ワールドブレイク・ザ・ブラッド (マハニャー)
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0 序章 ―Intro―

 どうも、血塗れメアリの侍従長です。
 この作品から読んでくださった方は初めまして。

 あらすじの通り、古城君にフラがとシュウ・サウラの前世が二つあるという設定です。
 なにその最強、って感じですが、物語序盤の古城君は、二巻の時点での諸葉君と同じくらいの記憶を取り戻してます。

 二話目の投稿には、まあまあ時間が空きますが、よろしくお願いします。



12月26日
 大幅に編集させていただきました。割かし重要なので、これからも読んでいただける方は、暇な時にでもどうぞー。


 暁古城《あかつきこじょう》は、不思議な夢を見ていた。

 

 

 

 夢の中の古城は、たった一人で戦場に立っていた。

 獣じみた戦場の怒号。鼻を衝く鉄錆の如き匂い。口中に吹き込む砂塵の渇いた味。干からびた大地を染める一面の鮮血。

 それらすべてが渾然一体となって古城を取り巻く中、古城は無心に剣を振るっていた。

 宝剣と謳われた、鏡のように美しい刀身が、今はこの大地同様、地の真紅に染まり果てる。

 戦場にあって一人。孤軍奮闘、四面楚歌、一騎当千。

 

 身に付けた鎧はなく、ただ白い太陽の如き闘気を全身に纏う。

 神へと通じる超常の力、通力(プラーナ)。その輝きが古城に超人的な武勇を可能とさせる。

 ただしあくまで自然体。

 まるで「ただ敵を斬る」ためだけに特化して生まれた、化物のように。

 

 そうして、どれほどの殺戮を経たか――

 やがて、戦場に立っているのは、古城一人となった。

 他は山と積まれた屍が残るのみ。

 数多の敵を討ち取り、ただ一人の勝者となった古城だが、その表情に勝利の喜悦はない。

 立っているのも辛い、満身創痍。しかし古城は、足を引き摺るようにして帰路に就く。

 その先に、己がいちばん欲したものがあると、分かっているから。

 

「フラガ! フラガ兄様!」

「戦場にフラフラ一人で来るなと言っていただろう、サラシャ」

 

 目の前で涙を流す、何よりも、世界よりも大切な少女(サラシャ)

 そんな少女に、古城(フラガ)は、やっと心からの笑みを浮かべた。

 

 

 

 ――ここまで来て、舞台は入れ替わった。

 

 

 

 窓の外では、吹雪が荒れ狂っている。

 ここでは一年中、空が晴れる日はない。

 あたかも、永劫に閉ざされた極寒地獄の如く。

 そんな不毛の土地に、古城の居城はあった。

 石造りの部屋を深々と冷気が蝕む。この冷気の中では暖炉の火すら意味を為さず、絨毯すら石床と変わらない。

 そんな部屋が、古城の執務室だった。

 

 小鳥のさえずりなど望むべくもなく、虚ろに鳴り響く吹雪の音を聞く。吐く息はもう真っ白だ。

 棺桶のように冷え切った執務椅子に腰かけていた古城は、やがてふと立ち上がり、凍えた窓に近づいた。

 その途中で、まるで甘えるように古城の足に一匹の黒い犬のようなモノ(・・・・・・・・・)が額を擦り寄せた。

 

「……お前も寒いか? ルズガズリンケン」

 

 低い声でそう呟き、ひょいとそれを抱き上げる。

 頭のようになった部分をそっと撫でてやると、すぐに上機嫌になった。

 

「私も寒いわ――」

 

 足元から、女の声がした。

 蜜のように甘ったるく、羽毛のように耳元をくすぐる、艶めいた声。

 古城の体にしなだれかかるようして立っていた、長い黒髪の女のものだった。

 凍え、震えているのが、密着している体から伝わってくる。

 

「ねえ、私のことも暖めて? ――シュウ・サウラ」

「……変わらないな、お前も。冥府の魔女よ」

 

 一度ルズガズリンケンを下に降ろし、古城は正面から女――冥府の魔女を胸に抱いた。

 そして、その全身から、闇よりなお昏い漆黒の波動を放つ。

 世界の法則に干渉し、物理法則を捻じ曲げる魔性の力、魔力(マーナ)。その闇が、古城に悪魔的な神秘を可能にさせる。

 古城(シュウ・サウラ)は淡く微笑み、右手の人差し指を正面に向けて、囁いた。

 

「綴る――」

 

 

 

 夢は、そこで終わりを告げた。

 

 

 

§

 

 

 

 そこは、どこかの神殿のような場所だった。

 白亜の床に石柱が幾本も突き立てられ、円形の天井に嵌めこまれたステンドグラスから射し込む光が幻想的な美しさを演出する、『神』を祀る祭壇。

 その美しさは何も、この神殿に限っただけのものではなかった。

 立ち並ぶ石柱の隙間から見える向こう側には――宇宙が広がっていた(・・・・・・・・・)

 どこまでも続く漆黒の闇の中、ある者は控えめに、ある者は激しく、輝き続ける色とりどりの星々。

 それらはまるで人の営みのように、新しく生まれてはやがて消え去って行く。

 

 祭壇の中央に佇む少女は、何も言わずに外の様子をただ眺めていた。

 夢の中の古城はその少女にゆっくりと近付く。

 純白の神官衣に身を包んだ、新雪のような色合いの長い髪を持つ人ならざるほどの美貌の少女は、隣に立つ古城にチラリと視線を寄越し、再び顔の向きを戻した。

 夢の中の古城はポツリと独り言のように呟いた。

 

「……綺麗だな」

「ええ、本当に」

 

 クスリと笑声を零し、少女は古城に向き直る。

 

「どうですか? ルシフェル。これが、あなたに見せたかった景色です」

「なかなか、言葉が出てこないよ。今まで、こんな景色は見たことがなかったからな。以前の大雪山の頂上で見た星空もこれほどではなかった。何より……」

「?」

「こんな景色を、ガブリエル。君と見ることが出来て良かったと思うよ」

「……ふふっ。はい。私も、こうしてあなたと並んでこの景色を眺めるのを楽しみにしていました」

 

 古城(ルシフェル)とガブリエルと呼ばれた少女は微笑み合い、どちらからともなくその手を取り合った。

 二人はそのまま視線を戻し、無言で目の前の景色に見入った。

 

「ルシフェル」

「ん?」

「叶うのならば、ずっと、このまま二人で、永遠に……」

「ああ……俺もだよ。ずっと、君と一緒に……」

 

 静かに呟き顔を横に向けると、青く澄み渡った瞳がこちらを見つめ返してきた。

 その瞳の端に溜まった雫を、ルシフェル(古城)はそっと親指で拭う。

 

「俺は、君と出会うために、ここまで辿り着いた。君と共に生きるためなら、俺は何だってしてやる」

「……神に誓って?」

「何にだって誓ってやるさ。神だろうが天使だろうが、それこそ悪魔や堕天使にだって」

「神と天使以外はダメですよ? それと、ちゃんと私にも誓って下さい」

 

 拗ねたようなガブリエルの言葉に古城(ルシフェル)は淡く微笑み、ゆっくりと顔を近付ける。

 

「もちろんだ。ガブリエル。俺は、生涯君だけを――」

「はい――」

 

 春の訪れを喜ぶ花のような儚い微笑みを浮かべた彼女は、自らも古城(ルシフェル)との間にあった後僅かな距離を詰めて――

 

 

 

§

 

 

 

 真夏の街――

 その都市は絃神島と呼ばれていた。太平洋上に浮かぶ小さな島。カーボンファイバーと樹脂と金属と、魔術によって作られた人工島。

 この絃神島では、とある噂が流れていた。

 退屈を紛らわすだけの意味のない話題。ありふれた都市伝説。第四真祖。この街のどこかに居るという吸血鬼の噂話を。

 

 第四真祖は不死にして不滅。一切の血族同胞を持たず、支配を望まず、ただ災厄の化身たる十二の眷獣を従え、人の血を啜り、殺戮し、破壊する。世界の理から外れた冷酷非情な吸血鬼。過去に多くの街を滅ぼした化物。

 しかし、それを聞いたこの島の住民、その多くは、きっとこう言うだろう。

 ――ふうん、それで?

 絃神島・魔族特区。この街では、化物など珍しくもない。

 例えそれが世界最強の吸血鬼だとしても。三つ(・・)の前世を持った輪廻転生者(リンカーネイター)、《最も古き英霊(エンシェントドラゴン)》だとしても。

 

 

 

§

 

 

 

 真夏の森――

 深夜の神社境内。季節を忘れるほどに空気が冷たく張りつめているのは、社を包む結界のせいか。

 騒がしかった虫たちの鳴き声も、今はもうほとんど聞こえない。

 

 無言で広い拝殿の中央に座る、綺麗な顔立ちの少女。

 細身で華奢だが、儚げな印象はない。むしろ鍛えられた刃のような、しなやかな強靭さを感じさせる少女だ。

 少女が身につけているのは、関西にある私立中学の制服。

 神道系の名門校だが、その実態はこの神社と同じ、獅子王機関の下部組織である。

 

 少女の前にあるのは、一振りの銀の槍。

 

「これは……」

「七式突撃降魔機槍〝シュネーヴァルツァー〟です。銘は〝雪霞狼〟。知っていますね、姫柊雪菜」

 

 女の問いかけに、雪菜は頼りなく頷いた。

 

 この槍は、特殊能力を持つ魔族に対抗するために獅子王機関が開発した武器だった。高度な金属精錬技術で造られたその穂先は、最新鋭の戦闘機にも似た流麗なシルエットを持ち、まさに機槍の呼び名に相応しい。

 だが、武器の(コア)として古代の宝槍を使用しているため量産が利かず、世界に三本しか存在しない。いずれにせよ個人レベルで扱える中では間違いなく最強と言い切れる、獅子王機関の秘奥兵器である。

 高が一人の剣巫(けんなぎ)に渡すにはもったいない代物だ。けれど、雪菜に与えられた任務を考えれば、これでも心許無いというべきかもしれない。

 

 戸惑い、緊張を露にする雪菜に、彼女の目前に陣取る獅子王機関の長老〝三聖〟の長たる女は、重々しく告げた。

 

「剣巫、姫柊雪菜。あなたに改めて命じます。魔族特区・絃神島に住まう〝焰光の夜伯(カレイド・ブラッド)〟第四真祖に接近し、彼の行動を監視しなさい」

 

 そう言って、一息ついた女は、さらに何かしらの覚悟を決めたかのように顔を上げ、もう一言付け加えた。

 

「もし、彼の真祖がこの世界にとって危険な存在であると判断できたのであれば……全力を以てこれを抹殺してください」

 

 

 

§

 

 

 

 とある夏の日のことだった。

 人の不幸の何割かは、誰かの悪意によってできている。

 あるいは、悪意でなくとも、そうなのかもしれない。

 

 どちらにせよ、こうして、本人の与り知らぬところで、第四真祖暁古城の、苦難と波乱に満ちた日々は幕を開けた――




 三つ目の前世設定入れました。


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第一章 聖者の右腕
1 魔族特区 ―Demon Sanctuary―


 思ったよりも長くなりました。よろしくです。



 0話と同じく編集しました。


 ほぼ直上に位置した太陽から、強烈な日差しが降り注いでいる。

 

「熱い……焼ける。焦げる。灰になる……」

 

 真昼も真昼、学校のとある教室の机に突っ伏して、暁古城は弱々しく呻いた。

 制服姿の高校生である。白いパーカーを羽織り、その前髪は狼の体毛のように若干白い。それなりに造りのいい顔には気だるげな表情が浮かび、目は眠たげに細められている。

 これといった特徴はあまりない、どこにでもいるような高校生だった。

 

 八月最後の月曜日。天気は忌々しいほどの快晴。外気温はとっくに人間の体温を超えており、今になっても一向に下がる気配はない。

 さらに最悪なことに、この教室にも一応設置されているエアコンは起動していない。完全な蒸し風呂状態だ。

 薄っぺらいブラインドを突き抜けてくる殺人的な量の紫外線を浴びながら、古城は目の前に座る人影を気だるく睨みつけた。

 

「この間から薄々気になってたんですけど……なんで俺はこんなに大量の追試を受けなきゃならないんですかね?」

 

 真夏の太陽光線が降り注ぎ、窓から絶え間なく熱風が吹き込む地獄のような環境で、古城は担任教師監督のもと、『後期原始人の神話の型の研究』なる怪しげな英文を翻訳させられていた。明らかにまだ習っていない表現が使われており、もはや追試ではなくただの嫌がらせだ。

 

 いくら第四真祖などという馬鹿げた肩書きを持ち、二つもの前世を持っていようと、今この場においては何の意味もなさない。

 いや、少なくとも前世の一つにおける古城(シュウ・サウラ)は学者気質であったのだが、どうも古城はそうではないらしい。

 

 そんな古城の自問するような問いに、目の前の人影は、フンと鼻を鳴らし、高圧的な口調で答えた。

 

「何を言うかと思えば、決まっているだろう、バカめ。あれだけ毎日授業をサボりにサボり、夏休み前の期末テストですら学校に来てすらいなかった貴様だ。これだけで済ませていることを感謝しろ、暁」

 

 教壇の中央。どこからか勝手に運んできたビロード張りの豪奢な椅子にもたれかかった彼女は、皮肉げな笑みを浮かべて見せた。

 

 その彼女、南宮那月(みなみやなつき)は、私立彩海学園の英語教師だ。

 年齢は自称二十六歳だが、実際はそれよりもかなり若く見える。美人というよりも美少女、あるいは幼女と言った方が相応しいほど。

 顔の輪郭も体付きもとにかく小柄で、まるで人形のようでもある。

 その一方、どこかの華族の血を引いているとかで、妙な威厳とカリスマ性があったりもする。そのせいか教師としては有能で、生徒からの評判も悪くはなかった。

 一つの問題を除いて、だが。

 

「いやまあ、それはその通りなんですけども。……暑くないんですか? 那月ちゃん」

「教師をちゃん付けするなと言っているだろう」

 

 彼女が着ているのは、レースアップした黒のワンピース。襟元や袖口からはフリルがのぞいて、腰回りは編上げのコルセットで飾り立てている。ゴスロリと呼ぶには少々上品だが、見た目の暑苦しさでは大差ない。しかし那月は、黒レースの扇子で優雅に自分を仰ぎながら、

 

「この程度、目の前で暑さで死にそうになっている奴がいたら、逆に涼しいな」

「いやいやいや、性格悪いなアンタ」

 

 いやみかよ、と古城は頬杖をつく。それを一顧だにせず、淹れたての紅茶を呷る那月。

 これがカリスマ教師、南宮那月の最大唯一の欠点だった。彼女のファッションセンスには、TPOというものが決定的に欠落しているのだ。この常夏の人工島において、那月の暑苦しいドレスはそれだけで視覚への暴力になる。

 似合っていないわけではないが。いやむしろ、似合いすぎているため何も言えないというのが実情だ。

 

「つか、自分だけ何か飲んでるし……」

「ふ、羨ましいか?」

「いや、この暑さでそんな熱いもん飲む気にはなれませんって。……俺もう帰っていいですよね」

「採点するから少し待て」

 

 そう言って那月は古城から視線を切り、古城の答案を摘まんで赤ペンを手に持った。

 馬鹿馬鹿しいくらいに採点が早い。間違った箇所にでかいバツ印をいくつか書き、

 

「ふん。まあいいだろう。残りの試験勉強も済ませておけよ。……ああ、それと、また何か思い出したら私に言え。相談ぐらいは乗ってやる」

「あーはい。いつもながら、世話になります」

「気にするな。お前はただでさえ、前世の記憶なんてものを背負いながら、さらには世界最強の吸血鬼でもあるのだからな。生徒のケアも教師の務めだ」

「……ありがとう、ございます」

 

 少し優しげな口調で言う那月に、古城は恐縮した。

 

 英語教師、南宮那月のもう一つの肩書きは攻魔師だ。

 魔族特区内の教育機関には、生徒保護のために一定の割合で国家攻魔官の資格を持つ職員を配置することが義務付けられており、那月もその一人なのだった。

 しかも彼女は実戦経験者。特区警備隊(アイランド・ガード)の指導教官も兼任している、現役のプロ攻魔師である。

 そして南宮那月は、古城が第四真祖であることを知る数少ない人間の一人でもある。

 世界最強の吸血鬼などという非常識な体質となった古城が、まがいなりにも一般人のように学校に通えているのも、ひとえに彼女のお陰だった。

 

 さらに古城は彼女に、己の保持する二つの前世の話もしている。

 剣聖フラガと、冥王シュウ・サウラ。その二つ(・・)の前世の記憶のことを、彼女には話していた。

 普通なら一笑に付されるような話だが、彼女は至極真剣に聞いてくれたたため、思わず全部喋ってしまったのだった。

 それだけでなく親身に相談に乗ってくれたり、それとなく気遣ってくれたりして、古城は那月に頭が上がらない。

 まだ全部を思い出したわけではない前世の記憶も、新しく思い出したことがあったら彼女に言うようにしている。

 古城にとって、南宮那月という女性は担任であり、恩人であり、ほぼ唯一の理解者だった。

 

 そのせいで、しばしば彼女の個人的な稼業(・・)の手伝いをさせられたりもするのだが、その程度であれば苦にもならない。

 ともあれ、古城は今日の分の追試を終え、教室から退室しようとする。すると、

 

「ああ、ちょっと待て、暁」

「はい? なん……――――」

 

 いきなり呼びとめられ、不思議に思いながら振り返った直後。

 

 古城に向かって、何の前触れもなく数本の黒い鎖が突進した。

 

「――――!」

 

 古城は声もなく、臨戦態勢に入った。

 

 己の中に眠る、右手、左手、右足、左足、心臓、眉間、丹田の七つの門から超常の力、通力(プラーナ)を引き出す。

 すると、古城の体は(ことごと)く白炎を纏った。

 同時に右手を翳し、その手の中に、前世で幾千幾万幾億と振るった愛剣の姿をイメージし、

 

「……来いよ、サラティガ!」

 

 まるで、鞘から剣を抜き放つように、右手に感触を感じた瞬間に一閃する。

 

 ギキキキィン! と、迫っていた鎖がまとめて弾かれ、吹き飛んだ。

 

 源素の業(アンセスタル・アーツ)の光技、《剛力通》と呼ばれる基礎的な光技で筋力を大幅に強化、元の吸血鬼としての常人離れした筋力と合わせ鎖を押し返したのだ。

 

 振り切った古城の右手には、一振りの剣が握られていた。

 細工を凝らし、意匠を凝らした柄。鏡のような刃。がっしりとした実用的な鍔。長い刀身。鋭い切っ先。

 まさに神々しいまでの美しさ。

 どれだけ鍛え抜かれ、磨き抜かれた逸品か、切れ味を試すまでもなく万人に分かるだろう。

 宝剣――それ自体が既にして一つの宝と言うに相応しい。

 銘をサラティガ。

 剣聖フラガが守護する、正真の聖剣だ。

 

 一度鎖の攻撃を凌いだはいいものの、まだ、さらにもう一陣迫っていた。今度は十本程度。

 

「すらぁぁっ」

 

 凄まじい速度と勢いで迫るそれを、古城は《天眼通》で見切り、《剛力通》を発動して剣を振るい、ことごとくを撃ち落とした。

 しかし、正面から迫る鎖の対応をしている内に、後ろからも鎖が唸りを上げていた。

 古城は慌てず、戦闘で昂りながらもあくまで自然体のまま、後ろに向かって左手の人差し指を向ける。

 

「綴る――」

 

 その瞬間、纏っていた白炎とは対照的な、漆黒の炎が古城の全身を駆け巡った。

 己の中で練り上げた魔力(マーナ)を掻き集め、人差し指を動かす。

 古城の指先は、何千万年前もの遠い記憶を頼りに、魔法の言葉を綴った。

 虚空に光で軌跡を描き、叱声を放つ。

 

「――果断なる意志を!」

 

 トン、と。目の前に綴った魔法の言葉を指先で叩くと、そこから不可視の槍が撃ち出された。

 源素の業(アンセスタル・アーツ)の闇術、第一階梯闇術《精神の槍(マインド・スラスト)》。

 

 その槍は、ギャキィン、という甲高い音を立てて鎖と接触、鎖の軌道を逸らして砕け散った。

 

 最も初歩的な闇術である《精神の槍(マインド・スラスト)》ではこれが限界。しかし、これで十分だ。

 直撃コースから外れた最後の鎖を、裂帛の勢いを込めた《剛力通》の派生技、《太白》で打つ。

 これもまたあらぬ方向に吹き飛び、虚空に溶けるように霧散した。

 

 さらなる追撃がないことを確認した古城はサラティガを持つ手をだらりと下げ、元凶である担任教師に視線を向けた。

 

「……で、那月ちゃん。今のは一体、どういうわけだよ?」

 

 そう問う古城の口ぶりには、多大な疲労が込められていた。

 この年下にしか見えない教師に、本気で自分を害する気がないことは分かっていたが、やはりいきなり攻撃されて納得がいくわけがない。

 果たして那月は、そんな古城の苦情も意に介した様子を見せずに、

 

「ふむ……相変わらず不思議な力だな、お前のその、光技と闇術とかいうのは」

 

 まるで学者や科学者のように好奇心に満ちた目で、那月は古城の全身を覆う白炎の如き通力(プラーナ)をしげしげと眺めていた。

 常人には視認できない通力(プラーナ)魔力(マーナ)だが、ある一定以上の異能力者、魔術師、攻魔師となると、これを肉眼で確認することができる。

 これまでにも那月は古城の力を見たことがあったはずだが、どうやら今回は純粋な興味本位だったらしい。

 それを思い知って、古城は思わずげんなりした。

 

「……んな理由で生徒を襲うなよ、アンタは。結構ドキドキしちまったじゃねえか」

 

 そんなぼやきが口を衝いて出てきた。

 しかし古城のその言葉は、那月のドS心に火を付けただけだった。

 那月は、その幼げな美貌に嗜虐的な色を載せ、椅子から立ち上がってするりと古城に身を擦り寄せた。

 既に古城の手からサラティガは消え去り、白炎の如き通力(プラーナ)もいつの間にか失せている。

 

「ほう? ドキドキとは、お前は私のような体形の女に迫られて欲情すると? まったく、大した変態吸血鬼だな第四真祖」

「は? いや待て、何言ってんだアンタ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げて仰け反る古城だが、それは那月を余計に悦ばせるだけだったようで、

 

「ふふ、そう怖がるな。私はオトナだからな。多少の無礼は目を瞑ろう、そう、たとえば。自分の担任に獣欲に塗れた視線を注ぐぐらいはな……」

「……~~~~っ!?」

 

 幼い外見に似合わぬ艶っぽい口調で、耳元に囁かれた古城は、頭の中が真っ白になった。

 わたわたと視線を巡らせる中で、古城の視線は那月のワンピースの襟元からのぞく首筋で止まった。否、止まってしまった。

 真昼の強い日差しがなくとも、青く透ける血管の位置がよく分かる。

 

 

 

 前述の通り、南宮那月は、非常に優秀で強力な攻魔師だ。

 

 ならば、彼女の総身を絶え間なく駆け巡る血液は、彼女の豊潤な魔力の沁み渡った血潮は、一体どんな味なのだろうか。

 

 甘露な果実の果汁の如く、甘いのだろうか。あるいは、舌が焦げるほどに鮮烈で、香ばしいのだろうか。

 

 どちらにしろ、その血は自分(吸血鬼)にとって、とても甘美な味わいに違いない――

 

 

 

 と。その瞬間、古城は強烈な喉の渇きに襲われた。それと同時に、古城の虹彩も赤く染まる。

 これはマズイと悟り、自分に擦り寄っていた那月を力いっぱい突き放す。

 古城は、一度だけ、しかし大きく喉を鳴らした。

 妖気にも似た異様な気配が、古城の全身から静かに放たれる。

 

 吸血鬼の吸血衝動。こればかりは、いくら古城でも抗うのは至難の業だ。

 

「……………………っ!」

 

 そして次の瞬間、古城は自分の鼻先を押さえ、低く息を吐きだした。

 その指先から真紅の液体がこぼれる。口腔の中に、生暖かい感覚が広がっていく。鼻血。

 甘く金臭い、血の匂い。

 噴き出した鼻血を乱暴に拭いながら元凶を睨みつけるも、口元を赤く染めながらなのであまり怖くはない。

 

「那月ちゃん……あんま、そういうこと、してくんなよ……」

 

 かなり弱々しい声になってしまった。

 けれど那月はむしろ呆れたように肩を竦めて、

 

「どちらかと言えば、私のような女に擦り寄られて興奮する貴様の方が悪いんじゃないか? 暁古城」

「………………あざす」

 

 言いながら差し出されたティッシュ箱を受け取り、数枚出してから鼻の辺りと手の平をふく。

 いろいろ言いたいことはあったが、努力して抑え込んだ。

 このドS英語教師の享楽に、何を言っても意味などないと分かっているからだ。

 

 既に吸血衝動は去っている。チッと苛立たしげに舌打ちしながら首を振る。

 

「それで。俺、今度こそ帰っていいっすよね?」

「ああ。すまんな、時間を取らせた。……暁古城」

「はい? まだ、何かあるんすか?」

「あまり見境なく盛って、見知らぬ女に襲いかかったりするなよ。それこそ、物語の中の吸血鬼のようにな」

「………………あ、アンタなあ……!」

 

 んなことするか! アンタ、生徒を何だと思ってんだ!? 叫ぼうと思ったが、そこで那月はどこかいつもと違う艶やかな雰囲気で、

 

「……私相手なら、まあ構わんがな?」

 

 クスリ、と。僅かに微笑んだ。

 思わず目を見開いて那月を凝視したが、その時にはすでに、いつもの見慣れた傲岸不遜な表情に戻っていた。

 

「そういえば、もう一つあったな」

「……なんすかね、今度は」

 

 応える古城の声音は、完全に警戒しきっていた。それも当然だろう。

 しかし那月はそんな古城の警戒を鼻で笑うように、フッと息を吐き、

 

「安心しろ、別にお前をどうこうという話じゃない。昨日、アイランド・ウエストのショッピングモールで、眷獣をぶっぱなした馬鹿な吸血鬼(コウモリ)が居たらしい。お前、なにか知らないか?」

「は?」

 

 思わず、本当に思わず、気の抜けた声を上げてしまった。

 昨日。西地区(ウエスト)のショッピングモール。眷獣。吸血鬼。

 残念ながら、古城には心当たりがあり過ぎた。

 

 本当ならここで那月に昨日の騒ぎを話してしまうべきなのだろうが、それは憚られた。なぜなら、騒ぎには古城とその吸血鬼以外にも、とある中学生が絡んでいる。

 もしもその中学生が事件の参考人として事情聴取を受け、特区警備隊(アイランド・ガード)あたりに古城の正体をばらされでもしたら、古城としては困るのだ。

 なぜなら、この絃神市に第四真祖などという吸血鬼は存在しないことになっているからだ。つまりは未登録魔族。それが露見したら非常に面倒なことになる。

 

 結果、錆びついた歯車のような動きで首を振るしかないのだった。

 

「そうか。ならいい。私はてっきり、お前の正体を知って尾け回していた攻魔師が、そこらの野良吸血鬼と遭遇して揉めたんじゃないかと心配していたんだ」

「は、ははっ……まさかそんな……」

 

 しかし、那月の心配していたという言葉は嘘ではないのだろう。偉そうな口調なので分かり辛いが、彼女は古城のことを本当に気にかけてくれている。

 そんな担任教師に偽りを伝えなければならないことを心苦しく思いながら、古城は昨日のことを思い返していた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「さて、帰るか……凪沙のヤツが、飯の支度を忘れてないといいんだが……」

 

 古城はそう呟き、教科書と問題集をカバンに放り込み、伝票を掴んで立ち上がった。

 この日は、級友である矢瀬基樹(やぜもとき)とその幼馴染、藍羽浅葱(あいばあさぎ)に勉強を教えてもらうため、市内のとあるファミレスに来ていた。

 しかし心ない友人たちは支払いを古城に押し付けてさっさと帰ってしまったため、古城はひとり寂しくそれなりの行列のレジに並ばなければならなくなった。

 

 精算を済ませて店を出て、残念な感じになってしまった財布の中身を見て、深い溜め息を吐く。

 吸血鬼である古城を呪い殺さんばかりの日差しに、顔を顰めてパーカーのフードを目深にかぶり、古城は歩き出した。

 いや、正確には歩き出そうとした。実際には、店を出て二歩進んだ時点で立ち止まった。

 なぜか。簡単である。店を出た時点から、どこからか視線を感じたからだ。

 

「………………」

 

 無言で周囲に視線を巡らし、眉間にだけ通力(プラーナ)を纏わせて《天眼通》を発動し、視線のもとを探る。

 見付けた。見付けたが、殊更反応するようなことはせずに、そのまま何気ない様子で歩きはじめる。

 ファミレスの軒先から出た瞬間に感じる、じりじりと肌を焦がすような日差しを浴びながら、古城は尾行者を連れて帰路に着いた。

 

 

 

 

 

「やっぱり尾けられてる……な」

 

 何気ない仕草で背後を確認し、面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 

 古城から十五メートルほど離れた後方を、一人の少女が歩いている。ファミレスを出た時点から付いて来ていた尾行者である。

 彼女が着ているのは、浅葱のものと同じ彩海学園の女子の制服だ。襟元がネクタイではなくリボンになっているということは、中等部の生徒なのだろう。肩に担いだベースギターのギグケースが目を引く。

 見覚えのない顔だった。綺麗な顔立ちをしているが、どことなく人に馴れない野生のネコに似た雰囲気がある。短いスカートに慣れていないのか、ときたま動きが無防備で危なっかしい。

 彼女は古城から一定の距離を保ったまま、話しかけることもせずに追従していた。明らかに尾行されているが、本人は古城に気付かれていないつもりらしい。

 

「気配の消し方からして、素人じゃないな」

 

 一応、古城の一歳違いの妹で彩海学園中等部の生徒である暁凪沙(なぎさ)の関係者であるセンも考えてはみたが、そうであるなら話しかけてこないのはおかしい。

 それに加えて、尾行は素人としか思えなくても、足音や衣擦れ、呼吸音などを極力抑える気配の消し方は明らかに素人ではなかった。

 

 正直に言えば、古城には一つだけ心当たりがあった。だがそれは、あまり考えたくない可能性である。

 脳裏に浮かんだ考えに思わず顔を歪め、ちょうど目についた自動販売機に立ち寄る。

 ポケットから財布を取り出し、投入口に入れながら、古城は自分の体を陰にして、その影の中からとあるモノ(・・)を出現させた。

 

「起きろ。渾沌ルズガズリンケン」

 

 言った瞬間、たちまちにして異変が起きた。

 古城と自動販売機の間にある影から、黒い何かが滲み出てくる。

 犬のような、決して犬でないような、いわく言い難い怪物だった。

 それが一匹のみ。サイズは犬というよりも猫並。

 

「あの娘――俺の後ろにいる娘を後ろから追いかけろ。気付かれるなよ」

 

 犬のようなモノ――ルズガズリンケンと呼ばれた怪物は、頷くように首を振り、自動販売機の壁と天井を蹴って立ち並ぶ建物の合間を駆けていった。

 渾沌ルズガズリンケンとは、前世の古城、冥王シュウ・サウラが創造した、四凶と呼ばれる戦闘用魔法人形(ゴーレム)の一体だ。

 かりっかりの戦闘用だが、サイズや数を自由に変えられるためそれなりに重宝する。

 

 あまり長く自販機の前に居ても怪しまれる。缶コーヒー(もちろんアイス)を買って、ササッと自販機の前を離れる。

 ルズガズリンケンがきちんと命令通り、少女の後方に位置したことを確認し、今度は古城から接触を試みるため、ショッピングモール前の路地を曲がった。

 しかし深くまで行くことはせずに、曲がってすぐのところで待ち構える。ギターケース少女がどういうつもりで尾行しているのかは知らないが、古城の姿が見えなくなれば何かしらの動きがあるだろうと踏んだのだ。

 

 そして案の定、少女は困り果てたように周囲に視線を巡らせた。

 古城の姿を見失うのは避けたいが、かといって路地裏に入ってしまえば古城とばったり鉢合わせる可能性が高い。そんなところだろう。

 夕暮れ時、寂れた細い路地の前で一人立ち尽くす少女の姿は、ひどく儚げに感じられた。

 

 それを観察しながら、古城は何故か、酷い既視感(・・・)に襲われた。

 

「…………っ!?」

 

 不意に脳髄の奥に激痛が迸り、ヂリリ、ヂリリ、と頭を裏側から引っかかれるような感覚に古城は堪らず倒れそうになる。

 慌てて壁に手をついて姿勢を保つが、頭痛は全く治まることなく、むしろ彼女の姿を視界に収めるごとに少しずつ強くなっていた。

 まるで、自分の中に居る他の誰かが、何かを思い出せ、思い出さなければいけない、と盛んに叫んでいるように――――

 

 古城はこの感覚に覚えがあった。前世の記憶が蘇ろうとしている時の前兆だ。

 だが、いつまで経っても何かの映像や感覚が脳裏に蘇ることはなかった。

 ギリッと奥歯を噛み締めて耐え続けていると、やがて直前までの痛みが嘘だったかのように跡形もなく消えて行った。

 

「何だったんだよ……」

 

 はぁ、と古城は深々と溜め息を吐き、少女の方を見るが、今度はいきなり頭痛に襲われるようなことはなかった。

 不審に思いながらも、古城は通路の外に出た――と同時に、間の悪いことに少女の方も覚悟を決めたのか、意を決して踏み込んできた。

 結果、先程の予想通り、二人はばったり鉢合わせてしまった。

 

 古城たちはしばしの間無言で見つめ合う。

 

「…………」

「…………」

 

 どうしてか、どちらも相手から視線を外すことが出来なかった。

 古城の方はまたもやあの既視感が襲ってきて、少女の方は何故か古城の顔をジッと見つめたまま呆けたように固まっていた。

 そのまま見つめ合うこと数十秒。

 どうにか先に反応したのは、ギターケース少女の方だった。

 

「……第四真祖!」

 

 彼女はやや上擦った声で叫ぶと、重心を低くした。その速度は、古城(フラガ)の目からしてもなかなかのものだったが、既視感も吹っ飛んだ古城の内心は深い落胆で彩られていた。

 間近で見ても綺麗な少女だが、今の一言でそれも帳消しである。

 どうやらこのギターケース中学生は、第四真祖という吸血鬼を探していた訳だ。真祖の命を狙っているという訳でもなさそうだが、何にしても面倒な相手だった。

 

 世界最強の吸血鬼、などという非常識な肩書きを古城が受け継いだのは、ほんの三カ月ばかり前のこと。ひた隠しにしている努力と担任教師の協力のおかげで、その事実を知る者は、この島に古城と那月の二人しかいないはずだった。

 

「誰だ、お前?」

「わたしは獅子王機関の剣巫(けんなぎ)です。獅子王機関三聖の命により、第四真祖であるあなたの監視のために派遣されてきました」

 

 は、と古城は気の抜けた声を漏らした。何やら知らない単語が多すぎて、何を言っているのかさっぱりだった。

 ただ厄介事の予感だけはひしひしと伝わってくる。

 

 なので、ここはさっさと離脱することにした。

 

「あー……わりィ、人違いだわ。他を当たってくれ。俺は古城なんて名前じゃないし」

「え? 人違い? え、え……?」

 

 困惑したように視線を泳がせる少女。生真面目そうな瞳や雰囲気といい、意外と騙されやすいのかもしれなかった。それとも素直なだけか。

 その隙に立ち去ろうとした古城を、少女は慌てて呼び止める。

 

「ま、待ってください! 違いますよね!? あなたが、暁古城ですよね!?」

「違うから。俺はフラガだから」

 

 嘘は言っていない。

 

「誰ですか、それは!? 嘘をつかないでください!」

「じゃあ、シュウ・サウラだから」

「さっきと違うじゃないですか!」

 

 重ねて言う。嘘は言っていない。

 

「じゃあ、ルシフェルだから」

「えっ…………ルシ、フェル……? それ、は……って、ちょっと待ってくださいって!」

「いや、監視とか、そういうのはホント間に合ってるから。じゃあ、俺は急いでるんで」

 

 ……嘘は言っていないが、少女は何故かその名に激しく反応した。

 古城はそんな彼女に特に興味を示すこともなく、ぞんざいに手を振ってその場を離れた。

 

 呆然と立ち尽くす少女を見た限り、どうやら尾行を諦めてくれたらしい。根本的な解決になってはいないが。

 ショッピングモールの前を完全に通り過ぎようとしたところで、古城はルズガズリンケンを少女に尾けさせていたことを思い出した。撤退の命令を出そうとして振り返り――そこで目にした光景にぎょっと目を見開いた。

 

 さっきのギターケース少女を挟み込むようにして、見るからに軽薄そうな男の二人組が立っていた。状況から察するに、ナンパだろう。

 

「中学生に手を出してんじゃねぇよ、オッサンたち」

 

 古城の顔に焦りが浮き、低い呻きが漏れた。いつの間にか、少女の冷ややかな態度のせいで少々険悪な雰囲気になっていた。

 しかし古城は容易には動けない。

 万が一騒ぎが大きくなって警察沙汰にでもなった際、古城にとばっちりが来ないとも限らないことと、もう一つ。

 

 男達が手首に嵌めている金属製の腕輪の存在だ。生体センサや魔力感知装置、発信機などを内蔵した魔族登録証。それを付けているということは、彼らは魔族特区の特別登録市民、すなわち人外。魔族《フリークス》だ。

 あれを付けている以上、彼らが特区警備隊《アイランド・ガード》の大群と立ち向かう度胸を持っていなければだが、少女に危害が及ぶことはないだろう。

 

 問題は、古城の正体、第四真祖の正体が少女の口から漏れる可能性があること。

 むしろそちらの方が、古城にとっては大問題だった。

 

「仕方ないか……」

 

 再び溜め息を吐き、古城は歩き出した。何とかこの状況を丸く収めねばなるまい。

 

 彼女の制服のスカートが、ふわりとめくれ上がったのは、その直後だった。

 男の片方が少女のスカートをめくったのだ。小学生みたいな真似をする男である。

 パステルカラーのチェックの布切れを視界に収めて、古城は思わず硬直した。そして、

 

「若雷《わかいかずち》っ――!」

 

 少女が柳眉を逆立てて叱声を放ち、次の瞬間、彼女のスカートに手をかけていた男の体が、トラックに撥ねられたような勢いで吹っ飛んだ。

 

 

 

 

 

 もう一人の男の方には見えていなかっただろうが、古城にははっきりと少女の動きが見えていた。

 あれは掌底だ。魔力の流れや精霊たちの動きは感じなかったから、可能性があるとすれば気功や仙術の類。しかし古城の目にはそれだけでなく、僅かではあるが新雪のような色の、白銀の通力(プラーナ)が見えていた。

 

 この世界のほとんどの人間には通力(プラーナ)を知覚することもできなければ、使用することも出来ない。

 通力(プラーナ)魔力(マーナ)といった力は前世の記憶を受け継いだ転生者のみが持つものであり、それが故に世間にはあまり広まっていない。

 と、いうことは、彼女もまた古城と同じ転生者ということになるのだが……見えたのが一瞬だけだったせいで、アレが本当に通力(プラーナ)だったのか古城は自信がなかった。

 

 今しがた吹き飛ばされた男は、強靭な肉体が売りの獣人種らしかった。それほど強力な個体ではなさそうだが、それでも華奢な少女の一撃程度で昏倒するような、やわな種族ではないはずだ。

 

「このガキ、攻魔師か――!?」

 

 呆気に取られていたもう一人の男が、ようやく我に返って怒鳴った。

 

 攻魔師とは、魔術師や霊能力者などの魔族に対抗する技術を身に付けた者の総称である。

 軍人や警察の特殊部隊員、民間の警備会社の社員、あるいはそれ以外の雇われ攻魔師――彼らの身分は様々で使用する技術体系も千差万別だ。

 だが、いずれにしても彼らが魔族にとっての天敵であることは間違いない。

 

 そして、あまりにも突然の出来事で、男も動揺していたのだろう。

 恐怖と怒りに表情を歪ませ、魔族としての本性をあらわにする。真紅の瞳。鋭い牙。

 

「D種――!」

 

 少女が表情を険しくして呻いた。

 D種とは、様々な血族に分かれた吸血鬼の中でも、特に欧州に多く見られる〝忘却の戦王(ロストウォーロード)〟を真祖とする者たちを指す。一般的な吸血鬼のイメージに最も近い血族である。

 

 どうする、と古城は思索する。

 

 普通に考えれば吸血鬼に襲われている少女の方を助けるべきなのだろうが、どうやら彼女もただの中学生という訳でもないらしい。

 そもそも彼女は古城を狙ってきた訳で、最悪の場合敵に回るかもしれないのだ。

 だがしかし、彼女がどれだけ優れた攻魔師でも、たった一人で吸血鬼に正面から挑んで勝てるとは、とても思えない。

 いくら日没前とはいえ、吸血鬼には高い身体能力、魔力への耐性、そして不死身とすら言われる強靭な再生能力がある。さらに、彼ら吸血鬼にはもう一つ、魔族の王と呼ばれるに相応しい圧倒的な切り札が存在した。

 

「――灼蹄(シャクテイ)! その女をやっちまえ!」

 

 吸血鬼の男が絶叫し、左脚から何かが噴き出した。

 それは鮮血に似ていたが、血ではなかった。陽炎のように揺らめく、どす黒い炎だ。

 その黒い炎は、やがて歪な馬のような形を取った。

 甲高い嘶きが大気を震わせ、炎を浴びたアスファルトが焼け焦げる。

 

「こんなところで眷獣を召喚するなんて――!」

 

 少女が怒りの表情で叫んだ。

 男の左手に嵌められた腕輪が、攻撃的な魔力を感知して、けたたましい警告を発している。

 

 眷獣。そう、男が喚び出した怪物は、眷獣と呼ばれる使い魔だった。

 吸血鬼は己の血の中に、眷族たる獣を従える。

 その眷獣の存在こそが、攻魔師たちが吸血鬼を恐れる理由である。

 吸血鬼は、確かに強大な力を持った魔族であるが、海力や敏捷さも、生来の特殊能力でも、吸血鬼を凌ぐ種族はいくらでもいる。

 にもかかわらず、なぜ吸血鬼だけが魔族の王として恐れられているのか――

 

 その答えが眷獣なのだった。

 眷獣の姿や能力は様々。しかし、最も力の弱い眷獣でさえ、最新鋭の戦車や攻撃ヘリの戦闘力を凌駕する。

〝旧き世代〟の使う眷獣ともなれば、小さな村を丸ごと消し飛ばすような芸当も可能だと言われている。

 

 無論、若い世代であるナンパ男の眷獣にはそこまでの能力はない。だが、この灼熱の妖馬が走りまわるだけで、ここら一帯にどれだけの被害が出るか。

 そんな危険な召喚獣が、たった一人の少女に向かって放たれたのだ。

 宿主である男は、どうやら上手く眷獣を制御することができていないようだった。恐らくは、召喚すること自体がこれが初めてなのだろう。

 制御が利かず半ば暴走状態となった眷獣は、周囲の街路樹を薙ぎ払い、街灯の鉄柱を融解させ、アスファルトを焼け焦がしている。その様はまさに暴れ馬。

 これはさすがにマズイ。さしもの古城も危機感を抱き、サラティガを召喚して参戦しようとして身構える。その刹那、チラリと少女の様子を窺う、と。

 

 少女の顔に恐怖の色は浮かんでいなかった。

 

「雪霞狼――!」

 

 背負ったままのギターケースから、少女が一本の銀槍を抜き放つ。

 槍の柄が一瞬でスライドして長く伸び、格納されていた主刃が穂先から飛び出した。まるで戦闘機の可変翼のように、穂先の左右にも副刃が広がる。洗練された近代兵器のような外観である。

 

 吸血鬼の眷獣とは、意志を持って実体化するほどの超高濃度の魔力の塊。すなわち魔力そのもの。一度放たれた眷獣を止めるには、より強大な魔力をぶつける以外にない。

 しかし少女は、二メートル近くにも伸びた美しい槍を軽々と操って、暴れ狂う妖馬へと突き立てた。

 もちろん、その程度で眷獣が止まる筈はない――のだが、

 

「な……!?」

 

 ナンパ男が、驚愕と恐怖に目を見開いた。

 銀の槍に貫かれた姿で、彼の眷獣が止まっていた。

 少女が無言で槍を一閃する。切り裂かれた妖馬の巨体が揺らぎ、跡形もなく消滅する。

 それはロウソクの火を吹き消すような呆気なさだった。眷獣の姿は完全に消えている。

 

「う……嘘だろ!? 俺の眷獣を一撃で消し飛ばしただと!?」

 

 使い魔を失ったナンパ男が、怯えたように後退る。しかし少女の表情は険しいままだ。

 怒りの籠もった瞳で男を睨みつけ、槍を構えて、硬直して動けない男へと突進する。そして銀色の槍が、男の心臓を貫こうとしたその時――

 

「起きろ、渾沌ルズガズリンケン!」

 

 古城が叱声を放った。

 同時、少女の影から犬のような形をした黒いナニカが湧き出て、少女の構えた槍の柄に噛み付く。

 

「えっ!?」

 

 冷ややかに猛り狂っていた少女の目が、驚いたように見開かれた。

 

「眷獣――いえ違う、まさか魔法人形(ゴーレム)!? こんなに精巧なものを、一体誰が――」

 

 動転しながらも、少女は咄嗟に槍を大きく振るって、齧りついたルズガズリンケンを振り払った。

 そして次に、この近辺で強力な魔法人形(ゴーレム)を使役できそうな、つまり強大な魔力を持つ人物――古城の方を振り返る、が。

 その瞬間には、もう古城はサラティガを召喚して、走り出していた。

 

「すらあぁっ!」

「なっ!?」

 

 全身に白炎の如き通力(プラーナ)を纏い、《神速通》の派生技、《武曲》を用いて超スピードで突進。

 ロクに反応できない少女の手に握られていた槍の柄を、源素の業(アンセスタル・アーツ)の《太白》で下から上へと打ち上げる。

 流麗なシルエットを持つ銀色の槍と、鏡のように磨き抜かれた刀身を持つ聖剣が、一瞬だけ激しくぶつかり合い、火花を散らす。

 結果、打ち勝ったのは古城の握るサラティガの方だった。

 キイィィン、と甲高い音を立てて銀色の槍がくるくると回転しながら、少女の背後のアスファルトに突き立つ。もちろん、古城が気を遣った結果だった。

 

「暁古城!? 雪霞狼を弾き飛ばすなんて、魔力を使っていないとでも……っ!」

 

 攻魔師の少女が、愕然とした表情で槍を掴みつつ、後ろへ飛んだ。突然現れた古城を警戒するように距離を取り、近くに停めてあったワゴン車の屋根に着地する。まるで猫のように俊敏な動作だった。

 

「おい、アンタ。仲間を連れて逃げろ」

 

 古城は忙しない口調で、背後に立ち尽くしているナンパ男に怒鳴った。

 

「これに懲りたら、中学生をナンパすんのはやめろよな。不用意に眷獣を使うのもな!」

「あ、ああ……す、すまん……恩に着るぜ」

 

 男は青ざめた顔で頷くと、気絶した仲間の獣人男を担いで去っていく。

 それを見て動き出そうとした少女に、古城の隣に来ていたルズガズリンケンが唸り声を上げて威嚇した。

 古城はやれやれと息を吐く。

 

「おまえもさ……どういうつもりかは知らないけど、やりすぎだって。もういいだろ」

「どうして邪魔をするんですか?」

 

 むっつりと古城を睨みつつの非難がましい言葉に、古城はますます気だるげな表情になった。

 

「邪魔っつうか、目の前で喧嘩してるやつらがいたら、普通止めようと思うだろ。大体お前、なんで俺の名前を知ってんだよ?」

「……公共の場での魔族化、しかも市街地で眷獣を使うなんて明白な聖域条約違反です。彼は殺されても文句を言えなかったはずですが」

「それを言うなら、あいつらに先に手を出したのはお前の方だろ。むしろ、あいつらは正当防衛も証言できる」

「そんなことは――」

 

 途中で黙り込んでしまう少女。男達と争いになった経緯を思い出したらしい。

 ほらな、と古城は強気な表情で少女を睨み、

 

「お前が何者なのかは知らんけど、ちょっとパンツ見られたぐらいでそんなもん振り回して殺そうとするのはあんまりだろ。いくら相手が魔族だからって――」

 

 そこまで言ったところで、ようやく古城は自分の失言に気が付いた。

 銀の槍を持った少女が、蔑むような目つきで古城のことを睨んでいた。

 

「もしかして、見たんですか?」

「あ、いやそれは……」

 

 古城は言い訳を探して口ごもり、未だサラティガを握ったままの手を無意味にブンブン振り回す。危なっかしい。

 

「でもほら、そんな気にするようなことじゃないだろ。中学生のパンツなんぞ俺も興味ないし、なかなか可愛い柄だったし、見られて困るようなもんでもないんじゃないかと……」

「………………」

 

 あたふた言い訳する古城を眺めて、少女が深く溜め息を吐いた。しかし古城に向けた軽蔑の目つきはそのままだ。

 好転させるどころか、むしろ状況を悪化させた主に呆れるように、ルズガズリンケンが尻をペタンと付けて、わふう、と溜め息のようなものを吐いた。

 

 そしてその瞬間、まるでタイミングを見計らっていたかのように、離島特有の島風が海沿いのショッピングモールを吹き抜けていった。

 ワゴン車の屋根に立っていた少女のスカートが、ふわりと無防備に舞い上がる。

 古城はそのままの姿勢で動きを止めた。無意識に視線が吸い寄せられて動かせない。

 

 息苦しいほどの静寂が訪れる。

 

「なんでまた見てるんですか」

 

 両手で槍を構えたままの姿勢で、少女が訊いた。

 完全に硬直していた古城は、その声でようやく我に返って、

 

「いや待て。今のは俺は悪くないだろ。お前がそんな所に立ってるから――」

「……もういいです」

 

 うろたえる古城を冷たく見下ろし、少女は刃を格納した槍をギターケースに収めて、音もなく地上へと舞い降りる。

 そして、醒めた目で古城を一瞥して、

 

「いやらしい」

 

 今度こそ古城に背を向けて走り去っていった。

 

「………………」

 

 ぽつん、と一人残された古城は、まずサラティガをしまってルズガズリンケンを再び影の中に押し込んで、パーカーのポケットに手を突っ込んで歩きだそうとした。

 一方的にひどいことを言われたような気がしたが、立ち去る直前の彼女が真っ赤な顔をしていたせいか、不思議と腹は立たなかった。

 冷静ぶっていても、所詮は中学生(コドモ)だよなあ、と思う。

 

 もう少しすれば、吸血鬼のナンパ男の嵌めていた登録証から眷獣の魔力を感知した特区警備隊(アイランド・ガード)が来るだろう。疚しい所はないとはいえ、こんな所に長居して巻き込まれたら面倒だ。

 疲れた、と嘆息して帰路につこうとした古城は、

 

「ん……?」

 

 ふと道路上に落ちていた何かに気付いて、眉を顰めた。

 それは、白地に赤い縁取りの、二つ折りのシンプルな財布だった。

 そのカードホルダーに差しこまれていたのは、クレジットカードが一枚と学生証。

 

 学生証には、ぎこちなく笑う少女の顔写真と、姫柊雪菜――という名前が刷り込まれていた。




 あれー、おっかしいな。
 これはまさか、那月ちゃんヒロインに入っちゃうかな?


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2 真祖の憂鬱 ―Primogenitor Of Depression―

 お待たせしました。第二話です。


「えー、中等部はっと……」

 

 那月主導の地獄のような補習を乗り越えた古城は、その足で一人彩海学園中等部に向かっていた。

 うだるような暑さの中を、パーカーのフードをかぶって、若干ふらつきながら歩く。

 

 彩海学園は中高一貫教育の共学校だ。生徒数は全部で千二百人弱といったところ。都市の性質上若い世代の多い絃神島では、ありふれた規模の学校と言える。

 しかしここは所詮は人工島。慢性的な土地不足に悩まされている。従って、学校の敷地もそれほど広いとは言い難い。

 体育館やプール、学食などの多くの施設は中等部と高等部の共用だ。

 そのため、高等部の敷地内で中等部の生徒を見かけることはざらにあるが、逆に高等部の生徒を中等部の敷地内で見かけることはあまりない。

 

 おかげで古城は、少し居心地の悪い思いを抱いていた。まだ向かっている最中なのだが。この辺り、実に小心者である。

 そんな思いを抱きつつも古城が中等部に向かっているのは、ひとえに昨日ショッピングモール前で拾った白い財布を届けるためだった。

 件の中学生、姫柊雪菜の落とし物だ。

 中に入っていた学生証と、彼女が身に着けていた制服のお陰で、彼女が彩海学園の生徒であることは分かっている。

 学生証に記載されていた彼女のクラスは、いみじくも古城の妹、暁凪沙と同じものだった。

 

「痛ってぇな、あの暴力教師……」

 

 ズキズキと鈍痛が支配する額を抑え、古城は深く溜め息を吐いた。

 凪沙の担任である笹崎岬(さささきみさき)は那月と同じ大学の出身で、なぜか恐ろしく仲が悪いらしい。

 古城が彼女が出勤しているかを尋ねてみたところ、問答無用に殴られたのだった。それはもう、古城(フラガ)の目を以てしても捉えきれないほどの速度で。

 ……その背景には、古城が那月のことを那月〝ちゃん〟と呼び、笹崎岬を笹崎〝先生〟と呼んだという一件もあるのだが、頭を強く殴られたせいで、その辺りの記憶がすっぽり抜け落ちたらしい。

 

 はあ、ともう一度溜め息を吐いて歩き出したところで、不意に溌剌そうな声に呼び止められた。

 

「おーい、古城ー!」

 

 古城に声をかけてきたのは、肩口で切り揃えた茶髪ショートカットの活発そうな女子生徒だった。女子バスケ部の練習着を着て、手にはバスケットボールが。

 背が低く体の凹凸も少ないため、よく中等部の生徒と間違われるが、実は古城よりも一つ上、彩海学園の高等部二年生の先輩である。

 

「ども、モモ先輩」

「おーっす、久しぶりじゃん古城!」

 

 彼女――百地春鹿(ももちはるか)は、気安く古城に近寄り、肩をバシーンと叩いてきた。

 予想外の衝撃につんのめる古城だったが、さほど迷惑には感じていなかった。

 この先輩とは、古城自身が中等部の頃はバスケ部であったため、前から親交があった。

 ついでに、

 

「お前、また那月先生のトコで補習かよ? マジメにやれよなー」

 

 こういう、あまり女らしさを感じさせないさばさばした雰囲気は、中学時代から男に囲まれていた古城にとって、気苦労を感じないという意味で心地よかったのだ。

 実際、春鹿はとてもボーイッシュな雰囲気の持ち主である。本人に言ったら拗ねてしまうかもしれないが。

 

「いやまあ、俺としてもそうしたんですけどね。ちょっと事情が……」

「ん? 事情? お前なんか体悪か――あ、悪い、無神経だったか?」

「あ、いや、そういうんじゃなくて、ホント大丈夫っすから!」

 

 気まずそうな表情を見せる春鹿に、古城は慌てて首を振った。

 春鹿は古城がバスケを辞めた理由を知っている。さすがに第四真祖などという馬鹿げた体質を受け継いだことは知らないが。

 それだけに深読みしてしまったようだ。

 

 実際は、妙な事件に巻き込まれて第四真祖などというふざけた存在になってしまったり、その弊害で昼に極端に弱くなってしまったという、それだけなのだが。

 これ以上この話題を続けるのは互いのためにならないと思い、古城はいささか強引に話を変えようとする。

 

「そ、そういや、女バスの方はどうなんすか?」

「ん? いい感じだよ。中等部から上がってきた子もすごい逸材ばっかでさ。アタシら、谷間の世代なのかなーって。正直、ちょっと自信なくしそう……」

「大丈夫っすよ、モモ先輩なら」

 

 古城は春鹿がどれだけ真摯にバスケに打ち込んできたかを知っている。才能はそれほどでなくとも、彼女には辛い練習でも手を抜かない心の強さがあった。

 だから古城は、慰めでなくそう言った。

 

「自身持ってくださいよ、次期部長さん」

「言うなよそれー! あーもう緊張してきたー! センパイもさー、なんでアタシなんかを推したりするかなー」

「モモ先輩は努力家ですからね。そういうとこ、先輩もちゃんと分かってるんじゃないっすか?」

「そうかなー」

「そうっすよ」

「そっか。……うっし、やる気出てきた! 頑張るぞー!」

 

 意気込んで去っていく春鹿の背中を見送りながら、古城は一抹の寂しさと羨望を感じていた。

 

 吸血鬼の身体能力は他の魔族と比べれば脆弱とはいえ、普通の人間のそれより遙かに高い。

 そんな古城が普通の高校生に交じってバスケをプレーするなど、アンフェアにもほどがある。スポーツマンシップに反するし、古城自身そういうことはしたくない。

 とはいえ、そんな理屈で古城がすっぱりと諦められるかと言えば、それはまた別の話。理性と感情は別物だ。

 

 夏休みには大きな大会もあった。部員たちがそれに向けて必死に練習する姿を、何度か古城も目にしていた。

 その度に古城は、寂寥感と羨望の念を抱いてきたのだ。

 

「……ったく、今更何言ってんだか俺は」

 

 頭をガリガリと強めに掻いて、古城は再び中等部の校舎に向けて歩き出した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「すまんな、暁。笹崎先生は今日は来てないそうだ」

「あ、そっすか……。ありがとうございました」

 

 顔見知りの老教師にそう言われて、古城の計画はいきなり頓挫した。

 

 老教師に礼を言い、職員室を後にする。

 しばしぼーっとしたまま歩くこと数分。古城は渡り廊下の柱にもたれて、ぼんやりと校庭を眺めていた。

 面倒なことになった、と古城は思う。

 出来ることなら、この財布はさっさと持ち主に返してしまいたかった。短気な中学生に誤解を受けて、変な槍で突き殺されたくはないし、現金が入った財布なんていつまでも持ち歩いていたくはない。

 

「せめて連絡先が分かるものでも入ってればな……」

 

 呟き、古城は拾った財布を開いてみる。高級品という訳でもないが、少なくともその中身は確実に古城の財布より多かった。古城の財布に諭吉さんはいない。

 中学生より小遣いの少ない高校生()って一体……と、理不尽な思いを抱いていると、微かにいい匂いがした。

 ありふれた既成品からこのような匂いがするということは、これは持ち主の残り香なのだろう。香水のようなものではなく、柔らかく心地いい香りだった。

 

 まあ要するに、女の子の匂い、ということなのだろうが――

 無意識にそんなことを思った瞬間、古城は激しい喉の渇きを覚えた。非常によくない兆候だ。

 

「……っ」

 

 微かに呻き、思考を切り替えるために校庭に視線を移し、そこには自主練習中の運動部員たちの姿があった。

 校舎の影ではチア部のチアリーダーたちが、テニスコートでは女子テニス部が部内で練習試合をしているらしい。ひらひらと揺れる丈の短いスコートを見て、ついつい昨日の姫柊雪菜のことを思い出してしまった。

 

 ワゴン車の上に立った彼女を襲った突然の島風。それによって露出した彼女の綺麗でしなやかな筋肉の付いた脚と、その付け根のパステルカラーのパンツ。

 そして、スカートを押さえて顔を真っ赤にしていた姿。色々と得体の知れない部分もあったが、実際綺麗な娘ではあった――

 

「う……」

 

 不用意にそんなことを考えてしまい、今度こそ致命的な渇きが古城の全身を襲った。

 

 まずい、と、古城は自分の口元を覆った。

 耐えがたいほどの飢餓感が全身を支配し、犬歯が熱く疼く。

 傍目には古城が吐き気を堪えているように見えただろうが、古城を苦しめていたのは単なる生理現象。ただし吸血鬼特有のそれ、吸血衝動だった。

 

 吸血鬼と呼ばれる種族は、なにも血を吸わなければ飢えを満たせないわけではない。生命維持だけなら飲食だけで十分に賄える。

 確かに血を吸うことで魔力の補充はできるし、血を触媒にした魔術も使えるが、それはあくまで副産物。

 吸血鬼が吸血衝動を引き起こす要因は、至って単純。性的興奮。つまりは性欲だ。

 

「くっそ、勘弁してくれ……」

 

 忌々しげに呟くと同時に、鼻の奥から熱い液体が流れ出してくる。

 鼻血だ。そしてそれは、古城の吸血衝動を追い払うきっかけとなり得る。

 要するに血の味が恋しくなるだけなのだから、自分の血でもいい訳だ。

 古城の昔からの変な体質――興奮すると鼻血が出るという者のおかげで、古城は正気に戻れていた。

 

 しかし、この体質はありがたいが、格好悪いことこの上ないな――そう思い、古城は深々と嘆息する。

 女子の財布の匂いを嗅いで、いきなり鼻血を吹きだした男子。ほとんど変態だが、それが今の古城である。

 

 と、そこで古城は、新たな人の気配を感じた。

 今の姿を見られたくはないな、と少しばかり焦っていた古城は、近付いてきた女子生徒の顔を見て、思わず呆けた表情を晒してしまった。

 

「女子のお財布の匂いを嗅いで興奮するなんて、あなたはやはり危険な人ですね」

「姫柊、雪菜?」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

「はい。なんですか?」

 

 古城の背後に立っていたのは、ギターケースを背負った制服姿の少女だった。少し大人びた顔立ちの女子中学生が、蔑むような目つきで古城を見下している。

 

「…………」

 

 いつの間にか、吸血衝動はきれいさっぱり消え去っていた。

 鼻血もどうにか収まっている。犬歯が元の長さに縮んだのを確認し、古城は口元を覆っていた手をどけた。

 

「どうしてここに?」

「それはわたしのセリフだと思いますけど。暁先輩(・・)? ここは中等部の校舎ですよ?」

「ぐおっ……。いや、俺はだな、お前にこの財布を返そうと思って」

 

 年下の女の子に冷静に指摘されると、結構心にくるものがある。

 何とか持ち直し、手に持っていた財布を少女に差し出す。

 少女は、はあ、と呆れたような溜め息を吐いた。

 

「それで匂いを嗅いで、鼻血を出すほど興奮したんですか?」

「ちげえよ。そうじゃなくて、昨日の姫柊のことを思い出してだな……」

 

 雪菜が差し出してきたポケットティッシュをありがたく受け取り、口元を拭く。意外と律儀な性格のようだ。もしくは親切な。

 そうしながら何気なく発した古城の言葉に、雪菜は、え、と戸惑うような声を出す。彼女は一瞬、精巧な人形のように硬直し、

 

「…………っ!?」

 

 爆発的に顔を赤く染め、無意識にスカートの裾を押さえて後退った。

 昨日、古城と遭遇した際に起きた一連の悲劇を思い出したのだろう。彼女自身が起こした、古城が性的興奮を覚えるであろう出来事を。

 古城に、初対面の男子に、二度もパンツを見られたことを。

 

「き、昨日のことは忘れてください」

「いや、忘れろと言われても……」

「忘れてください」

「……分かった。分かったから、ギターケースに手をかけるのはやめろ。そのケース、なんかあの変な槍が入ってるんだろ?」

 

 自分を睨んで背中に手を回す雪菜に、古城は気だるく息を吐いて見返した。

 そして、付け加える。

 

「それに、その槍があったとしても、お前じゃ俺に勝てないよ。絶対に」

「…………っ!」

 

 たちまちのうちに、雪菜は柳眉を逆立てた。そして今度こそギターケースから槍を抜き放ち、主刃と副刃を展開させて古城に向かって真っすぐに突き出す。

 

 対する古城はあくまで自然体。

 心臓の辺りに突き込まれる銀色の槍の穂先を冷静に見つめ、右手のみ通力(プラーナ)を纏って、まるで暖簾をくぐるように軽く払いのけた。

 特に光技は使っていない。古城(フラガ)であればこの程度は容易いものだ。

 

 雪菜の攻撃はまっすぐで迷いがなく、また鋭く速いものだった。

 それ故に、その軌跡は予測しやすい。まだまだ甘い。

 

 とりあえず前みたいに武器を奪おう、と思って手を伸ばしたところで、雪菜の思ってもみなかった次の動作に、古城は思わず目を見張った。

 

「ふっ!」

 

 短く呼気を吐き出した雪菜が、払いのけられた槍を両手で手繰り、右から左へ流れる横薙ぎへと繋いでみせたのだ。

 まるで、古城に払いのけられることを予め予測していたかのように。

 

 通力(プラーナ)を両足に纏わせるのは間に合わない。吸血鬼由来の身体能力のみで、古城は後ろに跳び退る。

 

 だが、それすらも読んでいたかのように、空振った槍を再び、今度は足に向かって突き出してくる。

 

(どうなってんだ、この娘は? 未来でも見てるのか?)

 

 さしもの古城もこれには怪訝な表情を見せた。

 前世の自分、剣聖フラガは0,4秒先の未来を見る敵と戦ったことがある――気がするのだが、この少女からも同じような雰囲気を感じる。

 

 そしてその予想は、実は的を射ていた。

 剣巫特有の技術、霊視による未来予測が可能とする動きだった。

 

 しかしそれでも、古城を捉えることはできない。

 雪菜の放つ攻撃は、その全てが古城の右腕一本に尽く防がれ、かわされ、あるいはいなされていく。

 

「くっ――」

 

 微かに呻く雪菜。

 古城はその隙に、開いた左手で虚空に一行の魔法文字を書き綴った。

 綴られた文字は、こうだ。

 

『そは形なき刃 そは不可視の銘刀 引き裂く者よ、出でい』

 

 第一階梯闇術、《引き裂く突風(ブリーズブレイド)》。

 古城が綴られた文字列を指先で、トン、と叩いた瞬間、威力の低い、しかし人一人を飛ばすには十分な突風が放たれた。

 

 突如吹き荒れた突風に対し、咄嗟に槍を掲げて防御態勢を取ったのはさすがといえよう。

 だが、それまでだ。いくら防いだとしても、風を完全に消し去ることはできない。

 そう高を括っていた古城だったが、その予想はまたしても裏切られた。

 

 古城が放った突風は、雪菜の持つ槍に触れた片端から、空気に溶けるように霧散していったのだ。

 

(おいおい、マジであの槍なんなんだ!? 昨日は吸血鬼の眷獣斬ってたし、ホントに槍かあれ?)

 

 もしや、古城の持つサラティガ並の、銘槍だったりするのだろうか。

 

 動揺しながらも、古城の手に迷いはない。

 右手の通力(プラーナ)を握った拳に集中させ、前に突き出した瞬間に放出する。

 

 それで、終。

 

 拳風に乗せて放たれた通力(プラーナ)は暴風と化し、《引き裂く突風(ブリーズブレイド)》を防いだ直後の雪菜を襲った。

 

「きゃっ!?」

 

 意外と可愛らしい声を上げた雪菜は、暴風の煽りを受け、他愛無く渡り廊下にペタンと尻餅をついた。槍も手放され、傍に転がっている。

 

 これで終わりか、と大きく息を吐き、古城は座り込む雪菜を見下ろす。

 

「もういいだろ、姫柊? 俺はお前より強い。いい加減それを認め――っ! ちょっ、姫柊!」

「……はい? どうかしましたか?」

 

 悔しそうに唇を噛んでいた雪菜だったが、急に慌て出した古城の態度を訝かしんで訊いた。

 だが古城は、まるで何か見てはいけないものを見てしまったかのように、気まずげに顔を逸らしたままだった。

 首を傾げる雪菜。古城は、必死の形相で右手の人差し指を雪菜に、もっと言えば座り込む雪菜の腰の辺りを指した。

 

「…………?」

 

 古城の指の向きを追って視線を降ろしていった雪菜は、そこでとても大事なことに気が付いた。

 

 雪菜は、古城の起こした暴風にバランスを崩されて、古城に体を向けて渡り廊下の冷たい床に尻餅をついた状態だった。

 女の子らしく内股になって、両手を体の後ろについて、滑らかな足を古城に突き出すような形で。

 

 まあ、何が言いたいかというと。

 要するに、丸見えなのだ。足の付け根を覆う、一枚の布が。

 

「……~~~~!」

 

 言葉にならない声を上げて、先程の繰り返しのように顔を赤くしてスカートの裾を押さえる雪菜。しかし、遅きに失した。

 そもそもそれを指摘したのは古城なのだ。なのに、古城に見られていないと思うのは楽観的にもほどがあるだろう。

 それでも、問わずにはいられなかった。

 

「……先輩。見ましたか?」

「不可抗力だろ、今のは!」

「見ましたか?」

「ぐっ」

「見ましたか?」

「……はい。見ました」

 

 気圧された、というよりは、涙目になった雪菜に脅し掛けられるような形で、古城は正直に言った。

 すると雪菜は、元から赤くなっていた顔をさらに赤く染めて、

 

「……何か、言うことはありませんか……?」

 

 古城は、口にすべきことを迷いに迷って、

 

「……今日は、昨日履いてたヤツとは、違うパンツなんだな。その、青と白のストライプも可愛いとおも――」

「――若雷!」

「ぐほおっ!?」

 

 腹部を襲う強烈な衝撃と激痛。喉の辺りまでせり上がってきた朝食を何とか押し戻し、古城は床にもんどりうって寝転がった。

 ゲホゲホと咳きこみながら、古城は今しがた見た光景を反芻する。

 

 しましまだった。青と白の、しましまだった。

 

(丁度制服と同じ色なんだよな。可愛いな……)

 

 そう思い浮かべた瞬間、鼻の奥に疼きを覚えた。

 予想通り、鼻腔を伝う赤い液体と、口の中に広がる甘く金臭い味わい。

 

 蹲って鼻血をだらだらと流す古城を、雪菜は醒めた目で見下していた。

 その理不尽を呪いつつ、古城は差し込んでくる日差しに顔を顰め、仰向けになった。

 

「……勘弁してくれ」

 

 唇を歪め、古城はそう口にした。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「獅子王機関、って何だ……?」

「知らないんですか?」

 

 それから数時間後。市内のとあるファストフード店にて。

 古城と雪菜は場所を移して話を再開したのだった。

 

 ハンバーガーを両手で持って、小さな口で啄むように口に運ぶ雪菜の食べ方は、見ていて和む。

 しかし、彼女がこういう風にファストフード店への来店に慣れているというのは、少し意外だった。どことなく、いいとこのお嬢様っぽい雰囲気がある。

 

 聞けば、彼女は獅子王機関とやらの攻魔師育成機関、高神の森とかいうところで修業を積んできたらしい。

 そんなことを教えられても、そもそも獅子王機関のことを古城は知らなかった。

 

「獅子王機関とは、日本国の内務省、国家公安委員会に設置された特務機関で、大規模な魔導災害やテロを防ぐのが主な役割です」

「ほーん」

「もともとの源流(ルーツ)は平安時代に宮中を怪異から守護していた滝口武者です。そこでの役割の違いから派生して、今の獅子王機関もいくつかの部署に分かれています」

「ふーん」

「そこで、獅子王機関に属する剣巫であるわたしが、あなたの監視任務についたということです」

「いや待てそこがおかしい」

 

 小難しい説明は聞き流していた古城だったが、さすがにそれは看過できなかった。

 

 獅子王機関とやらが大規模魔導災害やテロを防ぐのが主な役割なのであれば、何故自分などという人畜無害な一般人に監視役を付けたりなどするのか。

 まあ確かに、世界最強の吸血鬼・第四真祖などという馬鹿げた体質を受け継いだりもしたが、今の古城はそれを振るうことなどしていないし、する気もない。

 そんな自分に、物騒な槍を持った監視役を送るなど、あれか。嫌がらせか。

 

 いっそのこと、何か本当に起こしてやろうか……。

 八つ当たり気味にそんなことを考えていると、ふと雪菜が、何か警戒するような視線を向けていることに気が付いた。

 

「なんだよ?」

「いえ、何か今、先輩が良からぬことを考えているような気がして……」

「お前はエスパーかなんかか!?」

 

 本気ではなかったとはいえ、あまりにモラルに欠けることを考えていたのは事実だった。

 焦りを露わにする古城に、雪菜は今日何度目かの溜め息を漏らして、

 

「わたしたち剣巫は霊視という力で対象の思考を一部読んだりできるのですが……先輩の場合は、分かりやすいだけだと思います」

「ぬぐ……」

 

 要するに、単純、と言われた訳だった。

 年下の、それも可愛い女子に言われると、そこそこ凹む。

 

 苛立ちを言葉にして吐き出すように、古城は舌打ち混じりに愚痴った。

 

「ったく、なんで俺なんかに監視が付いたりすんだよ……。無害な一般人だろうが」

「無害、という所は分かりませんが……少なくとも、一般人ではないと思います」

「その根拠は?」

「わたしの攻撃を軽々と捌くような人が、ただの一般人であるわけがありませんっ!」

 

 どこか拗ねたような表情と口調で言う雪菜。

 その子供っぽい様子に、思わず少し微笑ましい気分になる。

 

 それはともかく、と古城は憤慨して、

 

「つうか、俺が何かした訳でも、しようとした訳でもないだろ。いくら第四真祖だからって過剰じゃないか?」

「え、先輩……知らないんですか?」

「は? 今度はなんだよ?」

「吸血鬼の真祖は、その存在自体が一国の軍隊と同じ扱いなんです」

「は?」

 

 何だと? 信じ難い情報に、思わず目を瞬く古城。

 どういうことだ。自分たちは、というより他の真祖たちは、一体どういう滅茶苦茶な連中なのか。

 

 だが、若い世代の吸血鬼の眷獣でさえ、そこらの戦闘機では足元にも及ばないのだ。〝旧き世代〟の眷獣であれば、空母をまともに相手取っても勝利は揺るがない。

 確かに、真祖たちの強大な魔力と眷獣があれば、多国籍艦隊の一つや二つ簡単に潰せるだろう。

 そういった意味では、世界にとって脅威の存在であることは間違いない。

 

 まだ見ぬご同輩たちに思いを馳せ、また同時に、俺を巻き込むな、という苦情も含めて色々と言いたいことがある。

 

「俺は他の真祖どもとは違う。別に殺戮とか戦争を望んじゃいないし」

「そうですか……ですが、それでも先輩が強力な力を持っていることに変わりはありません」

「ぅ、そう、だな……」

 

 古城は、力なく眼を逸らした。なんとなく視線を合わせづらい。

 だが雪菜は、そんな古城を笑うこともなく、

 

「それに、今は考えていなかったとしても、これからどうなるかは分かりませんし」

「おい! 信用ないな、俺!」

 

 思わず叫ぶ古城。その言われ様は心外だった。

 ちっ、と、舌打ちをしつつ、古城は雪菜を見て、ふと気になったことを口にしてみる。

 

「……しかし、獅子王機関ってのは随分と情報が早いな。俺が第四真祖になってまだ三ヶ月程度しか経ってないってのに」

「はい? 第四真祖に、なった(・・・)?」

「ん? ああ、そうだ」

 

 何故か意外そうな顔をされた。

 獅子王機関が古城のことを知っているのであれば、そのことも知られていると思ったのだが。雪菜に伝えられていないだけか。

 と思ったが、違うようだ。何やら雪菜は混乱したような表情で、

 

「あ、あの、先輩? その言い方ではまるで、先輩は元は人間だったという風に聞こえるのですけど……」

「聞こえるも何も、実際にそうなんだよ。俺は三ヶ月前、四月まではただの――と言えるかはちょいと怪しいが、普通の人間だった」

「え、え? でも先輩は、真祖なんですよね?」

「一応、そうだな」

「それは、あり得ません」

「は、なんでだ?」

 

 混乱した様子から一転、急に断言した雪菜に戸惑いを見せる古城。

 そんな古城に、雪菜はまるで聞き分けない子供に言い聞かせるような口調で、

 

「いいですか、先輩? 真祖とは、遥かな太古に神々から不老不死の呪いを受け、その代わりに強大な魔力と強大な眷獣を授かった方々を指します」

「それぐらいは俺も知ってるよ」

 

 年下の少女に諭されるように言われて、古城は唇を歪めた。馬鹿にすんな、と言いたげだ。

 けれど雪菜は言葉を止めることはしなかった。

 

「人間が真祖になるには、神々から直接呪いを受けるしかありません。先輩、あなたに神々の知り合いがいるとでも?」

「いや、さすがに神様の知り合いはいねえよ。んな、コネもないしな」

「なら、どうやって第四真祖になったっていうんですか? 他に、人間が真祖の力を手に入れる方法なんて……」

 

 そこまで言って、雪菜は青褪めて言葉を切った。そして、恐怖を宿した目で古城を見てくる。

 思い至ったのだろう。呪いを受ける以外に、人間が真祖に変異する唯一の方法に。

 

「同族喰らい……。先輩、あなたはまさか、喰った(・・・)んですか!? 第四真祖を喰って、その権能を自分のモノに……!?」

「喰ったって……人をそんなゲテモノ喰らいみてーに言うなよ」

 

 フン、と、面白くなさそうに鼻を鳴らし、

 

「俺は押し付けられただけだ。この体質も、眷獣もな」

「押し付けられた? 一体誰に?」

「アイツ――先代の〝焰光の夜伯(カレイド・ブラッド)〟に」

「先代の、〝焰光の夜伯(カレイド・ブラッド)〟……!?」

 

 雪菜は驚愕し、切れ長の猫のような目を見開いた。

 そして、怒涛の勢いでまくしたてようとする。

 

「何故、先代の第四真祖が、先輩を後継者に選ぶんですか!? 先輩は先代の第四真祖とどういった関係で!? そもそも、どういった経緯で知り合ったんですか――!?」

「いや、それは――」

 

 向かい合って座っていたテーブルに身を乗り出して迫ってくる雪菜を押し返そうとした古城を、唐突に、激しい頭痛が襲った。

 コーヒーカップを手に保持していることすらままならない激痛だ。万力で締め付けられているような錯覚を覚える。目の端には涙すら浮かんでいる。

 古城は思わずテーブルの上で頭を押さえて蹲ってしまった。ぎりっ、と奥歯を噛み締める。

 

「せ、先輩?」

 

 いきなり黙りこくってしまった古城に、ただならぬ事情を察知した雪菜は心配そうに声をかけた。

 激痛に喘ぎつつも、古城は何とか言葉を返す。

 

「悪い、姫柊……。俺、には、その時の記憶が、綺麗さっぱりないんだ……。無理に思いだそうとすれば、このザマだ……ぐっ」

「そう、なんですか? 分かりました、なら仕方ありませんね」

 

 納得したように引き下がる雪菜を、古城は驚いたように見返した。

 

「信じて、くれるのか……?」

「先輩からは、嘘をついているような感じがしませんでしたし、それに――」

「それに?」

「なんとなく、思ったんです。暁先輩は、そんな嘘をつく吸血鬼(ヒト)じゃないって」

 

 そう言って、雪菜は淡く微笑んだ。

 まるで蕾が花開いたような微笑に、古城もつられて微笑んだ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「おかえり、古城君!」

「おう。ただいま、凪沙(なぎさ)

 

 市内のとある高層マンションの一室。そこが、古城の自宅だった。

 

 玄関で靴を脱いでいた古城を出迎えたのは、幼さを残した元気な少女の声だった。

 古城が視線を向けた先には、笑顔で手を振る活発で可愛らしい少女の姿が。

 彼女の名は、暁凪沙(あかつきなぎさ)。古城の実の妹だ。

 

 大きな瞳が印象的な、表情の豊かな少女である。

 結い上げてピンでとめた長い髪は、一見ショートカット風にも見える。

 顔立ちや体つきは、まだ少し幼い印象があるが、中学生の平均からはそう大きく外れてもいないだろう。

 

 今の凪沙の格好は、ショートパンツにタンクトップ一枚というあられもない服装であった。後ろで一本に束ねられた黒髪が、今日も元気に揺れている。

 手にはお玉が握られている。時刻は午後6時ごろ。どうやら、晩御飯の支度をしていたようだった。

 

「遅かったね、古城君。今、ご飯の支度してるから、ちょっと待っててねー!」

「分かった。サンキューな」

 

 パタパタとスリッパの音を響かせて台所に引っこんでいく凪沙を見送り、古城も部屋の中に入る。

 

 現在の暁家は、両親が離婚し母・深森と古城・凪沙兄妹の三人暮らし。しかし母は研究職で、ほとんど職場から帰ってこないため、実質は兄妹の二人暮らしである。

 また、古城はそこまで家事ができない。そのため、炊事や洗濯などのほとんどは凪沙が一人で担っている。

 

 大して物のない自室に入り、大きく息を吐き出す。

 そして、今日起こった出来事を反芻した。

 獅子王機関とやらから派遣されてきた、監視役を名乗る少女、姫柊雪菜のことを。

 古城の熱望してやまない、平穏な生活。どうやらその未来図に、少しだけ暗雲が立ち込めてきたようだ。

 

 はあ、と、溜め息を吐いて台所の方に向かう。

 そこでは、凪沙が鼻歌を歌いながら、料理の途中だった。もういい匂いが漂ってきている。

 楽しそうに鍋をかき混ぜていた凪沙は古城が来たことに気付き、パッと振り返った。

 

「あ、古城君。もう待ちきれなくなっちゃった? ちょっと待ってね、もうすぐできるから。あ、そうだ、手を洗ったらお皿出しててもらってもいい? 大きいの二つと小さいの四つね。洗濯物も中に入れといてくれるかな。後から洗濯もするから、古城君も洗濯するものがあったら、今の内に出しといて。それと――」

「待て待て、凪沙。一度に言うな。一つずつ言っていけよ」

 

 この口数の多さが、優秀な妹、暁凪沙の唯一ともいえる欠点だった。

 だが基本的に、それ以外はできないことはない。家事はもちろん万能、勉強の方も成績優秀、部活も頑張っている。

 愚鈍な兄とは違って、聡明でもある。

 

 妹から下された司令を、一つずつ処理していた古城に、ふと凪沙が話しかけてきた。

 

「そう言えば古城君。今度、うちのクラスに転校生が来るんだってー」

「……へ、へぇ」

 

 あまりにジャストタイミングな発言に、古城は一瞬固まった。

 

「凪沙も職員室で紹介されたんだけどさ、すっごく綺麗な娘だったよ! 睫毛も長くて髪もサラッサラで、背筋もぴしっとしてて声も綺麗で――」

「そ、そうか」

「でさ、古城君。古城君、あの娘と知り合いなの?」

「うぇ!?」

「あの娘と会ったときさ、古城君のことを聞かれたんだー。『暁先輩の妹さんですよね』って。それで、今日来たはずの転校生ちゃんとどういう関係なのか、凪沙気になるなー」

 

 凪沙の言葉を無視し、古城は腕を組んで考え込んだ。漠然と嫌な予感がする。

 

「で、お前はなんて答えたんだよ?」

「一応ちゃんと説明しておいたけど。あることないこと」

「なにぃ?」

「ウソウソ、本当のことしか話してないから。前に住んでた街のこととか、成績とか、好きな食べ物とか、好きなグラビアアイドルとか、あとは矢瀬っちとか浅葱ちゃんのこととか」

 

 淀みなく答える凪沙。古城は頭を抱えた。

 

「お前な……なんでそんなことを初対面の相手に話すんだよ?」

「だって可愛い子だったし?」

 

 悪びれない。予想された答えではあった。

 ただでさえ誰かと喋りたくて堪らない性格のこの妹に、秘密を守らせるのは至難の業なのだ。そのくせ本当に言いたいことは決して口にしようとはしないのだが。

 

「それよりも古城君! 結局、あの娘と古城君はどういう関係なの!? いつ会ったの? どこで会ったの? なんで知り合ったの? また会うの? 二人はどこまでいったの――!?」

「だー、うるせぇな! 何にもねぇよ!」

 

 興味津々と言った体で瞳を輝かせて質問攻めにしてくる妹をあしらいながら、古城は明日からの日常に思いを馳せ、深々と溜め息を吐いた。

 

「勘弁してくれ……」




 ようやくのモモ先輩です。古城の先輩です。
 凪沙ちゃんです。こんな妹ほしいです。

 書いてる途中で一巻が紛失し、途中から雑になっているかもしれません。温かく見守っていただけると幸いです。


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3 監視者の居る風景 ―Here Comes The Watchdog―

 申し訳ありません、だいぶ間が空きました!
 そんなこんなで第三話です。
 サツキが登場します。
 浅葱が登場します。


 その夢の中で、古城(フラガ)は疲れ切っていた。

 戦場で幾千幾万幾億と剣を振るい、幾千幾万幾億と敵を屠った、その帰り道。

 分厚い雲が天蓋となって塞ぐ空を見上げながら歩いていると、ふと蹄の音が聞こえ、一匹の白馬がやってきた。

 

 背には、身目麗しい少女の姿。

 海に星を撒いたような、煌めく青い瞳が印象的。

 仕立ての良い白いドレスを着ていて、そんな恰好で馬を駆るなど無作法にもほどがあろう。

 しかし、そんなものを笑い飛ばすかのような、勝ち気そうな雰囲気の少女だった。

 

「フラガ! フラガ兄様!」

 

 凛々しくも可憐な声で呼びかけられる声に、古城(フラガ)は微笑んだ。

 体の底に澱のように溜まった闘志や、殺気や、血臭を、全て丸呑みにしてしまうが如く。

 

「戦場に一人で来るなと言っているだろう、サラシャ」

「フラガこそ、一人で出陣しないでと何度頼んだら聞き分けてくれるの!?」

 

 少女――サラシャは馬から跳び下りると、熱烈に抱き付いてきた。

 激情に駆られたように声を上げ、煌く瞳にはじんわりと涙が浮かんでいる。

 

「そうね、フラガは聖剣の守護者だものね、最強の剣士だものね! あたしたちは足手纏いでしかないものね!」

 

 古城(フラガ)の胸を叩きながら、恨みごとをぶつけてくる。

 古城(フラガ)はただ頭を掻くだけ。無言の肯定。

 

「でも、それでも! 許してよ! あたしに、フラガのことを心配する不遜を許してよ!」

「不遜なものか」

 

 泣いてるくせに、精一杯背伸びして、睨みつけてくる少女。

 その頭を、古城(フラガ)は優しく撫でた。

 

「俺の方こそ許してくれ。お前に心配してもらえる、罪深き幸福を」

 

 そう言って古城(フラガ)はサラシャの目元に口付け、自分のために流してくれた涙を唇で啜った。

 少女の頬が薔薇色に染まる。

 

「俺は、お前を愛してる」

「あたしも、フラガを愛してる」

「お前が居るから、俺は戦えるんだ」

 

 血みどろの死闘は全て、この少女のためだけに。

 世界とはつまり、サラシャのことだ。

 

「これからもずっと、俺の無茶を心配してくれ。そうしたら俺も約束する。どんな苦しい戦場に赴こうと、どんな強敵とまみえようと、どんなに離れようと隔てようと神に引き裂かれる運命であろうと――」

 

 囁き、

 

「――俺は必ず勝利し、そしてお前の元に帰るから」

 

 耳まで真っ赤にした愛しい少女に、まるで二人の誓いを立てるように、優しく口付けを――

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……久しぶりに見たな、あの夢」

 

 カーテンから差し込む眩い朝日に目を眇めつつ、第四真祖・暁古城は起床した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 暁古城の自宅があるのは、アイランド・サウスこと住宅が多く集まる絃神島南地区。九階建てのマンションの七階だった。建築物の高さが厳しく制限された人工島(ギガフロート)内では比較的背の高い、見晴らしのいい建物の一つだった。

 

 夏休み最後の日だったが、古城には生憎追試があり、今日も学校に赴かなければならなかった。

 冷房の効かないエレベーターから死にそうになって出てきた古城は、ゆらゆらと陽炎が立ち込めるアスファルトに、見覚えのある後ろ姿があることに気が付いた。

 彩海学園の制服を着て、ギターケースを背負った少女だった、

 

「あ……先輩」

「姫柊、ずっとここに立ってたのか? まさか、俺を見張るために……?」

 

 何か、ストーカー的な執念を感じて、古城は不安になりながら訊いてみる。

 と言うか、振り返って、こんにちは、と生真面目な口調で挨拶する雪菜の首筋や顔に汗の一つも浮いていないのが、魔族である古城よりもよっぽど人間離れしていてちょっと怖い。

 果たして雪菜は、無表情に古城を見返して、

 

