大淀パソコンスクール (おかぴ1129)
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0. プロローグ
退職→採用まで


登場人物紹介
名前:カシワギ
職業:パソコンよく使う系


 戦争は終わった。

 

 いや、深海棲艦との戦いのことじゃない。確かにそっちの戦争も数カ月前に終戦したらしいが、俺が言いたいのはそっちではない。

 

 俺が言う『終わった戦争』というのは、俺がかつて勤めていた会社との戦争だ。

 

 俺は当時プログラマーとして、web制作の会社に勤めていたのだが……その会社がまぁ〜地獄みたいなところだった。朝は始発で家を出て、夜は終電で家に帰る日々。意味が分からないことに、一年中繁忙期のような忙しさ。休日出勤当たり前。会社に泊まりこみで仕事もザラだったし、ヒドいと一ヶ月家に帰ることが出来ないこともあった。

 

 想像出来るだろうか。3日に一回しか眠ることが出来ない日々を。そして、そんな毎日が三ヶ月以上続いた時、自分が一体どんな状況に陥ってしまうかを。……そんな状況を、俺は手取り14万の安月給で、ずっと耐え忍んできた。

 

 そうして一ヶ月前、ついに俺はキレた。コードを書いてる途中に何もかもがイヤになり、キーボードをひっくり返して椅子から立ち上がって、スーツが汚れるのも構わず、床の上を転げまわりビクンビクンと痙攣しながら、怒りと悲しみと恨みつらみのすべてをぶちまけてやった。

 

――お前ら! 駅のホームでただひたすらぼーっと3時間立ってたことあるか!?

  外に出ただけで、どうしようもない恐怖に震えて立ってられなくなったことあるか!?

  目の前のPCが何するための道具なのか、分からなくなったことあるか!?

  今の俺がそうなんだよ!! 俺を人間に戻せ!!!

 

 そして俺は自分の机に戻って、その勢いのままに退職届をコピー用紙に書きなぐって、同じ部屋にある社長の机にたたきつけた。今は社長は不在だが、そんなこと俺の知ったこっちゃない。

 

 課長が社長の席まで来て、俺の退職届を手に取った。それを見て顔から血の気がひいたらしい課長は、自分の席に戻ってPCをシャットダウンすべくすべてのウィンドウを閉じている俺に対し、ヒステリックに何かを訴え始めた。

 

「おいカシワギ! お前に辞められると困る!!」

 

 何を言ってるのかさっぱり分からんし、わかりたくもなかった。あの時の俺を止めるなんて、深海棲艦とかいう化物共でも不可能だ。

 

「知るか!! 辞められて困るなら、辞めないような高待遇にしろクソヤロウ!!」

 

 口いっぱいに溜まってしまった唾をぺぺぺと撒き散らし、俺は課長に対してそう怒鳴り返した。すべてのウインドウを閉じた後、PCの電源を丁寧に落としてやる。本当なら電源コードを引っこ抜いてやりたいが、そこは一プログラマーとしての最後の情けだ。PCに対してだけは気を使ってやる。

 

「おい! 仕事どうすんだよ!!」

「有給だ!! 今まで使ってなくて溜めてた分、全部使って辞めてやる!!」

「いろって! まだ仕事残ってるんだから!!!」

 

 課長はまだそんなことを言う。どうやらまだ事の重大さに気付いてないようだ……イライラが最高潮に達した。そこまで言うなら……

 

「……わかりました。じゃあ残りましょう」

「ホッ……」

「その代わり、今の俺は疲労困憊で注意力散漫です。うっかりミスでデータベースのレコード全部消すかもしれませんよ? クエリのSELECT文のつもりでうっかりDELETE文を打っちゃうかもしれないし、その時レコード指定にアスタリスク打つかもしれないですよ?」

「え……」

「ひょっとしたら、ついうっかりSSHでうちの本番サーバーにログインして、ついうっかり全データ消しちゃうかも知れませんよ? リムーブとかやっちゃってもいいんすか!? どうなんすか!?」

 

 これは脅しだ。俺は今、疲労困憊で意識が朦朧としている。おまけに怒り狂って前後不覚で、裁判で言うところの心神喪失状態だ。そんな俺に、ネットワークに繋がってるパソコンを使わせてみろ。何をしでかすか分からんぞ。重要なデータを消すかもしれんし……

 

「ちょ、ちょっと待て……」

「ついうっかり、ツイッターで会社名込みでこの会社の勤務状態をバラすかもしれませんよ?」

「い、いやあの……」

「いいんすか!? やっちゃいますよ!!? ……いいんすか!!!?」

 

 そうして何も言えなくなった課長と、その様子をボー然と見つめていた同僚たちを尻目に、俺は一人で家に帰った。後日、社長から『給料は支払わない』と訳のわからないメッセージが届いていたので、準備していた過去一年分のGPSログを労基に提出すると言ってみたら、黙って給料満額とプラスアルファが振り込まれた。

 

 こうして、俺の戦争は終わった。今は貯金と親からの仕送りで、なんとか食いつないでる状況だ。そろそろ新しい仕事を決めないと、金ももうすぐ底をつく。失業手当も、もらえるまではまだ時間がかかる。早く決めないと……。

 

 そんなことを考えながら、今日も俺はインターネットで職を探す。探してる職種はやはりIT系。ぶっちゃけ今はパソコンを視界に入れるのもイヤな状況だが、俺の職歴はこれしかない。やはり手っ取り早く職を探すなら、IT系しかないだろう。

 

 ……それに、俺はパソコンが嫌いになりたくてプログラマーになったんじゃない。好きだったからだ。だから、今のこの『パソコンなんて見るのもイヤっ』ていう俺の状況は、俺自身が我慢がならなかった。

 

「んー……とはいえ、プログラマーはもうなぁ……」

 

 職探しをしながら、ネットのニュースも時々覗いてみる。さっきも言ったとおり、長い間続いていた人類と深海棲艦の戦争も、先月、俺の戦争と同じように終わった。その結果、艦娘とかいうやつらの社会生活……特に雇用の面が問題になっているそうだ。今日もネットニュースは、その話題で賑わっている。

 

 艦娘ってのは、深海棲艦と戦ってくれてたやつらだ。なんでも、深海棲艦に対して有効なダメージを与えることが出来るのは艦娘だっただけらしく、戦時中はそれこそ、たくさんの艦娘たちが建造されていたそうな。

 

 そして戦争が終わった後、その艦娘たちは軍を除隊して、人間として社会に溶け込んでいく手はずだったらしいのだが……

 

 生まれてこの方、戦うことしかしてこなかった奴らが社会生活に溶け込むってのは、一般人が考えている以上に難しいらしい。艦娘の雇用問題は、今はちょっとした話題になっている。うまい具合に次の仕事を探したり、自分の上官と結ばれて幸せになったりする子たちもいる中、就職も出来ず社会生活に順応できない子もいるらしい。戦時中は一躍ヒーローだったのに、そのヒーローが、今では仕事に就くことも出来ないなんて、なんとも世知辛い話だ。とはいえ、今は俺もその求職者の一人に成り下がっているわけだが……。

 

 『艦娘の大和、大和ミュージアムの案内係に就職!』というニュースを傍目で眺めながら、俺は今日も仕事を探す。プログラマーは嫌だけど、IT系の職について、またパソコンが好きになりたい……でもプログラマーはイヤだ……そんなめんどくさい希望を叶えてくれる仕事なんてあるのだろうか……

 

 半ば諦めかけたその時だった。

 

「……大淀パソコンスクール……生徒募集……」

 

 就職情報サイトの、パソコン教室の広告が目に入った。

 

「パソコン教室……」

 

 何の気なしに、その広告をクリックしてみた。途端にブラウザに表示される、その大淀パソコンスクールのwebサイト。そのサイトでは、笑顔で楽しそうにキーボードを叩く、優しそうなおじいちゃんおばあちゃんたちの写真が掲載されていて、とても楽しそうな教室に見える。

 

「なるほど……パソコン教室か……」

 

 『仕事してた頃の俺とは全然違うなぁ』と思いながら、教室の案内を眺める。この『大淀パソコンスクール』は、パソコンのパの字も知らない超初心者向けの講座から、Officeを使った実践的な講座、本格的なプログラミング教室など、およそパソコンに関する幅広い授業を展開している教室のようだ。もっとも、今は高齢者の超初心者向け教室がメインなのだそうだが。

 

――あなたも、何でも出来る魔法の箱で遊んでみませんか?

 

 教室長と思われるメガネ美人、大淀さんという人の顔写真とともに、そんな文句が載っていた。

 

「遊ぶ……パソコンで遊ぶ……」

 

 久しく忘れていた感情が、胸にこみ上げてきた。プログラマーになってから今日まで、パソコンは俺の仕事道具になってしまったが……その前は、俺にとってのパソコンは、何でも出来るおもちゃだった。面白半分で下らないプログラムを組んでコンパイルして、それを走らせるだけで、アドレナリンがドバドバ分泌されてたあの頃の気持ちが、ふつふつと持ち上がってきた。

 

 『採用情報』の項目があった。逸る気持ちを抑えながら、そのリンクをクリックする。講師募集……今も募集中のようだ。応募する場合は、このページの専用フォームに必要な情報を記入して、送信ボタンを押せばいいらしい。

 

「パソコンの先生か……面白そうじゃないか」

 

 本当におれにそんなことが出来るのかは分からない。けれどここなら……この教室なら、嫌いになってしまったパソコンを、また好きにさせてくれるかも知れない。俺は、ワクワクする胸をなんとか抑えつつ、氏名のフリガナの部分に『カシワギ』と自分の名前を入力していった。

 

……

 

…………

 

………………

 

「へぇ〜……そんな経緯があったんですね」

 

 大淀さんが、自分のパソコンを叩きながらそうつぶやいた。アンダーリムのメガネの位置をくいっと整える彼女の所作は、まさに『デキる秘書』という雰囲気が漂っていて、見ていてとても気持ちがいい。

 

「意外ですか?」

「ええ。バリバリのプログラマーさんが、どうしてうちのようなパソコン教室の講師になろうと思ったのか疑問でした。そういう方は最先端を追いかけるものだとばかり」

「最先端はもういいです。それよりも、『パソコン面白い!!』て気持ちを思い出したくて」

「なるほど」

 

 借り受けたWordのテキストを閉じ、それを自分のバッグの中に投げ込んだ。そのバッグには、Officeのテキスト一式と、勉強用のノートパソコンが一台入っている。

 

 あのあと講師の募集に応募した俺は、オーナーと思しき男性の面接を経て、晴れて『大淀パソコンスクール』の講師の職に就くことが出来た。といってもアルバイトだし非常勤だから、そこまでの高収入は期待できないが。

 

 そして今日、俺は大淀さんから『勉強用に渡すものがある』と呼びだされ、こうして出勤したわけだ。出勤した俺を待ち受けていたもの。それは、サイトに掲載された写真に比べて、5割増ぐらいで美しい大淀さん本人と、この教室で使っているテキストが数冊、そして勉強用のノートパソコンだ。ノートパソコンにはWindowsのXPから最新の10までのバージョンすべてと、そのそれぞれにOfficeの2003から2013までがインストールされているものだ。

 

 面接前の俺の予想通り、この眼の前の美人の大淀さんは、この教室の教室長だとか。なんでも元艦娘で、その時は任務娘だとかいう、秘書みたいなことをやっていたそうで。おかげでパソコン……特にOfficeのスキルはかなりのものらしく、そのスキルを活かして今の職についたらしい。俺と大淀さんは、生徒同士の懇談用のテーブルにさし向かいで座り、そんなことを話していた。南向きの窓のそばで、お昼はお日様の光が暖かそうな席だ。

 

「ここのオーナーは、元々私達の上官だったんですよ。戦争が終わったあと退官して、パソコンスクールを立ち上げたんです」

「教室の名前に大淀さんの名前が入ってるから、大淀さんの教室だと思ってました」

「オーナーは先日カシワギさんを面接した者ですけどね。実質、私が責任者みたいなものですから」

 

 大淀さんが目の前のノートパソコンをパチパチと叩き、Excelに何かのデータを入力しながらそう答えていた。後で聞いたが、教室で使うテキストの在庫状況をExcelで管理しているそうだ。

 

「それではカシワギさん。改めてご説明させていただきます」

「はい」

「カシワギさんには、この度新しく開設する、夜の講座をお任せします。今度新しく入る予定の生徒さんですが、どうしても夜に勉強をしたいということで、それならばと夜の部を開設することにしました。社会人の生徒さんの取り込みも狙ってのことですね」

「了解です」

 

 この教室には、大淀さんともう一人、講師の人がいるそうだ。もう一人は男性という話なのだが……どういうわけだかその男性講師は、お昼の間しか出勤することが出来ないそうで。加えて最近の人手不足解消も兼ねて、新しい講師の募集を行ったそうだ。そうして、最近まで現役バリバリだった俺が応募してきて、教室としても嬉しい誤算だったらしい。

 

「……で、今回入る新しい生徒さんですが、彼女も元艦娘です。パソコンはまったく触ったことのない初心者なのですが、そういった生徒さんの方が、新しく講師をはじめるカシワギさんもやりやすいと思います」

 

 うーん……その辺のことは経験がないからさっぱり分からんが……この辺は先輩に素直に従っておいた方がいいんだろう。

 

「わかりました」

「なので、まずはパソコンの使い方から学習してもらいます。その後は本人の意向もあるのでWordの授業を行って下さい。まずはパソコンでの書類作成が滞りなく行えるようになりたいそうです」

「俺はWordはあまり使ったこと無いんですが、大丈夫ですかね?」

 

 あのクソ会社で働いてた時は、書類もExcelで作ってたしなぁ……一応ここの面接を受けた時にそのことはきちんと伝えてはいるが……。

 

「大丈夫ですよ。そのための勉強用パソコンですから」

「とはいっても……」

「授業の開始は来週です。それまでは、好きなように勉強用のパソコンをいじり倒して下さい」

「わかりました。なんとか習得します」

「そのパソコンならAccessを除くOfficeも2003から2013まで入ってますし、2016は2013からそこまで違いがないらしいですし。元々そういうお仕事されてたカシワギさんなら、すぐに覚えられますから」

 

 そう言って、大淀さんがこっちを見ながらにっこりと笑う。うわー……この人の笑顔、すんごい綺麗だなー……なんか見とれちゃうよ……

 

「……」

「? 何か?」

「あ、いやいや……」

 

 不思議そうな顔をする大淀さんから慌てて視線を外す。照れ隠しで腕時計を見た。時刻はすでに六時半。季節は秋。目立って寒い日はまだないが、これぐらいの時間になると、外はすでにほの暗い。

 

「ぁあ、もうこんな時間なんですね。長々と付きあわせてしまいましたね」

「いえいえ。それよりも、今日は授業はないんですか?」

「今日はありません。事務仕事がメインです」

 

 なるほどと思いつつ、借り受けたテキストの山とパソコンが入った重いバッグをよっこいしょと持ち上げ、席から立ち上がって帰り支度を整えた。上着を羽織って前を閉じ、ずっしりと重いバッグの取っ手を握る。

 

「では大淀さん」

「はい。来週火曜日の午後5時ですね。お待ちしてます」

「はい。それでは失礼します」

「お疲れ様でした」

 

 本数冊にノートパソコン……激重なバッグを肩にかけ、教室を出た。おかげで教室のドアを開ける時に多少ふらついたが、幸いなことに、フラフラした情けない瞬間を大淀さんに見られてはなかった。

 

「……大淀さんか」

 

 なんだか胸が踊る。あんな美人さんが仕事仲間で上司だと、今後の勤務も潤いのある、素晴らしいものになりそうだ。本当はこういうことはいけないのだろうが、やはり同僚や先輩に美人さんがいると、それだけでテンションが上がる。

 

「うーし。がんばるかー」

 

 そう口ずさみ、両手を空高く突き上げる。もう夜のように暗くなってしまった空には……後に出会うことになる、フラッシュライトのような笑顔が眩しい『夜戦バカ』のように、眩しい月がぽっこりと浮かんでいた。そいつは月のくせに珍しく、極めて激しい自己主張をしていた。

 



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1. 先輩は変な奴 担当生徒も変な奴


 ボタンダウンのワイシャツとスーツに身を包み、共に戦争を闘いぬいた頑丈な手提げのかばんをひょいっとかついだ。俺は今日、生まれて初めてパソコン教室の授業を行う。

 

「こんな時間に出勤ってのは初めてだな……」

 

 時計を見ると、時刻はお昼過ぎ。俺の初授業は予定通り夜からだが……その前に空いた時間を利用して、同僚の講師の方との顔合わせと、その講師からの簡単なオリエンテーションがあるそうな。それで実際の授業は午後7時からというのに、こうやって午後3時頃からの出勤をしている。

 

 最初こそ俺も『ぇえ〜……授業開始の4時間前に出勤ですか……』とげんなりはしたのだが、その分の時給はきっかり出るという話だし、だったらありがたい機会だと受け入れて出勤することにした。こういった時間にもしっかりとお給料をくれる……こんな当たり前のことに感動するあたり、俺はまだまだ前の会社に毒されているようだ。

 

「お疲れ様です! 今日からよろしくお願いします!」

 

 教室に到着。入り口のドアを開くと同時に、いつもより若干大きめの声で挨拶をする。こういうことは最初が肝心だ。きちんと挨拶をして、印象を良くしておかなければならない。

 

「ああ、カシワギさん、お疲れ様です」

「はい。大淀さんもお疲れ様です」

 

 大淀さんが、自分の机に座ってパソコンのキーボードをパチパチと鳴らしながら、俺に笑顔を向けてくれる。愛想笑いには見えない本当の笑顔だ。彼女がこうやって自分の机で事務作業をしているということは、今の時間はもう一人の講師の人が授業を行っているらしい。

 

『先生、写真がね、うまく動かせないんだけど……』

『ああ。その場合は"文字列の折り返し"を……』

『タイトルを紙の真ん中に持ってくるって、どうやるんだっけ先生?』

『"ホーム"タブをクリックして……』

 

 パーテーションで綺麗に区切られた隣の教室からは、楽しそうなおじいちゃん二人と、若い男性の声が聞こえてきた。その若い男性が、どうやらもう一人の講師のようだ。落ち着いていて、かつほがらかなその声に、その人の人柄が感じられる。いい人のようだ。なんだか声がくぐもってるような気がするんだけど、風邪気味でマスクか何かをつけてるのかな?

 

 少し気になるのは、金属がこすれるようなチャリチャリという音が、先ほどからずっと教室の方から鳴っていることだが……何だこの音……どこかで聞いたことあるような……なんだっけ。

 

「今の授業はもう少しで終わりますから、ここの席のどこかに座って待ってて下さい」

 

 大淀さんはそう言って、自分の向かいにある席に手を差し伸べていた。大淀さんの周囲には3つほど空いた席があり、講師はその中から出勤した順で好きな席についていいらしい。すべての席には、少し古い型のPCが置いてある。ディスプレイの白のフレームが少々黄ばんではいるが、性能的には問題はないようで安心だ。俺は大淀さんの向かいの席に座り、持ってきたかばんを足元に置いて、着てきた上着を椅子にかけた。

 

「大淀さん、授業はまだ終わらないんですよね」

「はい」

「少し授業の様子を覗いていいですか?」

 

 パソコン教室の授業というものを、俺は見たことがない。実際に自分が行う前に、出来れば一度、本番がどういうものなのかを確認しておきたいわけだが……

 

「いいですよ? 今なら生徒さんも二人だけですから、席も空いてますし」

「ありがとうございます」

 

 よし。これで授業を体験することが出来る。時計を見る。授業終了まであと30分。その間に、授業の様子をしっかりと目に焼き付けておこう。俺はかばんの中から白紙の紙を数枚はさんだ愛用のバインダーを取り出し、それを手に、授業中の教室に入った。

 

 教室の中には、デスクトップのPCが準備されている席が8席あり、向かい合った4席ずつの島になっている。生徒と思しきおじいちゃんたちは1つの島に斜め向かいに座っていて、実に朗らかな笑顔でパソコンを操作していた。

 

「お、新しい生徒さんかな?」

「よろしく〜」

「失礼しま……!?」

 

 ……正直に言う。確かに俺は、授業の様子を目に焼き付けるつもりだったが……わざわざ俺自身が意識して焼き付けなくても、その光景はイヤでも網膜にこびりついた。

 

「ぉお、貴公が……!」

 

 それはなぜか。笑顔が素敵なおじいちゃん二人と共にこの教室にいたのが、全身に太陽のイラストを散りばめた、西洋の騎士のコスプレ野郎だったからだ。

 

「大淀から話は聞いている。ようこそ『大淀パソコンスクール』へ!」

 

 バケツみたいな兜をかぶっているせいで、そのコスプレ野郎の表情は見えないが、そいつは朗らかな声で俺のことを歓迎してきやがった。そしてそのまま俺を教室に招き入れ、一人のおじいちゃんの向かいの席に俺を案内する。一つの島の4つの席のうち、3つが埋まった。

 

「ああ、貴公もどうやら、亡者ではないようだ」

 

 俺が席に座るなり、そのコスプレ野郎はこんな意味不明なことを口にしやがった。亡者って何だよ意味がさっぱりわからない。

 

 そもそも仕事中だというのに、なんだその意味不明なコスプレは。いや服装だけならまだ分かる。分かりたくないが理解はする。だが、なぜ仕事中に剣だの丸い盾だの持っているんだ。しかも盾全体には、上手いともヘタとも形容出来ない不可思議な表情をした、擬人化した太陽のイラストが描いてある。その太陽のアンニュイな表情はなんだ。頭のてっぺんからつま先まで、疑問しか見つからない。

 

 そのコスプレ野郎が、右手で持っていた剣を鞘にしまい、何とも形容出来ない妙な歩き方で近づいてきて、俺の席のパソコンに電源を入れる。この教室独自と思われるブートローダーが立ち上がり、OS選択画面になった。慣れた手つきで7を選択するコスプレ野郎。

 

 さっきから鳴っていたチャリチャリ音の正体が分かった。このコスプレ野郎……珍妙な太陽のイラストが描かれているこいつの服は、鎖帷子になっている。だからか。だからチャリチャリとうるさかったのか。そんなものを着てきているというのか。

 

「カシワギといったか。貴公の来校を待っていた」

「は、はぁ……」

「俺の名はソラール。詳しい話は後ほど存分に。今は授業の様子を見ていて欲しい」

「よ、よろしくです」

 

 その自称『ソラール』先輩はそう言ったあと、急に全身を思い切り伸ばして、アルファベッドのYみたいなポーズを取っていた。何やってんだこの人?

 

「このポーズは太陽賛美という」

「いや聞いてないっす。自分、そのポーズのことは聞いてないっすソラール先輩」

「まぁソラール先生はいつものことじゃから」

「今日も先生は元気でええの〜」

 

 Yの字ポーズの……なんだっけ……太陽賛美のポーズに対し、二人のおじいちゃんは暖かい眼差しを向け、『ほっほっほっ』と朗らかに笑っている。俺は、知らない内に異空間に迷い込んでしまっていたようだ。誰か突っ込まないのか。この異様な状況に、誰か突っ込もうとしないのか。

 

「しかし、先生はいつもそのポーズをされますなぁ」

「俺も太陽のように、でっかく熱くなりたいんだよコバヤシ殿」

 

 わけわかんねぇ……この人たち、ホントにわけがわかんねぇ……。

 

「しばらく授業を見学しながら、この教室の基幹システムを触っていてくれ。Accessの経験は?」

「……ないですね」

「大丈夫。貴公なら問題なく触れるはずだ。データベースの中身を更新さえしなければ、何をやってもかまわない」

 

 太陽を崇拝する男、ソラール先輩にそう促され、俺はAccess2007を立ち上げるが……

 

「サクラバ殿、そこは太陽のようにもう少し明るい色にしたほうが……」

「なるほど。その方が文字がくっきり見えるね」

「ああ。まるで俺達を暖かく見守る太陽のように、美しく輝く背景だ」

「さすがソラール先生だね」

 

 こんな状況で授業の様子が頭に入るはずもなければ、Accessをいじる余裕がうまれるはずもない。頭の中がはてなマークでいっぱいになり、授業のことが何一つ頭に入らないまま、終了の時刻となった。

 

「じゃあソラール先生。また来週!」

「待っているぞサクラバ殿!」

「わたしゃ再来週ですな」

「コバヤシ殿は、次はいつもと曜日が変わるので、忘れずに!」

「先生、お疲れ様!!」

 

 晴々しい笑顔で会釈をしていく二人のおじいちゃんを、お得意のY字ポーズ……なんだっけ……太陽賛美だったっけか……で見送るソラール先輩。結局、授業風景はまったく頭に入らなかった……。

 

「貴公もお疲れ様」

「お、お疲れ様です」

「こんな感じで日々の授業を行うわけだが……授業の進め方の参考になったかな?」

 

 参考どころか、アンタのよく分からん格好のせいで、何も頭に入ってねーよ……。

 

「ま、まぁなんとか」

「それはよかった。では引き続き、貴公のオリエンテーションに入る」

 

 そうして今度はオリエンテーションに入ったわけだが……正直、このソラール先輩が何を説明しているのかがさっぱり分からない……いや、言いたいことは分かるが、気が散って仕方がない。だってさー……

 

「まず何よりも、相手は何も知らぬ初心者だということを念頭に入れることが大切だ」

「はぁ……」

「貴公にとっては当たり前の操作でも、相手にとっては不安が一杯の初体験……たとえば電源を入れる操作一つとっても、生徒からしてみれば、深淵の中を敵の不意打ちに怯えながら進むことと同義」

「な、なるほど……」

「ならば我々は、太陽のように彼らの道を照らし、暖かく見守り、フォローをしなければならん」

 

 こんな感じで、喩え話がいちいち婉曲で分かりづらい。言いたいことは伝わるのだが、付随する余計な比喩が、俺の理解の邪魔をする。

 

「作成したデータを保存させる際にも注意が必要だ。この教室では、生徒ひとりひとりに保存フォルダが準備されている。それらはすべてネットワーク上にある」

「パスを教えてくれますか?」

「マイドキュメントに保存フォルダへのショートカットを作成してある。保存の際には、まずそのショートカットをダブルクリックさせればいい」

 

 言われるままに、マイドキュメントを開いてみた。確かに見慣れない『受講生用保存フォルダ』というショートカットがある。試しにダブルクリックしてみると、名字の五十音順に振り分けられたフォルダが並んでいて、なるほどここが保存フォルダかと一目で分かる仕組みだ。しかし、これのどこに注意するべきなのか。

 

「そもそも生徒の中には『フォルダ構造』という概念を理解していない者も多い。故に自分専用の保存フォルダを指定するという操作を、覚えることが出来ない生徒もいる」

「……」

「貴公も入り組んだ区画で篝火に戻ることも出来ず、ショートカットも見つからず、帰るに帰れない状況に陥ったことがあるはずだ。データ保存の際の生徒たちは、ちょうどそんな状況だ。最下層の奥底でバジリスクの群れに囲まれ、動くことが出来ぬ不死……それが生徒だ」

「言っている意味がいちいち分かりませんが」

「だから俺達という存在がある。生徒たちを暖かく見守りフォローをして、いざという時の道標にならなければならない。いわば、俺達は生徒たちにとっての太陽……ッ!!」

「毎回喩え話で強引に太陽に結びつけるのやめてもらっていいですか」

 

 しかし冷静に聞いてみると、確かにこれは大切な情報だ。俺は今まで、最低限のパソコン操作に慣れ親しんだ人たちばかりを相手にしてきたわけだが……これから相手をするのは、まったくのパソコン初心者。俺にとって当たり前の操作でも、その人たちにしてみれば、恐ろしく難易度の高い特別な操作になるということか……。

 

 このソラールという先輩、確かに頭のイカレた格好をしているし言っていることにいちいち太陽を絡めてくる妙な人だが、根はいい人のようだ。バケツみたいな兜のせいで表情はわからないけれど、言葉の端々には熱っぽさもある。先輩はこの仕事に対し、誇りを持っているようだ。自身の仕事に誇りを持つ……素晴らしい人だ。

 

「先輩、ありがとうございます」

「ん?」

「大切な事を教えていただきました。先輩の話を聞かなかったら、操作が出来ない生徒さんに対し、いらだちを感じていたかも知れません」

「そういってくれると俺も嬉しい。貴公も俺と共に、太陽のようにでっかく熱くなってくれ」

「それは結構です」

「貴公……」

 

 その後一時間ほどソラール先輩の説明を聞き、実際にブートローダーの利用方法も確認させてもらって、オリエンテーションは終了した。

 

「同じ太陽の戦士として、期待している」

「太陽の戦士ではないですが、期待に添えられるようがんばります」

「その意気だ! 大淀もお疲れ!」

「はい。ソラールさんもお疲れ様でした。また明日」

 

 オリエンテーション終了後のソラール先輩は、『では失礼する』とY字ポーズを取った後、そのコスプレの衣装に身を包んだまま教室を後にした。あんな格好で職質受けたりとかしないのか?

 

「以前はよく捕まってたらしいですけどね。最近は『ぁあ、あいつはいいんだよ』的な感じらしいですよ?」

「日本社会に馴染み過ぎでしょ太陽の戦士……それでいいんですか警察機構は……」

「見ての通りあの朗らかな性格ですから。うちの教室での貴重な戦力ですし」

「ハァ……」

「講師としても素晴らしい人ですしね」

 

 それは分かる……分かるけど……まあいいか。大淀さんと共に、帰宅する太陽戦士の背中を見守る。しばらく眺めていると、時折無駄に前転しているのは何なんだ。しかも鎧が重いのか、うまく前転しきれずに背中からどっすんという感じで着地してるし……。

 

 だが、俺は運がいい。ソラール先輩と大淀さん。この二人が同僚なら、ここでの仕事はとてもやりやすいだろう。職場の人間関係は、健全な勤務に多大な影響を及ぼす。この職場の人間関係は、決して悪いものではないといえるだろう。

 

 それに、講師が全員そろっても3人という少人数なら、人間関係の軋轢みたいなものも生まれないはずだ。特にこの二人が同僚なら、そういう心配もないはずだ。よかった。一安心だ。

 



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 ソラール先輩が家路について1時間ほどの間、大淀さんから事務関連の仕事の説明を受けた。といっても、実際に事務仕事を担当しているのは大淀さん。俺が出張る機会というのはほぼ無い等しいらしい。実際に俺が行う必要のあるものはクローズ業務。しばらくすると、俺は一人で夜の教室を切り盛りしなければならなくなる。レジ締め、日報の記入、オーナーと大淀さんへの業務終了メール……非常勤だからかなのか、それともカルチャースクールだからなのか……実際にクローズ業務で行うことは少ない。

 

「さて……」

 

 一通り説明が終わったところで、俺が座る席の隣に立ち、日報の描き方を教えてくれていた大淀さんが、メガネをくいっと上げて、背後の壁にかけてある時計を見た。時計は午後7時5分前を指している。ソラール先輩のオリエンテーションは結構な長さだったようだ。それだけ貴重な話をたくさんしてくれたということか。アンニュイな太陽のイラストとケッタイなポーズにばかり気を取られていたけれど。

 

「もうしばらくしたら、来ると思いますよ?」

「新しい生徒さんですか?」

「ええ。今日は私もここにいます。困ったら遠慮せずに声をかけて下さい」

「はい。ダメな場合はそうさせてもらいます」

「大丈夫。生徒さんは明るくて接しやすい子ですから」

「お知り合いなんですか?」

「ええ」

 

 そうして俺が大淀さんから励ましのエールを頂いている最中、ガチャリという大げさな音が事務所内に鳴り響き、入り口のドアノブが90度回転した。どうやら、件の新しい生徒さんが来校したようだ。緊張する……。

 

「来たみたいですね」

「お、おぉぉおおおおお」

 

 緊張でつい情けない声が出てしまう俺を尻目に、無情にも入り口の重いドアが開いていく。『ゴウンゴウン』という音が似合いそうなほどに、重苦しく、もったいぶって大げさに開かれていくドア。

 

「ご、ゴクリ……」

「ぁあ、そうそうカシワギさん」

「は、はい?」

「生徒さんの名前ですが……せん「やせぇぇぇぇええええええええん!!!」

 

 唐突にドアの向こうから聞こえた、女の子の轟音のような叫び声で、大淀さんの言葉にキャンセルがかかった。

 

「うるさッ!?」

 

 つい本音が口をついて出た。思わず両耳を手でふさぐ。ドアを見ると、大きく開かれたドアの向こう側に、背の高さがちょうど俺の肩ぐらいの女の子が、フラッシュライトのような眩しい笑顔で大の字で立っていた。真っ赤なパーカーがよく似合っている。でもすんげー声デカい……なんか耳がキーンてしてるし……

 

「ぁあ川内さん、いらっしゃい」

「大淀さん来たよ!! 夜戦しに来たよ!!!」

「夜戦ではないですけど、お待ちしてました」

 

 大淀さんと知り合いらしい挨拶を交わしたその女の子は、その満面の笑顔のまま俺の元まで来ると、耳を押さえている俺の顔を覗き込んできた。

 

「ふーん……あなたが私の夜戦の相手かー……」

 

 なんだひょっとして……この子もソラール先輩と似たタイプで、しゃべることがいちいち意味不明な子なのか? でも顔そのものは、えらいべっぴんさんだな……

 

「夜戦の相手じゃなくて、パソコンの先生です。間違えないでくださいね」

「まーいいじゃんいいじゃん。似たようなもんだしさー」

 

 大淀さんが勘違いを訂正してくれたが……似たようなもん? なんだその『夜戦』て? 素直に字面で想像したら夜の戦い? なんだそりゃ? ま、まぁいい。挨拶をしないと……。

 

「え、えーと……はじめまして。私があなたの担当をさせていただく〜、か、カシワギといいます」

「カシワギ先生かー。私は川内です! よろしくね先生!!」

 

 俺の挨拶に対し、この子……川内さんは、白い歯を俺に見せつけるように、ニカッと笑った。その眩しいこと眩しいこと……

 

「うおっ」

「ん? どうしたの?」

「いや、何でも無いです……」

 

 なんか瞳孔が閉じるもん……。眩しすぎて、太陽拳を食らったフリーザ様の気持ちがわかりますもんこれ……。

 

「ところでさ! カシワギ先生!」

「はい?」

「先生もさ! 絶対に夜が好きでしょ!!」

「……は?」

 

 俺の両肩に自分の両手を置いて、やたらと力強いその両手の平でずっしりとプレッシャーをかけながら、この賑やかで眩しい女の子は、またも意味不明な事を口走る。どうなってんだこのパソコン教室……講師も変な奴なら、生徒も変な奴じゃねーか……。

 

「夜……ですか……」

「うん!」

「なんでまた唐突に夜?」

「だってさ! 先生も夜が……いや夜戦好きだから、わざわざ夜の担当になったんでしょ?」

「はい?」

「いいよね〜夜戦……私、先生の気持ち、分かるよ?」

 

 そう言いながら、この川内って子は俺に背を向け腕組みをし、うんうんと頷きながら目を閉じた。いや分かってない。今のこの俺の混乱っぷりを、この子が分かってくれるはずがない。もったいない……顔はすんごいべっぴんさんなのに……。

 

 ひとしきりうんうんと何かに納得したあと、川内さんは再び俺を振り返り、左手に必要以上の力を込めて、俺の右肩をバッシンバッシン叩き始めた。ちくしょう。すんごい可愛い子の担当になったはずなのに、なんだこの残念な気持ちは。まったくワクワクしない……。

 

「んじゃまーとりあえずさ! 夜戦はじめよっか!!」

「だから夜戦じゃないですよ川内さん。じゃあカシワギさん、あとはよろしくお願いしますね」

「はい……ゲフッ」

「よろしくね! せんせー!!」

 

 俺の右肩から肺に届く衝撃があまりに強すぎて、ついむせてしまった……。

 

 大淀さんに促され、俺は川内さんを……いやもうさん付けはやめだ。川内を教室内に案内する。

 

「どこで夜戦やるの?」

「どこの席でもいいですけど、どこか希望あります?」

「まー夜戦ならどこでやっても夜戦だしねー」

「夜戦じゃないですよー」

 

 やっぱこいつもソラール先輩と同族か。本人が選ぶつもりはなさそうなので、適当にすぐそばの2つ並んだ席の右側に案内し、俺はその川内の左隣に座った。

 

「はい。それじゃあよろしくお願いします」

「こちらこそ! 容赦しないよ?」

 

 一体何を容赦しないというのか……。

 

 事前に大淀さんから預かったカルテによると、このアホのパソコンはノートパソコンで、OSはWindowsの8.1、Officeのバージョンは2013ということだ。今売ってるパソコンは全部Windowsは10でOfficeは2016のはずだから、デバイスとしては少し古いタイプのものということになる。

 

「パソコンを購入したのは少し前なんですか?」

「私たちの元上官の提督が『払い下げでいいならやるぞ』って言うから、もらったんだー」

「中々の豪快さんですね……」

「『これで就職に向けてスキルを身に付けろ』て言ってた!」

 

 なるほど。パソコンスキルなら身につけていて損はないからな。大淀さんとこのアホの元上官は、部下思いのいい人のようだ。

 

「じゃあWindowsは8.1、Officeは2013でやっていきましょうか」

「了解! 早く夜戦! 夜戦!!」

 

 『待ちきれない』と言わんばかりに瞳をランランと輝かせる川内。こんな状態の彼女をほっとくのもなんだか忍びない。俺はパソコンの電源を入れ、ブートローダーの画面で8.1を選択した。Windowsが立ち上がるまでの間、暇つぶしに川内にパソコンの経験について聞いてみることにする。本人がどこまで把握しているか分からないが、それを測る意味でもインタビューは重要だ。

 

「ちなみに川内さん」

「川内でいいよ? 私も敬語使わないから!」

「了解。んじゃ川内。今までパソコンの経験はどれぐらい?」

「ないねー。……あ! でも夜戦の経験なら豊富だよ!?」

 

 ……誰がいつ夜戦の経験なぞ聞いた? ついでに言うと、ノートパソコン持ってるのに経験無しだと……? まぁいい。

 

「うい。パソコンの経験は無し……と。てことはマウスとキーボードも……」

「それは使ったこと無いけど、魚雷と単装砲はよく使ってたかな」

「うい。まったくの初心者ということで。機械全般は得意? 苦手?」

「機械よりも、探照灯と照明弾が苦手だね!」

「うい。機械も苦手……と」

 

 適当にインタビューを済ませていると、やっとこOSが立ち上がる。デフォルトのデスクトップ画面が表示され、パソコンの準備が整った。

 

「んじゃ、テキスト通り進めていくかー」

「はーい」

「んじゃ川内、右手でマウスを持ってくださーい」

「こう?」

 

 川内は俺の指示に従い、マウスを持ち上げ、底面の青色LEDの光を俺のおでこに向けて照射してきた。……うん。確かに初心者だこりゃ。マウスの使い方なんか、テレビとか見てるとドラマのワンシーンとかで出てきそうなものだけどな。

 

「えーと……そういう風に使うんじゃないだよマウスってのは」

「へー……探照灯みたいに、この光で物を照らす道具だと思ってた!」

「その探照灯ってのが何なのかわからんけれど、とりあえずマウスを机の上に置こうか」

「はーい」

「置いたら、とりあえずそのままマウスをこう……円を描くようにぐるぐると机の上で動かしてみ」

「こう?」

 

 デスクトップに表示されたマウスポインタが、川内の動きに合わせてぐるぐると動く。川内にとってはこれがとてもおもしろかったようで、目をランランと輝かせながら、時計回り、半時計回りとマウスをぐるぐる動かしていた。一体何が面白いんだ。

 

「ぉお!」

「これがマウスだ。パソコンってのは、これとキーボードを使って操作をしていくものだ。だからまず何よりも、このマウスの操作方法を覚えて欲しい」

「なるほどぉ」

「マウスの操作方法は色々あって、まずは今みたいにただ矢印を動かす。ボタンを押す『クリック』、ボタンを押したままマウスを動かして対象をズルズルと引きずる『ドラッグ』がある」

「ほうほう」

 

 こうして、この『夜戦バカ』川内と俺の、魅惑の初心者向けパソコン講座が幕を開けた。

 

 この川内という子、根は悪い子ではないんだが……やはりソラール先輩と同じく『夜戦』とやらに相当なこだわりがあるようで……

 

「クリックにも3種類ある。対象の上に矢印を持ってきて左ボタンを一回押す『クリック』、同じく対象の上で左ボタンを素早く二回押す『ダブルクリック』、そして対象の上で右ボタンを一回押す『右クリック』だ」

「分かった! 夜戦で言う通常攻撃と連撃とカットインみたいなもんだね!」

「ようわからんし、多分違うと思う」

「えー。だってそうじゃん。一回押すから通常攻撃、二回押すから連撃で、右ボタンを押すからカットインでしょ?」

 

 こんな感じで、こちらの説明をいちいち夜戦に例えて理解しようとしてくる。そもそも夜戦をやったことがないから同意できんし、よしんばやったことがあっても同意したくない……。そしてウィンドウのサイズ調整の話をしている時も、

 

「ウィンドウを右端までドラックしてみ」

「えーと……こう?」

「そうそう。もっともっと右にずいーっと」

「画面からはみ出ちゃうよ? どこまで?」

「マウスの矢印が画面端に触れるまで」

「ふれ……ぉお!?」

「こうやって画面の右端か左端までウィンドウをドラッグしてあげると、ウィンドウの大きさがちょうど画面の半分に調整されるんだ」

「ぉおー!」

「たとえば右側のウィンドウでインターネットを見ながら、左側のウィンドウで文書作成をしたり出来る。何かを確認しながら作業をするときなんか便利につかえるはずだ」

「夜戦で照明弾を撃って、相手の位置を確認するのと一緒だね!!」

「なんか違う。意味はわからないが、なんか違うのだけは分かる」

「そうかなー……」

 

 こんな具合で、やっぱりいちいち夜戦に結びつけて婉曲な言い回しをしてくるというか……うーん……やっぱり夜戦に並々ならぬこだわりがあるのだろうか……そうして授業は混乱しながらも順調に進み、終了間際に差し掛かる。

 

「じゃあこれで今日は最後。電源の落とし方だ」

「はい!」

「電源の落とし方は色々あるけれど、一番簡単なのはスタートボタンを押してメニューを出した後、画面右上の電源マークをクリックして、『シャットダウン』をクリックしてあげるんだ」

「了解!」

「じゃあやってみよう。今俺が言ったとおりに操作してみて」

「ぇえ!? 私が夜戦でこのパソコンを撃沈していいの!?」

「撃沈じゃなくてシャットダウン」

 

 『では……オホン』と大げさな咳払いをした後、川内はマウスカーソルをスタートボタンの上に持ってきてクリックした。画面がメニューに切り替わり、川内はそのままマウスカーソルを今度は画面右上に持ってきて、りんごみたいな電源マークをクリックする。

 

「なんか左下だったり右上だったり、いったりきたりで大変だねぇ」

「8.1は仕方ない。一応もうちょい楽な方法もあるが、これが一番確実だと思う」

「ふーん……」

 

 ずずいっとチャームを出して電源を切る方法はね……マウスだと大変なんすよ。タッチパネルだとそうでもないんだけど……。

 

 川内によってシャットダウンされたパソコンは、しばらくした後『とおぉぅぅぅん』という情けない音でヤル気の減退を表現した後、プツリと電源が切れた。真っ黒になったディスプレイには、目をランランと輝かせたべっぴんな女の子と、その隣で目が死んでいる、一人の男が写り込んでいる。なんだこのシュールな図……

 

「ぉお沈黙した! せんせー! 撃沈したよ!!」

「だから撃沈じゃないって言ってるだろう……でもさ。川内ってパソコン持ってるんだよな?」

「持ってるよ?」

「なのに経験はないのか。使おうって思わんかったのか」

「だってよくわかんないし。んで、ここなら大淀さんがやってるし、艦娘ならタダで教えてくれるから、ちょうどいいなーって思って」

「なるほど。……まぁ何はともあれ、今日はお疲れ様でした」

「お疲れ様!!」

 

 その後『明日も夜戦、お願いね!!!』と言い放った川内は、意味不明な高笑いと共にドアを開き、教室を去っていった。その後ろ姿からは、『やっせん〜! やっせん〜!!』という楽しそうな歌声が聞こえてくる……ホント、世の中には残念な美人ってのがいるんだなぁ……

 

「お疲れ様でしたカシワギさん」

 

 川内の賑やかな声が聞こえなくなってすぐ、大淀さんの柔らかな声が俺をねぎらってくれる。耳に心地いい声によって紡ぎだされた『お疲れ様』の言葉は、俺の全身に安堵をもたらした。

 

「……ハァー……ッ」

「はじめてとは思えない授業でしたね。過去に授業の経験があるんですか?」

「そ、そんなものはないですが……ハッ!? 夜戦ですか!? まさか夜戦の経験がデスカ!?」

「私は夜戦に特にこだわりはないですけど……」

「そ、そうですか……」

 

 いつの間にか毒されていた己の精神が、大淀さんによって浄化されていく……俺は、いつの間にかあの『夜戦バカ』にメンタルを侵食されていたようだ。パソコン操作を『夜戦』と認識してしまっていた……ッ!!

 

「つーかそもそも夜戦って何ですか?」

「文字通り夜間の艦隊戦です。私達軽巡洋艦は元々夜戦が得意なんですが、川内さんはそれに輪をかけて夜戦が好きなんですよね。夜戦と聞くと、血沸き肉踊るそうです」

「まさにそんな感じでしたもんね……」

「今でこそだいぶマシになったんですが……従軍時代はそれはもう大変だったんですから」

 

 あれでだいぶマシになっただと……!? 過去はどれだけ凄惨な夜戦バカだったんだ……!?

 

「まぁ何はともあれ、今日は何事もなく乗り越えられましたね。仲もよくなったようで何よりです」

「はぁ……つーか、俺が担当で大丈夫なんでしょうか?」

「あなたは不安に感じたかも知れませんが……カシワギさん、途中でうまく川内さんをさばいてましたからね。相性は悪くないと思いますよ?」

「はぁ……」

 

 本来なら、あんなべっぴんさんの担当になれるって……しかも相性いいって言われるって、すんごいうれしいことなんだろうけどなぁ……全然うれしくないよ……むしろ疲れそう……。

 

「これが毎晩……ッ!?」

「ですね。お昼すぎからの授業にも入ってもらいたいので、明日も今日ぐらいの時間に出勤して下さい。しばらくの間は私も残りますが、最終的にはカシワギさん一人で夜の教室は対応していただくことになります。人数が増えてきたらまた考えますけど」

 

 正直な話……大淀さんがいなくなったら、俺は一人であの夜戦バカを相手に出来る気がしない……

 

「一日も早く慣れていただくためにも、クローズの仕方とか、早速いろいろと教えますから」

「はい……」

 

 こうして、俺の生まれてはじめてのパソコン先生としての授業は終わった。その後はクローズ業務のレクチャーを大淀さんに教わった後、タイムカードを切って帰宅。帰り際に大淀さんから

 

――明日からはタイピングとWordに入ります。テキストで予習しておいてくださいね

 

 と優しい微笑みで釘を刺され、俺は職場を後にした。 

 



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2. 何でも太陽と夜戦で片付けようとするのはやめろ


 出勤日二日目。今日は昼すぎから授業だ。おじいちゃんおばあちゃんたち5人に対し、俺とソラール先輩の二人で教室内を徘徊しながら、みんなからの質問をさばいていく。

 

「先生、文字を太字にしたいんだけど……」

「このぶっとい『B』て書いてあるボタンをポチッと押してください」

「おーこれかこれか。ぽちっ。……ならないよ?」

「太くしたい文字を選択してあげないと、Wordに『文字を太くして!』て言っても、『どの文字かわかんないよー』てなるだけですから。まずは太くしたい文字を選択してあげましょう」

「あーなるほど。ずりずりっと……」

「おっけーです」

 

 俺にフォントを太字にするやり方を教わったおじいちゃんのコウサカさんは、ぷるぷると震える右手で苦労しつつ『御徒町』の文字列を選択し、ぶっといBのボタンをクリックして太字にしていた。太字になった途端に『ぉお〜。できたできた』と実に嬉しそうな笑顔でほくほくしていた。

 

 生徒であるおじいちゃんおばあちゃんたちは、こちらに対して他愛ない……それこそ、画面を見ればなんとなくやり方がわかるような方法でも、ひっきりなしにこちらに質問をしてくる。最初は辟易していたわけだが……

 

「太字にしたやつを『やっぱやーめたっ』て元に戻すことはできるの?」

「できますよ。元に戻したい文字をやっぱりズリズリと選択して、もう一度ぶっといBをクリックしてあげてください。元に戻ります」

「ぉお〜、元に戻った。いやぁ〜パソコンってのはかしこいねー」

 

 こんな感じで、こちらにとっては他愛無い操作に対し、一つ一つ感動して顔をほころばせている。そんな表情を見るのが、なんだか楽しくなってきた。パソコンの先生っつーのも楽しいな。悪くないぞこの仕事。

 

 ソラール先輩も剣と盾を持ったまま、妙な歩き方で教室内をうろうろと動きまわり、質問が来る度に鎧の音をちゃりちゃりと響かせて、生徒さんの元に走って行って質問に答えていた。時々『ガチャドチャリ』と盛大な音を立てて、前転して背中から着地してるのは一体何だ。何かの儀式か? それとも見えない何かを避けているのか?

 

 今日は生徒の一人、モチヅキさんがWordではなくExcelの勉強をしている。先ほど『オートフィルが……』というソラール先輩のくぐもった声が聞こえてきてたから、まだ習い始めのようだ。

 

「この『おーとふぃる』っつーのは便利でええの〜」

「計算式はもちろん、1,2,3のような連続したデータを入力する際には非常に便利だ。Excelを扱う上では必須といえる操作なので、何度も繰り返して、太陽が東から空に昇るかのごとく、自然に行えるようにしておくといい」

 

 ……だからなぜいちいち太陽に結びつける?

 

「数字や計算式以外には、何かこの『おーとふぃる』で入力できるのかな?」

「たとえば曜日や十二支、甲乙丙などのように、意外なものがオートフィルで連続入力可能だ。まるで子供の疑問に即座に答えてくれる、太陽のように偉大な機能だ」

「ほー……ではこれはどうだろう……」

 

 俺はソラール先輩がどのように生徒さんにレクチャーしているのかが気になり、二人の画面を背後からこっそりと覗き見てみることにした。生徒さんのおじいちゃんはA1のセルに『A』と入力し、右に向かってオートフィル操作をしていた。

 

「あり。アルファベットはできないのか……」

「ああ。干支や甲乙丙が出来るのならこれも出来そうだが、意外なことにアルファベットはオートフィルでは入力できない」

「こりゃ残念」

 

 そうなんだ。実は俺にとっても意外だったのだが、Excelのオートフィルでは、アルファベットの連続入力は不可能なんだ。むりやりオートフィルをかけようとしても、すべてのセルに『A』が入力されてしまう……プログラマー時代、これに何度悩まされたことか……嘘だ。こんなんキーボードで打てば済む話で……なんて思っていたら。

 

「モチヅキ殿、オートフィル入力というのは、実は事前にExcelに連続データを登録してやらなければならんのだ。逆に言えば、オートフィル入力できるようにしたいデータを登録してやることで、どんな連続データもオートフィルで入力できるようになる」

 

 なんだと? そんな話は初耳だぞ? オートフィルできるデータをこっちで任意に登録なんて出来るのか!?

 

「ほえ〜。そうなのか」

「ああ。だから例えば……」

 

 そういい、ソラール先輩はB3のセルに『太』という文字を入力した、その後生徒のモチヅキさんに対し、そこからオートフィルで右にずりずりとドラッグさせる。まさかこの男……

 

「『太』、『陽』、『賛』、『美』」

「太陽賛美ッ……!!」

 

 やりやがった……! 今、モチヅキさんの隣で気持ちよさ気にY字ポーズを取っているソラール先輩は、いちいちそんなもん登録しなくていいであろう連続データ『太陽賛美』をわざわざExcelに登録していたというのか……!?

 

「これは便利だね!!」

「ああ。まるでそのぬくもりと光で俺達に恵みを与えてくれる太陽のような機能……それがオートフィルっ!!」

「まさしくお天道様ッ!!」

「これでモチヅキ殿も太陽の戦士っ!!」

 

 気を良くしたらしいモチヅキさんは、立ち上がってソラール先輩と同じY字ポーズを取っていた。俺は、そのポーズの名前をなんとかして思い出そうと2秒だけ努力したが、2.5秒後にはすでに諦めていた。

 

 こんな具合で、授業は何事もなく(?)、滞りなく進んでいく。途中、

 

「カシワギ先生、『コピーして貼り付け』ってどうやるんだったかな?」

 

 という質問が、身体が耄碌して常にぷるぷると震えているコウサカさんから飛んできた時、

 

「ずりずりと選択したあと、右クリックしましょう。そしたら『コピー』って項目がありますから」

 

 と回答したのだが……このことは後ほどソラール先輩に注意された。なんでも、超初心者にとっては『右クリック』という操作の存在は、混乱の元になるそうだ。よく分からない状況で右クリックの存在を知ってしまうと、左クリックと右クリックの使い分けが出来ず、混乱してしまうらしい。

 

「今回の生徒はご老体ゆえ、なおさらだ」

「そんなもんなんすか……」

 

 うーん……普通なら右と左のクリックの使い分けって簡単にできると思うんだけど……それは、俺が小さい頃からマウス操作に慣れ親しんでるからなのか?

