グッド!ローニング (レスキュー係長)
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①いざ、浪人道を行く。

三月。ここ総武高校では高校三年生の卒業式が行われ、無事に閉式していた。花のブローチを着け門出の時を迎える卒業生は打ち上げとに繰り出し、明日から別々の道を行く友と別れの時を惜しむ。

そんな中、由比ヶ浜結衣は茜色に染まった廊下を歩き目的地までゆっくりと歩いていた。胸には花のブローチ、右手には卒業証書の入ったいかにも大層な筒をしっかりと握りしめている。

 

校舎に人影は見当たらない。ただ染みこんだ青春の匂いがそこら中に漂い、門出に立った若者の胸を締め付ける。

 

少し視界が開ける。特別棟の一階。用務員ぐらいしか使わないであろう外へと通じる扉の先が彼女の目的地だ。

 

 

「やっぱりここにいたんだね、ヒッキー。」

 

 

扉のノブを回し、その先に居たのはアホ毛がちょこんと目立つ少年、比企谷八幡であった。八幡はグラウンドをつなぐ階段に腰を下ろし、マッ缶を口に運んでいる。

 

 

「……由比ヶ浜か。なんだ。打ち上げに行ってなかったのか。」

 

「なんだ……って、呼びに来てあげたんじゃん!ほら、奉仕部の打ち上げ始まっちゃうよ。」

 

 

結衣は八幡の隣に座る。唐突に近づいてきた結衣に八幡はとっさに距離を取ろうと横にずれる。しかし、結衣はそれを許さず、距離を縮める。

 

 

「なんだよ。なぜお前が座る必要がある?」

 

「気分だよ。気分。あーあ、終わっちゃうな……高校生活。ヒッキーは楽しかった?」

 

「平塚先生に強制的に奉仕部にぶち込まれ、雪の女王とアホの子に囲まれて無理難題を押しつけられたりと災難だったわ。」

 

 

〝ちょっと!アホの子って私のこと…〟

 

 

そう口を開きかけた結衣を遮るように八幡は続ける。

 

 

「でも、まあ、楽しくなかったわけじゃないというか……充実はしてたんじゃないか。」

 

 

あいかわらずに捻くれている。それでも思いを自分に対して伝えてくれていることは結衣にとってとても嬉しいことなのだ。

 

 

「そっか……良かった。私も楽しかったよ。辛いこともあったし、酷いことをヒッキーやゆきのんに言って傷つけてしまったけどね。それでも、この高校生活は良かったと思うよ。」

 

 

 

八幡も結衣も普段はこんなことは言わない。そうさせているのはきっと追憶のせいだ。

 

それでも言ってしまった気恥ずかしさはあったのであろう、結衣は八幡の顔を見れずに下を向き、八幡もまた背ける。甘酸っぱい沈黙はさほど長い時間ではないにもかかわらず、永遠ほどの長さに感じていた。

 

グラウンドから優しい風が吹く。何度この風を浴びただろうか、と八幡は全身でその風を浴びる。もう戻ってはこないであろうこのベストプレイスで過ごした日々が脳裏に浮かんでくる。いつの間か目に涙が貯まっていることに気づく。いかん、感傷的になりすぎだ、と八幡は軽く涙を手で拭い、立ち上がる。

 

 

「よし、打ち上げ行くか。一応、奉仕部員だしな。ん?どうした由比ヶ浜。」

 

 

うつむいたまま、立ち上がらない結衣に八幡が話しかけるが反応がない。と思いきや、急に立ち上がり、八幡の制服の裾を握りしめる。まるで逃げないように捕まえているようだ。

 

「私さ、今からすっごくズルいことするね。やっぱり言葉にしたい。そうじゃなきゃ伝わらないから。」

 

「由比ヶ浜、お前何言ってる……」

 

「ヒッキ-。」

 

 

結衣は八幡に向き合う。逃れようとするがその強い瞳になぜだか八幡は体を動かすことが出来なかった。

 

 

「私はヒッキーのことが好きです。私と付き合ってください。」

 

 

時が止まる。八幡も結衣も胸も鼓動の音だけが響き渡り、世界が二人っきりになる。それでもいつかはこの世界から抜け出さないといけない。だから、マッ缶で甘ったるくなった口を決意と共に開く。

 

 

「俺は……」

 

 

 

 

*****************

 

 

 

 

 

 

合河塾津田沼校。エントランスに入り少し言った先にはカフェテリアのようにおしゃれな椅子と机が立ち並ぶ。ただひとつカフェと違うのはBGMも私語はなく、ノートに書き込む音がそこら中で聞こえる部分であろう。

 

そんな中、ジーンズにパーカー、黒眼鏡というおしゃれのかけらもない服に身を包んだ由比ヶ浜結衣は窓際の端に座り、英文と睨めっこしていた。机の左側には大量の参考書が積み重なり、右側には先ほどコンビニで買った眠気醒ましのコーヒーを置いている。

 

 

結衣は英文から目を離し、時計を見る。午後六時。いつもならば荷物をまとめて帰る時間である。が、未だに課題を終わらせていない彼女は時間の延長を決め、再びアルファベットの海へ自らの意識を沈めていく。

 

 

 

=================

 

 

 

 

由比ヶ浜結衣は浪人生である。

 

 

全ては彼女は今年の二月、受けたすべての大学から不合格通知を受け取ったことから始まった。

 

彼女自身、大学に対してのこだわりは少なかった。ただ東京の私立大学にいきたかったのだが、なぜ東京の大学なのか。それは彼女の思い人、比企谷八幡が東京の大学を志望していたからである。

 

まさかの不合格(というか成績をみれば当たり前の結果なのだが)通知をもらった結衣であったが、どうしても東京の大学へ行きたかった結衣は親に頼み込み、一浪だけ許してもらい今に至る。

 

そして、結衣はあることも実行する。

もともと結衣は八幡と同じ大学に行き、そこで告白するつもりであったのだが浪人が決まり、急遽卒業式に実行することを決めたのだ。

 

好意を好意として受け取ろうとしない彼に振られる寸前までいくが、

 

「一年後、ヒッキーと同じ大学に入れたら、その時に返事が欲しい。」

 

と説得し、どうにか告白の引き伸ばしをしている、というが現状だ。

 

 

二人との関係は今も続いている。と言っても東京の大学へ行ってしまった八幡とはメールや電話をする程度である。それでも週に一度か二度ある連絡に一喜し、浪人生活のモチベーション維持へと繋がっているのだから関係性としては悪くない。

 

雪乃とはたまに待ち合わせして会う程度である。雪乃は千葉大学へ進学したため比較的近く、たまに相談に乗ってもらっていたりする。ちなみにその相談の中には受験に関してだけでなく、八幡との関係も含まれている。

 

 

二人とも優しく、浪人を応援している。それでも話していると時々突きつけられることがあるのだ。

 

 

自分だけが足踏みして、二人ともどこか遠くへ行ってしまっている現実を。

 

そして、それが堪らなく苦しい。

 

 

=================

 

 

 

英文の構造分解、分からない単語の下調べ、自分なりの和訳をノートに書き記し、閉じる。明日の授業の予習を終えて一息つく結衣が壁に掛けられた時計を再度確認する。

 

午後七時三十分。気づけば九十分も経っていたらしい。

 

 

結衣は机に連なった参考書を大きめなカバンに詰め込む。本当ならば英単語、熟語や世界史の一問一答もやっておきたいところだったが、母親から〝八時までには帰って来なさい〟と釘を刺されている以上逆らえない。スポンサーの指示は絶対なのだ。

 

 

バックを背負い、すっかり空になったコーヒーをゴミ箱に放り投げてエントランスを抜ける。

 

 

かつては帰り際にクラスの誰もが彼女に声をかけていた高校時代とは違い、誰も彼女に声をかけず、ただ自らの学力をあげるために机の上の参考書に食らいついている。

 

結衣は帰り際、必死に勉強を明け暮れる人々を見るのが苦痛だった。無論、彼女も勉強していないわけではない。一日、授業を含めて十時間以上の勉強時間はしっかりと確保している。それでも自分以上に勉強している人間を見ていると、自分が劣っているようで見ていられないのだ。

 

 

さらにエントランスから制服姿の女子二人が入ってくる。二人ともほんの数ヶ月前には結衣も着ていた総武高校の制服である。

 

 

結衣は目を伏せがちに歩く。少し息を止め、すれ違う。エントランスを出たところで、新鮮な空気を肺へ取り入れる。こんなことをいつもやっていたりする。そんな自分がいやだが、やめたら心が保たないのもわかっているからやめられない。

 

 

 

 

夏が近くなってきた六月。新生活が始まり既にニヶ月経ち、由比ヶ浜結衣は予備校では友達も作らず、たった一人で戦う日々に身を置いている。

 



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②電話じゃできないこともある。

比企谷八幡は東京の名門大学の一年生である。

 

東京、笹塚駅周辺のアパートの一室を自分の城のように住み着いてから二ヶ月が経ち、身の回りで起きていた環境がやっと落ち着いて余裕が少し出来ていたこの頃、八幡の姿はコンビニにあった。決してコンビニ弁当を買いに来ていたわけではない。バイトに勤しんでいるのだ。

 

彼自身働こうなどとは全くもって思っていないし、レジ打ちをしている今でも早く仕事から解放されたいと切に思っている。なんなら五兆くらい落ちてこないかな、と唐揚げを揚げながら妄想しているほどだ。

 

それでもバイトをしているのは思っているよりも大学生は金がかかると知ってからだった。親からは最低限の仕送りである家賃、光熱費、授業料以外の雑費は支給されず、すべて自分で稼がなければいけない。今までどれだけ恵まれた生活をしていたのか心の底から痛感した。食費、教科書代、散髪費、娯楽費……自分でも驚く程に金が飛んでいく。

 

 

 

「おーい。ハチくん。戻ってこーい。仕事中だぞ。客いないけど。」

 

 

肩を揺さぶられる。想定よりずっと強い揺れに意識は現実に戻される。

 

 

「ちょっと‥‥匝瑳先輩。俺の五兆円、返してください。」

 

「どんな妄想展開してたのよ‥‥。そんなことどうでもいいから品出ししてきなさい。お姉ちゃん怒るよ。」

 

「いつ俺があんたの弟になった。てか、今からシフトなんだから匝瑳先輩が品出ししてください。俺もう上がるんで。」

 

「それが大学の、しかもサークルの先輩に対しての言い草かね。もっと敬いたまえよ。」

 

「三回連続無断遅刻したアンタなんぞ先輩とは認めん。」

 

 

八幡から匝瑳先輩と言われたその人物は〝ハチくんのバーカ〟と品出しを嫌々始める。これが八幡の入ったサークルの代表というのだから驚きだ。

 

 

匝瑳琴美。八幡の所属する文芸サークルの代表者であり、現在大学四年生二回目に突入した変わり者である。整った容姿、サラサラのボブヘア、167cmのすらっとしたスタイルと大きな胸。外見はまるでお嬢様のように美しいのだが中身は全く別物。よく言っても変人、悪く言っても変人である。

 

先輩たちによる言い伝えによれば、ある時は文芸サークルが年に一度に発行される部誌「Light Ruler」をコミケや文化祭でその圧倒的なコミュ力を武器に売りまくり、一年間の学費程の利益を出したかと思えば、その利益を三日三晩の打ち上げで使い果たしてしまった。ある時はゲーム「メタルギアソリッド」にどハマりし、一時期道に生えている草や野生の動物をキャプチャーし食べるという謎のマイブームにのめりこみ、警察に連れていかれそうになったそうだ。恐らく後者は嘘だろうと八幡は思っているが。

 

 

そんな彼女が八幡を見つけたのは新歓期。ガイダンスに訪れていた八幡を気に入り、あれよあれよという間に部室まで連れ込み、懐柔。八幡にバイト先まで紹介するほど寵愛しているのだ。

 

そんな寵愛は正直言っていらないのだが、生活の様々な部分をサポートしてくれているのだから文句はいえない。

 

 

「時にハチくん。」

 

「あ、今九時半っす。」

 

「時に、という言葉は接続詞として会話において新しい話題に入るときに用いるのだよ。決して時刻を尋ねているわけではないぞ?で、だ。今日は飲みたい気分なのだがどうかね。」

 

「未成年を誘う癖なんとかならないんですかね。警察呼びますよ。」

 

「私が年下好きなのは周知の事実だぞ〜。まずは酔った子をホテルにだね‥‥」

 

 

アホか、と頭にチョップを食らわす。琴美にツッコむのはお気に入りの八幡くらいだ。他の人がツッコむと途端に不機嫌になり、ロクなことにならない。

 

 

「じゃあ、帰ります。引き継ぎお願いしますよ。」

 

「ほいさ〜お疲れさん。」

 

 

 

 

 

 

八幡が家に着いたのは十時を少し過ぎたあたりであった。バイトがあるとこの時間帯に帰ってきてしまうのが常だ。

 

少し遅めの晩御飯はコンビニからの廃棄を少しばかり頂いてきたやきそば。一人暮らしに廃棄品は中々助かる。

 

温めてる最中もベッドに倒れこみたい欲求に襲われる身体がしんどい。若いとはいえ、大学にサークル、バイトもやっていれば体にも心にも疲労も溜まる。すでに足はパンパンだ。

 

 

(そろそろ、時間か‥‥)

 

 

レンジで温めている最中、スマホが鳴る。ディスプレイには由比ヶ浜結衣の文字が。やはりな、と八幡はそっと電話を取る。

 

 

 

 

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一週間ぶりの電話タイム。自分のベッドに横たわり、スマホを耳に付ける。八幡のバイトの時間を考えていつも十時過ぎにかけるのが彼女なりの配慮だった。

 

 

「ヒッキー、今大丈夫?もしかして、またご飯食べてる最中だった?」

 

『いや、温めてるところだから気にすんな。』

 

「そっか‥‥ちゃんと食べてるの?」

 

『お前はオカンか。お前こそ大丈夫なのかよ。』

 

 

いつもこんなたわいのない話から始まる。結衣が聞くのは大抵、大学についてだ。八幡が今やっている勉強のこと。バイト先での様々なハプニング。サークルでのおもしろ話。どれも今の結衣にとっては魅力的で胸を高鳴らせる。

 

 

『で、匝瑳先輩なんだがな。街で嫌がる女性を無理やり連れて行こうとする男をボコボコにしたこともあるらしい。』

 

「なにそれ!凄い!大学にはそんな人がいるんだね!」

 

会話が弾む。二人とも奉仕部に出会っていた時よりも話をしているのかもしれない。それは結衣が普段誰とも話さなかった分反動でお喋りに熱が入っているのもあるし、八幡が忙しい日々で失われていくアイデンティティを結衣と話すことで取り戻せているように感じていたからだろうか。

 

 

『なあ、由比ヶ浜。』

 

「ん?」

 

『俺のことばっかり聞いていいのか。お前話したいこととかあるんじゃないか?』

 

「‥‥うん。大丈夫。私頑張ってるよ。毎日ちゃんと勉強してるし、最近は色々なことが分かってきたの。昔は分からなかったことも〝ああ、そういう意味だったんだ〟ってね。面白いよ。」

 

 

本当のことだ。知識を身につけ、少しずつ使い方を知り始めた結衣には色んなものに興味を持ち始めていた。それまでほんの少しの視野でしか見れていなかった世界が広がっていく。

 

 

『そうか‥‥ならいいんじゃないか。きっと、今は種を蒔く季節だ。適度に耕した土地に適切に種を撒き、水をやる。夏を超え、やがて芽が出て大きく育ち、実になる。』

 

「うん。分かる。ヒッキーの言いたいこと、分かるよ。だから、だからね、あの‥‥‥」

 

『花火大会、だろ。』

 

「覚えててくれたんだ。」

 

『あれだけ、ねだられたら覚えるわ。まあ、俺もバイトは休む。お互い、息抜きは必要だろうからな。』

 

 

約束、それは結衣がかねてから願っていた幕張ビーチ花火フェスタに二人で行きたいというものだ。三月、予備校が始まる前に雪乃と八幡からのスパルタ特訓を受けていた頃からねだっていた。

 

 

「ありがとう。ヒッキー。よーし!明日も勉強だ!」

 

『うるせえ、夜なんだからもっと静かに決意表明してくれよな‥‥』

 

「あ、ごめん‥‥じゃあ、おやすみ。ヒッキー。」

 

『おやすみ。』

 

 

通話中から切り替わり、ホーム画面に戻る。まるで魔法が解けてしまったかのように虚無感に襲われる。そして、いつも胸が苦しくなる。

 

話しているときは楽しい。いつだってあの頃、いやあの頃以上の近さで色んなことを話せるのだから。だが、同時に悲しくもなる。体温が感じられるほど、生身の彼に触れたい。そう願っても今の彼女には無理なのだ。鎖に繋がれた浪人という首輪が彼女の自由を奪う。

 

 

「ヒッキー‥‥会いたいな‥‥」

 

 

結衣は自分を慰めるように下半身へ手を伸ばしていくのを止めることができなかった。

 

 

 

 

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通話を切った八幡はスマホをベッドに放り投げ、横たわる。レンジの中の焼きそばは既に加熱が終わっていた。

 

 

「はぁ‥‥これで良かったのか‥‥?」

 

 

八幡も八幡で、電話が終わるといつも反省している。内容はもっぱら由比ヶ浜へと付き合い方だ。

 

そもそも結衣からの告白を八幡は断るつもりだった。誰のためでもない、ただ自分がそうしたかったからだ。雪乃や結衣と過ごす日々は八幡にとって確かに充実していた。その三人だけにしか分からない雰囲気は財産といっても良い。だが、恋人関係は話が別だ。八幡は誰かと共に添い切れるだけの自信がからっきしなかった。一人がいい。それが一番気楽だから。

 

 

それでも目の前で告白された時はそんな思考も停止してしまった。自分の気持ちを泣きそうになりながらも伝えようとする結衣をバッサリと振ることは出来なかった。だからこんな中途半端なことになっているのだ。告白の返答を一年もお預けされ、なおかつ結衣とまるで恋人のような関係になっている。こんな状態は本来間違っているのだ。

 

 

 

 

「ちょっと!居るんでしょ。」

 

 

乱暴に叩く玄関のドアに注目する。若い女性のようだ。

 

仕方なく体を起こし、玄関まで向かう。開けた先にはいつもポニーテールでなく、髪を下ろした隣の住人である川崎沙希であった。彼女もまた八幡と同じ大学へ進学しており、偶然にもお隣さんであった。

 

 

「アンタ、何回も私がピンポン鳴らしてるんだから出なさいよね。」

 

 

どうやら八幡が意識を飛ばして居る間、何度も呼ばれていたらしい。ごめんと謝罪し、目線を沙希の手元に移す。透明なタッパーには茶色の何かが詰め込まれている。

 

