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第1章 失われた物
第1話 時計はここから動き出す


こんにちは。
誤操作で削除してしまいました。申し訳ありません。
という訳で、二次創作も書きたいと思い立って書いたものです。宜しくお願いします。


 爆音と共に、砂埃が一気に舞い上がった。

 重々しい曇天に砂が混じり、テレビのノイズのような不安感を醸し出している。

 

『・・・くそ!二発目はこっちか!奴はどこへ行った!?』

『まだ分かりません!追跡装置は外されています!』

『くまなく探せ!絶対に逃がすな!』

 

 兵士達が怒鳴りながら会話をしている。

 日本からは遠く離れた異国の地の言葉だが、俺には聞き慣れた言葉だ。

 怒号と堅苦しい靴音を聞きながら、俺はその階下にある通路を這うように進んだ。

 

 しばらく進むと、静かに揺れる水面が見えた。

 海だ。

 ここまでの脱走手順は想定していたとおり。

 あとは手際と運次第だ。

 

 狭い道を抜けて、水上に出てすぐ左手に、ちょうと水上バイクがあった。すぐに飛び乗り、エンジンをかける。同時に、懐の手榴弾のピンを抜いた。

 

『居たぞ!奴だ!』

 

 エンジン音を聞きつけたのか、近くの兵士に見つかった。

 集まってきた兵の一人が銃を構えるのと、バイクのエンジンが完全に点いたのは、ほぼ同時だった。

 瞬間、俺は手榴弾を兵士の方へ投げた。

 そして、兵士が逃げ惑い始めるのが見えた瞬間、フルスロットルでバイクを発進させた。

 その刹那、巻き起こった爆音と爆風を背に受けながら、バイクを急激に加速させ、左に進路を変えた。

 手榴弾によって起こった土煙のお陰で、俺がどこにいるかは兵士には分からなくなっているはずだ。だから奴らが闇雲に銃を撃ってきても当たらないように、さっさとコースを変えて走り去るのが得策なのである。

 案の定、後ろで銃の飛び交う音がした。

 コースを変えていなければ、被弾は免れなかっただろう。俺は胸をなで下ろした。

 

 

 

 

 

 とりあえず第一関門は抜けたが、まだ安心はしきれない。むしろここからが一番きつい。

 

 

 エンジンには限りがある。

 地図も無い。

 陸地にたどり着けるかは完全に運だ。

 

 

 

 

 

 それでも、俺は生き延びる必要がある。

 だから諦めてはいけない。

 

 

 ふと、久しく目にしていないあの街のことを思い浮かべた。

 美しい石畳。

 色とりどりの街並み。

 活気溢れる人々。

 

 

 

 

 親父は変わっていないだろうか。

 母さんの心配性は治っただろうか。

 

 妹は・・・元気だろうか。

 

 まだ辿りつけてもいないその街を憧憬しながら、俺はとにかく前へ進んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 がむしゃらに泳いでたどり着いたので、もう体力が残っていない。だから今、俺は生きているのか、死んでいるのかさえも、よく分からなかった。

 

 今にも途切れそうな意識の片隅で、微かに人の声を捉えた。

 俺は生きていたのか、と思いながら必死でその声に神経を集中させ、言葉を聞く。

 

「どっどどどどどうしよう千夜ちゃん!?あれ完全に人が倒れてるよね!?こういう時ってどうすればいいんだっけ!?」

「おっ落ち着いてココアちゃん!まずはえーっと・・・」

 

 ────若い女性二人の声だな。そして、日本語を話してる。ってことは、ここは日本なのだろうか。だとしたら奇跡だ。ありがたい。ついでに願わくば助けて欲しいが・・・

 

「状況確認よ、ココアちゃん!」

「一目見て異常だって分かるよー!」

「じ、じゃあ人工呼吸を・・・」

「それ絶対今じゃないよね!?」

 

 ────ああダメだ。これは助からない。

 何でこの状況見てなおコントしてんだ、この二人。

 

 そんな諦観と失望の中で、俺の意識は完全に途絶えた。

 

 

 

 ―――――――――――――――

『クソッ!バカにしやがって、あの野郎!』

 

 男が逃げ出した直後の頃。

 取り逃がした兵士達は、ほのかに残る土煙に目を細めながら、苛立ちの声を上げていた。

 

『・・・絶対に』

 

 そのうちの一人が呟いた。

 

 

 

 

『逃がすものか、テテザ。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第1話 時計はここから動き出す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、今日は晴れてて良かったなー」

「はい、こういう休日も楽しいです。」

「わっ私はリゼ先輩となら何処でも楽しいですよ!」

 

 私達の楽しげな声が、夏の空に響いていた。

 

 夏休み、バイトの休みが重なり、私────天々座理世は、友人4人と一緒にキャンプに行くことになった。

 

「・・・しかし、ココアさん達に買い物を任せてよかったんでしょうか。余計な物まで買いそうで心配です・・・。」

 

 そうやってため息をつく、綺麗な水色の髪に透き通った肌の可愛らしい少女は、香風智乃。

 私のバイト先・ラビットハウスの一人娘で、まだ中学二年生だというのに、きっちり働いているしっかり者だ。

 私は高校二年生だが、去年からラビットハウスで働き始めたのが、人生初めての仕事をするという体験だった。なので、中学生のうちから働くというのは、私の目から見てもすごい事だと思う。

 

 そして今名前が出たココア、というのは、今年の春からこの街に引っ越してきた少女、保登心愛のことである。

 おっちょこちょいで騒がしいやつではあるが、ココアが来てからラビットハウスに笑顔が増えていった。人との関わり方がかなり重要になってくる接客業において、彼女ほど心強い味方もいないと思う。

 ・・・とはいえ、チノ(に限らず色んな人)に姉と思われたいあまりに空回りしたり、先述の通りおっちょこちょいがあるので、褒められたことばかりでは無い。

 

「確かにねぇ・・・それにココアだけじゃなくて、一緒に居るのが千夜だからなおさら心配なのよね・・・。」

 

 そう呆れ顔を作っている、ウェーブがかかった金髪が印象的な美少女は、桐間紗路。

 私の学校の後輩で、私がラビットハウスのメンバーで買い物に行った時にたまたま出会ったことで、他のみんなとも仲良くなった。

 

 ・・・ちなみに私とシャロが親しくなったきっかけは、うさぎに出くわして動けなくなってしまったシャロを、私が助けたという、なかなか珍しいシチュエーションであった。

 

「ま、まあ、二人共やる時はやってくれるだろう・・・多分。」

 

 現在進行形で心配されている二人をフォローする私だが、やっぱりあの二人のことを考えると、少し不安である。

 

 今ココアと一緒にいるのは、宇治松千夜。

 ココアとは同じ学校で、波長が合うのかかなり仲がいい。ココアからのつながりで私達も仲が良くなったが・・・

 いかんせん、ココアと同じで天然が過ぎる部分がある。なので、あの二人に物事を任せると不安になるところがあるのだ。

 

 ちなみに私達は今、今晩のバーベキューの準備をしていた所だ。

 私とチノ、シャロの三人は道具の調達を。

 ココアと千夜には食材の調達を頼み、それぞれ別れて準備をしていたのだ。

 私達三人はすでに必要なものを買い終え、ココア達との待ち合わせに向かっていた。

 

(・・・本当に、まともなもの買ってきただろうか・・・)

 私はまた、胸の中で溜息を吐いた。

 

「お、浜辺が見えてきたな」

 そうこうしている内に、待ち合わせ場所のすぐ近くまでやってきた。

 

「ココアさんたち、もう居るでしょうか」

「居るんじゃないかしら?ここからは私たちの行ったホームセンターよりスーパーの方が近いから」

「寄り道してなきゃ、だけどな。」

 

 なんてことを話していると、浜辺の方から、

 

 

 ────みんなー!助けてー!

 ────助けてー!

 

 

 という声がした。

 聞き覚えのある声だった。

 というか・・・

 

 

「・・・今のって、ココアと千夜の声だよな?」

「た、多分・・・」

 

 何があったかは分からないが、何やら切迫した様子だったので、私達は浜辺の方へ急いだ。

 

 すると、見慣れた茶髪と黒髪が見えてきた。

 ココアと千夜だ。

 

「ココア、千夜!一体どうしたんだ!?」

 

 私がそう問うと、ココアが慌てた様子で叫んだ。

 

 

 

「ひ、人が倒れてるの!どうしよう!?」

 

「「「えぇーーーっ!?」」」

 

 予想だにしなかった回答に、私たち三人は声を揃えて叫んだ。

 

 ココアと千夜のもとに駆け寄ると、そこにはずぶ濡れの男性が一人、うつ伏せで倒れていた。

 

「こ、これ死んじゃってないよね?大丈夫だよね!?」

「そうだと言って、リゼちゃん!?」

「は、早く人を呼ぶべきなのでは・・・!?」

「いいい一体どうすれば・・・!」

「お前ら一旦落ち着け!」

 

 完全にパニクるみんなをなだめてから、とりあえず今やらないといけないことを考える。

 

 

「とりあえず容態の確認は私がする。シャロは救急車を呼んでくれ、正確な住所が分からなければ誰かに聞くように!

 ココアと千夜は警察に電話を!第一発見者として何があったかを伝えておけ!

 チノは、何かあった時のために私の手伝いを頼む!」

「「「「は、はいっ!」」」」

 

 こういう時は、自分が軍人の娘であることをありがたく思う。護身術を始めとして、救命の訓練もさせられたものだ。・・・本当に使う機会があるとは思わなかったが。

 やれる範囲でみんなに指示を出し、そして目の前の男に向き直る。

 

 

 とりあえず身元が分かるものがあれば助かる。

 傷があるかも確かめる必要があるので、まずは体勢を変えよう。

 

「チノ、仰向けにするからそっちを支えてくれ」

「はいっ」

 

 チノと協力して身体の向きを変えさせてやると、顔もちゃんと見えるようになった。

 まだ若い、男の顔だ。歳は二十半ばだろうか。

 呼吸はしている。血色はいいし、体つきもガッチリとしているので、見たところ栄養失調が倒れた原因では無さそうだ。

 また、体の節々に傷はあるが、目立った大きな出血はない。

 では一体何が、と思っていると、ふと男の顔に違和感を感じた。

 

 

 

 

 どこかで見たような、懐かしいような。

 そんな感覚に苛まれた。

 

 

 だが今は、確かかも分からない記憶をたどる暇などない。

 私とチノは、手がかりになるものが無いか探した。

 

 男の身体に触れると、かなり冷たかった。相当な長時間海の中を行っていたのかもしれない。

 それだと低体温症が心配だが・・・

 

 それとは別に、ますます謎は深まる。

 漁船か何かがひっくり返ったのかと思ったが、少なくとも見渡せる範囲に船らしきものはなかった。この男だけ流されてきたのだとしたら、あまりに距離がありすぎる。

 つまり、沈没があったとするならば、この男は途方もない距離を泳いでここにたどり着いた、というくらいしか考えられないのだ。

 あまり考えられない可能性だが、もしそうならこの男は普通の人間ではない。

 それこそ軍人で、特殊な訓練でも受けてないと・・・

 

 

 

 

 

 

 するとふと、男のポケットで何かが光ったのが見えた。

 

「・・・?」

 

 何かと思って手に取って、それを眺めた一瞬の後────

 

 

 

 

 

 脳内に電撃が走った。

 そしてそれと同時に、さっき感じた既視感の正体が分かった。

 

「・・・?リゼさん、どうしたんですか?」

 

 チノが声をかけてくれたが、私にはすでにその声は聞こえていなかった。

 

 手に取ったそれを自分のポケットにしまい、すぐに立ち上がり、役目を終えて戻ってきたみんなの間を縫って、走り出した。

 

「ち、ちょっとリゼさん!」

「リゼ先輩!?」

「リゼちゃん!?」

「ど、どこ行くの!?」

 

 みんなの問いを背に受けながら、それでも足は止めない。やっとの思いで、

「すまん、後は任せた!」

 とだけ言い残し、颯爽と目的地へ向かった。

 

 

 

 

 

(これは・・・本当に緊急事態だ・・・!

 とにかく、とにかく急いで親父の元へ行かなきゃ・・・!)

 

 

 燦々と照らす炎天の下。

 街中を唸る喧騒の下。

 とにかく私は走った。

 

 

 ほどなくして、私は知る。

 これは、絶望の始まりに過ぎなかったことに。



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第2話 再開と慟哭(前編)

前編です。
少し短いですがご了承下さい。


「ハァ・・・ハァ・・・」

 

 ひたすらに走ったので、家の前についた時にはすでに、私の体力は残っていなかった。

 それでもなんとか足を動かし、門へと向かった。

 

 前に述べたように、父は軍人だったが、そこで大きな功績を立てたらしく、かなりの資産を持っていた。

 その為に私の家は、この華やかな街の中でも特に大きく、メイドやSPが居るほどの豪邸になっている。

 

「あれ?お嬢、どうなさいました?今日からキャンプのご予定では・・・」

「緊急事態だ。親父に話さなきゃならないことがある。」

「わ、分かりました・・・では、ご主人様にその旨をお伝えしておきますので、その間にどうぞ中へ・・・。」

 

 声を掛けてきた門番にも手短に返し、家の中へずかずかと入っていった。

 

 

 

 長い階段を一段飛ばしでどんどんと上がり、三階の親父の部屋にたどり着く。

 私は軽いノックをして、中に声をかけた。

 

「親父、私だ。」

「開いてる、入れ。」

 

 

 

 促されるままドアを開け、部屋に入った。

 

 

 だだっ広い、会社の様な応接間。

 周りに並んだ武器。

 整頓された道具。

 その奥の大きなデスクに、黒眼帯を巻いた厳い男────親父の天々座(ててざ)理央(りおう)がいた。

 

「緊急の用らしいな。何があった。」

 

 娘のただならぬ様子を感じ取っていたのか、普段とは打って変わって真剣な顔だった。

 なので私も、すぐに用件を切り出すことにした。

 

「・・・さっき、浜辺で男が倒れているのを見つけたんだが・・・」

 言いながら私は、さっきポケットにしまった物を親父に見せた。

 

 

 

 

 

「・・・その男が、これを持ってたんだ。」

「・・・・・・!」

 

 

 

 

 

 私と同じ様に、親父はそれを見るとすぐに、驚愕の表情を浮かべた。

 

「・・・倒れていた、ということは恐らく・・・」

 親父は掠れた声で喋ったが、それ以上は言わなかった。

 ただ、何も言わないその顔の険しさが、全てを物語っていた。

 

「・・・つい今さっき、シャロからメールが来た。病院への搬送が終わったそうだ。

 ・・・親父。」

「ああ、分かってる・・・。

 タカヒロを拾ってから、俺達もすぐに行こう。」

 私と親父は、静かに覚悟を決めた。

 二人共いつの間にか汗をかいていたが、それは暑さのせいか、冷や汗のせいかは分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第2話 再会と慟哭(前編)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は夢を見ていた。

 あの街の夢だった。

 そこには俺の傷跡も過去も無くて、ただ家族と、そして街と、幸せに暮らすばかりだった。

 みんな笑っていた。俺も笑っていたと思う。

 だから、怖くなった。

 

 

 

 ()()、笑っていてもいいのか、と。

 

 

 

 

 

 そんな鈍い苦痛に、徐々に目が覚めていく。

 柔らかいベッドの上に俺は寝ていた。

 見知らぬ天井が見え、消毒液の匂いがした。

 何だか懐かしいような感覚に襲われたが、何があったかがよく思い出せない。

 

 俺の脇を見やると、そこには医者と警察、そして見知らぬ少女が四人いた。

 茶髪の子と黒髪の子は警察と、水色の髪の子は医者と話をしていた。

 

 

「あ、目を覚ましました!」

 

 

 俺が意識を取り戻したことに気付いて声を上げたのは、見知らぬ少女たちの中の、金髪の少女だった。

 

「おはようございます。身体の痛みはどうですか?」

 

 俺が目を覚ましたと聞き、医者が俺に声を掛けてきた。

 鈍く残っている痛みもあるが、体を動かせないほどの痛みはなかった。

 

「・・・大丈夫です、多分。」

「なるほど。体温も平熱まで戻っているし、きっともう大丈夫でしょう。」

 

 医者の言葉で、その場の全員がほっとした表情になった。

 だが、いまいち状況が分からない俺は、首を傾げた。

 

「あの・・・ここ、病院ですよね?俺、なんで病院に・・・?」

 

 その言葉に一番驚いていたのは、茶髪の子だった。

 

「ええええええ!?覚えてないんですか!?浜辺でびしょ濡れで倒れてたのに!?」

「君!病院で大きな声を出さない!」

 

 医者のお叱りを受けて口をつぐんだが、驚いていたのは彼女だけではなかった。

 

「あの・・・本当に、覚えてませんか?

 身体には傷もあったし、痣もありました。そんな状態であなたは、海辺に打ち上げられていたんです。何があったのか、少しでも思い出せませんか?」

 

 今度は水色の髪の子がそう言った。

 その言葉を聞き、また俺は考えた。

 

 

 何があったか。

 何をしていたか。

 自分に意識を傾けていく度、だんだんと眠っていた脳が覚醒していく。

 そして、身体の痛みを鮮明に伝え始める。

 

 その痛みの正体を考えたとき、全てを思い出した。

 

 

 あの軍から逃げてきた事。

 逃げる途中にあったトラブル。

 そんな、俺に起きたことを全て思い出した時、今自分が一刻も早く向かわねばならない場所があることを思い出した。

 

 

「ここはどこだ!?日本か!?どの国のどの地域だ!?」

「うわあっ!?」

 

 ベッドから跳ね起きて、突然大きい声を出したせいか、全員がビクッと肩を揺らした。

 

「お、落ち着いてください!ここは・・・」

「すまない、遅くなった。」

 

 金髪の少女が説明しようとした瞬間、病室のドアが開いた。

 

 

 

 そしてそのドアの向こうに立つ人物を見て、俺は言葉を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――――――――――――――

 ~少し前、リゼ視点~

 

 

 耳に入ってくる音は車の音くらいで、それくらい誰もが声を出さず、私と親父、そしてチノのお父さん────香風タカヒロさんは、車に揺られていた。

 

 タカヒロさんに例の()()()を見せると、私達と同様に驚き、そしてすぐに店を閉じて飛び出してきた。

 

 その後は、三人とも何も言葉を出さなかった。

 それぞれが思う事は多々あれど、きっと皆最後には同じことを思い浮かべたはずだ。

 

 

 必ず来る、絶望を。

 

 

 

 病院に着くと、消毒液の匂いが漂っていた。

 

 

 私は昔から、この匂いが嫌いで仕方が無い。

 昔から────正確には私を産んでから、母さんは身体が弱かったらしく、私も子供の頃は母さんの容態が変わる度に、何度も病院について行って、その度に怯えていたものだ。

 

 母さんが死んでしまわないか。

 母さんが居なくなってしまわないか。

 ちょうどその頃、兄さんが軍に派遣されていなくなってしまったこともあり、自分の周りの人間がいなくなってしまうことをすごく怖がっていたんだと思う。

 そんな子供の時の私の恐怖を煽るように、いつも私を取り巻いていたのが、この鼻をつく匂いだった。

 

 

 シャロから教えて貰った病室の前にやって来ると、いよいよもって脚が震えた。

 それでも堪えてノックをするのと同時に、

 

『ここはどこだ!?日本か!?どの国のどの地域だ!?』

 

 という、男の声が響いた。

 ()が目を覚ましたのだ、と分かり、心臓が大きく跳ねた。

 

 

 ────この向こうに、彼がいる。

 

 

 三人で目を合わせて頷いてから、私はドアを開けた。

 

 

 ベッドの上では、男が身を起こしていた。

 そして私達が入っていくと、彼も私達を見た。

 

 

 そして、驚愕の表情を浮かべ、固まった。

 それから、長い沈黙を経て、ようやく彼が口を開く。

 

 

「まさか・・・リゼ?」

 

 

 その声を聞いた瞬間、私は胸が熱くなるのを感じた。

 

 

 

 ずっと祈ってきた。

 ずっと信じてきた。

 ずっと恋しく思っていた。

 九年前の()()()から、今まで一度も忘れたことはなかった。

 

 思わず目頭が熱くなり、言葉が漏れた。

 

 

 

 

「・・・・・・・・・おかえりなさい、兄さん。」




ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第3話 再開と慟哭(後編)

後編です。
何故か凄く長いです、すいません。


 ―――――――――――――――

 男 side

 

 病室のドアの前にいた人を見て、俺は言葉を失った。

 

 

 あの場所で、俺は。

 

 何度も泣き出しそうになった。

 何度も死ぬことを考えた。

 そんな俺の心を支えてくれていたのは、家族にほかならなかった。

 

 目の前に、その家族がいる。

 その事がまだ信じられない。

 

「・・・まさか・・・リゼ?それに、親父に、タカヒロさんも・・・?」

 

 絞り出すように行った途端、目の前の紫髪の少女は、優しく微笑んだ。

 

「・・・・・・おかえりなさい、兄さん。」

 

 涙を堪えるような声で放たれたその言葉は、俺の中の沢山の思い出を呼び起こした。

 

 

 ────お兄ちゃん、お母さん大丈夫だよね?

 

 ────お願い、私をずっと守って・・・

 

 ────お兄ちゃん・・・!お願い、行かないで・・・!

 

 

 俺は帰ってきたんだ。

 あの愛しい日々に。

 

 そう思うだけで、俺は涙を堪えられなかった。

 声を殺して泣いた。

 ベッドに顔を押し付けて、静かに泣いた。

 

 

 

 

「ええええええ!?リゼちゃんにお兄さんなんかいたの!?」

 

 

 ・・・・・・そんなシリアス展開を、茶髪の少女が大声でカットした。

 そういえば浜辺で倒れてた時、ぼんやり聞いてた少女の声のうち一つはこの子のものだった気がする。

 ・・・だとしたらこの子はシリアスブレイカーなのか。楽しそうだが疲れそうでもあるな。

 

 

「な、なんでお父さんいるんですか・・・?」

 

 水色の髪の子が、タカヒロさんを見ながら驚いた様子で言う。

 ・・・この子、タカヒロさんの娘さんなのか?

 

「彼とはちょっとした知り合いでね。まあ、詳しい事は彼が話してくれるだろう。」

 

 いや、俺に丸投げかよ、タカヒロさん・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・そうか、君達が俺を助けてくれたんだな。」

 

 

 その後、茶髪の子を中心に、俺が意識を失った後の顚末を聞かせてもらった。

 彼女らはリゼの友人で、どうやらキャンプの準備をしている最中にたまたま俺を見つけたそうだ。

 そしてここはその近くの病院。

 俺が倒れていたのは彼女らの住む木組みの街から一つ隣の街だったので、彼女らのキャンプ計画がなければリゼとは会えなかったし、俺が倒れていたのは、浜辺におりて歩き回ってみないと気づかないような場所だったらしいので、そもそも助からなかったかもしれない。

 

 そう考えると、この偶然と彼女達には感謝せねばならないだろう。俺は改めて彼女達に向き直った。

 

 

「・・・名乗るのが遅れた。俺はリゼの兄の、天々座理久(りく)だ。

 命を救ってくれてありがとう。それと、妹が世話になってるな。重ねて感謝する。」

 

 そう挨拶すると、皆はおぉ・・・というような感嘆に似た顔を浮かべた。

 

「な・・・何だ。」

「いや・・・リゼ先輩のお兄さんとなると、やっぱりしっかりしてるなぁって・・・」

「甘兎で雇いたいわ・・・」

「ココアさんもこれを見習ってください。」

「わ、私もこれくらいできるよ!」

「・・・挨拶一つでどうしてこうなるんだ・・・?」

 

 挨拶だけで想像以上の反応だ・・・。

 

 

 

 

「なるほど、ココアにチノに千夜にシャロか。改めてよろしく頼む。」

 

 

 今度は彼女達の自己紹介を受け、もう一度頭を下げた。

 

 

 ちなみに、親の教えもあって、相手から特別なにか言われなければ誰に対しても名前呼びだ。

 軍人という家柄なので、色んな人に指示を出す機会は多いし、リーダーシップのとり方なんかも教わってきた。その際、名字がかぶった人に指示を出しづらいから、という理由である。

 

 

「それで結局、何故父がここにいるんですか?」

「あ、そうそう、それと何で海辺に倒れてたの?」

 

 思い出したようにチノが聞いてきた。

 続けてココアも聞いてくる。

 そういえば答えてなかったな。

 

「あぁ、えーっと俺は・・・」

「理久。」

 

 説明を始めようとした俺を、親父が遮った。

 

「その話は長くなるだろう。話すなら家でゆっくり話した方がいい。」

「家で?」

「ああ、ウチにも免許を取った医療スタッフがいるからな。さっき先生から帰宅の許可をとった。」

 

 

 そこまで言うと親父は、今度は顔を4人の方へ向けた。

 

 

「君達も、せっかくだからウチに泊まりに来るといい。理久について、ゆっくり聞きたいこともあるだろう。

 それに、バーベキューの準備ももったいない。ウチの設備を使いなさい。」

 

「え〜!リゼちゃんのお家に泊まれるんですか!?やった〜♪」

「そ、そんなに喜ぶことか・・・?」

「もっちろんだよ!みんなと一緒にご飯を食べて、一緒にお話して、一緒に寝るのってすごく楽しいもん!それがリゼちゃんのお家で出来るなんて!」

「・・・そうですね。皆で一緒にお泊まり会をするの、とても楽しいです。」

「・・・あら?シャロちゃん、どうして震えてるのかしら?」

「・・・せっ、先輩の家に、泊まるなんて・・・緊張して・・・」

 

 

 彼女達が賑やかに話しているのを、俺は感慨深く聞いていた。

 

 

 俺にとっても、久しぶりに帰る我が家。

 彼女達はもちろん、リゼにとってすら俺は遠い人間と言われていいような存在だ。

 

 なのに何故か、彼女達にはなんでも話せるような、落ち着けるものがあるような、そんな気がしたのだ。

 

 そしてリゼも、心なしか親父やタカヒロさんも、彼女達のそういう所に身を委ねているように感じる。

 それだけ、信頼に値する子たちなのだ。

 

 一人一人が個性的で、それが網みたいに広がって、優しくいろんな人を受け止める。

 

 ふと、俺はリゼに目を向ける。

 楽しそうに笑っていた。

 少なくとも俺が家を離れる前は、リゼは人見知りが強く、他の人と話すのはあまり得意ではなかった。

 

 リゼもまた、受け止められたのかもしれない。

 彼女達の輝く網に。

 

 そう思うと、自然と俺も笑えてきた。

 そして、心の底から声が漏れた。

 

 

「・・・・・・いい友達に逢えたな、リゼ。」

 

 

 そう言われて、リゼはちょっと驚いたような仕草をする。

 しかしすぐに恥ずかしそうに頬を赤らめながら、やはり笑顔で言った。

 

 

「・・・・・・ああ、本当に。」

 

 

「おお!リゼちゃんがそんなこと言ってくれるなんて!」

「う、うるさい!ほら、早く行くぞ!」

「まあ、ツンデレね。」

「そ、そんなんじゃない!」

 

 リゼはまた赤くなりながら否定する。

 でもやっぱり楽しそうだ。

 

 心の底から、良かったと、そう思った。

 向こうでずっと、家族のことを思ってきたが、特にリゼが心配だったから。

 泣き虫で、人見知りで、でもどこか甘えん坊で。

 

 でも今のリゼには、最高の仲間と、確かな幸せがあるんだ。

 そう思っただけで、俺まで暖かい気持ちになった。

 

 

 それでもそれを口に出すことはせず、俺はまだほんの少し痛む身体を動かして、ベッドから起き上がった。

 

 あの懐かしの家に、今から帰るのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第3話 再開と慟哭(後編)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――――――――――――――

 リゼside

 

「・・・さて、着いたよ。」

 親父が車のブレーキを踏みながら言った。

 

 ちなみにタカヒロさんは、お店のバータイムは休みにしたくないと、ラビットハウスに帰っていった。

 

「・・・当然なのかもしれねえけど、変わらないな。」

 隣に座っている兄が、窓の外を眺めてそんな感想を漏らす。

 

「この9年間、栄えるほどのことも廃れるほどのことも無かったからな。」

 

 そう言いながら私は、右手で車のドアを開けて外に出た。

 

「わ〜、やっぱり大きいねリゼちゃんのお家!」

「鬼ごっこでも出来そうです」

「あんまり暴れないでくれよー?」

 

 

 はしゃぎだした皆を軽くなだめていると、門の方から聞き慣れた男の声が飛んできた。

 

「ご主人様!お嬢様!お戻りになりましたか!」

「・・・ああ、警備ご苦労様。」

 

 熱量だけで誰のものかが分かってしまう、その声の主の方へ顔を向けながら、私はそう応えておいた。

 

 彼の名は黒崎 剣斗。

 ウチには三十人近いボディガードがいるが、そのリーダーを任されている男である。

 ウチにいるボディガードの中で最も強く、最も献身的に私達に仕えてくれているので、私も親父も、一番信頼を置いている人物だ。

 

 黒崎は、いつも通りキビキビとした動作で、今度はココアたちの方を向いた。

 

「お嬢様のお友達ですね!ようこそおいでくださいました!どうぞごゆっくり!

 ・・・おや?見かけない殿方が・・・」

 

 熱すぎる挨拶の後に、黒崎は理久の方を向き、首を傾げた。

 ・・・そういえば黒崎には、理久の話をしたことがなかったっけな。

 

「ああ、黒崎、彼はな・・・」

 

 

 

 

 

 

「な、なんと・・・そんなことがあったとはァァァァ!!よくお戻りになられました理久様ァァァァ!!」

 

 黒崎が来る前にこの家を出ていって、ついさっき命からがら戻ってきた────。

 そんな話を聞いて、黒い服の熱血漢は大号泣しながら理久の手を握りしめる。

 熱血なのはいいことだとは思う。

 いいことだとは思うが────

 

 正直、まだ家の外だからやめて欲しい。

 

 

「黒崎、彼女らは今日はウチに泊まっていくことになった。夕食は、一緒に庭でバーベキューをするから、道具の準備を頼む。」

 

 親父も同じことを思ったのか、頭を掻きながら黒崎にそう命じた。

 

「はいっ!かしこまりましたご主人様!」

 命令には誰よりも真っ先に、忠実に動く男だ。

 仰々しい敬礼をしてから、キビキビと家の方に戻っていった。

 

「・・・すごい人がいるね、リゼちゃんのお家。」

「・・・あれ?シャロさんどうしたんですか?」

「ち、ちょっとビックリした拍子に・・・足くじいた・・・」

「あらあら、大丈夫?」

「俺の軍の部下に欲しかったな。」

 

 ・・・皆も面食らっているようだ。理久だけちょっと特殊だが。

 とはいえ、準備は黒崎がやってくれるようだし、私達も荷物を置いてこよう。

 私達は、家の中に入っていった。

 

「理久、お前は俺について来い。話がある。」

「・・・ああ。」

 

 後ろで親父と理久が、そんな会話をするのを聞いたが、私は大して気にしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「・・・さて、じゃあそろそろお話聞かせて!」

 

 バーベキューの始まる頃、ココアが理久にそう聞いた。

 

「・・・親父、どこまでは話していい?」

「本当にダメなところは言わないでくれ。後はお前に任す。」

「・・・・・・分かった。」

 

 理久は、それだけ親父に聞いてから、焼けたピーマンを齧って話し始めた。

 

「そもそも俺のいた軍は、中東の国・フェルティシア王国に属する軍だ。」

 

「ふえる・・・てぃしあ?」

「あ、最近ニュースでやってました。最近、お隣との紛争が激化してるって・・・」

「そう、その国だ。」

「へー!チノちゃん物知り!」

「ココアさんはもっとニュースみてください・・・」

 ココアがあっさりとチノに撃墜されているのを見ながら、理久は話を続けた。

 

「チノの言った通り、フェルティシア王国は今、隣国のメツキンド連邦と揉めてるんだ。

 フェルティシアとメツキンドは昔にも戦争をしていた時があってな。その時はメツキンドが勝って領土を奪ったが、その領土は戦争の後に国際条約を結んで返還された。

 

 だが、最近になってその条約を無視して、メツキンドはフェルティシアの領土の一部を不法に占拠しだした。」

「今になって、ですか?なんで・・・」

「フェルティシアは戦争の後から、大量の油田が見つかって、世界有数の石油産出国として出てきたからな。領土を手に入れようと必死なんだ。

 それでも、条約を真っ向から無視すれば、他国からの軍事制裁が下る。だからメツキンドは、条約のグレーゾーン・・・いや、ギリギリアウトってくらいの策を打ったんだ。」

 

「ギリギリ・・・アウト?」

「条約に明記されているのは、『両国家及びその命じるところによって組織された軍隊による領土の占領を禁止する。』という事だ。

 

 簡単に言えば、『国が関わるとアウト』って事だ。だから奴らは、国直属の軍を切り離して解散させ、あくまで有志と銘打って再組織させるという荒業をとった。」

「つまり・・・本来国のものである軍を国のものじゃなくして、国は関わってないって言い張るってこと?

