東方幽棲抄 ~ 今日も今日とて、ツンデ霊夢に殴られる (風鈴.)
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プロローグ ―依願の神隠し―
第1話 早苗と電話
7月19日。
夏学期を無事に終え、全国の学生が翌日から訪れる夏期長期休校――いわゆる『夏休み』に浮かれているであろう。
外の景色は黒に染まり、夜天では数え切れない星々が大気の揺らぎによって瞬いている。
俺は風呂上がりで濡れた髪の毛をタオルで拭いつつ、自室に設置しているベッドに腰掛けて、耳元に携帯電話を当てていた。
携帯電話のスピーカーから、鈴を転がすような心地よい少女の声が聞こえてくる。
少女の名は東風谷早苗。小学生の時に同じクラスになった縁で、現在も親交が続いている友人の1人だ。
『そう言う訳でして、その、あの……期待を裏切るような事になってしまって、本当にごめんなさい。非常に心苦しいのですけれど……。あっ、颯君、勘違いしないで下さいね。私は今回お誘い頂いた遠出について、急に行きたくなくなったとか、そう言う自分勝手な理由のために、家の都合という建前を使ってお断りしている訳では決してありませんからね。本当ですよ?』
あまりにも馬鹿丁寧な彼女らしい口調を耳にして、俺は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
実に普段の彼女らしい。
「分かってる分かってる。そんな事は言い立てなくても大丈夫だよ。早苗がそんな自己中心的な奴だと微塵も思ってないからさ。家の都合なんだろう? それなら仕方がないさ、家の都合にも色々とあるしな」
どんな家の事情なのか気にはなったが、それは詮索しないのが礼儀だろう。もしかしたら、誰かの御通夜や葬式が入ったのかもしれない。早苗のことだから、陰鬱な話題に触れて俺の気分を暗くさせないよう配慮していることも考えられる。
「それにさ、早苗は神社の巫女――じゃなくて、風祝かぜはふりだったか? 俺には違いがよく判らない役職だけれど、それを務めているらしいし。神事の準備なんかに忙しいと思うからさ。夏祭りの準備とか」
『お祭りの準備……ですか。そうですね……。今回は神事に関することではないのですけれど、そう言って察して頂けると、こちらとしては心が軽くなります。……でも、私が約束を破ってしまうことになるのは事実ですし、それで颯君や優君に少なからず迷惑を掛けてしまうのも本当ことですから……』
「……ははっ」
『えっ……? どうしたんですか? 私、何か可笑しな事を言いましたか……?』
「ああ、いや、気にしないでくれ。たださ、その七重の膝を八重に折る喋り口調、本当に早苗らしいなって改めて思ってさ。前々から言っていたと思うけれど、俺と早苗は同い年なんだぜ? もう少し砕けた口調でも問題ないんじゃないか?」
『え、あ……』
早苗は少し恥入ったのか、微かに呆けた声を上げた。
他者からの言葉をいちいち真面目に受けとめ、真剣に考えてしまうところも、実に早苗らしい。今時、こんな性格の持ち主がいるのは、本当に珍しいと思う。どんな風に育ってきたら、こんな実直な性格になるのだろうか。
まあ、良くも悪くも……早苗は純粋過ぎるのだろう。
『えっと、その……ごめんなさい。何度言われても、どうしても癖がついているみたいなんです……』
「まあ、癖じゃ仕方ないよな」
『はい……』
早苗の言う通り、彼女の丁寧な口調は、本当に癖なのだろう。
「まあ、そんなに重く受け止める必要なんてないと思うぞ? 夏休みは、まだまだ1か月以上あるんだし――そもそも夏休みはまだ始まってすらいないんだぜ。日帰りの軽い温泉旅行なんて行く機会、これからいくらでもあるだろうからさ。そんなに気にすることはないんじゃないか?」
『そう……ですよね。学校のお休みなら、これからいっぱいありますし。……じゃあ、今回の話は次の機会に回す方針でよろしいですか?』
『方針』や『よろしい』って言葉は……果たして日常会話で用いるものなのだろうか。
まあ、そのような少し堅苦しい口調も早苗らしいと言えば早苗らしい。
「まあ、そんな感じで良いと思うよ。このことは、俺から優の方に伝えておくよ」
『あっ、そのなのですけれど。私が旅行に行けなくなった件については、すでに優君に話しましたよ』
俺に電話を掛ける前に、先に優に電話を掛けていたのか。
……なんだろう、もやっとした感情が。
早苗から先に電話をもらえなかったことに対して、優に少し嫉妬心を覚えるなぁ。
まあ、どうでも良いや。
ちなみに、俺や早苗が口にしている『優』という人物は、計画していた日帰りの温泉旅行へ行くメンバーの1人だ。俺と早苗、それに優を加えて、3人で行くつもりだった。優という名前から性別の判断は難しいだろうが、男である。
「ああ、そうなのか……。分かった。じゃあ、中止に関する話はしなくても良さそうだな。……いや、延期した旅行の日時を決める必要があるか。次の予定日については、俺が優と話し合っておくよ。後で、その候補日を伝える」
『分かりました。では、お言葉に甘えて、候補の決定についてはお任せしますね』
「了解。どんと任せておけ」
『どんと、ですか。ふふふ、じゃあ、どんと任せちゃいます』
少しの間、2人揃って笑い声を上げる。
『そう言えば――』
「ん? どうかしたか?」
『いえ、大した事ではないのですが、この電話を掛ける前にも、何度か颯君の携帯電話に電話を掛けてみたんです。全く出る様子がなかったので、先に優君に電話を掛けておいたのですが、何か取り込み中でしたか?』
「ああ、そうだったのか」
早苗が先に自分へ電話を掛けてきてくれていたという事実に、少しばかり嬉しい気持ちが湧いた。……が、なんだろう。自分の器の小ささというか、こせこせとした人間性に残念な気持ちが湧かないわけでもない。
微妙な気分だなぁ……。
「さっきまでお風呂に入ってたからさ、たぶん、その時に早苗から電話が掛かってきたんだと思う。だから、電話に出られなかったんだよ」
『ぇ……』
「……、……?」
会話が――途絶えた。
携帯電話から早苗の声は聞こえないが、彼女の家の日常音らしきものは、かすかに聞こえてくる。回線切れではないようだ。
……何でしょうか、この奇妙な気まずい間。
え、なに、俺、何かまずいことでも言いました?
「……あのー、早苗さん、早苗先生。ご存命ですか?」
『……! は、はい! 大丈夫です、きちんと心臓は動いています!』
早苗の真面目な反応の面白さに、思わず吹き出しそうになった。
「そ、そうですか……。大事ないようでして何よりだけど。……しかしながら、早苗嬢。つかぬことをお聞きしたいと思うのですけれど」
『え、な、何でしょうか?』
「何で――急に黙ったんですか?」
『えっ』
「えっ」
『あ、いや、その……』
「え、あ、は、はい……」
『えっと……えっとですね……』
「え、ええ……」
『……』
「……」
『……』
「……」
『そ、それは――』
「あ、やぱい、もうすぐ携帯の充電切れそう! 参ったな―。いやー、悪い、早苗。もう電話切るぞ。待たずに切るぞ。ああ、そうそう。温泉延期の話、きちんと優に伝えておくからな。安心して良いからな。じゃ、またな!」
『えっ、ちょ、ちょっと待って下さ――』
俺は口早に別れの言葉を告げ、即座に通話を切った。
電話が切れる間際、早苗が何かを慌てて言おうとしたようであったが……うん、気にしなくても大丈夫だろう。
俺は通話終了を示す液晶画面を眺め、早苗が何を考えて沈黙してのか気になった。
いや、考えるまでもなく、なんとなく早苗が何を考えていたのか察しているのだけれど。
あの場面で、会話を途切れさせて何かを考えるとしたら……な。
なんと言うか『早苗はそんな事を考えないだろう』と現実逃避的な意味で、他の可能性を探したくなっただけだ。
つーか、軽く聞き流せよ、風呂の話くらい。普通だったら『ああ、そうだったんだ。じゃあ、仕方ないね』的な会話の流れになるだろうに。
予想外過ぎて、俺の方が驚いたわ。
早苗は、どうも俗世間とは間隔がずれている節がある。
早苗と同じ年代の女子に同じような話をしても、自分の経験上、相手は意に介さずに会話を続けるものなのだけれど……。
そんなことを悶々と考えていると、携帯電話から電子メロディ――メールの着信音が鳴った。
「ん? メール……?」
携帯電話の液晶画面を覗くと、新着メールが1件届いているという表示。
受信ボックスを開くと、新着メールの送り主の名前に『東風谷早苗』と表示されている。
件名は『ごめんなさい』の一言。
……。
……。
先ほどの会話と件名の文のせいで、メールの開封に抵抗感を覚える。
逡巡した後、携帯電話を操作してメールを開いてみた。
件名:ごめんなさい
本文:先程の事についてなのですが、気になさらないで下さあ。あの時、丁度私の家族の者が手を滑らせてお皿を割ってしまいまして、大きな音が鳴ったんです。そるでそちらの方に気を取られてしまいまして……。ですから、颯君が推測しているかもしれない、不埒な事ではありませんからね。それは単なる勘違いなねですよ?
追伸
今回の非礼については、いずれ埋め合わせをさせて頂きますね。延期させてしまった温泉旅行の予定日の話、楽しみに待っていますね。
ところどころに誤字が散見あたり、急いで打鍵してメールを送信されたことが窺える。
皿が割れた、ねぇ。
皿が割れた音なんて、全く聞こえなかったのだけれど。
わざわざ嘘をつく辺りに、何か後ろめたいことを考えていたのではないか……そんな邪推をしたくなる。
つーか、不埒なことじゃないって、あえて訂正しているし。
早苗……やはりアホの子だったか。
ピロロピッロローピロピロッピッピー、ピロロピッロローピロピロピッピ――
突然、携帯電話から調子っぱずれな着信メロディが鳴った。。
割り込む形で表示された着信画面――そこに表示されている着信名は『神坂優』。
早苗との会話に出てきた人物の『優』だ。
早苗の件を話す必要があるし、この着信は丁度いい。
俺は通話ボタンを押した。
「もしもし、優か――」
そう言おうとした矢先、
『オレオレ、オレなんだけどさ――』
まるで振り込め詐欺の口上のような言葉が聞こえてきた。
その声音は、普段の優のものとは全く違う、鐘割れた野太い男の声。
「……」
俺は携帯電話を耳から離し、じっと着信画面を見つめる。
着信名は、どう見ても、どう見間違えようとしても『神坂優』。
電話口からは『あれ? 通じてる? もしもーし、オレオレ、オレだけど』という声が聞こえてくる。
「……面倒くせーなぁ」
俺は天井を見上げ、深い溜息をついた。
……ああ、ちなみに注意しておく。
優の安否を確認すべきかや警察に通報すべきか――そんなことは考えていない。
この電話の主は、神坂優で間違いない。
口調も声音も違うが、これは優が遊び半分でやっていることだ。
神坂優とは……そういうアホなのだ。
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第2話 早苗と優について
ここで『東風谷早苗』と『神坂優』について、少し紹介しておこうと思う。
まずは『東風谷早苗』についてから。
俺が初めて早苗と出逢ったのは、市内にある平凡な小学校だ。小学校低学年から中学校を卒業するまで、長期に渡って同じクラスなったという縁で親しくなった間柄だ。
早苗は、優しさと気遣いに満ちた心の持ち主だ。本人の器量の良さも関係しているが、中学校の卒業間際のクラス内アンケートでは『将来お嫁さんにしたいランキング』の項目で投票率1位の栄冠を獲得していたほどだ。簡単に言ってしまえば、良い子なのだ。
昔はもっと活発な性格で、男友達と外で一緒に遊んでいた印象が強い。どうして現在の大人しやかな早苗に変わったのか不思議だ。たぶん、思春期を迎えて、自分の性別を強く意識したせいなのだろう。
早苗の家系は、代々神社の管理を務めている。彼女の口振りから察するに、将来は一族の管理する神社の当主として神社を守っていくらしい。
早苗は学業のかたわら、管理している神社で風祝《かぜはふり》という神職を務めている。風祝とは、風の神を祀る神職だ。厳密には、巫女と異なるらしし。
早苗は表向きとして風祝という神職に就いているものの、巫女のような仕事もしている。主に人手不足が原因のようで、人手が少ない神社では、仕事の兼任はよくあるそうだ。
ご家族は姉と妹がいることは分かっている。何度か早苗の家にお邪魔したことがあるのだけれど、その時に早苗のお姉さんと妹さんを交え、色々と遊んだものだ。
お姉さんは姐さん気質と言うか、とても豪快で寛大な性格だ。どこか男らしい印象を受けることが多々あった。出逢う時は、かなりの割合で酒気を帯びていたので、どうやら酒好きらしい。飲み過ぎについて早苗に何度も叱られていた。
妹さんは、快活な性格だ。早苗の家に行くと、早苗よりも妹さんと遊んだことの方が多いように思える。外見の幼さの割りに色々と物知りな子で、口調もどこか年齢不相応に大人びていた。色々とからかわれたので、将来は小悪魔系女子に成長するのではないか……と密かに思っている。
早苗の家系が管理している神社――守矢神社は、小ぢんまりとした神社だ。しかし、廃れているわけでもない。境内や本殿は、きちんと掃除の手が行き届いていた。ちょくちょく年配の参拝者もいたと記憶している。ここ数年は守矢神社に足を運んでいないけれど、きっと今でも参拝者が訪れていることだろう。
そう言えば、守矢神社が何の神様を祀っているのか、早苗に尋ねてみたことがあった。その度に、早苗は含みのある笑みを浮かべ。答えをはぐらかしていた。
早苗が教えてくれなかったので、姉妹にも同じ質問を尋ねたこともあった。
お姉さんの方は豪快に笑い「下の妹に訊け」と言った。
妹さんに尋ねると『婿養子に来るのなら教えてあげるよー』と愉快そうに笑いながら言われた。妹さんは口達者だと、子供ながらに感心したものだ。
早苗とは別の高校に進学したので、そこで実際に会う頻度は少なくなった。その代わり、メールのやり取りが増えた。また、優も加えた3人で不定期に集まり、遊びに出かけることもある。その一例が、今回の日帰り温泉旅行だ。
さて、早苗についての紹介はもう充分であろう。これだけ紹介すれば、早苗の人物像は、大まかに分かってもらえたはずだ。
では……もうひとりの友人についての紹介を始めようか。
神坂優。
こいつを一言で言い表すなら……自由奔放が適当だろうか。
まずは、優の彼の生い立ちから話しておこう。
優は孤児だ。優本人は、自分は捨て子なのかもしれないと言っていた。
優は自分の両親の事について、全く憶えていない。彼が孤児院に保護された年齢は、親に依存しないと生きられない幼年の頃だからだ。保護された時に所持していた物品から、彼の名前が神坂優であると判明した。
優は、中学校まで孤児院で生活をしていた。高校に進学してからは、家賃の安いアパートに入居して独り暮らしを始めている。高校を卒業する前に孤児院生活を止めた理由は、他の孤児との共同生活が煩わしかったからのようだ。どうやって生活費や家賃を工面しているか気になったが、どこからか収入を得ているらしい。その1つが同人漫画の制作であることは分かっている。
優の住んでいる部屋は、重度のオタク部屋(個人的には異次元空間と呼びたい)だ。棚には、同人活動用の画材が大量に仕舞われている。
毎年の夏と冬のコミックマーケットの開催時は、俺は日給2万という美味すぎる報酬で、優に同人誌販売の売り子として雇われている。その時に売る同人誌の冊数は、半端ではない。
在庫が入っているダンボール箱は、百単位で用意されている。万単位ではないにしろ、数千単位で同人誌を売り捌いていることは間違いない。破格な日給にも頷けるものである。
次に、俺との関係について紹介していこう。
俺と早苗も長い付き合いであるが、優との付き合いは、それ以上に長い。と言うのも、早苗とは中学を卒業して密接な縁は切れてしまったけれど、優と俺は同じ高校――すなわち小学校の時から現在に至るまで、同じ学校に通っている縁が続いているからだ。いわゆる腐れ縁だ。
優は、基本的にアホな発想と子供染みた言動ばかりしている。しかし、まともな意見と良識を持ち合わせているのだから、よく分からない奴だ。老成人なのだけれど、子供っぽいのだ。本人も自覚があるらしく、自分をアダルト・チルドレンと称している(本来の言葉の意味を承知した上でのネタ発言だと思われる)。
芸術を好み、詩歌や自然の風流な趣を愛する心を見せる一面もある。でも、二次元文化に対して恋着する一面もある。趣味趣向が両極端だ。
早苗と同様に穏やかで気さくな性格であり、どこか常識とズレている。早苗の世間とのズレを『天然』と称すなら、優の世間とのズレは『ズレているからズレている』だ。誰よりも常識を重んじているが、しかし……どこか非常識なのだ。
上記を見て分かる通り、ところどころ性格に矛盾する点が窺える、色んな意味で不思議な性格をしているのだ。だから、優の人物像を明確に伝えづらい。
そんな不明瞭でミステリアスな性格であるが、人付き合いは良い方に思える。優のユーモアに富んだ口調は、会話していて非常に楽しい。はしゃいで遊ぶのが大好きな奴なので、ムードメーカーにもなれる。また博学で智慮に富んでいるので、学ぶべきところも多い。
しかしながら……。
優があまりにもユーモアに富んでいるが故に、彼自身もユーモアを非常に好むが故に――まともではない会話が多くなり過ぎるのが欠点だ。
さて――早苗と優の大まかな人物像は説明できたと思うし、ひとまず紹介を切り上げよう。
この紹介をしている間に、優のボケ会話は随分と進行した。
もうそろそろ終わりを迎えるようだし、その意味でも、物語を展開する頃合いだろう。
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第3話 優と雑談 その1
「――なあ、優よ。もう十分に十二分にボケて満足しただろう? 颯さん、お前のボケを食い過ぎて、そろそろ食傷になりそうなんだ。だから、もう良いだろう? つーか、もう良いよな? 本題の温泉旅行延期の話に入ろうぜ。そうじゃないと、颯さんの寿命がストレスで縮みそうなんだよなー。いやー、まいっちゃうぜー」
『ふむ……、確かにストレスは身体に良くないよね。適度なストレスは心身の健康に良い影響を与えると言われているけれど、それは肉体的ストレスの話だからね。精神的なストレスなんて、いくら溜めても得にならないし。適度に発散した方が良いよ。なに、最近悩みごとでも抱えてるの?』
「そのストレス原因は、お前の長々しいボケの所為なんだがなぁ……! たくっ、本題に入るまでの前置きが長すぎるんだよ」
『え、なに、颯ってユーモアに対して理解を示さないタイプ? ……老婆心ながら言わせてもらうけれど、冗談が通じないと対人コミュニケーションで苦労するよ? それにね、諧謔を弄することは、時として非常に役立つよ。演説やプレゼンテーションでは、機知に富んだジョークで聴衆の心を掴んで自分のスピーチに注意を引くことで、より円滑にスピーチを進められるんだから。初対面の相手と会話する時も、互いの心の緊張をほぐして友好的な会話へ発展させやすくなるんだよ。今後の為にも、ユーモアに対する理解を身につけようじゃないか』
「そうか。俺の場合は、お前との下らない会話で緊張がほぐされたどころか『ストレス』状態という『緊張した』ものに変わってしまったのだが? どう責任を取ってくれる?」
『オレとの会話で緊張した状態になるとか、どう責任取るんだとかさ……あまり気持ちの悪いことを言わないで欲しいのだけれど。ごめん、オレは颯の気持ちに応えられそうにないよ。あのね、オレが早いうちに颯に教えていなかったのが悪かったのかもしれないけれど、オレには、その……男色の気は全く無いんだ。だから、颯の気持ちは受け止められない。その愛は……重すぎる』
「そんな意味で言った訳じゃねえよ! 曲解すんな!」
『え、そうだったの? ……ああ、もしかして冗談?』
「いや、別に冗談つーか……いや、もう冗談でも何でも構わねえよ。面倒臭いから好きなように解釈しろ」
『ああ、やっぱり冗談だったのか。ふむ、なかなかどうして、颯もユーモアがあるじゃないか。かなりエスプレッソがきいた冗談だったよ』
「それを言うなら、エスプリだろうが」
冗談の内容が『荷が過ぎる』と『苦過ぎる』を掛けているのだろうか。
「はあ……、なんつーかさ、お前って昔から本当に口数の減らない奴だよな。その領域にまで達すると、呆れるどころかむしろ尊敬しても良い気がしてこなくもねえよ」
『はあ? 何を当たり前のことを言っているのさ。口数が減ってしまったら、日常生活に大きな支障をきたすじゃないか。栄養摂取は、今度から全て点滴ですませろ言いたいの? ずいぶんと無茶なことを言うなぁ……』
「だから口数が減らねえって言ってんだよ!」
『さて、本題に入ろうか』
お遊びはもう終わりだと言わんばかりに、優の語調が変わった。
なんだろう、優にすっげー手玉に取られて遊ばれていた気がするのだけれど、この苛立ちは誰にぶつければ良いのだろうか。
「……うん、まあ、本題に入ってくれるのならば、もう何でも良いや。早苗からの電話、そっちにもいっているよな?」
『うん、来たね。もの凄く申し訳なさそうな声音で。残念だったね、今回の『ドキッ! 湯けむりに紛れて気になるあの子を覗き大作戦2』が失敗しちゃって。颯、結構楽しみにしていたからさ』
「そんな作戦を企画した覚えは微塵も存在しないんだがな。窃視は止めろ。立派な犯罪だ」
止めてくれない? 俺の人間性を疑わせるような発言。
つーか、何で『2』なのだろう。すでに1度行われたのだろうか。
どうして、その時に俺も誘わなかった。
……ああ、いや、これは仲間外れにされたのが嫌だなーと思っただけだよ。
誘われても、きちんと断るよ?
「とにかく、今回の温泉旅行は早苗が行けなくなった。どうするんだ、今後の温泉旅行の計画」
『うーん、どうするって言ってもねぇ……。まあ、旅行を延期させるなら、日時を別の日に予定すれば良いだけの話だし。これから夏休みに入るし、機会なんていっぱいあるさ』
「それは分かってる。でもさ、問題は……」
『無料チケットの話?』
「ああ、その話だ」
今回の温泉旅行を計画したキッカケは、数年近く前に、優雅福引きで3等の『団体様向け 日帰り温泉旅行』なるチケットを手に入れていたことだ。
優はチケットを手に入れたものの、別にすぐに使う必要はないだろうと、小型の簡易金庫の中に閉まっておいたそうなのだ。チケットの有効期限が数年先のこともあり、特に焦って使う必要はないだろうと判断したそうだ。
月日は流れ、つい最近になり、簡易金庫の中を整理した時にチケットの存在に気付いたらしい。
「確か有効期限……もうすぐ切れるんだったよな」
『あと1週間だね』
優がチケットの存在に気付いた時は、まだ猶予が1カ月以上は残っていた。
しかし、夏休みに出かけようという話になったので、今に至るまで使わなかったのだ。
「まだ余裕はあるとはいえ、早めに次の予定日を決めておきたいな」
『早苗の家庭の事情とやらが分からないけれど、1日で片付くものなのかな。……いや、すぐに片付くようだったら、電話を掛けて来た時に言うだろうね。早苗の性格だもん』
「かもな。とすると、早苗を誘うのは不可能だな……。もったいないよな、そのチケット」
『使わなければ、の話でしょ? チケットに記載されている有効人数は5名様までだし、クラスの誰かを3人誘って行けばいい話じゃないか。それにしても、何で団体様で5名までなんだろうね。核家族向け? ファミリー対象のチケットかな』
「さあな……。制限人数からして、誘うとしたら3人か。誰が良いかな……。小笠原か忠邦あたりか? あと1人は……」
『その辺は颯の裁量に任せるよ。それにしても、男ばかりで華やかさが皆無だね。女子を誘っても良いんじゃない?』
「女子って言われてもねぇ……。俺は女子で親しい相手っていないんだよな。会話はするけれど、それ以上の親しさは無いって感じか。ましてや、温泉旅行だぜ? 何か他意があるように思われたら嫌じゃないか」
『他意ね……。いや、むしろ他意があって欲しいからこそ、温泉旅行の話に興味を示すんじゃないかな?』
「……どう言う意味だ?」
『その疑問は素で言ってるの? ……まあ、いいや。言ったままの意味だよ。要は、自分と異性として親しくなりたいと思っているからこその誘いだと思うってことだよ』
「ああ……なるほど。いや、なおさら誘いにくいじゃないか。変な勘違いっつーか、期待と言うか、それを抱かせるわけだろう? その他意が無ければ、相手の期待を裏切ることになるんじゃないか?」
『颯はお人好しだねぇ……。期待したのは向こうの方、向こうの問題。その期待が結果的に裏切られ――裏切られるって表現も間違っている気がするけれど、とにかく当てが外れたからって、期待した方が悪いだけなんじゃないの? 片恋の相手に想いが伝わらなかったからって、片恋相手を怨むのは道理に背いているでしょう? 相手の期待を分かった上で悪意を持って誘わなければ、別に問題にはならないとは思うけれど』
「んん……いまいち釈然としないけれど、そんなもんか。まあ、とにかく俺には誘えるような女子の知り合いがいないんだよ』
「観察眼が鈍いのかなぁ……。案外、誘ったら来てくれる女子ならいるかもよ』
「そうであると願いたいところだね。つーか、女子の知り合いならお前の方が多いんじゃないか?」
『別に積極的に知り合いになりたくて知り合いになっているわけじゃ……。こう、なんて言うのかな? 自然の成り行き?』
「その発言は全国の非モテ男子全員を敵に回す失言だと分かった上でのものか?」
『知らないよ、そんなこと。どうでもいいし。自分の魅力を磨いていない努力不足なんじゃないの?』
「まあ、一理あるな」
『誰だって、性格が暗い人のもとに集まりたいと思わないでしょう? 重要なのは性格。明るさとか、誠実さとか……優しさとかな。おっと、話が逸れてきているね。まあ、とにかく男子だけの旅行ってのもどうかと思うよ。高校生なんだし、青春しようぜーって話。学生時代の経験って、社会人になってから重要だと思うよ。そもそも、人生に悔いを残すようなことはするべきじゃないし。まあ、オレの方から声を掛けてみなくもないよ。男女比率は?』
「出来れば、3対2で。本当なら同じ数が良いんだけどな」
『了解了解。これから電話してみるよ』
「ああ、頼むよ。あと1人の男子の方はこっちで探してみる。女子を誘うのだから……モテそうな奴の方が良いかな?」
『誘っておいて損はないんじゃない? 少なくなくとも……うん、人気の無い人よりは』
「まあ、確かにな。オッケー、この話はこれで終わりだ。次の話に移ろうか?」
『女性の心を射止める32の必勝法?』
「是非とも教えて欲しいスキルだな……そうじゃなくて、延期された温泉旅行の話だよ」
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第4話 優と雑談 その2
『日帰りの温泉旅行にこだわるならら、割引クーポンを手に入れた方が良いね。夏休みを迎える子供がいる家族を的にした団体向け割引クーポンをインターネット上で配布していると思うからさ。まあ、別に温泉旅行ではなくても構わないけれど。でも、この辺りで日帰りで行ける気軽な遠出と言ったら、温泉くらいかな』
「まあ、温泉以外にも……遊園地とかか? さすがに近くの遊技場じゃあ味気ないし、出来れば、普段は行かないようなところが良いな」
『遊園地か。良いね。ジェットコースター、ブルーホール、バイキング……久しぶりに乗ってみたいね』
「絶叫系ばっかだな」
『刺激に富んでいるからね。刺激は脳の活力の源ってね。まあ、絶叫系と言うか恐怖系と言うか、お化け屋敷だけはごめんだけれど」
「おやおや、どうしたんだい、優さん。まさか、作り物のお化けが怖いのか?」
『つまんない挑発だねぇ……。知らないよ? オレがお化け屋敷から変な方々をぞろぞろと連れてきて、ふとしたキッカケで颯の方にまとわりついても』
「……冗談だよ。俺だって柳の木の下に佇んでいそうな方々と友達になんてなりたくねえよ」
呪われ祟られたら嫌だしな。精神衛生上問題だし、専門のところで御祓いをして貰うのも手間が掛かるからな。
ちなみに、優は霊的な存在が『視える』側の人間である――らしい。
優は幽霊が視えるだけではなく、会話も出来るし、さらに幽霊を引き寄せる体質なのだそうだ。
霊媒気質と言ったところか。
『お化け屋敷に行くなら早苗と2人で行ってきなよ。手を握ったり腕に抱きついたりと、どさくさに紛れてボディータッチ出来るよ?』
「……はいはい、冗談言って悪かったよ。取り敢えず、早苗を含めたプチ旅行は日帰りの温泉ということで再度計画しようぜ。もともと、早苗はその内容で旅行に同意した訳だしな。そちらの方が行き先変更の了解を取る必要が無いから、都合が良いだろう」
『まあ、それが無難かな。ああ、そう言えば、早苗の夏休みの予定を聞いていなかったな……。いつ延期した温泉旅行を決行すればいいか分かんないね。恐らく今は起きていると思うけれど……いや、夜分に電話を掛けるのは良くないかな?』
「別に電話を掛けても良いんじゃないか? 友人関係なんだし、別に構わないだろう」
『……そうだね。こちらの方から早苗の夏休みの予定を聞いておく。内容は後日、モールス信号か点字か手話のいずれかで伝えるよ』
「どれも分かんねえよ。普通に電話かメールで知らせろよ。とにかく、早苗のこと、頼むぞ」
『え? お義父さん、それは……』
「誰がお義父さんだ。俺に娘がいたとしたら、お前にだけは嫁に出さねえよ。目ざとく揚げ足を取んな。……早苗への電話のことだよ」
『ういうい。任された』
「たくっ、いちいちボケを挿むんじゃねえよ……」
『颯は律義に突っ込みを返してくれるからね。こちらとしてもボケ甲斐があるというものです』
「ああ、そうですか。……そう言えばさ、早苗って未だに口調が馬鹿丁寧なんだな。中学生の頃から、そんな風になったんだっけ?」
『ああ、確かに変わってないね。自分から性格矯正をしようと努めるか、もしくは人生で大きなパラダイム変換が起きない限り、この先も変わらないだろうね。早苗に最後に会ったのは……今年の正月の初詣の時? いや、オレの場合は、その後にも何回か会ったか』
「え? 優は初詣以降に早苗にあったのか?」
『おや……おやおや? オレに嫉妬したかい? もしや恋のジェラシー? きゃっ』
「いや、単に疑問に思っただけだよ」
つーか、男が『きゃっ』とか言うんじゃねえよ。気持ち悪い。
『別に初詣に限らず、オレは時々守矢神社に行っているからねぇ……お守りをもらいに行ったりとか。あの神社に行くと、巫女服っぽい早苗に会えることもあるし。あれは眼福だよね。目の良い保養になるよ』
「ああ、あの青っぽい巫女服めいた衣装か。あの色合いは早苗に似合っているよな。初詣の時には、きちんと紅い巫女服だったから、風祝って神職の正装なんじゃないか」
『かもね。まあ、早苗の他にも時々……姉妹の方にも会えるからね。あの人達とは、個人的に親しい付き合いをさせてもらっているよ――3人で酒宴を開いてね』
「おい待てや!」
『早苗は下戸でお酒が飲めないから、別に仲間外れにしているわけではないよ?』
「論点はそこじゃねえ! 未成年が酒宴に席を連ねるな!」
『単なる冗談だよ。まあ、お酒を勧められたことはあったけれど、飲んだことは無いよ』
「ああ、そうかい……」
何か肩透かしを食わせられた気分だ。
「……姉妹の方って言うと、早苗のお姉さんと妹さんだっけ。俺は小学生以来すっかり会ってないけれど、あの人達は今も元気にしているか?」
『んー、元気と言えば元気だったね』
……元気と言えば元気?
「なんだよ、その奥歯に衣着せる物言いは」
『いや、深い意味は。別に健康面に関しては問題ないよ。ただ、何と言うかな……霊気と言うか、オーラと言うか、存在感と言うか。影が薄くなっていると言えば、しっくり来る表現なのだけれど』
「……何だか良く分かんないけど、まあ、元気そうならそれで良いよ」
そうは言ってみるものの、優の奇妙な言い回しが気にならない訳でもない。
健康面に問題は無いそうだが――しかし影が薄いとはどう言う表現なのだろうか。
「そうだな……たまには守矢神社に参拝してみても良いかもな。もしかしたら、久しぶりに早苗や姉妹の人達に会えるかもしれないし」
『それは良いと思うよ。せっかくだから、きちんと参拝してお守りでも頂いてきたら?』
「そうだな。せっかくの参拝だし、お守りの1つでも買ってこようかな。お守りって何があるんだ? それと神社の御利益は?」
『祀られている神は……建御名方神で良いのかな? 神徳は風雨と五穀豊穣と武運。お守りは除厄招福と心願成就、縁結びと安産祈願、あとは家内安全と病気平癒だったかな』
「何か神徳とお守りの霊験の種類に類似点が無い気がするのだが」
『まあ、時代の変遷と共に、少しずつお守りは変わってくるからね。お守りって、神社の営繕費を稼ぐためにもあるから。神社で参拝したら恋愛が成就したという話があれば、恋愛成就のお守りを売り始めるようになったとかね。お守りの種類については、あまり気にしても仕方がないよ』
「ふうん……そんなものなのか」
優の話を聞いて、少しだけお守りに対する霊妙なイメージが崩れたな。もっと由来深い理由がある霊験なのかと思っていたのだけれど。
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第5話 優と雑談 その3
「そう言えば……あの神社に祀られている神様って、その……建御名方神という名前の神様だったんだな。あれだろ? 建御雷とかいう名前の神様と力比べをして、負けて遠くに投げ飛ばされたって神様だよな」
『そうそう。諏訪湖まで逃げたのだけれど、最後は建御雷神の要求に従ったんだよね。……颯は守矢神社が勧請した神様って知らなかったの?』
「今初めて知ったよ。……つーか、何でお前は知ってたんだよ」
『何で……と言うか、普通に教えてもらえたけど』
「……誰から?」
『ん? 早苗と、早苗の……お姉さんと妹さんから』
「その話、本当か?」
『本当だけれど……どうかした?』
「あ、いや、別に大した話ではないんだがな……。俺は以前、早苗にも早苗のお姉さんと妹さんに、それを尋ねたことがあるんだよ。でも、適当にはぐらかされたんだよなぁ。まあ、悪意があるようには見えなかったけどな」
『はぐらかされた……ね。まあ、はぐらかされたと言うか、そのやり取りを楽しむために、すぐに答えを教えなかっただけなんじゃないのかな。オレも祀っている神様について尋ねた時には、その話題を楽しそうに話していたから』
「……まあ、案外そんな理由だったのかもな」
彼女達が俺を疎外する理由なんか無いわけだし。
「それにしても、建御名方ね。どうせなら、力比べに勝った建御雷を勧請すれば良かったのにな」
『まあ、その辺りは色々と事情があるだろうからね。言ったでしょう? 建御名方は諏訪湖まで逃げたって。その土地に縁がある神様を祀る神社というものは結構多いよ。いや、むしろ大半の神社がそれだね』
「なるほどね。まあ、よく聞く話ではあるよな。……っと、もうこんな時間か。今の今まで気付かなかったけれど、かなり電話が長引いちまったな」
目線を上げて部屋にある壁掛け時計を見上げると、間も無く夜の9時40分に差し掛かろうとしていた。優からの電話が掛かって来た時刻が9時頃であったから、かれこれ40分近く電話をしていることになる。
「えっと……用件の方はもう一通り話し終わったよな。そろそろ電話を切るぞ?」
『オッケーオッケー。こちらからは特に言っておかなければならないようなことは無いよ――いや、ちょっと待って。1つ言い忘れていたことがあった』
「言い忘れていたこと?」
『まあ、頼みごとなんだけどね。明日は暇? 特に用事とかはあったりしない?』
「デートのお誘いなら、丁重にお断りするぜ」
『じゃあ、デッドなお誘いは?』
「死ぬじゃねえか。デート先は墓場ってか? ……で、頼みごとって何だよ」
『もうすぐ――と言うか1ヶ月くらい先の話なんだけどね、夏コミがあるんだよ。だから、原稿作りの協力を仰げないかと思ってね』
「あー、そう言えばそんな時期だったな。良いぜ、手伝いに行っても。まあ、手伝うと言っても、前年同様、ベタ塗りとトーン貼りを手伝うくらいしか出来ないけどな」
『それだけでも十分助かるんだよ。単純作業は時間が掛かるのが厄介だからね。給金は奮発するよ?』
「給金は例の如く断っているだろうが。その代わり、売り子として割の良いバイトをさせてもらっているんだからな。まあ、自分が関わった本がたくさん売れて行く光景ってのは、そばで見ていて気分が良いし」
『そう言ってもらえると、こちらとしてもありがたいね』
「手伝うことについては別に構わないが……今回の同人誌の内容は?」
『え? そりゃあ無論、成人向けのちょっとアレでニャンニャンな内容だけど?』
「……ですよねー」
需要たけーもんな、成人向け同人誌。
優は同人活動によって得られる利益を生活の足しにしているのだから、売れ行きの良いジャンルを描くのは、当然と言えば当然か。
『何ですか? 颯はニャンニャンがニャンニャンしてニャンニャンする同人誌は嫌いですか?』
「ニャンニャンうるせえよ。好き嫌いの問題つーか、またアレな内容なのかと思っただけだよ」
『ニャンニャンは良い利益を生み出すからね。それともニャンニャンな漫画の手伝いをする事に抵抗をお持ちですか』
「ああ、多少はな。成人向けの漫画を描く漫画家のアシスタントの複雑な心境が良く分かるぜ」
『……はてさて、それはどうかな。そもそもアシスタントにとって、その作業は仕事の一環くらいにしか認識してないと思うよ。お金をもらえるか否かが掛かっているのだから、本人たちは真面目さ』
「へえ、そんなもんなのか……」
『そうそう。自分の妹をアシスタントに起用して成人向け漫画を描いている女性の絵師さんだっているくらいだよ? そう言った漫画の作成に対して過剰に気後れする必要なんて無いさ』
「自分の肉親に手伝わせているのかよ。ましてや、成人向けをだろ。それはある意味凄いな……」
俺だったら、恥ずかしくて絶対に知人をアシスタントとして起用したりなんて出来そうにない。
『さて、颯が手伝ってくれるという約束を取り付ける事が出来たことだし、オレはニャンニャンがニャンニャンな原稿の下書きを仕上げておくとしようかな』
「ニャンニャンうるせえって。お前は発情期の猫かよ……」
『あー、確かに春になると、あちらこちらで猫の鳴き声がやたらと聞こえるよね。あの猫の鳴き声で、春が来た事を実感するんだよね。ああ、もうそんな季節かって具合に。そこはかとなく趣を感じるよね、春の来訪を報せる、あの猫の鳴き声』
「ずいぶんと不風流な趣だなぁ! 虫を見かけるとか花が咲き始めるならまだしも、発情期の猫の鳴き声で春の訪れを感じるとか嫌過ぎる!」
『そして、露出狂の出現と共に夏の訪れを感じるんだよね。ああ、そうか。もうコート1枚でも寒くないのか。夏が来たんだな……って具合にね』
「最悪だな!」
『そして秋は――』
「もうそれ以上は季節の来訪を報せるものに関連する下卑た話をするのを止めろ」
『ああ、そう言えば発情期で思い出したのだけれど――』
「発情期!? 発情期で!? ちょっとまて、その単語から話を広げるつもりなのか!?」
『動物って、発情期になると食欲が減退するんだってね。犬や猫は餌をあまり食べなくなってしまうんだってさ。オレはね、その話を知ってから、小食の人の周りに近づきたくなくなっちゃったんだよね』
「知らねえよ! つーか、どうでも良いわ、そんな話!」
くそっ、俺も小食の人をまともな目で見れなくなっちまったじゃねえか……。
今度から、小食の女子をどんな目で見ればいいのだろうか。
『まあ、オレからの用件は以上だよ。早苗への電話とクラスの女子への電話はきちんとしておくからね。じゃあ、また明日』
「くっ……、はいはい、電話については頼んだよ。じゃあ、また明日な。漫画の手伝いは、午前中にお前のアパートの方に出向くよ」
『了解了解。ああ、そうだ。颯、温泉旅行に偕行する男子なんだけれどね、まだ電話しないで欲しいんだ。オレが先に女子の方に電話を掛けた時に、どの男子と一緒の方が良いかをそれとなく聞き出してみるからさ』
「ああ、分かったよ。その方が、こちらとしても、誰に電話をすれば良いのか考えずに済むからな」
『うん。じゃあ、そう言うことで。……最後に颯に言っておいた方が良い事があるんだけどさ』
「あ? 言っておいた方が良いこと?」
なんだ? 言っておいた方が良いことって。
『もう電話を切るから伝えるけれどね――きちんと歯磨きをした方が良いよ。携帯電話越しにちょっと口臭が……』
「携帯電話越しに口臭なんて伝わるわけねえだろうが!」
言っておいた方が良いことってそれかよ!
俺は携帯電話の通話終了ボタンを親指で押し潰した。溜め息をつくと、携帯電話を充電器に繋いで、その辺に打っちゃらかした。
ベッドに横になり、蛍光灯によって明るく照らされた自室の天井を見つめる。
視線を天井から壁掛け時計へ移す。時刻は、まだ夜の10時を過ぎていない。
このまま寝入ってしまうには、少し早過ぎる時間帯に思えた。けれど、特に何かやらなければならないこともない。無駄に量の多い夏期休業の宿題に今から手をつけるような殊勝な気も起きない。テレビを見る為に1階の居間に向かうというのもどこか億劫だ。
仕方が無しに携帯電話を弄ったり漫画を読んだりして、眠くなるまで時間を潰し始めて――数十分が経過した。
散歩がてら、守矢神社にでも行ってみようか。
見覚えのある神社の外観を見たいと言う気持ち、久しぶりに神社独特の霊気を味わいに行きたいという気持ちが、心の中で不思議と強く生じた。
コンビニで何かを買うついでに、守矢神社に行ってこようかと思った。
――誰かに逢える事を期待しているのではないかしら――
ふと、そんな声が聞こえたような気がした。
とても聞き馴染みのある声として。
「……!?」
俺はベッドから飛びあがり、恐怖心半ばに部屋の中を見渡した。
部屋の中には、自分以外の人影はない。いつもと変わらない自室の様相を呈している。
レースのカーテン越しに見える夜窓にも、人影のようなものは特に見受けられない。
「……何だ、気のせいかよ」
自分を納得させるように独り言を呟いた。
確かに、ハッキリと女性の声が聞こえたような気がしたが……。
それも、聞き馴染みのある声だった気がする。
あの声は……誰のものだったのだろうか。
家族、否。
友人、否。
知人、否。
思い当たる人物は浮かばないのに、とても親しい人物だった気がする。
なんだろう、この妙な気分は。
「……寝ちまうか」
漫画本を本棚に戻すと、部屋の電灯を消灯した。
窓から差し込む優しげな月光と星明かりの光芒が、かすかに部屋の中を照らす。
「誰かに逢える事を期待している……か」
もし、その女性の声を信じるなら――俺は誰に会いに守矢神社に行きたいと思ってしまったのか。
……早苗か? それとも姉妹の方々?
それとも――完全に夜の帳が降りた守矢神社を参拝しているかもしれない誰か?
……誰が居たところで構わない。
このままベッドで就寝する自分にとっては――実にどうでも良いことだ。
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第6話 夢の中、謎の声
『お久しぶり、数か月ぶりの再会ね。……いえ、実際に会っていないのだから、再会という表現は都合が悪いかしら? まあ、そんな瑣末なことは、どうでも良いですわ。外見上は問題無さそうに見受けられたけれど、以前と変わりなく健康に日々を送っているかしら? ……いえ、尋ねるまでもなさそうですわね。このとても穏やかな「世界」を見れば、心身ともに健常であることが分かりますから』
――誰だ、誰の声だ。
『あら、忘れられてしまったかしら? それはとても悲しいことですわ。とても悲しくて切なくて、刹那に
――お前は何だ。何を言っているんだ。
『何を、と申しますか。ふむ……確かに私は何を言っているのでしょうか。ええ、そんなことは論を
――何が言いたい。
『いえ、特に何も。強いて言うならば、
――あんた、本当に何が言いたいんだよ。
『言いたいこと? いえ、特にありません。私の目的は、あなたが健康であるかどうか、こうして言葉を交わすことなのですから。それならば、別に言葉を交わすことによる意志疎通に、重きを置く必要は皆無でしょう? それとも、私と言葉を交わして、何かしらの意志疎通を図る目的を持っているのでしょうか?』
――知らねえよ、そんなこと。
『あら、そうですか。それもつまりませんわ。それにしても、少々言葉遣いが粗野ですわ。……いえ、それも仕方が無いこと。今のあなたの意識は、とても朧かで曖昧。私のことを誰であるかなんて、認識することは出来ない。それならば、今のあなたにとって、私は赤の他人。いえ、たとえ赤の他人と言えど、礼儀を以って接するべきなのですから、言葉遣いが粗野であることを仕方が無いで済ますのは、よろしくないでしょう――と言うのは単なる冗談です。確かに、赤の他人と言えど、礼儀を以って接するべきなのですけれど、あなたの意識は、朧かで曖昧。そんなことを考える理智は無いのですから。私の認識は、懐疑の対象。ええ、これで納得です。その粗野な言葉遣いを許しましょう。……まあ、論じるまでもなく、最初から諒察していましたけれど』
――俺はあんたに用なんて無い。
『ええ、そうでしょうね。いつもの意識状態のあなたが私のことを思い出して、その時に私に対して何かしらの用事を持ったとしても、その用事を思い出して尋ねられるとは思いませんから。でも、あなたが私に用が無くとも、私があなたに用がある。用があると言っても、その意味は暇つぶしや退屈しのぎの意味合いが強いのですけれど。そうですね、言うなれば……世間話がしたいだけでしょうか』
――世間話?
『ええ、世間話。日常会話。井戸端会議。炉辺談話。お分かり?』
――暇人なんだな。
『さて、それはどうでしょう。果たして、私は暇人なのでしょうか。その会話によって、私に何かしらの得るものがあるのならば、私は暇を持て余して世間話に花を咲かせようとしていることになりません』
――暇つぶしや退屈しのぎの意味合いが強いんじゃなかったのかよ。
『ええ、その通りです。けれど、仕事も暇つぶしや退屈しのぎと言えるのではないかしら? 事実、暇も退屈もしていないでしょう?』
――それは詭弁だ。
『詭弁? 結構ですわ。所詮は言葉遊び。言葉のやり取りに意味を求めているのであって、言葉の正当性や論理性を求めているわけではないのですから』
――あんたの用なんて知らねえよ。俺にはそれに応える義務なんてありはしないからな。
『ええ、そうですわね。私は別に返事をして頂かなくても結構ですわ。口を開かなくとも、あなたがここに居ることは事実。あなたが耳を貸そうとしなくとも、私の声は届くのですから。いえ、あなたと私の思考の境界を繋いで、想いを共有しているのですから、この場合は声と言うよりも思念と言った方が正しいかしら?』
――想いを共有?
『ええ、現に共有しているから、こうして擬似的な会話が成り立つのですわ。あなたの想いが明瞭ではないから、意志疎通がきちんと出来ているかどうか尋ねられると、首を横に振りますがね』
――何で俺の想いは明瞭ではないんだ。
『眠っているから。心も身体も。あなたから伝わる想いは、あなたの無意識から発せられるもの。だから、想いが曖昧なのです。私としては、明瞭な意識のあなたと言葉を――想いを交わしてみたいところなのだけれど。しかし、余計な混乱を招くだけですから、こうしてあなたの想いと接しているの。想いが曖昧な状態でしか伝わって来ないのは残念だけれど、無意識の会話だから、あなたが目覚めた時には、この会話は思い出せない。無意識の行為は、潜在意識に落とされたまま。まだ私のことを実在する者として知られたくありません。それと、無意識の内に私の存在を教えることが出来るから、後々に好都合。素晴らしいでしょう?』
――後々のことを考えて……好都合?
『ええ、好都合。どうしてだと思う? 教えて差し上げましょうか? 代価を求めますけれどね』
――代価次第だな。
『あら、そうですか。私としては、てっきり教えなくと良いと言われるかと思っていましたわ。では、代価を求めましょう。代価は……私があなたに、そのことをに教えることです』
――それは代価とは言わないだろう。俺は何も払ってはいない。
『代価が自身の何かを犠牲にするものとは限らないでしょう? まあ、代価の定義としては犠牲や代償を払う事なのですけれど。しかしながら、言葉の定義とは、時代と共に移り変わるもの。本来の意味が失わ、別の意味が付与されることもあれば、新たな意味が付与されることもある。それならば、代価の意味に「自身の何かを犠牲にするという」意味とは別の意味を作っても構わないでしょう?』
――それも詭弁であると思うがな。
『あらあら、これは手痛い指摘ね。どうでも良いけれど』
――それで、代価は?
