星の距離さえ動かせたなら (歌うたい)
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アンケート小説 前編『アイオライト』

20万UA突破記念アンケートでの短編小説です。
内容は一方通行とアイドルマスターシンデレラガールズのキャラクター渋谷凛とのお話ですが、本編には絡まない内容となっています。
あくまでIF、番外編としておたのしみください。



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天井が抜けた様な冬の青空がやけに燻んで見えるのは、どうしてだろう。

支した傘の間から覗く、どんな清掃業者よりも辛抱強く丁寧にアスファルトを洗う夏の雨が奏でるリズムが、憂鬱だったのは何故だろう。

店の出入り口に展示された秋桜の彩りはとても鮮やかなのに、視角出来ない土の底に這う根っこは嘘を付けないまま、取って付けた喜楽を吸い取っているようにすら思えて。

雨上がりの晴れた青空には、心を晴らしてくれる虹は架からない。

アスファルトの水溜まりには、泥の付いた桜の花弁と、歴史の浅い癖に達観を気取った自分の、退屈そうな顔。

 

 

分かってる、季節や景色は常に変わるものだけれど、褪せて見えるのは小生意気な心のフィルターが原因で。

刺激の少ない、変わらない日々、変わり映えのしない景色に口を尖らして、拗ねているだけの悪循環。

そこそこに人付き合いが出来て、家族との関係も良好で、学校の成績も問題なくて、それで、それが何になるんだろう。

いや、何かにはなるんだろう、十年後、二十年後に自ずと振り返る事を約束された頭の中のアルバムにキッチリと記されているんだろう。

きっと贅沢にも程がある、悩みとすら形容するのも馬鹿らしいそれは、けれど自分――渋谷凛にとっては確かに色を奪って、光を負かす、一滴の毒に等しい。

 

撮った写真を眺めて、私は古くなったのかな、と思うだけの青春は、桜の花弁など散らない。

懐かしんで目を細めるだけの、想い出が欲しい。

 

渋谷凛と云う名の芯を揺さぶられる程の衝動と情動を求めての、硝子の靴を探したいと思うのは贅沢なのだろうか。

シンデレラを演じれる自信はないけれど、カボチャの馬車に乗ってみたいとも思わないけれど。

 

魔法を掛けて欲しいと願うのは――。

 

 

「――1人の女の子として、当然だよね」

 

 

「脈絡無く主張すンなよ、ホント時々、訳わかンねェ事を言い出すよなオマエ」

 

 

ピック代わりの長い爪先をひょいと無遠慮に向けて指摘するものだから、折角の陶酔心地もギターの音が止めば、ビロードの幕がすっぽりと覆い被さった、色の鮮やかな葵夜の空気が戻ってくる。

 

センチメンタルに惑わされて、口を付いて出た無意識な気障ったらしい独白を、何の脈絡なくぽっかりと丸々綴ってしまって、呆れながら此方を見下ろす紅い瞳に映る自分は笑みこそ形作っているものの、内心では大惨事だ。

羞恥で高揚した頬とほんのり伝う冷や汗の一筋二筋は隠しようもないが、下手に視線を泳がせては墓穴を掘るだけだから。

なるべく内心の凄惨っぷりを気取られように、話を強引にでもシフトしなくては。

 

 

 

「あ、Cメロ……私の好きなフレーズだったのに。続き、早く聞かせてよ」

 

 

「オマエが手を止めさせンのが悪ィンだろォが。邪魔すンなら帰れよ、この犬ッコロも連れて」

 

 

「え、嫌。まだ此処に来て10分も経ってないし。いつものレパートリーも殆ど聴いてないし。それに、ハナコも大人しくしてるじゃん」

 

 

「……まァ、どっかの軍犬に比べりゃァ牙も向かねェし、どこぞのアホ犬と違って利口なのは認めるがなァ……さっきからずっと脚に身体擦り付けンのは止めさせろよ、マジで。擽ったくて仕方がねェよ」

 

 

「無愛想な人にはよく懐くんだよ、きっと」

 

 

「ハッ、そりゃ確かに実証済みだ。他でもねェ、飼い主がこれじゃァな」

 

 

「……勿論、私も含めて。言われなくても、自覚してるよ」

 

 

建築物のシャンデリアが煌めいている深い碧の河の水面を、例えば、そう言う関係の人と一緒に眺めるには、十分なムードが出来上がりそうな、ペンキの剥げた白いベンチの上。

スラリと組まれた細長い脚の太股に乗せた、側面がレッド配色のアコースティックギターの亜麻色のボディをコミカルなリズムでコンコンノックする度に、愛犬のハナコがペタペタと彼の膝に前足を引っ掻けて、音の反響するサウンドホールを粒らな瞳で見詰めている。

ヨーキーとミニチュアダックスのミックス犬らしい、ちんまりとしながらも小さな尻尾を振る姿は贔屓目無しにも愛らしいじゃないか、と。

 

揶揄かいを紡いだ、澄んだ春の夜の薄い半月に似た唇は白んでいて、そんな小さな箇所から既に生まれてくる性別を間違えていると思える程に女性的で、声色だけは蟲惑的なテノールなのだから面白くない。

絢爛な画廊に並ぶ、眩い銀月と深い雲を背に稲穂が靡く風景画を眺めて恍惚に浸るのと、風に流れる銀のホウキ星を流す白美に浮かされそうになるのはそう変わらなくて。

きっとクラスの友達にこの美丈夫の写真一つでも見せてやれば、黄色い悲鳴のシンフォニアと紹介してと殺到するコンチェルトに晒されるのは目に見えているし、コンダクターとして指揮棒を取ろうとすら思わない、そんな徒労はご遠慮願いたい。

 

無愛想なのはお互い様、そう言えるだけの関係になるのには、なかなか骨が折れたと思うし、手を焼いたのだ、とても。

そこまでして分かったのは、彼の名前がとても変わっている事と、彼の周りは何だか変わり者ばかりみたいだと云う事と、特異な外見通りに、一筋縄にはいかない人間だと云う事。

それだけ、なのか。

そんなにも、なのか。

どちらにして置きたいのかなんて、問う必要があるとは今更思わない。

 

 

 

「……続き、弾かないの、一方通行?」

 

 

「急かすンじゃねェよ……中途半端に切ったからな。最初っから弾く」

 

 

「うん。そういえば、最初に弾いてたのもこの曲だよね。確か……『ミルクティー』だっけ、曲名」

 

 

「ン……覚えてたのか」

 

 

「まぁね。テレビで一回くらい聴いた事あった程度だから、最初は『UA』の曲って分からなかったけど。でも、一方通行ってヴィジュアル系っぽい見掛けしてるから、最初はイメージと違うなとも思ったんだよね」

 

 

「……言われなくても、自覚してンよ」

 

 

「そっか、自覚してるんだ。私と一緒だね」

 

 

イメージには合わないなと思ったのは確かだけれど、今ではどこか物悲しい流暢なバラードは、彼の雰囲気にとても馴染んでしまっている、いっそ悔しい程に。

一緒だと同調した所で、嬉しいと喜ぶでもなく、呆れる事も嫌がる事もなく、春の夜風を舞台に踊る風鈴みたく涼し気に流されるのは、もはや悔しいなんてもんじゃない。

 

けれど、クシャリと心のページを掌で優しく握り込まれるような静麗な横顔が、その揺蕩う紅い眼差しがフィンガーボードに添える指先を見下ろして。

小さな紅い双子月が眺める指先のコンサートの開演を、遮ってまで不満を訴える程、子供じゃない。

 

いいや、違う。

子供じゃない事はない、年齢的にも、未熟な精神も外見も、社会的な責任面も子供というカテゴリーにいとも容易く当て嵌まってしまうだろうけれど。

それでも、子供だと見られたくないのだ、特に彼の前では。

 

 

思い浮かべるのは、3ヶ月も前の、冬の足音が聞こえてくる季節のこと。

勝手に詰まらないなと思い込んで、静かに塞ぎ込んで、退屈だと決め付けた世界に、嗤わせんなと言わんばかりに見下ろした圧倒的な極彩。

 

目を閉じれば、意図も容易く再生できる、あの日の夜のこと。

 

 

流れてくるのは、あの曲と、剥き出しにされた心と、幽かな花の香り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――『アイオライト』―――

 

 

 

 

 

 

 

 

流れ星に三回願いを唱えれば、だなんてジンクスを言い始めたのは誰なんだろう。

きっと誰もが一度は耳にした事のある迷信を思い出すのは、月の光が細くて、適当な星を探すには苦労しないのっぺりとした夜空に紛れて、サッと一陣の流星が通り過ぎたから。

 

願いを叶えるには、流れ星が消えてしまう前に、三回願いを唱えなくちゃいけないだなんて。

そんな単純な事で叶えれる願いはどうなんだろうという、我ながら女の子としては全く可愛くない呆れ。

いつ訪れるかも分からない上に、瞬き一つで去ってしまう流れ星に三回も願いを唱えるなんて、単純な癖に、いざ実践となるととんでもなく難しい意地の悪さに白んでいく心も、これまた可愛くない。

けれど、願い事が長ければ長い程に叶えるのが難しいだなんて、妙に理に適っている所は、少し面白いな、と。

 

 

川のせせらぎが冬の夜には少し厳しい河川敷の、ランニングコース用にも舗装されている道幅の両端に埋め込まれたLEDのランプの碧光は、少しこの見上げれば視界一杯に広がる夜空に似ている。

学校の宿題が手に着かなくて、気分転換に散歩に連れて行ってる愛犬のハナコはそのランプの光が物珍しいのか、仕切りに匂いを嗅いだり前足で叩いていたりと、見覚えの無い風景に落ち着かないみたいだ。

 

いつもとは違う散歩コースを選んだのは、気分転換の延長。

少しでも違う風景と、少しでも違う刺激に飢えた心を誤魔化してしまいたい、そんな逆上せたセンチメンタル。

もう間も無く高校生にもなるというのに、いつまでも抱いたままのふやけた和菓子みたいな願望に夜空さえ気を利かせて流れ星を走らせてくれたのに、呆気なく見送ったまま零れ落ちた溜め息が虚しく響いた。

 

 

「……? どうしたの、ハナコ?」

 

 

不意に、ハナコの赤い首輪に繋がれたリードがピシャッと張った感覚に連られてそちらを見れば、普段はペタンと畳まれている小振りな尻尾はアンテナみたいにピンと紺碧の夜空を指していて、落ち着きなく息継いでいた如何にも犬らしい呼吸は夜の静けさに包まれたかの様にピタリと止んだ。

周り込んで見なくても分かる程に真っ直ぐと向けられたハナコの視線は随分先の方へと固定されて、人懐っこいけれどやんちゃな性格である愛犬の素振りにしてはとても珍しい。

 

猫は明暗に合わせて瞳孔を調節出来るから夜目が利くというのは聞いたことがあるけれど、犬もそうだっただろうか、と。

何か面白いモノでも見つけたのかな、と思って私自身もハナコに倣ってこの子の見詰める先へと目を凝らして見るけれど、夜闇の宵は濃くて、そこそこ視力が良いくらいの自分にはやっぱり何が在るのか何て分からなくて。

 

そして、気付く。

ハナコが凝らしていたのは視覚ではなくて、聴覚なのだと。

その音源からの距離がある所為か、川のせせらぎに混ざって聴こえる調べはとても幽かなモノだけれど、細い糸の様な微弱な旋律は確かに私の耳に届いている。

 

 

「……ギター、の音?」

 

 

「ワフッ!」

 

 

ほんの僅かに聴こえる弾かれた弦の渇いた高音に、若干自信のない臆測が口を付いて出た。

特別楽器をやってる訳でもないし、ピアノの上手な友達の様に音感を鍛えている訳でもないから、流石に確信を持って断言は出来ない。

数を並べれば頭が痛くなりそうな程の種類がある弦楽器の、一番メジャーな所をそのまま連想しただけなのに、まるでその通りだと答える様なハナコの一鳴きに驚いて、ついリードを握る掌を緩めてしまったのが、失敗だった。

 

 

「あっ、ハナコ!」

 

 

やんちゃとはいえ両親の躾の賜物か、リードを握れば無理に暴れたりしない利口さもある筈の愛犬は、投げられたフリスビーを追い掛ける程の俊敏さで、ブルーにライトアップさせれた幅の広い遊歩道を駆けていく。

確かにハナコは好奇心の強い性格だけれど、こんなにも鉄砲玉宜しく反応するものだろうか。

リードを振りほどかれた事なんて、ハナコを飼い始めて、まだ躾の整ってない一番最初の散歩の時以来だと、頭の片隅で古びた追憶をぼんやりと浮かべて、夜葵のビロードに紛れてしまいそうな小さな身体を走りながら追い掛ける。

 

けれど、次第にボリュームのフェーダーを上げて響いていくギターの旋律は高音域に始まって、中、低音域とどんどん厚みを広げていって。

細い糸の音が一つ、二つ、と重なって織り成しては大きな一本の白麗線に紡がれていく不思議感覚に、悠々と流れるメロディのピッチに合わさる様に必死に走らせていた両足がゆっくりと、ついには無意識の内に走る事を止めていた。

そして、ギターの弦を滑るキュッというフレットノイズさえも聴こえて来るほどに音源の直ぐ傍まで歩み寄った時には、両足は縫い付けられたかの様に、その場所から動けなくなって。

唯の河川敷に設けられた、白いベンチにしか過ぎない筈のこの場所が、どこか分からなくなってしまう程の光景に、心の地図にすら載ってない場所へと迷い込んでしまったのかと錯覚してしまう。

 

 

「――――」

 

 

 

 

白貌の歌うたいが、星空を口説いていた。

 

 

 

 

綴るのなら、敢えて文字に書き起こすのなら、そんな一文から始まりそうな叙情を纏った風景画を、熱心に網膜へ焼き付けている鑑賞者にキャストを変えられてしまった様な、錯覚。

在り来たりな形容が綺麗サッパリ掻き消されて、澄んだ雪原そのものみたいな長く鮮やかな白銀のポニーテールの穂先が、アコースティックギターの弦を弾く度に揺れている。

漆黒のペンキに浸けた様なコートの隙間から見える肌は夜霧を散らしてしまう程に白くて、夏風に靡く真っ白な流星にも劣らない。

 

精悍な顔付きや角張った体格は私とは異なる性を描くのに、神秘的にすら思える中性的な睫毛は長くて、月に浮かぶ女性の顔という幻覚をそのまま当て嵌めているかの様に、ただ綺麗で。

 

 

何よりも目を奪われてしまったのは、手元を一切見ないままに無数の星屑を見上げている、硝子細工の宝石みたいな紅い瞳。

星を口説いている、そんなフレーズが恥ずかし気もなく浮かんで来る程に、真っ直ぐに夜空を愛でる細い紅が、その横顔に浮き彫りにされている無垢な感情の環状線が、余りにも切ない。

 

 

代わり映えのない日常の物足りなさを訴える私の幼稚な心に埋め込んだ白い爪痕を掻き散らされた様な、甘い痛みが苦しくて、呼吸一つすら辛いとさえ思えるのに。

 

けれど、目を背ける気なんて起こらない、もどかしさ。

退屈だと拗ねた心のフィルターは剥がされた後に残るのは、一瞬にして塗り替えられてしまった極彩色の光景に、ただただ息を呑んで、呑み切れない情動は淡い吐息となって零れ落ちた。

 

金縛りにも似た錯覚を持て余して、漸くまともな思考回路を取り戻せたのは、奏でる旋律がいつの間にか途絶えた後の事。

 

 

 

「……折角聴き入ってくれてる所で悪ィンだがよ、そろそろコイツを回収してくンねェか」

 

 

「…………ぇ?」

 

 

どこか夢見心地で浸っていた余韻を切り裂く、夜のビロードの静謐さを被せたテノールボイスの鋭さが、ちっとも動かない脚に蔓延る氷河を罅を入れたみたいだった。

ベンチの背凭れに弾いていたギターを置きながら、すらすらとした口調なのに、どこか間延びした表情が浮世離れに囚われてしまっていた思考をサッと溶かしていく。

 

あぁ、もしかしてこれ、話し掛けられているのか。

 

釣り上げられた魚みたくぽっかりと口を開けたままの自分はどんな風に見えてるのか、なんて思考の片隅でやけに冷静に考えて客観視している私に呆れているのだろう。

白麗な髪を、さも困ったようにカリカリと掻いて、その人は足元で嬉々として纏わりついていたそれを、ヒョイと持ち上げて。

 

 

「……オマエのペットじゃねェのか、この犬ッコロ」

 

 

「……あ」

 

 

ペロンと両足を垂れ下げながらも首輪を引っ掻けて器用に持ち上げる片手の持ち主を眺めながら尻尾をぶんぶんと振っている我が家の愛犬、ハナコを此方に差し出したその人の言葉に、やっと状況を理解出来た。

途端にカッと油に灯を注がれたみたいに、自分の顔が熱を帯びていき、冷や汗なのか唯の汗なのかよく分からない何かが背筋をそっと伝い落ちる。

 

凄く、恥ずかしい。

 

とんでもなく間抜けを晒してしまった上に、もしかしたら演奏の邪魔すらしてしまったんじゃないだろうか、と。

もたつく舌が上手く言葉を紡げなくて、呻き声にも劣る奇妙な音の羅列を辛うじて吐き出しながら突っ立っている私は、きっと相当な不審者に見える筈。

 

はい、そうです、と言葉を滑らせるのに苦労するなんて、きっと私の人生で初めての事かも知れない。

 

 

「……ぁ、ゃ、その……」

 

 

「……」

 

 

どうしよう、この状況。

退っ引きならないにも程があるのに、今度は違う意味で足が動かない。

予想通りに怪訝そうな紅い瞳に真っ直ぐに見詰められて、余計に思考回路が滅茶苦茶に掻き混ざっていく体験なんて、これもまた初めてのこと。

三者面談の時や、成績表によく記されている、落ち着きがありますなんて評価をくれた担任が今の私を見たら、何て思うんだろう。

 

けれど、パニックに陥っていってしまった私に気付いたのか、その人はさも面倒臭そうに盛大な溜め息をついて、細い腕にハナコを抱いたままベンチから立ち上がって、トコトコと此方へと歩み寄る。

つい見上げてしまうくらいの高い背丈としなやかな体躯は、男性、女性、の要素を両面をとも纏う不思議さを孕んでいて、茫然と立ちながら視線は彼から動かせない。

気付いた時には、ヒョイと渡されたハナコを無意識の内に腕に収めていた。

 

 

 

「……変なヤツ」

 

 

薄い肉付きの唇がふと微笑みを象って、ハッキリと変だと紡がれて、思わず自分の頬が引き攣る感覚がすっかりとポンコツになってしまっていた思考を急速に速めていく。

取り敢えず、邪魔してしまった事には間違いないだろうし、謝るだけは最低限しておかないといけない。

変なヤツと言われても可笑しくない醜態を晒してしまったのは事実だけれど、だからといってその印象を抱かれたままなのは余りにも辛いし、いち女子高生としても何か致命傷な気がするし。

 

 

「その……邪魔してごめん……」

 

 

「別に邪魔にはなってねェ。一々謝ンなくて良い」

 

 

「……はい。ありがと……う、ございます」

 

 

「クカカッ、何だそりゃオマエ。敬語が苦手なら、無理に使わなくて良いンだが」

 

 

「……苦手じゃなくて、あんまり使い慣れてないだけ」

 

 

普段、学校の先生には一応ながらも敬語は使えているんだけれど、さっきまでのどこか非現実的な光景の余韻が抜け切れて無いのか、ぎこちない言葉遣いになってしまう。

口下手な所はある事くらいは自覚しているし、よく周りにも指摘されて来た事ではあるけど、この人にも直ぐに見抜かれる辺り、余程分かり易いんだろうか。

 

カラカラとした、何処かニヒルな笑みが似合う人だなと思いつつも、揶揄かいのニュアンスを指し向けられるのは、余り気持ちが良い事ではない。

ムッとした反骨心に似た何かに促されてしまったのか、我ながら生意気な性格が影響してか、つい口を尖らして、ジトッと彼を見据えてしまった。

けれど、腕の中に収まったハナコの顎を長くほっそりとした指先でカリカリと撫でている彼は此方の意図などまるで興味が無いみたいで。

 

 

「ちっせェな、コイツ。ヨークシャーテリア、ってヤツか」

 

 

「……正確にはヨーキーとミニチュアダックスのミックスなんだけど」

 

 

「名前は?」

 

 

「ハナコ」

 

 

「偉く地味だな」

 

 

「名前付けたの私じゃないし」

 

 

触りたいのならわざわざ手渡さなくても良かっただろうにと思いながらも、愉し気に丸めた瞳に長い睫毛がシパシパと瞬いて。

改めて間近で見てみれば、女の私よりもきめ細かそうな真っ白な肌に、険の鋭さを感じさせる所はあるけれど、切れ長の目尻にシャープな顔立ちはかなりの美人顔だ。

深い真紅のルビーを嵌め込んだ様な瞳もかなり日本人離れなのに、スラスラと流暢な日本語は、外国人独特のイントネーションの癖がまるでない。

ハーフか、クウォーター辺りだろうか。

 

ハナコの顎を撫でていた指先を、今度は目の前で猫じゃらしみたいに左右に動かしては、ハナコの猫パンチならぬ犬パンチを誘っては避けて、誘っては避けてを繰り返している彼に、もう少し尋ねてみよう、と。

 

 

「犬、好きなの?」

 

 

「まァ、従順なヤツはな」

 

 

「ハナコは言うことは聞いてくれるけど、結構やんちゃな時も多いよ、これでも」

 

 

「やンちゃねェ……ペットの性格は飼い主に似るらしいがな」

 

 

「……生憎、ハナコがやんちゃなのは最初っからだけど」

 

 

刺があるというよりは、単純に揶揄われているだけなんだろうけど、随分と遠慮のない物言いを投げて来るな、と。

でも、私自身も無愛想で角のある言い方でつい人を傷付けたりする事が多いのもあって強く指摘出来ないし、何というか、この人のこういう物言いは何故だか妙に型に嵌まっているような、そんな気がする。

 

自然体というか、不思議と不快とは思わないのは、多分この人も言葉を飾り立てるのが面倒だったり嫌いだったりするタイプだからだろう。

敬語が下手だとあっさり見抜かれたのも、もしかしたら私の言葉遣いのきこちなさだけが原因じゃなくて、彼もまたシンパシーに似た何かを感じ取ったのかも知れない。

多分、この人も目上相手でもあんまり敬語使わなさそうだし。

 

 

「あのさ……名前、なんて言うの?」

 

 

「一方通行。アクセラレータ。どっちでも好きに呼べ」

 

 

「……え、何その名前。アクセラレータっていうのは兎も角、一方通行って……標識?」

 

 

「……細けェ事気にしてンじゃねェ」

 

 

いや、細かいなんてレベルじゃないんだけど。

アクセラレータっていうのはまだ分かる、でも一方通行って言うのは名前といって良いのだろうか。

人の名前にケチを付けるのは失礼極まりないとは思うんだけれど、流石に指摘せずにはいられなかった。

 

でも、誤魔化してる様にはとても見えない静かに遠くを見詰める瞳と横顔に、余り深く聞くのも憚れる。

多分、色々と訳ありなんだろう。

あんまり人の複雑そうな事情に首を突っ込み過ぎるのもどうかと思うし、ひょっとしたらバンドネームみたいなモノなのかも知れない。

 

 

「……一方通行って、ギタリスト?」

 

 

「いや、趣味程度だ。とても生業に出来る程の腕じゃねェしな」

 

 

「……私は、普通に良かったと思うけど」

 

 

「ワフン」

 

 

音楽の道はとても険しく奥深い物だと云うのは最早公然の事実だしそれくらいの臆測は出来る世界なのは分かるけど、あんまり卑下されてはつい聞き惚れてしまった私の立場が無い。

善し悪しまでは分からないけど、普通に自信を持っても良いレベルなのは間違いないと言う私に同意してくれているのか、腕の中に収まったままのハナコが欠伸を噛み殺すようにふんわりと鳴いた。

 

 

「チッ……まァいいか」

 

 

わざわざ舌打ちをする辺り、私よりもよっぽど無愛想で皮肉屋な気質なんだろう、この一方通行という男の人は。

それと、大人びた外見や態度な割に、意外にもなかなかの恥ずかしがり屋らしい。

プイッと顔を背けてギターの置いてあるベンチへと踵を返した一方通行の縦長の骨張った背中を見送りながら、込み上げて来る笑いを何とか噛み殺す。

 

背ける際にちらりと見えた耳元が桜の花弁を添えた様な薄い赤を帯びていて、照れ隠しにそっぽを向くなんて妙に子供っぽいところがあるな、と。

ギターを演奏していた時の神秘的とさえ思えた印象とはまるで違って、人間味のある素振りが面白い。

 

 

「隣、座るね」

 

 

「……」

 

 

機嫌を損ねてしまった様子でもなく、別に一々私の存在を意に介すことでもないと取られているのか、無言の儘、否定も肯定もしない態度が何だかムッときて、敢えて距離を詰めて座ってやる。

拳一つ分のスペースくらいしか空きがない程に隣に座られても、一瞥をくれるルビーが怪訝そうな光を纏うだけで、特別文句を言う訳でもない。

 

本音で云えば、私は彼に興味があるんだろう。

ギターを奏でる技術も、鮮烈で魅力的な外見も、あの瞬間の、星を見詰めている儚くて、繊細な想いの丈を添えた表情も、気になる。

一種の予感、なのかも知れない。

代わり映えのない日常に失望を抱く身勝手な心を変える切っ掛けなんじゃないか、と。

見送った筈の流れ星が、もう一度私に願い事を叶えるチャンスをくれたんじゃないかって、夢見る少女染みた幼稚な夢見事に、どこか期待に高鳴る胸を誤魔化し切れないでいる。

だからこそ、少しくらいは此方にも興味を示して欲しいと思うのは、我儘なんだろうか。

 

私の腕に収まったままのハナコもまた、形ばかりは大人しくしているけれど、隣でギターの弦の張り具合を確かめている一方通行に興味津々に落ち着きない息遣いをしている辺り、彼の言う通り主従揃って心音がそっくりである。

 

 

 

「あのさ、一方通行」

 

 

「なンだよ」

 

 

「まだ名乗ってなかったから、ね…………私は、渋谷 凛。凛でいいよ」

 

 

「…………渋谷?」

 

 

「凛でいいって言ってるじゃん」

 

 

「そォ云う意味じゃねェよ」

 

 

「じゃあ、どういう意味…………ん?」

 

 

名前で呼ばなくてはいけないと強制する権利なんてないけれど、袖にされ過ぎるのもやっぱり辛い。

どういうつもりなのかと設問すべくグッと顔を近付けた瞬間に、ふと、鼻腔を擽る花の薫りに気付いた。

 

河川敷に咲いた草花にしてはやけに湿気の含まないハッキリとした香りは品種までは流石に分からないけれど、ある程度手入れのしてある花と草花とでは、香りに大きな違いが表れるもの。

だからこそ、一方通行の細長い体躯と構えてるギターによって丁度死角になっていたベンチの隙間にひっそりと置いてある、ニュースペーパー柄の特徴的なポリ袋には見覚えが有り過ぎて。

 

 

「その袋って……もしかして」

 

 

「……」

 

 

「ねぇ、一方通行。ちょっとそれ、見せて貰って良い?」

 

 

「……雑に扱うなよ」

 

 

 

何故だか複雑そうに表情を歪めながら、そっと一方通行に渡された袋は、手に取ってみれば、やっぱりウチの花屋が利用しているメーカーのモノ。

成る程、これなら彼が何かを確かめる様に渋谷と敢えて名字で呟いた理由も、そういう意味だったのかと納得出来る。

 

じゃあ、私が気付かなかっただけで何処かですれ違っていたかも知れないという可能性もあるんだろう。

まるで出来すぎた巡り合わせみたいだと、輪郭のない高揚感に昂った頬がサッと熱くなる。

運命だとかそんなロマンチズムな感情を初対面の相手に向けれる程に乙女らしい可愛い性格じゃないとはいえ、流石にちょっと意識してしまったけども。

 

 

「……まさか、一方通行がウチの花屋で買い物してたなんてね。お買い上げありがとうございました、はいこれ、返すよ」

 

 

「へいへい、どォも……オマエもあの店で店番とかしてたりすンのか?」

 

 

「そんなに毎日って訳じゃないけど。店が忙しい時に手伝ったり、母さんが業者さんとの打合せで手が離せない時とかに店番したりするくらいかな」

 

 

「その仏頂面で店番か……母親の方は愛想良かった気がするンだがな、そこまで遺伝子は有能じゃねェか」

 

 

「……カチンと来た。生憎、これでも一応看板娘って評判だったりするんだけど。というか、愛想無いし可愛い気もないのは自覚してる。でも、アンタに言われるのは何か凄く納得行かない」

 

 

「否定はしねェよ。そンな俺でも認めれるぐれェのモンだって話だ」

 

 

「……それ結局皮肉じゃん。ムカつくなぁ、もう」

 

 

 

売り言葉に買い言葉の応酬ばかりなのに、どこか小気味良いな、と思ってしまうのは何でだろう。

いや、どちらかと言うと新鮮なのかも知れない。

皮肉が許せる人徳がある訳ではない、決して、そこは認めない、ムカつくし。

 

けど、明らかに歳上っぽい相手に遠慮の一切がいらないやり取りというのは、私にとっては結構貴重だったりする。

それに、腹立だしいニヒルな笑みに相反して細く揺蕩う月の様な瞳は穏やかで、そのアンバランスさに戸惑いながらも不思議と安堵してしまう気持ちがあって。

貶されているというよりも、揶揄われてるんだな、と思える様な丁度良い距離感。

ついさっき、変なヤツ、そう言われたばかりの評価を、そっくりそのまま一方通行に返してやりたい。

 

 

「一方通行はいつも此処でギター弾いてるの?」

 

 

「いや、二週間前に一回、偶々寄って以来になるか。折角一人静かに出来そうなスポットを見付けたってのになァ」

 

 

「だから邪魔してごめんって言ったじゃん。というか、さっきは邪魔になってないって言ったのに……男に二言はないって言葉、知ってる?」

 

 

「犬に関しては、のつもりだったンだよ。なァ、ハナコ?」

 

 

「ワンッ!」

 

 

「ちょ、ハナコ……やめてよ一方通行、この子はウチの子なんだから。変な悪影響与えないでよ」

 

 

まさかの愛犬の裏切りに危機感を覚えてハナコを庇う様にして身体を背ければ、素知らぬ顔の白面の意地の悪い笑みがカラカラと転がって。

釣られちゃいけないのに、私の意志に反して口元が綻んでしまって。

馴れ馴れしいとか、そんな感情を取っ払ってしまう一方通行の特異性に、久方ぶりの充足を感じている事を自覚する。

可笑しいな、こんなに単純に心を開いても良いと思ってるなんて、私らしくもない。

 

 

「偶々寄ったって云うのは、仕事の都合で、とか?」

 

 

「仕事って程でもねェ。知り合いの頼まれ事のついでだ」

 

 

「ふぅん。じゃあ、家から結構遠かったりするんだ。どの辺り?」

 

 

「そォ遠くはねェよ。川神って言えば分かンだろ」

 

 

「川神……あぁ、それならそんなに離れてないね。電車で二、三駅くらいだし。でも、一方通行が電車に乗ったら浮きそうだよね、雰囲気的に」

 

 

浮くというのもそうだけど、悪目立ちしそうだ。

綺麗な白髪だけでも相当なのに、真っ赤な瞳と中性的で端麗な顔立ちな上、背も高い。

男女問わず好奇の視線に晒されながら、辟易としながらも席に座る一方通行の姿が容易に想像出来て、つい忍び笑いを浮かべてしまう。

私の予測は案外的を得ているんだろう。

目敏く私を一瞥しては面白くなさそうに舌を打って顔を顰めるのが、何よりの証拠だ。

 

 

「……余計なお世話だ、クソッタレ。つゥか、電車で来てる訳じゃねェよ」

 

 

「え?じゃあ自転車とか?」

 

 

「流石にチャリで来るには距離あンだろ阿呆。スクーターだ」

 

 

「あぁ、成る程、そっちか。免許持ってるんだ……じゃあ、そのスクーター見せてよ」

 

 

「パーキングに停めてンだ、態々持って来る必要ねェだろ、面倒臭ェ」

 

 

「ケチだね」

 

 

「煩ェよ」

 

 

間髪入れない合いの手みたいに返ってくる拒否の言葉は、彼からしたら当然なんだろうけど。

ちょっと勿体無いな、と。

事故が恐い側面があっても、風を切ってバイクを駆ける爽快感は正直興味がある。

流石に後ろに乗せてとまでは言わないけど、会ったばかりの相手だし。

 

 

「川神って言えば、何か変わった学校あったよね。川神学園とか、結構そのままの名前の学校」

 

 

「変わった……ねェ。まァ、決闘システムなンて酔狂なモンがあンのは彼処くれェだろォよ」

 

 

「あ、それ聞いた事ある。確か、生徒同士で闘うとか、そんな感じの…………というか、詳しいね。一方通行って、もしかして其処のOB?」

 

 

「残念ながら在校生だ。さっさと卒業してェがな……毎日毎日飽きもせず騒がしい馬鹿ばっかでよォ」

 

 

「…………」

 

 

 

さも鬱陶しそうに愚痴を零している割に、ギターのフレットを手持ち無沙汰に撫でている紅い瞳は、嘘が付けないんだろう。

目は口ほどに物を言うとは、誰の言葉だったか。

早く卒業したいと苦言を吐いているその瞳に浮かぶ感情はとても暖かく、穏やかで。

無遠慮で無愛想な癖に、きっと素直じゃないんだな、この人は。

なんというか、気紛れな真っ白い猫みたい。

大人びた外見と態度な割に、結構単純な子供っぽさがブレンドされていて、思ったより私と歳が離れてないんだろうな、と。

最初の息を呑む程の清麗な印象から、コロコロと変わっていくイメージが、まるで万華鏡を覗いているかの様で飽きさせない。

 

だからだろうか、もう一度聴いてみたいな、と思った。

何処かで聞いた事がある様な、あの優しいメロディーを。

今度は、最初から、最後まで。

 

 

「ねぇ、さっき弾いてた曲、もう一度聴きたいな」

 

 

「あァ? 質問責めばかりしやがると思えば、今度はリクエストかよ」

 

 

「良いじゃん。今度は、邪魔したりしないから」

 

 

「……」

 

 

「……ね、お願い」

 

 

真っ直ぐに見上げれば、怪訝そうに潜めた眉と、呆れた様な溜め息と。

 

 

――変なヤツ。

 

 

小さく紡がれた吐息混じりの呟きが、第一音となって。

やがて、透明で繊細な旋律へと、連なって行く。

 

揺れる蝋燭の灯火みたいな、仄かな熱と共に。

初冬の風がシグナルを知らせるみたいにカサリと撫でた、袋の音が、そっと呪文の様に鼓膜に溶けた。

 

 

 

 

――

―――

――――――

 

 

 

 

 

「……もう、3ヶ月も前になるんだね」

 

 

「……何の話だ」

 

 

「分かってる癖に。私達が最初に会った時の事だよ」

 

 

「あァ……オマエが阿呆みてェに突っ立ってた日か」

 

 

「その思い出し方は流石にムカつくんだけど。口を開けば皮肉ばっかり。あの時と全く変わらないね、一方通行のそういう所」

 

 

「そンだけの間抜け面を晒して自分を恨めや」

 

 

「……意地が悪いね、ホント」

 

 

あの日から、毎週の日曜日に此処で開かれる、小さな小さなコンサート。

チケット代わりのブラックコーヒーを差し出して、こうしてハナコと一緒に、時々は私一人で聴きに来るのが、最早すっかり恒例になって。

 

ギターだけの演奏だったコンサートは、最近では原曲を聴き込んだ私が時折歌で参加したりするのを、物言わぬ歌うたいは決して邪険にしないでくれた。

歌詞を辿っていた筈のギターの主旋律が、徐々に副旋律だけを残して変わっていく辺りが、とても擽ったい。

意地の悪い言動の裏で、こういう事をナチュラルにしてくるのだから、きっとこの人に懸想を寄せる人はとても多いんだろうな、と簡単に予測が出来る。

 

 

「そういえば、一方通行は結局会長には立候補しなかったの?」

 

 

「誰がするか、七面倒臭ェ。そォいうのはお祭り好きな馬鹿にやらせとけば良いンだよ」

 

 

「何だかんだで騒がしいの好きな癖に。似合うと思うけどね、生徒会長」

 

 

「分かったよォな口利くじゃねェか。高校生になって生意気っぷりに拍車掛かりやがって」

 

 

分かったような、じゃなくて、分かってるんだけどね、ある程度は。

数えれば多分、彼の周りに居る人々よりかはずっと短いし少ないけれど、演奏の余韻を終えた後のトークタイムで交わされる内容は、お互いの日々を詰め込んだ思い出語りばかりだし。

スケールの大きいお祭り事に引っ張り出されては苦労しているらしい一方通行の愚痴は、彼には悪いけれど、とても濃くて面白い。

いっそ、私も川神学園に入学していれば良かったな、って思う程に、本当に面白そうで。

 

 

だから、私の背中を押したのは、彼の所為でも、彼のお蔭でもあるんだろう。

一番の切っ掛けは、多分――あの娘の笑顔だったけれども。

そして、この決断を一番伝えたかった相手は、他でもなく。

 

 

 

 

「……あのさ。聞いて欲しい、事があるんだけど」

 

 

 

私に魔法を掛けて欲しい。

 

 

 

特別なお姫様になりたい訳じゃない、硝子の靴も履かなくて良い、綺麗なドレスなんて要らないから。

 

 

 

「私ね、実は――」

 

 

 

満開の桜みたいに咲いた、あの娘の笑顔の様に。

 

 

綺麗に咲いてみたいと思ったんだ。

 

 

気難しくて、世話をするのが大変で、頑固で意地の悪い花だけど。

 

 

 

だから、魔法を掛けて欲しい。

 

 

ほんの少し、前に進むだけの勇気を。

 

 

 

 

 

 

 

 

――アイドルに、なろうと思うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.



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アンケート小説 中編『眩暈』

タイトルは鬼束ちひろさんの名曲よりお借りしました。
今回の内容はアニメ、アイドルマスターシンデレラガールズ本編の3話から7話までの時間軸のお話となっております。
シーンが飛び飛びになったりしてますので、あらかじめ原作を見直してから閲覧なさった方がいいかもです。


―――――――

―――――

―――

 

 

 

 

 

 

一言で済まされる杜撰さが素っ気ないのに、伸ばしている髪を掬われて、優しくキスをされたみたいに繊細な扱いを受けた。

そう野暮ったく感じるのは、大人に成り済ましたくて背伸びをする癖が付いてしまったからなのか、渋谷凛という薄愛な人間の生来の個性が変わってしまっている証なのか。

 

 

大人っぽいね、って思わず胸が擽ったくなる卯月の憧れの眼差し。

落ち着いてるよね、って挑戦的に肩を寄せて砕けた笑顔で寄り添う未央の信頼。

 

でもね、そういうつもりでも、案外上手くは行かないんだ。

 

どういう意味と問い掛けて来る二人に、さぁねと煙に撒いた胸の中で反芻する仄かな苦味は、手渡された進路調査の埋めれない空白を指でなぞって唇を噛んだ、あの時の物足りなさに似ている。

 

例えば、落ち着いているのが大人、理解力があるのが大人、相手を思い憚るのが大人というなら。

いつまで経っても、子供にしか居られないのかもしれない。

少なくとも、この人の隣では。

 

 

「――でさ、凄かったんだ、ホントに。曲が終わった後の真っ白な感じから、一気にお客さん達の声援で溢れてさ。最高だった。一方通行にも来て欲しかったよ」

 

 

「仕方ねェだろ、別件が先に入ってたンだしよ。まァ、仮に暇だったとしても、クソみてェに人が多いのが鬱陶しいから行かなかっただろォがな」

 

 

「人が多いのは仕方ないよ、『Happy Princess』のコンサートライブともなればね。実際、人だってとんでもなく多かったし。けど、スタッフさんとかの熱意も凄くて、何より城ヶ崎美嘉さんのパフォーマンスとか圧巻でさ……バックやらして貰ったのがホント夢みたいで、思い出したら今でも手が震えちゃったりするんだよね、ほら」

 

 

「……寒いからとかじゃねェの、春だってのにまだこンなに冷えてやがるしな。つゥか良い加減暖かくなりやがれってンだ、畜生が」

 

 

「ちょっと、茶化されるのは面白くないんだけど。それと、今度私が組む事になったユニットがCDデビューも兼ねて、ミニライブするっていう企画が進んでるんだ」

 

 

「ほォ……やけに早ェじゃねェか。クカカ、無様に転ンだりすンなよ?」

 

 

「無様にって、なんかそれを期待してる様な悪意を感じるんだけど。挑発するんなら、ちゃんと今度こそ見に来てよ」

 

 

オーブンに火を通したグラタンのチーズみたくポコポコと興奮の熱を沸き上がらせて、柄にもなく火照ってしまった身体には、肌寒いくらいの春に成り立ての風はとても丁度良い。

灰と黒と白、その仄暗い三ツ色しか纏えない事に機嫌を損ねた厚雲に涙を流させない為に、遠い宙から光を届ける薄い下弦の銀月。

息吹を巡らせるらしい月の形をそのまま象って貼って飾った様な薄い下唇は中々に代わり映えしないのに、たまに優しく微笑むから、目を離そうとする度に後ろ髪を引かれてしまいそうになる。

 

けれど、それだけが理由で、父親に対して、親友に対して、或いは恋人に対してそうする様に、自分の経験した事を少しでも共有して欲しいと矢継ぎ早に言葉を尽くしているんじゃない。

もっと幼稚で、もっと剥き出しで、極めて貴重で稀少な感情に急かされているんだろう。

 

 

だから、一方通行を前にした私は、子供にしかなれないんだと思う。

きっと、こんな姿をシンデレラプロジェクトのメンバーや、あの口数の足りない不器用なプロデューサーが見れば、吃驚してしまうんだろうな、と。

 

自分でもそう思えるんだから、そうなんだろう。

そんなモノ、なんだろう。

そういうモノ、なんだろうね。

 

 

 

「予定が空いたらな。空いてねェなら仕方ねェし、仕事が入る可能性もある、学校行事に重なったら先ず無理だなァ……あァ、試験勉強もしねェといけねェ、参ったぜ」

 

 

「ちょっと、事前に予防線張り過ぎ。いっそ普通に行くのが面倒って言われた方がまだマシじゃん。というか、試験勉強って……かの有名な川神学園の『知神』が何言ってんのさ」

 

 

「……オイ、そのだっせェフレーズを俺の前で二度と吐くな。つゥか何でオマエがその阿呆みてェな忌み名を知ってンだ、オラ」

 

 

「いや、あのね、アンタが思ってる以上に色んな意味で有名みたいなんだけど、一方通行の名前。まさかウチのクラスでも知ってる人が何人も居るレベルとは思わなかったけどさ」  

 

 

「……冗談だろ、クソ。しかもオマエンとこ確か女子校だった筈だろオイ。なンで其処まで広範囲に……やっぱあの脳筋馬鹿の所為か。いや、寧ろ英雄のド阿呆が要らン事振り撒いてンじゃ…………チッ、殺すか今度」

 

 

「物騒な事あんまり言わないで、なんかアンタが言うと冗談に聞こえない。でも、卯月と未央は知らないって言ってたから、逆に共学には伝わってないのかも。良かったじゃんか、女子校では注目の的みたいでさ」

 

 

「……流石はアイドル、ちやほやされてェ欲求は一丁前か。生憎、俺は顔も知らねェ相手に騒がれて喜ぶ真似なンざ出来ねェよ」

 

 

「随分厭らしい言い方するね。でもさ、それって知ってる相手になら騒がれても良いって事になるけど?」

 

 

「揚げ足取りも随分型に嵌まるじゃねェか、誰の影響なのかねェ」

 

 

「お陰様で」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

紺碧に染められた河川敷に、生え揃った草花へと黒くのっぺりとしたクロスで磨く度に震えるギターの弦のノイズを翳せば、錯綜すら誤魔化して同調する葉擦れの音がそっと寄り添って、耳に優しい。

 

アイドルになると、そう告げたあの日から映る景色が更に鮮明に輝いてくれるのは、重石代わりに乗せられた白い麗人の『そォか』という単純な一言のお陰なのだろうか。

 

期待もせず、否定もせず、きっと彼を理解出来ない人ならば、冷たい人、そのレッテルを貼り付けて終わりそうな顛末だけど。

煌めくダンスホールで踊れても、灰被る煙突の暖炉で炭をつつく結果に終わっても。

どちらに転んでも、変わらない皮肉で受け止めてくれそうな気がする。

 

それは思い上がりに過ぎない空想かも知れないのに、無遠慮な押し付けにしかならないかも知れないのに。

変わらず先を見続ける事を他でもない『私自身』に誓わせる、結果の一つ。

 

 

「未央とかもさ、友達皆に声掛けたりしてるし、卯月だってそうしてる。私達……シンデレラプロジェクトの皆にとっての、最初の第一歩なんだ。だから、一方通行にも見に来て欲しいんだけど」

 

 

「……」

 

 

鉄弦の裏側をクロスで拭き取る神経質な白磁色の指先が、ピクリと悴んで、ネックの舞台をもう一度滑り落ちて行くわざとらしさ。

震えた弦が紡ぐ幽かな音色に、正直に請うた願いとは裏腹に俯かせた顔と落ち着かない鼓動を急かされる。

 

シンとした夜宵の静けさが痛くて、一方通行の居る側、右耳に嵌め込んだアイオライトのピアスを手慰みに触れてしまうのは、少し前からすっかり癖になってしまっていた。

 

 

「……確約は出来ねェが、まァ、考えといてやる。もし行けなくても文句垂れンなよ」

 

 

「っ……そこまで子供じゃないし、無理を言ってるのはこっちだって云うのは百も承知してる。けど……」

 

 

「けど、なンだよ?」

 

 

「……ん、いや。何だったら川神の人達、皆連れて来てくれてもいいよ」

 

 

「……ライブ所じゃなくなるビジョンしか見えねェが」

 

 

期待しても良いんだよね、という言葉が願望の押し付けになってしまうからと、塞き止める辺りが、多分、背伸びしていると云う所なんだろう。

飾らない言葉を積み立てれる卯月達みたいに、上手くは言えない中途半端さが、如何にもこういう事には臆病な私らしい。

彼が来なくても、しっかりとベストを尽くさなければと意気込む心の何処かで、それは予防線に張ってるだけだよと、冷徹に分析している自分がいる。

 

 

「CDデビューねェ。ユニット名とかもォ決まってンのか」

 

 

「うん。ニュージェネレーションって名前なんだけど」

 

 

「……なンつゥか、シンプルだな。オマエらが考えたのか、それ」

 

 

「違うよ、名付け親はウチのプロデューサーになるのかな。本当は私達が決める予定だったけど、上手く纏まらなくて。便宣上の名前が取り敢えず必要だからってプロデューサーが用意したのがその名前で、じゃあこれで行こうって事になったわけ」

 

 

「主体性ねェな、オイ。まァ、変に可愛いぶるよりは良いンじゃねェの」

 

 

「まぁ、私もコテコテな名前よりはこっちの方が良いし、ね…………ちなみにさ、『フライドチキン』と『プリンセスブルー』と『シューアイス』の中から名前を選ぶとしたら、どれが良いと思う?」

 

 

「ンだその微妙過ぎる選択肢は。つゥかそのプリンセスブルーっての、絶対オマエが考えたヤツだろ」

 

 

「ち、違うし。あくまで皆で考えて残った候補の一つだから。で、どれ選ぶの、さっさと答えてよ」

 

 

「そン中なら……シューアイス」

 

 

「……あっそ。残念だったね、その名前に決まらなくてさ」

 

 

「やっぱそのプリンセス云々はオマエが考えたヤツなンじゃねェか」

 

 

「……バカ、意地悪」

 

 

「クカカ」

 

 

 

ふとした拍子に耳飾りに触れる度、思い浮かべる感情論はいつも最終形に辿り着けなくて有耶無耶になる。

こうして並んで座る私とこの人の関係は一体何と喩えるのが相応しいのか。

それなりの年頃ならば、月並みで指紋だらけの自問自答に過ぎないんだろうけど。

 

赤の他人、単なる知り合い、近しい親戚。

きっと客観的に見れば、仲の良い兄妹か、恋人同士。

主観的に見れば、気心の知れた友人同士が関の山。

 

その距離が余りに近くて、息が苦しい。

 

この距離が余りに遠くて、空を見上げる。

 

 

 

「じゃあ、私達がミニライブをちゃんと成功させたらさ、今度こそバイクの後ろに乗せてよ」

 

 

「あァ? なンでそォなンだよ。つゥか俺にメリットねェし」

 

 

「アイドルに密着出来るという特典」

 

 

「デビューまだの癖に何言ってンだメスガキ」

 

 

「CD無料で贈呈するから」

 

 

「只の宣伝じゃねェかそれ」

 

 

「缶コーヒー、今度からもう一本多く持って来るから」

 

 

「自分で買うから良い」

 

 

「じゃあ、ウチの商品、サービスするから」

 

 

「……オマエンとこに寄る予定はねェよ」

 

 

「嘘だね。母の日もそろそろだし、欲しいんでしょ、カーネーション。梅子さんって人に贈るつもりなんじゃなかったの?」

 

 

「…………チッ、随分目敏くなったモンだな」

 

 

「お陰様で」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

 

願いを叶えて欲しいと夢中になって追い掛けるには、星屑ばかりが煌めいていている夜は眩し過ぎる。

波紋を響かせて広がるばかりの心を急ぎ足で落ち着かせてばかりの私は、いつまでも大人になれない。

 

 

追い求める物が多ければ多い程、足は縺れてしまうのはどこかで分かっていた筈なのに。

結局は躓いてしまったのだ。

よりにもよって、この人の目の前で。

 

 

そういうつもりでも、案外上手くは行かないんだよ、やっぱりね。

 

 

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

『眩暈』

 

 

―――

――

 

 

 

 

 

深海の底みたいに無音に感じる部屋の中で、微かな呼吸音と、酷く他人面した雨音が遠くで鳴っている。

どうしたいのかも分からない、灰色に煤ける気怠さを重荷に感じてしまって、制服から着替える事すら億劫で。

仰向けに身体を投げ出したまま、見上げる天井の天気照明は灯らない、灯せない。

色が消えてく。

光が負ける。

 

 

「……」

 

 

 

水と油を掻き回したって混ざり切らないのに、無理矢理にでも溶かしてしまおうとグチャグチャと乱されてしまうかの様に、考えが纏まらない。

悔しさと、苛立ちと、虚しさが巣食っては遠慮もなしにざわめいてばかりの胸元に、そっと手を当てる。

 

 

 

ニュージェネレーションとして、シンデレラプロジェクトのメンバーとしての、第一歩となるミニライブ。

私達が抱いていた華やかな理想と、当たり前な現実の違いを上手く収めきれなくて、すれ違って、縺れ合ってしまって。

リーダーである未央が、検討違いな責任感を背負ったらまま、アイドルを辞めると言ったあのコンサートから、もう5日が経とうとしていた。

 

 

「……」

 

 

 

ちゃんと待っている、もう一度、やり直そう。

お客さんだって笑顔だったし、足を止めて聞き入ってくれていたんだから、手応えはあったんだ。

お客さんの数だって私達次第だから、今度は私達の力であのバックダンサーの時の興奮を掴もうよ。

 

 

浮かんでは消えて、消えては浮かんで、を泡沫の様に繰り返しては、紡ぐ事も、綴る事も、今の私には出来ないだろうし、資格なんてない。

 

幾ら理想と現実が違うからといって、身勝手な事を言って逃げてしまっている未央に対する不満、ちゃんと真っ直ぐに向き合ってくれないプロデューサーへの八当たり染みた不信感。

私が夢中になって追い掛けようとしたモノは、こんなにも簡単な事で崩れてしまうのかという落胆、そして、そんな状況でありながらも塞ぎ込んでしまって、何も出来ない私のみっともなさ。

 

 

 

「……やだよ」

 

 

 

窓際の勉強机の上に重ねた、二枚のCDと、透明なガラスを根城に咲いた青色のエゾギクの花が、臆病になってしまってばかりの私を見飽きたのか、顔を逸らして曇天を仰いでいる。

慰め代わりに触れた右耳のピアスの酷く無機質に感じる程に温度がない癖に、あの日のデビューライブで胸に走った鋭い痛みにすらシンクロして。

 

 

コンサートをやり終えた際に、会場の二階、柱の陰、目立たない処からひっそりと見下ろしていた、あの人を見付けて。

約束通りに来てくれたんだと頬を綻ばせる間もなく、あの人の、一方通行の隣で彼ととても親しそうに話す、とんでもなく綺麗な女の人を、見留めてしまって。

 

 

頭の中が真っ白になってしまって、何かから逃げ出す様に舞台袖に引っ込んだ未央の後に続いた最中に、初めて気付いた。

知らない内に、流れてしまっていた涙に。

 

 

 

 

「……嫌だよ、こんなの」

 

 

神様なんて信じてないのに祈ってる。

誰かに助けを求めてばかりで、膝を畳んだままでは一歩も先に進めない。

流れ星に願い事を届けるだけの停滞を許されるなんて、そんな優しい世界じゃない事ぐらい分かってる筈なのに。

都合の良い展開ばかりを望んでいる。

 

 

勝手に期待して勝手に決め付けて、勝手に落ち込んで、勝手に泣いてしまった。

せめてこの蟠りだけは隠そうとしてみてはいるけれど、卯月や他のメンバーには、もしかしたら、気取られているのかもしれない。

 

 

「……なんで、こんなに痛いの……」

 

 

 

時が止まっていてくれたら、どれだけ助かるだろうか。

そうしたら、いつか、この傷みにも慣れるかも知れない。

この気持ちに、名前を付けてしまえるかも知れない。

 

雨が止めば、虹が架かる。

この傷みからも立ち直れる筈だ、いつかは。

だからそれまで、どうか、待って欲しい。

 

 

けれど、空を覆う雨雲はいつまで経っても厚く広がったままで。

 

虹どころか、星一つさえ探せそうにもない。

 

 

 

 

 

 

 

―――

――――

 

 

 

 

 

随分と張り切って演出に凝ってくれる物だと、鬱陶しそうに尖って天を睨む紅い瞳と、底冷えすら誘う愉快そうな口元は酷くちぐはぐで、釣り合いがとれていない。

重量制限されてる黒傘の隙間から立ち込めた暗雲を確かめて、不遜がちに鼻を鳴らす辺りは、何処か誰かの言う通り、シニカルという記号だけはとても釣り合っている。

 

 

不穏な空気を作るには如何にも相応しい曇り空に罪なんてモノは無いけれど、いつまでも演出過多なのは戴けない。

睨まれる覚えなんて無いと一層強く泣いてる曇天を、その気になれば今すぐに泣き止ませてやるとでも謂わんばかりに見据えている、不倶戴天な紅緋の眼差しは、悪気の無い雲の裏側すら見透してしまいそうで。

 

 

「……身の程を弁えねェバカに振り回される事ほど、やる気の削がれる事はねェな」

 

 

 

空を脅すのにも飽いたのか、気紛れな悪態を一つ零して、お姫様を迎えるには上々の城構えの346本社に設置された、インテリアチックな時計へと視線を映した彼の瞳は酷く気怠そうで、どこか投げ遣りな癖に、随分枠に填まる。

 

下手をすれば、自分が導こうとするべく奔走している誰よりも、遠大な階段の先に構えた城を潜るには相応しいのかも知れないと思える程の絵空事染みた白麗さに、知らず知らずの内に鉄面皮を貼り付けてばかりの大柄な体躯の男は、息を呑んでしまっていた。

 

 

だからだろう、その白貌が、誰に向けて言葉を紡いでいるのかに彼が気付けたのは、鮮烈な程に奥深い紅い瞳を此方に向けられてから数秒も置いた後だった。

 

 

「冴えねェ面引っ提げてンなァ、オッサン。はン、その目付き、アンタで間違いなさそォだ」

 

 

「……貴方は?」

 

 

「名乗る程の者でもねェよ。強いて言やァ、どっかのオマエのファンの世話焼きに振り回されてるバカって処か」

 

 

「……私の、ファン……?」

 

 

白貌の青年が主演を務める舞台の聴衆者に過ぎない筈の自分が、無理矢理に不釣り合いな舞台の上へと引き上げられてしまった。

 

 

余りにも脈絡も容赦もない寸評は失礼を通して、いっそ清々しい。

 

一から十まで説明するつもりでも無いらしく、揶揄染みた謎掛けを擲って煙に撒くつもりも無さそうな口振りではあるが、本題が見えて来ない。

自分が手掛けるプロジェクトのメンバーである島村卯月が体調を崩した為に見舞いへと出向こうとした矢先で、如何にも自分を待ち構えて居たという口振りのこの青年に、心当たりが見付からない。

 

 

「話を聞いてやれってよォ……アイドルなンざ専門外な俺に無理難題押し付けやがって、あの腐れアマが。相談役くれェ自分でやれってンだ」

 

 

「……あの、先程から話が見えて来ないのですが。貴方は一体どういう方なのですか? 私はこれから、所用がありまして――」

 

 

「そンな面で見舞いに行ってどォすンだよ、余計に悪化させてェのか」

 

 

「――――」

 

 

 

皮肉めいた口調と共に紡がれるテノールに、足の裏を縫い付けられたのかと錯覚してしまいそうだった。

どうして、自分の予定を知っているのか。

そもそも、この青年の目的を額面通りに受け取って良いのだろうか。

 

まるで把握出来ない状況に動揺を隠せない自分に同情する様に浅い溜め息を吐いた青年は、自分と比べれば優に細く女性的な肩からぶら下げていたハンドバッグから、二枚のCDを取り出して、そのまま乱雑に自分へと突き付ける。

乱暴に手渡されたのは、他でもない彼がプロデュースを務める『ニュージェネレーション』と『ラブライカ』のデビューシングルであり、一瞬、この青年は彼女達のファンなのかとも思いもしたが、どうやらそうでは無いらしい。

 

 

「……悪ィが、オマエのファンにはクソうぜェ事に借りがあンだよ、俺は。勝手な話だが、その返済に付き合わせて貰うぜ、プロデューサーさンよォ」

 

 

「……貴方は、私の事を知っているのですか?」

 

 

「殆ど知らねェし、興味もねェよ。オマエラの抱えてるシンデレラプロジェクトとやらも割とどォでも良いし、そンなに首を突っ込むつもりもねェ」

 

 

「…………なる、ほど。しかし、その、私のファンと名乗る方の意図は兎も角、我が社のプロジェクトに関わる内容を、おいそれと口外する訳には行かないのですが」

 

 

「クカカ、良いねェ、ちゃンと社会人やってンじゃン。だが、もう少し察してくれると俺としても話が早くて助かるンだがな」

 

 

「…………っ」

 

 

言外に察しが悪いのだと指摘されているのだろうが、見ず知らずの人間に指摘される謂れは無いと噛み付けるだけの気概は、今の彼にはない。

いや、正確には寡黙がちな普段の彼でもそんな事にはならないのだろうが、間の悪い事に、外見でこそ判りにくいが内面では深く意気消沈としている彼には、到底無理な事だ。

その察しの至らなさと、寡黙さで二人の少女を傷付けてしまったと自分を追い詰めている、今の彼には。

 

 

「部外者がなンでオマエの予定を知ってンのか。つまり、俺にその予定を告げたファンってのは誰なのか。考えてみれば、限られて来るだろォよ」

 

 

「私が席を空ける事を報告しているのは部長と千川さんだけですが…………貴方は、一体……」

 

 

「――さァな、そこは取るに足らねェ事だろォよ。まァ、兎も角、俺は俺でさっさと借りを返させて貰いてェンだが、どォするよ、プロデューサーさン」

 

 

絞り出した憶測を肯定する訳でもなく、否定する訳でもなく曖昧に濁す辺り、どうにも只者ではなさそうな青年にも、彼なりの事情があるのだろうか、と。

しかし、言葉通りにも、態度的にも、少なくともプロジェクトの内容について悪用するつもりは無そうではある。

特別信頼に値するという人間性を示された訳ではないというのに、恐らくは自分より一回りは年若い筈の彼の堂に入った立ち振舞いは、不遜を通り越して清々しくも思えるのは何故だろうか。

 

 

「……」

 

 

「無理にとは言わねェし、面識の無ェクソ生意気なガキ相手に話す事なンてねェって振ってくれても構わねェよ」

 

 

「…………」

 

 

「……勝手な言い分だが、早ェとこ決めてくれると助かる。どォすンだ」

 

 

「………………私、は……」

 

 

見ず知らずの人間相手に悩み相談など、普通ならば憚れるのだろう。

それも、ましてや企業のプロジェクト内容だ。

相手にそのつもりが無くとも、本来ならば忌諱すべき筈だし、彼の言う通りに打ち明けるには社会人としての立場もあるのだが。

 

 

けれど、このまま解決策も無いままに抱え続けて、男の抱えるプロジェクトのアイドル達の行く先を閉ざす事だけはしては行けない。

破れかぶれに過ぎないのかも知れないが、見知らぬ誰かに、自分が傷付けてしまった二人の少女への葛藤を話してしまえば、この臆病に凝り固まってしまっている錆びた車輪みたいな自分も、少しはマシになるかも知れない、と。

 

そして、何より。

青年の目的や意図も、彼の言う自分のファンというのもハッキリとせずあやふやなのに、わざわざこの雨の中、自分を待っていたらしいこの青年の言葉を無下にするのは、どうしてか、抵抗を感じてしまうのだ。

いや、どうしてか、という疑問など浮かべる必要はなかった。

 

 

「………………………」

 

 

「………………………」

 

 

春に差し掛かってもう幾分も経つが、雨時の気温はまだやや低めであるので、寒さを苦手とする人間には少々堪えるのだろう。

散々不遜不敵を演じていた筈の青年もどうやらその部類らしく、小刻みに揺れる撫で肩を見て、それを気取られまいとしながらも急かす様に足踏みをする彼の、妙な子供らしさが垣間見えて。

 

こういう時は、茶化せば良いのか、気付いてない振りをするべきなのか、分からない。

不器用に輪を掛けた様な気質の自分には上手い正解例が見付けられず、どうするべきかと、プロデューサーと呼ばれる男は痛んでもいない首をそっと撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

―――

 

 

 

 

 

 

プロデューサーという役職に居ながらも、饒舌などとは程遠い面倒な堅い口からは、流暢とは言い難いが、珍しくもスルスルと言葉を吐き出す事が出来てしまったのは彼自身にとっても驚くべき事だろう。

 

 

プロジェクトの第一足、二足となる二つのユニットのデビューを飾る事となったミニライブでの顛末。

その内の一つであるニュージェネレーションのリーダーである本田未央の、遠すぎた理想と現実の違い。

客数の少なさにもどかしさを抱えた彼女を叱るでもなく諭すでもなく、ただ『こういうものだから仕方ない』のだと削ぎ落と過ぎた言葉を突き付けてしまった彼。

 

客が少なかったのは、自分がリーダーであるからの結果と捉えてしまった稚拙さと。

客が少なかったのは、新人なのだから当然だと上手く伝え切れなかった言葉足らず。

そして、事務所へと訪れない彼女を連れ戻そうと一人で背負込んで、けれど中途半端にしか踏み込めなくて、正論を突き付けるだけで、余計に彼女を追い詰めてしまったのだと。

 

そして、自分の臆病さが招いた逃避の言葉で傷付けてしまった、渋谷凛の事も。

未央の事を追及されて、見解の相違などという言葉で濁して。

 

 

『信じても良いって思ったのに』

 

 

彼女の口元から零れ落ちた、明らかな失望の声が営利な硝子の破片となって、胸に刺さった儘、癒えないでいた事も気付けば語ってしまっていた。

 

 

 

表情こそ変わらない鉄面皮を貼り付けながらも比較的すんなりと、時折、躊躇いを見せつつも話せたのは、346の直ぐ近くにある喫茶店で流れるクラシックのBGMのお蔭か、喉に流すコーヒーの苦味に促されてか。

いや、多分、そうじゃないのだろうと、黒鳶色の水面に映る目付きの悪い堅い顔を眺めながら、対面を見詰める。

 

相槌を打つでもなく、頷く事もなく、先を促す素振りすら見せないで、先程の飄々とした食わせ者然とした様相が嘘の様に、ただ静謐な彫刻へと成り下がっているからだろう。

 

普段は華々しくも騒がしい面々に囲まれているのもあれば、生来の口下手も災いして、聞き役に徹する事の多い男であるのだが、コーヒーを啜るか、時折プロデューサーを一瞥するくらいしか白い青年は先程からまともにアクションを取らないので、必然的に彼が話を進めなくてはならなくなる。

斯くして、思惑通りかはさて置いて、事のあらましの全てを聞き終えた青年こと一方通行は、細い指先で引っ掛けたコーヒーカップの中身を一気に飲み干して、漸く無骨な男へと視線を移して。

 

 

 

「聞かせろって連れ込んどいて言うのもあれだがな……オマエ、そりゃ口下手過ぎだろ。いや、つゥか、プロデュースするアイドルに対して引け腰過ぎンだろ幾ら何でも。一線引いて接するのは間違ってねェけど、せめてその線引き隠すくれェしろよ」

 

 

「……線引き、ですか」

 

 

「見え透いた予防線を張って、大人同士なら兎も角、ガキ相手にビビってどォやってプロデュースすンだ。良いか、クソガキってのは物分かりは悪い癖に、本音も向けて来ねェで濁したり距離作ったりされると必要以上に傷付いちまうクソ面倒な生き物なンだ、その道潜ってンなら、そンくらい分かってンだろ、オマエも」

 

 

「…………私、は」

 

 

「其処らにはオマエなりの事情が関わってンだろォが……ハッキリ言っとく。オマエ、そのスタンスは向いてねェし役不足だ。寧ろぶつかるぐれェが丁度良いだろォよ。それとも、まともに向き合う踏ん切りが付かねェってのか、あァ?」

 

 

「――――」

 

 

ぐうの音も出ない、とはこの事なのか。

多少なりとも呆れられはすると思っていたが、こうまでバッサリ斬られた上に、必要以上を語らず、必要以上に向き合わずに居る過去の爪痕ごと、掬い上げられるとは思っても見なくて。

 

かつて、愚直な程に相手にぶつかって、正しいと思う道を押し付けて、その結果、自分の元から離れていった何人かのアイドル達の懐かしい面影が泡沫の様に浮かんでは消えていく。

いつしか、自分が導くべき者達へと踏み込む事を恐れては、伝えなくてはいけない本心を隠して、彼の云う通りに、線を引いてしまっていたのだろう。

ただ、シンデレラを華々しく絢爛な城へと送り届けるだけの、物言わぬ車輪として、無機質に動いていただけだ。

 

 

 

「……どうして、私が、彼女達と向き合うのを恐れていると思ったですか? 私は、其れほどまでに分かり易い人間なのでしょうか」

 

 

「……はン、他は兎も角、俺なら嫌でも分かっちまうンだよ、クソッタレ。だからあの女狐が俺とオマエを引き合わせたンだろォよ、クソ忌々しいぜ」

 

 

「……それは、私のファン、という方ですか。しかし、では何故その方は私と貴方を……」

 

 

「……少し似てンだよ、昔の俺と、オマエは。ロクデナシっぷりは俺のが桁違いに酷ェがな」

 

 

「………………」

 

 

――人を恐れて、周り全てに事あるごとに線引きして、本音を隠して逃げ回る辺りが、とまでは一方通行は口にしない。

そこまでに重症そうではないし、偉そうな口を叩ける大層な過去を持っている訳でもない。

 

猩々緋の眼差しが届けるのは、最低限の懐旧と、皮肉な口振りと、少しばかりの静寂。

 

そして、僅かばかりの後押しだけで充分だ、と。

半月を模した薄い唇が、気取られない程度の弧を描いた。

 

 

「最後に『臆病者としての大先輩』から、実に下らねェアドバイスをくれてやる」

 

 

「……」

 

 

「まともに向き合えもしねェヤツがシンデレラを導ける訳ねェだろ。傷付けンのが恐いとか抜かす陰気な幻想はぶち殺しちまえよ」

 

 

「…………っ」

 

 

「小っせェ自分だけの現実に引き篭るぐれェなら、さっさと甘ったれたクソガキのケツを叩いて来い」

 

 

「…………はい!」

 

 

 

 

漸く、踏み込む決心が付いたのか、それとも、元々燻っていただけの心に火を点けてしまったのかは定かではないけれど。

発破を掛ければすんなりと動き始める辺り、そもそも自分の出る幕では無かったのではないだろうかと苦笑を零す。

 

 

機敏な動きで財布から千円札を取り出して一方通行の手元に置いて、綺麗に一礼し、傘だけを置いたまま弾かれる様に喫茶店を飛び出して行った男を呆れながらも見届けて。

 

柄にもない、割に合わない配役を押し付けられて、どこかの誰かの望む通りに演じ切らされた事に対して、苛立ちを隠そうともしない仏頂面を浮かべながら、気怠そうな伸びを一つ。

そのままのだらしない体勢で羽織っていたコートのポケットから取り出した携帯電話を弄くって、あの不器用極まりないプロデューサーのファンとやらに、簡易なメールを送って、席を立った。

 

 

「……偉そォな口を叩くよォになったモンだ」

 

 

彼が残していった千円札と黒傘を拾い上げながら、どこか自嘲的に唇を震わせる白貌の者が貼り付けた感情は、インテリアの彩飾が目に優しい喫茶店の窓から伝う雨滴みたいに千切れ千切れて、形を損なった水溜まりの底の様に広く浅く、やがて渇いていくのだろう。

 

図体だけはがっしりとしながらも随分と繊細な心を持ったプロデューサーとの邂逅は、時間にすれば半刻にも満たない。

けれど、どっしりと腰を据えるかに思えた雨雲は少し薄くなっていて、夕方を過ぎる頃には雨足も遠退いてくれそうだ、と。

 

 

「……ガキだな、どいつもこいつも」

 

 

 

自分を含めて、と続きは敢えて音にしない辺りが、いかにも幼稚染みている自覚はある。

 

しかし、彼もまた、尻を叩いてやらねばならない甘ったれた子供を待たせているのだ、いつまでも喫茶店で優雅な一時を過ごすだなんて柄にもない真似に浸る性分でもない。

 

 

白磁の長い睫毛をシパシパと瞬せながら、ハンドバックから財布を取り出す青年の尻尾髪が、やれやれと肩を宥める様に右へ左へと波打った。

琥珀色の鈍い溜め息を、そっと置き去りにして。

 

 

 

 

 

――

――――

――――――――

 

 

 

次第にフェードを弱めていった雨の足音に怯えて、腕の中で抱き潰していたクッションが悲鳴を軋ませる度に、晒していた素足が縮こまって肌を触れ合わせて熱を生んだ。

 

私の渇いた地面を打つ雨を無謀に数えて、どれだけの時間が経ったのだろう。

 

私を振り切ろうとする私に気付きたくない。

暗がりに逃げ込んだ視界に射し込む薄明の月白のラインがあの人の細い指先に重なって、瞳を閉ざしているのに、眩暈を呼び込んで。

吐息を重ねた数だけ明光を失って夜へと加速していく部屋の、窓の外を眺める気にはなれない。

望む輪郭を辿るだけの今日を追いかけている数日が、借り物の歌詞ばかりを拾い集めて作った詩の様に色褪せて、失いたくない本質さえも剥がれていく。

 

けれど、もう聞こえない雨の音を心音で作り出しながら、ベッドの上で仰向けに転がっていただけの幼稚な私の卑屈を遮る、どこか躊躇いがちなノックの音が鼓膜に届いて。

誰だろう、と限られた選択肢を思巡する事もしない無気力さを引き摺ったまま鈍く身体を起こした私を迎えたのは、少し困惑した様な母の顔だった。

 

 

「……凛、ちょっと……いい?」

 

 

「……どうしたの?」

 

 

ここ数日、暗い表情ばかり浮かべていた私の所為で、暖かな笑みに少し陰を差し込ませてしまった母は、どこか遠慮がちに此方を窺っている。

でも、仄かに届く花の香りと共に見えた、少し朱を添えた頬は珍しく興奮を冷めきれない様子を感じ取れるのは、何故なんだろう。

 

頻りに部屋の外、というよりは下の階の店内をチラチラと一瞥している妙な落ち着きの無さは、穏やかでのんびり屋な母にしては珍しい。

 

 

「今、前に一度来られたお客様が居らしててね、その……凛に花のサービスを予約していたらしいんだけど。ちょっと私には良く分からなかったから、呼びに来たんだけど」

 

 

「……予約? え、何の?」

 

 

「カーネーション。それにしても、あんな美形と知り合いだったなんて、隅に置けない娘ねぇ。お母さん聞いてないわよ」

 

 

「……まさか」

 

 

 

 

予約。サービス。カーネーション。美形。

 

母の口から紡がれた符合と合致する人物なんて、一人しか居ない。

慌てて手元に手繰り寄せた携帯電話を確認すれば、ディスプレイに浮かび上がったデジタル表記の日数が示すのは、『母の日』という紛れもない証左。

思い浮かべるのは、自分達のデビューライブを見に来て欲しいと打ち明けた夜に交わした、頼りない口約束。

 

 

どうしよう、多分、間違いなく彼が……一方通行が来ている。

どんな顔して会えば良い、ちゃんと笑えるだろうか、気取られないように接する事が出来るだろうか、無理だ、絶対気付く、あの人は。

 

デビューライブに来てくれるという約束もちゃんと果たしてくれたけれど、それなら彼の隣にいる女の人の存在に心を掻き乱されて茫然としていた私の姿を見ている筈だ。

唯でさえ未央やプロデューサーとの蟠りを抱えて余裕のない私が、一方通行を前にして何も語らずに居られるのか、そんな自信なんて欠片もない。

 

 

どうしよう、どうしよう。

グルグルと乱れては定まらない思考を大した成果もなく繰り返しては俯く私を、けれど母はそのままそっとしておいてはくれなくて。

 

 

 

「取り敢えず、着替えてらっしゃい。あと、寝癖付いてるから、櫛も通しときなさいね。その間、ちゃんとお母さんが接客しておいてあげるからっ」

 

 

「……ねぇ、何か……楽しんでない?」

 

 

「気の所為よ、気の所為。ほら、さっさと動く。あんまり遅いと、この部屋にあのお客様通しちゃおうかしら?」

 

 

「わ、分かったから、着替えるから……それだけは絶対に止めて。あと、変な事聞いたりしちゃ駄目だからね!?」

 

 

「はいはい」

 

 

 

 

何か絶対良くない勘繰りをしている事は想像するに難くない意味深な笑みを満開に咲かせながら閉めた扉越しに聞こえる、母の機嫌良さそうな足音に急かされて、慌ててクローゼットを開いて。

スカートのホックを下ろして、萌葱色の下地に青のストライプが挿す学校指定のネクタイを解いて、大急ぎでブレーザーを脱いで、と、滅茶苦茶な順番で着替えていく。

 

 

どんな顔をして会えば良いだとか、そんな事を気にしている暇なんてない。

日頃から、浮いた話一つない私にわざとらしい溜め息を吐いては余計な世話を焼きたがる母の横顔が、今にも下で待っている一方通行に根堀葉堀あれこれと質問責めでもしてそうな悪戯めいた笑顔に脳裏で変わって。

 

そんな顛末を迎えれば、私の一方的な蟠りの所為で、唯でさえ顔を合わせ辛くなっているのに、最早合わせる顔なんて無くなってしまうだろう。

それだけは避けたい、そこまで割り切れる相手じゃないし、こんな幕引きで終わらせて良い関係なんかじゃない。

少なくとも、私にとっては。

 

 

「……ぅぁ、寝癖……」

 

 

脱ぎ捨てたカッターシャツの布擦れ音で一拍置いて、こんなにも急かされて着替えた試しなんてないからか、クローゼットに取り付けてある等身大の鏡に映された自分の姿が、酷くみっともなく思える。

単調な白の上下の下着姿に、不満顔と半開きの目と、コームで巻いた訳でもないのに不自然に波打った寝癖髪は、とても誰かに、ましてや一方通行に見せられるモノじゃない。

 

揶揄われるし、弄られるのはまず間違いないけれど、仮にも女の子としての自覚はあるし、その、多少なりとも意識してる相手にこんな姿見られるなんて死んでも御免だ。

 

髪を梳かせという母の忠告通りに櫛を通さなくてはならないが、素直に有り難みを感じるには些か釈然としない。

 

 

「……はぁ」

 

 

ジーンズを履き終えて、長袖のインナーに袖を通しながら、数分前までセンチメンタルに浸っていた筈なのに、こうやって年甲斐もなく焦っている私は、我ながら酷く節操のない人間に思える。

一刻も早く着替えて彼を出迎えなくては、母に何を吹き込まれるか分かったもんじゃないからと、急かされている理由はきっと、それだけじゃない。

 

 

合わせる顔がないと心中で散々足踏みしておいて、いざ彼が直ぐ傍に居ると知れば、この有り様。

鏡に映る私の顔は、熱病に浮かされているみたいにすっかり朱に染まっていて、深いマリンブルーのインナーには都合の良いコントラストを演出しているのだから、救えない。

調子の良い、思い通りにならない心音を嫌でも示されて、途方もない倦怠感から背中を押された無情な溜め息が、やけに安っぽく部屋に響いた。

 

 

 

 

――――

―――

――

 

 

 

 

黄金色に晒された泥混じりの砂の粒がキラキラとオレンジ色に輝いて、雨上がりの夕暮れに星屑を散りばめている、男の子の小さな手。

遠き日をなぞる魔法使いは無垢な儘に指先を杖にして、雨で膨らんだ砂を蹴る音と共に、甲高い笑い声を高い空に溶かしている。

 

あれくらいの、幼少の頃の私は、泥塗れになるのも御構いなしに公園の砂場ではしゃぐ男の子の様に、無邪気で居たのだろうか。

いや、澄ました顔で一人静かに本とか読んでいた気がする。

周りと比べて早熟だと言われていた私は、どこか気取ったように大人ぶって、冷めた視線で遊び回る男の子達を見ていたのかも知れない。

もう随分遠い昔だから、あんまり覚えてないし、無理に思い出したいとは思えない程、味気無い記憶だ。

 

 

それなら今の私は、あの頃から少しは大人になれたのだろうか。

背は伸びて、髪も伸ばして、身体付きは少しは女の子らしくはなったし、顔も、街中で男の人から声を掛けられるくらいには、成長した。

けれど、多分、あの頃から内面は殆ど育まれる事もなくて、反抗期は通り過ぎたけれどその証は耳に残した儘な私は、そんなに変われてはいないんだと思う。

 

 

しがらみばかりを消化出来ずに、簡単に立ち止まっては膝を抱えてばかりの私は、手の掛かる子供に過ぎないんだろう。

遠巻きに見える、母親に叱られて肩を落としながらも水道で泥を洗って、仲良く手を繋ぎながら公園を後にしたあの男の子と、きっと、そんなに変わらないくらいに。

 

 

「……私って、一方通行から見て、そんなに手の掛かる子供みたいかな」

 

 

手も繋がない、叱られる事もない、いつものギター演奏も、伴奏もない。

細く骨張った指先で、古ぼけた木製のベンチに腰掛けて組んだ膝の上に乗せた、ラッピングされてるカーネーションの一輪を弄ぶ右側は、星が浮かんでない空の下では、独奏を促す聞き手にしかなってくれなくて。

 

ぽつりぽつりと、止み時に気付けなかった一縷の雨滴を落とす悠長さで、私は胸に巣食う蟠りを、少しずつ、歩く様な速さで一方通行へと吐き出した。

あのデビューライブでの事と、それからの衝突と、どうしたいのかも見定めれずに塞ぎ込んでしまっている事。

 

 

――彼の隣に居た女の人の事は、言わなかったけれど。

 

 

 

 

「馬鹿正直にそォ聞く辺り、自覚はあンのか」

 

 

「……さぁ、分かんない。けどさ、子供より質が悪いかもね、今の私。変に挫折して、曲解して……プロデューサーとか、未央とか、卯月とか……色んな人から向き合わないで逃げてばっかで……」

 

 

「…………」

 

 

「格好悪いね、私……アイドルになるってアンタに言っといて、こんなに簡単に挫けて……」

 

 

情けなくて、泣いてしまいそうだ。

クヨクヨ悩んでいるぐらいなら、もう一度プロデューサーにぶつかって行けば良いのに。

アイドルを続けたいなら、未央を意地でも連れ戻そうと奔走すれば良いのに。

切っ掛けばかりを探して、動かない脚を動かせないまま、鈍い本音を隠しては怯えてる。

 

 

『信じても良いって思ったのに』

 

 

自分勝手な言い草で、きっと私以上に錯綜していた筈のプロデューサーを無遠慮に突き放して。

夢中になれたあの時間を嘘にだけはしたくないと、都合の良い奇跡ばかりを祈ってる。

 

雨雲を払った赤橙のグラデーションが眩しくて、一方通行が何故か持っていた二本の黒傘の内一つの、取手の部分を手持ち無沙汰に撫で付けながら、顔を俯かせている私は、本当に子供だ。

 

 

「格好悪くて何か問題あンのか」

 

 

「……あるよ。嫌じゃん、そんなの」

 

 

「下らねェ事でウダウダ悩むのはガキの特権だろ。迷って悪ィのか、挫折したら悪ィのか。オマエの見て来た同輩の――例えば、城ヶ崎センパイとやらが、順風満帆に進ンで来たとでも言いてェのか?」

 

 

「…………」

 

 

「ンな訳ねェだろ。ガキがガキらしく挫折迎えて、それの何が悪ィンだよ。所詮、駆け出したばかりのクソガキが不様に転ンで喚いてるだけに過ぎねェ。指差して笑うのも馬鹿馬鹿しいだろ」

 

 

「……そう、かもね。本当はね、アイドルなんて止めたくないんだ。また皆で頑張ってさ、ダンスの練習したり歌のレッスンしたり、ユニットの名前を決めるのに四苦八苦して……でも」

 

 

熱に浮かされた様な勢いで、紛れもない本心から紡いだ言葉を区切って、俯かせていた顔を上げて、気付けば私と一方通行しか居ない夕霧に焼かれた公園を、見渡してみる。

 

あの日、アイドルになってみようと考える切っ掛けを与えてくれた、卯月の笑顔が咲いていた、この場所で。

色とりどりの美しい宝石なんかよりも綺麗だと思えた、あの娘の様に、私はちゃんと笑えるんだろうか、楽しめるんだろうか、夢中に、なれるんだろうか。

 

その自信が沸き上がって来ない理由なんて、分かってる。

プロデューサーや未央を、私の幼稚な嫉妬心の言い訳にしてしまっていると、自覚しているからだ。

 

 

執着、してるんだ、隣のこの人に、痛いくらいに。

嫉妬してしまった、一方通行の隣に立っていた、綺麗な大人の女の人に。

鮮やかな金色のブロンドと澄んだブルーの瞳を持った、私なんかよりも全然、大人で、綺麗で。

『子供』みたいに嫉妬して、それを打ち明ける事も出来ずに塞ぎ込んでいるだけの情けない私よりも、ずっと、一方通行の隣立つ事が相応しい、そう認めてしまったから。

 

そんな自分の醜い姿に失望してばかりで、前に進めない。

脚が、動いてくれない。

 

 

――貴方が好き、そう言える勇気も持てない癖に。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

住宅街の喧騒も、夕暮れを侵していく夜の葵に子守唄を紡がれたのか、静謐に包まれている。

寒くもないのに悴む掌が黒傘の取手を頼りなく握り締めているのは、気を抜けば今にも雨が降り出してしまいそうな目蓋を、精一杯で繋ぎ止める痩せ我慢なのかも知れない。

 

私を振り切ろうとする私に、気付きたくない。

諦めようとする私を、認めたくない。

 

 

 

 

「――凜」

 

 

「……ぇ」

 

 

けれど、ふと私の名前を呼ばれて。

多分、初めてちゃんと彼の口から紡がれた、私の音に振り向けば、真っ直ぐと私を見詰める紅い月が、いつもの様に浮かんでいて。

呆気に取られる間もなく、伸ばされた白い掌が、私の頭を優しく撫でた。

 

 

「ライブの感想、言ってなかったな。まァ、最後は棒立ちはダメダメだったが、それ以外は良かったぜ、割と」

 

 

「――――」

 

 

「そォ、そのアホ面さえ無ければ合格だったンだがな。仮にもこの俺が毎週伴奏してやってたってのに、つまンねェミスしやがって」

 

 

「……ぅ、ぁ……」

 

 

「『次』の日曜は罰としてアカペラで一曲歌え。御得意のダンスもご披露してもらおォか?」

 

 

あぁ、やっぱり、意地が悪いな、この人。

いつもいつも突き放す様に皮肉屋な癖に、レッスンで失敗した時とかも何だかんだで優しかったりするけど。

 

こういう時に優しくされたら、溺れてしまいそうになる。

想いを手放す事なんて出来なくなる。

 

 

そんな『不馴れ』な手付きで撫でないで欲しい。

折角我慢してるのに、涙が出そうになるから。

なんでこんなに不器用な励ましで、簡単にその気になっちゃうのか、分からない。

 

諦められないじゃん、もう。

あの女の人に、負けたくないって、そう思ってしまうから。

 

 

 

「――ば、か……アイドルだよ、私……お金、取るよ……」

 

 

「はン、頭っからケツまでしっかり演りきってから言えやクソガキ。次、あンな不様晒しやがったら指差して笑ってやるよ」

 

 

「……逆に、貴重な所を見れたって思ってよ。もう、金輪際、あんな失敗しないから。それに、格好悪くても問題ないって言ったの、アンタだよね」

 

 

「クカカ、吹いたじゃねェか。まァ、問題はねェが、ダッセェ事には変わりねェよ。なンだ、そういうキャラで売ってくつもりか? オマエンとこのプロデューサーに同情するぜ」

 

 

「同情するならCD買って、私達に貢献して欲しいんだけど」

 

 

「厚かましい事抜かすンじゃねェよ。誰の影響なンだろォな、全く」

 

 

「お陰様で」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

代わり映えのない憎まれ口に、乱雑な皮肉が灯火を連ねて胸の内に広がっては、揺れていく。

撫でてくれていた掌の淡い感触が麻酔の様に広がって、彼の残り火に晒された顔は、鏡を見るまでもなく朱色を差し込んでしまっているだろう。

顔が赤いのは夕焼けの所為だなんて、洒落た誤魔化しなんて今更過ぎて言えない。

 

 

「……ねぇ、一方通行」

 

 

「なンだ」

 

 

「……星が綺麗だね」

 

 

「……」

 

 

 

 

黄昏の中に瑠璃色を滲ませる、生まれたての夜に浮かぶ星屑はとても小さい。

けれど、眩暈がするくらいに綺麗で。

それが少し、惜しいな、とも思う。

 

 

 

星屑が綺麗な夜は、月がいつも大人しい。

 

 

 

シニカルで鋭利な笑みが似合う気紛れ者と見上げる夜は、不思議といつも、星だけが瞬いていて、月明かりが少し寂しい。

 

 

――月が綺麗ですね。

 

 

そう言えない夜ばかりなのが、いかにも私らしいけれど。

 

 

 

「ねぇ、一方通行」

 

 

「なンだよ」

 

 

「私さ、負けるつもりはないから」

 

 

「……はァ?誰と闘ってンだよ、オマエ」

 

 

「ライブの時、一方通行の隣に居た女の人」

 

 

 

これは、宣戦布告みたいなモノ。

というより、最早告白にも近いのかも知れない。

けれど、それならそれで良いとも思える。

どちらにせよ、もう諦めるなんて私には出来そうにもない。

まだ、あの女の人とはスタイルも雰囲気も立ち位置も負けてばかりだけど、これから実績を積み重ねて強くなっていけば良い。

それに、これでも負けず嫌いだから、私。

 

 

「……………………そォいう事か」

 

 

「……う、うん」

 

 

妙に腑に落ちたというか、納得したというか。

長い沈黙の後にポツリと零して、頭痛を感じた様に眉を潜めて額に手を当てる一方通行の仕草に、諦めないと意気込んでいた癖に、早くも萎縮してしまいそうになる。

 

だって、これ、横恋慕するって言ってるようなモノだし。

ましてやアイドルと宣っている身分の人間が発言して良い内容なんかじゃないというのは、流石に分かってるけど。

 

しかし、何だろう、何か違和感を感じてしまう。

何か、ボタンを掛け違えているかの様な、そんな変な空気というか、雰囲気というか。

 

 

 

どうしたんだろうと思って、口を開こうとするが、それは耳にすっかり馴染んだ私のアダ名を叫ぶソプラノに遮られて叶わなかった。

 

 

 

「――しぶりん!!」

 

 

「……み、未央……それに、プロデューサーまで……」

 

 

「……はン、手回しの良い事で」

 

 

 

鋭く尖ったナイフで黄昏時の静謐を切り裂いた未央の声に弾かれる様に顔を向ければ、ダンスレッスンの時みたいに汗だくになって肩で息をしながら公園の入り口に立っている未央とプロデューサーの姿。

どうして此処にと呆気に取られる私とは違って、動揺する素振りなんて欠片も見せず、寧ろ彼らが此処に来たのは当たり前の事だと泰然とした様子の右側に、思わず瞠目する。

 

もしかして、未央達を呼んだのは一方通行なのだろうか。

でも、二人と面識なんてない筈だし、私と一緒に居た時からずっと、どこかに連絡を取っていた時間もなかった筈だ。

 

けれど、そんな私の憶測とは裏腹に、彼に良く似合ったカラカラとしたシニカルな笑い声を響かせながらベンチを立つ一方通行を見て、プロデューサーは明らかに狼狽していながらも、ペコリと一礼して、未央を伴って此方へと向かって来る。

 

 

「よォ、遅かったじゃねェかよ、オッサン。しっかりケツは叩いてやったのか?」

 

 

「……いえ、私に出来る事は彼女達と向き合って一緒に進んでいく事だけですので。それに、貴方の様に上手く叱咤を出来そうにはありませんから」

 

 

「……そォかい。で、此処に来たと」

 

 

「……えぇ、部長から連絡が入りまして、貴方の言う『私のファン』を名乗る方から、渋谷さんがこの場所に居るという情報を戴いた、と。まさか貴方まで居らっしゃるとは思いませんでしたが」

 

 

「フン……良い面になったモンだ、上等だぜオマエ。なら、後は任せる。そろそろ俺も帰って飯作らねェと、口の減らねェ軍犬に噛み付かれちまうからなァ」

 

 

「ちょ、ちょっと待って、一方通行!その、良く分かんないんだけど、色々と。いつの間にプロデューサーと知り合ってたの?」

 

 

「…………あァ、説明が面倒臭ェ。オッサン、オマエが説明しといてやれ。それと、ソイツが持ってる傘、オマエが忘れてたヤツな」

 

 

「……あぁ、これはどうも」

 

 

「いや、どうもじゃなくてさ……」

 

 

何というか、状況に全く付いていけない。

口振りから察するに一方通行とプロデューサーは知り合いみたいだけど、というか傘を忘れた云々のやり取りからしてつい最近会ってたみたいだけど。

 

じゃあ、この状況は一方通行によって導かれたって事なのだろうか。

いや、でもプロデューサーと未央が此処に居るのは、プロデューサー曰くプロデューサーのファンって名乗る人によるモノらしい。

けど、それなら一方通行の言う『プロデューサーのファン』ってどういう意味なんだろう。

 

状況が掴めなくて、頭が付いていかない。

それはどうやら私だけじゃなく、息を切らしながらもひたすらに困惑顔を浮かべている未央も同じらしい。

 

 

「……まァ、二つだけ説明しといてやるよ、クソガキ。オマエが見たっていうクソアマと、このオッサンのファンって名乗ってるバカは同一人物だ。オマエが勘違いしてるみてェだから補足しとくが、俺とあのバカはそォいう関係じゃねェ、ただの腐れ縁だ」

 

 

「……え」

 

 

あの綺麗な女の人と、プロデューサーのファンが、一緒?

というか、あの人、一方通行の恋人じゃないの?

じゃあ、さっきの宣戦布告は……自爆?

 

ガラガラと、何かが音を立てて崩れてしまいそうになる。

というか、もしかして私、とんでもなく恥ずかしい事してしまったんじゃないか、と。

それも、プロデューサーに八つ当たりみたいに突き放しておいて、その結果がコレ。

 

どうしよう、死にたい。

本気で心が折れそう。

 

 

そして、色んな意味で噴火してしまいそうに茹で上がった私の頭を気遣ってくれるほど、一方通行が優しさを見せる訳もなく。

寧ろ若干嗜虐的で蟲惑的な光を紅い瞳に灯らせて、蔑む様な笑みを浮かべるのは、流石としか言い様がない。

 

 

 

「ンで、もう一つ。これはあのクソアマから口止めされてたンだが、散々引っ張り回された仕返しも兼ねて、ソイツの肩書きを教えといてやるよ、オッサン」

 

 

「……肩、書き……あの、まさか……」

 

 

「ハッ、今度は察しが良いじゃねェかよ、プロデューサー殿。道楽気取って掻き回してくれたクソアマはなァ――」

 

 

それは、言ってしまえば仕掛けられたトリックの謎解きパートの様なモノなのかも知れないけれど。

こんな結末は、幾らなんでもあんまりだろう。

 

色んな意味で、私はその『クソアマ』さんとは仲良く出来そうにない。

 

 

 

 

――霧夜エリカ、346常務代理。

 

 

 

――オマエらの会社の上司サマなンだよ。

 

 

 

 

宣告された内容の無情さを物語る、プロデューサーのぐったりと煤けた背中が、とてももどかしかった。

 

 

 

 

 

 

 

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アンケート小説 後編『STARDUSTER』

深い深い、深海の底に似た色彩の紺碧を敷いた絨毯に、蒼と銀の雨雫を集めたなら、形のない命が泳ぐ天の川。

何万光年先に瞬いたスパンコールのギリシア神話達が語り継いできた、果ての無い星屑の舞踏会で踊る真珠色の大きな月の美しさにはどんな宝石で飾っても及ぶ事なんて無いんだろう。

 

 

潔癖の大地を照らす荘厳な月光に、夜露に濡れて流れそうな涙さえ、星になって空に咲いてしまいそうなその夜空には、ヒトカタが届ける詩なんて、不釣り合いなのかも知れないけれど。

 

それでも、華々しい巨城に備えられた一画の、絢爛なバルコニーの細く頼りない手摺に腰掛けて、ギター1つ、奏でて青白い月を口説いている歌うたいの背中は、あまりに綺麗で、あまりに遠い。

 

 

『────』

 

 

場内に流れる悠大なオーケストラにも、多くの美食家を唸らせる程の豪勢な食事にも、吊り下げられた幾つものシャンデリアの下で、手を取り合って踊る人々にすら、見向きもしない。

 

 

サファイアを嵌め込んだ白銀のティアラと、ララバイブルーのドレスと、硝子の靴。

こっちを向いてと、私を幾ら着飾っても、変わり者の真っ白な王子様は此方へと振り返ってはくれなくて。

 

 

けれど、貴方の細長い腕に触れる事も、貴方の華奢な背中に身体を寄せる事も、貴方の薄い唇にキスをする事も出来なくて。

後ろ姿を眺めているだけで幸せだからと嘘も付けずに、王子様がロマンスに誘う、手の届かない月へと口を尖らしては宙を見上げるだけ。

 

せめて、あの物言わないお姫様一人に、彼の歌を独り占めになんかさせないという強がりだけが、精一杯。

 

 

でも、白銀のお姫様は、彼を見下ろしてはただ微笑むだけしかしてあげられないから。

御伽噺のように、彼を幸せにはしてあげられないから。

だから、見上げてばかりいる儚い背中を支えてあげたいと思うのは、きっと、我が儘なんかじゃないんだと。

 

 

 

 

 

やがて途切れる貴方の詩を聴き終えて。

『彼女』では寄り添えない王子様の隣へと、ゆっくりと歩み寄って。

不思議そうな顔をする彼へと、私はこの言葉を贈るんだ。

胸に灯る、確かな想いと共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──月が綺麗ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

──

 

『STARDUSTER______星屑に歌う人』

 

──

────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──優しい匂いがする。

 

 

 

 

 

夜空を切り裂く流星の様に鳴った弦の余韻が、白霧に微睡む光の手を引いて、苦笑混じりに輪郭を浮き彫りにした彼方へと導いてくれる。

 

 

 

──何だろう、フワフワしてる、不思議な感じ。

 

 

流麗にざわめいた夜の吐息と、風花の揺れる甘い声と、命泳ぐ川のせせらぎが、ふやけた聴覚を促して。

 

 

──でも嫌じゃない。このままじっとしてたい。

 

 

酷く心を落ち着かせてくれる右側の熱に頬を寄せて、顔を逸らして鼻を擦り付けてみれば、鼻腔に広がる仄かな洗剤の香りと、日溜まりの残り香がとても心地良い。

揺り籠に揺られているかの様な安堵が、青銅色の錨を下ろして、意識の底に伝う微睡みへと導いている。

 

けれど、再び深層の眠りへと誘われていく錨を繋げた鎖は、躊躇いのない、気遣いもない、霞み掛かった白い掌に呆気なく遮られた。

 

 

「さっきから擽ってェンだよオマエは。飼い主がペットに似て来てどォすンだオラ」

 

 

「ぅ、ん……?」

 

 

過分に呆れを含んだテノールと、紡ぐ度に耳元へと掛かる微熱混じりの吐息が不確かな意識の中でもはっきりと感じられるくらいに艶かしくて。

背筋を這う蟲惑的な何かに促されて反射的に身動ぎしながらも、光を嫌った視界が、私の意思から離れて、どんどんと抉じ開けられる。

 

そして、視界一杯に届いた赤と黒の歪んだ二色のチェックに内心で小首を傾げつつ、するすると焦点を上へ上へと持ち上げれば、麗銀の雪景色と、紅い双子月が鬱陶しそうに私を見下ろしていた。

 

 

近い。

とても近い。

暖かい。

というか肌が綺麗過ぎ。

誰だろう……あ、さっきの王子様だ、この人。

 

ん?待って、ちょっと落ち着こう。

いや、王子様って何。

これどう見ても一方通行だよね。

私が鼻くっ付けてるこれ、この人の腕じゃん。

なんでこんなに近いの。

良い匂いする。

そうじゃない、そうではなくて。

 

 

「ぇ……………………っだぁっ!?」

 

 

「女にあるまじきリアクションとってンじゃねェ……ンで、耳元で叫ぶな、喧しい」

 

 

「なっ、あ、いや、その……えっ、えっ!?」

 

 

「……なンなンですかァ、人の腕を枕に爆睡決めこンどいてバカみてェに騒ぎやがって。何、今度バラエティにでも出ンのかオマエ」

 

 

「いやそんな予定は……って、ば、爆睡? あ、もしかして私、眠っちゃってたりした?」

 

 

「盛大にイビキかましてたら動画に撮って、346に匿名で流してやろォと思ったぜ、全く。お蔭で左腕が痺れちまった」

 

 

「そ、そんなのプロジェクトの皆に見られたらなんて言われるか……というか、その、ごめん、腕……そんなに長いこと寝てたの、私?」

 

 

「まァ……大体三十分くれェか」

 

 

「三十分……」

 

 

顔が熱い。

いや、熱いなんてものじゃない、目の奥にちっちゃな太陽でもあるんじゃないかって思うぐらい、息苦しい。

いつ眠りに落ちたのかも上手く思い出せないけれど、ずっと長いこと彼の左腕を枕代わりに居眠りをしてしまったらしく、半端じゃない羞恥心に胸の鼓動がガンガンとビートを刻んでいる。

 

だって、仮にも異性で、しかも少なからずそういう色のある感情を向けている相手に寄り掛かって無防備に寝顔を晒してしまったし、起き抜けでボーッとしていたとはいえ彼の腕に頬を寄せたり、鼻先を擦り付けたり、匂いも嗅いだりしちゃったのは非常に拙い。

無意識だったとはいえ、否、無意識だったからこそ余計に恥ずかしいし、あんな小学生でも見なさそうなメルヘンチックな夢まで見てしまうのは、レッドカードを三枚も突き付けられるレベルでアウトな行動だと思うのだ、女子高校生としても、アイドルとしても。

 

 

一ヶ月前、勘違いの末に半ば告白染みた宣言までしてしまったあの日から、別の意味で顔を合わせるのに色んな葛藤やら羞恥やらを清算し切れたばかりなのに。

今までは拳一つ分の、一方通行と私の定位置に馬鹿みたいにやきもきしていたのが、三週間前ではベンチの隅と隅に大きく離れて座り、先々週ではベンチの隅と真ん中、先週では学生鞄一つ分のスペースまでゆっくり埋めて。

そして今日、やっと今までと同じくらいの近くまで近付けた距離が、 また端っこと端っこ、棒磁石の両極くらいまで綺麗に離れてしまった、主に私が飛び退いてしまった所為だけど。

 

 

居たたまれない羞恥の熱で、ベンチの隅で膝を抱え込んだままの変な体勢で顔を埋めながらも、なるべく表情を気取られない様に膝と腕の間から、反対側に座する彼の様子を盗み見た。

けれど、まぁ、何だかんだで少し期待していたりするそれっぽい反応を一切取ることなく、痺れたと訴えていた腕をプラプラと振りながらも、器用に片手だけでクロスで磨いた弦の調子を確かめている静かな横貌に、少しムッとしてしまう。

 

自らが勝手に晒してしまったとはいえ、仮にもアイドルの寝顔を目にしたなら、もう少しそれらしいリアクションを取ってくれても良いだろうに。

色々と醜態を見せてしまった間柄だし、おいそれと私の期待する反応を示してくれる相手では無い事ぐらい嫌でも理解出来ているけれど、さして意に介してないとでも謂わんばかりの白々しい白貌が、胸を痛ませる。

 

 

「寝てる間、何かしてたりしないよね? どっか、足とかに触ってたり、とか……」

 

 

「はァ? まァだ寝惚けてンのか。ンな訳ねェだろ、謝ったり問い詰めたり意味分かンねェなオマエは」

 

 

「…………別に。まぁ、セクハラしてたらプロデューサーに言い付けてやろうと思っただけだよ」

 

 

「はン、色気もねェメスガキ風情が何言ってンだ阿呆。ンな事言われても、寧ろのあのオッサンが困るだけだろォに。アイツも苦労してンだろォな、こンな訳分かンねェガキみてェな奴等の面倒見にゃならンとかよォ」

 

 

「……ふん、確かに迷惑掛けてる自覚はあるけどさ。でも、プロデューサーは優しいから。どっかの誰かさんと違って意地悪な事も言わないし」

 

 

「クカカ、ソイツは重畳」

 

 

「……むかつく」

 

 

意味、分かりませんか。

訳が分かりませんか、そうですか。

そういう分かってない振りを止めて欲しいと言えれば、どれだけ楽になるんだろうか。

 

ある程度、覚悟していた事だけれど。

ケチがついてばかりなのに、取り戻せない矜持の破片に胸に手を当てては感情の糸を繋ぎ止めるだけしか出来ていないのは、碌に恋もして来なかった事への、私が蔑ろにしてきていた事への意趣返しにも思えてしまう卑屈さが余計だ。

 

 

「疲れてンのか、最近」

 

 

「え?」

 

 

「仕事、増えて来てンだろ、テレビに出るだとかプロジェクトのイベントに駆り出されるだとかで。努力すンのはオマエの勝手だがな、さっきみてェな無様を余所で晒す前に『息抜きの仕方』を考え直してみたらどォだ」

 

 

「……息抜き、ちゃんとしてるつもりだけど。此処に来るのもそうだし、仕事だってきちんとこなしてる。今回寝ちゃったのだって、リラックスしてたからついウトウトしちゃったからなだけだし」

 

 

「……はン、そォかよ」

 

 

「――ッ……何、もしかして心配してくれてるの?優しい所あるじゃん。それだったらさ、良い加減スクーターの後ろ乗せてよ。カーネーションだってちゃんとサービスしたんだし」

 

 

「調子に乗るンじゃねェよ、後ろ乗っけてさっきみてェに爆睡されると洒落にならねェ。諦めろ」

 

 

「だからさっきのは偶々だって言ってるじゃん。あぁ、そうですかそうですか、一方通行は約束一つちゃんと守らない男なんだね」

 

 

「やっすい挑発だな」

 

 

見抜かれているんだろうか、やっぱり。

 

アイドルと一口に言っても単に歌って踊れれば良いと云うものではないし、無論、ボイストレーニングやダンスのレッスンからメディア広告、イベントだったりと日に日に増して密度が濃くなっていく一日に、目に見えない疲労は幾らでも募ってくる。

少なくとも、さっきみたいに無防備な姿を一方通行の目の前で見せてしまうぐらいには。

 

プロジェクトのメンバーである以上、仕事に手を抜くなんて出来ないし、その成果に応じてどんどん与えられる仕事も増えて来ているのは、本来ならば喜ぶべき事なんだろう。

本音を言えば、少し無理をしていると思う、自分でも。

週に一度とはいえ、こうやって一方通行に会いに来るのも、段々難しくなって来ているのは紛れもない事実だ。

 

見抜かれているんだろうけど、でも、だからといってこの時間を手放すなんて、今の私には無理だ。

息抜き、なんてものじゃない。

私にとっては、もっと大事で、大切で、貴重なモノなんだ、この一時は。

 

だから、こうしていつも、我が儘を重ねるだけの夜を通り越してしまう。

必要以上に彼に寄り掛かってるという自覚からも。

自分を切り捨てさせようと諭す、彼の視線からも、目を逸らして。

 

 

 

――

―――

――――

 

 

 

 

この後少し、お時間宜しいですか、と。

 

いつもの日曜日、いつもの川辺で、いつもの憎まれ口とギターの音色を、今日も聴きに行こう、と。

レッスンですっかりクタクタになってしまった身体に鞭打って、帰り支度を終えた私をそう呼び止めたのは、相変わらず堅い表情に何処か戸惑いを貼り付けているプロデューサーの一声だった。

この前の一件で、案外この人は繊細な内面をしているんだと理解出来て、私や、他のプロジェクトのメンバーとも結構明け透けに話す様になった彼が、分かり易いほどに含みがちな態度を取ることは最近では珍しい。

 

何か仕事でトラブルを起こしてしまったのだろうかと一瞬目の前が暗くなりもしたが、特に思い当たる節もない。

それも、その場に居たニュージェネレーションのメンバーの中で、私だけというご指名。

心配そうに気遣ってくれる二人を宥めて、何となく胸騒ぎを覚えながらも、先導するプロデューサーの大きくて高い背中に導かれて辿り着いた漆塗りの清整な扉を前にして、不安はどんどん膨らんでいった。

 

 

『第二会議室』

 

 

シンプルな書体で刻まれたセラミックのドアプレートから伝わる厳粛な雰囲気が、何故こんなにも胸中を騒ぎ立てるのか。

たった五文字の素朴な文字に変に気圧されてしまって俯く私を余所に、どこか機械染みた動作で扉をノックするプロデューサーの声も、何だか緊張しているみたいで、余計に落ち着かなくなってしまう。

 

 

――けれど。

 

 

失礼します、と重々しく扉を開いて会議室へと足を進めるプロデューサーに続いて入室した私の目の前に飛び込んで来た人物の姿に、落ち着かないどころか、頭が真っ白になってしまったのは、それほどに予期していなかった人物だったからなのだろう。

 

 

「あら、早かったじゃないの、プロデューサーくん。貴女の方は、一応はじめまして、って事で良いのかしらねぇ、渋谷凛ちゃん?」

 

 

「――あ、あの時の……一方通行の隣に居た……」

 

 

日本人離れした美白に華やかな金のブロンド髪、同性異性問わず纏めて魅了してしまいそうな容姿は、多分どれだけの時間を経ても忘れる事なんて出来そうにもないくらい、私の網膜に焼き付いている。

座り心地の良さそうな黒革のハイバッグチェアに腰掛けているというよりも、乗りこなしていると表現しても過言じゃないくらいに斜に構えて、此方を眺める怜悧なアイスブルーの瞳に、纏まらない思考で吐き出した言葉は突発的で礼儀知らずなモノになってしまう。

 

 

「ちょっとぉ、その覚え方は素直に喜べないわね。それじゃ私がアイツのオマケみたいじゃない。これでも一応、貴女の上司になるんだけど?」

 

 

「……ぅ、あ……す、すいませんでした」

 

 

「……申し訳ありません、霧夜常務。渋谷も突然の事で動揺しているらしく……これは彼女にきちんと説明しなかった私の責任でありますので」

 

 

「冗談よ、お堅いわねぇ二人共。それと、プロデューサーくん……私は代理だからね、代理。そんな肩肘張らなくたって、適当で良いわよ適当で」

 

 

悠々自適というか、常務代理なんて肩書き背負っている割にはまるで近所の隣人みたいな気軽さでヒラヒラと投げ遣りに手を振る常務代理さんは、見るからに年若い。

多分、プロデューサーより私とかの方が近い年齢なんじゃないかと思わせる美貌は、この人こそアイドルになった方が良いんじゃないかと贔屓目なしに思わせる程で、彼女を初めて目にした時は遠目がちにも綺麗な人だと思ったけれど、こうして対面にすればより一層、その眉目秀麗さを実感出来る。

 

そう、私よりも、よっぽど一方通行の隣に並ぶのが相応しいんじゃないかと、改めて再確認出来るくらいに。

 

 

「……その、改めまして……私は渋谷凛です。さっきは失礼な真似をしました」

 

 

「んふふ、可愛いわねぇ、キミ。じゃ、こっちも改めてまして。私の名前は霧夜エリカ、あのツンデレ兎から聞いてるとは思うけど、346プロダクションの常務代理で、キリヤコーポレーションの令嬢、とでも名乗っておきましょうか。常務代理じゃ長いから、霧夜でもエリカでも好きに呼んじゃって良いわよ」

 

 

「はい……その、霧夜さん…………ツンデレ兎って……もしかして、一方通行の事ですか?」

 

 

「そうそう、だってアイツ見た目は白兎そのまんまだし、寂しがり屋な癖にツンツンしてるじゃない?だからツンデレ兎」

 

 

「……ツンツンしてるってのは分かります、けど……寂しがり屋、なんですか、あの人……」

 

 

「……あら、意外? まぁ、凛ちゃんみたいな年下相手には尚更澄ました態度を取ってそうだもんねぇ。あぁ見えて結構そういう所あるのよ、アイツ」

 

 

「そう、なんですか……」

 

 

腐れ縁、形容するならその言葉が妥当だと語っていた一方通行から、霧夜エリカさんの事はある程度は聞いていた。

 

あの世界有数の大企業キリヤコーポレーションの令嬢であるという時点でもとんでもないのに、そう私と離れてないくらいの年齢でありながら代理とはいえ346プロダクションの常務という高い地位に就いていると彼の口から聞いていたが、やっぱり百聞は一見にしかずという事なんだろう、こうして霧夜さんを目前にしても、未だに信じ難いと思ってしまうけれど。

でも、一方通行を寂しがり屋だと評する彼女の口振りからして、一方通行と霧夜さんの付き合いの長さを裏付ける目に見えないモノを感じ取れてしまって、失礼な話、そっちの方が私にとって衝撃が大きい。

 

ツンデレというか、素直じゃない性格には正直同意出来るけど、寂しがり屋なんて所は、私にはまるで感じれなかった。

人によって評価なんて様変わりするモノだと分かっていても、私が知らない一方通行を、霧夜さんは知っているんだというその事実が、こんなにも悔しい。

 

明確な距離の差を感じて尻すぼみにフェードを落として気落ちする私は、よっぽど分かり易いんだろう。

会議室のタイルの白線へと伏し目がちに焦点を落として俯いた私を覗き込む様なにんまりとしたチシャ猫の笑みが、揶揄い気味に喉元の鈴を鳴らしてみせた。

 

 

「思ったより分かり易い娘ねぇ。絵に描いた様なリアクションしちゃって……良いのかにゃーん?プロデューサーくんがさっきから凄く気拙そうにしちゃってるけど」

 

 

「……え?」

 

 

「――常務代理。その、私は席を外した方が宜しいのではないでしょうか」

 

 

「だーめ、ちゃんと此処に居なさいな。プロデューサーなら尚更、こういう事から目を逸らしちゃ駄目よ。貴方の手掛けるアイドルなんでしょ、凛ちゃんは」

 

 

「……そう、ですが、しかし」

 

 

「――向き合うんでしょ? なら、都合の良い部分も悪い部分も、しっかりと向き合いなさい。じゃないと周りは着いて来てくれないわよ?」

 

 

「……はい」

 

 

声を荒げている訳でもないのに、静脈を押さえられているかの様な静かな諫言に、俯かせては曲がってばかりの背筋を反射的に正してしまう。

プロデューサーに向けられた言葉の意味を噛み砕くよりも先に身体に反応させる辺り、年若いながらに重役に就く偉業を成している人なんだと知らしめる程のカリスマは伊達なんかじゃない。

 

でも、素直に感嘆している立場じゃない事くらい、私にも分かる。

不明瞭な気持ちに駆られながらも潜った会議室の扉、あの時に感じた不確かな胸騒ぎが、厚雲に隠されていた月の様に徐々に浮き彫りになっていく。

 

 

「……さて、本題に入りましょうか、『渋谷凛』さん――ぶっちゃけアイドルって恋愛しても良いと思う?」

 

 

「……ッ」

 

 

単刀直入、加減の一切もないストレートな問い。

別に良いんじゃないのか、恋愛なんて個人の自由、誰かに口を出されるモノでもないし、誰かが身勝手に押し入って掻き乱して良いモノでもない。

きっと以前の私なら……プロデューサーにスカウトされる以前の私ならば、特に何の感慨も無く、そう答えていたんだろう、答えれていたんだろうけど。

 

その気持ちは今も昔も、根底では変わってなんかいない。

例えアイドルでも人間だし、恋だってしてしまうモノだ。

しようと思って簡単に出来るモノじゃない。

気が付けば堕ちていて、自分じゃどうする事も出来ない儘、持て余してばかりな癖に、切り捨てる事も出来そうにない感情なんだから。

現に、そうなってしまっている私にとっては、それが紛れもない真実だから。

 

 

「……私個人として、は……しちゃダメな恋愛なんて無い、と思い、ます。というか、ダメだって思っても、諦めなくちゃって思っていても、どうする事も出来ないし」

 

 

「……ま、確かに、好きになっちゃったもんはどうしようもない、そこは同意してあげれる――けど、そんな簡単に割り切れる問題じゃないのは分かっているんでしょ?」

 

 

「…………は、い」

 

 

「そう、確かに、個人としてならそれでも良いでしょう。でも、アイドルという立場である以上、そこにはプロダクションがあってプロジェクトチームがあって、組織的な責任が発生するのは当たり前。ましてや、メディア露出も兼ねてる商売なんだから、自由気儘に、なんて開き直りは通用しない」

 

 

「……」

 

 

「貴女が人気になりファンが付いて需要が高まっていく程、責任が比例して重くなっていくのは当然よね。ましてや貴女はウチが掲げるプロジェクトの先鋭、貴女の問題はプロダクションだけじゃなく他のメンバーにも付いて回る。まだ実感は無いかも知れないけど、アイドルの『渋谷凛』を認知してくれている人だって、貴女の想像以上に増えて来てるのよ」

 

 

「……それは」

 

 

それは分かってる、充分に実感している。

通ってる学校でも良く話題にされている事だし、ファンになってくれた人達だってクラスに居るし、実家の花屋にも、私目当てで訪れてくれる人達だって増えて来ている。

日々、プロデューサーから与えられる仕事をこなしていく度に増えて行くその実感は私にとって貴重だし、素直に喜ばしいと思えるぐらいだけれど。

 

でも、その分、色んな苦労は増えた。

 

学校の校門で出待ちしている男の人が居たり、ふとした拍子に視線を感じたり、ハナコの散歩に出掛けた際には後を付けられたりする事も度々あった。

一方通行の居るあの川辺へと向かうのにも帽子を被ったり、ハナコを連れて行く事も出来なくなったりと、苦労が増えてしまっている。

 

 

つまり、それがアイドルとしての、責任というモノなんだろう。

華やかな道ばかりが広がっている訳じゃないのはこの前の一件でも身に染みている事だし、これから先、幾重もの不自由と理不尽を味合わなければならないのは、目に見えている事で。

だからこそ、それを安易に分かっていると口にする事は憚られる。

それは、つまり。

 

 

 

「……焦らすのは嫌いじゃないけど、私は此処に遊びに来てる訳じゃない。代理とはいえ仕事は仕事、常務という立場である以上、はっきり言わせて貰うと――アイツと、一方通行と会うのは止めときなさい」

 

 

「――そ、んな……」

 

 

「霧夜常務、それは……」

 

 

「残念だけど、アイドルの業界なんてプロダクション皆が和気藹々で仲良くなんて出来る世界じゃない。ましてウチは規模も他と比べてデカイし、顔も広い。足を引っ張ってやりたいと思う他のプロダクションなんて幾らでもいる。ましてアイドルフェスも間近に差し迫ったこの時期に分かり易いスキャンダルなんて喉から手が出る程欲しいくらいでしょうね」

 

 

「……だから、もう、あの人と会っちゃ駄目だって……そう、言うんですかッ」

 

 

「まぁ私個人としては好きにすれば良いと思うけどね、正直。でも、周りはそうはいかない。例え知名度が低くてもスキャンダルはスキャンダル、ましてや346プロダクションが力を入れてるプロジェクトのメンバーともなれば、影響は意外と大きいのよこれが。貴女一人の責任に出来るもんならそうするけど、その影響は貴女のプロジェクト全員にも充分に与えられる事になる。物分かりの良いファンばかりなんて都合の良い事も無いでしょうしね」

 

 

理路整然に並べられる、起こりうる損失は決して悪く見積り過ぎているという事は無い。

充分に考えられる暗い未来、最悪の可能性。

一方通行と会うだけでも発生してしまうリスク、そしてそこから連なるプロジェクトの皆への影響だって勿論あるだろう。

心の何処かでは分かっていたけれど、なるべく考えないようにしていた事をこうやって改めて突き付けられて、私の考えの甘さに押し潰されそうになる。

今までは大丈夫だったかも知れないけれど、これから先も大丈夫だなんて保証は何処にもないのだから。

 

 

 

恋をするだけで精一杯だった、たかだか15歳の想像の限界。

 

 

アイドルは、夢物語なんかじゃない。

魔法一つで得られるドレスもないし、硝子の靴もない、それらを手に入れるのだって相応の努力が必要だって事を、私でさえ、もう身に染みるほど経験している。

卯月のあの笑顔も、皆の必死な努力も、プロデューサーの頑張りも、全て無駄になってしまうかも知れないのだ。

 

 

私の身勝手一つで。

 

 

瞳孔さえ開いてしまいそうな程の息苦しさと、再確認させられた責任の重さに真冬の空の下に放り出された様に肩が震えてしまう。

両手の指先が白く血の気を失うくらいにキツくスカートを握り締めて、何も言い返せないで混迷にうちひしがれる私を苛む様な無音が全身の力を強張らせていく。

 

 

けれど、ふと肩の力を抜いた様な霧夜常務の溜め息に誘われて顔を上げれば。

苦笑混じりの、どこか気遣いがちに揺れるロシアンブルーが目を細める仕草が、あの人の仕草と重なって。

 

 

 

「……とまぁ、あくまで常務代理としての建前はこんなとこかしらねぇ。でも、私個人としては凛ちゃんの恋路、結構応援してたりするのよ、これでも」

 

 

「……え?ど、どうしてですか?」

 

 

「んーまぁ、いつまでも女泣かせ気取ってるあの馬鹿に良い加減お縄に付いて貰いたいってとこね。アイツが凛ちゃんに傾いてくれれば私としてもメリットあるし……ちょっと腹に据えてるとこもあんのよね、一方通行に対して」

 

 

人を食った様などことなく飄々としたチェシャ猫の笑みを転がして席を立ち、会議室の窓際へと歩み寄ったスーツ姿の麗人の背中に少しばかりの哀愁を感じたのは何故なんだろう。

窓の外、徐々に茜を薄めていくのっぺりとした夕闇に逆らって大地に咲いた人工の星屑を見下ろしながら、錯綜する何かを静かに噛み締めている横顔が、幽かで儚い。

 

設問して追い詰められたかと思えば本音と虚構を織り交ぜた様にも感じ取れる台詞に翻弄されてしまって、どう考えを纏めて良いのか分からなくなる。

これは所謂、女の勘と言うべきものなんだろうか、霧夜常務が一方通行に対して、確執に近い何かを抱えているんだと言う事は理解出来た。

 

私の恋路を応援している、という甘い言葉を、素直に鵜呑みにする事は出来なかったけれど。

 

 

「……ま、私個人から凛ちゃんに言える事は、後二つが精々ね。まず一つ、その想いを貫きたいなら、覚悟をしなさい。アイドルとしての道、その過程で出来た仲間、色んなモノを『失う』覚悟を、ね……」

 

 

「…………」

 

 

なんでなんだろう。

金糸を束ねた美しいブロンドの横髪の毛先を指先で弄りながら言う霧夜常務の微笑みがとごか苦々しく、古傷を自分の手で広げている様な痛々しいとも映ってしまったのは。

生半可な同調なんかじゃなくて、自分が辿ってきた道で遭った、彼女にとって手離したくなかった何かに触れている様な、まるで経験談みたいだと思えたのは。

 

 

霧夜常務は、失ったんだろうか。

それとも、『覚悟』が出来なかったんだろうか。

彼女にとっての、誰かへの確執が、首をもたげて輪郭を帯びて浮かんでいく。

 

霧夜常務は、私はどうして欲しいんだろう。

 

どこか他人事みたく呟いた問いは、こうして対峙しているのにも関わらず、ふわふわと地に足付かない思考の中でひっそりと埋もれてしまう。

 

 

「……そして、もう一つ。早いとこ当たって砕けてみた方が良いわよ。あのツンデレ兎、『逃げ足がとんでもなく早いから』」

 

 

「――ぇ」

 

 

逃げ足が早いって、どういう事。

逃げるって、誰から逃げるつもりなのか。

 

耳を塞ぎたくなる、目を閉じてしまいたくなる霧夜常務のもう一つの言葉の意味を、理解出来る癖に、理解しようとしたがらない。

 

思い返したくもないのに、そっと隙間を縫う様にリフレインする、先週の日曜日での、一方通行が零した何気ない言葉。

酷く胸に突き刺さった壗、痛みを振り払いながらも有耶無耶にして誤魔化した言葉。

 

 

 

 

――息抜きの仕方を、考え直したらどォだ。

 

 

 

 

だって、それは、まるで。

 

もう来るなと。

もう自分とは会うな、と暗喩しているみたいで。

そんなの、彼らしくない、分かり難い切り離し方で。

だから只の気の所為だって、悪い考え方をしているだけだって、そう言い聞かせていた筈なのに。

 

 

「っ、ごめんなさい、もう、話は終わりですかっ」

 

 

「うん、終わり――行ってらっしゃい」

 

 

 

彼に、一方通行に会わないと。

会って、確かめないといけない。

霧夜常務の言う覚悟なんて、全然決まってないけれど。

 

持参している通学用の鞄を手にとって、返事も聞かないで会議室の出口へと、一方通行の居るあの川辺へと、グチャグチャになってしまった思考の儘に向かって駆け出した私には、気付く事なんて出来なかった。

 

 

――貴女は、後悔しないようにね。

 

 

そう呟いて、懺悔する様に瞼を閉じた金色の麗人の姿に。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

窓の外、欠け落ちた月のカーブが所詮は他人事だと構える様に見えて、非生産的な苛立ちを覚えるのは、余裕がない証拠なのだろう。

カチカチと控え目に鳴る電飾の音だけが木霊して、居心地の悪い静寂を一層際立たせる。

形だけの格好を保った足取りで腰を下ろして背を預けたハイバッグチェアが、こんな時ばかり冷めていると感じるのは差し詰め、未熟な部分を突き付けられているかの様で。

鈍痛を堪えて吐き出した溜め息は思いの外大きく、参ったなと頭を抱えたくなった。

 

 

「納得行かないって顔ね」

 

 

「……これで、本当にこれで良かったのですか。これでは余りに性急過ぎると思うのですが……」

 

 

「性急過ぎる、か。なら私は遅かれ早かれ、と返しましょう。いずれ直面する問題なら、解決は早い方が良いと思うわよ。各々何事も、すべからくそうではないけれど」

 

 

 

理解は出来ていても、納得は出来ない。

というよりは現実を突き付けるにしても、もう少し彼女に時間を与えてやれなかったのかと思っているのだろう。

これではあまりに性急、という彼の言い分が分からないでもないが、恋物語の終焉が演者の感情に歩幅を合わせてゆったりのんびりと顔を出してくれる筈もないのだ。

 

論より証拠。

やけに苦しく感じる胸元のスーツポケットから取り出した、現像仕立ての数枚の写真をアクリルの滑らかな会議室の横長テーブルに並べれば、ほら、如何にも終わりの足音を聞き届けた男の顔が歪んだ。

 

 

「……これ、は」

 

 

「最近の雑誌記者は結構いい腕してるわね、綺麗に撮れてるでしょ、これ。先週、これを撮られた当日に件の『色男さん』から受け取ったモノよ。346の内情はまだ完全に把握出来てないんだけど、中々に敵が多いみたいじゃない」

 

 

「先週……ですか。しかし、色男……という事は、彼がこれを貴女に……?」

 

 

「えぇ、『嗅ぎ回ってた鼠を取っ捕まえて取り上げた』らしいわ。お姫様が眠っていた間だったから、彼女はまだ知らない事らしいけどね」

 

 

「……」

 

 

感傷ではない、ほんの少し巡り合わせの女神様とやらにコイントスを仕掛けたくなっただけ。

きっと渋谷凛に対して何の感慨も無いのなら、彼は何も告げる事なく彼女の前から姿を消すという選択肢を選んだ筈だ。

そしてその後にエリカへこの写真を見せれば、万が一、凛が直接一方通行に逢おうとしても、霧夜エリカが常務代理としての立場を持ってその行いを封じるという簡易な未来図を描ける。

 

けれどそれを選ばなかったという事は……あの傷付きたがりの愚か者は、終わらせてあげる道を選んだ、という事に他ならなくて。

 

『ちゃんと恋に敗れさせてやる』

 

 

彼が心の何処かで『恐れて』いる筈の傷を、痛みを堪えながらもその道を選ぶという事は、一方通行にとって渋谷凛という存在は決して小さなモノではないという証明に他ならないから。

 

 

だから、霧夜エリカはお望み通り、舞台だけを用意する。

恋に敗れた少女が、シンデレラになる事に、魔法の馬車も硝子の靴も要らないから。

 

 

 

「……でも、その果てが決して悲しみばかりに溢れている程、単純なモノでもないのよ。だから、ふふ……『春が来た』だなんて呼ばれ方、するのかしらね?」

 

 

魔法の馬車も硝子の靴も要らないのなら。

12時を告げる鐘の音に、怯える必要もない。

 

そこから先は、彼女が選ぶ事。

 

 

 

────

──

 

 

 

 

 

大気圏の向こう側、黒にも蒼にも茜にも幾重に溶けるオブラートを挟んだ空の先の宙。

星霜を散りばめた大きな夜のカーテンは泣きたくなるくらいに明るくて、電気石交流の照明群が無くても、向こう岸の誰かの表情さえも良く見える筈なのに。

 

 

ベンチの背凭れに重心を預けて、寄り掛かり気味に座りながら夜空もすっかり見上げ馴れて、首が痛くないのかと尋ねたくなる白のシャープな輪郭ばかりが目に付いて、滲んで、その裏側が読み取れない。

三日月みたく顎を傾けて、その細長い指先は開かれていないギターケースの取っ手に甘く添えられている。

言葉にされなくとも、上げられないコンサートのカーテン、そして演目の終演を物語っているのが理解出来たのが、何より痛かったから。

 

 

何度も道行く人にぶつかりそうになりながらも、涙で視界が滲みそうになりながらも、ノンストップで走り抜けた所為で悲鳴を上げている心臓の鼓動。

耳の奥で脈打ち続ける其処が一際大きく跳ねたのは、もう終わりなんだと物語る彼の真意に気付いてしまった私の迂闊を呪いたくなった女としての本能なのだろうか。

 

 

 

「──よォ、早かったな」

 

 

「──ッ」

 

 

淑女の風上にも置けない荒く息を乱す私の姿に気遣う訳でもなく、いつもの皮肉をくれる訳でもなく、微かに痛みを堪える様な歪で繊細な微笑みは、最後のなけなしの余裕を奪った。

噛み締めた奥歯の感触だけがやけに鮮明で、どう脚を動かしたかも分からない。

ただ気付いた時には、温もりに飢えて凍える子供みたいに、肉付きの薄い癖に甘い感触ばかりを流す男の胸元にしがみついていた。

 

 

「なんで……なんで駄目なの。おかしいよ、なんで私の前から居なくなろうとするの。何があったの、答えてよ、一方通行!!」

 

 

「……少しはガキ臭さも抜けて来たかと思ってたンだが、これじゃあ駄目だなァ、全ッ然駄目だ。ガキみたいに喚き散らしやがって、幼児退行してンじゃねェよ」

 

 

「答えになってない! でも、そう、そうだよ……私は子供だよ、大人ぶりたいだけの只の子供なんだ!! だから、我が儘くらい聞いてよ! 子供扱いでも良いから、誤魔化さないで教えてよ!」

 

 

ドラマのようにしたいだけの、どうとでもなる気持ちは当の昔に落っことしてしまったから。

知らない誰かの気休めにされるだけの綺麗な別れ方なんて知らない。

恋の正しい引き際よりも繋ぎ止めたい右側に我無者羅が、私の居住を求めてばかりの真っ白な空城へとぶつけられる。

 

 

「……あのクソ女狐、省きやがったか。何考えてやがる」

 

 

「何それ、霧夜常務の事?……ま、まさかあの人が……?」

 

 

「本来ならそうなる『予定』だったンだが、憎まれ役はご免って事だろォよ。チッ、随分買われてるみてェじゃねェか、オマエ」

 

 

「……私、が……買われてる?」

 

 

「オマエの『物分かりの悪さ』を認めてンだろォよ……なァ、『渋谷凛』。オマエは何の為にアイドルになった?」

 

 

「──」

 

 

理解が及ばない、きっと霧夜常務と一方通行にしか分からない様な薄氷の上のやり取りや牽制は、私を間に挟む癖に、私だけを弾いている。

それが気に入らなくて、そんな些細な事にまで嫉妬して、握り締めていた一方通行の黒いジャケットの胸元の生地が、掌の中で不協音を泣き叫ぶ。

 

 

けれど、意地の悪いテノールボイスは何処か真摯な響きを孕んだまま耳の奥へと滑り込んで、不意につかれた私の原点を、白い指先が優しく弄んだ。

 

 

「……俺に見て貰う為か?」

 

 

「……」

 

 

違う、と心の奥底は叫んでいるのに、音には出来ない。

きっと季節外れの狂い風にすらあまりに簡単に掻き消えてしまうそれは、嘘の様に軽く、嘘だから軽く、全てが嘘じゃないから重心を持てない。

 

 

「……俺に認めて貰いたかったからか? 振り向かせてェだけか? 違うンだろ」

 

 

「……」

 

 

どうか、それ以上先を紡がないで欲しいと。

強く身体ごと押し付けても、涙混じりに睨んでも、止まらない薄い唇が欠けた月のように傾く。

一方通行が言わせたい事、きっとそれはお行儀の良い言葉、強く輝く為に、銀のティアラを手に出来る『魔法』で。

 

だから。

 

 

「オマエが『変わる』為なンじゃなかったのか」

 

 

「────」

 

 

紡がれて、塞ぎ込まれた息苦しさから逃げる様に。

私は直上の月を、唇で口説いた。

 

いつかの夜、白貌の歌うたいが遠い誰かにした筈の演奏とも、遠想とも違うこと。

直ぐ隣の小さな星が、未熟な想いで距離を詰めただけの、たった1つの小賢しい魔法に騙されてくれる程、単純じゃないと分かっていたとしても。

私の全てを奪って欲しい腕が、動いてくれない事だって分かっているけれど。

 

 

溢れ出した涙が、熱を持たない白い月の目元へと伝って、ただ墜ちていく。

頼りない肌色に覆われた視界の奥でぼんやりと咲いた紅色が、観客のいないドラマキャストの我無者羅を責めてもくれない。

流した覚えのない月の涙を拭う事をしないのは、分かり易い切り離し方を選んだ彼の、小さな意地にも見えた。

 

 

「……それが、全部じゃないんだよ、一方通行。私は綺麗になりたかった。色んなモノを押さえてでも、健気に笑える強さが欲しかった。それは、本当」

 

 

抱き締める所か、まるで物分かりの良い大人がするみたいに弁えた両腕に肩を掴まれ、離されてでも、諦めるだけの利口さなんて要らない。

 

脳裏で蘇る、鮮やかな桜色の笑顔。

きっと将来の不安や期待、溢れ出しそうな感情の渦を飲み込んで押さえながら、強く、優しく、綺麗に咲いた卯月のあの笑顔を思い浮かべる。

 

一方通行の言う通り、私は彼女みたいに成りたかった。

身勝手な怠惰や失望ばかりでモノクロめいた世界にばかり責任を求めて、自分から色のない荒野に踏み出して、荒れ地に咲く花の1つも見つけようともしない幼稚さを捨てたかった。

 

けれど、それだけじゃない。

泥だらけになってでも見付けた私だけの『何か』を、誰よりも貴方に見せたかっただけ。

 

 

「だから、私もあんな風に笑ってみたかった。笑って、そしたらさ、あの時の私みたいに──貴方だって、笑ってくれると思ったから」

 

 

ぶつけた、全ての本音。

私が見た1つの桜色の魔法。

私が求めた強がるだけの魔法。

その道すがらで、余りにも多くの大切なモノを見つけて来たけども。

その全てを天秤に乗せられる程に育ってしまった、たった数ヶ月の想い。

 

 

 

 

 

 

 

私に魔法をかけて欲しいと思った。

 

 

特別なお姫様になりたい訳じゃない、硝子の靴も履かなくて良い、綺麗なドレスなんて要らないから。

 

ただ1つ、好きな人の笑顔が見たいと望むだけの、ほんの少しの勇気を。

 

 

「────」

 

 

それは一瞬だったのかも知れない。

数秒かも、それとも数分か、もしかすると永遠にも似た刹那の瞑目。

何度も見惚れた紅い瞳を隠した瞼の先、長い睫毛がピアノの黒鍵の様に列を成す。

粒状の電気石を身に宿した河川を撫でる夜の風が銀の穂先を浚って、季節外れの雪原みたく、その白貌を隠して。

 

 

だから、きっと見逃してしまったんだろう。

幽かな月の光を踊らせる白銀の髪の裏で、仕方ないなと困った様に微笑む彼を。

擽ったそうにほんの少しだけ喉鈴を鳴らしたテノールだけが、僅かに鼓膜を愛撫した。

 

 

「……隣で笑って欲しいと想うヤツ、俺にも居たンだよ」

 

 

「……知ってる」

 

 

「もう、終わっちまった事だ。ずっと捨て切れなかった道を『手放した』途端、息苦しいだけの自由が残った」

 

 

きっと、胸の中にだけ閉まって置きたかった、語りたがらない、歌いたがらない、剥き出しの残響。

静かな微笑の裏で燻り続けるどうしようもない想いは、口振り一つだけでも乾き切った刃物の様に巣食う痛みだ。

 

どうしてそれを私に教えてくれる気になったのか、何てどうでも良い。

ただ、一言一句聞き逃す訳にはいかない、彼にとっての呪詛であって、私にとっての魔法の呪文。

 

 

──彼の温度の抜けた骨張った右手が、私の頬を添える

 

「だが、そンな中でも守って行かねェといけねェ馬鹿共が居る。返さねェといけねェ負債が随分積み上がっちまってンだ。『どォでも良い』ガキに、これ以上、構ってやる余裕はねェンだ。だから──」

 

 

棘も鋭さもないテノールが、飾り立てた偽りばかりを最後に並び立てるから、軽くなる。

優しさと静謐なまばたきを苦くも出来ない癖に、意地の悪さばかりを鼻に付かせる一方通行に、向けるべき言葉が見付からない。

いや、見付けなくても大丈夫と、根拠のない安堵が、良く分からない感情の塊となって、勝手に私を騙る涙と、共に滑り墜ちていく。

 

 

──小さく一度だけ震えた左手が、私の頬を撫でる

 

 

 

 

「要らねェよ、『今の』オマエなンか」

 

 

パチン、と。

耳の奥、頭の裏側の何処かしらで、何かのスイッチが切り替わるような音が鳴り響いて。

 

 

貴方の切り離し方は優し過ぎると、最後に一つ、意地悪ばかり紡ぎたがる白々しい貌に、言い返してやりたかったのに。

 

真っ白に霞んで行く世界の中で、12時の鐘が鳴り響く。

 

 

 

 

──凛

 

 

 

──ありがとォよ

 

 

 

 

それはきっと、幻聴なんかじゃない。

 

私の願望で動かせるほどにアイツは、簡単じゃない。

 

だから、珍しく詰めを誤った彼の、ほんの少しの隙。

 

私が欲しがった、魔法の『欠片』

 

それさえ残れば、私は──諦めないだけの勇気に変えれる筈だから。

 

 

 

 

───

──

 

 

 

ほんの少しの空白と、甘い屑が風になる白いベンチの上で目を覚ませば。

 

 

もう、其処には一方通行の姿形はどこにも残っていなかった。

 

 

私の手元に残ったのは、彼への未練と、彼の未練。

 

 

樹脂製の黒いギターケースを取り出して、納められたアコースティックギターの弦を爪先で弾けば、伽藍堂の中から音の粒が寂しくなる。

 

 

──諦めてたまるか

 

 

物分かりの良さを求める大人の都合を振り払うのは、身の程を知らない子供の我が儘だ。

 

なら、私は着飾らないまま、ドレスの似合う大人の女になってやる。

 

 

魔法で出来たドレスも要らない、硝子の靴も、彩飾過多なティアラも求めない。

彼の元へと向かう為の魔法の馬車なんて余計な御世話、踵が擦り切れてでも、私の足で辿り着いてみせるから。

 

 

「……っ、くぁ……ひっ、く……」

 

 

丹念に手入れをされたアコースティックの胴に額を押し当てて、今夜ばかりの弱さを溶かす。

今宵、涙を流した分だけ、あの月へと届く為の距離を埋める力になると信じて。

 

 

初恋は、まだ終わっていない。

例え敗れたとしても、破れてはいないから。

 

CDプレイヤーの一時停止を押すように、ほんの少し宿り木に留まって、彼の元へと飛び立つまで翼を得る為の、停滞。

 

 

 

初夏を謳う草花の斉唱に紛れる様に、ひっそりと泣く私を、退屈そうにビロードの幕で傾く、三日月だけが認めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──

───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いよいよだねぇ、しまむー緊張してる?」

 

 

「う、うん……そう言う未央ちゃんこそ」

 

 

「そりゃ私達の大一番だしさぁ、怖いとも思うし緊張もするよね……ま、しぶりんは例外としてさ」

 

 

「……え、私?」

 

 

運転の仕方にコツでもあるのか、プロデューサーがハンドルを握る黒塗りのリムジンに近い車の中は、車外の騒音を殆ど遮断していて、リラックスするには充分だった。

ネックとフレットの隙間を弦ごと押さえる指と共に、新しいコード進行の練習へと気付かない内に没頭していた所為で、三半規管の酔いもすっかり耐性の付いた頭が、ピタリと止まる。

 

片手間に開かれた、所々に折り目が出来た入門用の教本から顔を上げれば、どこかにやけた様な、含みのある未央の笑みと視線がかち当たる。

 

なんとなく、嫌な予感。

 

 

「最近のしぶりん、凄かったもんねぇ。ダンスもボイトレも、なんか鬼気迫る!ってぐらいの勢いだったし」

 

 

「確かに、凛ちゃん凄い頑張ってた! 私達も負けられないです、って他のチームの皆も言ってましたし」

 

 

「みくにゃんとか対抗意識バリバリでさぁ、いやーやっぱり『恋する乙女』のパワーは違うよ。ねー、しまむー?」

 

 

「ねー! はぁ……私も会ってみたかったです、凛ちゃんの恋してる人に……」

 

 

「……や、あのね、一応ウチって恋愛禁止だからそんな大っぴらに言わないで欲しいんだけど……」

 

 

嫌な予感ばかりが的中するこの世の中、理不尽だと嘆いてる暇があれば、徒党を組んでニヤニヤと私の羞恥心を駆り立てる小悪魔二人に玩具にされてしまう。

けれど、その、どうやら私の頬に赤みが差してしまうのは、一方通行に関してだけやたら素直な反応を見せる不便な心では、抵抗する事が出来ないらしい。

 

より一層弧を吊り上げた嫌らしい揶揄かいの笑みに逃げる様に運転席側へと目を逸らせば、非常に気まずそうに片手で特に痛めた訳でもない首元を撫でるプロデューサーがちらりと視界の隅に映って。

 

 

振られたけど、諦めない。

今はアイドル活動に専念するけども、彼の事を諦める気は毛頭ない。

 

そう宣誓した私を満面の笑みとサムズアップで返した霧夜常務代理の隣で、苦笑しながらも聞かなかったフリをしてくれたプロデューサーの大人な対応。

如何にも口の堅そうな彼がその事を吹聴して回る筈もないけれど、未央と卯月の二人は私が一方通行に恋をしている事を知っているらしい。

 

 

まぁ、多分、未央が私にもう一度チームをやり直そうと謝って来た時に、私の隣に居た一方通行の存在から、何かしらを勘繰ってしまったんだろうけど。

 

 

「んーでもぶっちゃけ公認っぽい気がするんだよなー私が見るには。プロデューサーも何も言わないし」

 

 

「……別に、何も言わないからって認めてる訳じゃないと思うけど。というか、せめて他のチームの皆には黙っててよ、ホントに」

 

 

「勿論分かってますよ、これは私達だけの秘密だもん」

 

 

「……なら、いいけども」

 

 

「でも、何人かはもしかして、と思ってるかもねー。最近のしぶりん、なんかスッゴい綺麗になってきたし」

 

 

「……え?」

 

 

「あー分かりますそれ! 休憩ブースのソファーでギター弾いてる時とか、ちょっと大人っぽくて綺麗だよねって、この前ラブライカの二人が盛り上がってました」

 

 

「……そ、そうかな。や、でも、多分気の所為だよ、うん、気の所為」

 

 

「「……」」

 

 

「無言でニヤニヤしない!」

 

 

あぁ、もう、駄目だ。

今にも小躍りしそうな心臓の過剰な運動に熱を上げて、しっかりと耳から首の下まで、どこかの誰かの瞳の色みたく真っ赤に染まってしまうのは、最早私自身どうしようもない。

 

そりゃ、綺麗になったと誉められるのは決して嬉しくない訳ないし、ましてや同じユニットを組んでいる分、普段から私を見る機会が多い二人にそう言われたら、尚更。

 

でも、何よりも、そう言われる度に思い浮かべては心が勝手に想像してしまうから。

 

あの人も、綺麗だと思ってくれるかな、なんて。

 

今更否定なんてしようがないくらい、首ったけなのは変わり様がないらしい、停滞している筈の恋。

 

 

「プロデューサー、窓開けていい?」

 

 

「……余り、顔を出さないでくれるのなら、構いません」

 

 

「お、熱冷ましですかな、しぶりん? お熱いですなぁ」

 

 

「未央、うっさい!」

 

 

こんな気持ちじゃギターもまともに弾けやしない。

今ではすっかり手離せなくなってしまったアイツの置き土産の所為で、学校では軽音部に誘われたりするのを断り続ける申し訳のない日々。

その色々な鬱憤ごと押し付ける様に、ちょっと手荒かなと我に帰りながらも仕舞ったギターケースのヘッドの部分が、車の窓ガラスへと半身を向ける私の身体へと寄り掛かる様に建て直し、視線を外へ。

 

散々に揶揄われてしまった分の礼はいつか返してやると小悪魔二人に向けた反逆の意思表示とばかりにムスンと花を鳴らして、ドアの取っ手口に備わったミラー操作のスイッチを押した。

 

 

「──ふぅ」

 

 

まだ昨日の夕立をほんの少し引き摺ったアスファルトが湿り気を帯びていて、幽玄みたくボヤけた街路樹のシルエットが私を取り残して行く様に過ぎ去っていく。

雑多なフィルムにカラーを添えただけの風景は纏まらず、窪んだ水溜まりに反射した陽光が跳ねる、そんなワンカットだけが目に残って、少し不思議。

 

 

綺麗になったと言われる切っ掛けが、アイツに振られた『お陰』なんだって思えば、野暮ったい夏風を顔に浴びなくても、顔に差した気の早い夕暮れはあっさりと熱を失っていく。

 

この想いを手放さない。

その決意を抱いていく強さは所詮、他人からすれば只の強がりにしか見えないかも知れない。

けれど、それをエネルギーに変えるだけの器用さは、皮肉にもこうして私に寄り添う、この無機質なギターケースが教えてくれたから。

 

 

「──ぁ」

 

 

だから、最初は幻覚なんじゃないかと思った。

赤信号に減速していく黒い車体、微かに小石や砂利を巻き込んだホイールの音がまるで絵空事みたくあやふやな形状で耳に届く。

ほんの少し、腕一杯に手を伸ばせば、もしかしたら届いてくれるんじゃないかと思えるくらいの距離、カードレール越しの遊歩道で。

 

 

──まるで私の願いを叶える様に

 

 

──真っ白な流星が、横に伸びる、その軌跡。

 

 

 

「ぁ、ぃ……」

 

 

誰かの隣で、呆れた様に肩を竦めたその背中、その髪、細長い腕、途切れた横顔。

 

見間違える訳もない。

ずっと、今でも私の心に居座り続けて、ずっと先のいつかで、私の隣に居て貰うんだと誓った白い面影。

 

 

一方通行。

 

 

私の、想い人がそこに居て。

 

 

 

「……凛ちゃん?」

 

 

「しぶりん、どした……えっ、あの人……」

 

 

茫然と、親を見失ってしまった迷い子みたく喉と肩を震わせた私の様子に気付いた卯月が、普段から笑顔の絶えない彼女にしては珍しい戸惑いを露にしながら、そっと肩を叩く。

私の目線を追った未央が、癖っ毛がどこか色っぽい褐色の男の人の隣を歩く、アイツの符号とも言える白銀の髪に気付いて、まさかと息を呑んだ。

 

 

でも、これは邂逅と名札をぶら下げるには余りに一方的で、余りに頼りなく、余りに短い刹那。

心の準備など到底追い付かない、脚本家が仕組んだ、ほんの少しの底意地の悪いイタズラの様なもので。

 

呆気なく切り替わった信号に気付きながらも、まるで彫刻みたいにエバーグリーンを見開いたまま静止する私に動揺して、アクセルを踏めないでいるプロデューサーは、耳をつんざくクラクションの音に、半ば能動的に右足を動かした。

 

 

 

「……ゃ、ぁく」

 

 

 

離れていく、緩やかに離れていく。

ミラーの折りきった窓から衝動的に顔を出して、雑踏の中へと紛れてしまいそうな、遠退かるあの人の背中を、衝動的に腕を伸ばしながら。

 

 

これは、きっとルール違反。

 

エンディングを迎えた筈の私が勝手に手繰り寄せた、身勝手なエピローグ。

 

だとしても、そうだとしても。

 

 

届いて欲しいと。

流れ星に請う、ほんの少しの願いの欠片。

 

 

 

 

──アクセラ、レータァァァ!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

けれど、それは行き過ぎた願いだからと、唇を塞がれる様に。

 

確かに口にした筈のあの人の名前は、嘘の1つだって含めてない筈なのに。

 

 

まるで宙を泳ぐシャボン玉みたく、余りに軽く掻き消える。

 

 

──どこからか届いた、激しく鳴る水の音に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目敏い友人を持つ事は、要らぬ気苦労を背負い込む事と同義なのかも知れない。

『耳に届いていない筈』の、『言葉になってない筈』の、何処かの誰か、隣で振り返った男と同じく目敏い少女の──自分の名を呼ぶ声に反応するのだから。

 

 

何の為に、『水溜まりを踏み抜いた所為で』買ったばかりのジーパンの裾を濡らす羽目になったのか、これでは分からなくなってしまう。

 

 

 

──今、誰か貴方の名を呼びませんでしたか?

 

 

 

──さァ、気の所為だろ

 

 

 

喉の鈴を転がして、真っ白な尻尾髪が空を切る。

どこか訝し気に此方を覗き込む男に、ささやかな微笑を返して。

 

その背中は決して振り返る事はなかったけれど。

ほんの少しだけ、車道を向いた横顔。

口元に添えた、甘い笑み。

紅い瞳が、どこか諦めたように細く霞んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

───────

 

 

 

 

 

「凛ちゃん、大丈夫ですか……? あの、さっき『何て言おうと』してたんですか?」

 

 

 

きっと、誰にだって分かってしまうぐらいに落胆してしまって、俯きがちに鼻を啜る私の震える両手を、そっと卯月が優しい気遣いごと体温に溶かした掌が包む。

擦り切れてしまう事も、周りの目を盛大に集めてしまうであろう事も覚悟して、震わせた喉は、単一音1つすら紡ぐ事が出来なくて。

 

 

──まるで、魔法にでも掛かったように。

 

 

 

「……ごめん、何でもない。何でもないから……」

 

 

「……しぶりん」

 

 

精一杯の強がりの奥底、ほんの一瞬描いた理想は絵空事。

叶う筈もなかった願いの当然の結末に、けれど隠し切れない失意を汲み取った未央の、そっと寄り添ってくれる様な声。

 

 

けれど、大丈夫。

大丈夫だから、本当に。

確かに、アイツは、振り向いてはくれなかったけど。

 

 

遠くへと霞んで行く、白い面影。

勝手に澱んで潤む視界の端っこで、確かに見た。

まるで、手を焼いて仕方のない子供を宥める様に浮かべた、ほんの少しだけの願いの形。

 

仕方のないヤツだ、って。

仄かな笑みを携えた、アイツの口元。

 

 

大丈夫、『今の』私じゃ、まだ、振り向かれる事ないだけだから。

どれだけ時間を掛けてでも、必ずその背中へと追い縋って──

 

 

いつか、今度こそ、言う為に。

 

月が綺麗ですね、って、言えるくらいに。

 

月の綺麗さに負けないくらいの女に、なってみせるから。

 

 

 

「──卯月、未央。お願い、って言うのとちょっと違うけど、聞いてくれる?」

 

 

「……なに、凛ちゃん?」

 

 

 

傷心への気遣いと、目に光を再び灯した私へと、卯月が優しい笑みを浮かべる。

無言のまま、少し固い表情ながらも未央が見詰める。

 

 

一方通行は、今、目の前には居ない。

 

けれど、それは決して、消えてしまった訳じゃない。

 

 

ゆっくりでも、歩くような速さでも良いから。

 

 

彼の背を追い掛ける事を止めなければ、いつかは──

 

 

 

 

「ホントは、開始前に皆で円陣組んで言うべきなんだろうねらこれ。だから、ちょっとした、フライング」

 

 

 

その背にこの手を届かせる為に。

 

 

この距離は、星と星ほど離れている様な途方なモノではないはずだから。

 

 

 

 

「今回のアイドルフェス、絶対成功させよう! そして、私は──絶対アイツに追い付くんだ!」

 

 

「──うん、頑張ろう、凛ちゃん!みんなで!」

 

 

「とーぜんっ! むしろあの人がしぶりんに夢中になっちゃうくらい、素敵なステージにしよっ!」

 

 

 

振り向いてくれなくたって、別に良い。

 

追い付いて、寄り添って、抱き締めて、無理矢理にでもその視界に入って。

あの意地悪で性悪で仏頂面で大人ぶってばっかりの、どう転んだって愛しい男に、骨の随まで分からせてやるんだ。

 

 

私は物分かりの良い女じゃない。

 

 

アイツの心に残る誰かを慮ってやる事なんて出来ない。

 

 

魔法を欲しがってばかりのシンデレラは、もう卒業したのだから。

 

 

ただ、誰よりもその人の隣に居たいと願う、当たり前の形をした恋をするだけの、普通の女。

 

 

それを成就したいと願うのは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──1人の女の子として、当然だよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──そして、12の刻を通り過ぎた時計は

 

また再び時を刻み出す

 

魔法の終わりなど、知った事ではないと云わんばかりに

 

ならばこの童話は小さく、けれど狂った様にキャストを変える

 

諦めの悪いお姫様が追い掛ける

 

意地の悪い王子様の背中を追い掛ける

 

そこには硝子の靴も、魔法の馬車も、必要ないのだろう

 

 

逆さまの物語は、観客も居ないけれど

 

 

それでも、サファイアブルーの物語は続いていく──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

______






これにて番外編は完結とさせていただきます


残るのは、ただの蛇足

この物語の本質から逸脱した、ちょっとしたご都合主義にまみれた話です

この物語に確かな余韻を感じて下さる方々には、お見せするにはお恥ずかしい程度のおまけ

それでも宜しければ、もう少ししたら完成しますので、それまでお待ち下さい




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アンケート小説 蛇足『────』

このページは単なる蛇足、手慰みにもならない余分なものです。


稚拙ながらも完結したアンケート小説に本来あってはならないIFです。

それでも宜しければ、お読み下さい。


無機質な檻みたく、人格の宿った歯車達のコンクリートの揺り籠が織り成す都会のビル群が見下ろす様に、神崎蘭子は何処か居心地の悪さを感じていた。

 

 

下り坂を迎えた夏が造り出すビル群から伸びた無数の影と、灰混じりのダウンフリルの付いたパゴダ傘は漆黒の色彩を貼り付けていながら、どちらかと言えば寒がりな蘭子には丁度良い気温を作ってはいた。

今にも雪が振り出しそうな曇天を飾るアッシュブロンドをカール状のツインテールに括り上げているから、時折通り抜ける夏風が彼女のさらけ出した白亜の首筋を添ってなぞるから、気温に反して特別暑いとは思わない。

 

 

横断歩道の向こう岸、点滅を始めた信号を眺めれば、やがてそのクリアガーネットの両眼の色彩と同列の、赤へと切り替わる。

伸ばしかけたブーツを戻したのは、決して走るのが優雅ではないと、気高さや気品を損なわない為の判断ではない。

単に、青信号が点滅したならば渡ってはいけない、という行儀の良い理由である事を、奇異の視線を彼女に向ける群衆が気付く事は無かった。

 

 

半分を終えたとはいえ、まだまだ太陽の運動が盛んな夏の昼下がりという環境下で、ゴスロリのブラックドレス、黒のニーハイソックス、パゴダ傘も含めて黒一色と分かり易く気合いの入っている格好をしていれば、嫌でも視線が集まってしまう。

ましてや、精巧なフランスドールに似た美しい造形の顔立ちとアッシュブロンドの髪、紅い瞳と目を惹く要素が余りにも随所にある為に、ジロジロと不躾に眺める視線が多いのも致し方ない。

 

そこに居心地の悪さを感じてしまうのは、内気がちな性格に加えて人見知りもする蘭子としては、未だに馴れる事のない現象である。

 

けれども、対角線の赤信号をどこか拗ねがちな子供染みた眼差しで見詰めるのは、それだけが要因、という訳ではない。

 

 

彼女は、焦っていた。

本来ならば彼女が勤める346プロダクションの本社に着いて居なくてはならないが、蘭子本人も参加し、成功に荷担したアイドルフェスの成果による影響で多忙が続いた所為か、いつの間にか狂っていたらしい腕時計とスマートフォンの指し示す時刻の違いに気付かなかった。

 

遅刻とは即ち、周りに迷惑をかけるという行為である。

即座にプロデューサーには連絡し、口頭ながらも少し遅れる程度なら大丈夫と伝えられたのには安堵したが、そこに胡座をかける程に蘭子は増幅出来はしない。

慌てて周囲にタクシーを探したが、平日ながらも交通量が非常に多い交差点ではなかなか掴まらず、已む無く徒歩で向かう事となった。

 

そんな状況下においてでも、律儀に信号の点滅を走り抜ける事もしない彼女は、良い子、という形容が相応しい。

けれども、逸る気持ちと遅刻に対する責任感に焦ってしまうのも、当然で。

 

 

だから、彼女は垂直対抗の信号が切り替わると同時に、周りも見ずにその脚を踏み出してしまって。

直ぐそば、彼女が渡ろうとする横断歩道へと忍び寄る『無機質の殺意』に気付いたのは、突発的に誰かが叫んだ、危ない、の四文字を耳にしてからで。

 

 

どこか暢気にも見える丸々としたガーネットアイが右を向いた時、彼女の身の丈を大きく越える鉄の塊が、最早間に合い様のないほど差し迫っていて。

 

 

「──え」

 

 

轢かれてしまう、とすら思えなかった。

衝突まで秒読みにも満たない空白の中で、目の前に飛び込んで来たトラックを前にして、何これ、としか思えなかった。

 

ならば、彼女の狂った腕時計が1つ秒針を進む、たったそれだけの間。

神崎蘭子が、自らの死が直ぐそこまで忍び寄っていたと気付けたのは、彼女の手に差す漆黒のパゴダ傘が宙を舞い上がってからだった。

 

 

 

 

───────

────

 

The fairytale is a superfluous.

 

────

───────

 

 

 

 

 

 

反射的に目を瞑る事すら出来なかったのは、神崎蘭子にとっては幸運だったのか、不運だったのか。

その瞬間の彼女に問い掛けてもきっと答えなんて望むべくもない。

 

けれど、全てが終わった後で、彼女に再び問えば、きっとある種の興奮と共に目を輝かせながら、答えだろう。

 

 

幸運だった、と。

何故ならきっと、その刹那は彼女にとっては永遠にも似た情景として瞳の中に焼き付いた程の、神秘的な一瞬。

余りに綺麗な其れを、『死にかけた』にも関わらず、呆然としながらも、手に取っていたのだから。

 

 

 

 

──太陽は昇っているはずなのに。

 

 

そこには流星が穂先を靡かせていた。

 

 

 

 

───────

 

 

 

 

「……危ねェな、おい」

 

 

右肩から伝わる骨張った掌の感触、背を預ける形となった細いながらも確かな肉付きとしなやかな筋質をどこかぼんやりと反芻していた折に、耳に落とされた冷たいテノールボイス。

抜き身の鉄閃みたく背筋をなぞる寒気と、支える様に添えられた腕から伝わる体温の暖かさはちぐはぐで、不思議な夢心地に誘うフワフワとした感覚に小首を傾げそうになる。

 

けれど、自分の背中を右腕で軽く支える男の端麗な横顔と、まるで真夏の雪と形容できる程に幻想的な白銀の髪は怖じ気を覚える程に美しくて、思わず息を呑み込んだが、それも一瞬。

 

黒いカッターシャツに包まれた肢体から伸びる左腕と、長い花片が五枚、伸ばされたような白い掌。

そこから産み出された無数の細やかな裂傷と、その掌の形だけ綺麗に窪んでみえる、トラックの顔。

 

 

──助け、てくれた?