「はい。監視役ですから」

「マジか、おい!?」

「冗談です」

 

 クス、と小さく笑う雪菜。妙に冷静な口調のせいで、どこまで本気かが分からず心臓に悪い。

 唇を歪めて黙り込む古城に、ふと雪菜は何かを思いついたように顔を上げた。

 

「そうだ先輩、その段ボール箱、部屋に運んでもらえませんか?」

「これか? いいぞ――って、待て。姫柊、部屋ってどこだ……?」

「こちらのマンションの、七〇五号室ですが」

「ここなのかよ!? しかも七〇五号室って、俺ん家の隣じゃねえか!」

 

 思わず叫ぶ古城に、雪菜は不思議そうに首を傾げた。

 古城はイライラと頭を掻いて、

 

「それも獅子王機関の命令ってやつかよ?」

「はい。先輩が住んでいるからだと思いますが……」

「理由は聞いてねえよ! そう言えば、先週七〇五号室の山田さんが急に引っ越していったのも、お前らがなんかしたのか!? この島で平和に暮らしてる全島民に謝れ!」

「あ、い、いえ。前の住人の方には、きちんと立ち退き手数料を払って引っ越していただいたと聞いています。転居先も同等以上の住居を用意した、と」

「ならいいが……」

「曲がりなりにも、政府機関のやることですから」

「そういやそうだったな」

 

 ロクに挨拶したこともないとはいえ、かつての隣人一家が自分のせいで不幸な目に遭ったりしたら、さすがに寝覚めが悪い。ホッと胸を撫で下ろした。

 仕方ない。息を吐き、古城は雪菜の足元に置かれた段ボール箱を三つ一気に持ち上げた。

 吸血鬼の超人的な膂力など、どうせ日常生活ではこのような場面しか役に立たない。

 

「あの、一つぐらい持ちましょうか?」

「いや、いいさ。このぐらいどうってことないし」

 

 気づかわしそうにする雪菜に笑いかけてから、古城は雪菜を連れてエレベーターに乗り込む。

 雪菜が迷いなくエレーベーターの七階のボタンを押す姿を見て、複雑な気持ちになる古城。

 やはりエレベーターの中は熱気がこもって、すこぶる不愉快だ。

 古城が暑さに辟易としている内に、やがてエレベーターは七階に到着して、扉が開いた。

 

「なぁ、もしかして、姫柊の荷物ってこれだけか?」

「はい、そうですけど……」

 

 玄関の鍵を開ける雪菜に、古城は思わずそう訊ねた。

 

 雪菜の705号室は、古城たちが住んでいる704号室と同じ造りの3LDKだった。

 家族で暮らすには少々手狭だが、一人で暮らす分には持て余すくらいの広さがある。何一つ家具がないせいで余計に寒々しい。

 

「学生寮に住んでいたので、あまり私物を持っていないんです。……一応生活に必要なものは、あとで買いに行くつもりだったんですけど……」

「……俺を監視しないといけないから、買いに行く時間がない、って?」

「ええ、まあ。任務ですから……」

 

 真顔で頷く雪菜を見て、古城は呆れたように息を吐いた。

 しかしこのままでは、夜辺りこの娘は段ボールにでもくるまって寝るのではなかろうか。何しろ布団すらないのだ。

 あまりにも殺風景な雪菜の部屋を見回して、古城は再び嘆息し、

 

「だったら、俺が姫柊の買い物に一緒に行けばいいのか?」

「先輩と一緒に……ですか?」

「それなら問題ないだろ?」

「それは、そうですけど……でも先輩はいいんですか?」

「昼過ぎまでは追試があるけど、その後でよければ付き合ってやるよ」

 

 古城は時計を確認しながら言った。予想外のイベントで時間を大分ロスしてしまった。そろそろ登校しないと、担任兼英語教師にしばかれる。

 

「そうですか。そういうことでしたら、先輩の試験が終わるまで校内で待ってます」

 

 そう言って雪菜は、少し嬉しそうに微笑んだ。そして、〝雪霞狼〟とか呼ばれていたあの妙な槍の入ったギターケースを再び背負い直す。

 

「なあ。その槍……買い物に必要なのかよ?」

 

 顔を顰めて古城は訊いた。帰ってきた答えに、さらに顔を顰め、溜め息を吐きだした。

 

「もちろんです。任務中ですから」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「まあよかろう。明日からは授業だ。ちゃんと出席しろよ」

「うっす。あざした、那月ちゃ――痛でっ!」

「教師をちゃん付けするな!」

「す、すんませんでした……」

 

 予想通りしばかれた。理由は違ったし、完全に古城の自業自得ではあったが。

 

 やれやれと首を振りつつ、雪菜との待ち合わせ場所に向かって廊下を歩いていると、不意に甲高い少女の声に呼び止められた。

 

「古城ー! 久しぶりー!」

 

 いきなり名前を大声で呼ばれ、古城は面食らい振り返る。

 手をブンブンと振りながら、自分の方に駆け寄って来る少女を認めて、古城は頬を緩めた。

 左でまとめたサイドテールを振り乱しながら駆け寄ってきた少女は、そのまま古城の胸へと、勢いよくダイブした。

 

「兄様っ!」

「ぐほっ!」

 

 その行動を予期していなかった古城は、胸に特大の衝撃を受けて押し倒されそうになった。

 何とか踏ん張ってこらえたものの、少女はさらに、胸元に埋めた頭をすりすりすりすりと、それはもう盛大に擦り付けてきた。

 そんな〝妹〟の姿に、古城は苦笑を浮かべながらも、頭に手を載せて撫でてやった。

 

「ったく、いきなり抱きついてくんなよ――サツキ」

 

 言うと、少女――サツキは勢いよく顔を上げた。それによって、眼前、お互いの息がかかるほど目の前に美しい少女の顔が近付いて、古城はドキッとした。

 夜空に星を撒いたような、煌めく瞳が印象的。

 

「だってだって、この夏休み、全然会えなかったんだもの! 愛し合う兄妹の感動の再会なんだから、このぐらい大目に見てよ、兄様!」

「色々と言いたいことはあるが――まず俺たちは愛し合ってなんかいないし、兄妹でもない。俺の妹は凪沙だっつの」

 

 サツキは古城の同級生、フルネームで嵐城サツキ。

 あまり体に凹凸はないが、顔立ちは愛らしく、十分に美少女と言えるだろう。

 同い年で、当たり前だが古城の兄妹などではない。

 

 だが、

 

「何言ってるのよ、古城(フラガ)! あたし(サラシャ)は兄様の妹でしょ?」

 

 そう、サツキはサラシャ。

 古城ではなく、古城の前世であるフラガの妹だった。

 それを知った最初の頃こそ戸惑ったが、今ではもう慣れた。

 

「妹なんだから、こうして抱きついてても文句はないわよね?」

 

 こんな調子で何度も妹、妹と連呼されればさすがに慣れる。

 とはいえ、過度なボディタッチは避けて欲しいところではあるのだが。うっかり吸血衝動に襲われたらどうしてくれる。

 

(まあ、コイツがあんまりない(・・)ってのは救いか……)

 

 いやに平たいそれを押し付けられながら、古城は恐ろしく失礼なことを考えた。

 

「誰がまな板よ!」

「そこまで言ってねえよ!」

「そこまでってどこまでよ! どこまで言ったの!?」

「しまった、口が滑った!」

「しまったって何!? 可愛い妹に抱き付かれて何考えてたのよ、兄様の馬鹿! あたしの兄様失格よ! 兄様ならあたしが抱きついたら優しく抱き締め返してから、ちゅーって愛情をこめてキ、キキキキスしてくれるもの!」

「兄様失格って何だそれ……。免許でもあんのか。つうか、フラガはお前に何をしてたんだマジで……」

 

 自分で言って自分で赤面するサツキに苦笑しながら、続いた言葉に、本気で困惑するように古城は頭を掻いた。

 少なくともまともな、例えば古城と凪沙のような世間一般の兄妹ではなかったのは確実なようだが。

 

 実は古城には、前世の記憶のほとんどがない。

 断片的に、たまに夢で見るような一幕や、通力(プラーナ)魔力(マーナ)を用いた戦い方、自分がどういう立場に居たかなどは思い出しているのだが。

 しかしまだサラシャや、冥王シュウ・サウラの隣に居た女――冥府の魔女とのことなどは、ほとんど思い出せていない。まるで硬く蓋がされているかのように。

 そのくせ、危機的状況に陥ったりすると勝手に頭に蘇ってくるのだから、どうなっているのかはよく分からない。

 

 だが、サツキの方には随分とはっきりとした記憶があるようで、しばしば今のような言動をして古城を戸惑わせている。

 

(というか前世の自分よ、お前、実の妹に何をしてんだ何を……)

 

 サツキから前世の話を聞くたびに、古城はそう思うのだった。

 しかもサツキ、またはサラシャが、全く嫌がっていないようだから始末に負えない。サツキに至っては、自分から積極的にアプローチをしてくるため、毎度毎度大変なのだ。主に自制心的な意味で。

 

「古城、今から暇? 暇よね? 暇ね。あたしとデート行かない?」

「俺の都合を聞いてきたくせに返事を待たずに断定すんなとか、デートとか言うのはどう考えても不適切だとか、言いたいことはいろいろあるが、今日は無理だ」

「何で!?」

 

 溜め息を堪えつつ言うと、サツキは目を剥いて叫んだ。その表情が本当に悲しそうで、罪悪感が刺激されるが仕方ない。

 これから雪菜と一緒に、彼女の日用品を買いに行くのだ。どうにも億劫だが、段ボールの布団にくるまって寝る美少女とか哀れにもほどがある。

 なので、出来るだけ言い聞かせるように古城は言った。

 

「今日はこれからちょっと用事があるんだよ。だから今日は無理だ。悪いな」

「……用事って何よー。最愛の妹との感動の再会を祝うこと以上に大事な用があるっていうの?」

 

 突っ込み所が多かったが、グッと堪えた。話を混ぜっ返す気はない。ジト目で睨んでくるが気にしない。

 しかし、サツキに雪菜のことを話していいか迷う。もっと言うと、どこまで話していいか。

 後輩、凪沙のクラスに入ってくる転校生というところまでだろうか。古城を監視するために来た獅子王機関とやらの攻魔師というところまで話していいものか。

 

 古城がうんうん悩んでいると、サツキが何かを察したように、ジト目の温度をさらに下げて睨んできた。

 

「もしかして、兄様……あたし以外の女とデートとか言うんじゃないでしょうね!?」

「違ぇよ! ちょっと一緒に買い物に行くだけだ! ……あ」

「……やっぱり」

 

 しまった。本日二度目の口が滑った。

 抜群の気まずさに古城が目を逸らすと、サツキは涙目になって叫んだ。

 

「何よ! あたしとのデートを断っておいて、他の女とデートに行くだなんて、信じられないわ! 兄様の馬鹿!女誑し! スケコマシ!」

「おい、おい、ちょっと落ち着けって。そもそもデートじゃねぇし、ここ学校の廊下だから……!」

 

 今更だが、今までの会話は誰かに聞かれていたら、誤解を受けそうな気がしてならない。

 バッと慌てて周囲を注意深く見渡し、人の気配を探る。幸運なことに、周囲には誰も居ないようだ。職員室との距離もまだある。

 古城がホッと息を吐いている間に、憤慨していたサツキは何かを決心したかのように、古城を強く見上げて、

 

「決めたわ。誰とどこに行くか知らないけど、あたしも付いて行ってあげる!」

「はぁ!?」

「デートじゃないって言うんなら、あたしが付いて行ったって構わないわよね? デートじゃないんなら!」

「お、おう……」

 

 サツキの異様な気迫に押されて、思わず頷いてしまった古城だった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「そういやお前、何で学校に居るんだ? 補習とかなかっただろ?」

「部活よ、部活。偉い子のサツキちゃんは夏休み最終日の今日も練習に精を出してるの」

「自分で言うかよ……」

 

 ちなみにサツキが所属するのはチアリーディング部である。

 

 二人は、古城が雪菜と待ち合わせている校門前に向かっていた。

 一度教室にサツキの荷物を取りに帰って、現在地は靴箱。上履きから外履きに履き替えながらの会話だった。

 見るからに重そうなエナメルバッグを肩にかけているくせに、器用にも上体を全く動かさずに靴箱から靴を出して履いている。

 

「それで、ホントにデートじゃないのよね?」

「しつこいな。さっきから言ってんだろ? 今度凪沙のクラスに転入してくる娘で、丁度家が隣の部屋だったから、日用品とか買いに行くのを手伝うだけだって」

「それからしておかしいじゃない。何で、ただお隣さんなだけの古城が買い物を手伝うのよ」

「ぐ……それは、色々と事情が」

 

 事情が事情だけに軽々しく口にできず口ごもる古城。

 あまりにも怪しい古城の様子に猜疑心を露わにして眼を細めるサツキだったが、詰問を始めようとする前に正門前まで辿り着いた。

 

 そのことに気付いた古城が顔を上げて辺りを見回すと――居た。正門横の木陰に、校庭をじっと見つめてただずんでいる少女の姿がある。

 どうやらあそこで涼んでいたようだ。ここで待つと言われた時に古城は流石に暑いだろうと思っていたのだが、律儀にもずっと外で待っていたらしい。

 しかし、朝にも思ったが、この蒸し暑さの中で汗一つ掻いていないのが怖い。熱さを軽減する術でも身に着けているのだろうか。

 

 その術が俺にもあれば……と、燦々と降り注ぐ日差しに忌々しげに舌打ちしたところで、少女――雪菜が古城たちの姿を認めて歩み寄ってきた。肩にはギターケース。中身を思い出してさらに辟易する。

 

「補習お疲れ様です、先輩。……それで、あの、そちらの方は?」

「ん、ああ。コイツは、俺のクラスメイトの嵐城――」

「信じらんない!」

 

 いきなり叫び出したサツキに、古城と雪菜は揃って目を見開き、一歩後退った。奇行はいつものことだが、今度はどうしたというのだろう。

 そんな失礼なことを古城が考えていることは知る由もなく、二人のリアクションも気にせずに、いや、むしろその息の合ったリアクションにさらに目尻を吊り上げて、サツキは怒鳴り始めた。

 

「信じらんないわ、兄様!」

「いや、何がだよ……」

「デートじゃないとか言っておきながら、何、この娘!? すっごく可愛いじゃない!」

「……あ、ありがとう、ございます……?」

 

 初対面の先輩にビシッと指差されて、怒ったような口調で褒められたことに混乱したのか、少しズレた答えを返す雪菜。

 サツキはさらに憤慨して、

 

「どういたしまして! ……兄様ったら、あたしとのデートを断ってこんな可愛い年下の娘と買い物に行こうって言うワケ!? 見損なったわ、兄様!」

「お、おい、ちょっと落ち着けって」

「そりゃ、こーんな娘とデートする予定だったんなら、あたしなんかどうでもいいんでしょうね! 兄様の馬鹿! 年下好き! ロリコン! シスコン!」

「デートじゃねえって言ってんだろ! あと最後の何だ、誰がロリコンだ!」

「で、デート!? 先輩と、わ、わたしが……!?」

「待て姫柊、落ち着け。これはデートじゃない、断じて違う!」

 

 サツキから思わず流れ弾を喰らい、雪菜は古城に視線をやって、ここにきてようやく今から自分たちが何をしようとしていたのか理解したのか、耳まで顔を赤く染めて俯いた。

 確かに、同じ年頃の男子と買い物に行くというシチュエーションは、デート以外の何物でもなかろう。

 必死に否定しようと古城が叫ぶも、雪菜には聞こえていないようである。パンツを見られても気丈としていた初対面の時の彼女はどこに行ったのか。

 

 そしてサツキは、未だにエキサイトしているようだった。

 

「シスコンは否定しないワケ!? ……も、もう、そんなに妹が好きなら、あたしに言ってくれれば……」

「自分で言ったことに対してモジモジすんな、気色悪い。俺の妹は凪沙だって言ってんだろ」

「兄様の馬鹿ー!」

「なぜ!?」

 

 目をバッテンにして首を絞めようとしてきた前世の妹を全力で捕まえながら、古城は思わず深々と溜め息を吐いた。

 

 陰鬱とした表情で少女を羽交い絞めにしている男子高校生。ほとんど涙目になりながら男子高校生の腕の中でジタバタと暴れる女子高生。未だに顔を赤くして俯き、何事かブツブツと自分に言い聞かせている女子中学生。

 夏休み最後の日の、とある高校の正門前での出来事だった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 そんなこんなの大騒ぎの後、なんとかサツキを説き伏せた古城が雪菜とサツキを連れて向かったのは、近場のホームセンターだった。その店内に入った途端、雪菜は目を丸くして固まった。

 特に変わった店ではない。本土から遠く離れた学究都市である絃神島には怪しげな道具や薬品を扱う闇店舗も多いが、それらに比べればごく健全な日用雑貨店である。

 

 しかし雪菜は、これまでホームセンターという場所を訪れたことがなかったらしい。

 古城とサツキが珍獣を見るような目で見守る中、雪菜は陳列された商品を露骨に警戒の表情で眺め、

 

「これは何と言う武器ですか? (メイス)の一種のようですが」

「それはただのゴルフクラブよ! 勝手に物騒なものにしないで! 日用雑貨店に、んなモン売ってる訳ないでしょ!? ファーに人の頭でも乗っけるつもり!?」

「そうですか。では、この火炎放射気のような重武装は……」

「高圧洗浄機ね!? 出すのは火じゃなくて水よ! 車を燃やしてどうすんのよ、爆発するわよ!」

「これは間違いなく武器ですね。映画で見たことがあります」

「ぶ、武器って……。まあ、チェーンソーはゲームとかでもよく武器になってるけど。だからって、ダメよ? 人に向けたりしたら。斬るっていうか割るから」

「あ、これも習いました。こんなものまで販売しているとは、恐ろしい店です」

「ただの洗剤でしょ……?」

「はい。確か毒ガスを発生させるために使うものですね。酸性の薬剤と塩素系の薬剤を混ぜることで――」

「違うわよっ! そういう使い方をしちゃダメよ絶対! ここ、書いてあるでしょ!? 混ぜるなキケンって! 何で書いてあるか分かる? やっちゃいけないからよー!」

 

 何気にサツキのノリがいい。

 天然なのかボケなのか判断がしにくい真顔の雪菜に、息を激しく荒げながらもしっかり一つずつツッコんでいた。

 

 古城は感心した。いつも馬鹿なことばかりやっているが、基本的には要領が良く、面倒見がいい。それが嵐城サツキなのだった。

 この分ならば、古城はただ荷物持ちに専念しておけばよさそうだ。

 待たされるだけと言うのもそれなりに辛いが、あの天然すぎる雪菜の買い物に付き合うのがどれほどの重労働か、肩で息をして疲弊した様子のサツキを見れば一目瞭然である。

 部活の練習直後にこれだ。完全に消耗し尽くしている。

 

 一方の雪菜は、随分と楽しそうな表情を浮かべていた。どうやらホームセンターがすっかり気に入ったらしい。

 単純に、こんな風に誰かと買い物をするのを楽しんでいるという風にも見える。

 

「……古城」

 

 少し微笑ましく感じながら二人を見ていると、不意にサツキが、ゆらゆらとした幽鬼のような足取りで古城の方に向かってきた。

 その姿が割と本気で怖く、古城は思わず仰け反った。

 

「ど、どうした……?」

「……あたし、決めたわ」

「な、何を……?」

 

 震えながら訊くと、サツキは、まるで我慢ならないというように肩を震わし、くわっと顔を上げて、

 

「あたし、あの娘に常識を叩き込んでみせる!」

「…………お、おう?」

 

 キリッと。妙に真剣な表情で両の拳を握り宣言するサツキ。

 しかし古城はいまいち意味が理解できず、首を傾げるばかり。

 雪菜と言えば、いきなり古城の方に向かったサツキが、何やらよく分からない――自分が原因だとは夢にも思っていない――気迫を出したことに混乱するばかりだ。

 

「だってあの娘! びっくりするくらい常識がないと思わない!?」

「ああ、まあ……」

「え……」

 

 曖昧に頷く古城と、地味にショックを受けたような声を漏らす雪菜。やはり自覚がなかったらしい。

 そんな二人の、あまり芳しいとは言えない反応にも動じず、というより気にせず、サツキはさらに続ける。

 

「だからあたしは決めたの。あの娘――姫柊さん、だっけ。姫柊さんに、せめて! 最低限! これだけは! っていう一般常識を教えるわ」

「そ、そうか。頑張ってくれ」

「あ、あの、嵐城先輩? わたし、そんな風に言われるほど常識がないとは思わないのですけど……」

「ゴルフクラブ見て武器とか言ったり、高圧洗浄機見て火炎放射気とか言う女子中学生は絶対あり得ないわよ」

「……うぐ」

 

 雪菜が控えめに否定しようとしたが、冷静極まる意見に一撃で叩き落とされた。

 肩を落とす雪菜の手を引っ張って店内を案内するサツキを見て頬を緩めつつ、古城もその後に続いた。

 

 戸惑いをみせた雪菜だったが、サツキに無理矢理引き摺り回されながら、どこにでもあるような何の変哲もないホームセンターを見て回る彼女は、随分と楽しそうに見えた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「そう言えば支払いの方は大丈夫だったのか、姫柊? 結構買い込んでたみたいだけど」

 

 店を出て、サツキも連れて駅へと向かう道すがら古城は訊いた。雪菜は淡々と頷いて、

 

「はい。必要経費を前払いしてもらった支度金がありますから」

「ああ、そういうことか」

「え? 支度金ってどういうこと?」

 

 古城は特に疑問もなく頷いたが、彼女が見習いの攻魔師だと知らないサツキは不思議そうにしていた。

 すぐにいい訳を用意できる筈もなく返答に困りうろたえる古城と雪菜だったが、助け船は予想外のところから出された。

 

「――古城?」

 

 目の前で誰かの驚く声がした。

 

「え?」

 

 名前を呼ばれた古城が反射的に顔を上げる。そこに立っていたのは、人目を引く華やかな容姿の女子高生だった。

 華やかな髪型と、校則ギリギリまで飾り立てた制服。センスがいいのか、それでも不思議とけばけばしい印象はない。とにかく目立つ容姿の女子である。

 黙っていれば文句なく美人なのだが、常に浮かべているニヤニヤ笑いのせいか、色気はなかった。そのおかげで古城は男友達と居るような気やすさを感じるのだが。

 

「あれ、浅葱? 何でここに? お前ん家ってこっちじゃないよな?」

「うん。バイトの帰りだから……こないだ頼まれた世界史のレポートを、古城の家まで持ってってあげようと思ってたんだけど……」

 

 なぜか今は、いつもの調子で話しかけた古城に、警戒したような態度で答えてくる。

 彼女の視線が注がれているのは、古城がぶら下げている、カーテンやバスマット、スリッパにコップ、歯ブラシなどの生活感溢れる荷物たち。

 

 そして浅葱は、古城の両隣を固める雪菜とサツキ、とりわけ雪菜の方に目をやり、

 

「そっちこそ、なんで嵐城さんと一緒に居るわけ? あと、その娘、誰?」

「ああ、姫柊か。えーと、今度うちの中等部に入ってくる予定の転校生」

 

 古城は気楽な口調で雪菜を紹介した。ぺこりと頭を下げる雪菜を、浅葱はじっと見て、

 

「どうしてその中等部の転校生と、古城が一緒に居るわけ?」

「いやそれは……そ、そう、姫柊は凪沙のクラスメイトなんだよ」

「凪沙ちゃんの?」

「ああ。何か転校の手続きに来たときに凪沙と知り合ったみたいで」

 

 雪菜が国の特務機関の人間であることや、古城を監視しに来たことは秘密にしておく約束だったので本当のことを言う訳にも行かずに、古城は何とかそれらしい言い訳を捻り出した。

 そもそもそれを語ったところで浅葱が信じてくれるとも思えないが。

 

 浅葱は不審そうに眉を寄せたまま、

 

「それで古城は、凪沙ちゃんにその娘を紹介してもらったってこと?」

「まあ、そうかな」

「綺麗な娘だよねー」

 

 浅葱が古城に顔を寄せ、小声で言った。いつもと同じニヤニヤ笑いを浮かべてはいるが、目が笑っていない。

 

「だよな」

 

 深く考えることもなく適当に相槌を打つと、浅葱はピキ、と頬を引き攣らせる。古城は少し慌てて言葉を付けたした。

 

「……って、凪沙も言ってた」

「ふーん。そっか。……で? 嵐城さんは何で居るの?」

「ん、ああ。サツキはチア部の練習があったらしくて、丁度補習終わった帰りに偶然会って――」

「何よ、藍羽? あたしと古城が一緒に居ることに何か文句でもあるワケ?」

 

 古城が丁寧にしようとしていた状況説明をぶったぎり、サツキが意地の悪い笑みを浮かべて古城の腕に自分の腕を絡めてきた。

 突然のことと、二の腕に当たる女子特有の柔らかい感触に古城が動揺し、浅葱は作り物めいた笑みを消し、今度は先程よりも顕著に頬を引き攣らせた。

 

 そして、無理に笑顔を作ろうとして失敗したような笑顔で、サツキと古城を睨みつけてきた。

 

「ベ、別に文句はないけどさ……。ちょぉっと、距離感がおかしいんじゃないの? 恋人でもないくせに」

「あーら失礼ね。たかだか友達程度のアンタにとやかく言われる筋合いはないわよ?」

「ぐくっ、それを言ったら、嵐城さんも同じでしょうが!」

「あたしは兄様の妹だからいいのよ! 兄様の最愛にして魂の妹ですから!」

「また前世が何とか、ってやつ? いい加減にしなさいよ、古城が迷惑してるのが分からないわけ?」

 

 いや、少なくとも前世の妹であることは間違いないのだが。そんな益体もないことを考えて古城が現実逃避しなければならないほど、睨みあう二人の間の空気は険悪なものだった。

 学校でもこの二人はあまり仲がいいとは言えないのだが、なぜか今はそれが爆発したかのように火花を散らせている。

 どうでもいいが、自分を挟んでやらないでほしい。自分が元凶だなどと一切考えていない古城は、他人事のように祈った。

 そして、見事に置いてけぼりになった雪菜は、諦念に満ちた古城に心配そうな視線を向け、目の前で繰り広げられる熾烈な争い(女の戦い)にオロオロするばかり。

 

「大体ねえ、あなたみたいなまな板に擦り寄られても古城が痛いだけでしょ!?  もっと気を遣いなさいよ!」

「ハァッ!? どぅあれが、まな板ですってぇ!? 失礼しちゃうわね、十分柔らかいわよ!」

「へぇ? そうかしらねぇ? ――なら古城、こ、これはどう?」

「ちょっ、おい!?」

 

 唐突に、サツキが抱きついているのと逆の方の腕、左腕に、浅葱が抱きついてきた。

 細い体のくせに出る所はちゃんと出ている浅葱の、制服越しにも分かる以外に豊かなソレの感触が二の腕に伝わってきて、古城は動揺する。

 よく見ると浅葱の顔にも若干赤みが差していて、本人も恥ずかしがっているのは明白だった。

 

 そんなに恥ずかしいんならやらなきゃいいのに、と古城は思ったが、浅葱は腕を離そうとはしなかった。

 どころか、古城に緊張を帯びた不安げな上目遣いを向けて、

 

「……そ、その、どう? 気持ち、いい?」

「う、あ、いや……まあ、それは……はい」

「……そっか」

「……お、おう」

 

 どぎまぎしながら何とか古城が返すと、浅葱は安堵したように息を吐いた。

 しかしそれでも腕を離そうとはしない。自分から望んだわけではないが、女子と密着することになってしまった。

 左腕に抱きつきながら、二の腕にコツンと額を預ける浅葱の姿に、いつもは感じない女の子らしい可愛らしさを古城は実感した。

そして、上から見下ろす形となって、図らずも浅葱の細く綺麗な首筋が見えた。

 しみ一つない綺麗な皮膚の、その下にうっすらと浮かび上がる青白い血管も――

 

「……ぐふっ」

 

 鼻血を噴いた。

 

「ちょっ、古城!? 大丈夫!?」

「……あ、ああ。大丈夫だ」

 

 くそっ、と古城は毒づいた。

 喉に強烈な渇きを感じて、犬歯が激しく疼いた。吸血鬼の吸血衝動が襲ってきたのだ。

 

 力なく手を振って鼻血を抑えようとする古城の手を、浅葱がそっと押さえた。

 ポケットティッシュを一枚取り出し、赤くなった古城の鼻の辺りを甲斐甲斐しく拭き取ってくれる。

 

「まったく……馬鹿ね」

 

 そう言う浅葱の顔には先程までの厳しさなどなく、若干の呆れと優しさに包まれていて、古城は咄嗟に返事が出来ない。

 結局、浅葱が手を放すまで黙って身を任せるしかなかった。

 

 勢いよく噴き出した鼻血のおかげで吸血衝動は治まったが、浅葱の顔をまともに見れない。

 それでも何とか礼を言おうと顔を上げて――古城は凍りついた。

 

 浅葱に敵対心に塗れた視線を向けていたサツキが、どうしていいか分からずにオロオロしていた雪菜が。

 一様に、不審と軽蔑を宿した瞳で古城を見つめていたのだ。

 

「変態……」

「先輩……」

 

 何か言い返そうとして、古城はようやく、周囲から向けられる数多くの視線に気付いた。

 考えてみれば、ここは絃神島を繋ぐモノレール乗り場。そして今は夕方、夏休みとはいえ帰宅するサラリーマンなどで混雑する時間帯である。

 そんな公衆の面前で、古城たちは先程のようなアホらしい言い争いをしていたのだ。

 

 古城はもう、何もかも投げ出したくなり、天を仰いだ。

 

「勘弁してくれ……」

 

 古城のその呟きは、車両が到着したことを知らせるアナウンスに掻き消されて、誰の耳にも届くことはなかった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 そのような一悶着がありはしたが、結局古城たちは浅葱と別れ、なぜかひっついてきたサツキを連れて古城の住むマンションへ向かった。

 タイミングよく帰ってきた凪沙の誘いにより雪菜の歓迎会が開かれることになり、凪沙が持ち前の快活さで雪菜を押し切り、手際よく家族の許可を取ったサツキも参加。

 その夜は、久しぶりに暁家の部屋から賑やかな声が聞こえてきたのだった。




 例のごとく、次まで間が空きます。
 申し訳ありませんが、お待ちいただければ幸いです。


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4 戦いの狼煙 ―War Signal―

 お久しぶりです、侍従長です。
 第四話、お楽しみください。


 この日、暁家で行われた、雪菜の歓迎会。

 凪沙たち(・・)が用意した夕食は、少なく見積もっても軽く七、八人分はあったはずだが、古城、サツキ、雪菜、凪沙は旺盛な食欲を発揮し全て完食。

 

「はー……食べたねえ。もう動けないよ」

 

 薄っぺらいキャミソール姿でリビングのソファに寝転がる凪沙。

 後片付けを手伝おうとする雪菜を大丈夫大丈夫と強引に自宅に追い返し、名乗り出たサツキとともに和気藹藹と皿を洗い、台所を綺麗に磨き上げたところで力尽きてしまったらしい。

 

「ほらほら、凪沙ちゃーん。こんなトコで寝てたら風邪引くでしょー」

「んー、ごめんなさぁい、サツキお姉ちゃん」

 

 幸せそうにお腹を押さえる凪沙に、サツキはいつになく優しげな、慈しむような口調で言った。

 めくれあがって白いお腹が丸見えになっていたキャミソ-ルの裾を、優しくなおしてやるサツキ。

 その光景を古城は微笑ましそうに眺めていたが、凪沙の発したサツキを呼ぶ呼称に、ふと眉を顰めた。

 

 意外に思われるかもしれないが、サツキと凪沙、つまり古城の前世の妹と、現世の妹はそこまで仲が悪くない。むしろかなり仲がいい方だ。

 古城にはよく分からないのだが、以前二人を引き合わせた途端に、何故か即座に意気投合。今では古城を介して連絡を取り合い、たまの休日は一緒に遊びに行ったりしているらしい。

 

 彼女たちの仲がいいのは喜ばしいことだが、凪沙がサツキのことをお姉ちゃんと呼ぶのは、本当にやめて欲しい。

 ただでさえ本当の妹ではないのに、執拗に妹だと主張してくるサツキに困惑しているのに、さらに凪沙を妹のように扱われては、本人の意思に関係なくそういうことになってしまいそうだ。

 

 ちなみに、二人の仲がいい理由を古城なりに考えてみたのだが、古城の中で最も有力な説として、『両者ともに、口数が多く面倒見がいい』というものが挙げられた。

 

 以下、二人仲良く台所に立ったサツキと凪沙、二人の妹の会話から抜粋。

 

『サツキお姉ちゃん、寄せ鍋だけど、量とか大丈夫かな。古城君は問題ないけど雪菜ちゃんに食べられないものがないか心配なんだよねえ。やっぱり真夏に冷房をガンガン効かせて食べるお鍋は贅沢な感じがしていいよねえ。あ、そうそう、味噌味と醤油味はどっちがいいかな? お出汁もいっぱいあるんだけど』

『そうねー。古城は結構何でも食べるしいっぱい食べるから量は多めでもいいと思うわ。どうせ鍋なんだから、全種類食べなきゃいけないなんて決まりはないわ。確かにね、この島はいつも夏だから割と微妙だけど、アッツアツのお鍋をキンキンのクーラーつけながら食べるって言うのもアジがあっていいわね!』

『でしょ!? なのに古城君ってば、夏に鍋とか馬鹿じゃないのかとか、電気代の無駄だろとか、そんなことばっかり言うんだもん! 分かってないんだよね、古城君って! 他にも、お前が作ると具がごちゃごちゃで訳分からなくなるとか! そんなに言うんなら自分で作ればいいのに』

『エー、やっぱり古城ってそんなこと言ってたワケ!? 駄目ね、我が兄様ながら全く分かってないわ。夏に鍋っていうのは、冬にアイスを食べるようなもので、むしろ風物詩とすら言えるものなのに! 電気代のことなんて自分のお金で払ってる訳でもない高校生が気にするモンじゃないわよ!』

『サツキお姉ちゃん!』

『凪沙ちゃん!』

 

 これは、二人の会話のほんの一部である。

 

「別いいけどよ。凪沙、サツキのことをお姉ちゃんとか呼ぶなよ」

「えー? だってだって、サツキお姉ちゃんは古城君の前世の妹なんでしょ? ってことは古城君の妹、あたしも古城君の妹。つまりサツキお姉ちゃんはあたしの血の繋がらないお姉ちゃん!」

「何でそうなんだよ……つうか、お前はそれでいいのか?」

「全然オッケー、むしろウェルカム・トゥ・マイホーム! あたしサツキお姉ちゃんのこと大好きだもん。あーあ、もしお姉ちゃんができるんならサツキお姉ちゃんみたいな人がいいなー」

「な、凪沙ちゃん……!」

 

 屈託なく笑う凪沙。それに感動して、サツキは力一杯、凪沙を抱き締めた。ぎゅうー、と音がしそうなほどだ。凪沙も凪沙で笑顔でそれを受け止めている。

 自己申告通り、凪沙はサツキのことを本当に好いているのだろう。

 

 しかし、今のセリフを言ってから、古城をチラチラと意味深に見てくるのは何だろう。

 テレビの前のカーペットに腰を下ろす古城と、自分を抱き締めるサツキとを交互に見て、びっくりするぐらい下手なウィンクを飛ばしてくる。

 

「あ、でも古城君にはサツキお姉ちゃんだけじゃなくて、浅葱ちゃんにモモ先輩、静乃お姉さんも居るか。えへへー、選り取り見取りだねー」

 

 君の悪いニヤニヤ笑いを浮かべる妹に不信感で満たされた視線を送り、古城はやれやれと息を吐いて立ち上がった。

 

「あれ、古城君? どこ行くの?」

「コンビニ。眠気覚ましに、何か飲み物買ってくる」

 

 部屋着の上にいつものパーカーを羽織りながら、古城は素っ気なく答えた。

 凪沙はサツキと抱き合ったまま、がば、と勢いよく顔を上げ、

 

「あー、だったらアイス買ってきて。こないだと同じやつ」

「お前、まだ喰うのかよ。太るぞ、下っ腹のところ」

「うるさいです。そんなこと言う古城君は嫌いだよ」

 

 大きく頬を膨らませて凪沙が抗議する。

 怒るということは自覚があるんだろうに、と思いつつ、古城は凪沙を抱き締めたまま何やら考え込んでいるもう一人の妹に目を向けた。

 

「サツキ。お前はどうする?」

「……んー、アイスかぁ。いつもなら一も二もなく賛成するとこなんだけどなぁ。食べたばっかりだし、古城の言う通り下っ腹が……」

「誰がアイスの話をしたんだよ。そうじゃなくて、お前まだ帰らなくていいのか、って意味だ」

 

 こいつ、あんな真剣な顔してそんなこと考えてたのか、と呆れる古城。女子には一大事なのだろうが、今も日常的に体を動かす古城には、そういうことで悩む気分が分からない。

 言われたサツキは何を聞かれたか分かっていないような、ポカンとした間抜け面を浮かべ、柱にかけられたアナログ時計に視線を移す。

 

「うわっちゃあ……。忘れてたぁー」

「もう完全に夜だぞ。親御さんも心配してんじゃねえの?」

「うん、多分っていうか、確実に怒られるわね」

 

 これまた何故か自信に満ちた顔つきでのたまうサツキ。

 いつものことなので、古城は自然に流し、

 

「んじゃ、ほれ行くぞ」

「え? 行くって、あたしも?」

「ああ。……家まで送ってやるから、さっさと準備しろ」

 

 どうにもそれを言うのが気恥ずかしく、思わずぶっきらぼうに言ってしまった古城だったが、サツキはそれはもう喜色満面の表情へと変わった。

 パッと凪沙との抱擁を解き、着ていた制服の襟や皺を正してエナメルバッグを肩にかけ、古城のカウントで約四十秒後には、すでに玄関に居た古城の隣で靴を履いていた。

 

「えへへへー、兄様ったら、いつもツレナイこと言うくせに、ホントは可愛くて大好きな妹のことが心配で心配でたまらないんでしょ?」

「誰のことだ誰の」

 

 言いながらも、古城にははっきりと違うと否定できない。

 実際、古城はサツキのことを心配していたのだ。

 

 サツキは古城の贔屓目なしに見ても、相当にレベルの高い、陽性の美少女だ。身体の発達具合は別としても。

 そんな娘が静まり返って人気のなくなった夜道を一人で歩いていれば、よからぬことをしでかす者も出てくるかもしれない。

 もしそんな者が居たとしても、今のサツキであれば(・・・・・・・・・)特に問題はなかろう(・・・・・・・・・)が、それでも心配なものは心配だ。

 

 とはいえ、認めるのが癪なのもまた事実。

 なので、古城は何も言わずに鼻を鳴らし、靴紐を結んで玄関のドアを開けた。サツキも同じようにする。

 

「――こんな時間にどこに行くつもりですか、先輩?」

「うおっ!?」

「ひゃわっ!?」

 

 外に出ると、目の前に雪菜が立っていた。

 思わず揃って悲鳴を上げる古城とサツキ。雪菜が警戒するように目を細めて、古城を冷ややかに睨んでいる。

 

「ひ、姫柊?」

「はい。何ですか?」

 

 首を傾げて訊ねてくる雪菜だったが、古城は彼女をまともに直視できなかった。

 何故なら、

 

「ちょちょっと、アンタ! 何よその恰好! 完全にお風呂上がりじゃない!」

 

 サツキが耐えかねたように叫んだ。その顔は真っ赤だ。

 

 雪菜の髪は濡れたまま、毛先から水滴を滴らせていた。しかも素肌の上に制服のブラウスをひっかけただけの無防備な姿だ。例のギターケースも背負っていない。

 まさか家の前でずっと見張っていたのかと疑ったが、どうやらそういうわけではないらしい。

 恐らく風呂に入っている途中に古城が外出する気配を感じて、慌てて飛び出してきたのだろう。

 

「もしかして、ついてくるつもりなのか? その恰好で?」

「監視役ですから」

「別にいいけど、髪とか乾かしてから来なさいよ……。アンタ、どうせ下着も付けてないんでしょ? アタシよりもよっぽど襲われるわよ」

 

 古城とサツキは、ともに軽い頭痛を感じながら雪菜を一度強制的に部屋に帰させた。

 淡々としてはいたがさすがに少し不安だったようで、雪菜は渡りに船とばかりにさっさと部屋に帰って行った。

 それを見送ってやれやれと首を振ったところで、古城は傍らから向けられる、じとーっとした疑いの視線に気が付いた。

 

「……んだよ?」

「あの娘、監視役、とか言ってたわよね?」

「ぐ……ああ」

「あれって、どういうことなのか、聞いてもいい?」

「う……あ、いやー」

 

 聞かれたくなかったことをピンポイントで聞かれて、古城は言い淀んだ。

 

 サツキは、古城が第四真祖などという馬鹿げた存在であることを知らない。古城がそれを言っていないからだ。

 彼女が知っているのは、古城の持つ、フラガとシュウ・サウラとしての二つの前世のことだけ。

 古城の封じられた記憶、第四真祖となる原因になった事件に、サツキも関わっている気はするのだが、よく思い出せず、サツキも気付いた様子はない。

 ならば改めて言う必要もない。古城が望むのは、平凡で平和な日常だ。こんなことは知らなくたっていいだろう。

 

 しかし、こういった状況になると面倒だ。

 雪菜の、先程のあられもない恰好を思い出して吸血衝動が起きかけていた古城だったが、そんなものはすでに吹っ飛んだ。

 厳しい追及の手を、古城が冷や汗を垂らしながらのらりくらりとかわしていたところで、雪菜の部屋のドアが開いた。

 

 出てきたのは、きちんと制服に着替えた雪菜。やはりあの黒いギターケースも背負っている。

 もしかして彼女は制服以外持っていないのだろうか、と古城はふと思う。

 

「ねえ、姫柊さん。アンタもしかして、制服以外の私服とか、持ってないの?」

「え? は、はい。特に必要はないと……」

「ダメよ、女の子がそんなんじゃ。あ、今度の土日とか予定空いてる? 空いてたら、あたしと一緒に服買いに行かない? 大丈夫、あたしがしっかりコーディネートしてあげるから。この流行ファッションの先駆者にして伝道師こと、サツキちゃんに任せなさい!」

 

 数時間前のホームセンターで、雪菜に常識を叩き込むと息巻いていたサツキは、早速そのための行動を始めたらしい。

 凪沙に匹敵するマシンガントークで、類稀な戦闘力を持つ雪菜をたじたじにさせていた。

 そんな光景を僅かに面白く感じながら、古城は二人を連れてエレベーターに乗り込んだ。

 

「そ、それで、どこに行かれるんですか? 先輩」

「サツキの見送りと、コンビニだよ。まさかコンビニを知らないとか……」

「いえ、さすがにそれは知ってます」

 

 古城は視界の端で、雪菜の否定の言葉にサツキが大きく息を吐いたのを認めた。

 そんなサツキに気付く様子もなく、雪菜は期待と不安がないまぜになったような、弾んだ声で言った。

 

「でも、こんな夜中に入ったことはないです」

「コンビニにそんな期待をされてもねえ……」

 

 親に内緒で悪戯をしている子供のような表情の雪菜に、古城とサツキは苦笑を向け合った。

 

「悪かったな。さっきは疲れたろ」

「え?」

「夕飯の時だよ。凪沙のヤツが騒がしかっただろ。あとサツキも」

「ちょっと、古城!?」

「いえ、楽しかったです。お鍋も美味しかったですし」

 

 少し照れたように微笑む雪菜。不満そうにするサツキを無視して、それならよかった、と古城も微笑んで、

 

「昔は交代で料理当番やってたんだけど、最近は凪沙のほうが断然上手いからな」

「いいですね、兄妹って。私には家族がいないので、憧れます」

 

 何気ない口調で雪菜が告げる。

 古城とサツキは思わず硬直した。

 

「家族がいない?」

「高神の杜――わたしたちの養成所にいるのは、全員孤児なんです」

「そうなのか……?」

 

 サツキも居るから、それ以上のことを説明するのは避けたのだろう。

 しかし予想以上に重い雪菜の身の上話に、古城たちは言葉を失った。

 

「あの、でも、家族がいなくて寂しかったとか、そういうことじゃないんです。スタッフ――教師の方々はみんな優しくしてくれましたし、ルームメイトの方もいい人でしたから」

 

 雪菜が慌てて補足した。嘘をついている雰囲気ではなかったし、彼女の言葉を古城とサツキは素直に信じられた。

 実際、魔族すら容易に圧倒する彼女の体術は、嫌々練習して身に着けられるものではない。己の意志でその道を選択し、研鑚を積んだ者だけが手にできる力だ。

 古城(フラガ)は、それをよく知っていた。

 

 そんな話をしているうちに、三人は目的地であるコンビニに近付いていた。サツキの家はここよりもさらに遠い。とはいえそこまで距離があるわけでもないので、恐らくはここでお開きになるだろう。

 古城たちのマンションがあるアイランド・サウスは住宅地がメインの人工島(ギガフロート)で、夜の人通りはあまり多くない。それでも駅前近くはそれなりに賑わっている。

 ファーストフード店やコーヒーショップ、漫画喫茶にゲームセンターも――

 

「あ……」

「姫柊?」

「あ、すみません。何でもないんです」

 

 そのゲームセンターの前を通りかかったとき、雪菜が唐突に足を止めた。古城とサツキもつられて振り返る。

 まさかゲームセンターを知らないという訳でもなかろうが、

 

「このクレーンゲームがどうかしたのか?」

 

 雪菜が凝視している店頭の筐体に気付いて、古城は訊いた。

 

「クレーンゲーム、というんですか。ネコマたんが入っているのは……」

「ネコマたん?」

「これのことよ、古城。女子の間ではそれなりに人気のマスコットね。姫柊さんの前の学校でもそうだったんじゃないの?」

「は、はい」

 

 招き猫をふかふかにしたような、二頭身のネコのマスコット。二本に分かれた尻尾が特徴で、それが名前の由来なのだろう。

 キラキラと瞳を輝かせてガラスケースの中のマスコットたちを凝視する雪菜に微笑んで、サツキが袖をまくってゲーム機に近付いた。

 

「ふっふっふ。後輩にそこまで言われちゃ仕方ないわね。任せなさい、この頼れるセンパイの嵐城サツキちゃんが華麗なクレーン捌きで、一発で獲ってやるわ!」

 

 ふぉーっふぉっふぉ、などという高笑いを上げて、サツキはゲーム機にコインを投入した。サツキのボタン操作でアームが動き出すと、雪菜もおおよその仕組みを理解したらしかった。

 つい先日見た魔族との戦闘の時よりもよっぽど真剣な表情でアームの行方を追っている。

 

 豪語するだけあって、サツキの腕前はかなりのものだった。引っかけやすい位置に居る個体を狙って、正確にアームを降下させる。

 雪菜が息を吞んで見守る中、そのネコマたんはアームに狙い違わず挟まれ――

 

 た瞬間、ガコンッという音が筐体の中から響いて、アームはマスコットを取り落とした。

 

「ハアァァァ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げるサツキ。構わずアームは、組み込まれたプログラムに沿って元の位置に移動する。

 やはりこんな結果では納得がいかないようで、サツキは再びコインを投入し、再チャレンジ。

 

 ……この後の流れは面倒臭いので、擬音とセリフだけで表現しよう。

 

 ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「……何でよぉ!? 納得いかないんですケド!」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「ぐっ、くぅ……。二度ならず三度までも……」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「いいわ、そこまで言うんなら、受けて立とうじゃないの!」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「ここからよ! ここから先は、あたしの戦争よ!」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「くんのぉ、なかなか、やるわねぇ……っ」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「まだやるワケ……? こうなったら、とことんまで……」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「くっ、まだ、まだ……」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「ま、だ……まだ……」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「……………………」

 

 チャリン。ガシッ。――ガコンッ。ポトッ。

「……くふぅっ……」

 

 投入した金額が四ケタに突入してきたところで、サツキはクレーンゲームの台に突っ伏した。目が死んでいる。

 流石に怪しんで、今度は古城が挑戦してみる。凪沙の強引なリクエストに付き合わされることが多いため、古城のクレーンゲームの腕前もそこそこだ。

 

 これまでのサツキの焼き増しのように、アームは正確な挙動でネコマたんを掴み――取り落とすこともなく、取り出し口に運ばれて行った。

 雪菜が息を殺して見つめ、サツキが絶望に澱んだ目で筐体を睨みつける中、やがて招き猫もどきの人形が取り出し口へと落下し、その瞬間、

 

「――そこの三人。彩海学園の生徒だな。こんな時間に何をしている?」

 

 背後から聞こえてきた静かな声に、古城たちは揃って電撃に打たれたように硬直した。ゲーム機のガラスに映り込んだ影を見て、古城とサツキはげっと息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、南宮那月だった。どうやら生徒指導のための見回り中らしい。夜になってもフリル塗れのドレスを着る所は、いっそ尊敬する。

 

 まずいな、と古城は冷や汗をかいた。すでに時刻は午前零時近く。店頭のクレーンゲームとは言えゲーセンで遊んでいては言い訳できない。立派な条例違反である。

 これがサツキだけならばまだよかっただろうが、中学生同伴ではなおさらだ。

 

「そこの男。どこかで見たような後ろ姿だが、フードを脱いでこっちを向いて――」

 

 獲物を嬲るような口調で那月が言いかけた、その直後だった。

 

 ズン、と鈍い震動が人工島全体を揺るがした。一瞬遅れて、爆発音が響く。

 

「何だ――!?」

 

 攻魔師でもある那月が、異様な気配に反応して振り返った。

 なおも絶え間なく鳴り響く爆発音。単なる事故や自然現象ではない。人為的な破壊行為だ。

 それどころか、常人にも感知できるレベルの、強烈な魔力の波動までもが伝わってくる。

 

 那月の注意が完全に引き付けられた瞬間、古城は雪菜とサツキの手を引いて駆け出した。

 

「あ、待て、お前ら――」

 

 背後で那月が何か叫んでいたが、古城も雪菜も、サツキに至るまで常人とは比較にならない運動能力の持ち主だ。

 那月が咄嗟に張り巡らせた結界も、雪菜が気合一閃で破壊する気配があった。完全に虚を突かれた那月には、もはや追い縋る術はない。

 

「覚えていろ、暁古城! 嵐城サツキ!」

 

 捨て台詞のような那月の言葉は、断続的に響き続ける爆発音に掻き消された。

 疾走する古城は唇を歪めた。那月の言葉に動揺したわけではない。この爆発と異音を街に引き起こしているものの正体に気が付いたからだ。

 

 それは圧倒的に強大な、意志を持ち荒れ狂う魔力の塊。破壊の権化。

 そして今の暁古城に、限りなく近しい存在であるモノ。

 

「……眷獣か!」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 どうする、と古城は焦燥に表情を歪めた。

 

 人工島(ギガフロート)の岸壁まで走り続けて、三人はようやく立ち止まった。

 息を整える雪菜とサツキを置いて、古城は人工島(ギガフロート)の上空を見上げた。

 

 古城の視線の先で、直径数十メートルもの火球が出現し、少し遅れて突風が襲ってくる。まるで嵐の夜のように海面が白く波立ち、人口の大地が震えて軋んだ。

 爆発の炎を浴びて、漆黒の妖鳥の姿が浮かび上がる。

 見えたのは一瞬だが、はっきりと分かった。あれはやはり吸血鬼の眷獣だ。

 長老(ワイズマン)貴族(ノーブルズ)とは言わないまでも、名のある〝旧き世代〟の使い魔だろう。

 

 戦場となっているのはアイランド・イーストの倉庫街。幸いにもほとんど無人の工業地区だが、すでに大規模な工場火災程度の被害が出ているのが遠目にも分かる。

 しかし、それでもなお戦闘は続いている。

 つまり、〝旧き世代〟の吸血鬼と戦っている相手もまた、それに匹敵するほどの力の持ち主ということだ。

 

 あれほどの規模の戦闘だ。いくら市街地から離れているとはいえ、民間人が巻き込まれていないとは限らない。そしてこの島には古城の知り合いも多いのだ。せめて彼らの安全が確認できれば、古城も安心していられるのだが――

 

「くそっ、どうすりゃいいんだよ」

「先輩、すいません。先輩は先に自宅に戻って、凪沙さんの傍にいてあげてください。聖域条約にも、先輩(魔族)の自衛権は明記されています」

「お、おい、姫柊? まさか、お前が行くつもりじゃないだろうな……!?」

「え!? ちょっと、やめときなさいよ、そんなこと!」

 

 古城とサツキの叫びにも、雪菜は一顧だにしなかった。

 背中のギターケースから、ゆっくりと武器を引き抜く。小気味いい金属音を立てて、銀の槍が刃を展開した。

 

「真祖と戦うために与えられた装備です。あの程度の眷獣、雪霞狼の敵ではありません」

 

 それだけ言って、隙を衝かれた古城たちを置いて、雪菜は勢いよく駆け出した。

 人工島の断崖から飛び降りた彼女の足元には、貨物運搬用のモノレールの姿があった。走行中の車両の上に、雪菜は危うげなく着地する。

 自動運転のモノレールは、戦闘が行われている絃神島東地区(アイランド・イースト)へと向かっていた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「くそっ……!」

 

 南地区の岸壁に取り残された古城は、荒々しく眼前のフェンスを殴り付けた。

 こんな時に、何もできない。そんな無力感に苛まれ、何もできない自分に、心底から腹が立っていた。

 今、古城の後輩は、どう考えても危険な戦場にたった一人で赴いた。古城は、その背中を見送ることしかできなかった。

 

 ギリッと歯軋りをする古城に、一転して静かな口調でサツキが語りかけてきた。

 

「ねえ、古城。んーん、兄様」

「……何だよ」

「あの娘の正体とか、あの槍とか、兄様とあの娘の関係とか。そういうのは一旦脇に置いて」

「…………」

「兄様自身は、今、どうしたいの?」

 

 いつもの騒がしいサツキとは違う、優しい口調。

 それに誘われて、古城はここ数日間の記憶を蘇らせた。

 

 ――思い出す。初対面で古城にパンツを見られて、気丈に振る舞いながらも羞恥に顔を真っ赤にした、彼女の姿を。

 思い出す。古城に自分よりも弱いと言われて、すぐに頭に血が上って食ってかかってきた彼女の姿を。

 思い出す。第四真祖になった頃の記憶がないと言った古城に、疑うこともなく笑顔を向けてくれた彼女の姿を。

 思い出す。澄まし顔のくせに、時々本気なのかどうかややこしい冗談を、しれっと真顔でのたまう彼女の姿を。

 思い出す。三人で行ったホームセンターで、陳列された商品を楽しそうに見て回っていた彼女の姿を。

 思い出す。サツキと凪沙と、鍋をつつきながら笑顔を浮かべて姦しくおしゃべりをする彼女の姿を。

 思い出す。どこにでもあるようなクレーンゲームで、たかがマスコット一つに真剣になっていた彼女の姿を。

 

 全部。いつしか、その全部が、古城にとって大切なものになっていた。

 古城が心配している者の中には、すでに彼女も入っていた。

 姫柊雪菜という少女は、古城にとって大切な後輩で、失いたくないもので、だから、暁古城は――

 

「俺は、俺から奪っていく奴を、絶対に許さない」

 

 決意を込めた宣言とともに、古城の全身から白炎の如き通力(プラーナ)が噴き出した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「くっ――」

 

 身長百九十センチを超える巨躯の男の半月斧(バルディッシュ)の一撃を受けて、雪菜は大きく弾き飛ばされた。

 何とか倒れないように踏ん張り、顔を上げて男を強く睨みつける。

 

 雪菜が倉庫街に着いたころには、すでに戦闘は終結していた。

 倉庫街のあちこちで大規模な火災が起こっている。街灯はすでに全て消え、自動消火装置も全く意味を為していない。

 幸いにも人の気配はなく、倉庫街の管理をしていた人々も非難を終えているらしい。

 爆発によって送電が停止したのか、モノレールも停止した。

 

 彼女の足元には、重傷を負って倒れた長身の吸血鬼。肩口から深々と切り裂かれた傷は、心臓にまで届きかけている。人間であればもちろん即死だが、息があるのは強靭な生命力を持つ吸血鬼の面目躍如といったところか。

 彼にそれだけの負傷を負わせたのが、目の前に居るこの男。

 右手に掲げた半月斧(バルディッシュ)の刃と、強化装甲服の上に纏った法衣が鮮血で赤く濡れている。

 そして男の後ろに佇むのは、雪菜よりさらに小柄な少女だった。

 素肌にケープコートを纏った藍色の髪の娘である。人工的な美しい顔立ち。薄水色の無感情な瞳。

 見れば分かる。人工生命体(ホムンクルス)だ。

 

 考える間もなく、二度目の交錯。

 負傷した吸血鬼を狙った戦斧の一撃を、雪菜の槍が受け止め、今度は逆に弾き飛ばした。

 

「ほう……!」

 

 その結果に、男は愉快そうに呟いた。

 巨体からは想像も出来ないほどの敏捷さで飛び退き、男は雪菜へと向き直る。

 

「何と、その槍、七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)ですか!? 〝神格震動波駆動術式(DOE)〟を刻印した、獅子王機関の秘奥兵器! よもやこのような場で目にする機会があろうとは!」

 

 男の口元に、歓喜の笑みが浮いた。眼帯のような片眼鏡(モノクル)が紅く発光を繰り返す。

 

「いいでしょう、獅子王機関の剣巫ならば相手に不足なし。娘よ、ロタリンギア殲教師、ルードルフ・オイスタッハが手合わせを願います。この魔族の命、見事救って見せなさい!」

「ロタリンギアの殲教師!? 何故西欧教会の祓魔師が吸血鬼狩りを――!?」

「我に答える義務はなし!」

 

 男の巨体が大地を蹴って猛然と加速した。振り下ろされた戦斧が、断頭台の如き勢いで雪菜を襲う。強化鎧によってその威力は大きくアシストされている。

 しかし雪菜は完全にそれを見切って紙一重ですり抜け、攻撃を終えた直後のオイスタッハの右腕に旋回させた槍を伸ばした。

 オイスタッハはその攻撃を、鎧で覆われた左腕で受け止め、鎧が打ち砕かれる前に戦斧を大きく振るって雪菜を引き離した。

 

 雪菜もその力に逆らわず、後ろに跳んで距離を稼ぐ。格闘戦は分が悪いと判断し、一撃離脱の戦法へと転換する。

 

「我が聖別装甲の防護結界を一撃で打ち破りますか! さすがは七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)――興味深い術式です。素晴らしい!」

 

 蜘蛛の巣状に亀裂の走った左腕の鎧を眺めて、オイスタッハが満足そうに舌なめずりをした。

 

 そんなオイスタッハの禍々しい姿に、雪菜の剣巫としての直感がけたたましく警鐘を鳴らしていた。

 この殲教師をこのまま放置すれば、巨大な災厄をこの地に呼び込むことになる、と。

 

「――獅子の巫女たる高神の剣巫が願い奉る。破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

「む……これは……」

 

 雪菜が厳かに祝詞を唱え、体内で練り上げた呪力を七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)が増幅。槍から放たれた呪力の波動に、オイスタッハが表情を歪めた。

 続けて始まった雪菜の猛攻に、オイスタッハは防戦一方になる。

 左腕の鎧が砕け散ったところで、オイスタッハは自ら大きく後ろへ跳んだ。

 

「いいでしょう、獅子王機関の秘呪、獅子王機関の剣巫、確かに見せてもらいました――やりなさい、アスタルテ!」

命令受諾(アクセプト)執行せよ(エクスキュート)、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟」

 

 オイスタッハの代わりに飛び出してきたのは、ケープコートを纏った藍色の髪の少女だ。

 少女のコートを突き破って出てきたのは、半透明の、巨大な虹色の右腕。

 実体ではなく、眷獣と同じ実体化した魔力の塊だ。

 

 雪菜の背後で倒れている吸血鬼の眷獣を打ち倒したのも、この眷獣だった。巨大なワタリガラスに似た漆黒の妖鳥の魔力を、この腕が貪り食った(・・・・・・・・・)のだ。

 それは虹色の輝きを放ちながら、雪菜を襲った。

 

 雪菜は雪霞狼でこれを迎撃。巨大な魔力と呪力の激突に、大気が耳障りな音を立てた。

 

「ぐっ!」

「ああ……っ!」

 

 辛うじて打ち勝ったのは雪菜だ。〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟をじりじりと銀の槍が切り裂いていく。

 眷獣の受けたダメージが逆流しているのか、アスタルテと呼ばれた少女が弱々しく苦悶し、

 

「ああああああああああああ――――っ!」

 

 少女が絶叫した。彼女の細い背中を突き破るようにして、もう一本の腕が現れる。

薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟とは、左右一対で一つの眷獣なのだ。

 

「しまっ――」

 

 雪菜の表情が凍りつく。

 雪霞狼は右腕(・・)を迎撃したまま。つまり、この状況では、雪菜は左腕(・・)の攻撃を避けられない。

 

 死を覚悟するほどの時間はなかった。

 ただ最後に一瞬だけ、見知った少年の顔が脳裏を過ぎった。

 

「……先輩」

 

 雪菜の唇から、ふと呟きが漏れた。その呟きは誰の耳に届くこともなく、彼女の体は虹色の巨大な腕に為す術なく引き裂かれる――はずだった(・・・・・)

 

 その時だった。

 雪菜。オイスタッハ。アスタルテ。三者の耳に、少年の喉から絞り出すような詠唱句が響いたのは。

 即ち、

 

 

 

 冥界に煉獄あり 地上に燎原あり

 炎は平等なりて善悪混沌一切合財を焼尽し 浄化しむる激しき慈悲なり

 全ての者よ 死して髑髏と還れ いざや火葬の儀を始めん

 

 

 

 声が途切れると同時、上空から、雪菜を引き裂こうとしていた〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟の右腕に、莫大な熱量を孕む猛火が殺到した。

 かつての冥王、シュウ・サウラの闇術は文字通り火を噴いた。

 

 第三階梯闇術《火葬(インシネレート)》。

 

 その炎は虹色の眷獣を打ち倒すには至らなかったが、雪菜から引き離すことは成功した。

 まったく予想外の援護に呆然とする雪菜の眼前に、一人の少年が舞い降りた。

 

 常の気だるげな表情を引っこめ、鋭い刃物のような視線を敵へ送り、右手に鏡のように美しい刀身を持つ長剣を下げ、全身から白炎の如き通力(プラーナ)を纏った少年。

 二つの前世を持つ第四真祖、暁古城だ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 古城が到着したころ、雪菜はすでにピンチだった。

 自重を限りなくゼロに近付ける源素の業(アンセスタル・アーツ)の闇術、《羽毫の体現(デグリーズウエイト)》に《神速通》を掛け合わせ、二基の人工島(ギガフロート)を連結する長さ十六キロの連絡橋を走ってきたのだ。

 

 そうやって、今出せる最高速度で現場に到着した古城が見たのは、巨大な虹色の腕に押し潰されようとしている雪菜の姿。

 状況の理解を一時棚上げし、古城は今できる最大の威力を持つ攻撃を使った。

 結果、倒すことまではできなかったが、引き離すことには何とか成功した。

 

「何をやってるんですか、先輩!? こんなところで――!?」

「それはこっちの台詞だ、姫柊! この馬鹿!」

「ば、馬鹿!?」

「何死にかけてんだ、あの程度敵じゃないんじゃなかったのかよ!」

「そ、それは――」

「ま、いいか。で……結局、こいつらは何なんだ?」

「分かりません。あの男は、ロタリンギアの殲教師だそうですが……」

 

 法衣の男を睨んで、雪菜が答える。

 

「ロタリンギア? 何でヨーロッパから来てまで暴れてるんだ、アイツは」

「先輩、気を付けてください。彼らは、まだ……」

 

 雪菜の警告が終わる前に、ケープコートを着た少女が立ち上がった。彼女の背後には、虹色の眷獣が実体化したまま。

 どうやら、古城の闇術のダメージはほとんどないようだ。

 

「先程の魔力……もしや、第四真祖の噂は本当ですか? それに加えて、そのオーラ……」

 

 戦斧を掲げて、殲教師が言う。

 その殲教師を庇うように前に出たのは、藍色の髪の少女だった。

 少女の無感情な瞳からは、殺意は読み取れない。

 しかし、古城は身構えた。どちらか片方だけならどうにかなるが、両方を相手にするとなると厳しい。

 

 先んじて突進してくる大男。すぐに少女も続くだろう。

 諦めず、思索を始めたところで、不意に場違いな、底抜けに明るい声が響いた。

 

「じゃじゃじゃ~ん! みんなのヒーローサツキちゃん、遅れて登場!」

 

 現れたのは、両腕両足を眉間から金色の通力(プラーナ)を噴き出す、サイドテールと夜空に星を撒いたような瞳が特徴の少女――サツキだった。

 サツキは高らかと名乗りを上げ、馬鹿みたいに真っ直ぐに突進しつつ、右手を天に掲げた。

 

「おいで、アーキュール!」

 

 彼女の掌中に光が宿り、やや小振りな両刃の剣が顕現する。

 そして、殲教師の半月斧(バルディッシュ)と真っ向から衝突した。

 

「くぉんの~……」

「むぅぅん……」

 

 ギリギリギリ、と、激しく鍔競り合いを演じる二人。

 体格差を考えれば、サツキなど一撃で押し潰されてもおかしくはない。

 だがそうはならない。何故か、簡単である。

 

 源素の業(アンセスタル・アーツ)の光技、《剛力通》による怪力を発揮しているからだ。

 サツキは未だ、右手左手右足左足眉間の、七つある門のうち五門しか開けていない。

 しかしオイスタッハが使っているのも、所詮は鎧による些細な身体強化。

 使用者に超人的な膂力を与える通力(プラーナ)に勝る道理はない。

 

「てぇぇいっ!」

「ぐ、むぬおっ……」

 

 グッと一際強く剣を押し込んだところで、サツキは右足を上げて、オイスタッハの鎧に覆われた土手っ腹に回し蹴りを叩き込んだ。

 一撃で鎧を破砕させつつ、サッカーボールのような勢いで吹っ飛んでいくオイスタッハに、サツキは容赦ない追撃を浴びせようとした。

 サツキの掲げる小振りな剣に、眩い金色の通力(プラーナ)が集結していく。

《剛力通》の派生技、インパクトの瞬間に通力(プラーナ)を集中させて攻撃の威力を上げる光技《太白》。

 

 まともに受ければ全身の骨が砕け散ること間違いなしの斬撃が叩いたのは、オイスタッハではなく、彼の連れたホムンクルスの少女の眷獣だった。

 大上段から振り下ろされる剣を握り込むようにして防ぎ切る〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟。

 古城とサツキには未だ知る由もないが、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟は魔力を喰らう眷獣だ。

 しかし、決して通力(プラーナ)まで喰えるわけではない。

 

 案の定、少女は苦悶に表情を歪めてもう一度吹き飛ばされた。

 この場の最強戦力となるホムンクルスの少女を引き離して息を吐いたサツキの、僅かな意識の隙を、オイスタッハは見逃さなかった。

 

「ぬうううん!」

「すらあっ!」

 

 それを止めるのは、もちろん古城だ。

《神速通》と《剛力通》を組み合わせて爆発的な加速を得る高等光技、《武曲》。

 サツキの細い腰を両断せんと迫る凶刃を、通力(プラーナ)をめいっぱい纏わせたサラティガで打つ。

 結果、オイスタッハの持つ半月斧(バルディッシュ)は粉々に砕け散った。

 

「あ、ありがとう兄様!」

「これは……素晴らしい」

 

 自分の武器が失われたというのに、殲教師は一顧だにしなかった。柄だけになった戦斧を投げ捨て、躊躇なく後退する。

 そして、彼と入れ替わりのように突っ込んでくるホムンクルスの少女。

 

再起動(リスタート)完了(レディ)命令を続行せよ(リエクスキュート)、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟」

 

 彼女の言葉に従って、巨大な腕が鎌首をもたげる蛇のように伸びた。

 

「やめろ、俺はあんた達と争うつもりは……」

「待ちなさい、アスタルテ! 今はまだ(・・・・)、真祖と戦うときではありません!」

 

 古城とオイスタッハが同時に叫び、少女が困惑したように瞳を揺らす。

 しかし、すでに宿主によって命令を与えられた眷獣は止まらない。虹色の鉤爪が古城たちを八つ裂きにせんと迫る。

 

「先輩、下がってください!」

 

 槍を構えた雪菜が、古城を突き飛ばすようにして前に出てきた。

 だが、まるでそれすら読んでいたように、少女の足元から右腕が放たれた。

 地面を抉るようにして飛来するその不意打ちに、さしもの雪菜も反応が遅れた。

 

「姫柊!」

 

 古城が咄嗟に雪菜を突き飛ばす。無防備だった背後からの衝撃に雪菜は為す術なく吹き飛んだ。

 目標を見失った右腕が眼下から、左腕が頭上から古城を襲う。

 

「せ、先輩!?」

「兄様!? ――くっ」

 

 受け身を取った雪菜が、立ち直ったサツキが援護しようとするも、すでに遅過ぎた。

 

「ッ、おおっ」

 

 サラティガを振るった古城が辛うじて迎撃できたのは右腕だけだった。

 頭上からの攻撃は、《金剛通》を振り絞って堪えようとする。しかし無意味。

 直撃を受けた古城の腕から、鮮血が散った。

 

 そう思われた瞬間、古城が叫んだ。まるで別人のような真剣な声で。

 

「待て……やめ……ろおおおおおおお――――――――!!」

 

 その声は、敵ではなく自分に向けられているようだった。

 古城の瞳が真紅に染まり、食い縛る口元からは鋭い牙がのぞく。

 彼の腕から迸る、目も眩むような青白い輝きと灼熱の閃光が視界を焼き尽くし、虹色の眷獣が消し飛んだ。

 

「ぬ、いけません……アスタルテ!」

 

 オイスタッハの怒鳴り声は、衝撃波が生み出す轟音に掻き消された。

 

 古城の腕から放たれたのは濃密な魔力の塊、眷獣と呼ばれているモノ――のはずだ。

 それは、人々が知る眷獣という次元を超えていた。

 それは、全てを破壊する嵐のような雷撃だった。

 制御不可能な巨大な稲妻が地上の建物を薙ぎ払い、生み出された衝撃波が暴風となって吹き荒れる。周囲に無差別に雷の矢が放たれる。

 絃神島全体が爆撃されたように揺れ動き、周辺の海が津波のように荒れ狂う。

 

 天変地異のようなその状況が続いたのは、せいぜい二十秒かそこらの出来事だった。

 しかし確かに、稲妻はその破壊の爪痕を残していた。

 扇形に抉れて廃墟と化した倉庫街。人工島(ギガフロート)の表土もごっそりと抉り取られて、その下の地下構造が剥き出しになっている。

 港に停泊していた船舶は無事な船を探すのが難しいほどだったし、モノレールの線路も倒壊している。

 落雷の影響で島内のあちこちが停電し、そのために失われた企業データなどの損害額はどれほどになるのか検討もつかない。

 倉庫街の被害もひどかったが、その他の地区も相当だ。

 

 辛うじて無事だったのは雪霞狼の結界に護られていた雪菜と、雪菜に間一髪結界の中に引きずり込まれたサツキ。そして瀕死の〝旧き世代〟の吸血鬼の男だけだった。

 雪菜が心底驚いたのは、先程の落雷を、数秒ほどとはいえサツキが自力で防いでいたことだ。

 両腕と両足に黄金のオーラを纏わせて、服が焼け落ち火傷を負いながらも、しっかりと二本の足で立っていた。

 今のサツキは、まるで糸が切れたように雪菜の傍らでぐっすりと眠り込んでいる。

 涎まで垂れていて、弛緩し切った表情だ。

 全身の火傷も、未だに漏れ出る黄金のオーラが治癒していっている。

 

「これが……先輩の……第四神祖の眷獣……」

 

 サツキの無事を確認し、あまりにも巨大な破壊の痕跡に、声を震わせながら雪菜が呟いた。

 殲教師とホムンクルスの少女の姿はすでにない。どうやら彼らは、古城の眷獣の攻撃によって露出した地下構造から逃走したらしい。

 

 爆心地と思しき場所には、古城が力尽きたようにぐったりと倒れている。全身の白炎の如きオーラも消え去り、右手の長剣も忽然となくなっていた。

 パーカーの左袖が破れていたが、本人は無傷。単に疲れて眠っているだけのようだった。

 雪菜は、銀の槍を格納状態に戻しながら、倒れている古城の許へ歩いて行く。

 古城は、まるで鬱積したストレスを発散し終えた直後のように、すっきりとした表情で眠っていた。

 

 雪菜にも色々言いたいことはあった。

 何で言いつけを破って来たのか、とか。あの白いオーラは何なのか、とか。最初の魔術のようなものはどうやったのか、とか。サツキは一体どういう者なのか、とか。

 だが、結局雪菜の口から漏れ出たのは、

 

「……どうするんですか、まったくもう」

 

 この状況に対する弱音と、弱々しい溜め息だった。




 あんまり無双しませんでしたね。


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5 第四真祖の日常 ―He Is Daily Life―

 お久しぶりです、侍従長です。
 第五話、石動先輩と神崎先輩、そしてついに静乃さんが出てきます。
 よろしくお願いします!



 編集及び追加しました。どうぞー。


 広大なる宇宙の中心にポツンと存在する小さな神殿。

 生まれては消え、消えては生まれ、生まれては消える。そのサイクルを無限に繰り返し続けるだけの、無数の輝きたち。

 一つの輝きに目を留めたとしても、視線を外した次の瞬間には完全に消え去っている。

 

 今もまた、輝きの一つが呆気なく消えて行った。

 祭壇の中央でその様子を眺めていた少女――ガブリエルは、一つ寂しげな溜め息を吐いた。

 古城(ルシフェル)は無言でガブリエルの傍らに立った。

 

「……どうした? ガブリエル」

「ルシフェル……」

 

 ガブリエルはルシフェル(古城)の名を呟き、その手を取る。

 そして、潤んだ瞳でルシフェル(古城)を見上げた。

 

「どうして、でしょうか。『神』に産み落とされた使徒として、人の滅びなど何千、何億と見てきたのに……どうして、こうまで胸が締め付けられるのでしょうか」

「悲しいのか?」

「悲しい、のですか、私は?」

 

 ガブリエルは心底不思議そうに首を傾げ、

 

「これが悲しいという感情……こんなに、辛いものを、人は……?」

「ああ、そうだよ。人はそれを感じたくないがために日々笑い、喜び、それから逃れたいがために大罪へ手を染めるんだ。悲しみを否定したいがために、喜びを……幸福を、追い求めるんだ」

「幸福、を」

「ああ。そして、誰もが幸福を求めるが故に、永遠の幸福というものは、本当の平和というものは、絶対に来ない。誰かが幸福を手にすれば、他の誰かは不幸に苛まれる。もし本当の平和が訪れるのであれば、それは全ての人が不幸になった時だけだ」

「人は……悲しい、生き物なのですね」

 

 ガブリエルの声が震え、握った手をギュウッと握り締めてくる。

 そんな彼女の肩を、ルシフェル(古城)はもう片方の手で抱き寄せ、その耳元で囁いた。ガブリエルだけでなく、自らにも言い聞かせるように。

 

「そうだ。だから、もし俺たちが奴の――キュイヴァンゼゴスの手から人を守り抜けたとしても、人に幸福が訪れることはない。人は自らの手で自分たちを地獄へ突き落す。……それは、もう変えられない、人という種族が持つ運命なんだ」

「……ルシフェル。あなたの言葉はきっと、間違ってはいないのでしょう。けれど、本当にそれだけでしょうか?」

「……え?」

「本当に、人は不幸になるしかないのでしょうか? いつか、幸福へ行き着くことは出来ないのでしょうか? そのいつかに希望を託すことは、いけないことなのでしょうか?」

「それ、は」

 

 自身の胸に顔を埋めながら呟かれた言葉に、古城(ルシフェル)は目を見開き、しかし沈痛な表情で彼女の髪を優しく撫でた。

 希望を託す。それはもう、古城(ルシフェル)が何度も試してきたことだった。

 何度も。何度も。いくつもの世界で、いくつもの滅びの中で、数え切れないほどの数、気が遠くなるような時間をかけて。

 ガブリエルに命を拾われて不死を得て以来、古城(ルシフェル)はその希望を模索し続けてきた。

 けれど人は、古城(ルシフェル)の抱いた希望を簡単に踏み躙り、多いなる絶望で塗り潰した。

古城(ルシフェル)のしたことは、人のためを思って為したことは、結果的に全て無駄になった。

 

 もしかしたら、本当に奴の言うように、人は一度滅ぼしてしまった方がいいのかもしれない。

『神』と同じ創世の力を持つ〝(ひかり)の娘〟の力で以て、また一から、今度は完璧に一つの不足も欠点のないように、人という種族を作り直した方がいいのかもしれない。

 けれど、それでも、古城(ルシフェル)は――――

 

「ルシフェル……」

「っ?」

 

 唇を噛んで顔を俯けた古城(ルシフェル)の頬を、ガブリエルが優しく両手で包み込み、上向けた。

 目の前にある彼女の顔は、古城(ルシフェル)の葛藤も苦悩を全て包み込むように、どこまでも優しく微笑んでいた。

 繊細な硝子細工のように澄み渡った青い瞳は、ただ古城(ルシフェル)だけを映していた。

 

「大丈夫」

「…………え?」

「あなたは、決して間違わない。あなたの道に、間違いはない。だから、ただ信じて――突き進むだけでいいのです」

「……っ!」

 

 何の根拠もない、慰めですらない単純な言葉。

 そのはずなのに、古城(ルシフェル)は何故か泣きそうになってしまった。

 言いたいことはたくさんあるのにどれも古城(ルシフェル)の唇から飛び出ることはなく、古城(ルシフェル)は一つ微笑んで、

 

「……ありがとう。行こうか」

「はい」

 

 

 

§

 

 

 

「昨夜は、随分とやらかしましたね」

「う」

「被害総額五百億円だそうですね」

「うう……」

「先輩は不老不死の吸血鬼ですから、五百年くらいかければ弁償出来るかも知れませんね。利子はいくらぐらいになるんでしょうか」

「うう、う、うう……!」

 

 一緒にエレベーターに乗り込んだ雪菜に詰られて、登校中の古城は弱々しく呻き声を上げた。

 昨日一睡も出来なかったせいで疲労の滲んだ顔をした古城は、怒りを含んだ雪菜の冷静な言葉にたじたじになっていた。

 まあ、全て自分のせいなので文句は言えないのだが。

 

 翌日のメディアは、絃神市で発生した謎の爆発事件のニュース一色に染まっていた。

 被害に遭ったのは大手食品会社の倉庫などが六十棟ほど。停電したのは二万世帯ほどにも及び、その内の半分は今朝になっても復旧の目処が立っていない。アイランド・イーストとサウスを結ぶ連絡橋とモノレールの軌道が大破し、直接的な被害額だけで約七十億円、その他諸々全部ひっくるめておよそ五百億円。

 死傷者が出なかったことが、ほとんど唯一の救いだった。

 

 妹の凪沙は隕石が怪しいとか言っていたが、よもや本当のことを言う訳にも行くまい。

 他にも爆弾テロや輸送中のロケット燃料の爆発など、様々な憶測が飛び交っているようだが、古城の存在には辿り着けていない。

 被害の規模があまりにも大きすぎて、たった一人の吸血鬼の仕業だとは誰も思っていないのだろう。

 とは言え安心できるわけでもなく、サツキはともかく雪菜に全部バラされた可能性もあるので、今朝まで戦々恐々としていた古城だったが、どうやらその心配は杞憂だったようだ。

 

「……その、ありがとうございました」

「ん?」

 

 悶々として古城が悩んでいると、ふと顔を伏せた雪菜が、消え入りそうな声で告げた。

 端的すぎて一瞬何のことだか分らなかったが、すぐに昨日のことだと分かった。

 

「あー、いや、気にすんなよ。……そうだよな、よく考えたら、あれって正当防衛だよな。何だ、専守防衛?」

「ですけど、証拠がないですよね」

「証拠?」

「はい。もちろんわたしは証言しますけど、獅子王機関と警察はあまり仲が良くないですし。むしろ、わたしたちがあの場に居たことの方が問題視されてしまうかも」

「そ、そうなのか……」

 

 縦割り行政の弊害だか何だか知らないが、政府の魔族対策部門の中でも色々あるらしい。

 それに、今の今まで失念していたが、雪菜はまだ中学生なのだ。彼女の証言に証拠能力が乏しいという話はよく分かる。

 ついでにサツキについても同様だ。彼女もまだ高校一年生。雪菜と立場はそう変わらず、それどころか完全に一般人である。

 

 重々しい雰囲気のまま、二人は学校方面に向かうモノレールに乗る。

 昨夜の事故が原因なのか運行ダイヤが乱れていて、いつもに比べてモノレールの車内が混んでいる。古城に文句を言う資格がある筈もない。

 車窓から見える破壊された倉庫街の姿を見つめて深々と溜め息を吐いていると、少し不機嫌な顔で雪菜が再び責めてきた。

 

「――大体、先輩はやりすぎなんです。あれは明らかに過剰防衛でした」

「俺も別に好きであんなことをした訳じゃねーよ」

 

 不貞腐れたようにボソボソを古城が言った言葉に、雪菜は不審そうに眉をよせ、

 

「だったらどうして、あんな無茶な破壊を眷獣に命じたんですか?」

「だから命令してねーっての。あのビリビリは俺の眷獣ってわけじゃねーんだよ」

「どうしてそんなすぐバレる嘘をつくんですか」

「いやだから……」

「第四真祖〝焰光の夜伯(カレイド・ブラッド)〟は神話の怪物たちにも匹敵する強大な十二体の眷獣を持っていると聞きました。まさか違うとは言いませんよね?」

「そこに居るってのと自由に使えるってのは違うだろ。あいつらは俺のことを宿主だなんて思っちゃいねーんだよ。俺はアヴローラのヤツから受け継いだだけで、あいつら自身はまだそれを認めてない」

「アヴローラとは、先輩が前に言っていた先代の第四真祖のことですね」

 

 古城の言葉がただの出任せでないと直感したのだろう。真剣な表情で確認してくる雪菜に、ぞんざいに頷いて、

 

「そんな訳だから、俺はあいつらを喚び出せもしないし、制御も出来ないわけ」

「……そう、ですか」

「おう。納得してくれたか?」

「はい。……でも、今の話が本当だとしたら、先輩はわたしが思っていた以上に危険な存在ですね。どうにかして、きちんと制御できるようにならないと……」

 

 真剣に考え出す雪菜に、古城は思わず不思議そうな視線を向けてしまった。

 自分の力すら満足に扱えない無能で危険な吸血鬼なんぞ、いっそ滅ぼしてしまおうぐらいのことは思うのではないだろうか。

 実際、彼女にはそれだけの力があるわけだし。

 さりげなく彼女が背負っているギターケースに目をやって、古城は唇を歪めた。

 

 モノレールが学園前の駅に到着し、古城たちと同じ制服を着た生徒たちがわらわらと車両を降りていく。雪菜はパスケースを取り出しながら、

 

「でも、先輩が本当に第四真祖の力を受け継いだというのなら、何故眷獣たちを制御できないんでしょう?」

「……それは、多分俺が吸血童貞だからだろ」

 

 純粋に疑問に思ったと言う風な雪菜の問いに、古城は彼女から目を逸らして、声を低くして答えた。

 雪菜は首を傾げて、

 

「吸血……童貞? 童貞とはどういう意味ですか?」

「本気で訊いてんのか……って、そういやどっかの名門女子高育ちなんだっけか。……あー、つまり未経験者ってこと。他人の血を吸ったりとか、そういうのを俺はしたことねーから」

「ああ、童貞というのはそういう……え? したことがない?」

「おう」

「未経験って、先輩……そう、なんですか……?」

「そんなおかしな話じゃねーだろ。俺はついこないだまで普通の人間だったんだから」

 

 実際のところ、古城が眷獣だけでなく吸血鬼らしい能力を何一つ使えないのも、そのことと無関係ではないだろう。

 今までは、二つの前世の力だけでさえ持て余していて、特に不便に感じることはなかったのだが。

 

 雪菜は、吸血鬼の真祖というイメージと、古城の告白が頭の中でうまく結び付かなかったらしく、頭の上に疑問符を浮かべていた。

 しかし、どことなく嬉しそうに見えるのはどういうことか。

 どうでもいいが、そんなことをこんな場所で連呼しないでほしい。

 周囲を気にしながら雪菜に言葉を止めさせようとすると、いきなりの背後からの衝撃が古城を襲った。

 古城の首に馴れ馴れしく腕が巻き付いて、聞き覚えのある声がする。

 

「おいーっす、古城」

「や、矢瀬?」

「お前ね、こんな朝っぱらからなんつう際どい言葉を女の子に言わせてんのよ」

 

 朝っぱらからテンションの高い口調で声をかけてきたのは、首にヘッドフォンをぶら下げた短髪の男子生徒だった。

 いつの間にか学校の見慣れた正門がすぐ近くにあった。そろそろ雪菜ともお別れだろう。

 

「……ってあれ、凪沙ちゃんじゃないんか。誰だ? うちの中等部にこんな子いたか?」

 

 隣を歩いている雪菜に気付き、少し驚いたように古城の顔を見てくる。古城は鬱陶しげに矢瀬を突き放し、

 

「転校生だよ。凪沙と同じクラスの。で、家が近所だから来る途中に会っただけだ。だったら話ぐらいはするだろうが、普通」

「はー、それはそれは……」

 

 何か感心したように息を吐く矢瀬。そんな矢瀬を訝しげに見返しながら、古城は正門へと歩いて行く。

 矢瀬と雪菜のあいさつの会話をBGM代わりに聞きながら正門まで辿り着くと、そこには見知った顔が立っていた。

 

「やぁ、おはよう、暁君」

 

 正門の前に何やらカードを持って立っていたのは、古城の顔見知りの上級生だった。

 長身だが引き締まって軽捷そうな体付き。強面だが実直そうな顔つきの男。

 彩海学園高等部の夏服を着て、腕には「生徒会」と書かれた腕章が。

 彩海学園生徒会長、三年A組、石動(いするぎ)(じん)その人だ。

 

「うす。どうしたんすか?」

「なに、今日は持ち物検査の日でね。先生に任されて僕たち生徒会が代わりにやってるのさ。という訳で荷物を出したまえ」

「了解す」

 

 この石動迅、普段の素行や成績も良く、教師からの人望も厚い。スポーツも出来て、まさに万能。しかし唯一の欠点として、極度の石頭である。

 やがて古城の鞄が返され、矢瀬の番が回ってくる。

 

「ふむ。これは何かな?」

「あっちょっ、それはぁ……! イベント限定版ハロハロのCD……!」

「なるほど。……没収だね」

「そんなあぁぁぁ!」

 

 絶叫する矢瀬。それをしれっとした顔で聞き流し、石動は雪菜に視線を向けた。

 一瞬だけ驚いたような顔をして古城の方に視線を向けたが、すぐにいつもの厳めしい顔つきに戻り、雪菜から鞄を受け取る。

 ささっと手早く中身を確認し、次に雪菜の背負ったギターケースに視線を向けた。

 

「次はそれだな。さあ、そのギターケースを僕に」

 

 雪菜の表情が強張る。古城も頬を引き攣らせた。

 あのギターケースの中に入っているのはギターなどではない。〝雪霞狼〟という銘を付けられた破魔の神槍だ。

 万が一にも見られるわけにはいかない。そういう思いで雪菜が固まり、古城がどうにかしようとしたところで、石動が未練なくさっと手を引き戻した。

 

 職務に忠実な石動の性格のことを知っているだけに、古城は意外に思った。

 

「い、石動先輩? いいんすか、そんなことして」

「いいのさ。楽器であれば致し方ない」

「……何か、あったんすか?」

 

 どことなく疲労を滲ませた声で返された、嘆息にも似た答えに古城は疑問を感じた。

 やがて石動は首を振り、諦めたような口調で言った。

 

「以前、僕が同じく持ち物検査をしたことがあってね。その時、ある一人の生徒が大きなドラムセットを持って来たんだ。どうやら部活で使うらしかったんだが、まさかそのまま持ち込ませるわけにもいかない。なので、放課後まで生徒会で預かると言って手を伸ばしたんだが――」

「伸ばしたんだが?」

「すさまじい勢いで暴れられてね。よほど怒っていたのか、取り押さえようとした生徒会役員数人が軽傷とはいえ怪我を負う事態に陥ってしまった。それからさ。楽器を持ち込もうとしている生徒に不用意に何かしないという不文律が出来上がったのは」

「そ、そうなんですか……」

 

 その時の、生徒会長である石動の苦労が偲ばれる。

 自分で言いながらその時のことを思い出したのか、色濃い疲労に彩られた表情をしていた。

 雪菜はと言えば、そんなのと一緒にされたことを不愉快に思ったのか、眉根を寄せていたが、見せられないのも事実なので何も言わなかった。

 古城は安易な言葉をかけられない。しかし石動は疲労の色をこびりつかせたまま、沈んだ声で懇願するように言った。

 

「だから暁君……問題を起こすのはやめてくれたまえよ」

「え、何で俺なんですか」

「………………」

 

 何も言わず、古城と雪菜の間で視線を巡らせる石動。

 その仕草の意味を悟った古城と雪菜は、二人揃って首を大きく横に振った。

 

「いや、違いますって! 姫柊は、うちの妹と同じクラスに転入してきてて……!」

「……ああ、そういえば、今日は中等部に転校生が来るのだったか」

「は、はい。んで、家が近かったんで、ご近所のよしみというか……」

「なるほど。すまないね、疑ったりして。どうにも最近、校内での不純異性交遊が増えていてね。校外であれば何をしようと個々人の勝手なのだが……」

 

 はあ、と溜め息を吐く石動。度重なる心労に、本当に疲れているのだろう。

 肩を落とした哀愁漂う生徒会長に、古城と雪菜と、先程大事なものを没収されて嘆き悲しんでいた矢瀬に至るまで哀れみの視線を向けた。

 

「……コホン。まあ、何はともあれ。彩海学園にようこそ、姫柊君。生徒会長として歓迎するよ。問題さえ起こさなければね」

「は、はい……」

 

『問題さえ起こさなければ』が、どうしても『頼むから問題を起こさないでくれ』に聞こえてしまう古城たちだった。

 どことなく沈んだ空気に気圧されて、三人は目配せし合い、揃ってその場からさっさと立ち去ろうとする。

 

「ふぉっ!?」

「うひゃっ!?」

 

 しかしその直前、――むんず! と。

 古城と矢瀬は、何者かに尻を鷲掴みにされて、素っ頓狂な声を上げた。

 

「せ、先輩方……?」

 

 いきなり跳び上がって硬直した二人を心配して、雪菜が恐る恐るといった様子で声をかけてくる。

 だが古城たちは答えられない。答えるだけの余裕がない。

 何故なら、その何者かは掴むだけでは飽き足らず、二人の尻を撫で回していたからだ。

 

「おはよう、暁、矢瀬」

「お、おはよう、ございます……」

「う、うーっす……」

「今日もいい天気、そしていい尻だな貴様ら!」

 

 その不審者は、大威張りで、耳にキーンと耳鳴りがするような大声でそうのたまった。

 古城たちは堪らず片眼を瞑り、もう片方の眼で声の主を見る。

 そこに真面目腐った顔で立っていたのは、三年生の女子だった。

 女科学者然とした怜悧な美貌に、よく似合うシャレた細眼鏡がキラリと光る。

 彼女は三年C組、神崎斎子(かんざきときこ)

 朝っぱらからセクハラをかましてきたこの女子は、信じ難いことにこの学校の風紀委員長である。彼女の腕に巻かれた「風紀」の腕章がその証拠だ。

 信じ難いことに。

 

「どうした貴様ら、元気がないな」

「い、いや、朝からセクハラされたら、そうなるでしょ……」

「つ、つうか離してくれませんかね……」

「断る! 毎朝いい男にセクハラをするのは私の生き甲斐だからな!」

 

 大真面目にふざけたことをほざいてくださりやがった。

 軍人のように高圧的な口調と怜悧な美貌でそう叫ぶもんだから、どうツッコんでいいか分からない。

 更に無駄に声がデカイので、今の叫びを聞いた生徒が何事かとこちらを振り返るのが恥ずかしくて堪らない。

 どうしていいか分からずオロオロする雪菜。

 雪菜の存在に気付いた斎子は、不機嫌そうに舌打ちして古城に怒鳴ってきた。

 

「オイ暁! 貴様という男はこの私という女がありながら、こんなガキと朝っぱらからイチャコラしていたのか!? まったく信じられんな!」

「い、イチャコラ……!?」

「いつもいつも嵐城やら漆原やら藍羽やらと甘ったるいことばかりしているから、貴様も砂糖菓子のように甘くなってしまっているのだ! 仕方あるまい、ここはこの私が、貴様に成熟した女の良さというモノを骨の髄まで染み込ませてくれる!」

「ちょっと待て、何しようとしてんだアンタ!」

「古城に用があるんなら、いい加減離してくださいよ、神崎先輩!」

 

 悲鳴のような声を上げる古城と矢瀬。斎子は怒鳴りながらも、ずっと二人の尻を撫で回していた。

 しかも優しいタッチで撫でていたかと思えば、本人の感情が昂ぶって来たのか、いきなり鷲掴みにされたりもして、二人には気が気でなかった。

 撫で回している斎子本人は至極楽しそうにしている。まさにこの世の春というものなのだろう。

 

 だが、彼女の春は、ほどなくして極寒の冬へと変わった。

 正しくは、厳冬の吹雪かと見紛うような冷たい威厳を纏った石動が、彼女の背後からその脳天を睥睨していたのだ。

 

「なに、案ずるな暁。怖がらずとも、この私がすぐに天国に連れて行ってやる。いや、ある意味地獄かもしれんがな!」

 

 斎子はそれに、まったく気付かない。

 石動は、得意絶頂叫ぶ斎子の後頭部を――

 

 メギリ、と。不穏な音が立つくらい力を込めて鷲掴みにした。

 

「みゃっ!?」

 

 驚きか痛みか、はたまたその両方か、妙な声を出す斎子。

 

「おはよう、神崎君」

「そそ、そっ……そぉ!? その声は会長かっ?」

「いつも言っているはずだよ、神崎君。生徒の模範となって風紀を取り締まるべき君が、率先して風紀を乱すようなことをしてくれるなと」

 

 ミシミシと嫌な音が鳴る。ガタガタと斎子の体が震える。

 

「悪かったー! 以後態度を改めるから私の頭を潰れたトマトに変えないでくれー!」

 

 とうとう斎子がなりふり構わずに降参した。

 そこでようやく古城と矢瀬も解放され、古城は思わず自分の尻を擦る。

 矢瀬はまるで歌舞伎役者のように芝居がかった仕草で足を流して崩れ落ち、「うう……緋稲さん……ごめんよぉ、穢されちまったよぉ……」などと呟いていた。

 

「あの、すみません、先輩方。わたしはここで」

「あ、ああ。またな、姫柊」

 

 手を振る古城に会釈して、中等部の校舎に走り去っていく雪菜。

 朝からどっと疲れた。

 思わず視線を彷徨わせると、高等部の校舎の二階にある古城たちの教室の窓際で、浅葱がちょうど登校してきた古城たちに気付いて手を振っているのが見えた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「おはよ、古城。相変わらず気の抜けた顔してるわねー」

「ほっとけ。ていうかお前も眠そうだな」

 

 ホームルーム開始直前の教室で、自分の席についた古城に、前に座る浅葱が声をかけてくる。

 相変わらずの華やかな服装と髪型だが、今日に限ってはどことなくアンニュイな雰囲気だ。

 

「そーなのよ。おかげで化粧のノリが悪くてさ……あんたも見たでしょ、昨日の爆発のニュース。あの後すぐに人工島管理公社のお偉いさんが泣きついてきてさー」

「お、おう」

「災害対策用のメインフレームが吹っ飛んだとかで、代替システムを一から組まされたのよ。コストケチって冗長性の低いしょぼいハード買ったりするからそういうことになるのよね。チューニングもなってないし、インバウンドのセキュリティもザルだし」

 

 何の闇術の詠唱だろうか。古城(シュウ・サウラ)ですら知らない闇術があったとは驚きだ。

 

「何かよく分からんが、大変だったんだな……悪い」

 

 素人には理解不能な単語の数々を聞き流しながら、古城は罪悪感に苛まれた。まさかこんな身近な所にまで昨日の事故の影響が及んでいるとは。

 

「なんで古城が謝んのさ?」

「い、いや、何となく。それよりも、あのほら、社会のレポート持ってきてるか?」

「ああ、あれ? あんたのためにちゃんと持ってきてあげたわよ。……そうね、キーストーンゲートのレストランでやってるケーキバイキングで手を打ってあげるわ」

「ぐ、くっ……背に腹は代えられないか」

 

 いつものニヤニヤ笑いを浮かべて言ってくる浅葱に、古城は僅かに安堵しながら軽口を返した。

 キーストーンゲートは四基の人工島(ギガフロート)の連結部――文字通り絃神島の中心部に位置する巨大な建物だ。高級ブランドや専門店が集まる島内一番のオシャレスポットでもある。

 そんな場所にあるレストラン、さぞやお高いに違いない。

 

「ね、ねえ、古城」

 

 浅葱が頬杖をつきながら、わざとらしく無関心な口調で声をかけてきた。何故か横目でチラチラと古城を見ながら、

 

「そ、そういえば古城は、あの後どうしたのかなーって」

「あの後?」

「ほら、昨日、駅で嵐城さんと、凪沙ちゃんのクラスメイトっていう子と一緒に居たじゃない。別にどうでもいいんだけどさ」

「ああ」

 

 そんなこともあったな、と古城はおざなりに頷いた。その後の騒ぎが強烈過ぎたせいでほとんど忘れかけていたが。

 

「いや、あれから普通に家に帰ったけど」

「そう……なの?」

「俺はただ買い物の荷物持ちをしてただけだからな」

「そ、そうなんだ……ふーん。そっか」

 

 浅葱が表情を明るくして顔を上げたところで、ガラララッと教室前の扉が開き、サツキが登校してきた。

 いつも通りサイドテールがブンブンと揺れているが、どことなくくたびれたような表情だ。

 目の合ったクラスメイトと挨拶を交わして、古城を見つけると、嬉しそうに小走りになって古城の机の前に立って、

 

「おはよう、古城!」

「おう。おはよう、サツキ」

 

 と、元気に挨拶をしてきた。満面の笑顔のオプション付きで。

 つられて古城の頬も緩んだ。昨日の騒ぎで彼女も火傷を負ったはずだが、そんな痕跡は見られない。綺麗に完治しているようだ。

 負傷を治す光技、《内活通》によるものか。

 

 不機嫌になってしまった浅葱を置いて、二人は会話を交わした。

 

「サツキ、昨日のあれは大丈夫だったか?」

「まだちょっと痛いけど、大丈夫。もう、兄様があんなに激しくするから……」

「あ、あれは仕方ないだろ。抑えきれなかったんだから……まあ、すまん」

「謝んなくてもいいわよ、兄様だもの。兄様以外ならぶん殴ってる所だけどね!」

「そ、そうか。何にしても悪いな。次からは気を付ける」

「ちょ、ちょっとアンタたち! 待ちなさいよ!」

 

 和やかに会話していると、妙に顔を赤くした浅葱が焦ったような口調で割り込んできた。

 明らかに普通ではない剣幕に、思わず古城は怯む。

 

「今の会話何!? 明らかにおかしい話だった気がするんだけど!」

「え、ど、どこがだ?」

「古城! あんた、あの後そのまま家に帰ったんじゃないの!? なんで嵐城さんと一緒に居たみたいな感じになってるワケ!?」

「あ、あー、それはだな……」

 

 答えようにも、昨日のことをバラす訳にもいかない。何せこちとら五百億円が懸かっているのだ。

 そんな訳で何も返せずうろたえる古城に、浅葱はさらに詰め寄る。

 

「答えなさいよ古城! あんたまさか――」

「ふぉっふぉっふぉ、藍羽ぁ? どぉーぅしたのかしらぁ?」

「ら、嵐城さん……」

 

 ふっふっふと気味の悪い声を上げて古城に擦り寄るサツキに、浅葱が頬を引き攣らせる。

 浅葱の反応に気を良くしたのか、サツキはさらに調子に乗ったように、

 

「あたしと兄様がどうなったってアンタにとやかく言われる筋合いはないわよね? そう、たとえ昨日、二人でオトナの階段を上ってしまったとしても……」

「んなっ!?」

「おいっ!?」

「ふぉーっふぉっふぉっふぉ! 残念だったわねぇ藍羽! あたしと兄様の関係は、もはやアンタなんかでは太刀打ちできないほどに深まってしまったのよ! 

