銀河は英雄のもの (mojito)
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アールガウ伯家の兄弟

 私に弟ができたのは、私が十歳の時だった。屋敷の門の前で初めて対面した瞬間のことは今でも鮮明に憶えている。私が手を差し伸べると──当然握り返して貰えると思っていたのだが──彼は一瞬だけ躊躇い、しばらく我が父の表情を窺った後、おもむろに臣民がするように跪いたのだった。私は無言のまま、敬して遠ざけられた自分の手を引っ込めて、眼下で風に揉まれる彼の髪をただ眺めていた……。

 ところで、赤ん坊が跪いたりするなど有り得ないとお思いの方もあるだろうか。その通り、弟は赤ん坊ではなかった。生まれ年は私と同じで、とっくに乳離れもしていたし立派に口も利けた。それがお互い十歳の年に初対面と相成ったのは、一言で言えばそれまで父が彼を認知していなかったからだ。彼は父が、母ではない──正確に言えば私の母ではない女性との間に儲けた子だった。父は、仮にも帝国貴族が、平民ならまだしも賎しい階層の女との間に生まれた子を屋敷に入れるわけにはいかないと考えていたらしい。父曰わく。

「帝国貴族、それもルドルフ大帝以来の累代の臣たる、我がアールガウ伯爵家の沽券に関わるではないか」

 だったら最初から不貞行為をするなと言いたくなるが、父の意向に従い、弟はそれまで市井で暮らしていたのだった。それがなぜ突然認知され屋敷に入る運びになったのか、父の口からも弟の口からも語られることはなかった。けれど、後々耳に入った風の噂では、弟の母──つまり父の愛人が流行りの病に罹り、貧困から満足の行く治療も受けられずに亡くなって、さすがの父も憐憫の情を抱いたらしい。

 もしかすると、同い歳といっても彼の方が誕生日は先で、本当は私の「異母弟」ではなく「異母兄」であったかもしれない。長幼の順を意図したものとするために出生記録を改竄したとしても、何のお咎めもないのが帝国貴族という階級だ。もちろんその帝国の国法では、嫡子を差し置いて庶子が跡取りになるなどそうそう許されることではないのだが、父は万事そういうちょっとした体裁というものを馬鹿馬鹿しいほどに気にする性質だった。でなければ、遅きに失した憐憫の情などではなく、人間らしい温かみのある愛情によって、もっと早くに母子を屋敷に迎え入れていたに違いない。

 ともあれ、私エルンスト・フォン・アールガウと、弟エドムント・フォン・アールガウはその日出会った。と言っても、まだこの時点では一言も言葉を交わしてはいない。同じ血を半分づつ受け継ぎ、同じ姓を名乗りながら、二人の間には歴然とした格差があって、それが普通なら血を分けた者同士で行われるであろう会話を妨げていた。なにしろエドムントは、父の許しなしには勝手に口を利くことすらできないのだから! これが、未だ幼かった私が人生で初めて遭遇した、この帝国という社会をいくつにも分かつ亀裂のほんの一端だった。エドムントにしてみれば生まれ落ちたその瞬間から存在した、そしてゴールデンバウム王朝開闢以来、いや、最も古い時代から連綿と人類社会の中に走っていた亀裂だったのだが。ただ、私はそれまで当たり前と思って視界に収めていなかった広いクレバスの底を、こうしてようやく覗き込まされたのだ。

 

 

 

 父は結局また外に女性を求め、私達兄弟が二十五歳になった年、妾宅で頓死した。母や親族はとっくに父の女癖の悪さを諦めていたらしく、葬儀では少しも悲しむそぶりを見せなかった。彼らの意識はすでに、アールガウ伯家には似つかわしくない醜聞を如何にして隠すかに移っていた。もっともこんな話は門閥貴族には珍しくないのだから、どこまで本気で隠す気があったのか。悠久の歴史と強大な専制とを誇るゴールデンバウム王朝を以てしても不敬罪という条文を廃止することはできていない。逆説的にそれは皇帝の醜聞ですら(もちろん直接的な表現は使えないにしろ)揶揄の対象になり得るということを表している。つまり官憲のお目こぼしを得た大小のゴシップ紙の下卑た目線はなべて中央の事件に向いているわけで、田舎貴族の醜聞ごとき、帝都では持ち込んでも一山幾らというところだろう。大体、醜聞といってもそれはすでに亡き父のものだ。それによってアールガウ家の家名や生きている人々の評判が傷付くというものでもあるまいに。私は葬儀の進行にお構いなしに繰り広げられる親族らの相談事に耳を傾けながらも、内心苦笑した。

 私は父の残したただ一人の嫡子だった。故に、父が死んだ時点で私はアールガウ家の家督を継いだものと見なされる(正式な相続には皇帝の許しを待つ必要があるのだ)。親族の誰よりも上席に座らされて、愛してもいなかった父の葬儀の主催者ということになったのはそのためだった。全く、父の頓死は大迷惑もいいところで、私は帝都での軍務を放り出して所領のアールガウ星系に戻らねばならなかった。

 私はふと、同じく軍務から舞い戻ったばかりの弟に目をやった。私達兄弟はほぼ同時に帝国軍に籍を置いたが、帝都やイゼルローンといったいわば華々しい勤務地を選ぶことができた私と違い、エドムントは辺境惑星を転々としていた。その割に、伯家の世嗣という下駄を履いた(訳注:本書の帝国語原文ではもちろん下駄は登場しない)私と昇進の速度は遜色なく、ともに帝国軍少佐の階級で、私などよりもよほど優秀なのだろうというのは軍務についてからのここ数年痛く感じさせられていた。そんなエドムントも、ここアールガウの家中にあっては単なる庶子に過ぎない。今もほんの末席にあることを許されているだけなのだ。

 弟は、親族連中の後ろに一人いて、何やら顔を俯けていた。私はなんとなく、彼もまた私同様に苦笑を噛み殺そうとしているのかと思った。あるいは隠そうとしているのは満面の笑みか。それも許されるほど、弟には父を恨む正当な理由がある。

 私は葬儀が終わったら弟に声をかけてやることにした。この年になるまで兄弟として親しく話した記憶がなかった。が、それを妨げていた父は最早この世にいない。父が愚かにも気にしていた恥も外聞も、父が一緒に墓の下に持っていくだろう。私がアールガウ伯になれば、誰にどういう口を利こうとこの家中に文句を言える者はいなくなるのだ。相手が皇帝でもない限り。そして二人の兄弟は、手を取り合って……。

 

 

 

 エドムントは、誰にも盗み見られぬうちに、自らの目尻に浮かんだ涙を拭った。父の急を任地で知ったときすでに一生分を流し尽くしたのだと思っていたのだが、その死に顔と対面した今、彼は再び涙の溢れるを禁じ得なかった。