 

 

「……チッ、面倒くせェな。さっさと帰るか」

 

 

一瞬の静寂を切り裂いて、蜂の巣をつついたみたく群衆が色めき立つ中で、白貌が呟いた言葉だけが独特の響きを以て鼓膜に溶ける。

茫然と、何故か至極面倒そうに歪むその横顔を見上げながら固まってしまったままの蘭子の耳に、雑踏のざわめきがすんなりと届いた。

 

 

『女の子が轢かれかけた』『男が片手一本でトラックを止めた』『あり得ない』『奇跡』『運転手』

 

 

疎らに散らばるワードを拾い集めていけば、分かる事。

直前までの光景、迫り来る無機質な殺気、吹き飛んだ愛用の傘、悲鳴、フラッシュバックするそれらの符号を1つ1つ、合わせていく度に心の奥底でクシャリと──何かが潰れていく音がした。

 

 

 

「……ぁっ、ぁぁ、いぁ、死に、私、あぁぁ……」

 

 

ガタガタと、腰の中枢を支える芯から弾き飛んで行ってしまったかと思うぐらいに、遅れながら飛来した恐怖に震える脚が、今にでも崩れ落ちてしまいそう。

余りにも短い瞬間で把握する事すら出来なかった死という輪郭が、悪魔染みた鋭角を象って無垢な心に突き刺されば、1人で立つ事なんて到底叶わない。

 

 

けれど、じゃあ、自分を支えるこの腕はなんだろう。

死の湖へと顔を突っ込んだ蘭子を引き戻し、痛いほどに泣き叫ぶ心臓がまだ動く事を許したのは、誰なのか。

 

 

 

「……死ンでねェ、生きてる。大丈夫だ、オマエは生きてる。声、聞こえてンだろ、返事しろ」

 

 

「ぁ、ぁっ、ぅ……っ」

 

 

両頬に添えられた白い指先と、潤み始めた視界に咲いた深紅の双子月は優しさからか、薄い唇から紡がれる言葉は、平静を保ってなどいられない彼女の心に刺さった茨の軛を1つ1つ抜き取っていく。

命の危機に直面して今にも泣き叫んでしまいそうな程に乱れた心が、目の前の男の掌から伝わる体温と、それとは他の『何か』としか形容出来ない不思議なモノに触れられて、赤子をあやす様に撫でられている、そんな錯覚に落ち着かされる。

 

 

暖かい。

包み込んで、真っ白なベールで彼女の心を恐怖から守ってくれる。

ずっと、こうしていたいと思えるような確かな安堵。

不明瞭な筈のそれに、いつの間にか救われている。

 

 

 

 

「……チッ、場所を変えるか。目を閉じろ」

 

 

「ふぇ」

 

 

だからだろう、短く告げられた彼からの要求に、意味が分からないながらも身体が応じていた。

形だけの躊躇いが口を付いただけで、彼の掌が視界を防ぐよりも早く、目を閉じて。

ほんの少しの浮遊間が過ぎ去れば、まるで眠りに堕ちてしまったのかと思う程の意識の淀みと、訪れた静寂。

 

瞼の裏の薄弱白色が蛍火みたいにブレた数秒の隙間を切り裂いたのは、やはり蘭子を救ってくれたらしい、あの男の声で。

 

 

 

「もォいいぞ」

 

 

「……え、な、此処は……」

 

 

 

再び目を開いた其処は、人通りの少ない346プロダクション本社近くの、少し寂れた庭園。

昼下がり、ポツポツとした人影しか存在しない空間は、さっきまでいた交差点からそう離れてはいないが、殆ど数秒の間に来られる筈もない。

 

まるで魔法にでも掛かったのかと蘭子が自分自身の視覚情報を疑ってしまうのは、無理もなかった。

けれど、そんな事は知った事ではないと言わんばかりに、真っ白なその男は踵を返そうとしていたから。

 

 

「ま、待って!……くだ、さぃ……」

 

 

半ば追い縋る形になってしまった。

その細くしなやかな腕に上半身丸々使って抱きついてしまった所為で、外見に反してそれなりに豊満に育った胸の双丘に彼の腕が挟まった感触に、強い意志と共に吐き出された台詞が急激にフェードを下げていく。

 

アイドルという稼業に携わっている癖に、まともに異性と関わった経験など、彼女のプロデューサーですらギリギリカウント出来る程度しかない彼女にとって、その羞恥心は相当なモノではあるが。

それよりも、いつの間にか救われてしまって、何か良く分からない内に去って行こうとする男を、そのまま見送る事は出来ない。

 

せめてお礼をと、そう紡ごうとする拍子に、ふと気付いてしまう。

蘭子自身、まるで気付く事すら出来ない間に、『吹き飛んだ筈の傘』が自分の右手に握ってあった。

 

 

 

「か、傘……いつの間に……」

 

 

「……最初からオマエが握ってた。それで良いだろ。いい加減離せ」

 

 

「だ、ダメ、駄目で……おれ、ぉ、お礼……」

 

 

最早、轢かれかけたという事実こそ信じ難くなって来る程の有り得ない事象ばかりに戸惑う蘭子の心情など慮るつもりはないのか、奥底まで見透しても不思議じゃない紅眼に見下ろされて、気弱な彼女の背筋がビクンと跳ねる。

けれど、不幸中の幸いか、彼に比べれば小柄な身体を竦ませた反動でがっちり回ったままの両腕のロックが強まって、冷淡な口振りの割には振り払うつもりはないらしい男を、逃がさなくて済んだ。

 

 

何とかお礼を、と思いながらも胸元の未知たる感触と見下ろされる両眼と未だに整理出来てはいない状況に目を回しながら上手く言葉を紡げない蘭子を見兼ねてか、どこかぐったりしたトーンでテノールが囀ずった。

 

 

「……分かったから、離せ。逃げねェから」

 

 

「ほ、本当に?」

 

 

「あァ、嘘じゃねェから。オラ、離れろ、いつまでもくっつかれンのも鬱陶しい」

 

 

「──っ、ううぅ……はい」

 

 

あからさまに男の性を全面に押し出された対応をされるよりはマシではあるが、仮にもうら若き乙女の胸を押し付けられてのこの冷たい反応に、悔しさを感じるよりも羞恥心による反省しか心にない辺りが、神崎蘭子という人格を物語っている。

 

どこか文面にすれば独特な綴りを持ってそうな響きの低音ボイスは多大な呆れと、何故かどこか諦めを含んでいるのに小首を傾げるのは内面の心内だけ。

取り敢えず、のそのそと仄かに羞恥と奇妙な興奮に熱を纏う身体を離せば、どうやら逃げ出すつもりは本当にないらしい。

プラプラと縋り付いてしまった左腕を振る男を見て──気付く。

 

 

この人は、トラックを左腕一本で止めていた様に、蘭子の目には見えた。

どれだけ鍛えていたとしても、その衝撃の全てを殺し切れるとは思えないくらいに細い腕。

サッと青くなる蘭子の表情に気付いた、よく見れば風貌や黒い服が自分に良く似ている男の瞳が、疑わし気にキリリとつり上がった。

 

 

「……携帯、鳴ってンぞ」

 

 

「へ? あっ……」

 

 

男の指摘に促される形でスマートフォンを取り出せば、プロデューサーの文字。

そういえば、自分は遅刻している身、今すぐにでも346本社に向かわなければいけない。

どういった手法を用いたのかも分からないが、先程の交差点よりは随分『近場』まで移動する事が出来たのは渡りに船ではある。

 

しかし、もしかしたら負傷、または骨に異常があってもおかしくないくらいの事をしてまで自分の身を救ってくれた目前の彼をこのまま帰せる訳もない。

 

 

「……オイ」

 

 

「ね、念の為……」

 

 

先程の勢いだけに委ねた追い縋りをもう一度敢行するだけの突発的な必死さはないけども、万が一彼がこの場を去らぬようにと、彼の右手首を片手でしっかりと、ほんのちょっと震えながらも握り締める。

手を繋ぐのは流石に初心な蘭子にはハードルが高かったらしく、手首だけでも充分なほど、顔が赤くなってしまうけども。

その脳裏に描くのは、この後のこと。

 

 

取り敢えず、プロデューサーに相談しよう。

その際、もし許されるならこの男の人を連れて病院に行こう。

その涼し気な表情は強がりなんかで誤魔化しているとは思えない程に静謐なモノだけども、骨折していないと断言が出来るくらいの医療知識など持っていない蘭子からしたら、彼の身が心配で仕方ない。

仮にも命を救って貰った相手だ、このままサヨナラなんて出来る筈もない。

 

だからこそ、この場に置いてプロデューサーは実に心強い大人の援軍だ。

先ずはプロデューサーに状況を説明し、対応と、場合によっては心苦しいが、今日の予定をキャンセルして貰う腹積もりで。

 

 

心は決まった。

既に平静は取り戻し、状況の全てを理解出来なくとも出来る事はある筈だと気弱な彼女にしては精一杯に奮起して、鳴り続けるコールへ応答をフリックして、口を開いた。

 

 

 

「我が友、緊急事態だ! 我が身に降り注ぐ筈だった永世よりの試練を肩代わりしてしまった白貌の君が負傷を圧しながらも我が元を去ろうとする!どうすれば良い!? 答えよ、盟友!」

 

 

「えっ」

 

 

「えっ?」

 

 

『──すみません、神崎さん。もう一度お願いします』

 

 

 

恐らく、この男に非常に御執心な、とある少女は一度も眼にした事がないであろう、キョトンと切れ長の紅い瞳を子供みたく丸々とおっ広げている姿はどこか滑稽で。

 

電話口の向こう、数奇な巡り合わせがこの先待っていようなど露とも知らない無骨な男は、『いつも通り』殆ど何言っているか分からない蘭子の言葉に、そっと溜め息を溢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

─────────

 

 

 

たった3種類のコードでも、ストロークやコード進行順、リズムを気紛れに組み換えるだけで何通りもの旋律を造り出せるのだから、この手にあるモノの可能性と自分自身の未来を重ねる人が絶えないのも頷ける。

アルペジオとあざといフレットノイズを時折混ぜれば如何にもな情緒を添えれて、陶酔がちに目を細めれば、形ばかりが遠想の先にあるアイツの姿。

 

 

その背に求める感情一片、織り重ねて叙情詩として語るには、まだまだ技巧の拙さばかりが目に付いてしまう。

所詮、あの細長い指先を追うだけの慰めは、どうしたって片手間で、弦の弾き方を1つ取っても彼に比べれば子供の児戯に等しい。

そんなアイツの演奏でさえ、聴く人が違えばまだまだ遊戯の範疇から逸脱出来ないとなれば、なんて奥深く果てのない世界なんだろうか。

 

 

控えめな空調の稼働する休憩ブースにある自然は精々が観賞用の植木が1つ2つ程度、あの白いベンチのある川辺に比べれば人工の無臭ばかりに溢れているのに。

ストロークを掻き鳴らせば、野暮ったい草花の香りが鼻孔を擽ったのは、すっかりと私の中に住み着いてしまった追想に、酔っているからなんだろう。

 

一区切り、弦を撫でる様に滑らかに数度弾いて、旋律への終点を作れば、それは不恰好で鼻に付くのに。

薄肌の幕を開ければ、こんな拙い演奏にさえ朗らかな甘い笑みを見せてくれる卯月が、分かり易くうっとりと両手を合わせて口元を緩めてくれていた。

 

 

「んー、難しいなぁ……この下手っぴめ……」

 

 

「下手なんかじゃないですよ、凛ちゃん。素人耳でもグングン上達してるって思います」

 

 

「……や、まだコードチェンジもたつくし、弦の押さえも甘々。多分、アイツ聴かせた所で鼻で笑われるレベルだよ」

 

 

「凛ちゃんのお師匠さん、そんなに厳しい人なんですか……でもでも、私が聞くイメージだと、何だかんだで凛ちゃんの演奏、好きになってくれると思うんだけどなぁ」

 

 

「す、好きに……っ、うん、まぁね、そうなるに越した事ないけど、アイツ性格悪いからね、上げて落としたりとかしょっちゅうだから、期待はしないよ、うん」

 

 

「……凛ちゃん、最近ナチュラルに惚気る様になりましたよね。口ではそう言ってばかりだけど、顔、ニヤけてますよ?」

 

 

「……事あるごとに面白がってせっ突いて来るお節介さんが二人も居れば、私だって開き直るよ。この前だって未央のヤツ、雑誌の内容鵜呑みにして、私に彼是聞いて来るし」

 

 

一方通行への気持ちが明け透けだなんて今更だし、アイツに誉められるなんて状況に素直にニヤけるだけ、今の私には余裕があるんだと誰に聞かせる訳もない弁解は、勝手に鼓動を早める心臓の音に掻き消える。

アイツへの想いを燻らせて塞ぎ込まなくて済んだのは、ある意味、卯月と未央のお陰なんだろう。

 

ただ、励ましながらも好奇心剥き出しにして揶揄う辺りの底意地の悪さは、正直勘弁して欲しいのが本音だ。

何処からか持って来たティーン雑誌の恋人に言って欲しい台詞を、腹立たしいニヤけ面を隠そうともせず朗読し、あの人に一番言って欲しいのってどれだった、と尋ねて来るのは流石にデリカシーなさすぎ。

唇を尖らして分かり易く肩を怒らせた私の機嫌の降下線にやり過ぎだったと気付いたお調子者が、甘いお菓子やら美容グッズやらで私の機嫌取りに奔走する姿は、なかなかに面白いモノだったけれども。

 

 

と、不意にバタバタと慌ただしく廊下を駆け回る騒がしさに、花を摘みに席を外していた件のお調子者が漸く戻って来た事を悟るが、何やら様子が変だ。

確かに活発な性格ではあるけども、此処はあくまで346本社の休憩ブース、プライベートルームではない。

当然社員の人達も出入りする事も多く、そんな中でけたたましい足音を鳴らす程に、未央は子供じゃない。

 

現役中学生の莉嘉ならまだ分からなくもないけど、今はショッピングモールのイベント会場に居る筈。

となれば、今346本社に居るのはニュージェネの三人組と、新規企画が持ち上がった為に会議室でプロデューサーと相談中のラブライカの二人と、珍しく遅刻しているらしい蘭子ぐらい。

なら、必然的に残るのは未央なんだろうけど、一体何をそんなに焦っているのか。

ガタン、と休憩ブースの扉に手を掛ける音にすら余裕がなくて、扉が開かれた先、全身で息をしていると言っても過言ではない未央の額には水滴の汗すら滴っていた。

 

 

「し、しぶりん、しまむー! 緊急事態、緊急事態! さっきアーニャとみなみんが教えてくれたんだけど、らんらんが事故に遭いかけたって!」

 

 

「蘭子ちゃんが!? 嘘っ、そんな……」

 

 

「じょ、冗談でしょ!? それで、怪我は……」

 

 

「いや、それがギリギリで助けてくれた人がいたらしくて……」

 

 

「あぁ……良かった……良かったよ、蘭子ちゃん……」

 

 

「──も、もう……先、それ言ってよ……腰抜けそうになっちゃったじゃん」

 

 

荒い呼吸混じりに告げられた衝撃のないように、腰砕けになりそうだった卯月を慌てて支えながらも、私も安堵の息を落とす。

蘭子が事故に遭いかけた、というのなら確かに未央が慌てて私達に伝えて来るのも、余裕がないのも分かるけど。

無事だったのは何よりだが、唐突にそれを聞かされる私達の身にもなって欲しい。

正直、最悪のケースすら頭に過って、目の前が真っ暗になりかけたのだ。

 

安堵しながらも微かに肩を震わせている卯月をそっと立たせて上げて、取り敢えず一息。

幸い怪我はなさそうだけど、心配は心配だ。

取り敢えずプロデューサーに話を聞きに行こうと、手繰り寄せたアイツのギターをケースに仕舞おうとするが。

今度こそ、私の心臓は止まるんじゃないかと思えるくらい、大きく跳ね上がる事となる。

 

 

「や、緊急事態なんだって、しぶりん! その、らんらんを助けてくれた人が今、プロデューサー達と会議室に居るらしいんだよ!」

 

 

「そう……じゃあ、お礼言いに行かなきゃね。ちょっと待って、直ぐに片付けるから」

 

 

「いやいや、そんなの後で良いから、しぶりん急いで! 卯月も!」

 

 

「そ、そんな急かさなくても……どしたの、未央?なんか、変だよ?」

 

 

「未央ちゃん、落ち着いて?」

 

 

「落ち着いてなんか居られないって! さっき、アーニャとみなみんが見たらしいの! その助けてくれたっぽい人! 真っ白な髪で、真っ赤な目で、背も高い男の人だったって……」

 

 

「──え」

 

 

 

ドクン、と。

心臓が、大きく跳ねる。

 

滴る汗が這うぷっくらとした唇から紡がれた、蘭子を助けてくれたという人の特徴に符号する、誰かの面影。

 

真っ白な髪、真っ赤な目。

背の高い、男の人。

あぁ、そんな風貌をしている男は滅多に居ない。

 

 

カタリと、まるで私の辿り着いた答案に、正解を告げる教師みたく、アイツのギターのボディが音を立てて。

 

 

行かないと。

会議室に、早く。

形振りなんて構ってられない。

まだ、アイツの隣に並べる程の女になってない事なんて百も承知、それでも。

 

彼が、一方通行がそこに居るのなら。

 

 

「──っ!」

 

 

「うわっ、しぶり……しまむー! 私達も行こう!」

 

 

「う、うん!」

 

 

もしかしたら、人違い、なのかも知れない。

偶々アイツに良く似た風貌の男の人が助けてくれたのかも知れない。

どんどん勝手に膨れ上がって来る期待感に、せせこましく予防線を張るのは、それこそ身勝手な感情から生まれる幼さで。

けれど、もしアイツが居るのなら。

 

きっと、私に会わないように、直ぐにでも姿を消してしまう。

それだけは、嫌だったから。

 

 

 

 

階段を、駆け上がる。

其処はきなびなかに整えられた城なんかじゃないだろう。

けれど、未熟な女が追い求める意地の悪い男に再び会うには、豪奢なシャンデリアなんて必要ない。

 

あの腕の中が、今の私にとってのゴールなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 

 

 

「──離せ」

 

 

「だ、駄目。我が城の宰相の命ならば、この刹那ばかりは、我が身を黒鎖として汝を縛る事も厭わない。汝こそその紅蓮を閉じ、素直に我に陥落せよ」

 

 

「──はァ?」

 

 

「ひっ、ぅ、に、睨むでにゃい……わ、我は美姫たる偶像達の中に君臨せし……う、あぅ、おっ、おこ、おこおここ怒らないでくださいぃぃ」

 

 

「頑張れ蘭子ちゃん、根暗兎なんかに負けちゃ駄目よ。押して押して押しまくりなさい」

 

 

「……ざっけンなよクソ女狐。分かり易く時間稼ぎしやがって」

 

 

「ふーん、なら蘭子ちゃんを振りほどけば良いじゃないの。あ、もしかしてその娘のおっぱい堪能中だった? ありゃー私としたことがムッツリ男心に気付かないとは、これじゃ、おっぱいマイスター失格ね」

 

 

「振り払ったらうちのアイドル傷物にしたとか抜かすンだろォが、七面倒臭ェ手段使いやがって」

 

 

囚われの身というよりは寧ろ邪で如何わしい接待を受けている絵面と思えるのは、ほんのりと頬を染めたゴスロリ美少女を侍らせてソファにふんぞり返っている男という図式が成立してしまっているからなのか。

辛うじてそれを押し留めているのは、羞恥心を押さえながらも彼女の上司に命じられてやむを得ず、という建前を武器に隙を見ては逃走してしまいそうな命の恩人を拘束している蘭子を、至極迷惑そうに見下ろす青年の表情に依るものだろう。

 

ともすれば法に軽く抵触しそうな行為を強要している霧夜エリカ常務代理は、険しいながらも焦りと困惑を微かに仄めかす目下の一方通行に御満悦らしく、端美な頬をニヤニヤと吊り上げていて、横目でこっそりとその表情を伺うプロデューサーは気付かれぬ様に嘆息を落とした。

 

救いがあるとすれば、エリカが命ずる前から、正確には難解で要領を得ない蘭子の語る内容をなんとか噛み砕いて、蘭子と、彼女が命を救われたという『見覚えの有りすぎる青年を迎えに上がる時から、ずっとその状態が変わらないという点だろう。

どうやらプロデューサーが迎えに来るとの旨を伝えた途端に帰ると言い出したので、身体を張って彼の逃走を食い止めていたらしい。

 

 

取り敢えず、346プロダクションのアイドルの命を救って貰われたのであれば、礼を欠くなんて恥知らずな対応は出来ない。

依って然るべき人間から然るべき場所で謝罪と返礼の場を整えるのも、プロデューサーたる自分の仕事だと『独自に判断』した彼は、非常に罰の悪そうな顔で顔を逸らす一方通行を速やかに彼らの城へとお連れした。

 

 

無論、他意も思惑も、ついでにプロデューサーにとっても大事な『アイドル』の1人を泣かせてくれた事に対して、含む所があったのは一方通行には当然見透かされていたのだが。

逃げられては困りますと引かない男と、右腕に縋り付いては離れず、頑なに来城を拒み続けた所為で何故か半泣きになりながら自分を見上げる蘭子に、凡そ10分粘った挙げ句、ついに白旗を上げた。

 

 

そして、彼にとっての首輪、天敵、と云っても過言ではない霧夜常務代理は、一連の事態を全て把握するなり、でかした、という一言を蘭子に与えて下さった。

 

無論、一方通行が何故かプロデューサーや常務代理と顔見知りである事に、蘭子は終始、目を白黒とさせてはいたが。

 

 

「……何を企ンでる、オマエ」

 

 

「あら、人聞きが悪いわね。別に企んでる訳じゃないけど。ただ、ちょーっと、時計の針を動かしたいってだけ」

 

 

「……絶対『それだけ』じゃねェだろ。オイ、オッサン。オマエがさっきから集めてる書類、そりゃァなンだ。 機密書類じゃねェのか」

 

 

 

「いえ、ただ単に『関係者』以外には、早々お見せ出来ないというだけですが」

 

 

「──冗談じゃねェ。オイ、ゴスロリ女、いい加減離せ。ふざけンな、俺はまだ学生──」

 

 

ペラペラと、常務の指示通り集めた現在始動中のシンデレラプロジェクトによる資料一式と、プロジェクトチームに所属するアイドル達の細かいプロフィールなどを集めた資料は、やはり見逃せなかったらしい。

その情報、というよりはわざわざ一方通行という『部外者』の居る前で、これみよがしに用意しているエリカの真意の方が余程彼には問題なのだ。

 

その思惑から推論を導き出す事など、卓越した頭脳を持つ一方通行からしたら児戯にも等しいが、導き出せた所で彼からして見ればふざけた話。

最早この場に居残るだけで不利になっていくのは明白だ、抜き身の刃に等しい鋭い視線を向ければ、その底冷えしそうな美と凶悪の競演に身を震わせた蘭子の拘束が緩む。

やっと解放された右腕の痺れなどに意識を裂くまでもなく、さっさとこの場から撤退しようとソファから立ち上がるが──残念ながら、最後の役者は間に合った。

 

 

 

 

「一方通行!!」

 

 

 

荒々しく扉を開けて、全速力で階段を駆け上がった為に乱れた髪や服装を直そうともせず。

求めて止まない男の姿を見るなり、脇目も返らず、渋谷凛はその胸元に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

─────

──

 

 

 

 

 

 

 

 

はしたないとか、不恰好とか、淑女らしさの欠片もないとか。

指摘されてしまいそうな事は幾つもあったけれど、そんな余裕と怠慢に満ちた慰みなんて、最初から求めていない。

静止させるべく私の名を呼ぶ誰かの声に構う余裕もなく、震えた手で握り締めたドアノブを捻って開いた先。

 

 

灰の世界を分け与えてばかりの私に、色をくれた人が、其処に居て。

言葉の瓦礫を綴る苦労すら乗り越えて、只、呼んで。

 

今度こそ、届いた。

春を繰り越して、夏雪に行き場を無くしかけた想いが、『未熟』を指し示す私の躊躇いなんて過ぎ去って、追い越す。

 

 

 

「一方通行!!」

 

 

 

季節外れの虹の匂い。

頬から伝わる何処か作り物めいた胸の奥にある、継ぎ接ぎの心臓の音。

視界の外縁に今にも溜め込んだプリズムを掻き分ければ。

それは多分、彼自身も把握し切れない身勝手に気付かないほど、些細な微笑。

 

マネキンの口の端っこに罅が生えただけの、取るに足らないと万人が捨てるくらいに、僅かなモノ。

戸惑いと諦観に裏付けた困惑顔の奥底、裏側から手繰り寄せた、私だけの『勝算』だった。

 

 

 

「……はァ。いっそ、仕組まれてた方がマシだったかもな。オマエ、仕事どォした」

 

 

「っ、ぇ……ぃ、休、み……」

 

 

「凛ちゃん、というかニュージェネレーションの三人は今日、珍しくイベントが入ってなかったのよ。だから、一方通行の言う通り、今回はマジで偶然なの。いやぁ、こーゆー予定外の番狂わせがあるから人生って面白いのよ。ね、プロデューサーくん」

 

 

「えぇ、ですが、この場合は……運命、という方がロマンチックではないですか?」

 

 

「おっ、何よ何よ、言う様になって来たじゃないの。まっ、プロデューサーくんにもこうやって見れば分かるでしょ。運命の女神は身勝手な色男よりも、うら若き乙女の味方をしてくれるもんなのよ、女同士だからねぇ。ふふ、でも、味方する乙女が1人とも限らないってのは新しい発見だわ」

 

 

「……あぁ、成る程。『これから』苦労しそうですね、彼。女神に好かれそうな乙女が、ウチには沢山居る。凛さん然り、神崎さん然り。しかし、この場合は、乙女にとっても不運になるのでは? 生憎、王子役は1人しか居ない」

 

 

「その程度の不運、勝手に乗り越えるから女神様は微笑んでくれるんじゃないの? まぁ、私はそういった経験はないから、そこら辺はフワッとさせる方が楽に射きれるわよ」

 

 

「勉強になります」

 

 

「良い歳こいた大人二人が顔合わせて何クソみてェなメルヘン語ってンだ。つゥかオッサン、オマエ今これからって──」

 

 

「しぶ、りん……足早っ……って、ぁ、やばっ」

 

 

「はぁっ、はぁ……どしたん、です……未央ちゃん……あっ、あ、お、お取り込み中でしたか……」

 

 

「あぁもう、だ、だめよ二人とも……折角良いところだったのに……」

 

 

「美波、美波。これがБорьба сцены……アー、修羅場というモノですね。私、初めて見まシた。ここから奪いアイですか、ジャパニーズ大奥ですか。キスシーンは? 蘭子の反撃はないのですか?」

 

 

「鬱陶しそォなのが増えやがった……」

 

 

そういえば、会議室の外でこっそり聞き耳を立てていたラブライカの二人がドアを開ける時に何やら言ってくれてたのに、私はそれすらまともに耳に入ってなかったんだとどこか他人事の様に思い出す。

全力疾走する私を追い掛けて来た所為で、激しく息を切らしている未央と卯月の気まずそうな、それでいて興味津々といった視線が一気に4つも集まって。

私にとっても一応、感動の再会になるんだけども、徐々に落ち着いていく思考が今更になって羞恥心のランプに火を灯した所為で、色んな意味で一方通行の胸から顔を上げる事が出来ない。

 

そんな嬉しいんだか恥ずかしいんだか水も油も絵具もアクリルもごちゃ混ぜになった精神状態、ハリケーンも真っ青な桜花乱舞が巻き起こる視界の隅で、彼のダラリと力の抜けた腕を引く、薄いカーシュピンクのマニキュアが塗られた可愛らしい掌。

そういえば、霧夜常務代理とプロデューサーが何やら聞き捨てならない事を言っていたような気がする。

 

 

身勝手色男がどうとか。

女神に好かれるとかどうとか。

私が不運になるとか、蘭子が王子役にどうとか。

 

 

「わ、我が同族よ。我が問いに答えよ」

 

 

「勝手に同族にすンなって言ってンだろ、ゴスロリ。なンだ」

 

 

「ぐぬ……え、ええと。凛ちゃん、じゃなくて……その、汝と我が友、凛とは如何なる関係だ。よもや衆愚の偶像たる彼女と、こ、ここ、恋人……だったり、する、の?」

 

 

「違ェよ、バカ」

 

 

恐らく、悲恋の内に已む無く別れた恋人同士という構図を描いたのだろうけれど、恋人なのかと尋ねると同時に肩を落とすのは、ちょっと待って欲しい。

まぁ、即否定してくださった難関攻略対象者様の言う通り、別に恋人同士という訳でも、恐らく皮肉な事に、この感情は一方通行が関の山という所。

 

ぶっちゃけコイツに他に恋人が出来たとしても、出来ていたとしても諦めるつもりは毛頭ない覚悟すら私は抱いているつもりだ。

ある意味ストーカー染みて質が悪いのは百も承知だけど、恋とはそういうモノだと開き直るだけの時間を作ったのは一方通行の所為、という事にしておいて。

 

 

だから、トラックに轢かれる所から助けてくれた命の恩人だし、年頃の乙女にはムカつくぐらいに効いてしまう歳上の美形だし、いいなって思ったり憧れたりするのは分かるけども。

 

 

「……振られた私にさ、こんなこと言う権利ないと思うんだけど……あんたって、女の敵?」

 

 

「……見る目が無ェバカが多いだけだろ」

 

 

「そうね、確かに多いわね。少なくとも私の見立てでは、重症患者だけで5人以上、軽症は一々数えてらんないわ。それにぃ、最近ちょろーっと聞いた話だけどぉ、保護者の飲み友達にも猫可愛がりされてるんだっけぇ?

この前、ウチのさるトップアイドルが嬉しそうに話してくれたのよね、『一方通行君のつくる御摘まみは最高』だって」

 

 

「ぐ、あンの駄洒落アマ……要らン事を要らン奴に話しやがってェ……」

 

 

「……な、汝……お、女たらし、なんですか……?」

 

 

「手を引くなら早い方が良いよ、蘭子。文字通り手遅れになったらとことんまで引き摺る羽目になるから」

 

 

「しょ!? そ、しょ、しょんなつもりじゃ……う、うぅ、うぅぅぅぅ………」

 

 

一方通行の口から聞いただけで直接会った事はないけれど、確かこの男には小島梅子さんという二十代後半の女教師という如何にもな保護者が居た筈だから、霧夜常務代理の言う保護者とはその人の事だろう。

 

梅子さんと意気投合しそうな飲み友達、つまり酒好き、駄洒落というワード、346のトップアイドル。

かなり符号してしまう心当たりが、1人いるのは気の所為じゃない。

まさか、あの高垣楓さんとも交流があるとは、今更ながらに一方通行の交友関係の広さに愕然とする。

まぁ、あの霧夜グループの娘である霧夜常務代理とも知り合いなのだから、例えば天下の九鬼グループにも交友があったと云われてももう驚けないだろう。

 

 

というか、確かに楓さんは一方通行の事を滅茶苦茶、とまでは行かないまでも、普通に可愛がりそうだ。

一方通行との雑談を聞く限り、家事は万能、彼が作る御摘まみとやらも恐らくかなりのモノ。

面倒見も何だかんだで良いから酔い潰れたりしても介抱するだろうし、楓さんのオヤジギャグもつまらなそうに、でも無視まではしないだろうから完全には聞き流さないだろう。

 

あぁ、拙い、そういえばこの前、雑誌の撮影で偶々一緒になった時に、そろそろ結婚も考えないと、とか言ってたのを思い出した。

予定はあるんですか、と聞けば、ちょっと含んだ感じで分からないと返されたあの時。

まさか、まさかそういう意味だったなら?

 

 

「……ちょっと、霧夜常務代理。プロデューサー。ちょっといいですか」

 

 

「おっ、しぶりんのターン!」

 

 

「結婚宣言ですか!?」

 

 

「卯月ちゃん、飛躍しすぎ」

 

 

「蘭子、ファイトです! ぶつかり合ってこそ女の花です! ドラマで見ました!」

 

 

「アーニャ、落ち着いて。皆、ちょっと黙ろう。部外者は静かに、余計な口出しは御法度よ」

 

 

「「「はーい(Да)」」」

 

 

素直に口惜しいと思いながらも、淡い香りの残る一方通行の胸から体を返して、チェシャ猫みたくニヤニヤと笑みを深める霧夜常務代理と首を擦るプロデューサーへと向き直る。

多分、何滴か溢れてしまった涙の所為で目元が赤くなってそうだけども、この際、仕方ない。

 

恋敵が多いのは何となく分かっていた事だけども想像以上に劣勢かも知れない事に気付いて、これ以上の停滞は怠慢に等しい。

それは宣誓を反故にする形になるし、とても格好の悪い事なんだろうけど、悠長に自分を高めるよりももっと足掻かないと、その隣に居座る事なんて出来ないと判断して。

 

応援というよりはこの場合は茶々入れと同義にキャッキャとはしゃぐ面々を纏めてくれる美波さんは本当に頼りになる。

絵に填まった艶っぽいウインクをくれた美波さんに軽く微笑みでもって答えて、姿勢を改める。

 

此処も、正念場の一つだから。

 

 

「……えっと、改めまして。御二人にお願いがあります」

 

 

「はぁい、何かしら」

 

 

「……どうぞ」

 

 

「以前、私が言った、アイドル活動に専念すると云う発言を、撤回させてください」

 

 

「……ふふ、そう」

 

 

「それは、アイドルを辞めるという意味ではないですよね、凛さん」

 

 

「はい」

 

 

恐らく、この二人……いや、こっそり不機嫌そうな気配を強めた直ぐ後ろの朴念人も含めて三人だけは、私の発言にある程度見切りを付けていたのかも知れない。

ともすれば、口頭の辞職願にも取れるようにも聞こえたのか、一瞬空気が凍り付いたけれど、プロデューサーの確認の様な問答に頷いた私を見て、すぐに霧散する。

 

 

「けど、私は多分、頻繁に一方通行に会いに行きます。勿論、アイドル業も真剣に取り組むつもりです。そんな私が一方通行と共に時間を過ごす事を望めば、色んな弊害だって出る」

 

 

「……」

 

 

「もしかしたら、プロジェクトの皆に迷惑をかけるかも知れない。会社にも、色んな人にも迷惑をかけるかも知れない。だから、そんなトラブルの種はご免だからって辞める事になっても────構い、ません」

 

 

「し、しぶりん」

 

 

「未央、最後まで黙って聞きなさい。皆も、いいわね」

 

 

あぁ、そうだ。

これはきっと裏切りにも等しい宣誓だ。

一方通行への恋心と、今まで積み上げたモノを危険に晒すリスクを天秤に掛けた事に、贖罪を求められれば黙って受け入れる。

 

例え、プロジェクトチームの皆や、未央……それに、卯月に責められたとしても、それは覚悟の上だと踏ん張る為に強く握った拳がキリリと鈍く響いた。

 

 

「だから、お願いします! 私が一方通行に『かまける』事を許して下さい!!」

 

 

「──」

 

 

緊張の所為で喉の奥がカラカラに渇いて、食道から伝うヒューッと滑稽に鳴る音が鼓膜へと、やけに近くで反響する。

身勝手な願いを押し通す為の、僅かにしか勝算のない賭けを成立させる為の、精一杯の懇願。

この時ばかりは地に這うほど下げた頭が異様に重くて、巨石を投じた反動で静まり返った空間に幽かになる電飾の奇妙な擬音が不気味に思えた。

 

1人の男の為に、代償を会社や周囲が負わなくてはならないリスクを無視すると言っているのだ、私は。

それがどれだけ無謀で無茶な身勝手かを、その口で淡々と説明された相手に、尚も押し通す。

それも、再会した際にほんの少し笑いかけて貰っただけという、実に幼稚な勝算を頼りに、全てを捨てる覚悟までして。

 

 

 

「……残念だけど、『その必要はないわ』」

 

 

「……え?」

 

 

「というより、今更抜けられても困るに決まってんじゃない。そりゃ、要らないリスクを背負い込まない為に頭を使うのが私の仕事よ。かと言って、貴女を切ればプロジェクト全体の士気は間違いなく下がる。有望株は消える。そっちの方が損失が多いわ」

 

 

「……で、でも、私……会社の恋愛禁止って方針に楯突いてるんですよ?」

 

 

「馬鹿ね、禁止って言われて禁止に出来たらこの世に警察組織なんて要らないでしょうが。バレなきゃ良いのよ、こんなの」

 

 

「あ、あの……思い切り、自分からバラしてるんですけど……」

 

 

「そんなの、私達が黙ってれば良いじゃないの。私個人の意見は、前に聞かせた通り。知られてはいけない所に知られない様にすれば良い。じゃあ、ここで凛ちゃんに聞いてみましょう……次に解決すべき問題の支店となるのは、一体誰かしらね」

 

 

「──チッ」

 

 

口をついて出たには、何故だか少し『わざとらしい』と感じたのは、私の願望が投影されただけの幻聴だったのだろうか。

まるで、答え自らが名乗り出る様な、どこか諦めを含んだ微かな舌打ち。

 

振り向けば、分かり易くそっぽを向いて、ガリガリと苛立ち混じりに頭を掻いている一方通行が映って。

 

 

 

 

「──アクセラ、レータ……ですか?」

 

 

「そう、正解よ。そこで拗ねてる白兎さえ『どうにか』してしまえば良い────さて、此処からはビジネスと行きましょうか、一方通行? こんな可愛い娘に無茶させて、自分だけ知らん顔なんて、出来ないんでしょ?」

 

 

まるで教鞭を取る教師みたく、同性ながら見惚れてしまいそうな柔らかな笑みと共に、レディスーツが翻る。

 

その足並みはチェシャ猫が打ちならす陽気なモノなんかじゃない。

霧夜という巨大な経済グループの一角を担う令嬢としての、存在感とカリスマをただ1人の『交渉相手』に向けていた。

 

そして、対峙する白猫は毛を逆立てる事もせず、首根っこを掴まれたかの様に諦観混じりの細い息を1つ零して、わざとらしく肩を竦めるのが、まるで陥落したと白旗を振っているみたいで。

 

 

「うるせェよ、クソッタレ……はン、これだから『テメェ』の相手だけはしたくねェンだ」

 

 

「転がり込んだ偶然をモノに出来なきゃ、マネーゲームは務まらないのよ、知ってんでしょ。ま、流石に学業を優先させないと梅子先生に折檻されちゃうから、土日で良いわ」

 

 

「当たり前だ……ったく、満足か? 『九鬼の鼻を明かしてやれて』」

 

 

「えぇ、大満足。九鬼が欲してやまない『知神』様の頭脳を、まさかアイドルプロデュースに使うなんてね。あの『脳筋女』が知ったら何て言うのかしら」

 

 

「……『我もプロデュースして貰おうか』とでも言うんじゃねェの? 紋のチビガキもセットで」

 

 

「……普通に介入して来そうね、腕が鳴るわ。さて、じゃあプロデューサーくん……あ、これじゃややこしくなるか──武内君、その資料渡してあげて」

 

 

「えぇ。此方が、我が社の大まかな取引相手の一覧、あと決議予算の割り当ても同封してあります。それで、此方が現在進行中のシンデレラプロジェクトのメンバーの簡単なプロフィールです……宜しければ、高垣さんのも用意しましょうか?」

 

 

「要らねェよ、こっちでもアレの面倒見ろとか冗談じゃねェ」

 

 

「……ちょ、ちょーっとすんません! えーっと、水差してめっちゃ申し訳ないんですけど、ど、どういう流れなんですこれ? なんか皆ポカーンとしてますけど!? 九鬼ってあの九鬼グループですか!?……ていうかそっちのイケメンさん、それで読めてんの!?」

 

 

陶芸品みたく暖かみの白色をした指先が、ペラペラとページを捲る合間は1秒もなく、読むというよりは寧ろ眺めていると云った表現が適切かも知れない。

分厚いグレーのファイル数冊に纏められた、明らかに社外秘な書類を渡された意図は何となく私には分かったのだけれど、目に飛び込んで来る視覚情報に確信を抱けなくて、どこか夢心地。

 

未央の言う通り、ビジネスというよりは『業務説明』みたいなやり取りと3人の気兼ね無さ、霧夜常務代理と一方通行との関係についてほんの少し知ってる程度の私も含めて、ほぼ全員が呆気に取られてしまうのも無理はない。

特にラブライカの二人と蘭子は話に全く付いていけないらしく、クエスチョンマークを頻りに浮かべながらひたすら小首を傾げている。

どういう事ですか、とアナスタシアに裾を引かれても、卯月にだって良く分かってないのに、多分に困惑しながらも苦笑を浮かべる余裕がある辺りは流石だ。

 

 

「……最近、貴女達の活躍は目覚ましいものがある。会社の想像以上の反響、どんどん埋まっていくスケジュール。そこに手応えを感じてはいないかしら?」

 

 

「は、はい、確かに。蘭子ちゃんが来るまで、私達も新企画の会議してしましたし……」

 

 

「そう、需要がかなり高まっているから、お得意様から色々と企画を提案される。でも、活動するアイドルの手は足りてなくても、そこを補助するマネージメント、つまりはプロデューサーを始めとした社員の手が足りなくなって来てる訳。嬉しい悲鳴といえばそうなんだけど、このままだと貴女達の補助役が倒れる可能性もあるかも知れない」

 

 

「事実、私や千川さん、部長などでは罷り切れない細かなミスも増えてきています。だからこそ、即戦力は喉から手が出る程に欲しい」

 

 

「さて、総括と行きましょう。人材の確保、且つ新進気鋭のアイドル渋谷凛をたぶらかしてくれた泥棒猫の対処、それを纏めて解決する方法といえば……もう分かったでしょ、凛ちゃん? 最後の口説きは、貴女に任せるわ」

 

 

「…………」

 

 

パタン、と閉じた数冊のファイル全てに目を通して、そのまま分厚い会議室のパイプウッドテーブルに置いた一方通行へと促すのは、勘違いの末に幼稚な嫉妬心を向けてしまった事もある、ブロンドの麗人。

殆どお膳立てみたいな事を済ませた癖に、若干揶揄かいを含めてクスッと笑う涼やかなソプラノに背中を押されて、どこか拗ねていながらも不思議と柔らかな印象を与える大人の表情をした、彼を見上げる。

 

 

 

「ねぇ、一方通行」

 

 

「……」

 

 

 

何度も夢に出てきたし、何度も焦がれている、こうやって直ぐ目の前に居る今でも、触れてしまえば泡沫に消えてしまうんじゃないかとも、思うけど。

 

でも、そんな不安を表に出すのなら、ただ彼に甘えたいだけだった春から何も成長出来ていない事になるから。

 

 

子供らしく生意気に、女らしく傲慢に、私らしく凛として。

 

 

 

 

 

「──あんたが、私のプロデューサー?」

 

 

 

 

 

声が震えているのは、ご愛嬌、という優しさで捉えてはくれないのが、この男の意地の悪い所で。

 

 

 

「──ハッ、自惚れンな。オマエだけ見る訳がねェだろ」

 

 

「……む、じゃあ、他の娘を見る余裕なんて無くなるくらい忙しくしてやるだけだよ」

 

 

「吠えるじゃねェか。肝心なとこで声震わせといて良く言う」

 

 

「バカ、意地悪。それくらい見逃してよ」

 

 

「クカカ、達者なのは口だけか。まだまだ背伸びするだけのガキから卒業出来てねェな」

 

 

「……お陰様で!」

 

 

「どォ致しまして」

 

 

そんな意地悪なとこが、私の心を離さない。

隣ではないけれど、近くには居てくれるのは確かで

目標地点は未だに遠いのに、心の奥底から極彩色の本流が身体中に巡り回る。

嬉しさの余りに、涙を流さなかったのは奇跡かも知れない。

 

 

「……っし、それじゃあ皆整列して。取り敢えず、先にこのメンバーだけでも恒例行事はやっておきましょう。はい、蘭子ちゃんもぼーっとしないの、並んで並んで。迅速行動は社会人の鉄則よ」

 

 

「ふぇ……っ、は、はいぃ!」

 

 

「オッサン、コイツらのスケジュール周りの資料忘れてンぞ」

 

 

「あ、それは私の手帳から確認……え、もう全部読んだのですか」

 

 

「情報だけなら頭に叩き込んでるから問題ねェよ。まァ、先にこのガキ共に説明すンのが先か」

 

 

「自己紹介の間違いでは?」

 

 

「紹介してやる事なンざ1つ2つで充分なンだよ」

 

 

ソファとテーブルを挟んで、ニュージェネレーションとラブライカの、プロジェクト始動機に設立されたメンバーと、恐らく色んな意味で私のライバルとなりそうな予感のする蘭子を加えて、一列に並ぶ。

 

かなり使い込んでいるのか、付箋が幾つも挿された黒革の手帳をプロデューサーから受け取りながら、ゆっくりと、真紅の瞳が一人一人の顔をスライドしていく。

多分、そう御目に掛かれない程の美形だからか、普段は大人びて落ち着いているアーニャと美波でさえ、真っ直ぐに目を合わせたからか、どこか鼻の抜けた吐息を零していた。

 

あぁ、そうか、さっき霧夜常務代理とプロデューサーが話していた、運命の女神様が微笑んだ乙女が、必ずしも幸福を掴めるとは限らない、とはこういう事なのかも知れない。

私の傍に居てくれる事には間違いないんだけども、それは必ずしも私だけの傍に居るとは限らないんだ。

これから先、アイドル業よりもある意味、激しい戦場を経験するやも知れない予感に、そっとお腹に力を込めた。

 

 

「──つゥ訳で、クソ常務代理サマの『お願い』で、オマエらのプロデューサーになった一方通行だ。まァ、アイドル稼業なンざ良く分かンねェから、勝手に宜しくやってくれ」

 

 

「こら、駄目でしょあーくん、女の子相手なんだからもっと爽やかに自己紹介してあげなさい」

 

 

「その名前で呼ぶな、ぶっ殺すぞ」

 

 

「えっと、霧夜常務代理……一方通行、さん? って呼べば良いんですか? その、大丈夫なんですか? 即戦力どころか、プロデューサーの経験ないみたいですけど。あ、いや、別に文句って訳じゃなくてですね」

 

 

「あー、まぁ確かに美波ちゃんの不安も分からなくは無いけど、心配しなくていいと思うわよ。口はアレだけど、困ったことに笑えるぐらい有能だから。じゃ、ちょっとだけデモンストレーションっぽい事やってみましょうか……はい、これ美波のページ、ちゃんと皆にも見えるように持って。あ、一方通行は回れ右」

 

 

「あ、はい……って、あ、これ……」

 

 

「……面倒クセェな」

 

 

私は一応、一方通行が色々とずば抜けてるという情報を僅かながらも持っているから、一方通行がプロデューサーになる事に不安はないけど、他の皆は違う。

 

数冊の段になった山から薄青配色のファイルを抜き出して特定のページ項まで捲った霧夜常務代理は、その開いた状態をそのまま美波さんにファイルを手渡して、上機嫌に目元を緩めた。

 

ポツポツと淡雲が浮かぶ青空が広がる窓際へと白銀の尻尾髪を翻す一方通行を尻目に、一列に並んでいた皆がひょこひょこと美波さんの手元へと玉になって集まる。

 

開かれていたページは、美波さんの名前から始まって、誕生日、年齢、出身地、果てはスリーサイズやプロデュースされた切っ掛けまで記されていた。

 

 

「じゃ、一方通行。私が今ファイルを渡した娘の細かなプロフィール言ってくれる? もちろん、スリーサイズも宜しく」

 

 

「ちょ、常務代理!?」

 

 

 

「──新田美波。歳はこの前の7月27日に成人した。身長165㎝、体重45kg、平均的な痩せ方だろォよ。血液型はO、出身は広島。趣味はラクロス、あと資格取得。家族構成は両親健在、弟1人。他の項目は省略すンぞ」

 

 

「す、凄い……全部合ってる。本当に、もう覚えちゃったの……」

 

 

「ま、マジか……あんなのほとんどパラパラ捲ってただけじゃん……え、この人、速読の日本代表か何か?」

 

 

 

スリーサイズを口にしなかったのは常務代理に対する異種返しか、単に慌てふためいた美波さんに対する温情か。

しかし、あの1秒にも満たない内にこのページ全ての、いや、恐らくファイル全ての情報を漏れすらなく頭にインプットしたなんて、流石に私だって信じられない。

あの川神学園の知神なんて仰々しい称号で呼ばれているから、物凄く頭が良いんだろうとは想像してたけど、これはちょっと桁違い過ぎて、文字通り神業だ。

 

未央なんて大口開けて固まりつつ、一方通行を速読競技の最優秀成績保持者か何かと勘違いしてしまっている。

そこで何か閃いたのか、ちょっとした好奇心を目に浮かべながら何やらボソボソと卯月がアーニャの耳元で囁くと、彼女は一度難しそうに首を傾げると、一方通行の白銀髪に似たシルバーブロンドをたなびかせて、背中を向けたままのあの人へと歩み寄った。

 

 

 

『あの、ロシア語は話せますか?』

 

 

『……そういうオマエは流暢とは言えねェが、日本語は話せるみてェだな。勉強したのか』

 

 

『!!!──はい、頑張りました! 時々、母国語が反射的に出るのですが、何とか皆と会話出来てます。あの、アクセラ、レータ? 貴方は、どちらの国からいらしたんですか?』

 

 

『……俺は日本人、この髪と眼は特殊体質みてェなモンだ』

 

 

『そ、そうなのですか、不躾な事を聞いてすいませんでした、アクセラレータ』

 

 

『気にすンな。つゥか、お喋りは其処までにしとけ』

 

 

 

「──卯月、卯月の……アー、見立て通りです! 私の母国語が通じます!」

 

 

「うん、良かったね、アーニャちゃん!」

 

 

「記憶の貯蔵のみならず、異国の言霊すら容易く扱うとは……な、何という才気の化身。我の同族とはいえ、ここまでとは……」

 

 

「ふふふ、まぁこれでも充分だけど、折角だから最後にもう一押しときましょうか」

 

 

どうやらロシア語が通じるか試してみよう、というのが卯月のちょっとした思い付きだったらしく、その目論見は見事に的中した。

多分、外見は明らかに日本人離れしている一方通行に対する好奇心からなんだろうけど、私個人としては少し拙いかもしれない。

 

異国出身だからこそロシアとのハーフであるアーニャが色々苦労しているのは知っているし、わざわざ口を付いて出たロシア語まで私達に分かるよう丁寧に日本語に言い直す際に、ほんの少し寂しさを滲ませる仕草を何とかしてあげたいとは皆が思っていた事だけども。

言葉が通じる、たったそれだけで普段はとてもクールで落ち着いたアーニャがあんなにも嬉しそうな笑顔を浮かべるのは、勿論、良いことだけども。

 

更に新たなライバル出現、って訳では、ない、はず、だから、うん。

 

 

そんな私の静かなる葛藤を余所に、デモンストレーションの最後の一押しだと、両手を軽く打ち鳴らす霧夜常務代理は至極楽しそうで。

 

正直、あの人のことを惚れ直したとも思ったけど、これ以上私がハラハラする展開は勘弁願いたい、という思いの方が強く沸き上がった。

 

けど、そんな私の焦燥感を目敏く見つけたブロンド美人の蒼い瞳がニヤリと細まって。

 

あぁ、一方通行がこの人を『女狐』と呼ぶのも良く分かる。

やっぱりこの人、味方だと凄く頼りなるけども。

それ以外だと、とても厄介だ。

 

 

「一方通行。実は『このメンバーの中』に、シンデレラプロジェクトのチームリーダーが居るんだけど……誰だと思う? 予想した娘の肩を叩いて頂戴」

 

 

「はァ? なンでわざわざそンな真似──」

 

 

「良いから良いから、上司命令。こっちの方がクイズ感覚で面白いじゃない」

 

 

「──チッ」

 

 

至極面倒そうに舌打ちを1つ鳴らして、ツカツカと迷いなく件の『リーダー』の元へと歩み寄る。

間近で見上げるのと遠目で眺めるのでは全然印象が違うのは、それはもう、私が良ぉく知っている事で。

 

少なくともプロフィールには載っていなかったから、他の資料にシンデレラプロジェクトのリーダーについての記述があったのかも知れないけど、そこはもうどうでもいい。

 

 

「……ぅ、わ」

 

 

あっという間に宝石みたいに煌めくガーネットの瞳に見下ろされている当の『リーダー』は、不機嫌そうな横顔すら絵になってしまうこんな美丈夫を間近にしたら。

さっきまでなるべく冷静に務めていた筈だった彼女の頬がサッと朱を射し込ませて、栗色の瞳がオロオロとさせながらも見惚れた様な細息を落としてしまうのは、私からすれば予想の範疇だ、悲しい程に。

 

 

「……普通に考えれば、オマエだろ」

 

 

「ひゃい!?」

 

 

ネイリストに見せれば感嘆の息が零れそうなシャープなシルエットの掌が、ポンと気軽に美波さんのなだらかな肩に置かれるが、触れられた当人は気軽になんて受け止められない。

聞いた事もないような上擦った声と大袈裟なくらいに身体が跳ね上がるのは、いっそ同情してしまう。

目にも耳にも、色々と毒なんだよね、この人は、ホントに。

 

それはある程度自覚してるんだろうから、置いた手は猫みたくシュッと機敏な動作で仕舞われてしまったけど、多分傷は浅くないんだろう。

 

 

「ふふ、どうして美波ちゃんだって思ったの?」

 

 

「……年齢ってのも大きいが、リーダーとしての自意識もちゃンとあるンだろ。他と違って状況に流されず、俺のマネージメント能力についていの一番に意見したのは、そォいう事だろ。凛だけじゃなく全体を重視してなきゃあの場で口を挟めねェ。違うか、オッサン」

 

 

「えぇ、その通り、流石です。しかし、それなら状況説明を求めた未央さんも候補に上がるのでは?」

 

 

「ソイツも責任感はあるみてェだが、空回りもその分多いンじゃねェの? ムードメーカーはユニットのリーダーとしてなら丁度良いが、全体を仕切るには荷が勝ち過ぎてンよ。素質は認めてやるがな」

 

 

「そ、そうっすかねー、いやぁしぶりん、このお兄さん見る目あるねぇ」

 

 

「──とまァ、こンなおべっかに調子付くアホは直ぐ足元を掬われちまうだろォから、俺がリーダーにすンなら新田が妥当じゃねェの。この場の面子のみで考えた場合は、だがなァ」

 

 

「ぅ、あ、ありがとう……ございます……」

 

 

まさかの、ベタ誉め。

いや、確かに納得出来る理由だし一方通行自身も多分冷静に分析した結果だけを淡々と述べているんだろうけど、これは駄目だって、狡いって。

 

私だって極たまに褒められたりはするけど、それはあくまで皮肉の裏側、分かり易く言えばツンデレっぽい感じなのだ、それはそれで良いモノだけど。

 

けど、美波さんみたいな大人っぽく裏でコツコツ頑張るタイプは、こうやって細かな所まで理解して認めてくれるみたいな賛辞が、とても刺さりやすいんだろう。

自分でも気付かなかったプロデューサーの信頼も手伝って、というのもあるけれど。

頬の赤みをより強くさせて嬉しさと恥ずかしさがミックスした感情に熱を浮かされたみたくプルプル震えながら、キュッと藍色のスカートを握りながら俯いてる。

 

ただその口元は、ニヤけてしまいそうなのを必死に我慢するのを堪えるようにモニョモニョと動いているのが、私の危機感を更に高めた。

 

 

 

 

「わ、我は!?」

 

 

「腕引っ張ンな。で、オマエはまともに喋れるよォになってから出直して来い」

 

 

「うぐっ、ひ、酷い……」

 

 

「あ、ちなみに私はどうですか?」

 

 

「あン? 悪くはねェが、新田のが歳上だろ。新設チームを纏めるには貫禄と安定感が足りねェ。まァ今後に期待か」

 

 

「はい! 頑張ります!」

 

 

「ではアクセラレータ、私は?」

 

 

「……あァもォ面倒クセェな、知りたきゃ後で個別に教えてやる。ンで裾引っ張ンな」

 

 

「……やはり、問題なさそうですね。頼りになる後輩が出来ましたので、これからは少し、楽が出来そうです」

 

 

「良かったわね、武内君。あ、でも一方通行は未成年だから、仕事帰りに飲みに誘うのはNGよ。ちひろちゃんによーく言い聞かせといてね」

 

 

「分かってますよ、霧夜常務代理」

 

 

「え!? 一方通行プロデューサー、私より歳下だったの!?」

 

 

「老けてて悪かったな。つか長ェから役職は無しで良い」

 

 

「いや、老けてるってか……だって色々凄過ぎるし。そりゃしぶりんが骨抜きにされる訳だ……」

 

 

一人、今更ながら惚れた男のスペックの高さに惚れ直したり焦ったりして、若干冷や汗すら流している私に向けられた台詞が、羞恥心だったり危機感だったりを更に煽ってくれる。

 

 

「確かに……未央ちゃんの言う通りですね。記憶力も凄いし」

 

 

「アー、ロシア語も、発音も喋りも完璧でした」

 

 

「……洞察力も……うぅ……」

 

 

「……我を救った時も…………ふにゃ……」

 

 

そしてその危機感はレッドアラートがけたたましく鳴り響くくらいにまで膨らんだのは、やたら愛らしいふやけた鳴き声をあげる蘭子の姿がトドメになったから。

 

多分、事故から救って貰った時のことを思い出しているのか、雪みたいに白い肌に紅を引いてぼやーっと惚けている姿は、まだ憧れか何かの筈なんだと言い聞かせるには説得力が欠けていた。

 

 

だから、今の私に出来る事は。

取り敢えず、先手必勝。

リードしているのは、あくまで私なんだと知らしめる為に。

 

 

 

「──アクセラレータ、そう言えばまだ感想、聞いてなかったんだけど」

 

 

「……なンのだ」

 

 

その掌を、ぎゅっと両手で握り締めて。

 

 

今はもう、直ぐそこにまで居てくれる貴方を、モノにする為に。

 

 

最大限の牽制を。

 

 

 

あぁ、『綺麗な月』に手が届きそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────私とのキス、どうだった?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんの一瞬の静けさは、訪れる嵐への予兆。

 

 

凄まじい荒れ模様に包まれる会議室。

 

 

 

これからもきっと、動乱は増えていくけど。

 

 

 

花の様に咲き誇る笑顔を身に付けて

 

 

鳥の様にこの宿り木を飛び立って

 

 

風の様に瑠璃色の宙を舞い上がり

 

 

 

この大きな白い月を、オトしてみせる────

 

 

 

 

 

 

__________






と、かなりご都合主義なパワー展開でもって、番外編を終了します。

プロデューサーとなった一方通行とシンデレラガールズの絡みは、もしかしたら本編が煮詰まらない時の息抜き代わりに、どっか別の所で短編集でも書くかもしれませんね

最後に、アンケートに協力して下さった皆様、読んで下さった皆様、ありがとうございました!






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本編
『Prologue1』


◆◇◆◇◆◇◆◇

2つある星を、1つの名前で呼ぶという事を、柄じゃないと自覚しながらも、隣に座る小さな影に教えた記憶がある。

星屑1つすら見えない鈍色の雲に覆われた夜空とは反対に、見た目相応に瞳を輝かせながらはしゃぐソイツを見下ろして、溜め息。

例え空が晴れていたとしても、マフラーか厚手のコート辺りが恋しくなってくる秋半ばの肌寒い夜空には、あの星は輝いてはくれない。

春辺りに拝めるだろう一等星、そもそも見れる時季が違うなどという前に、科学によって汚染されたこの空が、都合良くあの星を見せてくれるのか。

 

まして科学の結晶である自分や、隣の存在に対しても平等に姿を明かしてくれるのか。

だとしたら、それはどんなに―――

と、不意に強く腕を引かれた。

見過ごせない感傷の跡をなぞる様な眼差しが、一瞬不服そうな色を宿す。

しかし、一度まばたきを刻んで開いた大きな瞳が、やけに楽しそうに煌めいて、まるでそこに星を見つけたような錯覚を抱いた。

……ああ、どうやらコイツは、懲りもせずにせがんで来るつもりらしい。

 

星の名前と、意味と、特徴と。

其処まで話しておいて、見ることは出来ないと言うのは、コイツに限らず誰しもが同じ願いを持つだろう。

見てみたい、と。

けれど、此処からでは、空が汚されたこの街からでは見れないだろうと言えば、それなら簡単、と彼女は笑った。

――なら、約束! 次の春、みんなでその星を見に行こうよって、ミサカはミサカは大提案!

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「その約束すら、果たせませんでしたとさァ」

 

「ハァ?いきなり空見ながら何言ってんだウサギ。月にでも帰りたくなったかコラ」

 

無駄に煌びやかなネオンが嫌に目に残るのにうんざりとして、視線を上にやったのが間違いだったのかもしれない。

ぼんやりとした意識の底、未だにこびりついた未練の痕を、ハッキリと思い出してしまった事に、溜め息。

薄らと灰掛かった雲の隙間に見えた星々 に、紅い瞳がスッと細くなる。

……どうせなら、今ぐらい星なんて見えなければ良かった。

自分の感傷に合わせて空の形が変わる方が余程恐いというのに、それでも彼――一方通行は傲慢な思いを正そうとはしなかった。

 

「おい、無視すんなコラ!」

 

「……無視してる訳じゃねェ、ウサギ呼ばわりもしっかり聞こえてますゥ」

 

漸くして意識をハッキリと安定させた所で、また溜め息。

意識の隅に追いやられた事に対してか、相手にされてない事に対してか。

或いは両方かで、兎も角いきり立っている目の前の少女に、ジトっと視線を落とす。

人の外見に合わせて、彼以外が聞けばピッタリだと思わず手打ちしそうな徒名は、聞き捨てならない。

ピシッと軽く指で額を小突いてやれば、 なにすんだと余計、火に油。

 

「……ったく、躾が成ってねェンじゃねェか、あのドS。教育、飼育、調教はアイツの仕事だろォがよ、なァ?」

 

「同意求めてんじゃねーよ! そーゆー話を振ってくんな、セクハラじゃねぇか!」

 

ガルルと唸りを上げる少女――板垣天使の反応は見ていて面白味があるのだが、どうにも今回の方向性は我ながらチープだったなと、分かり辛く頭を抱える一方通行。

噛み付くように暴言を振るう相手に対する流し方に、どうしても下品さが混じっていけない。

林檎みたく真っ赤になった天使の顔色に 、彼は少し反省した。

――親不孝通り、確かそんな如何にもな名前の場所。

立ち並ぶ建物1つとっても不穏当な匂いしかしないようなこの場所を歩くには、些か目立ち過ぎる二人組みを、けれどまるで避けるかの様に道が開けていく。

触らぬ悪魔に祟り無し、藪をつついて大蛇に食われるなど、以ての外。

似合わせた白いコートを着て、片や全身真っ白の青少年に、片や可憐な外観とは不相応にゴルフクラブを振り回す少女の二人は、間違いなく周辺の人物達に一歩引かれていたのだが、そんな事は彼らにとって些末な事柄であった。

 

「……ったく、せっかく今日のボウリングは久々にウチの軍配だったってのに、テンション下がっちまった」

 

「元々そンなに高く無かっただろォが、さっきまで暇だ暇だァ喧しかった奴がよォ……うン?」

 

余程気に入らなかったのか、綺麗な形の眉をムスッと潜める天使の様子に、自責だと分かっていながらも溜め息を吐き出そうとして、気付く。

コートのポケット越しとはいえ十分に震える携帯電話を掴んで、そこで確信。

着信の相手先と、その内容。

迷惑メールでも無い限り、きっとそういう事なんだろうと一方通行は更ける夜空を見て、かぶりを振った。

 

「あァ……そォいや、そンな時間か」

 

やけにやるせなく呟いて、ディスプレイに映る名前を見るまでもなく通話ボタンを押す。

ピッ、と短く電子音が間を作って、すると思わず背筋がピンと伸びてしまうような凛とした声色が、彼の耳に届いた。

 

『ん、もしもし……一方通行?』

 

「あァ、ハイハイ。一方通行で合ってンよ」

 

じゃなければ色々と問題だろうと思いながらも、まず相手の確認を律儀にするところは相変わらず『らしさ』が伺える。

どんな問答をしてるんだと怪訝そうに見上げる青い瞳に苦笑しながらも、分かってるからと視線を流すように手をヒラヒラと振る一方通行。

寧ろそのやり取り1つで天使が電話の相手を分かってしまっている事で、彼女にとっても通話先の女性とは面識が深いのだろう。

 

『全く、お前は今が何時か分かっているのか? もうすぐ10時になるぞ、早く帰って来ないか』

 

「ン……まァ、そォだな。だが直ぐには帰れねェよ、ちと寄ってく場所があンだ」

 

其処までいって、ポンと未だに彼の隣で自分を見上げていた小さな頭を軽く撫でれば、途端に天使の頬がつまらなそうに膨らんだ。

それは言わば合図の様な物なのだ、彼と彼女にとっては。

今日は此処でおしまい、という事の。

 

『……そうか、今日は天使も一緒なんだな。ちゃんと送って行ってやるんだぞ』

 

「だからァ、寄っていくって言ってンだろ……」

 

寄る場所があると聞いて直ぐに天使と一緒だと感づいた癖に、わざわざ後押しする律儀さに一方通行も脱帽を禁じ得ない。

ホントに生真面目が服を着て歩いている様な女だとは思うが、これでも彼の知る昔よりは大分砕けてきているのだから驚きだ。

伊達に――鬼小島――と、彼女が勤める仕事先で同僚や、生徒達に恐れられてはいない女傑である。

 

『あ……と、それと、だな一方通行。晩ご飯はもう食べている、よな?』

 

「ン……あァ、いや」

 

唐突に芯の通った声はナリを潜めて、もそもそとどうにも彼女らしくない弱々しさを纏う。

その反応につい歯噛みをするように言葉に詰まってしまうのを煩わしく思いながら、一方通行ははっきりと答える。

 

「まだ、食ってねェよ」

 

ボウリング前に軽くジャンクフードを摘んではいたのだが、なんだか女々しい梅子の言い回しに十中八九、晩飯を用意しているんだと理解した。

線が細いのは身体だけではなく食もまた同じではある一方通行、実際あまり空腹感は無かったのだが、彼なりの空気の読み方ではあった。

 

『そ、そうか……分かった。い、一応、晩ご飯は作ってあるんだが、その、な……』

 

しかし、彼女が喜ぶであろう返答に対しても、どうにも歯切れの悪さが残る。

さめざめ、もそもそ、と普段の自信に満ち溢れたあの鬼小島は何処へやら。

彼女を慕う人間が聞けば思わず耳を疑ってしまいそうな似合わなさであるが、一方通行にしてみればもはや慣れ事だ。

恐る恐るといった似合わぬ様子に、また1つ、確信する。

――また失敗したな、こりゃァ……――

静寂を付け足したようなべったりとした夜空を見上げながら、紅い瞳をそっと伏せる。

目を剥くような鞭捌きとは裏腹に、料理に関しては呆れるくらいに不器用である小島梅子の女性としての弱点を身をもって知っている一方通行からしてみれば、時々とはいえ彼女に食卓を任せる限り下手なモノを出されるのは慣れ事と言っても良い。

ただ、失敗する度に、叱られるのを待つ子供の様な、気丈さの欠片もない小島梅子の姿を見せ付けられるこの瞬間だけは、何故だか慣れてはこなかった。

 

「……良いから、ちゃンと残しとけ。勝手に捨てンなよ」

 

半分ぞんざいに話を切り捨て、返事も聞かないで通話を一方的に終了させた一方通行。

淡白に思える行動にも見えるのに、妙に最後の声色だけは優しく聞こえるのだから、その仄白い横顔を見上げる天使としては、ちょっと複雑な気持ちに陥るのである。

自然を装って、彼の細々とした指先を手持ち無沙汰気味に爪で弾く程度には。

 

「んだよ、マザコンヤロー……ウチはまだまだ物足りねぇぞー」

 

「誰がマザコンだコラ。オマエが物足りなくても俺には充分事足りてンだよ」

 

「面白くねぇ……」

 

分かってるからとでも言いたげに、けれどやんわりと曲げない姿勢を示す限りこの男をこれ以上付き合わせるには、骨が折れるどころか苦労しかないことくらい、とうの昔に天使は学習出来ている。

だからこそ、だからこそ面白くない。

一方通行の優先順位の最上位に居座っているのは、決して自分ではない事が嫌でも分かってしまうから。

 

「チッ……ま、梅ちゃん困らせっと後が恐いのはウチも一緒だからな」

 

物分かりのいい言葉とは裏腹に拗ねた表情を隠さないのは、せめてもの反骨心だったり、不機嫌そうな自分を見て一方通行が少しでも困ってしまえば良いだったりと、まるで兄に甘える妹のようで。

クツリと苦笑気味に白い口元が上がって、シーソーみたく直ぐに下がる。

ポンと叩くように撫でられた頭をしかめっ面で抑えながら、振り向きもせずに先に進む後ろ姿を少し眺めて。

 

「……やっぱ、面白くねぇ」

 

聞こえないフリをする背中が、いつも以上に憎たらしく思えた。

 

―――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

―――

 

「アンタも律儀だねぇ、ホント。そういうのさ、微妙に似合わないよね」

 

「うるせェ、似合う似合わないで行動するなンざ面倒なだけだろォが」

 

いや全く、と突っついた割にはあっさりと同意を敷く女に、からかわれてやるつもりはないと手を払う。

純粋な環境的な問題か、それともここらに住まう者達が望んで作っているのか、どちらにせよ色濃い暗さの潜む場所に、板垣天使含む板垣一家の居住はある。

人が住み着く密度こそまちまちにある癖に、ひどくがらんどうとしたように思えるここら一体は、彼にとっては『鼻につく』場所とも言えたのだが。

一見すれば普通の一戸建てにも見えなくもない外観の家、その玄関柱にくたびれた様子で背を預ける女の姿は、それだけで妙に色を放つものだ。

 

「今日もわざわざ天使に付き合って貰ってさ、私としちゃ助かってはいるけどねぇ」

 

張りのあるプロポーションをより全面に押し出す生地の薄い服装を見て、そういった職種を連想してしまう男がどれだけ居るのだろうか。

いや、異性だけではなく同性からでさえも、その職種であれば納得だと印象付けてしまうほどに、女――板垣亜巳の雰囲気は普通とは言い難い。

服装も加えて、端麗な容姿にねっとりとした言葉のイントネーションは、ある意味職業病のようなモノだと一方通行は考える。

女手一つ、両親から捨てられた家族を守ろうと身に付けた彼女の処世術とも云える姿勢を、否定的に思える筈がないのだ、一方通行にとっては。

けれど、時たまからかうように『雌』を見せる彼女を、素直に面倒とも感じていた。

 

「ガキに振り回されンのは今更過ぎンだよ。それに、オマエこそ律儀じゃねェか。妹のお迎えの礼をわざわざなァ」

 

「まぁ、世話になったままの状態で済ますか済まさないかの話じゃないか。私の場合は済まさないってだけの、ね」

 

クツクツと、愉しげに口元に手を添える指先にキレイに塗られたマニキュアを、意味もなく眺める。

かしこまった姿勢でも、そうでなくても御礼を言われる事に一方通行は未だに慣れないでいる。

慣れていないというよりは、つい違和感を感じてしまうといった方が正しい。

それが下らない矜持をいつまでも捨てきれない自分の女々しさだと自覚しつつ、一方通行はつまらなさ気に紅い瞳を細めた。

 

「あぁー、あーくん来てたんだねぇ……やっほ、なんだか久しぶりだねぇ」

 

不意に、ガラガラと玄関の戸が開いた音と共に、寝ぼけ目蓋の癖に妙に嬉しそうな面持ちが、顔を覗かせる。

まったりとした、宙に浮いてはなかなか降りてこない綿毛のような間延びした声を聞いて、やけに諦観気味な一方通行の溜め息が零れた。

 

「辰子ォ……その呼び名はどォにかならねェかお前。ンで久しぶりっつっても先週買い物に付き合ってやったばっかだろォ、その頭ン中のお花畑はそれすら入らねェのかよ」

 

若干覚束ない足取りのまま寄り付いて、躊躇など微塵もなくべったりと彼に抱き付いた少女に、面倒なのに捕まったと聞かせるように一方通行は呟いた。

板垣辰子。

板垣天使に次いで手の掛かる板垣家の次女であり、異性同性両面から見ても魅力的だと太鼓判を押される容姿とプロポーションを持つ辰子は、長い付き合いになる一方通行を唯一あーくんと呼ぶ人物でもある。

無論、彼からすればあーくん呼びなど堪ったものでは無いし、こうした過度なスキンシップを取る事も許した覚えはない。

けれど、馬耳東風と言わんばかりに何度も繰り返す辰子に、若干諦めているのが現状だ。

 

「やれやれ、素直に喜んだってバチは当たらないってのに。顔に出ないタイプは得だよ、全く」

 

「少しでも喜ンでるよォに思えるンなら、今すぐ良い医者紹介してやろォか? 辰子もこれ以上ベタベタすンじゃねェ、暑苦しい!」

 

亜巳の勝手なムッツリ認定についこめかみに青筋を浮かべてしまう辺り、亜巳のからかいに対しても流せるほどの度量には至っていないらしい。

ほわほわと目を開かぬまま、けれど不満そうに口を尖らせる辰子を何とか引き剥がして、一段落。

辰子が絡むとなかなかどうして落ち着きのない空気になってしまうのだから、知らず知らず肩が落ちてしまう。

長い白か髪に隠されて窺えやしないのだが、きっとげんなりしているだろう表情が直ぐに思い浮かんで、また一つ、亜巳の口角が上がった。

 

「あ、今日はちょっと晩ご飯多めに作っちゃったから、あーくんも一緒に食べよーよぉ」

 

「いや、生憎帰ったら飯があンだよ。悪いが、今回はパスだァ」

 

そういえば、と思い返しながらの辰子の提案に、若干申し訳なさ気に頭を掻く一方通行。

線の細い外見からも想像がつく通り、男性にしては、彼は食がかなり細い方である。

此処で板垣家に上がって食卓を囲めば、しっかり残してあるだろう梅子作の晩飯を残してしまうのはほぼ間違いなくて。

決して辰子の料理が不味い訳ではないし、寧ろ自然に家庭的な優しい味を出せる彼女の料理は一方通行にとっても素直に美味しいと評価出来るほどなのであるから、余裕があれば食べたいくらいである。

 

「んふ、いぃよぉー別に。無理してまで食べて欲しいって思わないもん」

 

「これでも昔に比べりゃァ食う方にはなったンだがなァ……」

 

拗ねたようにも聞こえる台詞とは裏腹に頬を緩ませたままの辰子は、なんだか遠い眼差しの一方通行の腕を取ってニギニギと弄り出す。

線の細さは変わらずだが、出逢った当初に比べれば彼の背丈は随分と変わったように思う。

初対面の時では、仏頂面こそ変わってないけれど身長は辰子より低かったのだが、丁度一年前近くで追いつかれ、今ではすっかりと追い抜かれてしまった。

以前、どうやら彼には障害持ちだった経験があったらしく、なかなかハードなリハビリによって克服出来たのだとか。

だから今では標準高めの身長も相俟って細見に見えてしまう一方通行ではあるが、意外としっかり肉が付いているのだ。

 

「へぇー、やっぱりなんだかぁんだ言って、素直じゃないなーあっくんは」

 

「ンだそりゃァ、俺は自分に正直に生きてンぞ」

 

呆れたように細まる紅い瞳が、何故だかとてもくすぐったい。

些細なところで今一つ本音を浮き彫りにする事を恥ずかしがって、照れ隠しのように素直じゃなくなる彼のそういう所を、辰子はとても気にいっていた。

多分、その評価は自分だけじゃなくて、辰子の妹である天使も、目の前で、それこそ家族に向けるような優しい顔をしている姉の亜巳だってそうなのだろう。

ほんわかとした、暖かな時間の中で、辰子は思う。

でも、そんな彼の気に入らないと思っている所もある。

例えば、手持ち無沙汰気味に空を見つめる、遠い、遠い眼差しだったりとか。

どういうリハビリをしたのかとか、なんで障害を負ったのかをデリカシーもなしに問い掛ける天使を、やんわりと拒絶する顔だったりとか。

 

――まるで、過去を詮索されるコトを恐れているような寂しがり屋の顔が、胸に引っ掛かっていた。

 

 

――

―――

――――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

――――

―――

――

 

 

他人との距離に必要以上に敏感になってしまう癖は、歯痒さと共に心の奥の奥深くに随分ねっとりとこびり付いてしまったまま、剥がれてくれやしない。

手持ち無沙汰に星屑の光が届く夜空を見上げながら、一方通行はつまらなさ気に鼻を鳴らした。

 

「……」

 

パカリと携帯電話を開いて、ディスプレイの表示時刻を確認して、溜め息。

なんだかんだで思ったより時間を使ってしまっていたのに気付かなかったのは、あの空間に少なからずも心地よさを得てしまっているからか。

気持ち足早に家路を辿る最中で、あまりに自然な動作で首元に触れる。

 

「……――馬鹿か、オレはァ」

 

当たり前の肌の感触を確かめて、馬鹿馬鹿しくなって、『泣きそう』にもなって、歯軋り。

置き去りにした感傷を今更手で探るだなんて、しかもそれを無意識な癖のような動作で行ってしまっているだなんて、女々しい自分がみっともない。

喉までせり上がってきた不快感を払拭するように、更に足を早める。

想定より遅くなってしまっても、厳しいようで優しく、不器用ながらにも慈しんでくれる、自称姉代わりの存在は自分の帰りを待ってくれているだろうから。

いつかの、確かに自分のことを家族だと思ってくれていた者達のように。

 

「……どォせ、失敗作なンだろォがな」

 

電話口で聞いたあの気丈さの欠けた弱々しい声を聞いて、抱いた確信は経験上、嘘にはならない。

十中八九、小島梅子は料理に失敗してしまっているが、それでも自分は食べると言ったし、食べたいとも思っている。

春先の新学期、新入生、と目白押しのイベントが多々ある学校で教職員を務めている梅子が、疲れている身体にも関わらず作ってくれたのだ、寧ろそれは当然と言えよう。

そして、それを当然だと自覚出来る上で甘んじれるほどには、僅かながらも角が取れてきてはいるのだと自覚する。

 

「――クカカッ」

 

多少なりの悦の乗った独特な笑い声が、緩やかに冬の終わり頃をかける風に浚われて、溶けた。

自分達の住むアパートを薄らにも見つけて、紅い瞳がゆっくりと細くなって。

少し自嘲的なニュアンスを含めた柔らかなまばたきは、甘えることを善とするか悪とするかを見定める捨て猫の姿のようにも見える。

いつまで経っても幸福に慣れることが出来ない大きいようで小さな背中は、一度立ち止まって、もう一度空を見上げた。

決して綺麗には映らないけれど、それでも確かに届いている光を見詰めて。

 

――あの星を探すことは、いつまでも出来ない

 

 

――

―――

――――

◆◇◆◇

―――

――

 

――約束は、叶わなかった。

 

頼んでもないのにお節介をやいて、遂には杖が不要になるまで支えてくれた、自分にはない強さを持った女との思い出も。

 

――約束は、叶わなかった。

 

甘える事を知りたがらない自分を無理矢理にも愛そうと、常に気遣ってくれた二人の母親への恩返しも。

 

――約束は、叶わなかった。

 

罪と罰の象徴として、それでも雑言苦言混じりに結局傍から離れないでいてくれた心幼き隣人の確執も。

 

――約束は、叶わなかった。

 

大事だと、大切だと思うことを許してくれた。

どうしようもない自分を、それでも求めてくれた。

大切な、大切な家族である少女との簡単なコトだった筈の、約束も。

 

――約束は、叶わなかった。

 

叶えることが出来たなら、傍に居ることが許され続けたのなら。

でも、『そうはならなかった』

だからこの話は、ここで終わり。

星瞬く夜空も、踏みしめる大地も『違う』この場所で、別の物語が幕を開けた。

それからの話の、始まり。

 

 

 

――

―――

――――

―――――

 

 

『星の距離さえ、動かせたのなら』

 

 

Prologue 1 ―― end.



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『Prologue2』

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◆

 

――雨に濡れたアスファルトの独特の匂いが、 鼻につく。

 

力なく背を預けたコンクリートの壁はとても冷たくて、纏わりつく雨の感触に、責めるように届く雨音に、耐えられなくて、耳を塞いだ。

アスファルトの凹みに出来たどぶ色の水溜まりに映る白い貌は、笑ってしまいたくなる程に震えていて、自分は結局、変われないのだろうと。

 

――目を、閉じた。

 

カタカタと震える変色した唇に流れ伝う雫は、この身を責める空の水罰なのか、堪えらなかった感情の残滓なのか。

どちらにせよ、構わない。

どちらにせよ、戻れない

願い過ぎたのだ、必要以上に多くを。

自分には背負ったモノも、抱えたモノもあったというのに。

 

それでも、自分の傍は楽しいのだと言って離れようとしない『彼女』を。

息も詰まるような泥の闇とは正反対に生きていた『彼女』を。

 

――願わくば、隣で笑っていて欲しいと思うだなんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『やっと、見つけた』

 

 

 

 

 

 

アスファルトの匂いが、消える。

 

 

耳を塞いでいた手に、割れ物を扱う様に優しさで重なる掌の感触が、誰のモノかを問う前に、離れて。

どれくらいの間、雨に打たれていたのか分からなくなるほど冷えきった一方通行の背中に、怯えてしまいそうな程に暖かい腕が、回された。

 

 

『お勉強が足りないぞ、貴様は。私は諦めが悪い事くらい、いい加減察して欲しいわね』

 

 

 

 

アスファルトの匂いが、溶けるように消えていく。

どこまでも自分とは違う日溜まりの香りに、あっさりと全てを委ねてしまいたくなるのが怖くて。

ずぶ濡れになった自身の体温の低下から来る寒気からではなくて、逃げ出せない、反射出来ない、操れやしない透明なベクトルを恐れてしまっているのだろう、震えた喉元から。

 

あまりに弱い、拒絶の意志が流れ落ちる。

 

 

――――放せ。

 

 

 

けれど、一方通行は分かっていたのかも知れない。

意地っ張りで、生真面目で、負けず嫌いで、少し臆病で。

そして、何かと世話焼きで、無駄に面倒見が良くて、なかなか放っておいてくれない――

 

そんなバカなヤツだから、 きっと。

 

拒絶してみた所で此方の内情などお構い無しに、構ってくるのだろう。

 

 

『嫌に決まってるでしょ、バカ』

 

瞼を、開けば。

一度さりげなく誉めた試しがある艶やかな黒髪を滴る雨に任せて頬や額に張り付けたまま、綺麗に笑う女の顔が、予想通りにそこには在って。

光さえ閉ざした臆病者を漸く対峙の場に引き摺り込めた事を誇るような奥深い黒の瞳が、得意気に細まる。

 

 

『もう、私は一歩踏み込んだ』

 

『つまり、そう。

 

 

――――――そこから先は一方通行。一度進んだからには、後戻りなんて出来ないんでしょ?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Prologue2』

 

 

 

 

――

―――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

―――

――

 

 

 

 

朝の風をおどけながらも受け止めるように柔らかなドレープを作るカーテンを見て、春なのだなと改めて実感を覚える自分がとても気障に思えて、思わず小島梅子は苦笑を一つ落とす。

ホームセンターにあったインテリアの黒いテーブルは、購入そのままにリビングに置いて、クロス一つ敷かれない飾り気のなさ。

けれど、女性らしさを感じさせない、シンプルかつ単調な彩りのマンションの一室は不思議と彼女に似合ってはいた。

 

陽は昇れど、まだ朝早くといえる時間帯。

点けられたテレビのニュース番組、その端に表示されている時刻だけに一瞥をくれるだけで、冷ややかにも映える美貌の持ち主は視線をカップの中で揺れるコーヒーに留めてしまう。

ニュースにしては箸休め程度な、新人アナウンサーの少したどたどしいグルメリポートをラジオ感覚で耳に流しながら、ぼんやりと。

 

――影響というのは、やはり大きい。

 

別に荒々しい気性だったとか、必要以上に尖っていた訳ではないが、ふとこうしてゆったりとした時間を過ごす時、変わったのだなと梅子は思う。

丸くなったというか、自身に回す気を殆ど特定の誰かに傾注させればそうなるのも当然だとも思うのだけれど。

こうやって、どちらかといえば紅茶を好んでいた自分が、コーヒー片手にぼうっとする時間が増えたのは過保護気味だと自覚はあるほどに傾注している、一人の少年による影響なのは間違いない。

 

思えば、ニュースなのにグルメやファッションにも力を入れるとは何事かと以前の小島梅子ならば多少の不快感を覚えていただろうに、今では全くといっていいほど気にならなくなっている。

我ながら弛んでいると苦笑気味にコーヒーを啜りながら、そういえば少年はファッションに関してはなかなかの拘りを見せていたな、と。

グルメリポートからコーナーがいつの間にか移ったのだろう、人気モデルの青年と女性がファッション対決なる催しを行うという内容が耳に伝って、視線が惹かれる。

 

テレビに映るあれやこれやのファッションに関する単語に首を傾げながらも、なるべく頭の中に残せるようにと、異様に集中する梅子。

彼女の勤める学園の者がこの姿を見れば、意外性に訝しんだりする所だろうが、その実、なんらおかしい事ではない。

単なる、義弟とのスキンシップの為の、話題作りの一環。

いつぞや前に彼の面倒を見る事になって少し経った後から、小島梅子が何とか少年と打ち解ける為に行ってきた習慣が、今も変わらず残っているだけである。

 

「うん……? スキニー・デニムか………そういえば、洗濯物のなかに一方通行のがあったな。 お気に入りのピィ、コート……に、合わせるからとか言って買ってきたんだった、か……?」

 

しかし、影響されたといっても根本的に真面目である所までは変わっていないらしい。

ピィ、ではなくPコートだと彼女の独り言に対する訂正が出来る少年は、未だ自室のベッドの上であるので、ズレた認識は変わらず仕舞い。

そして頭の中に入れるべきは本来なら女性の方だろうに、男モノの洋服の知識を優先的にしているところはありがたいが、自身の男周りをもう少し気にして欲しいと少年が最近になって心配している事なのである

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

――

 

 

 

 

 

「 ……忘れるつもりなンざ、毛頭無ェンだかな」

 

 

 

 

 

それでも、あの時の夢を見るのは随分と久しぶりだった。

 

夢の内容が影響してか、自他共に認めれる低血圧な一方通行の瞼は寝起きにしては珍しくはっきりと開かれていて。

スッキリとした目覚めの朝だというのに、普段のソレより調子の悪く見えてしまいそうな白い貌を想像して、余計に調子が悪くなる。

 

本当に、いつ以来だっただろうか。

『彼女』の夢を見るのは。

昨夜に見上げた星屑に押し上げられた感傷の糸が、いつの間にか奥底へと置いておこうとした女の影を、引っ張ってしまったとでも言うのだろうか。

 

「……」

 

溜め息一つ、小さく消える。

 

確かに、忘れようなどとは思ってなかったけれど。

忘れたくないというよりは、忘れさせてくれない辺りが、時折一方通行の都合を差し置いてでも無理矢理な行動に出るアイツらしいな、と。

どうにも懐かしくなって、思わず口元が綻んだ。

 

くたりとした上半身を捻って、身体を解す。

黒い遮光カーテンを細く長い指先が開けば、薄い雲がかった日射しにさえ鮮やかな紅色の瞳は鬱陶しそうに細められた。

あの時とは違う、やや雲が千切れて漂いながらも晴れ渡る青い空に、どうしてか救われたような気がして。

 

「…………」

 

夢の内容が内容だった為か、乱暴気味に乱れたシーツに一瞥をくれて、一方通行は心持ち敷居の高いベッドから降り立つと、ガラスの板にアルミの足が付いたタイプのテーブルに置かれた黒いヘアゴムを手に取り、肩よりも下にまで至るほど伸びた髪を慣れた手付きで括る。

その最中で、テーブルの端に置かれたデジタル時計の表示時刻を確認し、朝食の献立へと思考を巡らせた。

彼の保護者である小島梅子は、料理が得意ではない。

その為、小島家の家事分担制の内容は制定された当初から何度か改正が行われ、結果的に平日の朝食は一方通行が担当する事に落ち着いている。

 

梅子の作る料理がすべからく不味いという訳ではないが、料理に関しては不器用であるという良く分からない弱点から、スピードというモノに欠いてしまうのも当然で。

教師の職に就く彼女の出勤時間を考えれば、朝食に手を焼いている余裕もない。

となれば、スピードも味も申し分なく 、正午の弁当まで軽々用意してしまう手並みを見せる一方通行に平日の朝の台所を任せるのは実に正しい判断であると言えた。

 

「和、で……いいかァ」

 

昨夜の冷蔵庫の残りを省みるに今朝の献立に目処が付いた所で、一方通行はふと、視線を移す。

ベッドの直ぐ近くに鎮座する木製造りのドレッサーの鏡の前に置かれた硝子細工の、枯れ木を見立てたアクセサリー掛け。

一つのオブジェのように違和なく思えるように掛けられたソレを見て、鏡に映る白い貌が静けさに満たされた。

 

「……」

 

一方通行しか居ない、八畳半の部屋の中、零れた吐息に寂漠が混ざる。

いけないな、と少し咎めるように白い指先が、『何も付けられてない』首元を擦った。

 

――忘れるつもりもない、忘れたくない、忘れる筈がない。

 

けれど、いつまでも引き摺るばかりの自分で居る時間は、もう過ぎている。

あまりに特異な環境の中で思春期を終えたあの頃も、無知な子供のままでは居られなかった。

 

しかし、今は。

子供のままでいられない、ではなく、子供のままでは居たくない。

そう思えるほど、彼の背中を押してくれた人達が在ったし、在る。

 

「……確かに、後戻りは出来ねェよ。ンで、後悔もしない、と」

 

夢の中、強く瞼の裏に焼き付いた彼女の笑顔は、相変わらず眩しく思えた。

 

 

 

―――そォだったよなァ……

 

 

 

 

全てじゃなくて、多くでもなくて。

 

 

ただ一人、守れるだけの力を、今でも願う。

 

 

 

 

あの日から、今でも。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

春といえば桜、という認識は日本の美徳であるという意見を支持する者も多い。

一方通行もまた桜という花は確かに綺麗なモノだと思うし、桜というモノの在り方に風情を感じるところは外見からではそうと見られる事自体珍しいが、やはり日本の血が流れているのを自覚させるようで。

そして桜といえば花見、と直結して考えてしまう俗っぽさも、人並みには一方通行も持ち合わせていた。

 

騒がしい事に関してはあまり良い印象を持っていないにしても、花より団子という言葉がある以上、羽目を外して浮かれる輩が居ても、これはある程度仕方がないだろう。

そうして考えてみれば、春になれば馬鹿が増えるということに関しても多少は寛容で在れるというもの。

事実、つい先日行われた板垣ファミリーとの花見の席では、騒がしくもそれなりに愉しいと思える時間だった。

時折、鬱陶しく絡んでくる天使や肉体的に絡もうとする辰子と竜兵を吹っ飛ばしたりする作業や、泣き上戸と絡み上戸の複合型である梅子の厄介極まりなさに辟易する場面もあったが、悪いモノではないと、口元が緩んでいたのも記憶に新しい。

 

しかし、しかしである。

春じゃなくても、年がら年中、馬鹿なヤツは馬鹿なのだと。

視線を横にスクロールさせれば暑苦しいことこの上ない男の迫力がそこに満ちていて、一方通行は大袈裟に溜め息を落とした。

 

「む、どうした事だ我が友、一方通行よ!景気の悪そうに溜め息なんぞ付いてからに。そんな事では入学当初以来のSクラス連続トップの席からの転落も危ぶまれるぞ? ハッハッハッハッ!」

 

桜の花も既に枯れ落ちた少し寂しさの残る痩せ木では、隣の猛者から思考を現実逃避させるにはどうやら役不足だったらしい。

背景にやたらと暑苦しい効果音が鳴り響いていそうなこのジョジョ宜しくな男は、九鬼英雄。

かの天下に名声広しと言われる九鬼財閥の、御曹司である。これが。

 

春休みも残り僅かな昼下がり、やたらと通る声で笑いながら肩を叩いている英雄と一方通行は、それなりに腐れ縁であることは、この光景を見れば察せれるものである。

唯、あからさまに迷惑そうに顔をしかめている一方通行からしてみれば、その腐れ縁とやらをいっそ断ち切ってしまいたいと思っている。

まぁ、切っても中々切れないから腐れ縁といわれるのだか。

 

「オマエ、少しは近所迷惑考えやがれ! 無駄に声張りやがッて、このダボが!」

 

「その言い分は素直に受け取れんなぁ。下々の民草を導く良き指導者としては、演説するには堂々とせねばならん! しかれば、声に張りが出るのは当然、寧ろ最低限の礼節というモノだ。そうだろう、あずみよ!」

 

「ハイ!!流石です、英雄さま!」

 

つくづく勘弁して欲しいと、春の陽差しに照らされてより一層白色を放つ頭を苛立たしそうに抱える。

人の指図を受けない様は確かに英雄に似合っているし、一方通行自身も他人の言葉に耳を貸すことすら馬鹿馬鹿しいと思っていた時期も合った為、強く指摘出来ない。

 

だが、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。

季節感を全く感じさせない金色の服装は、麗らかな春の空気を遠慮なく殺しに掛かっているし、その隣で恍惚な表情のまま主を持ち上げる従者に至ってはメイド服、無論、季節感などある訳がない。

加えて、遠慮という語句を辞書の一切から削除した様なこの二人と一緒に居れば、溜め息の数が一年経てば星屑の数に匹敵するほど増えていきそうな程で。

願わくば一時よりも早く、この場を去りたい。

脳裏一杯に走る願望のままに立ち去ろうとベンチから腰を上げた白い背中を、王の言葉が捉える。

 

「まぁ待て、一方通行」

少し慌てたのか、早口で待ったを掛ける英雄。

しかし白い背中を捉えたのは、彼の言葉ではない。

やはり一切の配慮もなく一方通行が着用しているグレーのPコートの襟をぐわしと掴んだ少女の掌と、主君の手前、笑顔を絶やしてはいないが目だけは笑っていない彼女の、無言のプレッシャーだった。

 

「どうだ、そろそろ我が九鬼財閥の陣営に加わる決心が固まったのではないか? 貴様のその優れた頭脳、腐らせておくには余りに惜しい。我の頭脳として貴様が働いてくれれば、我が覇道もより強固なモノとなるのだ!」

 

王たる者とは堂々たる者、とは彼の掲げる理念ではあったが、勧誘しながらも一切頭を下げる素振りのないこの男の笑顔に、思わず頷いてやりたくなるのが不思議だった。

人を惹き付けるカリスマという力は、間違いなく九鬼英雄の武器だろう。

人の襟首を強引に掴んだまま、英雄の言葉に宛てられて舞い上がっているこの従者、忍足あずみもまた、彼の才能に魅せられた者の一人だろう。

 

この勧誘も、思い返せば何度目になるのか。

顔を合わさせれば、参謀に、頭脳にとしつこく陣営に引き込もうとするこの男が、どうしてか一方通行は嫌いになれなかった。

時と場所も関係だにしない彼の勧誘の所為もあって、あまり目立つ事が好きではない彼もまた、その風貌と成績も相俟って学園の有名人となっているのだが。

 

「それに、姉上がまた会いたいと言ってらっしゃった。あの姉上に気にいられたのだ、最早、九鬼においての貴様の必要性の有無は決まったも同然だといえよう」

 

「………」

 

九鬼英雄には、九鬼揚羽という名の姉がいる。

日の本だけでなく世界にも浸透を始めている九鬼財閥の軍部部門の総括である彼女は、その豪胆な快活ぶりと武道においては世界レベルの実力、そして非常に容姿端麗という事も手伝って、老人から子供まで知っているであろうビッグネームだ。

 

そんな彼女と顔見知りとなった経緯には、やはり目の前の男が絡んでくる。

とはいえ、複雑なことは何一つなく、勧誘を断り続ける一方通行を『それなら一度、九鬼に来てみれば良い』と自社に招き、その時に居合わせたのが九鬼揚羽だった。

 

大財閥である九鬼の軍部総括殿には、自由な時間など在って無いようなモノ。

しかし、英雄のしつこい招待に仕方なく折れた一方通行が九鬼に訪れた時、揚羽もまた過密なスケジュールをこなし、少しばかりの休息を得ていた。

以前から、弟である英雄が非常に目を掛けている少年の存在を、彼自身や九鬼家の者づてに聞いていた揚羽も興味津々といった様子で、なし崩し的に食事会という流れになってしまった事を、ぼんやりと一方通行は思い出す。

 

食事会、というには名前ほど品ある訳でもなく。

寧ろ小島家では自分が包丁を握ることも多いと、会話の際に溢してしまった一言が原因で招待された側である一方通行が、九鬼の調理場に立つ羽目になったのは記憶に新しい。

 

常識の枠に囚われず我が道を進む、それが九鬼たる者に流れる血の所縁だという事を存分に思い知る事になったあの日の一方通行が落とした溜め息の数は、果たして百に届いていたか、否か。

 

「……ンで、また飯作る羽目になンのか? しっかりとオチまで見えて来やがるぞ、オイ」

 

「フハハハ! 生憎、シェフは間に合っている。やはり貴様には、その明晰な頭脳を存分に発揮して貰わねばな!」

 

結局そこに落ち着くのかよ、と。

姉そっくりに快活な、そして生意気にも、雰囲気まで仕上がってきている底の知れないこの男に、また一つ溜め息が転げ落ちた。

 

本当に、自分とは違うベクトルで面倒なヤツだと思う。

 

 

―――学園都市、第一位。

 

その名を背負うこととなった彼の頭脳を喉から手が伸びるほど欲していた人間など、あの場所では腐るほどに溢れていた。

その頭脳から導かれる現象を躍起になって調べる者、解明しようとする者、利用しようとする者、そして。

 

――より高みへと、押し出そうとする者。

 

 

そういう者達と、九鬼英雄と。

 

言っていること、願うことも同じコトである筈なのに。

どうしてこうも違うのか、それが未だに分からないでいた。

 

 

「おや、これは奇遇ですね、お三方」

 

「相変わらず苦労人だな、お疲れさん」

 

「やほー! 今日も良いボクっぷりだねぇ、白りん! うぇーい!」

 

 

 

そして、唐突に姿を見せた、一方通行にとってはお馴染みといった所の三人組の存在もまた。

 

 

――何かが、違う。

 

――何もかも、違う。

 

その感覚を拒めない理由を、一方通行は未だに探している。

 

星の浮かばぬ昼の空、眩しすぎて顔を背けていたモノの正体を掴むには、彼には時間が長く掛かるのだろう。

 

 

 

――――友達なんて、きっと初めて出来たのだから。

 

 

 

 

 

『Prologue2』――end.







感想の返信の仕方が、やっと分かった……


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『Prologue Last』

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

一雨、降りそうだ。

 

 

今朝のニュースでは降水確率も30を切るくらいの筈だったというのに、どうにも機嫌をもたげた空の模様は、気軽な外歩きの続行を良しとはしてくれないらしい。

その内、鼻先にでも水滴の一粒が落ちてきそうな重苦しい雲の彩りに顔をしかめると、面倒くさげな紅い瞳が忙しなく辺りを見渡した。

丁度良く視界に入ったコンビニで、気になる週刊誌の続きでも読みながらストックが心許なくなってきている缶コーヒーでも買っておこう。

 

洗濯物を干したままである事も気掛かりではあるが、そう急かされてやる事もないだろう。

休日の息抜きの仕方に我ながら板が付いてきたな、と苦笑をひとつ落としながら、足先を緑の蛍光色と白のカラーで彩られた建物へと向ける。

 

先程、九鬼の主従と後からやってきた学園のとある三人組とは、そのまま別れた。

 

英雄もあれで何かと忙しいらしく、なにやらスケールのデカい着信音の鳴る携帯を片手に従者を連れて、自社へと引き返していた。

残された三人組にどこか遊びにいかないかと誘われもしたが、偶には一人の休日を過ごすというつもりもあって、丁重にお断りしたのだ。

 

あのまま三人組とどこかに行くとしたら、やはりビリヤード辺りに落ち着くんだろうなと、一人ぼんやりと考えながらコンビニの入り口へと辿り着き――回れ右。

180度に急速反転した為か、一方通行の後ろに並ぶ形でコンビニへと入ろうとしたOLが腰を抜かす勢いで飛び退けたが、普段の様子とは売って変わって余裕のない表情の一方通行には、詫びを入れる余裕さえない。

 

英雄や三人組ならまだ良い、許容範囲だ。

しかし、アレは一度捕まれば追い払うことすら手を焼く。

それどころか、一方通行はある時期から分かりやすい程にその存在を避け続けて来たのだ、今度は手を焼くどころか身を焦がしても収まらないかも知れない。

 

どうしてこんな羽目になるのか、タイムマシンがあるならば、あの日にコトを成してしまった自分を抹殺しても良いとすら考えてしまう。

 

本当に、面倒だ。やってられない。

 

あぁ、こんな事ならば。

 

 

「おいおい、こんな美少女を掴まえて目が合った瞬間逃げるか、普通? 傷付いたな、傷付いたなぁ……ここは一つ、傷心の乙女を慰める為の『手品』でも見せて、涙を乾かしてやるのが男気ってモノが映える場面だと思うけどなぁ、私は」

 

ポンと如何にも気さくに、フレンドリーシップ溢れる仕草で肩に手を置きながらスラスラと。

棒読みに近い癖にどうにも流麗な早口で捲し立てられ、一方通行は逃走の失敗を悟る。

端から見れば、気軽に挨拶を交わすとんでも美男美女な構図に、先程一方通行と衝突しかけたOLが鼻の抜けた様な溜め息を落としているが、しっかりと耳を澄ませれば、掴まれている青年の肩からギチギチとした不協和音に首を傾げることになるだろう。

 

諦観気味に音の鳴る背後へと振り返った紅い瞳に、愉悦喜色に塗れた獣のような紅い瞳が映る。

分かり易いくらいギラついた獰猛な瞳を見て、一方通行は真剣でタイムマシンの建造を視野に入れようと検討を始めるのだった。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

「んーやっぱり、私はコーヒーは甘口か微糖がいいな。ブラックは、なんというか……身体に悪いような味がするぞ。まぁ、ポーズだけなら似合うから良いか」

 

「勝手に飲みやがった上に文句垂れてんじゃねェよ、ってこれもォ空!?一口だけって言ったのオマエだろコラァ!」

 

どこかの幼女趣味な照る照る坊主が雨でも払ったのか、どんよりとした空模様は成りを潜め雲一つない晴天へとシフトチェンジしたのに対して、しきりに本日の溜め息回数の当社比が増加の傾向を辿る一方通行の心は散々な荒れ模様だった。

結局、一時間も経たない内に元居た公園へと戻ってくる事になってしまった彼は、苛立たし気にベンチの隣で本人の許可なく飲み干した缶コーヒーを手にプラプラと揺らしながら眉を潜める少女を睨み付ける。

少女から大人の女性へと変わる間の十代後半といった顔立ちは随分と整っており、どこか挑戦的な不敵さを持つ笑みで一方通行の視線を受ける少女の名は、川神百代という。

烏の濡れ羽色した髪は一方通行と対照的であり、彼ら二人のツーショットは辺鄙な公園でもやたらと目立っていた。

 

「ん、待てよ……これはあれだ、間接キスじゃないかひょっとして……? なぁ、そうだよなぁ?

キッスだぞキッス! これは私のお願いの一つくらい聞いて貰わなきゃ成り立たないと思うなぁ……」

 

「ざけンな、勝手に強奪しといて文句まで言われてンだぞ、俺は。被害者面されても困るンだよ、このアホ」

 

しかし、如何せん目立ち方が良くない。

ただでさえルックスの良い男女二人の組み合わせが目を引くというのに、端から見れば穏やかな雰囲気ではないのが、一方通行の険しい表情を見れば直ぐに分かる。

 

かといってカップルの喧嘩には見えない。

百代の表情がなんだか凄くイキイキしているように輝いているからだ。

まるで構ってくれなかった猫がやっと手の届く範囲に居てくれる事を喜ぶ少女のように。

 

仲が良いのか悪いのか、傍目で見ればどうにも折り合いの着けにくさにより一層興味を抱き、比例的に一方通行の居心地が悪くなっていく。

キスだなんだと喚かれるのも宜しく無いが、どうあっても目の前の少女は話の筋をその方向に固定しておきたいらしく、煙に巻くのも極めて困難なことになってしまっている。

というか、百代の目的は今のところ、それだけである。

 

願っているのだ、一方通行との『再戦』を。

 

「良いじゃないか、どこかのウサギが逃げ回って散々焦らしてくれちゃったからさ。高ぶり過ぎたモノをそろそろ発散させたいんだよ、私は」

 

「ふざけンな、つってるだろ。盛るなら一人でやれ、仕方の分からねェ年じゃあるまいし」

 

「こういう事もそういう事も、一人じゃ都合が悪い事もあるから、相手をお願いしてるんだが? 良いじゃないか、こんな美少女に誘われておいて無下にするなんて、全国の男一同から三代先まで呪われるぞー?」

 

「丁度良いじゃねェか、その全国の男一同に片っ端から相手して貰えよ。そォすりゃ、いつかお目当ての相手と出会えンだろ」

 

「そのお目当ての男が直ぐそこに居るんだから、口説いているんじゃないかー? あんまりツレないとアレだ、お姉さん襲っちゃうかもなぁ……」

 

「鬱陶しいなァ、オイ! アプローチをミスったンなら他行くか一人で干上がってろォ!」

 

しかし、会話の内容はあちらこちらに含みを持たせておきながら、夫婦漫才を彷彿とさせるほどにテンポが良いので、彼らに視線を寄せる者の大半が二人の関係はイイ仲なのだろうと当たりを付けていることに一方通行は気付かない。

どうにもアダルトな言い回しをする二人だが、一方通行にとってはいっそ、そちら方面に流れれば上手く煙に撒こうという打算もある。線は薄いが、百代が恥じらって会話中断というパターンであれば儲けモノ。

しかし、恥じらうどころか絡めてでも目的を織り込んでくる百代の方が、確かに上手であった。

 

 

「それに、『私より強い』のであれば誰でも良いんじゃない…………『私に勝った相手』だからこそ、こんなにも執着してる。 リベンジだよ、リベンジ。かつて敗れた相手に挑むっていうのは燃えるんだなぁ、コレが! 古今東西、男であれ女であれ、ね」

 

ジャンプの読みすぎだ、と素っ気ない悪態をつきながら複雑そうに顔を背ける一方通行。

正直、顔を見るなり闘って闘って構って闘ってとうんざりするほどに絡んでくる百代の存在が、一方通行にとっては迷惑で仕方ない。

私生活でも学園生活でも目立つコトを嫌う節がある一方通行にとって、川神百代に狙われる存在として有名になるのは、非常に遺憾である。

 

彼女のファンだか取り巻きだかの一部女生徒にしばしば敵意を向けられたり、道端ですれ違う男には嫉妬、羨望を向ける者や、何故か崇められたりする事もあるが、そこにはまだ耐えられた。

しかし、どこからか間違った方向に話を聞き入れたであろう小島梅子から『川神百代と、交際関係にあるというのは本当か!?』とか『既に事に及んだ挙げ句、腹の中に子供が出来ているなんて嘘だろう!?』や『挙式の段取りまで決め、式は川神学園で盛大に挙げるだと!? 祝儀は一人三百円までって、子供の遠足じゃないんだぞ!?』などと、鬼小島の名に相応しい形相で鞭を振り回している彼女を見て、一方通行は絶望した。

 

 

しかし、唐突に訪れた不幸に嘆く一方通行の陰で、安堵する者、疑問を抱く者、迷惑を被る者、そして渇望する者と、目まぐるしいほどに周囲の状況も一変したのだった。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

『とある聖夜の王座陥落』

 

 

後に一部の者からそう大袈裟な呼称で呼ばれることとなった出来事が起きたのは、昨年の冬休み期間中のコト。

呼称の指す通り、聖夜……即ちクリスマス。

奇遇にも一方通行が川神の地へと『降り立った』日と重なり、この日もまた雪が降っていた。

 

 

年に一度のイベントとしては十全と云えるほどに白銀はコンクリートを埋めつくし、白く染まる街並みに人々が舞い上がる中、その白銀の中に力無く身を預けることとなった敗者がいた。

川神百代、歴代最高最強の才と謳われ、世界にすらその強さを浸透させるほどの実力を持つ少女は、他愛のない事から一方通行と争うコトになり、彼によって余りに容易く地に沈められた。

――何をされたのかも、分からなかった。

 

リモコンでテレビの電源を消すように意識が途切れ、次に目を醒ました時には彼女の義理の妹である川神一子の安堵した表情があって、見渡せば、彼女がファミリーと呼ぶ面々と使い馴れたベッドと、何故か複雑そうにアゴ髭を撫でる祖父、川神鉄心の姿があった。

 

そして、川神鉄心から伝えられた、『悪かった』というただ一言の伝言を聞いて、始めて川神百代は自分が負けたことを悟る。

最後に思い出せたのは、ゆっくりと伸ばされた、雪のように白い掌。

それが誰の掌だったかなんて、百代には思い出さずとも理解出来ることであった。

 

 

――悔しさは、ある。

 

彼女とっては確かに容易に至れた頂点であった、けれど。

敗北の悔しさ、崩された最強という名の牙城を振り返って、どうにも惨めな気持ちになってしまうぐらいには、彼女とて武人。

 

――虚しさは、消えた。

 

しかし、容易に頂点に至れた彼女だったからこそ抱える孤独や虚無感は、それこそ雪のように儚く。

どこまでも白い掌が、お構い無しに握り潰した。

 

 

――残ったのは、漠然とした、期待。

 

 

世界は狭い、いつだってこの程度。

己を満たす者の生まれない世界を何処かで冷めた目で見ている自分に、川神百代はとうの昔に気付いている。

仲間と呼べる者と触れ合い、心の知れた人間に過剰なまでのスキンシップを望み、それでも全てを満たすことは出来ない。

世界はちっぽけで、思っているよりも、つまらなく出来ている。

 

――そう思わなければ、必要とされていないのは、求められていないのは自分の方みたいじゃないか。

 

けれど、川神百代は敗れた。

その事実を悟りもしたし、実際に学園に通う者の中にも、百代が一方通行によって倒されたという光景を目撃した者も居る。

これは雪の様に消えてしまうモノなんかじゃない、孤独なあまりに自分が描いた夢物語なんかじゃない。

 

自分を倒した男が、確かに居る。

 

聖夜を越えて、君臨者としての川神百代は一度、終わりを迎えて。

再び挑戦者として立つコトとなった彼女の瞳は、いつかの輝きを取り戻していた。

 

こうして一方通行とのリベンジマッチを組むべく、川神百代の奮闘は周囲を丸々巻き込む勢いで進められていく。

リベンジするからには再び負けるのは嫌という至極真っ当な心持ちから、熱の引いていた修行を一から始め、川神鉄心との組み手を特に積極的に取り組んだ。

危惧していた孫娘の心の危うさが好転し、夢中になって稽古に取り組む百代の姿にいつかの懐かしい光景に、不覚にも涙腺にまで及んだ熱を抑えきれなかった鉄心が、事の全容を説明する前に彼の保護者である小島梅子に感謝の意を示し一方通行を川神学園に通わせる際に彼の事情を聞き及んでいた鉄心が、ついでに一方通行には百代の手綱持ちになってくれればと抜かしたモノだから余計にややこしくなったのだが、割合。

とりあえず、一方通行が要らぬとばっちりを受ける羽目になった原因は、鉄心にもあったというのは間違いない。

 

冬休みが明け、学園が三学期に突入したのを期に、百代の奮闘もまた手数が増えた。

 

始業式終了と共に最早待ちきれぬと弾丸並みの速度で一方通行の居る1-Sのクラスへ突入し、突然の上級生且つ学園きっての有名人である百代の出現に固まる面々をスルーして久しぶりだの逢いたかっただの乙女座の私はだの闘えだのと、兎に角一方通行に一方的に要求。

酷く面倒な過ちをしてしまったのだと一方通行が悟るには、その一瞬だけで充分で。

苛立たし気にこめかみを押さえる白い彼を見て、彼のピンチを察して百代の前に立ち塞がったのは眩い、黄金の背中だった。

 

曰く、一方通行はいずれは自分の傘下に加わって貰う予定なのだから、余計な横槍を入れるなだとか。

であるなら彼に何かあるのならば先ず自分を通してから行うのが通りだろうなどとか、最早ジャイアニスムを彷彿とさせる物言いに一方通行のこめかみに青筋が走ったのを見て、彼の隣の席である一方通行とよく似た容姿の少女がニコニコと可憐に笑いながらマシュマロを一方通行に与えようと試みていたのは余談。

 

始業式早々から波乱に満ちたホームルームを行う事になった1-Sの担任教師である宇佐美巨人は、名は体を現すという言葉を体現した巨体をのっそりと教卓に預けながら、遠い目をして溜め息をついていた。

 

 

この日は予想外の介入もあって百代は早々に引き上げたが、それで彼女が諦めた訳ではない。

三学期には川神百代の1-S襲来が一種の風物詩になってしまうほどに数は重なっていき、それにつき周囲の反応が大きく変わったのは当然と云えよう。

それに加え、何故か頑なに拒否する一方通行に正攻法は効果が薄いと悟った百代は、人脈構築には定評のある、仲間内では軍師と揶揄される舎弟、直江大和に協力を求める。

交友といえる関係ではない所か、何かしら敵対関係であるS組の生徒、加えて川神百代を下した一方通行との橋渡しという荷の重い役目に大和は難色を示したのだが、駄々をこねる百代の我が儘っぷりに折れたのだった。

 

そうして直江大和という新たな交渉人は一方通行と何度か接触していく内に、お互いに苦労性なのが一致してか、顔合わせれば愚痴の溢し合いとなってしまうのだから、交渉など全く進まなかったりする。

ただ一つ、おっかない目付きの割には意外と絡み易かったのは直江大和にとってかなり意外であったことが、余計に彼の愚痴を溢す口を軽くした要因となったのは、間違いない。

 

そして、意外であったといえば、もう一つ。

 

一向に一方通行の態度を崩せないことに百代の欲求不満が顔を出すのではないかと危惧していた大和であったが、寧ろ中々にリベンジの果たせない劣勢を、彼女は不思議と楽しんでいるようにも見えたのだ。

一方通行に敗北してからというもの百代の欲求不満から来る過度なスキンシップは行われなくなったので、苦しいながらも非常に役得であった為に少々名残惜しいのだが、それが再開される兆しもない。

次はどんな手で交渉するかと相談に来る百代の表情を見て、複雑な心境に陥りもしたが、彼女に執拗に絡まれて辟易としている一方通行の姿を見れば、同情の方に心が多く傾いてしまうのだった。

 

 

とある聖夜の王座陥落。

 

その一件から、川神百代は変わった。

取り巻く環境も、価値観も、意識も。

 

それは変化である筈なのに、川神百代にとっては、新たな始まりのようにも見えた。

 

そしてそれは、一方通行にとっても大きく影響を及ぼしていく。

影響の一端は、既に現れはじめている。

 

影響が彼にとっての変化となるか、それは、これからのこと。

 

新学年、出逢いと別れを謡う春の風は、もうすぐそこまで来ていた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

―――

――

 

 

 

 

 

 

2つある星を、一つの名前で呼ぶという事を、此処で教えたのだと彼から聞いた。

夢物語を確かなモノだと信じるように笑う幼い彼女に、辟易しながらも甘い態度だったんだろうなと、ふと懐かしくなって、笑った。

 

学園都市では人並みの少ない所はあまりなく、スキルアウトと呼ばれる者達すらも寄り付かない場所といえば、『彼女』にとっては此処ぐらいしか知らなかった。

 

思えば、知らなかった事は沢山あった。

当たり前のコトだと笑われるとは思うのだけれど、それでも、自分の知らない様々なコトなんて周りには幾らでもありふれていたのだと。

 

そういったコトを知る切欠となった少年の顔が脳裏に過って、また一つ彼女の整った顔が、儚く微笑む。

 

切欠となった癖に、自分から進んで教えてくれたコトなんてあまり無かった。

必要以上に開ける距離を無理矢理に埋めて、時には傷付けて、傷付いて。

それでも、隣に居たかったのは、百々のつまり、惚れてしまった弱味なのだろう。

 

 

「ねぇ、一方通行」

 

 

草花も学園都市にしては珍しく生え揃った丘の上、女性らしさをくっきりとさせた美しいシルエットは、ひたすらに空を見上げる。

機械仕掛けの街並みを囲う、星屑に満ちた夜の空。

長い、夜の深い黒に溶けてしまいそうな流麗な髪を、春風が撫でる。

 

彼女は――――吹寄制理は空を見上げる。

その姿は、星屑の煌めきを眺めているようにも、足下を見まいと頑なに視線を空へと逸らしているようにも見えた。

 

 

そんな彼女を慰めるように、星の光に照らされて、足下の『墓』から伸びた影が折り重なる。

まだ新しい、建てられたばかりの墓石には、アルファベットで名前が刻まれていた。

 

 

 

「ねぇ、一方通行……」

 

 

 

もう一度、名前を呼ぶ。

焦がれ続けて、やっと触れて。

そして、もう此処には居ない、彼の名前を。

 

 

――私は見つけたわよ、貴方の言ってた双子星

 

 

 

2つある星を、1つの名前で呼ぶ。

 

 

双子星と呼ばれるそれは、『スピカ』

 

二つの距離が、重なることはない。

 

 

でも、例えば。

 

 

星の距離さえ、動かせたなら――

 

 

 

 

 

 

 

 

『Prologue Last』――end.

 

 

 

 

 

.



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Ex,if memorys
God's mischivous whimsical play




一方通行(?)とマルギッテ+αのちょっと不思議な短編IFです。
本編とは全く関係ないのでご了承ください


戦場に置いて硬直する事は死へと直結する。

 

命の糸を刈り取る気紛れには御機嫌取りも通用せず、鎌を背負った不埒者に笑い掛けられないのように身を潜める術を磨く事は出来ても、逃れ様の無い死への抱擁に墜ちてしまう未来は幾つも枝分かれしている。

 

土塊の勲章を胸に、多くの死を見詰め、逃れ、歩いてきた反動だろうか。

逆に、光溢れる日常において予期せぬ事態に遭遇した時は、頭を白色一面の空模様に染めて硬直する時間から復帰するのが、やけに遅くなってしまっていた。

 

軍人の職業病、謂わば副作用なのかも知れない。

曇天の空昇る硝煙と共に散って行った者達への敬意の血濡れの手形は決して忘れないと誓っているが、それは静かで優しい時間に身を染める為の必要な儀式だと思えば、仕方ないと苦笑するだけ、私は変われたのだろう。

 

群青に似た光そのものとも云える、お嬢様の隣へと居続ける為ならば、この程度の感傷ぐらい抱えたまま生きていける。

気に食わないあの白兎とて、爛れた傷と常に向き合いながら生きているのだ、私に出来ぬ筈がない。

 

 

 

だが、現在私の目に広がる光景に硬直してしまった時間が最高記録を追い越した理由については、向き合う事を辞退させて欲しい。

 

 

「……にゃン」

 

 

「────は?」

 

 

毛屑一つ解れていない黒いスウェットの上下がまるで黒雪で出来た釜倉の様に盛り上がって、そこから這い出て着たのは、一匹の白猫だった。

 

粉雪の綺白と儚さを宿して、且つ短くシャープなシルエットにも関わらずフワフワとした肌触りであるのが一目見ただけで分かる、毛並みの良さ。

左右微かに吊り上がた猫目は磨き抜かれた一級品のガーネットよりも尚美しく透き通っていて、どこか凛とした瞳が、誰だオマエと言わんばかりに、寝室の扉に手を掛けたまま茫然と口を開いて固まる私を見上げている。

 

 

可憐だ。

 

いや違う、確かに毛並みといい粒らな瞳といい、非常に上等であるのは認めるが、そんな似合わない感性に頬を緩めている場合ではない。

 

この状況に置いて、何故一方通行の寝室にこの白猫が居るのか、という疑問。

何処かから入り込んだとしても、此処はマンションの7階だ。

もしやあの白兎が拾って来たのかと推測するが過剰なまでに相互を思いやる彼が、梅子に黙って、というのは考え難い、それくらいには不服ながらも腐れ縁が続く内に理解を含めている。

 

だから取り敢えずこの猫については一端置いておくとして……もっと大きな問題に目を向けよう。

 

 

「……何処に行ったというのですか、ウサギ」

 

 

シーツの少し捲れたベッド、木造ドレッサーの鏡の前に添えられた硝子細工のツリー枝に、巻き付いたチョーカーのコード。

漆黒の遮光カーテンの隙間から差し込む朝陽に晒されたアルミ足のガラステーブルに乗った鳴らない目覚まし時計はデジタル式なのに、乾いた秒針が何処からか耳に溶ける。

 

部屋の主だけが忘れ去られたかの様な、僅かな生活感を残した彼の部屋が、酷く伽藍堂に見えた。

 

 

 

──

 

god's mischivous whimsical play

 

神様の悪戯

 

──

 

 

「居なくなった、じゃと? 彼奴が? 前触れもなく? 書き置きもなく? 此方に、何も告げずに?」

 

「いや不死川、気持ちは分かるがサラッとあいつに特別扱いされてる風に言うのは止めとけ。後で恥をかくのはお前だぞ」

 

「にょ、何を言うかこのハゲ! べ、別に此方はアイツに特別扱いなどされとう無いわ! 彼奴がいつもいつも此方に構うから、まぁ偶には、気にしてやってもいいかと思うただけじゃ!」

 

「こ、心ちゃん落ち着いて、暴れちゃ駄目だよ……そ、それであの、警察に捜索願いとかは出したんですか……?」

 

「今日中に帰って来ないようなら届け出る、と梅子が判断しました。一応、川神院門下の者達にも協力を取り付けています。ですから少し落ち着きなさい、十河」

 

「……」

 

「ユキ、そう暗い顔をしないで下さい。例え何かに巻き込まれたとしても、早々容易く彼が追い込まれる事もないと思いますよ。それはユキが一番良く分かってる筈でしょう?」

 

「うむ、一応、九鬼の者にも探させているし、我もあれほどの男が何かしらの窮地に陥っているなど杞憂はせん」

 

「……うん、アクセラだもん、平気だよね。えへへ、うん、マシュマロ食べよ……」

 

「……しかし、一方通行への心配もありますが、分からないのは、『その子』ですね。本当に彼の寝室に居たのですか?」

 

「そうだと説明しました。上官に何度も真偽を確かめる事は自らの愚を晒す事と同義と心得なさい、葵冬馬」

 

「これは失礼を……あ、ユキ、猫にマシュマロはいけませんよ」

 

「むー……確かに、食べようとしないね、このにゃんこ」

 

拭い切れない影りを残した榊原小雪の赤い瞳が、私の腕と胸の狭間でじっとぶら下がっている白猫の紅い瞳と見詰め合う。

差し出されたマシュマロよりも綺白な毛を逆立てることもなく、桜の切れ端をはめ込んだような形の鼻で匂いを嗅ぐ事もせず、覗き込んだ鏡映しの色彩にすらただ黙って見詰め返すだけ。

猫という生き物についての知識などない私でも驚いてしまうくらい、この腕の小さな命は大人しい。

野性的な意志が希薄というよりも、物事に動じない静謐さを感じさせるのは、どこか童話的な陰影を連想させる綺麗な出で立ちに依るモノなのか。

 

「けど、連れて来ても大丈夫なのか? ウチの学校は色々とフリーダムだが、流石にペットの持ち込みは許されないんじゃ……」

 

「にょほほほ、隣には大量の山猿がおるのじゃ、猫一匹くらい今更な事」

 

「もう、そうゆう言い方は駄目だよ心ちゃん。でも、アレルギーの人とか居たら大変なんじゃ……」

 

「一応、学園長からの許可は貰っています、安心しなさい。ただ、あまり彼方此方に連れ回さないよう厳命はされましたが」

 

「あ、今確認しましたけど、猫アレルギー持ちはこのクラスには居ないみたいですよー」

 

「うむ、あずみよ、大儀である。主の意志を汲み取り動くその姿勢、良い従者を持って我の鼻も高いぞ」

 

「勿体無い御言葉です英雄さまぁ!」

 

「……弁慶、与一は何て言ってた?」

 

「今日は学校サボって探すってさ。それだけ言って電話切られた。ま、ほっといて大丈夫だと思うよ」

 

「ううん、やっぱり義経も探しに……でも学業は優先だし……むうぅぅ……」

 

「皆の言う通り、一方通行ならきっとピンピンしてるよ。寧ろ心配して学業を疎かにされる方が、アイツは嫌って感じると思うけどね」

 

「うっ……一方通行に嫌がられるのは、義経も嫌だ。うん。取り敢えず、探すのは今日の放課後にしよう。弁慶も一緒に探してくれるか?」

 

「勿論だ、主。私も、いつも見てる顔を見ないと落ち着かないし、ね。面倒臭いけど」

 

それぞれの思考が錯綜する教室の曖昧模様だけは感じているのか、時折くるりくるりと動く尻尾が紺碧のスカートと太腿の境目を撫でて、擽ったい。

当初は狼狽しながらも居なくなったあの親不孝者を待つと決めた途端に落ち着いた梅子もそうだが、このクラスの者達にも随分と信頼はされているらしい、あの兎め。

 

けれどそれは心配しない、という訳ではない。

 

十河などに落ち着かない様子で襟足を弄っているし、不死川の令嬢は鬱憤を晴らすように井上準に八つ当たり、源義経は頻りに溜め息をついて、武蔵坊弁慶は顔色こそ平然としているが、川神水を飲んでいる手が微かに震えている。

 

細やか男性陣も態度こそ平静な様に見えて、所作や仕草に違和感を抱くくらいには、動揺を隠し切れていない。

特に当初から沈んでいた榊原小雪は、普段が惚けた笑みを貼り付けているから、白猫と向き合っていながら浮かべる儚い表情との落差が顕著で。

 

本当に、人の心に楔を打ってばかりで、腹立だしい。

 

その癖、自分は遠くを見ながら前『ばかり』を歩くのだ、例え傷を膿ませたままでも。

 

私や梅子の後を、一定の距離を開けながらも付いて来るこの白猫とは正反対だ。

纏う色彩はよく似ている癖に。

目を逸らすあの気に入らない青年と、静かに見上げる白猫。

その対比に無性に何かを掻き立てられて、結局置いて行く事は出来なかったのは何故だろうか。

 

 

「ねぇ、ボクも抱っこしていい?」

 

「……それは、構いませんが……あまり強くはしないように」

 

「はーい……ん、ふわふわしてる。全然暴れないね、オマエ。うりうり」

 

「可愛いなぁ、毛並み凄く綺麗。でもこうして見ると、榊原さんとこの子、凄く似てるよね」

 

「え、ホント? そっか……ボクと似てるんだって、嬉しい? やっぱり嫌? ふふふ、そっか」

 

「小雪、猫と喋れるのか。義経は驚いたぞ」

 

「喋れないよーでも嬉しいって思ってくれてる事にしたんだー」

 

「そ、そういうものなのか。義経には良く分からない」

 

「主、こういうのはノリだよ。んーでも、私はどっちかっていうと、一方通行っぽく見えるんだよね、その猫。なんか澄ましてる感じとか」

 

 

手放した温もりを惜しむとは、私らしからぬ感情だ。

榊原小雪の腕の中でも相変わらず尻尾以外は静かな白猫は、顎を指で撫でられるのが心地良いのか、紅い瞳をやんわりと細めた。

その仕草が、武蔵坊弁慶の発言に浮かばされたあの男の静かな横顔と重なって、思い浮かべたのはいつかの過去。

 

夜のベランダ、肌寒い月夜の風。

細くなる紅い瞳、仄かに微笑む白貌。

 

何故か、ほんの僅かに、頬が熱くなる。

風邪だろうかと押さえた顔は、直ぐに熱を失う。

私自身が私を隠す様に、紅が去って行く。

 

「あ、それ分かるな。というか、榊原さんと一方通行君自体が兄妹に見えるくらいそっくりだから、この白猫さんも両方に似てる。あ、私もちょっと触ってみていいかな?」

 

「いーよ」

 

「ありがとう、榊原さん……ぁ、この白猫さん、凄い綺麗な毛並みしてると思ってたけど……触ってみると、凄いね」

 

「ほ、本当か、十河。よ、義経も触って良いだろうか……」

 

「大丈夫じゃない? なんか全然動じてないし。でも、あんまりベタベタ触り過ぎたら駄目だよ、主」

 

「う、うむ。おぉ、おぉぉぉ、凄く滑らかな御手前だ…………ん? あれ、この触り心地……一方通行の髪に似てる」

 

「え、どれ……あぁ、確かにこのシルクっぽい感じ……なんだ、こんな所まで似てるのか。案外、一方通行だったりするのかな、コイツ」

 

「一方通行君が猫に? うーん、なんだかお伽噺みたい」

 

「はは、冗談だよ、十河」

 

「うん、分かって……ん? あれ? ね、ねぇねぇ、二人ってもしかして一方通行君の髪、さ、ささ触ったことあるの!?」

 

「うむ、実は一度、じっくりと触らせて貰った事がある」

 

「あれは良いものだった」

 

「ど、どうやったらそんなシチュエーションになるの……」

 

優しく撫で付ける掌に時折、肉球を押し付ける様に、どこか恐る恐るその掌にペチペチと触れる白猫を挟んで、女三人が騒ぎ立てている。

榊原小雪は猫の顎の感触が気に入ったのか、頬を緩めて延々と曲げた人差し指で擦っているのを尻目に、そういえば確かに、あの白猫の毛並みは、あの男の髪の質感に似ているなと。

 

重ねて思い出を繰り越して連なるのは、傷の舐め合いみたいな下らない感傷の夜の所為で、すっかり寝不足に陥ってしまった朝の情景。

あの白兎が寄る眠気に陥落した所為で、仕方なく私が梳いてやることとなったのだが、あの肌触りは格別だった。

それからも、ごく偶に梳いてやる事があるのだが、あの肌に吸い付く様な柔らかな髪質は男の癖に随分と上等な

のがやはり癪に触る。

 

「何を騒いでおるのじゃ」

 

「あ、心ちゃん。あのね……いや、うん。この白猫さん、凄く触り心地いいねって、うん。それだけだよ、うん。ちょっと羨ましいなってね、うん」

 

「??……な、なんか変な気もするが、まぁ良い……ふむ、では此方も。ふふん、喜ぶのじゃな。猫の分際で高貴たる此方に触れられる光栄を誇るが良いのじゃっ──って、へっ?」

 

「あ、猫パンチされた、ぷふっ」

 

「べ、弁慶。笑うのは失礼だ」

 

「いやだって主、不死川だけ……ぶっは、本当にこの猫、一方通行なんじゃないの? ックク」

 

「ふ、ふざけるでない! こ、これはあれじゃ、さっきまで井上と話していた所為で此方の高貴さが損なわれてしまったからじゃ!」

 

「おいおい、酷い言い草だな……まぁ偶々だろ、ほら、俺でも普通に触らせてくれるぞ」

 

「おや、良い血統なのでしょうね、確かに毛並みが素晴らしいですね」

 

「んに、にゅぐぐ、ふ、ふん! さっきのは何かの間違いじゃ、もう一回………………ふぇ、な、何故、何故またしてもぉっ……!」

 

「……やべぇ、俺もこの猫が一方通行に見えて来た。このあしらう感じ、毎朝見てるあれと一緒とすげぇデジャブすんだが」

 

「くうぅぅぅ猫の分際でぇぇぇ!! 覚えておるのじゃー!!!」

 

「あっ、心ちゃん! 廊下走っちゃ駄目!」

 

「……おや、二人とも行ってしまいましたか。フフフ、女泣かせなところも、彼に良く似ているみたいですね」

 

「若には言われたくないだろうよ、猫もアイツも」

 

「……あまり、撫で回すものではないでしょう。榊原小雪、返しなさい」

 

「えー……ま、いっか」

 

一頻り撫で回されながらも、逆にどこか小さな子供達をあやし付けた大人みたいに静かに鼻を鳴らす白猫を受け取れば、今度は不思議と尻尾までもが大人しくなる。

偉そうは偉そうだが、やけにその所作が馴染むのは、大人びた白々しさを貼り付けた横顔がまたも重なるからか。

 

「……あのよ、俺、自習とは一言も言ってないんだけど……はぁ、ま、いいか」

 

教卓で何やら苦労人のしゃがれた声が虚しく響いた気がするが、その毛並みと同じくらいに瞳に吸い寄せられる私には、気を寄越す事すら出来なかった。

 

 

 

────

 

 

 

 

(やはり、まだ帰って来てはいないか)

 

 

果ての境目に滲む斜陽はやがて、目尻に宵闇は滲ませて遠くで今も光を届ける彼方の面影を夜空一面に飾る。

それがまるで黒い涙を流している様に見えたのは、消え切らない戦場の跡が、今もどこかに残っている事を忘れない感傷に依るものだろうか。

 

朱赤とした夕焼けが、片側だけ開かれた黒い遮光カーテンの間から照らして、ガラステーブルの鏡面の上で鋭い銀光のステップを刻んでいる。

角度を変える度に踊る黄昏の一欠片、主不在の部屋で行われる極々小規模なオレンジの舞踏会が、当たり前の白を失っただけで、どうしてか、こんなにも虚しい。

 

「……」

 

与えられた教材道具も、男の癖にやたら舌を唸らせる弁当箱も入ってない学生鞄を置いて、乱れたシーツを僅かながら手直しすれば、結局その上に座るのだから形ばかりの徒労だった。

腕に収まったままの小さな命がピクリと小さな耳を畳んで、よもや怖がらせたのかと勘繰る右手が、私の意志を置き去りにしたままその耳ごと頭を撫でる。

 

柔らかく、滑らかで、癒されて。

なのに、まるで風船から青空を奪う、見えないほどの小さな穴が、勝手にどこからか空いてしまう。

何故だ、私は何を『寂しがっている』んだ。

 

「……」

 

「なァ」

 

腕と胸の間で垂れさがっていた私の暗い紅の髪を黙って見詰めていた白猫が見上げるガーネットに、映る顔が、眉を潜めて唇を引き絞っている顔が誰のものなのか、一瞬分からなくなる。

小さく鳴いただけの、アルトの中に掠れるテノール。

鳴き声を挙げただけなのに、なんであの男に素っ気なく呼ばれた時の、何気ない風景ばかりが脳裏に溢れてくるのか。

 

答える様に榊原小雪を倣って、白綿に覆われた喉を指先で擽れば、丸い紅月が日時計を進めていく様に、細くなる。

やがて新月を迎えて、再び姿を表した紅に映る私の片目が、白猫を真似る様に甘く視界を狭めて。

猫を抱く腕の力が、強くなる。

 

「……本当に、何処へ行ったのか。行き先も告げずに姿を消せば、梅子が心配する事なんて誰よりも存じている筈でしょうに」

 

ふわふわとした毛並みに顎を埋めて、制服に皺が出来る事もどうでも良いと思える奇妙な倦怠感に促される様に、ベッドの上に転がる。

唐突に角度を変えた世界に驚くこともなく、視界の端で、抱き締めたままの白猫が微かに身動ぎしたさと思えば、真紅の猫目が私の顔を覗き込んでいた。

一丁前に心配しているのだろうか、それとも突然ベッドに横倒れした私が不思議に思えたのか。

透き通る瞳の奥底で揺れる、ランプの灯火みたいな虹彩は、何も掴ませてはくれない。

まるで夕暮れか、あの夜の月みたいだ。

感傷ばかりを指先でなぞって、輪郭をただ浮き彫りにするだけの、あの男の『悪い癖』。

 

「折角です、オマエも拝聴しなさい。あの兎と似ている罰です」

 

「……」

 

「えぇ、宜しい。素直ですね、そこはあの兎とは異なるのですか。ふむ、良いことです」

 

「なァうォ」

 

そうだ、このどこからともなく現れた闖入者は、あの背中や横顔ばかりが目につく男とは違う。

その背を追わせず、私の背を追い掛ける。

下らない感傷も、余計な感情も、棘を含めた言葉も差し向ける必要のない相手なのだから。

だから、愚痴を吐くには丁度良い相手だ。

間延びした鳴き声を挙げる、静かな聴取者へと、語りかけるべく息を吸って。

ベッドから、気に食わない白兎の匂いがした。

 

「……良い気なモノです、誰も彼もの心を掻き乱しておきながら。オマエも学校で見たでしょう、あんな男の姿を見ないだけで当たり前の様に笑顔が曇る。たかが1日で、大袈裟な事です」

 

少し顔を傾ければ、頬に伝わる滑らかな感触とぼんやりとした熱が伝わる。

生き物にしては不自然な程の無臭さはささくれ立つ苛立ちに似た何かを摘み取るけれど、残る渇いた心音が微かに不協和音を響かせて、空虚ばかりが鼓膜に残った。

 

「十河も榊原小雪も、不死川心もクローンの二人も、不憫なものです。梅子も、きっと今も心配しているのでしょう。殺しても殺せない様な難儀な男に、そこまで心を折る必要などないでしょうに」

 

ああ、本当に分からない事だ。

武神と名を世界に轟かせる川神百代すら下せる男が、そう易々と危地に追いやられる筈もないだろう。

要らない事にまで頭を回す知性は気に食わないが、そこを凌駕出来るものなど、心当たりすら浮かばないような煮ても焼いても食えない男、心を配るだけ徒労に終わるだけだろうに。

何故、誰も彼も笑顔を曇らせるのか。

 

 

「どうして、不安になるのでしょう」

 

たった1日、それどころかまだ夜にすらなってないのに、どうして心が落ち着かないのか。

 

「口を開けば皮肉の応酬。憎たらしい口で気品のない言葉ばかり吐き出す男です」

 

別に常日頃から一緒にいる訳でもない。

特別親しみを持って接する間柄ではない。

尊くもない、お嬢様や中将閣下に向ける様な敬意などまるで無縁。

命さえ下ればいつでも狩ってやれる、他愛のない白兎。

 

「監視の役目が終われば、揚々とこの場を引き払える。あの男の住み家などではなく、お嬢様の側こそ私が居るべき場所なのだから」

 

いつから、私はあの男と過ごすのが当たり前になったのか。

いつから、私はあの男も共に囲む食卓に違和感を抱かなくなった。

 

「今日の私は可笑しい、ふざけている。出来の悪い贋作に成り果てている」

 

そう、何故なのか、分からない。

朝からあの男、一方通行の顔を見ていないだけで、戦場で食んできた保存食よりも数倍は上等な筈の昼食が、味気なく感じられた。

お嬢様に、元気がないと畏れ多くも心配させてしまった。

見詰め返す白猫の瞳に映る私が、まるで寂しそうに眉を潜めているのに、直ぐに気が付いて。

そんな訳がないと、馬鹿馬鹿しい、しっかりしなさいマルギッテと表情を引き締まらせたのは果たしていつまで保てていただろうか。

 

「何故、一方通行の行方が知れない程度で、こうも心が落ち着かないのですか」

 

可笑しい。

 

「ふとした拍子にあの男を探した」

 

奇妙だ、こんなもの。

 

「那須与一の捜索経過一つに、気を逸らせた」

 

歪なのだ、らしくもない。

 

「オマエが居ないだけで、何故この私が」

 

あり得ないのだ、こんな私は。

 

「──寂しい、などと」

 

 

低く掠れがちな声が聞きたいと思った。

 

鋭い罵声を投げ掛けたいと思った。

 

あの男が作った弁当が食べたいと思った。

 

皮肉がちに笑う横顔を、見たいと思った。

 

 

 

──ただ、いつものように。

 

 

 

 

 

──────

 

 

 

 

「ただ、そう。これは、見飽きた顔を見ないと調子が出ない、それだけの事です。生意気にも道理の知らない兎の分際で、上官である私の気を削ぐなど、万死に当たります。許される事ではないと知りなさい」

 

「……」

 

「報告もなく姿を消すなど、銃殺の末路を辿るだけの愚行だと、あのウサギに思い知らせてやらなければいけない。まぁ、中将から許可も無く、梅子が悲しむので、精々二、三発程度に留めておいてやる、感謝しなさい、一方通行」

 

「……」

 

「……オマエには、詰まらない愚痴を聞かせてしまいましたね。詫びに、キャットフードでも買って来ましょう。ついでに、今も何処かをほっつき歩いているバカウサギもさっさと見つけて」

 

最後に一つ頭を撫でて、何かしら吹っ切れたのか、軽い足取りと共に去って行った紅い麗人を見送った瞳が、窓ガラスの外へと向けられる。

隅から伸ばした宵闇の腕は朧気な夕日の周りを忍ぶように広がっていて、その境目で気の早い星の光がチラチラと瞬いていた。

 

「──」

 

やがて、マルギッテが居なくなって、躊躇う様な数分の静寂。

鳴き声一つ挙げない白猫から伸びた影が、蝋燭の炎に作られた幽かな闇みたく揺れて、揺れて、少しずつ膨らんでいく。

 

太陽は、下へと沈んでいくのに。

影は徐々に広がって、ゆっくりと膨張している現象は、非科学的な幻想絵空。

けれど風船みたく膨らんだ、ワンルームぽっちの幻想がやがて造り出したのは、情報深海の粒子へと光を纏って昇華する現象。

 

猫から、人へと。

 

 

「…………なンだってンだ」

 

 

不機嫌そうに喉を鳴らすのは、白糸の淡さから白銀の流麗さへと映え方を変えた、珍しく戸惑いと混乱を隠し切れていない、男のもの。

 

アクセラレータ、一方通行。

 

奇妙な符号ばかりを名札にぶら下げた大きな体躯を捻りながら、真紅の瞳は動揺を潜めてパチパチと瞬きを繰り返す。

 

とても長い夢を見ていた、とするにはあまりに現実感に溢れた映像の数々を、早くも褪せさせるほど彼の記憶野は都合が良くない。

 

何故か、目が覚めたら、一匹の白い猫になっていた。

ふわふわとした、地に足着かない浮遊感と微睡みの中で半分の意識だけを残したまま、猫になってしまっていた。

 

 

「……訳分かンねェ」

 

 

不可解な現象に振り回されてる自覚のないまま、猫になった自分は梅子やマルギッテの背を追い掛けていた。

何故かマルギッテの腕の中で安らいでいた。

小雪の腕の中でも、特に抵抗もなく。

差し伸ばされる掌を、甘受していた、様な気がする。

当然、そこに一方通行としての意志は介在していない。

 

 

「……チッ」

 

 

色んな顔を、色んな言葉を、色んな人から与えられて。

その全てが残っている。

不安に駆られる顔、影を差す横顔、誤魔化し切れてない焦燥。

自分が居なくなった、ただそれだけのことなのに。

 

 

全部、覚えている。

全部、焼き付いてる。

 

脳に、瞳に、鼓膜に、心に。

 

 

「あンのクソ犬……」

 

 

顔を突き合わせては喧嘩ばかり。

親愛など持ち合わせない、ほんの少し互いの境遇をちらつかせただけの女。

まともに名を呼び合うことさえ稀な相手。

口喧しい、いつからか牙を剥いて喉を震わせる事すらなくなってしまった、ドイツの猟犬。

 

 

『オマエが居ないだけで、何故私が──寂しい、などと』

 

 

「好き勝手言いやがって、クソッタレ」

 

 

どこの誰かの悪巧みにしか思えなかった。

 

ただ少し視界の低くなっただけの世界では、どいつもこいつもバカみたいに沈んでしまって。

隠すならちゃんと隠せば良いものを、読み取れるだけの甘さを残すバカの多いこと。

隠そうともしないバカの多いこと。

 

なんてザマを見せるのかと嘲笑えるなら、どれだけ楽か。

 

 

「……取り敢えず、クソ犬は晩飯抜きだ」

 

 

買って来たキャットフードでも貪ってろ、畜生。

 

紡がれない独白を、握り締めた拳が鳴る骨の音が代弁する。

 

夕暮れから夕闇へと変わるのは、僅かな変化、意識せず間に呉れる程度のものなのに。

 

 

こればかりは、意識するな、というのは無理難題だろうから。

 

 

 

 

 

 

とんだファンタジーをくれたどこぞの悪趣味な神様を殴り付けるように。

 

 

下ろされた拳が、ポスンと虚しく、シーツへと沈んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

______fin.



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Track1________影絵
一節『十人十色、星もまた』


 

陽射しの強さを憂うのは、夏だけで良い。

肌を切りつける様な寒さは、冬だけで充分だ。

兎に角、季節にはそれぞれ伴った気温があり、そういう認識を持って生きている人間にとっては、予想外の気温というモノは厄介に感じるモノだ。

 

機嫌をもたげた晴天の空が急に降らせる狐雨や、温暖化に伴って異常気温を叩き出す都会の夏もまた然り。

そんな真夏日の雨は、清少納言といえどいとおかし等と暢気に詠える訳がない。

川神学園、新学年の新学期 。

その初日は例年に比べて幾分か冷えており、暑さよりも寒さに弱い一方通行としては心持ちの下がる1日のスタートと云えた。

 

「ンで、良く風邪ひかねェよなオマエ。あれか、寺籠りの成果って奴なンですかァ?」

 

「ツルツルだもんねー! ハーゲハーゲ!」

 

「ユキは黙ってなさい。てか一方通行、俺は寺籠りなんてしてないの分かってて言ってるよな? そんなに頭ジロジロ見ながら敢えて避けるくらいなら、いっそ一思いに言えよ」

 

「うるせェよ。ただでさえクソ寒ィのに、見るだけで寒くなる頭しやがって。さっさと生やせ、一年中冬景色なモン見せられて、こっちは迷惑してンだよ」

 

「相変わらず、寒さには弱いようですね。こうなるのを見越してカイロを用意しているのですが、どうです? 宜しければ、ひとつ」

 

「くれ」

 

時刻は8時を差し掛かる頃、会社務めのサラリーマンは電車に揺られ、学生服を纏った少年少女達がそれぞれに通う学園へと向かう頃。

少しばかりの喧騒を背に、花を散らして尚、趣きのある桜木を横切る四つの影。

その1つである白い影は、少し気障な、しかしそれが良く似合う整った顔立ちをした少年――葵冬馬から手渡された使い捨てカイロを受け取ると、無言で加熱作業を敢行する。

白い影、一方通行に謂れのない罵倒を受けていた背高なスキンヘッドの少年――井上準は、あっさりと流されてしまった状況に、こういった役回りに馴れているのか、やれやれと溜め息を落とした。

一方通行と一緒になって準をからかっていた少女――榊原小雪は、気分屋なのかぼんやりと空を見上げていた。

 

吐息ほど白く染まることはないが、細長い指先でカイロを揺する一方通行と、その隣で変わらず視点を空へと定めたままの小雪の姿は、端から見れば兄妹なのかと思えてしまうほどに類似している。

互いに白の長髪に、紅い瞳。

小雪に関しては女性らしいプロポーションがハッキリと性別を判断させるが、一方通行の身体付きや顔立ちは、どちらかと言えば中性的。

服装を変えた二人の後ろ姿で違いを見分けるなら、背丈の違いか黒いヘアゴムで括っている一方通行の髪型、程度しかない。

 

「ボクにも貸して、いっつー」

 

「……」

 

薄曇掛かり気味な空から視点を隣へと移した小雪は、ホクホクとした面持ちで暖を取っていた一方通行に満面の笑みを浮かべながら、決め細やかな肌をした両手を差し出した。

いっつーと、愛称にしては杜撰な呼称で喚ばれていながらも、まるで妹の我が儘を仕方無く聞く兄のような面持ちで、小雪の顔めがけてそっとカイロを投げた。

 

「わぷっ」

 

「5分経ったら返せよ…………寒ィ」

 

ぽさっと乾いた音を鳴らして鼻で受け止めることとなった小雪は、手渡さずわざわざ投げて寄越した一方通行に無言の抗議を送るが、白い横顔はどこ吹く風で此方を見ない。

しっかりと時間設定まで設けてながらも、学生服のポケットに手を突っ込む事で寒さを凌ぐ辺り、なんだか変な処で律儀なのも変わらないと、準と冬馬は後を振り返ることなく笑った。

 

――こうなると思って、実はもう1つ用意しているんですけど、ね。

 

 

一年ともなれば、其れなりに付き合いも長くなる。

なればこそ、葵冬馬にとってはこの程度のことを予測するのは容易い。

けれど、用意もしており且つ必要となる場面であっても、敢えて黙っておこう、と。

振り返らなくとも、律儀に寒さを我慢している一方通行に珍しく気を遣った小雪が、うぇーいという奇妙な掛け声と共に、充分に暖かくなったカイロを一方通行に押し付ける光景まで浮かんで。

また一つ、葵冬馬の目尻が柔らかくなる。

 

 

「全く、若も人が悪い」

 

 

無論、井上準にかけては四人組のなかで一際、理解が深い。

となれば、冬馬が笑みを抑えている理由にもとっくに見当が付いており、微笑ましいからというのも分かるけれど、一方通行にちゃんと隠して欲しいものだと苦笑を一つ。

それでもやはり一方通行に余分にあるカイロの存在を教えないのは、微笑ましいと思っているのは彼もまた、なのだからだろう。

 

 

「準、貴方もですよ」

 

 

まだ5分経ってねェだろ、いーからいーから、そんなやり取りが後ろから聞こえてきて。

冬馬と準は顔を見合せて、笑みをより深く彩った。

薄曇りな淡い空の下、学園まで後20分。

久々の登校時間、もう少しのんびりと行こう。

 

心持ち緩くなった歩速に答えるように、冬馬のポケットのなかで乾いた音がカラカラと響いた。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

築何年経っているのかは分からないが、新築同様と往かないまでも小綺麗で清潔な教室というのは気分が良い。

新学期毎に清掃業者を雇い行き届いた清掃を行っているのは、キャンパス事業の宣伝効果にも繋がる為に、力を入れているというのも頷ける。

そもそも一方通行達の通う川神学園では、意欲活発な生徒が多くイベント行事も普遍的な学校と比べて頻繁に用意されており規模も多い。

学園全体で総掛かりなイベントもざるなので、必然的に清掃活動には気を遣っているのだと、食事の席で『だから苦労も多い』と半ば愚痴っぽく小島梅子より聴かされてはいたが。

 

仄かに香るワックスの匂いを少し懐かしいと思えるぐらいには、自分も『学生らしい学園生活』を送ることに『違和感』を感じなくなっているらしい。

それはそれで皮肉な事だが、と瞬きを一つ置き去りにして、一方通行は前学期の際に使用していた窓際の席へと歩み寄り、机の上へと学生鞄を置いた。

次いで、白いチョークの粉塵一切も見当たらない黒板の上に立て掛けられた丸時計を見て、時か分、始業式が始まるまで随分と余裕がある。

登校の道中、なんだか普段より輪にかけてゆったりとしたペースになっていた男子両名を怪訝に思ったものだったが、結局時間が余ってしまったことには変わらない。

 

 

登校組の面々と駄弁って時間を潰すのも考えたが、葵冬馬はクラス内の女子とトークと洒落混んでおり、井上準は目当ての人物と感動の再会をと隣の教室に突撃していったので割合、榊原小雪は今更冬眠の準備でもする気なのか、彼の後ろの席でマシュマロを栗鼠のように頬張っていた。

時折、おはようと声を掛けてくるクラスメイトに気の抜けた挨拶を返しながら、ぼんやりと教室を見渡してみれば、流石は成績優秀な生徒の集まるSクラス、既に大半の生徒が登校している。

一方通行としては利発的に早目の登校をしている訳ではないので、ご苦労なコトだと若干呆れながらもこういうブレない処は評価していた。

 

 

「って、何時までも無視するのは止めるのじゃ! さっきから意図的に視界から外しよって、南坂や小田原には挨拶返すのに、何故此方をスルーする!? そんなに此方との再会は取るに足らぬと!?」

 

「あァ、割と」

 

「むっきゃぁぁぁぁぁ! 雑な上にそこだけ返事するでない!」

 

ブレないといえば、コイツもそォなンだが、と。

ヒステリック気味に腕をブンブンと振り回しながら涙目で抗議する目の前の着物を纏った少女を見て、ハッキリと面倒臭いといった表情に顔をしかめる一方通行は、なかなかに容赦がない。

あまりに上下に腕を振るものだから、桜柄の刺繍が鮮やかな着物の袖は捲れて、線の細いながらに白く柔らかな二の腕まで見えてしまい、然り気無く彼女を盗み見る男子生徒もチラホラと。

けれど思春期特有の邪な視線などまるで気付かない着物姿の彼女は、相変わらずさも適当に自分を扱う目下の少年に対する抗議で一杯一杯だった。

 

「えぇい、いい加減此方を丁重に扱うという事をせぬか!この不死川 心に対しての狼藉、昨年にも増して度し難いのじゃ!」

 

「昨年から替わらず季節感のねェ、振り袖をファッションと勘違いしてやがるオマエに敬意なンざ無いに決まってンだろ。折角の上物も台無しなンだよ」

 

最早こういったやり取りをするのも何度目になるのか、一方通行の凄まじい記憶力をもってしても分からない。というか、真面目に思い返すのも馬鹿馬鹿しい。

不死川 心、余程振り袖に愛着でも沸いているのか、入学以来、彼女が学生服を着て登校してきた事は今までに一度もなかった。

ファッションセンスどころか季節感もなく、学生服ばかりの生徒達の中で唯一着物となれば、それは非常に浮くものだ。

 

別段、他人のファッションにまで口を出すような一方通行ではなかったが、これは幾らなんでも限度があるだろうという事で、かつて心と口論にまで発展した。

といっても目付きは鋭く真っ赤な瞳といった、客観的に見れば多少は怖じ気づく形相をした彼に見据えられて全く反論出来なかった彼女としては、口論というには余りに一方的なダメ出しであったが。

それに加え、不死川 心という人間は生まれ育った環境の所為もあって、家柄で人間としての価値を定めてしまう高飛車な面が強く、一方通行の容赦の無さに拍車を掛けた一因にもなっていたりする。

 

「えと、お、おはよう不死川さん……と、い、一方通行くん……」

 

 

「ン……あァ、十河か」

 

 

そんな折、彼女と彼の不毛なやり取りに割って入るクラスメイトの姿を見て、心は思わず目を丸くする。

どこか過剰なほど緊張気味に声を震わせる大人し目な少女の名前を、一方通行の口から聞いて、あぁそういえば、とやっと一致するほどに心は彼女のことを知らなかったが、どうやら目下の少年はそうではないらしい。

とある企業の社長の娘だとか、精々がその程度の認識しか残ってなかったので、彼女にとってはピンと来なかったのだろう。

 

それに、どうやら十河と呼ばれたクラスメイトにとって用があるのは、一方通行の方らしい。

控えめな彼女にはどこか似合うクリーム色のミニバッグをなかなか膨らみのある胸元に抱えながら、顔を赤くしながらも椅子に腰掛ける一方通行の隣へと歩み寄った。

 

 

「あ、あの……一方通行くん、CD有り難う。私クラシックしか聴いたこと、なかったから、その……とっても、良かった。また、何かオススメのあったら、かっ、貸してね」

 

 

「ン……探しとく」

 

 

「あ、ありがと……これ、中にCD入ってるから。え、えぇと……こ、これもそのまま使ってくれて良いからっ!」

 

 

「……そォか、有り難く受け取っとく」

 

 

それじゃ、とミニバッグごと一方通行に手渡してから、十河は半分ダッシュする勢いでそそくさと教室の入口側にある席へと着いた。

不死川 心にとってはあまりに急な展開だったので、つい惚けながらも視線は耳まで真っ赤にしたまま席へと戻ったクラスメイトに固定されたまま。

少し間を開けて、彼女の前の席であり恐らくは十河の友人であろう女生徒にニヤニヤとした面持ちで声を掛けられ、十河が分かり易いくらいに顔を赤らめながらも可愛らしくはにかんだ処で、耳に届いたガサガサとした不協和音に漸く心は我に返った。

 

 

「……わざわざ包装し直さなくても良いだろォに、律儀なヤツ」

 

 

何故だか居たたまれなくなって慌てた様子で視点を元の位置に戻せば、新品同様、ショップの店頭にそのまま並んでても違和感ないほどに開封前の状態になっているCDケースを片手に、少し困惑した様子の一方通行がわざとらしく溜め息を落とした。

『Nickel back』というアーティスト名が記されたCDジャケットを見ても、不死川 心にはそれが一方通行が気にいっている海外アーティストのアルバムということも、そもそもそれがアーティスト名だという事すら分からない。

パカリと口の開いた学生鞄に彼女から受け取ったクリーム色のミニバッグを丁寧に積み込みながら、案外丈夫なもンだな、買い物の時にでも使うかァと宣う白い顔が僅かに綻んだのを見て、少女は内心穏やかではいられなくなった。

 

不死川 心には、気の置ける友人が居ない。

過剰な傲慢、高飛車な性格が主な原因ではあるけれど、それを多少ながら自覚していても自分というモノを曲げることが出来ないのが、彼女の抱える重いジレンマであるし、密かな悩みでもある。

 

 

「ぐぬぬぬぬ……」

 

 

「目の前で唸るな、うざってェ」

 

 

思わず年頃の乙女には凡そ相応しくない呻き声が小粒な唇からこぼれ落ちる。

彼の机に顎をついては苦渋に満ちた表情で声にならない嫉妬を送る心を、口では冷たく罵る癖に面白いモノを見るような、細まる視線と伸ばされる白い手。

幼子をあやす大人のように、ポンポンと柔らかく叩かれる感触が、気恥ずかしいながらもどうしてか抵抗出来ない。

言葉を取れば突き放すように、けれど行動には見え隠れする優しさがちらついて。

 

だから、気に要らないけど、不死川 心はいつも期待してしまう。

言葉の冷たさと不明瞭な優しさ、そのどちらを信じれば良いのか。

もし、その不明瞭な優しさを信じていれば、いつか。

この男は、自分の友達になってくれるのではないかと期待して。

 

 

「子供扱いはやめるのじゃ!」

 

 

「心配しなくとも子供扱いはしてねェよ、馬鹿として扱ってる」

 

 

「むきぃぃぃぃぃ!」

 

 

彼方此方、形のない水のように。

定まることの出来ないでいる自分を、両手で掬いとって、上唇で弄ぶ。

いつか飲み干してくれるのか、そんな淡い期待を抱いたのはいつからだったか。

 

 

「フハハハハハハァ!!待たせたな、庶民共。 遅れながらも我、降臨であるッ!」

 

 

「流石です、英雄様!」

 

 

途端に喧騒に包まれる教室の空気に、やれやれと一方通行は辟易とした面持ちで肩を竦める。

目下でいつもの様に拗ね始めた我が儘な少女の慰め役の方が、いっそ楽かと思えるような台風の目の登場に、例の如く溜め息。

緩衝材を望むべくSクラスでは九鬼英雄のストッパー役を公認されている葵冬馬の助力を請おうにも、どうやら先程のCDのやり取りの一部始終をちゃっかりと盗み見ていたらしく、実にイイ笑顔で十河の方を見てはしきりに頷いているので、期待は出来ない。

新学期といっても、結局パターンは変わらないという事らしいと、一方通行は思わず額を抑えるのだった。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

「あ、ども」

 

 

「……直江か」

 

 

例年の如く行われる始業式と担任である宇佐美巨人の気だるげなホームルームを終えた一方通行は、珍しく誰も隣に居ない直江大和と遭遇した。

遭遇したというよりは、大和の方が彼を待っていたという方が正しいのかも知れない。

どこか年下然とした甘い顔立ちの少年に、交渉の場とは名ばかりの愚痴会場である屋上で鉢合わせることは、三学期の頃では珍しくなかったのだから。

無論、一方通行とのリベンジマッチのセッティングを命じられた彼が自ら此処に呼び出す事もあったが、どちらかといえば、今回のように鉢合わせる方が多い。

大和の方としては、もしかしたら来るかも、程度の心持ちではあったが。

 

 

「どうやら、今日は姉さんの来襲はなかったみたいだな」

 

 

「はン、顔を見れば分かるってか。そンだけの苦労を負って来た事の証明にもなりそォで、嬉しくて涙が出てくンよ」

 

 

「……ほんと、苦労人だな」

 

 

「オマエに言われる度、実感が余計に乗っかって来る」

 

 

ほんと、御愁傷様。

風の良く通る屋上のフェンスに肘を立てながら苦笑する大和に、それは此方の台詞でもあると言いたげに肩を竦めた一方通行の仕草は、成る程、確かに絵になるものだ。

美人顔はこれだから得だよ、と内心でプチ嫉妬を軽く抱きながらも、当人にはさほど自覚というものがないのだろうと、大和はこれまでの一方通行との会話で得た情報を基に分析した彼の人物像からして、そう当たりを付けた。

 

川神学園の生徒達の間で良く使われる、『エレガントチンク』という単語がある。

簡単に説明するなら、川神学園を代表する五人の美男子、つまりはイケメンということらしい。

年に一度、川神学園に所属する全女生徒が集結し、選挙投票と全く同じ手順で、各自一枚だけの白紙にこれぞ美男子、イケメンと思われる人物のネームを記して投票するというシステムである。

そして集計結果より上位五名が川神学園全女生徒公認イケメンのポジションを得られるという、川神学園らしい無駄にスケールを拡げた、且つ大半の男子生徒を敵に回すようなイベントの全容を知った時の何ともいえない一方通行の顔は、今でも忘れられない。

 

そう、直江大和の目下の少年もまた、そのエレガントチンクに堂々参列を果たしている。

そして恐らく彼は知らないだろうが、誰に似たのか何だかんだで面倒見が良い節がある彼のことを慕う年下然とした女生徒の間から、『兄にしたい男ランキング、ナンバー1』などという彼が聞いたら羞恥のあまり首を吊りかねない不名誉な称号を受け取っていた。

大和のクラスメイトであり同じくエレガントチンクの一員である源忠勝と並べては、川神学園の二大ツンデレと揶揄されているのも、最初にそれを言い始めたのが大和だという事も、当然一方通行には伝わっていない。

前者はともかく後者の事が彼の耳に入れば、武神を倒した唯一の男、まず大和は無事ではすまないのは分かりきっているので、それだけは全身全霊で隠し通す所存である。

 

 

「いきなりなんだけどさ、一つお願いしても良いか?」

 

 

身から出た錆の鋭さを思い出し、問い質された訳でもないのに肝が冷えたのを誤魔化すように、大和は早速と云わんばかりに本題を切り出す。

本来、こういった単刀直入な姿勢を得意とする彼ではなかったが、一方通行という相手に対し変に遠回りした所で、煮え切らなさに怪訝さを抱かれて不必要な警戒をされる事は身を以て知っていた。

そういった大和の心情を知ってか知らずか、一方通行は面白そうに口角を吊り上げながら腕を

組み、軽く頷くだけで次を促す。

どうやら、少なくとも川神百代の件では無いらしい。

となれば、Sクラスの誰かか、自分の同居人である小島梅子に関してか。

 

 

「実は明日、ウチのクラスに転校生が来るらしいんだよ」

 

 

「ほォ……」

 

 

少し白々しく笑う大和の口から出た言葉は、一方通行も聞き覚えがない。

教師は思っている以上に大変なモノだと半ば愚痴関連の話は梅子と良くするのだが、公私混同のラインを明確にしているのか、自分の受け持つクラスの事は彼女はあまり話そうとはしないのだ

ならばこそ、小島梅子が受け持つ2-Fに転校生が来るという情報を伏せていたのもいつもの事なのだろう。

さて、であれば彼の言う本題がおおよそ掴めてきた一方通行は、直江大和のお願いとやらを実行出来るかどうかを判断し、まぁ可能ではあると当たりを決めた。

相変わらず祭囃しの好きな連中だ、ウチのクラスの奴らが蔑視しながら愚痴を溢すところまで容易に想像出来て、溜め息。

 

 

「で、なんだけど。その転校生について小島先生にそれとなく聞いて貰えないか? 報酬も用意するぞ」

 

 

「まァ、ンな事だと思ったぜ。報酬は食券か?」

 

 

恐らく、その転校生とやらで何かやるのだろうが、大方トトカルチョといった辺りか。

詳しい内容や目的も話してないのに、大体の全体図を把握したであろう一方通行の頭の回転の速さに、仲間内から軍師と呼ばれている大和でさえ、思わず肩を竦める。

彼が何も聞かないというコトは、最初から興味が無いか、聞くまでもなくなったということ。

 

 

当初こそ転校生と聞いて、大和が見た中ではなかなかに食い付きの良い反応を見せていた一方通行が、最初から興味がなかったというのは考え難い。

となれば、後者。僅かな時間の中で仮説を組み立て、それを基に把握さえも終えてしまっているのだ。

本当に、死ぬほど相手にしたくないな、と。

細くなるルビーの瞳に言い知れぬ畏怖を振り払うように、大和は頭を振った。

 

 

「あぁ、十五枚でどうだろう?」

 

 

「奮発するじゃねェか、盛況って訳かい」

 

 

「まぁ、な。 それじゃあ分かり次第、連絡頼むよ」

 

 

「あィよ」

 

 

一方通行の協力を得られた事に確かな手応えを感じた大和は、笑みを浮かべながら一つ頷く。

一方通行の予想通り、転校生を利用して一儲けをする腹積もりなのである。

内容は、転校生は男か、女か。

二者択一なだけに分かり易いし、金も絡んでいるとなれば、ちょっとした情報に投資側は食い付き易い。

だからこそ、自分達はより正確な結果を知っておかねばならない。

今回のトトカルチョ発案者である風間翔一からは転校生は女であるという情報を得ていたが、如何せん情報源がハッキリとしないので、あと一押しが欲しいところだった。

 

 

そこで今回、一方通行に小島梅子から確かな情報を確保して貰う様に依頼したのである。

一応、大和自身でも聞き出してみたのだが、秘密だ、と可愛らしいウインクまで戴いて誤魔化された。

微妙にぎこちなく似合っていないながらも、ついときめいてしまったのはご愛嬌。

一方通行の協力も得られた訳なので、後は細かなレート配分の計算でもしながら連絡を待つだけ。

最後に軽く一礼して、直江大和は屋上を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

茜はまだ遠く、昼下がり。

バタンと閉じた扉の音に目を細め、フェンス越しにまだ蒼い空を見据える。

女性と見間違えるような長い睫毛が柔らかく震えて、瞬きと共に紅が咲いた。

 

 

「転校生、ねェ……」

 

 

はっきりとしたテノールは、少し眠気が混ざったように心無しか、甘い。

悪い姿勢をとっていたからか、硬くなった身体を解すように、首骨を鳴らす。

ゆらりゆらりと、踊る白く長い髪。

光沢放つほど色抜けたポニーテールがひょこひょこ揺れて、どこか気紛れな猫を彷彿とさせた。

 

猫にも虫の知らせがあるのだろうか、ふとそんな事を思い付く。

地震の前触れや災厄には殊更敏感な生き物だという逸話もある、あながち無いとも言い切れないだろう。

寧ろ気儘に生きてる猫だ、直感は強いのかも知れない。

 

 

――あまり、良い予感がしない。

 

 

転校生、そう直江大和の口から聞いてからというもの、どうにも落ち着かない。

悪い予感を知らせる様に理由もなくざわつく心、猫になった訳でもあるまいし。

ならば、ただの気の所為なのだろうか。

そうであれば杞憂で済むが、そうでなければ面倒だな、と。

 

悪い予感、どちらかといえばそうなのだと思うのに。

何故だか、それほど悪い気がしないのは、どうしてか。

 

 

顎を上向きに、白い影が蒼穹を睨む。

 

何もないところを見詰める猫のように。

 

挑戦的に光る紅の瞳は、閉じられない。

 

 

 

 

 

 

 

まだ遠く離れた空の下から

 

届いた、懐かしい硝煙の匂いに

 

白い猫の瞳が、細まる

 

 

 

 

 

 

 

『十人十色、星もまた』--end.



