コーヒーの香りが部屋を包み、時計の短針が七を指そうとする頃、葵は出来上がった朝食を器につぎ分けながら違和感を覚えていた。
さっきドア越しに声をかけたはずの双子の姉、茜がまだ起きてこないのだ。
茜は普段から寝坊することが多いので葵が琴葉家の朝食係を担っているが、起こしたにも関わらず返事もないまま起きてこないとは珍しい。
確かに最近ぼちぼちと人気も出始めて仕事も多いので睡眠時間を削っているが、今日はゆかりさんとの約束があったはずだ。昨日楽しそうに話していたのでよく覚えている。
「おねえちゃん? 寝坊しちゃうよー?」
出来立ての朝食をテーブルに運び、茜の部屋の戸を叩く。返事はなかった。
「開けるよー?」
一応断りを入れて部屋に入る。茜は突然入ってくるので別にそうしなくてもいいのだが、なんとなく部屋に入るのはきちんと許可を取っている。
「あっ、なんだ。起きてるなら言ってよね、お姉ちゃん。おはよう」
茜は桃色のパジャマのままベッドに座っていた。まだ少しぼうっとしているようだが、朝ならよく見る光景だ。
「―――――――」
茜はこっちを見て何やら口をぱくぱくと動かしている。
「お姉ちゃん、どうしたの? 今度はパントマイムごっこ?」
茜は時々わけのわからない遊びを始めたりする。昨日も『葵くすぐりゲーム』と称してさんざんくすぐられた。それでも実は、葵は茜の突飛な発想に振り回されるのが好きだったりするのだが。
けど、茜は葵のその言葉にひどく驚いたようだった。取り乱したように声を荒げるふりをしている。
「どうしたの・・・・?」
茜は飛び出すようにベッドから出て、自分の机から適当な紙とペンを取り出し、さらさらと何かを書きなぐり、こっちに見せてきた。
『アオイ、ウチ、なんや声が出ーへんくなってもーたみたいや』
続けて口をぱくぱくとするジェスチャー。声を出そうとしているのだろう、掠れた空気が漏れる音だけが微かに聞こえてきた。今度は葵が動転する番だった。
「えっ!? 大丈夫? 喉痛い? 風邪? 病院行く? どうする?」
次々と矢継ぎ早に質問が出てくる。葵はつかみ掛からんばかりに茜に問いを投げかけていた。
ゲームの実況やナレーター、声優業をしている二人にとって、声は第一の仕事道具であって、もっとも酷使するものだ。スケジュールを詰め過ぎたのが祟ったのだろう。
茜は葵が取り乱すことを予測していたのか、なだめるように待てのハンドサインを出しながら、紙に書き加えた。
『ゆかりさんに事情を説明しようにも出来ひんから、葵、頼んでええか? あと、病院行きたいからついてきて、センセにも説明してほしい。ウチは大丈夫やから、葵も落ち着き。ちょっと仕事しすぎたみたいや』
丸っこい、自分とそっくりの筆跡を見て、葵は少し落ち着いた。こういう時こそ自分がしっかりしないとと思いなおし、強く頷く。
「すぐに病院に行くからお姉ちゃんは着替えてて。私はゆかりさんに電話してくるから」
葵がそう言って踵を返そうとしたが、肩を強く掴まれる。まだ伝えたいことがあるらしい。
『まだ病院はあいてないで。それにゆかりさんもこんな朝早く電話されても迷惑やろうし、まずはご飯にでもしようや』
時計を見ると、まだ七時をやっと回ったところだった。朝食もすっかり忘れていた。葵は自分がまだ慌てていたことに気づかされ、改めて問題にも冷静に対処する双子の姉を尊敬するのだった。
タクシーが病院につくまでの二時間、二人は一言も言葉を交わさなかった。
声の出ない茜は勿論、葵も喋らなかった。話すような話題が無かったのだ。
葵は今までの生活を想起し、後悔した。自分はいつも茜の話を聞いてばかりで、自分から話しかけるということがほとんどなかったからだ。消極的で、受けに回りがちなのは前々から治そうとは思っていたが、今日ほど後悔したことはなかった。
「――――着いたよ。お姉ちゃん」
九時ぴったりに病院が見えてくる。車に乗っての移動の時はすぐに寝てしまう茜だが、今日はうつむき気味なだけで起きているようだった。
案の定一番乗りだったようで、すぐに診察を受けることができた。
葵は黒縁眼鏡の若い先生に事情を説明した。先生は茜の喉をしばらく診察した後、困ったような表情をして、言った。
「これは、もっと大きな病院で診てもらったほうがいいかもしれません」
二人の間に緊張が走る。
「どう・・・なんですか」
茜は聞こうにも聞けないので、代わりに葵が勇気を振り絞って尋ねた。
「まだ詳しい検査をしていないので何とも言えませんが、ここまで重度の嗄声が急に起こったのならば、何らかの大きな問題があると考えるのが妥当です。もう一度お伺いしますが、今までに声が出なくなった、もしくは最近喉に違和感を感じていた、ということはありませんか?」
