奈落の底 (東次郎)
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奈落の底

「気が付いたようですね」

 

 

先程まで暗闇だった視界は、誰かの声によって掻き消された。

 

 

娘が瞼を開けて直ぐ、目の前にいたのは美しい顔立ちの男だ。

 

長く艶やかな髪はその男の中性的な美しさを際立たせているが、こちらを見つめる目は双方共に虚ろであった。

 

 

「貴方…は?」

 

 

彼女は横たわる身体を起こすと、久しく声を発していないかの様な酷く掠れた声でその男に問いかけた。

 

 

「虚」

 

「…虚ろ?」

 

「貴方の身柄は此方で保護する事になりました」

 

 

頭の中を煙が渦巻く彼女だが、戸惑いを押し殺すつもりで話し続ける。

 

 

「保護?…捕虜の間違いでは」

 

「どう受け取るかはお任せしますよ」

 

「…申し訳無いのですが、今に至るまでの記憶が全く無いもので」

 

「ほう、それでしたら」

 

 

虚は少し間を置き、窓の外を見た。

 

「積る話もある事ですし、食事でも交えながらお話しましょう」

 

 

状況を飲み込めない娘は、少々不本意ながらも素直に従う事に決めたのだった。

 

 

 

 

 

「虚様。敵襲です」

 

「そのようですね」

 

「どうやら攘夷派の輩が紛れ込んでいた模様です。数はそう多く無いと思われます」

 

「君に任せますよ」

 

「御意にございます」

 

 

刀と錫杖が当たって鳴り響く金属音と、薙ぎ倒されていく敵や部下達を、虚は一歩も動かずに高みの見物をしていた。

 

 

幾分外が落ち着いてきた頃、通路に新しい血の跡が点々と長く続いているのを目に留めた虚は、その道筋を辿っていた。

 

 

血の道標が示していたのは、一人の娘だった。

背には刀が突き刺さり、蹌踉(よろ)めきながらも歩いているその姿は(さなが)らこの世を彷徨う亡霊の様であった。

虚が躊躇無く娘に刺さった刀を引き抜くと、彼女はその場に両膝をついた。

 

 

「よくここまで保ったものだ」

 

 

そう言って彼はそのまま娘の首の横に刃を当てた。

然し彼女は声を発することはなく、時折苦しげな呼吸をするのみだった。

 

 

「だが、もう苦しむ事は無い」

 

 

虚は目を細め、刀を軽く振り上げた途端に彼女は漸くその口を僅かに開いた。

 

 

「…確かに私は今とても…苦しいですが」

 

 

娘は大きくよろけながらも片脚をついて立ち上がり、まるで独り言の如く抑揚のない声で呟く。

 

 

「…どうやらこれからも…苦しむことになる模様です」

 

 

すると彼女は胸元の傷口を抑えていた両の手を悠然と下ろした。

 

 

「…気が変わりました」

 

 

彼は握っていた刀を地に投げ落とすと、娘の首に片手を回してぐいと引き寄せた。

 

 

「貴方の言う通り、これからも苦しんでもらいましょう」

 

 

途端に膝から崩れ落ちる娘を両手で抱きかかえると、再び歩んで来た赤い道を引き返したのだった。

 

 

 

 

「虚様」

 

 

「ご苦労様です。朧」

 

 

背後からの声に振り向く事なく、虚は歩みを進めながら応えた。

 

 

「その者は?」

 

 

「…ああ、先程見かけましてね」

 

 

「大方、其奴は天に仇を為す者達の同胞。何ゆえその様な者を」

 

 

「そうですね、言うなれば…」

 

 

 

 

 

「本当に私は生きているんでしょうか、先刻から生きた心地がしないのですが…」

 

 

 

一連の流れを聞いていた彼女はこの信じ難い話に再び気を失いかけた。それに眼前には食事に全く手を付けずに淡々と話を続ける虚に対し、黙々と食事に箸を運んでいる虚が朧と呼ぶ男。

彼女も数回小鉢に箸を運ぶが、この張り詰めた空気の中では味を全く感じない上、飲み込む度に咽せ返るほどだった。

 

 

「では、朧が部屋に案内するので従ってくれますか」

 

虚の一言に、朧は箸を置いて席を立った。

 

「は、はい」

 

慌てて彼女も席を立ち、朧から数歩離れてついて行く彼女はこれから何が起こるのか予想を立てていた。

 

 

 

(もしや、牢獄に放り込まれるのか)

 

 

「…朧さん、ですよね」

 

 

