Verweile doch! Du bist so schon. (風凪 空)
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Verweile doch! Du bist so schon.

 ふと、声が聞こえた気がした。

 振り返ってみると、そこには特に何があるということも無く。

 ただ、人間だった肉塊が落ちているだけである。

 何だ、先程俺が殺した人間か。

 興味を持つことはない。邪魔だったから殺した。それだけだ。何かを殺すことに、大した理由は必要ない。

 好きなように振る舞い、好きなように殺す。総ては自分のために。飽くなき欲望をどこまでも。

 悪魔とはそういう存在であるのだから。

 そこには限界も妥協点も存在しない。知り合いの悪魔には、一人の人間を使って神と賭けをしたなんて悪魔もいるくらいだ。まあ、俺は神や天使なぞ関わるのも御免だがな。あんな連中、見ているだけで吐き気が湧いてくる。気持ちが悪い。

 清廉潔癖? 馬鹿馬鹿しい。死臭が漂ってくるくせによく言ったもんだぜ。

 別に誰をどのくらい殺したのかなんてどうでもいいがな。あんな矜持の無い連中を俺は認めはしない。

 声は気のせいだったのだろう。そう脳内で処理し、自らの拠点への帰路へと着く一体の悪魔。

 人間のようなその体は黒く、細長い尻尾と体格が特徴的である。背中からは黒い骨のような触手が数本生えており、ぴくぴくと蠢いている。

 だるそうに地面を歩く悪魔。生い茂る草木が、体からあふれ出る瘴気によって足元から腐り落ちていく。

 その遥か後方。上空に浮かぶ一つの影。

 それは人間か、天使か、はたまた神か。銀の神を棚引かせ、ふわふわと浮いている女性。

 口角を上げ、その体は消失する。そして数瞬の後、悪魔の目の前に。

 

「――――ぁあん?」

 

 誰だ手前は。俺の目の前に立ちふさがるとは、意味をわかってんだろうな?

 虹色の光と共に突如として目の前に現れた存在に対し、威嚇をする悪魔。

 見たところ大した存在には見えないが。一体何者であろうか。気配も感じさせずにこの俺の前に現れるとは、並み大抵の存在ではないはずだ。あの神の野郎ならできてもおかしくは無いが……。

 目の前の存在に対して観察と思考を始める悪魔。その好奇心は、彼女に向かい始めている。

 ――――フフッ。

 興味ありげに悪魔を眺め、微笑を向ける彼女。その笑みは幽玄的であり扇情的であり――――何よりもこの悪魔にとってこの上なく魅力的であった。

 虹色の光を纏う彼女に対して、悪魔は何も言うことはできなかった。言葉を失うとはまさにこのことである。悪魔の知りえるどんな知識であろうと彼女を形容することはできなく。そしてその行動に意味はない。

 彼女は去っていく。虹色の光を撒き散らし、悪魔の目の前から消えていく。彼にはそれをただ呆然と眺めていることしかできなかった。

 彼女がいた部分をいつまでも凍りついたかのように見つめていた悪魔。動いたかと思いきや、彼は唐突に嗤い始めた。血に塗れた草原に響く狂笑。

 いびつに上がる口角。ぎらぎらと輝く赤き双眸。気の高ぶりと共に体中からぼこぼこと瘴気が溢れ出る。

 これは……! なんと滑稽なことだ。笑わせてくれる。こんな感情は初めてだ。まさかこのような感情を抱くことになろうとはな。何と言ったか、確かやつの言葉にあったはず。

 ああ、そうか。「時よ止まれ、汝はかくも美しい」だったかな。いい言葉だ。

 あの女が何者かなんて関係ない。ようは、どんな手を使ってでも自分のものにすればいいのだ。それこそが俺。

 ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる悪魔。

 彼女を俺の永遠の后として迎え入れよう。あの女は素晴らしい。一変の掛け値もなしに賞賛できる。俺には表現しきれないが、おそらく究極とはあういうものなのだろう。究極とはえてして陳腐なものである、等と聞いたことがあるがとんでもない。もしも究極が陳腐なものであるというのなら、それは究極を見たものが陳腐な表現しかできなかったのだろう。