『良いでしょう、教えて差し上げます。代価は、それを教える会話によって、私が楽しめるというものです。私が楽しむ代わりに、あなたは知りたいことを教えてもらえる。ほら、等価交換が成り立っているでしょう。それは代価とは言えませんか? ああ、それは詭弁だと言われたばかりでしたわ』
――で、その好都合の内容は。
『どうしてそう結論を急ごうとするのかしら。結果に至るまでの過程を楽しむことを学んだ方が良いのではないかしら。あなたは、満開の桜だけを楽しむような趣を知らない者に成長しないで欲しいわ。桜の花は、花を満開に咲かせる前も十二分に美しい。いえ、花を咲かせる前の花芽すら観賞に値する程に美しい。美しさは、表面的なものであると認識するのは、非常に愚か。どうして、幼いながらも生命力を漲らせた花芽の姿を美しいと思わないのでしょう。どうして、満開に向かって咲こうとしている六分咲きや八分咲きの早熟な姿に趣を感じないのでしょう。露命である人間であるからなのか、はたまた経済成長に固執する時代に生きているからなのか。はてさて、人々が趣を愛する心を失ってしまった悪因は、いったい何なのでしょう』
――苛々してくるんだよ。
『ええ、理解しています。感情も想いとして理解していますから。故に、私がそのことを残念に思っている想いも伝わっていると思うのですけれど。事を急ぐさまを感じていると……いえ、もうこの話は止めましょう。休眠とは、心と身体を休める為のもの。ならば、あなたの心を疲れさせてしまうべきではないでしょう。では、どうして無意識に語りかけることが好都合なのか、教えましょう。理由は簡単です。あなたが無意識下で私に親しみを持つからです。親しみを持つからこそ、後々の私の存在を肯定する感情を覚えやすくなり、私の言葉を否定する感情を起こしにくくなるから。私にとっては、とても好都合です。親しみを覚えた者の言動は、受け容れやすく、嫌いな者の言動は受け入れがたい』
――何が目的だ。
『何が目的か、と。それも教えて差し上げても構いませんけれど……教えたところで、眠りから覚めたあなたは、何も思い出せはしませんよ。言うだけ無駄です。ですから、教えません。私は無駄だと判ったことは、決して行いませんから――嘘ですけれど。無駄は、ある程度あった方が好ましい。極限まで洗練された物は美しいけれど、趣に欠けますからね。そのことを教えない理由は単純明快。教えてしまったら、私がつまらないからです』
――自分勝手だな。
『いいえ、自己中心なだけですわ』
――同じじゃないか。
『ええ、そうですね。私は言葉のやり取りを楽しんでいるだけですから』
――そろそろ消えてくれないか。
『あなたがそう望むのなら、私はその望みを叶えません』
――じゃあ、まだここにいてくれ。
『では、私はまだここにいましょう』
――さっさと消えろ。
『本当につまらないわ。あなたの友人の無意識の会話は、とても楽しいのだけれど。あなたにも期待しては駄目なのかしら。それならば、戯言はこの程度に。あなたとの接触を持った本当の目的を果たすとしましょうか』
――本当の目的。
『ええ。……そんなものはありませんけれど』
――嘘じゃないか。
『ええ、前言こそが嘘ですわ。よく分かりましたね。では、私の本当の目的を果たす意味として、期せずして嘘を看破した褒美として、とある楽園についての話をしてあげましょう』
――楽園。
『ええ、私達の楽園ですわ。子守唄として、語って聞かせてあげましょう。とても退屈で魅力的な話を。妖怪と人間が共に歩む郷の話を』
――妖怪と人間が……。
『さあ、目を閉じなさい、耳を傾けなさい。そして話の内容を覚えなさい――無意識の中で親しみを覚えなさい』
――覚える。
『ええ、親しみを覚えなさい』
『心の隔壁を築かないようにする為に』
『“幻想郷”の全てを受け容れる為に』
『さあ、語りましょうか』
『無意識の刷り込みを始めましょうか』
私の目的を――果たす為に。
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第7話 レストランで昼食 その1
「は!? 早苗、温泉旅行に来れるのか!?」
俺の上げた
「何をそんな大袈裟な……と言うか、颯、ちょっと静かにしようか。周りに迷惑だよ」
テーブル席の正面に座っている優は、半眼になって呆れ気味に答えた。
辺りを見回すと、他の客が奇異の視線を向けていることに気付いた。
俺は羞恥に縮こまりつつ、声を潜めて優に話し掛ける。
「あっ……すまない。突拍子もないことを言われたもんだから、ついな」
「そんなに突拍子もないことかなぁ……。早苗が日帰り温泉に行ける目途が立ったってだけじゃないか」
「だって、早苗は温泉旅行に行けないって話だったじゃないか。何で急に行けるようになったんだよ」
「は? だから言ってるじゃないか。時間的余裕があったって話だよ。まあ、本当に直前の直前だけどね。期限日ギリギリさ。……って、颯、ちょっと身を乗り出さないでもらえる? 無駄に顔が近いんだけど。上着の裾がハンバーグステーキに付きそうだし。少し落ち着いたら?」
優に指摘され、自分がテーブルの上に少し身を乗り出していることに気付いた。
「ん……、ああ、すまない。思わずな」
「こちらも思わず颯の顔にフォークを刺そうかと思ったよ。危うかったね、失明の危機だ」
優は愉快そうに悪趣味な笑みを浮かべ、手に持っているフォークを上下に揺する。
「思わずでも絶対にやるんじゃねえぞ。……チケットの期限日ギリギリか。いつだ?」
「7月24日だね。早苗が言っていた家庭の事情の関係で、22日と23日は予定が詰まっているそうなのだけれど、24日なら、まるまる1日空いてるってさ。それなんで、とりあえず旅行日は、その日に決めちゃったわけさ。あとは颯の予定次第だね。颯の方は、何か用事がある?」
「いや、無いよ。仮にあったとしても、せっかくのチケットが無駄になっちまうし、大事でない限りは、予定を取り消してでも行くよ」
「無駄にね……。まあ、確かに無駄にはなるか」
優が視線を正面から――こちらから外して、何やら意味深長に呟いた。
「……なんか含みのある言い方だな」
「いや、特に何も。そもそも、オレが含みのある言い方をするのは、いつものことでしょ」
「自覚してんだったら止めろよ。少なからず、そう言うのは気になるからさ」
「……まあ、確かにそうだね。とは言え、何でもかんでも素直に言ってしまうと、つまらないのだけれど。まあ、いいや。いやね、颯の発言には、方便が含まれているのではないかと思っただけだよ」
「方言? 訛りか?」
「いや、ほうべ――そう、方言。訛り。まったく、田舎育ちが丸出しだったよ。恥ずかしいったらありゃしない」
「いや、俺は別に幼少期を田舎で育った憶えは全く無いのだが」
「井の中育ちが丸出しだったよ」
「俺は蛙か何かかよ」
「田舎育ちに井の中育ち。つまりは世間知らずというわけさ。颯そのものだね」
「いや、何かお前は上手にまとめてやったぜみたいなドヤ顔をしているけれど、全く意味が分かんねえぞ」
「まあ、そんなことはどうでもいいよ。えーと……何だっけ。縞パンツの視覚的効果について論じ合っていたんだっけ?」
「してねえよ。未来永劫、そんなことを論じる場は設けねえよ。日帰り温泉旅行の話だろ」
「ああ、そうだったね。温泉旅行の日は、24日で確定だね。旅行日は変わってしまったけれど、何はともあれ、当初の計画通り。確認しておくけれど、昨日言った通り、他の男子には誘いを掛けていないよね?」
「ああ、掛けてないよ」
「OK。ところでさ、話は変わるけれど、この後どうする?」
「この後? 何でも良いけどな。別に原稿の仕上げの手伝いをしても構わないぞ。急の用事なんて無いからな」
「せっかくの夏休みだというのに、年頃の高校生が休日の予定が無い……。聞いているだけで、何やら涙を誘われるね」
優は仰々しく手で顔を覆った。
「いや、お前だって同じ暇人だろうが。真昼間から、成人向け同人誌の原稿を仕上げているような暇人に言われたかねえよ」
「あれは趣味が高じた稼業の1つ。少なくとも、仕事をしている人を暇人とは呼ばない」
「ぐっ……。あんな内容の漫画を描くことが仕事なんて呼べんのかよ」
「正当にお金がもらえるなら、立派な仕事さ。まあ、その話は置いておこうか。それにしても、夏休みにするべきことが無いのは、如何なものだろう。勉強をしろなんて堅苦しいことは言わないけれど、彼女でも作って青春を謳歌した方が良いんじゃない? 時間は不可逆なんだから、年相応の楽しみを味わっておいた方が良いんじゃない?」
「余計なお世話だ。つーか、彼女がいない上に二次元文化に命を懸けているようなお前に、そんなことを言われても言葉に説得力がねえよ。お前こそ、時間を大切にして生きたらどうだ。それに、俺には好きな相手がいないのに、どうして彼女なんて存在が出来んだよ」
「好きではなくとも、気になる女性くらいいるんじゃないの? まあ、別に恋愛することは義務ではないし、無理にする必要はないけれど」
「そりゃそうだ。そもそも、恋愛なんて学生の内に限らず、いつでも出来るだろ。焦って彼女を作る必要性なんて皆無だ。学生の恋愛至上主義的な考えは嫌いだぜ」
「ごもっとも。オレとしては、良い人生経験になるんじゃないのって話」
「まあ、確かにそうかもしれないな。……で、結局のところ、お前は何が言いたいんだよ。何か考えがあって、昼食後はどうするかって話を振って来たんじゃないのか?」
「おお、なかなかに鋭い洞察力だね。普段の鈍ちん颯からは想像できない」
「やかましい。で、何が言いたかったんだ?」
「そうそう。昼食を食べ終わったら、食休みがてらの散歩がてら、久しぶりに守矢神社を参拝してみないかって提案しようかと思ってね。ほら、お守りをもらう目的にも温泉旅行中の安全祈願をするためにもさ、神社まで行ってみない?」
「守矢……神社か」
守矢神社という言葉を聞いた瞬間、昨夜に聞いたと思われる言葉が想起された。
『誰かに逢えることを期待しているのではないかしら?』
もし、昨晩……実際に神社を訪れたならば。
俺は――誰かに逢えていたのだろうか。
夜半に神社を参拝していたかもしれない、誰かに。
「……どったの、颯。なんか視線が遠い宇宙の彼方に向いているけれど、頭の具合は大丈夫? 病院へ行くかい?」
「少なくとも、お前よりは頭の調子は快調だよ。……いやな、守矢神社と聞いて、少し思い出したことがあってな」
「思い出したこと? 何を?」
「……いや、なんでもない」
「ふうん…そう。まあ、いいや。そろそろ店から出ようか。もうハンバーグステーキは食べ終わったでしょ。それとも、デザートでも注文するかい?」
優は伝票を指の間に挟み、ひらひらと振って見せる。
「いや、デザートは要らない。お前の方こそ、デザートは良いのか? お前の場合、もっといっぱい食べて肉を付けた方が良いからな」
「肉ねぇ……。別にガリガリというわけではないし。オレとしては、体が軽い方が動きやすいから、あまり太りたくないんだけどね」
「まあ、その辺りは本人の好みの問題か。じゃあ、会計を済ませちまおうか」
「そうだね」
俺はテーブル席から立ち上がった。
その時、ふと気になったことを優に尋ねてみた。
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第8話 レストランで昼食 その2
「……そう言えばさ、俺はもう大分長いこと守矢神社を訪れていないけど、あの神社って、今はどんな感じだ?」
「どんな感じ……? 具体的には?」
「具体的に、か。そうだな……本殿の外観とか境内の雰囲気とか参拝者の数とかかな」
「神社の建物自体は、特に変わった点は無いよ。数年前から全く変わっていない。境内の方は、きちんと掃除の手が行き届いていて綺麗だけど……でも少し活気が無くなっているかな」
「活気? 参拝者が少ないとかか?」
「参拝者の減少……それもあるね。そのせいかもしれないけれど、神社の霊気に引き寄せられるようにして散在していた霊的な存在も少なくなってきている気がする。人々の信仰心が薄れ、祀られている神の霊威が弱まっているからかもね。霊的な存在は、霊的な存在に惹かれるから」
「えっと……神の霊威の衰退で……何?」
「後半の話については、あんまり気にしなくても良いよ。気にしても仕方が無いし。とにかく、以前よりは参拝者が減ったような気はするね。まあ、時代が時代と言うか、仕方ないさ。ひと昔前ならばともかく、現代は霊的な存在を信仰して
「やっぱりそうなのか……」
昔から親しんでいた場所が廃れ始めていることに、そこはかとなく寂しさを感じた。
守矢神社に参拝しなくなって久しいが、それが負い目に感じられる。
「……でもさ、参拝者が少なくなっているような気がすると言っても、途絶えたわけではないんだろう? 今でも、それなりに参拝者はいるんだよな?」
「いるよ。差し当たり、参拝者が途絶えることは起こらないだろうね」
「……そうなのか?」
「信心深くない人でも、たとえば受験や恋愛成就のために、願掛けやお守りをもらいに来るでしょう? 神社の管理が完全に放棄されない限りは、そう言う参拝者は尽きないものだよ」
「ああ、そっか。初詣の時、いっぱい参拝者はいたもんな」
「そういうこと。安心した?」
「まあな」
優の手中からレジの伝票をつまみ取る。
「さて、料金の支払いなわけだが……別々で良いよな」
「もちとん、別会計で。ああ、もし颯がオレに昼食を奢ってくれるって言うなら、お言葉に甘えるけれど? オプションとして、猫耳でも付けて甘えようか?」
「冗談。死んでもお断りだ。お前の猫耳付き姿なんて、金を払っても見たくねえよ。可愛い女の子がするから、奢りたくなるんだろうが」
「まあ、そうだね。……いやしかし、金を払っても見たくないということは、猫耳を装着して颯に甘えれば昼食代が――」
「浮くわけねえだろ。単なる言葉の綾だ。真に受けんじゃねえ」
すぐ後ろから優が追いかけてくる。
「……それにしてもさ、結構安心したよ」
後ろを振り返り、優に言った。
「何が安心したの?」
「守矢神社の参拝者の話。俺は初詣くらいしか神社の状況が分からなくなってたからさ。優の話を聞いて、なんか妙に安心したんだよ」
「あの神社、3人の昔からの遊び場でもあったからね。気持ちは解らなくはないよ」
「そう言えば、守矢神社は、俺達の遊び場でもあったよな。懐かしいな……よく鬼ごっこや隠れん坊、缶蹴りをして遊んだよな」
懐古の念と共に、思い出が胸に浮かぶ。
まるで暗黙の了解であるかのように、毎日放課後は守矢神社に集合して……。
一緒に楽しく遊びたい一心で、服が汚れることも気にせず、無邪気に遊び続けて。
……そうだった。俺にとって、守矢神社は、優や早苗と同じ時間を過ごし、さまざまな思い出を共有した場所でもあったんだ。
だから、神社が当分の間は廃れないと聞いて、ほっと安心したのか。
人々が願いを抱く限り、あの思い出の神社は、いつまでも荒廃することなく存在し続ける。
本当に喜ばしいことだ。
うら寂れてしまった――博麗神社のようにならなくて。
――――――ドンッ!
突如、優が急に背中にぶつかって来た。
いや、俺が急に立ち止まったことで、優が背中に衝突したのだ。
「うわっ! 何だよ、急に止まらないでよ」
「あ……悪い」
俺は生返事で謝った。
……。
なんだ……なんだ、この胸騒ぎは。
どうして博麗神社という言葉に動揺しているのだ。
そもそも、博麗神社とは、どこの神社だ?
「どうかしたの? ……ああ、もしかして。偶然に吹いた風によって、外を歩いている女性のスカートがまくれ上がった光景に目を奪われたの? ふむ、実に颯らしいじゃないか」
「ちげえよ。ただその……いや、何でもない。早く通路を進もうぜ。他の客や店員の通行の邪魔になると悪いからさ」
「……はぐらかされた気がしなくもないけれど、まあいいか」
優は特に言及することなく、再び通路を進み始めた俺の後ろを付いて来る。
……なんだったのだろう、あの感じは。。
何か重要なことを思い出せそうなのだけれど……もう少しで閉じられた記憶の箱を開けられそうな感じがする。
胸中に不快なわだかまりを抱えながらも、ひとまずレジで店員に伝票を渡した。
その後、優の提案通り、守矢神社に向かう為にファミリーレストランを後にした。
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第9話 守屋神社に参拝 その1
夏の太陽が照り付ける中、額に汗を浮かべて石段を昇り切ると――懐かしい風景が広がっていた。
石段、鳥居、参道、手水舎、拝殿。
幼き日の思い出の中の情景と眼前の風景が重なり合う。
守矢神社。
幼き日の遊び場であり、思い出の地。
構造物から境内の周囲に植えられている針葉樹林に至るまで、まるで時間の移ろいから取り残されたかのように――何1つ変わっていない。
「どう? 久しぶりに守矢神社を訪れた感想は」
「どうって……懐かしいとしか言いようがないな」
「そうだろうね。……やっぱり、この神社の雰囲気は何度味わっても飽きないね。居心地が良いよ。守矢神社に限らず、神社が持つ独特の雰囲気は好きなんだけどね」
優は両眼を閉じて深呼吸をした。
優に
肌に触れる霊気を帯びた空気の感触。
土と草木が生み出す、心安らぐ自然の香り。
樹木の
守矢神社で過ごした幼少の頃の記憶が鮮明に思い描かれた。
……双眸を開く。
「さて、参拝といこうじゃないか」
「そうだね。……そう言えば、颯は参拝の礼法って知ってたっけ?」
「参拝の礼法? いや、知らないが……礼法なんてあるのか?」
「うん、あるよ。神様に失礼があったら、祟られるかもよ?」
優が意味深長な笑みを浮かべる。
「祟り、ねぇ。実際にいるもんなのかね、神様とやらは」
「少なくとも、オレはいかにも神様めいた神々しい風貌の存在を目にした事はないけれど……」
優は鳥居の前まで歩いて行くと、こちらを振り返って、愉快そうな笑みを浮かべる。
「案外ね、神様は実在して、そして身近にいるのかもしれない。ただ、人々がそれを神と知らないだけで――それを神と崇めないだけで」
「……それは八百万の神の話か?」
「八百万の神様? そう解釈したか。うん、まあ……そう思っていても構わないかな。どんな物であっても、それを神と見なして崇めれば神様になるからね。たとえそれが天使であろうが悪魔であろうが、妖怪であろうが人間であろうが、その辺りに落ちている小石であろうとも。まあ、古事記における神の定義では、人間や小石は神にはならないのだけれど」
「ふうん……神様ね」
神学に興味の無い俺にとって、縁遠い話だ。
鳥居の前まで歩く。
「神と見なせば何物も何者も神となるねぇ……。神様関連の話は、俺にはよく分からないな。なんで古事記における神の定義では、人間や小石は神にならないんだ?」
「簡単に言うと、超人的な存在全てを神と呼んでいるからだよ」
優は、恐らく古事記の書き下し文であろう言葉をそらんじる。
「『尋常ならず優れたる徳のありて、可畏き物を神という。優れたるとは、尊きこと善きこと、雄々しきことなどの、優れたるのみを言うにあらず、悪きもの奇しきものなども、世に優れて可畏きを神というなり」』
「……さっぱり分からないな」
「要は、姿形などは関係なし。人智を超えた力の持ち主を古事記では神と定義しているんだよ。超能力者って言えば、分かりやすいかな」
「超人的な存在全てが神ね……。だから、人間や小石は、神にならないってわけか。人外の存在――優の天使や悪魔、妖怪と呼ばれる存在は、神と呼べるわけか」
「そうそう。人外の存在と言ってもね、人よりも力の弱い存在なんて、いくらでもいるけれど。妖怪を例にあげるなら、小豆洗いや天井舐めとかかな。面白いよね、天井舐め。天井を舐めているだけの妖怪なんだもん。彼こそ妖怪界を代表するペロリストだね」
「分かった分かった。神様談義だか妖怪談義だか知らないが、その話はそれくらいにしておこうぜ。話が横道にそれそうだからな。参拝の礼法の話に戻してくれ」
「ああ、そうだったね。じゃあ、参拝の礼法について教えようか」
優は鳥居を指さした。
「じゃあ、まずは神社の入口にある鳥居について教えていこうか。鳥居がどういう構造物であるか知ってる?」
「いや、全く。何か鳥の止まり木みたいな形をしているから、霊鳥を呼ぶためにあるのかと思っていたな。言っておくが、全くと言って良いほど神社に対する知識は無いぞ」
「じゃあ、こちらから一方的に説明していくよ。鳥居はね、神社の内側と外側――すなわち神域と俗界を区画する結界なんだ。界標とも言えるね。鳥居は、神域へと通じる門なんだ」
「神域への門か……。そう言われると、鳥居の形は、門に見えなくもないな」
「鳥居をくぐれば、その先は神域。だから、鳥居を潜る前に、まずは一礼するんだよ。お邪魔しまーすって感じにね」
「鳥居に入る前に一礼するなんて、初めて知ったな。……ああ、だからお前は初詣の時に鳥居の前でお辞儀をしていたのか」
「あれ、その時に一礼する理由を教えてなかったっけ」
「……いや、全く記憶にない」
「まあ、いいや。あとね、参道を歩く側によって、鳥居を潜る時に出す足が決まっているのだけれど……これは割愛しておこうか」
「分かった。とりあえず、一礼してから鳥居を潜れば良いんだな」
俺は腰を折り、深々と頭を下げて一礼した。
横に目をやると、優も同じように一礼していた。
「さて、鳥居を潜ろうか。参道の歩き方なのだけれど、参道の真ん中を歩かず、端の方を歩くのが礼儀。参道は神様の通り道だからね。真ん中は、神様の通り道」
優は鳥居を潜り、参道の左側に沿って、先に進んで行った。
俺も参道の左側を通り、優の後ろを付いて歩く。
優はの方を指さした。
「さて、次は
優は右手で備え付けられていた柄杓を手に取ると、石器に満たされている水を汲んだ。
「こうして右手で柄杓で水を汲んだらね、まずはその水で左手を洗い流すんだ」
俺も柄杓を右手で持ち、汲んだ水で左手を洗い流した。
「そうそう、そんな感じ。左手を洗い流したら、今度は柄杓を左手に持ち替えて、今度は右手を洗い流す。それが終わったら、また柄杓を右手に持ち替えて、汲んだ水を左手の手の平で受けて、左手の中に溜まった水で口をすすいで口の中も清めるんだ」
「まずは手を清めて、最後に口も清めるってわけか」
優に言われた通りに右手も水に流し、新たに汲んだ水で口をすすぐ。最後に、足元の流し場のような場所へ水を吐き出した。
「それが終わったら、最後に柄杓の中に残っている――残っていなかったら新たに汲んでも良いよ。柄杓を立てて、自分が握った柄杓の柄の部分を洗い流して終わり」
言われた通り、柄杓の柄を水で洗い流した。
「神社の参拝って、色々と面倒な手順を踏まなくちゃいけないんだな。今まで、
「オレは一時期、この柄杓は打ち水に使う道具と勘違いしていたけどね」
「打ち水をやるにしては、こじんまり柄杓だな」
「違いない。さあ、拝殿に向かおうか」
「ああ」
柄杓を元あった位置に戻し、優と共に拝殿へ向かった。
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第10話 守屋神社に参拝 その2
程なくして、古拙な外観の拝殿の前に到着した。
建物を支える故々しい梁や柱の傷み具合、年代物の賽銭箱や鈴を眺めると、得も言われぬ幽趣を感じた。
感慨深げに眺めていると、優が辺りをキョロキョロと見回していた。
「……何か探し物か?」
「ん、いや……ちょっとね。まあ、探し物と言えば探し物」
「落とし物か何かなら、探すぞ」
「いや、どちらかと言えば、人探しかな」
「人探し?」
「そう、人探し。時間帯が悪かったかな。まあ、構わないけどね。とにかく、参拝の続きでもしようか」
「ふうん……。それじゃあ、参拝の続きと行こうか。で、どうするんだ?」
「よろしい。ならば、教えてしんぜよう」
優は大仰な態度で偉ぶると、ズボンのポケットの中から財布を取り出した。
どうやら、賽銭箱に入れる小銭を取り出すつもりらしい。
「神社と言えば賽銭、賽銭と言えば神社だよね」
優は数枚の硬貨をつまみあげた。
「確かに、神社と言えば賽銭ってイメージがあるよな。賽銭箱が神社しか置いていないからだろうな」
「寺院にも賽銭箱は設置されているけどね。さて、とりあえず、まずは背筋を伸ばそうか。これから神様に会うわけだからね」
「神様ね。神前で粗相があったらいけないよな」
「賽銭箱の中に賽銭を入れるわけだけど、それが終わったら、綱を引っ張って上の鈴を鳴らす。また姿勢を正して、二拝二拍手一拝をやって終了。お辞儀を2回、拍手を2回、最後にお辞儀を1回ね」
「オッケー。まずは賽銭だな」
俺は自分の財布に手を伸ばして小銭を探り――ふと疑問に思った。
いくらが適当な金額なのだろうか。
「賽銭の金額にも決まりってあるのか?」
「厳密には無いよ。たいてい、語呂合わせで決める場合が多いね。『御縁』に掛けて五円硬貨1枚だったり、『始終御縁』に掛けて十円硬貨を4枚と五円硬貨1枚だったり」
「ああ、語呂合わせで験担ぎか。洒落がきいてて面白いな。
財布の中を探り、十円玉硬貨4枚と五円玉硬貨1枚を取り出した。
始終御縁。
俺は硬貨を賽銭箱の中に入れた。それに続き、優も手に握っている硬貨を賽銭箱の中に入れる。
「さて、鈴を鳴らそうか。鈴を鳴らす意味は、心身の穢れを清めり、その音色で自分の存在を神様に知らせたり……。理由は諸説あるね。ほら、颯が鳴らしちゃって良いよ」
「ん、オッケー」
手を伸ばして綱を揺らすと、ガランガランという鈍い鈴の音が鳴った。
こんな濁った音では、心身に付着している穢れは祓えないではなかろうか。
「次は二拝二拍手一拝だ――と言いたいところなのだけれどね、その前に1度お辞儀をするらしいんだよね。これからお参りさせて頂きますという意味で」
「なるほどね」
俺と優は、ひとまず一礼した。
「……で、この後に二拝二拍手一拝だったか」
「そう、二拝二拍手一拝。二拝で神に対する敬意を示し、二拍手で神を招き、最後の一拝で神を送り返す。二拍手の時に右手を少し下にずらして手を叩くんだよ」
「右手をずらすのか?」
「まあね。右手を『身体』、左手を『心』と考え、神様に対して身体を一歩下げる意味で畏敬の念を示すんだそうだよ」
「分かった。願いごとは……何が良いかな」
「温泉旅行の交通安全でも願えば? オレは、そのつもり」
「旅路の交通安全か。良いな、それ。俺も真似しよっと」
「じゃあ、原作料を頂こうかな」
「ほう。民事裁判を起こしてもらっても一向に構わないぜ?」
どうでもいい冗談を言い合う。
俺は優と共に拝殿に向き直ると、2度――深いお辞儀を行った。
両手を胸の前に掲げ、右手を少しだけ下にずらし、手を叩き合わせる。
パンッ、パンッ――小気味よい音が境内に響いた。
今回の旅行が無事に過ごせますように――
そう思って旅中の無事を願った――瞬間。
一陣の風が吹き荒れ、一斉に音を立て始めた葉音が境内の静寂を打ち破った。
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第11話 守屋神社に参拝 その3
まさか――本当に神様が来たのか!?
俺は、咄嗟に周囲を見回した。
……しかし、辺りに不審な光景は微塵も無かった。
「……何? どうかした?」
俺の視線に気付いたのか、優がこちらに振り向いた。
「あ、いや……もしかしたらもしかするのかなと思ってさ」
「もしかしたら? ……ああ、そう言うことね」
優は境内の様子を注意深く観察する。しばらくすると、つまらなそうに肩を竦めた。
「ただの突風みたいだね――境内の様子が騒がしくないみたいだし」
境内の様子が騒がしくない。
その意味は分かりかねるが、神様のような存在が登場しなかったようだ。
「そうか、単なる突風か。なんつうか、ずいぶんと間の良い突風だったな。思わず、もしかしたら……って思っちゃったぜ」
「異常の到来を報せるかのような強風――演出としては良いね」
「だよな。……まあ、そんな漫画や小説のような展開にはならないか」
改めて、寂に包まれた境内の様子を見渡してみる。
やはり、特に変わったところは見受けられない。
思い出の中の情景と変わらない、幽寂で神秘的な境内の様子があるだけだ。
「……っと、まだ参拝の途中だったな。確か二拍手で終わっていたんだっけか」
「だね。神様を呼んだまま、ほったらかしにしてるねぇ……」
「神様をほったらかしにしているとか、かなり罰当たりじゃねえか。早く最後の……一拝だったか? それをやって神様を送り返さなきゃな」
「まるで神様を厄介者扱いしているようにも受け取れそうだね」
「いや、単なる言葉の綾だ。神様はきっと懐が広いからな、その辺の事情をきちんと察してくれるさ」
何はともあれ。
深くお辞儀して神様を送り返し、参拝の一通りの工程を終えた。
「……さて、これからどうする? しばらく境内でも散策するか? 俺は、もう帰ってお前の原稿の手伝いに戻っても構わないけど」
「お守りは? 交通安全とかもらう?」
「あ、お守りがあったか。お守りって社務所で買えるか?」
「社務所で買えるよ。ほら、あの建物が社務所」
優が指差す方向を見ると、受付窓の付いた建物があった。
しかし……。
「……あれ、誰もいないっぽいな。受付窓は開いているみたいだけど」
「変だね。受付窓は開いているのに、誰もいないなんて。たいてい、1人くらい誰かがいるもんなんだけど。……もしかして、奥の座敷間で休憩しているのかもね」
「ああ、なるほどね。休憩中って可能性もあるか」
携帯電話で時刻を確認すると、昼の1時前を表示していた。
今が昼休憩の可能性は高そうだ。
今が休憩時間となると、わざわざ呼び出して働いてもらうのは忍びない気がする。
「優。とりあえず、社務所まで行ってみるか」
「そうだね。声を掛けて、人が出て来なければ……まあ仕方ないね。留守なのか昼寝中か分からないけど、ひとまず帰ろっか」
「だな。出てこないなら仕方ないもんな。……いや、出てこないなら出てこないで、人がいるか確認した方が良くないか? いちおう、お守りとか売っているわけだし。盗まれたらマズイだろう」
商品を取り扱う場所だから、きっと両替用の小銭なども保管されているだろう。
「あー、確かにそうだね。ちゃんと人がいるかどうか確認した方が良いね。留守だったら、社務所の受付窓が開きっぱなしってこと、守屋家の人に伝えておかないとね」
その必要はありませんよ。
ふと、その声は――拝殿の陰の方から掛けられた。
聞き馴染みのある、鈴を転がすような少女の声音。
俺は声の聞こえて来た方へ振り向いた。
向けた視線の先。
そこにいた者は――
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第12話 早苗と再会 その1
最後に彼女と顔を見合わせたのは、いつ頃だっただろうか。
確か、初詣の時だったように思える。この再会は、実に約半年ぶりだろう。
人の印象は、どうやら――半年でも充分に変わるようだ。
「……早苗?」
名前に疑問符を付けて、問い掛けた。
早苗は、花が開いたような眩しい笑みを浮かべる。
「はい。お久しぶりですね、颯君、優君」
眼前の早苗は、半年前と比べて、ずいぶんと変わったように感じられる。
何故だろう。そう思い、早苗の姿を注視して――理由が分かった。
女性としては月並みなイメージチェンジの方法だけれど、早苗の髪形は、半年前と変わっていた。以前は、長い髪の毛を後頭部で1つに纏めたポニーテールであった。
俺達が通っていた中学校では、髪の毛の長い女子生徒は、ゴム紐で纏める規則があった。その時の癖なのか、高校入学後も、早苗は長い髪の毛をゴム紐で纏めていた。今年の初詣の時も、確か髪の毛を背中でまとめて、巫女服を着ていた筈だ。
それが、今は純粋なロングストレートになっていた。以前よりも、女性らしさが増したように感じられる。豊かな髪の毛が顔や首回りを包むように伸びているので、その包まれている部位がほっそり見え、ある種の儚さのような魅力も漂っている。
それにしても、髪形1つで――しかも単に髪を解いただけで、これほど印象が変わるものなのだろうか。
優が手を上げ、早苗に話しかける。
「ああ、早苗か。久しぶりだね。神社にいたのか。今日はあの青い巫女服みたいのは着てないんだね」
「ええ、今日は
「あ、そうなの? それは眼福にあずかれなくて残念だなぁ……。うんまあ、今日は早苗の私服姿で我慢しようかな。これはこれで眼福だ。ありがたやありがたや」
優は神仏に祈るように手をすり合わせた。
「そう言われると、なんだか照れくさいですね。相変わらず、優君は口が達者ですね」
早苗が朗らかに笑って応えている。
優の言う通り、早苗の私服姿は、眼福と呼ぶに値するのではないかと思えた。
上は桃色のリボンブラウス、下は淡い色合いのデニムクロップドパンツ。
飾り気の感じられない組み合わせであるが、だからこそ素朴で清らかな印象を与えてくる。いかにも涼しげで動きやすそうな衣服なので、見た目に爽やかだ。腕や足が露わとなっているので、実に活力と若さに溢れた健康的な魅力も満ちている。
「偶然だね。まさか、早苗に会えるとは……ああ、そうか。今日の社務所の当番を早苗が務めているのか」
「あ、よく分かりましたね。優君、名推理です」
「まあ、このホームズにかかれば、この程度の問題は、お茶の子さいさいですよ。ねえ、ワトソン君」
俺がワトソン役なのか、優が相槌を求めるように話を振ってくる。
「あ、ああ……そうだな。当番でも巫女服は着ないのか?」
「うーん……。正式な神事がある時は着ますけれど、社務所の当番くらいなら、私服で大丈夫ですね。私服の方が動きやすいし、涼しいですから。観光名所みたいな有名神社でもないので、あまり形式に煩くありませんから」
なるほどね。
早苗の言う通り、普段日の社務所当番ぐらいなら、私服でも構わないか。
「それにしても、まさか今日に会えるとは思わなかったよ。気まぐれで優と一緒に来た甲斐があったな」
「私も、まさかここで颯君と優君に会えるとは思っていませんでした。神社に入ってくる二人の姿が見えた時は、驚きましたよ」
「ああ、オレと颯が来たのに気付いていたのか。……いつ気付いたのかな?」
「すぐに気付きましたよ。鳥居の前で一礼してから参道を歩き始めるなんて、参拝の仕方が分かっている人なんだなと思ったら……。なんと、颯君と優君だったわけです!」
早苗はそう言うと、胸の前で横手をパンッ打ち合わせた。
「ふうん……」
優は唸ると、思いを巡らせるように顎に手を添えた。
「すると……早苗はオレと颯が鳥居を入った時点で気付いていて、たぶん、社務所から出てきて、こっそりオレと颯の姿を観察していたってわけか。で、拝殿の陰に隠れていたと。おやおや? 早苗って、他人の行動を陰で観察するのが趣味なのかな?」
優が意地の悪い笑みを浮かべる。
これは面倒なことになるな、と俺は直感した。
早苗は真面目な反応をする性格なので、優から弄られやすいのだ。
「え、ええとですね……」
早苗は狼狽気味に目線を横にずらした。指先を組み、躊躇いがちに答える。
「何と言いますか、意外だったと言うか、何をしているんだろうと気になったと言いますか……。優君は不定期に訪れているのですが、今回は珍しいことに颯君も来たので、なんで一緒に来たのかなって。その……なんとなく気になりまして」
「まあ、颯がここに来るなんて珍しいと思うよ。本人も、ずっと来ていないようだったし。……で、どうして陰からこっそりこっそり覗いていたのかな? 気になったのなら、普通に声を掛けて来ればいいじゃないか」
「いえ、だから、それはあれですよ」
早苗はお茶を濁しつつ、なおも狼狽気味に答えようとする。
……妙だな。
いくら何度も優から弄られていたとはいえ、この話題で狼狽を続ける早苗の姿は、不自然に感じられた。
ふと、早苗が俺の顔に視線を移す。視線が合うと、まるで小動物が助けを求めるかのような表情を浮かべた。
いや、そんな目で見られても困るのだけれど。
……まあ、助け舟を出すのも吝かではない。
「その辺にしといてやれよ、優。早苗が困っているじゃないか。別に、わざわざ追及するようなことじゃないだろう?」
俺がそう言うと、早苗は安堵に似た表情を浮かべた。
しかし、優は首を横に振り、なおさら笑みを深める。
「んーん。これはね、深く掘り下げた方が面白い話題なんだよ、颯。オレはね、早苗と似たようなことをした女子を何人か知っているんだ」
「早苗と……似たようなこと?」
「そう、早苗と同じ行動。連れ立って歩く男2人を陰から覗いて、ドキドキワクワクしちゃうこと。ね、早苗?」
「え、えっと……。私、優君の言っている意味、ちょっと分かんないです」
早苗はそう言いつつも、居たたまれないように挙動不審だ。
「……なんかよく分からないけど、止めといてやれ。あんまり意地悪してやんな。早苗が可哀想だからさ」
「そ、そうです! 颯君の言う通り、優君は意地悪ですよ」
俺の注意に便乗して、早苗が声高に非難の声をあげた。
早苗が強気に他人を諫めるなんて珍しい。普段なら、相手を諭すように注意するものなのだけれど。
「む、颯は早苗の肩を持つのか。多勢に無勢ときたか。これはピンチだね」
優はおどけてみせる。しかし、こりた様子は見られない。
「まあまあ。颯、後学のために、よく考えてみようじゃないか。オレ達と早苗は、顔見知りの親しい仲。陰からこっそり、こちらの様子を窺うなんて、不自然そのもの。隠れ見るってことは、何かやましいこと、後ろめたいことがあるってもんさ。もしくは……何か起こることを期待していたか」
「まあ、言わんとしていることは間違っちゃいないが……」
早苗の行動は、不自然で不審だ。
親しい間柄だから気にならないが、赤の他人が同じ行動をしていたら、ちょっと身の危険を感じなくもない。
早苗へ怪訝の視線を向けると、彼女は及び腰になった。ばつが悪い表情を浮かべている。
「いや、それは実はですね! その……あの……」
早苗は弁解しようと声を上げたが、続く言葉は、しどろもどろ。尻すぼみ後、黙ってしまった。
3人の間に、何やら微妙な空気が漂う。
沈黙がもたらす、気まずくもどかしい空気。
それを初めに破った者は――
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第13話 早苗と再会 その2
「どうやら、早苗がまともな理由で物陰に隠れていたわけではない……それが分かったところで。ねえ、早苗。オレが思うに――」
優は飄然とした動作で早苗に歩み寄る。身構える早苗のそばに立つと、早苗の耳元で何かを囁いた。
……早苗に何を耳打ちしているのだろうか。
そう思った矢先、早苗の表情に変化が現れる。優が何かを囁けば囁くほど、早苗の目を大きく見開かれた。わずかながら、頬に紅潮が見られる。
「な、何を言っているんですかぁ!?」
ついには耐えられなくなったらしく、早苗は狼狽しながら頓狂な声を上げた。
「ん? オレの推測、間違ってた?」
「…………!」
優がニヤつきながら尋ねた。
早苗は何か反論したいのか、口をパクパクと開閉させる。まるで、人慣れした鯉が餌を求めるかのようだ。
そして、優の推測を暗に肯定するかのように、早苗は俯いて押し黙った。
思考停止状態。
「お、おい、早苗。優に何を……言われたんだ?」
恐る恐る尋ねると、早苗は緩慢な動きで顔を上げた。俺の目を見ることも恥ずかしいのか、より頬を紅潮させる。視線は頼りなさげに左右へ揺れ、再び俯いてしまった。
え、何その反応。
マジで、何を耳打ちされたんすか。
颯さん、超……気になるんですが!
「なあ、優。お前、早苗に何を言ったんだ?」
「だ、駄目です! 絶対に!」
優に質問した――刹那、早苗が素早い反応で声を張り上げた。
「駄目です! 颯君は聞いちゃいけません! 優君は絶対に教えないで下さい!」
「え、あ……え?」
戸惑う俺に、早苗が畳みかけてくる。
「とにかく、駄目なものは駄目です! 教えられません! もし優君に聞いたら、颯君のこと、嫌いになりますからね! 優君もですよ!」
普段は目に出来ない――いや、今後一生も目に出来ないかもしれない、早苗の大声だ。
「あ、ああ……分かったよ。聞かない。優に聞いたりしないから、とりあえず落ち着け」
「本当ですね!? 絶対ですよ! 聞いたら絶交ですよ! 嘘じゃないですからね!」
早苗は、なおも食って掛かってくる。
絶交されるような内容なのか。どれだけ酷い内容を耳打ちされたのか。
それとも……恥ずかしい内容か?
「分かった、約束する。絶対に聞きやしない。なあ、優。もし俺がうっかり聞きそうになったら、お前の方からも注意してくれ」
「ん? ああ、オッケー。もし颯が約束を破りそうになったら、注意するよ」
優は吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。尊敬したくなるほど、暢気な奴だ。
「本当ですね! 言質、取りましたからね!」
「ああ、もう何だって構わないよ。言質だろうが人質だろうが、好きなように取ってくれ。ひとまず、お前は落ち着け」
「……わ、分かりました。颯君の言葉、信じますからね」
早苗は胸に片手を添え、何度か深呼吸した。
呼吸が整ったのか、早苗は毅然とした態度で、片手を胸の高に差し出す。
細くて長い女性らしい手――親指から薬指まで握られており、小指だけがピンと立っている。
その動作の意味が理解できなくて、俺は呆けてしまった。
早苗の行動は、子供がよくやる儀式の1つ――指切りそのものだ。
……いや、まさか。そんな訳がないだろう。いくら早苗が世間ずれしているとは言え、高校2年生にもなって、指切りなんてやらないだろう。もっと想像力を働かせて考えるんだ。どうして、早苗は小指だけを立てて、こちらに手を差し出しているんだ? 指切りなんて一切関係無い、もっと深遠な意味が含まれているのではないか?
考えろ、頭を働かせろ!
早苗の立場になって、きちんと感情移入もして!
早苗が取っている行動の真意を探るんだ――
「指切り、です」
早苗は至極真剣な目付きで、指切りを提案してきた。
……。
指切り、ですか。
うん、まあ……。正直なことを申し上げると、この子は、本当に指切りをしようとしていたと思ってましたよ? だって、早苗だもん。これでも、早苗とはそれなり付き合いの長い方だし、早苗の性格や個性などは、それなりに熟知しているつもりだ。
でもさ……。いくら何でも、その歳で指切りはないだろうって。なんか色々と痛々しすぎるだろうって。
もうこうなったら、現実さんに対して白旗を振っちゃおうか。素直に全面降伏しちゃおうか。
「あっはっはっは!」
不意に境内に笑い声が響いた。
笑い声の発生源は、もちろん優だ。今にも悶死しそうに笑い転げていた。
早苗の指切り提案が引き金となって、今まで耐えていた笑いが爆発したようだ。
「なっ! 何がおかしいんですか、優君!」
「くくっ……、いや、だって早苗、それ、指切……あっはっはっは!」
「指切……指切りの何が悪いって言うんです!? 指切りは、きちんとした約束の証なんですよ! 約束をしようとしているのだから、指切りしても、何もおかしくないです!」
「そうだね、指切りは……約束の証としてはポピュラーだよ。一般知識、一般常識。く、くぅ……ごめん、もう無理。何かの閾値に達しそう。颯、オレ、少しだけ向こう行っているから。あとは、お願い」
優は息絶え絶えに言うと「いやあ、早苗は交友範囲が広くて素晴らしいよ。良友だちを持っているね」と言い残し、笑い声を忍ばせて鳥居の方へ行ってしまった。
交友範囲? 良い友だち?
発言の真意は分からないが……まあ、あとで尋ねれば良いだろう。
「指切りは、全くおかしくないです! それなのに、優君……。もう、訳分かんないです!」
早苗は怫然として声に怒気を込めた。
少しして、急に俺の存在を思い出したらしく、こちらを鋭い目付きで睨み上げてくる。
「は、颯君もそう思いますよね!? ……あっ、それとも、颯君も優君と一緒ですか? 指切りがおかしいって思うんですか!?」
当たり前だ。
……と言いたいところだけれど、早苗の感情を逆撫でしたくないので、お茶を濁すことにする。
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第14話 早苗と再会 その3
「まあ、なんつーか……必ずしも変だとは言わないよ。優の言う通り、一般知識的で一般常識的だ。でもな、年頃の問題? 年齢不相応? 赤子がコップで湯冷ましの粉ミルクを飲むって言うか、大人が哺乳瓶を使って牛乳を飲むと言うか」
「そんなに大して問題ではないじゃないですか!」
えー。
「いや、待てよ早苗。大きな問題だろうよ。だって、赤ちゃんが粉ミルクをコップで飲むんだぜ? 大人が哺乳瓶で牛乳を飲むんだぜ? 想像してみろよ。とんでもない光景だぞ」
「飲める分には問題ないじゃないですか!」
えー。
えぇー。
「いや、だから違うって。論点は飲める飲めないの機能性じゃねえって。いや、機能性としても大きな問題があるか? 赤ちゃんが哺乳瓶無しに粉ミルクを飲めるとは……ああ、もう何でも良い! 面倒くせぇ! とにかく、駄目なんだよ! 主に光景が! 視覚的訴えが! 特に大人が哺乳瓶で牛乳を飲む方! まるで幼児退行化した変態じゃねえか!」
「それは一般的な常識の話でしょう! この前、優君が言っていました! なんでも常識や社会規範ばかりに囚われてはいけないって! 常識や社会規範は、過去の風習が多大な影響を与えているものが多くて、時には悪弊が含まれているから、鵜吞みにせずに自分の頭で判断しなくちゃいけないって! 常識に囚われちゃいけないんです!」
「いや、確かに正論だけれども、優はそんな意味でそれを言ったわけでは絶対ないと思うぞ!? 間違ってんだよ、早苗のその考え方!」
「正論だけど間違っているってどう言う意味ですか!? 何が言いたいんですか!? 正論なのか、そうじゃないのかハッキリさせて下さい!」
「正論だよ」
「なら、別に良いじゃないですか!」
「全く良くねえよ!」
「もう! 颯君が何を言いたいのか分かんないです! 頭の中が混乱して来ちゃいましたよ! 完全にちんかんぷんかんです!」
「本当にちんぷんかんぷんだな!」
つーか、話が指切りから完全に脱線している。
「とにかく、早苗はどんな風に思うんだよ。たとえが変だけれど、赤子が粉ミルクをコップで飲んで、大人が牛乳を飲む光景が変と思わないのか? 確かに、優の言うことは正論だ。だからこそ、正論の論理に則って、あべこべな状態の是非を早苗の倫理観に問おうじゃないか。なあ、どうなんだ? おかしいと思うのか? それとも、おかしく思わないのか?」
「全くおかしくないです!」
「精神科を受診して来い!」
「ひ、酷いことを言いますね! じゃ、じゃあ、私に説明して説得してみて下さいよ。颯君がそう言うなら、それを論理的に私に証明してみて下さい」
「は、はあ!?」
まさか、そんなことの説明を求められるとは夢にも思わなかった。
本当に早苗は赤子が粉ミルクをコップで飲み、大人が牛乳を哺乳瓶で飲むのが常識的だと考えているのだろうか。
……いや、さすがに違うだろう。確かに、早苗は世間ずれしている節はあるけれど、馬鹿じゃない。自分の主張が滅茶苦茶だと理解しているものの、強情を張っているのだろう。
早苗は、普段の物腰柔らかだけれど、変なところで意地っ張りになるところがある。こうなると、ちょっとやそっとのことでは、我を曲げない。
面倒臭いなぁ。
ふと、こちらに近づく足音が聞こえた。振り返ると、ひとしきり笑って気が治まったのか、平素の表情の優が戻って来た。
ただでさえ面倒な要求をされているのに、もっと面倒な奴が帰ってきやがった……。
「さっきから怒鳴り合っているようだけれど、何かあったの?」
「いや、これはだな……、つーか、こうなった原因は、お前が早苗のことを弄ったからだろうが。こうなった責任をとれ」
「は? オレに責任があるの?」
「ある!」
「ふむ……じゃあ、仕方ないね。責任を取るとしよう。で、掻い摘んで今の状況と経緯を説明してくれない?」
「かくかくしかじかだ。これで分かっただろう?」
「あ、そう言うことね」
「マジで分かったの!?」
ネタで言ったつもりだったんだけどな、かくかくしかじかって!
「まあ、あれだけ声を上げていれば、話の内容は聞こえてくるさ。境内は静かだからね。そのお陰で、ここに戻ってくるまで数分ばかり遅れちゃったよ」
どうやら、俺と早苗の会話の内容を聞いて、また笑っていたらしい。
あとで腹パンを1発お見舞いして、憂さ晴らしさせてもらうとしよう。
「さっさと何とかしてくれよ……」
「個人的には、颯がどんな論証で早苗を納得させるのか楽しみなんだけどね」
「素直に責務を果たすか、腹パンされて痛い思いをするか。どちらかを選べ」
「3番目の、颯が早苗に八つ当たりビンタされるで」
「ヘイ、腹を出せ」
「ノーサンキュー」
優は肩を竦めると、不機嫌そうな早苗を一瞥する。
「この場を簡単に収めたいんでしょ? なら、話は簡単だよ。こんな議論をしたところで不毛だ。時間と体力の空費だよ」
「んなことは分かってる。さっさと場を収める方法を教えろって」
「そんなの簡単だよ。颯が素直に早苗と指切りをすれば、それだけで場は収まるじゃないか」
「……」
かくして。
仏頂面の早苗と指切りをすることで、問題は落着したのであった。
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第15話 旅行の前夜
のどかな昼下がり。
社務所の休憩室で、3人は思い出話に花を咲かせた。
守矢神社で遊んだ時の話、互いの家に遊びに行った時の話、野山を探検した時の話、神社の蔵の中に忍び込んだ話、近所で催された祭りの話、小学校で行った密かな悪戯や失敗談、過去の級友の近況、初めての宿泊学習の話――
一通りの思い出話を語り終え、今度は互いの近況を報告し合う。今後の夏休みの予定、近場に新しく開店した服飾屋や喫茶店など。
どんな話題でも構わず、気の置けない旧友との語らいを心ゆくまで楽しみ続けた。
気が付けば、神社は夕日影に照らされ、神秘的な静寂を匂わせていた。
俺と優は早苗に別れを告げ、神社を後にした。
それから時間は流れ――
俺は自室のベッドに寝転がり、保冷剤を包んだ三角布で右手首を冷やしていた。
どうして右手首をアイシングしているか――それは優の同人誌制作の手伝いが関係している。
早苗と再会した後から現在に至るまでの3日間、優の自宅であるアパートにこもり、優と一緒に夏コミの同人誌制作に尽力していた。
狭くて小奇麗とは言えない部屋の中、窓を全開にして、さらに扇風機フル稼働(エアコンと呼ばれる文明の利器が設置されていない)で、黙々と原稿用紙と闘っていたのだ。
成人向けの同人誌であることはともかくとして、同人誌制作そのものは楽しかった。もともと物作りは好きだし、めったに体験できない作業だから、新鮮味があるのだ。
そんなこんなで、同人誌制作に意欲的に取り組んでいたのだけれど……。
「手首が……いてぇ……」
酷使された右手首が痛みに悲鳴を上げている。
いや、悲鳴を上げるという表現は、いささか誇張的か。
呻き声を上げる、という表現に抑えておこう。
まあ、表現の程度問題など、どうでも良い。
ふと、部屋の夜窓から、空の様子を窺う。夜空には雲がまばらに浮かんでいるだけで、星空が綺麗に見えた。
この調子なら、明日の天気は雨にならないだろう。
夜空の星明かりを見上げていると、不意に携帯電話の着信メロディが鳴った。メールを受信したようだ。
携帯電話を手に取り、受信BOXを呼び出す。
メールの差出人は早苗だ。
件名:明日の旅行
本文:こんばんは、颯君。この前の神社で行ったお喋りは楽しかったですね。思い出話をしていたら、何だか不思議な気持ちになっちゃいました。懐かしいような、温かいような……でも何故か切なくて悲しいような。アンビバレンスです。
それはともかく、明日の旅行は楽しみですね。小学校の時の遠足前夜みたいで、心が浮き立っちゃいます。未だに子供っぽいのでしょうか。颯君は、どんな気持ちですか? 私みたいに、心がうきうきしてして落ち着きませんか?
今日はあまり夜更かしせずに、ゆっくり休んで下さいね。3人で無事に旅行を終える事が出来たら、とても嬉しいです。
少し早いかもしれませんが、お休みなさい。明日、また会いましょうね。
メールの内容はそのようなものであった。
メールを読了すると、すぐに返信メールを書いて、早苗に送った。
メール送信完了の画面を確認すると、再び受信BOXを開いて、今度は優から一昨日送られてきたメールを展開した。
そのメールには、温泉旅行に関する事項が書かれている。当日の集合場所と待ち合わせ時刻、電車移動における運賃と移動時間、旅行に際しての必要品、大まかな行動予定などだ。
そのメールの内容を再三に渡って確認すると、携帯電話を閉じた。
目を閉じ、手のひらを胸に当ててみる。
常よりも少しだけ、心臓が鳴っている。
無論、わくわくしているのだ。
早苗が子供っぽいのなら、俺も子供っぽいということか。
早苗がメールに書いていた通り、今夜は早めに休み、万全な体調で明日を迎えたい。早めに就寝した方が良いだろう。
俺は部屋の電灯を消した。
見慣れた自室の光景。
今に限っては、その光景が少しだけ……いつもと変わっているように感じられた。
『世界が退屈に感じられる? それは、あなたが世界に飽きたからではありません。あなたがあなた自身に飽きているだけですわ。観測者が変われば、観測結果も変わりますもの』
ふと、そんなことを誰かが言っていたような気がする。
誰の言葉だったか。口調からして大人の女性だと思うのだけれど。
学校の女性教諭であったか。それとも、近所の女性であったか。
「まあ……誰だっていいや」
独り呟き、ベッドに横になった。
そう言えば……。
その言葉に続きがあったと思うのだけれど、何だったか。
思い出そうとするものの、いつにもまして、あっさりと意識が眠りに沈み始めてしまう。
旅行前の緊張や期待など、全く関係なく。
誘われるように、
引き込まれるように、
飲み込まれるように、
水に溶けるように、
毒薬に侵されるように。
甘美な眠りは――意識を闇へと落として行った。
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第16話 再来と戯言
『こんばんは、調子はどう? ……あらあら、今日は随分と御機嫌のようですわ。世界が愉楽と安らぎに満ちているわ。ふふふ……温泉旅行を楽しみにしているようね。とても居心地が良いわ』
――ああ、あんたか。なんだ、また来たのか。
『あら? もしかすると……珍しいこともあるものですね。不思議なものですわ。無意識領域の会話は、無意識が故に、本来憶えていないものなのですけれど。あなたの中で何か変わったのでしょうか。それとも、私が誤って無意識以外領域に足を踏み入れてしまったのでしょうか。……ねえ、どちらだと思います? あなたの変化か、私の過失。はてさて、今回の珍しい事態を招いたのは、どちらが誘因なのでしょう」』
――俺が知っていると思うのか?
『知っていないでしょうね。ええ、答えは察しておりましたわ。予想通りです。……さて、この事態を引き起こした誘因が何か。その真実を知りたくなくて?』
――さあ、どうだろうな。知りたいと言えば、知りたいのかもな。まあ、どちらでも構わないけれど。
『そうですか。何ともつまらない限りです。もう少し興味を示して下さらないと、こちらとしては、解答を勿体ぶる甲斐がありませんわ。……そうだ、1つ提案を致しましょう。もう少し、私と言葉の掛け合いを楽しもうと努めてみませんか? 私、あなたとなら、とても楽しい歓談が出来そうな気がするのですけれど』
――それは是非ともお断りしたいところだな。俺としては、お喋り好きな奴は、あの馬鹿1人で十分だからな。
『あの馬鹿――あなたの友人ですか。ええ、彼はとても賑やかな少年ですからね。あなたがお喋り好きを望まない気持ちも理解に難くありませんね。しかし、それでは、私の方がつまりません。せっかく、あなたの世界にやって来たというのに……。骨折り損のくたびれ儲けではありませんか。少なくとも、足代に見合うだけの楽しみを貰えませんこと?』
――会話に付き合わなければいけない義務も義理もないからな、御免こうむるね。……まあ、そんなことを言ったところで無駄なんだろうけどな。あんた、帰れって言っても帰るつもりはないんだろう?
『あら、分かりました? ふむ……。どうやら前回の時の会話も少しばかり憶えているようですね。それ以前のことも憶えているのでしょうか。他に、何か思い出せるような事はありますか?』
――いや、特には何も。会話内容なんか綺麗さっぱり思い出せないな。ただ、あんたが随分とお喋り好きで、そして面倒な性格をしていたという印象くらいだな。
『あら、お言葉ですわね。確かに、自分が面倒な性格をしていることは認めますけれど、面と向かって指摘するようなものではありませんよ。……ああ、辛い。辛すぎますわ。あなたの言葉が剣の如く私の心を切り刻んで、今にも哀咽を漏らしてしまいそう』
――嘘つけ、そんな繊細な性格はしていないだろうに。
『あら、失礼ですこと。これでも繊細な感性は持っているのですよ』
――感性かよ。
『良い指摘ですわね。こう言う受け答えをしてこそ、会話は楽しめるというものです。今のあなたとなら、今までの会話よりも格段に楽しめそうです。期待しても宜しいかしら?』
――出来れば、期待しないで欲しいのだけど。……で、今日は何を話に来たんだよ。今までは何か……どっかの場所についての説明されていたような気がするんだけどな。またその話か?
『いえいえ、今日はそのつもりはありません。仮にあったとしても、今回は、あなたと世間話に花を咲かせようではありませんか。無意識領域の刷り込みは、いつでも出来ますわ。その機会はこれから先――最低でも1年有半の歳月の間に、いくらでもありますからね』
――ふうん……。今まで疑問には感じて疑問には思えなかったけれど、どうしてそんなことを気長に続けているんだ?
『ふふ……教えて差し上げましょうか?』
――どうせ教えてくれないんだろう?
『私の性格がよく分かって来ているではないですか。他者からの理解というものは嬉しいものです。どうです? これからは恋人のように、互いに相手の理解を深めようと努めるというのは。他者との深い繋がりは、あなたに幸福をもたらすと思うのですけれど』
――是が非でもお断りしたいな。あんたみたいな胡散臭い奴と精神的に結ばれてもな。厄介なだけじゃないか。
『あらら、厄介者扱いですか。これは酷い。裏切られた気分です。この責任、どう取ってくれますか?』
――知るか。俺は甲斐性無しなんでな、責任という概念が大嫌いなんだ。
『褒められた発言ではありませんね。それに感心も出来ませんわ。まあ、自らを貶めてまで発言を跳ね除ける努力には感心しますけれど』
――まあ、それはいい。で、今日はどんな世間話とやらを?