「何だ」

 

 

「あの話は本当ですか」

 

 

「あの方の仰る事だ、嘘偽りなど有り得ぬ」

 

 

「そうですか…」

 

 

朧は歩みを止め、部屋の襖を開けた。

 

 

「此処がお前の部屋だ」

 

 

掃除の行き届いた広めの部屋は日用品等は一式揃っていて、まるでちょっとした旅館の様にも見える。見た所どうやら牢獄ではなさそうだ。

おそるおそる室内の畳へ足を踏み入れると、机の上に綺麗に畳まれた裳付衣や編笠等が一式置いてあるのが目に入る。

 

 

 

「これは…?」

 

 

「仕着だ。身勝手な行動は慎め」

 

 

それ以上は何も言わずに彼は部屋を去ると、一人取り残された彼女は部屋の隅に腰を下ろした。そして徐に後ろへ手を回し、自身の背中を軽く叩く。

 

 

「…傷も無い上に痛みも感じない。やっぱりあの話は眉唾物だな」

 

 

 

 

 

 

『その者は?』

 

 

『…ああ、先程見かけましてね』

 

 

『大方、其奴は天に仇を為す者達の同胞。何ゆえその様な者を』

 

 

『そうですね、言うなれば…』

 

 

 

 

『珍しく貴重な耐久品だからとでも言いましょうか』

 

 

 

「…何故、私はこんな所に来てしまったんだろうか」

 

 

こうして文字通り、彼女は奈落の底へと落ちてしまったのである。

 

 

 

 



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朧月の夜

 

天照院奈落。

天導衆直属下の暗殺部隊であり、歴史も業も深いこの集団は殺しに長けた者達が大勢在籍している。

 

文字通り、奈落の底へ突き落とされた彼女は自室の布団の上で一睡も出来ずにいた。

 

 

「人としては扱って貰えているらしい、けども」

 

 

無論、捕虜としても殺し屋として終身雇用される事も望まない彼女は、この状況から打開する術だけを考えていた。

 

 

「…逃げなきゃ」

 

 

遂に決心を固めた彼女は布団から立ち上がり、急いで身支度をし始めた。

 

そして自室の戸に手を掛ける。

 

 

(誰も居ない…)

 

 

廊下で誰かに出会した際の言い訳を考えながら、彼女は一歩ずつ足を踏みしめていた。船室が並ぶ通路は不気味な程静かで、これなら脱出も容易ではと高を括っていたが

 

 

「もし、この角を曲がった先で見廻りに会ったら…一体どうやって切り抜け…」

 

「貴様、そこで何をしている」

 

 

音を立てる程の身震いをした彼女はその足を止めた。

 

 

(…この声は)

 

 

振り向いた先には案の定、現首領の朧が立ちはだかっていた。

 

 

「無駄だ。此処は蟻が這い出る隙も無いぞ」

 

 

(よりによって…容易には逃げられそうに無いな。というか逃げられるのか)

 

 

天照院奈落の頭首を前にして、彼女は両手を上げていかにも降参の姿勢を見せた。

 

 

「降参です。頭首様に従いますよ」

「部屋へ戻れ」

「…はい」

 

 

潔い返事をしつつ朧が此方に背を向けるのを見計らうと、彼女はその場から勢い良く走り出した。

呆れた様に目を瞑る朧は懐から何かを取り出し、彼女に向けて放った。

 

彼女は反射的に身を屈めると、飛んできたそれは瞬く間に頭上を越えてつき当たりの壁に数本突き刺さった。

 

 

「…針?」

 

 

すると眼前の壁を曲がった一瞬の隙に、再び放たれた一本の針が首の付け根の皮膚を貫き、途端に彼女は床に大きく身体を打ち付けた。

万事休す、である。

 

 

「全くもって諦めの悪い鼠だ」

 

 

的確に経穴を突かれて身体に力が全く入らない彼女は、まるで麻酔銃で撃たれた動物の如く、肩に抱えられるがままになっていた。

 

 

「無駄だと言ったであろう。此処を何処だと思っている」

「…差し当たり、奈落の底でしょうか」

「外を見ろ」

 

 

朧は窓の方へと歩み寄った瞬間、肌を刺す氷の様な風に吹かれた。

 

 

「…いつの間に空の上まで」

 

 

海を進んでいると思い込んでいた彼女は、乗っていた船が空高く雲を割って進んでいる事に驚きを隠せなかった。

 

 

「元より脱走は御法度だ、処断は逃れられんぞ」

「…そうですか。何と呆気ない」

 