 

「貴公にもあったはずだ。まだ冒険をはじめたばかりで右も左も分からず、強大な敵……そう、牛頭デーモンと相対する時、手元にある黄金松脂と炭松脂、どちらを利用すれば効果的に敵にダメージを与えることが出来るのかわからなかった時が」

「この前も言いましたけど、喩え話が婉曲どころか意味不明です」

「それが生徒だ。確かに右クリックは便利な操作だが、ここの生徒たちにはデメリットの方が多い。故に貴公も、右クリックでなければ解決できない場合以外は、できるだけ左クリックだけで問題を解決してくれ」

「まぁはじめて牛頭デーモンと戦う時は、炭松脂なんか持ってないけどな。ハッハッハッ」

「人の話には真摯に耳を傾けて下さいソラール先輩」

 

 

 相変わらず婉曲的で、今一例え話になってないような例え話をするなぁこの人は。黄金松脂ってなんだ?  牛頭デーモンってなんだよ訳が分からん……。

 

 ただ、これもまた貴重な情報だ。やはりここの生徒さん……いやこのおじいちゃんおばあちゃんたちは、こちらが想像している以上にパソコン操作に慣れてないということか。こちらとしては自然で簡単な操作であっても、人が変われば難易度も変わる……シャットダウンの話を聞いた時のことを俺は忘れていた。コレは確かに、指摘されないとわからないことだ。

 

「分かりました。ご指摘ありがとうございます」

「これで貴公も、太陽の戦士にまた一歩近づいたな」

「いや太陽の戦士てよくわかりませんから」

「その調子で研鑽を積めば、いずれ『太陽の光の槍』を賜る日も……」

「賜るつもりはないですし、そんな物騒なものを一体誰からもらえと言うんですか」

「貴公……」

 

 そうして、昼の授業が終わりを告げる。太陽が出てないと戦えぬという、これまたツッコミ待ちとしか思えない理由で帰宅したソラール先輩を除く、俺と大淀さんがその場に残る。あとは夜の授業……決して夜戦ではない……の生徒である川内の授業を残すのみとなった。

 




オートフィルの新規リストの追加方法
1.『ファイル』タブの『オプション』をクリック
2.『詳細設定』のずーっと下の方の『ユーザー設定リストの編集』をクリック
3.『リストの項目』に『太,陽,賛,美』と入力し、『追加』をクリック
4.『OK』をクリックした後、再び『OK』をクリック
5.セルに『太』を入力し、オートフィル

【挿絵表示】


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「大淀さん、一つ質問があるんですが……」

「なんでしょう?」

 

 目の前の席でパソコンを叩き続ける大淀さんに対し、ソラール先輩のあの太陽賛美? の暴挙を許していいのか聞いておかねば……大淀さんは把握しているのだろうか。あの、わざわざオートフィルで入力しなくてもいい『太』『陽』『賛』『美』の連続データなぞ……

 

「昼間の授業で、ソラール先輩が……」

「ああ、オートフィルの太陽賛美ですか?」

「ええ。あんなこと、いいんですか?」

「設定してしまっても困るものではないですし、別にいいと思います」

「そ、そうですか……」

 

 アンダーリムのメガネをくいっと上げ、大淀さんは再びパソコンのキーボードを叩き始める……いいのか。多分あの人、全部のパソコンに太陽賛美の設定やってるぞ。もっと他にやることあるんじゃなかろうか……新米の俺が言うのもなんだが……

 

 まぁ教室長の大淀さんが大丈夫だと言うのなら仕方ない。俺はAccessで組まれた基幹ソフトを立ち上げ、今日担当した生徒さんたちの進捗を入力していく。しかしなぜAccessのバージョンが2003なのか。Officeのバージョンは2016が最新のこのご時世、数字だけ見てもすでに13年前のソフトを現役で使用してるなぞ……。

 

「……ん?」

 

 今日、ソラール先輩のExcelの授業を受けたモチヅキさんの進捗と備考の項目を覗いてみた。

 

――オートフィルの機能を共に確認。太陽の戦士までの道のりはまだ遠い。

  この様子では、太陽メダルはまだ拝領できないだろう

 

「……なんすかこの備考欄。つーかなんすか太陽メダルって。新手の軍用暗号コードか何かですか? 元海軍の艦娘が教室長なだけに」

「あの人、独特な備考の書き方をするんですよね……進捗はきちんと記入してくれているので特に問題はないんですが……」

 

 そう答える大淀さんの顔が苦笑いを浮かべているのを、俺は見逃さなかった。

 

「……ソラール先輩のエキセントリックさに、苦労してるんですか?」

「苦労というか何というか……このままでいいのかという疑問は、時々浮かびます。朗らかでいい人なのは間違いないですし、仕事も出来る人だから、別にいいんですけど」

 

 いいのかそれで……まぁソラール先輩が尊敬できるいい人ってのは間違いないし……いいのかなぁ。

 

 そんなこんなで、大淀さんと他愛無い話をしながら、待つこと15分ほど。時刻は午後7時5分前。

 

「夜戦しに来たよぉぉオオオオオ!!!」

「はーい。こんばんわー」

「今晩も絶叫かッ!?」

 

 昨日と同じく、重い入り口のドアがゴウンゴウンと開き、夜戦バカこと川内がやってきた。相変わらず真っ赤なパーカーがよく似合う。

 

「カシワギせんせー!! 今日はどんな夜戦やるの!?」

「だから夜戦じゃないと言っとるだろう……では大淀さん、はじめますね」

「はい。頑張って下さい」

 

 席を立ち、事前に準備しておいたWordのテキストを持って、川内を教室へと案内する。俺の隣でキラッキラに瞳を輝かせている川内は、昨日と同じ席に自ら座った。

 

「今日もここでいい?」

「いいぞー。どうせこの時間は川内ひとりだしな」

「サシで夜戦だね!」

「だから勝負じゃないっつーに」

 

 体中でウキウキを表現している川内の左隣りに座り、パソコンの電源を入れる。ブートローダーが立ち上がったら8.1のOSを選択し、立ち上がるまでの間は、昨日のように手持ち無沙汰解消兼、インタビューだ。

 

「さて川内。今日から本格的にタイピングとWordに入るわけだが……」

「了解! でもさでもさ」

「ん?」

「『たいぴんぐ』ってのはキーボードで文字を入力することだって分かるけど、『わーど』ってなに?」

 

 お前はWordを覚えたくて通ってるんじゃないんかい……。

 

「……要はワープロソフトだ。こいつの使い方を覚えておけば、プリントや書類の作成はもちろん、はがきやポストカード、名刺なんかもお手軽に作ることが出来るようになる」

 

 ここの教室では、特に希望が無い限り、一通りパソコンのイロハを学んだらまずWordを教えるカリキュラムになっている。Wordのような書類作成には、いわゆるパソコンを扱う上で大切な操作がたくさん詰まっているそうだ。それを無意識のうちに学んでもらうためにも、まずWordから入るのはとても都合がいいらしい。

 

 おまけに、Wordを習っていれば、必然的にタイピングの練習にもなる。その上でも、進路の希望がなければまずはWordから……というカリキュラムは、間違ってないわけだ。

 

「というわけで、まずはWordでプリントやら書類やらをバシバシ作って、タイピングとパソコン操作に慣れてもらおうというわけだ。一通り使えるようになってる頃には、川内も太陽のせ……ゲフン。いっぱしのパソコン使いになってると思うぞ」

「なるほど! つまり主砲みたいなものだね!!」

 

 でたよ……また意味不明な比喩表現が来たよ……

 

「しゅほ……なんだって?」

「だってさー。パソコン操作の基礎がいっぱい詰まってるんでしょ? 艦隊戦じゃ主砲がすべての基本だよ?」

「はいそうです。その通りですよく出来ました川内さん」

「やったぁああああああ!!!」

 

 まさか俺の投げやりな肯定に、ここまで嬉しそうなリアクションをしてくれるとは思ってなかった……満面の笑みで両手でバンザイして大喜びしている川内の姿に、俺はほんの少しだけ罪悪感を覚えた。1秒後に消えたけど。

 

 そうこうしているうちにパソコンが立ち上がる。川内にスタートボタンをクリックさせ、Wordを起動させることにする。

 

「せんせー、どの四角をクリックすればいいの?」

「その『W』てなってる青いタイルがそうだ。その辺は他のOfficeのタイルと紛れるから注意だな。パソコンによって微妙に位置が違うし」

「はーい」

 

 俺がボールペンで指し示したWordのタイルをクリックした川内。画面には、Word起動中のグラフィックが表示される。ここで川内に、今後のパソコン人生を決める重大な決断をさせなければならない。……いや、そんな大げさな話じゃないんだけど。

 

「ところで川内、キーボード入力の経験はないんだよな?」

「そうだよ?」

「Wordが起動したら体験してもらうが、キーボードでの日本語入力は2種類ある」

「へぇ〜。なになに!?」

「キーボード見てみ?」

 

 俺の指摘を受けて『ふん?』とちょっと可愛い声をあげながらキーボードに視線を落とす川内。ちくしょっ……顔がべっぴんなだけに、普通のリアクションをしたら、めっちゃ可愛いぞこいつ……

 

「? せんせー?」

「あ、いやオホン……ひらがなとアルファベットが書いてあるだろ?」

「うん」

「そのアルファベットの組み合わせで日本語を入力する『ローマ字入力』と、ひらがなの通りに打っていく『かな入力』の2種類あるんだよ」

「へー。よくわかんない」

「口で説明するよりは、体験した方がいいよなぁ」

 

 画面を見る、すでにWordは起動しており、画面いっぱいにWordの編集画面が表示されていた。よし。これで入力出来るな。

 

「んじゃ実際にやってみるか」

「了解! 夜戦だぁ!!」

「とりあえずキーボードで『YA』『SE』『NN』て入力してみ」

「はーい。んーと……」

 

 川内がキーボードとにらめっこしはじめ、右手人差し指でYASENNと入力していく。最後のNまで入力し終わった川内は顔を上げ、真剣な顔で画面を見た。不覚にも横顔が綺麗だと思ったことは、バレないようにしなければならん。

 

「終わったよ~……画面に『やせん』って出て……!?」

「そう。それがローマ字入力。川内もローマ字は知ってるだろ?」

「やせんだぁぁああああああ!!!」

「それで日本語を入力していくやり方だ。もうひとつが……」

 

 画面を見つめる川内のをよそに、おれはこっそりと……いや別に隠してるわけじゃないんだけどさ……Altキーと『カタカナひらがな/ローマ字』キーを一緒に押した。

 

「んじゃ今度はかな入力をやってみよう」

「了解!」

「今度は『や』『せ』『ん』て入力してみ」

「はーい。えっと……いったりきたりだー……グフフフフ」

 

 画面には先程と同じく、『やせん』が再び表示されている。ここだけ見るとなんだかシュールだな……。まぁ習いたてなんてこんなもんか。

 

「これがかな入力だ」

「2回目のやせん……ッ!!」

「さっきと比べてどうだ?」

「さっきのよりわかりやすいかも」

「今後はどっちでタイピングをやっていくか、まずは決めなきゃいかん」

「どっちがいいの?」

「どっちもどっちだとは思うけど、ローマ字入力をやる人の方が圧倒的に多いな。かな入力は絶滅寸前だ」

「へー……」

 

 ここで俺は、『ローマ字入力』と『かな入力』の利点と欠点について簡単に説明してみたが、川内はいまいちピンときてないようだった。まぁいきなりこんな説明されてもなぁ……。

 

 ローマ字入力は、指にクセ付けるキーの数が少ないのが、何よりもいい。加えて母音のAIUEOさえ覚えてしまえば、たちまちタイピングのスピードが実用レベル近くまで上がる。その分、ローマ字の組み合わせを覚えなきゃならんのがデメリットか。

 

 対してかな入力は、何よりもキーにプリントされた通りに打てばいいわけで、ローマ字入力よりもとっつきやすい。加えて『でぃ』とか『どぁ』とか『ヴぁ』みたいな、普段あまり使わない組み合わせのひらがな入力も直感的に分かる。ただその分、指にクセ付けるキーの数がべらぼうに多く、さらにアルファベットはアルファベットで別に覚えなきゃいけないのがデメリットだ。おかげで今では、ワープロ時代からタイピングをやっている猛者共に代表される、一部の人間しか利用してないタイピング方法だ。

 

「よく分からんなら、ローマ字入力でいいと思うぞ?」

「ちなみにせんせーはどっちなの?」

「俺はかな入力だ」

「やってる人少ないのに?」

「ひらがな一文字打つのにキー二回叩くのがまどろっこしいんだよ……」

 

 あのクソ会社にいた頃は、よく言われたよ……『プログラマーがかな入力だなんて、お前アホだろ』ってあのクソ課長にな……俺から言わすと、プログラマーこそかな入力やれよと思うんだけど。早さじゃなくて労力の問題でさ。とはいえ文字が打てりゃどっちでもいいんだけどさ。こんなもんは。

 

「じゃあ私もかな入力でやろうかなぁ」

「使うキーがたくさんあるから大変だけど、大丈夫か?」

「えー。私どっちがいいかとかよくわかんないし」

「んじゃ素直にローマ字……」

「でもせんせーもかな入力なんでしょ?」

「まぁ……なぁ」

「だったら弟子の私は師匠と同じ方選びたいし」

 

 とんでもないべっぴんさんに言われた、ものすごくうれしい言葉のはずなのだが……なぜか俺の胸には、虚無感しかなかった。俺の心には、今時分の外のように、悲しく冷たい秋風が吹いていた……。

 

「まぁ、あとで路線変更もできるしな。んじゃかな入力でタイピング練習するか」

「了解! これからはせんせーが僚艦だあ!!」

「さっぱり意味が分からん……」

 

 というわけで、このご時世では珍しく、川内にはかな入力を習得してもらうことになった。習得って言っても、さしあたって何か教えるわけじゃないし……

 

 ……あ、でも一つだけ。かな打ちやるなら覚えとかなきゃいかん操作がある。

 

「とりあえず川内。かなうちをやるなら、まずこれを覚えとけ」

「ん?」

「かな入力とローマ字入力ってな。Altキーと、“カタカナひらがな”キーの同時押しで切り替えられるんだ」

「へー」

「共用パソコンなんかは基本的にローマ字打ちだから、そんなパソコンを操作しなきゃいかんときは、こうやって切り替えろ。ちょっとやってみ」

「ほいほい」

 

 俺の指示を受け、川内はAltキーと“カタカナひらがな”キーを押してはキーボードを叩き、かな打ちとローマ字打ちを切り替えていた。かな打ちに切り替わるたびに顔がキラキラと輝き、ローマ字打ちに切り替わる度に顔がしょぼくれる……そんな無意味なサイクルに、俺の心は妙に荒んた。

 

 俺の経験則から言うと、かな入力とローマ字入力の切り替え方法は、かな打ちストにとっては必須技術の一つだ。このワザは、巷では使う頻度は少ないが、その分知ってる奴は少ない。それに、世の中のパソコンの大半はローマ字入力。かな打ちストにとっては、この操作のお世話になることが非常に多い。

 

 加えて、タイピングをしている最中で知らないうちに入力を切り替えてしまうなんてのは、パソコン初心者によくあるトラブルだ。そんな時に、この技を知ってるのと知らないのとでは、トラブルシューティング力に雲泥の差が出る。

 

「そんなわけで、こいつはかな打ちストの必須技術だ。かな入力をやってくんなら、ちゃんとおぼえておくようにっ」

「はーい」

 

 Altキーと“カタカナひらがな”キーの切り替えを教えたら、今度は本格的にタイピングの練習だ。と言っても、さっきも言ったが、本職でない限り、知識として覚える必要があるものはほとんどない。せいぜいホームポジションの存在を知っとくと色々捗るぐらいだ。それすら、“知っとくといい”レベルで、タイピングに必要なものは、知識よりも慣れだ。

 

「ぶっちゃけタイピングって頭で学ぶよりも慣れなんだよ。とりあえず記事をいっぱい持ってきたから、ひたすらガンガンタイピングしてみ」

「了解! 練度を上げたきゃひたすら夜戦するのが一番だもんね!!」

「いい加減夜戦にすべてを収束させていくのはやめろ」

 

 タイピングの練習に使用するもの……とれは、この教室で『タイピングドリル』という名前がつけられた一連の文章課題だ。

 

『今日は、◆天気が◆よかったので、◆公園に、◆桜を◆見に行きました』

 

 こんな感じの短めの文章をまずは練習していく。慣れて来た頃から次第に文章が長くなっていき、最終的に新聞記事の切り抜きぐらいの長さの文章を打っていく。それがこの教室のタイピング練習の流れだ。

 

「慣れないうちは、その◆の部分で変換キーを押して、漢字変換するといい」

「わかった!」

「慣れてきたら、自分が変換したいタイミングで変換してみ。漢字変換のリズムは各々違うから、色々試して自分が一番気持ちいいリズムを見つけるんだ」

「了解したよ!!」

 

 はじめこそ右手人差し指一本でゆっくりゆっくりタイピングをしていた川内だったが、次第にそれが両手一本指になり……中指を使い始め……薬指が動き出していた。やはりかな入力は最初の取っ掛かりが早い。ローマ字表でいちいちアルファベットの組み合わせを確認しなくてもいいし。日本語の入力に絞るのなら、ローマ字入力にこだわる必要もないだろうし。

 

 ある程度スピードが出てきたところでタイピングドリルは終了。これは授業の半分を使って、これからも練習をしていく。今慌てて練習しなくても、イヤでも今後続けていかなきゃいけないものだし。

 

「んじゃドリルはここで終了だー」

「ふぃ〜。がんばったっ!」

「おつかれさん。後半は本格的にWordをやってくから、ちょっと身体ほぐしたりしてきな。疲れたろ?」

「了解! んじゃ行こっかせんせー!!」

 

 ……どこへ?

 

「え……今なんて?」

「え? だって身体ほぐすんでしょ?」

「うん。だから行ってきなって」

「私一人で?」

「おーいえー」

「身体ほぐす?」

「あーはん」

「夜戦なのに?」

「夜戦じゃないっ」

 

 俺の拒絶をさして気にする様子もなく、川内は『わかった』と一言だけ言うと、『ばひゅーん』と音を立てて、教室から走って出て行った。元気だねー……若さってすごいねー……

 

 俺はというと、二回ほど屈伸した後、事務所の自分の席に戻り、Accessを開いて川内の項目にここまでの進捗と備考を入力していく。

 

「お疲れ様です」

「はい」

 

 自分の席から立ち上がった大淀さんが、川内の備考に『※かな入力』と付け加えた俺をねぎらってくれる。川内のやせ……授業に気を取られていて気が付かなかったのだが、いつの間にか大淀さんはケトルでお湯を沸かしていたようだ。立ち上がった大淀さんがお茶を淹れてくれ、俺の机の上に湯呑を置いてくれた。

 

「ありがとうございます」

「いえ。私も飲みたかったですから。そのついでに」

 

 その心が感激なんです大淀さんッ!! あなたのその『ついでに心遣い』の精神が、何よりも神々しいんですっ!!

 

「川内さん、かな入力を選んだんですね」

「ええ。本人がああいうのなら、別にいいかなと」

「カシワギさんもかな入力なら、困ることはなさそうですし。大丈夫でしょう」

「はい」

「これはもう、ますます川内さんの担当は、カシワギさんで揺るぎないですね」

 

 俺の背後から川内の備考欄を覗き込んだ大淀さんが、そんなうれしくない事を言う。しまった……ここで無理にでもローマ字入力を選ばせておけば……ッ!!

 

 急にドバンと入り口ドアが開いた。川内が戻ってきたらしい。どこで何をしていたのかは知らないが、川内は相変わらずのギラギラ笑顔で息切れしている。どっかでウォームアップでもやってたのか? 何かの出番が近いのか? 一体何に備えて身体を温めてるんだ?

 

「大淀さん! せんせー!! ただいま!!」

「はい。おかえりなさい」

「おかえりー。どこでなにやってたんだ?」

「夜戦を駆け抜けてきた!! でもここでせんせーと夜戦する体力は残してるから、大丈夫だよ!」

 

 ……相っ変わらず意味が分からん……。

 

「んじゃ、後半戦やるかー」

「了解!!」

「はい。頑張ってくださいねー」

 

 大淀さんの優しい微笑みに見守られ、俺と川内は一緒に教室に入り、席についた。

 

「んじゃさっきも言ったけど、後半はWordを学んでもらうぞー」

「了解! ついに、本格的に夜戦が……!!」

「先生はもう注意しませんよー」

「認めたんだ!! ついにこれが夜戦だって認めたんだねせんせー!!!」

「そのポジティブシンキングにびっくりだ」

 

 その後、Wordの基本操作のレクチャーが終わったところで、今日の授業は終了した。次回からは本格的に書類やプリント、チラシといったものをWordで作っていってもらうことになる。

 

「次回からはプリントをたくさん作ってもらうからな」

「了解! 待ちに待ったやせ……」

「待ってないし待ってほしくない。それよりも、家に帰ったら、今日の復習を忘れないように」

「えーぶーぶー!! ……あそうだ」

 

 パソコンの電源が落ち、真っ暗なディスプレイに川内の笑顔と俺の死んだ眼差しがうつりこんだ時、川内がぽんと手を叩いて何かを思い出していた。また妙なことじゃなければいいが……。

 

「せんせー。妹もね。ここに通いたいんだって」

「……この時間帯にか?」

 

 こいつの妹ってことは、やっぱ似た感じなのか……? こいつ一人でさえくたびれるのに、これ以上こんな奴が増えたら、俺は再び過労で血迷って、痙攣しながら床の上をゴロゴロするはめになりかねん。これ以上この時間に面倒なやつが追加されるのは、ごめんこうむりたい。

 

「んーん。違う。お昼に通うって言ってた」

「……ホッ」

「ほ?」

「あいや失礼。んじゃ大淀さんに詳しい話をしてみてくれ」

 

 ふぅ……一安心したおれは、詳しい話をしてもらうべく、大淀さんに声をかけ、詳しい話を聞いてもらうことにした。

 

 俺は横でAccessを開いて、川内の進捗を記入しながら聞き耳を立てていたのだが……川内の妹はすでに仕事についているそうだ。その業務の中でExcelを使うそうで、これまで戦い一辺倒だった川内妹は、いい機会だからExcelを習いたいと思ったらしい。基本的に仕事が休みの日のお昼に通いたいそうで、川内と時間がかぶることはないそうだ。それだけは一安心だ。

 

――せんせー!! やせんやせーん!!!(姉)

 

――わたしもやせん!! せんせー!!! やせんやせんやーせーんっ!!!(妹)

 

 川内が二人……想像するだけでうるさい。俺の妄想のはずなのに、すでに耳鳴りがし始めている。そのような事態に陥らないだけでも御の字だ。

 

「んじゃ本人に言っとくね! 明日は休みだし、あとで話してみて!!」

「はい。かしこまりました」

「じゃあ大淀さんお疲れさま!! せんせーも!!!」

「はい。お疲れ様でした」

「おつかれー」

 

 一通り話を終え、川内は昨日のように、体中からウキウキとかるんるんとか、そういうノリノリな雰囲気を漂わせながら、『やっせんー!! 家に帰ってやっせんー!!』と作詞作曲川内のイメージソングを口ずさんで帰っていった。あのエネルギーは一体どこから湧いて出てくるのだろうか。

 

「……つぁっ」

 

 川内が帰った途端、体中に疲労がほとばしる……まさかあの無尽蔵のエネルギー、俺から吸収しているわけではないだろうな……。

 

「お疲れ様でした」

「お、お疲れ様です……」

 

 そんな俺の様子を、ちょっと困ったような笑顔で眺める大淀さんは、そのまま自分の席に戻り、パソコンのキーボードをパチパチと叩き始める。川内の妹の件を記録に取っているのかな?

 

 ……そういや、あの夜戦バカが妙なことを言っていた。

 

「大淀さん」

「はい?」

「さっき川内が『あとで話してみて』って言ってましたけど」

「はい。あとで本人に電話かけてみようかなと」

「川内の妹とは知り合いなんですか?」

 

 だよなぁ。顔見知りじゃないと、川内の口からあんなセリフは出てこない。それに、今の時刻は午後9時で、夜も遅い。こんな時間から話が出来るってことは、それなりに仲のいい相手じゃなきゃ気が引ける。

 

「知ってるも何も、私たちは元々同じ鎮守府に所属してましたからね」

「あ、なるほど。その時の仲間ですか」

「何度も一緒に戦った、かけがえのない仲間です」

 

 そら仲がいいはずだ。大変な時を一緒に切り抜けた友達って、その後はめっちゃ仲良くなるもんな。

 

「そんなわけで、今日は先に上がって下さい。私は電話をかけますんで」

「了解です。でも、クローズ業務はさせてもらいます。早く慣れたいですから」

「はい。お願いします」

 

 俺の提案に対し、大淀さんはニコッと微笑んでくれた。その笑顔は、思わず空耳で天使の賛美歌が聞こえてくるほど、神々しい。

 

「ぽー……」

「? どうしました?」

「あ、いやなんでもないです」

 

 天使だ……この人、天使だ。

 

――夜戦ッ!!!

 

 反射的に、どこぞの夜戦バカの満面の笑みを思い出した。大淀さんの天使の微笑みとは違う、川内の悪魔のような賑やかな笑いに、俺の精力は確実に減退していった。

 

――せんせーもはやく夜戦ッ!!!

 

 それにしても川内の妹か……比較的平和で静かな昼すらも、賑やかになるのか……。

 

『こうやってオンライン画像を使えば、持っていない画像もネット上で容易に探すことが出来るわけだ』

『なるほど!!』

『これぞまさに、俺達に無限の富と叡智、そしてぬくもりをくれる太陽……!!』

『つまり……それは夜戦……ッ!!』

 

 太陽を崇拝する男ソラール先輩と、夜の申し子川内(妹)の直接対決を想像し、気持ちがげんなりしてきた俺は、早々にクローズ業務を済ませ、帰路につく。

 

 ……しかし、本当に川内の妹ってどんな子なんだろう?

 




『ローマ字入力』と『かな入力』の切替方法

スペースキーの右隣の右隣にある『カタカナひらがな/ローマ字』キーと、
その右隣のAltキーの同時押し

ローマ字入力で入力中、ノリノリでタイピングしてると、
知らないうちに時々かな入力に切り替えちゃうときがあったりするので、
覚えとくと便利だと思います。


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3. 少しは妹を見習ったらどうだ?


「今日からお世話になります。元軽巡洋艦、神通です」

 

 『川内妹、襲来』の報を聞いて数日後の今日、出勤した俺の目の前に、顔の作りは割と川内にそっくりなくせに、川内とは似ても似つかぬ、性格控えめな見た目超絶美人が現れた。その美人は深々と頭を下げ、俺と大淀さん、そしてソラール先輩に対し、こうやって丁寧に挨拶をしてくれた。

 

「神通殿、話は大淀から聞いている。ようこそ、大淀パソコンスクールへ!!」

「はい。よろしくお願いします」

 

 ソラール先輩の歓迎の挨拶にも、丁寧な返答を返す神通さん。この意味不明なコスプレ太陽騎士に対しても丁寧な対応をするところに、この人の人格がにじみ出ている。この人、本当に川内の妹か? 川内の方が妹なんじゃないか? つーかそもそも、本当に姉妹なのか? それすら怪しい。そう疑ってしまうほど、誠実でおしとやかな女性だ。

 

「ぉお〜、新しい生徒さんはべっぴんさんじゃの〜!!」

「そんな……みなさんも、これからよろしくお願いします」

「礼儀正しいいい子だね〜。どら、飴玉やろうかね」

「ありがとうございますお母さん。黄金糖、大好きです」

「あらよかったわ〜」

 

 そして、新しい生徒さんが若い子ということで、他の生徒のおじいちゃんおばあちゃんたちも色めきだっていた。男どもは目尻を下げ、おばあちゃんたちもまるで孫娘に接するような優しさだ。やはり若い子と友達になるというのは、いい刺激になるようだ。

 

「それでは授業をはじめて下さい。神通さんはExcelの習得を希望してますから、ソラール先生に担当してもらいましょう」

「はい。よろしくお願いいたしますソラール先生」

「任せてくれ。貴公の太陽となれるよう、全力で貴公を導こう」

 

 大淀さんの隣でY字ポーズ……なんだっけ……太よ……忘れた……を取っているソラール先輩に対し、改めて丁寧な会釈を返す神通さん。神通さん、いいですよ。変だと思ったら、ちゃんと変だと突っ込みを入れていいんですよ? そんなところで誠実さの大安売りをしなくてもいいんですよ?

 

 そんな風に、おれが神通さんの丁寧さに一抹の心配を抱いていたら、大淀さんが俺の隣に来て、そっと耳打ちしてくる。神通さんとソラール先輩、他のおじいちゃんおばあちゃんたちは、俺を置いて先に教室に入っていった。教室からは、ワイワイと楽しそうな声が響く。

 

「カシワギさん。ソラールさんは、今日は神通さんメインでつきます。Excel一回目の授業で、説明を丁寧にしなければいけませんから」

「はい」

「なので、他の生徒さんのフォローをお願いします。ソラールさんもベテランですから、他の生徒さんをおろそかにすることはないと思いますけど」

「なるほど。了解です。なんとかがんばってみます」

 

 『ではお願いします』と一言笑顔でそう言うと、大淀さんは自分の席に戻り、パソコンをまたパチパチと叩き始めた。彼女が席に戻ったのを確認したあと、俺は教室に入る。すでに教室では、神通さんをはじめとした生徒さん総勢5名が、2名と3名で二つの島に別れて座っていた。

 

「カシワギ、大淀から聞いたと思うが……」

「わかっています。どこまで出来るか分かりませんが、他の生徒さんは、できるだけ俺が見るようにしますから」

「頼もしくなったな。まるで空に浮かび俺を見守り暖かく照らす、たいよ」

「さっさと授業をはじめましょうよソラール先輩」

「貴公……」

 

 かくして、神通さんにとっての、はじめてのパソコンの授業が幕を開ける。俺はソラール先輩が神通さんの授業にできるだけ集中出来るよう、他の生徒さんを一人で見なければならない。加えて、ソラール先輩の説明の仕方を見学出来るいい機会だ。その意味でも、今回の授業は気合を入れて行わなければ……。

 

「ちなみに神通殿、職場でExcelを触ったことは?」

「文章の入力だけはできています。でも、表計算が出来るようになって欲しいと、職場からは言われています」

「なるほど」

「加えて、データベースとしての活用方法や、分析のためのグラフ作成なんかも出来るようになるとなお良いと」

「承知した。すでに触ったことがあるのなら話は早い。一日も早く習得出来るよう、俺も努力しよう」

「ありがとうございます」

 

 ……あれ、いつものように『太陽のようだ』とか『太陽のように』て感じで、強引に太陽で話を締めてこないな……さすがにはじめての授業では、そんなだいそれたことはしないのかな?

 

「礼はいらない。それが太陽の戦士たる、俺の使命ッ……!!」

 

 あー……そうでもなかったわ。のっけからソラール節全開だわこりゃ。確かに今日も、全身太陽の鎧兜着てるし、お日様マークの盾も背中に背負ってるし、あの剣もちゃんと鞘に入れて持ってきてるしな……おまけにわざわざ椅子から立ち上がって、気持ちよさそうにY字ポーズで上に伸びて……いつものソラール先輩だわこりゃ。

 

「とてもありがたいお言葉ですね。頼もしいです」

 

 それに対する神通さんの返答がこれだ。あざ笑いもせず、戸惑いもせず、ただただ尊敬する人物に向ける、真っ直ぐな眼差し……うん。とっても物静かでおしとやかな人格者みたいだけど、今この瞬間、神通さんが、あのアホの妹だということに納得できた。変な人だという意味ではない。多分、生まれたその日から、ずっとあのアホの相手をしてきたから、ソラール先輩みたいな変人の相手の仕方を心得てるんだろう。

 

 そんなこんなで、ソラール先輩と神通さんの、一見至極健全なExcel講座が、幕を開けた。

 

「セルに計算式を入力する場合は、まずExcelに『これは計算式だよ』ということを理解させ、太陽のごとき温かい気持ちで、Excelを導いてやる必要がある。そのために、計算式を入力するときはまず『=(イコール)』を入力する」

「はい。計算式の時は、まずイコールですね」

 

 さすがだ……おれなら即座に突っ込みを入れるところを、神通さんは何食わぬ顔で聞き流してメモを取っている。だてにあの姉の元で揉まれたわけではないようだ。

 

――やせーん!!!

 

 反射的にあのアホの魂の叫びを思い出し、俺は心の中で自分の耳を塞いだ。

 

「そうだ。計算式は、数値を直接記入する方法と、数値が入力されているセルを指定する方法の2種類がある」

「どのような違いが……?」

「数値の直接記入は、文字通り数値を直接指定する。一方でセル指定の場合は、『このセルとこのセルに入力されてる数値を使って計算してね』と指示している。そこに違いがある」

 

 そういうとソラール先輩は、A3とB3、二つのセルにそれぞれ『=10+20』と『=B1+B2』の計算式を入力していた。その様子を至極真剣な眼差しで見つめる神通さん。……なんだかシュールに見えるのは俺だけか。続いてB1とB2のセルに、それぞれ10と20の数値を入力している。結果、A3とB3のセルに表示される答えは、同じ30。

 

「……ここまでは結果は同じですね」

「そうだ。……神通、B1とB2のセルの数値を、好きな数値に変更してみてくれ」

 

 言われるままに、二つのセルの数値をそれぞれ40と60に変更した神通さんは、画面を見てハッとしていた。すんごい真剣な表情だから、なんだかシュールな光景に見えて仕方がない。

 

「B3に表示されていた数が……変わった……?」

「そのとおり。これが違いだ。セル指定で計算式を作成した場合、セルの数値を変えてあげれば、Excelはきちんとその数値で再計算した答えを表示してくれる」

「これは……」

「貴公にもあるはずだ。必要最低限の装備だけで病み村を攻略し、混沌の魔女と相対した時、炎派生した武器しか持っておらず、ジリ貧の戦いとなってしまったことが……それが数字ベタ打ちの計算式だ。つまり、融通が効かない」

「なるほど。まったく準備していない状況で、陸上型の深海棲艦に攻めこむことに等しいということですね?」

「そうだ。だがセル指定をしておけば、たとえ後から数字を変更しなければならん場合でも、変更が容易だ」

「これは便利……私も戦いやすくなります……ッ!」

「ああ。まるで、その愛情で俺達を暖かく包み込む、太陽のようだ」

 

 あれ……変な方向で会話が噛み合い始めたぞ……? ソラール先輩も最初っから『融通が効かない』といえばいいのに、その前のケッタイな例え話は何なんだ……。

 

「神通殿は理解が早い。このまま研鑽を積んでいけば、太陽の戦士となれる日も、そう遠くはないはずだ」

「そんな……私がそんな名誉を……!」

「そのためにもまずは、このセル指定の計算式をマスターしよう!」

「はい!!」

 

 俺の目が幻を見ているのか……ソラール先輩と神通さんの歯車は、どうもいびつなところでがっちりと噛み合ってしまったようだ。二人は暗号のような会話をしはじめ、そして二人だけのいびつなワールドを展開しはじめた。

 

 ぁあ……やっぱり神通さんは、あのアホの妹なんだな……変な意味で。

 

「カシワギ先生、ちょっと聞きたいことが……」

 

 神通さんに先ほど黄金糖を進呈していたおばあちゃん、タムラさんが困ったような顔で俺の名を呼び、右手をピラピラと動かしていた。何か困ったことが起こったのか。はいはい。すぐ行きますよー……

 

「どうしました?」

「えっとね先生。ここからここまでの文章の頭に、黒丸の記号をつけたいんだけど……」

「ぁあ、箇条書き設定を使ってあげましょ」

「そうそうそれそれ。どこクリックすればいいんだったっけ?」

 

 タムラさんの眉間のシワは一向になくならない。俺は胸ポケットからボールペンを取り出し、それで箇条書き設定のボタンを指し示す。その途端にタムラさんはパアッと明るい笑顔になった。

 

「ここです。これが箇条書き設定です」

「あーそうだったそうだった。先生ありがとう」

「押す前に、設定したいところを選択することを忘れないでくださいねー」

「はい先生―」

 

 俺がタムラさんの箇条書き設定にかまけている間に、ソラール先輩と神通さんの授業は第二フェーズに移行したようだ。ソラール先輩の指示の元、神通さんがエクセルで小さな表を作っている。動きはたどたどしいが、マウスの動きそのものはしっかりしている。頼れるパソコンの先生が……ソラール先輩が横にいるという安心感が、きっと神通さんの操作から迷いを取り去っているんだ。俺も、あんな頼りがいのある先生になりたいなぁ……。

 

――貴公もきっと、太陽の戦士になれる!!

 

 不意にソラール先輩の声が聞こえた気がして、俺は神通さんとソラール先輩を見る。『旅行代金見積もり表』という表を作っている神通さんの隣で、ソラール先輩は、俺のことをじっと見ていた。二人の授業を見学する俺の視線に気付いたのか。今日もバケツ兜をかぶっているので分かりづらいが、ソラール先輩のその眼差しは、俺に対して熱いエールを送っているように見えた。

 

――結構です

 

――貴公……

 

 すみません。正直、太陽の戦士ってよく分かりません……しかし我ながら驚きだ。視線とテレパシーでソラール先輩と会話が出来るとは……

 

 そうして時間は過ぎていき、神通さんが旅行代金見積もり表をきちんと仕上げたところで、お昼の授業は終了となった。さすがすでにパソコンを使っている神通さん。あのアホと比べると、理解力が段違いだ。あいつはこの前やっとこ一枚のプリントを作成できるようになったところだぞ……いやそれでも初心者としては充分早いけど。

 

「神通殿は優秀だ。今後の成長が楽しみだな。はっはっはっはっ」

「そんな、褒めすぎです……」

 

 朗らかに笑うソラール先輩のその隣で、頬を赤くそめて、恥ずかしそうにうつむく神通さん。……さっきまで、ソラール先輩と解読不能理解不可能な意思疎通を成功させた人だとは思えん……あれじゃただの、普通の可愛いべっぴんな女の子じゃないか。

 

「……あ」

 

 しばらく俯いていた神通さんが急にハッと顔を上げ、他の生徒さんたちと帰りの挨拶を交わし終わった俺のもとにやってくる。

 

「あなたがカシワギ先生ですか?」

「はい」

「姉がお世話になっております」

「あーこりゃこりゃ。こちらこそ、お世話になっておりますー」

 

 突然の丁寧な挨拶に、こちらもつい頭をしっかりと下げてしまう。あの川内とは似ても似つかぬこの貞淑さ……あいつも体裁を気にせず、妹のこういう部分を見習ったらどうだ? 今晩あたり、ちょっと言ってやろうか。苦言を呈する大人の威厳を漂わせてやろう。

 

「姉がいつも楽しそうに話をしてくれますよ? 『今日もせんせーが夜戦に付き合ってくれなかったっ!!』てぷんすかしながら言ってます」

「プライベートでもそんななのか川内は……でも楽しんでくれてるなら何よりですよ」

「ええ。昨日も『こんなの作ったよ!』て、教室で作ったプリントを見せてくれました」

「へぇ。何のプリントですか?」

「タイトルに『春の鎮守府夜戦トーナメント大会のお知らせ』って書いてましたね」

「ああ、あれかー……」

「もう別々に住んでるのに、わざわざうちに来て自慢していくぐらいですから、よっぽど楽しいみたいです」

 

 昨日の授業の時、『オリジナルで一つ作ってみろ』て言って、作らせたやつだ。そのタイトルと文面を見て、どうにも脱力したもんだよ。

 

「姉はあの通り賑やかですけど、ご迷惑はかけてないですか?」

「まったくですよ? 俺も楽しく授業をさせてもらってます」

「ならよかったです」

 

 俺の社交辞令を真に受けたらしい神通さんは、ホッとしたのか、ふんわりと柔らかい笑みを浮かべていた。あのアホもこれぐらい柔らかい笑顔をすればいいのに……いつもいつも、こっちの瞳孔に致命的なダメージを与えてくる、フラッシュライトみたいな眩しい笑顔じゃなくてさ……そしてもうちょっと、妹を見習っておしとやかになればいいのにな……。

 

「ともあれ、今後は姉妹ともどもお世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたしますね」

「こちらこそです。よろしくお願いします」

 

 神通さんの丁寧なお辞儀に対し、俺も丁寧なお辞儀で対応。こういう、相手のことを気遣ったコミュニケーションは、双方共に気持ちがいい。

 

「ソラール先生も、どうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそよろしく!」

 

 ソラール先輩は例のY字ポーズで、神通さんに敬意を表していた。俺には全く理解できないが、その気持ちは神通さんには伝わっているようだ。彼女はイカレた西洋鎧コスプレ太陽野郎にも、丁寧なお辞儀を返していた。

 

 ……まぁ、授業中あれだけ歯車が噛み合った二人なら……ね。変な意味で。

 

 




Excelに計算させる場合は、セル番地指定が一般的です。
そうすることで、計算する値の変更が容易となり、融通が効きます。

セル番地入力の際には、
1.キーボードで直接入力
2.セルを直接クリック
の二通りのやり方があります。

【挿絵表示】


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 一通り話が済んだところで、『また来週、お伺いしますね』と言って神通さんは帰って行った。日没が過ぎて『太陽が無くなっては……戦えぬ……』とフラフラしていたソラール先輩も帰宅し、今事務所には、俺と大淀さんの二人だけだ。

 

 俺の向かいの席に座る大淀さんが、カチカチとクリックを繰り返す音が聞こえる。彼女を顔をこっそりと覗くが、メガネにパソコンの画面が反射していて眼差しが見えない。何か操作を繰り返しているのは分かるが、それが何の操作をやっているのかは、メガネに反射して見える画面からは分からなかった。

 

「カシワギさん」

「はい?」

「カシワギさんにお願いしたいことがあるんですが。前職ってweb系のプログラマーでしたよね」

「ええ」

「だったら、データベースは詳しいですか?」

「本職ほどではないですが、あれが扱えないとweb系は何も出来ませんからね」

「だったら、ちょっとお願いしたいことがあるんです」

 

 大淀さんがそう言うやいなや、俺の背後に置いてあるレーザープリンターが稼働し始め、数枚の印刷物を吐き出し始める。目が合った大淀さんに促され、排出された印刷物を手にとって見た。なんだか仕様書のような……。

 

「これは?」

「今この教室で使っている、業務基幹ソフトの仕様書です。業務基幹ソフトといってもAccessで作成したアプリケーションなんですけど」

「ああ、なるほど」

 

 確かにこれは、アプリケーションの仕様書のようだ。データベースの設計図と思われるページを見る。以前いた会社とは仕様書の作りはだいぶ違うが、それでもどんなテーブルを作って、どんなカラムがあるのかは、手に取るように分かる。

 

「これがどうしました?」

「ええ。今使っている基幹データベースはAccess2003の形式なんです」

「はぁ」

 

 なるほど……だからAccessの2003と2007でdbの更新をやってるのか。前から不思議に思ってたんだ。なんで2013や2016があるのに、わざわざ2007や2003で活用してたのか……。

 

「でもそのせいなのか何なのか、時々不安定でデータが消えてしまう時があるんですよ。ついでに言うと、いくつか追加して欲しい機能もあって……オーナーに催促してるんですが、中々そこまで手が回らないというのが、現状のようです」

「なるほど」

「なので、カシワギさんにAccessで基幹ソフトを作ってもらおうかなと。web系の方なら、データベースの扱いにも慣れてるかもと思いまして。私もソラールさんも、Officeの扱いは慣れてますが、Accessとなると勝手が違いますから」

 

 そういえば、Accessはデータベースとしてはあまり安定したものではないという話を、以前にどこかで聞いたことがある気がする。不具合が多いのは、それも理由にあるのかもしれない。

 

「……」

「急ぎではないですし、生徒さんが少ない時に少しずつでいいんです。その分の報酬もお支払いしますし、ぜひやっていただきたいのですが」

 

 うーん……やること自体はやぶさかでない。確かに大淀さんやソラール先輩よりもデータベースを扱い慣れてる自信はある。

 

 でもだからといって、今回扱うのはAccessだ。俺はAccessでのソフト開発は経験がまったくない。そんな俺に出来るのか……? 大淀さんとソラール先輩が満足いく、今のものに匹敵する業務基幹ソフトが作成出来るのか……?

 

 ええいっ。ここで悩んでいても仕方がない。ここはもう見切り発車で行ってやるッ。

 

「急ぎではないんですね?」

「はい」

「俺はAccessをいじった経験がないので、勉強しながらになりますが、それでもいいですか?」

「もちろんです。お願いできますか?」

「わかりました。やるだけやってみます」

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 俺が承諾を返事をした途端、大淀さんの表情が花開いたように、パアッと明るくなった。この笑顔を見られただけでも、OKした甲斐があると思える、本当に心からの笑顔だ。

 

 報酬も払ってくれるって話だし、急ぐ必要もないというのなら、勉強がてらやってみようか。それに、この人なら『まだ作ってないんですか?』『早く作って下さい』てな具合の、後になってから話が違う的ゴタゴタには陥らない気がした。この教室は、従業員に対してとても誠実なところがあるし。

 

 俺は、先ほどプリンターから排出された印刷物に再度目を向けた。データベースの設計もちゃんとあるし、具体的な追加機能の希望もきちんと記載されている。これなら、困るような事態にもならないはずだ。UIのデザインに関しては、みんなと相談しながら決めればいい。2人なら、喜んで相談に乗ってくれるはずだ。自分が使うものだしな。

 

「ではよろしくお願いします!」

「ええ。なんとかがんばってみます」

 

 加えて、ソラール先輩も大淀さんもあまりAccessが得意ではないと言うのなら、俺がもしこれでAccessを極めれば、この教室での俺の強みがひとつ出来ることになる。これは俺にとっても有益なはずだ。

 

 そうして俺が、新たな決意と共にAccessの参考書を戸棚から引っ張りだした時。『ゴウンゴウン』という重厚な音が事務所内に轟き、入り口のドアがゆっくりと開き始めた。慌てて入り口を振り返る俺。ついに来たか! 奴が来る時間となってしまったのか!?

 

「やー……!」

 

 時計を見ると、午後7時5分前……しまった! 大淀さんとの楽しいコミュニケーションに気を取られ、すでにこんな時間になっていたということに、気が付かなかったッ……!!

 

「まずいッ……奴が……」

「せー……!!」

「奴が来てしまったというのかッ!?」

「んんんんんんんんんん!!!」

 

 ドアがゆっくりと開いていき、その向こう側が顕になった。そいつは逆光の中仁王立ちして、真っ白い歯からほとばしるまばゆい輝きで、俺達を照らし瞳孔にダメージを与えてくる。

 

「うわッ!? まぶしッ!!?」

「こんばんもぉおおおー!! 夜戦の時間がやってきたよぉおおおおおおお!!!」

「うるせー川内!! 眩しいうるさい賑やか過ぎるッ!!!」

「せんせー!! 夜戦だよぉぉおおおお!!」

「妹を見習え妹を!!!」

「あーそういや今日から神通きてたんだっけ」

 

 『妹、来校』の報を聞き、急に顔の表情からギラギラが抜け、フラットな表彰になる川内。妹の初来訪が気になるらしい。やはりここは妹を持つ姉といったところか。こいつは時々、こうやってタダの夜戦バカじゃない顔を見せつけてきやがるから困る。

 

「どうだった?」

「どうだったもクソも、お前と正反対じゃねーか!! 妹はあんなにおしとやかなのに、なんでお前はそんなにやかましいんだよッ!?」

「えー!? そっくりじゃん私達!!」

「お前のそのそっくりの概念は、どこかで上書き保存したほうがいいッ!!」

 

 一体お前ら姉妹の一体どこがそっくりなんだが……いつの間にか普段の夜戦バカに戻ってるし……我ながらかっこ悪いことは承知だが、ブツブツと文句を口ずさみながら、俺は愛用のバインダーを片手に、川内と共に教室に入る。教室に入る寸前……

 

――お似合いですよ?

 

 実に暖かい微笑みで俺を見送る、大淀さんのメガネの奥の優しい眼差しが、俺の耳元でそうつぶやいていた。どこをどう見れば、俺と川内の相性が悪くないといえるのか。会うたびに体力と瞳孔とメンタルに回避不可能かつ致命的なダメージが蓄積していくばかりだというのに。

 

「ほらせんせー! 早くパソコンの電源入れて、夜戦しよ!!」

「だから夜戦じゃないって言っとるだろうが……ッ」

 

 一足先にいつもの席に座った川内が、キラッキラに輝く瞳を俺に向け、うずうずしながら俺に催促をしてくる。そのプレッシャーに気圧されつつも、俺は川内の席のパソコンを立ち上げ、OSの8.1を選択した。

 

 さて……OSが立ち上がる間に確認しよう。先日のやせ……ゲフン……授業では、ちょうど『春の鎮守府夜戦トーナメント大会のお知らせ』のプリントが完成したところで終わった。ということは、今日は新しいプリントを一から作ることになる。

 

「タイピングの練習はいいの?」

「お前、家でも練習やってるだろ?」

「うん。なんでわかったの?」

「打つスピードが上がってる。本人の努力次第でタイピングはすぐにスピードが上がるからな」

「そっかー」

 

 始めてタイピングをさせてから数日。川内は目に見えてそのスピードを上げていた。おかげで今では、経験者とくらべてもかなり遜色のないスピードでタイピングが出来ている。本人の努力の賜物ってやつだ。

 

 ちなみにこの教室では、タイピングにおいてホームポジションやタッチタイプとかは厳しく指導はしていない。なにより、そもそもそこまで細かく教えてない。『打てればいい』というスタンスを取っている。

 

 俺もその点は賛成だ。本職ならいざしらず、タッチタイプまで初心者に要求してたらキリがない。何度でも言うが、こんなもんは打てりゃいいんだ打てりゃ。

 

「というわけで川内」

「うん?」

「今日はこのプリントを作ってもらう」

「了解! 今日はどんな夜戦が……」

「夜戦じゃなくてプリント作成。お前が言ってるのはデストローイで、これからやってもらうのはクリエーイトの方だ」

「そのコンゴウさん以上に胡散臭い、中途半端な英語はやめなよ」

 

 む……こいつがこんな手厳しいことを言ってくるとは……なんかハラタツ。

 

「うるさいなー。俺だってちょっとふざけたいときがあるんだよー」

「だからいつでも夜戦に付き合ったげるよって言ってるじゃん」

「誰がいつデストローイしたいと言った」

 

 俺はバインダーに挟んで準備していたプリントを川内に手渡した。プリントには、通常の書類の書式に則った文章と、その格式張った内容の硬さを幾分和らげてくれる、鏡餅ともちつきのイラストが入っている。

 

「えーと……」

「今回作ってもらうプリントは、『新春鎮守府餅つき大会のお知らせ』だ」

「へー……でも、まだお正月まで間があるよね?」

「いや本当にやるわけじゃないから」

 

 フェイクだよフェイク……そんなことまで説明しなきゃいかんのか……。

 

「とりあえず、これ作ればいいの?」

「おう」

「そしたらご褒美に夜戦付き合ってくれる?」

「これ作って、Wordのスキルを身につけるのが、お前の目的じゃないんかい」

「了解! せんせーに夜戦に付き合ってもらうため、がんばるよー!!」

「さてはお前、俺の話を聞く気がないな?」

 

 そうして、川内がプリント作成に入る。俺はその横で、死んだ眼差しで川内のプリント作成の一部始終を観察した。もうね。自分に覇気がないのが手に取るように分かる。

 

「せんせー」

「んー?」

「作る順番だけど……」

「いつものように、なにはともあれまず文章を打っていけー」

「鉄則は変わらないんだね。りょうかーい」

 

 川内は俺の指示を受け、プリントの文章を打ち始める。よし。今日はちゃんと順番通りだな。

 

 Wordで書類なり何なりを作る場合は、何はともあれ、まず文章を入力することに集中するのが肝心だ。書式設定は文章を入力し終わったあとで行っていく。その方が効率もよく、余計な手間も発生しないので都合がいい。

 

 Wordは改行を行った際に、前の段落の書式を引き継ぐ。故に書式設定を行いながら文章を入力した場合は、いちいち書式を元に戻す手間が増える。

 

 それに、書式を設定しながら入力をしていくというのは、自分の意識を入力と書式設定の両方に向けていなければならない。それよりは、何よりもまず文章の入力を済ませてしまい、あとから書式設定に集中したほうが、出来上がりの全体のバランスを取るのも楽だ。

 

 余計な手間が増えるのはエネルギーの無駄遣いとミスの元。ここは効率よく、かつ気持ちよく組んだほうがいい。

 

「入力終わったよー」

「うし。んじゃ書式設定をやりな」

「上からやってけばいいの?」

「それが一番間違いがないだろうな」

 

 『りょうかーい』と軽い返事をする川内だが、画面を見るその目は真剣だ。キリッとした横顔でディスプレイとにらめっこし、プリントの書式設定を行っていく。クソッ……こいつは時々、こうやってべっぴんな横顔を俺に見せつけてくるから困る……。

 

「ねーせんせー?」

「ん? どうした?」

 

 かと思えば今度はプリントとにらめっこをし始め、眉間がハの字の困り顔になった。賑やかな部分ばっかりに目が行くけど、よく見てたら、こいつってけっこう表情豊かなんだよなぁ。クルクル変わって、見ていてけっこう楽し……何考えとるんだ俺は。

 

 その綺麗な困り顔のまま、プリントのタイトル部分を指差した川内が俺の目をまっすぐ見つめた。

 

「このタイトルなんだけどさ」

「ん?」

「このタイトル部分だけ、他の部分と文字の形が違うよね?」

「そだな」

 

 今回のプリントは、本文や日付の部分のフォントは明朝体だが、タイトル部分はわざとゴシック体に変更してある。『フォントの変更』という操作が出来るかどうかを確認するためのものだ。だから別に、ゴシック体じゃなきゃダメだというわけではない。

 

「これさ、フォントはどれ使えばいいの?」

「そこはフォントさえ変更出来ていればいい。好きなフォントを選ぶといいぞ」

「とはいってもさー。私、フォントなんてよくわかんないよー」

 

 まぁなぁ……普段パソコンを使わない人からすりゃ『フォントって何だよ』て話だよなぁ……。

 

「世の中にゃフォントって星の数ほどあるからな。全部は覚えなくていい。でも明朝体とゴシック体だけでも覚えておけば、フォントの大半は区別できるはずだ」

「そなの?」

「いえーす。なんでもいいから、好きな言葉を二つ入力してみ」

「うい」

 

 俺にそう促され、川内は眉間にシワを寄せながら、『夜戦』と二回入力していた。予想はしていたことだったが、やはりというか何というか……

 

「入力したよー」

「ん。ちょっとマウス貸してなー」

「はーい」

 

 俺は立ち上がって川内の右隣に移動し、左手でマウスを持って、今しがた入力した『夜戦』の文字を選択して、フォントサイズを72ptにした。これだけデカけりゃ、フォントの違いもわかりやすいだろう。

 

「でかッ!?」

「文字をこのサイズまでデカくするのははじめてか?」

「はじめてヲ級を見た時と同じプレッシャーだ……!!」

「意味が分からん」

 

 ヲ級って何だよ……続けて俺は、二つの『夜戦』のうち、一つはMSゴシックにして、もうひとつはMS明朝にしてやった。太字にはしなくていいだろう。逆に細いほうが、二つの違いがよく分かる。

 

「ほら。これがゴシック体と明朝体の違いだ」

「へー……結構違うねぇ」

 

 ゴシック体は、フォントの線の太さが一定なのか特徴で、明朝体と比べてインパクトがある。一方の明朝体は、縦線と横線で太さが違い、線のさきっちょに筆で書いたようなでっぱりがあるのが特徴だ。ゴシック体と比べて、読んでいて疲れにくく、読みやすいらしい。

 

「この違いだけでも覚えておくと、それだけでかなりの文字を判別出来るようになる。絶対覚えなきゃダメってわけじゃないけど、損はない」

「せんせーは覚えてるの?」

 

 ……web界隈に生きる人はね……フォントの種類はある程度把握しとかなきゃいかんのですよ……昔を思い出して、なんだか少々げんなりした。

 

「せんせ?」

「あ、オホン……とにかく、今回のタイトルはゴシック体だから、ゴシックのやつを選べばいい。ゴシック嫌いってんなら、他のやつでも構わないし」

「はーい……でもさー。なんか“ゴシック”てついてるやつ、いっぱいあるよ?」

「ゴシックってついてて角が丸くなけりゃ、なんでもいいよ」

「そうなの?」

「同じ系統のフォントの違いに気付く奴なんて、デザイナーか天才か……変態かのどれかだ。だから同じゴシックなら、どれでもいい」

「はーい」

 

 つい弾みで『お前みたいな変態』って言いかけた。危なかったぁ〜……。川内は数あるゴシック体の中から、IPAゴシックを選択していた。そんなフォントが入ってるこの教室パソコンにも驚いたし、そんな渋いところを突いてくる川内のセンスにも驚かされた。

 

「IPAゴシックなんてまた渋いとこ突いてくるなぁ川内」

「よくわかんないけど、一番最初に見つけたから」

「貴公……」

 

 いつの間にかソラール先輩から伝染していた口癖を口ずさみ、俺は引き続き川内のプリント作成を見守る。書式設定を終えた川内は、続いてオンライン画像でのイラストの挿入に取り掛かっていた。お手本のプリントには、美味しそうなあんこもちのイラストと、餅つきを堪能する一組の老人カップルのイラストが入っているが……

 

「そのイラストにこだわらなくてもいいからな。好きなイラストを入れていいぞ」

「りょーかい。や、せ、ん。検索っ!」

「餅つき大会のお知らせになんで夜戦のイラストを入れようとするんだお前は」

「えー。ぶーぶー!!」

 

 俺の指摘が気に入らないのか、口をとんがらせてブーイングをしながら、鏡餅のイラストを探す川内。いい感じのイラストを見つけ、クリックして挿入ボタンを押した。

 

「デカッ!?」

「よくあるよくある」

 

 挿入された鏡餅のイラストは予想以上にデカく、一ページに収まりきらなかったようだ。この前までパソコンを触ったことすら無かったというのがウソであるかのように、川内は画像のサイズを器用にすいすいっと縮小させ、文字列の折り返しを前面に設定して所定の位置に動かしている。うまくなったなぁこいつ。

 

「んじゃあとはもちつきのイラストだねー」

「だな。それで完成だ」

「夜戦のイラストじゃだめ?」

「夜戦以外の選択肢はないのか」

「もちつきだって、夜にやれば一種の夜戦だよ?」

「そのりくつはおかしい」

 

 やっぱり口をとんがらせ、ぶーぶーと文句を言いながら再びオンライン画像を利用してイラストを探す川内。もちつきのやる気ないイラストを見つけた川内は、そのイラストを挿入したのだが……

 

「あれ? せんせー、最初の鏡餅のイラストがなくなっちゃった……」

 

 もちつきのイラストが入った瞬間、鏡餅のイラストが跡形もなく消えていた。鏡餅のイラストを選択したまま新しい画像を挿入したから、2つの画像が入れ替わってしまったみたいだ。

 

「へまったらどうするんだっけ?」

「あ、そうだそうだ。『元に戻す』だ」

「ぴんぽーん」

 

 至極真剣な表情で、画面左上のぐるんと回ってる矢印をクリックし、操作をアンドゥする川内。その真剣な顔は目の毒なため、俺もあえて画面を凝視する。

 

「なんで消えちゃったのかなー……」

「鏡餅のイラストが選択されたままだったからだ。一回選択外してから入れなおしてみ」

「あ、なるほど。入れ替わるって言ってたもんね」

「おーいえー」

 

 画面を見てると、今度はしっかりと選択を外した上でイラストを挿入したようだ。以上で、プリント『新春鎮守府餅つき大会のお知らせ』は完成した。

 

「できたー!!」

「はい。お疲れ様ー。綺麗にできてるじゃんか。おつかれ」

「印刷していい?」

「いいぞー。俺は印刷したやつ取ってくるから、その間に保存しとこうな」

「了解!」

 

 『んっふふ〜……んっふふ〜ん』と上機嫌に鼻歌を歌いながら、川内が今作ったプリントの印刷ボタンを押し、そのまま保存をしている。プリンターがガチャガチャと動き出す音が聞こえてきた。俺は立ち上がって一度教室から離れ、川内作の餅つき大会のプリントを取りにプリンタのそばまで向かい、プリントを手に取った。

 

「どうですか?」

 

 大淀さんも気になるようで、川内作のプリントをひょいっと覗き込んできた。問題は……特に無い。駆け足でここまで進んだ割には、習得するスピードが早いな。神通さんほどではないが、さすがの若さだ。お年寄りばかり相手にしてると、そんな感想を持ってしまう。

 

「これなら次に進んでも問題なさそうですね」

「ですね。じゃあ、次のプリントが終わったら、はがき作成にすすんで下さい」

「了解です」

 

 プリントがこの出来なら文句はないだろう。確かに作りはシンプルなものだが、ここまで出来れば、Wordの基礎中の基礎は習得したと見ていい。俺は、次回は次の単元に進むことを川内に伝えるべく、プリントを持って川内の元に戻った。

 

「せんせーどうだった!?」

「綺麗にできてたぞー。ほら」

「ホントだぁぁああああ!!」

 

 印刷したプリント『新春鎮守府餅つき大会のお知らせ』を川内に渡す。受け取った川内はみるみる笑顔になってきて、キラッキラに輝いた眼差しでプリントを嬉しそうに眺めていた。

 

「で、このブリントの出来も良かったし、そろそろ先に進もうか」

「りょうかい!」

「でもその前に、後半の授業で最後のプリントを作ってもらうけどな」

「えー……あ、そうだせんせー」

「お?」

「参考にしたいからさ。同じプリントをせんせーが作ったらどうなるか見せてくれる?」

 

 俺が渡したプリントを自分のバッグに入れた川内が、俺の方をまっすぐ見てそんなことを言ってくる。俺が作ってる様子ったって……別にこいつと作り方は変わらん気がするが……

 

「いいじゃんいいじゃん! せんせーが夜戦してるとこ見てみたいの!」

「だから夜戦じゃないっつーに……そもそもなんで俺が作ってるとこ見たいんだよ?」

「いや、だってさ。私ってまだ習ったばかりでしょ?」

「うん」

「作ったプリント見てさ。せんせーは『綺麗に出来たぞー』て褒めてくれてるけど、お手本みたいなのがないから、自分のやり方が正しいのか、いまいち自信が持てないんだよね」

 

 『やり方もクソも、出来上がったものが同じなら気にしなくていいだろうに』とは思ったが……確かに褒め言葉だけ受け取っても、本人からしてみれば、案外不安が残るのかもしれん。他の人のやり方……たとえばお手本となる人がプリントを作ったとして、その作り方が自分と同じ作り方だったりすると、『よかった。間違ってないんだ』て安心出来るかもなぁ。

 

 それにしてもこのアホ、自分の作業内容の検証と比較を求める辺り、ただのアホというわけでもなさそうだ。

 

「んー……」

「いいでしょー?」

「……しゃーない。んじゃ、休憩が終わったら俺も同じものを作ってみるから、隣でよく見とけよー」

「やったありがと! せんせーの夜戦が見られる……ッ!!」

「なんだかいかがわしく聞こえるからやめなさい」

「せんせーだって毎回私の夜戦を見てるくせに?」

「さらにいかがわしいからやめなさい」

 

 その後、一度休憩をはさみ、今度は俺が『新春鎮守府餅つき大会』のプリントを作る。

 

「んじゃいくぞー」

「はーい!」

「目を皿のように丸く広げて、よく見とけよー」

「了解! せんせーのすべてを舐め回すように見つめるよ!!」

「貴公……」

 

 そして、俺がプリントを作り始めてから、ちょっとした異変に気付いた。

 

「こんな感じで、とにかくまず……川内?」

「……ん? なに?」

「いや……」

「……」

 

 川内は、俺が操作する画面を、真剣な眼差しで、ジッと見つめ続けていた。

 

「……」

「……うっし」

 

 このアホの目からは、『どんなことも見逃さない』という、川内の気迫が感じられた。その意外な真面目さに……川内の真剣で凛々しい、そして綺麗な眼差しに応えられるよう、俺は、少しだけ気合を入れて、真面目に、ゆっくりと、プリント作成する様子を川内に見せた。

 




Wordで文書を作成する際は、
とにかくまず文字入力を先に済ませます。
書式設定は入力がすべて終わった後、まとめて設定します。

今回の話の中で作ったプリント

【挿絵表示】


鏡餅 http://www.taka.co.jp/tada/detail.php?id=1107&cid=4&cid2=7
餅つき http://publicdomainq.net/mochi-pounding-0001736/


実際にカシワギがこのプリントを作ったらどうなるか(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=qoYMH9iwaL0&t=42s


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4. 二人は順調


前回までの『大淀パソコンスクール』


【挿絵表示】



「そろそろ慣れました?」

 

 俺がこの仕事についてから一ヶ月ほど経過した今日。季節は秋と冬の変わり目。そろそろ暖房をつけないと室内にいても寒くて仕方のない時分。

 

 今日は俺は朝から夜までのフル出勤。『エストは太陽の下で摂るべきだ』と外出したソラール先輩を除き、俺と大淀さんは二人で昼飯を食べていた。大淀さんは手作りのお弁当で、俺は近所のコンビニで買った唐揚げ弁当とサラダだ。ところでエストって何だ?