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二節『若桜、芽吹いて』

換気扇がカラカラと回る音を忘れる者は、そういない。

レンジの暖め終わった金属音に似た独特の音色や、流れる水道の音に混ざってカチャカチャと食器を洗う音。

まな板をノックする包丁の音にリラックスして、フライパンがコンロとかち合って鳴る、どこか錆びたような音に被さるように、油に絡まって食材が炒められる音を聞いて空腹が押し寄せる。

目を閉じて思い返してみれば、不思議なコトに思い出せないなんて事はない。

まるで脳裏に焼き付いているように、耳を澄ませば。

 

 

『それは、愛されてるって証拠じゃん』

 

 

さも偉大な発見でもした科学者みたく、得意気な顔をして笑う顔も、色褪せるコトなく。

どうだと云わんばかりに胸を張る女の意見にそういうものなのか、と納得しそうになって。

思わずへぇと返しそうになったのを辛うじて呑み込んで、皮肉に頼った自分の幼稚な一面もまた、良く憶えている。

 

 

『頭のネジ探しなら他を当たンな』

 

 

思えば、家庭というワードを連鎖的に繋げてしまって、意味もなく気落ちしてしまうことを目の前の女に悟られたく無かっただけかも知れない。

自分の保護者に当たる彼女は、そういう心の機敏にはとても聡い。きっと、自分では10年経っても届かないほどに。

わざとらしく鼻で笑ってやったのに、より一層笑顔を濃くしたのが、何よりの証明だった。

 

 

 

 

『照れなくていいって。お前がその音を思い出せただけで、私にとっては充分だ。今までが無かった分だけ、ちゃんと愛されて育つじゃんよ』

 

 

 

『頭撫でンな! 第一、オマエの料理は9割は炊飯器だろォが! フライパンなンてキッチンにあったか、あァ!?』

 

 

 

―――

――

 

 

 

「ン……」

 

 

炊飯器の甲高いコール音が耳に届く。

そろそろ頃合いと出来上がりのタイムカウントを見なくても感覚を身体が覚えていることに、一方通行は微かに苦笑を落とした。

菜箸でタレに浸けた豚肉を突っつきながら、一口。

此方も丁度良い塩梅だと一つ頷いて、フライパンの取手から手を離し、小匙の半分程度に豆板醤を器用に掬って、フライパンの中の豚肉と和える。

後は一瞬、先に塩コショウのみで味付けをしたキャベツともう一度和えて、メインディッシュである回鍋肉はこれで完成。

 

 

カッターシャツの上からつけていた黒のエプロンを外して、前髪を纏めていたヘアピンも同様に。

柔らかく、ふと過った暖かな懐かしさを宿した紅い瞳が、白髪に遮られた。

苦笑気味に上がった口角をそのままに、出したままの豆板醤の瓶詰めを冷蔵庫へと仕舞う。

 

 

「勝てねェな」

 

 

味ではない、足りない訳でもない。

暖かいのだ、彼女の料理は。

まるで、彼女――黄泉川 愛穂そのものの様に。

料理を作る切欠になったのは、決して彼女ではない。

けれど、作る内に、出来上がった自分の料理を食べる内に。

一方通行が半ば無意識に追いかけているのは、あの人のモノ。

 

思い出すのに苦労する事のないモノの、一つ。

黄泉川 愛穂の料理と、いつぞやに誰かが持ってきた、健康食ばかり詰まった弁当。

彼女の料理は、美味くて、暖かい。

誰かの弁当は、不味くて、暖かい。

 

 

なら自分はどうなのだろうか。

自分の作った料理を食べて、美味いかと聞いた事はある。

けれど、暖かいかと聞いたコトはない。

聞くだけの勇気も、きっと持ち合わせていない。

 

 

「……まだ勝てねェな」

 

 

悔しさというよりも、何処と無く当然に思える辺り、自分では到底に敵いそうにもない相手だったという事に、随分前から気が付いていた。

けれど、自分ではまるで敵わないということに、どうしようもなく安堵して。

やれやれと呆れ気味に零れた溜め息は、スイッチを消した換気扇の残響と重なって、甘く消えた。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「転校生?」

 

 

「明日来るらしいじゃねェか、Fクラスに」

 

 

わざわざ一度箸を置いて腕を組んで首を傾げる辺りが、小島梅子の礼儀正しさを示しているのだろう。

堅物だからな、と硝子のグラスに注がれた烏龍茶を口に含みながら、それが男を寄せ付けない仕種にも映ってしまうことを、もう少し自覚して欲しいと一方通行は内心でごちた。

肘もとまで降りた紅い瞳が、ひょいと上へ。

 

首を傾げたままの怪訝そうな梅子の面持ちに、まぁ不思議に思うだろうなと感想を一つ。

コトリと置かれたグラスの衝動で、ラウンジの電光が作る白い水面が微かに揺らめいた。

 

 

「大方福本辺りが騒いでいたんだろうが、仕方ないか。そうだな、急な話ではあったが、確かに明日、うちのクラスに一人増えるコトになるな」

 

 

転校生といえば、思春期の少年少女にとっては貴重な一大イベントである。

福本と呼ばれた生徒に、一方通行は覚えがある。

確か猿とかいうあだ名のつけられている、美人には目がないといった思春期の少年の欲望が凝縮したような、身体付きは小柄な男だった。

写真部か何かなのか、普段からカメラを持ち歩いているのが印象強い。

 

 

「時期的には有りがちな話か。頻発に転校を繰り返しているンなら、流れ着いた先が川神ってのは同情する」

 

 

「その川神の生徒が、川神の教師の前で言う台詞か、全く」

 

 

「決闘システムなンて不穏なルールがある学園だ、余所から来る奴からすりゃ、敬遠したくなるだろ普通。武道家だとかなら話は変わるが」

 

 

「実際目にした訳じゃないし、私自身も書類で知った程度だが、武道家だぞ。彼女のフェンシングの腕は達人並みらしい」

 

川神学園の教育方針は、生徒同士による切磋琢磨。

友情を育み、共に高め合い、青春を駆け抜けることを大事として。

そして社会に出た時に、胸に残った青い日々の宝石を思い出して強く前を向いて欲しい。

 

川神学園の長であり生ける伝説とまで謳われる川神鉄心が掲げる教育方針であり、互いに高め合う為の大掛かりなイベントやシステム。

その内の一つが決闘システムというものだが、成る程、内情を知らぬ者からしたら魅力を感じる前に忌諱するのではという一方通行の指摘にも頷ける。

しかし、一方通行の張った予防線に思わず反応してか、小島梅子は感心したように顎に手を添えたポーズで転校生の情報を落とした。

 

別に彼女自身、そう秘匿するつもりも無いのだろうが、思わぬ形で棚からぼた餅を戴いた一方通行は、気のないように、それとなく頬をかく。

 

 

「ところで、新学期が始まった訳だが……どうだ、Sクラスは?」

 

 

「どォ、と聞かれてもなァ。面子もほぼ変わらねェンだ、相変わらずってとこだ」

 

 

家庭ではあまり仕事の話は持ち込みたくない質な彼女ではあるが、転校生の事も話題に挙がった為か、クラスでの様子を尋ねれられる。

一方通行の保護者という面もあり、梅子の受け持つクラスに彼は居ないので、割と学園で顔を合わせることも少ないのもあってか、どうやら気になっていたようだ。

しかし、彼のいるSクラスは他のクラスと比べ特殊な部分があるとしても、一方通行としては大体が見慣れた面子であるので、然程変化を感じていない。

 

 

相変わらずと彼の口から聞いて、小島梅子はほっと安堵していた。

去年の、川神学園の入り立ての頃は彼自身は今のような落ち着きはあったが、Sクラスで度々起きる騒動に、自主的にか、巻き込まれただけなのか、彼はほとんど関与していた。

その騒動というかトラブルというかがあった影響か、今の一方通行は意外に交友関係が広い。

 

彼と知り合うコトとなった当初から間もない時期には、人間関係の構築に関しては特に不安視していた梅子だったが、彼自身が乗り越えたコトも多くあったのだろう、今ではその心配はあまりしてない。

というよりは、急に大人の男の顔をするようになった一方通行を見て、余計な心配は返って障害になりそうだと、ただ見守ることにしたのだ。

弟の成長を見守る、姉のように。

時折、寂しく思うこともあるし、ふとした拍子に見える大人びた彼の仕種に、何だか落ち着いていられなくなるけれど。

 

 

「なんだ、良い学園生活を送れているみたいじゃないか」

 

 

ベランダに続く硝子戸が、外から流れる風に押されて、カタカタと鳴る。

耳を澄ませるように甘く閉じられた目蓋の先、長めの睫毛が落ち着きなく揺れていた。

猫は自らの髭で、そこから危険を察知する生き物と言われているが。

なんとなく、彼の場合は、髭代わりのようなモノなのかもな、と。

 

 

「どォだろうな」

 

 

薄く開いた紅が、悪戯に下を向く。

熱も帯びない淡々とした苦笑は、彼の癖の一つであることが分かる人物は少ない。

暖かな喜色を浮かべるコトに馴れていない彼が見せる、下手くそな笑顔。

差し出される掌をどうして良いか分からなくて戸惑う捨て猫の瞳と、下を向く紅い瞳が強く重なってみえて。

 

少しばかりの切なさを飲み込むように、梅子は置いていた箸を手に取った。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

――風が一陣、後ろ髪を拐う。

 

もう少し紳士的にアプローチすれば良いものの、冬の名残をまだ惜しんでいるのか、白雪に似たその煌めきに心打たれた春風は躊躇うことなく白を奪った。

扇状に広がる長い髪が、少女の視界を遮る。

流れ星のように疾走していた世界が、悪戯に時を止めた。

 

 

少女にとって、今の状況は二度目である。

けれど、瞬き一つ程度の僅かな刹那のなかで。

あの時とは、どうしてこんなに違うのだろうか、と。

見つからない答えを求めるように、身体が動く。

 

 

――目の前の白に、手が伸びた。

 

 

――結果がどうあれ、後悔はない。

 

 

 

 

「すすすすすすすすすいませんすいませんすいませんっ!!あ、あのあの、わわ、私っ、急いでて前をですねっ! 」

 

 

「…………」

 

 

「けけ、決して故意ではっ! 思わず手を突き出したのも決して安易な考えからではなくてつい身体が動いてしまって、その、あまりにも綺麗だったので……て私初対面の人にいきなり何をっ!? 違うんです今のは口説いたりとかそういうことじゃ!!」

 

 

 

前言撤回、全力で後悔していた。

少女――黛由紀江は、我ながら驚嘆に値するほどの超絶早口で謝罪の言葉を物言わぬ背中に述べるが、やはり返答はない。

気を失っているのかと疑ったが、前のめりに倒れた男のピクピクと動く指先がそれを否定する。

ならば、怒りのあまりに声が出ないのか。

多いに有り得そうなその予測に、ますます萎縮する由紀江だったが、男の主張はそこではない。

 

 

「……男を敷きながら謝ンのが趣味ってかァ?」

 

 

少し震えた、テノールボイス。

砂利を弾く軽快な音に混じる低音は、空気と絡み合うように響く。

ほっそりとした白い手が地面を掻くのと同時に、振り向いた白い草原に、紅い華が咲いた。

 

 

「そこ退けっつってンだ!!」

 

 

「は、ははははいィィィィ!!」

 

 

大気を震わせる狼の遠吠えに、心臓を鷲掴みにされるような錯覚に陥りながらも、慌てて飛び退いて、気付いた。

後ろから突飛ばし、そのままの勢いで馬乗りになった挙げ句、ひたすら謝罪を続けていた自分に。

 

無言で立ち上がり、学生服についた砂利を手で払う男の背中を、由紀江は処刑台に登る罪人のような心境で膝をつき、頭を抱えた。

また、やってしまった。

しかも今度は突飛ばした上に馬乗りのコンボ、制服は砂まみれで汚れてしまっている。

つい先日も由紀江は彼女と同じ寮に住む直江大和という上級生と軽くぶつかってしまったのだが、幸いなことに怪我をさせることはなかった。

 

しかし、今同様に刀を持ち歩いている事で誤解を生み通報され、危うく警察の世話になるところだったが、それはまだ良い。

けれど、今回は不味い、非常に。

明らかにただでは済まない衝突だったし、服も汚れて……わざとじゃないにしても傷害罪として訴えられても、おかしくない。

どう謝れば許してくれるか、土下座の1つや2つは勿論のこと、クリーニング代はいくらになるだろう。

破けてしまったのなら、賠償も当然だ。けれどそれだけで許されるのか、すんなり立ち上がったところを見ると骨折はしてないようだが、背後からの衝突なんて一歩間違えば大惨事、なにか、なにかしなくては。

 

 

ぐるぐる、ぐるぐる。

考えが一向に纏まらない、由紀江は思わず涙ぐんでしまう。

友達を作ることも満足に出来ない癖に、こんなことで誰かに迷惑をかけてしまう自分に嫌気がさした。

膝をついたままの彼女の背中が、微かに震え、顔を俯かせる

瞳にたまった水滴が一つ、膝に落ちた。

 

 

「往来で座ンな、通行の邪魔だろォが」

 

 

「ぅ、え……?」

 

 

涙で滲んで揺らぐ景色を、白が遮る。

ほっそりとして儚いとすら思ってしまう手に、膝にのせていた腕を掴まれた。

溜め息混じりのテノールが聞こえた時には、見掛けに反して強い力。

それに促されるように立ち上がり、視線を上げれば。

怒りというよりは明らかに困惑とした紅い瞳が、窺うように此方を覗き込んでいた。

 

 

「普通、逆だろ」

 

 

「え、えと……」

 

 

どうしたら良いのか、分からない。

それは寧ろ、つい先ほどまで自分の思考を覆っていた言葉のはずなのに。

溜め息混じりに前髪を掻く目の前の青年が、今にもそう呟いてしまいそうな表情をしている。

実際に呟いた言葉は、違ったけれど。

未だに動揺が取れない由紀江の思考回路では、彼の呟いた言葉の意味を上手く理解出来なかったけれど。

 

 

「なンでオマエが泣いてンだか……」

 

 

「っ!!」

 

 

白い指が滑らかに伸びて、頬を掠める。

踊るように乗せられた雫を見て、漸く由紀江は自分が泣いていたことに気が付いた。

動揺していたのは確かだが、まさか涙を流していただなんて。

それも、知らぬ人の前で。

 

 

「お、お見苦しいものをお見せしてすいません!」

 

 

慌てて頭を下げて、必死に涙を拭う由紀江に、そっとハンカチが差し出される。

深い青の生地に水色の糸でアルファベットの刺繍がされているそれを見て、思わず固まる。

使え、というコトなのか、これは。

けれど使っても良いのだろうか、多大迷惑をかけてる手前、どうしても抵抗感が募ってしまう。

恐る恐る青年の顔を窺えば、さっさと使えと紅い瞳が促した。

 

 

「あ、あぁありがとうございます……」

 

 

「……ン」

 

 

恐縮のあまり震えてしまう指先が、なんとかハンカチを掴む。

ハンカチが由紀江の手に渡った事を確認した青年は、どこか辟易としながらも頷くと、近くに放り投げられていたらしい彼の学生鞄を取りに向かっていた。

てっきり罵詈雑言を受けるものだと思っていたのに、寧ろ施しをかけるような青年の行動に半ば茫然としていた由紀江だが、ずっとそのままの状態でいられる訳もなく。

白い背中が学生鞄を拾いあげるところで、涙で濡れた目元にハンカチをあてた。

 

 

借り物のハンカチに、皺を作るのはいけない。

異性からのこのような優しい施しを受けたのは父以外は初めてだった由紀江は、ついつい緊張してしまって落ち着かない掌の力を抜くことにすら、悪戦苦闘。

あまり力を入れ過ぎては、ハンカチに皺を作ってしまい、恩を仇で返すことになると思ったのだ。

たどたどしい手つきで目元を拭うと、鼻腔を擽る優しい洗剤の薫り。

思わず強く嗅いでしまいそうになるが、これ以上初対面の相手の印象を悪くしてしまうのだけは避けたいので、堪えた。

 

 

しっかり右と左で三度ほど、なるべく皺を作らぬようにゆっくりと。

覚束ない手つきながらも確実に渇いているかを手で確認して、とりあえずしっかりと謝罪をと心に決めた。

少し息を吸って、吐く。

そして開けた視界のまま、謝罪の言葉を紡ごうとして――固まった。

 

 

「……ふえ?」

 

 

思わず、今までの人生のなかで一番ではないかと思われるような、間の抜けた声が喉元から滑り落ちた。

瞬きを二度、キョロキョロと周りを見渡すことを三度。

 

 

――少し背の高い白い背中は、もうどこにも見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おや、どうしたんです一方通行。ところどころ、制服が砂で汚れていますよ?」

 

 

「何でもねェ、転ンだだけだ」

 

 

「おいおい、珍しいな。石にでも躓いたのか?」

 

 

「ぜーんぶ白いから、余計に分かりやすいねー」

 

 

「うるせェよ、オマエら…………まァ、石にしちゃ大き過ぎたと思うンだがな」

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

転校生は男、らしい。

 

 

他のクラスの事といえど、そういった噂が話題に上がるのはS組とて同じコト。

ましてや隣のクラスであり、去年から何かと対立したり衝突したりと、云わば因縁の相手であるF組の話となれば、より一層論点がその話題に集中するのも無理はない。

あちらこちらで、転校生、F組、落ちこぼれ、といった単語が拾えるほどに。

カーテンの作る柔らかなドレープを手持ち無沙汰に指先で突っつきながら、一方通行はまた面倒なことにならなければ良いが、とつまらなさ気に目を瞬かせた。

 

 

成績優秀、ともなれば勉学に力を入れる生徒が多いS組は、少し他のクラスと異なるシステムがある。

簡単にいえばこのクラス、成績が上位でなければ所属出来ないという条件が設けられており、更にいえばその最低水準を下回れば、即、脱落と非常に厳しい。

その所為もあって成績をキープするための勉学も欠かすことなく、より上位にという野心も強い。

川神学園の掲げる切磋琢磨をよりシビアに取り入れたシステムという形になるので、一人一人はその競争を勝ち抜いているのだという自負を持っているのも当然といえた。

 

しかし、その後押しに加えて元来の気性も関係しているのか、このクラスの生徒は大半がプライドの高い者達ばかりである。

特に酷い者は、自分達を特別視し、他を見下す。

内心で留めるだけならまだしも、視線で侮蔑し、言葉で貶すのだから手に負えない。

皆が皆、そういう訳ではないのがまだ救いだが、絵に描いたようなエリート精神には辟易している一方通行であった。

 

 

そんな彼らが隣のF組を敵視するのは、単純である。

問題児の集まりとして知られているF組は、とにかく騒がしい。

個性が強い者も多く、そこのリーダーシップを握る生徒が祭り好き、という性格が災いして騒がしいに箔がついていたりして、それを授業の妨害だというのがS組の主張である。

まぁ、一方通行からしたら両者共に問題があるので、実に馬鹿馬鹿しいことだと思う他なかった。

 

 

「それにしても、転校生は男、ですか。興味深いですが、少し引っ掛かりますね」

 

「噂の広まり方が、急過ぎるってかァ?」

 

 

「えぇ、そうです。昨日の今日で分かったにしても、今の時刻からして少し早すぎますね。まだホームルームまで暫くあるのに、既に噂は、ほぼ全クラスに至っています」

 

 

となれば、少し意図的な計らいが見えてくる。

腑に落ちないという割には、別段気にしていないような微笑を浮かべたままの葵冬馬に、まァこいつなら勘付くとは思っていたと、内心で嘆息を一つ。

発想は悪くないが、少し詰めが甘い。

賭けの決着が着く直前のタイミングに、そのような情報が流れれば確かに大半はその情報を信頼する。

しかし、わざとらしさが拭い切れていない。

明らかに全生徒に情報が流れることを考慮する為に比較的早い時間を選んだのだろうが、それでは勘の良い奴には気付かれるだろう。

 

となれば、賭け事はF組のみで開催されているということか。

詰めが甘いとはいったが、対象によって情報の使い方をしっかりと認識しているところを見ると、なかなかどうして、直江大和という男は思った以上に強かである。

昨夜メールで送った、転校生は女、フェンシングの使い手、という2つの情報と流れている噂とを比べてみれば、賭けの内容も特定できたようなものだ。

 

 

「となれば、意図的に流された噂という線が強いでしょう。まぁ、私としてはどちらでも構いませんが」

 

 

「若としちゃ、男でも女でもって意味でもあるんだろうけどな」

 

 

今更だが、葵冬馬は両刀、つまりは男でも女でも、どっちでもイケるという奴らしい。

その事を始めて知った時は言い知れぬ戦慄と共に後退ったが、本人曰く、一方通行と井上準、榊原小雪と九鬼英雄はその限りではないらしい。

冬馬にとって友といえる者は対象に含まれないという事を聞いて、安心して良いのか悪いのかの判断については、未だよくわかってないが。

 

兎も角、主に男子が騒がしいこと請け合いなF組であれば、女生徒の転校生にまた一つ騒がしくなるのは目に見えている。

となれば、必然的にS組の連中のフラストレーションも確実に溜まっていき、直に再び衝突ということになるのだろう。

特に――

 

 

「にょほほほ、山猿が一匹増えるとは、より獣臭くなって敵わぬな。そう思わぬか、一方通行よ」

 

 

「なンだ、居たのか」

 

 

「居たのかではない! なんじゃお主は昨日に引き続きほんとーに! 此方を蔑ろにしなければ気が済まぬとでもいうのか!?」

 

 

「あァ、割と」

 

 

「にょわぁぁぁ!!昨日と全く同じ杜撰な態度を取りおってぇぇぇぇ!!」

 

 

特に、コイツとか。

まさに先陣切って乗り込むだろうな、と余程雑な扱いが堪えたのか、まるまるとした瞳を涙で滲ませている、口の割にはメンタル足りない目下の少女。

昨日と同じ杜撰な対応な一方通行に比べて、叫び声のバリエーションまで増やしたリアクションを見せる不死川 心に、芸人でも目指しているのかと突拍子のない感想を抱く。

ドライな表情をしているものの、女に泣かれるのは避けたい心情の一方通行は、溜め息混じりにポケットを細長い指でまさぐって、気付いた。

 

 

本日持参のハンカチは、今朝の女生徒衝突事件の際に手渡して、それっきり。

なんだかやたら哀愁漂った雰囲気をしていたのでさっさと切り上げたのだ、当然手元にハンカチが戻ってきている訳がない。

 

 

「なんじゃなんじゃ、そうやって無下に扱ってからにぃ。ぐすっ」

 

 

「メソメソすンな鬱陶しい」

 

 

やはりメンタルが脆弱である心は、すんすんと鼻を鳴らしながらも怨み言を止める気配がない。

余程根深いのか、それとも今までの積み重ねか。

小さく舌打ち一つ落とすと、朝の時と同じように手を伸ばす。

苛立ちは浅いながらも舌打ち一つにピクンと大袈裟に肩を震わせた心の、時が止まった。

 

 

少し骨張った長く白い指先が、割れ物を扱うかのように繊細な動きで、心の目元から頬を撫でる。

僅かにざらついた感触と、ひやりとする冷たさ。

面倒くさげに細まる紅い瞳が瞬くと同時に、白い指先が反対側も同様に。

思いもしなかった展開に、呆気に取られた心の口は半開きだったのだが、今の彼女にそんなことを気にする余裕なんてない。

それに、気付いたところで出来なかっただろう。

固まってしまった不死川 心の時間を進めるのは、いつも彼の憎まれ口なのだから。

 

 

「間抜けを晒せとは言ってねェンだが」

 

 

「にゅ、にゅっ!?」

 

 

にゅ……? と怪訝そうに首を傾げる白い顔。

パクパクと餌を求める池の鯉さながらに口を明け閉めする心は、震える掌を急速に体温が上昇している為に熱さを増す両頬に当てる。

若干、錯乱としているらしく、左右へとかぶりを振ったまま、心はぺたんと床に座り込んでしまった。

 

 

「にょ、にょ、にょわぁぁぁぁぁ!! い、いいいきなり此方の顔をしゃわるでにゃい、このばかものぉ! こ、此方の……此方の、頬をっ……!」

 

 

ひょっとすれば、熟した林檎の方が色が薄いと思えてしまうほどに顔真っ赤に染める心の言葉は、もはや日本語かどうかも怪しいレベルである。

顔の熱を冷ましているつもりなのか、頻りにブンブンとかぶりを振って叫ぶ為、彼女の柔らかな黒髪が凄まじいうねりをあげていた。

いくら彼といえど、このような状態になった心など見たことがない。

思わず呆気に取られながらも、隣であちゃーと毛髪のない頭を押さえている井上準へと助力を求める一方通行。

 

 

「……どォなってンの、これ」

 

 

「いや、どうもこうも……錯乱してるぞ、不死川」

 

 

「なンで」

 

 

「そりゃオマエ、お前に触られたからだろ」

 

 

「俺がこンな奇っ怪な状況を自分から生み出す訳ねェだろ、事故だ事故」

 

 

「まぁ、事故っちゃ事故なんだろうけどなぁ……」

 

 

やれやれ参った、と念でも唱えるように掌を縦に構える準からは、結局分からず終い。

昨日と違って何故か居ない英雄とメイドの闖入もなかったので、ホームルームの時間が始まるまで気が触れたように騒ぎ立てる心を一人で落ち着かせなくてはならなくなった。

ちなみに、冬馬と小雪にも助力を要請したが、冬馬には薄く笑われるだけで手助けはなく、小雪に至っては満面の笑みでひたすら心にマシュマロを押し付けるだけの役立たずとなってしまったのは、全くの余談。

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

視線を感じた訳ではない。

目に見えぬ何かを感じる訳でもない。

 

けれど漠然とした感覚は、確信に近いそれと変わる。

 

 

 

 

「クリスティアーネ・フリードリヒ! 姉妹都市であるドイツ、リューベックより推参!!今日よりこの寺子屋で世話になる!!」

 

 

 

 

窓の外、広々としたグラウンドを、馬に跨がり大地を駆ける、金髪の美しい少女。

明らかに時代錯誤な光景に、皆が呆気に取られるなかで。

 

一方通行は、どうしてか、気になった。

 

明らかに日本人ではないというのに、滑らかな日本語で高らかに名乗りを挙げる少女に、ではない。

危険を察知したように鋭く尖る紅い瞳の、視線の先。

彼が壁越しに睨むのは、隣のクラス、F組で。

 

 

――懐かしい、硝煙の匂い。

 

 

――戦場の風を纏った不穏な予感は、もうすぐそこまで来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『若桜、芽吹いて』--end

 

 

 

 



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三節『空に唄う約束』

快活と滲む空に、朝焼けの名残が鮮やかに浮く。

千切れ雲と躍る曖昧な陽光は、それでもイカロスを堕とすだけの熱を失わない。

強過ぎる白光は、それだけで他を喰らう。

闇も、影も、月も、星も。

ただ在るだけで、何もかも。

 

 

「さて、我が友、一方通行。貴様は、軍配がどちらに傾くと見る? 我としては愛しの一子殿を応援とするのが当然なのだが、あのクリスティアーネと云う生徒、並々ならぬ。此処は一つ、参謀の意見を問いたい」

 

 

「勝手に参謀にすンなって言ってンだろ。第一、聞く相手間違えてンだよオマエは……俺に聞くより、メイドに聞いた方が納得のいく意見をくれンだろ」

 

 

思えば、ある意味似たような存在なのかもしれない。

常に輝きを曇らせない、隣で大口開けて快笑するこの男は。

時にはたまらなく迷惑で、問題な面も多々あるが、それでもそういう奴なのだと人々に受け入れさせる事が出来る人間は、そういない。

自分より少しばかり背の高い男の横顔を眺める紅い瞳が、眩しいモノを見るよう、細まった。

 

 

「フハハハ! 確かに、我が従者たるあずみならば、真たる答えを君主に示すのは容易であろうよ。 しかし、我は貴様の意見を聞きたいのだ、一方通行」

 

 

朝方におよそ似つかわしくない大衆の歓声の中でも、九鬼英雄の声はおいそれと掻き消されたりはしない。

芯の通った、才気溢れる王の周波。

鋭い気高さに満ち溢れる瞳の先に、二人の少女の姿が在った。

 

 

「てやぁっ!!」

 

 

「ッ……」

 

 

身の丈以上はありそうな薙刀を片手で翻し、追撃の二ノ太刀を放つ少女の、秋の紅葉を彷彿とさせる色濃い赤茶の髪が舞う。

挑発的に爛々と光る瞳で先を見据える少女は、川神一子。

快活にして努力家、前向き、そして常にひたむきな姿勢と整った容姿は、川神学園の名物として扱われるほどであり、口にした通り、九鬼英雄が曇りなき恋慕を寄せる相手でもあり。

そして、川神百代の義理の妹であり――密かに一方通行が避けている人物であったりする。

 

 

「こんのっ!!」

 

 

「フッ……!」

 

 

浅い呼吸一つ。

下段から放たれる掬い上げの一手を、余裕すら感じさせる足取りで下がった少女は、金色。

闇夜を浮かぶ月にも、あまねく照らす太陽にも映る美しい金色の髪がなだらかに揺れ、観衆は男女問わず、その煌めきに魅了される。

凜とした眼差しは宝石のように、僅に汗が伝う肌は白く美しい。

クリスティアーネ・フリードリヒ。

今日の川神学園を盛大に賑わせるドイツよりの転校生、その人であり、彼女は今、川神学園による武の洗礼を受けていた。

 

 

――決闘システム。

 

 

川神学園の学長、川神鉄心の掲げる切磋琢磨の理念。

それを助長する為のシステムであり、内容もシンプル。

言わば、合法的な決闘という場を設け、学園内のあらゆる生徒にそれを行使する権利があり、教師陣はそれをサポート、時には審判を務めたりするというモノ。

行使する為には、決闘に参加する生徒に支給されている、川神学園の校旗をモチーフに作られたワッペンを互いに重ねるだけ。

また、武器の使用不使用関係無く肉弾戦など怪我の恐れが発生する場合は教員会議での許可の申請、または学長の川神鉄心による承諾が必用など、バックアップ体制を整える為の手順が細やかな場合もある。

 

ちなみに武器使用に関しては学園側から用意された武器のレプリカのみ許可されるという、なるべくの安全措置の管理もしっかりと行われている為、決闘システムはやや頻繁に行使されていたりする。

 

 

「なンだ、オマエもF組のトトカルチョに一枚噛ンでるってのかァ? 」

 

 

「フハハ、無粋だぞ一方通行。一子殿の真剣勝負に、この我が、賭博などに介入するものかよ」

 

 

「はン、そォかい」

 

 

無粋かどうかは兎も角、英雄が一子へ大量のチップを賭けるシーンは簡単に想像出来てしまったので、これは日頃の英雄の接し方に問題があるだろう、と薄情な責任転嫁。

どうにも失礼な一方通行の態度に一言物申そうと一歩前に出るあずみだったが、英雄が腕で遮り、良い、と苦笑混じりに宥めるので、渋々下がる。

そんな一幕を横目で見て、今のは我ながら戴けなかったなと頬を掻くと、詫びのつもりなのか、目下で繰り広げられる激しい戦闘へと視線を落とした。

 

 

「ていッ!」

 

 

「くっ……」

 

 

切り上げの姿勢からの、ステップ一つ後方に落としての横一閃。

距離を保とうと一歩進めたクリスに迫る薙刀の刃を、彼女は苦汁の息を零しながらも片足で重心を固定し、首を上げるだけで避けてみせた。

整ったボディバランス、意表をついた一子の一閃もなかなかだが、釣られながらも身体能力と足捌きのみで回避するクリスもまた、明らかに武人というやつの水準を凌駕している。

特に、クリスの視線と呼吸のタイミング。

相手のリーチを測りながら、頭の中で踏み込むべきタイミングを照らし合わせているのだろう、時折息を吐く時に意味もなく肩先がピクリと動いているのを、一方通行は確認した。

 

 

「……分が悪ィな、妹の方は。一発貰うの承知で畳みかけねェと、負けるぜ、アイツ」

 

 

「一子殿が、か……しかし、一子殿の方が圧しているようにも見える。どういう事だ、一方通行?」

 

 

腕を組ながら鋭い視線を向けていた一方通行の唐突な発言に、英雄は怪訝そうな眼差しで彼を見下ろす。

確かに、英雄の言う通り、客観的に見れば一子の方が攻め手が多く、クリスを圧しているようにも見えるし、大半の生徒は一子が優勢と見ているだろう。

しかし、そうではないとでも言うかの様に、一方通行は僅かに口角を歪ませた。

 

 

「フェンシングに詳しい訳じゃねェが、あの手の競技はいかに踏み込んで一打を浴びせるかの駆け引きがメインだろ。竹刀よりも面積の狭ェもンを見極めて、かつ間合いを消す。そンな競技の達人ともなりゃァ、時間を掛ければ悪手になる」

 

 

「なるほど、クリスティアーネの攻め手が少ないのは、そういう事か。となれば、薙刀を振るう回数が目立つ一子殿の方が、長期戦の分が悪くなる、と。うむ、よき分析である」

 

 

一方通行が並べた判断材料と見解には、納得させられるほどの説得力がある。

クリスの肩の動きや息を吐くタイミングなど、かなりのスピードバトルであるにも関わらず細かな仕草まで見抜く洞察力と視力の良さは、非常に秀ていると言っても過言ではない。

これがもって生まれたモノでもあり、また、『鍛練』の成果である事を『知っている』英雄は、満足そうに頷いた。

 

 

「ふン……踏み込みの深さと耐久性はあるあの修業馬鹿だ、最初っから短期決戦で行きゃァ勝ちの目も出てたンだろォが――」

 

 

どこか詰まらなそうに鼻を鳴らしながら、紅い瞳が確信を抱いたように、スッと細く尖る。

凶暴さこそ無いけれど、まるで獣のような瞳が見据える先。

一方通行の瞳と同じように、鋭く細まる蒼の瞳が、瞬く。

 

 

「――時間切れだ」

 

 

踵を返して、二年の校舎であるB棟へと歩先を向ける一方通行。

風に載って翻える白髪が、背中に宿す情感を隠すかのように重なる。

足音も響かぬ歓声の中で、黄金の彼は留めることもなく。

やがてその白い背中に走り寄る、見慣れた三つの人影を見届けて、英雄は一つ頷いた。

 

 

『そこまで! 勝者――クリスティアーネ・フリードリヒ! 』

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

霞ゆく太陽が沈むにはまだ早いが、夕刻の茜が空を覆うには、そんなに遠くはない。

校舎の中からでも充分に聞こえる生徒達の喧騒は、気力に満ち溢れている。

川神学園は生徒数の割には、部活動の種類は豊富である。

何事にも挑戦する姿勢が好ましいからと、比較的新たな部活を立ち上げる場合、他校に比べれば甘い査定によって通る事が多いからだ。

 

窓際の、彼の席。

他の生徒の誰一人残らぬ教室に、若い喧騒だけが穏やかに響く。

風の残す淡い足跡に動かされたままの、白いカーテンドレープの向こう。

頬杖をついた姿勢の一方通行の瞳は、窓から覗くグラウンドを見ているようで、見ていない。

 

息も浅く、瞬きも幽かに。

それはあたかも、目を開けたまま眠りについた白い彫刻のように。

 

陽光さえも飾りとした、艶のある長い白髪。

そこに――熱の籠らぬ冷たい銃口が突き付けられた。

 

 

「ご挨拶だなァ、オイ。ドイツの軍人は、頭に銃突き付けンのが敬礼にでもなったってかァ? ソレ考えたバカがアメリカ辺りに敬礼する前に、『流れ弾に当てちまう』事をお薦めすンぜ」

 

 

「それは痛みいる忠告だな、しかし心配には及ばない。ドイツ軍の敬礼も、他とそう大差はない。それに、『私は』流れ弾に当たるほど、未熟な腕ではないという事は分かって戴けたと思うがね?」

 

 

喧騒が、掻き消える。

手を伸ばした先の蜃気楼、星を掴めぬ者の幻想のように。

其処に満ちる空気が、変わる。

硝煙と血漿。

錆び付いた非日常の匂いが、鼻につく。

頭に当たる冷たい感触をそのままに、凍てつくような無表情が、銃を握る者を見据える。

 

およそ学園という施設に相応しくない、軍服を纏った初老の軍人。

幾つか走る皺にこそ老いを感じられるが、険しさを孕んだ蒼い瞳と、感情を掴ませない能面さは明らかに並ではない。

滲み出る硝煙の匂いと、一方通行の一挙一動を見過ごさぬというばかりに尖る瞳を、向けられた一方通行は――良く、知っている。

 

 

それはきっと、人を見ていない。

ヒトの形をしたナニカを見るような、眼差し。

向けられ続けてきた、存在否定。

ずっと奥に仕舞い込んでいた獰猛な感覚が、首をもたげて嗤う。

 

 

「さて、いきなりだが名乗らせて戴こう。私はフランク・フリードリヒ、キミも見物していた決闘の勝者、クリスティアーネ・フリードリヒの父親であり、ドイツ軍人だ。まぁ、君の前口上を見るに、そんな事は今更言うまでもないとは思うが」

 

 

「それはフリードリヒさンも同じだろォよ。熱すぎて火傷しちまうぐらいの熱視線をやたら送ってきやがったンだ、名乗る必要もねェだろ?」

 

 

「いけないな、それは。名乗られれば名乗り返すのが、日本人特有の武士道精神というものだと私は記憶している。それとも外見通り、君は日本人ではないというのかね?」

 

 

「礼儀を重ンじるってのも美徳の一つ。これのどこに礼儀があるのか、ご教授戴きたいもンですねェ?」

 

 

カカカッ、と喉を震わせる白い獣の歪む口元。

のっぺりとした白夜に浮かぶ紅い半月に、フランク・フリードリヒの拳銃が、より強く充てられた。

嘲笑のようにも、微笑のようにも、自嘲のようにも取れる曖昧な笑み。

ただそれだけで、脚が怯んでしまいそうになる。

命の価値すら塵芥としてしまう戦場の多くを知り、挑み、生き残ってきた男が、だ。

 

 

「君に教授することなど、何もない。寧ろ、ご教授戴きたいのは私の方だよ。

さぁ、答えたまえ、『一方通行くん』――君は一体何者なのだね?」

 

 

年齢18歳、性別は男 。名称、一方通行またはアクセラレータ。

身長177cm、体重61 kg、血液型 不明。

保護者は川神学園の教員、小島梅子。

三年前に彼女に引き取られ、川神鉄心の助力もあり、戸籍取得。

二年前に起きた『関東震災』の『被害者』である。

 

 

――たったこれだけしか、彼の情報は残っていない。

 

三年前以前の彼の所在、血縁者、家族関連、学校の入学卒業に関する経歴、その他諸々。

ドイツ軍 中将という肩書きを持つ彼の情報網を駆使しても、一方通行という男の空白の15年間に関しては、一切情報を得られなかった。

出身地も分からず、病院などの通院経歴も、公共施設の使用履歴も三年前より以前の事は一切残っていない。

 

――まるで、彼は存在してなかったかのように。

 

 

しかし、2つ、フランクにも分かる事がある。

一方通行という男からは軍人である自分と同じ――――血の匂いがするということが。

そして、彼はあまりにも『銃口を向けられる事』に馴れ過ぎていた。

 

 

「……答える義理はねェ」

 

 

音すら死に絶えた静寂のなかで、感情一つすら込められていないテノールが囁く。

やけにゆっくりとした動作で突き付けられたままの銃を手で払うと、線の細い白き体躯が席を立った。

もはや眼中にないとでも言うかの様に、フランクを一瞥すらする事ない紅い瞳は、恐ろしく冷たい。

傍らに置いてあった学生鞄を肩へ担ごうとして――

 

 

 

 

 

 

 

 

――風が吹いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほう……流石、あの『MOMOYO』を非公式ながらも倒したと云われるだけの事はある。良い反応だと褒めてあげましょう」

 

 

「銃の次はトンファーかよ、ドイツの軍ってのは頭の使えねェ上に、謂われない善良市民を攻撃するしか能がねェのか?」

 

 

「黙りなさい、兎風情が。これ以上のドイツを貶める発言は、自らの首を絞めることと知りなさい」

 

 

「ハッ、躾のなってねェ狗がキャンキャンとよく吠える。余程、上司が無能と見える」

 

 

血潮の如く紅き風が放つ荒々しい一打を、身体を斜に背けることで回避した一方通行。

その彼の持つ紅い瞳の眼差しと、同じような色彩を持つ紅き風の紅い隻眼の眼差しが、ぶつかり合う。

災害とすら思えてしまうような獰猛さを纏った暴風の正体は、女性だった。

 

 

 

深い紅の彩りを見せる鮮やかな長髪と、秀麗な顔立ち。

軍服で纏った豹のようなしなやかな体躯は、雄を誘う魔性を放つが、冷然とした雰囲気と片目を覆う黒の眼帯が、言い知れぬ近寄りがたさを放っていた。

マルギッテ・エーベルバッハ。

ドイツ軍将校、フランク・フリードリヒ中将の片腕とも呼ばれる軍人であり、彼の忠実なる部下である。

 

獲物を狩るようなギラついた瞳が、一方通行の挑発とも取れる嘲笑を見て、より険しさを増す。

主が命があれば、すぐさまその喉笛を噛み砕かんとする狂暴な牙を、その両手に油断なく構えていた。

 

 

「下がれ、マルギッテ」

 

 

「……了解しました」

 

 

しかし、彼を喰らえという主命は無い。

老全としながらも威厳のあるフランクの命令に、マルギッテはフランクのすぐ後ろへと控えた。

けれど、狼が警戒を解いたという訳ではない。

いつでも獲物に飛び掛かる事が出来るように、姿勢は低く構えたままに。

紅い隻眼は、油断なく白い影を見据えていた。

 

 

「質問を変えようか、一方通行くん」

 

 

次はない。

問答の拒否を見逃すのは先ほどの一度だけだというように、手に持った重き鋼を、再び一方通行へと向けるフランクの瞳は、有無をいわさぬ迫力がある。

幾つもの軍人を率いてきた男の眼差しは重く、並みの者ならば意識を失うか、深い恐慌に錯乱してしまうだろう。

 

けれど、まるで些細なモノだと謂わんばかりに無表情を張り付けたままの一方通行は、何も言葉を発さない。

目の前の男が最も知りたいと思うことなど、当に予測が出来ている。

問われるコトは、きっと。

自分の足元に積み立てられた、かつての罪。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……君は、人を殺した事があるかね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血に染まった過去、断ってしまったギロチンの紐。

後悔し、懺悔し、迷って、戸惑って、脚を止めた。

末路から振り返った、歩んで来た自分の道。

そこに横たわる数え切れない亡骸の山を見詰めて。

 

一方通行は、何も言わずに、目蓋を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そうか、それが君の答えか」

 

 

 

 

 

 

「――あァ」

 

 

 

 

 

 

言葉で紡がなくとも、答えを得られる事はある。

目蓋を閉じる。

ただそれだけの行為で、総てが伝わってしまうような感覚に、声が自然と震えていたことを、フランクは自覚する。

自分の声が震えたのは、決して義憤などではない。

人の命を奪ったことがあるのは、軍人であるフランクとて同じ。

 

命の尊さ、それが踏みにじられる戦場に身を置いていた己に、人を殺めたことに対する義憤や、潔癖な正義感など抱く資格はない。

軍の命令だからとか、そんな言い訳をするつもりは毛頭にない。

引き金を引いて、多くの命を奪ってきたのは他でもない自分自身なのだ。

血に汚れてしまった己に、目の前の青年の罪を暴き、断罪するなど烏滸がましい行為とすら思っている。

 

 

ただ、それでも。

愛する娘を守るためならば、あらゆる危険を排する為ならば。

目の前の男を、今ここで殺めることさえ躊躇わない――そのつもりだったのに。

 

 

 

「――ッ」

 

 

 

白い闇から咲いた紅の、眼差しに、息を呑む。

 

どれだけ贖おうとも、決して消える事のない、血の匂い。

一つや二つではない、想像すら追い付かぬほどの命を喰らったであろう青年。

どんな理由があってでも、それは自分と同じく赦されるコトではないだろう。

 

 

けれど、そんな男が。

 

こんな眼差しをするのか。

 

 

不安も、迷いも、恐怖も、絶望も、悲壮も、自責も、羨望も。

測りきれないほどの後悔も、全て背負って。

幾つもの十字架に貫かれながらも、前を向く。

深い悲しみに蝕まれながらも、歩くコトを止めない。

 

 

そこには、生きるという、覚悟しかなかった。

 

 

 

泥も血も憎しみも全て被ろう。

愛しい娘を、守る為ならば。

例え、裁かれるべき場所まで堕ちても、構わない。

 

愛する女性を失ってしまったあの日、心に掲げた唯一の誓い。

己の誓いと、彼の覚悟。

声が、震えてしまったのは、きっと。

異なる筈の彼の覚悟と、己の誓いが、重なって見えたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……最後に、『教えて欲しい』――――君が、そうまで強く生きようと決めた……いや、決めるコトが出来たのは、何故かね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

力なく降ろされた銃を、懐に仕舞う。

主の突然の行為に、思わず驚嘆の眼差しでフランクを見るマルギッテが、その紅い瞳を更に大きく開いた。

微かに、フランクは笑みを浮かべていたのだ。

 

 

 

 

 

 

彼に対する危険視を止めた訳ではない。

その証拠に、拳銃こそ仕舞ったものの、彼の発する強烈な圧迫感は変わっていない。

 

では、どうして。

僅かな羨望さえない交ぜにして、彼は笑っているのだろうか。

 

 

――それは、フランク自身にも分からないコト。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

「宜しかったのですか?」

 

 

「――いいや、宜しいという事はない。彼が危険だという事に変わりはないのだから」

 

 

窓の外から覗けるグラウンド景色は、屍の並ぶ戦場とはほど遠い。

空に朱みがかるまで、あとどれくらいだろうか。

後ろ手を組み、言い知れぬ疲労を浮かべた面持ちながら、フランクは窓の外から視線を外さない。

彼の背後にて、控える様に立つマルギッテの怪訝そうな視線を感じて、老いを隠せぬ横顔が、小さく苦笑を落とした。

 

 

 

「故に、マルギッテ――君に、任務を与える」

 

 

「ハッ! 拝命致します」

 

 

 

窓際に手を置いて、フランクが振り返った。

ドイツ軍将校の肩書きに恥じぬ精悍な顔付きで、彼は信頼のおける己の部下に命じる。

――愛する娘を守る、その誓いは、より強く。

 

 

 

「本来であれば、もう少し期間を置く予定ではあったが、事情が変わった。君には来週始めより、川神学園高等部、二年、Sクラスに編入し、クリスの護衛――そして、一方通行の監視に勤めて貰う。尚、その際の滞在場所も追って、連絡する。最優先はクリスの護衛だが、彼の監視にも重要性を置く。復唱は良い」

 

 

「ハッ! 了解致しました!」

 

 

 

姿勢を正し、了解の意を敬礼に表すマルギッテに、フランクは満足そうに頷いた。

実力、功績ともに優秀である彼女への信頼は厚い。

しかし、彼女の有する欠点に対する懸念もまた、フランクの頭を悩ませる重要事項である。

クリスの護衛が主な任務ではあるが――優秀であるが故、実力の高さのみで他者を見るという彼女の欠点を、克服させる為の布石も兼ねて、彼は一方通行の監視を重要項目と加えたのだ。

 

 

 

その為には、フランク自身が動かなくてはならない。

一方通行の監視をする為には、より整った環境と、特定人物との交渉。

 

しかし、赴く手間は掛からないだろう。

 

 

 

此方から出向かなくとも、『彼女』は直ぐ、其所にいる。

 

 

 

 

「さて、マルギッテ。もう1つ、私から命じる。今より、少しの間――私に危害が加えられても、危害を加えた者に対して手を出す事を禁じる。復唱はいい」

 

 

「……は、ぁ? そ、それは何故で……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そのような配慮を行うという事は、私の言い分に関しても察しがついているということですか、フランクさん?」

 

 

 

 

 

 

 

唐突かつ、意図の分からぬ指令を受けて困惑するマルギッテの疑問を遮る、女性の声。

聞くだけで背筋を伸ばしてしまうような凛とした声は、彼女の心情を表しているかのように、抑えきれぬ憤怒に満ちていて。

音の発する声の元にマルギッテが顔を向ければ、そこにはスーツ姿の女性が、教室の入り口から此方を深く見据えている。

 

 

 

マルギッテは、彼女の顔に見覚えがあった。

一方通行の情報を収集する任務にも携わっていた彼女は、その際の資料の中で、その女性についての情報も得ている。

 

――そう、彼女は。

 

 

 

「えぇ、勿論です。朝方はお世話になりました――小島先生」

 

 

小島梅子、一方通行の唯一の保護者。

カツカツとヒール音を響かせながら、此方へと歩み寄ってくる梅子の表情を見て、その憤怒の理由に察しがついたマルギッテは、庇うようにしてフランクの前へと立ち塞がろうとする。

しかし、何もするなと手で制したフランクに、先程与えられた命令の意図が理解出来て。

この命令を違反することだけは、してはならない。

強く唇を噛み締めながら、マルギッテはその場から動く事が出来なかった。

 

 

「えぇ、此方こそ。ご息女はとても礼儀正しく、正義感にあふれた素晴らしい気概の持ち主でした。お陰で、問題児ばかりのFクラスの担任である私としても、助かる事は多い」

 

 

「そうですか。クリスは、私の自慢の娘。娘が誉められたとなれば、私も、鼻が高い」

 

 

距離など、そう遠くない。

社交辞令のような挨拶を交わす間に、梅子はフランクの目の前へと脚を止めた。

言葉とは裏腹の、双方の表情。

感謝を述べている筈の梅子の表情は、抑えきれぬ激情を滲ませて。

喜びを表している筈のフランクの表情は、贖罪の覚悟を滲ませて。

 

子を愛する親の心。

弟を愛する姉の心。

 

そこに、優劣などない、と。

 

 

 

「ならば、その娘が蔑まれたとなれば?」

 

 

「許せませんな」

 

 

「銃が向けられたとなれば?」

 

 

「許せませんな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……心の傷を、抉られたとなれば?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「許せる筈など、ありませんな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

許せる筈がない。

そう、だから彼女は此所にいる。

 

 

 

 

「では――失礼します」

 

 

 

「御手数をお掛けして、申し訳ない」

 

 

 

 

謝罪の言葉が、つい零れる。

きっと、そんなものに意味はない。

謝罪の意志は、そんなものでは不充分だ。

 

彼が傷つけてしまった、涙を流さぬ青年の代わりに――泣き声を押し殺しながら、それでも黙って、外で話を聞いていたであろう、彼女。

 

 

――先ずはその一発を、受けなくては。

 

 

 

「――ッ」

 

 

 

重心ごと揺さぶられるような、思わず意識すら飛んでしまうかと思うほどの衝撃を、受け止める。

凄まじい破裂音と共に激痛の走る頬を、手で抑えることはしない。

熱を孕んで痛む自分の頬など、寧ろ自分よりももっと深い痛みを、唇を噛み締めながら堪えている目下の女性の姿の方が余程痛々しいではないか。

 

愛する娘の為の行いは、青年と、青年を愛する姉の心を傷つけた。

この程度で倒れるなど、許されることではない。

 

 

 

「監視、すれば、良いでしょう……」

 

 

顔を俯かせ、強く握られた掌と、途切れ途切れに紡がれる言葉が、震える。

けれど、その奥で見えた、女性の、青年に対する信頼は、とても強い。

 

 

「幾らでも、すれば良い。一方通行が、危険だと、言うのなら」

 

 

俯いていた顔が、あげられる。

涙を一筋走らせながらも、確かな意志を宿した瞳は、とても気高い。

 

 

 

 

――惚れた女との、約束がある。前を向いて、生きる事を。

 

――支えてくれる、女が居る。こンな俺を、放っとけねェっていう馬鹿な姉が。

 

――傍に居たがる、バカ共が居る。物好きな、頭の足らねェバカ共が。

 

――星を見つける、約束がある。口喧しい、クソガキとの約束が。

 

 

だから、前を向いて、生きるのだ、と。

 

寂しそうに笑う去り際の背中が、頭に過った。

 

 

 

 

「けれど、私はあの子を信じている! 過去になにがあったとしても、今、私の傍で生きているあの子が、銃を向けられていい存在などではないと!」

 

 

 

「……」

 

 

あぁ、なるほど。

確かに、彼の答えに偽りなどないのだろう。

過去に、彼が人の命を奪っていたとしても。

それでも彼を信じ、支え、共に贖おうとする彼女が居るからこそ、歩いていける。

 

彼の強く生きようという意志は。

彼を信じる者達から、貰ったもので出来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンと静まる教室で、梅子の荒い呼吸が木霊する。

彼女の思いの丈をしかと受け止めたフランクは、満足そうに頷いた。、

しかし、これより彼が紡ぐ言葉により――驚嘆の空気へと変わることになる。

 

 

 

――主に、マルギッテ・エーベルバッハが。

 

 

 

 

 

 

 

「えぇ、そうさせて戴きますよ、Ms.小島。貴女のように、傍だって見なくては、彼の本質など見えようもない。監視という形ではあるが、見極めさせて戴く……そこで、一つ、御願いを聞いて貰えますかな?」

 

 

 

「…………お、願い、とは……?」

 

 

 

くっきりと手形の残った横っ面をそのままに、微かな笑みを携えたフランク。

その微笑に、何故だか悪寒が背筋を走ったことに、戸惑うマルギッテだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えぇ。彼の監視を行わせて戴く、マルギッテ・エーベルバッハ。

 

 

――――彼女を、貴女と彼の住む部屋へと、滞在させて貰いたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『空に唄う約束』--end.

 

 



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四節『迷い猫のカンタータ』

真っ黒な傘を広げた上に、深い青のインクを垂らした。

色が溶けたら、その上に。

光るイエローのペンで、ビーズのような円を浮かべてみる。

 

1つ、2つ、3つ、4つ――

幾つも幾つも、飽きるほど、想いを残した光を描いて。

 

 

見上げれば――そんな、夜空。

 

 

見下ろす月が――退屈な心と、重なる。

 

 

「なんでだよ、くそぉ……」

 

 

右手にある仄かな機械熱が移したのか、吐息まで、熱を孕む。

押し殺すように、喉で転がる想いの丈を、いっそ叫んでしまいたい。

板垣天使は、怒っているような、泣きそうな、ぐるぐる混ざった顔で、夜空を睨んだ。

 

握り締めた右手の中にあるのは、淡いピンクの携帯電話。

彼女が待つメールも電話も、まだ来ない。

 

騒がしい群像が発する数多の喧騒にすら煩わしさを抱いてしまうほど、天使には余裕がなかった。

 

 

「何してんだ、あのバカウサギ……」

 

 

夜空に混ざる千切れた瑠璃色を宿した瞳が、苛立たし気に紡がれた言葉とは裏腹に、不安そうに細くなる。

川神の地域に幾つかある内の一つのゲームセンターの、直ぐ目の前。

年季を感じさせる、白いペンキが所々剥げ落ちたガードレールに器用に座りながら、落ち着かない右手が、握り締めていた携帯電話。

メールも、電話着信も、そこには無い。

浮かぶ待ち受けのプリクラに映る、笑顔の彼女に腕を組まれて、仏頂面にそっぽを向いた白い少年の姿を見て、また一つ、天使の心がささくれ立った。

 

 

もう、既に五回もメールを送信した。

電話も、十分置きには一回。

それでも、彼――一方通行との連絡が繋がることはなかった。

 

 

「学校ってのが、そんなに楽しいかよ……」

 

 

今現在、彼が何をしているか、何処に居るかなど、天使には分からない。

そもそも、一方通行と遊ぶ約束や、共に過ごす予定もあった訳ではない。

それならば、連絡が繋がらないことに対して、憤りや不安といった感情を一方的に抱くことは、子ども染みているという自覚はあった。

 

 

「……連絡ぐらい、さっさと返せんだろうが」

 

 

休日は一方通行と共に居ることが多い天使には、彼がアルバイトをしている今日が休みだということは承知している。

ならば、彼が返事を返さないのは、一方通行の身に何かがあったか、友人と夢中になって遊んでいて、天使のメールや電話に気付いていないのか。

 

前者である事は、考えにくい。

何かトラブルに巻き込まれたとしても、自身を含めて一家全員が一目を置いている一方通行ならば、簡単に問題を解決出来ているだろう。

 

 

だとしたら、後者。

素っ気ないような落ち着いた態度を取る癖に、親しい者には何だかんだ甘い所のあるあの男は、険のある面立ちや雰囲気の割に、友人もそこそこ多い。

学校終わりに友人と何処かへ、という事だって少なくないのだから、あり得る事ではある、のだが。

 

 

 

「クソウサギ……」

 

 

 

深く落とした重たい吐息に、混じる寂寞と、不安。

どうしてか、とても胸騒ぎがしたのだ。

単なる気のせいかも知れないのに、どうしてか、棄てきれない。

脳裏にちらつく男の顔が、泣いているように見えてしまった、それだけの事なのに。

 

 

飾り物の様に散らばった、星屑浮かぶ夜空の下。

 

彼からの返信は、帰って来ないまま。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

目を閉じなくとも、陶酔する事は出来る。

良いモノを素直に良いと、口にする事は未だに出来ない時があるが、それでも。

 

溜め息が唇から零れ落ちてしまう様な、美しく景色を眺める時とか。

アルバイト先の、仏頂面の店主が作る料理に舌鼓を打つ時だとか。

ふとした拍子に巡る、いつか見惚れた女の笑顔に、だとか。

 

 

「……」

 

 

 

目を閉じれば、雑踏の間からでも器用に鼓膜へと届くギターのアルペジオ。

 

――御世辞にも、上手いとは言い切れないけれど。

 

 

小綺麗な詩と、切ない旋律。

思いの丈をギターに託して、青臭い情感を載せた男の歌は。

紛れもなく、自分の心を溶かしているから。

 

 

「……」

 

 

 

例えば、遡るように。

 

目を、閉じなくとも、思い出せる。

あの日の罪は、脆く崩れやすい張りぼての心の裏側で、共にある。

寄り添うように、無垢なままで。

どうして、私達を、殺したの。

そんな事すら、言ってやくれない。

 

彷彿する記憶の群れが、センチメンタルを切り開くフレットノイズと重なって。

 

 

「……、──」

 

 

例えば、変わるように。

 

強い生き方と、羨望を覗かせた男の問い。

心配しなくとも、そこに優劣など存在しないと、彼は苦笑する。

かつて己が、道標とさえ憧れと共に掲げたあの男ならば、きっと言うのだろう。

 

強い生き方、そんなものは幻想だと。

 

フィンガーボードをスライドして鳴る度に、過去と今とで行き来した価値観を浮き彫りにさせる。

 

 

「──、……」

 

 

例えば、追憶するように。

 

強くなんてない、きっと、弱くて脆い。

そんな自分に出来るのは、誰にも勝る強い生き方などではない。

そんな自分に出来たのは、せめて、負ける事のない生き方だけで。

 

 

不慣れながらも曲に寄り添うアルトの歌声が、想い綴った詩に乗って、感傷をあやした。

 

 

「────」

 

 

 

行き交う人々の靴の音をコーラスにしたこの弾き語りを聞く度に、どうしても浮かび上がるのだ。

 

道標を与えてくれた、女の横顔。

見上げた月には重ならなくて、目を閉じる。

縋りつくことは、しない、けれど。

目蓋に浮かぶ彼女に、寄り添うくらいは許されるだろうか。

 

 

 

──

────

 

 

 

 

 

 

 

「全く、師匠の歌声に痺れてくれるのは嬉しいけどさ。後にそう突っ立たれちゃ、俺に見惚れる女の子の割合が少なくなるんだよなぁ」

 

 

「誰が師匠だ、笑わせンな。俺がどこに立とうが、そりゃァ、俺の勝手だろォ」

 

 

「あんらま、相変わらず素直じゃないよコイツ。まぁ別に、誰かに師匠って呼ばれるほど、上手くはないけどよ」

 

 

ブーツ、スニーカー、ビジネスシューズ、種類を挙げればキリなんてない。

雑踏の織り成す足音のオーケストラは、帰宅ラッシュの時刻だからか、所々ピッチが速い。

人々の闊歩する川神駅前の広場の半ば、足安めに設置されるベンチの背凭れに浅く腰掛ける一方通行は、飄々とした笑みを浮かべる男の言葉に、顔をしかめた。

 

薄色の、彼が薦めたロキシオのサングラスの奥で、琥珀色の瞳が人懐っこく彼を見上げる。

バランスの良いカジュアルな服装で、そこそこ値段の張るアコースティックギターを膝に載せる男の、師匠面のなんと愉快なことか。

一方通行が、彼からギターを少々教わっているのは事実なのだが、師匠面を肯定してやれば、途端に調子づくのだ、この男は。

飴と鞭は2:8の割合で良いと彼の恋人から戴いた教えを、一方通行はしっかりと実践している。

 

 

 

「……ン」

 

 

視界半分、一瞥する程度に顔を向けて、白い指先が微糖の缶コーヒーをひょいと差し出せば。

柄にもなく照れているんだろうなと当たりを付けて、ニヤリと腹の立つ笑みを携えて、男が彼からの差し入れを受け取った。

プルタブを開けて、くいっと一口。

熱くなっていた喉には都合の良い、冷たいコーヒーに男は満足とした笑みを浮かべる。

 

 

 

「いやぁ、気が利くってのもイケメンの必須科目ってか? 全く惚れ惚れする、一昔前の俺なら憎しみのあまりカニぶつけてたぜ」

 

 

「意味分かンねェ、なンだよ蟹って、オイ。同じ海に生息してンだ、ちったァ丁重に扱ってやンねェと、いつかチョキンと往かれンぜェ?

 

 

なァおい、『フカヒレ』くンよォ……?」

 

 

 

「『シャーク』だっつの!! 」

 

 

小馬鹿にするようにクツクツと笑う顔は、上品とはいえないが、冷然とした顔立ちの一方通行には、良く似合っていた。

聞き捨てならないとばかりに叫ぶ男の名前は、鮫氷 新一。

鮫という名をシャークと称えて欲しい、そんな彼の願いを嘲笑う白い面持ちは、どこかイキイキとしていて。

 

何時にも増して落ち着いた風に、らしさが戻った事は喜ばしいが、自分を貶してまで付け上がられれば、複雑という新一の心には同情を禁じ得ない。

 

 

「ったく、なーんで皆その名前で呼ぶんだよ。一方通行、ほんとに誰かにその仇名、教えて貰ってないの、真剣で?」

 

 

「教えて貰ってねェって言ってンだろォ。呼ばれンのは、ヘタレ過ぎるオマエが悪い、うン」

 

 

「いやいやいやいや学生時代ならまだしも、俺今割と大人になってるから!! ヘタレって言うのは俺じゃなくてレオみたいな奴の事を言うんだよ!」

 

 

「対馬さンはフカヒレと違って尻にしかれちゃいねェだろォ。あの店長の手綱握れンの、あの人ぐれェだしィ? どっかのヘタレは指輪渡す踏ン切りもつかねェままだしィ?」

 

 

人の痛い所を抉る容赦のない悪人面でさえ、顔が整ってる分、絵になってしまうのだから、腹立だしい。

師匠に当たる自分はフカヒレ呼ばわりなのに、彼の幼なじみである級友には敬語を使う所が、分かり易いほどに軽視されているのだと。

指輪――つまりは婚約指輪を探すのに以前彼を引っ張った事が仇となったと、新一の目頭がじわりと熱くなる。

 

 

「だ、だって豆花は今、料理人の修行で忙しそうでさ……なんか、細々とフリーターしながらギターやってる身な俺からしたら、もうちょいアイツに余裕が出来てからの方が良いかなって……」

 

 

 

「物販でもしてみりゃ良いだろォが。最近、週末辺りは人も集まるようになったって言ってなかったかァ?」

 

 

途端に萎れる新一をフォローする訳でもないが、思い切ってCDの一つでも物販してみればと、然り気無い自身の要望も兼ねて、提案する一方通行。

 

 

自身では下手だと言っているが、ギターに関しては普通に上手いと一方通行は思っているし、それは彼が務めるバイト先の女店主も同意見である。

歌に関しては入れ込みや練習の下地が薄かった為か、ギターに釣り合うほど上手いとは言い切れない。

しかし、鮫氷新一という男の歌詞は、とても深みがある。

聞けば聞くほど掴んで離さない奥深い詩に惹かれて、彼のファンになる者だって少なくなかったのだから。

 

事実、ギターの方こそ趣味程度で教わっているが、一方通行が新一と知り合う切欠になったのは、彼の歌う唄に、柄にもなく心打たれたからである。

 

 

「物販、かぁ……レコーディングとか、死ぬほど緊張してまともに歌えなそうだしなぁ……」

 

「だからヘタレって言われンだろ。優柔不断」

 

 

彼の何気ない風の提案に、少なくとも心は動かされている。

しかし、純粋なメンタルの問題と金銭面が関わってきて、なかなか即決とはいかないもので。

そう簡単な問題じゃないことは承知しても、取り敢えず憎まれ口は叩くスタンスを一方通行は崩さない。ドSの性、本領発揮である。

 

実際、頼まれれば川神学園で宣伝してやっても良いとは思っている癖に、敢えて自ら提示はしない一方通行。

肝心な事は自分で決める、それくらいは曲がりなりにも師匠を名乗るのだから心得て欲しいとほくそ笑んで。

 

ふと、此方へと駆け込んでくる騒々しい足音に、意識が向いた。

 

 

「新一、お待たせアル! 一方通行クンも、久し振りネ」

 

 

妙な抑揚と、独特のイントネーション。

鈴が転がるような透き通った声を発したのは、少女としての面影を残した、一人の美人だった。

 

 

「お、今日は速いな豆花。お疲れ」

 

 

「……お疲れさンです」

 

 

ベージュのカーディガンに、薄いピンクのスカート。

低いヒールシューズをカタカタと鳴らしながら歩み寄る女性に、一方通行は静かに頭を下げる。

楊 豆花、という名前の響きと、少し不慣れな日本語が、彼女が中国人である事を裏付けていた。

 

傍目から見ても際立つ肌の白さが目を惹く、秀麗な顔立ち。

モデルでも充分やっていけそうな彼女が新一の恋人である事を始めて聞かされた時は、抜け目ねェなという新一にとって有難い感想を戴いていたものである。

 

 

「料理長が、たまにはゆっくりしろ、ていうから御言葉に甘えたヨ。一方通行クンも、最近は対馬亭での修行はどんな感じカ?」

 

 

「……ボチボチ、てところっすねェ。まだまだ簡単には追い付かないよォで」

 

 

「料理とは奥深いモノ、精進するヨロシ」

 

 

対馬亭という名の小料理屋でアルバイトをしている一方通行の料理の腕の上達が気になるのは、高級中華の厨房に務める料理人の性なのだろう。

あまり頻繁にとは言わないが、良く新一と共に対馬亭に訪れる豆花に、少し前から多少ながらも料理を任される事になった一方通行は、自分の出した料理を吟味して貰っていた。

 

良い所は良い、悪い所は悪いと批評をハッキリと口にする彼女の言葉には、色々と考えさせられることも多かった。

対馬亭の店主と並んで、一方通行の、料理に関しての指標である。

 

 

「……ン?」

 

 

ふと気になって、制服のポケットに入っている携帯電話を開く。

豆花の仕事が終わるのが早まったとはいえ、それでも結構な時間になっているのは間違いない。

フランクとの一件で考え込んでしまったり、新一の歌に耳を傾けていた事もあって、今の時刻がどれくらいなのか分からないのだ。

パカリと開いた携帯電話のディスプレイで時刻を確認しようと試みるが、つい視点が流れてしまう。

 

 

『着信履歴11件、受信メール8件』

 

 

「オイオイ……」

 

 

気になって履歴を漁れば、15分前の梅子からの一件以外は、全て板垣天使からの着信。

ご丁寧に10分置きに着信が続いており、それを辿れば二時間前から着信があったということ。

学園から出た時に、サイレントモードを解除していなかったのが仇となったらしい。

 

げんなりとした溜め息を落としながらも、メールをチェック。

梅子からの『今日帰宅したら、話がある』という一件と、小雪からのやたらテンションの高い、しかし彼女とのメールでは頻繁な内容のが一件。

 

あとは『学校終わった?』という天使のメールから始まり、まだか、無視すんな、電話出ろ、へとシフトしていき、最後には恨み書き連ねた罵詈雑言のオンパレード。

あまりの口汚さに閉口するが、腹は立たない。

梅子からの連絡も気になる所だが、早いとこ天使の機嫌を取らないと後々面倒な事になるのが見えていた一方通行は、仕方なしに腰を上げた。

 

 

「ん、どしたんだ? もう帰る感じ? 梅子さんから遅くなるなって言われてたのか?」

 

 

「まァ、そンなとこだ」

 

 

「あや、残念アル。私お腹空いてるから、皆で対馬亭行こう思ってたのに」

 

 

「あァ……ソイツは間が悪かったっすねェ。まァ、そっから先はお二人でどォぞ」

 

 

折角恋人二人で時間を過ごすというのに、自分が混ざっても気にしない風な二人に、やれやれと苦笑混じりに茶化す。

新一としては多少ながらも二人で居たいという意志も見え隠れしているけれど、口には出さない所は優しさと受け取っておく事にした。

 

馬に蹴られるのもあれだしな、と別れの挨拶に交えて焚き付けるような発言を残し、踵を返す。

分かり易いくらい動揺する新一と、隣で静かに頬を染める豆花。

肩越しに見えたその光景にやれやれと肩を竦めて、背を向けたまま手を振った。

 

 

少し吃りながらも挨拶を返す新一の声を残して、携帯電話を開く。

さて、センチメンタルな気分に浸った分、清算しなくてはならない勘定が積もってしまった。

通信ボタンを押すのに躊躇うくらいには、今の彼には余裕が戻っている。

 

耳に宛てた携帯電話から聞こえてくる、無機質なコール音。

叫んで来るなら疲れる程度、黙って拗ねていたら骨が折れる程度。

どちらにせよ、宥めることには変わらないのだから、楽にいければ幸いか。

 

 

見上げた夜空のシルエットが、なんだか少し、柔らかく見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

掲げられた案件二つを処理する場合、基本は優先順位を設けて処理するのが一般的といえるだろう。

同時に行えるのならば、行うに越したことはないが、今回に関しては余計ややこしくなるのは目に見えているので、一先ず伏せておく。

 

では、次は優先すべきはどちらかを決めねばならないのだが、生憎、それは既に決定済みである。

より簡単な方から行う方が、後の問題に余裕を以て対処出来るからである。

 

 

 

――とどのつまり、一方通行は困惑していた。

 

 

 

目の前に対処すべく転がっている案件は二つ。

一つは、ボロボロになったフライパンと焦げ付いた料理。

これに関しては帰宅と連絡が遅れた一方通行にも非がある。

天使の拗ねさせた侘びとして休日付き合う事を述べた一方通行が帰宅した際に、部屋に充満した見覚えのある煙と焦げ臭さを感じた瞬間、原因は分かったが。

大方、もはや時たま訪れる風物詩と化した失敗劇が開幕されていたのだろう。

 

 

しかし、もう片方の案件は流石に厄介である。

鬼小島と呼ばれているあの小島梅子が、酷く肩を落としたまま、一言も話さない。

帰宅した時に一度、名前を呼ばれて以降、彼女はずっとこの調子なのだ。

 

 

「…………」

 

 

取り敢えず、先ずは処理のしやすい案件の方から片付けていこうと、ボロボロになったフライパンの底を、使わなくなった歯ブラシでゴシゴシと磨く。

蛇口から流れる水道水の音と、カチコチと鳴る古時計の秒針に、時折、どこか遠慮がちな梅子の微かな溜め息が混ざる。

そんな彼女の様子に、一方通行はただ困惑せざるを得ない。

 

危うく火事一歩手前まで惨事を起こしてしまった事に対して凹んでいるには、梅子の様子に違和感を感じてしまう。

まるで、聞き難そうな事を尋ねることに、躊躇っているかのような。

 

 

「……なぁ、一方通行」

 

 

 

「……ン?」

 

 

 

どれくらいの沈黙が居座ったのかも分からぬまま、買い直しはするけども休日までには繋ぎとして使えるぐらいには処理出来たフライパンを片付けて、次は弁当箱へ。

泡立てたスポンジで女性らしさを感じさせる淡い赤の弁当箱を洗う白い背中に、名を呼ぶ声一つ。

背中と背中を向かい合わせたままの会話は、どうしてか距離を感じた。

 

 

 

「私は、お前の姉として……ちゃんと、お前を守れているか?」

 

 

 

白い指先が、止まる。

紅い瞳は、変わらぬまま。

 

 

 

「放課後、フランクさんとの一件について、彼自身から内容を聞かせて貰ったんだ。お前に銃を向けた事、問い質した事……人を、殺したと答えた事も」

 

 

 

「……」

 

 

 

テーブルの上で握り締めた掌が、震える。

女の瞳は、閉じられたまま。

 

 

 

「――私は、お前を守ると決めた。あの地震の時、お前の事を教えて貰った時に」

 

 

 

脳裏に過るのは、二年前の惨劇。

奇跡が起きたと、歓喜の声を挙げる人々の傍らで。

自分の腕の中で満足そうに笑った、血塗れになった彼の顔を、忘れることなど出来やしない。

 

その日に、誓ったのだ。

例え世界の誰もが彼を危険だと恐れたとしても、小島梅子は彼を信じ、守り続けるということを。

 

 

 

「なぁ、一方通行……私はッ――」

 

 

 

その先は、紡がせてはいけない。

泡にまみれた白い指先が蛇口を開いて、再び流れ出した水道水の打ち音に、梅子の言葉が遮られる。

 

全くどうして、自分という人間はこうまで分かり難いのか。

きっと、フランクに関しての一件を、一方通行が彼女に伏せていたという事実が、彼女を不安にさせたのだろう。

 

彼女が、一方通行を守れているか……そう聞く癖に。

彼女が、一方通行を守るという事を、信じてくれているか……そう聞きたい癖に。

 

 

自分は分かり難すぎて。

彼女は分かり易すぎて。

 

正反対の癖に、変な所で臆病になるのは、良く似ている。

 

 

 

「――ったく、なァンなンですかァ?」

 

 

 

振り向かず、そして掌はスポンジと弁当箱を握ったまま。

自分の所為で、少し泣き虫になりがちな女の背中に問い掛ける。

 

 

 

「オマエが信じてくれンなら、俺にはそれで充分だったのによォ……」

 

 

 

『私が信じてあげるから……そんな私を信じなさいよ、一方通行。そしたらさ――』

 

 

――自分だけの現実だなんて、寂しい事、言えなくなるでしょ?

 

 

今日は全く、良く彼女の事を思い出させてくれる日だなと、涼しげに笑いながら頬を掻く。

指先に残った洗剤から飛び立って、ひらひらと紅い視点の先に舞う、小さな小さなシャボン玉。

虹色に彩められた風に運ばれる宝石に、手は伸ばさない。

そこにあるだけで――それだけで、いい。

やがて地に落ちて、シャボン玉は消えてしまったのだけれど。

 

 

 

「今じゃ寧ろ、ちっとばかし欲張りになっちまったンだ」

 

 

 

彼が信じたい者、信じている者。

必要以上に背負っては、心のどこかで見返りを求めていた自分は、もういない。

背負わずとも、隣り合って歩ければ充分なのだから。

 

少し綺麗過ぎる生き方が、肌に合わないと苦笑してしまうことはあるけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから、そンなに心配すンじゃねェ……分かったかよォ――――バカ姉貴」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古時計の秒針と、水道水が強く流れる音。

姿勢の維持に疲れたのか、右へ、左へ。

重心が流れる方向へ、彼の長い後ろ髪も同様に。

 

2つ、3つと浮かぶシャボン玉を傍目に、白い掌は未だに弁当箱とスポンジを握ったまま。

汚れなんて、とっくに落ちてる。

指先で擦れば、きっと良い音が鳴るだろう。

 

けれど、水音は止まない。

白く綺麗な食器をカチャカチャと洗う音も、止めない。

 

 

 

秒針の刻む音に重なる――誰かの泣き声。

 

 

 

聞こえないフリをしてあげるには。

 

 

きっとこのまま、もう少し――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『迷い猫のカンタータ』--end

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.




フカヒレに関してはやり過ぎたな……けど後悔なんて浮かばないこの不思議。
つよきすメンバーが出ることはあんまないです。番外編とかで輝くみたいな。


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五節『紅い月の隣人』

日常というものは、何か一つの異物の混入で呆気なく崩れてしまう事など、ざらである。

 

思春期であれば異性だとか、音楽の趣味でも、ふと薦められるがままに手に取った本にすら左右されてしまうもの。

ちょっとした喧嘩が発端になることもあれば、価値観を変えるような衝撃を受けるような出来事によって、日常という形は変わってしまうのだ。

 

 

その変化を尊いと思うのか、或いは不幸と呼ぶのか。

きっとそれもまた千差万別。

 

 

であれば、今の自分が置かれた状況はどうなのだろうかと、紅い眼をしょぼしょぼと明け閉じしながらシャコシャコと歯を磨く自分を鏡越しに見据えながら、ぼんやりとそんな事を考えて。

 

尊い?――下手なジョークだ。

 

不幸?――笑えない冗句だ。

 

 

ただ、確かなことは。

これが冗談で済んだとしたら、きっと神様に三秒間くらい祈ってもいい。

紛れもなく本心から思っている事を、しかし、心のどこかで諦めているのは間違いなく不幸ってやつなのだから。

 

 

 

「ウサギ、早くなさい。貴方の任務には朝食の準備も含まれている筈……ある程度の余裕を持って行わぬ限り、その損失はいずれ自らの首を絞める事に繋がると心得なさい」

 

 

 

「その余裕を逐一削ってくれてありがとォよ」

 

 

 

「ほう、謙遜とは良い心掛けです。しかし、朝食に関しては私も与えられる側……よって、御礼までは受け取れません」

 

 

 

「誰も本気でありがたいなンざ思ってねェよォ!朝だからって頭回ってないンじゃないですかァ!?」

 

 

 

洗面台に口内の水と歯磨き粉を流しながら、もう一度、うがい。

こめかみをひくつかせながら、うがいをして一息。

憂鬱な青を背負った、普段に増して肌白い一方通行の瞳が、鏡越しに後門に立つ紅い狼を力なく見据えた。

 

 

「失礼な。中将と会した時も思いましたが、オマエは目上に対しての言葉遣いが成っていない。余りに口が過ぎれば、狩猟が決行されるのだと知りなさい……あぁ、心配しなくとも、兎狩りは得意です」

 

 

「囀ずンな、鬱陶しい……歯磨きくらい静かにさせろ。噛み付いてばっかの駄犬と違って、歯の手入れは欠かせねェンだよ、人間サマは」

 

 

麗らかな春もさながらの陽気な朝にはとても相応しくない、殺伐とした雰囲気が軽い応答だけで出来上がる。

其処だけ僅かに空気が淀んでいるような、下手に足を踏み入れてしまえば、あっという間に見えない圧力に血の気が引いてしまいそうな。

犬猿の仲と云う言葉が、相応しくないけれどカテゴリー的には分類されるであろう二者の対話は、昨晩、マルギッテ・エーベルバッハが小島家に居候を始めてから一向に和解の兆候を見せなかった。

 

出会い頭の印象は互いにとっても悪い事は確かな上に、不本意ながらも命令に応じた訳あってか、さぞ不服そうな面持ち以外、マルギッテは見せていない。

無論、昨晩に至るまで彼女が一方通行の監視を任命された事と、彼女が小島家に居候となるを聞かされていなかった一方通行としても、元の性格も関係して自ら進んで友好的に接する訳もない。

フランクの思惑を察することは出来ても、受け入れるか否かは別であるし、マルギッテがこの調子であれば、彼としても対応は決まっている。

 

 

こうして、僅か半日にも満たない間で互いに罵り合うようになった二人を見て、巧妙な話術でなし崩し的に了承を取られてしまった梅子は、一昨日の一方通行との一幕でその事を、一方通行に話しておくことを完全に忘れてしまっていた、自分の単細胞具合に頭を抱えていたりしたのは余談。

 

 

 

「面白い……折角です、望み通り噛みついて差し上げましょうか?」

 

 

「塞げって言いてェンだが、言葉が分からねェか? 曲解はドイツの軍狗の御家芸ってのは初耳だなァ、オイ。ウサギ狩りがしてェンなら、人間サマのテリトリーに居ないで、山に帰りやがれ」

 

 

険呑な雰囲気が加速的に重みを増していく。

白陶色の洗面台に流れ続ける水音を遮る白い手が、構えるようにコキリと鳴った。

何をゴングに始まるのかも分からない、唯々凶悪なマッチング。

しかし、次に鳴り響くゴングと思わしき轟音は、不毛な争いに終止符を打つ、女神の制裁であった。

 

 

「良い加減にせんかぁぁぁぁぁ!!!」

 

 

 

 

喧嘩両成敗。

余りに不穏な空気を察して駆け付けた梅子による拳を回避するほど野暮ではないらしい。

問答無用に降り落とされた拳骨は、それはもう綺麗な綺麗な、終了のゴングだったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

「えー……つー訳で、今日から新しく皆さんと一緒に勉強する事となったマルギッテ・エーベルバッハさんでーす。あー、じゃあ自己紹介、しちゃってくれ」

 

 

 

カツカツと黒緑に羅列されていくアルファベットを増やす体勢のまま、どこか幼稚なものを相手にするような言葉選びの担任の背中が、いつになく哀愁を背負う。

どこかのドイツ軍絡みで一悶着あったのか、やる気の欠片も見せない癖に敢えてカタカナではなくアルファベットで転校生の名を表記するのは、如何なる時でも気障らしくをスタンスとしている事を表明しているのか。

 

ハラハラと花弁の様に舞うチョークの破片を、どこか諦観染みた色を載せて紅い瞳が見詰めていた。

見詰めていたというよりは、逸らしているという方が正しいのかも知れない。

ワイヤーか何かに張られているのではと思ってしまう程にピンと背筋を張った模範的直立体勢のままに白いウサギを無言で睨む紅い瞳から、鬱陶し気に。

 

 

「マルギッテ・エーベルバッハ。ドイツ軍所属、階級は少尉。とある任務により、このクラスへ転校する事になりましたが、特に気にせずとも良いです。適度に接しなさい」

 

 

視線を固定しながらつらつらと述べる様には近寄り難さが余りに多いので、クラス中が何とも言えない空気に包まれる。

というか、寧ろ追及を求めているかの様にとある白い少年に彼そっくりな紅い瞳を向けている眼帯の女性と接するにあたって、適度という言葉の難しさを改めて考えさせられる少年少女。

成績優秀とはいえ日本語の難しさに気付かされた若き子らを取り敢えず視界から外して、一方通行は恒例になりがちな溜め息一つ、置いた。

 

 

 

「まぁ、様式美って訳じゃないが、やっぱり転校生の自己紹介となりゃ、質問コーナーを設けるのが定例だよな。えー、じゃあ、質問ある人ー?」

 

 

 

なんというか協調性が無さそうとは印象ばかりであったが、こうまで何かと聞き辛い雰囲気を作られては堪ったモノではないという本音を隠して、フォローするように空気を変えようと試みる辺り、 彼は良い年した大人であるらしい。

しかし、正直絡み辛い上に突っ込み辛そうな彼女に対して、場を提供されているにも関わらず権利を行使しようという者は、なかなか居なかった。

 

例外にも当たりそうな九鬼英雄はどこか憮然として頷いているばかりであるし、葵冬馬は明らかに状況を楽しんでいるかの様に薄い笑みを浮かべている。

井上準は厄介そうな事に自分から首を突っ込む性質ではないし、不死川 心は追及したいのは山々ではあるが、それではまるで自分が一方通行とマルギッテの間にある確執が気になって仕方がないと一方通行に『誤解』される可能性がある為、動けない。小雪はマシュマロに夢中である。

 

 

先陣切って質問に臨むであろうメンバーの悉くが静観を貫いたという予測外の結果に、巨人はどうしたものかと神妙に腕を組んだ。

そんな時、恐る恐るといった様子で手を挙げた生徒を見て、巨人と、序でに冬馬の口角がむっつりと上がる。

予想外といえば予想外だが、自分の受け持つ生徒達の心の機敏さに対応出来ていると自負している彼からすれば、納得するまでの時間はそう掛からなかった。

 

 

「し、質問……いい、ですか……?」

 

 

「おう、十河か。いいぞ、どんどんしろ」

 

 

少し垢抜けたセミロングの茶髪をヘアーアイロンでくるりと巻いた髪型が、印象的ではあるが少し流行りに推された感じのある女生徒を促せば、緊張気味に顔を赤くしてみせる。

癖の強いクラスに何だかんだで一人は居そうな物静かな委員長タイプは、宇佐美巨人含めSクラスの大半の生徒にとっての心のオアシスだったりした。

 

えと、その、と口下手ながらにもチラチラとマルギッテと一方通行を視線で追っている姿を見れば、色々と察する事は容易い。

何より、この雰囲気の中、それも質問の初手でいきなりそこを突こうというアグレッシブさに思わず身構えてしまう生徒達を、誰も批難するものは居ないだろう。

 

斯くして、権利は行使された。

 

 

 

「え、エーベルバッハさんと、い、いい、ぃ、一方通行くんは、どうゆう関係なん、ですか? そ、その……さっきからずっと、か、彼を、見てます、けど……」

 

 

恐るべしとは言わない。

こういう時、恋する乙女というモノの底力の凄さをそれなりに経験している巨人としては、改めて彼女のガッツを内心で誉めるに留めるべきなのだと心得ているからだ。

 

小鹿のように無駄に腰の引けた姿勢な十河の質問に、マルギッテはふむ、と腕を組んで顎に手を添えた。

年齢的にはオーバーしているのに整い過ぎな容姿が全ての条件をクリアしている為、制服姿の映えること、この上ない。

有無を言わさぬ威圧感さえ無ければ美人なのに代わりは無いマルギッテの容姿に今更ながら見惚れている一部を除いた男子生徒は、思春期真っ盛りである。

 

 

冷然としながらも、しきりに首を傾げたりブツブツと何かを呟いている姿は、まるで誤解のないように言葉を選んでいるようで。

転校生の筈なのに、一方通行との間に既に何らかの関与があると察せれる行動の一端に、何名かの生徒達は内心穏やかではいられない。

 

 

「そう、ですね……」

 

 

考えが纏まったのか、添えられていた指先が肉付きの薄い唇をするりと撫でた所で、マルギッテの答えが紡がれようとしている。

確かに、半ば公染みているとはいえ軍人は軍人、任務内容は伏せなければならない。

 

とすれば、十河の質問にどう答えたものか、と。

口先で誤魔化す事は嫌いであるし、第一苦手な彼女が辿り着いた答えは、取り敢えず当たり障りの無さそうな真実だけ述べることにしたのだが。

 

 

 

――流石は軍人、爆弾投下はお手の物という事らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「朝方、其処の『同居人』と一悶着ありまして……未だにその熱が冷めぬままであるという事です。察しなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たった一言で世界を変えられるのならば、それはどれ程の聖人なのだろう。

けれども、ある程度縮小した世界ならば変えられ無い事もないらしい。

同居人という余計なフレーズをブチ込むだけで阿鼻叫喚ともなれば、言葉というのは恐ろしい。

聖人ではない、寧ろ悪魔だ。

真っ赤な悪魔にたぶらかされた憐れな者達を救う為に費やさなければならない労力を考えるだけで、馬鹿馬鹿しくなってくる。

浮かばぬ星を数える方が、まだ建設的だろう。

 

 

 

「綺麗な星じゃねェか……彗星かァ? いや、違ェな。彗星はもっとこォ……パァーって光るもンなァ……」

 

 

 

「現実逃避するでない!! さっさと現実に戻って来ぬか! そして此方に一から十まで説明せよ、一方通行!!」

 

 

 

「此処から居なくなれぇー! うぇーい!」

 

 

 

「うむ、あずみよ。このままでは我が参謀がドイツ軍に引き抜かれる恐れが出てきた。然るべき対処法を、我に献上せよ」

 

 

 

「えーっと……取り敢えず、先ずはあの方を現実に戻して差し上げるのが第一かと。あのままでは一方通行さん、ノイローゼとか精神疾患になります、元ネタ的に」

 

 

 

「ほほう、流石は我の従者よ。多方面に博識であるな、フハハハハァ!!」

 

 

 

「勿体なき御言葉です、英雄様ぁ!」

 

 

 

阿鼻叫喚、地獄絵図。

凄まじく俊敏な動きで寄って来ては、何だか若干泣きが入りながらも説明を要求する心に、紅い瞳は向けられない。

酷く穏やかに窓の外を見詰める少年の尻尾の様にも見える後ろ髪を面白そうに小雪が引っ張る所為で、抜け殻のような彼の頭がカックンカックン、上下する。

 

 

とあるZなガンダムロボに搭乗する少年宜しくメンタルが著しく危険な状態である彼とは裏腹に、爆弾投下をやらかしたマルギッテはマルギッテで、大変な目にあっていた。

 

 

 

「ど、同居人って、同居人ってぇぇ……」

 

 

「一悶着ってなに!? 悶えたの!? 熱くなったの!? まだ冷めないのぉぉ!?」

 

 

「馬鹿な……ウソ、嘘よ……こんなのって……エレガントチンクの巨星の、一つが……」

 

 

「風呂上がりの微妙に渇いてない髪とか、色白な分、赤く火照った身体とか、色っぽい鎖骨とかの全てが拝めるだなんて……」

 

 

「小島先生なら限りなく黒に近いグレーだったのに……ゆ、許せない。絶対にだ!」

 

 

「……」

 

 

「だ、大丈夫よ十河! 大丈夫、まだ決着なんて付いてないって!」

 

 

「……う、うぅ……私なんて、名前覚えられてるだけで奇跡なのに、同居なんて…………勝負に、ならないよ……」

 

 

亡者の如く怨み辛みを吐き出しながら、クラスの女生徒に包囲されてしまっている状況に、戦慄を覚える。

皆が皆、彼に対して恋患いしている訳ではないが、それでもエレガントチンクというブランドは彼女達にとって非常に重く、侵されてはならぬ聖域なのだ。

歳上だろうが軍属だろうが、其処には関係ない。

 

そして口々に紡がれる言葉を聞いて、漸く自身の発言に問題が大いにあった事にマルギッテは気付いたのだが、後の祭り。

 

 

「ま、待ちなさい。貴様達は誤解している。確かに同居人とは言いましたが、そ、そういった関係では断じてない! 寧ろ険悪と言って良いでしょう。ですから、そう迫るなと言っている!」

 

 

 

そう言えば、ここ最近の朝のホームルーム、まともにやれた試しがない気がすると、宇佐美巨人は遠い眼差しで天井の電灯を見詰めながら思う。

右も左も喧騒に包まれて、今朝もまたホームルームどころでは無くなってしまった。

 

別にきっちりとしたホームルームなんて最初からやるつもりなんて無いのだが、こうも似つかわしくない騒動が続けば、時折生意気ながらも静かな朝でスタートをした日々が恋しくなって来るのも仕方がないだろう。

 

麗らかなる春の空。

哀愁の似合う秋の到来を待たずとも、巨人の背中には言い知れぬ疲労感が醸し出されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「……なるほど、それはお疲れ様だな。というか、ご愁傷様、になるのか?」

 

 

 

「うるせェよ、クソッタレ。口元にやけさせて言う台詞かよ」

 

 

 

「あぁ、悪い悪い」

 

 

 

 

本来の目的を見失った訳ではないけれど、思わず目的遂行よりも優先してしまった事は否定できない。

早々に食事を終えた昼休みにクラスメイトである福本が憔悴しきった顔で教室へと帰ってきた時、その様子に見兼ねて直江大和が声を掛けたのが始まりだった。

 

 

川神学園にも使われてない使われていない予備教室は存在する。

娯楽や切磋琢磨のイベント発案に関しては飛び抜けて優秀な生徒が数多く在籍すると言われるこの学園では、昼休みや放課後の時間帯であれば基本的に予備教室も生徒達に使用される事が多い。

花札、将棋、囲碁を始めとした娯楽用品が持ち込まれている此処は、ようは溜まり場である。

 

そして今回の種目はどうやら麻雀という事らしいのだが、みっともなく泣き付いてきた福本が言うには、2-Sの高飛車女に箱らされ、散々罵倒され尽くしたのだそうだ。

普段からクラスメイトに猿だの変態だのと暴言を吐かれ慣れてはいるのだが、福本個人から2-F全体を落ちこぼれの集まりだと高笑い混じりに侮蔑されたという事で、堪えきれなかったらしい。

変な所で割り切れない損な性格をしているなと福本に若干呆れもしたが、仲間内を侮辱されて黙ってはいられないのは自分も同じなので、似合わない役柄ながらも敵討ちに乗り出した訳なのだが。

 

 

「あ、ロンだなァ、ソレ。混一色、ドラ1、満貫8000」

 

 

「ふおぅ!? 通ると思うたのに……さっきからちょくちょく此方ばかり狙い打ちよってからにぃ! むかつくのじゃ!」

 

 

「たりめェだろ、オマエが一位なンだからよォ」

 

 

 

仇討ち、そう、それを目的として意気揚々と空き教室へと乗り込んだ大和だったのだが、雀卓を囲む面々の内一人の顔を見るや否や、気付けば、またかと自分の頭をぺしりと叩いた。

あまり対面した覚えのない三年生の男子が二人と、目的のターゲットである2-Sの不死川心と、そして。

相変わらず人目を惹く容姿をしている一方通行が、何故か死んだ魚の様な、ハイライトの欠片もない呆然とした眼差しで麻雀をしていたのだ。

 

 

恐らくは全学年でも名前ぐらいは知っているであろうほどに色々な意味で有名人な彼の、魂の抜けた脱け殻みたいな様子に、大和の後ろから福本も当然の事ながら、空き教室に居る生徒の殆どが戸惑いを未だに隠せていない。

一方通行とは屋上での愚痴り友達といえる大和にとっては、彼の義姉にまた凄まじく絡まれたのだろうと、同情しながらも慣れたように彼へと説明を求めたのだが。

 

話の全容を聞いて、不覚にも目頭が熱くなった。

本日付けで転校してきたというマルギッテの事を直江大和は細かい所までとは言わなくもないが、見聞もあり面識もあった。

というのも、一時限目終わりの休憩時間にマルギッテが自分達のクラス……というより、クラスメイトのクリスを訪ねてきたからである。

 

端から見れば姉妹の様に仲睦まじいやり取りを眺めていた大和は、その際に何やら穏やかではない顔付きでクリスに忠告をしていたのを小耳に挟んでいた。

一方通行という生徒には、気を付けろ、という歯に衣着せたマルギッテの物言いを、しっかりと。

 

唐突な忠告の真意を問い詰めるクリスをやんわりと宥めながら、けれど釘はしっかりと刺して教室を去っていくマルギッテの背中を見届けるだけだったが。

しかし、一方通行のざっくりとした説明を聞いて大体を把握した大和は、あまりに巻き込まれ体質な一方通行の受難に、 そっと慰めるように肩を置いたのだった。

 

武神と呼ばれる川神百代と、ドイツ軍将校とその部下に、ニュアンスは違えど常に目を光らされるとなると、流石に堪ったものではないだろう。

自分であればと考えて、直ぐに頭を振る。

想像するのもおぞましいぐらい、そこには嫌な光景しかなかったのだから。

 

 

 

 

「にょほほほ! 此方の華麗なツモじゃ!ツモ、一気貫通、白、ドラ2で跳ねなのじゃ!」

 

 

「ン……これで逆転か、相変わらず引きだけは良いなァ、オマエ」

 

 

「やべっ、これで俺あと3000点しかねぇ……箱るのだけは嫌だよ全く……」

 

 

「んー……次でオーラスか、挽回するのも骨折れそうだ」

 

 

 

奇抜な高笑いを浮かべる心のアガリで、大和は漸く意識を麻雀へと傾ける。

先程まで点数トップであった一方通行を繰越して、再びトップへと踊り出た彼女の饒舌っぷりの如何なものか。

どうにも一方通行が気掛かりになって今一つ身の入ってない内に、どうにも状況は宜しくない方へと流れてしまったらしい。

 

 

「見たかの、2-Fの山猿よ! 高貴なる者は如何なる時においても卓越な者を刺す。貴様らの様な下等な者が幾ら仇討ちと集ったとて、烏合の衆に過ぎぬのじゃ」

 

 

明らかに値打ち物な着物の袖をはらりと口元に添え、ニヤニヤと大和と福本に対する罵詈雑言を嫌味たらしく並べる心の異様なテンションに、一方通行は雀卓の角に肘を付けたまま掌を額に添えて、呆れたように溜め息を着いた。

大方、オーラス間近になって一方通行を差し置いてトップに躍り出た事に興奮しているのだろう。

 

ライバル視というか、何かと執着している人物に良いところを見せる事が出来たのと、その人物からとてつもなく微妙な称賛を受けたのが拍車を押して、素直にはしゃいでいるのだろうが、そんなモノ、一方通行ぐらいにしか分からない。

明らかに場の空気を悪くなっているのにも気付かない彼女が面倒になったのか、彼の白い指先が問答無用で心の額をぺシンと打った。

 

 

 

「みぎゃっ!?」

 

 

 

「まだ終わってねェのに勝ち誇ってンじゃねェよ、三下。ちっとは黙ってられねェのか」

 

 

 

「ううっ、またいつぞやみたいに此方の事を三下って呼びよってぇ……」

 

 

 

「あァ?」

 

 

 

「ひうっ……な、なんでもないのじゃっ……」

 

 

 

ギロリとさながら蛇の様な鋭い眼光に、物言いたげに額を抑えていた心の肩がびくりと震え上がる。

先程までの威勢の良さは一瞬にして刈り取られたのか、黙っていれば可愛いと評判の彼女が瞳を潤ませながら牌を混ぜている姿に、不覚にも有りだと思ってしまった大和を責めるのはお門違いというモノだ。

現に、彼女を倒してくれと頼んできた福本に至ってはこれで夜のオカズには困らないと宣っているぐらいなのだから、仕方ないというもの。

 

 

しかし、だからといって目的を変えて麻雀を最後まで楽しもうという優しさも甘さも、今の大和にはない。

自分や仲間内含め、クラスメイト達を山猿扱いされたまま黙っているほど、彼は温厚な質ではなかったのだから。

 

 

 

 

 

 

――――

―――――――

――――――――――

 

 

 

 

 

 

「大三元!!」

 

 

 

「なっ、なんじゃとぉぉお!?」

 

 

 

 

 

概ね落とし所としてはこんなモノなのだろうが、まるでB級映画をプロローグからエンディングまで見せられたような白んだ面持ちを一方通行は隠そうともしない。

歓声に包まれる空き教室の中、分かり易いぐらいに明確化された勝者と敗者。

憮然として、けれど勝者としてのスタンスを見せ付ける大和に見据えられながら、今時無いようなオーバーリアクションで頭を抱える心のなんと惨めな事か。

 

 

――相手の手元も見ずに打ってるからそォなンだ、阿呆。

 

 

オーラスという局面での劇的な逆転、そんな出来すぎている展開にはちゃんとしたタネがあるという事も、その内容も、一方通行には見えていた。

単純な話、大和は自身の手牌と、彼自身が予め持ち込んで牌とを入れ替えていただけの事であり、オーラスの際に注意深く相手の動きを見ていれば、心でさえも気づけていたであろう。

 

あまり知られてはいないが、不死川心は柔道の有段者である。

結び付くかどうかは判断が難しいところではあるが、動体視力とて並以上なのは間違いない。

ならば手慣れているとはいえ、大和の動きに違和感一つ覚えていてもなんら不思議ではないのだが。

 

肝心の彼女といえば、目下の劣等生になどまるで警戒していなかったのだろう。

一方通行に自分が高貴なのだそうなのだこれが証拠だという事が示せたという事に慢心して、見事にペテンに嵌まってしまった、と。

ツメが甘いどころか、どれだけ周りに対して一方通行以外眼中にないという姿勢を貫いたままなのか、呆れ返って笑えてくる。

 

 

 

「足元掬われちゃってェ、どれだけお馬鹿さンなンですかァ、心ちゃンはァ?」

 

 

 

「うっ、ぐぅぅぅぅ……」

 

 

 

「前にも言ったろォが、見下す事しか出来ねェ奴はいつか痛い目見るってよォ。だからオマエは三下なンだっつの」

 

 

 

「うぅわぁぁぁん!! 覚えてろなのじゃ、2-Fの猿共ぉぉぉ!!」

 

 

 

三下という言葉が引き金となったのか、滴る涙を拭いもせず捨て台詞を残して走り去って行った背中を一瞥して、溜め息。

結局、最後の最後までFクラスに対しての態度を改めていない所を見ると、いつかまた同じように惨めに敗北するであろうというのは間違いない。

手の掛かる子供を相手にして疲労感を漂わせる保護者さながらに紅い瞳を伏せた一方通行は、そのまま視線を、勝利のハイタッチを交わす二人に移した。

 

 

 

「随分ご機嫌じゃねェか」

 

 

 

「んだとぉ!? 普段俺達を馬鹿にしてた不死川に痛い目見せてやったんだ、喜んだって良いじゃねーか。それともなんだ、次はお前が仇討ちってか? 上等だぜ、相手になってやる! 大和が」

 

 

 

「俺かよ!? そこはガッツ見せろよ!?」

 

 

 

「いや俺じゃ永遠の学年第一位に勝てる気しねぇもん、エロ分野以外じゃ」

 

 

 

一方通行自身としては特に意識していた訳ではないのだろうが、仲間を倒されているにも関わらず余裕そうな態度を示す一方通行が気に入らなかったのか、単純に色々と含む所でもあるのか、福本の言動には敵対的なモノが浮かぶ。

SクラスとFクラスの間にある、溝の深い問題に進んで介入したくはないのだが、こうまで分かり易い反応をされては面白くない。

 

 

 

「ていうか、俺でも勝てる気しないよ。言っとくけど、一方通行はしっかりと俺のイカサマに気付いてるぞ」

 

 

 

「へ? 大和、お前イカサマなんていつの間にしてたんだ?」

 

 

 

どうやらギャラリーの内にもイカサマに気付いていなかった生徒もちらほら居たらしい。

本来ならば御法度とはいえ、この空き教室で行われる賭博は基本的に、イカサマも手段の一つとして数えられる。

かといってその場でタネを掴まれてしまえば、当然罰があるので、要はハイリスクハイリターン。

誉められた行為では無い為にトラブルが起きる事も少なくないが、その為の決闘システムだと豪語する者も少なくない。

 

 

 

「ふーん、なるほどなぁ……でも、それでも大和が一番ってことにゃ変わりねぇぜ! あのSクラスを二人差し置いて一番なんだ、ご機嫌にもなるんだなぁ、これが!」

 

 

何時の間にか説明が終わったらしいのだが、大凡を理解した福本のどこか有頂天なテンションは変わらない。

どうにもこの生徒は、心と少し似たり寄ったりな部分があるようで、大和の勝利に未だに沸き立っている。

 

興奮褪め止まないとはこの事なのだろうが、福本の2-S『二人』に対する勝利宣言は戴けない。

別にそこまで気に留めている訳でもないが、自分も一緒に勝ったつもりでいられるのも、面白くないというものだ。

 

 

 

「クカカ」

 

 

 

白い夜空を舞台にして、紅い半月が吊り上がる。

少しばかり険呑な雰囲気を孕んだ一方通行の嘲笑が浮かんだのを見て、直江大和は余計な口出しをしなければ、多少なりとも勝者の余韻を味あわせてくれていたのにと、隣で狼狽えている福本育郎に白んだ眼差しを向けた。

もっとも、あまり物足りない相手であったのだから、余韻なんて大和自身は大して感じていなかったのだが。

 

 

 

「福本っつったか? 遠足は帰るまでが遠足って言葉は知ってるよなァ?」

 

 

 

「お、おおおう、知ってっけど……」

 

 

 

喉の奥を転がすような、猫の嘶き。

唐突な問い掛けに狼狽したまま首を振る少年は、まるで彼の為に差し出された鼠。

その問いの真意に気付いて、大和は彼の云わんとすることを把握出来た。

成る程、やはり相手にしたくない男だ、と。

 

どうやら自分達に逃げ場はなく、福本に至っては文字通り、袋の鼠という事らしい。

 

 

 

 

 

「此処のルールでもよォ、ちゃンと含まれてンだ

――麻雀は、点数を支払うまでが麻雀――ってなァ?」

 

 

 

 

 

「……そ、そりゃ知ってるけど、それがどうしたんだよ」

 

 

 

 

 

何を当たり前の事を言い出すのか、と福本だけに留まらずギャラリーにまでも怪訝そうに見詰められている白いチェシャ猫の真意に気付けたのは、恐らく大和だけ。

大和は、参ったと云わんばかりに頭を掻きながら開かれたままの、空き教室の扉を見詰める。

その先に、走り去っていった不死川心の姿はもう見えない。

 

つまり、あの時点で布石は既に整っていたのか。

末恐ろしいとまで思えてしまう目下の白貌を、いつか――倒してみたいなと、目標に描いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――つまり、まだゲームは終わってねェンだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

まさか。

 

ギャラリー達のざわめきに、福本も漸く、気付く。

 

入学以来の試験順位、その頂点に居座り続け、武神という名を関する川神百代に並ぶ存在として『知神』と呼ばれたこの男の真意に。

 

 

 

 

 

福本は、無意識の内に、膝を折った。

 

自分の横槍のせいで、与えられていた勝利を、奪い返されたという事実に。

 

 

 

 

 

 

 

――ロン。

 

 

 

 

 

 

白い指先がコロンと牌を一つずつ、倒していく。

 

短く震えたテノールボイスの、耳障りの良さとは裏腹に。

 

それは紛う事なく、悪魔の宣告だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

――大三元

 

 

 

 

 

 

 

挙げ句の果てに、イカサマで上がった役を抱えられていたという事実に、大和はおいおいと肩を落として、福本育郎は力なく染みの一つ見当たらない天井を仰いだ。

 

 

より一層の演出をかまされて、完全に持っていかれたギャラリーの熱。

興奮冷め止まぬ少数ながらのギャラリーの歓声に包まれながら、福本育郎はそっと呟いた。

 

 

 

 

 

――ドS過ぎだろ、コイツ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『紅い月の隣人』--end








麻雀分からない人、ごめんなさい。


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六節『兎追いしかの街』

こうして息を詰まらせる程の衝撃を受けることすら、どこか現実的ではないと思っていた時期が自分にはあったのだという事を聞けば、周囲は果たしてどれだけの反応を見せてくれるのだろうか。

 

どんな化け物だ、とか。

どういう身体をしているのだ、とか。

 

 

往々にしてそれは、異端的に捉えられるし、我ながらその反応は正常なモノともいえる。

要は有り得ない事なのだ、手で触れれば弾かれて、押そうとすれば押し戻されて、思い切り殴れば腕が折れる。

そんな特性を一個の人間が持ち合わせているのだという事を現実的と思う方が異端であろう。

 

 

――ましてや、その衝撃を与えた人物がかの武神だとしても関係ないのだと云えば、より顕著に疑わしさが増すというモノだろう。

 

 

 

「何してンだ、てか何してくれてンだオマエは。脳筋が祟ってついに頭のネジ吹っ飛ばしやがったンですか、あァ!?」

 

 

 

「……いや寧ろオマエの方が割と心配なんだけど。こんなグラマラスな美少女に密着されてからの第一声がそれって。どっちかというと理性を飛ばそうと思ったんだがな、ドライ過ぎるだろ、少しは普通の健全な男子としての反応しろよ!?」

 

 

 

「え、なンで俺が逆ギレされてンの?」

 

 

 

理解が出来ない、顔一面にそんな感情を隠そうともしない一方通行の、半目になりがちな紅い瞳が振り向いて。

鏡でも覗いたかの様に、恐らく自分と同じであろう感情を貼り付けた不満顔が直ぐそこにはあった、無駄に近くに。

 

現実的ではないのは此方の方ではない筈なのに、寧ろおかしいのはこうして背中にしがみついて来る川神百代の筈なのに。

段々と膨れっ面になる女の顔付きを見て、どうしてか自信が揺らいだ。

 

 

 

「いや、うん、冷静になって考えてみろ。 私は一応、川神学園一の美人と自他共に認められてるぐらいな訳だぞ? スタイルも我ながら思春期の男なら色んな意味で元気になるレベルだと自負してる。客観的に見たとしても、きっと私ならほっとかないレベルだ、うん。けどさ、それをさ、こうまでサバサバと対応するのって逆におかしいだろ? 胸とか当ててんのよ状態だぞ、何もないのかお前は。顔色全然変わってないって、枯れてるにも程があるだろ!?」

 

 

「……」

 

 

これはどうなのだろうかと、マシンガン並の勢いで何やら批難してくる百代の言葉に重要性は今一つ感じられないが、あまりに彼女の形相に余裕が見られないので、一方通行は少し考えてみた、そのままの姿勢で。

 

 

確かに、贔屓目に見ずとも川神百代の容姿は整っているし、スタイルが良いという主張に関しては否定する気もない。

何やら焦ったように、やたらとグイグイと背中に押し付けて来る胸囲はまぁ豊かであるのだろうし、別にそこに女性を意識しないという訳でもなかった。

 

しかし、だからといってあからさまな反応をしなくてはならないというのは、色々と間違っている気がした。

というか予告もなしに気配すら消して背中に飛び付いて来た女に対して、そこまで考慮する謂れもない筈だ、やはり現実的ではないのは此方ではなく彼方だ。

 

 

 

――結論。

 

 

 

 

「御託は良いから退けェ痴女がァァァァ!!」

 

 

 

放課後の帰り道、校門潜った直ぐ其処で。

柔道の達人である不死川 心も天晴れと賞賛するような、綺麗な一本背負いが決まった。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

「なんだよぉ、大和でさえちゃんと照れるのに、一方通行が極端にドライ過ぎるのがいけないんだろ。遠目でも何だか元気無さそうだから、私なりの激励を贈ってやろうと気遣ってやったのに」

 

 

「余計な世話焼かなくて良いンだよアホ。つゥか激励が目的だったとしたら、完全に裏目に出てるからな」

 

 

雲の輪郭を浮き彫りにしていく橙に塗れた平行線へと そっぽを向く様にして景観を眺めるのは、どうやら彼の 隣を歩く百代の機嫌を損ねるのに一役買ったらしい。

後ろ手を組んで不満そうに唇を尖らせている割には、橋架けに敷かれたアスファルトを歩く足音はやけに浮かれている様で。

所謂気難しい年頃らしさを顕著に表すちぐはぐさに、より一層面倒臭くなる。

 

 

「そういや、大和から話は聞かせて貰ったんだが……年上のお姉様との同居が一人から二人になったらしいじゃないか? 流石、エレガントチンク、教師だけじゃ飽き足らず軍人まで侍らすとは」

 

 

「あンのボケ、口軽すぎだろォ……」

 

 

「いやまぁ、別に大和から聞かなくても直ぐに知る事になったと思うから、私の舎弟は虐めてやるなよ。既に学園中に広まってるぞ、その話」

 

 

「訳分からねェよ、クソ。なンだってそンなに早く情報が回ってやがる」

 

 

朱に焼かれたグラデーションの隙間を縫って届いた夕日が、水面に映されて鮮明に波を作る。

橋の上から見下ろす景観は心さえ溶かすほどに綺麗だというのに、去来する鬱屈とした心情が遮って苦笑一つさえも残さない。

 

傍を流し見れば、いかにも愉快そうな声色とにんまりとした、あどけない少年みたいな笑顔。

けれど、先程とは打って変わって力強い足音は、苛立ち任せに足踏みしているようで。

百代の掴みにくい機嫌の推移は、誰も彼もに気取られていない訳ではないという事を、彼女に教えてやりたい衝動に駆られる。

 

 

「決まっているじゃないか、そんなの。今や川神学園で一、二を争う程の有名人な一方通行のホットなニュースだからな、しかも女絡み。食い付かない訳がない」

 

 

「下らねェ……当事者置いて盛り上がられてもなァ」

 

 

今更、自分が百代が言うほど有名人ではないと否定する程、自覚の足らない一方通行ではない。

不本意ながらも有名であるのは間違いないし、言ってしまえば身から出た錆というモノだ。

手首を右へ左へ捻りながら、手に提げた鞄の影を横に伸ばしたり縦に縮めたりするのを眺めるぼんやりとした紅い瞳が、ゆっくりと揺れた。

 

 

「気に入らないって顔じゃないか、一方通行」

 

 

とん、としなやかな動きで一方通行の前を遮る。

挑発気味に細められた紅い瞳が、面倒臭そうに顔をしかめた彼の瞳を覗き込んだ。

どうにもしてやったり気味なお調子者に、駆られたばかりの衝動はするりと抑えを脇に置き去りにした。

 

 

「気に入らねェって気分は、お前も同じなンだろ、川神百代」

 

 

得意気になるなと謂わんばかりに、鼻を鳴らして吐き出した言葉に、百代の目が大きく開かれる。

意表を突かれてしまった事が丸分かりになるほど、呆気に取られてしまったのは。

不貞腐れたい心情を精一杯抑えながらに空を仰げば、視線の先に、白と茜。

戻してみれば、夕焼け雲と同じ様に浮き彫りになった男のシルエットが、宥める様に苦笑していた。

 

 

「まぁ……そうなんだが、な。今もっと不愉快になったぞ、責任取れ」

 

 

「知るかよ、アホ」

 

 

「なんだよー素っ気ないな相変わらず」

 

 

単純なことだ、これは。

気に入らないのは、一方通行が自分以外の何かしらの要因で話題に上がるということ、それだけではないけれど。

日々の一方通行へのリベンジに向けての外堀埋めとして、頻繁に彼へと会いに来ては衆目に見せ付ける様に再戦をそれとなく申し込んでしてきた百代にとって、今回の状況はイレギュラーといって良い。

一方通行自身が頑なに再戦を拒むのならば、先ずは外堀を埋めてみてはという弟分の意見を採用して、馴れないながらも溺め手を実行していたのだ。

そこまで支障は出ないだろうけど、一方通行の手によって対策を取られるならまだしも、想定外の横槍はどうにも面白くなかった。

 

 

「実際に見た訳じゃないから何とも言えないが、大層な美人らしいじゃないかぁ、新しい同居人も。どうなんだ? クリスも素晴らしい上玉だったし、ガールハンターの私としての食指が疼くぞ、全く」

 

 

「あァ、そうかい。なら喜べよ、ご期待には添えられそうだったぜ?」

 

 

くるりと今度は背を向けて、茜に焦がれたアスファルトを一方通行よりも先に。

せめてもの意趣返しは余り効果はないけれど、それでもこの瞬間だけは、意図はなくとも形だけでも、自分の背中を追って貰う。

 

 

「なに!? あの一方通行が素直に認めるって事は……おっといけない、涎が……」

 

 

「いやまァ、他人の趣味をとやかく言うつもりはねェが、そこまでオープンなリアクションされても困るンだが」

 

 

面白くないのは、単純なことで。

全てという訳ではないけれど、寧ろ全体で見れば少ない部分なのかも知れないけれど。

汲み取られくないと思う事に限って 、あっさりと見透されてしまうのは、悔しいから。

学園中に広まっている噂を、自分が気に入らないなと思ってしまった事は、せめて気付かれないようにしたかった。

 

 

「しょうがないだろ、周りに良いって思う男が居ないのが悪い。それなら可愛い女の子に走るのは当然だろ? それに、目星付けた良い男はこんな良い女がアプローチしてもつれない対応しかして来ないときた」

 

 

「アプローチってかアタックじゃねェか、物理的な意味で。喜ンで対応する程、ドMちゃンじゃないンだよ俺は」

 

 

だって、それは、もしかしたら。

些細でも、僅かだとしても。

嫉妬という奴なのかも、知れないから。

仮に万が一そうだとしても、それはそれで面白いかもしれないけれど。

やられてばかりというのは、やはり、面白くないのだ。

 

夕焼けのグラデーションを下地に出来る影法師は、彼女自身も手に余るちぐはぐな内側を映した様に、薄く朧気で。

もしこれから先に、一方通行とリベンジして、それが叶って。

そして、それから私はどうするんだろうなと、自問自答を投げ掛ける自分が何だか青臭く思えて。

つい零れた笑い声を、しっかりと後ろの男に聞かれてしまったらしい。

 

 

「何笑ってやがる」

 

 

「いや、一方通行のちゃん付けって何か似合わないから面白くてさぁ。一周回って可愛らしいぞ、アクセラちゃん」

 

 

「似合わないってのは自覚してンよ。だが可愛いって何だアホ、ンでお前にちゃん付けで呼ばれると気味悪ィからやめろ」

 

 

「やめろと言われるとやりたくなるのが人の性なんだが、良い男に言われたならやめといた方が懸命だな。ほぉら、私こんなに物分かりの良い女!」

 

 

背中越しに胸を張ったところで、特に威張れる訳ではないとして。

チラリと振り向いて見てみれば、ジロリとした白眼視の眼差しのまま、けれど此方を見ていない生意気な横顔が映って。

そこに不服を覚えながらも、夕陽を飾り付けた幻想的な色合いに染められた男の、紅い視線の先を辿ってみる。

 

 

「ん……? あぁ、そういや今日、キャップはバイト休みだったか。野球なら最初から参加しておけば良かったなぁ」

 

 

パカリと携帯を開いてみれば、未開封のメールが一件で、差出人は案の定、百代の舎弟である直江大和から。

内容は放課後に変態橋の河川敷で野球をやるとの伝達が、少々の絵文字と共に送られていた。

 

 

「誘われてたンなら、最初からそっち行ってりゃ良かったのによォ。直江の奴、手綱ぐらいしっかり握ってろってンだ」

 

 

「おいおい、失礼極まりないなお前はホント。というか寧ろこんな美少女に抱き付かれた挙げ句、素敵な時間を過ごせたんだから、少しでも長引かせるのが本来取るべき選択だろ?」

 

 

「あァ、はいはいそォですねェ、分かりましたァ。つー訳でさっさとあいつらに混ざれ、俺を解放しろ」

 

 

「んーそんな言い方されたら、もう意地でも引っ付いてたくなるのもこれまた人の性だよなぁ。なんか言われっ放しもムカつくし」

 

 

「物分かりの良い女どこ行ったンだ、オイ…………まァいい、寧ろアッチから迎えに来やがったよォだからなァ」

 

 

売り言葉に買い言葉。

それにしては随分と軽い拍子のやり取りなのだから、一方通行に邪険にされるのも枠に嵌まってきたものだ。

そう百代が苦笑混じりに肩を竦めたところで、肩の荷が降りたといったような面持ちで、紅い瞳を細める。その視線の行き先に、言動に合点がいって、次いでにバタバタとした落ち着きのない足音で誰が迎えに来ているかも特定出来て。

 

振り返ると同時に、両手を広げた――飛び込んで来るであろう、愛しい妹を受け止める為に。

 

 

「お姉様ぁぁー!」

 

 

「あっはっは、よーしよしよし。全く可愛いなぁワン子は、どっかの白い兎と違って愛嬌って奴をよく分かってる」

 

 

「ふふーん、当然よ!」

 

 

「勝ち誇るよォに見られても困るンだが。ドヤ顔すンな、そンなに誇れる事じゃねェから」

 

 

予想を裏切らず、弾丸よろしく胸に飛び込んできた妹を掻き抱いて小粒な頭を撫でながら、ちょっとした意趣返しと共に誉めてしてやれば。

途端に、頭を撫でくりされたまま一方通行に向かって誇らしげな表情を向ける。

 

対して一方通行はといえば、まるで小学生のお遊びに無理矢理付き合わせられる近所の兄ちゃんばりの呆れきった表情で、眉間を押さえていた。

ついでにこっそり馬鹿が増えたとか、なンで直江が来ねェだとか失礼なことを呟いているのを聞き逃す百代ではない。

川神百代、そして自慢の義妹である川神一子、愛称ワン子を一纏めに馬鹿にしたことには、後々責任を取って貰わねばならないと百代は不敵な笑みを浮かべた。

 

 

「あ、そうそう。シロ、あんた昨日の私とクリとの決闘見た!? どーよ!私の腕も大分上がってきたでしょ!」

 

 

「……ン、確かに強くはなったな、前よりは。

つゥかナチュラルにシロって呼んでンじゃねェよ駄犬」

 

 

「誰が駄犬よ! いいじゃないシロって名前。なんだか 猫っぽくて可愛いじゃない」

 

 

「良くねェよ。それにお前、昨日の決闘って負け試合だろ。そンなに威張れる程か」

 

 

「う、うるさいわよ! 確かに負けちゃったけどさぁ……」

 

 

少々大人気のない一方通行の指摘に、赤毛の少女はしおしおと目に見えてショボくれる。

真正面の問答など直江大和にすら足許に及ばない程度の一子が、大和すら閉口してしまう一方通行に挑めば、言い負かされるのは当たり前というのに。

そして強気に出てばかりの割には圧倒的に打たれ弱い彼女は、既に若干泣きそうになっていた。

 

どォしろってンだ、と謂わんばかりに溜め息を零しながらも、取り敢えず一子をあやす百代を一瞥しながら脇を抜ける。

辟易とした彼の対応に相変わらず苦手意識の強い事だとひっそりと苦笑したのは、敢えて見逃して。

 

 

「むぐぐ……シロめぇぇ、言いたい放題言ってくれちゃってぇ。あ、そうそう、お姉様。お姉様は今日バイトじゃなかったわよねぇ?」

 

 

「……ん? まぁそうだな、それがどうかしたのか?」

 

 

余程悔しいのか先を歩く白い背中を睨みつけながら地団駄を踏んでいた一子が、思い出したように隣立つ姉の顔を仰ぐ。

今の気分としては、何故一方通行と一緒に居たのかと追求されるのは若干吝かであったのだが、人懐っこい仔犬の笑顔を浮かべた辺り、どうやら杞憂で済んだらしい。

 

 

「それじゃあ、一緒に野球しましょ! まだ始まったばっかだから大丈夫だし」

 

 

「おーそういえば、さっきチラッと見えたがクリスも参加してるみたいだな」

 

 

一緒にやろう一緒にやろうと子供のようにせがんでくる可愛い妹分の誘いに乗ろうと思い、ゆったりとした歩速で白い背中を追い掛けながらも、眼差しは河川敷下の土手へ。

青々とした草が所々に茂った辺りにぽっかり空いた場所で、和気藹々と野球を楽しむ少年少女達の姿を眺める。

 

足で地面を削っただけの簡素なバッターボックスに立ちピッチャーの投球に構えている金髪の少女は、つい最近、一子や大和達のクラスへと転校してきた話題のクリであった。

そして先日、風間ファミリーという自分達にとってはかけがえのない居場所に仮ではあるが加入することとなったのだが、ふと百代の視界に見慣れない人物を見留める。

 

ファミリーの面々が野球を楽しむ直ぐ傍で腕を組み、クリスをぼんやりと眺めている、紅髪の女性。

凛とした美しい風貌と、特に眼を惹くであろう眼帯。

 

何処かで聞いたような、と思い出すまでもない。

タイムリーというか、噂をすればというか。

 

 

「成る程、確かに美人だな。羨ましい奴だな、一方通行も」

 

 

「……? どうかした、お姉様?」

 

 

スルリと滑り落ちた言葉に首を傾げる妹に、苦笑を一つ投げ掛けた。

もう一度、視線の戻せばクリスへと向けていた彼女の紅い瞳は、橋の方へと向けられていて。

自分達より少し先を歩く一方通行と、いつの間にか睨み合っていて。

 

そこに一層興味を掻き立てられる自分の心情に、思わず溜め息をついてしまいそうだった。

 

 

 

――――

――

 

 

「何だか久しぶりだな、一方通行! 何してるんだ?」

 

 

「見りゃ分かるだろ、学校帰りだ」

 

 

 

面倒の奴にまた掴まってしまった、と半ば鬱屈とした表情な一方通行の顔色などまるで目に入ってないらしい目下の青少年は、爛々とした眼差しで此方を見上げてくるのだから質が悪い。

オマケに彼がピッチャーな上、わざわざ此方側にまで寄って来るものだから、野球が中断されてしまっている。

となれば、参加者面々の視線が自分へと集まるのも当然で。

 

 

「ふーん、暇っぽいな。それなら一緒に野球しないか? お前が加われば丁度半々に別れるんだよ!」

 

 

「パス」

 

 

「えぇーなんだよ、良いじゃんかよー! ノリ悪いぞ!」

 

 

嗚呼、やっぱりこうなる流れだったか、と一方通行は脱力気味に頭を掻く。

風間ファミリーという仲良しグループのリーダーに掴まってしまえば、催し事には必ずといって良いほど誘われるのだ。

今回のは催しというより単なるスポーツなのだが、どちらにせよ似たような物なので、ある程度予測出来る流れではあったが。

 

 

「面倒臭ェ」

 

 

「やっぱりかよ、言うと思った」

 

 

「なら駄々捏ねンなって」

 

 

風間翔一ことキャップの愛称で呼ばれる彼は、基本的に自分に対して往生際が悪い事が多い。

精悍な顔付きと風貌に反してやたら子供っぽい内面である為か、何事もすんなりと通してくれない。

ぶーぶーと不満そうに口を尖らせた翔一をどうしたものかと眺めていれば、その彼の元へと残りの面々が集まってきた。

 

 

「おうおう、出やがったなリア充め。てめぇ、梅せんせーだけじゃ飽き足らず、あんな美しいお姉様とまで同棲なんて許せねぇぞ! 降りて来やがれ、俺様の華麗なプレーでエレガントチンクの座を奪ってやる!」

 

 

「いやいや、野球とそれとは別でしょ。勝ったところでガクトがイケメンになる訳じゃないし」

 

 

「ひでぇぞモロ! 俺様の鍛え抜かれた筋肉美と二枚目フェイスならエレガントチンクなんて楽勝だろう!」

 

 

「無理だと思うけどなぁ……」

 

 

ムンッ! と気合いの篭ったポージングはボディビルを意識でもしているのか、ガクトと呼ばれた男の筋肉は自賛を重ねるだけはあり、確かに見事なものではある。

しかしタンクトップ一丁では逞しいを通り越して知性の足りなさも象徴しているので、今一つ戴けない。

 

ガクト――島津岳人の傍で苦笑いを浮かべるモロと呼ばれた少年は、彼とは打って変わって線が細い。

肌も白く中性的な印象が強い彼、師岡卓也。

彼ら二人の漫才さながらのやり取りに毒気を抜かれた気分になるのは毎度の如くで、いっそコンビ組んで芸人でも目指せば良いというのは一方通行の評価である。

 

 

「別にエレガントとか云う評価とかどォでも良いから、それはお前にやるよ」

 

 

「えっ? マジで!? くれんのか!?」

 

 

「なんで喜んでんのさ! あれ決めるの本人じゃないんだから、貰ったって意味ないでしょ」

 

 

「残念だが脳筋じゃなくて、やるのはモロの方だからな」

 

 

「えっ、僕!? いいの!? っじゃなくてだから違うでしょって」

 

 

小気味の良いテンポのやり取りを袖に、陽の落ちかけた時間帯の割には強く水面に反射されたキラキラとした煌めきに一方通行は目元を手で覆う。

河川敷から土手へと続く石段を降りながら、賑やかしい連中との遭遇に眉を潜める白薄な青年を見て、直江大和はやんわりと苦笑いを浮かべていた。

 

 

「さっきぶりだな、一方通行。 なんだかさっきよりも随分疲れてるみたいだけど」

 

 

「そォ思うンなら、あの馬鹿の手綱を緩めンな。舎弟なンだろ、お前」

 

 

「無理無理、手綱なんか関係なしに振り回されちゃうからなぁ、姉さん相手じゃ」

 

 

第一声が怨み言とはなかなかスマートとはいえないが、それだけに細身な肩にのし掛かる苦労を推し測れるのが憐れさを演出する。

しかし、彼が苦労している相手が相手だけに憐れむだけしか出来ないでいるのは、申し訳ない事だと思う大和だった。

 

 

「軍師だろ、兵達を動かせなくてどォすンだよ」

 

 

「兵達と飛車と玉座を兼ねてるチートだぜ、知力100オーバーでもしてないとやってられないさ」

 

 

「随分投げ遣りだなオイ、昼休みン時の意趣返しか?」

 

 

「まさか。逆怨みは役得になんかならないからな、負けた勝負はまた今度、きっちりと返させて貰うからな」

 

 

「ハッ、粋が良いねェ。待っといてやるよ」

 

 

挑発的に不敵に笑えば、待ち受けるのは強者としての憮然とした有り様だ。

敵に回したくない、勝てない相手とは勝負しない方が賢明という姿勢も彼相手では取り繕ってきた大和ではあったが。

やはりいつかは、そんな事を考えてしまうだけ、彼もまた男の子という訳で。

 

そんな二人の見方によっては微笑ましく、また別の見方によれば物々しく。

そして、若干アブノーマルな視点で見れば、それ即ち掛け算と答える猛者もまた、風間ファミリーの一人であった。

 

 

「ふ、ふふ……知的(に)(で)クールなキャラであっても、ライバル心を密かに燃やして攻めの姿勢な大和。王道は大和×キャップだけど、おかずどころか主食レベルにも匹敵するこのカップリング…… 滾る!!」

 

 

時は来た、そんなキャッチフレーズこそ相応しいと謂わんばかりに藍色の瞳をくわっと刮目させながら、どこからか取り出した10点という恐らく最高値であろう評価の書かれた棒を掲げたのは、瞳と同じ色彩を宿した藍色の髪の少女、椎名京。

可憐な出で立ちは確かにそうなのだが、如何せん今の彼女にはあからさまな不穏を纏っていて。

クネクネと身体を捻らせては一方通行と大和のやり取りに悶える京を、何事もなかったの様にスルーする二人の手並みは鮮やかであった。

 

 

「こぉら、舎弟と白兎。然り気無く私を馬扱いするとは偉くなったもんじゃないか、んん?」

 

 

「げっ」

 

 

「いきなり飛び付いて来ンじゃねェ! しれっと兎呼ばわりしやがって。実際問題、馬だろお前……とびっきりのじゃじゃ馬と来てる」

 

 

「じゃ、じゃじゃ馬!? なんだよそれ、上手い事言ったつもりか、このポニーテール!」

 

 

「姉さん、微妙に馬く……上手くないね、それ」

 

 

いつの間に追い付いたのか、どうやら二人のやり取りを聞いていたらしい百代は何やらご立腹のようで、意気揚々と一方通行の背中に飛び乗る様は正しくじゃじゃ馬といって差し支えない。

だが幾ら的を射ているからといって不満が成りを潜める訳でもなく、勢いも手伝っておんぶの姿勢になってしまっている一方通行の頭に顎を乗せてガクガクと喋る。

無論、オチを運んできた大和に載っかるようにして、背中にしがみつく百代が振り落とされてしまうのは、想像に易い。

 

 

「……大和、ひょっとして此方の御仁もファミリーの一員なのか? 先日の紹介時には見当たらなかったが」

 

 

こてんと尻餅を着いたままぶー垂れる百代を口喧しそうに見下ろす一方通行をさてどう宥めるかと思考を巡らせていた大和に、ひょこっと現れた美しいブロンド髪の少女が控え目に尋ねる。

振り向けば、そこには仮という形ではあるが、先日ファミリー入りを果たしたドイツからの留学生、クリスと彼女のお目付け役でもある転校生、マルギッテの姿があった。

 

夕陽焼ける川の水面の輝きにも勝る豊かな金髪に透き通った瞳の彼女と、これまた目を惹く美貌と彩色を纏った麗人のペアは成る程、目の保養という奴だと、尋ねられている立場であるにも関わらず大和が見惚れてしまうのも仕方がない。

しかしそれ以上に関心を牽いたのは、クリスより一歩下がった位置に立ちながら、どこか険しい表情を浮かべるマルギッテの方で。

 

 

「あっ、いや……違うよ。一方通行はS組の生徒で――」

 

 

どうにも落ち着かない気分になりながらも、たどたどしく説明する大和の口先が、ひしっと固まる。

唐突に彼の脳裏に去来した追憶のシーン、それは先程も一方通行との会話にも軽く触れた、本日の昼休みでの出来事。

あの時、自分に敵討ちを依頼してきた福本育郎を宥めていた端で、そういえばクリスとマルギッテの何やら穏やかではないやり取りがあったのを思い出した。

 

会話の内容こそハッキリ聞こえなかったものの、確かマルギッテがクリスに何か忠告らしき事を言っていた筈。

そして、あの後に聞いた一方通行の愚痴にもマルギッテにやたら突っ掛かれるのだという、要約すればそんな事も言っていたのも確かだ。

最後に、現在のマルギッテが浮かべている険しい顔付きと来れば……ここに来て、直江大和は今現在の自分の立ち位置が極めて厄介である可能性に気付いたのである。

 

 

「えーっと、まぁ時々、お世話になったり勉強を教えて貰ったり、頼りになる同級生だよ、うん。あははは」

 

 

「むっ、そ、そうなのか」

 

 

ちょっと腑に落ちない感じに呟いたクリスを傍目に乾いた笑い声を挙げる大和の心情、推して測るべし。

内情は分からずとも、マルギッテがキリリと吊り上がった瞳を向けられているであろう、未だにじゃれつく百代を面倒臭そうにあしらっている一方通行に対して、友好的とはとてもいえない感情を持っている事はまず間違いない。

状況証拠と一方通行当人からの苦情を合わせれば、それは疑う必要もない真実なのだろう。

別に大和自身に問題がある訳でもないのに、何だか針の筵に立たされてしまった彼は、今回ばかりは非常に不運と言えた。

 

 

「と言うことはやっぱり、彼がマルさんがお世話になることになったという小島先生の同居人の……あくせ、あく……えぇと、えーっと」

 

 

「……アクセラレータですよ、お嬢様」

 

 

「そ、そうだ、アクセラレータさんだったな、うん。あれ、でも一方通行とかいう名前じゃなかったのか? お父様からの手紙では確か、そんな感じだった筈だが」

 

 

「あぁ、それね。どっちでも好きな方で呼んでいいそうだ。俺はアイツ、外国人ぽいからアクセラレータって呼んでるけど」

 

 

「う、ん……? そ、そうなのか、何だかややこしいな。どういう意味なんだろうか。というか、彼は私と同じく何処かからの留学生じゃないのか? 日本人、というかアジア系にはとても見えないが」

 

 

「どういう意味か、とかはややこしい事情がありそうだからいきなり踏み込んで聞くのは止しといた方が良い。あと、一方通行は日本人らしいよ、本人曰く」

 

 

良く分からない人なんだな、と変な所に落ち着きはしたが、想定よりは厄介な事になりはしない流れかもしれないと、一先ず胸を撫で下ろす。

未だにマルギッテの表情が変わらないのがネックではあるが、どうやら彼女も彼女で変に騒ぎ立てるつもりはないらしい。

と、何やら踏ん切りが着いた様子のクリスが意を決して頷くと、彼女の姉代わりであるマルギッテのそれと比べれば慎ましいながらにも確りと膨らんだ胸を強く張り、いつの間にか増えた翔一と一子に絡まれている一方通行に声を掛けた。

 

 

「突然ながら失礼する、一方通行さん。知っているかもしれないが、私はドイツから留学してきた、クリスティアーネ・フリードリヒ。 先週末より私の姉代わりであるマルさんのホームステイ先としての快い承諾を戴いた事に関して、この場を借りて感謝の意を表明させて戴く」

 

 

「――」

 

 

ピシリと背筋を伸ばしながら、まるで軍式さながらに堅苦しい感謝を示すクリスに、思わず賑やかしかった一方通行達に沈黙が降りる。

どこか口早に述べた彼女の言葉が難しくて理解出来なかったのは川神一子だけであり、無駄に堅苦しく変容した普段と少し異なるクリスに固まってしまったのは川神百代と風間翔一、何かを堪えるように無言になってしまった一方通行。

そして、間接的ながらも謂わば恩人に対してはきちんと在れねばとつい緊張してしまったが為にクリスが早口になってしまったのに気付けたのは、小さく溜め息をついたマルギッテだけであった。

 

 

「……な、何か可笑しかっただろうか、私は。ま、マルさん」

 

 

「お、お嬢様……えぇい、兎! 何を呆気に取られている、さっさとお嬢様に何かしら返事をしなさい!」

 

 

数瞬ながらも訪れた沈黙に加えて、何やら妙な空気になっている事に気付いた岳人と卓也、京の三人から向けられる怪訝そうな視線に気付いたクリスが、わたわたとマルギッテに助けを求める。

彼女の父親ほどとは行かないが、それでもクリスを溺愛しているといっても良いマルギッテが彼女の要請に応えない訳にはいかない。

がうっと吠える狼の如く先程から黙ったままの一方通行に何かしらのアクションを求め――ふと、気付く。

程好く筋肉は付いていながらも、顔立ちから中性的なイメージが先行してどうにも華奢に見えてしまう一方通行の肩が、震えているのを。

それはまるで、何かを堪えるように。

 

 

「此方、こそォ……ッ……御丁寧に、どォも……」

 

 

「い、いや。私にとってマルさんは本当に大切な――」

 

 

風にすら容易く奪われるかのような微かな声で返事をする一方通行だったが、幸いそれはクリスに確りと届いたようで。

どうにも様子が可笑しいけれど、それでも答えが返ってきた事に安堵した所で――限界はついに訪れた。

 

そして、一方通行の何に限界が訪れてしまったのかをこれまたいち早く察した大和は、あーもう知らんとばかりに肩をガックリと落とすのであった。

 

 

「ッ、くはッ、クカカッ! ギャハハハハ!! ま、マル……マルさン……ッ……!!」

 

 

「ちょ、アクセラおまっ」

 

 

まさかの爆笑である。

先程からずっと堪えていたらしいのだが、どうやらクリスのマルギッテの呼び方が変にツボに入ったらしい。

度重なる疲労が祟ったのか、それとも単純に彼の笑いのツボが浅かったのか、どちらにせよ初めて見る一方通行の爆笑にクリスとマルギッテだけではなく、全員が呆気に取られた。

しかも、不運なことに。

 

 

「お、おい……そんな笑うなってこら……ぶふっ」

 

 

「なっ――」

 

 

茫然としながらも一方通行に唯一ツッコミを入れた百代がつい彼の笑いを貰ってしまって、マルギッテは呟くと共に表情を見る見る内に赤く染め上げる。

それは羞恥なのか、怒りなのか、恐らく両方ではあるが。

 

 

「――Hasen (クソ兎共)」

 

 

そしてこれまた当然ながら、むざむざと笑い者にされて赦しておける許容など、ことクリスに関する万事においては異常な沸点の低さを誇るマルギッテには当然ある訳がなくて。

これはいけない、と。

どう考えても悪いのは自分たちなので返り討ちにするのも駄目だろうと察した百代は、未だに笑いを抑えきれずにいる一方通行を担ぐと凄まじいスピードでその場から離脱する。

しかし、その行動は言ってしまえば火に油を注ぐも同然の行いで。

 

髪も瞳も紅い紅い麗人は、ついでに顔色さえも真っ赤にして。

取り出したるトンファーという名の得物を掲げ吠える姿を見て、修羅が居るよと大和は背筋を凍らせた。

 

 

 

「――jagt!!!(ぶっ殺す!!)」

 

 

 

 

 

 

 

―――

―――――

 

 

尚、夕暮れ空が心無しか血の様に紅く染まり出してきてるなかで。

風間ファミリーのリーダーである翔一が何故か「野球の次は鬼ごっこか! 俺達も行くぜ、マルギッテより二人を先に掴まえた奴は後で豪華商品贈呈だ、一方通行から!」という本人の意向を踏まえず声高らかに宣言したものだから、約三人が異常な執着を見せ、参加。

 

風になるぜ、だとか。

美女紹介して貰うぜ、だとか。

大和襲って貰うぜ、だとか。

肉奢って貰うぜ、だとか。

 

そんな掛け声と共に駆け出したファミリーの面々を未だに茫然と見送る残りの面々。

どうする、どうしようか、と逃げ出したあの最強二人組を掴まえれる自信の欠片もないので、置いていかれる形となった大和と卓也の二人は、同時に溜め息をつくと、同じくある一点に視線を寄せる。

そこには――

 

「ネーミングセンス、やはり私にはないのかな……でもマルさんは喜んで……でも、最初は微妙な顔してたし……うぅぅ……」

 

川の畔で一人、体操座りになりながら地面にのの字を書きながらしくしくといじけるクリスの姿が残って居たので。

 

とりあえず、慰めるか。

うん、そうだね。

 

言葉もなく、アイコンタクト一つで彼等二人の意志は決まった。

 

夕刻、春が呉れる頃。

何気無く響いたカラスの鳴き声に、止めをさされる留学生が、一人。

 

 

 

 

『兎追いしかの街』――end.



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七節『藍より青し』

如何に頭脳が優れていようが、憶測や予測を立てる事に一家言あると自負する者であろうが、何事にも想定外というのは当たり前の様に存在する。

陶酔気味に誰かが吐き出した、この世に絶対と呼べる事象など有りはしない、という格言にも、成る程、確かにそうだと同調したくもなるが。

けれど、だったら有りはしない、という断言もまた矛盾を孕むのではないかとか、そんな終わりのない鼬ごっこを繰り返す羽目になるので、それはそれとして思考の隅に追い込んで。

取り敢えず、予測が着かない事、イレギュラー、他にも色々便宜はあるが、つまりはそういった事があるのは当然という認識を踏まえて。

スーパーコンピューターにも遥かに勝るとさえ言われた最高峰の天才であるらしい一方通行は、声を大にして叫びたい。

 

――どォして、こうなった……

 

 

「さぁ、覚悟して貰おうか、一方通行! 昨日のマルさんの怨み、持ち掛けられた話とはいえ正義とは呼べない暗躍の数々、正義を貫く者として、そして2-Fの皆を代表する者として、私が貴方を倒させて貰う!」

 

 

蒼天高らかに掲げるレイピア、模造品に過ぎないというのに使い手の魂に反響する様にして、冷たい切っ先が光を浴びて銀に煌めく。

対峙する者に向けての宣誓の清らかさ、強かさ。

ジャンヌダルクとさえ彷彿とさせる金色の乙女の発破に、彼等を囲う大衆の熱が一気に勢いを増した。

まるで観客に過ぎない筈の彼等さえ共に闘うと錯覚させるほどの盛り上がり、まさしく軍勢(レギオン)。

さあ倒せ、憐れな兎に正義の鉄槌を。

大衆は世界は、君にそれを望んでいると。

 

 

「……テンション高ェな、オイ」

 

 

しかし熱狂するオーディエンスとは対称的に酷く、やるせなさと哀愁を滲ませる声色が、ポツリと喧騒の中に現れて、そして呆気なく掻き消える。

対峙する眩い金色の髪、アイスブルーの瞳と対照にさえ映える白髪の少年は、目の前の少女とはどこまでも正反対な立ち位置を求められているかの様で。

危うさすら抱かせる愚直さに一つ溜め息を落として、対面のクリスよりも余程鋭利さを感じさせる視線をビシビシと送る自身の後方へと、振り向いた。

 

 

「……はァ」

 

 

振り向けば、より哀愁の募る心情がそのまま口から零れ落ちて、やるせない。

正面のクリスより後ろに控えるのは、彼女が在籍しているFクラスの面々がわんさかと。

となれば、一方通行の振り返った先にて列を作るのは、彼の在籍するSクラスの面々というのには異論はないし、そちらの方が自然である。

顔見知りばかりのすぐ側で、非常に不服そうな面持ちで佇みながらも此方を睨む武神様がいなければ、の話だが。

 

 

「ほンとに、面倒くせェ」

 

 

納得はいってない、そんな不満たらたらな百代の表情から発せられる無言のメッセージなど、理解するのに時間は掛からない。

不本意ながらも、それなりに付き合いのある関係なのだ、わざと手を抜いて負けたりしたら絶対許さない、という彼女なりの最大限の譲歩くらい、承知していることだ。

 

負けてはならない、という条件を無理矢理押し付けられた結果とはなったが、一方通行にとって面倒な事項というのは、生憎そこではない。

 

 

「……」

 

 

睨むというか、視線で射殺すと例えた方がしっくり来るくらいに禍々しい眼差しに、思わず頬が引き吊る。

腕を組み、毅然として立つ姿は容姿も相俟って、ある種の神々しささえも彷彿とさせる程に美麗であった、のだが。

一人だけ背景が違うというか、然もすれば狼の遠吠えすら聴こえてきそうな険呑な雰囲気に、明らかに近寄り難そうにしているSクラスの生徒達も顔を青ざめている。

 

マルギッテ・エーベルバッハ、勿論その人である。

 

 

「……なンて面してこっち見やがるンだ」

 

 

フランクとの一件で見せた、恐らく彼女の得物であろうトンファーこそ取り出してはいないが、いつ此方へ襲い来るやも分からない。

クリスに対して傷でも付けたら即刻乱入でも仕掛けて来そうな雰囲気に、思わず辟易としてしまう。

 

そもそもこの状況は一方通行の本意ではないのだが、そんな事は関係ないとばかりに剥き出しな感情をぶつけてくるマルギッテを面倒に思うも、昨日のマルギッテの愛称が妙にツボに入ってしまった為に爆笑してしまった一件が負い目に思えて、どうにも無視が出来ない。

あの後散々謝ったが、そう簡単に許して貰える事もなく、そういった禍根も諸々含めて引きずった結果でもあるので、自業自得とも言えるが。

 

事の発端である不死川 心の行き過ぎた声援通りに勝利を得るにしても、クリスに対して傷が出来る行為一つでもしてしまえば、マルギッテが飛んで来る。

わざと負けようモノならば、なし崩し的に武神とも闘う羽目になるであろう、散々難癖付けられるビジョン

がいとも容易く脳裏に過る。

 

最善、というか前門の武神と後門の狼を回避するには、フェンシングの達人と実力も充分なクリスを相手に無傷で勝利を得なければならないという、非常に面倒かつ骨の折れそうな道を選ばなくてはならない。

 

 

助け船を期待したいところだが、仏代わりに手を構えて申し訳なさそうな面構えの井上準にはあの二人をどうこう出来る筈もないだろうし、口八丁でどうにか丸め込む事は出来そうな葵冬馬は此方の都合などお構い無しに微笑を携えているだけ。

期待を持つのがそもそも間違いな気がしそうな榊原小雪に至っては、何をどう思って実行に至ったのか経緯がまるで分からないが、結論だけでいうとクラスメイトである十河に紙芝居を披露していた。

 

しかも小雪自作の、内容が無駄にブラックなストーリーのモノであり、何故自分に紙芝居をしてくれているのかさえも理解出来ていないであろう気弱な委員長タイプのクラスメイトはひたすらに困惑顔である。

助け船を期待するどころか、寧ろ逆に助けて欲しいと救いの眼差しで此方をチラ見してくる十河に、引き吊った口元から乾いた笑いが零れるのを一方通行は止める事が出来ない。

 

 

春もまだ、麗らか半ば。

溜め息も溶けるような蒼い空に、感傷さえも淡く溶け消えた。

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

発端を追えば、また一つ厄介事を持ち込んでくれたトラブルメーカーの仕業という事になるのだろうか。

校庭諸々を一望出来る屋上のフェンスに、噛み付く勢いで声援なのか罵倒なのかどっちにも取れそうな内容の叫びを挙げる振袖姿のトラブルメーカーを、詰まらなそうな紅い眼差しが見据える。

問題は、それさえも群集の一つとして紛れてしまいそうな状況というべきか。

 

正午を過ぎてあと一刻、ニ刻、経てば快活な青空に朱みが差し掛かるであろう、そのくらいの昼下り。

当たり前の様だが、学園となれば授業中である筈のこの時間に、自分を含めて何十人もの生徒達が屋上で騒ぎ立てているなど普通の学校ともなれば考え難い光景である。

 

しかし、此処は知る人ぞ知る川神学園。

場合にもよるが、何よりも生徒達の競立、向上精神を促すべく様々なシステムを取り入れている普遍的とは程遠い場所であり、現在もそのシステムの内の一つである、決闘システムが適応されている状況で。

現在の対戦カードは、Sクラス生徒、井上準とFクラス生徒、風間翔一によるレースが繰り広げられていた。

 

 

「……」

 

 

経緯をなぞれば、どうしようもなく単純で。

その一端に自分が少なからずも関わっている事に目を伏せたくもなるが、事の広がりを見るに完全不干渉、という訳にもいかない。

不死川 心がFクラスに所謂果たし状を叩き付けた事によって火蓋が切られたのが此度の騒動の経緯ではある。

 

しかし、彼女がその決断に至った発端は先日の麻雀であるのは明白であり、彼女が一方的にライバルとして持ち上げている一方通行の前で不様に敗北を喫した事に対する復讐、というどう考えても逆怨みな実態がちらほらと見える。

その上、麻雀の最終成績はトップが一方通行であるという結果の理由を他でもない彼自身に冷然と告げられ、序でにサディスティックに罵られ、彼女の矜持をさながら掌の上で弄ばれた過日の失態もFクラスの所為と責任転嫁しているものだから、不死川 心も中々懲りない。

とはいえ、不死川 心の心を折る事と呼吸する事は自分の中では同義と宣う彼としても、決闘システム断行の原因となってしまった過失は己にあると自覚している為に、不干渉を貫けずにいた。

 

 

「……大丈夫かな風間君、あんな高い所から飛び降りて。い、いい一方通行君は、どう思うねえねえ!?」

 

 

「落ち着け、どもンな。心配しなくてもあの馬鹿ならそう簡単に下手打たねェだろ」

 

 

次からはもう徹底的にアイツの心折ろうと不穏当極まりない決意を固める一方通行の耳に、たどたどしいソプラノが余裕なく揺れる。

十河の栗色の髪が不安げに右往左往する仕草を紅い視線が気怠そうに追う姿は、猫じゃらしに釣られる猫の様にも映った。

 

相変わらず、Sクラスには似つかわしくない性格をしている委員長タイプ、もとい十河の落ち着きの無さについ苦笑を濁す。

所謂対戦相手にさえ過剰な心配を寄越す彼女は成る程、自分の周り誰よりも人間が出来ているのだろう。

十河の爪の垢でも煎じて飲めば少しはマシになるかも知れない、彼方此方も、自分も含めて。

 

 

「ほ、本当に? でもでも屋上からだなんて、幾らなんでも高過ぎるし、大怪我したら大変だよ……」

 

 

「……直接飛び降りた訳でもねェ、大方、窓際伝うか木にでも飛び移ってンだろ」

 

 

現在の戦績は葵冬馬が直江大和を下し、Sクラスが一勝をリードする形となっているのだが、言ってしまえば此度の決闘は団体戦ではなく、Fクラスからのリベンジマッチという経緯が含まれる。

リベンジと共に選手を兼ねて立候補した風間翔一としては、ファミリーの一員である大和の敗北をも挽回したいという決意から常套手段は用いってはいられない事は察せてはいたが。

屋上から校門までどちらが先に着くか、という分かり易い決闘内容、迅速なる速さで階段を駆け降りる準とは裏腹に、翔一は屋上から飛び降りて校門を目指すというまさかの荒業を断行した。

 

そんな光景を前にすれば、十河の様に慌てふためいて勝負よりもまず翔一の心配をするのが当たり前、ではあるのだろう。

救急車でも呼ぼうと思い至ったのか、校則に従って切っていた携帯電話の電源を入れ直し、起動準備中のディスプレイにやきもきする少女の姿は、あまりにも眩しい。

クラスの殆どが勝敗に息巻く中、そういった姿勢を見せる事は、少なくとも自分には出来ない事だろうから。

 

 

「……まァ、うちのモンにあンま心配掛けンなってあの馬鹿には後で言っとく」

 

 

「……ぇ?……うぇ!? ひゅ、あ、えと、『うちの』ってその、あの……」

 

 

携帯を握りしめながら情緒の暗みが絶えない十河の面持ちに胸に詰まる物があったのか、溜め息混じりにフォローを入れる一方通行ではあったのだが、言葉選びに余裕の無さが浮き彫りになってしまう。

他に言い様はあったもののつい弾みから出た言葉を取り戻す機会は、あからさまに動揺してしまった十河の狼狽に掻き消えた。

 

目を白黒させて手振り足振りが乱れに乱れ、赤みが差し掛かるどころではなく、顔中に紅をひいたのかと錯覚してしまうほどで。

確かに暗みを取り払うことは成し遂げたのだろうけど、これでは本末転倒だと思わず空を仰ぎたくなった。

 

 

「……誤解を招く言い方だった、悪い。クラスメイトとして、って事だ」

 

 

「え、あ、え、う、うん! 勿論そうだよね、大丈夫、大丈夫だよ!」

 

 

「そ、そォですか」

 

 

勝負はいよいよクライマックスに差し掛かっているのだろうかヒートアップするオーディエンスを他所に、違う意味でクライマックスを迎えている十河の様相に思わず一方通行は狼狽を隠せない。

然り気無く添えられたクリーム色のカチューシャがずり落ちそうな勢いで捲し立ててはいるものの、心配になるほどに頷く彼女に、どうしたものかと眉間を揉む。

 

一度こうなってしまえば、一方通行に出来る事など限られていて。

日頃ワンポイントのヘアアクセサリーを変えたりする十河の趣味に何気なく気付いて、指摘序でに柄にもなく褒めた時も今と似た様相になってしまった過日を思い出して、肩を落とした。

 

 

「そ、その……ごめんなさい」

 

 

「……気にすンな、悪ィのはこっちだ」

 

 

別の意味で落ち込ませてしまった上に余計に気まずくなってしまった現状に、落ち着きなく足踏みを重ねる。

儘ならないモノこそ乙女心ではあるのだろうが、配慮の下手さには悪い方向に自信がある一方通行としては、妙にずしりと来る空気は少し歯痒い。

根底で求められている部分に彼自身気付いている節があるからこそ、歯痒いといえるのだろうが。

 

 

「……決着、ついたみてェだな」

 

 

不透明にも思えて、事次第に確信を抱かせる厄介さ。

そこに至る度に僅かばかりの爪痕が残る痛みを振り払う様に吐き出した苦し紛れに、目の前の少女は幸いな事に、俯かせ掛けた顔を上げる。

視線で促した先には、憤慨した様子の不死川 心に、昂った歓声を上げるFクラスの生徒達。

対照的に落ち込んだ素振りを見せるクラスメイト達の様相を一瞥すれば、どちらが勝ったかなど言うまでもない。

 

 

「……やれやれ、負けてしまいました。やはり魅せてくれますねぇ、彼は」

 

 

「それなら、悔しがる素振りくらい見せろっつーンだ。台詞と表情が一致しねェぞ」

 

 

参ったと云わんばかりに両手を挙げながら歩み寄る冬馬の表情には、一方通行が指摘した通りに、落胆した素振りの一つさえ見えない。

それどころか、いつもと変わらず他を魅了する甘い笑みを浮かべている辺り、此度の決闘は彼にとっては予測出来ていた事だったのだろう。

そこまで思い至り、そして冬馬の浮かべる笑みから普段とは決定的に異なるニュアンスを感じ取った一方通行は、舌打ち一つ溢しながら周りを見渡す。

唐突な舌打ちにびくりと肩を震わせた十河に申し訳なく思いながらも、どうやら他人の心配をしていられる状況ではないらしい。

 

 

焦懆に駆られる視線が追う先。

熱冷める様子もなく劇的な勝利に沸くFクラスの生徒達に、大なり小なり含むモノは違えど屈辱と悔しさを滲ませるクラスメイトの大半。

そして、今までの戦績に、対戦カード、そして現状。

 

これら全てが、冬馬のよって齎された布石だとしたら。

その布石は、誰に向けてのモノなのか、最早考えるまでもない。

 

 

「――さて、いやいや実に見事でしたね、Fクラスの皆さん。勝利こそ得られませんでしたが、僕としても風間君の健闘に思わず手に汗を握る程に盛り上がらせて頂きましたよ」

 

 

たった一つ、様々な波紋を浮かべる水面にたった一つ、小石を投げ入れるだけで波立つ泡沫を全て飲み込む。

大きくもない、勢いもない、けれど人の間を駆け抜ける静かな芯は、立ち処に熱気を静寂へと導いた。

 

両手を掲げる訳でもなく、胸を張る訳でもなく、柳の様に微かに立つ冬馬は、緩やかに穏やかに、けれど確実に場を一瞬で支配した。

 

 

「準も確かに善戦しましたが、我々の度肝を抜く荒業を見事成し遂げた風間君には及びませんでした。こればかりは、文句なしに完敗と言えますね。準自身も異論はないでしょう」

 

 

くどい程に持ち上げて、場の方向性を一重に掌握する。

云わば敵側の大将とも言える人物から出た完敗、という宣言に再び沸き立つFクラスの生徒達の中で、直江大和……そして、福本育朗はしとりと頬伝う冷や汗に、最悪のビジョンを思い浮かべた。

 

彼等の脳裏に過るのは、不死川 心が今回の決闘の果たし状を叩き付ける切っ掛けとなった、あの麻雀での事。

喜び、浮かれた育朗の足元から蛇の様に忍び寄り、風も捕らえれぬ刹那に喰われたあの敗北の記憶が、今と重なるのは偶然などではない。

 

 

「――ですが、そうなると困ってしまう事が一つ」

 

 

やってくれる。

苦虫を噛んだ、そんな慣用句がぴしゃりと当て嵌まる苦々しい面持ちを浮かべる一方通行の瞳は、オーディエンスに向けて漸く見えない牙を剥いた冬馬の背中を見据えたまま。

どんな形であれ、出し抜かれたという意味では、今回の勝ち星は冬馬に譲らなくてはならない。

 

――互いに抱え、奥底を理解し合い、けれど易々と気の抜けない隣人。

それが葵冬馬という、一方通行の認める友人であるのだから。

 

 

「風間君が勝利した事によって、戦績はこれで一勝一敗。しかし、これでは白黒はっきりと付かない所に落ち着いてしまいます。ここで打ち切りとしてしまえば、禍根を深めるだけの徒労として終わってしまうでしょう。それは、互いに望むところではない筈です」

 

 

一つ間を置いて、反応を窺う。

様々に表情は見え隠れするものの、冬馬の言葉に同調した者が殆どであった事で、彼は場のイニシアチブをも掌握した。

互いに引けない状況をも拵える辺り、抜かりもない。

 

自分が勝てなかった相手の実力の全貌をまざまざと見せつけられた大和は、大きく息を吐いて、冬馬を見据える。

一方通行を目標とする前に、改めて倒す必要のある壁を認識する事で、昂る感情を押さえ込んだ。

直ぐにでも其処に辿り着いてやる、そう意気込んで。

 

 

「フフ、やはり決着は付けておきたいのは僕だけではありませんでしたね。それでは、『今回』の決闘、最終ラウンドと行きましょうか」

 

 

一つ、掌を鳴らして。

踵を返して、珍しく恍惚とした笑みを浮かべる冬馬は、堂々と彼の名を呼んだ。

 

 

――では、後は宜しくお願いしますね、一方通行。

 

 

 

 

 

 

――

―――

――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

つまりは、まんまと出し抜かれたという訳である。

奥歯にモノを挟んだ心持ちで恨みがましい視線を込めれば、悠々として手を振り返してくれるものだから腹立だしい。

不死川 心の代行を何ら思巡なく受け持った冬馬に一抹の疑問を抱えはしたが、まぁいいかと気に留めず流したのは失敗だった。

 

これは云わば、デモンストレーションである。

一方通行という人間を動かすのならば、どういった状況作りに勤しむべきかという、冬馬なりの成功例。

思惑が今一つ掴めないのは癪ではあるが、彼の望む焦点に自分が当たっているという事だけは分かってしまうのは、つくづく腐れ縁というべきなのだろう。

 

 

「ほっほっほっ、よもやお前さんがこの場に立つ事になるとはのぉ。いや、動かされたと言うべきか」

 

 

「わざわざ笑いに来たのかよ、爺さン。流石老骨は、若輩の骨を拾いたがる。生き様に老いが見えてンぞ」

 

 

「やれやれ、年寄りに当たるなどまだまだ情緒が定まっとらん。体育系の指導が必要ならば、わんこーるで呼んでやるぞい?」

 

 

「充分間に合ってますンで、それは止めろホント」

 

 

飄々として砂利を弾く足音に混ざるしゃがれた声にむっつりと顔を歪めた一方通行を見て、どこか満足そうに目を細める川神鉄心。

決闘のレフェリーを務めるべくしてこの場に参じた彼ではあったが、その面持ちは非常に愉快そうに皺を寄せて、さながら孫の成長を眺める好々爺とも映る。

 

浅いとは言い難い、良好とはまた異なる、そんな間柄ではあるものの、鉄心には一方通行の押さえ所など充分に把握出来ている。

彼が逆らえない、逆らう気も起きない厄介な相手として認識しているとある体育系の少女の影をちらつかせれば、挨拶代わりの皮肉はいとも容易く引っ込んだ。

 

 

「どーしようかのぉ? 彼方側としてはまだまだお前さんの学校生活が気掛かりみたいでの、つい一週間前も伺いの手紙を送って来たぞ」

 

 

「……まだやってンのかよオイ、しかも手紙って。あンのポンコツ駄乙女、一ヶ月前も店に来たばっかりじゃねェか……」

 

 

「ほほ、愛されとるの」

 

 

「その愛が痛いンです、切実に」

 

 

駄乙女呼ばわりに及ぶ程、件の人物とは溝がある訳ではないし、寧ろ此方は兎も角、彼方は自分のどこを気に入ったのか善意好意を振り撒いて来る。それはもう迷惑とも思うほどに。

鉄心の指す手紙というのも、その人物が一方通行が健全とした学園生活を行っているか、という内容を確認する為に交わされているのだが、極度の機械音痴な彼女にはFAXや携帯のメール機能が使用できない為、前時代的な手法を用いているという余談もある。

 

まるで過保護な母親か何かかと鬱陶しがりもする一方通行ではあるが、嫌悪感を抱いているという訳ではない。

 

純粋に苦手なのだ、彼女の事が。

健康意識が高く、自意識は強い癖に、それでも包み込むように自分を受け入れる姿勢を自然として見せる、そんな優しさ。

 

――どこかの誰かの輪郭を浮き彫りにする、彼女の事が。

 

 

 

「……さて、与太話も此処までよ。準備の方は良いかの?」

 

 

「棄権してェとこだが、お宅の孫が睨み効かしてくれてるンでな。さっさと終わらせる」

 

 

「ほ、そうかね。では、『使用武器のレプリカも確認した』し、始めちゃおうかの」

 

 

「――ルール違反には、ならねェだろ?」

 

 

「うむ、『試合前には使用武器の公開』なんてルールはいちいち考えとらんかったしの、めんどいし」

 

 

カラカラと笑う癖に、纏う雰囲気は途端に武人のそれと変わる。

例え自らが闘う事はなくとも、戦いの場に立つのならば相応のスタンスで臨んでこそ武人。

川神学園長としての顔ではなく、武の頂点川神鉄心としての顔で。

 

だが、鉄心は統べからく正々堂々を望む、という訳ではない。

己が闘うとなれば拳一つで対峙するが常ではあるが、奇策、秘策、つまりは勝つ為の布石を敷く事に彼は概ね寛容である。

設けられたルールの裏を潜ってでも勝ちを取りに行く、そんな勝利に対する貪欲さこそ川神鉄心が若者に求めているモノ。

 

――飢えて欲せよ、勝利を。

 

川神学園の始業式、毎年新入生達に向けている言葉は、彼にとって紛れもない本心なのだから。

 

 

 

気怠そうに首の骨を鳴らしながら、向けられるクラスメイト達の声援にヒラヒラとやる気のない白い手を振って、真っ直ぐと此方を見据える金色の挑戦者へと向き合う一方通行の背中へ、鉄心は呼び掛ける。

闘いという舞台に立つ事を嫌う彼の心境もまた概ね察せれてはいるのだが、だからこそ、言っておかねばならない言葉があった。

 

 

――どうじゃね、川神学園は。なかなか、良い生徒に恵まれておるじゃろう?

