすべてを……!」

「力? さっきの泥みたいなやつのこと? もうしろもちゃんはそんなもの纏ってないでしょ」

「それはそうだがっ……そもそも見てわかる通り、そやつは妖かしもので」

「そんなこと関係ないわよ。っていうかあんたはしばらく黙ってて」

 

 しっしっ、と幽々子が未だわたしに向けられていた刀身をどっか行けとばかりに払う。妖忌は少し迷っていたようだったが、《泥》を戻した今のわたしにはさきほどまでの脅威を感じないからだろうか。しぶしぶと、だけど割と素直に刀を下ろした。ただし鞘にはしまっていない。

 そんな妖忌に、これまた幽々子が「べーっ」と舌を見せたのちに、打って変わってひどく心配そうな表情になってはわたしに向き直った。

 

「しろもちゃん、大丈夫?」

「えっ、と……だ、大丈夫、だけど……」

 

 幽々子の家の居候に会ったかと思えば妖怪だと看破され、突然斬りかかられ。《泥》の力で応戦したかと思えば幽々子に止められ。しかもわたしが妖怪だと知ったはずの幽々子が一切態度を変えず、わたしを不安げに見つめてきている。

 ちょっと状況についていけないきっとわたしの頭の上には、きっと数多くの疑問符が浮かんでいることだろう。

 

「うぅ、痛そうな腕……こんなの一生ものの傷じゃない」

「あ、いや、その。これくらいなら別に一日あれば治るし、あとも残らないから……」

「そうなの? それならよかった……なんて言えるわけないわね。あぁもう、ほんっとあのバカはバカねっ。バカだわ。バカに違いないわ。大バカね。超バカ」

「……少しバカバカ言いすぎではないか」

「あんた黙っててって言ったでしょ。次許可なくしゃべったら食糧一ヶ月分一気に買いに行かせるわよ」

 

 きっ、と妖忌を睨みつける幽々子。いつもの優しい幽々子とギャップが激しすぎて、これまたついていけない。

 妖忌は大きくため息をするかのように肩をすくめると、それ以来本当に完全に閉口した。刀を下ろした時と言い今のこれと言い、彼は突然斬りかかってくる割に幽々子の言うことにはきちんと従うらしい。

 

「……しろもちゃん」

 

 幽々子がわたしの触角を、背中から生えた翅を見やる。《泥》を解放する際に変化の術による保護色は解けていた。だから今のわたしはいつも幽々子と相対している人間に化けた姿ではなくて、妖怪としての自分。

 幽々子に見つかった時は、心配されている間はただただ混乱していた。だけど今はその事実をはっきりと自覚してしまって、途端に、わたしの胸に数多の感情が襲いかかってきた。

 絶望、焦燥、そして恐怖。

 幽々子に妖怪であることがばれてしまった。幽々子に嫌われる、怖がられる。幽々子の笑顔を見られなくなる。幽々子を傷つけてしまう。幽々子とこれまでの関係でいられなくなる。もう幽々子に、頭を撫でてもらえなくなる――。

 目の前が滲む。自分が涙を流していると気づいたのは、ぽたぽたと、水滴が地面に落ちる音を聞いてからだった。

 

「……ごめんなさい」

 

 謝ったのは、わたしではなかった。

 どうしてか幽々子がとても申しわけなさそうな顔をして、雫がたまったわたしの瞼を人差し指で拭う。

 

「ずっと隠し続けるのは辛かったわよね。言いたくても言い出せないのは……あなたに全部背負わせたりなんかしないで、もっと早く、無理にでも聞いてあげればよかった」

「……え?」

 

 聞いてあげればよかった?

 

「あなたがただの子どもじゃないことなんて初めからわかってた。だって、たくさんの妖怪が住んでる山のすぐ近くの道に、あなたみたいな子どもが一人でいて無事でいるはずがない。住んでる場所が近くにあるっていうのもおかしいのよ。この幻想郷に、人里以外でまともに人が住めるような場所なんてほとんどない」

「え、ぁ……」

 

 つまり幽々子は、わたしが妖怪だということに初めから気がついていたということだ。あるいはそうでなくとも、妖怪に対抗する手段を備えた、事情のある人間であるかもしれないと思っていた。なんにしても、少なからず普通の人間とは相容れない、馴染むことのできない存在なのだと。

 そしてそれを踏まえたうえで、幽々子はわたしとの交流を今日まで続けてきた。わたしが妖怪である可能性が高いことを理解した上で、わたしと一緒に昼食を楽しんで、わたしの頭を撫でて、わたしと手を繋いでくれた。

 わたしもまたそれらを今、理解する。幽々子が言った、わたしのことを知りたいという言葉――知っていながら、だけど、わたしが望むのなら秘密を明かし人間と妖怪として付き合うことも、秘密を明かさず人間同士として付き合うことも、どちらでもよくて。だけど心の底では、本当はわたしの方から秘密を打ち明けてほしかったのだと。