 

「もう一ヶ月経ちますもんね。仕事にもだいぶ慣れましたよ」

「一ヶ月なんですよね……」

 

 俺と大淀さんは、窓際にある生徒の懇親用のテーブルで一緒に飯を食っているのだが、大淀さんは窓の外を遠い目で眺め、懐かしそうにそうつぶやいた。いやいや、まだ一ヶ月しか経ってませんやん……と思ったのだが……

 

「? どうしました?」

「いや、なんだか一ヶ月しか経ってないというのが驚きなんです」

「はぁ……」

「もう、ずっと前から一緒に働いているような……そんな感じがします。それだけ馴染んでくれているということでしょうね」

 

 そうつぶやいて微笑みながら窓の外を眺める大淀さんの横顔は、とても綺麗だった。

 

 俺としても、そう思ってくれているのはとてもうれしい。なんせ、それだけ大淀さんやソラール先輩と仲良くなれたということだから。ここの仕事は、俺もとても楽しませてもらってるし、給料面や生活の安定という点では不安残るが、できるだけ長く関わっていたいと思える職場だ。

 

「ソラールさんも言ってますよ。『生徒たちに親身に向き合い、知識もあって、何よりも優しい。大したものだ』って」

「ホントですか?」

「ホントです。あなたみたいな人が同僚になってくれて、とてもうれしいみたいですよ?」

 

 あの人にそう言われるのは、素直に嬉しい。あの珍妙な太陽コスプレはとりあえず置いておいて……あの人は尊敬できる講師であり、人格者だもんなぁ。ところどころ珍妙なところはあるけれど。

 

 窓の外を眺めるのをやめた大淀さんが、お弁当の中のプチトマトを箸でつまみ、口の中に入れる。

 

「それに……カシワギさん、生徒さんからも評判がいいんです」

「え……」

「タムラさんてわかりますか?」

 

 確か、神通さんに黄金糖を進呈してたおばあちゃんだったな……

 

「タムラさんが言ってました。『あの先生は言い方が優しくていいねー』って」

 

 マジか……確かに俺は、川内の時は比較的素に近い話し方をしているが、昼にお年寄りの相手をするときは意識して物腰柔らかくしている。それがこんなところで評価されるとは……ッ!!

 

「もちろんソラールさんの話し方がキツいというわけではないですし、私も授業に入るときは優しい物言いを心がけてはいるんですが……お年寄りの方って、厳しい接し方をされると萎縮しちゃいますから。カシワギさんの指示の出し方が、お年寄りには合ってるみたいですね」

「いやでも……うれしいですね。やる気が出ます」

 

 なんだろうな……この、作ったサイトを納品した時とはまた違う達成感。なんかすんごい胸が暖かい。ものを作った時とは違う『人に認められた喜び』ってのかなぁ……。なんて、一人で悦に入っていたら。

 

「私も、あなたがココに来てくれてよかったって、思ってますよ?」

「……!?」

 

 そう言って大淀さんは、ふんわりと柔らかい微笑みを俺に向けてくれた。

 

「……? カシワギさん?」

「……んはッ!?」

「どうかしました?」

「ぁあ、いえいえ。なんでもないですよー……」

「?」

 

 あぶねー……しばらくの間見とれちゃった……

 

 少しの気恥ずかしさを抱えたまま、最後に残った唐揚げを口に運び、昼飯は終了。大淀さんと共に自分の席に戻り、昼の授業が始まるまで間、Wordのテキストを開いて予習をしていると、ソラール先輩が昼飯から戻ってきた。昼飯ってやっぱあれか。エストとかいうやつか。

 

「ただいま!」

「ぁあソラールさん、おかえりなさい。遅かったですね」

「まいった……先ほど闇霊に侵入されてな。無残にバックスタブを決められたよ」

「それは災難でしたね……まぁ授業には間に合ってますし」

「闇霊との戦いが長引いたら遅刻しかねないからな。人間性が限界に達した姿は、生徒たちには見せられんし」

「ですね」

 

 そんな会話を交わし、くすくすと笑う大淀さんと、肩を揺らして朗らかに笑うソラール先輩だが……傍で会話を聞いている俺には、意味不明なやりとりだ。闇霊? 人間性が限界? なんだそりゃ?

 

「カシワギ」

「はい?」

「貴公も仮面巨人や仮面ハベルの闇霊には気をつけろよ?」

「……意味が分かりませんが」

「いや、考えてみれば、貴公には関係ない話か。ウワッハッハッハッ」

 

 肩をゆらして朗らかに笑ってないで、言葉の説明をしてくださいよソラール先輩。勝手に話を振って勝手に自己完結されたら、こっちは意味が分かりませんよ。

 

 しかし……今日はとてもうれしい。生徒さんからは褒められ、大淀さんとソラール先輩からも認められ……やっぱり、大人になってもうれしいことがあると、心がウキウキするんだなぁ。ヤル気もあふれてくる。

 

「ソラール先輩!」

「お? どうしたカシワギ?」

「これからもがんばりますよ俺は!!」

「その意気だ!! そして共に太陽の戦士として……」

「それはいらないです」

「貴公……」

 

 ソラール先輩が戻ってきて5分ほど経過した頃。お昼の授業を受ける生徒さんたちが、ぽつりぽつりとやってくる。

 

「ソラール先生〜、カシワギ先生〜。大淀さーん。こんにちは〜」

「はいこんにちはモチヅキさん」

「こんにちはモチヅキ殿!!」

「こんちわ!!」

 

 無論その中には、あのアホの妹にして、ザ・大和撫子の神通さんもいるわけだ。川内が見せないふわっと柔らかい微笑みは、見ているこちらの気持ちもふわっと和らげてくれる。うーん。天使だなぁ……神通さん。

 

「こんにちは。今日もよろしくお願いしますね」

「はいこんにちは〜」

「今日はその……ソラール先生は?」

「いますよ? 今日も神通さんの担当はソラール先生です」

「そうですか」

 

 ……あれ? ほんのちょっと、笑顔にブーストがかかったような……? まぁいいか。俺はそのまま神通さんと共に教室に入り、今日の割り振りの席まで案内した。

 

「おお! 神通!!」

「ぁあ、今日もよろしくお願いしますソラール先生!」

「もちろんだ! 今日からグラフに入るから、少々難しくなる……だが貴公なら大丈夫だ!!」

「はい!」

 

 ……おや? 神通さんの笑顔がさらにパアっと明るくなったような……? これはひょっとして……まぁいいか。

 

 神通さんがグラフに入るというのなら、説明が少々込み入るはずだ。ならば俺は、他の生徒さんを一人で見るぐらいの覚悟でいなければ……教室を見回す。神通さんを除くと、生徒さんは全部で3人。しかも全員がプリント作成に代表される自習だ。なら、俺一人でも充分フォローが出来る。俺は、神通さんのパソコンに電源を入れ、OSを選択し終わったソラール先輩の元に駆け寄った。

 

「ソラール先輩」

「んお?」

「今日はグラフの説明に入るんですよね。他の生徒さんは、俺が出来るだけ見るようにします」

「助かる。貴公も頼もしくなったな」

 

 俺の耳元でそう言ってくれるソラール先輩の声は、バケツ兜のせいでくぐもっていたが、とてもうれしそうな声に感じた。口角が上がっている時の声特有の、ちょっとはじけているような、少しテンションが上っているような、そんな感じの声だった。

 

「あとで貴公には、この太陽のタリスマンを……」

「それは結構です」

「貴公……」

 

 余計なものはいらないんすよ先輩。先輩の授業の進め方を拝見出来れば、それでいいんです。

 

 さて、神通さんは今日からグラフに入る。この一ヶ月の間、数人の生徒さん(お年寄り)がグラフにチャレンジしていたが、いずれの生徒さんも、このグラフの単元では苦戦しているのが現状だ。神通さんはどうだろう? 他の生徒さん(お年寄り)と比べると非常に優秀なんだが……

 

「では神通。グラフにしたい部分をまずは選択してくれ」

「はい。……こうですか?」

「そうだ。ではそのまま、挿入タブの縦線グラフを選択しよう」

「はい」

「クリックしたら、『集合縦棒グラフ』というものをクリックしてくれ」

 

 先日作成した自分自身の表の数値の部分を選択した神通さんは、ソラール先輩が『太陽の直剣』と呼ぶ剣のような棒で指し示す、縦線グラフのボタンをクリックしていた。その横顔は意外なことに、あのアホとそっくりだ。

 

 神通さんが『集合縦棒グラフ』をクリックした途端、画面に縦棒グラフが表示された。実はマウスを集合縦棒グラフのボタンの上にポイントした段階でプレビューが表示されていたのだが、一生懸命だった神通さんは、それには気が付かなかったようだ。クリックした途端に、少しのけぞってびっくりしていた。

 

「ぉあっ」

「?」

「び、びっくりしました……」

「そうか。……これが、グラフの作成の仕方だ。表のグラフにしたい部分を選択し、そして挿入タブのグラフのグループから、作成したいグラフを選ぶ……これだけだ」

「意外と簡単……? まるで潜水艦との戦いのような……?」

 

 呆気にとられたかのように、あんぐりと開いた口を左手で隠す神通さんだが、そこでソラール先輩は、すかさず首を左右に振っていた。兜がブカブカなのか、首の動きと兜の動きが、若干合ってない……。

 

「甘いぞ神通。グラフが難しいのはここからだ」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。ここまでなら誰でもいける。……だがセンの古城のような険しい道のりはここからだ……!!」

「脆弱な艦隊でこちらを油断させる……まるで北方海域のような……ッ!!」

 

 うん。おかしい。二人の会話がおかしい。二人が何をしゃべっているのかは分からないが、確実に事実誤認があることは手に取るように分かる。

 

「では神通、これより二つあるグラフのうち、一つを『マーカー付き折れ線グラフ』に変更する」

「はい。ゴクリ……」

 

 生唾を飲むようなシーンではないはずだが……よく見たら、神通さんの額に冷や汗が垂れている……なんちゃらの古城ってのはよくわからないが、ソラール先輩の脅しは、予想以上の効果を発揮しているようだ。

 

「まず、この短すぎて目立たない……というよりまったく表示されてないに等しい、水色のバーのグラフをクリックして選択してくれ」

「はい……ですが……クリックしづらいです……!!」

 

 ……そらそうだ。水色のバーのグラフの高さは、ほぼゼロだからなぁ。あれをクリックするのは、ベテランでも至難の業だよ。神通さんも冷や汗をかきながらクリックを繰り返すわけだ。

 

「神通、グラフの特定箇所にマウスをポイントすると、その部分の名前が表示される。それで位置を探りながら、青いグラフをクリックしてくれ」

 

 ソラール先輩は的確に指示を出す。そのアドバイスを受けた神通さんは、うまく水色のバーを選択できたみたいだ。顔がパアッと明るくなった。

 

「やっと選択できました……!!」

「さすがだ!! ……続いて、グラフツールの『グラフ種類の変更』から、『折れ線グラフ』の『マーカー付き折れ線グラフ』を選択する」

「はいっ!」

 

 震える右手でマウスを操作し、『マーカー付き折れ線グラフ』を選択した神通さん。選択したグラフは折れ線グラフへと変貌したが、神通さんの表情は晴れない。

 

 なぜなら、折れ線グラフはグラフのエリアの最低のところに位置しており、非常に目立ちにくく、見辛くて変化がわかりにくいからだ。

 

「……ソラール先生。これでは……」

「ああ。このグラフでは分かりづらい。これでは神々の住むアノール・ロンドには到達出来ん。あの狭い通路で、銀騎士の大弓に叩き落されるだろう……」

「ですね……この程度のグラフでは、奇跡の作戦キスカは達成出来ないでしょう……」

 

 相っ変わらず変なところで歯車が噛み合ってるなー……グラフごときで命の危機に瀕してるみたいな緊張感を漂わせる神通さんも神通さんだが、戦場で初出撃の新米兵士を見守るベテラン伍長みたいな雰囲気を漂わせている、ソラール先輩もソラール先輩だ。なんで二人の授業はこう、無駄に緊迫感が漂ってるんだ?

 

「ど、どうすれば……よいのでしょうか……?」

「これは、棒グラフと折れ線グラフが、同じ目盛りを基準にして作成されているからだ」

「なるほど……つまり、折れ線グラフ用の新たな目盛りを作成すればいい……」

「そのとおりだ。Excelではそれを、『第2軸』と呼んでいる」

「第2軸……」

 

 ソラールさんはそういい、噂の太陽の直剣を再び鞘から抜き放つと、それで画面の『選択範囲の書式設定』を指し示す。言われるままに神通さんはクリックし、軸の設定を『第2軸』に設定した。……神通さん、なぜ、目をギュッと閉じてるんですか? クリックするだけなのに、めちゃくちゃ怖いんですか?

 

「……」

「……」

「……神通」

「……はい」

「太陽が、貴公を導いた。……目を開けてくれ」

「……いいんですか?」

「ああ」

 

 恐る恐る、薄目を開く神通さん。……だからなぜそんなに怖がる?

 

「カシワギ先生、ちょっといい?」

 

 ……ああ、しまった。あの二人の魅惑の異空間授業に気を取られすぎていた。今日も来ているおばあちゃんのタムラさんが、こっちを見て右手をピラピラ動かしている。何か困ったことが起こったようだから、フォローしないと。俺は小走りでタムラさんのもとに向かい、彼女の画面を覗き込んだ。

 

 ちなみに、そんな俺の背後からは、神通さんの『こ、これは……!? これで奇跡の作戦、キスカも大成功ですね……!!』という歓喜の声と、同じくソラール先輩の『さすがだ神通! それでこそ太陽の戦士っ!!』というねぎらいの言葉が聞こえてきた。見てはいないが、ソラール先輩は立ち上がってY字ポーズを取っていることだろう。椅子のガタッて音が鳴ったし。

 

 タムラさんの画面を覗く。作成中のプリントはすでに完成寸前だ。あとはプリントの最期にある差出人の部分をプリント右側に持っていけば終わりだが……いつもはここで右揃えの機能を使うんだけど、今回は右揃えではうまく設定出来ない。

 

「ここの差出人の部分だけどね。これ、単純に右揃えじゃないよねぇ?」

「そうですね。ここは右揃えではなくて、インデントの位置を右にずらして行ってあげましょうか」

 

 インデントってのは、Wordでは『文字列が始まる位置』を意味する。ホームタブのインデント調整ボタンをボールペンで指し示し、タムラさんにその位置を教えてあげた。

 

「これを押せばいいの?」

「はい。クリックしたら一文字分だけ右にズレますから、必要な分だけクリックして、右にずらしてあげましょ」

「はい〜」

「選択するのを忘れないでくださいねータムラさん」

「はい〜」

 

 俺の指示を受け、インデントの調整ボタンをカチカチとクリックしていくタムラさん。よし。これでタムラさんの問題は解決だ。ルーラーのところにあるツマミをドラッグしてもインデントは調整できるのだが、タムラさんはマウス操作が苦手だ。ならば調整ボタンできっかり一文字ずつ調整していったほうがやりやすいはずだ。

 

 インデント調整が無事終わり、プリントを完成させたタムラさん。『出来たっ』とほくほく顔で喜ぶ姿は、見ているこちらも、とてもうれしい。

 

「んじゃ印刷しちゃいましょ」

「はい〜。……どうやるんだったっけ?」

「んじゃファイルタブをクリックしてみましょ」

「はい〜」

 

 タムラさんに印刷の操作を指示した後、プリンタがガチャガチャと動き出したのを確認して、俺は印刷されたプリントを取りに事務所を出る。ソラール先輩も妙な歩き方で教室を出てきた。神通さんのグラフが完成したのかな? 『ガチャドチャリ』って前転も忘れてない。だからなぜローリングするんすか?

 

「お、貴公も印刷か」

「はい。神通さんのグラフもですか?」

「素晴らしい出来栄えだ。まるで太陽のように眩しいグラフに仕上がった」

 

 ……どんなグラフだ? タムラさんのプリントと神通さんのグラフの印刷が終了したみたいだ。少し見せてもらう。

 

 なるほど。ソラール先輩がついていただけあって、綺麗で見やすいグラフに仕上がっている。……眩しく光り輝いてはないが。

 

「タムラ殿のプリントも綺麗に仕上がったな」

「ええ。ここのところ、タムラさんは操作確認の質問も減ってきてます。自力でなんでも出来るようになってきました」

「恐らく本人にとっては、実力がついてきて今が一番楽しい時期だろう。そのような時間に居合わせることが出来るのは、太陽の戦士として光栄だな」

「太陽の戦士ではないですが、それには同感ですね」

 

 プリンタの前でソラール先輩と談笑し、教室を眺める。タムラさんと神通さんが楽しそうにおしゃべりをしているのが見えた。『あんたは何をやっとるの?』『エクセルです。でも難しくて……』と笑顔で語り合う二人は、本当に楽しそうだ。

 

「教室にも馴染んでくれてますね。神通さんが来てから、教室の雰囲気も明るくなりました」

「ああ。まるでこの教室を暖かくほがらかに照らす、太よ……」

「早くプリント持ってってあげましょうよ」

「貴公……」

 

 ソラール先輩の意味不明な供述を無理矢理キャンセルし、俺はタムラさんにプリントを持って行ってあげることにする。俺の背後からチャリチャリという鎖帷子の音が聞こえてくるから、ソラール先輩も俺の後に続いたようだ。

 

「はいタムラさん。綺麗に出来ましたよ?」

「あらーホントね〜!」

「腕が上がりましたねタムラさんっ」

「それも先生がいいから〜」

「またまたそんな〜。タムラさんのがんばりの賜物ですよ〜」

「あらやだ。そんなこと言われたらうれしくなって先生に飴玉あげたくなっちゃうっ」

「俺も黄金糖大好きですっ!」

 

 満面の笑みで、かばんの中の黄金糖を探すタムラさんを見守る俺の背後からは、やっぱり神通さんとソラール先輩の、心温まる喜びの声が聞こえていた。

 

「神通! これが貴公が作成したグラフだ!!」

「ありがとうございます」

「このグラフ、太陽のように美しいグラフだ! さすがだ神通!!」

「そんな……ソラール先生のおかげですよ……」

「大淀から聞いた。さすがは二水戦の旗艦だ。戦闘だけでなく、グラフ作成まで一流とはな!」

「ソラール先生……!!」

 

 『にすいせん』てのが何なのかはさっぱりわからんが、それがOfficeとはまったく関係のないものであろうことは容易に想像できた。……ともあれ、みんな嬉しそうで何よりだ。ほくほくと温まった気持ちで、タムラさんから黄金糖を受け取り、それを口に運んだ。

 

「……おいし」

 




グラフの種類を変更する場合は、

Excel2010の場合(作中でのやり方)
1.変更したいグラフの要素をクリックして選択
2.グラフツールの『グラフの種類の変更』をクリック
3.変更したいグラフの種類を選んで『OK』をクリック

Excel2013の場合
1.グラフそのものをクリックして選択
2.グラフツールの『グラフの種類の変更』をクリック
3.『すべてのグラフ』タブの『組み合わせ』を選択して、
 変更したい要素のグラフを変更
 第2軸の設定が必要な場合は、『第2軸』にチェックを入れます
4.『OK』をクリック

今回、神通が作ったプリント

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 その後は特に何事もなく授業は終了。Excelの中では比較的難易度の高いグラフ作成だったが、ソラール先輩の暖かい指導の元、神通さんは何かコツを掴んだらしい。練習で作成したグラフは、ことごとく綺麗に仕上げた後、タムラさんたちと共に談笑しながら教室を後にした。

 

 やがて日没を向かえ、ソラール先輩は『太陽……俺の太陽よぅ……』などとぶつぶつ呟きながら、うつろな眼差しで(兜で見えなかったけど、多分そんな目だったと思う)帰って行った。今事務所には、川内を待つ俺と大淀さんの二人だけだ。

 

 川内がやってくるのを戦々恐々で待ちながら、俺は今日の授業の進捗をAccessで記録していった。

 

「インデントの調整方法を確認。留意点は特に無し……と」

 

 フと気になって、神通さんの備考欄を覗いてみる。神通さんは、俺にとっての川内と同じで、ソラール先輩が専任のようになっている。ゆえに神通さんのデータは、ソラール先輩しか書き込んでないのだが……

 

――気分的には太陽メダルを5枚ぐらいあげたいところ。

  制約の決まり故に一枚しか進呈出来ないのがもどかしい。

  太陽は愛情に満ち溢れているが……それを許してはくれないだろうか。

 

 相変わらず意味不明だ。進捗はちゃんと書いているから問題ないのだが……先輩なりの賛美の仕方なんだろうなぁ。頭の中のはてなマークは消えないけれど。

 

「カシワギさん」

「はい」

 

 唐突に大淀さんに声をかけられ、俺は慌てて神通さんのウィンドウを閉じる。別にやましいことをしているわけではないのだが、いきなり声をかけられると、不思議と今開いているウィンドウは閉じなければならない衝動にかられる。

 

「業務基幹ソフトの進捗はどうですか?」

「ああ、ただいま勉強中ですが……おれはAccessは持ってないので、どうしてもここでの開発がメインになります。そうなると、中々進まないですね」

「なるほど」

 

 俺の言葉を受けた大淀さんは、マウスをカチカチといじり始めた。今俺と大淀さんはさし向かいの状態だから、彼女がパソコンで何をやっているのか見えない。

 

「……あ」

 

 パソコンの画面をジッと見つめる大淀さんが、小さく声を上げた。何を見つけたんだろう……なんか不安になるな……。

 

「カシワギさん、2013でいいなら、ライセンスが一つ余ってるみたいです」

「そうなんですか?」

「勉強用のパソコンにインストールしますんで、今度持ってきてもらっていいですか?」

 

 それは助かる……そうすれば家で勉強もできるし、開発の進捗も劇的に上がるぞ……!!

 

「わかりました。じゃあ明日にでも持ってきます」

「はい。お願いします、これでAccessの勉強も出来ますし、開発も出来ると思います」

「ですね。ありがとうございます」

「いえいえ。こちらはやってもらってる側ですから。ああ、それとあとひとつ」

「はい」

「そろそろ授業も問題ないと思いますので、次回の川内さんの授業からは、一人でクローズまでやってもらいたいのですが……」

 

 そういやもう一ヶ月だもんなぁ……まぁこの間にクローズ業務は何度もやらせてもらってなれたし、そろそろ一人で担当してもいいかもしれないな。仮に授業で分からない事があったとしても、今ならすぐに探し出せる自信もある。

 

「わかりました。じゃあ次回からは、川内の授業は一人でやりますから」

「はい。おねがいしますね」

 

 ニコッと微笑む大淀さんに癒やされ、俺は嵐の来訪を待つ。時計を見ると、午後7時5分前。そろそろヤツがやってくる頃なのだが……

 

「……!?」

 

 突如、背中にゾクッと走る悪寒を感じた。

 

「何事ッ!?」

 

 慌てて入り口のドアを見る。ドアノブがひねられている。ついに来るのか!? 来てしまうのか!? この平和な時間が、終わってしまうというのかッ!?

 

「……やッ!」

 

 ドアはまだ、隙間程度しか開いていない。にもかかわらず、大きな声がドアの向こうから聞こえてくる。ゴウンゴウンという音とともに、重々しく開かれていくドア。幻覚だろうか。開いた隙間から、ドライアイスのような煙が立ち込めているのが見えた。

 

「……せッ!!」

 

 今までは、自身の重みで開閉に抵抗していたドアだったが、ついに白旗を上げたようだ。限界までドアは開かれ、その向こう側にいる人物が姿を表す。このフラッシュライトのような眩しい笑顔……つやっつやのツーサイドアップの黒髪……そして何より。

 

「んんんんんんんんんんん!!!」

「おあああああうるさいぞ川内ッ!!」

 

 こちらの鼓膜にクリティカルなダメージを与えてくるこの絶叫……来てしまった……川内が来てしまった……ッ!?

 

「せんせー!! 今晩も来たよ!! 夜戦しに来たよ!!!」

「だから夜戦じゃないって言ってるだろうがッ!!」

「ぇぇええええ!!? だって夜のパソコン教室なんだから夜戦でしょっ!?」

「夜は合ってるけどOfficeは戦いじゃないんだバトルじゃないんだコンバットじゃないんだッ!!!」

「違うの!? 夜戦じゃないの!?」

「だから違うって言っとるだろうがっ!!」

「え……ほ、ほんとに……?」

 

 俺の全力の否定を受けた川内の顔から、血の気がどんどん引いてきた。あれだけ眩しかった川内の笑顔が消え、ギラギラと輝いていた瞳からは少しずつ確実に、ハイライトが消えていく。え……そんなにへこむことなのこれ……。

 

「そ、そんな……夜戦じゃないだなんて……」

 

 血の気だけじゃない。輝きがみるみるくすんできた川内の顔は、目に見えて表情が落ち込んでいく。瞳からはハイライトが完全に無くなり、無駄に生命力にあふれていた全身から生気が抜けてきているのが、手に取るように分かる。

 

「お、おい……」

「ダメだせんせー……夜戦じゃなかっただなんて……ショックだ……」

「あの……」

 

 やばい……なんだこれ。俺は何も間違ったことは言ってないはずなのに……川内のこの様子を見てると罪悪感が半端ない。俺の良心にマチ針がグサグサと刺さってくる。

 

 見ていて痛々しいほどに意気消沈した川内は、がっくりと肩を落として猫背のまま教室に向かってフラフラと歩をすすめる。ちっくしょ……いつもみたいに元気いっぱいじゃないと、こっちもなんだか調子が出ない。

 

 いつもの席に座った川内のパソコンに電源を入れ、OSを選択してあげる。その間も川内はうつろな眼差しでOS立ち上げ中の画面をぼんやりと眺めている。なんだこの生ける屍は……まるで生気が感じられない。呼吸してるかどうかも怪しい。その目は、悪い意味で瞳孔が広がっていて反応がない。ここに医者がいれば、確実にこいつの瞳孔をライトで照らして『ご臨終』の三文字を突きつけているはずだ。

 

 川内の周囲の空気が、どんよりしてて黒寄りの灰色に曇っている。じとっとしてて、沈み込んで淀んでいる。川内の消沈した気持ちが漏れ出しているのか……。

 

「……」

「……」

「……」

「……」

 

 ……ぁあくそッ!! 我慢できないっ!! この、沈み込んで痛々しい空気に耐えられないッ!!

 

「……わかったよぉおお!!」

「……へ?」

「夜戦でいいよ夜戦で!! 俺の負けだ負け!!」

 

 俺の白旗宣言を受けた川内の瞳に、直後ハイライトが戻った。

 

「ほんとに? ホントに夜戦でいいの?」

「いいよ! だから機嫌直せよ耐えられんっ」

「ぃぃいいいやったぁぁあああああ!!! 夜戦だぁぁああああああ!!!」

 

 ……いいのか? 俺の夜戦認定を聞いただけで急に空気が軽くなった……表情の明るさが1000ワットほどアップして、灰色に淀んでいた空気が途端に暖色寄りの透明を取り戻した。……こんなことで機嫌治すのか? ちょっと素直過ぎない?

 

「よぉぉおおおし! 今晩も夜戦がんばっちゃうよぉぉぉおお!!」

「はいはい……」

 

 いささかの疑問がないわけではないが、機嫌が治ったのならいいとしようか。これだけパワフルなこいつの元気がないと、こっちのペースがとてつもなく乱れるということもわかったし。

 

「んじゃせんせー!! 今日は何を作ればいいの?」

「昨日の続きではがきだ」

「今まで散々作ってきたのに?」

「そう。だけど今日は、お手本はない。この前みたいに自分で文面を考えて、自分で一からはがきを作ってみ」

 

 授業ではスキル習得のために、どうしてもお手本通りに作らざるを得ないのだが……やはりそれではトラブルシューティング的なスキルしか身につかない。自分で文面や構成を考え、それに合致した機能を自力で選べてこそ、スキルが身についたといえる。

 

 だからこの教室では、単元のどこかで、お手本無しで自分で一から文書を作る時間を設けてある。今日の川内がそれだ。今回の授業では、自分ではがきの文面を作成し、それに合うイラストを入れて、完成までを自力で行う。

 

「なんでもいいの?」

「なんでもいいぞ。好きなはがきを作れ。わからなかったら聞いてくれて構わない」

「横書きとか縦書きとかも好きにしていいの?」

「おう」

「りょうかいっ」

 

 先ほどの意気消沈っぷりから随分とかけ離れた眩しい笑顔で、こちらに敬礼をする川内。顔がべっぴんなだけに、こんな普通のことをされると可愛くて仕方ない。川内のくせに。

 

「と、とりあえず作れいっ」

「?」

 

 くっそ……こんな夜戦バカに照れてる自分が嫌だ……。

 

 川内は俺の様子に疑問を感じつつも、はがきの作成に入ったようだ。紙のサイズをハガキに変更し、余白を『狭い』に変更する。ここまでは大丈夫。まったく問題ない。

 

「んーと……」

 

 しばらく考えた後、文章は縦書きで、印刷方向は縦を選択したようだ。古式ゆかしい、日本のハガキの様相だな。

 

「や、せ、ん……」

 

 そして、ほぼこちらの予想通り『夜戦へのお誘い』というタイトルを入力し、続く文面で、読む人をめくるめく夜戦ワールドに勧誘しはじめる川内。一体夜戦の何がお前をそこまでかきたてるんだ……。

 

 『文書作成は、何はともあれまず入力を済ませる』の鉄則に従い、川内はまず入力を済ませていく。時々『んー……』と考えこみながらではあるが、Wordの授業の中でいつの間にか作文能力も上がってきたらしい。いっぱしのはがきの文面が出来上がっていた。

 

「せんせー、文面これでどお?」

「んー……いや、いいんだけど……」

「ふん?」

 

 くそっ……だからその、きょとんとした顔で相槌打つの止めろって……なんかグラッてくるから……!

 

「いや、文章としてはまったく問題ないんだが……『過ごしやすい夜の時分に夜戦などいかがでしょうか?』ってのが、お前らしいなぁって思ってさ」

「だってさ。夏こそ夜戦でしょ!!」

 

 あー……だからはがきの文面に『6月』って入れたのね……今は11月なのに……夜戦の旬って、6月なのね……初耳だわ〜……。そら川内も、鼻の穴を広げて水蒸気を吹き出すわー。

 

 夜戦の旬の季節という、至極どうでもいい情報を俺に教えてくれた後も、川内のはがき作成作業は続行される。『夜戦へのお誘い』という魅惑のタイトルのフォントサイズを大きくし、フォントを毛筆体に変更した川内は、続いて本文の部分の文字を14ポイントに設定したところで、眉をハの字にした。

 

「ん?」

「……」

 

 画面を覗き込む。14ポイントに設定された本文は、行間が開いてとんでもないことになっていた。はがき一枚分では収まらず、二枚目に突入してしまっている。

 

「あー……それな。14ポイントで行間が一気に開くんだよな」

「そういやタイピング練習の時も14ポイントでやってたね。あの時は『隙間が開いて見やすくていいわー』て思ってたけど……どうすりゃいいの?」

「方法としては、フォントサイズを12ポイントにするか、隙間を詰めるかのどっちかだな」

「隙間ってどうやって詰めるの?」

「『段落グループ』のとこにちっちゃい四角マークみたいなのがあるだろ?」

「どこ?」

 

 本文がちゃんと選択されてることを確認したうえで、俺は胸ポケットからボールペンを取り、それで段落グループのところの小さい四角を指し示してあげた。他のボタンに比べてとても小さい上に、隅っこにあるから見落としやすいんだよな、これ。

 

「これ。クリックしてみー」

「うん」

 

 言われるまま素直にクリックする川内。ダイアログが開き、見慣れない小難しい項目が並んでいて、川内のヤル気を削いでくる。

 

「うへぇ〜……難しそう」

「その中に、『文字を行グリッド線に合わせる』て項目があるだろ? そこクリックして、チェックはずしてみ。そしたらOKボタンをクリックだ」

「りょうかーい」

 

 言われるままにその部分をクリックし、チェックを外してOKボタンを押した川内。次の瞬間、さっきまであんなに開いてた行間が、みちっと詰まった。

 

「ぉお!?」

「これで一応、隙間は詰まる」

「ありがと! これで夜戦もバッチ……リてわけでもなさそうだね」

 

 確かに隙間は詰まったが……それでも、二枚目にはみ出しているのは解消されなかったようだ……。

 

「……まいっか! サイズは12ポイントで我慢しとくよ!!」

「んー。そうしとこう」

 

 無理矢理詰める方法もないわけではないが……素直に12ポイントにした方が楽だしな。

 

 続いて川内は、はがきの差出人の部分の編集に入る。はがきの差出人の部分は基本的に下揃え。郵便番号と住所は、氏名よりもやや上に上げのが定石だ。インデントをずらして一行一行調整していく方法もあるが……

 

「んーと……よしっ」

 

 川内は、一度すべてを下揃えにした後、郵便番号と住所の行だけ、スペースを入れて調整する方法を取ったようだ。いい感じだ。下揃え→スペースの順番もきちんと守ってるし、機転も効いてる。

 

「イラストも入れる?」

「入れちゃえ」

 

 キラッキラの瞳で『了解っ』と言った川内は、迷うことなくオンライン画像で『夜戦』の画像を検索していた。だが、やはりそんなものは見つかるはずもなく……

 

「見つからないなら他のイラストでも入れたらどうだ?」

 

 という俺のアドバイスを受け、蚊取り線香のイラストを挿入していた。なぜ夜戦でそのチョイスなのかは意味不明だが、サイズ変更も文字列の折り返し設定も問題なし。はがき作成は、問題なく終了した。

 

「できたー!!」

 

 川内、お疲れ様でしたー。

 

「詰まることもなかったし、スムーズに出来たなー」

「やったよせんせー!!」

「印刷して保存しときな。俺が取りに行くよ」

「ありがと!!」

 

 川内が印刷ボタンをポチッと押したのを確認して、俺はプリンタの元へと向かう。がっちゃガッチャという音と共に、プリンタから吐き出されたはがきには、先ほど川内が作成した『夜戦へのお誘い』という、なんとも川内らしい力の抜けるタイトルが、力強く印刷されていた。

 

「どうですか? ……ぶっ」

 

 様子が気になるのか、大淀さんも完成したはがきを覗き込む。はがきを一目見た大淀さんは、上品に口を右手で隠しながら、プッと吹き出していた。

 

「せ、川内さんらしいですね」

 

 ひとしきり笑いをこらえた後、やっと出てきた感想がそれだった。このはがき、確かに出来はいいのだが……いかんせん、文面がコチラの力を抜いてくる。……まさかこれが狙いってわけじゃないだろうな。こうやって、相手を油断させるのが目的ってわけではないよな……?

 

「まぁ……よく出来てます」

「ですね。これなら問題なく次に進めるでしょう……ぷっ」

「どおどお?」

 

 待ちくたびれた川内も、俺達のもとにやってくる。俺の左隣に来て、ちょっと背伸びしてはがきを覗き込んできた。

 

「ほれ」

「んー?」

 

 くっそ……こいつ、思ってる以上にパーソナルスペースが近いぞ……おれのパーソナルスペースを平気で侵食してきやがる……ッ!! しかも見ての通りべっぴんだから、普通のことをされると、それだけでもうやたらとよろしくない……ッ!?

 

「おっ! いい感じ!!」

「だな。文面以外は完璧だ」

「ぇえ~! 文章これじゃダメなの?」

 

 読んでる人の力を抜いてくる文章がイイとは言えん。大淀さんを見てみろ。お前のはがきを読んでからこっち、笑いをこらえるのに必死じゃないか。

 

「ぁあ、そうだそうだ。2人にちょっと聞きたいことあるんだけどいい?」

「俺の寸評は無視かッ!?」

「はい。どうしました?」

「神通を担当してくれてる先生のことなんだけど……」

 

 ああ。あの、人格的には素晴らしいけど、お前に負けず劣らずの変態太陽戦士のソラール先輩か。……とは口に出せず……。その言葉を喉元で必死に堪える俺に変わり、笑いがある程度収まった大淀さんが応対してくれた。

 

「ソラール先生がどうかしました?」

「好きな食べ物とかあるの? 神通が知りたがっててさ」

 

 昼間の神通さんの反応を思い出す俺。彼女、ソラール先輩が自分を担当してくれると知って、花開いたかのように笑顔になったもんなぁ。

 

――今日もよろしくお願いしますソラール先生!

 

「ほーん。神通さんはあの変態太陽戦士ソラール先輩にやられっぱなしか」

「? 太陽戦士?」

「お前に負けず劣らずの変人っぷりだ。鎧兜に身を包んでるが、それぞれに作画担当ソラール先輩のシュールな太陽のイラストを載せてる」

「そうなんだ」

「太陽みたいにでっかく熱くなりたいんだと。お前そっくりだけど、そこだけは正反対だな」

「負けてられないね!!」

 

 いや、対抗意識を燃やすところじゃないだろう……? そこは、人の振り見て我が振り直すところだろう……? 今俺の目の前で、ファイティングポーズを取りながら戦闘意欲を前面に押し出す夜戦バカは、そんな社会人として当たり前のことにも、気がついてないらしい。

 

「そうですね……考えてみれば、ソラール先生が好きな食べ物って何なんでしょう……聞いたことないですね……」

 

 大淀さんがそういい、自分の顎に手を当てて考え込む。

 

「そなの? 確かあの人、この教室が始まったときからいるよね?」

「ええ。でもお昼を一緒に食べたりしないですから。いつもお日様の下でエストを飲みたいって言って、外出しちゃうんですよ」

 

 その『エスト』とやらに対する疑問は尽きないが……それ以前に、大淀さんがソラール先輩の個人情報を知らないことが驚きだ。飯を一緒に食べる機会がなければ、確かに好きな食べ物の話題なんて、出ないのかもしれないなぁ。

 

 でも、あの人なら何だって『うまい! まるであの眩しい太陽のようだ!!』とか言って、何だって食べそうな気がするけど。あの性格だし。もらったものを邪険に扱うような風には見えん。

 

「あの人は、多分好き嫌いはないと思うぞ?」

「そうなの?」

「おう」

「んじゃ神通にはそう伝えておくね。二人共ありがと!」

 

 俺からはがきを受け取った川内は、そう言って俺たちに対し、屈託のない無邪気な笑顔を見せた。不思議とその時の笑顔は、暗くもなければ眩しすぎもない、見ていて温かい温度だけが伝わる、心地いい笑顔だった。

 

「……!?」

「ん?」

「バカやめろ……ッ」

「何を?」

 

 口には出せん……色々とよろしくないなどとは、口に出せんッ!!

 

「ちなみにせんせーはさ。何か好きな食べ物はあるの?」

「俺か?」

「うん」

「そうだなぁ……」

 

 人間不思議なもので、面と向かってそう言われると、自分の好物が何かわからなくなる。俺も不思議とこの時、頭に何も思い浮かばなくて、さっきの大淀さんよろしく、顎に手を当てて眉をハの字にして、考え込んでしまった。

 

「んー……」

「ん?」

 

 ……あ、おはぎ。きなこのやつ。

 

「おはぎが好きだな」

「男の人で甘いものが好きって珍しいね」

「俺は甘党だからな。特にきなこが好きだ」

「へーめずらし」

「……」

「……」

 

 ……会話、終わりかいッ!?

 

「神通がそのうち何か差し入れ持ってくるかも。『お世話になってるみなさんに何かお返しを……』てよく言ってるから」

「了解です」

「あいよん」

 

 神通さん……いい子だなぁ……こっちは仕事でやってるんだから、お礼なんて別にいいのに……それに引き換え……

 

「よぉぉおおおし! んじゃ次だぁああああ!!」

 

 両手を大きく上に突き上げ、そう吠える川内の背中を見守る。あいつはいつもあんな調子で……頭が痛い……。

 

「クスクス……カシワギさん?」

 

 何とも言えない気持ちで川内の後ろ姿を見守る眺めていたら、とても優しい大淀さんの声が俺を読んだ。振り返ると、彼女は口を押さえ、くすくすと笑いながら俺を見ている。何か言いたいことがあるのか?

 

「どうしました?」

「いえ……プッ……この後も、授業よろしくお願いしますね」

「はぁ」

 

 なんか意味深だなぁ……大淀さんの言葉に若干の疑念を感じつつ、新たなテキストを手にとって、俺は川内の後を追って教室に入った。

 

「んじゃ授業に戻るぞー」

「はーい。次は何やるの?」

「もう一枚はがきを作った後、表の作成方法を学ぶ」

「りょうかい! じゃあ夜戦参加者の一覧表を……!!」

「あのハガキで本当に夜戦に人を招待するつもりかッ!?」

 

 




Wordではフォントサイズを14ポイント以上にすると、
一気にグバッと行間が開いて、えらいことになります。
必要に応じて、以下の操作で行間をみちっと狭める事が可能です。

1.行間を狭めたいところを選択。
2.『ホーム』タブの『段落』グループ、右下隅のちっちゃい四角をクリック。
3.段落ウィンドウが開くので、その中の
 『1ページの行数を指定時に文字を行グリッド線に合わせる』
 のチェックを外す。(チェックではなく■になってる場合も同じ)
4.『OK』をクリック

川内が作ったハガキ

【挿絵表示】


作成の様子(動画)
https://youtu.be/UP9bV_p7KdE


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5. その名は岸田。小説家志望


「今日からこちらでお世話になる岸田です。よろしくです」

 

 新しい生徒さんの岸田さんは授業前、そういって俺達3人に対し、頭を下げた。この教室では珍しく、20代の若々しい男性で、顔が若干テカっていた。

 

「こちらこそ、よろしくおねがいしますね」

「岸田殿! よろしくお願いする!!」

「よろしくお願いします岸田さん」

 

 俺と大淀さんは頭を下げ、ソラール先輩はいつものグリコのポーズを取っている。この人、初対面の人に対してもこんな感じなのか……いや、すでにこの格好が非常識極まりないんだけどね。だいぶ慣れて馴染んじゃったんだけど。

 

「では岸田さん、こちらへどうぞ」

「はい」

 

 俺にそう案内され、岸田さんは俺と共に教室に入る。教室には他の生徒さんが5人、すでに割り振られた自身の席へとついていた。

 

「じゃ、岸田さんはここですね」

「はい」

 

 岸田さんを窓際の席に座らせ、俺はその隣に陣取った。岸田さんの席のパソコンの電源を入れ、ブートローダーを立ち上げでOSを選択する。事前のカルテでは岸田さんが使用しているOSは8.1で、Officeのバージョンは2013。

 

「これは何ですか!?」

「ブートローダーって言って、インストールされてるOSを選択するソフトですね」

「これを俺のパソコンにも入れるにはどうすれば!?」

「これは売ってるものではないので無理です~」

「……ック!」

 

 ブートローダーに食いついてきた人ははじめてだな……パソコンに興味津々なのか? ……いや、なんかそうではない気がするのだが……まぁいい。授業をはじめようか。

 

「では岸田さん、よろしくお願いいたします」

「はい。よろしくお願いいたします! ……先生、この前の時も言いましたけど、俺は必要な機能だけを教えてくれればいいですからね!?」

 

 授業の開始を告げる俺に対し、岸田さんはそう言って、俺に対して改めて釘を差してきた。その時俺に向けた顔は、盛大なドヤ顔だった。

 

 岸田さんが、このパソコン教室に電話をかけてきたのは、一週間ほど前だ。1年ほど前にパソコンを購入し、我流でWordを利用していたそうだが、わからないことが多すぎて何がなんだか……と辟易していたところ、このパソコン教室の広告を見て一念発起したらしい。

 

 なんでも岸田さんは、現在は我流で使っているWordの機能を、一通り覚えたいそうだ。趣味なのか仕事なのかはよくわからないが、どうも小説を書いてるらしく、Wordで小説の執筆に何か便利な機能があれば、それを活用したいと言っていた。

 

『というわけで、当校では特に希望がない場合、まずはWordを習得していただくところから始めています』

『なるほど! 俺の知りたいことを教えてくれるというわけですね!?』

 

 これは、入校前に一度ここに顔を出した時の、大淀さんと岸田さんのやりとりの一コマだ。このセリフを聞いた時、俺はどうにも嫌な予感がしていた。その予感があたってなければいいのだが……

 

 OSが立ち上がり、画面にデスクトップが表示された。

 

「では岸田さん、パソコンの基本操作の確認をしていきましょうか」

「大丈夫です! 常日頃使ってるんですから!!」

「ですよね。まぁ大丈夫だとは思うのですが、念の為という感じですかね」

 

 んー……嫌な予感が当たりそうな気がする……。

 

 この教室では、パソコン経験者の生徒さんの場合、まず最初に『どの程度パソコンを扱えるか』ということを確認する決まりがある。この結果を元に、今後のカリキュラムの組み立てや指導方法を決定していく。

 

「ではまず、ゴミ箱を開いてみましょうか」

 

 俺はあえて具体的な操作を指示せず、ただ『開く』とだけ言ってみた。

 

「『開く』とは?」

「『開くとは?』と聞かれても……『開く』は『開く』としかいえません……」

「んー……分かった!」

「はい。じゃあやって……」

「『開く』ってのは、『グバッてする』てことだな!?」

 

 ……ほわっつ?

 

「えーと……逆にお伺いしますが……その、『グバッてする』とは……?」

「なんだ……先生なのにそんなこともわからないのか……。『グバッてする』てのは、『グバッ』てするってことだろう」

 

 ……はじめてパソコンを触ってから今日まで、かれこれ10年以上になるが、『グバってする』て操作は、俺は初めて聞いた。そんな操作があったのか……?

 

「えーと……じゃあ、ちょっと『ぐばっ』てしてみましょうか」

「なんでやらなきゃいけないの?」

 

 うわめんどくせえ……。

 

「確かに俺は、その『ぐばってする』てのはよくわからないんですけどね?」

「そもそも俺が知りたいのはWordの操作の仕方なんだけど……?」

「Wordの授業に入る前に、岸田さんがどれぐらいパソコンを使えるか知りたいんです」

「知ってどうするの? そもそも俺は、パソコン歴は2年ぐらいあるよ?」

 

 そんな人が『ぐばってする』とかよくわからない言葉を使うはずがない……その言葉が喉まで出かかったが、俺はなんとかしてその言葉をこらえた。

 

「……ッ……ツオッ」

「ん?」

「と、とにかく、ゴミ箱をひら……ぐばっ! てして下さい」

「仕方ないなぁ……」

 

 岸田さんは、俺の指示が腑に落ちないようだ。しかめっ面をしながら、ゴミ箱のアイコンにマウスを持って行って、カチカチとダブルクリックしていた。途端に開く、ゴミ箱のウィンドウ。

 

「はい。グバッてしたよ?」

 

 こちらを見てそう答える岸田さんは、盛大なドヤ顔だった。

 

「っく……ッ……ク!!」

「? 先生どうしたの? 大丈夫?」

「し、失礼……通常、その操作を『開く』って言うんですよ」

「あそ。でも先生、これ知らなかったんだよね?」

「『開く』の操作を『グバッてする』と言う人ははじめ……」

「せんせー大丈夫なの? なんか不安だなぁ」

 

 うわこいつめんどくせえ!!  やっぱり言いたいことだけ言って、人の話を聞かないタイプだ!! 俺の悪い予感が的中した!!

 

「えーと、じゃあ次は、ウィンドウを閉じて下さい」

「はいはい……」

 

 どうも俺の事をいまいち信頼してないであろう岸田さんは、めんどくさそうにゴミ箱のウィンドウを閉じていた。『開く』は『グバってする』て覚えてたのに、『閉じる』はそのまま『閉じる』なのか……。この人の基準がなんだかよく分からない……。

 

「閉じたら次は、ゴミ箱のアイコンをドラッグしてみましょう」

「ドラッグて何? また変な言葉勝手に作ってるの?」

 

 コノヤロウ……張り倒してぇ……ッ!!

 

「えーと……ゴミ箱のアイコンを、画面の真ん中に移動させましょう」

「なんだよ最初からそう言ってよー。先生の言い方わかんないよー」

 

 俺の笑顔を形作っている表情筋に、ヒビが入ったことを自覚した。努めて笑顔でいるつもりだが、自分のおでこにほんの少しだけ青筋が立っているのが、自分でも良く分かった。

 

「……ック!!」

「やるよやるよやりますよーやりゃーいいんでしょー。はーい……ズリズリズリ」

 

 岸田さんはゴミ箱のアイコンをきちんとドラッグした。操作そのものは問題ない。問題ないのだが……

 

「はい先生、ズリズリしたよ」

「……」

「んで? いつまで続けるの? いいよっていわれるまで、いつまでもズリズリし続けちゃうよ? ほら、早く止めなきゃ。ほーらほーら」

 

 なんなんだ……こちらの神経をいちいち逆なでしてくる、この物言いは。しかも、操作をした後、いちいちこちらを向いて、ドヤ顔を見せてくる。それがまたハラタツ。

 

 今も岸田さんは、ゴミ箱を時計回りにぐるぐるとドラッグし続けながら、俺に向かって盛大なドヤ顔を決めている。ちくしょう……こいつが生徒じゃなくて気心の知れた友達なら、今頃問答無用で張り倒しているのに……ッ!!

 

「んで? 次は何すればいいの?」

「ック……め、メモ帳を起動させて……下さい……ッ!!」

「いいけど……意味あるの?」

「あるんです……ッ!!」

 

 ため息混じりに『はいはい』と言った後、岸田さんはアプリ一覧からメモ帳を探す。俺はその光景を見ながら、自分の言葉に少しずつ、トゲが生えてきている事を自覚した。

 

 アプリ一覧をしばらく眺める岸田さん。メモ帳は目の前にあるのだが、どうも目線はメモ帳を素通りしたらしく、画面をさらーっと見回した後、眉間にシワを寄せて、俺の方を向いた。

 

「メモ帳ないよ?」

「あります。ありますから……」

「ないよ?」

「ありますって」

「ないって。これだけ探しても見当たらないんだもん。ないよ。このパソコンおかしいんじゃない?」

 

 アンタの目の前にあるんだよっ!

 

「ありますから」

「あんたもしつこいね」

「しつこいもクソも、ありますもん」

「だからないんだって。このパソコンおかしいよ」

 

 なんだか俺も段々ムキになって来た。この人、いちいち言い方が癪に障る。大体、自分が見つけられないことをパソコンのせいにするって、どういうこっちゃ。

 

 俺は胸ポケットからボールペンを一本取り出し、そのペンで目の前のメモ帳のアイコンを指し示した。ほら。あなたが見つけられなかったメモ帳はここにあるんですよー。どこもおかしくなんかないですよーだ。

 

「あ! そんなところに!! もー早く言ってよー!! 先生も意地汚いなー!!」

 

 クッ……我慢だ……我慢の時だ……ッ!!

 

「で? メモ帳をどうするんだっけ?」

「き、起動……あ、いや……『ぐばっ』てして、下さい……ッ!!」

「やだよ。なんで?」

 

 俺は生まれて初めて、自分の頭の血管が切れる音というものを聞いた。『ブヂィイッ!!!』って音、ホントに鳴るんだ……。

 

「岸田さんっ!!!」

「ひ、ひゃいっ!?」

 

 つい立ち上がり、大声で岸田さんの名を呼んでしまった俺。岸田さんはそんな俺の変貌っぷりにびっくりしたのか、身体を少しビクッとこわばらせていた。よく見ると、目が泳いでいた。

 

 ……不思議とこの時、派手にブチ切れたはずの俺の頭の中の血管が、猛スピードで修復された。俺の頭は急速にクリアになり、意識が冷静になっていく。

 

「……えーと」

「は、はい……?」

「特に操作に問題はないようですが、操作の名称が少々変ですね。その辺はこれからの授業の中で修正していきましょう。正しい名称を少しずつでいいので覚えて下さい」

「は、はい……ホッ」

 

 とにかく、岸田さんのパソコンスキルの習熟度を見るのは終わりだ。岸田さんは、覚え方はおかしいが、操作そのものは特に問題はないようだ。

 

 次に見るのはタイピングだ。これは、決められた文章を制限時間内に打ち込んでもらうというテストになる。

 

「次に、岸田さんのタイピングの腕前を見せてもらいます。この文章を、30分で打ってみて下さい」

「は、はい……」

 

 先ほどに比べて幾分マシになった岸田さんの物言いを確認した後、俺は一度席を立って事務所の自分の席に戻った。

 

「……ックアッ!!」

 

 自分の席に戻った途端、全身の疲労が一気に襲いかかった。俺の精神がそこまで疲弊してたってことなのか……!?

 

「ハアッ……ハアッ……」

「……カシワギさん」

 

 俺の向かいに座る大淀さんが、自分の席のパソコンの画面から目を離さず、俺に声をかけてきた。その声はいつになく冷たくて、聞いてるこちらの耳に刺さる声だった。

 

「は、はい……ハアッ……」

「お気持ちはお察ししますが、冷静に」

「はい……す、すみません……」

 

 た、確かに……ここで感情的になってどうする……!!

 

「気をつけます……」

「はい。お願いします」

 

 大淀さんはそれ以上は何も言わず、キーボードをパチパチと叩いている。彼女の顔が俺の視界に入ったが、メガネにパソコンの画面が写り込んでいて、彼女の眼差しがよく見えなかった。おかげで、大淀さんがとてつもない怒りを押し殺しているように見えるが……

 

 それ以上その空間にいられなくて、俺は逃げるように教室に戻った。忌々しい岸田さんの席の隣に戻り、再び岸田さんの様子を見る。

 

「ソラール先生、ちょっといい?」

「ああタムラ殿、今向かう」

 

 さっきまではまったく気が付かなかったが……ソラール先輩は、鎖帷子をチャリチャリと鳴らしながら、せかせかと教室内を歩きまわっていた。考えてみれば、岸田さんの相手をしている間、俺は他の生徒さんの誰からも声をかけられなかった。先輩が、他の生徒さん全員の面倒を見てくれていたということか……。それなのに俺は……たった一人の生徒さんの相手も満足に出来ず、イライラを募らせて……自分が嫌になる……。

 

「先生!」

 

 隣の岸田さんが俺に声をかけてきた。俺は今度こそ、この人に優しく接して、信頼を得ようと思ったのだが……

 

「さっきこの文章を打ってって言ってたけど……」

「はい。どれぐらい出来ました?」

 

 次の瞬間、その決意は、早くも瓦解の危機に陥った。岸田さんの画面には、Wordやメモ帳など……タイピングをしていた痕跡はまったくなく、ウィンドウも何一つ開いてない、綺麗なデスクトップのままだった。

 

「何を使って打てばいいの?」

「伝えなかった俺も悪いですが……分からなければ、早く質問して下さい……」

 

 岸田さん……一筋縄では行かない生徒だぜ……

 

 その後、Wordを起動させてタイピングの様子を観察してみる。どうやらタイピングそのものは問題ないようだが、Wordの操作そのものに関してはたどたどしい。右揃えや中央揃え、フォントサイズの変更なんかは問題なく出来るようだが、画像の取り込みや行間の調整といった、ちょっと直感ではわかり辛い操作に関してはまったくできてなかった。

 

「はい先生、終わったよー」

「はい。確認させてもらいましたが、やはりこのままWordの授業に入りましょうか」

「だから最初からそうして下さいって言ってたのに……」

 

 この岸田さん、また調子に乗り出したようだ……

 

「それで先生、俺はね。小説を書いてるんだよ」

「伺っております」

「それでお願いがあるんだけど……」

「なんでしょう?」

「余計なことは教えなくていいから。必要なことだけ教えてくれればそれでいいよ」

 

 うーん……気持ちは分かるけど、小説の執筆に必要な機能ってなんだ? 本人がそれを絞りきれてないし、俺達がそれを把握しているわけでもないし……なんだかものすごくふわっとした要望だなぁ……

 

「んー……約束はできませんが、検討はしておきます」

「頼んだよ?」

「繰り返しますが、約束は出来ません。とりあえず今日は、このままWordの授業に入ります。何が小説の執筆に役に立つのか分かりませんし」

「写真の取り込みとかはいらないよ? だって使わないし」

 

 使わないかどうかはわからないだろー!?

 

「と、ともあれ検討はさせていただきますから。とりあえず今日のところは、素直にWordの授業を受けて下さい」

「はいはい……」

 

 はいは一回でいいって母ちゃんに習っただろー!?

 

 そんな俺の魂の叫びがせ漏れだすのをなんとか我慢して、俺は残り時間、岸田さんに無理矢理Wordの授業を受けさせた。

 

「……ソラール先輩」

「ん?」

 

 授業が終わり、岸田さんを含む生徒さん全員がいなくなった後、俺は帰り間際のソラール先輩に声をかけた。授業で他の生徒さんのフォローをしてくれていたことと、今日の失態を謝るためだ。

 

「……今日は、すみませんでした」

「なに。気にすることはない。神通の初めての授業の時、貴公も他の生徒をしっかりフォローしてくれていたじゃないか」

「でも」

「困った時はお互い様だ。そこは気にしなくてもいい」

 

 意気消沈気味の俺に対し、ソラール先輩は、そう言った後、肩を揺らして朗らかに笑ってくれた。幾分、肩が軽くなった気がする。

 

「……それに、今日の何がまずかったのかは……すでに貴公は分かってるみたいだしな」

「……ええ」

「なら、俺は何も言うことはない。太陽の戦士になるために、必要な試練だったのだろう」

「……ですね。太陽の戦士ではないですが……乗り越えるべき試練なんでしょうね」

「その意気だ! では太陽メダルを一つ、進呈し……」

「それは結構です」

「貴公……」

 

 その後『太陽……俺の太陽よぅ……』と情けない声を上げながらソラール先輩は帰って行った。やっべ……あの珍妙過ぎる鎧兜の太陽マークが、今日だけはとても輝いて見える。後ろ姿から光が見えるぞマジで……。

 

 そして教室に残されたのは、大淀さんと俺の二人だけだ……。ソラール先輩が帰ってから、会話がまったくない。

 

「……」

「……」

 

 岸田さんの備考欄に今日の出来事を記入した後、いたたまれない気分で縮こまる。向かいの席の大淀さんの様子を伺う。

 

「……」

 

 キーボードを打つ手が止まった。岸田さんの備考欄を眺めているのだろうか……。

 

「……カシワギさん」

 

 ……来た。目が合わないよう気をつけながら、改めて向かいの大淀さんの様子を伺う。……とても鋭い目で画面をじっと見つめている大淀さん。やっぱり声が冷たい感じがするのは、俺の気のせいだと思いたいっ……!!

 

「岸田さんですが……」

「は、はい……」

 

 ……何を言われるんだろう……なんて叱られるんだろう……ッ!? なんて俺が身構えていたら。

 

「……めんどくさそうですねぇ」

「はいッ! ごめんな……へ?」

 

 あれ? 反応がなんか予想外……?

 

「小説の執筆に必要な機能だけを知りたい……ですか」

 

 お、怒られるんじゃないの……?

 

「はぁ……それ以外は使わないから、教えてもらっても無駄だと言ってました……検討するとだけ伝えておきましたから、要望が100パーセント通るとは思ってないとは思いますけど……」

「うーん……機能の絞り込みがややこしいですね。それに、仮に私達が機能を厳選して教えても、あの性格の岸田さんが素直にそれを受け入れるかどうかは……」

 

 お、俺、怒られるんじゃなかったの? 大淀さん、怒ってるんじゃなかったの?