 それは、決して父への愛によって生成された涙ではない。人の一生涯に流す涙の全体量が決まっているとすれば、母の死んだ時に既にその九割は失われていた。父のために流したのは残りの一割に過ぎない。父など死んでよかったという思いはエドムントにもある。母を真の意味で愛さなかった父を愛することなど、誰にできよう。

 しかしそれでも、そんな父のために一割の涙が流れ出たのは認めざるを得ない事実だった。父は、父こそは、エドムントにとって最後に残された肉親に他ならなかった。今この場には、父の本当の妻だった女、父の本当の息子だった男、そして父の親族がいるけれど、その中にエドムントにとって肉親の情を抱くことのできる人間は一人としていないのだ。抗いようもない孤独感こそが、まさしく彼の頬を伝う涙の成因だった。

 ようやく気持ちを落ち着かせ、おもむろに顔を上げたエドムントの視界へと唐突に飛び込んできたのが、この場の支配者の地位を得たばかりのエルンストの微笑だったことは、この二人にとって決定的な出来事になったのかもしれなかった。エドムントが父に抱いてきた感情は愛ではなく敵意だったが、父が永遠に存在しなくなった今、無意識にその矛先を探していたのだろう。エドムントの父への敵意はまだしも肉親に対するものだったのに比べ、肉親として数えられていなかったことがエルンストにとっての不幸だった。

 エドムントは己の体温が急激に下がるのを感じ、エルンストの微笑を自らを嘲り蔑むものと解釈した。エドムントは元来頭の切れる冷静沈着な青年だったが、その冷静さは時として冷酷さに転じる。自分の方から抱いてしまった敵意に気付かず、相手の敵意を確信してしまった人間にとっては、冷酷なまでの冷静さはむしろ毒だった。激情に駆られがちな者ほど、激情の去った後は内省できる。普段滅多に激情に駆られないエドムントには、激情の中で抱いた敵意を省みる機会が与えられなかった。エドムントの優れた頭脳は、過去を振り返ることなく、敵を如何にして容赦なく打倒するかに全思考能力を傾けた。

 

 

 

「エドムント!」

 私より身長は高いがどこか線の細く感じられる弟の背中に、目一杯の親しみを込めて声をかけた。その背中は一瞬ピクリと震え、すぐに振り返ってくれる。

「……」

 が、いつも通りだ。言葉は返ってこない。それもそうか、十五年そうして過ごしてきたのだ。

「いいよ、私がお前と話したいのだから。ああ、いや、これからはお前から話しかけてくれてもいい」

「……それは、ありがとうございます」

 間を置いて、エドムントは意外にも爽やかな笑顔で答えた。私は少なからずそれに動揺させられた。これまでの十五年間、弟のそんな顔は見た記憶がない。やはり彼は、腹の底から笑ったことがなかったのか。父がエドムントにしてきた扱いを思い出し、私は今更ながら彼の不遇に心を痛めた。しかし、それもこの日終わるのだ。

「私はもうしばらくここに残るつもりなんだ。陛下にお目通りを願うまでに、領内の現状を把握しておきたいからな。お前はすぐに軍に帰るかい?」

「いえ、私も久しぶりの休暇です。兄上にお許しいただければ、少し羽を伸ばそうかと。あ、こんなことを言えば父上に対する非礼にあたりますか」

 弟は饒舌に答える。これまでを思えば、彼らしくないと言えなくもない。しかし、その明るさが本来持っていた彼の性格なのではないかと嬉しくなった。

「いや、いいさ。葬儀はしっかりと済んだのだから。丁度いいから、一緒に領内を回らないか」

「……? よろしいのですか、私は──」

「庶子で、世間体が悪い、と言うんだろう。構うものか、そんなのは豚に喰わせてしまえ。オーディンの社交界ならいざ知らず、ここはアールガウ伯領だ。アールガウ伯家の当主たるべき私が決めたことに誰にも文句は言わせない。もちろんお前もだぞ、エドムント」

 考えていたことを残さず打ち明ければ、弟は目を見開いた。

「そこまでおっしゃるのであれば、お供させていただきますが……」

「なに、気にすることはないじゃないか。お前の母も伯領に生まれた一人だ。領民どもはかえって親しみを感じるに違いないよ」

 そう言って肩を叩いてやると、恐縮したのかエドムントは急におし黙ってしまった。私は慌てて付け加える。

「いや、そんなことは後回しにして、今日はひとまず旨い酒でも酌み交わそう。お前とそうする日がくればとずっと願っていたんだよ」

 こんな台詞、まるで私が父親になったようだと思わないでもなかったが、エドムントにはこれまであんな父しかいなかったのだから、同い年の私が父親役を務めたっていいはずだ。

「……」

 私の全霊を込めた誘いに、彼はぎこちなく、けれど優しく微笑を返した。私はその瞬間、遅蒔きながらも本当の肉親になれたように感じた。初めてあったあの日のように、エドムントの髪は風に揉まれていた。あの日とは違って、幾らか私の頭より高い位置にあったけれど。

 

 

 

 エルンストが正式にアールガウ伯家を継いでから、兄弟二人はともに過ごす時間が増えた。それは、エルンストが努めて弟を傍に置こうとしたからでもあったし、エドムントの方も兄の補佐役を精力的にこなした。

 アールガウ伯の継承に伴って、エルンストは大佐に昇っている。二人の父もそうであったように、貴族の持つ軍の階級はほとんど名ばかりのものであって、よほど血の気の多い人物でもなければその階級に見合うような軍事的活動をするわけではない。ただ、それぞれの所領には小規模でも治安維持のための私兵艦隊を備えているのが普通であり、名目上その艦隊司令官として高級将校の位を与えられているのであった。

 もちろん、中には現役軍人として前線に出ることを誉れと考える者もおり、エルンストもどちらかと言えばその珍しい貴族の一人であった。



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二人は要塞へ

 エルンスト・フォン・アールガウ大佐が長期の服喪を終え、イゼルローン要塞駐留艦隊高級参謀に転じたのは、帝国暦四八七年一月のことであった。

 

 要塞駐留艦隊といえば銀河帝国軍宇宙艦隊の中でも最前線に布陣する部隊であり、言わずもがな帝国軍中の精鋭集団の一つと目されている。

 その高級参謀は、艦隊にあっては参謀長に次いで高位の参謀であり、艦隊運営の実務にあたる参謀達のまとめ役と言える。現場の声を吸い上げ、そして司令官や参謀長の手足となってその意向を現場に反映させるのである。当然、無能者には務まるわけがない重職で、長年に渡って功績を上げ百戦錬磨の経験を積んだ人間や、幹部養成の過程において優秀な成績を収めてきた将来を嘱望される人間にしか、このポストは与えられない。