 わたしが妖怪だということに確信を得ても、幽々子の態度が変わることはなかった。涙を流すわたしの頭の上に、ぽんぽんとあやすように彼女の手が置かれる。震える体を、そっと抱きしめてくれる。

 

「大丈夫よ。あなたが妖怪でも、私はあなたを拒絶なんてしない。あなたを嫌ったりなんてしない」

「だ、だけど、わたしは……わたしが妖怪だってことが他の誰かにばれたりして、幽々子がその妖怪と浅くない関係があるなんて知られたら、幽々子は……」

「ふふ……あぁ、そうなのね。嫌われることだけが怖かったんじゃなくて、今までずっと私のことを考えて……本当、私ったらダメね。私のことを思ってくれてたのに、あなたにその重荷を全部押し付けてただなんて」

「ち、違うよ! 幽々子は悪くないっ! 悪いのは、人間のふりなんかして幽々子に近づいたわたしだっ。妖怪のくせに、人間の敵のくせに……幽々子と一緒にいたいだなんて思った、わたしのせいだ」

 

 人間と妖怪は相容れない。決して。それは、妖忌と呼ばれた青年がわたしを妖怪だと見抜いてすぐ問答無用で斬りかかってきたように、この世界の真理なのだ。

 人間という種にとって妖怪とは、妖怪であるということそのものが悪。妖怪が存在するという事実こそが根絶すべき対象である。

 すべて知っていた。それなのにわたしは幽々子と会い続けることを望んだ。自分の欲望のために。

 なにもかも全部、わたしの弱さのせいだ。

 

「……なら、私と会わなければよかった、なんて思う?」

「そんなことっ……」

「よかった。あのね、しろもちゃん。私の持ってる能力のこと、教えるわね」

 

 唐突に、幽々子が切り出す。

 

「私の能力は、死霊を操る能力。幽霊も、怨霊も、亡霊も……ありとあらゆる死した魂を従える能力」

「それ、は」

 

 ――私に力があるって言ったのは嘘じゃないの。それこそ、住職さんみたいな人たちには絶対に言えないような力がね。

 本当のことを一つだけ、と。幽々子が自らの能力についてほんの少し語ってくれた時の場面が頭をよぎった。

 死した魂を操る能力。確かにそんな冒涜的な力、他人、ましてやお坊さんになんて言えるはずがない。人の身でありながら、忌まわしき、まるで妖怪のような。

 

「死霊って一括りに言ってもね、人間だけじゃないのよ。動物、妖怪、神。生けとし生けるものすべてに魂はある。生まれながらに幽霊の存在だっているわ。私は幼い頃からずっとそれらと付き合ってきた。そのせいか他の同い年くらいの子たちとはなんだか距離感を覚えちゃって、だからいろんな死霊から、生きてた頃の人生を聞いてみたりして過ごしてきたの」

「人生を……?」

「ええ。ある人間の子は、親に捨てられた孤児として盗みを繰り返した。ある動物の子は、生きるために必死に他の動物を殺し続けた。ある妖怪の子は、自分の存在が消えないよう必死に人間を襲い続けた。他にもいろんな話を聞いたわ」

 

 遠くを見るような瞳で、幽々子が語る。そこでようやく、ここに来る前に幽々子が言っていた価値観や考え方が違ってしまうという言葉の真の意味に気がついた。

 あれはわたしが思っていたような、理解し合うことを放棄し、折り合いをつけて生きてきたという意味合いではない。ただ単に生と死という当たり前の概念を飛び越えて、ただ一つの個体でありながら、さまざまな人生の欠片に触れてしまったがゆえの言葉だったのだ。

 

「そうやってたくさんの人間や妖怪、動物たちの話を聞いてるとね、ふと思うことがあるのよ。もしかしたら皆、おんなじなんじゃないかしらって」

「同じ?」

「そう。人間と妖怪は、確かにいろいろなことが違うわ。寿命、力、それから場合によっては姿かたち……でも、ただ一つだけ共通してることがあるの。それは、誰しも心があるということ」

 

 すっ、と幽々子は自らの胸の前に手を置いた。

 

「誰にだって皆、心があるのよ。一人でいることを寂しいって思う心がある。誰かと笑い合うことを楽しいって思う心がある。人間も妖怪も関係ない。すべての生物にそれはある」

「心……」

「私にとってはね、人間だとか妖怪だとか、そういうのはあんまり関係がないの。子どもの頃からいろんな死霊と付き合ってきたからね。言葉が通じるのなら、相手が私と比べてどんなに大きかったり小さかったり、強かったり弱かったり、長く生きてたり死んじゃってたり。どんなに私と違う特徴を持ってたりしても関係ない。だって」

 

 この胸の中にはおんなじ心がある。そう、幽々子は言った。

 

「……幽々子は……」

 

 心があるならわかり合える。陳腐な考え方だと、きっと多くの妖怪は笑うだろう。ほぼすべての人間はありえないと激怒するだろう。

 人間にとって妖怪が敵であるように、妖怪にとってもまた、人間とは単なる食糧でしかない。話すとしても単なる余興。食糧と、どうせ食べてしまう家畜と心を通じ合わせようだなんてバカげているにもほどがある。