 でもそれってズルいよ!」

 

 ココアがトウモロコシにかぶりつきながら、怒ったように言う。

 その様子に理久は苦笑しながら頷いた。

 

「その通りなんだ。国は関係ないと言っておきながら、実際は国家の意志がフルで介入してるし、そもそも領土の占領はそれ自体が罪にあたるからな。そういう事を考えると、これは完全にアウトな行為だ。

 ただ国交上、世界の一部の国はこれを強く断罪することが出来なかった。それ故に、この行為は二国間で問題になり、他国はあまり口が出せなくなってるわけだ。」

 

 そこまで言って言葉を切ると、理久は網の上にまばらに残った野菜と魚を皆の皿に取り分けて、肉を焼き始めた。

 肉のタレが香ばしい香りを放っている。

 

 そして、理久はチノの方を向いた。

 

「さっきチノは、最近ニュースで見たって言ってたな。

 確かに最近の問題であることに間違いは無い。最近・・・といっても大体9年前からだけどな。

 

 

 でも実は、この問題は初めてじゃ無いんだ。

 32年前、これと全く同じ問題が起きてる。そして、26年前に、一度終結してる。」

「32年前・・・?」

「あ、それ、聞いたことあります。」

「私も知ってるわ、ニュースでやってたわね。」

 

 ココアとチノは首を傾げるが、千夜とシャロは思い出したように声を上げた。

 チノが知らないのは無理もない。この話は当時は騒がれたものの、最近はテレビでもあまり触れないし、授業で取り扱うのは高校か、あるいは中学3年生になってからだ。

 ・・・逆にココアが知らないのは、勉強不足としか言えない。

 

「・・・それでその時から、メツキンドと、反発するフェルティシアの両国の軍が争っていた。

 そして当時、フェルティシアの王国軍は日本のとある小隊と軍事提携を結んでいた。だからその軍から、腕の立つ兵が徴集された。

 

 

 

 そしてその中でも当時特に優れた能力を買われ、王国軍の隊長を任されたのがウチの親父、副隊長を任されたのがタカヒロさんだった。」

「「「「え、えええええ!?」」」」

 

 肉の焼けきった香ばしい香りと共に、皆の叫び声が放たれた。

 

「お、お父さん、そんな人だったなんて・・・」

「り、理央さんってそんなにすごい人だったんだ・・・」

「すまないね、黙っていて。まさか言う必要もないだろうと思っていたからな。

 ・・・しかし、タカヒロはチノくんには話していなかったんだな。」

「は、はい・・・初耳です・・・今日病室にお父さんが来たのは、そういう理由だったんですね・・・。」

 

 ココアとチノが驚愕しながら親父を見ていた。

 まあ、こればっかりは無理もない。

 

「・・・それで、だ。」

 

 理久が肉を頬張りながら、逸れかけた話を戻す。

 

「親父の指揮が功を奏して、結果的にその紛争はフェルティシアの勝利に終わった。この家がこんなにでかいのは、その時の親父の功績が讃えられた報酬のお陰だ。」

「・・・でも、ならどうして二度目の紛争が起きたんですか?」

 

 さっき取っていた焼きイカを食べながら、チノが質問した。

 

「・・・俺も親父も、詳しい原因は分からない。

 でも、二度目の紛争の起きる一月くらい前に、メツキンドの軍の隊長が変わったっていう噂を聞いた。もしかすると、それが関係あるのかもしれないな。」

 

 そう言ってから、理久は区切りを付けるように水を飲んだ。

 

「まあそれで、一度目の紛争が終わってから、親父を含む日本の選抜兵は帰国した。親父が結婚して、俺が産まれたのは、帰国から2年後だった。

 そして一度目の紛争が終わってから17年後、二度目がやってきた。

 だが、17年という歳月は、かつての精鋭たちに老いと衰えを与えた。

 

 元々、一度目の戦いがかなり激しいものだったから、その時に大怪我を負ったり、戦場にトラウマを持ち続けていたりする兵が多かったんだ。だよな、親父?」

「ああ、俺もタカヒロもそれにあてはまる。

 戦争の傷で、俺は左眼の視力と右足の自由を、タカヒロは現役時代の身体能力を奪われた。

 というか、当時の軍の2トップだった俺たちがそうだったんだ。大半は心身共にボロボロになって帰ってきたさ。」

「「「「・・・・・・・・・・・・」」」」

 

 みんな手を止めて、固唾を飲んでその話を聞いていた。

 その沈黙を破るように、理久が話を再開する。

 

「・・・こんな訳で、当時の精鋭はダメージに加えて、17年間のブランクによる衰えも与えていたんだ。

 そんな状態で、どう変わったかも分からない相手と戦うのはかなり危険だ。だから、新しく育った若い兵達が戦地に赴いた。

 そして、その隊長を親父から引き継いだのが俺ってわけだ。」

「え、ちょっと待って?理久さんが産まれたのは24年前でしょ?それで二度目の紛争が起きたのは9年前だから・・・理久さん、15歳の時に隊長になったの!?」

「・・・やっぱりココア、計算速いな・・・。」

 

 私は密かにココアの暗算の速さに感嘆した。

 話を聞きながら、同時進行で年齢を計算するのは意外と難しいのだ。でも意外とココアは数字に強く、こういう暗算をパッとやって、私達を驚かすことがしばしばあるのだ。

 

 

 ココアの問いに、理久は首を横に振った。

 

「軍に行った当時は、ただの普通兵だったよ。結果的に隊長になったのは、行ってから5年後────俺が20歳の時だった。

 

 

 ・・・だが、俺は親父のようにはいかなかった。かなりの長期戦になっていたが、最近になって戦いが激化してな。結果、メツキンドの戦略に対応しきれず、軍は壊滅。

 何人かは逃がしたが・・・・・・

 俺と他の仲間は駄目だった。」

「「「「「・・・・・・・・・・・・」」」」」

 

 凄絶な話に、私達は皆言葉を失った。

「俺は捕らえられて、拷問を受けた。隊長からならば得られる情報も多いからな。

 

 俺はそこから、必死こいて逃げ出してきた。」

 

 

「・・・・・・でも、どうやって逃げてきたんですか?近くには船もありませんでした。まさか泳いだはずも無いですし・・・」

 

 やっと声を絞り出したのは、チノだった。

 

「いや、まあちょっとは泳いだ。」

 

 皿の上の肉を平らげて、理久はそう言った。

 気付けば、網の上の食材はほとんどなくなっていた。

 

「・・・初めは水上バイクに乗っていたんだが・・・途中で嵐に遭ってな。転覆して流されたから、そこからはがむしゃらに泳いだんだ。違う陸地にでも着ければ儲けものだと思った。

 正直、奴らに捕まってからはまともなもの食ってこなかったから、浜辺に着いた時は意識なくなるくらいヘトヘトだったんだ。」

((((人間じみてない・・・・・・!))))

 

「しかし、かなり遠くに来たつもりではだったが・・・まさか日本の、しかも生まれ育った街に辿りつくとは思わなかった。これは奇跡としか言えないな。」

「そっか・・・ここに来たのは、本当に偶然なんだね。

 良かったね、リゼちゃんとお父さんに逢えて!」

 

 ココアが満面の笑みでそう言うのを聞いて、理久も笑顔で頷いた。

 

 

「本当に、大きくなったリゼが見れて眼福だったよ。昔は『お兄ちゃん』って言って甘えてくれてたけど、今では『兄さん』だもんな〜」

 

 ・・・・・・・・・・・・ん?

 

「へー!リゼちゃんにもそんな頃があったんだ!可愛いなぁー!」

「他にもエピソードいっぱいあるぞ?俺が公園で怪我して帰ってきた時は「やめろおおおおおおおお!」」

 

 は、話が突然おかしな方向に進んでる!

 

「まあまあリゼちゃん、たまにはこういうのもいいでしょ?理久さん、さっきの話の続き話して〜!」

「ああ、だから俺が公園で怪我した時に・・・」

「わあああああ!ストップ、ストップ!」

 

 ────ダメだ、ココアと理久のコンボは危険すぎる!

 

 すると、隣のシャロがフルフルと震えていた。

 

「わ、私も・・・」

「お、おいどうしたシャロ・・・?」

 

 なんだろう、嫌な予感が・・・

 

「私も先輩の昔の話聞きたいですー!」

「シャ、シャロまでええええええ!」

 

 

 ・・・・・・結局ここから、みんなが寝付くまでのかなりの間、私は精神が燃え尽きるまで暴露の被害にあったのだった。

 

 

 

 

 

 

 夜、ふと目が覚めてしまった。

 おもむろに携帯を見ると、時刻は午前3時だった。

 周りを見ると、皆ぐっすりと眠っている。

 この部屋からは外の景色も見えにくいし、ここにいてもつまらないので、私は廊下に出ることにした。

 

 

 廊下の窓の外からは、美しい満月が見えた。

 興奮で火照った身体に澄みわたるような深い夜の青が、柔らかく月に照らされている。

 

(・・・こんなに、賑やかな夜は)

 

 久し振りだった。

 最近はずっと、家の中で家族は私と親父だけだった。

 母も病弱で家にいないし、兄と離れてしまったから、親しく話せる人は親父の他に黒崎ぐらいしかいなかった。

 

 私は深く息を吸った。

 

 これまでずっと、寂しさから目を背けていた。

 でも今日、私が押し殺してきた寂しさは、身をちぎるほど強かったのだと実感した。────この賑やかで愛おしい夜を知ってしまったから。

 

 

 廊下の奥から、不意に足音が聞こえた。

 その音の響く方を見てみると、理久の顔が月明かりに照らされている浮かび上がっていた。

 

「・・・兄さん、どこに行ってたんだ?」

「・・・・・・ちょっと、な。外の空気が吸いたくなった。」

 

 理久はそれだけ言うと、私と同じように窓の外の景色を見た。

 

 ただひたすら、静かに時が流れていく。

 雲隠れになったり、パッと現れたりを繰り返す夏の月を、二人でぼんやりと見つめていた。

 

 

「・・・賑やかで、楽しい夜だったな。」

 

 不意に、理久が口を開いた。

 

「・・・そうだな・・・。」

 

「・・・リゼ。」

 

「うん?」

 

「お前はこれからも、人を守れなかった痛みなんて知らなくていい。

 

 お前ならきっと出来る。本当に大切なものを、きっとその手で守ってやれる。

 

 だから、強くなれよ。腕っぷしなんかじゃなく、心の底から強くなって、誰かを救ってやれるようになれ。」

 

 私は、その言葉の意味がこの時は分からなかった。

 でも私は、分かった、としか言えなかった。

 

 

 兄の目に、涙が光るのを見ていたから。




オリ主の口調が落ち着かない。
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第4話 戦場のディセイバー

チノ視点から始まります。
同時に、だんだん話がディープになっていきますが、宜しくお願いします。


 -----------------------------

 チノside

 

「おーい、皆、朝だぞー。」

 

 リゼさんのハキハキとした声で、私の目が覚めた。

 普段とは全く違う、フカフカで高級感あふれるベッドの感触で、リゼさんの家に泊まりに来ていたことを思い出す。

 まだ重たい目を擦り、辺りを細い目で見渡すと、どうやら私以外も今起きた所のようだった。

 

 ·········だが、特にココアさんに関しては、未だにぐっすり眠っている。

 

 

 ココアさんを起こそうと悪戦苦闘するリゼさんを見ながら、私と千夜さん、シャロさんは先にリビングに向かう事にした。

 

 

 

 

 途中で千夜さんは立ち止まった。

「シャロちゃんとチノちゃんは先に行ってて。ちょっとトイレに行ってくるわ。」

「あ、じゃあ私も行くわ。チノちゃんは平気?」

 

 そう言ってお二人は私を気遣ってくれたけれど、私はそこまで行きたいわけでも無かった。

 

「私は大丈夫です。それでは先に行ってますね。」

「そう?わかったわ。」

 

 そう言って、私はお二人と別れた。

 そして、一人でリビングに向かう。

 

(確か···この道を左···だっけ···?)

 

 

 

 だが、しばらく歩いても、リビングらしき場所には辿り着けない。

 

 

 ────おかしい。ここが右で···

 あれ?さっきが右だっけ?

 頭の中の疑問が一気に巻き起こって、ようやく私の今の状態に気付く。

 

 

 

 

「······迷った?」

 

 

 

 

 口に出して、ますます慌てる。

 そういえば、私は道順ちゃんと覚えてなくて、シャロさん達について行こうとしてたんだ。

 それを忘れて、一人で先に行こうとして迷ったわけである。

 ああ、あまりに馬鹿だ···。

 

 

(ど、どうしよう···)

 

 

 正常な思考などできず、あたふたする私の耳に、ふと誰かの足音が聞こえた。

 リゼさんが戻ってきたのかと思ったが、歩くテンポはリゼさんのそれより少し早いような気がした。

 では、と振り向くと、そこには私が予想していた通りの人物がいた。

 

 

「······ん?チノか、おはよう。一人でどうした?」

 

 理久さんは、まだ寝起きから間もないのか、目を細くして頭を掻いていた。

 今の私には、誰であろうと会えただけでありがたい。

 

 

 

 

 

 

 

「···なるほど、迷ったのか。まあこの家は広いし、仕方ないな。じゃあついてこい。」

「あ、ありがとうごさいます···!」

 

 事情を説明すると、理久さんは快く案内をしてくれた。私は感謝の言葉を述べてついていく。

 

 

 ······ただ、特に会話が出来るわけでもなく、少し気まずい。

 

 

 

 

「···リゼと仲良くしてくれて、ありがとう。」

 

 すると道中、理久さんは不意にそう言った。

 

「あいつも、昔から少し人見知りな所があったんだ。家柄もあって、口調も普通の女の子と比べて強めではあるしな。だから年頃になって、友達と元気に話したり、協力したり、遊んだり···そういう事が出来るか、ちょっと心配だった。」

 

 懐かしむように下げていた目線を、ふと私に向ける。

 

「でも、チノみたいにしっかりした奴とか、ココアみたいに引っ張っていってくれる奴とか···いろんな人に支えられて、本当に楽しそうだった。

 だから、本当に感謝してる。」

 

 

 こういう風にベタベタに感謝されたりするのは、私はあまり慣れないというか···苦手ではあるけれど。

 でも、温かい顔で感謝の言葉を述べる理久さんを見ると、思わず私も笑顔で答えてしまう。

 

「···私こそ、私達こそ、リゼさんからたくさん助けられて、たくさん学んで、お世話になってきました。昔は人見知りだったっていうのも信じられないくらいに、誰にでも明るく接してくれてます。

 だからこちらこそ、リゼさんに、そして理久さんに感謝してるんです。

 リゼさんの心の支えでいてくれて、そして生きていてくれて···ありがとうございました。」

 

「······ああ。」

 

 理久さんは私の言葉に微笑んだ。

 

 それは何だか、どこか励まされるような、包み込んでくれるような、優しさと力強さを兼ね備えていた。

 

 

 

 

 

 ────それとよく似た笑顔を、私は知っている。

 

 ···聞いてみてもいいだろうか。この事を、理久さんに。

 馬鹿みたいな問いかけかもしれない。それでも、今ふと浮かんだ疑問は、聞いてみないとどうしても晴れそうになかった。

 

「···あの、理久さん」

 

 気付けば、その声は口をついて出てきていた。

 

「ん?なんだ?」

 

 一度声をかけてしまったなら、ここで聞かないのも、かえって不自然だ。

 聞くだけだ。この人が知らなければ何も無いのだ。

 そう心で唱え、聞く覚悟を決めた。

 

「···一つ、お聞きしたいことがあるんですが······」

 

 私は、一呼吸置いて、言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「······私の、姉を────香風 智花(ちか)という人を、知りませんか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第4話 戦場のディセイバー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「···············すまない、俺は知らないな。」

「···そ、そうですよね···」

 

 理久さんはやはり、知らない、と言った。

 当然だ。知っている方がおかしいくらいなのだ。

 ただ、ほんの少し浮かんだ、ちょっとした直感みたいなもの。そんな大雑把なものが、当たるはずもなかった。

 

「···············」

「···············」

 

 

 ────沈黙が重たい。

 遮るものもなくただ響く靴音を聞きながら、私は、なんの脈絡もなしにおかしな質問をしたことを後悔し、顔を赤くした。

 

 

 

「······チノの姉さんがどこに行ったのか、チノは聞いていなかったのか?」

 

 沈黙を破るように、理久さんがそう聞いてきた。

 

「はい···まだ私が小さい頃、私のことを本当に可愛がってくれていました。でも···私が8歳になった時に、家を出ていったんです。」

 

 答えながら、私は思い出す。幼き日に見ていた、姉の姿を。

 

 

 

 

 

 

 

 -----------------------------

「·········お姉···ちゃん···?」

 

 ある日の朝、やたらと大きな荷物をまとめてラビットハウスのドアを開ける姉を、私は寝ぼけ眼で見ていた。

 姉は美しい水色の髪を靡かせながら、ちょっと困ったような顔で、私を見た。

 

「チノ······おはよう。」

「どこかに、行くの······?」

 

 私が問うと、ええと、と少し悩んだようにして、それから答えた。

 

「···とても大きな、お仕事に行くの。」

「お仕事って···お医者さんのお仕事?」

 

 姉は昔から、医者になりたいと言って、勉強を重ねてきた。その様子は、まだ小さかった私にも伝わっていた。

 

「そう。私はね、チノ。傷付いた人を助けに行くの。ここじゃない、ずっと遠くの方まで。

 だから、しばらくはここに戻ってこれないの。」

「遠く?お姉ちゃん、いなくなっちゃうの?」

 

 何処に行くのかも分からなかったけれど、姉が遠くに行ってしまうことが怖くて、私は不安で仕方なかった。

 

 そんな私の頭を優しく撫でながら、姉は言った。

 

「大丈夫。チノを置いて居なくなったりなんてしないよ。必ず戻ってくるから。」

 

 その時の姉の笑顔はまさしく、優しさと力強さを併せ持ったものだった。

 

「分かった。私、ずっと待ってるよ!ほら!」

 

 その笑顔に安心して、私もまた笑顔になって、小指を差し出した。

 姉もそれに応えるように、差し出された私の小指と自分の小指を絡ませる。

 

 

 

 ────ゆーびきーりげーんまーん·········

 

 

 

 

 そっと指切りをして、私は笑顔で姉を見送った。

 いつの間にかそばにいて頭を撫でてくれていた父の温かさと、靄のかかった街を微かに照らした朝焼けを、私は今でも覚えている。

 

 -----------------------------

「そうか···それは逢いたいよな。もう5年経つんだもんな···。」

 

 理久さんがそうつぶやくのを聞いて、私は物思いから覚めた。

 

「はい···どこにいるんでしょうか······。」

 

 私のその声は、ため息のように出てきた。

 すると理久さんは、険しい声で言った。

 

「···ごめんな、力になれなくて。」

「い、いえそんな!気にしないでください···」

 

 私が慌てて答えると、理久さんは首を横に降った。

 

「······いや、チノ、俺はな·········」

「あ、チノちゃんに理久さん!おはよう!」

 

 理久さんが何かを言いかけたところで、リビングに先に着いていたココアさんの声がそれを遮った。

 寝癖も直っていないところをみると、どうやら起きて間もないようだ。私はそこそこの時間家を歩き回っていたはずだから、リゼさんの力をもってしてもココアさんを起こすのが大変ということだろう。

 

「···おはようございます、ココアさん。」

「お姉ちゃんって呼んで良いんだよ!?」

「···············」

 

 いつもの様に、ココアさんが妹ねだりをしだす。

 

 

 

 ···私の本当の姉と、ココアさんは、どこが違う。

 姉も明るく、器量のいい人だったけれど、ココアさんのような、誰彼構わず笑顔にできるような人ではなかった。ただ目の前にいる人を、心の底から笑顔にさせる人だった。

 

 どちらが良いとか悪いとか、そういうものではなく、ただ私の姉の像は、後者の様な人であって、どうしてもココアさんとは重ならない。

 

「·········呼びませんよ」

「え〜??照れなくていいんだよ〜?」

「照れてる訳じゃないです。」

「またまた〜」

 

 

 ·········正直、ここまでぐいぐい来られると、認めていたってお姉ちゃんとは呼ばないだろうけれど。

 この事もあってか、さっき理久さんが何かを言いかけていたことなんて、私はすっかり忘れてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「······じゃあ私達は行くけど、兄さんはいいのか?」

 

 それぞれのバイトの時刻になり、天々座家を出ようとした時に、リゼさんは理久さんに聞いた。

 理久さんは首を振る。

 

「せっかくだが···今は疲れもあってな。今日は家でゆっくりさせてくれ。」

 

 ラビットハウスでもゆっくりして欲しかったから、正直少し残念ではある。しかし、壮絶な日々から逃げてきて間もないのだから、久しぶりの我が家で休みたい、というのも無理はないのだろう。

 

 

「じゃーねー、理久さん!また今度!」

「ああ、また今度。」

 

 私達が手を振ると、理久さんもまた手を振り返してくれた。

 

 

 こうして、私達と理久さんの最初の出会いの日は、静かに終わった。

 

 

 

 

 

 

 -----------------------------

 理久side

 

 

 ────私の、姉を···香風智花という人を、知りませんか?

 

 

 チノが細い声で放った問いに、俺はすぐには答えられなかった。

 

 覚悟はしていた。

 昨日病室で、タカヒロさんの娘がチノであると聞いた時から。あるいはチノから、彼女────智花のことを、聞かれることもあるだろうと。

 その時には、自分の知っていること全てを、チノに教えようと思っていた。

 

 けれど結局、俺は嘘をついた。

 

 嘘をついたところで、チノを救える訳ではない事ぐらい、分かりきっていた。

 

 しかし、チノの姿を────あまりに智花に似た、その姿を見ると。

 小さい頃からのものであろう、智花に対するチノの祈りを思うと。

 

 どうしても、本当のことを答える気にはなれなかった。

 

 

 

 ふと頭に、昨日の夜から日付が変わった頃にかけての、タカヒロさんの顔を思い出す。

 

 

 

 昨日、病室を出ていく少し前に、「夜、ラビットハウスに来てくれ」とタカヒロさんから告げられた。

 

 分かっていた。

 智花の話だと。

 

 だから周りには、この話に気を引かせてはいけないと思って、みんなが寝付いた深夜に、そっと家を抜け、ラビットハウスに向かった。

 

 

 ラビットハウスは、バータイムだった。

 

「よく来たな、理久君。」

 

 ドアの掛札の表示を『closed』に変えてから、タカヒロさんはこちらに声をかけた。

 

「何を飲む?」

「······アブサン、ストレートで。」

 

 飲んだこともないくらい、強い酒。

 でも、彼女のことを、素面(しらふ)で語りきれるとは思えなかった。

 

 タカヒロさんもまた、智花の話を酒もなく聞ききれるとは思っていなかったのか、棚から別の酒を取り出した。

 

 2人で軽くグラスを掲げ、静かに飲み始めた。

 

 

「···まさか君と、酒を一緒に飲める日が来るとは。」

 

 一口飲んで、タカヒロさんは言った。

 俺は首を振る。

 

「···酒が飲めるようになっても、俺は昔と変わらない、弱虫のまんまです。」

「いや、例え弱虫でも、君は強くなったさ。昔とは比べ物にならない程に、背中が大きく見える。あの時の生意気なチビ助とは大違いだ。」

 

 そう言うと、タカヒロさんはグラスの中身を飲み干した。

 

 

「······きっと、強くなったきっかけは、()()()()()()じゃないんだろうな。」

「···············」

 

 タカヒロさんが、グラスに酒を注ぎながら言う。

 俺は答えられなかった。

 

 

 そして、注いだ酒を今度は一気に飲み干して、タカヒロさんは言った。

 

 

 

「·········聞かせてくれ。智花の話を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、死に際のことも。」




ありがとうございました。
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第5話 それぞれの傲慢

今回から理久の過去編です。
計4話、この物語に重要な意味を成すパートが続きますが、どうぞお付き合い頂けると幸いです。


 親父は元々心配性なところがあって、俺にもそれが受け継がれているのかもしれない。

 

 まだ俺がガキの頃から、親父に護身用だと言われ、普通使いもしないような武術やら格闘術やらを教えられてきた。

 

 そんな事もあって、俺は昔から『社会は恐ろしいもの』という認識を植え付けられていた。

 だからなのか、俺は幼少期からかなり怖がりなところがあって、親父の手を焼いてきた。

 

 とはいえ、親父の武術教室に対する気持ちの入れようはやたらと強く、そのお陰で、13歳になる頃には大の大人も転がせる程強くなっていた。

 そしてそういった教育を受けたのは妹のリゼも同じで、母もその教育を容認していた。

 

 そんな、普通の家庭とは明らかに違う育ち方をした俺達だが、だからこそ俺達家族全員に、特殊とはいえ強い絆があったのだと思う。

 

 少なくとも俺は幸せだった。

 

 

 

 

 ある年の3月の初めの事だった。

 

 いつもと同じように、途中でリゼを拾い、学校から帰ってきた時、男の大声が聞こえた。

 

 

「······んだと!?じゃあ·········か!?」

 

 所々聞き取れない部分があったが、それは紛れもなく親父の声だった。

 

「お兄ちゃん······お父さん、なんで怒ってるの?」

 

 隣でリゼが、怖がってふるふると震えていた。

 

「なんでもないよ。先に部屋に行ってな。」

 

 リゼを怖がらせないよう、努めて優しい声で声を掛ける。

 それでもリゼは不安そうだったが、最後には頷いて部屋に戻っていった。

 

 

 親父の声が聞こえた方に行ってみると、今度は親父とともに母さんの声も聞こえてきた。

 

 ずっと病弱で、病院にいることが多かった母は、大事な日には家に戻ってきて家族と話したりする。

 今回は、俺の誕生日が近いからということで家に帰ってきていたのだった。

 

 何を話しているのかと、ドアに耳をつけ、話を聞いてみる。

 

 

「···そういうことだ。またメツキンドは吹っかけてきたんだ。」

「そんな···じゃあ、また紛争が始まるの···?」

「ああ、多分な······」

 

 

 聞こえてきたその会話は、俺に衝撃を与えるには充分すぎるほどだった。

 俺が生まれるよりも昔、親父が戦場にいた事は知っていたし、交流の続いていたタカヒロさんからも、その話は何度も聞いていた。

 だが、それはもう終わった話だと思っていた。

 

 

「でも、あなた······」

「···分かっている。身体の具合は帰国の頃より随分と良くなったが、それでも昔のようには動けない。おまけに、今回は長期線も予想されてるから、簡単には戻って来られない。

 ······もしもう一度軍に行けば、今度はどうなるかわからん。」

 

 

 親父が最後に呟いたのを聞いて、俺は思い浮かべた。

 親父が戦場に行ったあとのことを。

 

 

 もし親父がいなくなったとしたら、離れ離れになったとしたら、俺達はどうなる?

 俺達は、父のいない暮らしを強いられることになるというのか?

 

 

 そう思うといてもたってもいられず、俺は部屋のドアを勢い良く開けた。

 

「理久·········」

 

 入ってきた俺を見て、親父も母さんも、驚きの顔を浮かべた。

 

 その時の俺に、確固たる覚悟が出来ていたかといえば、確かには頷けない。

 でもその一言は、自然にこぼれた。

 

 

 

 

 

「俺が軍に行く。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第5話 それぞれの傲慢

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時の両親の驚愕の表情は、未だに覚えている。

 

 驚くのも当然だ。それまで俺は、大きな意思表示をした事がない子供だったから、自分が一人で戦おうと宣言するなど、言った本人の俺ですら驚いたほどだ。

 けれど、俺はこの言葉に対する後悔など微塵も感じなかった。

 

 

「ふざけたことを言うな!お前、自分が何を言ったかわかってるのか!?」

 

 刹那、親父が怒鳴り声を上げながら歩み寄ってきた。

 しかし、俺は怯むこともなく言った。

 

「分かってるさ。親父からは武術も射撃術も指揮法も、戦場に必要なものは教わったし、想定訓練だってしてきた。」

 

 そう言うと、親父はいよいよ激怒した。

 

「バカをいえ!まだお前は泣き虫のガキのくせに!戦場に行ったって役立たずにしかならんだろう!自分を過信するな!」

 

 ただ慌てるばかりの母さんをよそに、親父の言葉は留まるところを知らなかった。

 けれどさすがに言われっぱなしで、俺もカッとなってきた。

 だからその言葉は、ほとんど無意識で飛び出していたと言っていい。

 

 

「······親父こそ老兵じゃねえかよ!」

 

 

 そう言った瞬間、親父の肩が跳ねた。

 そして、俺の胸ぐらを思い切り掴んで、鬼の様な形相で言った。

 

「理久、お前······ロクに軍にいたわけでもなく、戦場経験もないお前が···誰に口を聞いてるんだ!」

 

 激昂して親父は怒鳴る。

 

「俺は経験してきたんだ!お前が知らないほどの戦場の恐怖も、絶望も!

 お前のような弱虫が、戦場で生き残れるとでも思うか!?戦場に行くのは、ベテランとして俺の当然の仕事だ!」

 

 

 親父の言葉は正しい。

 何も言い返せる論理などない。

 

 

 けれど、親父は何も分かっていない。

 理屈なんかじゃない、本当に単純明快な、俺の決意の理由を。

 

 

 不意に、これまで味わったことのないほどの興奮と激昂の中で、ひたすらに怒りに似たものが湧き出てくる。

 

 

 俺もすかさず、親父の胸ぐらを掴んだ。

 

「それ以前にお前は父親だろうが!

 お前がこの家からいなくなったら、俺はまだしも、リゼはどうすんだ!まだ7歳のアイツを親無し子にする気か!」

 

 子供の事を────リゼの事を考えていたのは、親父もだった。

 親父の表情が固まる。

 

 それに釣られてか、俺の心も少しずつ鎮まっていった。

 だんだんと、心の奥にある本音が、染み出るように外に出ていく。

 

「·········頼む、親父·········俺達は、まだ子供だ。親のいない中で生きていくなんて、嫌だ。

 せめて、せめてリゼには······親のない日々を味わわせたく無いから······!」

 

 

 言いながら、眼から涙が溢れてきた。

 

「だから···だから、命を捨てるのなら俺でいい。俺が命を捧げれば······」

 

 ────バチンッ!

 

『皆が幸せになれる。』

 

 そう言いかけた時、耳をつんざくような響きと共に、頬に激しい衝撃を受けた。

 

 驚いて顔を上げると、そこには涙目で右の手を抑えた母がいた。

 

 

「そんな事言わないでっ!あなたこそ、私達の子供なのよ!命を捨てるとか、簡単に言わないで!」

 

 母さんが悲鳴に近い声で叫ぶ。

 その姿に俺は驚愕した。

 

 元々母さんは、体が弱いためなのかそこまで気の強い人ではなく、厳しい物言いなどこれまでしてこなかった。

 

 

 そんな母さんが、俺を叩き、叫んでいる。

 

 それを見て、俺は俺のやろうとしていることの大きさを知ったのだった。

 

 

 応えることが出来ず、呆然としていると、不意に、母さんの細い身体がぐらついた。

 

 はっとした時には、母さんは真っ直ぐに地面に倒れていった。

 

 

「母さん!」「大丈夫か!?」

 

 俺も親父も叫び、母さんに駆け寄る。

 

 

「理久!俺が看てるから、お前は執事に車を用意させろ!」

「わ、分かった!」

 

 親父から指示を受け、俺は慌てて部屋を出ようとした。

 そしてドアの方を見て、瞬間、心臓が跳ねた。

 

 

「お、お兄ちゃん······?おかあさん、どうしたの·········?」

「············ッ!」

 

 ドアのそばに、リゼが立っていた。

 

 俺と親父の叫び声を聞き、思わず付いて来てしまったのかもしれない。

 

 そして、母さんが倒れたのを見てしまったのだろう。

 目の前のリゼは、今にも泣き出しそうな顔だった。

 

 

「お兄ちゃん······おかあさん、大丈夫だよね·········?」

 

 不安に耐えかねたように、リゼが聞いてくる。

 けれど俺は答えられなかった。

 大丈夫、などと、簡単に言いきれるような強さなど、少なくともこの時は持っていなかったのだから。

 

 

 俺が黙っていると、リゼはとうとう泣き出した。

 

 

 それでも俺は、直面した事態の数が余りに多く、しばしの間動けないでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 病院に着き、医師の診断を受けたところ、元々持っていた病状に加えて、精神的な疲弊があった事が原因だという事だった。

 とりあえず問題はなかったが、しばらくは目を覚まさないと言われた。

 

 それだけの事をリゼに伝えると、今度はほっとしたからか、またも泣き出してしまった。

 

 

 皆、どっと疲れがでて、待合室の長椅子に座り込んだ。

 しばらくすると、「執事に電話を掛けてくる」と言って、親父が席を外し、外に出ていった。

 

 

 俺とリゼ、二人で長椅子に座っていると、泣き止んだリゼが不意に口を開いた。

 

 

「······お兄ちゃん、どこかへ行っちゃうの?」

「······え?」

「さっき、おとうさんとおかあさんと話してた。お兄ちゃんは、どこか遠くへ行っちゃうの?」

 

 さっきの会話は、全部聞かれていたようだ。

 という事は、最初から俺の後をつけてたのか。

 

 とりあえず、言葉を探して問いに答える。

「·········まだ、分からないんだ······。もしも親父が行けない、ってなったら、俺が行かないと······」

「行かないでよ。」

 

 俺の言葉を遮り、リゼが言った。

 

「わたし、お兄ちゃんがいなくなるの、いやだよ。だって、まだこわいものがいっぱいあるもん。人とおはなしするのも、夜にひとりでいるのも、まだこわいよ···。

 だから、お兄ちゃん、お願い、行かないで······!お願い、わたしを、ずっと守って·········!」

 

 絞り出すような声を出し、俺の裾に掴まるリゼを見て、胸が締め付けられる思いになった。

 

 リゼはまだ7歳。

 誰にだって甘えたくて、誰にだって愛されたい。

 そういうワガママが、まだ許される年。

 

 だから俺には行かないでいてほしいだろうし、俺が行く道理を理解しきる事も難しいだろう。

 

 俺にとっても、リゼは大事な妹だ。だからリゼには、今の内は辛い思いなどしてほしくはなかった。

 

 

 

 でもだからこそ、俺は行かなきゃならなかった。

 もしも親父がいなくなってしまったなら、今だけでなく、周りからの『父親無しの子』というレッテル貼りもついてまわり、一生辛い思いをする。

 どれだけ辛い選択でも、行かない、ということが出来ないなら、割り切らなければならないのだ。

 

 

「リゼ。」

 

 

 努めて優しく、声をかける。

 

 

「······大丈夫さ。俺はいなくなったりしない。行くことになったって、ただほんのちょっとの間、出掛けるだけだ。その間も、すぐ側じゃないけど、必ずどこかにいるから。」

 

「お兄ちゃん······」

 

 

 リゼは目を潤ませながら、こちらを見ている。

 俺はそれに応えるように、最大級の笑顔を浮かべた。

 

「リゼ、お前は決して、一人じゃないんだ。いつだって俺がついてるんだ。」

 

 それを見て次第に、リゼは笑顔になっていって、最後には大きく頷いた。

 

 

 

 そのリゼの笑顔を見て、俺の思いが固まった。

 

 俺はきっと、行くことになる。

 でも俺が戻って来ないと、リゼは一生悲しむだろう。

 

 驕りかもしれない。

 傲慢かもしれない。

 

 それでも、生きよう、と心に誓った。

 この小さな笑顔一つ守り抜くために。

 

 

 

 

「·········理久。」

 

 声をかけられた方を向くと、いつの間にか親父が目の前に戻って来ていた。

 

「·········話がある。こっちに来い。」

「·········ああ。」

 

 

 すっかり落ち着いたリゼを置いて、少し離れた所へ向かう。

 

 

「············お前、意志は変わらんか。」

 

 誰もいないことを確認し、親父は言った。

 俺は力強く頷いてみせる。

 

「·········何があっても、命を手放したりしないと誓えるか。」

 

 俺は胸に手を当てた。

 さっきの決意が、胸に燃え上がる。

 

 

「·········誓うよ。みんなの為に、俺は絶対に生きる。」

 

 俺がそう言うと、親父はついに観念したように溜息をついた。

 

「···出発は三日後だ。今日はもう遅い。明日と明後日で戦場のノウハウを叩き込む。覚悟しておけよ。」

「ああ、分かった。」

 

 俺は再び気を引き締めて、頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、三日後。

 

 街は少しずつ明るみ始めていた。

 

 

 大きなカバンに家族写真を最後に詰め、部屋から出る。

 

 

 リビングに向かっても、まだ明かりは点いていなかった。日も登っていないのだから、まあ誰もいなくて当然だ。

 

 きっとこの家を見ることは当分ない。

 しっかり目に焼き付け、忘れないでいようと目を閉じた。

 

 

 

 ────その時。

 

 パパパァァン、と、軽快な破裂音が続けざまに起こった。

 

「へ?」

 

 状況が飲めず、間抜けな声を出すと、リビングの明かりが突然点った。

 

 そして、見慣れた家族の顔が目の前に現れた。皆、手にクラッカーを持っている。

 

 

 

「「「お誕生日、おめでとう!!!」」」

 

「あ·········」

 

 そういえば、そうか、今日は3月14日────俺の誕生日だ、と、ここでようやく気づいた。

 

「···てか、母さん、病院いたんじゃないのかよ···?」

 

 まだ病院で安静に、と言われていたはずなのに、俺の目の前には母もいた。

 

「何言ってんのよ、せっかく誕生日だからって戻って来てたのよ?ストレスなんかでお祝い出来なかった、なんて言ったら一生後悔するわよ!

