君のこと。 (影宮 閃)
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~君の名は。afterstory~

君のこと。

 

目次

 

第一章  君の名は。

 

第二章  再会

 

第三章  父

 

第四章  決意

 

第五章  始まり

 

第六章  弾

 

第七章  出発

 

第八章  ムスビ

 

第九章  東京

 

第十章  追憶

 

第十一章 出逢い

 

第十二章 あきらめず、いきる

 

第十三章 あるべきところに

 

第十四章 君のこと。

 

 

 

 

 

第一章 君の名は。

 

 

 

『ご覧ください!彗星が二つに分裂しています!』

『これは事前の予想にはありませんでしたね』

『しかし、非常に幻想的な眺めです……』

『彗星の核が割れた、と断定して良いのでしょうか』

『潮汐力、ロシュ限界は超えていないはずですから、考えられるのは彗星内部で何らかの異変が発生し――』

『まだ国立天文台からの発表はありませんが……』

『似たような事例では一九九四年のシューメーカー・レヴィ彗星が木星に落下、その際にはすくなくとも二十一個の破片に分裂したことが……』

『危険性はないんでしょうか?』

『彗星は氷の塊ですから、おそらく地表に到達する前に融解してしまうと思われます。また仮にこれが隕石となった場合でも、確率的には人間の居住地域に落下する可能性は非常に低く……』

『リアルタイムでの破片の軌道予測は困難で――』

『これほど壮麗な天体現象を目撃していること、また、日本がちょうど夜の時間帯であることは、この時代に生きる私たちにとってまさに千年に一度の幸運と言えるのではないでしょうか――』

 

 

 

  その日、糸守に彗星が落ちた。

 

 

 

 朝、目が覚めるとなぜか泣いている。こういうことが私には、時々ある。

 

 涙をぬぐいながら洗面台へ、そこには妹の四葉もいる。洗面台は一人分のスペースしかないため、四葉はツインテールの左側を結びながら横によける。私は隠そうとしたが、涙の痕を見られてしまう。

「お姉ちゃんまた朝から泣いとるの?恥ずかしいよ?」

「うるさい、私だって好きで泣いとるんじゃないわよ」

 この生意気な女子高生は、いつもどうでもいいことばかり気が付くのだ。

 それでも、部活で朝早くに家を出るこの同居人のため、私は毎日朝ご飯と弁当を作ってやっている。この子が三年の夏休みを終え、部活から勉強にシフトした今も、それは続いている。けっこうお姉ちゃんしてるな、私。

「ほら、ご飯」

 炊飯器からお茶碗によそってあげたりもする。ありがとう、と受け取る四葉と共に、私たちは早めの朝食をとる。

「「いただきます」」

 二人で手を合わせて言った後、四葉がテレビをつける。アナウンサーのお姉さんの声が、狭いリビングに響き渡る。

『ティアマト彗星の最接近から、ちょうど八年を迎える今日、今年十二月に予定されている、糸守町復興応援ライブの記念チケットの販売が始まります。各地の券売所では、限定グッズの準備などに追われ……』

 ニュースの内容を聞いて、四葉が興奮した様子で話しかけてくる。

「お姉ちゃん、糸守復興ライブやって!見に行かん?」

 何を言っとるのこの子は。学生の本分は勉強。いくら部活で活躍しても、学業をおろそかにしてはいけないわ!

「駄目よ、あんた受験勉強はどうするの、柔道だけで大学いくのは難しいでね。ほら()よ食べない」

「けち」

 四葉は姉の型にはまった答えと、姉という存在と、女子高生という自身の置かれている立場すべてが気に入らない、という顔をする。

「けちやないでしょ、あんたが勉強頑張るっていうから、私が毎朝ご飯作ってあげとるに。()よう食べて、学校いきない」

 私がたしなめると、四葉は深いため息をついて、毒を吐き始めた。

「はあ~、つまらんお人や、そんなんやから、二十五にもなって彼氏の一人も」

「彼氏の一人も、は余計よ!最近は仕事が忙しくてそれどころやないの!前から言っとるけど、明日も大事な取引先と打ち合わせが――」

「それ、ずっといっとるよ?大学の時はデザインの勉強が忙しいとか――」

 

 

 

 ()よう彼氏作るんよー、と言い残し、四葉は高校へ行った。本当に余計なお世話だ。私だって、このふさがれたような気持ちがなければ、結婚とか、彼氏とか、もっと考えていた気がする。でも、ずっとだれかひとりを、一人だけを、探している。

 ふと、朝見ていた夢が一瞬頭をよぎる。懐かしい声と匂い、愛おしい光と温度。

 あとすこしだけでいいから。

 私はそう願いながら、鏡に向かって髪を結う。秋物の服に袖を通す。アパートのドアを開け、目の前に広がる東京の風景をひととき眺める。駅の階段を登り、自動改札をくぐり、混み合った通勤の電車に乗る。人々の頭の向こうに見える小さな青空は、突き抜けるように澄んでいる。

 電車のドアによりかかり、外を見る。ビルの窓にも、車にも、歩道橋にも、人があふれている。百人が乗った車輛、千人を運ぶ列車、その千本が流れる街。それを眺めていると、とつぜんに、私は出逢う。

 窓ガラスを挟んで手が届くほどの距離、併走する電車の中に、あの人(、、、)が乗っている。私をまっすぐに見て、私と同じように、驚いて目を見開いている。そして、私はずっと抱いていた願いを知る。

 

 ずっと誰かを、探していた!

 

 停車した電車から駆け出し、私は街を走っている。彼の姿を探している。彼も私を探していると、私はもう、確信している。

 坂道を駆けながら、私は思う。どうして私は走っているのだろう。どうして私は探しているのだろう。その答えも、たぶん、私は知っている。覚えてはいないけれど、私のからだぜんぶがそれを知っている。細い路地を曲がると、すとんと道が切れている。階段だ。そこまで歩き、見おろすと、彼がいる。

 私たちは目を伏せたまま近づいていく。彼はなにも言わず、私もなにも言えない。そして言えぬまま、私たちはすれ違ってしまう。その瞬間、体の内側で直接心を掴まれたように、私の全身がぎゅっと苦しくなる。こんなのは間違っている(、、、、、、、、、、、)と、私は強くつよく思う。私たちが見知らぬ人同士だなんて、ぜったいに間違っている。宇宙の仕組みとか、命の法則みたいなのに反している。ふいに、後ろから声がかかる。

「あの、俺、君をどこかで……!」

 私は振り向く。

「私も……」

 やっと逢えた。やっと出逢えた。このままじゃ泣きだしてしまいそう、そう思ったところで、私は自分がもう泣いていることに気付く。私の涙を見て、彼が笑う。私も、泣きながら笑う。懐かしさを感じる秋の空気を、思い切り吸い込む。

 

 そして私たちは、同時に口を開く。

 

 いっせーのーでとタイミングをとりあう子どもみたいに私たちは声をそろえる。

 

 ―――君の、名前は、と。

 

 

 

 

 

第二章 再会

 

 

 

 二人で見つめ合ったまま、長い沈黙が続く。どちらから答えればいいのか、二人とも迷っている。先に、彼が口を開く。

「俺は、瀧、瀧って言うんだ」

「あ」思い、出した。

「瀧くん……」

 瀧くんの声、瀧くんの匂い、入れ替わっていた男の子、私に逢いに来てくれた男の子。こんこんと湧き出る泉のように、記憶が、そして涙があふれだしてくる。私も伝えなくては、名前を。

 涙の隙間から、声を絞り出す。

「私はみつは!名前は、三葉!」

 

「みつは……!」

 三葉の声、三葉の匂い、入れ替わっていた女の子、俺に会いに来てくれた女の子。忘れていた記憶が濁流のように押し寄せてくる。しばらく俺は、よみがえってくる記憶に身をゆだねた。欠けていた心が懐かしく、温かい気持ちで満たされていく。目の前にいる人は――

 

「三葉」

 そう呼びかける。五年前みたいに。

「瀧くん?瀧くん?瀧くん?」

 ばかみたいに繰り返しながら、三葉の両手が俺の両腕に触れる。ぎゅっと、その指に力が入る。

「……瀧くんがおる……」

 絞り出すみたいにそう言って、しかし笑いながらぽろぽろと大粒の涙をこぼす。

 やっと逢えた。本当に逢えた。三葉は八年、俺は五年たったけど、今度こそ、確かに俺たちは向き合っている。言葉の通じない国に長くいて、今ようやく同じ故郷の人に会えたように心底から安心する。穏やかな喜びが体に満ちてくる。

「三葉、待たせてごめん」

 そう、本当にあれから、時間も場所も、遠く、とおく離れてしまった。

「ホンマよ、誰かさんがちゃんと名前書いてくれんかったから、八年もたってまったよ」

 三葉は涙を拭いながら、しかし嬉しそうに口元に笑みを浮かべて言う。

「はは、すまん」

「ああ、なにその笑いは、自分のやったことがわかってないでしょ。瀧くん、いまいくつ?」

 三葉は泣きながら俺に詰め寄ってくる。やばい、下手(したて)に出ない方がよかったか?

「ええと、二十二だけど」

「てことは、まだ大学生やろ、私なんかもう二十五よ!四捨五入したら三十になるんやからね!」

「えっと……」俺は言葉に詰まる。

「八年てそれだけ長いんやから、青春は終わってまうし、社会人として働く毎日になるし、まわりはどんどん結婚していくし」

「す、すまん」両手を合わせてあやまる。

「どれだけ謝っても、時間は戻らんのやからね!あほ!」

 プイと三葉が横をむいたとき、オレンジの紐が見える。

「あ……、それ」

 少し震える手で、俺は紐を指さす。

「瀧くんが持っといてっ言ったやつ、ちゃんと持ってたんやよ」

 そうだ。俺が糸守で三葉に渡した、いや、返した紐だ。

 三葉は右手で髪をとかしながら、あの時と同じように上目遣いでこちらを見てくる。

「どうかな?」

 黒髪ロング好きなのもあるが、五年分の思いが、勝手に口をついて出てきた。

「すごく、きれいだ」

 三葉は頬を赤らめてうれしそうにする。が、すぐに何かを思い出したかのようにしかめっ面でこちらを見てくる。

「本当に思っとる?瀧くんはすぐうそつくし……」

「いや、本当だって!今回は本当!」その言葉に、三葉の顔がさっと曇る。

今回は(、、、)?じゃあやっぱりあの時、『悪くない』って思っとらんかったやろ!」

 ええ?あれ、しまった。

「瀧くんはほんとに嘘つきよ!名前書こうって言って違うこと書くし、なんであんなこと――」

 そこまで言って三葉は口をつぐむ。どうやら俺があの時書いた内容を思い出したようだ。

「えっと。……その、あれ、なんだ。あの時、伝えなきゃいけない気がして」

 俺も書いた内容を思い出してきた。今考えるとすごく恥ずかしい。若かったんだな、あの頃の俺。今よりもずっと。

「そんなに伝えたいなら、口で言えばよかったんやさ!」

 俺は五年だが、三葉は八年も待たせてしまった。素直に謝る。

「そうだな、ちゃんと口で伝えて、名前書いておけばよかった。つらい思いをさせて……ほんとにごめん。でも、あの時書いた気持ちに嘘はない。本当に伝えたかったんだ」

「本当?」

「本当だ」

 うーん、と考えたのち、くちびるを尖らせてぼそぼそと言う。

「ま、まあ瀧くんが書いてくれんかったら、最後まで頑張れんかったかもしれんし……」

「よかった、少しは役に立てたんだな。」ほほが緩む。

「ちょうしに乗らんといてよね、私の八年はかえって来んのやから」

「はは、すまん」

「もう……この男は!」

 と、ぷっと三葉は吹き出す。お腹を抱え、くすくすと笑いだす。俺も、つられて笑う。出逢って、泣いて、喜んで、怒って、怒られて、その繰り返しが懐かしくて、おもしろくて、たまらなく愛おしい。俺たちは、そろって大きな声で笑う。

 

 

 

 俺は今、俺たちは今、カフェに来ている。昨日、司と高木と共に訪れた店だ。天井の木組みがしゃれている。

 この店に来ようと言い出したのは三葉だった。とういか、お茶でもしようと言い出したのが三葉だった。

 

 

 

『瀧くん。よかったら、その、これからお茶しない?』

『ええ?お前、仕事は?』

 おずおずとはにかむ三葉は、どう見ても仕事に行く格好だ。いきなり何を言い出すんだこの女は。いや、行きたいけど……。

『うーん、そうなんやけど、ええやない、一日くらい。私は重要なポジションやないし』

 自分に言い聞かせるように言っているが、ポジションの問題なのだろうか。

『それに、八年も待っとったんやから、一日くらいサボ、休んでも(ばち)はあたらないわよ、うん。そうよ』

『ええ?』

 ついに開き直った。あんぐりと口を開ける俺を、三葉は心配そうな顔で覗き込んでくる。

『もしかして、私とお茶するの、いや?』

 嫌なわけないじゃないか、でも――

『それとも、大事な用事があるとか?』

 面接の予定がある、と頭ではわかっている。わかってはいるのだが、口から出てきたのは別の言葉だった。

『い、いや、大事ってほどのものは……』

 一つだけわかったことが、俺は三葉の上目遣いに弱い。

 

 

 

 結局、面接はすっぽかしてカフェに来てしまった。三葉の方はちょっと待ってて、とトイレに行っている。遅いな、何してんだろう。ていうか、ああ、やってしまった。まだ一社も内定もらってないのに。いやいや落ち着け、どうせ今日も落ちる面接だった。そうに違いない。そうだ、だからこれは、別になんともない。なんともないから。

 それよりも、勢いでカフェまで来てしまった。あいつがトイレから戻ってきたらどんな話をすればいいんだろう。どんな顔すれば、ヤバい、さっきからにやにやが止まんねえ、どうやって止めるんだよこれ。

 悩んだ結果、俺は手を口に当てて頬杖をつき、緩む口元を隠すことにした。

 

 

「そういうわけで風邪をひいてしまいまして、本当にすみません」

 私は電話口に、会社を休む理由と謝罪の言葉を口にする。

「何やってんの!今日は大事な取引先との打ち合わせだって、一週間も前から言ってたろ!」

 いつも厳しい上司から、叱責が飛んでくる。

「本当にすみません!明日までには治しますので」

 姿は見えないはずなのに、私は何度も頭を下げてしまう。

「明日じゃ意味ないだろ!ホントに……。社会人なんだから、体調管理も仕事のうち!ったく、こっちは代役たてるから、早く治せよ」

「はい、すみませんでした」

 はあ、当然のことながらこってり怒られた。でも、今日の私にとっては些細なことでしかない。すでに心は踊りだしそうで、心臓は緊張で飛び出しそう。ドクンドクンという音がはっきりと聞こえてくる。

 どうしよう、勢いで誘って、一緒にカフェまで来てしまった。瀧くん、迷惑じゃないといいけど――ああそれよりも、何を話せばいいんだろう。どんな顔して、笑ってた方が印象いいかな、でも一人だけ浮かれてるって思われたら恥ずかしいし、でも――

 

 