 

「あ、あのー……」

「はい?」

 

 まな板の上の鯉の気分は早く終わりにしたい……叱るなら、早くキチッと叱って欲しい……我慢できなくなった俺は、大淀さんに確認してみることにした。

 

「し、叱るなら、早く叱って下さい……生きた心地がしません……」

「なぜ?」

「え……なぜって……」

「……ぁあ、授業中の話ですか?」

「ええ」

「あれならもう注意はしましたし。それに、お気持ちはよく分かりますから。本当はいけないんでしょうけど」

「はぁ……」

 

 なんか拍子抜けした……俺が必要以上に怖がっていただけで、大淀さんは、俺のことを叱るつもりは、もうないらしい。それよりも、岸田さんの授業で何を教えるか……そちらのほうが問題なようだ。

 

「小説執筆に便利な機能ですか……」

「何でしょう……?」

 

 岸田さんか……なんか先が思いやられるな……授業の進行そのものもめんどくさいし、カリキュラムも特別なものを組まないといけない……おまけに、そのカリキュラムを本人が気に入るかどうかもよくわからない……これはけっこうな無理難題な気がする。俺もつい大淀さんと同じポーズを取って考え込んでしまう……。

 

「……ま、悩んでいても仕方ないですね」

 

 切り替え早いな……大淀さんはサクッとそう言うと、パソコンの電源を落とし、帰る支度をはじめる。机の上の自分の筆記用具をペンケースにしまい、それと数枚の書類をバインダーに挟んで自分のバッグの中に投げ込み、バッグの口を閉じていた。

 

「大丈夫なんでしょうか?」

「ええ。分からないことは、わかる人に聞くのが一番です」

「何かアテでもあるんですか?」

「私の友人に、趣味で同人活動をしている人がいます。確かシナリオ執筆もしていたはずなので、一度彼女に相談してみます。だからカシワギさんは、悩まなくて大丈夫ですから」

「はぁ……」

「カシワギさんは、川内さんの授業と業務基幹ソフトの開発に専念してください」

「了解です」

 

 大淀さんがそう言い、俺に微笑みかけてくれた。

 

 ……この職場、いい職場だなぁ……前の職場だと『とりあえずやれ』『いいからやれ』『出来ないのは分かったからやれ』と言われて、経験のない仕事をとりあえずの体で押し付けられ……そのくせフォローを求めたり相談を持ちかけたりすると『そんなん自分で解決しろ』と言われ……なんとか終わらせたら『感動がないんだよ。仕事ってのは、相手を感動させないとダメなんだよ』と意味不明のダメ出しをされ……それに比べて、ここはちゃんとフォローもしてくれるし、業務上の注意も後腐れないし……相談にも乗ってくれるし……本当の職場って、きっとこんな職場なんだよなぁ……

 

「カシワギさん?」

「はい?」

「涙目ですけど、どうかしました?」

「……いえ、この職場の素晴らしさに改めて感動していたところでして……ぐすっ」

「?」

 

 俺の感動に共感できなかった大淀さんは、戸惑いながら『ではあとはよろく』と告げて、首を左にひねりながら帰宅していった。

 



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 時刻は午後7時5分前。そろそろあいつがやってくるわけだが……。今日からは大淀さんというフォローがおらず、この時間を俺一人で切り盛りする。泣いても笑っても、たった一人で、あの夜戦バカと戦わなければならない。

 

 時計の長針が、11を通り過ぎた頃、俺の身体が自動的に身構えた。そしてその直後。

 

――ガチャッ

 

 入り口ドアのドアノブが動いた。それに呼応し、俺の身体がビクンと波打つ。

 

「来たのかッ!?」

 

 俺は、隙間からただならぬ瘴気を漏らし始めた入り口ドアを見た。すりガラスの向こう側に見える、真っ赤な人影……間違いない。あいつだ。あの真っ赤なパーカー……そして不必要にガチャガチャと回されるドアノブ……。恐怖で身体がすくんでくる。あのドアの向こうには……闇に魅入られし夜戦の申し子がいる……夜の闇に俺を毎度誘わんとする、あの、賑やかな小悪魔がいやがる……ッ!?

 

「……クックックッ」

「ゴクリ……」

「……知ってるよ、せんせー……クックックッ」

「な、何をだ……ッ!?」

 

 ついにドアが重苦しく、ギギギと音を立ててゆっくりと開き始めた。そのドアの向こうに奴はいた……真っ赤なパーカー……そして闇の寵児のくせに、まぶしすぎてこちらの神経を逆なでしてくる、あのフラッシュライトのような笑顔……ッ!!

 

「今日からは、大淀さんがいない……つまり……せんせーは一人!!」

「バカなッ!? なぜそれをッ!!?」

「つまり……今日からは、夜戦し放題ッ!!!」

「ッ!?」

「クックックッ……はっはっはっ……ハーッハッハッハー!!!」

 

 ついに来た……来てしまった……! ことあるごとに夜戦の闇に俺を引きずり込もうとし、俺が油断したときは、急にべっぴんな横顔を見せて俺を翻弄してきやがる小悪魔……川内が、来てしまった……ッ!!!

 

「というわけで!! せんせー!! 今日こそ夜戦ッ!!!」

「いいから早く席につけよ」

「ぇえ〜……さっきまで私の寸劇にノリノリで付き合ってくれてたじゃん。そのまま夜戦にも付き合ってよー!」

「お前何しにこの教室に通ってるんだよッ!! いいから早く席につけって!」

「ぶーぶー!!」

 

 お前のテンションの高さに付き合ってたらな……身体がいくつあっても足りんわ……。

 

 ぶーたれている川内をいつもの席に案内し、パソコンの電源を入れてOSを選択する。OSが立ち上がるまでの間に、今日の授業の予習だ。

 

「さて川内。今日はWordでの表の作り方を学ぶ」

「前回はそこまでいかなかったもんね! これで夜戦参加者の表も簡単に作れるね!!」

「それを作るかどうかは置いておいて、とりあえずはそうだな。名簿とか予定表とか、そういうものを作るときに便利なのが表だな」

 

 そういい、俺は川内にテキストを開くことを促した。川内がいつもの調子でテキストを開き、表の単元を探している間にOSが立ち上がる。

 

「せんせー、テキストのどこー?」

「第四章だ」

「はーい」

 

 目次から第四章のページ数を確認した川内は、そのままペラペラとテキストのページをめくっていった。その間の時間が少々もったいないと感じた俺は、一度立ち上がって川内の右側に移動し、マウスを使ってWordを立ち上げておくことにする。

 

「お?」

 

 偶然か? 俺がマウスを握ろうとしたら、川内がマウスの上に右手を置きやがった。おかげでマウスをつかむ川内の右手を、上から鷲掴みしそうになる。

 

「……にひんっ」

 

 なんだよそのしてやったりな笑顔は……おまけにいつも以上に白い歯をキランって輝かせて……

 

「おおすまん。お前がテキストで第三章を探してる間にWordを起動させとこうと思ったんだけど……」

「せんせーにマウスは渡さないよ!!」

「……なんで?」

「だってこれも夜戦だからね!!」

 

 はい。そうですね。夜戦ですね。

 

「だから負けられないッ!!」

「はいはい……とりあえずWordを立ち上げてくれ」

「りょうかいっ!!」

 

 俺にマウスを操作されるのが、そんなに悔しいのかねぇまったく……こいつ、実はものすごい負けず嫌いとかなのか? それにしても、負けず嫌いの発揮ドコロを間違ってるとは思うけど。

 

 Wordを立ち上げた川内には、そのまま文書作成に入ってもらう。今回は表の挿入にチャレンジしてもらうわけだが、そこまでのタイトルや日付に関してはも今までのやり方で十分対応可能だ。なら、こちらは何も言わず、川内にすべてを任せてしまって大丈夫だ。

 

「せんせー。終わったよー」

「はいよー」

「それにしても、今回作るプリントって私ぴったりだなぁ」

「俺は突っ込まない」

 

 今回、実習で作ってもらうのは『秋の鎮守府夜戦トーナメント大会 ルール変更に関するお知らせ』というプリントだ。ルールの変更一覧を、表で見せようという魂胆の模様。……なぜよりにもよって夜戦なのか?

 

「んじゃ川内、カーソルを“記”と“以上”の間に持ってきてくれー」

「はーい」

「持ってきたら、『挿入』タブをクリックして、『表』てボタンをクリックだ」

「はーい。なんかマス目みたいなのが出てきた」

「そのマス目みたいなとこ、どこでもいいからマウスのっけてみ」

「んー? ……ぉおっ!?」

 

 川内がマス目部分にマウスをポイントした途端、ちょうど文書のカーソルの位置に、挿入される表のプレビューが表示された。川内はマス目の上でマウスをずりずり動かして、プレビューの表示が切り替わっていくのをジッと観察している。

 

「なるほど。マス目と表が連動してるねぇ」

「おう。それで挿入される表がどんなものか確認して、それで大丈夫なようならクリックすれば、その表が挿入される」

「ふんふん」

「とりあえず今回は5行3列の表がほしいから、縦に5列、横に3列になるところでマウスをクリックしてみ」

「はーい」

 

 言われるままにクリックする川内。5行3列の表が挿入され、『ぉおっ』と声を上げていた。こいつ、いつもびっくりしてるなぁ……

 

「そこの一マス一マスに文字を記入できるから、クリックして入力してくんだ」

「りょうかーい」

「途中一行がぶっとくなっちゃう時もあるだろうけど、あとで調整するから気にせずやれいっ」

「はーい」

 

 今回作る表の、『参加可能艦種』と『勝敗の決し方』の項目は、中の文章が二行になる。だから入力中はどうしても他の項目に比べて縦の幅が二行分になってしまうのだが……そこはあとで調節する。

 

 ……なんかしらんが、急に鼻がむずっとした。

 

「えぐしっ!?」

「風邪?」

「いや、むずってしただけだ」

「ふーん。誰かがせんせーの噂してるのかな?」

「お前は故郷のおばあちゃんかっ」

「うへっへっへっ」

「えぐしっ!?」

「とりあえず口は押さえた方がいいよ?」

「す、スミマセン……」

 

 俺への突っ込みの傍ら、バシバシと表に項目を入力していく川内。こいつもタイピングが早くなったなぁ。かな入力だから、ローマ字の組み合わせを覚えなくてもいいってのが功を奏しているのかも知れない。

 

「ねーせんせー」

「んー?」

「かっこ“()”ってどうやって入力するんだっけ?」

「“かっこ”で変換。もしくは“ゅょ”って入力して、f9で変換」

「ほいほい」

 

 そうしてしばらくの後、入力は完了。『提督の扱い』という項目がどうにも気になるが……これは聞いても大丈夫なのか?

 

「なー川内」

「ん?」

「この『提督の扱い』の変更後がさ。『賞品』ってなってるんだけど……なんだこりゃ?」

「提督って言ったらさ。鎮守府の艦娘みんなのあこがれだからねー。だからこうやって、大会なんかで提督をみんなで取り合う鎮守府ってのも、あるかもしれないね!」

 

 マジか……ただのハーレムじゃないかそれじゃ……しかも艦娘っていえば、全員が可愛かったり美人だったりとかしてたよな確か……どんだけ煩悩の天国だったんだよ……。

 

「ちなみにお前は?」

「私? 私は別に」

 

 だよなぁ……こいつが男の前でデレッデレになってるとこって想像できないもんな……。

 

「だってうちの提督、夜戦に全然付き合ってくれなかったしね。中年だったし」

「貴公……」

 

 やっぱりそこかよ……ソラール先輩すみません……先輩の口癖、完全に伝染ってしまいました……。

 

 さて、ここからは作成したプリントの書式設定だ。まずは表以外の部分を、川内自身にやらせる。今までさんざんやってきたことだし、川内ももう慣れたものだ。

 

「中央揃えにしてあげて〜……フォントを大きくしてあげて〜」

「すいすい出来るようになったなぁ川内」

「この調子でいずれはせんせーと、すいすいーってやせ」

「それ以上は言わせんッ」

 

 まぁここまでならな……あの、一筋縄ではいかない男、岸田さんもできてることだし。……なんか思い出したら、妙にむかっ腹がたってきた。

 

「右揃えで……って、せんせーどうしたの?」

「ん?」

「なんか顔がプンスカしてるよ?」

「気にせんでよろしいっ」

「? まいっか。出来たよー」

 

 川内の宣言通り、表以外の部分は書式設定は完了。続いて表の書式設定に入る。

 

 とは言っても、基本的には文章の部分と変わらない。表特有の書式設定がいつくかあるだけだ。

 

「とりあえず出来た表見てみ。気になるところあるだろ?」

「うん。『参加可能艦種』と『勝敗の決し方』のとこだけ高さがぶっとくなってる」

「それ調節すっか」

「どうやるの?」

「その、上から2行目から4行目までを選択してみ」

「ほい」

 

 言われるままに選択していく川内。いっちょまえに左余白を使いやがって……この前まで触ったこと無いとか言ってたくせに……理不尽なのは承知だが、なんか腹たつなこいつ……。

 

「選択したよー」

「そしたらな、『表ツール』の『レイアウト』タブに『高さを揃える』ってボタンがあるから、それ押してみ。……えぐしっ!?」

「大丈夫ー?」

「余裕」

「えーと……レイアウトタブの……これ?」

「おーいえー」

 

 川内が『高さを揃える』ボタンを押した。途端に、表の選択されている部分の、行の高さがピシッと一律にそろった。

 

「ぉおッ!?」

「あとは横幅だな。境界線ってドラッグできるんだよ。試しにやってみ」

「ういっ」

 

 その後は横幅を整え、紙の中央に配置して……無事に表が完成した。川内もずいぶんと理解が早くなったもんだ。ここんとこずっと集中的に授業を受けてるからかなぁ?

 

「できたー!!」

「ほい。おつかれさーん」

 

 今俺の隣で、印刷が終わったプリント『秋の鎮守府夜戦トーナメント大会 ルール変更に関するお知らせ』を満足気に眺める川内。今回も割と理解が早かったし、今後は授業を進めるスピードを上げてもいいかも知れない。出来る生徒なら、さくさく進めてあげたほうが、本人もきっと楽しいはずだし。

 

「んじゃ一端休憩するか」

「了解! 後半は何するの?」

「後半は、今のことのおさらいで、課題プリントをいくつか作ってもらう」

「はーい。バシバシ作ってさっさと次の夜戦にすすもーう」

「夜戦ではないけれど、その意気だっ。んじゃ休憩だー」

 

 『了解っ』と敬礼している川内を教室に残し、俺は事務所に戻った。自分の席に座ってAccessの業務基幹ソフトを開いて、今日の川内の進捗状況を記入する。

 

「本人の習熟も早く、進行スピードを上げることも……」

 

 授業自体は多少ふざけても大丈夫だが……進捗報告は真面目に書かねばならん。こうして川内の授業の進捗を記入していたら……

 

「考え……ひゃあんっ!!?」

 

 突然、俺の首筋に冷たい感触が走った。不意打ちの氷点下の衝撃は、俺の喉から変な叫び声を絞り出させるには充分だったようで、俺は変な声を上げ、反射的に首を押さえてガタッと勢い良く立ち上がり、憤怒の形相で振り返った。

 

「ぶひゃひゃひゃ!! なにムツさんみたいな変な声出してるの!?」

 

 俺の背後で、今の事件の容疑者の川内が、腹を抱えて笑ってやがった。ちくしょう。俺の喉からセクシーボイスを絞り出させやがって。

 

「お前なぁ……人が真面目に仕事してる時に……!」

「いやぁーせんせーの無防備な首筋みたら、ちょんって突っつきたくなっちゃって。せんせー、首筋弱いの?」

「ここが強いやつなんていないだろう……」

「私、別になんとも無いよ?」

「うそつけー」

「ホントホント。触ってみなよ」

 

 そう言いながら川内は、俺の左隣にやってくると、少しだけ頭を下げ、首筋を無防備に俺に向けてきやがった。……むかついたのは、こいつの首筋がすんごい綺麗なことだ。夜戦バカで賑やかなアホのくせに、色白でめちゃくちゃ綺麗な肌してやがるなこいつ。この綺麗な首筋の反対側で、このアホがニッタニタに笑ってる事を考えると、ドキドキはまったくしないが……むしろ腹立たしいだけだが……

 

 この、無防備でムカつくほど綺麗な首筋を、俺は左手でガッシと掴んでみた。

 

「……」

「……」

「……ニヒっ」

 

 どうやら、なんとも無いというのはウソではないらしい。川内は俯いていた顔を上げて俺の方を振り返る。おかげで川内の首を掴んでいた手が川内の頭と肩に挟まれて、俺は手を放して引っ込めることが出来なくなった。

 

「ほらせんせー! 私、平気でしょ?」

「まぁいいから手を離せよ。これじゃ仕事が出来ん」

 

 お前の首筋、あったかいんだよ……平気だと思って触ってみたけど、想像以上にダメなんだよ色々と……。

 

「私の勝ちだね、せんせー」

「分かったよ。お前の勝ちでいいから」

「やったぁぁああああ!! んじゃ早速夜戦を……!!」

「なんでそうなるんだよ……」

「ハーッハッハッハッ!!!」

 

 適当なところで寸劇を終わらせ、俺はこの夜戦バカの高笑いをBGMに、川内の授業の進捗を記録する仕事に戻る。

 

 ……そういえば。今日の授業は、あとはプリント作成だ。……ならば、俺もAccessでの開発を少しだけでも進めたほうがいいかもしれん。

 

「川内」

「おっ! ついに夜戦かなっ?」

 

 俺の呼びかけに対し、川内はニッコニコの満面の笑みで振り返り、右手人差し指と中指をピンとたて、それを顔の前に持ってきていた。そのさまは、アメリカ映画でよく見るジャパニーズ・ニンジャ・ファイティング・ポーズを連想させた。なんでニンジャ? 夜戦だからか?

 

「違う。これからお前はプリント作成に入るんだけど」

「そうだね! 今日は何枚をカットインで撃沈できるかチャレンジだっ!」

「意味が分からん……俺もちょっとやりたいことがあるから、それを進めてもいいか?」

「それはいいけど、何するの?」

「うーん……元々の本職に近い仕事……てやつかなぁ?」

「? ……ハッ!?」

「?」

「ひょっとして……やせ」

「それはない。それだけはない」

 

 川内の許可ももらったし、開発をちょいと進めてみようか。俺は川内にやらせるプリント数枚とAccessの参考書、そして自分の家で作ってきた仕様書(手書きでなぐり書き)を手に、川内と共に教室に戻り、席に着く。川内に持ってきたプリントを渡し、俺は自分の目の前のパソコンの電源を入れ、8.1を立ち上げた。

 

「んじゃ俺も作業に入るけど、分からないことがあったら、遠慮無く聞いてくれていいからなー」

「はーい」

 

 Accessが立ち上がった事を確認し、俺は自分の作業に入った。川内も川内で、俺とほぼ同じタイミングでプリント作成に入る。

 

「んじゃとりあえずテーブルでも……」

 

 自分作のなぐり書き仕様書を見ながら、テーブルを作成していった。ザッと見積もるだけでも20個ぐらいのテーブルがいるなこりゃ……足りないものも絶対出てくるだろうし……

 

「んー?」

 

 俺の作業を川内が覗き込んできた。別にわからないことの質問というわけではなさそうだから、気にせず自分の仕事をすすめる。ほー……idのカラムを作る時、いちいちオートインクリメントでどうちゃらって指示をしなくても、オートナンバーって型があるのは便利だ……。やっぱAccessは今まで扱ってきたデータベースとはちょっと違うんだなぁ……インターフェース作れるんだから当たり前っちゃー当たり前だけど。

 

「せんせー?」

「んー?」

「難しそうだね」

「んー」

 

 つい生返事してしまったが、特に問題はなかったようだ。しばらく俺のテーブル作成を眺めていた川内は、『うっし』と一言言った後、自分のほっぺたをパシンと叩いて、プリント作成に入っていった。

 

「……」

「……」

 

 無言の時間が続く。川内の授業で、こんな静かな時間なんて、初めてのことじゃないだろうか。二人して自分の作業に集中する。

 

「顧客テーブル……うっし……次は講座内容テーブル……」

「表の挿入……うっし……中央揃えで……」

「えぐしっ!?」

「……ホントに大丈夫?」

「誰かが噂してるんだろ? 大丈夫っ」

「ふーん……」

 




()だけでなく、
【】や“”、《》なんかもかっこで変換すれば出せます。
漢字変換はもはや変換だけでなくさまざまな記号が出せるので、
試しに何か思いついた言葉で変換してみて下さい。

川内が作ったプリント

【挿絵表示】


作成の様子(動画)
https://youtu.be/VKkyO5OhV98


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6. 色々な意味で予兆


「これ……よかったら、みなさんでお召し上がり下さい」

 

 今日、他の生徒さんの誰よりも早く来校した神通さんは、開口一番そう言い、両手で抱えた大きな荷物の包みを開いた。包みの模様が唐草模様なのは、神通さんの趣味なのだろうか。それはまぁいい。

 

「これは……!!」

「貴公……ッ!!」

「お、美味しそう……です!!」

 

 俺達の前に神通さんが広げたもの。それは、つぶあんときなこの、たくさんのおはぎだった。

 

「お口に合えばいいのですが……」

「てことはこれ、手作りですか?」

「ええ……」

「なんと……貴公がこれを……ッ!」

「え、ええ……」

「で、では早速……!!」

 

 誰よりも早く手を伸ばしたのは、神通さんの元同僚にして友達の大淀さん。こういう時、本人の友達がいるととても助かる。なんせ、最初の第一手は遠慮しがちで、誰もが手を出すに出せない状況に陥るからだ。その点、神通さんの友達の大淀さんは強い。彼女は迷うことなくつぶあんのおはぎに手を伸ばし、両手で上品におはぎを食べ始める。

 

「んー……」

「……」

「どうですか? 作ったのは久々なんですが……」

「……ん!!」

 

 ……あ、大淀さんのメガネが光った。続いて大淀さんは、おはぎを口に咥えたまま一度姿を消し、電気ケトルにお湯をいっぱい入れて帰ってきた。そのまま急須にお茶っ葉を入れ、紙コップにお茶を注ぎはじめる。おはぎを口に咥えたまま。

 

「大淀さん? どうしたんですか?」

「ふぉふぉをふぅんふぃふぃふぁふぇふぇふぁ! おふぁふぃにふぃふふぇいふぇふ!!」

 

 なんだ……この大淀さんにあるまじき、はしたない光景は……必死に俺達に何かを伝えようとしている大淀さんだが、口におはぎを咥えたままなので、彼女が何を言っているのかさっぱりわからない。

 

「どうやら神通のおはぎは、こちらもお茶を準備せねば失礼にあたるほど、うまいらしい」

「ソラール先輩、今のが分かるんすか!?」

「では俺も……」

 

 ソラール先輩もつぶあんのおはぎを手にとって、こちらに背を向けて神通さんの方を見ながら、もぐもぐとおはぎを食べはじめている。

 

「……うまい! 大淀が大急ぎで今お茶を淹れている理由も分かる。これは、相応の姿勢で望まねば失礼にあたるほどにうまい!」

「そんな……そんなに喜んでいただけるだなんて……!」

「これだけうまいおはぎを作ることが出来るのだから、貴公は料理が上手なんだなぁ」

「そ、そんなこと……」

「まさしく太陽! この温かさこそ、太陽だ!!」

「そ、ソラール先生……ッ!」

 

 最大限の賛辞を送るソラール先輩と、それを受けて感激している神通さん。それにしても神通さん、ソラール先輩のことがホント好きなようだ。先輩を見るその眼差しがまっすぐで、キラキラと輝いてる。

 

 そしてそれ以上に、ソラール先輩がどうやっておはぎを食べてるのか、非常に気になる。だって先輩、兜外してない……背中を向けてないで、ちょっとこっちを振り返ってくれませんかソラール先輩。

 

「こんにち……んーお茶のいい香り……あらぁ! 美味しそうなおはぎ!!」

「ぁあタムラさん! 神通さんがおはぎを作ってきてくれました!!」

「よかったら、お母さんも食べて下さい。いつかもらった、黄金糖のお礼です!」

「こんにちは……おや。みなさんでおやつのお時間ですか」

「モチヅキ殿もぜひ! 神通のおはぎは最高だ!!」

「いいんですか? では私も……」

「こんちはー! ぉあ! おはぎ!! みんなでおはぎパーティーですか!!」

「岸田さんも、ぜひお召し上がり下さい!!」

「やっほい!!」

 

 続々とやってくる生徒さんたちも交えて、授業が始まる前に、ちょっとしたおはぎパーティー。いいね。こういうのどかな時間。以前の職場では考えられない時間だ。

 

「ん! ちょっとこのおはぎ……!!」

「うまい! うちのかみさん以上ですよこれは!!」

「きなこを! もっときなこを!!」

 

 岸田のヤロウを含めた、他の生徒さんにもおはぎは好評なようだ。改めて神通さんを見る。うん。とってもいい笑顔。

 

「素晴らしい! 神通! 貴公は、太陽のように輝いている!!」

「そ、そんな……!」

「これでは、太陽もメダルを5枚ほど進呈せざるを得まい……!!」

「こ、光栄です!!」

 

 うん。なーんか褒め方がずれてる気がするけれど……まぁ本人同士が嬉しそうなのだ。俺が突っ込む必要はない。

 

「うまうま……うまうま……」

「おっ……このままじゃ……」

 

 もはやおはぎ摂取マシーンと化した岸田のヤロウに取られない内に、俺はきなこのおはぎを一つ取った。ぅぉぁああんと口をあけ、手に取ったきなこのおはぎの半分をかじる。

 

「んー……おいしっ」

 

 香ばしいきなこを纏うちょうどいい硬さのご飯に包まれた、こってりとした甘みのあんこ……きなこの香りとあんこの甘さ……んー……パランス完璧。大淀さんが入れてくれたお茶の苦味が、甘さを綺麗さっぱりと消してくれて……そしたらまたおはぎが食べたくなって……これは絶頂の連鎖。人に幸せしかもたらさない、幸福の永久機関だ。んー……神通さん、ホントにおはぎつくるのうまいなぁ。

 

「カシワギさん、どうですか?」

 

 いつの間にやら俺の目の前に、神通さんが立っていた。優しく微笑む彼女の眼差しは、まっすぐに俺を見ていた。

 

「おいしいですよ! すごくおいしい! お店で食べるものよりも、ずっと美味しいです!!」

「ありがとうございます。……私も、よく出来てると思います」

「ですよね! すんごい美味しいです!」

「そうですね」

 

 いや、実際、自信を持っていい出来ですよこれは!! ……あれ? そういやさっきは自信なさそうなことを言ってたような……? まぁいいか。とりあえずもう一個ずつ、取られないうちにきなことつぶあん確保っ!

 

 そうして、急遽とり行われた大おはぎパーティーで、神通さんが準備してくれたおはぎのすべてを平らげた俺達は、甘いものをたくさん食べた幸せでホクホクのまま、授業に入った。

 

 しかし、神通さんのおはぎ……ホントに美味しかったなー。きなこのやつはもちろん、つぶあんのやつもめちゃくちゃ美味しかったもんなぁー……しいていれば、俺はきなこのほうが美味しく感じたけれど。でもつぶあんのやつも美味しかったもんなー……。なんて考えてたら。

 

「……」

「……?」

 

 神通さんが、意味深な微笑みを俺に向けていた。……なんだ? 何か言いたいことでもあるのだろうか?

 

「先生! そろそろ授業を!!」

「ぁあ、岸田さんすみません……」

 

 しびれを切らした岸田のアホに呼ばれ、考えることを一時中断する。そうだ。今日は岸田のアホを見なきゃいけないから、ソラール先輩と神通さんの授業をじっくりと見ることは出来ないな。

 

 ソラール先輩曰く、今日の神通さんはExcelで作ったデータベースでの、抽出と並べ替えを学ぶらしい。ソラール先輩いわく、ここで大部分の生徒さんが日本語のドツボにはまるそうだ。

 

 確かに、俺もプログラミングを学び始めた時は『〇〇以上』と『〇〇より大きい』の違いとか、『〇〇かつ××』とか『〇〇または××』とか、よく分からなかったもんなぁ……がんばれ神通さん!!

 

 一方岸田のヤロウは、今日はWordのスタイル設定というものを学ぶ。大淀さんが、同人活動を行っている仲間に相談した結果、『シナリオ全体が俯瞰出来る機能がありがたいんじゃない? 知らないけど』とひどくめんどくさそうな返答を受けたそうだ。それを元に大淀さんが考えたカリキュラムが、スタイル設定を学んで、アウトライン表示とナビゲーションウィンドウを自在に扱えるようになってもらう……というものらしい。

 

 俺は岸田のヤロウの隣りに座り、テキストを開いた。スタイル設定……確かこの辺に……あった。

 

「では岸田さん。授業をはじめます」

「はい。今日もよろしくー。今日はしっかり頼むよ先生っ!」

「はい。で、岸田さんのご要望の件ですが、とりあえずカリキュラムを組んでみました。それで……」

「それで?」

「小説全体を俯瞰出来るような機能はどうだろうかと思いまして。スタイル設定と、その活用方法を重点的に学んでいただきます」

「なるほど」

 

 おっ。今日はずいぶん素直だ。この前はやたらとこっちに突っかかってきたのに。

 

「それで、まずはスタイル設定から学んでいきます」

「あ、それでさ。俺、自作の小説持ってきたんだよ。女の先生に電話をもらってさ」

 

 ……ほう。すでに大淀さんが手を回してくれていたのか。それなら話が早いな。今から新しいファイルを作らなくて済む。

 

「承知しました。ありがとうございます。では岸田さん作の小説を使って、機能の説明をしていきますね」

「あいよー」

「んじゃ、まずはそのファイルを開いて……あいや、ぐばってして下さい」

「はいー」

 

 本当はさ……『開いて下さい』って言いたいんだけどさ……なんかめんどくさいことになりそうだからさ……

 

 岸田さんはUSBメモリを胸ポケットから取り出し、それをパソコンに差し込んで、中にある『殉教者の魔弾』というWordファイルをダブルクリックして開いていた。なんだか妙なタイトルだなぁ……開いたファイルはやはり小説らしく、中々のページ数と文字数を誇っている。Wordファイルでページ数168とか文字数17万字とか、初めて見た……。

 

「ちなみにこれ、ネット上で公開してるんだよ」

「へー。評判はどうなんですか?」

「聞かないでよ……」

「貴公……」

 

 web小説界隈の詳しい話は知らないが……聞けば、続編でリベンジしたいんだとか。ぜひともがんばっていただきたいっ。

 

「それはさておき、岸田さんのこの作品、各話で区切ってますよねぇ? たとえば、『第一話:べっぴんな夜戦バカ』とか」

「うん。確かに」

 

 気のせいか……俺の背後から神通さんの熱い視線が向けられている気が……

 

「んで、執筆中に前の方の文章を確認したくて戻る時、普通にスクロールしてます?」

「うん」

「それ、例えば12話の文章を書いてて『6話の内容を確認したいッ』て時に、バシッと6話に戻れたら便利だと思いません?」

「そら便利だねぇ」

「それが出来るのが、スタイル設定なんですよ」

「ほほう」

 

 スタイル設定てのは……文字列に対して、『タイトル』や『見出し』といった属性を持たせてやる機能だ。そうすると、Wordは『これがタイトルなんだったら、タイトルらしい書式設定にしてやるわ』と自動的に書式設定を行ってくれる。

 

「もっと深い意味があるんですけど、とりあえず今はそう覚えていて下さい」

「なるほど」

「一回やってみましょうか。ちょっとタイトルの『殉教者の魔弾』てところ、ズリズリと選択してみてくれますか?」

「音読しないで……なんかちょっと恥ずかしいから……」

「す、すみません……」

 

 少し顔を赤くしながら、岸田さんはタイトルの文字列『殉教者の魔弾』てところをズリズリと選択していた。赤面はしてるが、鋭い眼差しで真剣に画面に向かい合っている。

 

「えぐしっ!?」

「風邪?」

「し、失礼……ずずっ」

 

 なんか鼻水出てきた……

 

「選択したら、『ホーム』タブの右の方に『標準』とか『索引』とか並んでるとこがあるでしょ」

「あるね」

「その中から『表題』てのを見つけて、クリックしてみて下さい」

「はいはい……ないよ?」

「隠れてるんです。下向き三角クリックしてみて下さい」

「えー……あ、あった。……うおっ!?」

 

 岸田さんがスタイルの中の『表題』を見つけてマウスでポイントした途端、サイズが大きくなりフォントも変わった『殉教者の魔弾』。

 

「ぇあ!? なにこれ!?」

「岸田さんが『ここはこの小説のタイトルだよ』とWordに教えたんですよ。そしたらWordが気を利かせて、タイトルっぽい書式設定を自動でやってくれたんです」

「いやでも! 文字大きくなんかしなくていいし、書体も変えなくていいのに!!」

「もちろんスタイル設定したあとでも、書式は変更出来ますから。フォントサイズとフォントだけ元に戻してみましょうか」

「めんどくさ……戻すなら、やらなくていいんじゃないの……?」

 

 スタイル設定のキモはね。書式が自動で変わるところじゃないんですよ岸田さん……。

 

「いいんです。『タイトルだよ』って教えたことに意味があるんです」

「ほーん……まぁいいや。書式を設定しなおせばいいのね?」

「はい」

 

 口をとんがらせ、ちゅーちゅー言いながらフォントサイズと書体を元に戻している岸田さん。なんかムカつくな。この『ほら、俺、男なのにこんなカワイイ癖があるんだよ?』みたいなところが。本人そんなつもりじゃないんだろうけど。そこがまたムカつく。計算づくでやっててもハラタツ。つまり、ちゅーちゅー言い出した時点でアウトなわけだ。

 

「はい戻したよ」

「あとは、他の部分もスタイル設定してしまいましょう」

「他の部分って?」

「各話ごとにスタイル設定をしていくんです。たとえば話が前編と後編に大きく分かれてるなら、その“前編”と“後編”に『見出し1』、各話のサブタイトルに『見出し2』て感じで」

「それも勝手に書式変わっちゃうの」

「変わっちゃうんで、あとでまとめて全部、元に戻しましょう。とりあえずは、各話のサブタイトルにスタイル設定をやってみて下さい」

「でもめんどくさ……」

「……」

 

 ここで俺は、わざと席を立ち、岸田さんから距離を取った。岸田さんが俺に文句を言いたそうにしているが気にせず、向かいのおばあちゃん、黄金糖のタムラさんの様子を伺いに行く。

 

「タムラさーん。調子どうですー?」

「んー。中々快調ですよーせんせーい」

「いい感じですねぇ。タムラさん上手になりました?」

「いやー、先生がいいから〜」

「そんなことないですって〜」

「う……」

 

 談笑する俺とタムラさんの様子をしばらく眺めていた岸田さんは、やがて無言でパソコンに向かい、マウスをいじりはじめた。どうやらきちんとスタイル設定をやりだしたようた。

 

 俺が岸田さんからわざと距離を取り、タムラさんと談笑していたのには、理由がある。この岸田という人は、話を聞いてくれる人がそばにいると、話が止まらなくなるようだ。しかも岸田さんはタチが悪く、その止まらない話の大半は憎まれ口だ。

 

 で、あれこれ考えた結果、こちらの説明が終わったら、問答無用で距離を離してみようという結論に至った。こちらが岸田さんの話を聞いていると、彼は延々と不平不満をこぼし続け、作業をしなくなる。それは本人も得るものがないし、こちらの精神衛生上も良くない。ならば距離を離して様子を見てみようというのが、俺が出した結論だ。

 

 結果は上々だ。岸田さんは文句を言うことなく、自分の小説に対するスタイル設定を一生懸命行っている。やっぱり話を聞いてくれる人がそばにいると、色々話しちゃうんだね。んでブーストがかかって、憎まれ口しか出てこなくなる……と。

 

 しばらく時間を開けたところで、岸田さんの背後からそっと、画面を覗き込んでみる。……うん。操作方法も間違ってない。大丈夫だ。

 

「出来たよ。全部スタイル設定した」

「はい。んじゃ、ここからスタイル設定の真骨頂を見せます」

「もったいぶらずに教えてよー……」

 

 くそっ……やっぱり話に付き合ったら、こちらのメンタルを逆撫でしてきやがる……ッ!

 

「んじゃ『表示』タブの『ナビゲーションウィンドウ』て項目を探して下さい」

「はいー……えーと、これ?」

「そうですよー」

 

 その『ナビゲーションウィンドウ』てのにチェックを入れると、画面の左側に、普段は表示されないウィンドウが表示される。そこに表示されるのは、今しがたスタイル設定した一連のタイトルと見出しだ。それらが階層で表示される。

 

「ぉおっ。今スタイル設定したやつのリストが出た!」

「色が変わってるところあるでしょ? それが、今カーソルがある話数になってます。つまり、今自分がどこの話を書いてるのかが一目で分かる仕組みです」

「ほうほう」

「逆に、話を確認したい話数のところをクリックしてあげると、その話数に飛びます。前書いた話を確認したいときとか便利ですね」

「なるほどぉ……」

 

 そういい、岸田さんはナビゲーションウィンドウに表示されてる見出しを色々クリックしていた。本当に小説の執筆に役に立つかどうかはよく分からないが、文句がないところを見ると、機能そのものには関心しているようだ。

 

「ついでに言うと、そのリスト、ズリズリっとドラッグしてあげれば順番も入れ替えることが出来ます。しかも本文ごと」

「そうなの?」

「試しにナビゲーションウィンドウの中の話数の順番、ドラッグで入れ替えてみてください」

「ほいほい」

 

 俺の指示通り、岸田さんはドラッグで話数を入れ替え、本文の確認をしている。こっちに文句を行ってこないところを見ると、興味津々みたいだ。

 

「おっ。本当に入れ替わった」

「これで、例えば書いてる最中に『二話と三話を入れ替えたいなぁ……』て思ったら、ここでドラッグしてあげれば解決します」

「今までは全部選択して、コピーして貼り付けしてたもんなぁ……」

「それよりはやりやすいでしょう?」

「だねぇ」

 

 本当はね……長文の見出し確認とかするときに使うワザなんだけどね……。

 

 次に進む前に、岸田さんにはとりあえずナビゲーションウィンドウを好きにいじってもらうことにした。その間はタムラさんとモチヅキさんの様子を確認しつつ、ソラール先輩と神通さんの授業の様子を見学させてもらう。2人の授業を見学出来る余裕が出来てよかった。

 

「ソラール先生……“昇順”と“降順”、どちらがどちらなのか、いまいち覚えられません……」

 

 ああ……分かるわその気持ち……俺も覚えたての頃、その二つがどっちがどっちか分からなくなってたもん……。“昇順”てのは、順番通り。数字で言えば1,2,3の順番だ。“降順”てのはその逆。漢字が“昇ってく順番”と“降りてく順番”てのがまた混乱するよね。

 

 データベース扱ってるとその辺鍛えられるんだけどね。まだペーペーだった頃は、とりあえず一回昇順のASCで出してみたもんだよ。

 

「本来は覚えるのが一番だが……覚えられないのなら、とりあえずどちらかを選んでみるといい。間違えていたら、その逆が正解だ」

 

 ……おっ。ソラール先輩の解決方法が、俺と同じだ。どうせ二択でどっちかは正しいわけだから、だったらとりあえずどっちかやってみるのが一番いい。間違ってたら元に戻せばいいわけだし。

 

「なるほど……それで自分の思い通りの並び替えが出来なかったら、もう一方に設定し直すということですか?」

「その通りだ。地下墓地と城下不死街……どちらを先に攻略すればいいのか分からなければ、とりあえず地下墓地に突っ込む。それと同じだな」

「確かに……海域攻略中に能動分岐が発生して、北と東どちらに舵を切るか……迷ったら、とりあえず東に突っ込む。それと同じということですね」

 

 ……二人共、その例え絶対違うと思う。

 

「まぁ俺は、地下墓地に突っ込んで帰ってこられなくなったんだけどな。あの時は、車輪骸骨と殴りあっては篝火に戻されて、半べそになったもんだ。ハッハッハッ」

「私も、とりあえず東に突っ込んだら、結局その海域のボスどころか、誰とも戦えずに帰還したことあります。アハハハハハ」

「おっ。神通は意外とおちゃめさんと見た!」

「ソラール先生も意外とおっちょこちょいですね!」

「「あっはっはっはっ!!!」」

 

 ……あえてもう一回突っ込むけど! その例えは間違ってると思う!!

 

「では神通……次は抽出にはいるぞ……」

「はい……ゴクリ」

 

 そんな感じで、レコードの並べ替えからテーブル作成とデータ抽出に入ったソラール先輩と神通さんだった。相変わらず魅惑の異世界太陽艦隊戦ワールドを展開していて、見ているこちらとしてはハラハラしてしまうが……説明は間違ってないし、何より二人共楽しそうだ。納得出来ないけど。

 

「……えぐしっ!?」

「あら先生。風邪なの? 飴あげようか?」

「あーいや結構です。ありがとうございますタムラさん」

「今日も先生の好きな黄金糖よ?」

「んー……すんごく惹かれるけど……大丈夫です」

 

 んー……くしゃみが止まらん……。岸田さんを見ると、自分の小説の手直しというか……添削を始めたようだ。

 

「あれ……ここ、誤字がある……」

 

 アンタ一体何しに来てるんだここに……。まぁいいか。それで作業に静かに集中できているというのなら、こちらがあえて邪魔することもないだろう。そのまま静かに集中して、ぜひとも小説の完成度を高めていただきたいっ。そして、次はリベンジをしていただきたいっ!!

 

「……えぐしっ!?」

「貴公、風邪か?」

「あー……いや、そんなことはないと思いますが……」

「マスクしといたほうがいいんじゃないか?」

「ですね……あとで買いに行きます」

「残念だ……貴公の力になりたいが、マスクの代わりになりそうなのは、このタリスマンしか……」

「誰がそのカラフルてるてる坊主を欲しいと言った!? ……ズルっ」

「貴公……」

 




Excel
昇順:順番どおり。1,2,3~ とか あ,い,う,~ とか
降順:逆順。
どっちかよく分からなくなったら、
とりあえず昇順で並べ替えをしてみることをおすすめします。

Word
ホームのスタイル設定を使うと、選択してる文字列に
『タイトル』とか『見出し1』とかの属性を付与出来ます。
属性を付与しとくと、ナビゲーションウィンドウで見出し一覧を見たり、
それを使って章まるごと順番を入れ替えたりも可能です。

【挿絵表示】

作者は大変便利な機能だと思いますが……


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 ……昼の授業が終わって一息ついてから、気付いたことがある。

 

「……寒い」

 

 今はもう11月だから、当たり前といえば当たり前なのだが……えらく寒い。別に寒さ対策をしてない訳ではないし、教室内は空調が効いているから、決して寒くはないはずなのだが……

 

「……うう」

 

 なぜか今、俺はやたらと寒い。しかもただ寒いわけではない。なんだか、体中の骨の奥底が冷たい感じだ。自分で言ってて意味がわからないが、とにかくそんな感じがする。骨が冷たいから、体中が冷えて寒くなってる感じ……とでも言えばいいだろうか。

 

 そういえば、マスクを買ってきて身につけてる最中に、大淀さんが、帰り支度をしながら、こんなことを言っていた。

 

――何かあったら、私のスマホに連絡下さいね

 

 んー……俺が体調を崩していると思っているのだろうか……。ただ寒くて、くしゃみと鼻水が止まらないだけなのだが……。冬になるとよくあるよなぁこういうこと。

 

 しかし、時間が経てば経つほど、身体がどんどんおかしくなってきた。こうやって今、生徒さんの進捗を記入している今も、現在進行中で異常をきたしつつある身体。頭がぼんやりしてきてて、岸田さんの備考欄の記入がだんだん難しくなってくる。

 

「んー……えぐしっ!? ……ハッ」

 

 気がつくと、岸田さんの備考欄に『アウトライン費を乳母にはチア仏で墓゜』という、読めば読むほど不気味で仕方がない、狂気の呪文が記載されていた。うーん……いつのまにこんな呪いの言葉を記入してたんだ俺は……。音読するだけで身体に呪いが溜まりそうな呪詛の言葉を削除し、俺は事務所の時計を見た。時刻は午後7時5分前。そろそろあいつがやってくるはずだが……。

 

 俺がドアノブに視線を移すと、タイミングよくノブが回り、ガチャリとドアが開いた。その向こうにいたのは、いつもの真っ赤なパーカーを来た川内。赤と紺色のチェックのマフラーつけてるから、外はさぞ寒いんだろうなぁ。やっぱり今日は寒いんだよ。

 

「せんせーこんばんわ!!」

 

 入ってくるなり、右手を上げてそう挨拶してくる川内。今日はずいぶん普通な登場の仕方だなぁと思いながら、川内の顔をぼんやりながめた。ぼー……。

 

「ぉおー……どうした川内。今日はえらく真人間じゃないかー」

「いやたまには私も静かに……て、せんせーどうしたの?」

「ん? 何が?」

「いや、だってマスクしてるし」

「ぁあ……いやくしゃみが止まらなくてな……げふんっ」

「せきじゃなくて?」

「そういやせきも出だしたような……?」

「風邪だよせんせー。休んだ方がいいんじゃない?」

 

 これぐらいで休むほど、俺の身体はヤワではないっ! そもそも、授業を休むほどのダメージなぞ、蓄積してはおらぬわッ!! おれは両腕に力こぶを作って、川内にこの上ない元気っぷりをアピールしてみた。

 

「大丈夫大丈夫! ほらっ! げんきーっ!!」

「いや、全然元気そうに見えないし……とにかく、無理はしないでよー?」

「おうっ」

 

 マフラーをたたみながら教室に向かう川内の跡に続き、おれも教室に入る。川内の席のパソコンに電源を入れたあと、手持ち無沙汰解消に、今日のお昼の神通さんのおはぎの話を振ってみることにした。

 

「そういや川内」

「んー?」

「神通さんにお礼を言っといてくれ。お昼におはぎを持ってきてくれた」

「ぁあ、そういえば神通、持ってくって言ってたね」

 

 はずしたマフラーを自分の膝の上に置いて、川内はパソコンの画面を眺めていた。

 

「どうだった? 美味しかった?」

「美味かったぞー」

「そう言ってくれたら、神通も喜ぶよ」

「特にきなこのやつがな。……げふげふんっ!? 絶品だった。また食べたいなぁ……あのおはぎ」

「ふーん……よかったじゃん。神通に言っとくよ」

 

 えらくクールな反応だなぁ川内……なんて思ってたら、やっぱりこいつも、妹が褒められるのはうれしいみたいだ。口元がほんの少しだけ、ニコってしてた。恥ずかしくて、悟られたくないのかな?

 

「んじゃ川内……げふんっ!?」

「ホントにだいじょぶー?」

「余裕だっ。引き続き、表のプリントを作っていくぞ」

「りょうかーい」

「……俺は、昨日の続きでAccessをいじるが、聞きたいことがあったら、遠慮無く……げふんっ!? 声をかけてくれ」

「はーい。……でもせんせーさ。その、なんちゃらってやついじってる時、すんごい真剣な顔してるよね」

「そか?」

「うん。なんかねー……」

 

 そういって川内は、眉間に思いっきりシワを寄せて、見ているこっちが笑ってしまうほどの険しい顔をしてきた。その様子は、俺の腹筋にダメージを与えようとしている風にしか見えない。鼻の穴がぷくって膨らんでるし。

 

「こんな感じ!」

「げふっ!? ゲフォッ!? ぐぇふっ!? えふ!? えふっ!!?」

「ちょっとせんせ、大丈夫?」

「他人事ごとみたいに心配しやがって……げふんッ!? お前がッ! 変な顔するのが原因じゃないかッ!!」

「ぇえー!! せんせーの変顔のマネしただけなのにっ!!」

「お前、近々張り倒すっ!! げふっ!?」

 

 二人でひとしきり笑った後は、二人して集中しての作業に入る。川内は表を用いたプリントの作成で、俺はAccessの業務基幹ソフトの構築だ。

 

「うっし……これでテーブルが全部出来た……」

「うっし……これで表が出来た……」

 

 なんだか二人して似たような口癖を発してる気がするが……まぁいい。俺だって最近ソラール先輩の口癖が伝染ってるし。

 

 不意に、キーボードを叩く俺の右手の袖を、川内がちょんちょんとひっぱりやがった。

 

「……ねぇねぇカシワギせんせー」

 

 いきなり名字で呼んでくるから、なんだか心が過剰反応してしまう。いつも単に『先生』って呼んでくるだけのくせしやがって……一体何なんだっ!? まぁいい。心の動揺をさとられぬよう、努めて冷静に……。

 

「んー? どうした?」

「今さ。表のスタイル設定ってのをやってるんだけど」

「げふんっ」

「表を中央揃えにしてたんだけど、表のスタイルってやつを選んだら、表の中央揃えがなくなっちゃった」

「あー、それか」

 

 『表のスタイル設定』てのは、表の線の色やセル背景の色などがセットになってるやつで、それを設定してあげると、こちらでわざわざシマシマ模様にセルを塗ったり、文字の色を変更したりといった、面倒な書式設定をせずとも、Wordの方で全部自動で設定してくれるというすぐれものだ。

 

 でも欠点がひとつあって、スタイル設定をする前に表を中央揃えにしたり右揃えにしたりしてると、その書式を打ち消してしまう。どうも今回の川内は、そのトラップにひっかかってしまったようだ。

 

「『表のスタイル設定』てのは、表の中央揃えと右揃えをなかったことにしちゃうんだよ。だからやるなら、中央揃えをやる前にスタイル設定をしてやったほうがいいな」

「そうなのかー……無駄足だー……」

「まぁ大した手間じゃないだろうし、もう一回設定しなおしてみ。スタイル設定をしたあとで中央揃えにする分には、まったく問題ないから」

「はーい……」

 

 口をとがらせ、もう一度書式設定をしていく川内の様子を眺めた後、俺は再び自分の作業に戻る。このAccessのクエリってのが、使いやすいような使いづらいような……SQLを組むわけじゃないから楽といえば楽なんだけど……うーん……

 

「ねぇカシワギせんせー」

「んー?」

「難しい?」

「んー」

 

 テーブル結合ってどうやるんだこれ……あ、ちょっとまて。なんかリンクさせる方法あったな……リレーションシップだっけ。『データベースツール』タブの『リレーションシップ』ボタンを押した。そういやここでテーブル同士が線で繋がってるのを見た気がするわ。

 

「ねぇカシワギせんせー」

「んー?」

「順調?」

「んー」

 

 えーと……まずはテーブルを追加するのか……テキストを見ながら『テーブルを表示』ボタンを押してテーブルを追加していく……とりあえず全部追加しとくか。いらんテーブルは後から削除すればいいだろう。

 

「ねぇカシワギせんせー」

「んー?」

「あとで夜戦しよ」

「んー」

 

 んで、リンクさせたいテーブルのカラムをドラッグして重ねればいいのか……とりあえず顧客テーブルのIDの項目をこっちからドラックして……ちょっと待て。

 

「……」

「……」

「……川内」

「ん?」

「今なんて言った?」

「せんせーがね! 夜戦に付き合ってくれるって!」

 

 俺の顔をまっすぐ見ながらそう答える川内の顔は、東京タワーもびっくりの100万ドルの笑顔だった。しかも川内の瞳は、香港の夜景よろしく、キラッキラに輝いていた。

 

「あほー!! いつおれがそんなこと言ったぁアアアア!!」

「えー! だってさっき言ったもん!!」

「なんて言った!? 俺はなんて……げふんっ……返事したー!?」

「私が『あとで夜戦しよう』て言ったら、『んー』って!!」

「どこからどう聞いても生返事以外の何者でもないだろうがッ! げふっ……つーか何をやるんだよ夜戦って……げふっ」

「えーと……代わりばんこで主砲撃って……お互いが沈むまで撃ちあって……」

「死んでしまいます川内さん。そんなことしたら、カシワギ先生はひと握りの肉片と化して、死んでしまいます」

「主砲が苦手なら魚雷もあるけど、カシワギせんせーはどっち使う?」

「どっちもいらんっ! どっちを使おうがお前にミンチにされる未来しか見えんっ!」

「大丈夫だって! だからあとで夜戦しよ!!」

「無理無理無理無理ぜったい無理ぜったい無理! げふっえふっ!?」

「ぇえ〜……さっきはすんごいキリッてした顔で『んー』って言ってたのに……」

「それは脊髄反射みたいなものだって分かってるよな!? その言葉に俺の意思が乗ってないのは、お前も気付いてるよな!?」

「カシワギせんせーのウソツキー」

 

 なんとでも言えいっ。肉片となって命を散らすより、嘘つき呼ばわりされる方がいいわいっ。川内は恨めしそうに口をとんがらせ、不満そうにちゅーちゅー言いながらこっちをジト目でにらみ始めた。その岸田さんみたいな悪い癖を一体どこで身につけたんだお前は……昼間の自作小説を思い出すからやめてくれ。

 

「いいからやれよッ!」

「ちゅー……ちゅー……あ、そうだせんせ」

「なんだよぅ」

「今日ね。用事があるから、いつもよりも早めに終わりたいんだ」

 

 さっきは『あとで夜戦しよう』とか言ってたくせに、今度は用事があるから授業を早めに切り上げたいだと……!?

 

「それは構わんけど……げふっ……夜戦するんじゃないんかい」

「まぁいいじゃんいいじゃん」

「んで、だいたい何時ごろだよ」

「うん。いつもより一時間早く帰りたいんだ」

 

 一時間早くって……授業は二時間だから、実質半分じゃんか……。

 

「うん。まぁ分かった。残念だが仕方ない」

「残念!? せんせー、私と夜戦出来ないのが残念!?」

 

 くっそ……張り倒してぇ……ッ!! 目をダイヤモンドみたいに輝かせて嬉しそうにニッタニタ笑いやがって……!!