 病院の一つや二つ、簡単に抜け出してみせるわ!」

「いや、それはおかしいだろ···」

 

 当たり前のようにとんでもないことを言う母に、俺は心底呆れていた。

 元からぶっ飛んだ人だったが、ここまでとは恐れ入る。

 

 

 そんなことを考える俺の前に、リゼがトコトコとやって来て、両手を前に差し出してきた。

 その中を見ると、赤い小包みが乗せられていた。

 

 

「お兄ちゃん、行ってらっしゃい。これ、私が選んだんだ。」

 

 リゼは笑顔でそう言うと、俺に小包みを渡した。

 

「あ、ありがとう······開けてもいいか?」

「うん!」

 

 目頭が熱くなるのを必死に堪えながら、丁寧に包装を開いていく。

 その中には、真っ白な箱が入っていた。

 

 

 そっと箱の蓋を開けると、中には銃をモチーフにした、かなり野性的なデザインのネックレスが入っていた。

 7歳の女の子が選ぶものでもないだろと心中で苦笑するも、嬉しくてついにやけてしまう。

 

 

「ありがとう、リゼ。お守りにするよ。」

「うん!」

 

 ここでふと、大事なことを思い出した。

 

「あ···そうだ。リゼに渡したい物があったんだ。」

「え···わたしに?」

「ああ、ちょっと待ってな。」

 

 そう言って、急いで自分の部屋へ戻り、()()を持って戻ってきた。

 

「おまたせ、リゼ······ほら、これは俺からのホワイトデーギフトだ。」

「え?······わぁぁぁぁ···!かわいい·········!」

 

 ()()とは、紫色のウサギのぬいぐるみだった。

 親父のような黒眼帯を巻いて、背中に銃を担いでいる。

 リゼのためにわざわざ、この三日間は合間を縫ってこれを作っていた。喜んでくれるか不安な所があったが、この反応は上々だろう。

 

 

「······こいつの名前はな、俺のもう一つの名と同じなんだ。」

 

「お兄ちゃんの、もうひとつの名前?」

 

「ああ、そいつの名はな······」

 

 そう言いながら、一昨日、親父から最初に教わった事を思い出す。

 

 

 -----------------------------

『いいか、まず俺達の軍において、自分の本名を周りに明かすのはタブーだ。』

 

『え?何で?』

 

『俺達の軍には昔から、ならず者から富豪まで···訳ありの奴含めて色んな奴がいた。その時、素性がバレると、予期せぬ不和を生むことがある。だからずっと昔から、この軍では、二つ目の名前を皆がもってた。』

 

『二つ目の···名前?』

 

『ああ。お前も例外じゃない。お前には特別に、俺の名前を継いでやる。』

 

『親父の名前···なんだったんだ?』

 

『俺のもうひとつの名前はな···』

 

 -----------------------------

 

「······『ワイルドギース』。誰もが憧れる兵の名だ。俺がそうなれるかは分からないけど·········」

 

 そこまで言って、俺はリゼの頭に手を置いた。

 

「······もし悲しくなったなら、そいつに話しかければいい。そいつは俺の分身みたいなものだ。きっと、リゼを支えてくれる。」

 

 そう言うと、リゼは本当に嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、お兄ちゃん!ワイルドギース、ずっと大事にする!」

 

 その笑顔を見て、なんだか心が満たされたような、そんな気分になった。

 

(······本当に、良かった。)

 

 これで俺は、悔いなく前に進める。

 

 

 

 

 

「······みんな、ありがとう。行ってくるよ。」

 

 暖かい気持ちでリュックを背負い直し、ドアに手をかける。

 

「···くれぐれも、自分を大事にな。」

「ずっと待ってるわよ。」

「元気でね···!」

 

 

 目の前で手を振ってくれる、

 笑ってくれている、

 かけがえのない人たち。

 

 

 いつかまた、この笑顔を見れるように、何が何でも生きていこう。

 そう誓って、俺はドアを開けた。

 

 

 

 

 

 置いていったのは、平穏な日々。

 受け取ったのは、確かな愛情。

 

 また戻ってくる。

 必ず戻ってくる。

 その為に戦うのだ。

 

 

 気付けば、すっかり日は登っていた。




過去編続きます。
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第6話 サンタマリアと灰の空

「······ここか······」

 

 家から空港まで1時間。

 飛行機に乗って13時間。

 そこから車に乗せてもらって3時間。

 

 日本から計17時間の移動を経て、フェルティシアの軍基地総本部に辿り着いた。

 

 時刻はちょうど17:30。

 日本との時差は6時間だから、今の日本は23:30にあたる。

 

(時差の対策、しといてよかった···)

 

 まだ少し身体に違和感はあるものの、時差ボケ、という程強く影響は受けていない。三日間、親父に時差対策をぶち込まれたお陰だろう。

 安堵とともに、自分は遠い異国の地へたどり着いてしまったのかといよいよ実感した。

 

 

 そんな回想を終え、眼前に広がる荒野の先、場違いに大きく立っている建物に向けて足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 敷地の中に入り、建物のインターフォンを押す。

 程なくして、まだ聞き慣れていない言葉がいかつい低音で響く。

『誰だ?』ということらしい。

 

 三日間死ぬほど勉強して、何とかここの言語は一通りマスターしたので、何不自由なく会話くらいは出来る。

 

「今日からこの軍に入る事になった者です」

 というだけのことをあちらの言葉で簡単に言うと、少し待っていろ、と返ってきた。

 

 

 ぷつり、と、会話終了を示す音が鳴った。

 そして人を待ちながら、これまた親父から聞いた話を思い出す。

 

 

 

 -----------------------------

「とりあえず、軍の今の総隊長にはお前のことを話してある。軍基地総本部にいるから、そいつにまず会うんだ。」

 

「会うったって···どんな奴なのか教えてくれよ···」

 

「······会えば分かるさ。なんてったって前回の紛争の時、唯一後遺症もなく生き残ってたやつだから、見ただけで『いかにも』って感じがするから。名前聞かなくても分かる。」

 

「えぇー?何たる曖昧な···」

 -----------------------------

(親父め······そんなアバウトで上手くいくのかよ·········)

 

 すると、俺の脇にあるドアが開く音がした。

 そちらを向いて俺は────愕然とした。

 

 そこには、スキンヘッドにいかつい顔、一般人の軽く二倍はある様な肩幅、そして何より強烈な殺気が漂った男がいたからである。

 年の頃は40辺り、と言ったところか、それも相まってより恐ろしく仕上がってる。

 

 

(こ、怖ぇえええええええええ!?)

 

 こちらを見るや、のそのそと歩み寄ってくる大男を見ながら、俺は心底震えていた。

 

(何この人!?メチャクチャ『いかにも』な格好してるよ!?もう戦場のために生まれた様な出で立ちだよ!)

 

 そんなことを考えていると、ふと一つの記憶に行き着いた。

 

 

 ────見ただけで『いかにも』って感じが────

 

(親父······あんたなんも間違ってなかったよ···)

 

 この世の中には、抽象的なものこそ真実ということもあるのだと、新しく学んだ。

 

 

 すると、男が語り始めた。

「隊長から話は聞いている。戦闘技術は優れているらしいな。」

「は、はぁ···どうも······」

 

 つい生返事で答えてしまう。

 正直もう逃げ出したい。

 

 そう思っていると、男は語気を強めて言った。

 

「だが、随分と貧弱な奴が来たもんだ。隊長とは大違いで、まるで覇気がない。」

「ひっ···あっ···あの···」

 

 完全にひるんでしまった俺を追い詰めるがごとく、男は畳み掛けてくる。

 

「お前は戦場に遊びに来たのか?生半可な覚悟で生きていけるとでも思うか?役立たずになるだけじゃないのか?」

 

 

 ────生半可な覚悟······

 

 

 そう言われて、ハッとする。

 

 

 もしここに生半可な覚悟で来れる人間だったなら、家族を思って涙を流すことがあっただろうか。

 ここまで自分を奮い立たすことがあっただろうか。

 

 自分は弱虫の臆病者で、だからこそ覚悟したんじゃないか。

 こんな所でビクついている余裕なんか、俺のどこにあるというのか。

 

 そう思うと、だんだん目が覚めてきた。

 

 目をしっかり開き、男のことを真っ向に見つめ、言った。

 

「···俺が戦場に来たのは、家族が平和である為です。俺が生きるのは、家族の笑顔をもう一度見るためです。」

 

 男が少し驚いたように俺を見る。

 俺はあくまで凛として答えた。

 

 「自分は誰よりも弱く、惨めで、小さい。────その上でここへ来たことが、自分の覚悟の証明です。」

「·········!」

 

 俺の答えを聞き、男は目を少し大きくした。

 俺は全く表情を変えない。

 

 そんな俺の様子を見て、男はなんとも口上しがたい顔を浮かべ、

 

 

 

「だっはっはっはっはっ!」

 

 

 

 と、豪快に笑った。

 急に爆笑され、よく分からずにポカンとする俺には構わず、男は笑い続けた。

 だんだんそれに腹が立ってきて、つい俺は聞いてしまった。

 

「···なんで笑うんですか·········」

 

 それを聞くと、ようやく男は笑いを収め、語り始めた。

 

「いやーすまんすまん、あまりに予想外の返しだったもんで、つい、な。」

 

 俺はそれを聞いて、二つのことに驚く。

 普通に答えただけなのに、予想外とはどういうことか。そしてそれ以前に······

 

「···なんで日本語ペラペラなんですか!?」

 

 男が話した言語は、紛うことなき流暢な日本語であった。

 

「いやいや、うちの軍にやってくる日本人は当然たくさんいるわけだが、そういう奴らには日本語でなくフェルティシア語を話してるんだ。

 いきなり他国の言葉で罵られるプレッシャーはかなりデカイ。それにどんな反応を示すか、ちょっと覗いて見てるだけ。要はお遊びみたいなもんさ。」

 

「タ···タチ悪ぃ遊びを······!」

 

 嬉々として語る男を見て、俺は溜息と悪態を一緒に吐いた。

 こんな逆らえばすぐにでも叩き潰してきそうな大男に、ベラベラと異国の言葉で侮辱されては、いくらなんでも心臓に悪すぎる。

 

「いやー、しかしお前は面白いヤツだ。軍属の人間には絶対見られない反応だった。」

「お···俺、そんなおかしな答えしました?」

 

 なんとも喜んでいいのか怒っていいのかわからないその笑い声に、つい聞き返してしまう。

 

「そりゃ、上官から意味も無く叱責を受けることや、面倒な話を聞かされることが軍では日常茶飯事だからなぁ。

 こういう所で何か言われても、ウンとかスンとか言ってごまかすのが暗黙の了解というか···やり方だったんだよ。」

 

 言われて少し納得する。

 叱責やら怒号やらの嵐に晒されている環境の人間が、毎回バカ正直にそれらを飲み込むとは確かに思えなかった。

 

「ククッ···それをお前···律儀に答えちまって···しかも何だ、あんな綺麗にまとめてよぉ!マンガの主人公かなんかか!?ハッハッハッ!」

 

 ぶり返すようにまた爆笑されて、メラメラと怒りが湧き上がると共に、数分前の真面目にやってた問答を後悔した。

 とはいえこのままいるのも癪だし、小さく反論する。

 

「···真面目に答えちゃアホらしいですか?」

 

 すると男は、今度は真面目に首を横に振った。

 

「いやいや、何もアホくさくない。むしろその辺の軍属よりは肝も座ってるみたいだしな。ただちょっと珍しい答えだった、本当にそれだけさ。」

 

 本当に思ってるのかと、俺は少々疑問を抱いた。

 そんな俺など意にも介さぬように、男は今度は、あっ、という顔をして、こちらを向いてきた。

 

「そういえば、まだ俺の名前すら言ってなかったか。

 俺の軍での名は『アポロ』。本当の名は『ファビオ・アルドミー』だ。よろしくな。」

 

「ん?本名は明かさないルールじゃ···」

 

 さらりと自分の名前を言った男────アポロに、ちょっと疑問を抱いた。

 するとアポロは、にっ、と歯を出して笑った。

 

「俺は元々そっちの家と関わりがあったんだよ、天々座理久。」

「···俺の名も知ってたんですか。」

「ああ、理央さんには世話になった。お前の話はうんざりするほど聞かされたぜ。」

 

 懐かしむような顔でアポロは言った。

 そして再び俺を見る。

 

「とにかく、戦う分にはかなり心強いってことはもう分かってる。それなりに前衛で活動してもらうぞ、『ワイルドギース』。」

「······!分かりました」

 

 その呼び名を聞いて、俺の気も引き締まった。

 

 

 

 ────そうだ。

 俺は戦場に来ているんだ。

 

 

 

 そんな俺の様子を見て、アポロは納得したように頷き、一枚の紙を俺に渡した。

 

「そこがお前の、これから向かう部隊だ。もちろん、一つ一つの部隊長はお前の素性など一切知らん。いい待遇は期待するなよ。」

「勿論です。」

 

 毅然として俺は頷く。

 安らぎは、あの街に置いてきたのだから。

 

 俺が礼をし、この場を去ろうとすると、アポロが引き止め、真面目な顔になって言った。

 

「それとな、忘れるな。確かにお前は俺の恩人の息子ではあるが、俺の下では一般兵と同じく一人の兵士でしかない。妙な哀れみは望むな。」

 

 まあ、当たり前の事である。正直言えば、コネが作れないのは少し残念だが。そもそも、もとよりこう言われることは覚悟していたわけだし、俺が泣きつく理由もない。

 

「はい。」

 

 俺は敬礼し、真っ直ぐアポロを見た。

 それを見てまたアポロは頷き、真面目な顔のまま、最後に一言、力強く言った。

 

 

「武運を祈る。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第6話 サンタマリアと灰の空

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部隊に所属して、実力のテストを受けた後、実戦に投入されるようになって、それから半年ほど経った。

 

 

 戦場に来て実感したことは、俺には信頼関係という意味でアドバンテージがあったということだった。

 

 ほかの連中は、みんな軍から上がってきた人間だったが、俺はただ一人、親の繋がり、というイレギュラーな入り方をしたので、見知った人間が一人もいないのである。

 オマケに、俺は15歳ということもあって、周りと比べてかなり年が若く、周りと話すのも気が引けた。

 最初のうちは、大したことなどないと高をくくっていたが、現実問題として、意外とコレがきつかった。

 その日の実戦を終え、帰ってきた後、心を安らげる手段はここでは限られていて、それ故に『仲間との会話』というのはなかなかに重要なリラックス法の一つであった。

 

 だが、俺にはそれが出来ない。

 その為、精神的にだいぶ参ってしまう部分が強かった。

 

 また、単純に実戦においても、信頼を置ける仲間がさほど多くない、というのが、ストレスを増やす要因ともなっているのだった。

 

 それでもなんとか、家族のことを考えながら、日々を必死に乗り越えていた。

 

 

 そんなある日のことだった。

 

「今日は、俺の補佐に就いてくれ。」

 

 隊長のギルバートから、突然そう言われた。

 隊長の補佐といえば、つまりは副隊長だ。

 かなり重要な役目になる。

 しかし俺にとっては、ただがむしゃらに戦っていただけだったから、そんな重要な仕事を俺が出来るとは思えなかった。

 そんなことをギルバートに言うと、彼はカラカラと笑い、

 

「安心しろ、俺の補佐と言っても、いつもいつも俺をサポートしろってことじゃない。本当に必要な時だけ、補助に回ってもらうだけさ。それに、俺は元々簡単に死ぬタマでもねえよ。お前が大きな決断をしなきゃいけない場面は、なかなか来ねえから、な?」

 

 そう言って笑った。

 

 確かにそこまで言われると、さほど問題視するようなことでも無いような気がしてしまう。

 ギルバートの戦闘における実力は、既に何度も見ている。しかし何度見ても、あの状況判断力と、狙撃能力・近接戦闘力など、どれをとっても彼は一流だ。

 

 彼の補佐、というならば、自分も安心していられる節があった。むしろ、前陣で戦場を見られるいいチャンスだとも思った。

 

 本当はこの時、俺はもっと注意深くあるべきだったのかもしれない。

 しかし、目の前で笑う隊長の、あまりにあっけらかんとした顔が、どこか俺の警戒心を緩めていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 灰色の空が広がっている。

 

 俺達は、想像以上の苦戦を強いられていた。

 早いところ攻めきってしまいたいが、いかんせん敵の防壁が強く、迂闊に攻めると返り討ちにされる。

 なので俺達は、少し離れた位置からの銃撃部隊と、銃撃で出来た隙を見計らって突入する攻撃部隊に分けて戦っていた。

 

 俺と隊長は、銃撃部隊で戦っていた。

 しかし、遠方からの銃撃戦も、守りが堅牢なうえ、土煙を爆風が掻き混ぜるために視界が悪くなっており、俺達はなかなか好機を生めずにいた。

 

 こういった神経戦は当然、守りの強い方に分がある。

 だからこちらは、流れを変える一手を必要としていた。

 

 しかしどうすれば、と思慮している俺の肩を、誰かが後ろから不意に叩いた。

 振り返ると、そこにいたのはギルバートだった。真剣な顔でこちらを見つめている。

 

 

「······こういう事を、特にこんな場所で聞くのは野暮でしかないのは分かってるが、聞かせてくれ、ワイルドギース。

 お前は、どうして戦うんだ?」

 

 

 ギルバートは、言いにくそうに言った。

 

 けれどこの問いには、ずっと自問自答してきたから、すんなりと答えられる。

 

「······家族に会うためです。親父も母さんも、妹もいます。皆の笑顔をもう一回見るために、俺はここで生きているんです。」

 

 俺の答えに、ギルバートは、そうか、と頷いて、微笑んだ。

 そして下を向き、また口を開いた。

 

「······やっぱり、お前は強いな。」

 

 そう言うと、彼はまたふっと笑った。

 

 「わずか15歳で、誰と交わるでもなく、一人で戦場にいて·········若くしてそんな過酷な運命を背負う理由はきっととてつもなく重たいんだろう。でもお前は、その重圧に負けずに、生きる目的を見失わずにいる。

 俺なんかより、ずっと強い。」

「隊長······?」

 

 彼が、普段しないような話を突然するものだから、俺は首を傾げた。

 すると彼は、少し悲しそうな顔をした。

 

「······俺もな、家族を置いてきていたんだ。妻と、息子だ。

 俺は25で軍に来て、もう十年くらいになる。でも、世界各地の戦場に出始めて、その恐ろしさを知ってしまってから、俺はいろんなことが怖くなってしまった。

 家族を渇望して、その上で死んでいったとして、俺は一体どれほどの苦しみを抱えているんだろうか、とか、どれだけの物を失うものになるのか、とかな···

 そう思うのが怖くて、俺は家族の事を忘れたまま、孤独に戦っていこうと決めた。

 孤独に戦い、孤独に死ぬ、亡霊のような人間になれればいいと思った。

 ······その時から、生きる目的だとか、そういうものも無くなってしまったような気がしてな······ただ、惰性で生きているような、そんな人間になってた。」

 

 そこまで言うと、彼はこちらを向き直った。

 

「···でも、この半年、お前が必死で生きようとする様が、俺に教えてくれた。俺が忘れていた、生きる目的を。

 感謝してるぞ、ワイルドギース。」

 

 そして、銃を構え、独り言のようにつぶやく。

 

 

 

「······俺はまだ、死にたくない。

 だから、戦う。」

 

 

 

 普段とは真逆の顔を見せた、静かな隊長は、岩陰から顔を出し、銃を構えた────

 

 

 

 

 

 

 ────ほんの一瞬だった。

 頭を少し出した、そのわずか一瞬の後、ギルバートは、ぐらりと崩れ落ちた。

 

 あまりに瞬間的なその出来事に、全く頭が動かない。

 

 

「隊···長······?」

 

 呼び掛けても、ギルバートは、目を大きく見開いたまま、動かない。

 彼の脳天から、血が溢れ出ている。

 

 

 

 それを見て、ようやく理解した。

 頭を流れ弾に撃ち抜かれたのだ、という事に。

 

 

「隊長!!」

 

 混乱する頭で、必死に声をかけるも、やはり反応はない。

 即死だったのだ。

 

「くそ······くそ!嘘だろ!?何でよりによってこの人に当たんだよ!

 家族だっていたんだぞ、この人には!

 こんな呆気なく終わっていいのかよ、命って!」

 

 涙が止まらない。

 悔しさや、悲しみや、行き場のない怒りが、ごちゃ混ぜになった涙だ。

 誰にともなく発した、俺のその絶叫は、砂の舞う戦場に虚しく響いた。

 

 

「······い!おい!ワイルドギース!」

 

 茫然自失としていた俺を、後ろの仲間が呼んだ。

 

「気を取り直せ、今の副隊長はお前だ!指示を出すんだ!」

 

 

 言われてはっとした。

 俺が動かないと、今度は全員が犠牲になってしまう。

 

 敵がいつ攻撃に転じてもおかしくない、この危機的状況を打破しない限り、俺たちの勝ちはない。

 俺は涙を拭い、無線機を乱暴に掴んだ。

 

 

「全隊に告ぐ!ギルバート隊長が負傷につき戦線を離脱!現時点をもって、指揮はワイルドギースが代わってとる!」

 

 

 俺の声が辺りに響く。

 きっと人生で、一番力強い声だったろう。

 

 

 

 

 

 

 それから戦況は急速に展開した。

 俺は銃撃部隊から、相手に気付かれないための二、三名の精鋭のみによる奇襲部隊を作り、防壁を剥がしていった。

 その変化に対応してか、敵軍も一転して攻撃に転じた。

 

 そして、最後には互いに全軍が真っ向からぶつかり合う、攻撃のしあいになった。

 

 

 そんな泥臭い戦いから、一時間あまり経った頃。

 

 無線から部下の声が聞こえてきた。

 

 

「······全隊へ報告!敵隊の長が降伏を宣言しました!それに伴い、敵隊全兵の捕縛を完了しました!」

 

 

 響いてきたその言葉が、俺の動作を停止させる。

 極限まで疲れきった脳みそが、その言葉をゆっくりと理解しようとする。

 周りの兵たちも、みな沈黙している。

 

 そして無線機から、続けて言葉が告げられた。

 

 

「我々の······勝利です!」

 

 その短い言葉が届いた瞬間、身体中の力が抜けた。

 

 

 ────やっとか、やっと終わったのか······

 

 

 8時間くらいは続いた神経戦。

 辛くも俺達は勝利して終えられた。

 そのことから来る安心感が、溜まりに溜まった疲労感を解放した。

 

 

 周りを見ると、仲間たちはみな、歓喜の声を上げている。

 だが、俺の抱えていた感情は、歓喜などとは真逆の、失ったものに対する悲しみと、ひたすらの虚無感、そして恐怖であった。

 

 

 

 

 

 

 

 軍に戻っても、悲観も虚無感も消えることは無かった。

 ただ一人、呆然とする時間がひたすらに過ぎ、辺りが真っ暗になった頃、外が少しざわめいているのが聞こえてきた。

 

 何かと思って狭い部屋の窓を開け、声を聞いてみる。

 すると、騒いでいたのは、どうやら見張り役の仲間であると分かった。

 

 

「あ、あなたが、何故ここにいらっしゃるので!?」

「ああ、まずは今日のこの軍の勝利を祝いに来た。ご苦労だったな。」

 

 見張りの質問に答える男の声に、俺は正直驚いた。

 

 その声の主は、アポロだった。

 

(なんで総隊長がここにいるんだ······?)

 

 俺がそんな疑問を抱いていると、アポロは続けて言った。

 

「まぁ、今日来た本来の目的は、今回の戦いで指揮をとっていた男に会うためだ。」

 

 それを聞いて、俺はぎくりとした。

 

(勘弁してくれ。今は人に会えるような顔をしてないのに···。)

 

 しかしそんな俺の思いなどつゆ知らず、

 

「ああ、ワイルドギース君ですか。奥の部屋におると思います。」

「おう、すまんな。見張り御苦労。」

 

 ···とまあ、こんな感じで普通に入ってきてしまうわけだ。

 細かい用件も聞かずにホイホイと中に入れてしまう見張りを一瞬恨むも、よく考えたらあの威圧感を常に放つ男に何かを聞き返すなんて真似、俺でもしたくない。

 

 つまりは全部アポロのせいだ。ちくしょう。

 

 

 などと思っていると、無駄に思えるほど大きな足音は、いつの間にかすぐ側に来ていたと気付いた。

 

 そしてドアが開く。

 一度見たら忘れられないような強面が、俺の目に映った。

 

「よう、調子はどうだ···と、言いたいところだが、随分しけた面してやがるな、ワイルドギース。」

「······ご無沙汰してます、総隊長。こんな面じゃあなたに会いたくもないですね。正直今すぐ帰っていただきたいです。」

「ハハ、相変わらず生意気だな。」

 

 俺の恨み節も笑ってかわされ、なんだかもうそれだけでどっと疲れてしまう。

 しかし、アポロはその笑みを収め、ところで、と低い声で話題を切り替えた。

 

「今日の戦いの指揮は、お前が執ったそうだな。」

「·········はい。」

 

 あまり触れられたくない話題である。最も、一人でいたって考えてしまうことではあるのだが。

 

 アポロは俺の隣に腰掛けた。

 

「ギルバートの死のことは聞いたぞ。···残念だが、アレは避けられない死だった。それは、お前にも分かるよな?」

「······分かってます。」

「そしてその上で、お前は臨時で指揮を執り、見事に軍を勝利に導いた。

 今回の相手は、敵軍の主力軍隊の一つだった。だから被害はあれども、あの隊を落とせたのはかなり大きなことなんだ。」

「···それも、分かってます。」

 

 

 そう、分かってる。

 分かってるんだ。

 俺にはあの時、隊長を助ける術もなかったし、今回の敵の力量を見ても、これはかなり大きな勝利だったと言えるはずだ。

 結果的に俺が今日やれたことは、自分の力を最大限生かしたものになったし、それは確かに成果を示した。

 

 しかし、しかしだ。

 

 

 

「···ならなぜ、そんな顔をしているんだ。」

 

 ────そう、俺の心はまるで冴えていない。

 むしろ、意志が凍ってしまったかのように動かなくなっていたのだ。

 

 そして、何故そうなったか、という理由についても、きっと俺は分かっている。

 

 

「······隊長が目の前で死んでいった時、何が起きたのか、本当に分かりませんでした。」

 

 

 語りながら、身体の震えが起きるのを感じる。

 

 俺は、死というものは、人によって整然と並んであるものだと思っていた。

 

 でも、違った。死は、ここにおいてはまったく無秩序に、どこにでも転がっていて、一度絡み取られたら、誰かの手で救うことなど出来やしないのだ。

 

 そしてそれは、誰にともなく降り注ぎ、音もなくその人の一生を終えさせる、ということでもある。

 その人間がどれだけの者を愛し、覚悟を決め、何かを残していたとしても、死は無慈悲にそれらを無かったことにする。

 

「···そう分かってしまったのは、俺が指揮を執り、限界まで頭と力を使い、ギリギリで死線を越えたあとでした。

 もし俺が何か間違えたら、あの時俺は死んでいたんじゃないかと···そんな瞬間は何度かあったけれど、あの時は気が昂って、そのことに気付けませんでした。

 でも冷静になって、考えてみて、自分も死がそばにあったことを思い出して···

 ···馬鹿らしいけど、正直に言うと、怖くてしょうがないんです。戦場に出るのも嫌なほど、家族のいないところで死んでいくのが、無性に怖くて·········俺は、このまま生きていけるか、分かりません。」

 

 淡々と、自分の身の内に巣食う感情を吐き出した。恐怖というものは、人に遠慮を忘れさせるようだ。

 

 

「···ならば、どうする。」

 

 表情を変えず、アポロは聞いてくる。

 

「克服した恐怖は、自分の武器になる。最後の最後まで死に抗い続ける原動力になる。

 だが、飼い慣らせずに残った恐怖は、どんな時にも邪魔になる。お前の動きを狂わせる。

 その恐怖をどうにかしない限り、お前はここでは無用の長物だぞ。」

 

「············」

 

 厳しい口調で言いきると、アポロは席を立った。

 

「今回ここに来たのは、それを伝えるためだ。自分の納得いく答えは、自分で探せ。何度も言うが、俺は必要最低限のサポートしかせんぞ。」

 

 そしてアポロは、じゃあな、と言って出て行った。

 当の俺は、動けずに固まっていた。

 

 

 アポロの言うことはもっともだ。

 さっきからずっと起きている手の震えはきっと、いつまでも続く。────恐怖を何らかの形で乗り越えない限り。

 

 でも少なくとも、恐怖を克服し、生きる意志へと繋げていくことは、弱虫の俺には絶対に出来ない。

 ただひたすらに死が怖い。

 死が目の前まで迫れば、きっと俺の身体など、まるで動かなくなってしまう。そうして、みすみす死んでいくのが目に見える。

 

 

(······だったら)

 

 

 出来ることは、一つしかない。

 恐怖を、感情そのものを、無くすことだ。

 機械のように、自分のやることを淡々とやるだけ。人との交わりも最低限にして、恐怖も情も、すべて消し去ってしまえばいい。

 それは結局、恐怖を乗り越えたとは言えないのかもしれない。

 でも、弱い俺が生きていくには、そうするしかないのである。

 

(いくら冷徹と言われようと、人ならぬものと扱われようと、淡々としていればいい。)

 

 それで誰からも愛されなくなったとしても、自分を含めて一人でも多く救うことが出来るなら、機械にだってなんだってなってやろう。俺はそう思った。

 

 心の奥底で、その選択を責める声がしたが、強引に押し殺した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな夜から、3年半の月日が流れた。

 

 あの日から、俺はめまぐるしく変わっていった。

 誰かが傷つき、あるいは死んでも、知らん振りをずっと続けてきた。その結果、俺は、恐怖も含めた感情のほとんどを、何に対しても抱かなくなったのだった。

 

 まさに『機械』。

 誰に誇れる生き方もしていない。

 ただ自分が生きるための手段を掴んでいるだけだ。

 その弊害として、失ってしまったものは沢山あっただろうが、気が付けばそれを数えるのもやめていた。全く以て阿呆らしい生き方である。

 

 しかし結果的に、そういったやり方で蓄えてきた功績は計り知れないほど大きくなっていって、俺は昇進に昇進を重ねていた。結果、もうすでに、最前線の隊長としての地位を確立させていたのだった。

 

 

 そして、隊の基地にて。

 

 今日も同じ時間に目を覚まし、身支度を整える。

 誰がそうしろと言った訳でもないが、目を覚ます時間も、身支度にかかる時間も、数秒のズレもなく毎朝同じだ。余計なことを何も考えないせいかもしれないが、これでは本当に機械みたいだな、とつい苦笑してしまう。

 とはいえ、こういう暮らしが日常的なものになってしまったから、今更違和感を感じることもなかった。

 

 必要最低限の食料を口に放り込み、外に出る。

 見張りに礼を言ってから、軽く身体を動かし、暖める。

 三十分ほどのウォームアップを済ませると、隊の一般起床時間を示すチャイムが鳴った。三分ともせず、全員が集合した。

 

「···おはよう、諸君。今日は敵地の偵察をメインにする。各々、決められた班員で分かれて向かえ。敵軍に動きがあるようなら、すぐに知らせて引き返せ。以上だ。」

 

 隊員が整列を終えたのを見届けてから、一気に指示を出す。こんな流れ作業のようなやり方も、今の俺であるが故だ。

 指示を終え、ベースキャンプの中に颯爽と戻っていく俺の後ろから、部下の小さな声で放たれた言葉が飛んできた。

 

 

「······相変わらず、威圧感すげえな、隊長は······

 ────さすが『死神』だよ。」

 

 

 ────『死神』。

 感情を捨てた故、敵を殺すにも躊躇が亡くなった俺に、誰かが言い出した呼び名だ。

 部下達はバレないように言ってるのだろうが、いくらそうだとしても、ずっと隊にいれば隠し事の一つ二つは嫌でも耳に入ってしまう。

 別段、そこに俺を蔑視する目的はないようで、むしろ戦場でその冷徹さは評価されている節もあるらしい。

 

 ······しかし、いよいよそう評されると、自分は完全に人ならぬものになってしまったような気がしてならない。

 こんな俺の姿を見て、家族は喜ぶのだろうか。別人のように変わり果てたこの姿に、みんなは俺を突き放したりしないだろうか。

 

(······突き放してくれるのは)

 

 むしろ楽だと、そう思うところもある。自分が周りの目を気にして、もう過去の姿に戻れぬまま曖昧な暮らしをするよりは、完全に居場所を無くしてしまえれば、きっと色々楽だろう。

 そうして居場所を失いきる前に、たった一度だけでもいいから、家族の顔を見たい。この願いが叶うなら、後先などどうだっていいのだ。

 そんな思想を断ち切るように、俺はヘルメットを被った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「隊長!ダメです、隊形が崩され始めてます!」

 部下からの無線に、俺は舌打ちした。

 ここ最近、相手にはずっと苦戦を強いられていた。何度か撤退を余儀なくされて、今もかなり追い詰められている。

 

 最近は、何かがおかしい。

 俺がこの隊に来たばかりの時は、確実にこちらが優勢だった。それこそ、勝利も見えそうな程に追い込んでいたはずなのに。

 そんな戦況の揺れあいが、ここ二、三年は顕著なのだ。

 

 

 

 

 まるで誰かが、意図的にこの長期戦を仕組んでいるかのような、露骨なシーソーゲーム。

 考えすぎとは思うが、どこか嫌な予感がする。

 

 

 

 

(······ともかく)

 

 今重要なのは、可能性の低いifの話ではない。この状況をいかに打破するかである。

 ここは元々、人の住んでいた村だったため、資材は多い。それ故、トラップなんかは仕掛けやすくはなっている。···とはいえ、無意味な破壊はやってはならないが。

 

 俺は左上を見上げた。

 工事中に戦争に巻き込まれたのか、大量の鉄材が吊るしあげられたままになっている。

 次に前方を見渡す。

 敵は、好機と見てこちらに突撃してきている。

 

(······やってみるか。)

 

 成功するかは分からないが、もし上手くいけば敵軍を止められるし、ダメージもでかい。どのみちこのまま戦っても、勝機は薄い。そういう意味では、ローリスクハイリターンだ。

 

「全隊、下がれ!」

 

 無線機で鋭く指示を出す。

 ほとんど時間を空けず、指示通りに引き下がってきた部下を見届けてから、ライフルを構えた。

 

 狙いは、鉄剤を吊るしあげている留め具。

 ここから優に100mは離れているが、狙い澄ませば不可能ではない。

 

 引き金を引くと、一気に十発近い弾丸が連射される。

 狙いから逸れることなく、弾丸は留め具に直撃した。

 

 瞬間、ワイヤーが外れて、無数の巨大な鉄材が地面に落下していく。そしてそれらは丁度、敵兵の密集地帯に落ちていった。

 完全に狙い通り、敵の動きをストップさせられた。

 今の内にこちらの隊形を整えようと、周りを見渡した時、視界の端に、ちらりと二人分の人の影が見えた。

 