 けれど。

 わたしは、その幽々子が語る価値観を綺麗だと感じた。バカげていてもいい。人間も妖怪も変わらないと、本気で言っている幽々子を、ただひたすらに美しいと思った。

 幽々子は確かにわたしのことを思ってくれた。誠実に付き合ってくれていた。心を込めて、優しく接してくれた。妖怪である可能性が高いことを留意したうえで、友達になろうと言ってくれた。

 わたしも同じだった。幽々子を心から慕っていた。幽々子に撫でられるのが好きだった。人間である幽々子に友達だと言ってもらえて、本当に嬉しかった。

 わたしは妖怪として孤独に生まれてしまったけれど、独りでいることが誰よりも嫌で。幽々子もまた人間として生を受けながら、けれど生死さえ曖昧な心の世界で生きてきた。お互いにハグレモノだった。

 でも、だからこそなのかもしれない。普通の人間と妖怪が相容れなくとも、だからこそわたしと幽々子は確かに心を通わせることができた。互いを思い、わかり合うことができた。

 

「だからね。ありがとう、しろもちゃん。私と出会ってくれて。ありがとう、しろもちゃん。こんな中途半端な私なんかと友達になってくれて。私をずっと、思っててくれて」

「……ぅ、ぐすっ……わたしはまだ……幽々子のそばにいて、いいの?」

「もちろん。むしろ私はもっとしろもちゃんと一緒にいたいって思ってるわ。しろもちゃんは違う?」

「違、わない。わたしも……もっと幽々子といたい。聞きたいこととか、話したいこととか、いっぱいある」

「私も」

 

 堪えなくていいんだよ。そう伝えるように、幽々子がわたしの背中をさする。

 そこが限界だった。

 堰を切ったように嗚咽がこぼれ出る。ずっと不安だった感情が涙となって、絶え間なくこぼれ落ちていく。

 ああ。お姉ちゃんがいるのって、こんな感覚なのかな。

 自分を思ってくれる心の温もりが。確かに今この手の中にある、実感の伴った優しさが。

 抱きしめてくれる幽々子の体温の温かさを、わたしは、決して解けることのない誰かとの確かな結びつきに、絶対に違えることのないただ一つの繋がりに感じていた。



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S6.ごはんわかいでりしゃす

 わたしが泣き止んで落ちついた頃に、幽々子に誘われるがまま、わたしたちは屋敷に足を踏み入れていた。

 ちょっとばかり古ぼけた柱や壁や床は歴史を感じさせる。だからと言って埃っぽいというようなことはなく、よく掃除などは行われているようで、屋敷の中も外の庭と同様に風情を感じさせる雰囲気を漂わせていた。

 ぼうっ、と火を灯す行灯(あんどん)と、わずかに開けた障子から差し込んでくる月明かり。しろもは妖怪ゆえに月光を太陽の光と同等のものとして捉えることができるが、この和室でともにちゃぶ台を囲んでいる幽々子はそうではない。

 夜の闇は妖怪を連想させる。けれど住み慣れた家だからか、元来の性質からか。幽々子が不安がる様子は欠片もなく、むしろその頬は楽しげに緩んでいた。

 

「ふっふっふ……どう、幽々子。王手! 王手だよ!」

「そうねぇ、どうしましょう。このままじゃ負けちゃいそうだわ」

「次の一手で幽々子に勝っちゃうよ!」

 

 王手だとかなんだ言っているが、やっていることは将棋ではなくおはじきである。

 おはじき。小さな玉をいくつか持ち寄って机の上に広げ、一つずつ順に当てていって獲得し、最後に獲得数が多い方が勝利するという遊び。

 わたしと幽々子がやっているのは石弾きだ。ちょうどいい大きさの小石を並べておはじきを行っていた。

 戦況は上々。現在獲得数は互角ではあり、残っている小石はたったの二つ。ここでわたしが手元の小石を弾いて当ててしまえばわたしの勝利である。

 だというのに、幽々子はまるで焦った様子もなくのほほんと眺めていた。

 

「むぅ。ずいぶん余裕だね、幽々子。この状況でなにか手があるの?」

「そういうわけではないわ。でも、私はしろもちゃんのことをよく知ってるもの。そしてそのしろもちゃんのことをよく知っている私から言ってみれば、ここでしろもちゃんが勝利する可能性は限りなく低い」

「ふふん、そんな風に余裕ぶっていられるのも今のうちだよ! さぁ、最後の一手! 名づけて、しろもちゃんスナップデラックス!」

 

 我が渾身の一撃。ぴんっ! と指先で思い切り小石を弾いた。

 思い切り。余裕ぶる幽々子に敗北を突きつけ、かっけよく決めるつもりで普段よりも力を入れた。そしてだからなのだろう。

 

「あぁっ……」

 