 人は究極を目の前にした時、自分の矮小さを真に認識できるであろう。それはこの悪魔であろうと例外ではなく。

 だがしかし、それでも諦めないのがこの悪魔。諦めるということは、すなわち彼が死ぬということ。気に入ったものは手に入れる、たとえそれが何であろうと。

 ならば――――。

 そのためにすべきことを脳内で思考し、試行して、そして嗜好する。すべては至高へと。

 さあ、まずは帰還しようか。

 今度こそ自らの家へと歩みを向ける悪魔。その歩みは緩やかであるが、彼女に会う前のそれとは違う。それは欲望を脳内で噛み締めながら歩いているが故の遅さ。脳内は天国、周囲は地獄。

 時間にして一時間ほどであろうか。笑みを抑えきれず、ついに立ち止まる。顔を上げるとその眼前には巨大な紫色の岩が。

 ああなんだ、もうこんな所まできたのか。

 小さく呟きながら、その岩に対して左手を触れる。その瞬間、その岩と悪魔の姿はその場から消え失せた。まるでその場には初めから何も存在しなかったかのように。しかし、確かにそこに悪魔は存在したのであり、腐り落ちた周囲の植物がそれを物語っていた。

 数瞬の後、悪魔は先程までとはまったく異質な場所にいた。そこはどこまでも深い闇の中。地面も空もなく、ただ無機質で真っ暗な空間が広がっているだけの世界。

 その世界には、無数の塊が存在していた。そう、塊である。色とりどりの不定形の塊がふよふよと浮いている。

 その中で、紫と黒の混ざったような一つの塊が悪魔の目の前にあった。塊の表面には血のように赤い文字のようなものが書かれているが、それはぼやけていて正しく認識することはできないだろう。

 それに悪魔は左手を触れる。右手には、先程の巨岩が張り付いているかのようについている。

 赤い文字のようなものが光り、その光が悪魔の全身を包む。それと同時に塊がぼこぼこと形を変え、勢いよく岩と悪魔を飲み込んだ。

 正確には、飲み込んだというより同一化したというべきであろうか。

 その塊は、悪魔自身の一部。彼の拠点にして、魂の片割れ。故に、彼の思いのままに操作でき、そして最も落ち着く場所である。

 そうして、再構成される。悪魔を飲み込んでなおぼこぼこと躍動していた塊が、その動きをゆるやかに停止させ、一定の形へと落ち着く。

 それは球体。あらゆる形状の中で最も隙がない完全なる形。

 不完全な不定形から完全な球体へ。同一化による魂の補完。この状態こそが、この悪魔にとっての最適化された空間なのである。

 故に、見た目こそ球状ではあるがその中身は違う。

 その内部は仄暗い。ぼんやりとした光の膜に包まれており、人間の家と同じような造りが見られる。悪魔がかつて人間だった頃にいた世界の人間風に例えるならば、洋式と和式が混ざっているとでもいうのだろうか。

 非常に多種多様な物がごちゃごちゃとしており、人間であれば足の置き場のないほどである。が、彼は悪魔でここは彼の空間。その形状は意のままに変えることができる。

 足元の床らしきスペースからベッドのようなものがせり出てきて、悪魔がそれに飛び乗る。ギシリと音を鳴らして悪魔を乗せたベッドはそのままの位置で静止する。よく見るとそのベッドには様々な装飾が施してある。

 人間たちの世界では売れば小さな国家を買えるほどの価値があるとされたほどの価値のある黄金のベッドではあったが、この悪魔はそれを知らない。ただ、寝心地が気持ち良さそうであったから奪ってきただけである。

