上を向いて歩こう (バレンシア)
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プロローグ
第一話


客は既に去っていた。時計の針は午後八時を指し、窓の外を見てみれば、仄かに黒い帳が降りていた。

 

「お疲れ」

 

ガランとした店内には、和泉和也と国見沙織の姿だけがあった。芳醇な珈琲の香りに包まれた喫茶店の中、フロアーの掃除を終えた和也が声を掛けた。

 

「お疲れ様。今日もありがとう。助かっちゃった」

 

返ってきた声は軽やかだった。沙織は丁度、キッチンの中にあった器具を直し終えたところだった。和也の方を振り向き、微笑む姿は彼女の年齢よりも幼く見えた。そういえば、と和也は思い出す。かつて沙織は実年齢通りに見られないことで悩んでいた時期もあった気がする。

 

「いいよ、いまさら礼なんて。こっちはバイト代だってちゃんと貰ってるんだから、文句はないよ」

「そういえばそうだったね。元々お手伝いしてくれてたから、なんかこう、つい、ね」

 

あはは、と沙織は笑った。

 

「よし。こっちも終わったから、ちょっと着替えてくるね」

「ああ。俺も荷物とってくる」

「じゃあ十分後に集合ね」

「分かった。急がなくてもいいからな」

「うん。分かってる」

 

更衣室へと戻る沙織を見送ると、和也は腕時計を見た。シンプルなデザインの時計だった。無駄な飾り気のない一品は、かつて妹から誕生日に送られたものだった。

 

「まだ八時か・・・」

 

それほど遅い時間ではなかった。いつも店を閉める時間よりも三十分は早い。これならまだ余裕があるな、と和也は今後の予定を考える。

和泉和也はまだ高校生であった。中学受験で入った学校の都合上、親元を離れて独り暮らしをしていた。この喫茶店からなら、歩いて三十分ほどで着く距離に彼の暮らす男子寮はあった。

このまま沙織を家まで送っても、まだ相棒がアルバイトから帰宅するまでには余裕がある。確か今日は卵が安かったはずだ。夕食はオムライスにでもしてやろう。二人で決めた当番制では、今日の夕食の準備は和也の仕事だった。

 

「お待たせ」

 

沙織が更衣室から出てきたのは、和也が帰る支度を終えてから二・三分してからだった。秋らしく、カーキ色のロングスカートに白いシャツ、鮮やかな水色のカーディガンを羽織っていた。

 

「戸締まりはしておいたし、じゃあ帰るか」

「うん」

 

椅子から立ち上がった和也の隣に沙織が並んだ。仄かに柑橘系の甘い香りがした。

 

「鍵は?忘れてないか?」

「大丈夫だよ。ちゃんと持ってるよ」

「そうか」

 

こうして並んでみれば、和也の方が頭一つ分ほど身長が高かった。沙織も決して身長が低い訳ではない。むしろ平均に比べれば高い方だろう。しかし、それ以上に和也の身長が高かった。

扉を開けて外に出ると、少し肌寒さを感じるようになっていた。暦の上では既に十月。残暑が厳しい年だったが、どうやらそれも限界に来ているらしい。

 

「大丈夫か?」

「うん。寒いかもと思って、ストール持ってきたから大丈夫だよ」

 

沙織の家は、ここから十五分も歩けば見えてくるマンションの一室だった。以前、妹と一緒に訪れた時には、初めて入った年上の女性の部屋に、柄にもなく緊張したことを覚えている。

二人で並んで桜通りを歩いていく。今はまだ咲いていないが、この道には春になれば美しい桜が咲き誇る。二人は共に多弁ではなかった。会話が嫌いだというわけではない。静謐とした空気が好きだった。会話はない。しかし苦痛もない。もちろん居たたまれなさなど感じるわけもない。独特な雰囲気が良いのだ。

 

ーーー不意に、和也のカバンから機械音が鳴った。少し前に流行った静かな曲だった。

 

「もしもし」

『あ、お兄ちゃん』

 

沙織に断りを入れてから電話に出ると、相手は件の妹からだった。

 

「どうした?」

『いや、その、別にどうかしたって訳やないんやけどーーー』

 

用件は、久し振りに一緒に夕食を食べないかというものだった。相変わらず間の悪いことだ。和也は折り返し電話すると答えて電話を切ると、相棒へと電話を掛ける。奴はすぐに出た。相変わらずワンコールだった。

結果として、相棒は外で夕食を食べるから構わないという返答だった。相変わらず察しのいい奴だ。今度、何か奢ってやろう。

和也が折り返し電話を掛ける。妹もすぐに出た。ワンコールだった。構わないと伝えると、三十分ほどで支度をするとのことだった。食事をする場所は決まっている。いつもと同じファミレスだった。

 

「もういいの?」

「ああ。今晩一緒に食事でも、だってよ」

 

肩をすくめて言うと、沙織は嬉しそうに微笑んだ。

和也だけではなく、妹のこともよく知る沙織にとって、彼女は同じく妹のような存在となっていた。

 

「相変わらずお兄ちゃんっ子だね」

「違う違う。単に夕食代を浮かせたいだけだ」

「そんなことないと思うけどなー」

「兄妹なんてそんなもんだよ」

 

そんな取り纏めのない話をしていると、目の前に沙織の住むマンションが現れた。

 

「いつも送ってもらっちゃって、ごめんね」

「気にしなくていい。俺も心配だからやってるだけだしな」

 

嬉しそうに微笑んだ沙織は、ありがとうと一言告げるとセキュリティを解除してマンションの中に入っていった。

 

「さて、それじゃあ俺もファミレスに向かうとするか」

 

沙織がマンションの中に入っていくのを確認すると、

和也は足早にその場から遠ざかっていく。時間は既に八時二十分。少しばかり走らなければ間に合わない。特に時間にうるさいという訳ではないが、食事をする時ばかりは小言も勘弁してもらいたい。美味しい食事と珈琲は命の潤滑油なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ!お兄ちゃん!」

「すまん。少し遅れたな」

 

いつものファミレスに行くと、席から立ち上がり元気よく手を振る妹の姿があった。

 

「もうなにか注文したのか?」

「ううん、まだやで。お兄ちゃん来てから頼もかなと思ててん」

「そうか」

 

店内の客の姿は疎らだった。家族連れが数名いるのみで、あとは()()()()()()()()()()()()()()()()()

妹の座る席まで行くと、机の上にはプリントやノート、そして筆箱があった。どうやら宿題でもしようとしていたらしい。プリントの中身を見る。図形の証明問題だった。なかなか手こずっているらしい。

 

「最近はどうだ?なにか変わったことでもあったか?」

「んー。別にそんな変わったことはないかな」

「部活の方はどうだ?マネージャー、大変じゃないか?」

「そら大変なんは大変やけど、頑張ってる人たちを応援すんのは楽しいし、平気やで」

「勉強はーーーまぁ、頑張れ」

「学年首席のお兄ちゃんに言わると、なんやプレッシャーが凄いわ」

「俺は奨学金狙いだから仕方ないだろ。お前は適度に頑張りゃそれでいいんだよ。ま、無理はすんな」

「うん。分かってるー」

 

机の上にあった荷物を直す妹の姿を見守りながら水を飲む。走った後には水が美味い。汗をかくほどではないが、やはり時間通りには着かなかった。

 

「今日はまき絵ちゃんは良かったのか?」

「うん。まき絵は裕奈とアキラと一緒に晩御飯食べるって言うてたよ」

「相変わらず仲が良いんだな」

「そうかな?普通やと思うよ。それに裕奈はお兄ちゃんも部活で会うやん」

「まぁ、バスケ部は男女共に中学と高校は合同みたいなもんだからな」

「どう、裕奈。レギュラー取れそう?」

「このまま怪我さえしなければいけるんじゃないか?」

 

そんなとりとめのない話をしながらお互いにメニューを決めて注文をする。注文したのはオムライスだった。沙織と歩いてた時から口の中は既にオムライスになっていた。

 

「こうやって一緒に晩飯を食べるのも久しぶりだな」

「なんやかんやでお互いに忙しいもん。特にお兄ちゃんは部活もアルバイトもやってるから余計に会う機会もないし」

「悪い悪い」

 

頬をかきながら和也は答える。この手の話題になったときの和也の立場は常に弱者の側にあった。親元を離れてから妹が入学してくるまでの三年間。寂しい思いをさせてしまった負い目が和也にはあった。

 

「お兄ちゃんこそ体は大丈夫なん?忙しいみたいやし、寝不足になったりしてへん?」

「大丈夫だって。俺はまぁ、頑丈なだけが取り柄みたいなもんだからな」

「またそんなこと言うて。裕奈も心配しとったで。「和也さん、部活でもキャプテンやし大変そう」って聞いとるで」

「はいはい」

 

結局、妹と一緒に食事をすると毎度のことながら小言を言われることになるらしい。心配性な妹は、まるで母親の代わりは自分であると言わんばかりだった。

 

「お兄ちゃん!ちゃんと聞いとんの!」

「聞いてる聞いてる」

「ーーーもう!!」

 

妹は、少し不機嫌そうに頬を膨らませながら食事を続ける。まだブツブツと文句をいいながらスプーンを動かす妹を見て、コイツは麻帆良学園に来て本当に変わったと思う。元来は血が苦手で気弱な子だった。思っていることはあったとしても、ここまで自己主張するような子ではなかった。友人に恵まれた。特に同室の佐々木まき絵、仲良しの明石裕奈、大河内アキラの三人との輪はコイツを一回りも二回りも大きく成長させてくれた。感謝してもしきれない。

 

「ーーー亜子」

「ん?なに?」

「今度、まき絵ちゃんたちも連れて飯食いに行こう」

「・・・どうしたん、いきなり?」

「いや、ちょっと三人に飯でも奢りたい気分になっただけだ」

「ふーん。またみんなに予定聞いとくわ」

「ああ。そうしてくれ」

 

どこか訝しげな視線を寄越しながら妹ーーー亜子は頷いた。

それから暫くとりとめのない話が続いた。麻帆良学園で二人が暮らすようになってから、こうやって食事を共にする時には近況報告を兼ねることが二人の約束だった。

時計の針は九時を指していた。食事を終えた二人は珈琲を飲みながらのんびりとした時間を過ごしていた。

 

「そういえば、お兄ちゃん」

「うん?」

 

妙にコーヒーカップを持つ手に力が入っていた。緊張した面持ちを和也から逸らしながら亜子が口を開いた。

 

「この間の日曜日、女の人と歩いてへんかった?」

 

本人は自然を装っているのだろうが、完全に目は泳いでいた。どうやら今日、和也か呼び出され理由はこの件があるからのようだ。一向に視線を会わせようとせず、亜子は机の上に置いたコーヒーカップを見つめていた。

 

「ああ。アイツか」

 

見に覚えはもちろんあった。別に隠すような関係でもない。何故か息を呑む気配を目の前の亜子から感じながら和也が答える。

 

「彼女だよ」

「ーーー!?」

 

それは声にならない声だった。もし今、亜子がコーヒーを飲んでいたら思わず吹き出していただろう。分かりやすいぐらいに目を剥いて驚愕を表す亜子に、和也は更に衝撃的な言葉を続ける。

 

「もう別れたけどな」

「ーーー!?!?」

 

亜子は思わず手に持っていたコーヒーカップを落とした。和也は固まっている亜子を放ったまま店員を呼ぶと、謝罪した後に新しい珈琲を注文する。気のいい店員は笑顔で机の上を拭くと、すぐに去っていった。接客業に携わる者である以上、何時も笑顔を忘れてはいけない。素晴らしい接客魂に頷く和也は、ようやく再起動した亜子に視線を向けた。

 

「う、うち、そんなん、知らんっ・・・!?」

「そりゃ言わんだろ。わざわざ妹に。彼女が出来たなんて報告はしない」

「そ、そらそうかもしれんけどっ・・・!?」

 

分かりやすく口元に手を当てて驚きを表現する亜子は、本当に正直というか素直な子だった。

 

「まぁいいだろ、その話は。どうせ終わった話だしな」

「・・・なんかお兄ちゃんが遠くにいったような気がする」

「アホか」

 

和也は大きくため息をつく。そんなに驚くことだろうか。中学生にもなれば、そんな浮いた話の一つや二つぐらい出るだろう。ましてや和也は高校生だ。仲の良い女子ぐらいはいる。話をしていて、そういうことになることだってあるだろう。

 

「な、なんで付き合ったんっ?」

「・・・この話、膨らませるのか?」

「当たり前やんっ!」

「・・・そうか」

 

額に手を当てながら和也は再び大きくため息をはいた。まぁ、亜子ももう中学生だ。こういうことに興味のある年頃ということだろうか。

 

「体育祭の時に向こうから告白されてな」

「お、おおー!」

「・・・なんだそのリアクション」

 

大袈裟なまでに盛り上がっている亜子を見ながら和也は呟く。

 

「それでそれで!?」

「・・・断る理由も特にないし、それで付き合っただけだ」

「おおー!!」

「・・・だからなんなんだ、そのリアクションは」

 

再度、和也は大きくため息をはく。

 

「お兄ちゃんもその人のこと好きやったん!?」

「いや、別に」

「でも付き合ったんやろ?」

「ああ」

「好きでもないのに付き合ったん?」

「断る理由がないから付き合ったんだ」

「・・・お兄ちゃん、サイテーや」

「おい」

 

一気に不機嫌になった妹に、和也は頭にズキズキとした痛みを感じながら答える。

 

「お兄ちゃんは好きでもない人と付き合うんや」

「付き合ってから好きになるかもしれないだろ」

「それはそうかもしれへんけど・・・」

「まぁ、人の色恋ごとには色々とあるってことだよ」

「むぅー・・・」

 

なにやら亜子は難しい顔をしながら悩んでいる。兄の色恋に首を突っ込んでも良いことはないだろう。しかもこの話は既に終わった話だ。なにをそんなに悩むことがあるだろうか。

既に和也をそっちのけで頭を悩ましている亜子から視線を外した和也は、本日何度目かになるかもわからないため息をはく。

そして、そろそろいいだろうと席を立つ。そこから身を乗り出しながら背後のテーブル席を振り返った。

 

「で。そろそろ俺は君たちに話し掛けてもいいんだろうか?その辺どう思う。まき絵ちゃん、裕奈ちゃん、アキラちゃん?」

 

「「「ーーーえ???」」」

 

案の定、和也が座った席の背後には、妹である亜子の友人たちが揃っていた。三人は亜子とは違う意味で虚を突かれた顔で和也を見ていた。

年頃の女の子が四人もいれば、色恋沙汰に興味を持つなという方が無理であった。なるほど。誰が仕掛人かは分からないが、とにかく彼女たちが今日の目的を達したことだけは理解した。要するに、面白い話のネタができたということだった。

 

「それにしても、性格的に裕奈ちゃんやまき絵ちゃんはわからなくもないけど、まさかアキラちゃんまでいるとは」

 

本人たちに聞こえないように和也は呟く。向こうの机の上には各々が注文したであろう商品が並んでいた。和也は頭の中で財布の中身を計算した。一人あたり千円として、それが五人。和也は心の中で静かに明治の偉大な文豪に別れを告げた。

 

 

ーーー恋とは尊くあさましく無残なもの也。

 

 



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第一章
第二話


その日はここ数日でも特に暖かい日だった。暦の上では一月二十日。寮にある自室の窓から外を見れば、雲一つない青空が広がっていた。気持ちのいい朝だった。

 

「おはよー」

「おー・・・」

 

目覚めた和也が部屋から出ると、既にルームメイトである安達翔(あだちかける)が朝食の準備をしていた。味噌汁の匂いが鼻をくすぐる。どうやら今日の朝食は和食らしい。

 

「朝練か?」

「まあね。これでも期待のホープだからサボれないんだよ」

「毎朝大変だな」

「麻帆良なんていう強豪バスケ部のキャプテンやってる和也よりはマシだと思うけどね」

 

茶碗にご飯をよそった翔がエプロンをとる。翔は既に制服に着替えていた。今、起きたばかりの和也に比べれば雲泥の差だった。和也が時計を確認する。まだ午前六時を回ったばかりだった。

 

「さ、食べよう。お互い時間もあまりないだろ?」

「そうだな」

 

いただきます、と手を合わせて食事を始める。柔らかい白米と出汁のきいた味噌汁、目玉焼きはしっかりと半熟で、サラダまで添えてあった。贔屓目なしに美味かった。

 

「和也も急いだ方がいいんじゃない?朝練、七時からでしょ?」

「ああ。つっても、三十分もあれば体育館までつくだろ」

「体育館はいいよね、近くて」

「剣道場だって変わんねーだろ。五分、十分の違いだろ」

「分かってないなぁ。その五分、十分が大切なんだよ」

 

早々に食事を終えた翔は、食器を流しに持っていく。のんびりする間もなく、食器を洗い終わった翔は残る身支度を終わらせて鞄を持った。

 

「じゃあ先に行くよ」

「ああ。今日こそしっかり一本取ってやれよ」

「うん!」

 

元気に返事をして、翔は先に剣道部の朝練へ出掛けていった。なんでも、剣道部には滅茶苦茶に強い女子部員が一人いるらしい。男である部長にすら一本も許さない強さを超えるべく、翔は部活に燃えていた。

翔を見送った和也もまた朝練へ向かうべく準備を開始する。麻帆良学園高等部男子バスケットボール部の朝練は七時に始まり八時に終わる。約一時間と短時間ながら質の高い練習を行っている。部長自ら遅刻するわけにもいかない。

急いで身支度を済ませた和也が男子寮の部屋を出た時、時計の針は丁度六時四十分を指していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日はここまで!!」

 

顧問の声が体育館の中に響き渡った。コートに立っている生徒たちは、みんながみんな滝のような汗を流していた。息の上がっていない人間は誰もいない。よく一時間の程度の練習をここまで濃密に計画できるものだと和也は舌を巻く。

 

「和也。お前は少しだけ時間いいか?」

「はい!」

 

部員のみんなが後片付けをしている中、和也は顧問と共に教官室へと足を踏み入れた。相変わらず無駄なものが一切ない見事に整理整頓された部屋だった。

それから約十分、和也は顧問と今後の練習予定や戦術方針などを話し合った。

顧問の名前は増岡剛(ますおかつよし)といった。体育大学を出て麻帆良学園に就職したらしい。大学生の頃は日本代表にも選ばれた大型のPGで、将来はNBAかと囁かれていたほどの逸材だそうだ。しかし本人にその気はなく、ずっと憧れだった教師の道に進んだとか。なんとも自由な生き方で羨ましい限りだ。

 

「じゃあそういうことで頼む」

「はい!ありがとうございました!」

「おう。お疲れさん」

 

頭を下げ、和也は体育教官室を後にした。

個人的に、和也は増岡のことが嫌いではなかった。いつだったか、増岡の指導方針は「褒めて伸ばす」であると聞いたことがあった。生徒は勝手に成長するのだから、自分はその僅かばかりの手助けに過ぎない。より良く成長するために手を貸すだけだ、と。麻帆良ほどの大規模校では、部員同士の問題もよく起こる。それらを自分達と一緒に考えてくれる増岡には感謝していた。

なんとなく術中にはまっているような気もするが、今は乗せられておいてやろう。部員が機嫌良く練習してくれれば自分への負担も少なくすむ。

 

「お疲れ、和也」

「ん。サンキュー」

 

体育館に戻った和也に副部長の飯島将希(いいじままさき)がタオルを投げる。

 

「剛さん、なんだって?」

「次の大会に向けてのミーティングで俺もなんか喋れってよ」

「ふーん。ま、いいんじゃないか?」

「簡単に言ってくれるなよ。俺が人前で話すの苦手だって知ってるだろ?」

「何事も練習だ、練習。やってみなくちゃ分かんないだろ?」

「ーーーそれもそうだな」

 

汗をぬぐい、着替えながら会話は続く。お互いに部長と副部長として部活を支えるもの同士、連携はしっかりととっておかなければならない。

 

「他のみんなは?」

「長くなるかもしれないと思って先に教室に行かせたよ」

「サンキュー。流石、分かってるな」

「もう何年一緒にバスケしてると思ってるんだよ」

「ははは。そうだったな」

 

着替え終わると、二人は体育館に一礼して教室へ向かう。これも顧問である増岡の教えだった。すべては礼に始まり礼に終わる。バスケットボールを通して生きる力を身に付ける。増岡剛はどこまでいってもコーチではなく教師だった。

二人は体育館から学校までの道を歩いていく。最近の部活やクラスでの事、話すことは色々ある。和也が麻帆良に来て二番目に出来た友人が将希だった。付き合いは長い。

 

「あ!おはよーございまーす!」

 

二人が歩いていると、元気な声が聞こえてきた。見てみれば、そこには女子中等部バスケットボール部に所属する明石裕奈の姿があった。隣には同じく水泳部に所属する大河内アキラもいた。

 

「おはよーさん」

「おはよう。いつも元気だな」

 

挨拶を返すと、裕奈は軽く手をあげた。和也と将希は顔を見合わせ苦笑すると、揃って裕奈と同じように軽く手をあげた。

 

「イェーイ!!」

 

ーーーパンッ、と小気味の良い音が二度鳴った。

 

「ほらっ!アキラもアキラも!」

「えぇっ!?私も!?」

 

戸惑いながらアキラも軽く手をあげる。

 

「イェーイ!!」

 

ーーーパン、と遠慮がちな音が二度鳴った。

 

「・・・すみません」

「いや、そんな一々気にすんな」

「そうそう。年下は下手に遠慮しない方が可愛い気があるってもんさ」

 

掛け声は裕奈。実際に手を叩いたのは和也と将希からだった。

 