 

「これは‥‥」

 

「これ、作りすぎたから。おすそ分け。この前好きって言ってた里芋の煮っころがし。」

 

 

タッパーを開く。醤油とみりんのいい香りが広がる。

 

 

「アンタ、また廃棄食べてるんでしょ。そんなもんばっか食べてたら体壊すよ。」

 

「なんだ、デジャブか?」

 

「アンタ何言ってっかわかんないけど、私はこれで寝るから。じゃあ。」

 

 

「あ、ありがとうな。お休み。」

 

自分の部屋に戻ろうとする沙希にそう話す。すると沙希はクルリと振り返り、ドアを力ずく締めた。心なしか顔が赤くなっていたことを八幡は知らない。

 

 

「は?何だよ。訳わかんねぇ‥‥」

 

 

タッパー片手に立ち尽くす八幡であったが、少し開けた隙間から煮っころがしをひとつ摘み、口の中に放り込む。甘辛く味付けされた里芋のねっとりとした食感は見事に八幡の好みを打ち抜いていた。

 

 

 

 

 

「白米食いてぇ‥‥‥」



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③それぞれの課題

 

 

朝九時から始まる授業が終わりいざ昼食でも取ろうかとラウンジへ向かう途中、チューターに声を掛けられ、面談が始まる。もともと一緒に昼食を取るようなクラスメイトはいなかったし、時間の調整なんてどうにでもなる。それよりもいまだ暗いトンネルの中をこのままがむしゃらに走っていて果たして大丈夫なのか、客観的視点からのアドバイスを食事よりも欲していた。

 

 

結衣を担当するチューターの名前は田町という女性であった。見た目アラサーといった感じではあるが年相応なメイクは大人のフェロモンを醸し出している。

 

 

「なるほど。不安なのね。なら、今度のマーク模試を受けてはどうかしら。」

 

「マーク模試ですか。いや‥‥私にはまだ早いかなって‥‥」

 

「そんなことないわ、由比ヶ浜さん。寧ろ、受けるべきよ。自分の今の立ち位置を正しく知っておくということは今後の学習計画にとても重要なことなの。それに丁度七月末に行われるでしょ。大体三ヶ月目でようやく学習効果は数字に表れ始めると言われている。そのことを考えてもタイミングはバッチリよ。」

 

「でも、マーク模試って要はセンター形式ってことですよね。」

 

 

センター試験に対して結衣は深いトラウマがある。昨年度のセンター試験では英語、国語、世界史の三教科とも六割を超えていない。知識、時間、メンタル、その全てが足りていなかった。当時は笑って見てみぬふりをしていたが、それは間違いだったと今では断言できる。あの時、もっと危機感を持っていれば。後悔が重く、重くのし掛かってくるのだ。

 

 

「確かにセンターに準拠した問題形式ではあるわ。でも世界史なんかはまだ現役生も進んでない部分もあるから範囲が狭まってるし、そんなに構えなくても大丈夫。由比ヶ浜さんはよく先生へ質問しにきてくれるし、ちょくちょくやってる小テストも八割毎回越えてきてるんだからもう少し自信を持って!自信を持ちすぎるのはどうかとは思うけどなさ過ぎるのも問題よ。きっと成績は自然に上がってるわ。それにまだ模試まで一ヶ月ある。まずはそれに向けて計画を立ててみて。それからセンター対策をやってみようか。」

 

 

優しくほほえむ田町には経験則から導き出された確信があった。新学期が始まり、早二ヶ月。四月の段階では皆、浪人に対して危機感が持って勉学に励む。しかし、五月・六月になっていくと環境になれたり友達もでき始めたりと何かとだらけてしまうのだ。結衣が友達を意図的に作らず、この二ヶ月間全く動じることなく勉強に邁進し続けるのを見ている田町からすると結衣の成績が上がらないわけがない。

 

 

「……はい。なんとか考えてみます。あ、あと、生活面に関してなんですけど……」

 

「ん?なんでも相談して。」

 

「浪人生が花火大会に行くのはダメなことでしょうか…ネットを見ていたら色々な意見があって…」

 

「別にいいんじゃないかな?浪人は長期戦だよ。まだまだ先は長い。ほんの少しの息抜きなら神様も許してくれると思う。ただ、息抜きのしすぎは注意してね。勉強に戻れなくなるからね。他に何か質問は?ないならお開きにしましょうか‥‥」

 

 

 

 

面談も終わり、いつものラウンジの窓際でさっと買ってきたコンビニのサンドイッチを頬張りながら先ほど借りてきたセンター試験の過去問をペラペラと眺める。見覚えのある問題が並ぶ。昨年度の問題だ。あの頃は解けなかったが今はどうだろうか。先生のアドバイス通りに勉強しているし、最近は手応えを感じることが多くなってきた。

 

(だめ!まずは今日のテストの復習から!それに明日の予習と単語の確認もしないと‥‥。)

 

センター試験に対する邪念を振り払うように頭を激しく振る。そして残りのサンドイッチを頬張り、コーヒーで一気に流し込む。時刻は午後一時。長い自習時間が始まった。

 

 

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土下座とはプライドを捨ててでも誰かに物を頼む時に使われる最終奥義である。そんな高貴な技を惜しげもなく使い、頭を地面にこすりつけているのは自称八幡の相棒で同じ学部の材木座義輝であった。

 

 

「八幡、頼む!我の最高傑作を読んでくれ!これはいままでとは一線を画す新しい物語ができた。我が相棒にも是非見てもらいたいのだ。」

 

「断る。今ソードアートオンラインを読み直しているところだ。邪魔するな。」

 

「はちま~ん!頼む。校正ぐらい相棒ならやってくれよ~。」

 

「甘えてくるな。俺はお前の相棒になったつもりはなさらさら無い。てか、近い。もっと離れろ。」

 

 

ここは文芸サークルの部室。部屋の壁は本棚で埋め尽くされ、ライトノベルや同人誌でいっぱいだ。そもそも八幡がこのサークルに入った一番の要因はここにある。あらゆるライトノベルがそろったこの部室に入り浸りたかった。わざわざ金を賭けなくても新作は先輩が増やしてくれるし、隠れた名作があったりと読書好きの八幡にはにはたまらない。

 

 

「ハチくん、読んでやれば良いじゃないか。クリエイターが最高傑作とまで豪語するその作品には魂が籠もっているように私には思うよ。」

 

「アネキ……そうだぞ、八幡。我の魂の結晶を読まずして冒涜するか!」

 

 

そう話す匝瑳琴美は携帯型ゲームを片手にディスプレイから目を離すことはない。いつものことだ。文芸サークルに入っているのに全く文芸に興味がないのだ。あるの面白そうなことだけ。それが匝瑳琴美の本質だと八幡は分析していた。

 

 

「そうはいいますがね……その労力を考えて見てくださいよ。この量ですよ。」

 

 

八幡が持ち上げた義輝の小説の原稿用紙は五cmほどあるだろうか。もつだけでも重い。

 

 

「ハチくん。そういえば『Light Ruler』の原稿をいつ書くつもりなの。今年は夏コミケに参戦する予定だよ。新人も書いてもらうとずいぶん前に話したはずだけど…まさか忘れていたりしないよね。」

 

 

文芸サークルは小説を読むサークルではない。小説を生み出すサークルだ。だからメンバーは皆、何かしら部誌に掲載する義務を負っている。残念ながらその一員になってしまった八幡にも当然義務がのし掛かる。

 

「まあ、もしハチくんがその小説を校正したら共作として認めてあげるよ。いいよね、材木座くん。」

 

「も、もちろんですとも!さあ、我が相棒よ、この暗黒の魔導書にひざまずくがよい!」

 

「どうする?これから一から執筆するか、校正だけするか……どっちが楽だろうね……」

 

 

悪魔め……琴美はともかく調子に乗っている材木座を殴り飛ばしたいという欲求を理性で押さえ、乱暴に原稿用紙を机に置き赤ペンを持つ。

 

「覚悟しろよ、材木座。」

 

 

 

====================

 

 

 

その小説を読み終えたのは三時間後のことだ。

 

感想は至ってシンプル。つまらない。設定や風景描写に懲りすぎて肝心のストーリーの流れが掴みにくくなっている。それに序盤から大勢の登場人物が登場してしまうために個々のキャラクターの特徴が分かりにくい。そして、改行やカギ括弧の使い方など基本的な文章を作成できていない。正直、校正云々の話では無い。

しかし、八幡が致命傷だと思ったのは義輝の小説に対する姿勢であった。

 

 

「お前、これを自分で読んでどう思った?」

 

 

何を当たり前のことをと鼻で笑い、義輝は答える。

 

「面白いに決まってるではないか。自分で書いた世界だからな。」

 

「そうだな。お前は面白いと思ってるのは当たり前だ。確かに話の展開自体はさほど悪くはない。だが読者の持つ印象は違う。俺は少なくとも面白いとは思わない。これは小説として成り立ってねえからな。」

 

 

いつもなら面白くないとは言いながらもそこまで厳しいことは言わない八幡がここまでいうものだから義輝も思わず黙り込む。そこで琴美がすかさず口を開く。

 

 

「どう成り立ってないのか。ちゃんと説明しないとわからないんじゃない?ハチくん。」

 

「……ずばり言えば、全く読者を完全に無視しているということだ。読者がどう読むか、読者がストーリーについて行けず脱落しないようにするにはどうすればいいのか、とか。読者目線で書く。悪いが、これは小説なんかじゃない。ただの文字の羅列だ。自己満足のメモ書きだ。」

 

 

義輝は崩れ落ちるようにひざまずく。八幡からの手厳しい意見に精神的には既にぼろぼろだ。

 

 

「今日の八幡は一段と厳しいな……」

 

「厳しくなんかない。常日頃から思っていたことだ。今まではネットにも出さず自分の中だけで書いて満足してたから何にも言わなかった。だが、部誌への掲載なら話が別だ。その部誌を求め、買った読者がいる。大した金ではないかもしれない。それでも最低限小説として成り立つ文章であることは作家としてのマナーだろ。」

 

 

とどめを見事に刺される義輝は「ぐはっ!」とご丁寧に効果音付きで倒れ込む。呆れる八幡であったが、琴美は笑みを浮かべる。

 

 

「随分、大層なことを話していたけど肝心の君は書けるのかな?」

 

「いや、別に俺が書けるわけでは無いっすけど。一般論として話したまでです。」

 

「ふーん。で、どうするよ。君の話だとこの小説は小説の体を成していないんだよね。なら修正しないことにはこちらとしては受け取れないな。でも君の相棒は余りのショックで倒れ込んでるし、君は校正を引き受けたわけだ……」

 

 

悪魔のようににやにやと口角をあげる琴美の言いたいことはよく分かっていた。自分に書け、とそう言っているのだ。

 

「俺は書くつもりはないっすよ……」

 

「なら君は締め切りに間に合わなかった罪人だね。これまで私があんなにかわいがってきたのにな……残念だな。」

 

 

八幡を玩具のように扱うようなところ、かの魔王様にそっくりで八幡は身震いする。実際のところ、この人間のお陰でどうにか生活できていることをかんがえれば反論するような余地はない。

 

 

「……これを元に自分なりに修正して形にしてきます。それでいいでしょ。」

 

「うん!楽しみだな~ハチくんの書く小説。」

 

「悪魔め……覚えとけよ。」

 

 

八幡はそう言い残し、原稿用紙を詰め込むと部室を飛び出していく。

その姿を琴美は見送りながら次の展望を思い描いていた。

 

 

 

「八幡よ…我を置いていくとは……不覚……」



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④いつだって人生はうまくいかない。

「どういうことっすか。どうして共作が認められないのか、説明して貰いましょうか。」

 

 

八幡は憤怒していた。かの邪智暴虐のサークル代表、匝瑳琴美を必ず説得しなければならないと決意した。

 

琴美の左手には八幡が一ヶ月間練りに練ってようやく形になった分厚い原稿用紙、右手には材木座の旧版を持ち、見比べている。

 

 

「ハチくん、そんなに怒るもんじゃないよ。」

 

「そりゃ、怒るに決まってるでしょうが。アンタが約束したんだぞ、材木座との共作にするって。材木座も聞いていたよな。」

 

「いや、まあ、そうではあるんだが‥‥」

 

 

材木座のハッキリとしない返答にまた別に怒りが込み上がってくる。そんな八幡の様子を察してか、琴美はなだめるように語りかける。

 

 

「いや、確かに約束はしたんだけど‥‥よく考えたら、材木座くんが一度は完成させた作品をハチくんの独自解釈で再編したわけでしょ。これって二次創作じゃない?ウチの部誌に二次創作は‥‥ね。それにやっぱり零から一を生み出した人を尊重しないと。」

 

 

それは余りにも筋の通らない話だった。共作という形で納めようと来る日も来る日も頭を抱え、書き上げたのだ。実質的には八幡は作り上げたと言っても過言ではない。

 

 

それでも、強く握り締めた拳を理性で緩める。それは琴美が全く動じることもなく、恐らくこの決定を覆す気はさらさらないように見えたからだ。

 

 

「‥‥また書け。そういうことですか。」

 

「ま、そういうことになるかな。ごめんね〜ちゃんと埋め合わせはするからさ。あ、そうだ!焼肉、行かない?私が奢るから。」

 

 

魅力的な提案だ。だが、今の八幡には響かない。焼肉程度で揺り動かされるような安い男と思われなくないのだ。

 

 

「‥‥お断りします。で、締め切りはいつまでに?」

 

「コミケ開催が八月十一日だから、せめてその一週間前までには欲しいけど、知り合いの印刷所にお願いするから始まる四日前までにくれればなんとでもするよ。」

 

 

今は七月末。圧倒的に時間が足りない。それでもやるしかないのだ。この大悪魔の前で見事に原稿を書き上げ、屈服させる。これこそ一番の抗議だろう。

 

 

「分かりました。じゃあ、書いてきますよ。ただし、書き上げたら死ぬほど奢ってもらうのでそのつもりで。」

 

 

 

 

そう言い残し、部室から去って行く八幡。残されたのは義輝と琴美の二人だ。

 

 

「アネキ、これで良かったのだろうか‥‥我は別に共作でもいいのであるが。」

 

 

 

琴美はそばにあったパイプ椅子に座り、二つの原稿用紙を見比べている。

 

 

 

「材木座くん。ハチくんの書いたこれ、読んだ?」

 

「勿論。素晴らしき物語であった。我の文章をここまでにするとは流石は我が相棒よ。」

 

「うん。本当に凄い。ファンタジーと現代日本を上手く融け合わせているし、心理描写が本当に上手い。私ね、欲深いんだ。これを読んで〝もっと見てみたい〟そう思っちゃった‥‥」

 

 

 

 

 

匝瑳琴美は昔から小説が好きだった。小学生の頃には、ナルニア国物語、指輪物語と言った海外作品は勿論のことはやみねかおる作品を特に愛読していた。

中学に入ってからは名作と呼ばれたものなら全て読み漁った。村上春樹、宮部みゆき、重松清、太宰治、江戸川乱歩、芥川龍之介、川原礫、伏見つかさ、アガサクリスティー、ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル‥‥‥ジャンルも時代も関係ない。ただひたすらに面白い小説を求めた。

 

それでも限界が訪れる。どんなに読んでも満足しなくなってきたのだ。次々にぺージをめくりたくなるようなゾクゾクとした本に出会わなくなった。つまらない。だから、本を読むのを止めた。いつかきっと天才が現れ、自分をドキドキさせる作品を書いてくれるはず。それまでは極力本は読まないでいよう、と本気でそう考えていた。

 

 

大学では文芸サークルに入り、代表にまで上り詰めた。そこにはプロでなくとも面白い小説を書いてくれる人間がいるのではという期待があったからであるが、それでも大学四年間では出会えず、決まっていた出版社の内定を自ら無にし、留年してまでも居残った。

 

そんな時だった。八幡に出会ったのは。気に入ったのは彼のその酷く捻くれた性格だ。様々な人間に会ってきたが、八幡のような人間に会ったことはない。だから、興味が湧いた。この人が書いた独自の世界を見てみたくなった。

 

 

「なるほど‥‥とどのつまり八幡に惚れ込んだのであるな。」

 

 

「正しくはハチくんの才能、にね。思ってた通りこんな面白いものを書き上げてきたわ。でもこれは彼の世界じゃない。あくまで材木座くんの作った世界に手を加えただけ。私は本物の彼が作り上げた世界を見たい。まあハチくんには大分負担をかけることにはなるから本当申し訳ないとは思っている‥‥」

 

「そんなことはないと我は思うぞ。」

 

 

義輝は八幡の原稿用紙を琴美から受け取る。

 

 

「あやつはああでもしないと動かないからな。強引くらいがちょうどいいのだ。それより、これはどうすれば?我のが元になっているとは言え、ほとんどあやつが書いたものである。」

 

「勿論、共作として掲載するよ。あんな面白い小説を公開しないなんて勿体ないからね。あ、それから材木座くん。これ私が代表してる別の同人ゲームサークルなんだけど、シナリオ担当が不足しててね。君は文章を書くのはちょっと下手みたいだけど、ストーリー自体は素晴らしいわ。きっと良いシナリオライターになれるから小手試しにゲームのシナリオでも書いてみたら?」

 

「こ、これは‥‥ありがたい。感謝する‥‥いや、ありがとうございます。」

 

 

連絡先の書かれた紙を受け取りはしゃぐ材木座をよそに、今年の夏は忙しくなりそうだ、と琴美は笑みを浮かべていた。

 

 

====================

 

 

 

新宿のルノワールでコーヒーに大量の砂糖を加えていたのは八幡であった。勢いよく部室から飛び出したものの、新作なんてそう簡単に浮かぶわけでもない。後悔しかそこにはなかった。

 

 

「人と会っているのにボケっとするなんて礼儀がなってないわね、ボケヶ谷くん。」

 

「もはやうまくもなんともないその〜ヶ谷シリーズはやめるつもりはないんですかね、雪ノ下。」

 

 

白いワンピースを着こなす雪ノ下雪乃はアイスティーを一口飲む。八幡から見ても雪ノ下雪乃は大学に入ってさらに綺麗になったように見えていた。大学で愛猫同好会に入り、好きなことをやっているからだろうか。少なくとも高校時代よりも柔らかくなった印象を八幡は持っていた。

 

 

「何かしら。ジロジロと視姦するのは止めてほしいわね。」

 

「ルノワールで視姦とか使うな。TPOをわきまえてくれ。」

 

 

そうね、と微笑む雪乃であったが思い出したかのように茶封筒を取り出す。

 

 