 黄金の輝きを放つベッドの上で横になりつつ、悪魔は今後の展開を考える。あの女を手に入れるためにはどうすればいいのか。

 まずは準備が必要だ。彼女をねじ伏せ、その上で万全の状態で迎えるための準備が。

 機嫌よく鼻歌を歌いながら、床に散らばっている物を漁りだす悪魔。

 彼女を捕らえるための準備。彼女の抵抗を奪うための準備。彼女の反撃を防ぐための準備。彼女を口説くための準備。彼女を迎え入れるための準備。総て完璧に。

 ――おっと忘れていた。王に暇を告げないといけない。なにしろ彼女がどこにいるのか検討もつかないのだ。そう簡単には戻ってこれないだろうからな。

 思い出し。ほとんど終わっている準備を停止して、拠点から外出しようとする悪魔。

 右手を室内空間に突き出し、空間の穴を開ける。そこに先程準備したものを入れ、そして空間の穴を閉じる。一時的な保存である。もちろん不可視化して持ち歩くことも可能ではあるが。しかし、今回ばかりはそうすることはできない。

 何故なら、これから会いに行くのは悪魔の王。宇宙の元凶。悪魔という種族の頂点にして、別次元の域に到達している存在。神と呼ばれているほどの実力を持ち、彼が動けば文字通り世界が崩壊するとまで言われている。自分程度では、かの王に触れることすら叶わないだろう。

 正直に言うと、会うことすら危険だ。しかし、もう一度彼女に会うためには、何としてでも王から暇を貰わねば……。

 気を引き締め、塊からどろりと抜け出す悪魔。

 深い闇の中へ降り立つ。そうして、その闇と同調を図る。どこまでも深く。

 彼の体が徐々に透明になってゆき、周囲の闇と同化していく。

 まだだ。これではまだ足りない。もっと高純度の同調を。

 もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっと。もっとだ。

 純度が、罪が、邪悪さが、何もかもが。体内で急速に高まっていく。

 そうして極限まで圧縮され、同調の極みへ。世界の最深奥へと。

 壁を、突き破れ――――ッ!

 そうして悪魔は、世界の中心に辿り着く。

 宇宙空間の暗黒の中で、輝く黄金の蒼炎が明かりとなる。広大な空間の、その中心。

 そこに、ソレはいた。

 玉座を多重に囲む、円形の魔方陣。その中で身を丸めて眠りについている。悪魔とはまた別の不定形の従者が、その周りをぐるりと囲み。そうして絶え間なく笛の音を響かせる。

 気が狂いそうになる不快感が悪魔を襲う。今すぐにでも逃げ出したい気持ちをぐっと抑え、彼は叫ぶ。

 

「王よ! 我らが悪魔の頂点である王よ! 我が名は■■、僭越ながら貴方様に謁見を願いに来た!」

 

 その声が届いたのであろうか。そうしてソレは目を覚ました。

 魔方陣が光り、一つずつ割れていく。極大の圧迫感が世界に負担をかける。

 空間が歪み、世界が修復する。そうしてその歪が不快感としてその場にいる悪魔に襲い掛かる。

 目を見開き、玉座に座る王。何をしているわけでもない。ただ、目を覚ましただけである。だがしかし、その圧倒的な存在はいるだけで周囲に凶悪的な負担をかける。

 現に世界は軋み、その従者はいつの間にかこの場から逃げ出している。悪魔も、気を抜けば倒れこんでしまいそうなほどである。

 だがしかし、倒れるわけにはいかないと奮い立ち、さらに言葉を続ける。

 

「我が名は■■。僭越ながら、この旅は王に許しを請いに来た次第であります!

 つきましては、諸事情により、しばしの間この世界を離れる許可を頂きたい所存であります!」

 

 倒れそうな体を意地で支え、眼前の存在に向かって声を張り上げる。

 ソレが、声を受けてギロリと悪魔に視線を向ける。重圧が増す。あまりにも強大な存在感が、悪魔を押しつぶす。

 耐え切れず体を崩し、這い蹲った状態で王を見上げる悪魔。

 そうしてソレは口を開き、

 

「――――」

 

 紡がれたその言葉は、悪魔の魂に響いた。いや、むしろ刻み込まれたと言っても過言ではないだろう。しかも一片の容赦もなく。

 だがしかし、理解はできた。

 ならばそれでいいのだ。ならば早くここから離脱しなければならない。さもないと、魂が潰されてしまうから。

 

「は、ハッ! そのお言葉、決して忘れはしませぬ!