「それより将希先輩、聞きましたよ!」

「ん?どうかしたかい?」

「また女の子を振ったらしいじゃないですか!?」

「ああ、それはーーー」

 

裕奈が颯爽と将希に絡みに行った。男子バスケ部きってのイケメンと称される将希は告白されることも多い。しかし一度も誰か特定の子と付き合っている姿を見たことがない。そんな曖昧な姿に一時期、男色の気が噂されたこともあった。本人は笑って否定していたが、この男のそんな姿勢は麻帆良男子高等部の七不思議に数えられていた。

さて、裕奈が将希と話をしに行けば、必然的に和也は残ったアキラの面倒を見なければいけないことになる。チラリと横から顔を覗けば、視線が見事にぶつかった。

 

「アキラちゃんは冬、どうやって練習してるんだ?」

「あ、えっと、外で学校の回りを走ったり、屋内練習場で体幹鍛えたりしてます」

「へー。やっぱり私立だけあって設備が良いな、麻帆良は」

「はい。私も恵まれてるなって思います」

 

恐縮したように会話を続けるアキラに、和也は頬を掻く。どうも、アキラは自分のことが苦手ではないかと和也は考えていた。

当たり前のことだが、亜子の友人の中で和也と面識のある人間は少ない。まき絵、裕奈、アキラ、あとはクラスメイトのインタビューとして顔を合わせた朝倉和美ぐらいのものだ。この中で、一度しか会ったことのない朝倉を除けば、和也が最も距離が空いていると感じるのがアキラだった。明確な理由は特にない。強いて言えば、その身に纏う雰囲気だった。

 

「体育館クラブはシーズンとかないですよね」

「そーだな。なんだかんだ一年中バスケは出来るからな。もう少し休みがほしいところだよ」

「増岡先生、厳しそうですよね」

「確かにな。やりたいことは分かるし、教えてもらってる身としては不満は言うべきではないんだろうけど」

「お休みはほしい、ですか?」

「ああ。そういうことだな」

 

クス、とアキラが口許に笑みを浮かべる。亜子と仲の良い三人のうち、この大河内アキラという少女が最も精神的に大人だろう。多弁な方ではない。沙織とはまた少し異なる空気感が二人の間を満たしていく。

 

「アキラちゃんも大変だな。裕奈ちゃんやまき絵ちゃん、それに亜子の相手まで」

「そんな事ありません。みんな大切な友達ですから」

「そう言ってもらえると、兄としては安心だな」

 

任せてください、と少し力を込めて言ってくれるアキラに、和也も感謝の気持ちを込めて笑った。言ってみれば、彼女はバランサーなのだ。ともすれば調子に乗ってしまいがちな裕奈やまき絵、物事をネガティブに捉えがちな亜子を正してくれる貴重な存在なのだ。

和やかな雰囲気を醸し出しながら歩いていると、丁度、女子校エリアと男子校エリアを分ける場所にやって来ていた。

 

「じゃ、また今度な」

「それじゃあまたね」

 

和也と将希の二人がそう言うと、裕奈とアキラも合わせて返す。

 

「はーい!それじゃあ和也先輩、将希先輩!失礼しまーす!」

「失礼します」

 

片や元気に大きく手を振りながら、片や礼儀正しく頭を下げながら。裕奈とアキラは去っていく。

 

「元気だねー、裕奈ちゃん」

「ホントにな。俺はあのテンションについていける自信はない」

 

二人と分かれた和也と将希は、男子高等部への道を歩きながら話を続ける。

 

「そうかい?俺は別に苦にしないぞ?」

「お前に苦手な奴がいれば見てみたいもんだ」

 

肩を竦めて和也が言う。人当たりの良さでは部内でも右に出るものはいないだろう。本当なら、将希がキャプテンをやるはずだったという、他の部員たちには隠された真実も過去にはあった。

 

「はっはっは。俺にだって苦手な奴はいるさ」

 

大袈裟に笑いながら将希が答える。

 

「例えば?」

 

さらに突っ込んでたずねてみれば、将希はニヤリと笑いながら答えた。

 

「決まってるだろ。バカでチビで強情な、まるで()()()()()()()()()()だよ」

「・・・なんだその頭痛がして痛い、みたいな日本語は?」

「ははは、違いない。和也の言う通りだ」

 

将希はまるで面白い玩具でも拾ってきたかのように笑っていた。コイツがこんな風に笑うなんて珍しい。

 

「楽しそうにしているところ悪いが、そろそろ時間がヤバイ」

「・・・マジで?」

「ああ。走らなきゃ間に合わないかもしれん」

 

腕時計を見てみれば、既に始業まで十分ほどになっていた。ここからなら歩いて十五分は掛かる。走れば十分弱だろうか。

 

「今日の一時間目ってなんだっけ?」

「あー・・・、確か英語じゃなかったか?」

「・・・英語は遅れると面倒だなぁ」

「なら潔く走るしかないだろ」

「仕方ないな」

 

お互いに頷き合った和也と将希は、とにもかくにも急がなければならないとばかりに走り出す。常日頃からバスケ部で走り込んでいる二人の体力は一般的な基準を大きく上回っている。しかし、それでも厳しい朝練のあとに再び全力ダッシュを行うのは想像以上にしんどかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

放課後になり、生徒たちは三々五々、帰路につく。徐々に周囲から人が散っていく様子を見ながら和也は大きくため息をはいた。

 

「結局こうなるのかよ」

「あっはっは!バッカでー!!」

「うっせー」

「今時、遅刻して反省文書く奴なんて久しぶりに見たぜ!和也、グッジョブだ!!」

「いい加減に黙れ!達也!!」

 

本日の遅刻によって見事に今学期通算五回を記録した和也は、一人教室に残り、反省文を書いていた。これで麻帆良学園に入学してから合計十回目を記録していた。

 

「まぁそう言うなって。ほら、俺も手伝ってやるからよ」

「いらん。どうせデスメガネの奴に見破られて枚数が増えるってオチが最初から見えてんだよ。バーカ」

「バッ、バカってなんだ!?バカって!?」

「バカにバカっつって何が悪いんだよ。バーカバーカバーカ」

「さ、三回もバカって言ったな!?」

「お前と俺とじゃあ頭の出来が違うんだよ」

「ぐっ!?事実なだけに言い返せないっ!?」

「お前が武道を修練しているように、俺も勉強を頑張ってんだよ。こっちは生活が掛かってるからな」

 

成績優良者に与えられる授業料免除は和也にとっての生命線だった。これだけの大規模な学園に一年間通おうと思えば、果たしてどれ程の金が必要になるのか。考えるだけで頭が痛い。

 

「そもそも胴着に着替えるのが早いんだよ。いつのまに着替えたんだよ、お前。チャイム鳴った時にはもう胴着だったろ」

「はっはっは!なんだ和也、知らないのか?強い奴は行動が早いもんなんだぜ!!」

「・・・うぜぇ」

「ぐはっ!?」

 

和也の隣ではしゃいでいる男は中村達也といった。空手を得意とする武道派であり、学校ではよく和也とつるむ男の一人だった。この現代社会において、何故か時代に逆行するかのごとく強さを追求するーーー頭が残念なバカだった。

 

「くっ、やるなっ、和也っ!」

「もうお前、邪魔するならとっとと帰れよ、達也。どうせ今日も暇なんだろ?」

「暇じゃねぇよ!?俺には自分の技を極めるっていう重大な仕事があるんだよ!!」

「あー・・・、なんだっけ?「烈空掌」だっけ?」

「おう!今年中には連撃まで打てるように修行するぜ!!ちなみにこの後も山下たちと修行だぜ!!」

「勝手にやっとけ、この人外どもめ」

 

素振りを毎日していただけで「気」を使えるようになり、あまつさえ更に飛ばせるようになるとか、それはどんな漫画だ。その愚直なまでの執念は感嘆に値するが、仮に自分が同じことをしたとしても、彼らのような境地には至れないだろう。

 

「じゃあな!和也!俺もそろそろ行くとするぜ!」

「おー。行ってこい、行ってこい。暑苦しいのがいなくなって清々するわ」

「ぐはっ!?」

 

そう言うと、達也が心臓を押さえながら苦しんだ。

 

「くっ、相変わらず思ってもいないことを平然と口にする男だぜ!?」

「いや、割りとマジで思ってるからな」

「がはっ!?」

 

更に重ねて言えば、達也は更に苦しそうに呻く。

 

「ほら、慶一たちが待ってんだろ?早く行けよ」

「あっ!?おいっ!てめっ!蹴るんじゃねぇ!」

「おらおら」

「いっ、いたっ!?ちょっ!?そこっ、脛だからな!?マジで痛いんだからな!?」

「どっせーい」

「お、折れっ!?あだだだだだだっ!?」

 

そんな調子で達也と絡んでいると、既に誰もいないと思っていた廊下から足音が聞こえてくる。野郎しかいない男子高等部にしては高い音だった。

 

「・・・なにをしているんてすか、貴方たちは」

 

足蹴にしていた達也から廊下へ視線を向ける。そこには足があった。スラリとした脚線美だった。黒いタイツで覆われた足は、生地が薄いのか、よく目を凝らしてみれば奥にある肌色が見えそうだった。年頃の男にはあまりにも艶かしくも美しい景色だった。

 

「あれ?刀子先生じゃん。チィーッス」

「・・・どうして足を見ただけでそれが誰だか分かるのでしょうね、貴方は」

「ーーー達也の変態め」

「ぐはっ!?」

 

ーーー致命傷だった。

 

「和泉君は反省文ですね」

「はい。ちょっと失敗しました」

 

教室に足を踏み入れた葛葉刀子が手元を覗きこむ。

 

「貴方は学業も優秀ですし、交遊関係だって狭くはない。それに生活態度も悪いわけではないのですから、その遅刻癖をいい加減になんとかしなさい」

「時間にルーズなのはダメだと頭では分かっているんですが・・・」

「神多羅木先生も笑っていましたよ。毎度、貴方が遅刻する度に話を振られる私の身にもなりなさい」

 

まったく、と腕を組ながら刀子がたしなめる。

 

「いや、ホント、刀子先生が担任で助かってます」

「心にもないことは言わなくて結構です」

 

知的は瞳を細くさせながら刀子が睨む。どうやら、意外に本心という奴は伝わらないらしい。

 

「貴方が奨学金とアルバイトを活用して生活費をまかなっていることは知っていますが、それで生活リズムを崩すようでは元の木阿弥です。一度やると決めたのなら、シャンとしなさい」

 

厳しくも優しい言葉だった。確かに、和也が麻帆良の地に来てから既に五年の月日が経っていた。ある程度、この環境にも慣れた。少なくとも、中等部に編入してきた頃よりは随分と暮らしやすくなっていた。学業では確実に上位一割の中に入ってはいるし、部活も順調に強くなってきてはいる。アルバイトにも不満はない。ーーー端的に、弛んでいたのだろう。

 

「私はこれでも貴方のことは買っています。ですから後期の学級委員長も任せたんです。期待しているのですから、応えてもらわなくては困ります」

 

まっすぐな視線がぶつかった。それは本気の目だった。

 

「・・・珍しいですね、刀子先生がそこまで誉めてくれるなんて」

「貴方は直接告げた方が頑張れる子です。それに、たまにはこうしてプレッシャーを与えなければ怠けるでしょう、貴方は」

「よくご存じで」

「これでも二年間、貴方の担任をしているのですから当たり前です」

 

本当に男前な担任だった。葛葉刀子。刀子先生。嬉しい時は喜ぶし、悲しい時は泣きもする。悩みがあれば一緒に考えてくれるし、なにより、間違った時にはしっかりと叱ってくれる。

 

「ホント、お世話になってます」

 

和也は素直に頭を下げた。本当に、この人が担任でなければ自分はここまで頑張れただろうか。恐らく無理だっただろう。頭を上げた先で、刀子は嬉しそうに笑っていた。

 

「今の感謝は受けとりましょう。珍しい和泉君の本心でしょうからね」

 

何年経っても敵う気がしないとは、この人の事をいうのではないかと真剣に思う。

 

「それでは私は失礼しますね。和泉君は課題をしっかりと終わらせてください。中村君は山下君たちと修練ですか?」

「うっす」

「まだまだ気の練り方が甘いと思います。臍の下ーーー丹田に気を集中することをおすすめしますので、一度試してみてください」

「あざーっす!」

 

それでは、と刀子はスーツ姿を翻して去っていった。残された和也は達也と顔を見合わせる。

 

「頑張るか」

「おうよ!」

 

あそこまで言われて頑張らなければ男が廃る。一度、和也は大きく体を伸ばす。ここから先は休みなし。出来るだけ急いで、かつ、刀子の目に入っても怒られない程度の質で勝負しなければならない。腕を回しながら意気込む達也を見送り、和也は課題に取り掛かった。



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第三話

二月三日。土曜日。その日は麻帆良学園男子高等部バスケットボール部の試合の日だった。

 

「んじゃ、行ってくるわ」

「行ってらっしゃい。僕も達也たちを誘って応援にいくから、頑張ってね」

「・・・マジで来るのかよ、アイツら」

「結構、楽しみにしてたよ」

「いらねー」

 

和也の朝は早かった。外部の県立体育館へ試合を行うために移動するので、朝六時半に麻帆良学園都市前の駅に集合となっていた。もちろん、部長である和也は更に早く集合場所へ行かなければならない。普段は便利な麻帆良だが、こういう時ばかりは広大な敷地が憎かった。

 

「うへぇ、寒っ」

 

外に出ると、冷たい風が身を裂いた。僅かに体が震えた。天候は晴れ。しかし気温は低い。和也は大きく肺に空気を吸い込み、息を吐く。白かった。

 

「ーーー行くか」

 

広大な麻帆良学園において、男子寮から駅前までは近くのバス停からバスで行くことになる。小さな国の国家予算程度なら持っていると称される麻帆良学園では、学生のバス料金は基本的に無料だ。苦学生の和也にとってはありがたい。

バスに乗り込み、暇になった和也が携帯を鞄から取り出す。メールの通知が三件あった。一つは達也から。一つは将希から。一つは裕奈からだった。和也はまず達也からのメールを開いた。

 

『今日の試合、応援行くから頑張れよ!あと、ぜってー負けんな!!』

 

気持ちのいいメールだった。少し力がわいてくる。武道の道を突き進み、決して修練を欠かすことのない友人の前で無様な試合は見せられない。口には出さないが、達也の努力を欠かさないところは大いに認めていた。和也は口角が上がっていることを自覚した。癪だが、更にやる気が出た。

和也は携帯を操作すると、続けて将希からのメールを開いた。

 

『二年の高橋と三浦、あと一年の佐々木と山本、加藤が体調不良で休みだそうだ。他に欠席連絡は聞いてないけど、もう剛さんには連絡はしてあるから。高橋の休みは痛いけど、来られるメンバーで頑張ろう』

 

こっちは事務的な連絡が中心だった。バスケ部では、試合の欠席連絡に関しては代々、副部長の仕事になっていた。連絡を入れての欠席は構わないが、連絡を入れずに休むと地獄の罰走が待っていた。

了解、と返信した和也は最後のメールを開く。最後のメールは裕奈からだ。珍しい。そもそも裕奈から個人的なメールが送られてくることなんて、これまでほとんど経験がなかった。

 

『今日の試合、頑張ってください!亜子とまき絵、アキラも誘って応援に行きます!!あと、お弁当は亜子が持っていくので買わないでくださいねー!!』

 

前半の内容は達也と同じようなものだった。達也の時よりも更にやる気が出た。まだ中学生とはいえ、女の子から応援されると普段以上に頑張れそうな気がするのは男子たるものの性だろう。ただし、中学生を相手に恋愛的な感情はない。

そして後半の内容は、要するにそういうことだろう。妹の手作り弁当なんて年頃の男子からすれば恥ずかしいものだが、亜子本人がやる気を出して作ってくれているなら仕方がない。二人揃って親元を離れて暮らしているのだ。これぐらいで文句は言うまい。せめて、みんなの前で渡さないことを祈っておこう。

ありがとう、と裕奈に返信のメールを送る。間もなく再び携帯がメールを受信した。裕奈だった。

 

『ファイトーっ!オーっ!!』

 

随分と可愛らしくデフォルメされた猫のイラストと共にそんな文面が送られてきた。和也は思わずバスの中で吹き出しかけた。そして、小さく笑った。

 

「これはーーー負けられなくなったな」

 

一人密かに闘志を燃やす。優勝しよう。そして、明日の晩飯は昼の弁当のお礼に何か美味いもんでも奢ってやろう。テンションを上げた和也が携帯を鞄に戻すと、バスは丁度、駅前に着こうとしていた。

バスの窓から外を見ると、増岡の姿があった。相変わらず部活の時は『adidas』スタイルを崩さない。和也がバスを降りると、目敏く増岡が和也を見つけた。

 

「おはよう、和也」

「おはようごさいます」

 

頭を下げて和也が言う。

 

「体調はどうだ?」

「バッチリです」

「朝早いけど、飯はちゃんと食ってきただろうな?」

「はい」

「なら心配はないな。今日は存分に暴れてやれ」

「はい!」

 

増岡に言われるまでもなく、今日はいつも以上にそのつもりだ。ダブル・ダブルぐらいなら達成できそうな気がする。それも複数回。

今回の大会は二日間にわたる。しかし、今日の試合はそれほど難しい試合というわけではなかった。最後に一つだけ強豪校と当たるぐらいだった。和也たちが本来の実力を発揮できれば確実に明日の決勝トーナメントには残れるだろう。そしてそれは増岡が抱いている印象と同じだった。

 

「お前らなら、俺は優勝できると思ってるからな。特に和也と将希は大会のベスト5にも入ると思ってる。大会最優秀選手まで狙ってしまえ」

 

こういう時、増岡は過大評価もしなければ過小評価もしない男だった。これまでの経験上、増岡がベスト4と言えばベスト4、ベスト8と言えばベスト8が麻帆良男子高等部の成績だった。だからこそバスケットという競技において増岡剛の言葉は信頼できた。その増岡がここまで言ってくれるのだから、和也自身も己の努力と実力を信じきることが出来る。

 

「ホンマ、みんなして人を乗せるのが上手いわ」

 

意図せずして、麻帆良に来て以来、自分の中で話すことを禁じていた方言が出てしまっていた。表情にこそ出ていないが、それぐらい今の和也のテンションは高かった。

そして、苦笑した。もし仮に、将希と共にそうなれば最高だろう。県大会の優勝と個人ベスト5入り。もはや自分でもよく分からないほどに和也の体には気力がみなぎっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーー甲高い笛の音が体育館に響いた。

 

 

『試合終了!78対75で、麻帆良学園高等部の勝ち!お互いに、礼!!』

 

『ありがとうございました!!』

 

コートの中にいた選手たちがお互いに頭を下げた。ベンチは熱狂の渦に満ちていた。

 

「将希先輩!お疲れさまっす!!あのブロックショットっ、俺っ、マジで感動しました!!」

「あはは。ありがとう」

「隆司先輩のスリーもキレッキレでした!!」

「ありがとよ。でも、お前らも応援サンキューな」

(しげる)先輩のドライブっ、半端なかったっす!!」

「ま、これぐらい余裕だって、余裕」

「大悟先輩のリバウンドも最高っす!」

「わっはっは!いいぞ、貴様ら!!この天才をもっと誉めろ!!!」

 

選手たちがそれぞれ後輩からタオルやスポーツドリンクを受け取りながら勝利を分かち合う。団体競技における勝利はだれか個人のものではない。ベンチに座るメンバーや、客席から応援してくれる人たちも含めての、みんなで勝ち取った勝利だった。

 

「和也先輩もお疲れ様です!」

「おー。流石に連戦だし、マジで疲れたわ」

 

後輩の一人からタオルを受け取った和也が笑いながら答える。

 

「第3Qの最初っ!あのレッグスルーからのフックショットはマジで神ってましたっ!!」

「神とか、大袈裟だろ」

「いやいやっ、とんでもない!?マジで凄かったっす!!」

「そうか?」

「はい!!」

 

興奮冷めやらぬ後輩の様子に苦笑しつつ、和也が仕方がないかと半ば諦めていた。それもそのはず、この勝利によって麻帆良学園男子高等部は見事に予選リーグ突破を決めたのだった。しかも全勝だった。

 

「でも、相手も強かったね」

「ああ。本当にギリギリだったな」

「相手は埼玉四強の一つだし、いやー強かった」

「だな」

 

結果は僅差だった。どこかで一つでもボタンが掛け違っていれば負けていただろう。将希のブロックが間に合ってなければ、隆司のスリーポイントが少しでもずれていれば、茂のドライブが止められていれば、大悟が一つでもリバウンドを落としていれば、一つでも何かの要素が欠けていれば危なかった。

 

「明日は決勝トーナメントだが、確か合間に休憩あるよな?」

「ああ。ようやく少しホッと出来るよ」

 

将希と二人、ベンチ下に置いてあった荷物を持ち運びながら話を続ける。

 

「ようやくか・・・」

「流石に二日間連続での試合は疲れるな」

「まぁな」

「一年生が記録してくれた戦績表を見る限り他の強豪も順調に勝ち残ってるし、まだまだ先が思いやられるけどね」

 

将希が眼鏡を掛けてノートをチェックする。

 