 三葉が帰ってきた。気まずいのか、黙って俺の向かい側に座る。

かく言う俺もちょっと恥ずかしくて、何を言っていいのかわからない。とりあえず、疑問を口にしてみた。

「トイレ長かったな、なにしてたの」

 とたんに、三葉が顔を真っ赤にする。

「ちょ、いきなりそれ聞く?女の子に。あんたんデリカシーって言葉知らんやろ!」

「す、すまん。あまりに長かったから、つい」

 言い訳になってねーじゃねーか、俺。

「仕事休みますって連絡してたのよ。そうじゃなくても、女の子は準備に時間がかかるんやから、もう聞いちゃだめよ」

「はい、わかりました」

 すいません、と俺は頭を下げる。

「このお店は」

 コホンと咳払いをしたのち、天井の木組みを見ながら三葉が話す。

「私が瀧くんと入れ替わったあと、初めて来たカフェなんやよ。生まれて初めて生クリームいっぱいのパンケーキ食べて――」

 そこまで聞いて、俺はピンと来た。あのころの三葉の日記には、やたらと甘いおかしの写真がいっぱいだった。ここが、その始まりの場所なのだ。思い出して一人で笑う。

「瀧くん?」

 三葉が話をとめて、不思議そうに俺を見る。

「あのころ、お前が高いもんばっかり食うから大変だったよ。すごい勢いで金は無くなっていくし、バイトのシフトも増えてさ」

「しょ、しょうがないもん!私、東京初めてで、カフェだって初めてで、それに甘いもの好きやし、食べてるのは瀧くんの体やったし」

 自分は悪くないという風に三葉は言い訳をする。だが、バツが悪くなったのか、小さな声で

「私だって、バイト頑張ったし」

 と付け加え、俺の方を見てくる。くそ、上目遣いは反則だって。

「まあ、でも」

 頬が熱くなったのを悟られないように、俺は平静を装う。

「お前が楽しんでくれたならよかったよ。青春の思い出だろ?それって。お金で買えるものじゃないし、バイト頑張ってたのも確かだしさ」

 予想していない返答だったのか、三葉は半分感心、半分不満という表情を作る。

「それも今朝まで忘れとったんやけどね。なんか瀧くん、大人になったなあ」

 そりゃそうだ。大学生とはいえ、年齢的には立派な大人だ。いつまでも高校生(ガキ)なわけじゃない。昨日会った奥寺先輩だって、

 

『スーツ似合ってないけど、瀧くん、なんだか大人に見えるねえ、あの頃とはまた別人みたい』

 

 って言ってくれたし――

 ガチャン!

 三葉が勢いよくおろしたコーヒーカップの音で、俺の思考は遮られる。

「前言撤回。あんた今、女の子のこと考えたでしょ」

 ――っ⁉女子の鋭さを忘れていた。ていうか、え?なんでこいつは毎度毎度、俺の考えてることがわかるんだ?

「い、いや、たいしたことじゃないんだ」

 あいかわらず言い訳になってない、あーもー!俺のばか!

「う!そ!どういうことか説明して!」

 三葉の刺すような視線に負けて、俺は正直に言った。

 

 

 

「えぇ?ミキちゃんと?昨日会った?ディナー⁉」

 三葉があまりに大きな声を出すので、近くの客がこっちを見ている。慌ててなだめるが、俺の中で何かが引っかかる。

「お、落ち着けって、先輩はもう結婚――え?」

 こいつ今、奥寺先輩のことなんて言った?

「ミキちゃん……?」

「あ、そうなんよ、ミキちゃん。あの頃の(、、、、)瀧くんが大好きだった奥寺先輩、大学の同期生なんよ」

 やたらと《あの頃の》に力を込めて、三葉が言う。大好きとか言うな、大つけんな。それにしても

「同期生⁉」

 今度は俺の大声にみなが振り向く。そうか、三葉と俺が入れ替わっていたあの頃、俺たちの間には三年のズレがあった。つまり俺が十七歳だったころ、三葉は二十歳。当時大学生だった奥寺先輩と同い年でも、何の不思議もない。しかしまさか、大学まで一緒だったとは。

「ミキちゃんはアパレル会社に就職して、今は」

 その言葉からつい、昨日先輩自身から聞いた情報を口にする。

「千葉の支店で働いてる」

 俺が引き継いだことに、三葉はまた不満そうな顔をする。

「……そうよ。私は服のデザインしとるから、たまに一緒に仕事するときもあるんやよ。それにしても怪しいなあ、ほんっとうに何にもなかったん?」

 三葉が顔を覗き込んできたので、俺は少し顔を背けて両手を横に振る。

「何にもない、何にも」

 三葉の追及は収まらない。

「でもディナーはしたんやろ」

「いや、誘ってきたのは先輩で」

「今日誘っとるのだって私やし、あんた、女の子に誘われたら誰でもついて行くん?」

 信じられない、と言いたげな顔だ。これはまずい、なんとかしなくては。しかし、口から出てくるのはその場しのぎの言葉ばかりだ。

「いや、そんなことない!そんなことは!お前だけ、三葉だけ」

 もちろん、三葉は納得しない。

「じゃあ昨日のミキちゃんは?」

「う……」

 正直、今日の朝まで三葉のことは忘れていたのだ。そうでなければ、いくら奥寺先輩の誘いであっても断っていたに違いない。違いない、よな?

 頭に浮かんだ雑念を振り払うように、覚悟を決めて俺は言う。

「わかった、じゃあ今日晩飯食いに行こう。まだ十時だし、昼飯だって、俺がおごってやる」

 やけくそ気味に放った言葉だが、それを聞いた三葉の顔にパッと笑顔が広がる。

「約束やよ!」

 

 

 

 その日から俺たちは一緒に夕食をとるようになった。三葉の仕事が遅いときでも、俺はずっと待っていた。五年分、八年分、お互い話すべきこと、話したいことは山のようにあった。

 

 

 瀧くんはあの後一人東京に戻り、司くんや高木くんと同じ大学へ進学、今は就職活動の真っ最中だ。まだ内定もらえてないのは、うーん……少し不安やけど、どうやら建築関係の仕事に就きたいみたい。なんだかカッコいいかも、と思ってしまう。

 

 

 三葉の家族は糸守を離れ、東京へ来たらしい。大学では奥寺先輩と一緒にデザインの勉強をして、そのまま東京の会社にデザイナーとして就職。今は都内の高校に通う四葉ちゃんと一緒に暮らしているという。あの事件以来、婆ちゃんも含め、親父さんとは和解したんだとか。

「お前の親父さんって、復興大臣の宮水としき?」

 親父さんの話になって、俺は驚いた。糸守に彗星が落ちた直後から、当時の糸守町町長への様々な疑惑や憶測は多々あった。彗星の落下を予測したとか、田舎町の出身でもないのに異例のスピードで町長まで上り詰めたとか。

 糸守町なき後は国政へと進出し、初出馬で当選。さらに今年は、議員八年目というこれまた異例のスピード出世で復興大臣に任命された。就任後も精力的に活動し、八月には糸守復興のためのチャリティーライブ開催を提案。当時の町長が言い出したということもあって報道では連日大きくとりあげられ、世論もそれを支持し、開催が十二月に決まった。すでに多くのアーティストが参加を表明している。

「すげえ人じゃん……」

 スケールのでかさに、俺は絶句する。

「あんまり人に言わんでよ、政治家しとるお父さんは、そんなに好きやないんよ」

 俺だって好きではない。五年前の苦い記憶がよみがえってくる。頑固だったな、あの人、頑固でわからずやだ。

「それで瀧くん、今日の面接はどうやったの?」

 答えづらい質問を投げかけられ、一瞬詰まる。

「うーん、駄目、っぽい」

 俺は頭をかきながら、苦笑いをする。

「なんかさ、糸守のこと思い出してから、余計にこう、記憶に残るものを作りたいって思うようになって。ただ、それをうまく表現できないっていうか……」

「東京で糸守再現するのは無理やない?人口何ケタ違うと思うとるんよ」

「ば、そういうことじゃねえよ。俺は、こう……」

「こう、なあに?」

「いや、こう……」

 どう言っていいかわからず、俺はパスタをフォークにからめる手を止める。それを見て、三葉は優しく笑って言う。

()よう決めて、私にご飯、ごちそうしてね」

「わ、わかってる」

 初日以来、就活中で金のない俺は、三葉におごるどころかおごられる立場になっていた。男として情けなく、毎度会計するとき恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちになる。

 

 

 

「いつもすまん」

 駅までの帰り道、謝る俺に三葉は笑いながら言う。

「ええんやよ、私は働いとるわけやし、瀧くんと一緒にいられるなら、別に……」

 そこまで言って三葉は、ん、とため息にもならない声を出して黙り込む。俺も気まずくなって目を斜め下の地面に移す。

 しばらくお互い何も言わない無音の時間が続く。そんな中、俺はふと、ある日のカタワレ時を思い出す。

「なあ、三葉」

 三葉が、こちらを振り向く。

「テッシーとかサヤちんに、俺たちの関係を話さないか?」

「か、関係って⁉」

 急に三葉が大声を出す。

「い、いや、入れ替わりのことだよ」

「あぁ、そっちね……、別にええけど、なんで?」

 心なしか三葉はどこか不機嫌そうだ。

「俺、昔約束したんだ。そのうちいろいろ話すって」

 三葉はうーんと人差し指を頬に添えて、考える。

「確かに、二人は彗星が落ちてきた時一番協力してくれから、本当にあったことを知る権利があると思うの。信じるかどうかは別にしてね」

 なるほど、それもそうだ。最後は町長の判断によるとはいえ、あの二人がいなければ糸守を救うことは叶わなかった。

「そうだな。あとは、奥寺先輩と司と高木にも話そう。三人のおかげで、三葉を探しに行けたんだから」

 そう、俺も一人では糸守まで行けなかった。バイトを代わってくれた高木、一緒についてきてくれた司と先輩。正直、何もない田舎で独りぼっちだったら、途中であきらめて東京に帰っていたかもしれない。

「ええんやけど……、ミキちゃんなあ」

 三葉は右手を頬にあてて唸る。

「なんだよ」

 この前のディナーの件、まだ根に持ってんだろうか。

「大学おったころ、ミキちゃん、バイト先にちょっと気になる子がおるって言ってたの思い出したの。年下だけどかわいい子なんやー、って」

「マジで⁉」

 初耳だ。先輩はそんなそぶりを見せたこともない。ない、よな?

「あれ、瀧くんのことやったんやないかな」

「いやいやいやいや、ないない。ないよ」

 俺は首と手をぶんぶんと横に振る。

「それにあの時、俺の中に入ってたのはお前じゃないか」

 デートの約束を取り付けたのも三葉だ。

「そっか……ということはミキちゃんが好きになってたのは……私、ってこと?」

 その事実が不思議で、おかしくて、俺たちは顔を見合わせて笑ってしまう。三葉の笑い声は、まるで鳥のさえずりのように美しかった。その声をずっと聞いていたいと思いながら、俺は空を見上げた。そうだ、みんなに全部話そう。三葉にまた逢えたのは、みんなのおかげだから。

 

 

 

 翌日、土曜日の昼下がり。混み合うカフェに、俺たちは集まった。三葉の隣にはテシガワラとサヤちん、向かい合うように俺と司、奥寺先輩が座っている。高木は家族で墓参りがあるらしく、来られなかった。

「テッシー、サヤちん、この人が立花瀧くん」

 右の手で俺を示しながら、三葉が説明する。

「司、この人が宮水三葉」

 俺も三葉と同じように司に紹介する。

 そのあとは、お互いの自己紹介だ。

「勅使河原と言います、東京で土建屋しとるもんや、よろしく」

「私ももうすぐ勅使河原になるんやけど、今はまだ名取といいます。名取紗耶香です。よろしく」

 にひ、と無邪気な笑顔を浮かべるサヤちんは、放送のお姉さんみたによく通る声をしている。

 俺サイドの二人も手短な紹介を終えたところで、

「それで三葉」

「それで瀧」

「これはいったい何の集まりなんや」

「これはいったい何の集まりなんだ」

 テッシーと司が面白いようにハモる。

 

 

 

 彗星来訪の時、俺たちに起こったことを説明するのに、長い時間がかかった。俺も三葉も、細かい部分は端折りながら、抜けてはいけない部分はお互い補いながら話をした。最初はだれも信じなかったが、テッシーだけは別だった。

「なるほど!あの時の三葉の異常行動もこれで説明がつくで!狐やなくて、この立花…」

「瀧です。」

 俺の方に目線を送ってくるテッシーに手短に答える。

「そう!瀧が憑いとったってことやさ」

「あんたのオカルト好き、変わらんなあ」

 サヤちんがあきれたようにつぶやく。

「そやけど三葉、そんな大事なこと、なんで今更言うん?あぁ、なぜか忘れとったんやっけ」

 サヤちんの疑問はもっともだろう。それに答えたのはテッシーだった。

「そりゃお前、三年という時間のねじれと、東京と糸守という開いた距離を結びつけるなんて、とてつもない力がいるんや。忘れとったって、何の不思議もない!」

「あんたは黙っとって」

 サヤちんがぴしりと叱りつける。その向かいから、奥寺先輩が身を乗り出して三葉を見る。

「まぁ、二人が本当に入れ替わっていたとして、今はそれよりも大事な話があるでしょう?三葉」

「え、何?ミキちゃん」

 急に名前を呼ばれてびっくりする三葉をよそに、先輩はサヤちんの方を見る。

「ねえ、紗耶香、さん」

「サヤちんでええよ、ミキちゃん」

 サヤちんはにぱーっと笑う。奥寺先輩もニッと笑って、有無を言わせぬ口調で宣言する。

「じゃあ三葉、サヤちん、ここからは女子トークってことで、ほら、男性陣は行った行った」

 

 

 

 追い立てられるように店を出た俺たちは近くの空いている店に入り、テーブルを囲んだ。

 

『夜はみんなで飲むわよー、六時に駅前に集合!お店の予約よろしく。ね、たーきくん』

 

「店、どうしよう」

 スマフォで付近の店を探す俺に、司がこれまたスマフォの画面を見ながら突然聞いてくる。

「そんなことより、瀧、宮水さんとはどうなんだ」

「え、どうって」

 なんだ、いきなり核心をついて――

「そうや瀧。あの時三葉が髪をバッサリ切ったやろ、あれはやっぱり、お前がらみなんか?」

 固まる俺に、テッシーが追い打ちをかける。三葉が中学生の頃の俺に会いに来たことは話していなかった。彗星とは直接関係がないと思ったからだ。手のひらに書いた字のことも話していない。

「い、いやテッシ……勅使河原さん」

「テッシーや、気いなんか使うな、敬語も。八年前、一緒に変電所爆破した仲やないか」

 やっぱりいい人だな。それにしてもすごい仲だと俺は思う。日本中探しても、こんな規模の罪を犯した仲はほかにないんじゃないか。そういえば、あのとき変電所を爆破したのは罪に問われなかったのだろうか、素朴な疑問が沸き上がる。