茜は首を横に振った。心当たりがないようだ。
「そうですか。それなら近くの総合病院で精密検査を行ってください。一応診断書を書いておきますね」
二人は診断書を貰い、病院を出て総合病院へと向かった。空気は余計に重たくなっていた。
総合病院までは少し遠くて時間がかかってしまったせいか、総合病院はもう混んでいた。茜は呼ばれるまで整理券をじっと見つめたままだった。
そして30分くらいして、茜の名前が呼ばれる。葵は先生に同じように説明した。
「ふむ・・・・それでは検査を行いましょう。こちらへどうぞ」
茜だけが連れていかれ、葵は一人また、待合室へ戻った。
行き交う人を眺めながら、姉の無事を祈る。疲れて眠くなるかと思っていたが、目ははっきりと冴えたままだった。
どれくらい時間が経っただろうか、茜が戻ってくる。表情を見る限り、まだ何も聞かされていないようだ。
葵も一緒にまた診察室へと戻り、椅子に座った。
「検査結果の方から申し上げますと―――――」
緊張が走る。やけに先生の声が響いて聞こえた。
「声帯に腫瘍があるようです。早期に手術をしたほうがいいかと思われます」
写真を見せられる。確かに喉の奥にぽつりと赤い豆のようなものがあった。
「それは・・・」
「いえ、手術自体はそう大変というわけではありませんし、費用も保険が適用されるのでそう掛かるものではありません。術後数日入院して、あとは一週間ほど声を出そうとしないようにしていただければ、無事に元通り声は出せるようになります。仕事に関しても、続けてもらって大丈夫ですよ」
高鳴っていた動悸が、糸が切れたように緩まってゆく。茜も同感らしかった。やれやれとばかりに肩をすくめている。
「良かったね、お姉ちゃん」
『せやな。一瞬もうダメか思たで』
「じゃ、私はとりあえず事務所の方に連絡してくるね。お姉ちゃんは手術について話を聞いてて」
嬉しそうに頷く茜を残して、葵は診察室を出た。すぐに報告したかったけど、マナー違反なので一応病院の外に出た。
「・・・・・・・ということになりました」
「はい。わかったわ。大目に見ても一か月あれば復帰できるってことね。茜ちゃんにもお大事にって言っといて」
「はい。ありがとうございます。それでは」
葵が報告を終えて病院に戻るのと、茜が診察室から出てくるのは同時だった。
『腫れ物、切るらしいんやって』
「まぁ、腫瘍を取る手術なんだから普通なんじゃないの? 麻酔かけるから痛くないんでしょ?」
『せやけど、知らん人に体切られたくないなぁって。葵、センセの代わりにやってくれへんか? 葵がやってくれるならウチはちょっと痛くても我慢するんやけどなぁ・・・』
「そ、それはさすがに諦めようよお姉ちゃん・・・」
茜は不服げにしているが、少し楽しそうだ。葵は茜に笑顔が戻ってきたことを何よりも喜ぶのだった。
家に戻ると、家の前でゆかりさんが待っていた。
「あ、ゆかりさん、こんにちは。来てくれたんですか?」
「もちろんです。茜さんが大変と聞きましたから」
「あたしも来たよー」
「茜さんの一大事ですからね。あ、今日は妹のきりたんもつれてきました」
「初めまして。ずん姉さまの妹、東北きりたんです」
ゆかりさんのほかにも、弦巻マキ、東北ずん子、東北きりたんの三人も来てくれていたようだ。一気に人が増えて賑やかになったせいか、茜は嬉しさのあまり少し涙ぐんでいる。
「と、とりあえず一旦上がって、話は中でしよう?」
「ええ、それがよさそうですね」
葵は四人を家に上げ、ざっと現状を説明した。みんなも手術すれば大丈夫だという話を聞いてほっとしたようだ。
「ふぅ、もう一緒にお仕事できないのかと心配しましたよ」
『心配かけてごめんな』
「ゆかちゃんってば、本当に慌ててたもんねー。少し妬いちゃったかなー」
「マっ、マキさん! 今そんなこといわなくていいじゃないですか!?」
マキがゆかりにじゃれつく。こうしたいつもの光景が、非日常を体験した後では何よりもありがたい、と葵は心の底から実感した。
「そうだ、古来から東北に伝わる伝統和菓子であるずんだ餅は万病に効くので、茜ちゃん、お一ついかがですか? あ、みなさんもどうぞ」
いつのまにか懐から弁当箱のようなものを取り出しテーブルの上に置いていた。あんなに大きな箱が懐に入っているなんて着物ってすごいなぁ。
ふたを開けると、中にはぎっしりとずんだ餅が入っていた。試しに葵も一つ貰う。うん、普通においしい。
「うん、なかなかいけますね」
「それはもうずん姉さまの作ったずんだ餅ですから。私ももう一つ」