「これ。約束してた花火大会の有料エリアのチケット。」

 

「わざわざ千葉から出てこなくても郵送してくれれば良かったのに。」

 

「別にこれのために出てきたわけではないわ。東京でパンさんの展示会があるからこれはそのついでよ。」

 

「‥‥さいですか。まあ、ありがたくいただく。」

 

「別に貴方のためじゃないわ。由比ヶ浜さんのためよ。」

 

 

八幡は茶封筒を受け取り、かばんにしまう。八幡が結衣のために雪乃に頼んでいたものだ。

 

 

「それでどうなの?由比ヶ浜さんとは。」

 

「どうって‥‥まあ、上手いことやってるよ。適度に連絡とっているしな。あいつも頑張ってるみたいだぞ。」

 

「そうね。私もたまに会うけど、びっくりするほど成長してるわ。彼女と構造主義の話で盛り上がれるなんて思わなかったわ。」

 

「え、最近の女子会ってそんな硬派な話するのか。八幡ビックリ。」

 

「ただ、心配なの。予備校では友達も作らずにずっと勉強しているそうよ。」

 

 

由比ヶ浜結衣が友達を作らず、ひたすらに勉強しているとは八幡からすると意外ではあったが、正しい選択だとも思う。友達を作ればおしゃべりなんかで勉強時間は削れる。浪人は高校とは違う。勉強するためだけに与えられたモラトリアムなのだ。

 

 

「良いことじゃねえか。実際、成績も上がってるんだろ。」

 

「由比ヶ浜さん。笑ってたけど、昔みたいにじゃなかったわ。なんと言うか無理していた気がするの。私は聞けなくって‥‥ねえ、比企谷君。もし由比ヶ浜さんが辛い目にあっているなら貴方も助けてね。勿論、私も助けるけど。」

 

 

強く、真剣な眼差しだ。八幡はただ首を縦に振る。善処するとは言わない。その言葉は酷く無責任に思えたからだ。

 

 

 

 

 

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七月末。

 

気づけば模試当日。

 

「ママ、行ってくるね。」

 

 

行ってらっしゃいという母親の言葉を聞く余裕もなく、玄関を出た結衣は模試の会場に向かうためバス停まで向かう。

 

 

歩いていると先ほどそこら中に幕張ビーチ花火フェスタのポスターが張られていることに気づく。八月の頭に開催されるこの花火大会は高校二年生の夏に結衣と八幡がデートした思い出のイベントだ。

 

この模試を切り抜ければ、彼とまた一緒に夏の思い出を作れると思うと先ほどまで重かった気分も幾分か楽になるような気がして少し歩くスピードも早くなる。

 

 

 

 

 

模試の会場はいつもの校舎だった。いつも通り結衣を始まる二〇分前に来て受験票に書かれた席へと座る。周りには外部からの受験生も混じっているのか、なんだか皆頭が良さそうに見える。

いかん、いかんと持参の英単語帳を眺めるが一単語も頭に入ってこない。世界史の一問一答を開いてもどうにも調子が悪い。こういう時はやることは一つだ。結衣は自分の腕を枕に開始時間まで目をつぶっていた。

 

 

 

 

模試は世界史、国語、英語の順番に行われる。目をつぶり、自分の世界に入っていたのが功を奏したのだろうか、初めの世界史では思いの外手応えを感じることができた。二科目、国語は時間切れで漢文丸々と古文の一部の問題を解くことが間に合わなかったが現代文の出来は自分でも自信を持てるほどだった。

しかし、そんな中で危機的な問題が発生したのは英語であった。

 

 

 

〝始めてください〟

 

 

 

試験官の合図で受験生は一斉に問題用紙を広げ、解き始める。そんな中、結衣のペンはぴくりとも動かない。

 

 

(どうしよう……読めない……どうして……!?)

 

 

いつもならすぐに出てくる英単語も上手く出てこない。それどころか単語がアルファベットにばらばらに分解されて見える。英語の教師に言われたことも上手く思い出せない。長文を目で追えない。気づけば、着ていたTシャツが肌に纏わり付くほどに冷や汗が吹き出していた。どうすればいい、考えれば考えるほど分からなくなってくる。まるで底なし沼に引きずり混まれているかのようで震える。

 

 

 

 

 

試験終了した時、結衣のマークシートには半分も行かない程度しか書き込まれておらず、結衣はその場で憔悴し、しばらくその場から立ち上がることはできなかった。

 



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⑤輝く菊は眩しすぎて。

 

既に模試から三日経った。

 

締め切ったカーテンから漏れ出る光で結衣は目を覚ます。時計を確認する。午後一時前。昨日の夜寝たのが深夜十二時あたりであったから十二時間以上ベッドから動いていないことになる。

 

脇で充電しているスマホの液晶にはLINEでの八幡から〝今日、18:00に海浜幕張駅で待ち合わせ〟との通知が残っていた。

 

そう。今日は約束の花火大会である。

 

気だるそうに起き上がり、軽くシーツを整えているとふと、勉強机の上にある持ち帰った模試の問題と赤ペンが目に入ってしまった。居た堪れない衝動に襲われ、整えたばかりのシーツを勉強机に被せ、リビングへと急ぐ。

 

 

 

 

結衣はあの模試の自己採点の後から単語帳を開くことすらしていなかった。

 

結果から言えば、模試の結果は散々なものだった。去年の結果よりは幾分かマシにはなったが、六割を超えたのは世界史のみである。

それでも頭の真っ白になった英語はまだ納得がいった。どう考えてもあの時は正常な精神状態でなかったし、間違いなくセンター形式に対する準備が足りていなかったと自覚していたからだ。

結衣の期待を見事にたたき壊したのは国語だった。自信を持って導き出した解答がことごとく外れ、現役とさほど変わらない点数を叩き出してしまったのだ。

 

 

受験に対してのモチベーションが著しく下がり、家で引きこもる日々。勿論悪いことだとは思っているし、所詮は模試だとも頭では分かっていても心が納得しない。三ヶ月とはいえ、目の前の問題をひたむきにぶつかってきたつもりだ。周りの浪人生がゴールデンウィークに息抜きと称し遊びに出て行く中、自習室に籠り勉強していた。逐一講師に疑問点を聴きに行きアドバイスを貰ったりもした。それなりに努力はしているつもりだった。それなのに、少しも身にしていない自分が情けなくって、許せない。自己嫌悪に陥った結衣が行き着いたのは〝何もしない〟という選択肢だった

 

 

 

 

 

「おはよう、というかおそよう、結衣。」

 

「‥‥おはよう、ママ。」

 

 

元気なくリビングの机に座り、机に置かれていたラップの掛けられた朝ごはんをレンジで温めることもなく食べる結衣の異変に母親はなんとなくではあるが気づいている。それでも特段勇気付けることもアドバイスもしない。

こればかりは自分で乗り越えてもらうしかないのだ。受験するのは母親ではなく、本人なのだから。親にできるのは食事や洗濯といった身の回りのサポートと金銭関係だけだ。

 

 

「結衣、今日はヒッキー君と一緒に花火大会に行くんでしょ。ならこれ着て行きなさい。」

 

 

洗濯物をたたむ作業を中断して取り出したのは、いつの日か八幡と花火大会へ行った際に着て行った浴衣だ。八幡に照れながらも褒めてもらえた思い出の品でもある。

 

 

「いいよ、今日は適当に私服でいくから。」

 

 

結衣の素っ気ない態度にカチンとくる母。別に勉強に関してはなんとも思わない。でも、折角誘ってくれた相手に対してヤル気のない姿を晒すのは余りにも礼儀がなってないじゃないか。

いつの間にか母の声色は低く、いわゆるマジトーンになっていた。

 

 

「結衣。誘ってくれた人に対して適当な服でいくなんて認めません。きっとヒッキー君だって勇気を出して誘ってくれたのよ。結衣はそれに答えるのがマナーでしょ。ということで食べ終わったら身だしなみを整えなさい。良いわね。」

 

 

結衣は知っている。こうなった母が意見を曲げることはないことを。以前、何度注意しても洗濯物を裏返しで入れる父に静かにキレた母の姿を知っているからか大人しく従うことにした。

 

 

「結衣。今日はイヤなことは全部忘れて思いっきり楽しんで来なさい。ママとの約束ね。」

 

 

母の言う通り、今日くらいイヤなことは全部忘れてしまうくらいが良いのかもしれない。全部リセットし、またやり直そう。

 

は〜い、ととりあえず返事をして結衣は冷たくなった朝食と言う名の昼食を取る。久しぶりにどんなオシャレをしようか胸をときめかせていた。

 

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

 

午後六時になる頃、海浜幕張駅には浴衣姿の八幡が待ち合わせの地で一人待ちぼうけていた。

 

そもそも何故浴衣を着ることになったのかと言えば小町が原因だ。何故だか結衣との花火デートの情報が漏洩しており、千葉へ帰りリビングでゆっくりしていたところに小町から渡された。

 

特に反対する理由もないので着てきたが、意外なことに藍色の浴衣を着こなす姿は彼を後ろから見た女性達の黄色い歓声を生み出し、その幻想を抱いたまま彼の顔を確認した輩はその目の腐り具合に一様に溜息をついていった。

 

一方の八幡は全くそんなことは気にもせず、ただ小説のプロットを考え続けていた。あれから三日経っているが全く良い案が浮かんでこない。前回は義輝の原案があったからこそ数日で書いてこれたが、今回は事情が違う。プロットなんて書いたこともない彼にとって零から一を生み出す途方も無い労力に絶望さえ感じている。

 

ファンタジーにしようかとも考えたが、一から考えるには時間が掛かり過ぎる。スポーツ物はそもそもスポーツをしていない八幡はハードルが高い。とすれば、青春恋愛物だが終着点が思い付かずに脳内で却下した。

 

 

 

どうしたものか。ふと八幡が顔を上げた先に、浴衣姿の彼女がいた。

 

 

 

 

「‥‥やっはろー!久しぶり、ヒッキー。」

 

「‥‥おう。久しぶり。」

 

 

行き交う人混みの中、二人は見つめあう。周りの時間が止まっている気がした。

 

 

「ありがとう。誘ってくれて。」

 

 

沈黙を破ったのは結衣の方だった。見つめ合いに耐え切れなかったのだ。

 

 

「まあ、約束だしな。それにあんなにねだられたら実現しない訳にはいけないだろ。」

 

「そう言えばそうだね。ねえ、ヒッキー。ところでその格好ってさ‥‥」

 

「ああこれか。小町がうるさくて来て見たものの、下駄が慣れないんだよな。」

 

「でも、似合ってるよ。なんかスッキリした感じでカッコいい。ほら、さっきから周りの人がチラチラヒッキーのこと見てるの気づかなかった?」

 

 

指摘されて八幡は周りを見る。一瞬ではあるが、目線を逸らした人々がチラホラと見てとれた。しかし、逸らした人々は一様に溜息をつき二度とはこちらに目線を向けることはなかった。

 

 

「何だか溜息があちらこちらで聞こえたのは気のせいだろうか‥‥」

 

「気のせいだよ。それよりさ、その、私のは‥‥どう?」

 

 

言われて改めてしっかりと結衣の姿を眺める。お団子ヘアから見えるうなじは妙に色っぽく八幡の理性を崩しにかかる。それに加えて、その浴衣には見覚えがあった。

 

 

「それ、前来た時に着てたやつだろ。」

 

「覚えててくれたんだ。」

 

「まあ、浴衣姿なんてあんま見ないしな。あの時以来か‥‥時の流れを感じるな。」

 

「ヒッキー、なんかおじさんみたいだよ!私たち、まだ未成年だからね!」

 

 

久しぶりの結衣のツッコミにふと懐かしさを感じる。確かこんな感じだった。その感覚は一時的な嬉しさと共にもうあの頃には戻れないという底知れぬ悲しさもあるのだ。

 

 

「まあ、あれだ、似合ってるよ。」

 

 

唐突な素直さは結衣の頬を急激に赤らめさせる。高校時代からそれは変わっていない。

 

 

「‥‥‥ありがとう。嬉しい。」

 

 

暑い。それが夏のせいなのか、はたまた照れから来る熱のせいなのかはお互い分からない。ともかく、既に出会って十分も経っている。

 

少しクールダウンして歩き出す二人。

二、三歩歩いたその瞬間、結衣の下駄がアスファルトに引っかかり倒れそうになる。

 

 

「由比ヶ浜!」

 

 

八幡がとっさに結衣を支える。自然に顔が近くなり、唇がくっつきそうになる。

 

あ、と直ぐに顔を退けるが先ほどクールダウンしたはずの熱がぶり返していく。

 

 

「ご、ごめん‥‥」

 

 

そんな結衣の言葉を遮ったのは結衣の目の前に出された八幡の右手だった。

 

 

「え?」

 

「ほら、危ないだろうが‥‥それに今日は人が多いからはぐれないようにな。」

 

「‥‥‥ありがとう。」

 

 

差し出された右手を握るしっかりと握り、二人は人ごみに飲み込まれていった。

 

 

 

 

=================

 

 

 

幕張ビーチ花火フェスタは打ち上げ総数二万発とかなり大きな花火大会である。幕張海浜公園には多くの屋台が立ち上り、人々の活気で溢れる。

 

結衣たちも屋台の列を眺めながら歩いていく。

 

 

「あ、りんご飴。ごめんヒッキー、ちょっと買って来るね。」

 

「おいちょっと待て。この人混みだとマジで逸れるから俺も行く。」

 

 

二人の手は繋がれたままだ。きっと周りから見てもカップルにしか見えないだろう。

 

 

「りんご飴美味し〜!」

 

「良かったな。」

 

「う〜ん。なんか簡素なリアクション過ぎない?もうちょっとなんかないの?」

 

「無茶振りするなよ。あと気をつけろよ。人の服に付けたら不味いからな。」

 

 

 

打ち上げ開始時間が迫るにつれ、人も増えて行く。

 

 

「あ‥‥」

 

「どうしたの?ヒッキー。」

 

 

人混みに揉まれ、疲れ始めてる中、八幡の様子がおかしい。ソワソワと落ち着きがない。

 

 

「ちょっと‥‥トイレにな‥‥」

 

「ヒッキーさ、女の子と一緒にいるのにそれはないよ。」

 

「生理現象に罪はないだろ。と言っても公園のトイレは埋まってるだろうしな‥‥なあ、買い物ついでにコンビニ寄らないか。飯も食ってないし。」

 

「まあ、良いよ。私も飲み物欲しかったから。行こっか。」

 

 

 

 

 

公園近くのコンビニで八幡を待つ結衣。今日は今までにないくらい楽しい。イヤなことも無くなってしまうほどに。

 

 

「由比ヶ浜さん!」

 

 

後ろから声がする。振り返ると一人の男。結衣はその顔はなんとなく見知っていた。予備校で同じクラスだったはず。しかし、友達を作っていない彼女は名前までは分からなかった。

 

 

「えっと‥‥予備校で一緒の」

 

「あ、そうだよね。話さないもんね。僕、杉内って言うんだ。」

 

 

杉内という男は妙に積極性があり、結衣が苦手とするタイプ出会ったが突き放す理由も特段ない。どうするか分からず、対応に困っていたところを杉内は見逃さなかった。

 

 

「ねえねえ、この前の模試どうだった?クラスの皆は結構簡単だって言ってたけど。」

 

 

いや、その話はやめて。心がそう叫ぶ。それまで少しずつ浄化されつつあったイヤな気持ちが噴水のように吹き出し、たまってゆく。

 

 

「‥‥まだ自己採点してなくて。」

 

「ダメだよ。先生言ってたじゃん。〝自己採点とその直しは当日にやらないとダメだ〟って。」

 

 

うるさい。そんなことは分かってる。だから、今は触れないで‥‥

言葉にならない心の叫びは杉内には伝わらない。

 

 

「すまん。由比ヶ浜。ここのトイレ中々混んでて遅れちまった。」

 

 

コンビニから出てきた八幡の目の前には俯いた結衣が男に絡まれている光景が広がる。

 

 

「由比ヶ浜、どうした。」

 

「あ、そ、そうなんだ。由比ヶ浜さん‥‥ご、ごめんね。じゃあ、また予備校で!」

 

 

八幡の姿を見ると逃げるように杉内は立ち去っていった。

 

 

 

「なんだったんだよ、あいつ‥‥。大丈夫か?由比ヶ浜。」

 

 

呼びかけても反応がない。仕方なく肩を揺すり、呼び戻す。

 

 

「‥‥なんでもないよ。あの人、同じ予備校の人らしくて声かけてくれただけだよ。それよりほら。行こ?」

 

 

 

結衣は八幡の腕を取り、有料エリアまで急ぐ。

 

 

 

 

結衣の異変には八幡はすぐに気づいていた。どう考えても先ほどの男に言われてから様子がおかしいのは明確だったからだ。

 

 

「待てよ、由比ヶ浜。」

 

 

八幡は引っ張られていたその腕で結衣の腕を掴み、止める。

 

 

「‥‥早く行こうよ、ヒッキー。」

 

「ダメだ。行けない。わけを話すまでは行かせられない。」

 

 

結衣は一向に八幡の顔を見ない。こちらに向けようとするが決して顔を見せようとはしない。ただ俯くのみだった。

 

 

「‥‥また模試で悪い点取っちゃったの。私、ちょっとはいい点数取れると思ってた。でも全然で‥‥」

 

 

八幡は結衣が涙声になっていることに気がついた。結衣の足元にはキラリと光る雫が落ちてゆく。

 

 

「そうか。でも模試は模試だろ。その日の調子もある。悪い点だからと言ってそれが全てじゃない。」

 

「でもそれを含めて実力でしょ。」

 

「だから実力を伸ばすために模試を分析して頑張るのが正しい模試活用術でな‥‥」

 

 

結衣の中で何かがちぎれる音がした。結衣は八幡に詰め寄り、叫ぶように口を開く。

 

 

「〝頑張る〟って一体何⁉︎私、頑張ってたよ!確かに自分でいうことじゃないかもしれない。でも周りの遊んでる浪人生よりも勉強してたはずなの!はずなのに‥‥」

 

 

違う。こんなこと言いたくないんじゃない。ただ楽しく好きな人と花火を見たいだけなのにどうして。自分が嫌いだ。こんな感情を抱いてしまう自分も、それを大好きな人ににぶつける自分も大っ嫌いだ。

 

 

「どうすればいいの!わかんないよ!浪人は今年だけで、今年どこも受かんなかったらと思うと夜も眠れなくて!いや!こんなのいやだよ‥‥頑張ってるのに!」

 

 

とめどなく溢れた感情は勢いが止まることなく、ドバドバと流れ続ける。ひたすらに八幡は黙っていた。あそこまで結衣が怒鳴るのをみたことがなかったから圧倒されてしまったのだ。