 わたしが弾いた小石は明後日の方向にそれて、もう一つの小石には掠ることすらなかった。

 あと一歩で勝てたのに……。

 悔しがるわたしとは裏腹に、幽々子はさも当然と言わんばかりの様相をしている。そして近場の小石としろもが飛ばした小石の間に指で線を引くと、小石を弾く体勢を取った。

 

「はい。じゃあ私の番ね」

「む、むぐぐ……で、でも、強く弾いたから二つの距離は遠いし、そんな簡単には当てられ」

「あ。やった、当たったわ」

「ぐふ!」

 

 しろもちゃん完全敗北である。思わず力なくちゃぶ台に突っ伏し、額をぶつける。痛い……。

 ちょっとだけ赤く腫れた額を、しかたがなさそうな顔で診てくれる幽々子を、わたしは若干涙目になりながら見上げた。

 

「うー……幽々子はわたしが外すってわかってたみたいだったけど、なんで? どうやって? なにかの能力?」

「私の能力はそんな万能じゃないわよ。別に、絶対に外すって思ってたわけじゃないんだけどね。しろもちゃんってたぶん、調子に乗るとすぐ失敗しちゃう部類だから。自信満々に王手とか言ってきた時に『あ、しろもちゃん次外すわね』って思って」

「うぅ、そんなぁ」

 

 調子に乗ると失敗するタイプ。それではまるでお間抜けさんみたいだ。不名誉な言い草に、わたしの頬がぷくぅと不満げに膨らんだ。

 そしてそんなわたしの頬を、幽々子が面白がってつついてくる。ぷにぷに。妙に楽しげなその様子に、さらにわたしは口を尖らせていく。

 幽々子とはこの一か月でそれなりに親しくはなっていたが、ここまで気軽に触れ合えるほどではなかったように思う。これまではただ一緒に昼食を食べて、寒空に浮かぶ火鉢たる日の光にまどろんでいただけ。こんな風に遠慮なく触れ合えるようになったのも、玄関の前での一件があったからなのだろう。

 わたしは今、変化の術を解いて、蝶の妖怪の特徴を無造作にさらしている。わたしが机に突っ伏して、よく見えるようになったからだろうか。気がつけば幽々子の視線がわたしの顔よりもほんの少し上、触角と翅に向いていた。

 

「それにしても、しろもちゃんって本当に妖怪だったのね」

「本当にって、わかってたんじゃなかったの?」

「確率が高いかもって思ってただけよ。それに、わたしにとってはしろもちゃんがどんな存在でも変わらないから」

 

 心があれば皆同じ。すでに幽々子の価値観は理解している。

 触ってもいい? と、小さな子どものような好奇心を隠した表情の幽々子。しろもにとってはなんでもないものでも、人間たる幽々子にとってはそうではない。

 特に断る理由もなかったのでこくりと頷くと、幽々子はおそるおそると言った風に触角に触れてきた。初めはつんつんと腫れ物を扱うようにつつくだけだったそれは、次第にすりすりと感触を確かめるようになっていく。ちょっとだけ、くすぐったい。

 

「しろもちゃんは蝶の妖怪さんなのかしら」

「うん。二年くらい前に生まれたばっかりなんだ」

「そうなの?」

 

 本当はそれより以前にも生きていた記憶があるが、それは伏せておく。わたしを受け入れてくれた幽々子に未だ隠しごとをするのは忍びないけれど、前の世界については確信を持って聞かるようなことがない限り、わたしだけの秘め事にすると決めていた。

 妖怪は人が恐怖する限り悠久の時を生きる。幽々子としては、わたしはもっと長く生きていると思っていたのかもしれない。幽々子は目をぱちぱちとさせると、どこか背伸びした子どものように得意げに胸をそらした。

 

「それじゃあ私の方が歳上なのね。ふふ、お姉ちゃん、って呼んでくれてもいいのよ? 幽々子お姉ちゃんって。しろもちゃん、お姉ちゃんが欲しかったって言っていたでしょ?」

「んー……そういう幽々子は、妹が欲しかったりしたの?」

「そうねぇ。お姉さんでもいいけれど、やっぱり妹よね。私は誰かに甘えるよりも、甘えられる方が好きだもの。しろもちゃんは?」

「わたしは甘える方が好きかなぁ。頭撫でてもらえたりすると気持ちいいもん」

「そう言ってくれると思ってたわ。ほら、だからどうかしら? 試しにお姉ちゃんって、そう呼んでみてもいいのよ?」

 

 二度目の催促。両手を広げて、さぁ、と。今か今かと言葉を待ち受けている幽々子に、わたしはちょっと苦笑した。

 お姉ちゃん。幽々子の言う通り、お姉ちゃんがいたらなぁ、なんて思ったことはそれなりにあった。にとりちゃんたちはとてもよくしてくれるけれど、彼女たちはあくまで友達であって、家族ではない。わがままで欲張りかもしれないけど、無条件でわたしを甘やかしてくれるような。わたしはそんな優しくて温かいお姉ちゃんが欲しかった。