「きりはご飯食べられなくなるからまた後でね?」
「ずんだ餅もご飯みたいなものじゃないですかー。ぶーぶー」
「きりたんちゃんは成長期だからねー。バランスよく食べないと大きくなれないよー」
「はぁーい」
みんなの暖かな雰囲気に茜も和んだらしく、さっきよりも表情が穏やかだ。ただ、あまり話せないのが少しストレスなようだが。
それからも6人は、夜になるまで遊んだ。
四日後。
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん。また明日ね」
手術前の、最後の挨拶だ。茜はこくりと頷いて見せた。
先生に何度も繰り返し説明された通り、手術自体は数時間で終わるし、失敗することもまず無いとのことだ。その点は安心していた。
ただ、葵はこれから遠方の仕事が入っているので、手術室の前で待つことはできない。会うのは三日後になるのだ。
そのことを茜に告げた時は、『どうせ麻酔と痛み止めでしばらく意識なんてマトモやないんやからええんやで。お姉ちゃんの分まで頑張ってや』と言っていたが、後で少し悲しそうにしていたのを葵は知っている。
葵はそれをずっと気にしながら、新幹線に乗るべく駅に向かった。
『まだ結構痛いけど、無事終了しました』
葵は仕事前にそんなメールを貰った。茜が珍しく標準語を使う時は大体反省している時だ。迷惑をかけたと思っているのだろう、葵は『おめでとう。よかったねお姉ちゃん。お大事に』とメールを送ろうとして、『早く会いたいな』と付け加えた。
『けが人を照れさせたら痛くてあかんよ』
とすぐに返ってきて、葵は仕事を頑張れる気になった。姉に会える時が待ち遠しい。
葵は隣に姉がいない久しぶりの場で、いつも以上に奮闘するのだった。
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弐
そうしてさらに数日。葵は帰りの新幹線に乗っていた。
茜の具合はいいらしく、切った傷が治るまで離乳食みたいなのを食べるのが楽しくないとか、声を出さないと口調を忘れそうだとか、そういったことを度々メールしてきている。
そして今日、病院周辺くらいなら外出してもいいと許可が下りたらしい。もちろんまだ安静が必要なので声は出せないし、固形の食べ物や刺激物系の飲み物も禁止なのだが。それでも茜は嬉しそうだったし、葵も嬉しかった。
「待っててね、お姉ちゃん」
葵は誰に言うでもなくそう呟き、動き始める座席に身を預けた。
『お姉ちゃん、後五分くらいでそっちにいけるよ』
『おっ、それなら病院の前で待ってるで。久しぶりのシャバやって言うとなんか刑務所みたいやな』
葵はビルの隙間に病院が見えてきたところでメールした。数十秒と待たずに返信が来たので、茜もメールが来るのを待ち受けていたのだろう。葵は心が躍った。
家に一度も帰らずに来たので、スーツケースを持ってきたままだ。葵は見えている病院が大きくなるにつれ、それを放って駆け出したくなった。
そして、最後の角を曲がったところで、葵はそれに気づいた。
病院の前で、そわそわとあたりを見回す自分そっくりの女の子。紛れもなく姉だった。
「お姉ちゃん!!」
堪らず手を振って駆け出す。茜も気づいたようだった。
「葵!!」
茜の声が、耳に届く。
―――あれ、お姉ちゃん。なんで大声出しているんだろう。声を出しちゃいけないはずなのに。
そんな疑問が頭をもたげ、自然と足が止まる。
その刹那、鼻先をトラックが通り過ぎる。遮られた視界が再び元に戻り、次の瞬間には膝から崩れ落ちた姉の姿が映った。
「気ぃつけろ!!」そう怒鳴る運転手の声を無視して、姉のもとに駆け寄る。
茜は口元を抑えて、激しくせき込んでいた。その指の隙間からは、血が滴っていた。
思考は止まらなかった。足を止めずに病院に駆け込み、助けを求める。担架で茜が運ばれ、緊急手術が始まるまで、葵はほとんど無意識だった。
プツリ、と手術中のランプが消えてしばらくして、麻酔で眠った茜がベッドに乗せられて運ばれてきた。
医者に呼ばれて、葵は診察室に入った。
「どうでしたか」葵は待ちきれずに尋ねた。パソコンに写真が映し出された。
「術後の傷が開いてしまったようです。縫うことでこれ以上傷が広がることは抑えましたが、傷が深いのでどうなるのかは明言できません」
喉の紅い傷が、葵にはやけに空虚な、それでいて痛々しいものに見えた。
「ただし」
「これだけ声帯に深い傷を負ってしまったので、もし声が出せるように回復したとしても、元の声とはズレが生じてしまう事が考えられますし、喉への負荷的にも声優業を続けることは不可能と思われます」
―――――え?