 

 

返ってきたのは、微かな笑い声、ひとつ。

 

 

 

 

 

 

 

――

―――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

唇を噛む様に、或いは目を閉じる様に。

堪えるという事に不慣れな彼女が手探りで行き当たった表現は、取り合えず深呼吸。

呼吸は態勢の整えにはとても密接であり、募る鬱憤を無造作に破棄散らす事に比べれば、手探りなりにも正解を選べてはいた。

 

けれど、そこまで。

距離が開いて、何故だか踏み込んで来ない『最強』を見据えて、態勢を整えて。

冷静になり、活路を一つでも見出だす為に巡らせた思考が、奥底の憔悴に呑み込まれてしまう。

 

 

「――ッ」

 

 

憔悴が導くビジョンに連れ去られてしまいそうな、勝利の二文字を少しでも近くへと手繰り寄せる為に、クリスは疾風の如く大地を蹴る。

追い風に重なって速さを増した身体が作る、得意の構え。

憧れさえ抱く姉代わりの女性にすら見事と言わしめ、先日川神一子を降すに至った、クリスにとっての最上手。

 

けれど、それさえも。

最早霞んですら見えてしまう白い影を、捉えられない。

 

 

「――まだ、だ!」

 

 

切り裂いたのは風、しかしそこで動きを止めたところで光明は射し込まない。

自分の持つ最良の一撃すら容易く避けられた事に悔しさをまた一つ重ねても、敗北を手繰り寄せるだけで。

吠える様に吐き出した言葉を、どう捉えたのか少し緩んだ白い口元。

掻き消すように突きから繋げて振るう斜角の一閃も、捉えたのは空だけ。

 

一つ、二つ、三つ、四つ。

重ねて重ねて、目には見えないキャンパスに無数の線を刻んでは、其処に居る筈の白い影を追い掛ける。

塗り潰した剣閃を躊躇うことなく、次へと繋げなければ。

 

そうしなければ、証明が出来ない。

自分が貫く正義の形は、必ず悪を祓うのだと。

 

 

「やるじゃねェか、少し肝が冷えた」

 

 

どうして、どうしてなのか。

自分が遅過ぎるのか、彼が速過ぎるのか、何か絡操でもあるのだろうか。

 

――ひとつ剣を繰り出すその刹那、彼の紅い瞳はその軌跡すらも既に追っている。

 

 

「な、なんで……分かる、んだ」

 

 

薄ら薄らに気付いていたけれど、確信になればこれ程に崩れてしまう事はない。

一つ剣を振るう毎に、一方通行の視線は明確にクリスの剣閃の軌道を先読みしている。

それがどういう事なのか、例え彼が賞賛の意を示していても、ぬか喜びすら出来ない。

自分の手の内は、白い悪魔に全て見透かされてしまっているのだとしたら。

愕然となりながらも、聞かずには居られなかった。

 

 

夢から剥がれて落ちていくような錯覚を抱いたのは、ほんの僅かながらも申し訳なさそうに瞳を逸らす彼の仕草を見たからで。

そこに見え隠れする残酷な優しさが、彼岸とは圧倒的な差がある事を自覚させた。

 

 

「統計だ」

 

 

「…………は?」

 

 

行き過ぎた分かり易さは時として、無情なまでに混迷を誘うのだということを体現されて味わったクリスは、口元が半開きになるのを防げなかった。

突如として語りを持ち出した決闘者達にざわめく周囲の喧騒など、最初から耳に届いてもいないかの様に。

 

 

「この前のオマエと駄犬との決闘が有ったろ、其の時の動きを抽出してパターンを割り出した。後はオマエ自身のスペックやらさっきまでの動きやらその他諸々と統合して検証すれば、仮説を立てンには充分なンだよ」

 

 

「……そ、そんな理屈染みた話で――」

 

 

「理屈で何もかもをどうこうすンのが、俺の最大の武器で唯一の手段だったンだよ。胸糞悪ィ、クソメルヘンな話だがなァ」

 

 

去来する感情を無理矢理一つに括って吐き捨てる顔を見合わせる事なく、彼の語る言葉に誇張すらないのが寧ろどんどん現実味を帯びてしまう現状に、クリスは思わず顔を俯かせる。

決闘前の、戦乙女とさえ彷彿させる顔ではなく、見当たらない出口に茫然とする迷子の顔で。

 

 

 

――

 

 

表情は分からなくとも、曖昧ながらも相手の心情を察する様に成れたとしても、必ずしも利点ばかりに溢れている訳ではない。

どうしてやれば良いかと手段を模索しても、結局どうしてやる事も出来ない状況だってある。

 

それはどうにも歯痒さを感じずには居られないのだが、自分の経緯引っ括めて説明してやる訳にもいかない。

 

 

「……」

 

 

特殊というよりは異端なのだと自覚を招くには、流石に飽きが来る程に様々なモノを重ね過ぎた。

考えても見れば、目の前で立ち竦む少女に自分の世界の理解に追い付いて貰う方が無謀な話で。

 

例えば、彼女の振るうレイピアの速さと、音速を越えて飛来する雷撃、より速度に優れている方はどちらかと聞かれれば、答えを出すのに迷う者は居ない。

そして自分は、その雷撃すら些細とさえ思う程に凶悪な現象を数多く見て来たし、向けられもして来たのだ。

自分だけの現実が其処に作用していようが、していまいが、一方通行の中での順列に変動を与えはしなかった。

 

 

そして、何より。

『一方通行が師事している人物』は、クリスの実力を更に越えていた。

 

 

 

――

―――

 

 

 

――どっかの馬鹿に似て、大した根性してンな。

 

言葉尻だけ取れば、随分と挑発染みているとも取れる筈なのに、不思議と心が軽くなったとさえ思えたのは、単純なだけかもしれない。

けれど、そんな感傷もまた、直ぐに捨てる。

 

非常に困難な壁であるのは、最初から大和に聞いていた。

その上で挑むと答えた、その上で勝つと誓った。

だから、前を向くのを止めてはいけない。

立ち止まることは、何より正義に背くことになるから。

 

 

「――ィ、ヤァァッ!」

 

呼吸を這わせて、胆力と共に吐き出せば、より速く、より深く。

猛る嘶きと共に突き出した閃光が切り裂くのは、実体とは遠い遠い、白い影法師。

けれど、途切れる事なく空の旋律はピリオドを求めて幾つも幾つも、連なりを描く。

腕をほんの少しずらして速度を変えても、紅い瞳にいとも容易く軌道に追い付かれて、追い抜かれた。

 

 

「ハァッ!」

 

 

右から薙いで、左から払う。

突きと見せ掛け下から裂いて、薙ぐと偽り上から墜とす。

陽の跡をなぞる幾重の銀閃は、そのどれもこれもがまるで標的を捉えない、掠りもしない。

 

だというのに、どうしてなのか。

段々と口角が上がっていくのを、抑えられない、抑えたくないとさえ思ってしまうのは。

 

 

「次は……此処、だ!」

 

 

踏み込みを敢えて浅く、際どいラインから触れる程度の一閃。

少しでも近くへ、威力よりも確実な一打を求めた一振りはどうにも悪手だったらしく、今度は影法師すら掴めない。

ならば次は、深く踏み込もう。

幽かな白に近付く為に、確かな紅を振り抜く為に。

 

強矢の如く飛び込んで、下からの鋭く斬り上げれど、一人だけ時に置き去りにされた自分を少し離れて射抜く紅い瞳に、確かな安堵さえ覚える。

まだ其処に居てくれた、ならばもう一度其処に行こう、次はどう攻めようか。

気が付けば、堪えるつもりもない笑みが、いとも容易く表情から滲み出していた。

 

 

「ふ、ふふ……凄い、な……ッ、でもまだこれからだ !」

 

 

「オイオイ」

 

 

呆れた様に、紅い眼差しが瞬きを一つ。

どうしたものかと言わんばかりに空き手を宙へさ迷わせる一方通行だが、直ぐに口を閉ざしていた。

構わず踏み出して斜にレイピアを落とせば、あっという間に白は遠退いて。

隙を付くのも難しいのだなと、至極当然とばかりにまた一つ失敗を受け止める。

けれど、それでこそ、そう思わずには居られない。

 

 

不思議な感覚だった。

振れども突けども、一打すらまともに当てられないというのに、その先に結びつく悔しさは段々と薄れて、敬意にすら浮かんで、また一つ試せるのだとより一層に意欲が増していく。

 

沸き起こる感情は、喜悦に溢れていて。

間違いなく、クリスはこの刻を楽しんでいた。

 

そして。

 

 

「――クカカ」

 

 

美丈夫な顔立ちからは不釣り合いなのに、違和感なく似合っている歪な笑い声に、クリスもまた笑みを深める。

引き出せるかも知れない、彼の力をより深く。

それが出来れば、きっと自分はまだまだ高みを目指せるのだと。

 

目的さえ変わりつつありながらも、クリスはもう一度構えを作る。

負けるかも知れない、負けるのだろう、でも諦めやしない、絶対に勝てないと決まっている訳ではない 。

だからもう一度、否、何度でも剣を振るって見せよう。

 

――諦め立ち竦むクリスの姿など、誰よりクリス自身が見たくない。

 

 

「ハァァァァァ!!」

 

 

疾風に身体を重ねて、風すら穿ち殺す。

前へと、ただ一心に駆けて、遠い遠い白奏のピリオドへ。

引き絞った体躯を低く、溜め込んだ突きの衝撃を全て一点に置く為に。

 

咆哮と放つ渾身の突きは――呆気なく、影法師だけを突き抜けて。

 

 

――小島流、奥義――

 

 

微かに耳に届いたのは、自らに打たれた終点の宣誓。

 

刹那とも足りぬ間に感じられる刻の中で、いつの間にか離れた場所に立っていた一方通行が、懐から何かを取り出して。

それを認めた瞬間に、文句の一つでも言ってやりたくなった。

 

『統計』だけだと勘違いしてしまったのは自分だったけれども。

『武術』も出来るなら、最初からそれで闘いたかった、と。

 

 

 

「弓取り」

 

 

 

瞑目を一瞬だけ重ねて、一方通行が隠し持っていた鞭のレプリカが命を得た様に宙を這う。

突き出したままの態勢を戻す間もなく、中途半端に崩れた姿勢のクリスのレイピアを、黒い細蛇が喰らい、突き飛ばした。

 

クリス自身、もう何度振るったのかも分からないほどに酷使していた影響か、鞭の衝撃に耐えられる握力も残ってはいない。

けれど、それでも、と吹き飛ばされたレイピアの方へ走り出した、その刹那。

彼女の首筋を、ふわりと冷たい感触が包み込んで。

 

 

――やるじゃねェか、オマエ。

 

 

耳元で囁かれた様に溶けていくテノールの響きと、身体中で駆け抜ける淡い浮遊感。

今の感覚は何だろうかと思う間もなく、徐々に景色は移ろい、視点は蒼い空を見上げていく。

 

上がって、上がって、果てしない蒼の中で咲いた白に、理解を促されたようにも思えた。

感覚はないけれど、身体を彼に支えられているようで。

何度も臨んだ白い彼に色が染まり、景色がゆっくりと白に侵されていく。

 

 

――あぁ、途切れるのか。

 

 

意識を断たれたのだと、朧気ながらに理解して、心の中で吐息を溢す。

 

――叶う事なら、一太刀。

 

――掠らせる事ぐらいは、しておきたかった。

 

 

途切れ途切れの意識の中で、遠くから聞こえる決着の宣誓。

今更になって込み上げる仄苦い感情を持て余す中で。

 

 

 

 

 

――勝者、一方通行!!

 

 

 

 

 

 

悔し涙を流さずに済んだ事に安堵をしている自分に、クリスは苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

『藍より青し』――end.



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八節『雪解け道を歩く』

指を翳せば、薄明かりの壁に。

髪を弄れば、白のクローゼットに。

足を組めば、アクリル板の床に。

腕を伸ばせば、モダンな木材テーブルに。

月が雲に溶けて、ドレープの癖の残ったカーテンに。

 

ぼんやりとした薄い照明に差し込んで、日常に残らないシルエット。

当たり前の事で、自然に生まれるだけの影を、どうしてか不思議な眼差しで追い掛ける事にも自覚はない。

詩的に思えて、手持ち無沙汰を装っているだけという締まらなさに霞んだ吐息が、艶色を孕んで部屋に溶ける。

気休めに椅子に預けていた背中を持ち直して、棘を潜めた紅い瞳が、緩やかに電子細工の手紙の文面を見据えた。

 

 

「……」

 

 

『第四次経過報告』

 

 

カーソルに合わせて打ち込まれた文字列と、先を描かない白色の空欄。

ディスプレイが表示する電子メールのタイトルだけを埋めて、そこから先の伽藍洞に果たして何を記すべきなのか、また一つ作業が滞る。

といっても、記すべき事など彼女、マルギッテにとっては既に決まっている事で、問題なのはその記すべき事に対してマルギッテが抱える『違和感』を追記するかどうかで。

 

 

数多くの戦場を駆けた猛者には到底結び付かない女性らしい細い指先が、戸惑いを隠せぬままにキーボードにシルエットを作る。

小気味の良いタイプ音、けれど心に渦巻く感情を持て余して作るリズムは酷く纏まりがなくて、仕事の進行を余計に妨げる。

 

今日の正午を過ぎた辺り、マルギッテの護衛対象であるクリスと、監視対象である一方通行とで行われた決闘。

その一部始終を落ち着きもなく見届けたマルギッテは、どうしようもない違和感に駆られていた。

 

 

「確かに、御嬢様には傷の一つも付けていませんでしたが……」

 

 

甘やかしにも加減が行き過ぎだと自覚もあるクリスの手前、冷静さを欠いて殺意にも似たプレッシャーで一方通行に訴えていたマルギッテだったが、正直な話、省みれば武術家としてはあるまじき行為だったと思う。

加えて他ならぬクリス自身を侮辱する事に繋がるとすら考えれていなかった事に恥ずべき想いを今になって噛み締めるが、実際に要望が形になって安堵を少なからず抱いては居た。

しかし、代わりにじわじわと滲み出る、怪訝さと違和感はその安堵に比べればとても大きい。

 

 

クリスの卓越された剣撃を一つとして受けずに回避に徹するなど如何にマルギッテと言えども難しいが、クリスの行動全てを察知、予測、計算して回避するなど正直、不可能とも思える。

クリスの問いに対して統計だとあっさり述べた一方通行ではあったが、その難解極まりない手段を実際に闘いの中で実行するなど、自分にとっては雲を掴む様な話だ。

 

理屈より、感性に身を委ねる。

それは自分を含め、大多数の武術家が無意識に行う取捨選択。

向けられた一撃に理屈通しで回避するのと、感性で回避するのとでは実行までのタイムラグが全く違う。

行動の遅れ一つで敗北に繋がる上級者の闘いに、一々彼是と考える余裕なんて、無い。

だからこそマルギッテは、自分では到底不可能な事と結論を付けた。

故に、統計というのは対戦相手のクリスをより混乱させる為の一方通行のハッタリではないのかと、疑いに掛かる心情の方が強い。

 

 

 

「……」

 

 

 

だが、仮に。

 

もし、一方通行の統計という発言が嘘、ハッタリ等では無かったとしたら。

 

事前に得たデータを基に計算し、解析し、再構築し、統合の結果として戦闘に完全に反映出来るのだとしたら。

 

 

――彼の前で『一度でも全力を見せた事のある人物』では、彼に勝てないのではないか――

 

 

 

「……馬鹿げている」

 

 

脳裏に過る結論の一つに、幾ら何でも早計だと、待ったを掛ける声が皮肉気味に唇から滑り落ちた。

人間業ではないと呼べる規格外は、マルギッテの知る中でも少なくとも存在するが、この仮定は『現実味』が無さ過ぎる。

大袈裟に評価するならば、人智を越えていると言っても良い。

ハイスピードの戦闘の中で一から全を計算し尽くせる頭脳など、果たして人間が持ち得る事が果たして可能だろうか。

 

 

「……」

 

 

有り得る筈が無い、そう結論を書き換えて。

けれど、キーボードに走る文字は、抱えた危惧、違和感をハッキリと形に据える。

馬鹿げた仮定だとしても、報告はマルギッテの義務である。

熱を上げた様な、纏まりの付かない微かな溜め息が緩やかに部屋の空気に混じった。

 

 

彼女の胸の内に巣食う違和感を、明確に浮き彫りにする銀小夜の光は、いつしか雲を溶かしていた。

 

 

 

 

 

――

―――

◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

立ち込んだ湯気の濃度にも左右されるけれども、印象的な紅の瞳さえ隠れてしまえば、何処に居るのかも分からなくなる。

兎が雪に紛れる様に、すっぽりと欠き消えてしまうのを面白がって、冬の季節は隠れん坊がさぞ得意なんだねと茶化されたのが、今思えば、初めましてのコト。

 

 

細く長く切り分けた後にタレに浸した鯛の身を、薄青の紋様が老舗らしさを魅せる小皿に渦を描く様に盛り付けて、青葉と卵の黄身、大根のツマを飾り付けながら、雪解けに似た感覚で蘇る思い出に眉を寄せる。

何故今更、という言葉を飲み込みつつ、恐らく原因である目下の女性へと出来上がった一品を差し出せば、彼女に酷く似合っているチェシャ猫の笑みで礼を返された。

 

そういえば、あの時もこの人を食った様な、けれどさしてマイナスに繋がりはしない表情をしていたな、と。

ぼんやりと細めた紅い瞳に何を思い至ったのか、女性のアイスブルーの瞳が、愉悦をより深く描いた。

 

 

「あら、ちょっと今更過ぎるんじゃなぁいー?」

 

 

「何が」

 

 

「この私の美貌にときめくのが、ってコト。それならもっと初対面の時とかにグッとアタックして来るくらいの気概で」

 

 

「対馬さン、茶碗蒸しは俺がやっとくンで。 次いでにお浸しと串も」

 

 

「え? あ、あぁうん。ありがと」

 

 

「なごみさン、おろし取ってくれませン?」

 

 

「もう出してるよ」

 

 

「どォも」

 

 

 

嫌な流れだと勘繰るまでもなく、性懲りもなくからかい通してくる女性を早々に視界の隅に追いやって、何事も無かったかの様に次の一品へ。

一方通行がアルバイトとして雇われている『食事処 対馬亭』のカウンター席には、開店してまだ一時間も経たない内に、席の半分は埋まってしまっており、奥の座敷は二部屋の内、既に一つが団体入り。

 

外観は老舗風に近いというのに、現在の客入りは平均的に若い事もあってか、なかなか手を休める暇もない。

故に絡んで来る客を何事もなく流してしまうのも致し方ないのだが、流すどころか完全にアウトオブ眼中へとシフトした白い青年の容赦の無さに、彼の雇い主である対馬レオは複雑そうに目を泳がせた。

 

 

黒髪に深いグレーの瞳を据えた端整な顔立ちをした男が場を窺う様は少しばかり笑いを誘う物だが、対して彼の妻兼料理長である対馬なごみの反応は正反対で。

一方通行と同調するかの様にノーリアクションの儘に淡々と作業を続行するのは些か淡白ではないかと思うであろうが、彼女にとってはこのやり取りは寧ろ何度目かと嘆息を付きたいくらいであるのは、夫のレオにも窺えない所である。

 

そして肝心の流された本人といえば――

 

 

「あ、あららーん? 無視かしら? いや、これは無視に見せ掛けた照れ隠し? さっすがツンデレ、可愛いじゃない」

 

 

「ちょ、ちょっとエリー駄目だってば。そんなんじゃまた一方通行君に完全無視にされちゃうよ!? 前も結局、それで泣き見たのエリーだったでしょ!?」

 

 

「違うわよ、泣いてないわよ。アレは寧ろ酒に酔い過ぎて昔話に華が咲いて、懐かしさからぶわぁっと……」

 

 

「うん、確かに酔ってたね。けどそれって何言っても一方通行君に無視されるからって拗ねたエリーが自棄気味に強いのばかり飲んだからだよね!?」

 

 

「む、むぅ……随分責め気じゃないの、今日のよっぴー。 何よ、あんまり言うとおっぱい揉むわよ、揉みしだくわよ」

 

 

「何でそうなっちゃうかな……というか、エリーはお酒強いけど酔ったら酔ったで大変なんだってば!」

 

 

さして平然としていた、という訳でもなく。

頬をひくつかせながらも絡むのを止めない彼女を見兼ねて、隣の席に腰掛けていた彼女の連れ添いである穏やかな雰囲気の女性に言い含められていた。

 

互いをそれぞれ愛称で呼ぶ辺りに親密な関係である事は窺えるが、それに留まらず対馬夫妻ともそれなりに親交の深い間柄である二人組。

バイトとして出勤する一方通行を毎度の如くからかおうとアクションを仕掛けるショートカットのブロンド令嬢、霧夜エリカ。

そんな見た目に反して腕白な彼女の保護者的立ち位置として周囲から見られている、流されたアクアブルーの綺麗な長髪が印象的な女性、佐藤良美。

彼女らと対馬夫妻、この場には居ないが、一方通行を対馬亭へと紹介した鮫氷新一と楊 豆花は高校の同期という繋がりがある。

無論、彼女達以外の同期メンバーも良く対馬亭を訪れる為、一方通行とも面識はあるにはあるのだが、仕事に差し障えるレベルで絡んで来るのはエリカだけであるのは、不幸中の幸いか。

 

 

やいのやいのと、見た目麗しい二人組が目下にてじゃれつく様な口論を重ねていても、白い青年は気に介した様子もなく手ばかりを動かす。

白く骨張った指先で作る品々はスピードもさるものながら、見映えも味も確かと言っても良い。

そうでなくては、人一倍料理に対して情熱を注ぐなごみが調理台に立たせる事は無いだろう。

無論、バイトとして雇って早々に調理台に立ったという訳ではないし、それまでの過程に積み重なった努力も夫妻はしっかりと見届けていた。

見届けている内に、いつの間にか立場上追い抜かれたのは対馬レオにとって些か恥ずかしい事なのだが。

 

 

「対馬さン、茶碗蒸し、上がりましたンで座敷に持って行きます。串、見といて貰って良いっすか」

 

 

「お、早いな流石。次いでに酒も持っててくれ」

 

 

早速と言わんばかりに出来上がった茶碗蒸しを盆の上に載せながら、引き継ぎを願い出る辺り手慣れたものだと感心が沸き上がる辺り、自分もなかなか年齢を実感出来ている事にレオは苦笑する。

ジョッキビールを二つと、巨峰のサワー、カクテルを二つ。

それぞれを危なげなく盆に載せて配膳へと向かう青年の後ろ髪がひょこひょこと機嫌の良い猫の尻尾に見えるぐらいには、彼の印象も初めの頃から随分変わっていた。

 

 

警戒という訳ではないけれども、不安はあった。

見た目が見た目だけに料理が出来るイメージもなかったし、接客に関しても得意にはとてもじゃないが見えなかった。

蓋を開けてみれば随分とイメージにそぐわない結果だったのには、レオばかりでなくなごみも驚いていたものだが。

寧ろ、比較的人付き合いの得意ではないなごみの方が一方通行と打ち解けるのは早かったので、レオとしてはそちらの方が意外だったけれど。

 

 

「そういえば、一方通行君だったっけ、対馬亭にサワーとかカクテルとかも置いておいた方が良いって言い出したの」

 

 

「……いえ、違います。 言い出したのは旦那ですよ、後押ししたのはアイツですけど」

 

 

話に一段落付いたのか、大人しい雰囲気の割に存外発言力の強い良美が一段落付けたのか、なごみと良美がカウンター越しに件の彼を話題に挙げていた。

どうやら良美に言いくるめられたのが正解らしく、拗ね気味に直ぐ傍の座敷へと恨みがましい視線を送るエリカに思わず苦笑を落としつつ、レオは任された串揚げの前へと移動する。

 

 

「あ、そういえばそうだったね。でも、やっぱりちょっと意外かな。基本的に傍観なスタンスだもん、一方通行君」

 

 

「まぁ、気持ちは分かるかな。言い出しっぺの俺も結構びっくりしたよ、アイツの援護」

 

 

小気味の良い油の音に紛れて、耳に優しい声がいつぞやの思い出をそっとなぞっていく。

若い人にも気楽に愉しめる様にと飲み物にも充実さを広げてみてはと提案するレオに、安易に雰囲気を壊すのはどうだろうかと少し渋った反応を見せたなごみ。

他人に素っ気ない素振りを見せがちながらも夫のレオには驚くほど従順だったりする妻の珍しい反応に一歩躓いたレオだったが、一方通行という予想外の所から援護が入ったのには未だに驚きが残っている。

 

 

「『若い奴でも飲み易い酒があった方が、卒業した後に他の奴誘って飲みに来れるじゃねェっすか』ってさ」

 

 

「似てませんね、先輩」

 

 

「フフ、確かに」

 

 

「手厳しいな、我ながら似てないと思うけど」

 

 

少しばかり寄せてみたのは失敗だったと、背中越しに苦笑混じりで対応されながらも、串揚げの焼き色を確認する手は止めない。

そして出来るならば妻のなごみに二人きりの時以外でも名前で呼んでくれればと思う辺り、贅沢な悩みと言えるか。

 

結果的に見れば、一方通行をアルバイトとして雇ったのは正解だったとレオは自信を持って断言出来る。

スタッフとしても優秀で、意見もしっかりとくれる上に、一方通行の存在が客寄せになっている為に売上も繁盛してると言って良い。

一方通行繋がりで訪れる彼の保護者や同職の教師達も勿論、物々しい雰囲気ながらも意外と行儀の良い板垣家族も月に二度は暖簾を潜る常連である。

 

それだけでも充分なのだが、彼目当てで訪れる女性客が増えた事も大きい。

例えば、現在の座敷を埋めている女子大生達は専ら一方通行目当てであるし、わざわざ予約してまで足を運んで貰ったといえば、良美は納得したように笑みを深め、エリカはからかうネタが増えたとばかりににやけていたのはご愛敬。

 

 

 

「ねぇ、なごみん」

 

 

「なごみん言わないで下さい、何ですか先輩」

 

 

ふと、きゃいきゃいと黄色い声に溢れてる座敷へと視線を向けていたエリカが、怪訝そうな声色で対面で煮物の盛り付けをしているなごみを呼ぶ。

高校時代より聞き慣れたあだ名ながらも未だに嫌なのだという事を隠そうともしないクリアレッドの瞳が不服そうに吊り上がる。

けれど、対馬亭のこの場では珍しくシラフなのに真面目なトーンのエリカの様子に、吊り上がった瞳は緩やかに元の位置へと戻った。

 

 

「……アイツ、なんかあったの?」

 

 

「……? いえ、別に今日も普段通りだと思いますが」

 

 

「エリー? どうかしたの?」

 

 

どうにも女子大生に捕まってしまっているのか、なかなかに調理場に戻れないでいる一方通行なのだが、それでもカウンターと座敷との距離はそう離れていない。

だからこそなのか、彼に聞こえない様にと少しばかり声を潜めて尋ねるエリカと、その内容にレオのみならず皆が首を傾げる。

 

一方通行に、何かあったのか。

 

そう問われようにも、少なくともレオの目には普段の一方通行とさして変わった様子は伺えないし、学校が終わるとそのままに対馬亭に来た彼だったが、やはりおかしな様子は無かった。

何か引っ掛かった口振りのまま、鯛のユッケをちまちまと口へ運ぶエリカではあったが、怪訝そうな表情は拭えない儘。

 

 

ただの杞憂なのだろうかと、狐色に揚がった串の油を落としながら、レオはこきりと首を捻る。

自分がふと思うのならば、ただの杞憂なのだろうで済ませる事も多々あるのだけれど、エリカの場合となれば話は変わってくる。

誰もが知る九鬼財閥に良い意味でも悪い意味でも一目置かれている霧夜カンパニー、その社長の位置に登り詰めた女傑という肩書きを持つ彼女の直感は、只の杞憂で済ませられない。

豊穣とも呼べる豊かな色彩を宿したシャンパンゴールドの前髪を指先で弄る彼女の思案顔に、一堂は目を細めた。

 

 

「なーんか、疲れてるっぽいんだけど。 いや、疲れてるってか、縛られてる? うーん」

 

 

クルリクルリと細い指先を絡ませては、スルリと抜けて。

手持ち無沙汰に毛を繕う金色のチェシャ猫は、どうにも感性と直感に見合った言葉を探すけれど、今一つ

しっくり来ない。

靄掛かった月を眺めても、スッキリしないとでも言わんばかりに、一つ一つ眉間に皺を寄せていく。

 

 

どうしたのだろうか、と気難しい表情を浮かべるエリカに不安を掻き立てられたのか、レオの手も思わず止まる。

対してなごみは手を止めることは無いのだけれど、少しばかり作業のスピードに遅れが生じていた。

何だかんだで一方通行の事を気にかけているなごみの珍しい様子に、不謹慎ながらも愛らしさを覚えるレオの視界の隅で、件の当人は若干疲れた様子で戻って来ていた。

疲れた様子といっても、エリカの言う疲れた様子とこれは別で、酒も入ってハイテンションな女子大生に振り回されたが故の疲労ではあるが。

 

 

「追加オーダー、だし巻き玉子と揚げ出し豆腐、一つずつで」

 

 

「お、おう」

 

 

「……後、俺は別にそこまで疲れてねェ」

 

 

「ありゃ、聞こえてたかぁ……」

 

 

捕まっていてというか、文字通り掴まれていたらしく、空になった皿やグラスを積んだ盆を片手に不自然に伸びたカッターシャツの裾を面倒そうに収める青年の、なんと不満な顔か。

苛立ちをぶつける様にジトリとした眼差しで見詰める白猫と、舌を出して煙に撒こうとするチェシャ猫。

月の見える丘にでも行って対峙してくれれば、童話の一つにでも成りそうなキャストとも言える。

綺麗所を集めた配役に、思わず興味を抱いてしまいそうな所が厄介ではあるが。

 

 

「今日、学校で何かあった?」

 

 

「――いや、何も変わンねェけど」

 

 

「そ、ならいいわ」

 

 

付かず離れず、不必要に近付かず遠退けば距離を詰めて。

姉弟の様にも、母子の様にも、赤の他人の様にも見える不思議な距離感を感じるは、きっと二人が似た者同士なのだからだろう、と。

 

散々気になる素振りを見せておいて、あっさりと引いてみせるエリカに、一方通行は腑に落ちないと言わんばかりに眉を潜めるのだが、それこそエリカの思う壺。

既に彼女の頭の中では、困惑する一方通行の顔を肴に一杯やるという、聞こえは非常に悪趣味なプランへとシフトしていた。

 

 

「んじゃ、お酒追加ね! よっぴーはどうする、グラスもぼちぼち空じゃない?」

 

 

「えっ? って、あ、もうエリー……はぁぁ、それじゃ、さっきと同じ奴で」

 

 

凝り固まった空気を作ったのがエリカならば、霧散させるのもまた彼女のきまぐれ。

コロリと表情を変えながら酒の追加を促すエリカの唐突さに戸惑いながらも、往年の付き合いもあって彼女の心情もある程度、理解のある良美は流石という所か。

レオとなごみとしては、変に浮いたまま着地場所も分からないままで今一つ腑に落ちないのだが、ずれたタイミングを戻すのもなかなか手間取るので、素直に流す事にしたらしい。

 

ただ一つ、心残りがあるとしたら。

淡々と調理場へと戻って来た一方通行の、少し伏せ目がちな瞳に映る、色褪せた感情が微かにちらついて。

そこに宿る物が只の青臭い悩みや単なる日常的な疲れで収まってくれる事を願うしか出来ない自分に、きっと誰にも関わらせようとしない青年に、レオはどうしようも無く首を振った。

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

闇の葵も深く咲き、目にも残らず形も残らず、ただ通り過ぎる夜風は冬の名残を未だに促す程に冷たくて。

吐息に何処かの誰かの様な白さこそ見えないけれど、自覚もあるくらいに露出の高い服装をしている板垣亜巳には充分堪えたらしく、反射的に身を縮ませる。

 

面倒臭がらずにダッフルコートでも羽織ってくれば違ったのだろうがと、今更になって後悔を滲ませる翡翠の瞳が、ゆったりと隣に視線を結ぶ。

春にもなってまだこんなに寒いと感じるのは、きっと冬景色の白一色で染まった隣の男が原因だと言いた気に。

 

 

「ンだよ、そンな格好してンのが悪ィだろ。 それに、俺を呼び止めたのオマエじゃねェか」

 

 

「まぁそうだけどさ、隣で暖かそうな格好されちゃ、ついついそういう眼で見ちまうのも分かるだろう?」

 

 

視線に恨みがましさでも漂っていたのか、夜空に混じった白色の貌が目敏くムスッと固くなるのに、ついつい苦笑が滲む。

職場に寄る前に香水の一つでも購入しようと遠回りしたのが、バイト終わりの一方通行と偶然会う事に結び付いたのは、まぁ置いて。

次いでに調子でも尋ねる流れで駅の噴水に腰を下ろした時点で、薄着という格好の問題に気付いた。

 

 

結果的に自業自得な話ではあるけれど、内面を抑える事があまり得意ではない上に、余計に得意ではなくさせる男が隣に居るのだから、無理もない。

かといって一方通行が自分のPコートを亜巳に差し出すフェミニズムを見せた所で、変に勘繰って結局は我慢するか、逆手に取ってからかうのだろうけど。

 

仏頂面で鼻を鳴らす男は、案の正、気にした様子もなく猫みたいに背筋を伸ばす。

噴水の水が溜まりに溶け込む音と、時間の影響で少ない雑踏と、舌足らずな欠伸の音。

眠いのかいと微笑混じりに尋ねれば、半開きの紅い瞳が駅のデジタルパネルを促す。

記された深夜手前の時刻は、学生の身である一方通行にとってはそれなりの時間帯である事は分かるのだけれど、亜巳は肩を竦めて流す事にした。

 

 

「……出勤、ぼちぼちじゃねェのか」

 

 

「まぁ、多少の遅刻ぐらいは多目に見て貰うさ。時間に不規則なのは職業柄、てさ。 それとも、同伴でもしてくれる訳かい?」

 

 

「冗談じゃねェ」

 

 

確かに冗談だけどさ、と言い切ってしまえば。

呆れたように眼を細めて、おざなりに返そうとする辺り青年は少し拗ねているのだと分かる。

無論、それは亜巳が本気で言っていないという事に関してではなく、意味もないからかいに対してだろうけど。

例え本気で言った所で結果は同じの癖に、そこら辺は御互い面倒な男と女という事で。

 

 

喉を鳴らす様にカラカラと笑えば、不思議と面倒さは成りを潜める。

灰色の雲が所どころに闇に浮かんで、黒を暈した、そんな空。

躊躇いを掻き分けて探る素振りを不器用に残しつつ、少し震えた声色で、一方通行は言葉を紡いだ。

 

 

「……仕事、まだ変えるつもりはねェか」

 

 

「――あぁ、そうだね。食い扶持が三人ってのは兎も角、収入が多いに越した事はないだろ?」

 

 

「フン、言うと思ったぜ。 まァ、確かにそォなンだろォがな」

 

 

煙草があれば、こういう時にでも吸うのだろうと。

組み換えた膝の上に手を組んで、ぼんやりとそう思う。

感情を込めてないかの様な口振りの癖に、熱を持った吐息に微かな憂いが混ざっている事が、苛立ちと愛着を沸き立てる。

 

同情であれば、苛立ちだけで済んだのに。

無情であれば、愛着だけで済んだのに。

 

無意識ながらも心に爪を立てるのは、いつまでも変わらないらしい、この男は。

 

 

「楽には、なれないさ。そう簡単にはね」

 

 

「苦しいと認めてからのスタートなンざ、ゴールが遠退くだけだろォよ」

 

 

「アンタが言うかい、それを」

 

 

「カカッ、違ェねェな」

 

 

彼が自分に向ける言葉は、きっと自分にだけ向けていない言葉なのだろう。

感傷的にそっぽを向く時は、いつだって瞳に触れられたくない傷跡を浮かばせている。

見透かしたような言葉も眼差しも、透明過ぎるという事に、一方通行はそろそろ気付くべきだ、と。

 

 

「アンタこそ、良い加減に『普通』になったらどうなんだい?」

 

 

――例えば、恋とか愛とか、そういう色を抜きにして、女を抱けるくらいには。

 

 

言葉にしてしまえば呆気なく、音にしてしまえばなんて軽い。

白い貌に似合った寒々しい不満顔に、冗談だとは言ってやらない。

覗き込んだ紅い瞳が灯した驚きは一瞬で、あっという間に呆れに戻って、疲れたように溜め息を残した。

 

 

「――楽にはなれねェよ、お互い」

 

 

「――そうだろうね」

 

 

スクッと立ち上がり、捨て台詞の様に残す辺り、多少なりとも自覚はあるのだろう。

彼が不要とする弱い感傷こそ、根が深く、そして必要なモノであることを。

 

振り返る事もしないまま、御座なりに手を振る一方通行の背中を、細まった翡翠の瞳がただ見つめる。

別れ際、去っていく一方通行の背中はいつも何故だか小さく見えるのだ。

 

 

「――」

 

 

楽にはなれない、簡単には。

 

けれど、きっと近道はある。

 

例えば、遠退く背中にしがみつけば、少しでも楽にはなるのだろう、お互いに。

 

けれど、それが出来ないからこそ、許してはくれないからこそ、簡単にはいかないのだろう。

 

ゴールは其所だけではないけれど、目に見えるゴールは何時だって遠い。

 

 

 

 

雪は溶けたのに、春の夜風は未だに冷たい。

皮肉気に笑いながら、亜巳は一等星が宿る夜空を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『雪解け道を歩く』――end



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九節『雨上がりのバラッド』

 

今にも泣き出しそうな迷子の猫を対面に据えて、困り果てるのは警察という役職と、犬という種族とが関係している訳ではない、そんな至極当たり前の事。

覚え易いメロディーの童話をぼんやりと思い描きながら、心境としては犬のお巡りさんと大差ないのだろうと身に置かれた状況と照らし合わせて吟味する辺り、一方通行自身も今一つ心の平静が保てていない様で。

 

別に、実際に目の前に居るのは猫でもないし、迷子でもない。

寧ろ迷子になる歳とは思えないくらいには成長した女性であるし、身体付きも野暮な話ではあるが女性的と云えた。

けれども、極度の興奮状態にいるのか、軽いパニックに陥っているのか、熟した林檎さながらに顔を赤く染めて目を白黒とさせている辺り、泣き出しそうな迷子よりも手に余る。

 

 

「きっ、きっききき貴重な時間を割かせてしまって、わたわたた私としても、たっ、大変恐縮なんですが! あ、あの日の御礼参りと言いますか戴いた借りを返させて戴きたいと言いますか!」

 

 

「御礼参りってなンだ、オイ。 突き飛ばすだけじゃァ、足りませンでしたって事か」

 

『ヘーイ、まゆっち。 汚名挽回並みに間違えた日本語になっちゃってるぜ、ゆとり怖いとか思われる前に撤回しとくが吉だYO』

 

 

「へぅあ!? す、すみませんすみません! 違うんです私としてはただ純粋に御礼と貸して戴いてた物を御返ししたいという事だけで! 決して一方通行さんに害をというか恩を仇で返す様な真似はさせません!」

 

 

「うン、まず落ち着け。ンで御礼参りとかどォでも良くなるぐれェに指摘したくなるのが、今サラッと出てきた訳なンだが」

 

 

最近、どうにも別段急という訳でもない展開にさえ付いていけなくなる事態が多い事に、悩ましい頭痛を堪える様に一方通行は顔をしかめる。

呼び止められた階段の踊場、一心不乱にペコペコと頭を下げる少女――黛 由紀江の対処には、混乱を極めている。

たまには静かに屋上で昼食を取ろうと、気紛れに任せる午後の一時は、スタートの時点で躓いた訳である。

やたらと切羽詰まった声に呼び止められ、その相手がいつぞや一方通行と衝突事故紛いの惨事を引き起こした少女である事を認めた時点で、穏やかには行かないと予測していた訳だが。

 

正直な話、平静ではないのは彼とて同じであるので多少の言い間違えには寛容を持って対処出来るが、突拍子もない一芸をさらりと披露されても、流すに流せない。

一方通行の言い分に心当たりが見当たらないのか、キョトンと可愛らしく首を傾げた由紀江に、一方通行は疲れた様に眉間を指で解した。

 

 

「いや、いきなり腹話術が得意ってアピールされても反応に困ンだろォが。何なンですかァ、その馬のストラップは」

 

 

『おうおう、オイラを御指名とは目の付け所がシャープだねぇ。 目付きの悪さはシャープどころかストイック過ぎるけどもさァ?』

 

 

「こ、こら松風、失礼ですよ! す、すすすいません、ご紹介が遅れました。 私は黛 由紀江、此方が松風と申します」

 

 

「……お、おォ」

 

 

呆気に取られるというか、最早開いた口が塞がらない。

俗に言う一人漫才なのだろうか、それならば彼女の開き直った様な言動は寧ろツッコミ待ちという奴なのだろうか。

 

リアクションに困る事態が最近は顕著に多い事に辟易とした気分になりながらも、話を打ち切る様に足を屋上へと進める。

気の抜けた返事から僅かの沈黙を置いて急に動き出した一方通行は、彼の気に障ってしまったかとあたふたと狼狽する由紀江を、話があるなら付いてこいと手で招いた。

昼食を取りながらでも、話は出来る。

少なくとも当初の想定通りの静かな昼食という訳には行かなくなっただろうが、誰かしらの横槍など最早馴れたと言っても過言ではない程に絡まれ易い気質の彼にとっては、溜め息一つで済むだけの話と割り切って。

 

 

「つゥかオマエ、あン時もだが、何だって真剣をいつも持ち歩いてやがンだ。物騒な事この上無ェぞ」

 

 

「こ、これはですね、その……一応、認証は持ち歩いてますし、生来も殆ど剣を手放さなかったので、今更というのも……」

 

 

『まぁまぁ小さい事を気にしたって仕方ないじゃんヤングボーイ! 彼氏は居るのとか、スリーサイズはとかもっと青臭い疑問を持って建設的に生きようぜ!』

 

 

「……頭痛ェ」

 

 

屋上へと続く階段を昇る靴音に、苦々しい嘆息が混ざる。

剣については指摘するなという事なのか、余りにも身を削った論点のすり替えに最早深く考える事すら間違いな気さえする。

 

冷静に考えなくとも、学舎で発するには非常に問題な発言をされれば義姉に教師を持つ男の立場としては、松風の要望を叶えるには幾ら何でもハードルが高い。

昨今の教育現場で様々な問題が取扱れている中、これもまた教師の頭を悩ます弊害の一つなのか、と無駄に難しく考える事で軽い現実逃避を行う一方通行だった。

 

 

「そ、それであの、一方通行さん。こ、これはどちらへ向かわれているんでしょうか?」

 

 

「ン、屋上」

 

 

「おお、おっ、おっく、屋上ですか!? それは、あの、これから私は所謂その、屋上に呼び出しという学園の制裁的イベントに直面するというでは……」

 

 

『もしくはラブコメ限定の素敵ドッキリイベントか! まゆっちにも遂に春の風がFooooo!!』

 

 

「違ェよ、話聞く次いでに弁当食うンだよ。 そもそも最初からその予定だったしなァ。 ンで腐れストラップはそろそろ黙れ、オマエの発言を処理すンのは色々と キャパオーバーだ」

 

 

いっそ眉間の筋肉が吊るのではないかと危惧を抱くほどに険しい表情になりつつも、足は止めない。

どうにも松風というキャラクターのテンションにペースを乱されがちになるが、構えば構うほどにより混沌とした空気になる事を本能的に察知出来たので、なるべく触れない様にと心に決めるのであった。

 

 

――

―――

 

 

「そォいやオマエ、昼は弁当なのか?」

 

 

「えっ、あ、はい。その、普段もあまり売店や食堂は使わないんで……い、いえ、決して口に合わないとか私なんかが評価するなんてとんでもないのですけど、昔から武術だけではなく料理も嗜んでましたので自然と自分で用意することも多くてっ!」

 

 

「………あァ、別に文句があるとかじゃねェよ。オマエが売店とかで飯を食う予定だったンなら悪い事したと思っただけで」

 

 

「あ、はい、すすす、すいません私なんかに気を遣って貰って! ご、ご心配を御掛けしてしまって……」

 

 

「…………ハァ」

 

 

どうしたものかと、鞄から取り出した弁当箱の蓋を開けながら、困惑した表情のまま首を捻る。

焦ったり、どもったり、自信なさ気に呟いたり。

挙げ句の果てには異常なまでの恐縮ぶりで、特に悪くもないのに謝ってしまう目下の下級生は、随分と図に乗らない形で手を焼く相手だ。

 

弁当箱の隅に置いていた浸したほうれん草を一口摘んで咀嚼しつつ、ぼんやりと辺りを見渡せば、あちらこちらから集まる好奇の視線の数々。

多少なりともこの学園の有名人である自覚は流石に合ってか、自分達に視線が集まる事を不思議とまでは思えないが、だとしても気分が良くなる訳でもない。

澄み渡る青空がどこか憎々し気に映る辺り、連日の疲労もあってか、一方通行にもどこか余裕が感じられなかった。

 

 

そんな彼の様子を落ち着きなくチラチラと窺いつつも、漸く意を決した様に勢い付けて顔を上げる由紀江ではあったが、熱の籠り具合が些か行き過ぎて睨み付けていると云っても過言ではない。

ストラップと腹話術などと強烈過ぎる個性を出されて今更さして驚く事もないと高を括っていた一方通行でも、睨まれる理由に検討も付かなくて。

咀嚼する口元も止まり、真ん丸開かれた瞳がぎょっと固まった。

 

 

「そ、そそそその! せ、先日は本当にありがとうございましっ、ました! た、大変永らくお預かりしていましたモノを、ご、ご返却させていただきたくぅっ!」

 

 

「………………大袈裟過ぎンだろ」

 

 

睨まれたと思ったら、恭しく平伏されながら見覚えのあるハンカチを差し出されて、成る程、漸く全てが繋がった。

余りに行き過ぎた由紀江の恐縮振りに気押されたのか、気の抜けた様な吐息と共に実直な言葉があっさりと口元から滑り落ちる。

 

どういった感情が去来しているのか、マナーモードの携帯電話さながらに震えている彼女の手の中には、確かに由紀江に衝突された際に貸した自前のハンカチが在る、のだが。

ひょいと拐って手に持ってみれば、さながらクリーニングに出した後の服さながらに汚れもなく、ついでに皺の一つもない。

几帳面だとか、借りた物を綺麗にして返す性だとか、貸した側としては文句などないけれど、どうにも必要以上に気負わせてしまったのだろうかと。

 

 

「なァ、黛」

 

 

「ひゃい!? や、やっぱりお気に召さなかったですか!? すいません、すいません、今思えばアイロン掛けとか甘かったかなと」

 

 

「違ェよ。出来に関しては文句ねェし、褒めてやりてェところだ。 だが、言っときたいのは別のとこなンだよ」

 

 

彼自身としては特別重みを持たせるつもりは無かったのだが、零れ落ちた言葉には微かな呆れが浮き立って顕れる。

他人の顔色に殊更敏感な由紀江がそれを捉えるのは当然で、卑屈に揺れがちだった瞳はあからさまな怯えを孕むが、一方通行の細い唇を閉ざす事には繋がらない。

 

 

「確かに後ろから愉快にタックル決めちまった側からすりゃァ、多少なりとも申し訳なく思うのは間違ってねェし、誠意を持って詫びンのは寧ろ正しい事だろォよ」

 

 

空気の抜けた風船みたく自然と萎れていく目下の少女に釣られる様に、安穏と好奇心を弾ませて一方通行達を眺めていた外野も敏感に空気の移り変わりを察していく。

 

若さ故の青臭い衝動に駆られて挙って聞き耳を立てる野次馬達を、鋭い深紅の眼光で散らしながら、一方通行は区切った言葉をもう一度咀嚼するかの様に、息を吐いた。

目下の少女にどうにも宜しくない構え方をされて如何せん言葉を紡ぎ難いのだが、大凡には、必要以上に対人関係に不器用な彼女の内面を測れた一方通行としては、喉を鳴らす様な小さな苦笑を浮かべるしかなかった。

 

 

「だが、俺として見ればあの一件はとっくに水に流してンだよ。謝罪は受け取るが、もう少し肩の力抜け。そンな大袈裟にされるとこっちもつい構えちまう」

 

 

「う……ぁ、はい、も、申し訳ないです……」

 

 

決して間違ってはいない、間違いではないのだが、何事も度を過ぎればという事もある。

学年的にも年齢的にも上の相手に恐縮するのは別段、不思議な事ではないし、由紀江の必要以上に恐縮する態度も言ってしまえば個性の一つとして片付けられるだろう。

 

しかし、その個性がきっと黛 由紀江という人間にとってネックになっている部分の一つで、彼女が抱える暗く重い悩み事の原因なのだと勘付くのは、一方通行には簡単な事で。

毛色もベクトルも違えば孕んだ重みもまた違っていると言えるが、彼もまた、由紀江と同様の悩みを抱えていた過去があった。

 

 

 

 

――そして、根底にそれを抱えていたからこそ、彼は取り返しの付かない過ちを犯す事になったのだから。

 

 

 

 

 

 

「……人と話すのは、緊張するか?」

 

 

「……は、ぃ……」

 

 

柔らかく、なるべく脅かさずに赤子をタオルケットで包み込むイメージと重なる穏やかなテノールの響きに、俯かせていた端整な顔立ちが恐る恐る瞳を覗かせる。

 

まるで物音に警戒する小動物を彷彿とさせる仕草に、それでは自分が獲物を狩る肉食獣という立ち位置ではないかと、また一つ苦笑が浮かぶ白い貌。

獲って食う訳じゃないからと、慰め気味に視線を合わせながら、彼の細い口が緩やかな弧を描いた。

 

 

「馴れろ、っつゥのも難しいと思うが、あンまり気負い過ぎンのは失敗の元だ。それでガッチガチになってりゃ世話ねェだろ」

 

 

「は、はぃ、仰る通りで……」

 

 

「要するに、もう少しポジティブに物事を考えろってとこだな。オマエ、ハンカチ渡すまでずっと、相手に気にいらねェって思われたらどうするかって考えてたンじゃねェのか?」

 

 

「な、なんでそれを……あ、その、一方通行さんがそんな風に思う人だとは、決して!決して、思ってた訳ではなくてですね……」

 

 

的を射るというか、先程までの内心をドンピシャで当てられた事に動揺を隠せない赤面の少女は、アワアワと落ち着きなく捲し立てるが、無論、それで誤魔化せる相手ではない。

 

そこはどっちでも良いのだが、と言いたげに紅い瞳を細める一方通行だったが、そういえば、先程からあのついつい頭を抱えてしまいそうになる腹話術はピタリと鳴りを潜めている事に気付いて、小さな頷きを一つ。

少なくとも一方通行にとって馴れない事をしてまで諭している内容は、腹話術など特異な真似が出来なくなる程度には届いているのが分かれば、徒労に終わらなくて良い訳で。

 

どうして不慣れな立ち位置に立ってまで世話を焼くのかなどと小さな自問が今更ながら彼自身に沸くが、こればかりは仕方がないと半ば呆れ気味に自答を弾き出す。

 

――捻くれ者の自分にすら思わず染まるほど、世話焼きたがりのお節介が、彼の繋がりに確かに残っているのだから、仕方ない。

 

 

「まァそこは置いといて、だ。寧ろアイロン掛けの出来が良過ぎて誉め千切られた上に飯でも奢って貰えるかも、ぐらい思っとけ。そンぐらいの図太さが、今のオマエには丁度良い」

 

 

「む、むむ無理ですよ!あ、アイロン掛けだってそんなに上手くいったと思わなくて、やっぱり渡す前にもう一度入念に仕上げをした方が良かったかなって思うぐらいですし……」

 

 

「今すぐにとは言わねェよ、俺も。

だが、少しずつで良いから、思考を変えて行ってみろ。上手くいかねェ『現実』を変えたいなら、まずはオマエ自身が変わらないと駄目なンだよ」

 

 

 

 

――彼がそうだった様に。

 

――彼女がそうしてくれた様に。

 

 

 

 

 

 

 

 

猫が欠伸をする気紛れにも似た、さも軽い調子で紡がれた言葉は、如何にも重苦しく放たれた訳ではなかった。

 

けれど、どうしてか、黛 由紀江にとってこれ以上とない程に必要な言葉なのかもしれないと、漠然としながらも確信に似た感覚が、彼女の胸に去来する。

 

彼女が心の底から欲しがっていた言葉とは、きっと違う。

彼女が心の底から欲しがっている関係とも、かなり遠い。

けれど、受け入れて貰う事を望むより、受け入れられ易い自分に変わって行かなければいけない、という想いは間違いなく、今の由紀江に足りない物だったから。

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

 

交わす言葉が無ければ、食事というものは得てして早々と終わる物で。

軽さを取り戻した弁当箱を包んで学生鞄へと仕舞い込んだ一方通行は、あれ以降仕切りに何かしらの考えを巡らせている為か、とんと言を発さなくなった由紀江の様子を伺う。

 

気落ちしたというよりは、迷いながらも何とか次の一歩を踏み出そうと足踏みしている、といった方が今の彼女には相応しい。

その証拠に、悶々としながらもしっかりと食事の箸を進めているのだから、先ずは普及点。

 

 

「……」

 

 

まだ生まれたての春は、柔らかく滲む太陽に白旗上げて過ぎ去ろうとする冬に泣き付いたのか、吐息が白む程とは往かないまでも、屋上を通り過ぎる風は充分に肌寒い。

暑さよりは寒さを苦手とする一方通行としては中々に堪えたのか、次の授業までまだ些か時間が余っているにも関わらず、早めに教室へと戻ろうと決意する。

 

ゆったりとした動作で立ち上がりながら、凝り固まった身体を解す為に思い切り伸びをする姿は、まるで昼下がりの猫さながら。

どこか気怠げなまま細長い指に鞄の取手を引っ掛けて持ち上げれば、釣られる様に少女の視線もまた持ち上がった。

 

見上げれば其処に映るであろう蒼の色彩をそのまま宿した少女の瞳には、きっと色んな物が入れ替わり、移り変わる。

朝焼けがあれば、雲に覆われ、土砂降りもあれば、虹さえ架かる、空そのままに。

 

 

「ぁ、の……一方通行さん」

 

 

「……」

 

 

控え目に、それでいてほんの少し、些細ながらも確かに違う声の色に、どこか愉し気に深い深い紅蓮の朝焼けが細くなる。

言葉先から言葉尻まで恐縮を孕んでいた由紀江の声が、名前を呼ぶ際にはしっかりと音を連ねていたのは、聞き間違えなどではない。

 

虹が架かるには、きっとまだまだ足りない物に溢れているだろうけれど。

 

 

「わ、私が、変わったら、変われたら……その、一方通行さん。私の友達に――」

 

 

 

「……クカカ」

 

 

 

――やれば出来るじゃねェか。

 

案外、虹を拝むのもそう遠くはなさそうだと、足先を屋上の出口へと向けながら、一つ笑い声をあげて。

 

 

 

 

「俺は気が長ェ方じゃないンでな――あンまり待たせンなよ?」

 

 

 

 

「……ぁ、は、はい!」

 

 

 

 

 

去り際の背中に向けられた確かな声に、沸き立つ青臭い自己満足はそっと胸に収めておく。

重い鉄製の扉を潜った先、締まり際に押し出された風が綺麗に纏められたポニーテールを緩やかに掻き上げた。

 

どうにも、らしくない真似をしてしまったなと省みた所で、誇るまでも無ければ、恥ずべき事も、『今更』だろう、と。

変わらない現実などない、変えれない現実などない。

 

 

 

 

――変わる事を恐れて足踏みしていれば、きっとどこかのお節介が世話を焼くのだ。思い出の、中から。

 

 

 

 

 

――余りに遠い星の彼方から。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

一段一段階段を降りる度に、革靴の底が快活な音を響かせる。

休憩が終わるまでまだ時間は余っているというのに、不思議と静かな屋上の踊り場に、迷いのない足音だけが踊っていた。

 

 

 

教室へと戻ると決めた一方通行だったが、寂寞を恐れるどうにも変わり種な後輩に、もう一肌脱ぐのも悪くないと、思考を廻す。

言わば二つの意味で先輩であるのだから、言葉だけでなく後一つ、背中を押してやれば纏まりも良いだろう、と。

 

下る、下る、段を一つ一つ降りながら巡らせる思考と同調するかの様に、白雪の尻尾髪が機嫌良さ気に彼方此方へ弧を描いた。

 

 

記憶の底から掘り出した、いつぞやの、実に下らない理由でマルギッテに追い掛け回された、茜色の午後の事。

そういえば、あの後に意外な人物から意外な人物の話を聞いていたな、と。

 

 

 

「――さて、とォ」

 

 

 

――あの筋肉バカ、教室に居りゃ良いンだがな。

 

 

当初より教室へと戻ろうとしていた訳だが、ほんの少し寄り道が出来た。

といっても距離など殆ど変わらない、ただ戻る教室が一つズレただけなのだから。

 

変わらぬ歩調で歩みを進めながら、ふと頭上を仰ぐ。

弁当を食した事による満腹感からか、ぼんやりと眠気を帯だした紅い瞳に映るのは、武骨な階段裏のコンクリート。

 

自分から勝手に始める下拵えな訳だが、好転に向かえば問題ない。

失敗したとしても、是非もなし。

あくまでも気紛れに焼いた世話、それに黛 由紀江の他にも、また違うベクトルで面倒な意気地無しが存在するのだ、かまけるのは程ほどで良い。

 

それに、一方通行の脳裏に浮かぶ意気地無しとやらと違って、由紀江は人を山猿だのと見下したりする事は到底縁遠い優しき器量の持ち主なので、後は賽の目に委ねるだけで良いだろう。

 

 

 

――自分だけの現実、ねェ……

 

 

 

滑り落ちた言葉には、何色の感情が乗せられていたのか。

誰に向けられたのかも分からない、ほんの些細な言葉の欠片。

けれど、一段下る毎に鳴り響く足音は、まるで気を効かせたかの様にスルリと言葉に重ならず、白い青年の独白は余韻を残して溶けていった。

 

 

 

『雨上がりのバラッド』―end.







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十節『悪気のない雲の裏』

フカフカと浮かぶ柔雲の輪郭をなぞる深い瑠璃も、面を覗かせ始めた光のラインに溶かされて、薄混じりの夜明けを空へと敷いた頃。

 

世の奥様方が、不平不満を呟きつつもなんだかんだで手離せない仄かな家庭を築ろうと目蓋を擦る時間帯、ここ最近は、対象の保護者として立つ女教師に、柔らかな表情を浮かべる事が多くなってきたと、本人が聞けば気難しいそうに頭を掻いて聞かなかったフリをしそうな評価を囁かれている白い青年は、仏頂面でキッチンに立っていた。

 

黒い無地のエプロンに、さして手入れもしてない割には枝毛一つ見当たらない白一色の長髪をヘアゴムで纏めたポニーテール。

丁寧に使う事を信条とされているのか、新品に近いと言えるシルバーの鍋に汲まれた水の沸騰具合を一瞥しつつ、まな板に寝かせた油揚げを均等に切り分ける姿は、世の奥様方となんら変わらない。

 

中性的な横顔に加えて美しい長髪、背の高さはあれど線の細い印象を受けるシルエットは、この存在が女性であればどれだけ眼福モノだっただろうと一部の同性愛者を除いた男共を嘆かせる事か。

かといって相対的に見ても、昨今の家庭的な男性を好意的に捉える女性陣としては交際を視野に入れる者も多い事だが、逆に女性としての自信喪失に繋がる要素も溢れているので油断は出来ない。

 

何せこの男、世界的に有名な財閥の令嬢に荒々し過ぎる太鼓判を押されるほど、料理が出来る。

かといって財閥の抱える一流レストランのベテランシェフと肩を並べるレベルなどと誇大な評価を受けている訳ではなく、どこか郷愁を覚える様な、どこか侘しさや温もりを求めてしまう様な、言葉を並べれば誉めているのか疑わしい要素が含まれているという不思議な味に、令嬢は好奇と愛着を抱いたというのが真相ではあるが。

 

 

「……くァ……ッ……」

 

 

切り分けた油揚げを骨張った掌と包丁の腹とで包み、沸騰した鍋へと投入した拍子に、込み上げて来たじんわりとした眠気に、しっとりとした吐息が睡魔と共に吐き出された。

何故だか悔しさも混じった紅い瞳がクルリと首を捻って見据えた時計が指す時刻は、午前5時30分。

冬に後ろ髪を引かれた春の夜空は、まだ暗い。

 

 

「眠ィ……」

 

 

寝そべった癖に寝心地でも悪かったのか、不満気に尻尾を揺らす猫が、納得いかないと喉を鳴らすのと、彼のもそもそとした呟きは良く似ている。

しぱしぱと長い睫毛を瞬かせて、苛立ちを含んだ舌打ちと、抵抗もなく浮かぶ仏頂面。

 

そもそも彼が普段よりも随分早く起きる原因となった紅い女性の名前を憎々し気に呟きながら、一方通行は油揚げを湯上げする為のザルに手を伸ばした。

 

 

―――

――

 

 

 

「稲荷寿司だァ?」

 

 

「……復唱を求めてはいないのですが、自ら畏まる姿勢だけは評価しておきましょう。しかし、語尾を間延びするのは戴けない。軍人たる者、毅然かつ整凛とした言葉遣いを心掛けなさい」

 

 

「勝手に俺を軍属にしてンじゃねェ。どっかのクソ犬と違って、首輪付けてアヘ顔晒すのが趣味なマゾと同列なンざ……ってそォじゃねェだろ、聞きてェのはンな事じゃなくてだな」

 

 

「ア、ヘ……? 誰の事を言っているのかは兎も角、ウサギは随分と伝達力に欠けた言葉を使う。良いですか、言語は理路整然に、言葉を選ぶのにも慎重にならなければいけない。伝達力の欠落は、戦場では致命的です。重要な報告を上官にするケースなどでそのような体たらくでは、厳しい懲戒を与えられても文句は言えないでしょう。気を付けなさい」

 

 

「なァンなンですかァ!? 俺の疑問に対しての回答そっちのけでひたすら斜めに話広げてンじゃねェよ! つかなンでオマエは時々皮肉が通じねェンだよ、オマケになンで俺がオマエの部下になってンだよ! ンで俺が聞きてェのは飯食い終わるなりいなり寿司を作れだとかとち狂った事言い出した意味だクソが!」

 

 

「汚い言葉遣いをするな、狩りますよ?」

 

 

「上等だクソ犬、オマエの骨をそこらに撒いて綺麗な花ァ、咲かせてやる。日本の童話再現にオマエが礎となりゃ、日本に御執心の大事なお嬢様も顔を綻ばせるだろォよ!」

 

 

「あぁもう、やめんかお前達! 毎度毎度、無駄に殺伐とした空気を作り出すな! いい加減少しは仲良く出来んのか、その内、この家が持たなくなるぞ!?」

 

 

「ごめンなさい」

 

 

「ごめんなさい」

 

 

響きたる雷鳴の勢いの余りに、耳を塞ぐ間もなく雷神に頭を垂れた、昨晩の回想、夕暮れも過ぎ去った時。

平日の食事担当である一方通行作の夕食を平らげた後、何やら複雑な面持ちで箸を置いたマルギッテが、不本意ながら、渋々、とした不穏な引っ掛かりを抱かせる様子で切り出した要求が、事の発端であった。

 

御世辞にも良いとは言えない出会いの仕方が響いたのか、何かにつけては牙を立て合う二人は、ここ最近の小島梅子にとっての頭痛の種と言って相違ない。

 

 

 

 

――

 

 

 

 

「……で、突拍子もなく稲荷寿司を作れってのはどォいう事なンだよ。食いてェなら自分で勝手に作りゃ良いだろォが。食材ならあるぞ」

 

 

湯気立つマグカップに満たされたコーヒーを一口啜り、未だに冷めやらぬ怒気を幽かに滲ませながら冷蔵庫を顎で差す一方通行。

熱し易く冷め易いという地を隠せていない辺り、対面に座るマルギッテとは相性が良いのか悪いのか、判断が難しい所である。

 

対して花弁のラベルで柔らかく彩られたティーカップを傾げながら、砂糖控えめのミルクティーを味わう緋色の彩女は憮然とした態度を崩さない。

そもそも一方通行との口論がヒートアップした原因が自分に僅かなりとも在るとは思ってはいないからこそだが。

 

 

「作れるものならばそうしている。しかし、私ではお嬢様の満足に足る一品を作るのが少々困難といえる、スキルが足りない」

 

 

淡々と自己分析を述べながらも、言葉を連ねる彼女の表情の端々からは明確な悔しさを浮かばせている辺り、彼女の言うお嬢様に対しての傾倒っぷりには一方通行も閉口する。

ドイツ出身の令嬢が如何な理由で稲荷寿司という若干マイナーな気がしなくもない日本料理を所望しているのかさえ、瞑目しつつ首を傾げる白い青年には今一つ掴めないでいた。

 

緩やかなカーテンドレープの向こう側のベランダで、洗濯物を干しながら白猫と紅犬の関係にどう対処したものかと頭を捻る梅子ならば、ああ成る程と、新たな教え子となった日本贔屓のブロンドの少女を思い浮かべていただろうが。

 

 

「そうとなれば、作れる者に命ずるのが最善と判断したまでです。そして都合良く、腕もまぁ、その、不本意ながらも上々と認めざるを得ない者が目の前に居るのであれば、その……後は分かるでしょう、察しなさい」

 

 

「……それで精一杯頼ンでるつもりなら一周回って哀れだよ、抱き締めたくなっちまうぐれェに」

 

 

不遜に尽きる態度かと思えば、僅かなりとも一方通行の料理の腕を認めていることに気恥ずかしさでも抱いたのか、徐々に視線を横へ横へと泳がせるマルギッテの姿は、口振りは兎も角、言い表せない愛らしさがある。

 

かといって、可愛いので不遜な物言いは許してやる、とは行かない一方通行からすれば、素直に頷いてやる訳もない。

頼み事があるなら少しでも誠意を見せてくれと言わんばかりに肩を竦めて、マグカップを手に取った。

 

 

「……で、大事な大事なクリスお嬢様は稲荷寿司をご所望だとして、だ。なンか理由でもあンのかよ?わざわざ『俺』にまで頼ンでまで、稲荷寿司を渡すっつゥのには」

 

 

マルギッテの願いを、きっぱりと断る事は出来る。

しかし、一方通行の胸に違和感として引っ掛かったのは、同居人ながらも彼と険悪な仲である彼女が、色々と思う所があるにせよ、結果、彼を頼るという決断をした事。

 

正直な話、稲荷寿司などスーパーの惣菜コーナーに行けば手軽に手に入るし、街興しとして食文化に力を入れてる川神の商店街にでも行けばグレードの高い稲荷寿司だって、探せば見つかるだろう。

溺愛するクリスにそこらの品を渡す訳には行かないと奮起したとしても、クリスの為ならば如何なる困難にも対峙するであろう、フランク・フリードリヒが抱える軍事集団ならば特級の稲荷寿司くらい即座に用意していても不思議ではない。

というか、そうしないのが不思議である。

 

 

けれど、マルギッテが取った選択は何れも当て嵌まらないという事ならば、クリスがただ稲荷寿司を欲しているから、とはどうにも結び付き難いと一方通行は考える。

寧ろ、サプライズだとか、そういったニュアンスが、らしくない選択をしたマルギッテから漠然と感じられるのだ、と。

 

 

「……」

 

 

問い質すというには語気は弱く、窺っていると云った方が近い紅の眼差しに、マルギッテはどこか落ち着きなくミルクティーをスプーンでかき混ぜる。

彼からして見ればもっともな問い、その筈だというのに、簿かしていた背景を覗かれたかの様な錯覚に、微かな動揺が、どうしてか隠せない。

 

ミルクと紅茶、境目など無くなるほど溶け合った二つを、無遠慮な白い指先に別たれた様な錯覚は、薄く桜の映える唇を、するりと紐解いた。

 

 

――お嬢様が、明日、正式に風間ファミリーに迎え入れられるらしい。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

 

 

「……ン」

 

 

油揚げの煮詰まり具合に頷きをひとつ残して、炊飯器の隣に鎮座させた携帯電話のメール画面を見詰める。

どこかたどたどしい文章ながらもしっかりと手際が書かれているメールをカチカチとスクロールしながら、念には念を、と記憶照合する辺りやっぱり面倒見が良いんだなと、彼に請われてレシピを提供した少女ならば、苦笑を浮かべているであろう生真面目さ。

元の性格が凝り性なのか、眠気はとうに失せた奥深い眼差しで台所に立つ青年の横顔には真剣味が浮かんでいた。

 

 

――蓋を開けてみれば、案外分かり易い経緯だった。

 

 

 

一方通行とはそれなりの交友関係がある風間ファミリーに、留学生のクリスが加わる事になった事を祝して、彼女の好物を贈りたい。

贈るとなれば、それなりの物を。

早くに母親を亡くした少女には、市販の物や高価な物ではなく、僅かでも家庭を感じられる物が良い。

 

勘繰るまでもなく、深読みするまでもなく、そこには、一人の姉としての優しさが一つ、あっただけ。

 

どこかの誰かが向けてくる様な、無償の愛があっただけ。

 

 

「……甘粕の奴、食えンのかねェ」

 

 

色味の薄い唇に指を軽く添えながら、のんびりとした口調でごちるのは、急な要望にも構わずレシピを教えてくれた隣のクラスの少女の腹具合。

到底高校生には見えないほどに幼い体躯をした彼女に御礼として幾つか稲荷寿司を持って行こうと考えた訳だが、如何せん、ちんちくりんな外見通りに食も細いので、些か不安であるが、彼女の友人辺りが食べれるだろうから良いかと一息。

 

クリスにマルギッテが贈る分と、真与への御礼と、昼食の弁当に詰める分も問題ない。

概ね出来上がる頃には朝食と弁当の準備にも取り掛かれるであろう。

 

 

――朝に弱いオマエが明日、確実起きるという保証はない。故に私も起床して、同時に監視します。ありがたく思いなさい――

 

 

「……アイツの事となった途端に、ネジ緩むのがデフォなのかよ、アホ犬が」

 

 

単純に信用出来なかったのか、一方通行が了承した事に対する分かり難い照れ隠しなのかは、さて置いて。

 

何がなんでも一方通行よりも早くに起床するつもりだったのか、彼女の部屋のベッドではなく備え付けのデスクに突っ伏してマルギッテの姿を見た時は、様々な情感がごっそりと抜け落ちていく様な溜め息を落としたもので。

 

蹴り起こしてやろうとも思ったが、結局実行出来ずにいたのは、姉としての優しさを見せようとするマルギッテに、多少なりとも感じるものがあったのだろうか。

思い返して舌打ち一つ弾ませる一方通行の目尻には、どこか母性を束ねた穏やかさが浮かんでいた。

 

 

 

――

―――

 

 

 

「失態です、この私が……」

 

 

 

気が緩んでいたとしか良い様がない、戒めを抱かざるを得ない失態に、普段の彼女が浮かべる自信に満ちた姿勢は欠片もない。

常在戦場を心掛け、また、己以外にもそれを強いていた彼女だからこそ、寝落ちという事態を招いた己に辟易としている。

けれど、それよりも。

 

 

「失態です、この、私が……」

 

 

姿勢の悪い格好で寝る事など幾らでも経験してきた彼女にとって、学生ならば誰もが通る、机にうつ伏せて寝てしまったが為に節々が痛むという事態に陥る事こそ無かったが、覚醒一番に視界に飛び込んできた朝焼けに青ざめるというお約束は間逃れなかった。

寝起きが為に崩れた身形など、文字通り形振り構わず向かったリビングには、既に朝食を咀嚼しながらテレビのニュース番組を眺める梅子が居ただけで、白雪を彷彿とさせる青年の姿は、何処にもない。

 

お早うと、挨拶と共ににべもなく梅子が差し出したのは、ラップの掛けられた朝食と、サイズの異なった飾り気のない弁当箱が二つと。

 

 

 

「――失態です」

 

 

 

半分に折られたルーズリーフに『遅刻だアホ犬』という一言の、殴り書き。

 

 

そこには、文句の一つがあっただけ。

そっぽを向いた微かな優しさ一つがあっただけ。

 

 

 

――登校するには早すぎるだろうに、どうせ河川敷辺りでぼうっとしてる。恥ずかしくでもなったのかな。

 

 

――可愛い所もあるだろう、私の弟も。

 

 

目尻を緩めながら言い終えて、味噌汁を啜る梅子の言葉に、頷いてしまった事が、何より失態なのだ、と。

抗いきれず、僅かに頬を染めて。

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

替え時もそろそろだろうと、以前訪れた時よりも明色の落ちた天井のシーリングライトを眺めながら、どこか主婦染みた感想を抱くには、胡散臭い雰囲気の事務所という舞台はどうにも場違いといえる。

探偵事務所と名打った部屋にはお似合いの遮光シートから覗く夕焼けでセピアに彩られても、どこか物々しい雰囲気は隠せない。

 

如何にも渋い顔をした刑事が遮光シートの隙間を広げて外を窺えば、有りがちな刑事ドラマのワンシーンが直ぐにでも出来上がるだろう。

『宇佐美探偵事務所』の看板を引っ提げた室内に、気休め程度で置かれた観葉植物へと視線を移して、滑らかな革のソファに身体を沈める。

曲りなりにも高校生とは思えない、服装、外見、合わせて殆ど白一色の青年の落ち着きっぷりに、対面で煙草を燻らせていた宇佐美巨人は苦笑を一つ、浮かべるだけには留まらない。

 

 

「葵や井上もそうだが、俺のクラスはどうしてこう、所謂青さってやつを見せてくれないのかねぇ。その歳でそんなに達観してたらこの先の人生、光陰矢の如しになっちまうぞ?」

 

 

「お陰様で割と充実した学生ライフを嗜ンでるンでな、光陰矢の如しには成らねェよ。だがまァ、無為に飛び矢の如くキャバ譲に貢ぐ宇佐美くンからのありがたァい言葉だ、頭の片隅には留めておいてやンよ」

 

 

「だァァァ、もうほんと可愛いくねぇなお前さんは! 切り返し一つ一つがえげつないんだから、お前さんにいっつも言い負かされてる不死川が気の毒でしょうがねぇよ」

 

 

「ほォ……十河の奴、『UA』のアルバム買ったのか。俺も久々にショップ寄るか」

 

 

「いや不死川の話になった途端、スルーしてやんなって。あの娘に対しての弄り方極まり過ぎだろうに」

 

 

頬杖をつきながら会話など打ち切ったと云わんばかりに携帯をつつき出す一方通行の、不死川 心に向けたサディスティックさに巨人は戦慄を抱く。

どうやらお薦めしたアーティストのCDを巨人もよく知る教え子が購入した事に青年は機嫌を良くした様だが、この場に居ない心にこうまできっちり弄ぶ姿勢がブレないのは、如何なものだろうか。

 

クツクツと口角を緩やかにする青年の横顔に漂う無邪気な妖艶さに空回る高飛車な少女を思って、巨人は静かに十字を切った。

 

 

「ま、与太話は一旦置いといて、だ。本題に入ろうかね」

 

 

大きく吐き出した紫煙が曖昧に宙へと溶け失せたのを見届けて、プラスチックの灰皿にまだ葉の残った吸殻を無理矢理に捩じ込むと、陽気な横顔に密かな険が走る。

表情に些細な変化も見当たらないというのに、引き締めた空気を途端に造り上げる手腕は鮮やかで、一方通行には未だに真似が出来ない一つの高み。

 

返信の打ち込みも途中のまま、携帯をポケットに突っ込んで、彼もまたソファの背もたれから身体を離し、拝聴の姿勢を作る。

学校の空き教室ではなく、彼の持つ探偵事務所に呼ばれたということは、此処から先は、児戯ではない。

きな臭さと欲望を交えた姿の見えない隣人達との、光当たらぬ盤戯でしかない。

 

 

「ここ最近、数字でみりゃほんの僅かだが、ドラッグのマーケティングのいざこざが増えて来てる」

 

 

「有りがちな話だなァ……親不孝通りか?」

 

 

「いや、違う……『川神市内』で、だ」

 

 

「――チッ」

 

 

吐き捨てた舌打ちに籠められた明確な苛立ちが、麗利な白貌を一瞬にして鋭さを纏わせる。

動揺よりも、狼狽よりも、先ず浮かび上がるのは事態の厄介さに対する途方もない疲労感。

 

この事務所に持って来られた案件な上、わざわざ一方通行の手を借りるという判断を、宇佐美巨人が下した以上、生半可な事ではないと理解していたが。

 

 

「潰せてねェってことか」

 

 

「あぁ、そういう事だな。掴まえて吐かせても、出てくるのはダミーの出所。潰した所で、どこからともなく沸いて出やがるんだとさ」

 

 

 

親不孝通りでドラッグの商的やり取りで、縄張りだの面子だの黒々とした面で暴力団同士による抗争に発展する事など割とザラではあったが、川神市内となれば話は大きく変わってくる。

川神市内となれば、下手をすれば地方警察より余程厄介な、天下の川神院のお膝元である。

 

諸外国からもその武力を恐れられる程の組織の手前でドラッグ売りなど、川神院は勿論、親不孝通りやその奥の工業地帯に蔓延る暴力団にとっても到底見過ごせない事である。

表には表の、裏には裏のルール、または暗黙の了解という物が存在する中で、今回の事案はその両面に唾を吐く事に等しい。

 

極め付けて厄介なのは、その両面を相手取った上で、尻尾をまるで掴ませていない、ということ。

 

 

「知り尽くしてやがる。川神の地を」

 

 

「その上で愉快犯染みた行動を取る、と思えばとんでもなく慎重だな。面倒なのは、取り扱う商品にもダミーが混ぜてあるって事だ。一つ一つの質がバラバラなんだと」

 

 

「……商売目的じゃねェな、ソイツらの狙いは。寧ろ、撒き餌か」

 

 

「ブラフと決め付けるには材料が足りねぇが、俺もそっちの線だと思う。寧ろ目的、いや標的は――」

 

 

「「――川神そのもの――」」

 

 

 

仮定に仮定を重ねて、至った結論は互いに同じ。

 

吐き出した吐息の重みに、事務所に立ち込める空気が悲鳴をあげたかの様に軋む。

寧ろ、考え過ぎであった方が余程良いとさえ思える予測に、結論を導いた二人の男は辟易と姿勢を崩した。

 

考え過ぎであれば良い、どこかの頭足らずの馬鹿が巻き起こした珍事であれば、失笑で済むのだから。

けれど、考え過ぎでなければ、事態がどれほどの悪化を見せるのか、想定も難しい。

 

今はまだ、緩やかに。

しかし、身の毛も弥立つ危機はいつだって気付かぬ内に忍び寄る物だということを、彼らは幾度となく経験していた。

 

 

「……西か、北か。下手すりゃ外って線もあるだろォが」

 

 

「ブツの流し所が掴めればある程度は分かるんだがな、実に巧妙に隠して下さってるよ。外ってのは考えたくないが、泣き言は言ってられねぇか。俺は北と外を洗ってみる」

 

 

「となれば俺が西、か。次いでに川神も。しかし随分と面倒なネタ持って来やがったなァ、宇佐美くン。 報酬は弾んで貰えるんだろォなァ?」

 

 

ある程度の方針を定めたからか、張り詰めた空気を霧散させた青年の口元がどこか加虐的な歪みを残している辺り、抱いた遺憾を消し切れない青さに、巨人は小さく安堵する。

最低限の説明だけで手短に事態の把握と警戒を行う様は、到底、陽の当たる日常に身を置いていては掴めない。

 

だからこそ、彼が時折見せる微かな隙を見つける度に、彼の本質を見失わないで済むのだ。

それが自分にとって偽善的な慰めだったとしても、どこか救われる気になるのだから、救えないなと、自嘲して。

 

 

「ヤマがヤマだからある程度弾むつもりだが、現金一括ってのは色々と宜しくないからな、ほれ」

 

 

「なンだ、これ――温泉宿の無料券?」

 

 

拙い音頭を鼻歌混じりに響かせながら、スーツの胸ポケットから取り出したチケットを一方通行へと投げ渡す。

ヒラヒラと無軌道に舞う紙を微妙な表情を浮かべながら乱雑に摘まみ、記された内容へと紅い視線を走らせる青年の顔が、徐々に呆れた面持ちへと変わる。

 

『秘匿の温泉宿に無料でご案内、5名様迄』と横書きされた内容は兎も角として、彼がこうも分かり易く巨人をじっとりとした眼差しで見据えるのは、たかだか温泉宿に興味が沸かないという理由ではない。

全く想像していたリアクションとの違いにどうにも落ち着かなくなって、冷や汗を流す巨人に、それすらどうでも良いと云わんばかりに、一喝。

 

 

 

「宇ゥゥゥ佐美クゥゥゥン? お前これ、渡す相手間違えてンだろどォ考えても。年甲斐もなくビビっちゃったってオチか? ン?」

 

 

 

「え、あ、前賃がショボいとかそういう感じではないの? それに関しては文句はないと」

 

 

「おォ、温泉もたまには良ィだろとは思うがそこじゃねェよ。 なんでお前これでウチの姉を誘わねェンだよ。 入手経緯も正直どォでも良いが、これ口実に誘ったりすれば良かっだろ」

 

 

ピラピラと二本指で挟んだ無料券を揺らしながら、何処と無く憮然とした面持ちで尋ねる一方通行は、割と本心で言葉を紡いでいた。

別段、奥手という訳ではない巨人がこれを口実に梅子に迫っていないのが不思議だと云わんばかりに。

 

しかし、この時ばかりは白い青年の配慮が足らなかったと言えよう。

見る見る内に肩を落としていく巨人の、名前とは正反対の縮こまり具合に、明確なミスを確信するが、後の祭り。

 

 

「……いや、言ったんだけどな……今週と来週の週末は両方とも講習会とか職員会議で埋まってるんだとよ」

 

 

「ごめンなさい」

 

 

「良い、良い。今回ばかりは普通に日が悪かっただけだったからな……というか、職員会議とか忘れてた俺も悪い」

 

 

先日の焼き回しの様にきちんとした敬語で、立つ人は違えど教員に謝罪する羽目になった一方通行であったが、此ばかりは巨人に同情を禁じ得ない。

にべもなく断られるなら兎も角、予定合わずという理由では彼としても梅子に諭す事も出来ないのだ。

 

何かしらの因果でも込められてそうな不穏なチケットをポケットに仕舞いながら、取り敢えず、凹み始めた目下の男を気の毒そうに慰める一方通行だった。

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

「経過は逐一知らせてくれよ。連絡つかなきゃ、忠勝にでも良いから伝えといてくれ」

 

 

「おォ、つってもそう簡単には割り出せねェだろォがな。そっちも何かあったら連絡寄越せ」

 

 

「はいよ」

 

 

下手をすれば大事になるとはいえ、断片的な情報があまりにも少ない現状では対策を煮詰める事は難しいので、ある程度の確認事項を最後に、一方通行は細い体躯をソファから立ち上がらせる。

川神と、川神より西に広がるエリアに探りを入れるには、ただの学生身分である一方通行には極めて困難といえるので、先ずはツテを当たる事から始めなくてはならない。

 

 

霧夜、九鬼、橘、鉄、川神。

 

 

次々と有力な情報源となり得そうなツテをリストアップしながら事務所の出口へと向かう背中を、疲労混じりの煤けた低音が呼び止める。

 

 

「……すまんな」

 

 

苦々しいとも言える、気軽とも言える、相反した情感をブレンドした謝罪は、安易に返す事すら躊躇わせる程に、深く、重い。

今回の案件は、巨人一人にはとても身に余る事なのは明白だが、それでも、一人の大人として立つ男にはケジメが必要だったのだろう。

 

だからこそだろうか、振り向きもしない白い背中は、さも重み一つさえ感じていないとでも語るかの様に。

 

 

 

――式場で、姉貴を隣に侍らせながら言えてりゃ格好つくぜ、その台詞。

 

 

 

小さく余韻を残した扉の先には、鮮やかな白い鍵尻尾はもはや姿形も見えない。

去り際の一言で、予想だにもしない、けれど望んでいたかの様な染み入るモノを残すのは、魅せる男の仕草の一つ、口説き言葉の常套句の様なモノだ。

 

そんな御手本をむざむざと見せられた巨人は、やれやれと云わんばかりにグッタリとソファに背を預けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……歳かねぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『悪気のない雲の裏』―end.



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壱ノ調『Ever Green』

聴力に長けるというのは、同時に集中力が高いと同義してもいい議題である。

例えば一線級のピアニストともなれば、雑踏の中からでも百メートルほど離れた地点に小石を落とした音さえも聞き取れる者も居るというが、それは常日頃に行えるという訳ではない。

音に対しての聴力の錬磨、鍵盤の鼓動を読み取る感性、雑音を遮断する集中力を高めに高めて行われるアートの技術。

 

心頭滅却すれば火もまた涼しという至言はまさにそこへ繋がる。

故に、そう。

意識さえ高めれば。

集中力さえ、高めれば。

 

如何なる雑音雑踏すら遮断して、耳元に寄せた電話越しでの対話のみに意識を傾ける事が―――

 

 

 

「あ、てめっ、この糞天!! 何が一口だコラ、それじゃ一掴みだろうが!俺のおっとっとが殆どなくなってんじゃねぇか!」

 

 

「うるっせぇんだよ、こんくらい我慢しろよ竜兄ぃ! 良い歳こいて菓子の一つや二つで喚くんじゃねーよ」

 

 

「うーんやっぱ、あーくんの髪の毛は手触りがたまんないねぇ。 つるつるだしすべすべだし指通り抜群で……飽きないなぁ、千切って持って帰っていい?」

 

 

「うるっせえェェェンだよ!! オマエらさっきからホントにィ!! 菓子取り合ってる馬鹿二人は黙って潜水艦でも探してろォ! あと辰子、今すぐ俺の髪から手を放さねェと愉快なオブジェにしてそこらの山に放置するからなァ!」

 

 

 

「アンタも充分うっさいんだがね……後ろのアンタらも、これ以上ごちゃごちゃ騒ぐってんなら、私の本気のドライブに付き合って貰うよ?」

 

 

 

 

 

「「「「…………」」」」

 

 

 

 

 

「宜しい」

 

 

 

石を投げた水面の様に、或いは棒につつかれた蜂の巣の様に。

まるで動物園かと額に皺を寄せて、余りの騒がしさに耳に当てていた携帯電話を握り潰しかけた一方通行だったが、彼の怒号に続いたドライバー、この場における命綱も兼ねる亜巳の鶴の一声で静寂を取り戻した車内に、そっと安堵を落とした。

 

フィルターの淡い色膜の張った窓越しに流れる鬱蒼とした木々、林の深緑の景色は、眉間に皺寄せ獰猛に吠えた彼の荒ぶった心情を静寂に禊いでいく。

 

光輪を重ねて我が物顔で空に咲く太陽と、それに侍らう蒼のガーデンが見下ろす午前の山道を悠々と駆けていく、携帯電話ごと助手席の窓に寄りかかる青年の瞳と良く似たレッドカラーのそこそこ値の張る乗用車。

一方通行の保護者である小島梅子が『色々と弾けたかった、反省してるけど後悔はしてない』と思い切って昨年衝動買いしたらしい乗用車に乗り込んだ彼と板垣家族一行は、先日宇佐美巨人に貰ったばかりの温泉宿へと向かっていた。

 

――というのも随分と急な話ではあるが、五人分無料というある意味一方通行に都合の良すぎる人数設定を添えた美味しい話、彼としても利用しない手はない。

 

 

いつぞやに機嫌を損ねさせた埋め合わせをしなくてはと、板垣天使に連絡を取り軽い気持ちで誘ってみれば、異常な程に食い付いてきた彼女は二の句を告げる暇もなく彼女の家族全員を召集。

電話口の一方通行を放置しながらいつ行こう早く行こうそうだ明日行こうと天使の外見そのままに落ち着きのない様子でまくし立て、そうだなそうしよう準備しなくてはと誘った当事者である彼の意見などまるで意に介さず、物凄くノリノリで話を進めてしまった残りの三姉弟。

 

 

え?明日?Tomorrow?え、マジで?

 

 

電話越しなので顔は見えないながらも、満面の笑みで宿泊の準備を進める板垣家族の姿は容易に想像出来るので、しかも誘った手前、話が早過ぎるだろと苦言を呈するのも憚られて。

予定を空けなくてはと、職場へと連休を貰いに電話をかけた板垣亜巳の、鬱屈のない、珍しく心から愉し気な甘い声を彼の優れた聴力が拾ってしまった辺りで一方通行は腹を括った、という経緯なのだが。

 

 

 

「……正直、はやまったなクソ」

 

 

 

『いきなり何だ……何をはやまったと言うんだ、一方通行。というかさっきから汚い言葉遣いだぞ。常日頃から言動にも気をつけておかないと、何時しか言動だけじゃなく性格も習慣も悪くなっていくんだと、お姉ちゃんはいつもいつも……』

 

 

「だァれがお姉ちゃンだ駄乙女がコラ。対馬さン離れをいつまでも俺に引き摺ってンじゃねェよ」

 

 

『だ、駄乙女って言うな!それに私はレオの事なんて引き摺っては……引き摺って……なんか……』

 

 

 

「あァ、また始まったよ面倒クセェなもォ……」

 

 

 

凛としていたと思えば、途端に女々しく萎んでいく清麗なアルトの響きに如何にも相手したくないと顔を顰める一方通行の束ねられた後ろ髪を、機嫌を損ねた飼い猫を宥める飼い主のように辰子がさらさらと細指で梳いた。

 

白色ながらも健康的な決め細やかさを宿した指先の間を、癖になりそうな手触りと陰りの出来た車内ですら雪原の白銀を彷彿とさせる髪が、意志などない癖に妙に色っぽくしなだれるのを、辰子のエメラルドの瞳が微笑まし気に見下ろして。

武骨な肉体にトライバルのタトゥーと刺々しい形姿の板垣竜兵が貪る、まるで似合わない人気菓子を簒奪しようと目を光らせていた天使が、白髪を転ばせる辰子を羨望の眼差しで見つめるが、見つめるだけで手出しはしない。

 

 

板垣辰子は、惰眠を貪ることに次いで、一方通行の髪を玩具のように玩ぶ事を至福の一つとしており、彼女の家族のみならず、一方通行の保護者である小島梅子も呆れながらも承知している事である。

何せ、放っておけば一時間でも平然と玩び続けるし、引っ張ったり結んだり、挙げ句の果てには口に含んだり、と。

しかも一方通行と亜巳、梅子以外の誰かがそれを阻害しようものなら酷く機嫌を損ねるし、最悪暴れる。

故に、板垣天使は指を咥えるようにその光景を眺めているしかない。

 

 

「……で、頼み事は聞いて貰えるって事で良いンだな?」

 

 

『あぁ、それは任せておいてくれ。鉄家の方も探りを入れるとお爺様も仰っていたし、姫も、滅多にないお前からの協力要請に乗り気だったぞ』

 

 

「そうかィ、出来れば貸しを作りたくはねェンだが、こういう泥臭ェ裏事にはアイツの『鼻』は頼りになる。鉄の爺さンにも、礼を言っといてくれ」

 

 

電話越しにでも清麗な声の持ち主が逞しいバイタリティで立ち直った事を確認して、改めて話を本題に戻す。

宇佐美巨人からの依頼の前報酬を既に利用させて貰う以上、彼が動かない訳にはいかない。

川神に這い寄る下卑た穢泥を探る為に、一先ずは一方通行の持つツテを行使して、方々の有力者に情報の収集を依頼する。

 

先ずは、霧夜グループの令嬢である霧夜エリカ。

次いで、川神流総師範である川神鉄心。

 

そして電話口でやたら自分が一方通行の姉貴分であるのだとプッシュする、彼曰くポンコツ駄乙女との不名誉を頂戴する彼女こそ。

武道四天王の一角を担う麗人――鉄乙女。

 

 

 

『あぁ、伝えておく。あっ、勿論お姉ちゃんも弟分の為に一肌脱いでやるぞ! どうだ、嬉しいだろう!』

 

 

「……いや、頼むから危険な真似はすンじゃねェ、頼むから。残念な結果にしかならないンで」

 

 

『なっ、なんだどうした一方通行。珍しくお姉ちゃんの心配だなんてそんな……ま、まぁ案ずる必要なんてないぞ、あれから更に鍛練を重ねて腕を磨いたのだ、そう簡単に誰かには負けたりしないぞ!』

 

 

選ばれたのはツンデレでした。

取り残された残念ブラコン。

 

そんな余りにあんまりな凶悪フレーズを霧夜エリカに囁かれて凹んでいたかつての一幕を思い出しながら、皮肉も通じないのかコイツはと、ガーネットをそのまま埋め込んだような紅い瞳が疲労を持って細まっていく。

 

 

四天王に数えられるだけあって、鉄乙女の実力は疑いようもない程に強い、それこそ並みの武道家程度では触れることも出来ないくらいに。

けれど今は目的のハッキリしない、見えない敵を探る情報収集の段階であり、必要なのは慎重さと相手相応の狡猾さ。

ある程度の弁えはあるとはいえ、狡猾さなどまるで無縁な彼女に余計な動きをされては、今後の動きに支障が出る。

 

乙女の言う通り暴れ回って勝って貰っては困るのだ、蔓延る掃き溜めを纏めて一掃するには、正道の拳よりも外道の毒で以て制するのが最上。

 

 

そんな彼の心境などまるで気付いていないのか、滅多に素直にならない弟分から心配されたと舞い上がっている駄乙女の耳には、終ぞ一方通行の悩まし気な溜め息など聞こえはしなかったのだった。

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

「それで、どうするのさ、あんた達。先に温泉に入っちまうかい?」

 

 

「あぁ?こんな真っ昼間から温泉ってのは……いや、待てよ。久々の豪勢な夕飯の前に激しい運動ってのも悪かねぇよなぁ……いいぜ、昂ってきた。そうと決まれば善は急げだ一方通行」

 

 

「山の畜生共の豪勢な夕飯になりたいってンなら素直にそう言えやクソホモ野郎が」

 

 

「ホモじゃねぇよ、ゲイだ」

 

 

「どォでもいいわボケ」

 

 

 

山岳の間に建つノスタルジーを感じさせる外観の温泉旅館へとついた一行が粛々とした妙齢の女将に案内されたのは、優しくも厳粛な畳の香と目を癒す落ち着いた色彩が品性を感じさせる、広々とした一室。

感嘆の息を落としながらもそれぞれが持ち込んだ一泊分の着替えや携帯ゲーム機、間食や夜食分のお菓子などを詰め込んだリュックや鞄を置くと、板垣一家の長である亜巳がこれからの予定を尋ねる。

 

三人もの妹弟を女手一つで支えてきただけあって仕切り役にも母性を窺わせる彼女とは打って代わって、生々しい欲望を隠そうともしない竜兵に肘を打ち込む一方通行。

屈強な筋肉に覆われた硬い胸元とはいえ鋭く穿たれては堪らないのか、鈍い唸り声と共に竜兵の顔が青褪めていった。

 

 

「じゃあ、あーくんは私と一緒に入ろっかぁ、背中流しちゃうよー」

 

 

「性転換してからどォぞ、てかいつまで弄ってンだ、そろそろ放せ」

 

 

「やだ」

 

 

ぐったりと畳に巨体を横たえた弟をあちゃーと哀れみながらも特に何も言わず未だ彼の後ろ髪を玩び続ける辰子が薄情なのか、竜兵が単に自業自得なのか。

車内でも旅館でもやる事は変わらず一心不乱に白髪を梳く板垣辰子の姿を目しても、尚眉一つ動かさず奉仕の心で彼らを案内していた女将はなかなかの剛の者ではないだろうか。

 

とはいえ、男に続いて女に風呂へと誘われているこの状況にもその姿勢を貫けるのかは、推して測るべしである。

 

 

「でもねーあーくん、折角の温泉なんだから一緒に入るくらい良いじゃない。あっ、ちゃんと前は隠すよ?」

 

 

「そういう問題じゃねェだろ。身体隠すより平然と男湯に入ろうとするその残念な思考を隠せ。というか棄てろ」

 

 

「……何言ってるの、男湯には行かないよ。私達が行くのは混浴の方だよぉ」

 

 

「 えっ!?混浴あんのタツ姉!」

 

 

「なンでオマエが食い付いてんだオラ」

 

 

我が儘を強請ろうとするすると彼の程よく肉が付いて骨張った背中に豊満な身体をべったりと寄せる辰子の何気ない一言に、のんびりと寝転がっていた天使があんぐりと目を剥いた。

板垣一家の末妹、花も恥じらう乙女な年頃には混浴というワードには興味を惹かれざるを得ないらしい。

 

 

「べ、別に食い付いたりとかしてねーよバカウサギ。今時混浴なんてあるのにビックリしただけだ、勘違いすんじゃねぇ!」

 

 

「うわァ……分っかり易ゥ……」

 

 

「……? 天ちゃんは一緒に入らないのぉ?」

 

 

「うぇっ!? ちょ、タツ姉なに言ってんの!?入る訳ないじゃん!」

 

 

 

拗ねたようにそっぽを向いて姉妹に共通したきめ細やかな柔肌に、薄らと羞恥の紅を添える天使は、それなりに付き合いがあるとはいえ、異性相手に辰子ほどの開広げて接する事が出来ない。

ましてや兄弟である竜兵相手でも渋るというのに、よりにもよって彼女にとって一番身近な異性である一方通行と一緒に風呂に入るなど、湯に浸かる前にのぼせてしまうのは間違いだろう。

 

 

頬どころか小振りな彼女の耳すら朱紅と彩めた思春期のあどけなさに、色濃い紫紅の髪を揺らしてクツクツと微笑を浮かばせた亜巳が挑発する様に一方通行の膝へと寝転がった。

 

 

「なんだい、天は一緒に入らないのかい?勿体無いねぇ……こういう機会は滅多にないんだ、遠慮することなんて無いさね。それに……」

 

 

実の妹には余りに艶めいた響きが、妖艶に舌で濡らした唇から、背筋に指を這わせるかのような吐息と共に紡がれて、より一層天使の整った顔を朱色に彩めて。

閑静な和の一室から夜の淫靡な春色に様変わりさせるような悩ましい肢体をくたりとさせたまま、呆れを過分に含んだ紅い瞳で見下ろす男のスッキリとした顎に指を添えて、蛇のようにゆっくりと撫でた。

 

 

 

「――目の保養になるよ、コイツの身体は」

 

 

「ぶぇっ!? ほ、ほほ保養ってアミ姉……って、も、もしかして見たことあんの!?」

 

 

「さぁて、想像にお任せするさ。で、どうするんだい?アタシは無理に、とは言わないけれどねぇ?」

 

 

「ぐむむ……」

 

 

「とぉっても綺麗だけど、ちゃんと筋肉も付いてるし……くっきりした鎖骨とか、スラリとした脹ら脛とか、ちょっとゴツゴツとした背中とかぁ……えっちなんだろぉな、あーくんのかーらーだー」

 

 

「うぅ……うぐぐぐっ」

 

 

亜巳の調子に合わせて、へばりついていた背中から更に身体を押し付けて、嬉々としてエメラルドの瞳を輝かせながら一方通行の肩にそっと顎を乗せると、小動物のように首筋へ瑠璃色の髪ごと頬を転ばせる。

しなやかに噎せるほどの色気を醸し出しながら下を這う淫靡な雌豹と、のんびりとしながらも無邪気故の凶悪な色香を漂わせながら上に纏わる無垢な雌猫。

 

男ならそれだけで昂りを抑えきれずに情動のまま彼女達へと性の猟銃を以て征服しかねない、余りにアダルトな光景の中、世の男からすれば血涙を流して呪詛を送りかねない極上の褒美を預かっている青年は、明らかに本来とは異なる方向へと昂っていた。

 

 

「……っのォ……ベタベタといつまでも鬱陶しいンだよ痴女共がァ!! お天道様がガッツリ登ってらっしゃる時間からどいつもこいつも盛りやがってボケがァ! そンなに下の口が渇いてンなら今すぐ男湯行って前も後ろもぶち込んで貰って来いやオラァ!!」

 

 

あ、拙いと添えていた顎から慌てて掌を離したのだが、既に時遅し。

月に吠える狂狼もかくやと謂わんばかりに紅月めいて鋭く吊り上がった瞳が、怖気や畏怖を背中に這い上がらせる獰猛な紅月を見上げているかの様に錯覚させる。

 

天使をからかう意図があったとしても、少し調子に乗り過ぎたなと腕を組んで小さく溜め息を吐く亜巳と、加減を失敗したなとぷっくりと舌をちろりと出して曖昧に笑う辰子に、とんだとばっちりを受けた天使が可愛らしく頬を膨らませる。

一方で事の成り行きを静観していた竜兵は腹を抱えて爆笑していた。

 

 

「まぁ、とりあえず温泉でのお楽しみは後にするとして。確かこの宿の近くには川があるんだろう? アタシとしてはそっちで羽を伸ばしても良いかと思うんだけどね」

 

 

「私は山で遊ぶのも良いかなぁ……森の中で寝ると気持ち良さそうだよねー」

 

 

「俺はアミ姉に一票だな。久々に河釣りしてぇ……竿と餌も貸してくれるみてぇだしよ」

 

 

「ウチは……どっちでも。あ、でも釣りやってみたい」

 

 

「みんな川行きかぁ。んーでも川で泳ぐのも気持ちいいし、水着もあるし丁度良いねぇー……あーくんはどうするー?」

 

 

「……俺も川で良い。決まったンなら、サッサと行くぞ」

 

 

 

気を取り直して、と再び仕切り役である亜巳が主張と共に意見を促せば、ポンポンと小気味良い調子で各々の意見を紡いでいく板垣一家。

さっきまでの混浴の件は何だったのかと今一腑に落ちないのか、再び遠慮なく獅噛み付いてくる辰子の額を手の甲でぺしりと叩くと、一方通行は窶れ気味に紅月を瞼に隠した。

 

のっそりとしなやかな体躯を翻して、言葉の通りさっさと温泉宿の近隣にあると云う川へ向かおうとした彼の後ろ髪を、引き止める掌。

文字通り後ろ髪を引かれてしまった彼はさながら尻尾を掴まれた白猫の如くに不機嫌そうに背後へと振り向く。

 

 

「……あンだよ」

 

 

「あーくん、水着は?着替えるよねぇ?」

 

 

振り向いた先で、春に咲く錦木の花弁の色を染めたような無垢な瞳が、尋ねるようで尋ねず、一方通行の水着姿が見たいのだと分かり易く爛々と煌めいて、彼に反論を許さない。

 

着替えると言わない限り離さないと謂わんばかりに、膝を付きながらも、両の掌で彼の後ろ髪の先を扇子の代わりに広げて、弧を描いた桜色の唇を隠した。

豊かな果実を実らせた胸元に出来た谷間に彼の髪を添わせて、口元を隠して上目遣いと不必要な程に色を纏う彼女の様子に、まだ先刻のノリを引き摺っているのかと眉を潜める彼ではあったが。

 

 

「……あァ、クソ。分かったから離せ、水着取りにいけねェだろォが」

 

 

「んふふーたっぷり泳ごうね、あーくん」

 

 

思惑通りに彼が折れた事に御満悦なのか、大人びた容姿とは裏腹に、幼い少女が浮かべるような碧い麗人の透明な笑顔が一方通行の諦観をより一層確固たる物へと近付けていく。

優しさであれ、慈しみであれ、幼子が見せるようなまっさらで無垢な感情は、どうしたって敵わなくて、抗う気すら起こさせてくれない。

 

いつか、どこか、誰かに言った、ガキに振り回されるのは大人の特権どうこうという言葉は、子供ながらに大人で居ることを強いられた彼の、未だに変わらないちっぽけな矜持として残っていた。

 

 

「川ン中でも引っ付いて来やがったら、ガチで沈めっからなァ」

 

 

「えぇー」

 

 

彼の云う通り引っ付くつもりだったのか、愛らしい顔立ちがぷくっと不満気に膨らむ。

異議を申し立てるように口を尖らす辰子を、クツリと喉を鳴らして嗜虐的な紅い瞳が見下ろして、鋭く放たれた白い指先が彼女の額を軽く小突いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

 

 

 

 

出会いと別れ、芽吹く桜と生物達の産声の歌曲。

春と云う季節に纏わるイメージは暖かで朗らかで生命の光に煌めいている。

永く冷たい幻想的な冬の厳しさを乗り越えて漸く訪れた雪解けに、優しく抱かれる温もりを思う者も多いだろう。

 

 

けれど、忘れてはならない。

 

置き去りにしたとはいえ、決して姿を隠した訳ではない冬のなごり雪は、春夜の冷たき風として、曙の凍てつく雨として。

そして、流るる清水の河川として、時として命奪う厳しさを以て、姿見えぬ隣人として寄り添っていてくれる事を。

 

 

 

「寒ィ寒ィ寒ィ、寒ィンだよクソッタレ」

 

 

 

そして絶賛その厳しさを、鞭で打たれる如くその身で教えられている哀れな白兎が一羽、成す術なく震えている。

グレーのパーカーに鳥の片翼を模したデザインを白のラインで走らせた黒と朱の水着と、彼の纏う服装は防寒性にとてもではないが期待出来ない。

シルバーのチェーンに飾り気のないシンプルなペンダントが垂れ下がる胸元は、幾つかの水滴と共に分かり易いほど鳥肌が立っていた。

 

 

 

「大の男がだらしないねぇ。そんなに弱々しくするなんて、私に責められたいのかと勘繰っちゃうじゃないか」

 

 

 

「あーくん、寒いの苦手だったもんねぇそういえば……ほらほら、どう、暖かい?」

 

 

 

普段の、大人びて飄々とした態度はまるで微塵も感じさせない程にみっともなく身体を縮込ませる白貌の青年に、黒の上下のマイクロビキニが官能的な妖香を放つ圧巻のスタイルを見せ付ける亜巳がやれやれと首を振る。

そんな彼女の苦言など聞こえてはいないのか、無言のままの一方通行を見兼ねて、亜巳とは対照的な白のホルターネックのビキニを纏った辰子が勢い良く震える彼を抱き締めた。

 

 

「…………」

 

 

危うく溢れてしまいそうなバストと柔らかな肌は人肌を色んな意味で暖めそうなモノだが、どうやらそれは彼とて例外ではない。

子供は風の子という格言に触れるものがあるのか、容姿とは真逆で幼い心を持った辰子の身体は暖かく、安堵の吐息を思わず吐いてしまうほどで。

 

けれど、目を見張る程の胸元と肉付きの良い太股の感触を殆ど生身で感じてしまえば、意識しないというのは一方通行といえど非常に厳しい。

ほんのりと微かに頬に朱を帯びている彼に気付かない辰子はより一層肉体的な距離を埋めて来る事によって、彼の強靭な理性が振り払えと叫んでいる。

 

かといって彼女が離れてしまえば人一倍寒さに弱い彼としては苦しむ未来に身を投じる事に抵抗を覚える、しかし悪意なら兎も角善意で彼を包み込もうとする優しさが、何より一方通行の理性を刺激した。

 

 

「……もォいい、辰子」

 

 

「えーホントに? でもあーくん暖かいからもうちょっとギュッてしてたいんだけど」

 

 

「……離れろ。いや、離れて下さい、こっちも結構ギリギリなンで」

 

 

「はーい」

 

 

本能を理性を以て制する。

離れていく柔らかさと温もりを惜しまず、また一つ男の高い壁を乗り越えたと、どこか誇らしげに安堵の吐息を零した男の背中を、ニヤニヤとした笑みを張り付けた生暖かい視線が貫いている事には気付いていない、気付いていないったらない。

 

 

「なんだ、ちゃぁんと男っぽいとこあるじゃないのさ、一方通行?」

 

 

「……これはオマエの情操教育にも問題あンだろ、亜巳さァン?」

 

 

幾ら彼の中で気付かないフリを貫いたとしても、人の晒された弱味をムザムザと見逃さないのは、流石夜の女王に君臨する亜巳と言えよう。

苦々しく喉を唸らせて、精一杯の恨み言を返す一方通行に一本取ったことに満足したのか、彼女達よりも更に下流の位置で竿を垂らす二つの影へと視線を移した。

 

 

 

「それにしても、竜兵もやるもんだねぇ。あんなにヒョイヒョイ釣れるもんなのかい」

 

 

「大漁だねぇ」

 

 

「……まァ、意外な才能ってとこか。だが、弟の方はそォでも、妹の方はからっきしみてェだな」

 

 

経験がある、と釣り始めの時から、やけに自信満々に宣っていただけあって、その見事な手際と成果には思わず一方通行も唸らずには居られない。

素直に彼らが感嘆する板垣家長男とは対照的に、末妹である板垣天使の方はまるで宇立が上がらないようで、不満そうに膨れながら竿を垂らしたまま携帯ゲームに勤しんでいた。

 

 

「……まぁ、きっとアタシや辰子でも天とおんなじ結果になってただろうけどねぇ。あんたも釣りの経験は無いんだっけ?」

 

 

「あァ。仮に釣れたとしても、彼処まで入れ食いにはなンねェだろ。つゥか、あンなにバカスカ釣ってどォすンだ」

 

 

「何匹か旅館に持って帰れば、刺身なり天婦羅なりしてくれるそうだよ。夕飯がより豪勢になるんなら、アタシとしちゃ歓迎だけどね」

 

 

「うーん、なんか眠たくなってきた……」

 

 

海に比べて河の方が釣れるモノだとしても、精々が三、四匹が関の山だろうと、経験も自信もない一方通行は、特に深く考えるまでもなくそう評する。

しかし、亜巳の評価もまたすんなりと納得出来るのか、微かに苦笑を浮かべた。

辰子はまず間違いなく釣りの最中に寝てしまうだろうし、亜巳は虫が苦手なので、釣具に餌を付ける事が出来ない。

 

板垣家のキッチンで蜘蛛を見付けていた時など、さながら彫像のようにピシリと固まっていた事もあるらしく、その事を天使に語られた際には、普段の大人の女らしさを霧散させて頬を染めて恥ずかしがっていた彼女。

冷徹な美貌が珍しくたおやかな乙女の表情に変わったいつかの一幕を思い浮かべ、そのままそっと心の中に仕舞い込んだ。

 

 

「――あン?」

 

 

「……どうしたのさ、一方通行?」

 

 

「……あれー? 何か、近付いてきてない?」

 

 

過去の光景に一人ほっこりとする彼の背筋に、奇妙な悪寒が走る。

何かに追われる様に川の上流を振り返った一方通行に続いて、辰子もまた近付いて来る何かの気配を察した。

 

 

 

――ェ……アァァァァ………――

 

 

 

 

 

 

「――来る」

 

 

「――オイ、クッソ嫌な予感がすンだが……」

 

 

「な、なんだい……これは、声……?」

 

 

 

――ラ……レェェ……タアァァァァ……――

 

 

 

真夏でもないのに、背筋を伝う冷や汗に、紅の瞳がうんざり気味に瞼へと隠れる。

持ち主の意思をしっかりと反映して、彼にとって見たくもない現実から世界を隔絶する。

しかし、彼の――人一倍優れた聴覚は、遠鳴りに響く声を脳へと伝え、人類の叡知にも等しい頭脳はあっという間にリストの中から正解を導き出した。

 

そう、忘れる訳もない、この声は。

 

 

 

 

 

 

 

――アァァクセラレェェェタァァア!!!――

 

 

 

 

 

 

「なンでオマエが居ンだよ……川神百代ォ……」

 

 

 

 

武神――川神百代。

 

一方通行にとって、出来れば休日にまでも会いたくない人物TOP3に堂々君臨する女が、水飛沫と共に彼らの前へと飛び立った。

 

 

 

 

 

 

『Ever Green』__end.

 

 



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弍ノ調『Starduster』

空が翳した古来よりの火之神は、飽きもせずに宙の黒色を灼熱で焦がしながら踊り続けて、広がる光のスカートを時には恵みとして、時には命奪う毒として蒼穹の彼方より届けてくれる。

朝頃にはその光に侍っていた白雲も繰り返される光のダンスに飽きたのか、今や蒼空と太陽の独壇場だ。

 

 

春休みの最中に依頼された清掃業者の仕事っぷりにすっかりと白化粧を整えた長い長い廊下の隅で、開けた窓から入り込んだ春風が、陽光のブーケを飾ってキラキラと光輪の粒を纏った暮紅の髪をそっと愛でる。

黒のスーツを嗜めて装えた暮紅の女性の瞳は、揺れることなくただ静かに。

 

 

「……」

 

 

春が咲いて、夏が過ぎ、秋に染まって、冬に願って。

季節と共に置いていった思い出の欠片は瞳に映らなくとも、かわる変わる心のアルバムに焼き付いて、色褪せない。

 

また、一年が過ぎる頃、こうやって私は弱くなっていくのだな、と。

慌ただしく過ぎる日々の中で、引っ掛かっている不安を拭い去るのが、こんなにも難しくなっていく。

 

静かに、ただ静かに。

小島梅子は、罪科を数える聖職者のように、静寂を伴侶にして瞳を閉じた。

 

 

――だからそンなに心配すンじゃねェ……分かったかよォ、バカ姉貴

 

 

リフレインする、ほんの少し前の過去。

たった少し時間が過ぎただけでもう『過去』になってしまう、そんな当たり前の事に、少しばかりの侘しさと、少しばかりの寂しいさと。

 

大きくなった、暖かくなった、強くなって――しまった。

彼を愛しく想うばかりに、大切に想うばかりに弱くなってしまう自分と、強く逞しくなっていく彼。

いつか羽ばたいていくだろう彼女にとっての幸福の証は、もう、群れる事を恐れたりはしないだろうけれど。

 

 

「……情けない」

 

 

喜ぶべきだろう、満足して頷いて、彼の背中を押してやるべきだろう。

そうでなくては、あの子の姉たる資格なんてない。

空を駆ける先々で、時折振り返って欲しいだなんて願いは、彼を支えてきた者の姿としては余りに不恰好だ。

 

 

けれども、心は手放すことを恐れてしまっている。

彼が離れていくことを、何よりも怖がってしまっている。

そんな当たり前の筈の感情を弱さと告げる己の不器用さに、彼女自信が気付いていない。

 

 

『あァ……まだ生きてンのか、俺は』

 

 

三年前の聖なる夜。

玄関の前で物言わず倒れていた彼を慌てて拾い上げて、ベッドへと運んで、目を覚ました少年の、初めての言葉。

喉の渇きを潤そうともせずに砂漠で佇んでいる老人の様に、死の宣告を待つ囚人の様に、感情すら色褪せた悲し過ぎる囁きに、どうしようもなく腹を立った。

 

それも、もうとうの昔に『過去』のこと。

 

 

度々触れる感傷は、時折遠い星を眺めていた孤独な瞳に影響されでもしたのだろうか。

ならば、いつか彼の様に、優しく慈しむかの様に、空を眺める日が来るのだろうか、と。

 

 

けれど、そんな寂しそうな背中をいつまでもさせる程、彼女に孤独は似合わない。

 

 

 

「……お疲れの様ですね、小島先生」

 

 

「えぇ、少し。今日は綾小路先生が張り切ってらしたから」

 

 

そんな顔をしないでください、と素直に言えるほどの青臭さがまだ残っていれば、こんなに苦労しないのになと、消え入りそうな背中に声を掛けてから去来する侘しさに、つい大人ぶった苦笑を張り付けて。

 

きっと一人で浸らせてあげる時間も必要なのだろうけど、想い人の憂い顔よりは笑顔が見たいと、考えだけは青臭いのはきっと彼女には通用しない武器にしかならないだろう。

 

 

「今頃、しっかり羽根を伸ばせてるんでしょうかねぇ……アイツは」

 

 

「そうでなくては、折角譲ってくださった宇佐見先生に申し訳が立ちませんよ」

 

 

漸く一つ笑顔が咲かせる事は出来たなと、失敗したアプローチも少しは挽回出来たことに宇佐見巨人は世知辛い思いもない交ぜにして肩を竦める。

ここで凹んでいれば、適度な惰性で以て応援してくれている白い青年にまた一つ叱咤の声を挙げられるところだった、と。

自分にとっては恋敵と取っていい難敵の筈が、蓋を開けてみればただ義姉を心配するだけのあの青年に、これ以上尻を叩かれているのは、余りに格好が付かない。

 

 

「……」

 

 

常に凛として、背中に定規でも差し込んでいるのではと勘繰ってしまいそうな程にピンと張られた背中。

生徒も、或いは同じ立場である教師にも、生き様すら凛々しいと思える程の清麗さに憧れる者は幾らでもいる。

 

けれど、常に相手と視線を合わせて会話をする筈の、その真っ直ぐさに焦がれさえした暮紅の瞳は、窓の外の遥か彼方を朧気に眺めて。

 

――あぁ、こんなにもこの女性は華奢だったのだな、と。

 

 

「……小島先生」

 

 

自分はいつだって生徒相手にすら臆病で、妥協を美徳と履き違えては、ただただ誰からも嫌われない程度の距離感を心の中で測り続けている。

傷付けない、深く介入しない、心の底から相手を見据えず、迷い苦しむ者にさえ妥協するのも大事だと説いて。

それも一つの大人だと、若者達に示して来た。

無論、それは宇佐見巨人自身の辿ってきた道々で彼なりにその意味を吟味し捉えた末の教訓、そこに嘘はないし、彼の言葉に共感を覚える者も少なくない。

 

 

「……はい、どうしました?」

 

 

けれど、不思議そうに振り向いた彼女は、時に傷付けながらも、何事にも親身になって、真っ直ぐに相手を見詰めて、妥協などに落ち着いては欲しくないと最後の最後まで相手に対峙する、宇佐見巨人とはまるで正反対の聖職者。

 

眩しいとすら、目を細めてしまう融通の利かない小島梅子の生き方に、年甲斐もなく焦がれている。

自分には真似出来そうにもない生真面目さに、憧れすら抱いている。

一回り年下の、今はただ、弱々しく目尻を下げた彼女に。

 

 

「……この後、お茶でも、どうですか?少し、私からお話しなくてはならない事があるんですが……」

 

 

「お話し、ですか?」

 

 

だから、彼女の生き様を少し真似て見ようと思う。

自分なりに、傷付けることを恐れず、深く相手に接する勇気を、ほんの少しだけ出してみよう、と。

 

彼女を誘う声が、柄にもなく微かに震える。

普段張り付けている筈の飄々とした笑みに、綻びが浮き出されてしまう。

好意を持つ異性を相手にする思春期の少年の様な青臭いみっともなさだな、と余裕を失っている自分を見て、脳裏の片隅で苦く微笑んだ。

 

 

 

「えぇ……一方通行の事で、ね」

 

 

きっと、嫌われるか軽蔑されるか。

どちらにしても今の自分では年甲斐もなく凹んでしまうだろうけれど。

そうなったらそうなったで、酒を伴侶に傷を癒していけばいい、忠勝が面倒そうに作ってくれるつまみもあれば、尚の事。

 

これは――ケジメ。

大人として、義理とはいえ子を持つ親としての、ケジメ。

御得意の逃げや曖昧に濁す事は、きっと許されないだろうから。

 

 

力無く揺れていた瞳が、鮮やかに光を灯して行く。

華奢に俯いていた彼女の弱さが、こうも簡単に掻き消えて行く。

 

 

――嗚呼、全く。

 

 

――妬けるぜ、畜生。

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

「しっかし、まさかお前があんな美人さん方と知り合いだったとは思わなかった……というか、お前の周りは幾ら何でも美人が多過ぎるぞ!しかも基本的にナイスバディだし!独占するな、少しは分けろ、共有財産化はよ!」

 

 

「るっせェよ、ンなこと俺の知った事か。というかオマエは、ホントに何処に居ても鬱陶しさに変わりがねェな……ウゼェ」

 

 

「え、ちょ……ガチなトーンでそんな面倒臭そうな顔するなよ、流石に傷付くぞ。あ、いや、ごめんなさいお願いだから本気でウザがらないでくれ私が悪かったって」

 

 

「あーくん、眠い……」

 

 

「オマエもオマエでブレねェな……ンで乗っかってくンなよ、人様の背中で寝よォとすンなオラ」

 

 

「……なんか、何処に行ってもこんな感じで苦労人なんだな、一方通行。羨ましいけど正直シンパシー感じる」

 

 

山中の昼下がり、木々森林を駆け抜ける春風が奏でた木の葉のバラードの静謐に身を委ねる事も出来ずに、くっきりはっきりと疲労やら呆情やら諦観やらその他諸々の負の感情を隠そうともしない白い美貌のモデルは、キャンパスに描くには相応しいとは言えない。

 

いつになく辛辣に顔を歪めた冷謐な横貌に珍しく動揺する武神、川神百代。

山籠りでもするつもりなのか、肉付きの良いしなやかな肢体を草臥れた胴着を纏わせるちぐはぐな格好と、普段は凛とした鋭さを灯したガーネットの瞳が、棘の有る一方通行の素っ気なさにアワアワと曇る。

面倒臭がりながらも何だかんだで投げ遣り気味ではあるが、相手にはしてくれていた彼の、わりと本気なトーンで告げられた冷たい言葉を受け止めてしまえば、幾ら陽気でおちゃらけたスタンスの多い彼女とはいえ、冷静では居られない。

 

別段一方通行としては其処まで意識している訳でもなく、朝からの板垣一家への声を張らした牽制に、太陽が高く昇って多少は緩和されてはいるがそれでも尚肌を刺す水際の風の冷たさが積み重なって、言の葉の端に添える温もりすら惜しんでいるだけである。

そしてそんな彼の機嫌などさして考慮する事もなく、マイペースに彼の細い背中に身を委ねる辰子を見て、隠し切れない羨望と同情を添えて直江大和が苦笑を浮かべた。

 

 

「……それにしても、同じ日に同じ旅館で、ほぼ同じタイミングで近場の川で遊んでたとは……偶然って恐いな。寧ろ運命染みてる気さえするよ」

 

 

「つまり大和と一方通行は運命レベルで繋がっている、と。いつかその赤い糸でお互いの身体を結び付けて、色んな部分も結び付いちゃったりして……あぁ、凄い、妄想の波が留まる事を知らないッ!」

 

 

「直江くン、その蠅が沸いてそォな女の口を塞げ、今すぐに。つゥか、仮にそンな運命だったら助走付けて神様ブン殴るわ」

 

 

「是非とも俺の分も殴っといて。んで京、塞ぐって言っても口と口はご遠慮願うから、キス待ちの顔を止めようね。段々近づいてくるのもなしで。うん、勿論下のモノでも塞ぐつもりはないから、チャックから手を離してね」

 

 

運命だとしたら恣意的な悪意を感じられずには居られない状況に苦々しく溜め息を一つ落とす一方通行を余所に、真っ昼間から夜の営みを実行しようとジーンズに手を掛ける椎名 京と、曖昧に笑いながらも結構本気で抵抗する大和とのしょうもない攻防が繰り広げられていた。

 

彼等、風間ファミリーの面々が一方通行達と同じく温泉旅館へと訪れているのには、彼らのリーダーである風間翔一が商店街の福引きで当てた招待券が発端となり、ついでに新しく彼らのファミリーとして加入する事になったクリスティアーネ・フリードリヒと黛 由紀江との親睦を深める事も視野に含めての旅行、という経緯である。

 

 

――となれば当然、彼らの以外のファミリーの面々もこの場に居る訳で。

 

 

「あ、クソッまた僧侶が死にやがった!回復役コイツしかいないってのに!おい、モロっち、ウチはどうすりゃ良いんだ、教えろ!」

 

 

「え、えっと……うーん、そのステージはザコ敵の攻撃力が高いし、AIも優先的に体力と防御値の低い僧侶を狙ってるっぽいから、最初に防御魔法でこっちを堅めれば良いんじゃないかな? もしくは、他のキャラの装備を僧侶に回す、とか……」

 

 

「へぇ、頭良いなモロっち! じゃあさじゃあさ、この一個前の街で……」

 

 

「あ、う、うん……」

 

 

川沿いの大きな岩にブルーシートを敷いた上に胡座をかいて携帯ゲームに熱中する天使と、その隣で妙に縮こまった体育座りという態勢で、時折彼女から求められるアドバイスにおどおどしつつも的確に答える諸岡卓也。

異性に免疫が無いながらもある程度は思春期ばりに興味を示している彼には、お構い無しに可憐な少女が顔を近付けて来る、嬉しくも恥ずかしい展開は正直持て余しがちなのだが、さして卓也に抵抗感を覚えない天使が気付いてくれる訳もない。

 

頬を染めて額に背中に緊張の汗を走らせている青少年の心情を推して測るには、彼女もまた経験値が足りていなかった。

 

 

――また、一方で。

 

 

「いいか、変に力を入れたりすると魚は素直に食い付いちゃくれねぇ。それに餌に反応があっても、そう直ぐには持ってかれやしねぇから、慣れるまではとにかく心を静めんのを心掛けろや」

 

 

「な、なるほど……心頭滅却すれば火もまた涼し、という訳か。流石は釣りの達人、その若さで日本の極意を身に付けているとは」

 

 

「俺より若ぇガキがなに言ってやがる……っておいコラ、そこのクソ犬、誰が其処まで食って良いって言った、アァン!?」

 

 

「ぐまぐま……えー良いじゃないこれくらい。まだまだ沢山あるし、けちけちしない! それにさっきあたしのキットカットあげたじゃないの」

 

 

「あれがホワイトチョコなら俺も考えてやったが、てめぇは食い過ぎなんだよ!おっとっとまで手ぇ出してたら川に沈めてたぞ」

 

 

「おっとっともあるの!? むむむ、外見に似合わずチョイスが良いわねぇ……あ、じゃあ後で潜水艦探ししましょ。どっちが先に見つけられるか勝負よ!」

 

 

「ほぉ、この俺におっとっとで勝負を挑むなんざ良い度胸じゃねぇか、受けてたってやらぁ」

 

 

「……ん?お嬢様、竿に反応がありますよ、魚が掛かったのでは?」

 

 

「え? お、おぉ、引いてる! 引いてるぞマルさん!……りゅ、竜兵殿、どどどどうすれば良い!?」

 

 

「お、やるじゃねぇか。良いか、釣りは魚と自分との我慢比べだ。かといって素人が力任せに引っ張んじゃねぇよ、慎重に、じわじわと、だ。軍人の姉ちゃんは俺が良いって言ったら網で掬ってやれ」

 

 

「は、はい。慎重に……慎重に……」

 

 

「大丈夫です、お嬢様にならば不可能ではありません。我々の傍には釣りの神が控えている、陣営に隙はない」

 

 

卓也と天使の直ぐ近くで、僅か短時間でマルギッテ・エーベルバッハに神格化すらされてしまった見事な釣りの手並みから、師事を頼まれた竜兵が、外見にそぐわぬ丁寧さでクリスの指導を行っていた。

ドイツでは釣りの文化が浸透していないのか、単純に彼女自身に経験が無い為か、豊かなブロンドを棚引かせる異国の乙女は蒼い瞳を輝かせて、幼子の様に頷きながらも竜兵の指導を心に刻む。

 

派手なタトゥーに粗暴な外見である彼に最初は正道に潔癖な嫌いのあったクリスは抵抗感と不快感を覚えたが、何か思う事でもあったのか、込み上げる正義感からの言葉を喉元で必死に押し留めて。

相手の事情を考慮せず、ただ自分の感情を押し付けるのは決して正しい事ではないと、彼女は仲間に漸く気付かされたのだから。

 

そんな彼女に付き添う形でついてきた川神一子は、威圧感を持ち合わせる竜兵を、見た目以上に強そうだと評する以外は特に何とも思わない。

屈曲な身体付きと狂暴な雰囲気とは裏腹に、ひょいひょいと魚を釣り上げながら用意していた数々の御菓子を味わう男の姿は寧ろ興味を誘ったらしく、元来人懐っこい彼女はあっさりと打ち解けた。

無論、釣りに興じる時は心を静めることに注意を置くことに傾注している為か、竜兵の普段の粗暴さは鳴りを潜めていたという背景も関係しているが。

 

 

「いいぞぉ、そのまま、ゆっくりとだ……よぉし軍人、今だ」

 

 

「……っ、やりましたよ、お嬢様!」

 

 

「よ、よし!ありがとうマルさん! ふ、ふふふ……まだまだ、最低でも後三匹は釣り上げてみせるぞ、師匠!」

 

 

「ふん、俺の弟子を名乗るんなら、10匹くれぇは軽くこなしてみせな、金髪」

 

 

「も、勿論だとも!マルさん、網は頼んだぞ!」

 

 

「お任せください、お嬢様。我々に掛かればその程度のノルマ、実に簡単な事だと教えて差し上げましょう」

 

 

「ほへぇ、クリもやるもんねぇ。そんじゃ、勝負と行きましょうか!ふふふ、腕が鳴るわね」

 

 

「十年早ぇぜ、犬ッコロ」

 

金色の乙女に寄り添う紅月の麗人もまた、板垣竜兵をクリスに近付けるのも如何なものかと排他的な眼差しを彼に向けてはいたが、クリス自身が仲間との経験を経て成長している様を見て、マルギッテもまた、その感情を留める事が出来た。

それに外見はどうあれ、呑気に釣りと駄菓子を嗜む男に悪感情を向けていた所で、釣りを学ぶクリスの愉しみを阻害する結果しか生まないだろう。

 

そして、何より。

稲荷寿司の一件以来、少し見る目が変わった一方通行の友人であるのならば、少しは信頼しても良いのでは、と。

 

 

いや、一方通行を信頼している訳ではなく、まぁほんの僅かな程度なら信頼しても良いとは思うが、いやここはやはり竜兵の釣りの腕が決め手だったという事にして……

 

 

そんな犬も食わない葛藤が彼女の中に繰り広げられていたそうだが、余談の一つとして留めて然るべきである。

 

 

――そんな彼らの後方で。

 

 

 

「た、たまらねぇ色気だ……いや、一方通行に張り付いてるお姉さんも充分ヤバイが、食い込んだビキニが……うごごごご」

 

 

「あ、あの……大丈夫ですか、島津さん。お、お腹痛いんですか?」

 

 

「だから食べ過ぎんなって言ったのによー。ガクトは相変わらずしょーがねぇな」

 

 

「やれやれ、色んな意味で純情な坊やたちだこと。まぁ、アンタくらい明け透けになれば丁度良い堅物野郎よりはマシだろうけどねぇ」

 

 

「くっ……こんなお姉さまに堅いだとっ……一方通行のスケコマシやろぉ、ガチで羨ましいぜぇ」

 

 

『おぉっと、ガクトっち。それ以上はいけねぇ、世の少年少女にはとても聞かせられないストレートな下ネタにオイラも思わずドン引きだぜ』

 

 

「……お嬢ちゃんも充分、明け透けのようだね。全く、アタシが言えた話じゃないけど、アイツの周りは変わり種しかいないのかい」

 

 

流るる川の水飛沫がキラキラと太陽の光に反射して人には手に余るダイヤモンドリングが浮かび上がる光景を、彼方此方で騒がしく盛り上がる声をBGMに腰を降ろして眺めていた板垣亜巳。

彼女の滑らかかつ扇情的な肢体と挑発的な水着姿は非常に悩ましく、島津岳人は己の中で煮えたぎるパトスとリビドーを抑え切れず、妖艶な紫紅の雌豹を前に頭を垂れるように平伏した。股間を抑えながら。

 

 

そんな憐れな情動の犠牲者を若干心配そうに見詰める風間翔一と黛 由紀江の心配する方向のあどけない眩しさに亜巳は苦笑を禁じ得ない。

翔一はともかく、由紀江の方は同性ながらも魅力的に映る亜巳の豊満な胸元や瑞々しい太股にどぎまぎとしつつ、柔らかそうな白い頬をほんのりと染めている辺り、純情のニュアンスが異なるけれど。

 

それに、由紀江の手にちんまりと乗っかった黒馬を模した人形が放つ軽快な台詞からして、純情そうなのは見かけだけか、と微笑ましそうに亜巳は肩を竦める。

純情どころか性に対しての興味すらない翔一と、大和撫子然とした可憐な外見とは裏腹に馬のマスコットを用いた腹話術と奇抜なキャラクターである由紀江。

 

翔一や性に正直な岳人はともかく、一方通行すら対処に悩んだ由紀江を相手にさして表情を変えない亜巳に、由紀江自身も内心ではこっそり驚いていた。

とはいえ、板垣亜巳は知る人ぞ知る夜の女王達の上に君臨する女帝であり、政界の大物から場末のサラリーマンまで幅広いジャンルの世界の歪みを鞭の一刀を以て征してきた覇者である。

 

たかだか腹話術をする高校生程度、亜巳からすれば可愛いモノで、女帝を敬愛する誇り高き畜生共とは比べるまでもなかった。

 

 

 

 

「なーなー、アンタ、一方通行の昔からの知り合いなんだろ?アイツの昔話とか聞かせてくれよ」

 

 

「なんだい、坊やは一方通行に興味があるのかい?」

 

 

「……あ、それは私も興味、あります。あの人には多大なご恩がありますから、好きなモノとか知っていれば教えて欲しいです」

 

 

「ふぅん……まぁ、アイツが誰かの面倒を見るのは別に珍しくもないし、そんなに気にしなくてもいいと思うけどねぇ」

 

 

「あぁ、そうだぜ、まゆっち。一方通行と友達になりたいって気持ちは分かるが、多分物とか受けとらねぇぞ、アイツは」

 

 

「へぇ、ガクトって言ったかい? なかなか分かってるじゃないのさ。この坊やの言う通り、そんな肩肘張った形で渡しても、あの白兎は喜びやしないよ。受け取るには受け取るかも知れないけれどね」

 

 

不意に翔一が尋ねた一方通行の過去というワードに、亜巳の形の良い眉がほんの少しつり上がる。

しかし、あの謎多き白貌の青年に興味を抱いているのは恩返しがしたいと宣う由紀江と、表面上には出さないが内心では気になるのか姿勢を僅かに正した岳人も同じらしい。

 

それにどうやら、筋骨隆隆な外見と男臭い願望が明け透けな見てくれの割に、人の深い部分を見る目はなかなかどうして確かな岳人の言葉に、思わず愉快そうに亜巳はぷっくりとした唇を湿らせた。

 

 

由紀江の言う恩と云うのがどういった経緯かは彼女の知るところではないが、由紀江の真意は一方通行と友達になりたいというシンプルなモノ。

けれど、それを目的として恩返しをしたところで、恐らくあの堅物白兎はそんな幽かな打算すら簡単に見透かしてしまうだろう。

他でもない、見透かされては歯痒さに熱の籠った吐息を堪えるしかなかった亜巳だからこそ、その結果は見えている。

 

 

深い深い、飲み込まれてしまいそうな紅の瞳で、いつだって心の奥底にある感情の色を掬いあげては、弄ぶ。

欲しいモノ、欲しい言葉。

鋭い茨の蔓で囲っても、薄い薄い膜を何枚も重ねて覆い隠しても、そんな存在など意に介さぬまま透り抜けて、白い指先は望みの輪郭をなぞるだけ。

そのもどかしさに熱を浮かされて喘ぐ様に強請っても、彼はいつも応えてはくれない。

気付いてない振りをして、何でもないと振る舞って。

 

――そうしてアタシの知らない所で、独りで後悔してるのさ。

 

 

だから、この娘の願いはとうの昔に分かってる癖に、どうせ優しく手を回す癖に、そう簡単には望む通りにさせはしないのだろう。

 

 

「そういう、狡い男なのさ――アイツはね」

 

 

「な、なるほど……」

 

 

「……ぐぬぬ」

 

 

「……」

 

 

ほぅ――っと、陽光の散る蒼の世界をそこだけ淫靡な夜の床上に染めてしまうような、爪先の端から果てまで女の性愛に満ちた吐息に、揺蕩う渇きを濡らしてと請うように、流るる河の煌めきを見つめる暮紅の瞳。

神話の情婦を目の当たりにした様な、板垣亜巳の本能的な美しさに、その姿を眺めるだけで頬が熱を帯びてしまう。

 

その魔性は、如何に性欲のない男と仲間内から囁かれている風間翔一とて我関せずとは言えなくて、よく分からないけれど、なんか顔が熱くなる、とそんな戸惑いを作り出すほどに色香に満ちていて。

けれど、確かに――少なくとも彼女が自分の何倍も一方通行と云う男を知っているのは間違いない、と。

 

一方通行を自分のファミリーに入れたい、というより彼の友達になりたいという意志は、恐らく由紀江よりも強い翔一は熱を持った自分の身体の異変を不思議に思いながらも、心のままに彼女へと尋ねた。

 

 

「な、なぁ……教えてくれねぇか、えっと、亜巳さん。頼む、俺はそんなにアイツの事を知らねぇからさ、その、聞きたいんだ。亜巳さんから見た、アイツの過去とかさ」

 

 

「……お、おいキャップ、まゆっち?」

 

 

「わ、私も是非!お、御礼とかじゃなくて、純粋に知りたいんです」

 

 

精悍な顔付きをほんのりと赤く染めて、時折目を逸らしながら彼らしくもないつたない口調で亜巳へと言い縋る翔一の姿に岳人は動揺を隠せない。

殆ど幼なじみからの長い付き合いである彼がこんなにも切羽詰まったというか、異性相手に言葉を選ぶように接するなど始めてだったからだ。

 

対して付き合いが浅いとはいえ、ある事情から風間ファミリーの中では彼女と一番接する距離の近い岳人からすれば、腹話術を一切挟まないまま懇願する由紀江の姿にも驚愕を禁じ得ない。

一方通行に対する興味というよりは、彼をそこまで理解している亜巳に対しての憧れの方が強いのだろうが、まるで二人とも亜巳の魔性に熱を浮かされて舞い上がっているかのようで。

 

 

「……やれやれ、欲しがりだねぇ。でも、そういうのは本人に聞いてみるのが一番さ。ねぇ、一方通行?」

 

 

「――ふン、一丁前に良い女気取りやがって。俺とオマエだけの話にはならねェ事ぐらい分かって言ってンのか?」

 

 

河辺の砂利を踏み分けて、魔性の魔女が生み出した熱情の波を凍てつかせる魔性の麗人の淡いテノールが、そっと蝋燭の火を摘み取るように彼らの赤く染まった耳元を通り抜ける。

振り向けば、風に揺蕩う白銀の月が淫夜の空間を暴力的に白く塗り潰した。

 

嗜虐的に、或いは悪戯気味に美しい綺白の美貌は、熱に浮かされた青い若者の息を止める様にゆっくりと微笑を浮かべて。

そして、魔性の魔女さえも。

 

 

「まぁ、そうだろうね。けれど、アンタが話すんなら『あの坊や達』もそんなに気にはしないと――」

 

 

「――亜巳」

 

 

色も添えず、温度も灯さず。

けれど名前を呼ぶテノールの響きはあまりに優し気に、やんわりと抱き止めるように、その先を語ることを許さない。

あまりに短い時間の中で交わされる声なき声のやり取りを、二人の魔性に呑まれそうな彼らには一欠片すら推して測れない。

 

 

「……分かったよ、一方通行」

 

 

――だから、アンタは狡いのさ。

 

 

その冷たい優しさに、苦しんでいる女だっているという事も気付いているだろうに、近付く訳でもなく、遠ざかる訳でもない。

 

どうしたいのか、どうして欲しいのか。

 

それを教えてくれない癖に、気付けばまた、彼は人として強くなっていく。

 

ほら、また、そうやって。

 

悪ィな――と小さく詫びるのだから。

 

 

 

――

――――

 

 

 

「その、ですね。こんな私ですが、皆さんにしっかりと受け入れて貰いまして……だから、その、ありがとうございました」

 

 

「……口の締まりが悪ィのは、どっかのアバズレだけじゃねェみたいだなァ、脳筋?」

 

 

「うるせぇリア充、呼ぶなら筋肉美と呼びやがれ。それにお前、あん時喋るなって一言も言ってなかったじゃねぇか。喋って欲しくねぇなら最初っからそう言ってりゃいい」

 

 

「……フン、確信犯がほざいてンなよ」

 

 

結局、亜巳から話を聞き出す事も、一方通行に口を割らせる事も出来なかった事に不満を覚えたのか、拗ねたように、好調に釣りを続けているクリス達の元へと離れた翔一を、読み取れない静かな感情を宿した紅い瞳で眺めていた彼は、小さく鼻を鳴らして視線を移す。

視界の端に映るのは、絶えず光の反射に煌めいた水面を見詰めたまま、静かに言葉を交わす亜巳と、その柔らかな膝に頭を預けてスヤスヤと寝息を立てる辰子と、川神百代の華奢な背中。

ガールズトークをしようと、おどける訳でもなく、しかしどこか挑発的なチェシャ猫の笑みで亜巳を誘う百代の横顔に、厄介な事になりそうだと溜め息を付きたくなる心持ちではあったが。

 

 

それよりもまずは。

柄でもなく世話を焼いた事のツケの精算を済ませなくてはならないだろう。

 

 

 

「……どォだ、案外脆いモンだったろ、現実なンて」

 

 

「……はい。といっても、私一人じゃきっと無理でした。いつもの様に、また部屋の隅っこで泣いてたのかも知れません」

 

 

甘い花の薫りに陶酔するように、胸に手を当て静かに瞳を閉じた清麗な面立ちは、かつての様に背筋を丸めて相手ばかりを窺っていた彼女より、少し大人になったのだろうか。

まだ胸を張るには自分に自信を持ちきれなくて、大人に至り切れない少女特有のソプラノの声も落ち着きなく震えているけれど。

 

 

少しずつ、少しずつ、変わろうとしている彼女を見詰める優しい紅の瞳がそっと隣へと移されたなら、自信げに腕を組む精悍な男が、応えるように意味あり気に口角を上げる。

変わりたいと悩んでいた少女が、変わるのだと決意した虹も掛からぬ晴れた日の屋上の、ほんの一幕の後のコト。

遠い星の彼方から今でも一方通行の心に寄り添うどこかの誰かのお節介を、たまには見習ってみようかと彼が焼いた小さな御世話。

 

 

「けど……島津先輩と、ファミリーの皆さんと……そして、貴方のお陰で――私、友達が出来ました」

 

 

なんてことはない。

ただ、以前、河川敷で岳人から聞いた、彼の母が寮母を務める島津寮に居る変わった新入生の話を『偶然』にも覚えていた一方通行が、たまたま教室への帰り道に寄った教室で騒いでいた彼を捕まえて、ただ少しだけ、囁いただけのこと。

 

オマエの所の後輩は料理がとても上手だと。

案外それを持て余しているらしいから、今日の夕食でも頼んでみてはどうだろうか、と。

寂しがり屋らしいから、断ったりはしないだろう、と。

 

 

だからこそ、彼女が一歩を踏み出せなければそれまでだったろう。

しかし、そうはならなかった。

たったそれだけの話。

 

 

 

「ですから、改めて……ありがとうございました!」

 

 

 

少しだけ、先程よりも凛と背筋を伸ばして、ちゃんと余裕

をもって、綺麗な御辞儀と共に感謝の意を示す。

そっぽを向くように隣立つ岳人を見やれば、受け止めてやれと言わんばかりに静かな黒の瞳が見返すだけ。

 

そもそも、いつも一人で口籠っていた彼女をちょくちょく気にかけていた男の、他人面で此方を促している男がやけに腹立だしく映るものだ。

 

 

「クカカッ」

 

 

けれど、まぁ――

 

気儘に時間をかけて待つ予定だった『虹』も、予感通りに早く架かりそうだな、と。

であれば、もっと良く彼女の『虹』が綺麗に見える特等席を探してやる努力くらいは、してやってもいいかも知れない。

 

 

 

「――どォいたしまして」

 

 

 

「はいっ」

 

 

 

遠くの方で、感嘆の声があがる。

 

興奮気味に手に持つ大きな魚を掲げるクリスの弾けたような声が眠りの世界にまで届いたのか、眠り足りないといわんばかりに瞼を擦りながら辰子が大きく伸びをした。

 

 

遠く果てない蒼穹にさえ響く笑い声を、遥かなる先で聞き届ける様に。

 

蒼に紛れて小さく光る、二つの星が煌めいた。

 

 

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「……成る程、そんな事が」

 

 

「えぇ……今はまだ、表面化こそしてはいないが、それも時間の問題かも知れません」

 

 

「違法ドラッグ……それを調べる為に、あの子は今、色々と動いているんですね」

 

 

カチャリとティーカップを置いた緩やかな衝動で揺れる紅茶色の水面に浮かぶ散り散りに咲いた電灯の半月を見詰めて、そこに彼女が何を重ねているのか、対面に座する宇佐美巨人には読み取れない。

 

夜の湖に浮かぶ水面の月を眺める詩人は想い人をそこに重ねて詩を唄うのならば、目の前の麗人はどうだろうか。

忍ぶのか、憂うのか、想うのか。

けれど、誰を浮かべているのかなんて、今更考えるまでもない事だけは、臆病風に好かれている彼とて簡単に分かる事だ、と。

 

 

少し前は歯痒いとさえ思っていた会議は終わって、どこか寂し気に黄昏ていた梅子を連れ出して、ジャズィーのレコードがどこか懐かしい巨人が良く通っている喫茶店へと落ち着いて。

そこで、紅茶を一口、気付けばカラカラに渇いていた喉を潤した巨人は、彼女に総てを語った。

 

近日川神に蔓延る鈍色の悪意と、彼らが持ち出した劣悪でありふれた手段と、彼が、宇佐美巨人が、一方通行に頼ったことを。

 

例えどれだけ優れた存在だとしても、まだ未成年の、守られるべき存在を、大人が守ってあげなくてはならない存在を。

自分だけでは手に余るだろうと、彼の持つ頭脳と、裏の世界にさえ通じる強大なパイプに目をつけて、利用してしまったことを。

 

 

「そうですよ、小島先生。動いてくれているんですよ、本来……ただの学生に過ぎない彼が、私の所為で」

 

 

「……」

 

 

ほんの少しだけ水嵩を減らしたティーカップをテーブルの隅へと押しやって、重ねていた両の掌に自然と力が入る。

 

受け止めなくてはいけないのだろう、これも要領の良いやり方の一つだと、自分なりの言い訳を用意して一方通行を巻き込んでしまった事への罰。

持て余してしまうほどに溢れた、彼にとっては大切な者達が住む川神の地を守る為ならば、きっと面倒臭がりながらも全力を尽くしてくれるのだろうと、打算を以て彼を頼って。

かくして、宇佐美巨人の予想通りに、彼は動いてくれている。

 

 

彼の大切な者達の為に。

 

 

――小島梅子を守る為に。

 

 

 

「……では。失礼ですが、宇佐美先生。顔を上げてくださいませんか」

 

 

「えぇ、勿論。ご心配せずとも、頑丈ですんで、遠慮なく頼みます」

 

 

凛とした、彼が焦がれる彼女の強い声に、静かに瞑目して俯かせていた顔をあげる。

嫌われる、それは確かに辛いけれど。

軽蔑される、それは確かに苦しいけれど。

ケジメをつける、そう決めた。

 

 

ただ、心残りは。

 

 

 

――気に入ってたんだけどな、この店。

 

 

 

真っ昼間から、女に平手打ちされるのだ。

もう此処には来れないな、と場違いな後悔に苦笑して。

せめて格好だけつける為に、彼女が手首を痛めなければいいなと、しょうもない願いを片隅に描いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――教えて下さって、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

――……

 

 

 

 

 

「……は?」

 

 

降り掛かるであろう痛みと罵倒に身構えていた巨人は、恐らく梅子と出会って初めて、間の抜けたような唖然を彼女の前で晒してしまう。

 

無理もない、平手打ちが来るものだと、寧ろ来て貰わなければ困るのだと思ってすら居た彼の目の前で小島梅子は――ピンと張っていた背中を折り曲げて、巨人に頭を下げていたのだから。

 

 

「……こ、小島先生? なんで貴女が頭を下げる必要が……謝らなくてはならない、いや、頭を下げなくてはいけないのは私の方なんですから、小島先生が頭を下げるのはおかしいですよ」

 

 

 

「――いいえ、宇佐美先生。私は貴方に御礼を言わなくてはいけません。よく、部外者である者には聞かせられない筈の事を教えてくださいました。だからこそ、貴方に御礼を言わなくてはならないんですよ」

 

 

アタフタと、余裕をもった大人としてはまるで相応しくないほどに狼狽えながら長い腕を右往左往とさせる巨人を見据えて、その珍しい慌てぶりに紅茶色の瞳を見開いたのは一瞬で、次第に優し気に細められていく。

 

違う、そんな優しい目で彼女に見詰められて良いような事を、した覚えはない。

そもそも彼女の大事な存在である一方通行を巻き込んで危険に晒した男に、どうして頭を下げて御礼を言うのか、まるて理解が出来なかった。

 

 

「わ、私は……俺は、巻き込んだんですよ? 一方通行を、貴女の大事な義弟である彼を」

 

 

「えぇ、貴方がそうだと言うなら、そうなんでしょう。けれど、宇佐美先生。貴方はあくまで頼っただけで、きっと強制はしていないんでしょう?」

 

 

「いや、しかし……それは、アイツが貴女や他の奴等を守る為に断る訳がねぇって、クソみたいな打算があって――」

 

 

「――打算など、通用しませんよ、一方通行には。そして、そうなればあの子は、私の愚弟は。分かった上で『自分の意思』で宇佐美先生に協力する事を選んだんですよ」

 

 

「――……」

 

 

嗚呼、駄目だ。

 

これ以上、彼女の顔を見ている事なんて出来ない。

 

衝動の波で、息が止まりそうになる。

 

なんて綺麗に、彼女は笑っているのだろうか。

 

 

「ならば、私はあの子を信じます。しっかりと前を向いて生きる事を選んだあの子の選択を、信じます。勿論、何度も心配はしてしまうでしょうが」

 

 

「……だから、俺を許すって……言うんですか」

 

 

言葉が途切れて、ただ並べるのは不細工な音の羅列が惨めに震える。

 

穏やかに、清らかに、流麗な彼女の声に比べれば、なんて幼稚な言葉しか紡げないのか。

 

 

「……許す?」

 

 

可笑しそうに、擽ったそうに、自分にはあまりに美しく、あまりに眩しくて直視すら困難な暮紅の女性は静かに笑う。

一回り長く生きた男を、まるで物分かりの悪い生徒を相手にするように、仕方ないな、この人は、と。

 

 

 

「ですから、御礼をと言ってるじゃないですか、私は。許すも、許さないもないんです。一方通行が自分で選んで決めたことならば、私が宇佐美先生を責める理由なんてない。貴方が教えてくれなければ、きっと隠し事の上手いあの子の事だ、何も知らない儘、蚊帳の外で終わっていたに違いない」

 

 

 

……嗚呼、畜生、本当に参る。

 

 

惚れた相手が悪過ぎる、自分じゃあまりに勿体無い。

良い女にも、程があるだろ、畜生。

 

 

 

 

 

――貴方のお陰で、私は……全てが終わったその後で、こんな無茶をするなバカ者と。

 

 

――あの子の姉として、胸を張って叱ってやれるんですから。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

歳かねぇ、と。

 

込み上げて来る静かな情動に、目頭の熱を抑えるように組んだ掌に顔を押し付ける。

どこまでも優しく彼を想い、その度に弱くなり、その度に強くなる。

 

一方通行を慕う者達には、気の毒だ。

きっと彼を一番想う者の座は、宇佐美巨人が知る以上では、小島梅子に敵う者など有り得ないだろうと。

 

けれど、あぁ、そうだ。

こんな良い女を諦めろというのも無理な話だろう。

だらしない、みっともない、そんな男にも意地がある。

 

 

こんな惨めな男のケジメさえ、優しく包んでくれた彼女を、幸せにしたいと想うのは、決して可笑しな事ではない。

 

――だから。

 

 

「……ハハ。ですが、なるべくお手柔らかにしてあげてください。私の所為で折檻されるのは、正直アイツに申し訳ないんでね」

 

 

「さて、それはどうでしょうか。事が事ですからね。それに――」

 

 

行き場を失ったしょぼいケジメは、待つ事を選んだ彼女の代わりに、一方通行を支える事で付ける。

 

まずはそこから。

 

 

「――バカな弟を叱れるのは、姉の特権ですので」

 

 

「成る程、では一方通行にはせめて別口で手当を支払うという事で、私の無念の落とし所と致しますかね」

 

 

脇において、少し冷めてしまった紅茶を一息に飲み込めば、憑き物が落ちたように気楽な笑顔が浮かべる事ができる。

気丈ながらも羽衣の様に柔らかな慈愛でもって微笑んでみせた彼女に、改めて心の底から感謝を。

 

けれど、やはり自分はいつもの様に飄々と、余裕を作った大人として。

 

 

あぁ、それと、と彼女に付け加えて。

 

 

 

「今度、お食事でもどうですかな、『梅子』先生?」

 

 

 

「えぇ、またの機会に、宇佐美先生」

 

 

 

呼び慣れない名前を擽ったように微笑みながら。

いつもの様に、にべもなく誘いは断られる。

だというのに、嗚呼。

 

 

 

「――さすが、そうでなくては」

 

 

 

少し近付けたと思うのは、自惚れだろうか。

 

 

 

 

 

『Starduster』__end.