 幽々子も友達ではあるけれど、彼女をお姉ちゃんと呼ぶことはやぶさかではない。むしろ願ったり叶ったりというか、わたしにとって、よくわたしの頭を撫でてくれたり抱きしめてくれたりする幽々子は理想のお姉ちゃんとも言える。

 だから目を閉じて、夢想してみた。わたしが初めて生まれた時のこと。まだ右も左もわからなかった頃。たった一人で過ごしてきた日々のこと。そんなわたしの隣に、もしも幽々子がいてくれたら。

 そっと瞼を開ける。今浮かんだ感覚のままに、想像の中で抱いた気持ちのままに、屈託のない笑顔で、わたしはそれを言葉にしようと口を開いてみて。

 

「――お、おねぇちゃんっ。その、えっと……あ、あたま、なでてほしいなぁ、なんて……」

 

 幽々子がもしわたしのお姉ちゃんだったら。妄想の中ならうまく甘えることができたのに、いざ口にしてみると顔から火が出そうになるくらいこっ恥ずかしかった。

 らしくない縮こまった態度だったからか、幽々子が瞠目し、硬直する。そんな反応がまたこそばゆくて、わたしは耳まで真っ赤にして顔を伏せてしまった。

 くすり。小さく笑うような声がした後に、下を向いたわたしの視界に影が差す。

 

「はい、いい子いい子。よくできました」

「んぅ……」

 

 そっと、髪をくすぐるように。

 むずがゆくもあったが、それ以上に気持ちがいい。ふにゃり、と。勝手に頬がだらしなく弛緩してしまった。

 ずっとこの瞬間が続いたらいいなぁ、なんて。そんな風に思いかけてしまうくらい、居心地のいい時間。幽々子もきっと、そんなわたしの気が済むまで手を動かし続けていてくれただろうと思う。

 だけどそういう気分のいい時間ほど、終わりというものは思っていたよりも早く訪れる。

 とんとんとん。床を鳴らす足音。この屋敷に今いるのはわたし自身と、わたしが見知った二人だけ。だとすれば幽々子が目の前にいる今、廊下からするこの足音の主の正体なんて一つしかない。

 幽々子の手がわたしの頭から離れていく。きっとわたしは名残惜しそうな顔をしてしまっているのだろう。幽々子はくしゃりと最後に少しだけ強くわたしの頭を一撫ですると、「また今度ね」とウインクをした。わたしは、まだ残っているわずかな温もりと、少し乱れた髪の感覚を意識しながら、絶対だよ、と。こくこく。小さく首を縦に振った。

 

「――幽々子。夕餉が仕上がった。入ってもよいか」

「ええ、どうぞ」

 

 ふすまが開き、盆を両手に持つ一人の青年――妖忌が姿を見せた。

 玄関の前で相対し、刀の切っ先を向けられた時のことを思い出し、無意識に体が強張ってしまう。

 そんなわたしを妖忌は一瞥するが、今はもうその目に剣呑な雰囲気は宿っていない。かと言って友好的な感情が込められているかと言われればそういうわけでもなく。

 思考の読めない瞳を携えたまま無言で佇む妖忌と、なにを言ったらいいのかわからず硬直するわたし。そんな微妙な空気を断ち切ったのは、こつこつと幽々子が指先でちゃぶ台を叩いた音だった。

 

「こら、しろもちゃんをいじめないの。ご飯できたんでしょう? だったら早く食べましょ」

「……そうでござるな」

 

 敷居を越え、妖忌が部屋に踏み入ってくる。わたしの横を通りすぎ、盆をちゃぶ台の上に置くと、幽々子と、わたしのぶんの食事を並べていった。

 ご飯と汁物と、高菜の煮付け。それからこれは、イワナの焼き魚だろうか。焼き魚が入ったおにぎりならお昼にも食べたけれど、幽々子が作ってくれたらしいあれは本当に絶品だった。同じようなものだからと言って飽きるようなことはない。

 そしてなによりもわたしの目を釘付けにしたのは汁物である。ただの汁物ならそこまで過剰に反応はしないが、中に入っている具が一段とわたしの興味を引いた。

 

「ふぅん。今日は野菜と花の吸い物なのね」

 

 花。わたしの大好物である。知ってか知らずか、妖忌はこの夕餉にそれを作ってきてくれていた。正確に言えば花の蜜が一番好きなのだけれど、花が素材に使われている時点で些細な問題であると、わたしは主張したい。

 

「魚は一人一匹しかないの?」

 

 不満そうな幽々子の疑問に、妖忌はこれ見よがしに肩をすくめてみせた。

 

「元は拙者と幽々子のぶんしかいらぬと思っていたゆえにな。いや、本来ならばそれでも幽々子に二匹は用意できたはずなのでござるが、どこかの誰かが漬けていた魚を勝手にこっそり焼いて握り飯に入れていったせいで」