 住宅の陰になって見えずらい位置であったが、目を凝らすと、服装から、軍人ではないことが分かった。倒れ込んでいる一人の男性に向かい、もう一人の女性が必死で呼びかけている。

 この戦況から逃げ遅れ、先程までの銃撃戦で運悪く被弾してしまった一般人なのだろう。

 彼らは家族だろうか。この場所に一人で残るメリットなどないから、恐らくやむを得ずここに留まった家族だろう。

 砂埃が舞い、弾丸の飛び交うこの場で、家族が凶弾にさらされた恐怖を思うと、胸が痛む。

 

 

 

 「···隊長!早く指示を!せっかく作った時間です!」

 

 すぐそばにいた部下からの声に、俺ははっとした。

 

 そうだ。今彼らの身を案じる余裕など、今の俺には無い。

 軍が敗れれば、俺も死ぬ。気の毒ではあるが、こちらも退っ引きならない理由を抱えているのだ。

 俺はこういう犠牲に動揺しないために、そのためにこんな自分を選んだのだ。

 仕方ない。こうするしかない。こうするしか·········

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────さすが『死神』だよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心の奥で、さっき聞いた言葉がこだまする。

 

 その声が響く度に、さっきの彼らと、愛しい家族の顔が繰り返し現れた。

 

 

 

 

 

 

「······すまん。隊列を組み直しておいてくれ。すぐ戻る。」

 

 

 指示を出すために開いていたはずの口は、見当違いの言葉を吐いた。

 その言葉を受けた部下も、予想だにしない言葉に呆然としていた。

 彼の言葉を待つこともなく、俺はあの二人の方へ走り出した。

 後ろから必死で呼び止める声がしたが、俺の足が止まろうとしない。

 

 

 二人の男女は思っていたより若く、新婚か、或いはこれから結婚するか、という歳に思われた。

 二人の元へたどり着いた時、女性は、気を失っている男性の手を握りながら、驚いた顔でこちらを見た。軍人がこんなところに来やしないと思っていたろうから、驚くのも当然だ。

 というか、むしろここへ来ることを決めた、俺自身ですら驚いていたのだから。

 

 しかし、その顔も一瞬で、今度は祈るように泣き出した。

 

「お願い······お願い!彼を助けて!さっき撃たれてから、目を開けないの!このままじゃ、彼は······彼は······!」

 

 そのあまりに真っ直ぐで、強い想いと瞳が、激しく俺の胸を打った。

 彼女もまた、足を怪我していて、立つこともままならぬ状態なのに、必死で男性を救ってくれと言っている。

 俺がずっと忘れていた命の輝きを、必死で手放すまいとする姿は、俺の何かを溶かしたような気がした。

 

 ずっと頭に響いていた、そんな奴らは捨て置け、という冷静な声は、パタリと止んだ。

 

「···手は離すなよ。」

 

 そう一言だけ言い、二人を担ぎ上げた。

 そして一気に、ベースキャンプへと走っていく。

 

 

 戦場で、しかもよりによって隊長の俺が、人二人を抱えて走るなど、狂気の沙汰にも程がある。

 

 そんな事は、分かりきっている。

 

 でも、目の前で救いを求められ、しかも命の美しさを思い出して、どうして捨て置くことなど出来るだろうか。

 

 俺が諦めてきた、或いは葬ってきた命は、こんなにも美しい光となることを、今更ながら思い出したのだ。

 もう足など止まりはしない。

 

 

 

「······医療班!怪我人だ!男性の方は瀕死なんだ、救ってやってくれ!」

 

 キャンプに着くやいなや、俺は叫んだ。

 既に医療室は、負傷した兵で埋まっていた。

 

「ちょ、ちょっと!ここはもう人がいっぱいですよ!どこの誰とも分からない民間人の治療をする場所も時間もない!」

 

 医療班長の男が、怒ったように言う。

 しかし、俺も引かずに言い返す。

 

「そこを何とか頼む!今すぐ治療すれば何とかなるかもしれないんだ!功徳と思って助けてくれ!」

「そ、そう言われても······!」

 

 間髪入れずに突っかかる俺に、班長も困惑している。

 しかし、この男に言っても無駄かもしれない。実際問題、スペースが空いていないのだから。流石に、他を押しのけるわけにもいかない。

 

(だったら···どうしろって言うんだ、クソ······)

 

 ここまで来て、彼らを救えないのか。

 必死で伸ばしている手を、掴んでやれないのか。

 

 自分の無力さが恨めしい。

 この一番重要な場面で、何も出来ないのが、本当に悔しい。

 

 

 俺は失意と絶望に、肩を落としかけた────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────その時だった。

 

「その患者、私が引き受けます!」

 

 奥の方から、そんな声がした。

 驚いて声の主を見ると、そこには柔らかく、しかし、力強い瞳をした女性が立っていた。マスクや帽子のせいで顔は見えないけれど、ただその間から覗いている瞳だけで、心が落ち着くような────そんな雰囲気を纏った女性だった。

 

「お、おい、ウィステリア!お前さっきまで他の兵の治療を···」

「もう終わらせました。私が一番早く、この二人を治療出来ます。」

 

 毅然として、ウィステリアと呼ばれた彼女は答えた。

 しかし、班長は首を縦に振らない。

 

「お前、これ以上兵が追加で来るかもしれないんだぞ!?そんな状況で、民間人二人もここに置いとく余裕があるか!?」

 

 その問に、ウィステリアは目を逸らさず答えた。

 

 

「命は命です。誰のものでも関係ない。ただ救いを求める人を救えるだけ救い、その人自身と、その人の持つ歴史を守ること。それが私たちの指名です。()()()()()()()()()()()ことしか、私達にはできないのです。」

 

 

 ────守れるだけのものを守る。

 彼女のその言葉が、深く突き刺さった。

 

 俺が戦っていた理由は、決して自分が生き延びたいからではない。

 ()()()()()()()()()

 家族を。

 その笑顔を。

 その生活を。

 

 

 

 ウィステリアは、続けて言った。

 

「······私の元に来た全ての人の命は、私が責任を持って預かります。だからどうか、この二人の治療を今すぐさせてください。」

 

 そう言って、深く頭を下げた。

 

 

「······俺も、責任を取る。だから、俺からも頼む。」

 

 自然と口から出て来た言葉と共に、俺も頭を下げた。

 

 

「·········ああ、分かったよ!患者は詰まらせるなよ、絶対に!」

 

 一度に二人から頭を下げられ、とうとう班長も折れて、歩き去っていった。

 これで、この二人の治療ができる。

 そう思うと、心の底から安心した。

 

「······ありがとう、君のお陰だ。」

 

 俺はウィステリアに礼を言った。

 しかし彼女はやんわりと首を横に振り、

 

「いいえ、彼らの命をここに繋げてくれたのは、他でもなくあなたです。今あなたは間違いなく、希望を繋いでくれたんです。」

 

 そしてまた、深く頭を下げた。

 

「······ありがとうございました。この命、必ずお救いします。」

 

 突然の礼に驚いていると、俺に抱えられていた女性が身を震わせて泣いているのがわかった。

 

「······本当に······助けてくれますか······?」

 

 か細い声で聞く。

 ウィステリアは、それに応えるように、マスクと帽子を外して、言った。

 彼女の髪は、水色に透き通って、美しかった。

 

「任せて下さい。絶対に救います。」

 

 その言葉とともに浮かべていた、ウィステリアの微笑みは、何とも優しく、しかし力強く、そこに在った。

 その輝きにしばし呆然としていると、ウィステリアはこちらを向き直った。

 

「この二人は私に任せて、あなたは今すぐ、戦場へ戻ってあげてください。お仲間も待っていると思います。」

 

 そこまで言われて、ようやく我に返った。

 そういえば、戦場を部下に預けていた。そこそこに能力のある奴だからさほど心配はしていないが、それでも俺は急いで戻らねばならない。

 

「······すまない、頼む。···心より感謝する。」

 

 二人を預け、もう一度ウィステリアに頭を下げた。

 ウィステリアは優しく手を振ってくれた。それに背中を押されるように、俺はキャンプを出た。

 

 

 

 

 

 

 戦場に戻る途中の道で、涙が止まらなかった。

 

 

 ────今あなたは間違いなく、希望を繋いでくれたんです。

 

 

 ウィステリアのその言葉が、心に広く染み渡っている。

 

 自分が直接的に、あの二人を救えたわけではない。

 しかし、自分があの時一人で動いて、二人をキャンプへと連れて行ったことは、決して間違いなんかではなかった。

 

 彼女のその言葉が、それを肯定してくれた。

 

 それだけで自分の、ようやくにして殻を破れた心が、どこまでも暖かく感じられた。

 

 

 戦場ではどこまでも灰色の空が広がっていた。

 しかし今の俺には、そんな空でさえも、希望を持っているように思えた。




あまりうまく書けた気がしない。
ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第7話 戦場に花は咲き、またそこで枯れる

一応、一番力入れた話です。
宜しくお願いします。


 第7話 戦場に花は咲き、またそこで枯れる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、久し振りに星空を見た。

 戦場へ来てから、初めて見たような気もした。

 

 けれど、この地に来てから、きっと空は数え切れぬほど晴れたのだ。

 ただ自分が、その美しさに呑まれてしまうことが恐ろしくて、自分から目を背けていただけだ。感情を捨てるということは、そういう事なんだと、ようやくにして気付いた。

 

 

 あの後、結果として戦況はこちらに大きく傾き、急激な勢いをもって俺達の勝利となった。

 とはいえこちらもかなり疲弊してしまったため、夜になった瞬間、全員泥のように眠っていた。

 

 俺も、普段通りならきっとぐっすりと眠っていただろう。

 

 けれど、俺は眠れなかった。

 

 何故だか、突然直情的な人間になってしまった自分。

 戦場においてそれは間違いだ、と言い聞かせてきたのに、今日あの二人を咄嗟に助けたことには、不思議と微塵の後悔も感じていなかった。

 それだけでなく、もしそれが原因で今日の戦いで負けていたとしても、きっと後悔などしないだろうという予感さえあった。

 

 不意に、昼のことを思い出す。

 

 眠れない理由は、きっともう一つある。

 昼間に見た、ウィステリアというあの女性が、頭から離れなかった。

 

 何故だか、見ているこちらまで優しくなって、強さを貰えるような、あの笑顔。普段こんな事など思ったことすらないが、今はあの人に会ってみたくてしょうがなかった。

 きっと答えがあろうとなかろうと、なんとなく、彼女に聞きたかったのだ。

 自分とはなんなのだろう、と。

 

 

 しかし、一度顔を合わせただけというのに、また会いに行く理由がどこにあるのかと言われれば、そんなものは存在しない。

 

 会うのは簡単だ。医療班が睡眠にとるスペースは決まっているから、そこへ行けばいい。

 しかし、頭の中で悶々と渦巻く葛藤が、それを躊躇させていた。

 

 そして、行くか行かぬかさんざん悩んだ挙句、

 

(···まあ、あのふたりの容態も気になるからな)

 

 と無理矢理理由をつけ、会いに行くことにした。

 他人の事情にかこつけなければ、女性ひとりに会いに行くことも出来ない自分の気の弱さにうんざりしながら、俺は外に出た。

 

 

 外はあまりに静かで、逆に戸惑ってしまうほどだった。

 そりゃそうだ。これまでは、戦っていない時は、何も感傷に浸ったりはしなかったのだから。

 耳をすませば、水のゆったりと流れる音が聞こえてくる。

 こんな近くに川など流れていたのか、と思っていると、そちらから何かを感じた。

 人の気配だ。

 

(こんな夜中に···誰だ?)

 

 よもや敵が、と軽く身構え、気配を殺して近付く。

 すると、静かに音を鳴らす川の前に、昼間に見た美しい水色の髪が静かに居た。

 

「き、君は!」

 

 つい驚きで叫んでしまった。

 当然だ。まさか真夜中に川辺で佇んでいたのが、自分が会おうとしていた女性とは思わない。

 正直、もう眠っているんじゃなかろうかと、半ば諦めた状態だったので、会えたこと自体驚きであった。

 

 俺の叫び声に、ウィステリアはゆっくり振り返った。

 すると、彼女もすぐにこちらが分かったのか、笑顔で応えてくれた。

 

「···こんばんは。」

 

 相変わらず優しい声で、彼女は言った。

 昼間も思っていたが、日本人の顔たちで、やはりどこか安心感がある。

 

「あ、ああ。こんばんは···」

 

 実際にこうして会うと、どう話していいかわからなくなって、つい変な返事をしてしまった。そんな俺の様子が可笑しかったのか、ウィステリアはくすり、と笑った。

 

「······あの患者の容態はどうだ?」

 

 なんだか小っ恥ずかしくて、何か話さないと、と慌てて口を開く。

 

「無事ですよ。まだ油断はできないですが、意識は回復しました。」

 

 それを聞いて、俺は安心した。

 あの二人は救われたのだ。そう思っただけで、胸が温かくなった。

 そんな俺に、ウィステリアは語りかけた。

 

「あの、よろしければこちらにいらっしゃいませんか?この距離で話すのも、なんだか変な気がしますし。」

 

 俺達は木を隔てて、少し離れたところで話をしていた。

 彼女が一人でいたがるようなら、俺もこのまま立ち去っていたのだが、普通にこちらを受け入れているようなので、近くでぜひ話を聞きたいと思った。

 

 促されるまま、彼女の隣に近付いた瞬間────

 

 

 

 俺は息を飲んだ。

 

 

 一欠片の雲もなく、満天の星が広がっている。

 更に目の前の澄んだ川にも、星が映って輝いている。

 川は空の方まで続き、従順に星を映している。そしてそれは果て知れず、地平線の向こうまで続いていた。

 

 まるで星が、空を越えて地上まで降りてきたかのような眺めだった。

 

 俺は言葉も忘れ、呆然と立っていた。

 こんなにも荘厳で、美しい眺めなど、生まれて初めてだった。

 

 そうしてしばし呆然としていると、隣でウィステリアがまたくすり、と笑った。

 

「······何が可笑しかった?」

 

 ちょっとムッとして、彼女に問う。

 彼女は慌てて、ごめんなさい、と詫びて、続けた。

 

「突然、あなたが泣き出したから、つい。」

 

 そう言われてようやく、自分が涙を流していることに気が付いた。

 

 ────いつの間に涙など流していたのだろう。

 

(···今日一日で、随分と直情的になったもんだな、俺も。)

 

 心の中で、弱い自分をまた呪う。

 

「···まただ。

 今日は自分がまるで分からない。」

「え?」

 

 愚痴を零すように言葉が漏れる。

 わかって欲しいわけでもないが、俺は言葉をそのまま継いだ。

 

「ここで俺が戦ってるのは、家族にもう一度会うためだ。そうじゃなきゃ、俺みたいな弱虫がここで生きていこうなんて思わない。

 ······そうだ。どうしようもなく弱いんだ、俺は。死ぬのも恐いし、誰かの死を目の当たりにするのも恐ろしい。」

 

 自然と語気が強まっていく。

 

「それでも······生きたかった。生きなきゃならなかった。

 ······だから、感情を捨てたんだ。恐怖とか悲しみとか、全て何も感じないように。

 でも今日、何故かあの二人を見捨てることが出来なかった。これまで、奪ってきた命も、守れなかった命も、諦めた命も、数え切れないほどあったのに。これまでの俺なら、諦めていた命だったのに。

 ······本当にみっともない。捨てようとして、結局中途半端に捨てていただけのものが、たくさんの人を殺したんだ。

 ·········こんな俺の姿を見て、家族は俺を迎えてくれるのかな······」

 

「······大丈夫ですよ。」

 

 

 いよいよとめどなく溢れてきた感情が言葉になった時、隣でウィステリアがそっと言った。

 

「······お話を聞けば、分かりますよ。あなたは優しい人だって。だから大丈夫です。」

 

 俺は黙って彼女の言葉を聞いていた。

 何故だろうか。彼女の言葉のどれもが、俺の心を落ち着けてくれる。

 

「······私もね、本当は臆病な人間なんです。」

 

 ありがとう、と言おうとしたところで、彼女が続けた。

 

「ただ、家族に────妹に、胸を張れる人間になりたかった。だから夢を追って、ここまで来ました。」

 

「妹······」

 

 長らく会えていない妹のことを思い出す。

 辛い時に、何度リゼに救われただろうか。

 

「はい······今、8歳の妹です。辛い時は、思い出すんです。そうしたら、力が湧くから。」

 

 すると彼女は、ちょっと悲しそうに言ってみせた。

 

「······戦場では、きっと生き方に正解なんてないんですよ。兵士の方ともなれば、尚更です。

 どれだけ頑張っても、救えない命、奪わないといけない命は消えないんです。

 その穢れは避けられないものです。だからあなたが戦場に行くことをご家族が認めたのなら、きっとあなたには理屈なんて抜きで、ただ生き延びてほしいって思ってるはずです。」

 

 ウィステリアは空を見上げた。

 

「···『戦場で、ほとんどの人間は人間で居続けられない。命か情のどちらかを失うからだ。

 我々は、人間として居られる()()()()()()()()()()を、守っていくしかないんだ。』」

 

 少し低い声で言ってから、彼女ははにかんだ。

 

「···軍人だった父の言葉です。父は、例えどれだけ辛くても、毎日毎日自分を失わないように戦ってきたそうです。『残されたわずかな時間』を、常に胸に刻んで。

 私も、その言葉をずっと抱きしめていて。」

 

「残された···わずかな、時間···」

 

 

 聞きながら、俺はちょっとした違和感のようなものを感じていた。

 その響きに、どこか聞き覚えがあった気がしたのだ。

 

 ここに来る前に聞いたような、それくらい前の話で確証はないが、なにか懐かしさを感じる響きだった。

 

 どうにも引っかかって、俺は昔へと思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

 

 ────理久くん。君が戦場に出るというのなら、私からも一つ教えておこう────

 

 

 

 

 

 

 ────そうだ、四年前のあの日、

 親父に戦場の手ほどきを受けていた、その時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その声を思い出して、はっとした。

 同時に、この偶然に驚愕した。

 

 

「······一つ、聞かせて欲しい。」

「···?」

 

 どうしても問いたくて、口を開いた。

 素性の詮索は本来タブーだが、これだけは聞かないと気が収まらない。

 

 

 

 

「君の父ってもしかして······タカヒロさんか?」

 

 

「······え············?」

 

 俺が質問を口にすると、彼女はぽかんと口を開けて、呆然とした。

 

 やっぱりそうだったんだ。

 ウィステリアは、親父の戦友の────香風タカヒロさんの、娘だったってことだ。

 俺もタカヒロさんには世話になったから、あの人のことは印象深い。

 

 

「な、なんで···父のことが分かったんですか······?」

 

 ウィステリアが、やっとのことで言葉を絞り出した。

 あまりにビビりすぎじゃないか、と少し笑いながら、俺は答えた。

 

「さっき君が言った言葉、俺もタカヒロさんに教わってたんだ。ここのところずっとガムシャラにやってたせいで、すっかり忘れていた。」

 

 そう、戦場で戦うことを決意した次の日、俺の元にタカヒロさんがやってきた。

 

 そして渋みのある声で、語ってくれた。

「残されたわずかな時間」の話を。

 その言葉が、旅立つ俺の背中を押してくれたのは、間違いなかった。

 

「······タカヒロさんの娘さんなら、本名明かしても安心出来るな。

 こちらの家のことを君が知っているかは分からないが···天々座 理久だ。よろしくな。」

 

 彼女に少し安心して、同時に身の上話なんかも出来ないものかと、長らく語っていなかった名前を口に出す。

 

「天々座······あっ!もしかして理央さんの息子さんですか?」

 

 一瞬思い出すようにしてから、すぐに彼女は叫んだ。

 

「ああ、親父のことは知ってたのか。」

「はい。よくウチのお店にも愚痴りに来てましたから。『子供達が懐いてくれない〜』とか。」

 

 

 ウィステリアはクスクス笑いながら言った。

 ······愚痴りに来てるって時点で、それはもはや「知っている」というより、悪評で「知ってしまった」感じだと思うのは思うのは俺だけなのだろうか。

 てか親父、わざわざそんなこと言いに行ってたのか。恥ずかしいわ。

 

「······ホント、迷惑かけたな、親父が。」

 

 俺がため息混じりに詫びると、彼女はいえいえ、と首を横に振った。

 

「本当にいい人でしたから。昔、人見知りがちだった私に、優しく話しかけてくれて···理央さんのおかげで、私も随分マシになったんですよ。」

「そ、そうか······?」

 

 親父はそんなにいい奴だったっけ?と、頭の中で疑問符が踊っていた。

 そんな俺をよそに、あ、とウィステリアが声を上げた。

 

「そういえば、まだ私名前言ってませんでしたね。

 香風 智花です。父がお世話になってます。」

 

 そう言って頭を下げるウィステリア、もとい智花。

 ちゃんとスラリと挨拶が出てくるあたり、香風家の教育の良さが伺える。

 

「ああ、よろしくな、智花。

 というか、敬語使わなくてもいいぞ?元々繋がりある者同士だし。」

「そう···ですか?なら、そうしようかな。元々、敬語使うのは固くなっちゃってちょっとイヤだし。」

「おお、そうか。こっちもそれくらいの方がやりやすいから助かるよ。」

「アハハ、良かった。こんな風に話せる人、久しぶりだよ。

 えっと···理久くん、で良いのかな?」

「ああ、好きに呼んでくれ。」

 

 彼女はおっとりと、かつ楽しげに話してみせた。

 そんな感じで、自然と打ち解ける。

 そうして一度落ち着いてみると、ある事がふと気になって、聞いてみた。

 

「そういえば、智花って今いくつだ?」

「私?21歳だよ?」

「近い!?」

「あれ、意外だった?」

 

 正直不思議な感じだ。

 先程までの落ち着いた感じは、俺よりも大人びた雰囲気だったから、少なくとも五つ、六つは歳が離れているのかと思っていた。

 そんなことを言うと、智花はなるほどね、と笑った。

 

「環境がそうさせたのかな。実家がコーヒーメインの喫茶店っていうのもあって、同年代の友達と遊ぶ機会もなかったし、小さい頃から医者を目指してたのもあって、大人の人と話す機会が多かったし···。」

 

 そんなものなんだろうか、と俺は思った。

 ただ、自然体で話している今の智花のハキハキとした様子を見れば、なるほど、歳相応なのかもしれない。

 

 しかし、昼間のような強い姿と、今のような柔らかい様子ではまるで違うはずなのに、どちらの姿の智花にも違和感がない。ぴったりとその姿がはまっている。

 それはきっと、その一瞬で背負っているものは違えど、確固たる「自分」を失っていないからだろう。

 俺のように、ただ生きることに固執するのではなく、自分がどういう人間であるべきなのかを、ちゃんと分かっているのだ。

 その彼女の強さは、まだ若くして軍医になることを決意し、ここまで努力してきたことからも明らかだ。

 

「······智花は凄いな。俺なんかよりずっと、覚悟がある。」

 

 自然にそうこぼしてしまう。

 智花は照れくさそうに頭をかいた。

 

「いやいや、不甲斐ない姿じゃ家族に申し訳ないし···何より、妹にカッコいいところ見せたいから、ね。

 せめて夢を追ってる姿の背中くらい、見せてあげたいから。」

 

 

 そうだ。

 彼女はいつも、家族のことを考えているんだ。

 いや、俺も忘れてなんかいない。ずっと想ってきた。

 でも俺は、「会いたい」と思うばかりで、自分がどんな姿でいるべきかなんて、考えていなかったのだ。

 

 

 彼女の言うとおり、きっと、ただひたすらに生きようとする行為には、間違いなんてないのだろう。その時に、人間的な証を失うのは、ある意味避けようのないことかも知れない。

 

 

 でも、それは自分に負けた人間の戯言でしかないのも事実だ。

 そのわずかな時間だけ、ただその一瞬だけ、疑う余地もなく「人間」でありたいと望めた人間が、自分というものをしっかりと保っていられるのだ。

 この場所で、本当の意味で「生きる」という事は、そういう事なのだ。

 

 

「······俺はまだ、家族に背中を見せられる『人間』でいられるだろうか。」

 

 ぽつりと言うと、彼女は少しも悩まず、返した。

 

「いくらだってなれるよ。

 涙を流せるくらい、優しいから。」

 

 

 その声の響きが、俺の背中を押す。

 もうすでに沢山のものを奪ってしまったけれど、せめてこれからは、誇れる人間であり続けようと、そう決意した。

 

 胸に手を当て、目を閉じる。

 別れの日の皆の笑顔が、鮮明に浮かんだ。

 

 

(······まだ少し待っててくれ。もう見失ったりしないから。)

 

 

 心でつぶやく。

 少なくとももう、俺は冷徹な機械などではなくなっていた。

 

 

 

「隊長〜?どこですか〜?」

 

 遠くから俺を呼ぶ声がして、はっとした。

 そういえば大事なことを忘れていた。

 

「······やっば·········」

「ん?どしたの理久くん?」

「······俺、今日見張り役だった·········」

 

 青い顔で俺が言うと、智花はまたくすり、と笑った。

 

「···それじゃ、今日はお開きだね。

 また話そう、理久くん。」

 

 智花が穏やかに言った。

 また話そう、という事は、少なくとも好意的な感情を抱いてもらっている、と解釈していいのだろうか。

 俺も自然と笑顔になりながら頷き、俺を呼ぶ声の元に走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから俺と智花とは、出会ったら話すような形で交流が続いた。

 戦争ということは当然、転々と場所を変えていく。だから毎晩どこで話そうとか、待ち合わせみたいなことは出来ないわけなのだが、不思議なことに、疲れが溜まったりしてふと外を歩いていると、智花とはよく出会うのだった。

 

 戦場に来てから同郷の人とちゃんと話すのは初めてで、それがどれだけ荒んだ心を癒すのか、俺は初めて知った。

 彼女のおかげもあり、俺は俺を見失うこともなかった。

 

 そして、半年。

 

 

 

 

 少し身の縮む、寒い冬の日。

 

 この日の夜もなんとなく、外を歩いていた。

 外の空気が吸いたくなったのもある。

 でもやっぱり、また会えるかもしれないという希望的観測が強かったかもしれなかった。

 

 

(······しかし、不思議なものだ。)

 

 

 これまでの人生で、これ程に会いたい、と思う人が、家族以外にいただろうか。

 元々臆病で、人見知りの気が強かった俺は、そういった対象がいなかった。ただ友人とそれなりにその日を楽しみ、ぼんやりと日々を過ごすような人間だったように思う。

 少なくとも自ら誰かに会いたがったり、近付いたりする人間では無かった。

 

 

 ただ、智花には、自分から「会いたい」と思う。

 彼女と会えない時間がしばらく続くと、まるで心に虚が出来たように、やるせない気分になる。

 

 これまで、他人にそんな感情を抱いた事は無かった。

 これが何なのかは、半年たっても分からなかった。

 

 

 

 今の拠点の近くにも小川があって、なんとなくそこにいないだろうかと思ってほとりに足を踏み入れる。

 

 人の気配がした。

 そちらに向かって歩いていくと、少し離れたところに、見慣れた水色の髪が見えた。

 

 どうしてこんなに何度も出会えるのだろう、と心底驚きながらそこへ近付こうとするが、途中で足を止める。

 

 

 気付いたからだ。

 その小さな肩が、小刻みに震えていることに。

 それは寒さによる震えではなく、泣いているからなのだと、すぐに分かった。

 

 彼女のこんな様子は、見たことがなかった。

 声をかけて良いものか迷うが、少しくらいは彼女の支えにもなりたいと、覚悟を決めて歩み寄る。

 

 

「······智花?」

 

 震える声で話しかけると、その肩がびくりと跳ねて、間もなく智花がこちらを向いた。

 

「理久くん···」

 

 泣き腫らした目だった。

 普段とは違う、あまりに弱々しい姿に、一目でただならぬ事があったのだろうと思った。

 

「大丈夫か?俺で良ければ話を聞くぞ?」

「いや、いいよ···理久くんに迷惑だし···」

「いいから話せ。そういうの、俺は許さないからな。」

「······うん······」

 

 俺を慮ろうとする智花に、退くことなく迫る。

 智花は観念したように頷き、涙が止まってから語った。

 

 

「この間、道の上で倒れてた女の子を見つけたの。多分この辺の子だったんだと思う。片足が無くなって、あちこちに傷があったし、栄養不足なのもあって、酷い状態だった。

 その子ね、妹と同じくらいの歳だったの。そんな子が、そんな状態でいたのを見て、私が放っておくわけにもいかなくて···医療所に連れていったんだ。

 何だろうな、やっぱり、妹の姿を重ねてたんだと思うんだ。誰にも平等でなきゃいけない医者として、本当はいけない事だけど、その子には強い思い入れがあった。

 どうしても助けたくて、色んな手を尽くした。状態に細かく気を配りながら、有効な薬がどれかをじっくり考えて······そのうちに、その子の容態、少しずつ良くなってたんだ。

 私が声をかけたら、声は出せなかったみたいだけど、ちっちゃく頷いたんだ。

 続けて私が、大丈夫だからね、助けるからね、って言うと、心の底から安心したように笑うんだ。それが私、嬉しくて嬉しくて······どんなことしても、助けてあげたいと思った。

 ······でも······でもね·········。」

 

 

 だんだん智花の声が震えていく。

 堪えきれない哀しみがその声に滲むのが分かった。

 

 

「······一週間くらい前に、班長から言われたの。『もう限界』って。

 軍にある薬も器具も限られているから、もうこれ以上一人の患者には費やせない、って···。

 これまで効いてた薬も、もう使えなくなって、治療ができなくなっちゃったんだ。

 ···だから······また容態が悪化して······昨日昏睡状態になって、それで今日っ·········!」

 

 

 智花は手で目を覆った。

 その姿からは色んなものが見える。

 

 悲哀。後悔。自責。

 そんな巨大な感情が、智花の心を押しつぶしている。

 

 そんな智花を見ながら、俺は改めて彼女の背負うものの大きさを実感していた。

 自分の手の届くところにある命を守るという、プレッシャーも期待も大きな仕事で、自分の任務を全う出来ないということは、その人の精神にあまりに大きな傷を与えてしまう。

 

 だから、誰よりも強い心が求められる仕事だったのだ。

 

 そして、涙を流す智花を見て、一つ気づいた。

 

 俺は今まで、そういうプレッシャーに対して、智花ならば耐えられるだろう、という考えがどこかであった。

 智花は自分よりも遥かに強い心を持っていて、智花が抱えている重圧は、彼女自身で消化できてしまうだろうという、そんな考えが。

 

 でも、そんなことは無いのだ。

 彼女だって、堪えきれないものがある。一人じゃどうしようもない事がある。

 ただ彼女の優しさが、それを表に出さぬように身の内に隠していたのだ。

 

 本当は彼女にも、支えがいるのだ。

 彼女がそれを望んでいないとしても、それが無いと彼女は崩れてしまう。

 

 

 

 そんな脆さを救う方法は、同じ様に弱々しい俺だからこそ、良く分かった。

 

 

 

 

 智花のとなりに、あぐらをかいて座る。

 そしてそっと、彼女の震える手を握った。

 

 手は、冬の空気にさらされて、冷えきっていた。

 

 

 智花が驚いてこちらを見る。

 俺は静かに言った。

 

 

「······こんな小さな手二つだけで抱えられるものなんて、本当に限られてるだろ。それが人の命を預かる、ってことなら、もっと少ないかもしれない。

 そりゃ、辛いだろうし、悲しいだろう。でも、全てお前の手で守れるわけじゃない。その手から零れてしまった物は、もう二度と元には戻らないけれど、それを受け入れる強さっていうのが、俺達に求められてるものなんだと思う。

 

 ······智花、どうしても受け止めるのに限界が来たら、いくらでも俺に言えばいい。

 どんな呪詛の言葉でも、俺がすべて受け止める。

 俺だって、お前の救いになりたいんだ。

 その為にここにいるんだ。」

 

「理久···くん···」

 

「!?ちょっ···智花···?」

 

 

 俺が言葉を収めると、智花は俺に抱きついた。

 予想だにしなかった現状に、かなり困惑する。女性に抱きつかれるなんて、そんな経験はこれまで無かったので、本当にどうしていいか分からなかった。

 

 

「お、おい、智花···離れ······」

「うぅっ·········」

「·········」

 

 こっちも耐えきれなくなりそうで、智花に離れるよう言おうとしたが、胸に顔をうずめて泣く姿に、何も言えなくなった。

 その泣き方は、これまで溜めてきた感情が募りに募って溢れたような、あまりに深いものだった。

 

 やっぱり、智花の背負ってるものはあまりに大きい。

 誰かを傷付けるより、誰かを守ることの方が遥かに難しい。

 それが分かっても何も出来ない無力さを悔やみながら、俺は黙って彼女の背をさするのだった。

 

 時折漏れる嗚咽に、俺の胸も締め付けられる思いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ご、ごめんね、理久くん」

「······ああ、いや、気にするな。」

 

 

 ひとしきり泣いて落ち着いた智花は、体を離し、赤くなって顔を伏せていた。

 まあ同年代の異性に抱きつくなど、恥ずかしくなって当然だろう。というか、俺も恥ずかしかった。

 

 二人共目を合わせず、無言の時間が続く。

 

 

「······ねえ、理久くん。」

 

 

 しばらくして、そんな熱が冷めた頃、智花が口を開いた。

 

「約束しよう。私達、二人で生きて日本に帰るって。

 私は理久くんの支えになる。だから理久くんも私を支えて欲しい。そうやって、待ってる人のところに、二人で帰ろう。」

 

 決意を固めた、毅然とした声で、智花はそう言った。

 

「···ああ、そうだな。約束する。

 二人で支えあって、絶対生きて、二人で帰ろう。」

 

 俺もまた、それに同意する。

 

 

「······それで、ね。」

「?」

 

 すると智花が、また顔を赤くして、小さな声で呟いた。

 

「理久くんに、もう一つお願いがあって······」

「ん、なんだ。」

 

 

 智花はなかなか言い出せない様子で、顔を伏せていた。

 俺も何を言われるのかと少し不安になり始めた時、ようやく智花の口が動いた。

 

 

「わ、私のことを······」

 

 

 ────カン、カン、カン…

 

 

 智花が何かを言いかけた時、突如拠点の方から、非常事態を告げる鐘が鳴った。

 

「な、何……?」

「…分からないが、これは……」

 

 ただならぬ事態を察し、すぐに辺りを見渡す。

 すると、かなり遠くで、明かりに照らされた見慣れた印が見えた。

 敵軍の紋章であった。

 

 

(…ッ!夜襲か!!)