「うーん。やっぱり決勝トーナメントに残ってるようなチームにはそれぞれ凄そうな奴がいるなぁ」

「たとえば?」

「○○高校のPG(ポイントガード)。視野が広いし、スティールが上手い。速攻の時にやられると流れを一気に持っていかれる」

「うぇ。そいつ、俺の嫌いなタイプだわ」

「他には××高校のSF(スモールフォワード)もいい。きっとドライブのテクニックとスキルの豊富さでは今大会でナンバーワンだろうね」

「茂よりも凄いのか?」

「茂はどちらかといえば鋭さと速度で突破するタイプだから、少し特徴が違うかな」

「そういえば、そんな感じだな」

「あとは△△高校のC(センター)もいいね。デカイ、上手い、強いの三拍子揃った選手だ。特に身長は高校二年生ながら2mは超えているみたいだ」

「うへぇ。大悟の193cmでもデカ過ぎると思ってんのに、マジかよ」

「PGの和也の181cmも十分デカイと思うけど、まぁ相手は2m超えだからな。こればかりは文句を言っても変わらない」

「確かにそうだな」

 

ここ数年、埼玉県のバスケットレベルは飛躍的に上がっていた。全国でも確実にベスト8に入れる学校が必ず2~3校はあった。特に現在の三年生たちは凄くかった。県大会の決勝戦はまるで全国大会の決勝戦であるかのようにハイレベルな試合だった。

 

「ちっ。そいつらのいる学校が負けてくれれば楽なんだけどな」

「今年の埼玉でそれは難しいだろうね。今日の記録でも順調に勝ち進んでる。明日の決勝トーナメントでは確実にどこかと当たるよ」

 

将希が持っていたノートを閉じる。

 

「本当に楽をさせてくれねーよな」

「そりゃ勝ち残る学校は一つだけだからね」

「・・・嫌な現実だ」

 

和也は鬱々とした気分を誤魔化すように頭を掻いた。麻帆良の実力を疑ったことはない。けれども、確実に勝てると思えるほど自分達が強くないことも和也には分かっていた。昨年度の全国大会に出てきた化け物たちの実力はもっと凄かった。これまで凄いと思ってきた三年生の先輩たちでさえ負けた。上には上がいる。ショックだった。

将希と共に和也は部員たちの最後尾を歩いていた。振り返ってみれば、既に次の試合が始まっていた。残る試合は四試合だった。

和也は後ろ髪を引かれながらもみんなと一緒に体育館を後にした。広場の方へ出ると、増岡を中心にして部員たちによる円が出来ていた。

 

「さて、それじゃあこの後は飯食って午後の試合の観戦といこう。この予選リーグ最大の目玉である○○高校と××高校の試合を観戦したら、今日は解散だ」

 

『はい!』

 

「一時間後にもう一度ここに集合。いつも通りルールは二つ。他人様に迷惑を掛けるな。俺はこの辺にいるから、なにかあれば言いにこい。以上。ひとまず解散」

 

『あざーっす!!』

 

部員たちが三々五々、散らばって飯を食いにいく。問題さえ起こさなければ比較的自由なのが麻帆良バスケ部の良いところだった。

他のみんなと同じように和也も広場から離れる。携帯を見ると、亜子からメールが送られてきていた。どうやら既に体育館から出て、近くまで来ているようだった。場所を確認した和也も亜子たちの場所へ向かおうとして、足を止めた。背後には二人、人の影があった。

 

「ーーーで?なんでお前らは付いてくるんだ?」

「まぁまぁ。どうせ亜子ちゃんたちだろ?じゃあ俺たちがいてもいいだろ、別に」

「そうだ!まだ中学生とはいえ、あんな可愛い子たちの独占なんて、たとえ神様が許してもこの茂様が許さないからな!!」

「・・・好きにしろ」

 

将希と茂を伴って二、三分も歩けば、人垣の向こうから見知った姿が見えた。真っ先に和也たちに気付いたのは先頭を歩く裕奈だった。体をいっぱいに使って裕奈は手を振っていた。そして、そんな裕奈の様子に()()()()も和也たちに気付いたようだった。

 

「おめでとうございます!和也先輩!!将希先輩!!」

「サンキュー、裕奈ちゃん」

「ありがとう」

 

音が鳴りそうな勢いで手を振りながら裕奈が走り寄ってきた。

 

「あれ!?裕奈ちゃん、俺は!?」

「あ、茂先輩。いたんですか」

「なっ!?ひ、ひでぇ!?」

「あはは。冗談ですよ、冗談。茂先輩もおめでとうございます!」

「ありがとう!裕奈ちゃん!!」

 

裕奈と茂が漫才のようなやり取りをしている間に、置いていかれた亜子たちも追い付いていた。

 

「お兄ちゃん、予選突破おめでとう」

「サンキュー。亜子も応援ありがとな」

「ええよ、ええよ。いつものことやん」

 

亜子が当たり前のように答える。亜子が麻帆良に来て以降、サッカー部の試合が重なった日を除けば、ほとんど和也が出場する試合の応援に来ていた。そして、それは亜子の隣にいるアキラもまた同じだった。

 

「アキラちゃんもわざわざ休みの日に悪いな」

「いえ。私もいつものことですから」

「そっか。いつもありがとな」

「はい」

 

横で妙に笑顔を深めた亜子の様子が気になるところだが、それ以上に気になる存在が彼女たちの後ろにいた。いつも四人で行動することが多い亜子たちだが、今日は六人で行動していた。残った二人は、まき絵と一緒に和也たちの前にやって来た。

 

「和也さん!予選突破おめでとう!!」

「ありがとう、まき絵ちゃん」

 

最初に口を開いたのは顔見知りのまき絵だった。

 

「なんか、よく分からなかったけど凄かったよ!こう、ビュンッ!グルッ!スパンッて!!」

 

身ぶり手振りを交えながらまき絵が熱弁する。

 

「明日も応援に行くから、頑張ってね!」

「おう」

 

まるで向日葵のように屈託のない笑顔を浮かべてまき絵が和也を見上げる。いつの間にか手を握られていた。上下に大きく振られる。握手のつもりらしい。

 

「それにしても、お前は来なくてよかったんだぞ、達也」

「てめっ、せっかく応援に来てやったダチに対しての第一声がそれかっ!?」

 

まき絵の手を離し、和也は残った二人組に視線を向けた。そこには二人の男がいた。もちろん、二人は和也もよく知る人物だった。一人は中村達也。珍しく普通に制服を着ていた。休日かつ学園の外であるにもかかわらず制服である、という点を除けば変なところはなかった。

 

「翔もわざわざ応援サンキューな」

「うん。和也も試合、お疲れ様」

 

もう一人は安達翔だった。家を出る前の言葉通り応援に来てくれたらしい。

 

「亜子たちと合流してたんだな」

「まあね。達也と二人で応援するのもいいけど、ちょっと華が無さすぎてね」

「ま、達也と二人じゃな」

「だよねー」

「聞こえてっからなっ!お前ら!?」

「あはは!達也先輩おもしろーい!!」

 

和也と翔のやり取りを聞いていた達也が叫ぶ。いつものやり取りだった。さっきまで必死にバスケットをしていた熱が下がり、落ち着きを取り戻していくのが分かった。

 

「おーい、和也。さっさと飯にしようぜ。剛さんの事だし、遅刻はシャレになんねーぞ」

「それもそうだな」

 

茂に呼ばれ、和也が振り向く。周囲を確認すると、偶然にも開かれた場所が視界に入った。昼食時間は一時間。ルールは徹底順守が信条の増岡のことだ。遅刻でもしようものなら明日が怖い。

将希と顔を見合わせた和也は、亜子たちや翔たちを伴って場所を移動した。

 

「じゃーん!今日のお昼はサンドイッチにしてみました!!」

 

広場の芝生に敷かれたシートの上で、裕奈が元気よくバスケットを開けた。中には鮮やかな色のサンドイッチが入っていた。卵にトマト、レタスにハムと、非常にバリエーションは豊富だった。

 

「悪いな、大変だったろ?」

「んー。みんなでワイワイ作っとったから楽しかったし、別に大変ちゃうかったで」

「早起きしたんだろ?」

「試合は九時からやったし、余裕やったよ」

「そっか。いつもありがとな」

「うん。今度、なんか甘い物でも奢ってくれたらそれでええよ」

「はいはい。分かってるよ」

 

和也が亜子と話をしている間に、既に他のメンバーは食事を開始していた。裕奈と茂がサンドイッチを我先にと取り合い、達也と翔はまき絵と談笑していた。少し距離を感じていたアキラも、今は将希と水泳の話をしていた。

 

「はい、お兄ちゃん。まずはタマゴサンドな」

「サンキュー」

 

和也も亜子が取ってくれたタマゴサンドを食べる。美味かった。時間が経っているにもかかわらず、卵はフワフワのままだった。

 

「美味しいやろ。さっちゃんに教えてもろてん」

「さっちゃん?」

「うん。超包子(チャオパオズ)の料理長でな、メッチャ料理上手い子やねん」

「ああ、超包子か。なんとなく顔は分かった。たぶん、見たことある」

「卵の焼き方とかレタスの保存法とか、時間が経っても美味しい作り方をなろてん」

「だからこんなに美味いのか。凄いな、さっちゃん」

「うちもなろててビックリしたわ」

 

二人で揃ってタマゴサンドを食べ終えると、次はこれとばかりに亜子が野菜サンドを一つとって渡してきた。

 

「今回作ったサンドイッチの中でも一番美味しいんが()()()()()()()やで」

「そうなのか?」 

 

手渡された野菜サンドをじっくり見てみるが、特に変わったところはなかった。スライスしたトマトが新鮮そうな二枚のレタスによって挟まれている。他のサンドイッチ同様、とても美味しそうだった。

 

「うん、美味いな」

「せやろ。それ、自信作やねん」

「へぇ。でも、なんでこいつが一番美味しいんだ?」

「そら愛がーーーあぷっ!?」

 

亜子が何事かを口にしようとした瞬間、横から手が伸びてきた。そして亜子の口を思いきり覆った。あまりに強い衝撃に、亜子は涙目になっていた。

 

「あ、亜子っ、ダメっ!」

 

横を見てみれば、顔どころか首まで真っ赤にしたアキラが亜子の口を覆っていた。

 

「・・・いきなりなにしてんだ、アキラちゃん」

「あっ、こ、これはっ、その、約束がっ!?」

「約束?」

「えっ、あ、ちっ、ちがっ!?」

 

亜子たち四人の中で最も身長が高いアキラが、今はまるで小動物のように小さく頭を振っていた。その大きな瞳は今にも泣き出しそうなほどに潤んでいる。体格が中学生離れしているからかもしれない。その弱々しい仕草に妙な色気を感じてしまう。

 

「・・・取り敢えず亜子が悪いのは分かったから、そろそろ離してやらないと亜子の顔色がヤバいぞ」

「え?あ、亜子っ!?」

 

和也に言われてアキラが亜子の口から手を放した。亜子の顔は少し青白くなっていた。アキラが優しく亜子の背中を撫でる。

 

「大丈夫か?」

「ちょ、ちょっとだけ頭がふらつくけど、大丈夫やで」

「なんかよく分からんが、因果応報ってやつだ。反省しろ」

「あたっ!?」

 

亜子は両手で額を押さえた。予想したよりも和也のデコピンは痛かった。

 

「あたた。なんか、こういう時のお兄ちゃんはいつもアキラの味方やな」

「そりゃ亜子とアキラちゃんなら、どっちがより正しそうなのかは少し考えれば分かるだろ」

「ひ、ひどっ!?」

「基本的にアキラちゃんは大切なことは間違えねーよ」

 

な、と同意を求めてアキラの方を向くと、すぐに顔を逸らされた。アキラと話していると、時折、こういう瞬間があった。やはりアキラとの間にはまだまだ縮めきれない距離感があるようだった。

 

「アキラちゃん?」

「・・・」

 

少し粘って顔を覗こうとすると、和也の動きに合わせてアキラの顔も少しずつ逸らされていく。二回ほどチャレンジしたところで和也も諦めた。耳まで真っ赤にしたアキラの反応に、取り敢えずそういう事かと理解する。

 

「ありがとな、アキラちゃん。このサンドイッチ、メチャクチャ美味いよ」

「ーーーっ!?」

 

和也の言葉にアキラの体が大きく跳ねる。前髪の間から見える大きな瞳が揺れていた。恥ずかしさから逃れるように、アキラは俯きながらサンドイッチに手を伸ばした。果たしてこれはどんな想いによる行動なのか。彼女たちとの今後を思い、和也は一人、誰にもバレないようにため息をはいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日。

 

予選リーグを突破した麻帆良学園男子高等部のバスケットボール部は、この大会をベスト4で締め括ることになった。準決勝で△△高校と当たり、惜しくも敗北を喫した。その差は僅かに三点だった。

 

大会の関係者は挙って麻帆良学園を褒め称えた。昨年度に比べればまだ劣るものの、素晴らしい才能が芽吹こうとしている。このまま順調に育っていけば、昨年度のチームを軽く越えていくかもしれない。期待は非常に高かった。

 

しかし、彼らは同時に口を揃えて同じことを言っていた。もしベストメンバーであるならば、恐らく優勝していただろう。本当に惜しかった。それほどの実力が今の麻帆良にはあった、と。

 

この日の麻帆良はこれまでとは決定的に違っていた。コートの中にも、ベンチにも、応援席にも、それどころか会場のどこにも不可欠な存在がいなかった。

 

ーーー麻帆良学園男子高等部が大会でベスト4を決めたこの日、和泉和也の姿は会場のどこにもなかった。



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第四話

そこは麻帆良にある病院の一室だった。十階建ての病院の七階。その最も奥の個室に二つの人影があった。

一人はベッドの上で寝息をたてていた。心地良さそうに眠る男の胸が、一定のリズムで上下を繰り返す。男がまだ生きているという証だった。

もう一人はそんな男の手を握りながら備え付けの椅子に座っていた。その瞳に光はない。ただベッドで眠っている男を一心に見つめていた。

 

ーーーピッ、ピッ、ピッ。

 

傍らで鳴る機械音が女にとっては酷く不快だった。まるで、男が息を止めるまでのカウントダウンのように聞こえる。女は頭を抱えた。

どうしてこんなことになってしまったのか。昨日まではあんなに普通だったのに。いつもと何一つ変わらずに分かれただけなのに。

涙は既に枯れ果ててしまった。自分が自分でないかのように泣きわめき、そこが女子寮であることを忘れて暴れ狂った。まるで自分の半身を無くしたかのような感覚にさいなまれた。気づけば女は友人たちに付き添われて病院にいた。

いつ目覚めるとも知れない男の横で、女ーーー和泉亜子はすがり付くように男の胸元に頭を置いた。

男の匂いがした。どんな時だって自分のすぐ側にあった匂いだった。少しだけ心の中のざわめきが落ち着いたような気がした。

亜子は改めて男の顔を覗いた。穏やかな表情だった。枯れたと思った涙がまた溢れてきた。

 

「お兄ちゃん・・・。はよ戻ってきてや・・・」

 

亜子の言葉にも男ーーー和泉和也に反応する気配はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでは改めて報告を聞こうかの、龍宮君」

「ああ。分かっているよ」

 

麻帆良学園女子中等部において、中等部二年の龍宮真名は学園長ーーー近衛近右衛門と向かい合っていた。

真名に相対するのは近右衛門を合わせて三人の人物たちだった。近右衛門を守るようにして左右に立っているのは、タカミチ=T=高畑と神多羅木幹雄。各々、この広大な麻帆良学園において決して小さくはない発言力を持つ人物たちだった。

 

ーーーまったく、これじゃ割に合わないな。

 

真名は心の中で小さく呟いた。

発端は、特に何かがあったという訳ではなかった。いつも通りの敵襲だった。関西の術士と思われる男が近右衛門の孫にあたる近衛木乃香を狙っていた。その際、真名は近右衛門と結んだ雇用契約に従って対処したに過ぎなかった。

ただ、そこで一つの問題が生じた。その時、確かに真名の瞳は一人の女を捉えていた。見覚えのない女だった。年の頃は恐らく高校生。麻帆良学園の女子高等部に通う女だった。

そこからの真名の判断は早かった。近くにいた使い魔の処理を相棒の桜咲刹那に任せると、自分は今にも女を襲いそうな別の使い魔の狙撃に移った。遮蔽物はなかった。射程距離も問題ない。あとは引き金を引くだけだった。

そして、真名は静かに引き金を引いた。弾丸は秒速1670mの速さで飛んでいく。避ける時間は与えない。そして真名の放った弾丸が敵の使い魔に当たった。そう。()()()()()使()()()()()()()()()()

しかし、蓋を開けてみれば倒れていたのは女の方だった。敵の使い魔はまるで最初からいなかったかのように姿を消していた。

 

ーーーあれは一体なんだったんだ?

 

真名の頭に再生された光景は、長年、海外で生活してきた彼女にとっても不可解なものだった。

 

「ふむ。なるほどのう。そんな事があったのか・・・」

 

一通りの説明が終わると、真名の予想通り、近右衛門の眉間には深い皺が寄っていた。

その混乱は真名にも分かった。むしろ、彼女こそ現状を最も把握しており、同時に、理解できていなかった。

 

「一応、その一般人の事を調べてみたんだが、見るかい?」

「もちろん、受け取るわい」

 

近右衛門に促され、タカミチが真名の取り出した書類を受け取った。そして中身を確認しながら近右衛門へと渡す。

 

「ふむ。『佐野美優』のう」

「ああ。麻帆良学園女子高等部二年、佐野美優。高等部の女子寮暮らしで部活は薙刀部に所属している。明るく活発な性格で、交遊関係も広い。男女問わず人気があり、クラスでは学級委員長を勤めている」

 

すべて報告書に記されている情報だが、一応、真名は直接近右衛門にも説明する。

女は特に裏と通じるような要素は一つもなかった。殆ど徹夜に近い状態になりながらも真名が調べ、結論は出ていた。彼女は白だ。一般人で間違いはないだろう。

 

「魔法関係者である可能性は限りなく低いだろうね。まぁ、別の意味で神多羅木教諭は彼女に対して指導を入れた方がいいとは思うけどね」

 

真名が視線を送ると、神多羅木は苦笑しながら報告書から目を離した。

 

「これはまた派手な交際歴だな」

「どうやら彼女は自分が異性に好感を持たれやすいという自覚を持っていたみたいだね」

「最近の学生はなんというか、色々と早いなぁ」

 

神多羅木とタカミチ、そして真名が会話を交わす。

厳密に言えば、麻帆良に所属するのではなく、あくまでも近右衛門との個人的な契約関係でしかない真名の麻帆良における立ち位置は微妙だった。しかし、少なくともこの二人は敵対する間柄ではなかった。

 

「この子はもういいじゃろ。龍宮君がこれほど調べても何も出てこぬのであれば、まず間違いなく一般人じゃろうて」

「僕もそう思います」

「高畑先生に同じく」

 

どうやら近右衛門の意見は決まったようだった。二人の魔法先生の意見も同様だ。この件はこれでこのまま処理されていくのだろう。問題はない。いつも通り彼女の記憶を一部だけ消去し、魔法に関わることを忘れてもらうだけだ。

だが、と真名は自らの頭に問いかける。なんだか釈然としない終わり方だった。あの関西呪術協会の術士はいい。所詮、真名やタカミチ、神多羅木らの敵ではない。それに女の方も一般人なら気にする必要もない。

しかし、真名の頭にはまだ問題が残っていた。果たして、あの使い魔は一体なんなのだろうか?