『あら、乗り気ですの?』
――どうせ満足するまで帰るつもりはないんだろう? それくらい付き合ってやるよ。今は……誰かと話したい気分であるしな。
『それは嬉しい限りですわ。出来れば、上機嫌の日が多いと良いのですけれど、これは我が儘かしら』
――まるで俺が普段は不機嫌みたいな言われようだな。
『言葉の綾ですわ。どうか寛大な心で許して下さいませんこと?』
――許す許さないに関係なく、あんたは全く気にしないだろうに。よく言うぜ。
『ええ、言葉の遣り取りを楽しんでいるだけですから』
――ああ、そうかい。……で、世間話ってなんだよ。そちらからやって来たのだから、話の種くらいは用意しているんだろう?
『ふふ、用意していますとも。さて、何から話し始めたものか……話の種が多いというのも困りものですわね』
――どんだけ用意して来てんだよ……。女性のお喋り好きには感服するよ。
『男が自身の武勇伝を語るようなものです。もしくは、女を侍らせるようなものでしょうか』
――そこはかとなく馬鹿にされているような気がするが。
『いえ、別に揶揄しようだなんて気はありません。性の差異、性の摂理の話です。女にとって、お喋りとは一種の悦楽なのです。古来からの習性、生きる知恵ですわ』
――何か話が大きくなってきたな。あんまり難しい内容の会話は好きじゃないぜ。
『私としても、小難しい話は好きではありません。会話とは、冗談を掛け合うものだと思っていますから。女はお喋り好き。それがそうだからそうなのだ。そう思っていれば結構ですわ。……そう言えば、女は甘いもの好きでもありましたわ。甘露――甘い露が好きとは、まるで花に舞う優雅な蝶のようではありませんか』
――風流で繊細な感性の持ち主だことで。
『お褒めに与り光栄です』
――そう言えば、女性は恋愛話が大好きなようだけれど、あれは何故だ?
『理屈は、とても簡単です。恋愛とは甘く切ないもの。そして女は甘いものを好みます。故に、女は恋愛に対して、非常に恋い焦がれるのです』
――素晴らしい三段論法だことで。結構毛だらけ猫灰だらけ。
『賛辞として受け取りましょう。……さて、私があなたの恋愛事情を根掘り葉掘り尋ねても、仕方がないと諒恕して下さいますよね。なに、気にする必要はありません。ただ、甘い蜜の周りを蝶が舞っているだけなのですから』
――諒恕しねえよ。破綻している論理を使って、詭弁を弄するな。
『冷たい殿方だこと。女は、自分の我が儘を許してくれる男を好むのですよ? あなたに惚れさせてくれませんこと?』
――あんた、あいつに負けず劣らず減らず口なんだな。
『ええ、私の口は3つありますから。一般の者よりも減らず口であるのは、詮方無いことです』
――は? 口が……3つ?
『ええ、3つです』
――冗談だろう?
『事実です』
――え、それは……本当なのか?
『嘘をついていませんよ。なんなら、神に――いえ、妖魔に誓おうではありませんか。ほら、こう言うではありませんか――目は口ほどに物を言うと。本来の口に両眼で……ほら、実質の口は3つではありませんか』
――……。
『……ああ、私としたことが失念していましたわ。心の目を入れれば、口は実質4つでしたわね。訂正しますわ。私の口は4つです』
――この、戯言使いめ。
『弄言は私の得意とするところです。さて……そろそろ言葉遊びは止めましょう。このままでは、いつになっても本題に触れられませんから』
――基本、全部あんたの所為だよな、それ。
『良いではありませんか。無口な者よりも多弁の者の方が親しまれやすいのですから。お蔭で、歓談しやすい雰囲気になったでしょう?』
――お蔭様で、本題に入る前に気力がガリガリ削がれたよ。
『女性と付き合う時は、色々と出費が重なるものです。男たるもの、忍耐ですわ』
――随分と都合の良い考え方だことで。
『さて、話題を変えましょうか。色々と話の種はあるのですけれど……。初めは何にしましょうか。悩みますわ』
――お手柔らかに頼むぜ。
『ええ、承知致しました。では――あなたの色恋沙汰についての話はどうでしょう?』
――何やら鬱陶しい蛾が舞っているな。
『あら、つまり蛾眉と言いたいのですね? 照れてしまいます。ふふ、口達者ですね』
――誰も美人なんて褒めてねえよ。
『冗談ですわ。冗談はお嫌いかしら? ……そうだ、温泉の話を致しましょうか。そうです、そうしましょう。温泉に対する知識を身に付けるのは、都合が良い筈ですから』
――まあ……こちらとしてはありがたいところだな。でも、俺は温泉に詳しくはないぞ? 温泉に行った回数だって、恐らく両手の指で事足りるだろうし。
『一向に構いませんわ。情報交換ではないのですから。言わば、これは私の思い出話なのです。あなたは耳を傾けて下さるだけで十分。適度に相槌なり質問なりして下されば十二分』
――あんたがそれで良いって言うなら。
『さてさて、どの温泉の思い出話を始めようかしら。……ああ、あまりにも数が多すぎて、話し始めに困ってしまいます。山奥の名湯から、果ては海岸沿いの秘湯まで。珍しいところでは地獄の湯壺もありますか。選り取り見取りで悩みますわ』
――長い話だと辟易するから、程ほどにしてくれよ。
『手短になるよう心がけましょう。しかし、あなたが就寝した時刻は宵の口。夜はまだ長い。ゆっくりと楽しもうではありませんか。夢路を辿らせた意味がありませんわ』
――何を言っているのかよく分からないが……。
『特に気にする必要はありません。そうですね……今は無き灼熱地獄を利用していた珍湯から紹介しましょうか。少し説明は長くなりますが……あら、これでは前言に抵触してしまいますね。先の発言は忘れましょう』
あの地底の烏の鳥頭を見習って、1歩……2歩……3歩。
……あら?
私は一体全体、ここで何をしていたのかしら―――なんて具合にね。
都合が良すぎるかしら?
ふふふ……。
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第17話 駅前広場で集合 その1
駅の駐輪場に自転車を預け、駅舎前にある小さな広場の方に向かった。そこが、優と早苗と合流する集合地点だ。
集合時刻の約15分前に到着だ。これなら1番乗りであろう。
そう思っていたのだけれど。
視界の先――広場に設置された石造りの長椅子に座り、優と早苗が楽し気に会話していた。
そこそこ早めに来たのに、まさか自分が最後の1人になるとは……。
何やら敗北感のようなものを感じつつ、優と早苗の許へ向かう。
「おーい、颯。おはよう。到着が早いね」
「あ、颯君、おはようございます」
俺の接近に気付き、優と早苗が声を掛けて来た。
「おはよう――つーか、お前らどれだけ到着が早いんだよ。まだ集合時刻の15分前だぞ? いつからここに到着していたんだよ」
「オレは大体20分くらい前だったかな? ちょっと到着する時間が早いかなと思ったんだけど、特にやることが無かったから、早めに出て来たんだ。オレが到着する前に、もう早苗はいたけどね」
「私は優君が来る少し前に到着しました。お恥ずかしい話ですが、家で待機する時間がもどかしくて……早めに家を出てきちゃいました」
なんだかんだ、みんな遠足気分で浮き足だったわけだ。
「なるほどね。2人の到着が早すぎて、集合時刻を間違えたのかと思ったぞ。……で、何か楽しそうに話していたけれど、何を喋っていたんだ?」
「いや、ちょっと早苗の恋愛相談的なものを少々……」
「恋愛話? 早苗の?」
「ちょっ、優君!?」
早苗が素っ頓狂な声を上げた。
「オレは気が進まなかったのだけれど、早苗がこう……ぐいぐい強引に話題を持って行ったからね。止むに止まれぬと言うか、引くに引けなくなったと言うかさ。強制的に相談相手もどきの話し相手を」
「や、止めてくださいよ、からかうのは! 私、そんなことを話してなかったじゃないですか! 温泉のことで話していただけです」
ああ、温泉のことで雑談していたのか。
……何だろう。つい最近、似たようなことを話した気がするのだけれど。
まあ、それはさておき。
ここは場の流れを読み、優の冗談に乗っかるとしますか。
「へえ、それはまた意外だな。早苗、そんな押しが強い性格ではないと思っていたが……そんな一面もあったのか。……あれか、恋は人を変えるって感じ?」
「かもね。女の子は恋をすると激変するもんなんだねぇ……。会話中の早苗、なかなかに積極的だったよ。どんな仕草に男は惹かれるのか、どんな風にアプローチすれば男はその気になるのだとか。色々と質問攻めにあったよ。あれは猛禽類の目つきだったね」
「なるほどな。早苗は隠れ肉食系女子だったってことか」
「いいね、隠れ肉食系女子。普段は恋愛に対して奥手っぽくて、でも智略的な策で捕食してきそう。見えない罠を張り巡らすタイプだね。まるで糸の巣を作りあげる蜘蛛のようだ」
「蜘蛛か。つまりは……女郎蜘蛛というわけか」
「お、上手いことを言うね。若い女性だから女郎と言うわけか。すると、捕食対象は草食系男子ではなく、昆虫系男子?」
「昆虫系男子か。なんとも捕まえやすそうだな」
「だねー。虫取り網があれば捕まえられそうだし。草食系男子が恋愛奥手男子なら、昆虫系男子はどんな男子なんだろうね」
「そりゃあ、あれだろ。捕まえやすい男子なんだから、軽く言い寄れば勝手に誤解して落ちてくれるような、女性に免疫の無い男子だろ」
「ああ、なるほど。オタク的な男士かな? ネット好き的な意味でも」
「蜘蛛の巣だけにネットときたか、洒落が利いてて良いな。中々に言い得て妙じゃないか」
「でしょう? ……あっ! 早苗が狙っている相手は、昆虫系男子――つまりはオタクっぽい人か!」
閃いたと言わんばかりに、優は膝を打った。
「ねえ、聞いてますか!? 聞こえているんでしょう!? わざと聞こえない振りをしているんでしょう!? 意地悪しないで下さいよ! あれは単に温泉話をしていたと言っているでは――」
早苗が横合いから抗議の声を上げ続けているが、適当に無視しておく。その方が面白そうだ。早苗は真面目に反応してくれるから、からかい甲斐がある。
「優よ、そこに気付くとは……やはり天才か。……ん? おい、ちょっと待て。と言うことは、早苗の捕食対象は、お前って可能性もあるんじゃないか? お前もオタク文化にはどっぷり浸かっている身じゃないか。……もしや!」
「……まさか!」
俺と優が瞠目して早苗に視線を向ける。
早苗は驚きと心外のあまり、目を大きく見張った。
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第18話 駅前広場で集合 その2
「え、ええ!? ちょ、ちょっと! 一体全体、何を言っているんですか!?」
早苗は酷く困惑した表情を浮かべて、俺と優の顔を交互に見た。
しかし、俺と優は、さらなる滑稽な空談に埋没する。
早苗の困惑は無いものとして、暗黙の了解を結んだ。
「そ、そうか……! だから、早苗はオレに恋愛相談を持ちかけて来たのか! 男性であるオレの立場から教えてもらう体裁を装い、実はオレの主観的意見――すなわちオレ自身の好みと落とし方を聞き出そうとしていたのか!」
「すさまじい智略……。さすがは捕虫系女子だな。意中の男性に、男性の落とし方を教えてもらう。こんな恋愛攻略法があったとは、盲点だったぜ……! やべえよ、捕虫系女子! 計略の底が知れねえ!」
「くそっ、オレは早苗の術中に陥った昆虫系男子。俎上の鯉ならぬ、網上の虫ってことなのか……!」
「まだだ、まだ諦めるな! 何か策がある! 計略の網から逃れるための策が!」
「……駄目だ、そんな逃げ道があるはずがない。相手は女郎蜘蛛という捕虫者。狙われた昆虫は……糧になる運命なんだよ……」
「馬鹿、諦めんな! 最後の1パーセントでも可能性が有る限り、死に物狂いで足掻くんだ!」
「だ、駄目だ……。もう身体に毒が回って……満足に動けやしない……」
「なっ!? まさか……毒蜘蛛だったのか!?」
優は息絶え絶えに言うと、手足を痙攣させながら、石造りの長椅子にぐったりと横になった。
そこまでしなくても良いのではないかと思ったが、この際行き着くところまで行ってしまっても良いように思えた。完全に悪乗りである。
どうせふざけるのなら、とことんふざけて楽しもうではないか。
俺が困るわけではないし。
「ちょ、ちょっとやり過ぎですよ、優君! そんなところで寝たら、服が汚れちゃいますよ!」
早苗が困惑しつつも優の体を揺する。
「ぁぁ……ぁ……ぅぁ……」
優は今にも死にそうな喘ぎ声を出して、なおも苦しむ演技を続ける。
ボケに対して真剣に反応すると、相手が調子に乗って事態が悪化する。早苗は、その真理を分かっていないようだ。
それにしても優、いつにも増してノリノリなボケである。温泉旅行を前にして、テンションが上がっているせいかもしれない。
「颯……もう、駄目だ……意識が……薄れ……」
優が気息奄々と手を伸ばしてくる。
「おい、待て、死ぬんじゃない! 死ぬな、優! 死んじゃ駄目だ!」
「ああ……いざ自分が死ぬと分かると……清々しい気分になるんだね……」
「馬鹿、そんな事を言うなよ。そんな悲しい事を言うなよ……!」
「最後に……最後に……」
優は消え入りそうな声を上げる。
早苗弄りもクライマックスらしく、優は頼りなく震える手を天に伸ばし、何かを掴もうと指先を蠢かす。
「ねえ、優君! ふざけるのは、それくらいにして下さい! 周りの人が! 通行人がジロジロこちらを見ていて恥ずかしいですから!」
早苗が本当に泣きそうな声で(もちろん、優の演技を見て感動したわけではない)周囲の状況を訴えた。
見ると、広場の周辺を歩いている通行人の方々が、こちらに奇異の視線を向けていた。
「あ、そう? それなら止めた方が良いね」
今にも昇天しそうな様子は、どこへやら。
優はむくりと長椅子から起き上がり、大きく伸びをする。
「うーん、石の長椅子って冷たいね。座るのなら良いけれど、横になるようなものではないね。……ふむ、健常一般人方々の冷眼視が凄いね」
優が周囲を見渡すと、実に冷静な感想を述べた。
「――ちょっとなんてもんじゃありませんよ! そう言う事は時と場所を選んでやって下さい! 本当に困るし恥ずかしい思いをするじゃないですか!」
「あー……ごめんごめん。颯が冗談に乗ってきたからね。颯の顔を立てるために、仕方なかったのさ」
優は早苗に謝りつつ、さらっと俺に責任転嫁もした。
この辺りのクズっぷりと言うか、能弁さは見習いたくなる。
……よし!
「すまんな、早苗。真面目に反応してくれる早苗の姿が可愛くて、ついな」
「颯君……冗談でも責任転換は最低ですよ」
「あ、はい、すみません。仰る通りです」
早苗さんから怒られてしまった。
「まったく、もう……」
早苗は数秒黙り込むと、大きな溜息をついた。
「もういいです。優君は、昔から悪ふざけが過ぎる人ですから。でも、今回みたいなことは、もう止めて下さいよ。私、本当に恥ずかしかったんですから……。1番悪いのは優君ですけれど、颯君も颯君です。次は本気で怒りますからね」
早苗は怒気を込めずに言い終えると、プイッとあらぬ方向に身体を向けてしまった。私は不機嫌になりました、と暗に示したいようだ。
俺が優に視線を向けた。
優はこちらを見返し、両手を半ば上げてみせる。降参の仕草だろう。
なんだかんだ、今回の悪乗りで楽しませてもらった。
早苗に何か奢ることで、手打ちということにしよう。
温泉街なら、美味しい食べ物など、いくらでもあるだろうから。
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第19話 駅構内で雑談 その1
駅構内。
「そう言えば、乗る電車って何番線に来るんだっけ?」
俺は切符を財布に仕舞うと、改札口を通過して来た優に尋ねた。
「上り方面だから2番線だよ。ほら、電光掲示板に表示されている8時17分発のやつ」
電光掲示板を見遣ると、目的の電車は確かに2番線に来るようだ。到着時間まで、10分程の余裕がある。
「いよいよ電車に乗車ですか。なんだか、本当に小旅行をするって実感が湧いて来ますね。期待に心臓がドキドキです」
改札口を通って来た早苗は、胸に手を当てている。
「お、偶然だね、早苗。仲間仲間ー。オレも今、心臓が時々鳴ってるよ。温泉、楽しみだよね」
「……おい待て。心臓が時々鳴っているって、かなりやばいじゃないか」
危篤とか、死ぬ一歩手前なんてもんじゃない。
死ぬ。
「あはは。優君、面白いところで噛みましたね。それじゃあ、意味が全然違くなっちゃいますよ」
早苗は無垢な笑みを浮かべた。どうやら、優がわざと『ドキドキ』を『時々』と言い換えたことに気付かなかったようだ。
優は少し呆気に取られた顔つきで、早苗の表情を眺めていた。
「……ねえ、颯。自分のボケがボケとして気づかれなかった時の、この胸の空虚なわだかまり……なんだろうね」
優が神妙な面持ちで尋ねてくる。
「肩透かしみたいなもんだろ。早苗の前では、あんまり狙ってボケるなってことだ。早苗に的確なツッコミを期待しても無駄ってわけだ」
「ボケるな、だって!? それはオレの死活問題に関わってくる大事じゃないか!」
知らねーよ。
俺は優を無視し、2番線のホームへ向かおうとする。
「そう言えばさ、颯。最近、外国人の間で日本の温泉が話題になっているって知ってる?」
「そうなのか?」
「うん、結構人気みたいだね。温泉のことを調べていたらね、そんな記事を見かけたんだよ」
「へえ……。そりゃあ、またなんで? 何か新しいブームでも出来たのか?」
「ああ、それはね――」
優が答えようした直前、急に早苗が横手を打って「あ、分かりました!」と上機嫌に声を上げた。
何が分かったのだろうか。
「たぶん、早苗は遠い彼方の惑星から、何か未知なる電波でも受信したんだよ」
優は頭の上で鬼の角のように指を2本立てると、それをくるくると回した。
「違いますよ。私を妄想癖のある痛い子のように言うのは止めて下さいよ」
早苗は不本意と言わんばかりに憤慨する。
「そうだぞ、優。まあ、ちょっと常識とズレている時もあるけど、早苗はまともな女の子だぜ?」
「颯君、さらりと酷いことを言いますね……」
早苗が遣る瀬無い表情を浮かべ、こちらを横目に見てくる。
しまった……。本音に違いないが、言い回しを工夫するべきだった。
ここは話題を転じて、言い紛らわそう。
「で、どうかしたのか、早苗。さっきは、なんで声を上げたんだよ」
「ああ、そうでしたそうでした。……ふふふ、私、優君が何を言おうとしたのか分かってしまいましたよ?」
早苗は実に得意そうな様子だ。
それに対して、優は怪訝な表情を浮かべている。
「優君。優君が言っていた外国人さんって、主にアメリカ人やイギリス人の方ですよね」
「え? ……まあ、主に欧米系の外国人のアンケート調査みたいだったと思うけれど」
「でしょう? だって、欧米の方々でないと、洒落がきいていませんからね」
洒落がきいていない?
それは一体どういう意味だ?
早苗の発言は、どうも不得要領だ。
俺は優に視線を向け、早苗の発言の意味を暗に問うてみる。しかし、優も早苗の発言の意味が分かっていないようで、首を傾げられてしまった。
つまり……早苗は何かを勘違いしているのだろうか。
「……そっかー。早苗は聡いね。颯は気が付いていないようだけれど、これじゃあ、オレが形無しだよ。出来れば、オレの顔を立てる意味で、気付いていないように演技して欲しかったね」
突然、優がそんなことを言った。
何を言っているのだろう、こいつは。自分も早苗の発言の意図が分かっていな様子だったじゃないか。
「あっ、そうでした。ごめんなさい、気が付きませんでした……。そうですよね、これでは私が優君の楽しみを奪ってしまったようなものですよね」
「いやいや、気にする必要はないって。むしろ、1人だけ答えが分かっていない颯に、2人でニヤニヤと優越感を楽しめるってもんだよ。これはこれで面白い」
「優君、相変わらず意地の悪い性格をしていますね。そんなんじゃ、いつか颯君が愛想を尽かしますよ?」
「うん? その心配はないよ。颯はマゾだからね。むしろ、虐げれば虐げる程に友好度がぐんぐん上がっていくのさ。早苗も機会がある時に遊んであげるといいよ」
根も葉もない俺の風評被害を広めることは、止めて頂きたい。
颯さんは、実に健全な男の子です。
「あはは……私は遠慮しておきます。と言うか、それ、嘘ですよね?」
「嘘って何が?」
「えっと……颯君がマゾ……被虐趣味の持ち主であるという話」
「……ねえ、早苗」
優が急に憂いを帯びた表情を浮かべる。
「はい? 何ですか?」
「この世にはね……受け入れがたくても、歴然たる事実ってやつがあるんだよ……」
「……え」
早苗は、驚きと気まずさが入り混じった表情をこちらに向けてくる。
え、なに。なんですか、早苗さん。
あなた様は、どうして奇異の視線を向けてくるのですか。
「……おいまて。早苗、まさか本当に優の発言を信じているのか?」
「え……いや、それは勿論! そんな訳がありませんよね。あはは……」
早苗は苦笑いを浮かべながら、横板に雨垂れのように言った。
その反応から推察出来ることは――2つ。
1つは、優の発言を鵜呑みにした可能性。
1つは、以前から俺が被虐趣味持ち主なのではないかと疑っていた可能性。
……前者であることを激しく祈る。
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第20話 駅構内で雑談 その2
「いやいや、颯、もう隠すのは止めようよ。嘘をつくのは良くないって聖書にも書いてあるしさ。どうせいつかバレる日は来るんだ。丁度良い機会だし、カミングアウトしちゃおうよ」
「黙れ、戯言野郎。何が良い機会なのか全く分かんねえし、俺に被虐趣味なんて一切ねえよ」
「チッチッチ、甘いね。オレは颯の家に何度も行ったことがあるからね。颯がいくら誤魔化そうとしたって無駄だよ。実際にこの目で……見てしまったからね」
「は? 見たって……何を」
まったく心当たりが無いのだけれど。
「ほら、被虐趣味の方には重要なアイテム――蝋燭と縛るものさ」
「えっ!」
早苗が口元に手を当て、驚きの声を上げた。
早苗の目に『話題に対する強い好奇心』が映ったように見えたのは――俺の目の錯覚と信じたい。
「……ちょっと待て。おい、優や。それ、マジで言ってんのか?」
「マジもマジ、大マジさ。オレは何1つ嘘をついちゃいないよ?」
「ほう……二言はないな? 神に誓うか? 仏に誓うか?」
「誓っても良いよ。オレの発言に何1つ嘘は含まれちゃいない。神にも仏にも誓おう。何なら、聖書に手を置いて誓ってもいい」
何の躊躇いもなく、何の気後れもなく。
優は嘘をついていないと断言しやがった。
そこまで言い切るのなら……本当に優は嘘をついちゃいないのだろう。
正直なことを言えば――俺の自宅には『蝋燭と縛るもの』が存在する。それも1つや2つではない。蝋燭に関しては、ダース単位で持っている。縛るものに関しては、きちんと予備もあるだろう。
それは紛れもない事実であるし、否定する気は微塵もない。
加えて言えば、それを持っていることに一切の後ろめたさは無い。
むしろ、逆に問いたくなるが――別におかしなことではないだろう?
……ああ、言い忘れていた。
注意しておいて欲しいことがある。
優が言うところの『蝋燭』が必ずしも『SMプレイで使われるような大型なもの』を指しているとは限らない。『縛るもの』が『荒縄』であるとは限らない。
玩具のピストルであろうと、それが『ピストル』であることに違いないわけで。
レジ袋であろうと、頭に被せれば『殺人道具』にもなる訳でして。
つまり何が言いたいのかと言うと……物は言いようってことだよ!
「えっと、あの、その……颯君?」
俺がげんなりしながら声のする方――早苗の方を見た。
早苗は好奇心を抑えきれないのか、おずおずと尋ねてくる。
「その……本当なんですか? 優君の言う通り、あの……蝋燭とか、あ、荒縄みたいなものを持っているのって……?」
早苗さんって、案外……そういうことに興味津々なんですか?
なんだろう、少し早苗に幻滅したな……。早苗はもっと清純と言うか、ドロドロした淫猥なことと無縁と思っていたのだけれど。
まあ、勝手に理想を重ねて勝手に幻滅するなんて、自分勝手も甚だしいか。
しかし……そういったことに興味を持っているとは、それはそれで何やら胸の内で興奮に似た感情が湧いて来なくもない。
エロい女の子とか、男として、ある種の喜びを覚えなくもないな。エロい女の子が近くにいる――それだけで胸がドキドキしてくるではないか。
つーか、さっきから何を考えているのだろう。
夏の暑さに頭をやられているのかもしれない。
「……仮に持っていたとして、それが何か? 早苗、蝋燭や荒縄に興味あるんすか」
「ええっ!? な、無いですって! 全然! 全く! た、ただですね、そう言う人に初めて会いましたから、えっと……」
早苗はしどろもどろに答え、廉恥心に頬が紅潮した。まるで、いつかの神社の時のようである。
あの時、優は早苗に何を耳打ちしたんだろうな……。
まあ、いいや。
どうやら、俺が被虐趣味の持ち主であると、早苗に確信されてしまっているようだ。
事実無根の勘違いなので至極どうでもいいけれど、マゾ野郎と認識され続けるのは嫌だ。どうにかして誤解を解く必要がある。
それにしても、この早苗の反応。もしや、本当に被虐趣味に少しでも関心があったという証拠なのだろうか。
東風谷早苗、マゾ気質の疑いあり。
「おや? 早苗、もしかして興味があるの?」
優は意外そうな表情で早苗に尋ねた。
言い換えれば、早苗を弄りにかかった。
「いや、ちがっ……! だから、そう言うのではなくて!」
「颯、機会がある時にさ、早苗に蝋燭と縛る物、少し分けてあげれば? ああいうのってさ、いざという時に無いと、かなり困るだろうからさ」
まあ、困る時は確かに困るかなー。
停電した時とか。
荷造りしたい時とか。
「なっ……! い、要らないです! 全く不必要です!」
「いやいや、遠慮すること無いよ。ああいうものは、本当に必要になって仕方が無い時に手元に無いと、かなり困るしさ。早苗も経験上、そう思うでしょう?」
「け、経験!? 誤解です、颯君と違います! 私はそんな経験は1度もありませんよ!」
そんな経験、俺も1度もねーよ。
「え、そうなの? 嘘だぁ、信じられない。ねえ、颯。信じられないよね?」
どう言う意味合いで尋ねているかによるな。
「さあな。そのことで早苗を信じるだとか信じないだとか、そんな話は別にどうだっていいよ」
「どうでもよくありません!」
俺が投げやりな態度を示すと、早苗が必死に食って掛かってきた。
お客様、公衆の場で大声を出されると困ります。
「私は颯君みたいな変な性癖なんて1つもありません! 誤解されたままなんて絶対嫌です!」
その言葉、俺の方こそ言いたいんだがなぁ……。
俺だって、特殊性癖の持ち主と早苗から思われたくねえよ。
それはそれとして……いつからこんな話題になったんだろう。
「じゃあ、信じる方にしておくからさ。それでいいだろう?」
「もの凄く釈然としません。私には、颯君がいい加減に言っているようにしか聞こえませんよ」
いや、だっていい加減に言ってますもん。
「……優、お前がなんとかしろよ。お前が蒔いた種だろう? 自己責任だ。芽吹いた物は、自分で刈り取って処理しろ」
「オレ、何か嘘ついたりした? 蠟燭も縛る物も、全て本当の話でしょう?」
「いや、まあ嘘は……。あーもう、勝手にしろよ。詭弁ばっかり弄しやがって。さっさと早苗の勘違いを解いておけよな――俺の被虐趣味の誤解も」
俺は言い捨てると、2人を置いて2番ホームへ歩き出す。
このまま滑稽な話に付き合っていたら、会話がいつ終わるか分かりやしない。
後方から、優が『いくらでも解釈のしようがある婉曲な言い回し』を使い、早苗が過敏に否定の声を上げる会話が聞こえてくる。
性癖の話を匂わせた優の発言って、セクハラに当たるのだろうか。
まあ、俺が早苗に訴訟を起こされるわけではないし、どうでもいいか。
後に聞いた話であるが、優の温泉話を早苗が誤解した真相は、こうだ。
温泉は英訳するとホットスプリングであるが、早苗はこの『ホット』の部分に着目した。そして、日本の温泉が外国人の間で話題――つまり『ホット』な話題と掛けていると思ったそうだ。
ホットスプリングだけに、ホットな話題。
確かに洒落がきいているものの……早苗に申し訳ないが、別に上手くも面白くもない気がする。こじつけの感が否めない。洒落というより駄洒落に寄っているだろう。
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第21話 駅構内で雑談 その3
2番線の駅のホームは、まばらに人がいた。
平日であれば、この時間帯は市外県外からの通学生で猥雑な状態となる。しかし、今は夏季長期休校なので、学生の姿は見当たらないようだ。
優と早苗は、ホームに上がる階段を昇っている最中だ。
どうやら、まだ何かを言い争っているようだ。
「だから、あれは最初から早苗の勘違いでしょう? オレは何も悪くないよ。言うなれば、早苗の早とちりであり、自爆のようなものでしょ」
「いいえ、違います。優君が悪いんです。責任は全面的に優君にあります。そもそも、優君が変な言い回しを使わなければ、私が勘違いして恥を掻くことは無かったんです。絶対に私が勘違いするよう意図して、あんな言い回しを使ったんですよね? 優君の性格なら間違いないです」
「間違いないって? まったく……実に心外だよ。一体全体、早苗がオレの何を知っているって言うんだい? オレのスリーサイズを知っているとでも?」
「いえ、スリーサイズは分かりませんが……って、話を逸らそうとしないで下さい。自分の足元が暗くなったら話を逸らす。優君の悪い癖です」
「ちなみに、オレのスリーサイズは、上から――」
「言っているそばから話を逸らそうとしないで下さいよ!」
未だに口論を続ける優と早苗の様子に、思わずため息が出た。
「あ、ハヤえもん! ハヤえもーん! 助けてよ! 早苗が僕のことを苛めてくるんだ。ねえ、お願いだよー。二次元ポケットから秘密道具を出してよー」
「誰がハヤえもんだ。つーか、足に縋り付くんじゃねえ暑苦しい。――止めろ、ズボンのポケットを漁るんじゃねえ! それは二次元ポケットでもねえし、秘密道具なんて入ってねえよ!」
つーか、二次元ポケットってなんだよ。
ただのアップリケじゃねえか。
俺は足元にいる優を振り払った。
「たくっ……。ほら、もうすぐ電車が来るぞ。ふざけてないで、さっさと立ち上がれ」
「お手を拝借」
「自力で立ち上がれ」
もうこいつの相手をするのは面倒だ。適当に放置しておこう。
優なりに旅行前でテンションが上がっているのか、いつもの数倍うざい。
「はぁ……。颯君、なんだか私、もう疲れてきちゃいましたよ……」
早苗がくたびれながら嘆息を漏らした。
普段から優のテンションに慣れていない早苗は、かなり疲労したことだろう。
「優のことは放っておけよ。相手にするだけ疲れるぞ」
「ええ、まあ……はい……」
早苗が曖昧に頷きつつ、優に手を貸そうとしていた。
放っておいても自分で立つと思うのだけれど、まあ、そこは早苗の優しさといったところか。
電光掲示板と携帯電話の時刻を照らし合わせる。
……どうやら、あと2分弱で電車がホームに到着するようだ。
「颯君、いつも苦労しているんですね……」
早苗が何やら同情の声を掛けてくる。
「苦労? ……ああ、優のことか」
「ええ、優君です。優君と話していて疲れません? 私、さっきからずっと翻弄されっぱなしで疲れちゃいましたよ……」
「あいつはただ、言葉の遣り取りを楽しんでいるだけだよ。面倒なら、適当にあしらえば良いさ」
どこかの誰かみたいにな。
……あれ、どこの誰だっけ?
「それは分かっているんですが……。気が付いたら振り回されていると言いますか、後手後手になって対処仕切れなくなっちゃうんですよ」
「それに関しては……どうしようもないな。口の上手さは、あいつの方が一枚も二枚も上手だ。まあ、慣れるしかないだろ」
「やっぱり慣れなんですかね……。颯君みたいになるのは、まだまだ先の事みたいですね」
「俺みたいなる必要なんてないと思うんだけどねぇ……」
実生活に役立つようなスキルが身に付くわけじゃないし。
「……今日、そこまでホームに人がいませんね。これなら座席に座れそうですね」
早苗が辺りを眺めながら言った。
「そうだな。まあ、夏休みだし、学生はいないからな」
「そうみたいですよね。見渡す限り……」
ふと、早苗の視線が一点――後方に向けられたまま固定された。
何を見ているのだろう。
俺も後方を見ると、早苗の視線はオレンジ色の待合い席の1つ――そこに座って寝ている中年男性に向けられていた。
男性のワイシャツは、ところどころシワが寄っていた。数時間前に飲酒していたのか、頬が赤く染まっている。明け方まで飲んだ帰りなのだろう。
「……あ、でも、向こうの方に、私達と同じくらいの年の人もいますね」
早苗の言う通り、十数メートル離れたところに、同年代の男女が4人いた。雰囲気からして学生――大学生だろう。俺達と同じように、夏休みを利用して一緒に遠出するのかもしれない。
「あの人達も、私達と同じように、お出掛けですかね?」
「だろうな。大学のサークル活動に行く大学生かもな」
「大学生ですか。……大学生って憧れません?」
「……そうか?」
「颯君や優君は大学生に憧れたりしないんですか?」
「いや、特には何も……」
高校よりも学則が緩くて自由度が高かったり、サークル活動が楽しそうだな……と思うけれど。
「そうですか……。優君はどう思います? 大学生」
「オレ? 大学生か……気楽に学生生活を楽しめて良さそうだなーとは思うけどね」
優の言う通り、大学生は遊ぶかアルバイトしているという印象が強い。
まさに、社会人になる前のモラトリアムだろう。
「んー……そんな感じなんですかね」
早苗が視線を落とし、何やら不満気に呟いた。
「……で、早苗はどうなんだよ。早苗は大学生の何に憧れているんだ?」
俺が早苗に尋ねると、彼女は目を輝かせながら答えてきた。
「え、私ですか? そうですね……。ほら、大学生って服装がお洒落だと思いません? 高校なんかは制服の着用が義務付けられていますけど、大学は基本的に私服登校じゃないですか。色んなお洋服を組み合わせられるから、学生生活をお洒落を楽しめて素敵だと思いません?」
ああ、そうか。早苗が着眼していたのは、私服登校が認められていて好きにお洒落が出来ることか。
俺や優なんかは、あまり衣服に気を遣わないからな。外見よりも機能性重視。私服は、その気楽な着心地に魅力を感じる。
「それにサークル活動って、なんだか楽しそうじゃないですか。私の女の子友達――ああ、大学生がいる子なんですけど、飲み会や二次会のカラオケなんかに行ったりするそうですよ。とても楽しそうだと思いません?」
「飲み会か。……あれ、確か早苗はお酒を飲めないんじゃなかったっけ? 早苗は下戸だって、優が言っていたような気がするんだけど」
「あれ、知ってたんですか? 確かに私はあんまりお酒は得意ではありませんが……。でも、ほんの一杯くらいなら大丈夫です。それに、飲み会の席に出席して雰囲気を味わうだけでも楽しめそうですし」
「まあ、そうだな。サークル仲間と喋るだけでも楽しいだろうし、下戸でも問題は――」
俺は言葉を言い止した。
2番線の電車の到着を構内放送が報せたからだ。
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第22話 轢過事故
『間も無く、2番線に電車が参ります。危険ですので、所定の安全線の内側でお待ち下さい。間も無く、2番線に――――』
線路の遠方を見遣ると、2番線ホームに近づいて来る電車の姿が見えた。
「お、電車が来たな――」
俺の胸は少しばかり高鳴った。
見慣れない土地へ行く不安感と高揚感の旅情。
車窓から眺める旅程の風景の目新しさ。
この小旅行は――どのような青春の一コマを見せてくれるのだろうか。
楽しみで楽しみで仕方が無い……!
――突然、世界が傾いて見えた。
俺は『視界の変化』の理由を咄嗟に理解できなかった。
視界は傾きは、その傾斜を加速させていく。
ようやく『自分の身体が軌条に向けて前のめりに傾き続けている』ということに気付けた。
このままでは、線路に落ちて大怪我を負いかねない。
「―――ぐっ!!」
落差にして、約2メートル。
俺は無防備な体勢で線路内に落ちた。
路床の角々しい石、枕木――そして軌条に体を強かに打ち付けてしまう。
まずは息も止まる衝撃。ついで、全身に激しい鈍痛が広がる。
幸いにして頭部を強打しなかったので、視界は健全に保たれていた。
一体……何が起きたのだろうか。
体を捩じり、ホームを見上げる。
ホームの上で、早苗が口をポカンと開けて呆けている。その隣には、同様に呆けた表情の優が立っている。
ふと、線路越しに強い振動が伝わってくる。その瞬間、もうすぐ電車が到着すること――自分が轢過事故に遭う危機的状況にあると理解した。
「やっば……!」
すぐさまホームへ這い上がろうと思い、下半身に強い重みが掛かっていることに気付いた。自分の動きを封じるように、中年の男がうつ伏せで伸し掛かっているのだ。
その中年男性には見覚えがあった……酔っぱらってホームの椅子で寝ていた男だ。
明確には分からないが、状況から推測するに――
恐らく、俺が線路に落ちる前に、中年男性が背中にぶつかったのだ。構内アナウンスで起きて、電車に乗ろうと歩いてきたのだ。しかし、酔いで足元がおぼつかず、行き先に立っていた俺に衝突し、一緒に線路に落ちたのだろう。
どうにか中年男性から下半身を抜こうとするも、上手くいかない。全身強打の直後で体が動きづらいこともあるが、中年男性が肥満体系で重すぎる。
中年男性に意識は無いようだから、どいてくれることは全く期待できない。
まざまざと『死』という不吉な文字が脳裏によぎる。
遠方から甲高いブレーキ音が聞こえる。電車の車掌が非常事態に気付き、急ブレーキを掛けたせいだろう。
ひょっとすると、直前で完全停止してくれるか……?
「……んなわけ……ねぇ……だろうが……!」
自身の楽天的な希望に悪態をついた。ほのかな期待に縋って轢殺されたら、たまったもんじゃない。
手近なレールをつかみ、思いっきり引っ張る。同時に、下半身に力を込めて、懸命に這い出そうと試みる。
火事場の馬鹿力なのだろうか。ずずっ……ずずっ……と、中年男性の伸し掛かりから下半身が少しずつ抜け出ていく感触がある。
このまま奮闘すれば、いずれは足が完全に引き抜けるだろう。
しかし――時間が足りない。その前に、電車に轢殺されるだろう。
「――颯!」
ふと、自分のそばに誰かが着地した衝撃が伝わって来た。
声で分かったー―優が助けに線路へ降りて来たのだ。
その命知らずの行動に「バカ野郎!」と叫びたくなったが、今はその怒声を放つ時間すら惜しい。
優は中年男性のズボンのベルトに掴みかかると、力の限りに引っ張った。
優の細身では、この中年男性をどかすほどの腕力は無かった。しかし、明らかに下半身に掛かる重みは軽くなった。
早く……抜け出さなければ。
さもなくば、俺と優は――諸共に死ぬ!
「ふん……がぁあああああ!」
俺は決死の思いでレールを手繰り寄せ、下半身に力を込める。
ズズッ、ズズッ、ズズッ――
太ももまで中年男性の体の下から抜けた。
ここまで抜ければ、あとは膝の力も使って一気に引き抜ける!
しかし、
横目に見えた電車の姿は
これ以上の足掻きが無駄と悟れるほど――すぐ近くにあった。
明確に死を直感したからだろうか。
世界が止まって見える。
電車までの距離は、およそ3メートルほど。あと数秒ほどで俺たちを轢き殺すだろう。
相変わらず、優は必死に中年男性をどかそうとしていた。自分の身の危険を他所に、ただ俺を生かすことだけに専念している。恐らく、今の電車の近さを把握していないだろう。
優の努力には申し訳ないが――これはもう助からない。
それこそ、神の奇跡でも起こらない限り、生還は不可能だ。
だから……もう無理だ。
再び、世界の時間が進み始める。
次の瞬間に――あらゆる感覚が体から消失した。
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第23話 闇の世界
うっすらと開けた瞼から覗く世界。
それはどこまでも
闇。
闇。
闇。
電車に轢き殺される前の騒がしさも、有機物も無機物すらも――存在しない。
ここは……一体どこなのだろう。俺はどこにいるのだろう。
いや、そもそも俺は……現実に生きているのだろうか。
確か……俺は駅のホームから電車に落ちた。酒に酔った中年男性に突き落とされる形で。逃げ出そうにも、自分の上に伸し掛かる中年男性のせいで、逃げられなくて。
そのまま……電車の車輪に轢断されて死んだ?
じゃあ、眼前に果てもなく広がる世界は、死後の世界……いわゆる『あの世』ということか。
仮に冥土ではないとすると、考えられる可能性としては――夢の中くらいか。
夢なら、頬をつねっても痛くないのだろうか。
頬をつねろうとして、気付く。
腕が動く感触がある。指が動く感触もある。
それどころか、眼前に生身の自分の手が映るではないか!
ためつすがめつ自分の手を眺めた。
……ある。ある、ある……ある!
この腕と手は、実在する生身の一部だ。
俺は勢いよく起き上がると、自分の全身を手でさすった。
電車に轢断されたと思われる五体は、全て無事だ。目立った傷さえない。着ている衣服も無事であった。強いて言えば、土埃が付いているくらいだ。
……じゃあ、俺は生きているのか? 生きて、ここに存在しているのか?
しかし、この暗闇の世界は、現実の光景と思えない。
やはり……夢なのだろうか。
自分の頬をつねると、ちゃんと痛みを感じた。
痛みを感じる――つまり夢ではない?
でも、現実世界ではないし、死後の世界とも思えない。
解らない。何もかもが意味不明だ。
……そう言えば、俺は地面の上に座っているのだろうか。
視線を下に向けて見るものの、そこには地面と呼べるような何かは無い。何かに座っていることは分かるが、どう見ても空中浮遊している。
手で地面と思わしき闇を触れてみる。硬いとも柔らかいとも言えない、形容しがたい感触だ。
座った状態から立ち上がり、試しにその場で何度か飛び跳ねてみる。底が抜けるようなことはなく。きちんと着地できた。
「ふふっ。存外、肝が据わっているのですね。闇の中で着地した感想はありますか?」
どこからともなく、人の声が聞こえてきた。
その声は、紛れもなく自分に向けられたものだ。
俺の意識は瞬時に覚醒した。
「誰だ……!?」
「さあ、誰でしょうね」
再び声が聞こえた。
俺は声の出どころ――背後にいる何者かを見つけた。
「あら、こんにちは。それとも、周囲の暗さに合わせて、こんばんはの方が良いかしら?」
視線の先――そこには1人の女性がいた。
その女性は立ってもおらず、だからと言って座っているわけでもない。
まるで暗幕のカーテンを押し広げて窓から身を乗り出すように『楕円に裂けた光零れる空間の縁に上半身を凭れかかり』こちらの様子を楽しげに眺めていた。
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第24話 戯言談義 その1
その女性は人間だ――それも、目を奪われるような妖艶の美女。
金色に輝く絹のような光沢を有した、ウェーブがかった長髪。
しなやかな弧を描く柳眉。
愉快そうに眼を細める猫のような瞳。
成熟した大人の雰囲気を匂わせているが、不思議と少女的な印象も受ける。
俺は絶句していた。こんな訳の分からない空間に美女がいる不自然さもさることながら、彼女が上半身を凭れかけさせている物体が異様だからだ。
楕円に裂けた空間の縁。それはさながら、別々の空間を繋ぐワープホールのように見える。
「……あら? こちらが挨拶をしたというのに、無視をするつもりですか? これはこれは慮外千万。……ふふふ、さて、どうしましょう。ここは冠を曲げて、あなたの目の前から立ち去ってしまった方が良いのでしょうか」
謎の女性は唇に指を当て、大仰に不機嫌そうな顔つきを浮かべる。俺の反応を窺っているようだ。
「え……あ、いや……」
彼女の機嫌を損ねて立ち去ってしまえば、この奇妙な空間から脱する手立て――たとえば彼女が身体を覗かせている空間の裂け目から脱出など不可能になる。
「えっと……すみません……」
ひとまず謎の女性に対して謝りつつ、彼女の正体について思考を巡らせた。
一体全体、彼女は何者なのか。人間なのか、それとも人間の皮を被った化け物なのか。どのようにして空間の裂け目を見つけて――もしくは自分で切り開いたのか。どうして俺と接触をしようと思ったのか。
次々と湧き起こる疑問は、頭の中で行きつ戻りつ堂々巡りを繰り返した。
「ふむ。まあ、先の無礼は水に流すことにしましょう――と言うよりも、もしあなた平素の反応で挨拶を返したのなら、あなたの正気を疑いましたけれど。むしろ、きちんと応答できない方が正解です。ですから――そう畏まらず、堂々と対応してみてはどうでしょう?」
謎の女性は唇に笑みを浮かべ、再びこちらの反応を窺ってくる。
「堂々しく……ですか」
彼女の奔放な発言に狼狽を隠せないが、言葉で意思疎通が出来る相手であると分かり、ひとまず安心した。
この人……もしかして、俺のことをからかっているのか? 奇妙な言い回しといい、俺の反応を楽しむような視線といい、弄ばれているような気がしてならない。
しかし、彼女に対して、不思議と懐かしさに似た心地好さを抱いていた。
「ええ、堂々しく。男ならば、常に堂々としていなければ。出来れば、雄々しくも。女々しい男など、見ていて気分のよいものではありませんから。しかしながら、女々しいと言いましても、保護欲を誘うような男児なら、話は別かもしれません。女々しいと言うよりは、弱々しいと言った方が正しいのかもしれませんね。とは言え、弱々しい男は、それはそれで気分の良くなるものではありませんけれど。さて。重要なのは、性格ではなく、見た目の愛らしさでしょうか」
女性が独白に近い言葉を言った。独り言のようにも聞こえるけれど、俺に質問するかのように視線を向けてくる。
ここは――彼女の独り言に答えた方が良いのだろうか?
「どう……でしょうね。確かにあなたの言う通りなのかもしれませんね。見た目が可愛ければ……何をしても可愛く見えますからね。その人がちょっとした弱いところや情けないところを見せてくれれば、こちらとしては……保護欲に近い感情を誘起させられますからね」
「あら。まさか、私の独り言に答えて下さるとは。別に返答せずともよかったのに」
女性は大仰に驚いた素振りを見せると、空間の裂け目の縁に上半身を深く凭れかけさせる。どうやら、のんびり会話するつもりのようだ。
「けれど、私の独り言に答えてくれなかったなら、その時はその時で、不機嫌になりますけれど。ふふふっ」
「………」
「冗談ですよ。さすがに、そのような身勝手な態度は取りませんよ。そう戸惑った表情を浮かべず、気軽に接してもらえませんこと? ……ああ、それとも、あなたは冗談がお嫌いな生真面目な方なのかしら。でしたら、こちらが失礼を働いたことになりますわね。念のために、謝罪しておきますわ」
「いえ、別に冗談が嫌いというわけでは……」
「あら、そうですか。それは喜ばしいことです。冗談の通じない相手の会話など、つまりませんから」
女性は機嫌良さそうにコロコロと笑う。
話しにくい相手だ――率直にそう思った。優と似たような話し方を好むのなら慣れているので対応に困らないと思ったが、女性であるせいか、やたらと口数が多くて話の移り変わりが早い。
「さて……どうしましょうか」
「どう……って、何がですか?」
「私はどうすれば良いのでしょうか――そういう意味です」
「………」
いや、そんなことを尋ねられてもなぁ。自分で考えて下さいとか言いようがない。むしろ、こんな訳の分からない状況に置かれている俺が切実に言いたい言葉なのだけれど。
俺が反応に困っていると、心中を知ってか知らずか、女性はこちらの返答を待つかのように黙視してくる。
数秒間、両者の間に奇妙な沈黙が訪れる。
……どうすれば良いのだろうか。何かしらの意見を言った方が良いのかもしれない。
もしかして、俺は……彼女に試されているのか? 常識の有無を?
……いや、彼女が試しているものは違う。これは単なる直感でしかないけれど、そもそも試すという表現自体が間違っていると思う。
恐らく、眼前の女性は――楽しんでいるだけだ。
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第25話 戯言談義 その2
「……そうですね、じゃあ、茶の席を設けて、俺とティー・タイムはどうですか?」
「ティー・タイム、ですか」
女性は片眉を跳ね上げ、興味深そうに尋ねてきた。
「ええ、ティー・タイムです」
「……ひとつお尋ねしてもよろしくて? どうして、私がティー・タイムをした方が良いと思ったのでしょうか」
「それは――」
俺はそこで言い止すと、噛み殺せなかった笑いを少し漏らし、言葉を継ぐ。
「それは――その体勢が会話をしていると疲れそうに見えたからです。どういう意図を持って俺の前に現れたのかは知りませんが、もし俺と世間話をしたいのなら……その体勢で喋り続けると疲れるのではないですか? それに、こうも距離が開いていると、何かと喋りにくいでしょうし」
「……なるほど、理に適っていますね。あなたの言う通り、少々肩と腕が疲れてきました。それに、こうも距離が開いて話すのも、何かと不便です。けれど――本当にそれだけかしら?」
女性の視線が鋭くこちら射抜く。
「――と、言いますと?」
「あら、皆まで言わせるつもりなのですか? 気の回らない方ですね。いえ、それとも……。まあ良いでしょう。あなたはこんな気味の悪い空間を見ても微塵も物怖じもせず、ましてや窓から気軽に顔を出すように、空間の裂け目から姿を覗かせているこの女が――不気味ではないのですか? 恐ろしくはないのですか?」
「いや、それはまあ……。正直な心情として、不気味にも恐ろしくも感じては……います」
もしかすると、殺されるのではないか……そんなことも憂惧している。
「それはそれは、随分と失礼な感想ですね。正直なことは褒められる美徳かもしれませんが、しかし、それでは偽りと裏切りに満ちた人の世を生き抜くことは出来ませんよ。人間である以上、誠実でありながらも、したたかさを持たなくては。それに、言葉の棘が少ない言い回しもありましょうに。不気味で恐ろしくはあるが……だからこそミステリアスで妖しい魅力に満ちた美しい女性である、という言い回しに途中から変えることも出来ましょう。女性と対談するのですから、甘言の1つや2つ弄さなくては、退屈に思われてしまいますよ?」
「……気を付けることにします」
失礼な発言は認めるけれども、こんな状況でも女性の歓心を買おうとする奴は、単なる色情狂だと思うのだがなぁ……。
「よろしい。人は間違いを犯して成長するもの。己の過ちを素直に認める者は嫌いではありませんよ――その生真面目さを好きになるとは限りませんけれど」
女性は双眸を閉じて首肯すると、片目だけを開けて尋ねてくる。
「……それで、あなたの真意は何なのかしら? もしあなたが私に対して善からぬ奸謀を講じているのなら、迂闊に隙を見せるわけにはいきませんから」
「……立場上、むしろ俺があなたに善からぬことをされるのではないかと心配する側だと思うんですけれど」
「確かに、その通りですね。先の発言を真に受けたのなら、訂正しておきましょう。単なる冗談、会話を楽しむ為のスパイスですわ。……さて、あまりにも話頭を転じて会話が先に進まないのも困りますから――私はそれで困りませんが、あなたが困るでしょう。改めて問いますけれど――あなたの発言の真意は?」
「…………」
なんだろう。最初は正体不明の女性に強い警戒心と緊張を抱いていたのだけれど……。この寄り道や遠回りの多い悠長な会話を続けていたら、すっかり緊張が削がれてしまった。
もしかすると、俺の緊張を解きほぐそうとする思い遣りとして、あえて無駄の多い会話を続けているのだろうか。
それとも、こんな言葉の遣り取りが好きなだけか……だな。
「真意……ですか。それは……この訳の分からない、気味の悪い空間から脱する手立てを掴むためです」
「脱出手段の確保、というわけですか。まあ、順当に推論すれば、その結論に至るでしょう。私なら、あなたがここから脱する手段を知っているのかもしれない――もしくはその手に有しているかもしれませんから。たとえば――私が寄り掛かっている『これ』などですか」
女性はそう言うと、空間の裂け目を指先でなぞった。
「しかしながら、その為には、私に助力させる必要がある。好感を得るか――対価を払う交渉を行うか。どちらにせよ、じっくりと語り合う場を設けなければならない。だから、茶の席を設けてみては……と提案したわけですよね?」
「……御名答です。見事なロジカル・シンキングです」
「お褒めに与り光栄ですわ。しかしながら、その発言は、女性はラテラル・シンキングしか秀でていないのに意外……だという皮肉と受け取れるわけですが、これは邪推でしょうか」
「……少なくとも、俺はあなたの機嫌を損ねるようなことは、絶対にしないと思いますよ。……あなただけが頼りなのですから」
「私だけが頼りと。中々に嬉しいことを言って下さるではありませんか」
女性はくつくつと笑いを忍ばせると、体を起こし、裂け目に対して撫で上げるように指先を振った。
突如、空間の裂け目が跡形もなく閉じてしまった。
この場から女性の姿が消える。
「なっ……!?」
俺は瞠目して、その場で立ち上がった。
まさか、まさか――彼女は立ち去ってしまったのか? 上機嫌にすら見えていたというのに、何か彼女の癇に障るような発現をしてしまったのだろうか。
強烈な焦燥感と不安感が胸の中を駆ける――が、それは杞憂であった。
「そもそも、私があなたの前に現れた事実を推し量れば、目的は分かるでしょう。偶然に通り掛かったわけでもなく、救援信号を受け取ったわけでもなく。意図的に空間を裂いて現れた事実から。そうでしょう?」
眼前の空間に謎の直線が走るや否や、次の瞬間には、直線が楕円形に広がった。先ほどの裂け目よりも、一回りも二回りも大きい。まるで、人ひとりが通れる程の大きさだ。
空間の裂け目が広がると同時に、眩い光が零れ出してくる。
「――元より、大切な長話をするために、あなたの許へ来たのですよ」
光の中から、白色のロングソックスに包まれた足が伸びてくる。ついで、襞の多い紫色のスカート。上腕まで覆い隠す白色の手袋に収まった腕も現れ――その姿の全てを現した。
「これもまた運命の定め。もしくは運命の悪戯。早まった世界の交叉は偶然か、はたまた必然か――。ようこそ、異なる世界の交叉路へ。私はあなたの水先案内人として、真実の話を致しましょう。話は長くなると思うけれど――それこそ茶の席を設けて、のんびりとお話ししましょうか。茶菓子の好みはあるかしら?」
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第26話 戯言談義 その3
「……あら、どうされたのかしら? ぼんやりと立ち尽くしていないで、どうぞ、その椅子にお座りになられては?」
女性は品の良い安楽椅子に腰掛け、対面の安楽椅子に座るよう勧めてくる。彼女は空間の裂け目に腕を挿し入れて、ティーサーバと思わしき容器や茶漉し、洒落たティーカップや受け皿など、茶会の道具を取り出していた。
「あ……はい。では、失礼して……」
俺は戸惑いながらも、まるで空飛ぶ絨毯――のように見える黄白色の絨毯の上に足を踏み入れた。その絨毯もまた、女性が空間の隙間から取り出した物だ。
シックな長テーブルを挟み、自分のために置かれた安楽椅子に腰を掛けた。体を包むように布張りの安楽椅子の布地が沈みこむ。なかなかの座り心地だ。猫脚も付いているし、高級品なのかもしれない。
どうやら、この女性は空間の裂け目を自由に作り出せるらしい。手品か……それとも超能力の類か。いったい、その裂け目は、どこに繋がっているのだろうか。
……いや、それについては、今はどうでもいい。俺が配慮するべき問題は――この謎の空間からの脱出。その為に、眼前の女性と友好的に会話することだ。
「さてと……。これから茶を淹れようと思っているのですけれど、あなた、ハーブティーなどは大丈夫かしら? 香草を用いた茶は、香りが独特で嫌いな者も居いるのですけれど」
女性が指先を空間に走らせると、小さな空間に裂け目が入る。その中から、洋字のラベルが貼られた袋が数個、彼女の手のひらに落ちた。直後、裂け目が綺麗に閉じる。
「ハーブティー、ですか。飲んだ経験は無いですが、恐らく大丈夫かと。ミント系の匂いは好きですから」
「あら、そうですか。それは僥倖です」
女性は茶袋を長テーブルに置き、また別の裂け目を作る。裂け目からティーケトルと思わしき容器を取り出し、それを傾けてティーサーバに熱湯を注いだ。何故、すでにティーケトルに熱湯が入っている状態なのか……それを疑問に思うこと自体が野暮に思えてくる。
まだティーサーバに茶葉を入れていないので、熱湯で容器を温めているのだろう。
「ハーブティーに関して疎いとのことですので、香草はこちらで選ばせて頂きましたわ。……ああ、そうそう。あなた、何か好みの茶菓子はあるかしら。可能であれば、用意しますけれど」
「好きな菓子は……、いや、全てそちらの裁量にお任せしても良いですか? この手のことに詳しくないので」
「承知しました。では、こちらで自由に決めさせて頂ましょう」
女性は頷くと、長テーブルに置いてある茶袋の1つを手にする。選ばれた鳴った茶袋の全ては、長テーブルの中に沈み込んて消えた。どうやら空間の裂け目に落としたらしい。
「あの……1つ訊いても良いですか?」
「事前に許可を求めるような人聞きの悪いことなのかしら?」
女性は微笑みを浮かべる。
どうやら、この人――からかって翻弄するのが好きらしい。
ますます、優に似た性格だと思った。
「いえ、そういうわけでは……。ただ、その……空間の裂け目みたいなものなんですけど、なんですか? ワープホールみたいなものですか?」
「ああ、これかしら」
女性はそう言うと、軽く指を振って、小さな空間の裂け目を作り出す。
「そう、それです。……なんなんですか、それ」
「何かと問われましても、説明に困りますね。言葉で説明するだけなら、とても簡単です。しかし、それを今のあなたに納得させることは難しい」
「今の俺に……と言いますと、それは理解力に関することですか? こう……超最新科学によって生み出された知恵の結晶とか」
「いえ、全く違います。納得と言いましても、それはロジカルに対する完全な理解に基づくものではありません。言うなれば、受容に基づく納得と言いましょうか。たとえるなら、なぜ物理法則は存在するのか。それは、そのような法則が存在するから存在するのだ――と言えば良いでしょうか」
「えっと、つまりは……?」
「言ったはずです、受容に基づく納得であると。もう1つ例を挙げましょう、どうして魔法を使えるのか、それは魔法が使える世界だからだ――でしょうか。私はこれを『スキマ』と命名していますが、私がそれを自由に扱える理由は、出来るから出来るのです。そういう固有能力なのです。固有能力の発現と発動の仕組みにロジカルな理屈はありません。……いえ、正確には理屈はあるのですけれど。教えても構いませんが――納得させることは難しい。私にとっては当然の理でありますが、あなたにとっては理外の理ですから」
女性は腑に落ちないことを言っているが、ふざけているようには見えない。
固有能力の発現と……発動?
