吹き荒れる夕立 (フリート)
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プロローグ

 一体、どれほどの時を待ったのであろうか。

 一日? 一週間? 一ヶ月? そんなものではない。半年? いや、もっとだ。一年? 二年? 大方このぐらいなのであろう。このぐらいが実際の正しい待ち時間。

 しかし、自身の感覚では十年、百年は待ったかのようであった。

 

 それほど、時が来るのを待ち続けたのだ。

 

 あの時、私は生きることを選択した。戦って戦って戦い抜いた果ての潔い死ではなく、生きて生きて生き抜いた果ての恥を選んだ。

 確かに死よりも生を選んだからといって、普通はそれを恥とは言わないだろう。寧ろ当たり前の正しい選択なのである。だが、私にとってはあの場で死よりも生を取ったことは恥だったのだ。

 

 最初は死を選ぶつもりであった。

 

 私を指揮していた提督は戦死し、多くの同胞たちも海へと散っていった。だから座して死を待つよりは、武人として、軍人としての最後を迎え、死んでいった同胞たちの下へと行こうと決意したのだ。

 その決意は、一人の同胞の手によって変えられた。私と共に生きる道を選んだ同胞は、こんなことを言っていた筈である。

 

 ここで死を選ぶことは軍人としての道ではない。何かを得られる行為でも、軍人としての誇りを守れることでもない。ここは逃げるべきだ。生きるために逃げるべきだ。生きてさえいれば、やれること、やるべきことはたくさんある。今日の屈辱を晴らすことが、死んでいった同胞たちの無念を晴らすことができる。けれど、一時の自己満足のために死んでしまえばそれらのことはできない。だから生きるべきだ。どうしても死ぬと言うのならば、やることをやってから死んでも何も問題は無い。

 

 これを聞いた時、まさに天啓が下ったかのような気分になった。これらの言葉が正しいのかどうかは分からないが、私は正しいことだと受け取った。

 多くの同胞たちの無念を晴らす。

 特にこの言葉を胸に、一時の恥を選んだのである。

 同胞たちの無念を晴らすその時まで、一時の恥を、生き恥を晒すことを誓ったのだ。

 

 それから面壁九年の思いを貫き、その時が来るまで待ち続けた。逸る気持ちを抑え、今か今かと待ち望む日々。

 そしてついに来たのだ。待ちに待ったその時が。

 今、私は懐かしい海を見ている。群青色で見る者を魅了する我が故郷。同じ釜の飯を食した、私が慕い、私を慕った数多の同胞たちが眠っている海だ。

 私の視界には、故郷へと帰って来た私を歓迎するように、群青色を怨念の漆黒に染めて現れる怪物たち。こうして対峙することをどれほど夢見たことであろうか。

 

 怨恨渦巻く青き世界に、再び秩序と平和を取り戻すために。

 

 同胞たちの安らかなる眠りを妨げる悪しきモノどもを、我が正義の剣をもって斬り払うために。

 

 軍人としての我が責務を果たすために。

 

 帰って来たのだ!

 

 この海に!

 

 

                 

 

 

              「ソロモンよ、私は――」



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ソロモンの悪夢
その①


「この雑魚どもが!!」

 

 突き抜けるような青空の下で、夕立の鋭く力のこもった咆哮が響き渡る。まるで声そのものに斬り裂くような攻撃性があるようであった。

 真紅の瞳が爛々と輝いている。

 背丈は小柄な方であろうか。しかし、夕立の身体の内から溢れ出ている気迫が、実際の背丈よりも大きく見えるような錯覚を生み出した。

 元のクリーム色の名残を多く残す白髪は、一つに結んで後方に垂れ流している。夕立の硬質な雰囲気と相まって、まるでサムライのようであった。

 また、左手に構えられている刀も、夕立をサムライのように見せる一助となっている。

 

 そして今まさに、振るわれたその刀が敵の命を容易く奪い取った。

 海の底へと沈んでゆく塊を侮蔑の眼差しで送ってから次の獲物を探す。すると、同胞の一人が苦戦しているのが目に入った。

 夕立と同じ駆逐艦の少女。

 ここ一週間の内に新たなる同胞として産み出されたその少女は、今回が初の実戦である。先ほどからなかなかうまく戦っているものだと感心したものだが、やはり一人で戦わせるには荷が重かったらしい。

 

 少女が戦っているのはクジラのごとき黒い怪物。全体の種族名としては深海棲艦と呼称されている。先ほど夕立が仕留めたものと同種であり、夕立や少女と同じ駆逐艦に相当するものであった。

 クジラのような見た目とは裏腹に雄大な動きではなく、その移動速度は恐ろしく速い。海上を猛スピードで泳ぎこちらを翻弄してくる。

 攻撃力はさほどないものの、厄介な相手であった。

 

 目に当たる部分を怪しく発光させ、剥き出しの歯でこちらを嚙み千切ろうとしてくるその姿は、醜悪である。

 夕立は直ぐにでも敵を仕留めようと動いた。と同時に、同胞たる少女の状況を把握する。肉眼で大まかに。

 見た様子では、あまり問題はなさそうだ。少々掠り傷が多いのと服が破けているだけである。異様に興奮しているようだが、初の実戦という事を考えれば何も不思議ではない。戦場の空気に呑まれているのだ。夕立自身も、初陣は少なからずそうであった。

 

 であるから気にも留めずに、先ず夕立は敵に向かって右手に装備した主砲を放つ。

 これは牽制程度のものである。ダメージを与えることはできても、決定打とは言い難い。

 夕立は敵の意識を自分に向けるために連射する。耳をつんざくような砲音、天に向かってそびえ立つ水柱、噴き上がる黒煙。

 敵の意識とついでに少女の意識も夕立に集まる。敵は心なしか怯えているようで、少女は見たまんま安堵していた。

 

「夕立さん……」

 

「直ぐに終わらせる。そこで周囲を警戒しつつ、大人しくしていろ」

 

 夕立が言うと、少女はこれで大丈夫だとばかりに一息ついた。しかし、直ぐにその安堵に満ち溢れた顔を引き締める。

 

「夕立さんっ!?」

 

 先ほどの安心したあまりにぽろっと漏らしてしまったわけではない、確固たる意志と警告の意を込めて夕立の名を呼ぶ少女。

 少女の見開かれた瞳には、海中から浮き上がって来たやはりクジラのような怪物が、その砲身を夕立へと向けている。

 

「分かっている」

 

 未熟者が余計な気を回すものではないと答える夕立。事実、新手の出現を予知していたかのごとく飛来してきた砲弾を回避する。

 さらにもう一つ。

 

「三体目……」

 

 回避した瞬間を狙って放たれた弾を、夕立は尋常ならざる反射神経をもってかわした。そして、小賢しい真似をと舌を打つ。

 トライアングルだ。三体のクジラ型深海棲艦が三角形を形成している。三角形の中には夕立と少女が位置取り、囲まれる形となっていた。

 

 こんなことは夕立にとってどうということはない。この程度の敵に三方から攻められようが、八方を塞がれようが自身の撃沈スコアが増えるだけである。お望みなら十秒ほどでスコアがプラス三だ。

 だが、それはこの場にいるのが夕立のみの場合である。

 ここには新米の同胞がいる。囲まれてしまったという恐怖に怯えて、腰を抜かし海上に座り込む少女が。

 

「夕立さぁん」

 

 今度の名前呼びには怯えが全面に出ていた。

 軍人が情けない声を出すなと、叱咤の視線を少女に送る夕立。しかし、恐怖に強く感情を支配されている少女には意味のない叱咤であった。

 心なしか深海棲艦たちがあざ笑っている様に見えた。これからなぶり殺しにしてやると言わんばかりに殺気を放っている。

 

 どうする?

 座り込む少女はこのままだといい的であった。下手な動きをここで見せるわけにはいかない。何としてもこの同胞を守り抜いた上で勝利を得る。

 夕立の中には、見捨てるという選択肢だけはなかった。

 

 夕立が思考していると、ドドン、と砲弾が発砲される音。三方からの一斉射撃が、夕立と少女を襲う。

 一撃一撃は大したことはない。だが当たり続ければ、勿論危険な攻撃である。

 その一斉射撃を、一先ず夕立は捌くことにした。

 結果、深海棲艦たちによる砲撃はまったくの無意味なモノと化す。自身と震える少女に直撃する軌道の弾を瞬時に判別して、これを迎え撃つ。

 

 砲弾に対して砲弾で迎撃し、時にはその刃で斬り払う。これを幾度となく繰り返し、夕立は見事敵からの一斉射撃を捌き切った。

 こいつには自分たちの攻撃が通用しない。深海棲艦がそう判断するほど、実に驚きの技であった。

 深海棲艦の一体が、最後に苦し紛れの砲撃を放つ。

 これを夕立は敢えて無防備に受けた。

 

 爆発が起こった。

 

 もうもうと噴き上がる煙。夕立を包み込んだ煙は、彼女の安否を不明にした。そしてその煙が晴れた時、中から現れたのは、鬼の形相を浮かべた無傷の夕立であった。

 

「怨恨のみを胸に抱いて戦いを起こす者どもよ。貴様たちの攻撃など私には通用しない。私は……我々は大義をもって戦っているのだ。貴様たちなど相手になるものかっ!!」

 

 深海棲艦たちは気押された。怪物でしかない、あるいはただの兵器なのかもしれない、そんな深海棲艦にも心というものは存在した。モノには魂が宿ると言われているのだ。何も不思議なことではなかった。そうして存在する心が、夕立の巨大で強大な気迫を感じ取ったのだ。

 また、気迫を感じ取ったのは深海棲艦だけではない。

 恐怖に心を縛られた少女も感じ取ったのだ。それは、深海棲艦に対してのものとは別の効力を少女にもたらしたのである。

 

 夕立の存在が、夕立の戦いぶりが、夕立の言葉が、夕立の気迫が少女と深海棲艦の心の優位を逆転させた。

 

「うおおぉおおぉ!!」

 

 恐怖を振り払った少女が、両の足でしっかりと海上に立った。もう怯えているだけの小娘ではない。そこにいるのは、一人の軍人である。

 

「夕立さん、ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です。私も戦えます。私だって、艦娘なんですからっ!」

 

 艦娘。二次大戦の頃の軍艦が、人間の肉体と魂を持ってこの世に顕現した存在。この世で、唯一深海棲艦と戦える存在であった。

 少女も、夕立も、艦娘だ。

 

「よく言った! お前もまた、この海に平穏をもたらす光なのだ!」

 

「はいっ!!」

 

「では、行くか」

 

 ここで狩るモノと狩られるモノの立場が入れ替わる。気炎万丈な夕立と少女に、対するは気迫に飲み込まれてしまい戦意よりも恐怖が増している深海棲艦。

 グン、と加速し夕立と少女はお互いに見定めた敵に対して突き進む。

 

「何を為すこともなく、この海に沈めえっ!!」

 

 一閃。

 陽光に煌めく刃が、敵を一刀の下に切り裂いた。敵はドロドロとした液体を噴き出すと、断末魔と一緒にその命を散らした。

 次いで、夕立は意識を少女の方に向ける。

 

「あなたたちになんか負けません。負けたくありません! これは戦いなんですから!!」

 

 少女の方も自身の標的を倒したようだ。先ほどまでそこに敵がいたであろう場所を眺めながら、少女は吼える。

 これで三体の内二体は始末した。残り最後の一体。夕立が身体を振り向こうとした瞬間であった。

 

 爆発音。

 

 何事かと思ってみれば、残りの一体が黒煙を上げながら沈んでいくのが見える。

 どうやら、別の誰かが仕留めたらしい。夕立でもなく新米の少女でもない誰かが。ならば一体誰がということだが、夕立には見当がついていた。

 なのでその人物の名を呼ぶ。

 自身の撃沈スコアにプラスされる筈であった獲物を横取りした者の名を。

 

「響か……」

 

 正解だと言うように、一人の艦娘が姿を現した。

 銀の髪をたなびかせ、その顔は少しバツが悪そうである。まるで余計な世話をしてしまったと言いたげであった。

 響とは長い付き合いである夕立にはそれが分かった。

 気にする必要はないと夕立は右手を軽く挙げる。

 

「夕立さん、これで最後ですよ」

 

 響が言うと、夕立の傍に続々と艦娘が集結する。新米の少女も含めて計四人。今、ここには六人の艦娘が集まっていた。

 自分以外の艦娘を一人一人確認する夕立。

 

「よし。敵は完全に沈黙した。これより、鎮守府へと帰投する。言うまでもないとは思うが、道中油断はしないようにな」

 

 『はいっ!!』、と夕立以外の五人の艦娘が声を揃えた。

 

 

 

 



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その②

 岩峰は提督の執務室で、書類を眺めていた。完全にそり上げた頭に、立派に生やしてある口ひげ、長い戦場生活で培った経験、これらが合わさってまるで山のようにどっしりとした存在感が漂っている。書類を眺めるその顔にも、無言の気迫を感じた。

 年齢は五十を過ぎたばかりで、まだまだこれからである。

 

「ふむぅ……」

 

 書類を読み終えると、岩峰は一息ついた。今は出払っている秘書艦が淹れたコーヒーを口元に運ぶ。相変わらず香りも風味も良い。口角が僅かに上がり、瞳に微かな笑みがあった。

 

「時は来たようだな」

 

 目を通した書類には、最近の深海棲艦の動きが記されていた。戦況や情勢も事細かであり、満足のいく仕上がりとなっている。

 

「ようやく、彼女との約束が果たせるな」

 

 岩峰の頭には、一人の艦娘の姿が思い描かれていた。清流のごとき穢れのない魂を持った、自身の信頼が最も篤い部下。こう言うと他の艦娘、特に最古参の者たちには悪いと思うが、岩峰にとっては、今自身の頭の中にいる人物こそ頼りとするべき艦娘なのである。

 思い出すのは二年程前。あの日、傷だらけで、しかしながら闘志だけは燃やし続けていた彼女との出会い。

 そこでの約束。

 彼女は自分を信じて本当に長い間待ち続けた。時間が過ぎても過ぎても、自分の下で弱音を吐かずに待ち続けてくれたのである。

 

 その約束をついに果たす時が来たのだ。

 

 すると、執務室のドアが開いて誰かが入ってきた。やってきた人物の顔を見た時、岩峰は笑みをさらに深いものにした。

 

「夕立、ただいま帰投いたしました」

 

「うむ」

 

 このたった一言に最大限の歓迎の意が込められている。

 夕立こそ、岩峰の最も信頼篤き部下なのだ。

 またそれは逆も然りで、夕立にとっても最も信頼を寄せているのが岩峰である。共に生き残った同じ駆逐艦娘でもなく、親友である軽巡洋艦娘でもない、岩峰にこそ最大の信頼があった。

 お互いに信じ切った目を合わせる。

 

「報告します」

 

 夕立が言う。

 

「イ級型駆逐艦六隻、ロ級型駆逐艦十隻、ホ級型軽巡洋艦二隻、リ級型重巡洋艦一隻を撃破しました。我が方の被害は、新造艦娘の一隻が小破のみです」

 

「ほう」

 

 驚いたように声をもらす岩峰。彼の予想以上に被害が少なかったのである。

 

「初陣の者が一人いながら、流石だな、夕立よ」

 

「ありがとうございます、岩峰閣下。しかし私だけの力ではありません。我が同胞たちの類まれなる努力の結果であります」

 

「分かっておるよ」

 

「はい。それと、今回の出撃で気になる点が一つ」

 

 眉を顰めながら言う夕立に、岩峰は苦笑した。前から思っていたことだが、夕立は少々感情が面に出やすい。今も疑念が眉を顰めるという動作に出ていた。これを岩峰は悪いことだとは思っていなかった。彼女の純粋さが、本人も気付かぬうちにそうさせているのだろう。岩峰には、それが心地よかった。