「ちょっと古城!?」

「何もしてねぇよ!」

「いくら否定しても無駄よ兄様。あたしをキズモノにした責任、ちゃんと取ってもらうわよ!」

「き、キズモノ!?」

「違うっつってんだろ!」

「アンタみたいなギャルは、あたしたちがイチャイチャしている脇でケバいメイクに精を出してりゃいいのよ! ああー哀れねーメイクなんかで誤魔化さなきゃいけない人ってー。このサツキちゃんみたいに素で可愛い娘って、ほんと罪作りだわー」

 

 ブチッ。何かが切れる音が、浅葱の頭から響いた。

 本能的に危険を察知した古城はさっさと教室の隅に避難する。面白そうに、あるいは妬ましそうに見守っていたクラスメイト達も只ならぬ空気を察して距離を取った。

 

「……このド貧乳」

 

 開戦の切っ掛けとなったのは、浅葱の放ったこの一言だった。

 

「ハァァァ!? ぬぁんですってぇ!?」

 

 先程まで余裕の表情を浮かべていたサツキが、額に青筋を浮かべてメンチを切りはじめる。

 そして始まる、果てしなく不毛な言い争い。

 

「聞こえなかったかしら? このまな板みたいでアバラ浮きまくってる哀れな超貧乳さんって言ったのよ」

「何か盛られてるんですけどォ!?」

「じゃあシンプルにド貧乳」

「ド貧乳なんかじゃないわよ! ただちょっと慎しまやかなだけよ!」

「あーあ、哀れだわー。薄過ぎて制服の上から分からない胸って哀れだわー。寄せても何にも出ない胸って哀れだわー」

「出るわよ! 思いっきりギュウーーーーってやったら、ちょっとぐらい谷間出るわよ!」

「あーどうしようーまた最近ブラジャーのサイズ合わなくなってきたのよねー。新しいの買わなくちゃ。嵐城さんも一緒に――あ、ごめんなさい……」

「ガチな感じで申し訳なさそうに言ってんじゃないわよぉ! ケンカ売ってるなら買うわよ!?」

「いいわね、あたしの胸を貸してあげる」

「やっぱりケンカ売ってんじゃないのおおおおおおおお! わざとらしく胸張ってんじゃないわよおおおおおおおお」

「……ごめんなさい。ひどいこと言っちゃった」

「だから本気で謝ってんじゃないわよおおおおおおおお」

「……そうよね、世の中には言っていいことと悪いことがあるわよね」

「あたしの胸はそこまで悲惨じゃなああああああああい」

「大丈夫、あたしもあなたもまだ成長期だから。まだ育つから」

「憐れんでるフリして現実叩きつけてこないでよおおおおおおおおおおおお」

 

 ギャアギャア、ワアワア。喧々囂々。

 女三人寄らば――と言うが、未だ二人だと言うのに、姦しいことこの上ない。

 正直行きたくなかったが、クラスの全員から向けられる「お前何とかしろよ」という無言の圧力に気圧されて、古城は仕方なく前に出ようとする。

 

 だが、その歩みは途中で止まることになった。

 二人が言い争っている方とは逆側のドアから一人の女子生徒が入ってきたのだ。

 サツキや浅葱に負けず劣らずの美少女だった。敢えて比べれば、サツキは陽気な可憐さであり、この少女は静的で美しい。

 長い黒髪は溜め息をつきたくなるほどに美しく、眠たげに細められた吸い込まれそうな黒瞳。

 凄まじいほどの美貌を持つ美少女だった。その表情は一切感情と言うものが感じ取れず、まるで能面のようだった。

 そして、制服を下から窮屈そうに押し上げるたっぷりとした膨らみ。サツキどころか、浅葱でも勝負にならないだろう。

 その少女は、繰り広げられる壮絶な舌戦に気付いた様子もなく、真っ直ぐに古城の方に寄って来て、

 

「おはよう、古城」

「お、おう、おはよう静乃……うっ!?」

 

 立ち上がった古城の頭をガシッと両手で掴み、強引に自分の豊かなそれへとダイブさせた。

 いきなりのことに反応する間もなかった。気が付けば、顔面がこの世のものとは思えない柔らかな感触に包まれていた。

 制服越し、あるいはブラ越しでもその感触はたっぷりとある。

 陶然としていた古城だったが、呼吸が苦しくなって顔を上げようとするも頭をがっしりと掴まれているため、それも叶わない。

 顔を捩ろうとしても、隙間なく密着したそれが古城の動きに従って、プルプルと震える。

 

「久しぶりね、古城」

「ほ、ほうはは(そ、そうだな)。ほへへ、ほへはほふひふほほは(それで、これはどういうことだ)!?」

「古城ったら、私の胸がそんなに恋しかったのかしら?」

「ひはふ(ちがう)! ははへー(離せ―)!」

「…………あ…………ん。あんまり動かないで、くすぐったいわ?」

「んーーーーーー(んーーーーーー)!」

 

 古城は絶叫した。少女――漆原(うるしばら)静乃(しずの)の胸の中で。

 

「気にしないで。ただ、夏休み中補給できなかったコジョニウムの補給よ」

「ひひふふは(気にするわ)!」

「あら、じゃあ気持ち良くないのかしら?」

「ふ、ふぅ(む、ぬぅ)……」

「いいのよ。存分に堪能すれば」

 

 抵抗しようにも、心配になるほどにたおやかな静乃の体を気遣ってできず、されるがままになる古城。

 恐ろしいのは、全く忌避感や嫌悪感を感じないことか。

 自分の意思に関わらず、このままずっと埋めていたくなってしまう。

 だが古城はギリギリのところで正気を取り戻せた。

 男子の向ける嫉妬と憤怒の、女子の向ける軽蔑と嫌悪の視線と、今の今まで言い争っていたサツキと浅葱の素っ頓狂な声が聞こえてきたことによって。

 

「ちょっと漆原ああああああああ!?」

「あんた、何しちゃってるわけ!?」

「挨拶よ」

「んな挨拶があってたまるかああああ!」

「嘘じゃないわ。漆原家式のものよ」

「嘘つきなさいよ! じゃあんた、それお兄さんとかにしてるの!?」

「してるわけないじゃない。常識ないわね」

「「あんたが言うなああああああああ」」

 

 二人の言い争いが終わったと思えば、三つ巴の戦いに移っただけだった。

 先程、女三人寄らばと言ったが、本当に三人揃ってしまったらどうなるのだろう。

 とりあえず、静乃の参戦によってさらにヒートアップしたのは間違いない。

 

「まず古城を離しなさいよ! 苦しがってるでしょ!」

「そ、そうよ! 女の武器を使って誘惑するなんて恥ずかしくないワケ!?」

「自分にないからってやっかむのはどうかと思うわ、藍羽さん、嵐城さん」

「ちょっと! あたしをこの貧乳と一緒にしないで!」

「藍羽ああああああああ!?」

「どっちも同じよ」

「漆原ああああああああ!?」

 

 ちなみにこの会話の間、古城の顔面は静乃の胸の中に埋まっている。

 人間の言語にならない呻き声に近い言葉で助けを求めているのだが、誰一人取り合ってくれない。

 

「たゆーん」

「ぐほっ……!? なに、その擬音……!」

「ず、ずるいわよ、漆原ぁ……!」

「ぽいーん」

「かはぁっ……! ま、まだよ、まだ負けてない」

「くふぅっ。あ、あんた……一番やっちゃいけないことを」

「ぼいーん」

「ぐっはあっ……!? 最強にダメージの来る音を……!」

「もう止めて! サツキちゃんのHPはとっくにゼロよ!」

 

 静乃の圧倒的なボリュームの前に、浅葱とサツキは膝から崩れ落ちた。

 降参の合図だった。

 そこで止めておけばいいものを、静乃はさらに追い打ちの言葉を付け足した。

 

「五十歩百歩、ドングリの背比べと言ったところかしら」

「…………」

「…………」

 

 最初から見ていなかったくせに、なぜそこまで的確なことが言えるのか。

 ビクン、ビクン、と。蹲っていた二人の体が不自然に痙攣した。

 図らずとも、二人の争いを止めてしまったらしい。ナイスプレイではあるが、二人の精神的ダメージは甚大である。

 まだ起き上がることはできそうにない。ただのしかばねのようだ。

 

「ほへほひほ、ははふはふへほー(それよりも、はやくたすけろ)ー!」

 

 結局古城が解放されたのは、先生が遅れてやってきてホームルームが始まってからのことだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……ったく、静乃。お前ってやつは……」

 

 一時限目終了直後の休み時間。授業が終わって早々に古城の席に近寄ってきた静乃に、古城は深々と溜め息を吐いた。

 原因はもちろん、今朝の事件についてだ。

 

 ちなみにこの場には、当事者である浅葱とサツキも居て、一様に静乃を、と言うより静乃の体のある一部分を射殺さんばかりに睨んでいる。

 対して静乃は能面のような素知らぬ顔で古城を見ていた。

 

「古城は嬉しくなかったのかしら?」

「ぐくっ……それは、まあ、なんと言いますか……」

「兄様……」

「古城……」

「――オッホン」

 

 二人から向けられるジトッとした視線に、古城は不自然に咳払いをして誤魔化す。尚もその視線は続いていたが。

 何とか気を取り直し、静乃に責めるような視線を向ける古城。

 

「とにかく、あんなことをするのはやめろ」

「仕方ないでしょう。一か月と少しぶりの再会なのだから、感情が昂ぶっても仕方ないわ?」

「んな無表情で言われても信じらんねえよ。つうかな、再会を喜ぶなら、もっと別のやり方があるだろ」

 

 頭痛を堪えるように頭に手を当てて声を絞り出す古城。

 そんな古城に、静乃は微かに、ほんの微かに笑って、

 

「別のやり方……例えば、こんな?」

 

 言って、ガシッと古城の頭を掴む静乃。すわまた胸に顔を埋めさせられると思って何とか顔を動かすまいとしていたのだが、結果としてそれが仇になった。

 静乃は古城を引き寄せようとはしなかった。逆に、自分から顔を寄せてきた。

 静乃の狙いを逸早く悟ったサツキと浅葱が止める間もなく、

 

 ――ちゅっ、と。

 

 静乃と古城の唇が、ぴったりと重なった。

 驚愕に硬直した古城は咄嗟に動くこともできず、ただ硬直して、女の子の柔らかい唇の感触を堪能するのみとなった。

 

「なななななななななな何やってんのよ、兄様!? 漆原ぁ!?」

「あ、あんたたち、馬っ鹿じゃないの!? こ、こここここんな所で!」

 

 僅かに頬を赤くした古城などよりも尚真っ赤になった二人が、古城と静乃を引き離しにかかった。

 出席番号の関係で古城の後ろに座っていた浅葱が古城を後ろに引っ張り、サツキが強引な動きで静乃にヘッドロックをかまして無理矢理引き剥がす。

 さっきまでいがみ合っていたくせに、随分と機敏で息の合った動作だった。

 

 サツキの説教をどこ吹く風と聞き流す静乃。馬耳東風である。

 浅葱にほとんど涙目で詰め寄られて苦悩していた古城は、そもそもの元凶である少女に目を向けた。

 だが古城が何か言うよりも速く、静乃の方から口を開いた。

 

「私の唇、どうだったかしら? 後学のために聞いておきたいのだけど」

「感想を聞くな、何の勉強だ! って、そうじゃなくてだ、女の子がそんなことを軽々しくすんな!」

「いいじゃない。別に減るものではないし」

 

 静乃は平然と答えた。それこそ本当にそう思っているかのように。

 古城は渋面になる。無駄かもしれないとは思ったが、頭をぐしゃぐしゃと掻きながら忠告した。

 

「――減るだろ」

「何が?」

「女の子の価値が減る。お前も、外見だけで言えばとんでもない美人なんだから、そこんとこ気を付けろ」

「……面白いことを言うのね?」

「お前に言われたくはないな!」

 

 面白いと言うよりも、疲れることばかりだが、静乃の場合。

 未だ解決したわけではない浅葱とサツキの問題を思い起こして、思わず惨憺たる溜め息を吐く古城。

 最近、溜め息の回数が増えたように思える古城だった。

 

 頭を抱える古城に、静乃は悪戯っぽい声で、

 

「でも安心して? 私の価値はそう減らないわ」

「……何で?」

「こんなこと、あなたにしかしないから」

「……そうかよ」

 

 そんなことを言われては、これ以上は何も言えない。

 唇を歪めながら、古城は静乃をジッと見つめる。よくよく注視してみると、口の端が少しだけ曲がって、綺麗なえくぼができていた。

 と言っても、見慣れた(・・・・)古城にしか分からないような、ほんの微かなものだ。

 

 それを認めて、古城は口をついて出そうになった疑問を、ギリギリのところで止めた。

 

 ――お前、やっぱり冥府の魔女(・・・・・)なんじゃないか? という。

 

「まあ、いいや……。浅葱、社会のレポート貸してくれ……」

「いいけど、今度ちゃんと説明しなさいよ。それから、キーストーンゲートのケーキバイキング!」

「ぐほっ、覚えてたか……了解」

 

 断腸の思いで頷く古城。中学生の財布よりも軽い自分の財布よりも、とりあえず目先の宿題をどうにかしなければ。

 一応機嫌を回復したらしい浅葱が、コピー用紙を古城に手渡そうとして、

 

「暁古城、嵐城サツキ。居るか?」

 

 漆黒の暑苦しいドレスを纏った幼女にしか見えないカリスマ担任が、不機嫌そうな表情で教室に入ってきたのだ。

 教室の入り口に仁王立ちで古城とサツキを呼ぶ那月に嫌な予感しか感じられないながらも、二人は素直に手を上げた。

 

「……なんスか?」

「昼休みに生徒指導室に来い。話がある」

 

 冷たく言い放つ那月。この時点でサツキはすでに涙目だ。

 冷ややかな殺気すら感じさせる那月の剣幕に、古城は軽くビビりながら、

 

「え? な、何でっスかね……」

「それから中等部の転校生も一緒に連れてこい」

「姫柊を……? 何で?」

 

 古城の声が無意識に裏返る。

 教室の隅で携帯を覗き込んでいた男子の一群が、驚愕の表情でこっちを向いた。ちょうど、姫柊の話をしていたようだ。

 

「昨夜の件、と言ったら分かるか?」

「い、いや……何のことだかさっぱり……」

「とぼけても無駄だ。深夜のゲーセンから逃げ出した後、お前ら三人が朝まで何をしていたのか、きっちり話してもらうからな」

 

 一方的にそれだけ言い残すと、那月は古城たちの返事も聞かずに去っていく。後に残されたのは脂汗に塗れた古城ともはや泣きだしたサツキ、そして古城を殺気だった目で睨みつける男子生徒たち。

 

 しかし今の那月、自分の前から逃げ出されたこと、古城たちを捕まえられなかったこと、それ以外の理由で不機嫌だったように思えた。

 どうにも、何か気に食わないと言う風な。

 

 だが、今の古城にそれ以上のことを考える余裕はなかった。

 呆然としていた古城の耳に、教室の黒板近く、ゴミ箱の辺りでビリビリビリ……と、紙を破るような音が届いた。

 嫌な予感を感じながらそちらの方を向くと、それはもう不機嫌そうな顔をした浅葱が、紙の束を破いてゴミ箱に突っ込んでいる真っ最中だった。

 

「……え? おい、お前それ、まさかレポートの紙なんじゃ……」

 

 紙の束の正体に気付いた古城が、青褪めながら問う。

 しかし浅葱は一顧だにせず、最後の一枚まで破り捨ててから、

 

「ふん」

 

 荒々しく鼻を鳴らして、古城を静かな怒気を孕んだ半眼で睨みつけた。




 静乃さんみたいに、会話だけでキャラが立ってるキャラ書くの、すごい難しい……


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6 嘆きの少女 ―Girl Is Crying―

 お久しぶりです。侍従長です。
 話をつなげるために、いろいろごちゃごちゃなってますが、よろしくです。


「そう言えばさ、古城」

「ん?」

 

 昼休み、生徒指導室での那月の説教を乗り越えた古城はサツキ、雪菜と共に、渡り廊下を歩いていた。

 実際の所は説教はほんの少しで、むしろ魔族である古城に警告をしてくれたと言う感じだったが。

 その警告の内容について考え込んでいたところで、不意にサツキが話しかけてきた。

 

「古城って、魔族なの?」

「え」

 

 直球も直球、ド直球である。

 しかしそれも仕方ない。すっかり忘れていたが、サツキは古城が第四真祖などと言う埒外の存在になったことを知らないのだ。

 

 古城の封じられた記憶によれば、古城がこの体質を受け継ぐことになった事件には彼女も関わっている気もするのだが、少なくとも彼女自身はそれを知らない。

 だが、サツキに教えていいものか。

 チラリと隣を歩いていた雪菜に目をやると、困ったような表情を返された。

 相手がサツキであるため、なまじ無関係と言えないのもあってどうしていいか分からないらしい。

 

 古城は少し考え、結局は真実を口にした。

 サツキならば露見する心配もないし、何より彼女であれば、それを知っても態度を変えることはないと言う信頼があったからだ。

 案の定、古城がつっかえつっかえ話す内容を聞いたサツキは、

 

「ふーん」

 

 と、至極どうでもよさそうな吐息を洩らした。

 

「ふーんって……もうちょっと何かないのかよ?」

「だって、第四真祖って言っても、古城は古城でしょ?」

「そうだけど」

「ならいいじゃない。そもそも今更古城が世界最強の吸血鬼だ、とか言われても驚かないわよ」

 

 当然のように言うサツキに、古城と雪菜は当惑した。

 本当に、心の底からそう思っているように思えたからだ。

 サツキの夜空に星を撒いたような綺麗な瞳には、ただ古城(兄様)に対する絶対的な信頼だけがあった。

 

「だって、兄様は世界最強の剣聖だもの」

 

 ニッコリと。古城(フラガ)の記憶にあるその笑顔と同じ、古城の心に蟠った全てを吹き飛ばしてくれるような輝かしい笑顔で、サツキはそう言った。

 一瞬ポカンとした古城は、すぐに微笑んで、

 

「そっか」

 

 それだけ、口にした。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「最近の無差別魔族襲撃事件?」

「ああ。那月ちゃんから聞いたんだけどさ、お前は何か知らないか?」

「そうね……」

 

 昼休みも中程、古城は教室の静乃の机に来ていた。彼女に聞きたいことがあったからだ。

 

 那月からの警告。それは、ここ二ヶ月の間に、絃神島内で魔族の襲撃事件が頻発していると言うものだった。

 企業に所属している魔族やその血族には、『魔族狩り』に気を付けろと言う警告が既に回っているらしいが、古城にはそんな上等な知り合いはいない。

 なので、那月が代わりに警告をしてくれたと言う訳だった。

 まあ、その中で昨日の件がバレそうになったりなど、色々あったりしたのだが。

 

 自分が吸血鬼と言う自覚がないせいか、古城にはあまり実感がなかったが、オイスタッハは既に古城が第四真祖であることを知っている。次の標的が古城になったとしてもおかしくはない。

 実際、オイスタッハは古城と遭遇した時に、確かに言ったのだ。

 今はまだ(・・・・)、真祖と戦う時期ではない、と――

 

「これかしら?」

 

 那月との会話の内容と、昨日の一件を思い出していると、スマートフォンを取り出した静乃がすいすいとそれを操って、数枚の写真を表示していた。

 街の監視カメラの映像を拡大した、目の粗い写真だ。

 

「静乃……これは?」

「今までに襲われた魔族のリスト。今映しているのは六件目の被害者ね。発見されたのは二日前らしいけれど……知り合いがいるの?」

「いや、知り合いって訳じゃないんだが……」

 

 古城は苦々しげに唇を歪めた。

 写真に写る、獣人と吸血鬼の二人組。古城が雪菜と初めて出会った日に、雪菜にぶっ飛ばされた男達だった。

 古城たちの目の前から逃げ出した後で襲われたと言うのなら、彼ら二人を襲った犯人があの殲教師たちである可能性は高い。

 

「こいつらはどうなったんだ?」

「入院中ね。一命は取り留めたけれど、まだ意識が戻っていないそうよ。生命力が取り柄の獣人と不老不死の吸血鬼を相手に、どうやったらそんなことが出来るのかしらね?」

 

 言って、彼女は優雅に肩を竦めて見せた。

 

 漆原静乃。彼女の実家である漆原家は、日本の政界にすら影響を及ぼす大財閥だ。

 そして魔族特区・絃神島においては、人工島管理公社の重鎮に漆原の血族、静乃の父親を送り込み、この島の運営に深く関わっている。

 例えば古城たちの通うこの彩海学園。この学園の理事長の名は漆原賢典(ただのり)。今年で二十五歳の若干にして絃神島の運営に口出しできる、静乃の兄だ。

 魔族も多く通う魔族特区の学校機関の運営を任されていると言う時点で、漆原家の影響力の強さが窺えると言うものだ。

 静乃は漆原家の中ではそこまで立場は強くないそうだが、何でも現当主である静乃の祖父からいたく気に入られていて、それなりの自由が許されているらしい。

 その縁もあって、時々彼女にはこう言った面倒事について知恵を拝借することがある。

 

「ロタリンギアの殲教師……」

「え?」

「この事件の犯人だよ。ほら、昨日の爆発事故があっただろ?」

「ああ。現場で瀕死の〝旧き世代〟の吸血鬼が見つかったと言うあれね?」

「そう、それ。で、その吸血鬼を瀕死に追い込んだのが、ロタリンギアの殲教師って名乗るオッサンだったんだ」

「ふぅん、ロタリンギア……」

 

 思慮深げに呟く静乃。さりげなく髪を払う仕草に見惚れながら、古城は重ねて尋ねた。

 

「で、まあ、とある事情から、俺たちはそいつを追わなくちゃいけないんだが……どっか、考えられる潜伏場所とかないか?」

 

 事情とはもちろん、古城の正当防衛が認められるか、と言う話だ。

 例え警察に昨夜のことを説明しても、恐らく警察に拘留されて古城は動けなくなるだろう。そうなれば凪沙にも古城が吸血鬼であることがバレてしまう。

 だが相手は〝旧き世代〟クラスの吸血鬼を倒した無差別魔族襲撃犯。その危険性は誰もが理解しているはずだ。

 なので、もし古城は彼らに襲われただけだと言うのを証明できれば、古城の罪は帳消しになるはずなのだ。

 

「ロタリンギアに本社のある外資系企業、かしら」

「え?」

 

 ほとんど間を置かずに提示された答えに、古城は目を瞬いた。

 そんな古城を、静乃は面白そうに見やって、

 

「その人が殲教師というのは、その人たちが自分で名乗っているだけなのでしょう? それに、木を隠すなら森の中。ロタリンギア人が一番怪しまれないのはロタリンギア人の中だから……」

「外資系企業、か?」

「多分ね。それも、潜伏目的なら絃神島から撤退してしまって、閉鎖した事務所が残っているような場所がいいと思うわ? 魔族特区は欧州にもあるのだし、最近の円高で撤退した企業と言うことなら、丁度いいのはあるかもしれないわね」

「なるほどな……静乃。それって、静乃に分かるか?」

「無理ね。私にそこまでの権限はないわ。お役に立てずにごめんなさいね?」

「いや、十分すぎる。ありがとな」

「どういたしまして。それと、人工島管理公社のデータベースなら、全企業のデータがある筈よ」

「人工島管理公社……そうか! ――浅葱!」

「ふぇっ!? な、何!?」

 

 先程からずっと聞き耳を立てていた浅葱は、いきなり古城に大声で名前を呼ばれて跳び上がった。

 静乃は意地悪くえくぼを作っていたが、古城はそれに気付かず、意気揚々と話しかけた。

 

「お前、何やってんだ? ――まあいいや、ちょっと調べて欲しいんだが。ロタリンギア国籍で撤退済みの企業で、閉鎖した事務所がそのまま残ってるようなとこ!」

「い、いきなり注文が細か過ぎない?」

「すまん、でも、こんなことお前にしか頼めないんだよ」

「あ、あたしにしか? ……し、仕方ないわね。そこまで言うなら調べてあげなくもないわよ」

 

 どうしてかは分からないが、いきなり機嫌が良くなった様子の浅葱に首を傾げつつ、スマートフォンを取り出した彼女を見守る。

 嬉しそうな表情で一流のピアニストのように外付けキーボードを叩く。心なしかその指は本人の現在の心境を反映するかのように弾んでいた。

 

 数秒後、浅葱はあっさりと機密情報を引き出してみせた。

 画面が切り替わり、細かなデータがびっしりと画面を埋め尽くす。

 

「一件だけだけどあったわ。スヘルデ製薬の研究所。本社はロタリンギア。主な研究内容は人工生命体(ホムンクルス)を利用した製薬実験。二年前に研究所を閉鎖して、今は債権者の差し押さえ物件になってるみたいだけど」

「それだ! 浅葱、どこにある?」

 

 古城が身を乗り出してスマートフォンの画面を覗き込む。悪気なく密着してきた古城との距離の近さに、浅葱は微かに頬を赤らめながら、

 

「えーと、アイランド・ノースの第二層B区画。企業の研究所街ね」

「分かった。サンキュ!」

 

 古城はそう言うと、いきなり背を向けて教室を出て行こうとする。そんな彼を、浅葱は慌てて呼び止めて、

 

「ちょ、ちょっと、古城? どこ行く気?」

「急用が出来た! 出かけてくる!」

「はぁ!? 何言ってんの、午後の授業はどうするのさ!?」

「上手いこと誤魔化しといてくれ、頼む!」

 

 古城は拝むように手を合わせ、そのまま今度こそ教室を出て行く。

 唖然とする浅葱に追い打ちをかけるように、静乃も稀に見る機敏さで椅子から立ち上がって、

 

「ごめんなさい、藍羽さん。私のこともお願いね?」

「は、ちょ、漆原さんまで!?」

 

 先に行った古城を追いかけて教室から出て行く静乃。

 そして、古城を廊下で待っていたサツキと雪菜の存在に気付き、浅葱は、椅子を蹴散らしながら立ち上がり、

 

「こ、こら……! なにそれ!? あんたホント殺すわよ! 馬鹿――っ!」

 

 廊下に向かって怒鳴り散らす浅葱。

 とばっちりを恐れて慌てて眼を逸らすクラスメイト達。

 やっぱりこうなったか、と言う生温かい目で見守っている矢瀬。

 誰にも気付かれずにそっと溜息を吐いたクラス委員の築島凛。

 

 教室内は、渾沌たる様相を呈していた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 アイランド・ノース。企業の研究所が立ち並ぶ、絃神島北地区の研究所街。島内で最も人工島らしさを感じる未来的な街の片隅に、その研究所跡地は残されていた。

 ほぼ直方体に近い形の、四階建てのビルである。

 機密保持のためか窓が少なく、そのため閉鎖されていると言う雰囲気もあまりない。犯罪者が拠点にするには、おあつらえ向きの環境だと言える。

 

「だ、ダメです! 先輩はここに居てください、危険すぎます!こんな街中で、また昨日みたいに眷獣を暴走させたらどうするんですか!?」

「それはそうだろうけど、姫柊一人に全部押し付けるのはおかしいだろ! 大体、今回の事件は俺とも無関係じゃねーんだから!」

 

 そんなビルの直下で、古城の雪菜は大声で言い争っていた。

 ヒートアップして、ここが敵地であると言うことも忘れているようだ。一応攻魔師であるはずの雪菜ですら、隠密の『お』の字もない。

 

 素人である古城がついてくるのが気に入らないのか、声を荒げた雪菜は叩きつけるように言った。

 

「吸血鬼らしいこともなに一つ出来ないくせに、出しゃばらないでください! 余計なことはせず、ここに居ればいいんですから!」

「う……く……」

 

 言っている内容はキツイが、殊更に悪意がある訳ではないだろう。むしろ彼女にしてみれば、当然の指摘をしただけだ。古城を危険な目に遭わせないように、と。

 だが古城からしてみれば、そんなのは余計なお世話だった。

 昨日、この事件に巻き込まれた時点で荒事は覚悟しているし、それを切り抜けられるだけの力はあると思っている。

 それに、正当防衛を証明する、というやるべきこともある。

 

 けれど、今の古城にとっては、そんなことよりも、

 

「だけど姫柊が心配なんだよ!」

 

 古城が苛々と乱暴な口調で叫んだ。

 その言葉に、雪菜はキョトンと目を丸くした。頬が赤く染まっている。

 雪菜が古城に何かを返すよりも前に、古城は近くに生えていた木の陰に視線をやり、

 

「……で、サツキ、静乃。お前ら、いつまでそこに居るつもりだよ?」

 

 先程から姿が見えなかった少女たちの名を呼んだ。

 ずっと前から気付いていたのだが、あえて何も言わなかった。だが雪菜は本気で気付いていなかったようで、驚愕の表情を見せていた。

 最初は反応がなかったが、古城がじーっと見つめていると、やがて観念したかのように、バツが悪そうに苦笑したサツキとしれっとした顔つきの静乃が出てきた。

 

 はあ、と古城は溜め息を吐くも、実のところそこまで落胆はしていなかった。

 それもそうだろう。古城が戦いに赴くと言うのに、彼女たちがついてこないはずがない。

 雪菜は、サツキの力については昨日も見たので何も言わなかったが、初対面である静乃に訝しげな視線を送っていた。

 

「あの、先輩……こちらの方は?」

「ん、ああ、そういや姫柊は初対面だったっけか。こいつは漆原静乃。とぼけた顔してるけどそれなりに戦える」

 

 古城がざっくりとした説明をすると、静乃の方から歩み出てきた。

 そしていつもの能面のような表情で、雪菜に軽く会釈する。

 

「はじめましてね? 古城の言った通り、私は漆原静乃。あなたは姫柊雪菜さん、でいいのかしら?」

「は、はい。はじめまして、漆原先輩。何故、わたしのことを?」

「もちろん知ってるわ? 色々と、ね」

 

 含みのある口調でそう言って、静乃は雪菜が背負っているギターケースに視線を向けた。

 彼女は知っているのだ。雪菜の持つ魔族殺しの槍のことも。雪菜が獅子王機関の剣巫と呼ばれる存在であることも。そして、雪菜に与えられた使命のことも。

 思わず警戒の表情を浮かべる雪菜に、静乃は興味なさげに首を振った。

 

「まあいいわ。貴女が古城に害をもたらさない限りは、私も何も言わないでおいてあげる」

「……ありがとうございます」

 

 硬い声で礼を述べる雪菜から視線を外し、古城の方を向く静乃。

 

「いいわよね?」

「ダメって言っても聞かねえんだろ?」

「ええ。――貴方を佐けるのが、私の生き甲斐だもの」

「お前やっぱ……いや、何でもない。助かる」

「ええ」

 

 彼女の言葉に言及しようとした古城だったが、静乃の頬に現れたあえかなえくぼを目に留めて、何も言わずに礼を言うに留めた。

 そんな古城に、静乃が僅かに笑った、気がした。

 それを確認する間もなく、今度はサツキが古城に飛びついてくる。

 

「古城! あたしもいいわよね、漆原がよくてあたしがダメとか言わないわよね!」

「んあー、正直、お前は連れて行きたくないんだが……」

「何でよぉ! 兄様の薄情者おおおおおお!」

「そういうとこだよ」

 

 そういう、すぐに冷静さを欠くところが心配でならないのだが。

 けれど、純粋に古城のことを心配してくれている彼女を突き放すのも気が引ける。

 結局、古城は溜め息を吐いてサツキの同行を認めた。

 

 もし彼女に何かあっても、古城が守ってやればいいだろう。

 そうだ。前世とやることは変わらない。何も変わらない。

 思い出せないはずの古城(フラガ)の記憶が囁くのだ。

 この少女を、サツキ(サラシャ)を守ることこそ、俺の役目だと。そう、囁くのだ。

 

「……てな訳で、いいだろ? 姫柊」

「わ……わかりました。でも、出来るだけ私から離れないでくださいね。わたしの本来の任務は、先輩の監視役なんですから」

「了解だ。足手纏いにはならないから安心してくれ」

 

 拗ねたように発された承諾の声に、古城はほっと肩の力を抜いた。

 不機嫌そうな雪菜の態度には、まったく気付いていないようだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 当然のことだが、閉鎖された研究所の建物には鍵が掛かっていた。ガラス張りの正面玄関はもちろんだが、通行用の扉も太い鎖と南京錠でガチガチに封鎖されている。

 安物の南京錠は赤く錆びついて、長い間使われていなかったことを示していた。

 

 外から見る限り、この建物への入り口は他にない。屋上や地下から入れるような構造の建物でもない。

 あの殲教師と人工生命体(ホムンクルス)の少女はここじゃなかったか、と落胆しそうになった古城だったが、不意に横で魔力(マーナ)が膨れ上がったのに気が付いた。

 

 静乃だった。静乃が、その全身から黒々とした魔力(マーナ)を噴き出していた。

 古城(シュウ・サウラ)ほどとはいかないが、その量は十分以上に膨大だった。

 禍々しさすら感じさせる異様な気配に雪菜とサツキは、息を吞んで後退る。

 静乃はそれを一顧だにせず、ほっそりとした人差し指を施錠された扉に向け、詩を詠むような韻律で唱えた。

 いつの間にか彼女の左手には、一本の長大な杖が握られていた。

 

「綴る――」

 

 

 

 氷の子よ 雪の童よ そなたの息吹を貸しておくれ 小さな息吹で凍えさせておくれ

 

 

 

 彼女の指が踊り、虚空に光の文字を書き出していく。

 綴る間、周囲が僅かに暗くなる。静乃が体内の魔力(マーナ)を高めることで、自然界のエネルギーを吸い込んで己のエネルギーに還元しているのだ。

 時間にすれば僅か数秒。

 サツキと雪菜がその優美とさえいえる仕草に見惚れる中、〆に綴った文章をトンと叩く。

 

 直後、光の文字が渦を巻き、砲弾のような氷塊が吐き出された。

 その氷塊は閉ざされた扉に直撃し、そのまま粉砕する。

 

「……氷の第一階梯闇術、か」

 

 ぼそっと古城は呟いた。その声には、呆れの成分が多分に含まれていた。

 源素の技(アンセスタル・アーツ)の闇術。そんなものをガラス張りの扉一枚に対して使うなど、過剰攻撃にもほどがある。

 

「さ、行きましょ?」

 

 しかし静乃はそれに気付いた様子もなく、優雅に髪を掻き上げて、パキパキと氷の破片を踏み砕きながら進んでいく。

 古城も苦笑を浮かべながら、サツキと雪菜は置いて行かれないように慌ててそれを追った。

 

 建物の中は暗かった。

 いくら魔力(マーナ)が使えようとも、通力(プラーナ)と違って身体能力に何らかの補正をもたらすことはない。

 そのため、少し行ったところで立ち止まっていた静乃の手を、古城は至極自然に取って導く。

 既に眉間に通力(プラーナ)を纏わせているし、何より吸血鬼は元々夜目が利く。

 

 サツキと雪菜も闇を苦にした様子はない。サツキは古城と同じように通力(プラーナ)を用いている。

 そして、どうやら雪菜は吸血鬼である古城並に夜目が効くらしい。あるいはこれも、彼女の用いる霊視とやらの特殊技能なのかもしれない。

 

 最初が最初だったせいで忘れかけていたが、ここは敵地だ。慎重を期していけないことはない。

 全員が全員、緊張感を持ちながら歩いていた、が、

 

「むぅー……」

 

 古城と静乃が繋いだ手を《天眼通》を用いて認めてサツキが、不機嫌そうな唸り声を漏らした。

 

「何で、すっごい自然に手なんか繋いじゃってるワケ?」

「あ、あの、嵐城先輩? いまはそれどころじゃ――」

 

 控えめに咎めようとした雪菜だったが、悪戯心を発揮した静乃の、火に油をドバドバと注ぐような行為にあえなく沈黙することになった。

 静乃は、一度、暗闇で見えないはずのサツキに勝ち誇った微笑を浮かべて、

 

「きゃー暗くて怖いわー」

「ちょ、おい!?」

「うぅるぅしぃばぁらぁ~~~~!?」

 

 ぎゅむっ、と。いっそ見事なほどの棒読みで恐怖を訴えて、古城の腕に思い切り抱きついたのだ。

 繋いでいた方の腕、つまり左腕に抱きつかれたことで、静乃のいっそ見事なほどの柔軟性を持つ豊かなソレが、二の腕全体に押し付けられた。

 自分の腕と静乃の胸板の間で挟まれて、卑猥なほどに形を変えるソレに、ゴクリと生唾を飲み込む古城。

 

 いくらいつも拒絶していても、やはり古城も健全な男子高校生。人並みの性欲はある。

 そして、吸血鬼にとっての性欲はそのまま、とある生理現象に直結し、古城の場合はさらに進んで、

 

「……ぐふっ」

 

 鼻血を噴き出すことになる。

 すぐに戦闘に移れるように開けておいた右手で鼻を押さえる古城を見て、さすがに気が咎めたのか、静乃がそっと離れた。手は繋いだままだが。

 

 苦々しく唇を歪めながら鼻血を止めようと四苦八苦している古城に、ポケットからティッシュを取り出した雪菜が、鼻の辺りをごしごしと拭いてくれた。

 ただし、凄まじく荒っぽく、痛いほどだったが。

 

「う、ぐあっ、ちょ、ひめら、痛っ」

「……相変わらず、いやらしい吸血鬼(ヒト)ですね」

 

 ぼそっと付け加えられた一言に反論しようとした古城だったが、これまで見たこともないほど不機嫌そうな表情をした雪菜に気圧されて口を噤んだ。

 結局なすがままにされる古城の姿を見て、ついに我慢しきれなくなったのかサツキが大声で喚きはじめた。

 

「もおー兄様ったら、漆原と姫柊さんもだけど、兄様も流されてないで抵抗してよ!」

「お、おう、すまん」

「あんたたちも、いい加減にあたしの兄様から離れなさーい!」

 

 大好きな兄を盗られまいとする妹の姿は、世が世なら微笑ましいものかもしれないが、如何せん今は状況が悪かった。

 

 騒ぎながらも進んで行く内に、彼らの目の前に広がる光景は一変していた。

 まるで教会の聖堂のような、天井の高い広い部屋だった。

 ステンドグラスの代わりに壁際にずらりと並んでいるのは、円筒形の巨大な水槽だ。

 水槽の中は、濁った琥珀色の溶液で満たされている。

 

 そして間の悪いことに、目をバッテンにしたサツキの腕――通力(プラーナ)を纏った状態の――が、配置された水槽の内の一基に直撃し、

 ガッシャアァァァン、と。澄んだ音を響かせて水槽が砕けて、中に入っていた溶液が床に流れ出てきた。

 

「嵐城さん、暴れたいなら他の所でやって?」

「う、うぐ、わ、悪かったわよ!」

 

 流石に反省したのか、静乃の嫌みな言葉にサツキは素直に謝罪した。苦笑する雪菜。

 だが一人だけ、古城だけはその会話に参加していなかった。

 何故なら、彼の意識はあるモノに釘付けになっていたからだ。

 砕けた水槽の中から溶液と一緒に溢れ出てきた、それ(・・)に。

 

 それ(・・)は、子犬ほどの大きさの奇妙な生物たちであった。伝説の魔獣のような、美しい妖精のような姿をしており、確実に自然界に存在する生物の姿ではない。

 

「これが……人工生命体(ホムンクルス)、だと? こんなものが……か!?」

「古城?」

 

 怒りで声を震わせる古城に、気遣わしげに静乃が問いかけた。古城は答えない、答えられない。

 採光窓から差し込む光のお蔭で、静乃でも肉眼でそれ(・・)を視認することが出来た。

 だが彼女たちにはそれ(・・)を見ても、古城がここまで憤っている理由が分からなかった。

 

 その瞬間、ピチョン、という。明らかに目の前の砕けた水槽からではない、水音がした。

 雪菜が銀色の槍を構えて姿勢を低くし、サツキが小振りな剣を召喚して構え、静乃が人差し指をそちらに向けて杖を掲げる。

 

 水槽の陰から現れたのは、藍色の髪の少女だった。薄い水色の虹彩が、自分に向けられる敵意の数々を無表情に見つめている。

 アスタルテと呼ばれていた、人工生命体(ホムンクルス)の少女だった。

 彼女の足元には透明な雫が滴り、手術着のような薄く、ぐっしょりと濡れそぼった布切れを一枚身に付けているのみという、ほとんど裸同然の際どい姿だった。

 

 しかし呆然と少女の姿を見つめる古城の意識には、そんな余計な(・・・)情報は一切なかった。

 

「同じだ、こいつと、こいつらと同じだ……!」

「先輩……?」

 

 戸惑いの表情を浮かべる雪菜。今しがた呟かれた言葉の真意を問おうとした時、唐突にアスタルテが口を開いた。

 

「……警告します(ウォーニン)、ただちにここから退去してください」

「え?」

「この島は、間もなく沈みます。その前に逃げてください。なるべく、遠くへ……」

「島が……沈む、ですって!? どういう意味よ……!?」

 

 ぞくり、と背筋が凍るような感覚に、その場の全員が襲われた。

 抑揚の乏しい機械的な声で紡がれる言葉が、ただひたすらに恐ろしく思えた。

 

「〝この島は、龍脈の交叉する南海に浮かぶ儚き仮初めの大地――」

「――要を失えば滅びるのみ〟」

 

 アスタルテの紡いだ詩のような言葉を、同じく抑揚の乏しい静乃が引き継いだ。

 見れば、珍しく静乃が硬い表情をしていた。雪菜までもが驚愕に瞳を揺らしている。

 古城とサツキには理解できなかったが、アスタルテとの会話には、何か彼女たちを驚愕させるような情報が含まれていたらしい。

 

 そしていつの間にか、怯えたような人工生命体(ホムンクルス)の少女を冷ややかに見下す大柄な影があった。

 荘厳な法衣と装甲強化服を身に纏った、ロタリンギア殲教師ルードルフ・オイスタッハ。

 

「――然様。我らの望みは、要として祀られし不朽の至宝。そして今や、その宿願を叶える力を得ました。獅子王機関の剣巫よ、貴方のお蔭です」

「力を得た……だと? それはまさか、その子の体内に埋め込んだヤツのことか?」

「先輩?」

 

 オイスタッハに答えたのは、困惑の相を浮かべた雪菜ではなく、古城の方だった。

 怒りを押し殺したような古城の声に、少女たちが後退る。古城はそれを気に留めず、凄まじいほどの怒気のこもった瞳でオイスタッハを睨んでいた。

 

「気付きましたか。さすがは第四真祖か。しかしもはや貴方と言えども私たちの敵ではありません。我らの前に障害はなし」

「ふざけるなよ、オッサン! てめえ、その子に眷獣を植え付けやがったな――!? 魔族ですらない、ただの人工生命体(ホムンクルス)のその子に――!」

「えっ……!?」

 

 古城の怒声を聞いたサツキと雪菜が、驚いたようにアスタルテの細い体に目を向けた。

 そしてアスタルテの左右に立ち並ぶ培養槽の中に並ぶ生物たちを。

 

「いかにもその通り」

 

 オイスタッハが傲然と告げる。

 

「自らの血の中に、眷族たる獣を従えるのは吸血鬼のみ。ですが私は、我が悲願のため、その道理を打ち破ってみせた。ここに居るアスタルテは即ち、私の覚悟の結晶なのです」

「黙れよ、オッサン! どうして吸血鬼以外に眷獣を使役できる魔族がいないのか、あんたも知らない訳じゃないだろうが!?」

「……っ!?」

 

 司教の言葉を遮って怒鳴る古城の声に、サツキがその身を震わせた。

 気付いたのだ。人工生命体(ホムンクルス)――吸血鬼以外の種族が眷獣を宿す、その先にあるものに。

 

「眷獣は、実体化するときに、宿主の命を凄まじい勢いで喰らう……。それを飼い慣らせるのは、無限の〝負〟の生命力を持つ吸血鬼だけ……」

「その通り。ロドダクテュロスを宿している限り、残りの寿命はそう長くはないでしょうね。倒した魔族を喰らって随分と引き延ばしたのですが――せいぜい、保って二週間と言ったところでしょう」

「魔族を喰った、ね。なるほど、最近の無差別魔族襲撃事件。あれは本当に無差別だったと言うこと」

 

 いつもと変わらないような口調で言う静乃だったが、その美しい顔にははっきりと怒りの相が浮かんでいた。彼女も、苦悩や罪悪感を微塵も感じさせないオイスタッハの口調に苛立っているのだ。

 

「彼らの魔力を生き餌にするのは、目的の一つに過ぎません。もう一つの目的は、アスタルテに刻印した術式を完成させるために。獅子王機関の剣巫よ。貴方には分かりますね?」

「――まさか。……〝神格震動波駆動術式(DOE)〟、ですか!? 魔力による攻撃の一切を無効化する、攻魔戦闘術式の究極の秘呪……!」

 

 獅子王機関の秘奥兵器、七式突撃降魔槍(シュネーヴァルツァー)――世界で唯一実用化された〝神格震動波駆動術式(DOE)〟をこの島に持ち込んだ剣巫。

 魔族を狩る中で、彼らは出会ったのだ。

 己の目的を完遂するためになくてはならない要素(ファクター)、それを完成させる見本(ピース)と。

 

「そんな……わたしのせいで……」

「思えば、貴方も哀れなものですね、剣巫よ」

 

 自分の存在が最悪の敵に力を与えてしまった事実に打ちひしがれる雪菜に、オイスタッハは本気で哀れんでいるような視線を向けた。

 その視線を遮るように、怒りで言葉を失っていた古城が前に出た。

 オイスタッハは構わずに言葉を続ける。

 

「黙れよ――」

「知っていますよ、獅子王機関のやり口のことは。不要な赤子を金で買い取り、ただひたすらに魔族に対抗するための技術を仕込む。まるで使い捨ての道具のように――」

「黙れって言ってんだろ――」

「剣巫よ。その歳で、それほどの攻魔の術を手に入れるために、貴方は何を犠牲に捧げたのです?」

「おい――」

道具(武器)として創り出したもの(アスタルテ)道具(武器)として使う私。神の祝福を受けて生まれた人を道具(武器)に貶める貴方たち。いずれが罪深き存在でしょうか?」

「黙れって言ってんだろうが、腐れ僧侶(ボウズ)が! ――来いよ、サラティガぁぁッ!」

 

 咆哮する古城の全身から、眩い雷光と、白炎の如き通力(プラーナ)が同時に溢れ出た。

 自らの肉体を媒介にして眷獣の魔力の一部を実体化した力と、右手左手右足左足眉間心臓丹田の七つの門から汲みだした神に通じる超常の力。

 それらが渾然一体となって、サラティガに宿る(・・・・・・・・)

 

 戦斧を構えたオイスタッハが、少し驚いたように顔を歪め、

 

「ほう。眷獣の魔力が、宿主の怒りに呼応しているのですか……これが第四真祖の力。いいでしょう――アスタルテ! 彼らに慈悲を」

「――命令受諾(アクセプト)

 

 殲教師の命令に従い、人工生命体(ホムンクルス)の少女が古城の前に立ちはだかる。

 彼女の体から巨大な眷獣が陽炎のように姿を現した。

 前回とは違い、それは体長四、五メートルほどもある巨人の姿をしていた。虹色に輝く、全身を分厚い肉の鎧で覆った、顔のないゴーレム。

 宿主である少女を体の中に放り込んで、人型の眷獣が咆哮する。

 

「てめえも大人しく従ってんじゃねェ――ッ!」

 

 古城が白金の光を宿したサラティガを振るい、そのゴーレムへと斬りかかる。

 

「綴る――!」

 

 少し遅れて、静乃も詠唱を始めた。

 杖を虹色の眷獣に向けて、ほっそりとした人差し指を高速で虚空に躍らせる。

 

「氷の闇よ 雪霊(ゆきみたま)よ そなたの息吹を貸しておくれ 死よりも静けく凍えさせておくれ――」

「――ダメ、兄様!」

「っ?」

 

 滑らかに進んでいた静乃の詠唱を断ち切るように、不意にサツキが絶叫した。

 まるで懇願するように。まるで嘆願するように。

 何かに。得体の知れない、自分でも分からない何かに、強く怯えたような(・・・・・・・・)表情で(・・・)

 怯えているのは、目の前の虹色の眷獣にか? 否だ(・・)

 怯えているのは、狂気じみた笑みを浮かべる殲教師にか? 否である(・・・・)

 断じて否である。そんなものではない(・・・・・・・・・)

 

 サツキが何に怯えているのか、それは古城にも分からなかった。

 だが、彼女の震える声に込められた、底知れない恐怖だけはしっかりと伝わってきた。

 そして、その恐怖が、古城の頭を冷やし、足を止めさせた。

 

 結果として、それが古城の窮地を救った。

 

 

 

 古城が慌てて立ち止まったその瞬間。

 

 

 丁度、あと一歩古城が進んでいたら辿り着いていた辺りから。

 

 

 ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン………………、と。

 

 

 コンクリートの床を粉砕し、高い天井すら突き破って。

 

 

 その(・・)異端者(・・・)()現れた(・・・)

 

 

 

「……っ、ちっ……!?」

「なん、ですか、これは……!?」

「ぬ、これは一体……!」

「……!」

 

 大蛇だった。

 地の底から鎌首をもたげた、巨大な「一ツ眼」の蛇。

 全長など計り知れない。地表部分に現れた姿だけでも十メートル近く。アスタルテの眷獣の倍はある。

 のたうつ度に漆黒のオーラ――闇より尚昏き呪力(サターナ)を撒き散らす。

 こいつが出現したときの余波に誰一人巻き込まれなかったのは奇跡に近い。いや、そもそも余波など起きなかった(・・・・・・・・・・)

 これだけの巨体が地面から出現したと言うのに、その地面の被害は驚くほど少ない。

 こんな化け物が、この世の生物であるわけがない。

 

 誰にとっても想定外な生物の出現。

 誰にとっても未知の生物の出現。

 

 そう。フラガやシュウ・サウラですら知らない、正真正銘のアンノウン。

 

 

 

 グ……ルルルルルゥ……。

 

 

 

 腹に響くような重低音の唸り声を聞いて、彼らは悟った。

 吹き付ける血腥い吐息を浴びて、彼らは悟った。

 にわかに差した長大な影が蠢く影を見て、彼らは悟った。

 

 これはダメだと(・・・・・・・)あってはならないと(・・・・・・・・・)

 

 理性でも、感情でもないもっと奥底の部分が、叫んでいた。

 

 戦慄する彼らを見て――恐ろしいことに、大蛇が嗤った。

 

 こんなもの(・・・・・)この世界に(・・・・・)あってはならない(・・・・・・・・)

 

 それを確認した後の彼らは素早かった。

 

「冥界に煉獄あり 地上に燎原あり

 炎は平等なりて善悪混沌一切合財を焼尽し 浄化しむる激しき慈悲なり

 全ての者よ 死して髑髏と還るべし

 退廃の世は終わりぬ 喇叭は吹き鳴らされよ 審判の時来たれ!」

「獅子の巫女たる高神の剣巫が願い奉る! 破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え――!」

「アスタルテ! 全力をもって薙ぎ払いなさい!」

命令受諾(アクセプト)実行せよ(エクスキュート)薔薇の指先(ロドダクテュロス)――!」

「尋常なき地よ 死の凍土よ そなたの息吹を貸しておくれ 全てを静けく凍えさせておくれ

 盛者必滅は世の摂理 神の定め給うた不可避の宿業

 水が低きへと流るるが如く 全ての(ねつ)を奪っておくれ

 時すらも凍てついたが如く 全てが停まった世界を見せておくれ」

 

 敵味方すら関係なく、各々の全力を大蛇にぶつけた。

 

 古城の放った炎の第四階梯闇術が大蛇の顔面、一ツ眼に叩き込まれ、大蛇が絶叫する。

 雪菜の振るった雪霞狼が大蛇のぬめる鱗を引き裂き、大蛇がビクビクと震える。

 アスタルテの命によって振るわれた虹色の眷獣の鉤爪が大蛇の纏う呪力(サターナ)を引き裂き、大蛇が暴れ回る。

 静乃の放った氷の第四階梯闇術が大蛇の鱗をびっしりと霜で覆い、大蛇が苦痛にのた打ち回る。

 

 大蛇が現れた時点から肩を抱いて蹲っていたサツキの顔に、希望の色が浮かんだ。未だ顔色は青いが、この大蛇さえいなくなれば、それで全ては――

 だが。その表情を待ってましたと言わんばかりのタイミングで――

 

 

 ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン………………

 

 

 爆音とともに、地面からもう一匹の大蛇が出現した。

 

「……………………冗談は……やめてよね」

 

 サツキは笑うしかない。

 嘘のような、悪夢のような光景は、さらに続いたのだ。

 

 

 ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン………………

 

 

 ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン………………

 

 

 ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン………………

 

 

 まるで絨毯爆撃されたかのように、爆音が連発する。

 その度に土砂が噴き上がり、次々と新たな大蛇が鎌首をもたげる。

 十メートルを超える巨体が次々とだ。

 最初に現れた一ツ眼の奴から、九ツ眼の奴まで、都合九匹。

 否、恐らくはただ一匹。

 

 この大蛇は、ただの大蛇ではない。

 複数の頭を持つ怪物――

 

「九頭大蛇……!」

 

 圧倒的とすら言えるその威容に息を呑む彼らに対して、明確に嘲りの表情を浮かべる九つの頭。

 見上げるサツキの全身から、力が抜けた。無理もない。

 サツキどころか、静乃や雪菜ですら呆然と立ち竦むしかなかったのだから。

 

「何やってんだ! サツキ! 静乃! 姫柊!」

 

 響く、古城の一喝。彼は、呑まれていなかった。

 古城はサツキたちの立つ方向に向けて、太刀風に通力(プラーナ)を乗せて放つ高等光技、《太歳》を放つ。

 嵐のような純白の太刀風は――顎を開いてサツキに迫っていた九ツ眼の頭を直撃した。

 咄嗟故に、それは威力に劣った。九ツ眼はそれをものともせず、サツキに襲いかかる。

 

 雪菜が割って入ろうと、静乃が闇術で攻撃しようとするも、間に合わない。

 至近距離から、石灰色の吐息(ブレス)を吐いた。

 

「くそっ……!」

 

 それがサツキに直撃する寸前のところで、古城が間に合った。

 

「護法は如何なる風をも我に寄せ付けじっ」

 

 左手で素早くスペリング、《青の護法印(ブルーウォード)》を発動。同時に《耐魔通》を振り絞る。

 通力(プラーナ)魔力(マーナ)を乗算させ、あたかも無敵の城塞と化す。

 

「ぐ、おおおおおおおおっ」

 

 腹の底から咆哮し、ブレスを防ぐ。後ろで立ち竦むサツキに、万が一にも当たらないように。

 一瞬、防御を抜けたブレスが古城の腕を掠めて――腕の感覚が消え失せた。

 石と化していたのだ――自分の左腕が。

 しかも石化の異常状態は、腕から全身へと波及していく。

 

「――時すらも凍てついたが如く 全てが停まった世界を見せておくれ!」

 

 静乃が放った氷の闇術が、石化のブレスを喰い止める。

 凍結して固まった九ツ眼に、銀色の槍を旋回させた雪菜が飛びかかった。

 

「はぁっ!」

 

 気合一閃。九ツ眼のこめかみに当たる部分を深々と貫く。

 その槍の穂先には純白の通力(プラーナ)が宿っていた。

 絶叫を上げて、己を傷付けた雪菜に、他の首――二ツ眼と五ツ眼が襲いかかった。

 剣巫特有の技術である霊視による未来予知を使って、全力で逃げ回る雪菜。

 

 その間に、古城は通力(プラーナ)を振り絞り、左腕の石化を消し去った。

 

「すらぁぁっ!」

 

 戦線に復帰するや否や、サラティガに最大限の通力(プラーナ)を纏わせ、裂帛の気合いをこめて雪菜を噛み砕こうとしていた二ツ眼を叩く。

 大上段から叩きつけられたことにより地面とサラティガに挟まれる形になった二ツ眼。

 

 その瞬間、残った九つの頭が全て古城の方を向いた。

 一斉に鎌首をもたげ、古城を見て、嗤った。

 まるで、ようやくか、という風に。

 狂気を孕んだ無数の蛇眼に睨まれ、禍々しい重圧と凄まじいほどの呪力(サターナ)を感じる。

 

 だが、こっちに釘付けになってくれるなら、古城としても好都合。

 古城が戦っている間に他の皆に逃げてもらって、自分がどうにかして倒せば――

 そう、古城が算段を整えていた、その時だった。

 

 九頭大蛇の九つの首、古城の方を向いていた筈のそれらが一斉に方向転換し、震えていたサツキに襲いかかったのだ。

 

「えっ――」

 

 気の抜けた声を漏らすサツキ。

 

「ちぃっ!?」

 

 舌打ちしながら、古城は迷わなかった。

 サツキと九頭大蛇の間に割って入り、右手に持ったサラティガを振るう。一回、二回。

 

「一、二! ……三!」

 

 先に行った二匹の陰に隠れて奇襲を仕掛けようとした三匹目の蛇眼を殴りつける。

 

「地獄の鎖は如何なる亡者をも捕えて放さず!」

 

 正確に光のスペルを綴り、左手から伸びた闇を凝縮したような鎖で四匹目を拘束。

《剛力通》を振り絞り、その鎖を引っ張って五匹目へとぶつける。

 

「四……五ぉぉっ!」

 

 横合いから急襲してきた六匹目を、サラティガを横薙ぎにして吹き飛ばし、真上から迫る七匹を飛び退いてかわす。

 すかさず攻撃に反転。動きの止まった七匹目に渾身の《太白》。

 

「ろぉく、ななぁっ……! は、ち……っ!?」

 

 続けて八匹目も迎撃しようとして、古城は危うい所で気付いた。

 最後の九匹目――九ツ眼が顎を開いて、石化のブレスを雪菜たちに向かって吐きつけようとしていることに。

 止めようにも、八匹目が邪魔で届かない。

 

 ギリッと歯を食いしばり、古城は覚悟を決めた

 こうなっては是非もない。

 第四真祖としての、非常識な生命力に期待するしかあるまい、と。

 

 瞳に凄絶な覚悟の炎を宿し、古城はサラティガ持つ手を下げた。

 そして、左手を掲げ、スペリングを開始する。

 

「綴る――」

 

 迫りくる八匹目を(・・・・・・・・)完全に無視して(・・・・・・・)

 

「冥界に煉獄あり 地上に燎原あり

 炎は平等なりて善悪混沌一切合財を焼尽し 浄化しむる激しき慈悲なり

 全ての者よ 死して髑髏へと……っ、還る、べし――っ!」

 

 スペリングの途中で、完全に無防備となった古城の肩口に、八匹目が嬉々として喰らいついた。

 鋭い牙を柔い人肉に突き立て、がじがじと齧り、ぐりぐりと抉り、咀嚼する。

 もう完全に勝負が付いたと思ったのだろう。だからこそ、その大蛇は驚愕した。

 

 肩を大きく抉られながらも、古城が未だスペリングを続けていたことに。

 

「神は人を、見捨て給うたのだ……っ!

 退廃の世は、終わりぬ 喇叭は吹き、鳴らされよ…… 審判の時来たれ……っ!」

 

 歯を食い縛り、激痛を堪えながら詠唱する古城。

 慌てたように大蛇が首を捩った。

 古城を咥えたまま。

 

「ぐ、お、ああああっ……!?」

 

 脳を焼き切るような壮絶な苦痛に、古城は絶叫する。

 それでも、掲げた腕を下げない。突きだした指を収めない。

 

 どれだけ苦痛を与えても止まらない古城に苛立ったかのように、大蛇がついに、古城の肩の肉を――喰い千切った(・・・・・・)

 途端、古城の意識に一瞬でスパークしそうな激痛が迸った。

 

 だが、幸いにも喰い千切られたのは左肩の肉。綴ったのは右手だ。まだ、出来る。仕上げられる。

 自分の首が体から切り離されていく感覚を感じながら、古城は震える指先で、虚空に書き綴った光の文字を、〆に叩く。

 

 第五(・・)階梯闇術。業炎の《黒縄地獄(ブラックゲヘナ)》。

 

 刹那にして、この世ならざる黒い炎が顕現する。

 魔獣のように荒れ狂う黒炎は一気に火勢を増し、九ツ眼を襲った。

 

 霞がかってきた視界の中で、悶え苦しむ九ツ眼の姿を認めて。

 古城は、満足げに微笑み、そして意識を手放した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 飛び散った古城の鮮血が、庇われたサツキの頬を濡らした。

 

「こ……じょう……?」

 

 呆然と呟くサツキの眼前で、古城の肩の肉が食い千切られた。

 それでも倒れなかった古城が、トンと〆た――瞬間、まるで糸が切れたように、サツキの方へ倒れ込んでくる。

 無我夢中でサツキは手を伸ばして、古城を受け止める。

 

 受け止めた古城の体が異様に軽い。

 必死で抱き止めようとするサツキの腕から、千切れた胴体が滑り落ちる。

 古城の背骨と肋骨は砕かれ、胴体は細かい肉片に変わっていた。

 砕け散った骨が、血塗れの破片となって床に零れる。

 ブチブチと乾いた音を立てて、傷ついた血管と筋肉が千切れていく。

 噴き出した鮮血が、サツキの足元に血溜まりを作る。

 古城の頭部と胴体を繋げていた最後の皮膚が、肉体の重さに耐えかねて、薄い紙のような音を立てて裂けた。

 サツキの手の中に残ったのは、虚ろに目を見開いた古城の生首だけだった。

 床に転がった古城の体は、背骨も、肺も、心臓も、何もかもが潰され、無残に引き千切られている。

 

「先輩……どうして……そんな……いや……ああああああああっ……!」

 

 どこかから、雪菜の血を吐くような絶叫が聞こえた。彼女の手から、槍が抜け落ちる。

 

 吸血鬼は不老不死。だが、その能力の根源である心臓は潰され、魔力の拠り所たる血は虚しく流れ落ちるだけ。

 

 黒炎に巻かれて悶え苦しんでいた九頭大蛇は、最後に古城を忌々しげに睨みつけて、九本の首を地中に沈めていった。どうやら完全に退却したようだ。

 いつの間にか、殲教師と人工生命体(ホムンクルス)の少女の姿が消えている。

 

 だが、そんなことを気に留める者は、この場には誰も居なかった。

 雪菜と静乃が駆け寄ってきているのが分かった。

 いつもは冷静沈着な静乃が、今は綺麗な髪を振り乱して、必死な様子で走っている。

 

「うそ……だよね……? だって、兄様は……最強の剣、せい……」

 

 古城の生首を両手で抱き締め、サツキが虚ろな声で話しかける。もちろん、返事などありはしない。

 

 切り離されて弛緩した古城の手から、聖剣が滑り落ちる。

 古城の血によって赤く濡れた刀身が、暗色の光を受けて妖しく輝いた。




 第六話、お楽しみいただけたでしょうか。

 《異端者(メタフィジカル)》登場です。これからも、よろしくです。


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7 決断と誓い ―Decide And Oath―

12月26日
 雪菜さんのヒロイン度上げるのに必死。


 明らかな死を迎えた第四真祖・暁古城は、まどろみの中で夢を見ていた。

 崩れた天井からのぞく月が紅い。その月が照らす空も。古い城を取り巻く大地もまた、炎が紅く照らしている。

 その紅い空を背にしながら、小さな影が立っている。

 逆巻く炎のような虹色の髪と、焰光の瞳を持つ影が。

 

 おまえの勝ちだ、と影が告げる。その唇から血に濡れた白い牙がのぞいている。

 

 約束を果たそう、と影が告げる。おまえの望みを叶えよう、と。

 

 次はおまえの番だ、と影が告げる。その瞳が濡れている。紅く輝く瞳が涙に濡れている。

 

 それは幾度となく繰り返し見た悪夢。

 暁古城は夢を見ている。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 気に入らない。藍羽浅葱は、不機嫌そうに唇を歪めながら、キーボードを叩いていた。

 

 古城がどこかに行ってしまった日の放課後。浅葱は制服のままアルバイト先である、キーストーンゲートの地下十二階、人工島管理公社の保安部に居た。

 絃神島の中枢部とも言える警戒厳重な区画だが、浅葱は彼女専用に用意されたIDカードがある。

 どの道浅葱が本気を出せば、その程度のセキュリティは難なく突破できる。どうせ破られるのなら、最初から許可しておいた方がまだマシ。公社の理事長がそう判断した結果だ。

 

 今日浅葱が引き受けた依頼は、昨夜の倉庫街での爆発事故の後始末。色々細々とした数百の案件で、専用のプログラムを新たに一から書き直さなければならない。

 優秀なプログラマーを数十人単位で集めても半年がかりの作業だが、浅葱の腕ならば片手間でも三日とかかるまい。

 そして事実、浅葱は思考の片手間でそれだけの仕事をこなしていた。

 

 考えているのはもちろん、あのバカ(古城)のことだ。

 今回の仕事を受けたせいで古城の宿題を手伝う時間がなくなってしまった。世界史のレポートを破り捨てたのは、少し可哀想だったかな、と思うが、どう考えてもあれは古城が悪い。

 あろうことかあのバカは、新学期早々学校から抜け出して、そのまま戻ってこなかったのだ。

 

 確認するまでもない。どうせサツキや静乃、そしてあの姫柊とか言う転校生と一緒に居るのだろう。

 しかし自分でも意外なことに、浅葱はそれほど腹を立てていなかった。

 不愉快なのは不愉快だが、古城に限って、授業をサボって三人もの女の子を連れてデートに行くような甲斐性があるとは思えない。

 

 出ていく直前に静乃と何やら深刻そうな話をしていたのもあって、恐らく何か事情があったのだろうと言うのは察しが付く。

 浅葱が不機嫌になっているのは、古城がそれを自分に相談せず、あまつさえ下手な嘘をついてまで誤魔化そうとしたことだ。彼なりに気を遣っているのは分かるが、それが余計に気に入らない。

 

 そしてそれ以上に気に入らないのは、古城について行った他のメンバーたちのこと。

 つまり、嵐城サツキ、漆原静乃、姫柊雪菜の三人。

 

 会ったばかりの姫柊雪菜はともかく、残りの二人を、浅葱は明確に危険視していた。言うまでもなく、恋敵として。

 

 まずは嵐城サツキ。率直に言わせてもらうと、浅葱としては彼女が一番癪に触る。

 古城の妹だ何だと言って、古城にべったりとつき纏う鬱陶しいド貧乳女。歯に衣着せずに言う(誇張表現満載)と、大体そんな感じ。

 いつも開けっ広げで鬱陶しくてうるさくて、古城への好意を隠そうともしない。底抜けに明るい、同性である浅葱から見てもそう思える、陽性の美少女。

 彼との距離を縮めようとするあまり、今では完全に男友達のようなポジションに収まってしまった浅葱にとって、そして今更素直になれなくなってしまった浅葱にとって、彼女は羨ましかった。妬ましい、と言ってもいい。

 古城も古城で満更でもなさそうにしているが、あれはむしろ、彼が妹である暁凪沙に向ける視線に似ている。そこら辺には安堵している。

 何より、浅葱自身がサツキのことを悪人とは思っていないので、本気で嫌うことが出来ないのが辛い所だ。スタイルも完勝していることだし。まあ勘弁してやろう。

 気に入らない時はこのネタで弄り倒してストレス発散をしようと、浅葱は密かに心に決めていた。

 

 次に漆原静乃。彼女に対して最も適当な単語は、まさに天敵だ。

 静乃はある意味で、サツキ以上に(タチ)が悪い。

 古城につき纏い、必要以上に密着しようとしたりするのはサツキと同じ。だが、古城の弱い所、動揺するところを的確に攻めて古城を本気で狼狽させてしまう。

 平時の古城は落ち着きがないように見えるが、その心根はとても落ち着いている。どっしりと構えた足場があるような。

 だが静乃は、そんな足場を容易に突き崩してしまう。まるで、ずっと前から同じことをしてきたかのように。これは浅葱には出来ないことだ。

 そして何より、あのスタイル。時折、本当に日本人なのかと疑いたくなる。一応、自分のスタイルに自信のあった浅葱だが、偶に――今日の朝にように――その自信を打ち砕かれることがある。

 加えて、有り得ないほどの美人だ。常に能面のような表情をしているのは玉に瑕だが。

 漆原家の末席だと言う話だが、そこは別に気にしていない。彼女がそれを利用して古城に取り入ろうとかはしないことは分かっている。その程度には彼女のことを信用している。

 

 そして最後に、姫柊雪菜と言う後輩のこと。

 何の根拠もない浅葱の勘だが、多分古城はあのタイプに弱い。

 先に挙げた静乃などとはまた違う、あまり女性らしさを感じさせない毅然とした振る舞いや、はっきりとした物言い。

 モモ先輩――一年上の先輩である百地春鹿などと同じく、中学時代バスケに明け暮れていた古城には、ああ言う体育会系の雰囲気は居心地がいいはずだ。

 また、サツキや静乃のように古城に大胆に迫ろうとしない辺りも、毎度毎度疲れ果てている古城にとっては彼女と居ると気が休まるだろう。

 ほとんど、と言うよりまだ一回しか話したことはないが、そう言う意味では、浅葱にとって十分に警戒すべき相手である。

 おまけに雪菜は、これまた先の二人と同じく、同性の目から見ても非の打ち所のない美少女だ。サツキや静乃とはまた違うタイプの美少女。

 異性の見た目にあまり関心を払わない古城だが、あのレベルでは流石にどう転ぶか分からない。

 

 それだけでなく、先程も出した春鹿、斎子、シスコン兄貴の実の妹である凪沙――

 

「はあ……ったく。恋人とか全く興味ないくせに、なんであんなにライバルが多いわけ……?」

 

 作業に没頭していたせいで、我知らず愚痴めいた声が洩れてしまっていたらしい。

 浅葱の独りごとに、耳聡く反応した者が居た。

 

『ククッ、どうしたお嬢。例のハーレム野郎のことかい?』

 

 馴れ馴れしい口調で話しかける補助人工知能(AI)

 彼女がモグワイと名付けたこの人工知能は、絃神島全ての都市機能を掌握する五基のスーパーコンピューターの現身(アバター)である。演算能力では間違いなく世界最高水準の機械(マシン)だが、クセがあり扱い辛いと言われている。しかし何故か浅葱とは気が合った。

 間違いなく、この二人のチームは世界最高レベルのプログラマーだ。

 

「うっさいわね。あたしの独りごとにいちいち反応するんじゃないわよ」

『図星かよ。さすがの天才プログラマーちゃんも色恋沙汰の方は勝手が違うみてーだな』

「黙れっつってのよ。ウィルス流すわよ」

 

 軽口を叩き合う二人。日常茶飯事である。

 

『まあ、競争相手の方も悪いよな』

「いちいち返事すんなって」

『相棒の相談に乗ってやってんだろ』

「余計なお世話。大体、いつからあたしがあんたの相棒になったのさ」

『そう言う素直じゃねー所が、上手くいかない理由なんじゃねーのか?』

「そ、そんなこと、あんたに言われなくても分かってるわよ。けど……!」

 

 浅葱が思わずキーを叩く手を止めて、イラッと眉を吊り上げた――瞬間、鈍い震動と衝撃が、浅葱の居る部屋を揺らした。

 洋上に浮かぶ浮体式構造物である絃神島に地震はない。浅葱がこの島に移り住んで以来、初めて感じる衝撃だった。

 

「モグワイ。今のは何?」

『……コイツは驚いた。侵入者だ』

 

人工知能が、まるで感嘆したように言う。

 目を見開く浅葱に、モグワイと名付けられた人工知能は、妙に人間臭い口調で言った。

 

『侵入者は二人だけ。ただの人間と、人工生命体(ホムンクルス)の二人組だ』

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……アヴ、ローラ……すまない……おれ、俺は……!」

 

 暁古城はうなされながら、黄昏の薄闇の中で目を覚ました。

 微かに波の音と潮の匂いがする。見覚えのない景色だが、海辺の公園に居るらしい。

 コンクリートの上に横たえられているせいか、投げ出した腕に冷たい感触がある。そのくせ寝心地は悪くなかった。頬に心地好い温もりが伝わってくる。

 

「先輩……そろそろ起きてもらえませんか?」

 

 不意に声がした。どこか拗ねているような雪菜の声だ。

 夢を見ているような気分で、正直この温もりから離れるのは惜しかったが、何とか苦労して身を起こす。

 軽い頭痛を感じながら瞼を開くと、泣き腫らしたように目元を真っ赤にした雪菜が、古城を睨んでいた。

 

「ひ、姫柊?」

「ようやくお目覚めですか、先輩? 人をあんなに心配させて……いいご身分ですね」

 

 いつになく皮肉っぽい口調だ。

 

 その表情を見て、古城は何があったのかを思い出した。

 製薬会社の研究所でオイスタッハ達と交戦状態に陥った古城は、突如乱入してきた九頭大蛇からサツキを庇って肩を喰い千切られたのだ。

 心臓を抉られ、肩をこそぎ取られた。

 吸血鬼と言えども、生きていられる負傷ではなかった。

 

「俺は死んでたのか」

「はい」

「で、生き返ったってことか」

「……はい」

 

 その時の光景を思い出したように唇を噛む雪菜を置いて、古城は喰い千切られた肩に手をやった。確かに抉り取られたはずの部位にはかすり傷一つ残っていない。

 流石に服は破れたままだが、我慢すれば着られないことはない。

 

「生き返るなら生き返るって、最初に言ってから死んでください。わたしが、わたしたちが、どれだけ心配したか……!」

 

 涙目になってぽかぽかと古城の頭を握り拳で殴り始める雪菜。存外に子供っぽい雪菜の仕草に苦笑しつつ、古城は隣に横たえられたサツキを見やった。

 安らかな寝顔だ。何かいい夢でも見ているのか、緩んだ表情で涎まで垂れている。

 

 眠れる姫の頬に手をやる。寝ているくせに嬉しそうに頬を緩ませるサツキに、古城の頬も綻んだ。

 

「ああ……そうか。アヴローラ、お前が言ってたのは、こういうことか」

「アヴローラ? 先代の第四真祖が、何を?」

「ああ……真祖にとっての不老不死は権能なんかじゃない。ただの呪いだってな」

「呪い?」

「真祖は死ねない。心臓を貫かれても、頭を潰されても、灰になっても生き続ける。他の吸血鬼と違って、真祖だけは絶対に、何があろうと死ねない。死にたくても死ねないんだ。そうやって、何百年も何千年も孤独で生き続けるのは――呪い以外の、何物でもねーな」

 

 溜め息のように呟く古城を、雪菜は黙って見つめていた。

 

 不老不死と世間では言われているが、吸血鬼は完全に不死身ではない。特に、脳や心臓は致命的な弱点となり得る。

 そこに深刻なダメージを受ければ、〝旧き世代〟と言えども確実に死ぬ。

 

 だが、第四真祖である古城は違う。

 この広い世界で、たったの四人だけは、本当の不死身を持つ。

 何があろうと死ぬことのできない、神々から授けられた永劫の呪いを――

 

「だからって、あんな無茶をする必要はなかったじゃないですか! 呪いだろうが何だろうが、必ず復活できる保証なんかないんですよ! 生き返れなかったら、どうする気だったんですか!?」

「そうなんだけど、でもサツキが無事だった。俺はそれで良かったと思う。そして――姫柊。お前も無事だった」

 

 古城が何気なく発した言葉に、雪菜はきょとんとした表情を浮かべた。

 

「もし、あの時九頭大蛇にやられそうになってたのがサツキじゃなくて、姫柊だったとしても、俺はお前を助けたよ」

「どう……して……」

「ん?」

「なんで、そんなことを言うんですか……?」

 

 雪菜は、奇妙な表情を浮かべた。泣くことも笑うことも出来ずに苦悶している、壊れた人形のような表情を。

 

「忘れたんですか? わたしがここに来たのは、先輩を殺すためだったんですよ?」

「…………」

「あの殲教師が言っていたことは本当です。わたしは使い捨ての道具で、両親に捨てられたんです。わたしが死んでも、悲しむような人はいません。けど、先輩は違うじゃないですか。凪沙ちゃん、お母様やお父様、藍羽先輩に嵐城先輩、漆原先輩も……いっぱい、居るじゃないですか」

「…………」

「死ぬべきだったのは、わたしです。道具として作られたわたしであったはずなんです……」

 

 姫柊雪菜。獅子王機関の剣巫。対魔族戦闘のエキスパート。降魔の槍を操り、ロタリンギアの殲教師をも圧倒する戦闘能力を持つに至った少女。魔族と戦うためだけに育てられた存在。

 アスタルテ。ロタリンギアから遙々やってきたオイスタッハと言う殲教師の望みを叶える為だけに、人工的に眷獣を埋め込まれた人工生命体(ホムンクルス)の少女。戦うためだけに創り出された道具。

 

 だからこそ、雪菜はアスタルテに、自分の姿を重ねてしまったのだ。

 

 そして、暁古城。第四真祖――世界最強の吸血鬼の力、そして世界最強の剣聖、世界最強の冥王の力を持ちながら、ただの人間として生きようと足掻く少年。

 もしかしたら、雪菜を最も追い詰めたのは、暁古城の存在だったのかもしれない。

 

 戦う力を得るために、当たり前の日常を捨てた雪菜。

 誰よりも強い力を与えられながら、つまらない日常を選んだ古城。

 

 だから彼女は、言ったのだ。

 古城ではなく、自分が死ぬべきなのだと――

 

「…………」

 

 顔を伏せてしまった雪菜に、古城をそっと手を伸ばした。

 艶やかな黒髪をしゅるりと撫でて、少し持ち上げて顔を近づけて、匂いを嗅ぐ。

 全く予想していなかった異様な感覚に、雪菜は短い悲鳴を上げた。

 

 しばらくして、怒ったような低い声で雪菜が問いかけてきた。

 

「あの……何をやってるんですか、先輩?」

「姫柊は、可愛いよな」

「い、いきなり何を……ひっ!?」

「いい匂いがして、軽くて、柔らかくて、可愛いと思う」

 

 雪菜のささやかな抗議を無視して、古城は彼女のうなじに鼻先を近づけた。

 雪菜は、ぞくっと小さな肩を震わせながら、

 

「やっぱり変態だったんですね、あなたはっ……!」

「ああ、そうだな。変態だ。変態だから、俺はお前を可愛いと思う。可愛いと思うから、俺はお前に――死んでほしくない」

「え?」

「お前が死んでも誰も悲しまないって言ったな? それは間違いだ。少なくとも、俺は悲しむ。それだけじゃないはずだ。お前が修業をしたっていう高神の杜の人たちは、お前のことを大切にしてくれたんじゃねーのかよ」

「…………」

「自分の価値を、自分で勝手に決めるな。お前は『道具』なんて名前じゃない。『剣巫』とか言う名前でもない。ただの――『姫柊雪菜』だろ」

「…………あ」

 

 小さく、短く、何かに気付いたような短い声を漏らす雪菜。すぐに俯いてしまったが、今度のはさっきのようなものではない。

 これなら大丈夫か、と古城が安堵した時、古城のポケットの中からメールの着信音が聞こえた。

 

 携帯電話を取り出して画面を見ると、無数のメールの着信通知があった。

 差出人のほとんどは矢瀬と築島凛。

 内容は――

 

「キーストーンゲートが襲撃を受けて……バイト中の浅葱が……閉じ込められたまま……!?」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 侵入者たちが通り過ぎた後のフロアで、無傷で取り残された浅葱は、半ば放心状態となっていた。

 何十人もの重傷を負った警備員。大気に満ちる流れ出した血の匂い。ばらまかれた銃器から漂う硝煙の匂い。

 

 そして、初めて間近に感じた、死の恐怖。

 

 数分前、浅葱は大柄な法衣を纏った男と小柄な人工生命体(ホムンクルス)の少女と遭遇し、見逃された。

 死ぬ、と思った。ここで終わりなのか、と思った。あの恐怖は、紛れもない本物だった。

 立ち上がることすら出来ずに、ただ茫然とするだけだった浅葱。

 

 浅葱の携帯電話が鳴り出したのは、その時だった。侵入者との戦闘でゲート内の施設は甚大な被害を被っていたはずだが、携帯電話の中継局はどうにか無事だったらしい。

 浅葱は機械的な動作で携帯の画面を確認して、そこに表示された名前を見た瞬間、彼女の瞳に生気が戻った。

 

「――古城!?」

『浅葱! よかった、無事か!』

 

 電話越しに古城の声が聞こえてくる。そのことに訳もなく安堵して、浅葱の瞳から涙が溢れ出してきた。

 積もりに積もった鬱憤を叩きつけるように、上擦った声でまくしたてる。

 

「何なのよもう……ちっとも無事なんかじゃないわよ! 危うく殺されかけて……な、何なのよあいつらは!」

『犯人と遭ったのか? 僧服を着たデカイオッサンと、人型の眷獣だな?』

「知ってるの!?」

『ああ。お前もらしいけど、俺も殺されかけた。つうか死んだ』

「死んだ……って、古城、あんた……」

 

 古城の気の抜けた声での告白に、浅葱は絶句した。

 流石に比喩だろうが、古城は確かに殺されかけたのだ。

 

『とりあえず今は大丈夫だが……それよりも、そいつらはどこに行った?』

「下よ。ゲートの最下層に向かってるみたい」

『最下層か……。浅葱、そこに何があるか分かるか?』

「そんなのあたしが知るわけないでしょ」

 

 ようやく浅葱も普段のペースを取り戻した。自分だけでなく、古城もこの境遇に居る。古城はちゃんと分かってくれる。それだけで救われた気分になってしまうのだから、げに恐ろしきは恋心か。

 

 浅葱は御守りのように抱きしめていたノートパソコンを開き、管理公社のサーバーにアクセス、ゲート内の状況を確認する。

 途中の障壁を全てこじ開けて、侵入者はすでに三十階まで到達していた。キーストーンゲートは海面下四十階層。彼らが最下層まで辿り着くのは、すでに時間の問題だろう。

 

「最下層って言っても、あるのはアンカーブロックくらいよ」

『確か、絃神島を構成する四基の人工島(ギガフロート)を連結してるメインケーブルを固定するための、土台みたいなもの、だったか? ……それって、何か貴重なものなのか?』

「はあ? アンカーブロックなんて、ただひたすらに硬いだけの鉄の塊よ。四基の人工島(ギガフロート)が受ける負荷を全部まとめて受け止めてるってだけ」

 

 そもそも絃神島が四つに分割されているのは、万一の事故の時に島全体が丸ごと沈むのを避けるためだ。波風の衝撃や、暴風や高波が引き起こす危険な振動を防いでいる。ちょうどテーブルの四本の足のように。

 

『だったら、至宝ってのは何なんだ……?』

「至宝? 何よそれ?」

『知らん。けどあのオッサンたちは、それを取り戻すためにこの島に来たらしい』

「至宝、至宝ね……」

 

 厳格な戒律で縛られた西欧教会の僧侶が、金品に目を眩ませて異国の魔族特区を襲撃すると言うのは、土台不自然な話だ。

 そもそも聖職者である彼らにとっての至宝とは――?