それはまるで、創作物に出てきそうな文言だ。
「えっと……つまり、あなたがスキマというワープホールを使える理由は、それがあなたにとって自然なことだから。自然の摂理だから。そう解釈すれば……良いのですか?」
「ええ、それで構いません。今のところ、その理解で十二分ですわ。いずれ、胸中の雲霧が晴れる日が訪れますよ。いずれ――確実に。それまでどうぞ、このスキマを不思議がっていて下さい。不思議を扱う者には、人々は魅力を覚えるものですから。どうぞ、私に魅了されていて下さいな」
「はあ……。あ、もう1つ質問なのですが、あなたは……異世界から来た人なのですか? それなら、不思議な力を使えることが、ひとまず納得できるのですが」
「異世界人? 私がですか? ……なるほど、異世界の者だからこそ、霊妙な力を扱えると思ったわけですか」
「ええ、まあ……」
「私は異世界から来たわけではありませんし、異世界人でもありません。あなたと同じ、この世界に生まれ、この世界で育った者です。ただ、その生い立ちが異なるだけですわ。……そもそも、私が異世界人だから霊妙な力――異世界の力が使えると考える論は筋違いです。よく考えてみて下さい。私が扱うスキマが異世界の能力なら、それは異世界の理に則った能力です。言い換えれば、異世界だからこそ扱える力なのですわ。では、この世界の理の中でも、異なる世界の理に沿った力は扱えるのでしょうか? 論理的に不可能ですよ。この世界の理に反するのですから」
「……言われてみれば、確かにそうですね」
理外の力であっても、それは理外の理に従属したものなのだ。魔法使いが魔法を使える場所は、魔法の世界だけなのだ。
「腑に落ちましたか?」
「ええ……一応は。まだ納得出来ないことは多いですが」
「良いのですよ、今はそれで。それが正常というものです。……さて、あなたの疑問が多少腑に落ちたところで、ハーブティーと茶菓子を腑に落とす準備を始めましょうか」
女性はティーサーバを手に取り、もう一方の手の指先を振ってスキマを開く。そして、スキマの中へ容器内のお湯を流し捨てた。
ティーサーバを長テーブルに置き戻し、今度は茶袋を手に取って封を開く。木製の茶匙で茶葉を掬い出すと、2杯ほどティーサーバの中に落とした。
最後に熱湯をティーサーバに注ぎ、香りが逃げないように蓋した。ついでに、ティーカップにも熱湯を注ぎ込む。事前にティーカップを温めておくためだろう。
「茶菓子ですが――茶葉にペパーミントを選びましたので、チョコレートケーキを出させて頂こうかと。ペパーミントには鎮静作用、チョコレートには活力を漲らせる効果があります。色々と気疲れをしているでしょうから、とても良い組み合わせになるでしょう」
「へえ、そうなんですか……お気遣いありがとうございます」
女性はスキマを開き、腕を挿し入れる。すると、すでに8分の1程の大きさに切り分けれたチョコレートケーキが乗った小皿を取り出した。こちらと自分の分をテーブルに置くと、さらにフォークを2本つまみ出して、各小皿の上に置いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
さて――
女性は場を仕切り直すように言うと、二の句を継ぐ。
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第27話 戯言談義 その4
「これで、茶を楽しむ準備は終わりました。茶葉が湯の中で開き、成分を湯に広げるまで待つだけですわ。それまで楽しくお話しでもしながら、ゆるりと時の経過を待ちましょう」
「そう……ですね。それまで何か適当に話でも」
俺は曖昧に首肯した。
「ええ、何か世間話でも。――さあ、どうぞ」
「え? 何……がですか? もしかして、俺が話題を振れと?」
「当たらずといえども遠からず。あなたが話題を振ることに違いはありません。あなたが話題として触れたい内容があるから、会話の主導権を委ねたのです」
女性は微笑みを浮かべる。笑みに細くなった彼女の眼は、こちらの胸中を見透かすような霊異な力が感じられる。
「……すみません、ちょっと発言の意味するところが分らないです」
「あら、そうなのですか? 意外ですね、落ち着いて会話していたように見受けられたのですけれど、まだ緊張しているのでしょうか? ……まあ、茶の席を設けているとは言え、対談者は私、場所はこのスキマの中なのですから。無理からぬことでしょう」
「……え? ここ、スキマの中なんですか?」
「ええ、そうです。ここは私が作り出したスキマの中の空間ですわ。ほら、周りをご覧下さいな。暗闇に紛れ、雑多なものが宙を漂っているように見えましょう」
改めて暗紫色の空間をじっくりと観察してみた。果てしなく広がる暗闇の空間――そのところどころに、何かが浮かんでいた。
目を凝らして見ると、それは道路標識であり、何かの看板であり、カラーコーンであり、人間の眼のようなものも存在する。
「え、えっと……あれ、なんなんですか!? なんか人の眼のような物も浮いてますけど!」
「あら、気付いていなかったのですか。私はてっきり、すでに気付いていたものかと」
「いや、全く気付いてなくて……というか、あれ、本当になんなんですか?」
「見ての通りのものですわ。けれど、そこに本当にあるわけではありません。飽くまでも、それはイメージ。像として具現化された概念」
「概念……? なんの概念ですか?」
「世界の概念ですわ。詳しい説明は割愛させて頂きます。その話題は、今は適さないでしょうから」
「話題……ああ、そうでした。俺にどんな話題を振れって言うんですか? あまり婉曲に言われると分からないのですが」
「ふむ……遠回しな言い回しの意味するところを考えることも一興。しかし、今は適さないのかもしれませんね。残念です。では、率直に申し上げましょう。あなた……私に対して質問したいことがあるのでは? 特に自身についてのことなど」
「……ああ、そう言うことですか」
この女性は婉曲な言い回しを使ってくるが、その実、こちらを気づかっているのだろう。
確かに、女性に尋ねたいこと――尋ねなければならないことは多い。
俺は居住まいと正すと、真剣な面持ちで女性に向き直る。
「……あら、随分と凛々しい表情が出来るではありませんか。年若くとも1人の男と言ったところでしょうか。まるで気持ちが若やぎそうですわ。……おっと、今は茶々を入れる場面ではありませんでしたね。どうぞ、あなたの胸に浮かぶ疑問を私に投げ掛けるとよいですわ」
「分かりました。では……最初の質問です。ここは、どこですか? あなたが言うスキマという空間の裂け目ではなく、今、俺が存在している世界のことです。俺は現実の世界にいるのですか? それとも……死後の世界にいるのですか」
「やはり、その質問を投げ掛けますか。……当然ですね。あなたにとって、最も重要な事柄でしょうから」
「ええ、その通りです。……俺は生きているのですか?」
自分の生命の有無――質問に心臓が大きく鼓動する。
果たして、眼前の女性が口にする答えは――
「生きていますよ、間違いなく。その肉体も心臓の鼓動も――全て本物です。ここは霊界ではありません」
俺は生きて存在している。
女性は柔和に微笑みながら、そのことを断言してくれた。
「そう……ですか。俺は……確かにここに生きて存在しているんですね……!」
顔の表情筋が一気に弛緩した。胸の中が穏やかな安堵に満たされる。
良かった……俺は死んでなんかいないんだ……!
「……あ、でも、どうして俺は生きていられたのですか。俺、電車の車輪に轢かれる間際だったはずなのに。もしかして、あれは現実ではなかったのですか? まさか、夢か空想ですか」
「いえ、それは現実に起きたことです。あなたはここに来る前、車輪に体を切断される寸前でしたわ。紛れもない事実です。体に付いた傷と衣服の土埃――それが確かな証拠ですわ」
俺は自分の手のひらや衣服に付いた傷と砂埃を眺めた。それは、線路に落下した事実を示す確かな痕跡だ。
「……現実にあったことですか。俺、本当に死にかけていたんですね。でも、どうやって生還できたのでしょうか」
「面白いことを尋ねますね。自分で推知できることだと思いますけれど」
「ということは、やはりあなたが……」
「ええ、あなたの考えている通り。私がスキマの中に落として窮地を救いました。本当に驚きましたよ。自分の眼を疑いましたわ。虫の知らせ――とでも言うのでしょうね。不意に胸騒ぎが起きまして、あなたの様子を見に来ましたら……。何か私に不可思議な力でも作用したのでしょうか? あなたを守る祖霊の働きかもしれませんね」
女性は視線を横に向け、頷に手を添えた。
どうやら、彼女自身も、間の良すぎる胸騒ぎを訝しく思っているらしい。
「あなたの言うことが本当なら、俺にとっては、奇跡としか言えませんね。……それにしても、まるで以前から俺のことを見守っていたような口ぶりですね」
「まるで、ではなく……その通りですよ。訳あって、私はあなたを見守っていましたから。……ご安心下さいな。私も道徳を持ち合わせていますから。安否の確認程度です」
女性は、気後れもなく朗らかに言ってのける。
「は、はあ……。まあ、それは……安心しましたと言っておきます……?」
背筋に妙な寒気を覚える。自分の知らない人物が見守っていたとなると、それが女性であっても、不気味に思える。ストーカー被害者の心境は、こんな感じなのだろうか。
そもそも、どうしてこの人は、俺の安否を心配していたのだろうか。知人でもなければ、親戚でもないはずだ。
もしや、記憶が消えてしまった幼少期に出会っていたのだろうか。
「気になる点はありますが……ひとまず礼を言っておきます。命を助けてもらい、ありがとうございました」
「いえ、礼に及びません。私が行いたくて行ったことですから。言わば、自己満足です。……それでもあなたが恩返しを望むなら、別に断りませんけれど」
その発言は――暗に恩返しが不本意と言っているのだろうか。
「分かりました、考えておきます。それはそれとして、どうしてあなたは俺を見守ったりしていたのですか? 何か深いわけでも?」
「いえ。ただ、私は……幼い時のあなたと面識のある者ですから、見守りたい、助けたいという気持ちを抱いていたというだけです。そのことに関する話は――また別の機会にしましょう。その話はとても複雑で……長い話になりそうですから。日を改めて話しますわ」
「日を改めて……? ということは、また俺に会うつもりですか?」
「ええ、そのつもりです。近いうちに、こちらから出向かせて頂こうかと。……その必要が出来てしまいましたから。あなたは、常識から外れた存在があると知りましたから」
「常識から外れた存在……」
無限の広がりを持つ暗紫色の空間。
眼前に座る、常人と次元を異にする人物。
「もともと、いずれあなたの前に現れ、非常識の存在を教えるつもりでいました。けれど、予定では、あと数年後――あなたが高校を卒業する頃にでも。……しかし、あなたを助ける必要性が出来てしまった。それでしたら、この機会に接触しても良いだろう。だから、こうして姿を現しました」
「……理由を教えてもらっていいですか? どうして、いつかは非常識の存在を教えようとしていたのか」
「……その話もまた、あなたを見守っていた理由を教える時にでも。その方が理解を促しやすい。今はただ、常識から外れた存在があるという事実を知ってもらえれば充分です」
「……そうですか」
「おや、問い詰めないのですか?」
「いや、まあ……。問い詰めたところで、今は教えてくれないのでしょう? それとも、問い詰めたら教えてくれるのですか?」
「どうしてもと言うなら、吝かではありません。しかし、好ましくはありません。それらのことは、後日、まとめて話した方が分かりやすいので」
「だったら、それでいいですよ。近いうちに教えてもらえるなら。焦る必要はありません」
「ふむ……」
女性は思わしげな声を漏らすと、眉根を顰めた。こちらを観察するかのような視線を向けてくる。
「……何か?」
「いえ、なかなかどうして。器量が大きいというか、鷹揚な性格をしていると思っただけですわ。こちら側の存在を抵抗なく受け入れるであろうことは予想していましたが、こうも滑らかに話が進むと、少しばかり奇妙に思えまして。もっと混乱してもいいと思っていたのですけれど、どうも素直に話を聞き過ぎている節がありますから」
これが意味するところは――と、女性は独り言のように呟く。
女性のいう通り、確かに自分は順応しすぎている気がする。こんな突拍子もない話、普通なら、もっと戸惑ってもいいものだ。信じなくたって、全くおかしくない。
けれど、胸の内に広がる感情の水面は、静かに揺らいでいるだけだ。
何故だろうか。
「いえ、もしかすると……。なるほど、そういうことかもしれません。それはそれで好都合――いえ、刷り込みが生み出した結果の表れか」
女性は腑に落ちたと言わんばかりに頷く。
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第28話 戯言談義 その5
「得心を得られましたわ」
「はあ……得心ですか。それで、その得心って……?」
「さて、どう言い表しましょうか。とある童話を読んで心を弾ませ、野原を歩きながら兎の穴を探す愛らしい少女のような心境と言ったところですかね」
「………」
迂曲な言い回しをせずに、素直に教えてくれればいいものを……。
野原と兎の穴と少女――そして童話。恐らく、ルイス・キャロルが書いた不思議の国のアリスか。
「……次の質問に移ってもいいですか?」
「あら、言葉の意味探りを諦めてしまったのですか?」
「ええ、ちょっと……まあ、別に大したことではありませんし」
「あらら。会話の楽しみが1つ奪われてしまった感がありますわ」
「なんとなく申し訳ないような気もしなくないですが、婉曲な言い回しを言われる側のことも考えてくださいよ。いちいち会話に頭を悩ませていたら、疲れてしまうじゃないですか」
「確かに。あなたの意見にも一理ありますね」
「……それで、次の質問に移ってもいいですか? まだ訊きたいことがいくつかあるので」
「ええ、構いませんよ。なんなりとお尋ね下さいな。ただ、その質問はハーブティーをカップに注がせて頂きながら聞きますわ。茶葉の葉が開きましたから。――どうぞ、私にお構いなく、お尋ねになって下さい」
女性はスキマ開いてマドラースプーンを取り出し、それでティーサーバ内のハーブティーを静かに撹拌した。今度は茶漉しを手に取り、茶葉を濾しながら、それぞれのティーカップに少しずつハーブティーを注いでいく。
「では、遠慮なく……。あなたは俺が電車に轢かれる直前、スキマとやらに落として助けた時、優という同じ年頃の少年もいたはずです。……そいつは無事ですか?」
「ああ、あの少年ですか。大丈夫、無事ですよ。彼もあなた同様、スキマの中に落とし入れ――いえ、正確には突き飛ばし入れましたわ。少々荒っぽい手段でしたが、まあ、仕方がありませんでしたから」
突き飛ばして入れた、という表現が気になった。しかし、あえて言及せずに話を進める。
「そうですか……優は無事ですか。あれ、優もスキマの中に落とし――じゃなくて突き飛ばして入れたんですよね? じゃあ、優もこの空間のどこかにいるんですか?」
「いえ、彼はここにはいません。一時的にいましたが、こちらの都合で、彼には別の場所にいてもらっています。その場所で、私の式神に色々と話させていますわ。彼もあなた同様、色々と知らせておく必要がありますから」
「式神? 式神ってあの……お札とか紙製の形代を使う奴ですか?」
「……それは有り触れた創作物に見られる式神のイメージですね。私が使役している式神は、それとは異なります。的を射た例えはコンピュータと呼ばれる代物なのですけれど……なにぶんあのような物には疎いので、解りやすい説明は難しいですね。まあ、私の指示に従う従者と解しておいて下さい」
「……そうですか。それにしても……優には何か複雑な事情がありそうですね」
「ええ、彼にもあなたにも、普通の人とは違う事情があるのですよ。彼には……特に。何か思い当たるような節でもありますか?」
「……いえ、特には」
優には霊的な存在が感じ取れるという特異な能力がある……らしい。自己申告だから真偽は不明だ。
しかし、俺は非常識な存在と無縁である。霊的能力など無いのだから。
「とにかく、優が無事ならそれでいいですよ。それにしても……どうして優だけはスキマに落とさず、突き飛ばし入れたんですか?」
「それは、彼が立っている状態だったからですよ」
「立っている状態?」
「ええ、立っている状態でスキマに落とすとなると、頭までスキマに落ちるまで、ほんの少し時間が掛かります。あの状況は一分一秒を争う危険な状態でした。もし仮に……彼の頭がスキマに消える前に電車が通過したら、どうなると思います? 下手をすれば、彼の頭はザクロのように、その中身を散らせていたでしょう」
「……だから、ひとまず突き飛ばしたと」
「そうです。横へ突き飛ばして電車の直撃を回避し、そしてスキマの中へ避難させた。……ちなみに、共に線路に落ちていた中年の男がいましたが、彼も助けておきました。彼のことも気掛かりになっているなら、安心を。……それにしても、あの男、酒に酔っていたようでしたね。それで察しましたよ。あなたと友人が線路に落ちていた理由を」
女性は内心の呆れを示すように頭を左右に振った。その口調は、呆れというより怒りに近いだろう。
「……まあ、何はともあれ、無事であったのだから、よしとしましょう。さあ、ミントティーが入りました。召し上がって下さい」
俺の前にミントティーが入ったティーカップが差し出される。カップから立ち上る湯気は、チューイングガムで嗅ぎ慣れたそれと一線を画する、柔らかみのある爽やかな香りだ。
「好みで砂糖か蜂蜜を入れるのもよいでしょう。まずは、何も加えずに飲んでみることをお勧めします。素材本来の味や香りがよく分かりますから」
女性はスキマを開き、白磁の容器と硝子瓶を取り出してテーブルに置いた。硝子瓶の中身は、その色合いと
「分かりました。じゃあ……頂きます」
俺はティーカップを手に取り、ミントティーに口を付けた。途端、鮮烈で清々しい香草の香りが鼻腔に広がった。その芳潤な香りは、匂い零れる花畑のようだ。
「……いかがでしょうか?」
女性は俺の胸中の感想を確信しているのか、得意気な笑みを浮かべる。
「なんと言うか……自分が知っているミントと別次元のものですね」
「そうでしょう? ふふふっ、それが一級品の味わいですよ。あなたに本物がなんたるか伝えられて良かったですわ」
女性は満足そうに頷き、カップを手に取ってミントティーを口に含んだ。
「もう少しだけ質問してもいいですか? そうですね……あと2つほど」
「ええ、どうぞ。お好きなように。私の方の用件は、ほぼ済んでしまいましたから」
「そうですか。分かりました」
女性の用件が何か気になったが、わざわざ質問してまで知りたいようなことでもない。次の質問に移る。
「ここからだと外の様子などが分からないのですけれど……外はどうなっているのですか? 俺と優がいた駅のホームの様子です」
「ああ、それですか。心配要りません。止めてありますから」
……は?
「……止める? 止めるって……何か例えですか?」
「いえ、文字通りです。あの場にいた者たちの時間を止めてあります。騒動にはなっていませんよ。今は、という注釈は付きますけれど。……まあ、あまり止め過ぎると少々問題も出てくるでしょう。たとえば――電車の運行時刻が少々乱れるなど」
「いや、電車のダイヤが乱れるのは、かなり問題だと思いますが……じゃなくて、時間を止めるって冗談ですよね?」
「大規模または長期的なものでなければ。あと、少し集中する時間が必要です。その条件が満たせるなら、私の異能で時間は止められます」
正気かどうか疑ってしまうような発言であった。
いや、しかし、この人なら……時間停止という現象を引き起こせるのかもしれない。
「……ふふ、信じられないといった面持ちですね。では、証拠を見せましょうか」
女性は、手にしていたカップを高く上げた。俺が訝しげに眺める中、彼女は手にしたカップを傾ける。
当然ながら、カップの中に満たされていたミントティーは、放物線を描きながら流れ落ちた。
「な、何を――!?」
「大丈夫ですよ」
俺が瞠目して声を上げると、女性はただ一言そう言った。
次の瞬間に起きた現象には――本当に言葉を失ってしまった。
ミントティーが……。
流れ出たミントティーが空中で静止している……!?
「……心底驚いたといった表情ですね。ふふふ、他人を驚愕させるのは愉快なものです」
女性は空になったティーカップを受け皿の上に戻し、長テーブルに置いた。
今もなお、ミントティーは空中で停止している。
「……原理は!? どうやってミントティーを空中に静止させているんですか!?」
「原理、と言われましても。端的に説明すれば、時間の連続を切断し、境を広げたのですよ」
「――――!」
俺は声にならない声を上げると、体の力が抜けたように、深々と安楽椅子に身体を預けた。未知と不思議を目の当たりにして、胸が高鳴り続ける。
「……理解出来なくてもいいです。どういう理屈か説明して貰えませんか」
「構いませんよ。観念的な話になってしまいますが、それで宜しければ説明しましょう。時間という概念は、無数の時が連なって出来ています。パラパラ漫画の一枚一枚の絵が時、動いて見える絵が時間というわけです」
「……つまり、時間は、時と時が次々に移り変わって出来ているってことですか? だから、1つ1つの時の連続性を断ち切れば、次の時に移れない。ハーブティーは、次の時に移れず、動きが止まってしまった……と」
「ほう……聡いではないですか。理解が早いなら、話は早いですわ。私の固有能力は、物の境界を操るという性質を持っています。空中に浮いたミントティーは、次の時――すなわち状態に移行することが出来ません。だから、こうして宙に浮遊しているのです。その証拠に、このミントティーに触れてみて下さい」
「触れるって……それにですか?」
「大丈夫、火傷などしませんよ。私が口にしたものに触れたくなければ、無理に触れずとも構いませんけれど」
「え、あ、いや……そういうわけでは……」
言われてみれば、空中に浮いているミントティーは、女性が口にしたものだ。特に不潔に思わなかったが、そのことを本人から指摘されると、妙に触りにくい。
「……失礼します」
俺は安楽椅子から身体を起こし、腕を伸ばした。宙に浮かぶミントティーに指先をなぞらせる。
熱くも冷たくもない。それどころか、指先で押してみても、形状が全く変化しない。まるで金属のように硬いのだ。
「……熱くない、ですね」
「そうでしょう? 時間が停止していますから、熱移動しないのです。対象の動きを封じられますし、外界からの影響も受けつけません。絶対無比の守護術ですわ。一時的な現象ですが、利便性に優れているでしょう?」
「なんと言うか……言葉もありません。こんな現象が現実に起こるなんて……。あれ、この時間停止を使えば、俺たちをスキマに落とさずとも助かったのでは?」
「ええ、助かったでしょうね。けれど、そうした場合、あなたに衝突した電車の方が粉々になります。時間停止した物体は外界からの影響を受け付けませんから、影響を及ぼそうとした力は、全て作用者に跳ね返ってくる道理です」
「……大惨事ですね」
死傷者が百人単位で出てしまうだろう。
「ええ。だから、その手段は使えませんでした。……さて、これであなたの疑問は解消したかしら?」
「ふと思ったのですが、駅のホームの外にいる人からは、異常な事態が発生していると気付かれてしまうのでは……? だって、駅のホームにいる人は、誰も動かないのですから」
「ああ、それについても心配は要りません。簡単な人払いの結界を張ってあります。向けられた意識をあらぬ方向に跳ね返す結界です。意識を向けられませんから、見ることも考えることも出来ません。存在が消えたようなものですね」
「……なんでもありなんですね。自分が現実の世界にいるのか、また疑問に思えてきましたよ」
「紛れもなく、あなたは現実にいますよ。ただ、常識と異なる存在を知っただけですわ」
「……そういうものですか」
「そういうものです」
女性は軽い調子で答えると、長テーブルの上に置かれているティーサーバを手に取ってその蓋を開けた。ティーサーバの開いた口を空中で静止しているミントティーの下方に合わせる。次の瞬間、停止していたミントティーが動きだし、綺麗にティーサーバの中に吸い込まれていく。
「最後の質問をしなくとも良いのですか? あと、チョコレートケーキを口にした方が良いですよ。あと5分もしたら、茶の席を片付けるつもりですから」
「あと5分……分かりました。じゃあ、最後の質問です」
俺が目の前の女性と出逢ってからずっと抱いていた、最も核心的な質問を。
「あなたは――誰ですか?」
一時の静寂が訪れる。
眼前の女性は瞑目すると、演出としては十分な間を開けてから、回答を口にした。
「私は……八雲 紫と申します」
人を惑わし、欺き、翻弄し、諧謔を弄し、虚言を吐き、言葉を彩って真実を有耶無耶にしたがり、無駄で不毛な世間話を好む――人ならざる胡乱な者。
それ以上でもそれ以下でもありませんわ。
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第29話 戯言談義 その6
「さて――そろそろ頃合いですわね」
俺がチョコレートケーキを食べ終えた直後、紫さんは呟いた。
「頃合い?」
「あなたが元いた場所に帰る頃合いのことですよ」
紫さんは安楽椅子から立ち上がると、俺に椅子から立ち上がるよう促す。ついで、絨毯の上からどくようにも促す。
俺が絨毯の上からどくと、紫さんも絨毯の上から離れ、家具や食器類に対して何度も指を振るう。その動きに呼応するように、初めは長テーブルがスキマの中に落ちた。その次に安楽椅子がスキマへ落ち、終いには黄白色の絨毯もスキマへ落ちた。
10秒も経たない間に、即席の茶の席は、痕跡も残さずに消えた。
紫さんは、口元の高さに小さなスキマを開く。
「――藍、そちらの彼への説明は済んでいるかしら?」
その問いかけに応じる何者かの声が聞こえた。俺の立っている位置からでは明瞭に聞き取れないが、声音からして返答者は女性と思われる。
恐らく、紫さんが口にした『そちらの彼』とは――優のことだろう。
「分かったわ。今から通過用のスキマを開くから、こちらへ来るように伝えなさい」
紫さんは、虚空に向かって大きく指先を振るう。指先の動きに従い、人ひとりが通れそうな大きなスキマが開いた。
数秒すると、大きな人影がスキマから現れた。
「彼は問題なくこちら側へ渡って来たわ。手間を掛けさせたわね、藍。こちらで彼らの身の責任を持つから、あなたは仕事に戻って構わないわ」
紫さんは藍という人物に告げると、大小のスキマを閉じた。
「さて、藍から話はあったと思うけれど……現状に対する理解は出来ているかしら?」
紫さんに尋ねられた人物――優は、少々困ったように眉を顰めながらも、どこか楽しげに飄々と答える。
「まあ、なんとか……と言ったところですね」
「どうですか? 戸惑いましたか?」
「それは、まあ……突拍子もない話でしたから。でも、戸惑ったというよりは……なんだか面白そうな話だなーっというのが正直な感想ですね。話の内容も意外でしたが、それを教えてくれた人の姿が意外過ぎて――もしかすると話を半分も聞いていなかったかもしれませんね」
「あらあら。それは困りましたね。もう話を繰り返す時間は無いのですけれど」
「いや、ご心配なく。ああいう格好は、諸事情の関係で見慣れていますので。話を聞けないほど目を奪われることはないですから」
「それは僥倖ですね。……ちなみに、その諸事情とやらの内容について尋ねても宜しくて? 藍のような姿に見慣れているなんて、仮装パーティーにでも出席していた経験をお持ちなのかしら?」
「オレの名誉を保つために答えられませんね。けれど、仮装パーティーではなく、紳士の集いに出席していた――そう答えておきましょう」
「おや、興味深い発言ですね。詳しい言及は控えますが、その紳士の集いとやらがどのような活動の集いなのか、尋ねて構いませんか?」
「いえ、それも答えられません。その活動内容と活動メンバーの情報は、他言厳禁なのです。……そういう暗黙の了解があるんですよ」
優は、いかにも意味有り気な薄笑いを浮かべる。
「なるほど、暗黙の了解ですか。すなわち、紳士の集いだけに、紳士協定というわけですか。それでは、質問の答えを頂くことは、期待しても仕方がありませんね。……礼儀を重んじる紳士なのですから」
「……素晴らしい機転。相手の発言の真意を理解したが故に、上手い落ちをつけて抜け道を開いて下さるとは。それがし、感服いたしました」
「なに、私などまだまだ若輩ものですよ」
優と紫さんは、利得の絡んだ悪だくみを講じる悪代官と商人のような目笑を交わす。
俺には2人の会話の意味が全く解らないのだけれど、当の本人たちは言葉の遣り取りの意味を理解しているらしく、吞み込み顔で不可思議な会話を繰り広げている。
うわー。なんだろう、この疎外感。
とは言え、互いに相手の腹の内を読もうしつつ、そのことを意に介さず飄然と超然としている優と紫さんの会話に混じりたくないなぁ。
なんだか、急に居心地悪くなったな、この空間。もともと居心地なんて良くないけれど。
颯さん、早く元いた世界に帰りたいっす。
「紫さん、水を差すようで悪いのですが――そろそろ帰る頃合いだったのでは?」
「ああ、そう言えばそうでしたね。会話に歓を尽くしている場合ではありませんでしたわ」
「すみません。早く元いた場所に戻って、駅のホームにいるもう1人の連れに会いたいので」
恐らく、早苗は駅のホームで時間停止している。俺と優が電車に轢き殺されそうになった状態だから、どういう心境なのか心配なのだ。
「それはそれとして……優よ。お前、危うく死別していたかもしれない俺に生きて再会したというのに、感動の言葉は期待しなくとも、挨拶の言葉くらいあってもいいんじゃないか?」
「……あ、なんだ。颯、生きていたのか。死んだかと思っていたよ」
「素っ気ねえ!」
お前は本当に俺の友人の1人なのか!?
「もっと他にあるだろう! ほら、たとえば、こう……生きていたんだね、良かった的な……とかさ」
「いや、オレ、そんな感極まったようなことを言うキャラじゃないし。……逆に訊くけれど、颯はそんな台詞を言って欲しかったの?」
「え? いや、それは……」
こいつがそんな台詞を言ったら……。
うん、気持ち悪い。
「お前がそんなことを言ったら薄気味悪く思わなくはないが……。それでも、何か一言くらいあってもいいだろう?」
「再会の抱擁といこうじゃないか、友よ」
「すまん、俺が悪かった」
こいつに普通の反応を求めることが間違っていた。
「ふふ、仲が良いですね。さて、話頭を転じて、あなたたちをスキマ外へ出した後の話をしましょうか。手短にいきましょう」
俺と優は、紫さんに肯定の意を示す。
「では、説明に移りましょう。現在、駅のホームにいた者の時間を静止させていることは、ご存じの筈です」
俺は軽く首肯した後、横目でちらりと優の反応を窺う。
優は俺と同じように吞み込み顔で傾聴していた。藍という人物から、時間停止のことを聞かされていたのだろう。
「私は、駅のホームに通じるスキマを開きます。場所は駅のホームの――そうですね、線路の退避スペースとしましょう。命からがら、退避スペースへ逃げ込み、難を逃れたという設定です。間一髪のところで輪禍を逃れたという体を装って下さい。ついでに、例の中年男も退避スペースへ置いておきます。人身事故が起きてしまったかもしれないという騒動は止められませんが、それについては了承して下さいな。これは妥協点です」
「少々気は引けますが、紫さんが助けて下さったから、こうして無事でいられましたからね。その点は甘んじます」
「颯に同じで、オレもそれについては既に了承済みです」
俺も優も快諾した。本来は失っていた命だ。その程度の厄介ごとなら、いくらでも甘んじよう。
「そうですか。それなら、これ以上言うことはありません。……ああ、そう言えば、あなた達に約束して欲しいことがあります。私の存在は、他言無用でお願いします。そちらの方が、あなた達にとっても都合が良いでしょう」
「それは別に構いませんが……。例の妖怪退治屋ですか?」
「ええ。噂を嗅ぎつけて、あなた達に色々と探りを入れてくるかもしれません。面倒事を自ら招く必要はないでしょう? 留意しておいて欲しい点は、それです」
紫さんはそう言うと、空間を撫で上げるように指先を振るった。例の如く、彼女の指先の動きに呼応してスキマが開かれる。人ひとり通れる程の大きさまで広がると、スキマの先から眩い光が差し込んでくる。
スキマの向こう側を覗くと、視界を横切る長大な物体――電車の車体と思わしきものが見えた。
「どうぞ、スキマを潜って下さい。それは退避スペースに繋がっていますから。あなた達がスキマ通ったら、静止していた時間を流れさせますわ」
「分かりました。……じゃあ、行くか、優」
「そうだね。さっさと面倒事を済ませて、早苗と小旅行を再開できる良いのだけれど」
「恐らく、旅行へ出掛けられる余裕はあるんじゃないか? 恐らくだけどな。行けなくなったら、その時はその時だ。近場の街にでも出掛けて、なんかしようぜ。買い物とかさ」
「その休日の過ごし方も乙なものだね。早苗の心労を労って、お菓子屋巡りもいいんじゃない?」
「スイーツ店巡り、ねぇ……。まあ、それも乙だな」
「じゃあ、その方針でいこうか」
「ああ、そうだな――」
俺は背後に立っている紫さんの方へ向き直る。
「じゃあ、紫さん。俺達はこれで失礼します。……色々とありがとうございました」
「颯に同じく、お世話になりました」
俺と優は、紫さんに礼を述べた。
「なに、礼には及びません。それよりも、これからは身の安全に注意を払って過ごして下さい。今回は運よく助けられましたが、次回、同じようなことが起きた時に、再び運よく助けられるという保証はありませんから」
「肝に銘じて、骨に刻んで忘れませんよ。あんな九死に一生を得るような災難、2度とごめんですから」
俺は苦笑いを浮かべながら答えると、スキマの方へ向き変わる。
待ち受けているであろう面倒な一騒動に対して覚悟を決め、元いた現実に繋がる空間の裂け目へ足を運ぶ。
さて、まずは退避スペースを自分から出るか、駅員が来るまで待つかだな。その後は、恐らく救急車にでも乗せられて最寄りの病院で擦過傷の治療、大事をとっての何かしらの検査だろうか。
今回の騒動が事件性を疑われた場合、警察からの事情聴取もあるかもしれないな。
――まったくもって、今日は疲れる1日になりそうだ。
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第30話 昔語り
夏の暑日に照らされた閑静な街並み。その通りを1台のパトカーが走っている。俺と優は、パトカーの後部座席に乗せられ、俺の自宅前まで送ってもらっている最中であった。
時刻は、正午を30分ほど過ぎたところ。
俺は空腹を訴える腹を擦りながら、車窓から見慣れた街並みを眺めていた。
あの後――スキマをくぐって駅ホームの退避スペースに出た後、俺と優は自ら退避スペースを出なかった。車掌か駅員――誰でもよかったが、向こうから様子を窺う動作があるまで、じっと待つことにしたのだ。無いとは思うが、途中で電車が動き出されては困るからだ。
人身事故が起きたかもしれないことで、駅のホームは不穏な静けさに包まれていた。どこからともなく不安や緊張を孕んだ囁き声が聞こえていた。
程なくして、少し離れた場所から男性の『大丈夫ですかー? 無事ですかー?』という声が聞こえて来た。生死確認にやって来た駅関係の職員のようであった。
俺と優は返事すると、気絶している中年男性を退避スペースに置いて、ひとまず退避スペースから出て来て、駅のホームに這い上がった。
すぐ近くの地面に座り込んで茫然としていた早苗を見つけた。
俺と優が声を掛けても、彼女は魂が抜けたように見上げるばかりだった。次第に思考が現実に追いついたのか、何も喋らず黙然と泣き出してしまった。安堵の涙だろう。
泣き続ける早苗をどう宥めたものか悩んでいると、背後から先ほどの男性に声を掛けられ、事情聴取を求められた。ひとまず、落ち着いて話せる場所――職員用の休憩室へ通された。俺と優――そして優に支えられて歩く早苗が部屋に入ると、事情聴取が始まった。
俺と優は、線路に落ちるまでの経緯を伝えた。その後、どうやって電車と接触することを回避できたのか、話を適当にでっちあげた。
事情聴取している部屋に入室してから10分もすると、駅員の連絡を受けて到着した救急救命士らしい人が来た。俺は擦過傷と打撲があったので、ひとまず事情聴取を中断して、救急車に乗る運びとなった。優と早苗は、付添い人として救急車に乗り込んだ。
俺は搬送された病院で適当な治療を受け終わると、診察室の外に待機していたらしい警官に遭遇した。俺たちはパトカーに乗せられ、今度は警察へ事情説明するために警察署に連れて行かれた。
警察署では事情聴取の他、医療費の負担先や慰謝料を請求する場合などの大まかな手順を警察官から説明された。
俺は医療費の負担先についての説明だけ真面目に聞くと、あとは適当に聞き流した。慰謝料については、特に気にしなかったからだ。慰謝料請求に関する手続きが猥雑そうという理由もあるけれど。
事情聴取が終わり、事故後の対応についても聞き、もう帰宅させてもらえるだろうか――俺はそう期待していたのだが、最後に面倒なことを尋ねられた。
両親の連絡先についてだ。
未成年である俺と優は、保護者に事情説明と事後報告などが必要となるので、両親の連絡先を尋ねられたのだ。
俺と優には……保護者の連絡先について問題があった。
優は今は孤児院に所属していないので、保護者の連絡先を答えようがなかった。事情聴取を担当した警官は訝っていたようだが「いないものはいないのだから仕方がない」と主張する優を見て、追及の仕様がない判断したようだった。
俺は俺で、少し変わった家庭事情を抱えていたので、補足的な説明を付ける必要があった。
その家庭事情とは、両親が数年前から行方不明ということだ。しかし、親類や施設に身を寄せているというわけでもない。名目上の保護者――どちらかと言えば支援者に近い存在によって、今は養われていることだ。
丁度良い機会だから、これについて触れておいた方が良いかもしれない。
あれは俺が13歳の中学生だった頃――海沿いのホテルの2泊3日の修学旅行から帰って来た時だ。
俺は楽しい思い出を作れて上機嫌で帰宅した。その俺を――無人の家屋独特の静けさが迎えたのであった。
この時、俺は自宅に誰もいないことには、特に疑問を抱かなかった。俺が修学旅行へ行くということ、これ良い機会と夫婦水入らずの旅行に行くと両親に伝えられていたからだ。旅行先は……出雲だと言っていたはずだ。社寺や歴史的建造物を巡ったり、ゆっくりと日本海や温泉を楽しんでくると言っていたと思う。
両親は、俺が修学旅行から戻ってくるまでに帰宅すると言っていた。何かあって帰りが遅れても、心配せずに留守番を務めるようにも言っていた。だから、俺は両親が夜遅くなって帰ってこないことに疑問を抱かなかった。きっと交通渋滞に巻き込まれて帰りが遅くなっているのだろうと考え、コンビニ弁当で夕飯を済ませた。
果たして、両親は明日も明後日も帰って来なかった。
俺は事の異常性に気付き、まずは母親の携帯電話に電話を掛けた。
電話は……繋がらなかった。何回掛けようと、何十回掛けようとも繋がる気配を見せなかった。父親の携帯電話も同様であった。
その時になり、両親が旅行先で何かしらの事件に巻き込まれたと察し、底冷えのような不安と恐怖に身体を震わせた。
俺は覚束ない手つきで警察に電話を掛けて事情を説明すると、警察は犯罪性の高い事件として取り上げ、出雲方面の警察署に捜査網を敷くよう依頼してくれた。
出雲方面の警察関係者による捜索活動の末……両親の姿が発見されることはなかった。出雲の警察署は捜査を打ち切り、各メディアへ報道要請することで、目撃情報の収集に頼る方針に切り替えたらしい。
その後――今になっても警察からの芳しい報告を耳にしたことはない。
両親が謎の失踪を遂げてから、ひと月程の間、俺は近場にある養護施設に身を寄せていた。俺の両親は、血縁者と呼べる人物が見つからなかったからだ。もしかすると、親族と絶縁した走り夫婦なのかもしれない。
しかし、現在、俺は養護施設に身を置いていない。それどころか、生まれ育った我が家へと戻り、そこで寝起きをしている。
それは何故か。
どうして、それが可能であったのか。
ここで、名目上の保護者が深く関わってくる。
養護施設で水が合わない生活を強いられながら、警察からの吉報を待ち続けて――ひと月が経過した頃。
突然、とある初老の女性が俺の許へ訪ねてきたのだ。
その初老の女性の名は、
縁さんは、とても興味深い提案をしてくれた。俺が承諾さえすれば、俺が働けるようになるまで(目安として高校卒業まで)、こちらの生活の援助をしたいと申し出たのだ。
驚愕の申し出は、さらに続いた。むしろ、この次の申し出こそ、本当の驚愕であった。
縁さんは、生活が支障なく成り立つよう世話人の手配しようと申し出たのだ。
どのような思惑があって、そのような破天荒なことを申し出たのかは不明であるが……よほどの資産を持て余しているのだろう。それに加えて、俺に関する何か深い事情を抱えているのかもしれない。
いくら俺が思慮の浅い13歳の少年であろうと、さすがにこの申し出には何か裏があるのではないかと疑って掛かった。たとえば、遺産目当ての詐欺行為なのではないか等。
俺は父親に関する様々な質問を縁さんへ投げかけた。彼女が本当に父親と古くから友人としての交際があるのなら、父親に関する質問に明瞭に答えられるはずだからだ。質問の内容は、出来るだけ内輪の者しか知らないようなものを選んだ。
果たして、縁さんは――全ての質問に正解した。質問の中には、家族しか知り得ないような細かなことも含まれていた。間違いなく、縁さんは父親と密接な関わり合いを持っている人物であると分かった。
縁さんは、数日後に再び訪れるので、その時に俺の答えを聞かせて欲しいと言って、その場を立ち去った。今後の生活が左右する決断を下せるまでの十分な時間を与えてくれたのであろう。
突然現れた謎の人物。
降って湧いたような上手すぎる申し出。
俺は申し出に対する答えに迷った。
養護施設の職員は、縁さんの申し出を受け入れるべきではないと断言した。素性が分からない人物を簡単に信頼してはいけないという、もっともな言い分だ。
しかし、俺は再び施設を訪れた縁さんの申し出を受け入れた。縁さんが提示した好条件の生活支援がどうというより、馴染み深い我が家へ帰りたいという欲求に屈したのだ。
生まれ育った家に帰りたいと、切に願っていた。事実、縁さんのお蔭で我が家に帰宅した時、胸に込み上げて来た名状し難い感情に堪え切れず、涙を流してしまったものだ。
このような経緯があり、両親不在という憂き目に遭いながらも、住居を変えるようなことなく、生活に窮することもなかったわけだ。さすがに、世話人を付けてもらうことは遠慮したけれど。
縁さんがどこで何をしているか……正直な話、俺にもよく分からない。居場所も分からなければ、どのような生活を送っているのか、なんの職種に就いているのかも不明だ。彼女の身の上に関することを尋ねても、はぐらかされてしまったのだ。悪意は見受けられなかったが、こんな不明な人物に身を委ねていた昔の自分には、今更ながら呆れてしまう。
俺が自宅で生活を送れるようになった当初、縁さんは様子見の意味で自宅へ訪れていた。しかし、時が経つにつれ、その訪問の間隔は伸びていった。1年ほど前からは、完全に途絶えている。どうやら、今は海外で様々な事業に携わり、世界を転々としているのだとか。本当かどうか至極疑問であるが、俺に何不自由ない生活を送らせる資産を保有しているのだから、世界規模で活躍する人間という話は、あながち間違いではないのかもしれない。
さて、昔語りは、この辺りで充分だろう。
縁さんについて警察へ詳しく説明しようか迷ったが……彼女から教えてもらっていた連絡用の電話番号を教えるだけにした。当然ながら、警察は訝しげな面持ちを浮かべた。しかし、内々の事情を話したくない態度を取ったら、特に深く言及してこなかった。
こうして息苦しい事情聴取が終わると、警察側の計らいで、自宅まで送ってもらえることとなり――現在に至るというわけだ。早苗も同車していたが、早苗の自宅が1番近くにあったので、先にパトカーを降りた。
現在、このパトカーは俺の自宅へと向かっている。優も俺の自宅前で降りる予定だ。お昼時なので、昼食を食っていけと誘ったのだ。
早苗と別れる前、昼食を食べたら再び集合し、気晴らしに街に出て買い物でも楽しもうと決め合っていた。ちなみに、早苗にも昼食を一緒に食べないかと誘ってみたが、丁重に断られた。自宅に戻って着替えたいそうだ(先のこともあり、気分転換したいのだろう)。ついでに、昼食を自宅で済ませるらしい。
まあ、それはそれとして。
「……あ、そこの家です。道の左沿いにある『及川』という表札が掛かっている家です」
パトカーは緩やかに道の左端へと寄り、俺の自宅前で停車する。俺と優がパトカーから降りて運転手である警官に一言礼を述べると、パトカーは静かに走りだし、閑静な街並みへと消えて行った。
「……あー、やっと帰って来られたよ」
俺が深い溜息を漏らすと、優も同調するように愚痴る。
「本当だよね……。色々と貴重な経験をいっぱい出来たけれど、2度とごめんだね」
「まあな……。貴重と言えば、確かに貴重か。パトカーなんて、悪いことをしない限り乗る機会なんてないし。……とりあえず、今は飯にしようぜ。腹減っちまったよ……」
「期待しているよ、料理長。果たして、その界隈では美食家として雷名を轟かせているオレの肥えた舌を満足させられるかな?」
「いや、誰だよ、お前。つーか、手伝えよ。働かざる者食うべからずだ」
「なにを馬鹿なことを……。オレには颯の料理を食べるという大役が控えているじゃないか。きっちりがっちり働くつもりさ」
「フードファイターでもない限り、食べることを働くなんざ言わねえよ」
「何を言うか。毒見もれっきとした仕事の1つじゃないか。こちらは命を懸けているんだ。命を懸けるほどの誇り高い仕事なんだ。これを仕事と言わずして、何を仕事と言うんだい?」
「食わせねえぞ」
「さて、昼食のメニューはなに? 下準備なら、この僕様ちゃんの右に出る者はいないぜ。独り暮らしで鍛え上げた僕様ちゃんの料理スキルを存分に披露しようじゃあないか」
優はそう言うと、鼻歌を歌いつつ我が家の玄関へ向かって行った。
その様を眺めて、俺はもう1度だけ溜息をつき……口元に笑みを浮かべた。
死の淵から生還出来た身としては、この下らないやり取りも、愛おしく感じられる。
日常の穏やかさの重要性を理解できる点では、死にかけるのも案外悪くないのかもしれない。もちろん、生きて帰って来られる保証があれば――だけれど。
……極論だな。
「まあ、何だっていいや」
優のあとを追い、俺も我が家の玄関へと足を運ぶ。
せっかく騒がしい友人も招いたことだし、今日の昼食は少し豪華なものにしようか。たまには、贅沢な食事も悪くないものである。
さて、昼食は何を作ろうか。
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第31話 夜半の再訪者 その1
俺と優が危うく轢過事故に巻き込まれそうになった日――それから3日後の夜。
俺は自宅のソファーに座り、しきりに壁掛け時計の示す時刻を確認していた。
現在の時刻は、夜の8時。
この時刻に、とある人物が自宅へ訪れる予定となっている。
「そろそろ、か……」
俺は立ち上がり、玄関の方へ向かった。靴を履いて、玄関扉を開けてみる。
夜中の閑静な通りには、特に人影は見当たらない。少し通りに出て眺めまわして見るも、来客と思わしき人影は無かった。
来訪の予定時刻となったが、まだ到着しないようだ。少し遅れるのかもしれない。
俺はそう思い、自宅へ戻った。玄関の扉を閉めて靴を脱ぎ、元いたリビングへ入ろうとドアノブを捻った。
「……って、うぇ!」
リビングへ入室し――俺は間の抜けた声を上げてしまった。
「あら、こんばんは。お邪魔していますよ」
知らぬ間に、来訪予定の人物――紫さんがリビングにいた。しかも、眼前に。まるでこちらの動きを予測していたかのごとく、扉の前に立って待ち構えていた。
「ゆ、紫さん!? いつの間に来たんですか!?」
「ほんの数秒前に。予定の時刻になりましたので、スキマを通って直接リビングへ参った次第ですわ」
「あ、ああ……。なるほど」
どうやら、外の様子を窺いに行った時に、丁度やってきたらしい。
「どうせ来るなら、玄関から来て下さいよ。びっくりしたじゃないですか」
「ええ、それが目的でしたから。普通に登場したのでは、興を欠くかと思いまして。失礼を承知で、奇をてらわして頂きましたわ。一興ではありませんでしたか?」
紫さんは、邪気の無い笑みを浮かべた。そんな笑いを浮かべられると、気勢を削がれてしまう。
「あー……まあ、いいでしょう。紫さんらしいと言えば、紫さんらしいです。一興というよりは、驚きの意味で一驚でしたが……」
「あら、上手い洒落ですね」
紫さんはくつくつと笑うと、道を譲るように、脇へ退いた。
「さて、戯れはこの辺りにして、私は客人として振る舞いましょう。主人、案内して下さるかしら?」
俺は一瞬きょとんとしてしまったが、言葉の意味するところを理解した。
「ああ、なるほど……。ひとまず、そちらのソファーにでも座ってください。今、飲み物を用意しますから」
「かしこまりましたわ」
紫さんはソファーの方へ歩いて行くと、素直にソファーに座った。
こういう形式ばった出迎えは慣れていないので、ちょっと戸惑うなぁ……。
俺は冷蔵庫から麦茶を取り出して2つのコップに注ぐと、それを盆に乗せて、紫さんの許へ向かった。
「どうぞ」
俺はコップをテーブルに置くと、自分もソファーに座った。2人ともL字型のソファーに座っているので、対面ではなく斜め先に座り合っている形だ。
「ありがとうございます。……さて、先日に手紙で知らせました通り、あの時に話し切れなかったことについても、お話しするとしましょうか」
俺は頷いて応える。
先日の手紙とは、紫さんが書いたと思わしき置き手紙のことだ。一昨日、知らぬ間にリビングのソファーに置いてあったのだ。内容は、先日の対談時に伝えられなかった重要な話をしたいというもので、都合の良い日時を教えて欲しいというものだ。
手紙の裏に希望日時を書いてテーブルの上に置くように指示があったので、その通りにしたら、いつの間にか手紙は回収されていた。そして、今日の8時に訪れるという新たな置き手紙があったというわけだ。
「さて、何から話しましょうか……。希望はありますか?」
「希望、ですか」
俺は少し考え、
「いくつかありますが、じゃあ、どうして紫さんが俺のことを見守っていたか。それを教えてもらえますか?」
「あなたに恋慕していたから、と言ったらどうされますか?」
予想外なことを言われて、俺は数秒だけ呆けてしまった。
しかし、紫さんの含みのある笑いを見て、お馴染みの冗談と看破する。
「うーん、そうですね。ストーカー被害として、警察へ相談しますかね。……で、冗談は止めて下さい。またあの時のように会話が進まなくなるので」
「あら、そうですか。まあ、そうですね……今回に限っては、茶々を入れないよう努力しましょう。では、話を戻しまして……私があなたを見守っていた理由でしたね。良いでしょう、お答えします」
紫さんはそう言うと、考えをまとめるかのように、数秒だけ黙る。
「どこから説明すれば良いか悩みますが、やはり初めの方から順に話していきましょう。いったん質問の趣旨から外れますが、あなたの父親の話からしましょうか」
「俺の……父親の話!?」
紫さんの口から、思ってもみなかった言葉が放たれた。
「紫さん、俺の父親のことを知っているんですか? 父さんがどこにいるか知っているんですか!?」
「まあ、落ち着きなさい。あなたが焦る理由も分かります。順を追って話しますから、聞いていてください」
「あ、はい……すみません。お願いします」
「私とあなたの父親は、古い馴染みです。あなたが生まれる数百年前から親交がありました」
「ああ、父さんの旧友なんですね――」
……ん?