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参ノ調『I'm dolphin』

――山中や、菊はたおらぬ、湯の匂。

 

春夜の冷やかながらも静謐な山の息吹を薫らせる空気に浮かぶ、千切れ千切れの湯煙みたいに霞んだ記憶の、隅の隅に置かれた一句。

五七五の調べを口遊む事もせず、ただぼんやりと吐息に乗せて無音のままに、空へと溶かす。

仄かな硫黄の香りに身を委ねた誘うきめ細やかな肌が、冬の雪原から春に舞い咲く桜の花弁へと、鼻の抜ける様な色香を持って染まり行く様は、性の隔たりすら奪って固唾を滑らせる程に美しい。

 

 

石垣に雫滴る背と細長くしなやかな右腕を預け、雲も架からぬ夜の葵すら優しく母の如く照らす銀の弓月を愛でる、紅玉の眼差しが静寂に揺蕩う。

腰近くにまで届きそうな白雪の梳き髪を猫の細く纏めて、借り物の黒い簪で括ったその後ろ姿に、他の宿泊先は潜った湯先を間違えたかとどぎまぎしながら疑わざるを得ない。

 

 

湯に解れる快感に麗笑を携えて遥か夜空を見上げる彼は、高き屋根の上で尻尾を揺らめかせながら、退屈そうに浮かぶ銀の月を宥める為に歌うたう白猫の様で。

懐旧より並べられた、揺り籠で眠る赤子へと語るべき童話の世界にでも迷い込んでしまったのかと疑う様な不思議な神秘さに、見蕩れて、見惚れる。

 

 

「……ねぇ」

 

 

「……どォした」

 

 

「僕、速攻で逃げてった竜兵君とガクトの気持ちが今凄く分かる。ほんと、分かりたくないのに分かっちゃう」

 

 

「奇遇だな、モロ。俺も今、自分の中で目覚めそうな可能性と云う名の獣の神を殺すのに全神経を傾けてる。ぶっちゃけ温泉を楽しむどころじゃないんだけど」

 

 

確かに神秘的かも知れないが、童話の語り絵に欲情するのは以ての他で、心奪われる風景画に頬を染めることはあっても、息を荒げる必要なんてある筈がない。

けれど、月を嗜み降り積もった無穹の星霜を数える白い横貌は普段でさえも気を抜けば見惚れてしまうというのに、

湯煙に混ざって扇情的な情動を誘う青年の美麗さは、あっさりと逆上せてしまう程に色っぽくて。

 

 

青い心を逆剥れ立たせる白貌の君をなるべく見ぬ為に、序に熱り立ちそうな己の矜持を鎮まれと願う為に顔を俯かせた青少年二人の燐憫な呪詛が、ちゃぷちゃぷとした水音の中で虚しく木霊する。

新たな扉をユニコーンしてしまいそうな彼らの必死さを怪訝そうな眼差しで一瞥する辺り、当の本人は一片たりとも自覚していないのが、堪らなく憎らしい。

 

 

「つゥか、タオルを湯につけンのはマナー違反だろォが。どいつもこいつも、風情を嗜まねェ阿呆ばっかかよ」

 

 

「いやその発端にして唯一の元凶が何言ってんのさ!風情どころか温泉の効能すら実感出来ちゃいないよ!」

 

 

「うんまぁモロも人の事は言えない立場だけどさ、それで一方通行、お前はヤバい。寧ろタオルを腰に巻くのが今この時はマナーに書き換えてしまうお前がヤバい。いっその事、辰子さんと一緒に混浴行っててくれた方が何倍も良かったレベルでヤバいんだよ、自覚してくれホント」

 

 

「……え、ちょっと待て、オマエらって、まさかそっち?竜兵だけじゃなくて、オマエらもそうなのか? 何それこわい」

 

 

「だから、タオル片手に後退んな、余計女っぽく見えちゃうだろ!? というかこっちがどんだけ必死で開きそうな新しい扉を絶賛封鎖作業中だと思ってんだ!」

 

 

色々と地に足付かない心理に駆られる直江大和の恫喝染みた叫びに、じりじりと後退りながら路上に転がる腐敗物を見るが如し侮蔑と冷淡に鋭くなっていく紅い瞳。

隣で頬を染めながら、気丈にもお前の方が悪いんだぞと物言いたそうに睨む諸岡卓也も、大和の言う様に非常に中性的ではあるが、目の前の白い青年の反則染みた色気には遠く及ばない。

 

 

彼等二人に限らず、この場に湯を愉しむべく参じた、性を知らぬ少年を除いた宿泊客数人は、揃って真っ白なタオルを腰に巻いている。

そして、湯に浸かるのもそこそこに、蕩れてしまいそうな歪んだ煩悩を追い払う為に、最大限の強さに調整したシャワーで打たれながら無言で佇む悲しき背中は、数分前に風呂場から退室した島津岳人の姿と同じ哀愁を背負っていた。

 

 

「なンで俺が風呂に浸かるだけでンな阿呆臭ェ謗りを受けねェといけねェンだ、男に欲情するイカれた自分を悔いろよ。椎名辺りに告げ口してやろォか?」

 

 

「いや待って、それだけは止めとこう一方通行。よりにもよって京に話したら、多分きっと俺達みんな傷付く結果にしかならないと思うんだ」

 

 

「下手したらこの話をネタに文芸部にでも持ち込まれて、最悪、秋の文化祭でバラ蒔かれる可能性が……」

 

 

「……変態を矯正する妻役足るには、オマエの女は歪み過ぎてたかァ」

 

 

彼からすれば、単に温泉に浸かって喧騒と狂騒に包まれた昼下がりを癒していただけだというのに、目の毒だと文句を言われる儘に引き下がるほど、自分の美貌に確信なんて抱いてない。

けれど、理不尽な状況を挽回すべく打った一手は、知神として畏怖される彼としては珍しく悪手であった。

 

男と女のロマンスより、男と男のアバンチュールに涎垂してしまう直江大和の妻役たる少女の反応は、理想と現実では悲しい程に歪んで異なる事を、その旦那役に敷いた少年の必死の説得により理解し直した青年の、なんと悲壮に陰ったことか。

 

 

無情な虚無感に打ち菱がれる憐れな男達に純情を、掬い上げては悪戯に零れ落とした銀月が、変わらず夜空に揺らめいていた。

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

「……あぁ、何て言うか、あれだ。うん、一周回ってムカつくわ、お前。男の癖に、何だその尋常じゃないエロさ!何かムラムラするわ!幾ら私でも軽く自信喪失に陥るわ!」

 

 

「しょ、正直、自分は今までで一番マルさんを尊敬した。こ、こここれほどにセクシィなモノを毎日。じ、自分では一日と持たず音を上げる自信があるぞ」

 

 

「非常に、非っ常に、不本意ではありますが……この兎のこの艶姿に、眩暈を覚えてしまった事は確かにあります、お嬢様。しかし強靭な精神と揺るぎない矜持さえあれば、人に克服出来ぬモノなどありません」

 

 

「不本意なのはコッチだ緩マンビッチ共!!雁首揃えてガン見し腐るかと思えば、下品な上の口で意味分かンねェ事を垂れ流しやがってェ……」

 

 

温泉旅館といえば、湯上がりの後のソファ型マッサージ機と相場が決まっていると、男二人の理不尽な物言いを不満に思いながらも白の滑らかな生地に無数の小さな菫が黒糸で刺繍されたデザインの浴衣を纏った彼が向かった先。

そこそこに拓けた卓球場で、一般人ならば目を疑うレベルのハイスピードな対戦が繰り広げていた四人の淑女は、ある程度は耐性が付いていた紅い麗人を除いて、彼を見るなり呆然とラケットを手落とした。

 

マルギッテ、クリス、百代、そして――卓球台から離れた長椅子にくったりと、健康的な美肌を晒しながら仰向けに寝かされた、黛 由紀江。

 

僅かな余裕を残して、肉付きはあれど何故だか華奢に見えるしなやかな肢体を包んだ浴衣の、開けた首元から見え隠れする、くっきりと浮かんだ鎖骨の艶やかさ。

しっとりと濡れて、照明の電光に御来光もかくやと謂わんばかりに煌めきを放つ白く長い髪に、時折見え隠れするスッキリとした二の腕。

湯から上がったばかりな為か、ほんのりとした朱を舞い散らせた頬と、逆上せ気味に潤みながらもどこか冷徹な紅い瞳と、世が世ならば彼の肖像を描かせてくれと著名無名の絵描き達が殺到しても決して可笑しくはない美しさ。

 

ある者達は女としての自尊心を深く傷付けられ、ある者達は美しい男という者の禁忌的な情動に戦慄し、そして由紀江の様に、その淫靡とさえ言える美に倒れ伏してしまった気高き戦死者は少なくない。

女としての憤りすら隠そうともしない百代の憤慨っぷりに、そして彼方此方から集まる、彼女達以外の宿泊客達の熱の籠った視線にうんざりとしながらも、一方通行は牙を剥いた。

 

 

「ガクトが悔し涙流しながら壁に頭突きしてたのを見て、ついに頭をやっちゃったかなと思えば……そうか、これより更に上の全裸バージョンを見ちゃったからか。アイツも立派な犠牲者だったんだな……」

 

 

「え、でも一緒に出てきた竜兵殿は凄く嬉しそうだったぞ。自分が、どうしたのかって聞いたら、これから暫く食事には困らないって……むぁ」

 

 

「お嬢様、いけません。その事について深く注釈するのは幾ら何でも兎が不憫です。流石の私とて、其処までの仕打ちを受けさせるのは心苦しい……」

 

 

「まさかオマエに救われる日が来よォとはな……だが、今回ばかりは素直に感謝するわ。ありがとう、ホントありがとう」

 

 

「なっ……何をそんな大袈裟に捉える必要がありますか、らしくもない。これは寧ろ、これ以上穢れた世界をお嬢様に見せまいと……えぇい、普段の憎まれ口はどうしたのですか兎! 慣れない事をおいそれとされては、此方の調子も狂うのだと知りなさい!」

 

 

一方通行の外見に全ての原因があるとはいえ、仮に空想だとしても、同性相手に性の捌け口として利用されるという身の毛も弥立つ実情を知らしめるなど、彼と度々反発しては牙を向け合うマルギッテとて流石に良心が痛んだのか、首を傾げる純粋な乙女の口をそっと掌で覆う。

 

複雑な燐憫を宿した片月の瞳で、どこか気拙そうに対面の白い麗人を探るように見遣れば、マルギッテの苦渋の擁護に多少なりとも救われたのか、半分虚ろながらにも素直に感謝の念を携えた紅い瞳が迎えて。

皮肉でも飛んでくるのかと身構えこそしなかったが、予測は立てていた彼女にとって、素直に礼を述べた彼の態度は普段の冷徹冷静な彼女の静寂をいとも容易く崩してしまうには充分と言えた。

 

 

彼らと同じ屋根の下で暮らしている小島梅子が聞けば驚きながらも深い頷きを残すであろう一幕である事は間違いない。

 

 

「――ハッ……な、何だかとんでもなくショッキングなモノを見てた気が……」

 

 

『いやぁ流石のオイラもぶったまげてしまったぜぃ……アフロディーネが性別取っ替えて降臨でもしちまったのかと……』

 

 

けれど、そんな一方通行にとっても予想外からの援護に束の間の休息を、彼女本人の意思とは裏腹にぶち壊してくれる由紀江と、謂わばもう一人の由紀江こと松風の、大袈裟な様で真理を付く覚醒の声に、陽炎に似た希望の光を取り戻した筈の瞳はまたも無情の陰りに閉ざされる。

 

分かり易くショックを受けて項垂れる彼の珍しい姿に慌てて何とか元気を出せと目を泳がせながら励ます百代と、牙が抜けた彼の儚さに動揺したのか、顔を赤らめながらも心根は大和男子なのだから自信を持てと激励するマルギッテと、意味が分からず不思議そうに首を傾げたままの、戦力外クリス。

彼の姿を、かの美の女神と評して着実にトドメを差してしまった事に気付かぬまま、再び目にした彼を見るや由紀江の可憐な顔が即座に耳まで朱に染まった。

 

 

「あ、あのあのあの、た、大変失礼な真似をしてしまって、申し訳ありません!つい数時間前に御礼を言えたばっかりなのに、また一方通行さんに対して無礼を……」

 

 

「……うン、全然気にしてないから」

 

 

「いやホント、私もエロいとか変なこと言って悪かったって! ていうか今日はどうしたんだ一方通行、なんか色々とらしくないぞ!?そんなメンタル弱かったかお前!?」

 

 

「百代の言う通りです、罵詈雑言に弁の立つ貴様がどうしたのですか、その体たらく。温泉では日々の疲労を癒し切れなかったのですか……? そ、その、多少なりとも兎には借りがありますし――ンッ、ンンッ……か、簡単なマッサージぐらいであれば、してやっても良いかと思わなくもありませんが」

 

 

「そ、そうだぞ一方通行!自分もたまにマルさんに肩を揉んで貰うんだが、かなり上手だ。きっと一方通行の疲れも取れる筈だ、喜んでいいぞ!え、えっと、だから元気を出してくれ」

 

 

約一名、どうして一方通行が凹んでいるのかすら理解出来ずに、取り敢えず場の流れに沿ってちぐはぐな応援をしている者が居るが、その心根は彼女の瞳の様に透き通っている事だけは推して測るべきである。

 

百代の的確な指摘は兎も角、クリス以外に励ましの言葉を送った経験など殆ど無いドイツの紅い猟犬は、日頃何だかんだで家事を行っている側面からマッサージ役を申し出る程にテンパってしまっているようで、態とらしい咳払いを交えてまで彼を案ずる辺り、一方通行に対する険悪な姿勢は少しずつながらも緩和しているようだ。

 

普段の余裕の欠片も窺わせない一方通行ではあるが、そう歳も代わらない同級生の男達には情婦を見るような視線を、一方通行ですら見てくれは充分良い方だと評する美少女や美女達に淫靡なモノを見るような視線を、見ず知らずの数々の宿泊客からは熱っぽい様な、粘っこい様な、向けられるだけで疲労を募らせる無遠慮に晒されたのだ、彼の摩耗した心理が追い詰められるのも、無理はない。

 

 

「……ったく、そっとしとくって選択はねェのか、オマエらは。マッサージは次の機会に取っといてやるから、精々腕磨いとけ、猟犬。黛は良い加減謝ンな、俺の見てくれが普通じゃねェ自覚はある。クリス、オマエも変なフォローすンな、寧ろ逆効果だ」

 

 

「ふ、普通じゃないと言っても、決して悪い意味ではありませんよ?けれど……あ、いえ、何でもないです」

 

 

 

「……フン、元の調子に戻ったかと思えば威勢の良い。やはり貴様は不遜な男ですね、憎たらしい事この上ない」

 

 

「む、やはり自分にはこういった気遣いは難しいな……」

 

 

しかし、柄にもなく打ち拉がれていた所で、一方通行の周りもまた柄にもない行動に移るという滑稽で喜劇的な顛末に、落ち込むだけ無駄だと悟った彼は、呆れ半分に普段の調子を取り戻す。

相変わらずマルギッテにだけは犬猿の仲を醸し出す様な、若干照れ隠しの様な言葉選びに、彼女もまた何故だか安堵したように口角を上げた。

 

 

けれど、一人鮮やかなスルーを決められた武神はといえば。

 

 

 

「なぁ、なぁ、おいって!あの、一応私も精一杯慰めたり励ましたりしてたつもりなんだが? それをお前……ノータッチ? 全力スルー?ちょっと泣きたいんだけど、本気で……」

 

 

「いやァ、タメの男掴まえて、エロい言ったりムラムラしたりすンのはちょっと……」

 

 

明らさまに、的確に、恣意的に疎外された事には、彼の機嫌を損ねた一端とはいえ、流石に不平不満を表に出すのも仕方がないだろう。

特別、百代はスルーといった仲間外れにされる行為を嫌うのだ、拗ねてますと云った不快感を隠そうともしない紅い瞳を迎え撃つのは、妙に他人行儀で言動にも行動にも距離を取る青年の意地の悪さ。

 

徹底的な反逆心を胸の奥にひっそりと隠して、内心でほくそ笑む青年を前に、ふにゃりと表情を崩して士気を挫かれた百代に、勝機など一欠片とて残ってなかった。

 

 

「ひっ、酷いっ!? いやまぁムラムラとかしたのは本当だから今更言い訳しないが、其処まで引くなよ、寧ろこんなグラマーな美少女に欲情されたんだぞ?照れ隠しとかならまだしも、ドン引きはないだろー!?」

 

 

「うわァ……欲情とかうわァ……あ、ちょっと半径5メートル以内に入ンないで貰えます?百代先輩が恐いンで、ホント勘弁して下さい」

 

 

「――あ、ガチでキッツいなこれ、冗談抜きで泣きそうなんだけど、私。お前に本気の敬語使われると、なんか人一倍距離を感じる……」

 

 

「はァ、そォですか、どォいたしまして」

 

 

「悦んでなんかないやい!本気でやめて欲しいやい!」

 

 

無表情、無感情、無遠慮の三拍子から繰り出される真冬の豪雪もかくやと謂わんばかりの、被虐的な趣向をお持ちの紳士淑女なら大変御満足戴けるであろう冷徹なバストーンボイスは、無形の白蛇が巻き付いたかの様に容赦の一切もなく、百代の心を締め上げていく。

言霊にこそまだ幾分の余裕は見られるが、自画自賛するだけはある美麗な表情は見る見る内に泣き出しそうな少女の如くくしゃりと歪んで、瞳が微かに潤んでいた。

 

 

「「「………」」」

 

 

怒涛の言葉攻めを目の当たりにしている少女淑女の三人が

纏めて挑み掛かっても負ける可能性の方が高いであろう、武の化身、川神百代。

容姿端麗に付け加えた圧倒的は強さで世界に名を轟かす彼女を、言葉だけで膝を付かせる事すら容易であろう対峙する白貌の者は、一体何者になるのだろうか。

きっとどこかの、普段から散々彼の白貌の者に鼻っ柱をへし折られている高慢ちきな高貴なるらしい少女も、今の百代を見ればとてつもないシンパシーを感じる事は間違いない。

 

いよいよ心の牙城も主柱を巨蛇の腹に巻き付かれたのか、頭を垂れそうな程に俯いた百代に見えない位置で、心の底から悪どい笑顔を浮かべる白の魔王の静かに弄ぶ様に、百代への同情を募らせながらも割って入る勇者にはなれる気がしない、クリスと由紀江。

 

そんな二人の影で、情け容赦などなく、神話の悪魔メフィストフェレスでもその身に降ろしたのか、言葉巧みに更にジワジワと百代を追い詰めていく一方通行の嗜虐的な貌に本能の奥底で眠り続けていた被虐的な欲求の輪郭を指先でつつかれる様な、背筋を長い舌に愛撫された様なゾクッとした感覚に、その幽かながらも甘美な違和感に、マルギッテは静かに動揺していたりするのだが。

 

誰に告げる訳にも行かず、自然と自覚のない情欲に染まってしまった顔とやけに騒がしく鼓動を刻む心臓を隠すように、紅い麗人は身体を斜に逸らしながらも、視線はバッチリ白い魔王と哀れな犠牲者に向けられていたのだった。

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

夜、という闇の代名詞は、人の心を不安にさせる。

 

黒く塗り潰した奥行きの、果ての、果ての果て。

すべてを呑み込んでしまいそうな、ぐるぐると巡る深遠の深淵。

 

先の見えないところ、暖かさのないところ、何があるか分からないところ。

 

理解出来ない恐怖に脅えて、だからこそ人は闇を払う太陽や、夜を謡う月や星屑を愛している。

愛するからこそ、太陽は恵みを、月は灯りを、星々は夢を掲げて人を愛してくれる。

 

 

だから、愛してしまえばいい。

夜を恐れず不安にも負けず、理解して受け入れて、愛してみれば、きっと答えてくれるだろうから。

 

 

――目を凝らせば。

 

 

薄らと、光閉じた世界に青が混ざって白んでいく。

夜の闇に慣れた視界に、黒の世界が形を帯びていく。

黒の葵へと微かに明らんだ色の温度は、冷たくなんてない。

 

そして、彼女の視界の先で、白い影が揺らめいている。

 

 

「ン――ふふ」

 

 

クツリとなるべく音に紡いでしまわないように堪えたものの、安堵の吐息と共に流れ落ちる幽かな笑み。

夜の闇でさえ尚耀くエメラルドの瞳が、普段の彼女とは似ても似つかない情愛を灯して、天を向いたまま僅かな寝息を立てる白い横顔をただ、じっと。

 

普段彼女――板垣辰子が、好んで触れて撫でて梳いて、解かしている、男の白い髪は括られている事もなく、織姫と彦星の間に流れる星屑の大河の様に彼の首元から光を放つ。

姿勢善く眠る白貌の青年を象るその殆どのパーツは、夜を照らす深月と同様に、美しく魅せてしまう魔性のヒトカタ。

 

 

自然の宝玉たるあの銀月や綺雪に良く似ている、首の痛みなど構いはせずに、見上げ続けては夜の月を愛する歪み者を、惹き付けてしまう魔性と、掌に掴まえても温もりに溶けて、気づけば形ない水へと移ろうところとか。

 

本当に、良く似ているのに、自然なモノではなく、不自然に象られたかのような、不確かで、曖昧で。

臆病な黒猫が、真っ白なペンキで無理矢理塗りたくられてしまったみたいに、歪まされた、綺麗だけれど、気付いてしまえば、とても不自然。

 

貴方はそれでも綺麗だよ、と。

そんな心を込めて撫でてみても、此方の眼を覗き込んだ白猫は鏡代わりに自分の姿を見詰めて。

どこか悲しそうに、あァそうかい、と鳴き声を挙げるのだ。

 

 

「……」

 

 

夜の静寂に、壁側の布団で大の字で寝転んだ竜兵の弛んだ鼾と、彼の腹に無造作に脚を乗せて乱雑な体勢で器用に眠る天使の甘い寝息が響く。

そのすぐ隣で、華奢な身体を猫の様に丸めて、いつも浮かべるような、妖艶な表情を無邪気な少女の寝顔の様に、普段は隠れた愛らしさと可憐さを浮かべた亜巳が静かに眠っている。

きっと振り向けば直ぐに、辰子の姉が恥ずかしがって、なるべく見せようとしない可愛らしさを拝む事が出来るのだろうけれど。

 

 

けど今は、白い横貌を見つめていたい。

見つめるだけで、手を伸ばさないまま。

光当たらぬ夜の中で溺れながらも、彼と出会う前からも、彼と出会ってからもずっと届かないお月様を。

 

 

「――――」

 

 

彼が夜に浮かぶ月なら、自分は暗い夜の海を泳ぐイルカだろう。

夜を愛して、波を千切って、遥か遠くに浮かぶ大きな月にキスをしたくて、暗い暗い海を飛ぶ。

 

碌に言葉を知らない癖に、月を求めて足掻いている。

 

例えこんなにも、手を伸ばせば直ぐに触れてしまえそうなくらいに近くにいても。

静かに眠る彼にだけは、板垣辰子は手を伸ばせない。

許されるのは、彼の意志がきちんと介在している時だけ。

己に課せた秘め事一つ、ただ律儀に守っている。

 

 

きっとそんな彼女よりもずっとずっと、手を伸ばしたくて、触れたくて、抱き締めてあげたくて、けれど彼の中の大切な何かを傷付ける事が分かっているから、勇気を持てなくていつも諦めてしまう姉の想いを、知っているから。

 

 

だから。

 

 

「――あーくん」

 

 

喉元を置き去りにして滑り落ちた、辰子だけがそう呼ぶ名前。

彼女にとっての唯一の、彼が仕方なしに許してくれた、大事な響き。

 

きっと、彼は許した覚えなんてないと。

けれど、決して強く止めはしないんだろうと。

 

 

 

「――ねぇ、あーくん」

 

 

 

昼間の川際、姉と、もう一人の女の子とで語っていた事。

 

浅い眠りの微睡みの中で、ほんの少しだけ切なげに零した、姉の呟き。

 

 

 

 

 

――アイツは強いよ。

 

 

――継ぎ接ぎだらけの癖に、綻びばっかの癖に。

 

 

――前を向くのを止めないのさ。

 

 

――それで転んで、継ぎ接ぎの結び目が解けたとしても。

 

 

――いつも結んでくれるんだろうね。

 

 

――アイツの心を、抱き締めてる誰かが。

 

 

 

あぁ、そうだ。

きっと、恐いのは自分もなんだ、と。

触れた先で、抱き締めた先で。

彼の意志が介在しない夜で。

彼が愛する知らない誰かに。

 

 

敵わないなと、思い知るのが恐いのだ。

 

 

 

「――だよ、あーくん」

 

 

 

だから、イルカは言葉を紡げず。

いつも、浮かぶ月を追い掛けるだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

『I'm dolphin』__end.





モチーフにした曲は、自分の大好きな曲
分かる人は、聴きながら読んでくれたら嬉しいです
あんなに綺麗には書けなかったけど


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肆ノ調『Nostalgia to you』

少し伸ばし過ぎた人差し指の爪の先、指に宿る白い半月が、角張ったフォントの英語がプリントされた黒いラベルの缶コーヒーを気紛れにノックする。

掌の中で小さく鳴る無機物の賛歌は、朝焼けの小鳥の囀りや街中の静かな生活音とシンフォニーを奏でるには、音の響きが小さ過ぎた。

 

どこか遠くから木霊して届いた、始発電車の線路を渡る鈍い音の方が、彼の白い手に収まった恥ずかしがり屋の楽器に比べれば随分と勇ましい。

けれど侘び寂びを怠ったのか、或いは音の鳴りが鈍すぎたのか、顔を顰めた鳥達が朝陽を覆う薄曇の下を飛び立ち羽ばたく姿を、紅い瞳が見上げていた。

 

 

男にしては長いけれど細い脚を組ませて、まだ人の居ない朝の公園の青いベンチに腰掛けて、猫の髭代わりに風揺れる長い睫毛をそのままに、缶コーヒに口付ける。

ほんの少し土色に濡れた薄い彩りの唇を、朱赤い舌先がチロリと舐めた仕草は、やはりどこか猫の面影を浮かばせた。

クレーンゲームのアームみたく指先だけでぶら下げた缶コーヒーは、さながら彼にとっての水浮かぶ皿といったところか。

 

 

「く、ァ――」

 

 

ブラックコーヒーのカフェインは未だ身体を巡っていないのか、短い欠伸を吐き出した彼の瞳がほんのりと微睡みに揺蕩って、潤いを浮かべて。

想定外の遭遇もあって、より一層喧騒に塗れた休日も過ぎ去れば、学生である一方通行にもいつもの退屈させてはくれない日常がやってくる。

 

二人分の朝食の準備と三人分の弁当と洗濯と、学生と云うよりも主婦然とした朝の恒例行事を淡々と済ませて、旅行の疲れがまだ残っているのか少し重い身体をそのままに、悠長に余るほどに余裕を作った早めの登校。

朝礼が始まるまで、後一時間と三十分。

 

白のブレザーがより一層、綺白を際立たせる彼は、たまにこうして朝のゆとりを怠惰に耽る事を好んでいる事を知る者は少ない。

知る者の一人である彼の保護者は優し気に白い背中を見届けて、知らない者である紅い同居人は怪訝そうに遠退いて行く後ろ髪を見送って。

 

 

思い浮かべるのは、日々のこと。

思い巡らせるのは、人々のこと。

思い手繰らせるのは、錯綜する闇のこと。

 

そして。

想い耽るのは――いつも。

色褪せてくれない、ノスタルジア。

 

 

「……フン」

 

 

つまらなそうに鼻を鳴らして、細く白い首筋を、まるで何かを探す儚い手付きが、感傷の痕を撫でるようにして擦る。

努めて、思い出そうとしている訳でもないのに。

描いて、思い巡らせるつもり等ないと云うのに。

 

初めて、『彼女』と会った朝の公園とは、場所どころか、星の距離さえ違うというのに。

あまりに簡単に、継ぎ接ぎだらけの心はあの日の女の笑顔を、紡いでしまう。

 

 

――けれど。

 

 

 

「マシュマロ、食べる?」

 

 

チャンネルを切り替えるかの様に白い青年の追憶を遮った、無邪気な声に振り向けば。

鏡合わせに映したような、彼に良く似た少女が、満面の笑みを浮かべて、白菓子を此方へと差し出していて。

 

 

「――いらねェよ、バカ」

 

 

「えーたまには食べてよ、いっつもいらないって言ってるじゃん。美味しいよ、甘いよ?」

 

 

「だからいらねェって言ってンだ、良い加減覚えろ」

 

 

瞳の色、髪の色、肌の色。

何も知らない第三者から見れば、恋人か友達と云うよりは、まず必ずしも兄妹なのだろうなと映る程に、一方通行と榊原小雪はとても良く似ていた。

 

不思議そうに赤い硝子細工の瞳を丸めて、まるで仔猫が匂いを嗅ぐように息も掛かるほど距離を詰めて、僕とそっくりだねと嬉しそうに囁いた、小雪との最初の邂逅の一幕が、雪溶けに似た感覚と共にそっと反芻する。

 

あの時と、今と。

流れ行く刻は姿形を女性らしくはさせたけれど、仔猫みたく遠慮もなしにすり寄って来る無邪気さは、変わらない。

愉快そうにくりくりと輝く赤い瞳は、あの日から随分と虹架かるほどに澄み切ってくれているけれど。

 

 

「とーうっ」

 

 

「おい」

 

 

彼の背中から、彼の隣へ。

妙に張り切った、頬緩ませる甘いソプラノの掛け声と共にベンチへと降り立つ彼女の天真爛漫さに、気圧される訳でもなく、無遠慮な左手が小雪の頭をペシリと叩く。

僅かに前のめりになりながらも、口を窄めて拗ねることもせず、拗ねて剥れる反応も見せず、寧ろ嬉しそうに笑顔を浮かべるのだから、彼としても手に負えない。

 

呆れ半分諦め半分を程好くブレンドした紅い瞳が、どこか擽ったそうにゆっくりと細まった。

 

 

「今日は早いね、良く眠れなかったの?」

 

 

「そンなンじゃねェ。オマエこそどうしたよ、バイとハゲは何してンだ」

 

 

「トーマはまだ寝てるよ。ハゲは知らなーい」

 

 

此方を窺う無邪気な紅い眼差しに投げ遣り気味に応えて、小雪の保護者役である葵冬馬と井上準を含みのある蔑称で呼びながら尋ねれば、呆気らかんと、つまりは置いてきたとそう宣う季節外れの雪の妖精。

光に反射してきらきらと煌めく雪原の如し可憐な笑みを面倒そうに紅い瞳が見返して、白い青年は内心で嘆息する。

つまり、この天真爛漫な少女の手綱を握るべき存在は暫く現れず、その代役を担わなくてはならないかもしれない可能性に。

 

 

「そして僕は暇だったから散歩してたのだ! うぇーい!」

 

 

「あァ、そうかい。なら散歩を続行して来い」

 

 

「え、やだ。アクセラで遊ぶもん」

 

 

「愉快なオブジェでアスレチックになりてェならそう言えよ。三分クッキングよりも簡単に仕上げてやる」

 

 

今日はアクセラ呼びで行くのかと、ひくつかせる頬と苛立ちを孕んだ獣染みた恫喝を囁く裏側で、どこか他人事のような事を脳裏に走らせる。

見る者を魅了するにこやかで可憐な笑顔を絶やさない目下の少女は、色んなパターンで彼の名前を呼んでいる。

 

そこまでバリエーションは無いものの、一方通行限定でコロコロと呼び方を変える小雪を不思議に思う同級生も少なくはないが、諦めたのか面倒なのか、寧ろ喜んでいると云う事はないだろうが、呼ばれている当の本人はさして気にしている様子はない。

 

彼がその名で呼ぶなと制止したのは一度だけで、それ以外は大抵何だそりゃ、と苦笑するか顰めっ面を浮かべるかのどちらか。

いつかの秋に、あーくんと何気なく呼んだ時は、それは先約済みだから止めとけと、なんだか優しげに細められた瞳に、面白くないなと珍しく拗ねてしまった一幕があったが、それ以降は一度も呼んでいない。

 

 

「ねぇねぇ、アクセラ。僕、コーヒー飲みたい」

 

 

「あァ?……ったく、甘ェモンばっか食ってるからだろアホ」

 

 

どういったつもりでかは謎めいているが、何故かブレザーの中に着込んだクリーム色のセーターとカッターシャツを手を潜り込ませて、紺色のネクタイに指を絡ませクルクルと小さく回しながら、小雪は彼にコーヒーを強請る。

 

鬱陶しそうに端麗な顔を歪ませながらも、払い退ける事はせず小雪の片手に収まったマシュマロの菓子袋を見詰めて苦言を呈す一方通行。

嘆息一つ風に溶かして、手に持っていた缶コーヒーをベンチの脇に置いて、彼の財布が入っている学生鞄へと手を伸ばした所で。

 

 

「違う違う」

 

 

「……ン? なンだよ、買いに行くンじゃねェのか?」

 

 

カラカラと擽ったそうに笑う声に織り交ぜて、彼の指先を遮る少女の声。

何が違うというのか、と怪訝そうに細められた瞳を、愉しそうに、嬉しそうに、いつまで経っても曇りやしない綺麗な赤の宝石が輝いて。

 

公園の出口の直ぐ傍、細い車道とコンクリートの色の燻んだ電柱を挟んだところに退屈そうに立ち惚けた自動販売機の背中を顎で促す男に、一回、二回と首を横に振る。

白魚のような染みのない白い少女が指先で指し示したのは、ベンチの隅のブラックコーヒー。

つまりは、そういう事で。

 

 

「……オマエ、苦いの好きじゃねェだろ。もうちょい甘ェのもあンだぞ?」

 

 

「いいよ、マシュマロあるもん。だからアクセラのヤツ、ちょーだい」

 

 

「……変なヤツ」

 

 

「変でもいいの、ちょーだい」

 

 

甘い菓子ばかりをいつも持ち歩いては食べて、時折人に食べさせる川神学園七不思議の一つになってしまっている小雪が、苦いモノや辛いモノを口にしている所は殆ど見掛けない。

食べられないという事は無いらしいが、彼の中の膨大な記憶の中に、そんな光景は精々、一方通行の弁当のおかずを横取りしている時ぐらいだろうか。

 

クイクイとネクタイを弄ぶ頻度を上げながら頂戴頂戴と請う小雪に苦笑しつつも、仕方なくコーヒーを差し出す一方通行と、御満悦な様相で微笑みながら受け取る小雪。

 

白と白、紅と赤。

 

アルビノの猫の親子が戯れる光景は、春先の和やかな空気に良く似合う。

どちらが親で、どちらが子なのかは、言うまでもない。

 

 

「……プレミアムだわ」

 

 

日々自分を高めるべく行っている日課のランニングをこなしていたとある下級生は、猫達の在籍する二年S組でしか中々に見られない、希少で貴重な光景を見て、思わず惚けたように脚を止めた。

 

片や川神学園どころか全国模試でも一位と噂の知神、片や川神学園の七不思議の内の一つとして謳われる美少女。

 

こんな早朝に見掛けられる光景の中では、成る程、確かにプレミアムであったのかも知れない。

 

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

開いた窓から入り込んだ風に膨らまされた真っ白なカーテンのドレープが、幼子の機嫌を愛すように窓際で不貞腐れながら無言で弁当の唐揚げを啄む白い青年の髪を幽かに撫でる。

カーテンの隙間をすり抜けた光の微粒子達が、白い雪原のスケートリングを陽気に踊り、その反射がキラキラと一層白銀を彩めた。

 

 

しかし、その繊細な白髪の持ち主の機嫌は宜しくはないようで、キリリと吊り上がった紅い瞳は剣呑な耀きを宿しながら、彼の機嫌を降下させる原因の一端を睨み付けている。

 

そんな事を、知ってか知らずか。

 

 

 

「……犯罪、犯罪だわこんなの。綺麗とかそんなレベルじゃない。こんなの目の前にしたら、腰抜かしてもおかしくないって」

 

 

「写真一つでここまで我が軍の戦力を削ぐとは……これがエレガントチンクの湯上がり姿…………てか、これが男って事が未だに信じられない。っていうか、男でこれなら私は何?何なの?鬱だ死にたい……」

 

 

「……ぐふっ、あ、ちょっとゴメンティッシュ分けて。なくなっちゃった……あ、やばっ、制服に鼻血付いちゃった」

 

 

「十河……元気出しなって。気持ちは分かる、気持ちはすっごく分かるよ、そりゃ私も最初は衝撃的過ぎて自分の携帯握り潰しそうになったけどさぁ……その、しょ、勝負が付いちゃった訳じゃないんだし、気を取り直してアピール続けないと、ねっ、ほらっ」

 

 

「小田原さん……で、でも……流石に自信無くなっちゃうよぉ、こんなの……私なんかよりよっぽど色っぽいし、綺麗だしぃ……」

 

 

一方通行に不機嫌そうに睨まれている事に気付いていないのか、それともそれすらどうでも良いと思える程のダメージを負ったのか。

膝を折り、頭を垂らし、ある者は涙を流し、ある者は鼻血を流し、またある者は咆哮し、またある者は心の電池が切れたのか茫然と立ち尽くしている壮絶な光景は、憐れな敗者達の成れの果て。

 

各々携帯電話を握り締めながら、中には悔しさの余り携帯を叩き折ったり、鼻息荒く画面を嘗め回すように凝視していたりといった女生徒達の様相に、残されたクラスの男子達は百鬼夜行でも見ているかの形相で、戦慄していた。

 

 

「……女子って大変だな、南坂」

 

 

「いや、うん、正直俺これなら抱けるとまで思っちゃったけどさ、うん、まだ俺はマシな方なんだな」

 

 

「ぼ、僕たちは男だからまだアレなんでしょうけど……女子からすれば流石に心折れても仕方ないのではないでしょうか……」

 

 

「なんかもう、嫉妬すら思わん。F組の奴等もなんかいつも以上に騒いでるし……もはや同情するわ」

 

 

「どちらにです?」

 

 

「……両方」

 

 

耳を澄まさなくとも、彼の優れた聴力ならば容易に聞こえてしまう、隣のクラスからも女子達の黄色い悲鳴や阿鼻叫喚に、眉間の皺がどんどん強く、一方通行の纏う気配が張り詰めていく。

さも不機嫌不平不満と珍しく歪められた白い貌に、極力目を合わせない様に逸らし続ける男子生徒達。

なまじ整い過ぎている顔立ちが怒りに歪めば、その威圧感とそこから抱かざるを得ない恐怖心は並ではない。

 

騒ぎの原因となっているのは、一方通行の温泉上がりの浴衣姿の写真。

どこからが発端か恣意的に依るモノかは、さて置いて、短時間で急速に拡散されてしまった、川神学園でもトップクラスの有名人である彼の艶姿に、何の感慨も抱かない生徒は一人として居なかった。

 

問題は、意図的か想定外は兎も角、写真の出所は『とある聖夜の王座陥落』にてかの武神を倒したとされる一方通行によって業火の焔に包まれる未来しか描けなくなった、という一点に尽きる。

どこぞの誰かは知らないが、虎の尾を見事に踏み抜いてしまったであろう愚か者の冥福を、心から祈るモブ男子生徒一同。

彼らの心は、責任とって怒りを収める生け贄となってくれ、それで以て成仏しろよ、といった優しいのか薄情なのか微妙な祈り一色に染まっていた。

 

 

 

「……」

 

 

険の鋭い表情のままにふんわりとして綺麗な卵焼きを咀嚼しつつ、携帯電話に届いたメール画面に表示された文字の羅列を眺めている一方通行。

表情こそ、例えば昔の彼ならば、彼の中で浮かぶ今回の発端の心当たり達に、今にでも襲撃を掛けても可笑しくはない程に禍々しい物ではあるのだが、弁当を食べる余裕が彼に残っている理由は、昔よりも牙を抜かれて丸くなった為、というのもあるが、このメールにも要因があったりする。

 

 

『だから千花ちゃんは一方通行さんに悪気があったんじゃなくて、一方通行君の格好いいところを自分だけ独り占めしちゃダメだと思ったから、色んな友達に教えちゃったんだと思います。絶対恥ずかしい想いをさせようとか、そんなんじゃないんです。だから、どうか許してあげて欲しいです。御願いします!』

 

 

カコカコと、丁寧な言葉遣いと多くて長い文面を白い指先でスクロールしながら、内容を確認するべく上から下へと静かに文字を追い掛ける紅い瞳。

憤怒に燃え滾る激情の紅でも、凍り付く程の冷徹な紅でもなく、ゆっくりと動く視線は、不満顔を浮かべる割には静かなモノで、実際は男子生徒達が思っている程、激情を溜め込んでいるという訳ではない。

 

目立つ事をなるべく避けたがる彼としては、腹立だしいことには違いはないのだろうが、噂を拡張してしまった主要人物たる小笠原千花は、よもや学園中に広まってしまう事は完全に予想していなかったらしく、現在は顔を真っ青にして彼方此方へ写真の削除を願うべく奔走しているらしい。

一方通行の怒りに触れるという、コトの重大性を直江大和に忠告され漸く気付いた彼女が半泣きになりながら友人達に駆け回っている事を、千花の親友である甘粕真与にメールで教えられた事もあり、多少溜飲が下がってはいた、実際には後の祭りではあるが。

 

 

『本当は直接謝りに行きたいんですけど、千花ちゃんも放っとけなくて……簡単に許せる事じゃないと思ってますし、直江君も覚悟はしておかなくちゃいけないって言ってたから、謝られても一方通行君の怒りは晴れないと思います。けど、千花ちゃんは本当に悪い娘じゃなく、むしろ優しくていい娘なんです、本当です!』

 

 

 

生真面目で努力家な甘粕真与らしい、丁寧で誠実な、焦りからか所々変な言い回しになっている部分も多いが、友達を許して欲しいという想いの必死さが嫌でも伝わって来るメールが、五件にも分かれて受信されたのだ。

全く反省せず、寧ろより一層舞い上がっていたのだとしたら多少お灸を据えてはいただろうが、本人は後悔に反省を重ねているらしいし、何よりも友達を守ろうとする真与の想いを跳ね除けてまで制裁を加える程、彼は器が小さくはない。

 

 

『何度もしつこいと思うんですけど、お願いです、許してあげて欲しいんです。許せないんだったら、代わりに私がなんでもしますから!』

 

 

どうしてそうなるんだ、と。

そこまで自分が怒り狂っているとでも思っているのだろうか、と。

仮にそうでも、怒りを鎮める為には自身を犠牲をするしかないと思われているのだろうか、と。

 

恐らく写真の出所であるファミリーの誰かの為に、なるべく事態の収拾に動いている大和が大袈裟に忠告したのも理由の一つだろうが、それにしても彼女も大袈裟に捉え過ぎである。

周りがパニックに陥れば寧ろ冷静になるのが心理という物で、これでは怒るどころか一周回って呆れてしまう。

 

 

『また後で、二人一緒に謝りに行きますから、出来れば待っててくださいね。P.S.今度この前もらったお稲荷さんの御返しもさせて下さい』

 

 

「…………はァ」

 

 

最後にそう締め括って終わった、五件もの長文メールを非常に微妙な気分で読み切った彼は、疲労感を多大に蓄積させた盛大な溜め息を一つ、零した。

徒労に揺れた紅い瞳が、ゆっくりと開いたメールの返信画面を眺めて、細い指先が力の無い動きでカチカチと文字を打つ。

怒ってないから気にするな、ただそれだけを打ち込んで返信して、投げ遣りな動作でテーブルの端へと携帯電話を置いた。

 

 

旅行期間のいつの間に写真を撮られたのかは分からないが、客室で惚けて涼んでいた所を撮られている辺り、写真を撮ったのは板垣天使だろう。

あの時他に客室に居た辰子と亜巳は普段携帯なんて弄らないし、翌日の昼に、師岡卓也と川神一子とアドレスを交換していたのだから、状況証拠としてはほぼ確定。

 

恐らく卓也と一子のどちらか、或いは両方からファミリーに伝わり、千花へと渡り、この有り様。

今頃、ファミリーの面々に釘を刺さなかった、若しくは刺した所で無意味だった事に、直江大和も後悔に暮れているのだろう。

彼がどうやって事態を収拾するか愉しみだと、もう開き直るしかない一方通行は嗜虐的な冷笑を浮かべる辺り、意地が悪い男である。

 

 

白い悪魔がほくそ笑んでいると更に恐怖を加速させる男子生徒達の視線の中に、明らかに今出て行っては餌食になる事は間違いないであろう少女が、とことこと歩み寄る。

彼のサディスティックさに何時も翻弄されている彼女が絡んだとなれば、結果は火を見るよりも明らかで、鴨が葱を背負って煮えたぎる釜の中に飛び込む事と何ら変わらない。

空気を読めない少女の愚かさと行く末に、少年達はそっと十字を切る。

そこまで分かって止めない辺り、やはり薄情であった。

 

 

 

「にょほほ、冬馬に見せて貰ったぞ一方通行。粗末な浴衣ではあったが、着こなしは中々であったぞ。どうじゃ、今度、此方直々に最高級の浴衣を選んでやっても良いぞ」

 

 

「オイ、脳ミソが腐ってンのか、眼が節穴なのかは知らねェが、見て分からねェのか、食事中だ」

 

 

「……また失礼な言い草をしよってからに。食事中な事ぐらい、理解しておるわ」

 

 

桜色の豊かな色彩に、薔薇、百合、牡丹と種類様々な花の刺繍が織物としての格式高さを見事に表現した一級品の着物を纏った、不死川 心の高飛車な発言に、途徹もない程に冷たい視線を寄越す一方通行。

どうやら彼女もまた、例の写真を見ているらしく、しかし他の生徒とは違って彼の浴衣の着こなしを評価するという斜め上の反応を見せる。

 

実際は写真を見るや特徴的な奇声をあげるなり真っ赤になってバタバタと小さく暴れてはいたのだが、そんな事に一方通行が興味を割く訳もなく。

彼の視界の隅には居たのだが、完全に意識から外されていた少女は、彼女なりの計らいも鮮やかにスルーされた事にもめげずに、けれど彼の皮肉に気付く事なく拗ねたリアクションを取った。

 

煩わしそうに見据える紅い瞳の中の、愉しげなサディズムに気付けない事が、何よりも不幸であったと言えよう。

 

 

「理解してンなら弁えろよ。飯に蠅が集ったらどォすンだオラ」

 

 

「にょぶぇ!!? お、ま、あ、一方通行!こ、ここ此方をおっ、おぶ、 汚物と同義に並べたか!? 失礼にも程があるのじゃ!」

 

 

「いや、でもオマエ毎日着物ばかりじゃねェか、一年も同じ服着てたら、そりゃ蠅の一つでも湧いても可笑しくねェだろ」

 

 

「湧くか!!ちゃんと洗濯させておるに決まっとろう!第一同じ着物ばかり着てはおらんわ!三学期は白なり青なり異なる着物も着ておったろうが!無駄に優れた記憶力持っとる癖に何言っとるんじゃ!」

 

 

会話を始めて未だに一分とて時は進んでいないというのに、既に半泣きの心を相手に、見えない鞭の連打は一切緩められる事はない。

昼の休憩時間まで半分以上残っているのに、既に僅かしか残っていない弁当箱の乗る一方通行の机を、駄々っ子の様に叩きながら、心は顔を真っ赤にして彼に異議を申し立てる。

しかし、つい先日、言葉だけで川神百代に膝を付かせた彼の白い魔王を相手取るには、余りに足りないモノが多すぎる。

 

 

「……?」

 

 

「不思議そうな顔をするでない!わざとであろう!あっ、目を逸らすでない!そんな真剣に悩むでなぁい!!」

 

 

「……いや、オマエに関しての記憶を俺の脳が拒否してンだろォな。流石俺の頭脳、賢い」

 

 

「可笑しいじゃろ!! そなたの中での此方の扱いが雑ってレベルじゃないであろう!Sクラスの生徒ならば兎も角、あの下等な山猿共すらちゃんと相手する癖に、なんで此方ばっかりイジワルなのじゃ!?」

 

 

「……?」

 

 

「むっきぃぃぃぃぃ!!!また、またか!絶対わざとじゃろうが一方通行!」

 

 

時には辛辣な罵詈雑言、時には圧倒的な強者として羽虫を見下すが如き冷淡冷徹冷酷な眼差しで、時には絶妙なタイミングのスルーという、同級生の少女相手に向けるには余りに鬼畜の所業。

かの夜の女帝、板垣亜巳も感嘆と共に御見事と称賛しそうな、鞭と蝋燭のコンビネーションによる言葉責めに、心の精神は息も絶え絶えである。

 

そんな彼らのやり取りにゾッとしながらも固唾を飲み見守る者達に混ざって、別の意味で喉を鳴らして食い気味に見入る一部の紳士淑女も居たりするが、特に触れはしない。

薄桃色のプラスチックの花が幾つも連なったヘッドドレスを柔らかな栗色の髪に装飾した、クラスの委員長タイプこと十河は、唯一人、ハラハラと落ち着きなく慌てていた。

 

 

「まァ、わざとだな」

 

 

「開き直るでない!そもそも、この振り袖はファッションじゃ、高貴たるモノじゃ!故に高貴なる此方が高貴たる格好して何が悪いのじゃ!」

 

 

「論点滅茶苦茶ずれてンだろ、何処が高貴だ、オマエの何処が。第一、ファッションってのは季節によって色ンな着こなしをしてこそなンだよボケ。それをオマエ、飽きもせずに毎日毎日……着物専門店でマネキン代わりに一生ポージング取ってろド阿呆」

 

 

「にょ、にょわくそぉぉぉぉぉ!もう、もぉ、もぉぉぉぉぉ!!一方通行のいじわるぅぅぅぅ!!!」

 

 

鬼、悪魔、魔王、鬼畜、冷酷の大喝采。

全くと言って良いほど主導権を握らせず一方的に靴の裏で這いつくばる者を踏み抜く様なえげつなさに、驚異のメンタルで耐えていた心も、ついに音を挙げた。

 

ブンブンと風を切る程に両手を振るって彼に殴り掛かろうと殺到するも、凄く適当に、けれど的確に、一方通行の白く長い腕に頭頂部をがっしりと抑えられてしまい、渾身の反撃もただの駄々っ子パンチに成り下がる。

日の本に名前の響いた名家である不死川の一人娘と、そんな彼女を躊躇なく雑に扱う冷徹な悪魔、一方通行。

 

同級生同士の非常にシュールなやり取りに、流石の十河すら気の毒そうに閉口してしまった。

 

 

しかし、かつて日の本で最も長い幕府を開いた、かの偉大な征夷大将軍、徳川家康。

彼は苦難の嵐を堪え忍び、忍耐の末に栄光を掴んだ。

 

ならば、怒涛の毒舌や辛辣に耐えた不死川 心にもまた、奇跡が舞い降りても――可笑しくはない。

 

 

「しょうがないであろうがぁ、ふつーのファッションなんか知る機会なぞなかったんじゃもん……誰もファッションなんか教えてくれなかったんじゃもん……着物しか持っとらんもん……」

 

 

「……あァ?じゃあ買えば良いじゃねェか、オマエなら其所いらのブランドでも安いモンだろ」

 

 

すっかりと心を凹まされてしまった心が、グズグズと鼻を鳴らしながら、力なく彼の足元で塞ぎ込む。

かつて、彼女と最初にファッションについて口論となった昨年の夏よりもその落ち込みっぷりに拍車が掛かっていた。

 

 

実はあれから言い負かされた一方通行を見返してやろうと、こっそりと、少しは勉強しようとしたものの、先ずファッション雑誌を購入しようとしたが、女性誌ともなれば意外と種類が多く、取り敢えず心の付き人である従者に適当な物を一冊購入するように命じた、のだが。

 

付き人はしっかりと『ファッションの特集が載ってる雑誌』を命じられた通りサーチし、一番売れているらしい大衆雑誌を購入し、彼女に届けた。

意気揚々と鼻息一つ吐き出して、いざ、と部屋に籠って不死川 心は大衆雑誌を読み始めた、ここまでは良かった。

 

 

しかし、ファッションの知識など碌に無い心に、コートの種類一つ取っても非常に多い女性服の善し悪しなど分かる筈もなく、更に合間合間で挟まれる聞いた事もないファッション用語に疑問符を並べるしかない。

取り敢えずざっと見通しては見たが、元来着物にしか興味もなく、興味を持ちそうな女子の友達など居ない彼女に、結局ファッションの事を理解など出来なかった。

 

更に、大衆雑誌といえば『特集』以外にもコーナーがある。

フードグルメ、スポーツ、化粧品などなど。

 

 

そして、思春期の女子が興味を示す事といえば、異性との恋愛であり、その延長事。

性への興味であり、そういった悩みや睦事の体験談などが生々しく書いてあるページがあるのは、購入者のニーズに応える編集達の当然の判断であり。

 

 

幾ら高慢で高飛車な心といえど、思春期であるのなら、そこに動揺しつつも、ついつい目を通してしまうのは、もはや御約束と言えよう。

 

つまり、結論を言えば、ファッションの事など分からず終いで幕を閉じたのである。

 

 

無論、そんな背景など一方通行が知る筈もなく、又、知ったところでどうでも良いで済ませるだろうが、兎も角、彼の言うブランドなど心が分かる訳もない。

 

 

「……知らんもん。此方に友人がおらん事くらい知っておろうが、この鬼。ブランドなんて着物以外分からんのじゃもん」

 

 

「……筋金入りかよ。箱入りだろォが、オマエ一応女子高生でそれはどォよ」

 

 

「うるさいうるさい!一応は余計じゃ馬鹿者!どぉせ此方は友達もおらんブランドも知らん女子高生じゃ!悪いか!」

 

 

完膚無きまでに心を折られてしまったのか、いつもの気丈な彼女なら決して口にしないであろう、悲しい悲しい開き直り。

 

その余りの残念っぷりを見兼ねてか、凝り固まった選民思想を持つ心に僅かな苦手意識を抱いていた十河が、彼女自身、ファッションについては詳しくはないが種類くらいは分かるので、良ければ教えてあげようかと優しい決意と共に落ち込む彼女へと声を掛けようとした、その時。

 

 

容赦ない言葉の鞭を堪え忍んだ彼女に、漸く、奇跡という名の与えられた。

 

 

 

 

「……あァ、分かった分かった、仕方ねェな。ンじゃオマエ、明日の放課後は暇か?」

 

 

「この期に及んで嫌味か……暇に決まっとるじゃろう。習い事は週末しかないし、平日に遊ぶ友も……」

 

 

幾分か温度を取り戻したテノールが暇を問うが、もはや皮肉としか取れない彼女はふにゃりと崩れさせながらも、正直に自虐する。

しかし、彼の言わんとする事は恐らく嫌味だとかそういう事ではないと云うのは、十河がかつて心奪われた、穏やかな紅の瞳を見れば明らかで。

 

風向きが変わった、という何処かから漏れたギャラリーの呟きに呼応して、そっと春の風が一陣突き抜ける。

フワリと膨らんだカーテンのドレープが、どこか神秘的に、一方通行の背後を光の雨で彩った。

 

 

「なら、決まりだ。明日、オマエにファッションってやつを教えてやるよ」

 

 

「…………………………ぇ?」

 

 

聞き間違えかと思ったのか、それとも夢か幻かとでも錯覚したのか。

風に沸き上がって翻った白銀の髪に、春風に流れて横にずれたカーテンの後ろから差し込む光を背に受けた男の姿は、彼女の心を折る白い悪魔から、神託を授ける神々しさを纏った天使の様で。

 

我も忘れて見惚れた心の頬が薄く、徐々に広がって、やがて耳元まで朱紅が届くまでの長い静寂を終えて。

漸く、その意味を理解する。

 

 

「どっ、どどどどどどどういうつもりじゃ一方通行!?こっ、こなこなっ、此方に、え? ファッション?」

 

 

「ン。明日、放課後に……まァ適当に街にでも出りゃブランド服が置いてるとこくれェ幾らでもあンだろ――ただし、明日は制服で来い。まずはそっからだ」

 

 

「ほ、放課後……ま、街に、か。せ、制服……制服を、着てくれば、此方を連れてってくれると……?」

 

 

「さっきからそォ言ってンだろ。遠慮してェなら別に」

 

 

「い、行く!行く!行くったら行くのじゃ!い、今更冗談とか言うても遅いぞ!?」

 

 

「ハイハイ、ンでオマエ制服忘れンなよ、ちゃンと着て来い。まずはまともな服装してくれねェとコーディネイトし辛ェし」

 

 

「わ、分かっとるわ!制服じゃな、制服……明日の放課後……………………えへへ」

 

 

「……今、冗談っつったら面白そォだな、コイツ」

 

 

与えられた飴の至極の甘さに夢中なのか、だらしなく、ふやけて、そしてその場に居合わせた男子達の殆どを虜にしそうな、可憐な笑みで頬の緩みを隠せない心。

そんな彼女を見て、此処から突き落としたらどうなるか、と嗜虐的な笑みを浮かべる一方通行。

 

彼らは気付いていない。

というか、一方通行からしてみればただ単にファッションについて叩き込むという、ただそれだけのコト。

 

 

しかし、ギャラリーの面々からしてみれば、明日の放課後に行われるであろう事は、ぶっちゃけただの制服デートである。

大衆の面前で、恋人でもない相手にデートの約束を取り付けるスケコマシと、つい先程まで情け容赦なく泣かされていた相手に誘われて、破綻するほどに喜ぶドM。

 

なんというか、壮絶なプレイの末に普段のイチャイチャを見せ付けられている様な、そんな気分。

 

 

「虐め抜いてからの救いの一手、それを教室で平然とやってしまう……これがイケメンか」

 

 

「あぁ、やべぇ……不死川ってあんな可愛いのか……」

 

 

「エレガントチンク……恐ろしいです、僕にはあんな技、一生掛かっても出来ないですよ」

 

 

「不死川さん……えっ、これつまりデートだよね?制服デートだよね?えっ?」

 

 

「あ、やばい、胸焼けしてきた……誰かティッシュ、ティッシュ頂戴」

 

 

「なんで鼻血だしてんのよアンタ……でも、あぁ、羨ましい……あたしもコーディネイトされたい」

 

 

「私は寧ろあそこから突き落とされたい。嘘だよ糞虫って言われたい」

 

 

「うん、分か……えっ?」

 

 

「えっ」

 

 

案の定、ざわざわと空騒ぎ出す少年少女達。

もはや彼らの中では一方通行の浴衣姿など頭になく。

かくして一方通行は自身の気付かぬ内に、自分のクラス内での騒動を収拾し、また新たなる騒動の風を吹かせてしまう。

けれど、不死川 心は浮かれ切ってそれどころではなく、一方通行は明日のコーディネイトをどういった切り口で攻めて行くかのプランの組み立てに没頭している為に、彼らのざわめきに未だ気付けず。

 

 

「十河?十河ちゃーん?もしもーし?あ、駄目だこれ、流石の私でもフォロー出来ないわこれ」

 

 

「――――」

 

 

十河 、16歳、華の女子高生。

 

最近の悩みは想い人へのアプローチと家族以外で下の名前で呼ばれない影の薄さ。

 

一年生の春以来にずっと募らせている片想いの相手は、白く麗しのあんちくしょう。

 

ついその先程まで、そのあんちくしょうにデートに誘われた少女へと救いの手を伸ばそうとしていた、正真正銘の天使である彼女は。

 

 

「こんなの……嘘だよぉ……」

 

 

 

一方通行が全く意に介さない形で、心を折られてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Nostalgia to you』__end










誤字修正を指摘してくれる方々へ。
いつもありがとう、非常に助かります。


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伍ノ調『Good Night Friends』

夕に暮れる千切れ雲の階段のグラデーションは言葉なき無機質の輪郭を見逃す事もなく浮き彫りにして、伸びたり縮んだり、闇を濃くした影を便りとして、静かな呼吸を紡いでいる。

校舎屋上の金網の五月雨、朱に焦がれた砂に浮かぶサッカーゴール、駐輪場に並ぶ自転車の群れ、時刻みながら群衆を見下ろす大きな時計の人指し指と親指。

 

 

茜が奏でて、無機質が謡う、夜に染まるまでの刹那に捧げるセレナーデに身を委ねる綺白の影。

白く長い髪が風に浚われて、河の流れの様に緩やかに軌跡を描く、夕暮れ時の流れ星。

触れれぬ筈の流星がすぐ側に、手を伸ばせば届く距離にある、そんな夢物語に熱を浮かされて、ヒラヒラと舞う髪を折れそうな程に儚い掌が追い掛ける。

或いはその姿は、友達を救ってと願いを叶えようと流星に請う、遠き昔の祈りの乙女に似て。

 

 

「……どォした、甘粕」

 

 

振り向いた紅い瞳が、猫の瞳とそっくりに丸々とした瞳孔を描いて、とても不思議そうに小柄な彼女の名前を呼んだ。

鍵盤の左側が紡いだ低音と、静寂の夜の波音を重ねた様な包みこむテノールが、甘粕真与の鼓膜にそっと揺らす。

 

空焦がす茜をそのまま映した大きく無垢な瞳が、じっと惚けていた心が目を覚ます動きと連鎖して、パチパチと瞬くと共に忙しなく泳ぎ出すが、染まってしまった頬の熱は変えられない。

 

 

「い、いいえっその、何でもないんです、何でも!お気になさらず、です!」

 

 

「お、おォ……なら良いンだが」

 

見惚れていましたと素直に言うのも恥ずかしいし、言われた所で彼としてはどうしようもないし、やっぱり友達の前でもあるので余計に恥ずかしい、と。

小柄な背丈、小柄な胸、高校生としては到底見えない体格を精一杯に使い、文字通り全身全霊で何でもないと否定している真与だが、寧ろ何でもないことは無いだろうと余計な疑いを持たざるを得ない。

 

しかし、無駄に追求する事もなく、狼狽えながらも取り敢えず流す辺り、一方通行も彼女相手には甘い対応になっていた。

それはやはり、小柄な相手には強く出る事が出来なかった遠い星霜の経験によるものか、料理のレシピを提供し合う間柄故の、彼なりの分かり難い友情なのか。

 

 

けれど、そんな彼の足元ですすり泣きながらも呻く少女よりは、扱いの違いが顕著であるのは間違いないだろう。

 

 

 

「ねぇシロぉ……そろそろ腰が痛いんだけどぉ……私にだって悪気はなかったのに、酷いぃ……」

 

 

「……あァン?シロォ?誰の事ですかァ?」

 

 

「んひぃ!……す、すいませんでしたアクセラさまぁ……」

 

 

「略すなクソ犬」

 

 

「あっ、あっ、ぐりぐりはやめてぇ……ごめんなしゃい、一方通行さま、アタクシが悪かったです、許してくだしゃい」

 

 

仰向けに寝転んで、小振りながらも健康的な色香を漂わせる胸の上に『私は頭を整形したいです』という、見る者が見れば、整形しても手遅れなのでは、と燐憫の眼差しを向けそうな言葉が殴り書きされたプラカードを掲げた、川神一子の哀願は、けれど聞き入れられず。

黒い靴下に包まれた骨張った足の裏側で、一子の柔らかそうな腹を絶妙な力加減と共に踏んでいる一方通行の冷笑は、ますます一子のなけなしの自尊心を容赦なく嬲っていく。

彼の温情なのかはさておいて、幸い靴を履いたままではない事が救いにも見えるが、靴下の柔らかな布の擽ったい感触と硬い骨の痛い感触との板挟みが、絶妙に屈辱感と劣等感を与えているので、寧ろ救いがない。

 

 

放課後の屋上で、夕陽を背景に行われている躾を目の当たりにして、一子のクラスメイトである源 忠勝、甘粕 真与、そして小笠原 千花、以上三名は、何とも言えない複雑な心持ちで、白い悪魔の調教っぷりに舌を巻いていた。

 

 

一方通行の浴衣姿ばら蒔き事件、風間ファミリーの面々の内、犯人に大体の目星を付けていた彼の予測通り、発端となって千花に浴衣姿の写真を提供したのは、やはり川神一子であった。

もう一人の目星である師岡卓也は、生来の慎重な性格も手伝って、写真を漏らそうものなら地獄の制裁が待っている事など最初から分かっていたし、若干意識している天使にも悲劇が訪れる可能性を考慮していたので、初めから写真のデータを消すという英断までしている辺り、見事な危険回避能力である。

 

しかし、天使に訪れる悲劇まで防ぐ彼の心意気は、川神一子によって儚くも無駄になってしまった訳だが。

 

 

「……あ、あの、一子も反省してると思うから、出来れば許してあげて欲しいんですけど……」

 

 

「そ、そうですよ一方通行くん、流石にそろそろ可哀想になってきましたし……」

 

 

「ふ、二人ともぉ……」

 

 

しかし、心優しき甘粕真与は兎も角、写真を拡散させる要因となってしまったが真与の懸命な努力と、当人の反省もあって誠心誠意の謝罪のみで許された小笠原千花も、友人である川神一子を流石に気の毒に思ったのか、温情の措置を求めて声を挙げる。

 

魔王もかくやと思える一方通行に恐る恐るではあるが自分を案じて意見する二人の友に、一子の目頭が熱を帯びた。

 

 

「アタシも、その、本当に反省してるんです……ち、千花ちゃんと一緒で、一方通行のカッコいいとこ独り占めしたくないなぁって……」

 

 

「ほォ……そこんとこ、どォなンだね、忠勝クン?」

 

 

「……まぁ、爆笑してたらしいな。直江が言うには」

 

 

「た、たっちゃぁぁぁん……そんなっ、そんなぁぁぁ……んあっ、痛い、痛っ、ご、ごめんなさいごめんなさぁぁぁぁい……」

 

 

けれど、事前に福本育郎から、彼女が携帯を片手にこのシロ、ホント女の子だわ、と爆笑していたという情報を入手していた彼に、余計な一歩を踏み込ませた代償は高い。

 

時に踵をアクセントにして体重を掛けていく鬼畜の所業に、何故だか少しアダルトに身悶える一子の絶叫に、精悍な顔付きを痛ましそうに歪めた美丈夫が、ついに重い腰を上げた。

 

 

「……一方通行、その辺りで勘弁してやってくんねぇか。こんなでも昔馴染みだ、情けねぇ姿をいつまでも晒したままってのは流石に忍びねぇよ」

 

 

「……だ、そうだが、クソ犬?」

 

 

「うぅぅ……はい、もうしません、シロのこと笑ったりしません……反省してますぅ……」

 

 

「……この期に及ンでシロ呼ばわりなのはオマエがバカだからって事に免じて聞き逃してやる。忠勝に感謝しろよ」

 

 

「はいぃぃ……うっ、うぅぅ……たっちゃぁん……」

 

 

「おまっ、ばっ、一子!せめて汚れ落としてからっ……な、何顔擦り付けて……おいコラてめぇ一方通行!ニヤニヤしてんじゃねぇよ!」

 

 

幼馴染みであり、実は長年の想い人でもある一子の情けない姿に助け船を出さざるを得なかった忠勝の言葉に、仕方ないといった風情で彼女を解放する。

一方通行を怒らせてしまった事を自覚してから、放課後までずっと姉やファミリーの面々に泣き付き脅えていた彼女が、長い長い屈辱を乗り越えた感銘からか、脇目も振らずに自分を助けてくれた忠勝へと抱き付いた。

 

硬くもしなやかな筋肉に包まれた、その腕に抱かれたいと思う女生徒も多い忠勝の身体に腕を回して、泣き言と共に頬を緩める一子の残念な頭脳では、想い人と思わぬ形で密着する事になった男の動揺など理解など出来ないのだろう。

というか、一方通行への恐怖心の反動も手伝ってか、洗剤の香りと、太陽の様な暖かな香りが織り混ざって非常に安堵の心地が満ち満ちて、仔犬の如く嬉しそうに顔と鼻を擦り付けている辺り、余計に質が悪い。

 

 

「うぅ、落ち着くわぁ、この匂い……たっちゃん、ほんとありがとう」

 

 

「ば、バッカかてめぇは!勘違いすんな、てめぇのメソメソした姿なんざ見たくなかっただけだ!」

 

 

 

普段は一方通行に負けず劣らず仏頂面ばかり浮かべている彼が珍しく赤面しながら、寧ろ勘違いしろと言ってる様な台詞をテンパって叫んでいる様相を眺めていた千花は、あーはいはい成る程と、彼女の憧れる所謂イケメンの一角である男の心の矛先を察して静かに嘆息を零す。

そして、甘粕真与は、友達である一子と、時折身長のハンディキャップによって苦労している真与を、さりげなく手伝ってくれる忠勝との仲睦まじい姿にほっこりと。

 

優しく微笑む彼女の大きな瞳がすすっと隣へと移ろえば、さながら計画通りと謂わんばかりに笑みを浮かべる一方通行の横貌が、酷くご機嫌に輝いていた。

 

 

 

 

――

―――

◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

誰に責められている訳でもない、誰かに責められる謂れは……日頃の行いが原因で責は有るだろうが、少なくとも高慢な不死川 心からすれば、そんな責は微塵も感じていない。

 

白亜の眩しい長い廊下には、教室へと向かう生徒達の雑踏に溢れて、そんな矮小な者共の中を掻き分けて、優雅に歩を進める、それが不死川 心のフィルター掛かった華々しい学園生活の最初の恒例行事の、筈だったのだけれど。

 

 

「……うぅ」

 

 

責める訳でもない、責められる訳でもない、しかし、歩く度歩く度に群集の視線が、それも普段と全く異なるニュアンスの含まれた視線ばかりが振り向いて、見送って。

過ぎ去る度にどこか惚けた男子生徒の溜め息が、どうしてか、とても心を掻き乱してしまう。

自画自賛はお手の物、麗しい存在である自分に見惚れる事など当たり前と、どうしてか、そう思う事が出来ない。

 

 

羞恥心に染まった赤い頬、他の生徒達には見られない、不用意に肌を晒さぬべく特別仕様で作らせた膝より下まで卸されたスカートが、隠れた清純さを際立たせて、普段二つに纏めている髪もストレートに流して、余り眠れなかった為にほんの少し腫れぼったい目元に、好奇の視線に晒されて縮こまりながら歩く小者らしさ。

ピッチリと彼女の華奢な曲線を浮き彫りにする川神学園の白のブレザーの隅っこと、ヒラヒラと揺れる紺のリボンを不安そうに握り締めながら歩く彼女に、普段の高慢さの欠片も見当たらない。

 

制服を着て歩く、たったそれだけ。

ただそれだけなのに無性に恥ずかしいと感じるのは、きっと集まる視線の半数以上が、悪意を孕んでないからだと、可憐な姿でチョロチョロ歩く彼女は気付いてはいた。

 

 

「きょ、教室が遠いのじゃ……」

 

 

不死川 心といえば、高慢、傲慢、高飛車、泣かせたい女ナンバーワン、そして見飽きる程の振り袖姿。

昨日の一件で彼女が制服を着てくるという事前情報を得てはいたが、これ程までの印象の違いは、普段の彼女を憎々しいとさえ思う生徒達の心を震わせ、それが余計に不死川 心の動揺に拍車を掛けた。

俗に云うギャップ萌えである。

 

 

「あぁ……ホントに着て来たのね……」

 

 

「あれ、不死川かよ……なんか、可笑しいな、可愛く見える」

 

 

「アイツが……数少ない清純系の一角だった、だと……」

 

 

前から、後ろから、左右から、談笑に混じった囁き声や、わざわざ教室から出てきてまで彼女の制服姿を見物する者達の、心からすれば予想外の好反応。

身から出た錆とはいえ、常に悪感情を向けられ続け、それを格式高い自分への嫉妬だと奮起していた彼女は、向けられる視線の意図に戸惑うばかり。

 

 

長いスカートに、雪の麗白を貼り付けた美しい肌に、大和撫子を彷彿とさせる濡れ烏羽色の漆黒の髪と、恥じらいの朱を化粧代わりに添えた可憐な顔立ち。

高慢で腹の立つ彼女の言動ばかりが目について、心の容姿に対する評価にフィルターを通して見ていれば、今の彼女は遠い幻とすら思える。

 

 

「お、おはよう……」

 

 

「……ぇ」

 

 

だからだろうか、今の彼女が朝霧の魅せる蜃気楼なのかを確かめるべく、けれど顔を赤らめながら声をかけた、彼女の知らない別のクラスの男子生徒。

小さく微かで吃りがちだけれど、確かに聞こえた短い挨拶に、よもや声すら掛けられるなんて思ってもいなかった心は、幼さの滲むアメジストの瞳を唖然と見開いた。

 

おはよう、たった四文が、彼女の真っ白になった脳裏を何度も何度も、グルグルと軌跡を描いて反芻していく。

堅苦しくもない、彼女の家に遣える使用人たちと比べれば丁寧さなんてない、フランクな挨拶。

川神学園入学式以来、一度として交わされる事のなかった、不死川 心が隠して望んでいた、憧れ。

 

 

あぁ、それを今、されているのか。

だったら、返さないと。

ええと、ええと。

 

 

くるりくるり、巡る巡って顔を俯かせた心は、短いようでとても長い沈黙のあと。

 

 

「……ぉ、はよ……なの、じゃ……」

 

 

いつもの様に不遜で高飛車に、相手を見下ろす余裕など、彼女にはない。

耳まで真っ赤にして、相手の顔をまともに見る事すら出来ない可憐な乙女の、イジらしい精一杯の小さな挨拶。

 

 

「……は、はい」

 

 

「……っ」

 

 

思わず敬語になって茫然と放心する男子生徒のリアクションにどうしていいか分からなくなって、目をひん剥いて彼女を見る有象無象の同級生達の波を急ぎ足で駆け抜ける。

まるで、ラブレターを渡して、赤く染まった顔を両手で隠しながらそのまま走り去って行った、現代では天然記念物といえる純情少女を見送るしかない少年は、誰が見ても恋に落ちていた。

 

 

「これが……アクセラマジックッ……!」

 

 

偶々その場面に遭遇した直江大和のとんだ的外れな呟きすら置き去りにして、転び兼ねない足取りの覚束なさを何とか繋ぎ止めて、何とか辿り着いた教室へと続く扉。

こんなにも大きな扉だっただろうかと、百は当の昔に越えた程に潜ってきた扉がいつも以上に重く巨大な威圧感を醸し出すのは、きっと張り詰めそうな心臓の鼓動が答えを教えてくれるだろう。

 

けれど、教室の前で立ち尽くしていればどんどん集まってくる視線とざわめきから背を押されて、いつまでも立ち尽くしている訳にも往かなくなった彼女は、無駄に勢いよく扉を開ける。

 

絹を裂くような鋭い音と共に登場した、制服姿の不死川 心。

扉の音でクラス中の注目を同時に集めてしまって、自らの失敗を悟る彼女に、クラスメイト達の反応は実にバリエーション豊かに溢れていた。

 

九鬼の主従ペアは驚いたリアクションを取りながらも快活に笑う主人と、斜めからの切り込みで奇妙なヨイショをする従者という、彼等らしさに。

 

いつも馴染みの三人組は、実に良い笑顔を浮かべる褐色肌の美青年と、光輪に頭を輝かせてニヤニヤとした笑みを浮かべる坊主と、普段と変わらない笑みで彼女を見詰める白い仔猫という、明らかに前半二名は事情を察していますといったスタンスで。

 

驚く者、見惚れる者、羨む者、落ち込む者。

 

見渡せば、皆が皆、彼女を見つめていて。

 

 

「――なンだ、ちゃンと制服持ってたのか」

 

 

気怠そうな紅い瞳がスッと細くなる仕草。

頬杖をついたまま、どこか残念そうな声色の癖に、愉快そうに吊り上がる薄い唇が、心には何故だか酷くゆっくりと、一句一音がスローモーションに見えて。

 

いつもいつも、朝一番に声を掛けても、最初だけは無視をして、飽きるまで粗雑に扱う癖に、何だかんだで優しさを散らつかせては無駄な期待させる癖に。

 

こういう時だけ、彼から先に声を掛けるのは、いっそ卑怯じゃないか、と。

 

 

「も、持ってなかったらどうだと云うのじゃ……」

 

 

「契約違反という事で、今回の件はなかった事に」

 

 

「鬼かっ!」

 

 

「あァ、割と。オマエ限定で、だが」

 

 

「知っとるわ!いっつもいっつも此方にばっかりイジワルな事ぐらい!というか、もっと他に言うべき事あるじゃろ!」

 

 

先程までの御淑やかな雰囲気を、眉一つ動かさぬまま放たれた憎まれ口がいとも容易く切り裂いて、目下の美丈夫の意地の悪さに、いつもの如く憤りを露に引き出された。

 

どこか恒例染みた粗雑な扱いは、服装一つでは簡単に変わってはくれないと思ってはいた心だが、少なからず期待してしまった結果が此れであるのだから、つくづく思い通りに動いてはくれない。

まるで心の想定を避けて行動する事に明晰な頭脳を行使しているのではと勘繰りたくなる程で、制服姿の自分を誉める訳でもなく、貶す訳でもなく。

 

 

「言うべき事……あァ、髪切ったな」

 

 

「せめて髪を見ながら言わんか!壁見ながら何が分かるのじゃ貴様は!これは、使用人が下ろしてみた方が良いって……」

 

 

「スカート長ェなおい」

 

 

「だからなぜ髪を見ながら言うのじゃ!ワンテンポずらすな!わざとじゃろ、絶対わざとじゃろ!」

 

 

その細く長い掌で、気紛れに撫でては暖めて、此方が強請ればそっぽを向いて気付かない振り。

彼方此方に転がして弄んで、気が済んだら放置するして、此方が落ち込んだ時を見計らっていつもいつも。

 

 

「……まァ、案外似合ってない訳でもねェか」

 

 

こうやって、必要以上に期待させる。

そんな、いつもの御約束。

少しだけ、楽しいと思っていたりするのは、絶対に口にはしないけれど。

 

 

「な、ななな……いきなり誉めるでない!あ、いや、誉めるなという意味ではなくてじゃな……」

 

 

「クカカッ」

 

 

あわあわと毎度の様に余裕なく舌が絡まり、言葉が空回りして、主導権に手を伸ばしてもより高くへと掲げられて、跳ねても背伸びしても、触れる事すら出来やしない。

そんな惨めな彼女を宥める様にスッと伸ばされた掌が、ポンと一瞬だけ彼女の熱を孕んだままの頭を撫で付けて。

 

細めた瞳に幽かな温もりを添えて、特徴的で独特な笑い声が、心の鼓膜をそっと擽った。

 

 

「どォだよ、いつもと違ェ格好は。普段通り何も変わらなかったか?」

 

 

「ぅ……いや……そうじゃの、全然違った」

 

 

「そォか。どォいう風に違ったよ?」

 

 

「その……他のクラスの……知らぬ、ヤツから……挨拶、されたり……」

 

 

流麗にするすると、どこか幼子に童話の絵本を読み聞かせる様な、出来の悪い生徒にもめげず一から十まで丁寧に紐解いて説こうとする教師の様な、柔らかいテノールの問い掛け。

辿々しく、彼女にとっての未知を口篭りながらも、要所要所ではきちんと音として紡ぐ姿を、茶化したり、馬鹿にしたり、嗤ったりしない。

 

どれだけ時間を掛けても良いからちゃんと答えろと、言葉に行き詰まっても、仄かに灯る紅い瞳に自然と促されていく不思議な感覚を、胸の奥底で心地良いなと、目を細めたくなる。

 

 

「……ンで、どォ思った。うぜェな『山猿』が、ってか?」

 

 

「なっ……ん、いや、そんな事は、そんな事は思うておらん……」

 

 

冗談混じりでからかいを挟んだ彼の言葉が、やけに鋭利な痛みと共に深く深く、心に刺さった。

ジワリと広がる冷たい血液の感触に胸を抑えそうにもなったが、それよりも、自分でも気付けない内にするりと、見えない彼の手に拐われた本音が反芻して、動きが止まる。

 

どうしてか、先程、あまりに幼稚で不器用な挨拶を交わした同級生を山猿と呼ばれる事を不快と思ってしまって。

それは、普段彼女が高慢に見下ろしながらぶつけている蔑称に違いなかったのに、胸に詰まる。

 

そう、確かにあの時。

慣れない好奇の視線に脅えていたから落ち着きもなく、誰から見ても下手くそではあったものの、挨拶を返せた時、心は。

 

 

「……まぁ、偶には……制服も、悪くないの、と……思った」

 

 

ほんの少し、それこそ蜃気楼の様に幽かだったけれども。

笑っていた、直ぐに羞恥に掻き乱されて消えてしまったけれども、彼女自身も気付かぬ内に。

刹那の中でそれを見る事が出来たのは、あの男子生徒だけではあったが。

 

 

「つまり、悪くねェ、面白ェってことだ」

 

 

「む、ぅ……一々掘り下げるでない。趣味の悪い男め」

 

 

分かり易く言葉を拾いながらも、どこか愉快そうに喉で音を転がす白貌に、いっそ鈴でも転がしていろ、と猫に例えて悪態をつく。

けれど、彼女から逸らされない紅い瞳に浮かぶ、その緩やかに包み込もうとする優しさは、心の敬愛する父親の眼差しと良く似ていて。

もしかすると、彼が本当に教えようとしている事は、最初からファッションなんかじゃなくて――

 

 

「まず自分が楽しむ。相手に見せて、見られて、その反応を楽しむ。周りをアッと言わせてやりてェ、少し違う自分を見て貰いてェ、それがファッションの心構えだ。季節感、組合せ、ンなもンよりも先ずはそっからなンだよ、オマエの場合」

 

 

どこかの売れないデザイナーが雑誌コーナーの片隅にでも書いてそうな、有りふれた、けれど真理を付く言葉。

ファッションだけではなく、彼女が習う華道や茶道でも通ずる、至極当たり前のこと。

そんな事、言われなくとも分かっている筈だったけれど。

 

ただ、一方通行が友達になってくれるかも、という理由だけで学ぼうとした彼女は、それで自分が楽しめるかどうかなどまるで考えてはいなかった。

だから雑誌の内容など学ぼうと思っても頭に入らないし、興味も続かない。

まず、ファッションを楽しむ経験が、圧倒的に少ないのだ、不死川 心には。

 

 

散々動揺して錯乱したが、要するに嬉しかったのだ、周りの反応が。

そこから更に挨拶される事になるとは、きっと彼ですら想定外だったのだろうが。

 

 

「……そういうもの、かの」

 

 

「そォいうもンだ。なァ十河?」

 

 

「へっ?……えっ!えぇぇ!わ、私!?え、えっと……う、うん。そう、私もそこが大切だと思うよ、不死川さん。自分の趣味を誰かと共有するのも、楽しいし」

 

 

茶化すにしては入り込めない、寧ろ彼の言葉にどことなく感銘を受けながらも黙って聞いていたクラスメイト達の中で、突然名指しされた十河は心臓が飛び出そうなくらいに狼狽した。

日頃からヘアアクセサリーには多少拘っている彼女だからこそ一方通行は指名したのだが、寧ろ彼の言った、少しの違いでも見てほしい、というフレーズの、見て欲しい誰かの当人からの突然のパス、動揺するなというのが無理な話である。

 

しかし、些細なことにも気を配れる心優しい乙女である十河は何とか狼狽えた心境を持ち直すと、橙色のコームカチューシャにそっと触れつつ、花開く笑顔を添えて彼女なりの言葉を送った。

 

 

「むぅ……なる、ほど……」

 

 

「ふふ、いきなりは難しいと思いますが、頑張って下さいね、心さん。しかし、一方通行にしてはなかなか珍しい一手を指しましたね」

 

 

「フハハハハ、寧ろ我から見れば貴様がそこまでファッションに造詣が深い事に驚いたぞ!どうだ、今度我にも一つコーディネイトを授けて見ぬか?」

 

 

「じゃー僕はいっつーの服選ぶー!ピンクとか似合うよねぇきっと」

 

 

「こらユキ、いい感じに自殺行為に出ない。下手に似合ったりしたらどう責任……あ、いや、冗談だ。睨むなって一方通行」

 

 

十河の言葉をまだ上手く噛み砕けないのか、難しそうに、けれど何とか頷いて見せた心の様子に、思惑を上手く填めたなと微笑ましそうに冬馬が合いの手を入れた事を皮切りに、途端にクラスは騒がしさを取り戻す。

 

ホームルームの時間まで、あと暫くは残っている。

 

時折笑い合い、時折静かな罵声がロリコンを責め、時折マシュマロが飛び交う慌ただしい喧騒の中で。

 

 

――まず自分が楽しむ。

 

――趣味を誰かと共有するのも、楽しいし。

 

 

その2つの言葉が、仄かな熱を持って心の脳裏でいつまでも響いていた。

 

 

 

 

―――

―――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

更衣室に備え付けられた淡い照明の電光の呑気さとは対照的に、不死川 心の心のランプは不安げに点滅を繰り返した。

等身大に聳える鏡に立つ自分の姿に、酷く違和感を覚える。

袖口シースルーと呼ばれる、心からすれば袖口の意味しか分からない上着と、スカイブルーの強い配色の、リボンを巻くタイプのスカートとやらを一方通行に渡され、取り敢えず着替えて来いと言われたので着てみたの、だが。

 

分からない、服の良し悪しなど分からないからこそ、率直な感想はそれしか思い浮かばない。

店内でマネキンが着ていたシースルーという方は何となく良いなと思ったものの、実際に着て見れば、これは似合っているのだろうかと、判断に迷う。

 

まだか、と問う一方通行の声と、急かしてはいけないと制止する『もう1人』の声。

慌ててつい、直ぐに出ると宣ってしまった彼女は、もう一度鏡で確認してみて、やっぱり分からないとしか思えなくて、破れかぶれ気味に更衣室のカーテンを開けた。

 

 

「ど、どうなのじゃ?此方には、よく分からん……」

 

 

「うわぁ……印象が全然違う。すごく大人っぽくて綺麗だよ不死川さん!というか、ウエスト凄く細いんだね、羨ましい……」

 

 

「……ン、若干服に着られてる感はあるが、思ったより填まったな。肩の力抜け、オラ」

 

 

「わ、分かったからそう急かすでない!」

 

 

腕から袖口までが透けて見えるタイプの黒のシースルーに、爽やかな春の空を映したスカイブルースカートのウエストに巻かれたリボン、黒のストッキングに濃いブラウンのブーツ。

コーディネイトとしては大学生寄りで攻めてみたが、此れは此れでと満足そうに頷く一方通行と、どちらかと言えば可憐な顔立ちの心がスッキリとした歳上のような印象を抱かせる事に、興奮気味の十河は随分と評価してくれてるらしい。

そして、どうやら好反応を示してくれたのは彼ら二人だけではなく、周囲でチラホラと居る他の客の視線も集めていた。

 

 

シースルーの黒と独特のシックさは首回りと時折見える細く白い肌を大人びたコントラストを演出し、メインとして据えたのは大きなリボンが目を惹かせるスカートは膝より上の、少し短く見えるタイプで、リボンで目を惹いて彼女細いウエストをより強く強調する。

バストもヒップもそこそこで好き好きが別れるのだが、ウエストの細さは大きな武器になるスタイルの彼女には、トップの服よりアンダーの印象で攻める方が綺麗に見えると真顔で語っている一方通行。

 

さらに本来は生足で魅せるのが通例のスカートに黒のストッキングでアダルトさと心に足りない色香を演出し、足下はアンダーの印象を殺し過ぎないブラウンを添えた。

セクシーさが足りないと暗にそう言われている様なものだが、鏡で棒立ちしている彼女の耳には幸い届かなかったらしい。

 

 

「む、難しいのう……それにしても、このシースルーというのは、何だか落ち着かんのじゃ。ちょっとスースーするし……」

 

 

「ンなのは放っとけば慣れる。十河、オマエとしてはどォだ?」

 

 

「うん、大人の春物ってテーマが分かり易くていいと思うな。トップと足下が黒だから、スカートのリボンに絶対目が行くし、色も可愛いよね。髪も下ろしてるからいつもより大人っぽく見えるし、うん、私は良いと思う」

 

 

「ストッキングは挑戦し過ぎたかとも思ったンだが、寧ろガキらしいコイツの顔と調和してバランス良く収まったな。後は白のハンドバックでも持ってりゃ完成だ」

 

 

「私は不死川さんになら可愛いコーデをまず持ってくると思ってたから、正直意外だったなぁ……」

 

 

「あァ、勿論ソッチ系の分も考えてるが、先ずはコイツとは真逆のコーディネイトでイメージを真っさらにしときたかった。ウエストもそォだが、コイツ何気に脚も長ェし、そこをメインにするかで印象を変える……要は実験だな。出来もまァ悪くねェし、魅せ方の一つとしてコーディネイトの幅も広がったろォ」

 

 

「高校生っぽくないけど、少し背伸びした感じが可愛い印象も魅せれるね。ギャップ……って事かぁ。べ、勉強になる……あ、じゃあ次は王道に可愛い系?」

 

 

「ンーそォだな、取り敢えずは基本で纏めて、たまに攻めて見る感じで。取り敢えず最初はワントーンで行くか」

 

 

「な、何じゃ、柄にもなく褒めよってからに……というか、此方完全に置いてけぼりではないか……」

 

 

まるで延々と呪文を唱えられている様な、いつになく流暢に良く喋る一方通行と十河の褒め言葉に舞い上がりそうになりながらも、1人置いてけぼりの有り様に苦言を申したが、どうやら聞いちゃいないらしい。

 

取り敢えずコーディネイトとやらが好調に進んでいる事は分かるのだが、ファッションについての知識が皆無である心はついつい緊張気味になってしまう。

借りて来られた猫、という程ではないにしても大人しく縮こまった心は、普段よりも幾分か話を弾ませる二人を、ちょっと面白くないと思いながらも眺めているしかなかった。

 

 

普段と違ってざわざわとした周囲に終始落ち着かない心境で放課後を迎えた彼女は、約束通り一方通行にファッションというモノを教えて貰いに街へと出陣、とはならず。

女性としての意見も欲しいからと、若干有無を言わさせず連れて来た十河も二人に同行すると心へと説明。

 

 

二人きりという状況では無くなって、がっかりした様な、寧ろ少しホッとしたような、複雑な心境である彼女に気まずそうに謝る十河の姿に、寧ろ複数の友人と御出掛けなるシチュエーションは心としても嬉しいやら恥ずかしいやらではあったので、拙い言葉遣いながらもアッサリと同行を認めた。

てっきりデートなんだと思ってはいたが、一方通行に着いて来てくれと頼まれては断れない十河は、高慢な印象の強い彼女が顔を赤らめながらもすんなり同行を許してくれた事に不思議に思いながらも、本当は優しい人なんだなと、心に対する少しながらの苦手意識を払拭していた。

 

朝から終始落ち着かず、どこか大人しかった心に多少ながらも好印象を抱いていたからこそ、という下地も影響していたし、折角のデートを邪魔してしまうかも知れないと頭を下げれば、慌てながらも、良いから自分達に着いて来いと、素直じゃない言葉遣いで十河を促してくれた彼女の真っ赤な顔は、可愛い人だなと思えて。

心の意に介さぬところで、ちゃっかり彼女の株は上がっていたりするのだから、なかなかの豪運である。

いたりするのだから、なかなかの豪運である。

 

 

「良し、取り敢えず制服に着替えて来い。その後、オマエの残念な頭にも分かる様に説明しながら服選びってのを教えてやる」

 

 

「誰が残念な頭じゃ!毎度一言多いヤツめが……」

 

 

「ま、まぁまぁ、不死川さん落ち着いて……ところで、小物とかもあるみたいだけど、そっちはどうするの?」

 

 

「小物はオマエの得意分野だろォ、そっちは任せる。良さそうと思ったヤツがあれば持って来い、組み合わせの参考にもなるしなァ」

 

 

「ぅ……ちょ、ちょっと自信ないけど、頑張ってみる。不死川さん、髪も凄く綺麗だし、似合うモノも色々多そうだよね」

 

 

「こ、此方を置いて話を進めるなと……ま、待つのじゃ、直ぐに着替えるから、ちゃんと待っておれ!」

 

 

褒めたかと思えば憎まれ口をサラリと挟む一方通行に噛み付きながらも、渋々更衣室へと引っ込む心。

ファッションについて未だ難しそうに悩む彼女に、どうやら一から教えながら服選びをする流れへとシフトするらしい。

加えて、十河も十河なりにプレッシャーを感じながらも協力してくれるようで、何故だかその事に自然と安堵の息が零れる。

 

 

当初とは予定が変わったが、不思議と現状に不満は抱かない。

いつもの様な高慢な言葉や態度は自然と鳴りを潜めて、素直にはなれないながらもどこか、友人達とのやり取りを楽しむ、彼女が心の奥底で憧れていた光景に、自分が今、混ざっている。

 

いそいそと急かされた訳でもないのに早く着替えようと更衣室のハンガーに掛けていた、まだ真新しい制服を手に取ろうとした心が、ふと視線をずらせば。

鏡の映る自分の表情は、とても素直な笑顔を浮かべていた。

 

 

――まず自分が楽しむ。

 

 

フワリと胸の内が暖かくなって、朝に一方通行が優しい眼差しを浮かべながら紡いだ言葉。

気付かぬ内に笑顔を浮かべている自分は、今、楽しんでいるのだろうか。

 

 

――趣味を誰かと共有するのも楽しいし。

 

 

別に置いていかれるという事はないのに、少しでも早く彼ら二人の話を理解出来るようになりたい。

理解して、共有したいのだと、他ならぬ彼女自身が思っているからこそ、早くしなくてはと、焦燥に駆られてしまう。

 

 

「……何をにやけておるのじゃ、此方は」

 

 

嬉しそうに、楽しそうに。

鏡に映るいつもと違う自分が、全く別の誰かにすら見えて。

けれど、高貴さなど一つとして感じさせない格好をしている癖に、今の自分は嫌いになれないとすら思えて。

 

 

無性に恥ずかしさが込み上げながら、誰に聞かせる訳でもない独白を一つ零しながら、彼女はそっと苦笑を落とした。

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

少し電話をしてくる、と。

 

 

本日五度目の服選びを中断しつつ、やけに面倒そうに携帯電話を見ながら席を外した一方通行の、高い背中を見送って。

どうやら何処かしらからの着信があったようだが、遮る事もしようとは思わず、直ぐに気を取り直して手に持った白のカーディガンを見詰めて考え込む十河の真剣な横顔をそっと一瞥する。

一方通行に連れて来られた形となったが、きっちりと心に協力してくれるのは何故だろうかと、今更になってそんな疑問を抱いてしまう。

 

自分ではない誰かの服を選ぶ事なんて、不死川 心からすれば面白いとも思わなければ、請われても拒否の一言で片付けるであろう筈だが、彼女は違うのか、と。

 

それも真剣に、どこか楽しそうに。

口角をいつも綻ばせて、優しい表情を浮かべた十河が、少し羨ましいと思えるのは何故だろうか。

 

 

「……十河」

 

 

「え?どうしたの、不死川さん?何か気に入ったモノでもあった?」

 

 

「い、いや……」

 

 

なんだか落ち着かない気分になって、不意に彼女の名前を呼んでしまう。

んーと唸りながらもカーディガンを掲げる様に持って吟味していた彼女が不思議そうに此方を振り向いて、直ぐに笑顔を浮かべる。

 

オレンジのシンプルなカチューシャが彩りを添えたふんわりと柔らかいブラウンの髪に、人の心を溶かすような人懐っこい笑顔の少女。

不死川 心が常々謳い文句にしている高貴さはないのだけれど、不安ごと抱擁されてしまう彼女には、下賎なんて言葉も、家柄なんて要素も相応しくない。

あぁ、友達になりたいと思えるのは、きっとこういう人なんだなと、高慢だと高飛車だと言われる心にも、素直にそう思えるほどに暖かな人間味に溢れていて。

 

 

「どうして……此方にも、そんなに優しくしてくれるのじゃ?」

 

 

「え……?」

 

 

きっと、一方通行ならば直ぐにでも答えてくれそうな、けれど他人のことなんて真剣に考えた事も殆どない心には、理解が出来ない。

恐らくは、あの無愛想な青年に惹かれているから着いてきたのだろうが、彼の姿が見えなくなっても、まるで態度も変わらず接してくれている十河の気持ちが、分からない。

 

ポカンと、まるで想定外の事を、それもこんな簡単な事を聞かれるだなんて思ってすらいなかった十河の宝石の様なブルーの瞳が、丸々と見開いた。

けれど、彼女が呆気に取られたのは一瞬で、すぐに擽ったそうな笑う十河に、そんなに変な事を言ったかと心は不満気に頬を膨らませた。

 

 

「ご、ごめんね……でも、ふふっ……不死川さん、可愛い」

 

 

「にょわ!? な、何を藪から棒に、こっ、此方が可憐なのは承知しておる!からかっているのか!」

 

 

「違うの、そうじゃなくてね……でも、一方通行君の気持ち、分かるかも。なんか不死川さんって、凄く純情なんだね」

 

 

「……じゅ、純情? わ、笑っておらんで分かり易く説明せぬかっ」

 

 

とある企業の社長令嬢ではあるが、それを笠に着て気取る事もせず、誰にでも丁寧に、そして優しく振る舞う彼女を慕う者は多い。

純情に、純真に、一方通行を想う彼女の恋を応援する生徒も多く、心に対して辛辣な態度が多い一方通行も、クラスメイトのなかでも十河に対しては比較的に素直に接している。

何かと衝突し合う隣のクラスの面々からも評判の良い彼女が、人から好かられている理由など、実に簡単なことで。

 

 

良き友達が欲しいと孤独感に苦しむ不死川 心に一番足りないモノこそ、きっと、十河というクラスメイトの一番の魅力なのだから。

 

 

 

――いいなって、そう思う人に優しくしてあげたいのは、普通のことだと思うんだけど。

 

 

「……こ、此方が……いい……?」

 

 

「うん。その、F組の人達と喧嘩してる時の不死川さんは、ちょっぴり苦手だけど。でも、今日の不死川さんは、とっても魅力的だと思うよ」

 

 

「ぅ……あ、にょ……」

 

 

相手に対しての思いやり。

人によって明け透けかどうかは違ってくるけれど、いつも相手に対して無垢な笑顔を見せる十河は、人を思いやる心がとても豊かで。

すっと寄り添うように胸の奥底へと入り込む綺麗なソプラノに、不死川 心はどうしようもなく口篭る。

 

 

「……ぅ、ちょっと恥ずかしい。ご、ごめんなさい、変な事言っちゃって」

 

 

「あ、謝るでない……べ、別に怒ったりしとらんか……ら」

 

 

「う、うん……でも、どうして急にそんな事を聞いてきたの?」

 

 

青臭い事を正直に言ってしまったからか、仄かに朱に頬を染めて俯く十河を、そのままにはしておけなくて、気まずいと思いながらも取り繕う言葉を告げれば、不思議そうに首を傾げて、何の気なしに尋ねられる。

唐突に、優しくしてくれるのは何故かなど問われれば、どういうことかと不思議に思う彼女の疑問も当然である。

 

けれど、その心の旨をそう簡単に打ち明けるのは、今の心には非常に難しい事で。

しかし、どうしてと此方を覗き込む十河のブルーの瞳が、誤魔化しも嘘も、全てをそっと霧散させて、心の本音ばかりを浮き彫りにしていく。

 

逃げ道を防いで弄ぶように本音を引き出す白い青年とは違って、本音で良いから安心して、と優しく促す笑顔の乙女はもっと質が悪い。

嘘をついてもきっと許してくれるのだろうけれど、嘘をつきたくないと思わせるその無垢な瞳に、奥底に閉まった本音を、自らの手で、差し出させてしまうのだから。

 

 

「こ、此方は……こんな性格だから友達も出来ぬし、傍におりたいとも思ってくれる者など、母上か父上ぐらいなのじゃ。だから……そんな此方に、優しくしてくれるのはどうしてかと……」

 

 

「……そっ、か。うん、ありがとう、不死川さん、正直に話してくれて……でも、一つだけ違うなって思うところがあるかな」

 

 

「……ぇ?」

 

 

 

どうしてこんなにもすんなりと本当のことを話してしまったのかと、今更ながらに後悔してしまう心に、少し気落ちしながらも、やっぱり花咲く笑顔を浮かべた彼女の言の葉。

滑らかに鼓膜を擽る魅力的なソプラノが、そっと心の心を包み込んだ。

 

 

「私は、今の不死川さん、好きだよ。それに私だけじゃなくて、一方通行君もそうだと思う。だから、傍にいたいって思う人は、不死川さんが思ってるより、多いんじゃないかな」

 

 

「……そ、十河……」

 

 

「それに、私は……不死川さんと――友達になりたいって、思うな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――

―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『む、聞いておるのか、一方通行よ!』

 

 

「あァ、聞いてる。聞いてっから、そのバカでけェ声を少しは抑えろや。耳がいかれンだろォが」

 

 

『残念だが、王たる我は常に民へと言葉を届けなくてはならん故、声を張るのはもはや宿命よ。で、我の問いに早く答えぬか!』

 

 

「急かすンじゃねェ、王なら王らしくどっしり構えてろ。ンで、明日な……まァ、構わねェよ。だが、また厨房に入れってンなら、すぐに帰ンぞって伝えとけ」

 

 

『ふむ、姉上は貴様の手料理も心待ちにしていたが、そうまで言うのは仕方ない。では、姉上にはしかと伝えておこう。紋白も実に楽しみにしておるようだ』

 

 

「……まァた、あのガキに振り回されンのか。面倒くせェ、場所変えてくれ」

 

 

『フハハハ、そう言うな。あやつめにも気に入られておるのだ、九鬼に仕えるという話、今一度考えてみるのも良いのではないか?婿入りでも我としては歓迎である』

 

 

「冗談じゃねェ、どっちにしろお断りだって言ってンだろ、この鳥頭が」

 

 

『そう照れるな、相変わらず素直でないヤツめ……む、ところで一方通行?』

 

 

「――あン?何だ?」

 

 

『随分声が弾んでいるが……何か良い事でもあったのか?』

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――フン、気の所為じゃねェか?」

 

 

 

 

 

 

 

『Good Night Friends』__end.



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陸ノ調『Velvet Kiss』

以前、九鬼揚羽は九鬼の当主と書きましたが、訂正。ちょっと設定に無理が出てしまったので。
肩書きは九鬼家の軍部総括となります、すいませんでした。




.


広く絢爛な、如何にも精巧に作られた光飾に張り付けた分厚い窓に、リズムを刻むように無数の雨達が貼り付いて、音に微睡んで静かに滑り落ちて、やがて一つになる。

透明な空を舞台に落ちていく透明な箒星の、手を伸ばせばいとも簡単に触れれる透明な小宇宙を流れる無色の流星群を、ベッドの隅に置かれたランプの仄かな燈が染めていく。

 

響く雨音は、けれど部屋を包む静かな空気すら微睡ませるように奏でられた旋律に溶け込んで、大きな薄赤の瞳をくりくりと丸めた少女の耳には届かない。

 

見詰める先は、目の前の綺白。

 

細く繊細な銀糸を集めた美しい髪を持つ小柄な乙女は、ベッドの上にペタンと座り込んだまま、エレキアコースティックギターを奏でる青年を、じっと見つめていた。

 

 

白く滑らかな肌をした、骨張った右手の指が弾く弦が、恥じらうように震えて音を鳴らし、弦を抑える左手がスライドする度にキュッと渇いた音が、少女の鼓膜を優しく撫でる。

絶え間なく彼方此方を動きながら、時には主旋律を、時には副旋律を、耳の五線譜に書き連ねて一つの曲へと導いていく。

彼の腰掛けたスピーカーから流れてくる甘く張り詰めて、けれどどこか苦い孤独の音の粒は、外の雨滴を、手品のように雪にすら変えてしまいそうだと思うのは、何故だろうか。

 

『クリスマスイブ』

何を弾くのか聴かせてくれるのかと、胸に溢れる期待感を隠そうともしないまま尋ねた少女――九鬼紋白に、苦笑気味に答えた彼が囁いた、旋律のタイトル。

 

恋をした事はないけれど、恋がどういう物かは知らないけれど、恋人達の愛を深める聖なる夜、クリスマスイブ、それはきっと素敵な曲なのだろうと。

けれど、奏でられる音の粒が、舞い落ちる姿の見えない雪と変えて、耳へと降り積もり、儚い情動に乗せて人指し指が弾いた弦の切ないハーモニスクが、彼女の開かれていた眼の瞼をそっと狭めていく。

 

 

――寂しい。

 

 

電光の燈ときなびやかな冬の街を通り過ぎていく人々の波を、俯いて、待ち焦がれるように。

暖かい、熱と柔らかさ包み込む服とマフラーの温度も、白んだ吐息と共に、徐々に離れていくように。

きっと来ない誰かを待ち続ける寂しさを、空から舞う無数の白い恋人達が隠していくように。

 

 

音の温度はあるのに、切なさと寂寞が真夏の雪のように幻想的な痛みと共に、心をキュッとさせていく。

初めて聴くはずなのに、どこか懐かしさを募らせるノスタルジックなメロディーの中から、紋白も聞いたことのある旋律を見つけ出した。

 

 

「――」

 

 

――確か、Kanonだったか。

 

九遠寺 森羅という、紋白の姉の友人の招待で訪れたコンサートで、楽団が奏でていた曲目の内、一際紋白の心に残った、メロディーの一部。

そういえば、彼の前で機嫌良く口ずさんでいた事もあったなと。

 

 

フレーズが過ぎ去る刹那に、ポツリと彼女の蕾のような小さな唇から零れ落ちたKanonの一言に演奏の手を緩めないまま、チラリと一瞥した彼の、紅い紅い、幻想の中でしか咲かない華の紅を宿した瞳。

細められたまま見詰める、父性の柔らかさの中に、してやったと悪戯めいた感情の色が浮かび、雪のようにあっさりと溶けて消えた。

 

 

――此奴、覚えておったのか。格好付けめ。

 

 

もしかしたら、この曲を奏でてくれているのは、その為なのかも知れないし、それだけじゃないのかも知れない。

構え構えと駄々を捏ねて強請った幼い自分に、決して蔑ろにはしてないから、と。

 

高音にそっと添えられた低音のビブラートが、じっとりとした余韻を残して、まるで照れ隠しの言い訳を宥めるように、甘く。

格好付けと評したけれど、格好が付いているのだから、ただの僻みにしかならないのが、少し寂しい。

 

背伸びをする自分をそっと見守ってくれている、彼女の傍に遣える執事の瞳の暖かな父性を、この青年もまた時折見せてくる。

分かり易い言葉にはしないけれど、こうして、ふとした拍子に見付けさせてくれる。

胸につっかえる母への寂寞を、慰める様に、埋める様に、後ろ手でくれる不確かな優しさ。

自分よりも歳上の癖に、父や姉や兄がくれる真っ直ぐな優しさとは確かに違って分かり難いけれど、積もった雪の中を掻き分けて見付ける宝探しの様に、そんな彼の見付け辛い優しさに触れる瞬間が、紋白は好きだった。

 

 

「――」

 

 

ギターケースを背負って、兄と同じ学生服のまま訪れた彼に強く飛び付いて、構ってと我が儘に接するのも、誰にも教えない彼女だけの宝探しを楽しみたいから。

苦笑して、自分からも頼むと頭を下げてくれた姉は、もしかしたら、そんな秘かな楽しみに気付いているのかも知れないけれど。

今こうして、紋白と同じように静かな追憶と共に瞳を細めて旋律に耳を傾けている執事もまた、気付いているのだろうけど。

 

 

思考に微睡む空白を、終演へと導く物悲しいアルペジオの余韻が毛布みたく埋めて、終わってしまったと暮れる心を淡く暖める。

フッと、蝋燭の灯りを消すような浅い吐息をついた白い貌が一層凛々しく見えて、興奮に頬を染めながら、麗しい奏者へ賛辞の拍手を送った。

 

 

 

 

「……うむ、良き奏でであった。我は満足したぞ!」

 

 

「ええ、私も傍遣えで失礼な身でありますが、大変に良いモノを聴かせて戴いた事に感謝を。しかしながら、ギター演奏にも覚えがありましたとは、いやはや、多趣味にございますな」

 

 

「そいつはどォも。まァ、紋白はともかく執事さンはもっと良いモン何度も聴いてンだろォに。まだ駆け出しの演奏なンざしょっぺェもンだが、笑わないで聴いてくれてありがとォよ」

 

 

どうやら、恥ずかしがっているのか、そっぽを向いてスピーカーの電源を切りながら頭を掻いている一方通行は、紋白の執事であるクラウディオの賛辞に気難しそうにしていた。

老齢の彼が苦手という訳ではなく、長い星霜を通り過ぎて尚研廉であるクラウディオからの賛辞、というのが擽ったいだけである。

だからこそ、耳をそっと朱めた一方通行は隠れるように顔を背けている事に老執事は気付いていたが、口角を綻ばせるだけで決して口にはしない。

 

 

「紋白、ではなく紋でいいぞ、一方通行。卑屈になる必要も全くない、我が太鼓判を押す!それにしても、音楽を嗜むようになったとは知らなかったぞ、何時の間に覚えたのだ?」

 

 

「……一年前」

 

 

「ほう、一年で此処までとは、駆け出しと笑うには拙さがまるで足りませぬよ。優れた才覚を御持ちだと常々思っておりましたが、芸事にも通ずるとは。久遠寺の皆様にも是非紹介させて戴きたいものです」

 

 

「勘弁してくれ、プロ相手に聴かせられる訳ねェよ。というか、執事さンの方が上手く弾けンだろ……俺の記憶が確かなら、楽器全般出来る筈だよな?」

 

 

「……いやはや、恥ずかしいですな、そのようなつまらぬ事まで覚えてらしたとは、光栄の極みでございます。ところで、一年前から始められてたと仰られていましたが、独学ですか?」

 

 

「いや、どっかのヘタレ男に教わってる。小心者だが、ギターの腕は確かだ。たまに川神の駅前で弾き語りしてンぞ、ソイツ」

 

 

「ほほう、あの一方通行の師匠とは。しかし、ヘタレとはどういう事だ?お前程の男の師であるならば、余程の者ではないのか?」

 

 

一年にしては、技巧は中々に卓越していると、一方通行の言う通り音楽にも精通するミスターパーフェクトことクラウディオはそう評価するが、確かに彼は一方通行よりも上手くギターを奏でる事も可能である。

しかし、音だけで魅せれる訳ではないのが、音楽の難しくも奥深い所。

彼より上手に弾こうとも、彼の様に遠い景色や追想を描かせるのは、簡単ではない。

どこか幻想染みた、現実離れした彼の美しい外見と、音を運ぶ度に魅せる表情こそが、一方通行の奏でる曲の一番の魅力であり、それは一方通行の師匠から受け継いだ感性でもあった。

 

そして、九鬼紋白は、一個の人間として尊敬している一方通行の、師匠なる存在に興味を示している。

ヘタレと他でもない弟子に称されている程度の人物が、師匠であるというのは如何なものか、と。

 

 

「あァ……ヘタレってのは、女が居る癖にいつまで経ってもソイツにプロポーズ出来ねェから、そう呼ンでンだ。無け無しの金で結婚指環まで買ってるのに、中々踏ン切りつけねェし」

 

 

「ふむぅ、プロポーズか……やはり男なら、ビシッと決めねばな!少なくとも我はそちらの方が良いな」

 

 

「はン、男作ってからいえチビ助が」

 

 

「失礼であるぞ、一方通行!我は形こそこうではあるが、心は立派なレディだ。そうであろう、クラウディオ」

 

 

「勿論であります、紋白様」

 

 

指環を用意してもプレゼントまでは結び付けれてないとは、なんと度胸の足らぬ男かとも思うが、紋白の様な特別な立場ではない者達とは色々と難しい事もあろうと、発破の声を一我慢。

しかし、おどける一方通行の失礼な発言は見逃す訳もなく、しっかりと淑女の一端であるとの主張は忘れない。

 

 

姿形こそ童女のそれではあるが、彼女とて年齢は高校生である。

今は九鬼の一族を担う者としての自己研磨の為に高校は休業中ではあるが、6月の後半には彼や兄の通う川神学園の編入すら決まっているので、チビ助という呼び名は許容する事は出来ない。

 

また、彼女の他にも、九鬼に関わるとある人物達も編入が決まってはいるのだが、一方通行を前にその話題は避けている。

紋白には分からないことだが、その者達の話をする度、何故だか彼はその表情を苦々しく歪めるのだ。

まるで遠い過去の古傷に爪を立てられ、苦しむ様に顔を背ける白い横貌は、強く賢く優しい彼がとても脆い存在なのではと錯覚してしまうかの様に、儚く。

だからこそ、極力一方通行の前ではその話題を避けるし、彼の兄も控えているらしい。

 

 

「それに、男がおらぬのは仕方あるまい。我の眼鏡に適う者もそうおらん。おったとしても、恐らくヒュームが許さぬであろうな」

 

 

「無論、私めも僭越ながら品定めはさせていただきます」

 

 

「あァ、あの猛獣か。クラウディオさンは兎も角、アイツはオマエを猫可愛がりしてっからなァ、オマエの男は苦労しそォだ」

 

 

何事も完璧にこなせる非常に優秀な執事であるクラウディオには敬意を示すものの、紋白のもう一人の付き人であるヒュームには含むものがあるのか、猛獣と評した一方通行の不遜さに、クラウディオは苦笑を禁じ得ない。

九鬼に遣える者の中で頂点に君臨する程の強者を相手にそこまで宣える若者は、恐らく彼ぐらいであろう。

 

その気概や類稀なる頭脳を持つ一方通行の事を、ヒュームもまた認めてはいるのだが、如何せん獰猛な性格が災いして彼には煙たがれていた。

しかし、紋白を何だかんだで孫娘の様に思っているヒュームの事だ、一方通行の言う通り、生半可な人間では紋白の隣に立つことを認めないであろう。

 

 

そう、例えば――

 

 

「な、ならば、一方通行が我の夫になれば良い。それならばヒュームとて文句は言わぬであろう」

 

 

「…………」

 

 

どうやらクラウディオの考えは、彼だけのモノではないらしい。

ほんのりと、妖精のように可憐な顔を赤らめた九鬼紋白の大胆な発言に、クラウディオは年老いて尚、清麗に光る空色の瞳を愉快そうに、微笑ましそうに細める。

 

幼稚で稚拙な、まだ恋も知らない乙女からのプロポーズ。

ただ、条件としては申し分無いことと、彼女自身一方通行を気にいっているからという、余りに若くて浅い想いの丈。

そんな彼女の幼さを呆れた様に、面倒臭そうに紅い瞳が細くなると、溜め息と共に細い指先の腹が彼女の額を、トンと付いた。

 

 

「せめて俺を惚れさせてから言え、だからオマエはガキだってンだ」

 

 

「むぅ……我を子供扱いとは、おのれ一方通行。しかし、許す、我がより大きく立派になれば良いだけの話だ!首を長くして待っておれよ!」

 

 

「はン、百年早ェよクソガキ」

 

 

ヒラヒラと投げ遣りに手を振って、深いワインレッドのケースの中へとギターを仕舞うと、挑発的に微笑む。

 

本来なら九鬼家を去った後に彼の師匠にギターを学びに行くつもりであったが、生憎の雨で中止になった。

その為に不要となったギターを弾く機会を作れた事には感謝してやってもいいが、何もかも許してやれる程寛容でもない。

 

仮に今後、紋白が彼に本物の恋心を抱いたとしたら、どうなるのだろうか。

心に幾つも楔を打ったこの男は、簡単に落とせるほどに一筋縄には行かないのはまず間違いないだろうと、クラウディオは理解している。

彼の遣える主が目下の白貌の者に恋した時、きっとそれは並々ならない苦難の道になるであろう、と。

どちらに転ぶかも定まらない未来をそっと偲び、クラウディオは静かに瞑目した。

 

 

 

――

―――

 

 

 

「ヘイ、ラビット。ついに観念して執事になったのか?それなら服はちゃんと着替えな。学生執事なんてのは、公私を切り替えなきゃ勤まらねぇぞ」

 

 

「うるせェクソメイド、いつ俺が執事になるなンて話になった。ンな事より手伝え」

 

 

「生憎今はラビットの監視役だからな、シェフ役は休業中だ。私としちゃあ未来永劫休業してぇがな、分量とか面倒だし。てか、ならなんでラビットは厨房で料理してんの?監視しろとしか言われてねぇから話が良く見えないんだが」

 

 

「……オマエンとこの御主人様に無理矢理頼まれたンだよクソが。英雄のヤツ、昨日の件を物の見事に忘れてやがってッ」

 

 

「あぁ、揚羽様か。ま、諦めな、それに九鬼の執事メイド全員分って話でもねぇだろ、楽勝楽勝」

 

 

「ったりめェだ、それならマジで帰ってた所だ。寧ろ今からでも帰りてェ」

 

 

「それをさせない為の私なんだよ。まぁ、こっちじゃ台所に立つ男はモテるらしいし、男を上げるいい機会じゃねぇの?知らんけど」

 

 

グツグツと煮えたぎるビーフシチューの香ばしい湯気を獣の様に女っ気なく嗅ぎながら、サッパリとした口調で彼に労りのない空っぽな言葉を投げ付ける長身痩躯の華々しいウィスキーブロンドの乙女。

仕草はサバサバとしながらも、痩せたウエストに男の視線を掻っ拐う大きなバストとヒップは充分過ぎる程に女らしく、白人らしい健康的な白肌と快活に輝くエメラルドグリーンの瞳が彼女――ステイシー・コナーの勝ち気な性格にマッチしている。

 

男勝りな口振りながらも友人の様に、疲れた眼差しでビーフシチューを掻き回している一方通行の肩に腕を回す辺り、その身に纏うメイド服の、所謂らしさは皆無といっていい。

けれど、そのフランクさもまた彼女の魅力なのかも知れないとは、ステイシーの友人である李 静初の言葉であり、九鬼家に連なる者達の殆どが同意する事ではあるが。

 

 

「おいクソメイド、邪魔だ。する事ねェならこれ混ぜとけ。焦がしたらあのクソ姉に報告すっから、ちゃんと見とけよ」

 

 

「えっ、マジかよ……っとと、ヘイ、ラビット!焦がすなって言ったってどうすりゃいいんだ、私はシチュー作った事ねぇから分かんねぇけど」

 

 

「底の方から全体に、じっくりと混ぜりゃいいンだよ……ったく、シチューすら作った事ねェメイドなンていンのかよ」

 

 

「クソッタレなトリガーハッピーをスレイするのは得意だぜ、昔の話だけどな。んでラビットは何してんだ?」

 

 

「見て分からねェのか、サラダ作ってンだよ、サラダ」

 

 

ひょいと乱暴に手渡された銀光放つレードルを慌てて両手で掴むと、彼の言う通り底から全体へゆっくりと、わざわざ両手のままくるくると掻き回している為か、ステイシーの女らしい身体も大袈裟に動く。

先程の一方通行みたく片手で、且つもう少し力を抜いて混ぜれば良いものの、作った事のない料理だからか、これがステイシーの主人達に出す事になる一品だからか、竹を割ったような性格である彼女でも、乱雑にとは行けないらしい。

メイドといってもやる事は戦闘か掃除か御茶汲みがメインである彼女に料理の補助は荷が重いのだろう。

 

 

気怠そうに制服のネクタイを緩めながら、如何にも匠の業物といった包丁とブリーチもきっちりされて真っ白なまな板を取り出す青年の白い白髪が翻る度に、キラキラと電光に反射して煌めく。

戦場に居た頃に見た、残酷な死地とは違って皮肉なほどに澄んだ星空の光にも負けず劣らない輝きに、つくづく女やってるのが馬鹿らしくなる、と。

 

 

ほんの意趣返しのつもりで、然り気無く高校生相手に語るべきではない話を投げ掛けた所で、予想通り表情一つ変えず、厨房の冷蔵庫から野菜を各種取り出す一方通行は、何だかんだいって顔付きが真剣である。

引き受けた以上の責任というよりは、単に料理に対しての姿勢が他よりも精錬されているのか。

つくづく、旦那というよりは、嫁になりそうな男だな、と。

 

 

 

「へぇ、切るの早いな。うちのシェフは星揃いだが、ラビットも負けちゃいねぇじゃん。そっちの道でも目指してんのか?」

 

 

「そォいう訳でもねェよ。オラ、手が止まってンぞ、焦げても知らねェからな」

 

 

彼のバイト先である対馬亭での調練の成果か、日々の積み重ねによる賜物か、目まぐるしいスピードで均等にレッドオニオンをスライスしていく手際に、ステイシーは陽気な口笛を鳴らす。

美人という言葉が釣り合わない程に美麗で中性的な外見に几帳面な性格、料理もかなり出来て、意外にも倹約家であるらしい彼は、ステイシーのいう通り、嫁とするにしても悪くないと思える程で。

 

家庭的な面も含めてこれほどの男は中々世の中にそういる訳でもないだろうから、彼女の遣える御主人様達が気に入る訳だと、改めて納得。

視線をまな板に向けながらも指摘する一方通行の言葉に慌ててレードルを掻き回せば、カラカラと喉を鳴らすテノールが耳の奥底を愛撫した。

 

 

――そうそう、この声もなんだよな。

 

 

外見もそうだが、この声もまた、妙に色気を感じるのだ、この男。

別に本人としては意識していないのだろうが、時折エッジの混ざるテノールの声は、油断していれば容赦なく魅惑的に耳を這う。

無意識の相手にその気にさせられている羞恥から相手を意識してしまい、その美貌と頼り甲斐のある男らしいステータスのコンボにクラっと来てしまうという、厄介極まりない魔性。

 

事前にある程度予防線を張っていないと並の女では直ぐに熱に浮かされるこの男の危険さを理解出来るのは、九鬼でも少ない方だろう。

ステイシー自身も、何だかんだ友人としては悪くないなと思ってしまう辺り、気を抜けない相手である。

彼の通う川神学園では、果たしてどれくらいの女達にその毒を振り撒いているのやらと、シチューの水泡を見詰めながら、憐れな名も知らない少女達に哀悼の祈りをそっと捧げた。

 

 

「ラビットってあれか? プレイボーイ?」

 

 

「……はァ? 頭沸いてンのか」

 

 

「いや、お前の事だから女たぶらかすのはお手のもんだろ? いっつも大人みてぇにクールぶってっから、溜まったもんキチンと出してんのかと思ってよ」

 

 

「おいコラ、脈絡もなく下ネタかよ、クソビッチが。盛ってンのかオマエ」

 

 

「誰がビッチだ。何だ、お前もしかしてチェリーなのか?そうだとしたら傑作だぜ。お姉さまが筆下ろししてやろうか?2000ドルで良いぜ」

 

 

「ご期待に添えず申し分ありませンねェ、一人で勝手にマスかいて干上がってろ淫売」

 

 

先程も軽い気持ちで肩を組んだ時、胸とか普通に当ててしまっていたが、さして動揺すらしていなかった彼は、ひょっとして大人びている所ではないのではと勘繰って、ステイシーからすれば軽いジャブ程度の探りだったが、どうやらそういう事ではないらしい。

風呂場の汚れでも見下ろすような、冷たさを帯びる紅い瞳に、マジに噛み付くなよと肩を竦める。

 

女性的な外見が祟ってか、ひょっとして衆道にでも片足突っ込んでるのかとも思ったが、以前にその手の話になった時、割と本気で一方通行を怒らせてしまった経験から、その可能性は削除してもいいだろう、と。

エメラルドの瞳がちらりと隣立ってレタスを洗っている青年の横貌を盗み見て、怪訝そうに細まった。

 

兎は性欲が強い生き物ではあるが、思春期の男もまたそんな程度だとステイシーは思っているが、彼の場合はそれに当てはまらないという事なのだろうか。

それとも、既に特定の女がいるのだろうか。

 

 

「でもお前、女いねぇんだろ?んで、確か女教師と――ドイツの猟犬とも暮らしてる、と。枯れてんのか」

 

 

「いい加減その下品な口を閉じろよ、なンださっきから、オマエに関係ねェだろ」

 

 

「いや普通に考えたら可笑しいだろ、只でさえ武神やら何やらに纏わり付かれてるって話じゃねぇか。それで良く欲情しねぇなって……私以外にも絶対枯れてるとか言われてんだろ?」

 

 

「…………」

 

 

「言われてんのかよ。ヘイ、オラ、どうよ、思春期の男なら多少なりとも興奮すんだろ、ん?」

 

 

「――はァ、オマエは」

 

 

周りにそんなに女がいて、全く手を出さないのはそれはそれで拙いのではと思ったのか、ビーフシチューを回す手を片方だけ離して、レタスを洗う彼の肩にピトッと寄り添ってみると、呆れた様な溜め息が返ってくる。

将来九鬼に遣えさせようとステイシーの主達が根強い勧誘を続けているのだ、一方通行が九鬼の傘下に加わる事がないとは言い切れない。

 

そうなって、同僚が枯れているというのは中々に格好付かないのもあるし、純粋に心配であるという面もある、一方通行からしたら余計な御世話にも程があるだろうが。

 

けれど。

 

数瞬の間を置いて、振り向いた紅の瞳は、獰猛にギラついた輝きを放っていた。

 

 

「俺が我慢してるとは――――思わねェのか?」

 

 

「――っ」

 

 

巨大な白蛇がヌラリと鋭い牙を並べて、顎を外す勢いで丸呑みしようとするかの様な錯覚に息を飲む。

お望みとあれば喰ってやろうか、そんな言葉すら聞こえてきそうな、血塗られた紅い瞳はとてつもない畏怖と狂色と、舌を這われる様な淫靡を強烈に放っていて。

 

伸ばされる、水道水で濡れてしまっている白い掌に、喰われてしまうと、脅威に対してはあるまじき行動であると分かっていながらも、ステイシーはつい瞼を閉じて背中を丸めてしまった。

 

 

「からかってンじゃねェよ、バーカ」

 

 

ペシンとした軽い痛みが額に走って、エメラルドがゆっくりと開けば、馬鹿にしたような嘲笑と共に紅い月が嗤うように彼女を見下ろしていて。

呆けているステイシーの事など興味をなくしたように、洗い終えたレタスをまな板の上へと置いて、オーブンの方へと遠退いていく白い背中。

 

男としてどうなんだと、妙な心配に駆られてつついた藪には、とんでもない蛇が隠れていたらしい。

 

 

――あの男はヤバいよ、色んな意味で。

 

 

以前、ステイシーの同僚であり長い付き合いにもなる腐れ縁の忍足あずみが、同僚達と良く行くバーの酒の席で呟いていた、不穏な言葉。

あずみの主である九鬼英雄が執心している一方通行の話題となった際、同僚の中で唯一川神学園に通っている彼女から見た一方通行の情報は色々とヤバい、との事で。

 

曰く、頭が良過ぎて寧ろイカれてる。

曰く、女侍らす癖に女心を弄ぶ悪魔。

曰く、歪んだ人間の集心装置みたいなヤツ。

 

曰く、曰く、曰く、曰く。

 

ポンポンと湧水の如く溢れてくる罵詈雑言に、明らかに御主人様を取られた女のみっともない僻みが混ざっている事はステイシーと李 静初も察したが、どれもこれもあながち間違っていそうである、と。

 

 

そして。

 

 

――惚れてる女は居るんだろうさ。時々、そんな生意気な面すんだよ、あのガキ。

 

やけに耳に焦げ付いたフレーズが、ステイシーの中に反芻していて。

 

 

「……あっぶねぇ」

 

 

流石に今のは不味かった。

ヒヤリと伝う冷や汗を拭うこともせず、紅眼に浮かんでいた凶悪な魔性に、まるでウイスキーをストレートで飲んだようにカッと熱くさせられた頬をぐしぐしと両手で解す。

油断してもしていなくても、気付いた時には手遅れにさせるとは、相変わらず油断も隙もない兎野郎だ、と。

 

ビーフシチューの鼻腔を擽る香りに慌ててほったらかしにしていたレードルを掴むと、先程の様にゆっくりと中身を掻き回して。

 

 

「……」

 

 

惚れてる女、ねぇ。

操でも捧げてんのか、似合わねぇ。

 

 

くるくると、手を休めずに、レードルを握る掌に、少し力が入る。

エメラルドの瞳が、どこか胡乱気な感情をそっとビーフシチューに溶かすように、ポコポコ浮かぶ泡沫を眺めていた。

 

 

 

 

――

――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

弓の弦を限界まで引き絞ったような荘厳に張り詰めた重々しい雰囲気を宥めるべく、余韻を引き摺って木霊する、皺一つでさえもまだ新しい刷りたての紙が悠慢に捲られる音は、どこか安堵へと導く清淑な子守唄の響きを孕んでいた。

絢爛なシャンデリアでは、古来の勤勉家を助けてきた月明かりの有り難みには届かないが、白空に低く浮かぶ二つの紅い月が無機質な文字群を見下ろす光景には不思議と神秘性を漂わせる。

 

静寂には隠し切れない熱の感情は瞳に映す事は出来ないけれど、例えば、唇を遊ばせたコーヒーの水面から伝わる、その先に見える誰かの熱苦しい想いの欠片をそっと見付ける様に、圧倒的な速読を得意とする目下の勤勉家の献身的な想いは確かに其処に在って。

 

護りたい人が居るのだろう、傷付けたくない人が居るのだろう。

自分の隣に立って、未熟ながらもかつての誓い通りに我武者羅に足掻きながらも護ってくれようとしてくれる男に比べれば、遥かに静かで遥かに手際良く、けれど誰かを護ろうとする想いを晒け出そうとはしない純粋さは、似ているけれど。

隣で、白い青年より滲み出た音もない緊張に引っ張られていつも以上に張り詰めてしまった従者は、嘘を赦さない自分を裏切るまいと常に想いを隠す事が出来ないけれど、未だに、時折思い出した様に頬を染めて照れてしまう。

それを未熟者と、渇を入れる事もあるけれど、擽ったい純粋さを可愛いヤツだと思える様になったのは、そう遠くはない昔のコト。

普段の何倍も時を掛けて読み終えた資料を手に、浅く吐息を吐き出した一方通行を見ていれば自然と気付くことが出来た、従者への想いは、自分ですら時々持て余してしまうのだけれど、それを恥ずべきではないと教えてくれたのは他でもない白貌の青年だった。

 

 

「我ながら力不足を痛感せざるを得ないが、それが今集められた情報の全てだ。蔓延る諸悪の根源に触れる有力な情報は、揃える事が出来なかった。すまぬな」

 

 

「揚羽様っ……」

 

 

「冗談でも、オマエが頭を下げるのは可笑しい話じゃねェか。多忙の中で時間を裂いてくれてンだ。頭を下げるべきは俺の方なンだよ。すまねェな、揚羽さン、小十郎さン」

 

 

「……そうか。ならばその気持ちは受け取っておく」

 

 

「一方通行殿の御気持ち、しかと此の小十郎めも受け取りましたァ!」

 

 

彼の背負った闘いを援助するには至らない結果に力不足を感じながらも詫びれば、それは余計な感情だと戒めさせる紅の双子月が、張り詰めた弓の弦の如くキリリと吊り上がる。

出過ぎた真似だったと苦笑気味に嘆息すれば、頭を下げた己の姿に心を乱された未熟者も安堵と共に、いつも以上に熱を孕んだ喝声にて意を糺した。

 

 

静淑に漂う紅の視線が見下ろす、アクリルのインクが無感情に記した、九鬼の情報網によって調査された、近日川神市内に乱雑に撒かれている違法ドラッグの商人達の、地域毎の分布データと拡散頻度と、彼らが如何にしてドラッグを仕入れているかを、判別出来た部分までの経路。

インターネットの秘匿掲示板を主に、流浪人の男から聞いた、詐欺グループの人間から流れてきた、直接取引き

をした、等細かく調べられてはいるが、その経路は時折長く、時折短いパイプを伝ってばら蒔かれており、結局は大元まで辿り着けてはいない。

 

狡猾に川神を這いずり回る厄介な悪意を掴めない苛立ちが、揚羽の深く澄んだ琥珀色の瞳に陰を差させる。

しかし、対面の黒革のソファに腰を埋めた白麗の賢人には少なからず掴めるモノがあったらしい。

暗雲を切り裂く鋭い賢明が、白銀の麗人の心の陰りを鮮やかに晴らした。

 

 

「……随分計画的に動いてやがる、と思わせてェンだろうな、コイツらは。計画的に準備して動いてるにしちゃァ、一貫性がねェ。単純に薬をばら蒔く、その上で尻尾を掴ませねェ、そう思う方が余程『らしい』ンだよ」

 

 

「……つまり、薬をばら蒔きたいだけの、愉快犯という事か?」

 

 

「違ェ、それは飽くまで手段の一手。ばら蒔かれている薬に対して、川神や警察がどォ動くか観察すンのが目的なンだろォよ。警戒するか大胆に排除に動くか、自分と云う脅威に対する反応が見てェのさ。だから、下手に暴れた所で掴めンは蜥蜴の尻尾が精々だろォな」

 

 

「計画の一端でも阻止しようと動いた所で水の泡、寧ろ此奴等の思うツボ……フン、気に食わんな。自分達の被害は必要経費として揃えられた劣兵、抑えられた所で幾らでも替えが利く、という事か。忌々しい」

 

 

「忌々しいのはそこだけじゃねェよ、九鬼軍事部門総括殿。もっと愉快に素敵でクソッタレな話だ」

 

 

精々がドラッグのマーケティングの流れと、小賢しく立ち回る愚者の見えない脅威を感じるしか出来ない自分とは違い、激情に身を任せる訳でもなく、冷徹に分析を行う白貌の深海の奥深さを思わせる深謀の見に、改めて凄まじさを感じる。

薄汚い鼠が捕捉されぬようにと狡猾に逃げ回っているだけだとは思えなかったが、その先にある相手の観察という思惑にまでは至れなかった。

 

 

「中指オッ立ててンだよ、コイツらは。川神だろォが九鬼だろォが関係ねェ、殺れるモンなら殺ってみろ、ってなァ」

 

 

「……愉快犯というのは、あながち間違ってないという事か。これ程までに我を虚仮にするとは、是非ともその面を割って制裁を加えてやりたいよなぁ、小十郎?」

 

 

「全く持って同じ心でございます、揚羽様ァ!その悪党、我らが正拳にて葬ってやりとうございます!!」

 

 

「応とも、良く吼えた小十郎」

 

 

一方通行の告げる、醜悪なる者共の、悪意の奥に秘められた唾棄すべきメッセージに、正道を汚された憤りが太陽の万物溶かす業火の如く燃え上がる。

清麗な美貌にどこか似合う激情を抱く揚羽の従者である小十郎もまた、その憎々しい思惑に憤りを隠し切れないらしく、強靭な気炎を吐くその気概に、揚羽は満足そうに頷いた。

 

だが、目下の青年はまるで何処か懸念する様に眉を潜めて、組んでいたスラリと長い脚に乗せていた白い手で前髪を手持ち無沙汰に弄っている。

深い深い思考の海を巡っている事を窺わせるその仕草は、九鬼揚羽にとっては余り反りの合わない女である、霧夜エリカの手癖と良く似ていて。

まだ、何か思い当たる節があるのだろう、そう確信と期待を、この白貌の賢人に抱かざるを得ない。

 

 

「……どうした、一方通行。遠慮する事はない、まだ何かあるのだろう? 我に申してみよ」

 

 

「あァ……だが下手に勘繰り過ぎれば、足を取られる要因になる。俺だけじゃなく、オマエまで嵌まっちまえば、後手に出ざるを得なくなっちまうかも知れねェ」

 

 

「……一方通行殿、ご安心なされよ。揚羽様は、その程度の器たる御方ではございません!例え後手に出ようとも、揚羽様の率いる九鬼ならば、直ぐ様悪し者共より先へと追い抜くであろうと、この小十郎、進言させていただく!」

 

 

「――応!! 誠、その通りだ。良い、良いな、小十郎。今日のお前は我を良く理解出来ている」

 

 

「勿体無い御言葉です、出過ぎた真似でございました、揚羽様ァ!」

 

 

「……後手に回る事自体が、避けなきゃならねェ事態なンだが……まァ、其処まで言われたら仕方ねェか。ただ、飽くまで現段階では憶測の域を出ねェ、話半分で聞いてくれや」

 

 

「フハハハ、心得た。では聞かせて貰おうではないか『アクセラレータ』、その頭脳で導き出した推論を』

 

 

 

精鋭たる九鬼を舐めて貰っては困ると長い白銀の髪がより一層映える麗人の不敵な笑みに、苦笑を混ぜた嘆息と、確かな信頼を寄せた紅い瞳が細くなる。

余計な懸念だと一蹴されては、揚羽と、従者の小十郎に少なからず恩義を感じている一方通行としては、この疑念を秘とするのは些か薄情なのかも知れない、と。

それに、仮に一方通行と九鬼が推考に足を取られたとしても、神算鬼謀の霧夜エリカという、保険しては余りに過剰な存在が彼の背中を支えているのだから、足を竦ませる必要も無いだろう。

 

 

「――フン」

 

 

かつて、その身に宿った神ならぬ神と、人智を超えた頭脳で以て君臨した者、アクセラレータ。

その名を冠した青年は、継ぎ接ぎの心に去来する感情を誤魔化す様に、鼻で嗤った。

 

 

 

「……コイツらの狙いは、川神そのもの。正確には、日本最高峰の武力集団である川神院という名の看板。それを政治的依り代としてカードを切れると諸外国の政権に思わせれる者達の、精神的、政治的保険を崩す事。つまりこの最高に愉快なクソッタレなクソ共の狙いは――」

 

 

「――総理大臣、或いは日本政府そのもの、と云う事かも知れない、と……待てっ、もしそれが仮定だとすれば、此奴らの正体は……」

 

 

 

「……あァ、そォだ、杞憂であるに越した事ねェし、確証も薄いがな。何処から沸いたかすら分からねェ、このクソッタレ共の正体は――」

 

 

随分前に小十郎が淹れたコーヒーは、すっかり温くなって苦味をより一層濃く、口の中を広がっていく。

苦々しさは、きっとコーヒーの所為だけじゃなく、胸の奥に燻った暗い感情が齎した、焦げ付いて離れない忌むべき情動。

浅く吐き出す吐息をそのままに、胸に巣食う鬱屈な闇ごと祓うように、強くカップを置いた。

 

 

――テロリストだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

――

――――

 

 

 

「冷めてしまったな……小十郎、新しいのを頼む」

 

 

「小十郎さン、俺の分も頼ンでいいか。クソみてェな話をしちまった口直しをしてェ」

 

 

「お任せあれ!」

 

 

宙に浮くシャンデリアの煌びやかさを何処か空虚に感じるのは、揚羽の苦手とする老獪な大人達の汚穢に塗れた暗い世界を相手にした後が常なのだが、彼の話から窺える途徹もない人の悪意もまた、清錬たる彼女の心を鈍く侵すモノであるのに変わりはない。

憶測に憶測を重ねた、細い仮定の先に導かれた、最悪の可能性は、如何に九鬼揚羽としても、ズシリとした重みを以て圧し掛かる。

 

途方も無い話だと一笑する事は、眼前の青年に対する信頼や、その鬼謀は虹掛かる程に澄んでいると認めた彼女自身の心が赦さない。

警察組織にもある程度融通を計らって動いて貰っているが、規模が規模、確証もないままでは彼らを動かす事も出来ないだろうが、警告ぐらいは出来るだろうと、彼女もまた今後の動きに思考を巡らせた。

 

 

「……まァ、ソイツらが動き出すのは、早くて夏だろォな。学生達が夏休みになれば、ドラッグ拡散の手段も増える。手数も増えりゃァ、大胆な手を打ち易くなる。混乱と迷走を駆け巡らせてェなら、その辺りが狙い目だが」

 

 

「ならば、まずは先んじて学生達に呼び掛けておくのも悪くないかも知れんな。親不孝通り辺りを監視するのはどうだ?」

 

 

「……親不孝通りには、もォ手を打ってる。監視するにしても、規模がデケェと余計な飛び火を招きかね無ェし、最低限で良い。学生達に警戒を促すってのも悪くはねェ、悪くはねェが」

 

 

親不孝通りを牛耳る板垣一家には、既にある程度ではあるが、協力を要請している。

万が一抱き込まれてしまえば事だが、自分を慕ってくれているあの一家に対する信頼も、少なからず有るから、杞憂として考えて良いだろう。

 

しかし、学生達に警戒を呼び掛けて予防線を張るという揚羽の提案は、内容としては必要な過程だと考えてはいる一方通行だが、白貌の脳裏に過る懸念の糸が、人形の操り糸の如く、是と頷く事を良しとしない。

 

 

学生達、というよりはある一派に対する懸念。

馴れた手付きで新しく淹れたコーヒーを、小十郎に小さく礼をしながらも口にすれば、その苦味に揺らされた瞳が、頭痛の種をそっと憂うかの様に細まった。

 

 

「正義感に駆られて無茶苦茶してくれそォなバカ共が一部居やがンのが、問題なンだがなァ……」

 

 

「ほぉ、流石は川神学園の生徒達だ。若くして気骨がありそうな事ではないか。どういう者達なのだ?」

 

 

「オマエが心残りにしてる猛獣女が加入してる仲良しコンテンツの連中だ、クソッタレ」

 

 

「我が…………あぁ、成る程、百代か。確かに、彼奴ならば止めても首を突っ込んできそうだな、うむ。フハハハ」

 

 

「笑い事じゃねェンだがな。幾らあのバカが付いていよォが、まだ学生なンだよ、あのバカ共は」

 

 

「フハハ、心配症なヤツ……と、言いたいとこだがな、確かに貴様の懸念も尤もだ。それに、他でもない御気に入りの一方通行が関わっているとなれば、形振り構わず貴様の力になろうとするだろうな、彼奴は。クク、性根はあれだが、あれだけの美人に纏わり付かれるのは満更でもなかろう、一方通行?」

 

 

「その性根に問題あり過ぎンだろ、アホ。唯でさえ暴走気味なポンコツ駄乙女もいンだ、駄駄馬の手綱の面倒は間に合ってンだよ」

 

 

「まぁ、そう邪険にしてやるか。乙女も姉として貴様の役に立ちたいと張り切っておるのだ、察してやらぬか」

 

 

目下の白麗を取り巻く幾つもの人の和。

連なり繋がりいつしか大きく広がってしまった、一方通行を中心とした者達の円環の1人と胸を張って答えるであろう揚羽は、彼に惹かれた乙女達の心をそっと擁護するべく苦笑気味に声を挙げた。

 

 

時には美しく現実離れした外見と仕草の端々に漂う妖艶さに、時には大人らしい大器を以て振る舞う彼の雰囲気に、そして。

傷だらけに成りながらも脇目も振らずに奔走する仔猫を目にしたような、息も詰まる無垢で無自覚な危うさに、保護欲と母性と、慈愛をいつの間にか抱かせる、継ぎ接ぎの心に惹かれてしまうのだ、誰も彼も。

 

 

本当に甘え上手な奴というのは、こういう存在の事を言うのだろうな、と。

面倒臭そうに、けれど優し気に手元のコーヒーの水面を覗き込む仔猫のようで、大人な白猫。

自分の心の気付けない場所の輪郭を、無意識に触れてくる彼のお蔭で、隣立つ小十郎への想いを自分なりに形にして飲み込む事が出来た礼は、しなくてはならない。

 

 

「……さて、となると学園の生徒達は、ある程度事情に通ずる者達が守ってやらなくてはならない。そう思わぬか、一方通行よ」

 

 

「ン、そォだな――取り敢えず俺と宇佐美巨人、忠勝……そンなとこか」

 

 

「足りん、足りんな。たかが三人では手が回るまい。そこに私の愚弟も入れてやらぬか、彼奴とて、『命の恩人』である貴様を慕っておるのだ。黙っていたとなれば、きっと憤慨するであろうよ」

 

 

「……アイツには、九鬼家の人間として学ぶべき事が山程あンだろ、此方の都合に巻き込むには、まだ」

 

 

「私の弟を舐めるなよ、一方通行。彼奴は……英雄は、その程度の事で躓く男では無い。九鬼を背負うべく立つと、他ならぬ貴様に誓った男だろう。それ以上愚弄すれば、貴様のその美しい横っ面に渇をくれてやるぞ、フハハハ」

 

 

「――――美しいは余計だ、このブラコンが……チッ、ハイハイ、分かった分かりましたァ。オマエの弟様にも力を借りる、此れで文句ねェだろ」

 

 

揚羽の弟である、九鬼英雄もまた、彼を囲う円環の1人。

二年前、自分の命の恩人であるこの者を救いたいと、悔し涙を流しながらも姉を頼った英雄の、負傷した片腕を庇いながらも血に塗れた少年を背負い瓦礫の山から這い出た、かつての光景。

思えば、あの時が九鬼揚羽と、目下にて拗ねたようにそっぽを向くこの可愛い青年との始まりであったな、と。

 

未だ、この不器用な白猫は、我らが九鬼一党にとって掛替えの無い存在であるという当然の恩義に、恥ずかしそうに目を反らし続けている。

だから、九鬼揚羽は、九鬼英雄は、九鬼紋白は、竹田小十郎は、九鬼に連なる多くの者共は、例え独りでも事を為し遂げようとするこの馬鹿猫を、決して離してはやらない。

 

 

彼が背負う、目を背けたくなるような十字架の山すら、同じく背負い、征服してみせよう。

彼が助けを願うのならば、必ずしも力になってやろう。

 

 

――その程度が出来なくて、誰が九鬼を名乗れるものか。

 

 

 

「あぁ、だが、まだ足りん。足りんな。だから、我も手を尽くそう。来月の頭に、紋白が川神学園に編入となる事は既に知っておるよな、一方通行。それに加わり、『四名』程、九鬼の手の者を回そうと思う」

 

 

けれども、自分もあまり器用な女ではないから。

 

 

「……あァ?誰だその四人ってのは。紋白の護衛でクラウディオさン辺りだろォが……あの野獣やステイシーのクソメイドも来るなンて事にはならねェだろォな、オイ」

 

 

「フハハハ、安心しろ、ヒュームは今回、父上と共に外国で最近上場してきた企業団体の情報収集に赴く手筈となっている。無論、その際には今回のテロリストグループの情報が転がっていないか探って来て貰おうと、後で上告するつもりだがな。クラウディオと、ヒュームの代役としてステイシーが紋白の傍付きとして登校する事になるだろうが、その四名には数えておらん」

 

 

その無数の傷に触れる事なく、抱き上げれる事は出来ないかも知れないけれど。

きっと、痛みに震える彼を、無理矢理に抱き上げる事しか、出来ないだろうけど。

 

 

「――――オイ、オマエ……」

 

 

どうか、怖がらないで欲しいと、願う事しか出来ないけれど。

 

 

「――そう、だ……一方通行。出来れば、で良い。無理にとも言わん、が……貴様が許すなら、貴様の力にならせてやって欲しい」

 

 

どうか、どうか。

受け入れて欲しい、その傷ごと。

受け入れてくれる、そう信じて。

身勝手な女の慰めでも、少しは力になるだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――武士道プラン。

 

 

 

 

 

 

 

かつて、彼がこれ以上とない痛みを堪えるように、胸を抑えた、計画の果て。

彼にとって忌むべき過去を準らう、尖った爪。

 

 

怯える様に開いた紅い瞳に、拭い切れない、拭う事すらさせない、紅いアカイ傷痕が、咲いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『Velvet Kiss』__end.







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漆ノ調『Plastic Lullaby』

――滴った数本の前髪越しに伝わった女の唇は、不思議な程に暖かかった。

 

 

王座もなく、王も居らず、仕える兵も、守るべき民も居ない、倒壊したコンクリートに築かれた儚く無情な冷たく暗い瓦礫の城。

砂利と埃と塵芥に塗れた粗末なベッドに力無く腰掛けていたまま見詰めていた暗い水溜まりを遮るように。

錆び付いた鉄の匂いも、塗れたコンクリートの匂いも、全部全部、消していく。

 

雨に濡れた筈なのに、水を吸って白い肌に張り付いた衣服も、まだ、少しも乾いてない筈なのに。

小さく怯えたように丸めた背中を抱き締める腕が、濡れた服越しに伝わる柔らかな身体が、寄り添う頬も、未だに残る唇の甘い感触も、その全てがこんなにも、暖かい。

 

 

目を細めてしまいそうになる日溜まりの香りと温度に、愛を恐がる心を包むベールが一つ一つ、剥がれてしまう。

逃げないでと背中に触れる掌が、震える身体を癒してしまう。

恐がらないでと伝わる彼女の心音が、張り裂けそうな胸の傷を溶かしてしまう。

 

 

 

『私には、貴方のような頭脳も、能力も、傷も痛みも無い。貴方が抱える苦しみも、罪の贖罪の仕方なんて分からない』

 

 

 

鼓膜を擽る声が、余りに情愛に満ちていて。

合間合間に途切れた吐息の温もりさえ、彼を抱き締めようと肌に落ちてくる。

 

こんなにも、こんなにも。

雪の様に降り積もる想いが、駄目だと叫ぶ自分を無視して、形になっていく。

 

 

『そんな私が言えるのは、きっと貴方にとって、呆れてしまうぐらい馬鹿げた綺麗事。ふざけるなって、思えるぐらいの綺麗事なんでしょうね』

 

 

此処に居るよね、と。

此処に居なくては駄目だ、と。

確かめる様に強く、強く。

回された柔らかな彼女の腕が、手が、加減を変えて、場所を変えて、けれど離れてはくれない。

 

 

『貴方が、許せないこと。貴方が、恐がっていること、全部』

 

 

虚ろだった瞳に光が灯ってしまう。

力なく垂れ下がった腕が、彼女の背中を回ろうとしてしまう。

震える声が、無様にも音を連ねようと、唇が震えて。

 

 

『私も背負うから。私も一緒に苦しむ。私も一緒に泣く。私も一緒に償う。私も一緒に、裁かれる。全部、勝手に背負うから』

 

 

嗚呼、駄目だ、駄目なのだ。

そんなこと、許されない。

そんなこと、許せない。

必要のない罪すら背負おうとする、無力な筈の彼女の言葉を。

 

――嬉しいなどと、思ってはいけない。

 

傍に居て欲しい、隣で笑っていて欲しい。

 

そんな傲慢な甘えは、許してはいけない筈なのに。

 

 

『きっと、出来るから。傷付いても傷付いても、歩こうとするならずっと傍で支えるから。貴方が貴方を許せなくても、それでもいいから。貴方が例え、自分を信じる事が出来なくても――』

 

 

愛したい、愛されたい。

 

そんな、ずっと、ずっと昔に諦めて耳を塞いで目を逸らした愚かな願い。

 

信じてしまいそうになる、極めて稀少で、幽かな想いを。

 

浮き彫りする、真っ直ぐな言の葉。

 

 

 

『私が信じてあげるから……そんな私を信じなさいよ、一方通行。そしたらさ――』

 

 

 

 

――自分だけの現実だなんて、寂しい事、言えなくなるでしょ?