 

 全てを察し、立ち上がる。

 

「智花、多分敵軍の夜襲が始まる。すぐに医療班のみんなにそう伝えてくれ。被害がどれだけ出るかもわからない。設備を準備しておいてくれ。」

「は、はい!」

「…頼んだぞ。」

 

 

 今度は指揮官として、手短に指示を伝え、俺は全速力で拠点へ戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「敵襲か!?」

 

 拠点にたどり着いてすぐに、見張りの部下に質問する。

 しかし見張りの男は、首をかしげながら答えた。

 

「…そのはずなのですが、妙なんです。

 あそこまで近づいてからというもの、敵軍にまるで動きがないのです。」

「動きがない?」

 

 確かに妙な話だ。

 夜襲を仕掛けようとして、わざわざ相手に迎撃の準備をさせる時間をつくるなど、全く意味のない行為だからだ。

 こちらをここで叩きたいのなら、こちらの準備が整う前に襲撃するのが得策のはずだ。なのに、奴らは全く仕掛けてこない。

 

 敵の意図が読めなかった。

 背後から襲おうとしているのだとしても、後ろには川を挟んで何もない荒野だ。夜襲を仕掛けられるほどの人数を隠しておける場所も存在していないはずだ。

 

 

 一体何をするつもりなのか、と不気味な相手の策に警戒心を高めていた、その時。

 無線から音声が入った。

 

「い、医療班から全軍へ!敵軍の襲撃です!敵の数は十数程度!」

 

(何ッ……!?)

 

 想定していなかった。

 まさか、本当に背後から来るとは。

 全軍をとどめておける場所は背後にはない。しかし、確かに十数人潜める程度の場所ならば、あってもおかしくはなかった。

 

 しかし、そうなるとますます妙だ。

 いくら背後を取った奇襲でも、十数人で敵の軍自体に与えられるダメージはほぼ皆無のはずだ。

 そんなことぐらい敵も分かっている。

 つまりこの襲撃は、医療班のみをターゲットにしているということになる。

 

 一体、その目的はなんなのだろうか。

 

 

 しかし今、俺はそれ以上に慌てていた。

 

 医療班には智花がいる。もしものことがあれば、それこそ取り返しのつかないことになる。

 

 

「医療班の援護に向かう!第一グループの十名は俺に続け!」

 

 鋭く一声叫び、すぐに駆け出した。

 

 

 

 医療班は既に混戦状態だった。

 部下たちが敵兵に応戦する。

 

「お前たちは医療班とともに敵を迎え撃て!」

了解(ラジャー)!」

 

 その場は彼らに任せ、俺は智花を探した。

 

 だがいくら辺りを見渡しても、智花は見つからない。

 どうやら戦乱の中にはいないようだ。

 

 一体どこにいる、と焦りが募っていく。

 その時。

 

 

 ────パァン!

 

 乾いた銃声が、明らかにこことは別の場所からかすかに聞こえた。

 

(…まさか。)

 

 嫌な予感がし、その音の方へ全力で走る。

 杞憂であってくれ、と祈りながら。

 

 

 

 

 

 走っていると、川を一望できる場所に出た。

 そこで一度立ち止まり、辺りを見渡すと────

 

 

 

 ────右側の50メートル近く先に、うずくまる智花と、それに向けて銃を構える男が見えた。

 

 

 

 心臓が大きく跳ねる。

 全力で走れば、なんてことはない距離。

 狙撃も、構えることさえできれば可能な距離。

 

 

 

 だが、

 この状況、このタイムリミットの短さでは。

 

 

 

 この距離は近いようで、絶望的に遠かった。

 

 

 

 

 それでも、俺の足は動いた。

 その悪夢のような光景に、肉がちぎれんばかりの力で踏み込んだ。

 

 

 

 

 

「智花ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 

 

 俺の叫び声に、智花がこちらを向くのと、

 男が引き金を引くのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 智花の胸から、鮮血が舞った。

 そのまま無抵抗に倒れていく智花の姿が、スローモーションのように写った。

 

 

 

 

 

 思わず、足が止まる。

 最悪だった。

 一番恐れていたことだった。

 

 

 

 

 

 胸を一瞬で支配した絶望感とともに、

 無条件の怒りが湧き出て止まらなかった。

 

 

 

 

「……くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 

 

 銃を構え、間髪入れずに引き金を引く。

 だが男は、薄ら笑いを浮かべながら身をかがめて弾丸をかわし、信じられない速度でこちらへと接近してきた。

 

 

「なっ……」

 

 気付いたときには、男はゼロ距離まで迫っていた。

 俺が呆気にとられているうちに、男の拳が俺の鳩尾にめり込む。

 

 

(バカな……!)

 

 

 何もできず、その場に倒れこむ。

 そんな俺に、男は冷たく言い放った。

 

「ふん、一軍の軍隊長はこんなもんかよ。」

 

 俺は男を見上げる。

 

 巨大な傷を持った顔で、醜悪な笑みを浮かべていた。

 

 男は続けて言う。

 

「安心しな、あんたの命は今は取らん。ボスの言いつけだからな。

 …あばよ、ワイルドギース隊長。」

 

 そのまま男は、さっきのような身のこなしで立ち去った。

 

 

 悔しさや怒りで再び目線を戻すと、倒れた智花の姿が映った。

 はっとして、鳩尾の痛みも忘れ、智花のもとへ駆け寄る。

 

「智花っ!」

 

 ぐったりとした智花の体を抱えると、彼女はゆっくり目を開けた。

 

「……理久、くん」

 

 か細い声で、彼女は言った。

 

「ごめ、んね…約、束、守れ、なくて…」

「もういい…もういいから喋るな、身体が…!」

 

 言葉も途切れ途切れに話す彼女を、俺は止めようとする。

 しかし彼女は首を振り、また言った。

 

「ううん、もう、助から、ないから、いいの…」

「……ッ!!」

 

 弱々しく、彼女はそう言った。

 こんな状態なのに、彼女は優しく、強く、笑っていた。

 

 

 ────やめろ。

 

「それ、より…まだ、言わなきゃ、いけないことが、あるから…」

 

 

 ────やめてくれ。

 

「もう、家族には、会え、ないから…理久くんに、言いたいこと、言わせて…」

 

 

 ────頼むからそんなこと、言わないでくれ。

 

「もし、妹に、会ったら、よろしくね…」

 

 

 ────終わりになんて、しないでくれ……!

 

 

 

 

「理久くん、さようなら…大好き、だよ……」

 

 

 

 それを最後に、智花は目を閉じた。

 その目からは、全ての感情が命とともに落ちていくように、一粒の涙が落ちていた。

 

 骸となったその体に残っていた僅かな熱が、時間とともに少しずつ失われていく。

 もう取り返せないのだ。

 この熱も。涙も。

 笑顔も。

 

 

 全て沈んでいったのだ。

 もう取り返せない、「時間」の中に。

 

 

「……っああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 そう思った瞬間、とめどなく涙が溢れてきて、俺は絶叫した。

 

 

 

 

 

 そうだ。

 

 

 俺が毎日、どうしてあんなに智花に会いたかったのか。

 

 

 そんなもの、答えなど一つしかないじゃないか。

 

 

 

 好きだったんだ。

 愛していたんだ。

 それ以外にあるもんか。

 

 

 もう彼女の温もりは、帰ってこない。

 

 それだけで、身をちぎるような痛みを感じた。

 

 どれだけ泣いても、彼女は帰ってこない。

 それでもひたすら、声が潰れるまで、泣いた。

 

 

 冬の月が、地を淡々と照らしていた。




書いてて辛い話でした。
ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第8話 メランコリーグラス

過去編最終話です。
上手くまとまってると嬉しいです。


「······そうか。」

 

 時は今に至り、ラビットハウスのバータイム。

 俺とタカヒロさんは、向かい合って話をしていた。

 

「智花は、最後まで自分の仕事を全うしていたんだな。」

「はい······」

 

 あの後、医療班の人から聞いた話だと、怪我人を戦火に巻き込まないように、智花が別の場所へ避難させようとしていたらしい。

 その途中であの男に襲われ、それでも何とか患者は逃がすことが出来たようだった。

 最後まで人の身を案じ、優しく、強くあり続けたのだ。

 

「それが分かっただけ、親の私としては幸せだ。あの娘は私の誇りだよ。」

 

 至って穏やかに、タカヒロさんは言った。

 そして、懐かしむような口調で語った。

 

「······チノも智花もまだ幼い頃にな、妻は────あの子達の母親は亡くなってる。だからあの子達には、出来るだけ楽をさせてやりたかった。

 でも、智花は真面目な子だったから···自分が母親のような存在にならなきゃいけないんだと思っていたんだろうな。だから年頃に合わない、大人びた子に育っていた。

 それでもある日、夢を私に語ったんだ。

 危険な場所でする、危険な仕事だ。私は反対した。でも、智花の努力する姿を見て、私は何も言えなくなった。これまでずっと自分を追い込んでいた智花が、夢を追おうとしていたんだ。それを見てしまっては、親には何も言えない。」

 

 言いながら、また酒を呷った。

 

「それでも、あの子が定期的に送ってくれる手紙の中に、君のことが何度も書いてあった。

 自分のことを分かってくれるいい人だ、といつも書いてあったよ。」

 

 俺は思わず笑った。

 俺ができたことなんて、無いに等しいっていうのに。

 

「君にはお礼を言わなきゃいけないな。」

「やめて下さい、俺は本当に何も出来てませんから。」

「いや、君は紛れもなく智花の支えになっていたさ。

 それに、その他にも礼を言わなきゃならないことがある。」

「······?」

「智花の手紙を毎日送ってくれたのは、君だろう。」

 

 そう言われて俺は、ああ、と思った。

 そして、すぐに首を横に振った。

 

「あれは、智花の言葉を守ったまでですから。」

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーー

 

 

 

 智花の死後、医療班の人間が俺を訪ねてきた。

 どうやら、智花が遺した遺品がある、との事だった。

 何かと思って見てみると、それは山積みになった大量の手紙だった。

 その手紙の殆どは、このラビットハウス宛のもの。しかし、その中に一通だけ、俺宛のものが入っていた。

 震える手で手紙を開くと、そこには美しい智花の文字が並んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第8話 メランコリーグラス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────理久くんへ。

 残念だけど、これを読んでいるってことは、私は死んでるよね。

 まあ、当然だよね。遺書なんだから。でも、やっぱり死ぬのって怖いし、悲しいや。

 でもそんなことは言ってられないよね。それじゃ、要件を伝えます。

 

 まず、あなたの元には手紙の束が届いていると思います。

 それは全て、私の妹のチノに宛てたものです。

 その手紙には、毎日の記録────とはいっても、本当の事じゃないけど────が書いてあります。これまでも毎日、同じように手紙を送って来ました。

 ここでお願いです。それを1枚ずつ、毎日送ってほしいんです。

 嘘をつきたいわけじゃないよ。ただチノはまだ小さいから、私が死んだってことは知られたくないんだ。まだ子供のうちから、母親も姉も亡くすっていうことは、きっとすごくショックなことだと思うから。

 だから妹のために、引き続きその手紙を送ってあげてください。

 

 それから、二つ目。

 お父さんにだけは、本当のことを伝えなきゃいけません。でも、自分がどうして死んじゃうかも分からないから、そこだけは、迷惑かもしれないけど理久くんに頼みたいんです。

 理久くんだったら信用出来るから。私のこと、そして理久くんのこと、お父さんにありのままに伝えて欲しいと思います。

 

 いくつも頼んで申し訳ないけど、最後にもう一つだけお願いです。

 とは言っても、きっと理久くんなら言わなくてもやってくれるよね。

 

 生きてください。

 最後まで、生きてください。

 そしていつか、チノが大きくなって、本当のことを話せるようになったら、理久くんの口で全てを伝えてあげてください。

 

 理久くんならきっと平気だよ。私なんかよりもずっと強いから。

 勝手なお願いと期待だけど、私は理久くんを信じています。

 

 お願いしたいことは、これで全てです。

 一番信頼出来る理久くんに託します。

 

 それと、これはお願いじゃなくて、ただ言いたいこと。

 私、理久くんに初めて会った時、すごく優しい人なんだなって思った。人を守ろうと思えるし、自分をちゃんと顧みれる。

 そんな姿に何度も慰められてたんだよ。

 私が何度泣いても、もっと力強く生きている姿に励まされて、何度でも堪えられたんだ。

 

 その姿が、私は大好きです。

 いつだって前を向ける、かっこいい理久くんの姿が大好きです。

 理久くんが、大好きです。

 

 ···手紙でも緊張するな、これを書くの。今だって、手がすごく震えてて、ようやく書けたって感じだよ。

 誰かを好きになったことなんてこれまで無かったから、慣れてないんだ。

 この手紙を読んでるんだとしたら、きっとこれは私の人生最初で最後の恋なんだろうけど、その相手が理久くんで、私は良かった。そう思っています。

 

 

 最初に言ったとおり、これは私が死んだ時のための手紙です。

 でもこれは、絶対死ぬから書くとか、そういうものでもないんです。

 ただ万が一私が死んでしまったら、傷付けてしまう人に申し訳ないから。本当に念のため、この手紙を書きました。

 

 願わくば、この手紙を誰も手に取ることがありませんように。

 最後のプロポーズも、私の口から直接言えますように。

 

 智花より。

 

 

 

 

 

 

 この手紙を読んですぐ、また俺は泣いた。

 声を絞って泣いた。

 

 それでも俺は前を向いた。

 せめて智花の最後の言葉を守り抜こうと。

 本気で好きになった人の頼みなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーー

 

 

 

「···俺にとって智花は、決して死ねない理由の一つです。だから彼女は俺の恩人なんです。その言葉を守るのは、俺の当然の義務です。」

 

 グラスを持つ手に自然と力が入った。

 タカヒロさんはそんな俺を見て、そうか、と頷いた。

 

「君はやはり良い兵士だ。義を掲げ、なお強い。私の娘が惚れるのも納得だな。」

「······それより、大事な話がもう一つあります。」

 

 慣れない褒め言葉に小っ恥ずかしくなり、話題を逸らした。

 タカヒロさんも真面目な顔になり、頷く。

 

「分かっている。さっきの話のおかしな所だな。」

「ええ、その通りです。

 断定は出来ませんが、あの襲撃はこちらの軍を疲弊させるのが目的ではなく、智花を殺すことが目的だった可能性が高いんです。」

 

 

 そう。部下から聞いた話によると、智花が死んだ直後、敵軍の攻撃がパタリと止んで、急速に離れていったのだそうだ。おまけに、医療班を襲ったあの十数人とは別に、最初に俺達の前に現れた大軍も、その後襲撃を仕掛けることもなく、どこへともなく消えていった。

 医療設備を破壊してから本軍で攻撃、というやり方をするのかと思ったが、その推測も外れた。

 

 少なくとも、あの襲撃は医療班の内の()()を標的にしていたのだということは間違いない。

 そしてその()()が智花であった可能性が、タイミング的には非常に高いという事だ。

 

「智花自身が恨みを買っていたのか、或いは我々に恨みを持った人間の襲撃か···だな。」

「はい。しかし智花を殺した男は、俺に向かって『()()殺さない』と言っていました。『ボスの命令』とも。

 最終的には俺を殺す気なのでしょう。そしてその関係者となれば、タカヒロさんも危ないです。常に注意しておいてください。」

 

 俺がそう忠告すると、タカヒロさんは深く頷いた。

 

「ああ、肝に銘じておこう。

 ···さて、もう遅くなってきた。そろそろ切り上げようか。」

 

 タカヒロさんにそう言われて時計を見ると、時刻は既に午前3時前というところだった。こちらもそろそろ帰らねばならない時間だった。

 

 でも、最後に聞かなければならないことがある。

 

「···タカヒロさん。」

「なんだい。」

「···チノには、もう智花のことを話すべきでしょうか。」

 

 その質問にタカヒロさんは少し悩んでから、言った。

 

「···あるいはもう伝えた方がいいかもしれないな。

 でも、まだ必ず知らねばならない歳でもない。

 話す話さないは、君の判断に任せることにしよう。」

 

 釈然としない答えだったが、俺は分かりました、と答えておいた。

 

「それじゃ、失礼します。」

「ああ。」

 

 そう言って俺は立ち上がった。

 タカヒロさんは二人分のグラスを片付け始めていた。

 

 

「···理久くん。」

 

 俺がドアに手を掛けたタイミングで、タカヒロさんが俺を呼んだ。

 

 振り返ると、タカヒロさんは目頭を押さえ、俯いていた。

 

「生きていてくれて、ありがとう。

 君は智花と同じ強さと優しさを持っている。

 智花の思いがまだ生きているんだ。こんなに嬉しいことはない。

 ···これからも、強く生きて欲しい。智花の分もな。」

「·········」

 

 タカヒロさんの声が震えているのを聞いて、俺は何も言えなかった。

 深く頭を下げてから、そっとドアを開けて、夜の街に歩き出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 ーーーーーーーーーーー

 そして夜が明け、チノと会ったけれど、俺はやはり事実は言えなかった。

 チノの為にならないから、とあれこれ理屈はこねてみても、結局は怖かっただけなのかもしれない。

 俺がまた、事実に向き合うということが。

 

 

 

 リビングのソファにだらんと横たわる。

 日はとっくに登っているが、昨夜はずっとラビットハウスにいたから、全く眠れていなかったので、眠気が一気に襲ってきた。

 次第に意識もとどめておけなくなって、そうして心が闇の中へと落ちていった。

 

 意識が途絶える瞬間に見えた智花の顔が、印象強く残っていた。




いかがでしたかね?
次回から現在(というか現実というか)に戻ります。
ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第9話 栗羊羹と自己肯定

今回は色んな人を出しました。
宜しくお願いします。


 ~リゼside~

 

「えぇ〜!?チノちゃんに私以外のお姉ちゃんが!?」

 

 ココアからとんでもない悲鳴が上がった。

 

 場所はラビットハウス。

 相変わらずがらんどうの店内である。

 

 そんな中で私、ココア、チノ、千夜、シャロの5人は、カウンター席で話をしていた。

 ···一応、私とココアとチノは仕事中だ。

 

「悲鳴を上げることないじゃないですか···それにココアさんは姉じゃないです。」

「うわぁぁん!」

 

 いつも通りの拒絶に加え、まさかの事実に号泣しながら卒倒するココア。

 それを私達は、やれやれ、という感じで見ていた。

 そもそもこの話をするきっかけは、ココアが作ったというのに。

 

 ココアはさっき、いつもの上機嫌でチノに迫り、

「チノちゃん、さっき理久さんと何話してたの?」

 と話しかけていたのだが、チノがそれに対して答えた瞬間···

 

 ココアが絶叫した。そういう流れである。

 

 

 自業自得とはこの事か、と謎に納得しながら、私も驚いていた。

 

「チノには姉妹がいたのかぁ、ずっと一人っ子だと思ってたよ。」

 

 素直にそんな感想を漏らす。

 チノのしっかりさは、姉がいる子供のソレでは無いからだ。

 

「もうずっと会ってないですし···ほとんど一人っ子のようなものだと思いますけどね。」

 

 ちょっと照れくさそうに、チノは言った。

 

「でも···会いたいんです。すごく優しい人だったから。

 このうさぎのネックレスも、姉がくれた物なんです。お守りに、って。」

 

 首元で光る銀色のネックレスを握りしめながら、チノは言った。

 その仕草だけで、どれだけ姉を慕っているのかが分かる。

 

「よかったら、お姉さんの名前教えてくれない?

 万が一、私達が知ってる人だったらなにか手がかりに繋がるかもしれないし。」

 

 シャロがそう提案した。

 確かにその方がいいと私も思う。

 

「そうですね、そうしましょう。」

 

 チノも納得したようで、こくりと頷いた。

 

「姉は、香風智花といいます。誰か知りませんか?」

「あーーっ!」

 

 名前を聞いた途端、倒れていたココアが起き上がって叫んだ。

 

「コ、ココアさん何か知ってるんですか!?」

 

 思わずチノも食いつく。

 私もココアが何を知っているのかと、少し緊張した。

 

 するとココアは、青ざめた顔で叫んだ。

 

 

「かまどにパン入れっぱなしだー!」

「紛らわしい声を上げるな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「智花さん、か···すまない、私は知らないな。」

「私も、知り合いにそんな名前の人はいないわね···」

 

 焼きすぎてすっかり焦げてしまったパンを見て落ち込んでいるココアをよそに、私とシャロはそう答えた。

 

「そうですか······」

 

 チノはしょんぼりと俯いた。

 いくらしっかりしたチノだって、まだ中学生だ。姉にずっと会えていないのは辛いに決まっている。

 その気持ちは、幼い頃に兄と離れた私だからこそよく分かっている。

 

 私はチノの肩に優しく手をかけた。

 

「大丈夫さ、チノ。お前が元気でいれば、いつか必ず会えるよ。

 辛い時は、私達をもっと頼っていいんだからな。」

「リゼさん······」

 

 私が励ますと、チノは少しだけ笑ってくれた。

 これで一段落だな、と思って、皆の食器を片付けようとした、その時。

 

「·········」

 

 千夜が何やら、難しい顔で固まっていた。

 

「···どうかしたか、千夜?」

「······えっ?」

 

 私が心配して声をかけると、千夜はビクリと肩を揺らした。

 そして我に返ったように言う。

 

「な、なんでもないわ。ちょっと考え事。」

 

 そして続けて席を立った。

 

「あら、いけない。おばあちゃんに甘兎庵のお手伝い頼まれてたの、忘れてたわ。先に帰らないと。」

「自分の仕事くらい覚えておきなさいよ、まったく···」

 

 シャロの呆れたようにツッコミに、千夜はテヘッ、と笑ってみせた。

 

「それじゃ、お先にね。コーヒーご馳走様でした。」

 

 特有のおっとりとした口調で、千夜はひとり店から出ていった。

 

(·········?)

 

 そんな千夜の姿に、わずかに違和感を覚えたが、大して気にも留めることなく、すぐに忘れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 第9話 栗羊羹と自己肯定

 

 

 

 

 

 

 

 

 ~理久side~

 

(······あれ?)

 

 気が付くと俺は、星の降る夜の野の中にいた。

 どこかで見たような景色だと思ったら、それはかつて見た戦場の景色だった。

 思えば智花と会った日も、こんな夜だったか。

 

 涙が出そうになる。

 必死で首を振り、それを堪えた。

 こうして何度も感傷に浸っては、勝手に何度も傷ついてきた。

 そんな己の女々しさに、改めて嫌気がさした。

 

 

 ────理久くん。

 

 その時後ろで、か細い声が俺を呼んだ気がした。

 

 ────ねえ、理久くん。

 

 これまでその声の主を、一度たりとも忘れたことは無かった。

 でも、それはもう居ないはずの人だ。

 だからこれが夢だと分かるのに、時間はかからなかった。

 

「······もういい。黙れよ。」

 

 刹那、この趣味の悪い夢に怒りが湧いてくる。

 

「智花を救えなかった俺への当てつけか?

 分かってるんだよ、俺が悪いことぐらい···!

 それくらい分かりきってるんだよ!」

 

 ────·········

 

「······早く消えてくれ。」

 

 ────やっぱり女々しいね、理久くんは。

 

「自分の性分は承知してるよ。」

 

 ────きっと、また泣くんでしょう?

 

「多分な。」

 

 ────でも、自分を卑下しちゃいけないからね。

 

「···うるせぇ。」

 

 ────それじゃあね。二度と会わないといいね。

 

「全くだ。」

 

 

 その言葉を最後に、星空が急速に縮む。

 俺の元へと収束する。

 その空の歪んでいく音が、俺を嘲笑うかのように鳴っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「·········様。理久様。」

 

 肩を揺すられる感覚と、野太い声。

 ゆっくり目を開けると、見えたのは我が家の天井だった。

 脇から漏れる光から推察するに、まだ真昼の様だ。大した時間は眠っていなかったのだろう。

 ゆっくり身を起こすと、隣に黒い服の男がいた。

 

「おはようございます、理久様。」

「ああ、君は確か······」

「はい、天々座家の忠実なる下僕、黒崎でございます。」

 

 その堅い挨拶で、そうだ、昨日の暑苦しいやつだ、と思い出す。

 

「ああ、そうか。···それでどうしたんだ、黒崎。」

 

 そう聞くと、思い出したように黒崎が言った。

 

「そうでございました。今、千夜様がいらっしゃったのです。理久様にお会いしたいと。」

「千夜が?」

「ええ、お話があるそうで。」

「······?」

 

 俺は首を傾げた。彼女に話すことなど、心当たりがまるで無かったからだ。

 それに彼女は、ラビットハウスまでリゼ達と一緒に行っていたはずだ。それがどうしてこちらへ来たのだろうか。

 とはいえ、千夜ならばこちらを敵視しているわけでもないし、安心して話が出来る。

 

「···分かった、今行く。」

 

 

 ーーーーーーーーーーー

 

 

「·········それで、どうして俺を訪ねてきたんだ?わざわざみんなの輪を抜けてまで。」

 

 千夜をリビングへと迎え入れて、簡単にお茶を出してから質問を切り出した。

 千夜は昨日見せた顔とは全く違う、緊張した面持ちで口を開いた。

 

「どうしても一つ、聞きたいことがあって。でも、皆の前で聞けることでもないから···この機会を借りて、聞こうと思ったんです。」

 

 いよいよ分からない。

 そんな仰々しく聞かれるようなことが、昨日の内にあったようには思えない。

 しかし、本人がそう言って訪ねてきたのだ。ぞんざいには出来ない。

 

「俺に答えられるものなら、何でも答えよう。落ち着いて、言ってみてくれ。」

「は、はい······」

 

 それでも千夜はなかなか決心が出来ないらしく、もじもじとしていた。

 しかしそこは彼女の気持ち次第なので、俺が急かすことでもない。

 そう思って俺が茶を啜ると、ちょうどそのタイミングで千夜が切り出した。

 

 

「···ほ、本当に智花さんのこと知りませんか!?」

「ブフォッ!?」

 

 想像していなかった覚悟からの質問に、思わず茶を吹き出した。

 

「だ、大丈夫ですか!?すいません、急にこんな質問······」

「ゲホッ、ゲホッ······い、いや、気にしないでくれ。それより···」

 

 千夜が慌てて背中をさすってくれたが、正直それどころではなかった。

 

「ど、どうして千夜が智花のことを知ってるんだ!?」

 

 つい声を大にして聞いてしまう。

 千夜はほっとした顔をして答える。

 

「私が小さい時、お世話になった人なんです。···その反応を見ると、やっぱり何か知ってるんですね。」

 

 予想外の繋がりに未だに驚きが収まらないが、バレてしまった以上答えるしかない。

 

「ああ、智花は俺と同じ戦場で、軍医としてやっていたよ。そこで知り合った。

 ···って、なんで智花のことを俺に聞いたんだ?俺と言葉を交わしたわけでもないのに、君は俺と智花に何かあると思ってたのか?」

 

 話している途中で襲ってきた違和感に、ついまた聞いてしまった。

 千夜は手を振って、いえいえ、と言った。

 

「実はさっき、チノちゃんが言ってたんです。『私には長らく会えていない姉がいる』って。

 ···正直、私も最初は忘れてたんです。智花さんと会っていたのはもう何年も前で、私が小学生になったくらいから、智花さんは忙しくなって、ほとんど会えなくなっていましたから。

 でもチノちゃんがお姉さんの名前を教えてくれて、思い出したんです。私、『智花ねぇ』って言って慕ってたって。」

 

 そこまで言うと千夜は、どこか小悪魔的な笑顔で言った。

 

「それで何となく、チノちゃんが理久さんに質問したのは、もしかしたら正解だったんじゃないかって思ったんです。女の直感は、案外優れてるんですよ?」

「そ、そうか···。」

 

 頷きながら、そんなピンポイントな直感があってたまるか、と内心で思う。女子に隠し事はできないわけだ。

 

「それで、智花さんがどうなったのか教えてくれませんか、理久さん?

 チノちゃんに本当のことを言わなかったってことは、やっぱり何か起きたんですよね?」

 

 千夜が座り方を直し、もう一度聞く。

 俺は観念して頷き、全てを語ることにした。

 

 元々俺は機械のような人間だったこと。

 智花に出会ってそんな俺が変われたこと。

 そして、目の前で彼女が殺されたこと。

 

 すでに昨日語ったから、もう一度吐き出すのはある程度は楽だった。

 それでも語り終える頃には、互いに乾いた喉を覚めた茶で潤していた。

 そして静寂が訪れる。互いに声も出せなかった。

 

「···子供の頃」

 

 沈黙を割ったのは、千夜だった。

 

「たまにラビットハウスに行ってたんです。ラビットハウスと、私の家で経営してる和菓子屋は、ライバルだって聞いてたから、子供心に、偵察みたいなつもりで。

 行くといつも、すごく優しく笑う店員さんが居たんです。でも子供の私は、店員さんにいちいちライバル店だのなんだの言って、噛み付いてました。今思えば、恥ずかしいし、すごく失礼なことだと思うけれど、私は大真面目だったわ。

 ···でもその店員さんは、どれだけ私がやんちゃしても、優しい顔をやめないで、笑ってくれて···次第に私、その人を心の底から慕ってました。」

 

 千夜が下唇をぐっと噛んだ。

 

「私がこんなに落ち着いた性格になったのも、あの人に憧れていたのかもしれません。そしてあの人に、大きくなって少しでも立派になった姿を見せたかったんです。

 ···生きていてほしかった。今はただ、そう思います。」

 

 その声を聞いて、後悔と自責で何も言えないでいると、千夜がでも、と続けた。

 

「理久さんが生きていてよかった。智花さんの意志が、理久さんに継がれてるんですよね。」

「·········」

「だからこれからも、必死で生きてください。

 理久さんを待っている人だけでなく、智花さんと出会った全ての人のために。」

 

 言ってから、千夜は昨日のように穏やかに笑った。

 

「それでは、失礼します。今日はお話聞けて良かったです。」

「お、そうか。······出来れば今日の話は、チノにはしないでおいてくれないか。いつか必ず、俺の口から伝えたいんだ。」

「ええ、私もこんなお話、人に出来る気はしないし。」

 

 お辞儀をして立ち上がった千夜を見て、俺も立ち上がり、玄関まで見送りに行った。

 

 家を出るドアの前で、千夜は思い出したようにこちらを向いた。

 

 「あ、一応今日はここに仕事で来たって設定だから、これ、貰っておいてください。」

 

 そう言って、千夜は落ち着いた色の紙袋を差し出してきた。

 中には「千夜月」と書かれたパッケージに、大量の宣伝チラシが入っていた。

 

「ウチの看板商品の栗羊羹です。気に入ったら是非今後も甘兎庵をよろしく······」

「商売上手か。」

 

 呆れながら、思わず俺も笑ってしまう。

 そんな俺を見て、千夜は満足したように頷き、もう一度頭を下げてから、家を出て行った。

 

 

(生きていてくれてありがとう、か······)

 

 昨晩、タカヒロさんにもそんなことを言われたことを思い出す。

 当然だが、そんな感謝をされたことなんて、これまで無かった。

 しかし、命を懸けた場所で、生き延びて故郷へ帰って、初めて気付くのだ。

 

 自分が人の温もりを求めているのと()()()()()()()()()()()()()()()()ことに。

 

 未だに弱い自分を許せるわけではない。

 それでももし、こんな俺でも誰かから求められているなら、少なくとも今だけは笑っていてもいいかもな、と思った。

 

 

 リビングに戻り、すっかり冷めた茶と一緒に栗羊羹を頬張る。

 餡の甘みを支えるような素朴な栗の甘みが、何故だか俺は嬉しかった。

 

 

 

 

 

 ~リゼside~

 家の門をくぐったのは、七時を回った頃だった。

 今日は一日中暑かったこともあって、飲み物を求めてお客さんがたくさん来たので、後処理の時間に加え、疲労でしばらくグロッキーになっていたので、普段よりかなり遅い帰宅となった。

 

「ただいま〜···」

「おう、おかえり、リゼ。丁度よかったな、今から夕飯だ。」

 

 リビングに入ると、理久が出迎えてくれた。

 それを聞いていると、やはり兄が待ってくれていることが嬉しいと思う。

 

「ああ、よかった······ん?兄さん、何かあったのか?顔が晴れてるけど···」

 

 理久の顔を見てみると、昨日よりも随分とスッキリしていた。

 どこか、憑き物が少し落ちたような、そんな風に見える。

 私がそう言うと、理久はああ、と微笑んだ。

 

「······栗羊羹が美味かった。」

「いや、そんな事かよ。」

 

 あまりに嬉しそうに語る理久に、ちょっと呆れながらも笑ってしまった。

 

 

 

「おう、リゼ、帰ったか。」

 

 そんな風に理久と話していると、書斎の方から親父が出てきた。

 何やら難しい顔をしている。

 

「···親父?」

「理久、リゼ···食事が終わったら、二人共書斎に来い。大事な話だ。」

 

 いつもと違う強い語気で言い放った親父に、私は身を引き締めた。

 

 

(······やっぱりか。)

 

 

 忘れていたかった絶望が息を始めるのを、私は確かに感じていた。




あんまり慣れてないことを書いてみたりもしましたが、楽しかったです。
ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第10話 開かない時計

今回はお話の鍵ともなる「時計」について触れ始めます。
それではどうぞ。
ちなみに、今回からside形式を試験的にストップしてます。
その辺の意見を頂けると嬉しいです。


「親父、話ってまだか?」

「もう少し待て、そろそろアイツも来るはずだ。」

 

 食事を終え、テーブルが片付いてから、リゼがそう聞くと、理央は低い声で返した。

 

「アイツ?」

 

 リゼが首を傾げると、今度は理久が答えた。

 

「総隊長だよ。さっき呼んだんだ。」

「ああ、アルドミーさんか。そういえば最近会ってなかったなぁ。」

 

 言いながらリゼは、あの強面のスキンヘッドを目に浮かべていた。

 

 

 -----------------------------

 

 

 四年前、戦場から理央宛に届いた手紙を、リゼはよく覚えていた。

 差出人は「ファビオ・アルドミー」。誰だと聞くと、軍の総隊長だと知らされ、リゼは大層驚いていた。

 一体何の話なのかと、張り詰めた表情で手紙を読む理央をドキドキしながら見ていると、しばらくしてから理央は呆然とした表情になった。あまりに不安になり、どうしたのかとリゼが聞くと、ゆっくり教えてくれた。

 

「…どうやら総本部が襲撃に遭って、ファビオは戦闘不能の怪我を負ったそうだ。それで、総隊長が交代になった。」

「交代?誰に?」

 

 リゼがそう聞くと、理央は重たい声で言った。

 

「…理久だ。」

「え?」

「理久が新しい総隊長になった。つまり、軍事責任は全て、あいつが負うことになる。」

「…うそ……兄さんが…?」

 

 

 兄が軍の総隊長になった。

 それだけでリゼには、消しようのない絶望感を孕んでいるように聞こえた。

 

 いや、理久が戦場で戦い続けているということは、理解していた。

 でもそれはリゼにとって、どこか平和と大差ない世界のように思えていて、実際に兄がいなくなってしまうかもしれないという不安は、これまで強く感じたことがなかったのだ。

 

 しかし、総隊長ともなれば、嫌でもその重みがわかってしまう。

 軍を一番上から動かすということ。

 それがどれほどの責任を負うのか、どれほどの覚悟を要するのかは、『人の上に立て』を家訓とする我が家で育ってきた、そして父の総隊長としての過去を知るリゼにとって、想像に難くなかったのである。

 

(……兄さん………)

 

 リゼの胸中に漠然とした不安がこみ上げた。

 もう理久は、自分の知っているところにはいないのかもしれない、そう思った。

 

「ファビオはどうやら、この街の病院に搬送されたらしい。詳しくはそこで話す、だそうだ。

 …おそらくもう運び込まれただろうから、会いにいく。

 リゼ、お前も来い。理久が関わっていることだ。」

「…うん」

 