「あーあー聞こえないー。口うるさい居候の嫌味なんて聞こえないー」

「まったく……今回は何事もなかったからよいものを、普段料理のりの字もやっていない幽々子が一人で火を扱うなど、下手をすれば火事になっていてもおかしくなかったのでござるぞ。幽々子ももう年頃の女子(おなご)なのだ。そろそろ普段からの身の振り方というものを考え」

 

 言い聞かせるような妖忌の言葉を遮って、「もうっ」と幽々子が両手で耳を塞いだ。手のひらで塞いでいるのではなく指の付け根辺りで塞いでいるので、きっと外の音は聞こえている。きっとその仕草は単に、妖忌の言葉をそれ以上聞きたくないという意思表示なのだろう。

 

「あなたは口を開いたら、がみがみがみがみ、いっつも説教ばっかり。この堅物、石頭。そんなんだからいつまで経っても女の人の一人も寄ってこないのよ」

「拙者は剣の道を行く者だ。未だ未熟者な身の上で色恋沙汰にうつつを抜かすつもりは端からない。そもそも、色気より食い気を地で行く幽々子にそれを言われたくはないでござる」

「ふんっだ。私にはしろもちゃんっていう新しいかわいい妹がいるからいいのよ。しろもちゃんはお姉ちゃんのこと大好きだものねー」

「あ……う、うん」

「ほら、妖忌あなた今の聞いたっ? 顔を俯かせて、もじもじしながら恥ずかしいそうにそうにうんって。かわいいわぁ。妖忌もしろもちゃんを見習いなさいよ。あなたもこれくらい可愛げがあったらもっと……もっと……」

 

 一旦言葉が止まる。途端に無表情になった幽々子が、ふるふると静かに首を横に振った。

 

「いや……ないわね。ないわ。絶対ない。さすがにそれは気持ち悪いだけね……ごめんなさい妖忌。謝るわ」

「拙者の扱いがいつもよりひどく感じるのだが……」

「私の大事なお友達にいきなり斬りかかるような辻切りバカにはこれくらいがちょうどいいわよ」

「……はぁ。そうか」

 

 幽々子はまだ怒っているらしい。幽々子の言いぶんに妖忌は言い返すことはせず、代わりにすっくと立ち上がった。

 そうして幽々子とわたしに背を抜けた立ち去ろうとする妖忌を、ちょっと、と幽々子が呼び止める。

 

「なに、どこに行くつもりなの?」

「どこもなにも、拙者がここにいては邪魔でござろう。幽々子とその妖かしものは、友人、なのだろう? ならば拙者は別の場所で夕餉をいただくとする。それくらいは空気が読めるつもりだ」

「ふーん。まぁ別にどこでなに食べようがあなたの勝手だけど、自分の料理の感想くらい聞いていきなさいよ。ほら、しろもちゃんこんなに待ち遠しそうにしてるじゃない。こんなに楽しみにしてるのにもしもまずかったら、文句の一つを言える相手くらい欲しいでしょう?」

「……まぁ、拙者は構わぬが」

「しろもちゃんはどうかしら? 妖忌がいても平気?」

 

 妖忌はわたしをいきなり殺そうといてきた相手だ。確かに、少なからず苦手意識はある。だけど今の彼からは敵意を感じないし、幽々子の言うことはきちんと聞くようだから、今ここで襲いかかってくるようなことはまずないだろう。

 まだちょっと怖い気持ちはあるが、こくり、と頷いて肯定を示す。妖忌はそんなわたしに少し驚いたように目を見開いていた。

 改めて料理に向かい合い、手を合わせる。

 

「それじゃあ、いただきます」

「……いただきます」

 

 初めに箸が向かいかけたのは当然のごとく食用花の入った汁物だったが、一番楽しみなものは後に取っておこうと、どうにかその手の動きを抑制した。代わりに向かわせるのは、塩漬けにしていたイワナを調理したと思しき焼き魚。昼間にも米混じりに食べたそれを、今度は純粋にそれのみの味を舌で味わう。

 

「ん……」

 

 幽々子はまずかったら遠慮せず言っていいとわたしに言ってくれたが、そんなこと冗談でも言えないくらい、素直においしかった。お昼に食べたおにぎりとはまた違う、魚単体での味の深さに舌が踊る。塩加減は濃すぎず薄すぎず、絶妙に焼き魚の魅力を引き出していた。

 高菜の煮付けも負けず劣らずいい味を出している。普段は森で過ごしているために人の手が入った料理と呼べるものを口にする経験は少ない。わたしからしてみれば、これもまた口が裂けてもまずいなんて言えるような代物ではなかった。

 そしてやはり最後は食用花の入った吸い物に帰結する。おそるおそる、けれどそれまでの焼き魚や煮付けのおいしさもあって、その実は楽しみでしかたがない。箸を置き、椀を口元まで持っていって、傾けて汁を啜る。

 

「ふぁぁ……」

 

 いつも食べているような蜜の甘さとはまた違う、花の香りを保ちながら自然の味を最大限に引き出した、ぽかぽかと体中に染み渡っていく温かさ。それはさながら日向ぼっこで浴びる日差しのように心地よく、わたしの心を微睡ませる。