 

「それより問題なのは、龍宮君が遭遇したという鬼じゃな」

 

思考の渦に入り込もうとしていた真名の頭が切り替わる。どうやら近右衛門もまた真名と同じことを考えていたらしい。

おもむろに近右衛門が話を切り出した。

 

「龍宮君の銃弾によるものもそうじゃが、基本的に「返された」使い魔や魔物は術士が用意した寄り代に戻るか、或いは自立型であればその場に寄り代となった物が残るはずなんじゃ。それは決まりじゃ。太古の昔より変わらぬ呪術士たちの法じゃ。そこに偽りはないんじゃよ」

 

近右衛門の言葉通りだった。召喚した使い魔や魔物は、倒されれば術士のもとに返る。それが洋の東西を問わない呪術士たちの決まりだった。

即ち、唐突に()()()()()()()()()()()()なんてことは、本来であればあり得なかった。

 

「だが、間違いなくあの使い魔は私の目の前で消えたよ。それに、術士本人にも呪いは返ってきていないようだしね」

「ふーむ。ワシも長い間生きてきたが、こんな不思議なことは始めてじゃわい。関西の術士はあくまでも『呪術士』じゃ。呪術と魔法は違うんじゃがのう」

 

長い髭を擦りながら近右衛門が唸る。答えはでない。関東魔法協会の長である近右衛門の知識をして答えはでなかった。

時計の針が時を刻む。一分。二分。三分。それでも答えなんて出ようはずもない。圧倒的なまでに情報が不足していた。

 

「ま。私としては雇われている身だからね。一応、耳にいれておいた方がいいと思ったまでだ。答え合わせが出来ないのなら失礼するよ」

 

このままでは埒があかない。時間の浪費は経済的ではない。

真名がそう告げると、近右衛門は了承の意を伝えるように頷いた。

 

「今回の報酬は、いつもの口座に振り込んでくれればいい」

「あい、分かった。明日にでも振り込むように言っておくわい」

 

真名は近右衛門の言葉を聞くと、ひとまず納得したように頷いた。

 

「では、失礼するよ」

「うむ。また頼んだぞい」

「ああ。私は報酬さえもらえれば何でもするよ」

 

一際大きな扉に手を掛ける。無駄に金が掛かっていそうだ。誰もが羨む「権威」というものも、真名に言わせればただ虚しいだけだった。

扉の向こうには人の気配があった。相棒として使い魔たちと戦った桜咲刹那のものだろう。真名の瞳には彼女の姿が既に写っていた。

真名が扉を開けて外に出る。予想通りの人物が彼女を待っていた。

 

「龍宮。報告は終わったのか?」

 

小柄な刹那が真名を見上げながら問う。その傍らには包みにいれたままの真剣が携えられていた。

 

「ああ。丁度終わったところさ」

 

廊下を共に歩きながら真名が答える。

 

「お嬢様はいいのかい?」

「ああ。こんな朝から襲撃してくる輩もいないだろうし、お嬢様には『ちびせつな』を付けている」

「『ちびせつな』?」

「私の式神だ」

「なるほどね」

 

二人は麻帆良女子中等部の廊下を歩いていく。

人は疎にしかいなかった。まだ時間は早い。真名が腕時計で確認すると、時計の針は七時半を指していた。学園長室に入ったのが七時であったことを考えれば、随分と長居をしてしまったらしい。

 

「剣道部の朝練はないのかい?」

 

ふと、思い出した出来事を刹那にたずねる。

 

「今日はいい。昨日のことなら、私もあの場にはいたから無関係ではないからな」

 

刹那は目線すら向けずに淡々と答えた。

 

「そうか。それは件の先輩が残念がりそうだな」

「先輩?」

「いつもお前に挑んではコテンパンにのされている彼だよ」

「ああ、安達先輩か」

 

本気で忘れていたらしく、刹那が彼を思い出すのには僅かばかりの時間を要した。

それは、剣道部では毎朝恒例の風景だった。本人は知らないことだが、桜咲刹那はある種の有名人だ。圧倒的な強さと端麗な容姿を備える彼女は、一部では『氷の剣姫(けんひめ)』と称されている。しかし、ここ最近、そんな彼女に毎朝戦いを申し込む男がいた。名を安達翔という。無論、敵うはずもない。だが、それでも諦めずに挑み続ける男を応援する者は少なくなかった。

 

「安達先輩は決して弱くはない。私との差は積み重ねてきた年月と修練の密度だ。あれほどの貪欲さがあるなら誰と戦っても強くなれるだろう」

「ーーーそういう意味じゃないんだけどね」

「うん?」

「いや、いいよ。まだ刹那には少し早い話だったみたいだ」

 

真名はこれ見よがしに大きく首を横に振った。

お嬢様命である刹那にとって、男子との色恋なんてまだまだ先の話だった。それでも真名の目から見れば刹那も少しは成長していた。少なくとも、以前までの彼女であれば先輩の名前なんて覚えていなかったはずだ。そもそも剣道部に入ったことですら、葛葉刀子に促されてのことだった。

 

「なんだか少し気になる言い方だな」

「なに、そのうち刹那にも意味がわかるようになるさ。人間は生きてさえいれば嫌が応にも大人になるんだ。今はまだ、刹那は刹那のままでいいんじゃないか?」

「・・・なにか誤魔化そうとしてないか?」

「いやいや。気のせいだよ」

 

どことなく釈然としない様子の刹那を横目で見ながら真名は教室までの道のりを歩いていく。

窓から外を見れば、女子サッカー部や陸上部が活動していた。朝早くから元気なことだ。よく見てみれば、同じクラスの春日美空もいた。普段はいたずら好きのサボり魔なのに、グラウンドで朝を流す彼女は溌剌としたスポーツ少女だった。

そして真名と刹那が教室の前に着く。中からはクラスメートの話し声がした。いつもギリギリが多い2-Aにしては珍しい。扉を開けると、中には三人の女子生徒がいた。明石裕奈、佐々木まき絵、大河内アキラだった。

 

「あ、おはよー!龍宮さん!桜咲さん!」

「おっはよー!!」

 

いつも元気なまき絵と裕奈から挨拶が飛んできた。

 

「おはよう。明石、佐々木、それに大河内も」

「おはようございます」

 

真名と刹那も挨拶を返す。

 

「・・・うん、おはよ」

 

元気な二人組に置いていかれる形になったアキラも挨拶を返す。いつも落ち着いているアキラだが、今日の様子はいつもと違っていた。落ち着いているというよりは沈んでいる。悲しさを全身で表していた。

 

「珍しいね、君らが三人でいるなんて。いつもなら和泉も一緒だろう?」

 

不意に、真名がアキラたちへと尋ねた。

彼女たちは四人でいることが多かった。即ち、この場には和泉亜子が足りなかった。

すると三人は顔を見合わせ、一様にしてその表情を曇らせた。どうやら悪いことを尋ねてしまったらしい。アキラに関して言えば、もはや泣きそうなほどだった。

三人を代表して裕奈が答えた。

 

「亜子なら病院だよ」

「病院?怪我でもしたのかい?」

 

重ねて尋ねた真名を前に、遂にアキラは我慢の限界にきたようだった。机の上に腕を重ねて顔を隠してしまった。そんなアキラをまき絵が慰めていた。

なんだろうか、これは。そんなに泣くほどのことを自分は尋ねたのだろうか。意味も分からず戸惑っている真名に答えたのは、またしても裕奈だった。

 

「ううん。ちょっとお兄ちゃんが入院したから付き添うんだって」

「それはなんというか、悪かったね」

「うん。ありがと」

 

朗らかな笑みを浮かべて裕奈が答える。

そして裕奈もまたアキラを慰めに向かった。

 

「もう、アキラは心配性だなぁ」

「だっ、だって・・・っ」

「はいはい。分かってるからもう泣きなさんな。みんなそろそろ来るし、心配するよ」

「う、うん・・・っ」

「まったく、なんのために早く来たんだか」

 

裕奈は優しくアキラの頭を撫でていた。普段の様子とはまるで逆だった。しかし、妙に様になっていた。

 

「・・・ま、身内の不幸なら私には関係ないな」

「そうだな」

 

真名の呟きに刹那が返す。刹那は既に意識を式神に向けているようだった。

結局、アキラはある程度みんなが揃うまで落ち込んでいた。周囲の友人たちに心配されるなか、いつも通り学校は始まる。そして、担任であるタカミチの口から和泉亜子の欠席及びその理由が告げられた。

しかし、ここは年頃の娘が揃った麻帆良女子中等部だ。みんなの関心を誘う話題には事欠かない。一日が終わる頃には、大多数のクラスメートたちの頭から亜子の欠席の理由なんて些事は消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーいつの間にか時間は放課後になっていた。

 

 

目の前で呆然としている大河内アキラの心情を表すと、裕奈の頭にはそんな言葉が浮かんだ。

アキラがこんな風になってしまったのは、昨夜、病院から掛かってきた電話がきっかけだった。

その日の夜は、応援から帰ってきてからみんなで女子寮の部屋で騒いでいた。確か、明日のお弁当の話をしている時だった。病院から電話が掛かってきたのは。

曰く、お兄さんが意識不明で入院している。

曰く、今すぐ来れないか。

曰く、ご両親にも連絡は済んでいる。

その時はじめて裕奈は『人間が呆然とする瞬間』を見た。そしてそのすぐ後だった。亜子が泣き崩れ、まるで子どものように暴れ始めたのは。

アキラの側にはまき絵がいた。同じく唖然として焦点の定まらない目をしていたアキラはまき絵が支えている。ならば自分は亜子を止めればいい。そう判断した裕奈は、裸足で部屋から駆け出そうとする亜子を抱き締めて止めた。友人からあんな親の仇でも見るかのような視線を向けられる経験は、もうしたくない。

尚も止まろうとしない亜子は、駆けつけたいいんちょーーー雪広あやかの手刀によって気を失った。

そこからはあやかの独断場だった。事態を把握したあやかは、携帯電話を片手に色んな手はずを整えてくれた。気付けば、裕奈たち三人はあやかと共に病院にいた。

ガラス越しに見た和也は静かに眠っていた。その姿に亜子とアキラは大声をあげて泣いていた。だからこそ、裕奈は落ち着くことができた。理性的であることができた。

そして次の日。即ち今日。裕奈とまき絵、アキラの三人は部活を休んでまで教室に残っていた。

 

「いいんちょ。今からいい?」

「ええ。もちろんですわ」

 

教室には更にあやかも残っていた。放課後、あやかは三人を病院へ連れていく約束をしていた。

 

「裕奈さんとまき絵さんはまだ冷静ですので構いませんが、アキラさんはーーー」

「い、行くっ、行かせて!大丈夫っ、今はもう落ち着いてるから!」

 

あやかの言葉にアキラは大きく手を上げて答えた。普段の彼女らしからぬ大きな声だった。その瞳は酷く揺れていた。少なくともあやかの目にはそう写った。アキラもあやかにとっては大切なクラスメートだ。

本当に大丈夫なのかと、あやかは正確な情報を得るために裕奈とまき絵を見た。二人は大きく頷いた。

 

「分かりましたわ。それでは雪広財閥の車を用意していますので、そちらに参りましょう」

「うん!」

 

嬉しそうに返事をしたのはアキラだった。裕奈とまき絵は顔を見合わせ苦笑する。元から素直な性格だが、アキラがこういう方向での素直さを発揮するのは珍しかった。小さく胸の前で指を絡める姿は正に乙女のようだった。

あやかの用意した車で移動すること約二十分。車は和也が入院している病院の前へと到着した。

 

「いやぁー、私、リムジンなんて乗ったの生まれてはじめてだわ。流石、いいんちょ。いい車乗ってる」

「ありがとうございます。ですが、厳密に言えばこの車は雪広あやか個人が所有するものではなく、雪広家の所有するものですわ」

「ほぇー。いいんちょの家ってやっぱりすごいんだねー」

 

あやかを先頭にして裕奈たちが車を降りる。病院は裕奈たちの想像以上に大きかった。恐らくそれは麻帆良の中にある病院では最大の規模を誇っていた。経営している人物の名は雪広源蔵(げんぞう)。即ち、雪広財閥の長であり、裕奈たちのクラスメートである雪広あやかの祖父であった。

 

「裕奈!まき絵!早くっ、早く!」

「分かってるから急がないの、アキラ。ここまで来たんだから和也先輩と亜子は逃げたりしないよ」

 

慌てて病院に向かうアキラをたしなめながら裕奈が後に続いた。本当にらしくない。本来これはアキラの役目であって、裕奈はどちらかといえば騒いでいる方が好きなのだ。それが今やその役割は逆転していた。

 

「亜子さんに連絡を入れなくてよろしいんですの?」

 

あやかが裕奈に問う。どうやら誰が最も冷静なのか、あやかも分かっているようだった。

 

「んー、別にいいんじゃない?昨日送ったメールも返ってきてないし、電話の折り返しもない。ダメだね。たぶん亜子、本格的に参ってるかもしれない」

 

携帯電話を片手に裕奈が答える。

 

「それでは直接向かった方が早そうですわね」

「うん。でもいいんちょ、和也先輩の病室とかってもう分かってるの?」

 

昨日、裕奈たちが病院に来た際には集中治療室に和也は運ばれていた。そして、そこから女子寮へ帰宅してからは亜子と一切の連絡が取れなかった。故に和也の入院している病室に関しては誰も分からなかった。

 

「ええ、抜かりはありませんわ。既にフロントを通じて把握しておりましてよ」

 

そう言うと、あやかは一枚の紙を裕奈に渡した。開いてみると、そこには三種類の数字が書かれていた。

 

「そこが和泉さんのお兄様が入院されている病室ですわ」

「『701』ね。分かった!ありがと、いいんちょ!」

「お気になさらなくてよろしいですわ。これもクラスメートの誼。この雪広あやか、委員長として困っているクラスメートを見捨てるような事は致しません」

 

どこまでも優雅に、そして、強い意思をもってあやかが告げた。まるでそれがさも当たり前であるかのようだった。ちょっと感動してしまった。

 

「アキラーっ!置いてっちゃうよーっ!!」

「う、うん!」

 

受付の近くで右往左往していたアキラを拾って裕奈たちはエレベーターに乗り込んだ。向かう先は七階。和也の入院している一室だ。

四人はエレベーターを降りる。目の前のナースステーションを回り、通路の奥に歩みを進める。どうやら七階は共同部屋らしい。どの部屋の前にも二人ないし三人の名前が書かれたプレートが取り付けてあった。

 

「あ、あった。この病室だ」

 

そしてついに裕奈たちは和也の部屋の前に着いた。扉は既に開いていた。手前のベッドでは二人のお爺さんが将棋を打っていた。笑顔で会釈されたので、裕奈たちも揃って会釈を返した。反応は非常にぎこちなかった。

和也のベッドは窓際だった。みんなで顔を見合わせる。そして、裕奈が代表して奥の病床を覆っていたカーテンを開けた。

 

「ーーーなに、これ?」

 

唖然として呟いたのは裕奈だった。

裕奈が得ていた情報では、兄の和也は昨夜から意識不明であり、妹の亜子はそんな和也の様子に憔悴しきっていたはずだった。

 

「ーーーえ?」

 

もう一度、しっかりと裕奈は目をつむる。そして、再度、目の前の光景を視界に入れた。

 

「よ。わざわざお見舞いなんて悪いな、みんな」

 

そこには何事もなかったかのように右手を上げて礼を述べる和也と、そんな和也に優しく頭を撫でられながら眠っている亜子の姿があった。



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第五話

「もう!本当に心配したんですからね!!」

「そーだよ!アキラなんてスッゴく泣いちゃって大変だっんだからーっ!!」

「ま、まき絵っ、それは言わないで・・・っ!?」

「ちょっとっ、裕奈さん!まき絵さん!アキラさん!ここは病室なんですからもう少しお静かにっ!?」

「・・・いや、君も存外、声が大きいからな」

 

裕奈たちが病院に来てから約十分。ずっとこんな調子で和也は責められていた。

 

「そもそも意識不明じゃなかったんですかっ!?」

「いやいや、これでも一時間前までは意識がなかったんだって」

 

最初に吠えたのは裕奈だった。

意識不明というから心配して来てみれば、なんのことはなく、和也は元気そうな姿で彼女たちを出迎えた。どう見ても意識だってはっきりしていた。心配して損をしたとは言わないが、少しぐらい文句を言っても許されるだろう。裕奈の目は鋭かった。

 

「アキラがどれだけ泣いたか分かってるっ!?」

「・・・なんでアキラちゃん?」

「ま、まき絵っ、ほ、ホントに止めて・・・っ!?」

 

次に吠えたのはまき絵だった。

亜子やアキラ、そして裕奈ら友人たちの憔悴した様子をまき絵は見てきた。みんながこれだけ落ち込んでいたのに、当の和也は飄々とした姿で自分たちを出迎えた。少しぐらいムカッときていても許されるだろう。まき絵の目は鋭かった。

 

「あー、その、なんだ。悪かったな、アキラちゃん」

「い、いえ。私もちょっと混乱してて・・・」

 

戸惑いながら答えたのはアキラだった。

今回の一件で最も取り乱していたのは三人の中では彼女だった。電話を受けた時、頭の中が真っ白になった。そこからとにかく落ち込んだ。嘘であればいいと何度考えたか分からない。しかし実際に元気そうな顔を見ると、もう何を話せばいいのかよく分からなかった。アキラの目は回っていた。

 

「えっと・・・」

「雪広あやかですわ」

「そうか。雪広さんも悪かったな」

「お礼は受け取っておきますわ。ですがお気になさらないでくださいませ。少しばかり、クラスメートとの親交を深めただけですから」

 

あやかが和也に対して思うところは特になかった。

クラスメートの兄であり、どうやら何名かには()()()()()()()()として慕われているのだろうという程度だった。ただ、どれだけ裕奈やまき絵から責められようとも、しっかりとその責めを受け止めているところには好感を持った。あやかの目は優しかった。

 

「そっか。サンキューな」

「いえ。クラスメートの窮地に駆け付けるのは、委員長として当たり前の事ですから」

 

あやかの視線が和也から外れてベッドへと向かう。そこには亜子が眠っていた。備え付けの椅子に座っているものの、その体は和也のベッドへと投げ出されている。丁度、和也の太股の辺りにある顔は穏やかだった。安心した笑みだった。余程良い夢を見ているらしい。

 

「亜子さんは目を覚まされたことをご存知で?」

 

いまだ裕奈とまき絵によって質問攻めにされている和也にあやかが尋ねた。

 

「ああ。目を覚ましたら思い切り泣かれたよ」

 

苦笑しながら和也が答える。

 

「兄妹で仲がよろしい事は良いことですわ」

「まあ、今回は心配をかけたからな」

 

和也が優しく亜子の頭を撫でる。さらさらと、綺麗な髪の間を和也の手が通っていく。前髪の間から覗く亜子の目元は赤い。亜子は泣き疲れて眠っていた。

そんな亜子の様子を見ていると罪悪感が身を染める。まだ中学生に過ぎない妹にここまで心配を掛けるなんて情けない。

 

「昨日の様子から察するに、よほど心配だったのでしょう。なにがあったのかは存じ上げませんけれど、あまり妹に心配をかけるようなら兄失格ですわよ」

 

あやかの言葉に和也も大きく頷いた。

 

「そうだな。雪広さん、君の言う通りだと思う」

「今後はこういう事のないようにお願い致します」

「ああ。本当に心配かけて悪かったと思ってる」

 

和也は深々とあやかたちに頭を下げた。

 

「分かって頂けているならこれ以上は何も申しません。今後はもう少々、亜子さんの事を考えてあげてくださいませ」

「そのつもりだ」

 

再度、和也は亜子の頭を優しく撫でた。その感触と温もりに、亜子が僅かに身を揺する。しかしすぐにまた心地良さそうな寝息を立てた。

なんとなく、みんなが揃って亜子の顔を覗く。本当に穏やかで、心の底から安心した表情だった。幸せそうで、癒される。

 

「昨夜は寝てなかったらしいからな。今ぐらいはゆっくりと眠らせてやろう」

「そうですわね。みなさん、もう少しお静かにしてあげましょう。亜子さんが起きてしまいます」

 

和也とあやかの言葉に残りの三人も頷いた。

みんな、今の亜子が疲れきっていることは分かっていた。昨日の様子を見ていれば、彼女がどれほど心労を蓄えているのかは窺い知れた。

裕奈が、まき絵が、アキラが、それぞれが穏やかに眠る亜子のことを優しく見つめていた。

 

「でもさ、和也さん。ホントになにがあったの?」

 

改めてみんなが椅子に座って一息つくと、徐に尋ねてきたのはまき絵だった。

 

「亜子とアキラがビックリするぐらい反応してたから逆に落ち着いちゃったけど、実は私もビックリしてたんだよね」

 

あははー、とまき絵は呑気に笑う。

その姿はどこかおどけているようだが、それが意図的ではないところが彼女の凄いところだった。

 

「いや、実は俺もよく分からないんだよ」

「どういうことですか?」

 

アキラが首を傾げる。他のみんなも反応は似たり寄ったりだった。

 

「一昨日の夜は普通に家に帰って、ちょっと小腹が空いたからコンビニまで出掛けたんだ」

 

一昨日の行動を和也はゆっくりと思い返す。

 

「翔ーーー同室の奴と一緒に行く予定だったんだが、ちょっとやることがあるらしくてな。結局、俺一人で出掛けたんだが」

 

和也はそこで一呼吸置いた。

 

「コンビニでカップ麺と缶コーヒーを買って店を出たところまでは覚えてるんだけどな」

 

そのあとの事はよく覚えていなかった。まるで頭に靄が掛かったかのようにハッキリとしない。急に気が遠くなったと思ったら、ついさっき目を覚ました。そして、そこが病院であると理解する前に亜子が飛び付いてきた。そのあと三十分ほど泣かれた。あんなにも泣き崩れた亜子を見るのは、これで三度目だった。

 

「医者が言うには、なんか親切な人が電話で救急車を呼んでくれたらしい」

 

しかしその電話でさえ、病院に掛かってきたのは行方不明になった翌日の話だった。土曜の夜から日曜の夕方まで、果たして一日もの間、なにをしていたのか和也自身にも分からなかった。

 

「どんな人だったんですか?」

「分からない。どうやら救急車が着いたときにはもういなかったらしい」

 

和也は肩をすくめて言った。

どこの誰かは知らないが、命の恩人なら礼の一つぐらいは言わせてもらいたかった。

 

「不思議なこともあるものですわね」

「俺もそう思う。結局、声の調子から男性だろうってことしか分からなかったからな」

 

探すにしろ、あまりにも手掛かりが少なすぎた。麻帆良学園都市という巨大な空間において、果たして男性がどれほどいるのか。想像もしたくない。

 

「助かったのは助かったけど、俺自身、何が起きたのかは知りたいんだけどな・・・」

 

残念だ、と小さく和也が呟いた。

自分を助けてくれた感謝も伝えたいが、それ以上に、自分の身に何が起きたのかを知りたかった。意味も分からず気を失い、一日以上も眠っていたなんて、なんとも気味が悪く、そして恐ろしい話だった。

 

「分かりましたわ。この件はこの雪広あやかがお預かりします」

 

強い意思の込められた瞳であやかが答えた。

 

「いやいや、流石にそこまでしてもらうのは雪広さんに悪い。この件は忘れてくれ」

 

そこまでしてもらう恩も縁も義理もない。

和也が断りを入れると、あやかは口元に白魚のような手を添える。その仕草はどこまでも流麗で、上品で、まるで絵本から抜け出してきたかのようなお嬢様だった。

 

「ここまで来れば、もう乗り掛かった船ですわ」

 

それに、とあやかが言葉を続ける。

 

「私も少し、みなさんがお慕いしている男性に興味がありまして。この場で切ってしまうには少々惜しい縁ですわ」

「ちょっ、いいんちょっ!?」

 