 

「閣下?」

 

「いや、済まなかった。それに、お前のその疑問も儂には分かっておる。何と答えるべきかな……敵が妙に弱いと言うべきか」

 

「流石の慧眼です」

 

「そうであろう、と言いたいところであるが、実のところこれに書いてあるのだ」

 

 言いながら岩峰が手に取ったのは、先ほどまで眺めていた書類であった。この書類には、夕立が疑念に思ったことは、どの戦場でも起きていることだと記されている。

 理由は定かではない。

 敵に何か企みがあるのか。例えば戦力を溜めに溜めて一気に大攻勢に出るというモノ。しかしこれは、生産力の面から圧倒的に劣る深海棲艦が取るべき策ではない。時間が経てば経つほど、戦力差が広がっているのだ。現に、戦いは時が経つほど人類側が優勢になってきている。

 

 もう一つは、単純に戦力不足である。十中八九これだと岩峰は見ていた。開戦当初、深海棲艦の戦力はこちらが驚くほどに充実していた。姫級、鬼級と呼ばれる存在に、エリートやフラグシップなどの強化型も多数。人類側は、艦娘の存在があっても連戦連敗であった。だが、今やその構図は逆転しているのだ。人類側の方が戦力は充実し、今日のように勝利を重ねている。深海棲艦は着実に弱体化しているのだ。

 

 そしてそれこそが、夕立との約束を果たすチャンスであった。

 

「夕立よ、覚えておるか? あの日のことを」

 

 空気が変わるのを感じながら、夕立は瞼の裏に映し出していた。あの日、と岩峰が呼称した時のことを。

 

 もともと夕立は岩峰の手によって建造されたわけではなく、またここの鎮守府が故郷というわけではない。夕立の故郷は、ここからずっと南の島である。現在は深海棲艦の拠点の一つである島、厳密には違うが、あえて称する名は――ソロモン。そこで夕立は世に生み出された。

 その頃は、まだまだ深海棲艦の力は強大で、夕立はその力に飲み込まれるのであった。次々と散ってゆく同胞たち、涙を堪えた決断、屈辱の中の敵中突破。そうして、脱出した先がここだったのである。

 岩峰との出会い。岩峰の約束。この方の下で働こうと決めたのがあの日であった。

 

「忘れる筈がありません」

 

 忘れたくとも忘れないし、忘れたくもない。忘れてはいけないのだ。

 あの日に、夕立は一度生まれ変わったのである。

 

「あの日、あの時、私は閣下の寛大な御心に救われ、ここにいることができるのです。一秒たりとも、私の中からは消えたりなどいたしません」

 

「儂もお前に助けられて、何とか上手くやっておるのだ。お前がいなければ、この鎮守府もどうなっていたのか……」

 

「それは違います! 閣下や同胞たちの力があってこそです。私一人の力など、どれほどのモノになりましょうか!」

 

 この夕立の物言いは、岩峰にとって好みではなかった。

 

「謙遜も度が過ぎれば嫌味となる。ここは大人しく称賛を受けろ、夕立よ」

 

 ハッとして、夕立は頭を下げた。

 

「心に刻んでおきます」

 

「うむ」

 

 下げた頭を上げる夕立に、ついに岩峰が本題を切り出した。あの日のことを尋ねたのも、この話をするためである。まだ秘書艦にすら話していないことを、夕立は耳にする。

 それは、夕立が待ち望んでいたことだった。

 

「夕立。我が鎮守府の戦力は充実し、その練度も申し分はあるまい」

 

「はい。最早如何なる敵が来ようとも、我々が後れを取ることはありません」

 

「``時来たらば、お前のその想いを必ずソロモンの海へ届けよう´´」

 

「閣下っ! そのお言葉は!?」

 

 約束の言葉だった。血にまみれ、なおも闘志を身体から溢れさせている夕立に、初めて出会ったあの日に岩峰が言った言葉。

 

「よくぞ、今まで待ってくれたなっ! 今こそ、あの日の約束を果たそうぞ!」

 

「おおっ!! ついに……ついにこの時がっ!!」

 

 深く拳を握る夕立の顔は笑っていた。夕立は思う。やはりこの方に付いて行ったのは、この方を信じた自分の判断は正しかったのである、と。

 これは自分のためだけはないことは当たり前だが知っている。しかし、約束を守ってくれたのは感激の一言であった。

 

「作戦名は``海の屑´´!」

 

「海の屑……」

 

「そうだ。この戦いは歴史に名を残す大きな戦いとなろう。艦娘も深海棲艦も、今回の作戦で例外なく海の屑となる。故にこの作戦名とした」

 

「なるほど。海の屑作戦っ!」

 

「この戦いは、勿論お前が中心となる。心して挑むのだ!」

 

「はっ!!」

 

 この時、夕立の心は感極まっていた。

 

 

 

 

 

 

「失礼します」

 

 夕立が執務室を出てすぐ、秘書艦が用を済ませてから戻ってきた。その顔には、先ほど珍しいものを見たと書かれている。岩峰にはそれが何なのかよく分かっていた。

 

「加賀よ。夕立を見たのか?」

 

 普段は夕立と違って考えていることを顔に出さない加賀。いつでも冷静沈着な彼女に、こんな目を丸くした驚きの表情を浮かべさせるとは、夕立はよほど嬉しさを顔に、あるいは身体に出しているに違いなかった。

 仕方のないことだと岩峰は思う。ソロモンの奪還――夕立はこれのために生きているのだ。己が本懐を成し遂げる時がきて、嬉しくない筈がないのだ。

 

「ソロモン、ですか?」

 

 加賀が尋ねた。加賀にしても、夕立の珍しい様子の理由は大体想像がつく。あのような隠そうとも隠し切れない、喜色満面とも言うべき様を夕立にさせるには、その話題しか考えられないのだ。

 大きな戦いの予感を、加賀はひしひしと感じ取っていた。

 

「うむ。海の屑作戦……ソロモンの奪還は近いうちに行う」

 

 話を聞く加賀は、どこかムッとしているようだった。どうしてそんな大事な話を、秘書艦である自分にではなく、真っ先に夕立に話したというのであろうか。

 いや、分からないでもない。ソロモンの、故郷の奪還は、夕立が希求していたことである。それに岩峰と夕立との間には、加賀では理解しがたい異常とも呼ぶべき信頼関係があった。秘書艦であり、艦娘として最も長く共に過ごした自分を差し置いての関係。

 

 確かに夕立は信頼に値する人物だと思う。融通がきかず、自分の美意識に反することは一切認めない欠点はある。その所為で、艦娘の一人と完全に対立し、いつ二人が殺し合いを始めたと報告されてもおかしくないほどだ。因みに加賀としてはどっちもどっちだと思う。

 軍人として、戦う戦士として、一航戦としての自分は完全に夕立寄りだ。でも、一人の女性として、一人の艦娘としてなら少し夕立に思うところはあったりする。

 

 だけれど、夕立は清廉潔白だ。欠点は中々大きいけど、あそこまで清廉潔白という言葉が似合う人物もそうそういないのではないか。事実として、加賀はそれを認めていた。

 でも、嫉妬してしまう。ぽっと出のくせに、自分の敬愛する岩峰にあそこまで信頼されているとは、嫉妬せざるを得ないのであった。

 

 そこでふと思い出した。そう言えば、岩峰への電話を保留中であったのだ。夕立に嫉妬している場合ではなかった。

 

「提督。先ほど、お電話がありました。青森提督からです」

 

「何? 奴からだと?」

 

 青森提督は、岩峰と同じく一鎮守府の主である。士官学校時代は同期であり親友同士という間柄で、夕立や加賀に対してとは別の信頼関係があった。

 岩峰は机の上に備え付けてある受話器を手に取った。勿論盗聴対策をした上で、回線を繋げる。

 

「……儂だ。久しいではないか。それで、一体何用だ? ……うむ、よく分かったな……言ってくれるではないか。だが、話はそれだけではあるまい……それはありがたい。ここにきて更なる戦力の増強を望めるのは幸運なことだ……十分だ。礼を言おう。では詳しい話は別の日にな……うむ、ではな」

 

 受話器を置く。

 電話の内容は加賀にはよく聞き取れなかった。岩峰の喜びようと、電話における聞こえた範囲での会話では、この鎮守府にまたもや新戦力が加わるということらしかった。

 これから始まる大きな戦いを前にして、幸先がよさそうであった。



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その③

 岩峰の執務室を後にした夕立は、上機嫌で通路を歩いていた。どこか穏やかさを感じるほど薄いを笑みをうかべているのは、彼女の機嫌が良い証であった。

 彼女が歩くたびに、髷のように結んだ髪も、心なしか嬉しそうに弾んでいるかのようだった。

 

 海の屑作戦。

 

 先ほど、岩峰に聞かされた夕立の故郷たるソロモン奪還の作戦である。この作戦はまさに夕立の悲願であった。夕立の生きている意味でもあった。

 待ち望んだ時が訪れたとあって、夕立は今までにないほどの喜色を顔に浮かべている。すれ違った秘書艦の加賀も驚いていた。

 

 そんな夕立の様子を見て、駆け寄ってくる人物がいた。

 

「夕立さん」

 

「響」

 

 駆逐艦娘の響だ。

 二人はお互いの名前を呼び合うと、どちらが言うまでもなく並んで歩く。

 一時の間、二人に会話はなかった。静寂にはそれぞれの足音と、少しばかりの緊張感が混じっている。これは、二人が知り合って当初、指導教官と新人の関係であった頃の名残であった。その時は、響は一歩ほど後ろにいたが、いつもこうやって無言だったのだ。夕立と響はお互い口数が多い方ではないし、雑談をするような仲でもなかった。

 

 今はそのようなことはなく、信頼し合った上官と部下のような関係として仲良くやっている。別に艦娘には厳密な上下関係なんてないが、これも当初の関係の名残。自然とこのような関係になっていたのだ。

 こうして話をしない時間を少しもうけてから、話に入るのである。

 

「それにしても、今日の戦いで新人の動きは夕立さんから見てどうでした?」

 

「初陣にしてはなかなかだったな。生き残った以上、彼女も我々の一員としてこれから力を存分に発揮してくれることだろう」

 

 内容は、どうやら新米の駆逐艦娘のことだった。夕立としては、戦闘中にも少し思ったが納得のいく戦いぶりだった。

 深海棲艦に囲まれて、殺気に呑まれた上に情けない声でへたり込んでしまうこともあったが、その後は自分で恐怖を克服し、敵の一隻を撃沈したのだ。十分だろう。

 

 最初から最後まで震えてばかりで何もできないばかりか、酷い時には錯乱して味方を攻撃する者もいるのだ。艦娘は軍艦の生まれ変わりであるけど、生まれてくる時は当時の記憶なんかないまっさらな状態で生まれてくる。稀に記憶を有している者もいるが、殆どの艦娘にはない。だから極論は見た目相応な精神で初めての戦争を経験するのだから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。

 

 夕立も響も当時の記憶はなかった。

 

「お前が初陣を経験した時は、たしか失禁したのだったな」

 

 夕立が過去を振り返ると、顔を真っ赤に染めた響がわたわたと手を振った。雪化粧をほどこしたように肌が白いものだから、色が変化するとたいそう目立つ。

 

「あれはっ! その……思い出させないでください!」

 

 恥ずかしすぎて顔から火が噴き出しそうである。失禁した上に大泣きして、夕立に幼子のように抱き付いた過去。折角忘れかけていたと言うのに、響はむぅっと頬を膨らませる。

 いつもの冷静さがない子供のような響に、夕立は声をあげて笑った。

 

「こんな辱めを私だけなんて我慢できないよっ! 夕立さんはどうだったんですか!?」

 

「ははは。んっ? 私か? そうだな……」

 

 夕立の初陣。記憶を遡って出てくるのは、出撃して深海棲艦に接敵した直後のこと。夕立自身と、夕立の指導教官だった艦娘。

 

『身体が震えるっぽい。これが戦場……』

 

『訓練通りにやれ。お前なら何も問題は無い。私が面倒を見たのだから、伊達ではないことは保証してやる』

 

『分かった。やってみるっぽい』

 

『そうだ。その意気だ』

 

 記憶の中の指導教官から、夕立は多くのことを学んだものだった。懐かしい思い出となった過去。苦笑するようにフッと小さく息をもらした。

 

「夕立さん?」

 

「お前とあまり変わらん。私もまた未熟だったのだ」

 

 夕立も自分と変わらない。これに響は驚いた。この人にもそういう時期があったのかと、意外な気持ちになってくるが、よくよく考えればそれもそうである。初めから凄い者など、一部の中のさらに一部、所謂天才と呼ばれる者だ。夕立に未熟な時期があるのは当たり前であった。

 それでも未熟な夕立など想像はできない。強く立派な夕立しか見たことないからなおさらだ。

 

「そう言えば、夕立さんはどこに向かっているのですか?」

 

 ここで響は、この話はここまでだと話題をすっぱり変えた。

 話をここのまま続けていけば、さらに自身の恥部を思い出させられる可能性がある。夕立の未熟な頃の話――そう銘打っただけの武勇伝であろうが――は大変興味深く気になるところであろうが、その話を聞くためのリスクが大きすぎた。

 正直、初陣の醜態は氷山の一角なのだ。過去を懐かしんでいる夕立に、こういう事もあったな、などと掘り起こされてはたまらない。そんなわけだから、話は万全の体制を整え後日ゆっくりと伺うとして、今はこの思い出話を止めるのが先決である。

 

 すると、響の思惑が上手くいったのか、それとも察したのか、話題の転換に夕立は付いていった。

 

「明石に用があってな」

 

 用があると言いつつ訝し気な夕立。

 

「あの人に何か?」

 

「帰投したら工廠に来て欲しいと言われていてな。閣下に戦果報告を済ませてこうして向かっている」

 

 呼び出された夕立は理由を知らないらしかった。おそらく自分の使用している武器に関して、という所が妥当か、と武人な少女は考えていた。

 だが、響の見解は違った。夕立の使用している武器を整備するためなのは夕立の予想と同じだが、これが主な理由だとは見ていない。

 

 一人の女としての感情が大きいと見ていた。

 

 前に相談されたことがあるので、明石という艦娘がそういう感情を夕立に抱いているのは知っている。おそらくだが、夕立も薄々感づいていると思う。言動に匂わせるようなものはないが、どことなくと言ったところだ。事によれば夕立ももしかしたら……。

 プライベートでは、かなり親密だ。この前は二人でショッピングに向かうのを見た。夕立の方は付き合ってやっている風だったが、帰って来た時の様子からだいぶ楽しくやっていたようだった。

 

 けれど、二人の仲が同胞、あるいは友から進展することはないだろう。少なくとも夕立が軍人としての責務を全うするまでは。そもそも夕立は――。

 

「おや、これはこれは、ソロモンの悪夢さんじゃん? 戻って来てたんだ」

 

 不意に何者かが声を掛けてきた。夕立と響はその場で立ち止まって声の主を見る。三つ編みの軽巡洋艦娘が、二人を見下すようにそこに立っていた。

 

「お二人揃って、相変わらず仲がよろしいようで」

 

 軽巡洋艦娘の北上は、嘲笑を隠しもせずに厭味ったらしく言う。好意を一かけらも感じない言い方だった。これに夕立は眉を顰め、響は睨みつける。

 二人の反応が気持ち良いと言うようないやらしい笑みを北上は浮かべた。

 

「北上か……何の用だ?」

 

 用がないのならとっとと失せろと目で語る。

 

「用がないのなら話しかけちゃいけないの? 駆逐艦娘は冷たいよねぇ。それとも、冷たいのはあんた?」

 

「……何が言いたい」

 