「はは、テッシーは、信じてくれるんだな」

「当然や!お前の説明ですべてに納得がいく。あのころの三葉の奇行と、彗星回避の奇跡に」

「俺も信じてるぞ」

 スマフォをいじりながら、司が淡々と言う。

「え?マジで?」

 意外だ、まじめな司がこんな話信じるなんて

「あの頃のお前、なんか可愛かった。宮水さんが入ってたなら、納得だ」

 そう言って、司は少し伏目になる。

「頬をそめんなよ……」

 きもいぞ、おい。

「で、その宮水さんとはどうなんだよ、付き合ってんだろ?」

 司の容赦ない追及に、俺はうろたえる。

「い、いや、それが」

 

 

「正式に付き合っとるってわけではなくて……」

 私は髪をくるくるといじりながらうつむく。

「ええ?ちがうの?あんなに仲いいのに?」

 ミキちゃんは本当に驚いているみたいだ。サヤちんも全く同じ反応をする。

「晩ごはん、一緒に食べとるんやろ?」

「ここ五日ね。けど、そいう話にはなかなかならんで……」

 サヤちんの質問にぼそぼそと答える。ミキちゃんはそんな私を見て、にやりと笑う。

「でも瀧くん、絶対三葉のこと好きよね」

「う~ん、あれは間違いないわ」

 サヤちんもうなずいて同意する。

「そうかなあ」

 瀧くんは手のひらに書いた気持ちに嘘はないと言ってくれたけど、もしそれがあの時(、、、)のことで、今は(、、)違うとしたら、私はよくそんなことを考えて不安になる。

 ミキちゃんは私の状態を気にすることなく、話を続ける。

「だって瀧くん、三葉がしゃべってる間、ずーっと三葉の顔見てたもん。飽きるんじゃないかってくらい」

 本当だろうか、そうだったらいいな。いや、待って、私今日、ちゃんとお化粧できてた?寝癖は直したっけ?急に恥ずかしくなって頬が熱くなる。

「三葉に足りないのは積極性よ。好きって言っちゃえばいいじゃない」

 ミキちゃんのいきなりの提案に、私は両手で顔を抑える。

「ス、スキ⁉瀧くんに?」

 絶対ムリ!恥ずかしくて死んでしまう。しかし、ミキちゃんはさらに大胆な提案をしてくる。

「いっそのこと同棲しちゃうとか、お互いもう大人なんだし」

「同棲⁉ムリ、ムリムリ。私ミキちゃんみたいに美人やないし、四葉だって住んどるし、それに」

 私は、同棲している自分と瀧くんを想像する。同棲ってことはあれよね、一緒に暮らして、一緒にご飯食べて、一緒に寝て――

「そ、そんなのダメ!」

 頭がパンクしてしまいそうだ。いきなり同棲なんて、不埒だわ、私。あー、でも、いや、うーん……。

「三葉は十分美人やよ」

 サヤちんが励ますように言ってくれる。ミキちゃんも同意する。

「そうよ、いいじゃない。好きなんでしょ?瀧くんのこと」

 恥ずかしくて、私は小声でうん、とうなずく。

 

 

「でも好きなんだろ?宮水さんのこと」

「……あぁ」

 司の追及に、恥ずかしいながらもなんとか答える。

「じゃあ言えばいいじゃないか、好きですって。宮水さんも瀧のこと好きだって」

「ほんとうか⁉」

 驚く俺に、テッシーも付け加えるように言ってくる。

「司の言うことに間違いはない、お前が話しとる間、三葉はずうっとお前の顔見とったからな。あれは恋や」

 え、マジで?気が付かなかった。

「まずはデートだな、明日でもさそえよ、デート」

 驚いている俺をよそに、司が当たり前のように言う。

「デートォ⁉」

「水族館とかさ、ベタだけど誘えばいいじゃないか」

 正直な話、デートに誘いたいと思ったことは一度や二度ではない。俺はうーんと唸る。しかし……

「一つ、問題があって」

 頭を抱える俺を、司はスマフォから目を離して見てくる。

「なに、金なら貸さないぞ」

「そうじゃねえ!いや、そうなんだけどさ」

 三葉に毎回おごってもらっているのに、ましてやデートする金なんて無い。かといって、デートするから金を出してくれなんて言えるわけない。俺のプライド的にも、それだけはぜったいにダメだ。

「まだ就職も決まってないし、この先、あいつを養っていける自身がないというか、こんな男をあいつは選んでくれるのか、って」

 いつも三葉の前では黙っている不安を、俺は口にする。この二人なら相談にのってくれると思ったのだ。なんだか、謎の安心感がこの二人にはある。

「つまり、振られる心配よりも、自分のふがいなさが心配のもとってわけや」

 そこまで言って、テッシーはにやりと笑う。

「その問題なら解決や、俺に考えがある!」

 

 

 

 午後六時。駅前に集合した俺たちは、予約した居酒屋に向かって歩いていた。

 先頭をスマフォで店の位置を確認しながら歩く司と奥寺先輩が、その後ろにはテッシーとサヤちんが、俺と三葉は少し離れた最後尾を並んで歩いていた。

 

 

 目の前で、テッシーとサヤちんが腕を組んで歩いている。いいなあ、私も手、つなぎたいな。つないでって言ったら、瀧くん、つないでくれるかな。

「積極性…」

 ミキちゃんに言われた言葉を思い出して、ぽそりとつぶやく、それが聞こえたのか、瀧くんの体がびくっと震える。

 

 

 積極性?今、積極性って言ったか?デートに誘えってことか?くそ、こうなったらもうやけだ。

「な、なあ三葉」

 思い切って声をかける。

「えっと、なあに?」

 情けないことに、三葉の声を聴くとまた言い出せなくなってしまう。しっかりしろ!俺!いつも三葉に頼りっぱなしだろ、たまには男らしく誘え!

「今度さ……」

「うん」

 三葉の返事の小ささに、俺の声も小さくなる。

「時間があったらで……いいんだけど」

「うん」

 よし、言うぞ、言うぞ。

「デッ、水族館でも、行かないか。俺、いろんな形してる建物、好きでさ」

 くそ、結局遠回しな言い方になってしまった。しかもなんだよこれ、俺が行きたいだけみたいじゃんか!一緒に晩飯食べてるときは普通なのに、いざ誘うとなるとこんなに難しいなんて……。

「来週」

「え?」

 三葉が唐突に言うので、俺は思わず聞き返した。

「明日はほら、あれやし。だから、来週なら、その、水族館……」

 そう言って顔をそむける。俺も、何もない斜め上の空を見上げて言う

「じゃあ、来週、行くか」

 しばらくの沈黙の後、三葉は今にも消えそうな声で

「…………うん」

 と答えた。その瞬間、胸の中に何か熱いものがこみあげてきて、俺はついにやけてしまう。前の方から先輩と司のよくやった!と言いたげな視線を感じたのは、たぶん気のせいではない。この距離で聞こえてんのか、あの二人は地獄耳だ。

 

 

 

「それでは、三葉と瀧くんの再会を祝って~、乾杯!」

 先輩の音頭で、みんな一斉に乾杯!と叫び、グラスやジョッキを合わせる。懐かしい仲間たちとの飲みは、本当に楽しかった。スマフォの画面越しに高木をみんなに紹介したり、テッシーやサヤちんのなれそめを聞いて盛り上がったり、先輩と三葉の仕事ぶりを聞いたりした。

 終盤、俺と三葉の初デートのプランをみんなで話し始めたときは、恥ずかしくて死にそうだった。酒のせいか、三葉の顔も真っ赤だった。

 

 

 

 玄関の扉がギィ、と開き、鼻を突くようなアルコールの匂いと共に姉が入ってくる。

「ただいまぁ」

 心に体が追い付いていないような声だ。どう考えても酔っている。

「お姉ちゃん、今何時やと思っとるの?」

 姉はうーん、と腕時計を見て答える。

「まだ日付は超えとらんよ、あんたは学生なんやから、()よう寝ない」

 確かに日付は超えていないけど、あと二分で十二時だし、超えた、超えてないの問題ではない。それに、この無責任な発言は見逃せない。

「誰かさんがこの五日間、一度も晩ごはん作らん、洗濯もせんから、私が受験勉強で眠たい中やっとるんやよ」

 そうだ、私だって忙しい女子高生。自分の時間は限られている。姉にはここでしっかり言っておかなければ。

「そのことやけど」

 とろん、とした顔で姉は言う。

「私、瀧くんと同棲するかもしれんわあ」

 突然の告白に、私は動揺を隠せない。

「えっ?タキクン?同棲?お姉ちゃん、彼氏おったの⁉」

 ずっといないと思っていたのに、最近妙に色気付いていたのはそのせいだったのか。

「えっと、彼氏ってわけやないんやけど、年下の子で」

「彼氏やない?その人、いつ知りおうたの?」

 年下の男にたぶらかされているのかこの人は。

「うーん、五日前?」

 五日前?家事をやらなくなったころだ。一週間もたっていない。

「その人、大丈夫なん?」

「いや、違うんよ、正確には八年前で」

「八年⁉」

 まだ糸守に住んでた頃だ。この人、大丈夫なん?

「いろいろあったんよ、初めて会った頃は同い年で」

「年下か同い年なんか、どっちやの……」

 意味が分からない。どこか抜けている人だったが、今回は本当に何を言っているのかわからない。

「だってミキちゃんが、あんたは積極性がないんやから、同棲にでも持ち込まんと結婚できんって言うにん」

 今度は何の話をしとるん、この人は。

「お姉ちゃん酔っとるよ」

 不思議なもので、酔っている人にこう言うと、決まってある言葉が返ってくる。

「酔っとらんで!私、瀧くんのことが好きで――」

 結局タキクンとは誰なのだろう、でも今の姉の状態では何を聞いても無駄だろう。私はあきらめて、姉を部屋まで引っ張っていく。

「はあ、わかったから、()よう寝ないよ。洗濯は私がしとくから、服脱いで置いといて」

 本当に、しょうのない姉だ。このときはまだ、そう思っていた。

 

 

 

 

 

第三章 父

 

 

 

 二日酔いでガンガンする頭を何とか起こし、俺は洗面台へと向かう。脳みそがぐるぐると周り、廊下がまるで左右に動いているみたいだ。いてえ、頭が。それでも、準備しなければならない。髭を剃り、顔を洗い、慣れない手つきでネクタイを結び、スーツを着る。

「父さん、俺ちょっと出かけてくるから」

 リビングの椅子に腰かけた親父は、怪訝そうな顔でこちらを見る。

「ん?日曜にも面接あるのか?」

 返事に困って俺は口ごもる。

「ああ、いや、そういうわけじゃ……」

「なんだよお前、最近夜はずっと外食してるし、昨日は飲みに行くし、よくそんな金があるな。就職はあきらめたのか?」

 親父の疑問はもっともだ。だが、女の人と毎日一緒だなんてとても言えない。

「いや、大丈夫。ちゃんとやってるから、もう少し待ってて」

 俺は半分自分に言い聞かせるように言う。そう、あきらめたわけじゃない。

「そうなのか?それならいいが、おい、気を付けて行って来いよ」

 親父は心配そうで、そしてどこか悲しげな顔をしたままだった。俺はなんだか申し訳ない気持ちになって、そそくさとその場を離れた。

 アパートを出て、電車に乗る。着いた駅の改札を出ると、三葉が待っている。その後ろのロータリーには、真っ黒な、しかし、ピカピカに磨き上げられてつやのある車があった。マフィアが乗ってそうな、重たくてでかいやつだ。

 車に揺られること十五分。俺は、三葉の親父さんの家に向かっていた。

 三葉が自分の親父さんや婆ちゃん、妹の四葉ちゃんにも入れ替わりの話をしておきたいと言い出したのは、二日前の夜、テッシーたちに話をしようと決めた後だった。

 正直、三葉の姿で親父さんのネクタイをねじりあげていた俺は、あまり乗り気ではなかった。入れ替わりを知られると、非常にまずい気がする。いや、実際まずい。

 先延ばしにできないかと聞いたのだが、婆ちゃんが高齢になった今、話せるときに話しておきたいんだとか。気持ちはまあ、わからなくはない。

 そして、その婆ちゃんが住んでいる家が、親父さんの家というわけだ。俺にもう逃げ場はない。

「そんなに緊張せんでも大丈夫よ?」

 がちがちに固まっている俺を見かねたのか、三葉が声をかけてくる。

「ああ」

 そうは言っても、緊張しないわけがない。でも、と思う。今後、三葉と結婚するのなら――そう考えて、勝手に恥ずかしくなりながら――いつかは乗り越えなければいけない壁なのだ。これは俺だけじゃなくて、世の中の男全員が背負う、宿命なのだ。一つ違うことといえば、これは結婚のあいさつではなく、百人が聞いて百人が疑う、そんなとんでもない話をしに行くということだ。

 

 

 

「……なにを言ってるんだ?お前たちは?」

 分厚い段ボールにハサミを入れるようなざらついた重い声。

 三葉と俺は、足の低いテーブルをはさんで反対側にいる宮水家の三人に、ことの顛末を説明していた。婆ちゃんと四葉ちゃんは熱心に話を聞いてくれている。                

 だが、親父さんだけは、蔑むような眼で俺をじっと見ている。

「そんな話をして、お前の目的はなんだ。金か?スキャンダルか?」

「お父さん、違うの」

 お前は黙っていなさい。ぴしゃりと言われてどうしようもなくなる三葉に代わって、俺は訴える。

「違うんです、お義父さん」

「お前にお義父さんなどと呼ばれるいわれはない!お前のような男に三葉をやれるものか!どうせいいかげんな話でこの子をだましとるんだろう!」

 頭ごなしに怒鳴られて、俺は頭に血が上りそうになる。しかもなんだか微妙に論点がずれてないか?いや我慢だ。どんなに嫌な思いをしても、怒っちゃだめだ。八年待たせた三葉を、悲しませるような結果にするもんか。

「大きな声を出さんといてくれるか、腰に響くでな」

 婆ちゃんが右手で腰をさすりながら、日本昔話みたいな声で親父さんに訴える。

「すいませんお義母さん、しかし」

 謝りはしたものの、親父さんはまだ俺のことをにらみ続けている。

「この子らは本当のことを言っとるよ」

 親父さんの視線に委縮してしまった俺に、婆ちゃんは優しい顔で話しかけてくる。

「あんたやな、あの日の朝、彗星が落ちてみんな死ぬって言い出したのは」

 その言葉に俺はハッとした。五年前、最後に三葉と入れ替わった時の記憶がよみがえってくる。

「婆ちゃん、覚えて」

 俺が聞いている途中で、うんうんと婆ちゃんはうなずく。

「また思い出したわ。少女のころ見とった不思議な夢、いいや、あれは夢というより別の人生やった。ワシはまるで知らない町で、知らない男になっとった」

「え?お祖母ちゃんも入れ替わり、あったの?」

 四葉ちゃんがまさか、という目で隣に座っている婆ちゃんを見る。

「そうやさ、ワシの母ちゃんにも、ワシにも、あんたの母ちゃんにも、そんな時期があったんやで、三葉にあってもおかしくないわ」

 婆ちゃんの援護射撃に俺は内心やった!と思うが、何かを勘違いしている親父さんは納得しない。

「そうだとしても、それで三葉をやる理由にはならん!年はいくつなんだ!仕事は!家柄は!ちゃんとしたところなのか!」

 娘さんをください!なんて一言も言っていないのだが。

「お父さん、大人げないよ?」

 四葉ちゃんが困ったような笑顔を親父さんに向ける。

「子供のお前が口をはさむことじゃない!」

 半ばヒステリックな叫びを聞くうち、俺はもしかして、と思う。親父さんは、入れ替わりの話など、耳に入っていないのではないか。俺が三葉と交際の挨拶をしに来たと勘違いして、多くの父親がそうであるように、娘を取られるのが嫌で、心配で仕方ないのではないか。