時が止まる。動悸だけが際限なく高まる。線がぼやけてぐにゃりとひしゃげ、医者の顔が歪む。
葵は無言のまま意識を失った。
混濁した意識。その中で葵が見ていたのは、唯一無二の存在である双子の姉、茜だった。
幼少期、"あの頃"。そして時間は大きく飛んで、二人が一緒に仕事を始めた頃。それをゆっくり、ぼんやりと眺めていた。
茜の声が突然でなくなったあの日まで、姉との鮮明な記憶をたどっていく。
そして、今日がやってくる代わりに、記憶のスライドショーは最初に戻っていく。
もう何度目だろうか。同じものを繰り返し見ていた。それでも飽きたなんて思わないのは、ひとえに姉のおかげだろうか。
否、先を見るのが怖いだけだ。私たちの"結末"を辿るのを拒否し続けるが為に、何度でも巻き戻される。
葵はこれが一種の走馬灯なのかと、ある意味では悟っていた。
ここから先に待つ結末、それは私の密かな夢、いや、私たちの密かな夢を破壊し尽くすには、十分すぎるのだろう。
そして多分、やっと見つけたその夢に幕を引いたのは私、葵自身なのだ。
事実はくっきりと頭の隅に焼き付いている。しかし、聞くことと理解ること、そして受け入れる事は違う。
まだその結末を見たくない、先延ばしにしたい。その一心でこの走馬灯にしがみついている。
ああ、嫌だな。
漠然とした嫌悪から抜け出せないまま、葵の意識は体へと引き戻された。
薬品の臭いが染みついた、あまりふかふかとは言えないベッド。葵はそこで目を覚ました。
どうやら寝かされていたらしい。隣には茜が寝ている。記憶の混濁は無かった。
窓の外を見ると、もう夕日がビルに隠れようとしていた。
葵はひとまずベッドから出て、近くにいた看護師に話しかけた。あの医者は今は別の患者を診ているそうなので、しばらく待ってから話を聞いた。
葵は内心、自分が思った以上に冷静であることに驚いていた。頭も体も、あんなことを受け入れたつもりなんてないのに、はっきりと冴えている。
「今日の夜ごろには麻酔が切れると思いますので、待っていかれますか」
「はい。そうします。これからの話もありますし」
すらすらと即答して、葵は病室へ戻った。
医者は夜ごろと言っていたが、茜はもう目を覚ましていた。まだ幾分かぼんやりとしているが、起き上がってこちらをみている。
「お姉ちゃん・・・・・」
姉と目が合うと同時に、今まで冷静に押し殺していたはずの涙が、堰を切ったようにあふれ出す。
そのまま胸に顔を埋めて泣きたかったが、強い衝撃はよくないのかもしれない、と遠慮がちに寄り添うだけしかできなかった。
姉の暖かい左手を握り、泣きじゃくる。茜は何を理解したのか、右手でずっと葵の頭をなで続けていた。
そうしてしばらくして、茜からノートが渡された。葵との会話用の、茜色のノートだ。
『ウチの怪我、どないやってん?』
予想されていたその質問に、葵はひどく恐怖した。それを告げてしまうことで茜がどのような反応をし、どのように傷つけてしまうのか、まるで見当もつかないからだった。
それでも、葵をじっと見つめる茜に、嘘をつくことはできなかった。嘘をついたところですぐに見抜かれてしまうことも分かっていた。
「もう、お仕事はできないって」
そう言うと同時に、また涙があふれてくる。茜は取り乱さなかった。
『そか。ま、なんとなくわかっとったわ。まー、葵が無事やっただけでウチは満足や』
『ウチもちゃっちゃと怪我直して退院できるよう頑張るから、葵もそう落ち込まんと』
『退院して最初の食事は葵に作って欲しいけんな。エビフライがええな』
いつにも増して饒舌、いや、饒筆に喋る茜が落胆と困惑を隠そうとしているのは、葵でなくてもわかるだろう。茜はそれくらい嘘や隠し事が苦手なのだ。
「うん、そうだね。お姉ちゃんの分も、私が頑張ってみるよ――――お大事に。お姉ちゃんも頑張ってね。ありがとう」
それでも、騙されるのも妹の仕事だと必死に言い聞かせて、葵は部屋を後にした。
暗く青白い廊下は、二人の未来を示しているかのようだった。
憂い。
寝ても覚めても、状況も気分も変わらない。普段通りに六時に目覚ましは鳴ったはずだが、十時を回った今でも一度も起き上がる気にはならなかった。
深呼吸しても気は晴れない。空気がよどんでいるせいだろうか。窓を開ける気にもならないけど。
今日一日をこんなテンションのまま過ごしてしまうことになるだろう。そう思った瞬間に、
ピンポーン、とドアホンが鳴った。
まるでそれが正解だと言われたようなタイミングだ。葵は若干やっかみ気味にドアを開けた。
待っていたのは宅配便でも新聞勧誘でもなく、背の低い、小さな女の子だった。葵も背が低いほうだが、それよりも頭一つくらい低くて、そのくせハリウッドスターみたいな大きなサングラスをかけている。
「ど、どちらさまですか?」
サングラスを外すと、そこにはくりっとした目。葵が気づくと同時に、柔らかな声で名乗る。
「こんにちわ、つくよみアイだよ」