 夕立は苛立たしそうに尋ねる。こういう遠回しな言い方は夕立の嫌いなものの一つだ。北上が分かっていてやっていることも腹立たしい。

 ハンッと北上は鼻を鳴らした。

 

「教えなきゃ分かんないのかなぁ……ソロモンの悪夢ともあろうお人が、随分とねぇ……ふふ」

 

 呆れた風な口調。続いて北上は響に話し掛ける。

 

「あんたもそう思うだろう? ずっと一緒にいるんだから、こいつがどれほど冷酷な奴なのか、一番分かっている筈だよ」

 

「夕立さんはそんな人じゃないっ!!」

 

 響が声を荒げた。今にも掴みかかりそうな勢いだ。

 

「ふんっ。こいつはそんな奴なんだよ」

 

 吐き捨てると、突如、飄々とした態度を一変させて、北上はカッと目を見開いた。響が抱いている怒りと同等の、いやそれ以上の憎悪を発しながら、北上は吼えるように言う。

 

「こいつは、そんな奴なんだよっ! 仲間が死んだって武人の誇りだとか軍人の誇りとか言って簡単に片付けてさっ! 大義だとか正義だとか物言いがいちいち汚らわしいんだよっ!!」

 

 糾弾するような魂の叫びであった。大切だったあの人が死んだ時も、軍人の誇りだ、とたった一言。そんな夕立を北上は許せないのだ。大切な人の死を、薄っぺらい言葉一つで済まされたように思えたのだ。大切な人は――大井はそんな夕立を尊敬していた。自分を尊敬していた人の死に対しての答えがたったそれだけか、という怒りも北上にはあった。

 

 一方で、全てを否定することは響にはできない。北上の言葉は、想いは全くの間違いではないから。夕立は北上の言う通り、艦娘の死を誇りという言葉で肉付けする。艦娘の起こす戦いを大義のため、正義の戦いだと主張する。紛れもない事実で、見ようによっては狂信者な一面もあるのかもしれない。そこは、否定をしない。

 でも簡単には片付けてなどいない。寧ろ、いつまでも心に刻みつけているのだ。夕立が艦娘たちの死を誇りだと言うのは、彼女たちの死が無駄ではなかったことの証とするため。だから、夕立は今を生きている。夕立が北上の言葉通りの人物だったら、自分の言葉なんて届いてなどいなかっただろう。あの戦いで、死を選んだ筈だ。北上の言うようにずっと傍にいたから、そのことをよく知っている。

 

 夕立さんを分かったような気になるな、と声高に反論したかった。

 けれども、夕立の制する腕があって響は口ごもる。

 

「言いたいことはそれだけか?」

 

 今度は夕立が滑稽だとあざ笑うような口ぶりで、響は言葉と一緒に息を呑んだ。そうして直ぐに北上の反応を探る。

 導火線に火が点いていた。ぷるぷると震える身体を必死に抑えようとしている。抑えろ、抑えろ、抑えろと自身に言い聞かせているが……振り切れた。

 

「ふざけんなよ、夕立ィ!」

 

 握り締められた拳が夕立の頬を撃ち抜こうとする。空を斬り裂き轟音をあげる一撃を、夕立はもう一瞬の所を右の掌で抑え込んだ。と、同時に左手の手刀が北上の首筋を捉える寸前、腕に阻まれた。

 ググッとお互いの腕に力が入る。

 

 響は自分の出る幕じゃないと様子を見守っていた。

 

「軍人ぶりやがって! ほんと、ムカつくんだよお前はっ!」

 

「我々は軍人だっ! 一人の女である前に、我々は軍人なのだっっ!!」

 

 ここから睨み合いの膠着状態が続いた。

 やがて、北上が夕立の手を振り払う。すると、夕立も構えていた手刀を離した。

 

「ちっ……」

 

 舌を打つ北上は、大きく呼吸をした。これで気を静めたらしくいつもの北上へと戻る。それから何も言わずに、夕立と響の隣を通って去って行った。

 北上の気配が無くなると、夕立は呟いた。

 

「我々は軍人だ」

 

 艦娘は一人の人間である。艦娘は一人の女である。だが、艦娘は深海棲艦と戦い海に平穏をもたらし、罪なき人々の矛となり盾となる軍人なのだ。

 

「奴は軍人でありながら、色恋沙汰を優先したのだ。同胞たちが死んだことなど、奴にとってはどうでもいいことだ。大井が海にその魂を譲り渡したことのみに思うところがあるだけだ」

 

「夕立さん……」

 

「そんな者がいくら戯言を述べたところで、私の心に響くことはない。あのような者の言葉など、私は聞く耳など持たんっ!」

 

 夕立は足を踏み出して、平常の調子で言った。

 

「明石を待たせては悪い。少し急ごう」

 



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その④

 最初は不愛想な人だと思った。

 

 友達の夕張も何かピリピリとした肌を突き刺すような、鋭く攻撃性のある気を感じている。

 明石にとっては未知の人種であった。生粋の武人、生粋の戦士のようなタイプなら知っている。正々堂々としており、戦いの中で生き、戦いの中で死ぬ。しかし軍人というのは初めてだ。彼女も武人であり戦士でもあるのだろうが、生粋のと形容するなら軍人のよう。例えるのなら、多分岩峰提督のような人がそうなのだろう。確かに、どこか似ている気がした。

 

 二年程前のことである。

 

 今と変わらぬ工廠で兵器の整備をしていると、彼女は明石の前に現れた。

 

「君がここの明石だな」

 

 圧倒された。自分よりも背が低く、容姿だけなら良家のお嬢様のような夕立だが、明石は言葉を失ったのだ。前線に出たことは片手で数える程しか無いものの、それなりに修羅場を経験しているからこそ彼女の凄みというものが分かる。見た目に騙されれば、痛い目に遭うだろう。

 上手く対応ができない明石に、夕立はある物を手渡した。

 

「これを見てほしい」

 

 それは一本の刀だった。刃こぼれが酷く、かなり使い込まれている。艦娘である夕立が使用し明石に見せるとあって、深海棲艦に通用するよう特殊な加工が施してあった。

 夕立はこの刀を整備してほしいと明石に頼みに来たのだ。

 

「頼めるか?」

 

「た、頼むと言われたら頼まれるけど……私はこれが役目だし」

 

「君は腕が良いと聞いている。期待しているぞ」

 

 ちっとも期待しているようには見えないすげない表情である。何だか反発したくなってくるが、明石はしたところで無駄なことを数回のやり取りで悟っていた。

 

 もう少し笑うとかすれば良いのに。

 

 そんな感想を悠然たる態度で去って行く夕立の背中に呟いた。

 この出会いから関係が始まるのであるが、明石の夕立に対する印象が変化するのはこれより一か月後のことである。

 すなわち、明石が初めて夕立の笑顔を見た日だ。

 

「夕立いる?」

 

 いつも夕立が明石を訪ねて工廠にやって来るというパターンであったが、この日は明石の方から夕立を訪ねた。夜、夕立に割り当てられた部屋に行くと、彼女は部屋で椅子に座り何かを眺めていた。

 

「何してるの?」

 

「んっ? 明石か……いや、少しな」

 

 気になって明石が夕立に近寄ってみると、彼女が手に持っていたのは意外にもお菓子であった。しかも超有名なたけのこ型のチョコ菓子。こんなものを眺めてどうしたというのだろうか。

 明石が訊いてみると、夕立はふわっと優し気に笑った。

 こんな顔もできるんだ、と明石は胸を打たれる。

 

「この菓子は、私の指導教官が好きだったものでな。よく食べているのを見たものだ。どれほど好きだったのかは知らんが、本土からかなりの量を持ち込んでいたよ。今日、酒保に寄った際見つけて、懐かしかったので一箱購入したのだ」

 

 この頃になると、夕立及び響の事情は鎮守府に広まっていた。彼女たちの元居た場所は、深海棲艦の攻勢により陥落したこと、敵陣を突破して逃げて来たこと、夕立と響の二人が唯一の生き残りであることも。

 つまり、夕立の指導教官だったという艦娘はもう……。

 明石はしんみりとした面持ちで言った。

 

「夕立、その人は……」

 

「英霊となった。私に艦娘の何たるか、軍人とは何たるかの教えを残し、ソロモンの海へと散って行った」

 

 一瞬物寂し気な表情を浮かべると、夕立は椅子から立ち上がった。次いで、明石に対して背を向けると、その視線を白い壁の方へと向ける。

 夕立がその視線の先に何を映しているのか、明石には分かった。

 

「今やあの海は、怨恨の化身たちが我が物顔で好き放題している有様。不甲斐ない……必ず、取り戻さなくては」

 

 力強い決意の言葉だった。顔が見えずとも、明石には夕立がどのような表情をしているのか手に取るように伝わってくる。

 この時に、不愛想な軍人という印象は完全に拭いさられたのであった。

 

 明石と夕立がプライベートでの付き合いを始めたのはこの日以降からである。初めは挨拶をして世間話程度。次第に、明石の趣味であるガラクタいじりに夕立が加わるようになったり、休暇が取れれば二人で外へ出かけるようになった。

 

 明石は毎日が楽しかった。

 

 そんなある日のこと、明石の友達である夕張がこんな言葉を投げかけたことで、明石の世界は急速に加速する。

 

「明石ってさ、夕立のこと好きなの? ていうか、好きだよね? うん、好きだよ。絶対」

 

「はい? 私が夕立のことを好き?」

 

 明石の自室のベッドに座って、夕張が唐突にそんなことを言った。

 そんなわけがない。まあ、好きか嫌いかで言えば好きだが、夕立とは同僚、友達と言ったところである。断じてそういう意味で好きなわけではない。

 けれども、次の夕張の言葉が明石に揺さぶりをかける。

 

「ええ~、好きだって絶対。じゃあさ、夕立のことを頭に思い浮かべてみなよ。それではっきりするから」

 

「分かった、けど……」

 

 夕張の言う通りに、明石は夕立のことを頭に思い浮かべる。

 初対面の時の不愛想な夕立。指導教官のことを考えていた夕立。明石のガラクタいじりにしょうがないとばかりに付き合う夕立。二人で出かけた時のさりげない優しさを見せた夕立。仲良くなってみたら、いろいろな表情を夕立は見せてくれた。

 思い浮かべてみたら、顔が熱くなってきた。

 

 クスクスと夕張が笑う。

 

「認めたら? 顔、赤いよ」

 

「あ、あう」

 

 きっぱりと断言する夕張。

 

「あなたは夕立のことが好きなの」

 

「私が、夕立のことを好き」

  

 明石は夕張の言葉を繰り返した。自分で口に出してみると、胸にストンと落ちてくるものがあることを明石は自覚した。

 好き。

 夕立が好き。

 私は夕立のことが好き。

 反芻する。

 違和感は何もない。両の手を頬に当てると、ほんのりあったかくて、トクン、トクン、と心臓の音がいやに大きく聞こえてくる。自分でここまで分かってしまうと、もう違うとは言えなかった。

 

「それにしても、夕立を好きになっちゃったかぁ」

 

 身体を後ろに倒して両腕を枕代わりにしながら、夕張は苦笑する。

 

「な、何よ」

 

「いやね? 私的には夕立って、恋人にしたいような人じゃあないんだよね。上司とか同僚とかだったら頼りになる感じだけど、恋人はちょっとねぇ……」

 

「でも、とっても良い人よ」

 

 好きということを自覚してしまうと、想い人が貶されるのは面白くない。

 唇を突き出して明石が短く反論すると、悩みつつも言い難そうに夕張は夕立を評価する。

 

「友達の好きな人をあまり悪く言いたかないけど、夕立は良い人ではないと思う。気が利くところがあったり、優しい面があることは認めるけどね」

 

 でも頭は固いし、気に入らないものは露骨に嫌悪感を表して認めようとしない。時と場合によっては悪人になる素質がある、と告げるのは流石に自重した。

 

「まあいいや。それで、いつ告白すんの?」

 

 身体を起こした夕張が明石の顔を覗き込む。

 

「告白っ!?」

 

 明石が甲高い声を上げて驚愕した。

 

「うわぁ! いきなり大きな声を出さないでよ」

 

「ご、ごめん。でも告白って……」

 

「そんなに驚くこと? 好きな人に告白って。ましてやこんなご時勢じゃ、いつまでも五体満足で生きてられるとは限らないんだし、とっととやった方が良いんじゃない?」

 

 それはそうである。特に夕立は前線で戦い続けているので、もしもの不幸もあり得た。それに、艦娘の一人が実際に経験している。ならばこの想いを早いうちに伝えた方が良いのではないだろうか。

 しかし、明石の答えは違った。

 

「私はしない」

 

「えっ?」

 

「私は、夕立に告白はしない」

 

 夕立のことを考えた結果だった。

 仮に今ここで夕立に告白したとしても、彼女は受け入れてくれることはないだろう。よしんば受け入れてくれたとしても、何か関係が変わるとは思えない。

 艦娘たるもの、一人の女としてより軍人としての責務を全うしろとでも言ってくるだろうか。

 

 夕立は恋愛に消極的だ。

 それは、艦娘は深海棲艦と戦うことが第一だとしているし、身近に愛し合う人が死んでしまって、戦いを一時期放棄した人がいることも理由にあるのだろう。

 

 だったら告白はしない。

 深海棲艦との戦争が終わって、軍人として、戦う者としての艦娘が必要なくなったその時に想いを伝えよう。それまでは夕立の同胞、友達としての明石でいよう。

 

「この戦争が終わるまで、私はこの言葉を胸の内に秘めておく」

 

「明石は、それで良いの?」

 

「うん。夕立は強いんだから、絶対に死んだりなんかしない」

 

 私を置いていったりしない。

 

 破顔する明石。どこか無理をしているように見えたけれど、夕張は友達の出した結論を尊重することにした。その上で、友達が泣く羽目にならないよう支えようとも。

 夕立との出会いから一年。

 こうして恋を知った明石は、大きな決断を下すことになった。

 

 と、それからさらに一年程経った現在。

 工廠に四人の艦娘が会していた。

 

「明石!」

 

 戦いが終われば工廠に寄って欲しい出撃前に言われた夕立は、少々アクシデントに見舞われたものの工廠へと足を運んだ。出迎えてくれたのは妖精さんという小人たちで、彼女たちの案内の下、夕立と響は明石のいる場所へと向かったのだった。

 

「夕立!」

 

 クリーム色を多く残した白髪を一つ結びにして後ろに垂らした少女、夕立の姿を認めた明石が作業を中断して駆け寄って来る。

 油やら煤やら何やらで汚れた顔や服を恥ずかしげなく晒しているところは、流石に製造や整備が本業の者らしかった。心なしか鉄の臭いが漂ってくるのを夕立は心よく思った。

 

「戻って来てたんだ」

 

「先ほどな」

 

「どこも怪我はしていない、よね。良かった!」

 

「私はあの程度の敵に遅れは取らんよ」

 

 花が満開に咲いたような笑みの明石。

 夕立もどことなく楽しそうだ。工廠に来る前に不快な出来事が起こったとは、今の夕立からは想像もつかない。

 

「あれで隠しているってんだから、驚きだよね」

 

 夕立と明石から少し距離を取った所に、響と夕張が並んで立っていた。まるで夕立と明石の二人を見守るようである。

 呆れたとでも言うように、夕張はため息を一つ。

 

「胸の内に秘めているどころかおっぴろげだよ」

 

 夕張の頭の中に一年前の日のことが蘇る。

 明石と夕張だけの秘密。

 告白はしないってだけで、好意を抱いているってことは隠さないということなのかな。毎回あの調子だから、夕立も気付いていないことはないと思うけど、そこの所は本人に訊いたわけではないから分からない。

 

「私の所にもよく相談に来るよ。勿論、夕立さんのことでね」

 

 そこまでしているのなら告白すれば良いだろうに。

 夕張には明石の考えがよく分からない。けれど、超えてはいけない一線が彼女の中にはあるのだろう。

 