数百年前から?
「すみません、ちょっと良いですか?」
「なんでしょう」
「聞き間違いだと思いますが、数百年前から……と言いましたか?」
「はい、その通りです。千年は超えていないことは間違いありませんね」
「千年……。え、じゃあ、紫さんは……。いや、そもそも……人間……」
「ああ、そう言えば、まだ伝えていませんでしたね。私は人間ではありません。いわゆる、妖と呼ばれる類ですね」
「妖……妖怪?」
目の前の女性の姿と記憶の中にある妖怪のイメージが合致しない。
どこからどう見ても、紫さんは若い――20代前半に収まるであろう美貌だ。
いや、しかし……。妖怪と言われると、スキマという奇怪な能力が使えることに、ひとまずの納得が得られる。あれは、どう見ても人間業じゃない。
「受け入れられなくとも構いません。ひとまず、私は人間という存在ではないと考えて下さい」
「あ、はい……分かりました」
「よろしい。話を続けます。私が妖怪であるように、あなたの父親もまた、妖怪でした。何百年と生きて強大な妖力を手にした、大妖怪でした」
「……」
俺の父親が……妖怪?
どこからどう見ても人間にしか見えなかった、あの父親が?
確か、普通のサラリーマンとして会社勤めをしていたような人だぞ。
話し初めの段階から、すでに俺の思考は付いていけなくなってしまった。
「ずいぶんと混乱しているようですね。無理もないことですけれど」
「……話を続けて下さい。正直、理解が追いついていませんが、ひとまず全て事実として聞きますから」
「分かりました。先に言いましたように、あなたの父親もまた、妖怪と呼ばれる類の者です。妖怪という語感に違和を感じるなら、現人神と思っても構いません。人の姿を取った超人であることに、違いはありませんから。……話を続けます。彼は、妖怪の中でも変わり者でした。人間のことを深く愛した妖怪だったからです。よく人里や都市に下っては、その場その場の人間と交流し、喜びを分かち合っていました。」
紫さんの言っていることは、よく分かる。確かに、俺の父親は、やたらと外交的と言うか、人と接することが大好きな人だった。
「数十年前――とある人間の女性と恋に落ちました。あなたの母親ですね。そして、人と妖怪の子である、あなたが生まれました」
紫さんの言を信じるなら、俺は――半妖ということになる。
「じゃあ、俺には妖怪の血が半分も流れているってことですよね。……でも、俺、ただの人間ですよ。不思議な能力なんて使えませんし」
「当然です。あなたの父親に頼まれ、あなたが人として生きられるよう、一時的に人妖の境界を操り、人間側の領域を可能な限り広げてありますから」
「紫さんが俺の妖怪としての力を封じていたと……?」
「ええ、その通りです。幼き頃は力の自制など出来ませんからね。幼少とは言え、妖怪の身体能力は絶大。人間と比べるまでもありません。うっかり同年代の子供を殴り殺すようなことがあっては困りますからね」
「あ、ああ……なるほど」
俺は自分の手を見下ろし、握りこぶしを作った。そこには、高校生の平均より少し強い程度の握力しかない。今は封じられているが、本来なら、ここに妖怪としての握力も加わっている筈だったのだ。
「普通の人間としての力しか無いでしょう? いずれ、あなたの出生などについて、両親から伝えられる予定でした。あなたが18歳になる頃――普通の人間が高校を卒業し、進学か就職するか選ぶ頃合いですね。人として生を送るか、それとも妖怪の血筋であることを認め、幻想郷へ移ることを選ぶか」
「幻想郷……」
その言葉には、とても馴染みがあった。
まるで故郷のような感慨が湧くから不思議だ。
「ええ、幻想郷。忘れ去られた者たちが集う、のどかで幻想的な郷ですわ。多くの妖怪は、幻想郷に移り住み、今もなお妖怪としての本分を発揮しながら生活している。言わば、妖怪の避難所であり、楽園ですわ。きちんと普通の人間もいますのよ。集落を作り、そこで旧時代的……そうですね、江戸時代後半から明治初期あたりの文明で暮らしていますわ」
俺の脳内には、ひっそりと山間に存在する村のような集落のイメージがあった。人里があり、離れた場所に神社がある。湖もあれば洋館もあり、竹林もあればヒマワリ畑もある。そんな不思議な場所だ。
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第32話 夜半の再訪者 その2
「私もまた、その幻想郷の住人の1人です。いずれ、あなたが高校を卒業する頃合いになりましたら、こちらから接触するつもりでした。……しかし、例の出来事もあり、その予定を早めた。卒業まで待たねばならぬ特段の理由もありませんから。私としても、人の世界に置いているより、あなたのことを見守りやすくなります。あなたが望むのであれば、幻想郷へ招く用意も出来ています」
「……」
つまり、紫さんが俺に接触してきた最大の理由は――俺を幻想郷へ招き入れるためか。
幻想郷のことは、それはそれで気になるが……。
「幻想郷についての詳しい話は、ひとまず大丈夫です。それよりも、父の話です。父さんが母さんと恋に落ち、俺が生まれ、ここで20年近く暮らしていたことまでは分かりました。そして……いなくなった」
「……」
紫さんは瞑目すると、大きく一呼吸した。
「ええ、あなたの言う通りです。あなたの父親は、数年前に消息を絶った――母親と共に」
「はい。今もなお、警察からの発見報告はありません」
「ええ、そうでしょう。日本の警察は優秀と聞き及んでいますが、これについては、警察の領分を逸脱していますから」
「……と言いますと?」
「……妖怪退治屋ですよ。さまざまな派閥がありますが、その中でも過激派――妖怪であれば善悪を問わず滅そうとする輩に襲撃されたのです。あなたの両親が旅行へ出かけた場所は出雲でしたね? 同日、出雲で大量の妖怪退治屋が死んだことが確認されています。激しい戦闘があったのでしょう」
ぞっと、自分の体から血の気が引いたのが分かった。
「殺されたのですか、俺の両親は……? その、過激派の妖怪退治屋に」
「いえ、遺体は見つけられませんでした。しかし、妖怪退治屋の亡骸が転がっていた山奥で、あなたの父親の愛刀を見つけました。戦闘時に使用していた刀です。襲撃されたこと自体は、疑いようのない事実でしょう。そして、今もなお、あなたの許へ帰って来ないということは……」
紫さんは言葉を濁す。
「……でしょうね。帰って来ないと言うことは、帰って来られないということですから」
「ええ……。だからこそ、あなたを妖怪退治屋が蔓延る外の世界へ、いつまでも置いておきたくないのです。数年の月日が流れましたが、半妖であることを嗅ぎつけ、あなたの命を狙う輩が出ないとも言い切れません。また、今は妖怪としての力を封じていますが、いつ何を切っ掛けにして妖力が溢れ出すとも分かりません」
紫さんの言う通り、そのような過激派の妖怪退治屋がどこにいるかも分からない環境で生きることは、俺にとって非常に危険なことだ。
紫さんが俺を見守っていた――その理由は、これなのだろう。
「……なるほど、大体の事情は分かりました」
「そうですか。両親についての話は、あなたに強い衝撃を与えてしまうと危惧していましたが……。その様子を見るに、杞憂だったようですね」
「え? ああ……。そうですね。でも、なんて言うか……落胆よりも納得したと言うか。あ、そうなんだ……って感情の方が強いですね」
辛いと言えば、確かに辛い。遠まわしであるが、両親の死亡宣告を受けたに等しいことなのだから。
しかし……なんとなく予想はついていたことだ。可能なら生きていて欲しかったことに違いないが、しかし、ここ数年の胸中の雲霧が晴れたことも事実だ。答えが分からずに惑い続けるよりは、はるかに心が軽くなった。
「……あなたは強い子に育ちましたね」
「……そうですか?」
「ええ、強い子です。いえ、強い男です。まだ齢は17でしたか。その齢で、これだけの憂き目を受け入れられるとは、強者の証ですわ」
「なんだか照れますね……。まあ、俺の場合は特別ですよ。身近に似たような境遇の奴がいるから、孤独感は無いですし」
「ああ、あなたの友人ですね」
「はい。それに、縁さんって人のお陰で、生活は保障されていますから」
「縁……。ふふふっ、そうですね。あなたの支援者ですからね」
「ん? 縁さんを知っているんですか?」
そう尋ねると、紫さんはくすくすと笑いを忍ばせた。
何が面白いのだろうか。
「ええ、知っていますとも。夕紅縁は、私が作った即席の式神ですから」
「……え? あの人、紫さんの式神だったんですか!?」
「ええ、そうですよ。あなたを見守るためだけに、私が作り上げた式神ですわ」
にわかに信じがたかったが、紫さんの式神だとすれば、見ず知らずの俺のことを支援してくれた理由も納得がいく。
「あ、じゃあ……改めて、ありがとうございました! 縁さん……じゃなくて、紫さんのお陰で、この家に戻って来ることも出来ましたし、まともな生活も送れました」
俺は深く一礼した。
「なに、礼に及びません。私がやりたくてやったことですから。あなたが無事に成長できたことが、私にとっての喜びですわ」
「えっと……でも、何か恩返しがしたいです。世話になりっぱなしでは、俺の気が済みません。俺に出来ることであれば、何か紫さんへ恩返ししたいです」
「恩返し……恩返しですか。そうですね……」
紫さんは瞑目して数秒だけ思案すると、薄く目を開ける。
口元には、微笑みも浮かぶ。
「では――あなたにお願いしたいことがあります」
我が故郷――幻想郷へ遊びに来ていただけませんか?
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第33話 幻想入り
7月31日。
現時刻は、朝の9時手前。
俺は大量の荷物をリュックサックに詰め終わった。
リュックは空きがないほど荷物が詰まり、パンパンに膨らんでいる。
主に、かさばる衣類関係のせいなのだけれど。
「……さて、荷物の準備はオッケーだな」
ピンポーン、ピンポーン――
ふと、玄関のチャイムが鳴った。
「お、来たか」
俺は立ち上がり、玄関へ向かおうとすると――
突然、リビングの大窓が開いた。
「おっはよーう、颯!」
普段以上にハイテンションの優が大窓から入って来た。
「……おい待て。なんでそこから入って来る」
「いや、普通の入り方だと面白くないから」
だったらチャイムを鳴らすな。
つーか、やっぱり紫さんみたいな奴だな、こいつ。
「……まあ、良いや。上がれよ」
「うぃ」
優は履いてきた靴を手に持つと、室内に入って来る。
優も、背中に大きなリュックサックを背負っていた。
「ずいぶんと大荷物だな」
「それは颯も一緒でしょ。とりあえず、5日分の衣服を詰め込んでおいた」
「なるほどな」
さて。
どうして俺と優が大荷物を用意して集合しているかと言うと……。
「幻想郷って、どんな場所なんだろうな」
「そりゃ、人と妖怪が和気藹々と暮らしている山中の秘境だろうね」
これから――幻想郷へ行くからだ。
数日前の夜、紫さんと自宅で対談した時のこと。
紫さんが「幻想郷へ遊びに来てもらえないか」と言われたので、俺は二つ返事で了承した。
紫さん曰く、夏季休講を利用して幻想郷に訪れ、どんな場所なのか知って欲しいとのことだ。いずれは本格的に幻想郷へ移って欲しいが、急に引っ越しを決めるのも難しいだろうから、お試しで暮らしてみて欲しいそうだ。
俺としては、幻想郷に興味を持っていたし、紫さんに対する恩返しになるので、特に断る理由は無かった。夏休みを利用した長期旅行だと思えば、有意義な時間の使い方でもあるからだ。
ちなみに、なんと優も幻想郷へ訪れる手筈になっていた。藍という人物と対面していた時に、そこで幻想郷について話され、幻想郷へ訪れることを勧められていたそうだ。優の場合は、なんの躊躇もなく了承したらしい。
このような経緯があり、俺と優は自宅に集まり、9時に来訪する予定の紫さんに幻想郷へ連れて行ってもらうことになっている。
ちなみに、滞在期間は、最長で3週間を予定している。8月20日前後には、こちらへ帰って来るつもりだ。
「お金とか食料品は、持って行かなくて良いんだったよね」
「紫さんは、そう言ってたな。住める場所は、こちらで用意するとか。お金は……なんだっけ? かなり前のお金が流通していて、現代のお金は使えないって言ってなかったか?」
「だよね。文化的に、明治初期なんだっけ? 野口さんやら諭吉さんやらは使えないだろうね」
「まあ、必要になったら、アルバイトでも何でもすりゃ良いさ。山間の秘境なら、いくらでも仕事は余っているだろうしな」
アルバイトと言うか、奉公だろうか。
「――あらあら、準備は万端ですわね」
急に、紫さんの声が聞こえた。
声のする方向を見ると、スキマの縁に上半身をもたれさせている紫さんの姿があった。
「あ、紫さん。おはようございます」
「おはようございます~」
俺と優が挨拶すると、紫さんは「はい、おはようございます」と返し、広げたスキマから出て来た。
いつの間にか、予定時刻になっていたようだ。
「よもや、これほど早く、幻想郷へ招くことになるとは思いませんでしたわ。それも、2人そろって……なにやら感慨深いですね。田舎へ旅行すると思って、幻想郷の暮らしを楽しんでくださいな」
紫さんは指を一振りし、人一人が通れる大きなスキマを開いた。
スキマの先には、寂びれた赤い鳥居が見えた。奥には、建物も窺える。どうやら、どこかの神社のようだ。
「このスキマは、幻想郷に繋がっています。奥に見える場所は、博麗神社と呼ばれる神社ですわ。そこに、博麗霊夢という巫女がいます。すでに話は通してありますから、幻想郷での暮らしは、彼女を頼りなさい」
「博麗霊夢、ですね。分かりました」
巫女と聞いて、俺は早苗のことを思い出した。
早苗の奴、俺と優がこんなことになっていると分かったら、きっと驚くと同時に羨ましがるだろう。早苗は神様や妖怪について詳しいから、幻想郷のことを話せば、絶対に興味を持つはずだ。
「今一度、忘れ物が無いか確認してください」
「俺は大丈夫です。外靴もありますし」
俺はリュックサックを背負うと、わきに置いてあった外靴を手に持った。
「オレの方も大丈夫です」
同じく、優もリュックサックを背負い、手に外靴を持った。
紫さんは静かに頷く。
「よろしい。では、どうぞスキマを潜ってください」
紫さんはスキマを潜るよう手で促した。
「よし……じゃあ、行くか!」
「オッケー。不思議な郷でバカンスを楽しもうじゃないか」
俺と優は互いに頷き合うと、幻想郷へ繋がるスキマを潜った。
さて、幻想郷では――
どんな出会いが待っているのだろうか――
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紅白巫女と白黒魔法使い
第1話 博麗神社と博麗霊夢
俺と優はスキマを潜ると、博麗神社の境内に足を踏み入れた。
博麗神社は標高の高い場所にあるらしく、後方を見ると、幻想郷の景色が一望できた。どうやら、幻想郷は周囲を山々に囲まれている地帯のようだ。まさに秘境と言える。
「ここが……幻想郷か。なんか、空気感が全然違うな」
「空気の匂いが違うよね。草木の香りが凄いし、埃っぽく無いね」
優の言う通り、幻想郷の空気は、草木の香りに満ち溢れていた。空気は清浄で、自然本来の空気がどんなものであったのか教えてくれるようだ。
空を見上げれば、どこまでも澄んだ青空が広がっている。これだけ空気が綺麗なら、とても綺麗な星空を眺めることが出来るだろう。
「文化的に江戸後期から明治初期って言っていたからな。自動車の類が無いんじゃないか?」
「かもね。これだけ山間の秘境なら、自動車が普及していると思えないし……。あるとしても、農耕用のトラクター……は文明的に無理かなぁ」
恐らく、あったとしても自転車くらいだろう。
まさか、未だに移動手段が徒歩ということはあるまい。
「まあ、ともかく、まずは博麗霊夢という巫女さんとやらに会うとするか」
俺は神社の鳥居へ向き直り、奥に見える建物――賽銭箱と鈴があるから拝殿だろうか――に向かおうとする。
今回は参拝目的ではないが、せっかくなので、鳥居の前で一礼してから歩を進めた。遅れて、優も付いてくる。
鳥居の寂れ具合から見て取れたが、どうやら博麗神社は廃れ気味のようだ。参拝客がいるかどうか不明であるが、標高の高さから察するに、頻繁に訪れる者は少ないだろう。
こんなところに、巫女が住んでいるのだろうか。
石畳の参道を少し歩き、拝殿の前までたどり着いた。今回は、手水舎は無視した。参拝目的ではないので、そこまで細かく作法を気にする必要はないだろう。
拝殿の右側方には、平屋の住居が見える。博麗霊夢という巫女は、普段はその平屋で生活しているのかもしれない。
「……賽銭箱、ボロいな」
俺は目の前の賽銭箱を見詰めた。長い期間を風雨に晒されたのか、傷みが酷い。奉納、と書かれている文字は、全体的にかすれてきている。
「う~ん、年代物って言った感じだねぇ。味わいがあると言えば、味わいがあるね」
優は唸るように同意した。
「まあ、賽銭箱は、どうでもいいか。さて、巫女さんを探さないといけないわけだけれど。……って、何をやっているんだ」
優は自分の財布を取り出し、中身を漁っていた。
「ん? 賽銭箱に小銭でも入れよっかなって」
「財布を持って来ていたのか?」
「まあね。幻想郷で普及している小銭を入れる財布は必要だしね」
「まあ、財布は使うと思うが……。つっても、元の世界と幻想郷じゃ、貨幣単位が違うんじゃないか?」
使っているとしたら、恐らく文銭と呼ばれる古銭だろう。
「その辺は気にしない。あくまでも、賽銭用だからね。銭を投げることと、ちゃりーんっていう金属音が重要なのさ。賽銭に穢れを込めて、さらに金属音で穢れの浄化。それが賽銭の本来の役割だからね。極論、小銭なら何でもいいのさ」
優は適当に小銭をつかむと、一気に賽銭箱へ放り投げた。
数十枚の小銭が宙を舞い、じゃらじゃらと騒がしい音と立てながら、賽銭箱の中へ消えた。
「よし。これでオレの体の穢れを落ちて、その代わりに颯へ乗り移ったよ」
「なにそれ止めて」
「身代わりいう立派な御役目を颯に任せたわけさ」
「そんな汚役目は要らない」
どんな汚れ仕事だ。
「さて、あとは鈴を鳴らして仕上げを――」
優が鈴へ繋がった綱を引こうとした――その矢先。
スパンッ! という高音が横合いから響いた。
思わず音の鳴る方へ振り返ると、平屋の縁側――そこに1人の少女が立っていた。障子に手を掛けている。恐らく、先ほどの音は、彼女が勢いよく障子を開けた時のものだろう。
その少女は、紅白の巫女服を身にまとっている。この博麗神社に住む巫女――博麗霊夢に違いないだろう。恐らく、俺よりも一回り年下――15歳前後と言ったところか。
俺と優が注視する中、少女はおもむろに跳び上がり、ひとっ飛びに賽銭箱の前に着地した。
俺は己の目を疑った。見間違いでなければ、眼前の少女は十数メートル離れた地点から、助走なしに跳んだように見えた。オリンピックに出場する超人でも、この距離の幅跳びは不可能と断言できる。
少女はガバッと賽銭箱の縁をつかむと、まじまじと中の様子を覗いている。どれくらいの量の賽銭が入れられたのか、確認しているようだ。もしかしたら、障子を開けた時は、けたたましい賽銭の音に反応したからだろうか。
少女は賽銭箱を覗き続け――何かを見つけたのか、その体の動きが止まる。
ぴくりとも動かない。
微動だにしないので、時間が止まったのかと錯覚しそうになった。
俺は痺れを切らし、少女に話しかけようとする。
「あの――」
あなたが博麗霊夢ですか?
そう尋ねようと思い、注意を向ける為に肩を叩こうと、手を伸ばすと――
がしっ!
少女は、素早い速度で俺の手を掴んだ。
「あ、あんた達を……」
少女の握力は、尋常ではない程に強くなる。
握るよりも締めると言う表現が相応しい力だ。およそ、少女の細腕に秘められているとは思えない。
俺が身の危険を感じる中――少女は顔を上げた。
満面の笑みを浮かべて。
「あんた達を……歓迎するわ!」
俺と優は、突然の事態に呆気に取られたままだった。
かくして、博麗神社の巫女――博麗霊夢と出会うこととなった。
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第2話 困惑と安堵
俺と優は、平屋の居間にいた。卓袱台を挟み、霊夢と向き合っている。
卓袱台の上には3人分のお茶が置いてある。湯飲みからは湯気が立ち昇り、緑茶独特の胸の好く良い香りがした。
「あなた達が紫の言っていた外来人ね」
「外来……人?」
聞きなれない言葉だ。外国人みたいな語感だけれど。
「外来人。『外』から『来』た『人』よ。幻想郷の外の世界から来た人のことを総じて外来人って呼んでいるのよ」
霊夢が補足の説明をしてくれた。
なるほど。確かに、俺と優は外来人と言える。
……ああ、そう言えば、まだ自己紹介もしていなかったな。
「まだ自己紹介していませんでしたね。遅ればせながら、俺の名前は及川颯です。で、こっちが――」
「神坂優です」
「私の名前は霊夢よ。苗字は博麗ね。呼ぶ時は、霊夢で構わないわ。あと、敬語も要らないわ。同じ年頃でしょうし」
霊夢はそう言うと、自分の湯飲みに口を付けた。
初対面の印象としては、明け透けな性格と言ったところだろうか。それと、人見知りや物怖じという様子も見られない。それなりに話しやすそうだ。
顔立ちは整っていて、美少女と呼んでも差し支えはない。髪は日本人らしく黒色だ。髪の長さは肩に届く程度で、後頭部の大きなリボンで髪をまとめ、ポニーテールにしている。
服装は巫女服であるが、巫女服を普段着に改造したと表現した方が適切だろう。初詣で見るような形式ばった意匠ではない。袴ではなく、膝丈程度のスカートを履いているし。
普通の巫女服ではないことは一目瞭然であるが……それにしても、なぜ巫女服の腋の部分が無いのだろうか。白い袖はあるが、巫女服から独立している。紐で袖口を縛り、二の腕に付けているようだ。
クールビズだろうか。今は夏だから、その仕様なのかもしれない。
俺がそんなことを考えていると、ぎりぎり聞き取れる程度の呟く声が聞こえてきた。
横目で見ると、優が真顔で何やら呟いている。
「腋出しの巫女服、だと……!? なんて素晴らしい意匠なんだ! 衣服の一部分を切り取り、その部分の肌を露出させることで、艶かしさを引き出すと同時に、巫女服とその装着者の魅力を2倍にも3倍にも引き出すのか……! もっと早く気付けば、巫女服の新たなる価値を世界に知らせられたのに……」
あー……。
無視しよう、無視。変態は放置しておこう。
さて、これから霊夢に何を話せば良いのだろうか。
まずは住居や食料面のことを尋ねておくか。
「霊夢さ……じゃなくて、霊夢。ちょっと尋ねたいことがあるんだ」
「何?」
「俺たちって、どこに住めば良いんだ? 紫さんからは、霊夢を頼れって言われたのだけれど」
「え……」
霊夢は一瞬だけ呆けると、何かを察したのか、苦々しい表情を浮かべつつ片手で顔を覆った。
「あー、もう……そういうことなの。紫の奴、適当に面倒事を押し付けて……!」
霊夢は、何やら不満気に呟いている。
もしや、話の行き違いでもあったのだろうか。
「何かまずいことでもあったのか?」
「まずいことと言うか、説明不足と言うか……。ねえ、紫の奴、私のことを頼れとだけしか言わなかったの?」
「あ、ああ……。そうだよな、優」
「そうだね。頼れば良いとしか言われなかったね」
俺は何やら不穏な空気を感じ取った。
やはり、話に行き違いがあったのだろうか……。
霊夢はその場で立ち上がると、急に怒鳴る。
「紫、あんたのことだから、どうせどっかから見ているんでしょう! 隠れていないで、出てきなさい!」
霊夢は怒鳴り終わると、静かに黙った。
しかし、数十秒が経過しても、誰からも返事は無かった。
「……あーもう、だんまりってわけね」
霊夢は肩の力を抜くと、その場に座り直した。
「急に叫んでごめんなさい。たぶん、紫の奴が見ていると思って」
「紫さんが見ている?」
例のスキマを使って、こちらの様子を覗き見しているのだろうか。
「いえ、気にしないで。どうせ、いつもの悪趣味だから」
霊夢は訳知りの様子で言うと、悩み始める。
「うーん……。となると、何から話し始めれば良いのかしら」
「やっぱり、何かまずいことでもあるのか?」
「まずいって程じゃないのだけれど……。私ね、紫から『同じ年頃の外来人2人が幻想郷に遊びに来るから、彼らの便宜を図ってあげて頂戴』としか言われていないのよ」
「……つまり、こちらの事情は全く分かっていないと」
「ええ。遊びにっていうくらいだから、物好きな観光客の案内でもするのだと思っていたわ」
「……」
俺は優の方を見た。
「おい、優。これはどういう状況だと思う」
「発言から察するに、紫さんの説明不足……か、もしくは遊びかなぁ。オレと颯、霊夢がどんな対処を見せるのか楽しむという遊び?」
だよなぁ……。
紫さんのことだから、きっとやりかねない。
いや、しかし……。話が通してあると言われたから安心していたが、どうしたものか。
「紫の遊びでしょうね。まったく、あの妖怪は……。いったい、何が目的なのかしら」
霊夢は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、溜め息をついた。
「……まあ、良いわ。紫のことだから、本当に困った状態になったら介入してくるだろうし。ひとまず、あなた達の事情を話しなさい。事情が分からないと、こちらも対処の仕様が無いわ」
俺は霊夢に対して何やら申し訳なさを感じつつ、幻想郷に来ることになった経緯や持ち物などについて説明した。
霊夢は真面目に聞いてくれていたが、表情は終始一貫して呆れ気味であった。
「……なるほどね。大体の事情は分かったわ。ひとまず、住む場所と食べ物の確保が必要ってことね。ちょっと待ちなさい」
霊夢は思案顔で瞑目する。心当たりを探っているのかもしれない。
「……そうね、ひとまず人里に案内した方が良さそうね。あそこなら人が多いから、住む場所の1つや2つ、見つかるでしょう」
人里。
確か、幻想郷の中で、普通の人間が密集して暮らしている集落だったか。
「まあ、最悪……」
霊夢は視線を横に向ける。
「もしも人里でも住む場所が見つからなかったら、しばらくは博麗神社で居候しても構わないわ」
「いや、そこまでしてもらう必要は……」
俺は咄嗟に否定の言葉を口にした。
見ず知らずの少女にそこまでさせることは忍びないし、年頃の男と同居なんて、女性としては嫌だろう。
「いえ、その辺で野宿されるよりもマシだわ。顔知りの人間が妖怪に食べられて山中で死んだら、こちらの寝覚めが悪いわ」
霊夢は、さも当たり前のように言った。
そう言えば、幻想郷は妖怪の楽園でもあった。どんな妖怪がいるか具体的に知らないが、中には危険な種もいることは間違いないだろう。
改めて、自分が元いた場所と異なる環境――異世界と呼んでも差し支えない環境に来たことを実感した。
「まあ、詳しい取り決めは、その時になったら考えましょうか。人里へ連れて行っても良いけれど、昼過ぎまで待って頂戴。午前中は、済ませておきたいことがあるから」
「あ、ああ……。ありがとう。すまないな、急に押しかけた上に、色々と配慮してもらって」
「構わないわ。あとで紫にあったら、ガツンと言ってやるから。それに、博麗の巫女として、これも私の仕事のようなものだし」
霊夢は立ち上がると、縁側へ歩いて行った。どこかに出かけるのだろうか。
何かを思い出したのか、霊夢が振り返る。
「あ、そうそう。その辺りに荷物を置いて、好きに過ごしていて構わないわ。境内を出ないなら、好きに神社を見て回っていても良いわ。ただし、境内の外や裏山へ行かないこと。身の安全は保証しかねるから。境内は結界内だから、妖獣の類は入ってこないわ」
霊夢は言い終わると、どこかへ歩き去った。
俺と優は、居間に取り残される。
「……なあ、優」
「何?」
「なんか、とんでもない所に来ちまったって感じだな」
「何を今さら、じゃない? 紫さんの誘いに乗った時点で、まともなことにならないって気はしなかったの?」
「いや、していたけどさ……。俺の中の妖怪のイメージって、こう、悪戯好きで実害の無いイメージだったからさ。しかも、実際に見た妖怪って、紫さんじゃないか。人の姿だぞ。いまひとつ、妖怪が危険な存在に思えなかったからさ」
まさか『野宿したら襲われて死ぬ』と言われると思わなかった。
「オレもちょっと意外だったね。まあ、猪や狼、熊が出没する場所と思えば……分からなくもないんじゃない?」
「あ、なるほどな。野山に獣がいると思えば、妙に納得できるな」
熊や狼が出る山で野宿したら、確かに危険だ。食い殺されても、なんら不思議ではない。
「ひとまず、霊夢の用事とやらが終わるまで、のんびりさせて貰うとしようよ。畳に障子に木造家屋。こんな由緒正しい日本家屋で過ごせるなんて、めったにないよ」
優はリュックサックを部屋の隅に置くと、畳の上に寝っ転がった。
「まあ……そうだな」
俺は同意しつつ、先行きのことで不安を抱く。
ここまで無計画なことになるとは思わなかったが、どうにかなってくれるだろうか。
……なんだかんだ、紫さんは、どこかで見ているだろう。霊夢の言う通り、本当に困った状態になったら、きっと助け船を出してくるに違いない。
「ひとまず、のんびりさせてもらうとするか」
俺も自分のリュックサックを部屋の隅に置くと、のんびりくつろぐことにした。
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第3話「手伝わない? だったら殴るわよ」
霊夢と別れてから、30分くらい経過しただろうか。
俺と優は、まだ平屋の居間にいた。優と幻想郷について、あれこれ話し合っている。
今の話題は、幻想郷の暮らしついてだ。幻想郷に関する手持ちの情報は少ないが、どんなことを霊夢に確認しておくべきなのか、今のうちに考えておいた方がいいからだ。
「幻想郷で暮らすとなったら、やっぱり金回りと食糧事情は把握しておきたいな」
「だねー。まずは、お金が普及しているかどうかだね。幻想郷に貨幣文化が浸透していなかったら、基本的に物々交換になろうだろうし」
「物々交換か……まるで未開の地の現地民みたいな話だな。……ん? でも、神社に賽銭箱はあったよな? 貨幣めいた貨幣は使われているんじゃないか?」
「かもね。賽銭を入れた時の霊夢の食いつきよう。あれを見るに、貨幣という概念を知っている風だったよね」
「ああ。……そう言えば、紫さんが言ってたな。幻想郷の文化水準って、江戸後期から明治初期あたりだって。だったら、まず間違いなく貨幣は使われているな」
うーん……。江戸後期から明治初期って、いったいどんな貨幣が使われていたっけ。金貨とか銀貨とか、その辺りだよな。じゃあ、文銭も使われているかもな。
「どんな貨幣が使われているか、あとで霊夢に確認するとして……。あとは、食糧事情か」
「まあ、間違いなく稲作と畑作だろうね。ここらで貿易できると思わないし。と言うか、そもそも交通手段が無いんじゃない?」
「だろうな。基本、自給自足か。実際に人里に行ってみないと、なんとも言えないが」
人里がどの程度の規模なのか分からないが、生野菜の露店販売くらいはやっているだろう。明治初期の文化水準なら、1次産業品以外にも、多くの工芸品や娯楽品が作られていると考える方が自然だ。
完全に自給自足となると、始めの頃の食糧事情は、霊夢に依存するしかなくなる。その前に紫さんと接触できればいいのだが……。
紫さん、今頃は何をやっているのだろうか。霊夢の言うように、例のスキマを使って、どこからか様子をのぞき見しているのだろうか。
――――スタッ!
ふと、庭の方から足音がした。歩くというよりは、跳んだ後の着地のような足音だ。
霊夢が戻って来たのだろうか。俺はそう思い、庭の方へ顔を向ける。
視線の先にいた人物は、霊夢ではなかった。見知らぬ少女だ。
「よぉー! 遊びに……きた……ぜ?」
先方からしても想定外の状況だったのか、呼び掛けの声が尻すぼみになった。
「あれ、霊夢は? あんたら、霊夢の客人か?」
そう言いながら、少女は俺達の方へ歩いてくる。
「ああ、まあ……客人と言えば客人だな」
俺が答えると、少女は縁側にドサッと腰を下ろした。どことなく男勝りな動きだ。
「ふーん、そっか。あんたら、見慣れない顔だな。人里……んん? いや、違うな。服装が人里の連中っぽくないし」
少女は上半身を捩じって振り向き、俺と優の姿を代わる代わる観察してくる。
その間、俺も少女の姿を見つめた。
少女の姿は――たとえるなら魔女だ。頭に大きな黒の帽子を被っている。服装は、黒と白が基調のエプロンドレスだ。髪は金髪だが……地毛だろうか。外見からして、年齢は霊夢と同じくらい……15歳前後と言ったところだろう。
霊夢が和風の巫女なのに対して、目の前の少女は西洋風の魔女。なんとも印象の差が激しい。
コスプレ――というわけではないだろう。幻想郷は妖怪……すなわち人外の楽園。恐らく、目の前の少女は、魔女の類だ。
うーん……魔女って人外の部類なのだろうか。個人的には、魔法が使える人間って感じなのだけれど。
俺が考え込んでいると、少女は「ま、いっか」と言って、靴を脱ぎ捨てて居間へ上がって来る。
「ところで、霊夢はどこだ? 外出中か?」
少女は、居間をキョロキョロと見回す。
「霊夢なら……その辺にいるんじゃないか? なんか午前中に用事を済ませたいって言ってたから」
「用事? はーん……用事ね。霊夢にしては、珍しいこともあるもんだ」
少女はそう言うと、居間の押し入れを開いて、慣れた動作で座布団を引っ張り出す。こっちに近づいて来ると、俺と卓袱台を挟むようにして座布団を敷き、その上に座って胡坐をかいた。
眼前で少女が胡坐をかいたことに、俺はちょっと驚いた。年頃の少女が男性の前で胡坐をかく姿を初めて目にしたからだ。言動を見るに、どうやら男勝りな性格のようだ。
「で、あんたら、名前は?」
少女は帽子を脱いで畳の上に置くと、卓袱台に肘をつきながら尋ねてきた。どうやら、霊夢が来るまで雑談で暇を潰すつもりのようだ。
「俺は及川颯だ」
「オレは優ね。苗字は神坂」
「ふーん……。颯と優ね」
俺と優が名乗ると、少女は確かめるように名前を呟く。
俺は下の名前を呼ばれたことが意外だった。普通――つまり幻想郷の外の世界であるが、よほど親しくならないと下の名前で呼んだりしないものだ。
「ちなみに、私は霧雨魔理沙だ。普通の魔法使いだぜ」
……普通の魔法使い? 魔法使いにも、普通か変かの区分があるのだろうか。
と言うか、やっぱり魔法使いなんだな。見た目通りに。どうもコスプレの感が拭い去れないけれど。
「えっと……霧雨は魔法使いってことは、実際に魔法が使えるのか?」
俺がそう尋ねると、霧雨は不思議そうに眉をしかめた。
何かマズイことでも尋ねてしまったのだろうか。
「あ、ああ……」
「何か、変なことを質問しちゃったか?」
「いや、変な質問と言うか……かなり久しぶりに苗字で呼ばれたなって思って」
「苗字で……? 普通は、名前で呼び合うもんなのか?」
「そうじゃないのか?」
俺が尋ねると、霧雨が尋ね返してきた。
どうやら、幻想郷では、下の名前で呼び合うのが常識らしい。そう言えば、霊夢も俺達のことを最初から名前で呼んでいたっけか。
「いや、俺は幻想郷の風習が分からない。ただ、今までは苗字で呼ぶことの方が普通だったからな」
「ああ、なんだ。やっぱり外来人か。そうじゃないかとは思ってたんだ」
霧雨……いや、魔理沙は合点がいったと言わんばかりに頷く。
「外の世界だと、苗字で呼び合うことの方が普通なんだな。なんでなんだ?」
「いや、なんでって尋ねられてもな」
それが当たり前だったからとしか言えない。いきなり名前で呼ぶと、馴れ馴れしい印象を与えるから……だろうか。
「颯。たぶんね、幻想郷は離島と同じ感覚なんだと思うよ」
横合いから、優が会話に加わってきた。
「離島と同じ感覚? どういう意味だ?」
「えっとね、日本でたとえるなら、沖縄……いや、西表島とか宮古島とかみたいな、小さな離島の方がいいか。外部との交通が遮断されている離島ってね、島民同士で結婚するから、同じ苗字の親戚が多くなるんだよ。たとえば、周りの人の苗字が佐藤さんとか鈴木さんばっかりになっちゃう感じかな」
「へー。離島って、同じ苗字の人が多いんだな」
言われてみれば、同じ苗字の人が増えて当然だ。結婚相手が限られているのだから、自然と一部の苗字だけ使われやすくなる。
学校の学級名簿とか、どんな風になっているんだろう。同じ苗字の子供がズラッと固まっているのだろうか。ちょっと見てみたいな。
「そう、同じ苗字の人が多い。だから、基本的に名前で呼び合う風習があるらしいよ。苗字だと区別が付きにくいから」
「ああ、なるほどね。それと幻想郷も似たような感じってことか」
幻想郷は、山間の秘境だ。離島ほどではないにせよ、外部と遮断されている。
「うーん、まあ……よく分からないが、そういうことだな」
魔理沙は、適当な調子で相槌を打つ。
細かいことは気にしない大雑把な性格でもあるようだ。この短時間で、魔理沙の性格を掴めた気がする。
「なんだ、いつの間にか魔理沙も来ていたのね」
声のする方向へ振り向くと、霊夢が縁側に立っていた。ちょうど今、どこからか戻ってきたらしい。
「おう、霊夢。邪魔してるぜ」
「手間が省けたわ。魔理沙、ちょっと手伝いなさい」
「手伝い? 面倒ごとは、お断りだぜ」
「そこの外来人2人ーー颯と優なんだけれど、人里に連れていくつもりなの。あんた、どうせ暇なんでしょ。こんな時間から神社に来るくらいだし。箒に乗せて、人里まで運んであげてよ」
「人里まで? なんだ、飛べないのか?」
魔理沙は、俺と優の方を横目で見ながら言った。
「飛ぶ……飛ぶ?」
俺は小首を傾げて、優を見た。優は手のひらを上に向けてみせる。分からない、という身振りだ。
「魔理沙。颯と優は、ただの外来人よ。空は飛べないわ。……飛べないわよね?」
霊夢は補足するものの、確認するように俺に言ってきた。
「えっと……その飛ぶってのは、なんだ……ジャンプする方の跳ぶか?」
魔理沙は「いや、違う違う。空を飛ぶの方だ」と訂正する。
空を飛ぶ……人間が? どうやって?
「あー……これは実際に見せた方が早いぜ、霊夢」
「そうね」
霊夢は答えると、無造作に宙に浮いてみせた。縁側の床から、足が50センチほど離れている。重力に引かれて、床に着地する――ということはなく、そのまま浮遊している。
俺はその光景に呆気にとられた。手品の類には見えない。
「まあ、こういうことよ。あなた達、それを飛んで移動なんて、出来ないでしょう?」
「あ、ああ……」
霊夢の質問に、俺は曖昧に肯定した。先ほどの人体浮遊のことが頭から離れないからだ。
「へー、すごいね。何それ、神通力?」
優が霊夢に尋ねた。意外そうにしているが、驚いてはいないようだ。
「違う。そんな大層なものじゃない。私の場合は、能力……うん、能力よ」
霊夢は、奥歯に物が挟まったように言った。
能力と言うと――超能力? いや、でもそれって、神通力と大差なさそうだが。
「あー……。外来人に分かるように説明するなら、なんて言えばいいかな……」
魔理沙はあごに手を添えて、どう説明したものかと悩み出す。
「その、なんだ。私たちはな、普通に空を飛べるんだよ。私の場合は、魔法で。霊夢の場合は、空を飛ぶ程度の能力で」
「魔法と能力……。もしかして、幻想郷の人って、みんな空を飛べるのか?」
俺が尋ねると、今度は霊夢が答える。
「いえ、みながみな……というわけではないわ。人里の人は、飛べない方が自然だし……。妖怪も、程度の低い奴は飛べないわね」
人里の人は、飛べない方が自然。ということは、人里の住人は、俺や優と同じように、平凡な一般人ということだろう。
程度の低い妖怪は飛べないというのは……なんだろう、妖力めいたものが足りないということだろうか。長く生きたりして実力が付くと、妖怪としての格が上がって、神通力のような何かに目覚める……という感じだろうか。
にわかに理解しがたいが、なんとなく分かってきた気がする。
魔理沙の場合は、魔法で飛ぶと言っていたが――
「ちなみに、魔理沙はどんな感じで飛ぶんだ? 霊夢みたいに浮かぶのか」
「私か? 私の場合は、箒だな。魔女っぽいだろ?
魔理沙は得意気に言ってみせると、縁側の方を指差した。その先には、縁側のフチに立てかけられた竹箒があった。
そう言えば、魔理沙がここに来た時に、手に竹箒を持っていた気がする。もしや、竹箒に乗って、神社まで飛んで来たのだろうか。それなら、庭に着地したような足音も、納得がいく。
「まあ、そういうことよ。……というわけで、魔理沙。人里までの移送、手伝ってくれるわよね?」
霊夢は言った。微笑みという凄みを利かせながら。
「どういうわけだよ。単なる雑用じゃないか」
「いいじゃない。暇なんでしょ? 日課のキノコ採集をしていないんだから」
「あー、いや……」
魔理沙は、ばつが悪そうに視線を逸らす。図星なのだろう。俺と優のことを横目で見ると、観念したように溜息をついた。
「まあ、いいぜ。間が悪かったってことにしておいてやる。ただし、仕事の報酬は頂くぜ?」
「報酬? 何よ、報酬って。……賽銭は分けてあげないわよ」
「あってないような賽銭なんて、はなから期待してないぜ」
「あ゛? もういっぺん言ってみなさい」
魔理沙の発言が癇に障ったようで、霊夢はドスの利いた声を漏らした。
なんとも堂に入った脅しだ。歴戦の勇士を思わせる凄みを感じる。その辺のチンピラより、はるかに怖い。霊夢の機嫌を損ねない方がよさそうだ。
魔理沙は慌てて前言を訂正する。
「いや、そのなんだ。報酬ってのはな、私が今朝に作った魔法薬の実験に付き合ってくれって話だ」
そう言うと、魔理沙はエプロンドレスのポケットから試験管を取り出した。試験管の中には、黄緑色の液体が入っている。
「魔法薬の実験? なんの薬よ、それ」
「よくぞ訊いてくれたぜ。これはな、空気に触れると気化して、幻覚性の煙幕を作り出す薬なんだ」
「はあ? なんでそんな薬を作ったのよ」
「いやな、話の通じない妖怪と遭遇した時なんかに便利だと思ってな。魔法キノコの幻覚成分を抽出する実験をやってて、ようやく上手くいったんだ。んで、空気と反応して気化する成分も混ぜたってわけだ」
「ふうん……それで、実験って?」
「簡単な話だ。この魔法薬の煙を吸って、ちゃんと幻覚効果があるか試してみて欲しい」
なにやら、違法ドラッグの開発業者が治験アルバイトを募集しているように思えた。
空を飛ぶといい、幻想郷、常識も ぶっ飛んでんなー。
日本語は通じるけれど、幻想郷って、本当に日本にあるんだよな?
「あんたの体で実験しなさいよ。なんで私を巻き込むわけ」
「いやいや、もう自分で実験したんだよ。だがな、私は魔法の森の瘴気に慣れちゃってるからさ、どうやら幻覚成分が効かないみたいなんだ。私じゃ実験にならない」
「……で、私に試してみたくて、ここに来たわけ?」
「ああ。頼む、ほんの少量だけでいいんだ。酒だと思って、ちょっと試してみてくれよ」
「なるほど。それが颯と優を人里まで運ぶ報酬ってわけね」
「そうだ。割に合う話だろう?」
「どうやら死にたいらしいわね」
ゴキリ、ゴキリ。
霊夢は、威勢よく拳の間接を鳴らした。
「な、なんでそうなるんだ!?」
ずざざざ、と魔理沙は畳の上を滑って後退した。
「当たり前じゃない。人様の体を使って、訳の分からない薬を試そうとするんだもの」
「だから、人運びの報酬だって言ってるだろ! 薬屋の治験みたいなもんだぜ」
「馬鹿を言うんじゃないわよ。私は、あんたに暇を潰す機会をあげる。あんたは、私から暇を潰せる機会をもらえる。これで対等じゃない」
「無茶苦茶だぜ! なんだその都合のいい理論は!」
「不満なわけ?」
「当たり前だ。私の方が分が悪すぎるぜ」
「仕方ないわね……」
霊夢は呆れたように言うと、左手を胸の前に上げて、拳を固く握りしめる。
「魔理沙、立場が分かっていないようね。いいわ、説明してあげる。あなたは、効果の危険性も分からない薬のために、私を実験台に使おうとした。もともと、それが目的で神社に来たのよね? 颯や優とは関係なく。つまり、本来だったら、私はあんたに教育的な指導をしているところよ。そんな薬を私で試そうとすんなってね!」
霊夢は語尾を強めると、よりいっそうの力をこめて、拳を握りしめた。
教育的な指導とは、すなわち鉄拳制裁を意味しているのだろう。拳骨ゴチーンだ。
魔理沙は「ひっ」と悲鳴を漏らした。表情が恐怖に引きつっている。
「私はね、その指導を免除してあげているのよ。免除。分かるでしょ? あんたは暇を潰せる上に、私の指導も免除してもらっているの。これって、私の方が譲歩してあげてるってことなのよ」
霊夢は自信満々に、さも当たり前と言わんばかりだ。
……なんだろう。霊夢の言っていることの方が正しい気がしてくる。おかしい、なんだこの論法は。
「いや、いやいや! なんだその理屈は! ずるいだろ! 教育的な指導って、絶対に後出しだろ!」
「あら、そう。じゃあ、別にいいわよ。颯と優は、私が人里まで歩いて連れて行くわ。その代わり――分かっているわよね?」
ゴキャッ、と霊夢の拳が物騒な音を鳴らす。移送を手伝わければ、殴るぞーーそういう意味だ。
すっげーな、この巫女。指の動きだけで拳の関節を鳴らしてやがる。
魔理沙は「うぐぐぐ……」と不満げな呻き声を上げる。進退窮まったという感じだ。
「……だー! 分かったよ、手伝えばいいんだろ! ったく、今日は厄日だぜ」
魔理沙は観念したらしく、いら立たしそうに頭をかきむしった。
俺と優にとっては、ありがたい話の流れだが……なんだか魔理沙には申し訳ないなぁ。
魔法薬ね……。ちゃんと安全な薬だったら、自分が治験に協力してもいいと思えてくる。魔理沙が不憫で仕方ないし。
「ふふっ、よろしい。さーて、魔理沙も確保できたことだし、早速 人里に向かおうじゃない」
霊夢は、晴れやかに破顔した。いかにも満足気だ。
「ん? 午前中は用事があるんじゃなかったのか?」
俺が尋ねると、霊夢は「ああ、そのこと――」と言って、言葉を継ぐ。
「午前中の用事っていうのは、一種の方便よ。もともと、人里までの移送を魔理沙に手伝ってもらうつもりだったの。魔理沙って、普段の午前中は、魔法の森でキノコ採集をやっているのよ。だから、午前中は都合が悪かったってわけ」
なるほどね。だから、人里の案内は、午後からというわけか。
「まあ、魔理沙が来てくれたから、呼びに行く手間も省けてわ。涼しいうちに用事がすませられそうで良かったわね」
霊夢は、俺と優に同意を求めるように言った。
魔理沙がいる手前、苦笑いで答えるしかない。
「なんだよ、最初から私を頼るつもりだったのかよ。だったら――」
「だったら……何かしら?」
霊夢は魔理沙の発言を遮り、また拳の関節を鳴らした。
魔理沙は反撃の気勢を削がれ、すごすごと引き下がる。
……霊夢の交渉術って、ヤクザみたいだな。適当な理屈をつけて、武力で無理を押し通す。敵に回したくない、清々しいクズっぷりだ。親しみをこめて、霊夢姉御と呼ばせてもらおう。
霊夢が巫女姿だったせいか、清純というか、世間ずれしていない種の人かと思っていたが……とんだ思い違いのようだ。早苗とは真逆の性格だな。
かくして、俺と優は、人里までの足を手に入れたのであった。
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第4話 お股がイタイイタイなのだ
「……のどかだな」
俺は平屋の縁側に座り、澄み渡る空を見ていた。
聞こえる音は、鳥のさえずり、そして――風にそよぐ木々の葉音のみ。これほど身に染み入るような静けさは、幻想郷に来る前の場所では、深夜にしか味わえないだろう。
現在、博麗神社には、俺ひとりしかいない。優と霊夢、そして魔理沙は、今は人里に向かっている最中だ。
霊夢の説得(という名の脅し)により、魔理沙は俺と優を人里まで運んでくれることになった。とは言え、魔理沙が飛行に使う竹箒は、2人乗りが限度なのだ。1度の飛行で、俺と優を両方とも運べない。というわけで、先に優が魔理沙に運んでもらうことになったのだ。
霊夢は、優と魔理沙に共に、人里まで飛んで行った。まあ、俺と一緒に博麗神社に留まる理由もない。
平屋から3人が空を飛んでいく姿を眺めていたが、生身の人間が事もなげに飛行する光景というのは、実に珍妙だった。夢を見ているのではないかと、少し正気を疑ったほどだ。
魔理沙曰く、戻って来るまでに15分は掛かるそうだ。人里まで、片道10分足らずと言ったところか。もしも、徒歩で人里まで行こうと思ったら……片道でも3時間は掛かるのかもしれない。山道を下らないといけないし。
それを考えると、空を飛べない俺と優は、なおさら人里の近くに居を構えた方がよいということになる。
「さてさて、どうなることやら……」
俺は先のことに思いを致して、ひとりごちた。
「――――あら、何かお困りで?」
前触れもなく、真後ろから声が聞こえた。後ろを振り向く間も無く、腋の下から胸の前にかけて、白のレース手袋を嵌めた細腕が回される。しまいには、自分の右肩の上に何か――人間の頭部と思わしき重みが掛かった。
「なっ――紫さん!?」
俺は思わず驚きの声を上げてしまった。首は捻れなかったが、視線を横に向けると、俺の右肩の上に紫さんがあごを載せている姿がギリギリ見えた。
今までどこに行っていたんだ、この人! つーか、何やってんの!?
立ち上がって距離を取ろうにも、腋の下から胸にかけて回された腕のせいで、身動きが取れない。背後からもたれ掛かるように体重を掛けられているから、なおさらだ。
今しがた気付いたが、背中に大きくて柔らかな感触を2つ感じる。過去に経験したことはないが、位置関係も考え合わせると、この感触の正体は、間違いなく紫さんの胸だ。
なんだ、この謎の状況。なんで俺は、急に登場した紫さんに、背後から抱き締められてるの? なんで、背中に胸を押し付けられんの?