あやかの言葉に焦ったように声をあげたのは裕奈だった。

周囲を見てみれば、まき絵はよく意味が分からずに首を傾げている。バカレンジャーには難しい言い回しだったらしい。

次いでアキラを見る。そこには顔を赤くしたアキラが意味もなく右手を宙にさ迷わせていた。まき絵とは違った意味で難しい言い回しだったらしい。

裕奈は大きく息をはく。なんだか焦っているのがバカらしくなった。もういいや、と再び席につく。

三人の様子を満足そうに伺ったあやかが、楽しそうに笑った。

 

「なんというか、本当に分かりやすいですわね、みなさん」

 

その姿は可憐な花のようで、本当に可愛らしく、愛らしい。その淡く仄かな想いは、見るものを惹き付け、思わず背中を押してあげたくなる。

 

「止めてやれ、雪広さん」

 

その悪戯めいた行動を和也が止める。

 

()()()()()()()慕ってくれてる子たちだ。俺にとっても大切なんだ。そういじめてやるな」

 

和也は少し言葉を強調させながら答えた。

反応は四者四様だった。

 

「フフフ。これは冗談が過ぎたようですわね」

「色々と心臓に悪い話だ」

「では、次は心に痛いお話をいたしましょう」

「・・・勘弁してくれ」

 

額を押さえた和也の姿にあやかは上品に笑った。

ふと病室の時計を見ると、午後五時半だった。あやかたちが和也の病室を訪れてから、既に一時間が経とうとしていた。

 

「あら?もう、五時半ですか」

 

どうやら和也と同じようにあやかも時間を確認したようだった。

 

「では、私たちはこの辺りで失礼いたしますわ」

 

スカートの裾を払いながらあやかが立ち上がった。

 

「えぇー。もうちょっといいじゃん!いいんちょ!!」

「そうだよ!まだお話したいことが山ほどあるんだから!!」

 

声を張り上げて文句を言うのは裕奈とまき絵だった。

 

「いけません。和泉先輩もまだ起きられたところなのですから、長居をしてしまっては疲れさせてしまいますから、今日のところは帰りますわよ」

「ええーっ!」

「もっとお話したいのにーっ!」

「なにもお見舞いに来れる日は今日だけではないのですから、我慢なさい」

 

食い下がる二人は遂に首根っこを掴まれる。そして、そのままズルズルと引き摺られていく。

 

「いっ、いいんちょっ!ストップっ!!おしりっ!おしりが擦れてるからっ!?」

「裕奈さん、もう少しお静かに退場いたしましょう」

「あぅーっ、かずやさぁーん!」

「まき絵さんも、いい加減にしつこいですわよ」

「ほ、ほどほどにしてやれよー」

 

あやかの強引な手腕に思わず和也の声も小さくなる。

片手で人を引きずるにはそれなりの力がいる。それを同時に二人。しかもそれぞれ片手ずつで引きずるあやかの力は外見からは到底想像もできない。

 

「それじゃあ和也さん、また来ます」

 

あやかの後ろを大人しく付いていきながらアキラが頭を下げる。

 

「おう、サンキュー。でも無理はしなくていいからな」

「はい。分かってます」

 

優しくアキラが微笑む。とても愛らしい。こうして接していると、当たり前だが年相応の中学生だった。

 

「亜子が起きたら「お疲れ様」って伝えておいてください」

「分かった。確かに伝えとくよ」

 

こうしてアキラたちは病室を去っていき、再び静かな雰囲気が戻ってきた。

足元では尚も心地良さそうな寝息をたてる亜子がいた。お見舞いに来てくれた人と賑やかに過ごすのも嫌いではないが、こうして落ち着いて兄妹の時間を過ごすのも悪くはない。

隣から聞こえてくる木の打つ音に身を任せ、和也もまたゆっくりと意識を手放したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「起きろっ、和也!見舞いに来てやったぜ!!」

 

頬を叩く音と微妙な痛みで和也が目を覚ますと、そこには達也がいた。

 

「なにすんだよ、このボケ」

「見舞いだぜっ、見舞い!わざわざ来てやったのに、お前が寝てちゃ面白くねーだろ!」

「こっちが病人だって分かってるか?」

「もう大丈夫なんだろ。じゃあ多少騒いだところで平気だって、へーき、へーき」

「・・・まぁ、いいけどよ」

 

遠慮を知らないかのように達也は椅子に座った。

達也は相変わらずの胴着姿で、どうやら今日の修練を終えたところのようだった。制服ではなく胴着であるところがいかにも達也らしかった。

 

「いい加減、制服ぐらい着ろよ」

「嫌なこった。俺は可能なら一日中だって胴着を来てたいんだよ」

「でもお前、刀子先生の前だと制服じゃねーか」

「バカ野郎!世話になってる人の前でそんな事出来るわけねーだろうが!!」

「・・・あっそ」

 

あまりの変わり身の早さに呆れてものも言えない。まぁ、別に関係あるのは達也だけなので好きにしてくれればいいのだが。

自由に振る舞う達也を見ていると、和也が違和感に気づいた。ついさっきまで椅子に座り、和也の眠るベッドに倒れこんでいた亜子の姿がなかった。

 

「あれ?亜子はどうしたんだ?」

 

勝手に冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出して飲み始めた達也に尋ねる。

 

「亜子ちゃん?」

「ああ。さっきまでお前が座ってる椅子に座ってたと思うんだか・・・?」

 

和也が重ねて問い掛けると、達也は紙コップを置いた。

 

「亜子ちゃんならさっき財布持って出掛けてったから、お菓子でも買いに行ったんじゃねーの?」

「そうか。まぁ、もう六時過ぎだしな。病院内にいるのが分かってるならそれでいい」

「その内帰って来んだろ」

「そうだな」

 

達也が頷く。そしてその手が再び冷蔵庫に向かった。目的は板チョコだった。

 

「これ、貰うぜ?」

「べつに構わんけど、貰い物だから食い過ぎんなよ」

「分かってるって」

 

嬉々として達也は板チョコを食べ始めた。

自由というよりは勝手気ままに振る舞う達也を見ていると、次第に肩の力が抜けていく感覚になる。

こういう変化を狙ってやっているのならば凄い奴だが、残念ながらそこまで達也に器用さはない。何も考えずとも出来てしまうからこそ中村達也は凄い奴なのだ。

 

「そういえば、昨日の事なんだがよ」

 

板チョコを完食した達也が、まるで様子を伺うように和也を見ていた。

珍しくも精悍な顔付きだ。武道の修練に励んでいる時のようだ。どうやら真面目モードに切り替えたらしい。

 

「お前、コンビニの前でぶっ倒れる前に森の方に行ったか?」

 

不思議な質問だった。質問というよりは確認に近かった。

 

「いや、行ってないけど、それがどうかしたのか?」

 

昨日の記憶を辿りながら和也が答えた。

 

「んー。行ってないんなら見間違いだろうし、それで構やしねーんだけどよ・・・」

 

何処か言いづらそうに達也は言葉を渋る。

 

「なんだよ。ハッキリ言えよ気持ち悪い」

 

和也は続きを促した。こうもハッキリとしない達也の姿は珍しかった。

達也は頭の後ろを掻くと、やはり言いづらそうにしながらではあるものの話を続けた。

 

「なんか一昨日の夜、お前を森の方で見たって奴がいたからよ、ちょっと気になったんだよ」

「ふーん。それ、誰だよ」

「誰かは俺も知らねーよ。なんか体操服を着た女子たちが話してたのを聞いただけだしな」

「・・・お前、放課後の麻帆良学園に体操服姿の女の子が何人いると思ってんだよ」

「だから言いたくなかったんだよっ、ちくしょーっ!!」

 

達也の話に身に覚えはなかった。

昨日は間違いなく、和也は部屋から直接コンビニに行き、そして気を失ったはずだった。そこまでは記憶もハッキリしている。そのあたの記憶は定かではないが、そこまでは真実であるはずだ。

 

「達也じゃねーんだから、流石に俺も影分身なんて使えねーぞ」

「む?安心しろ、俺も()()無理だ」

 

()()、と前に言葉がついているあたり、そのうち達也なら完成しそうだと思う。少なくとも漫画やアニメの世界でしか見たことがない「気」なんてものを使える時点で可能性はゼロではないだろう。

 

「じゃあやっぱり見間違いみたいだな」

「ああ。ま、よくある顔だからな」

「確かに」

 

大きく達也が頷いた。

 

「ーーーよし、そこに立って腹に力を込めろ。なに、時間は掛からんし、痛みもない。ちょっと呼吸ができなくなるだけだ」

「なにするつもりだっ、テメェ!?」

 

飛び上がって距離をとる達也。さすが武道を志す者だ。その反応は明らかに一般人とは一線を画していた。

警戒しながも達也は再度、椅子に座る。そして、顔を見合わせ二人で笑う。バカみたいに。この雰囲気が好きだった。

 

「おや?中村君も来ていたんですね」

 

不意に、そんな声が聞こえた。

達也と揃って入り口を見てみれば、そこには和也たちの担任である葛葉刀子が立っていた。こちらも同じく見慣れたスーツ姿。相変わらず惚れ惚れするような美人だった。

 

「刀子先生、どうしたんすか?」

「「どうしたんすか?」じゃありませんよ。まったく、どれだけ心配させれば気が済むんですか、貴方は」

 

鋭い目で睨み付けながら刀子が近付いてきた。

美人ほど怒れば怖いと言うが、まさに今の刀子は震えるような凄みがあった。その迫力にあてられて、達也は椅子から立ち上がって刀子のために場所をあけた。

 

「・・・もうちょっと頑張れよ、武道家」

「無茶言うな!?不可能ってのはなっ、頑張っても不可能だから不可能なんだよ!?」

 

まるで怯える子犬のような反応だった。情けない。気持ちはわかるが、情けない。男子高等部二年一組の生徒なら全員同じ反応をするだろうが、情けない。

 

「・・・なにか言いたいことがありそうですね、和泉君?」

「なっ、なんもないっす!はい!!」

「そうですか。それならいいんですが、ね」

 

そう言って刀子は腰に帯びた刀の柄に触れた。

それは本気で刀子が怒っている時に出る仕草だった。瞬時に和也と達也は悟った。マズイ。これは逃げられないやつだと。

首もとに()()()()()()()()()()()を感じた。

 

「貴方は私に恨みでもあるのでしょうね、和泉君」

 

椅子に腰を下ろした刀子は笑顔だった。見惚れてしまうほどに綺麗で、そして、恐ろしい。綺麗な花にはトゲがある、なんて言い出したのは果たしてだれであっただろうか。

 

「いや、その、恨みなんてそんな恐れ多いーーー」

「え?何か言いましたか?」

「・・・いえ」

 

刀子の笑みが深まると同時に和也の背筋に冷たい汗が流れる。

なるほど、どうやら本当の意味で死ぬのは今日らしい。

 

「土曜日の夜から行方不明になり、日曜日の夜に発見され、あげく月曜日の夕方に目を覚ます」

「うぐっ」

「あれだけ早く眠るように言っていたのに、わざわざ夜更けにコンビニに行くからこういうことになるんですよ」

 

刀子のイライラが伝わってくるかのようだった。

この人は怒るべき時には怒る人だ。それが生徒のためと思えば周囲のことなんて気にもとめない。ただ真っ直ぐに生徒のことを考えている人だ。だからこそ、彼女の感情は生徒たちにもよく伝わってくる。

 

「申し開きもありません」

 

自分に出来ることを考えた結果、和也に出来ることはただ頭を下げることだけだった。

 

だって、考えてもみてほしい。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

いつもならパリッと着こなしているはずのスーツが妙に汚れていた。

 

男なら誰もが見惚れるはずの顔は酷く疲れているように見える。

 

綺麗にセットされているはずの流れるような髪も今は乱れている。

 

もう一度言おう。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「土曜日の夜から日曜日に発見されるまでの間、貴方のことを探しました」

 

 

ーーー声が震えていた。

 

 

「行方不明と聞いて、最悪、貴方はもう死んでしまっているのかと思いました」

 

 

ーーー頭を上げることが出来なかった。

 

 

「必死に、必死に探しました」

 

 

ーーー自分の手は拳を握っていた。

 

 

「もう一度だけ言います」

 

 

ーーー耳に、響く。

 

 

「貴方は私に恨みでもあるんですか?」

 

 

ーーー答えはなかった。



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第六話

和也の退院は思っていたよりも早かった。

約一日の行方不明。発見されてからも意識を取り戻すのに一日かかった。事件性があり、警察からの取り調べもあった。その合間をぬっての診察は、正直、ひどく退屈だった。

たったの一週間程度だが、それでも和也が現状を嘆くには十分な時間だった。

 

「ついに、戻ってきたのか・・・っ」

 

久し振りの教室を前に、思わず胸が熱くなった。

たったの一週間ほど学校に行けなかっただけなのに、不思議と何ヵ月も通ってなかったかのような感覚だった。かつてこれほどまでに自分のクラスを懐かしいと思ったことはなかった。

 

「おはよーさん」

 

教室に入り、取り敢えずクラスメートたちと挨拶を交わす。

 

「あ、和也じゃん。おはよう!」

「おっひさー。この一週間入院だって?大変だったな」

「重役出勤とは羨ましいじゃねーかよ。俺も一週間ぐらい休みたいぜ!」

 

一部のバカを除いてそれぞれが普通に、これまでとなにも変わらず挨拶を返してくる。当たり前だが、このやり取りすら懐かしい。病室にはお爺ちゃんたちしかおらず、やはり同年代との会話に飢えていたのだろう。

 

「で?そこのバカはバカにもかかわらず、人のことバカみたいにバカにしてんのか?」

「人のことをバカバカ言い過ぎなんじゃねーかなっ、おい!?」

 

一週間の間を置いても変わらない会話だった。クラスメートたちも既に慣れた光景であり、みんな適当に二人の会話を流していた。喧嘩するほど仲がいいらしいが、少なくとも和泉和也と中村達也は友人だった。

 

「でもさ、なんだかんだ言いながらも友達思いだよなー、達也って」

「そうそう。俺もこの前、不良に絡まれてるところを助けてもらったし」

「俺の時なんて、風邪引いて休んだ時にわざわざノート持ってきてくれたぜ」

「あ!俺も、俺も!」

 

クラスメートたちの声は当然、達也の耳にも入っていた。横を見れば、耳まで真っ赤にした達也がいた。

そういえば、と思い出す。結局、この一週間で裕奈たち四人やバスケ部のメンバー、そしてクラスメートと多くの人が病院に来てくれた。でも一週間、毎日顔を見せに来てくれたのは亜子と達也、そして刀子の三人だけだった。

 

「止めろよっ、お前ら!?照れるだろうがっ!?」

 

羞恥に負けて達也が叫ぶ。

ただ、その程度でへこたれない奴らが集まっているからこそ、刀子をもってしても苦労するのが男子高等部の二年一組だった。

 

「それをストレートに言っちゃうところが達也だよな」

「本当にな。普通、照れるなんて素直に言わねーぞ」

「まぁ、達也だし?」

「達也、バカだからなー」

「あっはっは」

「お前ら人をバカ扱いすんのもいい加減にしとけよっ!?」

 

クラスメートたちにからかわれながら暴れる達也をみていると、ひしひしと日常を感じる。

同時に、クラスメートたちからの気遣いにも感謝した。久し振りの登校で妙な雰囲気にならないように敢えて()()()()()()()()()()()でいてくれている。本当に友人たちに恵まれたものだった。

 

「なんだか随分と今日は賑やかですね」

「俺も不思議なんですけど、妙にテンションは上がってます」

「ほどほどにお願いしますよ」

「分かってます」

 

教室に姿を表したのは刀子だった。相変わらず惚れ惚れするほどにスーツ姿を着こなしている。これほどの美貌やスタイルを持っていながらも彼氏がいないのは、全くの謎だった。

そして、刀子の登場と共にクラスの騒然とした様子はおさまりを見せる。刀子による教育の賜物だった。

そしていつものようにホームルームが始まり、刀子が連絡事項を伝えていく。

 

「週の終わりに久し振りの登校で気分が高揚している子もいるみたいですが、学生の本分は勉強です。将来のためにも今、しっかりと学びなさい。騒ぐのも結構ですが、切り替えは大切ですよーーーーー分かっていますよね?」

 

最後の言葉でクラスの中に緊張が生まれた。刀子は笑顔だが、その言葉は鋭い抜き身の刀のようであった。

連絡は以上です、と刀子は手に持っていた出席簿を閉じた。それだけで、男子高等部二年一組は再び騒がしくなった。そこら中で元気のいい声が響き渡る。刀子も注意はしない。やるべき時にやればそれで構わない。それが刀子がつくったクラスのルールだった。

 

「それと、和泉君は少し話があるのでついてきなさい」

 

同時に、刀子が和也を呼び出した。

別段、珍しいことではない。和也自身も忘れがちだが、一応、クラスの委員長であった。

 

「どうしたんすか?」

 

和也が廊下に出ると、刀子は妙に難しい表情を浮かべていた。

 

「学園長が呼んでいます」

 

刀子は額を押さえながら答えた。

 

「学園長が?」

「はい」

 

刀子の返事に和也は首をかしげた。

麻帆良学園都市をまとめる学園長は、基本的に学園に通っている一生徒と会ったりはしない。一つの教育機関としては日本最大の敷地面積を持ち、所属する職員数も麻帆良学園は同じく日本最大だ。その頂点に君臨する学園長なんて、和也たちにとっては雲の上の存在だった。

ちなみに、和也はこれまで毎年一度の頻度で学園長には会ったことがあった。それは決まって四月の始め。奨学金の書類に判子を押してもらう時だった。

 

「人違いじゃないですか?」

「いえ。間違いなく貴方を呼んでいます」

「まだ二月ですよ?」

「分かっています」

「・・・俺、なにかしましたっけ?」

「・・・私が訊きたいくらいです」

 

確認してみるものの、どうやら確実に和也を呼んでいるらしい。

これまでは奨学金という明確な理由があったからこそ気にも留めなかったが、今回は理由もよくわからない。背筋に嫌な汗が流れた。

 

「分かりました。なんか凄く嫌な予感しかしないんで、かなり行きたくないんですけど、取り敢えず行きます」

「私も担任として同行するので、放課後は空けておいてください」

「了解っす」

 

和也が返事をしたところで丁度、チャイムが鳴った。予鈴だった。途端に教室の中でバタバタと激しい足音が響いた。授業の用意をする音だった。

 

「・・・さすが、よく教育されてやがる」

 

改めて、今年の四月最初の授業日を思い出す。

あの日に起こった『葛葉刀子抜刀事件』は男子高等部では伝説だった。事件の中身はなんのことはない。ただ単に、刀子が二年一組全員の心をぶった斬り、そして、()()()()()だけだ。

それ以降、この二年一組というクラスはいつもこんな感じだった。

 

「相変わらず仲がいいようだな、お二人さん」

 

唐突に、頭を軽く叩かれた。

振り返って見れば、そこにいたのは男子高等部で数学を担当している神多羅木幹雄だった。

 

「一週間ぶりだな、和也」

「うっす」

 

サングラスに黒い髭、短髪ながらオールバックにした髪型は、まるでドラマや映画にでも出てくるヤクザのようだ。今日も黒いスーツがきまっている。

この見た目であるにもかかわらず、女子高等部の生徒や保護者たちからの人気は凄まじく高いのだから、人は見た目だけではない。

そしてなにより、その渋い風貌に憧れている男子高等部の生徒は意外と多い。敬愛をもって「ヒゲグラ先生」と呼ばれるほどに影響力はあった。

 

「取り合えず、退院おめでとうと言っておこう」

「ありがとうございます」

「大変だったみたいだが、戻ってきたならしっかりやれよ」

「はい」

 

トレードマークのグラサンで表情は見えないが、その口元は確かに笑っていた。クラスの男子たちみたいに馬鹿笑いはしない。この人はこうして小さく笑うのだ。

そして神多羅木の場合、単に教え子の無事が嬉しいという理由だけではないことも、和也には分かっていた。

 

「お前がいない期間、色々と大変だったぞーーーーー葛葉がな」

「ちょっと待ってください、神多羅木先生。一体、なんの話をしているんですか?」

 

クツクツと神多木は喉を鳴らして笑う。

 

「これはあくまでも内密の話だがな、和也。お前が行方不明だと知った時の葛葉の慌てぶりは見物だったぞ」

「ちょっ!?なにを口走ってるんですか!?」

 

目を剥いた刀子が睨み付けるが、神多羅木は飄々と話を続ける。

 

「飲んでいた紅茶を書類の上にぶちまけたり、授業のクラスを間違えたり、挙げ句の果てには何もない場所で勝手に転んだりしていてな。いや、あれは後処理が大変だった」

「神多羅木先生っ、一度、口を閉じましょう!そして暫く開かないでください!!」

「む。ああ、すまんすまん。忘れてたが、これは口止めされていたんだったな」

「最初に自分で「内密の話」って言いましたよね!?」 

「おお、そうだった。じゃあ秘密だからな、和也」

「「じゃあ」ってなんですかっ、「じゃあ」って!?違いますよ!違いますからねっ、和泉君!!神多羅木先生の話はすべて作り話ですから信じないでくださいね!!!」

「愛されているな、和泉」

「貴方はいい加減に黙りなさいっ!!」

 

この二人が絡んだ場合、ほぼ毎回のようにこんな状態だった。一方的に刀子が弄られ、神多羅木はその様子を面白そうに眺めている。実はかなり仲がいいのではないか、と和也は睨んでいたりする。

 

「あー・・・その、ありがとうございます?」

「良かったな、葛葉」

「和泉君も答えないでください!!!」

 