 

 

吐き出し終わった結衣は深呼吸をする。メイクも心もぐちゃぐちゃだ。

 

 

「‥‥ごめん。今日はもう帰るね。本当にごめん。」

 

「待て、家まで送」

 

「いらない。一人で帰れるから。」

 

 

八幡と結衣の間がどんどん遠ざかっていく。やがて、二人とも人混みの中に消えてゆく。

 

 

 

 

駅前。すれ違う人波は皆幸せを連れて歩く中、ひとり結衣は歩いた。

 

 

最悪だ。自分が本当に最低な女だ。自分を気にかけてくれる大好きな人に酷いことを八つ当たりした。多分、嫌われるだろう。そう思うと胸がちぎれそうになる。いっそのこと死んでしまいたいほどだ。

 

 

後ろから強い光が差し込んだ後、大きな音が響き渡る。結衣は音と光に紛れるよう、その場でうずくまり声をあげて、泣いた。今の彼女には赤や緑の菊の花びらはあまりにも眩しく、直視できなかった。

 

 

 



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⑥そして再び彼らは集まる。

 

 

蝉の鳴き声がやかましいくらい鳴り止まない八月。各地では猛暑日が続いていて、あまりの暑さに外出するのが億劫になるほどだ。

 

 

「暑い‥‥クーラーの部屋で何も考えずただアニメだけを見続けたい‥‥」

 

 

そんな暑い夏空の下、ブツブツと呟きながら自転車でどこかへと向かう八幡がいた。背中にはパンパンに詰め込まれたリュックサックに自転車のカゴには何やら紙袋が入っている。

 

自転車を漕ぐ足は重い。昨日の夜、彼女との間に起きた一件がそうさせているのだ。彼は去って行く結衣の後ろを付いていき自宅マンションへ入って行くところまで付いて行った。人混みも多く、そこらの女を引っ掛けようとする輩は今の精神状態の結衣にとって危険だと考えたからである。

だが、決して声をかけるようなことはしなかった。いや、できなかったのだ。

 

 

八幡はあるマンションに到着した。近くの空いたスペースに自転車を止め、多くの荷物を抱えて歩きながらふと見上げる。高い建物の中間にある部屋が彼の最終目的地だ。おそらく長い闘いになるような予感がしてほんの一瞬「帰宅」の文字が浮かんだが、こうなったのは自分にも原因がある。八幡はエントランスへ足を入れる。

 

 

 

 

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「いらっしゃい。ヒッキー君。暑かったでしょう?ごめんね、こんなものしか出せなくて。」

 

「あ、お構いなく。ありがとうございます。」

 

由比ヶ浜母はリビングの机に座らせた八幡の目の前に麦茶と茶菓子をそっと置く。この猛暑で喉の渇きが収まらなかった八幡は結露で水滴がついたコップを持ち、麦茶を流し込む。冷えた麦茶は一瞬で身体中に染み渡り、心地よい。

 

 

「すいません。突然押し掛けてしまって。」

 

「いいのよ。それに嬉しいの。結衣を心配してこうして見にきてくれたんでしょう?」

 

「まあ、昨日俺のせいで色々ありまして。」

 

「やっぱりね‥‥」

 

 

母は結衣が驚くような速さで花火大会から帰ってきた時のことを思い出していた。帰りの挨拶すらせず、ただ自分の部屋に閉じこもった結衣にドアの前でどんなに話しかけても答えることはなく、ドアに耳を当てれば鼻を啜る音だけが聞こえていた。

 

 

「で、ヒッキー君はどうしたいの?」

 

「こうなったのは俺のせいでもあるんです。もう少し言葉を選ぶべきでした。だから、彼女と話をつけたいんです。」

 

「そっか、分かった。まずは結衣を部屋から引きずりださないとだね。それからさ、ヒッキー君。結衣がこうなったのは決してヒッキー君のせいではないからね。あの子が勝手に失敗して八つ当たりしただけ。それについてあなたが責任を感じる必要はないんだから。」

 

 

優しく微笑む由比ヶ浜母はじゃあ、行こうか。と廊下へ八幡を案内する。八幡はそれに従い、開かずのドアの前へ向かう。

 

 

 

〝Yui 〟と書かれた名札がドアにつけられたその部屋は鍵が掛けられ、当然こちら側からでは開けることはできなかった。

 

 

「結衣。ヒッキー君が来てくれたわよ。」

 

 

そう母が呼びかけても返事がない。ドアは依然閉ざされたままだ。

 

 

「起きてるとは思うんだけど‥‥ヒッキー君からも呼びかけてみてくれない?」

 

 

八幡がドアの前に立ち、結衣へ語りかける。

 

 

「‥‥比企谷だ。まあ、なんだ。とりあえず出てきてくれないか。話がしたい。」

 

 

ドアの奥からゴトっと何か音がしたが、その後はいつもの沈黙へ戻ってしまった。だめか、と由比ヶ浜母を見ると任せてとばかり微笑みながら唇に人差し指を当てている。何を考えているのだろうかと思えば、その後に出てきた言葉に八幡は思わず素っ頓狂な声をあげることになる。

 

 

「ねえ、ヒッキー君ってなかなか可愛い顔してるよね。本当、食べちゃいたいくらい‥‥‥」

 

「へ?」

 

 

由比ヶ浜母は八幡の頬に手をつけ、八幡の目線が他へ向かないように固定した。八幡は身体中が暑くなるのを感じる。相手は人妻だとはわかっている。だが、見つめてくる由比ヶ浜母の瞳に吸い込まれそうになる自分がいた。

 

 

「あ‥‥」

 

「顔真っ赤だよ。それもかわいいけど‥‥」

 

やがて二人の顔の距離は縮まってゆく。あと数秒で唇まで到達する。そんな時だった。

 

 

「ダ、ダメ!ちょっとママ何やってるの!」

 

 

勢いよく開けられたドアから出てきた部屋着姿の結衣は凄い剣幕であったが八幡と目を合わせると気まずそうに下を俯く。

 

 

「ほら、出てきたでしょ。じゃあ、あとはよろしくね。」

 

 

ニコニコとウインクしてくる由比ヶ浜母を見て、八幡は最も厄介な人物はあの魔王ではなく、この人なのではないかと八幡はこの時本気でそう思った。

 

 

=================

 

 

部屋に入るのはほんの少し待って欲しいと結衣から言われ、待つこと十分。掃除と着替えを終え、招き入れられた八幡は女の子の部屋特有の甘い香りに少し頭がクラクラする。

 

この部屋に彼がくるのは二度目になる。確かあの時は雪乃もいたが今は一つの空間に男女が二人っきり。なんとも言い難い緊張感が部屋にピンと張り続ける。

 

先に口を開いたのは八幡だった。

 

 

「由比ヶ浜、時間がないから単刀直入に言うぞ。俺が家庭教師になってやる。だから受験勉強再開しよう。」

 

 

部屋の折りたたみ式のテーブルには八幡が持ってきた大量の参考書や過去問が綺麗に陳列されている。だが、結衣の表情はあまり晴れていない。

 

 

「‥‥嫌。今はちょっと、したくない。」

 

八幡が想定していた回答だ。だが、怯みはしない。引いてしまえば間違いなく結衣が再起できない、そんな気がしていたからだ。

 

 

「まあそれでもいい。でもな、由比ヶ浜。人間は選択する生き物だ。大なり小なり皆毎日〝選択〟して生きてる。今日の晩御飯はどうするのか、何処に出かけるか、誰と行くか‥‥大抵は無意識に任せてしまう。それが楽だからだ。でも偶にとんでもないデカイ選択を迫られることがある。お前にとってそれが今だ。間違った選択をするな、とは言わん。だが、後悔が残る選択はするな。一時的な感情に流された選択は往々にして後悔を残しやすい。」

 

 

人一倍誤った選択をしてきた八幡がその短い人生の中で自分なりにたどり着いた哲学の一つだ。後悔は実に難しい感情、諸刃の剣だ。後悔に打ち勝てればより意識を高く高められる。だが、飲み込まれれば二度とは戻ってはこれない。とすればたかが一時的な感情に身を委ねるのは余りにもリスキーだ。ならば最初から後悔が生まれない選択をすべきでない、というのが彼の考えだった。

 

 

「でも‥‥模試も散々だったし。ヒッキーの大学、偏差値も高いから今のままじゃ間違いなく落ちるよ。」

 

「はぁ、とりあえず模試の結果を見せろ。話はそれからだ。」

 

 

模試結果を要求され、一瞬戸惑う結衣であったが八幡の真剣な目に根負けして勉強机に掛かったシーツを取り除き、問題を八幡へと渡す。八幡は一通り流し見をして口を開く。

 

 

「なんだ。俺の予想より出来てんじゃねえか。」

 

「どこができてるの。国語も英語もボロボロじゃん。」

 

 

よく出来ている要素がない、と反論する結衣をまあ聞け、と八幡はなだめる。

 

 

「まあ、普通の受験生ならこの点数ならマジで失敗ものだな。だが、お前は違うだろ。三月の時点で英語の基本五文型すら理解してなかったお前は普通の受験生よりマイナスからのスタートな訳だ。そう考えれば、ここまで引き上げたのは賞賛に値すると思うぞ。」

 

 

バカにされているのか、それとも褒められているのか、結衣はよく分からなかったがやる気は起きない。だが、八幡の次の一言はズシンと結衣に強烈な一撃を与える。

 

 

「さっきも言ったが、俺としてはお前がどうなろうとなんでもいい。もしお前が大学を諦めるならあの約束は破棄したと見なしていいよな。俺が待つ理由も特にないし。」

 

 

結衣はTシャツの裾を強く握る。

 

そうだった。自分がやらなきゃこの恋は間違いなく叶なうチャンスすらなくなってしまう。そう思うとそれまでウジウジと考え続けた自分が許せなくなってきた。

 

 

 

 

しばしの沈黙の後、結衣はおもむろにに立ち上がり勉強机へと向かう。筆箱とノートを手に取りと八幡の方をくるりと振り返った。

 

 

「ヒッキー。私、大学に行きたい。やっぱりこんな中途半端で投げ出すのはなんかダメな気がする。」

 

「……辛い夏になるぞ。」

 

「うん。でも二人に追い付きたい。ヒッキーやゆきのんが見てる世界を見たいんだ。」

 

 

 

「なら、早速始めましょう。時間がないもの。」

 

 

不意に凜と澄み切った声が聞こえたので二人が振り返るとそこには麦わら帽子をかぶり、白いワンピースを着た雪乃が経っていた。

 

 

「遅くなってしまってごめんなさい。比企谷くんに二人っきりで卑猥なことをされなかったかしら。されたのなら今すぐ警察へ連絡するけれど。」

 

「正当な理由で家に上げてもらったのだけど。人を変態扱いするのも大概にしてもらいたいものだわ。あ、すいません。もう真似しないからそんな人をノミみたいに見るのは止めて!」

 

 

それでもなお、雪乃は目線を八幡に浴びせながら結衣の隣に座る。

 

 

「なんでゆきのんまで……」

 

「この男に呼ばれたのよ。由比ヶ浜さんの勉強一緒に見て欲しいって泣いて頼まれたから来ないわけにはいかないじゃない。それに…由比ヶ浜さんのことを助けたかったから…」

 

「だれが泣いて頼んだって?大体お前がな……」

 

「ゆきの~ん!ありがと!」

 

 

雪乃に抱きつく結衣の姿はなんとなくあの頃の部室での日々を思い起こさせる。

 

お陰で喉で出掛かっていた雪乃の発言に対する反論が引っ込んでしまった。

 

そもそもこの提案を初めにしたのは雪乃からだった。花火大会の後雪乃から電話があり、八幡は洗いざらい話した。そこで二人で結衣の家庭教師をらやないか、という話になったのだ。

まあ、経緯はどうでもいい。そう自分を納得させて八幡は模試を取り出す。

 

 

 

「まあ、ともかく、模試の直しから始めるか。」

 

 

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

 

それから数日、結衣は八幡と雪乃のスパルタレッスンが続いた。基本的には英語は雪乃が、国語は八幡が担当している。

 

二人が結衣を挟む形で座る。雪乃は紅茶を片手に読書を、八幡はノートパソコンの画面と格闘し締め切り近い小説執筆に精を出す。

 

結衣はより強くシャープペンシルを握る。目の前のある問題が、あんなに難しいと感じていた設問が、幾つでも解けるような気がした。

 

 

「で、貴方はずっと何を書き続けているのかしら。反省文?」

 

「俺は大学で目をつけられるような問題行動はしてないつもりなんだが。まあ、一言でいえば執筆活動だな。イヤイヤだけど。」

 

 

雪乃が八幡へ話を振る時は大抵、休憩時間への合図だ。雪乃は結衣の分の紅茶をカップに注ぎ、目の前に差し出す。結衣はペンを置き、ひとまず雑談に加わった。

 

 

「それって、ヒッキーの入ってる文芸サークルの?」

 

「ああ。ラノベが読み放題だから入ったのに小説書けとか鬼畜の所業としか思えん。」

 

「普通、文芸サークルって執筆活動がメインだと思うのだけれど。それで、小説は書けたのかしら。」

 

「ああ。書き終えて今は校正中だ。」

 

 

そう八幡がノートパソコンを二人へ見せる。題名に「Q&A」と書かれたそれはかなりの枚数書かれているようだった。

 

「貴方が書いた小説のジャンルはなんなのかしら。」

 

 

雪乃がクッキーを口に放り投げ、紅茶を啜る。

 

 

「一応、推理にした。ファンタジー物も恋愛物も書ける気がしなかったからな。無難だろ。」

 

「へ〜どんな話なの?」

 

「言ったらネタバレになるだろうが。どうしても見たかったら買ってくれ。」

 

「そんなの読んじゃダメよ。きっと悪影響をもたらすわ。」

 

「勝手に有害図書認定するのやめてよね。一応、さっきウチのサークル代表からはお墨付きを貰ってるんだから読めはするんじゃないか。面白いかどうかは別として。」

 

 

既に書き終えた原稿データは琴美へ送っている。LINEで感想を要求したらイイね、という捻りのないスタンプが帰ってきただけだったが、所詮惰性で書いた小説だ。あまり興味はない。

 

 

 

「そろそろまた勉強を始めましょう、由比ヶ浜さん。次は英語だから私が解説するわ。」

 

 

そう話し、結衣に懇切丁寧にしかも明快に長文読解を解説する雪乃に感心する。多分そこらの予備校教師より断然教え方はうまいだろう。

 

 

スマホが鳴り、八幡はLINEを確認する。匝瑳琴美からだ。おそらくコミケ出店に関しての説明だろう。既読無視すれば、きっとややこしいことをしてくるに違いない。八幡は仕方なしにゲンナリする程にずらずらと長ったらしく書かれているであろうその通知をタップした。

 



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⑦その提案に何を思うか

蝉の音がそこかしこの木々からやかましいほどに聞こえる八月中旬。

八幡の姿は東京国際展示場にあった。さほど大きくはない長机の一角で琴美の指示により、せっせと準備に取りかかっている。

 

コミックマーケット。世界最大の同人誌販売会であり、毎年夏、冬と執り行われるこの一大イベントは多くの人々の心を掴んで離さない。八幡は今回、自身の所属する文芸サークルを代表して参加している。無論、参加を決めたのは琴美である。その旨を始めて聞いたとき、結衣の事を盾に断ったのだが琴美は頑として譲らなかった。又、結衣や雪乃にせっかく誘ってもらっているのだから参加するべきだと言われたため、断る理由は見事に消え去り、仕方なく参加しているのだ。

 

 

長机の約半分のスペースには鮮やかな模様のテーブルクロスがかけられ、置かれている部誌の新作と漫画研究部の同人誌が綺麗に並べられている。人々の目を引く美しいPOPは琴美のオリジナルだ。

 

 

「お疲れさん、ハチ君。といってもまだ始まってもいないけど。」

 

 

そう準備を終え、イスに座り一休みしている八幡にそこらで買ってきたのであろうまだ水滴が付いているスポーツドリンクを渡したのは琴美であった。

 

 

「うす。まあ並べるだけなんで疲れるようなことはしてないですけどね。」

 

「大丈夫。これからうんと働いてもらうから。」

 

「マジっすか……。俺、割と頑張ってるつもりなんですけどね。なんというか、体よく使われている感じは否めないんですけど。」

 

 

彼の中では既に話は終わっているはずなのだ。実際に期限通りに渾身のオリジナルを書き、一仕事終えたと思った矢先こんな事になっているのだから不満を持つのも当然のことである。

 

 

「そんなことないよ。毎年、期待の新人は連れてくることになってるの。たまたまよ、たまたま。」

 

 

そんな後輩のチクりと刺すような小言も何にも気にすること無く、琴美はだたすぐそこまで来ている同人誌を愛する同志との出会いに胸をときめかせていた。

 

 

「まあ、良いですけど。でも、コミケで小説出すようなサークルに来てくれるんですかね。そもそもコミックじゃないし、二次創作でもない。言い方悪いっすけど、たぶんこの委託された漫画研究部の部誌の方が断然売れると思いますけどね。」

 

 

彼自身、確かに部誌の中身についてはなかなかの物がそろっているとは思っている。先輩達の作り上げたそれらは本当によく練り上げられているし、商業作家と然程変わらないのではないかとも思うような人もいる。しかしコミックマーケットである以上、小説は敬遠されるはずではないか。

 

 

「……ウチの部誌、なめてももらったら困るな。まあ、見ていれば分かるよ。ウチがどれだけのサークルかあと五分もすれば、ね。」

 

 

遠くからスタッフの声が慌ただしくなるのを感じる。いよいよ、開始の時間なのであろう。

 

八幡と琴美は周りのサークルに挨拶を済まし、いざ来る人々の波に対して決して飲み込まれないように近づいて来る足音の方向へ注意を向けた。

 

 

 

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時が進み、既に午後。八幡は琴美と共にブースにて販売を続けていた。その顔はグンと疲れ切っていて、元々腐っていると言われ続けた目元は更に深みを増している。

 

 

正直、ここまで一次創作の小説が売れ続けるとは考えていなかった。開始直後こそ目立ってはいなかったが、徐々に売り上げの伸ばし始め、今や委嘱されていた漫画研究会の部誌を上回っている。

八幡が最も驚いたのはコアなファンの存在だ。サークルのOBや前々から部誌に惹かれたファン達が大量に押し寄せてきた。どの人も毎年発行される部誌を楽しみにし、琴美との会話に花を咲かせている。

ここまでになったのはやはり琴美の手腕であろう。周りのサークルも琴美のことはしっかりと認知しているようで少し歩けばサークル関係者からファンにまで声を掛けられ、いつの間にかブースには人が集まる。そのコミュニケーション能力には脱帽である。