 では、私はこれで失礼させていただきます。王の眠りを妨げてしまい、大変申し訳ありませんでした……!」

 

 そう震える言葉を残し、そうそうに空間からの離脱を図る悪魔。

 彼はもう限界であった。もう、喋る気力も体を起こす力も残っていない。ただ、残りの全力を脱出のためだけに。

 悪魔の姿が揺らめき、薄くなっていく。

 上昇する、どこまでも。全速力で世界の中心から離脱する。

 そうして、どのくらいが経ったであろうか。気がつくと悪魔は、どこまでも深い闇の中の中に漂っていた。

 ああ、戻ってこれたのか……。

 朦朧とした意識の中、よろよろと自分の拠点へと向かう。不快感こそ消えたものの、その魂は極限まで磨り減っている。その傷はそうそう癒えることはないだろう。

 故に。拠点に戻ってきた悪魔は、ベッドに自らのすべてを預ける。

 今は何も考えることはできない。体のすべての機能を休息に使う。深い深い眠りへと落ちる。

 そうして、約三十日後。悪魔は睡眠から目覚めた。

 体調は極めて良好。障害はすべて取り除いた。後は、彼女を探しにいくだけである。

 右腕を空間に突っ込む。空間に保存していたものをすべて体内に格納し、起き上がる。

 プランを確認し、持ち物を再確認する。すべては完璧、後は彼女を見つけるだけである。

 ベッドを消し、塊の外にするりと抜け出す。

 左手で塊に触れ、悪魔が何事かを呟くと、その塊は赤く光、悪魔の中に入っていった。

 魂の同一化。しばらくこの世界に戻ってくることはない。故にここに残していく必要はないのだ。

 さあ、全身全霊で彼女に会いにいこう。

 そう意気込み。彼は思いきり空間を蹴り、この世界に別れを告げた。

 次の瞬間、彼がいたのは草の生い茂る草原であった。

 どこか見覚えのあるそこは、彼がかつて彼女と出会った世界であった。

 世界が違えば時間の流れも違う。彼がこの世界に戻ってくるまでに、この世界ではゆうに数十年は過ぎていた。人間の女性であれば、よぼよぼの老婆になっているだろう。

 だが、どれだけ時間が過ぎようと関係ない。彼女の輝きはその程度では損なわれはしないだろう。そう悪魔は考えていた。

 それは実際にその通りであり、彼女は時間の制約を受けないほどの存在である。が、それは悪魔の知らないこと。

 さあ探そう。まずはこの世界からだ。

 彼は歩いた。草原を。砂漠を。雪上を。密林を。海上を。山上を。都市を。宇宙を。世界のすべてを探し、ついでに無数の人間を殺した。

 しかし、決して見つかることはなかった。

 この世界は外れか……。

 そう呟き、彼の姿は揺らめいて消える。そうして、近くの世界に流れつく。

 かれは数多の世界を探した。数にして百ほどであろうか。数え切れないほどの時間を費やした。

 そうして、また新たな世界に降り立つ。

 その瞬間に彼は気づいた。

 ――――彼女がいる。

 それは確信。あの魂の輝き、見間違うはずもない。この世界で、ようやく彼女に会える。

 ついに、ついに彼女に……!

 笑いが込み上げてくる。いやいけない、早いところ彼女を迎えに行かなければ。

 そうして数日間歩き、悪魔はついに彼女を見つけた。

 とある草原。吹き付ける風の中、彼女は小さな丘の上に立っていた。その銀髪を風に棚引かせ。

 喜びのあまり、声にならない声が体から漏れ出る。

 彼は思わず叫んだ。その魂に、顔に、そのすべてに見覚えがあった。本性が、魂が反射的に叫んでいた。しかしそれは、声にならず音にもならず。ただ空気が洩れるだけだけであった。

 そしてそれは想いの波動となり、彼女に伝わった。

 彼女が振り返る。悪魔と目が合う。視線と視線が絡まりあう。約十メートルほどの距離。

 沈黙が流れる。空気が重くなりかけ。

 

「こんにちは。我のことを覚えているだろうか、かつてあなたに微笑んでもらった悪魔だ。そう、私はついにここまで来た。

 今こそ想いを伝えたい。貴方を愛しているのだ。美しく思う。ぜひとも、私の伴侶となってほしい。華よ」

 

 ああ、ようやっと言えた。貴女はいったいどんな反応をするのだろうか?