アイは葵の先輩にあたるわけだが・・・・身長や声、格好も相まって年齢不詳だ。ベテランであるはずのゆかりさんも年齢は知らないのだから恐ろしい。
「こーはいのふちょうときいて、おうえんしにきたよ」
「あ、そうだったんですか。お姉ちゃんは今――――」
「そうじゃないよ」
格好つけて、ちっちっと指を振る。けど、続く言葉は全く関係のないものだった。
「のどがかわいちゃった。なにかちょうだい」
「いいですけど・・・・あっちょっと待ってください!」
昨日帰り着いてからそのまま寝てしまったことを思い出し、部屋に上がり込もうとするアイを引き留め、慌てて部屋の片づけをしに戻るのだった。
「ぷはー。やっぱりオレンジジュースはおいしいのだ」
アイはオレンジジュースを飲み干してご満悦だ。かと思うと唐突に話を切り出した。
「さっきあかねちゃんのところにいってきたのだ。はなしはすべてきかせてもらったのだ」
「・・・・・そうですか」
葵が目に見えて困っているのを見て、アイは「じゃあ~ん」とポケットから一枚の手紙を取り出して、葵に手渡した。
「あかねちゃんが、あおいはどうせおちこんでるやろから、これをわたしといてっていってたのだ」
「あ、ありがとうございます。後でゆっくり読みますね」
「いますぐよむのだ」
また泣いてしまいそうな気がしたので一人で読むつもりだったのに、アイにはっきりとそう決められる。何か理由があるようだった。
手紙を開いて、最初の文に目をやる。
「ちゃんとおんどくするのだ。しごととおなじようにほんきでやるのだ」
「だけど・・・・」
「せんぱいのまえでじつりょくをみせてほしいのだ」
「はい・・・・では、いきます」
葵は呼吸を整え、仕事をするときのように意識をとがらせた。
「葵へ。ウチはどうにも葵の前やとカッコつけてまうから、こうやって手紙を書いた。読み辛いかもしれへんけど、どうか堪忍してくれや」
葵は冒頭だけで涙が出そうになったけど、必死にそれを押さえつけて続きを読んだ。
「ウチはな、声が出ーへんくなったことが、正直、ものすごく辛い。けどな、ウチはそれより、ウチの声が出ーへんくなったせいで葵が目標を失くしてしまうことの方が怖い。ウチと葵は双子で一心同体、夢も目標も一緒に頑張ってきたわけやけど、ウチがそれに到達できひんからって、葵がそれを諦める理由にはならん。むしろウチの分まで葵が頑張ってくれな困る。ウチは葵が大好きや。ずっと前から誰よりも、何よりも好きや。愛しとる。だから、お姉ちゃんに頑張ってる姿を見せてほしい。頑張ってな。茜」
「追伸。泣きたいなら泣いてもええけど、ウチの前で泣いてや。お姉ちゃんが慰めたるで」
・・・・不思議と、涙は出なかった。代わりに、心が暖かいもので満たされた。
「じょうずにできましたなのだ。あおいちゃんはやっぱりどこにだしてもはずかしくないこーはいだよ」
アイがその小さな手でぱちぱちと拍手をする。いつの間にかテーブルの上のオレンジジュースのペットボトルは空になっていた。半分くらい残っていたはずなのに。
「アイはそろそろおいとまなのだ。またこーはいがおちこんでたらはげましにくるのだ」
「え?」
「アイがはげましたかったのはあおいちゃんのほうだよ。アイはあおいちゃんのきもちなんておみとおしだから、きっとおちこんでいるとおもったのだ」
来た時と同じように、ちっちっと指を振る。どうやらそれがお気に入りの仕草のようだ。
今度はぶどうジュースが欲しいのだ、と言ってサングラスをかけなおし、とことこと出て行ってしまった。葵は今度仕事で一緒になったらぶどうジュースを差し入れにしよう、と思った。
「うぅ・・・・」
アイが居なくなって、今更のように顔が熱くなる。葵の気持ちなんてお見通しってことは、葵が今までの茜の登場シーンをすべて保存していること、朝時々すぐには起こさずに茜の寝顔を堪能していること、茜が出張の時はこっそりパジャマを拝借していることを知っていたりするのだろうか・・・・
と、手紙の内容そっちのけで一人悶える葵に、また、ピンポンとドアホンが鳴った。
今度は誰だろうかと、極力平常心を装いながらドアを開ける。
そこには、黒のスーツをまとった長身痩躯の男性が立っていた。銀縁の眼鏡をのっけた童顔は、柔らかな表情でこっちを見ている。
「あ、こんにちは、キヨテルさん」
近くの学校で先生をしている、氷山キヨテルさんだった。同じ事務所の歌愛ユキという子の担任をしていて、一緒にいるのを時々見かける。休日にはバンドをやっているらしく、このあたりでは結構評判になっている。
「や、葵君。久しぶり。たまたまアイ君と会って少し寄ったんだ。事情は聞いたよ」
「そうですか。さっきまで落ち込んでいる私を慰めるって言って来てくれていたんです」
「そうかい、大変だね。何か手伝えることがあったら言ってくれ。ってのと、これは差し入れだ。病室で使っていいものかはわからないが・・・・」
葵は、エビフライのお香というなんだかよく解らないけど茜は喜びそうな差し入れを受け取った。裏面を見る限り喉にはいいらしいのだが・・・・どこで見つけてきたのかは気にしないことにした。