 

 

「しんど‥‥」

 

 

ブースには一時的に平穏が訪れる。しかし、一度琴美が動けばすぐさま人が集まってしまうから油断はできない。

 

 

「お疲れ、お疲れ。いや、去年より断然売れてるね。やっぱりウチの看板作家が接客してくれてるからかな。」

 

 

八幡の隣に座る琴美はもうひと頑張りと言わんばかりに八幡に栄養ドリンクを差し入れる。

 

 

「勝手に看板作家にしないでもらいたいんすけどね。言っても聞かないと思うけど。」

 

 

コミケ期間中、琴美は事ある毎に八幡を新人看板作家として様々な人に紹介していた。下手に目立ちたくない彼からすれば迷惑以外の何者でもないが、その旨を伝えたところで彼女は聞かないだろうことは容易に想像できる。

 

 

「匝瑳、久しぶり。お前に内定断られて以来か?」

 

「ああ、立脇さん。お久しぶりです。」

 

 

琴美に話しかけたのは頭はボサボサ、服もお世辞でも綺麗とはいえない、無精髭を生やしている、と社会人とは思えない大柄な男だった。琴美から立脇と呼ばれた男はブースに置かれた見本用の冊子を数ページ流し見る。その表情は真剣だ。

 

 

「ハチくん。休憩行ってきていいよ。」

 

「いやいや。まだ時間じゃないでしょうが。」

 

「お願い。行って。」

 

 

いつになく真剣なその声色に大人しく従う。何かしら理由があるんだろう。であるならば強情に断る必要はない。八幡はその場からいそいそと離れていく。

 

 

 

ブースには琴美と立脇だけが残る。周りには立脇の威圧感からか客は寄り付いてはこない。

 

 

「まだこんなサークル続けてるのか。いい加減社会人になったらどうだ。流石にもう一年留年は家族が許さないだろ。」

 

「ちゃんと卒業しますよ。また立脇さんの会社、面接行くのでよろしくです。」

 

「勘弁してくれ‥‥推薦した俺がどれだけ上司にグチグチ言われたか。本来なら出版業界で仕事なんてできないレベルだぞ。で、卒業するってことは見つけたのかよ。お前が辞退する時に話してたよな。〝私をワクワクさせる作家をみつけるまで卒業できない〟って。」

 

「見つけましたよ。さっきまでいた彼です。部誌にも二本ほど載っけてますから是非。」

 

 

立脇は金を琴美へ渡し、今度は八幡の小説を中心に読み始める。

 

 

「まあ、悪くはないな。心理、情景描写が丁寧かつミステリーとしての基本はしっかり抑えてもある。文体にやや素人っぽさはあるが鍛えればどうにでもなる。いい作家を見つけたな。」

 

「五年目にしてようやくです‥‥本人は執筆に前向きじゃないみたいですけど。」

 

 

琴美も馬鹿ではない。八幡が創作活動に積極的ではないことくらい知っている。それでも彼の才能はこのままつまらない社会へ送り出すにはあまりにも惜しい。

 

 

「‥‥才能が眩しいです。彼の書いてくるその全てが私にとって愛しい。」

 

「おいおい。まるで惚れてるみたいじゃ‥‥いや、あながち間違いじゃねえのか。ともかく、編集者になりたいなら気乗りしない作家くらいその気にさせろ。じゃあ、俺は会社のブースに戻るから。なんか相談したいことがあったら電話でもしてくれ。」

 

 

 

そう立ち去ってゆく立脇。彼は察してしまったのだ。琴美が完全に恋する乙女のような表情をしていたことを。

 

挨拶を、と琴美は思ったが立脇がいなくなると狙っていたかのようにブースに人だかりができてしまった。仕方なく、愛想を振りまきながら客を処理していく。

 

 

 

 

休憩を貰った八幡はたまたま空いていたベンチにてコンビニのおにぎりを頬張りながらスマホでニュースを見る。周りにはコスプレイヤーがウジャウジャと歩いており、目の置き所に困るのだ。

 

八幡の溜息は人混みの中にすぐ消える。この三日間、彼女達とは連絡をとっていない。果たしてしっかりと勉強しているのだろうか。

 

まるで親のように心配している自分に気づき、ハッとする。昔の自分ならそんな考えはしなかっただろう。

 

 

眺めていたスマホの画面が暗くなる。バックライトが暗くなったのかとボタンを触るが、主だった変化はない。

 

 

「あの!」

 

 

前から声を掛けられている、そう気がつくのに時間は掛からなかった。八幡が目の前に目線を持ってくるとまだ高校生くらいだろうか、女の子が立っていた。

 

 

「あの、〝Q&A〟を書いた比企谷八幡さんですよね。」

 

彼女の両手には多くの同人誌が重ねられており、その中から部誌もあるようだった。

 

 

「え、あ、はい。まあ、そうだけど‥」

 

 

挙動不信になる八幡。そもそもコミュニケーション能力がない彼にとって知らない人で尚且つ女性から話しかけられればそうなるのも致し方ないことであろう。

 

 

「ああ、良かった。やっと会えました。私、これ読みました。本当に面白かったです!特に主人公とヒロインが‥‥」

 

 

堰を切ったように彼女の口からは感想が止めどなく溢れ出る。戸惑いもあった八幡であったが、何だか今まで感じたことがないような不思議な感覚に襲われていた。胸の奥が暖かい。

 

 

「あ、ごめん。そろそろ時間だから。」

 

 

この場から逃げ出したくってたまらなかった。八幡は立ち上がり、ブースへと戻ろうとする。

 

 

「す、すいません。御時間取らせてしまって。次回作も待ってますね!」

 

 

彼女の声は確かに彼の耳には届いていたが、返事はせず、会釈だけをして歩き出す。顔を真っ赤にしたのを見られたくなくて俯いていたのは無意識であったのだろう。

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

夕方。既に撤収や反省会を終え、八幡と琴美はサークルの打ち上げ会場へ向かっている途中だ。真っ赤に染まった夕日は並んで歩く二人の肌をジリジリと焼く。横断歩道手前で信号を待っていると琴美は急に話し始めた。

 

 

「儲かった、儲かった!さあ、今日は飲もうよ!」

 

「いや、未成年なんでダメでしょ。」

 

 

琴美のもはやボケなのかもわからないその提案をヌルリと交わす八幡は頭の中は先ほどの彼女で頭が一杯だった。

あの時の感覚が今も忘れられなかったのだ。心が暖かくなる、そんな感覚を。

 

 

「ハチくん。なんか良いことあった?にやけてるよ。」

 

 

そうケラケラと笑う琴美から指摘されて初めて口角が上がっていることに気がつく。

 

 

「なんにもないっすよ。」

 

「嘘が下手だな、ハチくんは。当ててあげるよ。そうだな、初めてのファンに会った。どう?」

 

「ファンというか感想を直接言われただけですよ。」

 

「それをファンと言うんだよ。全く素直じゃないんだから‥‥」

 

 

琴美は八幡より少し前へスキップし振り向く。後ろ歩きで八幡と向かい合う。

 

 

「感想を言われてハチくんは何を思った?」

 

「いや、別になんとも‥‥」

 

「それは嘘だね。」

 

 

歩きを止める琴美。同様に八幡も止まる。

 

 

「君はとても嬉しかったはずだよ。クリエイターにとって最も大切な〝ファン〟から直接感想をもらったんだもの。胸の奥が熱くなったんじゃない?その暖かさは財産だよ。」

 

 

八幡は黙ったまま動かない。

 

琴美はそんな八幡へ近づき、一枚のチラシを差し出した。

 

 

「ハチくん。お願いがあるんだ。冬に大手出版社主催の小説の賞レースがあるの。君に出て欲しいの。」

 

「‥‥お断りします。」

 

 

二人の間に強い風が通る。ジメジメと生ぬるいその風はあたりに落ちつつある枯葉を巻き上げていく。

 

 

「‥‥どうしてか、聞いていい?」

 

「今回は仕方なくです。サークルの決まりごとだからどうにか書き切っただけなんで。というか、なんで俺なんですか。」

 

 

八幡からすれば彼女がなぜ自分ばかり関わってくるのか前々から理解できなかった。上手い人ならサークル内に幾らでもいる。自分に執着する必要性が分からない。

 

しかし、その返事はあまりにも意外なものだった。

 

 

「私が君のファンの一人だから、かな。」

 

 

えっ。と固まる八幡。

 

 

「ハチくん、私の夢は〝私の心を震わせる作家〟に出会うことなんだ。君と初めて会った時、面白い子が入ってきたって思ったものだよ。君のその独自の物事の捉え方、捻くれた優しさを持つ人間は周りにいなかったからね。最初に書いてきたあの共作、あれを見た時には震えた。面白い。まだ世界にはこんな作家が残ってたんだ!って一人でテンション上がっちゃってさ。今では君の書く全てが愛しく思ってるほどだよ。」

 

 

なんだ、まるで告白のようではないか。八幡は激しく動揺していた。

そんな八幡へ微笑みながらも琴美は追い討ちをかける。

 

 

「正直、こんなコンテストなんてどうでもいいの。私は君に小説を書き続けて欲しい。でもこれは私の勝手なワガママだよね。それに君にはなんのメリットもない。なら、こんな契約はどう?君は私のために小説を書く。その代わり、君に私の全てを差し出す。君が働きたくないなら私が君を養う。君は私のために小説を書くだけでいい。どうかな、ハチくん。いや、比企谷先生。」

 

「いや、ちょっと待って‥‥」

 

 

その瞬間、彼の目の前の世界は止まった。気づけば目の前には彼女の顔があり、甘い香りが鼻腔に充満する。唇を重ねられているのだと気がつくのに思っているより時間が掛かった。



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⑧その言葉が言えない

夏の終わりといえども未だに暑さは健在でじりじりと照り続ける太陽に殺意が湧いてくるほどだ。

 

「着いた!鎌倉だよ!鎌倉!」

 

「ちょっと由比ヶ浜さん。あんまりくっつかないで欲しいのだけれど……暑いわ。」

 

「うわ…マジか。人多過ぎ…」

 

JR鎌倉駅は夏休み最終日とあってか、観光客であふれかえり、ひとまず鶴岡八幡宮へ人の流れが作られている。ここまで都心から比較的アクセスしやすい観光地も少ないことも考えればここまでの人を多さも納得できる。

 

 

 

 

 

明日、皆でどこかに出掛けたい。

 

そう彼女が口にしたのは八月三十日のことであった。既に予備校の夏期講習を終え由比ヶ浜は九月からレギュラーの授業が始まり、雪乃と八幡も九月からはそれそれのサークルの夏合宿が始まってしまうため最後の思い出作りとして由比ヶ浜が提案したのだ。だが、八幡の反応は薄い。

 

 

「おいおい、仮にも浪人生だろうが。九月からは過去問の研究も始まる。そんな時間はない。」

 

「あらいいじゃない。人間息抜きは必要よ。大体貴方、七月に花火大会へ由比ヶ浜さんを連れ回したじゃない。同じことでしょ。」

 

「いや、あれはたった数時間のイベントだからね。旅となると…」

 

 

意外にも乗る気を見せた雪乃は八幡の発言をなかったことにし、おもむろにバックからタブレット端末を開く。

 

 

「そうね……由比ヶ浜さんはどこに行きたいのかしら。」

 

「う~ん。あまりにも近すぎるのもなんかな……鎌倉とかどう?」

 

「いや、遠いだろ。片道一時間四十分はかかるぞ。袖ケ浦で十分だろ。」

 

「鎌倉ならプチ日帰り旅行として成立するわね。明日の九時に駅集合でどうかしら。良いわね、比企谷君。」

 

 

ここまで来て八幡は口を挟むのを止めた。今の雪乃の状態から察するに意見が聴き入れてもらえはしない。そう感じたからだ。だから仕方なしに首を縦に振る。降参だと言わんばかりだった。

 

 

 

 

 

「ゆきのん、とりあえず八幡宮行こうよ。」

 

「別に行くのはいいのだけれど、この人混みだと…」

 

「あ、そうだよね。ゆきのん、人混み苦手だもんね‥‥じゃあ、銭洗弁財天に行こうよ。いいよねヒッキー!」

 

 

黒いノースリーブにプリーツスカートといつもより大人っぽい結衣。ふんわりと被る麦わら帽子が夏っぽさを演出する。しかし、八幡は結衣の顔を直視できなかった。それは今日だけのことではない。あの日、琴美から突然のキスされてからずっと彼女の顔を見ることが出来ていない。

 

罪悪感。それがここ最近八幡が結衣と会うたびに心をもやもやさせる原因だ。琴美に不意打ちとはいえ唇を重ねた。別に結衣とは付き合ってはいないとはいえ、彼と同じ世界を見たいと必死に努力している彼女を酷く裏切っているようで胸が痛くなるのだ。今や結衣の自分に対して向けてくる好意も、笑顔も、八幡を苦しめている。

 

そんなことを察してか結衣の勢いも落ち着いていく。

 

 

「ヒッキー…やっぱりあんまり乗る気じゃなかったよね。ゴメン。変に誘っちゃって。」

 

「いや、違う。俺は…」

 

「由比ヶ浜さん。この男はどんなイベントでもいつだって乗る気じゃないのだから気にすることはないわ。さあ、行きましょう。」

 

 

=================

 

 

銭洗弁天のすぐ近く、くずきりが美味しいと評判の甘味処では雪乃が宇治金時のカキ氷を、結衣はあんみつ、八幡はくずきりを注文し先ほど見てきた銭洗弁天の話に花を咲かせていた。

 

 

「てか、くずきりが美味いって言ってるのになんであんみつなんて頼むんだよ。」

 

「いいじゃん別に。美味しそーだったんだもん。それより弁天面白かったね!あんな洞窟の奥にあるなんて思わなかったよ!」

 

「そうね。みんな必死に小銭を洗っている姿はなんだか不思議な光景だったわ。」

 

「その中に混じって持ってる小銭全部洗ってた雪ノ下さんがそれをいいますか‥‥」

 

 

失礼します、と店員から注文の品が次々と置かれる。どれも涼しげで一口口に入れれば、程よい甘さが少し疲れた彼らに癒しを届ける。

 

 

 

「由比ヶ浜さん、次はどこにいきましょうか。」

 

 

カキ氷を半分ほど掘り進めている雪乃が口を開く。

 

 

「う〜ん。大仏見にいくのでもいいけど、人混みが凄そうだし‥‥」

 

「そんなこと気にしなくてもいいわ。私なら大丈夫よ。」

 

「ダメだよ。私が無理言ってるんだもん‥‥」

 

 

この日帰り旅行は自分のワガママから出来ていると結衣は自認していた。本来ならこんなことをやっている暇もないと言われるかもしれない。それでもこの旅には彼女なりの意味があるのだ。楽しい、まるで大学生のような経験をすることで自分を奮い立たせるためでもあるし、自分につきっきりで見てくれた二人に対しての感謝の気持ちでもある。

 

 

「旅の主催者は貴女よ。私たちはそれに従うわ。たった一日の自由な時間なんだから楽しんで。」

 

「‥‥そっか。ありがとう。じゃあ海を見に行こうよ!近くに由比ヶ浜海岸があるでしょ。自分の苗字だし、興味あるんだ!」

 

 

はしゃぐ結衣はまるで向日葵のように微笑む。ちょっとお花摘みにいってくるね、と席を外すと二人が気まずく残る。店に下げられた風鈴の音が数回鳴った後、口を開いたのは雪乃だった。

 

 

「で、貴方はどうして由比ヶ浜さんを避け続けているのかしら。」

 

 

いい加減食べ進めてきた宇治金時のカキ氷も外気温で少しずつ溶け始めるが雪乃は焦る様子もなく、ただ八幡を追求する。

 

 

「‥‥なんのことだか全くわからん。いつ俺があいつを避けた。ちゃんと毎日教えてるし、それはお前も知ってるだろうが。」

 

「自覚がないのね。コミケから帰ってから貴方は一度だって由比ヶ浜さんの顔を見て話してないわ。知らなかった?由比ヶ浜さん、そのことを気にしるのよ。〝私が巻き込んだから嫌われたのかも知れない〟って。」

 

「‥‥それは違う。断じて嫌ってなんてない。」

 

 

語気が思わず強くなってゆく。違う、彼女は何も悪くない。きっと一番の悪者は、自分なのだから。

 

 

「‥‥彼女がこれを提案したのは貴方に楽しんで欲しいという面もあると思うわ。自分のせいで貴重な一年生の夏を潰してしまった、そう責任を彼女なりに感じているのよ。全く、自分勝手よね。あの子が勝手にそう解釈してるだけなのに。でもそれは、彼女の‥‥優しさでもあるのよ。」

 

 

確かに自分勝手だ。全ては自分中心の解釈で進められている。雪乃の話の通りなら実に押し付けがましいとも言えるだろう。だが、同時に彼女の持つ最大の武器〝優しさ〟を兼ね備えているのだ。人一倍他人の空気を読み続けていたからこそ成せることであり、そんな嫌な面やいい面全てひっくるめて由比ヶ浜結衣である。

 

黙りこくる八幡に雪乃が語りかける。その言葉には棘はなく、諭すようだった。

 

 

「比企谷君。コミケの一件で何があったのかを今聞いたら私自身どう出るかわからないから聞きはしないわ。ただ、走り続けている由比ヶ浜さんを今は見捨てるような真似はしないで。結論は全て終わってからにして。」

 

 

今結論を出され、それが望まない結果なら間違いなく彼女は立ち直れない。雪乃はそんな彼女の姿を見たくはなかった。

 

 

 

「‥‥当然だ。約束だからな。」

 

 

絞り出した声は思っていたよりもずっと低く、響いてゆく。まるで自分自身に言い聞かせているようだ。

 

 

「その言葉、信じていいのよね。」

 

「‥‥ああ。」

 

 

ふと、二人の目線が合う。八幡は目線を外さなかった。外せば何が終わってしまう気がしたのだ。今まで築き上げてきた信頼の砂の城が波に流されていく、心のどこかで一番恐れているそれはどうしても阻止したかった。

 

 

 

先に目線を外したのは雪乃からだった。目の前に既に溶けかかったカキ氷を掬い、熱くなった自分を冷やす。

 

 

「まあ、いいわ。ただ貴方が万が一裏切るようなことがあれば、私は由比ヶ浜さんの味方をする。いいわね。それから、貴方も、その、私でよければ相談には乗るわ。それも覚えておいて。」

 

「‥‥おう。覚えておく。」

 

 

柄にでもないことを言ったからか雪乃は顔を真っ赤にして一心不乱に残りのカキ氷にスプーンを突き刺す。

 