「ところで、どうして明石は夕立さんを呼んだんだい?」

 

「見ての通りだよ。この前整備した刀の具合を確かめるのを口実にってやつ」

 

「ああ、やっぱり」

 

 好きな人と少しでも長く一緒にいたいのだと思う。ならとっとと告白しろと言いたくなるが、あの日友達の考えを尊重することを誓ったのだ。その上で支えるとも。だから、言えない。

 

「恋する乙女の考えることはわからないなぁ……」

 

 もう一度、今度は大きなため息を吐いた。

 そんな夕張に響が微笑する。

 

「まっ、楽しそうだから良いんじゃないのかい?」

 

 夕張と響きの視界の先では、明石と夕立が笑いあっていた。

 

「それもそうだね」

 

 ここでようやく夕張もニコリと笑った。

 

 



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海の屑作戦
その①


 ここ数日、夕立に出撃命令はなかった。

 と言っても、それは夕立に限ったことではない。鎮守府に所属する殆どの艦娘は、数日間海に出ることもなく陸に閉じこもっていた。例外は軽巡洋艦娘とそれに付き従う駆逐艦娘のみ。彼女たちの遠征艦隊だけはせわしなく鎮守府と海を往復している。

 

 これが何を意味しているのか分からない艦娘はいない。自分たちの状況が嵐の前の静けさであることを噛み締めながら、日々を無為に過ごさないようにしていた。

 夕立は最初の方、岩峰に自分も遠征艦隊に加えてほしいと進言していたのだが、「今は英気を養っておくのだ」と言われて、嫌々ながらも承知。

 

 食事、軽い訓練を除いて、他の艦娘に付き合う日々を送っていた。

 

「夕立、何か落ち着いてるね? 今回の作戦は夕立の悲願だったんでしょ」

 

 頭に白い布を巻いて、健康的に焼けた小麦肌が特徴的な長良が、白い歯を見せて笑った。彼女は明るく元気があって向日葵のような少女だが、一番の親友は夕立であった。なので、未だ公表はされていない海の屑作戦のことを察知している。

 

 誰しもが二人に交友関係があることを意外であると感想するだろう。

 

 二人の出会いはソロモンにあった鎮守府。そこへ出向してきた長良は、多くの友好関係を結ぶのだがその中でも一番気が合ったのは夕立だった。

 艦娘は深海棲艦と戦うことが本分である。

 軍人然とした夕立の思想の根底にあるものが、長良の中にもあったことが二人を結び付けた。表の性格は全く違うものの、根本的なところは一緒だったのだ。

 であるから、何かと固い夕立も長良といることを良く感じるのであった。

 

「私は燃えてるよ。あそこは私の第二の故郷だもん。絶対取り戻してやるんだから!」

 

 現在地は鎮守府の門前。これから長良が軽いランニングをするとのことで、夕立も一緒に走ることにしたのだ。

 時刻は朝食前。朝の冷たい空気が二人の身体を包み込む。長良にとって興奮状態の身体を程よく冷ますにはちょうど良かった。それは夕立にとってもだ。

 

「お前には私が落ち着いているように見えるのか? 私もお前と同じだ。最近は武者震いが止まらん」

 

「そりゃそうか」

 

 馬鹿なことを言ったな、と長良は苦笑する。

 長良にとって第二の故郷でも、夕立にとっては第一の故郷だ。自分よりも胸の内が熱くなるのは当然のことだった。それに、夕立はこの作戦のために生きていたと言っても過言ではないほどに、思い入れが強いのだ。自分とは、この作戦に掛ける想いが違う。

 

 話をしながらストレッチを済ませた夕立と長良は、どちらかが先という事もなく駆けだした。軽いランニングと言いつつも、長良が基準なのでそこそこ速度は出している。

 夕立は自然に長良の隣に付いた。

 ソロモンに居た頃はよく二人で走っていたものだった。この鎮守府に夕立が来てからも、時々一緒に走ることがあったので慣れたものである。

 

 二人が走っていると、様々な外の景色が見えてくる。昇ってこようとする太陽、優雅に空を舞っている鳥、中でも印象的なのは人々が暮らす町の姿であった。深海棲艦という脅威など、まるで対岸の火事とでも言うような平和がそこにはあった。

 でも、それで良いのだと夕立と長良は思う。実際に町に住む人々は深海棲艦を人類の脅威として捉えている。そして彼ら彼女らは、直接的に戦えないながらも自分たちにできることをやって、間接的に戦っているのだ。そうして勝ち取っている平和が町並みに出ているのだった。

 

「そういやこの前ここを走っていたらさ、町の人たちと偶然ばったり会って応援されたんだよね――頑張れって。お願いしますって。ああいうのはやっぱり、力になるもんだね」

 

「うむ」

 

 夕立にも経験はある。確かに口だけの応援であっても、言葉に想いが詰まっていれば受ける側の力になるものだ。これもまた、彼ら彼女らの戦い方の一つなのである。

 

「想い……想い、か……」

 

 小さく夕立はこぼした。無意識だったのであろうその呟きを、隣で走っている長良は聞き取っていた。

 

「どうしたの、夕立?」

 

「私のここには、数多の想いが込められている」

 

 言いながら、夕立は自身の胸に軽く手を当てた。

 

「同胞たちの想い……私たちを頼りとする人々の想い……散って行った英霊たちの想い……彼女たちの想いが今、私をこの地に立たせている」

 

 視線を右に向ければ、そこには広大な海が広がっている。この海の連なる先に夕立の帰るべき場所があった。

 

「そして、皆の心からの想いを託され……それらの熱き想いを束ね……私は再び、あの海に、あの地に我らが旗を掲げるのだ!」

 

 刹那、光が天に昇った。

 

「おおぅ……」

 

 その様子に長良は思わず感嘆をもらす。

 今まさに、夕立の言葉に反応するように朝日の光が天で輝いたのである。これはただの自然現象であり、偶然のタイミングで昇りきっただけの話だが、傍から見ていた長良には、太陽も夕立に想いを託したかのように見えたのであった。

 

 

 

「これは一体何の騒ぎだ」

 

 ランニングを終えて鎮守府へと帰って来た夕立と長良。二人を出迎えたのは異様な盛り上がりを見せている艦娘たちであった。

 何が起きていると言うのであろうか。自分たちが外に出ていた短い時間の間に鎮守府で何が。

 近くにいた駆逐艦娘を捕まえて話を訊いてみても、「大きい!」「凄い!」「かっこいい!」などと要領を得ない答えばかり。

 

 近々大きな戦いがあることを知っている二人としては、新兵器のお披露目でもやっているのだろうかと当たりをつけてみる。

 だが、夕立としてはそれでは納得がいかない。毎日のように明石に会っているが、そんな新兵器を開発しているなどという話は一切聞いていないのだ。

 ならば何かと考えるが埒が明かない。取りあえず明石を探そうということになり、ちょうど付近を歩いていたので明石に尋ねてみた。

 

「明石。朝からこの騒ぎは何だ?」

 

「ああ、これね。これは――」

 

「貴様がソロモンの悪夢か?」

 

 背後から強大な気配。咄嗟に振り向いて身構える夕立。

 この私にここまでの威圧感を与えるというのか……ただ者ではない。

 夕立の額にじんわりと汗が浮かぶ。長良も一応の警戒態勢をとった。ここに堂々と居るということと、明石が特に何もしていないのを念頭に置けば、この女性は味方なのだろう。それも艦娘であり、さらに相当できる。

 

「何者だ?」

 

「大和型戦艦二番艦の武蔵だ」

 

 答えたのは女性ではなかった。

 

「閣下!」

 

「うむ」

 

 女性――武蔵の後方から歩いてきたのは岩峰であった。その姿を捉えた夕立は、直ぐに構えを解いて敬礼する。長良に明石、それと武蔵も後に続いた。

 

「楽にしてよい」

 

「はっ!」

 

 夕立が敬礼を解く。

 岩峰は頷くと、武蔵の肩を叩いた。

 

「夕立と長良は先ほど居らんかったからな、改めて紹介しよう。大和型戦艦二番艦の武蔵。青森提督から我が鎮守府への支援として出向してきた。ここからはまだ秘書艦の加賀以外知らないが、彼女はソロモンの奪還のために青森の奴が送ってくれたのだ。ソロモンの奪還作戦が近々行われるのは、夕立は無論、長良や明石も察していることだろう」

 

「青森閣下から、ですか」

 

 夕立の視線が岩峰から武蔵に移った。

 見極めるように上から下まで見つめる。戦艦の中でもさらに大柄な肉体と鍛えられた身体は実に頼もしさを覚え、褐色の肌に残る傷跡は彼女の戦いぶりを物語っており、眼鏡の奥で真紅に輝きを放つ瞳はただただ鋭い。艤装をつけていない状態でも揺るぎない存在感があった。

 いるだけで味方に安心感を、敵に絶望を与える、とさえ思う雰囲気がある。

 

「……ふむ」

 

 静かに頷くと夕立は言った。

 

「武蔵……君が武蔵なのか……素晴らしい威容だな……この私にあれほどの威圧感を与えたことといい、君はまさしく我が軍の誇りである大和型に相違ない」

 

 感激したようにほうっと夕立は笑みを作った。

 自分の感性に過ちは無い筈だ。同意を求めようと夕立は、明石と長良に声を掛けた。

 

「明石、長良、君たちもそう思わないか?」

 

「そうだね。話には聞いていたけど、間近で見ると凄いや」

 

「う、うん……そ、そうね」

 

 長良は完全に同意していたが、明石の返答は少々奥歯に物が挟まっているよう言い方だった。

 その理由は一つだけである。

 あんな子供みたいに笑うなんて。私といる時にあんな風に笑ったところなんて一度も見たことがない。

 心の中で一人の女としての明石が嫉妬の炎を上げるのである。自然と眉宇を寄せてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。

 

「若く、青い……」

 

 唯一その明石の様子に気づいた岩峰は微笑ましそうに笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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その②

 武蔵との出会いを果たした夕立は上機嫌で食堂へと向かっていた。彼女と逢えたこともさることながら、彼女ほどの艦娘が応援に来たということで、ソロモンの解放が真に近い未来であることを実感したのだ。悲願の成就が間近とあって嬉しくないわけがないのである。

 朝の食堂はやはり混んでいた。ここで一日を生きる活力をつけようと、様々な艦娘たちが朝食を摂っている。艦種には関係なく仲の良い者同士で摂っているようだった。賑やかな声が朝食の匂いと一緒に食堂に充満している。

 膳を受け取った夕立はちょうど四人分空いている席へと足を運ぶ。自分に加え、一緒に外で走っていた長良と明石、武蔵の四人だ。

 夕立が席に着くと明石が自然な流れで夕立の隣に腰を落ち着けた。その様子を見て長良が苦笑しながら夕立の対面に、武蔵は何のことで長良が笑ったのか分からなかったが、明石の頬がほんのりと赤く染まっているのを認識して、やっぱり苦笑しながら席に座った。

 膳に乗る朝食は湯気を天に上らせ四人の鼻腔を刺激する。朝食は大盛りの白米に味噌汁、焼き魚と香の物と彩りよく並べられていた。食堂の主である間宮が用意した朝食である。一同は間宮と食材に感謝の意を込めると先ずは味噌汁に手をつけた。

 

「美味いな」

 

 武蔵がぽつりと呟いた。

 それに明石が得意げになって答える。

 

「でしょ」

 

 自分たちが日常的に利用する食堂の味を誉められて悪い気はしないのだ。以降誰も喋ることなくひたすらに食べ続ける。

 元よりこの四人は食事中に和気藹々と会話するタイプではなかった。それに食事が本当に美味しいのだ。特に白米が美味しい。夕立はこれを味噌汁で一膳、焼き魚で一膳、香の物で一膳と合計三膳も平らげた。最後の一口は香の物の抜けるように爽やかな香りを堪能しながら食した。

 朝食を終えると食後のデザートタイムである。膳を片付けた四人はデザートとしてプリンをもらった。これも間宮の手製だ。明石、長良、武蔵の三人はこれも美味しそうに食べるが、夕立だけは手をつけずに珈琲だけを飲む。

 

「夕立、これ食べないなら貰って良い?」

 

「好きにしろ」

 

 食べないなら勿体ないからと明石が夕立のプリンも食べ始める。理由は間違いなく建前であろう。ゆっくりゆっくりと時間を掛けて夕立のプリンを口の中に運んで行った。

 この調子だとだいぶ時間が掛るだろう。幸せそうな明石を置いて三人は話し始めた。

 

「ねえねえ、武蔵は今日の予定何かあるの?」

 

「特にはない」

 

 鎮守府に派遣されてきた武蔵は、特に何かしろと指示を出されてはいなかった。数日中の内に、出陣の命を下されるであろう。それまでは訓練に加わったり、こうして交流を深めることが、強いて言えば予定である。

 大して興味もなかったのだろう。訊いておきながら、長良は「ふ~ん」と気のない返事をした。続けて何か武勇伝の一つでもと話をせがむ。

 これには夕立も興味があった。他人の勲功話や武功話は聞いていて面白い。況や大和型戦艦として押しも押されぬ地位を築く、武蔵の話である。

 だったらと武蔵は自慢げに語り始めた。いざ、戦いの話になると、長良はさっきとは打って変わって興味津々に瞳を輝かせる。夕立も時折頷きながら、話に聞き入っていた。

 やがて話に一区切りがつくと、自分ばかり話していても何なので、と武蔵が夕立の話を求めた。では、何を話そうかと夕立が考えていると、武蔵からソロモン撤退戦のことを訊きたいと頼まれる。

 

「最早、伝説となっている戦いだからな。生き残りであるお前の口から、是非とも聞かせてほしい」

 

「あの時のことか……よくせがまれるな」

 

「それだけ凄いんだから、仕方がないよ。私も何度聞いても飽きないし」

 

「まあ良い。では、話そう」

 

 瞳を閉じて、瞼の裏に当時のことを思い映しながら、夕立は言葉を紡いでいく。

 二年前のことだ。

 ソロモン諸島に属する島の一つに構えられた鎮守府。そこの艦娘の一人であった夕立は、その日、いつも通り侵攻して来る深海棲艦を撃退しようと、響、他四名の艦娘を引き連れて出撃していた。

 そして予定通り深海棲艦を撃退した後、鎮守府からの通信が入ったのである。爆撃音と悲鳴が入り混じった通信。ただならぬ事態が鎮守府で起こっていると察した夕立は、直ぐに鎮守府へと戻った。

 

「急いで戻った私たちだが、鎮守府には戻れなかった。深海棲艦の大群に阻まれてな。まあ、戻れた所で意味はなかったのだが」

 

 通信越しの状況と、鎮守府へ戻ろうとする夕立らを待ち受けるように現れた深海棲艦の群れから判断して、鎮守府はもう機能していない状態にまで叩き潰されたのは明白だった。生き残りは、この時点で夕立含めて六人のみだと推測される。

 

「閣下……紛らわしいな。提督も同胞たちも皆散ってしまったことを、私はあの時直感していた。私だけでなく、響も、他の者たちもな」

 

 斯くなる上は、艦娘として恥ずかしくない戦いぶりを示し、華々しく散って同胞たちの後を追うべし。夕立は玉砕することを決意し、他の艦娘たちもそうするべきだと覚悟を決めた。だが、ただ一人、響だけが否を唱えたのである。

 

「ここで死んで何になる。一時の自己満足以外の何でもない。ここは生きて、同胞たちの無念を晴らすことが、我々の責務である。生きることは、恥じゃない。響にそう言われて、私は、まさにその通りだと思った。軍人の責務とは何か。艦娘の責務とは何か。私は響に教えられたのだ」

 