何故か刀子の矛先が和也へと向いた。

 

「大体、貴方が夜に一人でフラフラとコンビニなんか行ってるから悪いんです!」

「なっ!?それはもう何度も謝ったはず!?」

「知りません!ええっ、そうで

す!すべて貴方の夜更かしが悪いんです!!」

「そんな横暴な!?」

「ーーーっ、もう知りません!!」

 

失礼しますっ、なんて怒りながら刀子の背中が遠ざかっていく。

理不尽だと思わないでもないが、そんなことは口に出来ない。これ以上は確実に放課後の説教コースは間違いなかった。

 

「あとで機嫌を取っておけよ、和也」

「もとは誰の責任だと思っていやがるっ?」

 

自分よりも更に身長の高い神多羅木を睨み付けるが、そんなことはまるで意に介した様子もない。

 

「なに、アイツもこれで少しは「らしく」なっただろ?」

「・・・ちっ」

 

ニヤリと口元が笑った瞬間を和也は見逃さなかった。

それでも文句の一つも言えないのは、先日の見舞い以降、少し刀子との距離感を見失いかけていたからだった。

あの日、初めて葛葉刀子という人間が泣く姿を見た。もちろん、刀子は人前では泣かないし、それが生徒の前では尚のことだ。生徒の前ではカッコよくしていたい。だからこそ弱いところは決して見せない。目から涙は溢れていなかった。

しかし、()()()()()()()()()()()()()()

その出来事以降、少しばかり見失っていた距離感が戻ったような感覚だった。

 

「別に礼はいらんが、あとで自分のフォローはしておけよ。アイツはあれで、拗ねると長い」

「・・・分かってますよ」

「フ。それならいい」

 

憎たらしいほど神多羅木は余裕な笑みを浮かべていた。これが大人だった。いろんな意味で、まだまだ勝てる気がしない。

 

「・・・その内、絶対にアンタを超えてやる」

 

身長でも、中身でも。ある種の憧れの念を抱いているからこそ、なんとなく悔しかった。

 

「お前はお前で可愛い奴だな」

 

クツクツと喉を鳴らして笑いながら、神多羅木が和也の頭をグシャグシャにする。

そして、再び軽く頭を叩かれる。さっきは気付かなかったが、どうやら獲物は教科書だった。

 

「さて、授業だ。お前もさっさと教室に入れ」

「・・・うっす」

 

丁度、チャイムが鳴った。

我らが男子高等部二年一組の本日最初の授業は数学だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します、葛葉刀子です」

 

刀子の声がいつもとは異なる廊下に響いた。

放課後になり、現在二人がいるのは男子高等部の校舎ではなく、女子中等部の校舎だった。

いつものバカな男たちしかいない空間を出ると、まったくの異世界のように感じる。しかもここは女子しかいない女の園だ。和也の存在は完全に場違いだった。果たして学園長室の前に来るまでに、どれほど奇異の目で見られたのか分からない。隣に刀子がいなければ間違いなく逃げ出していただろう。

 

『うむ。入りたまえ』

 

部屋の中からは老人の声がした。麻帆良学園の学園長である近衛近右衛門の声だった。

 

「失礼します」

 

刀子の後ろに続き、和也も学園長室の中へと入っていった。

荘厳とした佇まいの割に、学園長室の中は意外と普通だ。権力者というのは往々にして己の威を示したがるものらしいが、少なくとも近衛近右衛門には当てはまらないらしい。

学園長室の中には、和也たちを除くと四人の人物がいた。

 

「やあ。久し振りだね、和泉君」

「げっ、デスメガネかよ・・・」

 

最初に声を掛けてきたのはタカミチ=T=高畑だった。

いつもの遅刻は神多羅木が担当しているが、回数を重ねていくとたまに現れるレアキャラ。これまで何度か和也も顔を合わせた事があるが、即ち、言ってしまえば天敵だった。

 

「君!高畑先生になんという言葉づかいをしているんだ!?」

「えっと・・・、すいません、だれっすか?」

 

二人目は肌の浅黒いガタイのいい男だった。見覚えはない。初めて見る男だった。

 

「私はガンドルフィーニという。麻帆良学園女子高等部を担当している者だ」

「はあ?」

「それよりも、だ!君も高校生ならその言葉づかいをなんとかしたまえ!!」

「・・・えっと」

 

なんなのこの人、と若干の非難を込めた視線を隣へ向けてみれば、刀子はすぐに視線をそらした。どうやらこの人を苦手としているのは彼女も同じらしい。

それならとばかりに和也は三人目へと視線を向ける。

 

「ーーーーー」

 

黒いサングラスの奥で、目が楽しそうに笑っているような気がした。どうやら助ける気はないようだ。むしろこっちの困った様子を嬉々として見ているらしい。なんて教師だ。

 

「聞いているのかねっ、君は!」

「はいはい。聞いてますよ、えーと、ガンドル先生?」

「ガンドルフィーニだ!」

 

どうやら頭の固い人らしい。憤慨しながら和也に向かって一歩を踏み出した時、ガンドルフィーニを止めたのは最後の人物だった。

 

「これこれ。もうそろそろその辺にしておかんかの、ガンドルフィーニ先生」

 

最後の一人は言わずもがな、この部屋の主である学園長ーーー近衛近右衛門だった。

以前、和也がその姿を見かけたのは昨年の四月のことだった。それ以来、一度たりとも目にしたことはなかった。

 

「和泉和也君じゃったな?」

「はい」

 

名前を呼ばれ、返事をする。深みのある声だった。まるで()()()()()()()()()()()()

かのようだ。

 

「昨年の四月以来じゃから、随分と久しいのう。息災であったかな?」

「まぁ、はい。一週間ほど入院していましたけど、それ以外は特に問題はないかと思います」

「それは大変じゃったのう」

「でも特に何もなかったので気にしてません」

「ふむ。なるほどのう」

 

笑みを深めた近右衛門には何かよく分からない凄みがあった。高畑とも神多羅木とも異なる妙な威圧感。ここに達也がいれば何かしらを答えてくれるのかもしれないが、残念ながら今はいない。

 

「それにしても、中学一年生の頃から数えて五年間もの長い間、よく精進してきたのう」

「ありがとうございます」

「このまま学費全額免除に値する学年上位五%を維持できれば、大学の方の推薦はもちろんじゃし、学費の方も免除対象になるかもしれんのう」

「はい。正直、狙ってます」

「うむ。正直は美徳じゃ、大切にせねばならんぞ」

「はい」

 

近右衛門はこちらの様子を伺っているようだった。

いきなり本丸を攻めるというよりは、あくまでも外堀を埋めていくらしい。回りくどいと感じる一方で、必要なことなんだろうとも思った。

それから二、三程度の話に付き合った。クラスでの話や部活動について、果てには孫の木乃香という少女について。ハッキリ言って、近右衛門の目的は謎だった。

そして、それは突然のことだった。

 

「それでじゃがのう、和泉君」

「なんですか?」

 

返事を瞬間、景色が歪んだ。

 

「ーーーあれ?」

 

唐突に歪む視界の中で、刀子の声が聞こえた。何かを叫んでいるようだった。必死そうな表情が僅かに伺えた。しかし、その声は和也に届くことはない。

脳が揺れたのだと理解するのに五秒掛かった。あごが妙に痺れていた。顎を撃ち抜かれたのだと気付くのに更に五秒。合計十秒掛かって、漸く理解した。なるほど、どうやら自分は倒れるらしい。

体が言うことを聞いてくれなかった。地面との距離が、スローモーションのようにゆっくりと無くなっていく。

そして、和也の意識は何か柔らかい感触を最後に途絶えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「学園長!?」

 

何をしているんですかっ、と和也の体を受け止めながら刀子は叫んだ。

ここに和也を連れてきた理由は知っていた。しかし、その結果を導き出す手段までは知らされていなかった。

 

「落ち着きたまえ、葛葉先生」

 

声の主はガンドルフィーニだった。

その焦り一つない余裕な姿が勘に触った。

 

「落ち着けるわけないじゃないですかっ!この子は魔法使いではなく、ただの一般人ですよ!?ただの一般人の生徒を相手に魔法を使うなんてっ、正気ですか!?」

「っ、学園長に向かって失礼だろう!!」

「だから私は学園長に訊ねてるんです!邪魔ですから退きなさい!!」

 

思わず腰に帯びた刀に手が伸びる。しかしその手は空を切った。見れば、あるはずの刀がそこにはなかった。

次いで、刀子は高畑を見た。この中で、自分に気付かれることなく刀を奪い取るなんて芸当ができるのは彼だけだった。

 

「僕じゃないよ」

「ーーーっ!?」

 

両手を上げた高畑を睨み付ける。確かに高畑の手に彼女の愛刀はなかった。あれだけの質量だ。隠すことは難しいはずだ。

では誰が、と思考の渦に入る前に声は聞こえた。

 

「落ち着け、葛葉」

「ーーー神多羅木先生」

 

刀子の愛刀を肩に乗せ、神多羅木は僅かにずれたサングラスを直した。

 

「お前の混乱は分からんでもないが、ここは一度、落ち着け。話が先に進まん」

「ですがっ!?」

「葛葉。二度は言わんぞ」

「っ!?」

 

二度目は、一度目よりも更に低く、そして重さのある声だった。思わず刀子は勢いを失う。有無を言わさぬ威圧感があった。

完全に勢いを失った刀子の姿を確認すると、神多羅木は持っていた刀を返却した。

風系統の魔法を使わせれば神多羅木の実力は麻帆良の中でも随一を誇る。それは同時に、速度ではかなりの実力を持っている事を意味していた。

 

「和也に当たったのは無詠唱の魔法の射手(サギタ・マギカ)一発だ。別に死にはせん」

「神多羅木先生の言う通りだ。万が一にも障害が残ることはないし、傷跡すら残らないだろう」

 

神多羅木の言葉にガンドルフィーニが同意する。魔法の射手(サギタ・マギカ)といえば、魔法の中では最も威力が低いものの一つである。ともすれば幼子ですら使える魔法で人は死なない。

 

「・・・分かりました。ですが、理由は聞かせていただきます。和泉君はまがりなりにも一般人。それに私のクラスの生徒です。どうして魔法の射手(サギタ・マギカ)を撃ったのか、納得のいく説明をお願いします」

 

刀子が学園長に問い掛ける。

京都の人間である刀子が近衛近右衛門に対して強く出ることは珍しい。しかし、この時ばかりは普段の彼女とは違っていた。

 

「うむ。説明しよう」

 

近右衛門が立ち上がり、高畑と共に接客用のソファーへ腰を下ろす。促され、ガンドルフィーニや神多羅木も椅子に腰かけた。

 

「和泉君はそちらに寝かしておいてあげなさい」

 

そう言って近右衛門が軽く杖を振ると、奥にしまってあった一枚の毛布が床に敷かれた。

刀子は頷くと、和也を毛布の上に寝かせる。寝顔は穏やかで、目元の隈がハッキリとよく見える。恐らく、あまり寝ていないのだろう。入院中も、妹に持ってきてもらった教科書を片手に夜遅くまで勉強していたという話は聞いている。麻帆良学園で奨学金をもらうというのはそれほどまでに難しい。止まってなどいられないのだ。

和也を寝かせると、刀子もまたソファーに腰を下ろした。

 

「和泉和也君には、魔法使いかもしれんという疑いが掛かっておるんじゃよ」

 

開口一番。近右衛門がそう切り出した。

 

「バカなっ!?」

「本当じゃよ」

 

声を張り上げた刀子に、近右衛門がやんわりと告げる。

 

「先日、女子中等部の龍宮君に調べてもらった案件に関して気になる記述が見つかったんだ」

 

次いで、高畑が手元の書類を確認しながら説明する。あくまでも淡々と、ただ事実のみを列挙していく。

 

「前回の襲撃の際、中等部女子寮の近くで彼の姿は高音=D=グッドマン君たちのグループによって確認されている」

 

「もちろん、これはあくまでも「近くで」ということであって、具体的に何かがあったわけじゃない」

 

「だが、彼のあの日の行動は、その後に彼自身が語っている内容と矛盾している」

「男子寮の近くにあるコンビニと中等部女子寮の方角はーーーーー真逆だ」

 

そこまで語って高畑は一旦、間を置いた。

そこまでの内容は刀子ももちろん知っていた。だからこそ、ここ最近の放課後は和也の所に顔を出していたのだから。

 

「そしてここからが大切なんだけど」

 

コホン、と高畑が仕切り直す。

 

「では、どうして彼はそんな嘘、或いは異なる事実を語ったのかを考えた」

 

「そして()()()()()()()()()は、彼が魔法使いであり、襲撃者たちと内通しているのではないかという考えに至った」

 

「彼の人柄については、彼が奨学生ということもあって、何度も学園長自らが問題がないことを確認している。だから内通者の可能性は極めて低いだろう」

 

「後の問題は、彼が魔法使いではないかということだった」

 

高畑は手元の書類を閉じて、学園長に渡した。後はもう、わざわざ語るまでもないことだった。即ち、そちらに関しても確認してみればいい。要するに、そういうことだった。

 

「・・・それで、あの魔法の射手(サギタ・マギカ)ですか?」

「うむ。儂も出来ればこういう手は使いたくないんじゃがのう」

「僕も反対はしたんだけどね」

 

近右衛門と高畑が苦笑しながら答えた。

そして刀子は二人の目線を追った。その先には彼女もよく知る人物がいた。相変わらずの黒いサングラスで表情はよく読み取れなかった。

 

「やれ、と言ったのは俺だ」

 

神多羅木は胸ポケットから煙草を取り出し、年季の入ったライターで火を着けた。そして旨そうに、楽しそうに紫煙を吐いた。そこが学園長室であることを忘れたような振る舞いだった。

 

「・・・神多羅木先生」

「面倒な役を押し付けられたんだ。これぐらいは許せ」

 

ガンドルフィーニが顔をしかめるものの、神多羅木は特に気にした様子も見せずに飄々と答えた。近右衛門も高畑も何も言わなかった。

 

「貴方が原因じゃないですかっ!?」

 

刀子が吠えた。

 

「これが一番手っ取り早いだろ」

「ですが、やはりこれはやり過ぎです!」

「和也なら大丈夫だ。誰が撃ったと思ってる。学園長は、この学園どころか魔法界全体を見ても最強クラスの魔法使いだ。万に一つも問題はない」

 

打てる手はちゃんと打ってあると言わんばかりだった。確かに学園長ならば魔法の射手(サギタ・マギカ)なんていう初歩的な魔法を失敗するはずもない。魔法使いたちの中でも、純粋な魔法で戦えば、目の前の老人に勝つことが出来る者は一握りだろう。それもごく少数の英雄と称される者たちしか刀子の頭には浮かばない。

 

「まぁ、俺がやってもよかったんだがな」

 

クツクツと神多羅木はいつものように喉を鳴らす。その姿が、今は妙に腹立たしい。一度は燻ったイライラが再燃してくるようだった。

 

「いいですかっ、神多羅木先生!!」

 

それは決して意図したものではなかった。気が高ぶり、声が大きくなる。気づけば声を荒げていた。

 

「技術云々の問題ではなくっ、私は一般人に魔法を放つ倫理観を問題にしているんです!!」

 

尚も刀子は食い下がった。

ここで引いてしまってはいけないと思った。自分の生徒の一人だからという理由もあった。委員長としてクラスをまとめ、自らは家のために学業に励み、部活動も部長として頑張っている。

確かにガンドルフィーニの実力なら何も起きはしないだろう。そこに不安はない。彼の実力のほどは知っている。

だが一人の魔法に関わるものとして、何よりも彼ーーーーー和泉和也の担任として、引くことはできなかった。

 

「そんなに和泉君のことが信じられないならっ、私が責任もって彼の事を監視しておきます!!!」

 

もはや胸ぐらをつかまんばかりの勢いで神多羅木に迫った。どうだ、とばかりにそのサングラスで隠した顔を睨み付ける。

サングラス越しで睨み付けたその目は、本当に楽しそうに笑っていた。

 

「だ、そうですよ、学園長」

 

これまでに比べて明らかに軽やかな声だった。さっきまで学園長室を覆っていた威圧感も霧散した。世間話でもするかのような軽さで神多羅木は近右衛門へと話を振った。

 

「フォッフォッフォッ。そうじゃな、葛葉先生。生徒を守ることが教師の勤めじゃ。その思いを今後も大切にしていってほしいものじゃわい」

 

机を挟んで笑う近右衛門を見て、そして、その横で苦笑いを浮かべている高畑と頭を押さえているガンドルフィーニの姿を確認すると、刀子は自分がまんまと嵌められたという事実を悟った。



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第七話

「ーーーあれ?ここは一体・・・?」

 

和也が目を覚ますと、そこには見慣れぬ光景が広がっていた。

僅かに痛みの残る顎を擦りながら身を起こして周囲を確認してみると、モノトーンを基調としたシンプルな家具がいくつか目に写る。よく見てみれば、そこは明らかに誰かの家の寝室のようだった。

 

「確かついさっきまで学園長室にいたような・・・?」

 

少なくともこんな誰の部屋とも知らない所に来た記憶はない。

ベッドから立ち上がり、和也はカーテンを開けた。既に窓の外は夕暮れだった。放課後になってからそんなに時間は経っていないようだった。

取り敢えず帰らなければと和也は部屋を振り返った。そして、扉を開けた和也の前には居間と台所が一つになった部屋が姿を現した。

 

「おや、もう起きたんだね」

「・・・デスメガネ」

 

ソファーに座って優雅に本を読んでいたのは高畑だった。思わぬ天敵を前に、和也は少しだけ身構えた。遅刻癖のある和也にとって、高畑は広域指導員のまとめ役としての側面が強かった。

高畑は本をテーブルに置くと、和也に向かって笑いかけた。

 

「コーヒーは飲めるかな?」

「・・・はい」

 

促されるままに和也はソファーに座った。気分はひどく落ち着かない。意味もなく周囲を窺ってしまう。

部屋の中には無駄なものがあまりなかった。台所はシンプルで清潔感がある。その手前には木製のテーブルがあった。椅子は二つ。そこには二枚の写真が飾ってあった。

一枚は、まだ若い高畑と無愛想な少女が写っていた。嬉しそうに笑う高畑とは対照的に、少女はまるで人形のようだ。

そしてもう一枚には、亜子たちと同い年ぐらいの高畑と、その友人らしい人物たちが写っていた。巨大な剣を持った褐色の男に白い外套を羽織った優男、日本刀を携えた不健康そうな男や煙草を咥えたおっさんがいるかと思えば、銀髪のまだ小学生程度のガキもいる。そして、写真の正面には生意気そうな面をしたガキが写っていた。

 

「それ、先生の姪っ子っすか?」

 

まだ幼く、あまり表情のない少女と共に写っている写真を指差しながら訊ねる。

 

「ん?ーーーああ、その写真か」

 

和也の指の先を確認すると、高畑は笑みを深めた。幸せそうで、嬉しそうで、そして、どこか寂しそうな笑顔だった。高畑の目は写真を見つめているようで、どこか遠くを眺めているようだった。

 

「その子は僕が昔、世話になった人たちから預かった子でね。今は麻帆良学園の女子中等部に通っているよ」

「ふーん。無愛想なガキっすね」

「ははは。今は人一倍元気で、表情も豊かな子になったよ」

「ならそれは友人に恵まれたんすね」

「ーーーうん、そうだね。僕もそう思うよ」

 

嬉しそうに高畑は頷いた。そこには先程まで垣間見えていたはずの寂しさはなかった。本当に、心の底から彼女の今の姿を喜んでいるようだった。

その表情は、まるで本当の親のようだ。

 

「名前はなんて言うんですか?」

「明日菜。神楽坂明日菜っていうんだ。もし君が彼女と出会うことがあれば、親しくしてくれると僕は嬉しいよ」

「・・・考えときます」

「ちなみになんの因果か、君の妹の亜子君と同じクラスだけどね」

「へ、へぇー、そうっすか・・・」

 

よろしくね、と高畑は照れくさそうに言った。

ーーー神楽坂明日菜。明日菜。アスナ。よく思い出してみれば聞いたことのある名前だった。亜子の話にたまに出てくる子だ。凄く元気な印象があったので思い出せなかったが、確かに聞き覚えはあった。

 

「ま、男子高等部の俺と個人的な関わりが出来ることはないと思いますけどね」

 

亜子の友人でも、会ったことのある子は少ない。裕奈、まき絵、アキラの三人に、先日世話になったばかりのあやか。知人と呼べるのはその程度だった。

同じクラスであるからといって、亜子がわざわざ紹介する理由はない。裕奈やまき絵、アキラの三人と同じ程度に仲の良い友人になるとも思えない。所詮、その程度だ。

 

「機会があれば、だよ」

 

高畑が笑みを深めながら言う。

 

「機会があれば、すね」

 

和也は話はそれまでとばかりに会話を打ち切った。

理由はない。なんとなく、この会話を続けていると本当に出会いそうな気がしただけだ。これ以上、教師のプライベートに関わるなんて万が一にもお断りだった。

 

「それよりも、なんで俺がここにいるのか聞いてもいいっすか?」

 

どうぞ、と差し出されたコーヒーに口をつけながら和也が訊ねた。

 

「あれ?()()()()()()()()()()()()()()()?」

「学園長室の中に入って、なんか学園長とよく分からない話をしてたところまでっすけどね」

 

あの後、何かよく分からないままに脳が揺れて倒れたことも覚えてはいた。それが果たして誰が、何のために、どうやって行ったのかは和也にも不明だった。

 

「なるほどね」

 

高畑は一人で納得したように頷いた。

恨みがましく視線を飛ばしてやれば、ごめんごめんと謝りながら高畑は笑った。

 