 

「待ってて、ちょっと調べてみる――って、何これ、軍事機密並のプロテクトじゃない! モグワイ!」

 

 沈黙を決め込んでいた人工知能(AI)を、浅葱は短縮コマンド(ホットキー)一発で呼び出した。

 真っ赤な警告で埋め尽くされていた画面上に、ゆらり、とスーパーコンピューターの現身(アバター)が現れた。

 

人工知能(AI)使いの荒いお嬢だな。ホントは俺はこいつに手出しできないように作られてるんだが……』

 

 現身(アバター)は、浅葱の瞳にどこか楽しげな光が宿っているのを見て、諦めたように人間臭く溜め息を吐いた。

 

『相棒の頼みじゃ、仕方ねーか』

「分かってるじゃない、さっさとプロテクトをぶち破りなさい!」

 

 気だるい口調でぼやく人工知能(AI)に、浅葱は容赦なく管理者権限の強制命令を叩き込んだ。

 その命令を執行する前に、一瞬だけ人工知能(AI)の気配が変わり、

 

『破るのはいいが……後悔するなよ』

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「そう言うこと……だったのか……」

 

 浅葱との通話を終えて、全ての事情を知った古城は、携帯電話をゆっくりと下ろした。

 これで何もかもが繋がった。

 オイスタッハの目的。雪霞狼の能力――結界を破る能力(・・・・・・・)を求めた理由。その全てを、古城は理解した。

 

 確かに、もしあの男の悲願が成就すれば、その引き換えに絃神島は完膚なきまでに崩壊するだろう。彼らの言った通り、本当に島が沈む。

 オイスタッハが熱望しているのは、キーストーンの名を与えられた、主柱中央の要石だ。

 

「行きましょう……先輩。彼らを止めないと」

 

 決意を込めた表情で立ち上がる雪菜に、古城は何も答えずに質問で返した。

 

「……静乃は、どこだ?」

「漆原先輩、ですか? あの方は、あの九頭大蛇を追うと言って管理公社の方に向かいました。特区警備隊(アイランド・ガード)に応援を要請しに行くと」

「そうか……。相変わらず、頼もしいやつだな」

 

 漆原家は人工島管理公社の重鎮だ。漆原家の中では静乃はあまり重視されていないらしいが、公社全体の中ではそうではない。

 彼女の言葉を、公社は無視できない。

 

 古城が死んでいる間にも、自分にできることを実行した。

 ただ、信じて。古城なら、死んでも生き返ると信じて。

 

 そんな静乃からの信頼に、古城は淡く微笑んだ。

 そして、未だ眠りこけるサツキに目をやり、

 

「浅葱のことは助けに行く。凪沙にお袋、サツキと静乃は島の外に逃がす。けど、俺にできるのはそこまでだ」

「先輩……何を言ってるんですか? わたしたち以外では、あの人工生命体(ホムンクルス)の人工眷獣は止められないんですよ!」

「目的を見失うなよ。俺がオッサンを捕まえたかったのは、俺の正当防衛を証明するため。なら、あれだけの大騒ぎを自分から引き起こしたあいつらを、俺が追う必要はどこにもねーよ」

 

 投げやりな口調で、古城は言った。

 

「俺には、オッサンを止められない。たとえこの島の人たちが危険にさらされても、あのオッサンがやってることだって、ある意味では正しいことなんだろ」

「ですが……」

「もしかしたら、俺たちなら止められるのかもしれない。けどそれは、俺たちが正しいって言ってるようなもんだ。そんなこと、俺には出来ない」

 

 オイスタッハとの戦いは、もはや暁古城の私闘ではない。

 ロタリンギアの殲教師と、絃神市と言う都市の戦争だ。

 対して暁古城はただの高校生などではなく、世界最強の吸血鬼の力を得た存在――帝王だ。

 

 帝王の決断は世界を動かす。帝王の決断に世界は付き従う。

 そのことを、古城は、古城の魂は、よく知っていた。

 古城の持つ二つの前世、その内の一つ、冥王シュウ・サウラ。

 

 古城は思い出せていないが、古城(シュウ・サウラ)は、腐った貴族たちに虐げられる民や奴隷を救いたいと願い、一つの国を滅ぼし、王となった。

 しかし世界は彼の決断を認めず、彼と敵対した。彼から全てを奪おうとした。

 彼は、そんな全てを、滅ぼした。そして、世界をも、滅ぼした。

 

 シュウ・サウラはその決断の重さを、一人で背負って、最後まで貫いた。

 己の信じる正しさを、他人の掲げる正しさを踏み躙ってまで、突き通した。

 だが古城には、シュウ・サウラならぬ暁古城には、そんな覚悟はできない。

 

 今のオイスタッハに戦いを挑むと言うことは、古城がただ一人で国家の軍隊と同格と言われる存在――夜の帝国(ドミニオン)の支配者たる真祖であると、認めることと同義だ。

 

 雪菜は、そんな古城の葛藤を見透かしているかのように沈黙を保っていた。

 

「…………まったく。本当に、仕方のない吸血鬼(ヒト)ですね」

 

 やがて彼女は溜め息交じりに握っていた銀の槍をくるりと回して、穂先を自分の首筋に当てて、

 すっ、と。音もなく槍を引いた。

 雪菜の肌に一筋の赤い線が走り、ぷつぷつと血の滴が浮き上がる。

 

「姫柊……何、やってんだ?」

 

 呆気にとられる古城に、雪菜は、静かな決意のこもった声で告げた。

 

「先輩。わたしの血を……吸ってください」

 

 今度こそ、古城は完全に固まった。何故雪菜がそんなことを言い出したのか、まるで理解できない。

 

「今まで人間の血を吸ったことがないから、眷獣たちは先輩のことを宿主だと認めていないんですよね? なら、ここでわたしの血を吸えば、使えるようになる可能性はあります」

「待てよ。何で俺がそんなこと……」

 

 古城の問いに、雪菜は答えずに制服の胸のリボンを解いた。

 そのままボタンを外して、胸元をはだける。

 白い肌と細い鎖骨。ほっそりとした首筋が露わになる。

 

 雪菜はゆっくりと前に歩み出て、古城を見上げるような体勢になった。

 古城の視界に、雪菜の清楚な下着と、控えめな胸の膨らみが飛び込んできた。古城は軽く声を上擦らせ、

 

「ひ、姫柊……?」

「先輩は、さっきわたしのことを可愛いって言ってくれましたよね」

「あ、ああ……そういや、言ったな」

「なら、責任を取って、行動で示してください」

「は、はあっ!?」

「それとも……やっぱり……わたしでは、ダメですか?」

 

 胸元を抑えて、弱々しく呟く雪菜の肩が、僅かに震えていることに、古城は気付いた。

 恐らくは、怯え。本当は雪菜も恐いのだ。吸血鬼に自らの血を差し出すことも、古城に無防備に肌を晒していることも。

 彼女は元々、古城を監視するために派遣されてきただけの攻魔師だ。

 だと言うのに、彼女がここまでしてくれるのは――古城のために、他ならない。

 いつか、古城が己の決断を後悔することがないように。

 雪菜のほっそりとした手が、そっと古城の両の頬を包み込んだ。

 

「大丈夫」

「っ、姫柊?」

「あなたは、決して間違わない。あなたの道に、間違いはない。だから、ただ信じて――突き進むだけでいいんです」

 

 その、姫柊のものとは全く異なる、しかし、狂おしいほどに懐かしい響き。

 柔らかく、全てを包み込むような微笑みを添えられた言葉に、古城の脳裏に、これまで全く見たことのない光景が蘇った。

 宇宙の真ん中にあるような小さな祭壇で、彼女(・・)古城(ルシフェル)の両頬に手を当てて、優しく微笑みながら――

 

「せ、先輩……?」

 

 古城は、雪菜の細い身体を、力強く抱き締めた。

 震えている彼女の身体から、微かな温もりと、心地好い臭いと、清潔な髪の匂いと、仄かな甘い体臭と、そして、血の匂いが漂う――

 犬歯が、否、牙が疼いた。

 

 吸血衝動の呼び水となるのは、性欲だ。

 雪菜はそれを知っていたから、自分なりに精一杯古城を誘惑しようとしていたのだろう。

 だけど。

 

「分かってねーよな、姫柊」

「え……? あ、痛……先ぱ……い……」

 

 姫柊雪菜と言う少女が、どれだけ魅力的なのか。

 彼女と一緒に居る間、吸血衝動を抑えるのに、どれだけ苦労しているのか。

 それを、さっぱり分かっていない。

 

 古城の牙が、雪菜の身体の中にそっと埋まって行く。

 

 雪菜はきつく眼を閉じて、その痛みに耐えている。

 雪菜の唇から、弱々しい吐息が洩れる。

 雪菜の体から、力が抜けていく。

 

 やがて彼女が完全に古城に身を預けた時、古城は彼女の中から牙を抜いた。

 ぐったりとした雪菜の体を横たえていると、いきなり素っ頓狂な声が聞こえてきた。

 

「に、にににに兄様!? あ、あたしが隣で寝てる所で、な、なななな何てことを!?」

 

 いつの間にか目を覚ましていたらしい。顔を真っ赤にして起き上ったサツキが、古城たちの方を指差して震えていた。

 眠りから目覚めたら兄様と後輩の少女が抱き合って、兄様の方は後輩の首筋に噛み付いていたのだ。そうなるだろう。

 

 しかし古城はそれには答えず、怖いぐらいに真剣な表情でサツキに近付き、その頬を撫でた。

 

「サツキ。俺は今から、あの殲教師のオッサンたちを止めに行く」

「え……?」

「事情は後で説明するけど、あいつらを止めなきゃ、この島は本当に沈む」

「……ダメ」

「だから俺は、どうにかしてあいつらを――」

「ダメ、兄様!」

 

 悲痛な絶叫を上げて、サツキは古城に抱きついてきた。

 膝立ちの不安定な状態だったため、そのまま二人して地面に倒れ込んだ。

 古城の腰の辺りに細い両手を回して、古城の胸板に額を擦り付ける。

 引き離そうとしたが、その肩が小刻みに震えているのを見て、胸の辺りが湿って行くのに気付いて、止めた。逆にこちらからも腕を回して、そっと抱き締める。

 

「サツキ……」

「いやだ、いやだよ……。また、兄様が一人で行っちゃって……また、あたしが一人で見送って……また、帰って来なくなっちゃうなんて……。そんなの、いやだよぉ……!」

「……っ」

 

 サツキの叫びに、古城は何も言えなかった。

 

 古城は前世の記憶のほとんどを持たない。

 だから、自分――フラガが、どんな最後を辿ったのかも分からない。

 

 けれどサツキは違う。サツキは恐らく、ほとんどのことを思い出している。

 だからなのだろう。九頭大蛇に古城が殺されたあの瞬間。サツキは、前世の記憶にその光景を重ねてしまったのだ。フラガの最期を。

 だからここまで怯えている。

 古城が再び、サツキの前から居なくなってしまうのを。心の底から、怯えているのだ。

 

「お願いよ、兄様。もう、あたしの前から居なくならないで……!」

 

 泣いて、哀願してくる。

 

 だから。

 もう。

 

 古城は寝転んだまま、向き直った。

 華奢な肩を強く掻き抱いた。

 そして、言った。

 

「俺のことが好きか? フラガじゃなく、俺のことが好きか?」

 

 ビックーン、と硬直したようにサツキが顔を上げる。

 

「ひぇ……? はぇ……?」

 

 混乱し切った表情で古城を凝視する。

 それから、涙でぐしゃぐしゃの顔が薄らと赤く染まって行く。

 構わず古城は言葉を続けた。

 

「俺は正直、お前のことを妹には見れない。前世の記憶がロクにないんだからな。だから、そう言う風に懐かれても、戸惑いしかない」

 

 でも。

 だけど。

 

「お前が心配してくれるから、俺は戦える。お前が居るから、俺は戦える」

 

 揺れるサツキの瞳を、真っ直ぐに見据えて。

 古城は言った。

 

「これからもずっと、俺の無茶を心配してくれ。そうしたら俺も約束するから。どんな苦しい戦場に赴こうと、どんな強敵とまみえようと、どんなに離れようと隔てようと神に引き裂かれる運命であろうと――」

 

 ほとんど残っていないフラガの記憶。

 その中でも、古城の魂に楔のように打ち込まれた、決して消えない誓い。

 何千何万何億と言う時を経てようと。

 如何なる障碍が立ち塞がろうと。

 幾度生まれ変わろうと。

 決して変わることのないその誓いを、

 

「――俺は必ず勝利し、そしてお前の元に帰るから」

 

 もう一度、今一度。

 フラガとしてではなく、暁古城として。

 再び、誓いを立てた。

 

 サツキは耳まで真っ赤にしながら、古城の首を抱き寄せて、その耳元で、

 

「……約束よ? 兄様」

「ああ」

 

 古城の口元に、サツキの首筋がある。

 健康的な白い肌。肉付きは薄くても、十二分に柔らかい女の子の感触。魂の奥底が忘れない、幾度となく嗅いだ匂い。

 露わになった首筋に、活力に溢れるそこに、牙を近付ける。

 サツキは古城を突き放そうとはせず、逆に古城を引き寄せる。

 

「あ……っ」

 

 淡い月の光の下で、二人の影はぴったりと重なり、融け合った。

 

 しばらくして古城は牙を抜き、ぐったりと身を預けてくるサツキを抱き締めてやる。

 

「ねえ、兄様――ううん、古城」

「ん?」

「これで本当に、あたしのことキズモノにしたわね……?」

「ぐ……」

 

 否定は出来ない。

 妹だと言っていたサツキを、文字通り毒牙にかけた古城は、思わず口ごもる。

 だがサツキの声に、古城を責めるような雰囲気はなく、

 

「だから……ちゃんと、セキニン取ってよね?」

「ああ」

 

 古城は躊躇なく頷いた。

 

「へ?」

 

 サツキはキョトンとした。

 八割方冗談で言ったのに、即座に頷かれて逆に戸惑ってしまったのだ。

 

「お前がここまでの覚悟を見せてくれたんだ。もちろん、責任は取ってやる」

 

 古城は噛んで含むように、一言、一言、聞かせてやる。

 サツキの顔はこれでもかと赤くなって行く。

 

「と、と、とと、と、取るって? どやって?」

 

 サツキは何度も噛みながら、訊き返すのが精一杯。

 それだけでもう、頭の天辺からシュポーッと蒸気が噴き出す。

 

 古城は、真摯な顔つきで、

 

「お前のこと、妹だと思えるよう、これからは努力する」

 

 サツキは複雑な顔つきになった。

 

「あれ? イヤなのか?」

 

 古城は心外そうに首を傾げた。

 サツキは表情をクシャッと歪めて、

 

「イヤじゃないけど……それがあたしの望みの全部じゃなぁい」

 

 泣き笑いの顔で、甘えるように額を擦り付けてきた。

 やっぱり、サツキの肢体は妹と見るには背徳的に柔らかく、サツキの髪の匂いは禁断の果実のように甘く豊潤で、サツキの肌の熱さは家族と思うには心臓に悪すぎたけれど。

 

 胸を濡らすこの涙だけは、純粋に温かいものだったから。

 これは妹なのだと、古城は自分に言い聞かせることが出来た。




 静乃さんが出てこなかった……。


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8 聖者の右腕 ―The Right Arm Of The Saint―

 どうも、侍従長です。

 昨日、初めて台風で避難を経験しました。割とマジでした。割とビビりました。

 さて、聖者の右腕です。オイスタッハとアスタルテを薙ぎ倒します。
 第八話、よろしくお願いします。




 雪菜のイメージカラーが古城君の通力(プラーナ)の色と被ってたので、銀色にしました。


 キーストーンゲート最下層、海面下二百二十メートル。地下四十階。

 光すら届かぬ海中深くに造られた、永遠の牢獄のようにも思われる部屋の中心には、絃神島を連結する四本のワイヤーケーブルの終端があった。

 そのアンカーの中央、逆ピラミッドの形をした金属製の土台。

 一本の柱が、絃神島を維持するため、数百万トンの荷重を今なお支え続けるそれ(・・)を、杭のように刺し貫いて固定していた。

 

 直径僅か一メートル足らずの、黒曜石に似た質感の半透明な石柱――要石(キーストーン)

 

「西欧教会の〝神〟に仕えた聖人の遺体……」

 

 その半透明の石の中には、ミイラのように干乾びた、誰かの〝右腕〟が浮かんでいた。

 自らの信仰のために苦難をその身に受けた、敬虔なる殉教者の遺体。

 そしてそれらは、神の意志を現世に顕現させるための依代となり、信仰の中心となり得る。

 永遠に朽ちることなく祀り続けられる不朽体。聖遺物。

 

 天才プログラマー藍羽浅葱が暴き出した絃神島の真実。

 かつてロタリンギアの教会で手厚く保管されていた筈の聖遺物は、今や四基の人工島(ギガフロート)の維持機関になり下がっていた。

 

「この都市、絃神島が設計された四十年以上前、レイライン――龍脈が通る海洋上に、人口の島を築くと言うのは、画期的な発想だった。だが、建設は難航した。海洋を流れる龍脈の力は、所詮人間如きの手で御することなど不可能な代物だった」

 

 暁古城は茫洋とした眼で、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 だがその呟きに、応える声があった。

 

「都市の設計者、絃神千羅は、東西南北の四つに分けた人工島(ギガフロート)を、風水の朱雀、白虎、青龍、玄武の四神に見立てて、それらを結合することで龍脈を制御しようとしました。ですがただ一つ――要石の強度だけは、どうしても解決できなかった」

 

 古城の呟きに重ねるようにして後を継いだのは、銀色の槍を構えた姫柊雪菜。

 

「彼の設計では、島の中央に四神の長たる黄竜――連結部の要諦となる要石(キーストーン)が必要でした。ですがもちろん、莫大な質量を持つ人工島を支え、尚且つ龍脈の力を制御するだけの建材を作り出すことはできませんでした」

「そのために絃神千羅が手を染めたのが――」

「供犠建材」

 

 躊躇いがちな古城の言葉に被せるように、対峙していたロタリンギア殲教師ルードルフ・オイスタッハが低く厳かな声で告げた。

 その声には、己の目的のためにただ前を向く殉教者に相応しい威厳があった。

 

「彼が都市を支える贄として選んだのは、我らの聖堂より簒奪した尊き聖人の遺体」

 

 静かに響く声で宣言し、戦斧を構えるオイスタッハ。

 オイスタッハの目的は聖遺物の奪還。彼が古城たちと話したのは、単に古城たちと無理に戦う必要がないからだ。

 それは同時に彼の正義――正当性の証明でもある。

 

「我らの至宝を汚らわしい魔族どもの聖域の土台として使うなど、断じて許すことなどできません。故にわたしは、実力を持って我らの聖遺物を奪還します。退きなさい、第四真祖。これは我らロタリンギアと、絃神市の聖戦です!」

「……そうだな。確かに、あんたの言った通りなのかもしれない。けどな。だからって、この島で平和に暮らしてる五十六万人が殺されていいってことにはならない!」

 

 オイスタッハの行動は、確かに正義であるのかもしれない。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 やつらが己の正義を貫くと言うのならば、古城もまた、己の正義を貫くのみだ――!

 

 揺るがぬ決意を胸に、古城は要石の前に立った。隣に立つのは、銀の槍を携えた剣巫の少女。

 

「ならば、もはや言葉は無益! 第四真祖よ、貴方が我らの道を阻むと言うのならば、我らは貴方を排除するまでです! ――アスタルテ!」

 

 彼の命令を受けて、ずっと後ろで控えていた虹色の眷獣が動き出した。

 半透明な人型の眷獣の胸の中央には、閉じ込められた宿主――人工生命体(ホムンクルス)の少女、アスタルテ。

 元から感情に乏しかった彼女の表情は、今や完全に表情を、そして色を失っている。

 吸血鬼ではないのに、これだけの長時間眷獣を行使し続けて来たのだ。

 もはや幾ばくの猶予もない。哀れな少女を救うためにも、今ここであの殲教師を止める――!

 

「来いよ、サラティガぁっ!」

 

 右手を前に翳し、掌中に相棒の姿をイメージ。鞘から抜き放つように横に薙いだ古城の手の中には、美しい長剣があった。

 細工を凝らし、意匠を凝らした柄。鏡のような刃。がっしりとした実用的な鍔。長い刀身。鋭い切っ先。

 まさに神々しいまでの美しさ。

 どれだけ鍛え抜かれ、磨き抜かれた逸品か、切れ味を試すまでもなく万人に分かるだろう。

 宝剣――それ自体が既にして一つの宝と言うに相応しい。

 銘をサラティガ。

 剣聖フラガが守護する、正真の聖剣だ。

 

 同時に、古城は右手左手右足左足心臓眉間丹田の七つの門からとめどなく溢れる、通力(プラーナ)を引き出し、白炎の如く全身に纏う。

 それだけではない。傲然と胸を逸らして立つ古城の全身を、更に稲妻が包み込んだ。

 怒りに任せての暴走などではなく、宿主の意思に呼応して、血の中に棲まう眷獣が目覚めようとしているのだ。

 

「悪いな。俺が戦わなきゃいけない相手はあんただけじゃないんだ。今はそいつと、俺の大切な奴らが戦ってるんだよ」

 

 脳裏に、前世からの付き合いである二人の少女の姿を思い浮かべながら、古城は獰猛に牙を剥き、

 

「さあ、さっさと始めようぜ、オッサン! ――ここから先は、第四真祖(オレ)聖戦(ケンカ)だ!」

 

 吼える古城の隣に寄り添うように槍を構えて、第四真祖の監視者たる少女は悪戯っぽく微笑んだ。

 

「いいえ、先輩。わたしたちの(・・・・・・)聖戦(ケンカ)です!」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 動いたのは、二人がほぼ同時だった。

 古城がアスタルテに、雪菜がオイスタッハに向けて、互いの最高速度で突っ込む。

 

「すらぁぁっ!」

 

《神速通》が使える分、古城の方が到達するのは速かった。

 未だに反応できていない虹色の眷獣の懐で最小限の動作で、それでありながら最高の速度と鋭さでサラティガを振るう。

 

 だがやはり巨体。出遅れた体勢からでも、その巨体を回転させるだけで対応してみせた。

《金剛通》を使ってはいるが、建物全体をも震動させるほどの壮絶な拳撃を防げるとも思えない。

 

 アスタルテの眷獣に限らず、全ての眷獣は生物ではない。濃密な魔力の塊だ。

 その拳は最大級の威力を持つ呪砲に等しく、その蹴りは儀式魔術が引き起こす爆発をも凌駕する。その腕は分厚い特殊合金の隔壁すら引き裂く。

 宿主である少女の、残り少ない命を喰らって――

 

 その事実に奥歯を軋ませながら、古城は風を巻いて迫る拳を後ろに跳んでかわした。

 すかさず迫る追撃。それに対しても、古城はトップスピードと急停止の速度の緩急を付けることで残像を生み出し、見事回避してみせる。

 

《神速通》の北斗七星の名を冠した七つある派生技の一つ、《巨門》だ。

 

 案の定、アスタルテはそれを見抜けず、実体を持たぬ残像に向けて攻撃を繰り出した。

 標的である古城は、すでに自分の背後で剣を振りかぶっているとも知らずに。

 

《巨門》で稼いだ時間、古城は無駄にはしなかった。

 注ぎ込まれた古城の通力(プラーナ)によって、サラティガの刀身が「焼き焦がすもの(シリウス)」もかくやと輝き出す。

 しかし古城の立ち位置からだと、虹色の眷獣に剣は届かない。

 構わず振り下ろされたサラティガの生み出した太刀風が、通力(プラーナ)を帯びて烈風となった。

 

 源素の業(アンセスタル・アーツ)の高等光技、《太歳》。

 

 白い破壊の暴風は、無防備な眷獣の背中を襲う。

 虹色の眷獣が全身に纏った神格震動波が、それを受け止めた(・・・・・)

 二つの力は鬩ぎ合い(・・・・)、やがてアスタルテの勝利と言う形で終わる。

 

 その結果に、古城は眉を顰めた。どうやら魔力(マーナ)だけでなく、通力(プラーナ)まで無効化されるらしい。

 だがやりようはある。そう確認して、古城は雪菜の方へ視線を向ける。

 

「はああっ――!」

 

 雪菜が、銀色の槍を旋回させて、オイスタッハの腹部を狙う。

 高神の森で彼女が積み上げてきた剣巫としての鍛錬に裏打ちされた、文句なしの一撃。が、

 

「ぬぅん!」

 

 オイスタッハは、その巨体からは想像できないほどの敏捷さで雪菜の槍をかわし、逆に戦斧で攻撃してくる。

 剣巫の持つ霊視で一瞬先の未来を見ることで、雪菜は間一髪それを回避したが、雪菜の制服の袖が戦斧の風圧で切り裂かれた。それをなした彼の膂力に、雪菜は戦慄する。

 

 速く、重い。スピードと技量を信条とする古城の対極にあるような攻撃だ。しかもオイスタッハは、その技量の方も並ではない。

 だが雪菜も、そう簡単には喰らわない。対魔族戦闘のエキスパート、獅子王機関の剣巫を嘗めるな、と言ったところだ。

 オイスタッハもそれを承知して、決して深く踏み込んでこようとはしない。雪菜の攻撃に的確に対処して、それに倍する威力の反撃を叩き込んでくる。霊視を以てしても押し切れない。再度、雪菜は驚嘆した。

 

 互いに互いを打ち倒すことができず、完全な膠着状態だ。

 雪菜はそれを嫌い、凛と澄んだ声でオイスタッハに向けて叫んだ。

 

「供犠建材の使用は、国際条約で禁止されています! ましてやそれが簒奪された聖人の遺体を使ったものであれば、尚更……!」

「だから何だと言うのです、剣巫よ。この国の裁判所にでも訴えろと?」

「現在の技術であれば、人柱など用いなくとも、人工島の連結に必要な強度の要石が作れるはずです。要石を交換して、聖遺物を返却すれば……!」

「貴方は、己の肉親が人々に踏みつけにされて苦しんでいる時でも、同じことが言えるのですか?」

 

 オイスタッハの声から、隠しきれない怒りが滲み出る。

 その怒りよりも、言葉の内容に、雪菜の動きが一瞬硬直した。

 

 剣巫として育てられてきた雪菜は、肉親の顔を知らない。それを知って、オイスタッハは雪菜を挑発したのだ。

 我らの気持ちが、家族を知らぬお前には分かるまい、と――

 

 固まった雪菜の肩に向けて、オイスタッハの戦斧が容赦なく振り下ろされる。

 だが雪菜は、その動揺を奥歯を強く噛んで噛み殺し、オイスタッハの戦斧に後退するのではなく、前に進み出た。

 

「むぉっ!?」

「確かに、わたしは家族のことを、何も知りません」

 

 驚愕するオイスタッハの胴を雪霞狼で斬り付けつつ、雪菜は揺るがぬ決意と覚悟を秘めた声で朗々と語る。

 

「だから、それを失う怒りも、痛みも、悲しみも、わたしは知ることはできません」

 

 けれど。

 それでも。

 雪菜は、思うのだ。

 

「この島には、居たんです。わたしが死んで、怒ってくれる人が。悲しんでくれる人が。その人にも、その人が死んで悲しむ人がいっぱい居るんです。それは誰だって同じで、誰か一人が死ねば、誰かが必ず悲しむんです!」

 

 だから。

 そうだから。

 雪菜は、戦うのだ。

 

「だからわたしは守ります。戦います。わたしを大切にしてくれる人たちが居るこの島を、わたしにとって大切な人の居る、絃神島(この場所)を――!」

 

 ただの監視者としてこの島に来たに過ぎなかった雪菜は。

 今この時、己の戦う意味を、知った。

 今この時、槍を振るう理由を、得た。

 今この時、心の底から戦いたいと、そう願ったのだ。

 

 そんな気高い少女の瞳に宿る決意に、壮絶な覚悟と執念を持ってここまで来た殲教師が、顔を歪めて気圧されたように後退る。

 直後、雪霞狼と彼女の右手、左手、右足、左足、心臓、眉間、丹田の七つの門から、新雪の如き色の莫大な(・・・・・・・・・・)通力が噴き上がった(・・・・・・・・・)

 全身から白銀の輝きを散らしながら、雪菜は力強く地面を蹴った。

 

「あなたに、何も奪わせはしません――っ!」

「ぐっ――!」

 

 そして、雪菜の言葉を、意志を、肯定する声が聞こえた。

 

「――そうだよな。守らないと、いけないよな」

 

 雪菜に、全てを、自分を、教えてくれた少年は。

 多くの、守るべきものを背負って、ここに立つ少年は。

 

「全部が全部、大切で、全部、全部、失いたくないものだ」

 

 言った。

 

「俺は、俺から奪っていく奴を、絶対に許さない」

 

 剣聖と冥王、二つの前世を持つ世界最強の吸血鬼・第四真祖暁古城は、そう言った。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「姫柊!」

「はい、先輩!」

 

 それだけでよかった。それ以上は必要なかった。

 一度だけ視線を交わし、二人は役割を交代した。

 交錯するように立ち位置と相手を入れ替えて、今度は古城がオイスタッハを、雪菜がアスタルテの相手をする。

 

「ようオッサン。物足りないかもしれないが、付き合ってもらうぜ!」

「第四真祖! 私の邪魔をすると言うのですか!」

 

 表情を歪ませながらも、ますます鬼気迫るよう攻撃を見舞ってくるオイスタッハ。

 古城はまず、敵を見極めることから始める。繰り出される戦斧の重い攻撃に、ひたすら受けに回る。

 

 五度ほどそのまま打ち合い、ようやく古城は攻勢に出た。

 

「すらっ」

「ぬうぅん!」

 

 オイスタッハが戦斧を引き戻したタイミングで、右手のサラティガを突き出す。

 流石はロタリンギアの殲教師、サラティガの刀身の横腹を、戦斧の柄で思い切り殴りつけることで、攻撃の軌道を逸らしてみせた。

 

 だが古城の本命はそちらではない。オイスタッハがサラティガの刺突に気を取られた瞬間に、同時に左拳を突き出していた。

 湧き出す通力(プラーナ)と、新たに目覚めかけている眷獣の魔力の宿った拳を。

 

「おおおおお――っ!」

「ごはぁっ!」

 

 純白の輝きと、青白い雷光を纏った拳を受けて、腹部の装甲を派手に破損させながら、オイスタッハは吹き飛んだ。

 

「そは形なき刃 そは不可視の銘刀 引き裂く者よ 出でい!」

 

 すかさず左手で虚空に魔法文字を書き綴り、闇術を発動。

 生じた突風が体勢を崩したオイスタッハに迫るが、なんと彼は立てた戦斧で突風を遮り、それだけで耐えてみせた。

 これにはさしもの古城も感心せざるを得なかった。

 やはり、この殲教師の覚悟は本物だ。

 

「認めましょう、貴方はやはり侮れぬ敵だと――故に、相応の覚悟を持って相手をさせていただきます!」

「何……っ!?」

 

 オイスタッハの全身から噴き出した凄まじい呪力に、古城は表情を歪めた。

 殲教師が纏う法衣の下、装甲強化服が黄金の光を放っているのだ。

 その光を直視した古城の瞳に激痛が走り、光を浴びた古城の肌が焼ける。

 

「ロタリンギアの技術によって作り出されし聖戦装備〝要塞の衣(アルカサバ)〟――この光をもちて我が障害を排除する!」

 

 オイスタッハの速度が、爆発的に跳ね上がった。装甲鎧が彼の筋力をアシストしているのだ。

 黄金の光によって視界を奪われた古城は、鍛えられた直感のみでそれを回避しなければならない。

 

「くっそ、そんな切り札を隠し持ってやがったのか……!」

 

 思わず上がった古城の声も、オイスタッハは取り合わず、一掃苛烈さを増した攻撃に古城は必死になって防御するしかない。

 このままではジリ貧もいい所だ。

 古城は、腹を括った。

 

 オイスタッハを見上げて、ニヤリと笑う。そんな古城が放つ異様な気配を見て、オイスタッハが攻撃の手を止めた。

 

「そう言うことなら、こっちも遠慮なくやらせてもらうぜ。死ぬなよ、オッサン!」

「ぬっ……!?」

 

 本能的に危険を察して後ろに跳んだオイスタッハに、古城はサラティガを持っていない左手を突き出した。

 その左手が、鮮血を噴き出した。

 

「〝焰光の夜伯(カレイド・ブラッド)〟の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ――!」

 

 その鮮血が、眩い雷光へと変わった。凄まじい光と熱量、そして衝撃。倉庫街を焼き払ったものと同じ、第四真祖の眷獣である。

 しかし前回とは違い、その光は凝縮されて、巨大な獣の形を取った。

 それこそが、本来の眷獣の姿。古城がようやく完全に掌握した、第四真祖の眷獣の真の姿だ。

 

疾く在れ(来いよ)、五番目の眷獣〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟――!」

 

 出現したのは、眩い雷光を纏った獅子――

 戦車ほどもある巨体は、荒れ狂う雷の魔力の塊。その全身は目も眩むような輝きを放ち、その咆哮は雷鳴のように大気を振るわせる。

 

 古城がアヴローラ(先代の第四真祖)から受け継いだ眷獣は、全部で十二体。

 だが雪菜の血を吸って掌握できた眷獣は、この一体だけだった。

 しかし、それは予想できていたことだった。

 何せこの眷獣は、最初から雪菜のことを大層気に入っていたのだ。倉庫街では雪菜を守るために、宿主の制止すら振り切って暴走したほどだ。

 

「これが、第四真祖の眷獣……! このような密閉された空間で使うとは!」

 

 振り下ろされた雷の眷獣の前足が、オイスタッハを掠めた。それだけで、装甲鎧が火花を散らして戦斧の刃が融解し、オイスタッハの巨体が数メートル以上撥ね飛ばされた。

 その攻撃の余波は漏れなくキーストーンゲートにも及び、古城たちの立っている場所だけでなく島全体に激震が走った。

 戦闘が長引けば、それこそ島が崩壊するだろう――

 

「アスタルテ――!」

 

 堪らず殲教師が従者を呼んだ。

 呼びつけられたアスタルテは、雪菜の相手も放棄してオイスタッハと獅子の眷獣の間に割って入る。

 

 オイスタッハが彼女に植え付け、欲した能力はありとあらゆる魔力を無効化する神格震動波。故に、天災にも匹敵する第四真祖の眷獣を無効化するにはそれしかないと考えたのだろう。

 古城はいきり立つ〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟を止めることはせず、そのまま人型の眷獣へとけしかけた。

 

 神格震動波の防御結界が、古城の眷獣の魔力と鬩ぎ合い、それを反射した。

 制御を失った雷の魔力が無秩序に荒れ狂い、広いとは言えないキーストーンゲート最下層を蹂躙する。

 

「きゃああああああっ!」

 

 降り落ちて来た瓦礫に、雪菜が悲鳴を上げる。それに悪いと思いながら、古城は冷静に呟いた。

 

「……やっぱり、俺の眷獣じゃあいつを倒せないか。なら――!」

 

 事実を受け止めて、古城は猛った。

 この戦いにかかっているのは、己一人の命ではない。絃神島に住む五十六万人の市民に、古城の家族、友人、そして――

 

「くっ、先輩……!」

 

 出会ったばかりの、この後輩も。

 

「すぅ――」

 

 古城はゆっくりと、深く息を吸った。今一度胸一杯に酸素を取り込むことで、思考を冴え渡らせる。

 

「はぁ――」

 

 古城はゆっくりと、大きく息を吐いた。そうして、剣を構える。

 自然体となって、目を閉じる。

 

 聞こえる。自分の、全てが。

 脈動する心臓の鼓動も。全身を駆け巡る血潮の流れも。緩く穏やかな呼吸音も。

 そして――七つの門が、重々しく開かれていく音も。

 

 刮目。

 右手左手右足左足心臓眉間丹田。

 堰を切ったように溢れ出す力の全てを、解き放つ。

 神に通ずる力(プラーナ)を纏って、古城は地上の恒星の如く煌々と輝いた。

 

まだだ(・・・)……!」

 

 自然体では、あの眷獣には敵わない。

 本物の化生を倒すためには、人の皮を破り捨てて、己も化生となるほかない。

 

 ――そうだ。(剣聖)の力は、こんなものじゃないだろう?

 

 古城の中で、誰かが囁き、古城は頷いた。

 

「お、お、お、お、お、お……」

 

 そして。

 同時に。

 己の中で、魔力(マーナ)を練り上げる。

 それはまさに、『魔』の力。

 森羅万象を満たすその全てを喰らい、際限なく高まっていく。古城すらも。

 周囲の全てを黒く、黒く染め上げながら、尚も黒々と。

 

「もっと……もっともっともっともっともっともっと!」

 

 それでも尚、古城は満足しない。

 こんなものじゃない。俺は、こんなものじゃないはずだ。

 まだ。まだ俺は、人の範疇に居る。

 それではダメだ(・・・・・・・)

 

 力を渇望する古城の魂に応えるように、通力(プラーナ)魔力(マーナ)が更に高まった。

 その二つは、決して調和することはなかった。

 互いに争い、力を鬩ぎ合わせ、限界を塗り替えていく。

 互いに互いの力を、高めあっていく。

 

 見よ!

 古城を取り巻く通力()魔力()、対極に位置する色の鮮やかさを。

 やがてその二つの力が、古城の周囲でゆっくりと対流を始めた。

 あたかも、陰陽道のシンボルである太極図のように。

 

「綴るッ――」

 

 右手に剣を構えたまま、左手で太古の魔法文字を描く。

 よく通る声で、唱える。

 

 

 

 冥界に煉獄あり 地上に燎原あり

 炎は平等なりて善悪混沌一切合財を焼尽し 浄化しむる激しき慈悲なり

 全ての者よ 死して髑髏と還るべし

 神は人を見捨て給うたのだ

 退廃の世は終わりぬ 喇叭は吹き鳴らされよ 審判の時来たれ

 

 

 

 古城の頭の中で、ヂリリと何かが罅割れ、声が聞こえる。

 

 ――そうだ。冥王の冥王たる由縁を、少し開帳してやれ。

 

 古城は頷いた。

 

 第五階梯闇術《黒縄地獄(ブラックゲヘナ)》。

 

 五行にも及ぶスペルを綴り終えて、古城は〆に、拳ではなく、右手の剣で叩いた。

 漆黒。刹那、この世ならざる黒き炎が顕現した。

 黒炎は魔獣のように吹き荒れ、しかしすぐに収束していく。

 

 古城の右手のサラティガへと。

 何より白き通力(プラーナ)に、何より黒き魔力(マーナ)の炎が宿り、合算、どころではなく、乗算していく。

 

「おおおおおおおおおおおお」

 

 世界で唯一人、光技と闇術を使うことのできる古城だからこそ、編み出せた術理。

 源素の業(アンセスタル・アーツ)太極(インヤン)――

 

 

 

「《天をも焦がす降魔の黒剣(クリカラ)》!」

 

 

 

 明王の持つこの世の罪悪断ち切る降魔の利剣が、呆然と立ち竦んでいたアスタルテの眷獣へと振り下ろされた。

 業火を纏った刀身が渦を巻き、黒炎の螺旋を描きながら、虹色の眷獣の組み合わされた腕に直撃する。

 

 轟音。閃光。炸裂。

《太白》が虹色の眷獣の防御を押し退けて、《黒縄地獄(ブラックゲヘナ)》がそれを焼き滅ぼさんと荒れ狂う。

 

「あ、あああああああ――――っ!」

 

 その苛烈極まる業火の剣を一身に受けるアスタルテが、絶叫した。

 彼女の眷獣が纏っているはずの、神格震動波の防御結界が、食い破られようとしている。

 

 実のところ、古城の攻撃のほとんどは神格震動波に消し飛ばされている。

 そもそも《天をも焦がす降魔の黒剣(クリカラ)》は、完全に威力過多だ。もしその威力が無差別に解き放たれていれば、この狭い部屋など消し飛んでいる。

 そうなっていないのは、ひとえにそのほとんどをアスタルテの眷獣が防いでいるから。

 

 だが、古城の攻撃、その圧力が、徐々に徐々に、アスタルテの眷獣の魔力を上回っている。

 常であれば、古城もさすがに気を遣って使用は控えただろう。

 だが皮肉にも、攻撃を無効化する虹色の眷獣の能力が、古城の攻撃に対する枷をなくした。

 

 それでも破れないのは驚きではあるが――

 古城の内心に、徐々に焦燥が押し寄せて来た。

 これ以上は恐らく、この建物の方が耐えられない。

 もしキーストーンゲートの外壁が破れて、水深二百二十メートルの水圧が押し寄せてきたら、雪菜は間違いなく即死だし、古城もどうなるか分からない。

 

「先輩……」

 

 全力を振り絞る古城に寄り添うように、雪菜が隣に立った。

 彼女も疲労の色が濃い、あれだけの敵を相手に生身で戦っていたのだから当然だ。

 

「悪い、姫柊。このままじゃ……!」

 

 あと一歩。あと一歩で、この島を救える。だと言うのに、その一歩が届かない。

 しかし雪菜は、古城を見上げて華やかに笑った。

 

「いいえ、先輩。わたしたちの勝ちです」

 

 古城がその言葉の真意を問い質すよりも先に、雪菜が古城の前に出た。

 

「――獅子の巫女たる高神の剣巫が願い奉る」

 

 銀色の槍と共に、雪菜が舞う。

 白銀の輝きを纏って、どこまでも優雅に。

 神に勝利を祈願する剣士のように。

 勝利を預言を授ける巫女のように。

 

「破魔の曙光、雪霞の神狼、鋼の神威をもちて我に悪神百鬼を討たせ給え!」

 

 粛々とした祝詞が響き、雪霞狼が輝き始める。

 細く、鋭く、まるで光り輝く牙のように。

 

「ぬ、いかん!」

 

 雪菜の狙いに気付いたオイスタッハが、雪菜に向けて攻撃を加えようとするも、

 

「邪魔すんじゃねえよ、オッサン!」

 

 古城が《天をも焦がす降魔の黒剣(クリカラ)》の向きを少しだけ傾けて、オイスタッハへと殺到させる。アスタルテが庇ったが、確かに彼の動きは阻害した。

 その瞬間に、雪菜はアスタルテの元まで、しなやかな純白の雌狼のように駆け、音もなく宙を舞った。

 通力(プラーナ)を纏い凄まじい錬度の《神速通》を発動した雪菜の速度に、アスタルテの反応が遅れた。

 

「雪霞狼!」

 

 雪菜はその槍を、虹色の眷獣の顔のない頭部に向かって突き出した。

 雪霞狼――七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)に刻印された神格震動波駆動術式(DOE)。そしてアスタルテの眷獣に刻印されているのも同種の力。

 だが雪菜の槍は、その力をただ一点に集中していた。

 鋭く、細く、相手の結界を貫くためだけに――

 

 アスタルテの防御結界を突き破り、雪霞狼が眷獣の頭部に深々と突き刺さった。

 しかしその程度のダメージ、巨大な眷獣には大したものではない。

 だからここから先は、古城の役目だ。

 

疾く在れ(来いよ)、〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟ッ!」

 

 消し去った《天をも焦がす降魔の黒剣(クリカラ)》の代わりに、雷の眷獣を再度召喚する。

 宙を跳ぶ雪菜が手放した槍に、光の速さで駆けた雷の眷獣が、牙を立てた。

 

 それで、終。

 

 雷に変換された圧倒的な魔力が金属製の長い柄を通して、まるで飛雷針のように防御結界の及ばない実体化した眷獣の体内を蹂躙する。

 魔力の塊である吸血鬼の眷獣を倒すには、より強大な魔力をぶつける必要がある。

 全ての吸血鬼の王である真祖の、暴力的なまでの魔力の奔流が眷獣の形を取って、一瞬でアスタルテの眷獣を消滅させた。

 

「アスタルテ……っ!?」

 

 眷獣の鎧を失った人工生命体(ホムンクルス)の少女が、ゆっくりとその場に倒れ込んだ。

 あらゆる結界を破壊するアスタルテの敗北。それは殲教師の野望が潰えたことを、何よりも雄弁に語った。

 方針するオイスタッハの眼前に、古城が音もなく踏み込んだ。

 

「ぬぅあっ……!」

「――終わりだ、オッサン!」

 

 相手の身体にダメージを与えず、精神にのみ作用して意識を奪う光技、《鎮星》。

 ザンッ、と。容赦なく振り下ろされたサラティガが、彼の意識を一瞬で刈り取り、彼は崩れ落ちた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 戦いは終結し、キーストーンゲート最下層には、再び静寂が訪れた。

 被害は甚大だ。それでも奇跡的に要石は無事だったし、ワイヤーケーブルもほぼ無傷。ギリギリのところで島は守られた。

 

 それを確認して、古城は雪菜と目を合わせ、微笑み合った。

 古城の笑みは何とも気の抜けたものだったが、ほんの一瞬、控えめに冬に咲く花のような、美しい微笑が雪菜の口元を過ぎって消えた。

 

 古城は勝利した。だが、それで何が得られたと言う訳でもない。

 大勢の人々が傷つき、要石の中にも聖遺物が眠ったままである。絃神島の抱える歪みは何一つ解決していない。

 それでも、今の笑顔で古城は少しだけ満足できた。この戦いは、無駄ではなかったと思えた。

 

「……それに、救えたものだってあるしな」

 

 呟き、意識を失ったままのアスタルテを見下ろした。目立った負傷は見られず、古城は安堵する。

 しかし彼女が眷獣を宿している限り、人間よりも遥かに長く与えられた寿命も意味をなさず、あと数日も持たないだろう。

 ならば、眷獣さえどうにかしてしまえば、それで解決する。

 

「…………いや無理だろ」

 

 ぼそっと呟く。何もどうにかするのが無理と言う訳ではなく、あまりにも痛々しい今のアスタルテの姿に、性的興奮(・・・・)を覚えるのは無理、と言う意味である。

 

「姫柊」

「はい?」

「すまん、ちょっといいか?」

「はい? ……え、ちょ、あの!?」

 

 不思議そうに振り返る雪菜を、古城は思い切り抱き寄せた。

 すでに彼女の白銀の通力(プラーナ)は消え去っている。そのことについて訊いてみたくもあったが、それはひとまず後回し。

 予想外の古城の行動に思いっ切り動揺する雪菜。

 しかしそれだけで、抵抗しようとはしなかった。むしろぎこちないながらも、古城の方へ身を預けてくる。

 

「せ、先輩……」

 

 雪菜の柔らかさ、温かさ、血と汗の匂い。その全てを古城は全身で味わった。

 

 吸血鬼に血を吸われた人間は、快感と恍惚を味わうことになる、と言われているが、それはただそれだけのこと。

 だが吸血鬼自身が、突き立てた牙から自分の血を相手の体内に送り込んだ場合には、その限りではない。

 絶対にそうなるわけではないが、吸血好意を何度も繰り返していれば、いつかは相手を〝血の従者〟――己の伴侶へと変えてしまうのだ。

 そして、永遠の余生を共に過ごすことになる。

 

「先輩……ダメです……わたしたち、まだ、そんな……」

 

 弱々しい声でたしなめる雪菜だったが、その言葉とは裏腹に、やはり抵抗する素振りを見せようとはしなかった。

 そのことを不思議に思いつつ、古城は雪菜を強く抱き締める。雪菜も古城を抱き返s

 

「――ありがとう。もう行けそうだ」

「え……?」

 

 十分に吸血衝動が高まったところで、古城はあっさりと身を離した。

 ポカンとした表情で古城を見つめ返す雪菜を放って、古城は倒れているアスタルテの隣に屈みこんだ。

 

 ほっそりとした人工生命体(ホムンクルス)の少女の体をそっと抱きあげて、剥き出しの首筋に牙を突き立てて、彼女の体液を吸い上げる。

 長い長い沈黙の後、古城はそっとアスタルテの首筋から唇を離した。

 

 倒れている彼女の様子に、ほんのりと頬が上気している以外に目立った変化はない。だが、やるべきことは全て終えたはずだ。

 満足して息を吐いていると、雪菜が物凄い――静乃以上(!?)の能面のような顔で、銀色の槍を拾い上げていた。

 

「先輩……? 一体、何をやっているんですか?」

「いや、そ、それは、この子の眷獣を俺の支配下に置こうと思って。ほ、ほら、魔力の仕送りと言うか、眷獣のレンタルと言うか……つまり、この子の眷獣が宿主の命じゃなくて、俺の生命力を喰うように、すれば……いいんじゃ……ないかと……思ったんですが、ね……」

「つまり彼女を救うために、血を吸った、と言うことですか」

 

 最後の部分が途切れ途切れな上に敬語になっている古城の弁解に対する雪菜の声は、出会ったころを彷彿とさせる冷たさと、それを上回る怒りが込められていた。

 古城は背筋に凄まじい恐怖を感じながら、おずおずと頷いた。

 

「そ、そういうことです。眷獣の支配権を奪い取るために、仕方なく。そう、仕方なくです、はい」

「そうですか。でしたら、その前にわたしにしたことは一体……?」

「あ、いや、それはですね。血を吸うには、ほら、吸血衝動を起こさなきゃいけないんですが……さすがにその子に触りまくるわけにもいかないし、替わりも居なかったし、アテ馬と言うか、何と言うか……」

「……アテ馬、ですか……そうですか……」

 

 俯いた雪菜が、プルプルと肩を震わせ始める。

 さしもの古城も自分の失言を悟った。いくらなんでもこの言い方はない。しかし他にどう説明すればいいのやら。

 なぜか今の雪菜が、噴火寸前の火山のように見えて、古城は慌てて話題を変えようとする。

 

「そ、それよりも姫柊! 早く上に行こうぜ! 静乃たちが足止めしてくれてる間に、早くあの蛇野郎を……」

 

 だがその言葉は、途中で尻すぼみに消えていくこととなった。

 氷のようだった無表情を崩して、雪菜がキッと眉を吊り上げて古城を睨んできた。

 今にも泣き出しそうな、そのくせ怒り狂っているような顔で、

 

「先輩なんて、このまま海の底に沈んでしまえばいいんです! バカ――っ!」




 
 念のため、《天をも焦がす降魔の黒剣(クリカラ)》はワルブレ原作からです。作者が思いついたんじゃありません。

 次で九頭大蛇を屠ります。
 今回出てきたとある二つの技を組み合わせて《太極(インヤン)》をします。
 一応、技名は考えているのですが、リクエストがあれば、どうぞご遠慮なく。
 お願いします。


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9 我が名は ―I Am A―

 どうも、侍従長です。
 九話目です。前の話に一文だけ追加しました。特に物語に影響はないので、お気になさらず。

 今回のお楽しみいただけると幸いです。

 今更ですが、眷獣召喚の際の掛声を、「きやがれ」から、「来いよ」に変更しています。お気に召さなければ、遠慮なくお申し付けください。



 

 この話ももちろん編集済です。


 時計の針は、オイスタッハ達との戦いが始まるよりも前、古城が初めての吸血行為を終えた後に遡る。

 

「静乃。今どこに居る?」

『絃神島北地区湾岸の増設人工島(サブフロート)の一つ、四号増設人工島(サブフロート)よ。特区警備隊(アイランド・ガード)から、正体不明の魔獣らしき生物が出現した、という報告があったの』

「四号増設人工島(サブフロート)か。ここから近いな……」

『それはそうでしょうね。さっきまであの《異端者(メタフィジカル)》は北地区に居たわけだから、経過した時間を考えてもそう遠くには行けないわ?』

 

 静乃の淡々とした声による報告に、古城は頷いた。

 

 絃神島を構成しているのは四基の超大型浮体式構造物(ギガフロート)だが、島の周囲には海上タンク、船舶の修理のためのドック、あるいは大がかりな廃棄物処理殻(ダストボックス)など、細々とした拡張ユニット――増設人工島(サブフロート)が存在する。

 話に出てきた四号増設人工島(サブフロート)は、絃神島建設本来の目的である魔族の生態研究の本拠地となった研究区域であるため、研究過程で出た燃やせない廃棄物、もしくは後ろ暗い事情があるモノを秘密裏に廃棄するための、巨大なゴミ埋め立て施設の一つだ。

 今では二桁以上に及んでいる増設人工島(サブフロート)の中で、四号と番号が若いのは、その関係でもある。

 

 語られた事情に納得は行く。

 だから、古城が反問したのはそこではなく、聞き慣れない呼称についてだ。

 

「《異端者(メタフィジカル)》?」

『仮称よ。あの生物たち(・・)の』

「たちって……もしかして、他にも居るのか、あんなのが?」

『ええ。どうやら他の魔族特区でも確認されているらしいわ。ギリギリ撃退はされているらしいけれど、詳しいことは何も分からず、異様な風体と力を持つこの世ならざる獣たち。だから異端者』

 

異端者(メタフィジカル)》。なるほど、言われてみれば納得できる呼称だ。

 

 古城に血を吸われて、どこか恍惚とした表情で、僅かに服を乱してぐったりとする雪菜とサツキから視線を逸らして、古城は話を続けた。

 

『ええ、まったくその通りね。改めて直でこうして見ると、本当にそう思うわ』

「え? おい、もしかして、もう接触してるのか?」

『それどころか、もう戦闘中よ。キーストーンゲートの襲撃者――十中八九彼らだと思うけれど、その対応に回っている以外の人材をこっちに集めて、必死で撃退しようとしてるわ。けど……』

「無理、だろうな」

『無理ね。数だけではどうやっても倒せない。集まった攻魔師の呪力弾も効かないし、正直に言って壊滅は時間の問題だわ?』

「そうか……」

 

 予想した以上に、戦況は最悪なようだ。

 唇を噛み締めると、いつの間にか意識を取り戻したらしい雪菜とサツキが、緊迫した表情でこちらを窺っているのが分かった。

 ここで悩んでいても仕方がない。くよくよ考えている暇があったら、動き出すべきだ。

 

「悪い、静乃。俺たちは先に殲教師のオッサンたちを止める」

『そうね。優先度としては確かにあちらの方が高いわね』

「だから、俺たちがそっちに行くまで、何とか持ち堪えてくれ」

 

 自分が相当酷いことを言っていると分かっていても、そう言わずにはいられなかった。

 お願いなどではなく、もはや懇願だ。

 

「頼む。必ず、必ず助けに行く」

『そう言われても、こっちももう限界よ? もう幾ばくの猶予もないし……ああ、また小隊が一つ壊滅したわ。……古城? それでも、貴方は私に止めて、って言うのかしら?』

「…………ああ。すまん。けど……!」

『分かったわ。貴方が来てくれるまで、何とかやってみせる』

 

 忸怩たる思いで顔を歪ませる古城の耳に、電話越しに宥めるような声が聞こえてきた。

 思わず目を見開いて携帯電話を見つめると、聞き慣れた、それでいて古城を安心させてくれる、悪戯っぽい声で、

 

『当然のことよ。前にも言ったと思うけれど――貴方を(たす)けることが、私にとっては至上の喜びだもの』

「お前……やっぱり、冥府の」

『信じてるわ、古城』

 

 問い質す前に、通話が終わった。聞こえてくるのは、プーッ、プーッ、という無機質な機械音だけ。

 古城は暫し微妙な表情で固まっていたが、すぐに思い直し、立ち上がった。

 

 静乃は、古城の知る彼女は、冗談は常日頃から口にするが、嘘だけは言わない。特にこういう時は、常に本当のことしか口にしない。

 彼女がやると言ったら、あらゆる手段を用いてやってくれるだろう。

 

 なら、古城のやるべきことは何か? 彼女の献身に報いるには、どうすればいいのか?

 

 ――信じてるわ、古城

 

 彼女の信頼に、応えること。ただ、それだけだ。

 

「サツキ、姫柊」

「はい、先輩」

「うん、古城」

 

 古城に名前を呼ばれた二人の少女は疑問を口にすることはなく、決意と覚悟を秘めた瞳で古城を見返してくる。

 頷く古城。静乃だけではない。サツキも、姫柊も。

 自分を信じてついてきてくれる彼女たちのためにも、絶対に勝たなければならない。

 

「サツキ。お前は、静乃たちの方に行ってくれ。アイツが危ない」

「えー? あたしも兄様と一緒がいいんですケド」

「頼む。お前にしか頼めない」

「う、わ、分かったわよ。気は進まないけど、兄様の頼みだもの。漆原を助けるついでにあの化け物もぶっ倒して、あたしがこの島を救ってあげる!」

 

 最初は不満そうだったくせに、古城がおだてただけで簡単に懐柔されてしまう彼女に苦笑を溢して、今度は雪菜に向き直る古城。

 この二人に、言葉は要らなかった。

 ただ目と目を合わせ、頷くだけ。それだけで、二人の意思は伝わり、同調した。

 

「よし。……行くぞ、二人とも!」

「はい!」

「うん!」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 そして時計の針は再び進み、場所だけが変わる。

 時刻は深夜。月の光が照らし、夜でありながら暗くはない。

 半径約五キロほどの、海へと突き出した扇形の大地。

 埋め立て地のような広大で平坦な土地で、全体が分厚い鋼板の蓋に覆われている。

 

 連結橋の前には黄色と黒のバリケードが敷かれており、誰も立ち入りが出来ないようになっている。

 だがそれで隠し通せるようなものでもなかった。

 簡易バリケードの向こうから島全体に響く、鳴り止まぬ銃声と、人間の悲鳴と――何か、巨大な生物の嗤うような咆哮は。

 

「……さてさて、どうしたものかしらね」

 

 四号増設人工島(サブフロート)の中心辺り、いくつものゴンドラのようなものが並ぶ中で、高い監視塔の上に陣取った長い黒髪の少女――漆原静乃は、能面のような表情で眼下に広がる光景を眺めていた。

 手には携帯電話。古城との通話を終えたばかりだ。

 数十分前から続く戦闘。即ち、巨大な全身から夜の闇を増強するかのような仄暗い呪力(サターナ)を垂れ流す九頭大蛇と、急遽編成された特区警備隊(アイランド・ガード)の隊員たちの戦いを。

 

 絃神島の保有する特区警備隊(アイランド・ガード)は、三個大隊四百四十人強。その内の一個大隊がしばしばテロ組織の襲撃などに対する警備として常駐しており、その大隊はキーストーンゲートへの襲撃者――殲教師と人工生命体(ホムンクルス)の少女への対応のために残された。

 なので、《異端者(メタフィジカル)》の迎撃に当たっているのは、静乃が漆原家の権力をフルに使って呼んだ、残りの二個大隊の内一個大隊ほど。だがそれでも百人以上は居る。

 だというのに、戦況は最悪の一言だった。

 

 敵は巨大。故に細かい狙いを付ける必要はなく、手に持った対魔族用の呪式銃やハイパワーライフル、攻魔班の魔術攻撃を叩きこめばいつかは倒せると高を括っていた隊員たちだったが、間もなく、それは大きな間違いだったと思い知らされた。

 彼らが恐怖を堪えて必死で引き金を引き絞って放たれる弾丸も、いかなる魔術も、九頭大蛇のぬめる鱗に弾かれて未だに傷の一つも負わせることが出来ない。

 半狂乱になって突っ込んでも、待っているのは九本の長い首にそれぞれ備えられた鋭い牙で噛み砕かれる運命か、呪力のこめられた特殊装甲をないもののように丸ごと石化させるブレス。

 

 そのような状況でこれだけの時間、戦線を構築できている理由はひとえに、遊ばれているからだ。

 そう、あの《異端者(メタフィジカル)》、九頭大蛇は明らかに遊んでいる。隊員たちの必死の抵抗と死闘を、まるで子犬と戯れているかのような気安さで眺めて、その気になれば一瞬で壊滅させられるだろうに、それをしない。

 すでに集められた特区警備隊(アイランド・ガード)は半数以上が戦闘不能に陥っているが、まだ戦える。そのギリギリのラインで踏み止まっている。いや、踏み止まらせてもらって(・・・・・・・・・・・)いる。

 

 どれだけ死力を尽くしても一切の希望が見えない状況に、恐慌状態に陥る隊員たち。

 無理もない……と静乃は嘆息した。

 静乃が古城から頼まれたのは、時間稼ぎ。オイスタッハたちを止めて戻ってくるまで、戦線を持ち堪えること。

 だがこれでは、電話でも言った通りに時間の問題である。

 

「気は進まないけれど、私も始めるとしましょうか。――綴る」

 

 もう一度嘆息し、静乃はそのほっそりした指を突き付け、虚空に古代文字を書き綴り始めた。

 静乃の放つ圧倒的な魔力(マーナ)が周囲のエネルギーを喰らい、帳をさらに翳らせていく。

 雑多な音が渦巻く戦場の中で、歌うような声で詠唱する。

 

 

 

 尋常なき地よ 死の凍土よ そなたの息吹を貸しておくれ 全てを静けく凍えさせておくれ

 盛者必滅は世の摂理 神の定め給うた不可避の宿業

 水が低きへと流るるが如く 全ての(ねつ)を奪っておくれ

 時すらも凍てついたが如く 全てが停まった世界を見せておくれ

 

 

 

 第四階梯闇術《凄まじき吹雪(アンアースリィ ブリザード)》。

 憎たらしいほどしれっとした表情で、〆にトンと叩く。

 直後に顕現した尋常ならざる吹雪は、大気すら凍りつかせながら真っ直ぐ突き進み、九頭大蛇に直撃した。

 上がる苦悶の絶叫。九本ある首の内の二本がびっしりと霜に覆われている。

 

 だが、静乃は能面のような表情の裏で、焦燥を自覚していた。

 

(……まずいわね。たった(・・・)二本。これでは……!)

 

 慌てて、戦場全体を見渡せるようにと登った監視塔から降りるために走り出す静乃だったが、一歩遅かった。

 有体に言って嘗めてかかっていた先程と違って、怒り狂った様子で蛇体をくねらせて迫る九頭大蛇。

 かなりの迫力があったが、迫っていた九匹の内の一匹、九ツ眼が、静乃の目の前で大口を開けた。一度体験した静乃には分かった。石化のブレスだ。

 

 反応する間もなくブレスが放たれ、あわや絶体絶命――という危ういところで、静乃の視界はいきなり切り替わった。

 突然のことに、さしもの静乃も目を白黒させて辺りを見回すと、十メートルほど離れたところで、監視塔にブレスを吐き付けている九頭大蛇の姿が見えた。

 

「……まったく、手のかかる生徒たちだな」

 

 そんな静乃の視界の端に、フリルの塊が現れた。

 高価そうな扇子に、装飾過多の暑苦しそうなドレス。それを見た瞬間、誰が自分を助けてくれたのか、静乃は悟った。

 

「あら、南宮先生。ごきげんよう」

「……ふん、漆原。お前一人か?」

 

 静乃や古城たちのクラス担任にして、特区警備隊(アイランド・ガード)の特別顧問という肩書も持つ、凄腕の攻魔師、南宮那月だ。

 突如として戦場に現れた彼女は、目の前の惨状を見回して眉を顰めた。

 

「管理公社の連中に泣きつかれて来てみれば……何だこれは? ついでに、何だあれは?」

 

 あれ、のところで、右手に持った扇子を九頭大蛇の方へ向けての言葉。

 静乃は特に遠慮することも躊躇することもなく、いつもの淡々とした口調で答えた。

 

「私も正体は分かりません。ですが、《異端者(メタフィジカル)》と呼ばれているようです」

「異端者、か。随分と大仰な呼び方だな。だがまあ……」

 

 一瞬顔を顰めた那月だったが、転がっている石化した隊員にチラリと視線をやって、

 

「あれを見れば納得か。こいつらはお前が呼んだ連中だな?」

「ええ。結果は見ての通りですけれど」

「だろうな。しかし、九本か。どこぞの不愉快な蛇遣いを思い出すな。気に食わん……」

 

 忌々しげに那月が睨みつける先で、九頭大蛇がやっとこちらに気付き、鎌首をもたげて睥睨する。

 最初は静乃を見ていたが、すぐに那月に気付いて、ちろりと二股に分かれた下で舌なめずりをする。

 

 那月はさらに不機嫌そうな表情になった。露骨に気色悪がっている。

 

「まあいい。漆原、後のことは私に任せて、お前はさっさと――」

「おおーい、漆原―! 兄様に言われてきたんだけど、まだ生きてるー?」

「…………何故こうも私の生徒はアホばかりなんだ」

 

 帰れ、と言いたかったようだが、それを遮るように聞こえてきた能天気な声に、頭痛を堪えるようにかぶりを振る那月。

 両手両足と眉間、五つの門から引き出した、暗がりを照らすような金色の通力(プラーナ)を全身に纏い、サイドテールをブンブン揺らしながら駆け寄った少女――嵐城サツキは、行く手に那月の姿を捉えて、慌てて立ち止まった。

 

「な、なななな那月ちゃん!? 何でこんなとこ居るワケ!?」

「それは私の台詞だ、嵐城。それと、教師をちゃん付けするな! 暁と言い、お前と言い、矢瀬と言い……」

 

 言葉の途中で、ついに痺れを切らしたのか、九頭大蛇が再びタックルを仕掛けてきた。その超大質量でのタックルをまともに喰らえば、全身骨折では済まないだろう。

 サツキが慌て、静乃が身構える中、またしても那月が二人を救った。

 那月が二人に触れて魔力を動かしたかと思うと、再び視界が切り替わり、全く別の場所へと一瞬で移動していた。

 

「ひっ、ひぇぇ~。な、那月ちゃん、ありがといだいっ!?」

「教師をちゃん付けするなと、何度言えば分かる」

 

 能天気なサツキの頭に扇子を振り下ろす那月に、静乃は感嘆の視線を送っていた。

 

 南宮那月。彼女が得意とする魔術は空間制御。

 超上級者でさえ個人レベルでは容易には使用できない、その高難易度魔術を、まるで隣のドアを開くかのように行使してみせた。

 今の一度だけで、彼女の実力の一端が窺い知れるというもの。

 

「おい、嵐城。今、貴様は暁に言われてここに来たと言ったな? なら、その暁はどこに居る?」

「ふぇ!? え、えーっと、に、兄様はその、えーとえとえとえとえと…………」

「古城は少し用があって、遅れて来るそうです」

 

 焦ってまともに返事が出来ていないサツキに溜め息を吐いて、静乃が助け船を出した。

 那月であればそこまで神経質になる必要はないとも思ったが、それでも用心するに越したことはない。

 加えて、サツキだとプレッシャーに負けて不用意なことをポロッとこぼしかねない。

 

『ちょっと嵐城さん。しっかりしなさい、古城のためでしょう?』

『う、うぅ。わ、分かってるわよぉ!』

 

 囁き合うも、サツキはもはや涙目で溜め息が尽きない。

 

「ふん。あのバカが。こんな時に何をしているのか……」

 

 幸いにも那月はそれ以上突っ込んでくることはせずに、九頭大蛇に視線を戻した。

 つられてサツキと静乃もそちらを向く。

 

「不愉快極まりないが、恐らく私ではあれに勝てん」

「え!? 那月ちゃ……那月先生でも!?」

 

 性懲りもなく「那月ちゃん」と呼びそうになったサツキだったが、那月の一睨みで沈黙させられた。

 

「仕方があるまい。あれの対処は管理公社に任せて、お前たちは私が逃がす。いいな?」

「待ってください。私は古城にあの《異端者(メタフィジカル)》の足止めを任されました。それを放り出すわけにはいきません」

「チッ、また暁か。お前はそればかりだな」

「ええ、もちろん。愛していますから、彼を」

 

 恥ずかしげもなく言い放つ静乃。

 その揺るがぬ表情と雰囲気から、否応なく言葉の真偽を思い知らされて、更に渋面になる那月。

 だが今度は、不愉快というよりも、不満そうな表情になった。

 

「……不純異性交遊を教師の前でバラすとはな」

 

 心の底から忌々しげに吐き捨てる那月。

 それを見て、静乃はもう一言付け加える。

 

「それに、古城はあの蛇に一度殺されましたから。私たちもただでは――」

「……何だと?」

 

 静乃が古城のことを口にした瞬間、那月の背中から、凶暴極まる怒気と殺気が撒き散らされた。

 那月の視線は九頭大蛇に向かっているため、彼女が今どんな表情をしているのかは分からないが、きっと怒り狂っているのであろうことは分かる。

 普段の怒りとはわけが違う。

 全身が総毛立ち、サツキは肩を抱いて怯えて、静乃ですら頬を引き攣らせた。

 

「……いいだろう。私の生徒に手を出したこと、たっぷり後悔させてやろうじゃないか……!」

 

 那月は静かに呟き――裏腹に、凄絶な笑みを浮かべて、扇子を一振りする。

 

 九頭大蛇の周囲の空間に、大きな波紋――高密度の魔方陣が広がった。

 異変に気付いた九頭大蛇が、九本の首をそれぞれ違う方向に向けて警戒を強めた時には、もう手遅れ。

 虚空から出現した無限の銀鎖が、まるで蛇のように迫り、九頭大蛇の首を絡め捕る。

 

 さらに扇子が振られ、巻きついた銀鎖がピンと張られて九頭大蛇を締め上げる。

 ギリギリ、という異音とともに、九頭大蛇が九の顎から絶叫した。

 往生際悪く抵抗しようとした首は鎖に引っ張られて、他の首に衝突して沈黙する。

 

「氷の闇よ 雪霊(ゆきみたま)よ そなたの息吹を貸しておくれ 死よりも静けく凍えさせておくれ――」

 

 不意に、静乃の朗々たる詠唱が響き渡った。

 第三階梯闇術《凍てつく影(フロ-ズンシェイド)》。

 放たれた不可視の冷気は動きを止めていた九頭大蛇に満遍なく直撃し、数匹が苦痛にのた打ち回る。

 

「嵐城さん! 鱗ではなく、眼を狙って!」

「兄様がやってたやつね、りょーかい! おいで、アーキュール!」

 

 続けて、両足に通力(プラーナ)を漲らせたサツキが《神速通》を発動し、果敢に挑みかかる。

 静乃のアドバイスの通り、あるいは、古城がやっていた通りに、体ではなく、その蛇眼を狙う。

 だが、やはり高さの違いは大きい。地面からでは、例え跳び上がっても十メートルある巨体では――

 

「全く世話の焼ける生徒たちだな!」

 

 ここでもまた、担任教師の絶妙なフォローが入った。

 絡み付いた鎖が蠢き、一本の首を振り回して、地面に叩きつけた。

 

「たぁー!」

 

 顎から叩きつけられて朦朧とする蛇の二ツ眼に、両手に《剛力通》を漲らせ、顕現させた小剣を突き立てるサツキ。

 響く絶叫。舞う血飛沫をステップでかわして、サツキはもう片方の眼球に小剣を叩きつけた。

 

 サツキの後方からは、静乃が《凍てつく影(フローズンシェイド)》を連発して、さらに九頭大蛇を苦しめる。九頭大蛇は止めたくても那月の鎖に囚われているため、身動きすらままならない。

 

(これ、もしかして行けるっ!?)

 

 心の奥底に確かにあった怯えが、徐々に取り払われていくのを感じて、ようやくサツキは笑顔を浮かべた。

 まだ勝利したわけではないが、戦況はこれ以上なく最高だ。この絶望を、どうにかできるかもしれない――

 

 だが、得てして何事もそう上手くはいかないのがこの世の摂理。

 そして、その表情を待っていた、と言わんばかりのタイミングで、

 

「……え?」

 

 全ての首が、ニヤリと嗤った……気がした。

 静乃と那月も気付き、警戒を強めた――瞬間、九頭大蛇が一斉に、先程までとは比にならない力で暴れ始めた。

 

「ちっ……!? こいつら……!」

 

 那月が表情を歪める。

 九頭大蛇を拘束している鎖がガチャガチャと歪んだ、耳障りな音を立てる。九頭大蛇は鎖に擦れて自らの全身が傷つくのも構わず、渾身の力で暴れ続け、ついに――

 

 ――バキイィンッ、と。

 鎖の一本が、砕けた。

 それを皮切りに、残りの鎖も次々と砕けていく。

 三人が呆然と見上げる中で、ついに最後の一本が、澄んだ音を立てて砕け散った――

 

 

 ……グルゥゥアァァァ――――――――――ッッッ‼‼

 

 

 完全に拘束から解き放たれた九頭大蛇が、勝ち誇った雄叫びを上げる。

 手始めにすぐ近くに居たサツキを、首をしならせて吹き飛ばす。

 

「ッあ――!」

 

 咄嗟に両腕をクロスして、《金剛通》を振り絞って防御に徹したために重傷にはならなかったが、背中から瓦礫に衝突した衝撃で息を詰まらせ、動かなくなった。

 

「嵐城!」

 

 思わず、といった風に那月がサツキの方に意識を傾け、その隙を縫って九ツ眼が走った。

 狙いは那月――ではなく、静乃。

 魔力(マーナ)を使えても、身体能力は常人と変わらない。故に、静乃に九ツ眼の攻撃を避ける術はない。

 

「ちぃ――っ!?」

 

 気付いた那月が、神業的な速度で銀鎖を撃ち出し、紙一重のところで九ツ眼を拘束する。

 だが――それだけ。

 まだ、九ツ眼には、攻撃手段が残されている。

 九ツ眼は醜悪な嗤いを浮かべて、大口を開いた。その奥に見える、石灰色の輝き。

 もはや防御も回避も意味を成さない。

 

 最後の足掻きで静乃が地面に身を投げ出したところで、石化のブレスが放たれた。

 どうにか直撃は避けたものの、足と背中一杯に浴びてしまった。

石化が、始まる。

 静乃は石化の呪力(サターナ)に抗うため、意識朦朧とするほどの魔力(マーナ)を振り絞るが、動くことなどできない。

 無防備な静乃を狙って他の蛇が迫るが、直前で那月が駆け寄り、空間転移で離脱した。

 サツキも回収し、九頭大蛇の攻撃が届かないところまで離れたところで、那月は焦燥に塗れた顔でサツキの胸に手を当てる。

 

「おい、おい嵐城! しっかりしろ、頑丈なだけがお前の取り柄だろうが!」

「ぁ……ぅ……ひどい、なあ……那月、ちゃん」

「お前は大丈夫か。……漆原、お前はどうだ?」

 

 問うも、静乃から答えは返ってこない。答えるだけの余裕がないのだ。

 静乃の必死の抵抗も虚しく、石化の状態異常はゆっくりと進行している。

 ギリッと那月は奥歯を噛み締めた。

 このままでは、まずい。那月本人はともかく、生徒たちはもう絶体絶命のピンチだ。

 どうする? どうやって切り抜ける――?

 

 必死で頭を巡らせる那月を嘲笑うかのように、九頭大蛇が二股の舌をちろちろと動かしながら、ゆっくりと迫る。

 恐怖を煽るためだろう、一気に襲ってはこない。

 だが、最初に自分で言った通り、那月一人ではこの化け物には勝てない。

 一か八か、全力で仕掛けようと那月が身構えた――その時。

 

 咆哮が、轟いた。

 

「おおおおおおおおおおおおおっ」

 

 竜の如き咆哮が、戦場に轟いた。

 那月の下腹部にもズンとくる。那月は()を見上げ、そして息を吐いた。

 

「遅いぞ……古城(・・)

 

 咆哮を発しているのは、煌々と輝く月を背にした一人の少年。

 世界最強の吸血鬼にして、二つの前世を持つ《最も古き英霊(エンシェントドラゴン)》、暁古城だ。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

《神速通》と《羽毫の体現(デグリーズウエイト)》の太極(インヤン)でもって、北地区の研究所から手荷物を持って駆け付けた古城は、第三階梯闇術《火葬(インシネレート)》を宿したサラティガを振り被り、重力に任せて降下し――

 ニタニタと余裕風を吹かしていた九頭大蛇が、形相を変えて一斉に振り返った――瞬間、それを叩きつけた。

 

 その一撃は、堅牢な九頭大蛇の鱗を引き裂き、傍目にも分かるほどの深手を負わせた。

 

「くそっ、流石に斬れないか!」

 

 悔しげにしながら、古城は音もなく着地する。

 それから視線を那月たちの方へ移し、

 

「あれ、那月ちゃん!? 何でここに……サツキ! 静乃!」

「落ち着け、古城。二人とも命に別状はない。嵐城の方は衝撃で麻痺しているだけだが、漆原は――」

「分かってる。姫柊、頼む」

「はい!」

 

 古城の呼び掛けに応じて、アスタルテを抱えて古城と一緒に降り立った雪菜が、静乃の元に駆け寄った。

 雪霞狼に呪力を流し込み、ありとあらゆる魔力を無効化する神格震動波を宿した刃を、そっと静乃の肌に触れる。

 すると見る見るうちに静乃の石化は解除されていき、元の綺麗なしみ一つない肌が露わになっていった。

 それを見た古城は安堵の息を吐き、那月は雪霞狼の光を見て眼を眇めて、

 

「……〝七式攻魔突撃機槍(シュネーヴァルツァー)〟。なるほど、転校生、お前が監視役か」

「……っ」

「那月ちゃん。その話は後でいいか? 今は――」

「分かっている。そもそも詮索する気もない」

 

 肩を竦めて見せる那月に苦笑しつつ、古城はサツキと静乃に向き直った。

 

「待たせた」

 

 安堵と、懺悔と、苦渋の思いをこめて、古城は言った。

 

「えへへぇ……兄様? あたし、頑張ったよ……?」

「ああ……ああ、ああ! 頑張ったよ、お前は」

 

 体が動かないくせに笑みを浮かべてみせるサツキが無性に愛おしくなって、古城は乱暴にその髪を撫でてやる。

 

「静乃も。すまん、遅くなった」

「別に構わないわ? ……こうして貴方が来てくれた。それだけで、私には喜びしかないわ?」

「……ありがとう」

 

 そうやって信じてくれていることが、古城にとって何よりの喜びだ。

 

「後は任せとけ。二人とも、那月ちゃん」

 

 二人は頷き、那月も、ちゃん付けされたことに関しては何も言わなかった。

 だが、一つだけ付け加えて、

 

「古城。今日学校サボったこと、忘れるなよ。明日はその分、追加の補習を受けさせてやるからな。嵐城も、漆原もだ」

「「ええぇぇ~~……」」

 

 言われて、情けない悲鳴を上げる古城とサツキだったが、彼女の言葉の真意を誤解することはなかった。

 全員生きて、明日もちゃんと学校に来い――

 

「分かった。……行くぞ、姫柊」

「はい、先輩」

 

 再び古城は九頭大蛇に向き直り、隣に銀色の槍を構えた雪菜が並ぶ。

 彼女の身体から立ち昇る白銀の通力(プラーナ)を見て、古城とアスタルテを除いた全員が驚いた表情を浮かべた。

 

「姫柊さん……それ、通力(プラーナ)……? どうしてあなたが……」

「えっと……正直、わたしにもよく分からなくて」

 

 困ったように呟く雪菜の、古城を挟んで逆側に立ち上がった那月も並んだ。

 

「……那月ちゃん?」

「何だ?」

「……いや、何でもない。頼む」

「ふん」

 

 古城をジロリと睨んで鼻を鳴らす那月だが、その口元は確かに笑っていた。

 

 そして――もう一人(・・・・)

 トスッ、と軽い足音がして振り向くと、いつの間にか目を覚ましたらしいアスタルテが並んでいた。

 ダメージが抜け切っていないらしく、足はふらついている。だがそれでも、戦う意思を示すかのように前を剥いていた。

 

「おい、あんまり無理するな。お前が戦う必要は――」

「……否定、第四真祖。これは、私の(・・)意志です」

「え?」

 

 驚いて見返した彼女の、薄い水色の虹彩には、確かな覚悟と決意の色が滲んでいた。

 無感情で、人形のようだった彼女の瞳には、確かな生気が宿っていた。

 

「……先輩。お願いします、行かせてあげてください」

 

 同じような境遇だった者として、何か通じ合うものでもあったのだろうか。

 真剣に頼みこんでくる雪菜。古城は息を吐いて、

 

「……分かった。一緒に行こう、アスタルテ」

命令受諾(アクセプト)

 

 古城はもう、何も言わなかった。何を言っても彼女は止まらないと分かっていた。

 

 右手一本で剣を構え、右足を半歩前に出す。

 昂然と胸を張る、堂々たる構え。

 共に戦う仲間たちの士気も十分。後ろで見守ってくれる、守るべき少女たちが居る。

なら、

 

「負けられるはずがないだろ……!」

 

 

 

「那月ちゃん!」

 

 通力(プラーナ)に開眼したばかりの雪菜とともに、《神速通》で残像すら見えるような速度で九頭大蛇に接近しつつ、短く要請する。

 那月は応えて、再度虚空から鎖を撃ち出して、九体の内の二体を拘束する。今はそれでいい。

 

「姫柊! 二人で攻める!」

「はい!」

 

 十分に接近したところで、古城は長剣を、雪菜は槍を振るい、二人同時に三ツ眼を斬り付けた。怒り狂ったその首が動き出す前に走り、近くの七ツ眼に攻撃を加える。

 雪霞狼の神格震動波が九頭大蛇の鱗を真一文字に切り裂き、古城の《太白》が厚い肉をバターのように両断し、雪菜が付けた傷をさらに抉る。

《太白》による内部破壊。思ったよりもハマってくれた。

 

「……っ、ぐ!」

 

 戦果の余韻に浸る間もなく、雪菜に向けて続けて迫る六ツ眼。雪菜の細い肢体を噛み砕かんとする牙をかいくぐり、雪菜が後退する。

 反撃は、古城の役目だ。

 

「踊れ 踊れ 雷霆の精

 世に永遠に生くる者なし 刹那、閃き、快楽貪れ

 瞬きの内に全てを擲て 今宵、殺戮の宴なり」

 

 第三階梯闇術《狂乱する球雷(ボールライトニング)》。

 古城の綴った光の文字が無数の雷球と化し、絨毯爆撃するかのように六ツ眼の巨体のあちこちで炸裂した。

 六ツ眼は全身を電撃で焼かれてのた打ち回るが――致命傷には程遠い。

 

「ちっ、威力が足りないか!」

「先輩、右です!」

「――っ、くそっ!」

 

 雪菜の警告に従い、慌てて地面を転がるようにして避ける古城のすぐ横を、一ツ眼が這いずるようにして抜けて行った。

 すぐさま一ツ眼に攻撃を加えようとするが――今度は、九ツ眼が大口を開けて、古城たちに向かってブレスを吐きつけた。

 危険を察知するのが遅れて、すぐには動けない古城と雪菜。雪霞狼を持つ雪菜はまだしも、古城では危うい。

《耐魔通》と《青の護法印(ブルーウォード)》を重ね掛けして、何とか耐え忍ぼうと身構える古城だったが、結果としてそれを無意味に終わった。

 

 吐き出された石灰色のブレスを虹色の左手が薙ぎ払い、驚愕する九ツ首を虹色の右手が殴りつけた。

 その攻撃の正体は、人工生命体(ホムンクルス)の少女に埋め込まれた人造眷獣、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟によるものだった。

 

 

 

 間一髪のところで古城たちの危機を救ったアスタルテは、決然と己の敵の姿を見つめていた。

 使ったのは、とある殲教師が己の目的のためにその身に植え付けた、忌まわしき力。

 だが今のアスタルテは、それを感謝すらしていた。

 

「……感謝します、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟……創造主(マスター)

 

 この力があるからこそ、自分は戦える。

 この力があるからこそ、守りたいと思ったもののために戦える。

 この力があるからこそ、初めて、自分の意志で戦うことができる。

 

 感じる、一人の吸血鬼との間に出来た繋がり。今の〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟は、彼女の命を喰らうことはない。それは、彼のおかげだ。彼が、彼女を救ったのだ。

 ただの道具に過ぎない自分を救ってくれた彼を。

 自分たちの住む島を壊そうとすらした自分を救ってくれた彼を、彼らを。

 そして、彼らが守りたいと願うものを、守ることができる。

 

 正直に言って、まだ古城たちとの戦いのダメージは残っている。立っているのも辛いほどだ。

 しかし――アスタルテは倒れない。

 震える膝を叱咤して、自分の力で、意志で、戦場に立つ。

 

 かつては、誰かに造られて、その誰かの目的のためだけに暴虐を成す、人工の道具でしかなかった彼女は、

 

命令受諾(アクセプト)……いえ、違います」

 

 今この時、道具であることを拒み、自分で考え、決断し、行動する、一つの生命に、一人の人間になったのだ。

 

私の意志で(マイ・ハート)執行せよ(エクスキュート)、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟――!」

 

 己の眷獣に命令を下す彼女の声は、これまでになく大きく、これまでになく晴れ晴れとしていた。

 

 

 

「ぐっ……このままじゃ!」

 

 だが、アスタルテの眷獣の勢いが追加されても尚、戦いは有利とは言えなかった。

 単純に、九頭大蛇が強過ぎた。どれだけのダメージを与えても、倒れない、死なない。

 

 これは、使うしかないのか――?