 気がつかないうちに、しばらく椀を手に持って放心してしまっていた。意識を取り戻し、そのことに気がついたのは、くすくすと幽々子の静かな笑い声が聞こえてからだった。

 

「この様子じゃ、まずいだなんて一言も出てきそうにはないわね。まぁ、妖忌の料理の腕は私も認めてるもの。当然よね」

「……幽々子はまずいならまずいと言えと言っていたでござろう」

「そりゃ、まずいならね。本当にまずいだなんて私は一言も言ってないわ」

「調子がいいでござるな、まったく……」

 

 少しだけ嬉しそうに、わずかに頬を緩ませて。穏やかに目を細めた妖忌がふと、すっとわたしの隣に立った。

 突然近づかれてびくっと震えて、手に持っていた椀をこぼしそうになりかける。けれどこぼれる直前で、妖忌がそれをそっと支えてくれた。

 そんな妖忌を呆然と見上げていると、彼は椀を台の上に戻した後、私の隣に腰を下ろした。それは隣り合うようにではなく、わたしに体の正面を向けるような姿勢で。

 彼はその両手を畳の上につくと、かしこまった動作で、すーっと畳に額をつけるように腰を曲げていった。

 

「――……すまなかった」

「えっ、と……」

 

 妖忌がしているのは、不器用ながら一心に謝罪の念を伝えるような、一寸の乱れもない土下座だった。

 えぇっと、これはいったいどういう状況……?

 突然の謝罪に困惑の意を隠し切れないわたしに、妖忌は頭を下げたまま、真剣な声音で続ける。

 

「幽々子が人や妖かしの枠を越えて心を通わせることのできる、異彩ながら美麗な価値観を持っていることは知っていた。拙者のこの身もまた半身は人なれど、もう半身は人ならざるもの。人にも妖かしものにもなれぬ半端者の拙者を認めてくれた幽々子には返し切れぬ恩義がある」

「人ならざるもの?」

「妖忌は半分は人間だけど、もう半分は幽霊なのよ。半人半霊ってやつね。普段は隠してるけど、本当は体の周囲をふわふわした白い気質の塊(幽霊の証)が浮いてたりするわよ」

 

 半人半霊。それは確かに、この時代においては非常に生きづらい境遇であるかもしれない。

 人外たる性質を持つゆえに人間とは馴染めず、それでも人であるがために妖怪ともまともには付き合えない。半分が幽霊であることを明かしたりしてしまえば、きっと人間からは鬼子とでもされて忌み嫌われ。普通の人間と違って妖怪とは多少交流できるかもしれないが、半分が人であるせいでいつ食われそうになってもおかしくはない。

 わたしが知る未来の幻想郷、人間と妖怪が共存することのできる時代にでもなればかなりマシになるはずだけれど……。

 たとえ未来がどうであろうと、今の時間に生きる妖忌にとって、この世界は厳しく辛いものである。それをこうして幽々子がなにも気にせず居候として住まわせてくれているというのなら、なるほど、大恩があると言って差し支えない。妖忌が幽々子の言うことには粛々と従うのも頷ける話である。

 

「幽々子の思想ははっきりと理解していたし、受け入れてもいた……だが、どうやら拙者は、それと同じ願いを妖かしものが抱いていることがあろうなどとは信じていなかったようだ。幽々子が信頼し、連れてきたはずのおぬしを敵と決めつけ、話も聞かずに斬りかかった……本当にすまなかったでござる。この通りだ」

「あ……」

 

 そこでわたしはようやく妖忌が頭を下げている意味を知る。これは突然攻撃してきたことに対し、彼なりに精一杯の誠意を込めた謝罪の態度だったのだ。

 

「必要であれば切腹でもなんでもしよう。腕を斬り落とせというのならそうしよう、この腰の白楼剣を渡せと言うのならそうしよう。貴殿が望むのであれば、貴殿の気が済むまで拙者をこき使ってくれようと構わない」

「え、い、いや、その、ちょ、ちょっと待って、待って。わたしも普通に殺そうとしちゃってたし、そんな本気で謝られても、その」

「そうよ妖忌ー。せっかく気分よく夕餉を嗜んでる最中なんだから、そういうお固いのは一人でやってよね。しろもちゃんも困ってるじゃない」

「いや、拙者は剣士でござるゆえ。このような幼子に剣を向けたとなれば剣士の恥。容易く許してもらえるなぞ思っておらぬでござる。たとえしろも殿が気にせずとも、この恥は一生の教訓としてこの胸に――」

「あーもうほんとこいつバカね」

 

 幽々子は呆れ果てたと言わんばかりに両肩を上げ、どうする? としろもを見た。

 

「あとはしろもちゃんに任せるわ。許すも許さないもあなた次第。どっちでも構わないけど……まぁ、しろもちゃんだものね。どっちになるかはわかってるわ」

 