「それじゃあ私はそろそろライブの練習があるんでね。茜君にお大事にと言っておいてくれ」
「あっ、ありがとうございました」
ところでアイ先輩とはどんな関係があったんだろう・・・? と疑問に思いながらキヨテルさんを見送った。まぁ、思ったより世界というのは狭いものだ。
「・・・さて、そろそろ荷物をまとめなきゃ」
朝より幾分か上がったモチベーションで、葵は身支度を始めた。
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参
『さっきあんなやつを書いて、すぐに来られると恥ずかしいな』
着替えや差し入れを持ってきた葵に、すぐにそんなことを書いたノートが渡された。手紙のことを言っているのだろう、葵も顔が熱くなるのを感じた。
「私も・・・好きだから・・・・・うれしい」そう言うのが、口下手な葵の精一杯だった。
それに対し茜は余裕綽々・・・なふりをしながら、必死によそ見に努めていた。やはり茜は嘘隠し事が苦手である。
二人とも、ずっと昔から気付いてはいたのだ。
ただ、それを言いだすきっかけというか、タイミングが無かっただけである。と、言い訳して今までやってきたのだ。
実は二人とも何度か言おうとしていたのだが・・・・・色々と運が無かった。
『素直になるって、大事やな』
「そうだね、お姉ちゃん」
葵が茜の手に触れようとする―――――
「はーい、お薬の時間でーす」
「ひゃああ!?」
入ってきたのは、金髪巨乳の赤い服を着たお姉さん・・・・・明らかに看護師ではなかった。
「な、何してるんですかマキさん」
「いやー、ゆかりんが心配してたからねー。来てみたらねー。なんだかねー」
チラチラとこっちを見てくる。見ていたぞということだろう。
「ど、どこから見てましたか?」
「えーとね、葵ちゃんが荷物もって病院に入って行くとこから」
「最初の最初じゃないですか!?」
茜は恥ずかしさの余りうつぶせになって枕に顔を埋めてしまった。
「ま、あたしも他人のことは言えないけどさ」
「えっ!? どういうことですか!?」
「ずっと前からゆかりんと実況してたし、最近は話さなくてもお互いのこと分かるようになってきたし、そろそろいい頃なんじゃないかなー・・・って」
独り言のように話すマキの表情は、普段の快活なものとは少し違って、恋する乙女のようだった。
「そ、そうだったんですか・・・確かに仲がいいなとは思ってましたけど」
葵がそう言うと、マキは「照れるなぁ」と手を振る。今日の葵は来客に振り回されっぱなしである。
「そんなこと言ってたらきりちゃんとかずんちゃんのこと好きじゃん」
「そう言えばこの前会った時そんな感じでしたね。でも、まだ小学生だし、そういう気持ちじゃないんじゃない?」
「うーん、あの子を見てるとそうは思えなくなってくるんだよねー。ま、変人揃いの東北一家だし、何とも言えないんだけど」
あはは、とマキさんが笑う。普段通りの快活な笑いだった。
「茜ちゃんも気を落とさないで、退院したらまた一緒にゲームとかしようねー。それじゃ、私はそろそろ帰るから、後はごゆっくり」
愛用しているギターであるむすたんを担いで、そのまま部屋を出ていってしまった。マキは台風のような子である。
「・・・・なんだか疲れちゃったね、お姉ちゃん」
茜はまだうつ伏せで枕に顔を埋めている。茜は意外と大胆に見えてシャイなところがあるので、まだ気にしているのだろうか?
「どうしたの?」
返事は無い。そのままもぞもぞと布団にもぐって行く。「眠い?」と聞くと頷いたようだった。
「それなら私はもう帰るね。今日はありがと、お姉ちゃん」
葵は引き止められるかと思っていたが、意外にも何の反応もなかった。
―――――それから数週間が経った。
無事茜も退院し、その日にはゆかりさんたちも呼んで退院祝いをした。相変わらず声は出ないけれど、十分楽しそうだった。
葵の仕事も順調のようで、茜が居なくなった分を埋め合わせるように人気を獲得し、ファンも増えた。
葵は実はそれをちょっぴり寂しく思っていて、でもそれ以上に茜が喜んでくれるので、楽しい日々を過ごしていた。
そんなある日・・・・・・・・
「お姉ちゃん」
葵が声をかけると、茜は驚いたように振り返った。
当然だろう。茜は葵がここに来るなんて思ってもいなかったはずなのだから。
「今日は収録が早く終わっちゃった。一緒に帰ろう? 買い物してから帰る?」
『どうしてウチがここに居ることを知っとったん?』
困惑した茜が、訝しむ様な目で葵を見る。
「お姉ちゃんの妹だからね。時々ここにきて外を眺めては、私の仕事が終わる前に帰ってるの、知ってるよ」
ここは事務所の屋上だ。地下にはスタジオがあるので葵は基本はここに通勤しているのだが、茜は正式に引退をしてから、ここに来る必要はもうないはずだ。
多分、茜なりの未練や、羨望の解消法なのだろう。葵は屋上の冷たい風が心に吹き込むのを感じた。