 待ち受けるかもしれない至上の喜びを想像し、打ち震える悪魔。

 それに対し彼女の反応は、実に対照的なものであった。

 何も言わず、ただ冷たい視線を返す。ただそれのみである。

 だが、この悪魔が今さらそんなことでめげたりすることはない。彼女に向けてその一歩を踏み出す。

 それと同時に、バラの花が悪魔の周りに次々と浮かんでいく。

 1本。3本。11本。50本。99本。100本。108本。365本。そして999本。

 一歩。また一歩と徐々に、だが確実に距離を詰める悪魔。

 そうして彼女に触れる瞬間。

 

「――無礼者」

 

 彼女は上空にいた。触れようとした悪魔の右腕は、肩から先が消失している。

 しかし、悪魔は笑みを浮かべる。

 よかろう。あなたが望むならば、私は武力をもって貴女への愛を示すまでだ。

 悪魔の背中から黒い骨のような触手が何本も生える。両手を広げ、空中に飛び上がる。

 あまりにも濃密な呪詛が流れ出し、周囲の空間が根こそぎ腐っていく。

 これが正真正銘の全力前回……ッ! 行くぞ、私の魂を賭け、貴女を手に入れてみせる!

 彼女に向かい、飛び掛る悪魔。

 本能が理性を侵食する。理性が黒く染まり、本能だけが精神を支配する。

 しかし悪魔に後悔はない。すべてを賭ける。そう誓ったのだから。

 その時。どこからともなく、声が聴こえていた。

 いや、声じゃない。そう、これは音――。

 悪魔の体内から直接発せられる、骨の軋むのような音だ。

 ぎぎぎぎぎ。ごぎぎっぎぐぎ。

 ぎいいいぃぃぃいいいいあああぎぎああ!

 ごりごりがりがりごり。

 ひとつの音ではない。幾つもの音が同時に響いてくる。それも、どんどんと大きくなって。

 悪魔の身体から生えている、無数の骨のような触手がビクン、と大きく躍動する。

 大木のような。蠍の尻尾のような。日本刀のような。鎌のような。蔓のような。鞭のような。

 そのような多種多様な触手が、数えきれないほど生えてきている。

 数え切れないほどの、おぞましく醜悪な脅威。

 触手の先や間から、大量の瘴気や腐液が垂れてくる。

 

「ぎいいぃぃいいあああぁぁぁあああらあああるううぅううあああえええ!!」

 

 悪魔は叫んだ。

 もはやその言葉に意味はない。理性を捨てた本能からの叫び。

 叫んだ時には、悪魔は既に彼女の真上にいた。

 無理な転移に空間が軋み、悲鳴を上げる。

 

「くふ……」

 

 それを受け彼女は、微かに、嗤うような声をあげた。

 この異様な光景に、彼女は、たしかに悦びを覚えている。その様は凄まじく美しく。清純な天使であろうか。可憐な乙女の様であり。無垢な少女の様であり。熟練の娼婦の様であり。満月の狂人の様な。いや、無邪気な邪神のようでもあり。

 それを見て、悪魔は歓喜の笑みを浮かべる。

 素晴らしい……! これこそがまさに、俺が求めた究極であると。理性をなくしてなお本能で彼女を求める。

 そうして彼は、彼女に向かい。

 天の下で吼えた。

 

「■■■■!!」

 