 ところで、こういった職位は自由惑星同盟軍(当時の帝国においては知っての通り叛乱軍と呼称されていたが)にももちろんあり、例えば後のアスターテ会戦の際、かの名将ヤン・ウェンリー准将は第二艦隊次席幕僚の任にあった。そして、艦隊司令官パエッタ中将の負傷に伴って艦隊指揮を引き継ぐことになったのは有名であろう。ヤン提督の場合、エル・ファシル戦以来の軍功大であることを以てこの職を与えられたに違いない。もっとも彼は司令官や参謀長、他の参謀らとの間に信頼関係を築いていたとは決して言い難いようであるが。

 また、そのヤン提督が後に自ら率いたいわゆるヤン艦隊では、パトリチェフという人物が艦隊副参謀長を務めていた。この点、次席幕僚と副参謀長との関係は詳らかではない。艦隊司令部内における職掌や立場は明らかに重なっているものと思われるが、同じ役職の別の呼び方に過ぎないのか(とりわけ帝国語への翻訳の段階でこの問題が生じやすい)、全く別個の役職であり並立していたのか、同盟軍の職制に短期間のうちに何らかの改編があったのか。如何せん、筆者には同盟軍の軍事史についての知識がなく、何れとも判断し難い。

 

 閑話休題。

 この高級参謀という肩書きは、幾分エルンストには荷が勝ちすぎている。それは、本人も拝命した時点ですでに自覚していたのである。エルンストには艦隊参謀の経験がない。大佐に昇進したのも伯位を襲ってからのことであり、まだ一年と経っていない。人事としては誰の目にも異様に映るものと言わざるを得ない。

 エルンストは一時軍務省に怒鳴り込んで辞令を突き返そうかとすら考えた。が、確かに前線勤務を自ら希望したのも事実である。現下、帝国軍の最前線がイゼルローン回廊に限られる以上、イゼルローンに配属されることは予想の範疇ではあった。どうせ同じ場所で働くなら、より重い責を負っての仕事の方が経験になる、と言えないこともない。

 それに加えて、弟の存在もあった。エドムント・フォン・アールガウ少佐も、同じ人事でイゼルローンに配属されたのである。配属先が駐留艦隊ではなく要塞防御司令部なのは残念だが、これまで通り相談しあい助けあうことができれば、困難を乗り越えることもまた可能ではなかろうか。

 悩んだ末に、エルンストは高級参謀として精励する道を選んだ。幸いそうと決めさえすれば他に心配はない。家督相続後、服喪に名を借りて多少時間をかけて取り組んできたアールガウ伯領内の引き締めも、弟がテキパキと差配を下してくれたおかげで物事が捗り、女色に耽った怠惰な父の時代に弛緩した統制を取り戻すことに成功していたのである。

 父の死んだ後やけに若返ったようにも感じられる母や使用人ら、それに宇宙港までの沿道に動員された多くの領民に見送られ、以前より活気付いたアールガウ星系を後にしつつ、エルンストは前途に不安と希望との奇妙なコントラストを抱いた。

 

 兄の新しい任地を聞いて、エドムントは驚愕した。あの兄がよりによって要塞駐留艦隊の高級参謀! 荷が勝っているどころの騒ぎではない。はっきり言って、不適格の一語に尽きる。

 参謀というのは軍の頭脳である。艦隊参謀であれば、その双肩に一個艦隊とその全将兵の安危が懸かっているのだ。成績の優秀なこと、などというのは前提の前提であり、その優秀な者を更に絞り込んだ上で高度な参謀教育を施し、ようやく多岐に渡る参謀の職務をこなせるようになる。ましてやその参謀の上に立つ高級参謀に参謀の経験もない人間を就けるなぞ、帝国軍三長官が一度に三人とも乱心したとしか言いようがない人事。狂気の沙汰だ。

 受けるエルンストもエルンストである。エドムントには、つくづくこの兄が度し難い存在に思えてくる。彼を心の底から憎悪している、という色眼鏡はもちろん外しての話だ。それくらいの客観的な思考ができないエドムントではない。

 父が死んでから、兄にアールガウ伯領内の改革を任された。これまで軍務一筋に過ごしてきて、民政の実務経験など無論備えていないエドムントは、この無茶な要求に頭を抱えた。兄の方はそれを無茶とは微塵も考えておらず、とことん楽観的。エドムントが素人として精一杯にひねり出した言葉を誉めそやしてくるばかり。

 抱いていた殺意を大幅に増幅したエドムントであったが、ここで失敗して兄の期待を裏切れば、胸中に温めている計画に支障が生じる。もともとの生真面目な性格も手伝って、目の前の難題になんとか解決に至る方策がないか、八方手を尽くさざるを得ない。

 結論から言えば、答えは簡単に見つかった。領内のことを知り尽くしたアールガウ伯家の使用人らに聞けば、アールガウ伯領の経営がうまくいっていないのは、父が伯としての務めに興味を失い、ここ十年来同じ予算のまま過ごしてきたからであった。当たり前であるが、十年前に適切であったものも十年も経てば適切でなくなる。予算を見直し、必要な場所に必要なだけの金を出してやれば、立ちどころに歯車は噛み合った。

 拍子抜けしたエドムントには、それを弟の大手柄であるかのように大はしゃぎしてくる兄は、最早、自分とは別種の生物にしか思えなくなった。

 エドムントには多少他人を見下す悪癖があったが、とりわけ一度無能のレッテルを貼った相手に対しては苛烈だった。そんな彼にとって、昆虫レベルというに相応しい兄を害することは、人類に課せられた神聖なる義務に等しい。すでに、エドムントには害意の生まれた当初の激情を思い出すことさえ難しかった。

 その昆虫の兄が高級参謀。己の正気をこそ疑うべきではないか。あるいは兄が無惨な失敗を犯すであろうことを、大神オーディンに感謝すべきか。自らもまたイゼルローンへの旅路の中にあったエドムントは、軍用船の質素な座席に身を沈めつつ乾いた笑みを浮かべ、いささか狂いの生じた計画の修正に没頭した。

 

 現任の要塞駐留艦隊司令官は、フォン・ゼークト大将である。歴戦の勇将として知られ、それに相応しく堂々たる体躯に豪放磊落とした性格を宿していた。エルンストは、司令官への着任の挨拶でそのことを再確認した。司令官室に通されるなり、待ち構えていたゼークトは新任高級参謀の両肩を捕まえ、雷霆のごとき大声を響かせながら曰うたものである。

「俺は経験なぞ問わん! 死ぬ気を見せろ! 死ぬ気があるなら、悪いようにはせん!!」

 しばらく耳鳴りと格闘したエルンストは、収まると同時に直立不動となり、ゼークトほど胸郭が発達していないために金切り声になりつつも、負けじと答えた。

「小官は命令さえあらば、今ここで自裁するも厭いません!!」

 どうやらその答えは無事にゼークトを満足させるに足りたと見え、エルンストは参謀長に引き継ぎを受けるよう命じられ、退室を許された。

 