 

此処に来た時点で無事では済まされないと思っていた彼女は、驚きよりも行き場の無い無念さに押し潰されていた。

 

 

「二度目は無い」

「え?」

 

意表を突いた朧の一言に、彼女は思わず重い頭を僅かに上げた。

 

 

「じゃあ今回は見逃してくれるんですね、えっと…」

「朧だ」

「そう、朧さん」

 

 

 

 

「それはそうと、粋な名をお持ちですね」

「どういう意味だ」

「綺麗なものを連想させるじゃないですか。喩えるなら、月とか」

「…異な事を言う」

 

 

部屋の前まで来て戸を開けると、朧は畳の上に彼女を下ろして言った。

 

 

「次は無いぞ」

「はい。おやすみなさい」

 

 

朧は立ち去る足を止めると、その場で一言小さく呟いた。

 

 

「…時に、名は何という」

「私の名ですか?」

 

 

彼女は少し間を置くと、訝しげな表情を見せる朧に向けて応えた。

 

 

「この際ですから、何と呼んで頂いても構いませんよ」

 

「…そうか」

 

 

 

暗い廊下を進む最中、朧は再び窓の近くで足を止め、空を見上げた。

 

 

「…朧月か」

 

薄雲に隠れて陰りを帯びた光を放つその月は、辛うじて気配を伺える程のものだった。

それはまるで天高くから、地に広がる無数の街明かりを羨んでいる様で

 

 

 

酷く孤独に見えた。

 

 

 



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幽き記憶

艦内の大広間には自身の足音だけが鳴り響き、一度歩みを止めれば忽ち辺りは静寂に飲み込まれる程だ。

 

 

「言わずもがな、自身の置かれた状況に対して疑問を抱いていると言ったところでしょうか」

 

 

背後から掛けられたその声に、彼女はひと呼吸置いて振り向いた。

 

 

(…虚)

 

 

羽織に至るまで黒に統一された彼の装いは、改めて一切の隙の無さを感じさせられる。

 

 

「あなたはアルタナをご存知ですか」

 

「アルタナ?」

 

「失礼、記憶が無いと言っていましたね」

 

「…それで、何なんですかそれは」

 

「アルタナは各々の惑星に宿る強大なエネルギー物質です。これにより文明は発展したと言っても過言ではない」

 

「地球が、ですか?」

 

「それはつい最近の話ですがね。現にこれまでアルタナを巡る星間戦争は絶えず幾多の星々が滅んでいます」

 

室内の静けさに対し、窓の外に広がる賑やかな星空を遠目に眺めながら言った。

 

「我々天導衆は、惑星全てのアルタナの管理を担う組織です」

 

 

 

「そしてアルタナの最も特筆すべきは、生物に対して変質を起こすという事」

 

「変質…例えるならば?」

 

「そうですね…悠久の時を経ても、その首を切り落とされたとて死ぬことはない」

 

 

一間を置いた虚はそっと呟いた。

 

 

「謂わば不老不死、ですかね」

 

「不老不死…?」

 

 

開いた口が塞がらない彼女は虚に背を向けた。

 

 

「いつの時代もどの星でも不老不死は魅力のあるものらしい。私には理解しかねますが」

 

「…つまりは貴方がその産物だと」

 

「御名答です」

 

 

そう言って眼前に立つ虚は彼女に向かって何かを差し出した。

 

 

「…刀、ですよね」

 

「あなたの物です」

 

 

渡されたのは、鞘に収まった一振りの刀である。

 

 

「殺し屋になれという事ですか」

 

「記憶も無いならば、行く当ても無いでしょう」

 

「…理解に苦しみますね」

 

 

 

「星々を滅ぼす程のエネルギーを牛耳る組織に、一介の娘を置く必要があるとは思えませんが」

 

「時が経てば何れ分かりますよ」

 

「時間は浪費するものではありませんよ」

 

「生憎、時間は掃いて捨てるほどあるものでね」

 

「…」

 

「あなたの名は?」

 

「ご察しの通りですよ」

 

「それは困りましたね。指示を出すにも些か不便だ」

 

己は何者でどんな名で生きてきたのか、幽かな記憶すらも思い出せない。そんな虚しさが彼女の心の内を燻っていた。

 

 

「…ならば、(かすか)とでも」

 

「ほう、そうですか」

 

 

すると前触れも無く扉が開き、大広間へ入る人の姿が目に入った。此方へ来るなり彼はその場に片膝をつくと、深々と(こうべ)を垂れた。

 