「ほう。つまり、響がいなければ、ソロモン撤退戦という伝説も、お前と言う艦娘も、この世には存在しなかったということか」

 

「その通りだ、武蔵。彼女の存在なくば、私は本当の意味で恥を晒したまま、海の藻屑となっていただろう。響には感謝してもしきれんよ」

 

 響に説得された夕立は、一先ずその場から脱出することにした。深海棲艦は、正面だけでなく、次第に右左後方と夕立らを包囲するように布陣していく。どの方向へ脱出するかと考えた時、敢えて敵の密集する正面突破を選択した。

 

「深海棲艦どもの勢力圏を考えた時、正面を突破する方が、二戦、三戦する必要はなく、生き残る確率が高いと睨んだ。故に私たちは、正面へと突撃した」

 

 右、左、後方、そのどれを選んでも、深海棲艦の勢力圏へと深く入り込んでしまう。正面を抜ければ、夕立らの鎮守府がある。つまり、つい先ほど制圧されたばかりなので、その制圧部隊しか敵はおらず、結果として一番手薄いと思ったのだ。

 

「正直無理だと考えなかったわけではない。多勢に無勢も良いところだったからな。だが、死ぬわけにはいかない、同胞たちの無念を晴らすまでは死ねない。一心不乱に私たちは戦った」

 

 けれども深海棲艦の防御は硬かった。夕立らを個々に分断し、数を頼んで押し潰さんとして来る深海棲艦。あわやと、夕立の命が危なかったのは一度きりではなかった。だがその度に他の艦娘たちが、貴女さえ生きていてくれたらこの戦いは勝利だ、と庇って沈んでいく。ここまで来れば何としてでも生き延びてみせよう。夕立と響のみになっても、諦めなかった。

 すると、天が微笑みかけてくれたのだろうか。夕立と響はついに、深海棲艦の囲みを突破して戦場から離脱出来たのだ。そこからさらに、敗走を続けて今の鎮守府に辿り着き、岩峰に救われたのである。

 

「話はここで終わりだ。武蔵、これで満足したか?」

 

 夕立はそう言って、珈琲を飲み干した。

 

「ああ。面白い話を聞かせてもらったよ。おっと、面白いなどと口にするのは、少し不謹慎だったか?」

 

「そうだな。まあ、あの者たちも武勇伝という形で語り継がれてもらっていた方が嬉しかろう。いずれあの者たちにこうして世間話程度に話して良かったのか、訊きに行くとするさ」

 

 ふっと笑みを浮かべる夕立。その表情には儚げなものがあって、言葉と合わさると、嫌なことを連想してしまう。

 これに反応したのは、プリンを食べ終って、夕立の語りに耳を澄ましていた明石だった。

 特に夕立のそういうとこに敏感な明石としては、聞き逃すことは出来ない。死んだ人に訊きに行くだなんて、それってまさか。

 

「夕立……あなた、死ぬ気なの?」

 

 明石は顔面を蒼白にして、夕立の横顔を見つめた。

 迫るソロモン奪還戦。夕立が今生きているのは、この日のためなのである。ソロモンの海を奪還し、同胞たちの無念を晴らす。もしかしたら、夕立はその戦いで。

 長良と武蔵も夕立の答えを待つ。

 たっぷり一分ほど時間を取って、夕立は答えた。

 

「私は不死身でも不老不死でもないのだ。死ぬだろうよ、いずれな」

 

 夕立にしては珍しく、冗談めかした答えであった。

 



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その③

 その日の夜。夕立は興奮からか中々眠りにつくことが出来なかった。もう直ぐもう直ぐと心が逸って、落ち着けないのである。身体が火照り熱くてしょうがない。

 まだか。

 まだなのか、と身体が急かしている。

 二年間待ち続けたのだ。後数日ぐらい大人しくしてくれないものかと、自分の身体に訴えかけると同時に、その身体の熱い思いを理解する夕立がいた。

 とにもかくにもこのままじゃいけない。出撃の命が下されるまでずっと起きているわけにもいかないのだ。そんなことをしていたら身体がもたない。

 ベッドから起き上がり、用を足すべく自室を後にする。ついでに身体を冷やすべく風に当たろうと思った。身体の火照りも夜風に晒せば丁度よくなるだろう。

 明かりのない廊下を進み、トイレへと向かった。トイレで用をすませば、夜風に当たるべく外へと向かう。正直なところ、部屋のベッドから降りた時から、身体はそこそこの冷えを感じていた。だからもう夜風に当たる必要はないのだが、どうしてか理由がなくとも当たりたくなったのだ。故に、外へと向かっている。

 途中、夕立は一人の艦娘と遭遇した。誰あろう、北上であった。

 嫌な奴に会ってしまったものだ。単純に面も見たくないというのはあるが、北上と顔を合わせると碌なことにならない。罵倒試合は序の口、この前は殺し合いの一歩手前にまで発展したのだ。いや、もう殺し合いだった。

 身体の火照りを抑えたい夕立としては、北上と顔を合わせるなどもっての外なのだ。冷えるどころかマグマのように煮えたぎってしまう。

 無視をしよう。それが夕立にとって正しい選択だった。

 しかし、北上にはそんな気がさらさらないようで、

 

「夕立」

 

 と、声を掛けて来た。

 夕立は顔を歪める。またぞろどのような嫌味が、あの忌々しい口元から飛び出して来るのやら。身構えていると、予想していた嫌味の類は一向に飛んで来なかった。

 そればかりか夕立が聞いたこともないような声音で北上は言う。

 

「ちょっと話があるんだけど」

 

 言外について来てほしいという意味を含ませながら、北上は夕立に背を向ける。一体何を企んでいるのかと警戒するが、どうも様子が変だ。いつも顔を合わせる時に感じる殺気や憎しみが感じられないのだ。

 怪訝さを押し隠しながら、夕立は三歩距離を取って、北上の後を追った。

 

「入って」

 

 案内されたのは北上の部屋であった。北上が自分の部屋に夕立を入れるなど天地がひっくり返ってもあり得ない話だと言うのに。ますますもって気味が悪い。

 

「何を考えている?」

 

「いいから、さっさと入って」

 

 夜のためか周囲に気を遣って、小声で夕立をせき立てる北上。何かあればその時はその時だと、胸を張り堂々しながら部屋の中へと入った。

 北上の部屋は一人部屋である。もともとは二人部屋だったのだが、同室の艦娘は既に名誉の討ち死にを遂げているので、現在は、北上が一人で使っていた。同室だった者の名は大井――北上が愛した人であり、夕立への感情を憎悪に変えた艦娘である。

 

「適当に座ってよ」

 

「では、失礼しよう」

 

 夕立はドアを背に胡坐をかいて座った。部屋の中央には布団が敷かれており、そこに北上が腰を落ち着ける。

 しばらく北上は沈黙した。

 夕立も黙っている。

 静かな空間だった。物音一つとして存在しない奇妙なまでに静かな空間。しかし重苦しさは感じられない。夕立と北上――不倶戴天の敵同士、ともすればお互いに深海棲艦より嫌っているのではないかという二人が揃う空間だと言うのに、穏やかな静寂さがあった。

 夕立は口を開かない。用があるのは、自分に話したいことがあるのは北上の方である。どう話を切り出すべきか迷っているのであろう。ならば、その考えが纏まるまで待ってやるだけであった。

 やがて、北上が口を開いた。

 

「あんたってさ、人を愛したことあるかい?」

 

 唐突な質問だった。意図がまったく読めない。いきなり何の質問をしてくるのだと思った。そもそもお前にそんなことを訊かれるような仲じゃないとも思った。だけど、答えないと話が進みそうにないし、珍しく北上が殊勝な態度を取っているのだ。真面目に答えてやることにした。

 

「ある」

 

 夕立は人を愛したことがあった。未だ新米の艦娘だった頃、自分を一人前の艦娘にするべく指導をしてくれた人に。今の夕立を形作っている基になっているのは、その艦娘である。彼女のようになりたいと日々鍛錬を続け、常に彼女と行動を共にした。そうしている内に、憧れが変化したのである。身体は大きく、心は広く、心技体揃ったまさに艦娘の、軍人の鏡。そんな人でありながら、可愛らしいものやチョコ菓子なんかには目がなかった。そのことで少し失望したこともあったが、夕立はその艦娘を確かに愛していた。

 

「愛した人、今は?」

 

「死んだ。当の昔に、な」

 

「そうかい」

 

 今より三年程前のことである。

 驚いたような表情も馬鹿にするような表情も見せず、北上はただ頷くだけであった。

 また沈黙。

 今度は夕立がその沈黙を破った。

 

「おかしいとは思わんのか? 私が恋だの愛だのを肯定するのは」

 

 軍人たるもの、艦娘たるものは鎮護の剣たれ、と常々口癖のように言っている夕立が、実は愛していた人がいた。色恋沙汰を優先するのは恥ずべきことだと言っている夕立が。

 北上は首を横に振った。

 

「別におかしいとは思わないよ。そもそもあんたがいつも言っていることは、恋愛の前に艦娘として深海棲艦を倒すことに集中しろ、恋愛に必要以上にかまけるなって意味でしょ? 恋愛を全否定しているわけじゃないんだし、あんたが恋愛してもおかしくはないさ。まあ、あんたに恋や愛が分かるとは思えないけど」

 

「どういう意味だ?」

 

「一つ聞くけど、好きな人が死んだ時、あんたはどう思った?」

 

 どう思っただろか。

 最初は信じられない気持ちが強かったかもしれない。あの人が沈むなどあり得ないと容易には信じられず、現実が見えて来た時は、あの人の分まで戦い、一刻も早く海の秩序を取り戻さなくては、と思った、のだろう。

 夕立は北上に話した。

 

「やっぱり、あんたのそれは、恋や愛じゃないよ。もっと別の感情をその人に抱いていたんだ。それを恋や愛と勘違いしている」

 

「何?」

 

「本当に好きな人が死んじゃったら、そんな風に割り切るなんて無理でしょ」

 

 大井が死んだ時は、北上は荒れに荒れた。廃人のようにボーっとしている時もあれば、いきなり大泣きすることもある。途端に怒りだすこともあるし、狂ったようになることもあった。愛する人の死は、そこまで北上を追いつめたのである。

 そんな北上だからこそ、夕立の思いは別物だと断言する。恋愛の価値観なぞは人それぞれのことだと言えばそれまでであるが、ともかくとして北上にとっては違うのだ。

 夕立にしてみれば、そんなことはない。あれは恋や愛だったと言える。自分はあの人に惚れていて、確かに愛していたのだと。

 ただ、それを議論する気は毛頭なかった。もう既に終わったことだ。何としようもないし、仮に北上の言う通りだったとしても、仕様のない。

 北上にしても同じこと。そこに本題があるわけではなかった。重要なのは愛する人が死んだ時、残された人はどう思うのか、ということ。

 北上が夕立に話したい本題はここからだった。

 

「単刀直入に訊くけど、明石があんたを愛していることは、知ってるでしょ?」

 

「……ああ」

 

 面と向かって言われたことはない。けれどあそこまで露骨に訴えられれば、気付かないわけはなかった。夕立は人の感情に鈍感なわけではないのだ。

 そして明石が自分に気持ちを伝えて来ない理由も分かる。自分の意思を尊重してくれているのだ。軍人としての自分を全うさせてくれようとしている。ありがたかったし、どことなく心苦しくもあった。

 

「だったら話は早いね。あんた――死ぬんじゃないよ」

 

 北上は極めて真面目な表情を作ってから言った。夕立の切れ長な瞳をしっかりと見据えている。

 

「今度大きな戦いがあることは、この鎮守府内では周知の事実だけれど、その戦いって、あんたの元いたところを取り戻すための戦いらしいじゃないか。そして、あんたがそこを奪還するためだけに生きていることも、だいたいの艦娘は知っている。だからさ、自分が死んででも奪還するだなんて気は起こすんじゃないよ。無理だと思ったら撤退しろ」

 

「お前に死ぬなと言われるとはな。それこそ不吉なことが起きそうだ」

 

 夕立が笑いながら返すと、北上は眉間に皺を寄せる。

 

「勘違いすんな。アタシはあんたのことなんざどうだって良いんだよ。と言うか死ねって思ってる。でもさ、明石のことを考えれば、あんたが死んでもらったら困るんだよ。明石のあんたに対する惚れっぷりは尋常じゃない。それこそアタシが大井っちに対する想いと同じぐらい。あんたが死ねば、明石はやばいことになるのは明白だ。だから、死ぬんじゃないよ。絶対に生きろ」

 

 分かった、死なない、と夕立は言わなかった。

 死ぬ気はない。

 けれども死んで目標が達成されるのなら、喜んで死のう。

 だが、自分が死ねば明石が、大井を亡くした時の北上のようになると考えると、死ねない。

 激しく心を揺さぶられる夕立。この心の動揺を悟られないよう、ただ、うっすらと微笑みを浮かべるだけで、それ以上は何もしないし、何も言わなかった。

 

 

 



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その④

 無性に明石のことが頭から離れなくなった。透き通らんばかりの白皙の顔を油で汚し、恥じらいの混じった笑顔を見せる明石の姿が、まじまじと思い浮かぶ。

 今までこんなことは一回もなかった。明石が自分のことを好きなのはとうに承知のことだが、だからと言って特に何か思うことはなく、気にしようとも思わなかった。その思いよりも、好きという気持ちを抱きながら、軍人としての自分を優先してくれていることに嬉しさと心苦しさがあることは、既に述べたことである。

 だが、北上に話をされてから、ずっと明石のことが頭をよぎる。明石の自分を好きだという思い自体に心が揺り動かされていた。感情が激し上がる。冷えた身体に熱が戻って来た。しかもこの熱は、戦いの前に興奮している熱ではなく、まったく別の夕立が知らない熱であった。

 

「これはいかん」

 

 ますます眠れなくなった。北上の部屋から自分の部屋へと戻り床に着いた夕立だが、目を瞑れば明石のことでいっぱいになり、身体が燃え上がるように熱い。とてもじゃないが眠れたものではなく、狼狽を隠せない。

 たまらず床より飛び上った夕立。荒くなる息を整えて、当初の予定通り外の夜風を浴びることにした。決戦の日は近いのだ。明石のことに頭を囚われるわけにはいかない。

 外に出れば濃ゆい闇に紛れて冷え冷えとした風が、夕立の身体を突き抜けていく。熱を帯びた身体には心地よい風であった。とは言うものの、熱は一向に収まる気配なく、明石のことも風に乗せて払いのけることは出来ず、一層に深くなるばかりであった。

 

「私はどうしたと言うのだ」

 

 口に出して自問してみるが、答えなど出て来やしない。

 ふと、夕立は知らない筈の熱に一瞬だが既視感を覚えた気がした。これを追及して行けば原因が分かるに違いない。三十分、一時間と時間を費やすが、最後のところで止まってしまう。やはり、答えは出て来なかった。

 

(明石と話そう。そうすれば答えは出る筈だ。悲願の日は近い、それまでに何とかしなくては)

 

 と、思った。

 結局この日、夕立は一睡も出来なかった。

 

★  ★  ★

 

 明朝早く、夕立は明石の部屋を尋ねた。早いと言っても明石はこの時間帯ならば既に起床している。それを計算してのことだ。出来うる限り早く、この轟轟と身体の中で燃える熱と、頭から離れない明石のことを何とかしたいという夕立の焦りが出た上の行動だった。

 出迎えてくれたのは明石と同室の夕張だった。こんな朝早くからの来客に眉を寄せる夕張に、夕立は呼吸もつかず言う。

 

「昨夜から私の身体がどうもおかしい。身体が燃えるように熱く、明石のことが頭から離れないのだ。原因は分からんが、明石に会えばどうにかなる筈だ。頼む、明石に取り次いでくれ」

 