『ごめんな。隠すつもりやなかったんや』
「うん。でもばれないように気を使っていた事、私は知ってる。私も怒ってたわけじゃないから、別にいいよ」
怒っていたわけじゃないのは、本当だ。だけど、葵は胸がちくりと痛んだ。
風に吹かれる茜の後ろ姿が、とても悲しそうだったからだ。辛いとか、怖いといった感情が見て取れた。
『今日はウチが腕によりをかけて作ったるで。葵、なんがいい?』
無理して明るく振る舞ってるのはわかったけど、こんな時にそれについて言及する勇気はない。
「お姉ちゃんの好きなものでいいよ」
『そか。じゃあ今日は天ぷらにしようか』
「お姉ちゃん、本当に揚げ物好きだよねー。太るよ?」
『太るのは葵やないか? 最近ウチが夜ご飯作るようになってからよく食べるようになったやん』
「お姉ちゃんがいつも作りすぎるだけですー。それに私は運動するから全然太ってない・・・はず・・・・」
『ははは、今日お風呂の時に調べたろうかー?』
「そういう恥ずかしいことを外で言わないの!」
『誰もおらんしええやろ』
「そういうことじゃないもん・・・」
赤面する葵の手を楽しそうに引いて歩く茜。その足取りは軽かった。
言おうと思っていたことを呑み込んで、葵は手を引く茜に身を任せた。
暇だ。
声が出なくなってからというものの、寂しいと感じる時間が増えた。
仕事を辞めたせいもあるが、それ以上に、ふとした時に寂しいと感じることが多い。音ではなく文字を使うようになったことで深く考え事をする機会が増えたからかもしれない。
葵がいたらまだいいのだが、今日も葵は仕事だ。やることも、やりたいこともない。
暗い部屋でつけっぱなしになっていたパソコンを消して、代わりにテレビを付ける。芸能人のスキャンダルが扱われていた。
ソファーに寝転がってザッピングしながら、ぼんやりと考える。
なにか、できることは無いだろうか。
役に立てることは無いだろうか。
あの時、声を出して葵を止めたことに後悔はない。もし黙っていたら、もっと悲惨な結末が待っていた。そうなれば自分は躊躇いもなく自殺していただろう。そんな自信があった。
けど、夢を諦めた身にだって、できること、やるべきことはあるはずだ。
いつの間にか茜はザッピングを止めていた。
元々自分は葵より活動的なつもりだ。葵が消極的すぎるのかもしれないけど。葵のためにも、自分が頑張らねば。
葵の役に立ちたい、その一心で何かに急かされたように頭を巡らせ、体を動かす。家事を済ませて、身支度ももう済みそうだ。
結局今日も何も思いつかずに、屋上で一日をぼんやりと過ごしてしまうのだろう。そうわかっていても、焦燥と不安に追い立てられていた。
唯一の自己表現手段である茜色のノートをバッグに投げ込んで、茜は家を飛び出した。
葵は困惑した。
家に帰っても、茜が居なかったのだ。
出かける時も、葵が返ってくる前には帰ってきていたし、遅れるなら連絡するだろう。
家中を一通り探した後、電話をかける。家で鳴りだした。携帯は持っていっていなかったらしい。
となると、近くのコンビニに出かけただけかな・・・?
そんな希望的観測に安堵する気にはならなかった。たまによそ見をしているときの、茜の辛そうな表情が、不安を燻らせた。
どうしようと焦る間にも、時間は過ぎていく。とりあえず友人をあたってみよう。葵はゆかりさんに電話をかけた。
「もしもし、ゆかりです。葵さんですか?」
「はい。実は――――――――――――ということで」
「それは心配ですね。茜さんの財布はありますか?」
「えっ―――と、ありました!」
「それなら遠出の線は薄いですね。近くに出かけただけとか、、だれかが家まで迎えに来て出かけたとかが考えられますね。私は茜さんの知り合いをあたってみます。葵さんは近所をさがしてみてはどうですか?」
「はい。そうしてみます。ありがとうございます」
「いえ、困った時はお互い様、ですよ。それでは」
葵は荷物を投げ出すようにして、そのまますぐに家を出た。
居ない。居ない。居ない・・・・・
自転車は置きっぱなしだった。財布も携帯も家にあった。あまり遠くに入っていないはずだ。コンビニ、スーパー、用がありそうなところは大体行ったが、茜は居なかった。
葵はまだ探していないところがないかを考えながら暗い道を自転車で突っ切る。
候補が一つ減る度に追い詰められていき、悪い予感が胸を埋める。葵はもう泣きだしそうだった。
そうして最後に、家の近くの池のある少し大きな公園へとたどり着く。ここは時々、茜が散歩しに来ることがあった筈だ。
薄気味悪い夜の空間を、走って回る。童心に帰るなんてものとは程遠い走りだった。
姉の姿は無かった。
双子は互いの位置と安全がなんとなくわかる、なんて話があるが、そんな奇跡はそうそう起きない。
「どうして・・・・・・・」
息を切らしながら、悔しさの余り涙が零れた。
空はどっぷりと藍色に暮れていて、満月が映えている。この景色を、姉と見たかった。