 古城はこの戦いが始まってからずっと考えていた攻撃手段を、それでありながら躊躇していた力を解き放つことを決意した。

 

「姫柊! すまん、少し頼む!

「え……? っ、分かりました! 存分にやってください、先輩!」

 

 雪菜の声に頷き、古城は、先程からうるさいほどに自分の中で叫び続けている獣の声に意識を集中させた。

 つい先程目覚めたばかりの、世界最強の吸血鬼、第四真祖としての新たな権能。

 掲げた、サラティガを握っていない左手から、鮮血が噴き出す。

 

「〝焰光の夜伯(カレイド・ブラッド)〟の血脈を継ぎし者、暁古城が、汝の枷を解き放つ――」

 

 噴き出した赤が、一瞬で目も眩むような閃光へと変わった。

 

疾く在れ(来いよ)、五番目の眷獣〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟――!」

 

 宿主の呼びかけに呼応して、眩い雷光を纏った獅子が顕現した。

 夜の帳すら焼き尽くすような雷光は、猛り狂い、九頭大蛇へと突貫する。

 直後、閃光と轟音が迸った。

 

 獅子が三ツ眼の胴体に喰らいつき、三ツ眼が身の毛もよだつような絶叫を上げる。

 苦しむ三ツ眼を救おうとするかのように他の首が黄金の獅子を締め上げようと巻きつくが、逆に全身から撒き散らされる雷光に焼かれて悶絶する。

 

 その光景を、雪菜、那月、アスタルテ、サツキ、静乃は、手を止めて呆然と見つめていた。

 彼女たちを散々に苦しめた化け物を、たった一匹の獣が蹂躙する様を。

 

「これが……第四真祖の眷獣……」

 

 やがて、静乃がポツリと呟く。

 第四真祖の従える、天災にも匹敵すると言われる十二体の眷獣。

 その噂が誇張でも何でもないことを、彼女たちは思い知った。

 

 巨大な九本の首を持つ化け物と、鮮烈な輝きを放つ獅子とが対峙する様は、まるで神話の一節のように禍々しく、また美しかった。

 

 だが――

 

「くそっ、これでもダメなのか……!」

 

 雷光の獅子を呼んだ古城は、焦燥に表情を歪めていた。

 第四真祖の眷獣の圧倒的な攻撃力でさえ、決定打にはなりえない。

 何故か。ひとえに、古城が手加減をしているからだ。

 

 第四真祖の眷獣の力は大き過ぎる。もし何も考えずに全てを解き放ってしまえば、あの倉庫街のように増設人工島(サブフロート)どころか、絃神島本島にまで被害が及んでしまう可能性がある。

 だから古城は、眷獣に全力で薙ぎ払う命令を下せずにいた。

 

 さらに言えばもう一つ。九頭大蛇の常軌を逸した生命力だ。

 これまでに何度となく致命傷を負わせてきたはずなのに、ただの一匹たりとも削れていない。

 例え古城が〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟の全てを解き放ったとして、それでも倒せるか確証がないのだ。

 

 ギリッ、と歯を食いしばっていた古城の耳に、不意に、

 

 ドッゴオオォォォン、という建物が崩れ落ちたような轟音が届いた。しかもすぐ近くで。

 それは、那月が数十の銀鎖を束ねて、増設人工島(サブフロート)超大型浮体式構造物(ギガフロート)を繋ぐ連結橋とアンカーを、力任せに破壊した音だった。

 衝撃によって増設人工島(サブフロート)がゆっくりと本島から離れて海へと流れ始める

 

 彼女の全く予想外で破天荒な行いに、古城だけでなくその場の全員の開いた口が塞がらなかった。

 

「な、那月ちゃん……なに、やってんだ……?」

「お前がうじうじと悩んでいて鬱陶しかったのでな。手っ取り早く悩みの種を切り離してやった」

 

 微塵も後悔などは浮かばせず、さらりと言い放つ担任教師に、古城は頬を引き攣らせた。

 古城の躊躇のことを言っているというのは分かるが、やり方がいくらなんでも乱暴に過ぎる。もしかして、ただの八つ当たりなのではないか。

 そんな疑いを覚えた古城だったが、那月の次の一言で、口元に獰猛な微笑を浮かべた。

 

「この増設人工島(サブフロート)一つ程度なら好きにして構わん。……だから古城、全力でやれ」

「……了解だ、那月ちゃん!」

 

 那月の乱暴極まる気遣いのおかげで、もはや気にするものはなくなった。

 古城は遠慮なく、力を振るえる。

 

「すぅぅぅぅ……はぁぁぁぁ……」

 

 大きく息を吸って、吐く。

 自分の中の全てを一新して、書き換える。

 

 舞い散る粉塵も、飛び散る火の粉も、そこら中に転がる石像も、びゅうびゅう吹き付ける夜風も、全てを意識から排除し、ただ自分の内面に意識を傾ける。

 右手左手右足左足丹田心臓眉間。七つの門から滾々と湧き出る通力(プラーナ)を、さらに汲み上げる。

 堰を切ったように溢れ出す白の輝きが古城の全身から噴き出し、「焼き焦がすもの(シリウス)」もかくやと燦然と煌く。

 これが剣聖、フラガの力だ。

 

「お、お、お、お、お、お、お……」

 

 それだけには止まらず、同時に魔力(マーナ)を練り上げる。

 文字通り、魔、の力。周囲の光を、風を、地球を満たす大気のエネルギーを、吸い取り、奪い取り、肥え太る。

 古城の周囲だけでなく、戦場全体を暗く翳しながら、より強くなる。

 全ての光は古城の魔力(マーナ)に喰われて、奪われる。無論、通力(プラーナ)まで。

 これが冥王、シュウ・サウラの力だ。

 

「俺は……俺は――」

 

 無尽蔵の通力(プラーナ)が、底なしの魔力(マーナ)が鬩ぎ合い、切磋琢磨し合う。

 こんな力の使い方をすれば、すぐに底が尽きてしまうだろう。だが尽きない、なくならない、終わらない。

 まるで永遠に燃え続ける業火のように、燃え盛る。

 

 薪としてくべるのは、想いだ。

 サツキへの、静乃への、雪菜への、浅葱への、凪沙への、春鹿への、矢瀬への、石動への、斎子への、那月への、アスタルテへの、母親への――想い。

 全部、全部、大切で、失いたくないという、想いを糧にして、己を包む皮を焼き尽くさんとばかりに燃え上がらせる――!

 

「綴る――っ!」

 

 右手に剣を構え、左手で太古の魔法文字を描き、詠唱する。

 

 

 

 冥界に煉獄あり 地上に燎原あり

 炎は平等なりて善悪混沌一切合財を焼尽し 浄化しむる激しき慈悲なり

 全ての者よ 死して髑髏と還るべし

 神は人を見捨て給うたのだ

 退廃の世は終わりぬ 喇叭は吹き鳴らされよ 審判の時来たれ

 

 

 

 第五階梯闇術《黒縄地獄(ブラックゲヘナ)》。

 虚空に描いた魔法文字を左拳ではなく、右手のサラティガで斬り払う。

 直後に顕現する、この世ならざる黒炎を纏いし白き剣――

 源素の業(アンセスタル・アーツ)太極(インヤン)、《天をも焦がす降魔の黒剣(クリカラ)》。

 

 

 

 それだけではない(・・・・・・・・)

 

 

 

 古城はさらに、新しく手に入れたばかりの第四真祖の権能を行使した。

 全身を駆け巡る血液に宿る魔力を綴り終えたばかりの左手に集中させ、荒ぶる獣を呼び招く。

天をも焦がす降魔の黒剣(クリカラ)》を維持しながら別の力を行使しようとしたために、脳髄に激痛が走る。

 その痛みを気力で捩じ伏せ、古城は叫んだ。

 

疾く在れ(来いよ)、〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟――!」

 

 咆哮が雷鳴のように大気を震わせて、戦車ほどもある巨体を持つ、雷光を纏う獅子が顕現する。

 黄金の獅子は、今度は九頭大蛇に向けてではなく、黒炎を纏った(・・・・・・)サラティガへと(・・・・・・・)突進した(・・・・)

 

 二つの大いなる力と力は相克することはなく、むしろ融け合い(・・・・)混ざり合った(・・・・・・)

 黒白の利剣に青白い雷光が掛け合わされ、勢いを増す。

 黒と、白と、青と。炎と、光と、雷と。

 

 だが、太極(インヤン)は、全く同等の複数の力を掛け合わせて乗算させる術理だ。

 掛け合わせる力の内のどれか一つでも弱過ぎる、または強過ぎても、それは発動しない。

 

 剣聖の誇りに、冥王の矜持に対抗するのは、第四真祖の魔力――ではない。

 三種の力の入り混じった剣から、雷鳴のような咆哮が轟いた。

 我を嘗めるな――とでもいうような。誇り高き雄叫びが。

 

 そう、眷獣の力を高めるのは宿主の魔力などではなく、眷獣自身だ。

 吸血鬼の眷獣とは、膨大な魔力の塊が意志を持ったもの。つまり眷獣には強い自我が、意志がある。

 

 雄叫びの次の瞬間、古城の掲げる利剣が放つ力が――爆発的に膨れ上がった。

 眷獣の意志――〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟の意地によって、それは成された。

 

 古城の、何も失いたくない、奪う者は、神だろうが魔王だろうが斬り殺すという思いをもって、それは成された。

 

「俺は、俺から奪っていく奴を、絶対に許さねええええええええええええええええええええええ」

 

 源素の業(アンセスタル・アーツ)の、新たな太極(インヤン)――

 

 

 

「《雷霆招き煉獄齎す神魔討滅の嵐魔剣(カラドボルグ)》――!」

 

 

 

 黒き炎と、白き光と、青き雷霆。それは正に、三色の暴風。

 古城は嵐を纏う魔剣を、一気に九頭大蛇へと叩きつけた。

 弾ける、目を焼くような閃光と、体を芯から揺さぶる衝撃。

 

 ――――――――――――ッッッッッッ‼‼‼

 生み出された轟音は、もはや人間の可聴域を超えていた。

 

 何人たりとも自然の猛威には抗えぬように、本物の化け物であった九頭大蛇もまた、一切の抵抗を許されず、次々と消し飛んで行く。

 絶叫や断末魔すら聞こえない。

 全てが、嵐へと呑み込まれて行く。

 

「俺は聖剣の守護者(フラガ)禁呪保持者(シュウ・サウラ)四人目の真祖(暁古城)だ!

 この俺を怒らせたことを未来永劫、煉獄の最奥で悔いろおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 

 咆哮を上げて、古城は嵐の魔剣を振り切った。

 最後に残った九ツ眼もまた、青と黒と白の嵐に巻き込まれて、微塵となって消え失せる。

 

 それで、終。

 

「かああああああああああああああああああああああっ!」

 

 とどめとばかりに、大地へ剣を突き立てる。

 今の古城に持てる全てを込めた渾身の一撃が、増設人工島(サブフロート)全体を倒壊させる。

 廃棄施設も、中にあった燃やせないゴミも。全てが一切合財等しく消え去る。

 そして――奥深くに隠れていた、九頭大蛇の本体へと、届いた。

 刃が、九本の首よりも尚巨大な胴体を貫き、嵐が消し飛ばす。

 

 火山の噴火が如く、爆炎と雷霆が巻き起こった。

 地面から莫大なそれらが一直線に噴き上がり、天を貫く槍の如く屹立する。

 

「ちょっ……先輩! やりすぎです!」

「兄様―! あっぶなーい!」

「あらあら、どうするのかしらね、これ?」

 

 アスタルテの眷獣に抱えられて、那月の空間転移で間一髪増設人工島(サブフロート)から逃げ出していた少女たちの非難も、未だ鳴り響く轟音に掻き消されて古城に届くことはなかった。

 

 彼女たちの言葉通り、第四号増設人工島(サブフロート)は、もはや完全にただの浮き島である。

 九頭大蛇を無事に殲滅したのはいいものの、その代償は大きかった。

 事前の那月のファインプレーによって特区警備隊(アイランド・ガード)は逃がされていたため、奇跡的に死者は少なかったが、だからいいという訳でもない。

 

 ともかく、絃神島に未然の災厄をもたらした《異端者(メタフィジカル)》は、二つの前世を持つ転生者にして世界最強の吸血鬼、暁古城の手によって、無事討伐されたのであった。

 地面に剣を突き立てたまま肩で息をする古城の姿を、昇り始めた朝日が、まるで祝福するかのように照らし出していた――――




 いかがだったでしょうか。
 作者の厨二センス……でなくて、九話目は。
 原作であまり注目されなかったキャラにも頑張ってもらいました。那月ちゃんとか。

 一応、次の十話で一生は終了となります。文字数を調べてみたら、書籍一冊分あってビビりました。


 8月12日 読者様の感想を受けて誤字修正。ルビなども。
 混乱させてしまい、すいませんでした。
 これからもよろしくお願いします。


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10 終章 ―Outro―

 どうも、侍従長です。
 今回で第一章は完結となります。ありがとうございました(まだ続きます)。

 まだ顔出しどころか異名しか出てきてないようなキャラが勝手にクロスされてます。
 徹夜明けで仕上げたものなので、文がおかしかったり雑だったりするかもしれませんが、よろしくお願いします。


「ったく、あの娘も不憫なもんだな」

 

 夜の彩海学園高等部。誰もいないはずの教室で、短い髪を逆立ててヘッドフォンを首から下げた少年――矢瀬基樹は、非難するように呟いた。

 壁に寄り掛かる彼の隣に居る紙細工のような一羽の烏だけが、その聞き手だ。

 

「確かに古城の性格からして、あの娘――姫柊雪菜を邪険には出来ないだろうが……まさか彼女も、獅子王機関に第四真祖の愛人として送り込まれた、なんて思っちゃいないだろうな」

『だが、結果的に第四真祖の覚醒は早まり、姫柊雪菜は第四真祖――暁古城を制御するための手札として動き出している』

 

 老人のようにしゃがれた声で放たれた烏の反駁に、矢瀬は顔を顰めた。

 

「だからそれもあんたらの差し金なんだろうに。ロタリンギアの殲教師の一件、知ってたんだろ? そのうえで正義感の強い見習い剣巫を送り込むとか見え見えすぎる。古城にあの娘の血を吸わせ、眷獣の覚醒を導く。そこまでがあんたらのシナリオだった」

『我らが手を出そうと出すまいと、ヤツは既にそこに存在する。……この国に、夜の帝国(ドミニオン)の領主たる真祖が生まれることなど、有史以来かつてないことだ。せいぜいこの国ためにも、上手く立ち回らなければな』

 

 くくく、とカラスが嗤うように喉を鳴らすが、冗談めかしたその口調には、拭い切れない重苦しさが含まれている。

 彼らにとっても、この計画は危険なものなのだ。下手を打てば、手痛いしっぺ返しが来る。しかし何もせずにいればどうなるか分からない。

 どうやら今のところは彼らの思惑通り計画は進み、姫柊雪菜は、確実に暁古城との距離を縮めている。

 

『まあ、あのボウヤの傍に漆原の娘が居たのは誤算だったがねえ』

「管理公社の幹部か……この国の財界どころか、政治にまで口出しできる重鎮だからな。下手したら、まとめて潰されかねないってわけか」

『幹部って意味では、お前のところもそうだがな。だろう? 矢瀬の坊ちゃん?』

「やめてくれよ。……それより、あの化け物のことはどうなってんだよ?」

 

 からかうような烏の言葉に露骨に顔を顰める矢瀬だったが、その表情はすぐに引き締まった。

 矢瀬の口にした化物とは、言わずもがなつい先程退治された、九頭大蛇のことだ。

 異常な強さと巨体、生命力を誇る、まったく未知の生物。

 静乃が呼んだ特区警備隊(アイランド・ガード)の一個大隊が手も足も出なかったという情報は、むろん矢瀬にも届いている。

 今の質問は、あれの正体は分かったのか、という意味の問いだったが、答えは芳しくなかった。

 

『……残念ながらお手上げだね。これまでにも目撃証言はあったらしいが、正直に言って何も分かっていない。あの生物に関しては、大史局の管轄になったよ』

「大史局ねぇ……。獅子王機関としては複雑なんじゃねえの?」

『そりゃ、閑あたりは憤懣やるかたなし、といった感じだがね。あたしには関係ないさ。その島のことは、その島に住む吸血鬼と監視役に任せるしかなかろうよ』

 

 無責任な、と矢瀬は皮肉げに唇を歪めた。

 だがそれがいいと思っているのは、矢瀬も同じだ。

 

 もし獅子王機関が古城に不用意に手を出して、彼の逆鱗に触れれば、それこそ世界が危うい。

 

『第四真祖としての権能に加えて、二つの前世を持った《最も古き英霊(エンシェントドラゴン)》。わざわざ龍の尾を踏みに行くこともなかろう』

 

 その台詞を式神を通して口にする彼女の脳裏には、九頭大蛇を屠ってみせた嵐の剣のことが鮮明に蘇っていることだろう。

 今回は運良く増設人工島(サブフロート)一つ分の損害で済んだが、あれが絃神島本島、もしくは本土の都市部で放たれたらと思うと、ゾッとしない。

 

 暁古城の親友である矢瀬は、普段の気だるげな雰囲気に反して、その実強固な意志と燃え滾る激情、そして、誰であれ己の敵に対して容赦しないことを知っている。

 まさに竜の如く。触らぬ神に祟りなし、あるいは神よりも恐ろしき者でも、手出しさえしなければ心強いものだ。

 

 矢瀬がそんな思索に耽っていると、どうやらの烏の話は元の姫柊雪菜についてのそれに戻ってきたようだった。

 

『それにあの娘が哀れなだけとは限らんさ。帝王の伴侶とは、すなわち王妃ということだ』

「まあ、そうかもしれんが……やれやれ、相変わらず修羅場なこったな」

 

 そう言って矢瀬は、教室の中央の机を見やった。そこは彼の幼馴染が座る席だった。

 暁古城の真の監視者(・・・・・・・・・)たる彼が、こんな報告をしていると知ったら、恐らく彼女は怒り狂うだろう。

 しかも今や古城の周囲に居る女子は、彼女だけではない。

 それこそ、あの能面のような無表情の美しい少女に潰されかねない。

 あまりゾッとしない未来だ。

 

『さて、歴史の転換点に現れるという第四真祖。その出現が吉と出るか凶と出るか――暁古城。ときに暁の子といえば、堕天使ルシファーの異名だそうだが……ふ、面白い……』

 

 神の遣いか、地上を滅ぼす悪魔か。

 そう言い残して、カラスの姿はただの紙へと解けた。

 風に乗って暗い夜空へと吸い込まれていくそれを見送り、矢瀬はうんざりしたような溜息を吐き、

 

「やれやれ……前途は多難だぜ、親友(ブラザー)

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「くくっ、くくくくっ、くくくくくくくくくっ」

 

 どこかにある、この世のどこにもない空間。

 古い洋館にも似た内装の巨大な建造物の一室、小ぢんまりとした音楽堂(コンサートホール)に、愉快そうな男の嗤い声が鳴り響く。

 

 どこまでも不遜で。

 どこまでも傲然と。

 

 一階の観客席の中央の奥、豪奢な椅子――玉座にふんぞり返る少年の声だった。

 年のころは高校生くらいで、特別美形というわけでもない。特別目立つ特徴は何もない。

 なのに、その身から放たれる威厳と存在感は、まさに王者のそれ。

 

「やっとか、やっと来たか。貴様が一度死んだ程度で終わることはないと思っていたが、また随分と時間がかかったものだ」

 

 独白し、また嗤い始める。

 傲岸不遜な口調だが、それが似合っている。尋常ならざる貫禄、風格である。

 あたかも、悠久の時を生き、世界を統べる帝王の如く。

 止めどなく、嗤い続ける。

 

「くくく、随分と嬉しそうじゃのう、我が君よ」

「当り前であろう。何千年、何万年、何億年待たされたと思っている? あやつめ、いつまで経っても不遜な奴よ」

 

 そんな彼の後ろから、古式ゆかしい大陸風の衣服を纏った、東洋系の美女がしなだれかかった。

 美女の声は金の鈴を転がすような、陶然とせずにはいられない美声だったが、男は変わらぬ様子で平然と口を開いた。

 男の黒い両の瞳は前を見ているようで見ておらず、焦点が合っていない。

 

 彼が見ているのは、己が創り出した(・・・・・)化物の見ているもの。

 極東の魔族特区に現れた《異端者(メタフィジカル)》、九頭大蛇が見ているものだ。

 大蛇の無数の蛇眼が捉えているのは、一人の少年。

 

 高校の制服に白いパーカーを羽織った、狼の体毛のような髪をした目つきの鋭い少年。

 瀟洒な造りをした柄を持つ美しい長剣を掲げ、その身に纏う白い通力(プラーナ)の輝きは「焼き焦がすもの(シリウス)」が如し。

 少年は左手を絶え間なく動かし、五行のスペルを完成させた。それを右手の剣で薙ぎ、刀身にこの世ならざる黒炎がまとわりつく。

 まだ終わらず、少年の左手から噴き出した鮮血が、眩い雷光へと変わり――あたかも太極図のような黒白の利剣へと吸い込まれた。

 振りかざされた、白、黒、青の三色の嵐の魔剣が九頭大蛇を蹂躙し――そこで、男の視界に映る光景は終わった。

 

 今しがた目にしたそれを反芻し、男は再び肩を揺らして嗤った。

 

「運命とやらもやるではないか。褒めてつかわそう」

 

 相も変わらず傲慢な言葉を吐き捨てる。男にしなだれかかる美女が、小気味よさそうにコロコロと喉を鳴らして笑った。

 

 それを見た、この部屋にいたもう一人の人間が、鬱陶しげな声を洩らした。

 

「ちょっと。私のホールで耳障りな笑い声を上げないでくれる? 演奏の邪魔なんだけど」

 

 正面奥に拵えられた、巨大なパイプオルガンの下、演奏用の椅子に座った少女のものだ。

 髪の色は白。ドレスの色も白。人形のように生気の欠けた肌も白。絹製の手袋も白。

 唯一、小さな瞳だけが青。

 

「許せ。俺は今機嫌がいいのだ。ほれ、俺が喜んでいるのだから、お前も景気づけに何か演奏してみせよ。その大仰なものは飾りではなかろう?」

「何で私があんたのために弾かなきゃいけないのよ。私の王様はあんたみたいな陰険な根暗野郎なんかじゃないわ」

「くくっ。不遜なやつめ」

「おい小娘。我が君に向かってなんだ、その言い草は」

「よい。言っただろう、俺は今機嫌がよいのだ。多少の不遜ならば構わんよ」

 

 すげなく断った少女に、美女が鋭い視線を向けるが、男が泰然と笑い飛ばしたところで矛を収めた。

 そのタイミングを見計らっていたかのように、中央バルコニーの重厚な黒檀製扉が開かれ、新たな闖入者が姿を現した。

 

「やァ、皆様方。お邪魔するヨ」

 

 必要以上に陽気な口調で乗り込んできたのは、外見年齢二十代の半ばぐらいの、金髪碧眼の美しい男だ。

 少女の向こうを張る真っ白のスリーピースに身を包み、洒脱な雰囲気を纏って下に降りてくる。

 

 青年に目をやって、少女は嫌そうに顔を顰めた。

 

「まーた、無粋な奴が来たわね……。いっそ、追い返してやろうかしら」

「やめてくれ、ここでキミに言われると洒落にならない。さすがに居空間にポイはごめんだね」

 

 少女の不満を青年は軽やかな笑みで弾き返し、玉座の男へと視線を向ける。

 

「さて、ジイサマ(・・・・)? ボクをこんなところまで呼び付けたのはどういう御用件かな?」

「よくぞ来た、ヴァトラーよ。まずはこれを見ろ」

「ン? これかい?」

 

 ヴァトラーと呼ばれた青年は、言われた通りに足元に転がってきた水晶を覗き込んだ。

 最初は退屈そうだった彼の表情は、その水晶に映る光景を目にするにつれ、次第に笑みを広げていった。

 獲物を目にした獅子の如く、獰猛で気高いものに。

 

「……ハ、ハハハッ! なるほど、だからボクを呼んだのか!」

「ああ。この俺がわざわざ貴様のために呼んでやったのだ。貴様とて、興味がないわけではなかろう?」

「もちろんだ! 今こそ心の底から感謝しますよ、我らが戦王よ」

 

 おどけた仕草で一礼するヴァトラーだったが、彼の表情は歓喜に満ちていた。

 数百年間待ち望んだ男の姿を見て、狂気していた。

 

 玉座に座る男は愉快げに笑い、青年に命を下した。

 覇王の如く、尊大に、傲慢に。

 

「ディミトリエ・ヴァトラー。いつでも構わん。絃神島へ行き、……『あの男』と会ってこい」

「仰せのままに、我が王よ」

 

 青年の口元に刻まれた亀裂のような微笑がさらに深まると同時、ゆらりと、その痩身から陽炎のように炎が立ち昇る。

 アメジストもかくやの、鮮烈な紫色の通力(プラーナ)

 どこまでも純粋で、深みのある、高貴なる煌めきだった。

 

「待っていてくれ、第四真祖・暁古城……そして剣聖フラガ(・・・・・)。キミとボクの前世からの因縁。そろそろ断ち切ろうじゃないか……!」

 

 青年――〝戦王領域〟の貴族(ノーブルズ)、アルデアル公、ディミトリエ・ヴァトラーは、暗い愉悦を伴った呟きを残して、コンサートホールから退出していった。

 

 いつの間にかパイプオルガンの前に腰かけていた少女は舟を漕ぎ始め、男の後ろにいた美女は忽然と姿を消している。

 そのような些事、男は気にも留めなかった。

 

 再び嗤い始めると同時に、男の全身からも炎が立ち昇り始めた。

 異様なまでに膨大な量の、黒い通力(プラーナ)

 狭いホールのそこだけ闇が蟠っているかのような、あるいはそこに冥府の入り口が開いているかのような、おぞましい光景。

 この世で最も黑く、それでいて煌めきに満ちているこの世ならざる色相。

 無限無辺の宇宙を連想させる、黑。

 

 男は、嗤った。

 黒いオーラを背に纏い、覇王(・・)の肩書に相応しい威厳を以て。

 

「今度こそ、答えを聞かせてもらうぞ……聖剣の守護者(・・・・・)フラガ(・・・)

 

 

 

 男の名は、第一真祖。

 七十二体の眷獣を従えて、欧州を支配する夜の帝国(ドミニオン)、〝戦王領域〟の盟主。

忘却の戦王(ロストウォーロード)〟と畏れられる、一人目の真祖である。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 画面の中で、三色の嵐が九頭大蛇の怪物を蹂躙する。

 近代的且つシックな内装の部屋。その中心にある執務机の上のノートパソコンに映った光景に、足を組んでふんぞり返った青年は苛立たしげに舌打ちした。

 

 精悍な顔つきの白人青年だった。歳は二十の後半ほど。

 髪の色は黒。スーツの色も黒。ネクタイの色も黒。革手袋も黒。

 神経質そうなその瞳だけが青だった。

 組んだ足で貧乏揺すりをし、左手で頬杖を突き、右の人差し指で忙しなくテーブルを叩いていた。

 

 上空から撮影された映像が終わり、青年はもう一度舌打ちをして吐き捨てる。

 

「遅い。オレを待たせるな」

 

 誰に向けたかも分からない、催促の声。

 だがそれは、紛れもない『王』の言葉だった。

 今は(・・)、フランス名のシャルル=サン・ジェルマンを名乗る男の。

 

 シャルルがノートパソコンの電源を閉じようとした時、コンコンとノックの音がした。

 この執務室どころか、シャルルの居るこの建物に足を踏み入れることのできる者はそう多くない。

 なので、誰が来るかは大体予想がつく。

 

「入れ」

「失礼いたします、父上」

 

 果たして入ってきたのは、シャルルの予想通りの少年だった。

 十二、三歳ほどの年若い少年。シャルルに似た美しい黒髪に、褐色の肌。金色の瞳。幼さを残した顔つきに似合わず、不思議な威厳が感じられる。

 気性の激しい若い獅子を見ているようだ。

 シャルルと対照的な白装束(トープ)を纏い、華やかな黄金の装飾品を身につける少年は開口一番、苦笑を浮かべて言い放った。

 

「どうしました、父上? 不機嫌そうですね」

「阿呆。貴様のせいでもあるのだぞ」

「それは一体……」

 

 シャルルはノートパソコンを少年に向かって投げつけた。

 受け取ったそれの画面を覗き込んだ少年は、なるほど、と得心の行った、それでありながら獰猛な闘志を覗かせた笑みを浮かべてみせる。

 

「分かったか? イブリース。貴様らが少し前に、オレに無断で決行した宴とやらの結果だ」

「なるほど。それは申し訳ありませぬ。未だに根に持っていらしたとは……」

「たわけが! 誰が根に持ってなど!」

 

 慇懃に頭を下げてみせる少年に、シャルルは即座に噛み付いた。

 それから投げつけられる罵詈雑言の嵐を、イブリースと呼ばれた少年は笑顔で受け流す。

 もう数え切れないほど繰り返されてきた、父子(・・)のコミュニケーションである。

 ようやく終わりが見えたところで、イブリースから切り出した。

 

「しかし父上。喜ばしいことなのではありませんか? 第四の真祖の誕生というのは」

「阿呆。喜ばしいものか。不愉快極まりない」

 

 貧乏揺すりの止まらない父親に、イブリースは再度苦笑する。

 

「父上も待ち侘びておられたでありませぬか。四人目を」

「チッ……」

 

 今度は舌打ちしただけで、特に否定はしなかった。

 無駄な嘘はつかない性格なのである。

 

「オレが不機嫌になっているのは、第四真祖という存在自体にではない。このような小僧がその名を継いだことだ!」

 

 言われて見てみると、確かにシャルルがそう言いたくなる気持ちも分からないではない。

 どう見積もっても、せいぜい十六、七歳。

 真祖であること(・・・・・・・)に誇りを持っている彼からしてみれば、己の同類(・・・・)がこんなのでは不満だ、ということだろう。

 

「ですが、これを見た限りではこの小僧も中々ではありませぬか。第四真祖の眷獣を使役し、これだけの怪物を屠ってみせた。この少年は確かに父上と同等の――」

「たわけ! ソイツがこのオレと同等だと!? 乳臭い子娘どもと乳繰り合っている軟弱者と、このオレを同列に語るか、この親不孝者め‼」

「左様ですか」

 

 泡を食って反論してくるシャルルに、イブリースは明らかに興味なさげな生返事を返す。これも日常茶飯事。

 そのイブリースの態度に落ち着きを取り戻したのか、椅子にどっかと座り込み、未だ肩を怒らせたままのシャルルが訊いてくる。

 

「それで、イブリース。お前は何の用だ? オレは忙しい、手短に済ませろ」

「仰せのままに。以前お話しした、俺とリゼットの婚約の件についてですが……」

「構わん。好きにしろ」

「……よろしいので?」

 

 イブリースとしてはそれなりの覚悟を持って聞いたのだが、ごくあっさりと許可されて、逆に戸惑ってしまった。

 

 イブリースの本名はイブリスベール・アズィーズ。第二世代の吸血鬼――つまり、真祖直系だ。

〝旧き世代〟の貴族(ノーブルズ)の中でも最高位、真祖に次ぐ力を持った強力な吸血鬼。

 

 対してイブリースの口にしたリゼット・キャバイュは吸血鬼どころか魔族ですらない、ただの人間だ。

いや、リゼットもイブリースやシャルルと同じく前世を持った転生者であるということを考えれば、ただの、ではないかもしれないが。

 だが、それだけでは真祖直系の王子の伴侶としては相応しくない、というのが一般的な見解だろう。

 

 認められなければ全力で抗うつもりで、拍子抜けの気分を味わったイブリースだったが、続くシャルルの、冷たい威厳を纏った声で、自然と背筋が伸びた。

 

「二度も言わせるな。オレは以前にも言ったはずだ」

 

 

 

 ――澱ませてはならぬ

 

 ――新しい血を取り入れ、かき混ぜよ

 

 

 

 血。それは、吸血鬼にとって、重く特別な意味を持つもの。

 吸血鬼の真祖たるシャルルの口にするその言葉には、他の凡百の吸血鬼にはない重みがあった。

 

 シャルルは机の上に置かれたノートパソコンを手に取り、上に放り投げた。

 瞬間――シャルルの全身から濃密な魔力(マーナ)が溢れだす。

シャルルの左眼に、赤い鬼火が炯々と灯り、イブリースの背筋が粟立った。

 いつの間にか革手袋を外していた右手をシャルルが手刀で横に一閃した――次の瞬間には、一行のスペルが綴られていた。

 炎の第一階梯闇術《火炎(ファイア)》。

 

 放たれた闇術はノートパソコンを一瞬で焼き尽くし、一気に消え去る。

 

「仰せのままに」

 

 イブリースは低頭し、退室する。

 胸の奥に、父親への畏怖と尊敬の念を抱きながら。

 

 自分以外に誰も居なくなった執務室で、シャルルは呟いた。

 

「くれぐれも、オレを失望させてくれるなよ……四人目」

 

 

 

 シャルル=サン・ジェルマンの正体は、第二真祖。

 三十六体の眷獣を従えて、中東を支配する夜の帝国(ドミニオン)、〝滅びの王朝〟の盟主。

滅びの瞳(フォーゲイザー)〟と畏れられる、二人目の真祖である。

 

 

 

 

「あっ、王子!」

「リゼット。待っていたのか?」

 

 執務室から出てきたイブリースを出迎えた(?)のは、ポニーテールを揺らしたあどけなさの残る顔立ちの少女だった。

 小柄ながらも出る所はしっかり出ていて、顔立ちも良く整っており、将来は美人に成長していくだろうことが分かる。

 彼女の名はリゼット・キャバイュ。イブリースがかつて紛争地帯で出会った従者にして、伴侶に選んだ少女である。

 

 自分でも気付かないうちに緊張していたのだろうか。リゼットの、愛する少女の笑顔を見て、頬が緩むのが自分でも分かった。

 飛びついてきた華奢な体をしっかりと抱き留めてやる。

 二人の身長は同程度なので、ギュッと抱きしめ合ったら頬がちょうど触れ合う。

 

「お疲れ様です、王子……」

「言われるほどのことはしていないがな。だが、お前の顔を見てそんなものはどこかに行ってしまったよ」

「王子ったら……」

 

 しばしそのまま抱き合い、やがて身を離して広い廊下を歩き出した。

 

「どうでした? 王の様子は」

「随分と機嫌が悪そうだったな。入った途端にノートパソコンを投げつけられたよ」

「それは……やっぱり、例の噂についてですか?」

 

 例の噂。もちろん、世界最強の吸血鬼、第四真祖についての噂だ。

 

「そうだ。どうやら父上は、その第四真祖となった少年が気に食わんらしい」

「少年……確か、高校生でしたっけ」

「ああ。どこにでもいるような顔をしていたが……どうやら、俺たちと同じのようだ」

「同じって、セイヴァー(転生者)、ですか?」

「それも、両方。ライトセイヴァー(光技の使い手)でありダークセイヴァー(闇術の使い手)でもある。《最も古き英霊(エンシェントドラゴン)》だったか? それのようだ」

「へ、へぇ~」

 

 驚きのあまりにぽけっとした間抜けな顔に、イブリースは珍しく心からの笑みをこぼした。

 気性の荒さで知られる彼がこんな表情を見せるのは、父親の前か、愛するリゼットの前かだけである。

 それを知るリゼットは、彼のこんな表情を見ると嬉しくて仕方がないのだ。

 

「お、王子! これからどうしますか? も、もしよければ、私と一緒に街にでも!」

「それはいいな。是非ともだ。――あと、リゼット」

「はい?」

「その、王子という呼び方はやめろと言ったはずだぞ。お前はイブリースで構わん」

「え、えっと、でも、こういう人の耳目があるところでは、王子と呼べって……」

「今からは構わん。どこであろうと、いつであろうと、イブリースと呼べ」

「え……」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべて言ったイブリースの言葉に、疑問符を浮かべていたリゼットだったが、次第に表情に理解の色を浮かべていった。

 イブリースは最後にもう一言、優しい笑顔で付け加える。

 

「父上の許可は取ってある。好きにしろ」

「……ッ!」

 

 それを聞いて、リゼットは喜色満面でイブリースに再び抱きついた。

 結構な勢いがあったが、イブリースも難なく受け止めて、背中を擦ってやる。

 

「本当に、いいんですよね……?」

「ああ」

「いつでも、イブリース様、って呼んでいいんですよね……?」

「ああ」

「いつでも……どこでも、こうやっていいんですよね……?」

「それは少し気恥ずかしいが……ああ」

「ふっ、ふええぇぇぇ~ん……っ」

「おいおい……仕方のない奴だな」

 

 本格的に泣き出してしまったリゼット。嬉し涙だと分かっているので、イブリースは好きにさせることにした。

 ポンポンと頭を撫でてやりながら、イブリースは思索した。

 

 ようやく覚醒した第四真祖。かつて不本意なことに途中で離脱せざるを得なかった宴。

 あれをもう一度繰り返すつもりはないが、会ってみることぐらいはしてもいいのではないか。

 

「これから、いろいろと面倒なことがあるかもしれんが、それが片付いたら……新婚旅行がてら、絃神島に行ってみるとするか」

 

 完全に無意識の呟きだったが、もちろんリゼットに聞き咎められて、絶対の約束を取り付けられることになるイブリースだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 彼女は、とある高層ビルの屋上の縁に腰かけて、己の目が捉えた光景を反芻していた。

 荒れ狂う力の嵐が、九頭大蛇の怪物を消滅させる様を。

 遥か遠方を見通すことができる第一階梯闇術(・・・・・・)遥か見(マギスコープ)》を用いて、彼女は極東の魔族特区で起こった少年たちの戦いを観察していた。

 ここから絃神島まで数百キロ以上はある。それだけの距離を見通してみせたのだから、彼女の技量と魔力(マーナ)量が並外れていることが分かるというものだ。

 

「五番目……〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟か……美味い霊媒の血でも吸ったか? 随分と滾っておる」

 

 くくっ、と彼女は喉を鳴らして笑った。

 薄い布を羽織っただけの裸足の足をぷらぷらさせながら、彼女は小気味よさそうに笑った。

 

 強いビル風に、彼女の宝石のような淡い緑色の髪がなびく。瞳は深い湖のような翡翠色。

 年端もいかぬ少女のような姿だが、どこか野生の豹を思わせる、愛らしくも力強い美貌だ。

 

 この屋上には、彼女以外には誰もいない。一人きりだが、彼女は構わず独白を続けた。

 

「《最も古き英霊(エンシェントドラゴン)》でありながら第四真祖の権能をも手に入れたか。面白い……」

 

 彼女の口元に浮かぶのは、酷薄でありながら獰猛な、獣のような闘争心に溢れた微笑。

 古城が見せた力は、彼女の闘争本能を刺激したのだ。

 

 そして、

 

「くふふ……だが今はそれ以上に、(ワタシ)の胸は歓喜に満ち溢れている……」

 

 何故なら、

 

「再び会えると思っていたぞ。……冥王シュウ(・・・・・)サウラ(・・・)

 

 古城の前世の内の一つ、冥王シュウ・サウラ。

 その名を、彼女は愛おしげに口にした。

 数千数万数億年前の太古の記憶を反芻するように、瞑目する。

 彼女の昂りに応じるように、彼女の全身から、振り落ちる稲妻のように苛烈で、妖しき魔力(マーナ)が放たれた。

 

「くふふふ……ああ、シュウ・サウラよ。お前と互いの力と力をぶつけ合わせたあの一時……前世においても現世においても、あれほど充実した時間を堪能した覚えはない……」

 

 かつて、前世において出会った、二つの生涯において最強の敵を、彼女は思い出していた。

《雷帝》ヴァシリーサの名で君臨し、冥王シュウ・サウラと戦った、あの時を。

 第十三階梯闇術と第十三階梯闇術――互いの禁呪すら出し合い、それでも決着がつかず持ち越しになってしまったが――

 

「運命とやらもやるではないか。なあ、お前もそう思うだろう、シュウ・サウラ?」

 

 だが、今のシュウ・サウラならぬ暁古城と戦う価値はない。

 古城が最後の一撃に選んだのは、第五階梯闇術《黒縄地獄(ブラックゲヘナ)》。

 第五階梯でも一応は大魔術に分類されるが、彼女の域に来ると、それでも弱い部類になる。

 例えライトセイヴァーとして光技を使えるとしても、眷獣を一体しか掌握できていない現状では、まず勝負にならないだろう。第八(・・)階梯の一発でも叩きこめばそれで終わってしまう。

 

 だから――

 

「早く全てを思い出せ、暁古城……全盛期のシュウ・サウラほどまでとは言わぬ、だがせめて禁呪の一つぐらいは思い出せ」

 

 今少しだけ、待ってやる。

《雷帝》と《冥王》、禁呪保持者(グリモアホルダー)禁呪保持者(グリモアホルダー)。その戦いは、いずれ必ずやってくる。

 

「いつか、いつか必ずこの(ワタシ)――ジャーダ・ククルカンがお前の許へ向かう」

 

 その時までに、今よりも、もっと、もっともっと、もっともっともっともっともっともっと……。

 強くなれ。

 無限の闘志と、無限の愛情をこめて、彼女――ジャーダ・ククルカンは独白した。

 

「いずれ来たるその時……楽しみにしているぞ、我が愛しき死者の王よ……」

 

 

 

 ジャーダ・ククルカンの正体は、第三真祖。

 二十七体の眷獣を従え、中央アメリカを支配する夜の帝国(ドミニオン)、〝混沌界域〟の盟主。

混沌の皇女(ケイオスブライド)〟と畏れられる、三人目の真祖である。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「熱い……焼ける。焦げる。灰になる……つか、追々試って何だ、あのちびっ子担任!」

 

 殲教師の事件やら九頭大蛇やら何やらがあった日から数日後の月曜日。学生食堂端っこの、日当たりの良いテラス席。

 テーブルの上に広げられた参考書を眺めて、暁古城は叫んだ。

 

 夏休み最後の追試の結果は、残念ながら、出席日数不足を埋め合わせるために必要な点数には遠く及んでいなかったようだ。おまけに夏休み明け初日の授業をサボったことが問題視され、結果的に下された処分が、追々試というわけである。

 絃神島を沈没の危機から救って、アホみたいな化け物と戦った代償がこれでは、あんまりではないかと古城は思う。

 

「まーまー、落ち着きなさいって。まだ試験の日までは間があるでしょ?」

 

 そう言って古城を慰めたのは、対面の席に座った華やかな女子高生、藍羽浅葱だ。

 あの事件以来、浅葱が妙に親切になった。今日もわざわざ放課後を使って勉強を教えてくれるのだという。

 浅葱は、オイスタッハたちを止めて絃神島を救ったのが古城たちだということを知っている。結果的に浅葱からしてみれば、古城が彼女のことを命懸けで助けた、という風に思えたのかもしれない。

 

 そしてさらにもう二人、

 

「だーいじょうぶよ、兄様! このパーフェクトな妹に任せておけば、試験なんて楽勝よ! 大船に乗ったつもりでいればいいの!」

「あら? 泥船でなければいいのだけれどね」

「漆原ァ! いちいち茶々入れるんじゃないわよ、何か文句でもあるワケ!?」

「滅相もないわ、狸さん」

「ぬぁんですってえ……!」

 

 古城を挟んで始まる口喧嘩。いつものこととはいえ、この状況でやられると頭に来るものがある。

 古城は渋面になって、両隣を占拠して自分にぴったりと寄り添う二人の少女、嵐城サツキと漆原静乃に苦言を呈した。

 

「お前らな……勉強教えてくれるんじゃなかったのかよ? つうか、お前らの勉強は?」

「あたしは必要ないもの」

「嵐城さんに同じくよ」

「ぐくっ……そういえば、お前ら成績よかったな」

 

 静乃は万事そつなくこなすことを知っているため不思議はないが、このバカっぽい妹さまは人一倍努力家なため、学年でもトップの成績なのだ。

 いつもはこれ以上なく騒がしいくせに。バカっぽいくせに。

 

「それもそうね、なら真面目に勉強を教えるとしましょうか。分からないところはあるかしら?」

「ん、ああ、じゃあここなんだが……」

「って漆原! 隙あらば兄様に抱きつかないでよ!」

「近づかないと見えないわ?」

「なら引き寄せればいいでしょ、そっちに!」

「それじゃ古城が見れないわ? 本末転倒じゃない」

「う……それは……」

「諦めるなよ、サツキ!」

「…………あんたたち元気ねぇ」

 

 そんな古城たちを見て、浅葱が僅かに頬を引き攣らせながら呟いた。それより助けて欲しいのだが。

 縋るような目で浅葱を見つめた……ところで、静乃が古城の膝に寝転がってきた。

 女子としては大分軽い方になるため古城にとってはそこまで苦ではないのだが、ここでもやはり妹様が突っ込んだ。

 

「うぅるぅしぃばぁらぁ……! あ、あんた、何ちゃっかり兄様の膝使っちゃってるワケ! 返してよ、そこはあたしのベストポジション!」

「僻みはよくないと思うわ? それに、膝ならもう片方が空いてるじゃない」

「あ、それもそうね。……それじゃ、失礼しまーす」

「おい! 暑苦しいんだよ!」

 

 結局サツキも、古城の膝に寝転がってしまった。

 お前ら実は仲いいだろ……と古城は嘆かずにはいられない。

 力づくでどかしてもいいが、先日の一件でこの二人が傷つき、疲れ果てているのも知っている。

 そして何より、

 

(こんな安らいだ表情されたらな……)

 

 甘いとは分かっていても、どうしても無碍には出来ないのだった。

 

 そんな古城の考えを読み取ったのかは定かではないが、浅葱も珍しく何も言わずにいてくれた。

 しばしば三人に教えを請いながら、少しずつ参考書を解いていると、

 

「試験勉強ですか、暁先輩……? そこの公式、間違ってますよ」

 

 突然、近くで聞き覚えのある声がした。

 古城が驚いて顔を上げると、そこには夕陽を背にした雪菜が立っていた。

 もちろん中等部の制服で、背中には黒いギターケースを背負っている。ケースの隅っこには、例のネコマたんがちょこんと結び付けられていた。

 

「ひ、姫柊? 何で……確か、監視役は解任されるかもしれないって言ってなかったか……?」

 

 第四真祖の眷獣を暴走させて、倉庫街を焼き払った。

 監視対象である第四真祖を、危うく目の前で殺されかけた。

 戦いを拒む第四真祖を、けしかけて戦場へと連れ出した。

 おまけに彼が眷獣を使えるようにと、自分自身の血を与えすらした。

 どれ一つとっても、監視役としてはあるまじき振る舞いである、と、彼女が妙に沈んだ様子で話してくれたはずだったが――

 

「すいません、大丈夫だったみたいです」

 

 雪菜はいつもの冷静なものとは違う、どこか悪戯っぽい口調と声音で言った。

 嬉しさが隠し切れていないその態度に、先程から黙って見ていたサツキ、静乃、浅葱が警戒レベルを引き上げる。

 古城はそれには気付かず、自分でも不思議な安心感を覚えながら、

 

「そうか……まあ、よかったよ。姫柊も元気そうだしさ」

「え? わたしですか? はい、わたしは別に何とも……」

「いやほら、俺が公園で姫柊に、あんなことをしちゃったわけだし」

「あんなこと……っ!」

 

 怪訝そうにしていた雪菜だったが、それに思い至ったのか、突然爆発的に頬を染め上げた。

 古城に自分の血を吸わせるために、彼女がやったことを思い出したのだろう。

 

「あ、いえ……あれは……できれば、忘れて欲しいんですけど……」

「そういうわけにもいかねーだろ。身体の方は大丈夫なのか? 姫柊も、あとサツキも」

 

 一応真剣な表情で、古城は目の前に立つ雪菜と膝の上に寝転ぶサツキに訊いた。

 

 吸血鬼に血を分け与えられたのなら問題だが、血を吸われるだけならば大した影響はない、と言われている。

 だが、万が一ということもある。その覚悟もなく異性を〝血の従者〟としてしまったなら、それは大問題だ。

 

 しかし二人は、心配ない、と首を振って、

 

「はい。一応簡易検査キットで調べましたけど、陰性(だいじょうぶ)でした」

「あたしの方もそれ借りて調べたけど、問題なしってー。……いっそのこと、ホントに従者にしてくれればよかったのに」

 

 微笑む雪菜に、僅かに不満そうなサツキ。

 妹のアホな意見は聞き流すとして、古城は安堵の息を吐いた。

 

「すみません、心配させてしまって……」

「いや……何ていうか、悪かったな」

「せ、先輩は悪くないです。あの時は、わたしの方からしてほしいと誘ったわけですし……」

「そ、そうか」

 

 雪菜が恥じらうように顔を伏せて、古城もひどく照れ臭い気分になった。

 だがすぐにもう一人のことを思い出して、膝の上にある頭を撫でながら謝罪する。

 

「サツキも。悪かったな、痛い思いさせちまったし」

「んーん、全然! ちょっと血が出ただけだったし……それにね、何か、前世(むかし)のことを思い出したの」

「前世の?」

「うん。……あたし(サラシャ)の初めては、ほとんど古城(フラガ)が奪っていったなー、って」

 

 おい、お前は実の妹相手に何をしてるんだ、前世の自分よ。

 うっとりとした表情で首筋を擦るサツキに、古城は顔を顰めた。

 

「……ねえ、兄様……ううん、古城」

「何だ?」

「セキニン、取ってくれるんでしょ?」

 

 本当に、心の底から嬉しそうな表情で見上げてくる妹に。

 古城は、心の底から優しい笑みを浮かべて、頷いた。

 

「もちろんだ。あの時そう言ったしな」

「えへへぇ……古城~♪」

 

 にへっ、とだらしなく表情を緩めて腰に抱きついてくるサツキ。

 やはり凹凸は少なくとも確かに女子で、柔らかさやら匂いやらでドギマギしてしまうが、それでも妹として見られるように努力すると、約束したのだ。

 ならばこれも兄妹間のスキンシップとして我慢するしかないだろう……できるかどうかは別として。

 

 さらりとサツキのポニーテールをどけてみると、首筋に小さな絆創膏が貼られているだけだった。

 古城は、ふう、と息を吐き、

 

「――ッ!?」

 

 その全身が瞬時に凍りついた。

 雪菜の背後の植え込みから、ゆらりとゾンビのように、もう一人の妹様(・・・・・・・)が立ち上がったのだ。雪菜と同じ中等部の制服を着た、活発そうな雰囲気の少女。

 

「ふーん……古城君が、雪菜ちゃんとサツキお姉ちゃんに何をしたって?」

 

 低く怒りを押し殺したような声で、少女が訊いてくる。

 

「な、凪沙? お前、どうしてここに……」

「あたしは雪菜ちゃんの付き添いで来たんだけど。古城君が試験勉強してるっ浅葱ちゃんから聞いてたから、励ましてあげようと思って来たんだけど。そしたら三人で、聞き捨てならない話をしてるみたいだったし……その話、もっと詳しく聞かせてもらえないかなぁ……?」

 

 暁凪沙が、思わず背筋が震え上がるような攻撃的な笑みを兄に向けた。

 吊り上げた唇の端がぴくぴくと痙攣しているのは、怒りが頂点に達している時の彼女のクセである。

 

「ま、待て凪沙。お前は多分、何か誤解してると思う! なあ、姫柊、サツキ!」

 

 古城は必死で弁解しようとする。隣で雪菜もコクコクと首を縦に振っている。

 しかし凪沙はむしろ、その息の合った動きにますます怒りを深めて、

 

「ふーん、誤解? 古城君が雪菜ちゃん達の初めてを奪って痛い思いをさせて体調を気遣っちゃったりして、おまけに責任を取らなきゃいけないようなことの話の、どこにどう誤解する要因が……?」

「だから、そのお前の想像がもう何もかも全部誤解なんだが……」

 

 古城は途方に暮れた表情を浮かべた。

 しかし凪沙に本当のことを話すわけにはいかない。

 彼女には、せめてもうしばらくの間は、古城が吸血鬼であることを知らないでいて欲しいのだ。

 

「ねえ、古城?」

 

 古城が頭を抱えていると、不意にいつの間にか起き上がった静乃が、古城の膝に手を置いてきた。

 その手は抓るでもなく叩くでもなく、ただゆっくりと撫でてきているだけのはずなのに、古城は全く身動きが取れずにいた。

 

「し、静乃サン?」

「今のお話、私もとっても興味があるわ? 私が大変な思いをしてあなたからの命令を必死に遂行している時に、あなたは嵐城さんたちと何をしていたのかしらね……?」

 

 怖い。能面のような無表情が、今はただひたすらに怖い。

 心なしか、静乃の背後から黒いナニカが湧き出ているように見えた。魔力(マーナ)ではないはずだが。

 

「い、いや、だから違うんだって! 俺は別にそんな……」

「何よー、古城があたしのことをキズモノにしたのは事実でしょー?」

「っな!」

「ふぉーっふぉっふぉっふぉ! ついにこのサツキちゃんの時代が来たわ! 残念だったわね、漆原! 可哀想に出遅れちゃったあんたはついにかったーい絆で結ばれてしまったあたしたちがイチャイチャしてる所を、爪を噛んで悔しげに見ていなさい!」

「お前もうちょっと黙ってろ!」

 

 こういう時に余計な一言で火に油を注ぐのが、嵐城サツキという少女である。

 古城は全力で叫び、静乃の背後のナニカが勢いを増した。

 恐怖に震えて背後に逃げ場を求めた古城だったが、その方向を見て、ひっ、と喉を詰まらせることになった。

 とても世界最強の吸血鬼とは思えない醜態だが、無理もない。

 

 制服を粋に着こなした華やかな顔立ちの少女――藍羽浅葱が、その美しい美貌に復讐の女神を思わせる冷たい怒りの炎を宿して古城を睨みつけていた。

 

「ま、待て、浅葱! これには込み入った深い事情が――ってか、何でお前が怒ってんだ!?」

 

 咄嗟に全力で謝ろうとする古城だったが、

 

「あんた、最低」

 

 浅葱は無表情に言い放ち、手に持っていた紙コップの中身を、容赦なく古城の顔面に叩きつけるようにしてぶちまけた。

 酸っぱい匂いだ。クランベリーソーダと赤ぶどうジュース。

 ほぼ水平に放たれたため、今も古城の膝の上にいたサツキにはかからなかったが、古城の顔面は大流血したかのように真っ赤に染まった。

 

「せ、先輩!?」

 

 慌ててハンカチを取り出した雪菜にも、浅葱は敵意剥き出しに詰め寄って、

 

「あなたも。いい機会だからはっきりさせておきたいんだけど、古城とどういう関係なわけ?」

「わたしは暁先輩の監視役です」

「監視? ストーカーってこと?」

「違います。わたしはただ先輩が悪事を働かないようにと思って――」

 

 雪菜も一歩も引かず、二人の少女は見えない火花を撒き散らしながら睨み合う。

 一見穏やかな物腰に見えて、実は雪菜も武闘派である。

 

「そのあなたが、このバカを誘惑してどうするのよ!?」

「そ、それはそう……ですけど……」

「おいっ! 負けるな姫柊!」

 

 心に疚しさがあるせいか、納得してしまいそうになる雪菜。どうやら浅葱の方が一枚上手のようだ。

 

 沈黙した雪菜から視線を切り、浅葱は古城を蔑むように冷ややかに眺めて、

 

「誰か、ここに淫魔が! 妹さんのクラスメイトに手を出す淫魔が居ますよ――!」

「やめろ浅葱! 少しは話を聞けっ!」

「古城君のドスケベ! 変態っ! エロっ! いくらなんでも不潔だよ……!」

「や、止めてください、二人とも。確かに暁先輩はいやらしいところもありますけど……」

「凪沙もちょっと黙ってろ! 姫柊も全然フォローになってないからな!?」

「古城、後で詳しく話を聞かせてちょうだいね?」

「静乃は静乃で怖いんだよ! いい加減、その黒いの何とかしてくれ!」

「ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ! 諦めなさい、この有象無象! これからあたしと古城のラブラブアツアツの甘っまーいラヴストーリーが幕を開けるんだから!」

「あーもう、俺にどうしろってんだよ!」

 

 大騒ぎする古城と、五人もの美少女達。それに惹かれて、周囲の生徒たちの視線が自然と集まる。

 男子生徒の嫉妬と羨望の、女子生徒の侮蔑と嫌悪の視線を受けながら、古城は深々と溜め息を吐いて空を仰いだ。

 

「……勘弁してくれ」

 

 思わず呟く。

 

 しかし彼は気付いていない。

 世界最強の吸血鬼にして、三つ(・・)の前世を持つ輪廻転生者(リンカーネイター)

 第四真祖にして《最も古き英霊(エンシェントドラゴン)》暁古城の苦難の日々の、ほんの始まりに過ぎないことに、彼はまだ――




 いかがだったでしょうか。
 途中入ってきた変なのはやりたかっただけです。すいません。個人的にイブリスベール王子が好きなんです。
 リゼットちゃんについてですが、原作キャラです。出オチキャラです。
 どっちの作品の何巻のどこで出てきた、まで分かった人は心の底からすごいと思います。

 来週再来週は多忙を極めるので、第二章はお待たせすることになってしまうと思いますが、ご了承ください。


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第二章 戦王の使者
2‐0 序章 ―Intro―


 休み明けで怠かったので、今回は割と短め、原作知ってる人なら別に見なくてもいい仕様になっております。

 何はともあれ第二章、戦王の使者編、スタートです。


「糞っ、糞っ、糞っ、糞っ……やってくれたな、人間ども!」

 

 しゃがれた声で口汚く罵りながら、豹頭の男は深夜の街を疾走する。

 彼は武器の闇取引を行うために密入国し、先刻特区警備隊(アイランド・ガード)強襲班に壊滅させられた犯罪者集団の唯一の生き残りだった。

 七人の仲間たちを盾に使って生き残り、自爆攻撃で敵を仕留めたはいいが、男のダメージも並ではない。

 全身の銃痕、催涙ガスによる目や鼻の痛み、呪力弾の攻撃を受けたことで、せっかくの獣人の再生能力も阻害されてしまう。

 

「許さんぞ、やつら……必ず後悔させてやる」

 

 炎に包まれる倉庫街を睨み、男は低く呟く。

 月明かりに照らされた夜の街並みへと視線を移した男の手には、起爆装置となっているリモコンがあった。

 

 東京都絃神市――太平洋上に浮かぶ巨大な人工島。人類と魔族が共存する、聖域条約の産物。〝魔族特区〟だ。

 男の生まれは欧州、第一真祖の統べる〝夜の帝国(ドミニオン)〟、〝戦王領域〟だ。

 絃神島への恨みは特別ないが、〝戦王領域〟は別だ。

 すでに動き出しているこの計画が成就すれば、あの忌まわしい戦王への反逆の狼煙となるだろう。

 少佐(・・)の崇高なる計画のためにも、男がすべきことはその身を賭して黒死皇派の勝利を引き寄せること。

 

 市民がいくら犠牲になろうが、結局全て消えてしまうのだ。どうなろうと結果は同じ。

 近々訪れる滅びの瞬間も知らず、能天気に騒ぐ市民たちに憐れみすら覚えながら、男はリモコンのスイッチに手をかけ――

 

「同士の仇だ、思い知……――っ!?」

 

 確かに触れたはずのスイッチからは、何の手応えも返ってこなかった。

 そこにはリモコンなど影も形もなく、代わりというようにどこからともなく伸びた銀色の鎖が絡み付いている。

 呆然と己の右手に目を向ける男の耳に飛び込んできたのは、どこか笑いを含んだ舌足らずな声だった。

 

「曲がりなりにも神々の鍛えた〝戒めの鎖(レージング)〟だ。貴様ごときではどうしようと千切れん。諦めろ」

「何っ!?」

 

 声の主は若い女。男の立っていたビルの屋上。給水塔の上。

 豪奢なドレスを身に纏った、幼女と見紛うばかりの小柄な女だ真夜中だというのに日傘を差し、あどけなくも整った顔立ちは恐怖すら感じさせる。

 

 男は心の底から湧き上がってきた恐怖に、無我夢中で鎖を引き千切ろうとするが、逆に鎖に引きずられてしまう。

 獣人の腕力を以てしてもびくともしない拘束に目を見開く男を嘲るように、女は殊更にゆっくりと手を上げた。

 

 女の一挙手一投足から目を離せない。男が呆然と見つめる中、女は指を一つ鳴らした。

 男の周囲の空間に、大きな波紋のように高密度の魔方陣が出現した。そこから吐き出された無数の銀鎖が男の全身に絡みつき、完全に捉える。

 

「馬鹿な! 空間制御の魔術を、たった一人で……そうか! お前、南宮那月か! 魔族殺しの、〝空隙の魔女〟……!」

「ふん……そういう貴様は、察するにクリストフ・ガルドシュの部下といったところか? 〝戦王領域〟のテロリストが、わざわざ海を渡ってご苦労なことだ」

 

 日傘の女――南宮那月は、冷ややかに告げた。

 自らの所属を言い当てられたことに硬直する男に、那月はもはや目を向けることもなく、背を向けて歩き出した。

 

「テロリストどもがこんな極東の〝魔族特区〟で何をするつもりだったのか興味はあるが、これ以上は教師の仕事ではないな」

 

 肩を竦めて丸ごと放り投げるように投げやりに言って、那月はゆらり、と空間に波紋を残してその場から一瞬で転移してみせる。

 彼女だからこそなせる超絶技巧。

 それを目の当たりにして男は戦慄しながら、くつくつと嗤い出した。

 

 何も変わってなどいない。今になって〝空隙の魔女〟が動き出そうとも、この島が迎える滅びの運命は何一つ変わっていないのだ。いずれにせよ、絃神島滅亡は時間の問題なのだ。

 暗く嗤い続ける男を、真夏の月が、今も静かに照らしている。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 夜明け前。東京の南方海上の三百三十キロ付近を、一隻の巨大で豪華な外洋クルーズ船が航行していた。

 全長約四百フィート、豪華客船が霞んで見えるほど飾り立てられたその船の名は、〝オシアナス・グレイヴ〟。まさに洋上の宮殿とも呼ぶべき威容だ。

 

 しかし信じられないことに、この船はあくまでも個人の所有物だった。

 だがこの船のオーナーの名を聞けば、大いに納得すると同時に、こんな場所を悠々と航行していることに目を剥くことだろう。

〝戦王領域〟の貴族、アルデアル公ディミトリエ・ヴァトラー。この名を聞けば、誰しもが。

 金髪碧眼の美しい青年の姿をした、吸血鬼の〝旧き世代〟の貴族(ノーブルズ)、大都市を瞬く間に壊滅させる正真正銘の怪物。

 

 そんな彼は、愛船の屋上デッキでカシス酒のグラスを傾けながら、ようやく見えてきた目的地を皮肉げな目で見つめていた。

 

「クズ鉄と魔術で生み出された紛い物の島か。……キミが居るには似合わない所だな、フラガ。いや、むしろお似合いというべきかな」

「こちらでしたか、閣下」

「ん?」

 

 独り言のように呟く青年に、ほっそりとした人影が話しかけた。

 年若い日本人の少女だ。すらりとした長身に優美な美貌、流れるような長い髪を後ろでポニーテールにした、美しい少女だ。

 彼女が身に着けているのは、関西地区にある名門女子高の制服である。

 そして彼女の右手には、キーボード用の黒い楽器ケースがあった。

 

「日本政府からの回答をお持ちしました」

「へえ? 聞こうじゃないか」

 

 人懐っこく微笑む彼に、強力な吸血鬼特有の独特の威圧感はなく、皮肉げな色のみがあった。

 

「本日午前零時を以て、閣下の絃神島への訪問を承認。以降は閣下を聖域条約に基づく外交特使として扱い――つきましては、私が閣下の監視役を務めさせていただきます」

「ふぅん。まあ妥当な結論だけれど……キミって誰だっけ?」

 

 見事な無関心さを見せつけたヴァトラーに、少女は眉を顰めて名乗ろうとするが、そのヴァトラー本人が腕を上げて遮った。

 

「あー、名乗らなくていいよ。可愛い男の子ならともかく、女の子の名前を覚えられる自信はないからネ」

 

 軽薄に笑う青年。名乗りそびれた少女は不愉快げな視線を目の前の貴族に向けた。楽器ケースを握る手にぐっと力が込められる。

 この楽器ケースには、彼女の所属である日本の特務機関、獅子王機関より授けられた武神具が収められている。

 不老不死の吸血鬼すら完全に滅ぼしうる、彼女を青年の監視役として帯同させる理由となったものが。

 

 にわかに気色ばむ少女を見て、ヴァトラーは愉快そうに笑った。

 

「ははは、いいね。このボクを相手になんともまあ。日本政府も粋なことをするものだ。……けれどね」

 

 ひたすら痛快そうに笑っていたヴァトラーが、不意にスッと目を蛇のように細めた――瞬間、少女の肌がゾッと粟立った。

 

 ヴァトラーの全身から発せられる、物理的な圧力にも似た呪力と、卓越した攻魔の技を持つ少女だからこそ感じ取れる、アメジストもかくやな鮮烈な紫色の通力(プラーナ)

 少女の反骨心を徹底的にへし折り、ヴァトラーは先程までは皆無だった威厳を滲ませて続ける。

 

「分を弁えろ、人間。このボクに剣を向けるのがどういうことか、ちゃんと考えてから行動しなよ」

 

 それだけ言ってヴァトラーが視線を逸らすと、少女はその場に崩れ落ちてしまった。尋常ではないほどの脂汗が次から次へと溢れてくる。

 ヴァトラーはもはや、そんな少女には一欠片の興味も向けていなかった。

 

 洋上にポツリと浮かぶ、絶海の孤島。超大型浮体式構造物によって構成された人工島(ギガフロート)

 龍脈を制御するという目的のために造られ、今は魔族の生態や能力についての研究を行う学究都市。絃神島〝魔族特区〟。

 それを見据えて、ヴァトラーは唇を吊り上げた。

 

「……そう。ボクを殺せるのは、キミだけだ。キミだけが、ボクの不死身を断ち切れる」

 

 幾度も夢に出てくる、()の姿。

 地上の恒星が如き皓の通力(プラーナ)を纏い、正真の聖剣を振るう()の姿。

 万物を断ち切り、この世の何よりも硬いと謳われた自分の鎧すら断ち切り、ついには世界を断ち切った()の姿。

 

 目を閉じれば、()の姿が克明に浮かび上がる。

 そして、それを思い出すたびに、ヴァトラーの胸はどうしようもなく高鳴り、まるで熱に浮かされたように脳が痺れる。

 ()への想いで満たされる。

 

「待っていてくれ、フラガ。もうすぐ、もうすぐだから……!」

 

 少女とヴァトラーしかいない船の艦橋(ブリッジ)に、ヴァトラーの愉快極まりないというような哄笑が響き渡った。

 

 洋上の棺桶の名を冠された船が、災厄を乗せて、少しずつ少しずつ、絃神島へと近付いて行く。




 ではまた。


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2‐1 真祖と少女たち ―He And Girls―

 すいません、めっちゃ遅れました!

 いろいろあって今日まで更新できず……すいませんでした。
 二章第一話、どうぞお楽しみください。

 ヒロインが一人増えます。


 暁古城は、夢を見ていた。

 

 

 

 窓の外では、吹雪が荒れ狂っている。

 ここでは一年中、空が晴れる日はない。

 あたかも、永劫に閉ざされた極寒地獄の如く。

 そんな不毛の土地に、古城(シュウ・サウラ)の居城はあった。

 石造りの部屋を深々と冷気が蝕む。この冷気の中では暖炉の火すら意味を為さず、絨毯すら石床と変わらない。

 そんな部屋が、古城(シュウ・サウラ)の執務室だった。

 

 小鳥のさえずりなど望むべくもなく、虚ろに鳴り響く吹雪の音を聞く。吐く息はもう真っ白だ。

 

 独り、ではなかった。この日の夢は。

 

 棺桶のような執務椅子に腰かける古城(シュウ・サウラ)の膝に、甘えるようにしなだれかかる長い黒髪の女が居た。

 

「ねえ。あなたはいつまで、一人で償い続ける気なの?」

「知らぬよ。余はただこの土地が気に入っているだけだ」

 

 気に入るも何も、そもそも何もないこの地でそれはないだろう。

 女は、耳元を甘くくすぐる羽毛のような、甘ったるい蜜のような声で続けた。

 

「あなたがたった一つの禁じられた呪法でこの国を氷の地獄に変えて。何万もの命を奪って、けれどもっと多くの人々の命が救われて。私だってその一人よ」

 

 どこまでも愛おしそうに、幸せそうに。

 

「ねえ、シュウ・サウラ。我が君、愛しのあなた。一体いつになったら、妻であるこの私に心の裡を打ち明けてくれるのかしら?」

「心の裡などすでに話したではないか。世界の敵、秩序の破壊者、冥王と忌み嫌われる余には、格好の居城だ。余の妻を名乗るのであれば、そのぐらいは言わずとも分かれ」

 

 気のない風を装って古城(シュウ・サウラ)は鼻を鳴らし、膝の上に置いた古の書物に視線を戻す。

 新たなページをめくろうとした時、不意に女に書物を奪われた。

 

「余の伴侶を名乗るなら、もっと賢妻然としていて欲しいものだな――冥府の魔女よ?」

 

 古城(シュウ・サウラ)は呆れたように嘆息し、だけど親愛に満ちた苦笑いをした。

 古城(シュウ・サウラ)の視線の先には、冥府の魔女と呼ばれた女の美貌があった。

 動いていなければ人形と見紛うような、無機質な美しさ。

 能面のように硬質な表情。

 声と口調ははっきり拗ねているのに、彼女の顔はその感情を一切表に出すことはない。

 

「あまり余を困らせるな」

「お断りだわ。私はもっと構ってほしいのよ」

 

 あまりにも素直で我が侭な言葉に、ついに古城(シュウ・サウラ)も堪え切れなかった。

 声を上げて笑い、ゆっくりとその手を伸ばして――

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 とある日の早朝。まだ朝日が昇り始めた頃。

 絃神市内の古城の自宅であるマンションから離れた、人の気配のない無人の公園に、暁古城の姿はあった。

 身に着けているのは、動きやすいジャージにタンクトップのTシャツ、その上からいつもの白いパーカーを羽織っている。常夏の人工島とはいえ、早朝はそれなりに冷え込む。

 だが問題はない。どうせすぐに汗に塗れることになるのだから。

 

 誰も居ない時間帯を見計らって、それでも自分以外の人間が存在しないことを確認した古城は、ゆっくりと息を吐いて右手を掲げる。

 

「来いよ……サラティガ」

 

 握り締められた掌中に眩い光が生じて、古城は勢いよく右手を振り抜く。

 

 振り切った古城の手には、一振りの剣が握られていた。

 射し込み始めた朝日を反射してキラリと光る刀身を眺めて、古城は一つ溜め息を吐いた。

 

「……やっぱ、ここまでが限界か」

 

 古城が顕現させたサラティガは、確かに聖剣の名を冠するに相応しい美しさと切れ味を備えているだろう。

 だが、かつてフラガが振るったサラティガは、ただの鋭いだけの剣などでは決してない。

 王家に受け継がれ、守護者の手によって振るわれることで万人にその威を知らしめた、聖剣たる所以が存在するのだ。

 

 ガワだけならこうやって再現できる。しかし中身が伴わない。

 これまではそれでも問題はなかったし、古城自身わざわざそんな物騒なものを手にする必要はないと思っていたが、今では考えが変わっていた。

 一週間ほど前のある出来事から、その考えは変わっていた。

 

 今あるだけの力では足りなかった。今手にしているだけの力では、本当に大事なものを守るためには、まったく足りなかった。

 力及ばず古城が命を落とすだけならばまだいい。だが親しい少女たち、守りたい人たちが傷つき、その命を散らすことだけは許容できない。

 だから古城は、力を欲した。誰かを傷つけるためのものではなく、誰かを守るための力を。

 

 その結果が、この毎朝(・・)の早朝トレーニングというわけだ。

 世界最強の吸血鬼と言えども、日光が弱点であることは変わらない。特に朝の日射しはヤバい。さすがに焼け爛れて灰になることはないが、倦怠感に脱力感、眠気に疲労、食欲不振などの症状に襲われる。

 それを推して、古城はここに居るのだった。

 

 再現できないのならば仕方がない。古城はかぶりを振って思考を切り替えた。

 秘密にするためにも、妹である凪沙が起き出してくる前に家に戻らなければならない。時間は限られているのだ。

 

 サラティガを握り直し、胸を反らして半身になる得意独特の構えを取る。

 瞬く間に全身の七つの門から、純白の通力(プラーナ)を引き出し、直後にサラティガで虚空を一閃する。

 ブライトホワイトの軌跡が消えないうちに身を翻し、更に一閃、二閃。

 まるで流麗な演武のように、見えない何者かと激闘を演じているかのように、古城は剣を振り続けた。

 

 一度たりとも止まることなく、それを延々と続ける。日光を受けてじくじくと痛み出す肌も、滴る大粒の汗も気にせず、一心不乱に。

 古城の視線は鋭い刃のように尖り、古城の表情は堅く引き締められている。

 極限の集中力を以て、動きの一つ一つを体に刻み込んでいく。無意識レベルまで刷り込んでいく。

 

 ――それだけ意識を張り詰めていたからだろうか。

 何者かが近付いてくる気配に、古城は即座に気が付いた。

 明らかに偶然こちらに向かっているというわけでなく、確かな足取りで古城を目指している。

 サラティガを下げて、古城が油断なく見据える先で――一人の少女が、姿を現した。

 その少女を見て、古城は肩の力を抜いて拍子抜けした表情を浮かべ、その少女は微かな笑顔を浮かべた。

 

 思わず息を呑むような、清冽な美貌を持ち、細身で華奢だが儚さはない。幼さを残しながら均整の取れた体つきで、すっと伸びた背筋から美しい猛獣のような、しなやかな強靭さを感じさせる少女。

 彩海学園中等部の制服を着て、背中には大きなギターケース。そのギターケースを見て古城は顔を顰めた。

 

「……何だ、姫柊かよ」

「おはようございます、先輩。何だとは失礼ですね」

 

 少女――姫柊雪菜は、生真面目に挨拶してから、古城の言い草に眉を顰めた。

 

「ああ、おはよう。随分早いな、姫柊」

「それを言ったら、先輩の方こそ早いじゃないですか。何をしていたんですか?」

 

 雪菜の視線の先には、古城の右手に握られた長剣の存在があった。

 彼女の黒目がちの大きな瞳が訝しげな色に染まるのを見て、古城は頭を掻いた。

 

「あー、何つうか……特訓?」

「特訓、ですか? 一体何の……」

コイツ(サラティガ)の顕現とか、通力(プラーナ)の操作とか、動きの確認とか、そんなもん」

通力(プラーナ)、ですか……」

 

 首を傾げていた雪菜だったが、それ以上に気になることがあったようで、僅かな好奇心を乗せて古城に問いかけてきた。

 

「そういえば、前から気になっていたんですが、先輩の剣術はどこで習われたんですか? すごく洗練されていましたが……」

「ん、あー。いや、習ったっていうか……」

 

 上手く説明出来ず言い淀む古城。

 不思議そうに見つめてくる雪菜を見ながら、古城は考えた。

 暁古城の持つ、二つの前世。剣聖フラガと、冥王シュウ・サウラのこと。考えてみれば、まだ雪菜にはそのことを話していなかった。

 雪菜は古城が世界最強の吸血鬼、第四真祖であることを知っている。むしろ彼女はそれを知って、古城を監視するために絃神島へ来たのだ。

 ならば今更、前世のことを教えたぐらいで何の問題があるだろう。むしろ知っていてもらいたい。

 

 なのに、何か心の隅に躊躇のようなものがあるのだが、これは一体何なのだろうか。

 何故か、雪菜にそれを話すことを躊躇う自分が居る。ずっと黙っているのは、彼女に対して不誠実であるはずなのに。

 躊躇を振り切り、古城は雪菜に打ち明ける決心をした。

 

「……姫柊。俺がこれから話すことは、信じられないかもしれないけど、本当のことなんだ。だから、とりあえず最後まで聞いて欲しい」

「え? は、はい」

 

 そう前置きしてから、古城は語り始めた。二つの前世、通力(プラーナ)魔力(マーナ)、光技と闇術、フラガとシュウ・サウラ、嵐城サツキと漆原静乃の話を。

 

 

 

「……つまり、先輩にはフラガとシュウ・サウラという二つの前世があり、先輩は前世で使っていた通力(プラーナ)魔力(マーナ)、その双方の力をこの現世でも扱うことが出来る。そして嵐城先輩は、剣士だった方の前世における妹で、漆原先輩は恐らく魔術師だった方の前世の関係者……ということですか?」

「まあ、大体そんな所だな」

 

 今の拙い説明からよくもそこまで要約出来たものだ、と古城は感心しながら頷いた。

 与えられた情報を整理するように目を閉じて考え込む雪菜。古城は邪魔をしないように黙っていた。

 やがて目を開いた雪菜は、どこか不要領な表情をしながらもとりあえず頷く。

 

「ええ……はい。まあ、分かりまし、た……? はい」

 

 本当に分かったのか? という疑問は呑み込む。

 古城が口にしたのは、別のことだった。

 

「前世が二つあったとしても、今の俺は俺だ。暁古城なんだよ。だから、ええっと、あー……」

 

 言いたいことはあるのだが、上手く言葉に出来ない。

 もどかしさに頭をガシガシと掻いていると、そんな古城に雪菜は小さく噴き出した。

 

「分かってますよ。わたしが知ってる先輩は、怠け者で、面倒くさがりで、ちょっと間抜けてますけど、やる時はやる。いやらしいけど、頼りになる先輩ですから」

「おい……褒められてる感じがしねえぞ」

「事実ですから」

 

 つんと澄ました表情で言う雪菜だったが、言葉の端々に暖かい優しさを感じて、古城はそれ以上言えなくなってしまう。

 

 古城は、自分が何を躊躇していたのかを理解した。

 つまるところ、古城は怖かったのだ。

 真実を知られて、雪菜が自分を見る目が変わってしまうことが。

 結果的に杞憂だったとはいえ、古城は確かにそのことを恐れていた。

 何故雪菜に態度を変えて欲しくない、嫌われたくないのか、その理由を気付かないまま。

 

 しかもどうやら、そんな不安すら雪菜には見破られているようで、古城としては恥ずかしいことこの上ない。

 クスクスと笑う雪菜に渋面になっていると、不意に雪菜が顔を上げて、背中のギターケースに手をかけた。

 

「お、おい、姫柊……?」

「先輩は今、特訓をしているんですよね?」

「え、ああ。そうだけど……」

「それ、わたしも参加させてもらっていいですか? ……実戦形式で」

「え?」

 

 言うなり、雪菜はギターケースから格納状態の銀色の槍を取り出した。

 雪菜がそれを一閃すると、一瞬にして柄が伸びて、格納されていた主刃と、横合いから左右に副刃が飛び出し、洗練された近代兵器のような外観の槍が姿を現す。

 ありとあらゆる結界を切り裂き、吸血鬼の真祖すら滅ぼしうる攻魔の機槍――〝七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)〟。またの名を、雪霞狼。

 

 腰を低く落とし、銀色の穂先を古城に向けて、雪菜は強気に微笑んだ。

 

「先輩には二度ほど負けたことがありましたが……今度は、負けませんから」

 

 呆気に取られる古城だったが、やがて小さく噴き出した。

 ずっと前の些細な小競り合いをいつまでも気にしている彼女が、いつもの冷静な振る舞いと比べて面白く感じたのだ。

 まあ、そういうのも嫌いじゃないよな、と心の中で呟きながら、古城も構えを取った。

 

「……いいけど、軽くな、軽く」

 

 そう前置きした直後、古城に向かって銀色の槍が突き出された。

 性急な彼女に苦笑いしながら、どこか清々しい気分で、古城も剣を振るうのだった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 嵐城サツキの朝は早い。

 

 九月半ばの水曜日。まだまだ日も昇り切らない頃。

 けたたましく鳴るケイタイのアラームに、サツキは叩き起こされた。

 もぞもぞと手を伸ばして枕元のケイタイを手にとって時刻を確認し、大欠伸をしながらゆっくりと体を起こす。

 

 もっと惰眠を貪りたい衝動とふかふかのベッドの誘惑を振り切り、ベッドから抜け出した彼女は、部屋の窓とカーテンを一気に開け放った。

 射し込む朝日――は僅かだったが、流れ込んでくる早朝の冷気が、彼女の意識を完全に覚醒させた。

 

 弾かれたように窓際から離れて、素早く、けれど未だ寝ているはずの家族を起こさないように、気配を消しながら洗面所へと向かい、顔を洗う。

 近くの棚からタオルを引っ張り出して浴室に飛び込み、シャワーオン。

 時間を考えると、カラスの行水になってしまうが、致し方ない。

 

 こんな朝早くに彼女が起き出したのには、当然理由があった。

 

「うふ、うふふふ。待っててね、兄様、おはようの一番乗りはこのサツキちゃんなんだから!」

 

 全ては、誰よりも、彼の実の妹である凪沙よりも早く、古城(兄様)におはようを言ってあげるためである。

 両親が心配するため、週に二日しか行くことは出来ていないが、実行できる日はサツキにとってそれだけで、その日一日は幸せに暮らせそうな気がするのだ。

 熱めの湯が心地よい。体が軽い。朝のだるさなんて、これからのことを想像するだけで吹き飛んでしまう。

 

 思い起こせば、前世の記憶を夢に見るようになったのは十歳の頃。

 夢の中でのサツキは、剣技が得意で凛々しい、可憐なお姫様である、サツキにとって理想の自分がそこにあった。

 しかも夢の中のサツキの傍には、いつも一人の戦士の姿があった。

 

 フラガという名の彼は、強くてカッコよくて、しかも自分のことを心の底から愛してくれているという、完全無欠の兄様だった。

 サツキはフラガに恋をした。

 初恋だった。あるいは、転生してももう一度恋に落ちた。芽生え始めたばかりの恋心は、夢でしかないということすら忘れて止まらなかった。

 

 そして今――

 

 何千万年もの時間と、何億光年もの距離を超えて、サツキは古城(フラガ)と再会することが出来たのである。

 これを運命と呼ばずして何と言う?

 

「好き♡ 古城が好き! 大好き♡♡♡」

 

 胸の内が抑えきれなくなり、大声で叫んでしまう。この家の中には両親も居ることを思い出して、慌てて口を塞ぐ。

 だがしかし。もう、声高に主張してもよいのだ。

 

 前世でのフラガとの関係は、許されざる兄妹間での愛だった。

 禁忌への背徳感でサツキのピュアッピュアな乙女心は燃えに燃え上がったりもしたが、誰からも祝福されない関係だった。あ、あああ、赤ちゃんだって望めなかった。

 

 しかして古城()は!

 

 血縁城と戸籍上では繋がっていない!