 打って変わって艦隊参謀長のカルツ少将は、ネズミに似た細面の上に年齢相応に薄くなった後頭部を乗せた、見るからに小心翼々たる木っ端役人風の男である。

「そうか、司令官閣下は貴公を気に入られたかもしれんな」

 先ほどの出来事を伝えると、カルツは消え入るような声で応じる。あまりの音量差に、エルンストは司令官の大音声のために自分の鼓膜が破れてしまったのではと心配になってしまったほどだ。

「そうして調子を合わせていれば、大丈夫だろう。ただ、閣下は気難しいところもある。今日うまくいった手が明日も使えるとは思わんことだ」

 そう言ってつまらなそうに笑うカルツの話は、似たような処世術に類するものに終始した。実務に関する引き継ぎなど一言とてもない。エルンストはいささか途方に暮れつつ、参謀長室を辞した。

 

 本来なら、参謀長室から出てすぐ左の部屋に入ればそこが作戦参謀室であり、高級参謀たる自分のデスクもその中にあったのである。だが、にわかに不安が大きくなり気持ちが浮ついていたエルンストは、思わず右に曲がってしまった。

 すると、やたらに廊下が長い。考え事をしていたエルンストでも、歩きながらその歩数の多さに違和感を覚えるほどに長い廊下である。しかも曲がりくねり、方向感覚を失う迷路。苦心惨憺してそれを抜けると、突き当たりに荘重な扉が一つだけあった。作戦参謀室の隣には、さらに情報・通信・後方などの各参謀室が並んでいるはずなのに。

「道を間違えたか……?」

 そうつぶやいた頃には、彼はすでに扉の前に立ち尽くしていた。

「どうなさいました。今、ここにはどなたもおられませんが」

 不意に扉の向こうから声をかけられ、エルンストは心臓を口からつかみ出されたように驚いた。扉が重々しく開くと、その向こうには警備兵らしき一団が十人ばかり、銃を肩にしている。

「そんなに驚くこともないでしょう、足音でわかりませんか。身分証を拝見します」

 苦笑しつつも有無を言わせぬ態度で誰何するのは、その隊長と思しき口髭をたくわえた大尉である。腰のブラスターにいつでも手を伸ばせるようにしているのは、軍規の行き届いていることを伺わせた。

「ほう、随分お若い大佐殿と思いましたが、新任の艦隊高級参謀殿でしたか」

「ああ、勝手が分からず失礼しました」

 相手の身分を確かめると階級に見合った敬礼をし、大尉は破顔した。

「申し遅れました、警備当直のザロモン大尉であります」

 警備当直士官は、要塞内の警備の担当者である。二十四時間交代で、要塞各部署の士官が持ち回りで務めている。ザロモンは工兵部に所属しているようだった。

 

 読者の方々は、疑問に思われるかもしれない。専属の警備担当部署は存在しないのか、と。もちろん存在している。要塞陸戦隊と要塞憲兵隊とがそれである。が、何分イゼルローン要塞のような巨大な空間を警備するとなると、それだけでは手が回らない。そこで、要塞内の巡回であるとか、国旗・軍旗の掲揚、民間人居住区に鎮座するルドルフ大帝像の前での衛兵交代など、実際的な重要性の割に人手が必要で、かといって廃止することもできないような種類の警備については、一般の部隊が人員を出すことになっているのだ。ただ、この要塞ではそれも単一部署では賄いきれないほどなので、同じ日にいくつかの部署が警備担当となる。責任者である警備当直士官も、この日で言えばザロモン以外に四人の大尉が務めていた。

 

 余談であった。

 ザロモンは、要塞中枢の様子に不慣れなエルンストに気さくに道を案内してくれた。先ほどエルンストが間違って入りかけた部屋は、要塞防御司令官と要塞駐留艦隊司令官の会見室である、ということまで教えてもらった。

 それぞれの司令官室から丁度等距離に位置する一室を特別に改装したのだそうである。当然、室内には両司令官が己の部下を統率するため、両司令官室と同様の設備が備わっている。畢竟、この要塞には司令官室が三つあることになる。

 いや、正確に言えば、四つ存在するのである。この両司令官の会見室の周囲は、異常に広い高級士官のサロンとなっている。もとはと言えば会見室もその一室であった。如何に巨大な要塞とはいえ、要塞防御司令部と要塞駐留艦隊の高級士官だけならそこまで広いサロンを必要としない。

 このイゼルローン要塞は銀河帝国の最前線である。唯一の、と付け加えてもよい。極言すれば、この要塞には全帝国軍宇宙艦隊が投錨することだってあり得るのである(実際には、宇宙港の方に収容限界というものがあり、そんなことは不可能であるが)。そして、となれば、帝国軍の統帥者である銀河帝国皇帝が、大親征の征途にあってこの要塞に滞在することも当然想定されなければならない。四つ目の司令官室とは、もう言うまでもないだろう、サロンの中に会見室と並ぶように作られた皇帝の行在所である。イゼルローン要塞は、もとより大本営となることを前提に設計された空前の大要塞であった。

 

 余談に余談を重ねてしまった。

 作戦参謀室に向かう道すがら、短時間ながらエルンストはザロモンと会話に花を咲かせた。例えば駐留艦隊司令部と要塞防御司令部、それぞれの「オヤジサン」つまり軍隊の背骨である古参の下士官の気質の違いについて、とか、それぞれの司令官の気質の違いについて、とか。要塞司令官のシュトックハウゼン大将は「校長」と呼ばれているが、ゼークト大将は「教頭」なのか「体育教師」なのか、とか。

「道理で話が分かりますね、以前はこちらにお勤めでしたか」

「その時は今のあなたと同じ大尉で、民政部にいました。それでこの辺りには不案内で……」

 エルンストは一時期、要塞防御司令部にも勤務したことがある。民政部はその名の通り民間人居住区の行政を担当する部門で、当然ながら軍事要塞であるイゼルローンにおいては民間人と言えども軍の命令が至上であった。

「そりゃあまた、大出世だ。待てよ、アールガウと言やあ、確か伯爵様じゃあないですか。その御令息なら肯けますよ」

「いや、まあそのアールガウなんですが、もう父は死んで代替わりしたんです」

 エルンストの話しぶりは貴族にしては随分軽い口調だったが、ザロモンは自分の失言を取り繕うのに必死で、気が付かなかった。

「そ、そりゃあご愁傷……」

 その慌て方に、エルンストは噴き出してしまう。会見室の前で驚かされた復讐は済んだようだ。

「おっと、これから先は艦隊司令部の領分だ。あなたも私も、一緒にいるところを見られるのはまずいでしょう」

 どうやら来た道を戻ることができた。ザロモンはもとの警備当直士官の顔を取り戻し、それぞれに私語を楽しんでいた部下を一喝して規律を甦らせる。敬礼を残し、彼等は一糸乱れぬ歩調で要塞防御司令部の方へと戻っていった。