 言葉と同時に身体の熱も吐き出すようであった。言っている本人は気付いていないが、これではまるで愛の告白である。少なくとも夕張にはそうとしか聞こえなかった。

 夕張は何とも言えない表情を浮かべて、頭を二回、三回と掻くと、その顔に微笑を湛える。

 

「まさか夕立の方から来るとは思わなかったけど……祝福した方が良いのかなぁ、これって」

 

 呟きながら一旦部屋へと戻っていく夕張。夕立が待っていると、中から明石の叫び声とどたどた慌ただしい足音が聞こえる。一分ほどすると、夕張が再び部屋から出て来た。

 

「突然来られちゃ困るよ。女の子には準備ってものがあるんだから、事前に言っておかないと。夕立だって一応女の子でしょ?」

 

「すまん。私はそういうことにはとんと無頓着な女でな。それに火急の用事なのだ。許せ」

 

「私に言っても仕方がないんだけどね。まあ、良いや。それじゃあ、後はお若いお二人でごゆっくり」

 

 そのままどこかへと夕張は向かって行く。明石と二人っきりにしてくれるらしかった。その気遣いが夕立にはありがたい。

 

「明石、入るぞ」

 

 素早く部屋の中に入った。部屋の中は比較的小綺麗にされているが、ある一角にはガラクタが所狭しと詰まっている。勝って知ったる何とやら、夕立は明石の正面に腰を落ち着けた。

 

「え、えへへ、いらっしゃい」

 

 明石は笑顔で夕立を迎える。いつものように、油で汚れこそついていないものの、恥じらいの混じった笑顔だった。

 見慣れたもので何ともない筈なのに、この時の夕立は明石の笑顔に胸を高鳴らせていた。

 まただ。また、一瞬既視感が。こんな胸の高鳴りは初めてなのに、でも似たようなことを経験している気がする。

 それが何なのか分からず、胸の高鳴りを明石に知られないよう努めて冷静に、夕立は言った。

 

「今日はお前に用事があって来たのだ」

 

「私に? こんな朝早くから私に用事なんて、どうしたの?」

 

「それは――」

 

 言葉が詰まった。何と言えば良いのだろうか。身体が熱いから何とかしてくれ、とでも言えば医者に診てもらえということになるし。会えば何とかなると思っていた。話はせずとも会えば身体は元に戻るだろうと。何と言うべきか、夕立は必死に言葉を探って、ぽつぽつと声にした。

 

「会いたくなった。昨夜からどうしてもお前のことが頭から離れず、会いたくなった故、こうして――」

 

 ここまで言うと、夕立は明石がみるみる頬を赤く染めていることに気付いた。ぽ~と蕩けるような明石の瞳と夕立は目が合った。

 一体どうしたのだろうか。自分は何かおかしなことを言ったのだろうか。夕立は自分が明石に言った言葉を心の中で反芻し、ハッとなった。

 

(これでは、愛の言葉を紡いでいるようではないか)

 

 愛という言葉に反応して、またハッとなった。

 そう言えばと二つの既視感が何なのかに思い至ったのだ。身体を巡る熱と胸の高鳴り、この二つは過去に、夕立が惚れていた人物へと抱いたことがあったのである。まったく一緒というわけではないが、しかし確かに類似する。

 夕立の身体が震えた。

 分かってしまったのだ。

 異様な身体の熱と胸の高鳴りの原因、その正体を分かってしまった。

 そして夕立が分かったように、明石も分かったのだろう。夕立の気持ち、感情を分かったからこそ、涙が筋をひいて、頬を伝っているのだ。

 夕立は勢いのままに言い切った。

 

「私はお前が好きだ」

 

 どこか言っていて、自分の声ではないような感覚に夕立は陥った。けれども紛れもなく自分が口にしたのである。

 

「冗談、じゃないんだよね?」

 

 かすむような明石の声。

 夕立は今までの明石とのことを思い出していた。出会いから日常生活に至るまでありとあらゆる記憶を。冗談じゃない。熱も高鳴りも治まるところを知らない。明石への思いは冗談じゃないのだ。

 

「私はお前が好きだ」

 

 冗談じゃないという意味を込めて、同じ言葉を放った。

 明石はほっそりとした指で涙を拭う。油や鉄によく触る指でありながら、驚くほどに綺麗な指であった。その指で涙を拭った後、言った。

 

「嬉しい。私も貴女のことが――」

 

「言うな、その先は言うな。頼むから言わないでくれ」

 

 夕立は明石の言葉を止めた。この先は絶対に言わせるわけにはいかないと思った。

 明石も口元を両手で覆う。

 いたたまれないような空気が場に蔓延する。

 夕立は胸が痛く、苦しくなった。俯いた明石を見ると、両手で胸元へと抱き寄せたくなる。そんな顔をするなと言葉を掛けてやりたかった。

 それを我慢して夕立は別の言葉を掛けた。

 

「私たちは、艦娘であり軍人だ。私たちにはやるべきことがある。今ここで、別のことに現を抜かすわけにはいかない」

 

 だから、と夕立は繋げた。

 明石は顔を上げて、潤んだ瞳で夕立を見る。

 熱に浮かされたように、夕立は続けた。

 

「待っていてくれ。もう少しなのだ。もう少しで戦いは終わる。そうすれば軍人としての艦娘の一切は必要なくなるのだ。それまで、それまでの辛抱だ。その時が来れば存分に、思いのままに」

 

 明石はゆっくりと小さく頷いた。細い肩がふるふると僅かに震えている。

 この時、夕立は昨日の昼と夜中、食堂で明石にされた質問と北上が最後に言ったことを思い出していた。

 

「私は死なんよ。深海棲艦如きにこの私が殺されることはない。明石、お前も分かっているだろう。この私があのような輩に後れを取る女ではないことを。安心しろ、安心しろ。お前はただ安心して己が役目を果たしておればよいのだ」

 

 優しく穏やかに夕立は明石の顔をのぞく。

 今度は大きく一度、明石は頷いた。震えは止まっていた。

 

 



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吉夢か悪夢かソロモンの決戦
その①


 明石は夢を見た。

 目の続く限り広がっている群青色の世界が、ゆらゆらと揺れている。そのゆらゆらと揺れている世界に一人、明石はポツンと突っ立っていた。

 右を見て、左を見て、後ろを見て、前を見て、まったく変わらない景色。一体ここがどこなのか皆目見当がつかない。

 高みを仰げば、こちらもどこまで続くのやら青模様。明石と同じようにポツンと太陽が見える。邪魔な雲がいないうちにと一層働いているようだった。

 

(ここからどうすれば良いの? 取りあえず、進んでみよう)

 

 彼女は海の上を真っ直ぐ進んで行く。あてはまったくないのだけれど、ここでじっとしているよりは生産的だと前へ前へ。どこに辿り着くのだろうか、それともどこにも辿り着かないのか。そんなことは考えないでひたすら進む。

 すると、目を凝らせばようやく視界に捉えることが出来るような距離に、人影が見えた。後姿と海の上に生身でいることから、自分と同じ艦娘だと明石は判断する。しかし誰かまでは判別がつかない。

 

(誰かは知らないけど、追いついて話し掛けてみよう)

 

 そう思いながら少し速度を上げる。徐々に徐々に近づいていくと、次第にはっきり見えるようになり、その正体も分かった。

 白の混じった肌色の髪を結び、後ろに垂らしている。身長はそこまで大きくはなくどちらかと言えば小柄、腰に刀を差していた。

 明石は歓喜した。こんな特徴的な艦娘は一人しかいない。

 

(夕立だ!)

 

 どうしてこんな所にいるのか分からないが、会えて良かった。明石はさらに速度を上げて追いつこうとする。しかし妙なことに明石は気付いた。どうしたものだろうか、一向に距離が縮まらないのである。夕立は立ち止まっていたが、心なしか逆に距離が遠のいているようだった。

 

「夕立! 夕立! おーい!」

 

 聞こえていないのか夕立はうんともすんとも反応しない。それでも諦めじと追いかけ声を掛け続ける。

 俄かに世界が変わった。

 群青色の海は漆黒に染められ、晴れ渡っていた空にはどんよりとした灰色の雲が現れ、陰鬱とした景色が広がっている。そして明石と夕立だけであった世界には、他にも無数の艦娘たちと黒々とした影が。

 

「えっ? これって、何?」

 

 困惑する明石。とにかくこのままでは拙いと足を進めようとするが、何故か動かない。さっきまで大丈夫だったのに、その場に固定されてしまっているようだ。また足だけでなく、腕などももの凄い力で抑えつけられている様に動かない。

 仕方がないので唯一動く顔を動かしていると、無数の艦娘が鎮守府の仲間たちだったことに気付く。北上や響、長良に武蔵までもいた。彼女たちは今、一様に闘争心を露わにしている。

 

(皆までいる。本当何なの、何が起こっているの……)

 

 と思っていたら、途端にハッとなった。

 これって深海棲艦と戦ってるんだ!

 今更ながらに黒い影が深海棲艦と分かり、この状況を完璧に理解した。戦いが始まると、戦闘機や爆撃機が空を飛び、巨大な爆発が轟音と共に起こり、水柱があちらこちらに乱立する。

 加勢しなくてはと意気込むが、よく見てみれば自分は何も装備していないし、何よりも顔以外が動かない。見物しているしかないと気を落としていると、再び世界が変わった。

 変わったと言っても漆黒の海や、灰色の空に変化はなく、変わったのは艦娘たちが見ていられないほどにぼろぼろになっていることと、顔に浮かんでいた闘争心が悲壮感になっていることだった。

 

「どうして?」

 

 動揺を隠しきれない明石に答えを教えてくれる者はいなかった。

 その時、夕立の声が明石に届く。その声はまるで頭の中に直接語り掛けてくるように、はっきりと聞こえた。

 

「……作戦は失敗だ。これより、撤退を開始する」

 

 切迫した呼気と一緒に吐き出された言葉は震えていた。

 

「……済まない。よもやこのような結果に終わるとは、無念の極みだ。出来うることならばこのまま斬り死にしたいところだが、そのようなことは許されんのだろうな……さて、撤退だ。一人でも多く鎮守府へと帰るぞ。散って行った者たちの戦いぶりを閣下と――後の世に伝えるために」

 

 それからの光景を、明石は茫然自失として眺めていた。

 ぼろぼろの艦娘たちに襲い掛かる深海棲艦の群れ。負けじと立ち向かう艦娘たち。最初に長良が倒れ、続いて北上が沈み、武蔵が力尽き、響が夕立を庇って散った。

 そして、

 

「うぐっ、ぬぅうう、はあ、はあ、うおおああああ!」

 

 最後に残った夕立も――明石はここで我を取り戻すと叫ぼうとした。夕立、止めて、この二つの言葉を絶叫しようとしたが声が出ない。ならばと動かない手を夕立に向かって伸ばそうとして――がっしりとその手を掴まれた。

 

「どうしたの。どうしたの。起きて、明石……」

 

 耳元から聞こえて来る声。聞き慣れたその声で、明石は目を覚ました。

 

「気がついたんだ、良かった。本当にどうしたの、何か魘されてたみたいだけど。怖い夢でも見たの?」

 

 夕張であった。彼女は心配そうに明石の顔を覗き込んでいて、その両手には明石の手が包み込まれている。

 明石はホッと安堵の息を吐いて、額にべっとりと貼り付いている髪の毛を払った。周りを見ると、そこはいつもと変わらない明石と夕張の部屋である。

 

(嫌な夢だったなあ)

 

 縁起でもない不吉な夢だ。あれが現実であったらと思うとぎょっとする。砲塔を胸元に突きつけられたように心臓がドクンドクンと鼓動を速めている。髪が震え、肩が震え、顔は真っ青になっているだろう。

 覚えず、低い声で夕張に答えた。

 

「大丈夫。確かに嫌な夢だったけど、所詮、夢だから」

 

 口ではそう言ったが、心ではやはり割り切れないものがあった。明石は悲観的な己の心を落ち着けるため、幾度が深い呼吸をした。やがて夕張に謝罪をしてから、目を閉じる。眠りにつくことは出来たが、不安は明石の心にこびりついて離れなかった。

 

★   ★  ★

 

 ついにその時がやって来た。岩峰は鎮守府内の全艦娘を自分の下へ呼び出すと、ソロモンの海を奪還することを正式に宣言し、出撃することを命じた。これは夕立と明石の心が繋がってから三日後のことである。

 艦隊を編成するにあたって、一艦隊につき六人と定められ、全部で六艦隊となった。この中には言うまでもなく、夕立・響・武蔵が入り、さらには長良と北上も加わって、総数三十六を数える。

 留守居役には明石・夕張、自ら志願して加賀などもここに入った。

 

「……夕立」

 

 出撃間際、夕立は明石に呼び止められた。弱々しい、女の優しい声音である。夕立が明石の顔を見ると、微笑の中に不安が渦巻いているのがよく分かった。いざ、出撃の時が来たとあって、自分が無事に帰って来るか心配になったのだろうと夕立は思った。

 可憐でいじらしく、愛おしさが胸に迫って来る。それと同時に、あれほど申し付けたと言うのにまだ信じてくれないのかという悲しみと、眉を顰めたい気にもさせられた。

 いい加減女々しい奴と心のどこかで思わないでもいられなかったが、何よりも愛おしさが勝って何とも言えるものではなかった。

 

「どうかしたのか?」

 

 無遠慮なつもりが、自分でも驚くほどに柔らかな声で夕立は訊ねた。

 明石は何も答えない。これではどうしようもなかった。夕立は言う。

 

「私はもう行くぞ。深海棲艦どもを悉く討ち果たし、直ぐにも帰って来るから、安心して待っているのだぞ」

 

 そのまま立ち去ろうとすると、腕を掴まれて止められた。このまま泣き出すのでないかと言うほど、明石の瞳は揺れている。

 夕立は息を呑んで嘆息もした。分からない。明石は一体どうしたのか、何を求めているのか分からない。ただ、何となく哀れであった。

 このままではいつまで経っても離してくれなさそうなので、仕方がないと、明石の頬をそっと撫で下ろした。明石は羞恥で顔を背けた。

 

「お前がどうしたのか私には分からないが、大丈夫、大丈夫だ。あの時私が言った言葉は決して嘘ではない。もう一度言うぞ、私は死なない。私は嘘が嫌いだ。だから、言ったことは一度もないのだ。安心して、この手を離せ」

 

 明石は夕立の手を離した。

 

「よし、納得したな。聞き分けたな。私を信じていろ。お前が惚れた女だ」

 

 今度は止めずに、明石は夕立を見送った。

 

 



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その②

 海は荒れていた。

 天候は晴れそのもので、空の色を移す海原は鏡面のように照り輝いている。強い風が吹き荒び、その鏡を割ると、踊り始める波が高速で海上を移動する艦娘たちの姿を隠しては出してと繰り返す。夕立はそんな波の踊りを楽しげに見ていた。

 

「何をそんなに楽しそうに見ているのですか、夕立さん?」

 

 響が小首を傾げながら夕立に訊ねる。

 

「響か。お前はこの荒れる海をどう見る?」

 

「へっ?」

 

 逆に問い返されて、響は言葉に詰まった。いきなりどう見ると言われても、荒れているなあとしか思えない。勿論、夕立はそんな答えを待ち望んでいるわけではないので、何と答えるべきか言葉に詰まったのだ。

 

「目を凝らし、耳を澄ませろ。さすればお前にも分かる筈だ」

 

「分かりました」

 

 言われた通りに響は目を凝らし、耳を澄ませた。

 最初は何にも分からなかったが、次第に見えて聞こえて来る。波の踊りは歓迎に、波の音は歓声のようであった。

 思わず、響は夕立へと視線を向けた。

 