 

結衣が帰って来る頃にはすっかり空になった器と頭を抱える雪乃の姿があった。

 

 

=================

 

 

 

由比ヶ浜海水浴場には夏の終わりを惜しむ様々な人々の姿があった。

 

 

水着でいちゃいちゃするカップル。まだ小さい子供と共に砂遊びをする親子。すぐそこの海の家で買ったのだろうか、焼きそば片手に男だけで騒ぐアホなグループ。皆思い思いに刹那を楽しみ、思い出という宝箱にその記憶を閉じ込める。次にその箱を開くのはいつなんだろうか。それは誰にもわからない。

 

 

「うわ〜!海だ!ねえねえ、ゆきのんたちも早くおいでよ!」

 

 

一足早く砂浜へ降り立った結衣は履いていた靴を脱ぎ、裸足で歩く。砂浜は陽の光に当てられ熱くなっているはずだがそんなことはおかまいなしに辺りを散策する結衣を少し離れた道路と砂浜を繋ぐ階段で腰を下ろし、その様子を見守る。

 

 

「比企谷君、私少し飲み物でも買って来るわ。」

 

 

海の家にでも行くのだろう。白いワンピースがユルリと目の前でなびく。

 

 

「一人だとあれだろ。俺も行く。」

 

 

腰をあげる八幡を雪乃は制する。

 

 

「別に一人でも大丈夫よ。すぐそこの海の家に行くだけだもの。それより由比ヶ浜さんとちゃんと話してあげて。いいわね。貴方にしかできないことなんだから。」

 

 

そう言い残し、雪乃はそっと行ってしまう。八幡は階段を降り、熱い太陽の元で舞う結衣のもとへゆっくりと向かう。

 

 

 

 

「ヒッキー!見て見て!ビー玉がここら辺に落ちてるの。なんでかわからないけど。」

 

 

結衣が指で示した先にはキラキラと光るビー玉が確かに砂浜に散らばっていた。だが散らばっているのはそれだけではない。

 

 

彼女が近づいて行くキラキラと輝く一帯の正体に八幡は気がつく。

 

 

「由比ヶ浜!」

 

 

結衣の手を強く引っ張る。その反動で彼女の体は八幡の胸の中へ吸い込まれていく。結衣が八幡に抱かれているような形になったことに気がついたのはすぐの事だった。

 

 

「っ!ヒッキー‥‥急にどうしたの。」

 

「う‥‥アホか、お前。よく見てみろ。ビー玉の周りにあるのガラスの破片だ。怪我する所だったんだぞ。もう少し周りに注意しろよな。」

 

 

ビー玉の周りにあるガラスの破片は所々元々に原型を留めており、察するにラムネの瓶のようである。

 

 

「‥‥ごめん、ヒッキー。それとありがと。見ててくれて。ホントに‥‥」

 

 

結衣はそのまま八幡の胸の中から離れない。彼は手の置き所に困っていた。恋人であるならば背中に手を置く所なのだろうが、あいにく今はそんな関係でない。かといって、突き放すようなことはできない。

 

 

やや混乱にしている彼に彼の胸に耳を当てている結衣は話し始める。心臓の鼓動が早くなる。

 

 

「今日はゴメンね。付き合わせちゃって。分かってたんだ。ヒッキーがあんまり乗る気じゃないこと。ヒッキーは優しいからそんなことは言わなかったけど。」

 

「‥‥そんなことはねえよ。まあ、なんというか、こういうのはしたことなかったから、貴重な時間だった。まだ時間はある。まだ八幡宮も行ってないだろ。あ、それに江ノ島も行ってないよな。」

 

 

事実だ。この三人で旅をするなんて想像していなかったが、思いのほか充実した時間だったのだ。いつの間にか終わって欲しくないと思う自分がいる。

 

しかし、結衣は首を振る。もう旅は終わりだとそう伝えているようだった。

 

 

「私はさ、ずるいんだ。一人になるのが怖いの。二人は進んでいるのに私だけ置いてきぼりで底のない沼で足踏みしてるだけで全然進めなくて。だからこうして前へ進んでいる二人を捕まえて、すがって生きている。どうしようもなく、ズルくて、弱くていやになっちゃう。そんな自分が、本当に、嫌い。」

 

 

彼女の顔は八幡からは見えない。しかし、なぜだろうか。一瞬彼には結衣の泣いた姿が頭に浮かんだ。

 

 

「今日だって、自己満足のためなんだよ。時間を奪ってしまったその償い。でもそれも結局償う方法がわからなくって、二人のことを考えずにこんな感じになっちゃった。」

 

 

八幡は分かっているはずだった。今の彼女への一番の特効薬を。

〝待ってるから〟

きっとその一言で彼女の心は幾分か楽になるだろう。しかし、何度も喉まで出かかっても引っ込んでしまう。まるで寄せては返す波のようだ。

 

待つなんてできない。人は日々、時の流れと共に生きている。それは世界の理。何人たりとも逃れることはできないのだ。それでも待っていてあげたい。せめて、彼女がドス黒い沼から解放されるまでは。それは矛盾ではあるが、今の八幡の気持ちだ。

 

 

「私、二人が行っても頑張るから。頑張って追いついてみせる。だから、今はこのままで居させて‥‥‥」

 

 

 

穏やかな波音が聞こえる。彼女から押し殺した鳴き声はまるで包み込むように波音に溶け込んでいく。

 

 

海は優しく、偉大だ。何もできず、ただ胸を貸している八幡は素直にそう思っていた。



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⑨夏の終わりの人生相談

大型バスの車窓からは穏やかで雄大な河口湖が見える。午後の日の光を照り返す水面は実に美しい。八幡は窓の枠に肘を置き、考え事にふけてため息を一つ空気中へ放出する。

 

 

鎌倉での旅行から二日ほど経っただろうか。既に結衣はいつもの予備校での生活に戻り、八幡はサークルの夏合宿に参加中である。別に何をするということもない。持ち込んだ小説をただ読み続ける五日間にするのもよし、ひたすら自らの創作活動に集中するのもよし。なんでもできる。それこそが大学生の醍醐味であり、八幡が居心地がいいと感じている点だ。それなのに、何だか最近は本当に自由だと感じることが少ない。

 

いつだって一人だった自分が、いつからこんなに人間関係でがんじがらめになっていったんだろうか。

 

それが専ら、最近の八幡の悩みだ。

 

 

「ハチくん、隣いいかな?」

 

「‥‥駄目って言ってもどうせ座るでしょうが。」

 

 

えへへ、と隣の席に座る琴美。片手にはポッキーを持ち、まるでリスのようにポリポリと食す姿は少しだけ幼く見える。

 

 

「いや〜楽しみだよね〜。バーベキューに花火大会、枕投げに恋バナ、怪談‥‥」

 

「ほとんど文芸サークルに不要なイベントだらけじゃないっすか‥」

 

「ハチくん分かってないな。楽しいイベントなら何でもやる。それがうちのモットーだよ?」

 

「そんなの初めて聞いたわ。あ、さっきから材木座の姿が見えないんですけど知ってます?」

 

 

琴美は後ろを振り向く。彼女が指をさした先にはバスの後部座席でエチケット袋に顔を埋める材木座がいた。

 

 

「あいつ、何やってんだか‥‥」

 

「まあ、しょうがないよ。体質とかあるからね。で、河口湖を眺めながらハチくんは次回作の構想でも練ってくれてるのかな。」

 

「書かないっすよ。この五日間、買い置きしてたラノベを読む漁るつもりなんで。」

 

 

座席の上に置かれた鞄にはたんまりと本が詰め込まれている。生活費を差し引いたバイト代でこつこつ買っていた本だ。

 

 

「キスまでしたのに効果なしか〜。残念だな。」

 

「ちょ、やめてください。まあまあ大きい声でそんなこと言うの。」

 

 

琴美がニヤニヤとこちらを見ているのは容易に想像できた。本当に厄介なやつだと心から思う。しかし、この人には敵わないのだ。どんな言葉を投げつけてものらりくらりとかわしてしまう。

 

 

「まあ、まだ時間はあるからね。気長に待つよ。」

 

 

その先には平穏があることを願いながらやがてバスは右折していく。

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

 

「はい!第一回一番美味しい晩御飯選手権始まるよー!」

 

「着いて早々なに始めてんすか。」

 

 

皆荷物を置くと直ぐに始まってしまったこの大会。どうやら毎年恒例イベントのようで二人一組で晩御飯を作り皆で投票し、優勝が決まる。優勝チームには一人につき図書カード1万円分が送られるため、アホほどレベルの高い戦いになるそうだ。

 

 

「とりあえず組み分けね‥‥みんなくじ引いたね‥‥よし、私はハチくんとだ!」

 

「意図的な何かを感じるので変更を求めます。」

 

「じゃあ、ハチくん一人でやる?最下位には後片付けが待ってるけど。」

 

「ぜひ頑張りましょう。」

 

 

無駄な労力はできるだけ減らしたい八幡にとってこの手の話は弱い。できれば何事もなく過ぎ去って欲しいものだがきっとそう上手くはいかない。ならば、琴美に任せておくのが賢明だ。

 

 

「皆、チームは決まったね!じゃあ各自買い出しへlet's go!」

 

 

戦いの火蓋は切って落とされた。まるで野獣のように外の世界へ食材を求め飛び出して行く人々の中に二人の姿はあった。

 

「別に走らんでもいいだろうが‥‥食材が逃げるわけでもあるまいし‥‥」

 

 

そんな呟くはきっと皆には届いていないだろう。

 

 

 

 

地元のスーパーには既に部員が散らばる。唐揚げはどうだ、ステーキなら勝てるはず、一周回って菓子パンというのは‥‥‥様々な声が聞こえる中、既に琴美は決めているようで次々に食材を入れていく。

 

 

「なに作るつもりなんすか。一応、相方して聞いておきたいんすけど。」

 

「内緒。まあ、安心して。絶対に最下位にはならないから。」

 

「琴美さんもやっぱ最下位は嫌なんですね。」

 

「みんなトランプとか楽しんでる中、片付けなんて嫌でしょ。というか、私はなんだかんだで毎年優勝してるんだよ。期待しててね。あ、ハチくんそこのニンジン取って。」

 

 

八幡はすぐそこにあるニンジンをおもむろにカゴへ入れるがその手を琴美に止められる。

 

 

「ストップ。そのニンジン、ヒゲが多いし、切り口の直径が大きいから却下。別の‥‥その隣のやつにしよう。」

 

「どれも一緒じゃないんですか。」

 

「切り口の直径が小さいと芯が柔らかくて美味しいの。常識だよ。常識。」

 

 

鼻高々に豆知識を披露する琴美であったが彼からすれば意外だった。日々の生活を見てる限り、自炊が得意な素振りは全く見せなかったからだ。買い物カゴ片手に、まるで本当の主婦のように見定める姿はとても新鮮で目で追ってしまったのは必然だったのかもしれない。

 

 

 

=================

 

 

結果から言えば、琴美達の圧勝だった。

 

夕食。あらゆるチームがこしらえ、テーブルに並べられた料理の中でダントツの人気を誇ったカレーライス。なんということもない普通のカレーだ。強いて言えば隠し味にビターチョコを入れているくらいだろうか。しかし、たんまり煮込んだカレーは面白い程に無くなっていく。

気がつくと鍋は底が見え、炊いた米一つ残ってはいなかった。

 

 

「八幡〜、助けてくれ!我こんなに片付けられん!徹夜は嫌だ!」

 

「大体、お前のチームはなぜ菓子パンで勝てると思ったんだよ。サボった罰だ。まあ、頑張れ。応援はする。」

 

 

へなへなと倒れこむ材木座こそ、カレーライスを最もおかわりした張本人だ。

 

 

食事が済み、皆自由に活動する。本を読む者、パソコンを開き未だ掴めぬ作品のカケラを集める者、友との楽しき会話に花を咲かせる者。自由を愛し、自由に身を委ねる者達がそこにはいた。

 

八幡はスニーカーを履き、外へ出る。合宿所からの光がしばし辺りを照らしていたがほんの三分も歩けば真っ暗な世界が広がっていく。

 

ふと空を見上げると空には一面の星空とまではいかないがきっと東京では見ることができない六等星が見える。かの微かな光でも恐ろしい程の時をかけてここまで届いているのか、と思うと何だか自分の悩みがとてつもなく小さく感じて安心する。

 

 

「ハチくん、ここにいたんだ。」

 

 

後ろからの声に振り向きもしない。誰か見なくてもわかるからだ。

 

 

「なんですか。ストーカーですか。」

 

「おいおい、今日の功労者にそんな言い方ないでしょ。そんなハチくんには図書カードあげないよ〜」

 

 

琴美が八幡へ図書カードを渡す。その際、暗いながらも琴美の緩いTシャツから覗くブラが目に入ってくる。

 

 

「ちょっとハチくん、ほんとに要らないの?」

 

「‥‥いただきます。」

 

 

八幡は図書カードを受け取り乱暴にポケットに突っ込む。どうやら目線はバレていないらしい。

 

 

「どうして皆カレーに投票したんですかね。もっと良さげなのは沢山あったのに。」

 

「カレーが嫌いな人っていないでしょ‥‥じゃ屁理屈好きなハチくんは納得しないか。そうだね。一つ言えるのは〝人間は安心を求め続ける生き物だ〟ってことかな?」

 

「安心‥‥ですか。」

 

 

カレーと安心。どう結びつくか全く理解できていない八幡に彼女は優しく解説する。

 

 

「こんなイベントだから皆、気合入れて作っちゃうんだよね。今日も凄かったでしょ。パエリア、鴨のコンフィやスッポン料理作ったり、バラエティ豊かだよね。」

 

「まあ、確かに。実際俺はパエリアにしましたよ。」

 

「でも皆はカレーを選んだ。それは既に分かってる味だからだよ。知ってるから失敗はしないし、安心して食べられる。知らないことはとても怖いことだからね。」

 

 

知らないことはとても怖いこと。覚えのあるその言葉に少したじろぐ。

 

 

「まあ、理屈を無理やり押し込んだらこんな説明になるけど実際はそんなことはないでしょ。普通に私の料理が美味しかったからだと信じたい。」

 

 

そうケラケラ笑う琴美がなんだかとても眩しく感じる。

 

 

「どうしたの?急に黙っちゃって。」

 

「‥‥何でもないっすよ。」

 

「嘘が下手だね〜もしかして家庭的な私の一面を見ちゃってちょっと揺れてるの?」

 

 

見透かされるのは八幡が苦手とするところだ。何だか子供扱いされているようで気に触る。だから反論したくなる。

 

 

「‥‥別にそんなことは」

 

「うんうん。悩め、悩め。それは若者の特権なのだから。」

 

 

アンタのせいでこんなになってんだろうが。その思いをどうにか押し留める。その言葉を漏らしてもどうなるわけでもない。

 

 

「‥‥相談があるんすけど。」

 

 

切り出すタイミングを間違えたかもしれない。八幡は咄嗟にそう思ったがもはや口に出してしまった以上、後には引けない。

 

 

「いいよ。なんでもどうぞ。」

 

 

「人との繋がりをうっとうしいと感じる俺は間違ってるんすかね。別に他人と一緒じゃなくても生きていける自信はあるしこれまでもそうしてきたのに、最近は人と繋がらなくてはならないことが多い。自分が弱くなったような気がしてしまう。」

 

「ボッチがいい、ということかな。」

 

「端的に言えば、そうなります。」

 

 

何を言っているのだろう。人生相談なんて誰にもしたことはなかったのに。

それでも八幡が話してしまったのはやはり琴美の人柄にあるのだろう。優しく包み込むように、そして何でも答えてくれるような安定感があるのだ、彼女には。

 

 

「なるほどね、ハチくんの悩んでることは分かった。でも既に答えが出るけどね。君は本心ではボッチにはなりたくないはずだよ。いや断言できるね。君はボッチにはなりたくないんだ。」

 

「いや、どうしてそんな話になるんすか。俺が言っているのは‥‥」

 

「全ての証拠は君にある。本当にボッチになりたいならすぐに関係を断てばいい。そうしなかったのは心の奥底に〝人と繋がりたい〟という欲求があるから。君は誰かと結ばれたいんだ。思いを共有したい。」

 

 

彼女から放たれる言葉がチクリと胸を刺していく。まるで八幡の下意識の海をサルベージされているようだ。

 

 

「でも君は他人と繋がることができる確かなツールを持っている。小説だよ。君は自らの意識を切り取った作品を他人と共有することができるんだよ。その他人こそファンなんだ。これを見てごらん。」

 

 

背中から取り出し、八幡の顔に差し出されたタブレット端末にはサークルが運営する掲示板が表示されていた。

 

〝Q&Aの作者マジで天才!〟

〝こういうのが読みたかった。〟

〝次回作期待してます!〟

 

 

彼の作品に対する感想で埋め尽くされている。なぜだろうか。八幡は唐突に胸が熱く感じていた。

 

 

「君の意識を感じ取った君のファンだ。これを見てどう思う?」

 

「‥‥まあ、嬉しくないわけではないですかね。なんか、今まで誰かに認められるようなそんなことなかったから。」

 

 

それまで全く人から公の場で褒められることがなかった彼の中でその時、何かが変わったのかもしれない。その証拠に彼の目には液体を潤ませているようだった。

 

 

「どう?やっぱ書いてみない?もし君が書くなら私は全力で君を手伝うよ。君が売れようが売れまいが私が側にいてあげる。」

 

 

辺りに沈黙が生まれる。虫の音だけが聞こえてくる夏の夜。そして、彼は一歩を踏み出す。

 

 

「‥‥時間をください。整理する時間を。」

 

「やっぱりダメなんだ‥‥いいよ、私諦めないから。」

 

 

琴美の想定範囲。こんなことで難攻不落の城を攻略できるわけないと次の発言の直前までは考えていた。

 

 

「何言ってんすか。とりあえずプロットを作りますから。プロット見てつまらなかったら俺のこと諦めてくださいね。」

 

「え、ハ、ハチくん!も、もしかしてその気に‥‥」

 

 

「その気にはなってないっすけど、まあプロットぐらいは作れるかなとか思っただけです。」

 

 

琴美は胸が躍っていた。またあの興奮が蘇るのだと思うと、居ても立っても居られないのだ。そんな琴美と八幡は目を合わせずに口を動かす。

 

 

「もう一つ、相談というか質問、疑問があるんですけどいいですか。」

 

「勿論。今の私はなんでも答えちゃうよ!」

 

 

彼が話し始めるその話題を琴美には想定できただろうか。

 

 

「琴美さんは〝俺のファン〟だと言いました。でもあの時キスしましたよね。どうしてですか。俺に恋愛感情でも抱いているんですか。正直、俺にはわかりません。琴美さんの考えていることが。」

