コップ一杯の絶望 (キサラギ職員)
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コップ一杯の絶望

 その男は、砂漠を一人で歩いていた。

 服装たるやまるでボロキレを纏っているかのようで、太陽熱と地面からの熱放射をさえぎるための厳重な衣装などなく、破れたシャツに、皺だらけのズボンだけである。

 男は、げっそりとこけた顔をしていた。それもそのはず。ここ数日間は一滴の水も飲んでおらず、ずっと食べ物を口にしていないからである。食べ物は、脂肪の蓄えさえあれば優に一週間以上の生存が可能であるが、水はそうはいかないのである。人体は脂肪を水に変える能力があるとはいえ、限度がある。生命は水なしに生きていけない。特に陸上の生き物は。

 男は、つい少し前までレシプロ戦闘機に乗っていたのだが、エンジントラブルに見舞われ、墜落してしまった。突然、制御不能に陥ったこともあり、無線に連絡を入れることさえできなかった。捜索があるとしても、戦場における行方不明など、二の次三の次にされることを男は知っていた。おまけに墜落と同時に大破、炎上である。そこに砂嵐までやってきたとなれば機体を捨てるしかなかった。もちろん物資の類は焼けた。

 男に砂漠の民のように砂地を歩く知恵はなかった。辛うじて星空をコンパスにする手段は知っていたが、近場の町までの距離は絶望的だった。

 永延と続く砂丘と、平坦な砂の海を、ひたすら歩くしかない。

 喉がからからだった。まるで砂を詰め込まれたように。

 砂色の大地と、憎々しいまでに透き通った青色の空。砂漠は一見して平坦に見えるのだが、実際に歩いてみると、大海原に波があるように、凹凸が激しい。登っては下りての繰り返し。夜は星を頼りにできたが、昼間は目標物も無いのに彷徨うしかない。ふと気が付くとぐるり一周していたなどざらであった。

 皮膚を濡らす汗も、太陽と気温でことごとくが奪われていく。皮膚という皮膚は乾ききり、眼球さえも乾いて強い異物感があった。

 肉体が、熱に浸っていた。

 貴重な水分は見る見るうちに大気中に四散していき、残るのは肉だけである。

 「俺は死ぬのか……」

 うなだれた男はそう呟くと、動作を拒む両足に命じて、無理矢理前に進んでいた。男の後ろには轍のように足跡が続いており、男はそれを時折振り返ることで、足跡が直線になっているかを確かめていた。それでも若干曲がっている。その僅かな歪みが死への一歩となるのである。

 男は、頭のどこかで、己が助からないことを理解していた。水食糧ともに大量にあるのならば墜落地点で待っていれば助けが来て、生還できるであろう。それが一週間先かに二週間先かは不明であるが。水も無い、食料も無い、無い無いだらけの現状では、死ぬことしかありえない。

 砂漠は砂しかない。砂しかない故に、人類の生存には適さない。作物が育つ余裕さえない。

 男は、砂丘に頂上に足を取られて、何度も何度も転がりながら滑り落ちた。砂埃が立つ。灼熱の砂が皮膚を焼く。ようやく止まった。男は、なんとか立ち上がろうとして、肢体がピクリとも動作しなくなっているのに気が付いた。

 水分が失われ過ぎて体温調整が狂っていた。直射日光と気温が容赦なく体温を上昇させ、タンパク質が固まり始める温度付近にまでなっていた。

 男は死期を悟った。神など信じない主義であったが、最後に水を飲みたかった。

 するとどうだろう、眼前の砂がまるで水のように波打つと、白い服を着た男がせり上がってきたではないか。男の服はギリシャ式に近かったが、どこか東洋を思わせた。その男は、砂から数センチ浮遊していた。

 白服の男の出現に、男はとうとう腰を抜かしたが、転げるだけの体力が残っておらず、その場にへたり込むので精いっぱいだった。

 「私は神である」

 「………」

 神を名乗る白服。

 男はぜいぜいと苦しい吐息を漏らせば、犬のように舌を覗かせ、言葉を発した。

 「神……」

 「そうだ。私はお前のために一つ願い事をかなえてやろうというのだ」

 男は朦朧とする意識と戦いながら、願い事を言った。

 「水を一杯くれ……」

 「承知した」

 するとどうだろうか。瞬きしたときには既に砂地の上に透明なコップに並々注がれた透明な液体があったではないか。男は神に感謝する前に、そのコップを震える手で捧げ持つと、口に注いだ。

 「ごふっ」

 乾ききった口内に進入した水に咽るも、一滴たりとも逃すものかと飲み込む。体細胞の一つ一つが歓喜に涙し、臓器が歌い、脳髄が震えあがった。砂ばかりが詰まっているのではと錯覚する虚無感ばかりだった胃袋にひんやりとした液体が注ぐ。

 すべてを飲み干しても、男はコップを舐めていた。一滴たりとも逃すまいと。やっと飲み終わって顔を上げれば、柔和な微笑みを浮かべた神が佇んでいた。

 神は男からコップを取り上げると、ため息を吐いたのであった。

 「コップ一杯だけでいいとは随分と謙虚だ。ではさらばだ」

 神は見ているうちに砂地の中へと潜り込んでいき、あっという間に消えてしまった。

 そして男はコップ一杯の水だけを願い事にしてしまったことを悔いることになった。なぜなら、願い事で人のいる町へ連れて行ってくれとでも頼めば助かったのだから。頼るものもないのに、まだ砂漠を彷徨わなくてはいけない。男の心にコップ一杯の水とは比較にならない絶望感と後悔が渦巻いた。

 男の眼前には、大海が如き奥行を見せる砂漠が続いていた。

 



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