 不安で潰されそうな心を抑えながら、リゼは父の言葉に頷くのだった。

 

 

 病院に着くと、消毒液の強い香りが香ってきて、リゼは思わず顔をしかめた。

 しかし、普段ほどそれを気にする余裕もなく、理央の袖を少し強く握って廊下を進んだ。

 しばらくして、理央が一つの病室の前で立ち止まる。

 軽いノックの後、ドアを開ける。

 

「久しぶりだな、ファビオ。」

「…ああ、電話をちょうど今入れようとしてたんですが、先に着かれてしまいましたか。

 お久しぶりです、隊長。」

 

 父の挨拶に低く返した、その声の主の姿を見た瞬間、リゼは息を飲んだ。

 

 

 顔にも、腕にも、服が少しずれて露になった胸元にも。

 そこにはあまりに生々しい、大きな傷が群がっていたからだ。

 

 

「もう隊長と呼ぶのはよせ。そう呼ばれるには、あまりに俺は老兵だ。」

「ハハ、違いない。俺も衰えましたからな。でなきゃ、こんな傷は負わなかったろうに。

 …ところで、そのお嬢さんは?」

 

 ファビオは、青ざめたリゼに目を向けた。

 突然こちらに向けられた厳つい顔に、リゼは思わずたじろぐ。

 

「おお、そうだ。紹介しないとな。コイツが娘のリゼだ。

 ほら、リゼ。」

 

 理央に挨拶するよう促され、リゼはぎこちなく頭を下げた。

 そんな様子を見て、ファビオはにこやかに笑った。

 

「なるほど、娘さんでしたか。

 よろしく、リゼ君。」

 

 ファビオが手を差し出してくる。

 リゼは、震える手でその手を握った。

 

 その時のファビオの手は、ざらついていて、ゴツゴツしていた。

 リゼはそれを感じた瞬間、身体がこわばった。

 

 

 違う。この手は兄さんとは違う。

 傷ついて傷ついて、それでも使い抜いた、戦場の何たるかを語るような手だ。

 いつも自分の手を握ってくれた兄の優しい手とは違う。

 硬く、怖い手だ。

 

(…兄さんの手も)

 

 いつか、こうなってしまうのだろうか。

 人の上に立って少しもすれば、傷つけ傷つけられ、別人のように成り果てた兄になってしまうのだろうか。

 

 

「…隊長さんッ!」

 

 そう思った瞬間、リゼの胸中で思いがこみ上げてきて、思わず叫んだ。

 突然上げた大声にファビオも驚いていたが、リゼはそれに構わず、続けた。

 

「兄は…兄は、いなくなってしまいませんか!?」

 

 一度声に出すと、止まらなかった。

 湧き出す不安や恐れの全てが、口をついて飛び出す。

 

「私、怖いんです…兄が総隊長なんて立場に立ったら、兄が兄ではなくなってしまうんじゃないかって…

 私の知っている兄は、戦場で死んでしまうんじゃないかって…!」

 

 自然と大粒の涙が落ちる。

 リゼにはそれを拭うことすらままならなかった。

 

「私は…どうしたらいいんですか…?兄さんにはもうどこにも行って欲しくない…変わって欲しくないんです……!」

「………」

 

 顔を覆い、泣くばかりのリゼを、ファビオはしばらく黙って見つめていたが、やがてまた微笑み、リゼの頭に優しく手を置いた。

 

 

「…確かに、『ワイルドギース』という兵士が今受けている傷は、生半可なものじゃないだろう。

 傷つけられて、仲間を殺され、自分もまた人を殺している。それに加えて、今後は軍の存亡すらも背負うことになる。身も心もガタガタになっているだろう。」

 

 言いながら、置いた手に少しだけ力を入れて、リゼの小さい頭を撫でる。

 

「でもな、その中にいる『天々座 理久』という人間は、確かに成長してるんだ。ずっと強く。

 それは腕っ節なんかじゃなく、自分を捨てない心の強さだ。自分が『生きる』ための強さだ。その彼の強さを、俺は買ったのさ。」

「…わかりません。」

「ああ、今はわからなくていい。それでも、あいつの心の強さは本物だ。それを信じてやってくれ。

 君みたいな素敵なお嬢さんを置いて、あいつが自分を見失うわけないさ。」

 

 そして、ファビオはそっと頭から手を離した。

 リゼにはその手の感覚が、確かに残っていた。

 

 ごつい手だ。

 大きい手だ。

 でも、確かな暖かさがあった。

 その暖かさが理久とどこか似ていて、リゼはなんだか安心した。

 

 

 その後、ファビオは軍のことや理久のことを、細かく二人に語った。

 リゼはもう恐怖を忘れ、ただ理久に近づこうと、懸命に話を聞くのだった。

 

 

 -----------------------------

 

 結局、あの人が言っていたとおりだったなと、リゼは感じていた。

 ここへ帰ってきた時、理久は傷だらけだったけれど、理久は理久で、変わらず昔のままだった。

 

 願わくば昔と変わらない平穏が、また訪れてくれれば。

 リゼはそう思う。

 

 ────でも、これから話すことはきっと、平穏とはかけ離れているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第10話 開かない時計

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 程なくして、インターフォンがポーンと鳴った。

 少し経ってから、使用人が件の男を連れてきた。

 

「ご無沙汰しております、皆さん。」

 

 にこやかに紳士的な挨拶をするファビオに、三人もまた軽く笑った。

 

「4年ぶりですかね、総隊長…いや、元・総隊長か。」

「ああ、そうだな、今のその役はお前だ、理久。…久しぶりだな。」

 

 理久もまた、敬礼しながら挨拶をする。

 それを見届けてから、さて、と理央が切り出した。

 

「タカヒロは仕事で来れんらしいから、これで役者は揃ったな。

 …それじゃ、理久。」

「……うん。」

 

 理央の促しに、理久は頷いた。

 そして一度深く息を吸い、語り始めた。

 

「俺は知っての通り、奴らの手から逃れてきたワケだが…

 そのせいで今、俺達の軍は事実上壊滅。バラバラになってるんだ。

 つまりは、既に領地を奴らには奪われそうになってる、ってことだ。もしもフェルティシアの国王が降伏を宣言すれば、俺達の負けだ。」

 

 理久は自らに親指を指してから、続けた。

 

「だが、奴らには簡単にそうさせることが出来ない。奴らの間でも俺は厄介な指揮官として定着してる。だから、俺が生きているということが抑止力になっているんだ。事実、奴らになにか動きがあれば俺はすぐに潰しに行くことは出来る。

 だから奴らは、確実に俺を殺そうとしてるんだ。俺が捕えられてた時も、奴らは『軍に有益な情報を吐かせてから殺す』と言ってた。奴らはもうこの戦いを、俺を殺すことで終わらせようとしている。

 …その為なら、奴らはどんなことだってするだろう。それこそ、皆に対しても。」

 

 理久の淡々とした口調を聞きながら、リゼはやはり、と思った。

 理久が帰ってきたその時から、予感していたのだ。まだ理久が、命を狙われているということを。そして、その枷に自分たちがなりうるということを。

 

 リゼが顔を曇らせると、理久がだが、と付け加えた。

 

「俺達も何もしてないわけじゃない。仲間は今も呼び集めてる。こちらが整い次第、すぐに奴らを潰しに行くさ。

 …問題なのは、その時間、どうやってみんなを守るかだ。もう明後日には、皆夏休みが明ける。そうなれば、見守れない時間が出てきてしまう。

 俺の身は俺で守るとして、みんなを守る術を考えなくちゃならない。そこで……」

 

 そこまで言うと、理久が理央に目配せした。

 理央が頷き、それに続ける。

 

「…今から言う指示に、従ってもらいたい。

 ただし、これは他言無用の話だ。」

 

 

 

 

 -----------------------------

 

「…という訳だ。」

「お、親父…兄さんはともかく、アルドミーさんにそれは無理があるんじゃ…」

 

 話を聞き終えて、リゼが苦笑する。

 

「…お嬢さん、仕方ない。策はこれしかないんだ。

 それと、本人の目の前で無理があるとか言わないでくれ。意外と辛い。」

 

 今度はファビオがちょっといじけたように言う。

 これはちょっと言い方にトゲがあったか、とリゼは少し反省する。

 

 それを見て愉快そうに理央が笑ってから、言った。

 

「リゼ、ファビオの言い分はもっともだ。こういう事は出来るだけ信頼出来る人間に託すべきだからな。」

「まあ、確かにそうだな…。私は口出しできる立場でもないし。」

 

 リゼが納得すると、理央はよし、と一声あげた。

 

「さて、話は以上だ。すっかり遅くなってしまったな。

 作戦開始は明後日からだ。よろしく頼むぞ。」

 

 理央の呼び掛けに、皆が強く頷いた。

 

 

 

 

 -----------------------------

 

(……寝れない………)

 

 リゼはベッドの上、一人唸っていた。

 あの後話が終わり、ファビオも帰って、いざ就寝となったのだが、なかなかどうして寝付けない。バイトでそこそこ疲れてたというのに。

 

(……多分)

 

 寝れないのはそのせいだ、という検討はついている。

 それは、さっきの話を聞いたからだ。

 

 実際に間近にある恐怖というのに直面して、リゼは改めて感じたのだ。

 自分は、理久や理央のいた「戦場」という世界を全く知らないのだ。

 一人蚊帳の外に置かれ、でも肝心な時には守ってもらうだけ。そうなってしまうことが、どうにも落ち着かなかったのだ。

 

(…会いに行くのは簡単だ。)

 

 理久のいる部屋は、すぐ隣。声ならすぐにかけられる。

 しかし、兄とはいえ、年頃の男女である。夜に同じ部屋でゆっくり話すというのは、どこか変な気もする。何より、もう既に理久は寝ているかもしれない。

 そんなことがあり、リゼはやたらと葛藤していた。

 

(…あ)

 

 どうしたものかと悩んでいるリゼの目に、机の上で輝くものが映った。。

 すぐにそれが昨日、理久を見つけた時に見た()()だとわかる。

 そういえば昨日、後から理久に返そうとして机の上に置いておいて、結局忘れていたのだ。

 

(……返しに行かなきゃ。)

 

 そう思い、リゼは立ち上がった。

 どこか口実めいてしまったが、返さなきゃいけないのは事実だし、と言い聞かせるのだった。

 

 

 

 

 

 

 理久の部屋からは、わずかに光の粒子が漏れている。

 まだ起きているとわかると、リゼは嬉しいやら緊張やらが混ざった心境だった。

 少し緊張しながら、白い扉を二回ノックする。

 

「兄さん、私だが…ちょっといいか?」

 

 できるだけ冷静な声で、ドアの向こうに問う。

 ややあって、ああ、という声が中から聞こえてきた。

 

「…どうしたリゼ、こんな夜中に。」

 

 ドアが開かれると、理久は少し不思議そうな顔でこちらを見ていた。

 リゼが来るとは思っていなかった様子で、さっき応答に間があったのもそのためなのだろうと思われた。

 

「い、いや…預かり物を返しに来たんだ、ほら、これ。」

「あ……」

 

 リゼは少したじろぎながら、それを────銀色の時計を、差し出した。

 

「どこに行ったかと思ったら…お前が持ってたのか。」

「ご、ごめん…渡し忘れてたんだ、タイミングが合わなくて。」

 

 そんなことを話しながら、時計を理久が受け取る。

 リゼは頭を掻きながら、続けて言った。

 

「兄さんが倒れてた時、それがあったから兄さんだって分かったんだ。」

「ああ、確かに、これが『証』だもんな…」

 

 そう言いながら、理久は手でその時計を転がした。

 その時計はいくら握られようと、押されようと、開かなかった。

 

 この銀時計について、リゼは理央から聞いたことがあったのだ。

 あの軍では隊員全員が、その証として同じデザインの時計を持っている。

 しかし、総隊長の者の時計だけは、あるものが違う。

 

 その時計だけは、時計でありながら持ち主に時間を伝えない。

 フタが接着され、開かなくなっているのである。

 どうやらそのフタの中では、一応時計は動いているらしい。しかし、その奇天烈な時計は、今まで一度もその針を見せたことがない。

 この開かない時計が、歴代の総隊長からバトン形式で手渡されてきて、実に200年にもなるらしい。

 

 リゼはこの時計を見て、正確には手にとった時に、持ち主が理久であると確信したのだ。────押しても開かぬ時計であったから。

 

 

 しかし。

 リゼが知っているのは、これだけ。

 この時計が真に持つ意味や歴史は、一切知らない。

 理久のことと一緒で、何も知らないのだ。

 

「…兄さん。」

 

 聞くなら今だと、リゼは部屋に押し入った。

 それに驚いた理久をよそに、後ろ手にドアを閉め、深く息を吸う。

 

「私に、教えてくれ。その時計のことと、兄さんの過去を。」

「……」

 

 途端、理久の顔が曇る。

 構わずリゼは続ける。

 

「私は…あまりに何も知らなすぎる。兄さんのことも戦場のことも、何も…。

 だから、知りたいんだ、全部。…お願いだ。」

 

 しばらく理久は何も言わなかった。

 しかし、やがて首を横に振って、言った。

 

「…知らなくていい。お前はまだ子供だ。妙に重いものまで、お前には背負わせたくない。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉に、リゼの中の何かが切れた。

 自分が、一人外に置かれている。

 それがあまりに腹立たしくて。

 

 

 

 

 

 

 

「…ッ!!いい加減にしろ!!」

 

 気付いたときには、リゼは叫びながら、理久の頬を打っていた。

 痛烈な音が、部屋の中に残響を残すほどに響く。

 あっけにとられたような顔の理久を見ながら、リゼはまた叫んだ。

 

「子供だから、妹だから、あれもこれも知らなくていい、なんて…ふざけるな!」

 

 湧き出る感情に呼応するように、涙がこみ上げてくる。それをこらえ、続ける。

 

「私だって当事者じゃないか!それなのに、何も知らずに都合のいい時だけ守られて、私が何も請け負えないなんて、不公平じゃないかっ!

 …もうひとり、外に置かれるのは嫌だ。もう…置いていかないでよ、兄さん…」

 

 涙が止まらず、ぐしゃぐしゃの顔を覆って、リゼは訴えかけた。

 そんなリゼの頭に、ぽんと手が置かれた。

 驚いて見上げると、理久が申し訳なさそうに、リゼの頭を撫でていた。

 

「…ごめんな。リゼの気持ちなんて、まるで考えてなかった。いつまでも子供扱いして、大事なことを忘れてた。ごめんな。」

 

 そして手を離すと、ほんの少し微笑んで、言った。

 

「話すよ、今。話せること、全部話す。

 残念ながら、本当に今は俺の過去はあまり語れないんだ。それはリゼがどうとかじゃなくて、ただ人に話すには、まだ勇気が足りない部分があるから。でもいつの日か、必ず話す。だから今は、必要なことだけ話すから、それで勘弁してくれないか?」

 

 その言葉に、リゼは泣くのをやめる。

 そして細い声で言う。

 

「…約束、だからな?」

「ああ、約束だ。」

 

 そうして互いに頷いた。

 それでようやくリゼはようやく笑えたのだった。

 それを見て理久も笑い、ベッドに腰掛けた。

 

「…それじゃあ、話そうか。

 ひとつは、この銀時計のことだ。

 それからもう一つ、これは昨日親父と話してたことだが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この戦いの黒幕についての話だ。

 まずは、こっちを先に話そう。」




次回へ続きます。
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第11話 「俺は化け物を産んでしまった」

短い、というかクオリティ低い。
ごめんなさい。
それではどうぞ。


「無理です、国王!いくら何でもそれは···人としての扱いではないではありませんか!」

 

 フェルティシアの王室にて、一人の若い男の怒号が飛ぶ。

 しかしその声はまるで届いていないかのように、国王は眉一つ動かさずに言った。

 

「知ったことではない。メツキンドは我々にとって害虫。そこに善悪は関係ない。一匹残らず消すのみだ。」

「···あなたは、国一つ私怨で消すおつもりですか。」

 

 男の問いにも、鼻で笑って国王は言う。

 

「私怨などあるものか。メツキンドに制裁を下すべしとは、他国とも決めあったこと。これは暗黙のうちに認められるべき見せしめだ。

 ただ、今回は犠牲となる人間がほんの少し多いだけだ。」

 

 それを聞き、男は唇を噛む。

 

「その責任を、軍隊長の私に押し付けようということですか。」

 

 国王は聞くや、醜悪な笑みを浮かべる。

 権力で命と金を呑んできた男の顔である。

 

「···君も口が悪いな、ワイルドギース。···いや、天々座理央。」

 

 わざとらしく名前を呼んでみせて、いっそう笑みを深める。

 

「自分の立場がわかっていないようだな。

 知っているぞ、君にも恋人がいるんだろう?」

 

 瞬間的に、理央の身体がこわばる。

 国王の言わんとしていることを理解し、震える声を絞り出した。

 

「···彼女を人質に命令を聞け、という脅しですか?」

「フフ、私はまだ何も言っていないぞ。

 ···ただ、人ひとり死んだことくらい、私はなかったことに出来る。それは確かだな。」

 

 国王はいかにも愉しげに、言ってみせた。

 その刹那、理央の中にとめどない殺意が沸いてくる。

 国民にはいい顔を見せておいて、人を服従させるには手段を一切問いはしない、この卑劣な国王に。

 

 しかし、国王はそれすら見透かしたように笑う。

 

「···今、激情に任せて君が私を殺すのもよかろう。しかし、私は国政の成功者。立場で言えば世界でも上位の存在なのだ。私を敵に回すことは、私を支持する国も人も、全てを敵に回すことになる。

 ────その犠牲となるのは、君だけじゃないだろうな。

 君の家族も、友人も、恋人も···誰もが不幸になってしまう。」

 

 理央の顔が固まった。

 視界が狭まる。

 冷や汗が吹き出し、身体が痺れていく。

 

「君が虐殺の支持を出しさえすれば、私が全てを丸く収めよう。君も、君の周りの人間も傷つくことがないように、な。

 諦めろ、理央くん。君のくだらない意地を張り続けるという選択肢はもはや無い。君が私に従いさえすれば、全ては平和に解決するのだよ。」

 

 言葉を失った理央を追い詰めるように、国王はそう言った。

 

 

 

 

「さあ、殺せ、メツキンドを。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第11話 「俺は化け物を産んでしまった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「親父が···大量虐殺の指示!?」

 

 理久の部屋に、リゼの悲鳴に近い声が反響した。

 慌ててリゼは口を押さえたが、その目は恐怖の色に染まったままである。

 

「そう、かつての戦いで生まれてしまった、どうしようもない災いだ。」

 

 理久は努めて平坦な声で言った。

 しかしやはりその目にも、どこか苦悩の色が隠しきれていなかった。

 

「前の戦いで、フェルティシアはメツキンドを追い詰めて、勝利寸前だった。

 だからメツキンドの軍には、穏便に済ませるために投降するように呼びかけていたんだ。

 ···そんな中で、国王が親父に命令したんだ。『メツキンドの民を殲滅するよう、軍に命令を下せ』ってな。

 この1件は闇に葬られる予定で、事実そうなった。だが、もし万が一のことがあって明るみに出ても、指揮官としての責任を全部親父に負わせて、自分は関与してないってことにしようって魂胆だったんだろう。汚ねえ国王だ。」

 

 次第に理久の言葉が怒気を帯びていくのを、リゼは感じていた。

 

「おまけに親父は、俺達の母さんの事を人質にされてた。だから指示を下さざるを得なかったんだ。

 そうして、虐殺は行われた。

 メツキンドの人口は4分の3まで減ったが、フェルティシアはあらゆる権力と金を使って、それをひた隠しにし続けた。」

 

 話を聞きながらリゼは、身の震える思いで、滅びゆくメツキンドのことを想った。

 

 その時、どれほどの人が泣き、怒り狂い、憎んだのだろう。

 滅ぶ祖国の上に立ち、笑うが如しのフェルティシアを。

 

「···悪政の話はここまでだ。これからはその事件が今にどう繋がったかのの話になる。」

 

 感情論で話が逸れかけたのを仕切り直すように、理久が言った。

 

「さっきも言ったように、メツキンドの4分の3は死んだ。

 けれど、一部は生きていたんだ。卑劣にも国を滅ぼした敵国に、多大な恨みを孕んだまま。

 彼らはこの虐殺が国王の命によるものとは知らない。首謀者は総隊長────親父だと思ってる。今更、真実を彼らが知っても変わらないだろうがな。」

「じゃあ···黒幕は、その生き残りで、天々座家にまで怒りをもっている人、ってことか···?」

 

 会話から察したリゼの問いかけに、理久はゆっくり頷いた。

 

「俺がメツキンドに捕まっていた時、兵士達が繰り返して言っていたんだ。『奴にメツキンドと同じ痛みを与えてやれ』ってな。

 大抵軍隊ってのは、同じ思想や意志を持った人間が多く集まる。あの人数で同じことを唱えてたんだ。軍のトップまで関わっているとみていいだろう。

 つまり黒幕もまた、あの事件の被害者、って話だ。」

 

 そうして話を終えてから、途端に理久は申し訳なさそうな顔をした。

 

「···すまない。俺がここへ来たことで、天々座家に恨みを持つ者に皆が狙われやすくなってしまった。

 俺が逃げたり、しなければ···」

「やめてくれ、兄さん。」

 

 自責の言葉を並べる理久を、リゼが制した。

 

「兄さんにまた会えた。

 私にこんなに大事なことを教えてくれた。

 その事が私には嬉しい、それで全てなんだよ。」

 

 包み隠していない本心。

 リゼにとって、喜びでしかない。

 それをただひたすら真っ直ぐに伝えた。

 

「リゼ······」

 

 こちらを静かに見つめる理久を見て、ようやくリゼは自分のセリフの小っ恥ずかしさを感じた。

 

「さ、さあ!時計の話をしてくれ!教えてくれると言ったんだからな!」

「お、おう···」

 

 赤くなりながら早口でまくし立て、羞恥の心を隠した。

 突然変わったそのリゼの様子に、理久は少し困惑しながらも頷いた。

 

「···とはいえ、本当は話せることもあんまりないんだけどな。

 ただ、あの時計は大昔────軍が成立した頃からずっと受け継がれてきたものらしい。

 そしていつか、時計は開く日が来るそうだ。その時が来るまで、時計はずっと守られなければならない。

 そして時計が開いた時···その所有者は、そこに刻まれたメッセージに従う。そうして初めて、この時計は役目を終える。」

「なんだか、胡散臭い話だな···いつか開くって、いつか分からないんだろう?もう、この時計ちょっと錆び付いてるし、開かないかもしれないし···単純にシンボルとしてとっておいてるだけじゃないのか?」

 

 途方もない話に、リゼは思わず訝しげに言った。

 理久は苦笑しながら頷いた。

 

「だよなぁ。みんなそう思うだろうし、ある意味オカルトみたいな話、完全に信じる方が馬鹿らしいかもな。」

 

 そう言いながら、大きな手でその錆び始めている時計を握る。

 その顔は穏やかだった。

 

「でも···戦場に立ってみて、結構分かったことがあってな。

 きっと、この時計を持った人間って、臆病者ばっかりなんだよ。軍の設立当初からずっと俺達のご先祖は戦場で要職に就いてたのに、全く途絶えちゃいない。皆あの戦場を生き長らえていたんだ。

 戦場で、勇敢な人間はすぐ死ぬ。臆病で、どこまでも自分の命が惜しいから生きられるんだ。

 もしこの臆病も、時計が生まれた頃からずっと受け継がれてきたものなんだとしたら、俺は知りたい。そんな臆病者が戦争をすることを選んで、その上で何年もかけて伝えたいメッセージは、一体なんなのかをな。」

 

 リゼには分かったような分からないような、変な心情だったけれど、理久の方は今の言葉でしっくり来ているみたいなので、これ以上聞くこともないからと、ただそうかと頷くだけだった。

 それを見たからか、理久も一度息を大きく吐いてから、笑いながら言った。

 

「随分長く話をしたけど、これが今お前に言える全部だ。

 いずれは話すよ、俺の細やかな過去まで。」

「ん、分かった。その時まで待つよ···って、ん?」

 

 話が終わったと聞き、おもむろに自分の携帯を見ると、リゼは目を疑った。

 

 

 時刻は既に、午前3時を回っていた。

 

 

「なっ······!もうこんな時間に!明日も朝からバイトなのにぃぃぃ!このままじゃ寝れない!

 じゃ、じゃあおやすみ、兄さん!また明日な!」

 

 周りの部屋に迷惑にならないように声を抑えながら、リゼは大慌てで部屋を出ていった。

 

 リゼが部屋を出ていった後、理久に苦笑しながら「やっぱり、まだ子供だな」と言われていたことを、当然リゼが知ることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 -----------------------------

『早く逃げろ、私達には構うな!』

 

『やだよ、お父さん、お母さん!一緒に逃げようよ!』

 

『···ごめんね、あなたの記憶に大きな傷を残してしまう。』

 

『それでも、こうするしかないんだ···。行け!』

 

『···ッ!お父さん!お母さん!』

 

 -----------------------------

 幼い頃の自分の声が響いて、男は悪夢から覚めた。

 息を切らしながら、自分の体に触れると、冷や汗でびしょ濡れになっていた。

 

 男は溜息をつきながら、ベッド横に置いた酒を呷った。

 

 ────全く、このごろはあの時の夢ばかり見る。

 

 しかしそれも、計画の終わりが近付いているからと思えば、なんてことは無いのだ。

 20年以上もかけて、ついにこの計画も最終段階に入っている。

 

 これでようやく復讐は果たされる、そう思えば、これまでに味わってきた苦痛など、一瞬で甘味に昇華するような感覚である。

 

(···絶対に許さない。)

 

 親を殺された瞬間から、そう決めてきたのだ。

 あの災いを、許すことなどあってはならない。

 

 

 親を。

 仲間を。

 国を。

 

 

 全てを消し去ったフェルティシアの襲撃を。

 

 やることは決まっている。

 その首謀者が誰かなど、今更言うべきことですらない。

 

 ────奴が最期の時に見せる顔が見物だ。

 きっとそこにはこう書いてあるだろう。

『俺は化け物を産んでしまった』と。

 それが俺にとっては喜びだ────

 

 

 

 男はただ一人不気味に笑い、呟いた。

 

「────待っていろ、天々座家よ。

 

 

 

 

 

 

 

 お前らの血は、俺が絶ってやる。」




ありがとうございました。
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第12話 理久の休日

今回は第1章最終話です。12話でキリよく終わらせたかったので。
何を書こうかと思ってたんですが、戦闘描写あり、としてあるのに、戦闘描写入れてないんじゃね、と思ったのでぶっ込みました。
同時に、どこに入れるか迷ってたシーンを入れられたので、ちょうど良かったですね。
それではどうぞ。


 無駄に装飾の凝った窓の隙間から、心地よい木漏れ日が差してくる。

 昨日の酔いの残る目覚めとは対照的に、非常にいい目覚めだな、と理久は思った。

 欠伸をしてからベッドを降り、軽く服装を整えてからリビングに向かった。

 

(さて······今日はどうしたものかな。)

 

 リビングに向かう途中、そんな事をぼんやりと考えていた。

 ずっと、その日何をするかなどを自由に考える暮らしから離れていたから、改めてやることが無いと何をしていいか全く分からない。

 今日はリゼの学校の夏休み最後の日だ。明日から計画は本格的に始まるが、いかんせん今日は何もすることがない。

 リゼもバイトでいないし、それはあの残り四人(無論、チノ達である)にしても同じことだろう。かといって、今更父と遊ぶような歳でもない。

 この街をうろつくにも、一人ではどうも心許ない。

 いっそのことまた眠りこけてやろうかなどと、少々下世話なことを考えていた、その時。

 

「おはようございますっ、理久様!」

「···ああ、おはよう。やっぱり、用意が早いな、黒崎。」

 

 人によってはまだ眠っている人もいるような時間から、身だしなみも態度も完全に仕上がっている黒崎に言葉を返すと、彼はこれまたきびきびと敬礼しながら「当然のことであります」と答えた。

 これはもはや職業病とも言えるのかもな、と苦笑していると、そういえば、と黒崎が言ってきた。

 

「理久様に、お頼みしたいことがございまして。」

「俺に?」

「ええ、朝食の後で時間を頂けたらと!」

 

 理久は少々不思議に思いながらも、頷いた。

 むしろ暇を潰すには都合がいいかもしれない、とプラスに考えることにした。

 

「分かった。何をすればいいんだ?」

 

 そう答えると、黒崎は「はっ!ありがたき幸せ!」と、もはやどこの身分制度かもわからぬほどキビキビと礼をし、それから言った。

 

 

「我々護衛隊に、近接戦闘の手ほどきを教えて下さいませ!」

「·········」

 

 とりあえず、のどかな休日には一番聞きたくない頼み事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第12話 理久の休日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「···まあ、結局俺が鍛えてきたのは戦闘術というより護身術、というか殺人術だ。自分がいかに危機的状況でも、速攻で相手を殺して切り抜ける。それが俺の戦い方の本質だ。」

 

 天々座家の一角、武道場の中で、黒服の男たちに囲まれながら、理久はそんなレクチャーをしていた。

 あの後、ため息混じりにレクチャーを始めたのだが、隊長をしていた頃はこんな事をよくやってたこともあり、これが案外やり心地の良いものだった。

 とはいえ、やはり皆腕の立つ者達ばかりで、さほど理久が教える必要も無いほどに、実技は申し分なかった。

 そんな訳で、SP的な活動とは少しずれているかもしれないと思いつつ、理久の持つ戦闘術の本質を教えている。

 

「分かってほしいのは、これは本来人を守るものではないってことだ。俺がいた世界は、死ぬか生きるか、それ以外の答えがない世界だから、殺すことが正当化される。でもここの秩序はそれとは違う。それ故、あくまでこの技術を応用した『護衛』にのみ使う事を誓え。」

 

 低い声でそう念を押してから、理久は自らの護身術の手ほどきを開始した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「···さて、そろそろ終いにしようか。最後に志望者とは実戦形式で確認をしよう。」

 

 防御、回避、攻撃における最低限のことを教え終えてから、理久はそう提案した。

 実戦形式、と聞いて、ちらほらと手が上がってくる。

 実際に死線をくぐり抜けた人間と手合わせができるとあって、腕に自信のある者達はこぞって手を挙げるわけである。

 ···ちなみに、すっかり理久の軍人スイッチが入りきっているため、この提案は本人もノリノリでやっていた。

 

「よし、では一人一人かかってこい。」

 

 そんな訳で、理久主催の格闘大会のようなものが始まった。

 最初に出てきたのは、この中では最も横も縦もでかい、巨漢の男だった。

 

 

 理久はそっと目を閉じ、深く息を吸った。

 

 久方ぶりの戦闘の感覚に身を浸す。

 

 そして心と体が戦場の感覚に舞い戻るのを感じてから、理久はゆっくり目を開けた。

 

「────始め。」

 

 開始から、高速で間合いを詰めてくる巨漢の男。

 最初には誰にもあまり見られなかった積極的なアプローチは、理久の指導をちゃんと聞いている証拠である。

 

 戦闘はマラソンなどではない。

 継続的な集中力より、瞬間的に身を固める力が必要だ。それはいつ殺されるかもわからぬ中では尚更だった。

 それ故、このような場では、一気に接近することを一番重要視しておくべきなのであるが、そこに全力を出すことをせず、拳を叩き込むチャンスを()()()しまう人間は、結構多い。

 

 間髪入れず、男の大きな身体が突っ込んでくる。

 理久はそれをごく小さく左に動いてかわしてみせ、同時に男の足に自分の足をからませ、バランスを崩す。

 前方への移動を妨害され、男は前につんのめった。

 この形で対策されることは予想はしていたのだろう、すぐに反撃の体勢に入り、左の拳を振りかぶった。

 

 ────だが、理久の動きがあまりに小さく、一瞬のものであったために、その対応は少し遅れた。

 

 巨体から振り下ろされる形となった左拳を右手で軽く捌き、そのまま男の勢いを利用してバランスを崩しながら、即座に両腕で男の左腕を固めた。

 二度目の攻撃も完璧に避けられて、とうとう男は倒された。

 巨漢が地面に沈む轟音が響いたと思った時には、既に男の左腕は理久によって関節を極められていた。

 その鮮やかさに、周りからおぉ···という感嘆の声が漏れた。

 

「···巨体と、それに見合わない機動力を生かして、間合い詰めとプレッシャーを同時に成立させる···最善手に限りなく近い攻め方ではあるが、最初のタックルが少し単調だな。間合いを詰めたらその後はもっと慎重に行くべきかもな。」

 

 アドバイスを終えてから男の腕を解放し、お互いに礼をした。

 男はどこか、感嘆と興奮の入り混じった顔をしていた。

 

「次は私が!」

 

 今度はスキンヘッドの男が、興奮冷めやらぬ様子で手を挙げた。

 今度は体格がすこぶる良いというより、剽悍な獣を思わせる小柄な男だった。

 

「いいだろう···

 ────始め。」

 

 軽く頷いてから、理久が号令を出すと、こちらの男も一気に近付いてきた。

 そして、軽いフットワークと柔軟な体を活かし、上へ下へと巧みに攻撃を打ち分けてくる。

 予備動作の見えずらい右の正拳突きが飛んできたかと思えば、姿勢を低くしてのローキックなど、なかなかに器用な攻撃法である。

 その猛攻をストップさせようと、丁度ボディのあたりに飛んできた左拳を、理久の右手が野球のミットのようにがっしりと捕らえた。

 しかし、それを男は待っていたように、その理久の右腕を足で蹴り上げた。理久の右腕が頭上に放り出され、右半身に大きな隙が生まれる。

 チャンスとみて、男が空いた右腕で横薙ぎの裏拳を繰り出す。

 理久は上体を海老反りにし、すんでのところでそれを交わした。

 しかし、理久の重心はこれで完全に後ろに崩れている。男はそれを見るや、決定打のつもりのタックルを仕掛けてきた。

 

 ────しかし、理久は重心を崩してなどいなかった。

 理久の柔軟さと強靭な体幹は、無茶な体勢でもボディバランスを崩させなかった。

 

 男のタックルが飛んできた瞬間、理久は海老反りのまま膝を急速に曲げ、仰向けのまま両手両足を地面についた。

 いわゆる、ブリッジの体勢である。

 仰向けの理久の視線が、タックルを仕掛けた男の驚愕した視線と交差した────

 と思われた刹那、理久は両足を蹴り上げ、男の身体に両足を回し、がっちりと捕まえた。

 その一秒後には、男は理久の両足に身体を掴まれ、自由を失ったまま床に横たえられていた。

 あまりの動きの速さに、観衆は言葉を失っている。

 

「超人的な動きと頭のキレだ。まさかあんなに即座に右腕を弾かれるとは思ってなかった。

 だが、タックルに行くには焦りすぎだな。もっと絶対的なチャンスを、相手の雰囲気から察することも覚えるべきだ。」

 

 ややあってから、またも歓声が上がった。

 それに比例して、次は私が、いや私が、という声が増えてきていた。

 こりゃあもう少しかかるかな、と理久は内心で苦笑しながらも、心のどこかではこの軍隊の日常のような一コマを楽しんでいた。

 