「えっと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ーーーほう」

 

なかなか面白い冗談を言うようになったものだ。デスメガネの癖に。そんな思考が頭に浮かぶ。

ハッキリ言ってしまえば、和也の中で高畑は限りなく黒だった。

これまでの和也の人生において、確かに()()()()()()()()()()()()()()。それは間違いのない事実だ。実際、先週は何が起きたのかよく分からないけれども倒れてしまった。

しかし、今回の事は明らかな人為的行為であったと和也は把握している。そんなに都合よく人は倒れたりしないのだ。

 

「そうっすか。それはなんというか、()()()()()()()()()()()()()()ありがとうございました」

 

悩んだ末に、和也は取り敢えず礼を言うことにした。

 

「いやいや、気にしないでくれ。僕たちも急なことだったから驚いたけどね」

「すみませんでした。ホント、先生たちのお陰で助かりました」

「危ないから寝不足もほどほどにね」

「はい。反省してます」

 

なんというか、完全に嘘にまみれた話の応酬だった。少なくとも和也は感謝してはいないし、当たり前だが反省もしていない。なにせ、自分は学園長たちによって気絶させられたのだから。

せめて、刀子と神多羅木の二人は自分の側に立っていてほしいと願うばかりだ。

こんな会話に果たして意味があるのかどうかは分からない。しかし、どうやら自分が非常に危ない領域に足を踏み入れているのは分かった。そんな場所は本心から御免こうむりたい。

 

「じゃあ俺、そろそろ帰ってもいいっすか?」

 

とにもかくにもまずは逃げ出すことが第一だった。都合の良いことに、既に時計の針は午後五時を回っていた。

金曜日の夜は、次の日が休みということもあり、頑張る日と決めていた。即ち、放課後にはバスケ部での活動があり、同時に沙織の所でのアルバイトが予定には入っていた。

 

「今週はちょっと入院してて迷惑を掛けたんで、部活の顔出しとアルバイトには行きたいんすけど?」

 

そう言って和也は高畑の顔色を窺った。

高畑は僅かに考えた後、すぐに結論を出した。

 

「そうだね、構わないよ。元々、君の意識が戻れば帰すように学園長から言伝をもらっていたからね」

 

意外なほどにあっさりと許可は出た。

和也は頭の中で今後の予定を考えた。今からならまだ部活に顔を出すことは出来るが、恐らく活動自体は無理だろう。だからそのままアルバイトに行こう。途中で沙織に電話しておけば、少しばかり遅れてしまっても許してくれるだろう。

 

「それじゃあ学校まで送っていくよ」

 

高畑がそう告げると、和也は首を傾げた。

 

「一人で行けますけど?」

 

和也の言葉に高畑は苦笑した。

 

「君はさっきまで気絶していたんだから、大事をとって一応ね」

「・・・わかりました」

 

有無を言わさぬ威圧感があった。

学園長といい、高畑といい、神多羅木といい、麻帆良の教師は妙なオーラ的な威圧感を出す奴ばかりのような気がする。

特に生徒指導を担当している教師は正に化け物ばかりだ、と教師の事を考えていた和也の頭に一人の人物が浮かぶ。

 

「そういえば、刀子先生はどうしたんすか?」

 

現在、麻帆良の中で和也が最も信頼している教師は彼女だった。それほどまでに二年間の付き合いは濃いものがあった。

和也の問い掛けに、高畑は苦笑いを浮かべて答えた。

 

「彼女なら、剣道部に行ってるはずだよ」

 

今日の予定に更なる一つの目的地が追加された瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー静謐とした空間だった。

 

痛いほどに張り詰めた空気が場を満たし、窓から刺し込む太陽の光が燦々と道場の中を照らしていた。

誰もが息を呑む中で、二人の男女が向かい合い、竹刀の鍔を鳴らす。あまりに静かな空間に、足で床を擦る音すらも聞こえてくる。

 

「ーーーーー」

「ーーーーー」

 

二人の集中力が限界に達しようとしていた。

お互いに呼吸の調子を整える。いつだって決着は一瞬だ。少しでも気を抜けば、その隙に勝負の行方はついてしまう。

 

「ーーーーー」

 

一度、男は大きく呼吸を整えた。

防具越しに彼女の表情を垣間見る。生真面目な彼女らしい真剣な目が男を捉えた。背筋に冷たい汗が流れる。危なかった。あと一秒でも彼女を見ていれば、恐らく勝負はついてしまっていただろう。

 

「ーーーーー」

 

再度、男は大きく呼吸を整えた。

彼女を相手に隙なんて見つかるはずもない。ならば狙いは一つ。強行突破。このまま向き合ったところで、彼女は一時間でも二時間でも向き合っていられる。

男から、動かなければならなかった。

 

「ーーーシッ!!」

 

これまでを遥かに超える速度で一歩を踏み出す。振りは小さく、されど確かな威力をもって竹刀を振り下ろす。狙うは彼女の右手。小手に向かって最速の一撃を放つ。

 

「ーーー甘いっ!!」

 

右足が僅かに後ろへ下げられる。半身になり、小手が避けられる。しかし、竹刀の高さは変わらない。マズイ、と思った時には()()()()彼女の竹刀が目の前に迫る。

 

「ーーーフンッ!!」

 

首を横に傾け、突きを避ける。

彼女の顔が驚いたように見えた。だが、それも一瞬のこと。すぐに彼女の顔つきは鋭いものへと変わる。

 

「これでっ、どうだっ!!」

 

思わず声が出る。竹刀を横向きに構え直し、微かに空いた彼女の胴を狙う。我ながら鋭さを持った一撃だ。手首が軋む。無茶な動きに体が悲鳴をあげる。

竹刀の動きがスローモーションのように感じる。ゆっくり、ゆっくりと竹刀が動いていく。そして丁度、彼女の肘の下を竹刀が通った。勝った。初めて彼女に一本をいれた。そう、()()()()()()()

 

「ーーーッ!!」

 

彼女が思い切り歯を食いしばる。同時に、防具の先にある端正な彼女の顔が更に目の前へと迫ってくる。お互いの防具が鈍い音と共にぶつかり合った。

 

「ぐっ!?」

 

正面からの激突に思わず一歩だけ後ろへ仰け反った。しかし、すぐさま体勢を整える。僅かに下がった視線を上げた時、目の前には彼女の竹刀の切っ先が突き付けられていた。

 

「勝負あり、ですね」

 

無情にも、彼女は透き通るような綺麗な声でそう告げた。通算、三百七十九回目の敗北だった。

悔しいが、やはりまだまだ彼女には届かないらしい。三つも下の女の子に負けるなんて、男としては忸怩たるものがある。これで彼女が手を抜くようならまだ追い付けもするのだろうが、生憎と彼女はとても生真面目だ。日々、開いていく実力の差にため息が出た。 

 

「そうだね。俺の敗けだよ」

 

敗北は、甘んじて受け入れる。自分が彼女に比べて弱いなんてことは分かりきっていた。また、ここから頑張るしかない。凡人が努力する天才に勝つにはサボってなんていられない。

 

「随分、強くなりましたね」

 

お互いに距離を取って一礼したあと、彼女と並んで防具を外す。

背後から男に声をかけてきたのは剣道部顧問の葛葉刀子だった。

 

「まだまだですよ。彼女に追い付くには全然足りません。ひとまず、走り込みと素振りの回数を更に増やしますよ」

 

同じ様に防具を外しながら答える。

面を外してタオルの上に置くと、気持ちいい風が髪を撫でた。酸素の美味しさが身に染みる。

 

「そんなに悲観しなくても、確かに安達君の実力は上がっていますよ」

「・・・ありがとうございます」

 

決して嘘をつくことのない刀子の言葉が、敗北した今の翔には重かった。

自分が強くなっている実感は確かにある。それは刀子以上に自分自身が一番よく分かっていた。

しかし彼女との距離感を考えてみると、自分の力量の向上なんて些細なことのように思えた。

 

「桜咲もありがとう。いつもこうして打ち合ってくれて、本当に感謝してるよ」

 

防具をすべて外し終えた翔は、隣で静かに刀子とのやり取りを聞いていた少女ーーーーー桜咲刹那へと礼を言った。

 

「いえ。私も安達先輩との打ち合いは勉強になりますから」

 

頬から輪郭に沿って顎へと流れる汗をタオルで拭いながら刹那は答えた。

 

「そう言ってくれると助かるよ」

 

再度、礼を言う。

彼女との打ち合いはこれで通算三百七十九回目を数える。どうして始まったのかはもう覚えてはいない。ただ、圧倒的なまでの強さを誇る彼女に強い憧憬と焦燥の念を感じたことは覚えている。そして自分の人生においてあんなにも必死に頭を下げて何かを頼んだことは他になかった。

結果として、今では剣道部での練習時間の最後に必ず行う恒例行事のようになっていた。

 

「でも、また勝てなかったかぁー」

「そうですね。ですが、先程の動きは少し驚きました」

「頑張って考えたんだけどね」

 

まっすぐに向けられる桜咲の目線を受け止めながら苦笑する。

自分の中の限界を超えたつもりでただひたすらに集中力を研ぎ澄まし、それでも尚、見果てぬ高さの壁だ。今はまだ、目標としている壁の高さすら分からない。

 

「ホント、簡単にいなしてくれちゃうよね、桜咲は」

 

はぁ、と大きくため息をつけば、桜咲は僅かに目を見開いた。

 

「ーーー先輩は御自身を低く見すぎです」

 

真剣味を増した瞳が向けられる。

 

「そうかな?」

「はい。あの動きは本当に速かった。相手が私以外でしたら、確実に一本を取れていたと思います」

 

大したものです、と桜咲は頷いた。

三つも年下の後輩に誉められるなんて、端から見れば微妙な顔をされそうな光景だった。しかし、剣道部であるならば誰もが彼女の強さを知っている。そんな彼女の言葉は、翔を喜ばせるに十分だった。

 

「桜咲から一本取れなきゃ意味がないんだけどね」

「それは・・・、まだもう少し努力が必要ですね」

「あはは。これからも精進するよ」

「はい。そうしてください」

 

彼女の生真面目な性格をそのまま表したような鋭い目が、僅かに緩んだ気がした。

本心では翔も両手でガッツポーズをとりたいほどに嬉しかった。だが、自身の持てる精神力を総動員してなんとかしてその喜びは隠すことにした。少しだけいい感じになった彼女の魔を指すわけにはいかなかった。あとはいわゆる、先輩としての意地だった。

 

「かっ、翔先輩!」

 

桜咲と別れ、後片づけをしていた翔に背後から声が掛けられた。相手は後輩の一人だった。

 

若菜(わかな)、どうかした?」

 

後輩の少女ーーー牧野若菜(まきのわかな)が翔に走り寄る。

 

「あ、あの!和泉和也って人が道場の入り口で呼んでます!!」

「和也?」

「は、はい!」

 

若菜は少し緊張した面持ちで答えた。

 

「分かった、ありがとう。すぐに行くよ」

「はい!し、失礼しました!!」

「うん、お疲れ様」

 

ポニーテールを揺らして走り去る若菜は、まだ中学二年生だった。つまり、さっきまで話をしていた桜咲と同い年ということになる。同じ中学二年生でも、二人はまるで違うタイプだった。

遠くで友人たちに絡まれている若菜の微笑ましい姿が目に写る。それはなんとも微笑ましい光景だった。

 

「よし。帰るか」

 

そして翔は道場の入り口に向かう。そこには若菜の予告通り和也がいた。そう。確かに和也は道場の入り口にいた。それ自体は一向に構わない。和也は自分を待っていたのだから、そこにいてもおかしな所は何もない。

ただ、一つだけどうしても無視できない事があるので心の底から問うてみたい。

 

ーーー桜咲よ、どうして君は竹刀を和也に向けている?

 

意味が分からない光景を前に、取り敢えず翔は二人の下へと走ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ーーーどうしてこうなった」

 

目の前で竹刀を握りしめ、親の仇でも見るかのように睨み付けてくる少女を前に、和也は心の中で一人、目の前の不運を呪った。

事の発端は、バスケ部への顔だしを終えた和也が刀子を探しに剣道場へ来たことにあった。

高畑と別れ、剣道場の前に辿り着いた和也はその神妙な雰囲気に中に入るのを躊躇った。

すると祈ってもいない祈りが通じたのか、剣道場から刀子が顔を出した。

そこから約数分程度、和也が刀子と話をしていると、一人の少女が剣道場から出てきた。腰まで届きそうな髪をポニーテールにまとめた小柄な少女だった。

刀子が去ったあと、少女に翔を呼んでくれるよう頼むと快諾してくれた。そして大人しく彼女の帰りを待っていた時だった。目の前の少女が出てきたのは。

 

「あー・・・、俺、君に何かしたか?」

 

和也は両手を上げ、顔の横に並べた。敵意がないことを示したつもりだが、むしろ彼女からの視線は更に厳しいものになってしまっていた。

意味も分からず恨まれる記憶はない。むしろ今日という範囲なら、自分の方が色々と恨みを抱いても許される立場なはずだ。

 

「貴方はお嬢様ーーー近衛木乃香という少女を知っていますね?」

 

質問ではなく確認だった。

少女が竹刀を持つ手に力を込めたのが分かった。まだ中学生ぐらいにしか見えない少女に負けるつもりはないが、流石に竹刀を持っているなら力加減は難しい。

和也は自らの後頭部に両手を重ねた。

 

「近衛木乃香っていえば、学園長の孫だろ?会ったことはないが、名前ぐらいは知ってるよ」

 

更に抵抗の意思がないことを伝えたつもりだが、残念ながら少女には伝わらなかったようだった。

 

「貴方が断りさえすればお嬢様はーーーっ!!」

 

竹刀を握る彼女の手は、力を込めすぎてもはや白くなっていた。

何をそんなに思い詰めているのかは知らないが、単に友人に会いに来ただけの人間にこの反応は些か厳しすぎやしないかと話し合いたいぐらいだ。

和也は敢えて彼女を刺激するように大きくため息をついた。

 

「なんでいきなり喧嘩腰なのかは知らないが、一応、予め言っとくぞ。俺は、売られた喧嘩は買う派だからな」

 

軽く、拳を握る。体調は何故か万全だった。痛みもなければダルさもない。今なら()()()()()()()()()()ですら防げそうな気がする。

 

「貴方のせいでお嬢様はっ!?」

「いやいや、そんなに恨まれるほど学園長の孫の女の子なんざ知らねーよ」

 

二人はお互いに準備万端だった。来るなら来い、と雰囲気が告げていた。

少女の竹刀が僅かに右へと傾く。その動きに合わせて和也も左手を動かそうとしてーーーーー止まる。

そして少女が戸惑う様子を見ながら両手を下ろした。

 

「ストップ!桜咲っ!!止まれ!」

 

少女の背後から和也もよく知る男が走って近付いてきていた。

 

「あ、安達先輩!?」

「あーもう、なにしてんのさ、桜咲」

「っ!?こ、これは・・・っ?」

 

翔が到着すると、刹那は慌てたように竹刀を背後に隠した。ただ、残念ながら刹那の小柄な体格では隠そうと思っても隠れていない。見事に肩の辺りから竹刀の切っ先が覗いていた。

 

「はい、その竹刀は没収だからね」

「そ、そんなっ!?」

「ダメだよ、竹刀を人に向けたりしたら危ないんだから、ちゃんと直しておかないと」

 

有無を言わさず翔が少女から竹刀を取り上げた。先程までの威圧感が嘘のようだった。二十センチは差があるだろう翔が持つ竹刀に向かって手を伸ばした少女の姿はとても愛らしかった。

 

「はい。じゃあ桜咲はもう先に帰りな」

「ですがっ!」

「ダーメ。これ以上我が儘を言うなら刀子先生に言い付けるよ」

「そ、それは・・・っ!?」

「お疲れ様。また明日ね」

「・・・はい、お疲れ様でした」

 

翔に説得された少女は、少し気落ちした様子で二人に背を向けた。そしてゆっくりと、明らかに未練を残して去っていく。

 

「ゴメンね、和也。ウチの部員が迷惑を掛けたみたいだね」

「いや、構わねーよ。中学生の啖呵ぐらいは笑って許してやるのが大人ってもんだろ」

「あはは、助かるよ」

 

少女が反省した様子で剣道場から去っていく後ろ姿を二人で見送りながら話を続ける。

 

「あの子、名前は?」

「桜咲刹那。剣の腕はたぶん剣道部で一番だと思うけど、少し生真面目で一生懸命過ぎるところがあるんだよね」

「ふーん」

 

彼女ーーー桜咲刹那の背中を見る翔の顔は、正に先輩としてのそれだった。

 

「じゃあその桜咲の言ってた『お嬢様』ってのは、近衛木乃香って子で合ってるんだよな?」

「うん、たぶん合ってるとおもうよ。近衛さんはたまに剣道部にも顔を出しに来るしね」

 

何故かその時に限って必ず桜咲はいないけど、と翔は苦笑した。

なにか桜咲と近衛の二人の間に事情があることは分かった。しかし、やはり何度考えてみても自分とは関係ないだろうと思う。

 

「で?なんで俺はあんなにも凄まれたのか、翔は分かるか?」

「いや、それは僕も分からないなぁ。あんなにも感情豊かな桜咲を見たのは初めてだよ」

「そっか。じゃあいいわ」

「うん」

 

少女の背中が見えなくなると、改めて二人は向かい合った。

 

「それよりどうしたの?和也が剣道場まで来るなんて珍しいんじゃない?」

 

翔が問い掛ける。

 

「まぁ、そんな特別な用事じゃないんだけどな」

 

と、一置きしてから和也は話を続ける。

 

「今日は沙織のところでバイトがあるから晩飯はいらない」

「それだけ?」

「あと、一週間も休んでたから明日からしばらく朝は早くなると思う」

「朝練?」

「おー」

「・・・メールでよくない?」

「刀子先生に会う予定があったから、そのついでなだけだよ」

 

ただ、それだけの話をするだけでどうしてあんな事になったのか、果たして全くの謎だった。

 

「じゃあ俺、アルバイトに行ってくるわ」

「うん、頑張ってね」

「サンキュー」

 

そう言ってお互いに手を上げ、別れようとした時だった。

不意に、背中から呼び止める声が掛けられる。

今、思い出したとばかりに翔が口を開いていた。

 

「そういえば、これ、剣道部の子が言ってたんだけどさ」

 

いつもの翔とは違う、どこか言いづらそうな声だった。

 

「亜子ちゃんのクラス、担任が代わったそうだよ」

 

初耳だった。今日はあまりにも色々ありすぎて、頭の中は限界に達しようとしていた。

 

「なんでも、九歳で大学を飛び級卒業した天才児だってさ」

 

最後にとんでもない爆弾が放り込まれた気分だった。



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第二章
第八話


暦は既に弥生を数え、僅かながらも桜の蕾が咲いていた。雪は水となって川に流れ、昨晩の雨が嘘のように青々とした空には綺麗な虹が掛かっていた。

きっと今日みたいな日は外でサッカーでも出来れば気持ちがいいのだろうが、麻帆良学園に通う学生たちにはそうもいかない理由があった。

来るべきは三月八日。学年の最後には忌むべき学年末テストがあった。

麻帆良学園の高等部男子寮において、和也もまた多くの学生たちと同じように勉学に励んでいた。

 

ーーーそう。一本の電話が掛かってくるまでは。

 

 

 

 

 

「それで、なんだって?」

 

電話口の向こうから聞こえてきた声に、和也は僅かばかりの諦めの念を込めて問い返した。

 

『せやから、もうじき学年末テストがあるから勉強教えてって言うてんの!』

 

電話の主は妹である亜子だった。

曰く、今回のテストは本気でやらんとアカン理由があるから勉強教えてください。

曰く、自分一人だけじゃなくて、出来れば裕奈やまき絵、アキラも一緒にお願いします。

曰く、良ければ男子寮のお兄ちゃんの部屋までみんなで行ってみたい。

亜子の言葉を要約するとこんな事だった。

 

「何度も言うが、男子寮に来るのはダメだ。基本的に女子の入室は厳禁なんだよ」

『お兄ちゃんのけちーーーっ!!』

「ルールだからな。俺に言われてもダメなもんはダメなんだ」

 

電話口から聞こえてくる大きな声に、和也は耳を離すことで対応した。

いつも亜子とのやり取りはこんな感じだった。何かにつけて男子寮に入りたがる。年頃の女の子になった妹が、最も身近な異性である兄の部屋に入ってみたいという好奇心は理解できる。しかし、流石に()()()()()()()()()()()見せられない物も当然部屋の中にはあった。

なにせこっちも年頃の男の子なのだ。お互いに知らないからこそ良いこともある。

 

「でも勉強ならちゃんと教えてやるから、いつも通り沙織の喫茶店まで来い」

『うぅー・・・分かった』

「一応、もう一度確認するが、一緒に来るのは裕奈ちゃんとまき絵ちゃん、それにアキラちゃんの三人なんだな?」

『うん』

「じゃあ一時間後でいいか?」

『分かった。みんなに言うて、準備するわ』

「オッケー、また後でな」

『はーい』

 

そんな会話の末に和也は携帯の通話を切った。

そして、机の上に置いてあった珈琲を一気に飲み干した。

 

「ーーーと、いうわけでちょっと行ってくる」

「忙しいね、お兄ちゃん」

「やめろ。お前に言われるとゾッとする」

「あはは」

 

机の向かい側に座っていた翔とお互いに軽口をたたきながら笑い合う。

 