 

「私もカシワギせんせーと夜戦出来ないのは残念だけどさ。用事だから仕方ないんだー」

「全然残念じゃない。むしろひき肉にならなくてラッキー以外の何者でもない」

「せんせーも調子悪そうだし、今日は早めに上がったら?」

「さてはお前、俺の話を聞く気がまったくないな!?」

 

 とはいえ、用事があるのなら仕方ない。あとで大淀さんに連絡とって、今日は一時間早く終わりにするか。

 

「分かった。……んじゃ今日は一時間早く終わるか」

「りょーかい。ありがとせんせー」

「んー」

 

 ……なんでだ。なんで俺は今、少し『つまらん』と思ったんだ。

 

「……ニヤニヤ」

「……ん?」

「やっぱせんせー、あとで夜戦する?」

「するわけがない」

 

 というわけで、今日は川内は、いつもの半分の時間だけがんばって、家に帰ることになった。俺も、途中まではがんばっていたのだが……

 

「……ありゃ」

「んー? せんせーどしたの?」

「んー……」

 

 リレーションシップの設定が終わり、クエリの作成をしていたとき。クエリの名前を『受講履歴一覧クエリ』としたつもりが『じゃみうの力てチセなく桶』という、見ているだけで悪寒が走る、気色悪いクエリ名になっていた。

 

「ホントに大丈夫?」

「大丈夫は大丈夫だけど……げふん……俺は今日はもう、やめておいたほうが良さそうだ」

「だね。だったら私の夜戦を見ててよ」

「なんでそう、お前が言うといかがわしいんだろうねぇまったく……げふんっ」

 

 と、己の体力と気力の限界を感じ、俺は黙って川内のプリント作成を眺めることに徹する。何かまずいところがあれば厳しい突っ込みを入れる気マンマンでいたのだが……

 

「んーと……これで高さを揃えて……」

「げふっ……」

「うっし……あとは中央配置にすれば……」

 

 川内は殊の外詰まる様子もなく、綺麗な表をさくさくと作り上げていった。簡単な構成のものはもちろんのこと、入り組んだ構造の複雑な表も、安々と作り上げていく。複雑な構造の表って、最初に挿入する表の作成なんかけっこうセンスというか、経験が必要だったりするんだけどな……。

 

「なー、川内」

「んー? なにー?」

「お前さ、家でも練習してる?」

「してるよー。なんで?」

「……いや。げふんっ」

 

 そう答える川内の横顔は、妙に凛々しく見えた。

 

「んー? どしたの?」

「なんでだ? げふんっ」

「いや、こっちをじーっと見てたから」

「『私の夜戦を見ててね』って言ったのはお前だろ……えぐしっ!?」

「さてはカシワギせんせ、私と夜戦が出来ないことが……」

「いいから早くそこのセルを分割しろよ」

「はーい」

 

 一枚のプリントを作り終えたところで、川内は帰ると言い出し、今日の授業はこれで終了となった。さっきはあんなに夜戦夜戦って言ってたのに……。この後用事があると言っていた割りには、別段急ぐ風でもなく、むしろだらだらと帰り支度をしている川内の後ろ姿に、俺は違和感を覚えたが……

 

「んじゃカシワギせんせ、お大事に」

「おー……お前も……用事がんばれー」

「んー。ちゃんと病院行くんだよ?」

「おー……」

「だめだこりゃ……」

 

 と、最後はチェックのマフラーを首に巻きつつダメ出しをされたことで、俺の意識は怒りにふりきれた。とはいえ怒る気力もなく、俺はヘラヘラと笑いながら、川内の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。

 

 さて、川内が返った後も、クローズ業務がすべて終わるまでは帰ることが出来ない。一応大淀さんには、『川内が一時間早く帰ったので、早くクローズします』とメールを送信し、承諾を得ている。あとはクローズ業務をして終わりなのだが……

 

「……あれ。んー……」

 

 中々に川内の備考欄への記入が終わらない。かなり気合を入れて記入したつもりなのだが……『進行度は上々。この調子で行けばWordのカリキュラム終了は早くなる』と打ち込んだつもりが、『進行度はじをえじょえ。こりとょうしですけばてらすしの……』と、三度ケッタイな魔法スペルの詠唱と化していた。俺の両手は新手のモンスターか何かでも召喚したいのか……手が言うことを聞かん。

 

「これは……そろそろヤバいかもしれん」

 

 タイピングがずれる……つまり、人差し指がホームポジションに気付いてないってことだ。ホームポジションがズレるほど、俺の体力は今、くたばっているのか。

 

「んー……まずいな……」

 

 クローズ業務が終わり、帰り支度を整えて事務所の電気を消す。途端に真っ暗になった室内に、俺の咳が響き渡る。段々頭がフラフラしてきた。

 

「風邪か……? まぁ大丈夫だろう」

 

 これぐらいの体調不良なら、何度でも乗り越えてきたわッ! あの地獄のブラック企業でな……!! 俺は頭をふらつかせながら自分の身体を蛇行運転し、家路を急いだ。

 

「んー……うおっ……えぐしっ!?」

 

 途中、川沿いの道を歩いて帰宅するのだが、100メートルほどの道のりで、3回ほど川に転落しかけた。頭のフラフラが収まらない。道が二重に見えてきた。……俺、ちゃんと家に帰れるのかなぁ……。

 




Wordで表を作った場合は、
スタイル設定をしてあげると、
色分けや線の種類などが自動で設定されるので便利です。

でも一部書式を打ち消しちゃう場合があるので、
使うならまず最初にスタイル設定してあげて下さい。

まぁもう一度設定してあげればいいんですけどね。


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7. ムカつくけど、安心する
朝~夕方


※今回の一口メモはお休みします。


「……なんとなくそんな気がしてました。今日はこちらを気にせず、ゆっくり休んで下さい。明日は休校日ですし」

「すみません……本当にすみません……よりにもよって生徒さんの人数が多い時に……」

「それよりも、早く体調を戻してください。お大事に」

「ありがとうございます……すみません……」

 

 俺の必死の懇願に対し、スマホの向こうの大淀さんは、和やかに優しく、そう答えてくれた。

 

 昨日、くしゃみと鼻水と咳が止まらず、頭がフラフラして備考欄すら書けない状況に陥っていた俺は、家に戻った後、ベッドに盛大にぶっ倒れて、そのまま眠ってしまった。

 

 そして今朝。起きるには起きたのだが、どうしても身体が言うことを聞かない。起き上がろうにも身体に力が入らず、ベッドの枕元にあるスマホに手を伸ばすのが精一杯だった。

 

 危機感を感じた俺は、手を伸ばしてスマホを取り、そのまま大淀さんに連絡を取った。彼女は昨日の段階で、俺が相当に体調を崩しているらしいことに気付いたらしく、すでに俺の代わりに昼の授業に出る準備をすすめてくれていたみたいだった。

 

「うー……」

 

 しかし、ここまで酷く体調を崩したのは久しぶりだ……まさか、自分が起き上がれないほどに体調を崩すことになろうとは……無理に上体を起こすと、途端に世界中がトップスピードでぐるんぐるんと縦回転をし始める。これでは起きていられない。無理してベッドから起き上がっても、きっと立つことすら出来ないはずだ。

 

 おまけに寒い。今はもうほとんど冬だから、掛け布団の上に毛布をかぶせて寒さ対策はバッチリのはずなのに、それでも寒い。昨日みたいに、骨の奥底の冷たさに、体中が悲鳴を上げている。歯がガチガチと音を立て、少しでも身体を発熱させようと必死になっているが、それでも身体は熱を帯びない。寒さが改善されない。寒い。寒すぎる。

 

「うううう……寒い……寒いよー……」

 

 情けない言葉が出る。過去最高クラスにひどい風邪だ。医者に行きたいが、立てないんだから、そもそも医者に行くことすら出来ない。これでは治せない。今の俺には、寝ることしか出来ない。でも、あまりに寒くて、寝ることも出来ない……困った……これじゃあ風邪を治せない……。

 

 こんな時、一人暮らしってのは寂しいなぁ……俺はこうやって、誰にも看取られることなく、たった一人で寂しく、この世を去ってしまうのだろうか……お父ちゃん、こんな情けない息子でごめんよぅ……お母ちゃん、孫の顔、見せてあげられなくてごめんよぅ……ネガティブ妄想の悪循環が止まらない。誰だって体調崩して一人で寝込んでいるときは、大なり小なりネガティブになるはずなのだが、今の俺には、そんなことに気付く余裕すらない。

 

 まるで死神に取り憑かれたかのように、ネガティブ妄想に囚われた俺。ひとしきりさめざめと泣いた後、俺の体力に限界が来たようだ。段々と天井が三重に見えてきた。焦点が合わない。んー……手すら動かせなくなってきた。

 

「やば……」

 

 めちゃくちゃ寒いのに、目が重くなってくる。自分は雪山で遭難してるんじゃないだろうかと思うほど寒い。身体の震えが止まらない。音が聞こえない。視界にモヤがかかってきた……まずい……落ちる……

 

 すまん……川内……今日の授業……つき……あ……え……

 

………………

 

…………

 

……

 

うっすらと意識が戻ってきた気がする。少しだけ、部屋の中の様子が認識できた。

 

「うう……あああ……」

 

 何かを言おうと思ったわけじゃない。ただ、口から空気がこぼれでた……そんな感じだった。俺は言葉にならない声を、今世紀史上最弱の吐息でこぼした。

 

「あ、お…た?」

 

 なんだか誰かの声が聞こえた気がするが……誰だ思い出せん……そもそもここに人がいるわけないだろうが……

 

「ふぁ……」

 

 誰かの冷たい手が、俺の額に触れた。その手は妙に冷たくて、触れられた途端、おれはつい情けない声を出した。

 

 でも。俺は今、雪山で遭難してるほど寒いはずはずなのに……。それなのに、その手の感触がとても心地いい。

 

「ん…………だあが……うだ………………せー、が……れー」

 

 やっばり誰かがいる……相変わらず視界にもやがかかっていて物が四重に見えて、自分の周囲に何があるのかわからないけれど。誰かが俺の額に触れていた。そのことが、弱り切って冷えきっている今の俺の心に、じんわりとしたぬくもりをくれた。

 

「んー……」

「ん? ……せ? ……し……?」

 

 右手に渾身の力を入れ、額に触れている誰かの手に触れた。小さくて冷たいその手は、俺の右手にも心地よくて、いつまでも、ずっと触れていたいと思える手だった。

 

「ん……」

「ん?」

「手……きもちい……」

「んー? これ、き……い……?」

 

 ついポロッと本音をこぼしてしまう。今の俺の頭では、何かを隠したり、何かウソを付いたりするなんて無理だった。感じたことを、感じたままボロボロと垂れ流す、はた迷惑な状態でしかなかった。

 

「う……ん……」

「んじゃ、しばら…こ…しとく?」

「う……」

「しか……いなぁカシワ……んせーは……」

 

 俺の額に触れていた手が一度離れ、今度は両手でほっぺたに触れてくれた。相変わらず冷たい手で、触れられてるだけで身体は冷えてきてるはずなのに、その手の感触がとても心地いい。

 

「う……」

「きもちい?」

「ん……」

 

 というより……なんだか安……心……

 

……

 

…………

 

………………

 

 重い瞼が、少しずつ開いてきた。大淀さんに電話をかけた時よりも、多少頭がクリアになっている。身体にも少し力が戻ってきたみたいだ。少し眠って、多少体力が戻ってきたみたいだ。

 

「今……何時だ……」

 

 時間の感覚が狂ってる。枕元のスマホを手に取り、時刻を見た。午後6時……だいぶ寝てたみたいだ。

 

「もう……夕方か……」

 

 息を吸い、吐く。……浅い呼吸しか出来ない。体力は多少戻ったが、やはりまだ体調は戻ってない。しかも寒い。朝電話した段階で覚悟はしていたが、どうやら俺の身体は熱が出ているみたいだった。

 

「あ、今度こそ起きた?」

「まぁな……んー……」

 

 ベッドの隣に折りたたみテーブルを置いて、その前に座っている夜戦バカに返事をする。カーテンから差し込む光が、すでにオレンジ色になっている。もう年の瀬も近い。そら日没も早くなって……

 

「……って、なんでお前がいるんだよっ!?」

 

 やっと部屋の中の不自然さに気付いた。一人暮らしのはずの俺の部屋に、夜戦バカの川内がいやがった。

 

「おはよー」

「おはよーじゃないだろ!? げふっ……なんでここにいる!?」

「いや、カシワギせんせーが熱出して倒れたって聞いたからさ。お見舞いしにきた」

 

 いやいや、プラスマイナスゼロな表情でそんなこと言われても……。

 

「そもそも、なんでお前がここの住所を知ってるんだ……げふっげふっ……」

「大淀さんから、『今日の夜の授業は、私が見ますよー』って連絡もらってさ」

「……おう」

「んで、理由を聞いたら、せんせーが熱出したって聞いて」

「お、おう」

「んじゃ、私がお見舞いに行くよーって話したら、住所教えてくれた」

「げふっ……げふっ……鍵はどうした?」

「来たら開いてた。不用心だねぇ先生。……それとも、それに気付かないほど弱ってたのかな?」

 

 事の真相を、実にあっけらかんと川内は教えてくれた……ケロッとした顔で、『私、何か悪いことした?』とでもいいたげな、きょとんとした眼差しだ。

 

 そもそも、生徒さんに従業員の住所を簡単に教えるなんて、セキュリティ的にどうなんすか大淀さん……ッ!! 俺は今日、はじめて大淀さんに対する怒りがムラッと沸き起こった。

 

「んー……まぁわかった。俺は大丈夫だから、とりあえず帰れ」

「なんで?」

「なんでもクソもないだろうが……げふっ……お前は夜の授業だってあるだろ……!」

 

 急に頭がグラッとして、慌てて右手で頭を支える。何考えてるんだよこのアホ……いくら仲が悪くないからって……

 

「だいじょぶ?」

「いいからッ……帰れって……」

「帰らないよ?」

「なんでだよ……」

「カシワギせんせー心配だし」

「お前に心配されるほどじゃないって……」

「それに、大淀さんにも『んじゃカシワギさんお願いしますね』って言われたし」

 

 あまりに間抜けな返答だったためか……それとも、大淀さんらしからぬ非常識な物言いのためか、俺の頭のグラつきがひどくなった。頭がいつもより重く、大きく感じる。まるで誰かから下方向に引っ張られているかのように、俺は上体を前のめりに倒しそうになった。

 

「う……」

「ほら。せんせー全然大丈夫じゃないじゃん」

 

 川内が俺のもとに駆け寄り、肩を支えて、そのまま静かに仰向けに寝かせてくれた。俺の後頭部を、枕の上に乗るまで静かに支えてくれる川内の瞳は、ジッと俺を見つめていた。

 

 いつになくまっすぐに……それこそ、授業中にプリントを作ってる時以上の、真剣な眼差しで俺を見つめる川内。言ってることは血迷ってるとしか思えない、非常識極まりない内容だと思うが、このアホの真剣さは見て取れた。

 

「お前の心意気は分かったしありがたいけどな……授業あるだろ?」

「休んだ。今晩はずっとせんせー看てるから」

 

 アホ……それが不味いんだって……。

 

「んー……そろそろ晩ご飯かなー……せんせーは?」

「俺は……そうでもない……」

「んじゃ適当になんか作ろっか。冷蔵庫の中のもの、使わせてもらうね」

「人の話を聞いて……」

「せんせーの分もまとめて作っちゃうから、おなかすいたら言ってね」

「お、おう」

 

 くそぅ……悔しいが、こいつが一緒にいるという事実が、妙に嬉しい……なんだか心がホッとする……。台所に向かうこいつの後ろ姿に、こんなにホッとするだなんて……。

 

 川内がしゃがんで冷蔵庫を開け、『んー……』と唸りながら中を覗いている。

 

「想像以上に何もないねぇ……」

 

 そらそうだろう。俺は料理が趣味というわけではない。自炊はしないわけではないけれど、常日頃冷蔵庫に入っているものといえば、お茶とかお漬物とかぐらいだ。

 

 冷蔵庫の扉をバンと閉じた川内が、すっくと立ち上がった。なんでだ。あいつが台所に立ってる姿を見られることに、ものすごく安心できる……。なんか瞼が重くなってきた……

 

「ちょっと買い物行ってくる。せんせー、鍵ちょうだい」

「玄関の……げたば……こ……に」

 

 川内がベッドのそばまで戻ってきた。俺のそばで、優しい微笑みで俺を見下ろしてくる。なんか新鮮だ。なんか……子供の頃に母ちゃんを見上げた時みたいな、妙な安心感がある。

 

「あと……鍵と一緒に俺の財布置いて……あるから、持って……」

 

 違う……言いたいのはそれじゃない……。

 

「いいのいいの! 余計なこと心配しなくても! んじゃ、ちょっと行ってくるね!」

 

 カラカラと笑いながら俺に背を向けて、玄関に向かう川内。違う、待て。

 

「ちょ……」

「ん?」

 

 やってしまった……俺は、今まさに買い物に行こうとしていた川内の、右手を掴んで引き止めてしまった。左手で、身体がだるいのに、わざわざ上体を起こして……。

 

 振り返り、ちょっと不思議そうに自分の右手を見つめた川内は、次の瞬間、俺に対して、この上なく腹立たしいニヤニヤ顔を向けていた。

 

「どうしたの? 心細くて寂しい?」

「違うわ……」

「心配しなくても、ちょっと行ってくるだけだから」

「……うるせー……」

「だからいい子で待ってるんだよーせんせー?」

 

 ちくしょうっ……張り倒してぇ……俺の手を離して、その手で優しく俺の頭を撫でるこいつをッ……!! そして、そんな事で若干安心してしまう、自分自身のことも……。

 

 病人の俺の目にはまぶしすぎる笑顔を浮かべた川内は、そのまま俺の部屋から出て行った。玄関が閉じる音と一緒に、『ガチャリ』という鍵を閉める音も聞こえてきたから、無事に鍵は見つけられたようだ。俺の財布を持っていってるかどうかは分からないが……。

 

 一人になった途端、えらく部屋の中が静かになった気がした。

 

「う……」

 

 時計の針の音しか聞こえない……くそぅ……あのアホがいないだけで、この部屋をこんなにも静かに感じるだなんて……そしてそれを寂しいと思ってしまうだなんて……屈辱だ……全部、この体調不良のせいだコノヤロウ……帰ってきたら、川内のアホを張り倒してやる……。

 

 しばらく待てば帰ってくるであろう川内への、本気の折檻を堅く誓った俺の瞼が、強制的に閉じていった。

 



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夜~明け方

 トントンというリズミカルな包丁の音が聞こえてきた。

 

「……ん」

 

 普段はこの部屋にまったく鳴らないはずの音だ。うっすらと瞼が開く。台所の方が明るい。川内がいつの間にか帰ってきたらしい。川内の後ろ姿が見えた。いっちょ前に赤いバンダナを頭に巻いて黄色いエプロンつけて……鼻歌交じりに何かを作っているようだ。

 

「う……」

「♪〜♪〜……」

 

 コトコトという、鍋を火にかけている音も聞こえた。ダシのいい香りが台所から漂っているのを感じる。今までこの部屋では、漂ったことのないタイプの香りだ。

 

 包丁の音もコトコトという音も、今の俺の耳にはけっこう大きい音に聞こえた。にもかかわらず、そのどれもが、聞いていて、とても心地いい音だった。そして。

 

「♪〜♪〜……」

 

 あのアホのものとは思えない、とても静かで、でも楽しい、心地いい鼻歌も。

 

「……」

 

 心地いい音と、新鮮な香りに包まれて、俺の身体は、瞼を再び閉じていった。

 

………………

 

…………

 

……

 

「♪〜♪〜……」

 

……

 

…………

 

………………

 

 寝ている俺の脇の下に妙な感覚が走った。何か冷たいものを挟まれたような……。

 

「ん……」

 

 脇の下とパジャマの中の違和感に気付いて目が覚めた。相変わらず重い瞼をなんとか開く。

 

「あ……起こしちゃった?」

 

 川内が、俺のパジャマの中に手を突っ込んでいた。このアホ……何やってるんだ……理由を推理したいが、頭にモヤがかかったようにハッキリしない。考えがまとまらない。

 

「なに……やってんだよ……」

「体温計」

「パジャマの中に手をつっこむんじゃないっ……」

「こんな時に何いってんの……」

 

 色々と不味い……でも、俺の必死の口頭注意をまったく気にすることなく、川内は俺のパジャマの中に右手を突っ込んで、冷たい体温計を脇に挟んでいる。

 

 数分の挌闘の後、俺の脇に体温計をはさみ終わった川内は、俺のパジャマから右手を出し、そのまま俺の頭を撫でた。

 

「はーい。じゃあそのままちょっと待っててねー」

「アホ……」

 

 それにしてもうち、体温計なんてあったっけ……? それに、さっきまであんなに寒かったのに、今はそうでもないような……?

 

「この体温計……どうした?」

「ここ来る時に、パソコンと一緒にうちから持ってきた。なかったらマズいと思って」

 

 その言葉通り、ベッドの隣りに置いてある折りたたみテーブルの上には、見慣れないノートパソコンが置いてあった。俺のものでもないし学習用ノートパソコンとも違うから、きっと川内が家から持ってきたものなんだろう。天板に大きく『夜戦主義』と書かれたステッカーが貼ってある辺り、こいつらしいパソコンだ。さっきは全く気が付かなかった……。

 

「パソコンの勉強しながらせんせーのこと看てるから。せんせーは気にせず休んでて」

 

 本当は『帰れ』って言わなきゃいけないんだろうけど……どうしてもその一言が出なかった。

 

「……わかった」

「素直でよろしい」

「わかんないとこあったら……いいから……聞け」

「うん。そうする」

 

 そうして、ちょっと変則的な、二人だけの授業が始まった。

 

 授業といっても静かなものだ。部屋の中で聞こえるのは、時計の音と、川内が叩くキーボードの静かなパチパチという音。そして。

 

「んー……」

「……」

「……あ、そっか。こうすれば……」

 

 いつもに比べて控えめで静かな……そして、聞いてるだけで耳に心地いい、川内の独り言だけだ。

 

 ……ピッピッという電子音が、俺のパジャマの中から聞こえた。体温計が、俺の体温を測り終えたらしい。

 

「……あ、体温計鳴ったね」

 

 そして川内は、こんな風に時々、俺の様子を見てくれる。

 

「ちょっとごめんねー……」

「やめいっ……自分で取るわっ」

「こういう時は素直に甘えるもんだよ」

 

 俺も精一杯抵抗するんだが……このアホは気にせず俺のパジャマの中に手を突っ込んできやがる……マズいんだって色々と……。

 

「う……」

 

 言われるままにパジャマの中を弄られる俺。時折、川内がぺたぺたと俺の肌を触るのが、非常によろしくない……。そんな俺の葛藤を素知らぬ顔で受け流し、脇から体温計を抜き去った川内は、それを眺めて難しい顔を浮かべていた。

 

「んー……高いねー……」

「マジか……」

「汗もまだかいてないし、まだ上がるのかなー……あ、ところでせんせー」

「……ん?」

「喉は乾いてない? ポカリあるよ?」

「今は大丈夫だ」

「おなかはすいてない? 朝から全然食べてないでしょ?」

「……少し、すいたかもしれん」

 

 夢うつつでぼんやり中、こいつが台所で包丁を握っていたことを思い出した。なんだか楽しそうにまな板をトントンと鳴らしていたような……。

 

「鍋焼きうどん準備しといたよ。食欲あるなら食べる?」

「おう……」

「んじゃちょっと待ってて。準備してくるから」

 

 体温計をふりふりした川内は、そう言って台所へと消えていった。ガスレンジに火を入れる音が鳴り、つづいて室内に、だしのいい香りが漂ってくる。

 

 上体を起こし、川内が鍋焼きうどんを持ってくるのを待つ。さっきから寒くないと思ったら……足元の布団の上に、俺の藍色の半纏がかぶせてあった。半纏を布団にかぶせるだけで、こんなに違うのか……半纏を取って羽織る。やっぱり半纏をとってしまうと、足元が少し冷たいような気がした。

 

「はーいおまたせー」

 

 ほどなくして川内が、お盆の上に小ぶりの土鍋を乗せて戻ってきた。この土鍋は、俺がここに引っ越してきた時に『冬場に鍋したい時用に欲しい』と思って買っておいた、一人用の土鍋だ。仕事がアホみたいに忙しくて、ずっと使ってなかったやつだったが、今日やっと日の目を見たようだ。よかったな、土鍋。

 

 川内にお盆ごと渡された土鍋。きちんと蓋がされている。布巾が乗せられた蓋を開けてみると、だしのいい香りがもわっと広がった。

 

「んー……いい香り」

「へへ」

 

 土鍋の湯気をかきわけかきわけ、中を見た。美味しそうな黄金色の出汁の中に漂ううどんと具材たち。具はかまぼことほうれん草とネギと油揚げ。そして半熟卵。鶏肉と海老天は乗ってない。

 

「……海老天は?」

「せんせー熱出てるからさ。海老天と鶏肉はやめといた。食べたかった?」

「うんにゃ。多分乗ってても食べられなかった。助かった」

「そっか。よかった」

「ありがと川内」

「いいえー」

 

 うん。もし乗っかってたら、全部食べられないという失礼極まりない事態になっていたかもしれないからな。そこまで食欲が回復しているわけでもないから、正直これは助かった。

 

 お盆に乗ってるれんげで出汁をすくい、一口すすってみた。

 

「あぢっ!?」

「熱いから気をつけて……って、遅かったか……」

「俺、猫舌なんだよー。もっと早く言えよー」

「熱いからフーフーしてほしいの?」

「アホ」

 

 クッソ……なんでこいつは今日、こんなに活き活きしてるんだ。元気いっぱいなのはいもと変わらないが、今日は輪をかけて目がランランと輝いてる気がする。

 

 舌をやけどしないよう、丹念にふーふーして、もう一度出汁を味わった。カツオと昆布の熱々のおいしさが、俺の胸から腹にかけて、じんわりと広がっていった。

 

「……おいしい」

「そ? 市販の出汁使ったんだけどね。美味しいならよかったよ」

「おう」

 

 れんげの上にうどんを乗せ、同じくやけどしないよう、気をつけてすすった。うどんは冷凍の讃岐うどんをを使っているようで、コシが強い。ほうれん草はシャキシャキしてて美味しいし、玉子の加減も半熟でちょうどいい。

 

「お前、料理うまいな」

「そかな? いうほど大したことしてないよ?」

「料理上手なヤツって、大体そういうことを言うよな」

「そお?」

「うん」

 

 油揚げも、最初はちょっと『え?』と思ったが、実際に食べてみると結構うまい。うどんの出汁をめいっぱい吸って、噛むと口の中でジュワっと出汁が出てくる。出汁と変わらない味のはずなのに、油揚げから出てくる出汁は妙にコクがあるというか何というか……とにかく美味かった。

 

 ペースこそ決して早くはないが、俺は川内作の絶品鍋焼きうどんを夢中で食べた。『腹がへった』と言ったものの、食べてる途中に食欲が失せたらどうしようと少し心配だったのだが……それは、俺の大いなる取り越し苦労だったようだ。こいつの鍋焼きうどんは、体調を崩してるはずの俺を夢中にさせるほど、美味かった。

 

 そして、俺のそんな様子を、川内はキーボードを叩きながら眺めていた。

 

 最後のうどんをすすり終わり、寂しい思いをしたまま、残り少ない出汁をれんげですくう。二回ほどすすったところで、俺の腹のキャパシティも限界を迎えたようだ。

 

「ふぃ〜……ごちそうさまでした〜……」

「はい。お粗末さまでした。美味しかった?」

 

 癪だが……こいつにこんなことを言うのは悔しいが……。

 

「……うまかった」

 

 その言葉しか出なかった。そうとしか言えなかった。それだけ、こいつの鍋焼きうどんは絶品だった。

 

「よかった。んじゃ片付けるね。せんせーは身体が温まってる内に布団に入るんだよ?」

「ん……」

 

 俺の賛辞を受け取った川内は、以外にもニコッと笑っただけで、思ったより素っ気ない返事だなぁと違和感を覚えたが……

 

「♪〜♪〜……」

 

 川内が台所に鍋を持って行って洗い物をしている時、台所から鼻歌が聞こえてきた。耳に心地よくて、聞いてるこっちの心が、ポカポカとあたたまるような、そんな楽しげな鼻歌。それが、料理や後片付けをしている時の川内の癖なのか、それとも鼻歌が出てくるほど上機嫌なのかどうかは、俺からは分からなかった。

 

 だが、少なくともごきげんななめというわけではないようだ。チラッとだけ見えた横顔は、時々、不意打ちで俺の胸をざわつかせてくるときの、自然な笑顔だった。

 

 川内に釘を刺された通り、俺は身体がぽかぽかしているうちに布団に入った。先ほどと比べると、布団の中がかなり暖かいことに気付く。熱が下がり始めているのかもしれん。

 

「はーい。ただいま」

 

 さっきの鼻歌を口ずさみながら、柔らかい笑顔で川内が戻ってきた。ベッドのそばまで来て俺を見下ろし、頭を優しくなでてくれる。

 

「寂しかった?」

「なんでじゃ」

「つれないなぁせんせー」

 

 俺の頭を撫でていた川内の右手が、そのまま慣れた感じで俺の首筋をぺたりと触る。

 

「ふぁ……」

 

 不意打ちで変な声が出た。まさかわざとじゃないだろうなこいつ……?

 

「んー……まだ上がるかな」

「分からん……でも、少しあったかくなってきた」

「なら良かったじゃん。もうしばらくしたら下がり始めるかもね」

「……」

 

 俺の首筋から、川内の手が離れた。くそう……もうちょっと触ってて欲しかったなんて思ってないからな。

 

「ん? もうちょっと触ってて欲しかった?」

「そんな恥ずかしいこと、思ってないっ」

「えー……お昼すぎは『触ってー』て言ってたのに?」

 

 ……なんだその話……初耳なんだが。

 

「なんだそれ? 俺は知らんぞ?」

「えとね。私がおでこ触った時に、カシワギせんせー『きもちい……』て言って」

「全然記憶にないんだけど……」

「んで私が、せんせーのほっぺたをこう……フォッ! って挟んで」

 

 そう言って川内は、何食わぬ顔で、両手で俺のほっぺたを挟む。こいつ……俺が病人だからって、好き放題やりやがって……つーかその話、ホントに覚えてない。ウソじゃないの? 俺を辱めようという、川内の狡いデマなんじゃないの?

 

「んで、『しばらくこうしてようかー?』て私が聞いたら、せんせー、うれしそうに『うん』って」

「そんな子供みたいなこと、俺が言うわけないだ……」

 

 完全否定しようとして、フと思い出したことがある。そういえば、意識がぼんやりしてたときに、誰かにほっぺたを挟まれて、すごく安心する夢を見たような……?

 

「あ、あれ……夢じゃなかったのか……ッ!?」

「ほら! せんせーも覚えてた!!」

 

 おいおい……あんな三歳児みたいなこと、夢じゃなくて現実だったんかい……しかも、川内だったんかい……恥ずかしい……とたんに顔に血が集まってくる……

 

「まぁそんなわけでいまさらなの! いまさら!」

 

 俺のほっぺたから手を離し、腰に手をやって『ハッハッハーッ』と高笑いしながら俺を見下ろす川内に、俺は純粋な殺意を覚えた。

 

 残り少ない体力と気力を振り絞り、自身の黒い波動を抑えこむことに成功した俺。次に俺の胸に去来したのは、羞恥心。

 

「恥ずかしい……死にたい……くすん」

「んじゃ私はパソコンで勉強してるから。何かあったら呼んでね」

「もう……嫁に行けない……」

「そんときゃ私と夜戦してね!」

 

 こんな時まで夜戦かよっ……ちくしょっ……!!

 

 その後は自己申告通り、川内は折りたたみテーブルでパチパチとパソコンの自習をしつづけていた。俺は俺で再びベッドの上で布団にこもり、自分の熱が下がるのを待つ。

 

「……ねぇ、せんせー?」

「んー?」

「星の図形の中に文字を入れたいんだけど」

「図形を選択したまま……文字、打ってみろ」

「はーい……ぉお、できた」

 

 図形のことはまだ教えてないのだが……こいつはこいつで、自分で色々とWordを触っているようだ。質問内容に、授業では触れてない細かい部分が増えてきた。

 

「……あれ? カシワギせんせ?」

「……んー?」

「行と行の間に点線を引きたいんだけど……」

「図形の中に……直線があるから、Shift押し……ながら、引いてみ」

「はーい……ぉお、線が引けた」

「線が引けたら……あとは『書式』タブの……『図形の枠線』てとこから、点線に変え……て、色を黒色にしろ……」

「はーい」

 

 しかし……さっきの鍋焼きうどんが尾を引いているのか……ぽかぽかと心地いい熱さを感じている俺は、次第に瞼が重くなってきた。川内の質問にはできるだけ答えてやりたいのだが、意識が少しずつ限界を迎え始めたようだ。

 

「カシワギせんせー? よみがなを振りたいんだけど……」

「……『ホーム』……フォントグルー……プ……」

「せんせ?」

「ルビ……」

「眠い?」

 

 川内が俺のそばまで来て、睡魔に囚われた俺の顔を覗き込む。俺の瞼は閉店寸前で、視界ももやがかかりはじめて、ほとんど何も見えない。

 

「ふぁ……」

 

 ふと。頭を撫でられる感触がした。

 

「……せんせ。おやすみ」

 

 うるせ……好き勝手に俺の頭をなでてから、背中向けてそっち行くな……。あ……ダメ……おち……

 

………………

 

…………

 

……

 

……

 

…………

 

………………

 

 熱い……まるで、人喰い部族に捕まって、焚き火の上で炙り焼きにされているのではないかと思うほどに、ひたすら熱い。暑いじゃなくて熱い。あまりの熱さに目が覚める。でも、あまりの熱さに意識がハッキリしない。

 

「ん……う……」

 

 冷たい手がパジャマの中に無造作に入ってきやがった。また川内がパジャマの中に手を突っ込んできやがったのか……人が動けないことをいいことに、人の体を好き勝手いじくりやがってこんちくしょう……俺の脇から何かを取った川内は、それをジッと見た後、俺の顔を覗き込んできやがったようだ。

 

「汗かいてる……やっと下がりだしたかな……」

 

 とても静かで落ち着いた、川内の心地いい声が耳に届く。立ち上がった川内は一度台所のほうに向かったみたいだ。視界にもやがかかっていてよく見えないからか、川内の足音や声が、妙に胸に響いてくる。それが胸にとても心地いい。トントンという優しい足音が、俺の胸に心地いい刺激を与えてくれる。

 

 冷蔵庫を閉じるバタンという音の後、川内が何かゴソゴソやっている。戻ってきた川内が手に持っているものは……タオルにくるまれた、氷枕のようだった。

 

「よっ……」

 

 川内が俺の頭を静かに抱え、頭の下に氷枕を置いてくれる。

 

「……んう」

 

 やっと視界がクリアになってきた。もやが消え、周囲の景色がハッキリと……見えなかった。

 

「あ……起こしちゃった?」

 

 俺の視界一杯に、川内の綺麗な顔が写っていた。俺の頭の下に氷枕を置くため、川内は前かがみで俺の頭を抱え上げているのだが……おかげで、俺の顔と川内の顔が、酷く近い。

 

「……いや」

「ごめんね」

 

 それこそ、お互いの息が顔にかかるほどに。

 

 だが、不思議となんとも思わない。むしろ、妙な安心感がある。なんというか、『見守られてる』という感じがする。

 

 氷枕を置いたらしい川内は、静かに俺の頭を下ろしていく。川内の顔が、ゆっくりと遠のいていく。

 

「ひやってするよー……」

「う……」

 

 川内の言葉通り、俺の首筋に冷たい感触が合った。氷枕の冷たさが心地いい。なんせさっきまで、釜揚げうどんにされてるんじゃないかと思えるほど、身体が熱かったから。

 

「すまん……ありが……と」

 

 俺の感謝の言葉を無視し、川内は再び俺のおでこに手を置いた。さっきまで氷枕を持っていたせいか、その手がひんやりと気持ちいい。

 

「んー……下がってきてるから、あとちょっとだね」

「う……」

「せんせー。がんばれー」

「手……」

「んー? 私の手、きもちい?」

「ん……」

「んじゃ、またしばらくこうしてる?」

「……うん」

「はーい」

 

 一回やっちまったんだ……また同じことを頼んじゃってもいい。素直に……。額に触れてくれている川内の手に、この上ない安堵を感じた俺は、この釜揚げうどん地獄の真っ最中にも関わらず、再び瞼を閉じて眠ってしまった。

 

………………

 

…………

 

……

 

……

 

…………

 

………………

 

 ……体中がベタベタで気持ち悪い。なんだかネットネトの山芋が身体にまとわりついているような……。

 

「ん……」

 

 眩しい明かりに瞼越しに目を刺激され、俺は目覚めた。体中がベッタベタで、汗が乾いた後特有の、ベタベタした気持ち悪さが体中を覆っている。

 

「うー……ベタベタで気持ち悪い……いま、何時だ……?」

 

 カーテンの隙間から、陽の光が差し込んでいるのが見て取れた。あのあと落ちた俺は、そのまま朝まで眠ってしまったようだ。枕元に置いてあったはずのスマホを、手探りで探す。スマホの時計を見ると、朝の7時。なるほど。まさに、紛うことなき清々しい朝だ。これが夏休みなら、『くるっぽーくるっぽー』という鳩共の鳴き声が聞こえてくるほどの、清々しい朝だ。今は冬だから、そんなことはないけれど。

 

「……くっそ。重い……」

 

 どうも先程から圧迫感がある。布団の上に何か重い物を乗せられているような……なんて疑問を思い、自分がかぶっている布団を見た。

 

「……」

「……クカー」

 

 妙に布団に圧迫感がある理由が、すぐに理解できた。昨日、あれだけかいがいしく俺の世話をしてくれた川内が、布団の上に突っ伏して、気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 

 部屋の中を見回す。川内の『夜戦主義』パソコンの電源が入ったままだ。昨晩は俺の世話をしてる最中に落ちたようだ。ベッドの下に落っこちている川内の右手には、濡れタオルが握られていた。俺の汗を拭おうとしてたのか。

 

 汗臭い布団の中から右手をなんとか出して、自分の顔に触れた。これだけ全身が汗をかいてベッタベタだというのに、顔だけは妙にスッキリしていてベタベタしない。どうやら川内が汗を拭いてくれていたようだ。それだったら全身も拭いてくれよと思ったが、逆に拭かれてたらそれはそれでマズいな。

 

「お前……よくこの他人の汗くさい布団で寝てられるな」

「スー……スー……」

 

 川内の寝息が聞こえる。思いっきり熟睡しているようだ。

 

 フラフラと右手を川内の頭に持って行き、そのまま頭を撫でた。昨日はさんざん撫でられたんだ。たまにはお前も撫でられろ。この俺の汗臭い左手でな。

 

「ありがとな。川内」

「スー……スー……」

「勉強、最後まで付き合えなくてゴメンな。次の授業の時は、ちゃんと付き合ってやるから」

「……」

 

 自分の体調の変化に気付く。昨日はあれだけ気持ち悪くて寒くて辛かったのに、今日はそうでもない。頭のグラグラもなくなり、気分も多少上向きになっている。昨日一晩で、なんとか調子が上向きになったようだ。このムカつく夜戦バカの看病と、あの鍋焼きうどんのおかげかもしれん。

 

 俺は再び布団に転がり、汗の気持ち悪い感触を我慢しつつ、目を閉じて眠りについた。このアホが、今はゆっくり眠れるように。

 

「……あ」

「スー……スー……」

「ハラ減った……まぁいいか」

 

 川内が起きたら、何か食べようか……そう考えただけで、なぜだか少し、心が温まった気がした。

 

「せん……せ……」

「? ……寝言か」

「夜戦で……はり……倒す……クカー……」

「何いってんだか……」

 



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8. 様子がおかしい


「お二人とも。ご心配をおかけしました」

 

 俺が仕事を休んだあとの休校日を2日挟んだ今日。俺は出勤して開口一番、暖かく出迎えてくれた大淀さんとソラール先輩に対し、深々と頭を下げた。

 

「いえいえ。ともあれ体調が戻って何よりです。こちらは大丈夫だったんで、カシワギさんもどうぞおかまいなく」

 

 優しいなぁ……大淀さんは天使だなぁ……病人の身体を容赦なくペタペタと触ってくる、どこかの小悪魔夜戦バカと違って……。

 

 一方のソラール先輩も俺のことを心配していたらしく、朗らかな笑顔で……いや兜かぶってて顔は見えないけど……俺の肩をポンと叩いてくれた。肩を叩かれた瞬間、先輩のずっしりとした腕の重みが、先輩の心配と喜びを俺の肩に届けてくれた。

 

「それよりも貴公、体調が相当悪かったみたいだが、大丈夫だったか?」

「ええ。おかげさまで」

「ならよかった。俺も見舞いに行こうか迷ったのだが……」

「な、なるほど……」

 

 なぜだろう……この人がお見舞いに来たとすると……このままの格好のソラール先輩が、フリフリのエプロンを着て台所に立っているところしか想像出来ん……

 

――♪〜♪〜……

 

 ちくしょう。あのアホの台所姿を見たからか。あの、どこか楽しげで安心出来る姿が、妙に印象に残っているからか。

 

「でも、だったらどうしてお見舞いに来てくれなかったんですか?」

 

 そうだ。迷ってたのなら、せっかくだから来てくれても良かっただろうに。どうせ来てたのは川内ただ一人。ソラール先輩と川内だったら、すぐに仲良くなるだろう。太陽と夜戦。お互い崇拝する時間帯は正反対だが、その根っこは似ている物同士、心が通じ合う部分もあるだろうに。

 

「……えー」

「えー?」

「……あー」

「あー?」

「……た、太陽が出てなくては……」

 

 なんだか言いづらそうに、もごもごと答えるソラール先輩。兜のせいで見えないが、きっと口をひょっとこのようにとんがらせ、それを向かって右上の方に持ち上げて声を発しているに違いない。そんな感じがする、くぐもった声だった。

 

「結局太陽ですか……」

「お、俺の太陽が……」

「貴公……」

 

 でもなんとなくだが、理由はそれだけではない気がした。そんな俺達の事を微笑ましく眺めている大淀さんなら、事情を知っているかも知れないな。ソラール先輩本人が言いづらそうにしてることだから、あえてこちらから追求することもないけれど。

 

「ところで大淀さん」

「はい?」

「俺が休んだ日は忙しかったですか?」

 

 確か……その日に限って、やたらと生徒さんの数が多かったはずだが……おれ、最初休む時にすんごい罪悪感があったもんなぁ……。

 

 俺の心配をよそに、大淀さんはいつもの柔らかい微笑みを向けながら、メガネをくいっと持ち上げた。

 

「生徒さんは多かったですけど、大丈夫でしたよ。ソラールさんの知人の方が助っ人に来てくれまして」

 

 ほう……変態太陽戦士ソラール先輩の、知人とな?

 

「どんな方だったんですか?」

「ええ。ロー……お名前、なんでしたっけソラールさん?」

「女神の騎士ロートレク。偶然白サインを見つけたので召喚した」

 

 白サインというものが何なのか気になるが……それよりも、なんかもうその通り名だけで分かる。その人が、いかにめんどくさい人なのかが。そらぁソラール先輩の知人つーからには、一筋縄ではいかないと思っていたけれど……。

 

「そうそう、ロートレクさん。その方に岸田さんの相手をしてもらったんですが、岸田さんが萎縮しきってましたね」

「最初は岸田殿もカシワギと同じように接していたのだが、あの男にそういうのは通用せんからな」

 

 その後、大淀さんとソラール先輩が代わる代わる教えてくれたのだが……件のロートレクさんという人は、相当厳しい先生だったらしい。岸田さんは、最初俺に接する時と同じ話し方でロートレクさんに文句を言っていたのだが……

 

『えー……先生変わるの? そんなに頻繁に担当者変わっていいの?』

『ほう』

『そもそもあんた、大丈夫なの?』

『貴公、もはや人間性が限界と見える』

『へ?』

『哀れだよ。まるで炎に向かう蛾のようだ』

 

 というよく分からないやりとりの後、手元確認禁止、ミス一回につき100文字追加、一分あたりの打鍵数低下が確認される度に100文字追加の、地獄のタイピングブートキャンプをずっと行っていたそうだ。タイピングを行う手元には、ロートレクさんお手製のダンボールの覆いが設置され、手元が絶対に見えない状態で二時間もの間、岸田さんは半べそでひたすらタイピングを行っていたらしい。

 

「そうだ。岸田殿を担当しているカシワギに、ロートレクから伝言がある」

「へ? 俺にですか?」

「ああ」

 

――貴公はぬるすぎる ヤツの人間性を限界までむしり取れ

 

「だそうだ」

 

 だから人間性って何だよっ!? 今Y字ポーズで気持ちよく上に伸びてるソラール先輩もこの前言ってたけどっ!!

 

「でも、一度お礼を言いたいです。俺に貴重なアドバイスもくれたし」

「そうですね。ソラールさん、近いうちにまた、ロートレクさんをお呼びしてください」

 

 とはいえ俺のヘルプをしてくれたのだから、お礼を言うのは当然だ。それに、その言葉ぶりから見ると、ロートレクさんは相当なインストラクター……もっといえば、熟練のエンジニアの雰囲気が漂う。同じエンジニアとして、一度話をしてみたいと思ったのだが……

 

「残念だが、今回はたまたまロートレクの白サインが見えた故、召喚出来たのだ。次はいつ会えるか、俺にも分からん」

「そ、そうですか……」

 

 その辺のシステムがいまいちよく分からないが……まぁいい。いつ会えるのかわからないというのなら、その日が来るのを楽しみに待つとしようか。

 

 謎の助っ人、ロートレクさんの話が一区切りついてしばらくすると、入り口ドアがガチャリと開き、お昼からの生徒たちが顔を出し始める。

 

「こんにちはー。今日もよろしくお願いしまーす」

「はいモチヅキさん、今日もよろしくお願いしますね」

「こんちはー。あらカシワギ先生! もう風邪は大丈夫?」

「ええおかげさまで。ご心配をおかけしましたタムラさん」

「んじゃ黄金糖たべる? 今日も持ってきたわよ?」

「あ! ありがとうございます!!」

 

 無論、あの夜戦小悪魔の妹にして見た目常識人だけど中身はなんだか変な人、神通さんももちろんやってくる。今日は彼女も授業だ。

 

「こんにちは。今日もよろしくお願いします」

「はい。神通さんもこんにちは」

「あ、カシワギ先生。具合はいかがですか?」

「おかげさまで快調です」

「姉がお役に立ったみたいですね」

「ありがとうとお伝え下さい。実際、とてもよく診てくれました」

「はい。でも、直接伝えていただいたほうが、本人も喜ぶと思いますよ」

 

 ……ま、たしかにそうだ。もちろん本人にもお礼を言うが……なんか軽口の叩き合いになりそうなんだよなぁ。アイツと面と向かってだと……。

 

 神通さんはキョロキョロと周囲を見回し、教室の方へとかけていく。黄金糖のタムラさんを案内して先に教室に入っていった、ソラール先輩を探しているのかな? 神通さんがパーテーションの向こう側へと足を踏み入れた瞬間、彼女のうれしそうな声が聞こえてきた。

 

「ソラール先生!」

「お……おお、神通!!」

 

 ……んー?

 

「今日もよろしくお願いします!」

「おお、よろし……く……!!」

 

 なんだ? この、ソラール先輩らしからぬ歯切れの悪さは……? 神通さんはいつも通りの嬉しそうな声だけど……ソラール先輩は……なんだかちょっと、戸惑っているような……

 

「私の席はここでいいですか?」

「ああ。き、今日は、そこではなくて……」

 

 うん。なんかおかしい。ソラール先輩のあの歯切れの悪さ……普段の先輩なら、もっとこう……

 

――神通、貴公の今日の席はここだ 太陽が貴公を導くだろう

 

 みたいな感じで、やたらと太陽と結びつけてY字ポーズを取るはずなのだが……今の先輩は……

 

「先生、今日はこのプリントの続きからでいいですか?」

「そ、そうだな」

「二水戦の誇りにかけて、今日中に作成します!」

「わからないことがあれば、え、遠慮なく……」

「ええ。その時は、私の太陽として導いてください!」

 

 こんな感じで終始神通さんに圧倒されているような、そんな感じが……。大淀さんを見ると、クスクスと微笑みながらパーテーションの向こう側を眺めているが……

 

「大淀さん?」

「はい?」

「何か知ってるんですか?」

「本人に聞いてみるといいと思いますよ?」

 

 そう答える大淀さんの柔らかい笑顔には、ほんの少し、いたずら心が見え隠れしていた。

 

 今一納得出来ないまま、頭を捻りつつ教室へ入る。教室ではハゲ頭のモチヅキさんがExcelで条件付き書式を設定し、黄金糖のタムラさんがWordでカレンダーを作っていた。カレンダーは今晩、川内も挑戦する予定になっている。

 

「ぁあカシワギ先生! ちょっといい?」

「ああはい。タムラさん今行きますよー」

 

 タムラさんに呼ばれ、俺は彼女の席へと急いだ。神通さんとソラール先輩の席を素通りする時、2人のこそこそ話が偶然、耳に入ってきた。

 

『教室ではいつも通りって約束したじゃないですかっ(こそこそ)』

『あ、いや……しかし神通……(こそこそ)』

『もう……しっかりして下さいっ(こそこそ)』

 

 ……んー? 教室では? いつも通り? んー?

 

 ……あ。なんとなく分かったかも。ひっとしたら、俺が熱を出してくたばってたその時、あの2人は一緒にいたのかもしれない。とすると、さっき俺の看病がうんちゃらかんちゃらって時に、妙に歯切れが悪かった理由も、なんとなく理解出来る気がする。

 

 そう思い当たると、不思議とソラール先輩のあのバケツ兜のほっぺたあたりが赤くなってるように見えるから、人間不思議なものだ。2人ともいい人だから、幸せになってもらいたいね。

 

「先生! カシワギ先生!!」

「ぁあごめんなさい。えっと……どうしました?」

「はい。作る順番なんですけど、カレンダーでもやっぱり、入力から始めるのよね?」

「そうですね」

 

 タムラさんに声をかけられ、慌てて自分の仕事に戻る。タムラさんの画面はまったく入力がされてない白紙の状態のままだった。カレンダーは表と写真数枚によるシンプルなものだが、今まで作ってきたプリントに比べると、見た目で手順が分かりにくい。そのため、タムラさんは手順に迷い、手を付けることができなかったようだ。

 

「でも今回作るカレンダーって、日付の表と写真しかないわよ?」

「その時は、まず表から作っていきましょ。写真は大きさの調整が楽ですけど、日付の表の部分は、一回作っちゃったら調整が大変ですから」

「はいー。ありがとう先生」

「いえいえ。分からないことがあったら、また聞いて下さい」

「そしたらまた先生に黄金糖あげるわね~」

「俺、虫歯になっちゃいますねぇ」

「「あはははは~!!」」

 

 タムラさんと共に大笑いしながら、壁掛け時計を見る。授業が開始してすでに20分。今日は岸田さんも来るはずなんだけど……なんか遅いな……。

 

「ソラール先生、ちょっといい?」

「? どうしたモチヅキ殿?」

 

 一方、そんな俺達の向こう側では、モチヅキさんと神通さんとソラール先輩の、Excel教室が繰り広げられている。

 

「えっとね先生。ここに写真を入れたんだけど……」

「ああ」

「それで、写真を丸く切り抜きたいんだけど、そんなこと出来る?」

「出来る。『書式』タブの『トリミング』というところの、下向き三角をクリックしてみてくれ」

「ほいほい」

「クリックしたら、『図形に合わせてトリミング』という項目があるから、その中から好きな図形を選択すれば、その図形の形に切り抜けるはずだ。今回は丸を選べば、モチヅキ殿の理想の形になるだろう」

 

 ソラール先輩の説明を受け、『ほうほう……ここ?』と言いながらマウスをカチカチと操作していくモチヅキさん。俺はタムラさんが入力をし始めたのを見計らい、その様子を見学しようとモチヅキさんとソラール先輩の席へと移動し、画面を見た。

 

 モチヅキさんのExcelの画面には、一年の気温変動のグラフと、一枚の桜のイラストが表示されていた。モチヅキさんはソラール先輩の指示通り、イラストが選択された状態から書式タブをクリックし、図形の形にイラストをトリミングしていた。

 

「ぉおー。できたできた」

「相変わらず、モチヅキ殿は操作が鮮やかで優秀だ」

「何を仰る。ソラール先生の腕がイイからですよぉ」

「俺も、太陽のように朗らかで優秀なあなたを導くことが出来て、光栄だ」

 

 ただ丸く切り抜くだけであれば、図形のスタイル設定を使えば、周囲をぼかした状態で丸く切り抜くことが出来るのだが……そうではなく、モチヅキさんは単純に丸い形に切り抜きたかっただけらしい。そうならば、俺は余計なでしゃぱりをする必要はないだろう……そう思っていたら。

 

「……で、モチヅキ殿。実はもう一つやり方がある」

「そうなんですか?」

「ああ。今回は図形の形に切り抜いたが、先に図形を書いてしまって、その中にイラストや写真などの画像をはめ込むことも可能だ」

「へー……」

 

 『ちょっとマウスを拝借……』と、ソラール先輩はモチヅキさんのマウスを操作に、真円の図形を描いた。そして、『書式』タブの『図形の塗りつぶし』から『図』を選択し、『太陽.png』という画像を選択する……

 

「見てくれモチヅキ殿。このように、図形の中にイラストが入った」

「本当だねー。こりゃ、ソラール先生の太陽じゃないかー」

 

 丸の中に入った画像……それは、見間違うはずがない……先輩の鎧と盾、どこかしこに描かれた、アンニュイな表情の、気が抜けた太陽のイラストの顔部分だった。まさかこの男……

 

「あとは……」

「ほお?」

 

 続けてソラール先輩は太陽の図形を描き、スタイル設定でやや赤が強めの立体的なスタイルに変更すると、それを最背面に移動し、2つを重ねて……

 

「太陽ッ!!」

「これでモチヅキ殿も太陽の戦士ッ!!」

 

 ま、またしてもやりやがった……! この変態太陽野郎はExcelの機能だけを使って、自分が胸に描いたものそっくりの太陽のイラストを作りやがった……!! しかもモチヅキさんと2人揃って、Y字ポーズで気持ちよさそうに伸びてやがる……ッ!?

 

「いやぁ! やはりお天道様は素晴らしいですなぁ!!」

「それが分かるモチヅキ殿も、また太陽の戦士っ!!」

 

 二人して元気よくY字のポーズを取っている、80近い老人とコスプレ太陽戦士の2人。ここに来て間もないころの違和感を久々に思い出した。大丈夫かこの教室……?

 

 何か熱い視線のようなものを感じ、その方向に顔を向けた。

 

「……!?」

 

 神通さんが、ソラール先輩とモチヅキさんに熱い眼差しを向けていた。俺と目が合った途端、顔を真っ赤にしてサッとうつむき、そして何事もなかったかのように画面を凝視し始める。……まさか、一緒になってあのポーズをやりたかったわけではないだろうな……。

 

「す、すみません遅れましたッ!!?」

 

 タイミングよく教室内に大声が鳴り響いた。入り口を見ると、岸田さんが立っている。こちらに深く頭を下げ、恐縮しきっているようだ。その姿に、以前のような不遜な感じはまったくない。ロートレクさんの強烈なシゴキの効果か。

 

「ぁあ岸田さん。お待ちしてました」

 

 俺は入り口で頭を下げ続けている岸田さんに声をかけた。岸田さんはハッとして顔を上げ、俺の顔を見るなり、感激したように目をうるうるとうるませ始めた。きもい。

 

「か、カシワギ……せん……せい?」

「はい。カシワギですが……」

「も、もう体調は……いいの?」

「はい。おかげさまで大丈夫ですよ」

「本当に?」

「はい。げんきーっ!!」

 

 何度も『大丈夫か?』と問いかけてくる岸田さんに対し、俺は両手で力こぶを作って、自分の元気さをアピールしてみせた。……しかし、カワイイ女の子ならいざしらず、若干顔が皮脂でテカっている男に、涙目で顔を見つめられるというのは、なんだか落ち着かなくて仕方がない。正直、やめていただきたいのだが……

 

「よ、よかった……本当に……じゃあ今日からはまた、カシワギ先生が俺の担当になるんですか……!?」

「ええ。基本的に岸田さんの担当は俺ですから」

「よかった……もう、あの地獄のタイピングブートキャンプは行わなくていいんですね!?」

「ぁあ、ロートレク先生にこってりと絞られたらしいですねぇ」

「よかった……これで、前のような穏やかな授業が……ふぇぇええ」

 

 俺の復活がよほど嬉しかったのか、岸田さんはその場で立ち尽くして、おいおいと号泣しはじめた。タムラさんとモチヅキさんが『何事!?』と岸田さんの方に目をやり、神通さんも悲痛な面持ちで岸田さんを見つめ、ソラール先輩はY字ポーズで伸びていた。ソラール先輩、そのリアクション、ちょっと違うんじゃないですかね?

 

「よかった……えぐっ……ホントに……」

「ま、まぁ、とりあえず座りましょうよ、岸田さん」

「は、はい……きょ、今日からまた、よろしくお願いします!!」

「はいよろしくでーす」

 

 ……しかし、大の大人の男をここまで叩きのめすとは……どれだけ過酷なブートキャンプをやったんだロートレクさんは……。

 

「カシワギ」

 

 岸田さんの席のパソコンに電源を入れた俺の隣に、ソラール先輩がチャリチャリと鎖帷子の音を鳴らしながらやってきて、俺にそっと耳打ちしてくれた。

 

「ん? なんです?」

「教室隅っこのテーブルに、ロートレクが使ったタイピング練習用の手元隠しボックスがある。気になるなら見てみるといい。ブートキャンプの過酷さが分かるはずだ」

「はぁ……」

 

 岸田さんのパソコンのOS8.1を起動させた俺は、起動を待っている間、その部屋隅っこに置いてあるという、タイピングブートキャンプに使用された手元隠しボックスを拝見してみた。

 

「……!?」

「岸田殿が、どれだけ過酷な訓練を受けていたのか分かるだろう?」

「確かに……」

 

 段ボールで作られたその手元隠しボックスには……返り血であろうか……ところどころ血の跡がついている。なぜタイピングの練習で出血する?

 

 そしてなによりも目を引くのが、墨汁が切れかけの筆で書かれたと思われるなぐり書き。墨がかすれ、文字にスピード感と勢い、そして威圧感のような物が感じられる。

 

――人間性を捧げよ

 

 ……だから!! 人間性って何だよッ!?

 

「何なんすかこの人間性って!?」

「シッ……カシワギ、声がデカい」

「意味わかんないです! 意味わかんないですよ!!」

 

 半狂乱に陥る俺の肩を、冷静にぽんと叩くソラール先輩。先輩は俺に対し、親指で岸田さんを見るように促した。

 

 岸田さんは顔面蒼白になって、ガクガクと震えていた。

 

「……」

「……」

「……人間性っ」

「ひっ!?(びくぅううッ!?)」

 

 試しに、ぼそっと言ってみる。岸田さんは身体をビクッとさせ、肩を小さく縮こませて、さらにガクガクと震え始めた。そんなに厳しかったのか……。

 




挿入した画像は、
『書式』タブの『トリミング』から、
任意の形に切り抜くことが出来ます。

うまい具合に図形やイラストを組み合わせてあげれば、
こんな感じで好みのイラストをWordやExcelだけで
作成することも出来なくはないです。


【挿絵表示】


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 『あぁ……太陽が……沈む……消えていく……』と口走り、フラフラと心もとない足取りでソラール先輩は帰宅していった。後に残ったのは、俺と大淀さんの二人だけ。その大淀さんも、もうしばらくしたら帰宅する。

 

「大淀さん……あの……」

「はい?」

「岸田さん、相当絞られてたみたいですが……」

 

 昼間の岸田さんの様子を思い出し、俺は大淀さんに真相を聞いてみることにした。ソラール先輩に聞いてみるのが一番いいんだろうが……あの人はロートレクさんの知り合いだという話だし、話に客観性が期待出来ないというか……いや、決してあの人のことを信用していないわけではないんだけど……。

 

 俺は、真相を知りたかった。そのためには、身内のソラール先輩に聞くよりは、第三者的立場の大淀さんに話を聞いてみるのが、一番いいと判断した。

 

「んー……確かに、あそこまでスパルタな授業は、この教室始まって以来でしたね」

 

 そんなにひどかったのか……大淀さんはタイピングの手を止め、顎に手をやって、メガネのレンズを光らせたまま、思い出すように自分の頭上に目線をあげていた。

 

「そ、そんなにひどかったんですか?」

「ええ。タイプミスごとにノルマは増えるし、遅くなったらノルマは増えるしで。岸田さんは半べそかいてましたし」

「それは聞きましたけど……」

「それに、ロートレクさんもソラールさんと同じで、剣を持ってたんですけど……時々それで岸田さんの脇腹をつんつん突っついてたんですよね」

「剣って……そんなので突っつかれて、よく平気でいられましたね……」

「Wordとかの『元に戻す』ボタンのところにある、ぐるりん矢印みたいな剣でした。独特な形でしたよ」

 

 驚愕の事実……正しく正確なタッチタイプを身につけるためなら、体罰すら厭わないとは……しかし、それではやり過ぎな気が……。

 

「止めなかったんですか?」

「いえ、発端は岸田さんが失礼なことを言ってしまったからですし」

「はぁ」

 

 あぁ、『あんた大丈夫なの?』だっけか……でも、それで体罰を強行するってのも、カルチャースクールとしてどうかと思うけど……

 

「それに、途中から岸田さんの様子もなんかおかしなことになってましたし」

「おかしなこと?」

「ええ。ロートレクさんに突っつかれるのも最初は嫌がってたみたいですけど、なんか段々『ありがとうございます!!』て言葉が増えてきてまして。ありがたがられてるんなら別にいいかなと思いまして」

 

 ……ココに来て浮上した、まさかの岸田さんドM疑惑……この教室、ホント変人しかいないなぁ……いや、決して黄金糖のタムラさんや禿頭のモチヅキさんは変態ではないけれど……いやちょっと待てモチヅキさんは先輩といっしょにポーズ取ることあるな……

 

「その割には岸田さん、今日は俺の復帰を喜んでましたけど……」

「まぁ、自分の性癖を認めたくないって気持ちは、私もよくわかります」

「はぁ……?」

 

 なんだ? この『私の性癖は人に言えないニッチなところを突いてます』的な物言いは……? この人ばりのジョークなのか……? でもジョークにしては真剣味がすさまじいような……

 

「カシワギさん」

「はい?」

「私はオヤジフェチではありませんから」

「はぁ……?」

 

 大淀さんのメガネがキラーンと輝く。いや、別にあなたがオヤジ趣味だろうがショタコンだろうが、そんなことはどうでもよいですし、それを理由にあなたに対する心象が悪くなったりはしないのですが……と思っていたら……

 

「……ハッ」

「?」

「わ、私は今……何を……?」

 

 大淀さんが急にハッとして取り乱し始めた。顔がみるみる真っ赤になってきて、両手で顔を押さえてあわあわやっている。

 

「え、えと……その……カシワギさん?」

 

 何この人おもしろい。

 

「はい」

「わ、私は今、何と……?」

「自分はオヤジフェチではない……と」

 

 素直に大淀さんの言葉を反芻しただけだが、大淀さんはこの一言に過剰に反応し、輝くメガネのレンズ越しに俺をギンッと睨みつけ、今までにない厳しい口調でこう言った。

 

「忘れて下さい」

「はぁ……」

「いや、忘れなさい」

 

 そんな言い方で教室長に命令されれば、いちインストラクターとしては承服するより仕方ない。

 

「はい。すみません。忘れました」

「まったく……カシワギさんも気をつけてくださいね?」

 

 何をだッ!? 今のは俺が悪いのかッ!?

 

『では川内さんの授業と、基幹ソフトの開発をお願いします』と言い残した大淀さんは、帰り支度をさっさと済ませ、ばひゅーんと音を立てて教室を後にした。帰り間際のその寸前まで、大淀さんのほっぺたは赤くなりっぱなしだったから、きっとあの人は『オヤジフェチ』で間違いないはずだ。もしくは今、中年男性に恋をしているとかなのか?

 

 大淀さんの性的嗜好を考えながら時計を見る。そんなことを考えている自分のヘンタイ具合も気になったが……時計は午後7時5分前。時間通りであれば、そろそろヤツが姿を見せるわけだが……

 

 ガチャリとドアノブの音が鳴り、ドアがゴウンゴウンと音を立てて開き始める。来るのかッ……奴が来るのかッ!?