 結婚だって合法。子供への悪影響も考える必要はない。

 

「ノープロブレム! オールオッケー! アタシは、もう何も怖くない!」

 

 盛大な死亡フラグ的なことを口走りながら、サツキはシャワーの栓をぎっちぎちに締めてから、浴室を飛び出した。

 

 まあ――

 問題と言えば、前世と違って、今の古城の周りには余計な女が何人も居ることだが。

 漆原をはじめ、藍羽、神崎、モモ先輩。そして、最近追加された、古城の監視役を名乗る姫柊雪菜とか言う後輩。

 法律的、倫理的な障害がなくなった分、ライバルも増えてしまったが――大丈夫。問題ない。

 

 タオル一枚頭にかぶっただけの状態で、サツキは自分の首筋に手をやった。

 二週間ほど前、愛しの兄様に刻まれた印があった部分を。今ではもうちょっとした跡しか残っていないのが残念だが、古城に付けられた傷と言うだけでサツキの優越感は存分に満たされるのであった。

 これのおかげで、古城とサツキの関係は他の有象無象とは、十歩も二十歩も差が出来ている。その有象無象に憐れみすら覚えるサツキ。調子のいい娘だ。

 

 最近の古城は特訓と言ってサツキよりも早く起き出しているが、それならそれで構わない。

 どちらにしろ最初におはようを言うのは自分だし、彼に恋をしてから母親にせがんで習得した料理スキル、お嫁さんスキルを披露するには絶好の機会だ。

 期待感に薄い胸を弾ませながら、サツキはいそいそと厳選した下着を着けて、クローゼットから制服を引っ張り出し、明るい色の髪を丁寧にサイドテールに結っていく。

 最後に姿見の前で細かい部分を整えて、昨夜の内に準備しておいた通学カバンを手に取り、未だ夢の中に居るはずの両親に小声で行ってきますを言って、サツキは意気揚々と玄関を飛び出した。

 

 古城の自宅があるマンションとサツキの家は、そこまでの距離はない。モノレールに乗る必要もないほどだ。

 徒歩で約二十分。走れば十分程度で着く。

 せっかくシャワーを浴びたばかりなのに汗をかくほど全力疾走、などという間抜けなことはしない。焦らず、しかしつい気が急いてしまい、早足になる。

 

 マンションまで辿り着き、丁度数人の住人を乗せて上昇しようとしていたエレベーターに滑り込む。

 あともう少しで古城に会えるという喜びについつい頬が緩んでしまう。同乗者に変な目で見られるが、気にしない。というか気が付かない。

 古城の部屋、705号室のある七階にエレベーターが到着する。喜び勇んで飛び出したサツキは、廊下をパタパタと駆けて、凪沙からもらった合鍵を取り出す。

 

 これを渡された時、古城が横で渋い顔をしていたのを思い出しながら、サツキはガチャガチャと解錠してドアを開け放った。

 

「兄様ぁ~~♡ 兄様の可愛い可愛い最愛の妹ことサツキちゃんがモー……ニング……コー……ル…………」

 

 サツキの幸せ一杯の声は、リビングに到達したところで、徐々にフェードアウトして行った。

 もはや慣れ親しんだ廊下を突っ切った先。テレビの前に設置された優に三人は横に座れるソファーの上。

 真っ白い、サツキの家にもあるような何の変哲もないソファーを目にしたサツキは、その姿のまま綺麗に固まってしまった。

 

 サツキが呆然と見つめる先。そこには、

 

 

 

「……っ、ぜぇ、はぁ……っ、ぜぇ……っ!」

「……はぁ、ふぅ……はぁ、ぁっ……ふぅっ」

 

 ――互いに衣服を乱して、激しく息を乱して全身汗に塗れた古城と雪菜が、ソファーにしなだれかかっていた。

 

 

 

 ジャージに白パーカーというラフな格好の古城は、まだジョギングから帰って来たばかりと言い訳は利くだろう。

 だが、乱れた彩海学園中等部の制服の襟元やら裾やら。汗で額や頬に張り付いた黒い髪。上気して薄ピンク色に染まった肌に茫洋とした、艶めいたとも言える切れ長の瞳。小さな唇から絶え間なく吐き出される熱を持った吐息……と、挙げていけば挙げるほど、もはやAどころかBまで通り越して、Cまで行ってしまったビジョンしか見えてこないではないか……!

 

「に、ににに、兄様ぁぁぁぁッッ!!? な、ななな、何やってるのよぉ!? まままさか、行くところまで行っちゃったんじゃないでしょうねぇ!? このあたしを差し置いてッッ!?」

「……ぅ、はぁっ、さ、サツキ……か……?」

 

 顔をトマトのように真っ赤に染めて食ってかかるサツキに、古城は常の気だるげな視線を向けた。

 何を勘違いしているのかは知らないが、今回の件に関して、悪いのは古城ではなく雪菜だ。そこは譲れない。

 

「ち、がう……! 悪い、のは……姫柊だっ……! 軽くって、最初に言っただろうが……っ!」

「そ、それは、悪いと……思って、ますけど……っ、でも、あそこ、まで激しくすることは、ないじゃないですか……っ!?」

「お前が、どんだけやっても満足しなかったんだろうが……っ! そもそも、最初に求めてきたのは姫柊の方だろ!?」

「確かにそうですけど! 何だかんだで先輩も楽しんでたでしょう!?」

 

 徐々に息の整ってきた二人の、ぴったりと合った息と会話の内容に、サツキは茫然自失となるしかない。

 希望と歓喜に満ちて乗り込んだはずなのに、叩きつけられた絶望と驚愕。

 がくりと膝を折り、崩れ落ちるサツキ。その瞳に光はない。

 

 そして、そんな混沌とした空間に、さらなるカオスをもたらす火種がやって来た。

 未だギャーギャーと騒ぐ二人の声に叩き起こされたか、可愛らしいパジャマ姿の暁凪沙が瞼を擦りながらリビングに立ち入って来たのだ。

 

「ん、んん。古城君……? 雪菜ちゃん……? あ、サツキお姉ちゃんも……? みんな、どうし……た……の……」

 

 どう見ても事後にしか見えない兄と友人の姿を見た衝撃か、凪沙の意識は完全に覚醒したようだった。

 

「え、ちょ、古城、君……? ゆ、雪菜ちゃんまで……なに、やってるの……???」

「あ、や、違うんです、これは……!」

 

 グルグルと目を回す凪沙に、今の自分たちがどう思われているのかをようやく理解して、慌てて誤解を解こうとする雪菜。

 そんな二人と、ショックから復帰できていないサツキを見回して、古城は深い溜め息を吐いた。

 朝から騒がしいな……と思ったが、大体いつもこんな感じである。

 そのことを思い出し、古城はもう一度溜め息を吐いて、昇り切った朝日を眺めた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「球技大会?」

「そ。で、バドミントンの練習に使うやつを、ウチの姉ちゃんに頼んで借りてきたのよ」

 

 朝。今度は早朝ではなく、本当に朝。

 彩海学園高等部の昇降口、古城のクラスの靴箱前。

 

 そこで古城は、丁度靴を履き替えていた先客と話をしていた。

 華やかな髪型に垢抜けた化粧。センス良く制服を着崩した、目立つ容姿の同級生だった。

 

「お前ってたまに気が利くよな」

「たまに、は余計だっての。ま、ホントのとこは昨日、お倫に頼まれたんだけどさ」

 

 男友達のような気安い口調。端正な口元に浮かぶニヤニヤ笑い。人懐こくて妙に印象的である。

 彼女――藍羽浅葱の足元には、大きなスポーツバッグが投げ出されている。閉まり切らないファスナーの隙間から見えたのは、使い古しのラケットが数本と、シャトルだ。

 浅葱が言うには球技大会のためのものらしいが、確かに全校生徒が参加する正式な学校行事だ。学校の備品だけでは足りないだろう。

 

「んで、古城は何に出ることにしたわけ?」

「さあなー……築島には、なるべく楽な種目にしてくれって頼んでおいたけど」

 

 そんな風に軽口を叩きながら、二人で教室へ向かう。いつの間にかスポーツバッグは古城が持たされていた。意外と重い。

 ちなみにサツキは、凪沙、雪菜と一緒に先に学校に行った。何でも雪菜のチアガールの衣装の寸法などの準備があるらしい。凪沙が言うには、雪菜のクラスの男子が全員土下座して頼んだとか。アホか。

 

 階段を昇り切り、古城と浅葱は教室に入る――直後、ざわっ、と空気がどよめいた。

 教室に居たのはクラス全体の七割程度。その全員が一斉に古城たちに視線を向けていた。

 

「な、何だ?」

「な、何よ?」

 

 思わず同じような戸惑いの声を洩らす古城と浅葱。

 クラスメイト達の視線に含まれているのは、納得と信頼が入り混じったような奇妙な一体感と期待感。

 

「よお、古城。相方と一緒に道具持って登場とは、流石に気合入ってんな」

 

 教卓の近くに居た、短髪をツンツンに逆立てた軽薄そうな雰囲気の男子、矢瀬基樹が、やけに調子よく声をかけてきた。

 古城にとっては中学時代からの悪友であり、浅葱にとっては幼馴染である。

 そんな友人を二人は胡乱げに睨んで、

 

「相方ぁ?」

「何言ってんの、あんた。年上の彼女に振られて錯乱でもした?」

「錯乱してねえし、振られてもねえよ! 縁起でもねえ!」

 

 声を上擦らせて叫ぶ矢瀬を無視して、古城は教室内に視線を巡らせた。

 探していた相手はすぐに見つかった。元々並外れた美少女なので、たった三十人ぽっちの中から探すのは簡単なのである。

 もっとも、いつもは明るい笑顔を絶やさないその少女は、今はとても不満げに頬を膨らませていたが。

 

「おい、サツキ? どうしたんだよ」

「…………」

 

 古城の問いに少女――サツキは直接答えることはなかった。……朝の一件は、あの後ちゃんと誤解を解いたはずなのだが。

 まさかまだ根に持っているのでは、と不安になった古城だったが、そうではなかったようだ。

 分かりやすく不貞腐れた表情のまま、サツキは細い人差し指で黒板を指差した。

 

 そこに立っていたのは築島倫。長身で大人びた雰囲気の女子生徒だ。黒板にはいかにも彼女らしい几帳面な字でクラスメイトの名前が全員分書かれている。

 

「球技大会の参加種目。丁度今発表したところなのよ」

「ああ……」

 

 築島の説明に、古城と浅葱はそれで何で自分たちが注目されるのかと首を傾げながら、黒板に記された白い文字を漫然と追って、

 

「バドミントンの男女混合(ミックス)ダブルス? 俺と浅葱のペアで?」

 

 意外な場所にある自分たちの名前に気付いて、古城は軽く唖然とした。

 もちろん古城にはバドミントンの経験はないし、出場を希望した覚えもない。というか黒板に記された自分たちの以外のメンバーを見たところ、クラス公認のカップルばかりではないか。

 

「……何であたしが古城と組まなきゃならないのよ?」

「今年からそういう規定になったの。シングルスが廃止で、代わりに男女混合(ミックス)ダブルスのペアを増やすようにって」

 

 そんな会話を二人がかわす横で、古城はサツキに話しかけていた。

 

「まあ事情は分かったが……それで、何でお前が拗ねてるんだよ?」

 

 いやまあ、訊くまでもないとは思ったが。

 

「……何でダブルスなのに、あたしと古城のペアじゃないのよ。納得いかないわ」

 

 やっぱりか、と古城は苦笑を零す。

 

「仕方ないだろ。そもそもお前はチア部だろうが。応援でお前自身は競技に出られないし」

 

 そう。この嵐城サツキはチアリーディング部に所属しており、しかもエースらしいのだ。チア部のエースとはこれかに、という感じだが。

 チア部は競技大会の際は慣例的に応援に徹することになる。たまに一般生徒の中から助っ人が引き抜かれることもあるが(今回の雪菜のように)、その助っ人も他の競技に参加することは出来ない。

 

 無論サツキもそんなことは重々承知しているだろうが、それでも納得がいかない、と言ったところだろう。

 面倒な妹である。そう思いながらも笑っているので、古城も中々に流されて来ていた。

 サツキの頭を撫でてやりながら、古城はメンバーからもう一人の親しい少女の名前を探していた。

 

「えーっと、あ、あった。……バスケの補欠? まあ、アイツ運動音痴だしな……」

 

 親しい少女――漆原静乃の顔を脳裏に思い浮かべて、古城は苦笑した。

 常日頃から昼行燈で通している静乃のことだ。球技大会など、やる気の一欠片も抱いていないだろうことは間違いない。クラスの皆もそこら辺は弁えたものでだからこそ、三人も居る補欠メンバーの最後の一人というポジションに据えられたのだ。

 

 と、噂をすれば何とやら。その漆原静乃が、教室のドアから入ってくるところだった。

 動いていなければ人形と見紛うような無機質な美しさ。

 能面のように硬質な表情。

 だがその体系は随分と自己主張が激しい。折れそうなほどに腰はくびれているくせに、上も下もボリュームがすごい。もう、言葉もないほどに。

 

「おはよう、古城」

「ああ、おはよう、静乃。……何か眠そうだな?」

 

 常と変らない無表情で、古城以外には分からないだろうが、僅かながらいつもより瞼が下がっていた。

 じぃっと注視しなければ気付かないほどの微妙な変化。パッと見ただけで見破れるのは、それこそ古城だけだろう。

 事実、すぐ近くのサツキは怪訝そうにしているし。

 

 静乃は、そのことに気付いてくれて嬉しいというように、少しだけ頬にえくぼを作った。これもまた、古城でなければ分からないほどあえかなもの。

 

「ええ。昨日は遅くまで調べ物をしてて、ちょっとね」

「大丈夫か? なんなら、授業が始まるまで寝てろよ」

「悪いけれどそうさせてもらうわ。また後でね」

 

 言うなり静乃はさっさと席に着いて、堂々と机に突っ伏して居眠りを始めた――古城の席で。

 

「オイ」

 

 流石の古城もツッコんだ。寝ろとは言ったが、誰も俺の席で寝ろとは言ってない。

 しかしツッコんだ時には、もうすでに静乃は完全に寝落ちしていた。

 その安心し切った寝顔に毒気を抜かれた古城は、仕方なく優しく静乃の顔を上げて机から離し、そっと抱き上げる。

 

「ちょっ、兄様ぁ!? 何やってるワケ!?」

「何って。コイツ寝てるから、コイツの席まで運んでやろうと思っただけだけど」

「古城が運ばなくてもいいじゃない! 起こせばいいでしょ!?」

「いやぁ。静乃のことだから、余程のことじゃないと起きないと思うぞ」

 

 泡を食ったようなサツキの声に適当に返しつつ、ササッと静乃を自分の席に座らせて、古城も自分の席に戻る。

 クラスメイトから向けられるはっきりとした嫉妬の視線にも気付かず、サツキと、そして浅葱とが古城に食ってかかろうとしたところで、予鈴が鳴り始めた。

 明らかに不満げな表情で、渋々といった様子で席に着くサツキと浅葱。それを見て苦笑する矢瀬と築島。相変わらず爆睡する静乃。

 

 今日もまた、他愛のない日常が始まった。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 昼休み。古城、サツキ、静乃、そして雪菜は、担任にして英語教諭、南宮那月の呼び出しを受けて彩海学園高等部の職員室棟校舎に向かっていた。

 中等部からやってきた雪菜が合流するのを待って、四人で向かう。

 

 その途中、不意に静乃が口を開いた。

 ちなみに彼女の眠気の方は、すっかり取れたらしい。

 それは取れるだろう。午前の授業中ずっと眠り続けていれば。あの那月の授業すら寝たまま受けたのだ。

 あの鬼担任の那月が閉口しながら成績表にバツを付けるしかなかったことからも、それが分かるというものだ。

 

「そういえば古城。昨日、私が調べていたことについてなのだけど」

「ん? ああ、そういや聞いてなかったか。何調べてたんだ?」

 

 朝の一幕を思い出し、頷く古城。

 古城の問いかけに、静乃は僅かに声を潜めて、

 

「――あの化け物、《異端者(メタフィジカル)》について」

「……っ!」

 

 それを耳にした瞬間、古城の表情が引き締まり、聞こえていたサツキと雪菜もハッと身を強張らせた。

 

「何か分かったのか?」

「ええ。各国が隠蔽していたみたいだけど、漆原家(ウチ)の情報網を使って何とか」

 

 財界の重鎮、漆原家。

 日本政府の官僚や議員などに多く人材を輩出し、絃神島の人口と管理公社にすら影響を及ぼす、超名門だ。

 日本だけでなく世界各国との間に繋いだパイプを使えば、引き出せない情報などないのだろう。

 

「確認されている中で、《異端者(メタフィジカル)》の被害はこれまでで三件。あの九頭大蛇も含めれば四件だけれど……どこに現れたのかも聞きたい?」

「ああ」

「一件目が北アメリカ、二件目が中東、三件目が欧州よ」

「ん? ……待て、そのラインナップって……」

 

 不思議な違和感を覚えた古城だったが、その違和感の正体に先に思い至ったのは、沈黙して聞いていた雪菜だった。

 

「もしかして……三件とも、吸血鬼の真祖が収める領地……〝夜の帝国(ドミニオン)〟で起こったんですか!?」

「御明答よ」

 

 雪菜の驚愕と畏怖の混じった声に、静乃は淡々と頷いた。

 

 欧州――第一真祖の領地、〝戦王領域〟。

 中東――第二真祖の領地、〝滅びの王朝〟。

 北アメリカ――第三真祖の領地、〝混沌界域〟。

 魔族の王たちが統べる三つの帝国。その全てに、あの世界から逸脱した化け物が現れている――これは、偶然か?

 

「それぞれ〝夜の帝国(ドミニオン)〟の軍隊を派遣したらしいけれど被害は甚大。〝混沌界域〟に至っては、真祖自らが戦場に出て何とか収束したらしいわ」

 

 それだけで、ヤツらがどれだけの脅威だったのか、よく分かる。

 真祖は、〝夜の帝国(ドミニオン)〟の最高戦力だ。それを投入しなければならないほどの相手。九頭大蛇と直に対峙した四人であるからこそ、《異端者(メタフィジカル)》の恐ろしさをよく知る四人だからこそ、戦慄を覚えずにはいられない。

 

「そして今回現れたのが、この絃神島――ここを第四真祖の領地だと考えれば、明らかに作為的なものを感じるわね」

 

 どうやら静乃も古城と同じ疑念を感じているようだ。

 第四真祖の領地云々に関しては脇に置くとして、偶然がこれだけ続くと流石に怪しく思えてくる。

 だが、だとしたら、一体どこの誰が、何の目的でこんな真似を――? 考えても答えは出ない。

 

 重苦しい沈黙に包まれたまま、古城たちは那月の執務室に到着した。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 那月の執務室は、何故か学園長室よりも見晴らしのいい最上階にあった。理事長室と同じ階である。

 この学園の理事長は漆原家の人間、静乃の兄である。そんな男と同等の影響力を持っているのは、流石に規格外である。

 分厚いビロードのカーテン、年代物のアンティークの家具。天蓋付きのベッド。ここに来る度に、どこの王宮だとツッコみたくなる。

 

「那月ちゃん、来たぜ――ぐおっ!?」

「こ、古城!?」

「せ、先輩!?」

 

 分厚い木製の扉を開けて部屋の中ずかずかと入り込んだ古城の頭蓋骨を、いきなりすさまじい衝撃が襲った。

 あえなく仰向けに転倒する古城を、すぐ後ろを歩いていたサツキと雪菜が慌てて抱き起こす。静乃は鉄面皮で知らんぷり。

 

 そんな四人を、黒いドレスを着た部屋の主は奥から冷ややかに見つめていた。

 幼女にしか見えない童顔だが、自称二十六歳のれっきとした英語教師。そして、絃神市内の教育施設に義務付けられた生徒の安全確保のために配置された国家攻魔官、その一人でもある。

 彼女は高価そうなアンティークチェアに深々ともたれて、黒レースの扇子を開き、

 

「私のことを那月ちゃんと呼ぶなと言っているだろう。いい加減に学習しろ、暁古城」

「ぐっ……殴る前に言ってくれてもいいだろ」

「殴る前に言って、お前が改めたことがあったか?」

 

 涙目で発した反論もすげなく論破されてしまう。正論である。

 これ以上言い合っても仕方がないので、さっさと本題に入ることにする。

 

「それで、那月ちゃ……先生。俺たちが呼ばれたのは何でだ?」

 

 性懲りもなく那月ちゃんと呼びそうになった古城だったが、本人の一睨みで慌てて言い直す。

 那月はチッと舌打ちをしてから、僅かに椅子から身を乗り出した。

 

「いろいろあるが、まずは一つ目だ。……あの化け物、《異端者(メタフィジカル)》のことだ」

「…………」

 

 半ば予想できていたことだったので、四人とも静かに頷くのみに留めた。

 

「まず、アイツらがこの絃神島以外でも出現していることは知っているか?」

「ああ。さっき静乃から聞いたよ。全ての〝夜の帝国(ドミニオン)〟で一体ずつ現れてるって」

「漆原からか。なるほどな。……ならそこら辺は飛ばしていいな。これを見ろ」

 

 そう言って那月は、机の上に三枚の写真を投げ出した。

 代表して雪菜が取りに行き、その写真を目にして大きく眼を見開く。

 そのただならない様子に古城たちも警戒の表情を浮かべた。しかし、雪菜が持ってきた写真を見ると、すぐにその表情は驚愕と戦慄に取って代わった。

 

「こいつらは……!」

「《異端者(メタフィジカル)》……よね?」

 

 呻く古城とサツキ。声には、拭い切れない恐怖が色濃く表れている。

 

 一枚目に映っていたのは、大きさ八メートルほどはある巨大な髑髏。ありとあらゆる方向にくねっている触手のような頭髪がざんばらになっている。目に当たる部分には赤い光が、嘲笑うように輝いていた。

 写真の下に書かれた場所は、〝混沌界域〟。第三真祖の領地に現れた《異端者(メタフィジカル)》ということだろう。

 

 二枚目に映っていたのは、十メートルを優に超える大ムカデ。百足(ムカデ)の名前の由来となる無数の足の代わりに、赤ん坊を彷彿とさせるまんまるとした腕がびっしりと生えている。

 場所は〝滅びの王朝〟。コイツは、第二真祖の領地に現れた個体だ。

 

 三枚目に映っていたのは、体長十数メ―トルはある黒豹じみた化け物。瞳に金色の光が炎のように揺らめき、口腔からゴムホースのようなナニカを伸ばしていた。

 コイツが出た場所は、〝戦王領域〟。第一真祖の治める〝夜の帝国(ドミニオン)〟だ。

 

「……うっ」

「サツキ……」

「ご、ごめん……兄様」

 

 不意にサツキが口元を押さえて、隣の古城に寄りかかってきた。

 顔色は青を通り越して蒼白になっている。無理もない。古城や雪菜どころか、静乃ですら露骨に眉を顰めているのだ。

 

 どいつもこいつも、吐き気を覚えるほどに気色が悪い。

 こんな気味の悪い生物が、この青き水の星に居るはずがない。

 居るべきではない。

 居てはならない。

 

 即ち、《異端者(メタフィジカル)》。

 

「那月ちゃん……こいつは」

「……これまでに出現した、《異端者(メタフィジカル)》だ。いずれも大きな人的、物的被害を出している」

 

 またちゃん付けをしていたが、那月は特に何も言うことはなかった。眉に寄る皺を見るに、心境的にはそう変わらないのだろう。

 

「そういう意味では、今回は幸運だったのかもしれんな」

 

 あの九頭大蛇による被害と言える被害は、精々が討伐に動いた特区警備隊(アイランド・ガード)の死傷者と、北地区の廃棄された研究所一棟、そして巨大なダストボックスとなっていた増設人工島(サブフロート)ぐらいだろう。

 死者も数名。民間人への被害はゼロだった。損害としては軽微と言っていい。

 むしろ、

 

「むしろ、お前が四号増設人工島(サブフロート)を消し飛ばしたことの方が問題視されているがな。管理公社では。あれ、いくらぐらいの損害額か聞いてみるか?」

「やめてくれ! つうか、責任は取るって那月ちゃんも言ってたじゃねえか!」

「私はただ、被害は極力抑えてやる、と言っただけだぞ。特区警備隊(アイランド・ガード)の連中を逃がしてやったり、本島から切り離してやったりな」

「…………ちなみに、どのぐらいしてるんだ?」

「ゼロが両手でも足りないぐらい、と言っておくか。片足まで使えばギリギリ足りるか? いくらデカイだけのゴミ箱とはいえ、建設にはそれなりの費用がかかっているからな」

「ぐぉぉぉ……」

 

 明らかに面白がっている那月の言葉に、古城は頭を抱えて呻いた。

 すでに倉庫街を焼き払ったせいで五百億円の借金を抱えているのに、今回はそれより遥かに多いと言う。

 不老不死の吸血鬼になってしまったとはいえ、全額返済するまでに一体何百年かかることやら。

 

 落ち込む古城の肩を苦笑しながら慰めるように叩く雪菜。その反対側から、静乃が優しく声をかけた。

 

「安心して? 私の家、漆原の財力なら、すぐにでも返せるわ?」

「そ、そうなのか……?」

「ええ、もちろん。だってあなたが私と結ばれれば、わたしの資産は全部あなたのものだもの」

「結局それかよ! ありがたいけどやめとくわ!」

「あら、何が不満なのかしら? 私と結婚したら、これも古城のものなのよ?」

 

 豊か極まる胸の下で腕を組んで、これ見よがしにそれを強調する静乃。

 駄目だとは分かっていても、悲しきかな男の本能。ついつい至福の柔らかさと弾力を持つそれに、視線が吸い寄せられてしまう。

 柔らかさとか弾力とかを何故知っているかについては、推して知るべし。

 

「先輩……?」

「いでででで! ちょっ、本気で抓るなって!」

 

 ゴクリと喉を鳴らした古城の脇腹を、ジト目の雪菜がギリッと抓る。

 制服越しのはずなのに伝わってくる激痛に身を捩る古城。細い指のくせに何という力だろうか。

 

 そんないつも通りの光景に、顔色を青くしていたサツキも、ようやく笑顔を見せた。

 もしかしたらこのために那月はこの話を振ったのかもしれない。さすがは教師という視線を古城が送ると、彼女は分かりやすく視線を逸らした。苦笑する古城。

 静乃が肩を竦め、雪菜が柔らかく微笑む。

 

 とりあえず写真を三枚重ねて裏返して近くにあった台に置き、古城は話を再開した。

 

「それで? 話はこれだけっすか?」

「いや、実のところこの話は世間話に近い。もう一つ、重要で――お前にとっていい話がある」

「は?」

 

 ニヤリと不敵に笑う那月に訝しげな視線を向けるが、那月は取り合わずに古城たちの背後、扉の方へ視線を向けた。

 

「おい、入ってこい」

 

 そして、誰かに向かって入室を命令する。

 木製の扉が開き、反射的に古城たちが避けたことでできた道から、一人の少女が入ってくる。

 

「――命令受諾(アクセプト)

 

 どこか奇妙な響きを持つ声と共に。

 その少女の顔を見て、古城と雪菜、サツキは驚きに目を見開き、静乃は特に表情を変えずに興味深げに観察する。

 

 左右対称の人工的な顔立ちに、藍色の長い髪、感情のない淡い水色の瞳。

 古城たちは、その少女に見覚えがあった。

 

「あなたって、あのデッカイ人が連れてた、眷獣憑きの――!」

「アスタルテ……さん!?」

 

 驚愕に目を見開くサツキ、雪菜。

 アスタルテ。人工眷獣〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟を埋め込まれた人工生命体(ホムンクルス)の少女である。

 古城も同じように驚きつつも、事情を知るであろう人物、那月の方へと視線を移した。

 

「何でこの子が学校に居るんだよ」

「キーストーンゲート襲撃に加担した人工生命体アスタルテは、三年間の保護観察処分中でな、国家攻魔官である私の所に話が来たんだが――せっかくだからな、お前の所で面倒を見てもらうことにした」

「は!? どういうことだよ!?」

「要するに、お前にアスタルテを引き取れ、と言っている。喜べ、暁。お前専用のメイドが手に入るぞ?」

「メイドって……だから、こんな恰好してんのか」

 

 古城はもう一度アスタルテの方に目をやって、溜め息を吐いた。

 人工生命体(ホムンクルス)の少女は、ほっそりとした未成熟な身体を、露出度高めのエプロンドレスに包んでいた。コスプレメイドさんのように見えなくもない。

 呆れる古城に、那月はフンと得意げに鼻を鳴らし、

 

「どうだ? かつて、吸血鬼の令嬢も着ていたプレミアもののメイド服だぞ? 特別に貸し出してやった」

「これ、アンタのかよ! てか、何でメイド服なんて持ってんだ、着るのかアンタ!?」

「何だ、暁。私のメイド服姿が見たいのか? どうしようもない変態だな」

「誰がそんなこと言ったよ」

 

 このままではただの水掛け論になりそうだったので、話の方向を修正する。

 

「まあ、事情は何となく分かったけど……何で俺の所なんだ?」

「うむ、私は教師の仕事もあるからな。十分に見張ることは難しい。……ぶっちゃけ、面倒だしな」

 

 絶対、最後の一言の方が本音だ。

 

「後はまあ……本人の意思だな」

「え?」

 

 驚いてアスタルテを見つめる古城に、アスタルテは小さく頷いた。

 その姿は、初めて出会った頃の無機質さが薄れた、確かな人間らしさがあった。

 

「……お前が望んだ、のか?」

「肯定。……私は、あなたに救われました」

 

 ある男の道具として造られた少女は、自分の胸に手を当てて、語った。

 

「全てを壊すために、滅ぼすためだけに造られた私は、長く生きることもなく死ぬ運命にありました。当然です。用が済んでしまえば、ただの道具に価値などないのですから」

「アスタルテ、それは――」

「ですが、そんな私を、かけがえのないものを壊そうとした私を、あなたは救ってくれました」

 

 確かな強い意志を帯びた視線に射抜かれて、古城は口を噤む。

 

「私は、あなたのおかげで全てを得ました。生きる意味も、自分の意思も、守りたいものも、戦う理由も、全て、全てを」

「…………」

「だから今度は、私が、私の方から、あなたに何かを与えたい。あなたの傍に居て、ずっと何かを与えてあげたいと、そう思ったんです」

「アスタルテ……」

「駄目、でしょうか」

 

 相変わらず、表情はほとんど変わらない。静乃といい勝負だろう。

 だが古城には、いつもその静乃と接しているからか、古城には分かった。

 無表情の裏で、アスタルテは今不安に揺れている。

 古城に拒絶されるのではないか、古城に何も出来ないのではないか。そんな不安に、駆られている。

 

 その不安はきっと、彼女の負い目から来るものだ。

 考えてみれば、古城と彼女は元々敵同士。あちらにその気がなくとも、こちらが彼女を憎んでいる可能性もある。いや、アスタルテは一度、雪菜を殺そうとすらしたのだ。憎まれて当然。

 そんなことを、考えているのだろう。

 

 古城は、思わず苦笑を浮かべた。

 ここで拒絶できるような奴が居るのかよ? ヤケ気味にそんなことを思い浮かべながら、古城は手を伸ばす。

 反射的にかビクッと肩を震わせるアスタルテの頭に手をやり――そっと、優しく撫でてやる。

 

 おずおずと古城を見上げるアスタルテに、古城は優しく微笑んで、

 

「……よろしくな、アスタルテ」

「……はいっ、よろしくお願いします。マスター」

 

 勢い込んでそう言ってアスタルテは――小さく、けれど確かに。

 ほんの少しだけ、口角を上げて――

 笑ったのだった。




 いかがでしたでしょうか。
 作者がストブラヒロイン勢で一番好きなのは、叶瀬花音ちゃんですが、アスタルテは二位です。ちなみにアヴローラが三位。
 ワルブレでいえばまーやのポジションに入ったアスタルテちゃん。

 次の投稿も遅れるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。


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2‐2 戦王の使者 ―From The Warlord’s Empire―

ヴァトワードさんが遂に登場します。乞うご期待!


「死にさらせや、暁ィィィッッッ‼」

「うおっ」

 

 体育館、いくつも立てられたバドミントンコートの一つで、古城は相対する男子生徒の鬼気迫る勢いのスマッシュを受けかねて、思わず声を洩らした。

 腕とラケットが一体になったかのように、鞭のようにしなって見事な曲線を描き、ガットがシャトルのコルクの真芯を捉える。

 パコォォォン、という快音が鳴り、空気を裂いて飛来するシャトル。狙いは古城の頭部。狙撃手もかくやの正確な狙いの割にかわしてもインになる軌道で、無駄に素晴らしい一打だった。

 

 体に染みついた癖で思わず首を逸らして避けてしまい、ラインギリギリで跳ねるシャトルを見て、古城は素直に感嘆した。

 この人、バドミントンの経験はなかったはずだが……

 

「どうだ、見たか暁! このオレ様の魂の一球! 美少女とイチャコラしまくって腑抜けた貴様にゃあ、目で追うことすらできんだろう‼」

 

 得意絶頂、しかしその双眸を嫉妬と憤怒で彩り、肩を怒らせて叫ぶのは、彩海学園高等部二年、万年堂亀吉である。

 無駄に大きな声が体育館内を反響し、迷惑そうな視線が集中する。しかし嫉妬に突き動かされた彼はまったく意に介さない。いっそ感心する。

 

「いや、本当にすごいっすね、カミー先輩。どこかで習ったんですか?」

「ふ……この球技大会のために、オレ様がどれだけの鍛錬を積み重ねてきたと思ってる?」

 

 わざわざ古城に背を向け、片手を額に当てて沈痛そうな表情を浮かべる万年堂。

 

「今年の球技大会はシングルスの枠が減り、男女混合(ミックス)ダブルスの枠が増えたと聞いたその日から、オレ様はペアとなってくれる女子を探して回って土下座で頼みこみ、我が親愛なる心の友たちに協力を要請(土下座)して猛特訓に猛特訓を積み重ねてきた……」

「はあ……。どうしてまた、そんな面倒なことを?」

「決まっている! 全ては、応援に来る女子たちにオレ様のビューティフルでワンダフルなプレイを見せつけて、『キャー、センパイステキー、ダイテー』って展開を呼び招くため!」

 

 一部分だけ、割れまくった裏声で語り、万年堂は一息吐くと、カッと目を見開き、

 

「そう、全てはッ! 女子にモテたいがためにッッッ‼」

 

 その言葉への周囲の反応は、主に三つ。

 相も変わらずうるさく叫ぶアホに迷惑そうな視線を送る者。

 あまりにも明け透けで下らない欲望丸出しの宣言にしらっとした視線を向ける者。

 万年堂の言葉に〝漢〟を見出し、尊敬の眼差しを送る者。

 

 古城の反応は、大体二つ目だった。

 

「最初に言っておくぞ、暁!」

「はい」

「オレ様はお前が大っ嫌いだ!」

「知ってますよ」

「はっきり言って、二年でオレ様よりイケてる男子なんぞ存在しねえ。誰一人、オレ様の足元にも及ばない。なのにオレ様の周りには野郎ばっかで、キャワイイ(死語)女子が一人も、そう一人もッ! 居ねえんだよ。だというのに、お前というヤツは学園っつうか島内有数の美少女を何人も独占しやがってファック!」

「それ、前も聞きました」

「だからオレ様はお前が憎い! 妬んでいる! お前をいびることをこの上ない生き甲斐としている! お前に嫌がらせできるのであれば、オレ様は悪魔にだって魂を売るだろう!」

「それも前、聞きました。ていうか、顔を合わす度にそれ言われてるんですけど」

「だがオレ様も鬼ではない。お前がこれ以上公衆の面前で堂々とイチャつき、オレ様たちの嫉妬の炎を煽るような狼藉を止めて、誠心誠意謝罪し卒業までオレ様のパシリとなるならば、まあ、許してや――」

「あ、もういいっすか?」

 

 万年堂の妄言を聞き流し、古城はコートを出た。

 周囲からの同情の視線を受けながら、壁際に座り込む。

 あの先輩、言ってることとやってることはアホだが、大分強かった。バドミントン歴ゼロヶ月の古城には、吸血鬼の身体能力ありきでも荷が重い。

 はぁ、と溜め息を吐いて体育服の襟元をパタパタとする古城に、横からタオルが差し出された。

 

「提供。……お疲れ様です、マスター」

「お、ありがとな。アスタルテ」

 

 ごく自然に古城の隣に居座っていたのは、メイド服を着込んだ藍色の髪の少女、アスタルテだ。

 礼を言ってタオルを受け取り、ザッと顔と首筋辺りを拭う。

 そのタオルをアスタルテに返却すると、交換とでもいうように、スポーツドリンクを差し出してきた。

 彼女の用意の良さに苦笑しながら、それもありがたく受け取った。

 無表情ながら、どことなく嬉しそうに古城を見守るアスタルテ。少しむず痒さを感じつつも、古城はそのままにさせた。

 

「あー……カッコ悪いとこ、見せちまったか?」

「……?」

「ほら、俺、カミー先輩にボコボコにされてただろ? だから、カッコ悪かったんじゃねえかなー、と」

「否定。そんなことはありません」

 

 予想よりも強い口調で反論されて、思わずうろたえる古城。

 そんな古城にズイッと顔を寄せて、アスタルテは言った。

 

「実力差があっても、諦めようとしないマスターのお姿は、とても素敵に見えました」

「お、おう……そ、そうか」

 

 臆面もなく放たれた言葉に、古城は赤面した。どう返していいのか分からない。

 誤魔化すようにスポーツドリンクを呷る古城を、アスタルテは微笑ましそうに見つめる。

 二人が醸し出す、ある種甘ったるい雰囲気。それに好奇と嫉妬の視線を向ける者は居ても、邪魔をするような無粋な者は――

 

「おぅら、言ってる傍から、何イチャついてんだこの野郎ゥゥゥォォォォオォオオオォォォォッッッ‼」

 

 すわ殺気!

 突如として飛来する弾丸のようなシャトル。それを打ち出した、般若のような形相の万年堂。

 逸早くそれを察した古城の動きは速かった。

 シャトルの軌道を確認し、アスタルテにも直撃してしまうことを見抜くや否や、グイッと力強くアスタルテを抱き寄せ、左腕を翳す。

 

 直後に、翳された古城の二の腕にシャトルが直撃し、痛みに表情を歪める。

 

「……ッ、マスター!」

「だい、じょうぶだ……」

 

 腕の中で血相を変えるアスタルテに、古城は強がりの笑顔で返した。

 しかしアスタルテは納得せず、古城の左手を引っ張り、自分の前に持って行く。

 赤く腫れ上がっているのを見て、アスタルテは僅かに表情を歪めた。

 

「推奨。今すぐ冷却を」

「いや、大丈夫だって、ホントに」

「ですが……」

 

 なおも食い下がるアスタルテ。

 実際、この程度の負傷なら、吸血鬼の真祖である古城にとって怪我の内に入らない。放っておけばすぐに跡形もなく自然治癒するだろう。

 

「お、おい、だだだだだ大丈夫なのか!? わわわわわ悪い、お前なら避けられると思ってて……!」

 

 慌てまくった様子で謝罪してくる万年堂。心底申し訳なさそうな彼に、古城は苦笑した。

 こういうところがあるから、この先輩は憎めないのである。

 カップルばかりの空間で居心地の悪さを感じていた古城に、真っ先に声をかけて試合を申し込んできたのも、この先輩だった。

 何気に古城は、万年堂のことが嫌いではないのだ。

 

「……ん? 何だ?」

 

 その時、不意に体育館の入口の方から、おおー、というような複数の感嘆の声が聞こえてきた。

 興味を引かれてアスタルテを連れて行ってみる。

 入口を囲むようにして出来た人垣をかき分けて最前列まで割り込んだ古城の目に飛び込んできたのは、

 

「あ、浅葱……?」

「こ、古城……」

 

 思わず洩れた古城の声に反応して、向けられる視線に肩身を狭くしていた浅葱が、安心したように表情を緩ませた。

 しかし、古城がなおも自分をまじまじと見つめていることに気が付いて、頬を赤らめる。

 

「あ、あんまり見ないでよ……」

「わ、悪い。けど、何でそんな恰好してるんだ……?」

 

 心底不思議そうな古城の問いに、浅葱はさらに、剥き出しの肩を縮こまらせた。

 今の浅葱が着用しているのは、ヒラヒラの短いスコートに、丈の短いノースリーブのポロシャツ。異様に肌の露出の多いユニフォームだった。

 確かにバドミントンのものだが、たかが学校行事、しかもその練習で着用するには、気合が入り過ぎだろう。

 意外によく発達した浅葱のスタイルが表面に現れて、思わずドキッとしてしまう。

 

「これは、お倫が無理矢理あたしに……似合うって……」

「あー。築島のやつか、なるほどな」

 

 推測するに、また倫の悪ふざけに巻き込まれてしまったのだろう。

 矢瀬と倫はよくそんなことをするが、一体何が楽しいのだか。

 赤面して意味もなくスコートの裾をいじる浅葱に同情気味の視線を送って、古城は何げなく言った。

 

「まあ、気にすんなよ。お前がそんな恰好してても、俺はどうとも思わないしな」

「そ、そんな恰好って……」

 

 古城の言葉に、何故か少し傷ついた様子を見せる浅葱。

 興味津々というように古城たちを眺めていた野次馬も、今は古城の方に責めるような視線を送っていた。

 周囲の反応にたじろぐ古城の横から、先程から沈黙していたアスタルテが口を挟む。

 

「……納得。即座に謝罪を推奨します、マスター」

「へ? 謝罪って、俺か?」

「マスター……? ちょっと古城、その娘、何よ?」

 

 アスタルテの言葉に首を傾げる古城。意味が分からなかった。

 そんな二人を、浅葱は恥ずかしさも忘れて訝しげに睨みつけた。

 そういえば初対面だったか。思い至り、古城はアスタルテに簡単に浅葱を紹介する。

 

「アスタルテ。コイツは、藍羽浅葱。俺の中学時代からのダチだ。ほら、アスタルテ。お前も自己紹介しろよ」

命令受諾(アクセプト)。初めまして、ミス藍羽。私は人工生命体(ホムンクルス)のアスタルテと言います。以後お見知り置きを」

「アスタルテは、何かの事件の重要参考人らしくてな、那月ちゃんに頼まれて、俺が預かることになったんだ」

「那月ちゃんから?」

 

 那月が国家攻魔官だというのは周知の事実。これは当の那月と考えた、アスタルテを引き取る上で周りに怪しまれないための建前だった。

 ついでに浅葱は、古城が那月の仕事をちょくちょく手伝っているというのも知っている。これで納得してくれるといいのだが……。

 そんな古城の思いも虚しく、浅葱の猜疑の視線は揺るがなかった。

 

「それは分かったけど……なんでそんな恰好してるわけ? メイド服とか」

「あ、いや、この服は那月ちゃんのものなんだが……」

 

 恰好で言えば、浅葱も他人のことは言えないだろうに。喉元まで出かかった言葉を呑み込み、古城は何とか言い訳を捻りだそうとする。

 しかし古城が思い付くよりも早く、アスタルテがしれっとした顔で爆弾を投下した。

 

「回答。それは私が、マスター――暁古城の、所有物だからです」

「ぶっ!?」

「なっ!?」

 

 噴き出す古城と浅葱。驚愕する周囲の野次馬たち。

 男子から降り注ぐ嫉妬と羨望、女子から降り注ぐ軽蔑と嫌悪の視線に、古城は頭を抱えた。

 

「ちょ、ちょっと古城!? 所有物って――どういうことよ!? あんたまさか、こんな小さな子に……!」

 

 詰め寄ってくる浅葱に、古城もう何もかも面倒になって体育館の天井を仰いだ。

 

「これからも、よろしくお願いします。ミス藍羽」

 

 どことなく勝ち誇ったような、アスタルテの言葉を聞きながら、額に手を当てて小さく呟く。

 

「……勘弁してくれ」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 浅葱の、怒りを叩きつけてくるような練習を終えた後。暁古城は、一度教室に帰ってから着替えて、校舎内の自販機コーナーに向かっていた。アスタルテも一緒だ。

 

「くっそ……浅葱のやつ、本気で来やがって」

 

 よく冷えた缶コーヒーを二本買い、その内の一本をアスタルテに渡す。

 

「ほれ。コーヒーでよかったか?」

「はい。ありがとうございます、マスター」

「ん」

 

 二人で近くのベンチに座って、ちびちびと飲料を啜る。

 チラリと横に視線を向けると、メイド服姿のアスタルテが、両手で缶を持ってくぴくぴと黒い液体を流し込んでいた。うっかりブラックを渡してしまったが、どうやら問題はなかったらしい。

 

 今回暁家で引き取ることになったアスタルテだが、古城と凪沙が学校に行っている間は、彼女は保健室の手伝いをすることになっていた。

 彼女は元々、医療品メーカーに設計された臨床試験用の人工生命体(ホムンクルス)だ。医療活動に必要な知識は、標準装備として遠隔記憶(フラッシュロム)に焼き付けられている。アスタルテは元々、そちらのほうが本領なのだった。

 

 ぼんやりと夕陽を眺める。

 そろそろ浅葱も着替えを終えて家路に着いた頃だろう。静乃もとっくに帰っているだろうし、チア部の活動があるサツキと凪沙、雪菜はまだ残っているかもしれない。

 何なら一緒に帰るかな……、と考えながら、古城が缶コーヒーの最後の一滴を飲み干し、アスタルテと二人で立ち上がった――直後、

 

 二人がそれまで座っていたベンチが、突然、膨らみ切った風船のように弾け飛んだ。

 

「……ッ!?」

 

 砕け散った木々の破片が古城の頬を掠めて飛ぶ。古城は困惑を押さえつけて、冷静な思考を保とうとする。

 本能的な危険を察知した吸血鬼の細胞が活性化し、鋭敏になった感覚器官が訴える直射日光への悲鳴の代わりに、数秒が数十倍にも引き延ばされるほどの超知覚を得る。

 直後に、古城の足元に飛来する銀色の閃光。

 

 古城は一瞬で全身に純白の通力(プラーナ)を纏い、隣のアスタルテを抱えて跳躍。ギリギリのタイミングで閃光をかわした。その正体は金属製の矢。鋭い鏃と羽根を備えた洋弓の矢だ。

 

「おいおい、どこの暗殺者だ……!?」

 

 愚痴りながら、古城は眉間の門に通力(プラーナ)を集めて《天眼通》を強化、並行して《天耳通》も発動し、視覚と聴覚で射手の居場所を探る。

 発射時に音を立てない弓矢は、視界の悪い市街地における戦闘では、時として銃をも凌ぐ脅威となり得る。

 ざっと視線を巡らせただけで、潜伏可能な場所は山ほど確認できる。相手だけが一方的に攻撃できるという状況はよろしくない。

 さらに通力(プラーナ)を込めようとしたところで、腕の中のアスタルテが警告を発した。

 

「マスター! あれを……」

「……っ、マジか……!」

 

 地面に刺さっていた矢が突然するすると解けて形を変える。一度カーテンのように金属の薄板となったかと思うと、再び変形して膨張し、折り曲げられ、複雑な獣の姿を取った。

 まるで、鋼鉄製の折り紙のように。

 

「犬……いや、ライオンか!」

 

 仮初めの命を得た金属板が本物の獣のように咆哮し、野性的な動きで古城たちに向かって跳躍する。

 もう一度後ろに跳躍しようとするが、背後にも目の前の鋼鉄製の獣と同じ気配を感じた。

 舌打ち一つ。強引に方向転換して地面を強く蹴り、前後から襲いかかる鋼の獣たちの挟撃を横に跳んでかわす。

 

 標的を失った二体の獣は、正面衝突してもつれ合うようにその場に倒れ込む。だが、これで倒せたわけではない。

 

実行せよ(エクスキュート)、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟――」

「待て、アスタルテ! ここで召喚するのは目立ち過ぎる!」

 

 止めを刺すために眷獣を召喚しようとしたアスタルテを、古城は慌てて止めた。

 いくら放課後とはいっても、部活などでまだ残っている者は居るだろう。万が一にも目撃されるわけにはいかないし、何より完全に威力過多だ。吸血鬼の眷獣とはそれだけの力を持つ。

 

 同じ理由で、だがより切実に、古城の眷獣も使用できない。

 この程度の、たかが呪術で生み出された程度の怪物であれば、古城の眷獣なら一瞬で消滅させられるが、全校生徒と校舎を道連れにするわけにも行くまい。

 天災に匹敵すると言われる第四真祖の眷獣。この程度の相手を相手にするには、強力すぎるのだ。

 

 無論、光技や闇術を使用してもいいが、闇術は眷獣と同じく威力が高すぎるので却下。光技も、この炎天下で古城の身体能力は大幅に低下している。ロクな動きは出来ないだろう。

 

 ならば――

 

「どういうつもりか知らないが、目には目を、獣には獣を、ってな! ――起きろ、渾沌ルズガズリンケン!」

 

 言下に、古城の足元の影から、二匹の黒い犬ともつかない形容しがたき怪物が現れた。

 冥王シュウ・サウラの創造した四体の戦闘用ゴーレム。〝四凶〟と恐れられた四体の内の一体だ。

 かりっかりの戦闘用であるルズガズリンケンならば万が一にも敗れることはないし、全身真っ黒でサイズも大型犬程度なので、発見されるリスクが格段に少ない。

 

 出現した二体のゴーレムが、それぞれ鋼鉄製の獣たちに襲いかかる。

 鋼鉄製のライオンの首筋に一体が噛み付いて引き千切り、狼を上から跳びかかって押し潰し踏み躙る。もはや戦闘とも呼べない、圧倒的な蹂躙、単なる駆除のような光景だった。

 

 程無く戦いは終わり、古城たちの前にはバラバラになった金属片が転がっていた。少しの間身構えていたが、見えない敵の攻撃も中断されたらしい。諦めてくれたのか、それとも別の理由か。

 どちらにしろ助かったことに変わりはない。古城は溜め息を吐いてその場にへたり込んだ。

 どことなく嬉しそうに残骸を踏んだり千切ったりして遊ぶルズガズリンケンたちを見ていると、不意に袖を引かれた。

 

「……申告。マスター、そろそろ……」

「え? あ、すまん」

 

 心なしか顔を赤くしたアスタルテが、肩を縮こまらせて古城の服の裾を小さく握っていた。慌てて腕の中の彼女を放してやる。

 地面に立った彼女の意味ありげな視線に耐えかねて眼を逸らすと、召喚したゴーレムの片方が、口元に一通の真新しい封書を銜えて近付いてきた。金色の箔押しが施された豪華な封筒を、銀色の封蠟が閉じている。

 そこに刻まれた、蛇と剣を模した紋章のような印璽(スタンプ)。格調高くはあるが、どことなく不気味さを感じさせるデザインだ。

 

 生憎と古城もアスタルテも、その刻印には心当たりがなかった。

 

「……何か疲れたし、今日はもう帰るか」

命令受諾(アクセプト)

 

 古城はその封書をパーカーのポケットに押し込んで、無表情に頷いたアスタルテを伴って家路に着いた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 夕日に照らされた海沿いの歩道を、暁古城は歩いていた。

 一歩前をエナメルバッグを提げたサツキ、右にギターケースを背負った雪菜、半歩左後ろをアスタルテが歩いている。

 四人は少し寄り道をして古城たちの住むマンションの近くにあるスーパーマーケットへ向かった。古城の妹である凪沙はチア部の活動があって遅くなるらしい。サツキもなのだが、後輩たちが自分から代わってくれたらしい。

 

 ちなみにアスタルテの処遇については、凪沙も納得済みだ。暁家で彼女を預かる以上、凪沙の承認は必須事項だ。軽く事情を説明(差し障りのない範囲で)したところ、何故かあの賢妹様は涙ぐんでいた。

 ある事件の重要参考人で、古城に助けられ、那月の計らいで暁家で生活することになったと説明したのだが、アスタルテ本人の無表情もあってか、何やら勝手にアスタルテの境遇を想像したらしく、大いに同情していたのだ。

思わず、コイツアホじゃねえのか、という目で見てしまったが、快く受け入れてくれたのはよかったと思う。アスタルテもホッとしていた。

 

 そんなこんなで四人でスーパーに向かうことになったのだが、

 

「鋼鉄製の獣……アルミ箔? それは恐らく、式神だと思います」

「式神?」

「はい。先輩の言う通りなら、恐らく。本来は遠方に居る相手に書状を送り届けるためのもので、そんなに攻撃的な術ではないはずなんですけど」

 

 訝るように呟く雪菜に、古城は肩を竦めて少し後ろを歩くアスタルテに視線をやる。頷くアスタルテ。襲われた張本人が言うのだから間違いない。

 

「っていうか古城、そんなのに襲われて大丈夫だったワケ? ケガとかは?」

「だから問題ないって。俺があんなのに負けるかよ」

「あたしだって古城が負けるとは思ってないわよ。けど、ケガぐらいはあるでしょ? あたしはそれが嫌なの」

 

 しつこいぐらいに古城の安否を気にするサツキだが、純粋に心配してくれているだけあって、無碍にもし辛い。面映ゆい気分で頭を掻く古城に、雪菜がどこか冷めた視線を投げかけた。

 

「それで、先輩? その式神が置いて行ったという封書は、どちらに?」

「あ、ああ。これなんだけど……」

 

 不機嫌そうな雪菜の態度に戸惑いながら、古城はポケットから例の封筒を取り出して雪菜に手渡す。

 雪菜は受け取った封筒の刻印を見て、表情を強張らせた。

 

「姫柊? 何か分かったのか?」

「はい……いえ、でも、そんなはずは……」

 

 愕然と呟く雪菜に首を傾げたところで、一行は目的地のスーパーマーケットに行き着いた。自動ドアの隙間から流れ出す冷房の効いた空気が心地いい。

 

「この封書の差出人は、アルデアル公ディミトリエ・ヴァトラー閣下です」

 

 重々しい口調で告げられた言葉に、古城は入口近くのショッピングカートに買い物カゴを乗せながら、オオム返しに訊き返す。

 

「あるであるこうでぃみとりえ・ヴぁとらー……?」

「アルデアル公国は、〝戦王領域〟を構成する自治領の一つです」

「〝戦王領域〟……欧州の〝夜の帝国(ドミニオン)〟だっけか。第一真祖の」

「はい。第一真祖〝忘却の戦王(ロストウォーロード)〟。七十二体の眷獣を従える吸血鬼の覇王です」

 

 あまりにも非現実的なその肩書に、古城は訊いていて呆れた。

 真祖クラスの吸血鬼が操る眷獣など、都市の一つや二つなど簡単に壊滅させられてしまう、正真正銘の怪物(フェノメノ)だ。その脅威は災害とイコール。そんなものを何十体も操る存在など、実在すら疑わしく思えてしまう。

 実はそんなことを考えている古城こそ、その第一真祖が一目置く世界最強の吸血鬼だったりするのだが――

 

「〝忘却の戦王(ロストウォーロード)〟、ですか」

「アスタルテ? 知ってるのか?」

「肯定。私は元々、〝戦王領域〟の近くに居ましたので」

「ああ……ロタリンギアは、欧州にあるんだったか」

 

 人工眷獣を埋め込まれた人工生命体(ホムンクルス)アスタルテ――

 彼女が生み出されたのは、ロタリンギアの西欧教会の聖堂から簒奪された聖遺物の奪還のため。ただそれだけの理由で、彼女はこの世に作り物の生を受け、そしてその命を散らそうとしていた。

 今は古城が彼女にかかる負担を肩代わりしているおかげで普通に生きられているが、出会った当時は、あと数日生きていられればいい方という有り様だった。

 

「マスターからよく聞かされていました。彼の戦王が力を貸さなければ、汚らわしい魔族と人間の共存などという忌々しい聖域条約は実現しなかった、と。事実、第一真祖が協力したからこそ、残り二人の真祖も交渉の応じることはなかったとも」

「同じ真祖という立場でも、やはり〝戦王領域〟は圧倒的な戦力を誇る最古の〝夜の帝国(ドミニオン)〟ですから」

 

 アスタルテの言葉に補足するように、雪菜が第一真祖の恐ろしさを説いた。

 とりあえず今の問題は〝忘却の戦王(ロストウォーロード)〟本人ではない。古城は黙って肩を竦める。

 

「……で、そのヴァトラーってのは、第一真祖の臣下だってことか?」

「そのはずです。自治領の君主ということは貴族、つまり第一真祖直系の血族から生まれた、純血の吸血鬼ということになりますから」

「ふうん」

 

 凪沙に渡されたメモを頼りに、古城とサツキが買い物カゴに野菜や果物を入れていく。食材の分量は四人前。古城、凪沙、アスタルテ、雪菜の分だ。雪菜が一人暮らしだと知った凪沙が、うちで夕飯食べていきなよ、と強引に誘い続けた結果だ。

 食事中に話し相手が居る時の凪沙は上機嫌だし、聞き役を雪菜が肩代わりしてくれるので古城としてもありがたい。元々彼女の任務は古城の監視なのだから、雪菜にとっても悪い話ではない。

 そんなこんなで三人の思惑が一致した結果、雪菜が暁家で夕飯を摂るのがいつの間にか普通となってしまったのだ。

 ちなみにサツキは、週に二回ほど暁家で夕食を摂っていく。彼女の場合、自分の家があるため、家族を心配させないためにもそのぐらいの分量が丁度いいのだ。今古城たちと一緒に買い物をしているのは、サツキにも自分の買い物があるというだけである。

 

「そんな大物が、何で絃神島なんかに来てるんだ? ちょっ……タマネギ多過ぎるだろ、これ」

「野菜の好き嫌いはダメよ? ……そういえば、朝のニュースで言ってたかも。チラッと見ただけだったけど、何かヨーロッパから吸血鬼の貴族が来訪するって」

「質問。それは、マスターが第四真祖だからでしょうか。……マスター。栄養価が偏りますので、こちらもちゃんと食べてください」

「他に理由、ないですよね……。先輩、こっそりピーマンを売り場に戻さないでください。アスタルテさん」

命令受諾(アクセプト)

「古城ったら、子供じゃないんだから……」

 

 雪菜の求めに応じて、アスタルテが古城の苦手の緑黄色野菜をカートに戻す。サツキの苦笑に、古城が不貞腐れたように唇を尖らせた。

 ちなみに、毎度毎度繰り返されるその光景が、この店の店員や近所に住む人々の間で噂になっていることを、古城たちは知らない。しかも今日は一人多いし。

 

「どっちにしろ、会ってみるしかないか……む」

「どうかしましたか?」

 

 鋼鉄製の式神が残していった手紙は、今夜開催されるというパーティの招待状だった。絃神港に停泊中のクルーズ船で、何やら大々的な催しが行われることになっているらしい。

 封筒の表には確かに暁古城の名前が書かれている。しかしヴァトラーなる人物を古城は知らない。当然パーティに誘われる理由も思い付かない。嫌な予感しかしない招待状だ。

 

 その招待状の文面を眺めて、古城は困惑の表情を浮かべた。

 目聡くそれに気付いたサツキが、不思議そうに古城を見上げてくる。

 

「古城? どうかしたの?」

「ああ……なんか、ここにパートナーを連れて来いって書かれてるんだが」

「パートナー?」

 

 首を傾げるサツキと雪菜。その横で、アスタルテが微かに頷いた。

 

「回答。欧米のパーティでは、夫婦や恋人を同伴するのが基本となっています」

「……いきなり無理難題を吹っかけてくれるなオイ。独り身の人間はどうすりゃいいんだ?」

「そういった場合は、知り合いのどなたかに代役を頼むのが最善かと」

「代役、か……」

 

 古城は困ったように腕を組んで唸った。恋人の代役という条件なら、年の近い家族か親しい友人で、尚且つ異性ということになるのだろうが――

 凪沙を巻き込むのは論外。浅葱は何やら怒っている様子だったし、明らかにキナ臭い匂いのする案件に誘うのも気が引ける。

 

「先輩の正体を知ってて、危険な状況にも対応できるような人材というと、選択の余地はあまりないと思いますけど」

「だよな。仕方ないか。頼んでみるか……那月ちゃんに」

「は、はい?」

 

 雪菜が、目を丸くして固まった。サツキも同じくポカンとしている。

 古城はそれに気付かず頭を掻いて、

 

「後でたっぷり恩に着せられそうで怖いんだが……まあ、可愛い教え子が真剣に頼めば、パーティぐらい付き合ってくれるだろ」

「……ちょ、ちょっと古城! 何でそこで那月ちゃんの名前が出てくるのよ!? あたしは!?」

「いや、お前はダメだろ。危なっかしいし」

「何でよおおおお、兄様のバカああああ」

 

 わんわん喚き始めるサツキに、古城は周囲の視線を気にして慌てる。

 

「先輩の体質を知ってて、攻魔師資格も持ってて、年齢的な釣り合いも取れてる異性が他にも居ると思うんですけど。他にも居ると思うんですけど」

 

 雪菜が素っ気ない口調で独り言のように呟いた。それを聞いて、古城はようやく雪菜の真意を悟った。

 

「姫柊に頼んでもいいのか? そんなことして、獅子王機関で問題になったりは?」

「仕方ないです。この場合、先輩から目を離すことの方が問題になると思いますから」

 

 どことなく嬉しそうに呟く雪菜。何故か機嫌は回復したらしい。

 

「あ、そういえば、アスタルテはどうする? 一緒に来るか?」

「謝罪。今夜は南宮教官に呼ばれているため同伴できません。申し訳ありません」

「そうなのか。いや、気にすんなって。多分那月ちゃんの仕事の手伝いだろ」

 

 しかしそういうことなら、どちらにしても那月に頼むことは出来なかったということだ。

 また荒事の類だろうが、〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟を気兼ねなく扱うことの出来る今の彼女であれば、余程の相手でなければ傷を付けられることもないだろう。

 

「まあ、一応気を付けとけよ。魔族の中には、とんでもない攻撃手段を持ってるヤツも居るんだからな」

命令受諾(アクセプト)

 

 深々と礼を返すアスタルテと、まだ不満げなサツキと、満足げな雪菜を連れて、古城はスーパーマーケットを出て、マンションへと向かった。ここまではサツキも付いてくる。

 ワイワイと談笑しながら歩いている内に、マンションに辿り着く。すると、

 

「何だ、この荷物?」

 

 郵便受けに入っていた伝票を見て、古城は首を傾げた。宅配便用のロッカーに二つの荷物が届いていたらしい。心当たりはなかったが、特に疑問も覚えずに古城はロッカーを開けた。

 入っていたのは、平たい長方形の段ボールが二つ。大きさの割に重量はそれほどでもない。爆弾などの危険物の可能もなさそうだ。しかしそこに記されていた差出人の名前を見て、古城と雪菜は愕然となった。

 

「獅子王機関?」

「そんな……どうして先輩宛に?」

 

 獅子王機関は、大規模な魔導災害やテロに対処するための日本政府の特務機関である。

 彼らが雪菜を古城の監視役として派遣したのも、国家の安全を守るため。つまり彼らは、古城の存在を国家的危機と判断しているのだ。

 古城と雪菜は最大限まで警戒を引き上げて、殊更に丁寧な手つきで片方の段ボールを開封する。

 

 箱の中には、光沢のある薄い布地が丁寧に折り畳まれて入っていた。あからさまに高級そうな布地――何らかの呪術が込められているのではなかろうか? しかし雪菜は黙って首を傾げるだけ。

 箱の隅に明細書を見つけて、古城はそれを拾い上げた。横からサツキも覗き込んでくる。

 その間に雪菜とアスタルテが、そっと布の端を摘まんで持ち上げた。ふわりと広がったボリュームのあるフリルのスカート。一緒に折り畳まれていた付属品がバサバサと落ちていくのを、アスタルテが受け止める。カップ付きのアンダードレスにシルクの下着。

 

「えーっと、なになに? ……オーダーメイドのパーティドレス一式、身長156センチ、B76・W55・H78・C60……姫柊雪菜様、代金領収済み…………え?」

「は? え? あ……!?」

 

 サツキが読み上げた明細書の数字に、アンダードレスを握り締める雪菜が顔を真っ赤に染めた。

 そんな彼女の様子と、明細書に記された謎の数字。それを見比べて、古城はようやく雪菜の羞恥の理由を理解した。

 

「……ってことはもしかして、こっちの箱も……」

 

 ふと思い立ち、古城はもう片方の段ボール箱を開封してみる。案の定、入っていたのは、雪菜のものとはまた異なるデザインの、高級感あふれるドレスだった。

 隅に置いてあった明細書を手にとって読み上げようとすると、ものすごい勢いでサツキにそれを奪い取られた。

 

「ダメ! ダメダメダメ! 古城だけは見ちゃダメー‼」

「わ、分かった。見ないから」

 

 顔を真っ赤に染めて叫ぶサツキから、そっと視線を逸らした。

 チラッと見えた三つ並んだ数字の最初の数字が、雪菜のそれより小さかったことなど、古城は見ていない。

 しかしそこに記されていたのは、嵐城サツキ様の文字。

 何がさせたいのかは知らないが、どうやら獅子王機関はサツキも出席させる気らしい。

 

 どうしてこうなった、と頭を抱える古城の耳に、寂しげな声が届いたのはその時だった。

 

「……質問。私の分はないのでしょうか」

「「「……………………」」」

 

 その場に、静寂が訪れた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

「……おお」

 

 午後九時を少し過ぎた頃、スリーピースのタキシードを身に着けた古城は、自宅の玄関前で唸り声を上げていた。

 この服は雪菜たちのドレスと一緒に納められていたものだ。彼らの目的は不明だが、獅子王機関の連中は、どうやら古城を〝戦王領域〟の貴族と会わせたがっているらしい。

 アスタルテはすでに出発して、那月の許へと向かった。彼女の話では、古城たちが帰ってきた頃には帰っているという。

 

 凪沙を嘘八百で誤魔化して廊下に出て、自己嫌悪の息を深々と吐いた古城は、背後に生じた気配に振り返り……見事に固まり、先程の唸り声を洩らしたのだった。

 古城の視線の先に居たのは、綺麗にドレスアップされた二人の可憐極まる少女たち――

 

「あ、あの……どこか、おかしかったですか?」

 

 不安げに聞いてくる雪菜は、白地に紺色のパーティドレスを纏っていた。胸元の露出は控えめだが、その分肩から背中にかけては大胆にカットされ、薄い布地は雪菜の体の輪郭をくっきりと浮き上がらせて、華やかなフリルのミニスカートからは白く引き締まった太腿が覗いている。

 可愛らしいだけでなく、清楚さや艶やかさすら感じさせる装い。彼女の持つ儚げな印象がより強調され、花のよう、という形容が相応しく思える。

 流石にオーダーメイド。恐ろしく似合っている。サツキや静乃といった美少女と触れ合う(他意はない)中でいい加減美少女に慣れていたはずの古城でさえ、一瞬呆然と見蕩れてしまった。

 

 そして、もう一人。

 

「ふっふーん、どお、兄様? サツキちゃんの晴れ姿は?」

 

 サツキのドレスは雪菜のそれと同じく白いドレスだったが、華やかさという意味ではこちらの方が遥かに優っていた。金色の輝くラインが幾重にも入り、胸元も背中にかけて大胆に開かれている。膝丈ほどまである大きく広がったフリルのスカートは、腰の辺りが大きな青いリボンで飾り付けられて、細い足は純白の二―ソックスに包まれている。

 明るい色合いの髪はいつものサイドテールを、付属品であろう銀色の髪飾りで留めて、その反対側の側頭部は大きな青く長いリボンが結いつけられている。きらりと光るティアラも美しい。

 

 いつもの見慣れた、どこかアホっぽい雰囲気は鳴りを潜めて、まるでどこかのお姫様のような気品すら感じさせた。

 

 このドレスも、露出は多いながらも可愛らしい印象で、サツキによく似合っていたが……古城は、不思議な感覚を覚えた。

 まるで、彼女のこの姿を、以前も見たことがあるような――これまで、何度も見てきたような。

 間違いなく今日が初めてであるはずなのに。

 脳の奥で、ヂリリ、ヂリリ、という音がする。

 

「兄様? どうしたの?」

「いや……似合ってるよ、ホントに。可愛いと思うぞ」

「えっへへー! でっしょー!? 見てみて、この髪飾りとかね、あたしが自分で用意したやつなの! 可愛でしょー!?」

 

 古城が一言褒めただけで、飛び跳ねんばかりに喜ぶサツキ。

 彼女には一度自宅に帰って、もう一度ここに来てもらった。両親には出かけてくると言って出て来たらしい。心配させないためにも手早く用件を済ませるべきだろう。

 

「もちろん、姫柊のドレスも、すごく似合ってると思うぞ」

「あ……そ、そうですか。ありがとう、ございます……」

 

 凪沙から、女の子がいつもと違う恰好をしていたら必ず褒めるように、と厳命されていたので、今回もそれに従って忘れずに褒めた。実際に心の中で思っていたことなので、そこまで苦労はしなかった。

 顔を隠すように俯いてしまったが、赤くなった耳のせいで表情は丸分かりだった。

 

 と、そこで古城は、雪菜の髪をまとめている見慣れない髪飾りに気が付いた。十字架を模した銀色のヘアクリップ。獅子王機関からの備品の中にはなかったものだ。私物をほとんど持たないはずの雪菜が、そんな風にアクセサリを身に着けているのは珍しい。

 

「姫柊、その髪飾りって」

「えっ……」

 

 雪菜が驚いたように髪に手を当てる。悪戯がバレた子供のような表情だ。

 

「これ……もしかして、変ですか?」

「いや、全然。似合うと思うぞ」

「うん、あたしもそう思うわ。それを贈った人、あなたのことをよく見てるのね」

 

 そう言ったサツキに、雪菜は虚を衝かれたような表情を向けた。

 

「お、贈り物って分かるんですか?」

「? まあ。見れば分かるケド?」

「そうなんですか……これは、高神の杜に居た時に、紗矢華(さやか)さんに……ルームメイトの子にもらったんです」

「ルームメイト? その子も姫柊と同じ剣巫なのか?」

「剣巫ではありませんが、紗矢華さんも獅子王機関の攻魔師です」

 

 高神の杜とは、雪菜が先月まで通っていたという全寮制の女子高の名だ。

 しかしその実態は、獅子王機関による攻魔師の教育施設である。雪菜の戦闘力もそこでの修行で身に着けたものだと聞いている。

 

 雪菜は、少し得意げに返した。

 

「わたしよりも一つ年上だったので、今はもう高神の杜を出て、正規の任務に就いています」

「へえ……仲が良かったんだな」

「そうですね。本当の姉のように思っていました。美人で可愛くて、性格も可愛くて、優しい、自慢のルームメイトです」

「ちょっと会ってみたい気もするな」

 

 古城が何気なく口にした感想に、雪菜はそれまでのはにかみ笑いを消した。髪飾りに一度手を触れて、彼女はポソリと小声で告げる。

 

「先輩は会わない方がいいかもしれません……多分命を狙われることになると思うので」

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 アルデアル公ディミトリエ・ヴァトラーの所有するクルーズ船は、港湾地区(アイランド・イースト)の大桟橋に停泊していた、遠目からでも異様に目立つ豪華船だ。

 パーティの開始時刻は午後十時。大勢の招待客たちがタラップを上って船に乗り込んでいる姿が見える。

 

「大きな船ねー。これが個人の持ち物だとか……」

「多分これは、示威行為も含んでいるんだと思います。吸血鬼の能力が海上で制限されるのは事実ですから、夜の帝国(ドミニオン)の貴族がこうして堂々と船で乗り込んできたというのは、例え軍艦ではないただの民間船だとしても、一定の効果がありますから」

 

 背後で繰り広げられるそんな物騒な会話を聞いてげんなりしながら、古城は二人を連れて船へ乗り込んだ。

 洋上の墓場(オシアナス・グレイヴ)……不吉な名前だな、と顔を顰めて辺りを見回すと、その名前とは裏腹に船体は煌びやかにライトアップされている。まるで宮殿のようだ。

〝オシアナス・グレイヴ〟に乗り込んでいく人々も、よく見ればニュースなどで見かける、大物政治家や経済界の重鎮、政府や絃神市の要人たちの姿も見受けられる。

 このパーティの主催者を考えれば、それほど不思議なことでもないだろう、が――

 

「――俺たちだけ、完璧に浮いてるよな」

 

 はあ、と溜め息を吐いて、古城は何ともなしに辺りを見回した。露骨に胡散臭げな視線を向けられることはないのが救いか。いや、十分以上に整った容姿の雪菜とサツキには、視線が集まっている。

 何となく不愉快になって、早くもここに来たことを後悔しそうになっていた、その時だった。

 

「――古城?」

「え?」

 

 不意に、雪菜とサツキ以外の誰かから、聞き慣れた声で呼びかけられた。

 驚いて顔を上げると、そこには、美しく着飾った長い黒髪の少女が立っていた。

 彼女の能面のような顔に、僅かな驚きの色が乗っている。

 

「し、静乃……か?」

「ええ。……そういうあなたも、古城で間違いないわよね?」

 

 黒無地シルクのワンピースを着こなした少女――漆原静乃は、続けて古城の両隣に陣取る二人の少女へと視線を巡らせて、最後にまた戻ってきた。

 何を言うべきか迷っている様子だったので、先に古城の方から口を開く。

 

「何で静乃がここに居るんだよ? お前も、ヴァトラーとか言うのに呼ばれたのか?」

「私というよりも、私の兄ね。漆原家の血族、人工島管理公社の重鎮として兄が招かれて、私はその付き添いよ」

「静乃の兄っていうと……理事長か? その理事長は?」

「多分、躍起になって招待客とのコネを作ろうとしてるんじゃないかしら。兄は一族内での権力闘争にご執心だから、〝戦王領域〟の貴族、そうでなくても他国の重鎮と縁を結んだとなれば、それなりの功績にもなるでしょうし」

 

 常と変らない無表情で、皮肉と棘を含んだ言葉を口にする静乃に、雪菜とサツキは目を白黒させた。

 自分は全く興味がないということを示すように、彼女のドレスはとてもシンプルだ。もっとも、元々の素材がいいので、それでも十分なのだが。家とかでも同じような服装で居そうで怖い。

 その二人にチラリと目をやって、静乃は古城に訊ねた。

 

「それで、古城。あなたは何でこんなところに居るのかしら?」

「ああ……それなんだがな」

 

 少し迷って、古城は結局打ち明けることにした。

 今更静乃に隠しても意味はないし、後が怖い。ここは素直に話して、彼女の協力も得たいところである。

 

「…………というわけでな」

「なるほど。アルデアル公に呼ばれて……。だから、嵐城さんと姫柊さんは、そんな恰好をしてるわけ」

 

 納得したように頷いて、静乃はドレスを纏ったサツキと雪菜をしげしげと眺めた。

 雪菜が恥ずかしがるように顔を伏せて、サツキはむしろ見せつけるように胸を張って、静乃の前に進み出た。

 

「何よ。何か文句でもあるワケ?」

「いいえ、別に。とても似合っている、と思っただけよ」

「え? な、何よ急に……いきなりそんな」

「馬子にも衣装、とはよく言ったものよね」

「漆原ああああ!? やっぱアンタ、おちょくってるわよね!?」

「心外だわ? せっかく褒めてあげたのに」

「それで褒めてるつもりだったら、国語と礼儀の勉強やり直しなさいよ!」

 

 いつものやりとりを始めた二人に、肩の力が抜けた古城は雪菜と苦笑を向け合った。

 

「で……俺たちを呼びつけた張本人はどこに居るんだ?」

 

 会場になっている広間は船の中とは思えないほどに広大だ。訪れている客も五百人は優に超える。この中から見知らぬ第一真祖の使者を探し出すのは至難の業だ。

 だが一方で古城は、この船に乗り込んだ時点から、不思議な感覚を味わっていた。

 バスケの試合に臨む直前の昂ぶりに似ている。恐怖と歓喜、危機感と高揚感が綯い交ぜになったような心地よい緊張感。

 

 強大な力を持つ同胞の接近に気付いて、全身の神経が研ぎ澄まされていく。

 吸血鬼としての古城の〝血〟が――その中に住まう眷獣たちが、強敵との遭遇を予感して滾っている。

 

 その昂ぶりが古城に教えてくれる。

〝戦王領域〟の貴族は、間違いなくこの近くに居る。

 

「上です。アルデアル公は恐らく、外のアッパーデッキに――」

 

 そんな古城の予感を裏付けるように、頭上を指差して雪菜が言った。彼女も古城と同じように、剣巫としての霊感でディミトリエ・ヴァトラーの居場所を知ったのだろう。

 

 アッパーデッキへの行き方は分からなかったが、迷いなく歩き出した雪菜の背中に付いて行く。未だ言い争っていたサツキと静乃にも声をかけて、広間の隅の階段へと招待客で込み合う通路を歩きだした。

 はぐれないように精一杯な古城に、雪菜は振り返って手を伸ばす。古城は何の疑問も覚えずにその手を取ろうと――

 

「――せいっ!」

「うおっ!?」

 

 咄嗟に跳び退いた古城の眼前を、鋭く研ぎ澄まされたフォークの先端が掠めて行った。

 フォークを握っていたのは若い女。身長170センチほどの高身長で、まだ十代半ばほどの少女である。長い栗色の髪に白い肌、人目を引く優美な顔立ち、すらりとした細身の体に、チャイナドレス風の衣装が映えている。

 

「失礼。つい手が滑ってしまったわ」

「どう手が滑ったら、フォークを他人の腕に向かって振り下ろそうとするのかぜひ教えて欲しいんだが……つか、掛け声みたいなのも叫んでたよな!?」

「あなたが、薄汚い手で私の雪菜に触れようとするからよ、暁古城」

「なっ……!?」

 

 少女が自分の名を呼んだことに、古城は警戒に目を眇めた。フォークを逆手に握った少女は、古城を冷ややかに睨んでいる。

 

「誰だ、お前は?」

「――紗矢華さん!?」

 

 ただならぬ雰囲気に周囲の客がざわめきだし、古城の後ろに控えたサツキと静乃が身構え始めたところで、雪菜が戻ってきた。

 睨み合う古城たちの間に入ってきた雪菜の姿を認めると、少女は華やかな満面の笑みを浮かべた。全身から放たれていた殺気も柔らかい愛情の気配に変わっている。

 

「雪菜!」

 

 長い髪の少女が勢いよく雪菜に抱きついた。

 再会を遂げた生き別れの姉妹のようだ、と古城は他人事のようにそう思った。

 ポニーテールにまとめた後ろ髪が喜ぶ犬のように揺れている。

 

「久しぶりね、雪菜。元気だった!?」

「は、はい」

 

 当の雪菜は、喜びよりも戸惑いの方が強い印象だったが、少女は構わず、

 

「ああ、雪菜、雪菜、雪菜……っ! 私が居ない間に、第四真祖なんかの監視役を押し付けられて可哀想に! 獅子王機関執行部も私の雪菜になんてむごい仕打ちをするのかしら!」

 

「安心して、もう大丈夫だから。この変質者があなたに指一本でも触れようとしたら、私が即座に抹殺するわ。生命活動的な意味でも社会的な意味でも――」

「ちょっ……紗矢華さん……さすがにそれは……やっ」

「おい」

 

 雪菜にむしゃぶりつく紗矢華の隙だらけの後頭部に、古城は醒めた目でチョップをかました。きゃっ、と悲痛な声を上げて、怯えたように跳び退る。

 紗矢華から解放された雪菜が、ホッとしたような表情で古城の背後に回り込むのを見て、紗矢華が殴られた後頭部を押さえてキッとまなじりを吊り上げた。

 

「何するのよ! 触らないでよ、第四真祖! いえ、変態真祖!」

「誰が変態だ! 言い直すな! だいよんと、へんたい、って、言い間違えるほど似てねえだろ!」

 

 歯を剥いて怒鳴り返す古城に、紗矢華は相変わらず冷たい視線を送っている。

 流石にカチンと来て古城が言い募ろうとした時、その横から、我慢ならないという風にサツキが進み出た。

 

「ちょっとアンタ! いきなり古城を攻撃してきたと思ったら、何よその言い草! 姫柊さんの知り合いなのか知らないけど、常識ってもんがないわね!」

「な、何よ、あなた。あなたには関係ないでしょ!?」

「関係あるわよ! というかそもそも、古城が本気で怒ったら、アンタなんか一瞬で消し炭よ!? ちゃんと分かって言ってるんでしょうね!?」

「う……」

 

 サツキの叱責に、紗矢華がビクリと肩を揺らした。

 第四真祖。天災にも匹敵する十二体の眷獣を操る、世界最強の吸血鬼。その肩書を思い出したのだろう。

 

 紗矢華のことはサツキに任せて、古城は雪菜に向き直った。

 

「紗矢華って、確か姫柊がさっき言ってた元ルームメイトだったっけか?」

「……はい」

 

 どこか申し訳なさそうに頷く雪菜。二人の会話に割って入るように、紗矢華が横から、

 

「煌坂紗矢華。獅子王機関の舞威媛よ、あほつき古城」

「暁だ。わざとらしく言い間違えんな」

 

 もう何か声を張り上げるのも面倒になってきたので、訂正を入れるだけに留めておく。いい加減うんざりしてきた。

 

「舞威媛って何? 姫柊さんの剣巫とは違うの?」

 

 興味を引かれたらしいサツキが、雪菜に質問する。

 

「どちらも同じ攻魔師なんですけど、修めている業が違うんです」

「業?」

 

 首を傾げる古城とサツキに、紗矢華が得意げに言い放つ。

 

「舞威媛の真髄は呪詛と呪殺。つまり、あなたのような雪菜に付きまとう変態を抹殺するのが、私の使命よ」

「付きまとってねえよ! どっちかというと、俺の方が付きまとわれてるんだからな!」

「ちょっといいかしら?」

 

 古城が怒鳴り返し、隣の国家公認ストーカーが、えっ、とショックを受けたような声を洩らす。

 互いに激昂して怒鳴り合う二人に、静乃が静かな口調で割って入った。その言い知れぬ圧力に、古城と紗矢華は思わず注目する。

 

「煌坂さん……が、獅子王機関の一員なら、あなたはアルデアル公から案内役を仰せつかっているのではなくて? こんなところで、吸血鬼の真祖にケンカを売っている場合なのかしら?」

「う……そ、そうだったわね」

 

 あくまでも静かな静乃の言葉に、紗矢華は怯んだ様子を見せながら素直に頷いた。

 それに驚いた様子を見せたのは雪菜だ。

 

「え? 紗矢華さんがこの島に居るのって、もしかして……」

「そうよ。この島に来たのは任務のため。あなたと同じよ、雪菜。吸血鬼……アルデアル公の監視役。彼の傍について、彼が危険な存在だと判断すれば、抹殺するのが私の仕事。で、今は彼に依頼されて、あなたたちを案内に来たの」

 

 紗矢華の投げやりな説明を聞いて、古城たちは事態を把握した。

 

「もういいや。だったらさっさと案内してくれ」

「言われなくても連れてってあげるわよ。だからさっさと死んでちょうだい」

「死ぬか」

 

 適当に反駁を返しながら、古城たちは紗矢華の後について階段を上る。ここまで来るのに随分と時間がかかった。

 

 端正な紗矢華の後ろ姿を眺めて、古城は辟易した表情になった。

 彼女はヴァトラーの依頼で古城たちを案内すると言った。

 だとすれば夕方の式神による襲撃。あれは十中八九彼女の仕業だ。どうせ単なる嫌がらせだろう。アスタルテまで巻き込んだのは彼女にとっても誤算だったのだろうが。

 どうやら紗矢華は、雪菜に対して深い愛情を抱いているらしい。もし古城が雪菜の血を吸ったことがバレたら、と想像するのも恐ろしい。

 

 しかし、古城にとっての本当の脅威は、紗矢華などではない。

 

 古城の血の中に眠る眷獣たちの昂ぶりが増している。強大な力を持つ吸血鬼が近付いていることを、古城の体内に流れる真祖の血が教えてくれているのだ。

 相手の正体も目的も古城には分からない。最悪、その場で即戦闘開始、という展開もあり得る。

〝戦王領域〟の貴族。真祖直系の子孫たる純血の吸血鬼。

 対して古城は、第四真祖などと呼ばれていても、吸血鬼らしい権能はほとんど使えず、掌握している眷獣も未だ一体。勝てる見込みは薄い。

 

 加えて――先程から続くこの頭痛。

 ヂリリ、ヂリリ、と、頭の奥にある壁のような何かが、段々強く内側から引っかかれる。

 まるで警鐘を鳴らすように。

 

「……古城?」

 

 不思議そうに、サツキが問いかけてくるが、答える余裕はなかった。

 厳しい表情で前方を睨みつける古城の全身から、自然と通力(プラーナ)が漏れ出す。古城の肉体が、強敵との遭遇に備えて臨戦態勢へと入る。

 

 我知らず右手を開きながら、古城は船の上甲板に出た。

 漆黒の海を背景にして、広大なデッキに立っていたのは一人の男。

 純白のコートを纏った美しい青年だ。正真だが線は細く、威圧感はない。

 金髪を揺らして振り返った青年が、碧い瞳で古城を見た。

 

 青年の表情が、まるで愛しい恋人を見るように柔和に細められた瞬間――その全身から、陽炎のように光が立ち昇る。

 アメジストもかくやの、鮮烈な紫色の通力(プラーナ)

 どこまでも純粋で、深みのある、高貴なる煌めきだった。

 

 ヂリリリリッ!