(······お前らとも、もう少しこんな日々が欲しかったよ。)

 

 既に逝った仲間達の顔を浮かべながら、理久はそんな事を思っていた。

 

 

 

 

 

 しばらく経ち、全員との手合わせを瞬殺の形をもって終えた。

 そろそろお開きにするかと思っていると、お待ち下さい、という暑苦しい声がした。

 少し嫌な予感がして声の主を見ると、案の定黒崎だった。

 

「最後に、私ともお手合わせをお願いします!」

 

 そして予想通りの要求に、理久はやっぱりとため息をついた。

 ただでさえ普段から暑苦しい男だというのに、戦闘形式ともなればただでは終わらなそうで、正直断りたいのが本音だった。

 とはいえ、ここまで全員の要求に応えてきたのだ。黒崎一人蚊帳の外というわけにもいかず、理久は渋々ながら頷いた。

 

「分かった···これで今日最後だからな。」

 

 そう念を押して、黒崎と向かい合う。

 

(···こうしてみると、なかなか凄みがあるよな、この男。)

 

 向かい合って戦闘形態に入ってみると、黒崎には物言えぬ威圧感があることを理久は感じた。

 これがこの男の信頼と強さを裏付けるものか、と合点がいこうとしていた時。

 

 

 

 理久はその威圧感の裏に、何かが潜んでいるのを感じた。

 それはどこか、悲しみに似ていたような気がする。

 

 

 

「···では、参りましょう、理久様!」

 

 黒崎の声に、はっと正気を取り戻した。

 しっかりしろ、余計なことを考えるなと自分に言い聞かせるように、今一度深く息を吸った。

 

「────始め。」

 

 開始宣言と同時に、黒崎が近付いてくる。

 この中の誰よりも速かった。

 流石に親父の信頼を買ってるだけあるな、と思いながら、高速で飛んできた上段蹴りを躱す。

 理久が少し間合いを取ろうとすれば、黒崎がその身体を入れてくる。

 その判断力も速度も、何を取ってもトップクラスだった。

 だが、理久が捌けぬ速度の攻撃ではない。一度死に目に合った事があれば、世界などスローに見えてくる。

 

 黒崎の右拳の戻りが、一瞬だけ遅くなったのを理久は見逃さなかった。

 そういう大きな一打こそ、ごく小さな動きで躱し、ゼロ距離まですぐに迫る。

 がら空きの右脇腹から、黒崎を捕らえようとした────

 

 

 ────その時。

 理久はその一瞬、背筋が凍る感覚を覚えた。

 体勢的にも、反撃は考えられない。

 視線もこちらを向いて、殺気を放っているわけでもない。

 考えてみれば、思い過ごしだと言われてしまいそうな、()()()()()()()()()()

 なのに理久は、黒崎からその「謎の恐怖」を感じた。

 

 身体がそれに怯えたと分かった時には、既に理久の拳が出ていた。

 しまった、とすぐに後悔してももう遅く、理久の拳は黒崎の脇腹に突き刺さっていた。

 

 直後、黒崎が「うぅっ···」と呻きながら、その場にうずくまった。

 

「す、すまん!殴るつもりはなかったんだ···大丈夫か!?」

 

 慌てて理久が黒崎に近寄ると、黒崎は身体を震わせながら笑った。

 

「はは···大丈夫です。天々座家を守る者として、この程度ではへばれませんから。手合わせ、ありがとうございました。」

 

 こんな中でも律義な態度を崩さない黒崎に、理久はつい少し笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「理久様。」

 

 武道場を出て、リビングに戻る俺に、隣の黒崎が声を掛けてきた。

 その声は、これまでとは打って変わって穏やかだった。

 

「一つ、あなたに感謝したいのです。」

「感謝?」

「はい。あなたは、リゼお嬢様の笑顔を増やして下さいました。」

 

 そう言うと、黒崎はそっと俯いた。

 その表情には、これまで見たこともないような悲しみが混じっているように見えた。

 

「私は···子供の頃、捨てられていたのです。この街に。

 行く宛もなく、金もなく、とうとう死にそうな所を、ご主人様に救われました。

 それから私は、この家の為にいつまでも仕えようと誓いました。

 一度は死んだこの私に、居場所と食べ物、強さまでも授かったのですから。

 だから私は、いつもお嬢様のそばにおりました。元からあまり人と話すのが得意ではないお嬢様の、せめてもの心の支えになれればと。お嬢様の笑顔を見ることが、私の何よりの望みだったのです。

 そして最近になって、お嬢様にはたくさんのお友達も増え、笑顔がだんだん増えてきました。でも、家に帰ればお嬢様はまた一人ぼっちに。そうやって寂しそうにするお嬢様を見るのは、たまらなく辛いものでした。」

 

 ゆっくり、黒崎が理久を見る。

 その目にはうっすらと涙か浮かんでいた。

 

「でも、理久様に帰ってきていただいたお陰で、お嬢様は一人ではなくなりました。笑顔が絶え間なく続いておりました。余計なお世話と言われても、私にはそれが、たまらなく嬉しいことだったのです。」

「···言われなくたって」

 

 理久は黒崎の顔をしっかり見つめながら返す。

 

「俺は、リゼの隣にいるよ。そうしてあいつを支えることを、俺は約束したんだから。

 ···でも、見ての通り、俺はそんなに大層な男じゃない。」

 

 理久はクシャッとした笑みを浮かべて、言った。

 

「···だから、もっと強くならなきゃな。俺も、お前も、リゼを支えられるように。

 よろしく頼むよ、黒崎。」

 

 それを聞き、黒崎は少し驚いたような顔をした。

 そしてすぐに、涙もそのままに、いつもの様な堅苦しい様子で敬礼した。

 

「もちろんです!天々座家のため、これからも全力を尽くしてまいります!」

 

 その声が想像よりもずっと反響して、廊下の端から帰ってきた。

 それがどうにも可笑しくて、理久と黒崎は目を合わせて笑った。

 

 理久のこの日は、こんな風にして終わった。




第1章完。
次回から新章、作戦に向けて動き出します。
乞うご期待。
ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第2章 奪還戦
第13話 作戦開始


第二章です。
この章で完結するかもしれないし、しないかもしれないです。つまり未定です(なら言うな)。
今回主となるキャラクターは、リゼに憧れるあの方です。
それではどうぞ。


 シャロは、あまり自分に自信が持てないことが多い。

 

 勉学だって人の何倍もやってようやくある程度。

 体つきも、女子の中で恵まれている方ではない。

 家も貧乏だから、服装にもさほど気を遣えない。

 

 そんなシャロにとって、強さも可憐さも、頭の良ささえも持っているリゼは、憧れの先輩という存在にほかならなかった。

 

 だから、少しでもその姿に近づきたくて、シャロはひたすらに努力してきた。

 その結果、完璧とは言えないし、僅かな進歩でしかないかもしれないが、前よりもずっとスマートな人間になれたと思う。

 

 それこそ、ちょっとやそっとの事では動揺などしないくらいに。

 でも、この時ばかりは動揺を隠さずにはいられなかった。

 

「···どうも、今日からしばらく英語の担当教員となります、久石 天理です。」

(な、なんでえぇぇぇぇぇ!?)

 

 久石 天理。

 そう名乗った男は、紛れもなく、

 

 

 この間会ったリゼの実の兄・理久だったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第13話 作戦開始

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「···それで、どうしてここにいるんですか、理久さん!?」

 

 完全に日陰となっている放課後の校舎裏にて、シャロが理久に問い詰めた。

 

 ついさっき、突然新米英語教師として爽やかに登場した理久だが、シャロにしてみれば全くわけがわからなかった。

 それもそのはず、つい先日まで軍属だった男なのだと本人に語られ、非現実的なものを数多く見せられたのに、今日になって突然学校の教師など、奇想天外もいいところだ。

 

 ちなみに、理久自身も、担当の教室にシャロがいた事に驚いたようで、窓際の席に座るシャロを見つけると一瞬目を見開いていた。

 しかし、それ以外のリアクションを一切取らなかったので、顔見知りであることは隠したいという意思が見てとれた。

 シャロもそれを察し、とりあえずその時間は閉口していた。

 そして放課後、ようやくチャンスが来たので、わざわざ偽名を名乗ってまでここに来た理由を問い詰めるべく、校舎裏に理久を呼び出したのだった。

 

 驚きと若干の怒りを孕んだシャロの追及に、理久はどうにも申し訳なさそうに答えた。

 

「いや、リゼと同じ学校にシャロがいるのは知ってたんだがな···しかし学年も違うのに、まさか担当クラスが被るとは···こっちも驚いたんだ。

 残念ながら俺がここに来た理由は、シャロにもちゃんとは話せない。」

 

 その返答が来た瞬間、シャロは考慮していた可能性のうち一つを思い浮かべた。

 

「···リゼ先輩に、何かあったんですか?」

「······!」

 

 発した声が想像以上に重く、禍々しい響きとなっていて、シャロは自分自身で驚いた。

 でも今のシャロに、それを気にする暇はない。

 シャロの考えは、予期される最悪の事態なのだから。

 

「リゼ先輩が理久さんの軍事に巻き込まれて、命の危機さえある。理久さんは、それを監視して守る為にここに来た。違いますか?」

「···考え過ぎだ、シャロ。」

 

 シャロから目を背け、隠すような理久の言い方に、シャロは更に疑いを強くする。

 

「本当に何も無いんですか、理久さん?

 先輩には何も起こらないって、本当に断言出来るんですか?」

 

 理久はシャロに向き直ることもせず、ため息をついた。

 

「···無理に隠したら、逆に事態は良くないかもな。

 確かに、ここに俺が来たのは軍でとある問題が発生したからだ。

 だが、直接リゼが関わっている訳では無い。俺が敵の標的になっているだけだ。奴らが俺とリゼの関係に気付いていなければ、リゼには被害は及ばない。」

「でも······!」

 

 100%なんて無い、と言おうとしたシャロを、理久が手で制した。

 その目は先程と違い、とてつもなく鋭くシャロを見つめていた。

 

「その『もしも』を起こさない為に、俺がここにいるんだ。万が一にもリゼに手が回ったら、すぐに俺が対処できるように。

 ···こういう言い方はしたくないが、俺が最大限に警戒している以上、みんなに出来ることは何も無い。むしろ、俺やリゼと関わりがあると万が一バレたら、そっちに被害が及ぶ可能性だってあるんだ。」

 

 そこまで言うと、理久は挙げていた手を下ろした。

 そして、静かながらも有無を言わさぬ厳格な口調で、言った。

 

 「リゼを心配してくれているのはよく分かった。

 だからこそ言っておく。これ以上この事について俺に話しかけることも、詮索することもするな。他でもない、リゼとシャロ自身の為だ。」

 

 シャロは言い返したかった。

 そう簡単に信用できる話じゃないんですと。

 しかし、理久の尋常でない雰囲気に気圧されて、何も言う事が出来ず、ただ拳を握りしめて黙っていた。

 

「···話は以上だ。俺は戻るぞ。」

 

 何も言わないシャロを見てもういいと判断したのか、理久はそう言ってシャロの脇を通り抜けた。

 シャロは最後に言うべき言葉を、その間に探した。

 

「···また明日······英語の授業で会いましょう。」

 

 結局出てきたのは、そんな何の変哲もない一言だった。

 理久は一瞬足を止め、すぐに言った。

 

「そうだな。小テストをやるから勉強はしておけ。」

 

 気が付けば、その口調は軽いものに戻っていた。

 シャロはただその場に立ち尽くしたまま、理久の足音が遠のくのをぼんやりと聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 シャロが我に返り、帰り支度をやっと整えたのは、17時を告げるチャイムが鳴った頃だった。

 どうにもならない虚無感のようなものが漠然と心を覆う中、ただでさえ小さな歩幅を更に小さくして校門に向かっていると、後ろから聞き慣れた声がした。

 

「お、シャロも今帰るのか?」

「り、リゼ先輩!?」

 

 思いがけずリゼに会ったことで、シャロの声が上ずった。

 同時に、モヤモヤとした心情が一瞬だけ晴れる。

 

「どうして先輩までこの時間に?今日は6限だから、授業は15時頃には終わってますよね?」

「あぁ、今日も部活の助っ人に呼ばれちゃってさ···」

 

 頭を掻きながら、はにかんで言うリゼを見て、なるほど、とシャロは納得した。

 

 リゼが憧れの存在であることは、何もシャロに限ったことではない。この学校の誰もが、リゼについて知っていると同時に、羨望の眼差しを向けている。それはリゼに欠点が何一つとして無く、何でもそつなくこなしてしまうからだ。それ故リゼは、様々な部活から助っ人に入ってくれ、とよく頼まれる。事実、リゼが助っ人に向かった部活内の技術、意識は、何処も格段に向上している。

 

「そうだったんですね···お疲れ様でした。」

「おう、ありがとう。

 ···で、シャロはどうしてこの時間まで学校にいたんだ?」

 

 今度はリゼに聞き返されて、シャロは思わず言葉に詰まった。

 

「せ、先生に、掃除を手伝って欲しいと言われたので···」

 

 一瞬の後、そんな言葉が口をついて飛び出した。私は何を言っているんだ、という脳内の叫び声は無視した。

 理久が教師としてここに来ているぐらいリゼは知っているという推測は立っていた。しかし、理久とあんな話をしていたことは、何故か言わない方がいい気がした。

 

「アハハ、そうかー、それは災難だったなぁ。」

 

 人の良いリゼは、当然こんなくだらない嘘をいちいち疑ったりせず信じてしまう。こういう所が誰からも愛される所以なのだろうと思う一方で、シャロはどこか不安を感じる。リゼにもし危険が迫っていても、彼女自身は簡単に言いくるめられてしまいはしないか。そんな不安がやって来てしまうのは、さっき理久と話したことが原因なのだろうと感じた。

 

「···先輩。」

「ん?どうした?」

「大丈夫ですか?」

「え?」

 

 思わず、そんな事を言ってしまった。

 シャロが自分の言った言葉を悔いていると、案の定リゼは首を傾げていた。

 

「···私、何か変なところあったか?」

「い、いえ!ただ、最近リゼ先輩頑張りすぎて、疲れてないかなって···い、いや、余計なお世話とは分かってますけど!」

 

 こうも自分の口から嘘が出るものだったかと、シャロは驚きながらまくし立てていた。

 リゼの身体に気を遣っているように言っておいて、結局は全部、リゼが何かに巻き込まれてどこかへ行ってしまうのが怖い自分の、自己満足で塗り固めた方便に過ぎないのだ。

 シャロがそんな自己嫌悪からくる呪詛を心の中で唱え続けていると、リゼはそんな事など知らず、華やかに笑ってみせた。

 

「なんだ、心配してくれてたのか?ありがとうな、シャロ。でも私は平気だよ。」

 

 そう言った後、少し頬を赤くして、照れくさそうに続けた。

 

「···今は皆も···兄さんもいるからな。」

 

 兄さん、という言葉を大事そうに言うリゼを見て、シャロの胸が痛んだ。

 

 リゼ自身は、理久のことをこんなにも信頼しているのだ。

 

 いや、きっと彼に信頼を置けていないのは、自分だけだ。

 リゼを守れるほど強くもないのに、その周りの人間を信じきれていない。間違っているのは自分なのだと、冷静な声が告げていた。

 

 

 ────これ以上この事について俺に話しかけることも、詮索することもするな。他でもない、リゼとシャロ自身の為だ。

 

 

 さっきの理久の言葉が、シャロの脳内で残響を伴って駆け巡る。

 自分に出来ることは何も無い。どう足掻いてもそれが真実だ。それを突きつけられた。

 それは、この状況になってもその件について何も言ってこないリゼの様子を見れば明らかだった。

 

「···そうですか。でも、くれぐれもお大事に、ですよ、先輩。」

 

 平静を装い、まるで普段と変わらぬ口調で、シャロはそう言った。

 

「ああ、ありがとうな。

 ······お、もうお別れか。それじゃあまた明日な、シャロ。」

 

 いつの間にかお互いの別れ道まで来ていた。夏の日差しを浴びて輝く紫髪を美しく揺らしながら、リゼはシャロに軽く手を振った。

 

「············」

「···?シャロ?」

 

 手を振るリゼに、シャロはしばらく何も言えなかった。

 

「また明日」。

 明日、という言葉が、こんなにも信じられなくて、空虚で、恐ろしく感じた事はこれまで無かった。

 少しでも気を抜けば、すぐに心が崩れてしまうほど、恐ろしかった。

 

「···何でもありません。では、また明日ですね、先輩。」

「あ、ああ。」

 

 痛む心を必死で押さえつけながら、精一杯の笑顔を作って、シャロはようやく手を振り返した。

 最後までリゼは心配そうにシャロを見ていたが、何も言わずに手を振るシャロを見て、考えるのをやめたようにゆっくりと歩き去っていった。

 

 その後ろ姿を悲しげな目で見届けてから、シャロも家に向かって重たい足を踏み出すのだった。




ダークな話は十八番(笑)。
ありがとうございました。
ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第14話 母と息子、そして宿命

お久しぶりです、らんちぼっくす。です。
遅くなったのは、学業が忙しかったのが主な原因です。
しかし、実際に素晴らしい作品を紡がれている方々の作品を見て、自分は果たしてこんなものを書く資格などあるのかと、モチベーションを下げていたのも原因の一つです。
今後も、せめて自分は恥じぬ文を書き続けていきたいなと思います。

それでは本編です。


「はー、やっと終わった···教師って大変だな···」

 

 夜の八時を回った頃、デスクに突っ伏しながら理久はぼやいた。

 本来ならもっと早くに帰宅出来たのだが、教頭に突然呼び出されて教育理念がどうだとかという長話を聞かされた挙句、面倒なプリント制作を押し付けられてしまったので、本来の予定より三時間は長く仕事をする羽目になったのだった。

 

(明日からもこれが続くのか···だとしたら戦場並みにきついぞ、これ)

 

 ぼうっとする頭で、そんなことを思った。

 

 

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 どうしてこうなったのかと言えば、それは一昨日の夜、書斎での話に起因する。

 

「つまり、だ。万が一敵の手が学校にまで伸びていたら、人の密集する場所故に、どこに敵の捜査員がいるかもわからない。さらに────これは杞憂だと信じたいが────もしもリゼの友人のことについて把握されていたら、例の四人の娘達も危ない。」

 

 神妙な面持ちで理央が話を進めている。

 

「そこで、タカヒロを含むこのメンバーで、なるべく広範囲にわたって怪しい人物を監視しておきたいんだ。

 タカヒロは、娘さんの通う中学に。ファビオは、ココア君、千夜君のいる高校に。そして理久は、リゼとシャロ君の高校だ。」

 

 パッと聞くと、あまりに突拍子もない作戦だと思える。しかし、極端な話、あらゆる場所に顔が広く財力も高い理央が取る手としては、確かに的を射ているのかもしれない、と理久は思った。

 

「もう、それぞれの学校の知り合いに頼んで、しばらくの休業と、それに際して臨時の教師として皆が入ることをその他の人間にも説明してもらった。

 ちなみに俺は、これからは基本的にそこの病院に寝泊まりする。理愛も心配だからな。」

 

 理愛、とは理央の妻────すなわち、理久とリゼの母親だ。

 昔から理愛は身体が弱く、入院と退院を繰り返す状態だった。

 しかし、その症状が決定的に悪化し始めたのは、理久が戦場に出て間もない時頃だった。元々身体の弱さとは別に心配症もあったからなのか、精神的なダメージも合わさった症状だったので、理久がどこにいるかも分からないことが気負いとなって身体を締め付けていたのだろう。

 理愛はその頃から、かつては家にいる時間より少なかった入院期間を徐々に長くしていき、今となっては家にほとんど帰れていないらしい。

 

 

 そんな状態なのだ。理央が傍にいるのは当然の事だろう。

 

「以上で説明終了だ。皆の健闘を祈る。」

 

 理央の厳粛な声がそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第14話 母と息子、そして宿命

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

「よう、理久。随分遅くまでこき使われてたみてえだな。」

「総隊長!?なんでここにいるんですか!」

 

 あれからさっさと帰り支度をし、校門をくぐろうとしたところで、そこにもたれ掛かりながら腕を組むファビオに声をかけられた。

 ファビオは怪訝そうな顔をして答えた。

 

「なんでもクソもあるか。あんだけ電話したのに気付かなかったのはお前だ。」

「え···」

 

 予想外の返答に、慌てて携帯を開く。

 そこには確かに、最近登録したばかりの番号からの不在着信が何件もあった。着信を示すバイブレーションはずっとカバンの中で起きていたのだろうが、普段なら気付けたその音にも気付けぬほどに、仕事に入り込んでいたらしい。

 画面を見つめながら呆然とする理久を見て、ファビオが呆れたようにため息をついた。

 

「···まったく、お前はいつも張り詰めすぎなんだ。何かやろうと一度決めたら、自分なんて顧みずにやりきってしまう。お前のいい所でもあるが、それは短所でもあるんだぞ。誰からの期待にも応えようとして、結局お前が倒れちゃ世話がない。」

 

 ため息混じりのその説教を一度切り、低い声で付け加える。

 

「ウィステリアの時もそうだ。あの後お前、全部自分の責任みたいな顔しやがって、誰の声も聞きやしなかった。あの件は仕方ない、どうしようもないことだったんだろう?」

 

 ウィステリア、という名を聞いた瞬間、理久の脳裏に美しい水色の髪の少女が浮かび、胸に悲しげな痛みを生みながら消える。

 

 ファビオは理久から、すでにウィステリア────智花の事情を聞いていた。なかなか心の晴れない理久を、なんだかんだ気にかけてくれていたのだった。

 

「いえ、あれは俺が気付いていれば···敵の異変をもっと早く察していれば、防げたことだったんです。俺のせいで、彼女は···」

 

 零れるように口から自分を呪う言葉を吐く。もう何度目か分からない。

 口を固く結び、拳を強く握る俺を見て、ファビオはまたも小さくため息をついた。このため息をつかせたのも、何度目か分からない。

 

「···まあいい。こんな話題じゃないんだ、俺が電話した案件は。」

 

 口調は少し軽くなっていた。

 

「理央さんがな、今奥さんに付いて病院にいるんだが、そこで同時に敵について調べてたんだ。そこで、敵軍の要注意人物のうち、何人かの面が割れた。その写真も手に入れたから見に来い、だそうだ。

 そろそろお前も、母親と会うべきだろうしな。」

「···なるほど、了解です。じゃあ急いでいきましょうか。」

「ああ。」

 

 母、という響きに鼓動が早くなるのを感じながら、理久は歩き出した。

 その鼓動は、不安と期待と、その二つが混ざりあったものだったはずだ。

 

 

 

 

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 理愛の病状の悪化は、理久に起因する────

 最初に理久が理央にその話を聞かされた時、果てしない罪悪感に襲われた。

 いくらこちらも心に余裕が無かったにしろ、あまりに生きる事に一所懸命で、周りへの気遣いなどまるで出来ていなかった自分を呪うしかなかった。

 だから、ここへ帰ってきてからすぐに理愛と会うことに、深く怯えていたのだ。

 結果的に無事ではあったが、あの戦いで失ったものの多さは、自分を自分たらしめていたなにかを破壊してしまった────そんな妄執に憑かれていた部分が、理久のどこかであったからだ。

 心のどこかで、母に見放されるのを恐れていたのだ。

 

 気付けばもう、実に重たげな病室のドアの前だった。

「天々座 理愛」と書かれた古ぼけたネームプレートが、静かで確かな存在を主張している。

 

(でも、もう逃げちゃいけない────)

 

 自分の不甲斐なさから、目を背けることはもうしてはいけない。

 そう覚悟し、スライド式のドアにゆっくりと手を掛けた。

 力を込めると、当然拒むこともなく、呆気なくドアは開いていった。

 

 病室の中には、二人の人物。

 ベッドの横に座る、父の姿と────

 

「···お、着いたか。おい理愛、来たぞ。」

 

「······来た?」

 

 ────ベッドに横たわる、ほっそりとした母の姿だ。

 

 一歩一歩、ベッドに近付いていく。やがて、すぐ隣に辿り着く。

 そこで、散々迷った挙句絞り出した精一杯の笑顔を向けながら、理久は言った。

 

 

「ただいま、母さん。······帰ってきたよ。」

 

 途端、理愛の顔が歪み、すぐに大粒の涙がその竜胆色の瞳から零れる。

 

「変わってないわ···理久、ちゃんと無事だったのね···」

 

 そして満面の笑みを浮かべて、力の限り理久を抱き締めた。

 理久は照れくさそうに笑いながら、心配かけてごめん、とゆっくり詫びた。

 理愛はそれに応えるように、理久を抱く力をよりいっそう強くした。

 それがきっと、理久に対する全ての言葉の代わりとなる、そんな答えだった。

 

(···生き延びて、後悔したことなんて山ほどあったけど)

 

 理久は心の底から思った。

 

(────やっぱり、生きててよかったな。)

 

 

 

 

 

 

 

 

「······さて、理久、そしてファビオ。そろそろ本題に入りたいんだが、いいか?」

 

 静かに先程までの光景を見守っていた理央が、ようやく声を上げた。

 このやり取りを見られていたことにようやく意識がいき、理久は慌てて理愛から顔を離した。

 

「ああ、そうだった。お願いします、理央さん。」

 

 ファビオが促すと、理央は小さく頷いてから、ノートパソコンを開いた。

 ダブルクリックの音が小気味よく響いてから、理央が画面を理久達へ向ける。

 

「···よくこいつらの顔を覚えておけ。いずれ敵対することになるかもしれんし、何よりこいつら、元々は殺し屋として裏で名の通った人間達だ。奇襲や騙し討ちなら、こいつらの十八番だからな。用心するに越したことはない。」

 

 理久はゆっくり、その画像の群れに目を向けていった。

 

「なるほど、敵の中にはA級の殺し屋の群れですか···。

 しかし、殺し屋は元々は軍属ではないでしょう?これらを従えるとは、一体敵軍のボスとは何者なのか···?」

 

 ファビオも写真を見つめながら呟く。

 理央は首を横に振って言った。

 

「残念ながら、これ程ビッグネームを従えるような男であるにも関わらず、黒幕についてはどれだけ探りを入れても何の跡もない。もしこうなることを見越して、何の話題性も起こさずにこの地位を手にしたのなら、とんでもない頭のキレだな。」

 

 とんでもない男がいたものだ、と理久が感じた、その時だった。

 

 その画像群の中の一人が、理久の目を釘付けにした。

 

(こいつは···!?)

 

 

 顔の半分を覆う、大きな傷。

 ふてぶてしい目。

 伸ばしっぱなしの無精髭。

 

 それは()()()果てしなく憎んだ、

 智花を殺した男の顔だった。

 

(···奴は殺し屋だったのか。)

 

 画像の横には、「ジル」と表記されていた。

 それが名前なのだろう。

 頭の中に、静かに恨みの炎が燃える。

 今にも何かを破壊したい、そんな衝動に駆られるほど頭が熱くなったとき────

 

 

「ただいま、夕飯買ってきたぞ···お、アルドミーさんも兄さんも着いたのか。」

 

 病室のドアをガラガラと開けて、リゼが入ってきた。

 

「あれ、リゼ、どうしてここに···」

「私が呼んだのよ。」

 

 疑問の声を上げた理久に、理愛が答えた。「久々に皆で食卓を囲みたかったの。病院の人には許可を貰ったから、ここで食べましょう。」

 

「ああ、それでは私はお邪魔ですな、失礼します···。」

「いえいえ、アルドミーさんもここにいらして。食卓は賑やかなほうがいいわよ。」

 

 空気を読もうと退散しようとしたファビオを、理愛が留めた。

 その有無を言わさぬような口調に、ファビオは頭を掻きながら、「ではお言葉に甘えて···」と再び席についた。

 

 

 

「···あら、アルドミーさん、うちの子がそんなにお世話をおかけしまして···」

「や、やめろよ、母さん!」

「ええ、ええ。本当に世話のかかる男で」

「あんたも余計な事言わないでください、総隊長!」

 

 コンビニの弁当や寿司を囲んで、理久達は賑やかに話した。

 互いに他愛もない笑い話を、かつて失われた時間を埋めるようにしあった。家族達と本当に楽しそうに話す理愛の顔は、実際よりもずっと若々しく、美しかった。

 

 やがて、そんな和やかさの中、笑いすぎで目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、理愛が言った。

 

「···やっぱり楽しいわね、大勢の人と、家族も揃って食卓を囲むのって。

 私も、早く退院して···ご飯も作って、それでまた話していたい。」

 

 母の言葉に込められた切望を感じ、理久の胸が締め付けられる。

 理愛は満面の笑みで、続けた。

 

「だから、私も頑張っちゃおう!こんな病気なんて、さっさと治して、また皆で楽しく話すんだから!」

 

 そう言いながら妙なファイティングポーズをとる理愛を見て、皆が思わず笑った。

 やっぱり、俺達の母はこんな人なのだ、と理久は思った。

 こんな何処までも奔放で、しかし強い人なのだ、と。

 

 

 

 

 

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 何度も繰り返される。悪夢のような、その映像が。

 智花は最後まで懸命にもがき、助けを求めている。しかしそれすら許さないとばかりに、凶弾がその華奢な体を貫く。

 涙が落ちる。無念の、悲しみの、怒りの────

 

 

「────ッ!?」

 

 ベッドから跳ね起きる。

 背中を流れる、嫌な汗の感覚に顔をしかめながら、理久はそのままベッドの上で体育座りになった。

 

 病院から帰った後は、正直記憶も朧である。

 疲労のせいでベッドに倒れるままに眠ってしまったような、そんな事だろうとは思うが。

 しかし、そんなクラクラの頭でも、あの悪夢のごとき一瞬は、ふとした拍子に馬鹿正直に現れる。

 

(······『ジル』。)

 

 智花を葬り、自分を嘲り、今もなお人を殺しているやもしれない、あの男。

 正体がわかったところで、疑問はやはり消えない。

 何故あの時、智花は殺されなければならなかったのか。

 何故理久は、殺されなかったのか。

 しかし、今はその事は重要なことではない。ただ今の理久には、燃えるような復讐心があるだけであった。

 

「お前はいつか、俺が······!」

 

 夜にも関わらず、蝉が煩く鳴いていた。




~病院にて(オマケ)~
理央「そういや理久、教師になってどうだった。」
理久「まあまあかな。英語なら慣れててやりやすいし。」
リゼ「ああ、兄さん凄く評判良かったぞ。『カッコイイ』ってさ。」
理久「そりゃ嬉しい。ところで、総隊長は···」
ファビオ「何も聞くなっ······!」
理久(···あ、強面のせいで距離置かれたな、これは。)
ファビオ「くっ···なぜよりによって女子高に···」
理久(わりと効いてんな、こりゃ······)

↑なんとなく入れたかった会話。
ありがとうございました。また次回。
ご意見・ご感想をお待ちしております。


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第15話 遠雷

こんにちは。すごくお久しぶりです。
覚えてる人がいるかもわかりませんが。
最近は書き方分かんなくて、もういっそ消してみようかとか考えたんですが、やっぱり一旦最後まで書きたいと思って、再開した所存です。
相変わらずの駄文ですが、どうかよろしくお願いします。


 夕暮れ時、蝉の音が少しずつ空気に溶けだすように収縮している。どうやら今年は例年より長く暑さが残るようだ。もう九月に入ったというのに、まだまだ夏と言って差し支えないほどに暑かった。

 仕事が終わり、リゼを家まで無事に送ってから、理久はぶらぶらと歩きながら、ラビットハウスに向かうべきか迷っていた。タカヒロの様子を見ておきたかったが、まだ学校から戻っていないかもしれないという考えもあったからだ。

 先にラビットハウスに行き、彼を待つという手もあったが、理久にはそれに迷う最大の理由があった。

 それがチノだ。

 チノの通う中学校は、ホームルームが午後三時過ぎには終わるらしい。理久はゆっくり時計を見た。

 午後五時半。それは、今のラビットハウスに確実にチノが帰ってきていることを示している。

 

(···彼女と、顔を合わせたら)

 

 自分は智花の話をしなければならなくなる。必然的にそうなってしまう。それを理久は分かっていた。

 しかしその準備がどうにも出来ていなくて、タカヒロと酒を飲んだあの晩から二週間経った今でも、意図的にチノと顔を合わせようとしなかった。

 だが、そうやって見て見ぬ振りをするのももう限界かもしれない、という思いは確かにある。だからこそ、理久は悩んでいたのだった。

 

「···あれ、理久さん?」

 

 そうして立ち止まって熟考する理久の後ろから、可愛らしい声が聞こえてきた。

 驚きと焦りで「ひっ」と情けない声を上げながら振り返ると、そこには買い物袋を持って、「何やってるんですか」と呆れ顔のチノがいた。

 

「チ、チノ···!?どうしてこんな所に?」

 

 大慌てでどうにか言葉を発する。

 チノはいよいよ変人でも見るような目で言った。

 

「コーヒー豆が足りなくなったので買いに行ってたんですよ···まだ父が帰ってきていないので、私が行くことにしました。今日はお店お休みですしね。」

「ああ、店休みだったか、今日。」

 

 そういえば今日は第一木曜日だった、と理久は頷いた。ラビットハウスは月の初めの木曜は定休日なのである。色々考えすぎて頭から抜けていた。

 

「···?うちに御用でしたか?」

「ん、あぁ、タカヒロさんと話せればいいかと思ったんだが、店がしまってるなら今度でいいさ。急ぎでもないからな。」

 

 理久がそう言うと、そうですか、とチノは頷いた。

 しかし、直後に何かを思い出したように、あ、と声を上げる。

 

「そうだ、理久さん、御用が無ければラビットハウスに来ませんか?」

「···え?休みじゃないのか?」

 

 理久が聞くと、チノは少し恥ずかしそうに答えた。

 

「いえ、その···私のコーヒーを、色んな人に飲んでほしくて···お客さんに出して恥ずかしくないものを作りたいですし···それに理久さんは、その辺のアドバイスをしっかりくれそうだと思ったので。」

 

 理久は少なからず困惑した。

 タカヒロと会うことを考えるなら、この誘いを受けてラビットハウスで待てばいい。しかしその間は、確実にチノと話をしなければならない。それは、さっきまでの逡巡の最たる原因だったのだ。

 最初はやんわりと断ろうかと思った。しかし、いざ断ろうとしても、特に上手い口実も浮かばない。ただ純粋に心を開いてくれているチノを、嘘をついてまで避けるようなことは、少なくとも理久には不可能だった。

 

「···分かった。お邪魔させてもらうよ。」

 

 出来るだけ迷いの色を感じさせないように、理久は言った。

 それを聞いたチノの顔がぱっと明るくなるのを見て、理久の心が少し痛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第15話 遠雷

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が落ちたのか雲がかかったか分からないが、とにかく辺りは明るさを失いつつあることが、木目のテーブルを凝視しているとよく分かった。そこに何があるわけでもなく、理久はただ目を動かす一切の余裕すら失っていた。

 

「···お待たせしました。」

 

 しばらくすると、コーヒーサイフォンの方からチノがお盆を持ってやってきた。盆の上にコーヒーカップを一つ乗せている。

 

「こちら、当店のオリジナルブレンドです。」

 