 

「や! カシワギせんせー!」

 

 身構えていた俺の目の前に姿を表したのは、テンションが高いわけでも低いわけでもない、ひどくフラットな川内だった。今まで盛大に盛り上がった状態で来校することが多かったくせに、この前といい今回といい、普通の人みたいに来校してくるから、なんか拍子抜けする。手提げのバッグじゃなくてメッセンジャーバッグってのが、またこいつらしい。外が相当寒いのか、ほっぺたがちょっと赤くなってやがる。

 

「なんだよ。お前最近普通にくることが多いな」

「いや、前から普通でしょ……」

 

 あのテンションの高さを普通というのなら、この学校の生徒さんは全員、人生に疲れて落ち込んでる状態での来校になってしまうわけなのだが……。

 

 いやそれよりも……なぜ俺は、こいつの顔を見ると妙にホッとするんだっ……気のせいだ気のせい……この前の看病が尾を引いてるだけだっ。

 

「それはそうとせんせー、もう大丈夫?」

「お前のおかげでなんとかな。心配かけたがもう大丈夫だ」

「よかった!」

 

 くっそ……だからその、香港の夜景みたいにキラッキラな笑顔を俺に見せるのはやめてくれ……

 

「ん、んじゃ早く席につけぃ」

「? 私、自分の席がどこか、まだ聞いてないけど?」

「い、行くぞぅ」

「はーい?」

 

 川内とともに教室に入り、適当な席に座らせて電源を入れる。くそっ……だからきょとんとした顔で覗き込むなって……。

 

「どしたの?」

「なんでもないっ」

「?」

 

 8.1を選択し、OSが立ち上がるのを待つ。なんか妙に間が持たないな……いつもみたいに何か話題を振ってこいよ川内っ。ぽけーと画面を見つめ続けるんじゃなくてさっ。

 

「ねえせんせー」

「んー?」

 

 よしっ。いい手持ち無沙汰解消になるぞッ! ナイスだ川内っ。

 

「あのさ。今日やるとこ、テキストで見てきたんだけど」

「おう」

「今日って今まで習ったことの応用でさ。カレンダー作るよね?」

「おお。予習してきたのか。やるな川内」

「まぁねー」

 

 俺の社交辞令を本気で受け止めた川内は、腰に手を当て、得意げに胸を張っていた。いや川内さん、社交辞令ですけど……?

 

「それでさ。せっかくだからお手本通りのものじゃなくて、来月の日付のカレンダーにしたいなって思ってるんだけど」

「いいな。んじゃ来月のカレンダーにするか」

「んで、挿入する写真とかも、私が準備したやつ使ってもいい?」

「いいぞ。こっちはやり方さえ把握出来てればいいんだから」

「やった!」

 

 そういい、川内は卓上カレンダーとUSBメモリをひとつずつ、自分のバッグパックから出していた。今日のカレンダー作成にそんなに気合を入れているのか。何か理由でもあるのかな?

 

 OSが立ち上がり、川内がWordを立ち上げた。テキストを開き、カレンダー作成のページをめくる。実際の作成に入る前に、川内は各ページを真剣な眼差しで眺めていた。手順の確認を真面目に行っているらしい。

 

「いやぁ、完成図から手順がちょっと想像出来なかったからさ」

「表と画像だけだからな」

「うん。だからちょっとしっかり確認しとこうかと」

 

 中々殊勝な心がけじゃないかと思いつつ、俺は自分が座っている席のパソコンの電源を入れ、OSが起動したのを確認したのち、Accessを開く。帰り際の大淀さんに釘も刺されたし、少しずつAccessの方も進めていかないと。

 

「せんせーは今日もそれやるの?」

「ああ。でも分からないとこは、気軽に聞いてくれていいからな」

「はーい。寝込んでる時もちゃんと答えてくれたしね」

 

―― おやすみ……せんせ

 

 反射的に、川内に頭を散々撫でられたことを思い出し、顔に血が昇ってきた。

 

「は、早くやれいっ」

「? カシワギせんせー、なんか今日おかしくない?」

「おかしくないっ」

 

 誰のせいだ誰の……ええいっ。Accessに集中せねば……。

 

 今回、川内が作るカレンダーは、紙の上半分が一枚の大きな写真で、下半分が日付になっている、比較的オーソドックスでシンプルなタイプのカレンダーだ。そのため作成の手順としては、まず最初に紙の下半分に表を挿入し、サイズ調整が容易な画像は後から挿入する。

 

「ねーせんせー。ちょっといい?」

「んー?」

「テキストだとさ。『19行目まで改行する』って書いてあるけどさ」

「おう」

「実際自分で作るときはさ。何行目まで改行いれればいいのかな?」

 

 ……考えてみりゃ、テキストみたいに『〇〇行目まで空白で』て説明をされたら、じゃあ実際自分が一から作るときはどれぐらい開ければいいのか……てのは、初心者は悩むかもしれん。使い慣れた人からしてみりゃ『だいたいこんなもんかな?』て適当に済ませちゃうけど。

 

 とはいえ、実際に作るときのことを考えて質問してくるとは……やるな。夜戦小悪魔のくせに。

 

「行数よりも、全体のレイアウトをどうするか……てことに意識を傾けた方がいいぞ」

「そなの?」

「今回でいえば、カレンダーの上半分が写真で、下半分が日付が入ってる表だろ?」

「うん」

「んで、下半分の表から先に作るわけだから、だいたい半分ぐらいの19行目のところまで改行を入れてるんだ。これが上半分を日付にしたいんだったら別に入れなくていいし……要はレイアウト次第だ、行数はあくまで目安って感じだな」

「でもさでもさ。『紙の半分ぐらい』って言っても、紙の全体が写ってないから、どのへんがだいたい半分なのかって、分からないよ?」

 

 川内の指摘を受け、このアホの画面を覗いてみた。なるほど。表示サイズが150%になっていて、紙の全体が見えん。これでは半分の高さなぞ分かるはずもない。

 

「全体が見えないなら、見える倍率にすればよいではないか」

「?」

「『表示』タブに『1ページ』って項目があるから、それクリックしてみ」

「ほいほい?」

 

 言われるままに『表示』タブをクリックする川内。ボタンはあまり大きくないので目立たないが、ちょうど真ん中ぐらいのところに、『1ページ』ボタンは存在する。

 

「これ?」

「いえーす。ぷりーず、くりっくみー」

「せんせーをクリック?」

 

 俺の渾身のジョークを真に受けた川内は、人差し指で俺のほっぺたをグリグリとえぐり始めた。確かに『どうぞ私をクリックしてください』と言ったのは俺だが、このえぐり具合は、すでにクリックの域を超えていると思うんだ。

 

「川内くん?」

「ん?」

「俺が言いたいことは分かってるな?」

「うん」

「では実行したまえ」

「はーい」

 

 さらに人差し指に力を込めて、今まで以上の勢いで俺のほっぺたをグリグリとえぐり始めやがった……

 

「わざとだな!? お前、わざとやってるな!?」

「えへへー」

 

 えへへじゃないッ!! と怒りをぶちまけそうになった瞬間、川内はきちんと俺の指示通りに『表示』タブをクリックして、『1ページ』ボタンをクリックした。早くやれよそれを……お前の力、予想以上に強いんだよ……グリグリされたせいで、口の中の歯がなんか痛いよ……

 

「おおっ。1ページ全体が見られるようになった!」

「そこのボタン押すと、1ページが丸々表示されるんだよ。それならわかりやすいだろ?」

「でも、大きさなんてほいほい変えていいものなの?」

「こんなの表示倍率なんだから、好きなタイミングで好きなようにバンドン変えていいんだよ。だから今みたいに全体を見たいときは倍率下げていいし、逆に細かい操作が必要なところなんかは、ズームアップして大きく表示していい」

「そんなもんなんだ……」

 

 俺の当然の指摘に対する川内の反応が腑に落ちないのだが……ちょっと待て。これって実はけっこうな盲点なんじゃ? 常日頃俺が感じていた疑問の答えが出るかもしれん。

 

「なぁ川内」

「ん?」

「ちょっと聞きたいんだけど、お前、『表示倍率』っていじっちゃいけないものだと思ってた?」

「うん。だって見た目の大きさ変わるし」

「そうか」

 

 教えてる生徒さんたちは皆、こっちから『倍率をいじりましょうか〜。そんなに小さかったらやり辛いでしょ〜』と促さない限り、自分からは絶対に倍率をいじろうとしない。この理由って、実は今の川内と同じだったり……? 表示倍率をいじれば見た目の大きさは変わる。それをみんな、大きさそのものが変わってしまっていると錯覚しているのか?

 

「川内、ありがと」

「ん? 何が?」

「今のこと」

「? ??」

 

 これは結構大切なことだ。生徒さんたちには、もっと『ガンガン表示倍率いじろうぜ!!』て教えよう。表示倍率はあくまで表示倍率。そこをいじったところで、入力した文字や図形の大きさは変化しないってことをちゃんと伝えないとな。

 

 川内に気付かされたことを簡単にメモっておき、俺は再びAccessをいじりはじめる。作業はちょうどクエリの作成に差し掛かった。

 

 しかし、このクエリのシステムが今いちよう分からん……クエリを回す度にパラメーターをこっちで指示する方法は何か無いのか……? こんな些細なことでいちいちマクロを組むハメになるのか……?

 

「ねーせんせー?」

「んー?」

「大変そうだね」

「んー」

 

 参考書をペラペラとめくる。どうやら抽出条件の部分に特殊な記載方法をすることで、その都度パラメーターの設定は可能らしい。参考書通りに記入をしてみることにする。えーと……『[従業員IDは?]』と……SQLと違って日本語で打てるから楽でいい。プログラマー失格かもしれんけど、んなこと知るかっ。

 

「ねーせんせー?」

「んー?」

「この前の看病のお返しほしいなー」

「んー」

「だから今度夜戦にでも付き合ってよ」

「んー」

 

 記載したクエリを走らせてみる。小さなウィンドウが開き、『従業員IDは?』とメッセージが出てきた。ソラール先輩の従業員IDを入力してみて……ん? ちょっと待て。

 

 俺は作業の手を止め、川内を見る。キラッキラに輝いた眼差しで、口を半開きにして口角を思いっきりあげ、『うっはぁあ!!』と言わんばかりの満面の笑顔だった。

 

「川内?」

「ん? なになに?」

「お前、今なんて言った?」

「カシワギせんせーがね! 夜戦に付き合ってくれるって!!」

 

 ……いやいやいや、俺は『お前、なんて言った?』て聞いたんだけど……? 俺の発言内容なんて聞いてないんだけど……?

 

「ねえねえいつにする!? いつにする!?」

 

 うわー……これはこっちの抗議なんか一切聞く気がないぞ……だってもう、るんるん気分が伝わってきますもん……ここで『いや今のは生返事だから無しっ』て言おうものなら……

 

――そっか……ウソだったんだ……夜戦、楽しみだったのに……

 

 なんて、それこそ夕方の帰り間際のソラール先輩みたいに、えらい勢いでへこんでフラフラになっちゃうぞ……

 

 でも、そういやこいつは、ずっと俺に『夜戦やせんやせぇぇぇええん!!!』て言い続けてたなぁ。ガチ艦隊戦は無理だけど……この前の礼も兼ねて、たまには飯に連れてってやるぐらい、バチはあたらんかもしれん。

 

「……そうだなぁ。この前の看病のお礼もしたいし」

「お? これはひょっとして……?」

「今度の休校日の前の晩にでも、授業のあと飯でも食いに行くか?」

「ホントに? ウソじゃなくてホントに?」

「ほんとに。夜戦は無理だけど……」

「やったぁぁぁあああああ!!! せんせーと夜戦だぁぁぁあああああ!!!」

 

 俺の言葉を最後まで聞くことなく、椅子から勢い良く立ち上がった川内は、昼間の俺のように両腕で力こぶを作って、盛大な雄叫びを上げやがった。こいつの非殺傷兵器みたいな叫び声は、俺の鼓膜に致命的なダメージを与えてきやがる。こいつ、絶対おれの話聞いてない……。

 

「うるさい! 川内うるさいっ!! 声でけぇえ!?」

「だって夜戦だよ!? カシワギせんせーと夜戦できるんだよ!?」

「だから夜戦じゃないって言ってるだろうが!!」

「うっはぁああああ! 私何使おっかなー……単装砲もいいけど……魚雷も捨てがたいし……」

「人の話は最後までちゃんと聞けって!!」

「あ! せんせーは夜戦不慣れだろうから、連装砲貸してあげるね!?」

「お前、俺に何をさせる気だ!?」

「んじゃ私はハンデでソナーと爆雷でも……でもこれじゃ対潜装備だから……」

「暴走とめろ!! そのノンストップインフェルノ夜戦の段取りを止めろ!!」

「んじゃ私、おにぎりにしとくよ!!」

「兵器からお弁当への極端なステップダウンはなんだ!? 何があった!? つーか飯だからな!? あくまで飯だからな!?」

「わかってるわかってる! で、夜戦は二人でご飯食べた後でしょ!?」

「お前絶対分かってないし、理解するつもりも無いだろ!?」

「うはぁぁあああ!! カシワギせんせーありがとー!! 夜戦だぁぁあああ!!」

 

 俺の話が全く耳に届いてないらしい川内は、信じられない力で俺の両肩を掴み、ガクガクと前後に激しく振って、自分の喜びをアピールしていた。病み上がりの俺にとって、そのダメージはとても大きく、前後左右激しくに揺さぶられるおかげで、若干気分が悪くなってきた……。

 

 でも。

 

「よぉぉおおし!! んじゃ、今日のカレンダーも気合い入れて作るっ!!」

「ま、まぁ気合が入ったのはいいことだ」

「なんせこれも夜戦だからねっ!!」

「どれだけ幅広い意味があるんだよ夜戦って!? 文脈で判断するのも限度があるぞ限度がッ!?」

「いくよぉぉぉおおお……ゲーッホ!! ゲッホゲッホ!!」

 

 確かにいっつもこいつは賑やかだしうるさいが……これだけ喜んでくれるのなら、提案した甲斐があるってものだよ。嬉しさで大騒ぎしすぎてむせたみたいだけど。今もむせ続けてるけど。

 

「と、とりあえ……ゲッホ!! このカレ……グホッ!?」

「なんだ大丈夫か?」

「だいじょぶだいじょ……ゲホッゲホッ! ちょっとむせただけ……ゲーッホ!!」

「とりあえず落ち着けって。そしたらまた、カレンダー作りに戻ってくれぃ」

「げふん!? げふんッ!? り、りょうか……げふっげふっ」

 

 咳が収まり落ち着いたところで、川内はキラッキラの笑顔のまま、来月のカレンダーを作り始めていた。もうね。なんか目から吹き出し見えてるもん。『早く夜戦の日にならないかなー?』ってセリフがね。見えるもん。

 

「ニッヒッヒッ……げふんっ……夜戦……ついに夜戦がッ……!!」

 

 なんつーかなぁ……きっと本人はカレンダー作りに集中してるつもりなんだろうけど……でも頭の中は夜戦しかないみたい。当日、『夜戦には付き合わん』って言っていいものなのか……でもさー……。

 

「そこで連撃を避けて……撃つッ!! ……撃沈……そして文字列の折り返しッ……」

「……」

 

 言ってる内容が物騒すぎて、横で聞いてる俺は怖くて仕方ない。もし本当に夜戦をしようものなら、俺はミンチ化確実だ……自分の命を守るためにも、勇気を持って断らなければ……今の俺に必要なものは勇気。Noと言える日本人になる勇気だ。

 

「えぐしっ!?」

 

 ダイヤモンドのようにキラッキラに輝いた瞳の川内が、そのままの瞳を見開いたままくしゃみをしやがった。……モニターに唾飛んだよな今……。

 

「えぐしっ!?」

「ん? 突然どした?」

「んー……わかんない。うれしくて大騒ぎして咳き込んだから、体温が上がったのかも?」

 

 世の中には温度差アレルギーちゅうものもあるしねぇ。川内って、ひょっとしたらそれだったのかも? あれはキツいらしいんだよね。何かの弾みでくしゃみが出て体温が上がったら、それが引き金でくしゃみが止まらなくなったりするらしい。

 

「げふんっげふんっ!?」

「まだむせてるのか?」

「うん。でも大丈夫……えぐしっ!? だって夜戦が待ってるからね!!」

 

 うん。まぁ本人がやる気があるのはいいことだ。俺は一度事務所に戻り、自分のバッグに入れっぱなしのままだった、個別包装のマスクを一つ持ってきた。それを川内にわたし、なんとか唾の拡散を抑止する手段を講じる。

 

「ほれ川内。使えよ」

「へ? ありがと」

「いいえ」

 

 包装を破り中のマスクを取り出す川内のほっぺたは、少し赤くなっていた。咳とくしゃみの連続で、少し体温が上がってるんだろう。赤くなっていた川内のほっぺたは、マスクで隠れて見えなくなっていた。

 

「……えぐしっ!?」

「大丈夫か?」

「だいじょぶだいじょぶ。でもマスクくれて助かったよ」

「俺もこの前はひどい目にあったからな」

「頭撫でられてるせんせー、かわいかったしね」

「アホ言うな」

 

 ちなみに川内が作っていたカレンダーはというと……川内は大騒ぎしていたその脇でしっかりと作成を進めていたようで、授業が終わる頃には、来月のカレンダーがしっかり完成していた。冬場の夜の嵐の海という、夜戦大好きな川内らしいカレンダーに仕上がっていた。

 

「ここで沈没しそうになってる船が、今度の夜戦の時のせんせーの運命」

「やっぱお前、俺の話を聞く気がないな?」

「えぐしっ!?」

 




背景色の設定をした場合は、
印刷する時に『オプション』の『表示』から
『背景の色とイメージを印刷する』にチェックを入れるのを忘れずに。

じゃないと背景が白紙のまま印刷されてしまいます。

今回川内が作ったカレンダー

【挿絵表示】

使用画像:http://publicdomainq.net/thomas-chambers-0007135/

作成の様子
https://youtu.be/gXP4LojNCKs


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9. 食事の予定は……


「先生。ワシが昨日作った『夏祭り計画表』が真っ白けになっとるんだけど……」

「ほいほい?」

 

 ぷるぷると震えるコウサカさんにそう言われ、俺はコウサカさんと共に震えながら画面を見る。……なるほど。言われてみると、確かに真っ白けで、昨日俺と一緒に作った、夏祭りのタイムテーブル表の姿形がまったく見当たらない。これじゃただの白紙の紙だ。

 

「おかしいですね……俺も保存した瞬間を見てましたし……」

「そうだよねぇ……」

 

 コウサカさんは俺の方を、震えながら不思議そうな顔で見る。昨日、あれだけ苦労して表を仕上げ、四苦八苦しながら紙の右下隅っこに、三角形の『夏祭り抽選会参加券』を作ったコウサカさん。俺に対し、プルプルしながらも『いやぁ、苦労したけどもうすぐ完成ですなぁ!!』とうれしそうな笑顔を見せていたコウサカさん。そんなコウサカさんの笑顔も、今は見る影もなく、しょんぼりと落ち込んでいる。

 

 コウサカさんが、震える右手でマウスを操り、『夏祭り計画表』を保存した瞬間は俺も震えながら見ていた。確かにコウサカさんは常日頃プルプルと震えているが、その操作に間違いはなかった。

 

「んー?」

 

 もう一度、ファイルを開くダイアログを出してみる。そして『夏祭り計画表』の保存日時を確認してみた。

 

「……?」

 

 違和感がある。保存したのは昨日のはずだ。それなのに、保存した日時が今日……もっというと、つい3分前の時刻になっている。

 

「コウサカさん」

「はいはい?」

 

 おれは、コウサカさんが開いている、真っ白けになってしまった『夏祭り計画表』に、一行だけ『うおおおお』と文字を入力し、そのフォントサイズを最大に設定した。超巨大な『うおおおお』は、なんとも言えない存在感がある。その存在感あふれる『夏祭り計画表』を、俺は再度上書き保存した。

 

 今から俺とコウサカさんが行うのは、検証だ。

 

「一回Wordを閉じて、もう一度開いてみましょうか」

「はいー。でもなんで真っ白になったんだろう……?」

 

 コウサカさんは眉を八の字型にして、震えながらWordを立ち上げた。Wordが立ち上がるまでの間、震えながら画面を眺める、俺とコウサカさん。コウサカさんのメガネが、震えのため少しだけズレ始めていた。

 

 やがてWordが立ち上がった。コウサカさんは何食わぬ顔で新規の『白紙の文書』を選択し、何も入力されてない白紙の文書を開く。つづいて……。

 

「んじゃ、さっきの『夏祭り計画表』を開きますねー……」

 

 と震えながら宣言し、何の迷いもなく『名前をつけて保存』の項目を選択していた。そのまま保存ダイアログで『夏祭り計画表』をクリックし、そのまま『保存ボタン』を押す。

 

――上書き保存してよろしいですか?

 

「よく分からんけど、とりあえず……」

 

 コウサカさんはそういい、確認メッセージの内容をよく読まずに『はい』をクリックしていた。

 

「コウサカさん。理由がわかりました」

「そうなの?」

「はい。コウサカさん、『夏祭り計画表』を開くつもりで、この真っ白けの紙を『夏祭り計画表』の名前で保存しちゃったんですよ」

「へ?」

 

 コウサカさんは、見ての通り高齢だ。メガネもかけ、身体もプルプルと震えている。そのため画面がよく見えず、『開く』をクリックしたつもりで『名前をつけて保存』を選んでしまい、それで『夏祭り計画表』をクリックして選択してしまったんだろう。

 

 『名前をつけて保存』ダイアログが開いている時、表示されているファイルをクリックしてしまうと、ファイル名の項目にそれがセットされてしまう。そのままコウサカさんは。『開く』ボタンをクリックしたつもりで、『保存』ボタンを押してしまったようだ。結果、真っ白けの文書が『夏祭り計画表』で保存されてしまい、元々の『夏祭り計画表』は上書き保存されてしまった……きっとそれが、この真っ白け事件の真実なのだろう。

 

「ボタンをクリックしたときに、『上書き保存してよろしいですか?』て出たのは、気付いてました?」

「え? そんなの出たっけ?」

「ほら、途中でコウサカさん、『はい』か『いいえ』かの選択を迫られて、『はい』をクリックしてたじゃないですか」

「ぁあ……あれ、そんなことが書いてあったの?」

「そうなんです。読まずに『はい』をクリックしてたんですか?」

「だって、読んでも意味がよくわからないから……」

 

 ……これは、このパソコン教室で働くようになって気付いたのだが、初心者の人は、思った以上にパソコンからのメッセージを読まない。生徒さんの中でも、『はい』か『いいえ』かの選択を迫られただけで、パニックに陥って『せ、先生ッ!?』とヘルプミーする人が大半だ。

 

 パソコンに慣れてない人からしてみれば、確認メッセージが出ただけで、心臓を鷲掴みされたかのような恐怖感に襲われると、黄金糖のタムラさんが以前に言っていた気がする。

 

『先生たちは慣れてるからいいけど、私たちは『〇〇していいですか?』てパソコンに聞かれただけで、『ふぁぁぁああああ!?』て大騒ぎするんですよー。だって分からないから』

『メッセージを読んでる余裕なんてないです。『壊しちゃったのかも!?』って思っただけで、もう怖くて怖くて……』

 

 ……やがてその壁を乗り越えると、『よく分からんけど『はい』をクリックすれば、この意味不明なメッセージは消える』ということを覚え、出てきたメッセージはとりあえず『はい』をクリックして、消そうと試みる。

 

 ……そう、先ほどのコウサカさんのように。

 

 コウサカさんは、上書き保存の確認メッセージをまったく読まず……つまりパソコンが何を訴えているのかをまったく確認せず、『はい』をクリックしていた。

 

 怖くてパニックになってしまう人と、とりあえず『はい』を押してしまう人。その共通点は、『メッセージを読まない』ということだ。

 

「ひぇええ……んじゃ、ワシの操作がダメだったの……?」

「はい」

「完全に消えちゃったの?」

「一縷の望みもなく……」

「なんとかならないの……?」

「可能性はゼロです……」

「そっかー……まぁ、しかたないね! 練習だと思って、もう一回最初から作りますよ!!」

「そう言ってくれると助かります! 俺もできるだけフォローしますから!!」

 

 爽やかな笑顔で再挑戦を誓ってくれたコウサカさん。そして、そんなコウサカさんのへこたれない明るさに心を打たれた俺。がっちりと固い握手を交わす、二人の震える男。

 

「先生! フォローをよろしく頼みますよ!!」

「こちらこそ! 素晴らしい『夏祭り計画表』を、もう一度作りましょう!!」

「先生っ!」

「コウサカさんっ!!」

「貴公……」

 

 向かいの席から、呆れ果てるソラール先輩の声が聞こえた。希少価値の極めて高い先輩の突っ込み? 諦観? の声を聞きながら、俺とコウサカさんは、固い握手を交わしたあと、熱い抱擁で震える互いをたたえ合った。

 

 ……さて。今晩は、あのアホと晩飯を食いに行く約束をしている。

 

――カシワギせんせー! 私はオーソドックスに単装砲で行くから!!

 

  でもせんせーは、魚雷でも連装砲でも、何使ってもいいからね!!

 

 これは、昨晩おれが『お前は酒は飲めるか? 飲みたいか?』と聞いた時の、川内の返事だ。あいつの頭の中では『夜に飯を食う』イコール『夜戦』という、もし証明されればノーベル理不尽賞間違い無しの方程式が、成立してしまっているらしい。そこに邪気はなく、純粋にそう信じているから始末に負えない。ひょっとしたら、俺は今晩、その方程式の論破をしなければならないのかも知れない。そう考えると、先が思いやられる。

 

 コウサカさんの計画表の作成を手伝う傍ら、そんな心配事が頭をかけめぐり、俺はさっきのテンションの高さとは似ても似つかぬ、フラットでダウナーな気分になった。頭を抱えている俺とコウサカさんがプルプルと震えていると、俺達の席の向かいで授業をしている、神通さんとソラール先輩の声が聞こえてくる。

 

「神通、そこの計算式には、絶対参照を使用する必要がある」

「絶対参照……とは?」

 

 おー絶対参照かー。あれはExcelを扱う上では必須のワザだ。ぶっちゃけグラフやデータベースと同じかそれ以上に重要なワザだと俺は思ってる。神通さんには、ぜひとも物にしていただきたい。

 

 ……そういや今日の川内も、f4を使った連続操作をやる予定なんだよな。姉妹そろってf4の利用方法を同じ日に学ぶなんて、不思議なこともあるもんだ。

 

 ソラール先輩がどんな風に絶対参照を教えるのか興味が湧いた俺は、コウサカさんの手伝いをしつつ、向かいの席の二人の会話に聞き耳をたててみる。震えながら。

 

「貴公は不思議に思ったことはないか? オートフィルで計算式をコピーしたとき、なぜ計算式の答えが常に正しいのか」

「ええ。まるでこちらの動きに合わせて艦載機で援護をしてくれる、空母の方々のような頼もしさがあります」

「それは、セルの参照が、偉大なオートフィル力(おーとふぃるりょく)でずれていくからだ。故にこちらでセル参照をいちいちずらさなくても、計算式は常に正しい」

「頼もしいですね」

「だが、今回はそれが仇となる。……神通、まずはそのまま、オートフィルで計算式をコピーしてみるんだ」

「はい……ゴクリ」

 

 相変わらず話が大げさだなぁ……確か神通さんの今回の課題って、特定セルに税率を設定して計算するところだから、計算式を立てるときに絶対参照にしないと、オートフィルでコピーした時にセル参照がズレで正しい計算ができなくなるはずなのだが……

 

「そ、そんなバカなッ!?」

 

 神通さんの悲鳴が、教室内にこだました。

 

「おや、先生も耄碌ですか」

 

 俺の隣のコウサカさんが、プルプルと震えながら笑顔で俺に問いかけた。そういうわけではないのだが、震えるコウサカさんと話をしてると、なぜか俺も震えてくる。

 

「そういうわけではないんですけどね」

「それにしても向かいの神通ちゃんとソラール先生の授業、大変そうですなぁ」

「コウサカさんもこれ終わったら、エクセルやってみます?」

「ワシはいいかなぁ〜。計算とか得意ではないですからね」

「残念、面白いのに」

 

 俺とコウサカさんの朗らかでのんきな会話の間も、向かいの席では阿鼻叫喚のExcel教室が続いている。しかしセリフだけを聞くと、どう贔屓目に見ても、Excelの授業とは思えないから不思議だ。

 

「先生!? コピーしたセルにところどころに、『#VALUE!』の文字が!?」

「そのとおり。これは、オートフィルでコピーする時に、Excelが気を利かせて参照セルをズラしてくれているからだ。いつもは心強い機能が、ここでは仇となっている」

「私たちを航空爆撃で援護してくれるけど、基地運営にも心を傾けねばならない諸刃の剣……まるで基地航空隊のようですね……」

「このままでは、世界は火を継ぐ者のいない、闇の王エンドを向かえてしまう。そうなってしまえば……」

「……この戦いで勝利を手にすることは……このままでは、人類は……世界は……ッ!」

「古い言い伝えでは……太陽がなくなると世界は氷りつき、花は枯れ鳥は空を捨て、街中焦りだし騒ぎ立て、人は微笑みをなくすという……」

「い、一体、どうすれば……!? この海域では、私たちは敗北するしかないということですかソラール先生!?」

 

 色々とおかしなことになってきた。たかだか絶対参照を忘れただけで世界が崩壊するというのなら、すでに世界は何兆回も崩壊しているはずだ。深海棲艦との戦争も終結してるし、世界は平和そのものだというのに。

 

 しかし、やっぱ神通さんって、あのアホの妹だけあって、どこか妙なんだよなぁ……。優しくていい人ではあるんだけどさ……。

 

「では神通、もう一度はじめからやり直そう。世界に太陽を取り戻すためにッ!!」

「はい! 仲間の命を救うため……この海域で無事に生き延びるため!!」

 

 太陽と神通さんの仲間の命って、絶対参照で救えるんだと、俺は妙に関心した。それは隣のコウサカさんも同じだったらしく、俺とコウサカさんは、互いに顔を見合わせる。震えながら。

 

「ではいくぞ」

「はい……ゴクリ……」

「神通、もう一度計算式を作ってくれ」

「はいッ……!!」

 

 ソラール先輩の指示が終わると、キーボードを叩くパチパチという音が聞こえてきた。神通さんが計算式を入力しているようだ。その音からは迷いや困惑はない。

 

 そして、カチリという左クリックの音が鳴り響いた瞬間である。

 

「そこだッ!!」

 

 ソラール先輩の大声が教室内に轟いた。

 

「ひゃいッ!?」

「はうッ!?」

 

 聞き耳をたてていた俺とコウサカさんが、ソラール先輩の声に驚いてしまい、思わず二人揃って声を上げてしまう。震えながら。

 

「コウサカさん! しぃー!! 向こうの邪魔になりますからッ……!!」

「いや、しかし先生だって声を出して……!!」

 

 この時、俺とコウサカさんの二人は、あまりにびくっとしてしまい、手を握り合ってしまっていた。この事実は、みんなには内緒にしておこう……そして俺達が震える手でお互いを支えあっている間も、向かいの授業は続く。

 

「そ、ソラール先生!?」

「そこだ神通!! セル指定をしたら、そのタイミングでf4を押すんだ!!」

「は、はい!!」

「違う!! fと4を一緒に押すのではない!! ファンクションキーの『f4』だ!!!」

「はい!!!」

 

 俺はパソコン歴はもうかなり長い。Excel歴もそれなりにある。だけど、こんなに熱く絶対参照の設定を行う人というのは、初めて見た気がするよ……。確かに重要な設定だし覚えておいて損のない操作だけど、そこまで熱く語るものではないと思いますが……?

 

「そしてf4を押したら、計算式を確認してみてくれ」

「セル番地に……ドルマークがついている……?」

「その通り。これで、火を継いで世界を救う準備が整った」

「こ、これで……みんなを助けることが……!」

「神通……オートフィルを」

「はい……」

 

 なんだか俺まで緊張してきた。隣のコウサカさんを見る。コウサカさんも、息を呑んで向かいの席を見つめている。どうやらコウサカさんも、俺と同じく向かいの席の顛末が気になるようだ。その深刻な眼差しが、それを如実に伝えている。震えてるけど。

 

「せ、先生ッ!! 計算が! 計算が……狂いません!!!」

「よくやった神通!! これで無事、火を継ぐことが出来た!!」

「はい!! 仲間の命を救うことが……海域を突破することが……出来ました……!!」

「さすが俺の太陽!!」

「先生も、さすが私の提督です!!」

 

 よかった。神通さんは、無事絶対参照を乗り越えたようだ。椅子から勢い良く立ち上がったソラール先輩が、Y字のポーズで気持ちよさそうに上に伸びているのが見えた。声から察するに神通さんもかなり嬉しそうではあるが、流石にあのポーズを取るのは恥ずかしいらしく、席を立つ音は聞こえない。でも声は本当に嬉しそうだ。

 

「コウサカさん、世界は救われたようですよ!!」

「よかったですなぁー先生!!」

 

 俺とコウサカさんも、震える右手で固い握手を交わす。よかった。神通さんは無事に海域を突破し、世界は凍りつかず花は枯れずに済んだようだ。隣のコウサカさんの晴れ晴れとした笑顔が眩しい。太陽も無くならず、コウサカさんの笑顔が失われることもなかった……よかった。世界は、神通さんの絶対参照によって救われた。救われたのだ。

 

 ……あれ。俺の立場って、この教室に対する突っ込み役だと自負していたのに……?

 

「よかった……よかったですな! カシワギ先生!!」

「ええ。……ではコウサカさん。俺達もやりましょうか」

「はい! ワシらも世界を……惚れた婆さんを救いに行きましょう!!」

「コウサカさんの奥様はきっとそんな事態に陥ってはないと思いますが、作業に入ることには賛成です!!」

 

 かろうじて思い出した自分の役割を思い出すように、コウサカさんに突っ込みを入れる俺。震えてるけど。

 

 ちなみに不思議なもので、コウサカさんが『惚れた婆さん』という熱いセリフを吐いた時、俺の頭にはなぜか、あのアホの魂の叫びがこだましていた。

 

――やせぇぇぇえええええええん!!!

 

「先生、どうしました?」

「……いや、思い出したくない絶叫を思い出しましてね」

「それはワシにとっての婆さんのように、先生にとっての大切な人なのかもしれませんな?」

「貴公……」

 

 かんべんしてくれ……確かに一晩共に過ごしたけど……そして今晩、一緒に飯を食いに行くけれど……。

 




Excelで絶対参照を使用する際、二通りのやり方があります。

1.セル番地の行番号と列番号に自分で$マークをつける
2.セル番地のすぐ隣にカーソルを移動させ、f4キーを押す

どちらを使ってもOKです。
$マークがついていれば固定出来るということを忘れなければ。


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「今晩は、姉がお世話になります」

「そんな……お世話も何も、一緒に飯を食いに行くだけですよ?」

「ふふっ……姉はずっと楽しみにしてたみたいですよ? どちらにせよ、よろしくお願いしますね」

 

 帰り間際の神通さんは、最後に俺にそう言い残して帰って行った。その穏やかで柔らかい物言いは、授業中に絶対参照を駆使して世界を救い、仲間の命を救って海域を制覇した人とは思えなかった。

 

「さて……では進捗も記入したし、俺は帰らせていただこうか」

 

 さっきまでパソコンをパチパチと鳴らしていたソラール先輩も席を立ち、目の前のパソコンの電源を落とすと、ガチャコーンとタイムカードを押した。

 

「お疲れ様ですソラールさん」

「ああ。太陽が無くなっては戦えぬからな。ウワッハッハッハ」

 

 そういって、肩を揺らして朗らかに笑うソラール先輩。なんだ今日はえらく元気じゃないか。いつもなら『太陽……俺の太陽よぅ……』ってつぶやきながら、フラッフラで帰っていくのに。

 

「先輩、今日は元気ですね」

「そうか? ……まぁ今日は、神通が絶対参照を習得したので、俺も機嫌がいいのかもしれん。ハッハハハハハハハハッ!」

 

 あの後、世界を救った神通さんは、ソラール先輩が見守る中、プリントをバシバシと作成していって、絶対参照を物にしていった。実は今日の神通さんの課題は、絶対参照ではなく条件付き書式。だが今日の授業では、条件付き書式よりも絶対参照に割いた時間の方が長く、今回神通さんが行った課題プリントも、絶対参照を扱ったプリントがメイン。それだけ絶対参照というものは、Excelを扱う上では、避けては通れない重要な操作なのだ。

 

 セル参照の指定後にファンクションキーを押すという特殊な操作が必要なため、生徒さんの中には、いまいちこの絶対参照を覚えきれない人も多い。そんな中、神通さんはたった一回の授業で絶対参照を身につけた。

 

 これはソラール先輩にとっても、とてもうれしいことだったに違いない。その証拠に、さっきからくぐもった声がウキウキしている。うれしさを隠し切れないみたいに、体中がウズウズしている感じだ。気を抜くと、Y字のポーズを取ってしまう……きっと今の先輩は、そんな状況なのだろう。

 

「ソラールさん、遅れますよ?」

 

 ……ん? 遅れる?

 

「……あ、しまった失敬。では、俺はこれで失礼する」

「はい。お疲れ様でした」

「カシワギも夜の授業、がんばってくれ!!」

「はい。ありがとうございます先輩」

「ではお疲れ様!!」

 

 最後にY字のポーズ……正式名称なんだったっけ……太陽……まぁいいか……を気持ちよさそうに決めると、ドアを開き、どちゃりと前転しながら教室を後にしていった。

 

 ……信じられないのは、今のこの光景を、俺の頭が『普通の光景』だと認識しはじめたことだ。どこのパソコン教室に、全身太陽マークの鎧兜に身を包んだインストラクターなぞいるのだろうか……しかもそのインストラクター、帰るときはもちろん、授業中や事務作業中など、時を選ばず前転して『どちゃりどちゃり』と盛大な音を立てる。どこにそんなインストラクターがいるというのか。

 

「俺も、この教室に染まったのかなぁ……」

 

 ポツリと言葉が漏れる。来た当初は、この教室の異質さに戸惑い、突っ込みを入れる日々だったのに……この非日常に、俺の頭は慣れてしまったというのか……。

 

「いいことなんじゃないですか? 郷に入りては郷に従えといいますし」

「とはいえ、貴重なツッコミ役が……」

「ツッコミ役?」

「あ、いやなんでもないです」

 

 いかんいかん。大淀さんは、この教室の教室長だ。余計なことを言うのはダメだ……。

 

「それはそうとカシワギさん」

「はい?」

「今日は川内さんとご飯食べに行くと伺いましたが……?」

「はい。この前の看病のお礼も兼ねて。仲も悪いわけではないし、たまにはいいだろうと思いましてね」

 

 その発端も、元をたどればあなたなんですけどね。大淀さん。あなたが川内に俺の家の住所を教えるという暴挙を働いたことは、忘れません。それで助かったのは事実ですけれど。

 

「生徒さんも川内さん一人ですし……本人が希望すれば、今日の授業は早めに終わらせていただいて結構ですから」

「わかりました。ありがとうございます」

 

 という、粋なのかどうかよく分からない計らいを大淀さんは見せてくれた。しかし……うーん……神通さんはまだしも、なぜ大淀さんまでも今回のやせ……川内との飯の話を知っているのか。大淀さんには話してないはずだけど……?

 

「共通の友人に、スキャンダル大好きな芸能レポーターみたいな人が一人、いますから。恐縮です」

「はぁ」

 

 大淀さんは『今晩は二人で食事、楽しんでくださいね』と意味深にほくそ笑み、教室を後にした。その意味深な笑みが何を意味するのか、俺はあえて何も考えないようにする。時刻は午後7時5分前。……そろそろヤツがやってくる頃だが……

 

 入り口のドアノブがカチャリと静かに回った。

 

「……あれ」

 

 時間は問題ないから、きっと川内で間違いないはずなのだが……なんか、拍子抜けするぐらいに静かだ。ドアが静かに開いた。そのドアの向こうにいたのは……

 

「やっ。せんせー。こんばんはー」

 

 やっぱり川内だ。相変わらずの真っ赤なパーカーはよく似合うのだが……今日の川内は、なんだかいつもと違う気がした。

 

「? どうしたの?」

「いや……なんか今日のお前、覇気がないな」

「? そかな?」

「ん」

 

 そう。いつもと比べて、今日の川内は勢いがない。いつもなら、こう……

 

――カシワギせんせー!!! こんばんわぁぁああああ!!!

 

――夜戦いくよ!! せんせー!!! やせんやせんやせぇぇえええん!!!

 

 とこんな具合で、こっちのメンタルと鼓膜に致命的なダメージを与えてくるほど元気で圧力があって、覇気がある川内なのだが……

 

「お前、何かあったか?」

「? いや? 別に……ないけど……」

「そっか。ならいいけど……妙に元気がないからさ」

 

 今日のこいつからは、覇気や圧力はおろか、夜戦への情熱や鼓膜へのプレッシャーといったものは感じられなかった。なんというか……昼間の神通さんが、さらにおしとやかになった感じというか……

 

「ま、今日は授業の後でせんせーとの夜戦が控えてるから、それに向けて、力を貯めこんでるんだよね」

「アホ」

 

 口ではそういう川内なのだが……いつものにじみ出る煩さというものが感じられない。どうした。もっと跳ね返ってこいよ。お前がそんなのだとこっちの調子が狂う。

 

 川内の様子に不満を感じながら、川内をいつもの席へと案内する。パソコンの電源を入れ、OSを選択したら、立ち上がるまでの間、今日習うところの確認を行った。

 

「んじゃ今日やるとこだが……川内、テキストは?」

「……」

「川内?」

 

 ぼんやりとOSが立ち上がる様子を眺めていた川内が、俺の呼びかけにハッと気付いた。

 

「ん? なに?」

「テキストは?」

「あ、ちょっと待ってね……」

 

 慌ててバッグの中に手を伸ばし、中からテキストを取り出す川内の様子を見ていて、俺はある異変に気付いた。こいつの目が妙に眠そうで、トロンとして重そうだ。こいつ、今までにこんな眠そうな目してたことあったか? 今眼の前にいる川内に対する違和感が、大きく強くなってくる。

 

 テキストをペラペラとめくる川内。今日やるところのページを開くと、モニターの方を向いてマウスを握り、Wordを立ち上げる。やはり目がぼんやりしている。どこかおかしい。

 

「せんせ?」

「お、おう……。えと、今日やるのは、写真を貼り付けた活動報告書だ」

「うん。予習しといた」

「おっ。おーけいだっ」

 

 川内の手元のテキストを見る。赤や青のボールペンでいたるところにメモ書きがなされ、蛍光ペンでマーキングされていた。こいつが予習をしていたというのは事実だろう。このメモ書きとマーキングまみれのテキストが、それを物語っている。

 

 だが。

 

「あれ? せんせ?」

「ん?」

「えっと……『余白』ボタンって、どこあるんだっけ?」

「『ページレイアウト』だー」

「ありがと」

 

 いつもなら、『夜戦してよねッ!!?』と俺を追い詰めていく片手間で出来ていたはずの余白設定だが、やはりというか何というか、今日はまったく出来なかった。文字入力を進めていくが、タイプミスも多い。

 

 やはりおかしい。ひょっとしてこいつ、ひどく体調を崩してるんじゃないか? それで体力が限界にきてて、注意力もないし眠そうなんじゃないか?

 

「なぁ川内、今日調子悪いだろ」

「そんなことないよ? ほら、げんきー!!」

 

 そう言っていつぞやの俺のように両手で力こぶを作って、自分の元気さをアピールする川内。だがその声に張りはなく、力こぶを作る両手もくたっとしていて、元気がまったくない。逆に空元気を振り絞っているその姿が、妙に痛々しく見える。

 

「だから次に進もう」

「んー……分かった」

 

 ……んー……本人が大丈夫だと言うのなら、俺が反対してもこいつはきっと聞かないだろう。仕方なく授業を進める。

 

 授業開始から30分後。川内は、いつもより苦戦して文字入力を終わらせた。気になるのは、川内の息が浅いことだ。いつも大声でまくしたてる時みたいに、大きく息を吸ったり、盛大に息を吐いたりとかがない。気をつけて見てないと呼吸に気付かないぐらいの、浅い呼吸だ。

 

「フッ……フッ……」

「大丈夫か?」

「うん。だいじょぶ。だから先に進も?」

「……わかった。これからやるのはf4キーを使った連続操作だ。f4キーは、直前の操作を繰り返すって感じの、特殊な機能がある」

「うん……」

「予習してるなら問題ないだろうから、習うより慣れろでちょっとやってみっか。ここの小見出しに『文字の効果』を設定してみ」

「……わかった」

 

 さっきより輪をかけてぼんやりしてきた川内は、力が入ってないように見える右手でマウスを操り、苦戦しながらも、入力した文章の小見出しの一つを選択した。その中から枠線が青い立体的なやつを選んでいた。文字が立体的に見えるし、無難な効果だから、俺も結構使うやつだ。

 

「ん。やったよーせんせー」

「うーし。んじゃ、今度は次の小見出しを選択して、f4キーを押してみろ〜」

「はーい」

 

 目がトロンとした眠そうな川内は、次の小見出しを選択し……。

 

「……あれ?」

「……」

「せんせー……出来ないけど……」

 

 必死にf4キーではなく、『4』のキーを押していた。それはまぁいい。パソコンによってはf4キーと『4』のキーの位置が近く、f4キーを押したつもりで4のキーを押すことなんて、よくあるからだ。

 

 おれが不可思議に思うのは、川内がキーを押す度に、画面には『う』の文字が出力されているにも関わらず、川内自身はそのことに気づいていないことだ。こいつは異変に敏感というわけではないが、さすがに自分が打った覚えのない文字が表示されれば、それには気付く。にも関わらず、今の川内は、自分が入力した文章に、不必要な『う』の文字が次々と追加されていく事態に、まったく気がついてない。

 

「せんだーい。押すキー間違えてるぞ」

「……へ?」

「今、お前が押してるのは『4』で『う』のキーだ。今回押すのは、f4キーだよ」

「え……あ、ホントだ」

 

 俺に言われて、やっと気付いたのか……やっぱおかしいぞこいつ……時間が立てば経つほど目はトロンとして、なんだか顔が青白くなってきてるような……

 

「しっかりしろよー。f4キーは……」

 

 俺がそう言って川内との距離を縮め、ボールペンでf4キーの場所を指摘しようとしたその時だった。

 

「せんせ……」

「ん?」

「さむい……よ……」

 

 頭をグラグラさせはじめた川内の身体が、唐突に身体を俺に預けてきやがった。……いやそれじゃ語弊がある。話してる最中に突然、グラッと俺の方に倒れこんできた。

 

「え、せ、せんだ……」

 

 慌てて川内を受け止める。勢い余って椅子から崩れそうになるが、それはなんとかこらえた。川内の額が、俺の右肩にもたれかかってきた。

 

「おいおい? どしたせんだ……」

 

 最初はのんきにかまえていた俺だったが、おれは即座に、その考えを改めた。

 

「ハッ……ハッ……」

 

 川内の顔が真っ赤になり始める。息が浅く、小刻みに呼吸を繰り返すその小さな身体は、服の上からでも伝わってくるほどの高熱を帯びていた。

 

「え……ちょっとすまん川内」

 

 慌てて、川内の額に右手で触れた。川内の額は、まるで夏の日のプールサイドの鉄板のように、やたらと熱い。

 

「あっつ!? お前……」

「ハッ……ハッ……」

「熱があったのか……やっぱ、調子悪かったんじゃないか……」

「ごめ……せんせ……さむい……」

 

 俺に額に触られている川内は、身体がガチガチと震えている。口からは歯のカチカチという音が聞こえ、肩は小刻みに震えていた。もはや開いているかどうかよく分からないほどにトロンとした眠そうな瞳は、完全にいつものギラギラした、賑やかな輝きを失っている。

 

 自分の身体にもたれかかった川内の身体を椅子に戻し、上着のジャケットを脱いで川内にかけてやる。男のジャケットだが、ないよりはマシなはずだ。それでも川内は、寒そうに歯を鳴らし続けているが……。

 

「さむ……さむいよ……」

 

 まさかこんなに体調を崩していたとは……それなのに、なんで来たのか……こんなしんどい状態なら、素直に休めばよかっただろうに……

 

「せんせー……さむいよー……ガチガチ……」

「何が寒いだ……そんなに体調悪かったんなら、休めばよかったのに……」

「だって……今日は、せんせーと約束してたし……」

「そんなん次にすりゃいいだろ? だから今日は……」

「やだよ……」

 

 なんでこいつはこう意地を張るんかね……と俺が呆れかけた時、こいつは、トロンとした眼差しをキッと見開き、俺をまっすぐ見つめると、苦しそうにだが、ハッキリと口を開いた。

 

「せんせーと夜戦だよ? ……やっと、せんせーと夜戦出来るんだよ?」

「……」

「ずっと楽しみにしてたのに……やだよそんなの……休みたくないよ」

 

――姉はずっと楽しみにしてたみたいですよ?

 

 このアホ……いくら楽しみだからって、そのためにつらい思いまでして、無理矢理教室きて……

 

「ハッ……ハッ……」

 

 その上、症状を悪化させやがって……普通に座ってるのも辛いんじゃねーか……さっきは椅子にもたれてたのに、今は机の上に突っ伏して、浅い呼吸しか出来ず、寒そうに歯をガチガチ言わせて……。

 

「……わかった。でも今日は帰れ。お前もそんな状態じゃ、晩飯食えないだろ?」

「うん……」

「お前、一人暮らしだっけ?」

「うん」

「誰か看病出来る人はいないのか? 神通さんに連絡は」

「……ダメ」

「なんで?」

「……今日は、ダメ」

 

 神通さんに何か外せない用事でもあるのか……? まぁダメだと言うなら仕方ない。俺はハンガーにかけてあった俺のロングコートを川内に貸した。その途端に川内は寒そうに俺のコートにくるまるが、それでも身体の震えは止まってない。川内の隣の席に座り、様子を伺うが、本人がこんな調子では、一人で帰れるはずがない。とりあえずタクシーを呼んで、家に送ってもらうことにしよう。

 

「……しゃーない。今からタクシー呼ぶぞ」

「そこまでしなくて……いい……よ……」

「んなこと言ってもお前、そんな様子じゃ帰れんだろうが」

 

 タクシーを呼ぶため、事務所に向かおうと俺が立ち上がって振り返った、その時だった。

 

「まって……せんせ、待って」

 

 川内が、俺の左手の袖をつまんだ。いつものこいつなら多分、俺を呼び止める時、こんな風にちょんっとつまむようなことはしない。もっとガシッと手首ごと掴んでくるはずだ。それなのに、今はおれの袖を、ほんのちょっとつまむ程度しかできてない。かなり弱ってるなこいつ……

 

「なんだよ。イヤだっつっても呼ぶぞ」

 

 お前が元気じゃないとな。俺が調子狂うんだよ。

 

「飯なんていつでもいける。だから今日はもう……」

 

 俺が勘違いをやらかして、こいつのワガママを諌めてやろうと大人の威厳を出した時だった。こいつは、俺の予想の斜め上のワガママを言い出し始めた。

 

「……責任取ってよ」

「? 責任?」

「うん……ガチガチ……」

 

 責任? 責任とな?

 

「責任ってなんだよ?」

「だってさせんせー……これ多分……ハッ……ハッ……この前せんせーを看病したときに、せんせーから感染されたやつだよ……?」

「……はい?」

「だから……責任、とって……ちゃんと私を治して」

 

 『何血迷ったこと言ってやがるんだアホ』といいそうになったが、その言葉をグッとこらえた。確かに川内のこの体調不良は、俺のこの前の風邪の症状によく似ている。前触れは止まらないくしゃみと咳。高熱と意識朦朧……確かにこいつは、俺の風邪がこいつに感染ってしまったからかもしれん。

 

 俺の袖をつかむ、川内の握力が強くなった。ギュッと強く、でもいつもより何倍も弱く袖をつかむ川内の手が、俺の袖を離さない。知らない内に、川内は少しだけ顔を上げて、こっちをジッと見つめていた。

 

「……」

「……」

 

 いつもと比べてトロンと重そうな瞼だが、その向こう側にある、輝きを失った目は、俺をジッと見つめていた。

 

「……とりあえず離せ」

「……はい」

 

 川内の左手が俺の袖を名残惜しそうに離し、ダランと垂れた。その手はなんだか、『ワガママを言ってごめんなさい』とでも言いだけな、力のこもってない、ダランとした動きをしていた。

 

「一端事務所に戻る」

「……うん」

 

 さらに元気がなくなってうなだれ、机に突っ伏した川内を残し、俺は事務所に戻った。大急ぎで、大淀さんに今日はもう教室を閉じる旨のメールを送った後、業務基幹ソフトの川内の項目を探し、住所を自分のスマホに送る。そのまま川内の備考欄に『体調不良の為、キャンセル』とだけ書き込んでおき、パソコンの電源を落としてタイムカードをガシャコンと切った。

 

「川内帰るぞ。電源落とせー」

 

 自分の荷物を纏めて、教室に戻り、川内の元に向かう。相変わらず川内は机に突っ伏していた。俺の声を聞いて顔を上げ、眠そうな眼差しで不思議そうにこっちを見つめた。

 

「……へ? 車呼んだんじゃないの?」

「責任取って欲しいんだろ?」

「いいの……?」

「家までは、送り届ける」

「……うん」

 

 うれしいんだか……それとも落胆したのかはよく分からない。川内は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐにまた元のダルそうな表情に戻った。右手でマウスを必死に探すが、マウスの位置がうまく把握出来ないようで、机の上で右手をうろうろと動かしているだけになってしまっていた。

 

「……あれ」

「……ったく」

 

 見てられない……俺はキーボードを手元までひっぱり、CtrlキーとaltキーとDeleteキーを押して、パソコンをシャットダウンした。

 

「……なにそれ」

「ショートカット」

「私はツーサイドアップ……」

「そのショートカットじゃないっ」

 

 パソコンがシャットダウンするまで、画面をぼーっと見続けた川内は、画面が真っ暗になると力を溜めて立ち上がり……と言ってもフラフラだけど……くるまっていた俺のコートを脱ごうとしたが、それを俺は制止した。

 

「いいから着とけって。寒いだろ?」

「うん。でもそれじゃカシワギせんせーが寒いでしょ?」

「あ、確かに……んじゃ上着だけ返してくれ。コートはお前が羽織ってろ」

「しっかりしてよせんせ……ガチガチ……」

「お前が言うな」

 

 川内に、コートの下のジャケットだけ返してもらい、それを羽織った。川内は相変わらず俺のコートにくるまって、やたらと寒そうな感じだ。しかも足取りがフラフラとして、危なっかしい。普通に立っているのも辛そうで……

 

「う……ごめ……」

「……」

 

 ただ立っているだけだというのに、時々フラッと姿勢を崩して、俺の方に倒れこんできやがる。その度に俺の胸元あたりにこいつの頭がぽすっと飛び込んできて、『こいつってこんなにちっちゃかったっけ?』という疑問が沸き起こる。

 

 ふらふらな川内を支えながら、教室から外に出た。覚悟はしていたが、やはり外は寒い……ただでさえ冬場で気温も低いのに、ちょっと強めで冷たい風が吹いていて、それがまた冷たくて寒い……寒いっつーか痛い。しかし。

 

「せんせ?」

「ん?」

「コート返そうか?」

 

 真っ青な唇のくせに俺の心配をするこの夜戦バカに、そんなことを悟られるわけにはいかん。

 

「心配いらん。病み上がりを甘く見るなっ。余裕だ」

「いいの?」

「お前は帰ることだけ考えてりゃいいの!」

「……」

 

 川内が、再びグラッと姿勢を崩した。俺の方に倒れこんでくる川内をなんとか受け止める。思った以上に軽いことに驚いた。こいつ、いつも俺の200パーセントぐらいのエネルギーがみなぎっているけど、身体はこんなに小さいのか……。

 

「……せんせ。ごめん」

「それはいいけど……歩けるか?」

「むりー……せんせ、おんぶー」

「……」

 

 んー……なんだかこいつのワガママがエスカレートしてきたような……。

 

「……今日だけだぞ」

「うん。ありがと……」

 

 この調子でフラフラと千鳥足で歩かれて、途中でこけたりされても後味悪いしな……川内を背中に乗せ、コート越しに川内の足を支えた。今日俺が着てきたのが、ロングコードでよかったぁ〜……こいつのスカート、割と短いからな……。

 

 俺の背中におぶさった途端、川内はしっかりと俺にしがみついてきた。俺の右の耳元に川内の顔がある。呼吸が浅くて苦しそうだ。

 

 川内をおんぶし、なるべく揺らさないよう……それでいて遅くならないよう、気をつけて歩く。川内は俺の首に両腕を回し、肩をしっかりと掴んでいた。耳元で浅い息遣いをされるのは、正直色々とよろしくない気がしたが、そこはわきまえる。

 

「……せんせ」

「ん?」

「せんせーの、スマホ?」

「ん」

 

 川内に言われて、左胸の内ポケットに入れておいた俺のスマホが、ブーブーと震えているのが分かった。

 

「よく分かったな」

「へへ……」

「お前を支えてて取れん。川内、ちょっと取ってくれ」

「りょーかい」

 

 俺のお願いを受けて川内は、左手で俺の上着に手を突っ込んできた。胸の右側を、内ポケットを探るように必死に弄っているが、そっちには内ポケットはない。

 

「逆」

「あ、そっか。ごめん」

「だからまさぐるやめような?」

「へへ……」

 

 ……だから、耳元でそういう普通っぽい、よろしくない声を上げるのはやめろって……川内は、今度は右手で俺の左胸内ポケットを探りだし、中に手を突っ込んでスマホを取り出した。

 

「画面見てみてくれ」

「……特に何も表示されてないけど……」

「大淀さんからメールかもしれん。いいからロック解除して中を見てくれるか」

「ロック?」

「1192」

「それ誕生日?」

「11月92日が誕生日ってどこの異世界出身だよっ」

 

 俺のスマホは指紋認証での解除も出来るのだが、今日みたいな万が一の場合に備えて、四桁のキーでも解除できるように設定してある。川内は俺のスマホのキーを解除し、俺に画面が見えるように、俺と自分の前にスマホを持ってきた。

 

 青いメーラーのところに、一通の未読メールがあることを知らせる赤いアイコンが表示されている。ひょっとしたら、大淀さんかも。さっきのメールの返事か?