 

 

コミケの帰りでの出来事。八幡は未だに鮮明に記憶している。かの柔らかい唇もその匂いも全てだ。しかし、なぜキスしたのかは彼の中での最大の疑問だった。

 

 

先ほどまで雲隠れしていた月が光を届けてくれる。照らされた琴美は目をつぶり、何か心を整理しているようだった。そして目と口が同時に開かれる。

 

 

 

 

 

 

 

「それは‥‥」



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⑩前編は騒々しく

 

 

秋の冷たい風が街に流れる。ほんの少し前までは半袖でも過ごしやすい日々だったがここ数日でグンと冷え始めた。着る服が長袖に、そして羽織るものが一枚、また一枚と増えるごとに近づきつつある厳しい冬の予感を感じてしまう。

 

そんな冷たい風をマトモに浴びた結衣は東京のある駅前に降り立っていた。周りには沢山の人が大きな流れを作り、一つの目的地へむかっているようだった。

 

 

 

鎌倉の時から、何だか気まずくて連絡を絶っていた八幡から息抜きに学園祭へ来ないか、と提案されたのは一週間前であっただろうか。

最初、彼女は断るつもりだった。赤本の研究含めやることはたくさんあったからだ。ただモチベーションが下がりつつあるのも事実で、ひたすらに机に張り付く日々にうんざりし、何のために勉強しているのか見失ってもいた。

そんな中、チューターとの面談で〝そろそろモチベーションが下がってくる頃だし、大学の学園祭でも行ってくれば?〟と後押しを受けたのだ。ならば行くしかない。そう決意した日から勉強時間が一時間増えた。

 

 

人の波に押し出されて気分が少し悪くなった結衣は脇道に逸れ、あたりを落ち着いて見渡してみる。

 

駅前のロータリーは大学のお膝元であるのもかかわらずあまり栄えているようには見えない。だが、コンビニやファストフード店は建ち並び学生街としての機能はどうにか保っているようだった。はたして来年この街に通うことができるだろうか、とふと思ったその時だった。

 

 

「……もしかして由比ヶ浜先輩ですか。わあ!やっぱりそうだ!お久しぶりです!」

 

 

蜂蜜のように甘ったるい声。振り返れば、少し着崩した制服に亜麻色のセミロングに結衣は見覚えがあった。

 

「いろはちゃん、久しぶり!どうしてここに、って…そりゃ学園祭目当てだよね。」

 

「はい。私、ここの大学の法学部に推薦されることになりまして。それで大学の下見を兼ねて遊びに来た感じです。」

 

 

推薦。それは高校三年間積み重ね続けた者だけに渡されるチケットである。学校内での選考を抜ければほぼ合格確実というそれは今の結衣にとってうらやましいものでしかない。

 

 

「……推薦かあ。すごいな…いろはちゃん勉強も生徒会も手抜かなかったもんね。」

 

どうにか絞り出した声は少し裏返ってしまった。

 

 

「だってなめられたくないじゃないですか。どっちも手を抜かなければ誰も文句は言われないと思って。由比ヶ浜先輩はどうして‥‥」

 

「ヒッキーに誘われて、ね。閉じこもるだけの浪人生活じゃ息がつまるだろうって。」

 

「そう言えばセンパイもこの大学でしたっけ。あ、ということは‥‥」

 

 

由比ヶ浜結衣が比企谷八幡に告白したという噂はいろはの耳にも届いていた。ただその後皆それぞれの道へと行ってしまったためその後の話は知らない。

 

黙ってしまういろはに結衣は優しく語りかける。

 

 

「いろはちゃんが思っているようなことはないよ。もっと事態は進んでないから。ずっと待たせたまま時を止めてしまった。でもね。必ず時計を動かしてみせるつもり。来年、私もこの大学に入るから。その時はいろはとは同級生になるのかな。よろしくね!」

 

 

言葉は人を変える。いや、彼女は変わりたいのだ。だから戒めのように自分に対して語りかける。その言霊がいつか叶うことを信じて。

 

 

 

「由比ヶ浜先輩‥‥今日は私と一緒に回りましょう!」

 

 

いろははそう言って結衣の腕を組む。

 

 

「ちょ‥‥いろはちゃん⁉︎私は別にいいけど、待ち合わせてる友達とかは大丈夫なの?」

 

「友達‥‥私、今日は一人で来たんですよ。大体、一緒に行くほど仲のいい友達なんていませんから。さあ、いきましょう!」

 

「なんかすごい寂しい発言を聞いたような‥‥」

 

 

いろはにリードされるように進んで行く二人はその大きな流れに紛れていった。

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

 

大学のキャンパスは思っているよりもずっと小さいことは門で貰ったmapガイドで分かった。お目当ては無論文芸サークルだ。結衣はキャンパス奥にあると記載されているサークルテナントにペンで丸をつける。

 

 

「何をやってるんですか、由比ヶ浜先輩。行きますよ。」

 

 

結衣を引っ張るいろはは迷いなく人混みを掻き分ける。このキャンパスには一度来たことがあった。サッカー部のマネージャーとして大学のグラウンドを練習試合で使わせてもらった時のことを微かに思い出しながら歩いていく。

 

 

「あ!いましたよ。センパイ〜!」

 

 

「げっ、由比ヶ浜はいいとしてなぜお前が‥‥」

 

 

目線の先には八幡が文芸サークルのテナント前で一人で店番していた。

目の腐りようは相変わらず。だが少し大人びて見えるのは何故だろうか。結衣は少し胸がチクっとする。

 

 

「ちょっと!可愛い後輩が遊びに来たのにその態度はなんですか。」

 

「可愛いとか笑わせんなよ。あざといの間違いだろ。」

 

 

まるであの頃のように漫談は突然に始まった。挑発するいろは。その挑発を容易くかわす八幡。そんな中、その輪に入れず外野で微笑むしかできなかったのは結衣だった。

 

 

「お前がまた後輩になるとか俺の平穏が奪われる気しかしない。」

 

「ほんと失礼ですよ!私はそんなことしませんから。由比ヶ浜先輩も何か言ってくださいよ!」

 

「わ、私は‥‥」

 

 

いろはからのパスにうまく切り返せない自分がいる。いつからこんなにコミュニケーション下手になったのだろう。

 

 

「な〜あに!楽しそうだね。私も混ぜてよ。いいよね、ハチくん。」

 

「勘弁してくださいよ。アンタが混ざるとややこしくなるでしょうが。」

 

 

声が後ろから聞こえたかと思えば、フワッと柑橘系の香水の香りが鼻をくすぐる。結衣の横を通り過ぎた女性は八幡の横に陣取り、二人に目を向けた。

 

 

「で、ハチくん。こんな可愛い子達どこで引っ掛けてきたの。あ、私このサークルの代表の匝瑳琴美です。ねえねえ、ちゃんとお姉さんに紹介してよ。」

 

 

ハチくん。ヒッキーは別のあだ名で呼ばれているのか。また胸がズキっとする。今度のはもっと痛い。

 

 

「‥‥別に引っ掛けてはないですからね。そっちの見るからにあざとそうな亜麻色小悪魔が高校の後輩、一色いろはです。なんかウチの大学に推薦で来るらしいです。興味ないっすけど。」

 

「なんでそんなどうしようもない紹介しかできないんですか‥‥初めまして、一色いろはです。」

 

 

綺麗に頭をさげるいろはは流石と言ったところか。琴美の顔も微笑んでいる。

 

 

「で、こっちが同じ部活だった由比ヶ浜結衣です。今は、その、浪人していて‥‥」

 

 

結衣はその時確かに琴美の顔が一瞬崩れたのを見た。何か言いたげな琴美の表情に少したじろぐ。

 

 

「そっか‥‥あなたが‥‥」

 

 

琴美はそれから言葉を続けることなく口を閉じる。ほんの少しだけ得も言えぬ程の奇妙な時間が空間を支配する。

 

 

「あ、あの、匝瑳さん。いえ、匝瑳先輩!大学について聞きたいことがあるんですが!」

 

 

支配から逃れたのはいろはだった。いろはは琴美の元へ行き懐へ上手く入っていく。

その際、いろはと結衣は目を合わした。いろはの目からは〝今のうちにセンパイと〟と話しているようで、たじろぎ固まっていた結衣の足に力を与える。

 

 

「ヒッキー、ちょっと時間ある?一緒に回りたいな〜なんて。」

 

「もうそろそろ休憩が欲しいころだと思ってたからな。行くか。」

 

「え?ちょっと待って、ハチくん。私、由比ヶ浜さんと少し話が‥‥」

 

「匝瑳先輩、大学のシステムがいまいち分からなくって‥‥」

 

 

離れて行く二人を引き留めようとする琴美にいろはは容赦なく質問をぶつけ、意識をこちら側に向けさせる。それに観念したのか琴美は諦め、いろはからの問いを捌き始めた。

 

 

===================

 

 

「人多いね。ビックリしちゃった。」

 

「そりゃ、日曜日だからな。今日は特に客が多くて、コミュ障には辛い。」

 

 

並んで歩く二人であったがその人の多さに埋もれてしまう。逆からの人の流れに捕まり流されて行く中、結衣の手には暖かい感触があった。

 

 

「あっ‥‥」

 

「こうしてないとはぐれるだろ。」

 

 

結衣は途端に自分の顔が熱くなるのを感じた。八幡も心なしか赤く火照っていたようで恥ずかしいのか顔を結衣には見せようとはしなかった。

 

 

「な、なんか食べよう。甘いもんでいいか?」

 

「うん‥‥」

 

 

彼が財布を取り出して向かったのはチュロスを売るブースだった。フライヤーから揚げられるチュロスの香ばしい香りが肺一杯に取り込まれる。

 

「どっちがいい?プレーンとココア。」

 

「じゃあ、こっち。ありがとうね、ヒッキー。」

 

差し出された種類の違うチュロスから結衣はココアを選び、口に入れる。揚げたての生地にまぶされた砂糖が口に広がる。

 

 

彼らは人を避けるように入った校舎に置かれたベンチに腰掛けた。

 

 

「どうだ。その、勉強の方は。」

 

「うん。夏休みの特訓が効いたのかな、センターも安定して八割取れるようになったし、ワンランク下の大学の過去問なら大体解けるよ。二人のおかげだね。」

 

「それは違う。手伝ったのは俺たちだが、実際に勉強したのはお前だろ。」

 

「それでも、ね。ありがとう。それからごめん。」

 

 

ベンチに座ってもなお繋いでいたその手を結衣はギュッと握る。

 

 

「いや、なんで謝る。今の話の中で謝る要素無かっただろうが。」

 

「鎌倉で私、訳わからないこと話したでしょ。ヒッキー、困った顔してたから、だから。」

 

「連絡寄越さなかったのもそれが原因かよ‥‥あんま気にすんな。お前も不安で一杯なんだろ。分かってるから。」

 

 

優しさが染みる。だから好きになった。でも果たしてその優しさに甘え続けていいのか。自分のワガママが彼を縛り付けているのではないか。

 

結衣は話題を変えることにした。話が暗くなりそうだったからだ。

 

 

「さっきの人が匝瑳さんなんだね。噂に聞いてたより普通の人そうだったけど。」

 

「いやいや。変人だからな。どんだけ振り回されたことか。まあ、どっかの姉よりはマシだけどな。」

 

 

なんだか匝瑳琴美の話になると話が弾んでいる八幡に胸が苦しくなる。彼の中に、別の女性が住んでいるかもしれない。付き合ってもいないのに嫉妬している自分が気持ち悪くて仕方がない。

 

 

「どうした、由比ヶ浜。」

 

「あのさ、あの時の約束。あれ、もう守らなくても‥‥」

 

 

「おっと!お二人さん。少しお待ちを。やっと見つけたよ。」

 

「ちょっと匝瑳先輩、話終わってないんですけど〜」

 

「え〜大体話したでしょ。私、由比ヶ浜さんだっけ?と話がしたいんだ。いいよね、ハチくん。」

 

「いや、それは本人に聞いてもらわないと‥‥」

 

 

八幡のなんとも歯切れの悪い答えに琴美は質問の矛先を変える。

 

 

「いいよね、由比ヶ浜さん。お話しましょう。」

 

 

またもや現れた琴美。微笑む彼女が何を考えているのか、その場にいた三人には全く分からなかった。

 



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⑪後編は優しく

 

 

大学の食堂棟には人が溢れかえっている。外部の人間が入ってきているから当たり前であるが、そんな中で琴美と結衣は食堂棟屋上のテラスに向かい合う形で座っていた。屋上は大学の意向だろうか木や芝生など緑化が進んでいる。

テラスの机には琴美が奢ったカフェラテと紅茶が置かれ、端から見れば女子会のように見えるかもしれない。だが、実際はもっと殺伐としていた。特に結衣は目の前にいる匝瑳琴美がどのようなアクションを起こしてくるのか、警戒しているようだった。

 

「由比ヶ浜ちゃん、そんなに警戒しないでよ。まるで初めて見るものに対して威嚇するワンちゃんみたいだよ。」

 

「……どうして私と話したいんですか。私達初対面ですよね。」

 

「まあ、ね。でも間接的には聞いていたわ。ハチくん、ことあるごとにあなたたちの入ってた部活の話するんだもん。それにあなたもハチくんから私の話は聞いていたでしょ。お互い、初対面だけど初対面じゃない。」

 

 

琴美はカップに入ったカフェラテを一口啜る。それを見ていた結衣も紅茶を啜る。

 

「私は話してみたかっただけだから。同じ人を愛したあなたとなら色々と話が弾むかなってね。」

 

同じ人を愛した、と確かに彼女はそう言った。

 

 

「それって、ヒッキー、比企谷君のことを…」

 

 

聞きたくない。そうは話せなかった。もはや開けてしまった半開きの扉を開けるしか前へ進む方法はないのだ。

 

「うん。好きよ。でも、まあ振られちゃったけどね。いや、あれを振られたと言って良いのかな。すごい遠回しにフラれてんだけどね……」

 

 

机に頬杖をつく琴美は少し遠い目をしながら口を動かす。思い出すのは夏の終わりの人生相談だ。

 

 

******************

 

 

「それは……どうなんだろう、分かんないや。」

 

「分からない?それはどういう……」

 

 

コオロギや虫の声が聞こえていく中、琴美は顎に手を置きなにやら考えを纏めているようだった。

 

「う~ん。この気持ちが君の書く小説に思いを寄せているのか、君自身に思いを寄せているのか、それとも両方なのか、私には分からない。でもね、苦しい。君の一つの仕草にしたってすごく、すごく愛しくて、後から苦しさが迫ってくるんだ。なんでだろうね。これが恋愛感情なのかな。」

 

 

琴美はその場に座り込む。自身の膝を抱えている姿は八幡には新鮮で目を離せず、かける声も出せなかった。

 

 

「私ね、友達がいなかったんだ。知り合いはいたよ。でも、自分とはまるで話が合わなくっていつも読書してた。本が友達だったし、本に恋してたのかもしれない。高校の時は告白もされたけど、やっぱり惹かれるのは本だった。そんな私が、まさか本以外、しかも年下に夢中になるなんて思ってもみなかったし、戸惑ってもいるの。」

 

 

その時、八幡は気づいた。どうしてこの人と自分が一緒にいられるのか。彼女が〝ボッチ〟だったからだ。ボッチだったから嫌われない程度の距離感を知っていた。ようやく自分自身親近感を覚えていた理由が分かった。

 

ここまで思われている。きっとそれは幸せことなんだろう。だが、脳裏に近づくのは彼女の、結衣の泣いている姿だった。

 

 

「……琴美さん。俺、待ってやりたい奴がいるんです。」

 

 

夏の風がふわっと吹く。湖からだろうか。ひんやりとしたその風は熱くなっていた頭を冷やしていく。

 

 

「待ってやりたい子って……」

 

「高校の同じ部活の奴です。浪人生なんすけど、半年前に告白されました。そいつが言ったんです。〝待ってて欲しい〟って。アホの子なんすけど、そいつ頑張ってて……多分今も勉強してて。待てるなら待ってやりたい。」

 

 

本当に、酷いワガママだ。きっと目の前の彼女を傷つけてしまうのは間違いないだろう。それでも今の八幡は自分を追い、必死に走っている彼女を見捨てることは到底できなかった。

 

 

長い沈黙。永遠に続いていくような気がした。

 

 

「……そっか。分かった。しょうがないな~ホントに、ワガママさんだね……」

 

 

琴美は顔をあげない。地面をひたすらに眺めているというに八幡には見えた。

 

 

「あの…琴美さん……」

 

「ハチくん、もうそろそろ就寝時間だよ。私も後から追うから先に行ってて。」

 

 

再度声をかけようとした八幡であったが、それは止めた。彼は彼女の元を去る。振り返ってはいけない気がした。

 

 

「……ああ、これは痛いなあ。胸の奥がズキズキする。これが噂に聞いてた失恋って奴なのかな…」

 

 

独り言が空気に溶けた瞬間、瞼の堤防は決壊した。氾濫したその水は拭っても拭ってもとどまることを知らず、流れ落ちていく。嗚咽する声もやがて大きく響いた。

 

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

「酷い振り方するよね。直接言わないで振るなんて高等技術なんて何処で覚えてきたんだか。そんな子に育てたつもりはないっての。」

 

 

そう笑う琴美の笑顔は柔らかい。何か吹っ切れたように結衣には見えていた。

 

「いいんですか。このままで。」

 

「しょうがないよ。彼の心の中には既に貴女がいる。私は後から彼の心にしのび込もうとしていた泥棒猫。どう考えても分が悪いでしょ。」

 

 

空を見上げる琴美。何故だろうか。結衣の心の内をいつの間にか話し始めていた。

 

 

「私、彼を縛り付けていると思うんです。〝待っていて〟凄く自分勝手で卑しい言葉ですよね。彼が誰を選ぼうと彼の自由。自分から離れて行って欲しくなくて言葉の鎖で繋いでしまっている自分が醜くて仕方がない。」

 

「‥‥まあ、確かにね。気持ちはなんとなく分かるかも。でも、さ。それって人と当たり前のことだと私は思うけどな。」

 

 

意外だった。まさかそんな切り返しがあるなんて予想していなかったのだ。

 

 

「人はそもそも自分勝手な生き物なんだと思う。自分勝手に人や物を評価して、自分勝手に気持ちを伝えて、自分勝手に傷つく。でもそれでいいんだよ。その方が人間って感じがする。だからあなたが彼に自分勝手に思いを伝えるのも悪いことではないよ。」

 

「‥‥でも。」

 