 彼の通力(プラーナ)の輝きを見た瞬間、古城の頭痛が最大警報を鳴らし、自然と古城の掌中に光が生じて一本の長剣を形作る。

 

 

 

 刹那、彼の姿が、ブレた。

 一瞬で全員の視界から掻き消え、気付いた時にはもう、古城の眼前で分厚い両手持ちの大剣を振りかぶっていた。

 

 

 

「…………くっ!?」

 

 反応出来たのは、真っ先に狙われた古城のみ。

 青年から目を離さずにいた古城は、ほぼ反射的に右手のサラティガを掲げ、断頭台の如く打ち下ろされる大剣を受け止めていた。

 ズンッ、と。重い感触が古城の両手に伝わり、膝が崩れかける。

 

 一拍遅れて鋼と鋼が打ち合う轟音が鳴り響き、生まれた衝撃波が髪を揺らしたところで、ようやく少女たちは正気を取り戻した。

 まるで映画のフィルムのコマとコマを切り取って、無理矢理繋ぎ合わせたかのような、不自然な光景。

 剣巫としての霊視を持つ雪菜ですら、その音を聞くまで認識すら出来なかった。

 

 彼が使ったのは、「間合い」という概念を嘲笑い、歪め、ゼロにしてしまう歩法だ。

 その名も光技、《破軍》。

 七つある《神速通》の最上級派生技にして、北斗の第七星を冠された秘技中の秘技。

 これを行使したというその事実だけで青年の実力を思い知り、古城は愕然となる。

 

「――先輩!」

「――古城!」

 

 ようやく雪霞狼を抜いた雪菜と、アーキュールを召喚したサツキが動き出し、青年の左右から斬りかかる。

 対する青年は、口元に刻んだ微笑みを消さずに、一層剣に込める力を増した。

 メギリ、と。船の甲板が重圧に耐えかねて軋みを上げる。

 古城が全力を振り絞ろうとしたその時、至近距離で、青年が熱の籠もった声で囁いた。

 

「ああ……やはり、流石だな。このボクとここまで打ち合ってくれるなんて……待っていたよ、フラガ(・・・)

「――――」

 

 一瞬、古城の意識が漂白された。

 鍔迫り合いをしていた腕から力が抜け、その隙に青年に腹部を蹴り飛ばされる。

 ダンプカーと正面衝突されたかのような衝撃。咄嗟に腹部に通力(プラーナ)を集中させなければ、内臓が木っ端微塵に破裂していただろう。

 それでもその威力は殺し切れずに、ゴロゴロと無様にデッキの上を転がる。

 

「はぁっ!」

「やぁっ!」

 

 不敵に笑って立つ青年の心臓めがけて雪菜が銀色の槍を突き出し、サツキが青年の胴体に《太白》を叩き込もうとする。

 だが、青年は揺るがずに、片手で保持した大剣を振るってサツキを無造作に打ち払う。吹き飛ぶサツキ。

 続けざまに心臓めがけて突き込まれる槍。その致死の攻撃に対し青年は、何もしなかった(・・・・・・・)

 

「……えっ!?」

 

 勝利を確信した雪菜が、素っ頓狂な声を上げた。

 確かに青年の心臓に突き刺したはずの槍――返ってきたのは、まるで鋼の板を叩いたかのような硬質な感触。

 見れば、銀色の槍の穂先は、彼の薄皮一枚裂くこともできずに、皮膚の一センチにも満たない手前で止められていた。

 予想だにしなかった結果に呆然とする雪菜に、青年は容赦なく大剣を振り下ろす――が、

 

「どいて、姫柊さん!」

 

 ――間一髪、静乃の放った氷の第三階梯闇術が、雪菜を救った。

 雪菜がその場を飛び退いたと同時、青年に向かって凄絶な威力の吹雪が押し寄せる。

 しかし青年は笑みを崩さずに、ただすっと、手を伸ばした。

 その手の平には、有り得ないほどに凝縮された紫光が輝いている。

 

 直後、直撃。轟音とともに青年に叩きつけられる白の吹雪。第三階梯ほどの威力となると、《耐魔通》では防げまい。一瞬で凍りついてしまうだろう。

 その、はずなのに――

 

「なっ……」

 

 静乃が、滅多にないことに、驚愕の声を洩らした。

 無理もない。己の放った闇術が、ただ翳されただけの青年の手の平に、結晶一つ残らず防がれているのだから。

 

《金剛通》の上級技、全身くまなく薄らと守るのではなく、体の一点に守りの通力(プラーナ)を凝縮させて、その箇所だけは生身であっても絶対の防御力を発揮させる業。

 名を、《金烏》という。

 

「……これで終わりかい? つまらないな」

 

 凍傷一つ付けられず消滅した吹雪の向こう、青年が優美に微笑んでいた。

 直後――彼の全身が、純白の閃光に包まれた。

 

「先輩!」

 

 真っ先に反応したのは雪菜。ようやく体を起こしたばかりの古城の前に立ち塞がろうとして、その雪菜を守るように紗矢華も動いた。瞬きするほど瞬時の出来事。

 青年が放った光の正体は、光り輝く炎の蛇。灼熱を纏った吸血鬼の眷獣だ。

 流星の如き速度で撃ち出されたその眷獣に、古城は半ば反射的に対応した。

 

疾く在れ(来いよ)、〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟!」

 

 言下に、古城の左手から鮮血が吹き出し、その鮮血が眩い雷光へと変わる。

 古城が唯一まともに制御できる眷獣、〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟。解き放たれた雷光を纏う獅子が、炎の蛇を迎え撃つ。

 強大な魔力と魔力がぶつかり合い、空気を揺らす。打ち勝ったのは古城の眷獣だ。

 純白の炎蛇が消滅すると同時に、古城の稲妻も消滅する。

 

「いやはや、お見事。やはりこの程度の眷獣では、傷をつけることも出来なかったねェ」

 

 呆然とする古城たちの耳に、疎らな拍手の音が響いた。

 拍手の主は白いコートを着込んだ青年。古城に攻撃を防がれておきながら、彼はむしろそれを喜んでいるようにも見える。

 のんびりとした声だが、その態度の裏に潜む巨大な力に、古城は低く身構える。

 今の眷獣は、彼の力の片鱗に過ぎない。もし彼が全力を出せば、どうなるかはわからない……。

 

「さて……まずは歓迎しよう。ようこそ、第四真祖。……会いたかったよ」

 

 そう言って、青年――ディミトリエ・ヴァトラーは、人懐こさと狡猾さが同居する微笑を浮かべてみせた。




 なんか二万文字超えてた……。

 いかがでしたでしょうか。
 これからもワルブレ勢がちょくちょく出てきます。

 次回もよろしくお願いします。


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2‐3 冥府の魔女 ―Hell Witch―

 お久しぶりです、一か月ぶりですか。

 というわけで、ちょっと気合を入れました。入れましたら、二万行きました。よろしくお願いします。


 月の輝く夜。第四真祖暁古城と少女たちが、〝戦王領域〟の使者、ディミトリエ・ヴァトラーとの邂逅を果たしていた頃。

 古城たちのクラスの担任教師にして、絃神島有数の実力者、南宮那月は、鉄骨を剥き出しにした殺風景な部屋に居た。

 密林のように室内を埋め尽くす電子回路を保護するために、呼気が白く煙るほどに室温は低い。

 カノウ・アルケミカル・インダストリー社という会社の、とある研究室の一つだった。

 

 そんな部屋で、那月は目の前の巨大モニタの映像を見上げていた。

 彼女の背後では、黒服を着た男達が一人の獣人を拘束していた。黒死皇派と呼ばれるテロリスト集団の賛同者(シンパ)であり、特区警備隊(アイランド・ガード)に捕縛命令の出された犯罪者だった。

 そしてもう一人。モニタを見つめる那月の背後に微動だにせず佇む藍色の髪の小柄な少女――アスタルテ。

 

 次に那月が視線を移したのは、机に散らばっていた数枚の写真。どこかの古代遺跡から出土した石板を写したものらしい。

 石板の表面に刻まれているのは、モニタのものと同じ解読不能な文字の羅列。だが、卓越した魔女である那月には、そこに書かれているのが恐ろしく危険の力を秘めた代物であることが分かった。

 

「黒死皇派が、西域からわざわざ運びこんできた密輸品というのはコイツか……ただの骨董品ではなさそうだが……現物(オリジナル)はどこにある?」

「――対象確認不能。すでに当施設から運び出されたものと推定されます」

 

 アスタルテが指差すのは、部屋の隅に残された、中身のない金属製の輸送ケース。

 チッ、と苛立たしげに舌打ちしながら、那月はモニタをもう一度見上げる。

 この部屋で行われていたのは石板の解読作業のようだが、未だに解読は不完全。解読出来ているのは、ごく限られた一部の単語だけ。その中に〝ナラクヴェーラ〟の文字を見つけて、那月は眉を顰めた。

 

「馬鹿な……何を考えている、クリストフ・ガルドシュ……」

 

 那月の呟きに答える声はなかった。

 だがアスタルテは、那月の声に含まれた重々しい響きに、作られた心の内に漠然とした不安を抱いた。

 

「…………マスター」

 

 ここには居ない主を呼ぶ彼女の声は、誰にも届くことなく殺風景な部屋の壁に吸い込まれて、消えて行った。

 

 

 

§

 

 

 

 同時刻。藍羽浅葱は、自室の机の前に座っていた。

 クローゼットから溢れ出した洋服。雑誌とメイク用品とぬいぐるみが少々。浅葱の自室はごくありふれた女子の部屋だ。

 だが、この机周りだけは違う。無骨な作業用ディスプレイ、ラックマウント式の並列PCクラスタ。ちょっとしたIT企業や大学の研究室レベルの機材が勉強机に無造作に並べられているのだ。

 ごく一部の者しか知らないことだが、浅葱は〝電子の女帝〟などという恥ずかしい呼び名で呼ばれる、天才的なハッカーなのである。趣味と実益を兼ねて絃神島内の企業や人工島管理公社から高額のバイトを引き受けていたりする。

 

 幼馴染である矢瀬基樹を相手に一頻り愚痴を言って、ついでに余計なことを言われて悶々としていた時、ふと見慣れないメールの存在に気が付いた。発信者のアドレスは、カノウ・アルケミカル・インダストリー社。浅葱も何度か仕事を請け負ったことのある会社だった。

 

『解読希望――』

 

 たった一言だけ添えられて送られていたのは、得体の知れない奇怪な文字の羅列だった。恐ろしく複雑な言語体系(システム)、破綻した論理配列(アレンジ)、地球上のどの言語とも、魔術や呪術で使用される呪文とも違う。

 いかなる言語学者、あるいは魔術師の集団を以てしても、これの解読は困難だろう。

 当然だ。何故ならこれは、人間のための文字列ではないのだから。普通の言語学的アプローチで解き明かせるはずもない。

 今の人類が知らない特殊なアーキテクチャを操るための命令体系――プログラムである。

 

 しかしそんな難解にして複雑極まる文字列も、プログラムであるのならば、浅葱に――〝電子の女帝〟に、解き明かせないはずもない。

 やがて奇怪な文字が解体されて、翻訳された文字が表示された。

 

 ディスプレイに浮かび上がった単語を見て、浅葱は首を傾げながら呟いた。

 

「〝ナラクヴェーラ〟……?」

 

 

 

§

 

 

 

 暁古城は、夢の〝続き〟を見ていた。

 

 

 

 古城(シュウ・サウラ)の腕の中で抱き締められていた魔女は、そっと身を離した。

 

「見て――」

 

 徐に上着をはだけ、豊かな乳房がまろび出る。

 雪のように白い肌の上には、惨たらしい焼き印が刻まれていた。作り物めいた完璧な美を損なう、見るも無残な汚点。彼女がかつて、『奴隷』であったことの証左。

 

 でも、魔女はむしろ、それを誇るように胸を張った。

 

「奴隷だった私を、解放したのはあなたよ?」

 

 蜜のような声で、目の前の男に囁きかける。

 

「あなたには、私を繋ぎ止める責務があるわ?」

 

 そして古城(シュウ・サウラ)の手を取り、自らの乳房の上、かつて刻まれた奴隷の証へと導いた。

 

「……まったく」

 

 古城(シュウ・サウラ)は呆れたような口調で、しかしその瞳はどこまでも優しく、魔女の言葉を受け止めた。

 

「お前は自由だ。そも、人が人を縛る鎖などどこにもないのだ」

 

 乳房の焼き印を、そっと撫でる。

 

「私はあなたがくれた自由に溺れそうなの。あなたにしがみつくしかないの。……だからお願い。私のことを見て。私のことを捕まえて。私のことを離さないで。私のことを抱き締めて。私たちが死ぬまで、私たちが生まれ変わったその後も、ずっと。永遠に」

 

 冥府の魔女は古城(シュウ・サウラ)の首に手を回し、しなだれかかってくる。古城(シュウ・サウラ)の胸板で挟まれて豊かな乳房がひしゃげる。

 

「それがあなたの、私に対する贖罪よ」

 

 古城(シュウ・サウラ)は答える代りに、魔女の細い体を強く抱き締めた。

 それ以上は指一本触れず、キスすらしない。この凍える世界で、僅かな温もりを分かち合う。

 

 まるで、互いの魂の結びつきを確かめ合うような、深く、情熱的な抱擁だった。

 

 

 

 そこで古城(シュウ・サウラ)の夢は途切れ、古城は目を醒ました。

 

 

 

§

 

 

 

 翌日の朝。朝の六時、そろそろ日差しがキツくなってきた頃。

 藍羽浅葱は、暁古城の自宅を訪ねていた。

 浅葱がである。サツキや雪菜ではなく、浅葱が、である。

 

「……ったく、何であたしがこんなこと」

 

 確かに浅葱は古城の家を知っているし、何度か来たこともあるが、だからといって朝早く来るような場所でもない。

 正直に言って、浅葱本人にも、自分が何故こんなところに居るのか、よく分かっていなかった。ついでに、今から自分がやろうとしていることの意味も、よく分かっていなかった。

 ただ一つ分かっているのは、こうなったのは、古城の周りを囲む少女たちと最近また追加されたライバル(雪菜)の存在、そして昨夜の矢瀬から言われた言葉に原因があるということだけだ。

 

曰く――『とりあえず漆原とかに対抗して、古城を誘惑してみるってのはどうだ?』

 

 しかしそんなことを言われても、自分と古城の関係で一体何をすればそんな状況に持ち込めるのか、皆目見当もつかなかった。あの鈍感かつ無自覚なハーレム野郎のくせに変なところで常識的な古城を簡単に籠絡出来るなら、今頃静乃辺りがモノにしていただろう。

 

 それでも矢瀬の言葉が気になって、妙な文字列を解読した後にネットでいろいろ調べて、出てきた検索結果の内の一つを早速試そうと、古城の家に来たわけだが。

 いざやるとなると、どうにも尻込みしてしまう。

 

「……って、何をあたしは躊躇してんのよ」

 

 この部屋に入れてもらう時に会った凪沙からも、古城を起こしてやってくれと言われていることだし、仕方ない。うん、仕方ない。早く起こしてやらねば学校に遅れてしまう。うん、仕方ないのだ。

 実際はまだ時間的に余裕はあるのだが――その分、浅葱がどれだけ早くから来ていたのかが分かるというもの――浅葱は理論武装を完了して、目の前の古城の部屋のドアをゆっくりと開ける。音がしないように必要以上に気を付けたせいで、まるで忍びこんでいるようになってしまった。

 

 相変わらず必要最低限の家具とバスケットボールや雑誌程度しかない部屋のベッドで、古城がタオルケット一枚をかけてドアの方に背を向けて眠っていた。

 背中しか見えないためどんな表情なのかは分からないが、ゆっくりと上下する肩や雰囲気から、随分と気持ち良さそうに寝ているのが分かる。

 完全に逆恨みだが、人の気も知らないで――という怒りが込み上げてきて、浅葱はズンズンとベッドに近付いてタオルケットを剥ぎ取る。

 

「ほら、古城! いつまで寝てるの! 起きないと遅刻する……わ…………よ…………」

 

 古城を起こそうとする浅葱の威勢のいい声は、しかし尻すぼみに消えて行ってしまった。

 

「んぐ……あと五分…………」

 

 一瞬目を開けて起床しかけた古城だったが、すぐにもう一度目を閉じて、腕の中で眠る少女を(・・・・・・・・・)抱き締めた(・・・・・)

 ギュウッと古城に抱き締められた少女は、「ん……」と気持ち良さそうな声を洩らして、自らも古城の胸に額を擦り寄せてさらに密着度が上がる。ダボダボのTシャツ一枚で、剥き出しになった白く細い足まで、古城の足と絡み合っている。

 藍色の髪のその小さな体躯の少女は、確か人工生命体(ホムンクルス)の、アスタルテといったはずだ。昨日紹介された時には、古城の所有物とか言っていたが……なるほど。抱き枕という意味なら、確かに所有物である。

 

 その光景を――想い人が年端もいかぬ幼女を抱き枕にしている姿を――目の当たりにして、浅葱の思考は完全に停止した。

 いや、浅葱でなくともこれは同じ反応をする場面だろう。高校一年生の大柄な男子が、人工生命体(ホムンクルス)とはいえ見た目十歳かそこらの幼女と絡み合っている場面など見た日には、誰だってこうなる。即座に特区警備隊(アイランド・ガード)を呼ばないだけマシな方だ。

 

 たっぷり数十秒固まってから、ようやく正気を取り戻した浅葱は、何よりもまず、叫んだ。

 

「っ、きゃああァァ――――――ッ!?」

 

 部屋中に轟いた絶叫に、気持ち良く寝ていた古城も眉を顰め、自分に抱きつくアスタルテの細い腕を丁寧に外してやってから、目を擦りながらゆっくりと起き上がった。

 ロクに回らない頭でベッド脇の目覚まし時計を見ると、まだ余裕があった。昨日は帰ってくるのが遅くて、まだ寝足りないのだ。あと三十分ぐらいならいけるだろう。

 そう思っていると、不意に服の裾をアスタルテが掴んできた。どうやらまだ起きているわけではなく、寝ぼけてのことらしい。古城は優しく微笑みながらアスタルテの手を取ってもう一度寝入ろうとして――いきなり浅葱に耳を抓られて跳び上がった。

 

「いでででで! だ、誰だ……って、浅葱?」

「……どういうこと!」

 

 何故か自室に居る制服姿の浅葱を見て驚いた様子の古城だったが、すごい剣幕で迫られて思わず怯んでしまった。

 というか、何でいきなり怒鳴られなければならないのか。

 

「どういうこと、って何がだよ?」

「この娘のことよ! 何であんた、この娘と一緒に寝てるわけ!? 普通有り得ないでしょ!?」

「……? いやだって、抱き枕だし」

「抱き……っ!?」

 

 あっけらかんと言い放つ古城に、頬を引き攣らせて浅葱は硬直した。

 そんな浅葱を放って、古城は欠伸をしながら再びベッドに沈んだ。

 ギュウッとアスタルテを抱き締める。早朝とはいえ常夏の人工島では、それなりの気温なのだが、アスタルテの細身の体は僅かに冷たく丁度良かった。抱き枕として、文句なしの満点である。

 

 快適そうに頬を緩ませる古城と、彼の腕の中で軽やかな寝息を立てるアスタルテに、浅葱は打ちひしがれた。

 どういうことだ。まさか、自分の想い人は、人として堕ちてはいけないところまで堕ちてしまったというのか……!

 絶望感に膝をつく浅葱。薄目でそれを見た古城は、何やってんだコイツ、という疑問を浮かべながら、朝になってもここまで眠い元凶となった事件を思い返していた。

 

 

 

§

 

 

 

「――今の気配〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟だね……ふぅん、普通の人間が第四真祖を喰ったって話、本当だったのか。いや、キミは普通の人間とは言えないか」

 

 古城にいきなり攻撃を仕掛け、少女たちを薙ぎ払っておきながら、〝戦王領域〟の貴族は悪びれなく言った。

 

「……〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟を知ってるのか」

「〝焰光の夜伯(カレイドブラッド)〟アヴローラ・フロレスティーナの五番目の眷獣だろ。制御の難しい暴れ者と聞いていたけれど、よく手懐けているじゃないか。霊媒の血が良かったのかな?」

 

 ディミトリエ・ヴァトラー。見た目は二十代前半に見えるが、吸血鬼――それも〝旧き世代〟の吸血鬼の見た目など信用できない。その何倍、何十倍もの時を生き、古城など及びもつかないほどの莫大な知識を蓄えているはずだ。

 第四真祖――古城自身にまつわることについても。

 

「……ッ、ぐっ、アンタ、アヴローラとは、どういう関係だ……?」

 

 淡々とヴァトラーが紡いだ、先代の第四真祖の名に、古城は原因不明の激しい頭痛を覚えた。

 呪いにも似た、かつてどこかで出会ったはずの少女の記憶を閉ざす封印。

 

 ヴァトラーは、懐かしむように目を細め、

 

「ボクは彼女を愛してるのさ。永遠の愛を誓ったんだ」

「愛を誓った……って、アンタは第一真祖の一族だろ」

「まあね。けど、要は〝血〟が強ければいいのさ。先祖だろうが誰だろうが無関係に強い血族が生き残る。吸血鬼ってのはそういうものだろう? そんな訳で仲良く愛を語らおうじゃないか、暁古城」

「待て待て待て待てっ! 何でそうなる!?」

「ん?」

「お前が愛を誓ったのはアヴローラなんだろ!?」

「だけど彼女はもう居ない。キミが彼女を喰ったんだろ?」

 

 平然と投げかけられたヴァトラーの問いに、古城は声を詰まらせた。

 古城にはその時の記憶がない。だが、ほんの数か月前までは、前世の記憶こそあれ普通の人間だった。

 そんな古城が第四真祖へと至った。考えられる可能性はただ一つ――融合捕食。古城が、その存在と記憶を奪ったのだ。

 

 しかしヴァトラーはむしろ、そんな古城を称賛するように微笑んで、歪めた唇の端からちろりと舌を見せる。

 

「――だからボクは、彼女の〝血〟を受け継いだキミに愛を捧げる。キミが第四真祖の力を得たということは、彼女がキミを認め、力を授けたということ。なら、彼女に永遠の愛を誓ったものとしては、キミとボクの性別なんて些細なことさ」

「些細じゃねえよ! むしろそこが一番ダメなところだろうが!」

「そ、そそそそそうよ! ダメよ! 兄様にも、兄様のお尻にも手を出させはしないわ!!」

「お尻って何だ、不安になるだろうが!」

 

 古城を庇うように前に出たサツキに、顔を青ざめさせながら怒鳴る古城。

 ヴァトラーはそんな二人を見て、心底から愛おしそうに微笑んだ。

 

「全く、つれないなァ、キミは。……前世でも、いくら求愛してもキミは振り向いてくれなかったからね、フラガ(・・・)

「…………ッ!?」

 

 微笑みを浮かべたヴァトラーの言葉に、古城とサツキ、そして事情を知る静乃と雪菜は息を呑んだ。

 フラガ。それは、二つある古城の前世の片方。聖剣の守護者、剣聖フラガの名だ。

 那月を含め、ごく一部の者しか知らないその名を、ヴァトラーは口にした。

 

 警戒を最大まで引き上げて、古城はヴァトラーを睨みつける。

 だがヴァトラーは、不気味な笑みを崩さぬまま、

 

「ひどいなァ、フラガ。かつては共に戦場を駆け抜け、共に勝利の美酒を酌み交わした仲だというのに。数千数万、場合によっては数億年越しの再会じゃないか」

「何だと……ッ!?」

 

 未だにほとんど思い出せていない前世の記憶。フラガのことで思い出せているのは、そのほとんどが一人で戦場に立っていた記憶のみ。

 そう、一人でだ。フラガは常に孤独で戦いを挑み、そして勝利してきた。隣に立つ者など居なかった。

 

 しかし先程の戦闘でヴァトラーの見せた紫光の通力(プラーナ)。あの輝きに見覚えがあったのも、また事実。

 

「あァ、まだ思い出せていないのか。なら、先に名を名乗っておこうか。今のボクは、アルデアル公ディミトリエ・ヴァトラー。そして前世における名は――エドワード・ランパード」

「……ッ、エド、ワード……!?」

 

 その名乗りに最も大きく反応したのは、古城の傍らに居たサツキだった。

 大きな瞳を驚愕に揺らし、怯えるように古城に縋ってくる。

 

「おい、サツキ……?」

「ウソ、何で……何で、あの〝白騎士〟サー・エドワードがこんなところに……!?」

「〝白騎士〟……っ、あッ!?」

 

 サツキの呟きに、古城の脳の奥で、ヂリリ、ヂリリリ、と何かを引っ掻くような音がした。

 耐え切れず頭を押さえる古城に、周囲の少女たちが心配そうに声をかけるが、返答する余裕もない。

 

 きつく瞼を閉じた古城の脳裏に蘇るのは、あるはずのない、見たことのない記憶。白昼夢のように現実感のない光景。

 場所は……どこかの城だろうか。

 白亜の壁に囲まれた純白の広大な空間。地面に敷かれた真紅の絨毯。天井で揺れる大きなシャンデリア。巨大な門を抜けて部屋の奥に位置する豪奢な玉座。

 

 だが、常ならば煌びやかに着飾った貴族たちが集まり、玉座の王に頭を垂れているはずのその空間には――夥しい殺戮の跡しか残されていなかった。

 白亜の壁は拭っても消えない血痕が染みつき、真紅の絨毯の上には何人もの貴族の死体が転がり、天井のシャンデリアは砕けて、玉座の上には、背もたれに背中を預けたまま事切れる、麗しき女王の姿があった。

 

 その惨状を呆然と見つめる古城(フラガ)の目前には、一人の男が立っていた。

 血に染まった鎧と大剣を持ち、ゆったりと古城(フラガ)を見据える彼。

 彼の身につける白銀の鎧は、この世の何よりも硬いと謳われる、聖剣サラティガに比肩しうる王家の秘法。

 

 サラティガが地上最強の矛であるならば、あの鎧は地上最強の盾。

 その鎧を以て戦場を駆け、無数の武功を立てた彼に贈られた称号が、〝白騎士〟。女王を守護する最強の騎士。

 平民の出でありながら女王陛下より〝サー〟の名を賜り、常に爽やかな笑みを崩さず、誰にでも温情ある態度で接する全ての騎士の憧れとも言える彼は今――狂気に塗れた酷薄な表情で、古城(フラガ)に視線を向けていた。

 

『さァ……始めようか、フラガ。ボクに、キミの魂の輝きを見せてくれ!』

 

 ――そこで、古城の視界は豪華クルーズ船の上甲板に移った。

 

「……思い、出した。そうか、お前がアイツだったのか」

 

 断片的ながら、古城は彼のことを思い出した。

 フラガにとってほぼ唯一の友人と言ってもよかった彼。近衛騎士筆頭であった彼と肩を並べる機会は少なかったが、何度か共に戦ったこともあった。

 そして最後には――古城(フラガ)が、この手で殺した相手。

 

「サー・エドワード……!」

「サーなんて他人行儀な呼び方はよしてくれ、キミとボクの仲じゃないか」

 

 相も変わらず、ヴァトラーは軽薄に笑っている。

 

「……あの戦いの時にキミが見せてくれた、あの輝き。いや、違うな。キミの戦う姿を見たその日から、ボクの胸の中はキミのことで一杯だったよ」

 

 愛おしげに眼を細めながら、両腕を広げて近寄ってくるヴァトラーに古城は本気で後退った。

 そんな古城を押し退けて、楽器ケースを提げた雪菜が前に出た。

 

「アルデアル公。恐れながらお尋ねします」

「キミは?」

「獅子王機関の剣巫、姫柊雪菜と申します。今夜は第四真祖の監視役として参上いたしました」

「ふぅん……紗矢華嬢のご同輩か」

 

 恭しい言葉遣いで名乗る雪菜を、ヴァトラーは退屈そうに見下した。今の今まで全く認識すらしていなかったらしい。

 

「ところで古城の身体から、キミの血と同じ匂いがするんだが……もしかして、キミが〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟の霊媒だったりするのかな?」

「……っ!?」

「あれ、言ってみただけなんだけど……どうやら図星みたいだね」

 

 不自然に硬直する雪菜。ヴァトラーは少しだけ真剣味を増した目で雪菜を見据えた。

 

 先代の第四真祖から古城が受け継いだ眷獣は全部で十二体。対して、今の古城が掌握できているのはたったの一体。その他の眷獣たちは、古城のことを主だとは認めていないのだ。

 だが紆余曲折の末、古城は雪菜の血を吸うことで〝獅子の黄金(レグルス・アウルム)〟を掌握することが出来た。

 もちろん、監視役である雪菜の血を吸ったことなど、迂闊に他人に話せることではなかったが……どうやら、ヴァトラーはカマをかけただけだったらしい。

 

 古城たちの動揺を愉しむかのように、ヴァトラーは満足げな笑みを浮かべた。

 

「でもまあ、キミが古城の〝血の伴侶〟候補だというのなら、ボクにとっては恋敵ってことになるのかな? ……後、さっきから気になってたんだけど、その娘は? 古城よりも先にボクの名前に反応していたけれど」

 

 話しかけた雪菜をさっぱりと放置して、ヴァトラーは古城の傍らに居たサツキに視線を向けた。

 ビクッと肩を震わせるサツキを庇いながら、古城はヴァトラーにサツキのことを話していいものかどうか迷った。

 しかしヴァトラーは答えを待たずに、サツキの手に握られたままだった小剣へ目をやり、

 

「その剣……まさか、アーキュール? いや、アーキュールを使えるのは王家に連なる者のみ。そういえば、さっき古城のことを『兄様』って…………」

 

 やがて何かを思い立ったらしいヴァトラーは笑みを消して、大きく目を見開き驚愕を露わにした。常の感情の読めない笑みは欠片もなかった。

 そのままたっぷり十秒以上硬直していたヴァトラーは、突如として、体をくの字に折って大笑いを始めた。

 

「ハ、ハハハハ、ハハハハハハハハハハハッ! こ、これは驚いたな! いや、ボクが浅はかだったというべきか!それもそうだ、フラガがこうして転生しているのに、その傍らに彼女が居ないのはどう考えてもおかしい! 守護者と巫女は魂の契りを結んだ者たちなのだから!」

 

 呆然と見守る古城たちに、ようやく笑い止んだヴァトラーはゆっくりと顔を上げた。

 そして、怯えを露わにするサツキに恭しく膝をつき、

 

「再び貴女にお目通り願えて光栄ですよ。お久し振りで御座います……聖剣の巫女、サラシャ姫」

「ひっ……」

 

 ヴァトラーの瞳の奥で輝く不気味な光に息を詰まらせて、サツキはますます強く古城にしがみつく。

 震える剥き出しの肩を抱いてやりながら、古城はヴァトラーを睨みつけた。

 ゆっくりと立ち上がるヴァトラーは、険しい表情の雪菜を見やって口を開く。

 

「さて、ボクの恋敵になるであろうキミに敬意を表して、特別に質問を受け付けてあげよう。何が訊きたい?」

 

 反射的に反論の声を上げようとした古城だったが、雪菜の険しい表情を見て口を噤む。

 

「貴公が絃神市を来訪された目的についてお聞かせください。そうやって第四真祖といかがわしい縁を結ぶことが目的なのですか?」

「ああ、そうか、忘れていたな。本題は別にあるよ。もちろんそっちもあるんだけどね」

「いやあるのかよ」

 

 苦々しく呟く古城。攻撃的な気配を漂わせながら、雪菜は威嚇するようにヴァトラーを睨む。

 

「本題とは……?」

「ちょっとした根回しさ。この魔族特区が第四真祖の領地だというのなら、まずは挨拶しておこうと。もしかしたら迷惑をかけるかもしれないからねェ」

「迷惑とは、どのような?」

 

 雪菜の問いには答えず、ヴァトラーは優雅に指を鳴らした。それを合図に、船内からぞろぞろと大勢の使用人たちが現れた。彼らが運んできたワゴンの上にはパーティー会場のそれがみすぼらしく思えるほどの豪勢な料理が載せられていた。

 

 ヴァトラーは行儀悪く生ハムを一切れ摘まみながら笑った。

 

「クリストフ・ガルドシュ、という名前を知っているかい、古城?」

「いや、誰だ?」

「〝戦王領域〟出身の元軍人で、欧州では少しばかり名の知られたテロリストさ。黒死皇派という過激派グループの幹部で、十年ほど前のプラハ国立劇場占拠事件では民間人に四百人以上の死傷者を出した」

「黒死皇派ってのは聞いたことがあるが……確か、指導者が暗殺されて、何年も前に壊滅したんじゃなかったか?」

 

 うろ覚えの古いニュースを思い出して古城は言った。当時小学生だった古城ですら覚えているのだから、かなりの大事件であったはずだ。

 とそこで、ヴァトラーの執事と思しき男がワイングラスを手渡してくる。未成年なので、と断ろうとしたが、彼の顔を見て逆らうことを諦めた。物腰は静かで理知的だが凄まじい威圧感を備えた強面の老人だ。

 頬に残された大きな古傷が、苛烈な人生を想像させる。

 

 同じようにグラスを受け取ったヴァトラーが、乾杯、と古城の前へ掲げてみせ、

 

「そう。彼はボクが殺した。少々厄介な特技を持った獣人の爺さんだったけどね」

 

 何でもないように言うヴァトラーを、古城は思わず凝視した。軽薄な態度のせいで実感が湧かなかったが、この青年貴族は紛れもなく世界的な重要人物なのだ。

 

「ガルドシュは、その黒死皇派の残党たちに新たな指導者として雇われた、凄腕のテロリストさ」

「……そいつが、お前がこの島に来たのと関係あるって?」

「察しが良くて助かるよ。その通りだ。ガルドシュが黒死皇派の部下たちを引き連れて、この島に潜入したという情報があった」

「……何でヨーロッパの過激派が、わざわざこの島に来るんだよ」

 

 思わず洩れた古城の呟きに答えたのは、押し黙って傍観していた静乃だった。

 感情の籠もらない平坦な口調で、

 

「黒死皇派は、差別的な獣人優位主義者たちの集団よ。彼らの目的は聖域条約の完全破棄と、〝戦王領域〟の支配権を第一真祖から奪うこと」

「それなら、ますますこの島は関係ないでしょ?」

 

 首を傾げるサツキだったが、今度は紗矢華から事務的な口調で否定の声が届けられた。

 

「違うわ。絃神島は魔族特区――聖域条約によって成立している島よ。彼らがこの島で事件を起こすのは、世の中に黒死皇派の健在を示す、という意義がある」

「ま、ただの身勝手な自己満足だけれどね」

 

 恐らく本人たちにとっては至極重要なのだろう目的をばっさりと切り捨てた静乃に、ヴァトラーは面白そうに視線を向けた。

 

「へェ……そういえば、キミはまだ名前を訊いてなかったな」

「失礼をいたしました。私は漆原静乃と申します。御身には兄がご挨拶に伺ったことと存じますが」

「ウルシバラ……ああ、あの男か」

「はい。あの、いつもへらへら笑っていかにも小狡そうで、小物感に満ち溢れた、あの愚鈍な男のことです」

 

 しれっと平然とした顔で兄をこき下ろす静乃の言葉に、古城たちだけでなくヴァトラーまでもが軽く目を瞠った。

 

「面白いな、キミは。古城の周りにはキミみたいな娘も居るのか。これは、古城の心を射止めるのは大変そうだねェ。……ま、いいさ。話を戻そうか」

「そうですね。……では、魔族特区がある国はこの日本だけではないはずです。彼らが絃神島へ足を踏み入れた目的を、閣下はご存じでしょうか?」

「さぁ。そんなこと、ボクが知るはずはない。……ああ、でも、考えられるとすれば、彼らの最終目的である第一真祖抹殺のための手段がこの島にあったから、と考えれば、どうかなァ」

 

 話相手を静乃に移したヴァトラーは、妙に浮き立つような声でそう言った。

 

「……アンタはそれでいいのかよ。真祖を殺す力ってことは、アンタも危ないかもしれないんだろ?」

「おや、心配してくれているのかい古城? 嬉しいな」

「誰がお前の心配なんかするか!」

「悲しいなァ。……それはともかく、ボクとしては別に構わないし、あの真祖(ジイサン)も同じことを言いそうだけどね。ボクにも色々立場とか責務とか、面倒なことが一杯あるわけさ」

 

 もっとも、主な政務はトビアスとかアンジェラとかに一任してるけどさ、と無責任に言いながら、ヴァトラーは意味有りげな含み笑いを洩らす。

 そんな青年貴族を、雪菜が斬りつけるような冷やかな視線で睨みつけた。

 

「クリストフ・ガルドシュを、暗殺なさるつもりですか?」

「まさか、そんな面倒なことはしないさ。手加減とか、案外面倒くさくてねェ」

 

 確かに、吸血鬼の眷獣が個人を相手にするような精密攻撃に向いていないのもまた事実。

 ヴァトラーにテロリスト戦う意思がないのなら、ひとまずは安泰――とは、残念ながらいかなかった。

 

「でもさ。もし仮にガルドシュの方からボクを狙ってきたとしたら、応戦しないわけにはいかない。自衛権の行使ってやつさ。だろう?」

「なっ……!」

 

 油断していたところを突かれて、古城たちは絶句した。

 

「そういうこと……閣下は黒死皇派の指導者を暗殺した、彼らにとってのいわば仇敵。もしもそのガルドシュが本当に真祖をも滅ぼしうる力を得たのであれば――」

「彼は、真っ先にアルデアル公を狙う――アルデアル公、まさか貴方の目的は、それですか!?」

「テロリストを挑発しておびき出すのが、お前の目的か、ヴァトラー! こんなクソ目立つ船で乗り込んできたのも……!」

「いやいや……どちらかといえば、愛しい君に会うのが目的なんだけどさ」

 

 しつこく古城に色目を使ってくるヴァトラー。言い返したのは古城の腕の中に居たサツキだった。

 

「ふざけてる場合っ!? 戦争がしたけりゃ自分の領地()でやりなさいよ! 他国(余所)の街に迷惑をかけないで!」

 

 先程までの怯えが嘘のように、相手が吸血鬼の貴族だと知ったうえでサツキは喝破してみせた。

 純白のドレスの裾を翻し、胸を張って言い切る彼女の姿に、その風格に視線が注目する。

 ヴァトラーはサツキを眺めて、やがて感嘆の吐息を零した。

 

「いやはや……相変わらず勇ましいことですね、サラシャ姫。もちろん、私としてもそうならないことを願ってはいるのです。この都市(まち)の攻魔官たちがガルドシュを捕まえてくれれば私とて文句はありませんよ」

 

 ただの一般人でしかないサツキに対して恭しく接するヴァトラーに驚愕の視線が向けられたが、ヴァトラーは一切気にもかけなかった。

 

「ですが、私が従えている九体の眷獣――コイツらは、宿主である私の身に危険が迫れば、この島を沈めるぐらいのことは容易くやってみせますよ。ですから、古城には最初に謝っておこうと思ったのです」

 

 今ヴァトラーは確かに、絃神島を沈める気があると言った。彼の命を狙うせいぜい数十人のテロリストを始末するために、絃神島ものまとめて滅ぼすと。

 それを古城の前で宣言したということは、古城が止めようとしても無駄だという意思表示でもある。もし邪魔するのであれば、古城も倒す――それが、軽薄な彼の態度の裏に隠れた本心である。

 

「……ふっざけんな! そんな無茶苦茶な理屈が通るかよ……!」

「通らないと思うかい? 実際問題、ボクの抑止力となり得る存在は、この島には居ない。可能性がありそうなのはキミと、そこの恋敵クンに、あとは空隙の魔女ぐらいか。この三人でかかってくれば、勝機はあるかもしれないね」

「……くそっ!」

 

 余裕の態度で返されたヴァトラーの言葉に、古城は唇を噛み締めた。

 事実、古城の実力ではヴァトラーには勝てない。吸血鬼としての勝負でも、光技に闇術を含めた勝負でも。

 つい先程の戦闘で彼の見せた通力(プラーナ)の輝きと、卓越した防御の技の冴えは忘れられない。

 

 彼の通力(プラーナ)の色から、本気の害意がないことは分かっていたが、それでも古城は確かに命の危険を感じた。

 全力の一片すら見せていないヴァトラーに対してすらこれなのだ。

 よしんば彼に勝利することが出来たとしても、古城とヴァトラーが戦えば、結果的に絃神島は壊滅してしまう。

 八方塞がり。だが、はいそうですかと受け入れるわけにもいかない。

 

「ふざけんなよ……そのガルドシュとかいうヤツは、俺が叩き潰す! お前はここでふんぞり返って見てろ!」

「先輩!? ダメです!」

「兄様!? ダメよ!」

 

 強い決意を込めて宣言した古城に、雪菜とサツキが縋りつく。

 

「先輩が全力で戦えばこの島がどうなるか分かりませんし……テロリストですよ!? 危険です!」

「そ、そうよ、兄様! 兄様が戦う必要なんてないじゃない!!」

 

 雪菜たちの反論に、古城は静かに頭を振った。

 確かに、古城の眷獣の威力では被害が測れなくなってしまうし、今の古城の実力では不安が残る。

 だが――ここでヴァトラーを自由にさせてしまうのは、最低の悪手であると、古城の勘が告げていた。

 

 その古城の様子に、もはや何を言っても無駄であると悟った二人は、悔しそうに口を噤んだ。

 

「へェ……確かにそれもいいかもね。第四真祖と凄腕のテロリスト。少しばかり敵が見劣りしてしまうが、まあそれなりには楽しめそうなカードだ。……けれどね、古城」

 

 面白そうに成り行きを見守っていたヴァトラーは、そこで一度言葉を切って、酷薄な視線を古城――ではなく、後ろに控えていた静乃へと向けた。

 

「これは王である第四真祖と、王の臣下たる〝戦王領域〟の貴族との会談だ。ボクの楽しみを奪うというのなら、キミにもそれなりの対価を払ってもらわなければね」

「対価、だと?」

「そう。簡単さ……その娘を、ボクにくれ」

 

 その娘、と言って、ヴァトラーは真っ直ぐ静乃を指差した。

 雪菜たちが驚愕に目を見開き、静乃が身を固くする。

 変わらず薄い笑みを浮かべるヴァトラーの視線から遮るように静乃の前に立て、古城は本気の殺意を込めてヴァトラーを睨みつけた。

〝戦王領域〟の貴族は、古城の怒気もどこ吹く風と平然と受け流している。

 

「ヴァトラー……どういうつもりだっ! 何故、静乃を連れて行こうとする!」

「キミたちの中で、一番素質がありそうだったからねェ」

「……素質?」

「ああ。さっきの『挨拶』の時のことさ。闇術の腕前はもちろんのこと、他の娘たちが遅れて動き出したのに対して、その娘――静乃は、ボクの存在を至近で感じた瞬間から詠唱を開始していた。でなけりゃ、第三階梯をあのタイミングで間に合わせるなんて出来っこないし。一切の動揺もなく、恐怖もなくね。それは誰にでも出来るようなことじゃあない」

 

 ヴァトラーは滔々と語るが、その言葉が、古城にはどうにも白々しく思えた。

 上辺だけ見れば手放しに称賛しているように見えるが、その裏には恐ろしい思惑が渦巻いている。そう、感じられる。

 

「ボクの下で力を磨けば、必ずや有用な戦闘員になってくれるはずさ……ま、とはいっても、静乃はキミのものだ。ボクも今すぐ彼女を引き渡せと言うほどに鬼じゃあないヨ」

「何だと?」

「交換条件だ。……ボクが静乃を連れて行くのを阻止したければ、ボクを楽しませるだけのものを見せてくれ。キミの力を、壮大なスペクタクルを、我が長年の退屈を紛らわせるだけの何かを、見せてくれ」

 

 その言葉からヴァトラーの真意を読み取って、古城はチッと舌打ちをした。

 結局のところ、最初からこれが狙いだったのだ。わざわざ古城にクリストフ・ガルドシュのことを伝えて来たのも、宣戦布告紛いのことをして来たのも、静乃を引き合いに出したのも。

 全ては、古城に、いや、第四真祖に全力を出させるため。

 

「キミが第四真祖であり、そして我が親友・フラガであるのならば……必ずや、ボクを楽しませてくれるはずだと期待しているヨ」

「くそっ……」

 

 忌々しいが、受けるほかはない。ヴァトラーの思惑に乗せられるのは癪だが、今の状況は静乃を人質に取られたようなものだ。

 古城にとってはなにより効果的な手段である。古城は大切な人を見捨てることが出来ない。

 心配そうに見上げて来る少女たちの視線を受け止めながら、古城は決然とヴァトラーを見据え、宣言した。

 

「分かった。お前の思惑に乗ってやる。お前にだけは静乃は渡さねぇ。ここから先は、第四真祖()聖戦(ケンカ)だ!」

 

 

 

§

 

 

 

「随分と威勢のいい啖呵を切ったものね?」

「仕方ねえだろ、あれは」

 

 皮肉げに呟く静乃に、古城は唇を尖らせた。

 

 ヴァトラーと別れた後。古城はサツキを帰らせて、自分は雪菜と静乃を連れてアッパーデッキの下、パーティ会場に戻っていた。

 それなりに時間は経っていたが、未だに招待客たちは会場内で談笑を続けていた。

 

 雪菜は紗矢華と一緒にどこかへ行ってしまった。久々に会った友人同士、積もる話もあるだろう。どうせ離れていても、何らかの手段で古城を監視しているに違いない。

 かくして古城は静乃と二人、会場の端、手すりに身を預けて夜の暗い海面を眺め続けていた。

 

 船に近い辺りはライトアップされた船の照明で明るいが、少し遠くなれば、そこには漆黒の海面が広がっている。

 夜空と区別がつかないほどのそれは、もしここで手を滑らせてしまえば、どこまでも吸い込まれて行ってしまいそうな、そんな不安を抱かせる。

 目の前の光景はあまり楽しいものではないが、吹く夜風は心地いい。

 

「実際、どうなんだよ? アイツの話」

「そうね。漆原家……特に、私の兄は狂喜するでしょうね。何とかして〝戦王領域〟の貴族とのコネを作ろうと躍起になっていたところに持ち込まれた今回の話だもの。乗って来ようとしないはずはないわ。もしかしたら、無理矢理押し切られてしまうかも」

「……お前自身はどう思ってる?」

「私にそれを訊くのかしら?」

「すまん。そうだよな」

 

 なら、もはや是非もない。今の古城に持てる全力を以て、この件に当たるほかはあるまい。

 差し当たってはまず、クリストフ・ガルドシュなる人物についてだ。すでに絃神島へ潜入しているらしいが、どのような人物かすら知らなければ話にならない。

 目を鋭くして真剣に思索する古城に、静乃が少しだけ嬉しそうな声をかけた。

 

「……私のことよりも、あなたのことよ? 閣下のことだから、前言を撤回したりはなさらないでしょうね。あの方との因縁は私は知らないけれど、もう逃げられはしないでしょう」

「分かってるさ。もちろんな」

 

 その上で古城は決めたのだ。

 

「呆れたわ。分かっていながらあんなことを言うだなんて……まあ、でも」

「ん?」

 

 静乃の細腕が、古城の首筋にすっと絡み付いた。

 拒むこともなく受け入れる古城を抱き寄せて、静乃はそのまま顔を近付け、

 

「私のためにあそこまでしてくれたのは、嬉しかったわ? ……ありがとう、古城」

 

 チュッ、と。古城の唇に、自分のそれを重ね合わせた。

 周囲の視線を憚ってか数秒もしない内に静乃は身を離したが、それでも古城を呆然とさせるには十分だった。

 

「ねえ……古城?」

「…………何だよ?」

 

 未だ混乱冷めやらぬ中、静乃の呼びかけに、古城は半ば反射的に反応する。

 なんともなしに夜の海を見つめて、静乃の話を待つ。

 こんな寂しい景色でも、こうして静乃と並んで見ていると悪くない。

 火照った頬が冷却されて行くのを感じていると、静乃がそっと口を開いた。

 

「アスタルテさん……彼女とどういう関係なのか、教えてもらってもいいかしら?」

「……どういう関係、って言われてもな」

 

 特別説明するようなことはないように思えたが、静乃がジッと見つめているのを感じて、古城はアスタルテと出会ってからこれまでのことを話し始めた。

 四月。絃神島で起こっていた連続魔族襲撃事件の犯人として、夜の倉庫街で顔を合わせた時から、彼女を死の運命から救うために〝薔薇の指先(ロドダクテュロス)〟の支配権を書き替えたところまで。

 考えながらだったので要領を得ない説明になっていただろうが、静乃は黙って聞いてくれた。

 

「なるほどね。なら、古城はどうして、彼女を受け入れようと思ったの?」

「そうだな……。何となく、ほっとけなかったから、だと思う」

 

 正直に言って自分でもよく分からない。けれどあの時。那月の執務室で彼女の言葉を聞いて、古城は思ったのだ。

 ああ、この娘は、人間になろうとしてるんだな、と。

 

「そう……。古城は、あの娘を助けたいのね」

「助ける?」

「ええ。道具として生み出され、今こうして感情を得てしまった彼女を。色々なことを知って色々なものを得ていく彼女が、方向を間違えないように、道を踏み外さないように」

 

 何でもお見通しだとばかりの瞳でこちらを見ながら、静乃は言う。古城自身ですら分かっていなかった心の裡を。

 

「あなたの口からそれを聞けて嬉しいわ」

「……俺も、お前に聞いてもらえて嬉しいよ。サツキじゃこうはいかないだろうからなぁ」

「そうね。嵐城さんなら、『このロリコン! ロリコン!』とか言って騒ぎ立てるでしょうね」

「有り得る……っていうか、絶対そうなるな」

 

 苦笑する古城を、静乃は皮肉げに見やって、

 

「まあでも、嵐城さんも、ああは言っていても本心ではそこまで気にしていないと思うわ?」

「そうなのか?」

「ええ。あなたが他の女の子に優しくするのをいちいち腹を立てていたら、あなたとは付き合えないもの。嵐城さんの場合は、それが対抗心とかに昇華されているから健全よね」

「なるほどな……ってオイ。何かそれじゃ、俺がどうしようもない女好きみたいじゃないか」

「反論があって?」

 

 しれっと返され、古城は思わず沈黙する。

 静乃はやれやれとばかりに肩を竦めて、

 

「ともあれ、アスタルテさんのことは面倒を見てあげればいいじゃない。どうせするなって言っても聞かない。それがあなたの性分なんだし」

「お前な、どこまで俺を見透かしてるんだよ?」

 

 何か怖いぞ、と古城は不平をこぼしたが、静乃は取り合わなかった。

 

「そうね……。例えばの話だけど、あなたがある日、幼く可哀想な奴隷の女の子を目にしてしまったとしましょう」

「待て、奴隷って何だよ」

「例えばの話だと言っているでしょう? あなたはきっとその女の子を放ってはおけない。解放してあげて、責任を持ってレディになるまで育て上げるわ。絶対に。前世だろうと、現世だろうと、あなたはそういう人なのよ――」

 

 例え話にもならなければ、とりとめのない話を、静乃は淡々と語る。

 けれどその間中、古城の頭の奥底で火花が弾けていた。静乃の話が続くごとに、ヂリリ、ヂリリ、と火花はどんどん大きくなって行く。

 古城は頭痛を堪えて、よろめきながら額を押さえた。

 

「――そのことを、私はよく知っているのよ」

 

 静乃の台詞がトドメのように、頭の奥底に存在する壁に罅を入れた。

 一際強く火花が飛び散る音とともに、声が聞こえた。二つ。

 

 

 ――あなたには、私を繋ぎ止める責務があるわ?

 

 

 ――お前は自由だ。そも、人が人を縛る鎖などこの世のどこにもないのだ。

 

 

 男女の声だ。最初が女で、次が男。

 重い問答のようであり、甘い睦言のようでもある、狂おしいほどに懐かしい声。

 はっきりと聞こえて来たと思ったら、まるで腕の中からこぼれて逃げていくように、感覚が曖昧になっていく。懐かしさまで消え失せていく。

 どんなに掻き集めようとしても不可能で……。

 

 古城は大きくよろめいて、手すりに背中を支えられた。

 

「いきなりどうしたの?」

「いや……」

 

 例え話を中断した静乃が、古城を案ずる気持を乗せて、背中をゆっくりと擦ってくれる。

 額に当てられた静乃の手の平が冷え切っているのを感じて、古城はそっとその手を取った。

 

「……寒いか?」

「そうね。そろそろ冷えて来たわね」

 

 向かい合う二人に、それ以上の言葉は要らなかった。

 周囲の賓客たちの存在も忘れて、古城は静乃を抱擁してやる。静乃もまた、より一層体を密着させてきた。

 静乃の体温は低く、冷たく、それでいて彼女の芯に秘められた熱がしっとりと感じられる。

 

 キスの一つも交わすことはない。だが、ただ温め合うだけの行為に、古城は素晴らしく満足出来ていた。

 

 静乃ではないが、例えばの話だ。

 もし、極寒の地にある氷の城で、二人きりで住まうことになったとして。

 毎日のように静乃と肌を重ねることが出来るのなら。

 俺の心から、希望が失われることはない。

 なぜか不意に、古城は強く、そんな気にさせられた。

 

 

 

§

 

 

 

「はぁ……。疲れた……」

 

 クルーズ船から帰って、深夜。静乃や雪菜と別れ、眠っているであろう凪沙を起こさないようにそっと鍵を開けて自室へと舞い戻った古城は、深々と溜め息を吐いて床に座り込んだ。

 もう何もする気も、何も考える気も起きない。さっさと寝てしまおう。

 

 最低限の寝る準備として、ボロボロになってしまっていたタキシードを脱ぎ捨てる。どうせズタズタで一部焦げているし、捨てることになるだろう。もったいない気もするが。

 肩の凝る衣装を脱ぎ捨てて、上からTシャツを一枚羽織っただけの状態で、古城はベッドに身を投げた。

 

 そういえば、アスタルテはどうしたのだろうか。那月から仕事を仰せつかっているとのことだが、そろそろ帰って来ていてもおかしくはないだろう。

 だがまあ、那月が居るのだ。滅多なこともないだろう。古城はそう思考を完結させる。

 

「疲れたな、マジで……。もう寝よう」

「慰労。お疲れ様でした、マスター」

「おぉ……。眠い。もう寝るわ……」

命令受諾(アクセプト)。では疲労回復のため、この抱き枕を抱いて睡眠を取ることを推奨します」

「あぁ……………………って、は?」

 

 眠気のあまり適当に応対していた古城だったが、そこでようやく違和感に気付いた。

 呆然としたまま隣を見ると、藍色の髪をした少女が古城のTシャツ一枚を着ただけの無防備な格好で、両手を広げて古城を無表情に見つめていた。

 

 混乱しすぎて、寝るときはメイド服は着ないんだな……、と謎の感慨を浮かべる古城。

 とりあえず色々訊いてみることにする。

 

「……何で、ここに居るんだ?」

「マスターにお届物があったので」

「……お届物って?」

「マスターの安眠のため、世界一暖かくて柔らかくて可愛い、抱き枕をお届けに上がりました」

「……どこに?」

「ここです」

 

 両手を広げて万歳するアスタルテ。

 

「……自分で言うか、それ?」

「私の持ちネタではありませんので。作者に言ってください」

「メタ発言すんな。……つまり、アスタルテを抱いて寝ろ、ってことか?」

「肯定。その通りです、マスター」

「いや何でだよ」

 

 凪沙を起こさないように気を遣いながら、古城は問い質すが、アスタルテはしれっとした顔のまま、

 

「私はマスターの所有物ですから。抱き枕的な意味合いも含めて、所有物です」

「そのりくつはおかしい」

 

 反論するも、そろそろ眠気が限界だった。

 ひらひらと手を振ってもう好きにするように言い、古城はシーツを掴んでベッドに倒れ込んだ。

 そのシーツの中に、アスタルテが無防備に入って来る。

 

「おやすみなさい、マスター」

 

 アスタルテは当然であると言わんばかりに抱きついてきた。

 華奢ではあるが柔らかく暖かい、プニプにした感触が伝わってくる。

 実はアスタルテも相当眠かったのか、即座に軽やかな寝息を立て始めた。

いつもは無表情だが、アスタルテの容姿は普通以上に整っている。無防備な寝顔が愛らしい。

 

「………………もう、いいか」

 

 一瞬放り出そうかと思ったが、何か色々面倒臭くなってそのままにしておいた。

 ふと思い立ち、アスタルテの言葉に従ってアスタルテの身体を抱き寄せる。すると、想像以上の心地よさにあっという間に意識が眠りへと引きずり込まれる。

 

 いつもよりも気分がすっきりとしている。これならば、明日も妙な疲れが残ることはなさそうだ。

 暖かくて柔らかくて可愛いという売り文句に、偽りなしだった。

 

 

 

§

 

 

 

 昨日のことを回想している内に、朝の自室に居る人数がさらに増えていた。

 

「……古城君? アスタルテちゃんと一緒にベッドに入って、何してるの……?」

 

 浅葱の叫び声を聞きつけて部屋に入ってきた暁凪沙が、部屋の惨状を認めて、一瞬で表情を消した。

 背筋が粟立つような冷たい声で訊いてくる。

 

「な、凪沙……?」

「あたしは朝ご飯の準備があったから、浅葱ちゃんに起こしてもらうように頼んでたんだけど……アスタルテちゃんが用意した部屋に居ないと思ったら、何で一緒のベッドで、そんな恰好で寝てるのかな……!?」

「え、いや、それは……」

「古城君の変態! 色情魔! ロリコン!」

「待て誰がロリコンだ! 俺はただ、アスタルテを抱き枕にしてただけだ!」

「それが変態じゃなかったら何だっていうの!?」

 

 全くの正論であった。

 しかしこれは仕方ないだろう。何故なら、抱き枕云々はアスタルテの方から言い出したことであり、古城はそれに従っただけなのだから。

 と、ツッコミどころ満載の自己弁護をしている古城に、更にダメ押しのように、仁王立ちする凪沙の背後から小柄な人影がひょっこりと顔を出す。

 

「……先輩? 何かあったんですか?」

「あ、ダメ! こんな不潔な人のことを見たら雪菜ちゃんが穢れるから!」

「……え?」

 

 キョトンと目を瞬きながら雪菜が部屋の中を覗き込み――先程の凪沙の焼き増しのように、一瞬で表情を消した。顔立ちが並外れて整っているが故に、人形のような無感動な瞳が古城の背に冷たい汗を伝わせる。

 

「…………あー、うん。まあ、何か分かってた」

 

 ついに諦めの境地に至った古城は、投げやりに呟いた。

 ここまで来れば、彼女も入って来るだろうことは何となく予想していた。サツキや静乃が居ないだけまだマシだろうか。

 

「……ん、ふぁ……?」

「お、起きたか、アスタルテ」

「はい……。おはようございます、マスター」

 

 そこでようやく、アスタルテが目を覚ました。のろのろと体を起こし、猫のようにくしくしと目を擦る。

 口元に手を当てて欠伸を噛み殺す彼女の仕草に、人工生命体(ホムンクルス)と言ってもあまり変わらないな、と微笑ましさを感じる古城。

 そんな古城に、アスタルテがゆっくりと正面から抱きついてきた。

 

「「「なっ!?」」」

「ん……」

「どうしたー?」

 

 息を呑む少女たちを尻目に、古城は彼女の藍色の髪をそっと撫でてやる。

 気持ち良さそうに目を細める彼女の髪は、寝起きだというのに一切の大した寝癖もなく触り心地がとてもいい。古城は夢中で――現実逃避もあるが――アスタルテの髪を撫で続けた。

 

 やがて満足したらしいアスタルテは、古城から身を離してベッドから降りる。何となく古城たちが見守る中、アスタルテはTシャツの裾を正し髪を撫でつける。

 そして、顔を上げたアスタルテは固まる雪菜たちを数秒眺めて、

 

「……おはようございます、皆さん」

「え、あ、お、おはようございます……」

「えっと、アスタルテちゃん……よく眠れた……?」

「肯定。……マスターの胸の中で、たっぷりと」

 

 僅かな笑みを湛えて放たれた、微妙に優越感の混じった言葉に、三人の少女たちは彫像の如く硬直したのだった。




 アスタルテの性格改変タグ付けたほうがいいでしょうか?

 次の投稿も遅くなりそうです……(来週は二度目の市共通テストだ―)。


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2‐4 テロルの胎動 ―Revelation Of The Terrer―

 ……すいませんでした。なんやかんやあって一か月ぶりになってしまいました。
 ようやく完成させることができたので、更新させていただきます。
 けど前回ちょっと尺を間違えたせいで、変なところで切ってしまいました。ご容赦ください。
 それと今回アスタルテは出て来ません。どっちかというと浅葱がヒロインになります。
 ではではどうぞー。


「静乃が来てない……?」

 

 朝の教室。古城は少し信じ難い思いで呟いた。

 愕然とした古城に、古城の机の前に立つサツキが、釈然としないような顔つきで頷く。

 

「うん。何か、家庭の事情だって。朝メールが来てたわ」

「どういうことだ?」

「分っかんない。とにかくそう先生に伝えとけ、って、それだけ」

 

 サツキの言葉に、古城は無言で視線を巡らし、誰も座っていない静乃の席へと視線を移した。

 

 ……家庭の事情。漆原家。

 静乃が実家と上手く行っていないことは、古城も前から知っていた。ことあるごとに兄への辛辣な言葉を口にする静乃を見れば瞭然だった。

 それだけで古城の胃を重くするには十分だったが、加えて、昨夜の一件。ヴァトラーに目を付けられた静乃。

 いつもは憎まれ口ばかりのサツキも不安を覚えたのか、落ち着かなげにソワソワとしている。

 

 電話をしてみても、一向に出てくれない。メールを送ってもなしの礫。

 

「くそっ……」

 

 静乃は昼行燈というか不真面目な生徒だが、しかし一日たりとも欠席したことはなかった。

 本当ならば、そこまで気にすることでもないのだろう。だが、古城の心には今も重く暗い不安がのしかかっていた。

 

 この何とも言えない、まるで古城の与り知らぬところで、大変なことが起こっているような胸騒ぎは、一体何なのだろうか。

 

 

 

§

 

 

 

 静乃のことも気になるが、生憎とそれだけに拘っているわけにもいかない。

 黒死皇派の捜索。及びその撃破。ディミトリエ・ヴァトラーからこの島を、ひいては静乃を守るために、今は行動しなければならない。

 

 昼休み。古城、サツキ、そして中等部からやってきた雪菜を加えた三人は、高等部の廊下で落ち合っていた。

 

「それで、これからどうするの?」

 

 真面目な顔でそう訊いたのは、古城の右隣を歩くサツキだった。

 

「黒死皇派の捜索のことですね」

 

 返したのは古城の左隣を陣取る雪菜。朝のアスタルテの一件で不機嫌になっていた彼女だったが、今は表面上は落ち着いている。

 肩には相変わらずの黒い楽器ケース。中に入っているのは例の槍だろう。

 重々しく頷き、古城も彼女たちの会話に入った。

 

「前のオイスタッハのオッサンの時みたいにはいかないだろ」

「何の手がかりもなしにテロリスト探すなんてね。ドラマとかだと、テロリストを匿ってる悪の組織とか居るもんだけど」

 

 冗談めかして言うサツキに、雪菜も思わず、といった調子で微笑んだ。

 

「ええ、そうですね。ですから、最初は情報を持っているであろう方のところに、話を聞きに行きましょう」

「え? 姫柊さん、情報屋の知り合いとか居るの? ホントにドラマ?」

 

 いやまあ、政府直属の機関のエージェントなどという肩書を持つ彼女ならば、居てもおかしくはないのだが。

 しかし雪菜は微笑んで首を振り、

 

「ですけど、アルデアル公が言ってましたよね。絃神島の攻魔官も、黒死皇派を捕まえようとしてるって」

「「攻魔官?」」

「はい。攻魔官です」

 

 オウム返しに訊き返した古城とサツキは、二人で顔を見合せ、

 

「「おおっ!」」

 

 なるほど、とでも言うように手を叩いた。

 

 

 

「ってなわけで那月ちゃん。聞きたいことがあるんだが」

「……何かは知らんが、面倒事はごめんだぞ。それと、教師をちゃん付けするな」

 

 職員室棟最上階の、那月の執務室で。

 テーブルに手をついて迫る古城に、部屋の主の南宮那月は鬱陶しそうに扇子をヒラヒラとさせて、ビロード張りのアンティークチェアによりかかった。

 

「ふん。嵐城に中等部の転校生まで一緒か。ゾロゾロと何の用だ? 子供の作り方でも訊きに来たのか?」

「は?」

「はい?」

 

 一瞬何を言われたか分からず呆然としていたサツキと雪菜は、次の瞬間顔を真っ赤にしてブルブルと首を横に振った。

 固まっていた古城も、再起動するなり言う。

 

「んなわけねぇだろ。何言ってんだアンタは!」

「……何だ違うのか。つまらんな」

 

 ハァ、と溜め息を吐く那月に、古城は呆れながらも居住まいを正す。

 

「クリストフ・ガルドシュって男を探してるんだ。何か知ってることがあったら教えて欲しい」

「……貴様ら、どこでその名前を聞いた?」

 

 古城が訊いた瞬間、那月の小さな体から、息苦しいほどの威圧感が滲み出した。

 

 やはりか。古城は、彼女がガルドシュについての情報を持っていることを確信した。

 南宮那月は絃神島でも五指に入るほどの実力者。ならば、彼女の元にもガルドシュという大物犯罪者の情報は回っているはず。そういう考えの元の質問だったが、

 

「ディミトリエ・ヴァトラーだよ。あのでかいクルーズ船の持ち主。アイツ、〝戦王領域〟からガルドシュを始末するために来たんだと」

「あの蛇遣いの軽薄男め……お前を呼び出す可能性は予想しておくべきだったか。全く余計な真似を」

 

 忌々しげに吐き捨てる彼女の様子は、まるでヴァトラーの知己であるようだった。

 古城がそのことについて訊くより前に、那月は投げやりに尋ねてきた。

 

「それで、ガルドシュの居場所を聞いてどうする?」

「捕まえます。彼がアルデアル公と接触する前に」

 

 那月の質問に答えたのは雪菜だった。

 即答した雪菜にチラリと視線をやり、次に古城とサツキを見て、那月はおおよその事情を察したらしかった。

 しかし那月の答えは素っ気なかった。

 

「無駄だ。止めておけ。お前たちがそんなことをする必要はない」

「え? 那月ちゃん、それどういう……那月先生、どういうことですか?」

 

 訊き返したサツキに、那月は鋭い一瞥をやる。怯えたサツキはすぐさま言葉を直して再び問う。

 

「黒死皇派はどうせ何も出来ん。ヴァトラー――〝真祖に最も近い存在〟とすら言われる怪物が相手ではな」

「けど、黒死皇派って、第一真祖を倒すのが目的なんでしょ? 絃神島に来たのって、そのために必要なものとか、そんなのを探しに来たんじゃないの?」

「そうだな。だから無駄なのさ。ガルドシュの目的はナラクヴェーラだ」

「「「ナラクヴェーラ……?」」」

 

 聞き慣れない言葉に、古城とサツキ、そして知識になかったらしい雪菜がオウム返しに返した。

 

「南アジア、第九ヘルメガル遺跡から発掘された先史文明の遺産だな。かつて存在した無数の都市や文明を滅ぼしたと言われる、神々の兵器だよ」

「神々の兵器……って、何だそのヤバそうな響き。まさか、それが絃神島にあるとか?」

「表向きにはあるはずのないものだが、実はカノウ・アルケミカルという企業が遺跡から出土したサンプルの一体を非合法に輸入していたらしい。もっとも、そいつは少し前にテロリストに強奪されていることが、昨日判明したんだが」

「あんのかよ!? しかも盗まれた後!? ……あ、昨日ってもしかして、アスタルテを連れて行ったのって、それか?」

「ああ。お前のメイドにはいろいろ役に立ってもらったぞ。一応礼を言っておく」

「いやまあ、別にいいんだが……。それより、今はそのナラクヴェーラとか言うのだろ」

「九千年も前に造られた骨董品のことで、お前は何を焦ってるんだ?」

 

 那月は、ハッと嘲るように言った。

 

「奪われたのはせいぜいとっくに干からびたガラクタ。仮にまだ動いたとして、どうやって制御する?」

「……制御する方法に心当たりがあったから、黒死皇派はその古代兵器に目を付けたのでは?」

「流石にいいカンをしているな、転校生。確かにナラクヴェーラの制御コマンドとなる呪文だか術式だかを刻んだ石板が、最近になって発見されたらしい」

「だったらやっぱり、その……ええっと、ナラ……奈落? ナポリタン? ナラクヴェーラ? っていうのが使われる可能性があるってことじゃないの?」

 

 僅かに表情を硬くしたサツキの問いに、やはり那月は素っ気なく、

 

「世界中の言語学者や魔術機関が寄ってたかっても解読の糸口すら掴めないような代物だぞ。テロリストごときが今更どうしたところで何も変わらん。絃神島に潜伏していたその研究員も昨日捕まえた。密入国したテロリストどもがバカでかい荷物を抱えて潜伏できる場所など限られている。特区警備隊(アイランド・ガード)は今日明日にでもガルドシュを狩り出すつもりだ」

「狩り出す……って、もしかして那月ちゃんも助っ人に行くのか?」

「いや? 私の仕事はもう昨日終わったからな。後は特区警備隊(アイランド・ガード)の仕事だ」

「けどよ、相手は凄腕のテロリストなんだろ? 本当に大丈夫なのか?」

「それはお前が気にすることじゃない。……どうした、やけに食い下がるな。何か事情でもあるのか?」

 

 軽蔑などの色を含まない那月の眼差しを受けて、古城は言葉を詰まらせた。

 何でもない、というのは簡単だが、いつも相談に乗ってもらっている那月に隠すというのも、何だ気が引けてしまう。

 

「いや、実は……」

 

 迷った結果、古城は話すことにした。

 昨日の夜、あのクルーズ船でヴァトラーに出会ってからの成り行きを、全て。

 

「ってわけなんだが」

「なるほどな。暁……お前バカか?」

「うぐっ……!」

 

 呆れたようなその言葉に古城はショックを受けて後退る。確かに、後先考えずに発言してしまったことは否めない。

 しかしあのままでは、静乃がヴァトラーに連れ去られてしまう可能性もあった。それだけは嫌だ。絶対に嫌だった。

 だから古城は、あの発言を後悔などしていない。ヴァトラーが何を考えていようが、古城から静乃を奪っていくというのなら、古城は絶対に許さない。

 

「フン……まあ事情は分かったが、これは少し厄介かもな」

「何がだ?」

「ヴァトラーにとっては適当なんだろうが……選ばれたのが、よりにもよって漆原だったということだ。もっと言えば、漆原静乃が漆原家の娘だった、ということか」

「漆原家……」

 

 ああ、と頷き、那月はビロード張りの椅子に深く腰掛け、少し不機嫌そうに続けた。

 

「漆原家の連中は、基本的に全ての人間を、自分の出世の駒としか思っていない。同じ立場に居る者は身内であろうが容赦なく蹴落とし、利用できるのであれば、発言権のない弟や()であろうが、平気で利用する」

「……っ!」

「この場合、漆原の両親のことは考えなくてもいい。あの家は絃神島のことは漆原の兄、つまりこの学園の理事長でもある漆原賢典に一任している。そしてヤツは人工島管理公社内での権威争いにご執心だ。そんな中で〝戦王領域〟からの吸血鬼の貴族の来訪――ヤツにとってはまたとないチャンスだったはずだ」

「…………」

「ヴァトラーのヤツのことだから、大して賢典に関心は払ってないだろう。期待していた成果が得られず気落ちしていたところに、もしあまりよく思っていなかった妹がヴァトラーに見初められた、と知ったとしたら?」

「……何が何でも、利用しようとする?」

 

 正解、とでも言うように那月は緩く頷く。

 

「そうだ。漆原はあの能面みたいな無表情のせいで、親族からは嫌われているらしくてな。ああいや、ヤツの祖父である爺は気に入っているという話だったか。どちらにしろ漆原があの家の中で最も立場が低い」

「じゃあ、アイツが今日学校に来てなかったのは……」

「もしかしたら、関係があるのかもしれないな」

 

 古城はギリッ、と歯軋りをした。

 溢れ出る怒りを治めるために、力一杯拳を握らなければならなかった。

 

「そんな……」

「何よそれ……実の妹を何だと思ってるワケ!?」

 

 雪菜が信じられない、と言わんばかりに口元に手を当てて呻き、サツキは義憤も露わに吐き捨てた。

 

 静乃がいつも家族に辛辣な評価を下していた理由が、今ようやく分かった。

 自分の妹の人生すら自らのものとしようとする兄と、全く関心を払おうとしない両親。

 むしろこれまでで、静乃の精神が歪まなかったことが驚異的だった。

 

「……ありがとな、那月ちゃん。色々、よく分かったよ」

「礼は要らん。だが暁、お前はこの話を聞いて、どうするつもりだ」

 

 真剣な表情で投げかけられた問いに、古城は何かを言いかけて口を噤み、自分の右手へと視線を落とした。

 

「……俺に、何が出来るんだろうな」

「さあな。……それは、お前自身が決めることだろう」

「そうだよな」

 

 頷き、古城は那月に背を向け、扉へと歩き出す。

 進むべき道は未だ見えない。だがそれでも、自分が何をしたいかははっきりと分かっている。

 彼女を取り巻く状況に、ヴァトラーの思惑。それらは確かに厄介なものだが、古城にとって絶対に譲れないものとは、関係のないことだった。

 元より、古城のすべきことなど決まっていたのだ。

 

「それからもう一つ、忠告してやろう。暁古城、ディミトリエ・ヴァトラーに気を付けろ」

 

 那月の静かな声を聞いて、ドアノブに手をかけていた古城はピタリと動きを止める。

 

「ヤツは自分よりも格上の〝長老(ワイズマン)〟――真祖に次ぐ第二世代の吸血鬼を、これまでに二人も喰っている」

「――同族の吸血鬼を……喰った? アイツが!?」

「ヤツが〝真祖に最も近い存在〟と言われる所以だよ。お前も、せいぜい喰われないように気を付けろよ」

 

 那月が少しだけ真剣な声で言う。その様子に得も言われぬ不安を覚えた古城は、素直に頷いた。

 

 

 

§

 

 

 

「南宮先生の話、本当でしょうか」

 

 那月の部屋を退出した古城たちは、どことなく重い足取りで自分たちの教室へと向かっていた。

 その道中で、立ち止まった雪菜がポツリと呟いた。

 

「まあ、人格的に少し問題はあるけど……」

「那月ちゃんて基本嘘は吐かないからねー」

 

 彼女のことをよく知る古城とサツキは顔を見合わせて、曖昧な感想を述べる。雪菜もそれを見て微苦笑を浮かべた。

 

 あの傍若無人で傲岸不遜な南宮那月が、わざわざ古城たちに嘘の情報を教えるような、面倒臭い真似をするはずもなかろう。

 信頼というには微妙だが、そこら辺は信用している古城たちだった。

 

「〝長老(ワイズマン)〟って、第二世代の吸血鬼、って言ってたわね」

「はい。真祖に認められて彼らの〝血〟を分け与えられた者たちです。必ずしも真祖の実の娘や息子というわけではありませんが」

「つまり、〝最も旧き世代〟の吸血鬼、ってことか。ヴァトラーは、そういう意味では第一真祖と直接繋がってるわけじゃないんだな」

「そうですね。純血の吸血鬼とは言っても、所詮は〝長老(ワイズマン)〟たちの遠い子孫ですから。――だというのに、アルデアル公が彼らを喰ったというのなら、血の濃さを覆すほどの、何か特殊な能力を持っているのかもしれません」

 

 深刻そうな口調の雪菜の言葉を訊いて、古城は自分の手の平を見る。

 

 不老不死の吸血鬼にとって〝血〟とはすなわちそのまま、吸血鬼の存在そのものである。

 長く生きた吸血鬼はより多くの血を吸うことで、その身により強大な魔力をその血の中に蓄える。

 それこそが若い世代の吸血鬼と比べて〝旧き世代〟の吸血鬼たちが強力な力を持つ理由だった。

 

 だが、それはつまり、若い世代の吸血鬼が強い力を手に入れるには、強力な吸血鬼の血から直接、その魔力を奪うのが手っ取り早いことを示している。

 吸血鬼が、他の吸血鬼の〝血〟を吸い、その力を奪う――俗に言う、〝同族喰らい〟である。

 

 しかし普通は、相手の血を吸い尽くしたとしても、その吸血鬼が自らより強ければ、体の内側から肉体と意識を乗っ取られて、結局喰うことは出来ない。

 つまり、ヴァトラーが〝長老(ワイズマン)〟を喰ったというのは、普通ならあり得ないことなのである。

 

「喰われないように気を付けろ、か」

「あれってやっぱり、古城が第四真祖だからかしら?」

 

 サツキの疑問に、雪菜は頷く。

 

「恐らくは。アルデアル公は先輩の〝血〟に執着していましたからね」

「俺じゃなくて第四真祖の〝血〟だろ」

 

 言い返してから、古城は苦々しく息を吐いた。

 

「多分、今の俺じゃアイツには勝てない。通力(プラーナ)魔力(マーナ)を全力で使っても、アイツはそっちの方面でも俺より数段上だからな。加えて九体も居る眷獣に特殊能力、さらには……」

「〝白騎士〟……あの〝鎧〟ね」

 

 重々しく呟くサツキ。同じことを思っていた古城も無言で首肯する。

 古城自身が所持する王家の秘宝、聖剣サラティガと対を成す、白銀の甲冑。

 今の古城の持つ力では、あの鎧を破ることはかなり難しいだろう。

 

 考えれば考えるほど、ロクでもない想像ばかりが浮かんでしまう。

 頭を振って思考を追い払う。今はそれよりも考えるべきことがある。

 

「それより、静乃のことはどうするべきだろうな……」

「んー……ねえ古城。思うんだけどさ、あの漆原が、黙ってそんなふざけたことに従うかしら? むしろ何が何でも断ろうとすると思うんだけど」

「ああ……。確かにそうだな」

 

 サツキの言葉に、古城は納得の頷きを返した。

 言われてみれば確かに、あの昼行燈の割に頑固な静乃のことだ。そんな彼女が自分が望まない命令に、はいそうですかと従うはずがない……とは、思うのだが。

 気になるのは、静乃の〝兄〟の動きのことだ。

 管理公社内での権力争いに夢中だという彼ならば、あらゆる手段を用いて静乃をヴァトラーの元に送り込もうとするだろう。

 最悪の場合、古城たちを人質に脅迫、あるいは懐柔を迫る可能性もある。

 そして、そんな手段が実際に取られたとき――静乃はどんな行動を取るだろうか。

 

「…………クソッ」

 

 案の定、悪い方向にしか考えが進まなかった。

 小さく毒づいて、再度思考を切り替えた。

 

 静乃のことを気にかける必要はある。だがそれだけに拘っても居られない。

 

「今の段階では情報が少な過ぎて、判断に困りますね」

「情報かー……。確か、ナラクヴェーラっていうのを密輸したのは、絃神島内の企業って話よね?」

「カノウ・アルケミカル・インダストリー社ですね。錬金術素材関係の準大手、だったと思いますけど」

「……もしかしたら、そっちの方面から何か調べられるかもしれないな。悪いけど姫柊、中等部の方に戻っていてくれ。後でまた連絡するよ」

「先輩が何を考えているのか、薄々想像はつきますけど――」

 

 どことなく拗ねたような表情で何かを告げようとした雪菜は、しかし不意に顔を上げて、ゆっくりと周囲を見渡した。同時に古城も眉根を寄せて視線を周囲に走らせていた。

 

「古城? 姫柊さん?」

「いや……」

「誰かに見られていたような気がしたんですけど」

 

 どうやら気のせいだったようです、と言って雪菜は首を振った。

 

 

 

§

 

 

 

「お、浅葱!」

「あ、古城? アンタ、今までどこに……って、ちょっ、な、何!?」

 

 昼休みも終わり頃。次の授業の予鈴が鳴った直後に教室に駆け込んだ古城は、目当ての人物の姿を見つけると、一目散にその席へと向かった。

 突然居なくなった古城を睨むようにしていた浅葱だったが、古城が真剣な顔で歩み寄ってくるのを見て頬を赤らめ始めた。

 その反応を古城は不思議に思ったが、構わずに突き進み、浅葱の隣に屈み込む。

 彼女の耳元に顔を寄せると、さらに赤くなった。何だコイツ。

 

「浅葱、今からちょっといいか?」

「え、え? 何よいきなり、授業始まるわよ!?」

 

 浅葱の反論を黙殺して、古城は彼女の腕を強引に掴んで教室を出て行こうとする。

 クラスメイト達の興味深そうな視線が突き刺さるが、古城は努めて無視した。

 

「サツキ、先生には上手く言っといてくれ」

「むー……。分かったけど、二人きりだからってヘンなことしないでよ古城!」

「え、ちょっと、だから! どこに連れてくつもりなのよ!」

 

 サツキの不満げながら全てを了解したような受け答えにますます疑問を深める浅葱だったが、自らの二の腕を握る古城の手を振り払おうとはしなかった。

 

 教師たちと鉢合わせないように、古城は浅葱の腕を引いたまま足早に廊下を進みながら、

 

「悪いな。どうしても浅葱に頼みたいことがあって」

「何ソレ。嫌な予感しかしないんだけど」

「そう言わないでくれよ。……カノウ・アルケミカルって会社のことについて調べて欲しいんだ」

「は? 何であたしが授業をサボってまでそんなこと……まさか、あの姫柊って娘に頼まれたの?」

「え? いや、別にそういうわけじゃ」

 

 動揺する古城を睨みつけた浅葱は、不機嫌そうに鼻を鳴らし、

 

「イヤよ。あの娘の手伝いなんて、あたしは絶対イヤ」

「……お前と姫柊って、何かあったのか?」

 

 以前から薄々感じてはいたが、浅葱と雪菜はどうも相性が良くないらしい。

 いきなりケンカになるほどではないが、やたらと関係がギスギスしているのだ。

 心底不思議そうに尋ねた古城に、浅葱は額に青筋を浮かべて、

 

「全部アンタのせいでしょうが……っ!?」

「いて、いててて! ちょっ、抓るなって!」

 

 浅葱に耳をギュッと抓られて、古城は悲鳴を上げた。絶妙に捻りがかけられていてかなり痛い。

 何だかよく分からないが、古城の不用意な言葉に腹を立てているらしいことは分かった。

 解放してもらうためにひたすら謝罪しながら、用件を伝える。

 

「ごめん、悪かったって! ソイツらが輸入したナラクヴェーラってヤツのことが知りたいだけなんだ!」

「ナラクヴェーラ?」

 

 何故か意外な単語に浅葱が反応した。その拍子に抓られていた古城の耳たぶは解放されたが、代わりに今度は胸倉を掴まれて引き寄せられた。

 

「それって何? アンタ知ってるの?」

「いや、第九、ヘル、ヘルメ……まあ、何とか言う古代遺跡から発掘された古代遺産らしいってことぐらいしか」

 

 耳を擦りながら、古城はうろ覚えの記憶を引っ張り出しながら答えた。

 

「古代遺産……ねぇ。それがカノウ・アルケミカルと関係してるってわけ?」

「ああ。多分」

「ふーん。…………いいわ、ちょっとだけ興味が湧いたから、付き合ってあげる」

 

 そう言ってニヤリと笑う浅葱。

 どういう風の吹き回しか知らないが乗り気になってくれたらしい。

 

「助かる。どうすればいい?」

「とりあえずネットに接続できるパソコンが要るわね。この時間だったら生徒会室かしら」

 

 それだけ言って弾むような足取りで生徒会室へと歩き出す浅葱の後を、古城は慌てて追う。

 古城と二人っきりの状況を楽しんでいるようにも見える浅葱だったが、彼女の気まぐれに慣れている古城は特にどうとも思わなかった。

 

 やがて生徒会室の前に到着した二人だったが、そこで古城はようやく、生徒会室には警備会社に繋がる電子ロックがかかっていることを思い出した。

 そのことを浅葱に訊こうとするも、浅葱は何ともなさそうに携帯電話を取り出してドアに当てた。

 

「この程度の暗号化が通用するのは幼稚園児までだっての……ほらね」

 

 物凄い勢いで画面上を数字が流れるのを呆然と見守ること数秒、鍵が開く気配がした。

 どういう手段かは一切全くこれっぽっちもわからないが、電話機に内蔵された電子マネー端末を利用して警備会社製の電子ロックをハッキングしたらしい。

 

 何の抵抗もなく開く扉を見つめながら、古城はポツリと呟いた。

 

「……お前って、実は凄いヤツだよな。いまさらだけど」

「こ、こんなの感心されるようなことじゃないってば。止めてよね、恥ずかしい」

 

 まあ確かに、完全に違法行為ではあるか。

 浅葱は赤らんだ頬を隠すようにしてタタッと生徒会室の中へ駆け込み、部屋の奥に置かれていたパソコンを起動した。

 

「さってさて、ナ、ラ、ク、ヴェー、ラに、カノウ・アルケミカルっと」

 

 しっかりと扉を閉めた古城が彼女の元へ行きその手元を覗き込んでみると、画面には数字だらけの見たこともないコマンドが羅列されていて、それを見た瞬間古城は理解を諦めた。

 こんなもの、シュウ・サウラの知識にもない。完全に埒外である。

 

「あっ、あったあった。古城が言ってるの、多分これのことじゃない?」

 

 浅葱が表示したいくつかの大きな画像ファイルには、ずんぐりした卵型の石の塊が映っていた。

 丁度体を丸めた昆虫の姿に似ている。あるいは、分厚い装甲で身を固めた戦車にも――

 

「二十世紀末に休眠状態で発掘された出土品……というか一種の無機生命体。生物兵器ね」

「生物、兵器?」

「現代風に言うところの無人戦闘機。多数の武装と飛行能力を持っていたと推定され、インド神話の〝天翔る戦車(プシュパカ・ラタ)〟や、道教で崇められる人造神〝ナタ太子〟のモデルとなったと考えられる――って」

「よく分からんが、危険なものだってことは分かった」

 

 具体的にどういうものかは分からないが、それが本当に神話レベルで描かれるものだとしたら、途轍もない力を秘めているのは間違いない。那月の言っていた〝神々の兵器〟というのもあながち誇張ではないのだろう。

 確かにこれなら、第一真祖とも十分に戦えそうだ。黒死皇派が目を付けるのも納得だった。

 

「――っ!」

 

 古城が真剣な表情でディスプレイを見つめていた――その直後、浅葱が猛然と古城の首筋に手を回し、床の上に引きずり倒した。

 浅葱にホールドされる形になった古城は混乱するも、浅葱はそれを取り合わずに、パソコンデスクの下に自分と古城の身体を無理やり押し込んだ。

 

「あ、浅葱!?」

「しっ! 黙って!」

 

 小声で言った浅葱が睨むのは、生徒会室入り口のドア。内側からかけておいた鍵を開けて誰かが入ってくる気配があった。

 

「……誰だ?」

「マツイ先生かしら。生徒会の顧問の。意外と仕事熱心なのね」

 

 生徒会室に入ってきた中年の男性教師はパイプ椅子に座って書類整理を始めた。

 彼の目に留まらずに生徒会室を抜け出すのは不可能に近い。というか今の状況も十分危ない。近づかれれば即バレる。

 

「感心してる場合か! どうすんだよ!?」

「だから静かにしてなさいってば! ちょっ……どさくさ紛れにどこ触ってんのよ!?」

「狭いんだから仕方ないだろ! 不可抗力!」

 

 小声で囁く浅葱の吐息が、古城の耳にかかる。

 

 接触しているのはそこだけではなく、古城の二の腕は浅葱の胸の膨らみに当たっていたし、いつの間にか古城の手首は彼女の足の付け根に挟まれる形になっていた。

 一応古城も少しだけ通力(プラーナ)を開放して、物音を消す《神速通》の派生技、《廉貞》を行使していたのだが、古城が身動ぎする度に浅葱が敏感に反応するので、気になって仕方がない。

 

 しかし浅葱をここで突き放すわけにもいかない。

 流石に静乃には及ばないが、浅葱も雪菜やサツキとは胸元のボリュームが違う。香水だかシャンプーだか知らないが、オシャレに気を遣っている浅葱の髪から仄かな匂いも漂ってきて、古城は奥歯を噛み締めなければならなかった。

 心臓が昂ぶり喉が渇き、犬歯が疼き始める。吸血衝動の前兆だった。

 

 とにかく意識を別なものに逸らそうとして、古城はふと浅葱に耳元に目を留めた。

 

「浅葱……ひょっとしてそのピアスって……」

 

 小さな石の嵌まった金色のピアス。それは彼女の誕生日に古城が贈った、というか買わされたものだった。

 石の色は緑がかった薄い藍色。浅葱色だ。

 

「……気づくのが遅いのよ、バカ古城」

 

 古城の呟きに、浅葱は少し潤んだ目で古城を見上げ、ニヤリと微笑んだ。

 昂ぶっていた心臓が、一際強く鼓動を打つのを古城は感じて――丁度そのタイミングで、マツイ教師が出て行く気配がした。

 そこで、古城の緊張感はついにプッツリと途切れて、

 

 ――ブッ。

 

「こ、古城!? アンタ、大丈夫なのそれ!?」

「うおっ!?」

 

 直後に古城の鼻から、大量の鮮血が噴き出した。

 危険な域まで高まった吸血衝動が霧散していく。吸血衝動の源は確かに性的興奮である。だが、何も他者の血液でなくてもいいのだ。例えば、自分の鼻血であっても血液であれば事足りる。

 

「まあ、何て言うか……アンタにムードとかそういうのを期待したあたしがバカだったわ」

 

 そう言って、浅葱は弱々しい溜め息を零した。

 

 

 

§

 

 

 

「少しは落ち着いた?」

「おー……」

 

 浅葱の気だるげな問いに、ベンチに深々ともたれかかった古城はヒラヒラと手を振って答えた。園花にはティッシュが詰め込まれている。

 

 生徒会室を抜け出した古城たちが向かったのは、屋上庭園だった。人工島内という立地上、敷地不足気味の彩海学園では、緑化した屋上に花壇やベンチを置いて、普通の学校で言う中庭の代わりに生徒に開放しているのだ。

 とはいえ流石に日差しがキツく、利用する生徒は少ない。吸血鬼である古城にとってもかなり厳しい環境だった。

 

 はぁ、と溜め息を吐きながら、古城は思考する。

 ナラクヴェーラの正体は分かったが、那月の言った通り、サンプルはすでに盗み出された後だった。現在の所在地は一切不明。恐らくはガルドシュ達の手元。

 那月の言うように、制御用のコマンドが解読されない限り、例えナラクヴェーラをガルドシュが所持していたとしても、警戒する必要はないのかもしれないが……だが何故か、古城には酷い胸騒ぎがしていた。

 俺たちは、何か重大なことを見落としている――そんな漠然とした不安。

 

「ねぇ……古城」

「ん?」

「さっきのナラクヴェーラってやつ、変な石板もセットで密輸されたのよね?」

「ああ。らしいな」

「それって、解読されたら……まずかったり?」

「そりゃあなぁ。普通なら危険極まるだろ……って、何でお前がそんなことを?」

「え!? ううん、別に何でも!?」

 

 自分から訊いてきたくせに不自然に目を逸らした浅葱を不審に思って問い詰めようとしたそのタイミングで、古城の腹が間抜けな音を鳴らした。噴き出す浅葱。

 

「アンタ、朝ご飯は?」

「喰ってるわけないだろ、あの状況で!」

 

 古城の苦情もどこ吹く風。浅葱は全く悪びれずに笑って、

 

「それもそうね。仕方ないから、優しい浅葱お姉さんがお弁当を分けてあげるわよ」

「お前が腹減ってるだけだろ。くれるってんならありがたく貰うが」

「もっと感謝しなさいよね。このあたしが誰かに食べ物を分け与えるなんて滅多にないわ」

「……とか言ってるけど、お前よく俺にメシを奢らせてるよな。おい、答えろよ」

 

 ジト目で睨む古城をさっぱり無視して、浅葱は教室から持って来ていたポーチの中から弁当箱を取り出した。割と大喰らいの浅葱からしたら、随分と控えめなボリュームだった。

 しかし箸が一膳しかない。さてどうするか、浅葱は少し逡巡したようだが、一つ頭を振って気を取り直し、卵焼きを摘まんで古城の口に放り込んだ。

 

「……美味いな」

「そうね。あたしも母親(あの人)の料理の腕は認めてるのよね」

 

 まるで他人事のように母親のことを語る浅葱。彼女の両親は二年前に再婚したばかりで、今の母親とは血が繋がっていない。不仲というわけはないが、微妙な関係らしい。

 コメントし辛い話題を気まずく思った古城だったが、幸いにも浅葱の方から話題を変えてくれた。

 

「そう言えば、今日漆原さん来てなかったわね。どうしたのかしら」

「さあな。家庭の事情らしいけど」

「さあ、って……。アンタ、心配じゃないの?」

「……心配に決まってんだろ」

 

 苛立ちが混じり、つい強い口調になってしまった。

 浅葱の瞳に怯えが過ぎったのを見て、古城は溜め息を吐いて精神を落ち着かせ、ゆっくりと口を開く。

 

「けど、どんだけ連絡しても全然出て来ねえし、メールを送っても返信すら出さないしな。正直どうなってんのか、俺にもさっぱりなんだよ」

「アンタにも言わないなんて、珍しいわね……。家庭の事情、か」

 

 独りごとのように呟く浅葱。

 浅葱は静乃の家庭環境を以前から知っており、本人もまた家族関係で少なからず苦労している。何か思うところもあるのだろう。

 

「大丈夫かしら、漆原さん。何ともなければいいんだけどね……」

「…………」

「な、何よ?」

 

 本気で静乃の身を案じているような浅葱の口ぶりに、古城は思わず目を見開いて彼女の横顔を見つめてしまった。

 

「お前、静乃のこと、心配してくれてるのか? 仲悪いんじゃなかったのか?」

「え? あたし?」

 

 古城が訊くと、浅葱はおとがいに指を当てて少し考えて、

 

「んー……仲が悪いって言うか、反りが合わない、って感じよね、あたしと漆原さんって。でもまあ、だからって言って嫌ってるわけでもないし、割とよく話すし……。向こうがどう思ってるかは分からないけど、あたしは漆原さんのこと友達だと思ってるわよ」

「そう、か……」

 

 漆原静乃という少女は、あの能面のような無表情と皮肉げな言動で、他人から誤解されやすいところがある。

 本人も特にそれを気にせず、ただ古城にのみ固執しているため特に直そうとはしていないようだが、そのため彼女には友人と呼べるものが多くない。

 せいぜい古城やサツキ、凪沙などその辺りぐらいしか居なかったはずだ。

 

 だが今、浅葱は、何の躊躇も忌避もなく、静乃のことを友達だと言い切った。

 例え反目し合う中であっても、静乃にとって、やはりそれは必要なものであるはずで――

 

「……浅葱」

「何よ、そんな真剣な顔して」

「ありがとな」

「は? 何のこと?」

「いや……」

 

 古城の礼の意味が分からず混乱する浅葱を見て、やっぱりこいつはいいヤツだな、と古城は確認出来て、思わず笑ってしまった。

 

「今度は笑ったりして、何なのよもう……」

「悪いな。ただ……俺は、お前のそういうとこが好きだよ」

「………………ふぇっ!?」

 

 微笑みながら言うと、浅葱は珍妙な声を出して、一瞬で耳まで真っ赤になってしまった。

 

「おい、浅葱?」

「あ……な……す……!?」

「ん、何だって?」

 

 パクパクと、まるで金魚のように口を開けたり閉じたりする浅葱を不思議に思って顔を近づけると、今度は露骨に後退られてしまった。

 微妙にショックを受ける古城だったが、急に動いた拍子に浅葱の膝の上に乗っていた弁当がぐらりと傾き、そのまま地面に落下しそうになる。

 浅葱は未だ何やら使いものにならない様子だったので、古城は慌てて手を伸ばし、

 

「あっぶねぇっ! ……うおっ!?」

「え? ちょっ、きゃぁっ!?」

 

 間一髪弁当箱はキャッチできたが、勢い余って前に倒れ込みそうになった――浅葱の上半身を巻き込む形で。

 完全に無防備だった浅葱はされるがままで、気付いた時には古城と浅葱の顔はほとんど密着してしまっていた。

 弁当箱をキャッチしたのともう片方の手は浅葱の耳元に置かれ、古城の上半身は浅葱を押し潰すように覆い被さっている。傍から見れば、古城が浅葱を押し倒したようにしか見えない。

 

「こ、古じょ、う……」

「浅、葱……」

 

 図らずも至近距離で見つめ合う形になった二人は、呆然としたままお互いの目と目を合わせて固まる。

 

 すぐに退こうと思うのに、古城の身体は従ってくれない。

 後少しでも動けば、支えとしている手を動かせば、肌が触れ合ってしまう

 なのに古城の意識は何故か、全く関係ないところにばかり引き寄せられいた。

 

 大きく見開かれた瞳と、その縁を彩る長く手入れされたまつ毛。乱れた髪が艶のある肌にかかって妙に色っぽく、身動ぎする度に甘い匂いが鼻腔を擽る。

 そして、戸惑うように小さく動く唇に、目が吸い寄せられて離せない――――

 

 見つめ合っていた時間は数秒程度。その数秒間、二人の間には邪魔するものなど何もなかった。

 お互い以外は目に入らなくなり、衣擦れと吐息以外は耳に入らなくなった。

 だが、その時間は、零れ落ちた箸が地面に墜落する、カランカラン、という音で呆気なく消え去ってしまった。

 

「…………っ!?」

「……~~~~っ!?」

 

 その音が聞こえた瞬間、古城は弾かれたように跳び上がり、浅葱は椅子の限界まで古城から後退る。

 これ以上なく混乱した頭で古城が浅葱を見つめると、浅葱はこれ以上なく真っ赤になった顔で古城を見つめ返していた。

 言葉が出てこない。そもそも論理的な思考すら保てない。

 

 どうして、俺はあんなことしたんだ……?