 入れ替わりの話なら、信じてもらおうが嘘だと思われようがどっちでもいい。しかし三葉の話となれば、こっちもこのままでは帰れない。来週のデートだって控えてるんだ。もっと先には――俺は三葉と二人で暮らす光景を思い浮かべて――心に決める。死んだって三葉のことを諦めるもんか。

 俺は深呼吸して、三葉の顔を見た。三葉は、心配そうな表情でこちらを見ている。少しだけうなずいて大丈夫だと合図を送り、俺は親父さんに向き直る。

「お義父さん」

「まだ言うか!お前に――」

「それなら、お義父さんとは呼びません。でも、俺は昔のことだけでここに来たわけではありません。どうか、話を聞いてください」

 俺は立ち上がって、深々と頭を下げる。

「聞く話などない!帰れ!」

「帰りません!」

 俺は床を見ながら叫んだ。床に響いた大声で、部屋の中は静まり返る。

 しばらくの沈黙の後、口を開いたのは婆ちゃんだった。

「話だけでも聞いてあげなさいや、大人げない。ほれ、向こうの部屋にでも行って、男二人、気のすむまで話し合えばええんやさ」

 親父さんは婆ちゃんが俺の味方をするのが信じられないみたいで、余命あと三か月です、と告げられたかのような表情をして汗を流している。

「お義母さん、しかし――」

「三葉の連れてきた子や、悪い子なはずないんやさ」

 ほかでもない、自分の娘が連れてきた。その事実は、親父さんに負けを認めさせるには十分だったようだ。

「……こっちに来なさい」

 俺は応接室の奥にある、書斎と思しき部屋に案内された。

 

 

 

 瀧くんがお父さんと二人で書斎に入ってから、十分ほどたった。応接室には私と四葉、お祖母ちゃんが残されている。お祖母ちゃんがたまにお茶をすする音がする以外は、外から東京郊外の生活音が聞こえるくらいだ。

「大丈夫かな、あの人」

 何の悪気もなく、四葉がつぶやく。

「もう、そういうこと言うのやめてよ、余計心配になるやろ」

 私は、胸が締め付けられるような思いに駆られる。自分が何もできないのが一層切ない。

 瀧くんもお父さんも、どちらも負けられない戦いをしているように見えた。一つしかないものを巡って、押しつ、押されつ、しかし互いに一歩も譲らず、戦っているのだと思う。一つしかないものとは、おそらく、というか間違いなく私だ。

 そもそも、入れ替わりの話をしに来たのに勘違いするお父さんが悪い。瀧くんも意地にならなくていいのに……。でも、あそこで一歩も引かずに話をしようした瀧くん、かっこよかったな。それに、ちょっとうれしかったり……、ああ、何を考えてるの私は。

 お父さんは頑固者だ。昔、宮水家を去った時も、彗星が落ちた日も、とにかく頑固だった。それに助けられるときもあれば、障害にしかならない時もある。今は後者だ。

 何の前触れもなく連れてきたのは失敗だったわ。今さら後悔が頭をよぎる。

 と、ガチャリと扉が開いて、二人が出てくる。出てきた二人を見て、私は目と耳を、そして自分の頭を疑う。え?どういうことなの、これは。

「あっはっは、いや瀧くん。君のような男がいるなんて、なんでもっと早く来てくれなかったんだ」

 お父さんはやたらと上機嫌で、瀧くんの肩に手をまわし、バンバン背中を叩いている。

「ああ、いえ、ですからしばらく忘れていて」

 叩かれる度に頭を前後に揺らしながら、瀧くんは答える。

「なんだ、まだそんな話をしとるのか、まあいい、君になら三葉を任せられる」

「いや、あの、ですからまだ付き合ってるわけでは」

 瀧くんの話を聞くことなく、お父さんは外に控えている秘書に呼びかける。

「おい!今日の昼は寿司をとれ!特上を五人前、いや六人前だ!瀧くん、腹いっぱい食べていきなさい」

 瀧くんは助けて、と私を見てくるけど、あっけにとられている私は思考が固まって何もできない。隣では四葉とお祖母ちゃんも、目をまん丸にして見ている。そんな私たちを促すようにお父さんが言う。

「さあみんな、客間に移動しよう!」

 

 私は、ついて行くしかなかった。

 俺は、連れていかれるしかなかった。

 

 

 

 

 

第四章 決意

 

 

 

 アラームが鳴る一時間前に、私は目覚めていた。というより、昨日は全然眠れなかった。

 と、自分の部屋から朝を告げる音がけたたましく鳴り響く。私はあわててスマフォの元へ戻り、アラームを止める。

 ああ、もう一時間もたったの?まだなんにも決まってないのに。

 再び洗面台の前に立ち、鏡とにらめっこする。そこに映った顔は、まだ化粧もされていない。

 それ以前に、髪、どうしよう。今日は仕事ないから、昔みたいに左右の三つ編みをくるりと巻いて、頭の後ろで束ねてみようかな。うーん、子供っぽい、かな……。そもそも瀧くん、どんな髪型が好きなんだろう。再会したときは褒めてくれたけど――思い出してつい口元が緩む。サヤちんやミキちゃんも美人だって言ってくれるけど、どこかお世辞めいた感じがしてならない。でも、瀧くんに言われると、心がふわふわして、周りの景色が何十倍、何百倍にもきれいに見えて、頭の中で壮大なBGMが流れ出す。今日も、あの時の髪型でいいかな。ああ、でもやっぱり……。

 これで同じ考えを二十回以上も繰り返していることに、私は気が付いていなかった。

 

 

 

「ああ、どうしよう、私、変やない?」

 結局いつもの髪型をして、クリーム色と黒のボーダーのシャツにブラウンのカーディガンをはおり、ゆるめの七分丈のジーンズ、落ち着いた色のパンプスという格好におさまった。短いスカートでキャピキャピする年でもない、と思ったのだ。ああ、それこそ八年前は生足まぶしい女子高生だったのに。あの頃なら、今よりもっと可愛いかっこうで瀧くんを悩殺できたのに。

「大丈夫って、八回目よ、この会話。あと何回するん?」

 四葉がもううんざり、という声で答える。

「うん、でも」

 私もミキちゃんみたいに美人なら、何を着ても似合うんだけど……瀧くんに褒めてもらえるか、不安でしかたない。

「いいから()よう行きない。遅れるよ?」

 え?もうそんな時間?

「あああ、うん、行ってくる!」

 

 

 

 駅前に十時三十分。それが待ち合わせの時間だった。が、三葉を待たせてはいけないと思った俺は、必要以上に早く着いてしまった。あまりに早すぎて、近くのカフェで三十分ほど時間をつぶしたくらいだ。

 俺は失敗しないように、頭の中でデートコースを何度も復習する。二人で並んで歩いて、楽しそうにする三葉、ランチで楽しそうにする三葉、午後からの水族館で楽しそうにする三葉、俺がごちそうするディナーで楽しそうにする三葉。三葉、三葉、三葉。やべえ、三葉しか頭に出てこねえ、落ち着いて、デートコースをもう一回最初から……

「……くん、たきくん、瀧くん」

「うわっ!」

 三葉の接近に気が付かなかった俺は、びっくりして思わず後ずさる。

「もう、なんて声だしとるの」

 三葉はくすくすと口元を抑えて笑う。

「す、すまん、つい考え事を……」

 そこまで言いかけて、俺は三葉の姿に目を奪われる。いつも仕事帰りに会う時のかっこうとは全然違う。三葉の周りにある駅の白いタイルまで、鮮やかな色に染まっていくように感じる。今まで見てきたどんな女の人よりも――奥寺先輩よりも――美人だと思った。道行く人も、三葉の方をちらちらと見ている。

 昔三葉から送られてきたリンク集の中に、女はとにかく褒めればOKだと書いてあったことを俺は思い出すが、目の前にいる三葉があまりにもきれいで、なんと言って褒めればいいのか逆にわからなくなる。

「きれいだ……」

 気が付いたら、シンプルにそうつぶやいていた。

「あ、ありがと」

 三葉は、嬉しそうに右手で髪をくるくるといじっている。その仕草一つ一つがいちいち可愛い。俺はなぜだか急に、三葉を抱きしめたい、さらさらで、つやのある髪を触りたい、指先まできれいにしてある手を握りたい、すべすべとした頬に手を這わせたい、そんな気持ちに駆られて、心臓が激しく鼓動を始める。落ち着け、まだ早い、早いというか、まだ大事なことを言ってない。俺は、君のことが――。そうだ、今日こそ言わなければ。

「瀧くん?」

 俺がずっと黙っているので、三葉が不思議そうにこちらを見てくる。

「ああ、すまん」

 反射的に謝る。

「もう、しっかりしてよ、今日は瀧くんの人生二回目のデートでしょ。しかも五年ぶりの」

「お、おう」

「どうせ五年前は、まともに話もできずにおわったんやろ」

 五年前のデートはたしかに散々だったが、その内容を三葉に話したことはなかった。結局見破られてるようで、悔しくなって反論する。

「う、うるさいな。関係ないだろ、そういうお前はどうなんだ。今まで男とデートしたことあるのかよ」

「私は――私のことはどうでもええの!今日は任せて大丈夫なん?」

 ん?なんだ、この反応は。まあいいか、今日は俺にかかっている。それは間違いない。しかしどこか自信のない俺は、明後日の方向を見ながら答える。

「わかってるよ、ま、任せろ」

 

 

 

 その日は、誰かが時間の流れを三倍にしたかのようだった。覚えているか不安だったデートプランも、気が付くと思い出すより先に現地に着いている感じがする。それくらい、あっという間に時が流れている。こんなに心がウキウキしているのは生まれて初めてだ。

 少しだけ街を歩いて回った後、ネットで評判のサンドイッチの店に行ってランチを楽しんだ。午後は水族館に行って、様々な魚と海の動物を見て回った。本当は水族館の変わった造りを見ようと思っていたのだが、ペンギンゾーンではしゃぐ三葉に見とれていた俺は、当初の目的をすっかり忘れていた。

 夕食は近くのイタリアンの店でとった。三葉はいつものようにお代を払うと言ったが、この日のために金を貯めてきた俺は断って全額出した。

 最後に、俺たちはスカイツリーに上ることにした。もう夜だが、いつ来てもここは人が多い。

「ほら、三葉」

 受付で買ったチケットを渡す。

「ありがとう。今日の瀧くん、太っ腹やなあ」

 三葉は上機嫌だ。この笑顔を見られただけで、この一週間、デートの準備を頑張ってきた甲斐がある。

 スカイツリーには高速エレベーターが四基ある。それぞれ、春夏秋冬を現した内装になっていて、地上三百五十メートルまでわずか五十秒でたどり着く。俺たちが乗ったのは春のエレベーターだ。天井付近に桜吹雪をイメージした模様がある。もちろんエレベーターの中も人がいっぱいで、俺と三葉は壁際に追いやられる。

 

 後ろから来た客に押されて、瀧くんの体が私に触れる。顔を上げれば唇が触れてしまいそうな距離。さっきワインを少し飲んだせいだろうか、私の心臓はマラソンを走った後のように早鐘を打っている。瀧くんの体からも、心臓の音が聞こえてくるみたいだ。

 

 三葉から、すん、と甘い香りが漂ってくる。そのにおいだけで、俺の頭の中は三葉でいっぱいになる。毎度思うが、女の人ってなんでこんなにいいにおいがするんだ。このままでは五十秒の間、俺は正気を保っていられないかもしれない。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。いや、これは密着している三葉の心臓の音だろうか。

 十秒、二十秒、三十秒―――エレベーターはぐんぐん上がっていく。あと半分を切った。最初の方は我慢しなければ、と三葉の方を見ないようにしていたが、この密着の終わりが近づくにつれて、離れたくない気持ちが強くなっていく。

 もうすこし、このままでいたい。

 

 こんなに密着したのは、まだ中学生だった瀧くんに会いに行ったとき以来だ。あの時は気まずくて早く離れたかったし、三年のズレに気付いてなかった私は悲しい気持ちでいっぱいだったけれど、今回は一緒にいられることが嬉しくてしかたがない。ああ、ドキドキしすぎて、このままくっついていると心臓が破裂してしまいそう。でも、気が付けばエレベーターの時間はもう二十秒も残っていない。

 もうすこし、このままでいられないかな。

 

 無情にも、エレベーターは展望デッキに到達する。扉が開き、客が降りはじめる。背中からの圧迫がなくなって、俺は三葉の体から離れる。その瞬間、世界が半分欠けてしまったような喪失感に襲われ、俺はとっさに三葉の手を掴んでエレベーターの外まで連れ出した。びっくりしている三葉と数秒見つめ合った後、目をそらしながら俺は言い訳をする。

「人が多いから、はぐれちゃいけないと思って」

 すごくとってつけたような内容だった。これではすぐに嘘だとばれる。はぐれる確率なら、昼間の水族館の方がよっぽど高いに決まっている。しかし、三葉は

「うん」

 と一言短く言って、きゅ、と手を握り返してきた。

 俺の頭は、今の状況を整理しようとフル回転で動き始めるいる。

 今、俺は三葉とデートに来ていて、スカイツリーの上で、手を!握っている!どうしよう、どうしたらいいんだ?三葉の手は細くて、やわらかくて、俺よりもちょっと体温が低くて、力を入れ過ぎたら折れてしまいそうだ。

 

 どうしよう、どうしよう、サヤちん、ミキちゃん、私この後どうしたらいいの?私はもうパニックだ。まさかいきなり手を握られるなんて思ってもみなかった。もちろん、手をつないで歩きたい、といつも思っていたけど、何の前触れもなく急にその時が来るなんて、このあとどうしたらいいかわかんないよ。

 瀧くんの手は私より温かくて、大きくて、骨ばっている。関節の太さも全然違う。包み込まれて落ち着くような感じがするけど、心臓の鼓動はどんどん早くなる。

 

 前回の飲み会の時、俺は司に耳打ちされたことを思い出していた。

『宮水さんの方が年上だけど、瀧、お前男なんだから、気合い入れてリードするんだぞ』

 よし、リードだ。リードってどうやるんだ。そこを教えてくれ、親友よ。

 俺があーでもない、こーでもないと考えていると

「なあ、あっち、見てみん?」

 三葉が微笑みながら、空いた方の手で窓の方を指さす。

「そ、そうだな」

 情けないな、俺。でも助かった。このままだと根が生えたみたいにここから動けなかった。

 俺たちは手をつないだまま、外の景色が見える窓際まで歩く。互いの手から、その存在すべてをかみしめるように、一歩一歩、進んでいく。

 