「大体、私だって同じでしょ。ハチくんの気持ちなんて考えずに自分の利益のためにこのサークルに入れ、告白した。自分勝手だけど後悔なんてしてないよ。きっと由比ヶ浜さんに足りないのは自信だね。彼の隣に居られるだけの自信がないんだ。」

 

 

まるで本質を見抜かれているようでゾワっとする。彼の側には何故だか素晴らしい女性が集まる。自分より優れたその人達を見るたびに何もない自分が情けなくって仕方がない。

 

 

「そんなに、自信がないなら私が彼を貰っていい?」

 

「そ、それは!」

 

「ダメなんでしょ。もうさ、自信なんて関係ないんじゃない?ひたすらに彼にアタックするくらいじゃないと。私は逃げられたけど。なら、あなたは絶対に大学に受かるべきだよ。彼に追いついてしっかり決着をつけないと。」

 

 

さあ、戻ろうか。そう琴美はつぶやき、席を立つ。そんな彼女に結衣は問う。

 

 

「‥‥どうして、私にアドバイスをくれるんですか。」

 

「あなたには早くスタート地点に立ってほしいから、かな。約束がある今、どうやったって彼の心は動かせない。でもあなたが大学に入れば、その限りではない。彼も自由になるわけだから私もまだチャンスがあるでしょ。私、諦めが悪いので有名なの。お互い頑張りましょう。負けるつもりはないけど。」

 

 

カフェラテのカップを持ち琴美は手を差し出す。握手を求めているのだろう。この手は握らなければならない。結衣はその手をしっかりと握り、覚悟を決めた。

 

 

 

==================

 

 

「で、センパイはどちらと付き合ってるんですか。」

 

 

琴美と結衣がテラスで話す中、残された二人はベンチに腰掛けていた。

 

 

「いや、どちらとも‥‥」

 

「どちらともkeepですか。なんとも偉くなりましたね。葉山先輩もビックリですよ。」

 

「keepなんてしてねえよ。」

 

「無意識とか更にたちが悪いですね。センパイがそんなだから女は苦労するんです。」

 

 

いろはは八幡に向き合う。八幡の服の裾をしっかりと掴み、逃走を防ぐ。

 

 

「センパイはよくわかっていないようなので私がハッキリ言ってあげます。現状を先延ばしにする今のセンパイ、ダサいですよ。素直に振ってあげれば諦めがつくのにウジウジとしてるから由比ヶ浜センパイも困ってるんです。大体、センパイは由比ヶ浜先輩のこと好きなんですか。」

 

「‥‥嫌いではない。」

 

「ほらそうやってごまかす。センパイのヘタレ!」

 

 

カチンとくる。なんでこんなに責められなくてはいけないんだ。思わず立ち上がる。

 

 

「ああ、好きだよ!あんなに明確な好意を押し付けられたら好きになるに決まってんだろうが!俺は惚れやすいんだ。だけど、自信がないんだよ。どう考えても釣り合わない。なんで俺なんだよ‥‥俺なんて何にもないのに。」

 

 

八幡は深呼吸する。すると途端に熱くしゃべっていた自分が恥ずかしくなる。そんな八幡にいろはは優しく語る。

 

「何にもないとかそういうのは自分で決めるものじゃないと思います。それは周りが決めること。恋愛に自信とか関係ないです。ちゃんと向き合ってあげてください。ほら!」

 

 

いろはの目線がズレる。八幡が後ろを振り返ると二人がいる。

 

 

「お待たせ、ハチくん。ゴメンね、結衣ちゃん借りちゃって。」

 

 

いつの間にか呼び方も変わっているが気にしない。ただどこかスッキリした表情の二人を八幡は怪訝に思っていた。

 

 

 

 

もう辺りは暗くなるから、と琴美に言われて八幡は途中までであるが結衣を送っていた。ちなみに邪魔になると思ったのだろうか、いろはは〝お先に!〟と早々に帰っていった。

 

未だに学園祭は続いているからか意外にも電車内には人で溢れかえってはいなかった。

 

 

「今日はありがとうね。」

 

「いや、すまんな。今日は何にもできなかった。息抜きにならなかっただろ。」

 

「そんなことないよ。色んな話聞いたし。」

 

「‥‥あの人に何か吹き込まれたんだろ。無視していいからな。」

 

「そんなことできないよ‥‥」

 

 

結衣はドア付近の手すりをギュッと握る。確か次の駅で八幡は降りる。何か話さなければと思うほどに頭が回らなくなってゆく。

 

 

「由比ヶ浜。」

 

「ほえ?な、何?どうしたの?」

 

「あの、あれだ。その、だな‥‥」

 

 

次は笹塚、と車内にアナウンスが流れる。あと三十秒もすれば、着いてしまう。

 

気づけば既に停車し、ドアが開く。八幡はホームに降り、振り向く。

 

 

「待ってるから必ず大学受かれよ。で、また来年ちゃんと花火大会行こう。」

 

「え!それって‥‥」

 

 

結衣の目の前には閉まるドア。電車は発信する。引き裂かれるように二人の距離は離れてゆく。

 

ドアの窓に手をつけたまま結衣。彼の言った言葉を噛み締めるたびに胸の奥が暖かくなる。

 

やがて笹塚を出た列車は勢いをそのままに新宿へのトンネルへ突入する。暗くなり窓に映った自分の顔は心なしか微笑んでいた。

 



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エピローグ:告白の行方

 

「ねえ、ママ。どっちがいい?一応、フォーマルな服の方がいいかな、でも固すぎるのはアレだよね‥‥」

 

 

結衣の部屋にはシワにならないようにきっちりと置かれた洋服があちらこちらに点在している。既に何着も鏡の前で悩み続けているのは今日の重要なイベント、それも自分のために開かれるイベントのためだ。主役が着飾って何が悪い。うんとオシャレをするのはむしろ義務である。全力で悩む彼女の顔には微笑みの影が見える。

 

 

「う〜ん。友達が開いてくれるような会ならフォーマルな服じゃなくても良いんじゃない?でも、あまりに子どもっぽいのもなんだかね。ということでママからのプレゼント。」

 

 

母から渡された紙袋にはキャメルのチェスターコートが入っている。前々から結衣が狙っていたものだ。

 

 

「え‥‥なんで、どうしたのこれ。」

 

「あんだけ、ファッション雑誌に付箋付けてれば分かるわよ。結衣が頑張ったから私たちからのプレゼント。本当ならもっと早く渡したかったけど全部終わってからにしろってパパがうるさくて。」

 

「‥‥そんなの、プレゼントしなきゃいけないのは私のほうなのに。これは受け取れないよ。」

 

「そんなの、気にしないの。いいから受け取りなさい。」

 

 

母から受け取った紙袋からチェスターコートを取り出し、しっかりとした生地から伝わるその暖かさを確かめたくって、抱きしめる。この暖かさはきっとコートだけじゃない。

 

母は結衣の肩にそっと手を置き、向かい合う。

 

 

「結衣。私もパパも一番欲しいプレゼントは結衣が楽しく、元気に過ごしてくれることなのよ。これからいっぱい結衣には楽しいことがあるはず。思いっきり楽しみなさい。人生は一度っきりなんだから。」

 

「‥‥うん。ありがとう、ママ。」

 

 

時間を見るとまだ集合まで二時間はある。

 

 

「じゃあ、ママは買い物してくるわ。あ、そこにある参考書の束、ちゃんとまとめておくの忘れずに。」

 

「うん。」

 

 

部屋の脇に置いてある膨大な参考書にプリントは全部ボロボロだ。特に英単語帳は表紙がどこかに飛んでいったのか剥き出しになっている。愛着のある戦友だ。雨の日も、暑い夏も、諦めたあの日も、彼から〝待ってるから〟と言われて舞い上がったあの日も、試験開始15分前も、いつだって眺めていた。だが、次の一歩を踏み出し、人生の階段を一段上がる彼女にはもう必要はない。

 

結衣はその参考書たちを一冊ずつ、大きさ別に分け、縛っていく。

 

ありがとう、の気持ちを挟み込みながら。

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

三月と言っても夕方にもなればその寒さは二月と変わりはしない。街中にダウンジャケットを着た人がウジャウジャいる中、貰ったばかりのチェスターコートに身を包んだ結衣は待ち合わせのイタリアンレストランまで歩いていた。

 

息が白い。立ち登るその絹のような息はすぐに消えてしまうけれど、なんだか儚くて愛おしく感じる。

きっと彼は、

「息が白いのは空気中のチリやゴミを核に口から排出された水蒸気がくっついてできる現象だ。つまり、空気が汚れてるってことだろ。」

なんて夢のないことを言うかもしれないが。

 

 

「由比ヶ浜さん。こっちよ。」

 

 

凛とした声。大好きな声だ。

 

 

「おう。久しぶり。」

 

 

ボソボソと話す締まりのない声。大好きな声だ。

 

 

「久しぶり。ゆきのんもヒッキーも集まってくれてありがとう。」

 

 

八幡とは学園祭から連絡を取っていなかった。あえて、だ。彼のその言葉でどこまでも頑張れるような気がした。そして同時にもっと甘えてしまうかもしれない、とも感じたのだ。だから八幡とは連絡を取らずに彼の言葉を心で真空パックしておいた。時々確かめるために。

 

「あれ?平塚先生は?」

 

「ああ、あの人なら遅れてくるぞ。仕事を押し付けられたらしい。嫌なぐらい長いメールが来たから大分ストレス溜まっているんじゃないか。」

 

 

平塚先生も心配してくれた大切な人だ。相談のメールもしっかり返してくれたし、何より願書を分けてくれたのは本当に助かった。

 

 

「そっか‥‥まあ、後で来るならいっかな。じゃあ入ろっか。」

 

 

「待って。由比ヶ浜さん。ほら、比企谷くん。何か言うことあるんじゃない。」

 

 

雪乃に肘で突かれる八幡はどこか恥ずかしそうだ。

 

 

「その、だな。今日の服、似合ってると思う。ファッションセンス皆無の俺に言われても仕方ないとは思うが。」

 

「そんな‥‥ありがとう。嬉しい。」

 

「で、だ。これは俺からのプレゼントということだから。」

 

 

八幡から差し出された細長い箱。丁寧に包装されたそれはいかにも高級感がある。

 

 

「開けてもいい?」

 

「もちろん。」

 

 

包装から解き放たれた先にあったのは青い箱だった。綺麗に開ければハート型のシルバーに鏤められたクリスタルが薄暗くなってきた中でもキラリと輝く。

 

 

「ネックレス‥‥」

 

「頑張ったのは知ってるから。おめでとう。」

 

「一応、二人でお金を出し合って選んだの。」

 

 

こみ上げる何かを抑えるのに必死で声が出せない。幸せだと思う。家族からも友達からもこんなにも祝ってもらえるなんて。

 

 

「雪ノ下。もういい加減寒いから入ろうぜ。何が楽しくって寒空の下でくっちゃべってるんだか。」

 

「ふふ。あなた、今すごい顔が真っ赤だけれど果たして寒いからなのかしら。」

 

「‥‥うるせえ。」

 

 

カランとドアが開く。三人はその明るい店内へと同時に一歩踏み出す。

 

 

 

席に着いた雪乃は皆の意見を要領よく注文していく。一方の八幡はというとそのオシャレな空気が落ち着かないのか周りをキョロキョロと見回している。

 

 

「比企谷君。挙動不審よ。やめてちょうだい。」

 

「いや、イタリアンとかあんま行かねえからな。ソワソワするんだよ。」

 

「え、ヒッキーいつもサイゼ行ってるじゃん。」

 

「サイゼはサイゼ。ラーメン二郎を愛する奴らが〝二郎はラーメンではない、二郎は二郎だ。〟と言うのと同じ理論だ。」

 

「ごめんなさい。全くわからないのだけれど‥‥」

 

 

店員によってテーブルにはソフトドリンクが並べられる。

 

 

「それでは改めて。由比ヶ浜さん、大学合格おめでとう。乾杯。」

 

「乾杯!」

 

「うっす、乾杯。」

 

 

三人のグラスが近づき、音をたてる。歓喜の音に結衣には聞こえた。

 

 

「勉強頑張ってたのは知っていたけれど、まさか比企谷君と同じ大学の、それも比企谷君の文学部より偏差値の高い政治経済学部に受かるなんて私が教えた甲斐があったわ。」

 

「いやいや、そんな偏差値なんて誤差の範囲だよ‥‥それに文学部は落ちてるからね。」

 

 

センター試験を利用し、滑り止め校を見事抑えた結衣は少なくとも心持ちは去年と違った。言ってしまえば去年はラスボスに木の棒で挑んだようなものだったが武器も作戦もまるっきり変えたもんだから勝算はグンと上がっていったのは間違いない。

 

試験当日、不思議と焦りも何もない無我の境地だった。ただ目の前の問題を解いていられる。結衣の中ではきっとこれが一番の要因だと思っている。

 

 

「なんでいちいち俺を持ち出してくるんだよ。いや、もう結果として受かったから俺からは何も言えんが。」

 

「これもゆきのんとヒッキーのおかげだよ。目指したのも二人がいたから。私はこの一年ずっと二人を追い続けた。辛かったよ。諦めたくもなった。でもやっぱり二人に追いつきたくて、またこの三人でこうやって集まりたくって、あれ?話がまとまっていかないや‥‥」

 

 

伝えたいことが多すぎる。いつだって心で思っていることは言葉では半分も伝えられない。どんなにボキャブラリーが増えてもそれは変わらない。それでも、少しでも伝えたい。自分の思いを、感謝を。

 

 

「要するに!‥‥ありがとう。それから、これからもよろしく。」

 

「よろしくね、由比ヶ浜さん。」

 

「うっす‥‥」

 

 

テーブルの上に様々な料理が置かれる。幸せな湯気が立ちのぼる中、店の扉が勢いよく開いた。

 

 

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎

 

 

 

「いゃ〜めでたい!よし、鯛でも食べに行こう!あぁ‥‥眠い‥‥」

 

「先生、時間も遅いですから帰りましょう。タクシーでいいですよね。比企谷君、タクシー止めてくれるかしら。」

 

 

八幡は道路の奥からこちらへやってくるタクシーを見定め、手をあげる。見慣れた緑の車体のタクシーが八幡のすぐそばに止まり、後部座席のドアが開く。

 

もはや自力ではマトモには歩けない平塚先生を雪乃と結衣は肩を貸し、タクシーに押し込む。

 

 

「ありがとう、二人とも。」

 

「大丈夫?私もいこうか?」

 

「大丈夫よ。一人で行けるし、最悪私の実家に置いておくわ。それにあなたにはやることがあるでしょ。」

 

 

目が合う。そして何かを通じ合ったかのように結衣は首を縦に振る。

 

タクシーのドアが閉まると同時に雪乃はウィンドウを下げた。

 

 

「比企谷君。由比ヶ浜さんをよろしくね。」

 

「勿論ちゃんと送り届けるから安心しろ。」

 

「‥‥それだけでないけれど、ね。」

 

 

タクシーは動き出す。ほんの一分もすればその場には結衣と八幡の二人だけが残される。

 

 

「‥‥帰るか。」

 

「‥‥そうだね。」

 

 

既に暗くなった道を照らす蛍光灯の光の中を二人並んで歩いていく。

 

 

「まさか、途中参加の先生があんなに飲むなんてな。今日の主役ガン無視かよ‥‥」

 

「いやいやちゃんと言葉も貰ったし、私は来てくれて嬉しかったけどね。先生も色々大変だと思うし、多めに見てあげようよ。」

 

「まあ、主役が言うなら。」

 

 

何故だろうか。話が弾まない。本当なら早く本題に入りたいのに突破口が見つからないのだ。

思い切って立ち止まってみる。何か変わるかもしれないという一縷の望みをかけた。

 

 

「ん?どうした。」

 

 

少し先へいった八幡は心配して戻ってくる。

 

足が震えている。踏み込んでしまえば、元には戻れない。それでも待っていてくれた彼にきちんとケジメはつけなければならないのだ。

 

 

「ちゃんと言っとくべきだと思って。」

 

 

一呼吸置いて話し始めたのはあの時と全く同じ言葉だ。あの時と同じように強い眼で彼を見つめる。ただ彼は逃げようとはしなかった。同じように見つめ返してくる。

 

 

「私はヒッキーのことが好きです。私と付き合ってください。」

 

 

時が止まる。八幡も結衣も胸も鼓動の音だけが響き渡り、世界が二人っきりになる。

 

 

「俺は‥‥由比ヶ浜のこと、好きなんだと思う。」

 

 

口を開いた八幡は気持ちを包み隠すことはしない。そっと背負っていたバックパックから分厚い原稿を持ち出し、結衣へと手渡す。表紙には〝グッド!ローニング〟と書かれていた。

 

 

「この前、大手出版社主催の賞レースに出した俺の小説。恋する浪人女子が先に大学へ行ってしまった男を追っかけて大学合格を目指すって話だ。」

 

「それって‥‥」

 

「お前のことだよ。恋愛小説なんて俺、どうかしてるよな。で、この最後なんだけどな‥‥無事に大学に合格した主人公が男の元へ駆け寄り、告白する。男はそれを承諾して二人は恋人になる。そして数年後幸せな結婚生活を送るという王道だ。普段、恋愛小説とか読まねえからハッピーエンド以外書けなかったんだよ。多分、賞はダメだと思う。今度書くなら絶対ミステリーにする‥‥まあ、それは一旦話を置いとこう。」

 

 

恋愛小説は琴美からの要望だった。きっとこれから小説を書いていく上で糧になるからと丸め込まれて渋々書いたものだが、文字を紡げば紡ぐほど主人公の気持ちが、結衣の気持ちが痛いほどわかってきてしまう。

 

 

「こんな小説を書いたわけだが、実際にお前を幸せにできる自信がない。もしかしたらハッピーエンドにできないかもしれない。それでもいいなら‥‥」

 

 

結衣は原稿を八幡の手に握らせる。二人の距離がまた近づく。

 

 

「ハッピーエンドは二人で作ろうよ。ヒッキーだけに任せはしない。二人で歩いて行こうよ。」

 

「‥‥おう。」

 

「じゃあ、恋人成立だね。じゃあ、私の初めて、受け取ってくれる?」

 

 

 

八幡の懐に入る結衣。彼に考える隙を与えないまま、足を伸ばし少し背伸びをする。そして、彼の唇に自分の唇を重ねる。

八幡も逃げたりはしなかった。ただそれを受け止め、その手を彼女の背中に置く。

 

 

蛍光灯で照らされた道の真ん中で二人は芽生えた愛を確かめ合う。その愛が決して消えてしまわないように慎重に。そして、愛が長く続いていけることを願いながらそのキスは長く、長く続いていった。

 

 




完結です。
反省は活動報告に載っけましたのでよかったらどうぞ。


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