 

「あ、浅葱……」

「あ、あたし、飲み物買ってくるわね! あ、残り全部食べちゃっていいから!」

 

 早口で言うなり、拾った箸を古城に押し付けて、浅葱は物凄い勢いで走り去って行った。

 呆然とそれを見送っていた古城は、鼻の辺りに感じる熱い液体の感触で我に返った。

本日二度目の鼻血。どうやら気付かない内に吸血衝動が起こっていたらしい。

 

「っはぁぁぁ~~…………」

 

 浅葱が居なくなって緊張感が途切れたせいか、肺の中の空気全部を吐き出すような溜息が漏れた。

 既に考えなければならないことは山積みだというのに、この期に及んでまた一つ増えてしまった。

 差し当たっては――これから浅葱と、どんな顔で向き合えばいいというのか。

 

 何気なく見上げた空の眩しさに眉を顰めた。

 古城が座っていたコンクリート製のベンチが、轟音とともに砕け散ったのはその直後だった。

 

「――ッ!?」

 

 その寸前でどうにかその予兆を感じ取った古城は、遮二無二通力(プラーナ)を解放。全力でその場から飛び退いていた。一瞬遅れて爆風が炸裂する。

 瓦礫が屋上の床を転がり、古城は衝撃に翻弄される。

 ベンチが爆発したわけではない。さっきまでベンチがあったはずの場所には、半径一メートルほどのクレーターが穿たれていた。

 火薬の匂いはせず、漂ってくるのは呪力の残滓のみ。雪菜の得意とする発勁に似た、呪術を応用した物理攻撃である。

 

「――授業をサボってクラスメイトと逢い引きとは、随分いいご身分ね暁古城」

 

 頭上からかけられた蔑むような声に、咄嗟に振り仰いだ古城の眼に映ったのは、一人のすらりとした少女だった。

 どこかの学校のものであろう制服を着込み、銀色の巨大な長剣を左手に下げたポニーテールの少女が、はっきりと敵意の籠もった視線で古城を見据えていた。




 古城のタラシレベルが上がりました。積極的に浅葱を攻略しに行ってますね、さすがハーレム主人公。フラグを見逃さない。
 本当ならガルドシュ乱入まで行きたかったんですが、ちょっと無理でした。
 次はできるだけ急ぎたいと思いますので、よろしくお願いします。


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2‐5 漆原静乃を縛る闇 ―She With Darkness―

 サブタイトルの英語が雑なのはご容赦ください。

 お久しぶりです、侍従長です。
 編集はちょっと前にしましたけど更新は久しぶりです。
 昨日はストブラの最新刊を読んでました。17、18巻はOVAまんまでしたね。また新しい設定とか入ってこなくて助かりました。

 今回は最初以外は全部雪菜視点で進みます。古城とどこぞのちょろ坂さんの掛け合いは割愛しました。あしからず。


 時は遡り、静乃が古城たちとともにディミトリエ・ヴァトラーとの謁見を果たした翌日の朝。

 登校の準備もそこそこに静乃は兄に呼び出され、広い家の廊下を歩いていた。

 彩海高校から遠く離れた、人工的に作られた小さな丘の上。外界とは隔絶されたその空間に、漆原家の邸宅はあった。

 豪奢な豪邸だが、そのひっそりとした佇まいはどこか墓石のようでもある。

 

 向かっているのは兄の部屋だ。外観から分かる通りこの屋敷はかなり広く、また部屋数も多い。

 元々朝が強いわけでもない静乃は不満げな足取りで無駄に長い道のりを辿る。

 ようやく目的の部屋に辿り着き、おざなりなノックの後に一息に開け放つ。

 

 その部屋の中は広く、豪奢だった。

 執務室の間取りではあるが賓客を招いたとしても粗末に当たることはないだろう。

 部屋の真ん中にあるイタリア製の白樫で出来た執務机に、部屋の主が腕を組んで座っていた。

 二十代半ばのいかにも切れ者然とした青年だ。

 十人の漆原の兄弟の中でも特に「貫禄がない」「貧相」と祖父になじられているが、良くも悪くも目端が利きそうな利発さを全身から漂わせている。

 青年の名は漆原賢典。静乃の実の兄にして、静乃たちが通う彩海学園の理事長であり、さらに人工島管理公社で確かな地位を確立した傑物である。

 

 彼はにこりともせずに、入室してきた妹に語りかけた。

 

「久しぶりだねぇ」

「今日、帰ったの?」

「ああ。中東を皮切りに、北アメリカ、ヨーロッパ、さらにはロシアにまで――日本は二カ月ぶりだ」

「お疲れ様」

 

 静乃は能面のような無表情で心にもない労いの言葉をかけた。

 漆原家の中では親子兄弟の間には家族の情はなく、冷めた上下関係しか存在しない。

 代々官僚を輩出する名門であるため、「個人」よりも「お家」を大事にしてきた結果だった。

 故にこの兄妹仲も完全に冷え切っている――のだが、何故か今日は、珍しく兄の機嫌が良いようだった。

 

「どうだい? 学校生活は。漆原家の女として、恥ずかしくない生活は送っているだろうねぇ」

「さぁ? 何しろ初めてのことばかりだから、自分でも自信はないわ?」

 

 やる気なさげに言う静乃。普段であればここで兄の雷が落ちるところなのだが、

 

「謙遜だねぇ。……まぁ、そういうところがあの方の目に留まったのかもしれないが」

「……?」

 

 満足そうに相好を崩す兄に、静乃は訝しげな視線を送る。

 賢典は笑みを浮かべたまま、机の上に一通の封書を投げ出した。

 銀色の封蠟で綴じられた、金色の箔押しが施された豪華な封筒。

 封蠟には、どこか不気味な印象を抱かせる、蛇と剣を形どった紋章が――

 

 それを見て静乃はハッとして、賢典はニヤリとした冷たい笑みを浮かべた。

 

「いやはや……これを見た時は本当に驚いたよ。なぁ、静乃」

「…………」

 

 賢典はゆっくりと立ち上がり、硬い表情を浮かべる静乃へ近付く。

 

「お前が一体どこであの方に拝謁したのかは知らないが、まさかあの方に見初められるとは」

「……ただのお戯れよ。あの方の」

「ただの戯れでこんなものを私のところへ寄越すものか。わざわざ臣下の方を遣わしてまで。……まぁ見たまえ」

 

 兄に促されて静乃は封書を手に取り、文面を確認する。

 その内容を頭が理解するのに、らしくないことにゆうに十秒は費やしてしまった。

 そこに書かれていたことを簡単に要約すれば、こうだ。

 

『漆原家の末女、漆原静乃をアルデアル公ディミトリエ・ヴァトラーの臣下の一人として迎え入れ、帰国する際には彼女も共に〝戦王領域〟へと連れて行く。以後、彼女の身柄はディミトリエ・ヴァトラーの預かりとする。尚これはすでに日本政府の認可を得た決定事項である』

 

「……これ、は」

「いやぁ、実にめでたいことだ。あの〝戦王領域〟の貴族、しかもアルデアル公ほどのお方が臣下として迎え入れて下さるんだ。ほら、もっと誇れ、喜べ。何よりの栄誉だぞ?」

「私は……っ!」

「今日中にアルデアル公自ら迎えに来て下さるそうだ。早く準備をしろ。服はすでに私が、それに相応しいものを用意してある、しっかりと身を清めておけよ」

「兄さん!」

「何だい? あの方の元であれば、もはやお前の将来に心配などありはしない。不足があったなら早く言いなさい。私は忙しいんだ。お前に持たせる土産物も選ばなければならないし、最上級のおもてなしをせねばならん」

 

 本当に嬉しそうに笑みを零しながら浮き足立つ賢典だが、これは妹に訪れた幸運を祝っているのでは決してない。

 賢典が本当に喜んでいるのは、静乃を通じて〝戦王領域〟の貴族との繋がり(パイプ)を作れることだ。

 この兄は自分の野心や漆原家の繁栄のためならば何だってする。誰を犠牲にしようと足蹴にしようと踏み躙ろうと、微塵も痛痒を覚えない。それが例え妹の身だとしても。

 

 いつもはいやいやながら兄の言うことに従ってきた静乃だったが、今回に限って言えば断じて承服出来かねた。

 古城たちと離れて一人だけ遠い異国の地に行き、古城ではない男のものになるなど、死んでも御免だった。

 

「私は……行かないわ」

「……何?」

「行かないって言ったのよ。アルデアル公のお誘い、せっかくだけれどお断りさせてもらうわ」

 

 静乃は決然とした覚悟と決意を込めた声で、そう宣言する。

 だが……

 

(あに)の決定だ。お前はただ首肯すればいい」

 

 賢典が振り返り、冷たい瞳で静乃を見据えた。

 他者に命令することに慣れた、権力者の瞳。

 そう、権力者なのだ、この兄は。故に他者の言葉などには決して耳を傾けない。

 そして――まだ子供の静乃に、抗う術など、ない。

 

「では、静乃よ。アルデアル公がいらっしゃるまでに準備を済ませておくように」

 

 兄は一方的に命令し、また机に戻って行った。

 

 その姿を呆然と見つめながら、静乃は人形のような無表情のまま、自らの胸の内で荒れ狂ういくつもの感情に翻弄され、密かに苦しみ続けていた。

 

 

 

§

 

 

 

 姫柊雪菜は、夢を見ていた。

 

 

 

 夢の中の雪菜は、血塗られた地獄に居た。

 かつては街であったはずの場所。

 そこにあったはずの家屋はもはや跡形もなく。

 そこで生きていたはずの全ての命は消え去り。

 天を貫くように巻き上がる火炎、残っているのは、倒壊した建物の瓦礫だけ。

 例え獲物が居なくなろうとも、その炎は餓えた獣のように崩壊した街中を舐め回している。

 何もかもが失われたその場所で、雪菜は自らの腕の中に居る青年の顔を覗き込んでいた。

 

 老人のような総白髪が周囲の炎によって血のように赤く染まり、纏っている白黒モノトーンの衣装はところどころ切り裂かれ、泥に塗れ血に汚れと、その青年の姿は酷い有様だった。

 青年は自らを抱く雪菜のことなど気にせず、ただ眼前に広がる地獄のみを見つめ続けていた。

 彼の悔し涙に濡れた真紅の瞳は、瞬きすらせずにその光景を瞼に焼き付けている。

 青年自身も重傷を負っており、死に体だというのに、それにすら気付いていないようだった。

 

 青年は呟いた。

 

「……救えると、思ったんだけどな」

「はい」

「……何かが出来ると、思ったんだけどな」

「はい」

「……運命だって変えられるって、そう、思ったんだけどな」

「……はい」

 

 誰に聞かせるでもない青年の呟きに、夢の中の雪菜はひたすらに相槌を打ち続ける。

 震える彼の肩を、優しく抱き締めながら。

 

「…………ょう」

 

 不意に青年は、爪が喰い込まんばかりに拳を握り締めて、

 

「畜生っ!」

 

 ガッ!、と。振り上げた拳で地面を思い切り叩いた。何度も、何度も。拳に血が滲んでも、痛みが襲ってこようとも。止めることなく、叩き続けた。

 埒外の膂力を叩きつけ続けられた地面は、すり鉢状に陥没してしまっていた。

 殴るもののなくなった青年は、唇を噛み締め、今度は自分の頬を殴ろうとして、

 

「やめなさい、ルシフェル」

「……止めるな」

「駄目です」

「止めないでくれ」

「認められません」

「止めないでくれ、ガブリエル!」

「もうやめなさい、ルシフェル!」

 

 血を吐くような青年の叫びに、今にも泣き出しそうな声で叫び返した雪菜(ガブリエル)は青年――ルシフェルの顔を自らの胸に埋めさせた。

 まるで、自分の心音をルシフェルに聞かせようとするように。

 暴れようとしたルシフェルを、雪菜(ガブリエル)は絶対に離さないように抱き締め続けた。

 やがて、ルシフェルは振り上げていた拳を下ろした。

 動きを止めたルシフェルに、雪菜(ガブリエル)は語りかける。

 

「……ルシフェル。あなたは今、運命と言いましたね」

「ああ。こんな、くそったれな運命……」

「運命は、絶対です。何があろうと覆ることはなく、人の力でどうにかすることなど出来ない。わたしたち使徒の力を使っても尚、完全に改変することは出来ない。いずれ修正が入ってしまう。それが例え、どんなに悲惨で、非道で、非情な運命であったとしても」

「…………」

「あなたも知っていたはずです。ずっとわたしの隣で、見てきたはずです。抗えない運命に絶望し、悲嘆し、憤怒しながら消えて行く命を」

「…………それでも」

 

 ルシフェルはポツリと呟いた。

 

「……それでも、俺は、助けたかったんだ。変えたかったんだ。死に絶える運命にあった人々を、今の俺なら、君から力を授かった俺なら、借り物の力であっても、何か出来るはずだって」

「今でも? 変えられなかった、救えなかった、何も出来なかった、今でも、そう思いますか?」

「思うよ。今度こそは、絶対に変えてみせる」

 

 先程までの取り乱した様子は微塵もない、はっきりとした口調で、ルシフェルは言い切った。

 雪菜(ガブリエル)は優しく微笑み、傷ついたルシフェルの拳を手に取る。

 雪菜(ガブリエル)の手から溢れた、白銀の神々しい光が、ルシフェルの傷を瞬く間に癒してゆく。

 その手を額に押し当てながら、雪菜(ガブリエル)は、

 

「なら、見せて下さい」

「……?」

「わたしに……人は、運命を変えられるのだということを。抗えるのだということを」

「……!」

「人の強さを。あなたたちの強さを、すでに諦めてしまった私に……どうか」

 

 懇願するように言う雪菜(ガブリエル)をしばらく見つめていたルシフェルは、再び拳を強く握り締めた。

 しかし今度は地面に叩きつけることはなく、ただ、強く、強く、ギュッと握り続ける。

 

「……ああ。もう、何一つ、運命なんかに奪わせやしない。全部、俺が全部守ってやる」

 

 揺るがぬ決意を込めた、静かな応え。

 それととともに、彼の全身から(・・・・・・)雪菜(ガブリエル)のそれと微妙に異なる(・・・・・・・・・・)純白の(・・・)神通力(アルスマグナ)が放たれた(・・・・・)

 神に通ずる力。通力(プラーナ)を極限まで研ぎ澄まし、昇華させた果て。

 その《神通力(アルスマグナ)》は、真紅に包まれた地獄の真ん中で、あたかも地上の恒星の如く――希望の光のように、燦然と輝き続けていた。

 

 その神々しい輝きを目を細めて眺めながら、雪菜(ガブリエル)はルシフェルにも聞こえないような小さな声で、呟いた。

 

「……ごめんなさい、ルシフェル」

 

 

 

 そこで、姫柊雪菜の夢は終わりを告げた。

 

 

 

§

 

 

 

「ぅ……?」

 

 不明瞭な呻き声を上げて雪菜が目を覚ました時は、まだ授業中だった。

 昼休み前の四時間目。ぼやけた視界の向こうでは教師が教科書片手に説明しながら、何かを黒板に書き連ねている。

 ようやく自分が寝ていたことを認識し、ハッとなって口元に手を当てるも特に涎などは垂れていなかったので一安心。

 

 しかしまさか、自分が授業中に居眠りをしてしまうとは。

 昨日は黒死皇派の件で少しだけ遅く寝たが、古城たちと買いに行った布団で十分な睡眠を取ったはずなのに。

 疲れているのでしょうか、と溜め息を吐きながらシャーペンを手に取って板書を始める。

 

「…………」

 

 ……夢を見ていたような気がする。

 何の夢かは思い出せないが、何故か、とても懐かしい気分になっている。

 最近……絃神島に来て、古城と出会ってから度々こんな夢を見ることがあるのだが、一体何なのだろう。

 そういえば、以前古城が、前世の記憶を夢に見ることがあると言っていたような――

 

 と、その直後。

 ズズゥゥゥゥン、と。地響きのような音を立てて、校舎全体に強い衝撃が走り、建物が揺れた。

 

「……っ!?」

 

 雪菜は思わず息を呑んだ。

 衝撃だけでなく、その中に呪力の揺らめきと魔力の爆発を感じたからだった。

 

「え、何今の? 地震?」

「いや島だし、地震とかあるわけねぇだろ」

「ちょっとなになに、怖い怖い」

「すげー揺れたよな」

「何か今、屋上から凄い音が聞こえたような」

 

 教室内の生徒たちが怯えたような表情でざわめきだした。

 その衝撃は雪菜のクラスだけでなく他のクラスにも波及していたようで、そこかしこから無秩序なざわめきとそれを宥める教師陣の声が聞こえてきた。

 

「ゆ、雪菜ちゃん……」

「ごめん、凪沙ちゃん。わたし行ってくるから!」

「雪菜ちゃん!? どうしたの!?」

 

 震えながら寄り添ってきた凪沙を優しく振り払って、雪菜は静かに椅子から立ち上がった。

 集まる視線を努めて無視し、ロッカーの方に置いてあった黒いギターケースを引っ掴んで風のように教室から飛び出す。

 目指すは屋上。今の衝撃の元凶が居るであろう場所だ。

 

 全速力で廊下を駆け抜け階段を三段飛ばしで最上階まで飛ばす。

 屋上に通じるドアの前まで辿り着くと、ドアは開いていて、近くには浅葱がぐったりした様子で倒れていた。

 

「っ!!」

 

 校舎の屋上では、コンクリートに亀裂が走り、暴風が荒れ狂っている。

 その中に見えたのは、銀色の長剣を構えて何とか踏ん張る紗矢華と、暴風に取り囲まれながら必死な表情で魔力の漏出を抑えようとしている古城の姿だった。

 古城のその状態には見覚えがあった。数週間前に倉庫街で見た光景と同じ――古城の血液の中に住まう眷獣が、宿主の意思を無視して顕現しようとしている。

 

 何故こんな状況になっているのか疑問はあったが、その疑問は後回しにせざるを得なかった。

 古城を中心に撒き散らされる衝撃波が引き起こす破壊が、浅葱が倒れ伏している辺りにまで及ぼうとしていたからだ。

 

「雪霞狼!」

 

 即座にギターケースから銀色の槍を引き抜き、展開する。

 キンッ、と金属が擦れ合うような甲高い音が鳴り響く。雪菜は跳躍した。

 

「――獅子の巫女たる高神の剣巫が願い奉る!」

 

 紗矢華と古城の立つ位置のちょうど真ん中に着地した雪菜は、両手で握った槍を崩壊しつつある屋上の地面に突き立てた。

 

「雪霞の神狼、千剣破(ちはや)の響きを持って楯と成し、兇変災禍を払い給え!」

 

 雪菜の祝詞が朗々と響き渡り、それに呼応するように地面に突き立てられた雪霞狼が光を放った。

 吸血鬼の真祖をも完全に滅ぼすことが可能となる獅子王機関の秘密兵器〝七式突撃降魔機槍(シュネーヴァルツァー)〟。ありとあらゆる結界を切り裂き魔力を無効化する神格振動波の光が、満ち満ちていた魔力を消し飛ばす。

 覚醒間際の眷獣が撒き散らす地鳴りや暴風も消え、後に残ったのは荒い息を吐く古城と、あちこち罅割れて廃墟のような様相を呈した屋上だった。

 

 そこで力尽きたように、紗矢華と古城がその場にへたり込んだ。

 雪菜は二人のその様子を見て、言いようのない苛立ちを感じた。

 無表情のまま二人に近付き、彼らの眼前に雪霞狼を突き立てる。

 

 古城と紗矢華はビクッと怯えたように肩を揺らして、

 

「二人ともこんなところで何をやってるんですか?」

「いや、それは、この嫉妬女が一方的に襲いかかってきて……」

「ち、違うの。そこの変質者が雪菜を裏切るような破廉恥なことをするから……」

 

 互いを指差して、言い訳がましく言い募る二人。

 まあ、大体の事情は想像出来た。大方、また紗矢華が嫉妬のままに古城に襲いかかり、古城は応戦するも負けそうになり、宿主の危険を察知した眷獣が暴走を始め、そして今に至る。そんなところだろう。

 はぁ、と溜め息を一つ零し、雪菜は自分の腰に手を当てて、

 

「………紗矢華さん」

「は、はい」

「第四真祖の監視はわたしの任務です。それを妨害することが紗矢華さんの望みですか? そんなにわたしが信用出来ませんか?」

「そ、そんなことないわ! 私は誰より雪菜のことを信じてるもの!」

「なら、以後このような行動は慎んで下さい」

「はい……」

 

 シュンと肩を落とす紗矢華から雪菜は視線を切って、古城の方へと目を向ける。

 

「先輩」

「……はい」

「こんなところで眷獣が暴走したらどうなるか、もちろん分かってますよね? 生徒の皆に何かあったら、どう責任を取るつもりだったんですか?」

「……すいません、反省してます。すいません」

「先輩は今、実際に藍羽先輩を傷つけるところだったんです。それをよく考えて下さい」

「…………はい」

 

 古城は消え入りそうな様子で背中を丸めた。

 どうやらちゃんと反省はしているらしい。

 実際、雪菜が来なければ浅葱は確実に古城の魔力によって傷ついていた。それは古城にとって何より恐れることだろう。

 自分が大切にしているものを、自分の手で傷つけてしまうなど、絶対に嫌なはずだ。

 そして雪菜自身、古城にそんなことをして欲しくはない。

 

「……ちゃんと、気を付けてくださいね?」

「……ああ。分かってる」

 

 頭をガシガシと掻き毟る古城に雪菜が頬を緩めた、その時だった。

 

「雪菜ちゃん! 何か凄い勢いで飛び出して行ったけど、大丈夫……って、この屋上何があったの!? 何でこんなに壊れて、って浅葱ちゃん!? ケガしてる!? どうしよう!?」

「ねぇ、何今のズズゥン、って言うの! 屋上から聞こえてきたけどって、ちょっと!? 何この惨状! 藍羽も倒れてるし、古城に姫柊さんに……あっ! その女!!」

 

 忙しない足音を立てて駆け込んできたのは、古城の実の妹の凪沙と、前世における妹の嵐城サツキだった。

 半壊した屋上と倒れた浅葱を見て素っ頓狂な声を上げる凪沙と、同じく驚きながら古城と向き合っている紗矢華を見て眦を吊り上げるサツキに、雪菜は嘆息して、

 

「……二人とも、しばらく一緒に反省していて下さい。わたしと凪沙ちゃんで、藍羽先輩を保健室に連れて行きますから。雪霞狼のこともお願いします」

「お、おう、分かった……って、え!? この嫉妬女とか!?」

「何か文句でも?」

「な、ない……です」

「ですよね」

「はい……」

 

 格納状態に折り畳んだ槍を古城に押し付けた雪菜は、もう一度溜め息を零しながら、反省の意を示すためにその場に正座した二人を尻目に屋上を出て行った。

 

 

 

§

 

 

 

 保健室に浅葱を連れて行ったはいいものの、養護教諭の姿はなく、代わりに居たのはアスタルテだった。

 現在は古城の預かりとなって暁家に滞在しているアスタルテだが、古城たちが登校している間は彼女は保健室の手伝いをすることになっている。

 メイド服の上に白衣というやや倒錯的な服装の彼女は、ベッドに眠る浅葱の隣に屈みこんでいた。

 

「――診察を(メディカル・チェックアップ・)終了しました(コンプリーテッド)

 

 簡単なチェックを済ませたアスタルテが体勢を元に戻しながら、無感情にそう言った。

 

「衝撃波、および急激な気圧の変動による軽いショック症状と推定されます。後遺症の心配はありません。ただし本日中は安静を保つことを推奨します」

「分かりました。ありがとうございます」

受諾(アクセプト)。礼には及びません。……ところでミス姫柊。先ほどの魔力の波動と負傷したミス藍羽……もしや、マスターですか?」

「……はい。その通りです」

「成程。ならば、大きな怪我がなく良かったですね」

「そうですね」

 

 安堵したように小さく息を吐くアスタルテに、雪菜も強張っていた頬を緩めて微笑んだ。

 もしも浅葱が無事ではなかったと知ったら、あの不器用で無神経で不用心な、けれど優しい先輩はきっと深く傷ついただろうから。

 そしてもう一つ――出会った時は、それこそ人形のようだったアスタルテが、そういう風に誰かのことを気遣っているのを見て、何だか嬉しくなったからだった。

 

「……どうしました?」

「いえ、何でもないです」

 

 言葉通り怪訝な表情で聞いてくるアスタルテに曖昧に微笑み返す雪菜。

 そんな二人のやりとりの後ろで、保健室に居るもう一人の少女凪沙は、ポケーッ、とした表情でアスタルテの手際を眺めていた。

 一緒に来ていたサツキは、女たちの仁義なき真剣勝負(じゃんけん)の末、浅葱を含めた全員分の飲み物を買いに行っている。

 

「ふわー……アスタルテさん凄いねー。ホントに看護婦さんみたい。あ、白衣着てるからお医者さんの方かな。っていうか何でメイド服の上に白衣着てるの? 患者さんへのそういうサービスなの? 何か古城君が喜びそうだけど、古城君が言ったの?」

「……ミス凪沙。そう矢継ぎ早に質問を重ねられても困ります」

 

 繰り出されるマシンガンのごとき質問に、珍しくアスタルテは本気で困惑したような表情を見せた。

 

「メイド服の上に白衣を着ているのは、これしか保健室で着用する衣服がなかっただけのことです。そしてサービスではありません。断じて違います」

「あ、そう言えばアスタルテさんってそのメイド服以外のお洋服持ってなかったっけ。なら今度買いに行こう! サツキお姉ちゃんも誘ったら一緒に来てくれるよ。雪菜ちゃんも行く!?」

「え、わたしですか?」

「うん。雪菜ちゃんもお洋服あんまり持ってなかったよね?」

「ええ、まあ……」

 

 雪菜の場合、服をあまり持っていないのは、雪菜自身がそういうことにあまり興味がないからだ。

 高神の杜では修行が第一で、自分を飾り立てることに執心するような余裕も時間もなかったし、そんな必要もなかった。

 そんな、有体に言って無駄な――オシャレに精を出す女子が聞けば血の涙を流して睨まれそうな発言だが――ことにお金を使うのも、何だか馬鹿らしかった。

 なまじ化粧など必要ないほどの、本人は無自覚の美少女ぶりも相まって、誰からも何か言われたりしなかったので、その必要性がいまいちよく分からないのだ。

 

 もともと自分のことでお金を使うような性質ではなかった。この島に来てからも何かを買ったのは、古城たちと一緒に家具を買いに行った時ぐらいのものだった。

 そこまで考えて、古城のことが頭に浮かんだところで、雪菜はふと思った。

 

 ……先輩も、ちゃんとオシャレに気を使う女の子の方が好きなんでしょうか?

 

 チラリと、ベッドの上で眠りこむ浅葱の顔に目をやる。

 雪菜たちと違いきちんとオシャレをしている浅葱は、同性である雪菜の目にも魅力的に映った。

 化粧はしていても決してケバいほどではなく、むしろ素材の良さをよく引き立てている。

 ジャラジャラと鬱陶しいアクセサリーなどを身に着けていることもなく、中等部と高等部共通の制服も、校則を破ることなくセンス良く着崩されている。

 

 彼女が自らを引き立てるために並々ならぬ努力をしているのは明白だった。

 そして、その努力が誰のためのものなのかも、また、明白だった。

 古城と浅葱、二人の距離感の近さを思い出す。互いに遠慮や面倒な気遣いなどはなく、何でも言い合える仲。

 そんな二人を見ていると、少し羨ましく思える。

 

 わたしもいつか、先輩とそんな風に――――

 

「……って、わたしは何を!?」

「ゆ、雪菜ちゃん? どうしたの?」

「あ、な、何でもないの! 気にしないで!」

 

 思わず叫んでしまい、凪沙が怪訝そうな表情で振り向いた。慌てて取り繕う。

 

 わ、わたし、どうしてあんなことを……!?

 

 直前までの自分の思考に頭を抱える雪菜を置いて、メイド服の裾を摘まんで引っ張ったりしていたアスタルテが凪沙に静かな口調で問いかけた。

 

「ミス凪沙。先程仰っていましたが……マスターは、こういう格好がお好きなのでしょうか?」

「え? うん、確かそうだったけど……あれ? でもあれは、ナース服だったかな? うーん、前に矢瀬っちが持ってきてたエッチな本の表紙に描いてあったんだけどなー」

 

 サラリと兄の個人情報をばらす凪沙に、アスタルテは興味津々な様子で、

 

「ナース服、ですか?」

「他にもいろいろあったよ。古城君って結構守備範囲広いからね。妹モノもいくつかあったし……。あ、そうだ。今度一緒にお洋服買いに行った時、あたしがコーディネートしてあげるよ! 古城君の好みは大体知ってるから!」

素敵な判断です(ナイス・アイディア)。よろしくお願いします」

「うん、任せてね! 雪菜ちゃんも!」

「ふぇっ!? わ、わたしもですか!? わたしは、別に先輩なんて……」

「誰も古城君見せるためー、何て言ってないよー?」

「ぅ……」

「むふふー。雪菜ちゃんってば可愛いなー♪」

 

 赤面する雪菜を満足げに眺める凪沙。

 口元を『3』のようにしてニヤニヤする凪沙に雪菜が言い返そうとした時、ベッドの方から小さな呻き声が聞こえた。

 

「あれ……ここどこ? 保健室?」

 

 あいたた、と額を押さえて、浅葱がゆっくりと上体を起こした。

 

「浅葱ちゃん、気がついた? あたしのこと分かる? これ何本に見える? どこか痛いところとかない? 古城君に何かされなかった?」

「……起き抜けでその質問攻めはキツイわね。一体な何がどうなったんだっけ?」

「えっとね、何か屋上の配管が破裂したらしいよ。その時のショックで気絶したんだって」

「配管? 破裂? あー、そういえば耳がキーンってなった気がするわ」

 

 顔を顰める浅葱だったが、ふと何かを思い出したように、

 

「あれ? でもその前に、古城が変な刃物持った女に追い回されてたような……古城は?」

「すいません、藍羽先輩。彼女はわたしの友人です。暁先輩も一応ご無事です」

 

 雪菜はおずおずと浅葱の前に行って告白する。

 唐突な雪菜の言葉に、浅葱は目を瞬かせながら、

 

「……えーと、あなた姫柊さんだっけ。何であなたの友達が古城を襲うわけ?」

「それは……つまり、暁先輩に対して、嫉妬、していたのではないかと」

「嫉妬? もしかして、あたしが古城と一緒に居たから?」

「そうですね……それも、一つの要因だと思います」

 

 雪菜は元来説明が得意ではなく、それは自分でも大いに自覚するところだった。

 故に、今も色々と不足気味の説明のせいで、重大な勘違いが発生していることにも気が付かなかった。

 つまりは、浅葱の中で煌坂紗矢華という少女が、暫定的に嵐城サツキ、漆原静乃、姫柊雪菜の属するグループに分類されたのである。

 そしてそれは浅葱だけでなく、同席していた残りの二人も同様で、

 

「どういうことなの? あの人、彩海学園(ウチ)の生徒じゃないよね。すっごく綺麗な人だったけど、古城君、あの人といつから知り合いだったの? ねえ雪菜ちゃん、聞かせてよう!」

「同意。説明を要求します。その綺麗な人とやらについて、具体的且つ正確な」

「え、えっと……」

 

 雪菜が返答に困り果てた、その時だった。

 凪沙と一緒に雪菜に詰め寄っていたアスタルテが、ふいにあらぬ方向を険しい表情で見据えたのは。

 

「――警告。校内に侵入者の気配を感知しました」

「侵入者?」

 

 全く予想もしなかった言葉の響きに、その場の全員が固まった。

 

「総数は二名。移動速度と走破能力から、未登録魔族だと推定されます」

「魔族……!? まさか、暁先輩を狙って……!?」

「否定。予想される目標地点は彩海学園保健室――つまりここです」

「なっ……」

 

 一瞬呆然としてしまった雪菜の背中に、誰かが突然しがみついてくる。

 

「嘘……」

「凪沙ちゃん?」

「どうしよう、雪菜ちゃん……あたし……怖い……」

 

 振り返って凪沙の顔を見た雪菜は愕然とした。

 先程までの快活な笑顔は消え失せ、真っ青な顔色で、唇は恐怖に戦慄き、血の気をなくした指先は冷え切っていた。

 生まれたての雛鳥のように震える彼女を支えながら、雪菜は戸惑った。

 

 魔族特区である絃神島の住人は魔族に慣れている、と雪菜は聞いていた。

 魔族登録証を着けた魔族よりも、短いスカートを穿いた女子中学生の方が、よっぽど街での注目を集めるほどだ。

 登録魔族の犯罪率は一般人のものより格段に低い。もし魔族が何か事件を起こしたとすれば、即座に特区警備隊(アイランド・ガード)が大挙して襲いかかってくるからである。

 つまりこの島においては、魔族を恐れる理由などない。

 だがそれでは――凪沙のこの怯えように説明がつかない。

 

「よく分からないけど、逃げるわよ! ここに居なければいいんでしょ!?」

 

 震える凪沙を見かね、浅葱が保健室の出口へ向かうが、それより一歩先に扉が乱暴に開かれる。

 浅葱の行く手を阻むように現れたのは、灰色の軍服を着た大柄な男だ。その顔は銀色の獣毛に覆われて、尖った口元から鋭い牙が覗いている。

 

「……獣人?」

 

 浅葱の呟きを聞いて、雪菜の腕の中に居る凪沙が、ひっ、と小さな悲鳴を上げた。

 

 ――相手が一人で、そして浅葱や凪沙が居なければ、例え獣人相手でも素手で制圧することは可能だっただろう。

 だが彼女たちを庇いながらでは不意討ちでも勝つのは難しいだろう。この獣人は、以前この島に来たばかりの頃に殴り飛ばしたものとは明らかに違う。十分な訓練を受けた戦士のはずだ。

 雪霞狼は古城に預けたまま。完全なミスに雪菜は歯噛みした。

 

 その獣人の後に続いて、軍服の男がもう一人入ってくる。

 人間の姿のままだが、凄まじい威圧感の初老の男性である。

 

「見つけたか、グリゴーレ」

「この三人の中の誰かですな、少佐。一人ずつ嗅ぎ比べれば、すぐに分かりますがね」

 

 くぐもった声でそう言った獣人の手から、小さな靴が放り投げられる。

 その靴の持ち主が誰かは分からないが、彼らは獣人特有の敏感な嗅覚を使い、その靴の匂いを辿ってここまでやって来たのだ。

 少佐と呼ばれた男が、ふむ、と面倒そうに鼻を鳴らした。

 

「日本人の顔は見分けにくくていかんな。まあいい。全員まとめて連れて行くぞ。交渉の道具には使えるだろう。人質にもな」

「…………」

 

 近付いてくる獣人に浅葱が一歩後退った――直後、抑揚のない無機質な声とともに、メイド服に白衣という奇抜な衣装の少女が跳び出した。

 

「――人工生命体保護条例・特例第二項に基づき自衛権を発動。実行せよ(エクスキュート)、〝薔薇の(ロドダク)――」

 

 だが、人工眷獣を召喚しようとした少女――アスタルテの言葉が、最後まで紡がれることはなかった。

 軍服の男が、雪菜ですら反応できないような神速の抜き撃ちで、一瞬のうちにアスタルテの細身の体に六発の銃弾を叩き込んだのだ。

 彼女の体はたちまち壁際まで吹き飛び、眼前で起きた凄惨な光景に、浅葱たちが絶句する。

 

「……少佐? どうしました?」

「この人形から、妙な魔力の流れを感じたのでな。護身具でも仕込んでいたか」

 

 特に罪悪感も浮かばせずに素っ気なく言った男に、雪菜は今度こそ戦慄した。

 残虐に見える彼の判断が、兵士として文句なく正しいものであることを雪菜は知っていた。

 

 アスタルテは、人工生命体(ホムンクルス)でありながら、ある男の悲願のために、その体に圧倒的な戦闘能力を持つ人工眷獣が埋め込まれている。

 そんな予備知識など一切なしに、男はただ魔力を察知して一瞬の躊躇も見せずに迅速に無力化した。

 並の兵士に出来ることではない。この男は途轍もない腕を持つ超一流の戦士だ。

 例え雪菜に雪霞狼があったとして、果たして一対一で勝てるだろうか――

 

「ああ、脅かして済まなかった。安心してくれ。大人しく従ってくれれば、君たちに危害を加えるつもりはない」

 

 流暢な日本語で男はそうのたまった。

 

「君たちの中にアイバ・アサギが居るな。我々のためにちょっとした仕事をしてもらいたい。それが終われば、三人とも無事に解放すると約束しよう」

「……アンタたち、何者なの?」

 

 後輩たちを庇うように前に進み出た浅葱の背中を見て、雪菜は驚愕した。

 浅葱は決して訓練を受けた戦士ではない。だというのに、声を震わせることもなく、毅然と男を睨み返している。恐怖を感じていないはずもないのに。尋常ならざる胆力であった。

 その浅葱の勇ましい姿に、男は確かな賞賛の表情を浮かべた。一流の戦士である彼をして、浅葱の勇気には感じ入るものがあったのだろう。

 

「これは失礼。戦場の作法しか知らぬ不調法な身の上故、貴婦人(レディ)への名乗りが遅れたことを詫びよう」

 

 紳士的な物腰でそう言った男は、静かに帽子を脱いだ。

 その男の顔を見て、雪菜はハッと息を呑んだ。

 

「わが名はクリストフ・ガルドシュ――〝戦王領域〟の元軍人で、今は革命運動家だ。テロリスト、などと呼ばれることもあるがね」

 

 ――秀でた額と、尖った鷲鼻。知的でありながら、苛烈な威圧感を持つ老人の顔。

 その頬には、目立つ傷跡が残されていた。

 大きな、古い傷跡が――



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2‐6 機神覚醒 ―The Nalakuvera―

 長らくお待たせしまくりました。すいません。最後以外は一か月前には書き終わってたんですが、さっきようやく書き上げられました。
 前話の内容なんてほぼほぼ覚えてる人はいないと思いますが、よろしくお願いします。


 絃神市内。姫柊雪菜ら三名がクリストフ・ガルドシュの手によって誘拐された直後。

 立ち並ぶ高層ビルの隙間を縫って張り巡らされたモノレールの高架上を疾走する人影があった。

 第四真祖・暁古城の親友にして、今しがた誘拐された一人である藍羽浅葱の幼馴染、矢瀬基樹だ。

 

「ああクソッ、古城のヤツ、よりにもよってあんなところで暴走しやがって!」

 

 ここいは居ない親友への恨み節を口にしながら、矢瀬はポケットから何錠かのカプセル型の薬を取り出し、水も飲まずに乱暴に噛み砕いて飲み込んだ。

 直後、高架上を疾駆する彼の周囲を取り巻く強いビル風が、一層勢いを増した。

 

「俺の〝音響結界(サウンドスケープ)〟がズタズタじゃねぇか! アイツの眷獣はホントロクでもないのばっかだな!」

 

 ――矢瀬基樹は、過適応能力者(ハイパーアダプター)と呼ばれる特殊体質だ。

 魔族ではなく人間として生まれた異能者。いわゆる超能力者。

 一種の念動力(サイコキネシス)によって拡張された矢瀬の聴覚は、精密なレーダーに匹敵する解像度を誇る。

 海豚(イルカ)蝙蝠(コウモリ)の使うエコーロケーションさながら、しかしそれらより遙かに強力な聴力を以て、矢瀬は彩海学園全体をすっぽりと覆う監視網を張り巡らせて常に校内を監視していた。

 古城もまた、その監視対象の一人であった。

 

 魔力を一切用いることもなく、音の反響を聞き取るだけの完全な受け身(パッシブ)の能力。

 故に、姫柊雪菜のような卓越した霊視力の持ち主でも矢瀬の監視に気付くことは出来ない。

 しかし矢瀬が張り巡らされていた〝音響結界(サウンドスケープ)〟は、古城の眷獣が撒き散らした爆発的な振動波によって、ズタズタに引き裂かれていた。

 破壊された結界の再構築に必要な所要時間は、七十四分。

 

 そして――クリストフ・ガルドシュによる藍羽浅葱の誘拐は引き起こされたのである。

 

「あのタイミングで浅葱を狙うとか、ガルドシュって野郎も相当イカレてやがるな」

 

 あれだけの魔力を撒き散らしたのだ。ガルドシュたちが第四真祖の存在に気付かぬはずもない。

 それでもなおあの瞬間、彩海学園の警備システムが軒並みダウンしていたあの間隙を縫って、真祖と遭遇する危険すら冒して彼らは目的を達成してみせた。

 脱帽するしかあるまい。直接的な脅威という意味ならば以前の殲教師と人工生命体の少女(アスタルテ)の方が上かもしれないが、純粋な厄介さという意味であればこちらの方が数段上である。

 

「アスタルテちゃんもやられちまったしな……美少女が死んじまうのは嫌だぜ、ちゃんと生きててくれよ!」

 

 嘯きながらも、矢瀬は足を止めない。

 矢瀬が追っているのは浅葱たちを乗せた黒死皇派の車だ。

 電気信号(シグナル)の向きが違うだけで、マイクとスピーカーは原理的には同一のものである。

 今の矢瀬は、普段は受信側(パッシブ)で使っている能力を発振側(アクティブ)にして大気振動を発生させることで、風速九十メートルの追い風を巻き起こし、時速六十キロ近くで走行するワゴン車に生身で追い縋るという芸当を可能にしているのだ。

 

 代償は、先程から服用しているケミカルドラッグ。

 副作用も大きく、過剰摂取も相応にキツイ。それでも、今はこれに縋るしかない。

 

「ヘリポート? 絃神島の外に連れ出すつもりか……!?」

 

 矢瀬が見据える先で、一台のヘリが飛び去って行く。

 民間航空者のヘリ。あのヘリに浅葱たちは乗せられている。

 飛行可能な状態で待機させていたらしく、浅葱たちを乗せて一切の遅滞なく飛び立って行った。何とも用意のいいことだ。

 

「感心してる場合じゃねぇか……届くか?」

 

 絃神島の外に出られてしまえば、矢瀬の能力ではもはや追跡は不可能になってしまう――故に矢瀬は、切り札を切った。

 ポケットから取り出した残りの錠剤を全て呑み込み、ヘッドフォンで耳を塞いで瞼を閉じる。

 神経が焼き尽くされるような感覚を味わいながら能力を解放。視界が一気に開け、数十キロ先の海上までも鮮明に視覚する。

 

 矢瀬の頭上――上空数百メートルの地点に出現したのは、気流で編まれた矢瀬の分身体であった。

重気流躰(エアロダイン)〟と名付けられた矢瀬の切り札である。

 要は幽体離脱と似たようなものだが、紛いなりにも肉体を持つこれが矢瀬に伝えてくれる情報は、幽体離脱のそれよりもよっぽど鮮明だ。が――

 

「あれが黒死皇派のアジトだと……どういうことだ!?」

「気流操作……いや、音響制御か? 面白い能力だ」

「……ッ!?」

 

 全くの意識外から聞こえてきた、艶のある女の声に、矢瀬は驚愕した。

 この能力の欠点は分身体に意識を飛ばしている間、本体の感覚が極端に低下して無防備になってしまう点にある。辛うじて声には反応出来たが、声の主の姿までは分からない。

 

「楽しんでいる場合ではないだろう、AJ。我らは閣下からのご命令を果たすのみだ」

「分かっているさ、トビアス」

 

 続けて聞こえる、女の声とは明らかに違う若い男の冷たい声。

 それぞれが口にした互いの名前と、その内容に驚愕し、矢瀬は振り返ろうとした――が。

 それよりも早く、男が続けて言葉を発し、同時に矢瀬の背後で莫大な魔力が弾けた。

 

「――〝妖撃の暴王(イルリヒト)〟よ」

「なっ……!?」

 

 空へと舞い上がったのは、空気を焦がすほどの熱量を持つ、灼熱の猛禽。

 莫大な魔力によって編まれた肉体を持つ――吸血鬼の眷獣だ。

 圧倒的な威圧感とともに空気を焦がしながら飛翔したその眷獣は、〝重気流躰(エアロダイン)〟を鋭い嘴で啄み、呆気なく引き裂いてしまった。

 

「がっ……!」

 

 フィードバックしてきた激痛に呻き声を洩らして、矢瀬はその場に転がった。

 薄れる視界の中で矢瀬は、一組の男女の姿を認めた。

 豊満な肢体をクラシカルなメイド服に包んだ、二十代半ばの金髪の女と、刃のように鋭く尖った血のような真紅の瞳に、引き締まった肉体を黒いスーツに包んだ若い吸血鬼の青年。

 恐らく人間であろう女はニヤリと笑って、青年は冷然と倒れ伏す矢瀬を見つめている。

 

「最悪だな……」

 

 明らかに怪しい二人組の正体に思い当った矢瀬は弱々しく呟いた。

 彼らが出てきた以上、もはや万事休す。矢瀬に成す術などない。後はもう、迫りくる死を待つだけだ。

 

「ああクッソ……ワリィ、緋稲さん」

 

 諦めたようにコンクリートの屋上に仰向けに寝転がり、恋人の名を呟く矢瀬だったが、福音はこのピンチの原因となった脅威そのものからもたらされた。

 

「安心しろ、ボウヤ。殺しはしないさ。ただ、邪魔をされたら困るというだけだからな」

「……?」

 

 笑みを含んだ声でそう言った女は、全身に――矢瀬には見えなかったが――エメラルドのように硬質で、鋭い煌めきを持つ、通力(プラーナ)の光を纏っていた。

 彼女は無造作に矢瀬に近付きながら、その手に握った双頭剣を振り上げた。

 二本の剣を接合させた禍々しい形状の武器に、どんどん通力(プラーナ)が集まって行く。

 

 そして、振り下ろされる剣。

 しかし確かに斬りつけられたはずの矢瀬の肉体には、一切の損傷はなかった。

 剣から流し込まれた通力(プラーナ)が、矢瀬の精神にのみ影響を及ぼしたのだ。

 

 源祖の業(アンセスタル・アーツ)の光技、《鎮星(ちんせい)》。

 

「しばらく寝ていろ。起きた頃には、全て終わっている――」

 

 その言葉を最後に、莫大な通力(プラーナ)の奔流に晒されて、矢瀬の意識は消し飛んだ。

 

 

 

§

 

 

 

「なぁ……煌坂」

「何よ?」

「俺たち、いつまでこうしてればいいんだ……?」

「雪菜が帰ってくるまで、じゃないの……?」

 

 一方、その雪菜や浅葱たちが黒死皇派の手で連れ去られたことなど知る由もない古城と紗矢華は、ぼんやりと流れゆく雲を眺めていた。

 隣に座ってこそいるものの、二人は既に正座から足を崩してダレている。

 

 ふと古城は、何かを思い立ったように首を巡らせて紗矢華の方を向き、口を開いた。

 

「なぁ……煌坂」

「何よ?」

「何ていうか……悪いな、いろいろと」

「は?」

 

 キョトンと目を丸くする紗矢華。当然だが、なぜ謝られたのか分かっていないらしい。

 

「どうしてあなたが謝るのよ? 気持ち悪いんだけど」

「うるせぇな……煌坂が言ってたことは正しいんだろう、って思ったんだよ」

 

 つい先程、いきなり古城を襲撃してきた紗矢華は、古城に剣を突き付けながら言った。

 

 ――あなたが居なければ、雪菜が危険な目に遭うこともなかった

 

 ――雪菜には、ロタリンギアの殲教師や、黒死皇派の残党と戦う理由なんてないのに

 

 その言葉は、今もなお古城の心の奥に、楔として深く突き刺さっていた。

 パーカーのフードを引っ張って目元を隠すようにしながら、古城は続けた。

 

「こないだの殲教師のオッサンの時も、今度のテロリスト騒ぎでも、姫柊には直接の関係なんてなかった。アイツが首を突っ込まなくなきゃいけなくなったのは……間違いなく俺のせいだ」

「…………」

「お前が姫柊のことを大切に想ってるのは、よく分かってる。姫柊も、お前のことを話すとき、本当に嬉しそうにしてるんだ。そういうとこを見てると、お前らは本当に、仲がいい友達なんだな、って思う」

「……結局、あなたは何が言いたいのよ?」

「まあつまりは、すまん、って言いたいんだよ。誰だって、友達が命の危機に晒されてるってのに、黙っていられるわけないからな」

 

 そう言って、古城は目を伏せる。

 

「……大事なヤツを失うってのは、辛いから」

 

 ――古城自身には、そんな経験はないはずだ。前世はどうあれ、サツキ、静乃、浅葱、凪沙、春鹿……大切な者を失ったことは、ないはずだった。

 けれど、たった一人――虹色の炎のような髪を持った、あの少女……古城に力を与えた、あの無邪気な少女は。

 彼女のことを思い出す度に、古城の脳裏には鋭い激痛と……同時に、言いようのない喪失感と寂寥感が湧いてくる。

 

 唇を噛み締める古城を見て、紗矢華は何故か不服そうに唇を尖らせた。

 

「……自分のせい、って素直に認められると、逆に自慢されてるみたいなんだけど」

「自慢って……」

「確かにあなたのせいだけど、雪菜は任務だからあなたの監視をしてるだけで、好きで協力しているわけじゃないんだからね。別にあなたが気にする必要はないじゃない」

「あー……まあ、そうなんだけどさ」

 

 途中から古城をフォローする形になっていたことに気が付いて、紗矢華は気まずげな表情を浮かべて視線を逸らした。

 

「けどまあ、姫柊は……いいヤツだからな。四六時中監視されてるってのは、たまに鬱陶しくもあるけど、嫌いになれそうにない」

「ふぅん……あなたも雪菜のことが少しは分かってるじゃない」

 

 やはり雪菜のことを褒められると嬉しいようだ。自慢げにする紗矢華を見て、古城は微笑ましく感じる。

 

「お前と姫柊って、子供の頃からの友達なんだろ? 昔のお前らって、どんな感じだったんだ?」

「何、知りたいの? 仕方ないわね、教えてあげるわ。天使な雪菜の姿を見て腰を抜かさないように気を付けなさいよ!」

 

 言いながら紗矢華は取り出した携帯電話を操作し、古城に向かって突き付けてきた。

 画面に表示されているのは、昔の雪菜と紗矢華と思しき二人の幼い少女の写真だった。

 大体七、八歳前後。強い目の光が印象的な少女と、淡い栗色の髪の少女。

 降りしきる大雪を背景に、二人は固く手を握り合い身を寄せ合って、たった二人で世界と対峙しているかのようだ。

 

 ――獅子王機関は全国から孤児を集めて、若く優秀な攻魔師に育て上げていると聞いた。

 ということは、恐らく目の前の紗矢華もまた孤児なのだろう。

 幼い頃からずっと二人で過ごしてきた紗矢華と雪菜。例え血の繋がりがなくとも、あるいは血縁上の関係などよりも遥かに深く結びついた、家族であったはずだ。

 実際には少しばかり立場が逆転しているようだが、紗矢華にとって雪菜は、可愛くて可愛くて仕方がない妹、ということになるのだろう。

 家族を想う気持ちは、古城にもよく理解できた。

 

「……確かに、これは可愛いかもな」

「最初からそう言ってたでしょう。私の雪菜は天使だって!」

 

 自慢げに豊かな胸をそびやかす紗矢華を見て苦笑しながら、古城は何の思惑もなく告げた。

 

「いや、もちろん姫柊もだけどさ。お前もこの頃から美人だったんだな」

「は……っ!?」

 

 一応言っておくと、古城本人には特別変なことを言ったという意識はない。

 性格については言いたいことが小山ほどもある紗矢華だったが、外見だけで言えば間違いなく美人の類に分類される。

 その美貌の片鱗は幼い頃の彼女にも当然存在していて、もし雪菜が天使だとすれば、紗矢華も同じ種族のはずだ。

 

「ば、バカ……何を……!」

 

 顔を真っ赤にして肩を小刻みに震わせる紗矢華が何かを言おうとしたが、その声は言葉となる前に、バンッと荒々しく屋上の扉が開かれる音で掻き消された。

 続けて古城たちの耳に響く、少女の悲鳴に近い悲痛な声。

 

「兄様!」

「サツキ……? そんなに慌てて、どうし……っ!」

 

 駆け込んでくる涙目のサツキを見て、古城は言いかけた言葉を呑み込んだ。

 正しくは――彼女の制服にこびりついたいくつもの血痕と真っ赤に染まった両の手の平、そして、その身体から漂う濃密な血に似た匂いを察して。

 

「に、兄様! ど、どうしよう!」

「落ち着け、サツキ。何があったのか、最初から教えてくれ」

 

 何かあったのか、とは訊かない。そんなこと、目の前のサツキの姿を見れば明白だった。

 だが彼女の口から聞かされた言葉は、十分に覚悟を決めていた古城の心胆を奥底から冷やすのに十分な破壊力を秘めていた。

 

「藍羽と凪沙ちゃんと、姫柊さんが……テロリストに連れ去られて……! 保健室で、あ、アスタルテちゃんも死にそうになってて……!」

「なっ――」

 

 浅葱と、凪沙と、姫柊が……連れ去られた? アスタルテが、死にかけてる……?

 隣で紗矢華が、ヒッと息を呑んだ気配がする。古城も全く同じ気持ちだった。

 

「……いつのことだ?」

「わっかんないの! あたしはじゃんけんで負けて、皆の飲み物買いに行ってて、帰ってきたら、保健室がボロボロで、アスタルテちゃんが血だらけで、皆もどこにも居なくって……」

 

 言いながら泣き出してしまったサツキを、古城は力強く引き寄せて抱き締めた。

 震える小さな腕が、縋るように古城の体を抱きしめ返してくる。

 

「ごめんなさい、兄様、ごめんなさい……! あたし、何にも出来なくて、役立たずでぇ……!」

「謝るなサツキ。大丈夫だから。俺がどうにかする。……お前まで攫われなくてよかったよ」

「兄様ぁ……! ふぇぇん……っ」

 

 本当なら自分も叫び出したい気分だったが、サツキがこうして取り乱しているおかげか古城は不思議と落ち着いていた。

 妹として見られるように努力すると誓い、彼女を守ると誓ったおかげだろうか。

 徐々に落ち着いてきたサツキに安堵する古城。しかしこの場には、もう一人落ち着かせなければならない者が居た。

 

「雪菜が、攫われた……? テロリスト、に……私の、雪菜が……」

「おい、煌坂」

「助け、なきゃ……雪菜を、助けなきゃ……!」

「煌坂!!」

「……っ、あ、暁古城……?」

 

 動揺を露わにする紗矢華の両肩を掴んで、古城が叫ぶように呼び掛けると、ようやく紗矢華は正気を取り戻したようだった。

 僅かに涙の浮いた瞳が古城を見つめる。

 

「お前の気持ちは分かる。正直俺も同じ気持ちだ。けど、慌てたって仕方ないだろ! それでアイツらを助けられるわけじゃない」

「でも……っ…………そう、ね。ごめんなさい……」

 

 言い聞かされた紗矢華は銀色の長剣を握っていた自分の右手をグッと掴んで、何かの衝動を堪えるように俯いた。

 けれど次に顔を上げた時には、冷静で有能な戦士の相へと変わっていた。

 もう大丈夫そうだ、と判断した古城は紗矢華の両肩から手を離し、見守っていたサツキと紗矢華の両方に呼びかけた。

 

「よし。まずは保健室に……アスタルテのところに行くぞ! アスタルテを助けてから、他のヤツらも全員助け出す!」

「うん!」

「……ええ!」

 

 涙を拭ってしっかりと頷いたサツキと、僅かに顔を赤くしながらも力強く応じた紗矢華。

 二人を連れた古城は、駆け足で校舎へと続く階段を下って行った。

 

 

 

§

 

 

 

 獅子王機関の舞威媛、煌坂紗矢華は彩海学園の保健室へと続く階段を駆け下りながら、前を行く少年、暁古城の横顔を見つめていた。

 狼の体毛のような色合いの髪、そこそこ整った顔立ち、日本の高校生男子の平均より少しだけガタイの良い、どこにでも居るような平凡な高校生。

 だがその素性は、災厄そのものとも称される世界最強の吸血鬼、第四真祖。

 そして紗矢華にとっては、大事な大事な雪菜をその毒牙にかけた、憎んでも憎み切れない恩敵だ。

 

 怨敵……の、はずだった。

 最初は古城の顔を見ただけで憤怒と嫉妬と憎悪で塗り潰されていた紗矢華の心は、今は古城を見てもそんな感情は起こらずに、むしろ安心すらしていた。

 つい先程。屋上で古城と言葉を交わしている間に、古城への、男というものへの『恐怖』は次第に薄れて行った。

 

 紗矢華の男嫌いは、実のところ、彼女の心の奥底に刷り込まれた男性恐怖症の裏返しなのだ。

 優れた霊能力を持って生まれた子供は、しばしば実の両親にも疎まれて虐待されることがある。

 紗矢華の唯一の肉親だった父親もまたそんな者の一人だった。まだ幼い彼女に日常的に暴力を振るうような男だった。

 

 その父親は彼女が小学生になる前に死に、紗矢華は獅子王機関に引き取られた。

 しかし幼い頃に刻まれた父親への恐怖は、そのまま男性への嫌悪へと姿を変えて、今も彼女の心の奥深くに残っている。

 彼女の男性恐怖症は筋金入りで、男性と電話をすることすら「耳元で男の声がする」と言って嫌がるほどなのだ。

 

 ましてや男に触れられるなど――肩を強く掴まれるなど、平時の紗矢華であれば、悲鳴を上げて狂乱し、斬りかかっていてもおかしくはなかった。

 それなのに……自分の心の動きに、一番混乱していたのは紗矢華だっただろう。

 

 チラリと自分の肩、古城の大きな手が握ってきた場所に目をやる。

 これまで経験したことのない、触れたことのない、男の感触。自分とは違う、ゴツゴツしていて硬い手の平。

 実の父親からすら感じたことのない安心感。そのおかげで、雪菜が攫われたことで狂乱を起こしていた紗矢華の精神は平静を取り戻した。

 

 脳裏の片隅で、古城が向けてきた真剣な表情を思い出す。

 それまでの気だるげな表情とは違う、鋭い刃のような視線。固く引き結ばれた唇。自分の名前を呼ぶ腹の底に響くような低い声。

 彼が纏う硬質な鋼のような雰囲気が、整っていると言えなくもない彼の顔立ちを一層精悍なものにしていた。

 怖いぐらいに真剣な表情で前を見据える古城の横顔を見ていると、何故か顔が火照って、動悸が激しくなる。

 

 男性恐怖症だが、いわゆる少女漫画などを多く嗜んでいた紗矢華は、その心の動きを何と呼ぶかを知っていたが、彼女にはそれが信じられなかった。

 

 紗矢華は身長百六十六センチある。足もすらっと長く胸から腰のラインもほどよく括れていて、そこらのグラビアアイドルなど目ではないほどスタイルがいい。また顔立ちも非常に良く整っている。

 だが本人からしてみれば、それはあまり嬉しいことではないようで、男性恐怖症と言うだけでなく、紗矢華は自分の容姿に強いコンプレックスを懐いていた。

 自分は少女漫画の中の女の子のように、雪菜のような儚げな美しさはなく、デカイだけで可愛くもなければ性格もよくない。

 女子高に通っていたせいで自身の美貌を自覚する機会がなく、そんな風に思っていたのだ。

 

 また、お相手となる古城も、漫画の中に居るような優しく爽やかなイケメンというガラではなかった。

 特別女性に優しいわけでもなければ、見惚れるような美形でもなく、勉強は出来ないし、スポーツも万能というわけではない。家事も妹に任せっきり。おまけに女癖が悪くて変態だ。

 ……嫉妬心に駆られてストーカーじみた執念で古城を観察していた結果、紗矢華はそこらの幼馴染キャラ並に古城について詳しくなっているのだった。かなり主観によるバイアスがかけられてはいるが。

 

 ――そんなヤツと私が、恋になんて落ちるわけがない。気の迷いだ――

 

 そう自分に言い聞かせてみるも、それがその場凌ぎの言い訳に過ぎないこと、何かきっかけがあれば吹き飛んでしまうようなものでしかないことは、

 ……実のところ、やはり紗矢華自身が、一番良く分かっていたのかもしれない。

 

 

 

§

 

 

 

 校舎の中に入った瞬間、古城の吸血鬼の嗅覚が、ある異臭を捉えた。

 血液に似た、けれど違う何かの匂い。サツキの身体に染みついたそれと同じ匂いだ。

 鼻を衝く濃密な異臭を頼りに、吸血鬼の身体能力を全開にして保健室へ続く廊下を走り抜け、古城は保健室のドアを勢いよく開けた。

 

「アスタルテっ! ……っ!?」

「これ、は……!」

 

 保健室の中に飛び込んだ古城と紗矢華は、揃って息を呑んだ。

 二人が視線を向ける先、保健室の白い床に、淡い深紅の液体に塗れて横たわる少女の姿があった。

 

「この傷……銃創!? 撃たれたってこと!? しかも何発も!」

「何だと!? クソッ、おい、アスタルテ!」

 

 慌てて駆け寄り、アスタルテの容体を改めた紗矢華が悲鳴のような声で叫んだ。

 攻魔師として経験を積んだ彼女ですら息を呑むほどに、凄惨な傷跡だったのだ。

 古城の必死な叫びに、もはや身動きすらも出来ずにいたアスタルテはゆっくりと瞼を開き、血塗れの唇を弱々しく動かして、

 

「……報告します、マスター……現在時刻から二十五分、十三秒前……クリストフ・ガルドシュと名乗る人物が本校校内に出現……藍羽浅葱、暁凪沙……姫柊、雪菜の三名を、連れ去りました……」

「っ!?」

 

 死に体のアスタルテが伝えた情報に、古城は絶句した。

 クリストフ・ガルドシュ――かつて世界を震撼させたテロ組織、黒死皇派の重鎮。今回の古城たちのターゲット。

 そんな存在が、浅葱たちを連れ去ったという。一体何のために?

 

 唇を噛む古城に、アスタルテが最後の力を振り絞るようにして呟いた。

 

「彼らの行き先は、不明。……ごめんなさい、マスター……私は彼女たちを、守れなかっ……た…………」

「おい、アスタルテ!? しっかりしろ! アスタルテ!」

 

 言い終えた直後に、彼女の口から、ゴボリ、と大量の赤黒い液体がこぼれた。

 いくら人工生命体(ホムンクルス)と言えど、今の彼女はしゃべれるような状態ではない。本来なら生きていることすら奇跡なのだ。

 

「――まず止血するわ! 暁古城、手伝って! あなたもよ嵐城さん!」

「ああ!」

「う、うん! 何をすればいいの!?」

 

 紗矢華の逼迫した叫びに、古城とサツキは一斉に動き始めた。

 

「このままじゃ彼女が()たない。まずは何よりも止血が優先よ。消毒液と包帯をありったけ持ってきて」

「分かったわ!」

 

 紗矢華の指示を受けて、サツキは真っ先に包帯などが収められた棚に向かった。

 それに構うことなく、紗矢華は制服の袖口から、長さ十五センチほどの目に見えないほど細い金属針を取り出した。

 

「煌坂?」

「鍼治療みたいなものよ。生命維持に必要な最低限を残して、肉体を仮死状態にするわ。これで失血による対組織や脳への損傷を最大限に抑えられるはず。……神経構造マップはタイプI準拠の人間型(ヒューマンタイプ)……これならどうにか」

 

 後半だけ口の中でそう呟いて、紗矢華は勢いよくその針をアスタルテの背筋に突き立てた。

 

「獅子王機関の舞威媛は、呪詛と暗殺の専門家だって言ったでしょう。人の生と死を操るのが、私の役目よ。雪菜が一度助けた子を、私の目の前で死なせたりはしないわ、絶対に!」

 

 アスタルテの返り血に塗れて治療を続ける紗矢華は、どこか神々しく、美しさすら感じさせた。

 舞威媛――すなわち舞女は巫女の別称だ。彼女の本質もまた雪菜と同じように、神々の声を聞き、森羅万象を視る霊能力者なのである。

 

「……俺も、治療に参加する」

「暁古城? あなた、何を……」

 

 不意に呟いた古城に、紗矢華は訝しげな視線を送るが、古城の真剣極まる表情を見て思わず口を噤んだ。

 そんな紗矢華に構うことなく古城は右手をアスタルテの服へと伸ばして、

 

「……悪い、アスタルテ。後で弁償する!」

「ちょっ、暁古城!?」

 

 そのままアスタルテの着ていた服を、力任せに引き千切ってしまった。

 それによって、彼女の平らな胸元の凄惨な傷跡が露わになった。

 すぐ傍に来ていたサツキが息を呑むが、古城は斟酌せず、躊躇なく右手の人差し指を傷の近くへと這わせた。

 

 いつの間にか古城の全身からは膨大な魔力(マーナ)が放たれて、周囲の空間を翳らせていた。

 血で染まったアスタルテの肌に、古城の指先によって直接太古の魔法文字が描かれていく。

傷跡の治療(ヒーリング)》と呼ばれる、素肌に直接魔法文字を刻んで該当箇所を治癒する闇術だ。

 

 先程まで古城はその存在すら知らなかった闇術だが、紗矢華の治療する姿に触発されてか、この場で思い出したのだった。

 治癒魔法と言っても、ゲームのそれのように唱えただけで全て回復するような便利なものではない。その治療速度は煩悶とするほど遅い。

 だが、闇術を極めた古城(シュウ・サウラ)の手にかかれば、一度の施術でも相応の効果が現れる。

 

「……よしっ! これで、大丈夫なはずだ!」

 

 まだまだ治療は必要だが、今出来ることは全てやったという自信があった。

 呆けたように古城の作業を眺めていた二人に声をかけて、アスタルテの身体に包帯を巻きつける。後は専門の医療機関の手に委ねるしかない。

 古城たちには、今はそれよりもやるべきことがあった。

 

 やることとは、無論ガルドシュに連れ去られた浅葱たちの救出だ。

 その場で殺すのではなく、わざわざ誘拐するような手段を取ったということは、少なくともガルドシュたちには浅葱たちを殺すつもりはないということだろう。

 だがそれで安心しても居られない。問題はテロリストの手に彼女たちの身が落ちたという点で――

 

「…………待てよ」

 

 古城は額に手を当て、思索した。

 

 そもそも黒死皇派は、何故浅葱たちを連れ去ろうとしたのか?

 彼らの狙いは、浅葱で間違いないはずだ。凪沙は今回の件に一切関与していないし、雪菜も一応関係者ではあるが、取り立てて身柄を確保しなければならないような理由はない。

 となれば後は浅葱しか残っていないわけだが……思い返してみれば、一つだけ彼女と黒死皇派を結びつける要素があった。

 

 ――ナラクヴェーラ。

 絃神島に密輸されたという古代兵器。その調査を浅葱に依頼したのは古城だったが、何故か浅葱はその言葉を以前から知っていて、ナラクヴェーラの制御方法を記した石板のことを気にかけていた。

 もし、黒死皇派が浅葱の暗号破り(パスワード・クラック)の技術を、石板解読に使えると踏んだのであれば――

 

「クソッ、黒死皇派……よりにもよって魔族か」

「魔族? 魔族だと何か都合が悪いの?」

 

 忌々しげに呟いた古城に、紗矢華がアスタルテを気にかけながら訊いた。

 古城は苦悩するように目を伏せながら、

 

「ああ……凪沙、俺の妹なんだが、アイツは、魔族を極端に恐れてるんだよ」

「え、でも、兄様。凪沙ちゃんも魔族特区の人間でしょ? なのに、魔族が怖いの?」

「……これは、ここだけの話にしてほしいんだが、いいか?」

 

 はっきりと頷く二人を見て、古城は重々しく口を開いた。

 

「アイツは、昔死にかけたことがあるんだよ」

「え?」

「四年前にな。魔族がらみの列車事故に巻き込まれたんだ。俺もその場に居たんだが、正直生き残ってるのが不思議なくらいだった。凪沙も重傷を負って、どうにか一命は取り留めたけど、意識が戻らないかもしれない、って医者から言われたよ」

 

 告げられた事実に、少女二人は絶句した。

 特に普段の快活な凪沙をよく知っているサツキが受けた衝撃は、紗矢華のそれよりもひどかった。大きく目を見張って固まっている。

 

「……で、でも、凪沙ちゃんは、そんなこと何にも……」

「俺もよくは知らないんだが、絃神島で、何か特殊な治療を受けたみたいでさ。ここは、魔族特区だから」

 

 絃神島――魔族特区は学究都市だ。魔族の肉体や能力を研究して、それらを応用した技術や開発が日々行われている。

 その中には当然最先端の医療技術も含まれている。未認可・実験段階の医療技術が。

 

「傷はもう完治してるけど、今も定期的に検査に通ってる。金も随分かかった。お袋と親父が離婚したのも多分無関係じゃない。特にお袋は、今も凪沙をちゃんと治してやるために頑張ってるからな。あんまり帰って来ないけど、文句も言えないんだよ」

「凪沙ちゃんが、魔族を怖がるのは……それが原因?」

「ああ、そうだよ。いつもはそんな素振りはほとんど見せないけど、また魔族がらみの事件に巻き込まれた、ってなると、やっぱ……心配になる」

 

 発狂まではいかないにしても、多大な精神的ダメージを負うことは確実だろう。

 浅葱も事情は承知しているはずだから、何か手を打ってくれていることを期待するしかないのだが……

 

 可愛い妹分の予想外の過去にショックを受けるサツキだったが、紗矢華は凪沙のことではなく、唇を噛み締める古城に、沈痛な眼差しを向けていた。

 雪菜のためと称して古城の調査を行う上で紗矢華は、古城が実の妹である凪沙に対して自らの正体……第四真祖であることを伝えていないことを知っていた。

 その時は何故だろうと不思議に思っていたが、そんな事情があれば納得だった。

 

 獅子王機関の報告書で、古城が第四真祖としての力を偶然手に入れたことは知っていた。

 望まずとはいえ、肉親が魔族になってしまったことを凪沙が知ってしまえば、確実に今の彼女たちの生活は失われる。

 凪沙から古城へ向けられる感情も、信頼と愛情から、恐怖と嫌悪へと変わってしまう。

 

 それはあるいは、紗矢華の幼い頃の経験よりも悲惨かもしれなかった。

 紗矢華は肉親からの愛情というものを受けたことがなかった。何も与えられはしなかった。

 だが古城は、古城と凪沙は違う。十四年間という長い時間を仲のいい兄妹として過ごし、ともに沢山の思い出を積み上げ沢山の言葉と想いを交わしてきた。

 それが、一瞬で失われてしまう――その恐怖は、想像を絶する。

 

 紗矢華が古城に対して何かを言いかけた、その時、古城たちの視界の隅で閃光が輝き、鈍い爆音が響いてきた。

 慌てて保健室の窓に駆け寄って光が見えた方向を見ると、空中で花火のように膨れ上がったオレンジ色の火球が黒い破片を撒き散らして消えるところだった。

 禍々しい黒煙が地上から空高く吹き上がるのを眺めながら、古城たちは呆然と呟いた。

 

「何、今の!? ヘリが撃ち落とされたみたいに見えたんだけど」

「事故、なの? それとも、まさか!?」

 

 ヘリを一撃で撃ち落とすということは、地対空ミサイルかそれに近い武器ということだ。

 この絃神島でそんなものを所持して、尚且つ市街地でぶっ放すような連中など――テロリスト以外におるまい。

 

「……っ、静乃――ってああっクッソ! 居ないんだったか!」

 

 古城にとってこういう状況で最も頼りになるのは、やはり静乃だった。だがその彼女はこの場には居ない。

 一応電話をかけてみるが、どれだけ経っても出てこなかった。

 

「クソッ、アイツ意地でも出ない気か!」

 

 忌々しげに吐き捨て、古城は違う番号を入力してかけ直した。119番、重症のアスタルテの手当てをしてもらうために救急車を呼ぶためだ。

 しかしこちらも、古城の思い通りにはいかなかった。

 

 先程のヘリの墜落と関係しているのか、救急車は回してもらったもののすぐには来れないとのことだった。

 これも静乃が居れば、漆原の権力を使ってでも救急車の一台程度、すぐに手配してくれるはずなのに――

 

「――いや、ダメだ」

 

 そうだ。ここで静乃に頼るわけにはいかない。

 そもそも古城がこの騒動に首を突っ込むことになったのは、〝戦王領域〟の戦闘狂(バトルマニア)な貴族から、静乃を守るためだった。

 そして、自分勝手なテロリストの脅威から、友人や家族、身近な人々を守るためだった。

 古城にとって大切なものを、絶対に守り抜くためだった。

 連絡が付けられなくても、彼女が今何を思っているのか分からなくても、それだけは何があろうと変わらない。

 

 であれば、こんなところで手を拱いては居られない。

 自分に何が出来るかは分からないが、それでも古城は、自分に持てる全ての力を振るうことを決めた。

 

「……提案します、マスター……」

 

 力なく倒れたままのアスタルテが、不意に古城に向かって言葉を発した。

 屈みこんだ古城の耳元で、アスタルテは途切れ途切れの声を紡ぐ。

 

「南宮教官は……現在……黒死皇派の身柄確保のため……彼らの潜伏場所に向かいました……藍羽浅葱他二名を連行したクリストフ・ガルドシュの行き先も、同じく黒死皇派のアジトだと思われます……」

「……そうか。那月ちゃんが行った先に、浅葱たちも居るかもしれないってことか」

「肯定。……マスター、お役に立てず、申し訳ありません」

 

 悔しそうに唇を噛み、俯くアスタルテの頭を、古城はやや乱暴に撫でた。

 ゆっくりと顔を上げたメイド服の少女に笑顔を向け、古城は言う。

 

「何言ってんだ。そんなこと気にしなくていい。お前が居てくれたおかげで、俺たちは事情を知ることが出来た。怪我の功名、って言うにはちょいと怪我が大き過ぎるけど……まあ、大丈夫だ。後は俺たちに任せて、お前はゆっくり休んどけ」

「マスター……」

「それに、お前は俺の抱き枕なんだろ? 途中で放り出すなよ」

 

 ニッと笑いながら言う古城を見て、アスタルテは今にも瞼が落ちそうな憔悴した顔に、健気な笑みを浮かべて、

 

命令受諾(アクセプト)……マスターの安眠は、お任せ下さい……」

「……おう」

 

 アスタルテは目を閉じ、そして完全に意識を失った。

 まるで死人のような深い眠りだが、心配はいらない。

 

 アスタルテの小さな体を優しく横たえて、古城は真剣な表情で顔を上げた。

 視線を向ける先は、先程墜落して行くヘリを見た方向。

 拡張工事中の増設人工島(サブフロート)にして、今現在絃神島で、最も激しい戦闘が行われているであろう場所。

 そして――囚われの身の少女たちが居るはずの場所を見据えて、古城はグッと拳を握った。

 

 

 

§

 

 

 

 その頃、テロリストの手に落ちた浅葱、雪菜、凪沙の三人は、窓を塞がれた狭く暗い部屋の中に居た。

 元は倉庫なのだろう、天井は配管が剥き出しで床には錆が浮いている。恐らくはどこかの地下室なのだろうが、緩やかに地面が揺れている気がする。

 物理的だけでなく電波的にも外界と遮断されたその場所で、藍羽浅葱は、クリストフ・ガルドシュと名乗った軍服の男と睨み合っていた。

 

「――どうやら、君には自分が有名人だという自覚が足りないようだな、ミス・アイバ」

 

 同じく軍服姿の男二人を連れて部屋にやって来たガルドシュは、強気に睨みつけてくる浅葱を見据えて言った。

 

「少なくとも我々が雇った技術者たちの中に、君の名前を知らない者は居なかったよ。流石に彼らも〝電子の女帝〟の正体が、こんなに可愛らしいお嬢さんだとは思ってもいなかっただろうがね」

「そんな見え透いたお世辞を言われて、あたしが協力する気になるとでも思った?」

「……失敬。世辞のつもりはなかったのだが。しかし君は冷静だな。普通の一般人であれば、もっと取り乱したりするのであろうが……」

 

 言いながらガルドシュは、雪菜の腕の中で気を失っている凪沙を見やる。彼の視線の動きを察して、雪菜は身体を強張らせた。

 古城が懸念していた通り、凪沙は魔族への恐怖によって恐慌状態に陥り、雪菜の咄嗟の判断によって気絶させられたのだ。

 浅葱は目を鋭くして、テロリストの視線から後輩二人を守るように立ちはだかった。

 

「アンタたちが用があるのはあたしだけなんでしょ? ならこの二人は帰してあげて」

「どうしても解放しろと言うのなら、それも吝かではないが……君が本当にその少女たちの身の安全を祈っているというのであれば、その判断は推奨出来ないな」

「どういう意味よ。……言っとくけど、もしこの娘たちを辱めたりしようものなら、あたしは全力でアンタたちを潰すわよ。冗談なんかじゃなくね」

 

 静かな怒気と気迫を全身から滲ませて、浅葱はかつて世界を震撼させたテロリスト集団の重鎮に向かって言い放った。

 彼女の毅然たる態度を見て、ガルドシュの後ろに控えていた二人の兵士は、思わず、と言った様子で身構えた。そして雪菜は驚愕に目を見開いた。

 一般人であるはずの浅葱が見せた気迫は、訓練を積んだ兵士たちをして怯ませるものであり、対魔族戦闘に特化した剣巫である雪菜を驚かせるものだった。

 

 実際、浅葱の『潰す』発言は、浅葱にとって実行可能なものだった。

 どうやってか。簡単である。まず黒死皇派のアジトを一つ残らず調べ上げてから、そこに向かって適当な位置にある核ミサイルでも何でも叩き込んでしまえばいいのだ。

〝電子の女帝〟とすら称される浅葱であれば、例えどれだけ厳重にブロックされた軍事基地のミサイル管理システムでも、片手間でハッキング出来る程度のものでしかない。

 

 浅葱は自分に出来ることを正しく理解し、その上でガルドシュへと脅しをかけてみせたのである。

 ――お前たちなど、いつでも簡単に潰せるのだ、と。

 

 その脅しを正面から叩きつけられたガルドシュは、一階の女子高校生に送るには少々大袈裟なほどの賞賛の眼差しを向けた。

 

「……なるほど。女帝、言い得て妙な呼び方だ。改めてミス・アイバ。我々は君のその勇敢さを、素直に尊敬する」

「冗談だとでも思ってるワケ?」

「いや、確かに君の言ったことは事実なのだろう。我々とて自殺願望があるわけではない。君の言葉は心に刻んでおこう。……それと、安心してほしい。我々は統率された戦士の集団だ。非戦闘員を辱めるような品のない真似はしない」

「……保健室に居た人工生命体(ホムンクルス)の娘は、躊躇いなく撃ったのに?」

「彼女は戦闘の道具だった。我々と同様のな」

 

 平静な声で言うガルドシュだったが、その声音は敬意に満ちたもので、彼の戦士としての揺るぎない信念を感じさせた。

 

「……信用していいのね」

「今は亡き我が盟友、黒死皇の名誉にかけて誓おう」

「いいわ。とりあえず話だけは聞いてあげる。説明しなさい」

 

 深い溜め息を一つ吐いて、浅葱は横柄な態度でガルドシュに指示した。

 ガルドシュは苦笑して部下に目配せする。

 その部下の男によって浅葱に差し出されたのは、リングファイルに綴じられた分厚い書類の束だった。

 電子機器の設定仕様書とマニュアルである。その中身を流し読みして、浅葱は驚愕に目を見開いた。

 

「〝スーヴェレーン(ナイン)〟!? こんなものどこで!?」

「我々の理念に賛同してくれた篤志家が、アウストラシア軍に納入予定のものを横流ししてくれたのだよ。これならば、君もそのスキルを遺憾なく発揮出来るだろう」

「――コイツで、ナラクヴェーラとかっていう古代兵器の制御コマンドを解析しろ、ってことかしら?」

 

 横目で鋭い視線を送りながら呟かれた浅葱の言葉に、ガルドシュは息を呑んだ。

 

「……どうやら我々は、君に対する評価を更に一段階上げる必要があるようだな」

「いくら褒めても、やるとは言ってないわよ」

「百も承知。だが、君は我々に協力してくれる。否が応でもな」

 

 訝しげな浅葱に対して、ガルドシュは心底愉快そうに、そして冷酷に笑って、

 

「我々の目的は、あの忌まわしき聖域条約の即時破棄と、我ら魔族の裏切り者である第一真祖の抹殺だ。その悲願を成就するために、ナラクヴェーラの力が必要なのだ」

 

 両手を広げ、まるで詠うように、告げた。

 

「故に、藍羽浅葱。我々は君の力を欲する。君の力で、ナラクヴェーラの制御コマンドを解放してくれ――」

 

 

 

§

 

 

 

 絃神島第十三号増設人工島(サブフロート)

 以前に古城たちが九頭大蛇の異端者(メタフィジカル)と交戦した第四号増設人工島(サブフロート)と同様の、ひたすらに燃えないゴミを詰め込むために作られた、建設中のゴミ埋め立て施設の一つ。

 黒死皇派の残党と特区警備隊(アイランド・ガード)の戦場となっていた増設人工島(サブフロート)は――古城たちが到着した時には、地獄の様相を呈していた。

 

 

 

§

 

 

 

「何、だよ、これは……」

 

 目の前に広がる惨状を見て、暁古城は呆然と呻き声を漏らした。傍らに控えていた紗矢華とサツキも息を呑んだまま一言も発せない。

 

「チッ……予想以上だな」

 

 道中で古城たちと合流した那月も不機嫌そうに眉根を寄せて、舌打ちを漏らした。

 

 燃え上がる装甲車。逃げ惑う特区警備隊(アイランド・ガード)の隊員たち。轟音を発して吹き飛ぶ地面。

 地底から放たれる真紅の閃光が地上を焼き払い、巨大な爆発が増設人工島(サブフロート)を揺らす。

 その閃光の発生源は、倒壊した建物の基底部から降り積もった大量の瓦礫を押しのけて出現した巨大な影だ。

 その影は濃密で奇妙に人工的、そして喩えようもなく禍々しい魔力を放っている。その正体は――

 

「ナラク、ヴェーラ……か!?」

「正解だヨ、古城」

 

 半ば無意識の古城の叫びに、軽薄な声が同意した。

 振り返った古城が見たのは、純白の三揃え(スリーピース)を着た金髪の美青年の姿だった。

 

「ひっ……」

「ヴァトラー……! 何でお前がここに居る!?」

「どうしてあなたがここに!?」

「何の用だ、蛇遣い?」

 

 サツキが反射的に後退り、古城と紗矢華が同時に呻き、那月は殺意すら籠めて、〝戦王領域〟の青年貴族を糾弾する。

 しかしヴァトラーはそんな声に応えることなく、サングラスを少しズラして愉快そうに微笑んで、

 

「あれがナラクヴェーラの〝火を噴く槍〟か。まあまあ、いい感じの威力じゃないか」

 

 そして、皮肉げな視線を古城に寄越して、

 

「よく見なよ、古城。あれが、太古の時代に神々の生み出した古代兵器にして、黒死皇派の残党が求めた、真祖殺しの力――ナラクヴェーラさ」

 

 ヴァトラーがそう言った瞬間、再びナラクヴェーラから真紅の閃光が撒き散らされ、爆炎が弾けた。

 繰り広げられる惨状に、古城は悔しげに唇を噛みながら、しかし何も出来ずただ呆然と立ち尽くした。




 文字数だけは多いわりにあんまり進みませんでした。ようやくナラクヴェーラ登場。
 今回はチョロ坂さんの心境的な何かを掘り下げてみました。頑張りました。


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