 

「メール開いてくれ」

「? どれ?」

「その青くて赤いポッチがついてるやつあるだろ? それを、とんってつっついてくれ」

「はーい」

 

 俺におんぶされてるから、身体が揺れてタップしづらいのか……『むむむ』と唸りながら川内は、画面をとんっとタップして、メーラーを開いた。未読メールの送信者は……やはり大淀さんか。

 

「川内。その大淀さんの名前のところをもう一回つっついてくれ」

「はーい」

 

 今度は問題なくタップ出来た川内。メールを見る。内容はやはりさっきの俺のメールに対する返信のようで……

 

「カシワギせんせ」

「ん?」

「これはもう、私の看病確定だね」

 

 メールの最後は、『川内さんをよろしくお願いします』と書いてあった。

 

 これは……あれかー……やっぱ俺は今晩、看病をしなきゃいかんのかー……

 

「んー……」

「せんせ?」

「……まぁ、しゃあない。半分は俺の風邪が伝染ったからだし」

「ありがと……」

 

 仕方ない。俺も腹を決めた。今晩はこのアホの看病をする。この前のお礼も兼ねて。

 

「……せんせ」

「んー?」

「ごめんね……夜戦、付き合えなくて」

「言ったろ? 飯なんかいつでもいけるし、夜戦には付き合わん」

「……」

「いいから今は治すことだけ考えてろって。お前が夜戦夜戦ってうるさくないと、なんだか俺も調子が狂う……」

「うん……」 

 




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直前の動作を繰り返すことが出来ます。

たとえば『太字にする』という操作をした後であれば、
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選択した文字列が太字に設定されます。

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複数の画像を同じ大きさにしたい場合などでは便利です。

途中で一回でも他の動作を挟むと無効な点にご注意下さいまし。


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10. 責任とります
深夜1


 川内の家は、新築のワンルームアパートの二階だった。階段はガラス張りで明るく、玄関のドアも綺麗だ。

 

「せんだーい」

「ん……」

「カギ」

「……んー」

 

 意識が朦朧としてるのか、川内は俺が持ってる自分のバッグにゆっくりと手を突っ込み、中からカードキー取り出して、それをドアのカード挿入口に力なく突っ込んだ。途端にピピッと電子音が鳴り、ガチャリと音が鳴り響く。そのまま川内はドアノブを回し、そのままドアを開けてくれた。

 

「失礼しまーす……」

「いらっ……しゃ……」

 

 部屋に入ると、すぐに台所がある。それを素通りし、八畳ほどのフローリングの居間に入った俺は、川内をベッドにおろして、部屋を見回した。

 

「……案外質素だ」

 

 思った以上に素っ気ない室内だ。小さいテレビが壁際に一つ。その反対側の壁際にベッドが置いてあって、小さなテーブルが部屋の中央にポツンと置いてあった。

 

 ベッドの上に降ろされた川内は、そのままぐったりとベッドに倒れこむ。よほど辛かったようで、横になった川内はうつろな眼差しのまま、ピクリとも動かなくなった。やはりおんぶじゃなくて、タクシー呼べばよかったのかもしれない。俺が付いてれば別にいいかと思って結局呼ばなかったのだが、今更になって少し後悔した。

 

 俺は気を取り直して台所に入り、冷蔵庫を開けた。中には……食材が色々と入ってる。この前の鍋焼きうどんの時に気付いていたが、やはりこいつは、常日頃から料理をやっている。この、充実した冷蔵庫の中身が、それを物語っていた。

 

 ……とはいえ、やはり一度買い出しに出たいところだ。ポカリとか色々あれば便利なものもあるし。それに、俺も一度自分の家に戻っておきたい。学習用のパソコンを持ち込んでおきたいし。

 

「なぁ川内」

「……ハァ……ハァ……」

 

 俺は一度川内の元に戻る。辛そうに浅い呼吸を繰り返す川内の身体に、俺の声に対する反応はなかった。

 

「俺、ちょっと色々買い物してくるから」

「ハァ……ハァ……やだっ」

「やだじゃない。お前、腹は?」

「何も……食べたくない……」

「……わかった。俺が買い出しに出てる内に、お前は寝巻きに着替えてベッドに入ってろ」

「着替えさせてよ……」

「アホ」

 

 川内の頭をペシンとひっぱたき、俺は川内を残して部屋を出る。

 

「あ、カギ……げんか……」

「はいよ」

「早く……かえ……」

「了解だ」

 

 玄関のカードキーを手に取り、靴を履いて外に出た。ドアが閉じ、ガチャリとカギが閉まる。オートロックなことに驚きつつ、俺は念の為ドアノブを回してみた。カギはしっかりかかった。よし大丈夫。

 

――う……

 

 不意に、自分が風邪にかかった時のことを思い出した。あの時、買い出しに出る川内の手を掴んで、制止しちゃったんだっけ。そのあと、一人になった部屋の中って、妙に静かで寂しくて……

 

―― ハァ……ハァ……やだっ

 

 ……出かけ間際の川内のあのワガママは、あの時の俺みたいな、一緒にいる奴がいなくなることへの不安に対する、川内なりの抵抗だったのかもしれない。もし、今のあいつの精神状態が、あの時の俺と同じなのだとしたら、あいつは意味不明な寂しさに打ちひしがれてるはずだ。

 

「……さっさと戻るか」

 

 できるだけ早く戻ることを心に違い、俺は足早にその場を離れた。コートを川内に貸したまま忘れていたことに気付いたのは、一度家に戻った後、コンビニでポカリを物色していた時の事だった。

 

……

 

…………

 

………………

 

「ただいまー」

 

 自分の家ではないのに『ただいま』と挨拶することに違和感を覚えながら、俺はドアを閉じ、カードキーを玄関の下駄箱の上に置いた。肩からかけたバッグには教室から借り受けた学習用のパソコンが入っていて、その重みが俺の身体をふらつかせる。右手には、今しがたコンビニで買ったポカリが入っていた。

 

「おか……え……」

 

 ベッドの上の、ちょっと盛り上がった布団が、もこもこと動いているのが俺からもよく見えた。俺は返事をすることなく、台所に行ってポカリを冷蔵庫の中に入れた。

 

 その後居間に入り、肩にかけたバッグを置いて、ベッドに歩みよる。布団の中の川内は、辛そうに顔をしかめていた。

 

「ハッ……ハッ……」

「寒いか?」

「んー……ちょっと……でもだいじょぶ」

 

 辛そうな川内だが、顔色そのものはさっきよりもよくなってきている。多少寒さが改善されたか……? ベッドの上を見ると、川内の足元の布団に、俺のコートがかけてあった。

 

「布団が汚れるぞ」

「だって寒いし……」

「ちょっと熱計るか。体温計どこだ?」

「えっと……クローゼットの中の救急箱……」

「クローゼット……」

 

 居間の中をぐるりと見渡し、クローゼットの扉を開けた。救急箱は……あった。開くと、片隅に綿棒やピンセットに混じって、この前俺が使った体温計がある。それを手に取り、救急箱を戻して川内の元に戻った。

 

「ほら。自分の脇にはさめ」

「せんせ……ハッ……ハッ……」

「ん?」

「……入れて」

「バカタレ」

 

 アホなことを……俺は川内の胸元に体温計を置いた。川内はもそもそと動き始め、布団から右手を出して体温計を取り、そのまままた右手をひっこめる。布団の中でもぞもぞ動いているから、今まさに自分の服の中に手を入れて、脇に体温計を挟んでいるようだ。

 

「ちょっとごめんな」

「ん……」

 

 一生懸命に体温計を脇に挟む川内の、額に手を置いてみた。熱い……まだ上がりきってないのか。教室にいたときよりも熱くなってる気がする。

 

「やっぱまだ上がりきってないな……」

「ハッ……ハッ……せんせ」

「ん?」

「ちょっと……こうしてて」

 

 そういや俺が倒れた時も、こいつが顔に触れてくれてる間は妙に安心したっけなぁ……。

 

「ちょっとだけだぞー」

「はーい……」

 

 川内の表情が、少し和らいだ気がした。

 

「……すごくホッする」

「そか」

「だからせんせ」

「ん?」

「両手でほっぺた挟んで」

 

 ……コノヤロウ。ワガママになってきやがった。おだやかな顔して、年頃の女の子にあるまじきことを口走り始めてやがる。

 

「何ワガママ言ってるんだっ」

「やってよー」

「断るっ」

「私はやってあげたのにー……」

 

 そう言って口を尖らせ、ちゅーちゅー言い出した川内は、布団の中からもそもそと両手をだし、自分の額に触れている俺の右手を捕まえて、手のひらを自分のほっぺたに合わせた。

 

「んー……」

 

 その途端、少しだけ微笑む川内。

 

「アホ……」

「せんせ。そっちも」

「ん?」

「左手。そっちも」

 

 今度は俺の左手を右手で捕まえて、力なく引っ張ってくる。病人相手に抵抗出来ない俺は、そのまま川内の為すがままにされてしまい、両手で川内のほっぺたを挟んでしまった。

 

「んー……」

「なんつーワガママを……」

「いいじゃん……んー……ホッとする」

 

 ……まぁなぁ。俺も実際、川内にほっぺた触られて、妙に安心したしなぁ。

 

 そのまま少しずつ、川内の手から力が更に抜けてきた。両目がかろうじて開いているが、その目はもう、眠気を我慢している赤ちゃんのようにしか見えなかった。

 

「せんせ……」

「んー?」

「あり……が……」

 

 やがて室内に聞こえ始めたのは、スースーという、気持ちよさそうな川内の寝息だけ。どうやらワガママな夜戦バカは、夢の世界に入ってしまったようだ。川内のほっぺたから、そっと手を離す。文句が何もないところを見ると、完全に落ちてしまったらしい。

 

 いまのうちに晩飯を食べておくかと思い、コンビニで自分の飯を買ってくるのを忘れたことに気付いた。川内にはおかゆか何かでも作ろうかと思っていたが、自分の分を忘れてしまっていたのは痛い……

 

「……しゃーない。冷蔵庫のものを適当に……」

 

 台所に向かい、改めて冷蔵庫の中を覗く。中には……色々と食材がある。卵に梅干し……お粥の付け合せに出来そうなものも常備されてるな。

 

 続いて冷凍庫を開ける。中には手のひら大の大きさの、おにぎりにした冷凍ご飯が二つある。一つはおかゆにして、もうひとつは俺がいただこうか。すまんな川内。でも俺も、腹が減ったんだ。……ちょっと待て。

 

「冷凍うどんがあるな……」

 

 台所を見回す。土鍋は……ない。鍋焼きうどんでも作ろうかと思ったけれど……その前に、あの鍋焼きうどんは、おれには再現出来ないか……。

 

――♪〜……♪〜……

 

 それに、あの鍋焼きうどんは、なんとなくだが、俺が作ってはいけないような……なんだろうな。あの、とても楽しそうにキッチンに立つ川内の姿を見てから、『鍋焼きうどんといえば川内』という感じの妙な方程式が、俺の中で組み立てられつつあるようだ。

 

 とりあえず川内はお粥でいいだろう。台所の戸棚を開き、よく手入れされた雪平鍋に水を注いだ。それを火にかけ、沸騰するまで待つ。その間に玉子焼きでも作っとくかね。

 

「川内すまん。俺の分も一緒に焼いちゃうぞ」

 

 卵二つを溶いて、目に付いた顆粒だしをちょいと入れておく。川内の好みは甘いのとしょっぱいの、どっちだ……という疑問が一瞬浮かんだが、約二秒後に『どっちでもええわ』という投げやりな回答で上書きされた。甘いのが好きだろうがしょっぱいのが好きだろうが、俺に看病を任せたアイツが悪いってもんだ。

 

 玉子を溶き終わった頃合いで、鍋の湯が沸騰した。おかゆなんて、とりあえず沸騰した湯にご飯ぶちこんどけばいいだろうと思い、冷凍ご飯をそのままぶち込む。

 

「♪〜……♪〜……」

 

 あの日、あいつが歌っていた鼻歌が、口をついて出た。こうやって鼻歌を口ずさんでいると、なぜかあいつの姿を思い出す。上機嫌な夜戦バカの姿が、俺にはかなり印象に残ったようだ。

 

「♪〜……♪〜……卵焼き機は……」

 

 再び台所の戸棚を開く。卵焼き機は……あった。それをコンロの上に乗せ、火にかけ、油をひいた。余計な油はキッチンペーパーで拭き取り、だし巻き卵を焼いていく。

 

「♪〜……♪〜……あ」

 

 少しぐちゃった……まぁいいか。出来上がった少々不格好なだし巻き卵をまな板の上に乗せ、包丁で6切れに切る。あとはこのまま冷めるまでおいておこう。

 

 鍋を見る。鍋の中はグツグツと煮立っていて、すでにおかゆが出来上がりつつあった。とりあえず火を止め、味を見てみる。

 

「……ん。問題はなさそうだ」

 

 うん。まぁ、お湯にご飯突っ込んだだけだからな。失敗しようがないし。とりあえず、作れるものはこれで全部だ。あのアホなら、この冷蔵庫の中のものを使って色々なものを作れるのだろうが……俺もきちんと自炊して、常日頃クッキングに慣れ親しんでおけばよかったなぁ、と軽い後悔の念を抱いた。2秒後に消えたけど。

 

「……ハラ減ったな」

 

 あとは自分のご飯の準備だ。

 

「せんだい。ご飯もらうぞ」

 

 改めて川内に許しを請うてみるが、奴は今、深い深い夢の中。返事が帰ってくるはずもない。とりあえずもうひとつの冷凍ご飯を、ラップにくるまれたままお茶碗に乗せ、電子レンジの中に置いて、レンジを作動させた。途端にレンジが『ぶおーん』と気合を入れ始め、中のご飯がフィギュアスケートよろしく回転しはじめる。

 

「んー……」

 

 順調に電子レンジで温められているご飯を確認したところで、改めて冷蔵庫の中を見る。梅干しを取りつつ、他に何かおかずになりそうなものがないか探すのだが……やはり中にあるのは食材ばかりで、一手間かけないとおかずにならないものばかりだ。

 

「……?」

 

 フと、理科の授業で使ったビーカーみたいな容器が目に付いた。密閉できる蓋がついていて、洋画とかで、田舎のおばあちゃんがジャム作るときに使うようなガラス瓶だ。

 

「んー?」

 

 妙な好奇心にかられ、そのガラス瓶を引っ張りだした。中に入ってるのはあずきと、一本の鷹の爪。

 

「なんだこいつ。あずきなんか料理に使うのか」

 

 やっぱこいつ、料理をよくやるやつだ。あずきなんて、『趣味は料理です!!』て宣言するやつぐらいしか使わないイメージがある。大抵の人は出来合いのあんこ買ってくるだろうし。

 

 『チーン!』という小気味良いレンジの音が鳴った。俺はあずきを冷蔵庫の中に戻し、レンジの蓋を開けて、あつあつのお茶碗を手に取った。予想以上にお茶碗は熱く、思わず手を離しそうになる。

 

「♪〜……♪〜……」

 

 妙な鼻歌が止まらない。なんでだ。

 

 おかゆの火を止め、俺はとりあえず、ご飯と玉子焼きを食べた。うん。我ながら上出来。自分で作ったからか?

 

「せん……せ……」

 

 居間で眠っていたはずの、川内の声が聞こえた。レンジの音で起こしてしまったか……。口の中で咀嚼していたご飯を慌てて飲み込み、川内の元に向かう。少し眠ったせいか、帰宅したときと比べて、けっこう血色が良くなってきた。

 

「すまん。起こしちゃったか?」

「んーん……いい。冷凍庫のご飯、食べた?」

「すまん。断りなく、もらった」

「いい」

「あと、腹はどうだ? お粥作ったけど」

「作ってくれたの?」

「期待はするな。おかゆと玉子焼きだけだ」

「……食べるっ!」

「そ、そうか……」

 

 『食べる』の言葉に、妙に気合が入っていたような……まいっか。一度台所に戻り、目に付いたお盆にお茶碗と、玉子焼きが乗ったさらとスプーンと箸、そして鍋敷きを乗せる。

 

「♪〜……♪〜……」

 

 くっそ……台所で立ってると、あの妙ちくりんな鼻歌をついつい口ずさんでしまう……あのアホの鼻歌を聞いたせいだ……。

 

「……」

「♪〜……♪〜……!?」

「……」

 

 上半身を起こした川内と目が合った……見られた……聞かれた……俺の鼻歌、聞かれた……

 

「……」

「……」

「……ぷっ」

「笑うなァァアアアア!!」

 

 川内のお粥を乗せたお盆の隙間に、俺の分のご飯と玉子焼き、そして梅干しが入ったタッパーを乗せる。そのまま居間に持って行き、俺の分はテーブルに置いて、おかゆが乗ったお盆はそのまま、川内に渡した。

 

「ありがと」

「どういたしまして」

「もっと色々使ってよかったのに」

「だから、俺の料理スキルに期待するなっ」

「あれ……お玉は?」

「……あ」

 

 そういえば、お粥をすくうお玉を持ってこなかった……一言川内に断りを入れて、俺は一度台所に戻り、そしてお玉を川内に献上した。

 

「……あ、そうだ」

「ん?」

 

 俺が取ってきたおたまを川内のお盆に載せたのと同時に、何かを思い出したらしく、川内がハッとしてつぶやいた。

 

「えっとさ。体温計、せんせーが台所で鼻歌歌ってる時に鳴ったんだ」

「報告はうれしいけど鼻歌は忘れろ。……んで? 何度だった?」

「まだ見てない」

「見ろよ」

「とって」

「とれよ」

「私だってせんせーの体温計取ったんだから、せんせーも私の取ってよ」

 

 ……いいよ? わがまま言ってくるのは慣れたよ? でもさ。さすがにそりゃあきませんぜ川内さん? 女の子が男の服の中に手を突っ込むってのも中々だが、女の子の服の中に男が手を突っ込むってのは、ある意味では事案発生ですぜ?

 

 台所でお玉を見つけた俺は、無表情のまま、目がトロンとしてる川内のそばまで戻った。そして……

 

「バカタレ」

「ひやっ」

 

 とりあえず川内の頭をはたく。

 

「自分でとれ」

「ひどっ……」

 

 俺に頭を横殴りにはたかれた川内は、口をとんがらせて自分の服の中に手を入れ、もそもそと動かしたあと、体温計を取り出して俺に渡した。40度……これはなかなかにハードな体温だな……。その体温計を川内に見せたが、反応は薄い。少し元気が戻っているが、やはりまだ意識が朦朧としているのだろうか。目がトロンってしてるし。

 

「やっぱ高いな。それ食ったらまた眠れ」

「うん。そうする」

 

 意外と素直に俺の言うことを聞いた川内。俺はお玉を使って川内のお茶碗にお粥をついでやる。おかゆはまだまだアツアツで、途端に川内の周囲が湯気で包まれた。

 

「……熱そうだー」

「だなぁ。舌を火傷するなよ」

「ふーふーして」

「アホ」

 

 川内のワガママジャブをうまく交わし、俺はテーブルの前に腰掛け、自分の晩飯を食べる。テーブルとベッドの間に腰掛けてるから、ちょうど川内に背中を向けてる感じだ。

 

「いただきます……」

 

 静かな川内のいただきますが、俺の背後から聞こえた。ふーふーという静かな吐息と、かちゃかちゃというお皿の音が心地いい。

 

「……せんせー。美味しい」

「そっか」

「ありがと。玉子焼きも美味し」

「甘いのとしょっぱいのとどっちがいいか迷ったんだけどな。ええわい作っちゃえって思って」

「うん。だし巻きでいい」

「よかった」

「うん」

 

 二人で食べる、静かな夕食。もし今日、川内が体調を崩さなくて、二人でどこかに飯を食いに行っていたら……

 

『カシワギせんせー!! この後の夜戦で何使うの!?』

『だから夜戦はしないって言っただろッ!!』

『照明弾使われたらやっかいだなー……私、実力が出せなくなる……』

『離れろ! まず夜戦から離れろッ!!』

『あでも!! 先制爆雷おにぎりで照明弾使われる前に撃沈させれば……!!!』

『食べ物で人を攻撃するな爆殺するなミンチにするなッ!!!』

『いやー楽しみだね!!! せんせーとの夜戦!!!』

 

 とまぁ、こんな具合で賑やかに飯を食い、場合によっては酒を飲んで、大いに盛り上がったのかもしれん。なんだかんだで、こいつはにぎやかで楽しいから。

 

 でも、案外こんな時間もいいのかもしれない。

 

「ふー……ふー……はふっ。……あったかい」

「……」

「……せんせ、ありがと」

「んー」

 

 お粥を食べる音が、背後から聞こえてる。お粥をスプーンですくう時の音が……玉子焼きを箸で取るときに、箸と皿が当たる音が、こんなに心地よく聞こえるなんて、考えたこともなかった。川内と静かな時間を過ごすだなんて予想外だったが、案外、こんな時間も悪くないのかも知れない。この前の時はそれどころじゃなくて、そんなこと全然考えもしなかったけれど。

 

「ごちそうさま。美味しかったよせんせー」

「んー。お粗末さまでした」

 

 こうしてしばらく二人で静かにご飯を食べる。準備していたお粥をすべて平らげた川内は、俺がお盆をどかした後、再び横になって布団の中にこもっていった。

 

 俺は川内のお盆に自分の食器を乗せ、台所に持って行って後片付けをはじめる。空っぽになった雪平鍋を見て、なんだか清々しい気分になった。そういや母ちゃん、『作った料理が全部無くなったら、気持ちがいい』って言ってたっけ。

 

「せんせー」

「んー?」

「お湯使って洗うんだよー?」

「あいよー」

 

 『お前は俺の母ちゃんかっ』といいそうになるが、そこはグッとこらえる。湯沸し器のスイッチを入れ、お湯が出るまで待った後、皿洗いを開始した。

 

「♪〜……♪〜……」

 

 あの、ケッタイな鼻歌を口ずさみながら。

 

「♪〜……♪〜……」

「♪〜……♪〜……」

 

 かすかに、居間からも鼻歌が聞こえる。あのアホも口ずさんでやがるのか。……でも悪くない。

 

 すべての皿洗いが終わり、蛇口を閉じた。戸棚にかけられたタオルで手を拭き、湯沸し器のスイッチを切って、居間に戻る。

 

「おかえりー」

「ただいま」

 

 川内の出迎えのセリフに気を良くしつつ、手のひらで川内の額に触れる。『ふぁ……』と川内が声をあげていたが気にしない。

 

「んー……少し上がったか?」

「わかんない……でもまだボーとする」

「そっか。んじゃまだ上がるかもな」

 

 少し機嫌が良くなってきてるから多少上向きになったかと思ったが……ヤマはまだ来てないってことか。

 

「せんせ」

「ん?」

「手」

「て?」

「うん。手」

 

 さっきと同じように、布団の中から自分の手を出して、俺の両手首を掴んだ川内。そのままさっきみたいに、俺の手で自分のほっぺたを挟んで、気持ちよさそうに一息ついていた。

 

「むふー……」

「またかい……」

「きもちい……この前せんせーが私に甘えてきた気持ちも分かるよ」

「アホ」

 

 こいつのほっぺたは相当熱い。だから川内からしてみれば、俺の両手は相当冷たいはずなんだが……まぁ、俺もあの時は感触よりも、川内に触れられて妙に安心したんだもんな。熱だしてたら、人は妙に不安になる。川内も不安なんだろうか。だからこんなふうに、俺にワガママ言ってきてるのだろうか。

 

「んー……せん……せ……」

 

 アホがうとうとし始めた。そろそろ限界が来たのか。川内の目がまたトロンとしてきた。眠気に抗いきれず、うとうとしだす子猫みたいな顔してる。

 

「やせ……せん……スー……」

「……おやすみ」

 

 静かな寝息が聞こえてきた。やっぱこれだけ落ちるのが早いってことは、それだけ体力を消耗してるってことだよな……多少元気は出てきたけれど、それはひょっとしたら痩せ我慢とか空元気の振り絞りとか、そういうのなのかもしれない。気を使わなくていいのにな。

 

 川内のほっぺたから手を離した。まったく反応がない。気持ちよさそうにスースー寝息を立てて寝ている。そのままこっそりと背中を向けて、自分のバッグを開けて学習用ノートパソコンを取り出した。今日はきっと川内の看病で徹夜仕事になる。その間、Accessの業務基幹ソフトの開発を進めるために、俺はこのノートパソコンを持ってきた。

 

 パソコンをテーブルの上で開き、電源コードをコンセントに挿して電源を入れる。

 

「えーと……ルーターどこだ……」

 

 持ってきたLanケーブルをノートパソコンに挿し、もう一方を差し込むルーターを探して居間の中を見回した。ルーターは……テレビの横にあった。

 

「おっ」

 

 立ち上がり、Lanケーブルを持ってルーターのそばまで来た。Lanケーブルをパチリと音が鳴るまで差し込んだ時、テレビのそばの引き出しの上が、目に付いた。

 

「あれ……テキストをここに置いてるのか」

 

 授業で使っているテキストが、丁寧に整頓されて置かれていた。テキストを一冊手にとって、中をペラペラとめくる。

 

「……俺より勉強してやがる」

 

 テキストは、びっしりと書き込まれた川内のメモ書きとマークとアンダーラインによって、そらぁもう大変なことになっていた。俺が『これは覚えたほうがいいぞ』と言った箇所には、丁寧に『これは覚えたほうがいいらしい』とか、細かい注釈もついている。かな打ちとローマ字打ちの切り替え方法のところなんか、『かな打ちストの必須技術』だなんて、一言一句俺が言った通りのことが書き込んであった。あれは俺の経験則から来ることだから、別にそこまでしっかりと覚えなくてもいいんだが……。

 

 川内の寝姿に目をやる。今、気持ちよさそうにスースー寝息を立てて眠りこけてるこのアホは、授業が終わる度に、こうやって家に帰って、一人で復習していたのか。俺の一言一言を思い出し、こうやってテキストにみっちり書き込んで、授業を振り返っていたのか。

 

「いつもおつかれ。川内」

 

 パソコンが立ち上がった音が聞こえ、俺はテーブルとベッドの隙間に戻った。川内の寝顔を覗く。安心しきった赤ちゃんみたいな顔で寝てやがる。手を伸ばし、川内の頭を撫でた。

 

「ん……」

「……」

「……むふー……はり……たお……」

 

 今日は静かな夜戦バカが、ほんの少しだけ、微笑んだ気がした。

 



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深夜2

 寝静まった川内の寝息が聞こえる室内で、俺は静かにパソコンのキーボードを叩く。

 

「……」

「スー……スー……」

 

 Accessの業務基幹ソフトの開発を進める。わからないところはグーグル先生に確認を取り、参考書を開いて……

 

「んー……あ、こうか」

 

 vbaも駆使しつつ……以前に比べると、少しは形になってきたかもしれない。俺も少しは、教室の役に立ててるだろうか。気がついたら、あの教室の力になることを考えてる自分に気付く。一年前の自分からは信じられない変化だ。あの時は『会社潰れろ』としか思ってなかったから。もっともあれは、会社が悪かったからだけど。

 

 そしてもうひとつ、俺にしては珍しいことがあった。

 

「ん……そろそろ……」

 

 俺は普段、何かしら作業に没頭しだすと、周囲に対して無関心になる傾向がある。このアホはそれを見越して、よく授業中に俺に生返事をさせて遊んでいるが……普段の俺は、あの反応が自然だ。作業に集中していると、周囲への関心がほぼゼロになる。

 

 でも今日は違った。定期的に川内の様子を覗き、額に手をあてて体温を計り、寝顔を見て川内の様子を都度確認していた。これは、普段の俺にあるまじき変化だ。

 

「ちょっとごめんな」

「ん……」

 

 川内の額に触れる。まだだいぶ熱い。でも少しずつ汗ばんできているから、ピークは過ぎたかもしれん。今の内に氷枕の準備をしておくか。

 

 川内の額から手を離し、立ち上がってクローゼットの扉を開けた。救急箱の中に氷枕が入っていたような……目の前の救急箱を開け、中を見る。……ない。

 

「あれ……」

 

 んじゃ、俺が熱を出した時、川内は何を使ったんだろう……? 俺は氷枕なんて気が効いたものなんか持ってないし。

 

 頭に大きなはてなマークを浮かべ、おれは冷蔵庫の前に立った。俺の熱の時、あのアホは氷枕を冷蔵庫から出していたような……。

 

「ここか?」

 

 冷凍庫の扉を開き、中を確認した。肉や魚、冷凍食品の奥底に、水色のそれらしいものを発見する。苦労して取り出してみると、それはアイスノン。やわらかタイプで、凍らせても固くならない、ふにゃふにゃで心地よいタイプのもののようだ。

 

「……これか」

 

 これなら、事前に準備しておく必要はなさそうだ。おれはアイスノンを冷凍庫に戻し、川内の元に戻ってきた。

 

「スー……スー……」

 

 川内の顔が、しっとり汗ばんできた。後もう一息。もうしばらくして汗を盛大にかきはじめたら、アイスノンで首筋を冷やしてやろう。それまでは少し注意深く観察だな。

 

「……がんばれっ」

「……ん」

 

 川内を起こさない程度の小さな声で、俺はチアガールばりのエールを川内に送る。……きっと本人は気付いてない。でも、それでいい。知られたら恥ずかしいし。

 

 その後は、5分に一回ぐらいの割合で、川内の様子を見た。次第に川内の顔がしっとり汗ばんできて、見るだけで分かるほどになり……15分ほど経った頃には、熱をはかった手がしっとりと湿るぐらいに、汗が止まらなくなってきた。

 

「ん……」

「そろそろかな」

 

 俺は立ち上がって洗面所に向かい、そこの引き出しの中から真っ白いタオルを一枚、拝借した。そのまま台所の冷蔵庫でアイスノンを回収し、それをタオルでくるむ。

 

「つめた……あでもタオルでくるむとちょうどいい」

 

 アイスノンのひやっとした感触が心地いい。俺はそれを持って川内の前まで戻ってきて、アイスノンを右手に持ち替え、左手で川内の頭を持ち上げようとするが……

 

「んー……むずいな」

 

 これが意外と難しい。どう頭を持ち上げても、このままでは左手で持ち上げることは出来ない。

 

 ……となれば、川内が俺に対してやってくれたように、頭を左手で抱えるように持ちあげなきゃいけないわけだが……これがなんだか恥ずかしい。お互いの顔がすごく近づくし。

 

「まじかー……ちょっとすまんな川内」

「……」

 

 川内を抱えるように、首筋に手をやる。そのまま頭を持ち上げ、右手でアイスノンを首元に置こうとした、その時だった。

 

「……」

「……?」

「……!?」

 

 俺と川内の顔が、鼻が触れるか触れないかのところまで近づいたその時、川内が目を覚ました。澄んだ両目をパッチリと開き、その瞳で俺をまっすぐに見ていた。

 

「……」

「……す、すまん。えっと」

「んーん」

 

 俺に頭を持ち上げられている川内の目は、寝起きにも関わらず、まっすぐに俺を射抜いていた。息が浅く、軽い呼吸しかできておらず、しっとりと汗ばんだ夜戦バカは、俺から目をそらさず、いつになく真剣な眼差しで……

 

「……せんせ」

「ん?」

 

 ほっぺたが少し紅潮しててしっとりと汗ばんでいて、妙に色っぽかった。

 

「……夜戦」

「……」

 

 俺は、このアホのそんな眼差しから、目をそらすことが出来なくなった。

 

「……する?」

 

 今、こいつが言ってる“夜戦”が何を指しているのか……いくら俺でも、理解した。川内の温かい吐息が、俺の肌に届く。

 

「……アホ抜かせ」

「なんで? 私、今は力が入らないから、逃げられないよ?」

「……」

「熱出てるから、あったかくて気持ちいいかもよ?」

 

 妙な切り返しに、俺の理性が追い詰められていく。川内は動かない。俺から目をそらさず、まっすぐにこちらを見つめている。寝る前はあれだけぼんやりとしていてうつろだった川内の眼差しが、今はスッキリと力強く、それでいて、ずっと見ていたくなるほど、澄んでいた。

 

 そんな川内は、今まで俺が出会った誰よりも、綺麗な女性だった。

 

「……」

「……」

 

 意を決した俺は……

 

「……」

「……」

「……ふんッ」

「つめたッ……!?」

 

 川内の首元に素早くアイスノンを滑らせ、その上に川内の頭を落とした。ぼすっという音とともに、アイスノンの上に投げ出された川内の髪はしっとりと湿っていて、まくらの上で少しだけ乱れていた。

 

 川内の首筋から手を離した俺は姿勢を正す。最高に綺麗だった川内の顔が、俺の鼻先から離れた。

 

「人をからかうのも大概にしとけーぃ」

「からかってないよ? 私はせんせーと夜戦したいよ?」

「いいからまず風邪を治せっ」

 

 腰に手を当て、世迷言を言う川内を、少し強めに諌めた。川内は俺の返事が不満なのか何なのか知らないが、眉間をハの字に歪ませて、頭の上にもじゃもじゃ線を生成しつつ、口をとんがらせてちゅーちゅー言い出す。こいつのこの癖は一体何なんだ。あの自称小説家の岸田のアホを思い出すから、その癖はやめていただきたいっ。

 

「……はーいっ」

 

 ふてくされたのか。川内は不満気にそう言うと、俺からぷいっとそっぽを向き、そのまま寝てしまう。そのまましばらく見ていたが、スースーという寝息がすぐに聞こえてきたから、どうやらまた眠ったようだ。

 

「ったく……いっちょまえに……」

 

 つい頭を撫でそうになり、慌てて手をひっこめた。今、こいつの身体に触れるのは不味い。俺が、いかがわしい意味でスッキリしたくなってしまう……。川内に背中を向けて座り、俺はAccessでの開発に戻った。

 

 その後も15分に一回ほどの割合で、川内の様子を見守る。洗面器に水を張り、それで濡れタオルを準備して、時折川内の顔を拭いてやった。

 

「……」

「ん……」

 

 さすがに熱が下がり始めて暑くなってきたのか、時々川内は布団から左手をだし……

 

「ん……」

「あだっ!?」

「んー……」

「んぐぐ……」

 

 背中を向けてAccessでの開発に勤しむ、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。こいつ、本当は起きてて、さっき夜戦を断った俺に意趣返しでもしてるんじゃないかと、ちょっと勘繰ってしまうほど、かなり強烈に俺の頭を撫で回した。

 

「んー……いい加減、寝ぼけるのも大概に……」

 

 今回もこいつの左手は、俺の頭を撫で回す、川内の左手の手首を掴み、そのまま布団の中に戻してやる。それでもすぐに川内は左手を布団からだし、俺の服の袖を掴んだ。

 

「んー……」

 

 今度は布団の上に、川内の左手を置いてやる。そのまま右手で川内の額に触り、熱を測ってみた。心持ち、少し熱が下がってきたような……。

 

「うし。山は越えた」

「……」

「せんだーい。がんばれー……」

 

 こっそりとエールを送る。こんなん恥ずかしくて本人には聞かせられないけれど……なんて思っていたら。

 

「うん。がんばる」

 

 川内が急に目をバチッと開いて俺を見上げた。やばっ……聞かれてたのか……今のエール……。

 

「……き、気分はどうだ?」

「だいぶいいよ。でも暑い」

「熱が下がってきてるんだよ。いいことじゃんか」

「うん。体中がべとべとする」

「……そら、コレだけ汗かいてりゃな」

「うん」

 

 川内が、もこもこと布団の中から両手を出した。そのまま俺に向かって両手を広げてくる。

 

「……せんせ。手」

「またかい……」

「んー」

 

 いいよもう慣れたよ……俺は両手で川内のほっぺたをはさみ、このアホの顔に新鮮な冷たさを提供してやった。まだまだほっぺたは熱いが、それでもさっき、ほっぺたに触れた時よりはマシな気がした。

 

「きもちい……むふー……」

「喉乾いてないか? ポカリあるぞ?」

「ちょっと喉乾いたかも……?」

「そっか。……着替えはあるか?」

「うん」

「んじゃ俺ちょっとポカリ取ってくるから、その間に一回着替えろ」

「着替えさせてよー」

「アホっ。ついでに濡れタオルあるから、それで身体も拭け」

「拭いてー」

「お前は一度、俺に何を口走ってるのか本気で考えたほうがいいっ」

 

 そうやってなぁ……先生をからかうんじゃありませんっ。

 

 『んじゃ台所にいるから』と一言言って、川内を居間に残し、台所に来る。閉じた引き戸の向こう側では、布団からもぞもぞと起きだした川内の、服を脱ぎ捨てるパサッという音、そして身体をごそごそ拭いてる音が聞こえてきた。

 

「……」

 

 冷蔵庫からポカリを取り出し、それを台所で見つけた大きめのコップに注ぐ。できるだけ意識をコップに向ける。居間から聞こえてくる音には注意を向けない。じゃないと、さっきのこともあって、なんだか色々とよろしくない想像が頭に働く。早く終われ……終わるんだ……ッ

 

「♪〜……♪〜……」

 

 今日一晩で、俺自身が何度も口ずさんだ鼻歌が、居間から聞こえてきた。この鼻歌ももう、この前と今日で、俺の耳にへばりついてとれなくなってしまったようだ。

 

「♪〜……♪〜……」

 

 だって、聞いてるだけで、なんだか気持ちが安らいでくるから。

 

「せんせー。身体拭いて着替えたよー」

「んー」

 

 引き戸が開き、川内が顔を出した。なるだけ平静を装い、そんな川内を出迎える。さっきの寝巻きは……手に持ってやがる。

 

「私、ちょっとこれ洗濯機に入れてくる」

「んー。洗面器は俺が片付けるから心配するな」

「はーい。ありがと」

 

 川内と入れ違いに居間に戻り、ベッドとテーブルの隙間に座ってパソコンをいじる俺。手に持ったポカリのコップはテーブルに置いた。程なくして洗面所から帰還した川内は、そのままベッドに直行して、ゴロンと転がり上体を起こした。

 

「ポカリは?」

「飲むー」

 

 俺の背後でワガママを言う小娘に、テーブルの上のポカリのコップを渡す。結構のどが渇いていたのか、川内はグギョッグギョッと喉を鳴らし、煽るようにポカリを飲み干した。白い肌の川内の喉が、綺麗に上に伸びていた。

 

「ありがと。思ったより喉乾いてたみたい。んー……だいぶスッキリ」

「やっぱ着替えて正解だったな」

「うん。まだ暑いけど、だいぶ楽になった」

「そりゃよかった」

「だから、このままやせ」

「それ以上は言わせんっ」

 

――する?

 

 あの時の川内の、川内にあるまじき真っ直ぐな瞳を思い出し、なんだか胸が詰まる思いがする。

 

「ん?」

「……」

 

 なんだか川内の顔をまっすぐ見てられない。照れくさくて、俺はぷいっと川内に背中を向け、ベッドとテーブルの間に座ってAccessをいじる作業に戻った。

 

「せんせ? どうかした?」

「どうもしてない。だから早く寝ろ」

「はーい」

「何かあったら声かけろよ」

「んー」

 

 『ぽすっ』という音が聞こえた。川内は素直に寝転んで、布団を被って寝る体勢に入ったようだ。俺は川内の睡眠の邪魔をしないよう、意識して静かにタイピングを行う。居間の中に響くのは、パチパチという、いつになく静かな、俺のタイピングの音。

 

「……ふふっ」

「んー? どした? うるさいか?」

「んーん。聞いてて楽しい」

「そっか」

「んー」

 

 大きくなりがちなタイピングの音に気をつけて、静かにパチパチとコードを組む俺。今組んでいるのはvba。欲しい機能の中にあった、csvファイルの読み込みと整形機能だ。

 

「ちょっと見ていい?」

 

 俺の背後から、落ち着いた川内の声が聞こえる。時計を見ると、今は夜中の3時頃。帰ってきた頃からずっと寝てたから、川内も目が冴えたのかも知れない。『眠れ』と言われて『はい』と眠れるのなら、世の中で苦労する人の幾人かはいなくなる。それぐらい、無理矢理に眠るというのは、大変なことだ。

 

「目が冴えたのか?」

「うん。せんせーがどんなことやってるのかも興味あるし」

「気になるなら見てもいいぞ」

「はーい。よいっしょー」

 

 急にずっしりとした重みが、俺の肩と背中にのしかかってきた。川内が俺の背中におぶさってきたようだ。おんぶの時よりも幾分軽いが、それでも充分な重さがずっしりと肩にのしかかる。俺の顔の左隣に、川内の横顔があった。川内は俺にしがみつくように、肩に手を回してがっしりと掴んでいた。

 

「うお!?」

「いや、ベッドから下りるのもめんどくさいし」

「だからって甘えすぎだっ」

「いいじゃん別にー……うわ。なんかすごく難しそ……」

 

 俺の抗議など素知らぬ顔で、川内は興味深そうにパソコンの画面を眺めていた。おんぶの時みたいに俺の背中に密着してるから、俺の背中全体に川内の体温が感じられるのが、非常によろしくない。

 

 でも同時に、この時間に人と一緒にいるという実感があって、なんだかホッとする。何かと自分の世界にこもりがちなコーディングを、このアホに見守られているという、妙な嬉しさがある。

 

「ねーねー」

「んー?」

「この英語さ、フォントの色がすごくカラフルだけど、これはせんせーが書式設定してるの?」

「コードエディタって言ってな。キーワードやら命令やら意味のある単語やらを入力すると、目立つように自動で色分けされるんだよ」

「ふーん……」

 

 カラフルって言っても、いうほど色分けされてるわけでもないけどな。ところどころ青色だったり緑だったりするだけで。でも川内にとっては新鮮だったようで、横顔とその眼差しが、いつも教室で授業中に見せている表情と重なった。

 

 川内はパソコンに右手を伸ばし、人差し指で、一文字一文字、ゆっくりとキーを打っていった。何か思うところがあるのかと何も言わずその様子を見ていたが……

 

「ありゃ。文字の色が変わらない」

「改行してないからな。それに “yasen”はキーワードじゃないし……」

「そっかー……パソコンもかわいそうだね……夜戦の良さがわからないなんて……」

 

 残念そうに、入力したyasenをバックスペースで消していく川内。意味不明な同情心をパソコンに対して抱いたようだが、その同情は、永遠に報われることはないと断言出来る。

 

「ここは? 文字赤くなってるけど」

「そこは『ここ間違ってますよー』て目印だな」

「ふーん……」

 

 読み込んだcsvのレコード数を出力するMsgBox関数の、記述ミスが引っかかっているんだよ……vbaなんてまだ始めたばかりで、ちょくちょくこうやってミスするんだって……。

 

 喜んでくれるか分からないが、ちょっとサービスしてやろう。俺はMsgBox関数の記述を『MsgBox "夜戦する?",4,"川内さんへの問いかけ"』へと変更した。

 

「お、夜戦だ」

「川内。ここの三角ボタン、クリックしてみ」

「んー? んー……」

 

 再びパソコンに手を伸ばし、タッチパッドでマウスポインターを操作して、実行ポタンをクリックした川内。途端に表示される『夜戦する?』『はい』『いいえ』のウィンドウは、川内の目を輝かせるには、充分なインパクトを持っていたようだ。

 

「ぉお!! せんせ! なんか出てきた!! 『夜戦する?』て聞いてきてるよせんせー!!」

「『Hello World』って言ってさ。プログラマーなら誰もが最初に組むプログラムだ」

「へぇぇえええ!! はろーわーるど!!!」

 

 Hello World。世界で最も有名で、世界で最も組まれるプログラム。長い長いプログラミング人生の始まりの言葉にして、世の中のプログラマーが一番最初に挑戦する、プログラマーになるための儀式。

 

 俺が学校ではじめてプログラムを学んだ時のことだ。まだ右も左も分からない状況で、講師の人がホワイトボードに書いたJavaのコードを、俺はそのまま打ち込み、コンパイルして実行した。

 

class Main{

  public static void main (String[] args) throws java.lang.Exception{

    System.out.println ("Hello World!");

  }

}

 

 コンソール画面に『Hello World!』と表示され、アドレナリンがバンバンに分泌されたその瞬間……講師の人に言われた一言を、当時の感触とともに思い出した。

 

――おめでとう 今日からあなたたちは、プログラマーです

 

 あの瞬間に全身がぞくっとして、これ以上ないほどのワクワク感が胸を支配したことを、俺は今、鮮明に思い出した。

 

 『Hello World』は、単なる英語じゃない。目の前にある機械を『何でも出来る魔法の箱』に変える魔法の言葉。1と0のスペルを組み上げ、電子の魔法を操る事ができる世界へ飛び立つための、短いけれど偉大なおまじない。それが『Hello World』。

 

 だから俺は、このプログラムが好きだ。この世のどんな至言よりも、偉人の偉大な言葉よりも、どんなに素晴らしい名言よりも、この言葉が好きだ。書いただけでこんなにワクワクする言葉を……こんなに簡単で、こんなにドキドキするプログラムを、俺は他に知らない。

 

「『夜戦する?』て聞かれたら、もちろん『はい』っ!!」

「……」

「……あれー? せんせー、何もならないよ?」

 

 今、俺の背中におぶさって、楽しそうに『はい』をクリックしているこのアホを見ていると、はじめてHello Worldを実行したときのことを思い出す。『もう一回!!』と言ってプログラムを実行し、再び『はい』をクリックしている川内は、きっと、初めてHello Worldを実行させた時の俺と、同じワクワクを胸に抱いているんだろう。あの糞会社に忘れさせられた、あの瞬間のワクワクを、俺は今、川内を通して思い出せた。

 

「……川内」

「もう一度『はい』っ!! ……ん?」

「ありがと」

「? なにが?」

「……なんでもない」

「? ??」

 

 張本人のアホは『意味がわからない』と言わんばかりに、きょとんとして頭の上にはてなマークを浮かべているけれど……別にいい。

 

 最初は責任からくる義務感で看病をしたのだが……俺はどうやら、大淀パソコンスクールにきた目的を、達したようだ。いつの間にか忘れていた大切な気持ちを、やっと思い出せたようだ。

 

「んじゃせんせ! パソコンの代わりにせんせーが夜戦付き合って!!」

「アホ」

「えーなんでー!! だってこれ、せんせーが組んだプログラムなんでしょ!?」

 

 この、非常識極まりない、夜戦バカのおかげで。

 

 



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 外がだいぶ明るくなってきた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。時計を見ると、朝の8時。

 

「くわぁぁ……久しぶりの徹夜仕事だ……」

 

 座ったまま思いっきり上に伸び、大きなあくびをして目を涙目にした。完徹でコーディングなんて随分久々だったが、川内のおかげで、俺の身体を蝕む疲労感は、心地よく清々しいものだ。

 

「スー……スー……」

 

 俺の背後では、昨日の深夜に散々『夜戦する!?』『はい!!』とはしゃいだ挙句、『なんか疲れた……』と自業自得の疲労に苛まれてしまった川内が、気持ちよさそうに寝息を立てている。子供のようにはキャッキャキャッキャとしゃぎまくった川内は、あのあと『寝る』と一言言ってコロンとベッドに横になり、睡魔に秒殺されていた。布団をまったく被ってなかったから、そのあと布団をかぶせるのが大変だったのだが……

 

「ま、いっか」

 

 俺に、PCの面白さを思い出させてくれた恩人だから、多少の煩わしさは我慢してやろうか。それに体調が上向きになったとはいえ、川内はまだ病人で、本調子にはまだ程遠い。それなのにあれだけ大騒ぎしてたんだから、そら疲れただろう。ぐーぐー眠りこけるのも分かる。

 

 何でもいいから何か飲み物が飲みたくて、台所に向かうために俺は立ち上がった。川内の寝顔を振り返ると、実に気持ちよさそうに寝てやがる。昨晩のような、苦しそうな様子はまったくない。

 

 そのまま台所に向かい、冷蔵庫を開けた。中にある飲み物は、俺が買ってきたポカリと麦茶以外には何もない。

 

「んー……」

 

 なんとなくコーヒーが飲みたくて台所を見回すが、コーヒー自体が見当たらない。こいつはコーヒーは飲まないのかもしれん。

 

「ま、仕方ない」

 

 ポカリでも飲むかと冷蔵庫の中に手を伸ばした時、玄関から、ドアの施錠を外すガチャリという音が聞こえた。家主がここにいるのにドアのカギが開くというありえない状況に動揺したが、その動揺は取り越し苦労だとすぐに分かった。別の意味ですぐ不安がいっぱいになったけど。

 

「……ぁあ、カシワギ先生」

「ハッ……じ、神通さん?」

 

 ドアのカギを外して部屋に入ってきたのは、あのアホの妹にしてあのヘンタイ太陽コスプレ野郎ソラール先輩の教え子、神通さんだった。まさかこんな時間にアホの妹がやってくるなんて思ってなかったから、俺は相当にうろたえ、冷や汗がとめどなく流れ始めた。ひょっとして……

 

『ま、まさか病気で弱った姉を……む、無理矢理……!?』

『姉の無念は果たします!! にすいせん旗艦、神通!! 参ります!!!』

 

 とか言いながら、襲い掛かってくるんじゃあるまいな……なんて身構えていたら、神通さんの反応は、それとは大きく異なるものだった。

 

「姉と大淀さんから話は聞いてます。昨夜はありがとうございました」

 

 神通さんは、そう言って丁寧にお辞儀をしてくれる。

 

「あ、あ、いやいや……」

 

 慌てて俺もお辞儀をし返す。人間、目の前の相手に予想外の反応をされると、どうすればいいのか分からなくなってうろたえるよねぇ。

 

「姉はどうですか?」

「なんとか峠は超えました。今は気持ちよさそうに眠ってます」

「よかった……ソラール先生も心配してましたし……」

 

 俺のそばまで来た神通さんが、こそこそと小声で俺に問いかけるもんだから、おれもつい小声で返答してしまう。よく見ると、神通さんはその手にコンビニの袋をぶら下げていた。袋が透けてうっすらと見えるその中身には、サンドイッチや日用品に混じって雪印コーヒーのパックが確認できた。

 

「ぁあ、飲みます? 以前に姉から、カシワギ先生は甘党だって姉から聞いて、ひょっとしたら好きかもって思って買ってきたんです」

「大好きですっ」

「ではよかったらどうぞ」

「ありがとうございますっ」

 

 神通さんが柔らかい笑顔で袋の中から雪印コーヒーを取り出し、俺はそれを笑顔で受け取る。俺は、朝はアイスコーヒーが飲みたくなる。特に、甘ったるいコーヒーを起き抜けに飲むのが好きなのだが、それには、この雪印コーヒーはうってつけだ。早速パックを開き、腰に手を当ててぐぎょっぐぎょっと音を立てて飲んでしまった。昨夜の川内ではないが、俺も結構喉乾いてたのかなぁ。

 

「うまいですっ」

「よかったです」

「ありがとうございます神通さん」

「いいえ」

 

 ……ところで、なぜ神通さんは、俺がここにいたことを知っているのか。……あ、待て。確かみんなから話を聞いたって言ってたな。ついでに、ソラール先輩もこの事をしってるということは、ひょっとしたら二人は……

 

「神通さん」

「はい?」

「ソラール先輩はこのことを……」

「ええ。私が話しました」

「ソラール先輩とは……」

 

 気になって、先輩との関係を問いただしてしまったのだが……どうやら愚問なようだ。俺が質問した途端、神通さんは顔を真っ赤っかにして恥ずかしそうにうつむいた。

 

「え……あ、あの……」

「……」

「そ、その……」

「……おめでとうございます」

「あ、ありがとう……ございます」

 

 うん。もう、皆まで言うな。教室での二人の様子。そして今のこの神通さんの様子で分かるじゃないか。お二人共、末永くお幸せに。

 

 そして、神通さんはもうひとつ、気になることを言っていた。

 

「川内からも、俺がここにいることを聞いたんですか?」

「ええ。ちょうどカシワギ先生が買い出しに出てるときでしょうか。一緒にいたソラール先生から姉の調子を聞いて、心配になって電話をしてみたんです」

 

 そういや昨日、川内が神通さんを呼ぶのを頑なに拒否してたっけ。ソラール先輩と一緒にいた神通さんを気遣ってたのか。あのアホにあるまじき気遣いだ。でも、俺が買い出しに出ている間に、二人で話をしてたとは驚いた。アイツ、そんな話を全然しなかったから。

 

「何か言ってました?」

「すごく辛そうな声でしたけど、『せんせーが診てくれるから大丈夫だよ。だから神通は気にしなくていいからね』って」

「ふーん……」

「姉さん、私には来て欲しくなかったみたいだったので、私もカシワギさんのご好意に、甘えさせてもらいました」

 

 そう言って、神通さんはくすくすと笑う。最近、俺に対してよく見せる、意味深な微笑みだ。その意味を問いただす勇気は俺にはないが。

 

 二人で、居間へと続く引き戸を見る。眠れる夜戦バカは今、この引き戸の向こうで、スースー寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている。まさか自分がいる部屋の隣で、自分の妹と先生が、自分の話をしているだなんて夢にも思ってないだろう。

 

「……カシワギ先生」

「はい?」

 

 居間の方から目を離さず、神通さんが俺に語りかける。カーテンの隙間から差し込む光が強くなってきた。この調子でお日様が照っているのなら、今日は暖かい一日になるかもしれない。

 

「冷蔵庫の中、気付きました?」

「へ?」

 

 はて? 昨晩から何回か冷蔵庫の中は覗いたが、不審なものなんて何かあったっけ? 俺は忘却の彼方から記憶を必死に呼び戻すが、それらしい不審物は思い出せない。

 

「……何か変なものでもありましたっけ?」

「変なものというわけではありませんが……」

 

 必死に思い出そうとするが、まったく見当がつかない。神通さんは、そんな俺を微笑みながらしばらく見守り続けたが、やがて答えが出ないと諦めたのか、苦笑いを浮かべながら答えを教えてくれた。

 

「……あずきがありませんでした?」

「ぁあ、そういえばありましたね」

 

 あの、ヨーロッパの片田舎のおばあちゃんがジャムを詰めてそうな瓶の中に、そういえばあずきが入ってた!

 

「それがどうかしました?」

「何も思い当たりませんか?」

 

 うーん……正解にたどり着いたと思ったのだが、神通さんの意識では、答えへの道筋は間違ってないものの、正解にはたどり着いてないようだ。腕を組み、頭を傾け、懸命に考える。自分の記憶をたどり、あずきで連想出来るものを探す。んー……あずき……あずきといえばあんこ……んー……

 

 ……あ。

 

――おいしいですよ! すごくおいしい!

  お店で食べるものよりも、ずっと美味しいです!!

 

――ありがとうございます。……私も、よく出来てると思います

 

 そういえば少し前、神通さんがおはぎを作ってきてくれたっけ。

 

「おはぎですか?」

「はい」

 

 どうやら俺の推理力が導き出した答えは、間違いではなかったらしい。あの鷹の爪が入ったあずきは、元々は神通さんのおはぎに使われたもののようだ。でも、なぜ神通さんのおはぎに使われたあずきが、ここにあるのか疑問が残る。

 

「カシワギ先生。あんこときなこ、どっちが美味しかったですか?」

「両方とも美味しかったですけど、きなこのほうが俺は好きですね」

 

 味的には甲乙つけがたい二種類のおはぎだったが……ここはもう、好みの問題だし。どっちも美味しかったことに変わりはないから、俺は素直に答えたわけだが。

 

 俺の答えを聞いた神通さんは、やはりクスクスと意味深な笑みを浮かべる。最近、この人は俺を見るたびに、こんな感じの表情をする。そろそろ突っ込んでもいいですか。いい加減、意味も分からずこんな笑みを向けられているのも、不愉快ではないけど気持ちが悪い。

 

「……なんですか」

「いや、ごめんなさい……クスっ」

 

 なんだろう、この感じ……決して嫌な気持ちはしないんだが……まるで、みんなの話題に俺一人だけ取り残されているような……

 

「きなこのおはぎ、作ったのは私じゃなくて姉ですよ?」

「……え!?」

 

 唐突に告げられる驚愕の事実。あまりに突然のことで、俺はついアホみたいに大口を開け、大声を出してしまう。神通さんが慌てて自分の人差し指を自分の口に当て、『静かにっ』とジェスチャーを俺に示した。

 

 自分の声の大きさにびっくりした俺は、慌てて自分の手で自分の口を塞ぎ、そして神通さんと二人で居間の方を見た。

 

「……」

 

 ……よかった。川内は起きてないらしい。一安心だ。

 

「……元々ね。みんなにお礼がしたくて、だったら先生たちお二人が好きな食べ物を作ろうってなったんです」

「……」

「で、姉が目をキラキラさせて言ったんですよ」

 

――せんせーはきなこのおはぎが好きだっていうから、

  きなこの方は私が作るよ!!