葵は、入れ違いになったという最後の希望に縋って、ふらふらと家に戻った。
その希望は、意外にも的中していた。
消してから出たはずの電気が、灯っているのだ。
呆気にとられる・・・と同時に、安心からくる脱力と、心配したことからくる怒りが同時にわいてきた。
鍵を回す間ももどかしく感じながら、家にはいる。
茜は料理をしていて、なんの悪びれる様子もなくおかえり、と手をあげて見せ、そこでやっと葵が泣いていることに気付いたようだ。
さっとノートを手に取り、『何かあったんか?』と書いて渡す。自分を探していたということには気づいていないのだろう。
葵は大きく息を吸い込み、近所迷惑なんて放り捨てて、叫んだ。
「お姉ちゃんの、バカあーーーッ!!!」
いままで出したこともない位の大声に、自分でもびっくりする。茜も目を丸くしていた。
「私、いったん帰ってきたんだよ? 居なかったから探してきたんだよ? 連絡なかったから、心配したんだよ!?」
またぼろぼろと涙が零れてくる。茜は火を止め、手帳に何かを書き記した。葵はごしごしと涙を拭ってそれを読んだ。
『心配かけとったんか。ごめん。ちょっと出かけとったんや』
「それだったら遅くなるってちゃんと連絡しといてよね!?」
『うーん、実は・・・あー、まだ言うつもりやなかったんやけど――――よく見とってな』
茜は火を止め、自分を落ち着かせるように深呼吸して、
「あ」
「お」
「い」
と苦しそうに、一文字ずつ発声した。
それは掠れていたけど、紛れもなく姉の、自分そっくりの声だった。
『何とか発声法ってやつでな、実は、これを練習しとったんや。まだヘタクソやし、母音しか出せへんからあおいってしか言えへんけどな』
と、照れて見せる。葵にはそれが、久々の心からの笑顔に見えた。
けど、代わりに、やはり姉は声を失ったことを気にしていた、声を出すことに執着していたという想像が、葵を責めた。
自分の不注意で姉の夢を奪い、自分はのうのうと生きているという事実が、重くのしかかった。
「ご・・・・・・ごめんなさい」
『?』
「お姉ちゃんも頑張ってるのに、怒鳴りつけちゃって、ごめんなさい」
『ええって。ウチも連絡忘れとったしな』
「自分しか見てない馬鹿な妹で、ごめんなさい」
『そんなことないで。葵は頑張ってくれとる』
茜がフォローしているが、葵は俯いたまま涙で歪んで見えていない様子で、謝罪の言葉を紡ぎ続ける。
「お姉ちゃんの”声”を奪ってしまって、ごめんなさい」
「・・・・・・・・」
茜は答えなかった。代わりに――――
パン、と平手で葵の頬を打った。
そのまま怒鳴りつけてやりたいと思ったが、喉はそれを許さない。茜は文字を書きつけるまでの時間をひどくもどかしく思いながら、思いをノートにぶつける。
『ウチだってずっとずっと辛かったし、死のうかとも思ったんよ!』
そう思いを連ねて、手帳ごと葵に投げつけようとして初めて、その字面の阿呆さ加減に気づいた。
違う。ウチが葵に伝えたかったんは、こんな格好悪いことやない。そう思い直し、ページを引きちぎって、次の言葉を紡ごうとする。
『葵が辛いのよりも、ウチの方が辛い』違う。
『ウチが頑張っとったのは、葵のためなんや』違う。
いくら文字におこしても、葵に本当に伝えたいこととは違うものになってしまう。
最適な言葉が見つからない。何を言いたいのかも形にならない。こんな時自分は何と言うのだろうか。どうすれば葵に伝わるのだろうか。わからない。
伝えたい。その気持ちはあるのに、その手段がないのだ。
声が出ない。それは致命的だ。ノートにかかれた文字と、喉から、本人の心から出る言葉は、やはり違うのだ。
――――――いや、声なら、出るじゃないか。
そうだ。一番伝えたいことは、それじゃないか。
茜は想いのままに、感情のままに、体を動かす。
俯く葵の顎を持ち上げ、自らの唇を重ねたのだ。
「―――ッ!?」
驚きの余り、葵はぺたりと座り込んでしまう。
茜もすぐにしゃがみこみ、葵を押し倒すようにして、抱きしめる。
そして、耳元で、
「あ、お、い」
前よりも幾分か通った、それでもまだか細い声で、もう一度そうささやいた。
それからどのくらい経っただろう。料理は作りかけのまま、もう冷めているだろう。
茜はなにやらノートにさらさらと書いた後に、それを葵に渡した。
『ウチが声を出すんは、葵って呼びたいからなんよ? 葵が気に病むことは無い。葵が無事やったんが、お姉ちゃんは一番うれしいんや。だから、ウチの声が出なくても、葵は気にせんでええ。気にされる方がよっぽど辛いんや・・・』
読み終わるや否や、葵は頬を手のひらで挟まれる。こっちを見ている茜は、泣き笑いだったけど、幸せそうに見えた。
もう一度、二人は口付けを交わす。お互いに涙の混じった、塩辛いものだった。
けど、茜にはそれが幸せで、
葵にも、それは紛れもない幸せであった。
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