「ゆ、紫さん……何をやっているんですか?」
「ご覧の通りです。戯れですよ」
紫さんは、愉快そうに笑いを忍ばせる。
「いや、戯れって……」
「それとも、あなたは私のことが嫌いかしら?」
俺は返答に窮した。背後から抱き締められている状況は気まずいけれど、肯定したら紫さんを拒絶することになる。
なんとも卑怯な言い回しを使う。
「……ふふふ。その沈黙は、否定と受け取りましょう。まあ、良いではありませんか。誰かに見られるわけでもなく、さりとて見られて困るわけでもなく。せっかくの機会です。女の纏う色香を楽しんでおきなさいな」
いや、いきなり色香を楽しめって言われてもね……。
確かに、見目麗しい女性に抱きつかれている状況は、ある意味では男の夢とも言える。
香水なのか洗髪料の香りなのか分からないが、ふんわりと思考が鈍る甘い香りが鼻腔をくすぐる。体の柔らかな感触と相まって、気持ちが妙に和らいできた。
女性って、なんでこんなに良い匂いを纏っているのかね? 男の体臭なんて、むさ苦しいというのに。神様、男女差別が過ぎるぜ。
「それに、今のうちに色香に慣れておいた方が、のちのち、大いに役立つと思いますよ?」
「……いったい、なんの話をしているんですか」
「あなたが意中の相手を口説き落とす時のための便宜を図っているのです」
紫さんはそう言うと、頭を軽く振って、俺の肩の上であご先を転がした。機嫌の良さそうな態度だ。
俺は話題を転じることを考えた。相手は紫さんだ。この話題を続けていたら、俺にとって どんどん不利な状況になる気がする。
「ところで、今までどこに行っていたんですか?」
「所用を済ませていた、とでも言っておきましょうか。私には私なりの仕事があるのです」
「はぁ……。あ、そうそう。霊夢、怒ってましたよ。こんな話は聞いてなかった、あとでガツンと言ってやるって」
「ええ、すでに存じています。所用を済ませていたといっても、放置していたわけではありません。様子は見聞きしていました。なに、想定の範囲内です」
霊夢が察していた通り、やはりスキマを使って様子を覗き見していたのか。
霊夢の反応を想定した上で、俺と優を霊夢に任せたとは……なんと言うか、性格が悪い。
「……あ、そうだ。紫さん、幻想郷での住む場所とか暮らしとか、どうすればいいんですか? これから霊夢と優と……あと魔理沙って魔法使いと一緒に、ひとまず人里に行ってみるつもりなんですけど」
「それについては、心配する必要はありません。幻想郷は、私にとっての箱庭です。よほどのことが無い限りは、私にとって不都合は起きません。その場の流れに従っていれば、最適な場所に落ち着きます」
紫さんの口ぶりから察するに、無策というわけではないようだ。すでに策を打っていて、成り行きを見守っているだけなのかもしれない。
そうは言っても、不慣れな土地に来たばかりの俺にとって、当座の暮らしが不明瞭であることは、なんとも落ち着かないのだけれど。
「大丈夫です。私を信じてください。事を明らかにしないということは、明らかにしない方が都合がいいからです。私の想定通りに進めば、あなたにとって最も都合のいい環境に落ち着きます。それは、私にとっても最善の結果なのです」
紫さんの強い確信を感じられた。
そこまで言い切れるのなら――きちんとした考えがあるのだろう。理由があるのだろう。
「分かりました。紫さんの配慮、信じます。ひとまず、人里に行ってみます」
「感謝します。信には義で報いますわ」
「……ところで、紫さん」
「なんでしょう」
「いつまで、その……後ろから抱きついているつもりなんですか? この状態、話しづらいのですが」
「戯れと言ったではありませんか。母親が我が子に頬擦りするようなものです」
紫さんの言い回しには、何やら引っ掛かるもの感じた。
「う~ん……。俺、そんなに紫さんに可愛がられるようなことをした憶え、無いんですけどね」
「あなたは、私の旧友の子。そして、数年間を見守ってきた者です。私にとっては、我が子のようなものです」
そう言われると、背中から抱き締められる愛情表現は、納得できそうではあるけれど……。
紫さんからしてみれば、俺は馴染みの相手だろう。けれど、俺からしてみれば、紫さんは つい最近になって知った相手だ。たとえるなら、近所に住んでいるお姉さんみたいなものだ。
なんだかんだ、颯さん、ずっとドギマギしているんですぜ?
「それに、もうすぐ魔理沙の迎えが来るのでしょう? それまで、どうか楽しませてくださらない?」
「……まあ、それなら」
あと5分もすれば、魔理沙は戻って来るだろう。それまでの間だったら、すげなく突き放す理由も無い。
「ありがとうございます。……ところで、霊夢はどうでしたか?」
「霊夢? えっと……具体的には」
「どんな風に思いましたか」
どんな風に――か。これまた抽象的な質問だ。
「そうですね……。なんと言うか、こう……ヤクザっぽいですね。実力主義というか、実利主義というか」
いかんせん、魔理沙とのやり取りの印象が強すぎる。
「ふふふ、そうかもしれませんね。ああ見えて、情が深い子なのですよ。信義に反ずるような小心者ではありません」
「愛情が深いと言うか……器が広いと?」
それは分かる。俺と優の住む場所が見つからなければ、神社に居候してもいいと言っていた。霊夢の生活事情は知らないが、頼りがいというか、人間としての豪胆さを感じる。
「そういうことです。どうか、あの子の奥底ある物を感じ取ってあげてください」
「……なぜ、そんな話を」
「さて、なぜでしょう。あなたが紳士なら、婦女子である私のために、機知を働かせてくださいませんか?」
そう言われてしまうと、自分から深く追求することが野暮になってしまう。
女の人って、ずるいなぁ……。いや、紫さんが ずる賢いだけなのか。
紫さんとの会話は、どうも知性を求められる節がある。優との会話とは、また違った知性だ。紫さんの場合は、なんと言うか、霧を掴み取ろうとするような感覚だ。
「……ふふ、分かりませんか?」
「降参ですね」
「結構。今も、そしてこれからも、そのままでいいでしょう」
なんだそりゃ。結局は、分からなくてもいいってことか。
うーん……手玉に取られている気がする。いや、紫さんに言葉の駆け引きで勝てる気は全くしないのだけれど。
「さて……名残惜しくはありますが、私はお暇するとしましょう。あなたの温かみは、充分に味わえましたし」
「何か用事があるんですか?」
「まだ抱き締められていたいですか?」
肯定も否定もしづらい質問だなぁ……。話しづらくて不便であるが、心地好いことも確かだ。体験したことは無かったが、誰かに抱き締められるというのは、これほど安心感をもたらされるものなのか。
俺が返事に悩んでいる様を感じ取って、紫さんはクスクスと笑う。
「必要があれば、またいずれ、どこかの機会にでも。……あなたの待ち人がやって来ましたよ」
待ち人と言われて、魔理沙のことを連想した。鳥居の方の空を見遣ると、空中に黒い点がポツンと見えた。
もしや、あれが魔理沙か。人里から戻って来たんだな。
「では、人里を楽しんでいらっしゃい」
紫さんの声が聞こえ終わると同時、俺の腋の下から、するりと紫さんの腕が抜き取られた。背中に掛かっていた重みと感触も消える。
俺が後ろを振り返ると、そこには紫さんの片影すら無かった。スキマを使って瞬間移動したのだろう。
それから程無くして、魔理沙が庭に降り立った。
「よう、待たせたな!」
魔理沙は着地すると、竹箒から降りずに、あごをしゃくって自分の後ろを示した。『乗れ』ってことだろう。
「手間をかけさせて、すまないな。頼む」
「気にすんな。霊夢の貸しにしておいてやるぜ」
そう言ってもらえる、こちらとしてもありがたい。
優がそうしていたように、俺も竹箒にまたがった。
「肩でも腰でもいいから、しっかりつかんでおくんだぜ。空中で落ちたら、拾うのが面倒だからな」
何気に怖い発言だ。
俺はどっちを掴むべきか少し悩んだが、魔理沙の両肩を掴むことにした。安定性を優先するなら腰に手を回した方が良いのだけれど、ここは紳士の機知を働かせよう。
「よし、いくぞ」
魔理沙の掛け声と同時、体がフワッと持ち上がった。
気味の悪い浮遊感を覚えると同時――股に強い圧迫が掛かる!
当たり前だ。いきなり、股下に全体重が掛かったのだ。しかも、乗っているのは、細くて堅い竹箒の柄。
あれ……あれれ? 箒で空を飛ぶって、色々な意味でキツクない? 特に男性。
……ど、どうしよう。今からでもいいから、居間から座布団を持ってきて、箒の柄に挟もうかな。このままだと、人里に着くころには、颯さんの股間がイタイイタイになっちゃうんだけど。
そんなことを考えている間に、どんどんと高度が上がっていく。もはや、地面から10メートル以上も離れている。
安全器具なしに高度飛行することも危険だが、颯さんの股間に掛かる圧力も危険信号の域だ。
やっべ、いってぇ……!
魔理沙、いつもこんな方法で移動していて、股下を痛めないのかよ。何か痛みを和らげるコツでもあるのか?
魔理沙の体勢を観察すると、前のめりの状態で、箒の柄を両手で掴んでいることが分かった。
なるほど。両手に体重をかけることで、股下に掛かる体重を分散させているんだな。
ここは魔理沙にならって、俺も両手で箒の柄を――
「おい、肩から手を離すな! 落ちても知らないぞ!」
「あ、はい、すみません」
俺はすぐさま、魔理沙の両肩に手を戻した。
くっ……! 体重を分散したいのに! 魔理沙の肩だと、位置が高くて体重分散が出来ないのに!
「じゃあ、出発するぞ」
魔理沙が声を上げると、箒が前方に加速した。ぐんぐんと速度は上がっていき、体感で時速40キロメートルまで上がる。
「どうだ、颯! 箒に乗って空気を切る感じは!」
「あ、ああ……楽しいっすね……」
俺は渋い声で返事した。
仕方ない。俺の意識は、股間の痛みに奪われっぱなしなのだ。
空気を切る感じだとか、空から見た幻想郷の展望とか、そんなことに気を回せる余裕はない。
人里に辿り着くまでの約10分間、俺は股間の痛みと激闘を繰り広げたのであった――――
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第5話 幻想郷では、常識に囚われてはいけないのですね!
「おう、颯。人里が見えてきたぞ」
魔理沙が地面を指差す。その先には、住宅が密集している地域があった。
「へぇ……あれが人里か」
俺は魔理沙の肩越しに、眼下の人里を見遣る。
ぱっと見た感じは――幻想郷の人里は、まるで時代劇の撮影に使う映画村のようだ。
人里の広さは、目測で2キロメートル四方と言ったところか。里を囲うようにして、高い外壁が築かれている。外壁の外には、堀が作られている。その構造は、時代劇で見た城の城壁を思わせる。外敵――妖怪の攻撃を想定していることを窺わせる。
里の中心を横切るように、大きな川が流れている。その川を中心にして、人里は開拓されたようだ。
家屋は、黒塗りの瓦が基本だ。人里の外壁よりの家屋は、木造が多い。平屋が多く、長屋のような長い平屋もチラホラと見つかる。この辺りは、純粋な住宅が多いのだろう。
川の近くに近付いていくと、白塗りの家屋が多く見つかる。壁が木製ではない……ということは、商品を保管するための蔵屋敷か何かに違いない。
川沿いとなると、2階建ての大きな建物の数が急増している。人通りも多く、色とりどりな出店らしき建物が多い。商家が集まっているのだろうか。
「なるほどな……。魔理沙、人里の人口がどれくらいかって分かるか?」
「人口? いや、分からないな。結構な数はいると思うが……」
「1万人はいないだろう?」
「うーん……そうだな。多くて5000人くらいじゃないか?」
魔理沙の見立ては、正しいと思う。この規模の住居環境だったら、人口は5000人……それに足らないくらいと考えるのが妥当だ。
人里が近づくにつれ、魔理沙は飛行高度を落としていく。
やがて、俺と魔理沙は人里の入り口――その手前にある橋に降り立った。
「ほら、着いたぜ」
魔理沙は股下から箒を抜き取ると、肩にかつぐ。
「ありがとう、助かったよ」
俺は魔理沙にお礼を言うと――その場で何度か片足をぶらつかせる
「……何やってんだ」
「いや、その……箒の柄のせいで、股が痛くてな」
俺は苦々しく呟いた。
足を動かしてみるとよく分かるが、箒の柄に圧迫され続けた股下は、ズキズキと痛みを発していた。
これはまた、なんとも慣れ親しんだことのない痛みだ。股間というのが情けない。
「まあ、仕方ないな。乗るのに慣れていない奴は、そうなるぜ。優を乗せていた時と違って、そばに霊夢がいなかったしな」
「……どういうことだ?」
霊夢さん、そばにいるだけで鎮痛効果でもあるの?
「優の時はな、霊夢が手を貸してやったんだよ。『普通に箒にまたがっているとキツイ』って優が言いだしたから、霊夢が優の左手を持ってやって、優自身は右手で箒の柄をつかんでいたって感じかな」
え、なにその状況。優のやつ、霊夢に補助してもらって、飛行を楽しんでいたってこと? 手をつないで?
颯さん、お股イタイイタイを我慢していたっていうのに?
許せんな。
「颯の場合は、仕方ないぜ。箒にまたがるんじゃなくて、横乗りだったら、まだ楽だったかもな」
「ああ、横乗りという手があったか」
横乗りだったら、尻全体に体重が分散される。青春恋愛ドラマの自転車二人乗りよろしく、横向きに乗っかればよかったか。
乗る前に思いついていれば……!
「……ところで、優と霊夢は?」
「そう言えば、ここにはいないな」
魔理沙の口ぶりから察するに、優をここに降ろした後、俺を迎えに行くために、すぐに飛び去ったということだろう。
「たぶん、先に2人で人里に入ったんじゃないか」
「かもな。分かった、2人を自分で探してみるよ」
「ちょっと待て。初めて人里に入るんだろう? 霊夢たちと合流できるまでは、一緒に付いていってやるぜ」
「いいのか? そこまでする義理は……いや、分かった。ありがとう。厚意に甘えさせてもらうよ」
せっかくの申し出だ。ここは素直に従おう。
「任せろだぜ。……そう言えば、まだ訊いていなかったな。何が目的で人里に来たかったんだ? 買い物か?」
「いや、買い物じゃなくて……。端的に言えば、家探しと仕事探し、かな」
「家と仕事? ってことは、人里に永住するのか」
「永住するってわけじゃないんだ。ちょっと話がややこしいんだがな……」
俺は幻想入りするまでの経緯、それと魔理沙に出逢うまでの成り行きについて、手短に話した。
「……なるほどね。スキマ妖怪に放任されたってか。なんか大変だな」
「スキマ妖怪?」
「紫のこと。あいつ、スキマを使うだろう」
ああ、そういうことか。スキマを使うから、スキマ妖怪と。
「事情は分かったぜ。ひとまず、幻想郷には1か月も留まらないと考えていいんだよな」
「そうだな。8月の下旬に差し掛かったら、いったんは故郷に戻ろうと思ってる」
「分かった。そうなると……丁稚奉公みたいな感じになるかもな」
丁稚奉公。つまりは、住み込みの使用人ということか。
確かに、丁稚奉公という働き方だったら、住む場所と仕事が両方とも手に入る。
「ただし、丁稚奉公って言っても、期間限定だろう? 長くても20日くらいの。そこが微妙なんだぜ」
「微妙なのか?」
「いちおう、私は商家……道具屋の生まれだからさ、その辺りの事情は分かるんだが……。正直なところ、長期で働くつもりのない奉公人って、面倒なんだよな。知識が無いから、初めは誰かが丁寧に教えないといけないだろう? かと言って、長く奉公してくれるわけじゃない。育て甲斐がないんだよ。だったら、最初から要らないって話。繁忙期で人手が足りないなら、知り合いに頼めばいいだけだしな」
魔理沙の言うことは、至極もっともな話だ。新卒の入社試験で、会社に長期的に留まる見込みのない学生を不採用にする話に、通じるものを感じる。
「そういうわけで、丁稚奉公みたいなのは難しいかもな」
「そうか……」
人里に来れば、何か機会に巡り合えると思ったが……出鼻をくじかれた気分だ。
「まあ、気にするなって。他にも、良い手が見つかるかもしれないからな。ひとまず、人里の中を散策してみようぜ」
「……それもそうだな。ここに突っ立っていても、何も始まらないし」
どちらにせよ、優と霊夢と合流しなければいけない。
俺は魔理沙に連れられ、人里の門をくぐった。
上空から感じた通り、人里の風景は、時代劇で登場する江戸の城下町に雰囲気が似ていた。全体的に、素朴で和の印象が強い。一種の集合住宅だと言うのに、無舗装の土の地面を踏みしめるというのは、なんとも新鮮な感覚だ。
通路に見える人里の住人は、みな着物か甚平を着ている。俺のように、洋服めいた洋服を着ている人は、見渡した限りでは見つからない。明治初期の文化水準だったら、洋服が普及していても不思議ではないと思っていたが……山間の秘境に西洋文化は浸透しなかったのだろう。まあ、魔理沙は洋服――それもコスプレめいた服装ではあるけれど。
魔理沙の後に付きしたがって、どんどん通路を歩いていく。その間、俺と魔理沙に対して、住民から好奇の視線が向けられていることに気付いた。俺たちの外見から、外部から来た人物であることが丸わかりだからだろう。
周囲の人々を眺めていて、もう1つ気付いたことがあった。男性も女性も、みな背が低いのだ。成人男性を見比べてみたが、どの男性も俺よりも頭1つ分は背が低い。俺の身長は約180センチメートルだから、人里の男性のは、160センチメートルに届いているかどうか……と言ったところだろう。
珍しい洋服を着ている見慣れない巨漢が現れた。しかも、魔女のコスプレじみた少女と同伴で。物珍しい目で見られても、おかしくないな。
まあ、それはそれとして――
「魔理沙。今はどこに向かっているんだ?」
「ひとまず、川沿いの商店通り。あそこが1番 人が集まりやすいからな。何か情報を収集するんだったら、打ってつけだ。ついでに買い物も出来る」
なるほど。何も当てが無い現状では、まずは川沿いの商店通りに向かうのが得策か。
もしかしたら、優と霊夢は、一足先に商店通りへ向かったかもしれない。
「そうだな。まずは、その商店通りとやらに行ってみようか」
「ああ。ここから歩いて行くとなると……10分弱は掛かるけど、箒で飛んでいくか?」
魔理沙は、竹箒を肩から下ろした。
「……いや、出来れば、歩きで行きたい。住人の暮らしぶりとか、じっくり見てみたいしな」
股間に負担を掛けたくないしな!
「私はなんでもいいぜ。どうせ暇だしな」
魔理沙は箒を担ぎなおすと、鼻歌まじりに歩き続ける。
暇か……。そう言えば、魔理沙は、普段は何をして生活しているんだ? 道具屋の生まれって言っていたから、店の看板娘みたいな感じで、普段は店の手伝いをしているのだろうか。……魔女のコスプレで?
「なあ、魔理沙」
「なんだぜ?」
「魔理沙って、普段は何をして生活しているんだ? さっき言っていた、道具屋の手伝いとかしている感じか?」
「あー……」
魔理沙は言葉を濁すと、箒を持っていない方の手を腰に当てた。視線は、少し上に向いている。
「実家の方とは、ちょっとな……。普段は、魔法の森で生活してるよ。キノコを採ったり、魔法の研究をしたり……普段はそんな感じだな」
「ふーん、魔法の森ね……」
魔理沙の口ぶりから、実家――道具屋に関して、何か悶着があったようだ。この件については、触れないでおこう。
「魔法の森って、どんな場所なんだ?」
「んー、そうだなー。薄暗くて、いつもジメジメしてる。魔力を帯びたキノコが採りやすい場所だな」
樹海みたいな環境だろうか。ということは、博麗神社みたいに、人里から離れている場所かもしれない。
「魔理沙1人で、その魔法の森に暮らしているのか?」
「ああ、一軒家に1人で住んでる」
「1人暮らしか……しかも鬱蒼とした森の中で。すごいな」
物資調達とか不便だろう……と思ったが、魔理沙の場合は空を飛べるから、さして不便ではないのか。
「そうか? 人も妖怪も寄りつかない場所だから、何かと快適だぜ」
魔法の研究を前提にするなら、喧騒の少ない環境の方が適している……ということか。いわゆる、象牙の塔だな。
「お金とか食糧とか、その辺りは、どうやって工面しているんだ?」
霊夢にも後で尋ねるつもりだが、人のいない場所で暮らす生活の知恵を学んでおきたい。
「食べ物については、基本はキノコだな。煮ても焼いても美味い。魔法の森だったら、いくらでも採れるし」
魔理沙の場合は、主食はキノコか。キノコは栄養が豊富だから、主食には適しているのかもしれない。
「野菜とか肉は、どうしているんだ? その辺も自給自足か?」
「いや、普通に人里で買ってる。魔法の森だと、野菜の栽培は難しくてな……。狩る動物もいないし」
「それはまた、どうして?」
「なんつーかな、魔法の森の環境は、特殊なんだよ。魔法のキノコが生えているって言ったろ? あのキノコがな、魔力を帯びた胞子を出しているんだよ。そのせいで、普通の野菜は駄目になる。土壌が合わないんだろうな。家庭菜園に挑戦したことも何度かあったけど、全滅した」
「なるほどな……。確かに、そういった特殊な環境だと、普通の野菜は育たないか」
露地栽培にとって、土壌の相性は、絶対条件だ。
「動物なんかも駄目なのか?」
「ああ。イノシシとかウサギとか、そういった美味い動物は、魔法の森には近づかないな。……あ、そうそう。注意しておくが、魔法の森には、迂闊に入るなよ。普通の奴だったら、胞子にやられて気絶するぜ」
俺の中で、魔法の森の危険度がググッと跳ね上がった。
神経性の胞子とか、やばいじゃん。気絶したまま放っておかれたら、死ぬんじゃないか?
よくよく考えてみれば、キノコが毒性を持つことは、自然淘汰の結果として当然かもしれない。キノコは、寄生型の菌類。腐った宿主を確保しやすいほど、その種のキノコは繁殖しやすい。だったら、自らに毒を持つことで、接した宿主候補――動物を その場で殺せるキノコは、宿主を確保しやすいわけだ。
「そんなに危ない場所なのか? 暮らしていて平気なのか?」
「私は平気だぞ。なんかな、次第に平気になった。体が慣れたんだろうな」
魔理沙は、得意気に言ってみせる。
魔法のキノコの放つ胞子に対して、免疫が出来たということだろうか。
そう言えば、魔理沙が霊夢を尋ねてきた理由って、新薬の実験のためだったっけ。自分だと魔法薬が効かないから、効果が確かめられないということで。
……それにしても、普通の野菜と肉は、人里で調達か。
「じゃあ、お金はどう工面しているんだ。人里で買い物をしているってことは、お金を支払っているってことだろう」
まさか、泥棒しているわけでもないだろうし。
「お金か? 私の場合は、色々だな。自作のマジックアイテムを売ったり、珍しい物を拾ったら香霖堂に持っていって買い取らせるし」
香霖堂?
「その香霖堂って、どんな店なんだ? 買い取り専門の仲買業者か?」
「仲買って、どういう意味だ?」
「そうだな……。誰かから物を買い取ったら、買い取り金額よりも高い値段で、別の業者に売るって感じの商法だな」
「問屋みたいなものか?」
「そんな感じだな」
問屋なら、意味は通じるようだ。
幻想郷だと、仲買という言葉は、一般的ではないようだ。元いた世界よりも、生産者と消費者の距離が近いからだろうか。
「いや、香霖堂は、そんな大それた店じゃないぜ。香霖堂自体は、道具の販売店なんだよ。幻想郷の外から流れ着いた、珍しい道具が多いな。こーりん……香霖堂の店主がな、そういった道具を集めるのが好きなんだよ」
珍しい道具の収集家が趣味で営んでいる道具屋、という感じだろうか。
「なんか珍しい道具を持っているなら、こーりんに売りにいくといいぜ。颯、外の世界から来たんだろう? だったら、こーりん好みの珍しい道具、持っているんじゃないか?」
魔理沙が俺の方を見上げる。『どうなんだ?』と尋ねるような表情だ。
「ちょっと考えてみる。……すまんな、まだ訊きたいことが多いんだ。いいか?」
「構わないぜ。商店通りまで、まだ時間は掛かるしな」
「恩に着る。……で訊きたいことなんだが、幻想郷の外というのは、えっと……俺が幻想郷に来る前の場所のことだよな」
「そうだぜ。幻想郷の外。博麗大結界の内側が幻想郷で、外側が颯や優の住んでいた世界だぜ」
魔理沙の言い回しには、引っ掛かるところがある。まるで、幻想郷は、日本から隔離――いや、隔絶された場所のような言い方だ。地続きの山間の秘境、という感じではない。
それに、博麗大結界とは? 博麗……霊夢と関係があるのだろうか。
「その博麗大結界というのは?」
「そうだな……。幻想郷を囲っている結界だと思っておけばいいぜ。詳しいことは、霊夢かスキマ妖怪に訊くといいぜ。特に、スキマ妖怪だな。博麗大結界を作った張本人みたいなもんだし」
紫さんか。会えるかどうか向こう次第だから、霊夢から教えてもらう方が早そうだな。
「分かった。それで、道具が流れ着くっていうのは?」
流れ着くという意味合いからして、河口や浜辺を思い出すが……幻想郷に海があるとは思えない。
「うーん……。説明がややこしいな。幻想郷はな、忘れられたものが流れ着く仕組みになっているらしいんだよ」
「忘れられたもの?」
「たとえば……颯のいた外の世界って、妖怪の類は、もう信じられていないだろう?」
「……そうだな。数百年前に比べたら、今は妖怪の存在は信じられていないな」
まだ幽霊の存在を信じている人もいるし、UMAみたいな訳の分からない生物の発見報告はあるけれど。とは言え、恐れられているというよりは、娯楽の手段に使われていると言った方が正しい。
「だろう? だから、幻想郷に妖怪が集まるんだよ。外の世界で忘れられたから」
幻想郷という隔離地域――その存在意義が分かってきた気がする。
だから、紫さんは、幻想郷を『妖怪の楽園』と呼んでいるのか。
「で、だな。忘れられたものっていうのは、何も妖怪みたいな生き物に限らない。颯にとっては時代遅れに感じるような道具なんかも、幻想郷に流れ着くんだ」
「たとえば?」
「そうだな……。香霖堂で最近に見つけた道具だと……ボタンを押すとピカッと光る写真機ってやつかな」
「……使い捨てカメラのことか?」
「たぶん、それだな」
なるほどね……使い捨てカメラみたいな道具が幻想郷に流れ着くのか。
デジタルカメラ……それどころか携帯電話で写真撮影が可能になっている昨今では、使い捨てカメラは、もはや忘れられた遺物というわけか。俺も幼少期に触ったことがあるくらいで、すでに存在を忘れていた。
「それで、流れ着くって、どんな感じで? 見た限りでは、幻想郷に海や大河は見えなかったけれど」
でっかい湖はあったが。
「それがな、こう……気が付いたら存在しているって言えばいいのか? あれ、こんなのあったっけって感じで」
「……なんとなく想像できた」
たとえるなら、1年以上も訪れていなかった地域に再訪した時、新しく出来た建物を見て『あ、こんなのが出来たんだ』みたいな感覚だろうな。
「幻想郷なら、どこにでも落ちているのか?」
「いや、どこでもってわけではないな。博麗大結界の境界沿いには、流れ着きやすいって話だけど。ほら、博麗神社があるだろう? 博麗神社は、結界の境目に位置しているんだよ。裏山を歩いていたら、何か見つかるんじゃないか?」
へぇ……博麗神社は結界の境に建っているのか。霊夢から裏山に行くなと言われているけれど、ちょっと探検してみたくなった。
「あとは……
「賽の河原?」
地獄の話なんかに登場する、あの賽の河原? いや、まさか。
「ああ、賽の河原。三途の川は知っているだろう。手前が賽の河原で、川の向こうが彼岸」
「まあ、知っているけれど……。それって、死後の世界の話だろう?」
「幻想郷には、実際に三途の川はあるぞ? 死神とか、普通に船渡しをやってるし」
「……まじで?」
え、俺って生身だよね? まだ死んでないよね?
幻想郷って、本当に現実の世界に存在する場所なんだよな?
「……すまん、ちょっと頭が混乱してきた」
「ははっ、無理もないぜ。訳の分からない連中が訳の分からないことをやっている場所が幻想郷っていうところだ」
魔理沙は軽快に笑った。
うーむ……。俺の中の幻想郷の印象が、どんどん現実の常識から離れていく。
忘れ去られたもの――妖怪のような非常識の存在が住まう場所なのだから、外の世界の常識で物事を測ろうという考えが間違っているのだろう。
変人と非常識が跳梁跋扈する異世界――それが幻想郷。
幻想郷では、常識に囚われてはいけないのですね!
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第6話 俺、紫さんの腰ぎんちゃくになるわ
幻想郷のことついて、魔理沙と話しながら路地を歩いていると、川辺の道に出た。
「ほら、右手側だ。あそこに橋が見えるだろう? あの辺りが商店通りだ」
魔理沙が指を指す方向を見ると、150メートルほど先に、両岸を繋げる大きな橋が掛かっている。周囲には、商店らしき建物が軒を連ねていて、数多くの住人が行きかっている。人里の中心地といった感じだ。
「かなり賑わっているみたいだな」
「そりゃ、人里の商品が集まる場所だからな。たいていの生活用品は、商店通りを歩いていれば、買いそろうぜ」
俺と魔理沙は、商店通りの橋の方へ向かって、再び歩き始める。
商店通り。その名称自体は珍しくないけれど、通りに面して商店が並んでいる光景は、今ではなかなか見られないものだ。コンビニやスーパーマーケット、郊外の大型ショッピングモールが点在している外の世界では、個人経営の店は潰れてしまうからだ。
「そう言えば、いくらかお金は持っているのか? さすがに無一文で幻想郷に来たわけではないんだろう?」
「いや、それなんだがな……」
「まさか、本当に無一文なのか?」
魔理沙が呆れと心配の入り混じった顔を向けてくる。
「もともと、紫さんに招かれる形で幻想郷にやって来たし……。紫さんは、お金とか食料品とか、こちらで用意する……みたいなことを言っていたしな」
まだ渡されていないというだけで、あとで渡すつもりなのかもしれない。さっき会った時は、住む場所について、ちゃんと考えてくれている口振りだったし。
教えない方が都合がいいとは、どういう意味なのか。俺や優にとって、最適な場所……らしいけれど、事前に知っていては、到着できない場所なのだろうか。まあ、数日すれば、判明することだな。
「なんと言うか、大変だな……。あいつ、何を考えてるか、よく分からないからな。何度か会っているが、どうも苦手でな……」
魔理沙は苦々しく呟いた。
紫さんが何を考えているか分からない――それは俺も共感できる。話は通じるけれど、やたらと口達者で、迂曲な言い回しを使ってくるからな。
しかし、俺自身は、紫さんに対して苦手意識めいたものは感じない。紫さん並みに会話が厄介な優と、長年に渡って話し続けてきたことが理由だろう。要するに、慣れだ。
いつもの調子で優が魔理沙と会話したら、魔理沙は機能停止するだろうな。まず間違いなく、ツッコミが追いつかなくなる。
「まあ、お金が必要になったら、こーりんを頼ればいいさ。博麗神社の裏山や三途の川付近、あとは無縁塚にでも行けば、こーりんに売れるような道具は拾えるだろうからさ」
「最悪の場合は、そうさせてもらうよ。……ところで、無縁塚って?」
「そうだな……共同墓地って言えば、正しいかな。無縁仏っているだろう? ああいう仏さんを埋葬する墓地なんだが……墓地と言うか、石積み場と言うか……」
魔理沙は、腕を組んで考え込み始めた。
墓地と石積み場では、かなりの違いがあるのだが。
「実際に行ってみれば話は早いんだがな、ずさんな墓地なんだよ。大きな石が置いてあるだけで、どこに誰が埋まっているかも分からない。雰囲気も重苦しくてな……。特別な用が無ければ、誰も近づかない場所なんだ」
無縁仏が無秩序に埋葬された共同墓地、か。
遺体の処理や埋葬方法によって、色々と危険度は変わってくるな。病原菌の温床となる危険も有り得る。
「そんな危なっかしい場所に、よく外の世界の道具が流れ着くのか?」
「あの辺りは、生きた者と死んだ者の世界が混じり合っている場所だからな。境界が曖昧と言うか、結界が緩みやすいんだよ。だから、外の世界の道具が流れ着きやすい」
そういうことか。逢魔が時――昼と夜の世界の変わり目は、妖怪や魔物の遭遇しやすいと言われているが、両界の境が曖昧になるからなのか。
「無縁塚の場所は、魔法の森と三途の川の間だ。もしも行くんだったら、霊夢か紫と一緒に行けよ。こーりんが道具拾いに行くこともあるけど、一般人がひとりで行くような場所じゃないからな」
続けて、魔理沙は「まあ、私が連れて行ってやらんこともないが……」と小さく呟いた。
俺は、そんな魔理沙の様子を黙って見つめた。
「……おい、なんでちょっと笑ってんだよ」
俺の沈黙が気になったのか、顔を上げた魔理沙が不機嫌そうに言った。
魔理沙の言う通り、俺は口元に少し笑みを浮かべていた。
「いや、なんというか……やっぱりなんでもない」
「なんだそりゃ。おい、ハッキリと言えよ。気になるだろ」
魔理沙は抗議の声を上げ続けるが、相手にしないことにした。
霊夢や紫さんを頼れと言いつつも、控えめに自分の名も挙げる。わざわざ用事を買って出たくないという気持ちもあるのだろうが、それ以上に親切心が勝った証拠だ。
霧雨魔理沙――根は良い子なのだろう。
「……ったく、なんかスッキリしないぜ。あ~、やだやだ。何か甘い物でも奢ってもらわないと、このムシャクシャは解消できそうにないな~。神社までの帰りの人運び、やりたくなくなっちゃうぜ~」
「すまんな、無一文だ」
「ぐっ……」
魔理沙は意趣返しに甘味をねだろうと思ったのだろうが、あいにく、こちらは金無しだ。
「……あー、もう!」
魔理沙は苛立ちの遣り場を失ったせいか、八つ当たり気味になる。
「なんで一文無しの癖に、商店通りに行こうとしてんだよ」
「いや、買い物が目的じゃないし」
「金を持ってないなら、まずは働けよ」
「働き口を探すために、人里へ来たんだが」
「食うに困らない程度の貯金は持ってろよ」
「そもそも、持ってこようが無いんだが」
「なんで路銀も無しに遠出しようと思ったんだよ」
「紫さんを頼ってきたからな」
「甲斐性無し」
「将来性に期待してくれ」
「無職」
「もともと学生だしな」
「ヒモ男」
「いや、彼女いないし」
「…………すまん、私が悪かった」
「おい、そこで引き下がるな」
悲しくなるじゃないか。
すぐに返事せずに間を置いたあたりに、切なる申し訳なさを感じちゃうじゃないか。
泣いちゃうぞ? 颯さん、心はピュアッピュアなんだぞ?
「……そうだ、紫だ! なにもかも、あのスキマ妖怪が悪い!」
魔理沙は黙考した後、苛立ちの矛先を紫さんに変えた。
あながち、紫さんが元凶という発言は間違っていない。
「颯が無一文なのは、紫のせいだ!」
そうですね。
「私が甘味を食べられないのも、紫のせいだ!」
そうですかね。
「私が人運びをやらされているのも、紫のせいだ!」
それは違うんじゃないかなー。
「とにかく、みんな紫のせいだ!」
「私のせいなのですか?」
突如、俺と魔理沙の間に、紫さんが姿を現した。
「のわああぁぁ――って、うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
魔理沙は驚きのあまりに後ずさると、土手の段差に空足を踏み、そのまま斜面を転がっていった。
まるでギャグ漫画のような、見事な転がりっぷりだ。思わず、感嘆の声が漏れてしまう。
「あらあら、元気ね」
紫さんは魔理沙の憂き目を眺めると、口元に手を添えて笑った。
この人、こうなると分かった上で、俺と魔理沙の間に姿を現したな……。
まあ、因果応報ではある。慈悲は無い。
「いたんですか、紫さん」
「何やら、私の名を呼ぶ声が聞こえたので」
恐ろしい地獄耳だ。俺の周りに、スキマを仕込んでいたのだろうか。
「ところで、駄賃が必要なのですか?」
「え? ああ……別に今すぐ必要ってわけではないんですが」
魔理沙がごねていただけだしな。
「いいですよ。丁度いい機会ですから、渡しておきましょう。いくら必要ですか?」
「えーと、そうですね……」
面と向かって言われると、どれだけの額を提示すればいいのか悩むな。
多くもらえる分にはありがたいが、もらい過ぎるのも図々しい。
そもそも、幻想郷の物価が全く分からない現状では、適正な範囲が掴めない。
そうこうしているうちに、魔理沙が土手から上がってきた。
「おい、紫! 出るなら出るって、先に言え!」
「そんなことを言われましてもね」
紫さんが同意を求めるように視線を投げてくる。
「魔理沙、紫さんには紫さんの都合があるんだ。無茶言うな」
「颯は紫の味方をするのか!?」
魔理沙が驚きと怒りの入り混じった声を上げた。
仕方ないじゃないですか。颯さん、財布の紐を紫さんに握られているようなもんだもん。
いやー、ヒモ男はマジで辛いなー。
「長い物には巻かれろ、と言いますからね。致し方ありません。それが自然の摂理というものです。諦めなさい」
紫さんが物憂げに言った。指先で涙を拭う振りまでしている。
俺のことをフォローしつつ、自分は悪くないと言わんばかりだ。
やっぱり、紫さんは口達者だな。世渡りが上手そうだ。
「なっ、なっ……! 颯、見損なったぞ!」
「すでに無一文かつ甲斐性無し、おまけに無職、しかも紫さんのヒモ男なのに彼女なし。これ以上、そんな俺のどこを見損なえるって言うんだ? え?」
「……お前、自分で言っていて、なんだ、その……悲しくならないのか?」
「…………」
あれ、おかしいな。
空は晴れているのに、急に強い雨が降ってきやがった。
視界が濡れて、前が見えやしねえ。
「――大丈夫ですよ、颯。私は、あなたを価値ある1人の存在として愛しています。たとえヒモ男であっても、女の愛情を受けとめる器があるなら、そばにいるだけで――女にとって価値ある男なのです。何も持たざるとも、恥じる必要はありません。男の器量とは、心の器の方量のことです。心配せずとも、あなたは立派な器を持っていますよ」
紫さんが慰めの言葉を掛けてくれた。
紫さん……紫さん…………紫さぁぁぁん!
分かったよ! 俺……紫さんの
すでに、ヒモと器を兼ね備えた男だし!
「紫さん、俺……あなたに付いていきます」
「あらあら、思いがけずに若いツバメを手に入れてしまいましたわ」
紫さんは自分の頬に手を添えると、さも恥ずかしそうに身をよじった。
魔理沙は、げんなりした様子で言う。
「颯……お前、紫にいいように動かされているだけだぞ……? 正気に戻れよ」
「やっかましい! 他人の自己重要感を損なうような奴の言うことなんぞ、俺は耳を貸さん」
まずは、デール・カーネギー先生に弟子入りしてこい。
話は、それから聞いてやろう。
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第7話 紫さん、ひとまず『15億円』ください
「あー、そうかい。だったら、いいぜ。お前は贔屓筋に世話してもらえ。私は帰るぜ」
魔理沙は鼻息を荒くすると、そっぽを向いた。肩に担いでいた箒を下ろし、ちょこんと横向きに座る。
とても自然な動作だ。もしかしたら、普段の魔理沙は、横乗りで飛んでいるのかもしれない。
「待ちなさいな、魔理沙。あなたが今いなくなってしまったら、颯が困るではありませんか」
「知ったこっちゃない。スキマ妖怪の言うことを聞く義理は無いぜ」
紫さんの制止を振り切り、魔理沙は飛び立とうとする。
「――霖之助さんが愛用している、蓄音機」
紫さんは、ぼそりと呟いた。
地上から2メールほど浮いたところで、魔理沙の動きが止まった。どことなく、表情も硬直している。
紫さんは魔理沙の様子に一瞥くれると、俺の方を振り返って、何事も無かったように爽やかな笑みを浮かべる。
「さあ、颯。共に行きましょう。私が魔理沙の代わりに、霊夢と合流できるまで、案内を務めます。彼女には、私に通すべき義理は無いそうです。これは、私の不徳の致すところ。申し開きの言葉もありません。残念です――ええ、とても残念です」
紫さんは片頬に手を添えると、小首を傾げつつ、伏し目になる。嘆息のオマケつきだ。
魔理沙は空中浮遊を続けるが、ギギギッという鈍い動きで首を回し、紫さんに顔を向ける。
「よ、要求はなんだ……?」
魔理沙は恐々とした面持ちで紫さんに尋ねた。
「あら? どうしましたか、魔理沙。もう飛び去って構いませんよ。颯の案内は、私が務めます。あなたの言うように、私に通すべき義理はありません。どこへなりとも、ご自由に。……さあ、颯。行きましょうか」
「え、ええ……」
俺は状況が呑み込めなかったが、先を行く紫さんに手招きされたので、ひとまず付いて行った。
「……ああ、そうそう」
紫さんは何か思い出したのか、こちらに振り返る。
「あなたが霊夢と合流できましたら、そこでお暇させていただきますね。私は香霖堂に所用がありますから」
「あ、はい……分かりました。香霖堂って、確か道具屋でしたよね。買い物ですか?」
「ええ、その通りです。店主の霖之助さんとは、珍しい道具の取り扱いに関して、懇意にさせていただいています。義理を通す意味もかねて、定期的に訪れるのです。外の世界に比べると意外かもしれませんが、幻想郷は閉鎖的な地域。義理を重んじることは、とても大切なのです」
紫さんは、妙に『義理』という単語を強調しているように感じた。
何か――含みを感じる。
「……とは言え、重苦しいものではありません。顔を出して、歓談を尽くすことが主な目的ですね。なにぶん、私はお喋りが大好きですから。ついつい、色々なことに口を滑らせてしまいます。先ほど、あなたに素敵な告白をされて上機嫌ですから――今日はいつも以上に口が動いてしまうかもしれませんね」
紫さんは
「――お、おい! 待て!」
不意に、背後から魔理沙の声が聞こえた。振り返ると、魔理沙は地面に降り立っている。
「あら、まだ何か用がありまして?」
紫さんが小首を傾げながら尋ねると、魔理沙は俺のそばに歩み寄って来る。
「き、気が変わった。颯は、私が案内するぜ。構わないだろ?」
「ほう。別に構いませんが……これはまた、どういった心変わりで」
「……そ、それはだな」
魔理沙は逡巡の態度を見せる。
「……颯に恩を売っておくためだ。魔法薬の実験台として協力してもらうためにな」
「俺が嫌だよ! そんな下心丸出しの恩情なんて要らねえ!」
せめて、治験の協力者とでも言えよ!
「ま、まあ……待つんだぜ。どうせ、颯も香霖堂には行っておきたいだろう? 道案内と運び役を務めてやるぜ。それでどうだ?」
「……そうは言ってもなぁ」
道案内や移送だったら、紫さんにもお願い出来ることだ。スキマを使えば、一瞬で移動できるし。
博麗神社にいた時は、紫さんの行方が分からなかったから、魔理沙に移送を頼む流れになっていたが……。紫さん、目の前にいるしな。
「いや、それだったら、紫さんにお願いするよ。訳の分からない魔法薬の実験体なんて、嫌だし。魔理沙だって、いちいち人を運んで空を飛ぶのも手間だろう?」
「――――チッ」
お聞きになりまして?
この子、舌打ちしましたよ。
「……分かったぜ。魔法薬の件は、取り下げる。ついでに、颯が道具を売りたい時は、私がこーりんに口添えしてやるぜ。私とこーりんは、昔からの馴染みなんだ。もともと、こーりんは、私の実家の道具屋で修行していたんだ。私が口添えすれば、きっと、高値で買い取ってもらいやすくなるぞ?」
その提案は、魅力的ではある。幻想郷の暮らしで、何が必要になるか分からない。道具屋の主人に取り持ってもらえれば、道具の売り込みも含め、色々と動きやすくなる。
しかし……。
「金銭面については、ついさっき、紫さんが駄賃を渡してくれるって言ったしな。それに、紫さんだって、こーりん――いや、霖之助さんと懇意な間柄らしいじゃないか。しかも、定期的に顔を出して、実際に道具を売り買いしている口ぶりだ。そのことを考えると、やっぱり紫さんを頼った方がいいと思うんだよな」
俺は紫さんに視線を向けると、彼女は同意するように頷いた。
紫さんを頼れる以上、魔理沙の提案は、どれも魅力に欠ける。
「くっ……。だ、だったら、仕事探しも手伝ってやるぜ。私は幻想郷に暮らしているし、人里にだって何度も来ている。協力者として適任だろう?」
「うーん……。そんなことを言ったら、紫さんだって幻想郷で暮らしているぞ。口ぶりから察するに――何百年単位で。魔理沙よりも、幻想郷のことを知り尽くしているんじゃないか」
「お前は私の何が欲しいんだよ!」
「なんでキレてんの!?」
魔理沙は狂犬のごとく唸り声を上げる。今にも跳びかからんばかりだ。
「まあまあ、2人とも。その辺りで収めておきなさいな」
紫さんは仲裁すべく、俺と魔理沙の間に割って入る。
「颯、察してあげなさい……。女が献身を申し出て、自分の方に引き留めようと、必死に努力しているのです。その気持ちを汲み取らなければ、紳士と呼べないでしょう」
「そうだぜ、颯。私の気持ちを汲み取って、提案を呑むんだぜ」
紫さんの発言に乗っかって、魔理沙が迫る。
提案を呑め……と言われてもな。どう考えても、紫さんを頼った方がいいように思える。人里まで運んでもらった恩はあるけれど、だからこそ、面倒な仕事を頼むべきではない。それこそ、義理を欠くというものだ。
俺が返答に困っていると、助け舟を出してくれるのか、紫さんが口火を切る。
「致し方ありません。勝手ながら、私が事の詳細を明らかにしましょう。……丁度よい機会です。颯、心して聞きなさい。女心のなんたるかを教えて差し上げましょう」
紫さんは、自分のあごに指先を添えると、両目を薄く閉じて――口にする。
「魔理沙は、あなたに恋慕しているのです。恋い慕っているのです。あなたを他の女――私に取られまいと、健気な献身を申し出て、あなたを引き留めようとしているのです」
絶対に嘘だ!
この人、場を引っかき回して、自分が楽しみたいだけだろ!
「いや、紫さん……」
俺は頭を抱えると、呆れの意を込めた口調で続ける。
「それは無いですって。というか、いくら若いからって、俺のことを見くびり過ぎですって。魔理沙に、何か事情があることは分かりますよ。それに乗じて、話をややこしくしないでください」
「あら、そうでしょうか? 恋とは盲目、心の病。女の人生は、素敵な恋に心を浮かばせるためにあると言っても、過言ではありません。恋を成就させるためならば、己を変え、献身を尽くし、ひたすら愛を捧げるのです。……それでも、あなたは誤解と切り捨てますか?」
「……そうですね、切り捨てます」
だって、普通に考えて、話の筋が通らないからな。俺と魔理沙は1時間ほど前に初めて会ったばかりだし、恋情を抱かれる場面なんて、まったく存在しなかった。
それに、俺は紫さんの性格を知っている。この人は、言葉の端を拾って、そこからあらぬ方向へ論を展開することが好きなのだ。大好きなのだ。話し相手から機微に富んだ返事を引き出し、また言葉の端を拾って、論を飛躍させる。そうやって、会話を楽しんでいる。
「……そうですか。分かりました。あなたが確信を持って言い切るなら、事実はその通りなのでしょう。お恥ずかしい推論を述べてしまいました。乙女とは、恋に恋い焦がれる者。1人の乙女である私の空想、どうか許してください」
紫さんは「さて」と言って柏手を打ち、場を仕切り直す。
「それでは、改めて、私が案内役を引き継ぐとしましょう。汲むべき事情が無ければ、
紫さんは、同意を求める視線を送ってくる。
「まあ、そうですね」
魔理沙に何か事情が――紫さんに関する負い目の事情があることは間違いない。事情が判然としないから、気を回す必要性は感じないけれど。
正直なところ、誰かに便宜を図ってもらえるなら、なんだっていい。
「では、問題ありません。行きましょう」
紫さんが歩き始めたので、つられて俺も歩き出す――が、魔理沙に腕を掴まれ、引き留められた。
「待て……話がある」
そちらを見れば、魔理沙は奥歯を噛み締めながら、俺のことを見上げていた。赤面と渋面を織り交ぜた、なんとも形容しがたい表情だ。
「魔理沙、そう何度も引き留めるものではありません。颯は、これから霊夢たちと合流せねばいけません。それとも……私が颯を案内しては困る事情でもありますか?」
紫さんは諌めるように言うが――声色には愉悦を感じられる。
魔理沙は、なんとか喉の奥から声を絞り出そうとする。
「……ということにしてやる」
「なんと? か細くて、聞き取れませんわ」
紫さんが とぼけたように尋ね返すと、魔理沙はついに感情が極まったのか、声を張り上げる。
「颯のことが……す、好きって……好きってことに、しておいて、やる! だから……案内役を寄越せ!」
途端、場が静まり返る。真昼間の愛の告白に、通行人からの視線も集まる。
紫さんは、小さく開けたスキマから扇子を取り出すと、バッと開いて口元を隠す。
「……だ、そうですよ。出会って早々の少女に恋情を抱かれるとは、罪な男に成長しましたね。ここまで言われてしまっては、もはや、私は引かざるを得ません」
そう言う紫さんの目付きは、実に喜々としていた。開いた扇子は、口元に浮かんだ満悦の笑みを隠すためだろう。
「……紫、これで私は義理を通した。帳消しだ。……覚えてろ」
魔理沙は、鬼気迫る顔で言った。
「はて、なんのことやら。ただ、まあ……あなたの真摯な態度には、感銘を受けました。そのことは、私の心に刻み、憶えておきましょう」
紫さんは扇子を閉じると、それをスキマの中へ返す。魔理沙は気疲れしたのか、膝に手をつき、ガクッと項垂れる。どうやら、謎の攻防戦の決着がついたようだ。
俺は両者の姿を見比べて、改めて紫さんを敵に回すべきではないと理解した。
やっぱり、腰ぎんちゃくでいいや。
「案内役は魔理沙に任せることになりましたから、私は無用ですね。それでは、この辺りで」
紫さんは大きなスキマを広げて、それをくぐろうとしたが――思い直したのか、こちらに振り向く。
「そう言えば、あなたに駄賃を渡すはずでしたね。うっかり失念していました」
紫さんに言われて、まだ駄賃をもらっていないことを思い出した。先ほどの舌戦の印象が強くて、すっかり忘れていた。
「差し当たって、どれくらいの駄賃を渡しておけばいいですか? この後、優とも合流するでしょうから、2人分を渡しておきますけれど」
改めて、紫さんが提供する金額を尋ねてくる。
この先の暮らしがどうなるか不明瞭だけれど、1日分の食費と宿泊費、それと滞在期間を考慮するとなると……。
「そうですね……20日は滞在するとして、優に渡す分も含めて、ひとまず15万円もあれば充分かと。人里で何か働き口を見つけますから、頂いた分を使い切ることは無いと思います」
「……はぁ!?」
項垂れていた魔理沙が急に顔を上げて、素っ頓狂な声を上げた。
さっきから怒ったり叫んだり驚いたりしているけれど、血圧とか大丈夫?
「どうかしたか」
「どこのボンボンだよ、金銭感覚がイカれ過ぎだぜ!」
非常識だと言わんばかりに、魔理沙は眉をしかめた。
魔理沙が冗談を言っているようには見えないが……俺、そんなに高い額を言ったか?
「え、だって……仮に1食500円で済ませるとして、朝昼晩で1500円だろ? あと、宿泊代は……安めのビジネスホテルなら1泊3000円が相場だから、食費と宿泊費込みで、1日4500円。それが20日分だから、9万円だ」
その計算だったら、優と合わせて18万円が必要になるが――数字のキリが悪いし、実際はそんなに掛からないだろうから、3万円分を引いた。
個人的には、常識的かつ良心的な提案だと思う。
「まあ、幻想郷の物価は分からないが……妥当な額ですよね?」
俺は紫さんに視線を移して、意見を求める。
「ええ。計算の基準としては、妥当な額ですね」
「ほらな。紫さんも、こう言ってるぞ」
俺は後ろ盾を得て意を強くしたが、それでも魔理沙は首を振って否定してくる。
「いやいやいや! 2人とも、相場感覚がおかしすぎぜ! 15万円って、バカでかい屋敷を一軒まるまる買っても、まだ余るような額だぞ!」
15万円で……でかい屋敷が一軒まるまる買える? しかも、まだ余るだって?