 

 

 

 

分からない。

 

どうして、何故、そこまでして。

 

こんな自分を信じられる。

 

こんな自分を信じてくれようとする。

 

前へと、進ませてくれようとする。

 

前へ、進む事を許してくれる。

 

 

『……どうしてって、そんなの決まってるじゃないの』

 

 

震えた唇が、漸く紡ぎ出せた、たった一つの問い。

 

それすらも、日溜まりの温もりに溢れた、見惚れてしまうような、バラバラの心を溶かしてしまいそうな、綺麗な笑顔。

 

惹かれていた、焦がれていた、自分が好きな彼女の笑顔。

 

咲かせてしまえば、もう。

 

 

『私が、貴方の傍に居たいからよ、どうしても。愛しちゃってるのよ、こんなにも。だから、良い加減、観念しなさい』

 

 

バラバラの心は、彼女の小さな掌に繋ぎ止められて。

 

込み上げた感情が、遠退けていた筈の想いが、形作って。

 

涙になって、落ちて、堕ちて――

 

 

 

 

――

――――――

 

 

 

二つある星を一つの名前で呼ぶという事をあの丘で教えたのだと彼女に告げたいつかの記憶が、慰める様に、寄り添う様に脳裏に蘇る。

マンションのベランダから見える景色は雨滴が降り注ぐ事は無いけれど、星も浮かばない曇天の空は光の一つさえ見つけさせぬまま、追想に捧ぐ不細工な、想いの造花を嗤う様に見下して。

 

夜の葵も宵闇に染め、花弁を黒へと塗り潰された深夜の街並みには、数えれる程の僅かな灯りしか見当たらない。

人々の営みに寄り添い続ける光の粒も、今は静かに眠っていた。

ベランダの手摺に寄せた細い体躯を、春に募る雪色の髪ごと冷たい風が通り抜けて、けれど寒さが苦手な筈の白猫は、凍える様に身を竦ませる事もなくただ静かに。

 

 

霞んだ紅の瞳が眺めるのは、退屈そうに傾いた宵の朧月でもなく、分厚い曇の先で届かぬ幽かな光を放つ星でもなく、細く長い、血の紅の一つも染まらぬ、白々しい白い掌。

誰かを護り、誰かを愛し、誰かを救い、そしてそれに釣り合わぬ程の、余りに多くで染めた罪の証である事は逃れようもない。

 

 

「――――」

 

 

銃を向けたのは、自分達もまた同じだから。

自分だけを責めるのも勝手だが、私達が私達を責めるのも勝手な筈だ、と。

憎たらしい口調のまま、かつて己が葬った幾つもの彼女達と、同じ顔の少女にどこか苦笑気味にそう言われて。

誰に似たんだ、その憎まれ口は――と呆れながら何とか彼女達の言葉を受け止める事が出来たのは、紛れもなく自分を支え続けると寄り添ってくれた、日溜まりの女のお蔭で。

 

こうして世界すら越えて、あの時と同じように、抱き締めようとしている女の名前を呼ぶ。

随分と女々しい、我ながら。

言葉にならない自虐の思想が、惚れた女の指紋だらけの心にそっと爪を立てた。

触れていてくれた彼女の感触に、気付けばいつまでも縋り付いていて。

彼女が住まう心の部屋の電気を消す事すら、出来ないまま。

 

 

 

「……風邪を引くつもりですか、ウサギ。オマエは寒さに弱い脆弱な男と記憶していましたが」

 

 

「犬っコロが吼えるには、月が出てねェだろ。満月まで後半月も先だ、先走って威勢出してンじゃねェよ」

 

 

「オマエこそ、兎の癖に月が見辛い夜に月見とは何事ですか。餅を付くには舞台が整って居ないでしょうに、そんな薄着で何を酔狂な真似をしている。さっさと眠りなさい」

 

 

いつの間にそこに居たのだろうかと考えるまでもなく、口を付いて出ただけの憎まれ口に、振り向いてみれば、人の事を言えない薄い黒のタンクトップを纏った紅い麗人が気難しそうな表情を浮かべながら、腕を組んで一方通行を見据えていた。

普段着けている眼帯も外して、女らしい凹凸のラインが浮き彫りになる格好を隠そうともせず、肌寒いのか少し身体を竦ませながら、組んでいる腕の隙間に、暖かそうな毛布を抱いて。

 

 

「……オマエこそ、さっさと寝ろ」

 

 

らしくもない施しなどいらない、滅多にない気紛れなど余計な世話、調子の狂う様な真似はしなくて良い。

鬱陶しいと云わんばかり背中を向けて、それが好意の受け取り方の下手くそな、不器用な青年の照れ隠しだと知らないマルギッテは、御構い無しにその細い背中を見据え続ける。

 

柄にも無い事をしようとしているのは承知しているが、先に柄にも無い事をしていたのはそっちだろうと、言葉にはしないけれど、視線には感情を乗せて。

優しさも手渡してしまわぬ様にと広げた毛布を、背を向け続ける彼へと投げ渡せば、数瞬の思巡の後に低い舌打ちと共に、さも仕方無いと云った風情で素直に毛布を纏った。

 

 

可愛い所もあるだろうと、無愛想な男の姉がいつか呟いた事もあったが、可愛い等とそんな言葉が似合う男ではないだろう、と。

けれど、自然と緩む頬にはどう云った感情が寄せられているのかは、彼女自身の不器用さが理解を遮ってしまう。

素直にならない白猫と、素直になれない紅い犬。

似た者同士の意地の張り合いは、何時だって猫も犬も食べやしない。

 

 

「生憎ですが、機を見計らってベランダに向かうオマエの足音に目が覚めて、文句を言いに来てみれば、何を黄昏ているのです。お蔭で私の眼も冴えました、反省しなさい」

 

 

「俺がベランダで風に当たる事に文句を言われる筋合いなンざねェよクソ犬。勝手に起きて、勝手に眠気飛ばしたオマエのミスだろォが、責任転嫁もドイツの軍狗の御家芸だったとは知らなかったぜ」

 

 

蔑むニュアンスに不平不満を混ぜて紡げば、そのままそっくり馬鹿した様なニュアンスの罵詈雑言が詠われる、幼子すら閉口しそうな犬と猫の戯れ。

貼り付けた薄っぺらい悪意は所詮明け透けで、矛盾しか孕んでない言葉が擽ったい。

 

足音に目が覚めて、文句を言うのにわざわざ折り畳んだ毛布を纏うでもなく持って来たのは何の為なのか。

そんな子供にすら呆れられる程に明瞭な謎かけを、思考を巡らせるまでもなく解けてしまった青年のテノールはどこか熱を以て風に溶ける。

想いが形になってしまえばきっとこんな時、背中を向けていて良かったと安堵でもするのだろうか、と。

 

 

「……身体が震えているのは、寒いからですか」

 

 

「冷めてるからだろォよ、犬に喰わせても一つもつまらねェ感傷だ。放っとけ」

 

 

前置きなんて、今更要らないだろう。

脈絡もなく本題に切り込めば、悲しくも無感情なテノールが、驚くべき程にあっさりと、誤魔化しも濁す事もしないまま心を語る。

 

騙らぬ語りが、彼の強さ。

向ける背中は、彼の弱さ。

 

彼に放り投げた余計な世話に対する答えを少しずらして返す辺り、やはり素直ではない男だと。

感傷の痕を準うと伸ばした指先は、無遠慮な白い掌に遮られてしまった。

 

普段より幾分も遅くなってしまった夕事の席で、見えない何かを見詰めるどこか虚ろな紅い瞳に、気付いてしまったから。

同じように、寧ろマルギッテよりも当の昔に気付いていたであろう一方通行の姉は、何かを堪える様に、静かな視線を彼に向けていたけれど。

 

 

「……喰うか喰わないか等、犬が決める事、試しに捧げてみれば良い。噛み付いた物が多少苦い程度では、きっと狼狽える事もないでしょう」

 

 

「はン、ゲテモノ喰いとは恐れ入ったぜ。日頃何を喰わされてンだ、そのバカ犬は。味覚狂ってンのか」

 

 

「……生憎心当たりはありませんが、最近、少々舌が肥えたらしい。どこかの兎が調子良く腕を振るった所為でしょう、忌々しい事です」

 

 

「忌々しいと来たか……なら試してみるのも悪かねェ、味覚が矯正されでもしてンなら、御笑い草にしてやるよ」

 

 

振り向かぬまま、漸く朧月を見上げた青年の、括られない白雪の銀河が風に流れて、瞬いて、煌めいて。

幻想的な美しさと、月を見上げる白兎。

 

漸く『らしく』なったなと、本人も気付かぬ内に浮かんだ、彼に劣らぬ美しい微笑み。

紅い麗人は静かな眼差しでその後ろ姿を眺めながら、ひやりと冷たいベランダの窓へと白く細い背中を預けた。

 

そして、彼は。

 

 

「……オマエは、人を殺した事があるか?」

 

 

重く、重く。

かつて、マルギッテが尊敬の念を寄せる一人の父親が、他でもない目の前の青年に問い掛けた言葉が、瞳に映らぬ重みを以て、夜の空気に罪科の在処を囁いた。

 

 

 

「――有ります」

 

 

隠せる事でもない、隠す事でもない、特に、対面で焦がれる様に月を見上げる、この背中には。

微かに残った血と硝煙の匂いに気付く者は、血と硝煙に塗れて生きてきた、命を嗤う者達だけだ。

 

鋭く放った肯定の言葉に、誇りを添えて。

後悔はしなかったけれど、奪った命の感覚はいつだって彼女の事を見詰めている。

 

 

「軍の命令か」

 

 

「確かに、そうでしょう。けれど、軍の命令だから、と逃避はしていません。自分で選んで、自分の手で奪った。それだけの事です」

 

 

仮に逆らえば、罰せられていたから等と、言い訳はしない。

軍人として産まれ、軍人として育ち、軍人として幾つもの戦場を駆け抜けて、軍人として命を屠って。

それを当然なんだと受け止める程に強くは慣れなかった彼女は、せめて、自分で選び切るという茨の道を突き進んだ。

 

積み重なった罪科の残硝が築いたのは、女としての幸せも知らず、闘いを糧にしか生きれなかった狂人だけ。

人の命が塵芥にさえ等しい兵士達の揺り籠を駆け抜けた先には、なけなしの矜持しか残らない。

 

 

「後悔、してねェのか」

 

 

「えぇ、そうです、その通りです、兎。後悔はしなかった。強き者が刈る戦場で、弱き者を憂う弱さは見せられない。少なくともあの頃は――そう、思っていました」

 

 

後悔は無かったけれど、懺悔はした。

命を奪うという事の重みに耐えられない自分の、精一杯の自慰行為。

命の華が種子も遺さず散っていった大地で横たわった空虚な星の海に、怨み言の様に詫びた夜。

 

きっと永劫に瞼へと焼き付いた揺り籠の呪いに解放されたいと、何処かで歪んでしまった願いが、今も彼女を修羅に生きさせようとする。

命すら燃やしてしまうような強者との闘いを渇望して、心の何処かで終わりを願う自分が居るのだ、今でも。

 

その事を見詰め直せたのは、目の前の憎たらしい男が見せた、傷付きながらも前を向こうと足掻き続ける、あの夕暮れ時の放課後も少なからずあるのだという事は、決して話す訳にはいかないけれど。

 

 

「今では違うってか。まァ、あの御嬢様は眩し過ぎンだよ、もォ少し曇ってくれた方が、俺の眼にも優しいンだがな」

 

 

「あの真っ直ぐさこそが、私の御嬢様なのです。オマエの勝手な都合で曇って貰っては困ります。それに、居るのでしょうもう一人。眩し過ぎる程に優しい方が、直ぐ傍に」

 

 

「あァ、全く。一々沈ンでたらわざわざ追い掛けて来やがる、厄介なもンだ、本当に」

 

 

「……その意見には、素直に同意してあげましょう」

 

 

幽かに喉を鳴らしたソプラノに同調する様に、テノールの苦笑がそっと寄り添う。

近付けば近付く程に、触れれば触れる度に、紅い影と白い影の輪郭が似ているなと思えてしまう。

 

 

どちらも自分の罪に押し潰されそうで。

どちらも過去を引き摺る生き方が難しくて。

どちらも不器用で、傷だらけで。

優しさに怯えて、優しくする事を何処かで恐れてる。

 

けれど、恐れていた所で星の光はいつも、自分達を照らそうと眩しく輝いてくれるのだ。

自分にとって、生き甲斐となってくれる、大切な星が。

 

 

 

「それが、オマエの生きる理由か」

 

 

「えぇ、その通りです。オマエにとってもそうなのでしょう?『一方通行』」

 

 

「……悪ィかよ、『マルギッテ』」

 

 

もし、天国と地獄が本当にあったとして。

堕ちる先は一緒なのだろう、彼も自分も。

つくづく、似ている。

 

あぁ、だからか。

だから自分の上官は、彼の近くに居る様に命じたのか。

 

 

あの夕暮れの放課後で、目の前の白猫が最後に唄った、儚い約束が脳裏に鮮やかに蘇る。

遠く遠くの、届かぬ遥か、空に唄う約束。

 

 

――惚れた女との、約束がある。

 

 

「前を向いて、生きる事を。約束したのでしょう、オマエは」

 

 

「ハッ、オマエに言われてりゃァ、世話無ェな」

 

 

僅かな嘆息と共に、漸く振り向いた紅い瞳が初めて見せる様な優しさを伴って、浮かばぬ月の様にキメ細やかな雪原に揺蕩う。

世話を焼かせようともしない意地っ張りがよく言うものだと、不敵な笑みで応えようとしたけれど。

どうやら、張り続ける頑固な意地に耐え兼ねて、身体が先に音をあげてしまったらしい。

クチュン――と、余りに間の悪いタイミングで白い青年の耳に届いた、やけに可愛らしい乙女っぽい、くしゃみ。

 

 

「……はァ」

 

 

僅かな、けれど確かなセピア色の心配りのせめてもの御礼に良い女を演じさせて見るには、如何せん爪が甘い。

役者にするには二流だろうか、途端に弛緩してしまった空気に、けれど何故だか悪くないと思える自分が其処に居て。

手痛い失態に、白くスマートな顔立ちの頬を鮮やかな朱色に染めた残念な歳上だとも思いながら、武士の情けで最後まで気取らせてやろうか、と。

 

肌を包み込んでいた毛布を剥がして、悔しげに、若干物言いたそうに睨み付ける紅い視線を流しながら、細くも女らしい撫肩にそっとストールの様に毛布を巻いてやる。

今にも苦言の一つでも吐き出しそうに小刻みに震える唇から、ほぅっと安堵の息が零れた。

既に一方通行の肌の温もりで暖められた毛布に包まれているのだと考えれば、妙に意識してしまいそうになるマルギッテの細やかな抵抗感など、一々意に介してやる男ではない。

 

 

寒さに弱い癖に長袖無地の黒いインナーとジーンズという格好である一方通行もそうだが、男の前で肩まで肌を晒して、寒空の下で長話など、つくづく計算高くは生きられない女であるらしいから。

間抜けを晒してくれて有り難うと皮肉気に笑う白猫が、もう一度月を仰ぎ見る。

 

 

「……とんふぁーきっく」

 

 

「てっ……いやトンファー関係ねェだろそれ」

 

 

 

その格好のついた役者ぶりが填まって見えるのさえ悔しくて、首にぶら下がったドックタグを手持ち無沙汰に握り締めながら、ぺちっと情けの無い音を鳴らす、蹴りとも言えない動きで、背を向けた白猫の硬くしなやかなふくらはぎの部分に足を当てる。

 

痛くも痒くもないのだが、つい反射的に口を付いて出ただけの音をそのままに、張り合いの無い蹴りの技名に異議を唱える低いテノールに、口元を隠すように毛布に埋もれたまま、もそもそと、うるさいとだけ言って。

何処までも紅い麗人と似通っている癖に、紅い犬と白い猫の夜会という名の舞台で、この白猫だけ綺麗に立ち回せるのは癪だと思ったから。

フェアではないまま終わるのも、対等でないまま流すのも許しはしないと、灰色に分厚い雲に千切れた朧月を見上げながら、紅い犬が鳴く。

 

 

「どういう女性だったのですか。オマエの、生きる理由は。聞かせなさい」

 

 

「あァ? ったく、まだ喰い足りねェってか。ゲテモノ喰いにも困ったもンだな」

 

 

もう、傷を隠すのも今更だろうと。

星の見えない夜は気分が良い、あの揺り籠の日々も無理に振り返しもしないまま、平静に過去の事を話せるのだから。

だから今夜は特別なのだ、きっと夜が明けて、太陽が昇ってしまえば、それだけの誰にも語られない御伽噺。

童話の本にして言い聞かせる物でもない、手垢のついた良くある話。

人が前を向いて生きる為にきっと必要な、過去を乗り越えた経験談。

乗り越えれた気でいたいだけの、紅い犬と白い猫の、一時の傷の舐め合いなのだから。

 

 

「どうやら、苦いと構えていた割には、そうでもなかったらしい。というか、オマエが自分の事を話さないのがいけない。結局、感傷に触れられたのは私の方ではないですか」

 

 

「犬の頭には説明し辛い経緯なンでな、人間様なりの配慮だ。まァ、オマエの察してる内容を五割増しぐれェで丁度良いクソ具合だ、とだけ言っといてやる」

 

 

彼が、一方通行がどれ程の罪科と後悔を重ねているのか等、マルギッテは今更言われるまでもない。

鮮血と硝煙に生きてきた彼女もまた、無数の命を貪った獣であると云う点だけは確かである。

だから、その白い傷痕には、触れなくても良い、話さなくても良い。

 

けれど、その傷痕を今も癒しているであろう約束だけは、恥ずかしい想いでもしながら晒して貰おうか、と。

紅い麗人が静かな微笑を浮かべて、ほぅっと吐息を空に溶かす。

白にすら染まらなかった無色の息吹を、そっと一陣の柔風が抱き締めて飛び去った。

 

 

「捻くれ者のオマエをそこまで想える程だ、きっと心の広い女性だったのでしょうね」

 

 

「どの口が言いやがる、同類が……チッ、まァ、確かに俺には到底勿体無ェ、良ィ女だったよクソッタレ」

 

 

明日はきっと寝不足になるのだろう。

彼も、自分も揃いも揃って。

どうせいつもの様に瑠璃色の夜明けに目を醒まして、顔に似合わない甲斐甲斐しさで朝食と弁当を用意して。

目元の隈を隠し切れない理由は、誰にも話さないのだろう、きっと梅子にさえも気取られないように立ち回って。

 

 

――馬鹿な事です。とっくに気付かれていますよ。

 

 

月を見上げる男の隣りまで、少し隙間を作って、同じように月を見上げる。

上手く隠れ切れてない鈍い金色に、喉元まで競り上がった欠伸を聞かれぬ様に噛み殺して。

 

夜がまだ、葵の華を咲かせていた頃に。

らしくもなく余裕を無くした白い背中を見詰めていたマルギッテに、彼の保護者がそっと近くまで歩み寄って。

耳元で、小さく囁いたのだ。

 

 

明日の朝食と弁当は私が作るから、今日は早く寝るとする。

味については、一応最善を尽くすけど、失敗しても許してほしいと。

 

小生意気な、妙に似合ってないけれど、何だかホッとするようなウィンクも添えて。

 

あぁ、そうだ、つまりは自分も白い横貌も、役者としては二流に過ぎない。

きっと舞台は、あの優しき姉の一人勝ちだろう。

 

この無愛想な、けれど確かに時々可愛い所がほんの少しあるかも知れない白猫を、支えようとする女は、誰も彼も、良い女ばかりで。

だから、時折、その優しさに苦しそうにするのも、あんな良い女に支えられる税金みたいなモノだと、肩の力でも抜いたら良い。

 

惚ける訳でもなく、きっと心底惚れているのだろうと思える様な、静かな情動。

愛を知って、哀に果ててしまった、琥珀色の想い出話。

犬も喰えない話だけれど、眠くなるまで、聞いておいてやる。

不遜でちぐはぐな気高き紅の狼の矜持を、眠たそうに浮かぶ千切れた月がそっと笑った。

 

 

 

 

――

―――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

木枯らしの向こう側、月が揺らめいた。

 

桜はずっと遠く彼方に花弁を散らして、行く先を追えば、通り過ぎた夏の名残と、秋の枯葉のざわめきが耳に届く。

春は桜、夏は若葉、秋は葉崩れ、冬は寂しがる枝の先に孤独を雪が咲いたこの丘で。

二つある星を一つの名前で呼ぶと教えた場所だと、星を指し示さない彼の言葉を、横顔を、いつも思い出す。

 

 

 

「やっぱり此処か……風邪、ひいちゃうわよ」

 

 

「……今日は、星が綺麗だから、つい。探させちゃった?」

 

 

「いんや、全く。だって、吹寄さんが居そうな場所って言ったら、此処かラストオーダーとアイツの所しかないじゃない」

 

 

放ってしまえば、どこかの誰かを追い掛けて消えてしまいそうな儚い背中から、目を逸らすように少し陽気に振る舞って、御坂美琴は声をかける。

どんな季節でも、気付けばこの場所で、遠い遠い眼差しで星屑を見上げている、美しい乙女。

 

飽きる事なく、星を想う彼女の横顔はいつだって綺麗だ。

自分の想い人が、あの朴念人が、ついそんな彼女の横顔に

見蕩れて頬を染めていたのも、無理はない。

 

誰かを想い、支え、隣りに立ちたいと願い続ける儚い横顔は、まるで散り行く桜を眺めているかのようで。

静かに、綺麗に、揺れる夜空を見詰める色を薄めた黒の瞳は真っ直ぐ過ぎて、その在り方は余りに美しい。

 

 

優しく、そして綺麗になった、とても。

恋をして、哀しながらも、愛し続ける黒髪の美女を、彼女ともそこそこの付き合いの長い朴念人は、どこか悔しそうにそう呟いていた。

美琴もまた、そう想う。

こんなにも純粋に人を愛せるのだと言うことを、いつも背中で謳う彼女に憧れて、少し髪を伸ばしているぐらいだ。

 

 

「……で、アイツはまた、どこほっつき歩いてんの?こんな美人を一人にしとくなんて、危機感ってのが足りないんじゃない?」

 

 

「心配かけて、ごめんね、美琴さん。多分、私に気を遣ってくれているのよ。何も言わないで送り出してくれるのよ、いつも」

 

 

「……危機感が足りてないのは、貴女もでしょ、吹寄さん。全く、どいつもこいつも」

 

 

「ふふ……そうね。本当に、どうしようもないわ」

 

 

例えば、桜を美しいと想うのと同じことだと。

精一杯、魅せるだけ魅せつけて、刻になれば散っていく。

その潔さが綺麗で、そして僅かな憧れを背負わせる。

 

手を伸ばして触れる事は出来るのに、桜の様な彼女が想い募るのは、いつだって白い大地の上。

この場所でいつも、いつも。

それを知っているから、彼女を遮る事は出来ない。

美琴も、朴念人も、ラストオーダーも、美琴の云う、アイツも。

 

 

本当に――どうしようもない。

 

 

馬鹿ばかりで、泣けてくる。

 

 

想う彼女も、止めないアイツも。

 

 

誰も止められなかった、『アイツ』も。

 

 

 

「――」

 

 

彼女の足元にある、形ばかりの石碑に、手に持っていた花束をそっと置く。

 

一度も彼女が花を添えない、冷たいだけのただの石の十字架。

 

 

石碑を見ることもせず、いつも星ばかりを探している、儚い乙女の代わりに、御坂美琴は花を捧げる。

 

シオンと、クロッカスの、花束を。

 

 

――ねぇ。

 

 

――アンタはちゃんと、幸せだった?

 

 

 

言葉にすれば、きっと軽い。

紡がれない言葉の代わりに、花束のクロッカスがそっと風に靡いて。

 

流れるのは、風立ちぬ――甘い屑。

 

 

 

 

 

『Plastic Lullaby』

 









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捌ノ調『Starry Sky』

雨上がりのアスファルト、小さな水溜まりに反射する太陽の光が、空色と白雲を映す水面に、瞳に写らない程のリングを幾つも描いている。

鼻をつく鈍い香りに眉を潜めることもなく、明るい足音が陽の当たる坂道をノックする。

 

鼻歌すら聴こえて来そうな、幼稚な陽気さは、自他共に認めるグラマラスさには削ぐわない、けれどそのちぐはぐさも彼女の魅力だと思わせる。

リズムに合わせて御機嫌なタップを刻む縦に伸びた影が、烏の濡れ羽みたく水質をコーティングした、滑らかな漆墨のアスファルトを舞台に踊っていた。

 

 

「楽しそうだね、姉さん」

 

「あぁ、愉しいとも、今日は朝から絶好調だ」

 

 

雨雲は晴れて、空に広がる蒼い便箋にはクレヨンで描いたみたいな輪郭の濃い白い雲だけだけれど、弟分の苦笑がちな声に反して川神百代の美貌には虹が架かっていた。

 

なんで機嫌が良いのか、どうしてそんなに楽しそうなのか、そんな事をいちいち聞く必要もない。

彼女の隣で肩を組まされ歩かされている、軽く引くレベルで頭の良い頭脳が、全く機能していないであろう眠た気な白い背中を見れば、自ずと答えが出ようモノだと、直江大和は嘆息する。

 

いつもの、本来ならばそこに居る事が出来るのは自分なのにと、ほんの少しの羨望と嫉妬と、けれど相変わらす誰彼構わず絡まれる体質らしい苦労人な青年に、やはり同情してしまう。

普段は自分達、所謂風間ファミリーよりも三十分は早い筈の彼がこの時間帯に、マルギッテと共に通学路を歩いていたのが、そしてそれを百代に目敏く見付けられたのが、運のツキだろう。

 

普段はわりと背筋を張って歩いているのに、今日に限って疲れた様に猫背で歩くマルギッテと、猫が顔を洗う風景がぴったり填まりそうな仕草で眠た気な紅い瞳を擦る一方通行の組み合わせには、色々と勘繰ってしまった。

 

特に、今、うつらうつらと歩きながらも姉に支えられている学園トップクラスの色男を、歯軋りを立てながら凄まじい形相で睨み付けている島津岳人など、マルギッテと熱い一夜を迎えたと確信して、あの恐怖の代名詞に殴り掛かっていったのだから、畏れ入る。

尤も、岳人の喧しい叫びに、本気で殺気立って吊り上がった紅い瞳のギラ付いた狂色と、獰猛な狼の嘶きを彷彿しる、うるせェの一言に、顔を真っ青にして脅えるという締まらない結果になってしまったが。

 

 

「……あれは無理だ、ほんとに殺されるかと思った」

 

 

恐らくは岳人だけに向けていたであろうガチのメンチ切りに、大和だけではなくその場に居たファミリー全員が例に漏れず背筋にドライアイスをぶつけられたかの様な、凶悪な寒気に覆われてしまった。

普段飄々としている椎名京ですら、いつもネタにしてごめんなさい新作の大和との本捨てますと、ガタ付いた唇を震わせ、百代に至っては旅館での泣かされた記憶がリフレインしたのか、大和にべったりと張り付いて半泣きになっていたのだから、末恐ろしい。

 

正直興奮した、朝から二度目のウォームアップをした彼の坊やは、あの殺気にすら屈しない一時の健闘を見せてくれた、無論直ぐに魔王の威圧に屈したが。

あの恐怖は未だに脳裏に焦げ付いているらしく、唸り声が無意識の内に口を付いてでてしまった。

そんな大和の様子に不思議そうにコテンと首を傾げる百代は、どうやら御機嫌な余りに若干頭がお花畑になってしまっているらしい。

 

 

「ほーら、一方通行。ちゃんと前向いて歩いてないと怪我するぞ。確りと掴まってないと転んじゃうぞ」

 

 

「……ン」

 

 

「そこで胸掴んだり尻揉んだりしないとこがお前らしいよ。なんでそんな端っこをちょんと掴むんだ。何、ショタ属性でも新しく取り入れたいのか?ん?」

 

 

 

「……うるせェよ、枕の分際で」

 

 

「枕って……ならせめて抱き枕っぽく抱き付けよ、抱き枕甲斐のないヤツだなぁ。御約束ってのがあるだろ、何でそんなガード堅いんだコイツ」

 

 

「……眠ィ」

 

 

「……大和、今日は学校サボろう。基地に持って帰ろう、これ。なんか、ヤバい、なんか、こぉ……モフりたい」

 

 

「今度は泣かされるだけじゃ済まなくなるから止めようね。京はお友達で」

 

 

「まだ何も言ってないのにっ……でもそんな大和も好き」

 

 

アスファルトの続く坂道を登り切って門を曲がれば、長い長い河川敷が視界に拓けてくる。

昨夜の雨天で水嵩の上がった川の波目がキラキラと反射して、代わり映えしないいつもの風景に、間違い探しをする気すら起きない。

 

風景の間違い探しをするなら、在り来たりないつものメンバーに囲まれたこの面々の方が、よっぽど分かり易いだろう。

ファミリーの中に混ざった寝坊助な白猫は、彼らしさなんて全く見付けられない、間違いだらけ。

 

少し舌足らずなテノール、ぽーっと微かに開いた紅い瞳、背の高いしなやかな体躯をだらりと脱力させた垂れ姿と、違和感ばかり。

唯一変わらないのは、白銀に靡く相変わらず人間離れしたその髪の毛並み位だろうが、実はこれ、マルギッテが櫛通しして整えたらしい。

 

デレないツンデレだと百代が嘆く程に無愛想な彼が素直に為すがままに櫛を受けるのも驚いたが、普段あれだけ剣呑な仲でありながら櫛を通してやろうと思い至ったマルギッテにも驚かざるを得ない。

正直マジでやっちゃったのこの二人、と戦慄してしまうのも致し方ないと云うものだ。

 

仲良き事は良い事かなと笑顔で頷くクリスと同意する由紀江と何やらメールに必死な卓也以外の全員がマルギッテに真意を問う一幕があった事も、季節が巡るように当たり前の事と云えるだろう。

結局は梅子に頼まれたからだと、顔を真っ赤に狼狽えながら説明したマルギッテに、スゴスゴと引き下がった訳だが。

 

取り敢えず、少なくとも距離を埋めるイベントっぽい何かがあったのは間違いないだろうというのが軍師直江大和の見解である。

 

そして不満そうに一方通行に絡んでいった百代が、途端に御機嫌になった理由は、ご覧の通り。

あの気難しい気紛れな白猫が、大人しく腕の中に収まっている事に快感すら覚えているらしく、今にも嬉しさの余りに頬擦りしそうな危険な匂いすらしている。

正直、この白い髪を存分に抱き締めたいという気持ちは分からなくないと思えてしまうのが、心底悔しい限りである。

 

 

「おっ、いいんちょじゃん!」

 

 

「おはよ、いいんちょ!」

 

 

「あっ、お早うござっ――」

 

 

プラプラと浮かぶ白のポニーテールを、今なら触っちゃっても良いかなと、男としての道を踏み外しそうな事を考えてしまう自分に軽く危機感を自覚している大和を余所に、先頭を歩いていた翔一と一子の、晴れ渡る青空に相応しい快活な挨拶が響く。

 

優等生達の園で委員長を勤める心のトランキライザーこと皆のアイドル十河と対となる落ちこぼれ達の園で委員長を勤める心の清涼剤こと甘粕真与。

一部では彼女達の幸せを見守り隊などという、実はかなりの仲良しコンビの片割れが、分かり易い程に狼狽していた。

無論、原因は未だ脳味噌の半分が寝息を立てているであろう、白猫である。

 

 

「……え、あの、どうしたんですか一方通行君?まさか体調でも悪いんですか!?」

 

 

「あぁ、いいんちょ、お早う。ごめん、ちょっと静かにしてやってあげて。なんか寝不足で疲れてるみたいで……」

 

 

「ね、寝不足……だ、大丈夫ですか?」

 

 

「……うン」

 

 

「ぅあ、大丈夫……じゃ、ないみたいで……うぅ……」

 

 

心配そうにクリクリとした大きな瞳が覗き込めば、半分も開かないぼんやりと揺蕩う紅い瞳を持つアルビノが、子供の様にこっくりと頷く。

普段、料理のレシピの交換などを主に交流のある二人ではあるが、高校生とは思えない程に大人びている一方通行相手では、可愛がられる妹の様な立場になってしまうのが常である。

 

男ながらに料理、洗濯、掃除と意外と家庭的で、性格とは正反対になんでも器用にこなす青年を、兄に向ける憧れもちょっぴり抱いて真与にとって、この光景は革命的に映ってしまうのも無理はない。

頬を瞳の色と同様に真っ赤に染めながら、震える手を伸ばしたり、引っ込めたりと懸命に葛藤を巡らせる桃色の少女。

心持ちは、ゲージの中で眠ってる白猫にときめいて、けれど触って起こすのも可哀想だと、でも可愛い、でも、と悩んでいる様なモノで。

 

 

「良いだろぉ、でもお触りは厳禁だぞ。今コイツは私のだからな! ほれ、うりうり」

 

 

「枕、うぜェ、やめろ」

 

 

「う、羨ましいです……うぅぅぅぅ」

 

 

「姉さん……」

 

 

「お姉様……」

 

 

一方通行を為すがままに出来るのに相当舞い上がっているのか、大人気のない独占発言を発しながらそのスベスベで柔らかそうな白髪のポニーテールの部分を指で梳く百代に、割と本気で残念そうな、けれど羨望も程好くブレンドした視線を送る大和と一子。

川神学園一の美人と自他共に認めれる美貌を持つ彼女に撫でられるのは確かに羨ましい事で、一方通行場所代われと思わなくもない。

 

しかし、あの不遜な一方通行をこうまで好きに出来る機会なんて、今後あるか無いか分からないし、百代の指をサラサラと流れるシルクのような銀糸の流線は、一度で良いから触れてみたいもの。

寧ろ川神百代、場所代われと言わんばかりに食い気味に見る大和含めた三名に、呆れた京の溜め息が虚しく響いた。

そんな彼らを遠巻きに、羨ましそうに眺めている残りのファミリーの面々の中で、唯一、髪を梳く際にしっかり満喫していたドイツの紅い軍狗は、ちょっとした優越感を覚えながらの高見の見物である。

 

 

「やっば、何だこれ、何だこれ!? 手触りヤバ過ぎだろ……うわっ、うわっ……こ、これホントに髪なのか!? まんまシルクじゃん!」

 

 

「えっ、ちょっ、ホント!? お姉様っ、私も、私も触りたい!」

 

 

「姉さん……ごめん、お願い、俺もちょっとだけでいいから……」

 

 

「大和……夫婦の協同作業だねっ! という訳で私も……」

 

 

「だ、駄目です、皆さんいけませんよ!一方通行君が可哀想じゃないですか……」

 

 

「……ン、甘粕……?」

 

 

あのマルギッテすら優越感を覚える至高の触感に、食べた事もない様な高級料理に舌鼓を打つが如く大仰なリアクションに、思わず男としてのラインを踏み越えてしまう軍師も居れば、然り気無く便乗しようとする京に、先日の尊厳という尊厳を踏み滲った調教を行われたにも関わらず、懲りた様子のない一子。

 

放っておけば自分も自分もと殺到しそうな他の面々の視線も感じて、日頃何かと彼に世話になっている分の良心が勝って我を取り戻した真与が必死に彼を庇おうと、彼に背を向けその小さな身体を精一杯広げて、飢えた獣達の前に立ち塞がった。

こんな無防備な状態の一方通行を玩具にさせる訳にはいかない、彼を守らなくてはいけない。

微睡む白猫に抱かされた庇護欲と、弟達の面倒を見つつ家庭を助けるべく奔走する頑張り屋さんな真与の母性。

それに呼応して甘く鼓膜を擽る掠れたテノールが、綿の抜けたぬいぐるみの様な、ふやけた温度で真与の名前を呼んだ。

 

 

「だ、大丈夫です一方通行君。私、頑張りま――」

 

 

「……ン」

 

 

無垢で純粋で真っ直ぐな心の儘に彼を守護せんと奮起する真与の首から鎖骨を細長い蛇の様な腕がするりと抜けて、小柄な肩をフワリと掴む。

唐突に骨張った掌に掴まれた肩から伝わる暖かな感覚に呆気に取られる暇もなく、ヒョイと彼の腕の中へと引き寄せられて。

気付けば、優しく、壊れ物を扱うように後ろ抱きされていて。

ポスンと実にあっさり彼の身体に背を預ける事になってしまった彼女の頭が、沸騰するヤカンの如く急速に熱を帯びていった。

 

 

「ふぇ……」

 

 

「なん……だ、と……」

 

 

時が止まったようだった。

空に流れる雲も、回り続ける大地も、川の波が造り出すせせらぎさえも、川辺に咲く草花の豊かな色彩さえも。

目の前の光景を心の底から受け入れられない抵抗感に押し出された、茫然と色の抜けた科白が百代のぷっくりとした唇から零れ落ちる。

 

あの一方通行が、弱々しい力ながらも、少女の身体を抱き締めている。

 

胸を当てて引っ付いても邪険に扱い、百代ですら涎垂する水着姿のナイスバディに絡み付かれても面倒臭そうに顔を顰めるだけで、現にこうして肩を抱いて密着していようが寝惚けながらも決して百代に対して自分から触れようともしなかった、あの一方通行が。

 

 

『あの』一方通行が、である。

 

 

「……眠ィ」

 

 

「へっ?」

 

 

「……ぐゥ」

 

 

 

いち早く我に返って、立ったまま器用に静かに寝息を立てている、男の癖に長い睫毛と白い肌と眉目秀麗な顔立ちが浮かべる美しい寝顔をそっと覗き込んだ大和が、冷静に彼の行動の理由を観察する。

 

 

どうやら、本能的に百代に甘える事を恐れているらしい。

板垣辰子にも普段、あれだけ無防備で寛容である事が旅館での一幕で察する事が出来たのだ、彼が危ない性癖を隠し持っているというのも、微妙な所である。

となれば、常に彼を勝負しろと追い掛け回していた百代より、害もなく交流もあった真与の方が遥かに安心出来る存在であった、と。

流石はクラスが誇る心の清涼剤、あの一方通行にすら無意識に甘えさせるとは、恐れ入る。

 

 

そして、白猫の腕の中に収まった小柄ではあるが器の大きいと誰しもに賞賛されるべき少女は、顔を赤らめながらも、一方通行の浅い抱擁が邪な感情から来るものではないと、ちょっぴり残念に思いながらも理解していていたので。

だからこそ、滅多に見せない猫の気紛れな甘えを、擽ったそうに受け止めていた。

 

 

「しょ、しょうがないですね……よし、今回は私がお姉さんです!」

 

 

「……ンァ」

 

 

小さな呻きの様な響きで答えている辺り、一方通行は辛うじて意識を留めているらしい。

といっても殆ど睡魔に思考が持って行かれているのは間違いないらしく、右へ左へと何やら危なっかしくフラフラとしながら立っている彼を、奮起した真与が手を回された状態でえっちらおっちら彼を誘導しようと歩き出す。

 

肩に手を当てて行進する親子みたいな、滑稽とは何故だか思えない、奇妙な微笑ましさ。

 

桜色の毛並みの小さな親鴨に、白色の毛並みの大きな子鴨がちょこちょこと付いて行く様に、まず心の底から驚いて、次に微笑ましくなって、最終的に邪魔にならない様に道の真ん中を譲る登校中の生徒達。

更には対面からの自転車などから守る様に川岸側を歩きながら先導する生徒も居た、というか翔一と一子だった。

 

そして目を丸めながらも通り過ぎた人や、後方から来る人々に頭を下げながら詫びているのは、由紀江とクリス、マルギッテと彼女らに付き合わされている岳人と卓也である。

 

何という和む光景、何という優しい世界。

拝啓父上様、母上様、川神は今日も平和です……とは、いかないのだろうと、大和はそっと嘆息した。

母譲りの中性的な顔立ちに添えたブラウンの瞳が、げんなりしながらも隣へと移る。

 

 

 

「……負けた……私が……負けたって……あんなちっちゃくて可愛い娘に……うっそだろ……」

 

 

ついさっきまで爛々と陽気に輝いて紅蓮の瞳が見つめる先は、ただ虚ろ。

とある聖夜の王座陥落に次いで、完膚なきまでの敗戦。

 

それも、学年一のグラマラス美女と普段あれだけ豪語している女が、可憐ではあるがぶっちゃけ高校生とは言い難い幼い少女に。

身体の傷は瞬時に癒せる超常的な能力を持つ彼女とて、心のダメージはどうしようもない。

だがしかし、大和の勘が正しければ、かつての百代自身が招いてしまった結果であるので、より一層救いがなかった。

 

 

「……姉さん」

 

 

「……」

 

 

あの武神が、膝をついている。

茫然とアスファルトの染みを数えている。

彼女に敗れた幾人もの武道家が、ショックにうちひしがれる見ればどう思うだろうか。

 

気の毒そうに彼女を見る大和と京の視線にも気付かない程に矜持を砕かれたのか。

 

 

「なぁ……大和ぉ……私って……そんなに、魅力ないか……?」

 

 

「……いや、単純にさ、警戒されてるからだと思うけど。多分、今までの負債がたまたま返ってきちゃったって言うか……」

 

 

「まぁ、三学期にあれだけ襲撃されたら……苦手意識出来ても可笑しくないよね……でも、一方通行も疲れてたみたいだし」

 

 

どうやら京も、大和と同じ結論に達していたらしく、最後にそっとフォローしながらも、彼の心情も分からなくはない、と。

何故ならば、大和が外堀を埋めて、なるべくゆっくりと時間を掛けて接して行くように百代にアドバイスするまで、一方通行の教室に押し掛けては闘え闘えとごねて、放課後に待ち伏せして闘え闘え構えと迫り、暇さえあれば再戦の要求を強請っていれば、苦手意識の一つも出来ても不思議ではない。

 

ファミリーのメンバーの落ちこむ姿を見て、憤りを覚えなくもない京ではあるが、一方通行の立場になって考えてみれば、相手にしてくれるだけまだ優しい方だと思えてしまう。

それに、そもそも百代が敗戦した昨年のクリスマスでの一件も、一方通行と共に出掛けていた榊原小雪をナンパしようとしつこく絡んだ彼女が返り討ちにあったという顛末である。

 

考えてみれば、本気で嫌われてないのが不思議な程だ。

ナンパしてきて絡んで来たから追い払ったと思えば、学園中を追い掛け回される。

お蔭で目立ちたくもないのに、学園内ではより有名人になってしまった、と。

京が一方通行の立場なら、幾ら相手が美形だとしても、視界に入れるのも嫌になりそうである、と。

 

 

「ハ、ハハ……あぁ、そっか……じゃあ……嫌われて、たんだな……私……」

 

 

「いや、まだ嫌われてないとは思うよ。ちゃんと相手もしてくれるんでしょ?」

 

 

「……でも、いっつもアイツ……私に対して冷たいし……」

 

 

「一方通行はあれが平常運転な気が……良くは知らないけど、多分嫌いな人には口も利かずにアウトオブ眼中、だと思うけど」

 

 

「……口は利くけど、アウトオブ眼中な場合は……」

 

 

「…………」

 

 

「そこは何とか言ってくれよ京ァァ……」

 

 

確かに、百代の言う通り、無視していれば余計絡んで来るだろうから仕方なく口を利いてやっていると云う可能性は、否定出来ないだろう。

 

けれど、人の悪意に殊更敏感な京の感覚では、情けない声を挙げている、川神百代を見詰めるあの紅い瞳に、明確な嫌悪感を感じた事は一度としてない。

鬱陶しいだとか、面倒だとか、そんなニュアンスが精々だろう、と。

 

大和以外に執着しない彼女でさえそれが分かるくらいには、あの白貌に浮かぶ感情は、割と明け透けである。

行動がやたらと気紛れで無愛想だから、分かり難いだけで。

 

 

「……大和?」

 

 

「……ん、どした、京」

 

 

「いや、何か考えてたみたいだから」

 

 

「あぁ、ちょっと……」

 

 

そういえば、自分よりも余程、彼を観察する機会の多い大和の方が、百代の期待する答えを導き出せる事が出来る筈だと思い至って。

けれど、眉を潜めて顎に手を添えた、如何にも考え中ですと云ったポーズを取っていた彼の名前を呼べば、何やら腑に落ちないといった風情で、こちらを見据えるブラウンの瞳。

 

こういう時の大和の懸念は良く当たるから頼りになるのだけれど、一体何が引っ掛かるのか、京には到底思い付かなかった。

 

 

「なぁ、一方通行ってさ、普段朝早いよな?」

 

 

「そうなの?」

 

 

「……早いぞ、アイツは。たまにワン子が朝のトレーニングでばったり会ったり、公園でコーヒー飲んでるの見てるって話聞くし」

 

 

ションボリと形の良い眉を垂れ下げて、空気の抜けた風船みたく覇気の抜けた百代は、どうやらほんの少しだけではあるが自力でリカバリー出来たらしい。

そういえば、たまに公園でコーヒーを飲んでる時は何か雰囲気が違って話し掛けれないと、先月辺りに一子が言っていた事を思い出す。

 

そういえば、マルギッテの弁当も彼が作っているのだと、つい最近クリス達と話をしたのだ。

ファミリー入りを祝う為にマルギッテがいなり寿司用意させたらしく、クリスが舌鼓を打ち至高のお稲荷だと絶賛していた時に、一子が聞いた話である。

 

 

「弁当も全部自分で作ってるらしいね、それも三人分も」

 

 

「うん、そうだ……毎日、三人分。それに朝食だって作ってるって話だ。どう考えても、朝に弱いヤツが出来る事じゃないと思う」

 

 

「……無理して作ってるんじゃないのか?同居してる先生には激甘なんだろ、アイツ」

 

 

「まぁ、多少なり我慢してるとは思うけどさ……でも、あのウメ先生がそれを許すと思うか?」

 

 

「ないね」

 

 

「ないな」

 

 

 

許さないだろう、と即答出来る。

公私をキッチリ別けているあの誰にでも厳しい小島梅子と云えど例外があって、その例外は一方通行に他ならない。

御互いが御互いを大切にしているその絆の強さは、自分達ファミリーの絆にも負ける事はないだろう。

寧ろ、自分達の絆の方が強いと自信を以て言い切れるかどうか。

そんな彼女が大事な一方通行に無理をさせるなど、福本育朗のセクハラ行為を許容するレベルで無理だろう。

自分と梅子との扱いに天と地すら開きがある事が、当然とはいえ不満なのか、若干膨れ気味な百代もまた、京と同意見であるらしい。

 

 

「つまり、一方通行が朝が弱いって事はない。ってことはさ、アイツがあんなに疲れてんのは、何でなのかなって」

 

 

「……眠れなかったんじゃないか?」

 

 

「睡眠不足……まぁ、妥当だと思うけど」

 

 

漸く大和の疑念、懸念の正体が見えてきた。

では、彼のあの状態が睡眠不足だったとして。

一方通行が、百代に為されるが儘にされる程に寝不足になった理由は何なのか。

 

 

「あぁ、そうだ。アイツ、バイトしてたな……どっかの、えぇと……確か駅前の割烹料理屋で」

 

 

「いや、仮にバイトだったとしてもそんな遅くにはならない。いつも遅くても夜の11時にはあがらされるって言ってたし」

 

 

「……日々の疲れとか?」

 

 

朝早くに起きて三人分の朝食と弁当を用意して、学校に登校し、放課後にはバイト。

冷静に考えてみれば中々にキツい事は目に見えてるし、それが積み重なれば流石の一方通行とはいえ身体に響いていても可笑しくはない。

ならばその疲労が祟って寝不足気味なのではと、京が仮定を述べてみる。

 

 

「うーん……あの一方通行だぞ?家事もこなしてる立場なんだ、流石に体調管理は確りとしてるだろ。それに何だかんだ義理堅いぞ、アイツ」

 

 

「義理堅い……そっか、ウメ先生に学校通わせて貰ってるようなモノだしね。だったら、体調を崩すようなことは極力避ける筈。あ、でも……この前の温泉旅行の時の疲れって線は?」

 

 

「……そういえば、あの時は私が絡んでったから…………じゃあ、もしかして……」

 

 

旅行先で偶然にも一方通行の気配を見付けて、喜びの余りに無理矢理混ざってしまった記憶が、百代を再び失意の渦へと陥れる。

仮にそれが原因ならば、ますます自分で自分の首を締めただけという結果になってしまうのは、彼女とて認めたくはなかった。

 

それほどに一方通行に負担を掛けてまで、再戦を果たしたいと思うほど、川神百代は傲慢ではない。

そこまで迷惑な存在と捉えられていたとしたら、そう思うだけで後悔の念が押し寄せてくる。

しかし、歯軋りして自分の過失を悔やむ彼女に、大和は待ったの声をかけた。

 

 

「仮にそうだったら俺達全員の責任だけどさ……自分達を庇う訳じゃないけどさ、それくらいで体調崩すような男じゃないだろ」

 

 

「……私は一方通行じゃないから本心は分からないけど、モモ先輩の考えは流石にオーバー。それに、もう4日も前の事でしょ? 体調管理がしっかりしてるなら、今引き摺るって線は薄いかと」

 

 

直江大和にとって、一方通行は一種の憧れだ。

深い思慮と優れた思考と、九鬼にすら太いパイプを持っているし、あの葵冬馬も切り札として頼りにするぐらいの男が、旅行一つで揺らぐとは思えない。

 

となれば、やはり昨夜に何かあったと考えるべきだろう、と。

そこまで思い至ってしまえば、京の中では心当たりが一つしかない。

 

 

「……やっぱり、そう云う関係になっちゃったんじゃないの?」

 

 

口を付いて出た、心当たり。

寝不足の二人、少し埋まったような距離、朝方に寝惚けた儘の彼の髪を整えてあげる程には、心を許し合ったという点。

マルギッテ本人は否定していたけれど、妙に恥ずかしがっていたし、何よりクリスにまで、話せませんとキッパリ黙秘を貫いていたのだ。

考えれば考える程、そういう関係になったとしか京には思えない。

そんな彼女の言葉に、俯かせていた百代が、ピクリと反応を示した。

 

 

「いや、でもあの二人だぞ。それに、そうだとしたら姉さんに撫で回されてる時、何も言わなかったのは不自然だろ。普通、怒ると思うけど」

 

 

「クリスの前だったからじゃないの? それに、二人とも……一方通行は精神的にだけど大人みたいだし、そういうドライな関係になったって事なんじゃ?」

 

 

「ドライって……」

 

 

「大人の関係……割り切った、身体だけの――」

 

 

「――それは、ない」

 

 

関係。と、京が若干自信なさげに言い切る前に、遮る凛とした、腹からしっかりと出している強い、強いアルトボイス。

 

違う。

そんな事を許容する男じゃない、と。

俯いた美貌は天を睨む勢いで表情を見せ、そこに咲く紅い瞳には強烈な意志が顕現する。

失意に暮れるよりも、敗戦のリベンジを果すよりも、あの白い背中を我武者羅に追い掛けて来た自分が、しなくてはいけない大切な事。

 

 

「アイツは、そんな男じゃない」

 

 

「……」

 

 

「姉さん……」

 

 

ただ、自分に勝った男だから、こんなにも必死に追い掛けて来た訳じゃない。

自分よりきっと、ずっと強い癖に。

自分を、武神を赤子の手を捻る如く蹴散らした癖に。

 

時折、酷く寂しそうな横顔をする。

 

自分が感じているちっぽけな餓えや孤独なんかより、ずっとずっと、寂しそうに。

極彩色の想いを紅い瞳に乗せて、遠く遥か彼方ばかりを見つめている。

 

 

「アイツは、そんな事を許せる男じゃない」

 

 

想いに応える事はするだろう。

人の好意を無為に蔑ろにはしないのだ。

からかう事はするけれど、真剣な想いには何だかんだで応ようとする。

 

だから、熱の籠らぬ想いなど受け取る訳がない。

そんな事ぐらい、付き合いが浅くても分かってしまう。

 

 

「アイツは、そんな器用な真似は出来ない」

 

 

恋とか愛とか、そういう色を抜きにして、女を抱く事も出来ないほどに、不器用で。

楽な道を選ぶ事が出来ないほどに、不器用で。

 

 

温泉旅行での板垣亜巳が語っていた、一方通行の近くでずっと彼を見てきた女の吐き出した愚痴。

形崩さぬ水面の様に静かなエメラルドの瞳が吐き出した、どうにもならない、琥珀色の無情。

 

 

「アイツは、そういう馬鹿――らしい」

 

 

出来れば、自分一人の力で気付きたかった。

けれど、好奇心に身を任せて首を突っ込んだ先は、亜巳が語った生易しさなど欠片もない女の情念で。

そんなにも焦がれているのに、手を伸ばせない悲しさが、あまりにも辛そうに見えて。

 

 

川神百代に足りないモノを持っている、そんな漠然としたナニカを盲信して、太くも厚くも逞しくも見えない、細く白い背中。

その背中が、今は、知れば知るほどに遠くに感じる。

 

 

「――そっか。うん、確かに。一方通行って、女遊びは絶望的に下手そう」

 

 

「……あぁ、うん。確かに。そういうの、似合わないな」

 

 

人に好かれる事はあっても人を好きにしようとはしない。

決してしてはならないと、強く自分を戒めているようにも見えるけれど。

 

 

百代の言葉に、優しく揺れる菫色の眼差しで京は彼女を見詰めながら、己の安易だった言葉を取り消す。

初めから、百代と同じ様に、そんなの一番一方通行らしからぬと思っていた大和も、苦笑を浮かべながら。

けれど、あぁ、悔しいと。

言葉にはしない寂しさを、ひっそりと胸に秘めて。

 

 

「……でも、なら、何があるのかねぇ。あの一方通行を寝不足たらしめる、なにか」

 

 

ひょっとしたら、大したことではないのかも知れない。

夢見が悪かったとか、深読みし過ぎて、実は単に疲れが溜まっていたから、だとか。

一方通行とて人間だから、そういう事もあるかもしれない。

寧ろ、そっちの方が親近感が沸くから、それはそれで良い筈なのだ。

 

 

けれど、大和の直感がどうしても引っ掛かりを覚えてしまう。

それに、一方通行と再戦する為にはどうすれば良いかと相談された時、出来る限り義姉に協力すると誓った以上、彼女の為にもなるだろうし、と。

 

 

 

――一方通行には悪いけど、探ってみようか。

 

 

 

蓋を開けてみれば、笑い話にしかならないオチでも良い。

下らない事を勘繰るなと、彼に叱られてしまうかも知れない。

 

まぁ、そうなったらそれで良い。

その時はちゃんと謝ろう、心の底から謝れば、許してくれる人だから。

 

 

間違いなくマルギッテは何か知っているだろうけれど、教えてくれそうにない。

 

 

では、先ずは――彼の友であり、彼を良く理解しているであろう男。

 

 

葵 冬馬を、当たってみようか。

 

 

 

 

 

 

『Starry Sky』__end.



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玖ノ調『Alone Again Snow Polaris』

白い病室、白いカーテン、白い寝具、白い髪、白い肌。

虚ろか、虚実か、曖昧な癖に深く奥底で呑まれそうな紅。

壊れているようで、光を示す紅。

闇に揺れるようで、黒を喰う白。

彼はどちらに居るのだろうか。

彼はどちらに居たのだろうか。

 

何のつもりだと問う紅い瞳に白い闇を感じた。

何がしたいのだと震える薄い唇に失望の哀を抱いた。

 

開けた病室の、穢れを嫌う白いベッドの上で、彼と映し身の様な自分にとって大切な家族である少女に詰め寄られている真っ白な少年。

白い闇で塗り潰した、どこか哀を誘う細身ながらも、鋭く切れ長な瞳は何処までも深い。

 

嫌いだ。

素敵だ。

 

全てが相反。

闇にも光にも属さず、闇にも光にも成れる存在。

息を呑む仕草を気取られないように、我ながら外面の良い虫酸の走る笑顔を貼り付ける事に必死になった。

 

 

『とーま、じゅん、見てみて! あはは、僕とそっくりー』

 

 

『――当、麻?』

 

 

静脈を抑えられている、そんな静けさにテノールが幽かに震えている。

 

脅え、悲哀、動揺、情動、救済、贖罪。

どこか曖昧で朧気なモノが、一瞬だけ、彼の瞳が極彩色の感情を帯びて。

 

どうしてだろう、酷く癪に障った。

どうしてだろう、凄く悦喜が募る。

救って欲しい。

壊してやりたい。

 

 

反吐が出そうな嫌悪感と、縋らせようと急かす好感。

白黒付かない、対岸へ向けるべき感情。

白の願いと黒の衝動を決め兼ねてる心を、道化が酷く醜い狂笑で白黒の珠を弄ぶようなジャグリング。

 

 

『初めまして。私は、葵 冬馬と云う者です』

 

 

『俺は井上 準。好きに呼んでくれや』

 

 

『僕は榊原小雪だよーそっくりさん。ユキって呼んで良いよ』

 

 

声を震わせない様に努めるのがこんなにも苦しいと思ったのは、父の前以外では初めてだった。

自分の中の奥底を握り潰してしまうのでは、と思えてしまう圧倒的で凶悪な白。

今では、自分にとって大切な家族となった少女と出会った時も、こんなに冥い感情に押し潰されなかった。

今でも、自分を支えてくれる掛け替えのない友人に支え合った時でも、こんなに情動を揺さ振られなかった。

 

吐息すら掛かるほどに、彼女にしては有り得ない程に無警戒に距離を詰めた小雪の可憐な顔を、鬱陶しいのだと、手で鷲掴みにしながら。

どこか儚く浮かぶ紅い三日月が、ゆっくりと瞬いて。

 

 

『……フン、一方通行だ――で、初対面のヤツに言うのもなンなンだがよ……その不景気なツラァ、今すぐ剥がせ。虫酸が走る』

 

 

ひた隠しにしようと、奥の奥、ずっと底に閉まって鍵すら掛けた筈の鉄扉は、実に呆気なく。

抗う事すら赦さない白濁の奔流に、塞き止める事すら出来なかった。

 

 

 

 

――

―――――

 

 

 

随分と懐かしい記憶ではあるが、リフレインする彼との、所謂初対面であった頃の、鮮明な光景は今でも褪せること無く美しい。

熟成された箱庭の思い出は、貴腐ワインの苦みを余韻に残すけれど、水銀で出来た破けたアルバムに綴じ込めるには、惜しむべきセピアの写真。

綴じて棄てるのは、濁ったシャンパンと罪の山と、錆びたアルコールに酔う事すら出来ない、道化な自分だけで良い。

 

大事な大事な彼等のような、錆びる事も褪せる事もない、銀で出来たアルバムに大切に保管している、極彩色の写真だけで良かったけれど。

そこにセピアの写真を加えるのも、悪くはない思い付きだと仮定して。

 

 

「――フフッ」

 

 

薄い電飾だけが頼りの、暗い冥い、箱庭。

父が与えてくれた、色もない、物もない、電飾の明かりと小窓に掛けられたシェードの隙間から射し込んだ月光が、味気のない家具達と、散らばった書類の輪郭を浮き彫りにする部屋。

空虚を埋める慰めのつもりなのか、優しく木霊する電光の弾く淡い音。

 

つくづく、毒々しい水銀めいたモノにばかり囲まれている、仕様もない味気無さ。

あの美麗に煌めく白銀とも、無垢に揺らぐ白銀にも、到底敵わない鈍い銀色。

そんなモノに囲まれている自分は何だと言うのかと、自嘲する。

 

 

「……いえ、違いましたね」

 

 

忘れてはならないというのに、毒々しい水銀に埋めるには惜しいモノが、一つある。

自分を慕う小雪と準、2人の家族が買ってくれた、埃一つすら被らせてはいない、白の無地に黒のラインが薄くデザインされたCDコンポ。

 

真四角に角張った、今ではもう形の旧くなってしまった幾億の宝石などよりも尊い、色鮮やかな宝物。

本来ならば、こんな部屋に置いておきたくなかったけれど、たまには音楽でも聴いて肩の力を抜け、と言い放った白い青年の苦笑が、気付けばそのまま習慣になってしまったのだから、仕方ない。

良く一方通行が浮かべる苦笑が記憶から滲み出して、口角が急かされるみたいに吊り上がって。

 

きっと、家族二人のプレゼントもあの不器用な、でも確かに暖かい青年の仕込みなのだろう。

突然の家族からのサプライズに、らしくなく目を丸めた自分に、恥ずかしさをひた隠す様に、押し付ける様に手渡された、複数のCDのアルバムケース。

そこに、どうせ音楽なんて聴かないだろうから適当に選んだ、と如何にもな科白が添えられれば、誰が発案者なんて、考えなくても分かること。

 

 

「……今日は、これにしましょうか」

 

 

 

『藍坊主』と記載されたアーティスト名のアルバムディスクをそっと、傷の一つも付けるまいと女々しく注意を払ってケースから取り出して、コンポにディスクを挿入する。

もう随分と手馴れた手順で再生すると、流れ出す聞き慣れたメロディに小さく息を吐いて、雑誌の散らばったデスクへと着席した。

 

何度も何度も聞いているものだから、すっかり歌詞の一字一句を覚えてしまったようだ。

別のヤツも買えばいいと一方通行に呆られてしまいそうだが、けれど、葵 冬馬はこれ以上を望まない。

 

何故なら一方通行がくれた複数のアルバムは全て、彼のお気に入りのディスクだったから。

三人揃って何度か遊びにいった際に、彼の部屋にひっそりと置いてあったケースの背に記載されていたアーティストとアルバムの名前が、全く一緒だったから。

此だけで良い、此だけでも充分過ぎる。

 

 

「……さて」

 

 

陶酔にかまけていては、作業に支障が出る。

立ち上げた二台のノートパソコンを横に並べて、織り目や皺が何本も刻まれた書類と、画面に浮かび上がるデータを見比べながら、思考を隅々まで澄ませる。

 

あの一方通行に『気取られてはいけない』のだから、作業の難易度は尋常ではない。

つくづく、遥か高く厚い壁の向こうに立ってくれる男だ、と。

気取られてはならない、悟られてはならない、勘付かれてはならない。

針の先を更に鋭く磨いで、より細く、より鋭利に、死角に潜らせて、裏の裏の、幾つもの裏を掻かなくてはならない。

 

彼以外にも、川神、九鬼、そして霧夜の目すらも掻い潜らなくてはならないと云うのだから、骨が折れる所ではない。

全く以て、彼の人脈には白旗を挙げたくなってしまう。

唯一、骨の折れない相手が彼自身の父親だという事実に、極彩色の感情が失笑を誘う。

 

 

 

「――」

 

 

カタカタとキーボードを叩く軽快な音は、ステレオコンポから流れる旋律に彩りを添えるには、余りに華がない。

モニターの淡い光に時折反射する眼鏡越しに、絶え間なく表示されていくデータの海と、デジタルの群体を視線が泳ぐ。

慢心やゲーム感覚を抱いた儘で彼等を相手取れば、あっと合う間に喰われてしまう。

頭脳戦でも人脈面でも、彼我の差は歴然だった。

 

 

「――フフッ」

 

 

けれど、愉快だ。

嗤えてしまう、自分自身の滑稽さに。

なんという思い違い、恥を知るべきだ。

 

あの一方通行が、気付いていない訳がない。

川神を蔓延る大きく広く狡猾なドラッグの影。

ドラッグというワードで、一方通行が自分に、川神有数の大病院である葵紋病院の存在に目を向けていない訳がないだろう。

一方通行の思惑を潜り抜けるなんて、勘違いも甚だしい。

端から観れば、きっと自分の行動は憐れで滑稽な道化にしか映らないだろう。

 

けれど、それでも今の自分には矜持がある。

そんな矜持などお見通しで、泳がされているだけか。

それとも、こんな矜持を理解して尚、救おうとしてくれるのだろうか。

 

――友達として。

 

 

「懐かしい、ですね」

 

 

脳裏に鮮やかに甦る、セピア色の過去。

自分に着いて来てくれる準と共に、一方通行の様に、前を向いて生きると決めたいつかの誓い。

 

こんな自分の愚かな幻想をぶち殺してくれた、あの青臭い、キラキラと煌めく誓い。

 

きっと彼は、今も多くを護ろうと奔走して、疲れた身体に鞭を打ちながら、深い思考を巡らせているに違いない。

 

 

「……深入りは駄目ですよ、直江大和君」

 

 

 

隠し切れない疲労に勘付いて、動こうとしている者も居るのだけれど。

動いた結果が他ならぬ自分への接触だった事は、御笑い草にもならなかったけれど。

 

本来ならば、少なくとも因縁があった筈の、あのグループに願うのは、どうか、自分の友の足枷にだけはならないで欲しい、と。

一方通行の想いを他でもなく裏切る事になるであろう自分が、決して音にしてはならない、煤けた願い。

 

 

「一方通行、英雄、準、ユキ……」

 

 

いつも持て余しては、砂の様に掌から零れ落ちてしまいそうな、大切な人達の名前。

極彩とセピアに抱き留めた、大切な思い出達。

 

 

「すみません――」

 

 

震えて、咽いだアルトの掠れた声。

 

彼らに捧げる、今更過ぎた謝罪の言葉を皮肉にも、彼らからの贈り物から流れる旋律に、掻き消える。

 

謝罪の言葉なんて、聞きたくない謂わんばかりに。

 

 

 

―――

―――――――

 

 

 

傾けた柘榴色の水面に波紋に寄り添う幾つにも千切れ千切れた人工月を覗けば、脳裏に浮かんだ白々しい白昼夢。

どうして今になって思い出すのか、まるで虫の知らせみたいで気に食わない。

 

かつて長い付き合いになる友人達と出会った病室の、苦々しい初めましてを浮かばせたカップに灌がれた紅茶の底を、不機嫌な紅い瞳が睨む。

抱えた懸念を話せというのか、その友人達とも固い絆で結ばれている、金色の覇気と優雅さを綯い交ぜにした仕草で紅茶を味わうこの男に――そう問いた気に細まって。

陽気に揺れる水面を眺めれば、癪に障ったと謂わんばかりに口に付けずに、弓月の曲線を象った持ち手が絢爛なカップを静かに置いた。

 

 

不意に鋭い視線を感じて貌を上げて見せれば、相変わらず気疲れを誘う覇気を放ちながらソファに腰掛ける英雄の斜め後ろで、佇んでいた華やかなメイド服姿の少女の薄いアンバーの瞳と克ち当たる。

どうやら、メイド――忍足あずみの煎れたローズマリーの紅茶を、わざわざ口許に運び掛けて、結局飲まないという行為に苛立っているらしい。

 

確かに些か八つ当たり染みた真似をしたと、思惑は兎も角態度は宜しくないなと思い至って、気拙い面持ちのまま、ローズマリーを唇で弄んだ。

芳ばしい強い香とそっと口に広がった仄かな苦味が、笹くれ立った心をリラックスさせてくれる。

 

どうにも落ち着きがない、余裕が無くなっている己が煩わしい。

昨夜のマルギッテとの語らいに、柄にもなく安堵の揺り籠に諭されてしまった分のツケは、今朝、甘粕真与に先導されながら登校するという、一生拭いきれない恥というレベルで支払う事になったというのに。

眠気が醒めた途端に軽く首を吊ろうと校庭の大木にロープを持って失意の棒立ちを披露した滑稽な自分を、嫉妬の業火に狂っていた筈の井上準が必死に止めるという笑えない寸劇を引き起こしたというのに、全く懲りていない。

 

 

挙げ句クラスメイトのみならず顔も知らない同級生達に、眠り関連で白雪姫という唾棄すべき称号を与えられた時には目の前が真っ暗になった。

そして念願の友人を作れて最近舞い上がり気味な制服姿の不死川 心が、戸惑う十河と、十河の友人兼アドバイザーこと小田原を伴って揶揄ってくるモノだから、半泣きにして四つん這いにさせて背中を踏みながら冷たい視線で見下ろし続けるという非道を行いもしたが、羞恥心に苦しむ一方通行からしたらどうでも良い事である。

 

 

「フハハハ、そういえば、紋に婚約を申し込まれたそうだな、一方通行。婿入りを経て、いよいよ九鬼の傘下に連なりその卓越した頭脳を以て我が覇道を支えるか……うむ、楽しみだ」

 

 

「妄想も大概にしろよ。なンで俺とチビガキが結婚する話が出来上がってンだよボケ」

 

 

「無論、紋がそう我と姉上に宣言したからだ。一方通行を婿として迎えたい、と。今はまだ未熟故、研鑽を積むと言っていたがな。我の妹が本気になれば、貴様とて逃げられんぞ? フハハハハハハ!」

 

 

「うるっせェ、なンだそのテンションの高さは! 第一、あのガキが俺に向けてンのはそォ言う色気のあるもンじゃねェだろ、戯言に過ぎねェよ」

 

 

満足満足と、広々とした客室に反響する高笑いに心底鬱陶しいと云った顰めっ面で、彼の描く仰々しい未来予想図を一蹴する。

相も変わらず自分の主人のみ為らず九鬼揚羽や、総代でもある九鬼帝にすら変わらぬ不遜な態度に、米神に青筋を浮かべてひくつかせるあずみも、主人に似て頑固な嫌いがあった。

 

何より彼女が気に食わないのは、同僚のステイシーを初めとした女性陣、総代ですら一目を置くヒュームやクラウディオ、そして九鬼の今後を担うであろう九鬼一党と、九鬼傘下の約半分近くが彼に対して好意的であるという事である。

彼女とて、主人である英雄の命の恩人である一方通行には少なからず感謝しているし、実力もまた、あずみよりも年下でありながら、尋常ではない。

容姿も恐ろしく整っているから女性陣からも概ね好評であるし、あずみと交友の深い李 静初は多少の警戒の念は抱いているのはともかくとして、ステイシーはちょっと怪しいのではないかと勘繰っていたりと、四面楚歌。

 

しかし、だからと云って九鬼を蔑ろにする節のある一方通行をすんなりと認めるというのは、頷き難い。

というか、ぶっちゃけ九鬼の主要陣に、特に英雄に気に入られ過ぎだろお前、というのが彼女の本音であり、恋する乙女の嫉妬心というモノである。

 

 

「ふむ、確かに紋は貴様に対して兄と接する様に慕っておるな。余り彼奴に構ってやれん我の愚の致す所であるし、貴様にも悪いと思っておる。しかし、その気持ちがいつ男に向ける色に変わるかも分からんぞ。我としては、割と時間を掛けぬと踏んでいるがな、フハハハ」

 

 

「いやオマエ、それ以前の問題だろ。ガキだぞ、年齢は兎も角、外見でアウトだろォが」

 

 

「何……? 貴様、紋のあの愛らしい姿に不満でもあるというのか? 従者ですら見惚れるあの容姿が許容出来ぬとでも?姉上ですら可愛くて仕方ないと頬を緩めてばかりの我らが誇りの妹を!」

 

 

「……えェ、なンでそっちなンだよ。違ェだろ、あのチビと俺が一緒にキャッキャウフフしてる場面を想像しろや。完ッ全に事案だろォがァ!」

 

 

繋がれた鎖を振り払う猛獣の如し咆哮を挙げる一方通行の記憶の片隅に甦る、忌まわしい記憶。

自分の護る対象の我が儘に仕方なく付き合わされていれば、やれロリコンだの性犯罪者だのと、同じ顔をした妹達に揶揄され、何時しかアクセロリータなどと憤怒で頭が沸騰しそうな蔑称で呼ばれた際には、本能の儘に暴れ回った。

 

寧ろどちらかと云えば歳上の方が好みではあったのだが、歳上の同居人が二人も居る為に声を大にして言う事も出来ない一方通行を、どこかのウニ頭のヒーローが気の毒そうに慰め、そんな彼に散々愚痴った夜は、理解者の存在にガチで泣きそうになったものだ。

そんな理不尽な経験があれば、彼が忌諱するのも無理はないだろう。

幾ら紋白の年齢が実は一方通行と三つしか変わらないとはいえ、容姿が拙い、白雪姫の次はロリコンの称号など、一方通行にはとても耐えられない。

 

 

「ふむ、確かに紋の外見は幼いが、将来有望ではないか。それに警察の介入など我等がみすみすと許す訳無かろう、障害にもならんぞ。それに、紋は、やると言ったら必ずやる。意志を貫いてこそ九鬼なれば、紋は必ずや研鑽を遂げて、お前に相応しい女と成るだろう」

 

 

「成られても困ンだよクソッタレ……つゥか、オマエは妹の未来設計に現を抜かしてる立場じゃねェだろ。要らねェ世話を焼くより、さっさとあの犬っコロを墜とすなり玉砕なりして来いや。そォなりゃ、俺も胃の痛くなる想いをしなくて済む」

 

 

「一子殿を犬と扱うのは幾ら貴様でも許さんぞ、一方通行。それに、言われんでもアプローチは続けておるわ……ん? 何故貴様の胃と我の恋路が関係してくるのだ?」

 

 

「い、一方通行さん!カップが空いてますね紅茶の御代わりいかがですか欲しいですかそうですか直ぐに注ぎますねぇ!!」

 

 

玉砕して欲しいと云うのは従者としては恥ながらも英雄に想いを寄せるあずみとしては素直に賛同出来るが、今この場においてそれを指巡する様な発言は見過ごせない。

貼り付けた笑顔の裏に殺意を滲ませながら余計な事言うなと一切喜楽の灯らぬ尖った瞳に、何かと視線で突っ掛かって来る分の意趣返しだと開き直って鼻で笑う澄まし顔の薄情さが迎撃する。

何やら穏やかではない雰囲気の従者と友人の様相に首を傾げる辺り、自分の想いには何処までも正直ながら、身近な他人の想いには鈍感な男である。

 

 

一方通行としては、この強引で傲慢で時々馬鹿なこの男の恋路を応援してやりたい気持ちは有るし、川神一子ともそこそこの交流も有る一方通行に時折、英雄が相談を持ち掛ける事もあった。

無論、その席には従者として常に傍らに居るあずみも当然参加するし、親しい者には相変わらず無愛想な態度を取る癖にかなり甘い一方通行の性格も把握しているあずみは、その気になれば自分の恋路を応援してくれているステイシーや李と比べても、遥かに強力なサポートをしてしまいそうで、気が気でない。

純粋に自分の知恵を頼る英雄と、頼むから有効打になりそうな提案はするなと縋る様なあずみとの板挟みに合えば、胃も荒れようと云うものだ。

 

そして何より、不器用で無愛想ながらも常に川神一子を案じ、想い続ける面倒な男を知っているのだ、一方通行は。

真っ直ぐに夢へ勇往邁進と努力し続ける一子の邪魔になっては為らぬからと、ずっと昔から育まれてきた自分の確かな想いにまでそっぽを向いて耐え続ける不器用な男の優しさを、知っている。

 

想い続ける苦しみを知っているから。

想いを絶つ苦しみを知って欲しくはないから。

 

 

「……面倒クセェ」

 

 

「殺すぞ」

 

 

深入りするつもり等無かった筈なのに、気づけば巻き込まれてしまって、雁字搦めの蜘蛛の糸。

引きちぎって見過ごせば楽になるのに、それが出来ないからただひたすらに面倒で。

無意識の内に零れ落ちた煩わしさに、彼にしか聞こえない程に小さな、そしてドスの効いた囁きが、棘を増す視線が添えられて。

いっそ今から告白でもしてくれと謂わんばかりに眉を潜めて、口を付いて出そうな薄情な本音を遮る様に、煎れたての湯気立つ紅茶で、正直者になりそうな唇を塞いだ。

 

 

「ところで、一方通行。話は変わるが、我らの友、冬馬や準には協力を要請せぬ気か? 彼奴らの実力ならば、必ず力になると思うのだが」

 

 

「……駄目だ。九鬼の後ろ楯があるオマエと違うンだぞ、アイツらは。それに、アイツらはアイツらでやる事がある、それは分かってンだろ?」

 

 

「――葵紋病院の事か。成る程、確かに、我が迂闊ではあったな。失言だ、許せ」

 

 

「オマエらは姉弟揃って下げなくても良い頭を下げやがる。王になると豪語してるヤツが、ンな簡単に詫びてンなよ、バカ」

 

 

先刻、九鬼揚羽の助言通りに英雄にも抱えている案件を明かし、彼を巻き込む事を悩みながらも選択した一方通行。

黒幕も分からぬ巨大な闇に憤りを浮かべながらも、寧ろよくぞ頼ってくれたと、予想通り快く承諾した英雄の浮かべた疑問。

自分達の友である冬馬達には協力を頼まないのかと云う疑問も尤もだが、彼らには別に抱えている事があるだろう、と。

そう言われてしまえば、自分には何も言えない、と。

見当違いな謝辞だと、言葉の上では不器用に、けれど優しく揺れる紅い瞳は、目の前で静かに頭を下げるこのバカで優しく友達想いな大器の王を見詰める。

 

 

思い描く軌跡は、過去のこと。

夕暮れに染まる、誰もいない公園での一幕。

 

 

――汚職に塗れた葵紋病院の抱える闇を暴く。

 

故に、既に少なくともその闇に関わってしまっている葵冬馬と井上準は罰を受けるが、それでは何も知らない榊原小雪が独りになってしまうだろう。

だから、一方通行と九鬼英雄に小雪の事を任せたい、と。

 

決意を秘めた眼差しと共に託された一方通行は、けれど、その儚い願いを一蹴した。

 

 

――大切なら自分で救え。救えるように強くなれ。

 

――独りにしたくないのなら、傍に居てやれ。

 

 

どんなに頼まれても、どんなに請われても、どんなに縋られても、一方通行は決して首を縦に振らなかった。

 

まず、自分達で足掻け。

自分達が罰を負わない道を意地でも模索しろ。

例え自分が許せなくても、少女の為にその感情を圧し殺せ。

自分に話した事が誤りだ、その思惑は絶対に阻止してやる。

 

 

きっと、一方通行の言葉は歪んでいるだろう。

ドラッグに関わった罰を受けなくてはならない、その贖罪をしなくてはならない。

それは決して間違っていない感情で綺麗なモノだ、それを否定する自分こそ間違っている。

罰を受けさせてやるのが、本当の友達ではないのだろうか。

 

 

沸き上がる自己否定、自問自答。

けれど、それでも、一方通行には許容出来ない。

例え闇に手を染めたとしても、彼らは一方通行とは違う。

 

自分で選んでない、自分で決めてない、全て、架された罪に過ぎない。

親によって選ばされた道を進まざるを得なかった彼らが、罰を受ける事は許容出来ない。

例えドラッグに歪まされた者やその周囲を前にしても、そう告げる。

そんな自分を軽蔑するならしてくれても良い、歪んでいると唾を吐くなら好きにすれば良い。

けれど、絶望に覆われた光灯らぬ瞳を浮かべて親に命じられてドラッグの選別を、小雪の保護を盾に無理矢理させられている彼らの小さな背中を、罰を受けるべきだとはどうしても許容出来ない。

 

友達だからこそ彼らの願いの通りに罰を受けさせる。

巫山戯るな、冗談ではない、そんな小綺麗な世間の意志など知ったことか。

誰も護ってやらないなら、自分が護ってやる。

彼らの意志すら押し潰して、傲慢に、自己中心的な我が儘で、救ってやる。

後ろ指しか指されぬ生き方を選ばせてやるものか。

彼らは、初めて出来た友達なのだから。

自分の友達になってしまった不運に嘆きながら、陽の当たる道を生きて貰う。

そう、頑なに決意して。

 

 

「寧ろ謝ンのは俺の方だ。あの時、俺の身勝手な傲慢でオマエが歯痒い想いをさせちまった」

 

 

「馬鹿を言うな、一方通行。確かに貴様の意は万人には受け入れられぬ事であろうよ。しかし、満足に友を救えぬ男が王を名乗るなど許されん。我が、我の心に従ったまでだ。我の身勝手を貴様の身勝手に履き違えるとは、賢知たる貴様らしくもないな」

 

 

「……だが、アイツらを救いてェって云うオマエの気持ちは――」

 

 

「それは、九鬼の力を頼らぬと、冬馬と準が決めた道だろう。友に罪を背負わせたくないなど、戯けた事を抜かしておったが……それでも押し通さず退く事を選んだのは、他ならぬ我である。それに――」

 

 

――自分達だけで、やってみます。

 

 

一方通行の様に、前を向いて生きる。

罪に苛みながらも、傲慢に、卑怯に、生きる。

そうしなければ、何をしてでも自分達を阻止してくれる、無茶苦茶な友達が居るから。

 

仕方なさそうに、けれど初めて見ることが出来た葵冬馬の、心からの本当の笑顔を見せられれば、退かざるを得ない。

きっと、九鬼英雄が初めて意思を譲ったあの日の夕暮れをそっと思い出して。

 

 

「九鬼の力に頼れないと言うのなら『九鬼以外』の力を使えば良いまで。そう考えて、もう既に行動に移しておるのだろう、一方通行?」

 

 

「――ハッ、喰えねェやろォだ」

 

 

「フハハハ、余り我を甘く見るなよ、一方通行。幾ら冬馬と準が自分達だけでやり抜くと決めていても、それを貴様が促した結果である以上、何も策を用意せぬ貴様ではあるまい? 身内には甘い貴様が手段を労さぬと、そんな腑抜けた思い違いをする我ではない」

 

 

どうやら、一方通行が思い描き、既に根回しまで済ませたプランを英雄は見抜いているらしい。

さしずめ、彼の人間関係を調査して、その結果から判断していたのだろうが、派手な外見や非常識な行動が多い癖に、彼は頭も相当切れる。

九鬼を担う者として、このくらいは当然の事だと快笑する英雄だからこそ、もしあずみという従者が居なければ、彼に付き従っても良いと考えている一方通行は、白旗を上げる様に肩を竦めた。

 

 

「失礼致します」

 

 

控えめなノックの後に、清らかな川の流れを連想させる静かな声が扉越しに届いた。

どうやら着いたらしいと、そもそも一方通行が九鬼を訪れた理由が漸く来訪した事を察しながら、声の主に入室を促す。

 

 

「御待たせ致しました、一方通行様。揚羽様の元まで御案内致します」

 

 

短く切り揃えられた漆黒の髪と切れ長の露草色の瞳がどこか鋭利な冷たさを感じさせるメイド服の淑女が、機械的な動作でお辞儀するのを見届けて、一方通行は静かに息を吐く。

李 静初が迎えに来たと云うことは、いよいよ御対面の時が直ぐそこまで訪れているという事である。

どこか、沸き立つ躊躇を無理矢理追い払うかの様に強く席を立った白貌の青年を訝しく思ったのか、李とあずみはピクリと形の良い眉を潜めるが、彼の心の憂いを機敏に読み取った英雄は、うむ、と一つ頷いて。

 

 

「励めよ、一方通行」

 

 

九鬼英雄は、一方通行の過去をあまり知らない。

興味はあるが、必要ではない。

大事なのは、彼は今、九鬼英雄にとっての恩人であり、かけがえのない友人であるということ。

クローンと云う存在に彼が顔を曇らすならば、晴らしてやるのが友であろう、と。

 

 

「――行ってくる」

 

 

擽ったそうな、けれど心地良い、背中押す王の声。

継ぎ接ぎの心に忍び寄る黒雲を、黄金の風が吹き払う。

過去に重なる者達への心理的恐怖で微かに震えていた掌が、制服のポケットの中で、強く、握られた。

 

 

 

 

 

 

――

――――

 

 

 

少し用があるので、その間に親睦を深めていろ。

 

李の案内で訪れた広大な執務室に通されるなり、軽いご機嫌伺いの様な軽口を叩き、何の説明もなく直ぐ様席を外した九鬼揚羽の背中を、心から蹴ってやりたいと思った。

クローンというだけで何時までも抵抗感を覚えている自分も大概だが、せめて簡単な紹介ぐらい済ませてくれても良いだろう、と。

しかし、止める間も無く部屋から出た揚羽に鬱々とした思いを浮かべているのも馬鹿らしい。

諦観の溜め息を零しつつ、執務室の広々としたソファに腰掛けた面々へと気怠げに視線を向ければ、弾かれた様に席を立った少女が、トコトコと彼の前まで歩み寄ると、人懐っこそうな笑顔を浮かべた。

 

 

「君が噂の一方通行だな、私は源義経。気軽に義経と呼んでくれると、義経は嬉しい」

 

 

清麗と可憐を兼ね備えた整った顔立ちと、藍の色彩を宿す無垢な瞳に、シャンデリアの電光に反射する濡れ烏羽色の長い髪を一方通行と同様に括っている。

 

歴史上の偉人や英雄を復活させるという、武士道プラン。

その結果産み出された、源義経のクローン。

事実だけを並べても素直に信じ難い内容だが、彼女達の事はデータ上で知っていた為、動揺は小さい。

けれど、義経の隙のない立ち姿と彼女のほっそりとした腰に添えられた一振りの刀が、紛れもなく彼女がかの源義経のクローンである事を物語っていた。

 

 

「私は弁慶。にしても……ほんと真っ白だね。目も真っ赤だし、ステイシーさんの言ってたラビットってのもピッタリだな、こりゃ」

 

 

「よ、止さないか弁慶。初対面で外見のことをどうこう言うのは失礼だと義経は思うぞ」

 

 

「んーでも、主もさっきちっちゃな声で白猫って呟いてたじゃん」

 

 

「べ、弁慶……」

 

 

何やらフラフラと覚束ない足取りで義経の隣へと長い錫杖を引き摺りながら歩み寄る長身の女性は、弁慶と名乗った。

軽く癖のあるウェーブの長髪に、夜明けの瑠璃に似た瞳が女らしい曲線美を持つ彼女には相応しいと思える程だが、そんな評価を抱いているより、もっと目についてしまう箇所に、一方通行は着目する。

腰に添えた瓢箪は川神水が入っているらしく、彼女は常に酔った状態でないと身体が震える病気を抱えているというらしい。

更に面倒臭がりな気質らしいので、生徒達の動向、及び守護は期待出来そうにないのだが、大丈夫だろうかと早くも不安で一杯である。

 

 

 

「はいはい、意地悪しないの。えっと、初めまして。私は

葉桜清楚。宜しくね、一方通行君」

 

 

「……どォやら、自己紹介は必要ねェらしいな」

 

 

 

茶と漆をブレンドした指通りの良さそうな長髪に、鳶色の涼し気な瞳の乙女がやんわりと、知っちゃかめっちゃかしている二人のやり取りを仲裁する。

葉桜清楚、そう名乗った少女は、名前の通り清楚然とした立ち振舞いをしているが、その正体はかの西楚の覇王、項羽のクローンだとか。

 

データに記された彼女のクローンのオリジナルの名前を見て、一方通行は珍しく呆気に取られてしまったモノで、こうして清らかに微笑む立ち姿により一層、データの真偽を疑ってしまう。

しかし、ポーカーフェイスも昔に比べれば板に付いたモノで、内心の動揺を何とか表に出さない事が出来たらしい。

 

 

「……で、オマエは?」

 

 

「俺の名前が聞きたいのか、闇を背負う男よ。良いだろう、俺は――」

 

 

「あ、やっぱいい、オマエ喋ンな。那須与一で合ってンな。よし、自己紹介終わり」

 

 

「ちょっ、えっ!?」

 

 

灰色のミドルカットと薄紫の瞳に精悍な顔付きは兎も角、彼の名を尋ねて於いてバッサリ切って捨てた一方通行の直感が告げている、こいつ絶対面倒臭い、と。

データ上で名前も知っているし、思春期特有の病気持ちと記されていたので、他のクローンにでも惚れているのかと思っていたのだが、そんな可愛い病気ではなく、もっと厄介で面倒臭いモノであるらしい。

若干その病気を他人事に受け入れられなかった一方通行は、分かり易く顔を顰めながら視線を彼から外す。

いきなり名乗りと遮られては流石に動揺したのか、与一は精悍な顔付きを途端に慌てふためかせた。

 

 

「い、一方通行……出来れば、与一とも仲良くしてくれると、義経は嬉しいのだが」

 

 

「えェ……コイツと関わると絶対ェ面倒臭い予感すンだよ。なンかガイアがどォこォ言い出しそォじゃン」

 

 

「が、ガイアだと……まさか、やはり俺の睨んだ通りお前も機関に――」

 

 

「喋ンな、囀ずンな、静かにしてろ。妙な事を口走ンな、そォしたら相手してやる」

 

 

「う、ぐ……」

 

 

ギラッとした効果音が吹き出しに添えられてそうな鋭く尖る紅い瞳と、ドスの効いた声に背筋に冷たい悪寒を走らせた与一は、苦し気に呻き声を挙げる。

中二病と呼ばれる思春期特有の病気を高校生になってまで引き摺っている与一にやけに辛辣な態度を取る一方通行に、弁慶を除いたクローン組はひたすら困惑するしかない。

一方で弁慶は初対面の相手に黙らされる与一に日頃の手間の溜飲が下がったのか、指をさして爆笑していた。

 

 

「ところで、一方通行君は私の正体を知っていたりする?

私としては清少納言辺りだと思うんだけど……」

 

 

「さァ、知らねェな。教えて貰ってねェのか?」

 

 

「うん、私が25歳ぐらいに教えて貰えるらしいんだけど……」

 

 

「なら、直に教えて貰えンだろ。のんびり待ってりゃ良い」

 

 

「……そうね、そうする」

 

 

清楚の正体を知っているものの、オリジナルについては一応口止めされている一方通行は、さして気に掛けるでもなく肩を竦める。

最悪清楚に正体について話してくれても良いが、何が起きても知らないから、責任は取るようにと忠告を受けている以上、面倒臭がりな彼がわざわざ藪を突つく酔狂な真似を

する訳もない。

 

 

「ところで、一方通行のそれはアルビノってやつか?」

 

 

「まァ、そンなとこだ。別に日光には弱くねェがな」

 

 

バッサリ切られた事に堪えたのか、なるべくそれっぽい言い回しは避けながら窺う与一に、生憎に濁して答える。

白銀の髪に紅い瞳、染みもない白い肌ともなれば大体の人間は一方通行に対してそんな疑問を抱き、中には尋ねて来る者も多い。

素直に実験の影響がどうの等と説明する訳にも行かないので、取り敢えずアルビノに近い現象だと定型文の様な単調さで説明した。

 

 

どうやら彼の、シャンデリアの灯りにキラキラと反射する繊細で指通りの良さそうな髪が気になるのか、チョロチョロと落ち着きなく義経がやたら煌めかせた瞳で彼の尻尾髪を追い掛ける。

触りたいけどそれは無遠慮だし、初対面早々に髪に触れても良いかなどと聞けば、変なヤツだと思われるのも宜しくないだろう、と。

 

 

「……なンだ」

 

 

「え、あ、いや、何でもない」

 

 

しかし、一方通行の髪を触りたいと思わない者など殆ど居なかったので、義経の無垢な願望など彼からしたら非常に明け透けで分かり易いモノである。

さしずめ胸の大きな女性が男の分かり易い視線に辟易とする感覚と似たようなモノだが、実は彼は、素直に頼まれれば髪を触るぐらいは別に拒否したりしない。

 

余りベタベタとされないぐらいであるのなら日頃、板垣辰子に散々触られているので、男だろうが女だろうが加減を弁えてさえいれば構わないのだ、寧ろ触りたい触りたいと物欲しそうな視線を向けられ続ける方が余程鬱陶しい。

尤も、誰彼構わないという訳ではなく、ある程度気心の知れた仲でない限りは、一方通行とて拒否するだろうが。

 

 

「……」

 

 

煩わしい視線と、事前に予防線を散々張っていても、かつてのトラウマに乱されているのか、つい苛立って険の含む視線で射抜いてしまった所為か、誤魔化しながらも分かり易く気落ちした義経を一瞥して、溜め息。

正直に言えば、例えオリジナルと性別も違って普通の人間とほぼ同様に育たれて来たとはいえ、彼女達に対する抵抗感は消えてくれない。

けれど、彼女達は違う、自分が積み上げて来た罪と、彼女達を重ねる事などどちらに対しても迷惑極まりないし、薄情な行為だろう。

自分の中で折り合いを付けれなくとも、せめてその感情を表に出さない様にしなくては、自分と共に償うとまで言ってくれた女に顔向けも出来やしないから。

 

 

「あンまベタベタと触ンなよ」

 

 

「へ?」

 

 

仲良くしたいと思っていた手前、早々に一方通行の気に障る真似をしてしまった事に後悔しつつしょんぼりと顔を俯かせていた義経に、背中越しに少しだけ顔を向かせた白貌が呆れを含んだテノールを紡ぐ。

どうやって機嫌を取ろうと考え込んでいたのか、鳩が豆鉄砲を食らった様な幼い表情で、涼し気な紅い瞳を見上げる義経には、きっと彼の真意を理解出来ていない。

 

突発的な一方通行の物言いにきょとんとしながらも義経より遥かに早く彼の発言の意味に気付いたのか、弁慶は愉快気に頬を緩めると、カラカラとした笑い声を挙げる。

成る程、気紛れな所は兎と云うより猫みたいだと、一方通行を見てそう呟いた義経の彼に対する第一印象は間違っていなかったと、酔いに揺れる思考の中で澄んだ感想を響かせながら。

 

 

「あはは、主、思う存分触っていいってさ」

 

 

「酔い醒ましが必要ならそォ言え、派手なのを一つくれてやる」

 

 

「え、えっと……ほ、本当に触って良いのか、一方通行?」

 

 

「加減を弁えるンならな」

 

 

「も、勿論だ! で、では失礼する……」

 

 

弁慶の揶揄う様な言葉で漸く真意に気付けたらしい義経が真偽を問えば、立ちっ放しで疲れたのか黒革の高級感のあるソファにそっと腰掛けた一方通行が、どこか投げ遣りに答えた。

のんびりとソファに背を預けて羽根を伸ばす大きな白猫の尻尾に、藍の瞳を輝かせながらどこか緊張気味に恐る恐ると、刀を持つには小さな掌を伸ばす。

 

 

「ふ、お……おおぉぉ……」

 

 

手に持って撫で付けて見れば、柔らかくシルクを触っているかの様な手触りは、とても髪を触っているとは思えない程であろう。

極上の毛並みを持つ猫に触れているみたく、爛々と瞳が輝いてしまい感嘆の声を挙げるのも、無理はない。

あのドイツの猟犬と呼ばれる紅い麗人ですら柄にもない心からの感銘の声を抑えずには居られなかった程の手触りである。

指で梳けばスルスルと白い銀河が掌の中で煌めいて、一本一本が枝毛すらない繊細さ。

夢中になって無垢な子供が綾取りをするかの如く髪を弄る義経の様子には、他のクローン達も気取られてしまう。

 

 

「す、凄い……サラサラしてて、フワフワしてて……義経は凄く楽しいぞ、一方通行!」

 

 

「ソイツはどォも」

 

 

「ねぇ、私も触ってみていい?なんか義経ちゃんすっごく楽しそうだし」

 

 

「あ、じゃー私も」

 

 

「お、俺もいいか?」

 

 

「葉桜は構わねェが、与一は変な発言しねェってンなら許す。酔っ払いは却下」

 

 

「えっ、なんで私だけ?」

 

 

「酒臭ェのが移ンだろォが」

 

 

「いや酒飲んでないから臭い移んないって、酔ってるけど」

 

 

「酔ってンなら駄目だな、オマエ馬鹿力なンだろ、引き抜かれそォで怖ェし」

 

 

「す、すげぇ、流石は九鬼から一目置かれてる一方通行……既に姉御の能力を見抜いてんのか」

 

 

「いや、流石に力加減分かってるって……与一、後で覚悟しときなよ」

 

 

「……引っ張ったりしたら即愉快なオブジェにすっからなァ……義経、手ェ離せ」

 

 

「え、あ、分かった」

 

 

機嫌を損ねられていじけられるのも面倒だと仕方無く折れた一方通行は、夢中になって指を通していた義経にストップをかけて、括っていた黒い紐に細長い指を掛けた。

シュルリと白銀河を流麗に滑り落ちる黒いリングが毛先まで通り抜けてふわりと華の香りと共に広がる白銀の大河はとても男のモノとは言い難い程に美しい。

 

鼻の抜けた溜め息が、扇情的に広がる雪原を目にして口々から零れる。

酔いで常に気怠げな弁慶でさえ、圧倒的な白美を前に纏う酒気を清風に晴らされたかの様に茫然と見惚れる程で。

広がる反動で微風を紡いで舞い落ちる白の奔流に手を伸ばせば、義経が夢中になるのも頷けると納得出来るほどの感触が掌から伝わった。

 

 

「おぉ、すげぇ……これホントに男の髪かよ」

 

 

「柔らかくて気持ちいい……髪の手入れはしてるから、ある程度自信あったけど……これに勝てる気は、しないかなぁ」

 

 

「うわ、凄いねコレ、シルクか何かで出来てたりしないの?髪にしとくには勿体無い……あぁ、枕にして眠りたい」

 

 

「おいコラ酔っ払い、頬擦りすンな気持ち悪ィ」

 

 

「べ、弁慶……それは流石に無遠慮だと義経は思う」

 

 

「はーい……一方通行、髪切る時は言って。私が引き取って枕にするから」

 

 

「絶対ェオマエには教えねェよ、本気で怖ェわ」

 

 

紫外線や有害な要素を悉く介入させなかった彼の髪は、下手をすれば世界一美しい髪と言えるのかも知れない。

最早髪の形をした極上のシルクに近い何かとさえ扱う面々は、彼の長い髪をそれぞれ一房に取り分けて、思い思いに楽しむ光景はなかなかにシュールであり、何処か儀式染みている。

心地良い睡眠と怠惰を愛する弁慶としては掌から伝わる感触に癒しすら覚えたのか、頬擦りして枕にしたいとまで宣う始末。

男の髪を枕にしたいなど、冷静に考えれば変態染みた発言だが、そこまで言わせる一方通行の髪が凄いのか、快適な睡眠を追究する弁慶の熱意が凄いのかは定かではない。

しかし、いつまでもこのままという訳にも行かないので溜め息一つ零しながら、ぼんやりと紅い眼差しを呑気に宙に浮いたシャンデリアに定めながら、本題へと舵を切り出した。

 

 

「来月……つゥか、もォ来週か。川神学園に編入する手筈となってンだが、オマエら準備とか出来てンのか」

 

 

「義経は済ませたぞ。いつでも問題ない」

 

 

「私も問題ないかな」

 

 

「同じく」

 

 

「俺も昨日終わらせた、というかサボってたら義経に無理矢理終わらせた」

 

 

「サボるなどと、余り義経を困らせるような事を言わないで欲しい。ちゃんとしなくては周りに迷惑が掛かる」

 

 

「面倒だってんなら、また私が矯正する羽目になるね」

 

 

「……俺はやはり、自由という翼をもがれた憐れな罪人に成り下がるしかないのか」

 

 

「よォォォいちくゥゥゥン? 上の口を縫い付けて欲しいってンならそォしてやろォかァ、ン?」

 

 

「く、くそ……なんで俺だけ……」

 

 

手に持っていた一束の髪を慌てて落としそうになりながらも、誰から聞いたかは知らないがかの武神すら凌ぐとされる一方通行には刃向かう意思を既に無くしているらしい。

渋々といった様子で口を尖らす与一だったが、どうやら一方通行の言うことは素直に聞くらしいので、困った時は彼に頼めば与一の反抗期も何とかなりそうだと義経はどこか御満悦である。

 

与一と弁慶とは生まれてからずっと主従関係であるらしく、自分達を取り巻く環境が影響しているから、ある程度致し方ないとはいえ、思春期特有の中二病と反抗期という厄介な性格に歪んでしまった彼に色々と手を焼いて来た彼女としては、漸く舞い込んだ与一修正の好機に期待せざるを得ない。

 

 

「ンで、Sクラス……葉桜は三年のSクラスに編入って話らしいが、学力に問題はねェンだな?葉桜と義経はまァ余裕そォだが」

 

 

「私はまぁ、何とかなるとは思うよ。勉強嫌いだけど」

 

 

「……勉強なんてかったるいだろ。寧ろ遊びたい」

 

 

「はン、遊びてェか。なら、遊べば良い」

 

 

「い、一方通行、それはいけない。私達は英雄として人々の規範にならなくては……」

 

 

どこか忌々しそうに、暗に勉学に囚われず自由に学園生活を満喫したい事を与一に仄めかされて、一方通行は愉快気に口角を上げて、不敵な笑みを浮かべる。

しかし、そのまま紡がれた好きにしろといった肯定のニュアンスは、自分達は英雄のクローンとして人々の規範とならねばならないと考えている義経としては許容出来ない。

寧ろ、彼が与一の意見に賛同する様な人物とは思ってなかっただけに、鈴を鳴らした様なソプラノが動揺に曇っていた。

 

 

「英雄だとか、ンなモンは俺の知った事じゃねェよ。勉強するなり遊び呆けるなり好きにすれば良いだろ」

 

 

「そ、それは駄目だ!」

 

 

手に握っていた髪を離して、情動の儘に一方通行の正面へと慌てて回り込み、設問するが如く食い気味に、真夜中の月を想わせる静冷で鋭利な眼差しを覗き込む義経の瞳は、ひたすらに無垢で、澄んでいて。

けれど、一方通行は決して主張を曲げない。

それは、初めて彼が己を見つめ直す切欠となったあの運命の夜、英雄だと掲げ続けた幻想殺しの少年が見せた眼差しと、どこか重なっていた。

 

 

「別に、オマエがそォ生きてェのは勝手だ、オマエが選ンだンなら、その決意にまでケチを付けねェよ。だが、少なくとも与一は違ェンだろ?」

 

 

「……でも九鬼の方々は、義経達が英雄として、九鬼の名に恥じない様に、生徒達の手本になれって」

 

 

「あァ。だが、ンなモン嫌なら嫌で良いじゃねェか。英雄として生きたいなら英雄として生きりゃァ良い。只の人間として生きたいなら生きれば良い。自由が欲しいなら求めれば良い。自分で選んで決めンのに英雄もクローンもねェだろォが」

 

 

「やはり……やはり一方通行は俺と同じ特異て……じゃなくてだな、俺の理解者だな。俺は九鬼に強いられた生き方なんてゴメンだ」

 

 

「与一……」

 

 

酷く悲しそうに与一の名前を呼ぶ義経と、賛同を得られた事が、ずっと心の内に燻っていた不満の火を煽られてか、嬉しそうに不敵な笑みを浮かべる与一。

良くない雰囲気になっていると、下手をすれば主従関係に亀裂が入りそうな流れを忌諱してか、仲裁に入ろうとする清楚の細い腕を、そっと弁慶が掴む。

 

多分、心配はいらないと思うよ。

そんな、どこか静かな水面を彷彿させる彼女の瞳に、清楚は他でもない彼女がそういうならと、弁慶の意思に任せて

静観に務める。

一体どういうつもりで、一方通行はあんな挑発めいた言葉を並べているんだろう。

言葉にしなくとも紡げそうな視線に、怪訝そうな感情を乗せて。

 

 

「何勘違いしてやがる、俺はオマエの事なンて理解してねェよ。選ンで決めたンなら、その責任は取らなきゃならねェンだ。学校も、服も、食事も、金も、総て自分で賄え。九鬼が嫌なら抗え、刃向かえ、その分にも責任は出るが、自分で決めて選ンだなら、行動に移せ」

 

 

「なっ、む、無理に決まってんだろそんなの!」

 

 

「今は無理だってンなら計画立てるなり自分で別途の働き口見付けるなり手段を模索しろ。自由になりたいなら、自由になる為の責任を果たせ。反抗心持つだけ持って何もしねェで喚くなンざ餓鬼のやる事だろ」

 

 

「手段の模索……」

 

 

「出来ねェなら諦めて、九鬼に従え。嫌なら抗え、シンプルだろ」

 

 

「成る程な……分かった。今は無理だが……いつか、俺は翼のもがれた罪人から、不死鳥の如く自由を謳歌してやる!」

 

 

「よ、与一……な、何故だ、一方通行。君はどうしてこんな事を言うんだ。お蔭で義経は困っている」

 

 

色々と納得しない事はありながらも、何とか一方通行の言葉を噛み砕いて、自分の中で折り合いをつけた与一とは対照的に、義経はただひたすらに困惑していた。

彼は九鬼の主要陣からも頼られる存在でありながら、そして九鬼から自分達の面倒を見るよう、協力を要請されている立場の筈。

それが何故九鬼に反旗を促す事を平然と宣うのか、理解出来ない。

 

英雄であれと望まれた自分は、英雄である振る舞いをするのが当然と、さして疑問を抱かず生きてきた。

彼の言葉はどこか、それを間違っていると、自分の生き方を否定する様にも聞こえて。

 

 

「オマエは、英雄のクローンとして生きてェのか、只の人間として生きてェのか、どっちなンだよ」

 

 

「義経は……英雄として生きる。そうして生きてきたのだから、今さら迷う事なんかない」

 

 

「なら、それで良い。だが、与一は英雄のクローンなンて望ンでねェ。九鬼の命令なンて関係なく生きたい、それだけの事だろォが」

 

 

「だが、与一は義経達とずっと一緒だったんだ。それが欠けるのは、義経には耐えられない。それに、いずれ九鬼に反旗を翻すなら、義経は与一と闘わなくてはならなくなってしまう……」

 

 

「まァ場合によってはそォなるかも知れねェな。だが、それならそれで今度は只の那須与一として、九鬼からお呼びが掛かるだけだと思うがな」

 

 

「なっ……そんな筈がない!九鬼が掲げる覇道は刃向かう者、立ち塞がる壁を悉く薙ぎ倒して進むモノ。許される訳がない」

 

 

「分かってねェな、義経。九鬼ってのは割とバカなヤツらの集まりだぞ。九鬼が与えた英雄のクローンって枠で収まる優等生より、その枠組みを越えようともがく馬鹿の方が好きなンだよ。常識って殻を破ってデカく強くなった九鬼が、ンな器の小せェ事を抜かすかよ」

 

 

例え異常と言われようとも、例え邪道だと思われようとも、自分達こそ王道を征く者と信じて邁進する、それが九鬼だと。

そういう愛すべき馬鹿達だからこそ、こんなにも人の心を集めている。

 

だから、武士道プランなんて掲げてはいるが、単なる英雄のクローンで終わって貰っては、他ならぬ九鬼が一番困るだろう。

彼らが望んでいるのはきっと、クローンの枠を自ら打ち壊し、彼らが本当の英雄に成る事なのでは、と。

それだけではないし、別の思惑があるのかも知れない。

 

けれど、少なくとも九鬼揚羽はそう願ってはいるだろう。

だからこそ、とっくに所用とやらを終えて扉の向こう側で聞き耳を立てるなんて真似をしているのだ。

一方通行ならば自分の意志を汲み取って、クローン達を導いてくれる、と。

だからわざわざクローン達と自分を引き合わせる様な真似をしたのだ。

そして、彼らは必ず一方通行の力となるだろうと信じて。

 

身勝手でありがた迷惑で、らしくもない役回りをさせてくれると、白い貌が面倒臭そうに心中で毒づいた。

だが、協力を要請した以上、最低限の思惑ぐらいは叶えてやっても良いだろう。

 

 

「源義経。ゆっくりで良い。自分で考えて、自分で決めろ。九鬼の言う、人々の規範となる英雄のクローンとして生きンのか。一個の人間として英雄を目指すのか」

 

 

「……」

 

 

卑怯な言い方だろう、これならば誰だって後者に憧れる。

けれど、少しずつ、歩くような速度でも良いから、考えて、悩んで、迷って、そして答えを出して欲しい。

例え英雄のクローンとして生まれても、クローンとしての生き方を強いられても、それ以外を望むのはいつだって自分の意志であること。

 

 

――彼女は源義経のクローンであっても、源義経になる必要はないのだと。

 

 

――きっと、それは他の誰かに言いたかった筈の言葉なのだけれど。

 

 

 

考え抜いたその先で生き方を決めたのなら、少しくらいは手を貸してやっても良いし、知恵ぐらいなら出して良い。

それが彼らを導くと決めた一方通行の責任だから。

 

 

「――」

 

 

迷っているのだろう、悩んでいるのだろう。

好きに決めろ、自由にしろだなんて、きっと殆ど言われた事もない筈の彼女は、顔を俯かせてひたすら思巡している。

自分の中で常に自問自答をしていた与一と違って、義経は初めて自分としての生き方を見つめ直しているのだから、時間は掛かるのが当たり前だ。

 

だからこそ、無理に急かしてやる必要はない。

形の良い、けれど凝り固まってしまった頭を骨張った細長い掌の指でそっと撫でてやれば、道に迷って困惑顔の迷子の顔がゆっくりと、道標を探して紅い月を見上げる。

残念ながら、答えを与えてやる事は出来ない。

道に迷ったなら知っている人に聞くか、自分で見付けなくてはならないものだ。

月はいつでも退屈そうに傾くだけ。

けれど、方角をそれとなく促す事だけはしておいても良いだろう、と。

 

 

「一方通行は……義経はどうしたら良いと思う?初めてなんだ、こんな気持ちは」

 

 

「英雄になるって決めたンじゃねェのか?」

 

 

「その筈だった……けど、本当にそれで良いのか、義経は分からなくなってる。一方通行の言葉で、義経は分からなくなってしまった」

 

 

「……そォか。だが、俺は急いで決めろなンて言ってなかっただろ」

 

 

「で、でも不安なんだ。自分の気持ちが分からなくなるなんて……義経は、怖い」

 

 

泣き出しそうな幼子をあやすのと、そう変わらない、壊れ物を扱う様に撫で付ける優しい掌に目を細めてしまいそうになる。

静かに暗闇を照らし明かす月を宿した瞳が、少しずつ、自分で自分が分からなくなる恐怖を和らげていく。

 

きっと、自分が行くべき道を知っているのに、少しでも早くこの不安から開放して欲しいのに。

答えを教えずヒントだけを与えるほんの少しの意地悪な月に、何故だか、心が落ち着いていくという、矛盾。

その矛盾が恐いのに、どうしてこんなにも、まるで父親の腕に抱かれたような安堵に包まれているか。

答えを見付けるには、彼女はあまりに未熟で、あまりに世界を知らなさ過ぎた。

 

 

「分からねェなら、掻き集めてきゃ良い。公式の一つも知らねェ癖に方程式なンざ、早々解けねェよ」

 

 

「だったら……義経は集めていけば良いのか。そうすれば、いつか分かる様になるのか」

 

 

「さァな。それはオマエが判断する事だ」

 

 

「うぅ、一方通行は意地悪だ。義経を迷わせる事ばかり言って」

 

 

「はン、考えて来なかったオマエが悪い……と言いてェとこだが、どっかの盗み聞きしてるバカ共並みに意地が悪いと思われンのも癪だから、ヒントくれェはくれてやるよ」

 

 

盗み聞きと彼が強調した様に言い放った途端に執務室に繋がる扉が何やら騒がしくなって、クローン達は一斉にキョトンとした間の抜けた表情を浮かべた。

やがて、弁慶と清楚はクスリと微笑を携え、与一はまさかの九鬼に対する反逆発言を聞かれてしまったのではないかと顔を青くする。

けれど、義経だけは未だに一方通行の白く整った美麗の貌から目を放さず、彼のヒントを待ち惚けている儘で。

そして、月は紡ぎだす、迷い人への道標を。

 

 

「聞けよ、オマエのツレに。相談して、自分で噛み砕いて、答えを作ってけよ。酔っ払い辺りは案外まともな事言うだろォよ、酔ってなけりゃァな」

 

 

「えっ、私?」

 

 

「オマエ、コイツの面倒良く見てンだろ。だったら、コイツの事を一番見てンはオマエの筈だ」

 

 

「…………」

 

 

さっきまでちょくちょく邪険に扱ってきた癖に、急に持ち上がる事を言われては落ち着かない。

何だか妙に照れくさいなと後ろ髪を掻きながらも、内心では彼の洞察力に目を剥いていた。

事実、この純真な主人の事をいつも気にかけてきたし、自分の境遇に一つの疑問さえ覚えずに育ってきた彼女を、密かに心配してきたのは間違いではない。

だからこそ与一が度々義経を困らせる度に、与一には悪いと思いながらも彼を叱って来ていたのだ。

 

どうすれば互いに上手い落とし所を与えられるかと、そして、いつも飄々としながらも奥底でずっと、このままで良いのだろうかと幽かに思っていた疑念すらも掬い上げて。

 

 

「……酒、足りねェか?」

 

 

体質もあるけれど、その感情を誤魔化すように酔いに委ねて、怠惰に身を寄せていた自分の隠したい所まで明け透けにする紅い瞳の静けさ。

成る程、九鬼が喉から手が出るほど欲しいと思う訳だ、と弁慶は小さく微笑みを浮かべる。

 

鋭い観察眼と第六感を駆使して人の奥底を見抜く能力と、人間離れした叡智と圧倒的な容姿。

そして、そんな隅々まで見通されても、不思議と恐いとは思わせない静かさ。

全てを明るみに晒す太陽ではなく、静かにそっと暗い闇でも変わらず寄り添ってくれるような、白銀の月。

一方通行の方がよっぽど何かの英雄のクローンなのではないかと疑ってしまいそうになるほどで。

 

 

「大丈夫、ちゃんと酔ってるって」

 

 

「ハッ、そォかい」

 

 

月の魔性に気を付けないと、案外ころっとイカされそうだと、薄く笑って。

それはそれで面白そうだが、このナチュラルに人の心に入り込んでくる男は、そうなったら一際面倒臭そうだから勘弁願いたいなと、不思議な心地でそう思った。

 

 

「……分かった。弁慶に聞けば分かるかもしれないんだな!」

 

 

「ったく、落ち着けや。ンなモン分かる訳ねェだろ。飽くまで決めンのはオマエだ。酔っ払いには酔っ払いなりの答えがあって、オマエの答えはオマエが決めて作ンだよ」

 

 

何度も何度も、同じ事を繰り返して、一つ一つ噛み砕いて考えを纏めるまで待って、二度も言わせるなとは、悪態をつかない。

まるで幼子に対する保育者のような立ち振舞いはやけに様になっていて、だからこそ心の若い義経を安心させる。

それは、他ならぬ彼が辿って今もまだ答えを作り出せていない、けれど確かな経験則。

ひょっとしたら答えなんか見付からないのかも知れないけれど、その過程の迷い、戸惑いの意味を見詰める事こそ人生だと、そう教えてくれた人が居た。

語尾がじゃんじゃん煩くて、なんだかとても分かり難かったが、言いたい事だけは理解出来ていたから。

 

 

「……やっぱり、難しいな」

 

 

「そンなモンだ。与一のアホだって、まだ選ンで決めただけだ。そっから先の答え探しはまだ先なンだろォよ」

 

 

「そうか。なら、義経にはもっと時間が掛かりそうだな」

 

 

「人間だからな、仕方ねェよ」

 

 

「――そうか、そうだな。仕方ない」

 

 

何故だろうか、少しだけ分かった気がする。

一方通行が言いたかった事、一方通行が教えようとしてくれる事。

剥き出しの心がそっと輪郭を帯びて、自分を作っていく、夕焼けを歩けば濃い影が出る、そんな当たり前のこと。

そんな心ごと抱き締める様に、胸の上で手を重ねて、義経は漸く表情に笑顔の華を咲かせた。

けれど、まだささやかな風ですら花弁を散らしてしまいそうだから。

 

 

「一方通行は、どっちの義経が良いと思う?」

 

 

もう一度、強く、根付く様にと。

重ねた掌が、祈る様に指を絡ませ合う。

頭を撫でていた暖かさが、すっと居なくなってしまって。

 

けれど。

 

 

「あァ?ンな事、俺の知った事かよ」

 

 

「駄目だ、答えて欲しい。答えてくれないと義経は困る」

 

 

「子供かよ」

 

 

「子供だ、義経は子供より子供だ、今はまだ」

 

 

「チッ…………まァ、強いて言うなら――」

 

 

月が、また一つ傾く。

退屈そうに、面倒そうに、相変わらず見下ろしている。

それはどこか、見守っているかの様で。

 

 

――クローンで人間で英雄な義経。

 

 

風も吹いてない室内なのに、ふわりと舞い上がったような、流れる白銀。

薄く笑みを象る最後まで意地の悪い唇と、父性と幼稚さを兼ね合わせた不思議な、けれど深い深い紅い紅い瞳。

時を奪われた様に見惚れていた義経が、少し頬を染めながら、彼に対して初めて溜め息をついた。

 

 

「それなら、仕方ないな」

 

 

 

 

――――

――――――――――

 

 

 

「……姉上。我は、少し不安になりました」

 

 

「不安、か。遠ざかったか、紋よ。彼奴の背中が。この程度で臆するなら、彼奴の嫁として肩を並べるなど到底夢事にしかならぬぞ」

 

 

「……いや、揚羽様。私も正直、ラビットが分かんねぇですよ。成人もしてねぇガキが、どうやったらあんな言葉吐けるんですか……何を見て来たら、あんな」

 

 

「フハハハ、顔が赤いぞステイシー……まぁ、我も一方通行の過去を詳しくは知らん。だが、彼奴が辿って来た道はきっと尋常ではないだろうな」

 

 

「……我も、あそこまで行けるでしょうか」

 

 

「行きたいのならば、決めるが良い。自分で選び、自分で決める。手垢のついた言葉だとしても、そこに染み付いた真理はきっと変わらんよ」

 

 

「はいっ、姉上」

 

 

「さて、我らも入るとするか。そろそろクラウディオが食事の用意が出来たと告げに来るであろうし、一方通行も帰宅するまでの時間は学園での内容も詰めなくてはならん」

 

 

「よし、参ろうか、姉上、ステイシー」

 

 

「はーい、っと……ちっくしょう……ラビットの奴、生意気なんだよ、ファック」

 

 

クローン達と、その導き手と揚羽が定めた青年との会話の後半を聞き届けた彼女達は、どこか朗らかに、どこか苦しそうにしながらも執務室に続く扉を開く。

彼の言葉を反芻しているのか、扉の軋む音に掻き消されたからか、定かではないが、この時彼女達は聞き逃してしまった。

 

鼓動の様な、少女の幽かな、消え入りそうな呟きを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――范増……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Alone Again Snow Polaris』__end.












今回賛否両論あるだろうなこれ


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拾ノ調『Shadowglaph』

頬を寄せたカウンターテーブルのヒヤリとした温度とアクリルを敷いたスベスベとした感触が、微睡みを加速させる一方で、ほんのりと帯びた桃色の酒気を奪っていく。

薄暗な店内で世の中の世知辛さに項垂れるサラリーマンの様にだらしなく、モデル染みた体型と豊かな蜂蜜色のブロンドという男性からしたら涎垂する程に妖艶な美女がカウンターで酔い潰れていた。

耳元を擽る、和風な店構えには少しミスマッチなインストは、絶世の美女こと霧夜エリカが眠っている間に既に途絶えていたらしい。

 

霧雨を濃くした靄に外枠を埋められた視界の端に映る、細いアンダーから百合花みたく上へ上へと広がるお洒落なロックグラスの底に浸された琥珀色のウィスキー。

ジョニーウォーカーのブルーラベル。

エリカのオフィスの酒蔵ラックに保存してあるグレンフィディックの55年モノと比べれば、庶民的であり値段も安いウィスキーだが、芳醇で重々しい味わいが癖になるくらい、彼女もお気に入りの一品。

 

澄んだ琥珀の揺り籠に浮いたロックアイスの立体的な満月が、吊り下がったモダンチックな淡い照明の灯火に愛撫されて、大きな月の廻りをキラキラと星屑が煌めいている。

幻想的な扇情さが花の香りに誘われた蝶が蜜を吸うように、握っていたちっぽけな琥珀色の夜を手繰り寄せて、エリカの薄くグロスで彩めた蟲惑的に艶めく唇がグラスの縁をチロリと舐めた。

 

舌先で遊ぶだけでは物足りないと、角度を変えて光輝くグラスを傾ければピリッとした苦味と喉を焦がす強いアルコールの感覚が、男を誘う淫靡の様な熱い息を吐き出させるが、酔いを深めてはくれない。

老舗風の店主が、エリカの為に毎度毎度仕入れては、食後に注いでくれるウィスキーには、味だけじゃなくて、情念や懐旧でもって酔いを深めてくれるから、彼女はこの店の料理以外にも楽しみの一つとしている。

 

もっと高くて、もっと綺羅びやかで、もっと美味しい所は在るには在るけれど、エリカの求めているのはそんなものではない。

美味しいに越した事はないけれど、浸れる思い出と、浸れる酒は、彼女にとってこの店だけでしか味わえないから。

そして、彼女が暇を見付けたり仕事で鬱屈した気分になる度に目敏く通う理由は、もう一つ。

 

 

「良い加減にしねェか」

 

 

もう一口と、優雅さも気品もない体勢で再びグラスを傾けるしっとりとした女の掌を掴む、無骨と麗美が混在する真っ白な男の手。

調理の度に冷水で清めているからか、矯声が漏れそうな凍てつきと、冷たい雪が溶ければ春が来る様に、徐々に追い掛ける確かな温もりが親愛を浮かばせる。

ハスキーに掠れ掛かった、微睡みを誘うには丁度良いテノールの心地好さは、耳に擽ったい。

 

ピアノと管楽器の奏でるインストはもうすっかり聴こえないが、それならばこれを揺りかごにして眠りたいな、と。

ロシアンブルーの花が目蓋に覆われて、花弁を閉ざそうと視界は仄暗い白の闇へと移ろうとするのを、ペシリと額を打つ鋭い痛みが遮って。

 

 

 

「いったぁ……ちょっとぉ、眠る淑女を起こすなら優しく揺するなり甘いキスをするなり、相場ってのがあるでしょ?」

 

 

「毒林檎食わされンなら考えてやる、オラ、いつまでも寝てンじゃねェよ」

 

 

「なによー私が酔っちゃったのだって、一方通行の持ってくる案件が面倒で疲れちゃったのが理由なのにぃ」

 

 

「オマエ酔ってる時の事を覚えてねェのか。思いっ切り見合いがどォのとしか言わなかったンだが」

 

 

「酔い醒ましに何か欲しいわね。御通しとか余ってない?」

 

 

「話逸らすンじゃねェよ。つゥか店仕舞の時間なンだよ、さっさと帰れ。良美さンと――このポンコツ連れて」

 

 

「むふふぅ、おっきくなったなぁ弟よぉ、お姉ちゃんは嬉しいぞぉ」

 

 

身体のラインがハッキリとした生地の薄い黒のカッターシャツに前掛けと、家庭的な雰囲気は白髪と紅い瞳という端から見ればヴィジュアルバンドのメンバーの様な容姿にはちぐはぐながらも、意外と板に付いている格好の一方通行が、その細身の背を顎で促す。

線の細い華奢さと角々とした男らしさをブレンドした一方通行の背中に貼り付いて御満悦に表情を崩しては、その豊満で清麗なメリハリの有る肢体を惜し気もなく押し付けている、健康的な色香を放つ女性、鉄 乙女。

群青色のショートカットとダンディライアンの瞳は普段の凛々しさを欠片も帯びずに垂れ下がり、レディスーツを通した腕を一方通行の首に絡ませている彼女の頬は、エリカよりも余程分かり易い程に酔っ払っていた。

 

 

私生活面に自堕落さが見え隠れするエリカに、何かとだらしがないなと、女としての隙を見付けては身辺整理と説教を織り交ぜて叱る乙女の姿は見事に霧散している様相に、麗人の美貌は呆気に取られて少女らしさを帯びる。

けれど、きょとんと愛らしい間抜けさを晒したのは一瞬で、次第に格好の玩具を見付けたチェシャ猫の笑みを浮かべるエリカに、一方通行は嫌な予感を抱かざるを得ない。

 

 

「おやぁ……?もしかしてぇ、照れちゃってたりする?何よ何よ、可愛いとこあんじゃないの」

 

 

「うっぜェ……面白がってねェでコイツ何とかしろや。オマエらの所為で閉店作業進まねェンだよ。なごみさンは良美さンの介抱で手が離せねェし、対馬さン一人に任せてる状況なンだよオラ」

 

 

「大丈夫よ、対馬クンなら。それよりもさ、乙女さんのおっぱい気持ち良い?柔らかい?弾力有る?ねぇねぇねぇ」

 

 

「もォ死ねよオマエ、ただのセクハラ親父じゃねェかクソッタレ」

 

 

「赤くなっちゃってぇ……ま、そのくらいは許してやる甲斐性見せなさいよ。中々会えなかったから寂しがってたのよ、先輩」

 

 

「……ホントォにこの駄乙女は、いつまでも弟離れ出来ねェのな」

 

 

「むぅ?離れるぅ……?駄目だぞぉ、駄目だ、もう離してやらんかなー」

 

 

 

中々と云っても精々一ヶ月と少し程度なので一方通行からしたら、殆ど最近にも思えるのだが、対馬レオの弟離れが出来ない余りに一方通行を弟と見立てて構いたがる残念乙女からすれば、堪える程に長く感じていたらしい。

清潔で凛とした空気を纏う健康的な美女なイメージだが存外に寂しがり屋な気質である乙女は、馴れない酒にまんまと意識を泳がされ、気付いた時には白い青年の広い背中にべったりと、といった経緯なのだが。

 

自分の心に残るとある女と一々重なる面の多いこの乙女相手では流石に女性を意識せざるを得ないらしく、腹の立つチェシャ猫からプイッと顔を背けた雪肌に朱色が差せば直ぐに分かるのだ。

柔らかい胸の感触、動く度に鼻孔を擽る石鹸の爽やかな香り、首筋を這う熱い吐息は、鬱陶しいと思わせながらも理性を削られてしまうのも、仕方ないであろう。

 

いつぞやにステイシーに絡まれた時も白状した様に、一方通行は単に強靭な理性で抑えているだけで、実際は女を意識していない訳がない。

女性の身体の柔らかさと本能的な熱情と快楽の渦を、彼とて既に経験していたのだから。

 

 

「お姉ちゃんだぞ、ほらほらぁ」

 

 

「……はァ、埒があかねェ」

 

 

一方通行の心情や理性等まるで考慮せずに強く抱き締めようとする酔っ払いに嫌気が差したのか、スルリと腕の中で身体を捻らせて抜け出し、既に片付けて置かれる物も無いカウンターに泥酔した乙女を雑に放る。

身体を捻る際に胸元のピンポイントが擦れたらしく、甘い矯声を挙げた乙女に一瞬ちゃっかり意識を削がれたりしたものの、漸く自由になったと細く白い首をごりっと解して溜め息を一つ。

 

 

「うぅぅ……酷いじゃないかぁ」

 

 

「はいはい凹まないの、私の胸で泣く?貸すわよ?揉むけど」

 

 

「いやだ、姫は弟じゃない。揉まれるのもいやだ」

 

 

「チッ、やっぱりガード堅いな乙女先輩。酔ってる今ならチャンスだと思ったのになぁ」

 

 

「……どォでも良いが、帰り支度しろよ。閉店時間過ぎてンだよとっくに」

 

 

店内に流れるBGMは当の昔に切ったし、外の看板の照明も切ってあるし、既に暖簾も外してある。

壁に立て掛けたレトロ仕様の時計は既に午前へと差し掛かろうとしており、閉店時間も過ぎたので、エリカと乙女、客室でなごみに介抱されている良美以外の客は一人として居ない。

 

エリカの手によって無理矢理飲まされた乙女と、ストッパーたる良美も潰された時点でこの未来は見えていた店主こと対馬レオは、仕方なさそうに苦笑していた。

対称的に呆れながらも黙々と作業をしていた対馬なごみは、一足先にバイトである一方通行を上がらせようとしたのだが、彼は気にしなくて良いとこんな時間まで乙女の介抱をする事になる。

無論、既に彼の保護者である梅子には事情を説明してあるので問題は無いが、心配症な義姉を早く安心させる為にも閉店作業を進めたいという実情である。

 

 

「……そういえば、前に言ってた子達だけど。いつになれば目利きにさせてくれるのかにゃーん?あのツンデレ一方通行が相当優秀って言うから、ずっと楽しみにしてるんだけど」

 

 

「さァな、彼奴次第だ。つゥか誰がツンデレだクソッタレ」

 

 

「いやぁ、でも貴方見てるとつい、昔居たツンツン娘を思い出しちゃうのよねぇ。まぁ分かり難さで言えば貴方の方に軍配が上がるけど」

 

 

懐かしい高校生時代を思い浮かべながら、ニヤニヤと厭味らしい、某ツンツン娘ならばトサカに来るとでも憤慨しそうな笑みを貼り付け、指先でクルクルとロックアイスをグラスの中で弄ぶエリカ。

どうやらエリカの中でツンデレというカテゴリーに分類された一方通行にとっても、腹の立つ笑顔である事は同様であるらしい。

分かり易かろうが難しかろうがどうでも良いが、ツンデレと称されるのは許容はしたくない、只でさえ時折彼は周囲に素直じゃないとかデレが少ないとか言われているのだから。

 

 

「まぁ、その分かり難さに気付いた時が、一番危なかったりするのよねぇ、一方通行の場合」

 

 

「あァ?何が危ねェってンだよ」

 

 

「決まってんじゃない。そういうのに女は弱いの、知ってる癖に。被害者、十人は超えてるってのが私の見立てだけど」

 

 

「――チッ、ピロートークしてェなら余所で男を引っ掛けろ。此処は飲食店だ」

 

 

「逃げるんじゃないわよ、甲斐性なし。本当は分かってるんでしょ、何もしなくても、女心は傷付くもんなのよ」

 

 

「碌に男も居た事ねェやつが良く言う」

 

 

「男は作った事ないけど、恋の一つはした事あるのよ。私の場合は、遅過ぎたけどね」

 

 

「……フン」

 

 

淡い日々の感傷を流し込む琥珀のウィスキーをグラス越しに見詰めて、そんな当の昔にケリを付けているだろう話を、今更自分にされても困る、と。

恋破れた女に慰めを掛けてやるつもりも無ければ同情もしないが、隠し事を秘め続けて揺蕩うアイスブルーを素直に綺麗だと、そこだけは認めておく。

 

恋をしたと気付けば、その相手には恋人が居て。

割り切って蓋をした感情を笑い話に出来るくらいには、無意識に予防線を張っていたのだろう。

けれど、霧夜エリカの独白は彼女の指摘する通り、一方通行にとって他人事だと白霧に溶かす事は出来ない。

もしかして、ではなく、ほぼ確信に近いが、一方通行を男として求めている女の事が分からない程に、彼は人の心に疎くはなくなったのだから。

自分の心が向かう先に気付いて、焦がれながらも耐えて独り傷付いている女は、確かに居るのだから。

 

 

「ほんと、いつまでも割り切れない男ねぇ。その癖、賢いんだから救えない。どっかの誰かみたいに鈍感になれれば良かったのにね」

 

 

「……賢い訳ねェだろ。バカみたいに縋るから、こンな無様をいつまでも晒しンだよ、クソッタレ」

 

 

「……胸、貸しましょうか。少しくらい、スッキリしたら。縛られ続けるのは、辛いんでしょ」

 

 

「楽にはなれねェよ。簡単には」

 

 

きっと、かき集めた誰かへの記憶が、いずれ邪魔になるんでしょうから、と。

自分に向けられる女の心を受け取るには、縛られるモノが多いんだろう、と。

最近、どこかそんな一方通行の苦し気な徴候を密かに勘付く事が出来たのは、この場では霧夜エリカぐらいだろう。

 

母性を携えた美貌に微笑みを添えて、泣くくらいは良いじゃないかと腕を広げてみても、予想通り甘えては来なかった。

静かに見えない傷を浮かべて自嘲する紅い瞳はどこか痛ましく揺れ動く青年の、雁字搦めに絡まってしまっている行き場のなさに、虚しさすら思わせる。

 

例え一時の癒しを見付けた所で、その場所を素直に安らぎとして捉えて身を委ね切れない臆病者な白い猫。

離さないように抱き締めても、本当にこれで良いのだろうかと落ち着きなく尻尾を揺らして、思考はいつも蜘蛛の糸みたく張り巡らして。

 

だから、彼に傾注している女が我が儘にでも求めれば良いのだろうけど、不幸にも彼に惹かれる女は誰も彼も賢いらしい。

 

 

「厄介よね、恋って。自分のモノなのに自分の思い通りに動かないし、勝手に居座る、勝手に傷付く。金の回りの方がよっぽど分かり易い」

 

 

「高校生気分が抜けてねェらしいな。こっ恥ずかしい話してンじゃねェよ、顔洗ってこい」

 

 

「そうするわ、酔ってたって事にしといてくれる?」

 

 

「――どォせ明日には忘れてンだろォから、気にすンな」

 

 

明日には忘れるような言葉なら、その苦々しく思い詰めた様な表情は隠せばいいだろうに。

 

いや、隠し切れないんだろう。

元々ポーカーフェイスは得意だった筈なのに、今はそんな余裕もないぐらいに、縛られている。

彼を支えている、彼の心を抱き締め続ける、誰かに。

 

 

「……さて、よっぴーの胸でも揉んでやろうかな」

 

 

適当な事を紡いで振り向けば、宙に浮いた照明をぼんやりと眺めている白い横貌。

楽にはならないとは言うものの、寧ろ、楽になりたがらない、そう思ってしまう。

どんな出会いと、どんな別れをしたのだろうか、分からないけれど。

 

 

当に春は来ているのに、雪解けは、まだ遠い。

 

 

 

 

 

 

 

――――

――――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 

 

 

 

 

空虚な街路を渡り歩けば、無機質な靴音が伽藍堂に広がる工場地帯を独りでに木霊を繋げた。

薄雲掛かった月も、わざわざ見上げるにはどうにも不気味めいて、感情に巣食う悪寒が秀麗な銀光を褪せさせる。

一歩前に身体を進める度に心地良く弾むポニーテールとは裏腹に、翳りを差し色にした白貌は沈んだように表情が堅い。

 

手元を見れば、仄かに明るい携帯画面に広がる、一件のメール。

あまり遅くなるなと、淡々と短く不必要な絵文字も並んでない文面だが、内容の端々に差出人の心配症っぷりが目に見えてしまい、少しだけ一方通行の口角が綻んだ。

 

続けて次に受信されたメール画面には、梅子に心配かけるな、速く帰ってこい馬鹿兎と記された文面。

クソ犬と表示された差出人の名前を白い指先がツーっと辿りながら、何とも微妙な表情を浮かべる。

いざと云う時の緊急手段として必要になる可能性が微粒子レベルで存在するかも知れないからと、改まって聞くのも恥ずかしいのか頬を染めてマルギッテが連絡先を尋ねてきたのは、昨日のこと。

憎まれ口は相変わらずだが、多少なりとも互いの過去を晒けただけあって、精神的な距離は以前と違って少し近くなっていた。

しかし、そんな彼女から寄越された一番最初のメールの内容がこれとは、大したご挨拶だな、と。

 

売り言葉に買い言葉で、さっさと寝ろと短く可愛げもない返信を終えて、送信ボタンを――押し掛けたところで。

 

 

「なんだ、思ったより元気そうじゃねぇか。クソガキ」

 

 

「ニートに言われたかァねェな。寧ろまだ生きてたのか」

 

 

「誰がニートだ、ちゃんと働いてんよ。バイトだけどなっ」

 

 

「胸張って言える事かよ馬鹿野郎が」

 

 

拭っても拭っても、壁に染み付くタールみたいな低く這い寄る禍々しさ。

敢えて牙を立てて威嚇する様な嫌味たらしい嘲笑が似合うのは、ポケットに手を突っ込んだまま目の前に立ち塞がる男が光を好まない気質故だろうか。

釈迦堂 形部、元川神院師範代と物々しい看板を背負った目付きの悪い男の囀りが、端々に闇を纏わせている事に、一方通行は違和感を感じた。

 

かつては無職ながらも光当たらぬ道を歩き続け、何かと影を纏いながら暗躍をしていた面倒な存在だったが、今では改心でもしたのか、この生半可ではない狂気を滲ませる中年は、牛丼チェーン店でバイトに精を出している筈だ。

それが、いつか対峙した頃と同じ狂笑で、一方通行を鋭く見据えている。

どこか退くに退けない切羽詰まった、彼に似合わない焦燥感を携えて。

 

 

「お前こそどうしたんだよ、一方通行。携帯画面見ながらニヤニヤするなんざ、童貞拗らせた高校生みてぇじゃねぇかよ。こんなに近付いても気付かねぇとか、そんな間抜け晒す男だったか?弛んでるねぇ」

 

 

「ご挨拶じゃねェか、クソ野郎ォが。修行不足が祟って獣臭ェ殺気も抑えられねェか。牛丼ばっか食って情緒不安定かよ、釈迦堂ォォクゥゥン?」

 

 

「牛丼ディスんじゃねぇ、っと、殺気出てたか。悪ぃな、そこまで威圧するつもりは無かったんだがよ」

 

 

「……で、態々メールまで寄越してなンの用だ。いきなり呼び出すなンざ気色の悪ィ真似しやがって」

 

 

惚けながらポケットから手を取り出してはヒラヒラとさせて心にもない侘びを呉れた刑部に、自然と一方通行の腰が低くなる。

仕事終わりに届いていた、知らないアドレスからの呼び出しのメール。

そこに綴られた場所の指定と名前を無視するには、この男の存在は彼の中で小さくない。

どこか、かつて一方通行と対峙した刺青顔の研究者と、放つ禍々しい雰囲気が被るこの男には、如何に今、光の道を歩いていようと危機感を抱かざるを得ない。

 

 

最近は殆ど姿を見せなかった彼が、態々彼らしくもない手段を用いてまで一方通行を呼び出したかった理由。

裏の仕事にも関わっていた刑部が語りたい内容が、川神を脅かそうとしている狡猾な邪気に関わる事ではないのか、と。

けれど、その方がまだマシだったのかも知れない。

少なくとも、今の一方通行にとっては。

 

 

「お前よ、亜巳の事、抱いてやらねぇのか?」

 

 

「――は?」

 

 

さっきまでピロートーク染みた会話をしていたエリカが、刑部に変装でもして続きをしようとか、そんな意味不明な悪戯を持ち掛けて来たのだろうか。

一方通行にしては珍しく唖然と口を広げて、根拠もない矛盾も孕んだ世迷い事を本気で考えてしまうくらい、予想だにしない言葉だった。

そんな彼のレアな様相に溜飲が下がったのか、ケラケラとタロットに描かれる悪魔のカードにそっくりな悪意のある刑部の狂笑は、真意を霧のように掴ませない。

 

 

「くはははは、んだよその顔は。百代とか天使にも見せてやりてぇぜ。俺の言葉が分かんねぇのか?ん?」

 

 

「……嘗めてンのかオマエ。悪戯してェならハロウィンまで待ってろや、クソッタレが。こンな深夜に呼び出してまで、何とち狂った事ほざきやがンだコラ」

 

 

「おーおー、折角のイケメンが台無しだぜ、一方通行。まぁ、テメエにとっちゃ巫山戯た話にしか聞こえねぇだろうがよ、マジで聞いてんだよ俺は」

 

 

「……なンでアイツを抱く抱かねェって話がオマエに関係すンだよ。惚れてンのか?」

 

 

「そういうんじゃねぇよ、惚れてる女は別に居るしよ。ただ、アイツら一家は俺の弟子で、まぁ……ちょっとした家族みてぇなもんだ。だからよ、父親みてぇな事をしてやるのも、たまにはいいか、って思った訳だ」

 

 

板垣一家の武術を仕込んだのは、他でもない刑部である事は一方通行も知っていたし、特に秘匿にする必要もない。

確かに刑部もだらしないながら彼なりに亜巳達の面倒を見ていたし、そんな刑部を彼女達も差はあれ慕ってはいる。

極稀に賄いの牛丼を幾つか持って板垣家に訪れた刑部と、たまたま天使に付き合わされて訪れていた一方通行が鉢合わせた事もある。

だからこそ、刑部が亜巳達の父親面をしたところで一方通行としては納得出来る、似合わないとは思うが。

 

 

その彼が、父親らしく動いてみたいと、そう発言した意味を噛み砕いて解釈すれば――つまり、この男は。

世話を焼きに来たのだ、恋に苦しむ亜巳の世話を。

娘をたぶらかして宙ぶらりんにしたまま、何もしない男に真意を問いに来たのだ、彼は。

場合によっては、その拳を振るう覚悟を携えて。

 

 

「……抱かねェよ。アイツの気持ちに答える訳にはいかねェンだ」

 

 

「なーに言ってんだクソガキが。パッと抱いてやりゃ良いじゃねぇか、難しく考えてねぇでよ。親贔屓を抜きにしても亜巳は良い女だろ?」

 

 

「違ェよ、そォじゃねェ。アイツが俺なンかには勿体無ェくれェ良い女だって事は分かってンだ」

 

 

「あん?じゃあ問題ねぇだろぉが。いつまでもグダグタやってねぇで答えてやれ、クソガキも亜巳の事は悪くねぇって思ってんだろ?あんな良い女を――いつまで独りで惨めにさせてんだよ、あ?」

 

 

「――」

 

 

吐き出した吐息に剣呑と凄まじい狂気が混ざって、空気がズッシリと重みを伴って一方通行の細い肩に圧し掛かるが、それよりも胸にナイフを突き立てられた様に刺さった刑部の言葉に喉を詰まらせる。

 

いつまでも、独りで、惨めに。

 

生々しさを侍らした文句が、刑部の憤りをハッキリと伝える程に響いて。

その言葉の意味が分からないほど幼くも無ければ知識不足でもない。

刑部が何故そんなことを知っているのか、それとも只の憶測なのかは分からないが、問題はきっとそんな些細な事ではなくて。

 

 

「いつまで――どこにも居やしねぇ女の影を追い掛けてやがんだ。女々しいぜ、一方通行」

 

 

「……っせェ」

 

 

「過去に浸る俺カッコイィー惚れちゃいそうだぜぇ、ってか?洒落くせぇ、目を覚ませや。遠くばっか見てねぇで隣を見ろや」

 

 

「……るっせェよ」

 

 

ガツンと頭をハンマーでぶち抜かれた様な衝撃だった。

亜巳から向けられている視線にそういう色が無いなんて鈍感な振りも出来ず、こんな情けない自分を女として支えようと傷付きながらも足掻く亜巳の気持ちを、心理面の洞察に優れる今の彼が知らない筈なかった。

 

かつて、気付いてあげる事すら出来なくて、放ったらかしにして傷付けてしまった一人の少女を思い出す事すら恐がって蓋をした記憶が、振り返す。

好きだと言われて、初めて相手の感情に気付けて愚かな自分を恥じて、応える事すら出来なかった自分を恥じて。

だからこそ、人の心の奥深くまでを察せれる程にまで変わった自分は……想ってくれる相手を傷付ける結果だけが変えられない。

 

 

「うるせェンだよ……」

 

 

『やっぱり、気付いてなかったのですね、第一位様は。でも、良いんですの』

 

 

「知ってンだよ、クソッタレ。俺が、満足に女を幸せにすら出来ねェ程の情けねェ男って事くれェ、知ってンだ」

 

 

『知ってましたし、何処かで諦めてましたの。けれど、やっぱりこの想いだけは、知っておいて欲しかったんですの』

 

 

気付けなかった、想い。

惚れた女を幸せにしたいと願う自分から逃げもせずに、真正面から想いを伝えてくれた、とある少女。

 

あの時の胸の痛みに耐えられなくて、今もまだ、少女に対する追憶すら恐怖を覚えて、臆病な心の儘に蓋をしてしまった滑稽な自分。

また繰り返すのか、切り裂かれる様な痛みを、ずっと苦しませてしまった事を悔やんで、細く震える身体を抱き締める事も出来ない無力さを、また。

 

 

「自分に嘘の一つも付けねェ、クソッタレなチキンな男だって、呆れ返って嗤えるくれェに……」

 

 

『優しい第一位様ですから、きっと気に病んでしまうと分かっていました。恨んで下さって構わないんですの。でも、どうしても……』

 

 

 

 

 

「――とっくに気付いてンだよ、クソッタレがァァ!!」

 

 

 

 

 

『――黒子が第一位……様っ、お慕、してる事、伝えたかったんですの。ごめん、なさ、い……第一位、様っ』

 

 

余りに綺麗に、余りに痛ましく、戸惑いなく真っ直ぐ大地へと墜ちて行く、かけがえのない感情の雨。

俯かせて、謝罪を述べる彼女を抱き締めてあげたくて、それすら出来ないのだと、そんな資格は無いのだと知って。

何も出来ない、何もしてあげられない。

あんな想いをもうする訳にはいかないと、相手の感情を理解する事に神経を回すようになって。

結局、結果は変えられない。

あの日の様に、目の前で泣いている人に、何も出来ずに――

 

 

 

「それでも、亜巳は惚れてんだ。絶対に勝てないと分かっていながら、諦め切れねぇんだよ。俺はそんな娘の姿を見てられる程、物分かりが良くねぇんだ」

 

 

「……」

 

 

「だからよ、こっからは実力行使だ。無理矢理にでも、亜巳を抱くって言わせてやるよ。きっと亜巳には、ぶっ殺されても文句言えねぇだろうがな」

 

 

「……っ」

 

 

「行くぜ、構えろや――クソガキ」

 

 

狂気が、牙を剥く。

 

 

 

 

――――

――――――――――

 

 

 

 

 

「オラァ!!」

 

 

闇より深い黒の旋風を纏った鋭い腕の降り下ろしが、音を鳴らして視界の端より飛来する。

重心を水平に保たせながら半歩引いて狂気が通り過ぎれば、刃に似た鋭利さを伴った風圧が肌を覆う。

死神が降り下ろした鎌は一打ではなく、連撃。

 

理解はしても、予測は出来ても、だからと言って回避出来るのも当然、という公式は成り立たない。

いや、その公式すら押し潰されそうな心の傷に歪まされて、導いた数式が酷く曖昧で朧気に感じてしまう。

けれど、死神がそんな心情を考慮する事に期待する訳にもいかない彼は、何とか次の攻撃への回避体勢を整える。

 

 

「っ、地の剣!!」

 

 

「ッ――」

 

 

拳の降り下ろしから繋がる、振り絞られた弦から放たれた弓矢の如く胸元を穿たんとする、蹴り上げ。

旋風と烈風の息を吐かせぬ連撃は、川神流を受け継いだ彼ならば繰り出しなれた奥義の一つ。

かつて、刑部と闘った事が一度だけある一方通行だが、その両撃ともまるで精度が錆び付いてなど居ない。

 

寧ろ、より鋭く、より速く、より荒々しく。

修行を疎かにしては口酸っぱく叱られたと川神院にいた頃の話を、刑部自ら話していた光景を思い出すが、どうやら彼はバイトの傍ら、確りと鍛練を行っていたらしい。

とんだ嘘つき野郎が、と毒づく暇などなく、再び弾丸すら可愛いレベルの拳の連打を紙一重で回避する。

 

 

「ッらァ!」

 

 

「おっとぉ」

 

 

拳の弾丸を掻い潜れば真横一文字に放たれる蹴りを潜り込んで、そのまま低く地に下ろした重心をバネの容量で上体に移行して、回し蹴りを放つ。

しかし、小島梅子に武術を習っている立場とはいえ、刑部の様な達人すら可愛く見えるレベルの武術家に通じる訳もなく、余裕の笑みさえ浮かべながら揶揄うように腑抜けた声を上げながら、大きく後ろへと跳躍する刑部。

 

いつかのグラウンドでの行った、クリスとの決闘とは訳が違う。

冷静で居られない心境、脳裏に築かれた彼のデータを確実に凌駕する実力の変動、何もかもが違うのだ。

悔し気に舌を打ちながら、一方通行もまたその場から大きく跳躍して、工場現場のカラーコーンに巻き付いてあった長い鎖を手に取った。

 

そのまま勢い良く鎖を振るって刑部目掛けてコーンを飛ばすが、その程度、刑部にとっては児戯にも等しい。

呆気なく拳一つで、プラスチックの塊は木っ端微塵に吹き飛んだ。

 

 

「はん、何だそりゃ、武器のつもりか?」

 

 

「……」

 

 

「つかお前、前みてぇな滅茶苦茶な動きはどうしたよ。地面滑ったり風圧飛ばしたりよ。ネタの仕込みでも忘れたのか?」

 

 

「チッ、ごちゃごちゃうるせェ野郎ォだ。オマエは相変わらずお喋りだなクソッタレが」

 

 

無茶苦茶な動きとは、かつて、一方通行が百代やクリス、そして刑部を戦闘不能に陥らせた、彼らからしたら不可思議であろう、特異な能力。

しかし、今の一方通行は一つとして、その切り札たる異能を使用する事なく、純粋な武術と計算予測と、異常な動体視力を始めとした六感を駆使して刑部と対峙している。

 

事実、使えば直ぐに終わる。

それほどまでに反則染みて、人間離れし過ぎている力なのだが、一方通行はそれを使う事を拒絶していた。

否、迷っていた。

力の儘、釈迦堂刑部を叩き伏せて、それで、どうなるというのか。

 

何が解決する、何が救われる、何を救える。

 

今の自分に、何が出来るというのか。

 

 

「かーわーかーみ……」

 

 

「ッ!!」

 

 

迷っている男と、迷わない男。

躊躇する男と、躊躇しない男。

意志の強さは、いつだって戦況を左右する事は、理解出来てはいても。

 

 

「波ァァァァ!!!」

 

 

「ッ、の……出鱈目がっ」

 

 

鋭く向けられた掌底から放たれる膨大な気は、もはや物理法則など存在しないとさえ思える様に、失速する事もなく銃弾の如く真っ直ぐに空気を切り裂きながら一方通行に飛来する。

気という概念は兎も角、それが質量を伴って破壊を齎すなどという事象は余りにも現実離れしており、自分の能力を棚に挙げて毒づいた一方通行。

視線は刑部に固定したままに回避すれば、轟音と共に粉塵が舞い散り、唐突に夜に訪れた蜃気楼が、一方通行の背後に蔓延した。

 

 

「弓取りッ」

 

 

「ズァッ……ってぇな――おぅっ!?」

 

 

膨大な気を放出した所為で隙の生まれた刑部へと鎖を鞭の様に払えば、その一打は伸ばし切った彼の腕に届くには届いたが、鎖の性質故か遠心力のインパクトが弱く、深い一打とは行かない。

しかし、一方通行の狙いは腕を絡み取り、手に持った鎖を踏んで彼の体勢を崩させ、そのまま『能力』を使用して、疾風の如く速さで刑部の元まで手を伸ばして。

 

 

「――」

 

 

止まった。

 

 

「何してやがる、絶好の機会だろうが……」

 

 

「ッ――」

 

 

「温い真似してんじゃねぇぞ!一方通行!!」

 

 

川神流――無双正拳突き

 

 

 

「ガァッ――!!」

 

 

手を伸ばしたままの体勢で思巡してしまった一方通行に苛立った想いを隠せない刑部の喝に微かに怯んだ一方通行の胸に、岩石すら砕きそうな鋭い拳が叩き込まれた。

衝撃に穿たれた狂靭の重撃は骨を砕いてしまいそうな程に凶悪で、細身である一方通行の身体をいとも容易く吹き飛ばしてしまう。

 

工場の整備レールを突き破って大地を転がり、漸く身体が止まった頃には、喉から込み上がった鮮血が唇から吐き出された。

全身を襲う激痛と、何よりも、刑部を伏せる事すら諦めて、ただ受動的になってしまう心の痛みが苛み続ける。

 

 

「カハッ、ゴホッ……グゥ、ッ」

 

 

何よりも、脚が立たない。

立ち上がろうともしないのだ、心が。

仰向けに転がったまま咳き込みながらも、紅い瞳は空に浮かぶ月すら無感情に映すだけ。

 

意思もない鏡の様に、呆然と広がるだけの男の瞳。

それを見下ろして、刑部は忌々しそうに唾を大地に吐き捨てた。

 

 

「……なんで、避けねぇんだ。いや、その前になんであのまま俺を倒さなかった。前みてぇによ」

 

 

「――知る、か。クソッ、タレがァ……」

 

 

確かに、避けれた。

確かに、それ以前に躊躇わなければ刑部の意識を刈り取る事は出来ただろう。

 

 

けれど。

例えそこで刑部を下した所で――余計、苦しみが増すばかりだから。

彼の言葉の総てが、反論も出来ない事実である以上、今の自分にはどうすれば良いのか分からなくて。

 

安易な敗北が、迷っている間に訪れていただけで。

 

 

「……どんだけ頑固なんだよ、てめぇは。いつまで独りでいるつもりだ。ジジィになってもそんなザマでいるつもりなのかよ、えぇ?」

 

 

「……消えねェンだ」

 

 

「……あ?」

 

 

「消えてくれねェンだよ、いつまでも。消えて欲しくねェンだよ、いつまでも……だらしなく、みっともなく、忘れる事すら出来ねェンだよ」

 

 

今にも消えてしまいそうな独白は、余りにも弱々しい。

けれど、この瞬間にも継ぎ接ぎだらけの心を抱き締めようと脳裏に甦ってしまう、惚れた女の言葉、笑顔、泣き顔、温もり、感触、約束。

 

それは紛れもなく愛であって。

それは紛れもなく呪いの様に。

 

いつも、いつも、いつも、彼の心に纏う女の比類なき愛情。

 

一方通行は、かつて、それを受け止めるまで愛なんてモノを知らなかったし、知ろうとも思わなかった。

 

けれど、一人の幼い少女を救う為に始めてそれに触れた。

そして、惚れた女に与えられた、大きい、とても大き過ぎて溺れてしまう程の愛情を。

 

人の好意すら恐がって、怯えて、背を向けていた彼が受け取るには、余りにも大きな愛を。

その器に溢れてしまう愛情が、どこかで彼を縛りつけて、どこかで彼を苦しめてしまう程に。

 

そして、一方通行もまた、その女を――愛した。

彼女が居ない世界でも、変わらず、変えれず。

 

 

 

「……けどよ、それでお前は保つのかよ。分かってんだろ、しんどいって。だから亜巳は何とかしてでもお前を楽にしてぇんだよ。分かってんだろ」

 

 

「…………」

 

 

「そんなんで生きていけんのか。耐えられんのか。凹む度にどこにもいねぇ女にしがみついて、どうなるってんだよ、あ?」

 

 

「……ッ」

 

 

「護りてぇもん護る為に必死になんのも結構だが――そんならちゃんと気張れや。女泣かしてんじゃねぇよ」

 

 

優しくも厳しい、叱咤の言葉。

宙に浮いたまま、足掻く自分を戒める警告。

 

 

当初、刑部が口にしていた、亜巳を無理矢理にでも抱いて貰うというのは、多少なりとも彼の本心ではあったが、刑部が一番伝えたかった事は、きっとそれなのだろう。

 

人は、孤独には耐えられない。

ましてや、一方通行の様な、今は居ない女を依り所にして足掻いている男は、早めに手を打たないと、いつ壊れてしまうか分からない。

今はまだ、小島梅子の献身的な愛情がそれを安定させられてはいるが、綻びがいつ出るのかも予測は出来ない。

そんな惨めな結果を迎えさせるのをみすみす見逃したりはしないのだ、亜巳の為にも、刑部自身の為にも。

 

 

本音を言えば、さっさと亜巳なり辰子なり惚れられてる女でも抱いて心を癒すか、そのまま深い関係にでもなってくれた方が早い。

けれど、そうした所でまともな結果が得られるとは限らないし、寧ろ薄いだろうから。

女に溺れてもそれはそれで、後は時間が何とかしてくれるだろうが、今の一方通行には到底期待出来そうにない。

 

せめてまずは、無理矢理にでも一方通行には自分自身の心と向き合って貰わなければならなかった。

 

 

 

「……少し、考えろ。で、折り合いつけろや。女に溺れる事も出来ねぇままに潰れていくお前なんか、見てたってつまらねぇだろうが」

 

 

言いたい事は言った、伝えるべき事は伝えた。

だから、今は少し考えさせてやろう、と。

転がったままの彼に背を向けて、正直やり過ぎたこの状況から察するに、刑部の末路は娘からの制裁に辿り着くのは避けられそうにもない。

けれど、ほったらかしにでもしたら、このまま朝が来ても変わらず転がっていそうな一方通行を一瞥して、溜め息。

面倒臭そうに瞳を細めて、ゆっくりとポケットの中に突っ込ませていた携帯電話を取り出した。

 

 

 

――

――――

 

 

 

遠退いていく足音すら聞こえない。

心は鬱屈と真っ暗闇が広がって、どうしようもない感情を持て余した瞳が、伽藍堂な空虚さを伴って、夜空を見つめ続けている。

 

 

彼女以外を愛せないのか。

彼女以外を愛さないのか。

諦めてしまえばいいのか。

自分の中の彼女を消せば良いのか。

 

消したくない。

愛していたい。

傷付けたくない。

孤独は、恐い、寂しい、けれど。

それでも、心はいつまでたっても。

彼女の影絵を追い掛ける。

 

追い掛けて、抱き締めて。

抱き締められて、安堵して。

腕を回した華奢な背中も。

背中に伝わる細い腕の感覚も。

胸元から刻まれる命の鼓動も。

頬を寄せる度に触れた温もりも。

 

 

気付けばなくなって。

気付けばまた探して。

気付けばまた、見付けて。

 

繰り返して、抜け出して。

形にならない依存だけが虚しく――

 

 

 

「――」

 

 

 

音にもならない、彼女の名前。

風が拐って掻き消して。

答えを見付けられない哀れな男を。

月はただ、冷たく見下ろす――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――

――――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

『ん……どうしたの? というか、あの娘は?』

 

 

 

『あぁ、成る程。でも珍しいわね、貴方が此処に来るなんて』

 

 

 

『えっ……突然どうしたの?』

 

 

 

 

『知りたいって……一方通行との、こと?』

 

 

 

 

『私から見た……彼、ね』

 

 

 

 

『多分、あんまり、聞いてて面白い話じゃないわよ?』

 

 

 

 

『そう、ね。知りたいわよね、貴方なら』

 

 

 

 

『ちょっと、色々あったから……長くなるわよ?』

 

 

 

 

『じゃあ、まず……最初に彼と出逢ったのは――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Shadowglaph』__end




これより過去編その1となります。




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Track2________リプレイ
――Track2 Play start――


 

_

章の間の空白に情動の吐息を零すのと、スピーカーから響く曲目が変わるのは、奇妙なほどに同時だった。

 

 

「……んーっ」

 

 

窓から射し込んだ光に目を焼かれるようにぐっと伸びをして、ずっと同じ姿勢で本を読んでいたせいで、すっかり身体は凝り固まってしまったらしい。

長い長い、御伽噺の第一章。

黒と青の、夜空のような色彩に黄色いペンでビーズを書いたような、叙情的な一冊を紐解いてみれば、のめり込み過ぎて。

太陽の位置も、読み始めた時から随分と進んでしまった。

お気に入りのアルバムも、リピート再生で既に一周を迎えてしまったところだ。

 

 

「げっ、もうお昼か……」

 

 

少し古ぼけて傷んだ本の題名は、一時はブームになって、そして忘れさられてを繰り返して、けれどまるで誰かが書き直しているかの様にいつまでも綴られリメイクされている所謂『曰く付き』なのだと、少女の友人は興奮気味に語っていた。

 

 

独りぼっちになってしまった男の子が、いつしか周囲に輪を作って、独りじゃなくなっていく御伽噺。

けれど、生々しく綴られていく男の子の歩くような日々には、どことなく寂しそうな影があった。

 

男の子の心にずっと寄り添う女の子。

あまりに綺麗で純粋な女の子の想いに、憧れとロマンチズムを抱かずにはいられなかった。

 

 

物語は焦らすように、少しずつ男の子の過去を道標のように落としていきながら、ゆっくりと進んでいく。

それに合わせて進む周りと、想いの強さと心の弱さ。

まだ、少女には理解出来ない心の動きもあって、時には混乱してしまうこともあった。

けれど、次の章のタイトルをみて、いよいよか、と胸を弾ませる。

 

 

「……さって、コーヒーでも飲もっかな」

 

 

でも、まずは一息挟みたいなと、調子の良さそうに声を弾ませて、席を立つ。

 

栞を挟んだページを開いたままにして。

停止ボタンも押されるまま、曲を流し続けていたCDコンポの薄い表示画面に、デジタルの文字が浮かび上がる。

 

 

 

曲が始まると同時に、窓から入り込んだ悪戯な柔風が、そっとページを引っかけて。

 

 

捲られるのは、男の子の、思い出。

 

 

 

 

 

 

 

――――

 

 

 

 

 

Track1__影絵__end.

to be next fairy tale________

 

 

 

 

 

 

 

――貴方は背負った、彼女達の命を。

けれど、それを言い訳にするのは卑怯よ。

そうでしょう?

 

 

 

 

 

 

ゆっくりで良い、散々迷って悩んで答えを出す

      それが生きるってことじゃん――

 

 

 

 

 

 

 

――ふん、何さ。

ボクはもう大人ですってか……?

牙抜かれちゃって、もやし野郎の癖にさ。

 

 

 

 

 

 

 

 ったく、旦那は人遣いが荒いぜ、ホント――

 

 

 

 

 

 

 

――超ムカつきますね、子供扱いすんな!

 

 

 

 

 

 

 

       あくせられーたは、恐いの?

          人を好きになることが――

 

 

 

 

 

 

――ジャッジメントですの!

 

 

 

 

 

        一方通行、お前に話がある――  

 

 

 

 

 

 

――楽にはなれないでしょ、お互いにね。

 

 

 

 

 

 

    五行機関ですか……さてはて。 

     一体どんな闇が待ってるんですかね――

 

 

 

 

 

 

 

――お前、少し変わったな。

でも三下呼びは変わらないんでございますね……

 

 

 

 

 

 

 

   ありがとうなんだよ、あくせられーた!――

 

 

 

 

 

 

 

――御礼は、言わないわよ。

アンタと私にそんなもんは余計でしょ。でも……

 

 

 

 

 

 

 あの時、貴方が私を助けてくれた結果。それだって、無かった事になるじゃないですか――

 

 

 

 

 

 

 

――彼を目覚めさせるのかね、アレイスター?

 

 

 

 

 

 

 

  おはよう『一方通行』気分はどうだね――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――星を見に行こうよ!

ってミサカはミサカは提案してみる!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホント、しょうがない男なんだから

    一緒に行くわよ。ね、一方通行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Play to next next tales____

 

   Track2____ リプレイ_____

 

 

 

 

 



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Re:Play 1『Sirius』

過去編に関してはかなり変更点があります。
この作品では一方通行の年齢が15となっています。
また、時間軸は第三次世界大戦の三ヶ月半後という内容です。






思えばどれくらいの確率だったのだろうか。

幾十、幾千の星屑で編まれた銀河の一滴。

或いは、絶え間無く流れ落ちる膨大な砂時計の、紅砂の一粒。

 

幾重通りの可能性から紐解かれた一筋に、きっと独りぼっちの白猫は、必要以上に救われてしまったのだろう。

キリの無いIFをなぞらえるセンチメンタルなんて似合わないし、運命だなんだとロマンチストを演じるには不恰好 で不相応も良いところで。

 

けれど、それでも――

 

一方通行としての分岐点。

数多く在った筈のそれらの中に、あの日の邂逅を加える事を自然と許容出来るくらいには。

 

 

――確かに、彼女を大切に想えていたのだろう。

 

 

 

 

 

―――

――――――

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

独りで生きていくには、余りにも広すぎる世界でも、この青い空で繋がっている。

手垢だらけの使い回した夢の様な壮大な一文を、真っ白なページの中心に並べた感動的な演出の、字幕も無いエンドロール。

めでたし、めでたしと繋げれば万々歳で終わる、それだけの話、それまでの話。

 

最近妹達の間で静かなブームになっているらしい、純愛モノのストーリーが胸を打つだとか、瞳を爛々と輝かせた少女の批評を適当に聞き流して。

押し付けられた鳶色のブックカバーの小説を、気紛れに紐解いて、読了と共に吐き出した、何とも微妙な感情に彩りは無い。

風に拐われてしまいそうな程、幽かに小さく鼻で笑った。

 

 

――静かな朝だ。

 

 

 

平和を取り戻した、だなんて、まるで平和とは真逆の位置に在った自分自身にはとても烏滸がましい事だけれど。

様々な思惑や立ち位置が交差したあの激動の夜を越えて、少なくとも平穏と呼べる朝を迎えることが出来た。

 

あれから3ヶ月と少しの刻が余りにも平穏無事に流れてしまった。

新たな策謀や陰謀を警戒して、張り詰めた空気も肩透かしに何事も起きない学園都市と、都市外の魔術師達のリアクションも薄く、徐々に少年少女達の心も弛緩して、それぞれの日常へと馴染んでいった。

 

もしかしたら、今この瞬間にも再び学園都市を、世界を混乱に陥らせるほどの陰謀が渦巻いているのかも知れないし、平穏など所詮は仮初めに過ぎないのかも知れない。

けれど、少なくとも。

小鳥の囀りが優しく木霊する明朝の公園でベンチに腰掛け、恋愛小説だなんて似合わないモノを読んで、呑気にコーヒーを啜るくらいには、確かなゆとりがあった。

 

 

「……ン」

 

 

眩しくもない、けれど厚雲の隙間からチラチラと緩い陽射しを放つ陽光に目を細め、手元の缶コーヒーを一口。

新聞配達のアルバイトだろうか、黒のジャージをわざわざ重ね着にして自転車に跨がる若い男を視界の隅に置いたまま、気怠げに首を捻る。

これが一方通行にとっての定例的な1日の始まりだったのならば、思わず彼女の保護者である黄泉川愛穂は両手放しに賞賛するほどに健康的な生活習慣なのだが、生憎と、そうではない。

たまたま目が覚めて、低血圧な自分にしてはとても珍しく頭が冴えていて、取り敢えず朝抜けのコーヒーでもと思ったのだが、買い置きのストックを丁度切らしていたのを思い出した。

春間近の肌寒さに備えて白無地のコートを一着羽織り、最寄りの公園で自販機の缶コーヒーを啜るなど、珍しいどころか今までに一度も無かった事なのだが。

 

 

 

「気ィ抜けてンのかねェ……」

 

 

 

ポツリと呟いた言葉から、何となくの自覚を彼は既に得ていた。

気を抜く事が失態に繋がるような、張り詰めた日々を過ごしてきたからこそ、漸く訪れたといわんばかりの緩やかな時間に、本能が甘えを求めたのか。

それとも、誰にも言わずしていた、今後の身の振り方について向き合う時間が、今出来たのだろうか。

手元に持った缶コーヒーを試しに強く握り締めて、すぐに止める。

 

 

「……缶一つ潰すのも、一苦労なンだよなァ……」

 

 

身の振り方、といえば大雑把な話ではあるが、一方通行にとっての当面の課題は、自身の身体に対するリハビリを行うことであった。

幾ら学園都市の頂点に立つ能力を持っているとはいえ、それを差し引けば、自分の身体能力などタカが知れている。

守り抜くと決めた他でもない妹達の演算補助が無ければ、糸の切れた粗末なガラクタ人形にしか成らない。

 

学園都市の暗部を解体して、全ての闇を引き取ると啖呵を切った己が幾つもの夜を駆け抜けるには、身体に架せられた制約は多く、まるで獰猛な野獣に不自由で縛りつける様にして錆びた鎖に繋がれている。

不安も懸念も無い平和な世の中であるのなら、畜生にも劣る自分には似合いの末路として自嘲して終わるのだが、きっといつか訪れる闇から伸ばされる脅威の腕を振り払うには、この鎖は必ず、足掻く自分に巻き付いて離れなくなる筈だ。

 

 

いずれにせよ、このままではいけない。

学園都市第一位、いつまでもその能力一つで守りたいモノを全て守れるなどと思い上がれる程、あの大戦で見た様々な脅威は生易しいモノではなかった。

 

この身一つでも、足掻けるだけの強さを望む。

それが矜持でもあり、現実でもあるのだから。

 

 

 

「……ン?」

 

 

 

不意に、意識を削がれる。

様々な異常現象を見てきた一方通行にとって、いや、さして特別なケースに陥ったことない者から見ても、何てことはない、ただの良くあるありふれた光景。

早朝のウォーキングやランニングといえば、健康思考の者達からしてもメジャーな手段であるし、実行に移している人間だって多い。

まずは不自由の多い身体を何とかするべきだと、リハビリの必要性を改めて認識していた一方通行の視界に、丁度良く見本が現れた、それだけのこと。

 

 

「ランニング、ねェ……」

 

 

有りかもな、と……いきなり走るのは障害持ちの身では厳しいから、まずはウォーキングからでも試してみるのも、悪くないのでは、と。

きっと始めたら始めたで、憎まれ口の減らない同居人の少女に揶揄われる

休憩なのだろう、滴る汗を袖で拭いながら自動販売機でミネラルウォーターを購入する、恐らく同世代辺りの少女を見て、ぼんやりとそう思った。

 

 

 

―――

 

 

 

早朝のランニングを日課にしてどれくらいの時間が経ったのだろうかと、吹寄制理は休憩地点と決めてある公園まであと少しという所で、ふと思い返す。

どんなきっかけで始める事になったかと細かい所までは思い出せないけれど、やっぱり健康的だからとか、勉強ばかりに集中するより時折の息抜きとしてだとか、色々あるにせよそこに行き着くのだろう。

 

事実、生活のカリキュラムに混ぜて早々に、この日課は身体に馴染んだ。

朝の澄んだ空気は気分的な面も影響してか、とても心地が良いものだし、身体を動かすことは小さな頃から好きだった事の一つだから、苦にも思わない。

早寝早起きの延長ついでだったのだが、あまり気にする方ではないけれどダイエットにもなるし、休憩地点で挟む水分補給のミネラルウォーターが格別に美味しく思えるのだから、なんだか得した気分にもなるのだ。

まぁ、以前この習慣をクラスメイトに教えた時には渋い趣味だとか趣向が早くも老いているだとかなんとか言われたから、自慢の一撃で沈めてやったのだが。

 

 

「……ん?」

 

 

ガシャンと勢い良く落ちたミネラルウォーターを自動販売機から取り出して、日頃の休憩地点として脚を休ませているベンチがある公園に向けて、脚を動かして。

いつもなら見掛けない、記憶にある風景の間違い探しをしたのならば直ぐに気付いてしまいそうな、馴染まない違和感。

けれどそれは不相応というよりは、どこか幻想的な光景にも見えて、ごく自然に、ランニングで暖まれた熱とは違う、ほおっと感嘆が抜け落ちたような熱い溜め息が口から零れていた。

 

 

「……」

 

 

 

普段、蒼が架かるにはまだ瑠璃色を差し込んだ早朝の時間帯、ランニングの途中に寄るこの公園で人影を見ることなど、犬の散歩をしている人や近隣にする年配の人ぐらいしか、彼女は見掛けたことがない。

だから、いつもと同じコースを辿って、いつもなら自分が座って休憩していた公園のベンチに腰掛ける、鼻が抜けるような真っ白な存在に、つい目を奪われてしまった。

 

 

(……綺麗)

 

 

漠然とした、一言の感想。

けれどその存在を外観的に評価するのならば、確かに綺麗という概念は含まれるのだろう。

ブリーチで脱色したにしてはひどく自然体に揺れる白雪の長い髪に、恐らく自分よりも白いのではと思える、遠目に見ても綺麗な肌。

時折流れる前髪の隙間から覗く整った顔立ちと言い、まるで童話のキャラクターをくり抜いて現代の服を着せたような、そんなどこか儚いとすら思える異端さを抱いた。

 

 

(……こんな人、居るんだ)

 

 

 

なんだか凄く貴重なモノを見つけてしまったかの様な心持ちのまま、隣のベンチまで向かおうと歩みを進める。

見れば見るほど性別の判断がつかないなと、失礼なのは承知しながらも好奇心に勝てず、視点はがっちりと定まってしまったまま。

ベンチの脇に置かれた鳶色のブックカバーの小説と、少し凹んだブラックコーヒーの缶と、無骨ながらにも洒落めいたデザインをした杖も興味を誘うが、薄い朝陽に反射してキラキラと煌めくキメ細やかな長い前髪が、とても綺麗だなと思えて。

だから、分かり易い視線に気付いたその存在がひょいと此方を向いた瞬間に、思わず声を挙げてしまったのも、当然といえた。

 

 

「あっ――」

 

 

「……?」

 

 

鮮烈な紅の華が見開いて、混ざり気のない彩りに、気付けば音を紡いでしまって。

やってしまったと、恥ずかしさと奇妙な緊張に一瞬、頭が目の前の存在よろしく白一色に染まってしまう。

ジロジロ見続けた上に声まで挙げるなんて、相手側からしたらなんだコイツとしか思えないではないか。

 

案の定、ツーっと細められていく紅い瞳は怪訝そうな感情に染まっていて、何も言わないながらに何か用かと問い詰められたような、その容姿も相成ってとてつもない緊張感に覆われる。

気まずい、どうにかしてこの空気を何とかしなければ、と。

手に持ったミネラルウォーターの水滴が、掌にじわりと滲んだ汗に混じって砂利被さる地面へと零れ落ちる。

口を開けば、喉元から震える声質は心の緊張をそのまま映してしまったかの様におどおどしくて、自分から見ても随分みっともなかった。

 

 

「お、おぉ、おはようござぃます……」

 

 

「……ン、あァ」

 

 

妙にどもってるし落ち着かない、語尾に至っては羞恥心に折れてフェードアウトしていく我ながらなんともな挨拶を、少し呆気に取られたような顔をしながらも、曖昧に返事を貰った。

困惑の色が多分に混ざった、ちょっと枯れたような低音の声質に、またも意識が持っていかれる。

非常に中性的な外見からでは判別出来なかったが、男性特有のテノーボイスに、目の前の存在の性別がハッキリとした。

ハッキリしたのは良いのだが、いや、良い悪いの定義を初対面の人に敷くのはおかしいのだがそこは一旦隅に置いておいて、再び訪れてしまった、しかも心無しかさっきよりも余計に重い空気を……どう、しようか。

 

 

 

「……」

 

 

「…………?」

 

 

 

どうするもこうするも、兎にも角にもこのままでは宜しくない。

ジロジロ見続けて変な挨拶をかまして挙げ句黙り込んでしまった自分を、ますます不思議そうな紅い視線に射抜かれて。

春間近、まだ十分に寒いといえる時季に関わらず、制理のきなびやかな白い肌は羞恥の熱で一杯一杯だった。

 

 

――

 

 

 

俺にどォしろッてンだ、クソッタレ。

 

こうまで投げやりに頭を抱えたくなったのは、そういえば打ち止めという少女と初めて遭遇したあの夜以降、あるようで無かった気がする。

そもそも一方通行という記号1つが学園都市の闇を一人歩きするほどに不穏なモノであれば、コメディの一枠に収まるような光景に遭遇すること自体、不相応というもの。

 

だからこそ、彼には平凡な経験が生まれてこの方、余りにも足りていない。

ましてや目の前で急にガッチガチに固まりだした少女をフォローする正しいやり方など、一方通行にとっては魔術よりも身に馴染まない法則である。

 

 

「……オイ」

 

 

「っ、は、はい!」

 

 

 

良い返事だ……いや、そうではない、そうではなくて。

余裕のない新入社員みたく緊張している目下の存在に対して、どういった対応を取ればいいというのか。

面倒だから無視する、というのがまず第一に浮かんだのだが、日頃から口煩くコミュニケーション能力の良し悪しについて言及してくる保護者の言葉に、反抗期の子供染みた論理性の無い反論しか出来ない自分に思う所も何だかんだ有って、そこに落ち着くのは歯痒いと思ってしまう。

 

とすれば、やはりこの状況下では自分が気を遣って話しかけてやるのが普通、一般というものだろうか。

しかし、保護者の言葉通り、ある程度の事情が有るとは云え、ありきたりなコミュニケーションを取る

果たして自分にそんな真似出来るのかとも思うが、何かしら発言してしまった以上は続けるべきなのだろう。

なるべく気付かれないように小さく溜め息が降りて、角の取れきれてない紅い眼差しが僅かに薄れた。

 

 

「……朝からランニングしてンのか、オマエ」

 

 

「うぇ!?……え、えぇ……そう、です、けど」

 

 

取りあえず当たり障りのない言葉を投げてみれば、やはり落ち着かないながらも返事だけはどうにか返ってきた。

そこまで動揺を誘う言葉選びをしたつもりは無いのだけれど、悪人面と揶揄されがちな無愛想さが裏目に出たのかは、さておいて。

微妙におっかなびっくりな言葉遣いが気になるが、それでもまずは、といったところである。

 

 

 

「こンな早い時間からじゃねェと駄目って訳じゃねェだろォに」

 

 

「そう……だけど、その、やっぱりこれくらいの時間が一番気分良いというか……」

 

身に付いた口癖という訳ではないのだが、どうしてか皮肉めいた言葉選びになってしまうのはやはり一方通行の問題だろう。

否定するか蔑むか邪険にするかが常である事は自覚しなくてはいけないし、何かに噛み付いてばかり生きてきたからこその辛辣は、光に生きている人間には絡み辛いとでも思われるのも致し方ないし、何かと遠退けがちな距離感の方が寧ろやり易い。

 

躊躇いがちな返答に一々気分を悪くする程にゆとりに溢れた人生では無かったけれど、躊躇いを生ませている事に寧ろ、偽善染みた罪悪感を抱けるくらいには今の一方通行には余裕を作れていた。

尤も、彼女が躊躇いがちな理由がただ単に羞恥心からテンパったままで落ち着かないだけだと云う事に、他人の感情の洞察に疎い彼では到底気付けやしない。

 

 

「貴方は……えぇと……?」

 

 

「……一方通行」

 

 

「アクセラ、レータ……さん、ですか。外国の方、ですか?」

 

 

「違ェ。その名前は能力名」

 

 

「へぇ、変わった名前ですね……あ、私は吹寄 制理って言います」

 

 

「オマエも変わった名前じゃねェか」

 

 

「あぁ……たまに、言われます」

 

 

緊張は陽に晒された氷の様に徐々に溶けて行ったのか、ピンと糸で吊るされたみたく張り詰めていた表情は少しずつ解れて、清麗さと可憐さが織り混ざった、大人へと変わり行こうとする吹寄の整った顔が幽かな微笑みをそっと浮かべている。

一方通行、その忌み名には聞き覚えが無いのか、それともよもや目下の細身の男が、この学園都市の能力者の頂点に立つ存在だとは夢にも思わないのだろうか。

 

 

「それで……一方通行さんは」

 

 

「オイ」

 

 

常人離れした外見だと思ってはいたが、言葉尻は素朴ながらも存外に普通にやり取り出来る感覚がどこか新鮮で、つい興味に駆られるまま疑問を重ねようとした所で、ピシャリと遮った低いテノールに喉を詰まらせる。

また何か失礼な事でもしてしまったのだろうかと冷たい汗がツツッと一筋頬を伝うが、プイと視線を逸らした彼の行動を見守っていれば。

 

 

「……」

 

 

「……えっと」

 

 

ベンチの空いたペースに乱雑に立て掛けていた杖を、端に腰掛ける脚と、ベンチシートに設けられた黒鉄の置き手との僅かなスペースに立て掛け直して、無言の儘に頬杖をついた白い少年の、冷めた横顔。

戸惑い気味に擲った思巡の声にチラリと紅い瞳が一瞥すれば、続けて空いたスペースへと視線が向けられ、もう一度立ち惚けたままの吹寄へと移動して、また逸らされる。

 

けれど、ほんの少しだけ朱を添えた頬は、彼の白色の外見では良く目立つから、もしかしなくても照れているのだと、気付いて。

あぁ、この人、実は物凄く恥ずかしがり屋なのかも知れない、と。

 

 

「座っても……良い?」

 

 

「……好きにしろ」

 

 

「ッ――ん、ありがとう」

 

 

自分で遮って、わざわざ目の前で杖を片付けて、そのまま無言で促しておいて、好きにしろ。

最早わざとらしい位な気遣いだけれど、それを素直に好意と取られるのが恥ずかしい気質が、初対面の相手につい可愛い人だなと思えてしまって。

多分笑ってしまったら、彼の分かり難いようで分かり易い好意も無下にしてしまう気がしたから、何とか堪えながらも素直に反対側のベンチシートに腰掛けた。

 

細く切れ長な紅い瞳と、感情がどこか乏しい白貌は黙っていれば竦んでしまいそうな独特な緊張を放つけれど、存外に彼の性根は暖かいのかも知れない。

どこか幼さを感じさせるぶっきらぼうさについ敬語を崩してしまったけれど、特に気にした様子もなく静かな眼差しで代わり映えしない公園の風景を見詰めていた。

頬に差した朱は、すっかりと影も残さず隠れてしまっていたけれど。

 

 

「それで……一方通行さんの能力って?」

 

 

「一々、さン付けしなくて良ィ。オマエこそどォなンだよ」

 

 

「あ、えーと、私は……無能力者で」

 

 

「そォか」

 

 

どうやら砕けた口調の方が彼としては気楽なのか、視線は余所に向けたまま、ほんの少し溜め息を混ぜた囁きに、何やら陰を含んだニュアンスを感じたのは気の所為だろうか。

質問に質問で答えるな、とついムッと眉を潜めてしまいそうになるけれど、余り能力について語りたくないのか、白い猫の様な睫毛を静かに瞬かせる。

そこまで深刻に捉えてはいないけれど、余り胸を張って無能力者とは言えない負い目も、特に気にした風でもなく流す一方通行に、少しだけ、仄か黒の瞳が呆気に取られて丸くなる。

他人の能力について興味がないのか、特に言及するつもりがないのかは分からないが、馬鹿にしたり不必要に同情したりしない所が、少し心地好かった。

 

 

(……この人も、無能力者……じゃ、ないわよね?)