 第一話と第二話で、改行や改段の仕方を多少変えました。読みやすいかどうか、忌憚なくご意見をお寄せください。


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酒乱が修羅場で

 アールガウ伯家は「ルドルフ大帝以来」、つまりルドルフ・フォン・ゴールデンバウムに直接仕えた功臣に始まる家柄であり、その後四百八十余年、家祖の名を汚すことなく血脈を伝え続けたことも合わさって、帝国貴族としては高い家格を誇っている。

 しかし、それは実際の権勢とは別の話である。中央政界にあって富貴を得ること、そして婚姻政策によって大門閥を築き、外戚としてゴールデンバウム王朝と血縁を共有すること──そういったいわば貴族としての花道を、歴代のアールガウ伯はほとんど歩んでこなかった。

 そうなったのには伯領の立地と、伯領の成り立ちも関係していたろう。その所領の中心であるアールガウ星系は、いわゆる帝国本土と帝国辺境との丁度境目に位置している。初代アールガウ伯がそのような場所に封じられたのは、辺境の抑えとしての役割を期待されていたのだ。それが数百年の間、伯の視線を中央から逸らし辺境へと向け続けたのは間違いない。

 もっとも、そういったアールガウ伯の役割は、時間の経過とともに失われていた。「叛乱勢力」の出現のためである。彼等は、これまで伯家が相手としてきた宇宙海賊などとは比べ物にならない難敵であった。中央に発言権を持たない伯家は、帝国を挙げて行われる「叛徒」征討事業の中で脇役に転落した。

 辺境の抑えアールガウ伯は、こうして田舎の寒門貴族アールガウ伯へとその立場を変えたのである。あるいは放蕩に耽った先代のアールガウ伯も、己の家系がすでに歴史的な役割を終えていることを、意識的にか無意識的にかはいざ知らず、鋭く見抜いていたのかもしれない。

 

 ただ、中央と違って辺境においては、アールガウ伯の家名はまだ幾許かの輝きを保っていた。辺境にはモザイク状に、男爵・子爵・騎士(リッター)・領主(ヘル)などの称号を持つ群小貴族の所領、内務省の所管する皇帝代官領、そしていくつかの流刑星が散らばっていたが、少なくとも前二者の領主・領民には、数百年に渡ってアールガウ伯家に守られた記憶が色濃く残っているのだ。加えて、中央との婚姻には消極的な分、アールガウ伯家と辺境の諸領主との血の繋がりも深かった。

 イゼルローン要塞に働く軍人には、貴族平民を問わず辺境出身者が多い。そもそも辺境は貧しい地域で、進路を選ぶにあたり軍人の道が普通の者以上に大きな選択肢となる。そんな辺境出身者が軍務に服するなら、「おらが星」を守ることに直結するイゼルローンで働きたいと思うのは、自然な成り行きであろう。

 要塞工兵部に所属するザロモン大尉もそういった辺境出身者の一人だった。だから、エルンストの姓名を聞いたとき、あのアールガウ伯家の者であるとすぐに気が付けたのだ。

 イゼルローン要塞に勤務する辺境出身者にとって、新たにエルンスト・フォン・アールガウという人物が艦隊高級参謀という要職を占めたことは、それなりに意味を持った。要は、イゼルローン要塞における辺境出身者の代弁者、「辺境閥」の利益代表者としての活躍を期待されたのである。

 

 要塞駐留艦隊に配属されてから、エルンストは多忙な日々を送っていた。とは言え、駐留艦隊が全艦出撃するような急迫の事態がしばらく生じていないのは彼にとって救いで、慣れない仕事でも時間をかけて着実にこなしていく余裕に恵まれた。

 四苦八苦しながらもなんとかその一日一日を過ごし終えた後、時間が捻出できれば、エルンストは迷わず要塞の士官サロンや商業区域で酒を飲むことにしていた。声をかけることもあればかけられることもあったが、杯を交わす頻度が多いのはやはり辺境出身者である。

 高級参謀になってから得た知人が大半だが、いくらかは以前から面識のあった者もいた。駐留艦隊ではなく要塞防御司令部にいた頃に知り合った者、もっと昔、軍服に腕を通す前から知っていた者……。

 要塞憲兵隊のロベルト・フォン・ラインフェルデン中尉は、特に以前から関係の深い青年である。ラインフェルデン男爵家はアールガウ家の分家筋にあたる貴族で、その三男坊であるロベルトはエルンストにとっては従兄弟同然。昔からよくともに遊ぶ気の置けぬ間柄だった。

 

「正直に言えば、エルンスト、あんたが高級参謀なんて、うまくいかないと思っていたんだが」

 エルンストより二つ年下のロベルトが発する言葉は、年齢差も階級差もまるで考慮していない。しかし胸襟を開いて接するこの時間が心地よいので、それを咎めるようなことはしない。ちなみにロベルトは軍服を着崩し、文字通りに胸元をはだけていた。

「なんだかんだと、高級参謀殿として大手を振って歩けてるじゃないか」

 言葉の合間合間に彼の喉を潤すビールのいくらかは、そのはだけた胸にもいく筋かの傍流となってこぼれ落ちていた。ロベルトは二十代前半の軍人という、人の肉体の健康にとってある種の理想を体現した条件の下に身を置きながら、極端な肥満体である。常日頃人の目も憚らず、酒をこぼし食べかすを散らかしながら鯨飲馬食に勤しんでいるので、年齢不相応のスピードで腹部が膨張していくのは仕方がない。

 質実剛健を建国以来尊んできた帝国にあって(というか人類社会一般にあって)ロベルトのごとき人種が高い評価を得ることは永遠にないのだろうが。

「おかげさまで、なんとか務まってるよ」

「人柄かな、どうも皆あんたを実力以上に評価しやがる。務まっていなかったとしても、周りがかばってくれるんだろうよ」

 しかしその歯に衣を着させぬ言葉こそが、ロベルトをエルンストの一番の酒飲み友達としていた。貴族の鯱張った社交を内心苦手としていたエルンストにとって、同じ貴族同士でありながら気を許せるロベルトのような人間は得難い存在だ。

「いや、流石に私の実力と思っている者は誰も居るまい。言うとおり、私が多少失敗しても皆が助けてくれるのさ。伊達にイゼルローンの参謀をやってる連中じゃない」

 さすがにロベルトほどの境地にはまだ達していないエルンストは貴族らしい上品な飲み方をしていたが、こちらはこちらで杯を干すペースが尋常でなく早い。アールガウ家やその親族には、エルンストの父を一つの典型例としてどうもアルコール中毒者の気があった。

 

 

 

 翌日。エルンストは頭痛に苦しめられていた。無論、普段ならそんなことは織り込んだ上で節度を守って酒を嗜み、明くる朝にはきちんと酒気を抜いて勤務に差し支えの出ないようにするのだが、この日に限って彼にはその余裕が与えられなかったのである。