「なんていうか、亜子ちゃんたちが女子中等部に入学してから毎回の恒例行事だね」

「そうだな。まぁ、それで勉強する気になるならいいんだけどな」

 

取り敢えず、必要な荷物を鞄の中に入れていく。

筆箱にノート、あとは教科書と財布、それに携帯があればそれでいい。亜子たちに勉強は教えるのは構わないが、自分の勉強を疎かにすることも出来ない。なにせこちらは奨学金で麻帆良に通っているのだから。

 

「亜子とアキラちゃんは別に成績も悪くないし、つーか、むしろ良い方だからいいんだよ」

 

普段から真面目な二人に心配はない。特に四人の中で最も点数が高いアキラには、改めて和也が教えることはほとんどない。授業を真面目に受け、宿題もしっかりこなしている。これでテストの点数が悪いなら、それは教師のやり方が間違っている。本来テストとは、授業内容が把握できているのかを確認するためのものなのだから。

そしてそれは亜子も同じようなものだった。二人は学年の中でも上位二十五%には必ず入っていた。基本的に真面目な二人組はあまり手が掛からない。

しかし、問題は残りの二人ーーーーーすなわち裕奈とまき絵にあった。

 

「裕奈ちゃんは、まぁ、悪くはない。良くもないが、悪くもない。可もなく不可もない。普通にやれば平均で六十点ぐらいだろうな」

「へー」

「ただまぁ、油断すればすぐに四十点台に落ちるぐらいの危険性はある」

 

勉強はあまり好きではないらしい。そもそも、裕奈に限らず勉強が苦手、或いは嫌いだという学生の方が大多数を占めるだろう。それでも父親である大学部の明石教授の影響なのか、妙に数学と理科は理解力が高かった。問題は暗記事項の多い社会や単純に反復の必要な英語だった。

 

「一番の問題はまき絵ちゃんだろうな」

 

彼女の成績は、ちょっとしたものだった。ともすれば、全教科、小学校からやり直す必要があるぐらいだった。こんなになるまで小学校で放置するなと声を大にして言いたい。きっと、本気で叱ってくれる人もいなかったのだろう。天然培養はかくも恐ろしい。

 

「それでもマシになってきたんだよな。一年生の時はマジで一桁とか取ってたからな」

「今はどんな感じなの?」

「ようやく三十点ってところだな」

「へー。それは凄いね」

 

今まで達也に達也、それに達也とそれから達也にも勉強を教えてきたが、和也もこれほど苦労したことはなかった。まき絵に教えるために何度も中学校の復習をした結果、彼女の成績に比例して自分の成績も上がったような気がした。

 

「あの子は確かに勉強はダメだが、半分以上泣きそうになりながらも諦めずに勉強するから応援したくなるんだよな」

 

毎度、テスト勉強中に泣きながら教えてくださいと頼む彼女の姿は沙織の喫茶店ではよく知られたものだった。

それこそ、彼女の姿を見ていた常連客のお婆さんからこれでも食べて頑張ってねと飴を貰うほど人気者だった。

 

「取り敢えず、少し早めに行って手伝いでもしてくる。迷惑を掛ける以上、ちょっとは恩返ししておかないとな」

「沙織さんなら気にしないと思うけど」

「こっちが気にするっつの」

 

確かに沙織なら別に構わないと言ってくれるだろうが、要するに良心の問題だった。

 

「それじゃ、行ってくるわ」

「うん。いってらっしゃい」

 

和也はそう言うと、携帯電話を取り出した。そして電話帳を開くと連絡先を確認する。相手は沙織の営む喫茶店。ひとまず勉強会の連絡を入れることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午前十一時二十四分。

沙織の営む喫茶店の一角では、テスト前の学生たちが勉学に励んでいた。

 

「和也さん、ここはどうやって解くの?」

「ああ、そこはこの公式を使ってーーーーー」

 

「ここ!ここの英語はどうやって訳せばいいんですか!!」

「それは助動詞のcanをーーーーー」

 

「これはどうやろ?」

「前置詞に注目して考えれば文章の意味がーーーーー」

 

「あ、あの、これで合ってますか?」

「オッケー。ちゃんと合ってるよ」

 

 

四人の相手を一人でするのはいささか大変な作業だが、もはやそれももう慣れたものだった。

最初は亜子一人だったが、それから亜子の交遊関係の広がりと共にまき絵、裕奈、そしてアキラと人数は増えていった。

亜子たちは、今、各々が苦手教科や不十分な教科を勉強していた。このやり方も回数を重ねる内に自然とそうなっていった。そもそも四人の学力は当たり前だがバラバラなので、同じ教科をみんなで勉強しても上手くはいかなかった。

結果、三度目の勉強会からはずっとこの方法で行われていた。

そして同時に、空いた時間を利用して和也も彼女たちの隣の机で自身のテスト勉強に当てていた。

 

「ーーーーー」

 

カリカリ、と鉛筆がノートの上を走る。

天才ではない和也にとって、勉強とは要するに復習練習の繰り返しだった。一度聞いても分からない。二度や三度、繰り返して学んでみて初めて理解できる。男子高等部の主席に座ってはいるものの、和也の勉強法は他の多くの学生たちと何一つ変わらなかった。噂に聞く麻帆良女子中等部の天才たちのように、一を聞いて十を知るなんて事は遠い話だった。

そして丁度、和也が一つの問題を解き終えた時、隣の机から大きな声が聞こえた。

 

「もう疲れたよーーーっ!」

 

振り返ってみれば、まき絵が体を机の上に投げ出していた。ついにギブアップだった。

 

「ちょっと、まき絵!ここ、寮の部屋やなくて沙織さんの喫茶店やから!」

「そうだよ。あんまり大きな声を出しちゃダメ」

 

亜子とアキラがすぐにまき絵をたしなめる。店内には彼女たち以外にも、まだ二組ほどの客が残っていた。

 

「あっ、そうだった!?」

 

まき絵もすぐに自分の口を両手で塞いで、他のお客さんの方向を窺った。優しそうなお婆さんと目があった。孫でも見るかのような笑顔を浮かべていた。どうやら手遅れだったらしい。お婆さんは頑張ってと両手を胸の前で握った。取り敢えず、まき絵も照れくさそうに笑いながら同じように胸の前で手を握った。暖かい気持ちになった。

 

「もう二時間ぶっ続けだったからな。まき絵ちゃんにしては凄く頑張ったんじゃないか?」

 

腕時計で時間を確認した和也がそう言うと、まき絵は表情を輝かせた。

 

「じゃあもうお昼の時間だよね!!」

「まぁ、そうだな」

 

さっきまで倒れていたまき絵が、身を乗り出して和也に迫った。思わず和也も一歩、後ろに下がった。

 

「私!和也さんのオムライスが食べたい!!」

 

そして百点満点の笑顔でそう告げた。

和也は目を丸くする。確かに前回の勉強会の時、何が原因だったかは覚えていないが、オムライスを振る舞ったことはあった。しかし、こんなに身を乗り出してまで主張することだろうか。

 

「俺は別に構わないけどーーー?」

 

沙織の方を振り向けば、指で自分の方を何度も忙しく指していた。自分の分も作れということらしい。私も!私も!という声が聞こえてきそうだった。

次いで、残る三人の方を見る。まき絵に負けず劣らず輝くような笑顔で親指を立てていた。自分たちの分も作れということらしい。私も!私も!という声が聞こえてきそうだった。

 

「・・・分かった、分かりましたよ」

 

俺の敗けだ、と和也は席を立った。そしてため息をつきながらキッチンへと向かう。途中で黒いエプロンを沙織から受け取った。和也が普段からアルバイトの時に使用しているものだった。

 

「準備が良いな?」

「だって、久し振りだからね」

「・・・はいはい」

 

なんとなく、慣例になりそうな気がした。

 

「じゃあ全員分作るから、ちょっとだけ時間を貰うぞ」

『はーい!!』

 

和也の言葉に、元気な声が返ってきた。

 

「よし!じゃあ私、もうちょっとだけ頑張っちゃうよーっ!!」

「おっ、そのやる気に私も乗ったーっ!美味しいご飯まで頑張るよーっ!!」

「ほな、私ももうちょっとだけ頑張ろかな」

「私も頑張る」

 

俄然やる気を取り戻した四人を見て、現金な子たちだと思う一方で、それだけ頑張れるなら作り甲斐もあるなと思う。

再び集中した様子で勉強に取り組む四人は正しく学生のあるべき姿だった。

 

「しゃーねーな」

 

米は十分にあった。あとは味付けと卵の用意、そして特製ソースと付け合わせのサラダ、それにスープが必要だった。

 

「サラダとスープは私がやるよ」

 

気付けば隣に沙織が立っていた。

 

「じゃあ任せた」

「うん」

 

二人並んでキッチンに立つと、沙織の表情が嬉しそうに緩んだように見えた。

基本的にホールに出ることの多い和也がこうして沙織と一緒に並ぶのは珍しいことだった。少なくとも、ここ最近ではあまり見かけなかった光景だった。

 

「こうして二人で料理するなんて、なんだか懐かしいね」

 

どうやら、沙織もまた同じことを考えていたらしい。頭一つ分ほど低い位置にある沙織の顔を見れば、見事に視線がぶつかった。綺麗な翡翠を思わせる瞳がまっすぐに和也を見つめていた。

 

「そうだな。この店の人気が出てからはお互いに随分と忙しかったからな」

 

視線を逸らし、冷蔵庫から卵のパックを取り出しながら和也が答える。

 

「お店をはじめた時は、長い間、閑古鳥が鳴いてたのにね」

 

亜子たち四人を見つめているようで、沙織の瞳はどこか遠くを見つめていた。

 

「今や知る人ぞ知る人気店だからな」

「本当に嬉しい限りだね」

 

デミグラス風味の特製ソースを五人分用意しながら和也が答える。

 

「この間、新聞部が発行してる『麻帆良ニュース』に載ってたみたいだしな」

「うん。ちょっと元気な中学生の女の子にインタビューをお願いをされちゃって、どうしても断れなくてね」

「結構『麻帆良ニュース』の読者は多いらしいな」

「売り上げが倍になっちゃったよ」

 

嬉しそうに沙織は答えた。

野菜を切る手つきは慣れたものだった。何年もこの仕事を続けてきたプロの手つきだった。速いし、なによりも綺麗だった。そして同時に丁寧さも兼ね備えていた。

 

「俺ももう少し来れればいいんだけどな」

 

米を五人分取り出しながら和也が呟くと、沙織は柔和な笑みを浮かべながら答えた。

 

「それはダーメ。アルバイトよりも部活優先だよ。今、一生懸命出来ることに全力を尽くさないとダメだからね」

 

そんなことはお姉さんが許しません、と沙織は笑った。

和也は誤魔化すようにフライパンに火をつけた。

いつもなら平然と見られる沙織の顔が、何故か今は見ることができなかった。

 

「店長に言われたら仕方がないな」

「そうだね。店長に言われたら仕方がないよ」

 

お互いに顔は合わせない。妙に照れくさかった。

和也は味付けを終えた米を皿に盛っていく。机の上には六枚の皿が既に用意されていた。さすが沙織。仕事が早い。

 

「おーい。そろそろ出来るぞー」

 

和也が勉強中の四人に声を掛ける。

 

『はーい!』

 

元気な声が四人四色に聞こえてきた。

バタバタと自分たちの机の上を片付ける四人の様子を窺いつつ、和也は卵をまとめた米の上に乗せていく。

 

「切るのは任せてもいいか?」

「うん。そうだと思ったから用意しておいたよ」

 

見れば、沙織の手にはすでに包丁が握られていた。

和也は次々と米の上に卵を乗せていく。そしてすぐさま沙織が卵を切り開いていく。半熟の卵がケチャップで味付けをした米の上を流れていく。最後にデミグラス風味のソースをかけ、沙織の用意したサラダとコーンスープを添えれば完成だった。

 

「運びます」

 

沙織の前にはアキラがいた。何故だか少し息づかいが荒い。どうやら慌てて片付けたらしい。亜子たちはまだ机の上の荷物をまとめていた。

 

「頼むわ」

「はい」

 

沙織から料理の盛り付けられた皿を受けたアキラが机に運ぶとテンションの上がった声が聞こえてくる。まき絵や裕奈だけではなく、慣れているはずの亜子までが声を大きくしていた。

周囲を見回してみれば、先程までいた二組の客も既に店を去っていた。どうやら亜子が会計をしてくれたらしい。

それならば構わないと和哉も叱る事を止める。誰の迷惑にもならないのであれば少しばかり騒いでも許してあげよう。それになにより、そんなにも喜んでくれるのなら作った人間としても妙に嬉しい気分になる。

和也も六人目、即ち自分の分を最後に用意すると、沙織と一緒にカウンターへと座った。

 

「それじゃあ、まぁ、なんだ。たくさん食え」

 

『いただきまーす!!』

 

元気な掛け声と同時に和哉もスプーンを進める。

我ながら美味しく作れたようだった。横を見ると、頬に手を当てながらスプーンを口に運ぶ沙織がいた。どうやら満足しているようだった。

 

「どうだ、君らは舌に合ったか?」

 

和也が改めて四人に訊ねると、答えはすぐに返ってきた。

 

「すっっっっっごく美味しいよ!!」

「もうこれお店で出しましょうよ!和也先輩!!」

 

目を輝かせてまき絵と裕奈が褒めちぎる。

 

「亜子はどうだ?久し振りだっただろ?」

 

と、妹に訊ねてみれば。

 

「むー。美味しいんやけど、妹としてはなんや負けた気がして凄くビミョーな感じやわー・・・美味しいけど」

 

亜子は一人、なにか難しい表情をしながらもスプーンを動かし続けていた。

ハイテンションな二人とローテンションな妹からの言葉に和也も頬を緩める。若干、素直じゃない奴も混ざってはいるが喜んでくれるならそれでよし。

そして、これまで静かに食事をしていた最後の一人にも声を掛ける。

 

「アキラちゃんはどう?好みに合った味だったか?」

「は、はい!凄く美味しいです!!」

「俺、アキラちゃんにはあんまり教えることがないからな。せめてみんなよりたくさん食べてくれていいからな」

 

申し訳なさそうに和也が答えると、アキラはスプーンを持ちながら大きく手を振った。

 

「い、いえ!私も一人じゃ分からないところは和也さんに聞けるので、その、た、助かってます!」

 

力強く両手を握りしめたアキラの姿に和也は苦笑した。

最近気付いたことだが、どうやら自分はアキラに距離を置かれているわけではないらしい。裕奈やまき絵よりも確かに距離は感じるが、それは彼女が二人よりも男性というものに慣れていないが故のことだった。あくまでも亜子の話では、ということだが。

なんとなく恥らうアキラが愛らしく、その姿をぼんやりと眺めていると、急に亜子が立ち上がって和也の横のカウンターに座った。

 

「そういえば、お兄ちゃんは頭が良くなる魔法の本とかあったら欲しいと思う?」

 

そしてそんなファンタジー溢れる言葉を発した。

 

「魔法の本?」

「なんか夕映が学校で、麻帆良学園の図書館島には読むだけで頭が良くなる本があるって言うとってん」

「読むだけでか?」

「うん。読むだけでやで」

「それはなんというか、便利だな」

 

和也は腕を組んで頷く。

もし本当にそんな便利なものが存在するのなら読んでみたい気もする。

 

「頭が良くなるっていっても、その中身がちょっとよく分からないな。単純に記憶力が上がるという意味なのか、それとも思考力や判断力みたいなものまで上がるのか」

「んー、そこまで考えとらんかったけど、学生としてはテストの点数が上がればええんちゃうかな」

「まぁ、確かに大切なのはそこだよな」

「うん」

 

返事をして、和也は改めて真剣に考えてみた。

読むだけで頭が良くなるという本がある。もし仮にそれが真実だとすれば、世界中の人間がそれを求めるだろう。ニュートンやアインシュタイン、ノイマン辺りが読んだら世界の常識が変わるのではないか。羨ましくもあり、恐ろしくもある。

しかし考える時間は三分もあれば十分だった。自分で思っていた以上にあっさりと結論は出た。

 

「もし仮にそんな本があるなら、俺はたぶん読むと思う」

 

和也が答えると、亜子の表情は少しだけ険しくなった。

亜子は頑張っている人間を応援することを良しとしている。それは要するに、頑張って努力する人間が好きということだ。努力を無とする魔法の本なんて好きであるはずもない。

 

「・・・なんでなん?」

 

亜子の言葉には僅かばかりの怒気が混ざっていた。

 

「俺は自分なりの目的があって麻帆良に来た。勉強を頑張っているのは奨学金のためだが、それは同時に、目的に一歩でも近付くためでもある。そして、そのために今は少しでも時間が惜しい」

 

だからこそ、読むだけで頭が良くなる本なんて便利なものがあれば恐らく読むだろう。そして余裕の出来た時間を利用して、また、別のことをする。勉強することは手段にすぎず、結果ではない。

そもそも、()()()()()さえなければ和也は麻帆良には来ていなかった。恐らくもっと違った人生を歩んでいただろう。

 

「和也さんが麻帆良に来た理由ってなんなんですか?」

 

これまで二人の話を聞いていた裕奈が訊ねる。

裕奈だけではなく、亜子が、アキラが、まき絵が、沙織までもが和也を見ていた。

そんなに気になるようなことだろうかとも思うが、少なくとも和也にとっては自分の人生を大きく変えた出来事だった。

思い出されるのは「あの雨の日」のこと。決して涸れることのない涙のように降り注ぐ雨の中、無力な自分を呪いながら和也は立ち呆けていた。何も出来ずにただ傍らでその様子を見ているだけだった。

あれから約九年。どれほど勉強や部活を頑張ろうとも、いまだに和也は無力だった。

 

「そんなもん、秘密に決まってるだろ」

 

珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべた和也は、自分のオムライスを口にしながら答えた。

正直に自分の心の内を語るには、些かばかり集った面子が悪かった。少なくとも、今はまだ彼女たちの前でそんな重たくて真剣な話をすることはないだろう。

 

「えーっ!?ここまで引っ張ってそれはズルいよ!!」

「そうだそうだ!気になるじゃんかーっ!!」

 

一際大きな声をあげたのは裕奈とまき絵だった。

 

「そういえば、ウチもお兄ちゃんが麻帆良に来た理由なんてちゃんと聞いたことなかったなぁ」

 

隣の席では亜子が呟く。

 

「わ、私も聞いてみたい・・・っ!!」

 

アキラも力強く声をあげた。

 

「ダメだ、これ以上は言わない」

 

しかし、返ってくるのは強い否定の言葉だけだった。

まっすぐに向けられた和也の目に、裕奈やまき絵、アキラたちは口をつぐんだ。そしてそれは隣に座っていた妹の亜子もまた同様だった。

 

「こんだけみんなでお願いしても答えてくれへんの?」

「それだけ大切なことなんだよ」

 

そう言って和也は亜子の髪を出来るだけ優しく撫でた。

二つほどの方角からどうも羨ましそうな目線が伝わってくるが、そこにはあえて触れないことにする。これはあくまでも兄妹としてのスキンシップに過ぎない。年上の知人や妹の友人相手にするにはあまりにもハードルが高かった。

 

「ま、俺は麻帆良学園の大学部まで通うつもりだし、その内、それ相応の時期が来れば教えてやるよ」

 

それよりもオムライス冷えるぞ、と和也が促す。

亜子たちは揃ってスプーンを口に運んだ。さっきよりも僅かに冷めたオムライスの味が口の中に広がった。それでも十分に美味しかったが、残念ながら亜子たちの心を満たすことはなかった。

 

「話を戻すが」

 

再度、亜子たちは顔を上げた。

 

「今の話はあくまでも「長い目で見た時」ってのが前提だからな」

「どういうこと?」

「今回のテストのためにわざわざ探しに行くって選択肢は最初からはなしだってことだ」

 

その目はまき絵を見ていた。

 

「わ、わたしっ!?」

 

自分を指差しながらまき絵が驚く。

 

「折角ここまで自分の力で頑張ってきたんだから、最後にそんな意味の分からん力に頼っちゃダメだろ」

「分かってるよっ!?」

 

和也の指摘に心外だとまき絵は声を張り上げる。

 

「いや、なんかまき絵ちゃんなら友達と一緒に夜遅くにでも探しに行きそうだからな」

「これだけ和也さんに教わってるんだから大丈夫だよっ!?もうすぐバカレンジャーだって卒業するんだからっ!!」

「・・・そうなのか?」

「うん。まき絵、最近はホンマに頑張ってるで。ネギ君の英語の小テストも、再テストやったけど一発でクリアしたみたいやし」

「マジか・・・っ!?」

「わーんっ!アキラぁーっ!和也さんがいじめるよーっ!!?」

「よしよし、まき絵は頑張ってるよ」

 

泣きつくまき絵をアキラは優しく頭を撫でてあやす。

まるで姉妹のような光景に少しだけ心が暖かくなった。これなら彼女が間違いを犯すこともないだろう。今日はもう既にテスト四日前だ。一分一秒が惜しかった。

 

「うっし。あともう少しだけ頑張るか」

 

和也は改めて気合いを入れ直した。そんなにも頑張っているのであれば、食事が終わった後の時間も一生懸命に勉強を教えよう。

もし彼女の成績が良くなり、将来の選択肢の幅が増える一助となるのなら教え甲斐もあるというものだ。

 

「じゃあ飯食ったらあと二時間ぐらい頑張るからなー」

「えぇーっ!?」

「目指せバカレンジャー卒業、ファイトだな」

「・・・はぁーい」

 

力なく頷いたまき絵の様子に苦笑しつつ、和也はこのあとの教え方を頭の中で考えるのだった。

 

 



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