 

 

もしかしたら、吹寄と同じ立場なのかとも勘繰ったが、少なくとも能力名で名乗っているのだから、それは無いだろう。

それに、何だか只ならない雰囲気というか、どこか研ぎ澄まされた刃身に似た鋭さが、無能力者という枠組みで捉える事を否定する。

余り穿った見方をするのも憚れるのだが、高位能力者だと言われた所でそこまで驚かないくらいには、一方通行の雰囲気は、出来上がってしまっていた。

 

けれど、さっきの一幕にまた新たな疑問が沸いて、取り敢えず能力の事については保留にしておく事にする。

余り、探られたくないデリケートな問題なのかも知れなかったから。

 

 

「一方通行……って、何歳なんですか?」

 

 

「あァ……オマエは?」

 

 

「……あの、オマエじゃなくて出来れば名前で。折角教えたんだから、ちゃんとそっちで呼んで下さい」

 

 

「チッ……あァ、ッと……吹寄は?」

 

 

またも質問に質問で返す上に、一応名乗った以上は名前で呼ぶのが礼儀であると、そういう方面にはお堅いと評されるだけあって、吹寄は形の良い眉をやや吊り上げながら迫りがちに距離を詰める。

反射的に舌を打ちながらも、気不味そうに顎を下げながら答える辺り、余り人の名前を呼び慣れていないのかも知れない。

本当に恥ずかしがり屋なんだな、と絆されたのか眉を緩めながら、けれど礼儀はしっかりして貰わないと困ると云う堅物な少女らしい妙な潔癖さ。

口煩い、色気が無い、そう評される理由が吹寄の年寄り染みた気性が主な要因だと、彼女は気付いていなかった。

気付いた所で、変えようとは思わないだろうが。

 

 

「私は、今年16歳。高校一年ですよ。一方通行さんは?」

 

 

「……同じ高校一年だ」

 

 

「じゃあ、同い年って事?」

 

 

「…………」

 

 

「違うの?」

 

 

「……」

 

 

何か答え辛そうに視線も組んでいた脚もわざわざ組み替えてそっぽを向いて逃避を図ろうとする一方通行は、何だか気に入らない。

所詮はたまたま会ってひょんな事から会話が弾んだとも言い難いが、それでも名前ぐらいしかまともに答えてくれないというのは、礼節に潔癖がちな吹寄にも見過ごせなかった。

自分の方が初対面の相手に図々しいのではと謗りを受けても仕方ないが、折角好印象から入った相手にすげなくされるのも、何だか寂しい気もするから。

 

 

デリケートの部分というよりは、ただ単にバツが悪いだけな横貌へともう一度問い質すように身体を近付ける。

すると、漸く観念したのか鬱陶し気に溜め息を一つ零しながら、一方通行は白状した。

 

 

「ねぇ」

 

 

「……15」

 

 

「あ、やっぱり」

 

 

「ンだよ、そンなにガキくせェってか、俺は」

 

 

つい口を付いて出た本音に瞳を吊り上げて睨み付ける一方通行の、どこか拗ねて剥れる年相応さが垣間見えて、擽ったい気分になりながらも違う違うと掌を振る。

大人びた外見と雰囲気ではあるけれど、無愛想な裏に見え隠れする稚拙な甘さは、確かにちょっと子供っぽいな、と。

問題児ばかりのクラスメイトを纏めていた委員長だけあって、そういった機敏は散々鍛えられてしまったのだろう、元来の面倒見の良さも手伝って、こういう輩には割と得意気な吹寄である。

 

 

「一つ下か、じゃあ敬語は良いわよね」

 

 

「時々タメ口になってた癖に良く言う」

 

 

「良いじゃない、別に。ところで学生……なの?」

 

 

「……一応な」

 

 

学生の身分でありながら、学園に通わない者など、この学園都市という場所には結構ザラに居たりする。

スキルアウトという集団は、その代表として挙げるには持ってこいだろう、彼らの心情を汲み取れない訳ではないけれど、だからと云って不遇に腹立てて腐るなど許し難いと考える吹寄に同情するつもりはない。

 

険を含む嫌いのある一方通行もまたスキルアウトと思えてしまうが、仮にそうだとしても性根は優しそうな彼だから、万一スキルアウトだとしても正して見せようと覚悟する。

袖振り合うのも多生の縁とも言えるだろうし、見込みのある不良を更正させるのも、問題児ばかりのクラスメイトに世話を焼く事の延長に過ぎないだろう、と。

闇に生きる者からすれば愚かしい偽善と嗤われるだろう彼女だが、邪道も知らずに生きてきた吹寄ならではの魅力なのかもしれない。

尤も、彼女の意気込みなど懸念でしかなかったようだが。

一応、という言葉に引っ掛かりを覚えながらも、社交辞令みたいものかとさっくりと流した。

 

 

「へぇ……私はとある高校なんだけど、一方通行は?」

 

 

「長点上機。今は休学中だが」

 

 

「なッ、長点上機!? あのエリート集団の……?」

 

 

「そンなお綺麗な集団じゃねェよ、あンなとこ」

 

 

軽い気持ちで尋ねたつもりが、まさか昨年度の大覇星祭の優勝校の名前がポンと出た事に大袈裟に目をひん剥いて驚愕する吹寄に顔を顰める一方通行だったが、彼女の反応は決して可笑しくない。

学園都市の五本指に入り、ましてや大覇星祭の二連覇優勝をもぎ取った実力を持つ、超エリート校といっても可笑しくない程であり、能力開発の分野においては他の追随を許さないと囁かれているぐらいだ。

 

そこに通う生徒達の能力は完全に非公開であり、有名なエリート学校である常盤台中学と比べて、徹底した能力至上主義が敷かれているとか。

噂程度でもそんな規模な学校に席を置いている一方通行は、思ったよりもとんでもない存在なのかも知れない。

 

けれど、当の本人からすればさして誇る訳でもなく、寧ろ長点上機に余り良い印象を抱いていないような素っ気ない反応と、休学中というフレーズが少し引っ掛かった。

続けて、彼の持つ杖へと目を向けて、ある仮説が吹寄の脳裏に浮上した。

 

 

(……もしかして、休学中なのって、怪我をしてるから?)

 

 

何らかの怪我を最近してしまって、復学までの療養がてらの朝の散歩、という状況に当て嵌めれば初めてこの公園で一方通行を見掛けたというのも納得がいく。

能力について明かさないのも長点上機の校風が絡んでいるならば腑に落ちるし、あの学校に通うぐらいならば、もしかしたら一つ飛び級している可能性も考慮出来る。

うーむ、と何やら気難しく思巡する吹寄を一瞥しながら、一方通行は余り探られても気持ちの良い内容ではないので、取り敢えずこの流れは余り宜しく無いなと話題の方向性を変える。

 

 

「オマエよォ……」

 

 

「吹寄制理!」

 

 

つい反射的に異議を唱えてしまうが、一方通行は少し面倒臭そうに眉を潜めるだけで、意外にも反抗的な態度は示さない。

彼としては口煩くされるのは不快であるのだが、どこか内心では頭の上がらない保護者と同じ厳しさを漂わせる吹寄に、何故だか声を荒げる気にはなれなかった。

第三次世界大戦を経て一方通行の新境も変化があったのか、少し牙を丸めたような大人しさを見せる彼を、成長だと気付けたのは彼の保護者たる元研究員と警備員兼保護者くらいだろうが。

 

 

「吹寄は、毎日ランニングしてンのか?」

 

 

「え? まぁ、そうだけど……もしかして、興味あるの?」

 

 

「まァ……少しは。杖付きってのも面倒なンでな」

 

 

「あぁ、リハビリ……確かに、ちょっと不健康そうよね、一方通行。というか、痩せ過ぎな気が……」

 

 

「うるせェ、そこは余計だ」

 

 

痩せ過ぎという評価にピクリと過剰に反応する辺り、どうやら一方通行としても気にしている事らしい。

そういえば、最初の時もランニングに興味を示していた気もするし、もしかして彼は不自由な身体をリハビリする手段を模索しているのではないだろうか、と。

 

 

「でも、怪我してるから杖を付いてるんじゃないの?だったら余り無理しないで、素直に病院に通うのが普通だと思うんだけど」

 

 

「……病院には定期的に通ってンだがな。リハビリっつゥのもまァ……思い付きみてェなモンだ。杖付いてるが、歩けねェって訳でもねェよ」

 

 

「成る程……じゃあ、ウォーキングから始めてみたら?後は、健康的な食事とか製品を取り入れたりするのも良いわね、牛乳とか。因みに私はムサシノ牛乳をオススメするわ、カルシウム以外にも健康指数の高い優れものよ。あっ、そういえば最近通販で買ったビタミン複合のアメがなかなか……」

 

 

「ァ?いや、オイ……」

 

 

「古臭いとか年寄っぽいとか言うけど人間やっぱり健康第一よね。というか、ちょっと一方通行は痩せ過ぎだし骨も何だか脆そうだしこれは不健康よ、戴けないわね。まだ15歳なら今から栄養形成していかないとこれから先が恐い……」

 

 

「待てオイなンだオマエ一気に捲し立てンなァ!」

 

 

吹寄は自他共に認める程の健康オタクであり、その通称の通り健康意識も高く、またその知識を共有したいという欲求も当然ながら強い。

眉目秀麗な外見に目が行って気付くのが遅れたが、吹寄の目からすれば杖付きだから致し方ないとしても、一方通行はかなり細身で肌も白く、不健康という評定が下されても仕方がないだろう。

 

つまり、吹寄にとっては自身の健康グッズの普及をするには絶好の相手が見事に転がり込んできた、という認識といっても過言ではない。

つい熱が入って早口で捲し立てて一方通行に迫ってしまった事に気付いた吹寄は、慌てたように咳払いを一つ落とした。

 

 

(でも、正直心配よね……)

 

 

加熱した頭を少し冷やしながらも改めて、辟易とした視線を向ける一方通行を眺めて思考を巡らしてみる。

細身の身体で、先程迫ってしまった際に押し返す腕の力も男にしては弱かったし、肌も病的とまでは言わないまでも真っ白だから、殆ど運動も出来てないのだろう。

初対面の相手にリハビリについて尋ねるぐらいだ、健康についての知識も乏しい、というよりは今まで興味を抱いていなかったという方が近いのかも知れない。

 

 

「ねぇ、病院でリハビリはしないの?」

 

 

「……まァ、出来ない事もねェンだろォがな」

 

 

そのまま黙り込んで表情をより一層顰める辺り、病院でのリハビリも可能ではあるが、余り気が進まないのだろうか、と。

親に見られるのが嫌とかそんな可愛らしい理由も、このぶっきらぼうな少年ならあながちあり得そうだと、気付かれないくらいに薄く微笑んで。

 

 

(なら、まぁ……一肌脱いであげましょうか)

 

 

医療的なリハビリについては余り詳しくないけれど、健康という面に関して言えば自分はエキスパートだと自負出来る。

袖振れ合うのも他生の縁、偶然とはいえ折角の貴重な出会いでもあるし、善行は積んで損は無いと、面倒見の良い姉御肌な気質も影響して、彼女の心は決まっていた。

 

 

――それに。

 

 

(何か……放っといたら無茶しそうだし。この子)

 

 

無愛想な裏の無自覚さが垣間見えるこの変わった少年は、放っておいたら、無茶なリハビリして怪我をしそうだと、一方通行からした憤慨しそうなイメージを抱く。

しかし、彼の保護者両名、彼の被保護対象である幼い少女ならばよくぞ見抜いたと喝采しそうなぐらいに、その評価は当たっているのだから、流石は問題児ばかりを纏め上げる委員長、吹寄制理の慧眼と言えよう。

 

 

「じゃあ、明日もこのくらい……いや、今の30分くらい前が丁度良いわね。その時間に、また此処に来なさい」

 

 

「……は?」

 

 

「リハビリ、手伝ってあげるって言ってるのよ。取り敢えず、まずは軽いウォーキングから始めましょうか。あ、明日はジャージとか動き易い格好で来なさいね」

 

 

「なっ、なンでそォなンだよ!? 人の話聞けやコラァ!」

 

 

実にイイ笑顔で着々と予定を組み立てる吹寄に威嚇して毛を逆立てる猫さながらに吠える一方通行だったが、彼女は一度決めたら中々に頑固である。

豊満な胸元を強調する腕組みをしながらウンウンと頷いている吹寄の好意のごり押しに、彼は戸惑いを隠せない。

 

ただ単にリハビリ方法について考えてみようと思って気軽に尋ねれば、思考のステップを数段飛ばしていきなりリハビリに協力すると言われたのだから、一方通行の心情も尤もである。

寧ろ当人の一方通行より吹寄の方が俄然乗り気であるのはどういう事なのだろう。

人の善意など碌に受け取るどころか反射する一方通行だからこその狼狽という面も関係してはいるのだが。

 

 

「良いから、人の好意は黙って受け取りなさいよ」

 

 

「そォいう問題でもねェだろ! 初対面だぞ俺らは、寧ろ厚かましいわァ!」

 

 

「でも貴方……いや、もういっか。分からず屋な一方通行なんてバカミ条と一緒で貴様でいいわね、うん……兎に角、一人でリハビリするよりはサポートが居た方がいいでしょ。そういう事よ」

 

 

「どォいう事だァ!?あァ畜生、無能力者ってのはどいつもこいつもォ……」

 

 

「なっ、無能力者は関係ないでしょ!もう、面倒臭いわね、歳上の言うことはちゃんと聞きなさいよ!思ったより長話になっちゃったし、学校もあるから私はもう行くわ。ちゃんと明日来なさいよ、一方通行!来なかったらキッツいのお見舞いしてやるから!」

 

 

「は、はァ!?オイ待てコラァ!話聞けよもォォォォ!!」

 

 

 

蒼を徐々に深めていく晴天に、困惑を全面に押し出した男の咆哮に驚いて一斉に飛び立った。

風を切って旋回して、音の発信源を見下ろせば、何故だか見捨てられたかの様に顔を曇らせて頭を抱える一方通行と。

 

 

良いことしたなと御満悦な吹寄の美しい笑顔が、見事な対比で咲き誇っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Sirius』________『焼き焦がすもの』






Sirius:シリウス

おおいぬ座α星 (α CMa)

スペクトル型:A1Ⅴm

距離: 8.6光年

輝き: -1.46等星 全天第一位


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Re:Play 2『Canopus』

過去の自分への脱却という目標を、言葉にこそ掲げては居なかったが、その変革の決意は決して嘘ではない。

正義だとか、悪だとか、そんな曖昧に拘って眼を曇らせた自分と決別し、言い訳を重ね続けて人を避けていた自分から、少しでも強くなるのだと。

ヒーローにならない、ヒーローになる必要なんてない。

憧れた情景など無為にも等しいのだと、一方通行はあのロシアで気付く事が出来たのだから。

 

まだきっと、理解するには持て余してしまうであろう、人の想い、人の好意、自分の想い、自分の好意。

不恰好でも不様でも守りたい者達を守る為には、他人を頼らなくてはいけないのかも知れないと、漸く人としてのスタートラインに立つ事は出来た。

だからこそ、今、一方通行は受け入れなくては行けないのかもしれない。

光に生きる人からの、シンプルな好意や気遣いを。

そう、思ってはいるのだが。

 

やはり不器用で恥ずかしがり屋で臆病な白猫は、撫で付ける手の暖かさに一々驚いてしまうようで。

受け入れる様になるには、まだまだぬるま湯で馴らして行くしかないのだろう。

 

 

「どう、早起きして歩くだけでも気分が良くなったりしない?」

 

 

「しねェよ、お気楽女」

 

 

「誰がお気楽かっ!全く、さっきからそうやって貴様は憎まれ口ばっか叩いて、もうちょっと歳下らしくしなさいってば」

 

 

「一つしか変わンねェだろォが。つゥか、杖ちゃンと持ってろ。くそ高ェンだぞ、それ」

 

 

「心配しなくても大丈夫、ちゃんと持ってるわよ。というか、貴様こそちゃんと着いてきなさい、まだコースの3分の1も歩いてないんだから。それともやっぱり手を引っ張った方がいい?」

 

 

「だからいらねェよ、クソッタレ!」

 

 

昨日に続いて雨雲一つ見当たらない空に八つ当たり染みた怨めしい視線を向けて、白い上下のジャージに身を包んだままテクテクと姿勢良く歩いている吹寄のピンと張られた背中を眺めて、溜め息。

1月も半ばに差し掛かって肌寒い朝は、何故だか昨日と比べて急激に気温が下がったらしく、その事実と寒さが得意ではない一方通行の体質が噛み合って、より一層彼のやる気を阻害してしまう。

 

昨日の早起きが後を引いたのか、アラーム一つ掛けてすら何故だか目が醒めてしまって、二度寝しようと再び毛布を被ったものの、御約束みたく眠気は一向にやって来ない。

挙げ句、もしこの儘フケてしまえば、あの良く分からない御人好しも思い通りに行かない世の中というものを理解するだろう、それが彼女の為でもあるだろう、と……考えてしまえば、俗に云うツンデレに分類されている彼がどうするか等、実に分かり易くて。

 

思い切り不機嫌な顔をしながらこんなにも朝早く起きてきた一方通行に驚いて手に持っていた新聞を落とした黄泉川愛穂にジャージ寄越せと告げて、拾い直した新聞紙を真っ二つにする程に更に彼女を驚かせてしまったのは余談である。

愛穂が予備として持っていた若草色のジャージは下は兎も角、上はブカブカでサイズが合わない事に舌打ちしながら、もうこれで良いやと投げ遣り気味に大股で玄関へと向かい、杖を手に出掛けた一方通行を見送った愛穂は終止、何が起こっているのかさっぱり分からず終いであるのだが、そんな事はどうでも良いと。

若干自棄糞気味な心境でブツブツと文句を垂れながら公園に辿り着いた一方通行を待ち受けていたのは、何だかんだで彼は来るなと予測を立てて、それがしっかり的中した事に昨日と変わらず御満悦な笑顔を浮かべる吹寄だったのは言うまでも無い。

 

 

「でも、昨日言ってた事は本当だったみたいね。ちゃんと杖無くても思ったよりは歩けてるし」

 

 

「もし殆ど歩けなかったらどォしてたンだ、オマエ」

 

 

「だから名前で呼びなさい。歩けなかったら、それこそリハビリみたいに手を繋いで少しずつ公園の中をグルグルと……」

 

 

「……じゃあちゃンと歩けてンだから、手を繋ぐ必要は無ェだろ」

 

 

「もし転んだりしたら危ないでしょうが、この分からず屋。それとも何、貴様恥ずかしいの?」

 

 

「頭沸いてンのか……そンな訳ねェだろ。ベタベタすンのがうぜェだけだ」

 

 

恥ずかしいか恥ずかしく無いかと云えば、当然少ないとは云え周りの視線も集まる上、女というよりは寧ろ誰かと手を繋ぐのはどこか抵抗感というか、ムズ痒い、そんな奇妙な感覚を覚えてしまう。

他人と触れ合う機会は少しずつではあるが増えて来ているのだろう、彼の言う光の住人と比べれば、とても小さくささやかなモノではあるが。

吹寄にとっては特別意識する事の無いモノだとしても、闇に片足どころか全身を突っ込んでいた一方通行からすれば、他人の手に触れる、他人の好意を受け取るという行為は認識の差が生まれても仕方ない。

 

上手い切り返しも思い付かぬまま、人気の少ない舗装された道路を風を切って歩きながら、持て余す割り切れなさに何とも言えない心地を吐き出す様に、一方通行はひっそりと溜め息をついた。

 

 

「そういえば、一方通行は大覇星祭には参加していたの?」

 

 

「あァ、人がゴミみてェに集まる祭りか。見物しかしてねェよ」

 

 

「あ……もしかして、怪我の所為で? そうだとしたらごめんなさい、軽はずみだったわね……」

 

 

「一々謝ってンじゃねェよ、どの道参加なンざしねェつもりだったンだ。見物だってあのクソガキが駄々捏ねたりしなけりゃ……」

 

 

笑ったり威張ったり落ち込んだりと忙しいヤツだと紅い瞳を細めながら、人という人で溢れて兎に角鬱陶しかったと云う感想しか抱けなかった大覇星祭の記憶を忌々し気に吐き捨てる。

彼の連れ合いである打ち止めという少女が見に行きたい見に行きたいと騒ぎ立てるので仕方なくチラッとだけ見物したが、一方通行の気性からして人の集まる催し事というのは肌が合わないらしい。

 

 

「クソガキ……?」

 

 

眉間に皺を寄せて不機嫌な面立ちを浮かべる一方通行の呟きに吹寄は不思議そうに首を傾げる。

ポニーテールに纏めている彼女の漆羽色の長い髪が、猫の鍵尻尾みたいひょこりと風を切るのを眺めながら、口を付いて出た余計な愚痴に、しくじったとより一層不機嫌な皺が濃くなった。

一般人相手にすんなりと打ち止めの事情を説明する訳にも行かないのは当たり前なので、取り敢えず適当にはぐらかざるを得ない。

 

 

「面倒見てるクソガキが居ンだよ、保護者の連れでな」

 

 

「へぇ……ってことは、今はその保護者さんとそのお子さんとの三人暮らし?」

 

 

「……まァ、後二人程うぜェのが居るが、そンな所だ」

 

 

「5人暮らし……なかなか賑やかそうね。どんな人達なの?」

 

 

比較的運動能力が高いのか、息を乱す事もなく一定のペースで歩く吹寄は、一方通行の変わった環境に興味を示したように小気味良く喉を鳴らす。

保護者という少し遠回りな口振りからして、両親や兄弟というニュアンスを感じない不自然さが引っ掛かるが、余り単刀直入に聞くのも憚られた。

一方通行の纏う険のある雰囲気は、正直に云えば普通とは言い難い。

だからこそ余り深く尋ねるのも拙いという直感から、当たり障りのなさそうな言い回しをする辺り、吹寄は存外にも思慮深い面もあるらしい。

けれど、彼女が予想するよりも遥かに、一方通行を取り巻く環境は複雑であった。

 

 

「あー……喧しいクソガキと、目付きの悪ィ性悪女と、元研究者のクソニートと、口うるせェ教師兼警備員」

 

 

「……こ、濃いわね………………ん?」

 

 

「……?」

 

 

淡々と指折りに数えられる面々の特徴が偏り過ぎて、吹寄の脳裏に浮かぶ彼を含めた五人暮らしの図式が混沌としてしまう。

他人を素直に評するには如何せん口汚い一方通行の偏見も混ざっているとはいえ、性悪と元研究者のニートというのはどうなのだろう。

其々の年齢も分からないが、取り敢えず彼が濃い面子に囲まれて暮らしているのだなと理解して、ふと、思い至る。

 

 

(……ん?あれ?)

 

 

教師兼、警備員。

どこか身に覚えのある様な肩書きというか、身近にそんな人物が居た気がする様な、引っ掛かり。

気の所為かと流すには、カリカリと違和感が爪を立てるのがムズ痒くて、どうにも落ち着かない。

というか、脚を止めて黙り込んだまま難しそうに考え込む吹寄を、いきなり何だと奇妙なモノを見る様な風情の一方通行の、格好。

細い彼の体躯では、アンダーは兎も角トップは少しサイズが大きい若草色のジャージは、そういえば何処か見覚えがあるなと、勘繰って。

ふと、彼女の良く知るとある人物が、候補に上がる。

 

 

 

「ね、ねぇ……その教師っていうのが一方通行の保護者さん? どんな人なの?」

 

 

「……あァ? だから口うるせェヤツだっつってンだろ」

 

 

「そこだけじゃなくて……例えば、分かり易い口癖とかあったりしない?良く、じゃんじゃん言ってたりとか」

 

 

「は?何で知って…………あ」

 

 

一方通行の膨大に広がる記憶群で、急速に取捨選択されている有益な情報から齎された結論に、思わず呆気に取られて、彼にしては珍しくポカンと間の抜けた姿を見せた。

黄泉川愛穂が言っていた通勤先の学校名、吹寄が先日何気なく零した学校名、彼女のある意味特徴的な普段の格好、現在の一方通行の着用しているジャージ。

彼の予想通り、何の因果か黄泉川愛穂と吹寄制理は、所謂教え子と教師という関係で。

 

体育教師であり尚且つ年頃の男子には大変に目に毒なスタイルと、ジャージ姿な為に余りきなびやかでは無いが間違いなく美人と云える部類であり、面倒見も良い愛穂を慕う生徒は多い。

その生徒達の内の一人である吹寄も当然愛穂の存在を知っていたし、委員長としてたまに声を掛けられる間柄であるので、愛穂が警備員である事も知っていたし、たまに警備員としての緊急召集で呼び出される愛穂の姿を目にした事もあった。

 

思わぬ所で意外な人物との繋がりという、ちょっとしたサプライズに少し興奮する吹寄と、何故もっと早く察せなかったと己の迂闊を噛み締める一方通行は見事に対照的である。

 

 

「やっぱり黄泉川先生か! 凄い偶然ね、世間は狭いとは言ったけどまさかこんな所で繋がりがあったなんて……」

 

 

「あァ面倒くせェ、俺とした事がとンだ失態だ……」

 

 

「何を落ち込んでるのよ貴様、別にそんなに気にする必要ないじゃないの。寧ろ黄泉川先生ならリハビリとか手伝ってくれたりするでしょ?」

 

 

「そっちじゃねェ……おい、黄泉川にこの事喋ンなよ、いいな」

 

 

「え、なんでよ? もしかして先生に知られると恥ずかしいとか? 駄目よ、リハビリには身近な保護者とかのケアが必要なんだから、そのくらい我慢しなさいって」

 

 

「違ェよ、寧ろ黄泉川はどォでも良いが、アイツが性悪に話しちまったらクソ面倒なンだよ!!」

 

 

吹寄をツテに愛穂に伝われば、常々一方通行の性格や生活改善に尽力するべく頭を捻っている過保護な彼女のこと、さぞ喜んで有頂天になるだろう。

それも鬱陶しい事には変わらないのだが、それよりも打ち止め、そして何よりも番外個体に知られるのだけは避けたい。

芳川や打ち止めは素直に喜ぶなり反応を示すが、一方通行が性悪と云うだけあって番外個体は彼に対してかなり辛辣であり、常日頃一方通行を茶化しては悦に浸るほどである。

彼女の生い立ちが影響しているとはいえ、仮にも一般人と朝からウォーキングしてる健康的な一方通行など、番外個体が知れば良くて大爆笑、悪くて散々揶揄った挙げ句、場合によっては更に一方通行を揶揄うべく吹寄に接触でもしようと企んでも不思議ではない。

一方通行を馬鹿に出来る材料一つでもあれば嘲笑を浮かべて飛び付きそうな程に性悪、それが彼の中での番外個体の認識であるのだ。

 

 

「んーでも、リハビリするならある程度は周りに事情を知って貰ってた方が良いわよ、やっぱり。それに御世話になっている人に隠すのは戴けない、ちゃんと報せるのが礼儀でしょ」

 

 

「……グッ、正論付きやがって……分かった、好きにしろよもォ……」

 

 

「そうさせて貰うわ」

 

 

まだ出逢って精々二日だが、吹寄が余り融通の効きそうな人物でない事は見に染みて理解出来てはいたし、光の住人にである一般人相手に能力をちらつかせて脅す等、今の彼の矜持には反するだろう。

愛穂も一方通行にとっては過保護で鬱陶しい部分が目立つ所はあるが、聞き分けが無い訳でもないので、彼が極力秘する様に頼めばそう簡単には口を割らないだろうという信頼は、ある。

 

取り敢えず、最低限の水際で食い止めさえすれば、番外個体に知られるという、名前の通りワーストな結果にはならない筈だと、実に規模の小さい根回しを真剣に考ずる辺り、やはり一方通行の精神は些か未熟と言えた。

けれど、無闇矢鱈に恫喝したり迂闊な暴力に訴えなくなったりと、いつぞやの実験以降、少しずつではあるが着実に成長はしているのだと、彼はまだ自分で気付けていない。

 

 

「まぁ、詳しい経緯は聞かないから安心しなさいよ。さて、それじゃそろそろペース上げてみましょうか。キツいって思ったらちゃんと言いなさいよ、一方通行」

 

 

「……口うるせェのは教師も生徒も変わンねェのか」

 

 

「口煩いって言うな。全く、黄泉川先生も大変ね、こんな反抗期の面倒見るなんて」

 

 

「ハッ、知るかよ。どいつもこいつも下らねェ世話焼きやがって……」

 

 

舗装されたごみごみとした道を抜けて、開けた河川敷へと繋がる石畳の短くも段差の高い階段に脚を掛けながら、不快でも煩わしさもない奇妙で擽ったい仄かな感覚は新鮮で、僅かな苦笑混じりの溜め息を落とす。

放っておかない事への不理解、放っておかないでいてくれる事への、見捨てないでくれる事への、偽れないほんの少しの感謝。

憎まれ口しか叩けない自分に、何故そうも構おうとするのは、未だに分からないけれど。

 

 

――ま、先生の気持ち、分からなくも無いわね。まだ少しだけ、だけど。

 

 

鼓膜を撫で付ける、まだ春の暖かさを拒む頑固で冷たい冬の風と、水面の波紋を広げる様な、凛と澄んだ鈴の音。

 

酷く綺麗にそして優しく耳に届いたソプラノに、目を向ければ、オリオン座の南で光るシリウスの輝きを咲かせた美しい女の笑顔が、一方通行を見下ろしていて。

穢れのない鈴蘭の花弁にも似た、自分のモノとは余りにも違う掌が、差し出されていて。

 

 

「…………フン」

 

 

そこまで甘えるつもりはないと、脚に強く力を入れて、小綺麗で眩しい世界に生きる彼女が差し出した掌を、掴む事もせず、スルリと脇に置き去りにする。

余りにも汚してしまった自分の掌とは違って、彼女の綺麗な掌に触れることが憚られた。

 

彩り色付いた水彩画を、白いペンキの一筆で汚してしまう事への禁忌を恐れて、手を伸ばす事も恐がった白猫の臆病さに、彼女が気付く事は出来なかったけれど。

 

 

――そういう、意地っ張りなとこよ。

 

 

呆れたように肩を竦めて、仕方ないなと背中越しに微笑む彼女に何も言えない乏しさが、甘い屑となって、溜め息すら風に浚われる。

 

反射して光る河川の波の水面は、自然を侮辱するこの科学の街でさえ、陽光を浴びてキラキラと煌めいていて。

科学の産物の澱みをかき集めた存在の様な自分には、その煌めきが酷く皮肉気に見えて。

 

 

無性に、悔しかった。

 

 

 

 

 

――――

―――――――――

 

 

 

「ははぁ……そういう事だったじゃんね。昨日といい今日といい、アイツが珍しく早起きしたもんだから驚いたが、そんな経緯があったとは思わなかったじゃん」

 

 

「えぇ、私もまさか一方通行の保護者が黄泉川先生だとは思わなくて……」

 

 

人生とはこれだから面白い。

運命なんてモノはきっと、瞳に映せれば銀河に浮かぶ無数の星屑ほどに溢れていて、極彩色の迷宮染みた複雑さで絡み合った壮大な蜘蛛の巣みたいなのだろう。

何が起こるか分からない、一つの原因に結果が集束して、それは手繋ぎした人の和の様に、関わった両手が多ければ多い程に連なっていく数多の星屑のリングの様に。

 

どれだけ多くの人に関われるのか、どれだけ多くの人と繋がれるのか、その一片を実感出来る掛け替えのない瞬間が、黄泉川愛穂は好きなのだ。

その過程に関わって、或いは誰かに道を示して、或いは誰かに道を示される、それを学んでいくからこそ、人生なのだと。

教育者もまた、教わり、導かれるべき者。

総てを修めて何一つ学ぶ必要のない人間なんてきっと、誰一人として居ないのだから。

 

教師であり、生徒。

彼女にとって、教えて教えられてを繰り返している代表といえた同居人の少年に少し影響されているのか、苦めのホットコーヒーに舌鼓を打ちながら、愛穂は母性的な笑みを浮かべた。

 

 

「アイツも丸くなったじゃんねぇ」

 

 

放課後の職員室、それぞれ所用を抱えているのか人影は少なくて、斜陽の茜を背に影を透かせたドレープの靡く形は、拗ねて顔を背けたとある少年の意地っ張りを映したようで。

けれど、それでも最初に出逢った時よりも、随分優しくなれているんだな、と。

切っ掛けは兎も角、一方通行と関わりを持った教え子の話を聞く限り、少しは自分自身と向き合えるように、彼なりに努力してくれているらしい。

その努力を足掻きと捉えて、なかなか素直にその隙を見せてくれない臆病さは、少し寂しいなと思ってしまうけれど。

 

 

(リハビリ、か。水臭いヤツじゃんね、全く)

 

 

甘えた姿を見せずにいつも見えない所で藻掻こうとする彼の癖を先に治したい所ではあるけれど、安心しろと抱き締めても直ぐに腕の中から抜け出してしまう白猫みたいな繊細さも、彼という記号の一部なのかも知れない。

身近な人間にこそ隙を見せない神経質さ、それを水臭いなと呆れてしまうよりは、リハビリするという気概を良い傾向だと捉える方が建設的だろう。

 

カップから沸き立つ、届かない天を目指して昇る細い白雲の先で、職員室に長居するのは成績優秀な彼女といえど居心地が悪いのか、少し落ち着きなく身動ぎする教え子へと、愛穂らしい夏に咲く向日葵ような快活な笑顔を向けた。

 

 

「丸くなった……ですか。黄泉川先生は、彼とは長い付き合いで?」

 

 

「んー? うぅん、短いとも言えないし、長いとも言えないじゃんねぇ。でも、最初に会った頃はやたら尖ってたり、荒れてたりと問題も多かった。今では結構大人しくなってくれたけどな」

 

 

急に姿を消して、学園都市の闇だったり、暗部なんてモノにまで関わって身を危険にして、どこか自壊的な暗さを紅い瞳に宿して、気付けば身も身体もボロボロにして。

漸く安息の時間を取り戻してきたんだなと思えるぐらいには、我武者羅に足掻いていた若い白猫は今、大人しく丸まってくれている。

目の前の少女の無償の優しさに驚き竦んで戸惑ってはいるけれど、手を払い退ける事はしなかっただけ、彼には確実に変化が訪れている事は間違いない。

 

それが、彼女には想像も付かないほどの大きな『何か』を乗り越えた故に、気力を削り切ってしまった一方通行が自ら進んで牙を畳んだ訳ではなく、もう牙を剥ける力も残ってない程に疲れてしまっているという背景が、愛穂にとって、物悲しかったけれど。

 

 

「…………」

 

 

ほの少しちらつかせた一方通行の過去に、興味深そうに考えて込んでいる吹寄の姿に、眩しい光を見る様に細まる深い葵の瞳。

賢くて面倒見の良い、吹寄制理という生徒は所謂出来た優等生とも言えるけれど、暗い闇も蔓延るこの学園都市では、彼女は非力な少女に過ぎない。

 

一方通行の過去と彼が自身を苛む程の罪科を黄泉川愛穂は詳しくは知らないが、きっと途方もなく残酷で、あの若さで命というモノを息が詰まるくらい必死に理解しようとさせるほどに重い事なんだろう、と。

その苛むモノごと抱き締めてあげて欲しい等と、多くまでは願わない。

せめて少しでもあの臆病な白猫が心を傾けるくらいの、ささやかな友人になって欲しいと願うのは、望み過ぎではない筈だと思うから。

 

不器用で無愛想で可愛くないところも多いけれど、見え隠れする彼の気難しい優しさに、気付いてあげて欲しい。

 

 

「あら、吹寄ちゃんと黄泉川先生。どうしたのですかー?放課後まで残って……」

 

 

「月詠先生……」

 

 

不意に彼女達に声を掛ける幼い声に視線を向ければ、雪を溶かす暖かな桜色の瞳と髪を持つ幼い顔立ちの少女然とした人物が、小さな体躯にプリントの束を抱えて意外そうに目を丸めていた。

そのまま愛穂の隣のデスクにプリントを置いて、座席の高い椅子にポンと飛び乗って会話に混ざる姿勢を作った彼女――月詠小萌、姿形は兎も角、列記とした教師であり、吹寄制理の担任でもある。

 

 

 

「おっ、小萌先生。いや、ちょっと吹寄に相談というか質問があるって言われて、こうして時間作ったじゃんよ。ホントは空き教室でするべきかとも思ったんだが……」

 

 

「なるほど……教室なら、丁度今、先生のクラスが空いてますよー」

 

一瞬、優等生である吹寄がよもや問題でも起こしたのかと不安になるも、特にそういう重い空気でもない事にそっと小萌は息をつく。

常にきびきびとした態度と確りとした気質の吹寄が相談事とは珍しい、と。

力に成れるかは兎も角、相談事なら担任である自分にして欲しかったなとちょっとセンチになりながらも、余計な口は挟まない。

なるべく人に聞かれたくないのならと、気を回す辺り、流石は愛穂と並んで生徒想いと評判の名高い教師である。

 

 

「……らしいけど、どうするじゃん?吹寄がそっちの方が良いなら私は移動して構わんけど」

 

 

「あ、いえ。時間作って貰ってる上に、そこまでは。それに、相談というよりちょっとした確認みたいなモノですし」

 

 

「ふむふむ、確認ですか。良ければ先生にも教えて欲しいです」

 

 

生徒と時間を共有するというのは、愛穂にとっても小萌にとっても嬉しい事には変わらない。

こういった小さなコミュニケーションでも大事にしたいのだろう、窺う桜色の瞳がキラキラと輝いて、吹寄と愛穂はそんな大仰な事ではないけれど、と苦笑した。

 

 

「簡単に言えば、私が偶然知り合った相手が、黄泉川先生の同居人だったって事なんですよ」

 

 

「そういう事じゃん……あ、そういえば小萌先生は一度だけ話した事あったじゃんね? あの真っ白なヤツ」

 

 

「あぁ、あの真っ白な仔猫ちゃんですか、懐かしいですねぇ……暫く前にやっと帰って来たって喜んでましたね、あの子と、あのちっちゃな女の子は元気なのですか?」

 

 

「ん、勿論元気じゃんよ。チビ助の方はじゃじゃ馬っぷりに拍車が掛かってるけど」

 

 

「月詠先生とも知り合いだったのか、一方通行のヤツ……意外と顔広かったのね」

 

 

愛穂が一方通行と打ち止めを引き取る際に居合わせたので、小萌もしっかりと二人の事を覚えていたらしい。

というよりは、初対面ながら説明不能な生物、挙げ句には何かの実験体の如く扱われたのだから、外見のインパクトも相俟ってすんなりと思い出す事が出来たというべきか。

度々愚痴に出てくる少年の近況を愛穂の口から最近聞いていなかったが、どうやら元気なのは間違いないようで、良かった良かったと小萌は胸を撫で下ろした。

 

よもや小萌とも知り合いだとは思っても見なかったようで、つくづく世間は狭いものだと吹寄は実感する。

女の子とじゃじゃ馬という単語から一方通行の言うクソガキというのが誰の事が見当付いて、成る程、彼の口振りからしてお転婆なのかと思っていたが、どうやらその認識で間違いないらしい。

まだ知り合って間もないというのに、あの臍曲がりの意地っ張りの色んな一面がぽんぽんと分かって行くのが小気味良いなと、吹寄は薄く微笑んだ。

 

 

「一方通行ちゃん、ですね。あの何だか色々と大変そうだった子も、元気で居てくれるなら先生も嬉しいです」

 

 

「ははっ、小萌先生にそこまで心配して貰えて、アイツも果報者じゃんよ。吹寄も、あんな気難しいヤツだけど……どうか、仲良くしてやって欲しい」

 

 

「そ、そんな改まって言われなくても大丈夫です、黄泉川の先生。任せて下さい、私があの不健康者をちゃんと立派にして見せますとも!」

 

 

真摯に澄んだ瑠璃の眼差しで以て見詰める愛穂に何故だか居たたまれなくなって、つい不健康者などと口にしてしまったが、彼女は心より嬉しそうに笑みを深めるだけで。

きっと尊敬出来る母親とは、こういう物なのかもしれない。

それすらも口にすれば独身である愛穂は複雑な心境になってしまうのだろうけど、真摯に誰かを支えようとする彼女の慈愛に満ちた姿は揺蕩う母なる海に似て、とても優しく美しいと思えた。

 

 

「ははっ、期待してるじゃん。あと、アイツの事でまた何か気になったら、遠慮なく聞いてくれて構わないからな」

 

 

「はい、分かりました!」

 

 

 

こんな人に支えて貰っている一方通行は、確かに果報者なのだろう。

彼女の柔らかい期待に答えるという大義に後押しされた熱もあって、やや肩に力が入りながらも強く頷く吹寄。

一度引き受けた事を投げ出すくらいならば、初めから彼を手伝おうとは思わないという土台の上に、尊敬できる大人からの背中を押されたのだ、やる気を出さない彼女ではない。

 

 

取り敢えずはウォーキングの継続と、昨日こっそり詠み漁ったリハビリ面のネット知識をさらに練るべく、帰り際に図書館に寄って医療本を借りてみるのも考慮して、と。

能力者並の処理速度で、今後の一方通行のリハビリメニューを組み立てる彼女の脳裏で、ほんの少しだけ引っ掛かった違和感があった。

 

 

あの何だか色々と大変そうだった子、という何気ない様子で呟かれた小萌の言葉。

 

河川敷の石階段で差し出した自分の手を、一瞬だけ怯えたように見えた一方通行の瞳。

遠くで響く幽かな耳鳴りの様に、その光景は吹寄の意識の隅に焼き付いていた。

 

 

 

 

 

 

『Canopos』________『水先案内人』






Canopus:カノープス

りゅうこつ座α星 (α Car)

スペクトル型:FOⅡ

距離: 310光年

輝き: -0.72等星 全天第ニ位


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Re:Play 3『Arcturus』

「最近あなた顔色良いよねって、ミサカはミサカはコーヒーとミルクを一緒に飲んでるあなたの隣に座ってみる」

 

 

「糖分なんて邪道と言わんばかりにブラックばっか飲んでた中二病がやっと改善されたの?それともメンタル同様味覚まで子供染みて来ちゃったのかなぁ、このモヤシは」

 

 

「うるっせェンだよステレオでピーチクパーチクとォ……何飲もうが俺の勝手だろォが」

 

 

「食事中でも頑なにブラックコーヒーばっか飲んでるようなカフェイン中毒者がいきなりミルクも一緒に、とか狙ってるとしか思えないじゃん。まさか今更カルシウム取って貧弱ヒョロヒョロな体格を変えようとでも思ってんのぉ?ぎゃはは、似合わねー」

 

 

「えーでも牛乳は栄養も良いから飲んで損はないってヨミカワも言ってたし、コーヒーばっかり飲んでるよりもよっぽど良いことじゃないのかなって、ミサカはミサカは……ミサカにも牛乳ちょーだい」

 

 

「自分で注げよクソガキ。勝手に飲もうとすンじゃねェ」

 

 

「ミサカだけ無視すんなし」

 

 

昼食も終えた昼下がり、牛乳を飲むだけで此処まで不思議に思われる人間も早々居ないが、病的なまでに胃の悪くなりそうなブラックコーヒーばかりを飲んでいる一方通行がコップ半分の少量とはいえ牛乳を摂取しているのだから、同居人である打ち止めと番外個体からすればいっそ指摘して欲しいのかと思うぐらいに疑問を呈すのは致し方ないだろう。

 

出逢ってまだ一年にも満たないとはいえ、殺伐で平穏で濃密な時間を一方通行と共に過ごした間柄である、一見すれば姉妹に見えそうな打ち止めと番外個体からすれば、一方通行がコーヒー以外を飲んでいるのを殆ど目撃した事がない。

活発な陽光のフィルター代わりの綺白に透けたカーテンを背景にコーヒーをメインに牛乳をテイストに挟む姿は一方通行の外見も伴って中々に様になってはいるが、見惚れるよりも先ず、その光景の貴重さに目を瞬かせる。

 

打ち止めとしては妹達間でバストアッパーと名高いムサシノ牛乳を最近愛飲しているからこそ、栄養面が心配になりそうな一方通行が牛乳を摂取している事を不思議に思いながらも良い傾向と収めれるが、番外個体としては純粋に戸惑っていた。

一方通行に対しては憎まれ口しか叩けない彼女だからこそ言葉上では辛辣そのものだが、実はどこかで頭でも打ったんじゃないのかとすら思ってすらいる。

身近な人間の唐突な変化に真剣に考察するよりも、気味悪がって戸惑う辺り、グラマラスな外見ながら妹達の中でも末の妹であり、中身は零歳児だったりする彼女らしいとも言えた。

現に、明からさまに敢えて挑発の言葉を聞き流した一方通行に対して僅かに剥れているのだから、そこだけはちゃんと歳相応である。

 

 

「でも最近あなた朝も早いよね、ってミサカはミサカはいっつもお昼に起きてたのに、最近ミサカよりも早く起きてるあなたを不思議に思ってみたり。散歩でもしてるの?」

 

 

「朝から散歩とか、ついに白髪と杖付きが祟って一気に爺になっちゃったのかにゃーん?ぷくく、その内、ボケが始まったりしそうでウケるんですけどぉ……心配しなくてまこのミサカがちゃーんと面倒見てやんよ。介護施設の闇を白モヤシで実践してみるのも面白そうだしぃ?」

 

 

「オマエに介護されるぐれェなら自ら命絶った方がマシだ、この零歳児が。つゥかオマエまで何勝手に飲もうとしてやがンだ。冷蔵庫にまだあンだから自分の分は自分で注げ」

 

 

「別に飲もうとした訳じゃねぇし、こん中に砂糖五杯くらいぶちこんでやればさぞお強い第一位様の顔もぶっ細工に歪むだろうねって思っただけ」

 

 

「実行しやがったら思う存分その面不細工に歪ませてやンよ」

 

 

「相変わらず喧嘩ばっかりなんだから……って、ミサカはミサカは年が明けても口を開けば険悪な二人に呆れてみる。はい、ワーストの分だよ」

 

 

「……ミサカ別に飲みたい訳じゃないんだけど。まぁ、おチビの好意を無下にしたら親御さんが睨んでくるから飲むけど」

 

 

コトリと置かれたコップに並々と注がれたムサシノ牛乳の水面を眺めながら、不満も含めた複雑な表情を浮かべながらも、チラリと一方通行を一瞥する番外個体。

昼時に起床する自堕落さは鳴りを潜めて打ち止めや番外個体、場合によっては芳川桔梗よりも早く起きているらしい彼は、彼女にとっての一方通行の人物像を打ち壊すかの様で、どうにも受け入れられない。

 

一体何を考えているのかと言わんばかりに澄ました表情でコーヒーを啜る白い横顔を、ひっそりと浮かぶ隈をより濃くしながら睨みつける。

 

大した事ではない、ちょっとした気紛れ。

テレビか何かに影響された、些細な思い付き。

 

何故だか、そんなつまらないオチとは思えない。

何かを隠している、そんな後ろめたさ染みたモノを嗅ぎ取ったのは、女の勘か、虫の知らせか。

どちらにしても、蚊帳の外に置かれてしまっているかの様な薄っすらとした寂寞感が、番外個体に苛立ちに似た何かを抱かせていた。

 

 

(ミサカを背負うだとか言ってた癖に、このクソモヤシ)

 

 

心の水面は細やかに波風を立てるだけで、歯噛みする様なキレの無い暴言は口を付いて溢れて、けれど深入りは出来ない。

白々しい横顔に睨むだけの精一杯を、幼き少女だけがやれやれと、顔立ちに似合わない成熟さで以て、致し方なさそうに眺めていた。

 

 

 

―――――

―――――――――――

 

 

 

薄鈍色の冬雲が肌を刺す風の冷たさを一層に煽って、見上げた空と同様に陰って鬱屈とした内心を苛立たせる。

ピッタリとゆとり無く細身を纏うファー付きのコートを手繰りせた所で、心の鬱も身体の冷えも緩和するには至らない。

 

 

(黄泉川のヤツ……あの健康バカにすンなり吹き込まれやがって……)

 

 

吹寄が折角薦めてるんだから、ちゃんと飲まないとダメじゃんね?

 

いけしゃあしゃあとした憎たらしい笑顔を浮かべながらそう言ってムサシノ牛乳を掲げてみせた愛穂の脳裏が、歯噛みするだけの苛立ちに拍車を掛ける。

どんなやり取りが合ったかは彼の知るところではないけれど、吹寄と愛穂が結託して一方通行の健康面を改善するべく行動しているらしく、朝早くからのウォーキングだけのみならず、愛穂の用意する食事のメニューにも野菜が増えて、冷蔵庫にムサシノ牛乳のストックが補充されたりと、計画的に事が進められている。

 

挙げ句、番外個体や打ち止め、芳川桔梗に対しての口止めをした一件を承諾した癖に、それを盾に反抗の意思を潰そうとする辺りが気に食わない。

現状の改善としてリハビリを視野に入れていただけあって、事の始まりを作ったのは他でもない一方通行自身だったからこそ、仕方なく歯噛みするだけに留めてはいたが。

 

 

(結果的に揶揄われンなら意味ねェっての)

 

 

番外個体に知られて鬱陶しく絡まれるのが嫌だったからこその口止めだったのだが、急な一方通行の健康志向に不審さを抱いた彼女の探るような視線を向けられるのも鬱陶しい。

その視線を振り切るように散歩と称しての外出をしている現状に、これでは本末転倒ではないか、と。

いっそ最初から隠さなければ良かったかも知れないと、今更過ぎる後悔に苛まれながら、渡り歩く群衆に紛れてひっそりと溜め息をついた。

 

 

休日の第七学区は人通りが多く、その中で一際異彩を放つ白髪紅眼の外見は衆目を集めているのだが、やり切れなさを深める思考にズブズブと脚を取られている一方通行がそれを意に介していないのは、幸いと言える。

というよりは、打ち止めを連れて外出する機会も多かった為により一層注目される事などザラと言えたので、馴れが招いた無意識というべきか、自然と意識をしなくなっているのだろうが。

 

 

しかし。

 

 

 

「……おなか…………空いたんだよ…………」

 

 

「………………またかよ」

 

 

ペタリと脱力しながら蚊の鳴き声にも劣る覇気の無いソプラノで呟きながら行き倒れている真っ白けな修道女を目下にすれば、流石に一方通行とはいえ意識せざるを得ない。

一度ならず二度までも。

凄まじい既視感に見舞われる光景を前に、頭を抱える様に嘆息しながら見下ろす一方通行に目敏く気付いた修道女は、腹を空かせた猛獣の如く俊敏さで一目散に彼へと掴み掛かった。

 

 

「あ、あなたは……いつぞやごはんの人!ごはんの人なんだよ!」

 

 

「誰がご飯だチビシスター……まァた行き倒れてンのかよオマエ」

 

 

一方通行にとっては『0930事件』以降の遭遇となる暴食シスター、インデックス。

かつてウィルスに囚われた打ち止めを救って貰ったり、一方通行にとっては並々ならぬ存在である事は間違いないのだが、修道の欠片も滲ませない彼女の姿に、途徹もない疲労感に襲われる。

 

 

「う、うん。とうまがまた補習だからって居なくなっちゃって…………」

 

 

「そンでわざわざ探してたってかァ?オマエの言うヤツが補習だってンなら、ほっときゃ戻ってくンだろォに」

 

 

「でも……お腹空き過ぎて死んじゃうかと……昨日もほんの少しのモヤシ炒めだけだったし…………」

 

 

「ソイツは……」

 

 

なまじ健康に煩い知人がつい最近出来てしまっている為に、モヤシ炒めという栄養面でも文字列的にも彩りのないメニューに思わず閉口する一方通行。

いつぞやの腹を空かせたインデックスに食事を恵んだ際にも飢えた獣もかくやと言わんばかりに貪り付いていた光景から、単純に健啖家なのかとも思っていたのだが、どうやらそれだけではないらしい。

少量のモヤシ炒めでは腹も満たされなければ、心も萎んで飢えてしまうのも当然だろうな、と。

 

 

「……ひもじいんだよ…………白い人、たすけて……」

 

 

「………………ハァ……」

 

 

鮮やかなエメラルドグリーンの大きな瞳が、主に救いを求めて祈る修道女さながらの懇願を訴えるように、ジワリと涙を滴らせて揺れている。

腰を折って縋る姿は、後光射すステンドグラスの眩い教会であればさぞ型に填まったワンシーンになっていたのだろうが、生憎神魔オカルトを真っ向から否定するこの科学の街では格好が付かない。

 

けれど、その祈りに応える者はしっかりと顕現しているようで、迷える子羊にとっての白髪の救世主は、面倒臭気に瞑目しながらも、結局は救いの手を差し伸べるのであった。

 

 

――

――――

 

 

 

「ぷっはぁ……久々に満足出来たんだよ……」

 

 

「…………オマエ、腹ン中にブラックホールでも内包してンのかよ。軽く引くわ」

 

 

「淑女に対しての評価じゃないかも。さっきも聞いたけど、あくせられーたは本当に何も食べなくて良かったの?」

 

 

「見てるだけで腹一杯だっつの……」

 

 

「どれもとっても美味しいのに、勿体無いかも……あ、デザートも頼んでいい?」

 

 

「好きに頼めよもォ。こンな小せェ姿形の癖によくもまァ……」

 

 

「むぅ、子供みたいに頭を叩かないで欲しいかも。じゃあ、このストロベリーサンデーにするんだよ!」

 

 

「へいへい……」

 

近場の呼び出しボタンを押して、ファミリーレストランの少し硬めのソファにポスリと背を埋めて、皺を寄せ過ぎて痛みすら感じる眉間を細長い指で解す。

どこか頬を引き攣らせながら固い笑顔を浮かべて注目を伺う顔立ちの可憐なウェイトレスへと、ストロベリーサンデーのみならずレアチーズケーキや季節のシャーベットなどを図々しくも追加注文する朗らかなソプラノに、最早一々突っ込む気分にもならない。

寧ろ、山と積まれた空の食器に内心ただならぬ動揺を抱えながらも必死に接客しているウェイトレスに同情さえしているぐらいだ、一方通行ですら眩暈を覚える事象にこうも対応しているウェイトレスのプロ意識は素直に賞賛しても良いだろう。

 

 

「むふぅ、デザートなんて二ヶ月ぶりかも。ありがとう、あくせられーた」

 

 

「……礼は良い。ンで、オマエは三下野郎はいつ頃に補習終わるとか、そォいうの聞いてねェの?」

 

 

「遅くても夕方までにはって言ってんだよ……あれ?三下って……とうまの事?え?あくせられーた、とうまと知り合いだったの?」

 

 

「……ロシアに居る時、ちょっとな」

 

 

「ロシアの時……」

 

 

ロシア。

 

第三次世界大戦の折に、インデックスが不遇の立場に立たされていたという内容を、風斬氷華にほんの触りだけではあるが聞いていた事を思い出して、彼女の前で使うべき単語では無かったと内心で後悔の念を抱く。

デザートを心待ちにして煌めいていた瞳が陰を添えて、快活なインデックスの表情が萎んて行く様を見れば、言葉選びを失敗した事は容易に想像がついて。

 

けれど、一方通行がロシアでの激動の夜を越えてからずっと心の内に収めていた言葉を告げるには、良い機会なのかも知れない。

日本人離れしたドールチックな整った顔立ちをしょんぼりと曇らせたインデックスの耳に届く、コンッとした、少し鈍めの甲高い音。

人差し指で強く叩いたような響きにエメラルドの瞳がパチクリと長い睫毛と共に瞬けば、次に映るのは真っ直ぐにインデックスを見つめる、彼岸花の緋色に似た彩りの深い紅い瞳だった。

 

 

「……オマエには、打ち止めを救って貰った事があったよな。0930事件の時だ、覚えてンな?俺と木原……顔面入れ墨野郎とやり合ってた日だ」

 

 

「0930……えっと、打ち止めってあの時の小さい女の子だったよね。うん、勿論覚えているんだよ」

 

 

「あの時、オマエのお陰で打ち止めは助かった。ンで、ロシアの時にもまたオマエに助けられてンだよ、俺は」

 

 

「え?ど、どういう事?私にはロシアであくせられーたとあった記憶なんてないんだよ」

 

 

改まって話すのにはどうにも落ち着かないのか、手持ち無沙汰に特徴的なデザインの杖を細長い指先で弄りながらも、姿勢は妙に畏まってる少年の言葉に、インデックスはこてんと見た目相応に愛らしく首を傾げる。

ロシアでは自意識の空白が見受けられたが、少なくとも彼女の記憶上では一方通行と顔を合わせては居なかったし、一方通行と遭遇したらしい上条当麻からもそんな話は聞いていない。

となれば、『自動書記』の遠隔制御霊装を使用されて意識を失っていた際に彼とコンタクトを取っていたのかと予測するが、彼の口から紡がれた真相はインデックスにとって衝撃的だった。

 

 

「あのクソガキが性懲りもなくピンチに陥りやがってなァ……そン時に、オマエが謳ってた『歌』を使わせて貰った」

 

 

「え?……えぇぇ!?そんな、あれは普通の人間にも扱えないし、それ以前に……」

 

 

「魔術、だろ。覚悟の上で使ったンだ、後悔もしてねェ。幸い、この通りピンピンしてる。だが、オマエにはまだ、その分の礼も言えてなかった」

 

 

だから、と。

そう一区切りを置いて、鋭く尖ってばかりだった一方通行の表情が、ふっと和らいで幽かな綻びを作り出す。

インデックスの記憶において、常に不機嫌そうにしたりボロボロになったりとしていた彼の表情が、初めて年相応に見えたのは、一方通行が無意識ながらも自然体な心でもってインデックスと対峙しているからだろう。

 

無愛想でも悪人相でもない、優しげで静穏なこの表情こそ、一方通行と名乗る少年が滅多に見せない本当の顔なんだろうなと、修道女らしいインデックスの母性が、そう心の奥底でひっそりと囁いた。

 

 

「あり、がとォよ……インデックス」

 

 

詰まらせながらも、何とか視線だけは逸らすまいと云う真摯さを携えた紅い瞳には、その選択の後悔なんて一欠片も浮かんでいない。

守りたい物を守ろうと我武者羅に戦う男の子の真っ直ぐ過ぎるその瞳は、インデックスの良く知る馬鹿みたいに愚直な男の子ととても良く似ていて。

能力者が魔術を行使したという驚きよりも、男の子ってどうしてこんなに無茶をするんだろうと、一周回って呆れてしまうのだから不思議だ。

けど、そういう直向きさは、いつまでも嫌いになれない。

 

 

「………………もう、そんな顔されたら、素直に怒れないんだよ」

 

 

「オマエに怒られよォが知った事かよ。一応、ケジメだけは付けときたかっただけだ。貸し借りの分は今回の奢りでチャラだかンな」

 

 

「むぅ、それなら遠慮せずにもっと食べてれば良かったかも」

 

 

「はァ?まだ食える余裕あンのかオマエ…………冗談抜きで胃袋とブラックホールが直結してンじゃねェのか」

 

 

「ふっふーん、私の限界がみたいと言うのならば望むところなんだよ!」

 

 

「……三下のヤツ、とンでもねェシスター飼ってンな。ムカツク野郎だが、ちょっと同情するわ」

 

 

インデックスが既に平らげた料理の品数は既に十五品を越えており、更にデザートも三品も追加するという大暴食っぷりを見せ付けておいて、まだ余力を残しているらしい。

七つの大罪に置ける暴食に思い切り該当している癖に、それはそれ、これはこれと開き直っているインデックスの底知れなさに戦慄しながら、コーヒーを啜る一方通行。

 

らしくもない真剣な御礼など、生まれてこの方、殆ど無かったので妙に畏まってしまったモノだが、不格好ながらもケジメを付ける事は出来たと、心中で安堵を一息ついた。

似合わない真似と言われれば否定は出来ないし、同居人や

グループの元同僚達にでも見られたら間違いなく揶揄われるか、目や耳を疑われるだけであったが、どうやらインデックスは至極真面目に受け入れてくれたらしい。

 

 

「お待たせ致しましたぁ」

 

 

「おー美味しそうなんだよ!あくせられーたもどれか食べる?」

 

 

「甘いモンは苦手だって言ってンだろォが……ホットコーヒー追加で」

 

 

「あ、はい、畏まりました!ブラックで宜しかったです……よね?」

 

 

「ン、あァ……」

 

 

「はい!では、少々お待ち下さいませぇ」

 

 

甘ったるく丸っこい声を弾ませてトコトコと落ち着きなくホールを駆け回って行った年若いウェイトレスは、そういえば以前から度々打ち止めを連れて此処を訪れた際にも自分達を案内してくれたのは彼女だったか、と。

取り分け重要でも無い事にのんびりと思考を逸らせるぐらいの空気のゆとりは平穏そのもので、安らぎに揺られて薄熱を帯びた瞼が、夕暮れの斜陽に似た悠長な睡魔に誘われて重くなる。

 

御礼を言う、たったそれだけの事すら出来なかった幼稚さを置き去りにして得た奇妙な達成感が、どこか心地好い。

それほどまでに一方通行という人格が変わったのか、目の前でチーズケーキを味わっているインデックスの放つ、柔らかなシルクで包み込まれる様な不思議な雰囲気がそうさせるのか。

 

 

「――フン」

 

 

どちらも有るのだろうが、少なくとも前者である事を否定するには、自分自身でも説得力が足りないという自覚が今の一方通行にはある。

黄泉川愛穂や吹寄制理の助言や心配りを跳ね除けず、寧ろ向けられる世話焼きを鬱陶しいと思いながらも、何だかんだで、悪くない心地だと。

言い訳や誤魔化し、上面の罵詈雑言で幾ら覆い隠そうとしてみても、自分にだけは嘘は付けない。

あのロシアでの一時、打ち止めに自分の本心を初めて明かしたあの瞬間からきっと、他人から向けられる感情を反射してしまう臆病な反射の膜は、少しずつ崩れているのだろう。

 

崩れてしまうのを恐れる自分と、いっそ崩れてしまえば良いと諦めた自分。

今の一方通行はどちら側に寄りかかっているのか、それを自覚するには、まだ。

 

 

「ねぇ、あくせられーた……」

 

 

「……なンだよ」

 

 

「ちょっと、相談したいんだけど……聞いてくれる?」

 

 

「相談?」

 

 

「……うん」

 

 

カップの底の白陶が見える程に飲み干したコーヒーの残りをどこか自嘲気味に細まって眺めていた紅い瞳が、躊躇いを含んだ似つかわしくないインデックスの呼び掛けに、ふっと前を見据えた。

つい先程までに頬を綻ばせていた彼女の幸福に満ちた表情はそこには無くて、陰りを潜ませた静かな悲哀を纏うエメラルドの瞳が、無意識の内にソファに委ねていた一方通行の姿勢を正す。

 

 

「あのね……とうまの事、なんだけど……」

 

 

「……遠慮すンな。さっさと話せよ」

 

 

食事の奢りなどでは到底釣り合わない恩を受けているインデックスの相談事を、知るかと一蹴する程の冷酷さは当の昔に置いて来ている。

それに、どうしようもない悪党だった自分に、前を向かせる切っ掛けを与えてくれたのは、他でも無いあの男だ。

 

多大な借りを返済するというよりも、純粋に助けが欲しいのならくれてやるとさえ考える辺り、インデックスと上条当麻、この二人は自分にとっても特別な存在であった。

小さな吐息をレストランの喧騒に溶かして、幼子に言い聞かせる様な優しさを潜ませたテノールに促されて、インデックスが少し思い詰めたような、儚い微笑みを浮かべた。

 

 

「あの大戦以降ね、とうまが……元気ないんだよ」

 

 

「……?」

 

 

「最近はそうでもないけど、大戦が終わって……とうまが私の所に帰って来てくれた日から時々、窓の外を眺めてぼーっとしてたり、ちょっと寂しそうに右手を見詰めたりしてるんだよ」

 

 

「あの、三下が、か?」

 

 

「……うん。私がどうしたのって聞いてもね、何でもないってはぐらかすの……」

 

 

ヒーローという称号が如何にも似合いそうな、ブレる事もなく愚直な迄に自分の信念を胸に進んでは、多くの者を救ってきた上条当麻が、揺らいでいる。

人間だから物思いに耽るのは当然なのだろうが、上条がそういう弱さを、きっと彼にとっても大切な存在であるインデックスにも見せてしまっているという事が、どうしてか信じられない。

迷いや不安、戸惑いや躊躇いを抱かない存在とまでは言えないけれど、そういう弱さを決して見せようとしないタイプの揺るがない男だと、インデックスに比べれば密度の薄い付き合いでしかない一方通行ですらそんな印象を抱いてしまう程の存在。

だが、その身勝手な押し付けを自分の不理解だと断ずるには、仄かな憔悴を見せる彼女の様相がそれを遮っている。

 

上条当麻とは同居人であり、深い信頼関係を築いているであろう事が容易に推測出来るインデックスが不安に思うのだから、他愛のないオチだろうと決めて掛かるには流石に憚られた。

 

 

「……心当たりは、ねェか。例えば、アイツが帰って来た時に何か不自然な点があったとか」

 

 

「……とうまが帰って来た時に、聞いたんだよ……どうやって帰って来たの……って。でも、分からないって。気付いたら学園都市のすぐ傍に居たって言ってたんだよ」

 

 

「……」

 

 

今一つ状況を掴み切れない流れに、どうしたものかと歯噛みする様に嘆息する。

大戦の終盤、一方通行が把握出来る範囲での上条当麻の行動の流れをピックアップして思考を巡らせては見るが、心当たりというべきモノは浮かばない。

 

確か天使、神の力を召喚する上でキーとなる儀式場を幻想殺しで壊すべく、空中要塞ベツレヘムの星に乗り込んだ、という経緯までは掴んでは居るのだが、そこから先、彼の同行は把握していなかった。

その後に神の力とベツレヘムの星が衝突し、行方不明になってしまったのだが、ひょっこり学園都市に帰還していた、此処までは良いとして、彼はどうやら自力で学園都市に帰還していた訳ではないらしい。

 

思い当たるのは座標移動を筆頭とした移動系統の能力によって飛ばされたか、同系統の要素を孕んだ魔術によって飛ばされたか、又はそれ以外の何らかが作用したか。

しかし、あらゆる異能を打ち砕く摩訶不思議な力、幻想殺しを駆使する上条当麻に異能が正常に作用するのは少々疑問が残るだろう。

一方通行自体が幻想殺しというモノの性質を理解し切れてない為、幻想殺しにも作用し切れない範囲というモノがたるのだろうが、一方通行の黒翼すら防ぎ切るあの力を鑑みればその線は少し考え難い。

 

魔術や超能力、そのどちらでもない何かの力によって。

例えば、かつて一方通行の黒翼すらまるで紙切れの如く叩き伏せた、エイワスが振るう不可解な、あの力のような何か。

 

 

「それに、あの時……とうま、凄く悔しそうな顔をしてたんだよ」

 

 

「悔しそォ、ねェ……」

 

 

不可解で手に余る状況ばかりがパズルのピースみたいに散らばって、不明瞭さに理不尽な苛立ちすら沸き上がりそうだが、そんな自分の心境は一先ず置いて、得られた情報からの推測を、ある程度組み立ててみる。

考えられるのは、上条当麻がベツレヘムの星に搭乗してからの期間に、彼の心に重責を負わせる程の何かがあった、という可能性。

もしくは、彼が意識を取り戻して自宅へと帰還する最中にアクシデントが発生し、上条当麻が揺らぐ程の何かがあったか。

 

どちらにせよ、重要な部分が一つも明らかにならない以上は薄い線を繋ぎ合わせた、仮説というにも心許ないあやふやな推測。

 

けれど、何故だかその重要な部分――上条当麻が揺らぐ程の何かを、一方通行には思い至る事が出来ていた。

その推察こそ、上条当麻を良く知り、救われてきた者ならばそんな馬鹿なと否定してしまいそうな脆い、仮説ではあるし、一方通行もまた――否、上条当麻をヒーローと掲げていた一方通行だからこそ、否定したいモノだというのに。

 

そんな馬鹿なと、切り捨てる事が出来ない奇妙な確信。

胸の奥底を照らす蝋燭の火みたく揺らめいた、その感覚を、一方通行は密かに噛み締める。

 

 

「あくせられーた?」

 

 

「…………おい、インデックス」

 

 

だが、その推論に至れたのはきっと、他ならぬ上条当麻に

救われて自分自身を見詰め直さなくてはならないと決意を抱いた、あの時。

番外個体と対峙した時の、あの感覚を今でも業火で熱した焼き印を押し付けられる様な痛みと共に刻んだ、一方通行だからこそ至れたのだという結果は、どこか皮肉めいていて。

 

兎にも角にも、これは推論や仮説を積み立てるよりも、上条当麻本人に確かめてみた方が早く、確実だ。

ならばまずは、あの男に会わなくてはならない。

 

 

「三下の家に、今から連れてけ」

 

 

 

そしてきっと一方通行の導いた仮説が本物、或いは限りなく真相に近い推論であったとしたのならば。

上条当麻の心に――深く入り込んで、もしかすれば傷を付けてしまうかも知れないけれど。

 

 

グラスを伝う、溶けたパフェのクリームの白線が、どこか一方通行の小さな決意を示すかの様に、真っ直ぐとテーブルへと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

『Arcturus』________『熊を追うもの』






Arcturus:アルクトゥルス

うしかい座α星 (α Boo)

スペクトル型:K1Ⅲb

距離:30光年

輝き:0.05等星 全天第三位



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Re:Play 4『Rigil Kentaurus』

もう随分遠い過去の様にも、すぐ間近の昨夜とも思えてしまう、鮮烈で、褪せて、どちらに置いておこうか迷ってしまいそうになる、あの日の事。

 

白濁の歪みを固着した餓えた畜生の如き狂笑と、紅血すら凍てつかせる無感情に閉じ込めた冷たい世界。

どこに行き場を与えれば良いのかすら分からない極彩色の悲鳴を当て付ける様に力を振るって、命を壊して、貪って、吐いて。

 

タガが外れた、最初の実験。

振り向けば、棄てられた粗悪品みたいに倒れていた銃痕だらけの少女の姿。

切っ掛けとなった、最後の実験。

傷だらけの少女を庇って自らに挑んだ最弱の最強の姿。

 

 

終わったと、漠然と思った。

不思議と、負けた事への執着すらなくて。

無敵への道を塞がれた事への、遺憾すら微塵も沸き立たなくて。

 

便宣的な名札すら付かない、途徹もない喪失感。

懺悔よりも後悔よりも復讐よりも哀愁よりも、心に孔が開いた処ではない、心全てを隙間なく埋めていく真っ白な虚無だけが、そこに残って。

何がしたかったのか、本当に誰も彼もを遠退ける無敵になりたかったのか、根幹に貼り付いて何かが丸ごと殺された。

そんな建前など、幻想にしか過ぎないと、否定されただけ。

 

 

そして、打ち止めと出逢って、無くなってしまった心の依代すら彼女に置き換えて、正義とは何か、悪とは何か、それすらも分からぬまま、幼稚な線引きで全てを二分した。

それでも良い、そんなあやふやな大義名分にすら縋っていた未熟さを、自分よりも一回りも幼い子供に押し付けて。

仮初めですら満たされてしまう荒廃した砂漠染みた渇ききった心の脆さに、向き合おうともしない。

 

だからこそ、あのロシアでの時、真っ白なキャンバスを黒の濁りで塗り潰すよりも実に容易く、ガラクタの心は限界を迎えてしまった。

壊れて、離れて、掻き集めた張りぼての心がまた、いずれ邪魔になる事を分かっていながら。

それでも、惨めに、不様に、また縋ろうとした幻想の城は、呆気なく塵芥に壊されて。

 

漸く、向き合えたのだ。

妹達を守らなくてはならないという、罪の精算に当て嵌めた虚飾を棄てて。

妹達を守りたいという、本当の決意を抱けた。

為すべきではなくて、為したいと思えた事を漸く選べて。

 

あの日、飾り立ての案山子は、人間に成れた。

人間で在りたいと、願う事が出来たのだから。

 

 

「……」

 

 

音にもならない程に幽かに呟いた言葉に、一方通行の膝元を我が物顔で独占しては堂々と寛いでいた憎たらしい三毛猫が、お前は何考えてると言わんばかりに、彼の細い指先をペシペシと叩く。

鬱陶しい行動を遮るべく、スフィンクスとかいうヘンテコな名前のつけられた憐れな三毛猫のフカフカの腹を細長い指先でコネコネと弄ってやれば、うなーと気の抜ける鳴き声を放ちながら短い尻尾を猫じゃらしの様に右へ左へと揺らした。

 

猫が猫じゃらしを遊ばせてどうするのかと嘆息付く間もなく、スフィンクスよりも何倍も大きい真っ白な猫がエメラルドの瞳を輝かせては尻尾に釣られて揺れているのだから、呆れる他ない。

堅めのベッドに腰掛けている少年の華奢な膝に転がる三毛猫と、見ず知らずの他人の膝であるにも関わらずのんびりと寛ぐ三毛猫が余程意外なのか、白い少年の膝頭にちょこんと両手を置いてその光景を間近で観察している血統札付きの純白のペルシャ猫。

 

二人暮らしには狭い部屋の狭いベッドの狭い領域で纏まっている三匹の猫達は、さながらゲージ内に納められて毛繕いをしているかの様で、当人達は兎も角、第三者から眺めればさぞ心癒される和やかな光景とも言えた。

しかし、ガチャリとドアノブを捻る鉄の鈍い宣告と、妙に間延びした少年の帰還の挨拶によって、極めて稀少で貴重な光景は終焉を迎える事となる。

 

 

「ただいまー……って、ん? 誰の靴だこれ? おーいインデックス、お客……さ……」

 

 

「あ、お帰りなんだよとうま!でもちょっと時間が掛かり過ぎかも」

 

 

「遅ェよ三下」

 

 

顎でも外してしまいそうな程に愕然として、目を白黒とさせる家主、上条当麻の心情は最もではあるのだが、そんな配慮を欠片も見せない一方通行の言葉に、短時間で彼に心を許してしまったらしいスフィンクスの同調する鳴き声が妙に責め立てて当麻には聞こえた。

普段は嘗められているのか気難しいのか家主には中々懐いてくれない三毛猫の心のベクトルすら操ったのかと、気にするべきはそこではない筈の逃避染みた内容を脳裏の片隅で考えている辺り、やはり彼の思考の巡りはそこそこ程度なのかも知れない。

 

 

「あ、あの、インデックスさん……? ど、どうして我が家に第一位様がいらっしゃるのでせうか……?」

 

 

「オマエが第一位とか言うンじゃねェ、嫌味かコラ」

 

 

「いやいやいやそう言うつもりじゃ……と、いうか、本当に何事!? どういった経緯なんだ!? ちょっといきなり過ぎて上条さんの頭がパニックなんだが!」

 

 

「元々パニックしてそォな頭してンだろウニ野郎が」

 

 

魔術師やら能力者やらに襲われる非常事態に陥る事など腐る程にある癖に、こういうイレギュラーにはポンコツっぷりを発揮するのだから不思議な男である。

見るからにツンツンと尖った頑固な髪形を揶揄して貶す一方通行が事情を説明してやれば良いのだろうが、若干鬱憤を晴らすかの様に罵詈雑言を吐き出す白貌は中々に愉快そうで。

そこまでにしといてあげてと言わんばかりにポンポンと一方通行の膝を叩いたインデックスが、仕方なしに事情を説明する。

 

 

「えっとね、私がお腹空いて我慢出来なくなってとうまを追い掛けて行き倒れた所を、あくせられーたに助けて貰ったんだよ。それで……」

 

 

「はぁ!? ちょ、行き倒れたってお前……大人しく待っててくれよ、頼むから……ってまさか、お前一方通行に厚かましく集ったりしてないよな?ん?」

 

 

「……えへっ」

 

 

「可愛く言って誤魔化すんじゃありません! ったく……その、ごめんな、一方通行。インデックスの事だから、相当食べちゃったと思うんだが」

 

 

「……総額一万は余裕で越えたな。普通のレストランで」

 

 

「いっ、一万!!? インデックス、おまっ、どんだけ食ったんだよおいぃぃ!!?」

 

 

「えっと、和風おろしハンバーグとカルボナーラとマルゲリータピザと唐揚げと三種のソーセージとスパイシーチキン添えのフレッシュサラダと……」

 

 

「誰が食べたメニューを一から答えろって言った!? あぁもう、この大食いシスターは……あ、あの、一方通行様、必ずこの子が食べ散らかした金額はお返し致しますので……けど今月はちょっと、もう心許ないと言いますか、出来れば来月まで待っていただければと……」

 

 

インデックスの食事代金分の支払いを徴収しに来たのだろうと予測を立てた当麻は、恐ろしいスピードで鮮やかな土下座へと姿勢をシフトさせ、気力を振り絞るかの様な涙ぐましい声色で交渉を開始する。

差し詰め借金の取り立てる金融社に対して何とか延期を申し立てる憐れな苦学生といった風情で、不思議と違和感がない。

 

当麻の土下座スキルが型に嵌まり過ぎているからか、はたまた膝の猫を撫で付けながら目下のウニ頭を冷たい視線で見下ろしている一方通行の冷めた表情が取り立て役にピッタリなのかは、さておいて。

いきなり錯乱して騒ぎ出したかと思えば、ジャンピング土下座をかましたこの惨めな苦学生に、二度も敗北を重ねたという事実が何だか馬鹿らしく思えてしまって、妙に疲労感を漂わせながら額に掌を当てる一方通行だったが、いつまでも土下座されても鬱陶しいだけなので、事態の先を促すべく薄い唇を開いた。

 

 

「一々土下座すンな、鬱陶しい……金は返さなくて良い、このチビシスターに飯喰わせたのは俺の勝手だ」

 

 

「むぅ、チビは余計かも。というか、子供みたいにポンポン頭叩かないで欲しいんだよ」

 

 

インデックスの保護者としては責任を感じる立場だから致し方ないだろうとは思うが、彼の意を介さぬ場での一抹を背負わすのは、流石に酷な話だ、と。

彼が頭を下げる原因である腹ペコシスターの頭を掌で叩きながら言い放った一方通行の懐深さに、深刻な貧困に陥らざるを得ないと覚悟していた苦学生は、全身の力が抜けた様に弛緩した。

 

 

「まっ、マジでか!? あぁぁ、一方通行様が天使に見える……ありがとう、ありがとう。本気で今月はヤバかったもので……」

 

 

「もやし炒めが食卓に出るぐれェだしな、オマエどンだけ金無ェンだよ。もやしばっか食ってたら流石にぶっ倒れンだろ、このシスターでも」

 

 

「うぐぐ……おっしゃる通りで……」

 

 

「あっ、そういえば家に帰る途中に、あくせられーたとスーパーで買い物したんだよ! お肉とかお野菜とか沢山買ってくれたから、暫くは安泰かも!」

 

 

「えっ、ちょっ、マジで!!?」

 

 

新たに明かされた衝撃なサプライズに気を動転さえ脚を縺れさせながら豹みたく四つん這いで器用に冷蔵庫まで向かう当麻の切迫詰まった残念な姿に、アレに憧れていたんだよなと侘しさと切なさと心細さを抱かざるを得ない。

一方通行の紅い瞳が若干煤けて褪せている事に気付きもしない当のヒーローは、まるで深い迷宮の奥底に眠る宝箱を開けるトレジャーハンターもかくやと言った高揚感に震える手で冷蔵庫の戸を悠長に開けていき、そして。

 

 

「……………神よ」

 

 

豚肉鶏肉牛肉とレパートリー様々な肉製品を初めとして、色味豊富な野菜群、炭酸飲料のペットボトル、卵、魚の切り身等々が満遍なく詰め込まれた、貧困に喘ぐ上条当麻からすれば正しく金銀財宝にも劣らぬ輝きを放つ宝石の山にすら映ってしまう。

一体どれくらい以前にこの冷蔵庫が一杯になったのかすら、彼のショボい記憶野を駆け巡らせても思い出せやしない。

同居人のシスターに影響されたのか、はたまた彼の目には神々しい何かが降臨でもしているのか定かではないが、この科学の街で神に祈らんとする上条当麻の姿は憐れな子羊と言っても差し支えはないだろう。

 

 

「……いや大袈裟過ぎンだろオマエ」

 

 

「大袈裟なもんかよ!?独り暮らしして始めてぐらいだぞ、上条さん宅の冷蔵庫がこんなにも潤ってるなんて!? いやほんと、感謝しても仕切れないぐらい嬉しいんだけどさ……俺、お前にこんな事されても何もお返し出来ないんですけど……」

 

 

「だから礼は要らねェよ。またこのクソシスターに請われンのがうぜェから適当に買っただけだ」

 

 

「良かったねとうま!これで一週間は安泰なんだよ!」

 

 

「いやもっと遣り繰りすれば三週間は手堅い……って、そうじゃないだろ、インデックスは少し反省しなさいほんと! でも、本当にありがとうな、一方通行!」

 

 

「……はン、貧乏人が。まさかオマエ、俺が此処に居る理由がこれだけだと思ってンのか?だとしたら憐れだなァ、抱き締めてやりたくなっちまうくれェに」

 

 

「……え?」

 

 

クツクツと、能天気に歓喜する当麻からの感謝の念をさも愉快そうに、そしてどこか自嘲気味に蔑んだ薄い口角がゆっくりと赤く裂けた半月を浮かばせる。

攻撃的にも、どこか痛みを堪える様にも捉えられそうな歪んだ笑顔とは裏腹に、何かを訴える静穏な紅い瞳はただ真っ直ぐに狼狽する当麻を見据えていて。

 

一方通行が態々自宅にまで押し掛ける理由が、単なる施しだけである筈がない。

静かな決意を秘めた紅い瞳は、あのロシアでの一時を炙り出すかの様に脳裏へと浮かばせた。

 

 

「……表へ出な、三下。話があンだよ」

 

 

憎悪でもなく軽蔑でもなく友好でもなく情愛などとは程遠い、霧雨に紛れた白影の如く幽玄な感情が巣食う低いテノール。

白い少年の複雑な感情の波を不確かな第六感で感じ取ったのか、揺らした尻尾を畳んで彼の膝から降り立ったスフィンクスが、慰める様に小さく鳴いた。

 

 

 

 

 

 

――――――

――――

 

 

 

「こォしてオマエと面を合わせてサシで話すなンざ、あの日以来か」

 

 

「……あぁ、そうだな。けど、あの時は話し合いとかそんな生易しいもんじゃなかっただろ」

 

 

高々と登った太陽も大地を見下ろしてばかりで首を痛めたのか、水平線の彼方へと肩休めに顔を沈めて、療養に漏らした安堵の息吹が、清空の蒼を朱茜へと彩めていく。

通り過ぎていく過去の情景に似て、冬の日暮れはとても早くて、幾ら手を伸ばしてみても、この澄み色がやがて夜の葵へと呑まれて往くのも、止めることなど出来やしない。

 

無かった事になんて、出来る訳がない。

砂硝子の曲線の中で零れ落ちる時計仕掛けの赤砂を止めることを、唯、眺めているだけの感傷の果ての、その輪郭を浮き彫りにする斜陽の光が、目に染みる様で。

 

 

「ハッ、確かになァ。一歩間違えれば、殺し合いだ」

 

 

「……そうだな。あれから番外個体……だっけか? アイツはどうしてる?」

 

 

「一緒に暮らしてる。まァ、口を開けば汚ェ言葉しか言いやがらねェ、とんだアバズレだ」

 

 

「……なんだ、思ったより楽しそうじゃないか」

 

 

「どこがだ、目ェ腐ってンのか、三下」

 

 

古ぼけて錆び付いている寮の鉄階段の、勇んで駆け上がれば今にも軋んですっぽ抜けそうな脆い銅褐色の裏側を悠々と見上げる一方通行の横顔を一瞥すれば、満更でもなさそうに苦笑している。

彼の滑らかな白髪に良く似た、身を凍らせる綺白の雪原での二度目の邂逅を迎えた、ロシアでの一時。

 

今にも壊れてしまいそうな摩り切れた恫喝を挙げながら自身へと挑んで来た時とは違って、静寂と静穏を得てゆとりを持てた少年は、少し大人になったようにも見える。

 

ほんの少しだけれど、強く、そして厚く。

光だとか闇だとか、守る資格だとか義務だとか、そういう概念に縛られる事を棄てた今の彼は、少なくともあの時よりは好ましい。

 

 

「お前、少し変わったな。でも、三下呼びは変わらないんでございますね……」

 

 

「三下なンざ三下で充分だ。それとも、ヒーローって呼ばれる方がお望みかよ?」

 

 

「いやいや、そんなん恥ずかしいだけだって……」

 

 

「はン…………少なくとも、今の『テメェ』には頼まれたって呼ンでやる訳にはいかねェよ」

 

 

「――……一方、通行……」

 

 

煩わしそうな紅い瞳。

苛立ったような低いテノール。

華を手折るようにして握られた細長い掌。

哀れんでいるかの様な、儚い苦笑を浮かべた白い貌。

 

変わったんだな、と改めて思った。

自分が思うよりもずっと強く、自分自身と向き合おうとしている一方通行は、とても眩しくて、好ましくて、羨ましい。

 

 

「……変わったのは、オマエもだろ。何を腑抜けてやがンだ『最弱』。そのザマなら、あのチビシスターにも悟られンのも無理ねェなァ」

 

 

「……そっ、か。隠し通せるだなんて思ってなかったけど……お前には、気付かれちまったんだな」

 

 

錆びた水道の蛇口を捻る様に、足元から力が千切れ千切れにすり抜けていく虚脱感が、幾ら誤魔化しても誤魔化し切れない上条当麻の悔しさを浮き彫りにしていく。

その言葉で、その拳で数多の人々を救い、守ってきた筈のヒーローはそこには居ない。

等身大の無力さを噛み締める、唯の一個の人間に過ぎない上条当麻の悔恨の苦笑に、一方通行が確信を得てしまった様に長く深い吐息を落として。

 

当麻にとってのクラスメイト達にも、面倒見の良い教師にも、彼に執着する電撃使いにも、掛け替えのない同居人にもその奥底を悟らせ無かった事は出来たのだけど。

きっと、誰かのヒーローで在り続ける為に光射す道へと馴染む決意を固めた、この少年だけは、誤魔化す事なんて出来なかったらしい。

インデックスに残る様に強く命じていたのが、その弱味を見抜かれたという何よりの証だろう。

 

 

 

「……誰を救え無かったンだ」

 

 

「ほんと……変わったよ、お前。そこまで分かっちゃったのかよ。流石第一位だな」

 

 

「茶化すな、クソッタレが」

 

 

「……そうだな、悪い。お前の言う通りだよ」

 

 

不思議と、なんで自分の心に蔓延る悔恨の根が分かったのか、とは思わなかった。

寧ろ、自分にとっての守るべき何かを守り続けて足掻き続けた一方通行が理解してくれた事が、どこか嬉しかったのかも知れない。

 

上条当麻の抱える傷を晒すだけの弱さを、受け止めてくれるのかも知れない、と。

省みず、迷わず、いつも心の矛先に赴いては頼ろうとせず我武者羅に突き進んでいた当麻は、無意識に誰かに己の弱さを見せる事すら拒んでしまっている歪みを孕んでいた。

けれど、こうまで見抜かれて、動かぬ証左を突き付けられて、聞いてやるから話せと言外に伝える鮮やかな紅の瞳を向けられてしまっては、もう誤魔化せる訳なんてない。

 

3ヶ月もの間、誰にも話せなかった、誰にも話す事が出来なかった、上条当麻の後悔。

気付かない内に強く握った己の右手の拳が、小さく骨の軋む音を奏でた。

 

 

「……救えなかったんだ、俺は。みすみす、逝かせてしまったんだよ、俺は。とある、大馬鹿野郎を、さ……」

 

 

――

―――

 

 

 

 

脳裏に過るのは、ロシアでの最終決戦の時の事。

空中要塞ベツレヘムの星に刻まれた儀式場を破壊してフィアンマを幻想殺しで以て撃ち破り、遠隔制御霊装に囚われたインデックスの精神を解放した後でのコンテナ収容場所での一幕。

どこまでも愚直に平等を想い、囚われ、歪み、それでも最後まで譲らなかった大馬鹿野郎が、此のまま死なせてしまう事など、上条当麻が許容する筈がない。

全てを平等に救わねばならないと持てる総てを用いて足掻いたこの男には、その責任を取らさせてやらなくてはならない。

 

生きて、救おうとした世界をその目で確かめてみれば良いと、当麻の親友ならば甘いと断じそうな、贖罪の取らせ方だと思いながらも、いつもの様に、自分の心の赴く儘に。

 

けれど。

 

 

『自分の尻拭いすら出来ん男に、そんな資格などあるものか。俺様はそこまで自惚れておらんわ』

 

 

――待て

 

 

『だから、その役目は貴様に託すぞ。如何にも曇ってそうなその凡庸な目では俺様の代わりなど荷が重いだろうがな。それに、貴様には待たせている者がおるのだろう』

 

 

――ふざけんなよ、おい

 

 

『じゃあな、上条当麻』

 

 

一瞬の隙を付かれて、鋭く打たれた首筋の痛みに、意識を取られそうになる最中。

無造作に放りなげられたコンテナの中を転がって、痛覚のない儘、衝撃に揺れて白濁に侵されていく視界の先で。

仄かな紅い輪郭が、薄く笑っていたように見えた。

 

 

 

やがて、意識は途切れて。

 

そして、救いたかった筈の男は、星を冠する要塞を物言わぬ棺桶として、海の藻屑へと消えてしまって。

 

 

 

あの日、英雄は、人間に成った。

万物を救える神などではない、只の人間だと思い知らされた。

 

 

 

――――

――――――

 

 

 

「別に、自惚れてる訳じゃない。全てを救えて、誰も彼もハッピーエンドに導けるとは限らない。分かってたんだ、どんなに足掻いても変えれない結末は確かにあるんだって。でも、それでも……アイツを、フィアンマを救ってやりたかった。アイツが救いたがってた世界を、アイツ自身に見せてやりたかったんだよ、俺は」

 

 

「…………」

 

 

「悔しいんだよ、一方通行……偽善使いだって宣って、やれるだけやって……それでも出来ない事がある。そんなの皆、分かってた事だ。皆、通って来た道なんだ。そうやって絶望したり苦しんだりして来た筈なんだ。でも、俺はそれをいつも幻想だって否定して、手垢のついた理想に押し込んだ。それでも良い、前を向けるなら、それでも良いって」

 

 

声も張り上げない、泣き叫ぶ訳でもない、ただ込み上げる無念を噛み締める様に、悔恨の呪詛の様に垂れ流す。

絶望を抱えて足掻いていた者達の、どこか救いを求めている言葉達を、受け止めて、介錯して、それでもそんな物に

縋るなと否定して、彼等にぶつけた偽善的な理想。

自分の口から紡いだ筈の有象無象の言葉達が、褪せていく様な、悔しさ。

誰かを救うための偽善、では、救えなかった偽善は一体何になるのだろうか、と。

 

 

「自分が貫こうとしていた偽善を嘘にしたくない、そうやって脅えてる俺が居るんだ。否定して来た幻想に、嘘つきって責められてるような気すらしてさ……そんな自分にムカついて、クヨクヨして……でも、簡単には消えてくれねぇんだ」

 

 

相手を理解するということ。

相手の心の奥底まで触れて、相手の立場に成って考えて。

説いて教えるという事はそういう事なんだと。

それを確りと為して、相手を否定してきたのか。

きちんと一から十まで相手を思慮してやれたのだろうか。

 

きっと、上条当麻にはそれは出来ていない。

だからこそ、彼は『偽善使い』にしか過ぎない。

 

 

「綺麗事並べて、相手を救った気になって、いざ躓いたらこんなにも薄っぺらだった。俺は――ヒーローなんかじゃない、自分でそう思っていた筈だったのに、な」

 

 

気味が悪い程に、上条当麻は正道を進み続けていた。

焚き付けられた心の行く先を、祝福されているみたいに、立ち塞がる困難全てをぶち殺せてしまっていた。

まるで、最初から勝利という結果が約束でもされているかの様に。

そうなるのが当たり前であるかの様に、救う事が出来続けていた上条当麻が、初めて救う事が出来なかった。

 

 

自惚れていた訳でもない、出来て当然など以ての他。

けれど、こんなにも悔しいのは、常に本気で対峙して、救ってきたからで。

 

 

「幻想……それに縋ってたのは、俺の方じゃないのかって――」

 

 

「――それの何が悪ィンだよ」

 

 

けれど、一方通行はその弱さを否定しない。

 

 

「幻想だろォが何だろォが、テメェは偽善を使って救ってきたンだろ。テメェがそれを否定すンのは構わねェよ。けどな、それで救われちまったバカ共は、例えそれが下らねェ幻想だとしても、否定はしねェよ」

 

 

人間は弱い生き物だと云う事くらい、百も承知しているし、取り分けその弱い部類にカテコライズされるだろう自覚がある一方通行は、上条当麻を奮い起たせるつもりなどない。

 

 

「ただ、今回ばかりはテメェにも出来なかった。救い切る事が出来なかった。理想通りにならなかった、それだけの話だ」

 

 

「……」

 

 

 

かつて、その度に上条当麻に引っ張られた者として、今度は彼を励ましてやるべきではないのか、奮い起たせてやるべきではないのか、なんて、そんな御約束は知った事ではない、と。

弱さも見せず、迷いもせず、唯、信念に従って進む英雄。

上条当麻にそうであれと願ってしまう、自分達の幻想こそ殺してやらなくてはならない。

それが、いつしか上条当麻と云う人間から目を向けず、ヒーローという偽善性を押し付けてしまった、罪深い自分の、自分達の責任だから。

 

彼の弱さを認めてやる、唯、それだけの言葉を尽くすだけ。

 

 

 

「迷って良い、立ち止まって良い、幾らでも後悔しやがれ、嗄れるくれェに泣き叫ンだって良いンだ。誰もテメェの弱さなンざ否定しねェし、一々幻滅しねェよ」

 

 

間違える人間など居ないし、後悔しない人間なんて居ない。

その度に迷って、不安になって、立ち止まって、苦しんで、傷付いて、それを弱さだと決め込んで目を逸らし続けていれば、きっといつまでも青空なんて見えない。

それは強さなんかじゃない、弱くないだけ。

二度も彼に救われてしまった自分がしてやれる事、投げ掛けてやれる言葉は、もっと多い筈なのだろう。

けれど、それでも。

 

 

「ヒーローである上条当麻はもォ飽きてンだよ。次は、唯の人間である上条当麻を見せてみろよ」

 

 

「…………っ」

 

 

きっと、彼が欲しがっている言葉はそれではない。

きっと、彼に向けたい言葉は、それではない。

 

――救ってくれてありがとう。

 

その感謝を伝えて、上条当麻という唯の人間を受け止めてやる大役は、一方通行が務まってはいけない、もっと他に相応しい人間が居る筈で。

だから、一方通行はその弱さを認めてやるだけで。

上条当麻の弱さを受け止めて、受け入れて、もう一度一緒に強くなってやれるべき存在は、彼の直ぐ傍に居る筈だから。

 

だからこれは、手向けの様なモノ。

かつて一方通行が縋った幻想へ捧ぐ、とある英雄への鎮魂歌。

 

 

「おい、チビシスター……盗み聞きしてねェで、降りて来い」

 

 

「――え」

 

 

そして、彼を受け止めてやるべきヒロインは、御約束通りに、ちゃっかり階段の上、上条当麻の部屋の前で息を殺しながらも話を聞いていて。

叱っている訳でもないのに酷く厳粛にでも聞こえたのか、後ろめたさからビクリと猫が毛を逆立てる様に物音を立てて慌てふためきながらも、やがて観念したのか、恐る恐るといった様子で錆びた階段を降りてきて。

 

 

「……インデックス」

 

 

借りてきた猫もかくやと言わんばかりに表情を曇らせていながらも、やはりその赤くなってしまっている目だけは誤魔化せやしない。

けれど、必要な舞台と、必要なキャストは此処に漸く揃ったから。

 

クルリと踵を返して、やるべき事の最低限を果たした脇役は、舞台を去らなくてはならない。

けれど、一方通行という存在を変えてくれた、上条当麻には、僅かながらにも、礼を返してやらねばならないだろう、と。

 

 

「一方通行……?」

 

 

「……空気読ンでンだ、呼び止めンなよ。この朴念人が」

 

 

「うっ……」

 

 

最後の最後で、脇役を呼び止めるなど、ナンセンスにも程があるのだろうが、それもまた上条当麻という『三下』には丁度良いのかも知れない。

吐き捨てる様な辛辣さに息を呑んで引き下がる当麻を背にして、モジモジとらしくもない健気な正統派ヒロインっぷりを見せている真っ白なシスターの頭を掌で掴むと、そのまま顔を耳元へと近付けて。

 

 

「――――」

 

 

「……え? そ、それは何、何の数字?」

 

 

「携帯番号。馬鹿な三下が何か下手打ちそォになったら、それで俺を呼べ」

 

 

「えっ、と…………うん!分かったんだよ!」

 

 

ほんの些細な礼代わり。

上条当麻が背負いきれないと云うならば、少しだけ手伝ってやるのも良いだろう。

幸い、彼には学園都市第一位という能力があるのだから、力になれないと云う事はない。

だから、万が一があれば迷わずその番号に掛ければ良い、と。

それだけ伝えて、後はこの頼りないヒロインに任せれば良い、と。

 

 

 

 

直ぐには、後悔の念や傷は癒される事はないだろう。

あの馬鹿な男の事だから、いつまでも引き摺って、悔しさを捨て切る事は出来ないのかも知れない。

けれど、あの少女が居れば、きっと少しはマシな結果になるのは間違いない。

 

 

何故ならインデックスは――かつて、一方通行の心を、本人も知らないままに、溶かしてしまったぐらいだ。

 

 

 

「――ありがとうなんだよ、あくせられーた!」

 

 

 

 

振り向きもしないまま、そっと、白い少年は歩みを進めていく。

 

 

 

身勝手な儘に抱いた、憧れ。

そう形容する事ぐらいは許してやれる、幽かな感情。

残るのはきっと、ほんの少しの光に焦がれただけの憐れな残響。

 

去り行く白い影は、茜に染まる空を見上げていた。

 

 

 

 

 

『Rigil Kentaurus』________『ケンタウロスの脚』






Rigil Kentaurus:リギル ケンタウルス

ケンタウルス座α星 (α Cen)

スペクトル型:G2Ⅴ+K1Ⅴ

距離:4.3光年

輝き:0.01等星 全天第四位


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Re:Play 5『Vega』

「最近。何か楽しい事でもあった?」

 

 

「へ?どうしたの姫神さん、藪から棒に」

 

 

唐突な問い掛けという物は字面通りに不意討ちなもので、口へと運ぼうとしていた低脂肪の油で調理した特製唐揚げを挟んだ箸が、見えない糸にでも止められたのかな、ピタリと静止する。

窺うというよりも、若干愉快そうなニュアンスで弾んだ声は文面でこそ疑問を呈してはいるが、言葉に釣られて視線を移した対面で吹寄制理を眺めている黒真珠に似た奥深い瞳は、どこかある種の確信を抱いている様に細められていて。

 

不意をついて突拍子もない事をよく呟いたりするけれど、直感が優れているというか、妙に鋭いというか、そんな不思議さをこの大和撫子然とした友人は纏っている。

そんな場にそぐわない他人事を頭の隅っこに思い浮かべながら、どういう事なんだろうと、思った事を素直にそのまま言葉として吹寄は紡いだ。

 

 

「何というか……最近の吹寄さん。ふとした時の表情が柔らかかったりするから」

 

 

「そ、そう? 自分ではそんな事はないと思うんだけど……」

 

 

「例えば。朝の挨拶がいつもよりも元気だなって思ったり。授業の時に何かを思い出しながら微笑んでたり」

 

 

「そ、そんな所見てたの……?って、私、そんなに授業中にニヤニヤしてたの!?」

 

 

「ううん。ニヤニヤじゃなくてフフフッて感じ。だから楽しい事でもあったのかなって」

 

 

ドラマのワンシーンとかなら、今にも鳥達が優雅に青空を飛び回ってそうな暢気で平穏な昼下がりの食事時。

向かい合わせで対面に座している、吹寄にとっては不思議で掴み所はないけれど真面目で大人しくて気の置ける友人、姫神秋沙のやけに下地と云うか根拠と云うか、疑問を持った経緯を理路整然に並べられてしまえば否定も出来ない。

 

誤魔化すつもりも後ろめたい事もないのだけれど、授業中に笑みを浮かべていたという一幕を他人から指摘されれば、色気がないだのと言われてる吹寄といえど花の女子高生なのだから、当然頬に羞恥の朱色が混ざる。

だが次第に落ち着いて、授業にしっかりと集中出来ていないという不真面目さにがっくりと落ち込みたくなる辺り、色気と云うよりは可愛げが足りないのだろう。

 

 

「楽しいこと……うーん、別にそこまで特別嬉しいとかそういうのとは違うんだけど、まぁ確かに遣り甲斐がある事が出来たのよね」

 

 

「遣り甲斐……習い事とか? それとも。何か良い出会いでもあったの?」

 

 

新たな習慣になったといえば習い事に近いのかも知れないし、何だか改まって良い出会いと形容するのは気恥ずかしいけれど、ある意味貴重で奇遇な出会いだと言えば否定出来ないから、両方の意味で的を得ている秋沙の直感はやはり鋭い。

はぐらかしてしまうつもりは無いのだけれど、何だか遠回しな口振りが秋沙の興味を惹いたのか、もっと深く窺いたいと、普段は眠たそうにぼんやりとした瞳が珍しく爛々と輝いていて、何だか擽ったい気持ちになりながらも、吹寄はそっと唐揚げを咀嚼した。

 

真っ白な巫女服が似合いそうな濡れ烏羽の深い黒髪が艶やかな友人の聞きたい内容とは、あの無愛想な白髪の少年との出会い、という事になるのだろう。

別に運命だとか仰々しく大袈裟に捉えるつもりは無いけれど、数奇な出会いとやり取りを経て、他人から見れば中々に変な関係に着地してしまったのかも知れない。

それも、後から判明したとはいえあの有名校、長点上機に席を置いている生徒であり、自分にとって尊敬出来る教師という立場にある黄泉川愛穂の同居人であるというプロフィールが、偶数の数奇さをより一層拍車を掛けて演出してしまう。

 

白髪赤目の派手さに、贔屓目無しに眉目秀麗な外見を加えた上、一方通行という実に変わった能力名を名乗っているという、まるでどこかの小説にでも出てきそうな異彩を放っている不思議な少年。

余り能力や自分の事を話したがらない性格なので、深くは尋ねないし、自ずから調べようともするのも気が引けるし、流石に失礼かな、と

 

けれど、話の種にするぐらいは、協力してる分の報酬とさせて貰っても良いだろう。

 

 

 

「えーと、前に私が早朝にランニングしてるって話はしたわよね。その時に偶々知り合った人が、怪我の影響で休学してるらしいのよ」

 

 

「……休学。大変そう」

 

 

「まぁ、確かに大変そうね、杖も付いてたし。でも、そのままじゃいけないからってリハビリしようと考えてたらしくて、ウォーキングなんてどうかって提案したら、ソイツも乗り気になってくれたのよ。だから、どうせなら手伝ってあげようって事になってね」

 

 

「なんだか。恋愛小説の冒頭みたい」

 

 

「れ、恋愛小説って……というか、姫神さんそう言うの好きよね」

 

 

「……うん。これでも女の子だから」

 

 

恋する、という部分が抜けているが、敢えて言葉にはしなかったのかと勘繰るのも今更ナンセンスだが、美しい黒髪と、吹寄ですら憧れを抱いているミス大和撫子と評するに値する淑々とした容姿はどこからどう見ても女の子だろうと。

裂いてほんの少し塩を振り掛けただけのレタスを咀嚼しながら、彼女が恋愛小説に造詣が深い理由を思い巡らせて、嘆息を付きたくなる。

恋もした事もない自分が言うのも何だが、碌でもない男に引っ掛かってしまった友人の涙ぐましい努力に、つくづく勿体無いなと失礼な感想を抱くのは、吹寄にとって秋沙の想い人は情けないと両断するに等しい人物であるからだ。

 

 

しかし、恋愛小説など精々数えるくらいしか読んだ事もないし、恋などまともにした事ない彼女は物語のヒロインに素直に感情移入する事も出来なくて、切ないとか会いたいとか、そんなフレーズに安っぽささえ感じる始末。

当然、一方通行との出会いがそんな色気の感じるモノとは思っていない。

綺麗な人だな、という印象を最初こそ抱いたけれど、寧ろ今では世話の焼ける素直じゃない弟の様な、そんな恋だとか色を感じるモノでもない。

今朝だって気合いを入れてリハビリに励めと吹寄なりのエールを送れば、暑苦しい女だという苦言を戴いたくらいである。

恋とかそういう風に結び付けるには、甘い雰囲気とかドキリとする空気とか、そういうのが欠けてしまっている関係だと彼女は思っていた。

タオルで汗を拭う際に、やたら艶かしい白い首元に少しドキリとしたのだけれど、それは何だか違うような気がすると、吹寄は自己完結しているのだけれど。

 

 

「男の人なの?」

 

 

「えぇ、まぁ……私達より歳は一つ下だけど」

 

 

「一つ下の男の子……休学って言ってたけど。学校はどこなの?」

 

 

「えっと……長点上機」

 

 

「……長点上機。確かかなりのエリート学校だった筈。充分ラブロマンスの可能性は有る」

 

 

「いや、本当、そんなんじゃない、と思うんだけど……」

 

 

珍しくやたらとグイグイ質問をぶつけてくる秋沙に、何だか彼女の言葉を鵜呑みにしてしまいそうな、静かながらにも確かに這い寄る勢いを感じて、苦笑で頬を引き攣らせる。

普段は騒がしいお調子者ばかりで手を焼く事も多いクラスメイト達のざわめきに、何故だか今回ばかりはその騒がしさ加減に救われた気分になってしまうのだから不思議だ、と。

 

別に後ろめたい訳でもないのに、思わず抵抗感を覚えてしまう奇妙な感覚に惑わされてしまいそうになるのは、如何にもなガールズトークを吹寄はあまり経験してないからだろうか、それとも他の何かが作用してか。

けれど、水を得た魚の如く勢いを付ける秋沙は、その気質からして滅多に無いであろう吹寄の、年頃らしい花のある話題を逸らすまいと、若干狼狽している彼女を逃がしはしない。

まだそういう恋だとかに発展しなくとも、この先はどうなるかも分からないのだから。

 

 

「その人の外見は?」

 

 

「えーと……雪みたいに真っ白な髪と、真っ赤な目をしてるわね。あと、物凄く華奢で……多分、ウエストは私以上に細いわよあんにゃろう」

 

 

それは華奢というレベルではないのではとも思いながらも、中々に特徴的な外見だな、と感想を抱く。

ウエストについては秋沙とて吹寄同様、他人事ではなく含む所はあるけれど、一先ず保留としておいて。

 

 

「…………えっと。好きなモノとかは?」

 

 

「んー……ブラックコーヒーがばかり飲んでるらしいわね。後やたら肉ばかり食べてるみたいだから、黄泉川先生に頼んでメニューにも手を加えて貰ったわ」

 

 

「……え。どうして黄泉川先生がそこで出てくるの」

 

 

「あぁ、黄泉川先生と同居してるのよ、ソイツ。何か昔の縁とか何とかで先生が面倒見ることになったらしくて」

 

 

「偶然とは思えないくらい。少し。運命めいた何かを感じるんだけれど」

 

 

偶然知り合った人が知人の同居人であるというのは、とんでもなくレアなケースだとも思うけれど、運命だと断ずるにはまだ弱い。

しかし、占いでもすれば中々に面白い結果が出そうな話でもあり、興味本位で聞いた内容は本当に小説みたく面白い数奇さで繋がっていて、秋沙の黒曜石の瞳が更に爛々と輝きを増していた。

 

そんな大袈裟なと否定してはいるけれど、吹寄とて一方通行が愛穂の同居人だと知った当初は、その偶然に確かな高陽感を抱かざるを得なかったのは事実である。

 

 

「……じゃあ。趣味とか」

 

 

「趣味……」

 

 

「音楽。読書。映画。とかにも好みはあると思うけど」

 

 

「……そういえば、知らないわね。聞いた事もなかった」

 

 

何気ない質問だが、言われてみれば彼自身から趣味趣向を聞いた事はなかったな、と。

周囲の環境や能力などを尋ねた事はあっても、そういったフランクな問い掛けは不思議と聞こうと思わなかったのは何故だろうか、と。

それはきっと、友好的な関係になろうと近寄る度に一方通行から感じる、他人との見えない壁、近付けば近付くだけ遠くへと逃げる敏感な距離感。

無理矢理にでも掬い上げなければ、近付こうと気軽に足音を立てれば逃げてしまう様な臆病な猫を相手に、フランクな問い掛けを心の何処かで抑えでもしていたのか。

 

ブラックコーヒーが好きというのも、肉ばかり食べている不健康な側面も、一方通行の同居人である愛穂が自ずから教えてくれた情報だ。

たまに顔を合わせては近況報告を仕合う、教師と生徒と云うよりは子供の育児で話に花を咲かしている近所の主婦染みた関係になってしまっているが、それはそれで悪くはないけれど。

 

 

「……もう少し。聞いてみても良いと思う。リハビリとかの話ばかりより。そっちの方がその人も気楽になれる筈」

 

 

「……確かに、それもそうね。今度それとなく聞いてみるわ」

 

 

自分から、分かり辛いながらも、照れたり拗ねたり安堵してたりと、中々に反応が面白かったりする一方通行について、もう少し踏み込んでみるのも良いかも知れない。

決して吹寄とて多趣味とは言い難いのだが、秋沙の言う通り、いつまでも健康とリハビリについて話してばかりでは彼とて息が詰まるだろう。

あまりそういう事に興味がなさそうな淡白な性格をしている男ではあるが、案外こういうところに思わぬ発見があったりするのだ。

 

 

「……そういえば。その人の能力は?」

 

 

「えーと、それは聞いてみたけど、内容については答えてくれなかったのよね。能力名で名乗ってるらしいから、多分変わった能力なのかも知れないけれど」

 

 

「能力名が名前。変わってる…………どういう名前?」

 

 

「一方通行。アクセラレータとも読めるらしいわね」

 

 

「……一方通行……? 変わった。名前。でもどこかで聞いた事あるような」

 

 

「……姫神さんも? 私も実は聞き覚えが無い訳じゃないのよ。けど、あまり自分の能力については話したがらないのよね、アイツ」

 

 

「……」

 

 

能力名を名乗る稀有な存在。

自分の能力について語りたがらない。

大星覇祭の優勝校である長点上機の生徒。

教師でありアンチスキルでもある黄泉川愛穂が世話を焼いている対象。

 

何とも如何にもな、訳アリな雰囲気を醸し出すワードの羅列に、秋沙の胸中に仄かな懸念がそっと忍び寄る。

彼女とて実は吸血殺しの能力を持つ原石という稀有な存在であり、魔術という側面にも多少関わってしまった、所謂訳アリの存在だからこそ、何やら色々と不穏な札をぶら下げたその人物に只ならぬ物を感じざるを得ない。

しかし、愛穂の同居人という事は特別危険人物ではないのは間違いないので、流石に警戒とまではいかないが。

 

と、そんな折。

秋沙の僅かな懸念さえも一気に隅へと追いやってしまう人物が現れた。

 

 

「珍しいな、姫神は兎も角、吹寄がまだ弁当を食べ切ってないなんて」

 

 

「……上条くん」

 

 

「貴様こそ珍しいじゃないの、他のデルタフォースの馬鹿二人を連れてないなんて」

 

 

「あぁ、アイツらは食い足りないって購買に行ってる。もう売れ残りしかないってのにねぇ」

 

 

「例え売れ残りでもキチンと作られた食品でしょ。貴様みたいな男がおいそれと馬鹿に出来る代物じゃないわよ、バ上条」

 

 

「相変わらず上条さんには辛辣でございますね……」

 

 

やたらツンツンと奇抜な髪型をしているけれど、それすら好意的に映ってしまうのは惚れた弱味というヤツなのだろう。

少し前まで、時たまボーッとしている事も多くて心配ではあったけれど、週が明けてからはすっかりと元気で陽気な彼に戻ったらしいと、思わず安堵してしまったのは今朝の事。

 

恋する相手を前にして頬を綻ばせる秋沙とは打って変わって、吹寄は平穏な調子だった筈の柔らかい表情をキリリと顰めて形の良い眉を思いきり潜める。

上条当麻に対しては特別辛辣になる彼女を当初は好意の裏返しなのかと危ぶんだモノだが、どうにもそうではないらしい。

吹寄曰く、事あるごとに不幸だと嘆いて改善しないそのだらしなさが腹立たしいらしくて、如何にも堅物な彼女とは反りが合わないようで、妙に納得したものだ。

 

 

「何の話してたんだ?」

 

 

「女同士の会話に首を突っ込むなんて、相変わらず無粋な男ね、貴様は」

 

 

「まぁまぁ。えっとね。つい最近出会ったらしい。吹寄さんの気になってる男の子の話」

 

 

「なっ、ちょ、姫神さん!?」

 

 

「ほほぉ……ついに吹寄にも春が来たか。上条さんもあやかりたいものですなぁ」

 

 

「ぶっ飛ばすぞ、バカミジョウ!ていうか貴様が言うな、この唐変木が!アンタ達も変に興味抱くんじゃない!そういうんじゃないわよ!!」

 

 

姫神の故意にすら思える、明からさまな言葉足らずの言葉に乗っかる当麻の、よりにもよって姫神秋沙の前で抜かすなど言語道断な鈍感な発言は少々ボリュームが大き過ぎたのか、途端にクラス中がざわめく。

何せ鉄壁の女とすら称えられる吹寄制理に春の到来など、お調子者かつ青春真っ只中な生徒達が食い付くには話題性が充分過ぎるというモノ。

 

しかし、当人にそのつもりもないのに騒ぎ立てられるのは堪ったものではないと、当麻には若干本気で殺意を向けながらも否定する吹寄に、なんだ誤解かと素直に肩透かしを食らう者達が半々と、彼女に与えられる制裁が恐くてすごすごと引き下がるしかない者達で半々だった。

 

因みに当麻は前者であり、騒ぎを広げた分の制裁として思いっきり足を踏まれて悲鳴を上げる結末を迎える。

誤解を招く言い方をした秋沙も秋沙だが、春だなんだと大袈裟に捉えてしまった当麻にも致し方ないとはいえ原因があるので、不幸でもあり自業自得でもあるのだが。

しかし、打たれ強くリカバリーも早いこの男は、気を取り直して再び疑問を投げ掛けるのだから、大した者である。

 

 

「……で、その男の子って?」

 

 

「懲りてないのかこの馬鹿は……ったく。最近、色々あってリハビリを手伝う事になった人の事よ」

 

 

「吹寄さん曰く。一つ歳下の白髪紅眼の。とても華奢な男の子なんだって。長点上機に通ってたらしく。今は休学中」

 

 

「……白髪、紅……眼…………華、奢?」

 

 

「……ん? 何、その反応。まぁ確かに変わってるとは思うけれど」

 

 

気軽に問い掛けていた垂れ目が、外見をツラツラと述べていく秋沙のソプラノに釣られてドンドンと見開かれていき、次第には思いきり冷や汗を垂らしながらその瞳を忙しなく泳がせる。

尋ねておいて聞き返す無礼よりも、まるで何かに気付いてしまったかの様な不審な反応は余りにも予想外で、どうしたのかと窺う最中、ふとした既視感を覚える吹寄。

 

そういえば、この空気、このリアクションを、わりと最近……それも、一週間前に体験したような、そんな錯覚。

果たして、それは錯覚などではなく、列記としたデジャヴをなぞらっているのだが。

 

 

「なぁ……もしかして、ソイツ……杖ついてたりしないか?」

 

 

「何で知って……って、まさか貴様もなの!?」

 

 

「え。え……?」

 

 

霧掛かった靄で覆われていた不確かな輪郭が澄み渡って、予感は確信へと綺麗に繋がる。

世間は狭いという格言をここまで身に染みて体感するとは思わなくて驚愕に息を弾ませる吹寄とは対照的に、交友関係だけでいえばある意味世界を股に架けるレベルの有名人である上条当麻としては、意外ではあったが、彼女達ほどの驚きはなかった。

寧ろ当麻にとっての驚くべきポイントは、実はこっそりリハビリをしているという点と、実は歳下だったという点であった。

 

 

「俺もってのは良く分からんが……それにしても意外だな、まさか吹寄があの一方通行のリハビリとはなぁ……というか、アイツ、俺よりも歳下だったのか」

 

 

「……貴様が知り合いというのは確かに意外だったけど、やけに含む言い方ね。どういう事よ」

 

 

「……上条君も。その一方通行君と仲が良いの?」

 

 

驚きは少なかったものの、一方通行と吹寄制理という接点の今一つ見つからない二人の取り合わせはやはり意外である事には間違いない。

ついこの間の休日に、色々と気を遣って貰ったり食糧面での施しを受けたりと、当麻個人としては脚を向けて寝られない大恩がある相手が歳下はどうかは兎も角、陰でリハビリを行っているという事実は、どうにも水臭いなと思えて。

 

けれど、そんな当麻の思考を余所に、彼が無意識ながらも呟いた『あの』一方通行、という言い回しが、吹寄と秋沙には引っ掛かった。

そして、当麻の知らない一方通行の事情に通じてる彼女達が怪訝そうな視線を向ける意味も、彼自身今一つ分からない。

だからこそ、当麻は噛み合わない疑問の歯車を噛み合わせるべく、言葉を尽くした、のだが。

 

 

「仲が良い……って言えたらいいなって思うな、うん。アイツには色々と世話になったし。というか、別に含む言い方なんてしたか、俺?」

 

 

「いや、だって『あの』一方通行って……」

 

 

「……? いや、そりゃあさ――」

 

 

尽くした結果、当人の伏せていた事情まで明らかにしてしまうのだから、流石は不幸の代名詞と言える。

尤も、この場合不幸なのは、他でもない一方通行ということになるのだろうが。

 

 

「あの、学園都市第一位のリハビリを手伝うって、中々に凄い事だと思うだろ、普通」

 

 

「――――え?」

 

 

 

 

――――――

―――――――――――

 

 

 

漢方薬品を主にした独特な匂いは薬品を主に置いている薬局ならではなのだろうが、薬というワードに結び付いた記憶はどれもこれも苦々しいのは、良薬口に苦しとでも皮肉られているのだろうか。

肌に合わないと云うよりも、科学が何かと纏わり付くこの身体が微かな拒否反応を示しているのか、普段以上に厳しい顰めっ面を貼り付けては手に取った風邪薬のパッケージを眺める一方通行の心境は少し穏やかではない。

 

 

「……」

 

 

第七学区に存在するから第七薬局と、何の捻りもない名前の薬局の片隅で、何をつまらない事を考えているのか、と。

音にも成らない嘆息が、カサリと赤、青、黄色の大小異なる球体をプリントされたパッケージの表面をそっと撫で付ける。

先日、あれだけの口を上条当麻に叩いておきながら、こんな些細な事で下らないセンチに浸ってしまう女々しさが怨めしい。

 

学園都市第一位などと大仰なレッテルを掲げておいて、このナイーブさはどうなのだと、自分で自分を嘲笑いたくなるほどで。

しかし、詰まらない感傷の痕をなぞった所で目的はいつまでも果たせないだろうし、余り時間を掛けるのは好ましくない。

 

 

(風邪薬ぐれェストックしとけよ、黄泉川ァ)

 

 

脳裏に浮かぶのは、高熱で頬を真っ赤に上気させた芳川桔梗のぐったりと横たわった姿。

元とは言え妹達の研究に携わっていた者ならば人体の調子は勿論、最低限の体調管理など把握出来そうなモノだが、他人にも自分にも甘いと豪語する彼女は、どうやら病原菌にも甘いらしい。

恒例となったウォーキングを終えて帰宅し、遅めの朝食を手軽に済ませた時にも彼女が起床して来なかったのを不思議に思えれば良かったのだが、彼含む他二人の大小のミサカからすれば常日頃だらけてばかりのニートまっしぐらの同居人が昼まで寝てる事などザラだったので、特に意に介さなかったし、わざわざ起こそうとも思わなかった。

 

 

その上、昼食を外で済ませると決めて、彼女を番外個体が呼びに行った際にも、眠気眼でボーッとしながらも置いて行っていいと答えたらしく、呆れながらも置いて行ってしまったのも、発覚を遅らせてしまって。

帰宅して、午後二時を迎えた頃、流石に妙だと思った打ち止めがもう一度桔梗を起こしに行った事で、漸く桔梗が体調を崩していると気付けたのだ。

 

 

「……」

 

 

無気力はいつもの芳川桔梗と言えるのだが、頬を染めて汗を流しながら咳き込んでいる様子に直ぐ様、能力を使用して変調を解析してみれば、風邪を引いて熱に晒されているだけと理解して、無意識の内に零れた安堵の溜め息を目敏く見付ける辺り、病人といえど彼女は油断出来ない。

熱を纏ったほっそりとした掌を一方通行の頬へ寄せて、心配してくれるの、と宣う辺りやはり優しくはない女だ、と。

 

らしくもなく慌てふためく打ち止めと、柄にもなく責任を感じてショボくれている番外個体に、着替えと氷枕の用意と、多めの発汗に対して渇いたタオルと濡れたタオルを準備させ、簡単に対処の仕方を指示。

メディカルボックスを探っても咳止め薬ぐらいしか残ってなかったので、桔梗の容態を逐一メールで報せるようにとだけ告げて、一方通行は一人薬局まで高熱に効能のある薬を求めて来たのが経緯である。

 

 

(……嘔吐、下痢の症状は無し、か)

 

 

パッケージの効能と製品の配合元を眺める傍らで、打ち止めから送られるメールに記された桔梗の容態を確認して、嘔吐等の症状が無いことから、やはりただの高熱であると再確認して、安堵の息をつく。

一方通行のベクトル変換を応用すれば簡単に治療は出来るのだろうが、只の人間である桔梗に能力を用いるのは少し憚られたし、桔梗自身もそこまでしなくても良いんだと微笑みながらそっと拒んでいた。

 

となれば、さっさと薬を購入して、帰り際にスーパーによって熱に効く食材でも買い込むか、と。

手に持っていた薬品を籠へと放って、高い棚の上段にある漢方の葛根湯へと手を伸ばした際に、ふとやたらぷるぷると震えた小さな手が此方へと伸びて。

意識を削がれて隣を見やれば、身長が低い為か高棚の上段に届かないのか、耳を真っ赤にしながら爪先立ちで手を伸ばしているちんまりとしたツインテールの少女が居た。

 

 

「っくぅ、あっ、と、少しで……す……の……」

 

 

「……」

 

 

顔を俯かせながら限界までゴムを引っ張る如く身体を伸ばしている為に、小刻みに揺れる二房に括った朱混じりの明るい茶髪が、買い物籠を握る一方通行の右手に当たって鬱陶しい。

脚立を使えば良いだろうに、余程急いでいるのか、それとも必死なのかはさておいて、ここまで一杯いっぱいな形相なので恐らくは一方通行の事など意識の外なのだろう、と。

頭の隅でぼんやりと他人事みたく考えているのが宜しく無かったのか、どうやら限界を迎えた少女は足を滑らせて、雪崩のように一方通行へと倒れかかって来た。

 

 

「……ぁ、っ!?」

 

 

「――」

 

 

しかし、そのまま買い物籠の中へと顔から突っ込んで来そうな彼女へ向けて身体を反転させ、棚へと伸ばしていた掌で少女の腕を掴んで転ばせる事は何とか防げたが、慣性までは殺しきれず、少女の顔はそのまま一方通行の薄い胸元で受け止める他無かった。

 

 

「……へ?」

 

 

どうにか籠の中身を飛ばしてしまう惨事は免れたのだが、当の少女は必死さの余り細まっていた視界がグラリと傾いたかと思えば、ポスンとした緩い衝撃と共に少しゴツゴツとした堅い感触、そして視界は黒一色に染まってしまえば、何が起きたのか分からず彼女の中の時が止まる。

 

理解出来ない状況に呆気に取られて暫しそのままの態勢で入れば、額越しに伝わる微かな鼓動と、値の張りそうな柔らかい布の感触と、薬品独特の匂いに混ざってほんのりと香る洗剤の匂い。

徐々に冷静さを取り戻した少女の脳裏に霞む、嫌な予感。

例えば、彼女が敬愛する電撃姫に制裁を食らう直前に味わう様な、寒気。

 

 

「……いつまでそォしてンだ、ツインテール」

 

 

 

鼓膜を撫で付ける低いテノールに含まれた微かな怒気にびくりと背筋を震えながら、ギギギと機械仕掛けの錻人形染みた鈍い動作で、恐る恐る少女が顔を上げれば。

いつまでも貼り付いたままの自分に向けられる細やかな怒りと、多大な呆れがブレンドされた奥深い紅の瞳と視線がぶつかって、漸く異性の胸に顔を預けた状態である事を知覚して。

 

 

「――――!?!?」

 

 

声にもならない声を出しながら少女は錯乱した様子で一方通行から身体を離した拍子に尻餅を着きながら、成熟した林檎もかくやと言わんばかりに顔色を面白い程真っ赤に染め上げながら、小刻みに震えている。

 

対して一方通行からしてみれば横槍を挟まれた挙げ句倒れ込まれそうになった所を助けてやっただけで、熊にでも遭遇したのこと思える程の狼狽っぷりを見せる少女の反応を怪訝そうに思っては居たものの、見覚えの有り過ぎる少女の制服と、右腕に巻き付かれた深緑の腕章にふと気付くと、厄介な事になったと額に手を添えながら深い溜め息を付いた。

 

 

(コイツ、常盤台の……しかも風紀委員か)

 

 

常盤台女子中学校といえば、学園都市でも非常に有名な名門校でありシンプルな色合いの制服を見れば、一方通行にとっては深い因縁と過去の罪悪を意識せざるを得ない。

右腕に通した腕章は風紀委員と云う警備員とは別態勢の警察的組織の一員である証であり、その敷居の高い試験をクリアしたという証でもあるので、未だに尻餅を着いたまま此方を見上げている少女は相当に優秀と言えるのだろうが。

本音を言えば色々と関わり合いに成りたくは無い理由が山積みな相手だが、原因が分からずとも尻餅を付くほどに狼狽させた儘と云うのも拙い気がするので、仕方なしに買い物籠一旦置いて杖をついたまま、もう一方の手を風紀委員の少女の目下へと差し伸べた。

 

 

――

―――

 

 

 

「ぁ、ありがとうございますですの……」

 

 

「……ン」

 

 

白井黒子、常盤台中学一年生、風紀委員所属のレベル4の空間移動能力者。

好きなモノは敬愛するお姉様こと御坂美琴と着心地の良い下着という中々に業の深いプロフィールを持つ彼女とはいえ、異性に対しての恥じらいが無い訳ではない。

部下や先輩、当のお姉様本人にすら変態だの百合だのと罵られても否定出来ない所業の数々があったとはいえ、それは一概に同姓趣味であるのではなく、お姉様という人格に惚れ込んでいる故の情愛なので、白井黒子は別に女を捨てている訳ではないのである。

 

同年代と比べて異性に対する興味が薄いのは事実ではあるのだが、性的興味が一切無いと云う訳ではない。

挙げ句異性に対しての免疫等、精々が他の男性風紀委員との会話ぐらいしか無いので、男の胸元に顔面から突っ込んでしまった事に未だに動揺をしていても致し方ないと言えた。

 

無言の儘に差し伸べられた骨張った細長い白い男の手を掴んで立ち上がり、埃の着いたスカートを払う事も忘れて何とか御礼の言葉を繋ぎ合わせている黒子の殊勝な姿など、そう御目に掛かれる機会などなく、彼女の奇怪な行動に常々頭を抱えている同じ風紀委員の同僚ならば、そのまま迷わず眼科医に駆け込んでいただろう。

 

 

「あの、先程は失礼致しましたの……急いでいたとはいえ、とんだご迷惑を……」

 

 

「……オイ」

 

 

黒子にとって敬愛するお姉様が風に倒れてしまった為に冷静さを欠かせながらも、薬局へを薬品を求めにテレポートしてやって来たとはいえ、見ず知らずの、それも杖付いている点から障害を抱えている男性に迷惑を掛けてしまった事を自覚すれば、流石に彼女とて頭が冷える。

世界有数の御嬢様学校に通うだけはあり、御姉様の前でも無ければ存外に淑女として振る舞おうとして務めている黒子としては、反省の意味も込めて粛々と頭を下げるしかない。

 

 

「これであってンのか」

 

 

 

しかし、謝罪の意を紡いでいる黒子の言葉を遮った低いテノールに頭を上げれば、白髪紅眼の特徴的な男性に、目前にひょいと薬品が差し出されて。

その薬品は、冷静さを失っていた黒子が精一杯腕を伸ばして手にしようとしていた葛根湯で、以前彼女の後輩である初春飾利が熱に魘されてる際に、飾利の友人である佐天涙子が購入していた薬品で、効能はお墨付きであった為に黒子が求めていた訳なのだが。

 

 

「――ぁ……はい。その、ありがとう、ございますですの……」

 

 

恥ずかしいやら、申し訳ないやら、薬局に来た当初とは異なる意味で切羽つまってしまい、つい目を逸らしながら御礼を紡ぐので精一杯である。

礼を尽くす時は相手の目を見るのは対人関係に置いて基本とはいえ、故意では無いとはいえ流石に胸に飛び込んでしまった異性を意識するなというのは幾ら黒子と云えど難しい。

 

ましてや、先程の密着状態から彼の顔を間近で見上げてしまったのも相当に拙かった。

雪を映した様な白髪と、深い真紅の瞳を持つ少年の白貌は贔屓目に見ても非常に整っていて、柄にもなくポカンと見惚れてしまうのは、年頃の少女であるのならば致し方ないだろう。

 

 

 

(し、しっかりなさい白井黒子!こんな失態を重ねたままでは、御姉様に顔向け出来ませんの!)