 そう言いながら、そっとカップをテーブルの上に置いた。気持ちの乱れをできるだけ悟らせないように、静かに「ありがとう」と言って理久はそれを手に取った。

 香ばしく、鼻をよく抜ける香りが漂う。

 その香りに、不思議に自然と導かれるようにして、コーヒーを口に含んだ。

 そして直後、理久は少なからず驚いた。特有の苦味が確かにあるのに、不思議なほど飲みやすく、最後の一瞬にほんのりとした甘みさえ感じた。

 中学生の少女が作ったとは思えない、深みのあるコーヒーだったのだ。

 

「···美味い。」

 

 さっきまでの逡巡とは全く別の所で、理久は本心からそう言った。

 

「···!本当ですか?」

 

 思いがけず、理久が零すように言った感想を、チノは顔をほんのり赤くして喜んだ。褒められて喜ぶその姿は、やはり年相応だと理久は思った。

 

 ────そうだ。まだ中学生なんだよ、この子は。

 

 本来ならばまだ、若さゆえの綻びも、弱さも、見え隠れしていい年頃だ。

 けれどチノは、それを無理にでも押し殺しているのだ────母も姉もそばにいないから。

 まだ純朴な13歳の少女。そこへ理久は、残酷な現実を告げないといけない。

 慕っていた姉がもうこの世にいないことがどれほど壮絶なものかは、理久には痛いほどによく分かっていた。自らもまた小さい頃から人の死を見てきたからだ。

 でもだからこそ、この事をずっと曖昧には出来ないのだ。でなければ、チノは一生自分を押し殺して生きることになる。

 

「······なあ、チノ。」

「···?はい?」

 

 重い口がゆっくり開いていく。

 言葉はもう喉元まで来ていた。

 

「実はな······」

 

 もう言葉はすぐにも飛び出る。

 あと5センチ、4センチ、3センチ────

 

 その時、ドアが揺れて鈴の音が鳴った。

 反射的にドアを見ると、そこにはタカヒロが静かに立っていた。

 タカヒロは理久を見て少しだけ驚いたように瞬きをしたが、すぐに目をチノへ戻した。

 

「ただいま、チノ。留守番ありがとう。」

「はい、おかえりなさい、お父さん。」

「理久君も来ていたか。私に用かな?」

 

 理久はきまり悪くも首肯した。

 

「じゃあ場所を変えようか。私の部屋へ来なさい。チノはここで待っていてくれ。」

 

 もう一度頷いて、理久は席を立った。そして、不思議そうな顔でこちらを見ていたチノに少し目を向けて、すぐ逸らした。

 

 

 

「···チノと、何か話を?」

 

 本人のイメージに違わず、整頓された静かな部屋に理久が入ると、タカヒロが紅茶を差し出しながら聞いてきた。

 

「いいえ。」理久はできるだけ平静を装ってカップを受け取り、そう返した。「特に何も。」

 

 実際のところ、話の腰を折られたやるせなさと、あの告白をせずに済んだ安堵とが入り混じり、とても心中穏やかとは言えなかった。しかし、その話をタカヒロの前でする気も無かった。

 そんな理久の考えを、タカヒロは知ってか知らずか、ただ一言「そうか。」とだけ言った。

 

「それで、今日来た要件は何かな?」

「ああ、そうでした。」

 

 理久は紅茶のカップを口につける。

 そして、声を低くして言った。

 

「···ここ最近の、敵の動きについてです。」

「ああ···確かに私も気になってはいた。」

 

 夏休みが明けて、既に二週間近く経過している。

 元々は、その間に敵が何かを仕掛けてこないかの偵察のために教師に扮していた。しかし、この二週間に目立った事件はまるでなく、敵は不気味な程にその鳴りを潜めている。

 

「事件どころか、怪しい人物の一人すら挙がっていないですから。」

「私の所も、かなり目を光らせているが、怪しげな気配は一切無い。まるで、我々の内情を奴らが知っているように、な···」

 

 頷きながら、理久はもう一度紅茶を喉に流し込んだ。薄い酸味の刺す真紅の液体は、すでに温くなっていた。

 

「一応、この話は親父とファビオさんともしていました。実際には学校以外で俺たちを狙っている人間がいるかもしれませんし、警戒は解かずにいきましょう。」

「ああ、肝に銘じておこう。」

 

 話が一段落つき、理久は席を立とうとした。

 その時、窓から漏れる灰の光が、ふと目に入った。

 夕立だろうか。雨の匂いが微かに部屋を撫でた。外を見ると、大きな雲は離れた所のようで、この辺りはまばらな雲がかかるばかりだった。風に煽られてめまぐるしく動いている。

 

「···急に来ましたね。」

「家まで送っていこうか?」

「いえ···まだ本降りじゃない間に、急いで帰りますよ。それじゃあ。」

 

 そう言って鞄を持ち上げ、部屋を出ようとする理久に、タカヒロは微笑みながら「そうか。わざわざすまなかったね。」と言って見送った。

 

 部屋を出て、コーヒーの香り漂う店のスペースに戻ると、チノが黙々とカップを片付けていた。

 

「あ、理久さん···お話は済んだんですか?」

 

 チノが理久に気付き、少し笑って声を掛ける。

 理久は上手く口が動かなかった。一度勢いを奪われれば、もう二度と出ては来ない。罪悪感と居心地の悪さに苛まれながら、さっき言おうとした真実はまた隠れてしまった。

 

「···ああ。用も済んだから、俺は帰るよ。コーヒー、ご馳走様。」

「え?は、はい、ありがとうございました···」

 

 理久はできるだけチノを見ないようにしながら、そそくさと逃げるように店を出た。チノはその様子に呆気に取られたように、ただ理久の後ろ姿を見ていた。

 彼女の首元に、ネックレスが不安げに光っていた。

 

 

 

 

 

「······俺の臆病者。」

 

 帰り道の途中、理久は一人呟いた。

 少しずつ強くなる雨も、自分への不甲斐なさのために、全く気にならなかった。

 

(やっぱり、俺は···)

 こういう人間なのだ。そう思う。

 自分の行動の選択に自信があるなら、多少無理をしてでも────それこそ、タカヒロがいる前であってもあの話をすればよかった。でも、常に自分を疑い、人を疑い、その奥の真実性すら疑って────そうやって生きてきたから、行動はなにかに背を押されなければ現れない。ふとした事で脆弱な覚悟は崩れ去っていく。

 それが、天々座理久という人間だった。

 

 家に帰って、ため息混じりに靴を脱いでいると、見慣れない特大サイズの靴があることに気づいた。

 それを見ると誰なのかすぐ分かってしまうのが妙に面白い。

 理久はソファーで恐らくくつろいでいるであろう男の姿を思い浮かべながら、リビングのドアを開けた。

 

「おお、理久、帰ったか。」

「はい。やっぱ来てたんですね、隊長。」

 

 そこには予想通り、ソファーの背にもたれかかっている、ファビオの姿があった。

 

「ああ、まあ大した用じゃない。ざっくりとした任務報告に来ただけさ。」

 

 そう言うとファビオは、どっこらせ、と立ち上がった。

 

「さて、少し休めたし、そろそろ俺は帰る。

 失礼しますよ、理央さん。」

「ああ、ご苦労さん。」

 

 ファビオがデスクにくっ付いている理央に声を掛けると、くたびれた声で返事が飛んだ。

 そうして、今度は目の前の理久に軽く手を上げてから、ドアの方へ歩いていった。その後ろを「お送り致します!」と叫びながら暑苦しく追いかける黒崎の姿も、もはや見慣れたものだった。

 

「あれ、そういや親父、今日は帰ってきてたのか?」

 

 ふと、普段病院にいる理央が家にいることに気づき、理久は尋ねた。

 理央は相変わらずぐだぐだの声で答えた。

 

「ああ、病院から理愛の一時退院許可が出たからな。今日は久々の自宅だ。理愛は疲れてるから先に寝てる。」

「お、そりゃ良かった。俺も帰ってきたし、そろそろ母さんも良くなるといい···な···」

 

 自分でそう言いながら、理久は言葉に詰まった。

 帰ってきた、などと、自分は軽々しく言える立場だろうか。

 少しばかり、平和に気を緩めすぎてはいないか。そんな感覚が胸をよぎる。

 それでもお前は生きてここに来たのなら、それでいいじゃないか、と言われればその通りだが、それでも理久はその考えが、何故かとてつもなく危険に思えてならなかった。

 今すぐにでも恐ろしいことが再来しそうな、そんな予感がするのだ。

 

「···どうした?」

 理央がその様子を見て聞いてくる。

 

「あ···いや、何でもない。」

 

 理久ははっと我に返って、ふと目についた菓子の皿を片付けにいった。

 

 理久はこの逡巡を思い過ごそうとしていたが、不思議なことにこういう予感は当たってしまうものだ。

 やがて、まだ遠い雷鳴が届き始める。

 

 

 

 

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 黒崎の堅苦しい見送りから半分逃げるように、ファビオは通りへ出ていた。普段から陰気な上に今日は雨も降っているので、人の一人も見当たらない所になっていた。

 雨は地を強く叩く。自分の方がどうにか収まるくらいの大きな傘をさしながら、ぼんやりと歩いていた。

 彼はここ最近、頻繁に天々座家を訪れては、例の重要人物の顔写真を何度も見返していた。────自分でも、訳が分からないのに。

 知っている人間がいるでもなし、今すぐ見つけて先に潰してやろうと躍起になっているでもなし────ただ何故か、どこかに既視感に似た違和感があって、何度も見返している。

 

 この感覚は、自分だけのものなのだろうかと、ファビオはふと思った。

 理久はおろか、タカヒロや理央さえも、何も感じていないのだろうかと。

 漠然とした不安が、胸をよぎる。

 頑健なその体が、今は雨さえも重たく感じていた。

 深いため息とともに、さっきまでの天々座家でのことを振り返った。

 

 理央の帰宅や、上品なカップなど、どうでもいいことを思い出していく過程の中で、記憶は例の顔写真リストに届いた。

 一人一人の写真を、脳内でゆっくり構築していく。そして、それを脳の掲示板に張り付ける────。

 

 

 その時、電撃が走った。

 それは、これまでファビオを囲っていた違和感に、最も近づいたという印だった。

 そして出来たその仮説を、体の震えとともに脳内で整理する。

 その中で、再び電流が走った。

 自分の考えは、あくまで直感であることに間違いはなかった。断定するには証拠もない。

 それでも、この直感が当たっていれば────

 

「まさか···黒幕は···!」

 

 口から衝撃の欠片が溢れた。

 そしていても立ってもいられず、踵を返して全力で走り出そうとしたとき────

 

「あらら、気付いちゃったか。元フェルティシア軍総隊長────アポロさんよ。」

 

 不気味な笑いを含み、しかし禍々しい声が、すぐ真後ろを塞いでいた。

 男は顔に巨大な傷を持って、悪趣味な笑みを浮かべていた。

 あのリストを見続けていたファビオは、すぐにそれが誰かわかった。

 

「···俺に何の用だ、『殺し屋』ジル。」

 

 ジルは、ニヤついた口角をさらに上げた。

 

「光栄だねぇ、俺のことを知ってたか。

 ···てことは、俺がここにいることが何を意味するかも、大体わかるだろ?

 

 

 

 

 

 

 俺はあんたを、殺しに来たのさ。」

 

 言うが早く、何のためらいもなくジルは拳銃を抜き、そのまま引き金を引いた。

 ファビオはとっさに身をねじった。が、瞬間、弾は脇腹を貫いた。焼けるような痛みと、血の吹き出す感覚が襲う。銃口の向きから完全に外れたかったが、不意打ちへの対応がほんの一瞬遅かった。

 ファビオは舌打ちしながら、ジルにそのまま突っ込んだ。

 ゼロ距離なら、拳銃は上手く使えない。一発目を撃った後の隙をついて、間合いを詰めながらのタックルを仕掛けたのだ。

 そのまま密着し、強引に力でジルを投げ飛ばした。ゴミ箱の山にジルが突っ込む。

 それを見てから、ファビオは脇腹を押さえながら全速力で逃げ出した。今は武器の一つもない。このまま戦って、『殺し屋』に勝てるはずはなかった。手頃な袋小路へと逃げ込む。

 

 ジルは、ゆっくりとゴミ山から起き上がりつつ、その後ろ姿を眺めていた。

 

「···さすが、あの戦いを唯一マトモに生き残った男だ。いきなり撃たれてノータイムでタックルとは···面白い。」

 

 やはり、その顔は醜く笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ファビオはとにかく走った。

 とにかく一刻も早く、理央たちの耳に知らせておかないといけない。今手を打たねば、最悪の事態となってしまう。

 やがて曲がり角に差し掛かった。ここを曲がれば、あとは天々座家までわずかな距離の直線だ。速度を上げ、角を曲がる────

 

 ────瞬間に、黒い影が横から入ってきて、ファビオの足を払った。

 

「ぬぉっ······」

 

 突然やってきたそれに、ファビオはなす術なく派手に地面に転げた。

 ジルではない、とすぐに感じた。いくらあの男といえど、こんなすぐに追いつくのは無理なはずだった。

 

「くそっ···」

 

 何者だ、とその顔を見上げとした次の瞬間には、今度は胸のあたりを貫く衝撃が走った。

 すぐに胸を撃たれたと分かったが、もう遅い。声を上げる間もなく地に倒れ伏した。

 

「悪いが、俺は長話をする性質じゃないんだ···ジルと違ってな。」

 

 真上から重たい声がするのを、ファビオは絶望感とともに聞いていた。そしてそれを聞いて、その声の主に大体の察しがついた。

 声の主は続ける。

 

「まあしかし···直感と偶然の賜物とはいえ、俺にたどり着いたんだ。その褒美に、正解発表くらいはやってやらんとな。」

 

 そう言いながら男は、ファビオの首根っこを掴み、強引に顔をすぐそばに引き寄せた。

 そしてそのまま、ファビオの眉間に銃口をあてがった。

 ファビオはそうして、ようやく男の顔を見た。

 

 それは察した通りの人物だった。

 しかし、それでも少なからず、ファビオは衝撃を受けていた。

 

「···本当に······あんた、だったか······」

 

 声をやっと絞り出す。

 それはこの状況を打破するには、絶望的に弱々しいことを物語っていた。

 

 男は、にこりともせずに言った。

 

「正解おめでとう────アポロ。」

 

 直後に、もう一発の銃声が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

「···遅いぞジル。こいつを逃がしてたらどう責任を取らせたことか。」

「失礼、ボス。しかしあんたが出たのを知ってたから、俺もゆらりと歩いて来ていただけさ。」

 

 一分ほど後、路地には二つの影があった。

 雨と暗黒に包まれて、誰一人その顔は見えない。

 

「···まあいい。面倒なのはここからだ。お前は余計なことをするなよ。」

「へいへい、それじゃ失礼。」

 

 そうして影の一つは風のように去った。

 もう一つの残った影は、真後ろの血を流したファビオの遺体を、ただ眺めていた。

 

 木組みの街に、この日最初の雷鳴が響いた。




もう色々わからない。これで合ってたかとか、大分不安ですがよろしくお願いします。
ちなみに忘れてる人もいると思うんですけど、ファビオ=アポロです。そういう設定です。紛らわしくてごめんなさい。


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第16話 灰と藤

こんだけ長いこと休んでたのに、投稿したら感想頂けて凄く嬉しいです。ありがとうございます。
評価や感想など頂けると、ものすごくモチベーションが上がります。
今後も、拙い文ですが、どうかよろしくお願いします。


 家の近くの路地裏で、男が一人死んでいたという知らせは、その次の日の朝には天々座家に届いていた。

 疑問、恐怖、悲愴────各々思う所はあったが、家族全員が皆一様に抱いていた感情が、一つあった。

 

 それは、もう平穏は戻ってこないのだという、そんな絶望の始まり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第16話 灰と藤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 定休日明け、いつもはそこからコーヒーの香りが早くから漂っている。しかしその日は朝から、ラビットハウスにclosedの掛札があった。

 

 チノが目を擦りながら階下へ降りると、既にタカヒロが出かけ支度を整えていたので、チノは慌てた。

 

「お、お父さん!?私、寝坊してしまいましたか···?」

「ああ、チノか、おはよう。大丈夫、そういう訳では無い。」

 

 タカヒロは穏やかに諭したが、その声に力がなく、虚ろであることをチノは感じていた。

 

「···お父さん···?なにか···あったんですか?」

 

 恐る恐るチノが聞く。

 タカヒロはその虚ろな声のまま、答えた。

 

「···昨日のことだ。この街で、殺人事件が起きた。」

「···っ!?」

 

 予想をはるかに超える内容に、チノは思わず口元を押さえて立ち竦んだ。

 

「しかも、死んだ男は、私の知り合いだった。────頼りにしていた男だったんだ。」

 

 タカヒロは静かに唇を噛んだが、すぐに元に戻した。

 

「────今日は危険だから、街の学校は全校休校だ。チノも今日は、ココア君と家に居なさい。

 決して外へ出るんじゃないぞ。」

 

 いつになく強い口調で、最後の一言が加えられた。

 チノはただ気圧されてしまって、恐怖と不安の中で黙って頷いた。

 そして、ついでに零れたように、小さく聞いた。

 

「お父さんは···どこに行くんですか?」

 

 タカヒロは、何も見えていないような虚ろな目でチノを見ながら、しばらく黙った。

 そうして長い間を置いて、やっと答えた。

 

「リゼ君達の家だ。彼女達に用がある。

 ···それじゃあ。店も今日は閉めたから、大人しく待っていてくれ。」

「···ちょっ、お父さん!」

 

 走るような口調で言い切って、チノの呼びかけにも答えず、タカヒロはそそくさと出ていった。

 残されたチノは、ただ立っていた。

 ただこの先、自分たちとこの街がどうなってしまうのかという恐怖で、立ちすくんでいた。

 

「ふわぁ〜···チノちゃんおはよう···

 ···あれ?お父さんは?」

「·········」

 

 だから、緊張感の欠片もなく寝ぼけて出てきたココアに、呆れる反面安心していたチノだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────天々座家。

 外で時折強い風が吹くので、この巨大な家は風の音を捉えてはうるさく響かせる。

 

「···このタイミングでファビオが殺されたのは、やはり特殊な事情があったんだろうな。」

 

 差し出された茶には手も触れず、タカヒロはそう言った。

 理央はそれに頷いて、言った。

 

「ああ、ここでアイツだけを殺すというやり方は、あまりに雑すぎる。元々俺達を狙っている連中ならば、一緒に俺たちを殺そうと動けばよかった。なのに、敵は俺達に目もくれず、ファビオだけを殺したんだ。

 敵は露骨に、最後に俺たちを何かに利用してやろうという意思があることを知らしめていると言っていい。」

「そして殺された隊長は、敵軍にとって不利益な情報、秘密の何かを知ってしまった────そう考えるのが妥当だな。」

 

 理久もそう付け加えた。

 そして、隣で俯いて黙っているリゼを見る。

 

「リゼ、お前の周りに怪しい人間はいるか?」

「·········」

 

 リゼは相変わらず黙ったまま、ただ首を横に振った。俯いたその顔は、表情すらも読み取れない。

 理久はそんな見るに堪えない様子を見つめながら、「そうか」と言った。

 ファビオの死が知れてから、リゼはずっとこうだった。小さく肩を震わせて、時々絞り出す声は泣きそうだった。

 どれ程の恐怖と、今リゼは向き合っているのか。それは理久に分からない感覚であって、だから不憫でならなかった。

 

「なら、敵のいる場所は大体分かってきたんじゃないか?」

 

 その心をひた隠しながら、理久はそう言った。

 それにタカヒロが頷く。

 

「まあ、そうだな。ファビオの行動や思考を正確に見切っているんだ。アイツと同じ潜入先の高校に、恐らくは黒幕に近い人物もいるだろう。

 とすると、ココア君、千夜君が危ない。この人物関係くらい、敵は見抜いているだろうからな。」

 

 そして、徐ろに立ち上がり、続けた。

 

「彼女達には、極力不安にさせないように呼びかけておこう。ココア君を通じれば、千夜君にも話が行くだろうからな。

 ···それじゃあ、私はそろそろ行こうと思う。が、その前に···」

 

 タカヒロは理久に向き直った。

 

「理久君、ついてきて欲しい場所があるんだ。いいかな?」

「······俺に、ですか?」

 

 理久は内心疑問だったが、断る理由もないので、「分かりました」と静かに答えた。

 タカヒロの後に続いて席を立とうとする。しかし、その袖を誰かの手が引いて、止めた。

 理久が驚いてそちらを見ると、リゼが涙目で理久を見つめていた。

 それを見て、理久の心が激しく痛んだ。

 

「···タカヒロさん、少し時間をください。」

 

 気が付けば理久はそう申し出ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「···大丈夫か、リゼ?」

 

 理久は自室に戻り、リゼと向かい合った。

 相変わらずリゼは俯いていたが、その顔を埋めた枕が濡れているのが見えた。

 

「···逃げようよ、兄さん。」

 

 やがて、涙声でリゼが言った。鼻をすする音が混じっている。

 

「あの、アルドミーさんまで···あんなに強いのに、あの人まで、死んだ···なのに、なんで兄さんが、戦わなくちゃいけないの?」

「リゼ···」

 

 リゼの声はますます悲痛さを増し、叫びに近いものになっていく。

 

「おかしいっ···!こんなの、おかしい···何で、会えたのに···また離れなきゃいけないの!?今度離れたら、それこそ生きて帰ってきてくれるかわからない!」

「リゼ、俺は平気だから···」

 「私だってもう子供じゃない!兄さんが死を覚悟してることなんて、とっくに分かってる!でも、だからってそれを認めなきゃいけないなんて、そんなの嫌!兄さんだって、心のどこかでは死にたくないって思ってる!」

「·········」

 

 宥めようとする理久を遮り、リゼは叫ぶ。

 その叫びが痛いほど核心をついていて、理久は思わず何も言えなくなった。

 そう、理久自身も、気付いてしまっていたのだ。自らの生への渇望、この日常の不易への懇願に。

 恐ろしくて見て見ぬ振りをしてきたが、ここに来てようやく、それがどんなに強い思いだったのかを自分で思い知った。

 死が怖い。生きたい。家族といつまでも居たい。

 それはどこまで行っても続く思いで、もう抑えることも困難な程だった。

 リゼは泣き濡れた顔で続ける。

 

「だから、逃げよう···皆でいつまでも逃げようよ。無理に戦うことないよ···。」

 

 そうして、彼女はまた俯いた。

 初めて見るリゼの様子に、理久はただ後悔の念が募った。

 鈍い、と思った。恐怖の感覚が、自分はあまりに鈍いと。

 それは理久が、恐怖を罪とする場所で生きてきたからだ。恐怖を表に出せば萎縮する。萎縮は隙になる。隙は死を招く影になる。

 だからこうして泣くリゼと向き合うまで、彼女がどれほど恐ろしい思いをしたのかなど、感じる余裕もなかった。感じるという機能を捨てていた。

 自分が生んでしまった彼女の恐怖はこれ程のものだったのだと、今の今まで気付けなかったことこそ、自分の罪なのだと、理久は激しく後悔した。例えそれが、致し方なく自分で選んだものであろうとも。

 

(······でも、だからこそ)

 

 逃げてはいけない。そう思った。

 あの戦いで得たものはあるかと問われれば、理久はこう答えるだろう。

()()()()()()()()()()()」だと。

 

「────リゼ。」

 

 リゼの頭に優しく手を置いて、理久は言った。

 

「ごめんな。これまでずっと、悲しい思いをさせて、怖い思いをさせて、それに気付きもしなかった。

 そうだよな。戦いたくなんてないよ、誰も。誰も死にたくないんだ。当たり前だったんだ。」

 

 くしゃくしゃと、艶やかな紫の髪を撫でる。

 

「でもな、逃げ続ける方が、俺はずっと苦しい。俺の不手際で、みんなを危険に晒し続けて、漠然とした不安を一生与え続けるのは嫌なんだ。みんなでまた、翳りのない日常に戻りたいんだよ。

 ···その為に戦うんだ。幸せだと心の底から笑えるくらい、戦わなくて済む未来のために戦うんだ。」

 

 撫でられたまま、リゼは首を振る。

 

「でも···兄さんが死んじゃったら···私は生きててもずっと悲しい···」

 

 理久は懐かしい笑みを浮かべた。

 

「大丈夫、俺は死んだりしない。

 いつでもそばに居る。前にそう言ったろ?」

 

 優しく、柔らかく。

 しかし、強く、真っ直ぐに。

 真摯に向き合う。昔の自分を経由して。

 

「辛いだろうし、怖いだろうけど···あとほんの少しだけ、信じてくれないかな?」

 

 リゼはしばらく何も言わなかった。

 張り詰めた空気が充満し、やがて、糸を紡ぐように言葉を零した。

 

「やってみる···けど、私だって、怖いものは、怖いから···受け止めきれるかは、まだ、分からない···」

 

 理久は穏やかに、「今はそれでいいよ」と返した。「今はまだ、俺は確かにそばにいるから。」

 

「とりあえず、俺はタカヒロさんのところに行くよ。また後でな、リゼ。」

「···うん。」

 

 顔は上がらずとも、少し空気の軽くなったリゼに背を向けて、理久は外に出た。

 これからタカヒロに向き合うことになる。

 彼が何を見せようとしているかは分からないが、とにかく今は自分のすべてに誠実であろうと、理久は強く思って、玄関へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

「···降りたまえ。」

 

 タカヒロさんの車に揺られて、一時間は行ったろうか。ようやく車が止まった。道中、ここまでの遠出をしてチノ達は平気なのかと聞いたが、天々座家のボディガードを何人か家の辺りに置いたらしい。

 

「ここは···?」

 

 周りを見ると、どこまでも草原が続いている。

 建物の一つさえ、どこにも見当たらなかった。

 

「行くぞ。」

「えっ?ちょ、タカヒロさん!」

 

 何も言わず歩いていくタカヒロを、理久は慌てて追った。

 五分近く進むと、ようやくなにかの影が見えた。先を行くタカヒロは、その影の前に立ち止まっていた。

 目を凝らしながら近付くと、だんだんとその輪郭は明瞭になっていった。

 

「···墓······?」

 

 石の積まれたその小さな物は、どうやら墓のようだった。

 

「そう、墓さ。」

 隣でタカヒロが言った。

 

「智花の墓だ。」

 

 その名を聞いた瞬間、理久の心が大きく跳ねた。

 このごろ何度も現れては消える、美しい幻影が再び見える。

 

「チノに分からないように、こっそりと建てたんだ。その為に、こんなに遠くになってしまったが。」

 

 そう言いながら、タカヒロはカバンから花を取り出した。墓石の上に置かれた小さな花瓶に、その花を生ける。藤によく似た、甘い蜜のような香りがした。

 彼が手を合わせる。それに合わせて、理久も手を合わせ、目を閉じた。

 暖かい風が吹いた。

 智花の姿が脳裏に蘇る。彼女にはもうずっと会っていないのに、その姿は鮮明だった。

 心の底から、謝罪と感謝を伝える。言葉で言わずとも分かるくらい、はっきり。

 あの時君を守れなくて、伝えなきゃいけないことも伝えられなくて、本当にごめん。

 それでも、君のお陰で、今僕はこの生きる一瞬を幸せだと思えています、と。

 

「···私と、妻はね。日本の病院で会ったんだ。」

 

 やがてタカヒロが顔を上げて、墓を静かに見つめたまま、にわかに語り始めた。

 

「最後の戦いで、命からがら生き延びて、日本へ帰国して···今でも後遺症が残っているくらい、ズタズタの体になった。

 それで、もうこれから先の人生への希望も持てなくて、どうしようもなくなっていた時に────同じ病室に、同じくらいの歳の女性がいたことに、気付いたんだ。」

 

 タカヒロが懐かしそうに微笑むのを、理久は不思議な思いで見つめていた。

 

「彼女はどうにも不思議な女性だった。生まれつきで身体が弱いと医者が言っていたが、何故だかいつも明るかった。

 ···ある日、ついに我慢出来ず、直接彼女に聞いたんだ。どうしてそういつも笑ってられるのかってね。

 答えを聞いた時、思わず笑ってしまった。当たり前のような顔をして、逆に私を変なものでも見るみたいに『今楽しいんだから、そりゃ笑えますよ』って言うんだ。将来自分がどうなるかなんて不安を、微塵も抱えてはいないみたいだった。」

 

 話を聞く内に、理久はその女性に、智花の面影を感じてならなかった。智花もこんな快活さを持っていた。

 タカヒロは続ける。

 

「でもそれは、私がその時持っていない強さだった。その言葉で、私は救われた気がしたんだ。これは思い過ごしかもしれないが、その時を境に私の傷の経過も良くなっていった気さえするんだ。そして、そんな強さを持った彼女に、私は惹かれていった。

 その内に、退院時期が同時なことや、家が近いこと、趣味が似てること···色んなことがわかってきて、自然と私たちは結ばれていた。

 

 ···だが、チノが生まれてから、妻の病状はどんどんと悪化していった。結局妻とは、その後死別することになる。

 でも妻は、それでも死の前まで笑っていたんだ。『本当に幸せだった』って言ってな。

 思い返せば、彼女が笑うのは、幸せな時ばかりだった。幸せが彼女の笑みを作るのならば、それは、私がいる事で少しでも幸せになれた、その証なんじゃないかと、今はそれだけを期待しているんだ。」

 

 そして、そのまま理久を見る。

 

「私は特に神など信じてはいない。でも、彼女に会えたことだけは、天命であったように思う。一生かけても二度と会えないような、奇跡のような人は必ずいるのだと思っている。

 ···智花は、手紙の中でよく言っていた。『運命と思える出会いがあった』って。君も実際、智花を好いてくれていた。だから、親の私の目からすれば、君たちにはきっと運命があって、いつか結ばれなきゃならなかったと、勝手ながらも思っていた。」

 

 神妙な面持ちで、タカヒロは理久をじっと見据える。

 

「すまなかった、理久君。もっと早く、君が来たならすぐにでも、私は君をここへ連れてくるべきだった。

 ただ、もし君がここに立つ姿を見れば、もう決して叶わない未来に、君と智花を重ね合わせてしまうと思った。そうして自分が弱くなっていくのが、たまらなく怖かった···。

 君には、申し訳ないことをしてしまった。」

 

 理久は首を振った。

 

「いえ、そんなことありません。俺だって、これでも自分の命を懸けて生きてきたんです···自分の弱さを自覚してしまう怖さなんて、分かりきってます。」

 

 その弱さから、自分は智花に救われた。それもまた真実だと、理久は目を瞑る。

 

「それに、タカヒロさんが言ってくれなきゃ、俺は今後一生智花に会えなかった。感謝してもしきれるものじゃない。」

「···甘い男だな、君も。」

「ええ、自覚してますよ。」

 

 タカヒロが一度、大きく息を吐いた。

 そして、強く目を閉じて、開いた。震えるような覇気があった。

 

「私はね、理久君···もし何か一つ恨んでいるものがあるとするなら、それは特定の誰かじゃない。

 人の悲劇を導く狂気、その根本────つまりは、この戦いそのものだ。

 もう、誰を傷付けることもなく、この戦いだけを消し去ってしまいたい。

 ···朝の事件を経て、覚悟が決まった。もう二度と戦わなくて済むように、戦う覚悟が。」

 

 理久はただ、黙って頷いた。

 同じ覚悟を持っている。この人と自分は、同じ覚悟にたどり着いている。

 恐らくどこまでも苦しい戦いに、突っ込んでいく覚悟を決めている。

 

「私は、どこまでも行こう。それで平和がやって来るなら。

 それが私の『残されたわずかな時間』の生き方だ。」

「···俺も、そうしますよ。もうリゼを苦しませないように戦うと、誓いましたから。」

 

 二人は、目も見ないで佇んだ。

 そして最後にもう一度、どちらからともなく、目の前の小さな墓石に手を合わせた。

 

 また風が、二人の服をはためかせ、僅かに衣の擦れる音だけが草原に舞った。

 

 

 

 

 

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

「チノちゃん、お父さんの部屋って入って平気なのかな?」

「父の部屋、ですか?」

 

 窓拭きを終えたココアがそう言うので、チノは少し考え込んだ。

 父もおらず、友人とも会えず、店も開けないとなれば、特にすることもない。ココアと二人で遊ぶにも限界があるので、どうせなら家の掃除でもしておこうということになって、今に至る。

 が、いざ掃除をするとなると、チノが掃除をするのは店のスペースと、自分の部屋くらいで、タカヒロはタカヒロで自ら部屋を掃除するので、その部屋に掃除で入ったことは無かった。

 

(勝手に入ったら、怒られるかな···?)

 

 少し迷う。しかし、こういう時くらい、父の手伝いもしておこうと思い、チノは一人頷いた。

 

「多分いいとは思いますが···その部屋は私がやりますよ。一応、父のことは私の方が分かってると思いますし。ココアさんはこの場所代わってください。」

「そっか、じゃあそっちはチノちゃんに任せるねっ!」

 

 そんな話し合いを終えて、チノは父の部屋へと向かっていった。

 

(···そういえば、お父さんの部屋はちらっとしか見たことなかったな。)

 

 ドアノブに手をかけてから、チノはそのことに気付いた。

 しかし、いつも几帳面で、バーも清潔に保っている父のことだ、今更掃除することもさほどないのではないかと、大体は察していた。

 実際に中に入ると、想像に違わず、きちんと整頓された部屋だった。

 やることはほぼなさそうに見える。どうしたものかと見回していると、ふと木目の机の下に、紙が数枚落ちているのを見つけた。

 無遠慮に落ちたその紙を、不思議に思いながら拾い上げる。

 そして、文字列が何気なく目に通る。

 その中のとある一部分が、チノを大きく驚愕させた。

 

「うそ······これ······お姉ちゃんの手紙!?」

 

 たまたま目に入った一枚は結びの一枚だったようで、その終わりのところには、整った字で「智花より」と書かれていた。

 最近ずっと返事が無くて、智花の動向を知らなかったチノは、強くそれに引き付けられた。

 

「お姉ちゃん、やっぱりまだどこかにいるんだ···!」

 

 痛みに近い歓喜を噛み締めながら、チノは罪悪感さえも忘れ、その五枚にもなる手紙を読んでいった。

 

 ────しかし、その手紙がどこまでも異常で、悲痛であることに気付くには、少しの時間も有さなかった。

 まず、あまりに長い文、手紙が書かれた日付、そのどれもが不自然だった。だから目を通す前から、その不気味さは何となく伝わった。

 

 そして、チノが全てを察してしまったのは、その紙を遡って、最初の一文にたどり着いた時だった。

 

「お父さんへ

 

 恐らくお父さんがこの手紙を読んでいるのは、

 

 私が死んで、その後の全てを理久君に任せた後になります。」

 

 

 言葉を失った。

 ありとあらゆる思考回路が途切れ、体を動かす力を失った。

 理解が追いつかない。現実が受け入れられない。

 ただ肉の塊のように突っ立って、息をすることさえも忘れていた。

 

 気が付けば、チノは手紙を落としていた。




どんどん物語進みます。最終章突入も近いです(とか言って近くないかもしれない)。
回収し忘れた伏線とかないように、文才ないなりに極力努力します。
よろしくお願いします。
(評価、感想など頂けると嬉しいです。)


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