 全艦隊幹部に招集がかけられたのは、杯を置いてからまだ一時間も経たない深夜。エルンストは折悪しくまだ一睡もしていなかったが、タンクベッド睡眠を行うことさえ許されず、シャワーを浴びて身体にこびり付いたアルコール臭を落とすのが精一杯だった。

 

 取る物も取りあえず艦隊司令部に駆け付ければ、情況は切迫していた。と言っても、叛乱軍の全面攻勢などではない。確かに叛乱軍の回廊への進出が探知されていたが、それは規模としてはたかが千隻。普段の哨戒よりは多いが、それでも精々威力偵察がいいところの小兵力だ。

 問題は、我らが駐留艦隊司令官が、全艦隊を挙げてもこれを即時撃滅せん、と主張して止まない、ということである。エルンストは出頭早々、ハンス・ディートリッヒ・フォン・ゼークト大将の砲声の如き絶叫に直面した。

「なんとしても生かして帰すわけにはいかん! 要塞に取り付かれる前に、討つ!! 全艦出撃これあるのみ!!!」

 たった千隻でこの難攻不落のイゼルローン要塞に肉迫するようなら、敵の指揮官は常軌を逸している。その場の誰しもがそう思ったが、なにしろこちらの指揮官も軍事上の常識を忘れ去るほどに興奮しているので、言い出す勇気もない。追従を述べる者もいないのが、帝国軍に軍隊としての理性が保たれていることをかろうじて証明していた。

 艦隊参謀長カルツ少将は片方の拳をもう片方の掌で包み込み、それを凝視し続けて一言も発しなかった。艦隊副司令官ミクラス中将や数人の分艦隊司令官といった他の将官級も同様の態度である。となれば、ゼークト大将にそれとなく翻意を促す役目は、自然に高級参謀のエルンストが負わされることになる。しかし思考がまとまらない。頭脳を占拠する不快感を払って、ややもすれば声ではなく胃の内容物を披露しそうなところをようやく絞り出したのは、随分不躾な発言だった。

「閣下、敵の撃滅を第一とするは帝国軍人として当然ですが……あの程度の寡兵に駐留艦隊をわざわざ全部駆り出す必要もないでしょう」

「なんだと?」

「敵はおそらく千隻を超えるか超えないかといった程度です。その……こちらも二千隻、不安なら三千隻も出せば撃滅するに足るのでは」

 

 エルンストの隣にいた作戦参謀のフロム中佐は、無言のまま全身で驚愕を表現した。彼は駐留艦隊の参謀たちの中では最も古株である。エルンストの前任者たちが駐留艦隊司令官の勘気を蒙ってどういう運命を辿ったかも全て承知している。

 駐留艦隊の高級参謀は、ここ三年の間に四度も交代している。短い者は赴任して一週間も経たぬうちに更迭された。副司令官は三度、参謀長は二度、そして作戦参謀も一度、ゼークト提督の機嫌を損ねて経歴に傷を付けたのだ。皆、エルンストと同じくごく常識的な意見を、エルンストとは違ってもっとやんわりと上申したのだが、この勇猛果敢な駐留艦隊司令官は決して許さなかった。

 フロム中佐は、エルンストがその場で司令官に殴り倒されるのではないか、とすら心配した。その場を直接目撃したわけではないが、カルツ少将も一度ゼークトに呼び出され、帰ってきた時には何故か彼の眼鏡が壊れていた。カルツは黙して語らなかったが、何事か好ましくない事態が司令官室の中で生じたのは明らかである。

 フロムは決して新任の高級参謀を好いてはいなかった。貴族のボンボンのお守りをさせられるのを喜ぶ平民はそういない。が、エルンストが不釣り合いな高級参謀の地位に収まった経緯を知っているので、その彼が短期間でまたもや更迭されるというのも望むところではない。あまりに悪評が立ちすぎて、すでに帝国軍内に高級参謀の成り手がいないのだ。

 

 エルンストが不用意な発言を続けるようなら羽交い絞めにしてでも止めなければ、とフロム中佐が悲壮な決意を固めかけ、エルンストが再び口を開こうとした瞬間、ゼークトの大喝が飛んだ。

「何を言うか!! 敵戦力の大小など問題ではない!!! 皇土を不埒にも犯す輩に対しては、常に我が全力を以て迎え撃たんとするのが軍人の責務である!!!!」

 最早それは論理ではなかった。帝国軍人にありがちな、敵を叛乱軍と規定するのか外敵と規定するのか曖昧になるという弱点をゼークトもまた抱えていたが、そんなことはどうでもいい。すでにこの老練の提督は、軍人として致命的なほどの非論理の中に生きていた。

 ゼークトの頑丈な双肩は小刻みに震え、顔色は赤黒く、興奮の極致にあることは誰の目にも明らかだったが、如何せん、相手が悪かった。エルンストは何故か他人の怒気を表情から読み取るのが苦手だった。まして酒気帯びの状態では尚更である。カルツ少将が髪の薄い頭を抱え込み、フロム中佐が泡を噴いたことにも気付かず、火に油を注ぐような反論を加えた。すでに論理を捨てている人間に対して、悪手という他ない。

「ですが、あの千の敵が囮なら如何されますか。その背後に数万の艦隊が潜んでいたとしたら、うかつに誘き出されれば包囲殲滅の憂き目に遭います。あるいは我が軍を横目に見て、イゼルローンに殺到するというのも考えられます。そうなれば我々は進むも退くも叶わず、回廊を枕に討ち死にするは必定です」

「回廊を枕に? 結構ではないか! それこそ武人の本懐というものだ!」

 ゼークトは小賢しい若造め、とあからさまにエルンストを見下した表情を浮かべた。怒りが蔑みに変わり、やや興奮が収まってきたのだ。それでも、一度昇った血はゼークトの顔を浅黒く染めていた。

「少しは骨のあるやつかと思っていたが、臆病風に吹かれたか。そんなことでは戦場では物の役にも立たん。聞く耳を貸すだけ無駄だ!」

 まくし立てて、ゼークトは席を蹴った。有無を言わさず出撃するつもりなのである。実際、艦隊司令部の他の面々は貝のように沈黙を保っている。口を閉じていないのは、ただエルンスト一人である。

「お待ちください、閣下!」

「黙れ! シュトックハウゼンに連絡、駐留艦隊はこれより全艦出撃する!」

 

 慌ただしくそれぞれの部署へ向け退出していく幹部たち。満足気なゼークトは最後に一度だけエルンストを見やり、付け加えた。

「アールガウ大佐、貴様は艦隊司令部付とする。ここで指を咥えて戦況を見ておれ!!」

 エルンスト・フォン・アールガウは、この瞬間高級参謀を解任されたのである。幸いにも最短記録は免れていたが、着任から一ヶ月と過ぎていない。エルンストにとっては人生で初めての酒による失敗だった。しかし、アールガウ伯家の当主としてはあるいは何人目の失敗者だったのか……。