 

 

 

けれど、幾ら羞恥を誤魔化し切れないとはいえ、流石に迷惑を掛けた上にお目当ての商品を取って貰った相手に、いつまでも無礼な態度を取ることなど、淑女足らんとする黒子自身の矜持に関わるだろう。

それならば常に淑女っぽくしなさいと当の御姉様に指摘されそうなものだが、取り敢えずは気を取り直してと、深く深呼吸。

せめてもう一度だけでもしっかりと目を見て謝罪を、と決意を固めて乱れた佇まいを直し、意気込みのままに対面の男に視線を定めて――

 

 

「……へ?」

 

 

ほんの一瞬、気を落ち着かせている間に居なくなってしまったのか、慌てて店内を見回してみれば、彼は既にレジで会計をしている途中であり、黒子の事など既に意識の範疇に外しているらしい細い背中に、黒子は呆気に取られてしまう。

別に彼に非がないのは当然であるし、迷惑を一方的に掛けておいて何を言える立場ではない事も承知してはいるのだが、肩透かしというか、せめて何かもう一言ぐらい声を掛けてくれてもと思ってしまうのは間違いだろうか、と。

 

 

呆然とする黒子を一瞥する事もなく会計を済ませ、そのままゆっくりと店外へと出て行ってしまった白貌の背中を見送ってしまった彼女は、ハッと我を取り戻して急いで手に持ったままの葛根湯をレジへと持って行き、早々に会計を済ませて店の外へと彼を追い掛ける。

ほんのりと果ての方は徐々に微かな橙が差し込んでいる空の下、キョロキョロと彼方此方へと忙しなくあの細い背中を探して。

 

 

(――居ない。そんな……)

 

 

殆ど時間を掛けてない筈なのに、既に何処にも見当たらない背中に、何故だか凄く落胆してしまう。

せめてもう一言だけでも良いから、確りと御礼が言いたかったと、先程に呆気に取られてしまったが故の無情さに小さく溜め息を付いて。

 

 

「…………」

 

 

仕方ない、と割り切って。

風邪で魘されているだろう御坂美琴の元へと急ごうとテレポートの演算を行おうとする意識の片隅で。

 

 

差し出された葛根湯を受け取る際に見えてしまった、幽かに和らいでいた細い目尻と、ふっと綻んだ薄い唇を乗せた、小さな苦笑を浮かべた白貌の優し気な表情。

脳裏に焼き付いたあの表情が陽炎の様に、浮かんでは、沈んでいって。

差し出された腕を掴んだ時の、自分の手とは違う、ゴツゴツと骨張った指の感触がやけに鮮明に思い出せて。

 

 

――顔が、熱い。

 

 

テレポートの演算に集中出来ない。

一刻も早く美琴の元へと向かわないといけないのに、鼓動が忙しない。

 

 

――いつまでそォしてンだ、ツインテール。

 

 

耳の鼓膜に反響し続けるテノールの呆れ声。

顔を預けた際の、固い感触と微かな鼓動が意識すまいと務めても勝手にリフレインされる感覚に、顔が熱くなって仕方がない。

まだ肌寒い冬だと言うのに、汗すら浮かべてしまっている自分の変調に戸惑いを覚えながら、白井黒子は暫く御坂美琴の待つ寮へと戻れないまま佇んでいるしかなかった。

 

 

 

脳裏に繰り返される光景に、何だかやきもきとしながら。

 

 

 

 

 

 

『Vega』________『落ちた鷲』






Vega:ベガ

こと座α星 (α Lyr)

スペクトル型:A0Ⅴa

距離:25光年

輝き:0.03等星 全天第五位


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Re:Play 6『Capella』

水道から流れ落ちる透明な水の橋を、叩くどころか真ん中から両断するべく手を差し込めば、冷たいを通り越して痛覚すら感じるのだから、冬に片足一つだけでも突っ込んでいた季節の水温の低さは犯罪的なまでに宜しくない。

車体をパラソル代わりに下でうたた寝を貪っていた挙げ句、突然のエンジン音に慌てふためく夏の日の野良猫みたいな彼の反応が面白くて、普段は釣り目がちの黒曜石の瞳は目尻を落として、スッと細ばむ喉で吹寄は銀の鈴を転がせた。

 

その凛々と鳴る笑い声を聞き逃すには距離が余りにも近いし、吹寄自身にも隠すつもりもないのだろう。

面白くない、と、不満を示す時ばかりは馬鹿に尖る二つの緋丸が、流れっぱなしの虹も架からない水の橋を視界から外して、ケラケラと笑い続ける艶かしいラインの身体付きさえも隠そうとしない美少女を冷たく射抜き続ける。

 

 

「ツボが浅過ぎンだろオマエ。馬鹿みたいに大口開けやがって」

 

 

「だって、ビックゥゥ!……って感じに反応してたわよ、さっきの一方通行。普段はクールぶってるのに、そういう時だけ妙に可愛い動きするの止めなさいよ、あざといわね」

 

 

「男掴まえて可愛いとかきめェ事抜かしてンじゃねェよ。水飲もうとしただけでなンであざといとまで言われなきゃならねェンだ、デコ女が」

 

 

「吹寄、でしょ。ちゃんと名前で呼びなさい」

 

 

ケッ、と吐き捨てて逸らした一方通行の紅い瞳が、サラサラと上から下へと流れ落ち続ける水道の蛇口へと向けられて、八つ当たり気味に強く掴んだ鈍色の細いヒトデみたいな摘まみをキュッキュと捻って、水を止める。

冷水の名残を乗せた淡い清風が舞い上がって、なかなかに長距離のウォーキングを終えて熱く火照った一方通行の少しだけ赤らんだ頬をそっと撫でた。

 

女の子相手に怒っては駄目だと宥める冷たい風の愛撫に身体を竦ませ、首に掛けられた薄桃色のタオルでそっと汗ばんだ揉み上げを拭けば、水分を吸って幽かに跳ねた白金の繊維が妙に艶かしい仕草に見えて、吹寄の豊満な胸元がドキリと跳ねた。

キツい悪口も多い男だけれど、ふとした拍子に浮かぶ小さな仕草は男の癖に妙な色気を漂わせたりする事に気付いてから、こういう何気無い瞬間が目に毒だったりするのが油断ならない。

 

 

「それにしても……まだ始めて一週間とちょっとなのに、成果は既に目に見えて来てるわね。この分なら、もう少し距離伸ばしても良いと思うけど……貴様としてはどうなの?」

 

 

「……距離は問題ねェが、そォなったら時間も掛かるだろ。朝も早く起きなきゃならねェ」

 

 

「そのくらい頑張りなさいよ。なんだったら電話で起こしてあげましょうか?」

 

 

「寝起きにオマエの怒鳴り声聞くなンざ御免だ。つゥか、そォじゃねェよ。無能力者だからって授業はあンだろォが。成績下がったって文句を受け付けるつもりは無ェぞ」

 

 

「見縊って貰っちゃ困るわよ、これでも成績では上位なんだから。って、ほら、ジャージの右裾、捲れてるわよ! もう、だらしないわね」

 

 

「……ふン、口喧しい小姑かよ」

 

 

薄氷の上、そう形容するには余りにも相応しいであろう物々しい輩達との打算や思惑、皮肉染みた信頼で成り立っている関係の方が、身に馴染むけれど。

少し触れただけで簡単に崩れてしまう程度なのだと見切りを付けるなら、自分と、このお節介な女との関係だってカテゴリーに含まれるのだろう。

 

陰影や輪郭は様々なのにどれもこれも基を辿れば、精々のロジックに収まる、そんな雲を並べた呆気のない青い空。

蛇口に這っていた水滴が1つ落ちる音は軽いのに、薄く白んだ唇、何故だか紡げないでいる疑問を悪戯になぞる様な、鋭さを伴うのは、青さなど当の昔に捨てた筈の心が嘯いているからか。

 

 

昨晩、いつもの減らず口を流暢に叩けるぐらいには体調を安定させた桔梗に、気付かぬ内に零れた吐息を目敏く指摘された事を、唸る様な罵声で誤魔化しながら戻った自室。

 

メールの着信を告げるブルーライトの頼りない点滅を頼りに新着メールの宛先を確認すれば、あれから時々、一方通行に購入して貰った食材で作った料理の写真を何故かメルマガみたく贈ってくる上条当麻からで。

 

いい加減着信拒否を検討しつつメールの内容に目を落として──固まった。

 

吹寄制理に、一方通行が第一位だと言う事を、知ってるモノと思ってうっかり喋ってしまったのだという、謝罪の内容だった。

 

 

「小姑って何よ。口煩くされたくなかったら、ちゃんと最初からキチンとしてれば良いだけじゃない。それより、今日はもう一周行ってみるわよ。もう充分休憩出来たでしょ?」

 

 

「はン、デコ女が偉そォに」

 

 

「いい加減、吹寄、って呼びなさい。もうこれで何度目よ、このやり取り」

 

 

「改名すりゃ終わりだ」

 

 

「嫌よ、そんな名前」

 

 

手を繋がなくても歩けるというのに、懲りもせず毎度の如く掌を差し出す女がどの口で言うのか、と分かり易くジャージのポケットに両手を突っ込んで明確な意思表示をしてみれば。

拒まれているのに、何故か面白そうに、形の良い黒眉をほんの少し困らせながら笑う理由が一方通行には分からない。

 

日本人を逸脱した顔の造形や髪、瞳などの色彩をしているのに、妙に猫みたいな小動物っぽい気紛れと何だか幼稚にも映る如何にも年下の男の子みたいな反抗の仕方が吹寄にとっては擽ったいだけなのだが。

無論、そんな女の機敏に聡くなれる程に対人経験を積み切れてない一方通行は、小首を傾げたくなるのを押し留めて、舌打ち1つで強がるのが関の山。

 

 

「……訳分かンねェ」

 

 

風に溶かすなら、口元の白い半月に寄り添う程度の静寂くらいで丁度良いのに。

肩で風を切れば、咳払い1つで気を取り直して彼から預かった杖を持ちながら追い掛けてくる彼女の柔らかな花の香りが、此方の不明などお構い無しに鼻腔に届くから、気に入らない。

薄桃のタオルから仄かに香るそれと同じなのも当然の事なのに、真一文字に閉じられた唇のラインがきつく締められる理由など、分からなかった。

 

分からない事だらけで、無知の海に沈んだ思考は息苦しい、光の届かない深海に沈んでいるようで。

機械電子の最高峰にすら及び追い抜く筈の頭はこんなにも頼りなくて、燻る火種ばかりを掌で転がしている。

 

 

なんで、彼女は何も言わないんだろう。

なんで、彼女は何ともない様に振る舞えるのか。

自分はこの学園都市の頂点に座る者。

そしてこの瓦礫を積み立てただけの城は、幾つもの汚れた思惑と血漿の上に成り立っている。

それくらい、聡明だと自ら胸を張るなら分かるだろうに。

 

 

自分が、その気になれば容易くその細い首を折れてしまう様な『バケモノ』なんだって、分からない筈がないのに。

 

 

「──吹寄」

 

 

なら、燻る火種を燃やしてみよう。

薄氷を溶かしてみせよう。

彼女の名を呟いた口元が、微かに震えてしまう理由なんて、どうせ考えたって『頭でっかち』には分からないのだから。

 

 

「なンで何も聞かねェ。知ってンだろ、俺が第一位だって」

 

 

「……っ」

 

 

音が死んだ様に途絶えたのは、尋ねた他ならぬ一方通行が、その先を聞くのを恐れたからかも知れない。

振り向いて覗き込んだプリズムの黒曜石に映る白い面影は頼りないくらいに小さくて、まるで光彩の下では精々がこんなものだと皮肉を突き付けられたみたく錯覚する矮小さを、奥歯で噛み殺す。

 

 

「唯の飾りなンかじゃねェぞ、これは。第三位とは違ェ、『分かるだろ』」

 

 

この薄い氷の下に沈んでいるのは、ただの挫折や後悔とは訳が違うのだから。

その白い首にぶら下げている惨めな勲章は、どこかの誰かの様に、全うに調整された道筋の先には無いのだから。

 

だから、今の内なのだ、引き返すのは。

自分と関わるのも、遠ざかるのも。

 

 

なのに。

 

 

「……やっと、ちゃんと呼んだわね」

 

 

「──は?」

 

 

「名前、ってか名字だけど。呼べるじゃないの、もう。出来るなら最初っからキチンとしなさいよ。何回も言わせないでよね、一方通行」

 

 

「オマエ、こそ、話聞いてンのか。それとも平和ボケしてンのか、あァ? 第一位の悪名の一つぐれェ、聞いた事あンだろ」

 

 

あの凄惨に尽きる実験は確かに箝口令でも敷かれているのかと思われるぐらいに表側には一切出回っていないようだが、学園都市第一位に纏わる悪評なんて、それこそ真偽は兎も角、どれもこれも碌でもない。

それは当然、表側にすら充分浸透している筈なのに、紛れもなく唯の無能力者に過ぎない女は畏怖や恐れに戦慄するどころか、名前一つの呼ぶ呼ばないに拘っている。

 

理解出来ない。

どうしてそんなくだらない拘り一つに、そんなに嬉しそうに笑い掛けるのか。

 

愛穂や桔梗が時折向けてくる様な、静かなのに、泥に沈んだ奥底を騒がせる形容出来ないナニカを揺さぶる感情の一片。

空の遠い夜に浮かぶ月に似た銀のスプーンで掬い上げては、上唇で弄ぶこともせず、静謐な視線で見守るだけ。

 

 

けれど、彼女は。

その上で、綺麗に笑いかけて来るのだから、質が悪い。

 

 

「あぁ、そんなの──どうでもいいわ。試験か何かで出るんなら覚えてやっても良いけど」

 

 

「────」

 

 

本当に、欠伸が出そうなくらい、興味がないと白けた視線出で見据えながら。

その癖、幼子へと物を言い聞かせるみたく、ほんのりと水気を帯びた柔らかな白髪ごと両頬に、ヒヤリとした冷たい両の掌を添える女は、きっと今の自分では到底理解出来ない生き物なんだろう。

 

 

「あ、試験と言えば……さっきの話だけど、仮にもし成績落ちた場合は貴様に勉強見て貰えば解決じゃないの。うん、そうと決まれば、これからは集合時間を30分早める事にしますか。ちゃんと起きないと、直接迎えに行くわよ。ボーっとしてないで答えなさいよ、一方通行」

 

 

「──ハッ、知るかよ。正真正銘の馬鹿の勉強見てやるのに、天下の第一位様の頭脳なンざ使うかよ。脳細胞が死滅する。つゥか、手ェ離せ、クソ冷てェンだよ」

 

 

「ふん、第一位の癖に細かいこと気にするのが悪いんでしょうが。というか、一方通行の肌、なんでそんなスベスベなの。そっちの方がよっぽど大問題よ! まさか私に黙ってこっそり秘密の健康法とか試したりしてないでしょうね?」

 

 

「……うっせェ健康オタク。グチグチ細けェのはオマエの方だろ、気にし過ぎでその内皺だらけになったら腹抱えて笑ってやンよ、デコ女」

 

 

「名前で呼ばないと杖折るわよ」

 

 

「言っとくが、その杖高ェぞ。数百万はするンだが、弁償出来ンならどォぞお好きにィ」

 

 

「……えっ、ちょ、そんなに高いのコレ!? き、貴様、そんな高級品を今までポンと投げ渡してた訳!?」

 

 

「財産に置いても第一位舐めンなよ、『三下』」

 

「く、んぬぅ……貴様、これ一本で新作の栄養サプリメントが何個買えると思って……」

 

 

理解出来ないのなら、考えるだけ無駄なんだろう、今はまだ。

鮮烈な光の乱反射で藻掻いた所で、矮小なこの手で届く距離など知れている。

 

分からないと駄々を捏ねて振り回した腕では何も掴めない、きっと掴めた所で掌で握り締めて潰してしまって後悔するぐらいなら、いっそ潔く瞳を閉じて。

痒みすら覚える優しい言葉に舌を打ちながら、渋々と声の鳴る方へ足を進めていけば、いつかは。

確信を持って触れる事が出来るのだろう、積み上げた推論と答え合わせするのは、その時で良い。

 

 

「喚いてンなら置いてくぞ」

 

 

「……はぁ、もう良いわ、ん!」

 

 

そして変わらず差し出された柔らかそうな掌を、いつも通りに紅を逸らして。

案山子から人間に成れたのだから、足を使わねば意味が無い。

動かぬ脚に言い訳を重ねて停滞に逃げるのはもう止めると決めた事を、また忘れる所だった。

 

 

「──行きましょ、一方通行」

 

 

拒んだ所で、どうせ困った様に笑うのだから、つくづく面倒な女に目を付けられたモノだと実感を振り返る。

逸らした視線は、ぼんやりと遠く、隅に翻る美しい黒髪だけを僅かに残して。

 

蒼い舞台を我が物顔で遊覧飛行している名も知らぬ白い鳥が、一度大きく羽ばたいた。

風を切って、長い翼の羽を散らして、あっという間に蒼の彼方へと消えていく。

 

光の中に、影だけを作って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────

────────

────

 

 

 

 

ウインドウショッピングに定義があるとするならば、大凡が金銭の欠如や開く予定のない財布を持ち歩きながらの冷やかしという印象に行き着くのだろうが、それを面倒な客と悪態を着くか、次回への布石としてどっしりと構えるかによって店員の質もまた測れるという側面もある。

また、客によってはショーウィンドウに展示された物品見詰めて彼是と発生する会話を膨らませるというのも、楽しみの一つだろう。

例えばマネキンに着せられた季節の目玉商品を着熟す自分の姿を想像するのも同義だし、恋人や親愛を抱く友人なり親族なりに妄想の矛先を向けるのも同じカテゴリーとして纏めても良い。

 

 

しかし、中にはその何れにも該当しない変わり者というのも極少数、存在する。

半歩引いたシンプルなポージングを取るマネキンも、巨大な着せ替え人形に与えられたファーコートにも視線を向けず、薄鳶の瞳をクリクリと丸めて佇む彼女も、その口と言えた。

 

冬も終わりの境へと足を伸ばしている頃とはいえ、まだ防寒具を手放すには些か早過ぎる。

クリーム色の毛糸のセーターの上に、モコモコのピンクコート、切り揃えた黒髪のセミロングを覆うのは散り花をイメージした刺繍ロゴの柔らかなニット帽は対策意識として充分だろう。

特別冷え性な訳でもない彼女にとって、セブンスミストの中では少し暑いと感じるくらいが丁度良いのかも知れない。

 

 

「……」

 

 

モコモコファッションに身を包む少女、滝壺理后はほんの僅かに小首を傾げながら、ショーウィンドウを凝視するという、端から見ればウインドウショッピング染みた行為をしているが、その実態は違った。

彼女の後ろ、道行く人々が過ぎ去っていく姿を鏡越しにぼんやりと眺めている、ただそれだけ。

 

展示されたファーコートもブランド物のバッグにも興味を向けず、直接瞳に映る景色と、鏡越しに映る景色、その違いを惚けた様に眺めている。

理由など聞かれても、恐らく特に意味も意義もない。

気になったから、何となく、暇だったから。

気紛れみたいな行動に本質を見出だそうとした所で、徒労に終わるのが関の山。

 

 

赤いコート、青いスニーカー、白いマフラー、黒のレギンス、黄色のハット、緑のTシャツ、紺のバッグ。

 

織り成す群衆が通り越して作る虹の欠片を頭の中で拾い上げて、積み立てて、完成したらそれで満足。

そうやって繰り返しては時間を使えば、彼女が待ち惚けを食らう相手もその内に合流してくれるだろうから。

 

 

しかし、そんな折。

ぼんやりとショーウィンドウの人為的プリズム世界に投影していた意識の底で、何か気になる者でも見付けたらしい。

振り向くとほぼ同時、迷いのない足運びで対岸まで歩み寄ると、前置きもなく男の首に巻かれたフワフワのマフラーの先端を割と強めに引っ張った。

 

 

「久しぶりだね、あくせられーた。1ヶ月振りかな」

 

 

「っ、ご挨拶過ぎンだよオマエは。離せ」

 

 

「……柔らかい、モフモフしてる。いい生地だね、ぐっど!」

 

 

「……相変わらず人の話聞きゃしねェ」

 

 

モッズコートの隙間、緩めに巻き付けた長いマフラーの先端の羽散らしをぎゅっと掴んだものだから、首を垂れ下ろしてメンチ切り気味にのほほんとサムズアップする滝壺を睨む赤い両眼。

黒のスラックス以外は全て白一色の雪景色から覗かれる血濡れ色の眼差しは凶悪なのに、舌足らずにふやけたトーンで横文字を綴る口元は柔らかく笑っていた。

 

何処の誰とも知らない人間にされたのならば、そのセブンスミストの一角は白昼の惨劇場としてニュースに取り上げられる末路を辿るのだが、一方通行は不埒者の正体が滝壺理后だと分かるや否や、面倒臭いヤツに捕まったと嘆息を流す。

この無垢なのか電波なのか良く分からない少女相手に憤慨した所で、小動物みたく小首を傾げられるのがオチだからだ。

 

 

「何やってンだ、オマエ。1人か?」

 

 

「うん、話せばながくなる。そして丁度良いところにジュース屋さんがあるね」

 

 

「……集るつもりか、ンの電波。あのアホ面はどォした」

 

 

「それについても勿論話す。わたし、アップルマンゴー飲みたい」

 

 

きっちりと丸っこく切り揃えられた爪を指先に飾った小さな手に促された先にあったのは、返り咲きのダイエットブームに乗っかったフルーツシェイクのドリンクスタンド。

ピンクの電灯蛍光色が如何にも女性をターゲットにした造りをした看板が目に付いて、一方通行は色んな意味で煩わしいと喉を尖らせた。

 

 

「ざけンな、自分で買え」

 

 

「あくせられーたも1人? らすとおーだーは?」

 

 

「調整だ、性悪も含めて。つゥか引っ張ンな、伸びンだろォが」

 

 

「あくせられーたは何にする? キャロットジュースもあるよ」

 

 

「いらねェっての。しかもなンでそのチョイスにした」

 

 

「うさぎさんっぽいから」

 

 

「お望み通り木槌で磨り潰してやろォか」

 

 

ニアミスどころか成立していない会話は不毛にも思えるが、理后相手に一般的な対応を求めた所で、どうせ毎回の様にこのパターンを繰り返すだけだ。

全く為にならない教訓だけが胸に刻まれている事にしょうもない悔恨を反芻している一方通行のリアクションは、やはりある程度は度外視しているのだろう。

 

マフラーの次はひょいと杖を付いてない方の腕を取って、平日な為にあまり客足が伸びてないらしいドリンクスタンドの短い列へと連れられる強引さ。

オマケに代金もちゃっかり一方通行に払わせる心算の電波少女に向ける怨嗟は、理后の恋人であるどこぞのチンピラに全て叩き込むと誓って、舌打ち一つで平静を取り戻した。

 

 

「順番来たよ、あくせられーた」

 

 

「──ったく……アイスコーヒー1つとアップルマンゴー1つ。ミルクと砂糖は無しで」

 

 

「畏まりましたぁ」

 

 

「大人だね」

 

 

「苦い方が好きなだけだろ」

 

 

プラカードの商品欄にコーヒーの取り扱いがあった事が不幸中の幸いか。

愛らしい面立ちの店員の営業スマイルに見向きもせず、うーむと唸りながら在り来たりな評価を呉れた理后のぼんやりとした眼差しを冷たく見返して。

取り出した革財布から札束を掻き分けて抜いた千円札を理后へと突き出しながら、鼻を鳴らす。

 

出来上がったアイスコーヒーを片手に、どうやら着席を義務付けられているエスカレーター付近のベンチへ向かう足取りは重い。

いっそ能力を使って逃げれば早いが、こんな下らない事に能力1つ使わなければならない自分が無性に滑稽に思えるから、首元のチョーカーに手を伸ばさなかった。

 

 

「ん、美味しい。奢ってくれてありがとう」

 

 

「無理矢理集っといて良く言う。ンで、あの馬鹿はどォした。ついに死ンだか」

 

 

「死んでないよ、よくむぎのに殺されかけてるけど。はまづらは、さっき風紀委員に捕まっちゃったってメール来た」

 

 

「はァ? 何やらかしたンだ、三流面の野郎」

 

 

「本当は今日、セブンスミストで合流する予定だったんだけどね。ここに来る途中、公園で偶々ジュース買おうとして自動販売機にのぐちを投入したら飲まれちゃったんだって」

 

 

「……千円札の事か。ンで?」

 

 

「取り返そうと自動販売機を蹴ったら壊れちゃって、商品のジュースが滝の様に落ちて来た所を、偶々通り掛かった風紀委員に見られて……」

 

 

「連行されたってか……アホ臭ェ」

 

 

風紀委員に捕まったと聞いて何か事件にでも巻き込まれたのかと思えば、実態の三流コメディ具合に笑いすら起きない。

理后の恋人たる浜面仕上という男はどこぞのウニ頭と似た星の下で産まれたのか、運悪くトラブルに巻き込まれたりする事が多々ある。

しかし無能力者でありながら学園都市第四位の麦野沈利を退けたりと、バイタリティと行動力には目を見張る物があるとそれなりに評価していたのだが、これでは評価は下降の一途を辿るのみだ。

 

当の恋人である理后にも特に心配されず、一方通行に奢って貰ったジュースのストローをふっくらとしたリップでのんびりと啜る姿を横目で見ても、同情なんて欠片も沸かなかった。

 

 

「あくせられーたは何でセブンスミストに来たの? 買い物?」

 

 

「暇潰し。服でも見よォかと思ったンだが」

 

 

「私はね、待ち合わせ」

 

 

「聞いたンなら聞けよ。ンで聞いてねェけど」

 

 

「きぬはたを待ってるんだけど、ちょっと遅れ気味みたい」

 

 

「絹旗っつゥと……あの超々と口煩ェガキか」

 

 

「誰がガキですか誰が」

 

 

崩れ切れてないブロックアイスをストローで突っつきながら脳裏に思い浮かべたのは、小柄な体躯とは裏腹に小生意気な口ばかり吐く、間接的ではあるが一方通行とも縁の深い少女の膨れ面。

そこからそのまま現れたのかと錯覚してしまう程にタイミング良く、不貞腐れ気味に可憐な顔立ちを膨らませながら腰に両手を当ててふんぞり返っているのは、絹旗最愛。

 

浜面、理后、沈利に並んで元暗部組織アイテムに所属している少女であり、理后が待ち合わせていたらしい人物である。

 

 

「滝壺さん、超バカ面から乗り換えるにしても第一位はないですよ。男見る目が超無いです」

 

 

「乗り換えないよ、きぬはた。あくせられーたは……愛人?」

 

 

「ふざけンじゃねェ」

 

 

「あれ、では何故此処に第一位がいるんです?」

 

 

「待ってる間、たまたま見付けて。ついでに奢って貰ったの」

 

 

「さっきのは冗談です、超見る目ありました! 第一位流石です、って訳で私にも奢ってください。今月ちょっとピンチで……」

 

 

「知るかよ。なンでオマエに」

 

 

「どうせ腐らせるぐらいあるんだから良いじゃないですか別に。なんで滝壺さんは良くて私は駄目なんです!?」

 

 

際どいプリッツスカートをヒラリと揺らしてプリプリと頬を林檎色に染め上げながら、灰桜とパールグレーを織り交ぜたくりくりとした大きな瞳を尖らせる。

彼女の適当なおべっかで一方通行が機嫌良く財布を開く訳もないのだが、どこか小悪魔チックさを武器にしている最愛とて、それは理解出来ているけれども。

 

仮にも人の女には奢って、暗闇の五月計画という学園都市の暗部関連での因縁もあったりする自分だけすげなく断るという態度が気に入らない。

別にその過去についての謝罪を求めるのも今更だし、軽々しく頭を下げられる方が寧ろカンに障るが、少しぐらいは酌量して飴をくれても罰は当たらないだろう。

 

 

「まさか、本当に愛人契約とかしてませんよねぇ……麦野に言い付けて削ぎ落として貰いましょうか?」

 

 

「なンで俺がこの電波女の相手しなきゃならねェンだ。つゥか第四位連れて来た所で返り討ちで終わりだろォが……チッ、あァ、くそ面倒臭ェな。オラ、適当に買えよ、クソガキ」

 

 

「え、いやこのタイミングで渡されるとなんか信憑性出て来て超如何わしいんですが。まぁ、良いか。第一位、ゴチでーす」

 

 

「……うぜェ」

 

 

「きぬはたは久しぶりにお兄ちゃんに会えて嬉しいんだよ、あくせられーた」

 

 

「まァだその意味分からねェ説、引っ張ってンのかオマエ。あンなクソ喧しい妹なンざ要らねェよ」

 

 

「でもこの前ドラマ見ながら『お兄ちゃんですか……』って呟いてたよ。可愛い妹が居て良かったね、あくせられーた」

 

 

「……はァ、マジで話聞かねェのな、オマエ」

 

 

『暗闇の五月計画』の概要だけを完結に言えば、第一位である一方通行の思考、演算のパターンを植え付けるというモノで。

何故か理后の脳内では、その被験者である最愛が、シンクロニティなどの理論的根拠など一切通過せず、謂わば一方通行の妹みたいなモノと捉えているらしい。

 

理后の半ば適当な関係の位置付けを当然両者は一笑に伏していたのだが、もしかしたらそれは一方のみの見解であり、もう一方の少女には何かしら心に残るモノがあったのかも知れないが。

取り敢えず、だからどうしたと顔を背け、アイスが溶けて苦味が少し薄まってしまったコーヒーを啜った。

 

紅目を逸らした先で、やけに御満悦そうな満開の笑みを浮かべながらオレンジジュースを片手に歩み寄る最愛の姿が視界に入る。

無意識の内に力を込めた所為で、雨の日の窓ガラスみたく水滴を散りばめたプラスチックの容器がクシャリと悲鳴を挙げた。

 

毒々しさで黒すら飲み込んで来た筈の狂白が、随分と甘ったるい色に触れる事すらも許容出来る様になったものだ。

それが、誰の影響に依る切っ掛けか、なんて今更考えるのは馬鹿馬鹿しいと。

 

据え置かれた、皮肉な程に高性能な鼓膜の奥で、擽ったそうに笑う誰かのソプラノが、勝手気儘に乱反射する強引さは、声の持ち主に良く、似ている。

 

 

 

───

 

 

 

 

「──はァ、わざわざ二人で迎えにねェ、献身的な事で」

 

 

「ホントですよ、浜面なんて超どうでも良いんですが……滝壺さんを1人にするのは拙いですからね、やむを得ずですよ」

 

 

「ごめんね、きぬはた」

 

 

「滝壺さんが謝る事なんてないですよ、あの唐変木のパシリが全部悪いんですし」

 

 

尋ねた訳でもないのに勝手に事情を説明する理由を考えるのも放棄するのは、相手が滝壺理后だからで片付く辺り、ある意味凄い事である。

どうやら最愛と合流次第、風紀委員に事情聴取を受けているらしい浜面を迎えに行く算段だったらしい。

 

風紀委員と聞いて一方通行の脳裏に、先日に薬局で遭遇した常磐台の制服を着た、ツインテールの少女の慌ただしい姿が不意に蘇った。

 

それは、何か形容し難い予感みたいなモノだったのかも知れない。

 

 

「ねぇ、あくせられーたはこの後、暇?」

 

 

「暇じゃねェ」

 

 

「そっか、丁度良いね。あくせられーたも、一緒に行こう」

 

 

「なンでだよ、面倒臭い」

 

 

「え、滝壺さん? 別に第一位まで付いて来させなくても良いんじゃ……」

 

 

「その方が楽しそう。らすとおーだーの事も聞きたいし」

 

 

「近況報告か何かですか……まぁ、私は別に超どうでも良いですけど」

 

 

「良くねェよ」

 

 

春は直ぐそこまで来ている。

宿した蕾が開くには、まだ少しだけの時間が要る。

 

そして時が満ちたなら。

 

 

桜を咲かせて。

 

 

そして、散る。

 

 

 

 

 

『Capella』____『小さな雌山羊』






Capella:カペラ

ぎょしゃ座α星 (α Aur)

スペクトル型:G5Ⅲe+G0Ⅲ

距離:40光年

輝き:0.08等星 全天第六位


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Re:Play 7『Rigel』

第七学区の柵川中学の一室、第一七七支部のぬっぺりとした機械扉を背にしながら、淑女たるもの常に外面には気を遣うモノとして手入れを行き届かせている亜麻色のツインテールを一房指で梳いて、溜め息を落とした。

 

白井黒子は風紀委員である。

風紀委員とは即ち学園都市の学生で構成された治安維持機関であり、風紀が乱す要因を取り締まる公正の尖兵で、右腕に備える盾のシンボルを刺繍した腕章はその何よりの証。

犯罪行為があれば駆け付け、鎮圧するべく行動を開始するので、内容によっては時に死の危険を刹那的伴侶として侍らせる事だって少なくない。

 

だが、大能力者としての力、持ち前の演算力と経験による機転、風紀委員としての矜持で以て黒子は立ち向かって来たのだ。

だからこそ、年不相応の気高さと頑なさを持ち合わせているのだが、かつて凶悪な犯罪者と対峙した時のような凛とした表情は、ゆったりとした微睡みに緩んで欠片も見当たらなかった。

 

「……」

 

中性リノリウムとワックスの匂いが仄かに残る、清掃仕立ての廊下には、柵川中学の生徒達は居ない。

テスト間近だからか部活動も能力測定機器の使用も認められていない為、全学年の授業は午前で終了している。

だからこそ、極一部の生徒と教員を除いて校舎には人が居らず、ポテポテと軽い体重の所為で随分浮いた足音が、白色三面の所々に生活傷を残した廊下に響いていた。

意外にも清掃意識が高いのか、便利な文明利器ではなく直接手作業で拭かれた窓は綺麗で、その先に映える群青日和の平穏さは、より一潮に感じられて。

 

 

「平和な時間は、私達にとっては何よりの事ですのに」

 

 

有り体に言ってしまえば、暇だった。

長らくの治安維持活動が身を結んだと安穏出来るほど、学園都市に対して希望的観測ばかりを向けられる愚かしさをその小さな体躯に刻んで来てはいない。

 

けれど、特に此処3ヶ月、都市内のニュースに挙がる様な大きな事件は起こっておらず、精々がスキルアウト達の幼稚染みた火遊び。

いっそ不自然なほどに平和な日々は、治安維持を名目に掲げる風紀委員ならば諸手を上げて歓迎するべき時間なのに、これも職業病なのか、ゆっくりと流れる時計の針を見詰めれば見詰めるほど、眠気を感じてしまう我が身に苦笑してしまう。

 

つい一時間前に連行したスキルアウトの男も、事情を聴けば害意や悪意なんてなく、飲まれた千円札を取り戻すべくつい弾みで自動販売機の誤差動を引き起こしてしまったという、いっそ犯罪というには可愛気すら感じるレベル。

寧ろ、恋人との逢瀬の途中だったらしく、仕方がないとはいえその時間を削がれる形となったあのくすんだ金髪の男の方が被害者なのではと思うくらいだ。

 

そして、現在残り僅かの聴取を先輩である固法美偉が引き継ぎ、黒子が席を外す事になった理由も其処にあった。

 

(お幸せそうな事で)

 

惚け話をほんの少し聞かされただけで何とも言えない心境に陥った末に落とした溜め息を、掻き消してくれるだけの風を探しても、しっかりと閉ざされた窓硝子に遮られて入り込まない。

もう校門の所まで恋人と友人が迎えに来ている。

そう告げた、だらしなく緩みきった顔を引き締める素振りも見せない浜面というスキルアウトに充てられたのだろう。

流石にその恋人と友人やらを放置する訳にも行かない上に、指紋認証など様々なロックが掛かっている支部への扉を潜る為には、登録してある風紀委員が迎えに行ってあげる方が、合流もスムーズ。

 

よって、今も此方へと向かっているらしい『二人』をお迎えに上がるべく黒子に派遣されたのだが、指示した美偉は何も面倒な役目を彼女に押し付けた訳ではない。

 

(御姉様は大丈夫でしょうか……)

 

脳裏に馳せるのは、常磐台の女子寮で今もベッドで眠っている筈の、白井黒子にとって最も敬愛する御坂美琴という名の少女の、穏やかな寝顔。

先日の薬のお蔭もあって快報に向かっているのは確かで、多少固い微笑ながらも、ありがとうの五文字を微かに震えた唇で紡いでいた彼女へ錯綜する思いが、黒子の紅茶色の瞳を曇らせていた。

 

上履きの底が紡ぐソロは乱れがちに規律のないリズムでリノリウムの回廊を駆け巡るが、指揮棒を握る曇り顔の耳には届かない。

しっとりと湿った前髪、儚く閉じられた瞼の裏に隠された苦悩、忘れた頃に咳をして、何かを堪える様に強く噛み締めた奥歯の悲鳴。

リフレインされるそれらの情景ばかりが耳鳴りみたく喚いてる。

 

「……」

 

きっと、『あの男』の事だろうと、ぼんやりと思い浮かべるのはツンツンとしたウニ頭の少年、上条当麻。

御坂美琴の露払いとしても控えているつもりの黒子としては、あの男に対しても色々と思う事はやはりある。

しかし、詳細も分からぬ内に自分が身勝手に掻き回した所で事態が好転する確証もなければ、文字通り余計な真似にしかならない可能性も少なくない。

何故なら、この問題は思春期の感情が大きく絡む、女心よりもよっぽど秋模様になりがちなモノなんだと、それを知らなくとも、女の端くれでもある身なら分かるから。

 

今はまだ、白井黒子の出る幕ではない。

そう結論付けて、一先ずは日々の業務に無心になって取り組もうとしているのだが、自分の心持ち一つで慌ただしくなるほど世界は上手く回っていないのである。

 

「……あら?」

 

ふと、正面玄関の辺りから届く黄色い声。

何やら超、超とやたらオーバーな付属語ばかりがアクセントを持って響いているから、肝心の内容は殆ど聞こえないのだが。

しかし、段々と此方へと近付いて来ているのは間違いないから、恐らくはあのスキルアウトの恋人か友人のどちらかだろう。

 

(恋人ですもの、ね……)

 

折角の逢瀬の出鼻を挫かれたのだ、それでなくともやはり恋人と早く顔を合わせてやりたいのだろう。

恋とはそういうもの、と輪郭ばかりは耳年増に捉えている自分が、何故かとても滑稽に思えて、また溜め息が出てしまいそう。

見飽きたテレビを消す時に感じる倦怠感に似せれば、吸い込んだ空気さえほろ苦い。

安っぽいフレーズさえ飛んで来そうな腑抜けぶりに一回二回と首を横に振れば、付属品みたいに両の髪が揺れる姿がどこか素っ気ない。

 

持ち込み過ぎてガラクタばかり溢れそうな苦悩置き場を振り切る様に足早に進めば、昇降口まで一息で辿り着いて。

開けた視界に射し込んだ遠くの太陽が、虹彩をせっつく勢いで輝いてるから反射的に瞼で隠したのは一瞬。

 

ほんの少しの時を待って世界と向き合うべく瞼の幕を上げれば、知らないお伽噺の幕が上がるブザー代わりに、心臓が跳ねる音が鼓膜まで届いた。

 

「──あ、貴方は……」

 

「……ン? オマエは昨日の……」

 

「んん? 第一位のお知り合いですか?」

 

「あくせられーた、ジャッジメントに知り合い居たの?」

 

目に痛い程のスノウホワイト、切れ長の紅い瞳。

甘く巻き付けられたマフラーに隠されている薄い口元からこもり気味に紡がれるテノールの短い音律が、悪戯にリフレインを呼んでくる。

 

──いつまでそォしてンだ、ツインテール

 

白い情景に擽られた背中が勝手にピクンと弾かれるのを咄嗟に堪える事も出来ずに、パカリと空いた口を覗き込まれた錯覚に動揺を上手く殺せなくて。

化粧などろくにした事もないから、紅ばかりが頬に差す。

ぼんやりと滲んでいく気の早い夕暮れが、黒子だけに訪れたようだった。

 

 

 

────

 

 

 

「滝壺、ほんとに申し訳ねぇ。この埋め合わせは必ずする……っ前に、だ。あのぉ……なんで一方通行の旦那がこちらに……? あ、もしかして滝壺に捕まっちまったのか……?」

 

「違うよ、はまづら。一緒に行こうって聞いたらこころよく頷いてくれたんだよ」

 

「脚色してンじゃねェよ。帰ろォとしたらマフラー引っ張りやがってクソ電波が。おゥこら馬鹿面ァ、オマエの女に鬱陶しく絡まれた分とマフラー引っ張った分、その面に叩き込ンでやっからありがたく思えよ」

 

「ひぃっ!? やめてやめてホントあんたの一発は洒落にならないから!」

 

「一発? 引っ張られた回数だけでも十二回なンだが? ついでに電波女と豆チビに仕方なく奢ってやった分も追加な」

 

「はぁ!? ちょ、滝壺は兎も角、絹旗の分までかよ? そんなに殴られたら浜も面も無くなっちまうって!」

 

「おい第一位、ちょっと良いですかね。浜面がどーなろうが超どうでも良いんですが、豆チビ呼ばわりは超撤回して下さい。めっちゃムカつきます」

 

「あ、あのー……一応、風紀委員の前なんで、暴力行為は止めて貰っていいかしら? というかね、さっきから第一位とか普通に聞こえるんだけども。その、君の仇名……とかじゃないのよね」

 

元より静まり返っていた訳ではないとはいえ、物言いたげな黒子の案内で連れられた三名が場に加われば、やはり活気が上がるのは自明の理ではあるが。

口々に飛び交うのはやたら物騒な悪態やら脅迫やらで、しかもさらりと流れる聞き捨てならないワードに、思わず口を出してしまった事を、この支部のリーダー格である固法美偉は後悔した。

 

第一位に纏わる血生臭い噂など、枚挙に暇がないほど溢れている。

多少の尾ひれは付いて回るのも有名税ではあろうが、妙に実態感のある内容も中にはあった。

何よりも真っ直ぐにギラリと尖る紅い視線を向けられれば、心臓を氷水に浮かせたような途方もない怖気が取り繕うべく浮かべた苦笑を今にも殺そうとしているから。

 

それなりに数々の修羅場を潜って来た身とはいえ、能力主義が横行する学園都市に於いて、その実力差は赤子と大人程に離れているだろう。

別段敵意を籠められた筈でもないのに、膨大な先入観は必要以上の畏怖を抱かせる。

無意識に助け舟を求めようと視線を自分の後輩達に彷徨かせても、結局意味が無かった。

 

逸らされたり、見捨てられたりした訳ではない。

何やら一方通行を凝視しながら固まっている初春飾利は、恐らく驚愕に思考を支配されているんだろうから、まだ良しとして。

奥歯に異物を挟んだ様に、口元をモゴモゴと蠢かせながら、複雑そうに出方を伺っている白井黒子は、一体何があったというのか。

 

「…………」

 

「正真正銘、レベル5の第一位ですよ、このモヤシが。別に隠す事でもないでしょうに。超スター気取りですか、似合いませんね」

 

「うぜェな、絡むンじゃねェよミジンコ。このチンピラ連れて帰ンのに一々騒がれンのも怠いだろォが。そこジャッジメントの反応見てなかったのかよオマエ」

 

「……確かに少々お見苦しい姿をお見せしました。しかし、私は白井黒子と名乗った筈ですの。であれば役職名ではなくちゃんと名前で呼んで戴きたいのですが」

 

「……別に、オマエの反応は普通だろ。悪名高い第一位様だ、風紀委員なら必要以上に警戒しちまっても不思議じゃねェ。まァ、ンな事なンて知った事じゃねェってンならそれまでだが」

 

「……むぅ、そ、そんなつもりで言った訳じゃないです、超冗談の通じない男ですね、全く…………すみません、でした」

 

「……チッ。オラ、帰るンならさっさと支度しろ馬鹿面。乳繰り合うンならホテルにでも行きやがれ」

 

「ほぁっ!? お、お前いきなり何言ってんだよ、誰もそんな事してねーだろうが!」

 

「何動揺してるんですか浜面、キモいです」

 

目まぐるしい情報過多に色々と置いてけぼりになるなんて、書類仕事やら雑務に馴れた筈の美偉にとっては実に久しぶりの感覚だ。

第一位というビッグネームと顔見知りどころかそれなりに交流のある少年少女達の堂々とした様子やら駆け引きやら暴言やらに眩暈さえ覚えるが、どうやらそれは過剰な防衛意識を自覚するには都合が良かったらしい。

 

口も粗暴で目付きも鋭いが、下手に此方を刺激するまいとする姿勢やら、本人にその気が無いとしても、さらりと黒子をフォローする辺り、悪評通りの人物という訳ではなさそうだ。

第一位なら第一位なりに色々と抱えるものがあるんだろう、少し陰を挟む斜に伏せた横顔を一瞥しながら、小さく吐息を落とす。

 

「申し訳ないんだけど、もう少し待っていただいても? 必要書類の証文がまだ埋まってないのよ」

 

「此処で待ってもいい?」

 

「えぇ、勿論。あ、初春さん、皆さんにお茶を入れて欲しいんだけども」

 

「──っは、はい! ……ぁ」

 

高々自販機の誤作動一つにもそれなりの書類を必要とするのだから、融通の効かない職務ながら、浜面の恋人である滝壺から特に不服が上がらない事に安堵する。

 

だが、仕方ないからとはいえ待ち惚けを求める相手にも礼を為さねばなるまいと、脱力気味に肩を回しながら飾利へと茶酌みを頼めば中々に肝の太い彼女にしては珍しく慌てた返事に苦笑を誘われるが、続けて漏れ聞こえた小さなソプラノがふと引っ掛かって。

どうしたのだろうと、力無く細められた薄鳶色の瞳を追えば、のそりと立ち上がる白い少年へと行き着いた。

 

「……ンじゃ、俺は帰ンぞ」

 

「あくせられーた、もう帰るの?」

 

「これ以上付き合う義理ねェだろ」

 

「なんですか、このバカップルに私一人で置いてくつもりですか。超薄情ですね」

 

「知るかよ」

 

「な、なんか悪かったな、一方通行」

 

「言っとくがな、チンピラ。十二発をチャラにした訳じゃねェぞ。次会う時まで精々顔面鍛えとけよ」

 

「いや無理だから……仮に鍛えれたとしてもお前相手じゃ意味ねぇだろ……」

 

「大丈夫だよ、はまづら。もうはまづらと呼べない何かになっちゃっても、私はちゃんと応援してるから」

 

どうやら彼は単に付き添いに過ぎなかったらしく、余り長居するつもりはないようだ。

何か予定を控えているというより、余計な混乱を招くまいと自分達に気を使ってくれているのかも知れない。

静謐に閉ざされた表情からは真意までは読み取れないので、先程の口振りから推測したに過ぎないが。

その憶測が正しいとすれば、若干卑屈な考えだと指摘したいが、彼が第一位と聞いた時の自分の反応が原因の一端でもある気もして、そこまで踏み込む事は固法には出来なかった。

 

「あ、第一位さま、少しお待ちを。固法先輩、見送りに行っても宜しいですか?」

 

「えっ? 白井さんが? ま、まぁ……私は別に構わないけれど……」

 

「……見送りなンざ要らねェ」

 

「あら、第一位さまともあろう方が、口約束とはいえ反故にする気ですの?」

 

「……別に礼も要らねェっつってンだろ」

 

「そう言う訳にもいきませんわ」

 

「……しつけェ奴」

 

「ジャッジメントですもの」

 

「どォいう返しだそりゃ……チッ、勝手にしろ」

 

「えぇ、それでは……」

 

どういう風の吹き回しだろうか。

普段の御坂美琴に纏わり付くあの変態染みた顔でも、風紀委員としての凛々しい顔でもない、いかにも淑女っぽい黒子の対応に少々呆気に取られてしまう。

何やら礼がどうとか言ってはいたが、目尻を緩めながらも我を通す、優し気な淡い表情など殆ど見た事が無かったのに。

ひょっとしてやっとまともな春が彼女にも来たのかと勘繰ってみるも、どうも違う。

何とも腑に落ちない不思議さが胸に巣食うが、かといって下手に根掘り葉堀り尋ねるのも如何なものか。

 

好きにすれば良いと振り返る事なく扉へと向かう白い背中を追い掛ける、二つ括りの小さな乙女の背中が去っていくのを見送りながら、美偉はううむと気難しく腕を組んだのだった。

 

だから、彼女は気付かなかった。

ソワソワと落ち着きなく右往左往としながらも、きゅっと決意する様に唇を固めた、飾利の様子に。

 

 

 

 

───

 

 

 

リノリウムの回廊に乱れ飛ぶ規律もない筈の足音を春間近の五線譜に記すなら、不思議と調律が取れていてペンを握る掌を惑わせる事はない。

白い三面世界を歩む右隣の白亜の少年は飽和性を持たないのに、白色の中でも一際異物感を放つのは、第一位という色眼鏡を通して見ているからだろうか。

 

綿毛みたくふわふわと閑らかに流れるセミロングの髪が流線を形成しながら後ろへと運ばれる繊細さ、窓は閉じたままなのに、蒼い風に撫でられている様に見える。

 

異物、異端、別つものの先、対岸の向こう側。

 

視覚では捉えれない筈のラインがやけにハッキリと感じる無意味な閉塞感から抜け出したくて、黒子は唱える様に、静かに赭色の瞳を閉ざした。

 

「不躾な真似でしたでしょうか?」

 

「拘り過ぎの間違いだろ。高々、礼一つに目くじら立てねェで良いンじゃねェの」

 

「行き擦りの恩だとしても、そこに感謝の気持ちを抱くならばしっかりと礼をするのが淑女と云うモノですの。これでも常磐台に席を置いてる身ですので、そこは御容赦願いたいのですけれども」

 

「常磐台ねェ……酔狂な事で」

 

「まぁ、第一位さまがあの場でさっさと居なくなってしまわなければ、この黒子も此処まで拘る事には成らなかったとご了承下さいな」

 

「礼を言いてェのか責めてェのか、どっちなンだ。名前通り白黒ハッキリしろよツインテール」

 

「あら、ご免遊ばせ。お名前は覚えて戴けてるみたいですのね。であれば、ツインテールとかジャッジメントとかではなく、白井、若しくは黒子と呼んで欲しいのですが」

 

「……どいつもこいつも。オラ、白井。これで良いンだろ」

 

「えぇ、それでは」

 

 

気怠そうに桜唇の端っこを歪めながら乱雑な手並みで首筋を弄ぶ仕草は、意外にも子供っぽい。

主張しない三原色の一角は分かり易く赤らんだりはしていないが、多分、照れているんだろう。

素直ではない人間の反応は傍らで何度も目にしているからか、不思議と第一位と仰々しい肩書きの少年の感情の推移は、案外簡単に黒子にも汲み取れた。

彼女の敬愛する御坂美琴と、どこか似寄った部分があるのかも知れないと、弧を和らげる。

 

佇まいはたおやかに、凛と背筋を伸ばして、第一位の先へと踊り出て。

スカートを摘まむ手が少し緊張気味に力が入る理由は、考えない様にするけども。

 

「昨日は、お手を貸していただき本当にありがとうございましたの。それと……ええと、ご無礼を。みっともない姿をお見せしてしまいまして……」

 

「……急いでたンだろ、別に良いっての。まァ、『アレ』があったからな、淑女らしく取り繕われても今更っつゥか」

 

「んぎゅ……えぇ、まぁ、何分余裕が無かったもので。しかし、そこは触れずにそっとして置いて下さるのが紳士の嗜みかと思いますの」

 

「ハッ、俺ほど紳士とやらに縁遠い奴も居ねェぞ。ンなモン充てにする相手じゃねェ事くらい見りゃ分かンだろ。風紀委員としてどォよ」

 

「ご心配なく、これでも大能力者ですから、其なりに(こな)せていますのよ。と言っても、第一位さま相手では霞むでしょうが……それに、そう縁遠い者ではないと思いますの。私に手を差し伸ばして下さった姿は、中々堂に入ったモノでしたが」

 

皮肉混じりに肩を竦める一方通行に、つい口を尖らしたのは、半ば淑女としての矜持の保守でもある。

わざわざ手に持っていた買い物籠を置いてまで、不様に尻餅を着いたまま動揺する自分を助け起こそうとする姿に、一瞬とはいえ思わず見惚れたのは今更無かった事には出来ない。

そう易々と異性に現を抜かす女ではないのだから、惚けさせた当の本人に謙遜染みた卑下を紡がれては、訂正させたいという背伸び。

伴って、羞恥やらちょっとしたときめきやらで頬に薄っすら紅を散らすのだから、淑女にしては黒子もまだまだ年齢相応である。

 

「……そォかよ。勝手に勘違いしてろ」

 

「そこまで卑下するのもどうかと思いますが、まぁいいですの。ところで……御名前を伺っても宜しくて? いつまでも第一位さまとお呼びするのもアレですし」

 

「……別に、好きに呼べよ。能力名でも順位でも。あのアホ共もそォ呼ンでたろォが」

 

「いえ、ですが……能力や順位などあくまで付属要素、大事なのはその人そのものではありませんの? 所詮、学園都市のみの符号ですし、少々味気ないというか、寂しい気も……」

 

「────」

 

学園都市のみの符号。

空洞の中を駆け回る鋭い心音が、翼をはためかせて嘴を突き立てるから、喉が凍り付いたみたいに固まる。

きっと、何気ない、些細な拘りから零れただけの口振りが強く刺さるのは、どうしてか。

 

学園都市、科学の街、斜陽の園。

光と影が極端に二分化された世界の対岸は、まるで突き放されている様に遠く思えた、こんな一言で。

 

ああ、確かに自分は少し、変わったのかも知れない。

随分と、毒されていたらしい。

こんな一言が、小気味良いとさえ思えるのだから。

 

『あぁ、そんなの──どうでもいいわ。試験か何かで出るんなら覚えてやっても良いけど』

 

名も知らぬ白い鳥が、蒼い彼方へと消え去った。

大きな翼を、羽ばたかせて。

 

 

 

「……あの、第一位さま?」

 

「……クカカ」

 

「?」

 

「──白井。オマエ、良い『三下』振りだ。風紀委員ねェ、酔狂な木っ端共の集まりかと思えば、骨のある奴が居るもンだな」

 

「ふぇ!? な、な、何をそんな、というか三下って……それ、褒めてませんの! 私が言うのも何ですが、白黒ハッキリなさって下さいまし!」

 

「ハッ……ばァか。三下ってのは褒め言葉だ、覚えとけ。良かったなァ、新たな公式だ。『試験に出るかも』知れねェぞ? くははッ」

 

「──っ…………むぅ、じぇ、絶対馬鹿にしてますの!

意地の悪い殿方ですのね! ッ、仰る通り、紳士足るには確かに配慮が足りませんわ、訂正しますの」

 

「はン。最初っから履き違えたオマエの幻想だろ、ぶち殺すも訂正するも好きにしたら良いンじゃねェの」

 

「っ、えぇ……そうしますの」

 

見惚れるのは、これで二度目になるのだろう。

けれど質の悪さは段違い。

何かが切っ掛けで彼の曇った表情に不安になって、窺う為に距離を詰めて覗き込んでしまったのが失敗だったのかも知れない。

 

深い瞑目を置き去りにした白い舞台に紅い瞳が、咲いたなら。

きつく弓なりに結んだ唇が彩めいて、心臓を奪われるかと錯覚する程に綺麗に。

柔らかい少年みたいな無垢と、静謐めいた達観を織り交ぜて溶かした様な、笑顔。

 

大っぴらな快笑でもなく、苦笑でもない、不思議なもの。

光と闇を閉じ込めた鮮やかな情緒は複雑なのに、空筆で描いた筈のキャンバスは、極彩色に映って。

 

何故だろう、少し切なくなって、心の奥がチクリと痛む。

熱を産んだ涙腺をあやされるみたくに、静かに透明な口付けをされた様な情動で、心臓が跳ねた。

 

(うぅ……何なんですのぉ……)

 

昨日の熱が振り返したのか、顔がとても熱い。

あの紅い瞳を長く見詰める事がとてつもない難題に思えて、つい逸らしがちに彼方此方へと赭色の視線が置き所を探して迷子になる。

もごもごと乙女らしい小さな口の中で泡沫みたく沸き立つ幾つもの言葉を噛み殺しながら、右往左往と白をさ迷う視線が、やがて視界の隅に鮮やかな色彩過多を見留めた。

 

 

「初春……?」

 

「ン?」

 

「あ、良かったです、直ぐ追い付け……あれ、白井さん? どうしたんですか、顔真っ赤ですけど」

 

「な、何でもありませんの」

 

「……はぁ、そうですか」

 

パタパタと気の抜ける足音は見た目通りの非力さを物語るのか、妙に間延びして空気感さえも塗り替える日和具合を伴うけれど、黒子にとってはある意味助け舟だったのかも知れない。

気拙いと云う程ではないにしろ、静穏とした廊下でただ一人、鼓膜を(つんざ)く心臓の音にクールタイムを挟めるのならば、ホッと安堵の吐息一つ落とせる。

しかし、特別目敏い訳でもない人間でも普段滅多に御目にかかれない、羞恥心を満遍なく顔に灯しているのなら、つい指摘してしまうのは至極当然。

 

なるべく汲み取られないようにと平静を繕った所で、やはり違和感は浮き彫りなままであるらしい。

怪訝そうに、かつ可愛らしく小首を傾げる飾利の髪飾りである花が慣性に震えてクシャリと鳴る音に視線を取られる内に、どうやらそれ以上の追及は間逃れたようだけれども。

 

「ところで、どうかなさいましたの? 何か、緊急の連絡とか?」

 

「あ、いえそうじゃなくて……って、あ、一方通行さん、待って! 待って下さい! あの、私、貴方に用があって……」

 

「──チッ」

 

「……初春? 何をそんなに慌てて……第一位さまも、初春を見るなりそんな、そそくさと……」

 

どこか切羽詰まったような飾利の様相に、今度は黒子が怪訝そうな視線を向ける番となった。

生唾を飲み込んで声を尖らす辺り、何か見えない事情を鑑みるが、それよりもまるで彼女から逃げる様に踵を返した一方通行の鋭い舌打ちが、黒子の頬から熱を奪う。

 

彼から与えられたのだから、奪われるのも道理だが、どうしてか少しだけ切ないと感じる奇妙さを押し留めた所為で、言葉に滲む薄弱が(しお)らしい。

 

どうにも後ろめたさを微かに傍らに置いて、ガリガリと面倒臭気に後頭を乱暴に掻く一方通行を杖を繋ぎ止めた飾利の細腕が、どこか震えているのが目に付いた。

 

「……うん、見間違えじゃない、ですね。あの……お久しぶりです。私のこと、覚えてますか?」

 

「……さァな」

 

「私は、覚えてます。独立記念日の時、アホ毛ちゃんと一緒に──」

 

「……はァ、分かったっての。覚えてンよ、で、どォした」

 

「えへへ、やっぱり。その、ありがとうございました。貴方が助けてくれなかったら、多分私、第二位に殺されてたと、思うから……」

 

「……チッ」

 

「う、初春!? だ、第二位に殺されかけたって……独立記念日、って、あ、貴女、あの時脱臼していたのは、単にドジったからだって……」

 

「あ……ご、ごめんなさい白井さん。えーと、ですね……実はあの日、かなりピンチになっちゃって、その、あんまり心配かけたくなくて、つい……」

 

「ついって……まぁ、気持ちは有難いですけど、第二位に殺されかけたって何ですの。初春、いつの間にそんな恐ろしい目に……」

 

 

驚きの余り、喉の水分が漏れなく蒸発してしまう程にかさついてしまうのを、生唾で何とか潤すが、思考の混乱は間逃れない。

第二位、垣根帝督。

紛う事なくこの学園都市のビッグネーム、黒子の慕う御坂美琴すら隔絶した実力差があると言われる人物に、殺されかけた挙げ句、第一位である一方通行に救われた。

簡略化して飾利の言う事実を並べてみても、どうしてそんな経緯を巡ったのかよりも、よく脱臼一つだけで済んだモノだと感心してしまう程だ。

レベル5とは、ましてやそのトップツーとは大能力者である黒子でさえ、そこまでの格を感じてしまう存在なのだ、無理もなかった。

 

飾利の心配を掛けたくないという気持ちは理解出来るし有難いのだが、後から知らされる者の気持ちも分かって欲しいと。

既に過ぎ去ってしまった事項だし、三ヶ月以上も飾利の無事な姿を目にしていたとしても、心臓が凍り付いてしまう程に驚かされたのだから。

 

「……えっと、一方通行さんの知り合いの女の子が、何だか第二位の人に目を付けられたみたいで、ですね……」

 

「──この花畑が、クソメルヘン野郎に張り合いやがってな。ったく、身の程知らずが」

 

「だ、第二位相手に……初春、貴女は本当に無茶ばかりして……」

 

「だ、だって、つい……わわ、私だって本当に怖かったんですよぅ……」

 

飴玉を転がしている様な甘ったるいソプラノがリフレインを呼び起こしたのか、ぷっくりとした林檎みたいな頬が青褪めていく辺り、相当に無茶をしたという自覚はあるらしい。

黒子自身も風紀委員としての活動において無理無茶を幾つも押し通して来た身だからこそ、詰める言い方は出来ないが、支部長である美偉や彼女の親友である佐天涙子が聞けば、間違いなく卒倒していただろう。

 

「……なら、さっさと忘れちまえ。礼なンて要らねェから」

 

「えっ……」

 

「鏡見てみろ、笑える面してンぞ。ガキには荷が勝ちすぎてンだよ、俺やクソメルヘンみてェな存在は──無かった事にしとけ」

 

「…………」

 

緩やかな静寂、涙線を押し留める白い指が宥めるように青褪めていた飾利の額をコツンと小突く。

粗暴な音ばかりを紡ぎたがる斜に構えた横顔が儚く囁くテノールボイスが、やけに重い。

 

思い返すだけでも身震いしてしまう程の鮮明は恐怖ごと拐う面影ばかりが陰を生む。

明確なラインを引く、此方と彼方。

しかし、一方通行はまだ分かっていない。

臆病で気弱な少女とて、目に見える白線を容易く乗り越える可能性を孕んでいるということを。

その輝きの光こそ、何より彼が尊いと見上げていた筈なのに。

 

「……嫌ですよ、そんなの」

 

「……はァ?」

 

 

一方通行はまだ、分かっていない。

光とは、一度闇に触れただけでその全てを侵される程に儚いものではない。

踏み潰された花飾利とて、また茎を空へと伸ばし、蒼い風を愛せるという事もあるのだと。

 

 

「確かに、怖かったですよ。でも、だからって簡単に全部を忘れる事なんて出来ません」

 

「……」

 

「それに、全部無かったことにすれば──あの時、貴方が私を助けてくれた結果。それだって、無かった事になるじゃないですか」

 

「──」

 

 

紅い瞳が、伏せられた顏に連れられた白い髪で出来た幕に隠される。

投じるように、溺れるように、飲み込むように、謳うように。

 

幕の合間で迷子になる紅のささくれが、酷く脆い硝子細工に見えた。

寂しさを感受する静謐な口元が、突き立てる何か。

学園都市第一位が、やけに小さく見えたから。

 

「……第一位さまのお気持ちはごもっともでしょうが、初春の言う通りですわよ。怖いからって忘れる様な柔な人間に、風紀委員は務まりませんの」

 

「白井さんなんて私より無茶してるから、固法先輩に何度も叱られますもんね」

 

「……初春、何言ってますの。確かに頻度は私の方が上かも知れませんが、貴女が痛い目に合う事件はどれもこれも規模が大き過ぎるんですの。幻想御手の時もそうですが、第二位に啖呵を切るなんて最早正気の沙汰じゃありませんの!」

 

「えぇ、でもどうせ、白井さんでも同じ事になってたと思うんですけど……」

 

「私はまだ能力を使えば何とか逃げ仰せれる可能性がありますし、初春よりも場馴れしてますもの。というか、どうせと云う言い方にはやけに棘を感じるのですが?」

 

「別に棘なんてないですよー……白井さんだって、第二位相手に逃げ切れるとか、ちょっと調子乗ってません?」

 

「乗ってませんわよ! 喧嘩売ってますの!?」

 

「売る訳ないじゃないですか……変態相手に」

 

「んなっ!?…………うーいーはーるぅぅ……」

 

「あ、やば……」

 

売り言葉に買い言葉。

肩を持ったかと思えば梯子を外されて、何故だか喧嘩腰なやり取りが、ついには怒髪天に触れたと言わんばかりに黒子のツインテールが逆立つ。

 

眩しい、と。

目を細めれたのは一瞬で、呆気に取られた一方通行を余所に置いて口論を交わし出すのだから、おちおち感傷に浸っても居られない。

ただ、少し演じる様に肩を竦める少年の口元は、緩やかに弧月を象って。

 

 

「『三下共』が……」

 

 

蒼い彼方へと向けた視線、雲の中へと吸い込まれて行く見知らぬ鳥の影。

それに名前を付ける為の、欠片はこんな所にも転がっているのだ、惜しみもせずに。

 

あぁ、確かに。

 

こんなに分かり易く転がっているのなら。

試験にすら出ないという話も、良く分かる。

 

それが悔しくて、少し、痛い。

 

 

 

 

 

 

 

『Rigel』____『巨人の左足』






Rigel:リゲル

オリオン座β星 (β Ori)

スペクトル型:B8Ⅰae:

距離:700光年

輝き:0.12等星 全天第七位


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Re:Play 8『Procyon』

耳鳴りが途切れない。

燦々と照り付ける日射しは明暗の落差が激しくて、ブリッジの放物線から伸びた影に全てを閉ざされたかと思えば、ストロボの閃光みたく色全てを真っ白に焼く。

 

低気圧と名札をぶら下げた透明な郵便配達員は乱暴で、突拍子もなく吹き付ける風の便りに茶栗のミドルカットの境目が浚われて、皮膚が痛い。

無機質なコンテナの城には支配者は居ない。

革靴の裏で角を立てる横暴な石砂利を見下ろしながら歩けば、耳元で誰かが囁くように、いけ好かない白昼夢が嗤っている。

 

「……」

 

もう随分遠い過去にも、すぐ間近の昨夜とも思えてしまう、鮮烈で、褪せて、どちらに置いておきたくもない、あの日の事。

此処で、殺された自分と同じ顔。

無惨に千切れた脚、鮮血が作った伽藍堂な水溜まり、絶望の二文字が何よりも痛みを生んだ世界。

 

其処で、ワラッている、白貌の少年。

憎悪に焼かれた脳裏で葬ってやりたいと願って、けれどそれは余りに無謀で。

乱雑に突き付けられた力の差に膝を付き、恐怖に震えるのをただ我慢するしかなかった。

 

化物。

悪魔。

死神。

絶対者。

 

狂ってしまいそうな程の白い男、人の命を塵としか思っていない畜生。

その認識が、薄らんで行く事など、あってはならない筈なのに。

赦されてはいけない、赦しちゃいけない。

刻み付けた憎しみの業火が、酷く頼りない。

 

「……なんで」

 

見下ろした、自分と同じ顔が跡形もなく壊された場所へと、座り込んで手を伸ばす。

ざらりとした石と砂が冷たく軋んで、他人事みたいな白々しさすら感じて。

カラカラに渇いた喉は調律を怠ったピアノの様に、笑えてしまうくらい、無様な音を吐き出した。

 

リフレインが囁いている。

猫と触れ合う穏やかな顔。

子供みたいにアイスを頬に残した情けない顔。

文句ばかり言う癖に、缶バッチを返さない拗ねた顔。

巨大なトレーラーに消えていく、小さな背中。

 

「……忘れてない、アンタの事」

 

忘れるなんて出来る筈がない。

深く、深く残っている。

悔恨と憎悪と無情。

灯火は確かに、未だ胸にある、のに。

 

「なのに、なんで……」

 

 

──誰を救え無かったンだ

 

 

──ほんと……変わったよ、お前

 

 

斜陽の街、陽炎が薄情な素振りで揺れている黄昏。

冷たいコンクリートを背にして、激しい動悸を刻む胸を押さえながら、神経の殆どを鼓膜に溶かした。

御坂美琴がまるで気付けなかった、上条当麻に打たれた心の楔。

 

それを指摘したのは、見抜いたのは。

自分と同じ顔を10031回も虐殺した男。

嗤いながら、9982号を殺した男。

一方通行。

目を、耳を、神経を、世界を疑った。

無機質に脳裏に並べられた言葉が、ただただ淡々と、怖じ気すら感じる程に。

 

──綺麗事並べて、相手を救った気になって、いざ躓いたらこんなにも薄っぺらだった。俺はヒーローなんかじゃない、自分でそう思っていた筈だったのに、な。

 

美琴には、まるで見せなかった弱さを、諦めた様に語る。

 

上条当麻が。

アイツが。

一方通行に。

アイツに。

 

──幻想……それに縋っていたのは、俺の方じゃないのかって

 

──それの何が悪ィンだよ

 

美琴には、まるで気付く事が出来なかった、弱さを見抜いて、受け止めた。

 

一方通行が。

アイツが。

上条当麻を。

アイツを。

 

 

──ヒーローである上条当麻はもォ飽きてンだよ。次は、唯の人間である上条当麻を見せてみろよ

 

 

「……ヒーロー、か。はは、ホントよ。私、なんで、気付いてあげられなかったんだろう」

 

彼の理解者でありたかっただけ。

 

彼の隣に居たかっただけ。

 

彼に頼られたかっただけ。

 

彼の力になりたかっただけ。

 

彼に好かれたかった、それだけ。

 

「……よりにも、よって。なんでアイツが一番最初に気付いてんのよ。意味、分かんない……」

 

いや、違う。

あの後、茫然自失となりながらも夕闇の奥へと走り去った美琴の耳にも、確かに届いていた。

自分と同じく、彼を想うシスターの圧し殺した泣き声。

恐らく、インデックスも気付いていたんだろう、上条当麻の白い傷痕に。

もしかしたら、彼女が誰よりも、一方通行よりも早く気付いたのかも知れない。

 

けれど、でも、確かに。

上条当麻の弱さを認めたのは、紛れもなく、あのおぞましき狂白の化物で。

故に、御坂美琴は蚊帳の外へと弾かれたまま。

 

「……こんなのってないわよ。訳、分かんない」

 

熱病に浮かされた頭で一晩考えても、正解の見えない公式は悪魔が描く証明文みたいに、賢者を気取った数式達が憎たらしく嗤うばかり。

 

けど、間違いなく突き付けられた事。

 

あの白い男は、上条当麻の弱さを認めてやれるほどに、変わってしまったこと。

上条当麻の弱さを認めて、受け止める存在に、自分は至れなかったこと。

 

──私に、アイツを好きでいる資格なんて、あるの?

 

 

『幻想だろォが何だろォが、テメェは偽善を使って救ってきたンだろ。テメェがそれを否定すンのは構わねェよ。けどな、それで救われちまったバカ共は、例えそれが下らねェ幻想だとしても、否定はしねェよ』

 

『迷って良い、立ち止まって良い、幾らでも後悔しやがれ、嗄れるくれェに泣き叫ンだって良いンだ。誰もテメェの弱さなンざ否定しねェし、一々幻滅しねェよ』

 

上条当麻は、ただの人間に過ぎない。

都合の良いヒーローなんかじゃない。

膝を折る事もある、苦しみ蹲る事もある。

美琴だって知っていた筈なのに。

 

あぁ、確かに。

アイツに救われてばかりの自分は。

アイツの力になる、ただそればかりで。

アイツの隣に居たい、ただそればかりで。

 

『いつか』アイツが倒れそうな時、支えてあげたいと願うばかりで。

 

とっくにボロボロになっていた偽善使いの少年の、小さな小さな悲鳴を聞いてあげることも出来なかった。

 

 

上条当麻を救ってやろうと、思った事はあっただろうか。

作り出した英雄像を『見上げて』ばかりで、足元でボロボロの身体に鞭を打つ少年を『見下ろす』事は出来なかった。

 

だって、アイツは強いから。

私の足元なんかで苦しんでいる訳がない。

誰も彼もを救うから、私も力になれるように。

アイツの所へ行かなくちゃ。

『遥か先に居る筈』のアイツの背中を追い掛けなくちゃ。

アイツに、上条当麻に置いていかれたくないから。

 

「っく……バカじゃないの、私……最悪よ、くそっ、くそっ、チクショウ! 結局、アイツを見失ってばっかりで……」

 

幻想を殺したかった。

自分勝手な感情で目を曇らせて、背中ばかり追ってしまった自分の至らなさごと。

 

現実を殺したかった。

自分も『救われた』んだと、認める口振りで静かに紡ぐ一方通行が、上条当麻の弱さに気付けた、道端に転がる何て事ない奇跡ごと。

 

自分だけの現実に、溺れたかった。

 

いの一番に彼の弱さに気付き、彼を癒し、彼を支えて、彼の隣に立つ自分の姿。

美琴、と自分の名前を呼んで、悩みを打ち明けられて、仕方ないわねと笑って、力になってあげられて。

そんな幻想を、抱き締めていたかった。

 

でも、そんなふざけた幻想は叶わなくて。

科学の街に溢れている、ありふれた現実ばかりが広大な荒野の先に広がっていた。

 

 

なら、折れるのか。

 

 

「ざけんじゃないわよ」

 

 

なら、泣くだけか。

 

 

「もう、昨日で枯れたわよ」

 

 

なら、縋るだけか。

 

 

「幻想はもううんざりよ」

 

 

なら、諦めるのか。

 

 

「何の為、アイツを追い回して来たのよ。今更だわ」

 

 

なら、立つのか。

 

 

「当っ然」

 

 

なら、どうする。

 

 

「否定なんかしないわよ。アイツが弱い? だから、何よ。その分、私が強くなる。今度こそ、救ってみせるわよ」

 

 

なら、どうする?

 

 

「どーせ、またあっちこっちに首突っ込むんだから。あのシスター1人に背負わすなんて荷が重い筈。女として水空けられんのも御免だけど、ハンデにしといてあげる」

 

 

なら、行こうか。

 

 

「学園都市、第三位。嘗めんなコラ」

 

 

蹲っていた顔を上げて、晴天を睨む。

砂利のついたスカートの汚れを払って、運命に申し込む。

地へと折り曲げた背を正して、世界にさえ胸を張る。

 

凛々しく、強く、美しく。

弱い男を支えるのには、もってこいのステータスだろうと。

表情を変えずに昇るだけの白い太陽へと、中指を立てる様に。

 

何故だろう、その向こうで。

憎たらしい男が、擽ったそうに鼻で笑った気がした。

 

 

──遅ェよ、三下

 

 

「煩いわよ、鬼畜野郎」

 

 

出刃るんじゃない、何様のつもりだ。

最低の屑野郎、今に見ていろ。

どの口で大層な事を言ってるんだ。

少々、アイツを分かった所で優越に浸るな、ムカつく。

こういう時は、アイツの笑顔なり格好付けてる横顔なりを思い出す所でしょう、空気読め。

 

不思議だ。

太陽が眩し過ぎて、瞑目と共に白んだ瞼の裏。

白に紛れて、白が笑う。

空気も読まず、どこか満足そうに背中を向ける。

腹立だしい。

あれからどんな道筋を追って、あぁまで偉そうに言ってのける面の皮の厚さを手に入れたのかは知らないが。

次会った時は、とっておきの蹴りでも入れてやろうか。

 

 

「……さって、アイツ、スーパーにでも居れば良いけど」

 

 

あぁ、全く。

嫌な顔を思い出して、気分が悪い。

胸糞も悪い、台無しだ。

 

けれど、何故だろう、なんで自分は少しだけ笑みを浮かべているんだろうか。

気でも狂ったのか、頭でも沸いたのか、馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 

 

「────」

 

 

一度だけ、振り返った場所。

墓石もない、花束も捧げられない、名もなき死者の眠る場所へと、鳶色のプリズムを細めて。

動かした四文字の音連れを、風の便りが奪っていく。

透明な手紙には何も書かない癖に、何処かへと届けに行くのだろうか。

 

見上げた高い空の向こう。

蒼いスケートリングを心地良く滑空する、名もなき白い鳥が長い翼を広げて、風を切る。

蒼と瑠璃の境界線はまるで見えないし、まだまだ距離は離れているのに、いつかそこへと辿り着くんじゃないかと思うくらいに。

彼方へと、蒼に変わる。

 

それが、太陽の光よりも眩しく見えたから。

鳶色を強く、閉じた。

頬伝う水滴を、一つ連れて。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 

冷たさすら帯びている白い部屋は、拭い切れない汚泥の顏達が本能的に求めた潔癖を敷き詰めた化学薬品の無味無臭地帯。

警告色の黒一面の方が、まだ温情を感じるのは、結局は自傷しがちな自意識に常々、脚を取られているからだろう。

 

引き摺るにも今更だろうにと、飴色の紅茶を一口啜れば、癖の少ないブレンドリーフが味覚を擽るのに、ティーアップのハンドルが揺れている。

定まらないのは、幾つもの同じ少女の顔が浮かぶから。

隣でもの珍しそうに紅茶を眺める少女に、少し飲んでみるかと手渡したのも、もう随分前の事。

 

生み出してしまった悔恨から目を逸らさずに居る日々にも、やがて慣れてしまうのだから人間とは身勝手で、白々しい生き物だとつくづく思う。

けれども、恒久的に行われる罪の償い方の形を、少しだけ変えることが出来たのは。

紅い瞳を気難しそうに細めて、ひたすらに展開されるデータバンクの情報海洋へ意識を沈めている、あの一方通行による一言なのが、どこか皮肉に感じる。

 

「……少し、休憩入れたらどう? Without 倒れてしまっても知らないわよ」

 

「問題ねェ。まだ2時間も経ってねェ筈だろ」

 

「さぁ、分からないわ。well 折角、紅茶淹れたのだから貴方も飲みなさい。心意気は買うけれども、急いては事を仕損じるという慣用句を知らないの?」

 

「……情報詰め込ンどけば、その分、方法を模索出来ンだろ。つゥか、紅茶淹れンならコーヒーくれって三日前に言わなかったかァ?」

 

「忘れてたわ。because 私も芳川さんも紅茶派だから。immediately 手が空いてる娘に買って来させましょうか」

 

「……ンな必要ねェだろ。そこ置いとけ、後で飲む」

 

些細な事でも妹達に頼むのを拒んでいるのか、深い藍色の癖髪を弄る布束砥信が手ずから淹れた手間を惜しんでくれているのか。

問うまでもなく前者だろうと肩を竦めて、淡白に首を回しながらも流れる妹達の生成データの情報媒体から目を離さない少年の細い背中を眺めれば、漂う紅茶の白湯霞に白色がより濃さを増す。

 

あまりに繊細で脆そうな肢体ながらも、黒のカットブーツの底をフロアタイルの床に貼り付けて腕組みに立つ背中は、正直頼もしい。

構想で既に行き詰まってしまった砥信のプランへと射し込んだ光明は、弱音が紡いだ甘い幻想なんかじゃない。

学園都市第一位、この科学の街での最高峰の頭脳へ協力を結べたのは、非常に心強かった。

もっとも、そう伝えた所で皮肉か何かしか取られないだろうから、言葉にはしないが。

 

「……培養液、学習装置。そっち方面でのアプローチは、どれくらいやった」

 

「ある程度。成分表を1から見直してみたけれど、遺伝子レベルで誤魔化して来たのよ。indeed 細胞維持の仕組みからして遺伝子学を用いればとも思っても……」

 

「危険性が付き纏う、か」

 

「exactly……原石だったり、肉体変化系の能力者の実験から有用性を取り入れるかとも考えてみたけど、展望は見えない」

 

「……」

 

「生んだ癖に、治せない。惨めよ」

 

「凹むンなら他所でやれ。何の為に俺が居ると思ってンだ。無駄なら無駄で、そこに時間を割く徒労も無ェだけマシだ」

 

「……そうね。御免なさい」

 

男子三日会わざれば刮目して見よ、とは三國志演義が発端だったか。

一体どんな道筋を駆け抜ければ人は此処まで変われるのかと、実験当初からはまるで正反対に性質を纏う紅蓮の瞳の真っ直ぐさ。

 

『妹達を、普通の人間に戻す』

 

強い意志と、確かな覚悟を秘めた眼差しを以て、誓いを謳った学園都市第一位が布束砥信の居る研究施設に訪れて、5日間。

信頼を置くには、例え彼が打ち止めを救う為に奔走した経緯を知っていたとしても、かつての実験での心境もあって、中々難しいだろうと思ったけれど。

戻したい、ではなく、戻す。

希望ではなく、自分がやると言った以上、これは決定事項だとニヒルに笑う横顔を疑う気持ちは、春を迎えた銀世界みたくあっさりと溶かされていた。

 

だからこそ、持病みたく吐き出した弱音を不器用に払う白い掌が、自嘲を崩して、苦笑に変える。

冷たく足散らうのか、分かり難いフォローをするのか、どちらかハッキリして欲しい。

そう擽ったくなる気持ちを抱けるほど、今は余裕があるから。

 

「……オリジナルの遺伝子情報は、流石にもォねェか」

 

「えぇ、DNAマップも破棄されてる。or rather 破棄したのよ、芳川さんが。番外個体の二の舞にならぬよう、徹底的に」

 

「はン、どォせオマエも一枚噛ンでるンだろォが。だが、どォすっかな……」

 

「! ……何か考えが?」

 

「あァ。つっても、仮説にするには足りねェ情報もあるし、掻き集めたバンクのデータもまだ残ってる。プロット段階に過ぎねェ」

 

「……触りだけでも、教えてくれないかしら?」

 

「急いては事を仕損じるンじゃねェのか」

 

「早合点はしない。notwithstanding 今の私には、焦らされるのを楽しめる余裕も無いのよ」

 

 

暖かみのある白陶器のソーサーへと置けば、カチャリと鳴らすのはマナー違反だと云うのに、どことなく余韻を楽しむ口が、白々しい。

ただ、ふと抱いた願い。

妹達を、只の人間として当たり前の空の下に送り出してやりたいと、色々と試行錯誤した結果、難航ばかりを繰り返して来たのだ。

光明が射すのなら、咎を背負った身なれどその下へ駆け出したいと砥信が急かすのも無理はないだろう。

学年的には後輩に当たるから、少しだけ大人ぶって一方通行相手に言葉を取り回した挙げ句、綺麗に宙を巡って揚げ足を取られる不様など、拘る事でもない。

 

無力感に暮れてばかりの藍色鳩羽の瞳が、データベースの検覧を区切り、積もった疲労ごと深く吐息を無色に溶かして振り向いた、紅い瞳へとかち合う。

自分は、一体どんな表情をしていたのだろうか。

まるで一瞬、駄々を捏ねる打ち止めを宥める時に灯す穏和な煌きをそこに見付けて、羞恥のランプの火種が柔らかく燻った。

そんなに必死な顔をしていたのかと、鏡代わりにアッサムティーの揺れる水面へと視線を逃がしてみても、いつもと何ら変わらぬ可愛気のない平静な仮面が其処にあるだけ。

 

しかし一方通行からしたら、流星を仰ぐ少女みたいに淡い笑顔を一瞬とはいえ向けられたのだ。

そう、例え今も積見上げてしまった罪の山を必死に崩そうと藻掻いている砥信さえ、笑う事が出来るなら。

存在理由すら歪まされてしまった妹達だって、いつかは。

 

『……能力や順位などあくまで付属要素、大事なのはその人そのものではありませんの? 所詮、学園都市のみの符号ですし、少々味気ないというか、寂しい気も……』

 

味気ない型番を捨て、あくまでも一人の少女として。

たかだか学園都市のみの下らない符号を棄てさせる術を模索し、構築し、実行する。

その為に、一方通行は芳川桔梗に己が新たに抱いた薄情な願いを語ったのだ。

 

 

「妹達の細胞自体は人間だが、受精卵を薬物などの投与によってオリジナルに近い成体まで追い付かせた。それによるテロメアの負荷が妹達の短命の主原因だ」

 

「えぇ。however テロメアを伸ばすタンパク質をエンコードされたRNAを培養中の妹達の細胞に供給する方法は難しい。普通に開発された能力者ですら脳の微神経は一般人とは違うから一般的細胞と比較すれば細かな弊害がある」

 

「妹達ともなれば尚更、か」

 

「exactly だから私も断念せざるを得なかった」

 

「……ンなら、摘出、若しくは排除すりゃ、可能性の芽は出て来る」

 

「…………!? ま、待って。それは、つまり」

 

「──そォだ。欠陥電気、ンでミサカネットワーク。それそのものを無くし、RNAを供給する。リスクはあるが、条件さえ揃えば……」

 

「正気!? 能力者から能力を剥奪するなんて実験データもないのに……」

 

一方通行の発想は、ある意味盲点ではあったし理屈自体も分からなくはないが、まず前例がない。

当たり前だ、能力を強化し、発達させる事が研究員の主な目的であるこの科学の街に於いて、能力を剥奪する事が主目的に置かれる事など有り得ないだろう。

 

確かに、これは仮定だと前置きはされたが、それでも成否の判別は付かない以上、快復手術のプロット構築は難航しそうだ。

正直、絵空事を額縁に飾る様な途方の無さを砥信は感じていた。

しかし、目前の男には何か勝算が見えているのか、深く瞑目しながらも頻りに思巡して、小刻みに揺れる長い睫毛がどこか忙しない。

 

何故だろう、自分では霧掛かった推論でも、この男の頭脳ならば別の答えを導き出せるのではないか、とすら無責任な信頼を預けてしまえそうな感覚を、ふと抱くが。

 

そこで、もう1つ、問題が浮かぶ。

 

今現在、一方通行の演算補助を行っている存在。

ミサカネットワーク、それを摘出、排除してしまえば。

 

「待って、待ちなさい、一方通行。それじゃ貴方は……」

 

「………………だァから、まだ仮定だっつってンだろ。答えばっか女々しく欲しがりやがって、開けっ放しの口に突っ込まれたくなけりゃァ黙ってろよ」

 

「so 幾ら妹達の為とはいえ貴方自身を度外視するなんて抜かすのなら、突っ込みなさい。噛み千切ってあげる」

 

「……芳川みてェな事、言い出しやがって。あのニートの甘ったれが移ったンじゃねェの」

 

「残念ながら、私は甘くも優しくもない。that's why 妹達が望まない犠牲を押し通らせる訳にはいかないもの」

 

「望まない、ねェ──クカカ、御目出度いこと抜かしやがる。だが、忘れてンなよ。例えそれでただの人間に戻れたとしても、問題はあンだろ。此処はイカれた科学の街だ。能力者からただの人間に『戻った』貴重なサンプルとして回収される可能性が無いとは言えねェ」

 

「……」

 

琥珀色の革張りソファの背凭れに行儀悪く腰を下ろして、静かに、けれど力強く拳を握り締める対角線。

動揺のあまり、若干意地になりつつ声を尖らしてしまった事に今更ながら、らしくなかったかなと少し熱の下がった紅茶に手を付けた。

 

芳醇な口当たりに鎮まった思考で、ホワイトボードに記した一方通行の懸念を一通り眺めれば、彼の言葉を吟味するまでも無く言いたい事が伝わる。

前代未聞、というワードは科学者としての好奇心を掻き回すだろうし、それを能力開発の更なる土台の為にとサンプルとして欲する人間など、腐るほど居るのがこの斜陽の街、学園都市。

 

それに、それ以外にも不安要素は幾つもあるだろう事は考えなくとも分かる。

ただの人間に『成り下がった』元軍用クローンに、果たして統括理事会が価値を見出だすだろうか。

懸念は幾らでも不安を増幅する。

 

「……なら、この俺が、只のガラクタに成り下がる訳にはいかねェンだよ」

 

だから、その不安が目に見える障害である以上、妹達を守るのだと宣った学園都市最強は、舞台を降りる訳にはいかない。

それは確かに、暗い決意ではなく、ニヒルな笑みこそ貼り付けているけれど。

 

それは少々、デリカシーが足りない。

無意識なのか意識的なのかは分からないが、全てに重点を置きすぎている。

布束砥信が言えた義理でもないだろうが、そこは流石に見逃してあげる訳にはいかなかった。

妹達の為にも、そして、ほんの少しだけだけども、自分の精神衛生の為にも。

 

「……その言葉、信じましょう。however その考え方は戴けないわ。妹達が嫌がるでしょうね」

 

「……?」

 

「貴方は背負った、彼女達の命を。けれど、それを言い訳にするのは卑怯よ。そうでしょう?」

 

「ッ……言い訳、だとォ?」

 

「貴方自身が貴方自身の理由で生きたいと思わない限り、という意味よ。死にたがりに救われるのも御免だけれど、生きる理由として寄り掛かられるのも面倒でしょう……違うかしら──10067号?」

 

重点を置き過ぎれば、焦点もそこに絞られる。

もう少しだけで良いから息を抜くべきなのだ、そろそろ温くなってしまっているだろう対面の紅茶で醒ますのも良い。

だから、そんなに意を付かれた子供みたいに、第一位には削ぐわない可愛らしく惚けた顔を晒すのだと、ドアの前に立つ妹達の一人へと向けた視界の隅。

藍色鳩羽が柔らかく細まる。

 

「ええ、窮屈な事この上ないですね。まぁ、あくまでシスターズの総意ではなく、このミサカとしては、の話ですが、とミサカは貴女も人の事言えねーだろと布束研究員にジト目を送ります」

 

「私も同じ穴の狢である事は認めるわ。but この男ほどに身を削っている訳ではないもの」

 

「では偶には長点上機の寮に帰られては如何ですか、とミサカは日に一度の適当なシャワーで済ます辺り女を捨てている布束研究員に具申します」

 

「……え、匂うかしら」

 

「……なンで、俺に聞くンだよ。知るか」

 

「こういう事には同性よりも異性に対しての反応が気になるものですよ、とミサカは相変わらず女心もデリカシーもない一方通行に嘆息します。む、イタリアのファエンツァ在住の17203号も『学園都市第一位といえど、こっちでは落第確定』と呆れていますね」

 

「一々、イタリアの軟派野郎共と比べてンじゃねェよ。つゥか、オマエらは……反対なのか」

 

苛立ちを上手く溶かしているつもりなのだろうが、明らかに腑に落ちませんと形の良い眉を潜めている白貌の少年に、履き違えてると指摘するのは自分の役目ではないと押し留めて。

研究室のLED照明まで伸ばしていた湯気が途切れたダージリンをソーサーごと目の前へ押してやれば、尖る紅に睨まれて、思わず肩を竦めた。

 

「……確かに、可能であれば、と迷う事です。現にネットワーク上でも様々な意見が飛び交っていますし、普通の人間に戻る……いえ、普通の人間に『成りたい』と思う個体も少なくありません、とミサカは声が尻萎んでしまうのを我慢します」

 

「…………オマエ達は、クローンだろォが人間である事には変わりねェ。けど、周り全部がそォ見てくれるなンざ都合の良い御伽噺だ、そンなに現実は甘くねェ」

 

「……ミサカ達とて、貴方にあの実験の時、反旗を翻したあの時から一人の人間であると宣言しました。無論、その気持ちは今とて変わっていません……ですが、貴方の言う通り、偏見も窮屈も確かに存在します、とミサカは御姉様譲りの薄っぺらな胸を、強く、抑え、ながら……」

 

朧気な光ばかりしか灯せない、哀しい鳶色が戦慄くのを成長だと、それも個性だと喜ぶ不義理は浮かばない。

分かっていた事だ、当たり前の人間として生まれて来れなかった事に対する希薄性は、人間社会に溶け込むには大きな障害になる。

 

アルゼンチンのデセアドの研究機関に所属する15110号が、ある日に抱いた想い。

店先に並んだ折々の花を眺めていた時、花屋の店員である年若い青年の無骨な掌にそっと悪戯をされたこと。

 

『君の場合、見るより飾る方が良いんじゃないかな。ほら、こうやって』

 

薄紫のハラカンダ。

アルゼンチンに咲く桜の花弁で出来た花飾り。

素敵な事だろう、甘い恋の御伽噺には相応しいプロローグだけれど。

15110号、ひいては多くの妹達の命題とも言える事。

幾ら胸を張っても、その身に流れるオリジナルへの誇りがあっても、ルーツを辿れば胸に巣食う棘ばかり。

 

 

──上条当麻も、あの人も、一人ずつしかいません。

 

 

──ミサカ達も、いつか失恋するのでしょう。

 

 

──でも、それから先、恋をするのでしょうか。

 

 

──出来るのでしょうか。

 

 

『何も知らない』普通の青年へ抱いた淡い感情から始まる筈だった『普通ならば』在り来たりなプロローグは、それから先を綴らない。

 

 

「……」

 

 

この研究施設に通う検体番号10067号に、ふと打ち明けられた、遠い異国で静かに凍り付いた恋情の経緯と、彼女達が背負わされた重い枷を改めて突き付けられて、布束砥信はその夜、胃の中を全てひっくり返す事になった。

それこそが、砥信にとって新たな目標を掲げる切っ掛けとなったのは確かだけれど。

 

「御姉様のクローン体としての矜持だって、ちゃんと持ち合わせています。こんな形でさえ、生まれた事には感謝出来ています。けどやっぱり、普通の女の子に『成りたい』という願いは抱いてしまうのです、とミサカは強がり続ける事の出来ない不甲斐なさを実感します」

 

「不甲斐なくなンてねェよ、クソッタレ。クソみてェな理由で生み出されたて生かされて殺されて来たオマエらが、理不尽に背負わされた枷の分、幸せに生きてェって思う事の何が悪いンだ。ッ、まァ、その多くをぶち殺した屑に言われたくねェだろォが」

 

「……確かに、貴方に対して憎しみを抱く個体も居ます。けれど、その分、貴方を殺す為に銃を向け、策を練り、罠を作った事実は消せません。それはミサカ達が『人間』として生きる以上、逸らしてはならない事でしょう、とミサカは普通に憧れる癖に矛盾しがちな心の難しさに溜め息をつきます」

 

「indeed 矛盾を孕んで生き続ける事こそ、人間らしさ。誰が言ったのでしかしらね、無責任な言葉」

 

「手垢のついたモノこそ真理なのでしょう、とミサカは少し博識ぶってみます」

 

「茶々入れンな、アホ……なら、反対する理由はねェ筈だろ──ってェ、何すンだコラ」

 

「あるに決まってるでしょう、この真っ白しろすけ、とミサカは最近ちょっと肉が付いて来ても相変わらず細い腕にしっぺを食らわしてやります。全く、学園都市第一位が聞いて呆れます」

 

やれやれだ、とちっとも乙女心を判っていやしない最高峰の頭脳の低迷っぷりを嘆く所作は、最早クローン体だと言われて納得出来る人間がどれほどいるだろうか。

 

正解が分からない難問にぶち当たって不貞腐れがちに眉を潜めて仏頂面を貼り付ける横顔は、まだ歳月を繰越さない筈の少女よりも余程子供に見える。

 

 

「当たり前の人間として生きる。それは多く妹達にとっての願いでもあります。その為に貴方が奔走し、協力してくれるのも構いません。その全てを背負い込まれては、『生き』苦しいですから、せめてそっと見守る程度に留めて下さい、とミサカはちょっと告白っぽい感じになったけど勘違いすんじゃねーぞと御姉様を真似ます」

 

「……」

 

「貴方とて、シスターズだけに構けず、一人の人間として生きていく必要がある筈です。ミサカ達に普通の女の子として生きて行って欲しいと願うなら、それが可能であるのだと、まずは教師みたく手本を見せて下さい、とミサカは出来の悪い生徒を演じます」

 

「……手本、か。はン、生意気な口ばかり利けるよォになりやがって」

 

「生意気なのは御姉様譲りとお考え下さい、とミサカは生意気美少女中学生という需要の高そうな個性獲得に密かにガッツポーズします」

 

「オリジナル譲りなら二番煎じだろォが、間抜け」

 

「ファッキューです白モヤシめ、とミサカは新たにスラング系女子の称号獲得を視野に入れつつ中指をおっ立てます」

 

「今度は第四位の真似事か。二番煎じには変わりねェな」

 

「むむ……Well 二番煎じばかりを演じるのも個性という見方もあるのでは、とミサカは少ない引き出しから懸命にネタを探り……」

 

「寿命中断(クリティカル)」

 

「あたっ」

 

オリジナルに叩き込んだローリングソバットよりも加減はしているが、それなりに良い角度で入ってしまったらしく、常磐台のブレザー越しに脇を擦る10067号を見下ろす瞳は、アイデンティティの浸水を許さぬ割に、柔らかい。

言いたい事を言えた割に、気恥ずかしさでも感じたのだろう、分かり易くおどけるなんて真似さえ出来る程に、妹達は確かに育って来ている。

 

背負い過ぎず、寄り添って欲しい。

それはきっと、妹達が一方通行だけに向けた言葉ではない事ぐらい理解出来るから。

絶対能力進化実験に反旗を翻した責として暗部に沈める事になってしまったこの身を、あくまで序でとはいえ救われた最強も、そして自分も、変わっていかなければならないのだろう。

 

不貞腐れていた真紅が呆れ混じりに優しく緩んだのを見詰めていれば、ほつれていく桜唇が艶やかに空白を埋めた。

 

「当面は、データ収集と理論の詰め。平行してミサカネットワークを切り離した際に於ける一方通行と妹達、双方の対処も考えなくてはならない。難問は山積みね。

Although 研究者として腕が鳴るわ」

 

「切り離した後の一方通行の脳に対する問題の打開として、冥土返しに再び協力を仰いではどうかと10032号より提案されました、とミサカは紅茶を啜る一方通行に報告します」

 

「……あァ、そのつもりだ。序でにクソニートもオマエに協力させる。つっても、勝手に首突っ込ンで来るンだろォが」

 

「芳川先生は甘いらしいから、仕方ないでしょう」

 

「はン、オマエが言えた義理かよ」

 

「貴方もですがね、とミサカは同意しつつ似た者同士な二人を指摘します」

 

SYSTEMへの到達どころか、離脱させる為の計画。

この科学の街に於いてそれは酷く愚かで無意味で背徳的な行為なのかも知れない。

けれど、仮説にも至らないそのぼやけた輪郭を実現する、その挑戦もまた科学者としての好奇心を擽られてしまう自分に呆れて、どこか心地良い。

 

難題ばかりの砂上の楼閣、夏の雨、モノクロの虹。

 

自分だけでは到底掴めない『天上』のそれらを叶えるには、より多くの協力と試行錯誤が必要になって来るだろう。

しかし、少なくとも現状で一人、隣立つ男の存在を心強いと思えるだけでも、普及点としておこうか。

 

 

「──アイツにも、動いて貰うか」

 

「アイツ、ですか? と、ミサカは思わずオウム返ししてみるんだよ!」

 

「………………まァ、オマエら妹達の力になりてェって酔狂な奴が居るンだよ。正確には、オリジナルの力に、なンだろォが」

 

「はぁ……そうですか、とミサカさんは腑に落ちないながらも、何かちょっと嫌な予感というか粘っこい気配に内心で冷や汗を流しますの事よ」

 

「芸が細かい上、少し無理矢理ね。though 発想自体は悪くない。後はもっとネタを吟味していきなさい」

 

「はい、新生個体としての個性確立を目指します、とミサカは鼻息荒く意気込みます。therefore この口調も是非とも拝借したく……」

 

「寿命中断!」

 

「ぐわはっ」

 

「漫才やってンじゃねェよ」

 

随分息の合ったやり取りだと誉めてやりたい所だが、余り水を差されるのも勘弁願いたいといった心情なのか、呆れ過分な吐息が疲労感を連れ添っている。

思巡するべきは、やはりこれからの事。

冥土返しや芳川の協力は兎も角、一方通行にとっての一番の難題は、オリジナルの遺伝子情報の入手。

 

絶対能力進化実験、並びに量産型能力者計画の発端となった御坂美琴のDNAマップも、必要になって来るのは間違いない。

加えて、出来れば『現在』の身体状態のデータも理論詰めのサンプルとして手に入れたい。

だが、その為には──

 

 

「……どォすっかな」

 

 

何やら個性獲得についての議論へと飛躍し出した二人のやり取りを横目で流し見つつ、鬱屈な気分を伴って重くなる頭を俯かせる。

一番手っ取り早いのは、誰かしらが事情を説明し、直接頼む方法。

しかし、そこに一方通行が関わっている事を省くのはまず間違いなく愚行だろう。

 

御坂美琴の性格上、そして体験上、必ずその理論構築に関わって来るだろうし、この計画の全貌と主導者、発案者に直接会話を求める筈だ。

ならば隠すのは寧ろデメリットであり、かといってあの悲劇を巻き起こした殺人鬼にすんなり協力出来る訳がない。

最悪、再び彼女と対峙する事になるだろう。

 

 

「……」

 

 

頭の痛い問題を先延ばしにしつつ、取り敢えずは手を伸ばし易い範囲から取り掛かろう。

彼の脳裏に浮かぶ『酔狂なアテ』とやらに連絡を取るべく白暖色のモッズコートのポケットから取り出した携帯電話をパカリと開けば、いつの間にか届いていた新着のメール。

 

差出人は、あのお節介な少女だった。

けれども、その内容を此処で見るのは何故だか憚られて、文面を素早く綴じる。

どうして此処で開かないのかと自分自身にも分からない思考に答えを出す手間を惜しんだ白く長い指が、誤魔化す様にアドレスを検索して行き着いた先。

 

 

『海原光貴』

 

 

馴れ親しんだ暗闇から、紅い紅い瞳は逸れず。

 

 

ただ静かに、細まるだけ。

 

 

 

 

 

 

『Procyon』___『犬に先立つもの 』





Procyon:プロキオン

こいぬ座α星 (α CMi)

スペクトル型:F5Ⅳ-Ⅴ

距離:11光年

輝き:0.37等星 全天第八位


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Re:Play 9『Betelgeuse』

壊れかけのカンテラの火種が未熟な蕾の光暈の頼りなさは、荒廃気味に埃が舞うバーカウンターのカウンターチェアが軋ませる音の鈍さを助長する。

後ろめたさを浮き彫りにし、お似合いだとせせら嗤う一面と、微睡みを誘う優雅で健気な一面が酷く矛盾して、その不様が鏡みたいに照らすから、気に入らない。

 

蝋燭の灯火を囲む硝子の檻をつまらなそうに爪先で弾けば、銀猫の心の表面上、浅い所だけを適当に掬うにはお似合いな軽薄な笑みを『文字通り』貼り付けた道化が背凭れに片手を添えながら言葉を選んだ。

 

「時代遅れの代物と笑いますか?」

 

「ンな拘りねェよ。まァ、古臭ェと云うよりオマエの胡散臭さを助長してンなァとは思うがよ」

 

「それはそも、魔術師なんてのは総じてそういうものですよ。まぁ、我々から見ればスイッチ1つで摩訶不思議を行える貴方の方がよっぽどそう見えるんですが」

 

「与太話をしに来た訳じゃねェってのは分かってンだろォな」

 

「それは勿論。ただ、解せませんね。グループ全員なら兎も角、何故僕だけなんです?」

 

「クカカ、分かってンだろ。オマエなら」

 

「えぇ、僕だけをご指名であるなら魔術か、御坂さん関連。そこに貴方が関わる話となれば、妹達の事でしょうね」

 

ある程度憶測はついていたと語る割には、間延びした言葉尻にいつもの飄々とした余裕が見受けられないのが少しばかり引っ掛かるが、直ぐに霧散する。

海原光貴、もといエツァリと一度だけ彼を慕う少女に呼ばれていた男が、どこまで掴んでいるのかなんて駆け引きをする必要性も浮かばない。

どちらにせよ、こと御坂美琴に関わる事であるならば、彼は妥協もしなければ協力も惜しまない、そういう男なのだ。

 

「話が早いな。用件は1つ──妹達を普通の人間に戻す為にオマエの力を借りる」

 

「────普通の、ですか。それは、また……しかし、借りたいではなく、借りるというのも貴方らしいですね」

 

「ハッ……惚れた女の為になるンなら、断らねェだろ、オマエ」

 

「……良く言いますよ、全く。一万弱の普通の妹がいきなり増える事のどこが御坂さんの為になるというのやら──ですが、まぁ確かに、それが可能ならば御坂さんはきっと喜んでしまうんでしょうね。困った御人です」

 

グラスを傾けながらであれば、如何にも実る兆しの欠片も見えない恋慕を酒に溶かす風情が出来上がるのであろうが、生憎埃の積もるウィスキーケースには1つとして瓶も並んでいない。

仮に在ったとしても、同伴として席を並べる目の前の、欠陥だらけ科学の頂点とは気兼ねなく臆病さをさらけ出せる間柄でもないけれど。

 

やれやれと気障を装うエツァリを然も聞き流す様にカンテラの灯火へと逸らされた白色の薄い唇が、やがて彼の脳裏に広げられた主目的に至るアプローチを紐解いていく。

淡々と紡ぐテノールの響きに紛れて、硝子の四方に囲まれた火種石が優しく弾ける金音(かなおと)がやけに鼓膜の裏側まで残っていた。

 

 

──

 

 

「話の大筋は見えて来ましたが、いまいちピンと来ないのはやはり魔術側の限界なのでしょうかね。弄ったものを元に戻すくらい、この科学の街ならば容易い事だとも思えますが」

 

「結んだ糸をほどくのとは訳が違ェンだ。オマエら風に表現するなら、元に戻すンじゃなく、新しく生まれ変わらせる方が近ェよ」

 

「……成る程、新しく生まれ変わらせる、ですか。科学によって狂わされた無垢な存在を正道へ戻すとは聞こえが良いですが、それはそれで実に背神的ですね」

 

「正しいか悪いかなンてどォでも良い。神サマとやらがお怒りってンなら、腹立てンのが遅すぎンだってその目出度ェ頭ふン掴まえて泥塗れにしてやるまでだ」

 

「イカれた科学の権化である貴方ならば図になりますね、実に畏れ多い事だ。サタンにでもなるつもりですか?」

 

「今更過ぎンだよ。宗教裁判なら他所でやれ。俺が今オマエから聞きてェ判決は、協力するか、しねェか、だ」

 

「それこそ今更です。自分は断らないだろうと言い切ったのは一方通行でしょう」

 

カンテラの中の蝋燭がその短命さに裏付いた仄かさで我が身の質量を削る仕草は、線香花火に重ねるものに酷く似ている。

儘ならない命、その不条理を覆す為にと動き出した少年の、差し出されない右手が幽かに悴む理由が、単なる肌寒さなんかじゃない事くらい、エツァリには理解出来ていた。

 

 

「それで、貴方は僕にどう動いて欲しいんです?」

 

「……妹達に関わる副次実験が今も行われているかの調査。俺が持ってる情報の範囲じゃァ今ンとこ無ェ筈なンだが、イカれたこの街だ……こそこそと企ンでるヤツが居ねェとも限らねェ」

 

「……虱み潰しに探せと? あるかどうかも分からないものを? はは、こき使ってくれますね」

 

「グループの活動も無ェ今なら、どォせ暇だろォが」

 

「御坂さんを見守るという重大な使命があるので暇ではありませんが」

 

「キメェンだよストーカーが。で、だ。もう1つ……『五行機関』について、探ってくれ」

 

「……虚数学区、と言われている例の曰く付きですか。また随分な難題を吹っ掛けてくれましたね、都市伝説の様なモノでしょう、それ。正直、僕一人で追うには荷が重すぎますよ」

 

「さして成果が出なくとも問題ねェよ。オマエの立ち位置は有事の際、身軽に動ける人員ってのが主だ」

 

「……保険、という事ですか。貴方にしては慎重な事だ。まぁ、良いでしょう。のんびりとやらして貰いますよ──皆で」

 

「……あァ?」

 

聞き捨てをみすみす逃す様に含ませたエツァリの言葉に、感情を抑え込んだ淡白さを帯びた紅い瞳が、怪訝そうに鋭く尖る。

揶揄かいを押し混ぜた口元が分かり易く弧を上げれば、ヒュッとした風切り音と共に、彼にとっては懐かしい顔が、二つ並んで。

 

「久しぶりだな、一方通行」

 

「全く、秘密の談合にしてももう少し場所を選びなさいよね。辛気臭いったらないわ、此処」

 

「……ンだ、オマエら。『同窓会』を開いた覚えはねェぞ」

 

「開いたとして、素直に集まる面子でもないでしょう。特に固辞しそうな貴方に言われては、形無しです」

 

土御門元春、結標淡希。

かつて一方通行が所属していた暗部組織の面々とこうして顔を合わせるのは、第三次世界大戦終結後の一度以降となり、有に三ヶ月以上の期間の末となる。

懐かしいと感じるよりも、どうして此処にと眉を潜める辺り、暗部らしいドライな関係性が浮き彫りとなるが、そんな事は今更どうでも良い。

 

問題は、元春と淡希が如何にもなタイミングでこの場に座標移動で現れたという点。

示し合わせた様な間の良さから、どう考えてもエツァリに打ち明けた内容の大半を聞かれてしまったのだと伺えて。

僅かに抱いた警戒から、細い首に巻かれたチョーカーにひっそりと伸ばした一方通行の動きを静止したのは、胡散臭いアロハシャツとサングラスの男、元春だった。

 

「そう逸るな、一方通行。今回は素直に、お前を手伝うつもりで来ただけだ」

 

「……素直ねェ? 馴れ合いなンざ御免だってのがオマエの口癖だったろォが、土御門クゥン?」

 

「確かに。だが、それはあくまで暗部での頃の話だ。何処かの誰かがあっさりと暗部を解体してくれた今、そのルールを押し付けるのも不躾だろう」

 

「……ハッ、胡散臭ェ」

 

「ま、別に信用はしてくれなくても良いけど。心配しなくても私の場合、ちゃんと打算があっての参加だから」

 

「ほォ。わざわざ守りてェもン放っぽってまでか。クソガキども囲ってハーレム楽しンでなくて良いのかよ、ショタコン」

 

「誰がショタコンよ。ほんっと、憎たらしいわねこの貧弱モヤシが」

 

「ん、打算? それは初耳だな、結標。確か、借りっぱなしが性に合わないからって理由じゃなかったか」

 

「っ、性に合わない、じゃなくて。気持ち悪いだけよ! コイツに一方的に助けられるなんて、なんだか屈辱極まりないじゃない」

 

「知るかよ、こちとら助けたつもりすらねェっての。勝手に救われた気分に浸られる方が気持ち悪ィンですけどォ?」

 

「おい、俺は別に馴れ合っても構わないなんて言ったつもりはないぞ。二人とも、無駄話はそこまでにしておけ」

 

 

顔を見合わせるなりやたら喧嘩腰な二人に、ある意味相変わらずで何よりと皮肉めいた笑みを浮かべるが、喧嘩しようが和気藹々としようが、どちらにせよ迷惑極まりない。

これもコミュニケーションでは、と耳打つエツァリの口元にはニンマリとした軽薄な笑みが貼り付いていて、彼もまた変わりないようでと、肩を竦める元春の背中の何と侘しいことか。

 

各々、内に秘めるものに微かな違いはあれど、やるべき事はそう変わらない。

暗部としての枠組みに囚われていた頃も、黒鉄の檻から開放された後でも、そこは変わりようがないという事実が、どこかほろ苦い。

まるでウィスキーの後味みたくジワリと広がる癖に、熱だけが忘れ去られた様な現実が、如何にも彼らグループらしいとも言えた。

 

 

──

 

 

「取り敢えず、各々でやるべき事は纏まったな」

 

「えぇ。しかし──五行機関ですか……さてはて。一体どんな闇が待っているんですかね」

 

「さぁ、知らないわよ。まぁ、きっとろくでもない様な事でしょ、この学園都市に関わる機関であるのなら、ね」

 

五行機関……または、虚数学区。

闇より暗い漆黒のベールに包まれた、学園都市の深淵とも思わしき存在について調査する根拠は、かつて一方通行の黒翼すら通用しなかった、妹達に関わるあの超常的な存在へと着想を繋げたからだ。

妹達をただの普通の人間に戻すのならば、ミサカネットワークを切除する必要性も生まれ、であるのなら……エイワスについても懸念しておかなければならない。

 

だからこそ、研究と平行して、エイワスに繋がりそうな要項である五行機関というブラックボックスについて、ある程度は把握しておきたい。

 

 

──エツァリは、ショチトルという存在と、彼にとってはあらゆるモノの中での第一優先である御坂美琴の為に。

 

──結標淡希は、口振りこそ素っ気ないながらも、暗部という鎖から人質である子供達を開放してくれた事への、つまりは恩返しの為に。

 

そして──土御門元春は、土御門舞夏の為に。

義理の妹である彼女を、あらゆる障害から守る為に。

第一位である一方通行に恩を売っておくという、打算と、彼にしては珍しい──ちょっとした好奇心を胸に。

 

 

だからこそ、各学区の調査と経過報告についての段取りまで細部を詰めて、今日の所はこれで解散という空気の中で。

土御門元春は、気怠そうにカウンターのマットチェストから立ち上がる白貌の少年を呼び止めた。

 

 

「……一方通行、お前に話がある」

 

 

 

───

 

 

───

 

 

 

液晶画面一杯に広がった、淡白ながらも了承と書かれた返信を手持ち無沙汰に眺めれば、不思議と自然と、頬が吊り上がってしまう事を吹寄制理は自覚していた。

 

多分、断られはしないだろう。

そんな不明瞭に尽きた奇妙な自信が何処から沸いたのか。

 

けれども、シンプルに用件だけを綴った文面を見流して、メッセージの送信ボタンを押した親指は、透明な手応えを感じさせて。

 

多分、アイツは断らない。

 

 

「……大丈夫、よね?」

 

 

日中たっぷりと日乾ししたやわらかな枕に顔を埋めながら呟いた台詞は、文脈だけ見れば実に不安に駆られていそうなものだけれど。

最近少しずつ独り言が多くなった主人の口元が、不安など微塵も感じでいやしない証明代わりに、緩やかな弧を描いている事を、吹寄に前触れもなくキスを落とされた青縞模様の枕カバーだけが知っている。

 

パタリパタリ。

透明なキャンバスに90度の放物線を爪の先で描くのは、浮かれ調子の少女の程好く肉付いた、けれどほっそりとして、健康的な色香を魅せる両足。

 

彼女自身自覚もなく、弾む心に合わせて何かしらの未来予想図を描く足は、まるで機嫌良さ気にゆれる猫の尻尾みたいにユラユラと。

 

 

「……恋愛映画なんて、見てる感じしないけど」

 

 

愛用している通販サイトのキャンペーンに参加した特典として抽選で入手出来たのは、最近公開したばかりのラブロマンス映画のチケット二枚。

彼女にとっては上位三枠の健康グッズとは比べものにならない残念賞が郵送された当初は、友人である姫神秋沙にこれでも使って上条当麻を誘ってしまえと押し付けたのだが。

 

寧ろ逆に一方通行と二人で行ってみればと、普段は大人しい彼女にしては少し興奮した面持ちで切り返されて。

何故かどぎまぎとしながらも、それでもあっさり引き下がって、秋沙の言った通りにメールで一方通行を誘ってみれば。

 

 

──しつこくされそうなのも嫌だし、しょうがないから付き合ってやる。

 

 

不思議と勝算はあったけども、確信に近い自信はあったけれども。

それでも、彼女の想定通りの返事に口元がむず痒くなって、身体を巡る血液の流れがやたら早くなったような気さえした。

 

別に驚いた訳でもないのに携帯電話を軽くベッドの上に放り投げて、何故か無性に叫びたくなる情感を圧し殺す様に枕へと顔を押し付けた。

 

あれは何だったのだろうか。

 

小学生の頃、ついうっかり教師の事をお母さんと呼んでしまって、クラスの皆に笑われてしまった事を不意に思い出す時も似たような行動を取ったこともあった。

 

でも、何か違う。

決定的な要素が違う気がする。

方程式を解くのに、どこからともなく√を持って来てしまったような、根本的な相違。

 

そう、違う。

 

違う、という気持ち。

一方通行だから、違うんだと思うんだろうか。

 

吹寄にとって──『違う』と形容するならば、まず一番に浮かぶ人物といえば、彼だからか。

 

 

「第一位、か……」

 

宙に投げ掛けた呟きが、目に見えないシャボン玉のように浮いて浮いて、立ち上って、(カラ)に溶ける。

 

あの日、休憩地点と定めた公園で彼自身の桜唇で語られた、彼の肩書き。

学園都市第一位、科学の街の頂点に座る絶対的存在。

そして、その名に纏わる不評悪評のエトセトラ。

その一つや二つくらい吹寄とて聞いた事は勿論あったけども、実際に彼と接してみれば、全然違うように思えて。

 

 

傍若無人、確かにそういう印象は少しはあるかも知れない。

口振りや不遜な態度。

時折浮かべるドライアイスの氷点を敷き詰めた冷たい眼差しを、ウインドウミラーやアスファルトに出来た水溜まりに向けている横顔は、確かに常人には持ち合わせれない様な鋭利を携えているけども。

 

 

でも──そうじゃない、と思うのだ、いつも。

 

 

浮かんでは、アクリルの香りだけを残して消える、幾つもの泡沫。

ほんの少しの衝撃で割れてしまう程度の脆い虹色のベールに包まれた、思い浮かべた彼の顔。

 

呆れ顔、つまらそうな顔、疲れた顔、沈んだ顔、照れた顔。

何かに染まることを恐れるような白い彼方は、けれど単一色では描ききれない、色んな絵を描いている。

 

 

自分よりも一つ下の癖に、気取ったような仕草ばかりで大人ぶって、それが彼の取り回し慣れた処世術の様に思えた事を、悲しいと感じた理由を彼女は知らない。

自分とそう変わらない年齢の癖に、まるで痕跡すら遺さず消えて無くなりたいと、そんな老衰した思考を灯した様なワインレッドが気に入らなかった。

 

 

「……どうせなら、アクション映画の方が好みなんだけれど」

 

 

きびきびと動く彼女にしては珍しく悠漫とした動作で起き上がり、規則正しく教材を並べた勉強机に置かれたチケットを手繰り寄せた。

『私メリーさん、47日後に逢いに行きます』と流動的な筆記体で綴られた表面を、白基調の彩色部屋のシーリングライトに翳せば、ペラペラと波打つ硬い紙が揺れる。

 

夜空を模した紙舞台に、ポツポツと小さな小さなビーズみたいな星が雨音のように散らばったイラストが、モノラルな光の反射に晒されて、ポケットサイズのプラネタリウムを浮かばせて。

色気のない女と揶揄かわれる事も少なくない自分が、最近評判のラブロマンスを、アイツと一緒に。

 

ポツリと呟いた本音の筈の言葉がやけに軽くて、嘘っぽい。

何だか、笑えた。

 

 

 

 

『Betelgeuse』__『オリオンの脇の下』

 





Betelgeuse:ベテルギウス

オリオン座α星 (α Ori)

スペクトル型:M1-2Ⅰa-Ⅰab

距離:500光年

輝き:0.40等星 全天第九位



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Re:Play 10『Achernar』

場違い、という実感も自覚もあった。

 

そもそも娯楽を興じるという経験すら数える程にしか無かったし、遠い記憶を掘り返したところで苦々しい感情に顰めっ面が浮き上がる結果に終わる始末。

恐れられて、遠ざけられて、目を逸らされてと散々な過去に今更拗ねる子供ではないけれども、一人寂しく砂場を掘る黒い面影を辿れば、この場に於いて参考になる事など一つもない。

 

それにしても、と一方通行は頬杖を付きながら嘆息を噛み殺す。

 

 

数えてみれば大した事のない、浅い月日の付き合いとはいえ、映画鑑賞なんて。

自分とは、学園都市第一位とはまるで無縁そうな、それこそ星と星の距離すら開いてそうな娯楽である事なんて誰でも分かるだろうに。

 

どうして、あっさり見流されてしまいそうな釣糸を、吹寄制理は投げ込もうと思ったのだろうか。

他に幾らでも候補は居ただろう。

例えば上条当麻だったりとか──彼女のクラスメイトであるらしい、土御門元春だったりとか。

 

御鉢が回ってくるにしても、まず経由すべきポイントを何故か、彼女はすっ飛ばしてしまったらしい。

 

 

 

そして何より、どうして、場違いな想いをする事なんて最初から分かり切っているのに、顔を付き合わせて懇願された訳でもないのに、彼女からの誘いを袖にしなかったのだろうか。

 

 

(柄でも無ェにも程があンだろオイ)

 

 

どうしてどうしてと、無知を装って地球儀を象った疑問符を、爪もすっかり丸みを帯びて伸びなくなった掌で手持ち無沙汰に空回す。

その気になれば地球の回転すら止められるちっぽけな白猫の心模様など露知らず、地球どころかフィルムの一つは我が物顔でクルクル回るのだ、いつものように。

 

 

スクリーンの表舞台で繰り広げられる御題目は、科学の街には似つかわしくないちょっとしたオカルトを織り混ぜた寸劇。

古ぼけたログハウスに住む世捨て人の男と、何故かローカル放送のラジオDJみたいなノリで各地の絶景スポットを紹介する、世にも有名な『あの』メリーさん。

 

ちぐはぐな組み合わせが送るラブストーリーと入場看板に記されていた事を掘り返しながらも、肝心の内容は余り頭には入って来なかった。

 

 

(……いっそ、寝とけば良かった)

 

 

佳境に差し掛かるにつれて流れる雄大なオーケストラが立体的に鼓膜へと迫って、五感全てにロマンスを訴えるべくこの瞬間。

目尻にひっそりと涙を這わす理由が、自分とそれ以外とではまるで違うのだという、今更ながら疎外感に不貞腐れたように微睡んだ視線が、そっと手元を辿る。

 

特徴的なロゴをプリントしたプラスチックの容器の外側、アイスコーヒーですらポロポロと水泡を落としているのに、疎外感は一層増すばかり。

最後にストローへと口を付けたのがどれくらい前だったのか、一々思い出すのも億劫だったけれども、八つ当たり気味に尖らせた紅い瞳が、あるひとつを見留める。

 

 

「…………」

 

 

視線の延長線上に見えた、程好く切り揃えられた爪の先。

やんわりと握られながらも、情動を抑えて甘く噛むように微かに震えている掌を辿って、行き着いた視点の焦点。

 

こんな自分でさえも自然と丸め込んでしまう程なのだから、この席の代わりはきっと幾らでも居たであろう中で、わざわざ悪名高い第一位を選んでしまう変わり種の横顔は、呆れるくらいに劇幕の中に心を投じていて。

 

こんな自分のお節介さえも焼きたがる変な女は、悪評なんて知った事じゃないと切り捨てて此方の手を離さなかった馬鹿な女の横顔は、何処にでも居るような『当たり前』にしか──見えなかった。

 

特別な事もなく、さして自分は心を打たれない物語に釘付けになって、空想の出来物に感動し、吸い込まれそうな瞳を潤ませている。

 

有象無象と何ら変わらない、単なる普遍的な存在。

自分とはまるで相容れないはずの、存在。

 

 

 

『吹寄 制理は、この学園都市にはありふれた"平凡"だ。ちょっとばかし気が強いだけの、普通の女だ』

 

 

気に食わないグラサンアロハが、気取った調子でグラスの氷を転がしながら、追憶の中で囁いている。

らしくもない役回りに目的もなく席を下ろした背中刺す刃が、似合わない付け焼き刃でそっと突き付けた忠告。

 

 

『学園都市に蔓延る闇の一つにも関ってない、そこらで手に入る拳銃一つで為す術なく死んでしまうような、無能力者だ。お前みたいなのがどういう経緯でアイツと知り合ったのかも、気に入られたのかも俺には分からんが……』

 

 

詰まるところそれは、学園都市随一の頭脳でなくとも少し考えれば分かる程度の、単純明快な推測にして当たり前過ぎた現実で。

 

そんな事、彼とて言われるまでもなく分かっていた事だけれども。

それでも、改めて音にしてしまえば、やけに重たい質量でもって一方通行の心に引っ掛かった。

 

 

『──巻き込まない、自信はあるのか?』

 

 

選ばれた言葉はやはりらしくもなく、遠回りで直線的な物言いばかりを好む筈の土御門元春には相応しくなかったけれど。

 

その後の空白。

埋める為の何かを紡ぐことは、どうしたって開いてくれない唇に閉ざされたままだった。

 

 

 

 

──

 

 

 

 

事細かな几帳面さが良い意味でも悪い意味でも身に染みる一瞬は此処の所、段々数を増している気がする。

 

壁沿いの視聴ブースのハンガーからアンバランスに引っ掛かったヘッドフォンを溜め息混じりに掛け直す姿が、我ながら年寄り臭いかもと気付くのは、基本的に先に立ってはくれない。

 

あっ、と小さく呻いたのもそれはそれで後の祭りで、不幸中の幸いなのは、出来れば気付いて欲しくなかった隣り立つ当人が、怪訝そうに紅玉を丸めているだけに収めてくれた事なのだろう。

 

 

「この中にええと……好きなの、とかある?」

 

 

「オマエが聴くんじゃねェのかよ」

 

 

「私はあんまり、試し聴きとかはしないから……じゃなくて、ほら、一方通行ってロックな曲聴いてるイメージするじゃない? 最近だと……『MY FIRST STORY』とか?」

 

 

「見た目だけで言ってンなよ……まァ、聴かねェ事もねェけど」

 

 

取り繕った余りに直情的なイメージで出来た憶測がポロリと落ちれば、割と近いところを掠めていたらしい。

少し横目に逸らしながら軽く頬を掻いた仕草が、差し出された掌に動揺しつつも鼻を寄せる仔猫みたいに見えたのは、漸く自分の心が落ち着きを取り戻しつつある証明なのかも知れない。

 

打ち切った会話を拾い繋げることもなく、アーティストの最新シングルで組まれたトラックリストを静かに眺める、ひとつ年下の横顔を視界の隅に留めながら、ひっそりと息をつく。

 

どうにも落ち着かない気分から一段落ついてみれば、先程までの浮わ立っていた自分の心に疑問を巡らす余裕も出来た。

 

というのも、その原因の根本は隣の少年である事は間違いようもないのだが。

 

 

(……何で私を見てたの、だなんて……とてもじゃないけど聞けないわよね)

 

 

遡れば一時間も経ってない劇場での一幕。

 

クライマックスからの余韻を味わっている所にふと感じた視線を気にしなければ、そもそも何て事なく映画館を出られたのだろうが、その些細を見逃せなかったのは良かった事なのか、悪かった事なのか。

 

どちらに転ばそうともそれなりに尾を引いてしまう実感は兎も角、何だろうかと振り向くことなく盗み見る形になってしまったのがどちらかと言えば失敗だったのかも知れない。

 

どこか惚けた様に、正面ではなく自分を見つめている一方通行に気付いてから、スクリーンはラブロマンスの銀幕ではなく、意味も分からず恥ずかしさに頬染める少女の逃げ場になってしまった。

 

結局、その意図の見えない真意について無駄な推論ばかりをグルグルと空巡らせてしまって、エンドロールが滑り落ちる頃には背筋を伸ばして硬直する自分と、いつの間にかスヤスヤと眠ってしまった唐変木が取り残された哀れな図。

正直、単なる気の所為だったのだろうと着地させるのをどこかで惜しんでしまった彼女は、独りでに目を覚ますや呑気に身体を伸ばす白猫を物言いた気に睨むのが精一杯だった。

 

 

「……買って来ねェのか?」

 

 

「へ?」

 

 

「ンだその気の抜けた返事は……そもそも、此処に来たのは、オマエが欲しいCDがあるって話だっただろォが」

 

 

確かに、最近街角で流れた曲が珍しく自分の好みに合って、そのアーティストのアルバムを買いに、今こうしてセブンスミストに居る訳だけれども。

それは事実であると同時に、単なる一側面に過ぎないという話は、当然口に出せる事ではない。

 

というのも、正直映画館を出た後にどうするか、なんて予定を考えていなかったのである。

 

昨日までは、多分その場の雰囲気で解散なり何処か別の場所で遊ぶなりするのだろうと気楽に構えて居たのだけれども、その場の雰囲気を読み取るなんて余裕、その時の吹寄制理には微塵も無かった。

 

 

よもや常日頃、憎まれ口を叩いてばかりの生意気な年下が、こんなベタベタな雰囲気に呑まれてしまったのかも、なんて思春期特有の憶測は──ほんのちょっぴり、だけしか浮かばなかった。

けれどもそれならそれで、自分を見ていた理由は何だったのかも分からないままだし、なるべく物事にはそれ相応の決着を望むタイプである吹寄としてはモヤモヤとした霧を晴らす事なく解散というのは頷き難い。

 

しかし、ならばすっぱりと聞いてしまえば良いだけだと踏み出せば良いものを、普段の勇ましい吹寄制理は中々顔を出してくれず、辛うじて絞り出した提案は、時間稼ぎという我ながらどうにも情けないものだった。

 

 

「え、えぇ……まぁ、そうね。それじゃ、ちょっと見てくるけど……」

 

 

「……ン」

 

 

取り留めもなくサラリと振られた男にしては細い手が、発生地も行き場もさっぱり見当のつかない寂しさヒトヒラ引き連れては、舌先に苦味を添えられてばかり。

ヘッドフォンを白髪に絡めて操作盤へと添える指先からそれとなく踵を返して、どこか力のない足取りのまま目的のモノを探す自分が、少し惨めな気がしたのはどうしてだろうか。

 

 

天井コンクリートから顔を出す照明の淡い暖色が、少し励ましてくれてるようにも見えるのが、どうにも情けなかった。

 

 

数を上げればキリのない背表紙がギッシリと隙間なく陳列される以上、お目当てに行き着くのは中々にすんなりとはいかない。

だからと腰を屈めて悠長に眺める姿は外側から見れば真剣味を帯びている様にも見えるのかも知れないが、実際その中身は全く余所を向いている。

 

 

(今日の私、どうかしてるわね……)

 

 

思い返して思い巡らせば、自分の事ながら不理解が散見出来る事ばかりで、健康には必要以上に気を張ってる癖に知恵熱さえも浮かんで来そうだ。

 

例えば、ついさっきヘッドフォンを掛け直した時もそう。

 

公共の物が乱雑に扱われている事を見過ごせず、つい手が伸びてしまった事は、確かに年寄り臭いと思っても決して間違った行為ではないはずなのだ。

それはゴミ箱にキチンと捨てられていないゴミを拾って入れるのと何ら変わらない、恥ずべき要素など一つも無かったし、振り返ってみても別に可笑しな事ではない。

 

けれど、確かにあの時あの瞬間、年寄り臭いと思われるのは何か嫌だなと、そう思ってしまった。

それは多分、曖昧で実感なんて星屑一つも満たないくらいに些細な程しかないけれど、恐らく。

 

 

彼に、一方通行に──そう思われたくはないと、想ってしまったのではないだろうか。

 

 

 

「……あ、あった」

 

 

花開く春を待つ蕾に伸びかけた掌が、爪先を軽く掠めるだけに留まって、掴まえたのは棚から抜き出した色彩過多なジャケットアルバム。

数日前に検索した題目と一致しているし、裏面を見れ、街角で耳に馴染んだ一曲もキチンと収録されている。

 

こうして漸く目的の商品を手に出来たのだから、少しくらい気分は晴れてくれれば良いものを、先程までとさして変わりない沈み具合。

 

 

「……」

 

 

やはりそう単純には行かない煩わしさこそ青春なれ、思春期の謂わば醍醐味であり独特の苦味であるのだろうけれど。

花の女子高生にも関わらずそれらしい恋愛模様に身を置く事もなく、持っている恋愛小説など昔の著作が精々一つな吹寄からしてみれば、現状は不明瞭と不明理にただ歯痒さを募らせているだけにしか思えなくて。

 

降り積もるそれらを恋愛のエネルギーに変換する術も持ち合わせていない彼女は、段々と、その歯痒さを苛立ちへと持ち替える事が精一杯だった。

 

 

(……何で、一人でこんなウダウダやってないといけないのよ。私らしくもない)

 

 

何も上映中、ずっと一方通行が自分の方を向いていた訳でもあるまいし、この疑問が解けなかったとして寧ろ何か問題でもあるのかと。

少なくともこんな柄にもない動揺に引き摺られ続ける事の方がよっぽど問題だとも思うし、何よりモヤモヤとしたままで居るのは精神的にも不健康だ。

 

 

「……よし」

 

 

取り敢えず、今は気にしないでおこう。

疑問に決着がつかないのは癪ではあるが、こうして開き直ってしまえばその内、気に留めなくても良くなる筈だろうから。

 

彼女の友人である姫神秋沙が知れば盛大に溜め息を落としそうなくらいに強引な開き直りで一応の段落を付けた少女は、これで良いのだろうかと細々と囁く不安を取り払うようにして、事の原因となった白貌の少年の元へとツカツカと歩み寄る。

 

巡り巡って荒っぽい着地となった分、そう時間は費やしてはいないだろうけれども、軽く一言詫びて、気分転換にまたどこかへと誘おうか。

耳を覆うヘッドフォンが少し血色の変わった猫が耳を畳んでいる様にも見える後ろ姿に、そっと伸ばした手が──ピタリと止まった。

 

 

(あれ、一方通行が今聴いてるのって……)

 

 

撫で肩の向こう側、操作盤の液晶画面に映し出されているサンプル音源の曲名と、アルバムのジャケット。

 

ヘッドフォンから漏れ聞こえるメロディーはショップ内に流れる有線にすら掻き消されるほどの少量ではあるものの、雑踏の中で呼ばれた自分の名前の様に不思議と聞き覚えを感じれる。

 

それもそうだろう、数日前にも耳にして、ほんの時間稼ぎという建前はあるにしろ今現在こうして手に求めるぐらいに、鼓膜へと焦げ付いた音楽。

 

それなりに最近のヒットチャートぐらいは知っていても、どちらかと言えば歌謡曲とか昔のフォークソングとかの方が好みである筈の自分にしては、珍しく波長が合ったと思っていたのだけれど。

 

 

──その何気ないフレーズが、陽の光を眩しがっては猫背になりがちな誰かの背中に、不思議とすんなり重なったから。

 

 

薄氷がじんわりと溶けていくみたいに、遠回りから漸く終着駅へと到達した自覚が、記憶群野のおもちゃ箱からそっと姿を表した。

 

『Mrs.GREEN APPLE』の【WaLL FloWeR】

 

 

「……ぅ」

 

 

寒くもないのに悴み出した彼女の右手に挟まったアルバムのアーティストと、リストの最後尾に記された本命の曲名が、操作盤の滑らかな液晶画面に浮かび上がってるのはどういう偶然か。

 

いや、これが偶然や運命の悪戯なんかじゃない事くらい頬に紅を差して狼狽えている吹寄とて、流石に分かる。

 

何せ、此処に来る目的が件のアーティストのアルバム目当てだとしっかり一方通行に話しているのだ。

無能力者とはいえ優秀な成績を収めている優等生が、ほんの数十分前の事を忘れる訳がない。

 

 

だからこそ一方で、単に彼が時間潰しのついでに連れ合いが話していた曲とやらを聴いてみようと思い至っただけという、別に深読みする程の事でもない側面すら見えても良い筈なのに。

 

どうして、『何だか擽ったいな』程度で終わってはくれないのだろう。

どうして、液晶画面を覗いた瞬間、びっくりするぐらいに心臓が跳ねたんだろう。

 

 

くるりくるりと文字に起こすには少しばかりの支離滅裂は女心の秋模様とでも形容出来るが、抜群のプロポーションを持ちながらも色気がないと謳われた少女には、その感情を理路整然とするには荷が克ちすぎている。

 

となれば、開き直って振り払ったはずのリフレインは、すかさず銀幕のランプを灯りにした紅朱とした丸い月を、いたいけな少女の脳裏にそっと翳して。

 

一時停止のボタンを押されたみたくピタリと硬直した吹寄が再生を果たしたのは、皮肉にも背後の気配に気付いた第一位が振り返りながらも操作盤の一時停止を押してからだった。

 

 

「ン……? 何やってんだ、オマエ」

 

 

「…………や、別に何でもないわよ」

 

 

「はァ? じゃあなンで──っ」

 

 

背後で声も掛けずに、それも中途半端に片手を突き出した格好を見れば不思議に思うのは当然で、ヘッドフォンを外す腕の動きも固まろうと云うものだ。

 

端から見ても当人から見ても奇妙な事には変わりない。

追及は免れないと知っていても、だからと言って明け透けに語るのは憚れるからつい誤魔化しにもならない否定を口ずさんでしまえば、呆れた様な吐息が直ぐ目の前の白貌から零れた、のだけれど。

 

 

……そこで、ちょっと言葉を詰まらせるのは少し待って欲しい。

明からさまに、しまった、みたいなリアクションを取られるとこっちとしてもなんだか困るのだ。

 

だから、そんなにそそくさと気不味そうに目を泳がせながら、ギクシャクとした手つきでヘッドフォンを乱暴に掛けるのは止して欲しい。

 

 

「……チッ、まだ会計も済ンでねェのか」

 

 

「え、あ、はい」

 

 

「ンじゃさっさとレジ行くぞ。いつまでもンな所で突っ立ってンじゃねェ」

 

 

「そ、そうね……えぇ、行くわよ、うん」

 

 

ここ最近ではどことなく鳴りを潜めていた粗暴さを言葉尻に織り交ぜながら、すっかり惚けてしまった吹寄の脇をすり抜けて、リノリウムの床に杖先をカツカツと打ち立てる余裕のない足取り。

随分子供染みた、ある意味では年相応な八つ当たりではあるものの、此方とてそれを指摘したり宥めたりする余裕を取り戻せないで居る。

 

 

(……これ多分、照れてる……のよね?)

 

 

横長のレジコーナーへと向かう背中、怒らせた肩の反動でコートのふさふさとしたファーが揺れているのを慌てて追い掛けながら、吐露した疑問は多分、的を射ているのだろう。

 

気難しい癖に意外と感情が体に表れるのが如何にも年下の男の子である実感を呼び起こすも、それが更に色々と憶測さえも引き連れて。

けれどもその憶測が当たっていても外れていても、肝心のどうしたら良いかが分からないのであれば、結局は余り意味がない。

 

 

「ねぇ、あの……一方通行」

 

 

「なンだ」

 

 

意味がない、身をつけない、実りようがない……今はまだ。

でも、透明な夜空に浮かぶ透明な星を手探りで掴まえるに等しいとしても、一つだけ確かめておきたいなと思ったこと。

 

 

 

「結構、良い曲……だったでしょ?」

 

 

 

なんとなく、気になったから聞いてみただけの問い掛け。

多分もっと、雪解け宜しく全てに片を付けれそうな言葉は色々あるのだろうけれど、無意識ながらも選んだのはきっと、些細な切っ掛け。

 

 

例えばそれは、少し離れた星と星が、ちょっとずつでも距離を動かすきっかけだったのかも知れない。

 

 

 

 

 

「…………まァ、悪くはねェけど」

 

 

 

「……ん。なら良いの」

 

 

 

──あぁ、なんか今のはちょっと、いいな。

 

 

けれども、ニヤけてしまうのを抑えるのには、苦労した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──

──────

 

 

 

 

浮いて沈んで、また浮いて、そこから更に沈んでと。

 

人生は船路に似ているのだと、かの宮本武蔵が遺しているけれども、それがまさに今この時そういう事なのだろうと当て嵌めるには少し乱暴な気もするけれど。

ちょっとした博識を帆に立てて思考の船旅に出るには悠長にしている場合じゃないし、これが一種の現実逃避なのは恐らく疑いようもない事実だとして。

 

改めて直面した困難に向き合う為にも、ふと沸いたそんな自分にしては珍しい戯言をどうせ掴んでしまったのなら、後もう少しだけ戯れに身を任せよう。

 

 

つまり、この退っ引きならない現状に、より如実に当て嵌めれる名言ならぬ迷言を、吹寄制理はたまに耳にしていた。

それは彼女にとっては甘んじるしかない現状に嘆くばかりで白旗を挙げるだけのだらしない行為の象徴と、酷く辛口な批評でもって迎えて来た言葉だけれど、いざこうして渦中に立てば、少しだけあの口癖にも同情が沸いて来た。

 

いわく──

 

 

 

(不幸なんかで……済む訳ないでしょ、これは!)

 

 

 

「ちんたらしてんじゃねぇ!! さっさと金積めねぇと頭ぶっ飛ばすぞコラァ!」

 

 

「ひぃっ!? わ、分かりました……」

 

 

威嚇として撃ち鳴らされる無機質な殺意が、天井から吊り下がった電灯を蹂躙して、パラパラと砕け散った硝子の破片が目の前に落ちてきた訳でもないのに自然と膝を畳んでしまう。

 

鼓膜を鈍器で叩かれたような発砲音が、ほんの少し指先に力を込めてしまえば、命を産み出すよりも随分と簡単に命を奪える事を知らせるシグナルなんだと、今更ながら知らしめされた実感。

聞き慣れない音の衝撃に覆い被さって内側で響くキーンとした耳鳴りが、脅威に対する本能からのアラートなんだなと取るに足らない他人事を思い浮かべても、気楽さなんてまるで掻き集まらない。

 

 

それはまさしく、見る者の興奮を誘う銀幕の中のハードボイルドアクションではなく、ポップコーンを貪りながら眺めれる娯楽の一つなんかでもなく、ただそこに横たわった現実だった。

 

 

 

──

 

 

 

思いの限り喚き散らかしたくもなる現実に突き落とされてしまった一端となったのは、購入したCDの入ったブルーフィルムのビニール袋を折り畳んで使い馴れないハンドバッグに押し込んだ所からだった。

 

行き当たりばったりと言えば聞こえは悪いけれども、同時にこれからの予定をどうしようと考えるのに、柄にもなく胸が弾んだのも事実で。

それが久しぶりに女子学生らしい休日を送れているからなのか、学業とかの建前なく異性と出掛けているからなのか。

それとも、『待て』を示す対岸のカラーサインを退屈そうに眺めている姿が、外見はどちらかと言えばはみ出しものっぽいから似合ってない学園都市第一位と一緒だからなのかは、さて置いて。

 

まぁ少なくとも、セブンスミストを出る際に『ンで次はどこに付き合わされンだ』と、如何にも面倒くさそうに"続き"を前提とされながら先を促されたのが含まれる事は、当人達以外からしたら今更言うまでもない。

 

 

けれども、本人に例えそういう意識があんまり無かったとはいえ、形だけ見れば『異性と二人きりのデート』というイベントに経験もない吹寄制理が、すんなりと次を思い浮かぶハズもなかった。

 

更に言えば、クラスメイトの誰から見てもしっかり者で堅物の太鼓判を押される彼女は、容易に想像出来そうな通り必要以上の浪費は好まない。

だからこそ財布の中も大体これくらい入れとけば良いかのラインも、普通の学生でもちょっと心細さを感じる程度である。

 

よって一先ずは銀行で追加予算を増やしてから今後を考えようという、現実的で色気のない算段をつけるのは流石と言えよう。

勿論、一々そんな面倒な真似するくらいなら自分が全部出すと太っ腹かつ男前な第一位の主張は。

 

──いくら相手が自分よりお金持ってても、そこにすんなり甘えるのはみっともないでしょ。まして、年下相手に。

 

と、女の身でありながらも更に上を行く男前かつ体育会系な反論でもってあっさり流した。

 

しかし、思えばここで彼女が彼女らしいとも言える逞しさを発揮しなければその後の騒動に巻き込まれなかったのだとしたら、それは何という皮肉なのだろうか。

 

 

最寄りの銀行の自動ドアを潜って、ついでに手洗いを済ませようと奥の方へと去って行った背中を見送って。

 

取りあえずこれくらいあればと、普段の自分では滅多に引き落とさない桁の紙幣を二枚も財布に忍ばせて窓口のソファーに腰掛けながら、倹約家な性分の自分にしては些か思い切りが良すぎた事にむむむ、と形の良い眉を曲げた所で。

 

 

──突如鳴り響いた銃声の雨と、悲鳴と罵声の嵐。

 

突き付けられた脅威と、目元口元だけをくり貫いた如何にもな覆面を被った五人組のスキルアウト達に、前触れもなくやってきた恐怖に戦慄する客や銀行員と共に一塊に並ばされた。

 

 

 

──

 

 

 

 

そんな、箇条書きにすれば有りがちだと一笑にでも伏せられそうな、けれど明確に実体化した暴力でもって不幸とすら収まりそうもない現実に転がされたのが、まだ呑み込みきれない自分も居る。

 

ひょっとしたら、単なる悪ふざけの延長で、誰から見ても馬鹿馬鹿しいとしか思えないような、ただただ質の悪い種明かしが用意されてるんじゃないのか。

 

どうしたって、そんな幻想に少しでも頼りたくなってしまうのは、幾ら日頃はそこいらの男にも劣らないほどに気の強い性格だったとしても、彼女があくまで普通の少女に過ぎないからだ。

 

ただの、か弱い存在でしかないのだ。

 

 

──勢いを止めず溢れ出す血に、当たり前の様に青褪めてしまう、この科学の街では無力な一人の女の子に、過ぎない。

 

 

 

 

 

 

「てめえら、妙な真似するんじゃねぇぞ……誰一人として動くんじゃねぇ! "ソイツ"みたいになりたくなかったらなぁ……」

 

 

「っい……っぁ、いた、痛いっ……」

 

 

「はっ、格好つけてヒーローにでもなりたかったってか? だったら片手が使いモンにならなくなったくれぇで喚いてんじゃねぇよオッサン」

 

 

「──っ」

 

 

これが昼間の劇場から続いた、ジャンル違いのフィクションや白昼夢でないことを知らせるのは、顔を特定されない為に覆面を被った少年──恐らくスキルアウトの手に握られた黒光る銃口だけではない。

 

しっかりとクリーニングしたお蔭で出掛ける前までは新品みたいに真っ白だったハンカチが、べっとりとしたペンキに漬け込んだみたいに色を侵す、真っ赤な血。

きつく押さえ込んでいるからこそ伝わる掌の震えと、ハッキリと輪郭が浮かぶ死の予感から逃れようと、恐怖に色を奪われた男の唇から漏れている怯えの声が、彼女の心にまで移って来そうで。

 

 

──手に孔が出来て、痛みを訴える様のどこが可笑しいというのか。

 

結果的に見れば軽率だったとしても、分かり易い武器を手に高笑いを浮かべる者から抗おうとした気持ちを、馬鹿な奴だと切り捨てる奴が胸を張るな。

 

 

(……血が、止まらない)

 

 

そう、口にしてやりたかった。

強い意思で、強い言葉で、ついでに頭突きの一つでも食らわせてやりたいくらいに、腹立たしかったけれども。

 

同時に、薄く脆いカーテンなら簡単に破れてしまいそうな力で自分の腕を掴んで苦痛を堪えて蹲る、スーツを纏った男の姿と、その傍らでスクラップとなった一台のスマートフォンを見れば、行動の先に行き着く報いを鮮明に想像出来た。

 

鼻腔をつく、濃い血の匂いが不意に涙腺をノックするのを食い縛るように堪えたのは、隣り合わせとなった死の恐怖と、とてつもない悔しさから。

 

 

我が物顔で平穏を殺した理不尽に、何も出来ないで居る自分が。

血走った目で暴力を行使したスキルアウトの存在に、心の底から恐怖を感じて、膝を折っている自分の姿が。

 

けれども、まるで分厚い黒雲に光明が射し込んだかの様に、僅か一筋であっても吹寄制理の安堵を呼び込んだモノは、スキルアウトが取った確認行為だった。

 

 

 

「よぉし、これで全員だな」

 

 

 

火災用防護シャッターが下ろされた受付ロビー周りで集められた自分達の中に、一方通行の姿が未だに見つからないという事に気付いて。

 

 

(……良かった、これなら)

 

 

 

どういった手段かは知らないけれど、多分能力か何かを使っていち早く銀行から『脱出』してくれたんだ、という期待。

ならば、きっとアンチスキルを呼んでくれているだろうし、"彼自身"が危険な目に遭う事は少なくとも間逃れたのだろう。

 

一方通行のあの生意気な顔が、例えば目の前で苦悩の声を漏らす男性の様に歪むような、渦中の危機からは遠ざかったのだと。

 

 

──きっと彼を知る者の"殆ど"が不必要な心配りだと呆れてしまう、或いは笑い流してもおかしくない検討違いな杞憂。

 

 

ハンドガンでもマシンガンでも、ミサイルでも核兵器だとしても傷一つ付けられないと謳われる学園都市最強に対して、たかが切羽詰まったスキルアウトが起こした銀行強盗が何の障害となるというのか。

 

 

だというのに、吹寄制理は本心から細やかな満足を得ていた。

恐怖に染まる心がほんの少しだとしても、和らいでいた。

 

一方通行が学園都市で最も優れた能力を持つ存在なのだと知っているにも、関わらず。

もしかしたら、その能力を使えば直ぐにでもこの場を収めてくれる可能性を持っているかもしれない、寧ろ最優の肩書きからしてその可能性の方が高いであろうにも、関わらず。

 

 

最近やっと年相応の仕草や表情が垣間見えてきた、一つ年下の男の子が銃弾に撃たれて倒れてしまう。

そんなビジョンが少しでも有り得る可能性の方が──吹寄制理は怖かった。

 

差し伸ばした手を握るのに、未だに戸惑ってばかりの臆病な白猫が傷付いてしまう可能性の方が、彼女にはよっぽど恐ろしかった。

 

 

しかし、そんな少女の静かな安堵とは裏腹に、事態はより一層の深刻化を迎えてしまう。

 

 

「おい、そこのガキ! さっきからグズグズうるせぇんだよ!」

 

 

「あ、ぅ……や! 嫌ぁ……いやぁ!!」

 

 

「ひっ……は、ぃ、今静かに……っさせ、ます」

 

 

きっと、今になって漸く現在目の前に広がる光景がとても恐ろしい事だと理解してしまったのであろう年端も行かない少女の泣き声に煩わしさを覚えたのか、鋭い罵声と共に銃口が向けられている。

 

それが単なる脅しに過ぎないとしても、無機質な発射口があまりに簡単に命を別つ断頭台の刃と成り変わってしまう事が、並べたくもない前例によって十二分に理解出来てしまうのだ。

ほんの些細な気紛れで、紐を切られてしまうかも知れない恐怖に唇を紫色にまで変色させた母親らしき女性は怯える少女を背へと隠しながら、哀れなほどに身体を震わせていた。

 

 

しかし、その年端もいかない少女は未成熟で小柄な身体にも関わらず──とても勇敢であった。

俯きながらも娘を護ろうと背に追いやった母親が、見たこともないくらいに弱っている姿をなんとかしたくて、助けたいと願って、余りに小さな一歩を踏み出してしまって。

 

 

「グス……お、おまえなんか……ママを怖がらせる、わ、悪者なんか……カナミンにやられちゃえっ!!」

 

 

「……あぁん? んだと、クソガキ……なぁにがカナミンだ、おいこら」

 

 

「み、美香!」

 

 

ひきつった喉から精一杯絞り出した舌足らずな勇気の言葉は、けれどもあまりに幼稚で、あまりに無謀だった。

 

少女にとって、その存在は揺るぎない正義の象徴で、大切な母親や周りの人々を苛める悪い奴を懲らしめてくれる者なのだろうけれど、電子細工の虚構にその願いは叶えられない。

寧ろ、状況に更なる悪化の一途を呼び込んでしまう事は逃れれず、銀行強盗などという大一番に踏み切ったが故に後にも引けないスキルアウトは、戯言などと分かっていながらも聞き流しはしなかった。

 

 

「……ふん、まぁ丁度良い。こんくれぇ小さいなら、人質として連れ回すのも楽か。おい、ババア! そのクソガキをこっちに来させろ」

 

 

「ひぅっ!」

 

 

「ま、待って下さい! お、お願いします……娘を人質になんて……」

 

 

「あー? 聞こえねぇなぁ? つーか、おめぇがちゃんと躾しときゃこんな事にはならなかったんだろうがよ。嘗めた口効くようなクソガキはしっかり教育してやんねぇとな? まぁ安心しろよ、俺達が逃げ切ったらちゃんと解放してやっから」

 

 

「お願いします……お願い、します! わ、私が人質になりますから……この子だけは……」

 

 

その口振りから、予め逃走用の人質を確保する算段であった事は推測出来るが、だからといってスキルアウト側にとっての合理性など考えたくもなかった。

 

人質として要求された娘を胸に抱き締め、ひたすらに額をタイル床に擦り付ける母親を、これ以上とないくらいに見下ろしているのが分かるくらいに、粘着質的な嫌らしい笑み。

 

優位性を確信し、"片手間"の暇潰しに相手の尊厳をいたぶる様な非情なやり口に──恐怖感よりも瞬発的な怒りが前に出た。

止血の為にハンカチを抑えていた血濡れの掌から、スッと力が抜けていく。

 

後になって振り返れば、冷静さを失っていたと我ながら省みるとしても、それでもきっと従うべき感情なのだ、これは。

 

 

(良い加減に……っ)

 

 

「待ちなさ──」

 

 

恐れを塗り潰したアドレナリンに従うままに開きかけた唇は──しかし、凛とした少女の声に遮られて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっと待ちなさいよ、アンタ達」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて、安易に犯罪行為へと走った事を後悔させられる羽目になる第一要因は、もう我慢の限界だと言わんばかりに舞台へと降り立った。

 

この学園都市において、一握りの現状最高位である七つ席、Level 5。

 

その内の一つに座して、電撃系統能力の到達点。

 

 

 

「……人質なら、アタシがなるわ」

 

 

 

学園都市第三位──御坂美琴

 

 

 

 

 

 

『Achernar』__『川の果て』




Achernar:アケルナー

エリダヌス座α星 (α Eri)

スペクトル型:B3Ⅴpe

距離:80光年

輝き:0.46等星 全天第十位


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Re:Play 11『Hader』

当事者という枠組みから離れて述べる、もっとこうするべき、という言葉が、御坂美琴はあまり好きではなかった。

 

例えば、ニュース番組のコメンテーターが放つような、絵に描いた理想的展開や未来予知染みた対策。

それは確かに実践出来ていればとは思うものの、そこにはきっと現場にある生々しいアクシデントは省かれているからか、どこか突き放したような血の通わない言葉に思えてしまうのだ。

 

 

冷静な観点から見れば、というのはあくまで冷静な立場に居られればこその結果論であって、それをさも誰もが出来て当然の様に振り翳すのが、まるで人間をロボットか何かだと手痛い切り離し方をしている様にも思えて。

 

だからこそ今、こうして向けられた銃口を睨み付けている自分もまた、そうした批評の炎にくべられる薪になってしまうのかも知れない。

 

 

「……聞こえなかった?」

 

 

きっと、もっと利口な立ち回りはあったのだろう。

 

それこそ当初の通り、目の前で銃を構える無法者達が突如踏み行って来た時と同様に、冷静な観点から理想的な手段を構築出来る道筋は充分有り得た筈で。

 

不用意に名乗り出たこの状況は、より一層事態の悪化に拍車を掛けたと、数日後にでも報道されてしまうかも知れない。

 

 

「……人質ならアタシがなるって言ってんのよ」

 

 

けれども、堪えきれなかった。

 

立ち回りの理想を追いかけて、目の前のふざけた現実に歯を食いしばれるほど御坂美琴は達観出来てはいない。

 

少なくとも、強者が弱者をなぶる様な胸糞の悪くなる場面を前にして、黙っていることは出来ないのだ、"もう二度と"。

 

 

 

 

──

────

 

 

 

 

 

或いはその銃口が、お節介ながらもどうしてか切り離せなくつつある誰かに向けられていれば、その瞬間にも白い狂嵐によってこの悲劇は鎮圧されていたかも知れない。

 

それは結末だけ見れば確かではあるものの、その過程に産み出されるかも知れない不要な犠牲は果たしてどれ程に及ぶか。

やもすれば、嵐の過ぎ去った後で横たわるのは、そのお節介な誰かが含まれる可能性もまた、零とは言い切れない。

 

その無意識の恐れは、無力化した一人のスキルアウトを足蹴にしながらも襲撃の会場と化した受付広場を窺う学園都市第一位に、冷静な立ち回りを要求する。

 

 

「……チッ」

 

 

どうしたってこんな面倒な日に、顔を合わせるには面倒過ぎる相手と居合わせてしまったのか。

仮に太陽が燦々と輝く昼下がりに出会ったところで、決して笑顔で挨拶を交わせれるような間柄ではないにしろ、このような状況は心理的に泣きっ面に蜂のようなものだった。

 

 

いや、もっと奥底で本音を語れば、自分一人という状況であったなら幾分かマシだったのだろう。

憎しみなり慟哭なりされても、あっけなくその一時は過ぎ去るし、視界にいれたくもないとされるなら、それならそれで良い。

 

だが、今は……自分が犯した身の毛もよだつ様な愚行とは、何ら関わりの持たないはずの少女が居る。

その手に触れるのも未だに抵抗感を覚えてしまう様な、お節介焼きが。

一方通行という存在が、本来知り合うべきではない、暖かな異分子が、居る。

 

 

「……」

 

 

沈殿した錨の錆に似た、赤い恥。

御坂美琴に、光の住人と馴れ合う殺人鬼の姿を見せて良いのだろうか。

自分と同じ顔を幾つも弄んだ化け物に、笑みを向ける酔狂な存在を見せたなら──『どうなる』だろうか。

 

 

『吹寄 制理は、この学園都市にはありふれた"平凡"だ。ちょっとばかし気が強いだけの、普通の女だ』

 

 

 

 

『学園都市に蔓延る闇の一つにも関ってない、そこらで手に入る拳銃一つで為す術なく死んでしまうような、無能力者だ。お前みたいなのがどういう経緯でアイツと知り合ったのかも、気に入られたのかも俺には分からんが……』

 

 

 

『────巻き込まない、自信はあるのか?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スキルアウトから奪った銃口の、鈍い艶光を静かに見下ろす紅が、目を覆うだけの幕を求める。

薄皮一枚の、脆い幕を懲りもせずに求めている。

自分だけの現実に引き篭る選択を選び続けたいつかの日々の様に。

 

 

だが、静かに瞑目へと向かう瞬きの最中に、視界に過った光景は、それを許さなかった。

一万回殺した男の目の先で、一万回殺した顔と同じ顔をした女が、もう一回死のうとしている。

 

憎々しげに、心底疎ましそうに顔を歪めたスキルアウトに、銃口を額にくっつけられながらも。

凜然と折れぬ意志で立ち向かう彼女が────第三位が、また、殺されそうになっている。

 

第三位であれば、引き金を引かれた所で能力を行使し、そこから逆転の一手に繋げれるかも知れない。

むしろそれこそ彼女の算段であり、勝算であるのかも知れない。

 

そんな推測を、白いペンキの様に塗り潰す。

無様な後悔を引き摺り続ける男が、また一つの後悔に苦しみたくないが故の、防衛本能。

 

 

「─────」

 

 

カチリと鳴る、首の鎖を外す音。

狂う白い獣は、黒い爪を迷いなく構えて。

 

 

 

 

 

───────

────

 

 

 

──撃った。

 

誰が?

自分ではない。そんな訳ない。

この手に命を玩具にするオモチャなど握られてはいない。

 

 

それを手にしていた筈の目の前の少年は、呆気なくその手の暴力を手放しながら、美琴の目の前で、真横に倒れ込んでいる。

神様の気紛れなリモコン操作で、やけにスローモーションに流れる一幕の最中。

ペンキの様なベッタリとした紅い紅い鮮血が、鳶色の中に封じ込めていた記憶を引っ張り出すかの様に、過る。

 

 

『お姉さ……とミサ……』

 

 

真っ白のフラッシュバック、真っ赤な結果。

優しい色など、数瞬の思い出巡りのどこにもない。

 

 

「ぎぃ、あっ!?」

 

 

「!」

 

 

前触れもない凶弾に、片腕の軸を射ぬかれた数秒前までの強者は、悲鳴をあげてリノリウムの床へ蹲る弱者へと落とされた。

奥歯にガキリと苦痛を押し込める少年へ、反射的に伸ばしかけた腕を、引っ込める。

 

仲間への突然の危害に狼狽した他のスキルアウト達が、発砲地点らしきロビーの曲がり角へと怒鳴り声を上げたからだ。

 

 

「畜生! どこのどいつだ!」

 

 

「隠れてんじゃねぇ、出てこい!」

 

 

「っ待て、クソッ! おい、見張りは残しとけよ!」

 

 

蜂の巣を叩き落とした、輪郭のない腕を探しに、兵隊蜂がけたたましく廊下の奥へと殺到する。

想定外のアクシデントに混迷の様相は、テーブルに零れるインクの様にじわりじわりと広がっているのも致し方ない。

 

学園都市が平和とはかけ離れた場所であるとはいえ、この場の客達の殆どが血生臭さと無縁だったはずなのだ。

 

少し前の、どこかの誰かの様に。

路地裏に広がる血溜まりを、塗装ペンキか何かだろうと見過ごしていた、どこかの誰かの様に。

 

 

「……!(見張りが2人に減った!)」

 

 

だが、今の彼女は張りぼてや仮初めを見抜かない少女ではない。

学園都市における第三位、御坂美琴に他ならない。

 

その地位における相応の修羅場を潜ってきた実感を確かめるように、柔らかい下唇を舌粒で湿らす。

この千載一遇の好機を掴めれば、何の罪のない人間を救い切れるかも知れないのなら。

 

 

「っ、おい! そこ、何携帯弄って……!」

 

 

そして、一人の注意が客の方に逸れた瞬間。

羚羊の様な細い足を軸に、体躯を屈ませたまま『もう一人』の方へと一気に距離を詰める。

 

 

「──なっ」

 

 

「っ!!」

 

 

スキルアウトの足に添わせた掌から、放電。

致死量には至らないまでも、大の大人ならばまず昏倒する電力の放出は、瞬く間に一人を無力化する。

 

 

「!! くっ、やりやがったな!」

 

 

「こっちの台詞よ! 散々好き勝手してくれて!」

 

 

バチバチと轟く、掌規模の雷鳴に気付いた残りの一人が咄嗟に銃を構えたところで、もう遅い。

トリガーに指が掛かるより、美琴の指の中にある一枚五百円の弾丸が放たれる方が余程早かった。

 

 

「──ぁ、あづッ!!」

 

 

飛来したのは、レールガンなどという大層なものではないが、電熱によって加熱された五百円玉は痩せ我慢を許さない。

その隙ごと刈り取るように伸ばされた少女の手から、二の舞へと追いやる電力が再び放出された。

 

 

「……ふぅ」

 

 

レベル5による一瞬の制圧劇を間近で目にした人々から、賞賛のような声が上がろうとするが、彼女の意識は既に他所へと向けられている。

 

鳶色が睨むのは、未知の戦力とスキルアウト達の銃撃戦らしき音が飛び交う、例の曲がり角。

 

 

「……!」

 

 

だが恐るべきことに、その銃声の悉くが、次第に悲鳴混じりの恐怖一色へと変わっていく。

曲がり角側のリノリウムに散らばる、血痕の形。

その形は単なる鉛弾によるものであるのは、銃知識に疎い彼女ですら推測出来そうなものなのに。

 

 

『お姉さ……とミサ……』

 

 

何故だか、心臓がギシリと苦痛を訴える。

まるで剥き出しの鉄格子を巻き付けられているかの様な、鈍臭く引きちぎれそうな痛み。

 

 

「ば、化け物……ぃぎゃっ!」

 

 

「──ぁ」

 

 

そして、恐らくスキルアウトの最後の戦力は、逃げ出そうとした所を、背中の腰辺りを的確に撃ち抜かれる事で倒れ伏して。

それはつまり、彼女とその何者かの勝利を確約するもので。

暴力と無法に脅かされた者達にとっての、解放を意味するものなのに。

 

 

「……チッ」

 

 

「────」

 

 

幽鬼の様に曲がり角から現れた白い輪郭を前にして、膝から崩れ落ちそうになった。

返り血を少し浴びながらも、デザイン的な杖を伴って、ロビーの状況を静かに見渡す、紅い視線。

真っ白なフラッシュバック、真っ赤な結果。

 

 

「……う、ぅ……いて、ぇ……」

 

 

「……自業自得だろォが、三流」

 

 

「……え? 生きて、る? どう、して……」

 

 

「…………」

 

 

重ならないのは、紅い色だけ。

自分がかつて対峙した時とは、『紅』だけが違った。

背中の腰、というよりは横腹。

それとよくみれば左脚のふくらはぎにも撃たれた後。

 

……致命傷を避けている。

その現実は、決して自分だけのものじゃなくて。

その白の脇を通り抜け、曲がり角を見れば。

 

 

「……皆、生きてる……」

 

 

ぽつりと呟いた自分の言葉の意図を、自分が一番疑っている。

彼が姿を現した時、ただ漠然と『終わった』と思った。

平穏が羽を畳んで、狂色の嘴に啄まれるだなんて未来絵図が、御坂美琴には鮮明に描けていたのだけれど。

 

──かつて化け物と呼ばれ、自らもそう呼んだ筈の白いヒトカタは。

 

 

「一方通行! 大丈夫?! ちょっと、血が……怪我とかしてないでしょうね?!」

 

 

「……誰を心配してやがる、デコッパチ」

 

 

「こ、こんな状況、心配するに決まってるでしょう!」

 

 

「……うるせェ。怒鳴ンな」

 

 

血相を変えて一方通行の元へと飛び出して、当たり前の様に彼を心配する美しい少女の気遣いから、ひたすら鬱陶しそうにそっぽを向く彼の姿は。

血を拭き取るハンカチ代わりに自らの服の裾を破ろうとしている少女の手を、面倒臭そうに止める少年の姿は。

 

どう見ても、重ならない。

 

……やっぱり、重なって、くれない。

 

 

「……」

 

 

アンチスキルか、それともジャッジメントか。

遠くから届いて来るサイレンの音が、何故だかこの時、どうしようもなく怖いと思えた。

 

 

「……チッ」

 

 

────

──

 

 

 

 

「コーヒー……飲める?」

 

 

「……まぁ、はい」

 

 

「じゃあ、どうぞ」

 

 

「……」

 

 

きっと彼女が今、何かを口にしたい気分じゃない事くらいは、吹寄制理にも理解出来ている。

それでも少し、喉の奥に挟まっている葛藤を一押しするには、生唾よりも此方の方が適切だろう。

 

勿論それは第三位である彼女だけでなく、美琴が座る階段より六段も高くに陣取り、意図的に距離を作る大人げない少年も同じで。

銀湾な手摺を滑らせる掌とは反対に抱えたブラックの缶コーヒーのプルタブに、爪先をカリカリと引っ掻けながら、六段昇る。

 

 

「ん」

 

 

「……」

 

 

飲めるかなんて疑問は当然差し込まない、淡い一言。

求めた相槌すら貰えないまま、力なく抜き取られた缶のアルミが、やけに無機質に鳴った。

そのまま彼の傍らで、ネコ毛の様に柔らかな白い髪を眺めつつ、手摺に腰を預ける吹寄。

 

春に至らぬ冷たい風が、いつも以上に肌を責めた。

視界の遠くで鳴り響くサイレン。

事件は大した被害もないまま収束したものの、上手く片付かない事ばかりで、やるせない。

 

 

「……ふぅ」

 

 

第一位である一方通行と、第三位である御坂美琴。

その二人の間に積もった因縁を、吹寄制理は当然知らない。

知らなくとも良い、と言い切りたかったけれど。

少しずつ知ることを重ねた白貌の、未知な横顔をこうも眺めていると、三人の内で最年長なのだという自制の鎖が錆びをつけ始める。

 

どちらともなくやってきた長い階段の人通りは不思議と少ない。

だからこそ、話があるのなら躊躇いを抑えて、どちらからでも良いから本題なり差し障りのない挨拶なりを、切り出して欲しかった。

 

 

「……」

 

 

「……」

 

 

学園都市の頭脳指数を上から数えた方が圧倒的に早い癖に、何を言うべきかに悩んでは、互いに口を噤んでを繰り返す二人の有り様で、かれこれ15分。

漸く口火を切ったのは、吹寄が購入した甘口のコーヒーを一息に飲み干した、鳶色の少女からだった。

 

 

「……結論は、やっぱり変わらないわ」

 

 

「……あァ?」

 

 

「あんたが今、どうあっても。許すも赦さないもない……あんたが『第一位』なのは変わらないってこと」

 

 

「……そォかよ」

 

 

紅が、見上げた先には厚い雲模様の空。

あまりに遠くを泳ぐ平和の象徴が、掻き消えそうなほどの羽ばたきを煩わしくも響かせる。

 

 

「……加害者冥利に尽きンな、そりゃァよ」

 

 

「……っ」

 

 

『学園都市第一位』は栄光の座ではない。

科学の権化であり、叡知の結晶であり、ただの殺人鬼。 そう突き付けて、そう突き返されて。

せせら笑う様にでもなく、ただ静かに。

そのテノールが、自らの首にロープが掛かるのを瞑目して待つ罪人の様にすら思えたのは、彼の口から聞いた言葉が耳鳴りの奥で生きているからだろう。

 

 

──ヒーローである上条当麻はもォ飽きてンだよ。次は、唯の人間である上条当麻を見せてみろよ。

 

 

許すも赦さないも、ないのだ。

自分は、御坂美琴は。

まだ一方通行を、唯の人間として見詰めれる自信はないから。

学園都市第一位。

 

御坂美琴にとっての恐怖の代名詞。

人としてどうこう、ではない。

明確な化物として、憎み続けるしかないのだ、まだ。

飽きる程に憎んでも憎み足りず、彼を通して見る『事の発端』である自分を、漸く憎み始めたばかりだから。

 

 

「あんたは『一方通行』よ」

 

 

「……」

 

 

「『今は』、そこから『始める』わ」

 

 

「──っ!!! ンの、馬鹿が! 始めるも始めねェもないだろォが。そこは『てめェ』にとっての不変じゃねェのか! あァ!?」

 

 

「……勝手にあたしの『現実』を不変になんて留めんじゃないわよ」

 

 

「……ぐっ、ふざ、けンな……」

 

 

御坂美琴は、加害者であり被害者だ。

だからこそ彼女には一方通行を化物として見ていて貰わねば困るのだ。

 

今、生きている妹達は一方通行が背負う。

必ず人間として、当たり前の命として導く。

『被害者』である御坂美琴が背負うべきではない。

 

 

──だが、そうでなかった10031人の命は。

 

『加害者』である御坂美琴が想うべきなのだ。

想い続けてやらねばならない。

一方通行という化物を、化物として見続ける事で。

そこは不変であらねばならない。

 

 

一方通行──学園都市第一位。

それを理解する事を始めてはならないのだ。

人である前に殺してしまった、彼女達の『お姉様』として、一方通行を永久に糾弾するべき者として。

『加害者』であって貰わなければ、ならないはずなのに。

 

 

許すも、赦さないもない。

どうか。

許してはいけないと、言い続けて欲しいのだと。

 

子供染みた押し付けを、御坂美琴は拒んだ。

 

 

「……墓」

 

 

「あァ?!」

 

 

「9982号の墓」

 

 

「──ぁ……お、前」

 

 

「あんたも……一緒に来なさい。いつか……じゃ、なく、て……今度」

 

 

御坂美琴は、一方通行に振り向く事なく告げる。

それは手切れ金を差し出すようではなく、彼女なりの最大限の譲歩。

彼女の声は『当たり前の葛藤』で揺れている癖に、少し無理をするかの様に言い切った。言い切ってしまった。

 

 

「……」

 

 

「……」

 

 

彩り集まる無機質な街並みが、紅い瞳の奥で、少しだけ有色彩を増す。

雲間から顔を出す光るだけのデカブツが、ストロボの様に伸びきった光芒を、科学の世界へと射し込ませた。

 

もう随分遠い過去にも、すぐ間近の昨夜とも思えてしまう、鮮烈で、褪せて、どちらに置いておきたくもない、あの日の事。

一方通行と御坂美琴の忌まわしい因果が、嬉しくもない繋がりを見せたあのコンテナの城。

 

その場所を覚えているのは、彼の記憶力の善し悪しは関係ない。

ただ──つい最近訪れたばかり、だったから。

 

 

「第一位の癖に。手向けるなら花、ぐらい、用意しなさいよ。紅茶……とかさ。馬鹿じゃないの」

 

 

「…………」

 

 

「高かったでしょ、アレ」

 

 

「……二万円程度、端金に決まってンだろ」

 

 

「……不味いって、言ってたわよ」

 

 

「……知るか」

 

 

掠れ気味のソプラノの、不協和音に釣られたテノールが吐き捨てる。

情報提供者の10032号の言葉を鵜呑みした事を後悔しつつ、手持ち無沙汰に缶コーヒーの表面を爪で苛立たし気に叩いた。

 

 

『……記憶共有のサルベージからすると、9982号の好物は紅茶でしたよ。と、ミサカは一本二万円もする高級品を呆気なく不味いという個体──いえ、<ミサカ>の馬鹿舌に肩を竦めます』

 

 

記憶から囁くそれは、10032号に担がれたという証ではない。

一方通行には判断しきれない事ではあるが──その紅茶の一口から、『御坂美琴』と『9982号』は口喧嘩を始めたのだ。

その後の、仲直りのアイスも含めて。

 

なら、それは確かに────9982号の好物、だったのだろう。

姉妹として、10032号が、贖罪にもならない自己満足を為そうとする一方通行の背を押した証だっただけ。

 

 

「…………クソ……」

 

 

その事実は知らなくても。

この状況において、自分だけの現実にこだわり続けていては、きっとアクセラレータは何も変えれない。

慣れ親しんだコーヒーの味すら、今はそっぽを向くように口の奥で苦くなる。

 

だからもう、踏み出さなくてはならない。

それだけの決断を下す為に必要な当たり前を、一体幾つ与えられて来たというのか。

案山子は人間になったのだから。

 

 

上条当麻の生き様。

 

禁書目録の無垢。

 

黄泉川愛穂の優しさ。

 

芳川桔梗の後悔。

 

布束砥信の贖罪。

 

番外個体の歪み。

 

打ち止めの愛情。

 

吹寄制理の温度。

 

 

──そして、妹達の願いによって、今。

 

例え、彼女の前だとしても、人間で在り続けねばならないのだと。

彼は漸く、ちっぽけな勇気を持ち合わせ始めた。

 

 

「……『御坂美琴』」

 

 

「……なによ、気持ち悪いわね」

 

 

「うるせェ。墓参り……行ってやるには条件がある」

 

 

「はぁ? んな事言える立場だと──」

 

 

この期に及んで更に譲歩を求める言い草に、素直に怒りを灯した鳶色は、振り返るなり桜唇を結んだ。

 

 

『お姉さ……とミサ……』

 

 

真っ白のフラッシュバック、真っ赤な結果。

優しい色など、数瞬の思い出巡りのどこにもない。

 

だというのに、やはり今と重ならない紅。

今度は、真っ直ぐに視線が重なる。

 

 

「…………」

 

 

「……条件って何」

 

 

一つ分かった事がある。

この化物は言葉が下手で、頭が良い癖に年下の少女に理解と推測を強請ってばかりだ。

 

つくづく呆れる。人間が出来てなさ過ぎる。

なのにそれ自体が、彼が人間に過ぎないと、そう告げて来るかの様で。

美琴の心は、早くも悲鳴を挙げている。

 

どうして、そうまで人間なら、『最初から』。

そう思わずにはいられないのに。

 

『冷静な観点から見れば、というのはあくまで冷静な立場に居られればこその結果論であって、それをさも誰もが出来て当然の様に振り翳すのが、まるで人間をロボットか何かだと手痛い切り離し方をしている様にも思えて』

 

14歳の心が、今にも軋みそうで仕方ない。

 

 

「……此処じゃ言えねェ」

 

 

「馬鹿にしてんの?!」

 

 

「違ェよ。ここじゃ言えねェ、そンだけだ」

 

 

「……!」

 

 

一方通行が示す言葉の裏は、蚊帳の外に向けた配慮であり、彼にとっての怯えだった。

全くもって、ろくでもない。

突き放すことを怠ってる癖に、自分の犯した罪の核だけは知って欲しくないというのか。

 

そんな、人としての当たり前の弱さを持っているのなら、どうして。

どうして、最初から。

 

 

『それは確かに実践出来ていればとは思うものの、そこにはきっと現場にある生々しいアクシデントは省かれているからか、どこか突き放したような血の通わない言葉に思えてしまうのだ』

 

 

『お姉様は、どうします? もし、自分のクローンが目の前に現れたら……』

 

 

『そうねぇ──』

 

 

どうして、最初から。

そう思う度に、軋むのは。無理になるのは。

彼を化物のままで居てほしいと願っている自分が、半月に折り曲げた口で囁くからだ。

 

『やっぱり…薄っ気味悪くて、私の目の前から消えてくれーって思っちゃうわね』

 

 

だから御坂美琴は、逃げ出すように、一歩を踏み出した。

不変を終わる為に。

罪悪の在処を、受け入れるようになる為に。

そうしなければ、強くなれないと思うから。

 

ただの人間である上条当麻を支えてあげるようになるには。

自分を慕う少女達の前で、いつかの様に、心から笑えるようになる為には。

必要になる強さだと思うから。

 

 

「────」

 

 

立ち上がり、スカートに付いた砂利を払いながら、彼女が突拍子もなく紡いだ数字の羅列。

その意味を理解するのは、遥か頂きに届く為の叡知は必要ない。

彼女と彼の前では、ただありふれた生き方をしている少女でさえ、すぐに思い付くこと。

 

見開く紅い瞳に映る、理解と不理解。

その多くに傾く不理解に答えるべく、彼女は優しく毒を吐いた。

 

 

「……あんたとメル友とか絶対嫌だから、仕方なくよ」

 

 

「……こっちだってお断りに決まってンだろ」

 

 

「うざっ」

 

 

「ケッ……」

 

 

青い彼方は、まだ灰色の向こう。

雪解けには適した季節だが、お互い、そこまでを求めるつもりなど毛頭にない。

 

 

「あ、ていうかあんた、もしアイツの番号知ってんなら……」

 

 

「……アイツ?」

 

 

「……いや、何でも……」

 

 

「……上条か?」

 

 

「……え? 上条当麻?」

 

 

「ばばば馬鹿! 違うわよ違うったら! って、えーっと、吹寄さん、だっけ? え、アイツと知り合いなの?」

 

 

「知り合いというか……同じクラスよ」

 

 

「あっ、そ、そうなんだ……じゃあ……いや、でも、うーん……」

 

 

でも、それはいつか変わってしまうのかも知れない。

一方通行を、ただの人間と認めたとき。

御坂美琴に、加害者である事を願わなくなったとき。

 

許すとか、赦さないとか。

その上での話が出来る、そんな予感。

 

 

「……はぁ。まぁいいわ、教えて貰わなくたって……じ、自分で、聞くから……」

 

 

「…………あの三下に、ンな及び腰でどォすンだよ」

 

 

「う、うっさい! あんたには関係……ないでしょ!」

 

 

「フン、そォかよ」

 

 

「……そうよ。『今は』ね」

 

 

「──」

 

 

そうして、彼女は背を向ける。

まだ、やっぱり顔を見続けるのは辛い。

怖くて、痛い。錆びたナイフを咥えながら話している感じがする。

 

 

「……じゃあね」

 

 

「フン」

 

 

「吹寄さんも。えっと……またね」

 

 

「……えぇ。御坂さん」

 

 

「たはは……」

 

 

「……チッ」

 

 

普通の年上から、さん付けは少しだけ距離を感じるけど、それ以上にくすぐったい。

どこか苛立った舌打ちに追いやられる様に、彼女は階段を降りていく。

 

 

(……前途多難ね。吹寄さん)

 

 

決して人の事は言えない立場ではあるが、ささやかなるエールを贈った少女は。

 

もうとっくに彼らの姿が見えなくなった辺りで見付けた公園。

誰の目にも映らない、公衆トイレの個室で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ぅ──ぁ、くっ……もう、なんで……こんな……ヒック……う、あぁ……ごめん。ごめんね……私、もっとあんたと……」

 

 

 

手の中に握り締める、いつかのプレゼント。

死者への手向けなどろくに知らない不器用な白い手で作られたばかりの墓。

つい昨日、花束を持って向かった時に見付けたもの。

高級茶のケースと、ゲコ太のぬいぐるみ。

 

見付けたその時に、彼女の手にあるものを並べて置く事が出来なかった自分の弱さが、後になって響く。

 

化物の輪郭が、少しずつボヤける白い影。

そう遠くない内に、並べてあげても良いのだと。

 

 

──今日、一方通行と話したことは、無駄ではなかった。

 

ようやく、御坂美琴は自分の妹の為に泣いてあげる事が出来たのだから。

 

 

 

◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「……もォ、良いだろ」

 

 

「……何も、良くない」

 

 

因縁を見送って暫く黙り込んでいた紅が、静かに突き放そうとするのが吹寄には理解出来た。

理解出来たし、彼が自分という存在を傍に居させた理由も、なんとなく。

 

 

「聞いてなかったとは言わせねェぞ」

 

 

「……言うつもりもないわよ。少なくとも、一方通行が御坂さんみたいな人に、あんな顔をさせるような事をした……って。それくらいなら、分かるわ」

 

 

「それくらい、で済む話じゃねェよ」

 

 

……切り出そうとしてるのだ。

別れを。さよならを。

もうこれ以上、自分の傍に居て貰っては『困る』のだと。

紅い瞳が、揺れながら叫んでる。

これ以上、『彼の現実』に関わって欲しくないのだと。

 

 

「……私は、そんなの」

 

 

「気にしねェだと? ナメてンのか。鏡見てみろよ」

 

 

「っ」

 

 

突き付けられたのは、想像以上に血生臭い背景。

やり取り自体に具体性はなくても、目の前であれだけ見せ付けられれば。

 

どれだけ取り繕うとも。どれだけはね除けようとも。

彼女は、ただの無能力者。

普通の少女で、ありふれた平凡である彼女が一方通行に恐怖心を抱いてしまうのは、無理もなかった。

 

 

「…………」

 

 

「あ……」

 

 

「……────」

 

 

そうして、彼は別れの言葉を言えぬまま、表情と行動だけで吹寄を彼だけの現実から切り離して去っていく。

 

いつも以上に頼りなく、いつも以上に呆気なく。

小さな背中が遠退いて、見えなくなる。

 

 

「…………」

 

 

ただ一人、残された彼女は、奥歯に悔恨を詰めて噛む。

現実に気圧された事が悔しくて。

待ってと手を伸ばせなかった自分に軽蔑して。

 

 

「……」

 

 

彼は恐らく、人殺し。

分かってた事で、覚悟していたつもりだったけれど。

頭で唱える「だからどうした、関係ない」は理性という檻の中で、遠吠えばかり繰り返す。

 

そんなこと、言えるはずもない。

音にすれば軽いだけ。第一位の前では、第三位の前では。

あまりに薄情な言葉だったと、ただ悔しかった。

 

 

「……良い、わよ。それでも、私は……」

 

 

一方通行はもう、自分の前には現れようとしないだろう。

電話をかけても、きっと彼が応えてくれる事はない。

メールを送っても、彼が答える事はない。

 

それでも自分は、一方通行の事を理解したいと思っている。

彼は恐らく人殺し。

それもきっと、第三位に心底から拒まれ、恐れられるほどの。

 

でも、吹寄制理は知っている。

それ以外の、生き方の下手くそな男の子だということを。

休日の誘いに、仕方なくでも応じてくれる人だということを。

変わってしまうのを恐れながら、変わっていく彼を。

 

 

「知りたくても……どうせ、教えてくれないだろうし……」

 

 

自分は、そんな彼の姿を好ましいと思っていると伝えた事はあるだろうか。

 

 

「……いい、わよ。もう。私だって、自分で聞くわ……」

 

 

さよならを確かな言葉にする事すら怖がる彼の、もっと色んな表情を見てみたいと思った。

仏頂面ばっかりだけど、覗き込めば意外と変化の多い彼の……もう少し、優しい表情が見てみたい。

 

 

「……黄泉川先生なら……」

 

 

出来ればそれを、向けて欲しいとも。

 

 

 

 

『Hader』____『地面』




Hadar:ハダル

ケンタウルス座β星 (β Cen)

スペクトル型:B1Ⅲ

距離:330光年

輝き:0.61等星 全天第十一位


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