 魂で叫んだ。

 すべては己のために。彼女を手に入れるために。

 触手が蠢き、彼女に向かう。疾る、疾る、縦横無尽に触手が疾る。

 それはさながら黒い稲妻。光速に近い速さで、上下左右あらゆる方向から襲い掛かる。特大の暴力。

 空気が蒸発し、空間が削れ。しかしそれは彼女に届かなかった。

 彼女に近づいた途端、それは消滅したのだ。

 そう、消滅である。割れたわけでも砕けたわけでもなく、溶けたわけでも枯れたわけでもない。一片の欠片も残さず。完全に消し去ったのである。

 それは本来有り得ぬこと。何故ならこれは悪魔の全身全霊、魂を込めた全力の一撃。それは強靭でしなやかで、たとえ惑星をぶつけられたとしても砕けることはないだろう。

 しかし、この場合は相手が悪すぎた。彼女が何者かは不明だが、この悪魔との間には隔絶した実力差があり。それはつまり圧倒的に魂の格が違うということに他ならない。

 自身を襲う激痛に悪魔がうろたえる。痛みで身を震わせている悪魔に対し、彼女が初めて自分から動作を起こす。

 彼女が悪魔に向かって手を伸ばし。手のひらを開き。

 一瞬、全身が虹色に光る。次の瞬間、彼女の手の上には、虹色の光で構成された蝶のようなものがあった。

 それを指先でつぅっと撫で、手首のスナップで軽く悪魔へと飛ばす。

 ふわふわと、緩やかに飛んでいく虹色の蝶。

 当然、それが届く前に悪魔は気づき。防ごうと、大樹のような触手を幾重にも目の前に展開した。

 そうして蝶が触手に接触し。――膨大な光とともに爆発した。

 あらゆるものを消し飛ばすかのごとく強烈な衝撃は、防御に用いた触手を一瞬で溶かしつくし。さらに悪魔の半身を溶かしつつ彼を吹き飛ばした。

 吹き飛ばされた悪魔が、地面に叩きつけられる。

 その半身は溶け、触手もほとんどが消滅。それでも彼はまだ生きていた。

 その顔は、さまざまな思いが浮かんでいるが、一番は困惑である。さもありなん。彼には、何が起きたかすら知覚できていないだろう。

 生きてきた中で初めて完膚なきまでに叩きのめされている悪魔。

 何だこれは。一体何が起きている。どうなっている。こんな展開、俺は知らない……!

 しかし、現状を理解しようとすることすら今の彼にはできない。もはやただ本能のままの存在であるが故に。

 自動で体が再生を始める。数秒ほどでとりあえず動けるようになり、起き上がろうとして顔を上げる。

 

「■■?」

 

 ――そこは一面の華景色であった。

 先程まで快晴であった青空は、黄昏色に。周囲には、毒々しい虹色の華が咲き誇っている。

 今度こそ、悪魔は完全に思考停止した。わけがわからない。何なのだこれは。

 再生した触手が、華に触れる。意図したことではなく、まったくの偶然。しかし、それでも世界は動く。

 その華に触れた瞬間、彼は体の自由を喪失した。触手を動かすどころか、指一本すら動かすことができない。

 身体が痺れ、続けて華から無色無色のガスと燐粉が出て来る。そうして、悪魔の体をゆっくりと包んでいく。

 体が溶けていく。いや、徐々に消失していく。指先、触手の先からだんだんと分解されて大気に混ざっていく。

 意識が消えゆく。もう少しで完全に消滅し、その存在は世界にいなかったこととなる。

 消え行く意識の中、僅かながら理性を取り戻し。

 ……嗚呼、これが俺の終末(さいご)か。せめて、彼女に触れることくらいは、したかった、ん、だが、な……。

 そうして、悪魔は完全に消滅した。

 一連の出来事を遥か上空から眺めている彼女。悪魔は世界から消滅した、いや彼女が消した。

 彼女が指を鳴らすと、華が薄くなって消えていく。黄昏色だった空も、潮を引くように青空へと戻っていく。

 そうして、数秒後には周囲は元の景色へと戻っていた。ただ一つの違いは、もう悪魔はそこにういないこと。

 彼女は、悪魔が消えていった場所を今一度眺め。

 

「期待してたわりには、この程度か……つまらないわね」

 

 そう一言残し、その場から幻か何かであったかのように消え去った。

 そうして、すべては終わった。その丘には誰もいなくなり。

 ただ、そよ風だけが吹いていた。



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