どういうことだろう。15万円ぽっちじゃ、車のカーポートを作っただけで、全額が消し飛ぶぞ。
「ふふ、ふふふ……」
隣を見れば、紫さんが愉快そうに笑いを忍ばせていた。
……何やら、裏がありそうだな。
「紫さん、正直に教えてください。なんで、魔理沙は驚いているんですか?」
「無理もありません。外の世界と幻想郷では、1円の価値の重みに、1万倍以上の開きがありますから」
「……と言いますと?」
「幻想郷――とりわけ人里で流通している通貨は、最高額が1円なのです。1円札は……さすがに見たことは無いかもしれませんね」
そう言うと、紫さんはスキマの中に手を差し入れて、見たこともない1枚の紙幣を取り出した。肖像として印刷されている男性にも、見覚えはない。
「1円札……。たしか、かなり前に使われていた日本の紙幣でしたよね?」
「その通りです。そうですね……幻想郷における1円は、あなたの世界では1万円に相当すると思っておけば、差し支えないでしょう」
……そういうことか。幻想郷の通貨観念は、明治初期の状態から、あまり変わっていないのだ。
紫さんの発言に基づけば、幻想郷の1万円は、俺の感覚なら1億円となる。豪邸一軒が建つような大金だ。
魔理沙が驚くのも無理はない。紫さんに『ひとまず15億円は欲しい』と言ってのけたに等しいのだから。
そりゃ、バカでかい屋敷も一軒まるまる建つわな。
「ちなみに、1円から下は、どんな通貨が使われているんですか?」
「主に銅貨ですね。聞き慣れないでしょうが、単位は銭と厘です。1銭が100円相当、1厘が10円相当と思ってください」
1銭が100円相当なのか。外の世界なら、100銭で1円だから、ややこしいな。
「1円相当の単位って無いんですか? 1厘のさらに下です」
「ありません。銅貨にいくつか種類があるので、価値の低い銅貨を使って、あなたの感覚の1円玉や5円玉として代用します」
そういう感じなのか。
いっそ、もっと分かりやすい貨幣制度を導入すればいいのに……いや、簡単に出来ることではないのだろう。絶対的な権力機関と整備された法律、さらに貨幣発行の独占権があって、ようやく実行できる大事業だ。
「分かりました。……とすると、俺の感覚の15万円は、15円ということですね」
「そうなりますね。ただし、そのまま15円を渡して持ち歩かせることには難がありますから、ひとまず6円を渡しておきましょう。優と3円ずつ分けてください」
紫さんはスキマの中に手を差し入れ、追加で5枚の1円札を取り出した。ついでに、がま口の付いた小さな財布も2つ取り出す。
「ひとまずは、この財布にお金を入れて持ち歩くといいでしょう。自前の財布があるのでしたら、そちらを使ってください」
紫さんから、3枚の1円札と財布を手渡された。
俺は手に持った財布を見下ろし――紫さんの手元を見る。紫さんは慣れた手つきでがま口を開くと、その中に折りたたんだ1円札を入れた。
――ああやって留め金をズラすと、口が開くのか。
俺は がま口を開き、手元の財布に1円札を仕舞い込んだ。がま口の財布を使ったことがないから、開け方が分からなかったのだ。
「こちらは、優に渡してください」
「分かりました」
紫さんから、優の分の財布も受け取る。
「残りの9円は、私の方で預かっておきましょう。箪笥や壺に入れて貯金するよりも、安全ですからね」
……そうか。幻想郷には、銀行めいた機関は無いのか。
箪笥貯金は外の世界でも耳にする言葉だが、壺に貯金するとは、なんとも時代性を感じさせる。
「また駄賃が必要になりましたら、私に言ってください」
「分かりました。色々とありがとうございます」
何から何まで、ありがたい限りだ。
「なに、例には及びません。あなたの便宜を図ることは、私の務めであり、喜びですから」
紫さんは、そう言い残して――スキマの中へ消えていった。
その場が静かになり、商店通りの方から聞こえる生活音が際立つようになる。
……さて、紫さんから預かった財布、優に渡しにいかないとな。霊夢ともども、商店通りにいるといいのだけれど。
「なあ、颯」
横合いから、魔理沙の声が掛かった。
「……なんでしょう」
「さっき、私が言ったこと……忘れろ。紫の思惑に従うようで気に食わないが……案内は続けてやるから」
魔理沙はそう言うと、こちらを顧みることなく、商店通りに向かって歩き出した。
俺は魔理沙の哀愁ただよう後ろ姿を見つめて……思う。
紫さんに関して、信義に背いてはいけない。
信義に背いたが最後、魔理沙のように――もてあそばれる。
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第8話 生のアレ、ダメ、絶対
仏頂面の魔理沙と並んで歩いていると、住人の往来が盛んになり、通りの賑わいが増してくる。
だんだんと増えてきた商店の様子に、俺は好奇心をくすぐられた。
米屋、八百屋、酒屋、豆腐屋、干物屋、漬物屋、菓子屋、餅屋、下駄屋、足袋屋、呉服屋、小間物屋、染物屋、傘屋、金物屋、鍋屋、蝋燭屋、薬屋……。
1つ1つの露店は、特定の商品の取り扱いに特化している。複数の商品をまとめて取り扱う大型商店やショッピングモールが主流の外の世界では、なかなかお目に掛かれない光景だ。
「……何か物珍しいのか?」
あちこちの商店に喜々として目移りさせている俺の様子が不思議なのか、まだ不機嫌そうに魔理沙が言った。
「珍しい……と言うか、こうやって特定の商品ばかり売っている店が新鮮なんだよ。外の世界だったら、種類を問わず、色々な商品が1つの店内で販売されているのが普通だからな」
「幻想郷の店だって、規模の大きいところなら、色々な商品を取り扱ってるぜ? たとえば、日用で使う小物をまとめて売っている店とか」
「うーん……そういう規模じゃないんだよな。食べ物も調味料も日用品も、あとは医薬品とかも、ひと通りの商品が同じ店で売っているんだ」
「そんなに商品を取り扱えるのか? 仮に集められても、置き場が無いだろう」
「もちろん、売り場も広いぞ? そうだな……平屋の家が12軒は収まるかもな。もっと大きな店だと、それこそ店内が迷路みたいに感じるほどだ」
雑貨屋のドン・キホーテとか、まさに迷路そのものだ。
「はぁー……そんなに凄いのか。ちょっと見てみたくなるな」
「また幻想郷に来る機会があったら、写真に撮って見せてやるよ」
「おう、楽しみにしておくぜ」
話に興が乗ったのか、魔理沙の声色から険が取れてきた。
先ほどの件を忘れさせるためにも、しばらく店の話題を続けるとしよう。
商店通りの橋に近づくにつれ、食欲を刺激する匂いが漂ってくる。料理販売の屋台や食事処が多くなってきた証拠だ。
「幻想郷の屋台って、どんな食べ物が売っているものなんだ?」
「屋台か。そうだな……。手軽に食べられる屋台だったら、蕎麦やうどんが人気かな。あとは、野菜の煮物とか、握り飯とか、天ぷらとか……そんな感じだな」
「なるほどな……。野菜が入った煮物って、おでんか?」
「いや、そんなことは無いぜ。なんて言えばいいかな……お吸い物に近いかもな。おでんを出す店もあるけれど、酒と一緒だな。酒のつまみで、色々な煮物を出すんだよ。まあ、この手の出店は、夜に行く場所だな。手軽に寄れる屋台とは違うかな」
個人的には、お吸い物単体を出す店があることが意外だった。高校や大学の学園祭で、豚汁を売るような感覚なのだろうか。
食事処の方も気になってくる。どんな料理を提供しているのだろうか。
うーむ……100年以上も昔の町や村の暮らしを窺い知るようで、なかなかに興味深い。
……そういえば。
「魔理沙、幻想郷に寿司屋ってあるか?」
「寿司屋? 寿司屋……いや聞いたことがない。というか、寿司ってなんだ」
幻想郷には、寿司の食文化は無いのか。江戸の町だったら、屋台の出し物として有名なのだけれど。
「えっとな……長方形の一口大に成形した酢飯の上にな、魚の切り身を載せた料理だ」
「酢飯の上に、魚の切り身ねぇ……。それだったら、普通に白米と焼き魚の方がいいな。ほぐした魚の身を白米と一緒に食べるだけでも美味いぜ」
「いや、焼き魚じゃない。生の魚の切り身を載せるんだよ」
「……本当か、それ? あとで、腹を壊したりしないのか?」
魔理沙の当惑を見て、俺は理解した。
幻想郷では、鮮度を保った状態で、肉や魚を保存できないのだ。付け加えるなら、冷凍保存も出来ない。
先ほど見てきた店には、食べ物を取り扱う店もあったが、生肉や生魚を販売する店は無かった。見かけるとしたら、干物の状態だ。
「いや、大丈夫だ。生の切り身って言っても、いったん冷凍してあるからな。それて、菌やら虫やらが死滅するんだよ」
「なるほどな……。まあ、私は火を通して食べる方がいいな。なんか安心だし」
ふーん……なんか外国人っぽい反応だな。
「じゃあ、魔理沙は、卵かけご飯とか食べたこともないだろう」
「……どんな料理だ? まさか、生卵か?」
「そう。炊いた米に生卵を落として、上から醤油をサッと掛けただけの料理……料理? まあ、そんな感じの食べ方だ」
「無理無理! 卵を生で食べる奴なんて、腹を下したい奴だけだぜ。まさか、いったん凍らせた卵を解凍して、ご飯に載せるのか?」
「いや、そのままの生卵。未調理。もちろん、新鮮であることが前提だけどな」
「鶏が産んだ直後か?」
「いや、そんなことはないぞ。ちゃんと保存すればだが……1週間は大丈夫だな」
「まったく想像できないぜ……。霊夢でも、そんな無茶な食べ方はしないぜ」
そこまで言うほどか――霊夢の普段の食生活は知らないけれど。
「外の世界の食文化は、そんなに進んでいるんだな。知らなかったぜ」
魔理沙は空を見上げて、何やら感慨に耽る。外の世界に、思いを致しているのかもしれない、
「そう言えば、魔理沙は幻想郷の外――俺がいた世界に行ったことはあるのか?」
「いや、ないぜ。博麗大結界はな、基本は外と中を自由に行き来できないんだ。外の世界で忘れられた存在が入ってくることはあるけどな。博麗大結界を無視して出入りしているなんて、紫くらいだぜ」
なるほど。それだけ、紫さんは幻想郷でも異端の存在なのか。
「行ってみたいと思ったことは無いのか? その世界に」
「うーん……。無いと言えば嘘になるが、わざわざ無理して行くほどでもないな。紫に頼むのも面倒だし、そもそも許可しないだろう。なんのための博麗大結界なんだって話だ」
「……それもそうだな」
空飛ぶ魔法使いが外の世界に現れたら、一大ニュースになりそうだ。魔女裁判のように、命を狙われる危険も出てくるだろう。
人ならざる者にとって、幻想郷は安息の地なのだ。
「あれ、そう言えば……魔理沙って人間なのか? それとも、えっと……魔女って種族なのか?」
「私は普通の人間だぞ」
普通の人間は、箒で空を飛んだりしないんですがね。
「人間なのか。じゃあ、後天的に魔女になったってことか」
「ん……んんー……説明が面倒だな。まあ、魔法が使える人間ってことにしてくれ。完全な魔女じゃないんだ」
魔法が使えるからといって、魔女というわけではないのか。色々と条件があるのだろう。
「分かった。……さて、橋まで来てしまったわけだが」
俺は周囲の人波を見渡した。優と霊夢は、商店通りのどこかいるだろうか。
「こう人が多いと、優と霊夢がいるのか分かりづらいな」
「だったら、私が上から探してやるよ。ちょっと待ってな」
魔理沙は箒に乗ると、上空へ舞い上がった。
なるほど。空中から一望すれば、優と霊夢の姿を探しやすいな。
魔理沙は何度か旋回した後――とある一方向を指差した。
「颯、いたぞー! 対岸だ! 向こうの茶屋にいる!」
茶屋。茶屋というと……時代劇に出てくる、店先で団子を食べる休憩所か?
「分かった! 魔理沙は、先に行っていてくれ! 俺もすぐに向かう!」
魔理沙は空中を滑るように飛び――少し先に建っている店先に降り立った。
あの辺りか……。
俺は場所の見当をつけると、対岸に掛かる橋を渡った。対岸に着いた後、少し歩き続けると――茶屋の店先に置かれた縁台に座る優たちの姿が見えた。
優と霊夢の手には、湯飲みらしき器が持たれている。腰元の縁台には、白い皿らしき物が置かれていた。
「やっぱり、この通りにいたんだな。探したぞ、2人とも」
「やあ、颯。よくこの通りにいるって分かったね」
優は呑気そうに答えた。くつろいでいましたと言わんばかりの様子だ。
「魔理沙が商店通りにいるんじゃないかって言ってな。まったく、人里の入り口で待っていてくれたってよかったのに」
すると、今度は霊夢が答える。
「ああ、それは私のせいよ。魔理沙が連れてきてくれると思ったから、先に買い物の用事をすませちゃおうと思って」
「買い物?」
「茶葉よ。ちょうど切らしていたから、買いに来たの」
そう言って、霊夢は脇に置いてあった紙袋を取り出した。恐らく、中に茶葉が入っているのだろう。
「……ああ、だから茶屋にいるのか」
時代劇のせいで休憩所の印象が強いが、茶葉の販売所も兼ねているのだ。いや、集客のために休憩所を提供していると言った方が正しいか。
「……で、ついでに団子を食べていると」
優と霊夢の脇に置かれた皿に目を落とす。くしが置いてあるということは、すでに団子を食べ終えたということだ。
「いいじゃない。茶葉を買いに来たら、団子を楽しむものよ」
霊夢は悪びれもせずに言うと、美味そうに茶をすすった。
「いや、茶屋の慣習は知らんが……というか、優も食べたのかよ」
「美味しかったよ、モチモチしてて。モチ米の本来の甘みが活かされてた。ここは良い茶屋だね」
優は感慨深そうに頷く。
「それはよかったな……じゃなくて、代金はどうしたんだよ。霊夢のおごりか?」
「いや、タダにしてもらえた」
「タダに?」
それはまた、どういった事情で。
その時、茶屋の店内から、お盆を持った若い女性が現れた。明るめの和服に身を包んでいる。実物は初めて目にするが、茶屋娘だろう。
「お待たせしました。小豆、みたらし、きな粉の3本串になります。お茶は熱くなっていますので、火傷にご注意くださいませ」
茶屋娘は、縁台に座る魔理沙の脇にお盆を置いた。
「お、待ってました」
魔理沙は喜々として団子に噛りついた。
どうやら、俺が到着する前に、団子を注文していたようだ。
茶屋娘は店内に戻るのかと思ったが、なぜか優と霊夢の前に回る。
「お客様、新しいお茶を淹れましょうか? もちろん、純粋な奉仕ですので、お代は頂きません」
「あら、そうなの? じゃあ、頂こうかしら」
「それなら、お言葉に甘えて、オレも頂こうかな」
優と霊夢が頷くと、茶屋娘は嬉しそうに答える。
「かしこまりました。それでは、空いている皿と一緒に、いったん湯飲みを回収いたしますね」
茶屋娘は皿と湯飲みを回収すると、また店内へ戻っていった。
「あれ? ここの茶屋って、追加の茶って無料だったか?」
魔理沙は怪訝そうに、優と霊夢に尋ねた。
「ううん、そんなことはないわよ。ただ、今回は特別に無料にまけてもらったのよ。団子の代金もね」
「なんだそりゃ。霊夢お得意の脅迫でも使ったのか?」
「止めなさいよ、人聞きの悪い……。単に、優のお蔭よ」
「優の? 何をやったんだ?」
「……娘さんに気に入られたんじゃないの?」
霊夢は不得要領な答えを返した。
俺も気になったので、優に尋ねてみる。
「優。お前、何をやったんだ?」
「何を……て、特に変わったことは。ただ、思ったことを言っただけだよ」
「思ったこと?」
俺が詳しく聞き返す前に、店内から茶屋娘が戻って来た。
「お待たせいたしました。淹れたてのお茶をお持ちいたしました」
「あら、ありがとう。悪いわね」
霊夢は、湯飲みの載ったお盆を茶屋娘から受け取った。
「こちらをどうぞ、優さん」
茶屋娘は優の名前を呼ぶと、優にも湯飲みの載ったお盆を差し出した。
「ありがとうございます。――ここのお団子、美味しかったですよ。すごくモチモチしていて、なんだか癖になる触感で。また機会がありましたら、立ち寄らせてもらいますね」
「はい! ぜひ、立ち寄ってください。他にも美味しい味付けの団子がありますから、色々と試されてください」
茶屋娘は嬉しそうに言うと、そそくさと店内に戻っていった。
「……はーん、なるほど。そういうことか」
魔理沙は事の真相を察したのか、急にニヤつき始めた。
「そういうことね。聞いてよ、魔理沙。私が店内で茶葉を買っている最中、優ったら、茶屋についてベタ褒めだったわよ。すごくいい香りとか、和風の雰囲気が落ち着くとか――娘さんが華やかで良いねとか。あと、茶屋の主人に対して、素敵な看板娘さんですねって」
「うわぁ……そんなことを言っていたのかよ。まるで人たらしだぜ」
魔理沙は、好奇の視線を優に送る。
「実際に、そう思ったからね。相手に素敵な点があるんだったら、黙っているよりも、相手に伝えた方がいいと考えているだけだよ」
優は『たいしたことじゃない』と言わんばかりの態度だ。気遅れた様子が感じられない。
「そんなもんだから、主人と娘さん、嬉しくなっちゃったみたいで。今回は優の初めて来店だから、今後も御贔屓にってことで、今回のお茶と団子の代金をタダにしてくれたのよ。一緒にいた私としては、役得ね」
霊夢は上機嫌に言った。
なるほどね……。要は、茶屋の主人と娘に気に入られたってわけか。
優はオタク気質な奴だけれど、妙にコミュニケーション能力に優れている。初めての相手でも物怖じしないし、相手の長所を見つけるのが上手い。しかも、それを遠慮なく口に出来る自信を持っている。いわゆる、人好きする性格なのだ。
ただまあ……優の会話内容から分かるように、やたらとボケに走りたがる性格でもある。それが災いして、ある程度の交友を持った人は、優の会話の奇抜さに驚かされることになる。初めの頃は好かれやすいが、その後にどうなるかは、相手次第というわけだ。
……つーか、あの娘さん、俺のことを無視していったな。優や霊夢の隣に立っていたのに、客と認識されなかったのだろうか。ちょっと悲しい。
まあ、もともと注文するつもりは無いから、冷やかしに思われるよりはマシか。
「それにしても、あの茶屋娘、ただ気に入ったってだけの様子じゃなかったぜ。優さん、なんて名前で呼んでたぞ」
「あ、それは私も思った。私のことは名前で呼ばなかったのに、優だけ名前呼びだもん。私の方が常連なのに」
霊夢と魔理沙は、何やら乙女好みの妄想をたくましくさせている。
まあ……あの娘さんの気持ちも、分からないではない。気に食わないが、優は顔が良い方だからな。初対面の女性が相手なら、好感度がうなぎ上りになる。なんだかんだ、学校でもモテていたしな。
「……あ、そうだ。優、紫さんからの預かり物だ」
俺は3円が入った財布を取り出すと、優に向かって放り投げた。
「ん、なにこれ。財布?」
「紫さんから俺たちへの軍資金だ。中に3枚の1円札が入ってるぞ」
「1円札? 1円札……ああ、そっか。霊夢の買った茶葉が5銭だったから、600円として……だいたい1万2000円くらい?」
優は、幻想郷における1円の価値に、素早く気付いたようだ。
さすがに、頭の回転は早いな――訳の分からないボケを連発できるだけはある。
「察しが良いな。紫さんは、1円が1万円相当と考えていいって言ってたぞ」
「だよね。うわー、これが1円札なんだ。初めて見た。1円なのに大量に買い物できるって、なんか不思議だよね」
「分かる。この財布の中に3円が入っているって思うと、駄菓子すら買えないって錯覚に陥るからな」
俺と優にとっての3円は、うまい棒ですら買えない金額なのだ。
「なに、外の世界だと、1円って安いの?」
霊夢が不思議そうに尋ねてくる。
「ああ。外の世界だと、なんと言うか……1円が最小単位だからな。幻想郷の感覚だったら、10分の1厘か? そんなもんなんだよ」
「へぇ……。外の世界だと、1毛が1円の扱いなんだ。意外だわ」
霊夢は感心したように言った。
……1毛? 1厘の10分の1って、1毛って言うのか。
あれ、でも紫さんは、厘の下の貨幣単位は無いって言っていたぞ。俗語だろうか。
「なあ、霊夢。颯の奴、紫から駄賃をもらうときに、真顔で最初に15万円を要求したんだぜ? 笑えるだろ」
魔理沙は俺のことを指差し、愉快そうに言った。
「15万円!? あはは、なにそれ! 一生遊んで暮らしても使い切れないような額じゃない。立派な屋敷でも立てる気なの?」
つられて、霊夢も大笑いした。
「ぐっ……! うるさいな、仕方ないだろう。その時は、幻想郷の貨幣観念を知らなかったんだから」
現代人が幻想郷にやって来たら、誰しも1度は引っ掛かる罠だ。俺は悪くない。
「……あれ? 颯と魔理沙、途中で紫に会ったの?」
「ああ、会ったぞ。ついさっき。もういなくなっちゃったけどな」
「なーんだ。紫が来ているなら、とっちめてやろうと思ったのに」
霊夢は不満気に言った。俺たちの世話を押し付けられる形になったことに、文句を言いたかったのだろう。
「まあ、紫の件は、後でいいわ。……ところで、颯と優は、この後はどうするの? ひとまず人里には来たけれど、仕事と住む場所を探すんでしょう?」
「それなんだがな……。魔理沙によると、丁稚奉公みたいな働き方は、まずいそうなんだ。俺と優は、長くても20日くらいで切りあげて帰るつもりだから、奉公先に歓迎されないんだそうだ」
「ああ、そうなの。……それもそうね。となると、どんな仕事があるのかしら。魔理沙は、何か良い案は思いつく?」
「あー……そうだな。丁稚奉公が駄目だったら、何が得意かによるんじゃないか? 即戦力になるんだったら、雇い主にしても、色々と話が早いだろう」
俺と優の得意なこと……か。
「優だったら、あれだ、絵を描くのが上手いよな。漫画を描いて売れるくらいだし」
18禁の同人誌だが。まあ、絵が上手いことに変わりない。
優は思案顔になって答える。
「漫画か……。幻想郷で漫画の技術を活かすとなると、似顔絵とか新聞の挿絵とか、そんな感じになるかな。たぶん、漫画の文化は無いだろうし……。霊夢、魔理沙、漫画って言葉は知ってる?」
霊夢と魔理沙は、首を振ってみせた。どうやら、まだ漫画の文化は存在しないらしい。
そう言えば、幻想郷の住人って、何が娯楽なのだろう。漫画も無ければ、ゲームソフトも無いよな。いつも何をして余暇を過ごすのだろう。
「じゃあ、ひとまず、優は絵の技術を活かす方針として……俺がどうするかだよな。正直なところ、これと言って趣味とか無いんだよな」
「うーん……颯の得意なことか……」
優は腕を組んで悩み始める。
「……無いね」
「諦めるな。きっと何かあるぞ」
「颯のことは、颯自身が1番知っているじゃないか」
「その俺が思いつかないから、困っているんだろう」
「だったら、オレが思いつくわけがないでしょ」
ですよねー。
「無趣味で無能か……見損なう余地があったぜ」
魔理沙はボソリと呟いた。
「魔理沙、やめろ。俺の傷口を抉るんじゃあない」
心の出血多量で死んでしまう。
今度は、霊夢が口を開く。
「でも、何も取り得が無いってことはありえないわ。寝て起きてご飯を食べる生活を何十年と送っていたわけではないのでしょう? 働くなり学ぶなり、何かしていたはずだし」
「そうだな……。学ぶと言えば、学校には通っていたけどな」
「学校って、どんな場所?」
「えっとな……幻想郷でも通じる言葉でたとえるなら、同年代の書生が通う学問所って感じだな。国語とか数学とか、色々なことを学ぶところだよ」
「それだわ」
霊夢がビシッと指を差した。
「書生が通う学問所――つまりは寺子屋よ」
「寺子屋?」
寺子屋というと……昔の学習塾みたいなところか。
確かに、塾講師みたいな感じで、勉強を教えることは出来そうだ。幻想郷の文化水準を考えるに、そこまで進歩した学問は学んでいないはずだ。俺の学力であっても、充分に講師として通用することだろう。
「人里にも寺子屋があるって、聞いたことがある。どこにあるかまでは知らないけれど……聞き込みしていけば、すぐに見つかるはずよ」
「霊夢、妙案だ。ありがとう。寺子屋……探してみる価値はあるな」
「寺子屋だったら、オレも働けそうだね。勉強なら、特に不自由していなかったし」
優も乗り気の様子だ。
寺子屋の講師なら、優も一緒に働ける。なにかと好都合だ。
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第9話 霊夢なら素手で頭がい骨を陥没させられる
「そうと決まったら、早速 聞き込みしましょう。すみませーん、ちょっといいかしらー」
霊夢は茶屋に向かって呼び掛ける。すぐに「はーい」という声が返って来て、店内から茶屋娘が出てきた。
「ちょっと尋ねたいことがあるのだけれど、この辺りで寺子屋を開いている場所、知っているかしら」
「寺子屋ですか? えっと……生徒募集の貼り紙でしたら、見かけたことはありますね」
「その貼り紙、どこで見かけたの?」
「稗田家の門前です」
「ああ、あの稗田の……。分かったわ、ありがとう。仕事中に、ごめんなさいね」
「滅相もない。お役に立てたようで、何よりです」
茶屋娘は、再び店内へと戻って行った。
霊夢は残ったお茶を飲み終えると、すくっと立ち上がる。
「というわけだから、稗田家に行くわよ」
「あー、霊夢。先に行っていてくれ。私は団子を食べ終わったら、後から追いかけるぜ」
魔理沙はそう言って、団子に噛りついた。
「のんびりしていてもいいわよ。急ぎの用事でも無いし。……さあ、颯、優、稗田家に行きましょう」
「分かった。道案内を頼む」
俺と優は、霊夢に並ぶようにして、元来た道を歩き始める。
「これから向かう稗田家というのは、ここから近いのか?}
「近いわ。川沿いにある、大きな屋敷なの。たぶん、人里で最も大きな屋敷ね」
人里で、最も大きな屋敷か。由緒正しい名家か、もしくは商売で成功した商家だろうか。
俺たちは途中の橋を渡って対岸に移ると、さらに川沿いに進んでいく。
5分ほど歩いていると、長い外壁が続いている建物が見え始めた。ここから見た限りでも、外壁の長さは、100メートルを優に超えている。
「この外壁を含む敷地が稗田家よ。門は……もう少し先の方ね」
「確かに、かなり大きい屋敷みたいだな。どんな家柄なんだ、稗田家って」
「えっとね……。色々と手広くやっているのでしょうけれど、代表的な仕事は、幻想郷縁起の作成ね」
「幻想郷縁起?」
「簡単に言えば、幻想郷に関する記録書ね。どんな英雄がいるのか、どんな妖怪がいるのか、幻想郷にどこに何があるのか、どんな異変が起きたのか……そういったことをまとめているの」
日本で言うところの、中央省庁が発行する白書みたいなものか。
「ということは、人里の行政に関する一族ってことか。そりゃ、こんな立派な屋敷も建てられるわけか」
「そうね。それに、色々な妖怪の支援も受けている。もちろん、紫も含めて」
妖怪から……支援?
「稗田家って、人間の一族じゃないのか?」
「いえ、人間の一族よ。妖怪から支援を受けているっていうのは、幻想郷縁起を編纂しているからよ。幻想郷縁起は、人間のためだけでなく、妖怪のためにも編纂されているの。幻想郷の歴史書のようなものだから」
なるほど。幻想郷縁起は、妖怪にとっても重要な記録物ということなのか。
会話を続けていると、まもなく門前に到着した。見れば、門にいくつかの掲示物が貼られている。
「……ああ、これのことじゃないの?」
霊夢は、掲示物の中にある、1枚の貼り紙を指差した。その貼り紙には『稗田寺子屋 新規生徒募集中 読み書き、算盤、歴史、地理、習字、その他』と記載されている。
「そうみたいだな。読み書きに算盤か……」
寺子屋の教科を見る限りでは、講師として勤められそうな科目は、読み書きくらいか。誰かに教えられるほど算盤や習字を学んだことはないし、幻想郷の歴史や地理なんて分からない。
優も貼り紙の内容を見て、都合が悪そうに唸る。
「うーん……。この『新規生徒募集中』という部分が気になるね。講師の人手が足りているってことなのかもしれない。実際に話を聞いてみないと、なんとも言えないけれど」
「言われてみれば、そうかもな……。まあ、行くだけ行ってみようぜ。えっと、寺子屋の場所は……」
貼り紙の下部に、簡易の地図が描かれている。稗田家の屋敷を現在地として、左下の方に寺子屋は描かれていた。どうやら、このまま川に沿うようにして歩いて行けば、寺子屋へ たどり着けそうだ。
「川沿いに歩いて行けば、見つかりそうだな」
「そうみたいね。行ってみましょう」
俺たちは稗田家の門前から離れ、寺子屋があると思わしき方向へ歩き始める。
「……それにしても、不便だよな」
「何が?」
俺の呟きに優が反応した。
「空を飛べないことだよ。生身で空を飛べる方が不自然なことは分かっているけれど、ああも目の前で霊夢や魔理沙が空を飛ぶ光景を見せられると、どうもな……。空が飛べれば、寺子屋まであっという間じゃないか」
「あー、分かる分かる。便利だよね。魔理沙の箒に乗せてもらっていた時なんか、途中にある森なんて軽々と飛び越えていったもんね」
「だよな。……そう言えば、霊夢はなんで空を飛べるんだ? 魔理沙が魔法で飛べるっているのは、まあ魔女っぽいから納得できるけれど。神通力みたいな超能力とは違うんだっけ?」
俺が霊夢の方を見ると、霊夢はあご先に手を添えて思案顔になる。
「そうねぇ……。人里に来る前にも言ったけれど、能力なのよ。程度の能力。神通力みたいに、何か修行して身に付くものとは、ちょっと違うのよね」
「じゃあ、超能力みたいなものか? 念力で物を動かしたり、発火させたり」
「起こる結果は同じかもしれないけれど、なんと言うか……能力の意味合いというか、力の源泉が違うのよ。説明が難しいのだけれど、自然現象と言うか……それがそうだからそう、みたいな感じかしら」
霊夢の発言を受けて、俺は紫さんとスキマの中で話したことを思い出した。
紫さんもまた、霊夢と似たような言い回しを使っていた。
「……と言うことは、霊夢の空を飛べる能力っていうのは、紫さんがスキマを使えるのと似たような感じなのか? 理屈は分からないけれど、気付いたら使えるようになっていた……という感じで」
「あ、それ! そんな感じ。いつからか憶えていないけれど、こういう能力があるって自覚したのよ。魔理沙が魔法を使える能力を持っているのと同じね」
「魔法の適性って意味か?」
「ううん、違う。えっとね……。幻想郷には、能力を持っている者と持っていない者がいるの。能力を持っていない者っていうのは、たとえば人里の普通の人だったり、あとは格の低い妖怪とかだったり。だから、幻想郷に住んでいる者は、大半が能力無しと言えるわ」
「ふ~ん……。それで、能力を持っている者というのは?」
「一言で表現するなら、そうね……強い奴?」
「強い奴?」
これはまた、ざっくりした表現だ。
「もしくは、変わった奴かしら。でも、本当にそうなの。強い妖怪は、大抵は何か能力を持ってる。その者にしか扱えない能力。紫がスキマを使えるようにね」
なるほど。確かに、紫さんの態度や身にまとう雰囲気は、強者のそれだ。
「あとは、人間でも並み外れた力を持っている者は、能力持ちになるわね。とびっきりの変人なんかも、能力持ちになる。元からそういう人だから能力持ちになるのか、能力持ちだから そうなるのか……それは分からないけれど」
その論に従うなら、霊夢や魔理沙もまた、何かしら並はずれた力を持っているということになる。
もしくは、飛びっきりの変人か。……まあ、巫女や魔女という時点で、変人と言えば変人だけれど。
「興味深いな……。外の世界でも、真偽は別として、超能力者の話は聞くけどな。ただまあ、幻想郷の能力者は、そういった超能力者とは、確かに何かが違う気がする。なんか、こう……幻想郷だから目覚めた……みたいな感じだな」
「外の世界の事情は知らないけれど……能力の発現について詳しく知りたいなら、紫に訊きなさい。紫なら、どういう理屈で能力が目覚めるのか、きっと説明してくれるはずよ。……無駄に頭は良いから」
最後だけ、霊夢は苦々しい口調で呟いた。きっと、紫さんとの会話で翻弄されているのだろう。
「……分かった。機会があったら、紫さんに尋ねてみるよ」
それにしても、能力者か。なんとも面白い話だ。とっくに中学生は卒業しているが、年頃の男として、そういった特殊能力にはワクワクしてしまう。何かの偶然で、俺も能力者になれるかもしれない……そんな期待感に胸が躍る。
どうせ能力を持てるのだったら、どんな能力がいいだろうか。霊夢のように、空を飛べる能力は便利そうだ。紫さんのように、本質がよく分からないが色々と出来る能力というのも、何やらロマンを感じる。
「なあ、優。もしも能力に目覚めるんだったら、優だったら どんな能力が欲しいんだ?」
同じ年頃の男として、きっとこの話題には食いつくに違いない。優のことだ。俺の予想を超えるような訳の分からない能力を欲しがるだろう。
「……ん? ああ、えっと……何か言った?」
俺の期待に反して、優は話を聞いていなかったようだ。なにやら、考え事に耽っていたようだ。
「聞いてなかったのか。霊夢が言っていた能力だよ、能力。優だったら、どんな能力がいい?」
「うーん、そうだねぇ……。正直なところ、なんでもいいかな。あるならあるで良いし、無いなら無いで、それもまた良いかな」
優は答えるには答えたが、なんとも要領を得ない話だ。面白いことには目が無い奴だから、期待外れと言うよりは、肩透かしを食らった気分になる。
それに、さっきの質問を聞いていなかったことを含めて、どうも上の空のような印象を感じる。何を考えているのだろうか。
「何か気になることでもあるのか?」
「気になることと言えば……まあ、気になることかな」
優はそう言って、ちらっと霊夢の方に視線を向けるが、すぐに視線を外した。
気になることとは、霊夢に関することなのだろうか?
――――ふと、紫さんと魔理沙のやり取りが脳裏をよぎる。
……おや? おやおや?
これは、普段から俺を弄り倒してくる優に対して、仕返しするための好機ではないか?
颯さん、キュピーンと閃いちゃったぞっ!
「そうか……。優は、霊夢のことが気になるのか。なるほど、そういうことか。そう言えば、魔理沙から聞いたのだけれど、人里へ向かう途中で、優は霊夢と手を繋いでいたそうじゃないか。箒に乗る補助ということらしいが、まあ、名目はなんだっていい。大切なことは、何が起きたのかという事実だ」
「……何が言いたいわけ?」
優に言ったつもりだったが、なぜか霊夢の方が強く反応してきた。それに対して、優はこれと言って顔色が変わらない。むしろ「何をいってんだ、こいつ」と言いたそうな感すら受ける。
予想とは違う展開だが――良しとしよう。まだ序の口。本題は、これからだ。
「まあ、霊夢も考えてみろよ。考え合わせてみろよ。普通、初めて会った相手――それも異性の相手に対して、手を繋いでくれなんて、なかなか言えるもんじゃないぞ?」
「……補助の提案をしてきたのって、霊夢からだったよね」
優が不思議そうな面持ちで霊夢に尋ねると、霊夢は「そうね」と肯定した。
……おや? 想像していた状況と違うぞ。てっきり、優からお願いしたのだと思っていたのだけれど。
ま、まあ……許容範囲内だ。これから切り出す話の大筋は変わらない。
「そうか、霊夢から提案したのか。まあ、それ自体は、ささいな問題だ。優と霊夢は、仲良く手を繋いだわけだ。しかも、人里に着いてからは、俺と魔理沙の到着を待たずに、2人で行動した。しかも、茶屋の前で仲睦まじく休憩していた」
「そりゃ、オレは霊夢のあとを付いていくしかないからね。人里の地理なんて、さっぱり分からないし。勝手に行動して迷子にでもなったら、面倒だもん」
優が霊夢の方に視線を向けると、霊夢は「その通りね」と肯定した。
……おや? おやおやおや?
あれ……なんだろう、この状況。当初に想定していたものから、大幅にズレてきてしまっている。ズレるというか、路線変更に近い。
「……で、颯。あんた、何が言いたいわけ? 男なんだったら、ハッキリと言いなさいよ」
要領を得ない話の展開に業を煮やしたのか、霊夢が苛立たしそうに睨みつけてくる。
やばい、どうしよう……。この話の流れは、まずい。非常によろしくない。
「……ああ、そういうことか。なるほどね」
俺が返答に窮していると、優は腑に落ちたと言わんばかりの態度を見せた。
「優、どういうこと? 颯のやつ、何が言いたいわけ?」
「そうだね……オレが代弁するとしよう。いいかい、霊夢。颯はね――霊夢に、こう言いたいんだよ」
優は いったん 勿体ぶった後に、話を続ける。
「今日、初めて会ったオレに対して、手を繋ごうと提案したり、颯と魔理沙を待たずに人里に入って、自然と2人きりの状態になるように仕掛けたり――茶屋に訪れて一緒に団子を食べる。これら一連の行動は、すべて――霊夢がオレに気があるからなんじゃないか、と。距離を縮めるためなんじゃないか、と。颯はね、そう言いたいんだよ。霊夢を弄って遊ぶために。……でしょ、颯?」
優は俺の方を見て、ニコニコと笑みを浮かべる。それはもう――青葉の香りを運ぶ初夏の風のような、爽やかさ満点の笑みだ。
ぴたり。優の言葉を聞き終わるが早いか、霊夢は歩みを止めた。
「……へぇ。ああ、そう。そういうこと。あの長い前振りは、それを言うためってわけね。回りくどい――まるで紫のような言い回しだわ」
ゆるりとした動作で、霊夢は両手を胸の前に持ち上げた。片手に拳をつけて
「れ、霊夢さん……?」
「まあ、私にも少なからず非はあるでしょう。箒の補助の件は親切心にしても、あんたを待たずに茶屋に向かったことは、私の独断。それについては、素直に認めましょう――認めてあげましょう」
一歩、霊夢が踏み出す。二歩、三歩と足を運ぶ。大地を踏みしめるが如く、緩慢な動きで――しかし着実に俺との距離を詰めてくる。
「けれど……痛くも無い腹を探られるような邪推は、聞いていて不愉快だわ。ましてや、他人の色恋を種にして嘲弄を企てるなんて――悪趣味が過ぎるんじゃない?」
霊夢さん、それは紫さんに言ってあげて!
俺ではなく、紫さんにこそ、霊夢様のありがたき至言をお説きになって!
「い……いや、違うんだ! 違うんです! 俺はただ、優が霊夢を気にしているような素振りを見せたから、これは優をからかう絶好の機会だと考えたわけでして! 霊夢さんを愚弄しようなどとは、露とも、
「名目はなんだっていいわ。だって、大切なことは――何が起きたのかという事実だもの。そうでしょう?」
先の発言の揚げ足を取られてしまった。ぐうの音も出やしない。
く……くそっ! とにかく、ど、どこかへ逃げなければ!
このままでは――霊夢に命を取られる!
「三十六計逃げるに如かず!」
俺は踵を返して逃走を図るが――直後に不可視の何かと衝突した。
「いってぇ……!」
俺はぶつけた鼻を押さえつつ、前方を見遣る。何やら、景色が普段よりも不明瞭に見える。まるで、曇りガラス越しに景色を眺めているような気分だ。
前方に手を差し出してみる。すると、強化ガラスのような『叩けば響くが堅い』感触が返って来た。何が起きているか分からないが、前方に障害物があることは間違いない。
それならば、側面から逃れるまでだ!
俺は右から回り込むつもりで動いたが――すぐに強化ガラスのような何かに衝突した。どうやら、右側面にも障害物が存在するらしい。ならば、左なら――と思ったが、やはり左側面にも障害物が存在した。
まるで、俺の前方と左右に立ちはだかるように――霊夢から逃げ場を塞ぐように、謎の障害物が存在した。
――――ジャリッ。地面を踏みしめる音が間近に聞こえる。
「あら、逃げようだなんて――いい度胸じゃない。反省していない証拠ね」
恐怖心に駆られて振り向けば、目と鼻の先に霊夢が迫っていた
全身から不満と
博麗霊夢――その正体は鬼であったか。
「逃げようとしても無駄よ。あんたと私の回り、結界で囲っているもの」
結界だと? この鬼巫女、結界を張ることが出来るのか?
周りを見渡してみると、上と下に4個ずつ、太極図を模したような白黒の玉が設置されてることに気付いた。もしや、これが結界を作り出している核だろうか。
白黒の玉は、俺と霊夢を囲むような細長い直方形の頂点に位置している。それが意味することは――すでに全方位の逃げ場が塞がれているということだ。
ここから脱出するためには、目の前の霊夢――鬼巫女を倒すより他に手立ては無い。
「さて……覚悟は出来てんでしょうね」
攻撃に打って出るつもりなのか、霊夢は腰を落とした。左の拳を後ろへ引き絞る。体重の乗った正拳を突き出すつもりなのだろう。
年相応の背丈の霊夢が身を低くしたことで、よりいっそう小さく見えた。
――――そうだ。そうじゃないか。俺は霊夢の怒気に威圧されるあまり、本質を見失っていた。
「……ふふ」
「……なんで笑ってんのよ」
俺が浮かべた笑みを見て、霊夢は怪訝そうな表情を浮かべる。
「衝撃の展開が続いて忘れていたがな……気付いたんだよ。俺は霊夢を恐れる必要は無いって」
「どういう意味よ」
「そもそも、俺は男で、霊夢は女だ。それに、体格差は歴然。常識的に考えて、俺が力比べで負けるはずがない。しかも」
「しかも?」
「霊夢自ら、移動できる範囲を狭めたわけだ。すばしっこく立ち回られたら厄介だが、結界によって側面には空間的な余裕は無い。霊夢は結界によって俺を閉じ込めたなんて言ったが、その実――閉じ込められているのは霊夢の方というわけだ」
「へぇ……なかなかに面白いことを言うじゃない」
「ああ、俺は本質を見誤っていたよ。この状況は、俺にとって不利じゃない。むしろ、有利な状況だ。霊夢と正面から闘ってこそ、俺の活路は開かれる!」
霊夢と同じように、俺も腰を落として臨戦態勢を取った。
さすがに少女に拳を振るうことは出来ないけれど、1度でも組み付いてしまえば、体重差でゴリ押しが効く。寝技の心得は無いけれど、羽交い絞めにすれば行動は充分に封じられる。
……と言うか、なんだこの状況は。
俺たち、寺子屋に向かっていたのではなかったのか?
「いい度胸だわ。私に正面から立ち向かうことを決めた勇気は、素直に褒めてあげるわよ」
霊夢は飄々として答える。自分が不利な状況に置かれているなどと、微塵も考えていない様子だ。
霊夢のあの余裕――何か裏があるに違いない。結界に続いて、まだとんでも能力を隠し持っている可能性がある。
ここは、正面から受け止めるのではなく、いったん攻撃をいなして、側面または背面から捕縛に掛かるのが得策か。
「でもね、颯。1つだけ、とても大切なことを忘れているわよ」
そう言うと、霊夢はグッと体勢を前のめりに傾ける。
次の瞬間には、こちらに突っ込んでくる。そう確信した俺は、側面回避に備えて、右足に体重を掛けた。
――不意に、全身を恐怖が駆け巡った。なぜか分からない。しかし、俺の生存本能と呼べる何かが、けたたましい警告音を鳴り響かせて、赤色灯を点滅させる。
「私が――博麗の巫女だってことよ!」
怒色一声、霊夢は地面を蹴って跳び出した。
俺は生存本能らしき声に従い、俺から見て霊夢の右脇へ転がるように跳び込んだ。
俺の頭上を霊夢の左腕が通り過ぎ、追って巫女服の袖が頭部に接触した。
回避に成功した――そう思った直後、結界全体を揺るがすほどの大音響が轟いた。さらには、ガラスが粉々に砕け散るような破砕音まで炸裂する。
俺は体勢を整えて背後を振り向き――何が起きたのか理解した。
霊夢の突き出した拳――その先の光景は、いつも通りに鮮明に見えた。さながら、結界が消失したように。
……いや、事実として、結界は消失していた。霊夢の拳の撃によって、砕け散ったのだ。
俺は眼前で起きた出来事に目を疑っていた。そうこうしているうちに、前方の景色が元通りに――曇りガラスを通したかのように見えづらくなる。恐らく、結界が再構成されたのだろう。
「なによ、大見得を切っておいて、避けるんじゃないわよ。男の癖に情けない」
霊夢は何事も無かったように振り向くと、呆れた口調で言った。
「……いや」
いやいやいやいや! なんだ……なんだ、この巫女! あの強化ガラスみたいな質感だった結界を――純粋な腕力で破壊したぞ!?
「霊夢、お前……実は妖怪だったのか?」
「はあ? 馬鹿なことを言ってんじゃないわよ。正真正銘、人間に決まってんでしょ」
お前こそ、馬鹿なことを言ってんじゃねえよ。お前が人間だったら、俺はなんだ? ハムスターか?
「お前のような人間がいてたまるか! なんだ、さっきの音は! 轟音は! 結界が壊れたぞ!? どういう怪力してんだ、お前は!」
「あんたねぇ……こちとら、博麗の巫女よ? 人間よりも遥かに身体能力の優れた妖怪を相手にして、妖怪退治を生業にしているのよ? 霊力で体を強化できるなんて、当たり前じゃない」
「俺は生身の人間だぞ!? あんなもんを食らったら、体が砕け散るわ!」
「筋肉と脂肪で出来た生身を侮っちゃ駄目よ。動けない結界と違って、ちゃんと衝撃を分散してくれるのよ。砕け散るなんて、そんな大層な……。もだえ苦しませるのが関の山。出来ても、骨にヒビを入れられるくらいよ」
つまり、筋肉や脂肪の薄い頭部を殴れば、頭がい骨を陥没させるくらいは可能ってことですか? 素手で?
お前は熊か何かかよ。
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第10話 何度でも「霊夢を愛している」と言ってやろう……死にたくないから
「さて……今度は避けるんじゃないわよ。男なら男らしく、戦場の花と散りなさい」
俺、なんで死刑宣告されてんの? 人里は、いつから戦場になったの?
「待て待て待て! 降参だ、白旗を振る! 俺が悪かった! 謝る! 平に謝るから!」
「大和男児って言葉、知ってる? 勝てないと知っても、心勇んで挑むところに、男の花があるんじゃない。ほら、花を持たせてあげるわ。かかってらっしゃい」
「大和撫子って言葉、知ってる!?」
「知っているわよ。男を立てることを優先する、健気でお淑やかな美しき女性のことでしょう? だから、こうやって気を利かせて、花を持たせてあげているんじゃない。ほら、かかってらっしゃい」
もう駄目だ。この巫女、論理ですら武装してやがる。
た……闘うしか……戦うしか道は残されていないと言うのか……!
逃げられないし、許してもらえない以上、戦うしかない。しかし、正面から挑んだところで、あの霊夢もとい鬼巫女もとい熊に勝てるわけがない。
どうにかして、どうにかして――戦わずに勝つ方法は存在しないのだろうか。
「…………あっ」
死に瀕する状況に置かれたせいか、俺の脳裏に一閃、輝かしき妙案が映った。
死地に活路を開く。
そ、そうか……! 前振りだ! 今のこの状況ですら、布石として扱ってしまえばいいのだ!
「……すまんな、霊夢。正直に告白するよ」
俺は不敵な笑みを浮かべると、乱れた前髪を掻き上げた。
「……どういうこと?」
霊夢が聞き返してくるが、俺はそれを無視して、一歩……また一歩と霊夢へ歩み寄る。
「答えなさい!」
霊夢が声を張り上げるが、俺は なおも無言の前進を続ける。
はじめのうちは、霊夢は訝しむような顔つきだったが――俺が笑みを浮かべて無防備に近づく様子を不気味に感じ始めたのか、ジリジリと後ずさり始めた。けれど、間も無く霊夢の動きが止まる。そもそも、霊夢のすぐ後ろに結界があったからだ。
「くっ……止まりなさい! 止まりなさいって言っているでしょう!」
霊夢は焦りを感じたのか――身の危険を感じたのか、懐から ひとつかみの札を取り出した。指先をずらすことで、札を扇状に広げてみせる。
札の表面には、何やら難しい漢字が書きこまれている。恐らく、霊力の込められている護符か何かだろう。
しかし、そんな物などを見せられても、俺は微動だにしない。そもそも、それがどれほどの脅威なのか分からないし、死地に見出した活路――霊夢に戦わずして勝つ方法しか頭にないからだ。
ついには、霊夢と体1つ分の空間を置く距離まで詰め寄った。完全に霊夢を見下ろす形となる。
当の霊夢は、表情を強張らせながら、こちらを見上げている。拳撃でも護符でも、攻撃しようと思えば出来るだろうに、なぜか身を委縮させていた。
至近まで男に近寄られる――その状況に慣れていないのかもしれない。
「なあ、霊夢」
「……な、何よ」
探るような口調の霊夢に対して、俺は手を突き出した。霊夢の顔の横だ。
ドンッ! 手が結界に当たり、鈍い音を立てた。
当惑に目を見開いた霊夢をよそに、彼女の顔の横に向けて、もう片方の手も突き出す。こちらの手も結界に当たり、鈍い音を立てた。
「俺さ、本当のことを言うよ」
「だ、だから、なんなのよ……!」
「俺さ――優に嫉妬していたんだ」
「…………え?」
「優に嫉妬していたんだよ。……いや、こう言った方が分かりやすいな。俺はな――霊夢に一目惚れしていたんだ」
霊夢は口を開けて、ポカンとした面持ちだ。しかし、次第に発言の意味に理解が追いついてきたのか、徐々に挙動不審になり始める。
「いや、あんた、き、急に何を……?」
「伝わらなかったか? もう1回、言うぞ。俺は霊夢に一目惚れしたんだ。霊夢が可愛いから――一目惚れしていたんだ」
「い、いや、だ、だから……え、え……?」
繰り返される言葉に、霊夢は困惑を深めていく。それに比例して、彼女の頬に差す朱の色が濃くなる。
「だから、優に嫉妬したんだ。俺だって霊夢と手を繋ぎたいし、2人っきりでいたかったのに……優に先を越されたから。別に優が狙ってやったことじゃないと分かっていたけれど、でも、悔しかったんだ。……俺は霊夢のことが好きだから」
「――――ッ!」
羞恥のあまり、今の状況に耐えきれなくなった霊夢は逃げ出そうとするが――すぐさま移動方向に手を突き出すことで、動きを制する。彼女の動きが止まったら、すかさずに両腋の下に手を突き出すことで、左右方向の移動を封じる。
「ちょ、い、いや……は、颯、は、離れ……離れ……き、き、距離が……!」
自由な動きを封じられたことで、霊夢は恐慌に近い状態になった。結界を消せば後ろへ逃れられるというのに、それすらも考えが回らなくなっている様子だ。
「俺、霊夢に鎌をかけていたんだ。優のことが好きなんじゃないかって、気になってな。気分を悪くしたようだったら、素直に謝る。でも……そうせざるを得なくなったほど、霊夢のことが好きで仕方なかったんだ。我が儘かも知れないが、その気持ちだけは、理解して欲しいんだ」
「わ、分かったから! 颯が、わ、悪気が無かったことは理解したから! と、とにかく、いったん、はな、離れなさいって……!」
「それで、霊夢はどうなんだ?」
「……な、何が……?」
「言っただろう? 霊夢がすごく可愛かったから、一目惚れしたんだ。本当に、好きで好きでたまらないんだ。心の底から愛しいと思っている。出来れば、霊夢と交際したい。……だから、霊夢の気持ちを知りたい。霊夢が俺のことを好きなのか、教えてほしい」
「――――ッ! ――――ッ!」
霊夢は声にならない悲鳴を上げた。瞳孔は拡大して、黒目がちになっている。顔を背けられ、やり場のない視線は定まることを知らない。突然の展開もさることながら、感情が荒れた海のように暴れ狂って、脳が情報を処理しきれなくなっているのだろう。
……さて、ここで、ネタバラシしよう。
俺が死地に見出した活路――それは『俺は霊夢に一目惚れしていて、優に嫉妬した』という体裁を整えることで、霊夢の怒りを有耶無耶にしてしまうという作戦だ。
誰しも、他人から好かれていると分かったら、嫌な気分はしないものだ。尻尾を振ってなついてくる小動物を邪険に扱う者はいない。まあ、女性の場合は、男性から言い寄られたら恐怖心を抱くだろうけれど――そこは勢いと歯の浮くような言葉で無理押しする。
単純に言葉を重なるよりも、目に見えた何かを使えば、相手に気持ちは伝わりやすくなる。そこで、自分の男友達に嫉妬するほど好意を抱いているという体裁を繕うことで、好意の強さを明確に伝える方法として利用した。さらに、霊夢に対する嘲弄の扱いとなってしまった一連の会話の正当化も図る。
嘘とは言え、霊夢に好意の言葉を伝えて、男女交際を申し込んで――その後に何が起きるかは予想していない。しかし、そんなことはどうでもいい。大切なのは、今を生き抜くことだ。
あんな危険な拳撃を食らわされるくらいだったら、今の選択肢を選んだ方が千倍はマシだ。いくらでも道化を演じてやろう。
「……なあ、霊夢。聞こえているんだろう? 俺は、霊夢のことが好きだ。大好きなんだ」
「…………」
もはや、霊夢は声を出すことすら放棄していた。可能な限り顔を背けて、俺を視界に映さない魂胆のようだ。
冷静さを取り戻されても困る――さらに追い打ちを掛けておくか。
「初めて見た時、霊夢の髪の毛、すごく綺麗だった。深みと艶やかさが両立していて、まるで烏の濡れ羽色のように。髪質は真っ直ぐのサラサラで、絹糸のように思えた。髪だけじゃない。目はパッチリと大きくて、若々しい生気に満ちあふれている。黒目は吸いこまれるように美しかった。声は、鈴を転がすように、とても耳に心地よかった。いつまでも、隣で聞いていたいくらいだ。ぷっくりと潤んだ唇は、思わず見とれてしまうほどに肉感的に感じた。霊夢の全てが完全、完璧で――まるで女神に出逢ったような衝撃を受けたんだ。それこそ、雷に撃たれたと錯覚するほどに」
自分で言っておいてなんだが……よくもまあ色々な表現が次々と出てくるものだ。自分の頭のどこに、これらの語彙が収まっていたのか、不思議で仕方ない。烏の濡れ羽色なんて言葉、どこで知ったのだろう。まったく憶えが無いぞ。
まあ、あれですよ。人間、命が懸かるような危機に陥ったら、なんでも出来るってことですね。
あれこれと歯の浮くような――あとで自分が悶死すること間違いなしの言葉を重ねているわけであるが、霊夢は沈黙を続けている。それどころか、目を固く瞑ってすらいた。しかし、呼吸は荒い。未だに動揺している証拠だ。
ほう……強情だな。口と目を塞いで、ひたすら平静を取り戻すことに努めているわけか。
しかし、俺は1つの事実に勘づいている――この巫女は男性免疫がほとんど無い! 押せば押すほど、この巫女は崩れていく!