 窓際に立ち、私は息をのむ。

 目の前には、東京の夜景が、大パノラマで見えている。高層ビルの明かり一つ一つが星のようにきらめいて、遠くに見える橋の上、眼下に細く見える道路の上には、何百、何千の車輛が走っている。その輝き一つ一つが、眠らない街で、何千、何万という人が生活していることを、私に教えてくれる。そして、

 

 そして、その何千、何万の中から彼女は俺を選んでくれた。俺は、彼女を選んだ。そのことがどうしようもなくうれしくて、切なくて、俺はたまらず三葉の方を見た。三葉も、俺の顔を見上げる。

 五年前から今日まで、どうしても言いたかったこと、どうしても言えなかったことを、俺は確信をもって口にする。

 

 瀧くんと目があう。その眼は、何かを決断したときの、一番かっこいいときの彼の目だ。この時のために、私は待ち続けていたんだわ。本当はもっと早く言いたかったけど、今なら自然に言えそう。私は、八年前から伝えたかった言葉を口にする。

 

「三葉、俺は――」

 

「瀧くん、私――」

 

 君の、ことが――

 

「おとうさーん!こっちこっち!きれいに見えるよー!」

 突然現れた子供の声に、俺たちは慌てて離れる。後ろから親と思しき男性がすいません、と謝りながら近づいてくる。

「いえ、おかまいなく」

 かろうじてそう口にした俺だったが、さっきまでのいいムードは台無しだ。とんでもなく時間をかけて造った城を、一撃で粉砕された気持ちだ。俺の決意も、ガラガラと崩れて粉々になっていく。

 男性は邪魔しちゃダメでしょ、と叱りつけて子供を連れて行く。

 三葉は夜景の方を向いて、黙り込んでいる。

 俺もどうすることもできず、汗ばむ手を握り締めて、外を見るしかできなかった。

 

『お前男なんだから、気合い入れてリードしろよ』

 

 再び司の言葉を思いだす。

 大丈夫だ、いつだって言える。あせらなくたっていい。俺も三葉も、もう互いのことをぜったいに忘れない。

 よし、と一呼吸おいて、三葉の方へ向き直る。

「三葉」

 俺の呼びかけに、三葉はゆっくりと振り向く。頬だけでなく、耳まで真っ赤になって、目は少しうるんで、どんな宝石よりもきれいに輝いている。そう、こんなに愛しい人を忘れるものか。今大切なのは、五年分、八年分の隙間を埋めることだ。そして、そのリードをしなくちゃいけないのはほかでもない、俺だ。

「向こうの方も見てみないか」

 そう言って、俺は手を差しだす。昔話で王子様がお姫様にするように、私にすべてを預けてこの上に手を乗せてください、といわんばかりに。

 三葉は一瞬ためらった後、外の夜景がかすんでしまうほどの、飛びきりの笑顔で答えた。

「うん!」 

 

 

 

 

 

五章 始まり

 

 

 

 聞き覚えのないアラームの音だ。

 まどろむ頭の中で、そう思った。目覚まし?でもまだ眠たい。昨日も夜遅くまで勉強をしていた私は、疲れきって倒れこむように寝たのだ。

 だめだ、耳障りな音で全然眠れない。

 あきらめて、目をつむったままスマフォを探す。右手に何か硬いものが触れる。これだろうか。ぺたぺたとそれ(、、)を触っていると、カシャッと大きな音がする。私はびっくりして飛び起きる。いったい何の音なの⁉

 目を開けて、右手に持っている物を見る。カメラだ。鉄道マニアとかが持っていそうな、大きくて重たいカメラだ。

 はて、と私は思う。こんなカメラ持ってたっけ?私は持ってないし、お姉ちゃんも、もちろん持っていない。

 瀧兄ちゃんはどうだろうか。風景や建物のスケッチはしているが、写真は見たことない。では、これはいったい……

「誰のやろ」

 一言つぶやいて、異変に気が付く。声が、低い。そして喉が重い。反射的に手をやると、喉に硬くてとがったものが入っている。

「なんや、これ」

 再びつぶやくと、やはり声が低い。

 喉を見ようと下に目をやると、まっすぐ平らな胸が目に入る。

 

 まっすぐ平らな胸が目に入る。

 

「ない……」

 私は低い声で絶望的な悲鳴をあげた。

「おっぱいが!ない!」

 どうして?最近、やっとついてきたと思っていたのに、いきなりこんなぺったんこになるなんて信じられない。

 私はペタペタと自分の胸を触る。そこには脂肪の塊など一切なく、硬い筋肉のハリがあるだけだ。と、同時に、自分の手が太く、ごつくなっていることに気が付く。腕に視線を送ると、こちらも太く、やけに筋肉質だ。男みたいに。

 男?なぜそんなことを思うのだろう。ああ、そうか、きっとこれは夢なのだ。顔を洗って、もうひと眠りすればすぐ覚めるだろう。

 そう思って立ち上がった私は、周囲を見て驚く。

 青系統でコーディネートされた部屋は狭く、床には本や雑誌が散乱している。ほとんどがカメラ関連のもので、中には水着ギャルの表紙も見える。こんなに散らかした覚えはない。それに、半裸のギャルの写真集を買う女子高生などどこにいるのだ。

 顔をしかめながら、すでに開いているドアから廊下に出る。なんとなく歩いて向かい側のドアに入ると、そこはちょうど洗面所になっていた。

 よし、顔を洗おう。眠たい目をこすりながら鏡を見て、私は固まる。

「え?」

 目の前にいるのは、どう見ても男だった。髪は短く、ぼさぼさで寝癖だらけ。眉毛は太く、目は力強い。かさかさした唇の上と下には、うっすら髭が生えかけていて、触るとざらざらする。

 とたんに私はあることが気になり、自分の下半身に、右と左の足の間に、目をやる。胸がない、ということは。

 代わりに……

「なんや、ある」

 限界だった。

 

 

 

「はっ⁉」

 強烈なイメージを振り払うように、目を覚ます。なんだか、すごく嫌な夢を見ていた気がする。あれ?なんやっけ、うまく思い出せない……チュン、チュン、と、窓の外から雀のさえずりが聞こえる。

 そうだ!私は自分の胸に目線をおろし、手でまさぐる。おっぱい、おっぱい、おっぱいは……ある!私は、両手で自分の胸を揉みながら感動する。よかった、ある。胸は抵抗することなく、私の指に合わせて形を変える。お姉ちゃんほど大きくはないが、人並みより少し大きいくらいはある。

 昔は何がそんなに大切なのかわからなかったが、思春期の訪れとともに、次第にその重要性を理解していった。女としての象徴みたいなものだし、理由は不明だが、たいていの男はおっぱいが好きなのだ。

 ただし、大きいだけでは意味がないと瀧兄ちゃんは言っていた。そのあたりはまだよくわからない。大人になればわかるのだろうか。

「……四葉ちゃん、なにしてるの?」

 胸を揉みながら、ふと声の方向に顔を向ける。そこには、さわやかな顔立ちの男性が顔を赤くして立っている。彼が瀧兄ちゃん。十一月になってから、姉と同棲を始めた大学四年生だ。とってもかっこいい!というわけでは無いが、面食いのお姉ちゃんが納得するくらいにはイケメンだ。しかし私の姉はどうかしている。年頃の妹がいるのに男と同棲なんて、こんな風に寝起きの姿を見られたら……見られたら?え?瀧兄ちゃん?

「ご、ご飯できたから、早く」

 瀧兄ちゃんはごまかすように言いかけるが、

「な、な、なに見とるの⁉あほー!」

 私の叫び声がアパートにこだまする。

 

 

 

「あんたが起きんから、トイレ行くついでに起こしてって頼んだんやよ」

 髪を後ろに束ね、エプロンをかけ、右手にお玉を持った姉が言う。

「でも、あんたも部屋の中のぞいちゃダメでしょ」

 姉は左手でみそ汁の入ったお椀を机に置きながら、恋人に鋭い視線を向ける。

「は、はい、すいません。いや、トイレに行こうと思ったら、四葉ちゃんの部屋のドアが開いてて、四葉ちゃんが」

「ストーップ!瀧兄ちゃん、ストップ!それ以上はダメ!思い出してもダメやよ!」

 私は両手をばたつかせる。柄にもなく取り乱してしまった。

「ご、ごめん四葉ちゃん」

 瀧兄ちゃんは申し訳ない、と頭をかく。

「いったい何を見たの、あんたまさか、四葉の……」

 姉が瀧兄ちゃんを今にも絞め殺しそうな顔で見る。私の何を見たのか、最後は声にならないようで口をパクパクさせるだけだったが、きっとよくないことを考えているに違いない。心配してくれるのはうれしいが、だったら最初から同棲などしないければいいのに。最近、この人は妙にはりきってしまって困っている。

「お姉ちゃんもうええから、お箸とってくれん?」

 年頃の私としては、いち早くこの話題を遠くへ押しやりたかった。瀧兄ちゃんはいい人だから蒸し返すようなことはしないはずだが、ちょっと抜けている姉の方は心配だ。いくら姉妹でも、デリカシーというものがある。男の人がいる前で、女の子の何を見たのとか、見てないのとか話されたくない。

 姉は納得していないようだったが、しぶしぶ、箸をとってこちらに渡してきた。

「いただきます」

 瀧兄ちゃんと二人で、先に食べ始める。お姉ちゃんも調理の片付けをした後、私の反対側に座っていただきます、と言う。

「四葉、受験勉強は順調?」

 またこの話だ。最近は毎日、毎時間、顔を合わせるたびに同じことを聞かれる。

「順調やさ」

 私もいつも通り、手短に答える。

「嘘つきない。昨日は全く勉強しとらんかったやろ」

 姉にたしなめられ、私はむっとする。失礼な、昨日もちゃんと――あれ?勉強、したっけ?

「昨日は四葉ちゃん、なんだか大変だったもんな」

 瀧兄ちゃんが笑って言う。なんのことを言っとるの。

「そうよ。朝、急に叫んだかと思ったら、自分の名前も、学校の場所も忘れたって言い出して。瀧くんが大学休みやったから連れて行ってもらえたけど、学校ではなんやおかしなことしとるって、先生から電話が来るし」

「そう言うなって三葉。四葉ちゃんも受験勉強でストレスたまってるんだよ」

 二人してなんの話をしているのだろう――新手のドッキリだろうか。今朝は不快なことばかりだ。胸を揉んでいるところを見られたのは自分の不手際だが……いや、果たして自分の不手際だろうか、と考え直す。私はいつも、というか普通の人は部屋のドアを閉めて寝る。あんなふうにドアを開け放したまま、いい加減な眠り方はしないはずだ。

 うーん、わからないことばかりだ。瀧兄ちゃんの言う通り、ストレスがたまっているのかもしれない。なにか発散できることはないだろうか。

 そんな時、瀧兄ちゃんがつけたテレビから気になるニュースが飛び込んでくる。

『糸守町復興ライブ開催まで、一か月を切った昨日、ライブ会場では、参加アーティストによるリハーサルが行われました。リハーサルを視察した宮水としき復興大臣は……』

「あ、お父さんや」

 ニュース映像に出ているのは、復興大臣を務める私の父親だ。昔、私のお母さん(私はあんまり覚えていないけど)が死んだあとしばらく疎遠になっていたのだけれど、八年前のあの日をきっかけに、お祖母ちゃんと姉と仲直りをしたのだ。今は忙しい仕事の合間を縫って、月に何度か一緒にご飯を食べてくれる。お父さんと行く店はどこもおいしいところばかりで、ささやかな楽しみの一つになっている。

 それもいいが、ライブか。若者のストレス解消にもってこいだ。

「お義父さんも大変だな、最近毎日どっかで見るよ」

 私につられてニュース映像を見た瀧兄ちゃんが言う。

「最近はライブだけやなくて、糸守って名前が少しでも出れば、テレビにラジオに新聞にって忙しいみたい。体こわさんとええけど」

 お姉ちゃんは少し心配そうだ。私だってお父さんが働きすぎなのは知っているが、この話の流れは逃せない。前回は一蹴されたが、今回は瀧兄ちゃんがいる。優しい瀧兄ちゃんなら一緒にお姉ちゃんを説得して、ライブに連れて行ってくれるかもしれない。

「なあなあ、瀧兄ちゃんはライブとか行ったことある?」

 よし、まずは外堀から攻める作戦だ。ここから徐々に瀧兄ちゃんが復興ライブに行きたい、と言い出す展開に持っていくのだ。

「うーん、ライブか。二年くらい前に、司や高木と一緒に行ったかなあ」

 行ったことがあるんだ、なかなかいい滑り出しだ。ここから話を掘り下げよう。

「行ったことあるの?誰のライブ?」

「うーん、それが、俺はそういうの詳しくなくってさ。結局ライブ会場のデザインの方が印象に残ってて」

 瀧に兄ちゃんは、ははは、と頭をかきながら言う。そういえばこの人もどこか抜けているのだ。お姉ちゃんほどではないけど。

「あんたはすぐ建物に目が行くんやから。デっ、外でご飯食べるときも、天井の造りとか床の模様とかばっかり見て」

 今デートって言いかけたな、そして照れてるな、お姉ちゃん。

「すまん、つい気になって」

 恋人の突っ込みに、こちらも照れながら笑うさわやか大学生。違う、そうやない、朝から年上カップルのいちゃつきを見たいわけやない。私は若干のイラつきを抑えて、作戦を続行する。

「糸守復興ライブは特設会場でやるらしいよ、もしかしたら、なにか面白い造りがあるかも」

 瀧兄ちゃんの興味が建築なら、そっちから攻めるしかない。

「今建設中の?ああ、少し気になってるんだよね、彗星のモチーフとかいれるって話があったり」

 建築の話になったとたん、瀧兄ちゃんはすごくうれしそうに食いついてくる。しかも微妙に詳しい。

「彗星?うーん、複雑やなあ。糸守の人からしたら、街を離れたきっかけでもあるわけやし」

 瀧兄ちゃんとは対照的に、お姉ちゃんはあまり嬉しそうではない。それは当然の反応だと思う。私たちの育った町は彗星の落下によって跡形もなく消し飛んでしまったのだから、できれば思い出したくない。