 

「虚様、只今戻りました」

 

「丁度良いところに来ましたね」

 

 

虚の言う通り、帰る場所など無いに等しい。

然しだからと言ってこのまま彼等の元に身を置くつもりなど、毛頭無かったのである。

 

 

(暫く奈落(ここ)にいて、脱出の機会を伺うしか無いか)

 

 



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恐怖と畏怖

程なくして本艦を離れ、船は地上に落ち着いた。

近々奈落は江戸での任務に備えて、基地での生活を余儀無くされる事となったのである。

勿論、それは彼女も例外ではなかった。

 

 

 

十二畳程の部屋にて、改めて対面した二人は酷く凍て付いた雰囲気に包まれていた。

何せ非常に大きな組織だ。管理の行き届かない隙を狙えば、脱出の機会を作れると踏んでいた彼女だったが…

 

 

『奈落の現首領の下に、あなたを配属します』

 

『えっ…』

 

 

あろうことか頭首の直属下へ置かれ、遂に逃げも隠れも出来なくなってしまったのである。

 

 

(しかもその現首領が…)

 

 

 

「貴様、一体何を企んでいる」

 

「いえ何も」

 

眼前の朧の言葉に、彼女は焦燥を駆り立てられていた。何でもその上司である天照院奈落の現首領は紛うこと無き彼であるからだ。

 

 

(このままでは逃げられない。絶対に…)

 

 

以前逃亡を企てた際に、彼にその制裁を受けた彼女は身を以て実感していた。

 

 

「この状況に応じて我々に煮え湯を飲ませる機会を伺っている様にしか見えないが」

 

「買い被りすぎですよ。私一人で何が出来ると」

 

「それが真ならば愚かだと言いたいのだ。現に一度、逃亡を企てているだろう」

「それは…」

 

「無論、それだけに留まらないが」

 

「他にはどんな?」

 

「第一に記憶が無いという事自体が訝しい」

 

 

「あの時攘夷浪士共からの襲撃を受け、案の定容易に殲滅した故我々は事無きを得た。そしてその場にお前は現れた」

 

「つまりは私を攘夷派の者だと疑っているんですね」

 

「それ以外に何がある」

 

「…」

 

刑事ドラマの取調室の如く室内は先刻よりも切迫した空気が張り詰めており、恐怖に身を捩らぬを得ない状況であった。

 

そして最終的には「この取調室はいずれ拷問部屋へとシフトせざるを得なくなるのでは…」等と危惧の念をも抱いていた。

 

 

 

 

「…(かすか)、そう呼べとの事であったな」

 

「え?…あっ、はい」

 

間を置いてかけられた言葉に、幽は引きつった様に声を震わせた。

 

「それが真の名か」

 

「…いいえ、単なる思い付きです。特に意味はありませんよ」

 

「そうか」

 

 

 

「これ以上の話は無用だ。私も暇では無い」

 

「えっ」

 

彼のその一言に、思わず拍子抜けしてしまった。

 

 

「そして何より、あの人のご意向に背く訳にはいかん」

 

「そう…なんですか」

 

「ともあれ、任務はまだ先だ。それまでは日々の鍛錬に徹しろ」

 

「…私が言うのも何ですが、本当にそれで良いのですか…」

 

「何が言いたい」

 

沸いた疑問を思わず声にしてしまった彼女は即座にその口を噤んだ。

 

彼の言う通り、これ以上の話は無用だ。そして何よりも彼との間に軋轢を生むのはあまり良いとは思えなかったのだ。

 

「…いいえ、何も」

 

「これだけは言っておくが…」

 

 

 

「呉々もあのお方の邪魔立てはしてくれるな。天に仇を為す者と見なせば、分かっておろうな」

 

 

有無を言わさぬ様子に、幽は今にも消え入りそうな様な声で話した。

 

「…はい。では何時ぞやの初任務に控えて己の身の鍛錬に精進致します」

 

 

 

 

無事に自室へ戻って来た彼女だが、緊張の糸が解けたと同時に先程の話の中で少々引っ掛かっていた点を思い出した。

 

 

 

朧の事だ。

 

虚に対しての並々ならぬ忠誠心がある様だが、それは単なる恐怖心故のものなのだろうか。

確かに不死者と言われれば、全く恐れを抱かない者の方が稀だが…

 

 

(…本当にそれだけが理由なのかな)

 

 

しかし、それは今直ぐにでも逃げ出そうと目論んでいる幽にとっては詮無き事であった。

 



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