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二人の司令官

 その日イゼルローン要塞を襲った出来事は、口にするのも憚られるほど恐ろしくまた恥ずべきものであったので、帝国軍内には厳重に箝口令が敷かれた。そして、それが余りにも特殊な事情によって引き起こされたこともこともあり、単純に時代が体制と体制の端境期だったこともあって(つまり他にもっと面白く、人の興味を惹く事件が沢山あったので)、人々に省みられたのはかなり後の時代になってからのことである。

 しかし幸いなことに、それでも今筆者はいくつかの史料を活用することができる。特に貴重なのが、当事者としてその出来事に直接的に身を投じていた要塞防御司令部や要塞駐留艦隊の幹部たちが残した証言である。生存者の中で最も高位にあり、かつまとまった記録を残してくれたのが、要塞駐留艦隊参謀長の職にあったカルツ少将で、彼の回顧録は一般にも刊行されたので目にされた読者も多かろうものと思う。

 残念ながらカルツ少将の証言は、出来事の核心に近すぎるが故に敢えて真実を曲げている箇所も多いと言われる。言うまでもなく他の史料にも拠って、カルツ少将の隠したこと、隠さなければならなかったことにも迫らなければ、出来事の本来の姿を復元するのは覚束ない。

 もちろん、如何に証言を多種取り揃えようともそれは巨象の表皮を撫ぜたに過ぎないことも確かである。最も肝心な、この出来事を惹起した張本人──要塞駐留艦隊司令官フォン・ゼークト大将の内心は、最早誰にも言い当てることはできないのだから。

 ともあれ、帝国暦四八七年二月に起きたその出来事、巷に言う「ゼークト事件」についてしばしお付き合いを願うこととしよう。

 

 

 

 カルツ少将は「事件」の起きるおよそ三週間前、二月初旬の頃、帝都オーディンの統帥本部との間に頻繁に通信を行っている。それは、丁度その頃にあった駐留艦隊の出撃、そしてそれに伴って惹起した叛乱軍小艦隊との戦闘に関する報告と、間近に迫っていた帝国軍の出征についての連絡とを主な内容としていた。

 この帝国軍の出征は、結果として「アスターテ星域会戦」として戦史上名高い戦いにつながった。ローエングラム伯ラインハルト上級大将の率いる艦隊が“叛乱勢力が卑劣にも占拠する”星域に進出する遠征作戦であり、当然それはイゼルローン要塞を策源地とする。そのため場合によっては要塞駐留艦隊にも後詰としての役割が生じることとなる。

 カルツ少将は、駐留艦隊の先般の出撃で獲得した捕虜の情報として、叛乱軍がこのローエングラム伯の出征を察知しあることを統帥本部に報告した。しかし、この殊勲に対し統帥本部の反応は鈍かった。これは後世には、そもそもこの作戦が高度な政治上の要請によってローエングラム伯の敗死をも織り込んだものだったからだとされているが、もちろん当時のカルツ少将の知るところではない。

 むしろ統帥本部は、そういう大事な時期に軽率に駐留艦隊を全部出撃させ、イゼルローン要塞を空城としたことを問題視した。カルツ少将も内心首肯するところであり、返答に苦慮したそうである。

 この出撃はゼークト大将が反対を押し切って半ば強行したものであり、密に協議連携すべき要塞防御司令官シュトックハウゼン大将への連絡も疎かにしていたため、要塞防御司令部は厳重にこれに抗議している。統帥本部もまた、ゼークトの行動を苦々しく感じていたのであろう。

 ゼークト大将の精神状態は、後の「事件」を考察する上で常に議論の中心的な位置を占めるが、その一つの論点にこの強行出撃問題も数えられている。

 

 ところで、カルツ少将はその回顧録の中で特に触れていないが、同時期に軍務省との間にも連絡を持っていることが記録上明らかである。こちらは、その強行出撃に際してゼークトを諌止したため解任された駐留艦隊高級参謀のエルンスト・フォン・アールガウ大佐の処遇と、その後任人事に関する連絡だった。

 軍務省としてもエルンストには同情的で、また正直に言えばそんな面倒事にかかずらっていられず、エルンストの再任で決着させようとしていた。アールガウ家は権門でないとはいえ伯爵家であり、本来そう簡単にその当主を解任というわけにもいかなかったのである。しかし、こちらは結局「事件」まで棚上げ状態のまま終わることになった。

 なお、エルンストについては、ゼークト大将を諌止したというよりほとんど酔漢同士の喧嘩のような有り様で激しい罵倒の応酬を繰り広げたという巷説もあるが、これについては当事者は誰もその詳細を語っていない。比較的信頼に足る二次史料では、ごく穏当なやり取りの末に唐突に大佐が解任されるに至っているが、その不自然さをゼークトの精神的な不安定さの現れと見る者もいれば、やり取りの内容が事実に反していると見る者もいる。もちろん、そこに少しも不自然さを見いださない者もまたいるのである。

 

 二月十二日には、ゼークト大将とシュトックハウゼン大将の両司令官が、二月に入って初めての会見を行った。それぞれの司令部の丁度中間に位置する、例の会見室においてである。この時の協議内容は、幕僚たちが同席していたことから比較的正確に再現することができる。

 会見当初、ゼークト大将はカルツ少将ら部下が心配していたほどには神経を昂ぶらせておらず、むしろいつになく穏やかな口振りで、一同を驚かせている。元来二つの司令部は主導権を巡り熾烈な争いを繰り広げてきたので、一方の頭目がゼークトでなくともその会見には緊張感が走っていたものだが、この日に限ってはお互いに軽口を言い合うほど和やかな雰囲気であった。少なくとも会見当初はそうであった。

 

 しかし、それもシュトックハウゼンが強行出撃問題に触れてからは一変した。

「駐留艦隊は、回廊に侵入した叛徒を屠るためにのみあるのだ」

「卿とそんな原則論を云々するつもりはない! 千隻程度の敵軍に全軍を投じる必要があるのかないのか、それを答えてもらおう」

「常に全力を以て敵に当たることの何が悪い」

「全力でなくては満足に戦えんほど、駐留艦隊は惰弱なのか? 駐留艦隊は臆病者の集まりということか!」

「なにィ……」

「必要もないのに過大な戦力を投じ、このイゼルローンを手薄にするなぞ、畏れ多くも皇帝陛下の御盾たるをなんと心得る。士官学校で帝国軍人の精神を叩き直して貰うべきではないか!」

「……」

 シュトックハウゼンの一方的な口撃に、ゼークトの表情は瞬く間に凍りついた。ゼークトは能弁家ではない。返す言葉の少なさは、心中の憤りの激しさの裏返しと見えた。慌てて艦隊作戦参謀フロム中佐が割って入る。