「でも、集客効果は抜群だと思うんだ。糸守、彗星、復興、それに必要なお金と人、お義父さんはうまくつなげてるよ」

 たしかに、復興にはお金が必要だ。いくらきれいごとを言っても、一銭もなければ何も始まらない。お父さんはそこのところをよく考えてやっていると思う。

「つなげる、ムスビ……」

 瀧兄ちゃんの言葉でふと思い出して、つぶやく。お祖母ちゃんが言っていた、人と人のつながり、神様の力、名前、時間の流れそのもの、難しい話だが、たしかそんなものだ。

「そうやなあ、確かにこれも、ムスビかもしれんなあ」

 お姉ちゃんが珍しく私に同意する。

「そうだな、ムスビだな。糸守復興のために、ライブに行ってみるのもいいかもしれないな」

 瀧兄ちゃんの口からライブに行きたい、という言葉が出てきた。当初の予定よりも早いが、これはチャンスだ。

「そうやよ、糸守のために、行こうよお姉ちゃん!」

 決まった。と思ったが、とたんに姉の態度が一変する。口を真一文字に結び、両目をぐるりとこちらに向ける。

「あんたはしっかり勉強しない!」

 やっぱり反対された。しかし、ここまでは予想の範囲内。私は瀧兄ちゃんの方に助けて、と上目遣いでメッセージを送る。瀧兄ちゃんは少し困った顔をしたが、

「ま、まあ四葉ちゃんも勉強頑張ってるんだし、ちょっと息抜きぐらい」

 と援護をしてくれた。恋人からの提案、頑固な姉でもこれは態度を軟化させるに違いない……と、希望の光が差し込んで来たのだが。

 その瞬間、姉はぴたりと箸をとめ、

「ふーん、瀧くんは、四葉の味方をするんやね」

 にっこりと、ここ最近一番の笑顔で静かに言う。それを見るや否や、瀧兄ちゃんはウッ、と声を漏らしてだらだらと汗をかき始めた。そして、お茶碗とお箸を一つ一つ丁寧に置いて、私の方に向き直る。

「ま、まあ四葉ちゃん、学生の本分は勉強だから、うん。頑張って」

 一撃だった。将来、結婚したら姉の尻に敷かれそうだ。

 さよなら、復興ライブ。私が大きくため息をついて朝食に戻ると

「四葉ちゃーん、おっはよーう」

 チャイムの音とともに、元気な声が聞こえてくる。

 私は女の子にあるまじきスピードでご飯と味噌汁をかきこんで、廊下を駆け抜け、玄関ドアを五センチほど開けて告げる。

「あと五分」

 今日は寝坊したので、まだ身だしなみを整えていないのだ。

「いいよー、オッケー」

 と明るい声を背中に受けながら、回れ右で洗面台へ。頭のなかではスタート!と五分のカウントダウンが始まっている。

 お気に入りのピンクの歯ブラシ――すぐとなりにカップル用のお揃いの歯ブラシとコップがある。高校生並みに浮かれている、どこかのお二人さんのものだ――をとり、甘い歯磨き粉をつけ、口のなかに放り込む。

 歯を磨きつつ髪にブラシを入れ、いつもと同じように髪を左右にわけて結う。片方はゴムで縛っているが、もう片方はアクセントとして組紐で結っている。今日は黄色、髪留め用に短めになった特注品だ。

 口をゆすいだあと、頭をふって左右のバランスを確認し、自分の部屋にもどってカバンを掴む。

「いってらっしゃい」

「気をつけて行くんやよ」

 それぞれに声をかけてくる瀧兄ちゃんとお姉ちゃんに

「いってきまーす」

 と返事をして、学校指定の靴に足を入れる。

 ギィ、とドアを開けると、外には可愛らしい女の子が待っていた。

 身長は私よりも二、三センチ低く、短い黒髪は後ろでまとめてショートポニーに。パッチリとした目、やわらかそうな唇、冬服をダボッと着ていて、つい抱き締めたくなってしまう愛くるしさがある。

 彼女は米沢(よねざわ)志保(しほ)、サワちんと呼んでいる、中学以来の親友だ。糸守出身、しかも当時の町長の娘というレッテルを貼られ、イジメやからかいの対象にされてきた私をずっと支えてくれたのが彼女だ。その正義感は、警察官である叔父譲りらしい。

 簡単にまとめるなら、可愛い見た目をしてしっかりした子、というのがふさわしい。

「おはよう四葉ちゃん」

 本日二度目のおはようだ。

「おはよう、待たせてゴメン!」

 私は両手をあわせて片目をつむる。

「いいよー、まだ間に合うからね」

 サワちんは気にしてないみたいで、にこにこ笑っている。モテるのもなっとく。

 サワちんは実際モテモテなのだ。彼氏がいないのには理由があるのだけど、非常にもったいない話だ。

 二人で駅に向かいながら、私は再び姉に反対された復興ライブの話をする。

「じゃあお姉さん、やっぱりだめって?」

 両手でちょこん、とカバンを持ったサワちんが言う。

「うん、また反対された。硬いんやよ、お姉ちゃんは」

「四葉ちゃん、なまってる」

「あれ、また?」

 東京に暮らして八年になるが、私はいまだに糸守の言葉が抜けない時がある。そのたびにサワちんが訂正してくれるのだが、この分では一生なおらないかもしれない。

「ふふ、じゃあライブ当日は、友達の家で勉強会しますってことにすれば?で、じっさいにやるの、勉強会を。でも、勉強会を始める前に、こっそりライブで息抜きするんだよ!」

 おお、それはいいかもしれない。勉強会という名目なら、反対されないだろう。しかも、私がいなくなれば瀧兄ちゃんと二人きりになれるのだ。お姉ちゃんとしても、そんなチャンスは逃さないはずだ。

「さすがサワちん。完璧な作戦やさ!」

「四葉ちゃん、またなまってる」

 

 

 

 私たちはどこで勉強会をするのかを話しながら電車に乗り、色んな臭いが立ち込める窮屈な車両内を十分ほど我慢する。

 ごったがえす駅のホームを出れば、あと七分歩くだけで高校に着く。なかなかの立地で、超早い朝練に三年間通えたのもそのおかげだ。

 サワちんと二人して駅の出口に向かうと、柱にもたれかかってスマフォをいじっている男がいる。短くつんつんした髪は、部活を引退してから一部シルバーに染めてある。目鼻がくっきりとした顔立ちで、男にしては細めの体だが、すらっとしていると言えば聞こえがいいか。実際、身長は私たちより十センチ以上高い。制服のネクタイをだら~っと下げて、でっかい紫色のヘッドホンを首にかけている。

 彼はタカジー、高藤(たかふじ)流星(りゅうせい)だ。お父さんが秋葉原に無線ショップを構えていて、その影響か電子機器もろもろに詳しい。ちょっとオタク。専門学校に行けばもっと詳しくなって仕事に役立つと私は思うのだが、タカジー曰く、男女共学の普通科で、肌がつやつやの女子高生を見ることに意味があるんだとか。

 見ず知らずの人が聞いたらドン引きしそうな理由だが、私はタカジーのこういう正直なところが好きだ。もちろん友達として。

 気心知れたサワちんはともかく、女という生き物は年を重ねれば重ねるほど、うわべやお世辞だらけの会話になっていくのだ。

 例えば、小学生のころは「遊ぼう」「うん、いいよ」ですんでいた会話が、

 

  「ねえ、これなんだけどさー、そう、これ、ヤバくない?」

  「えー、ヤバーいチョーかわいー」

  「これって、あの時のやつが人気になって、また出てきたらしいんだけど」

  「え?そうなの?あの時のやつ?あれ、すごかったよね、見た見た」

  「ねー、おもしろかったよねー」

  「また出てくるってすごーい」

  「アタシさー、今度これ買いに行こうか悩んでんだよねー」

  「えーマジで?ウソ?いいなー、うらやましー」

 

 等とやたら長い会話をしておいて、結局一緒に行かないのかよ!と突っ込みたくなったのは一度や二度ではない。

 その点、タカジーはシンプルだ。

 

  「タカジーん()で勉強会」

  「ラジャー」

 

 これだけで済む。正直者で思い切りがいい。あとは、サワちんに対して思い切りよく正直になればいいのだが。

「おっす」

 私たちの接近に気がついたタカジーが、顔はスマフォに向けたまま、目線だけで挨拶してくる。

「おっす」

「おっすー」

 二人で同じ挨拶を返すが、語尾を伸ばすだけでこんなに可愛く聞こえるサワちんはさすがだ。わかっていても、つい声の主を目で追ってしまう。私も今度真似してみようかな。

「あれ、宮水、今日は普通だな」

 タカジーがスマフォを左ポケットにしまいながら、私の顔をまじまじと見てくる。

「どーゆー意味」

 私は眉を吊り上げてタカジーを見る。私は高校で、男よりも男らしいと言われている。別にそれを変えるつもりはないのだが、今日は普通に女の子みたい、とでも言いたげなヘッドホン野郎が気に入らない。

「タカジー、その話は……」

 サワちんがちょっとそれは、と言いたげな顔でタカジーを見る。

 え?何?この二人の反応は。お姉ちゃんと瀧兄ちゃんも変なこと言ってたし、やっぱりドッキリでもしかけてるのだろうか。肉親と恋人、親友まで巻き込むなんて、いくらなんでも手が込みすぎだ。

「宮水、昨日は髪結んでなかったし、目付きはおかしいし、若干挙動不審で」

 え?マジ?

「自分の名前も、教室もロッカーも机も忘れるし、朝は俺の挨拶スルーするし」

 最後のは別にいいが、それ以外はなんだ。そんな記憶はない。

「嘘!そんなはずない!」

「髪おろした姿がかわいいって、一部の男子で話題に、かと思えば男子便所に入るし 」

「はあ!?な……な……なんよそれ?」

 男子便所⁉

 男よりも男らしい、それは構わないが、越えてはいけない一線は守ってきたつもりだった。いや、今だって守って……そういえば。

 今朝みていた夢を思い出した。あれは完全に男だったわけだが、なぜだかこの二つが無関係に思えない。本当に男になっていたとしたら……いや、男になっていたのは夢の中の私で、現実世界の私は女のままだ。ん?頭がこんがらがってきた……。

「おっ、そうだ」

 タカジーはスマフォを再び取りだし、写真を表示させる。

「ほら」

 写っているのは、左手を机について、顔だけをこちらに向けて立っている私だ。目を潤ませ、口は何かをつぶやくかのように半開きにして、右手でグーをつくってぶりっ子のようにほほに当てている。そしてたしかに、髪を結っていない。

「いつ撮ったんや、白状しない!」

 こんな乙女なポーズをした覚えはないし、するつもりもない。なぜこんな写真があるのか。私はタカジーの両肩に手をかけ、前後にゆする。

「お前がとらせてくれたんじゃないか」

 あうあうとタカジーが答える。

「嘘つきない!こんなはずかしいポーズ、とるわけないにん!」

「四葉ちゃん、なまってる」

 サワちんのフォローなど頭に入らない。

「お得意の合成か!コラガゾウか!」

「嘘じゃないって、お前がとらせてくれたんだって」

 ううむ、ここまで揺らしてもタカジーは白状しない。絞めて落とそうかな?いや、落ちてしまったら話もできなくなる。どうすれば……

「あのね、四葉ちゃん」

 申し訳なさそうにサワちんが話しかけてくる。

「黙っておこうと思ったんだけど、タカジーの言ってることは本当なの」

「え?」

 親友の告白に、私は血の気が引く。

「昨日の四葉ちゃん、快く写真とらせてくれたから。その……」

 そう言って、サワちんはスマフォを両手で挟むようにして私の顔の前に持ち上げてくる。

 まさか。

「あまりにかわいかったものだから、つい」

 視界の外から上がってきたのは、ちょっと小首をかしげ、両手で頬杖をつき、上目遣いでカメラを見ている私だった。

「サ、サワちん……?」

 私の中の何かが、ガラガラと音をたてて崩れていった。

 

 

 

 昼休み、私はトイレの手洗い場で顔を洗っていた。

 鏡に写った自分の顔は、疲れきっていてとても頼りない。

「はあ」

 本日二十数回目のため息だ。登校するなり男子生徒から奇異の(一部羨望の)眼差しを向けられ、そのうちの一人からは写真を撮らせてほしい、などと要求されたからだ。

 もちろん丁重(、、)にお断りしたが、教室の中は

「やっぱ宮水は凶暴だ」

 とか

「俺、ギャップ萌えかも」

 とか

「四葉ちゃん大丈夫かな」

 などとざわつき、しばらく騒然としていた。

 他の休憩時間も似たようなものだったので、耐えきれなくなって女子トイレに逃げ込んでいる。

「四葉ちゃん」

 サワちんが後ろから声をかけてくる。

「大変だったね」

「うん」

 疲れている私は、返事もそぞろだ。

「本当に覚えてないの?」

 鏡越しにこちらを見てくるサワちんに、私は無言でうなずく。

「もしかしたら、ストレスとかたまってるのかもよ?心当たりない?」

 朝も言われたが。ストレスか。うーん……心当たりが無いわけではない。

 最近姉が始めた同棲、これが地味にストレスになる。

 お姉ちゃんは好きな人と一緒にいられるんだから、嫌なわけがない。でも、いくら瀧兄ちゃんがいい人でも、私からすれば他人であることに変わりない。

 アパートという狭い居住空間では、わずかな物音が気になって仕方ないし、私の生活音も相手に聞かれていると思うと、無意識のうちに気を使ってしまう。

 ましてや年頃の私としては、瀧兄ちゃんが入ったあとのお風呂に入るとか、私が入ったあとのお風呂に瀧兄ちゃんが入るとか、どっちも耐えられない!

 

「お姉ちゃんはええよ!瀧兄ちゃんと一緒に入ればええんやさ!でも私はどうなるん?」

 

 と、一度訴えたこともあるが、

 

「い、いい、一緒になんか入らんよ!あほ!」

 

 と、少しズレた答えが帰ってきただけだった。そこやない、そこやないよお姉ちゃん。

 ただ、そこまでしんどい思いをしたわけでもないし、瀧兄ちゃんは色々気配りをしてくれるので、記憶が飛ぶほどのストレスではないように思う。

「んー、これといって思い浮かばんなあ」

 そう答えるしかない。

「もしかしたら、無意識のうちに色々抱え込んじゃったりしてない?主将とかやってたし」

 たしかに部活の主将は勤めていたが、あれはあれで楽しくやらせてもらっていた。

「強いて言うなら……受験勉強?」

 我ながら安直すぎる答えだったが、サワちんにはきいたらしい。

「おー、それは一理あるねー。じゃあ今日は勉強会の前にマックでもよって、息抜きしようよ」

 正規の大発見!とでも言うように目をキラキラさせるサワちんは、それはもう可愛くて、何ら根本的な解決になっていないのに

「じゃあ放課後に」

 と、つい答えてしまった。サワちん恐るべし。この可愛さを悪用、じゃない、利用すれば、一生お金に困らないのでないだろうか。

 そろそろ次の授業の準備をしなくては。サワちんには先に教室に戻ってもらって、私は最後にもう一度だけ顔を洗うことにした。秋と冬の境目の冷たい風が、濡れた顔に当たってひんやりする。ふう、と息をつき、ハンカチで水滴をぬぐう。

 よし、だいぶ落ち着いた。ハンカチを制服のポケットに入れ、鏡の前から立ち去ろうとしたとき、ふと、ポケットの中にある単語帳に気がついた。

 あれ?この単語帳は、英単語を覚えるために別のポケットに入れていたものだ。ここはハンカチ専用。一緒に入れたらクシャクシャになってしまう。

「うーん……?」なんでこんなところに……

 不思議に思って単語帳の表紙をめくると、一番上のページに

 

  君はだれ?