 そう言うと、幽々子は箸を手に取って食事を再開した。焼き魚を口に運び、ご飯をすくう。わたしが話しかければすぐに反応してくれそうではあるが、同様に、未だ土下座し続けている妖忌もわたしがなにか言わなければ一切動きそうもなかった。

 しかたなく、妖忌の方に向き直る。謝られているはずなのに正直大分気まずいというか、対応に困るというか……とにかく、わたしはこの気まずさを解消するために動くため、意を決して口を開く。

 

「その、とりあえず顔を上げてくれる?」

 

 ……反応はない。

 ちょっと泣きかけたが、なんとか我慢して、次の言葉を考える。

 

「えっと……さっきも言った通りわたしも本気で応戦しちゃったし、たぶんあのままやり合ってたらどっちも無事じゃすまなかったし……だからその、今回はおあいこってことでどうかな」

「しかし、先に手を出したのは拙者だ」

「いやでも、その、ほら。わたしは妖忌の長い方の刀を台無しにしちゃったし」

「刀なぞあとでいくらでも打ち直せよう。しかし人の行動はなにをしようとも決して覆すことはできぬ。拙者がおかした過ちが消えることはない」

 

 幽々子の言っていた通り本当に無駄に固い。こちらとしてはさっさと元に戻ってもらって食事に戻りたいというのに、この調子ではご飯が冷めてしまいかねない。

 さきほど口にした花の入った吸い物の味が口内によみがえる。日差しのように温かく心地のいい味。冷めてしまえばそれも味わえなくなってしまう。

 そう思うと、こうやって余計に無駄なところで粘る妖忌に、わたしは段々といらいらとした気持ちが溜まってきた。なにを口にしても「いや」とか「しかし」とか。まるで終わる気配はない。いい加減こんな無駄なやり取りはさっさと終わらせてしまいたいのに。

 そういう無駄な押し問答が一分くらい続いただろうか。ふといつの間にか吸い物からすでに湯気が出ていないことに気づいてしまって、わたしの我慢も限界に来た。

 

「もう、もうっ! 許すって言ってるじゃん! いい加減もう頭上げてってば! これ以上謝られたって全然こっちは嬉しくないんだよっ!」

「だが、なにか詫びでもせねば」

「だがもなにももないの! お詫びっ? だったらこの汁物もう一回あっためてきて! あと妖忌のぶんのこれもちょうだい! あとお花もちょっと単品で一輪くらいっ……あ、あとできれば今度また別の花料理も――」

「いらない風だったのに、言い出したら意外にたくさん出てきたわね」

 

 食べ終わった幽々子がちゃぶ台を挟んだ向こう側でなにやらつっこみを入れていたようだったが、激昂しているわたしの耳には入らなかった。

 

「とにかく! そういうわけだから頭を上げて! わたしはもう妖忌のことは全然恨んだりとかしてないから! だからっ……そろそろ夕餉に戻らせてよー……うぅ……」

 

 ぐぅー。タイミングよく、お腹の音が鳴る。まだおかずを一つずつ、一口食べただけ。それに今は《(クタイ)》の力を行使した直後なのだ。あれはちょっとの解放でもわたしの体力や力を激しく消耗する。お昼に食べたおにぎりだけでも数日は保ったはずが、もうすでにお腹ぺこぺこになっていたのだった。

 お腹が鳴った音を聞かれたことで、ちょっとだけ頬を紅潮させたわたしに、わずかに顔を上げた妖忌は目を瞬かせていた。その反応にさらに熱がのぼるのも自覚しつつ、きっと睨みつけるようにすると、妖忌は微笑み混じりに小さく息をついて、ようやく頭を上げてくれる。

 

「ふ……了解した。しろも殿の今言った望みをお詫びとし、拙者の全力をかけて取り組もう。拙者から言うのもおかしいが、それで今回の件はとんとんと。それでよいか?」

「ふんっ。さっきからそう言ってるじゃん。あと、殿なんてつけなくていいから。しろもでいいよ」

「あいわかった。では、しろも。先ずはその椀をちょうだいしようか。温め直してこよう。それから望み通り、拙者のぶんの吸い物も持ってくるでござる」

「妖忌もどうせならもうこっちで一緒に食べちゃいなさいよ。しろもちゃんもそれでいいかしら」

「別に、どっちでも」

「そうか。礼を言うでござる」

「うーん……いつもの甘えてくれるしろもちゃんもいいけれど、つんつんした態度もなかなか新鮮ねぇ」

 

 ちゃぶ台に肘をついて楽しそうに傍観する幽々子と、つんいと顔をそらすわたし、ちょっとだけ堅苦しさが抜けた妖忌。妖忌が夕餉を持ってきた時に流れ出したちょっとだけ気まずい雰囲気はとっくになくなっていた。

 人も妖怪もない、夕餉の一時。一人で月を見上げて眠るだけのいつもの夜とは違う賑やかな時間は、なんてことはない当たり前の日々のように過ぎ去っていった。



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