「分かったか。そうだ、皆が私たちを迎えてくれているのだ。母なる海へと散って行った同胞たちが、此度の私たちの出撃を歓迎してくれている。ソロモンの奪還を待ち望んでいたのは、私たちだけではない。海の屑作戦を、私とお前以外にも心待ちにしている者たちがいたのだ」

 

「皆が……」

 

「うむ。今を生きる私たちも、英霊となった者たちも、想いは一つだ。永久に続く大海原を突き進み、皆で戦い、皆で取り戻そう――ソロモンを」

 

「二人で盛り上がっているところ、水を差すようで悪いんだけど、失敗した場合も視野に入れてるんだろうねぇ」

 

 厳しい表情で二人の会話に入って来たのは北上だった。このままだと、英霊たちと共に戦い、そのまま仲間入りしようと言わんばかりのように思えた。それをしてもらっては困ると数日前に夕立に話したのだ。よもや忘れたわけではないだろうな。

 北上の言葉に、夕立は「無論」と頷いた。

 

「無理だと判断すれば撤退する。お前に言われたことを忘れたわけではない。それに私はもう、容易く死を選ぶわけには行かなくなったからな」

 

 一瞬、後方遠くへと視線を向けて、夕立は微笑んだ。視線の先にあるのは鎮守府である。何と温かみを含んだ優しい笑みであろうか。響と北上が微笑みの意味を悟るのにさほど時間はいらなかった。

 

「えっ?」

 

「はっ?」

 

 何とかこの一言とも言えない言葉を吐き出すと、驚きのあまり響と北上は寂として声が出なくなった。度肝を抜かれてしまったのである。

 声の出なくなった二人に変わり、聞き耳を立てていた長良が口を開く。

 

「夕立、とうとう明石と?」

 

「うむ。とは言っても、まだ付き合うことにしたわけではない。人類と深海棲艦との戦争に終止符を打ったその時にと決めている」

 

「はは、夕立らしいね。まっ、それでこそだ」

 

 長良が如何にも愉快そうに笑った。

 その賑やかな笑い声に響と北上はハッと我を取り戻した。

 するとその時、偵察機を放っていた重巡洋艦の羽黒が敵艦を発見したという知らせを夕立に届けた。既に深海棲艦の支配領域に突入しているのだ。深海棲艦たちは、夕立たちをソロモンへは向かわせまいと、立ちはだかって来る。

 

「前方に敵艦隊発見です! 戦艦一、重巡三、軽巡三、駆逐六、以上です!」

 

 報告を聞いた夕立は鼻を鳴らす。

 

「ふんっ。その戦力で私たちの前に立ちはだかろうなどと、身の程知らずどもめ。悲願がようやく成就されようと言うのだ。小物ども如きに邪魔をされてたまるか!」

 

 気勢を上げた夕立が声を張り上げ指示を出す。

 

「空母艦娘は第一次攻撃隊を発艦させろ。出来るならばお前たちで全滅させてしまえ! 他の艦娘たちは、念の為に水上砲雷撃戦の用意だ! こんな所に時間を掛けるわけにいかない! 一気に突破するぞ!」

 

 おうと艦娘たちは声を揃えて返事を轟かせた。

 空母艦娘たちが指示通りに艦載機を飛ばす。矢を番えて上空にハッシと放つと、それが分裂し艦載機の形となる。或いは巻物を瞬時に開いて飛行甲板と成し、懐から取り出した艦載機の形に切り取られた紙に力を込めて、それを具現化させる。

 

「行けっ!」

 

 そう叫んで、空母艦娘たちは深海棲艦の下へとまっしぐらに艦載機を飛ばせた。先制攻撃で反撃させる暇もなく撃沈させるつもりであった。目算では数えきれないほどの艦載機は空中で隊を作り、喚声のごとくエンジン音を唸らせ宙を切って進んで行く。

 空母艦娘たちが水平線上に深海棲艦を目視出来るようになると、艦載機群は競い合って急降下し爆撃を加えて行った。爆発と共に海の水が塔を成して天へと突き上がる。

 戦場慣れした夕立の目は、濛々と上がる黒煙の中に生き残りが二体いることを捉えた。

 

「よしっ! 奴らを私自ら血祭りに挙げて、英霊たちの無聊を慰めるとしよう」

 

 そう決意するや佩刀し、疾駆する。

 二体の深海棲艦は一人突出して来る夕立の姿を捉えると、砲撃を放ち撃沈させようとした。狙いは正確であったが、軽々とそれはかわされる。

 

「雑兵のへろへろ弾なぞ」

 

 接近した夕立は刀を振り上げ、振り下ろした。刀は風を斬りながら宙で踊り、重巡深海戦艦を斬り裂く。人間や艦娘と同じ、真っ赤な血が飛び散って海を染めた。

 

「沈めっ!」

 

 斬り捨てた深海棲艦を気にすることなく、夕立は二太刀を振り下ろした。首を狙った一刀は深海棲艦の首を飛ばすことなく漆黒の髪だけを斬り払う。

 

「悪運の強い奴め!」

 

 返す刀で三太刀め。今度は青白い首筋に白刃が光り、戦艦型の深海棲艦は首と胴が離れ離れとなった。

 最初の戦闘はこれで終了した。戦闘ではなく蹂躙と呼ぶべきかもしれない。艦娘側に一切の被害はなく、深海棲艦は碌に戦うことも出来なかった。正しく完勝である。

 刀を鞘に納めた夕立は満足であった。

 

「幸先が良い。さあ、このまま駆け抜けるぞ!」

 

  ★  ★  ★

 

 夕立ら三十六人の艦娘はこの後三回ほど戦闘を繰り広げた。そのどれもが完勝と呼ぶに相応しいものであった。この結果に艦娘らの士気は絶頂にまで高まり、そしてついにその時がやって来たのである。

 

「驚くほどに深海棲艦が脆いな」

 

 武蔵が言った。

 確かにと夕立が頷く。

 

「先日、閣下が私に仰った。どうやら深海棲艦どもの勢力が急激に弱まっているらしいと。此度の戦いを制すれば、戦争の終わりも近い」

 

 言い終わると、何かに気付いたのか「あれを見ろ」と指をさした。

 視線の先は、一見変わらぬ海原だ。今の今まで突き進んで来た海原とどこも変わるところはない。だが、夕立には分かっている。あれこそ、あの海こそが、二年間、帰ることを待ちに待ったソロモンの海であると。

 

「さあ、いよいよだ」

 

 一足先に夕立がソロモンの海に突入した。懐かしい海の匂いが香って来る。海の荒れが激しさを増し、この地に眠る同胞たちの歓喜の声がまざまざと聞こえて来るようであった。

 全身で故郷の海を感じていると、その内に他の艦娘たちもドッと踊り入って行く。夕立と同じこの海が故郷の響、この海を第二の故郷と呼ぶ長良も、気持ちを高揚とさせる。

 

「のんびりと昔話に花を咲かせたいところだが、どうやらお出ましのようだな」

 

 夕立はぎりぎりと奥歯を噛み、胸を引き締める。眼裂の鋭い目がカッと見開かれた。

 瞬間、次々と現れる黒い影。視界を埋め尽くすほどの深海棲艦が海中より出でて、ソロモンの海を刹那の時間に黒染めした。ものすごい数だ。夕立たちはこれを突破して、敵の本隊の下へと向かわなくてはいけない。

 夕立は刀を抜いた。

 それからスーッと深く息を吸い込み、

 

「おおおおおお!」

 

 雄たけびを上げた。味方も敵も魂が凍えるような凄絶な雄叫び。明確な指示ではないが、明快な指示ではあった。これが作戦開始の、あるいは戦闘開始の合図であった。

 艦娘たちがそれぞれ動き出す。弓を構え、砲を構え、喚声を上げた。

 夕立は雄叫びと一緒に抜き放たれた矢のごとく突進する。深海棲艦は気付いた時に、仲間を三体失っていた。

 

「怨恨渦巻く青き世界に、再び秩序と平和を取り戻すために」

 

 空中で艦娘と深海棲艦の艦載機が激突する。時折、空には赤い炎と共に鈍い灰色がペイントされた。空から艦載機がパタパタと落ちては水柱を乱立させる。

 洋上では五体の深海棲艦の首が宙を舞った。

 

「同胞たちの安らかなる眠りを妨げる悪しきモノどもを、我が正義の剣をもって斬り払うために」

 

 複数の重々しい轟音が爆発を引き起こす。主砲を交わし合う艦娘と深海棲艦。中には拳や足も雑ぜて戦う者たちもいた。

 夕立は斬るばかりではなく、刺し貫いた。二体の深海棲艦が苦悶の表情を浮かべて沈んでいった。

 

「軍人としての我が責務を果たすために」

 

 一振り、二振り、三振り、目に付く敵を容赦なく斬り伏せていると、四体の深海棲艦の生命が消えた。この戦いが始まって一分も経っていないと言うのに、十四体の深海棲艦が夕立一人の手で轟沈した。まさにあっという間である。

 夕立は刀から滴り落ちる血を振り払って、一拍を置き、叫んだ。

 

「ソロモンよ、私は帰って来た!」

 

 それは心底からの魂の叫びであった。

 夕立を除く三十五名の艦娘は、その叫びを聞いて、鬨の声を合わせるのであった。

 



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その③

 戦いは艦娘側が極めて優位に立っているようであった。数は深海棲艦の方が圧倒的であったが、一体一体は大したものではない。その上連携を知らないとばかりに個人の戦いぶりが目立つ。対して艦娘側は、三十六人の精鋭揃いにして非常に組織だった戦いをしていた。ざるの如く穴の開いた深海棲艦の防衛網をどんどん突き破って行く。

 

「そらそらそらそらぁ! 沈めっ、化け物ども! はっはっは!」

 

 中でも活躍が著しいのは武蔵である。大和型戦艦の力をこれでもかと見せつけ、深海棲艦を次々と轟沈させて行く。人一倍の働きをしておきながら、疲労は見えず、猛気はいささかも衰えない。天地を揺るがす主砲は、放たれれば忽ち深海棲艦を粉砕し、その巨体は敵の砲弾をものともしなかった。

 

「撃て撃て! 敵は当たれば容易く沈むぞ! 数だけだ! この戦いは勝てるぞ!」

 

 武蔵は、雷が落ちたような迫力の声で味方を鼓舞する。これに勢いを得た艦娘たちは、前へ前と押し進む。深海棲艦はこの勢いを止める術を知らない。

 

「行くぞ!」

 

 大和型の巨人は敵の戦艦を殴り飛ばすと、敵中深くに踊り入る。その後をワッと数人の艦娘が続いた。

 

「おお、流石だな。あれが武蔵の力か、何と頼もしいことだ」

 

 大和型戦艦の名に恥じない、思わず見惚れてしまうような武蔵の戦いぶりに、夕立は口角をあげる。こちらも負けてはいられないと、猛烈に深海棲艦を攻め立てた。

 また、負けてられないのは夕立だけではない。誰しも同じ気持ちである。

 

「北上様を舐めんなっての! お前ら烏合の衆に後れを取るあたしかッ!」

 

「今回の主役は私と夕立さんだよッ! ゲストにばかりカッコいい姿をさせるわけにはいかないな」

 

「ちょっと、私を忘れないでよ、響。私だってこの戦いにおける思いは軽くないって!」

 

 北上、響、長良も闘志を沸き立たせて、これでもかと深海棲艦に攻撃を加える。間断なく続く砲撃音。あちらこちらで噴き上がる黒煙。深海棲艦はみるみるとその数を減らして行った。

 だが、快進撃は何時までも続かない。

 ここを突破されてなるものかと、深海棲艦は新たに出現し艦娘たちの前に立ち塞がる。倒れる味方を気にも留めず、艦娘たちへ立ち向かって来る。ならばと艦娘たちも、新たに出現した敵に対して応戦。これを何度となく繰り返すと、途中夕立が苛立たし気に舌を打った。

 

「ええい、これでは限がない。こいつらに何時までもかかずらっておる暇は無いと言うのに」

 

 気が急いて来た。

 夕立は周りを見渡す。戦いは激しくそこそこの時間が経過していることもあり、艦娘の中に疲労の色が浮かぶ者も見えて来た。大破、中破している者はいないが、小破している艦娘は見受けられる。

 空を見上げると、煙ではない灰色が遠くに見え始めた。一雨が来そうである。何か不吉な気がした。早くここを突破して敵の中枢を突かねば、と焦燥が出て来た。

 

「この雑兵どもに何時まで時間を掛けるつもりだ! 我々はこいつらと戯れに来ているわけではないのだぞ!」

 

 と、夕立は艦娘たちを叱咤する。

 

「だけどこいつら、倒しても倒して際限がないんだよ。このままじゃ、いずれ拙いね。何とかするなら、敵さんのボスを倒す必要がありそうだよ」

 

 吐き捨てるように北上が言った。

 一体一体は惰弱で烏合の衆とは言え、深海棲艦の攻撃は艦娘たちにまったく効いていないわけではない。だからこそ小破している艦娘もいるわけで。塵も積もれば山となるように、戦いが長引けば長引くほど、味方の敗戦が近付く。

 夕立とてそんなことは分かりきっているが、急いて来る気持ちを抑え切れないのであった。刀を指揮杖のように、びゅんびゅんと振るう。

 

「行け! 行け! 行け!」

 

 祈るように絶叫した。

 

「二年間待ったのだ。このような所で立ち止まり、失敗に終わらせて堪るかッ!」

 

 砕け散せんばかりに刀を強く握り込む。

 今、夕立の頭には撤退のことも、ましてや明石のこともない。意図的に頭から省いている。あるのは、ただただこの戦いでソロモンを取り戻さなくては、という一点の思いであった。

 不意に、夕立の眼前が爆ぜた。痛みはない。煙が噴き上がり、これを払うと、深海棲艦の駆逐艦が突進して来るのが分かった。

 

「鬱陶しい!」

 

 一閃。突進を回避して夕立は刀を振るった。両断された深海棲艦は、深海へと沈む。

 他の海上でも艦娘の手で深海棲艦が沈められた。けれども、やられたらその分とでも言いたげに、深海棲艦が海中より姿を現す。

 気が限界に達する。先ほど北上が言った言葉を思い浮かんだ。鼬ごっこを繰り広げているよりは! 夕立は決心した。

 

「お前たち、私に付き従え! 長良達もだ! 他は私たちの道を作れ!」

 

 部隊を大まかに二つに分けて、一つはここで交戦を続ける部隊。もう一つは無理にでもここを突破して、敵の本隊を叩く部隊。夕立は賭けに出たのである。

 勿論、反対する者はいた。北上だ。夕立の指示にカッと激して、声を荒げる。

 

「無茶だ! あんた死にに行くつもりか!? 無理なら撤退するって約束はどうした! 約束を破るつもりか!」

 

「誰が死にに行くと言ったか。私は勝利を掴みに行くのだ。北上、心配ならこの雑兵どもを始末して私の後を追って来い」

 

「誰が心配なんか……ああ、もうッ!」

 

 何を言っても無駄だと悟ったのか、北上は口を閉じた。

その間に指示を受けた艦娘たちが動く。空母艦娘の艦載機による艦爆が、戦艦や巡洋艦の砲撃が、駆逐艦の雷撃が道を作り出した。作り出された道は直ぐに深海棲艦で埋められそうになるが、それより速く夕立以下十二名の艦娘が一心に突き進んだ。

 

「行って来い、夕立!」

 

「武蔵! お前もこいつらを始末して私の後を追って来い」

 

 夕立たちの姿が遠のいて行く。

 武蔵は三瞬ほど後姿を見送ると、早々、深海棲艦へ意識を戻した。主砲の標準を敵にきっかりと合わせると、轟音。砲身が大量の火炎と黒煙を生じさせながら放たれた砲弾は、確実に着弾し爆発を引き起こす。

 