「し、しかし、我が艦隊が全力を以て出撃を行った甲斐あって、敵艦隊は殲滅され、結果としてはイゼルローンの防衛に資することとなったではありませんか」

「それが無用だというのだ。仮に千隻の叛徒がそのまま要塞に取り付いたとて、たった千隻ぽっちでは何をどう足掻こうと所詮我が要塞を危機に陥れることはできん。むしろ貴公らが出撃するより、少ない労力と犠牲でこれを殲滅できたはずである」

「いずれにせよ損害は軽微で、問題というほどでは……」

「一個艦隊が出撃するだけでどれだけの国庫の浪費か弁えておらんのか! 残敵掃討の必要が生じれば、その時はこちらから出撃を要請する。そうでなければ大人しくイゼルローンに籠もっていればよいのだ!」

 フロム中佐は、ここはこちらの──今にも激発しかねないゼークトの──顔を立ててどうか矛を収めてくれ、とシュトックハウゼンや要塞防御司令部の幕僚たちに目線で哀願した。しかし、シュトックハウゼンはシュトックハウゼンで口撃の圧倒的優勢に酔いしれ、敵の命乞いを無情にも受け付けない。ついには、これまで彼自身決して踏み込まなかったゼークト個人の問題を土足で踏みにじる挙に出た。

「ゼークト、卿は最近どうかしているぞ。随分頻繁に司令部の人員を入れ替えているそうではないか。駐留艦隊が落ち着きを失っているように見えるのも、そのせいだろう。これは同期の誼で言うのだが……焦っているのではないか?」

 ハンス・ディートリッヒ・フォン・ゼークト大将とトーマ・フォン・シュトックハウゼン大将はともに五十歳。士官学校でも軍大学校でも同じ釜の飯を喰い、軍功を競い鎬を削りあってきた間柄であった。ともに要塞に並び立ってからは伝統的な両司令部の関係性によって不仲さを強調されてきたが、それまではむしろ切磋琢磨しあう良きライバルだった。

「勲功を急いているのか知らんが、今の卿は蛮勇を通り越してヤケクソに見えるぞ」

 思わず青年将校だった頃のような言葉遣いに戻ったシュトックハウゼン。本心では、ゼークトのことを嫌ってはいないのだろう。しかし、責められたゼークトはそれを許し難い侮辱と受け取っていてもおかしくない。短く唸り声を上げたが最後、一切口を開くのを止めてしまった上官に、すでに己には手の施しようのないことを悟ったのか、もともと痩せて面長な顔立ちのフロム中佐はげっそりとした表情を浮かべた。それはまるで、死にかけの病人のように見えた……とはカルツ少将の記述である。

 

 最早完全に冷え切った会見室内の空気に、シュトックハウゼンもやや居心地の悪さを感じたのだろう。押し黙るゼークトに投げつける言葉は、終いには独語のようにシュトックハウゼン自身の思考をなぞるものになった。

「卿が焦燥を抱くのもわかる。我らの二つの司令官職は、常にポスト削減の検討対象なのだからな。まして、今度この要塞に投錨するあの金髪の孺子、あやつはすでに上級大将。また戦功を重ねるようなことになれば次は元帥だ。三長官職が近々空く気配はないのだから、孺子に与えるには要塞防御司令官兼駐留艦隊司令官というのも丁度……」

 シュトックハウゼンの予想は、ある程度は帝国軍の高級幹部たちに共有されていたものだ。ラインハルトの栄達はすでに軍のピラミッド構造の頂点近くにまで達しつつある。だからこそ、彼の致命的な失敗を望む者が数多いのだが。

 カルツ少将はゼークトの表情を横目に見た。だが、果たしてその考えていることはシュトックハウゼンに対するものなのか、それとも何か別のことなのか、皆目見当も付かなかった。結局、この日の会見はなんら得る物もなく終わったのであった。

 

 この時、会見室の要塞防御司令部側の幕僚の中に、エドムント・フォン・アールガウ少佐の姿もあった。数人いる作戦参謀の一人としてである。だが、エドムントにはこれといって発言した形跡はない。彼はその兄と違い、参謀部の中ではまだ地位の伴わない若輩に過ぎず、両司令官の会話に口を挟めるような立場ではなかった。よしんば何事か述べたとしても、駐留艦隊のフロム中佐のようにもう一方の司令官から冷たくあしらわれて終わっただろう。

 むしろ、彼の関心は別のことに向かっていたかもしれない。隣席であった同じく作戦参謀のハウアー少佐は、エドムントが周囲で交わされている会話に対し興味を示す様子もなく、ただ無表情に駐留艦隊司令部の面々を眺めていたのを記憶している。そう言えば、彼の兄は本来その一人として同席していたはずなのだ。

 当時三十代半ばのハウアー少佐は、普段それなりに社交的に振る舞っている年下の同僚が珍しく触れ難い雰囲気を醸し出していることに驚いたという。年若く眉目が整ったエドムントは幹部の夫人連に密かに人気があって、それはハウアーも単身赴任で妻を本土に残してきた自分の選択を誉めるほどだった。だがこの時のエドムントは、やや痩せすぎて薄い頬を全く緩めず、目にも輝きがなく、どこか酷薄なものを窺わせた。

 ハウアー少佐は寒気を覚え、身震いしてエドムントから目を逸らし、折しも始まったシュトックハウゼンの独擅場に意識を集中した。エドムントがこの時どのようなことを考えていたのか、それを推測できる材料は何もない。

 

 この会見の後、ゼークトはこれまでにない行動を取るようになった。毎日の昼食の後、午後二時から四時までの間(人工天体であるイゼルローン要塞のそれは、標準時に一致する)、仮眠を欠かさなくなったのだ。

 最前線であり、いつ駐留艦隊が出撃しなければならない事態──シュトックハウゼンですら出撃を乞うような──が生じないとも限らないのだが、それも意に介さないようだった。

 口さがない兵士たちは、

「ゼークトが無気力に陥った」

「それはシュトックハウゼンに言い負かされたせいだ」

「いや、むしろシュトックハウゼンを痛い目に合わせるため、敵が来ても艦隊をあえて動かすつもりがないのだ」

 などと噂しあった。

 数日してローエングラム艦隊が補給のために要塞に立ち寄った時も、ゼークトはまた己の部屋に籠もったまま顔を見せなかった。

 

 そして二月二六日。その「事件」が起きる日の昼過ぎにも、ゼークトはやはりルーチンを消化し、午睡に入る旨を従兵に伝えた。

 奇しくもその日、アスターテ星域において、ローエングラム伯ラインハルト上級大将率いる帝国艦隊は戦闘状態に入った。




ゼークトとシュトックハウゼンの関係って、旅順要塞のロシア軍の、ステッセリ将軍とスミルノフ将軍の関係が直接の元ネタなんですかね。
それで色々参考にしようとしたら、ステッセリの部下にアレクサンドル・フォークという人がいました。上官に取り入って出世したけどまあ無能で、日露戦争後それを批判したスミルノフを恨んで殺そうとしたらしい。フォーク准将の元ネタはこれか……。


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