 

 と、かくばって、きびきびとした字で書いてある。

 私の字じゃない。とっさにそう思ったが、次に頭に浮かんだことの方が、的を射ていた。

 

  書いたのは、誰?

 

 さらにページをめくると、二枚目の表裏に

 

  俺は弾

  大学生

 

 と、書いてある。

 弾?だん?たま?俺はたま?そして大学生?私は生足まぶしい女子高生だ。

 私の単語帳にいたずらできるのは、サワちんかタカジー、お姉ちゃん、そして瀧兄ちゃんの四人くらいだ。この中で一番可能性があるのはタカジーかな、でもいたずらにしては雑すぎる。スナイパーがまったく見当違いの方向を狙って撃っているようなものだ。意味がない。

 うーん、直接聞こう。まどろっこしいことは嫌いだ。

 

 

 

「え?単語帳?」

 ストローでシェイクをかき混ぜながらタカジーが答える。テーブルの上には、(くだん)の単語帳が置かれている。

「いやいや、俺触ってないよ?いつも英語書いてあるやつだろ?」

「あんたやないなら、いったい誰が……」

 私はつい隣に座っているサワちんを横目で見る。疑いの目を向けられたサワちんは持っていたポテトを落として、両手を懸命に振る。

「ええ⁉わ、私じゃないよぅ」

 うーん、可愛い。サワちんじゃないな。

 私たちは放課後、行きつけのマックでくつろぎながら、謎現象について考察していた。

 タカジーが状況をまとめる。

「まず、宮水はよくわからない夢を見た。その夢の中で、宮水は男になっていた」

 サワちんが引き継ぐ

「現実世界では、記憶喪失の四葉ちゃんがいつもよりもっと可愛くなって、男子にモテモテ」

「モテてないやさ!」

 全力で否定する。

「ごめんごめん、それで、四葉ちゃんの単語帳には謎のメッセージが」

「内容は、君はだれ?、俺は弾、大学生、の三つ」

 タカジーはキーワード一つごとにポテトを取り出し、トレーの上に並べていく。

「うーん」

 並べられた三本のポテトを凝視する私だが、さっぱり何も見えてこない。むしろ状況を整理すればするほど、意味のわからないことが起きていることに気が付く。

「現時点でわかることは」

 タカジーはポテトを一本取って口に運ぶ

「これを書いたやつの名前は、弾という名前の可能性があり」

 さらにもう一本を取る。

「そいつは大学生の可能性がある、ということだな」

 もぐもぐとポテトを食べるタカジー。可能性ばかりでどれも確証はない。

「これだけじゃどうしようもないよ」

 私は三本目のポテトを取って口に放り込む。

「そだね」

 同意するサワちん。

「まー、あれだ、あれ、ストレスによる一時的な記憶の混乱じゃね?もしくは、前世の記憶、言い方を変えればエヴェレットの多世界解釈に基づくマルチバースに無意識が接続したという――」

「「なに、それ」」

 急に水を得た魚のようにいきいきと持論を展開するタカジーに、私たち二人はそろって冷めた返事をする。男らしくても男の趣味がわかるわけでは無い。まず日本語でしゃべってほしいものだ。

「あーもー、意味わからん!むしゃくしゃする」

 私は両手で頭をかかえる。

「どうすんの、勉強会はお開きにする?カラオケでも行くか」

 粋な提案をしてくれるタカジーだが、あいにくそんな気分ではないし、今日は周囲の反応だけで疲れてしまった。

「ううん、今日は早めに帰る。ありがと」

 私は単語帳を手に取り、席を立つ。

「バイバイ、四葉ちゃん、気を付けてねー」

「また明日なー」

 単語帳を持ったまま二人に手を振り、店を出る。出口から店内を振り返ると、タカジーに一生懸命話しかけているサワちんの姿が目に入った。

 頑張れ。

 二人に向かって小声でつぶやき、私は茜色に染まる人ごみの中に踏み込んでいった。

 

 

 

 かちん、かちんと重り球のぶつかる音が間断なく響いている。

 気持ちの落ち着かない私は、お父さんの家に来て、お祖母ちゃんから組紐のつくり方を教わっていた。

「そうそう、そうしたら、今度はこっちのをとりない」

 お祖母ちゃんがマンツーマンで教えてくれる。糸守を離れた後も、宮水神社のしきたりは大切に守っている。口噛み酒は八年前を最後に作っていないが、私もお姉ちゃんも、舞や組紐のつくり方を週に一度、お祖母ちゃんから教わっている。今日はその日ではないが、勉強に身の入らない、かといってなにかをしていないと落ち着かない私は家に帰らず、お祖母ちゃんのところに転がりこんだのだ。

「そうやそうや、四葉もだんだん、糸の声が聞こえるようになってきとるわ」

「そうかな」

 やった。めずらしく褒めてくれた。

 しばらく無心で糸を操り、一本の組紐を作り上げた。お祖母ちゃんは、できあがった組紐を眼鏡のふちを持ってじっくりと見ると、

「きれいにできとる、たいしたもんだわ」

 と一言って私に返し、お茶を入れてくるから、と席を立った。

 生まれて初めて、自分一人で――お祖母ちゃんに教わりながらだけど――組紐を作り上げた。青い紐は私の手の中でキラキラと光る。うん、なんだかすごい達成感と満足感。今度からこれで髪を結ぼう。でもよく考えると、お姉ちゃんは今の私と同じ年で、一人で立派に組紐を作りあげていた。すごいな、と思う。いつもはどこか抜けていると思うが、やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんだ。

「ほら四葉、飲みない」

 お祖母ちゃんがお盆に二つの湯呑を乗せて戻ってきた。

「ありがとう、お祖母ちゃん」

 私は湯呑を手に持ち、お茶をすする。熱いお茶が疲れた心にしみわたるようだ。

「四葉、学校はどないや」

 勉強は、と聞いてこないのがお祖母ちゃんだ。お祖母ちゃんにしてみれば宮水のしきたりを守るのが重要であり、現代日本の学力主義、経歴主義はどうも好かないらしい。学校とは地元の歴史を学び、友と楽しく語らうところだという主張なのだ。

「うーん、変なことが起きて、困っとるよ」

 私はしかめっ面になる。

「んん?もしかしてまた」

 お祖母ちゃんはあれまあ、と口に持っていった湯呑を止める。

「ううん、大丈夫よ、前とは違うんやさ。あのね、疲れがたまって、ちょっと勉強が嫌になっちゃった」

 私は湯呑を手で磨くようになでながら答える。

「そうかい、ほどほどにしないよ。たまには三葉に甘えて、ゆっくりしない」

 お祖母ちゃん止めていた湯呑を再び動かし、お茶をすする。私はうん、と答えてから質問する。

「なあお祖母ちゃん。お祖母ちゃんはお姉ちゃんと瀧兄ちゃん、どう思う?」

 これは前からちょっと気になっていたことだ。お父さんとお母さんが結婚する時ひと悶着あったらしいから、お姉ちゃんの交際に多少なりとも反対するのでは、と私は思っていたのだ。

 お祖母ちゃんはしばらく黙ったあと、ゆっくりと思い出すように話し出す。

「あの子はな、三葉だけやない、糸守のことも愛しとる。やからワシは、あの子のことを信用しとる」

「糸守を?瀧兄ちゃんが?」初耳だ。

「この間も、三葉と一緒にワシを訪ねてきて、宮水のしきたりと歴史を教えて欲しい、と頭を下げてきよった。バカ息子が政治をつづけとる今、宮水を継ぐのは三葉とあの子やさ」

 再びお茶をすすって、続ける。

「なんにしてもな、四葉。人を愛するだけでは、その地に長く住むことはできん。土地を愛し、土地を知ることで、土地と共に生きることができるんやさ。あの子は三葉を大切にしてくれるが、もし三葉がおらんようになっても、糸守に住み続ける。それは、三葉も同じ」

 お姉ちゃんと瀧兄ちゃんの話をしたかったのに、なぜか土地の話になってしまった。わけが分からない。

「そして、その土地に住み続けるということは、命やしきたり、思いを次の世代につなぐということ。ムスビや。ワシからあんたの母ちゃん、あんたの母ちゃんから三葉やあんた、次は、あの子らからその子供に、代々つなげていくムスビやさ」

「ムスビ……」

 なんとなく、なんとなくだけど、お祖母ちゃんの言いたいことがわかった気がする。

「四葉も、いつかいい相手と出会えるわ、心配しんと、今は今を大事にしないよ」

 お祖母ちゃんは八年前よりしわの増えた顔をさらにしわくちゃにして、優しい目でこっちを見てくる。いい相手だなんて、考えたこともなかった。ムスビの話と相まってなんだか恥ずかしく感じ、私は照れ笑いをしてごまかした。

 とはいえ、組紐を作ってお祖母ちゃんと話をしたことで、朝から感じていた沈んだ気分はふき飛んだ。

「お祖母ちゃんありがとう。お姉ちゃんとこに戻って、勉強頑張ってくるわ」

 私は湯呑に残ったお茶を飲み干して、立ち上がる。

「そうかい、またいつでもおいで。次に会った時は、今日よりも難しい組紐を教えるでな」

 お祖母ちゃんもよっこらせと立ち上がる。

「うん!今日のやつ、ちゃんと覚えとくね」

 そう言うと、お祖母ちゃんはうれしそうに笑った。私は自分で作った組紐をカバンに結び付け、来た時とは反対に、晴れ晴れとした気持ちでお父さんの家を後にした。

 

 

 

「ただいまー」

 小声で帰宅し、抜き足差し足でリビングへ向かう。私の住んでいるアパートは部屋が二つにキッチン、トイレ、風呂がある。小さいほうの部屋を私が使い、大きいほうはリビング兼お姉ちゃんの部屋(兼瀧兄ちゃんの部屋)になっている。不便だが、お姉ちゃん一人の収入で家賃の高い東京に住むにはこれが精いっぱいなのだ。時間は八時半、いつも勉強会で遅く帰っているので特におとがめはないけれど、今日はやけにアパートが静かで、声を出してはいけないような気がしたのだ。

 中はなんの音もしない。リビングからぼやっとした光がもれている以外は真っ暗だ。

 何してるんだろう。二人でお酒でも飲んでるのかな。

 明かりがついている以上、お姉ちゃんか瀧兄ちゃんのどちらか、あるいは両方がいるはずだ。私はそうっとリビングのドアをわずかに開け、中をうかがう。

 わずかな明かりのもとは、机用のスタンドライトだった。

 瀧兄ちゃんはスタンドライトに照らされながら、スケッチブックに何かを一生懸命書いている。あれは瀧兄ちゃんの趣味なのだ。前にも、彗星が落ちる前の糸守とかを書いていたのを見たことがある。

 お姉ちゃんといえば、ココアを片手に頬杖をついて、瀧兄ちゃんの横顔をどこかうれしそうにじっと見ている。

 今朝までの私だったら、帰宅するなりリビングがこんな淡い色の空間に染まっていたら、間違いなく発狂していた。

 しかしお祖母ちゃんの話を聞いたあとだと、二人がとてもお似合いに見えて、ほほえましかった。二人とも無言だったが、その間に流れている空気はすごく密度が高くて、不要なものが一切ない、完璧で完成された空間になっていた。私でも二人が幸せなのが一目でわかる。

 邪魔しちゃ悪いな、自分の部屋で少し時間を潰そう。と考え始めたころ、お姉ちゃんがおもむろに右手を伸ばすのが見えた。

 私は身構える。この空気感といい、朝とは比べ物にならないなにかを見せつけられそうな予感が全身に走る。

 そんな私の存在など露知らず、お姉ちゃんは目をうっとりとさせ、指で瀧兄ちゃんの前髪をさらさらとなでる。

「なんだよ」

 びっくりすることもなく、台詞のわりには嫌がるそぶりも見せず、瀧兄ちゃんは一瞬お姉ちゃんの方を見て、またスケッチに戻る。

 お姉ちゃんはクスリと笑って、

「スケッチしとる瀧くんて」

 右手を瀧兄ちゃんの顔に沿わせて下げていき、

「すごく、一生懸命やわあ」

 と、嬉しそうに瀧兄ちゃんのほっぺたを突っつく。

 その一言に、お姉ちゃんの瀧兄ちゃんに対する想いが全部つまっているのがわかって、頭や背中がむず痒くなる。

「三葉、やめろよ」

 瀧兄ちゃんも嬉しそうにしながら、今度はスケッチする手を止め、お姉ちゃんの右手を掴む。

「あっ、ちょっとー」

 お姉ちゃんは瀧兄ちゃんの手から逃れようと手を引っこめようとしている。

 うわああ、いやや。

 実の姉がイチャついてるところなんか見たくない。マジで。しかもこの思春期の多感なときに。

 動揺して床を踏みしめてしまい、ギッと鈍い音がする。当然、わずかな隙間からリビングの中にもその音は届く。

 固まる空気、止まる時間、そして、手を握りあったままこちらを見る姉と恋人、わずかな隙間から中を凝視する妹。

 最悪だ。

「た、ただいま」

 ドアを開け、心も開き直ってダメ元で言ってみる。お姉ちゃんと瀧兄ちゃんは目にも止まらぬ早さで手を離し、顔を真っ赤にする。

「あ、あんた、いつからそこに」

 お姉ちゃんは震える声で言う

「えっと……、さっきから、ずっと?」

 私は気まずくなって、なぜか疑問形で答える。

「な、なに見とるの⁉あほー!」

 お姉ちゃんは悲鳴のような叫び声をあげる。ここの家族は朝から何回叫べば気がすむのか、と他の住民は思っているに違いない。だが、叫びたいのは私も一緒だ。

「わ、私だって見たくて見とるわけやないにん!もうこんな生活いややー!」

 お祖母ちゃんの話を台無しにしながら、夜はふけていった。

 

 

 

 

 

第六章 弾

 

 

 

 知らないベルの音だ。いや、どこかで聞いたことがある、気がする。とてもよくない夢の中で。

「……ちゃん。……よつはちゃん」

 今度は、誰かに名を呼ばれている。男の声。……男?

「よつはちゃん、四葉ちゃん」

 何かを訴えるように必死な声だ。ふざがった耳に跳ね返るみたいに、頭の中でわんわ反響して、どこから話しかけられているのか全く分からない。

「俺じゃ!(だん)じゃ!目え覚まして!」

 そこで目が覚めた。男の声の残響が、まだ耳の周りをちらついて離れない。

 ……(だん)

 どこかで耳に、いや、目にしたような、してないような単語だ。まるで夢を見ていたような気分だ。夢?そうか、さっきの声も夢か。だったら気にすることはない。

 とりあえず、私は息を深く吸う。

 すーっ。

「……!」

 想像していたよりもたくさんの空気が入ってきて面食らう。吸っても吸っても肺が満たされないみたいだ。

 ふと、何かを思い出す。

 以前、これに似た違和感を感じたことがある、気がする。

 そうだ、これは、この感覚はあれだ。私はそうするのが日課で決まっているかのように、自然に自分の胸を見る。

 

 おっぱいが、ない。

 

 私はひっ、と短く悲鳴をあげて、両腕で胸をかかえる。やっぱりだ、前に見た夢と同じ、私、男になっとる!