「夕立が敵の本隊を倒すのが先か、私たちがここを制するのが先か……面白くなって来たな!」

 

 まだまだ視界を埋め尽くす深海棲艦を見回しながら、武蔵は獰猛に笑いを浮かべるのであった。

 

  ★  ★  ★

 

 鎮守府の待機室には緊迫した空気が漂っている。留守を預かる艦娘たちが、何か事が起きれば直ぐさま対応出来るよう、神経を尖らせていた。明石もその一人だ。

 とは言うものの、明石の神経の尖らせ方と他の艦娘では少し違いがある。他の艦娘は落ち着きを払っているのに対し、明石は時折息を荒くし、手を擦り合わせ、髪を弄り、天を仰いだかと思えば、膝を揺する。この一連の動作を繰り返すので、見かねた夕張が、

 

「明石、もう少し大人しくしたら?」

 

 と、苦笑いで言って来た。

 明石は何のことやらと怪訝そうに夕張を見る。すると、夕張が懇切丁寧に説明をして、そこで自分の無意識下の行動に気付いた。意識すれば動作も止まるのだが、一時経つと、また気付かない内にやってしまう。夕張はその度に明石に声を掛けた。明石の気持ちは分かるから、強く注意することはない。

 不安なのである。夕立は何度も何度も心配するなと言ってくれたが、夢のことが頭を離れない。あれが正夢となればどうしよう。そんな筈は無い、夕立を信じろ。でも、もしかしたら、と不安で不安で仕方がない。

 訊いたところで分かる筈もないのだが、ついつい夕張に訊ねてしまう。

 

「だ、大丈夫だよね? 無事に帰って来るよね?」

 

「あの人たちがやられる姿なんか想像出来ないし、大丈夫だって」

 

「でも、でもぅ……」

 

「夕立や皆を信じなって。大丈夫、大丈夫。ぱっぱと終わらせていつも通り、堂々悠々と帰って来るさ」

 

 根拠があるわけではないけど、不思議とこの答えが正しい気がする。夕張は自信を持って明石へと答えた。

 はっきりと言われると、明石も少し気が楽になる。大丈夫。夕立は帰って来る。帰って来て、「明石、戻ったぞ」といつものように笑ってくれる。

 

「……夕立」

 

 神様、と明石は無事を願うばかりであった。

 



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その④

 深海棲艦は驚いていた。よもやここまで艦娘たちがやって来るなどと、予想していなかったのだ。武蔵や北上が残るあの防衛線で、艦娘たちをことごとく沈める筈であった。だと言うのに、目の前にいるのは紛れもなく艦娘である。その数は十二人。

 姫と呼称される深海棲艦には知性がある。人間や艦娘にそう劣らない知性が。故に飛行場姫はどの個体よりも驚き一入であった。

 

「ヨモヤ、コンナ所マデ……」

 

 この海域の深海棲艦の中枢は飛行場姫である。しかしその周囲には数える程にしか艦はいない。多くは防衛線にいる。ここにいるのは、最低限の防備だった。けれど精鋭たちである。これだけで目の前の艦娘たちを始末するのには充分だと、飛行場姫は睨んだ。

 一方で、夕立はこの状況にしめたと思った。敵の本隊であるからどれほどの大所帯かと思えば、数だけならば並んでいる。敵も少数精鋭で手強いであろうが、これならばと敵の本隊を強襲する作戦に出た自分の判断を誉めたくなった。

 天候は変わっている。海と鏡写しのように群青色であった空は、灰色の雲に覆われていた。ぽつりぽつりと滴が海と艦娘と深海棲艦に降り注ぐ。

 

「行キナサイ!」

 

 飛行場姫が動いた。右手を左に振ることで、左に展開していた戦艦ル級、重巡リ級らが前進を始める。右手を右に振ることで、同じ戦力がやはり前進する。右手を縦に振り降ろすことで、空母ヲ級と自身の艦載機が群れを成して猛然と艦娘に襲い掛かった。

 この動きに夕立は瞬時に対応する。敵の艦載機には空母艦娘である蒼龍、飛龍の二人と駆逐艦娘の二人をぶつけ、右翼に展開する敵には響を含めて三人、左翼に展開する敵には長良を含めて三人、自分ともう一人で飛行場姫を直接叩きに行く。

 激しい血戦が始まった。

 

「大きければ良い的さ、沈め!」

 

 響が吼えた。ル級、リ級らの砲撃を巧みに回避し、ここぞと雷撃を放つ。その攻撃に合わせて響に従う艦娘たちの主砲が火を吹いた。先ずはル級が海の底に沈んだ。盾のような艤装で主砲を防御したが、その隙を衝かれて雷撃に終わった。ル級が沈むと、リ級やその他も呆気なく散る。

 

「行くわよ、それッ!」

 

 長良の方も艦娘側が圧倒的優勢であった。無二無三に攻め立て息をつく暇も与えない。深海棲艦はよく凌いでいたが、やがては力尽きていく。右翼の方は長良が制した。

 左翼、右翼共に艦娘側が圧勝である。この勢いをそのままにと行きたいところであったが、そうはいかない。

 

「フフフ……」

 

 制空権の方は深海棲艦が制している。

 空から艦娘側の艦載機が落下し、あるいは爆発する。そして深海棲艦側の艦載機による爆撃。巨大な黒煙に蒼龍ら四人の艦娘が包まれた。服が焼け焦げ、艤装が吹き飛ぶ。四人の艦娘は戦闘不能に追い込まれた。歯を食いしばり立ち上がろうとするも、足が言うことを聞かない。

 

「次ヨ」

 

 飛行場姫は四人の艦娘に止めをささず、右翼、左翼を制圧したばかりの響らに爆撃を加えた。この程度何するものぞ、と撃ち落とし、避けて、奮戦したが傷は免れない。

 響の雪肌が、長良が頭に巻く純白の布が、鮮血の色を覚えた。他の艦娘も赤く赤く身体を染め行く。

 

「これ以上は好き勝手にさせるか!」

 

 響らの惨状に敵愾心を火の如く燃やし、夕立は洋上を駆ける。駆ける先には、まるで飛行場姫を守護する様にヲ級が出て来た。夕立に付き従う艦娘が砲撃し、ヲ級がそれに直撃すると、ドッと後方に飛ばされた。

 海上に叩き付けられたヲ級を、夕立が斬り捨てる。

 夕立は沈み行くヲ級に天晴れと心の中で送った。飛行場姫を守ったヲ級の姿に感じ入るものがあったのだろう。敵ながら見事だった。

 また、ヲ級に思うところがあるのは夕立だけではない。彼女が守護した対象の飛行場姫も悲しみを懸命に堪えようとしている節がある。ヲ級の死を無駄にはしまいと、直ぐさま放たれた第二次攻撃隊は、夕立ともう一人の艦娘に集中攻撃を加えた。

 連続した爆発。勿論二人は無事で済まない。二人ともに大破していると言ってもよかった。夕立は辛うじて動けるものの右腕は使い物にならず、もう一人は蒼龍ら同様にこれ以上の戦闘は期待出来ない。

 

「ぬぅ……右腕が」

 

 うんともすんとも反応しない右腕から主砲が離れ、小さな水柱を作った。それを一瞥してから、夕立は飛行場姫に視線を向ける。

 このまま三度目の攻撃隊発艦を許せば、夕立たちは揃って海の藻屑となるであろう。かと言って撤退を選んでも同じこと。

 チラとほんの一瞬だけ背後の気配を探った。少しだけ期待をしたが、都合よく武蔵たちが現れるわけはなかった。彼女たちの力を頼りには出来ない。

 ならば、まだ動くことが可能な響らと連携し飛行場姫を叩くべきだ。夕立は左手に力を込めた。

 

「動ける者は私を援護しろ! 我が一太刀にて雌雄を決する。おぉぉおおおおおお!」

 

 夕立は、飛行場姫目掛けて真一文字に突撃する。他は何も見ない。もとより敵は飛行場姫しかいないのだ。他を見る必要はない。

 乾坤一擲。ひしひしと夕立の闘気が、病的なまでに白い肌へと伝わって来る。飛行場姫は迎撃のために、帰還した艦載機を放とうと右腕を上げようとした。が、その動作は響たちに阻止される。

 

「させないよ!」

 

「大人しくしなさい!」

 

 飛行場姫へ向けて主砲が乱発される。これらの砲撃は飛行場姫にとって致命傷となりうるものではない。けれどもまったく無視してよいものでもなかった。蠅でも追い払うように腕を振るうと、その間に夕立が駆け寄って来る。

 

「飛行場姫!」

 

 夕立は飛行場姫の名を呼び、間近に顔を見た。大層美しい。瞳は宝石のように眩く輝き、やはり肌は穢れを知らないように白かった。妖魔悪霊の如し。この世のものとは到底思えない。飛行場姫の美しさへの嫌悪が浮かんで来た時には、既に斬りかかっていた。

 

「お前たちの暴挙で死んでいった者たちの怒りを知れ!」

 

 自然と言葉を叫び、夕立は飛行場姫へ刀を振り下ろした。

 飛行場姫は自身の命を刈り取ろうとする一刀への怯えはない。冷静に、刃の部分ではなく面を拳で弾き返した。

 刀が弾かれた勢いのままに夕立の左腕が飛ばされそうになる。力をグッと入れて、これを何とか抑えた。

 

「おのれッ! 小癪な!」

 

「死ニゾコナイ、ナメルナ」

 

 夕立は複数太刀斬り入れた。猛攻撃である。自分の防御を一切考えなどしていない攻撃だ。

 この攻撃を飛行場姫は捌いていく。けれども完全に捌き切ることは出来なかった。肩が切り裂かれ、頬は血に染まる。

 夕立の太刀は止まることを知らず、飛行場姫も何とか弾き、受け止め、防ごうとする。

 

「ここまで来てしくじるんじゃないわよ、夕立」

 

「……夕立さん」

 

 二人の戦いを遠目に固唾を呑んで見守る響たち。あれほど密着した距離で戦われては、援護射撃など邪魔にしかならない。今の傷を負って疲労した身では、誤って夕立を砲撃しかねなかった。

 見ていることしか出来ない歯がゆさを胸に抱きながら、響たちは夕立の勝利を祈る。

 

「しぶとい奴! 沈めぇ!」

 

「コチラノ台詞ヨ! 貴女コソ、サッサト沈ミナサイ!」

 

 夕立と飛行場姫は互いに一歩も譲らなかった。 

 夕立の太刀筋が僅かに鈍りを見せ始め、飛行場姫も白い肌の面積より赤い肌の面積が広くなりつつある。

 どちらに軍配が上がってもおかしくはなく、そして中々決着がつかない。

 けれど決着のつかない戦いは存在しない。やがてその時が訪れる。

 

「アアッ!」

 

 飛行場姫の胸元に一閃。シャーっと血が噴き出し、飛行場姫は体勢を崩した。この隙を見逃す夕立ではない。

 

「母なる海を荒し、幾千幾万もの命を踏みにじった悪霊! よくも今の今まで好き勝手にやってくれたな! しかしここまでだ! 我が正義の剣によって、己が罪を悔い改めるが良いッ!」

 

 夕立の左腕が今日一番、いや、彼女のこれまでの生の中で一番早く振るわれた。

 

「受けよッ!!」

 

「ァ――――」

 

 刃は飛行場姫の首を的確に捉え、彼女は小さく呻いたと思うとその意識を飛ばしていた。

 くるりくるりと宙を舞う飛行場姫の首。その首の下には何もない。本来ある筈の身体は、背後に仰け反りながら倒れ、そのまま海に飲み込まれていった。後を追うように首も続いていく。

 しばしの沈黙。

 乱れた息を整えながら、夕立は飛行場姫がいた場所を見つめ、それから響たちの方へと振り返った。

 薄く微笑み、刀を天に向ける。

 響たちは互いに顔を見合わせ、一斉に夕立を見、そしてワッと歓声をあげた。歓声は空に浮かぶ灰色の雲を吹き飛ばすように、響き渡る。

 何時しか雨は止み、空には青々とした世界が戻っていた。

 

 

 

 



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エピローグ
エピローグ


「終わりましたね」

 

 響が呟いた。夕立の隣で並走する彼女は、戦いで傷つき動けなくなった艦娘の一人が寄りかかっている。そしてそれは響に限ったことではない。

 ソロモンの深海棲艦本隊を討ち破った夕立らは、休むことなく武蔵らと合流。それから鎮守府への帰路につく。因みに武蔵らの方の深海棲艦は、突如として蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったらしい。北上が言った通り、飛行場姫を討ち取ったから逃げて行ったのだろう。

 

「大激戦だったな、骨が折れたぞ」

 

「誰も死んでないって奇跡だね。ラッキーだよ、まったく」

 

「あー、疲れた。今日はもう休みたい」

 

 武蔵、北上、長良が口々に言う。

 だが夕立は何も聞いていない。響の呟きも武蔵たちの言葉も何も聞いていなかった。彼女は勝利の余韻に浸っていた。やり切った爽快さが全身をひた走り、その心地良い気持ちに満たされていたのである。

 

「これで散って行った同胞たちも、いくらか報われるであろう。私の二年間は無駄ではなかったのだ」

 

 俯けが透き通るような海、見上げれば抜けるように青い空、まったく清々しい。

 やがて、夕立たちの視界に鎮守府が入って来た。鎮守府が見えて来ると、艦娘たちは安堵の息をつく。帰って来たという思いが胸いっぱいに広がった。

 さらに近付いていくと、埠頭に大勢の人影が見えて来る。岩峰や加賀と言った鎮守府の留守を預かっていた者たちだ。

 夕立は自分でも気付かない内に明石の姿を探した。

 埠頭の方でも夕立たちの帰還に気付き、ドッと盛り上がる。それから明石も夕立の姿を探し始め、お互い同じ瞬間に姿を認めた。

 

「明石……」

 

 フッと夕立は微笑む。

 数瞬後、岩峰が明石に声を掛けて、夕張が肩を押す光景が見られた。あわあわと慌てながら明石は海の上に足をつける。そしてスッと夕立の方に近寄って来た。

 明石は夕立の前まで進むと止まってから、もじもじと太ももをすり合わせる。こうやって来たは良いものの、何と言えば良いのかというところか。

 先に口を開いたのは夕立だった。

 

「出迎え大義」

 

 すると、明石は急にぽろぽろと涙を零し始めた。頬を伝い落ちては、海の一部となって流れ行く。そして涙が流れるように、言葉を紡ぎ出した。

 

「心配だったの。貴女が本当に帰って来てくれるか、私は不安で堪らなかった。夢で見たのよ、貴女が死んじゃうのを。だから、だから私――」

 

 これ以上は言わせない、いや、言う必要はないとばかりに、夕立は明石の言葉を遮って、力強く言った。

 

「明石よ、私は帰って来た!」

 

 その言葉で明石は一度、二度と頷き、涙を拭う。だが、涙は一向に止まらないばかりか、激しくなった。次第にふるふると震え始め、最後にはガバッと夕立を抱きしめる。

 夕立も動く左腕を明石の背中に回す。

 互いの呼吸が聞こえるほどに、しっかと二人は抱き合った。

 

(私の悲願は成就された。ソロモンの海を取り戻したのだ。しかし、これで終わりではない……これからだ。私はこれからなのだ! 次はソロモン以外の全海域を取り戻す。そして平和が訪れた暁には……)

 

 胸に込み上げて来る熱いもの。

 夕立はその熱に促されるままに、明石を抱く腕の力をいっそう強めるのであった。

 




 これで完結となります。
 読者の方々は応援ありがとうございました。もう少し膨らませようとも思いましたが、それでグダってエターナルしちゃうよりは、さっぱりと書き上げた方が良いと判断して、このような終わりにしました。
 
 とにもかくにも、完結。読者の方々、本当にありがとうございました。


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