 

「……って」

「……」

「楽しそうに、鼻歌歌いながら作ってましたよ?」

 

 ……目に浮かぶ。いっちょまえに赤いバンダナを頭に巻いて黄色いエプロンをつけた川内が、あのけったいな鼻歌を歌いながら、上機嫌でおはぎにきなこをまぶしてるところが。

 

 あの日、俺におはぎの感想を聞いてきた川内を思い出す。あれは、妹のがんばりを確認する姉じゃなくて、自分のがんばりの成果を確認していたのか。それもわざわざ、俺が好きなきなこのおはぎを選んで……。

 

「色々と思うところもあるでしょうが……」

「……」

「……私に言えるのは、姉はあなたにとても感謝しているということだけです。そのことは、分かってあげて下さい」

 

 ……感謝してるのは俺の方だ。川内は、俺にHello Worldのワクワクを思い出させてくれた。PCは、俺にとって『何でも出来る魔法の箱』だということを、再び気付かせてくれた。あいつには、どれだけ感謝しても、し足りない。

 

「……感謝するのは、俺の方です」

「……?」

 

 神通さんは俺のつぶやきを聞き取れなかったようで、不思議そうに首を傾けていたが……これは、川内自身に言うことだ。彼女を通して伝えることではない。だから、彼女の耳には届いてなくてもいい。

 

 俺は再び、引き戸で仕切られた居間を見つめる。そして、年甲斐もなく恥ずかしい誓いを、心にたてた。

 

 いつか、あいつに言おう。『俺に、PCの楽しさを思い出させてくれてありがとう』『Hello Worldのドキドキを思い出させてくれてありがとう』ってさ。

 

「……でも、姉はおはぎを作りながら、『これでせんせーを夜戦に誘って……張り倒す!!』て言いながら作ってましたね」

「前言撤回。やっぱあいつアホ以外の何者でもないわ」

「夜戦バカですからね」 

 



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11. 節目の日
昼1


「本日は最終日になります」

 

 お昼過ぎ。お昼からの授業を前に、事務所に並ぶ全講師……といっても、俺とソラール先輩の二人だけだが……を前に、大淀さんが高らかにそう宣言した。

 

「この後の生徒さんは、Excelの神通さんと、Wordの岸田さんです。今日はこのお二人だけなので、マンツーマンでやって頂いて結構です」

「授業が終わったらどうするんですか?」

「授業の後は、簡単に掃除をします。で、私とソラールさんはそこで業務終了。カシワギさんは夜の授業がありますから、そのまま待機してください」

「最終日なのに、簡単な掃除でいいんですか?」

 

 普通、最終日といえばけっこう盛大な掃除が必要になるはずなのだが……素直な疑問を大淀さんにぶつけてみる。

 

 大淀さんは、いつもの柔らかい笑顔を浮かべ、フッと微笑んだ。相変わらず天使だー……この人、綺麗だー……。太陽だ……この教室の太陽だこの人……

 

「いいんです。明日、清掃業者に大掃除をお願いしてありますから」

「ほぉ……我々講師に対する大淀の心配り、感謝する」

 

 なるほど。ならば俺達が掃除をせずとも、教室と事務所の大掃除はなされるというわけだ。この、職場の大掃除ってのはおれも辟易するし、ここは大淀さんの粋な心遣いに感謝すべきところだ。ありがとう、大淀さん。

 

 だなんて一人で勝手に感動していたら……どうもその裏には理由があるらしく。

 

「……あ、いえ。決してみなさんへの配慮だけではなく」

「はい?」

「一応、知り合いの清掃業者で、私と同じ鎮守府だった艦娘の人がやってるところなんです。困った時はお互い様の精神で、こうやって時々お仕事を振ったり振ってもらったり……。

 

 そう言う大淀さんのほっぺたは赤く、珍しく苦笑いを浮かべながら両手の人差し指を付きあわせてもじもじしている。なるほど。そんな実務的な理由があったのですか……

 

 ちなみに、その清掃業者ってどこだろう? 大淀さんと同じ鎮守府だった人がやってるってことは、その業者さんも、オーナーはここと同じなのだろうか? 結局面接のときぐらいしか顔を合わせてないから、オーナーの顔を忘れつつあるのだが……

 

「大淀さん、その清掃業者って、なんてところなんですか?」

「“ビッグセブンクリーン・一航戦”ていいます。ご存知ですか?」

「……いえ」

 

 なんというコテコテで安直なネーミング……もう、思いつくものをすべてくっつけて、申し訳程度に清掃業を表す『クリーン』て単語をくっつけただけの、極めて安直過ぎるそのセンス……いや、名前で業種が分かるというシンプルさは、今のこのご時世、必要なことなのかも? なんだか頭がこんがらがってきた。

 

「……まあいいじゃないかカシワギ。俺達は楽が出来る。それでいい」

 

 そらそうだ。珍妙なその清掃業者の素性やネーミングなど、気になる点は色々とあるが……俺達は楽が出来る。それで充分だ。

 

 ちなみに先ほど大淀さんが言っていたとおり、今日の昼の生徒さんは神通さんと岸田のアホの二人だけだ。他のおじいちゃんおばあちゃんたちは、子供や孫が里帰りをしてきている人たちが多く、年末年始ともなると、授業に出ない人たちも多い。

 

「ところで……貴公、年末年始は……一体どう過ごす?」

 

 朝の最初の授業の前には、いつも教室前を軽く掃除しているのだが……その最中、掃除機をかけるソラール先輩に、年末年始の予定を無駄に厳かに聞かれた。掃除機のモーター音は大きいのだが、それでも先輩の声は耳に届きやすい。バケツみたいな兜被ってるくせに。

 

「俺は特に予定ないです。実家に帰るつもりも今のところ無いですし。せいぜいゆく年くる年を見るぐらいですかね。先輩は?」

「俺も初詣以外の予定は特に無いな」

 

 ほう。初詣とな。ちょっとひっかかるなその話。俺は掃除用アルコールのスプレーを持っている台拭きに吹きかけ、それで教室のパソコンのキーボードとマウスを丹念に拭き掃除しながら、法廷サスペンスの検察官よろしく、被告人ソラール先輩を追い詰めてみることにした。

 

「先輩」

「ん?」

「神通さんとですか?」

「ンガァアッ!?」

 

 俺の突然の真相追求に対して、今まで聞いたこと無いような痛々しい声を上げたソラール先輩は、鎧の音をドチャガチャリと響かせ、その場にうつ伏せに倒れ伏した。その後もそもそと立ち上がり、太陽が描かれたアンニュイな盾をこちらに向け、剣を構えて臨戦態勢を取っている。なにやってんすか先輩。なんでこっちをロックオンして、盾で防御しながら、右に左にゆっくり歩いてるんですか。

 

「いや、だって神通さんと付き合ってるんですよね?」

「カシワギ」

「はい?」

「誰から聞いた」

 

 一応、『神通さん本人から……』という答えはあるが、なんだか言うのは忍びない。とりあえずしらばっくれておこう。

 

「いや、お二人を見てればわかりますよ。だって先輩、最近はよく授業の時に、神通さんのことを『俺の太陽』とかいってるじゃないですか」

「そ、そうか……」

 

 これは本当。最近、ソラール先輩は神通さんのことを端々で『俺の太陽』と言っている。以前は『太陽になりたい』がソラールさんの口癖だったのだが、その辺の変化にも、二人の関係性が表れている。ソラール先輩にとっての太陽とくればそらぁもう……親密な関係としか言えないでしょうよ。

 

 ほっぽり出されて空運転している掃除機を再び手に取り、ソラール先輩は床掃除を再開するのだが……その、丸いアンニュイな盾を背負った背中が哀愁を誘う。おい太陽、こっちを見るんじゃない。流し目で俺と目を合わせようとするんじゃあないっ。

 

「それはいいがカシワギ……」

「はい?」

 

 ソラール先輩が掃除機を運転を止めた。俺に背中を見せたまま前かがみでこちらを振り返り、目をキュピンと光らせて……いや兜が邪魔で、ホントに光ってたかどうかはよく分からんけど……『今度は俺の番だ』と言わんばかりに、振り返って俺をビシィッ!! と指差して迫ってきた。どこの弁護士だよ……。

 

「貴公はどうなのだッ!」

「はい?」

「この年末年始は、何か予定は……ないというのか!?」

「いや、何もありませんが……」

 

 鬼の首でも取ったかのように何を追求してくるかと思えば……さっきも言ったが、俺に年末年始の予定らしい予定はない。それは紛れもない事実。

 

 にもかかわらず、今、俺の目の前で再びアンニュイな盾をこちらに向け、それでバタッバタッと扇ぐ先輩は、一体何を言いたいのか……つーか何やってるんすか先輩。盾で扇がれても、こっちに涼しい風が届くぐらいですよ。わざわざ一歩踏み込んで、気合入れて盾で扇がなくても……。

 

「……何やってるんですか先輩」

「いや、貴公からパリィを取ろうかと……」

「貴公……」

 

 パリィって何だよ……それはそうと、なぜソラール先輩は、ここまで執拗に俺の年末年始の予定を確認してくるのか?

 

 自分は神通さんと初詣デートをする予定で幸せ一杯なんだから、別に俺のことなんか気にしなくていいだろうに。今から予定を立てていればいいじゃないか。初詣で二人で寒空の下、仲睦まじくお参りしておみくじひいて、そして初日の出を見ながらY字ポーズを取ればいいじゃないか。その幸せなスケジュールに、俺が介在する余地など無い。二人に幸せになってもらいたい俺は、介在するつもりもない。家でゆく年くる年見るだけだ。

 

「ほ、ホントに何もないのか……?」

「ないですよ?」

「これっぽっちも?」

「これっぽっちも」

「赤ちゃんの足の小指の爪先ほども?」

「微粒子レベルの存在すらないですね」

「貴公……」

 

 なんだ……俺の話のはずなのに、なぜソラール先輩ががっくりと肩を落とし床に膝をついてうなだれる必要がある? 自分はとても幸せ者のはずなのに、なんで俺の正月の予定を聞いて、こんなにもショックを受けてるんだ?

 

「どうかしたんすか?」

「いや……貴公、朴念仁と言われたことはないか?」

「……ないですけど?」

「貴公……」

 

 変なことを言う人だ。ソラール先輩のよく分からない発言はとりあえず無視することにし、俺は、残り少ない掃除用アルコールのスプレーの引き金を引く。コスコスという音とともに噴射されたアルコールは、もう少量しか出なくなっていた。

 

「カシワギさん、ちょっといいですか?」

 

 事務所で事務仕事をしていた大淀さんが、俺とソラール先輩の駄話に割って入ってきた。いかん。無駄話で盛り上がりすぎたか。

 

「はい? どうしました?」

「えと……Accessの業務基幹ソフト開発の件なんですが……」

「あれがどうかしました?」

「ちょっと進捗をお伺いしたいんですが……」

 

 なんだそんなことかと思い、頭の中でそれとなく進捗を考えてみた。俺の視界の隅っこで掃除機の稼働を再開する、ソラール先輩の存在感が妙に気になるか……それに負けないよう、俺はできるだけソラール先輩の太陽と目を合わせないように気をつけつつ思い出す。

 

 大淀さんに開発をお願いされてからこっち、とりあえずマイペースで勉強しつつ開発を進めてはいるが……やはり自習しながらの開発となると、そうスムーズにはいかない。それに、通常の業務と平行してやってるから、どうしても優先順位は低くなる。

 

「……えっと……テーブルはすべて作りました。データの一部はダミーデータとして移行させてます。クエリもだいぶ出来てはいますが、まだ足りないクエリもいくつかありますし……フォームとレポートはまだ手を付けてない感じですから……」

 

 Accessで作成するソフトは、主にデータを格納しておく『テーブル』、データの入出力と閲覧を司る『フォーム』、データの出力に特化した『レポート』、そしてテーブルに入ってるデータの抽出と整形を司る『クエリ』の四種類の部品からなる。もちろん、データを格納するテーブルだけで運用することも、出来ないわけではないのだが、使いやすいソフトにしたいと思ったのなら、その四種類の部品の充実と相互連携は絶対に不可避だ。

 

 そして、今の俺の進捗は……『テーブル』は必要な分だけできている。『クエリ』もある程度揃ったから、データの抽出と整形も可能だ。ただ、入出力を司る『フォーム』と『レポート』は全く出来てないから、データの入れ物があって、整形することも可能だけど、中のデータを見ることは出来ない。そんな感じだ。

 

 だから、進捗としてはまだ30パーセントぐらいか? そもそもフォームとレポートは、大淀さんとソラール先輩……実際に扱う二人と相談しながら作りたかったし。とても見せられるシロモノではない。

 

 とはいえ、なぜ突然このタイミングで進捗なぞ気にするのか。まさか『あれから結構経つのに、開発遅すぎませんか?』とでもいいたいのだろうか……大淀さんはそんなことを言うタイプの人ではないと思うのだが……。

 

「でもどうしました? ちょっと遅すぎますか?」

「あ、いえ。そういうわけではないんです」

 

 何か理由があるらしい……掃除をソラール先輩に任せ、俺は一度大淀さんと共に事務所に戻った。大淀さんとの話の最中、隣の教室から聞こえてくる掃除機の音が異様に気になる……あのソラール先輩という人は、見た目だけではなく、音すらも目立つというのか……だから無駄に床を転げ回るのはやめなさいって……鎧の音がこっちにも聞こえてますよ。

 

 事務所に戻った大淀さんが俺に見せてくれたもの。それは、この教室のオーナーからの、大淀さん宛のメールだ。

 

 実は大淀さんは、オーナーに対して、俺がAccessで業務基幹アプリを作成中であることを報告していたそうな。オーナーはその進捗がずっと気になっていたらしく、その後報告が無いことにやきもきしていたそうだ。

 

 そしてついに今日、大淀さんに対して『ちょっと見せてちょうだい』と催促しはじめたらしい。『そろそろ見せてくれてもいいんじゃない?』という酷くフランクな文言で、オーナーのメールは締められていた。

 

「勉強しながらなので、進捗は遅くなるということは再三に渡って言ってたんですけどね。しびれを切らしたみたいです」

「なるほど」

 

 まぁ確かに、大淀さんからお願いされて一ヶ月ほど経過してるし。順調ならそろそろ何か見せられるものを準備しておく必要はあるはずなんだよなぁ……とはいえ、まだ見せられるものではないのは確かだ。

 

「んー……じゃあ、今晩にでもフォームを一つ作っておきましょうか? 生徒情報閲覧フォームみたいな感じで」

 

 見てみたいというのなら、一つでもデータを見ることが出来るものがあれば納得するのではないだろうか……そう思った故の提案なのだが……大淀さんは画面の中のオーナーからのメールをじっと見つめ、顎に手を当ててしばらくの間『うーん』と唸る。

 

「……では無理しない程度に、フォームをひとつ作っておいて下さい。それでオーナーも納得するでしょう」

「わかりました。んじゃ川内の授業の時にでも、ちまちまと作ってみます。出来はあまり期待しないでくださいね」

「構いませんが……逆にすみません。元々『出来るときに作ってくれればいい』という約束だったのに……」

「いえいえ。逆にこちらこそ、遅くなって申し訳ないです」

 

 困ったように眉をハの字に歪めながら、大淀さんは俺にペコリと頭を下げる。いやいやこちらこそホント、遅くて申し訳ない。……しかし大淀さん。

 

「ホントすみません。川内さんとの今年最後の授業なのに」

 

 ……なぜこのタイミングで、そのアホの名前が出てくるのか、理解に苦しむのですが。そしてなぜ、俺に向ける眼差しが急にニヤニヤとしはじめるのですか。

 

「……その鬱憤は年末年始に晴らす方向でお願いできますか?」

「おれは今、ここに来て初めて大淀さんを張り倒したいと思いました」

「おやおや」

 

 教室から掃除機の音が消えた。ソラール先輩が教室の掃除をし終わったのかな? やがて教室内に鳴り響くチャリチャリという鎖帷子の音と、『ガチャドチャリ』という、先輩の無駄な前転の音。そんなことやってたらまたほこりが舞うだろうに……

 

「掃除は終了した! これでいつでも授業は開始出来る!」

「ありがとうございますソラールさん」

「しかしカシワギも災難だな。まぁ今日無理せずとも、年末年始を存分に堪能すれば……」

「あなたもそれをいいますか先輩……」

 

 



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昼2

 3人でぐだぐだと無駄口を叩きながらも、本日の掃除は終了。ほどなくして、今年最後の生徒さん、神通さんと岸田のアホが来校した。

 

「みなさんこんにちは! 今日もよろしくお願いします!!」

「こんちわ〜。今日も来ましたよ〜」

 

 今日の予定では……俺が担当する岸田のアホはスタイル設定の活用方法の一つ、目次の作成だ。神通さんの方は、条件付き書式を学ぶらしい。

 

「では岸田さんはこちらへ……」

「神通はこっちだな」

「はい」

 

 教室の二つの島に分かれてそれぞれ別に座る。俺と岸田のアホは窓際だ。太陽の光が当たり、この季節はぽかぽかと暖かい。俺は岸田のアホを席につかせた後、PCの電源を入れる。このアホが太陽のぬくもりに包まれて、眠くならなければいいのだが……

 

――貴公っ!

 

 何やら頭の中に、ソラール先輩のテレパシーが聞こえた気がした。気になって先輩の方を見てみるが、2人は仲良さそうにExcelの画面を眺めていて、先輩がこちらの様子を伺っている素振りはない。ということは、このテレパシーは俺の幻聴か? もう少しその声に心の耳を傾けてみた。

 

――貴公も、太陽の偉大さが理解出来たようだなっ!

 

 うわー……嬉しそうな声してるなー……もう『貴公』の発生の仕方だけで、口角が上がって上機嫌でニッコニコしてるのが分かる発音だよー……。確かに冬場の太陽のぬくもりは心地いいけれど、それって勉強中は天敵なんですよ。

 

――確かにぽかぽかとあったかいですが、今はいりません

 

――貴公……

 

 俺の心の声の拒絶を聞いた妄想ソラール先輩は、実に落胆した声を上げた。改めて先輩と神通さんの様子を眺める。

 

「……じゃあまず手始めに、計算結果がプラスになるところは、背景が太陽色になるように……」

「せ、先生!? 突然がっかりしないでくださいっ……!?」

「……」

 

 ……あの声、まさか本人が俺の心に直接語りかけていたわけではあるまいな……?

 

「ところで先生、今日は何をやるの?」

「……ああ、中断してたWordの使い方をやります。なので、前回のオリジナル小説をひら……ぐばってしておいて下さい」

「はいよー」

「もしナビゲーションウィンドウが表示されなかったら、それも表示させておきましょう」

 

 俺がソラール先輩の幻聴とキャッキャウフフしている間に、岸田さんのパソコンは立ち上がっていたらしい。岸田のアホに促され、俺は岸田さん作の小説をひら……ぐばってしてもらった。

 

「ところで先生」

「はい?」

「開くでいいから」

「そういうことは早く言って下さい」

 

 岸田のアホに気を使ってた自分が恥ずかしい……。そういうことは、早く言ってくださいよ岸田さん。

 

 岸田さんによって展開されるオリジナル小説『殉教者の魔弾』のデータはそれなりのページ数の為、読み込みにほんの少しのタイムラグがある。そのタイムラグの間に岸田さんはナビゲーションウィンドウを開き、準備は万端となった。

 

「んじゃ続きをやっていきましょ。ナビゲーションウィンドウを見る限り、ちゃんとスタイル設定も終了してるみたいですね」

「うん」

 

 なんでそこで、ドヤ顔で俺の顔を見つめるんだ……。

 

「え、えーと……岸田さん、目次って作ることあります?」

「あるある。あれ作るの、結構めんどくさいんだよね」

「だったら話は早いです。あれ、スタイル設定さえしっかりしとけば、自動で作れますよ?」

「へ? そうなの?」

 

 おっ。急に目が爛々と輝き始めたぞ。俺は興味津々といった感じでこっちを輝く眼差しで見つめてくる、アホの岸田の画面をボールペンで指差し、目次の挿入を試みることにしてみた。

 

「ここの『参考資料』タブをクリックしてください。そしたら、そのものズバリな『目次』ってボタンが左端にありますから、それをクリックしましょう」

「ほいほい」

「クリックしたら、入れたいタイプの目次を選んで、クリックしてください」

「おおっ。なんか色々種類あるね」

「クリックしたら、自動で作成された目次がカーソル位置に挿入されるはずです」

 

 言われるままに、自動作成の目次の種類の一番上をクリックした岸田さん。数秒のタイムラグのあと、カーソルがあった文書の先頭に、自動作成された目次が入った。

 

「ぉおッ! 毎回苦労して作ってる目次が自動で出来た……!!」

「こうやって目次作ると楽なんですよ。しかも例えば……」

 

 ここで俺は感激している岸田さんのマウスを奪い去り、ナビゲーションウィンドウを使って第一話と第二話をドラッグで入れ替えた。この操作方法は以前に説明したはずだから、今回は言及しない。

 

「入れ替えたね」

「はい。でも目次は入れ替わってないですよね?」

「うん」

「ここで、『目次の更新』ボタンを押します」

 

 俺は『目次の更新』ボタンをクリックする。しばらくのタイムラグの後、目次の第一話と第二話の順番が入れ替わり、正しい順番に更新された。

 

「おおっ」

「自分で作ってたら、ここで修正作業っていうめんどくさい工程がありますけど、これなら、順番を入れ替えようが見出しを修正しようが、最後に更新ボタンさえ押してしまえばキチンと反映されるんですよ」

「たくさんの見出しを修正したときとか、目次の部分も変更するの大変だしね」

「ええ。だからこの機能、便利なんです。同じ様に表紙を自動で作る機能もありますけど、そっちよりはこっちのほうが融通が効きますし、覚えておいて損はないかと」

「たしかにね!」

 

 俺の説明を受けて、面白そうに目次の項目をいじり始める岸田さん。フォントやフォントサイズを上機嫌で変更し始めたところを見ると、この機能を気に入ってくれたようだ。大淀さんの知り合いの作家さんからのアドバイスを受けての一連の機能紹介だったわけだが、さすがは同じ創作者。創作者の気持ちがよく分かっている。オータムクラウド先生だったかな? 聞いたことあるようなないような……

 

 岸田さんは順調に一人遊びを始めたし、これ以上この場にいると、調子づいたこの人が、俺に対してグチをこぼしかねん。一度距離を置くべく、俺はソラール先輩と神通さんの元に行き、様子を伺うことにする。この場であれば、別にピンク色の空間を展開することもないだろう。2人の邪魔にはならないはずだ。ソラール先輩の授業も見学したいし。

 

 二人の画面を覗いてみる。画面に表示されているのは、『Pizza集積地 商品別売上集計表』という表だ。確か『Pizza集積地』といえば、昨年に近所にできたピザ屋さんのはずだ。その店名を勝手に使って、架空の売上集計表を作ったらしい。いいのかな……そんなことして……。

 

「……さて神通。ここで前年比の項目を見てみよう」

「はいっ」

「前年比の項目には、値がプラスのセルとマイナスのセルがある」

「ですね。電さんのスペシャルメニューは売上一位である上、前年比も伸びています。今年は大躍進を遂げたメニューなのでしょう」

「ああ。逆に集積地殿の『燃料・弾薬・鋼材・ボーキの集積地』は売上の絶対数も芳しくない上、単価も安く、その上前年比もマイナスだ。これはメニューを考案した集積地殿本人には見せられん」

「ですね。泣いてしまいます」

「ああ。太陽の戦士として、これは秘匿しておく情報だと判断する」

「二水戦旗艦としても、それは正しい判断であると思います」

 

 ……あなたたち、条件付き書式の話をしてるんですよねぇ……?

 

「で、問題はここからなのだが……前年に比べて伸びがプラス20%以上……つまり成長著しいメニューには上向き矢印を……逆に伸びがマイナスのメニューには、警告として下向き矢印を表示させる」

「はい」

「では神通、前年比の項目を選択し、条件付き書式『アイコンセット』の設定を……」

「承知いたしました……」

 

 いつも思うんだけど、2人の授業って無駄に緊迫感が凄いんだよなぁ……なんでExcelの条件付き書式の設定なだけなのに、こんな命のやり取りみたいな凄まじい緊迫感が漂ってるの? それとも、艦娘さんってみんなそんな感じなの?

 

 フと気になって、教室入り口に移動し、事務所の大淀さんを見てみた。……あくびしてる。かと思えば、涙目のまま両手で上品にお茶をすすって、ホッと一息ついた。その様子は、さながら縁側のひだまりで日向ぼっこを亭主と楽しむおばあちゃんのようだ。緩みきってるぞあの人……やっぱ神通さんが変なのか……。

 

 ソラール先輩が見守る中、神通さんは構成比の項目を選択し、『条件付き書式』の『アイコンセット』の項目にポイントしていた。

 

「先生、自分で条件を設定する場合は、『その他のルール』をクリックでしたよね」

「その通り。さすが俺の太陽」

「ありがとうございます」

 

 ……。

 

 ……あ、ソラール先輩がこっちを振り返ってる。

 

「ニヤニヤ」

「カシワギ。なんだその何かいいたげな顔は」

「いやいや先輩、授業を進めなきゃ。ニヤニヤ」

「ンガァアッ!?」

 

 盛大に鎧兜と鎖帷子の音を響かせて、ソラール先輩は椅子から転げ落ち、どちゃりと倒れ伏した。おもしろーい。先輩をからかうっておもしろーい。

 

「先生……ここまで来たのですが……」

 

 自身の太陽、神通さんの悲壮な声をきき、ソラール先輩はむくりと起き上がる。そしていつもの珍妙な歩き方で盾を構えながらのそのそと神通さんに近づき、画面を覗いた。ついでに俺も画面を覗き込んでみる。条件付き書式の設定ウィンドウが開いているが……ここ、ちょっと設定が込み入ってるんだよね。

 

「上出来だ神通。あとは矢印の表示設定だけだな」

「はい。矢印の設定は出来たのですが……その、数値の設定がよく分からなくて……」

 

 条件付き書式『アイコンセット』の設定は、こちらで数値を設定してあげることが可能だ。だがそのためには、数学記号の『>』『<』『=』の意味をしっかり把握しておかなければならず、そこがちょっとしたネックとなる。

 

 今回でいえばプラス20%以上が上向き矢印なのだから、上向き矢印の条件『>=』の部分を『0.2』で、『種類』を『数値』に。逆に下向き矢印の項目は『>=』の部分を『0』にしてあげる必要がある。

 

 さらに今回はひっかけとして、値がパーセントであることに留意しなければならない。見たまんま『20』で設定してしまうと、それは間違いだ。キチンと『0.2』で設定しなければ……

 

「神通、それぞれ種類を『数値』とし、あとは数値の部分に、それぞれの条件となる数値を入力すればいい」

「……それだけでいいのですか?」

 

 え……せ、説明それだけ?

 

「ああ。貴公はどうにも難しく、大げさに考えすぎるきらいがある。確かに数学記号の意味を把握することも重要だが、その前に、数値を入れる項目がそこしかないのだから、まずはそこに、数値をそのまま入力してみればいい」

「なるほど」

「結果がずれていれば、その時に数値を変えればいいのだ。一度間違えたぐらいで、偉大な太陽は我らを見捨てたりはしない」

 

 ……なるほど。確かに数値を入れるところなんてそこしかないわけだから、考えてうんうんうなるぐらいなら、さっさと入力して結果を見てみた方が早い。確かに唸って路頭に迷うよりは、建設的でいいかもしれない。

 

 とはいえ、『大げさに考えすぎるきらいがある』てのは、そのままソラール先輩にも突き刺さる、壮大なブーメランだと思うんだけど……

 

「貴公にも心当たりがあるはずだ。かの強者、オーンスタインとスモウ……あれこれと戦略を張り巡らせるより、黒騎士の斧槍でスモウをゴリゴリと攻撃するほうが、意外とうまくいくことが多いということが」

「なるほど。ルート固定要員を難しく考えるより、大和さんや武蔵さん……大鑑巨砲な人たちで艦隊を揃えたほうが、案外うまく海域を突破する時がある……それと一緒ですね」

 

 ……ほら出た。この、意味不明な二人の比喩。なんだ、この『言いたいことは伝わるけれど、比喩としては確実に間違ってる比喩』は。二人の会話を聞いてて、納得出来たためしがない。たまには聞いてる俺を納得させてくれよ。『さすがはソラール先輩と、その教え子だ!!』て手をポンと叩かせてくださいよ。

 

「ま、そう思ってスモウばっかり攻撃してた結果、俺はオーンスタインに横から散々突っつかれて、人間性が限界に達したけどな。アッハッハッハッ」

「私も同じことをやったら資源がなくなって、提督が口から魂をはみ出させてました」

「おっ。やっぱり神通はおちゃめさんだな!」

「先生もやっぱりおっちょこちょいですね!」

「「アハハハハハハ!!!」」

 

 ……段々頭が痛くなってきた……誰かあの二人を止めてくれ……。

 

「先生!! ねえ先生!!」

 

 いかん。岸田のアホを放置しすぎた……岸田さんを見ると、こっちに向かって手を振り、俺にヘルプを要請していた。はいはい。今行きますよー……俺は小走りで岸田さんの元にかけより、画面を覗く。そこには、本文と同じ書式設定がほどこされた目次が表示されていて、特に問題点はないような気がするが……

 

「どうしました?」

「この目次さ。ページ数が入ってるんだけどさ」

「入ってますね」

「これでもいいんだけど、もうちょっと便利な使い方とかないかな?」

「……紙に印刷しない前提でいいのなら、もうちょっと便利に出来ますよ?」

「そうなの?」

 

 Wordの目次挿入機能では、設定の変更によって、ページ数の表示だけでなく、該当部分へのリンクを追加することが出来る。ページ数の表示は実際に紙に印刷する時にすごく便利だし、データとして残しておくのなら、リンクにしてしまった方が、完成したものの使い勝手はいいはずだ。

 

「ではちょっとやってみましょう。目次を選択して、もう一度『目次ボタン』を押して下さい」

「はいー」

「クリックしたら、下の方に『目次の挿入』て項目がありますから、それをクリックしましょう。

 

 俺に言われるままに、目次のボタンを押して『目次の挿入』をクリックする岸田さん。来た当初と比べると随分と従順になったもんだなぁ……感慨深い気持ちを抱いていると、画面に目次ダイアログが立ち上がった。

 

「おお。ここで細かい設定が色々デキそうだ」

「ええ。でも今回は、ウィンドウの右側を見て下さい。『ページ番号の代わりにハイパーリンクを使う』って項目がありますから、そこにチェックを入れてみましょう」

「これだねー。えいっ」

 

 ……白状する。今の、この岸田さんの『えいっ』て感じのカワイイ言い方、妙にイラッとした。……だからさー。ドヤ顔でこっち見るのはやめてくれって。

 

「チェックを入れたら、そのままOKをクリックしましょう」

「はいよー……。うん。目次が入ったね」

「入ったら、ちょっとそこにマウスを持ってきてみて下さい」

「はいさー」

 

 本当に従順になったな……これもロートレクさんのタイピング・ブート・キャンプのおかげか? 岸田さんは言われたとおりに目次の項目の一つをマウスでポイントした。『Ctrlキーを押しながらクリックでリンク先を表示』というメッセージがぼやっと浮かび上がる。

 

「先生、これは……?」

「コントロールキーを押しながらクリックしてみて下さい」

 

 もはや俺の神経を逆撫でするアホの岸田はどこへやら……俺の言葉に対してすっかり従順になった岸田さんは、俺に言われるままにコントロールキーを押しながら、目次の項目をクリックした。Wordの画面が切り替わり、クリックした項目の見出しの部分が先頭に表示される。

 

「ぉおっ!?」

「こんな風に、目次の項目をクリックしたら、本文中のその見出しがあるところまで勝手に表示を切り替えてくれるようになるんですよ」

「へぇぇええええええええ!!」

 

 しかもこの機能の便利なところって、この文書をpdfに変換しても、キチンとそのリンクを保持してくれるところなんだよね。

 

「だから、例えばこれを電子書籍として配布する時に、このリンク付き目次を作成しておけば、わざわざページをめくらなくても、そのページにジャンプしてくれるようになるんです」

「これはイイ……」

「小説を書いてるのなら、pdfの形で電子書籍として配布する可能性もあるはずです。その時にこうやって作れば、少なくとも利用者にとって優しい電子書籍になるんじゃないかなと。本来の電子書籍がどういうものなのかは分かりませんが……」

「いや、こういうのを知りたかった。これは作る側としては便利な機能だと思うよ……!」

 

 リンク付の目次の完成がよほど嬉しかったのか、岸田さんはほくほく顔で目次をクリックしては該当部分へのジャンプを繰り返している。ホントにこれが電子書籍の作成の役に立つのかどうかは知らないが、本人が喜んでくれるという事実は、何より嬉しい。

 

 動作確認をしたいのか、岸田さんは自作小説『殉教者の魔弾』をpdfとしてエクスポートし始めた。

 

「ほんほ~ん……ふふんふん~♪」

 

 汚らしい鼻歌が聞こえているが、あえてそこは突っ込まずに見守ってやろう。本人が上機嫌なことと、鼻歌がダーティーこの上ないことは無関係だ。

 

「燃料・弾薬・鋼材・ボーキの集積地もキチンと下向き矢印……出来ました……先生、出来ました!!」

「よし! さすがだ神通! 貴公も、太陽のようにでっかく、熱くなったな!!」

「そんな……先生の、太陽のように熱く、粘り強い指導のおかげです!!」

「神通……俺だけの太陽……」

「先生……いや、提督……私の……私だけの提督……!!」

 

 あの2人の方から、そんな聞き捨てならない声が聞こえてくる。はいそこー。まだ昼間ですし俺たち部外者もいるんですよー。臆面もなく自分たちだけのあったかい太陽艦隊戦ワールドを展開しないでくださいねー。見ますよー。俺と岸田さん、ガン見しちゃいますよー。

 

 そもそもさー……2人だけのすんごくロマンチックな時間のはずなのに、言ってることがなんかおかしい気がするんだけど……

 

――俺だけの太陽……

 

――私だけの提督……

 

 いや、ソラール先輩にとって太陽ってのが特別な意味を持ってるのも分かるし、以前に川内が『提督は艦娘みんなのあこがれ』て言ってたし、2人にとって、それが最大限の賛辞で、愛情の意思表示だというのは分かってますよ? でもさー……なんかこう、釈然としない。臆面もなくこんなところで意思表示しあってるからか?

 

「先生、出来たよ」

 

 不意に岸田さんに声をかけられたので、慌てて画面を覗いてみる。Wordのウィンドウとは別にpdf閲覧ソフトが立ち上がっていて、そこには、先程岸田さんがpdfとして出力したと思われる、作:岸田さんの小説『殉教者の魔弾』の一節が表示されていた。

 

「おお、pdfにしたんですね。動作確認ですか?」

「いや、これはぜひ、先生に読んでもらおうと思って」

 

 ……ほわっつ?

 

「えーとすみません……今、何と?」

「だから先生に、俺の話を読んでほしくて!!」

 

 そう言って岸田さんがちょんちょんと指差す画面には、総ページ数183ページ、文字数にして16万字もの表示が、すみっこで小さく、しかしギラギラと激しい自己主張をしていた。

 

「え、えーと……あ、ありがとう……ございます……」

「読んだら感想を聞かせてくれ! あ、もちろん直接じゃなくて、掲載サイトで!!」

 

 ……いや、そこは直接本人に伝えるのはいかんのか? とはいえ、俺に自分の作品のデータを進呈しようとする程度には、俺のことも受け入れてくれたようだ。その点は素直にうれしい。

 

「ところで先生」

「はい?」

「これだけ色々と紹介してくれて、本当に感謝してる」

「はぁ」

 

 唐突に真顔になり、突然こんなしおらしいことを行ってくる岸田さんに、俺は違和感を覚えた。どうした岸田さん。今日のあなたはやたらと素直で従順じゃないか。いつものように隙あらば毒を吐いてきてくださいよ。こっちの覚悟が無駄になるじゃないですか。こっちは毎回臨戦態勢で臨んでいるというのに。

 

 その後、岸田さん本人に言葉の真意を聞いてみたのだが……なんと岸田さん、ある程度Wordを習ったところで、さくっと教室をやめるつもりだったそうだ。自分が知りたいことを教われば、あとはもう教室なんて用なし。なんなら今年いっぱいでやめてしまっても構わない。そう思っていたらしいのだが……

 

 ここに来て、『pdfでの電子書籍の作り方』という、新たな可能性を見出したらしい。それを無駄にせず、ゆくゆくは自分のwebサイトで自分の作品の電子書籍をpdfの形で配布出来れば……そう思ったそうだ。

 

 電子書籍にも色々な形式はあるが、pdfの電子書籍も、決して需要がないわけではない。

 

 そして、それを制作するのに、お手軽度を優先するなら、Wordはそう悪くない選択肢といえるはずだ。Wordであればある程度自由に本の装丁をいじることが出来るし、なにより、使い慣れたソフトで作成することが出来るというメリットもある。

 

 俺は以前に電子書籍作成ソフトを使って実際に電子書籍を作成してみたことがあるが……結局意味が分からず、満足いくものは出来なかった。Wordなら、その辺が直感的にわかりやすい。いつものように文書を作成し、最後にpdfの形式で保存してしまえば、それが電子書籍となるわけだ。

 

 それは岸田さんも考えたらしく、そのためにも、もっとWordの機能を色々と知った方がいい……岸田さんはそう判断したそうだ。画像の挿入方法を知れば、挿絵を追加することも出来る。段組みの方法を覚えれば、1ページに、よりたくさんの文章を書き込むことも出来る。縦書きだってできるし、ページの色を黒い色に変更すれば、暗闇でも目に負担をかけることのない、読みやすい電子書籍に出来るはずだ。

 

「だから先生、これからもよろしく!」

「はぁ……よろしく」

「そのためにも、一度俺の話を読んでみて下さい!!」

「し、承知しました……」

 

 『自分の作品を電子書籍にする』というモチベーションがあるのなら、きっと長続きもするだろう。岸田さん、改めてよろしくお願いいたします。

 

「この作品はね! 主人公とヒロインの関係が……」

「あーはいはい……読みます。読みますからネタバレしないで……」

「ヒロインのウザかわいさに力を入れてみて……」

「それホントにカワイイんですか……?」

 

 小説なんて普段はほとんど読まないが……岸田さんからの感謝の印と受け取って、今回はちょっと読んでみようか。授業が終わった後、おれは岸田さん作の『殉教者の魔弾』のpdfを、自分のスマホに移動させておいた。

 




Word
タイトルや見出しのスタイル設定をしていると、
目次を簡単に作成できます。

1.『参考資料』タブをクリック
2.『目次』ボタンをクリック
3.『目次を挿入』をクリック
4.『ページ番号の代わりにハイパーリンクを使う』をクリック
5.『OK』をクリック

4番はスルーしても可ですが、pdfにする場合は入れておいたほうが融通が効きます。


Excel
条件付き書式を使うと、特定条件に合うセルの書式を変更できます。
『ホーム』タブの『条件付き書式』に色々なものがあるので、
色々と設定してみて下さい。

今回神通が作成した『Pizza集積地・商品別売上一覧』

【挿絵表示】



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「それでは良いお年を」

「カシワギ、また来年に会おう!!」

 

 今年の業務のすべてを終えた大淀さんとソラールさんが、教室を後にした。残されたのは俺一人。俺にはこの後、今年最後の大仕事が待っている。まさか今年の仕事納めを、あんな賑やかなヤツと共に過ごすことになろうとは……ここに来る前は、思ってもみないことだった。

 

 川内がやってくるまではまだ時間がある。俺は、昼間にソラール先輩の指導の元、神通さんが作成した『Pizza集積地 商品別売上集計表』のExcelファイルを開いてみた。本当はAccessを進めなきゃいかんのだけど……誰しも、腰が重い時ってあるよね。

 

「おお……がんばったな神通さん」

 

 『Pizza集積地 商品別売上集計表』はしっかりと完成していた。俺が見学していた時に苦戦していた、前年比のところの条件付き書式はもちろんのこと、月別で一番売れたメニューの強調表示。そして月別の売上の縦棒グラフと、売上構成比の円グラフ……きっかりと文句なく仕上がっている。

 

 改ページも問題ない。キチッと表とグラフの境目で次のページに切り替わるように設定されているし、その印刷区域もきちんと紙の中央に配置されている。ヘッダーとフッターにもページ数と印刷する日付、そしてページ数が入っていてバッチリだ。

 

『神通……俺だけの太陽……!』

『先生……いや、提督……私の……私だけの提督……!!』

 

 ああやって、ただ二人で異世界ランデブーしていたわけではなかったのか……ピンク色の空気を展開して遊んでいただけではなく、やることはきちんとやる……恐るべしソラール先輩。伊達にヘンタイ太陽戦士なわけではない……。

 

 だけど、思えばあの人にも世話になった。

 

 あの人を初めて見た時の衝撃は今も忘れない。なんせ教室に入ったら、二人のおじいちゃんと一緒に、胸に太陽のイラストを備えたコスプレ野郎がいたわけだから。しかもそのコスプレ野郎は、授業中は妙な歩き方で教室内をうろうろと歩き回るし、突然意味もなく前転しては、背中から着地して『ガチャドチャリ』とか音立てるし……正直、あの非常識さは治したほうがいいんじゃないか……と今でもよく思う。あの姿に慣れてしまって、もうこの教室の名物のような気がしてきている今でさえ。

 

 でも、あの人の仕事にかける情熱は本物だし……何より、俺は大切なことをたくさんあの人から教わった。どんな話でも強引に太陽に結びつけていくあの話し方は玉にキズだが……あの人に対しては、ドン引きと同じぐらい、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

 と妙にしおらしい気持ちを胸に抱く。きっと今日が、今年最後の勤務日だからだ。今年一年の……というより、この教室で働き始めてから今日までのことを、つい思い出してしまう。やはり最終日ともなると、普段とは気分的に違うものなのだろうか。

 

 時計を見る。午後7時5分前。いつもどおりなら、奴がそろそろやってくるはずなのだが……

 

「……!?」

 

 ……フと、教室内の温度が下がった気がした。温度計を見る。室温は23度。決して低い温度ではない。だか、体感では2度ほど室温が下がったような……そんな感覚を覚える。

 

「……何事だッ!?」

 

 コレは異常事態……まさか……奴が来たのか! ヤツを取り巻くヘンタイ夜戦バカの殺気が、ヤツを待つこの俺の皮膚に寒さをもたらしているというのか……ッ!?

 

 立ち上がり、入り口ドアのドアノブを見る。異常は……ない。ノブが回された形跡もなければ、ガチャガチャと向こうから触れられている感覚もない……強いて言えば、あの夜戦バカの殺気が、ドアの隙間からドライアイスのようなもくもくとした煙状となって室内に侵入してきているぐらいか。だが。

 

「……静か過ぎる……ッ!?」

 

 そう。静か過ぎる。室温が下がり殺気が侵入しているというのに……ヤツは必ず近くにいるはずなのに、静か過ぎる……奴は……川内は一体何をたくらんでい

 

「わッ!!!」

「ひゃぁあんっ!!?」

 

 背後からの突然の大声。無防備の俺の鼓膜に容赦なく届く不意打ちの衝撃……俺の肝が無意識に反応し、脊髄反射で情けない悲鳴を上げた。腰が砕け、両足がへなっとしなり、俺は腰からガクンとその場に崩れ落ちてしまった。

 

「あひゃひゃひゃひゃ!! 相変わらずせんせーの悲鳴が情けないっ!!」

 

 苦労して振り返った俺の背後には、腹を抱えて涙目で可笑しそうに笑う、夜戦バカの川内の姿があった。ドアは閉じているというのに、一体どこから入ってきたのか!?

 

「お、お前……ッ!!」

「ん? なにー?」

「どこから入ってきた!? ドア開いてないぞ?」

「デュフっ……あっち!」

 

 まるでネオンいっぱいのブロードウェイの夜景のような眩しい笑顔を見せつけながら、川内は自分の後ろを振り返って、教室の窓をビシッと指差した。指差した先を視線で追っていくと、教室の窓が一箇所、開いていた。

 

「窓から侵入したのかッ!?」

「いや、今年最後だから、せんせーをびっくりさせたいなぁと思って!」

「意味が分からんっ! そもそもちゃんとドアから入ってこいって!」

「えー。だってそれじゃせんせーをびっくりさせられないじゃん」

「びっくりさせなくていいんだよっ」

「夜戦だよ? 相手をびっくりさせるのは夜戦の基本だよ? “兵は詭道なり”だっけ?」

「意味違う。絶対に意味違うっ。第一、夜戦じゃないし勝ち負けなんてないんだよっ!! いいから早く窓閉めてこいって寒いんだからっ!!」

「ちぇー。ぶーぶー!!」

 

 口をとんがらせブーブーとブーイングをかましながら、自分が侵入した窓を閉じに行く川内。そっか……急に寒くなったのは、あいつが窓を開けたからか……しかしどうしよう……腰が抜けて立てない。

 

「ちぇ〜……これじゃ夜戦に勝てな……って、どうしたの?」

 

 未だに腰が抜けて立てない俺を見て、窓を閉じて戻ってきた川内が俺を見下ろす。きょとんとした眼差しが妙に綺麗で、それがまた俺の神経を逆なでしてくる。

 

「川内、手」

「ん? て?」

「手!」

「私のカシワギせんせーは甘えん坊さんだなぁ」

「誰のせいだよ侵入者のくせにッ!!」

 

 くっそ……俺が腰が抜けて立てないのをいいことに、俺の頭を優しくなでなでしてきやがる……腹立つなーこいつ。Hello Worldの喜びを思い出させてくれた恩は感じているが、今日のこいつはやることなす事、いちいちムカついてくる……ッ!!

 

 ムカつく笑顔と共に差し出された川内の手を借りて、俺はなんとか立ち上がった。まだ腰がちょっとガクガクしてるが、しばらく安静にしていれば元に戻るはずだ。腰が砕け落ちてしまわないよう細心の注意を払い、俺は川内を教室へと案内した。

 

「せんせーの腰、つっついていい?」

「やったら『侵入者よッ!? 侵入者に襲われているわッ!?』て大騒ぎするからな」

「ひどっ」

 

 川内をいつもの席に座らせ、俺はその隣に座る。さっき川内がいたずらの為に窓を開け放っていたせいで、教室内は若干寒い。だが川内はそんなことまったく意にも介さないようで、まさに精一杯立ち上がってる最中のPCのモニターを、相変わらずのブロードウェイスマイルで瞳をキラキラと輝かせながら凝視していた。

 

 こいつとも、もうそこそこ長い付き合いになるけれど、結局何も変わらないままだなぁ……初めての授業のときから何も変わらない、あの時の、賑やかでうるさくて、夜戦にばかり気が行く、夜戦バカのままだ。自分の席のパソコンにも電源を入れた後、うるさいほどに眩しく笑う川内の横顔を眺めながら、俺はそんなことを考えてしまう。

 

「……あ、そうだせんせー」

「ん?」

「今日は予定を変更したいんだ」

「お? なんか作りたいものでもあるのか?」

「うん」

 

 自分の足元のメッセンジャーバッグを開き、川内はその中にもぞもぞと手を突っ込んで、一冊のファイルを取り出した。そのファイルを開き、中身を見せてくれたのだが……中にはたくさんの人の住所氏名、そして電話番号が記載されてある。

 

「今年はもう年賀状書いちゃったけど、確かWordでも年賀状作れるよね?」

「作れるな」

「んで、先に住所のリストを作っとけば、それを読み込んでWordで相手の住所の印刷出来るんでしょ?」

 

 んー? 差し込み印刷のこと言ってるのか? 確かにExcelかWordのどちらかで住所録を作っておけば、それを読み込んではがき印刷に反映させることが可能だが……。

 

「まぁ、出来るな」

「だったらさ。今日のうちに住所録を作って、それを来年の年賀状とか暑中お見舞いとか、夜戦お見舞いとかに使えるかなーと思って」

「一つだけ妙なものが混じってた気がするけど、確かに一回作っちゃえば来年以降使い回しが出来るから楽だな」

「うん。だから今日は住所録作ってもいいかな」

 

 なるほど。住所録の作成に集中してくれるのなら、俺もAccessのフォーム作成に集中できる。それに、WordじゃなくてExcelで住所録を作らせれば、川内にとってもいい気分転換になるかもしれん。そろそろWordだけじゃなくてExcelの使い方を学ぶことも視野に入れていいだろうし。

 

「わかった。んじゃ今日は、WordじゃなくてExcelで住所録を作るか」

「おっ。さすがせんせ! 物分りがいい!!」

「そこはフレキシブルって言わないと、ただの悪口になるから注意な? んじゃ、Excelを立ち上げてみてくれー」

「はーい」

 

 俺の忠告が川内の心に響いたのかどうなのかはよく分からんが……こいつはいつものようにスタートボタンを押してタイルを表示させ、WordのタイルのそばにあるExcelのタイルをクリックした。

 

「……なんか変な感じ」

「なんでだ?」

「いっつも青色のタイルをクリックしてるからさ。緑のタイルをクリックってのがどうにも……」

「まぁなぁ」

 

 ほどなくして立ち上がるExcel。川内はExcelのウィンドウを最大化し、画面いっぱいに表示させた。画面いっぱいのマス目に圧倒されたのか、急に不安げな顔でこっちを見つめはじめる川内。だから、そういう普通っぽい反応するの、やめろって……。

 

「せんせ〜……よく考えたら私、Excelの使い方わかんない……」

「そういや、Excelなんて全然触ったこと無いもんなお前……」

「うん……どうしよ……」

 

 仕方ない……今からExcelの使い方を覚えていたら出来るものもできなくなる……

 

「川内、ちょっと席代われ」

「うん?」

「俺が簡単にフォーマット作るから。ちょっと代われ」

「いいけど、フォーマットって?」

「大元。いいからちょっと代わってみ」

 

 川内が頭に大きなはてなマークを浮かべながら席を立つ。俺が川内の席に座ると、こいつは俺が座ってた席には座らず……

 

「お?」

「ん?」

 

 俺の席の背後に立ち、俺の両肩に両手を置きやがった。『座れよ』と文句を言おうとも思ったが、こいつの手の感触が、じんわりと心地よい。

 

「……まいっか」

 

 川内の笑顔に背後から見守られる中、おれはちゃっちゃとフォーマットを作成していく。名前、よみがな、郵便番号、住所、電話番号、メールアドレスの項目を作り、それぞれに入力規則を設定してやった。よみがなの部分は関数を利用し、名前のフィールドに漢字で名前を入力すれば、自動でよみがなが入るように設定しておく。こいつが少しでも、早く正確に、そして楽に住所録を作成出来るように……

 

 その間、川内はじっと黙って俺の操作を見ていた。何か感じるところがあったのか、時々俺の肩をつかむ手に力が入っていた。本音を言うと、ちょっとこり気味だったから、そのまま肩を揉みほぐしてくれても良かったのだが……そんなことを言おうものなら、セクハラオヤジに転落してしまう気がして、すんでのところで口走るのを我慢した。

 

 数分の俺の奮闘の後、完成した住所録フォーマット。念の為俺は、出来上がったフォーマットを川内の保存フォルダに保存しておく。あとは完成したときに上書き保存さえしておけば、これが消えることはない。

 

「うっし。元は作った。だからあとは、お前が自分で住所と名前と電話番号を入れていけ」

「ホントに?」

「色々と小技も使っておいた。これなら入力もだいぶ楽になるはずだ」

「ありがと!」

 

 俺は席をたつが、川内は俺の肩から手を離さない。わざわざ俺の右隣に来て、俺の右肩から手を離さずに、嬉しそうに俺を見上げていた。

 

「うわー……改めてこうやってみると、せんせーおっきいねぇ」

「そか?」

「うん」

 

 いや、そんなに背が高い方じゃないけどな俺……背が俺の首筋より少し上ぐらいしかない、川内の方が背が低いんじゃないかと思うんだが……俺は川内が肩から手を放すのを確認した後、隣の自分の席に戻る。OSはすでに立ち上がっていて、スタンバイOKの状態だ。

 

「なぁ川内?」

「うん?」

 

 川内はちょうど自分の席に座り、今まさに入力を始めようとしているところだった。見慣れたWordじゃなくてマス目模様にExcelだというところに不安を感じているのか、その表情は、珍しく若干引きつっている。気にせずガンガン打てばいいのに。こいつも緊張することなんてあるんだなぁ……。

 

 自分のOSが立ち上がってることを確認した後、Accessのタイルを探してダブルクリックする。画面に表示されるAccess立ち上げ中のアニメーションを無視し、俺は隣の川内を振り返った。今日のうちにフォームだけでも作っておかないと……

 

「この前『夜戦しますか?』てやつ、俺やってたろ?」

「ぁあ、あれ? 楽しかったよねー」

「俺は今日もあれをやらにゃいかん。分からないところは聞いてくれて構わないから、おれも作業を進めてもいいか?」

「いいよ。でも分からないところはちゃんと教えてね?」

「おう」

「生返事しないでね」

「おーいえー」

 

 ……お、ちょっと緊張がほぐれたか。川内の表情がすこーし柔らかくなった。

 

 俺はそのままAccessを立ち上げ、作成途中の業務基幹ソフトを開いた。なんとか今日中に生徒情報閲覧フォームだけでも作っておかないと……

 

「ねーねーせんせー」

「んー?」

「入力の仕方がわかんない」

 

 ……あ、そういえばExcel初体験なんだっけ。Wordとは少々勝手が違うし、そらちょっと戸惑うな。うかつだった……。川内の画面を覗き見た。一人目の名前の項目がアクティブセルになっている。

 

「緑の枠に囲まれてるマス目があるだろ?」

「うん」

「キーボードで文字を打ったらそこに入力されるんだ。打ってみ」

「はーい……お、入った」

「入力が終わったら、タブキーを押してみな。緑の枠が右に動く」

「ぉお。ホントだ」

「それで1マス1マス、ゆっくり打っていけ。慣れてきたら、スピードを上げるんだ」

「はーい」

 

 これでよし……隣の川内のキーボードから、少しずつ軽快な音が鳴り始めた。川内自身は……よし。いつもの顔で画面をジッと見つめはじめたな。作業に没頭しはじめた時の顔だ。これなら、俺はAccessに専念出来る。

 

 俺はそのまま、自分の画面へと視線を移した。Accessはすでに準備万端。作成中のデータベースを開き、俺は作業に入る。テーブルを開くと、中にはすでに既存のデータベースから移植したデータが表示されている。あとはこれを元にフォームを作成すればいいわけだ。よーしよーし……

 

「ねーせんせ?」

「んー?」

「タブキー押して右に移動してたんだけど、最後のマスのとこでもタブキー押すの?」

「エンターキー押してみ」

「はーい……おおっ。次の行の一番最初に戻った!!」

「んー」

 

 川内の方から再びカタカタというキーボードの音が鳴り始めた。よしよし。川内の作業は順調。俺はそのまま川内の方を確認せず、自分の作業に戻ることにする。

 

 Accessにはフォームを自動で作成してくれるフォームウィザードがある。既存のテーブルかクエリを選択すれば、それを元にAccessが最適なフォームをデザインしてくれるというわけだ。なら、今回はそれでフォームの大まかな形を作って、それを元にして形を仕上げていくか。

 

 俺は素早くフォーム作成ウィザードを立ち上げ、必要な設定を済ませていく。ところどころ意味がよくわからないが、そんなところはとりあえず適当に進めればいい。うまくいかなければ、また一から作り直せばいいわけだ。こんな時は、迷わずに進める。結果を見て、まずければ修正。その精神が大事だ。

 

「ねーせんせー」

「んー?」

「せんせーの家の住所も入れていい?」

「んー」

「ありがとー」

 

 川内の軽快なタイピングの音が鳴り響く。ウィザードで出来上がったフォームは……備考欄がない。失敗か。ならばもう一度。俺は出来上がったフォームを削除し、再度フォーム作成ウィザードを立ち上げ、もう一度フォームを作成し直すことにした。きっとフィールドの選択を間違えたんだ。どうせあとで調整するんだし、ケチらず全部表示させてやる……

 

「ねーせんせー?」

「んー?」

「大変そうだね。難しい?」

「んー」

 

 ……よし出来た。いい子だ。フィールド全部のせフォームの完成だ。これをいじり倒して、フォームを完成させる。IDの項目は表示させといたほうがいいけれど、編集は出来ない状態にしておいた方がいいだろう。編集禁止にしておくか……。ID表示のテキストフォームのプロパティを表示させ、編集可否の部分を編集禁止に設定した。

 

「ねーねーせんせー」

「んー?」

「せんせーってさ。彼女いないんだっけ」

「んー」

 

 フォームを上半分と下半分に分けて……上半分は生徒情報、下半分は該当する生徒の受講状況を一覧リストにしとけばいいか……。各カラムのテキストフォームの大きさと位置を調整しつつ、画面上半分のレイアウトを整えていく。とりあえず上半分のレイアウトをアバウトに仕上げて……

 

「ねーねーせんせー」

「んー?」

「彼女いないんならさ。私が彼女になったげよっか」

「んー」

 

 備考欄ってちょっと広めに取っておいたほうがいいよな……上半分の右半分ぐらいを備考欄に割り当てておこうか。これならある程度長い文章が書かれていても、一目で確認が出来るだろう。あと左半分は生徒の情報を載せておけばいい。備考欄のテキストフォームの領域を広げ、それで右半分を埋める。これならある程度長い文章でも確認がし易いはずだ。

 

「せんせー」

「んー?」

「せんせーが好きなきなこのおはぎ、また作ってあげるねー」

「んー」

「鍋焼きうどんも作ってあげるねー。今度は海老天ちゃんと乗せるねー」

「んー」

「だからちゃんと、私と夜戦してねー?」

「んー」

 

 ……しまった。メールアドレスのカラムを作成することを忘れていた……今の業務基幹ソフトだと生徒さんのメールアドレスなんてカラム作ってないから……今ならまだ間に合う。今の内にちゃっちゃと作っておこう。テーブル編集画面に切り替え、生徒情報テーブルに、新しくメールアドレスのカラムを追加する。データの型は……とりあえず文字列型でいいか。

 

「カシワギせんせー」

「んー?」

「好きだよー?」

「んー」

 

 よし追加完了。あとはわけわかんなくなりそうだから、もう一度フォームウィザードでフォームをさくせ……ん? ちょっと待て。

 

「川内」

「ん?」

 

 俺は作業の手を止め、いつの間にかキーボードの音が鳴り止んでいる、川内の方に視線を移した。

 

「お前……今、なんて言った?」

 

 すんごいべっぴんな女の子が、こっちをジッと見て笑っていた。そいつはキラッキラに瞳を輝かせ、嬉しそうに思いっきり口角を上げていて、眩しい光でおれの目にダメージを与えてきていた。でもちょっとほっぺたを赤くしてて、それが俺の胸の辺りをつんつんと突っついてきて、恥ずかしいようなうれしいような、妙な感覚を覚える。

 

「にひっ」

 

 記憶を懸命に辿る。えーと……確か住所を入力していいか聞かれて……難しいか聞かれて……えーと……彼女がいるかどうか聞かれて……そしてそのあと……

 

 ……あ。

 

 俺は記憶の糸を必死にたどり、やっと答えを見つけ出すその間中ずっと、俺の隣にいる新しい彼女さんは、いつもの眩しい……でもハラタツ笑顔で、俺の方をジッと見つめていた。

 

 ……分かった。こいつ、わざとだ。俺が作業に没頭したら生返事しか出来ないことが分かってて、あえてそれを狙ったのか。

 

「せんせ!」

「お、おう」

「これからよろしく!」

「よ、よろしく……」

「とりあえず、住所録作っちゃうね!」

「お、おう」

 

 川内は俺に改めての挨拶を交わし、ほっぺたを赤く染めたまま、再び自分の作業に戻った。俺はというと、なんだか頭が混乱して、ぼけーと川内の横顔を眺めることしか出来ない。突然の告白……そしてフォームを作らなければならないという義務感……目の前にいるのは新しい彼女さん……しかもすんごいべっぴんさん……でもすんごい残念な夜戦バカ……いろんなことがごっちゃになって、頭の中が、目の前の川内の笑顔でいっぱいになって、なんだかもう色々と手につかない状況だ。

 

「せんせ?」

「ん、んお?」

「それ、続きやらなくていいの?」

「あ、ああ。そうね」

「ぷっ……しっかりしてよせんせー。私の新しい彼氏さんなんだから」

「す、すまん」

 

 川内にそう促され、慌ててAccessの画面に戻る。フォームウィザードが途中で止まってる。えーと……これを再開して、新しくまたフォーム作ればいいんだよな……えーと……

 

「♪〜……♪〜……」

 

 俺の隣から、あの鼻歌が聞こえてきた。俺の家の台所で聞いた、あの、妙に心が安らぐ鼻歌だ。

 

 川内にバレないよう、こっそりと横顔を見る。俺の隣で川内が、楽しそうに笑顔を浮かべ、住所録にデータを入力していた。

 

「……」

「♪〜……♪〜……」

 

 前を向き、そのまま一度、目を閉じる。川内の鼻歌のおかげなのか、不思議と少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

 

「……うっし」

「♪〜……♪〜……」

 

 落ち着いて、改めてフォームウィザードを見る。もう一度フィールドを選択しなおし、フォームを作成する……よし。出来た。

 

「♪〜……♪〜……」

「♪〜……♪〜……」

 

 気がついた時、俺も自然と、この間抜けな鼻歌を歌っていた。教室内に響く、二人の鼻歌。いつものような大騒ぎもないし、この前みたいなアクシデントもない。川内といっしょにいるはずなのに、とても静かで、それでいて楽しい時間。

 

 こんな時間が過ごせるのなら、二人でいるのも悪くない。最終日に新しい生活が始まるというのも妙な話だが……

 

 そんな具合で、俺は一人で小さな幸せを噛み締めていたのだが……やはり、俺の隣にいるのは夜戦バカだった。次の川内のセリフを聞いて、俺は、こいつとの生活は、さぞうるさくて、振り回されて、苦労の絶えない……それでいて、この上なく楽しくて、賑やかで、笑顔の絶えない日々になるだろうという、確信が持てた。

 

「ところでせんせ。今晩の夜戦はどうする?」

「どうする? ってなんだよ? つーか早速ですかい……」

「私は改装済み20センチ連装砲2つと探照灯でいくけど」

「そっちか!? 俺を肉片にするつもりかッ!?」

「本気で撃沈するから覚悟してね!!」

「おにぎりはどうした!? 前はおにぎりで行くって言ってたよな!?」

「えー! だってせんせーは私の彼氏さんなんだから、手加減無しでいいじゃん!!」

「殺すなッ! 自分の彼氏を殺すなッ!!」

「いいから夜戦ッ!! やーせーんんんんんんん!!!」

「ぉぁぁあああああ!!! うるさいぞ川内ぃぃいいいい!?」

 

おわり。

 



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