……まあ、あんな僻地の神社で暮らしていたら、男性と親しく接する機会は少なくて当然か。
霊夢は、確かに戦闘行為には慣れているのだろう。妖怪退治屋として、男の妖怪も数多く屠って来たのだろう。しかし、俺は戦闘の意思を放棄して、無防備に近寄った。戦闘という雰囲気を崩し去った。それにより、奇しくも霊夢とって『未知と未経験の状況』に追い込めたのだ。
この好機を逃す手は――ない!
俺は左半身を霊夢に近づけると、左腕を彼女の背中から左肩の方へ回した。つまり、お互いの半身を密着させた。
突然の身体接触。しかも、半身の密着。この行動に霊夢は驚愕したようで、反対側へ必死に逃げ出そうとした。
しかし、そうはさせない。左手で霊夢の左腋下に回して、空いた右手を霊夢の顔の横に回す。半身を密着させる形で、改めて霊夢の動きを封じた。
もはや、霊夢の理性は限界を迎え始めたようだ。頬は真っ赤に染まり上がり、耳まで朱が兆している。体は火照るように熱く、彼女の露出している首周りや肩周りから熱気が上がっている。額には、ほんのりと汗がにじんでいた。どことなく、扇情的な雰囲気すら漂っている。
……あれ、霊夢って可愛くね? まあ、もともと顔立ちは整っている方だと思っていたけれど……なんだか霊夢が急に可愛く見え始めてきた。
なんでだろう。おかしい。どういう気の迷いか。たぶん、気のせいだろう。俺のパーソナルスペースに霊夢がいることで、認知不協和が起きているだけだ。そうに違いない。
そんなことよりも、霊夢の口を割らせなければいけない。言わせる言葉は、「はい」でも「いいえ」でも、なんでも良いのだ。いったん話に結論がつけば、当初の目的は完遂する。
否定されれば、さも残念そうに引き下がって、それで終わり。肯定されれば……肯定されれば……その時はその時だ。優先すべきは、今の身の安全た。後のことは知らん。
「なあ、霊夢。霊夢の気持ちを聞かせてくれ。俺は霊夢のことを愛している。このまま、霊夢の体を抱き締めたいくらいなんだ」
霊夢の体がビクッと震えた。何を意味する震えか分からないけれど、効果があることは間違いなさそうだ。
少しの間だけ霊夢の様子を観察したが、やはり黙して語らず。相も変わらずに顔をそらしている。
心が逃げる余地を生んでいるとしたら――それだろうか。
俺は半身の密着を解除して、霊夢の体の真正面に回り込んだ。右足を霊夢の左側に突き出して、足を使って逃げ場を防いでおく。
そして――右手を霊夢の左頬に添えて、無理やり正面に顔を向けさせた。
自分の顔に触れられたことで、霊夢は咄嗟に目を開いた。必然的に、俺と視線が交差する。
「あっ……」
霊夢の口から、呆けた声が漏れた。声というよりは、吐息に近い。
霊夢の目は、微かな水気に潤んでいた。涙ではなく、熱情から起きる生理的な潤みだ。
今度は、霊夢は顔をそらさなかった。視線がさまようこともない。何かに意識を奪われたように、まっすぐ俺の目を見つめている。
畳みかけるなら、今が好機――!
「何度でも言うぞ。俺は霊夢のことが好きだ。愛おしくて たまらない。だから、霊夢の答えが聞きたいんだ。端的な答えでいい。『はい』か『いいえ』だけでもいい。一言、霊夢の気持ちを教えてくれ。霊夢の気持ちは――俺と一緒なのか?」
問いかけには、すぐに返事は来なかった。
それどころか、まるで霊夢は機能停止したかのように、身じろぎ1つしなかった。
「…………………………ぁ」
長い沈黙を挟んで、ようやく霊夢から反応を示した。
「ぁ…………ゎ…………」
しかし、様子がおかしい。
「ぁゎ…………ぅ……ぁ……」
呻くような声は明確な言葉とならない。
「ぁ…………ぁぁ……ぅ……!」
開かれた目は、よりいっそう大きく見開かれる。
「……ぅ……ぁ……ぁぁ…………!」
霊夢の体が細かく震え始めた。
そして――――
「…………ぅ……ぅ……うわぁぁぁぁぁぁあああああ!」
霊夢が悲鳴に近い大声を上げると同時に、俺の右脇腹を強い衝撃が貫いた。狂乱を来した霊夢が左の拳を突き出したからだ。
「ぐふっ!?」
俺の体は、自然と『くの字』に折れた。そこに、霊夢は右の拳を放ってきた。これもまた、腹部狙いの攻撃。俺の左脇腹に、強烈なボディーブローが深々と突き刺さる。拳が腹を貫通したかと錯覚するほどに、鋭く重々しい一撃だ。
俺は立っていることすら出来なくなり、その場に倒れこんだ。腹部の殴打と激痛により、呼吸が上手くできない。
徐々に……意識にモヤが掛かり始めた……。
視界から……どんどん光が……失われていく…………。
なんだ……結局は……こうして……殴られる羽目に…………なるのか…………。
意識を……手放しそうになる直前に……見上げた視界の……端に……霊夢の……姿が……映った…………。
霊……夢の表…………情は……とて……も……と……て……も…………満……………………。
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第11話 罠にハメられた
「ん……んん……」
俺は薄ぼんやりとした意識の中、自分の体の上に何かが乗っていることに気付いた。それに、妙に体全体が温かい。背中には、ふわふわと柔らかな感触のものが当たっている。
「……あれ、布団……?」
少し首を捻ったら、体の上に掛かっている掛け布団が見えた。どうやら、俺は布団の中で寝ていたようだ。ということは……今は朝だろうか。
寝ぼけた意識に、ふと霊夢の姿が浮かび上がった。続けて、優と魔理沙の姿も浮かび上がる。
「……そうだ、俺、確か……寺子屋に行こうとして……」
少しずつ意識が鮮明になると共に、稗田家から寺子屋に向かうまでの記憶が蘇って来た。
ああ、思い出した。俺、霊夢の件で、優をからかおうとしたんだ。でも、それが裏目に出てしまって、その状況を優に利用されたんだ。そして、霊夢に突っかかられて、なぜか霊夢と戦うような流れになって……。
自分が霊夢に何をしたのかについて思い至り、なんとも言えない苦々しい気分になった。
緊急事態で正常な判断能力を欠如していたとはいえ、その日に初めて出逢った少女に、歯の浮くような愛の告白を連発。さらには、体を寄せての口説き落とし。その果てに、霊夢から強烈なボディーブローを食らわされてしまったのだ。
そして、その後は……。その後の出来事は……思い出せない。
「……もしかして、俺……気絶していたのか……?」
最後に残っている記憶と自分が寝ていることを考え合わせるに、霊夢のボディーブローを食らって気絶してしまった……と考えるのが自然だ。
それでは、俺が今ここにいる場所は、幻想郷のどこかの家……ということだろう。首を捻って見渡す限りは、どこかの民家の一室に寝かされているという感じだ。博麗神社の平屋の可能性もあるか。
このまま寝ていても仕方ないので、ひとまず起き上がることにした。
体を起こすと、腹部に鈍痛を覚える。どれくらいの時間が経過しているのか分からないけれど、霊夢に殴られたボディーブローの威力は、相当のものだったらしい。悶絶どころか意識が飛ぶほどなのだから、無理もないだろう。改めて、霊夢が本当に人間なのか疑いたくなる。
「よっこいしょっと」
俺は体を起こして、そのまま立ち上がった。特に服装に変わったところはない。霊夢に殴られた場所から運ばれて、すぐに布団に寝かされたのだろう。そうだとすると……ここは稗田家の近くの民家か何かだろうか。
あれこれ考えていたところで、何も始まらない。とりあえず、隙間から明かりが差し込んでいる襖の方に向かう。
襖を横に滑らせると、すぐに縁側に出た。目の前には庭があり、その先には竹林らしき光景が広がっている。
縁側の続く先に視線を向けると、かなり先まで縁側が続いた後に、曲がり角が見えた。どうやら、それなりに立派な建物らしい。少なくとも、一般的な民家ではないことは確かだ。
周囲を見渡してみたが、どうも人の気配を感じない。廃墟に入り込んだような気分を覚える。人里の民家の1つであれば、何かしらの生活音が聞こえてきても不思議ではないのだけれど。
「おーい。誰かいないかー」
とりあえず、ここまで自分を運んできたであろう誰かに向けて、声を上げてみた。もしかしたら、近くに優や霊夢がいるかもしれない。
ほんの少しの間を置いてから、「はーい」という少女の声が聞こえてきた。返事についで、こちらに走り寄ってくるような足音が響いてくる。
少女の声には、聞き覚えがない。霊夢や魔理沙ではないようだ。
突然、背後から襖を開ける音が聞こえた。少女は、廊下から部屋にやってきたらしい。
「颯様、お目覚めになったんですね。あのー、お加減はいかがでしょうか……?」
少女はそう言うと、探るような調子で小首をかしげた。
俺は少女の問いに返事せず、まじまじと少女を見つめてしまった。
幼い声の印象の通り、少女は10歳程度の容姿であった。寸見したところでは人間のようであるがーー頭頂部には猫を思わせる耳が生えている。また、スカートの後方からは、左右に緩やかに動く二又の尻尾が見えている。
猫のコスプレ……だろうか。それにしては、あまりにも耳や尻尾の出来が生々しい。
「……ど、どうかされましたか?」
少女が狼狽気味に声を漏らした。
少女の様子を見て、俺は我に返った。
「あ、ああ……。ごめん。その、なんだ……気にしないでくれ。なんでもないんだ」
「……そうですか。ところで、お加減はいかがでしょうか? 腹部を怪我されていると紫様がおっしゃっていましたが、痛みの方は」
「痛み? ああ、それなら……たいしたことはないよ」
俺は自分の腹部をさすりつつ、少女が口にした言葉を拾い上げる。
「ところで、紫様……って言ったよね? もしかして、君は紫さんの……知り合い……いや、家族……。とりあえず、紫さんを知っているんだね」
「はい。紫様は、私の主人の主人に当たる方です」
主人の主人。ややこしい言い回しだが、少なくとも友人や家族の関係ではなさそうだ。
「そうなのか。……もしかして、俺をここに運んでくれたのも、紫さんなのかな」
「気を失っている颯様を紫様がお連れになられました。お布団までは、藍様……私の主人が運ばれました」
藍。どこかで聞いたことのある名前だ。たしかーー紫さんとスキマの中で会話した時に、藍という名前を耳にした気がする。
眼前の少女の主人が藍という人物で、藍の主人が紫さんという関係ということか。どことなく、母・姉・妹という系列を連想できる。
「……あ、申し遅れました! 私は橙と申します。お見知りおきを」
橙と名乗る少女は、慌てて軽く頭を下げた。
見た目からして10歳そこそこの少女に礼儀を尽くされるという経験は、なかなかに新鮮だ。
「橙……橙ちゃんか。分かった。紫さんから聞いているだろうけれど、俺の名前は颯って言うんだ。及川颯」
「はい、存じております。……あ、そうだ。颯様がお目覚めになられたら、紫様の元へ案内するように命じられております。よろしければ、ご足労を願えますか?」
「ああ、大丈夫だよ。紫さんも、この屋敷のどこかにいるのかな?」
「おそらく、書斎におられるかと。ご案内します。こちらです」
橙はそう言うと、部屋から廊下の方に出るように促してくる。
俺は橙の案内に素直に従い、彼女の後ろを付いて、廊下を歩いた。
「……」
俺は橙のお尻から生えている二又の尻尾に視線を移した。橙の歩く動作に合わせてフリフリと動く尻尾は、まさしく猫の尻尾だ。ふさふさの毛並みを見ていると、無性に触ってみたくなってくる。
橙の尻尾に手が伸びそうになるが、ぐっと自制心を働かせて、黙々と橙の後ろを付いて回ることに専念する。
おそらく、この子は猫に関する何かしらの妖怪に違いない。実際の猫がそうであるように、尻尾に触られたら、かなり嫌がるだろう。ましてや、見た目は少女だ。完璧にセクハラ行為と言えよう。
少しして、とある襖の前で、橙は足を止めた。
「颯様、少々お待ちを。ーー紫様、書斎におられますか?」
橙は書斎と思わしき部屋の襖に向けて、声をかけた。
「橙ね。ありがとう。颯を通しなさい」
襖越しに、縁さんの声が聞こえてくる。どうやら、俺を同伴していることは、お見通しのようだ。
「かしこまりました。失礼します」
橙は襖を開けると、書斎に入るように促してきた。
「ありがとう、橙ちゃん」
俺は小声でお礼を言うと、書斎の中に足を踏み入れた。直後、後方から襖の閉まる音が聞こえる。
書斎と呼ばれた部屋は、さながら歴史の教科書に出てくるような書院造りだ。奥の壁には、達筆すぎて何が書かれているか分からない掛け軸が掲げられている。
窓辺に置かれた足の低い木机の前に、紫さんは座っていた。何かの本を読んでいる最中のようだった。
「ごきげんよう、颯。寝覚めの気分は、どうかしら?」
「いや、どうかしら……と聞かれましても。というか、ここは紫さんの住まいですか? 俺、なんでここに」
「まあまあ。ひとまず、そちらの卓に腰を落ち着かせなさい」
紫さんは、書斎の中央に設置されている大きな角テーブルに手を向けた。ご丁寧に、すでに座布団が敷かれている。どうやら、最初から話し込むことを想定していたようだ。
……なんだろう。この座布団に座ったら、ややこしい会話が巻き起こる気がする。座布団がイベント発生オブジェクトのように見える。
「おや、どうされましたか。座らないのですか?」
座布団に座るべきか逡巡していると、すでにテーブルの前に座り直した紫さんが見上げてくる。
「その……なんでしょう。名状しがたい感情が……危機感めいたものが……」
「あら、心外ですわ。いくらあなたが若く雄々しい魅力にあふれているとはいえ、籠絡する気は毛頭ございません。あなたと歓談を尽くしたいだけです。好意に基づく親近です。それとも……人間として、あなたを好きになってはいけないのでしょうか?」
紫さんはテーブルの上に両腕を乗せると、やや前傾して、甘えるような……そして試すような視線を投げかけてくる。
くっ……。そういう言い回しを使われてしまったら、断るに断れないじゃないか。
まあ、構わないさ。いずれにせよ、どうして俺がここにいるかについて、尋ねておきたいし。優や霊夢、魔理沙がどこにいるのかも知りたいし。
「……どうぞ、気の済むように、お好きなように。さっきのことは……気のせいです、気のせい」
「そうですか。それでは、あなたの厚意に私の好意を委ねましょう。素敵なエスコートを期待しても、よろしくて?」
「ははは……お手柔らかに。なにせ、女性の相手は不慣れなもので」
俺は苦笑いを浮かべると、座布団に腰を下ろしーーーー
「あら、謙遜なさらなくても。あなたの甘やかな語らいならば、きっと私は酔後の悦を味わえるでしょう。……そう、霊夢のように」
自分が罠にかかったことを直感した。
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第12話 紫さんは恋愛脳
「れ……霊夢のように? え、いったい何の話ですか?」
「おや、何も心当たりがないのですか?」
咄嗟に白を切った俺を見て、紫さんは意外そうに眉根を寄せた。
「ええ、特には。俺の語りと霊夢に、何か関係があるのですか?」
俺は表情を変えずにとぼけてみせるも、内心では焦燥感を覚えていた。
先ほどの紫さんの鎌掛け……。嫌な予感がする。
もしや、見られていたのだろうか。アレを。
「あなたに心当たりが無いのであれば、その通りなのでしょう。なに、言葉の綾のようなものです。お気になさらずに」
ところでーーと、紫さんは言葉を継ぐ。
「あなたのそばに居合わせた優から事情を聞いたところ、どうやら霊夢に喧嘩を売った果てに、腹部を殴られて気を失ったそうではありませんか。あなたは他人に喧嘩を売るような性分ではない人と心得ていましたが、一体全体、どのような成り行きで?」
「えっと、その……。事の発端は、俺が優をからかおうとしたことでして。ただまあ、自分に言われていると勘違いした霊夢が怒り出してしまいまして」
「なるほど、霊夢の聞き間違いが原因というわけですか。どんな話を聞き間違えたのでしょうか」
紫さんは、興味深そうに話を深堀りしてくる。
「あー……なんというか、年頃の子供同士によくあるような、からかいですよ。恋愛ネタでいうところの『お前、あの子のことが好きなんだろう』みたいな感じの」
「あら、青春ですね。惚れた腫れたの話は、いつの世も、話の種として人気ですから」
「まあ、そんな感じですよ。自分がからかわれていると勘違いした霊夢が、怒り出したってだけの話です」
なんだかんだ、嘘はついていない。おおむね、事実だ。
「それは災難でしたね。あの子は良くも悪くも感情に素直ですから、つい手が出てしまったのでしょう。どうか許してあげてくださいな」
「ええ、その点は……。少なからず、俺にも非はあったでしょうし。お互い様ってやつですよ」
「大切な心がけです。お互いに歩みを譲ることこそ、仲を深める良き解決策ですから。歩み寄ることだけが、仲を深める方法ではありません」
「そうですね。適切な距離を取ることが大切なんでしょうね」
「その通りです。たとえ意中の相手を口説き落とそうとする時であっても、あまりにも歩み寄りすぎることは、得策と言えません。適度な距離を保ちつつ、かつ逃げ場を狭めていく……その塩梅が重要と言えましょう。緊張と安息の振り幅こそ、人の心を魅了しますから」
……おや? 何か話をすり変えられたような。
と言うか、この人、やっぱりアレを覗き見ていたのではなかろうか。
俺は紫さんの心中を読み取ろうと表情を見つめたーーが、その表情からは愉悦の笑みすら感じられない。
「どうしましたか? 何か私に思うところでも?」
「……いや、なんでもないです」
「そうですか。男性に意味深長に見つめられたので、わずかばかりの期待を感じてしまいましたのに」
紫さんは、伏し目がちに視線を横に流した。さも残念と言わんばかりの態度だ。
『わずかばかりの期待』とやらに言及したら、きっと俺の負けなのだろう。絶対に罠だ。
このままだと紫さんに会話の主導権を握られっぱなしなので、いったん話題を転じた方が良さそうだ。
「ま、まあ……霊夢の話は脇に置いておきまして。優はどうしたんですか? 口ぶりから察するに、俺が倒れた後に、優と会いましたよね」
「優なら、途中から追いついてきた魔理沙と一緒に、寺子屋に向かいました。あなたが動けなくなりましたから、別行動することに決めたようですね」
優は先に寺子屋へ行ったのか。気絶した俺を運んで回るわけにもいかないし、当然と言えば当然か。
「そうか、優は寺子屋に……。じゃあ、俺もこれから寺子屋にーーって、あれ? 俺って、どれくらい寝ていましたか?」
「そうですね……。この屋敷に運び込んでから、30分は過ぎているでしょうか」
30分。稗田家から寺子屋まで遠くないようであったが、まだ追いつけるだろうか。
「しかしながらーー」
紫さんは指先を振る、開かれたスキマを覗き見る。
「どうやら、優と魔理沙は、すでに寺子屋での用件を済ませたようですね。今はどこかに向かって、箒に乗って移動していますね」
「え、そうなんですか?」
「ご覧なさい」
紫さんに促されてスキマを覗き見ると、魔理沙が箒に優を乗せて、どこかに飛んでいく後ろ姿が見えた。2人の周囲には、霊夢の姿は見られない。別行動だろうか。
「本当だ……。2人とも、どこに向かっているんですかね」
「方角からして、魔法の森のようですね。用があるとすれば、魔理沙の家か、あるいは香霖堂でしょう」
香霖堂。たしか、魔理沙が口にしていた道具屋の名前だ。
「さて、霊夢は……すでに博麗神社に戻っていますね」
紫さんが別のスキマを開くと、その先に博麗神社の平屋にいる霊夢の姿が見えた。卓袱台に突っ伏している。身動ぎしているので、寝ているわけではないようだ。
「なにやら、霊夢はお疲れのようですね。きっと、何かがあったのでしょう」
紫さんはそう言うと、俺の方に視線を向けた。「何か知らないか?」という意図を感じる。
「んー……なんでしょうね。きっと、俺と優の人里案内に疲れたんでしょうね」
「そういうものでしょうか?」
「そういうものなのでは?」
「では、そういうことにしておきましょう」
紫さんは何やら含みのある言い回しを使ったが、それ以上の言及は無かった。スキマを閉じて、尋ねてくる。
「……さて、それでは、これからどうしますか?」
「どうする、と言いますと」
「あなたの今後の行動についてです。優と魔理沙に合流するか、博麗神社に戻るか。はたまた、別の予定があるのか」
「あー……そうですね」
当初は寺子屋に行くつもりであったが、すでに優が訪問ずみのようなので、今さら自分が出向く必要はない。
寺子屋の事情について優に話を聞きたいところではある……が、今は魔理沙と一緒に空中を移動中だ。間が悪い。
完全に手持ち無沙汰なので、博麗神社に戻るというのも1つの手ではあるけれど。
あんなことをやった後だから、なるべく霊夢と顔を合わせたくないしなぁ……。気まずすぎて、居たたまれない。
ここは、しばらく時間を潰した後に、優と魔理沙に合流する選択が妥当だろう。
「もう少しだけ、ここにいてもいいですか?」
「構いませんよ。あなたが望むのであれば、ご自由に。……ところで、その発言の意味するところは、もっと私と一緒の時を過ごしたいということでしょうか? 少しばかり、心が浮き立ってしまうのですが」
「……紫さん、恋愛脳って言葉、知っていますか?」
「乙女とは、恋多きもの。殿方から愛を傾けられることには、至上の喜びを抱くものです。致し方のないこと」
会話が噛み合っているようで、微妙に噛み合っていない。
紫さんは色めいたことを口にしながらも、表情に動揺の類は見られない。
完全に言葉で遊んでいるだけだ。
「まあ……そういうことにしておきましょう。紫さんに尋ねたいこと、いくつかありましたし」
「なんなりと。あなたの気が済むように、語りつくそうではありませんか。せっかくの機会ですから、茶と菓子も添えて」
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第13話 住む場所は内緒です
紫さんはスキマの中に手を差し入れると、湯呑みと急須、小皿を取り出した。小皿には、すでに切り分けられた芋羊羹が乗っている。
紫さんが湯呑みに向けて急須を傾けると、湯気の立ち昇る緑茶が注がれた。
前回の時もそうであったが、スキマの中に、なぜ熱々の緑茶が入った急須や切り分けられた芋羊羹が収納されているのだろう。茶会に備えて、事前に仕込んでいるのだろうか。
「さあ、どうぞ」
紫さんが湯呑みと小皿を差し出してくる。
「ありがとうございます。……そのスキマ、なんでも入っていそうですね」
まるで、ドラえもんの四次元ポケットのようだ。……いや、とりよせバッグと言うべきか。
「なんでもではありませんが、たいていの物は収納していますね。時間の連続性を断ち切れば、鮮度を保てますから」
なるほど。そう言えば、境界を操る程度の能力を使えば、物体の時を停止させられるのだったか。
程度の能力。霊夢や魔理沙にも発現しているそうだが、本当に興味深い。
「……さて、それでは、あなたの尋ねたいこととやらをお聞きしましょうか」
「そうですね。それじゃあ、まずは……」
尋ねたいことは山ほどあるが、目下の問題から解決しておこう。
「俺と優の寝床、どうすればいいでしょうか。幻想郷に滞在するとなると、宿泊できる場所は必要なので」
人里で宿屋を探すという手もあるだろうが、俺と優は、幻想郷については無知に等しい。招待された手前、最低限の宿泊場所は用意されているはずだ。
「なるほど。まずは、寝起きする場所について確認しておきたいということですね」
「はい」
「さて、どうしましょうか」
紫さんはそう言うと、自分の顎に手を添えた。考え込むような仕草ではあるものの、口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「……ああ、あなたが心配する必要はありません。手配しようと思えば、滞在するための宿や食事など、いくらでも用意できます」
紫さんは淀みなく言い切った。幻想郷における紫さんの立場は詳しく知らないが、自信に裏打ちされた財力や権力の気配を感じ取れた。
正直なところ、すごく頼もしい。
「あなたと優の判断を尊重しますが、そもそも人里で労働する必要もありません。当初の目的は、幻想郷を知ってもらうためですから。いわば、観光です」
「ああ、まあ……それもそうですね」
俺と優は紫さんに招待されて幻想郷に訪れているわけだから、観光客のようなものだ。おんぶに抱っこはどうかと思って、働き口を探していたわけだが……。
「あなたと優の幻想郷の過ごし方については、裁量に委ねるとしましょう。さて、話を戻しまして……当座の宿泊先でしたね。もちろん、候補は定めています」
「その候補というのは? やはり、人里のどこかですか」
「それでも構いません……が、誤解を恐れずに言うならば、それでは面白くありません」
「は、はあ……」
面白くない、ときたか。
紫さんらしいと言えば、紫さんらしい発言ではあるけれど。
「逆に、あなたに問いましょう。未知の環境に身を置くうえで、どのような環境に住居を構えれば、娯楽に満ちあふれた経験を得られるでしょうか?」
紫さんは目を細めて、試すような顔つきを浮かべる。
まさか、そんなことを尋ねられるとは、予想だにしなかった。
「うーん、そうですね……」
娯楽に満ちあふれた経験を得やすい場所。言い換えれば、変化に富んだ経験を得やすい場所と言うことか。
「その論で言えば、やはり人里ではないでしょうか。多くの人で賑わっていますから、多くの人との出会いがあるでしょうし」
「なるほど。多様な出会いを娯楽の源と考えますか。……しかし、ここは幻想郷。あなたが元いた世界とは、常識も存在する者も異なります。幻想郷に訪れながら、わざわざ人間の多く住まう場所を選ぶことは、やや興が薄れるとは思えませんか?」
「む……」
言われてみれば、たしかに紫さんの言う通りな気がする。ただの観光旅行とは違って、ここは人ならざる存在が住まう非常識の世界。人里に居を構えることは、ありきたりな発想のように感じる。
とは言え……。
「でも、だからと言って、野宿するわけにもいかないじゃないですか。幻想郷には、妖怪が存在するそうですし……」
「ええ、その通りです。幻想郷で野宿すれば、妖怪や獣の襲撃を受けることは必然と言えます。常人であれば、もっての外」
「そうですよね。だから……人里くらいしか住む場所はないのでは?」
「いえ、ありますよ、人が住むには安全で、かつ人ならざる者と触れ合う機会が多く、非常の経験を積みやすい場所が」
「それは……どこですか?」
「内緒です」
紫さんはそう言うと、自分の口の前で人差し指を立てた。
「内緒って……」
俺は返事に窮して、片手で頭を抱えた。
「ふふふ、まあ良いではないですか。今ここで答えを教えてしまったら、それこそ興ざめというものです。それに……答えを知らないからこそ、そこに到達できますよ」
答えを知らないからこそ、到達できる?
「なんですか、それ。謎かけですか?」
「いえ、謎かけではありませんよ。文字通りの意味です」
「…………分かりました」
俺は意を決する。
「紫さんのこと、信じます」
俺は紫さんを信じたからこそ、今ここにーー幻想郷にいるのだ。それならば、紫さんを信じきってみよう。
「何も知らなければ、俺と優にとって、都合のいい宿泊先に たどり着けるわけですよね?」
「ええ、その通りです。多様な経験を積みやすく、かつ幻想郷で最も安全と言えるような場所に」
「その言葉、信じます。いずれにせよ、今夜にでも分かるでしょうし」
蓋を開けてみてからのお楽しみ、ということにしておこう。
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第14話 程度の能力の正体
「他には、私にどんなことを尋ねたいのでしょうか?」
「そうですね……。幻想郷は本当に興味深い場所なので、どれから尋ねようか迷いますが……」
「では、質問できる回数を3つに絞りましょうか。そうすれば、質問すべき内容を固めやすいでしょう」
「3つだけですか」
「あくまでも、便宜上の数字です。あなたとの歓談に時間の制限はありません。お互いに満足するまで、語らいを楽しもうではありませんか。さあ、早く話題の種を提供してくださいな」
紫さんは両手を組み合わせると、その上に自分の顎先を乗せる。催促の仕草だ。
質問できる回数は、3つだけ。そう思うと、たしかに質問すべき内容は、重要度によって自然と整理されていく気がする。
幻想郷において、俺が最も気になっていることは――――
「……程度の能力。程度の能力について教えてください」
「……なるほど。固有の能力について知りたいわけですね」
「はい。紫さんがスキマを使えるように、霊夢が自由に空を飛べるように。それを実現している程度の能力の正体について、詳しく知りたいです。霊夢の談では、強い人や妖怪に発現するものだそうですが」
「強い人に、強い妖怪……。あながち、間違った表現ではありませんね。存在の強い者ほど、能力を発現しやすく、また強力な内容となりますから」
「霊夢の言う通りなんですね。それで……どういう風に能力が発現するんですか? 何か特定の条件のような……キッカケがあるのでしょうか」
「あなたは……程度の能力を発現してみたいですか?」
紫さんは、どこか試すような声音で尋ねてきた。
「そう……ですね。霊夢は魔理沙のように、俺にも何か特別な能力が秘められているなら……使えるようになってみたいですね」
少年漫画の主人公のように、特殊な能力を扱えるようになることは、年頃の男子として純粋に憧れる。別に悪を倒すつもりはないけれど、霊夢のように空を自由に飛べるようになるだけでも、充分に楽しいことだろう。
「なるほど、分かりました。良いでしょう。幻想郷において、人や妖怪が能力を発現する原理――それを説明しましょう」
俺が期待と緊張に固唾を呑む中、紫さんは口を開く。
「能力とは、すなわち――その者が強く抱いている願望の結実に他なりません。思想または魂と呼べる精神存在の中核とも言えますね」
「願望の結実……ですか」
「はい、願望の結実です。その者が強く願い続けている何かしらの想い。それが法則としての力を持ち、その者の外部――すなわち世界の法則を塗り変える現象こそ、程度の能力と呼ばれているものの正体です」
「えっと……つまり、その人が抱いている強烈な願望によって、その願望を反映した能力を発現する……ということですよね」
「その通りです。能力とは願望の表れであり、その者の存在の本質を反映するものです」
紫さんの説明を受けて、俺は思考に沈んだ。
紫さんの言う通りなのであれば、『何かに対する強烈な願望』を持っていれば、いつからか能力となって現れる……ということだ。
「強い人が能力持ちになる理由は、強い願望を持っているから……ということですね」
「強き肉体を持っているからこそ、大望を抱くのか。はたまた、強き願いを内に秘めるからこそ、偉業を成し得る大人物となるのか。いずれにせよ、強き者は、己の器に見合うだけの願望を抱きます。やがて、その願望を能力となって発現するでしょう」
「じゃあ、霊夢は魔理沙が能力を持っている理由は――その能力を反映するような強い願望を抱いているから、と」
「そういうことになりますね」
霊夢は、自由に空を飛ぶ能力。魔理沙は、たしか……魔法を使える能力だったか。
魔理沙の能力は、彼女の服装や行動を見ていれば、背景にある願望は推測できる。早い話が、魔法を使えるようになりたいのだろう。
それならば、霊夢の能力は……どのような願望の反映なのだろうか。ごく単純に、空を自由に飛んでみたかったからか。あるいは、何かの比喩か。
「面白いですね。幻想郷だからこその特殊な現象なんですかね?」
「幻想郷は、忘れられた存在が集う場所。妖怪に始まり、神や精霊、妖精も引き寄せられます。それ故、幻想郷には、想念に感応する気に満ちあふれているのです」
「えっと……つまりは?」
「この世のあらゆる法則は、個々の物質が発する力場の干渉によって生じています。その理屈は、何も形ある物に限りません。音や光のように、振動も力の1つです。そして、思考や感情もまた、例外ではありません。分かりますか?」
「んー……なんとなくは。思考や感情も、力の1つ……ということですよね?」
「その通りです。その者が抱いている思考や感情――すなわち願望は、その度合が大きければ大きいほど、強力な力場を生み出します。体からオーラを発する、と言った方が伝わりやすいでしょうか?」
「分かる気がします」
自分の脳裏に、人体を中心にして波紋のように広がる力場の図が浮かんだ。
「よろしい。願望は力場となって、周囲の存在に影響を及ぼします。すなわち、力場の新たな相互作用を生み出し、すでにある法則を捻じ曲げ、恣意的に上書きします。それこそが程度の能力です」
すとん、と腑に落ちた。
その者が抱く願望が、なぜ能力として発現するのか――その理屈が理解できた気がする。
「そうか……そういうことなのか。だから、願望が能力に。……じゃあ、紫さんがスキマを使える理由は、えっと……なんて言えばいいんだろう。物と物の境界を操りたかったから……でしょうか」
「当たらずとも遠からず、と言ったところですね。妖怪については、また少し話が変わってきます。原理は同じではありますが、こと妖怪については、存在の本質を体現していると言えましょう」
「存在の本質、ですか」
何やら小難しい話が始まる予感がする。
「たとえば……風神雷神を例に挙げましょう。風神雷神は知っていますか?」
「あー……絵で見た姿なら」
風神は風を吹かす袋を持っていて、雷神は背中に環状の太鼓を背負っている神様だったか。神とはいえ、見た目は鬼っぽかった気がするけれど。
「よろしい。それでは、なぜ風神が風を吹かし、雷神が雷を落とせるのか……その理由も知っていますか?」
「いや、知らないです。ただなんとなく、そういう存在なんだろうなって思っていました」
「それが真実ですよ」
「……どれがですか」
「風や雷を司る存在とされているから、実際に風や雷を司る能力を持っているのです。妖怪に限らず、神や精霊の類は、特定の概念を切り与えられることによって生まれた存在です。火を見た者は、そこに火を司る超常の存在を思い描きました。1者だけでなく、火を目にした数え切れない者が、同じように火を司る超常の存在を思い描きました。やがて、同種の想念は互いに引かれ合い、1つの存在として結実します。その存在こそ、妖怪や神と呼ばれる者です」
「えっと……妖怪や神は、人々の想像の産物だと?」
「寄与するところは大きいですが、人間だけが生み出したとは限りません。あらゆる草木や虫、小動物、目に映ることも困難な微生物。果ては、この地球そのもの。命ある存在が思いと想いを発し、互いに重なり合うことで、私のような存在は生み出されています」
何やら、とても規模の大きい話になってきている。ちょっと理解が追いついていない。
「話を戻しましょう。なぜ、私が境界を操る能力を持っているのか。簡単な話です。境界という概念を象徴する存在こそ、私だからですよ。あれとこれ。そして、その中間。それこそ、私の存在の本質です」
紫さんは滔々と述べると、長話で喉が渇いたのか、自分の湯呑みに口を付けた。
にわかに理解しがたい話ではあるが、話の要点は分かった気がする。
要するに……『そういう存在』なのだ。物事の境界が紫さんの存在の本質だからこそ、紫さんは自由自在に境界を操作できる。そういうことだろう。
「なんとなく分かりましたよ。紫さんは、存在の本質が境界に関するもの。だから、紫さんの中心に生まれる力場によって、境界を操れる法則が作り出されている……そういうことですよね?」
「その理解で構いません。1つ付け加えるなら、意思の持った存在は、己の存在の本質とは別に、特定の願望を持っています。妖怪や神だからといって、必ずしも存在の本質に由来する能力とは限りません」
なるほど。たとえば、存在の本質すら凌駕するほどの願望を持っていれば、願望の内容を反映した能力を発現する……ということだろう。
「さて、程度の能力については、ひと通りの説明をおこなったと感じていますが……他に疑問点はありますか?」
「いや、大丈夫です。能力の発現については、ほぼ理解できたと思います」
「そうですか。それは良かったですね。いずれ……あなたもまた、何かしらの能力を発現することでしょう」
「え、本当ですか!?」
紫さんの思いがけない言葉に、俺は喜々として声を発してしまった。
「遠からず、何かの拍子に自覚することでしょう。あなたは外の世界に慣れ親しみながら、今ここに、幻想郷に訪れています。常人には不自然な行動です。それは、強き願望に由来すること――そうではありませんか?」
紫さんの言う通り、俺の心は、なぜか幻想郷の存在に惹きつけられた。ここであれば、自分の何かが満たされる期待を感じていたからでもある。
果たして、俺が抱いている無自覚な願望とは――
「楽しみですね。あなたの友人もまた、能力を発現することでしょう。……いえ、すでに発現しているかもしれませんね」
「優が、ですか?」
「彼もまた、特殊な存在ではありますから」
紫さんは、愉快そうに笑いを忍ばせた。何か心当たりがあるのかもしれない。
俺に先んじて、すでに優は能力を発現している……のか? でも、そのような兆候は無かったように思えるのだけれど。
もしも、優が何か能力を発現するとしたら――かなり異質な内容に違いない。なんせ、本人が超のつく変人だからな。
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第15話 霊夢と恋仲になっても構わないのですよ
「紫さんは、どう思います? 優だったら、どんな能力を発現しそうかについて」
「彼については、あなたが最も詳しいはずですよ。私に尋ねるよりも、自身の過去の記憶を訪ねて回った方が、的確に推測できるでしょう」
「ああ、まあ……そうかもしれませんが。正直なところ、あいつが何を願っていそうなのか、俺もよく分からないんですよね」
オタク趣味があって、やたらとボケに走りたがる性格であることは、よく知っている。しかしながら、夢や目標めいた話は、これといって聞いた憶えがない。俗っぽい癖に、煩悩とは縁遠い感じだ。
一部の女性に受けている仙人男子というやつだろうか。
「あなたを見守りがてら、彼のことも昔から見てきていますが……そうですね。1つの可能性を挙げるならば」
紫さんは、もったいつけるように間を空けて――ぽつりと呟く。
「能力を無効にする程度の能力、という場合もありえそうですね」
「能力を無効にする……能力?」
異能系バトル物語には、必ず1人は存在しているであろう能力者。物語のトリックスター。
「なんで、そう思ったんですか?」
「さして深い意味はありません。ただ、彼の性分は、あるがままを好みそうですから」
「……こだわらない性格という意味ですか?」
「変化に応じることもまた、無為自然というものですよ。水は方円の器に従います。それと同じです」
何やら小難しい言葉が多いせいか、話が頭の中に入ってこない。
「えーと……とにかく、優は能力を打ち消す能力を発現する可能性があるってことですね」
「彼の性分の1つの側面として、その可能性もあるという話です。異なる側面を見れば、また別の可能性も示唆できますね」
「たとえば、どんなものですか?」
「聞き上手な能力なんて、いかがでしょうか」
聞き上手? なんだそりゃ。
「なんだか、カウンセラーになれそうな能力ですね。……というか、どうして聞き上手?」
「さて、なぜでしょう。すぐに答えを明らかにせずに、思考を巡らせることもまた、一興ですよ」
要するに、自分で考えろということか。
優が聞き上手ねぇ……。聞き分けはいい方だけれど、普段はスピーカーのように騒がしいのだから、むしろ話し上手の方がお似合いだ。
「話題を転じまして、あなたはどうなのですか? 自分が能力を発現するとしたら、何を希望しますか?」
「え、俺ですか?」
自分が能力を発現するとしたら、どんな能力が欲しいだろうか。
「そうですね……。やっぱり、男たるもの強くありたいので……戦闘系の能力なんて欲しいですね。たとえば、怪力や俊足とか」
「年頃の男性らしい願いですね。そのような能力を得られれば、幻想郷で暮らす時には、心強いことでしょう」
「でしょうね。能力次第では、妖怪と遭遇しても、もしかしたら返り討ちに出来るかもしれませんし」
「あら、剛毅なことを言いますね。実に頼もしい」
まあ、戦わずに事が済んだほうが最善なのだけれど。
妖怪と戦うという話題になって、とあることが気になった。
「あ、そうだ。まだそんなに実物は見ていないのですが、幻想郷には妖怪が多くいるんですよね。たぶん、妖怪だけではなく、妖精や精霊のような存在も」
「人間よりも多く存在することは、間違いありませんね」
「えっと……そういった存在って、紫さんや橙ちゃんみたいに、こう……みんな人と同じような姿なんですか?」
「一概には言えません。人と同じ姿の者もいれば、獣のように人外の姿の者もいます。言語を操れるほど知性ある者は、おおむね人と同じ姿をしていると考えて差し支えません」
「分かりました。それで……そういった人外の存在は、人間を襲うことがあるのでしょうか。いや、襲うという話は聞いているのですが、どういった感じなのか具体的に想像できなくて」
自分の中の想像では、狼や熊のような猛獣に襲いかかられるような光景が浮かんでいる。牙で噛まれ、爪で引き裂かれ、生きたまま血肉を食らわれる……そんな光景が。
妖怪に襲われる場合も、そのような感じなのだろうか。
「そのことについては、詳しく話しておくべきでしょうね。第一に、すべての妖怪が人間を襲うわけではありません。捕食という意味で人間を襲う妖怪は、人外の姿の妖怪か、あるいは知能の低い人型の妖怪に限られます」
「知能の高い人型の妖怪は、人間を食べないということですか」
「私があなたを食べるように思えますか?」
紫さんは笑みを浮かべつつ、冗談を投げかけるような語調で言った。
「いや、思えないですね。まったく」
紫さんが血肉を頬張るような姿など、まるで想像できない。むしろ、茶室でお茶を立てるような姿の方が似合うだろう。
「吸血鬼のように、人間の血肉を好む例外はいます。とはいえ、知能が高く、言語や算術に優れている妖怪は、人間と同様の食事をおこないます。穀物や野菜、家畜や川魚を口にするというわけです」
「人間とは大差ない生活になるわけですね」
「その通りです。妖怪は人間よりも長命であるため、芸事や風流を解することに関しては、人間よりも精通していることも珍しくありません」
「なるほど……。では、人間の脅威となる妖怪は、人外の姿の妖怪……そして知能の低い人型の妖怪というわけですね」
「そういうことになります。要するに、獣と一緒ですよ。あなたが元いた世界でもそうであるように、幻想郷でもまた、野山を無防備に散策することは推奨できません」
幻想郷の外の世界でも、山を深く分け入って行けば、熊や猪に遭遇することはあるだろう。幻想郷の場合は、さらに妖怪もいるという話か。
「大丈夫ですよ。余程の用がないかぎりは、わざわざ山になんて行きませんから。それに、俺は霊夢や魔理沙のように空を飛べませんから、行動範囲は限られていますし」
山間に存在するであろう幻想郷を徒歩で移動しようと思ったら、妖怪に襲われる以前に、森の中で遭難しかねない。
「それもそうですね。いずれにせよ、博麗神社と人里を拠点に行動していれば、妖怪に襲われることは、まずありえません。両者とも、妖怪が人を襲うことが禁じられている領域ですから」
「そのような法律があるのですか?」
「人と妖怪の間に取り交わされている掟です。得てして、妖怪は人間よりも強者と言えます。肉体は頑強であり、怪力を発揮し、再生力と生命力は高く、そして長命です。しかしながら、人間の存在なくして、妖怪は存続できません」
「人間よりも強いのに、ですか?」
「はい。妖怪の存在の本質の1つは、人々の畏怖の念です。人が闇夜に恐怖し、未知の現象に怪奇を覚えたからこそ、そこに妖怪の存在を見出しました。人々がいなくなれば、妖怪に畏怖する者がいなくなります。すなわち、存在の忘却という死滅を迎えることになります」
妖怪は人間よりも上位の存在のようでありながら、実は人間に依存した存在……ということか。
「幻想郷から人間が消えてしまったら、紫さんを始めとする妖怪にとっては、大問題ということですか」
「その通りです。だからこそ、人と妖怪が共存の道を歩めるようにするために、不可侵の掟が作られました。その掟の1つとして、人間の居住区である人里、そして博麗神社では、妖怪が人を襲ってはいけないと定められています」
「もしも、人里を襲うような妖怪が現れた時には、その妖怪はどうなってしまうのですか?」
「襲撃の程度にもよりますね。獣のような妖怪であれば、人里の自警団――外の世界で言うところの警察組織が撃退に当たります。ある程度の知能を持った力の強い妖怪であれば、霊夢が退治に当たります。更生の見込みのない妖怪であれば、そのまま滅殺することでしょう」
霊夢に本気で殴られた身としては、滅殺という言葉の響きには、寒気を禁じえない。
そう言えば、霊夢は「妖怪退治を生業にしている」と言っていた気がする。見た目は巫女であるが、本職は退魔師なのだろうか。
「霊夢は、妖怪退治を仕事にしているのですか?」
「仕事の範疇と言いましょうか。博麗の巫女の勤めは、人と妖怪の均衡を保つことですから。異変のように、均衡を崩す事件が起きた場合は、東奔西走の活躍を期待されますね」
異変? 自然災害のようなものだろうか。
「ふーん……。博麗の巫女って、大変なんですね。俺とたいして歳は変わらないはずなのに、生活のために働いているなんて」
「ふふっ、そんなに殊勝なものではありませんよ。公的な役職とでも言いましょうか。普段の働きにかかわらず、一定の金銭と食料は給付されていますから」
「あ、そうなんですね」
なんか公務員みたいだな。
それほど裕福には見えなかったが、意外にも懐は潤っているのかもしれない。
「あなたが幻想郷で過ごす間、霊夢と関わることは多いことでしょう。同年代の友人は少ないようなので、ぜひ仲良くしてあげてください」
「ははは……善処します」
すでに関係性に亀裂が入っているような気がするのだけれど。
紫さんの言う通り、幻想郷に滞在している間は、霊夢と関わる機会は多いかもしれない。幻想郷の地理や妖怪の退治については、頼ることも多くなりそうだ。
この後に博麗神社に戻ることがあれば、早々に霊夢に謝っておいて、関係を修復しておくことにしよう。
「俺は構いませんけれど、仲良く出来るかどうかは、霊夢の考え次第でしょうね。向こうからしてみれば、俺は手間のかかる一般人なわけですから」
「それなら、心配に及びませんね。あの子は感情に走りやすいですが、鷹揚な心の持ち主です。あらゆる存在を公平な目で見て、受け入れます。あなたを邪険に扱うことはないでしょう」
なんとなく分かる気がする。気の強さは感じるけれど、話しやすい人物であることは確かだ。裏表を感じない明け透けな物言いだから、人物としての好感も覚える。
「紫さんがそう言うなら、きっと大丈夫でしょうね。気に入ってもらえるといいですが」
「あなたが望むのであれば、霊夢と恋仲になっても構わないのですよ」
紫さんは満面の笑みを浮かべながら、そう言ってのけた。
俺は咄嗟に上手い切り返しが思いつかずに、言葉に詰まる。
会話に賑やいでいた室内は、水を打ったように静まり返った。
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第16話 いざ、香霖堂へ
「……あら、動揺させてしまったかしら?」
俺よりも先に、紫さんの方が口を開いた。小首を傾げ、口元に薄い笑みを浮かべている。
むう……。紫さんを調子づかせてしまったようで、何やら悔しい。
「いやいや。紫さん、動揺なんて、そんな馬鹿げたことを。これは、そう──呆れです」
「……して、その理由とは?」
「あんなに喧嘩っ早くて、おまけに怪物じみた戦闘力の持ち主と恋仲になるなんて、自殺志願も甚だしいというものです」
話の流れとはいえ、すっげー失礼なことを口走ってるな、俺。
でもなー、率直な意見でもあるんだよなー。自殺志願は誇張表現にしても。
「あら、そうなのですか。それは残念です。私としては、良い縁になると思っているのですけれど」
「いや、何を根拠に……。というか、紫さん、忘れていませんか? 俺は霊夢と喧嘩になった果てに気絶させられて、ここにいるんですよ」
「喧嘩するほど仲がいい、と言うではありませんか。本音で語り合えることは、心を許し合っている証拠とは考えられませんか?」
「それは極論……」
いや、ただの言葉遊びか。
「とにかく、とにかくですね! 霊夢とは良好な人間関係は築いておきたいですが、紫さんが言うような浮ついたことは要りません。……魔理沙をからかっていた時にも思いましたけれど、紫さんって恋愛脳ですよね」
「乙女にとって、恋は究極の関心事です。愛されることを望んで美しく咲き誇り、また愛を与えるために犠牲すら惜しまない。乙女とは、そのような純情な存在なのです」
「事実かどうかは、ひとまず脇に置いておきまして。紫さんの場合は、話の種に使うために、意図的に誇張して使っている気がするんですよね……」
「私が白々しいと?」
「忌憚なき意見を言わせてもらうならば、その通りです」
「たとえ白くあったとしても、それは無罪を表す色。白鷺の如く、我が身は潔白と言えましょう」
「潔く白を切るという意味で、潔白ですか」
「あら、お上手」
紫さんは上機嫌そうに、くつくつと笑いを忍ばせる。
「恋仲の件はさておき、霊夢と仲良くして欲しいという話は、私の本心です。あの子は博麗の巫女という生まれもあってか、同年代の少年少女と関わる機会が少ない状態にありました。気の置けない友人が増えれば、あの子の日常は、さらに愉快なものとなるでしょう」
「まあ、その点については……。俺としても、同年代の友人が増えることは、純粋に嬉しいですし」
「よしなに。あなたを幻想郷に招いた理由の1つは、霊夢のためですから。同年代……ましてや外の世界の者となれば、色々と得るところは多いでしょうから」
「……あれですね。紫さんって、霊夢の保護者みたいですね」
「保護者と言うよりは、後見人の方が的確でしょうか。役職柄、縁が深いということもありますし……。もちろん、私個人の私情としても、霊夢に目を掛けていることは確かですね」
「霊夢のことを気に入っているんですね」
「あなたのことも、私は好きですよ」
予想外の不意打ちを食らった。
「……ありがとうございます」
「おや、照れましたか。照れましたね。実に愛らしい反応ですね」
「あー、もう……いちいち言及しなくていいですよ。照れるな、という方が無理じゃないですか。面と向かって直球で言われたら、そりゃあ」
ちなみに、女性から面と向かって好きだと言われたことは、これが初めてだ。
なんだろうなぁ……。この手の経験は、ちゃんと恋愛感情を持たれている同年代の女性から言われてみたかった身としては、大切な何かを奪われてしまった感がある。
嬉しいような、悲しいような。
「良いではないですか。素直に好意を伝えられる相手がいることは、とても素敵なことなのですから」
「それはそうですが……。ビクッとして心臓に悪いので、止めてください」
「なるほど。それでしたら、常にあなたの心をときめかせ続ければ、問題ありませんね。心臓が動き続けますから」
新手のペースメーカーだろうか。
「いや、論点は……。まあ、いいですよ。紫さんのことだから、言葉で遊んでいるだけでしょうし」
「あなたは、言葉の戯れはお嫌いで?」
「……どちらかと言えば、好きですが」
「それは僥倖。では、私のことも好きですか?」
「話に脈絡が無いのですが」
「しかし、脈はあるかもしれません」
「俺の心臓が不整脈になるので、気を持たせるような言い回しは、お控えください」
「あら、まだ生きているのに、脈なしでしたか。実に残念です」
「……」
会話の主導権、紫さんは握られっぱなしだなぁ。やはりと言うべきか、口の上手さで勝てる気がしない。
「紫さんって、色々な人に様々な勘違いを与えてきていそうですよね……」
「聞き捨てなりませんね。誤解させて来ているだけですよ」
「同じような意味じゃないですか」
「意図しておこなうか否かの問題です」
故意犯じゃん。より悪質だよ。
「そういうことばかりしていると、いつか本当に天罰が下りますよ」
「罪な女というわけですか。なかなかどうして、女性の褒め方が機微に富んでいるではありませんか」
期せずして賞賛されてしまった。
優とは別の方向性で、紫さんとの会話は調子を狂わせられる。
まあ……饒舌な相手との会話は、楽しいといえば楽しいのだけれど。
おもむろに、紫さんは指を軽く振って、目の前にスキマを開いた。
「おや、どうやら香霖堂を目指していたようですね」
「香霖堂? ……あ、優と魔理沙の行き先ですか?」
「ええ」
紫さんにスキマの中を覗かせてもらうと、とある建物の前に立っている魔理沙の姿が見えた。
香霖堂の外観は、どことなく中華風の建築物のような趣を感じた。おそらく、外壁が白色だからだろう。屋根瓦のふちが曲線を描いている点も特徴の1つと言える。
香霖堂の周囲には、狸の置物や郵便ポスト、一輪車やブラウン管テレビなど、やや時代遅れと思われる雑多な物品が散らかっている。おそらく拾い物なのだろう。とっちらかった様子は、リサイクルショップを連想させた。
俺が香霖堂の外観を眺めている間に、優と魔理沙は、玄関前の石段を上って香霖堂に入っていった。
「紫さん、香霖堂って道具屋なんですよね? 優と魔理沙、買い物でもするんですかね」
「店主の霖之助さんと魔理沙は、親交の深い間柄です。暇つぶしのために、店に入り浸ることは珍しくありませんよ。……とはいえ、今回は優を同伴していますから、それだけが目的ではないでしょう」
そう言えば、魔理沙は、霖之助さんが道具の買取をおこなっているようなことを口にしていた。もしかしたら、優が霖之助さんに何かを売るつもりなのかもしれない。
「さて、私達も訪れるとしましょうか」
そう言うと、紫さんはおもむろに立ち上がった。
「え、どこに……。あ、香霖堂にですか?」
「ええ。優と魔理沙に続いて、私達も香霖堂にお邪魔するとしましょう。私は私で、店の馴染客として、霖之助さんに顔を見せておきたいので」
ふと、魔理沙と紫さんのやり取りが思い出される。幻想郷では、義理を通すことが重んじられる……そんな話をしていたか。
ただまあ、紫さんのことだから、別の思惑があるのではないかと思えてくる。
「分かりました。それじゃあ、紫さんのスキマを通って、香霖堂に行きましょう」
「そうですね。その前に、あなたの靴を」
紫さんは新たに開いたスキマに手を差し入れると、俺が履いていた靴を取り出した。この屋敷に運び込む際に邪魔だったから、スキマに収納していたようだ。
俺が靴を受け取ると、紫さんは人ひとりが通れるほどの大きさのスキマを開いた。もちろん、スキマの先には、香霖堂の玄関が見えている。
香霖堂……果たして、どんなお店なのだろうか。また、店主の霖之助さんは、どんな人物なのだろうか。
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