 コンコン、急にドアがノックされ、私はまた小さく悲鳴をあげる。開いているドアの方を見ると、背の高いがっちりした男の人が立っていて、低音で響く、渋みのある声で話しかけてくる。朝日がまぶしくて、顔はよく見えない。

「弾、起きとんなら飯できとるけえ、はよ食えよ」

「は、はい」

 反射的に答える私の声も低い。

 男性がドアの前から離れたので、私は前回も行った洗面所に向かう。見慣れない家に理由のない不安を感じ、ついスパイ映画ばりに身を隠しながらそろりそろりと移動してしまう。

 たどりついた鏡の前で、私は男の顔と対面する。そして下半身には、

「なんや、ある……」

 再びこんなにリアルな夢を見るなんて、思いもしなかった。しかも今回は朝食までついて、前回よりも豪華になっている。下半身のモノに少し耐性のついてきた私は、自分の置かれた状況を冷静に分析する。

 どうやらここは、一軒家の二階部分のようだ。私が出てきた部屋ともう一つの部屋が並んであり、その向かい側に洗面所とトイレ、物置がある。ごはんと魚の焼ける匂いが下からじんわり漂ってくる。リビングなりキッチンなりが一階にあるようだ。

 私は階段を一段ずつゆっくりと、踏みしめるように降りていく。途中で何に出くわしても、びっくりして足を踏み外さないようにするためだ。

 一階につくと、廊下が左右に分かれている。どっちがリビングだろうか、私は壁に身を隠し、顔だけを廊下に出して左右をきょろきょろと見比べる。

「何しとんじゃお前、邪魔じゃ」

「うひゃあ」

 急に後ろから声をかけられて、私は階段の二段目から一気に廊下まで飛び出した。さっき私を起こしてきた声と同じだ。おそるおそる顔をあげると、声の主がこちらを怪訝そうな顔で見ている。

 中年の男性で、見た目から察するに()の父親だろう。

「なんじゃその声は」

 ぶっきらぼうに言うと、男性は廊下を左に曲がって歩いていく。私はつい、

「すいません」

 と他人行儀に(実際他人だし)あやまりながら、とりあえず後ろをついて行くことにした。

 向かった先はリビングではなかった。キッチン、というより台所と言う方がふさわしい空間を抜け、裏口のようなドアから外へと出る。出口においてある、下駄と言うのだろか、今までテレビとかでしか見たことのない履物を履いて、顔をあげた。

 ――すると。

 

 目を、奪われた。

 私は眼前の風景に。

 息を呑んだ。私が立っているのは、たぶん小高い場所に位置する民家の庭。

 眼下には緑の中にオレンジが点々と混じるミカン畑が、たっぷりと広がっている。空は雲一つない、まさにスカイブルー、そこから目線を下げると、広大な海が、空よりも深い青で横たわっている。絶え間なくたつ波の揺らめきと、せわしなく動く大小の漁船の窓一つ一つがきらきらと太陽の光を反射してまぶしい。空と海の境界線には、対岸の島が朝の靄に隠れてうっすらと見えている。その大きさは大小さまざまで、山のようなものあれば、まるで水平線の上にコップ一つ浮かべてみました!みたいな可愛いものまである。全く見覚えのない景色だけれど、私はなぜか懐かしい気持ちで胸をじんとうたれた。

 ――糸守みたいや。

 と、呟いた。

 八年前に戻った気分に、私はかつてない満足感を覚えながら目を細める。

 

「何しとんじゃお前」

 目の前の景色と八年前の記憶に目と心を奪われ、さっきの男性の存在を完全に忘れていた。男性は犬に餌をやっている。

「大学は今日も休むんか、それとも遊びか」

 え?大学?私高校生やよ。あ、そうか、この体の持ち主が通っているのか。この夢はもうしばらく続くってことやね。

「えーと、わかりません」

「わかりません?」

 男性は、私の発言の内容よりも、しゃべり方に違和感を覚えているようだ。

「存じ上げません」

「はあ?」

「わからん、です」

「……」

「忘れた」

「……そうか」

 状況は相変わらずおかしいが、なんとかわかってもらえた。

「今日は朝の仕事母さんにまかせるけん、大学あるなら送っちゃるわ、遊ぶなら勝手にせえ」

 男性はため息をつきながら言った。しかし、送ってくれるなんていい人だ、お礼を言わなければ

「ありがとうござ……、さんきゅ」

 先ほどのやりとりを反省して、なるべくフランクに言った方がいいとの判断だったのだが……どうやら間違いだったようだ。

「それが親に対する態度か!」

 叱責とげんこつが一緒にとんできた。私はつい癖で、相手の右手を体さばきでかわす。

 かわした方も、かわされた方も、いったい何がどうなっているのかわからず、きれいな朝日と雀の鳴き声の元、しばし見つめ合う。お互いに四回ほど瞬きしたところで、

「はっ!ご、ごめんなさい。授業あるか確認してきます!」

 一時撤退だ。授業があるとかないとか、そんな問題やっけ、と自分で思いつつ、私は駆け出す。

 

 

 

 結局授業があるのかよくわからなかったが、せっかくの夢なので大学とやらに行ってみることにした。もうすぐ受験だし、大学がどんなところかよくわかるかもしれない。

 私は部屋の中にあった比較的清潔そうな服を選び、椅子の上に置いてあるショルダーバッグを肩にかけ、お父さんの運転する軽トラックに揺られている。髭は剃り方がわからなかったので、うっすらと生やしたままだ。

 私がいたのはどうやら島らしく、橋を渡って対岸に渡った。そこから海沿いにしばらく走った後、今度は左に曲がってくねくねとした山道を登り始めた。総じて田舎のようだが、道中にはコンビニが二軒ほどあったため、悔しいがここは糸守よりも都会だとわかった。山を登りきるとトンネルをくぐり、今度は坂道を下る。徐々に住宅が増えてきて、団地のようになっているのが見えてくる。

 団地の反対側には、新幹線の線路が走っている。家からすでに二十分ほど走っているが、田舎にしてはなかなかアクセスがいいのかもしれない。線路の上の高架を通り、さらに十分ほど走ると、山の間に大きな建物が見えてきた。もしかして

「ほら、着いたぞ」

 やっぱり、この立派なのが大学だ。私はお父さんに、きちんと(、、、、)お礼を言って、軽トラから降りる。

「今日は収穫と袋詰めがあるけえ、迎えは六時よりあとに電話せえ」

 タバコをふかしながらお父さんはメモを差し出す。

「これがうちの番号じゃ、忘れるなよ」

「うん」

 何から何までわからないという私にお父さんさんが出した答えは、とにかくメモを書いて渡す、という作戦だった。何か問題があるたびにメモが増えていく。今はまだ、自分の名前、お父さんとお母さんの名前、自宅の住所、大学の学部、そしてもらったばかりの自宅の電話番号の五枚だが、今後も増えそうだ。私はとりあえず、バックアップとしてスマフォにも同じ内容をメモしておく。

 しかし、授業の内容や時間まではお父さんの管轄外で、何一つわからない。スマフォの連絡先を見ても、家族の名前がやっとわかるくらいで、どれが大学の友達かわからない。

 家に帰っていくお父さんの軽トラに手を振りながら、私は考える。さて、これからどうしよう。進展と言えば、自分の名前が古川弾(ふるかわだん)だとわかったことくらいだ。もし授業があるなら受けなければならないが、それがわからない。誰に聞けば教えてもらえるのかもわからない。

 小一時間悩んだ結果、とりあえず広い大学構内を歩き回ることにした。これだけ人がたくさんいれば、誰か一人知り合いに会うだろう。構内には、東京までとはいかないが比較的背の高い建物がたくさんあり、中にはコンビニ、レストランみたいにおしゃれな食堂、カフェのような場所もある。勉強に必要とは思えない。

 極めつけは、大きな図書館だ。すごい、その辺の街の図書館より大きいかもしれない。大学って全部こうなの?いったい何のためにこんなに本があるの?高校の図書室なんてせいぜい大きい教室二つ分くらいしかないのに。ここ、気になるなあ、入ってもいいのかな。周りの大学生、中には二十代後半の人や外国人もいるが、平気な顔して図書館に入っていく。じゃあ、私も――

「弾!おい、弾!」

 図書館のドアに手をかけようとした時、後ろから呼び止められて思わず飛び跳ねそうになる。

「す、すいません、ほんの出来心なんです」

 私は誰に言うわけでもなく言い訳をする。

「なに謝ってんの?あ、一限目さぼった反省の表明?」

 私に話しかけてきたのは、さっぱりとした委員長風(大学にも委員長っているのかな)の男の子だった。その子は当たり前のように私の肩を抱いてきて、前髪が触れ合うくらいの距離でにっこり笑ってくる。

「まー大丈夫、この前のお礼に代返しといたから」

 ダイヘンって何?ていうか近い近い!人生で最接近男子なんですけどこのヒト!いや、部活ではよくあるけど、こんな公の場でくっつかれるなんて

「ち、近いわ、あほー!」

 私は男の子の腕をとってそのまま投げる、と思ったけどさすがにコンクリートの地面に投げるのはまずい、当て身で済ませておいた。

「いてっ、なにすんだよ、弾」

 男の子は殴られた場所をさすりながら、渋い顔でこちらを見てくる。しまった、つい高校で調子に乗った男子を制裁(、、)するときの癖が出てしまった。

「ご、ごめん、でもそっちが悪いんやさ、なんの前触れもなく肩抱くなんて」

「はあ?いつもやっとるじゃろ」

「いつもやっとる⁉」

 大学生は私には刺激が強すぎる。瀧兄ちゃんはこんなすごいとこに通っているのか。奥手そうに見えて実はすごいやり手だったりして。お姉ちゃん、ピンチ。

「お前、なんかなまってね?」

「え?なまっとる?」

 やばっ、またいつもの癖が出てしまった。そうだ、今の私は弾くんだ。男の子を演じ切らないといけない。

「まーいいけどさ、昼飯、どうする?」

「お、お昼?えーと……どうすればいいの?」

「いや、俺が聞いてんだけど、熱でもあんのか?」

 男の子は面白そうに笑う。

「ちょっと遠いけどさ、駅前まで行かね?原付で来たんじゃろ?」

 ええ?原付なんか乗ったこともないよ。もしかして、家にあったのかな。

「きょ、今日はお父さんに送ってもらったから、その」

 つい髪をいじりながら答える私。

「ないのか」

「うん」

 男の子は残念そうに肩を落とす。なんだか申し訳ない。

「じゃあ仕方ないな、近場で済ませるか、あ、途中で交番よろうや」

「交番?」

 もしかして、私が記憶喪失で頭おかしいから警察に引き渡すとか?それは嫌だ。

「忘れたのか、高橋、今日実習で交番に来る予定だって言っとったろ」

「高橋、くん?」

 また登場人物が増える。私、今話してる君の名前すら知らんのに。

「お前、友達の名前まで忘れとるんか、俺の名前は?」

 頭の中を読まれたかのように、的確な質問が飛んでくる。

「……」

 当然私は答えられない。男の子は右手をおでこに当て、しかたないな、と息を吐いてから丁寧に教えてくれた。

藤井(ふじい)法生(かずき)、一九歳、東京出身、お前と同じ写真部所属。これから冷やかしに行くのは、高橋(たかはし)将太(しょうた)同じく一九歳、カメラ仲間、警察官になって、今は実習期間中」

 私は必死にスマフォにメモを取る。藤井くんと高橋くんね、同い年で、二人ともカメラとか写真が好き。

「あだ名とかはありますか」 

 こうなったらやけだ、全部聞いてやる。

 藤井くんはやれやれ、という顔をしたけど、丁寧に全部教えてくれた。

 

 

 

 交番は大学の敷地と目と鼻の先にあった。交差点の対角線上にあるため、横断歩道を二回渡ればすぐにつく。

「だ、大丈夫かな、仕事の邪魔するなんて」

 私は横断歩道を渡りながら、中の見えない交番の窓をちらちらと見る。

「お前、昨日まではノリノリだったじゃん」

 法生くんの話を聞いて、この体の持ち主が普段どんな人間だったのかをすこし想像する。いやしかし、もともと男子の世界には《バカほど偉い》という単純な法則がある。交番への突撃も、その二文字の勲章を得るための一つの過程なのだ。

「よし、行くか」

 横断歩道を渡り切り、すいっと開く自動ドアをくぐって、私たちは中に入った。

「こんにちは、どうしまし、げっ」

 背の高い屈強そうな若い警察官が、私たちの姿を見るや顔をひきつらせる。

「どうした、なんかあったのか」

 後ろから中年くらいの、おそらく上司と思われる警察官が心配そうに声をかけてくる。

「い、いえ、なんでもありません」

 ひきつった笑顔のままこっちに向き直ると、警察官は、

「なんで来たんじゃお前ら」

 と小声で訴えてきた。なるほど、この人が高橋くんか。

「おまわりさん、道を教えて欲しいんですけど」

 法生くんがわざとらしく言って、私のわき腹を小突く。ええ?道聞くの私なの?

「え、えっと」

 どうしよう、なんにも考えてないよ、もしかして、あらかじめ決めてたのかな?

「ど、どこへ行けばええの?」

 思わず法生くんに聞いてしまう。せめてもの笑顔で。

「は?」

「え?」

 二人が不審そうな顔でこっちを見る。奥にいる上司みたいな人もつられて見てくる。

「お前、ふざけてんのなら帰れ……」

 高橋くんは泣きそうな声でつぶやいた。

 

 

 

「で、記憶が飛んでんのかこいつは」

 私たちが友達同士だと知った上司の人が、せっかくだから話でもしていけ、と交番の応接室みたいな場所に入れてくれた。

 

  『田舎の交番や駐在に行ったら、地域の人と話をするのも仕事じゃけえな。来客か事件事故が起きたらそっち対応すればええから』

 

 そんなものか、そういえば糸守の駐在の人も街のいろんな行事に顔出してたな、なんてことをぼんやりと思い出しながら、私は二人との会話に戻る。

「俺たちの名前とかも忘れてるみたいでさ、ちょっとショックだよね」

 そう言いながらソファに深く腰掛ける法生くん。

「カメラも持っとらんし、ほんとにどしたん、お前」

 来客用のお茶を出しながら、高橋くんは私を上から下までじろじろと見る。それにしてもカメラか。部屋にあったような気がするな。

「俺は、カメラが好きなんやっけ」

 とにかくわからないことは聞いていく。そしてスマフォにメモして、なんとか弾という人間を形成していくのだ。

「そりゃあ好きだろうよ、勉強よりカメラ、金よりカメラ、女よりカメラ。高校の時になにかのコンクールで賞をもらってるくらいは好きだろ」

 出してもらったお茶を手に取りながら、法生くんが解説する。私はスマフォに《病的なカメラ好き》、とメモする。

「ほんとに覚えてないのか、病気なんじゃねえの?なんかの」

 高橋くんはわりと本気で心配しているようだ。

「うーん、それがさっぱりわかんなくて、困ってるんやよ」

「記憶がなくなったというより、こう、人が変わっちゃったみたいな感じもするしな」

 人が変わる?法生くんの言葉はどこか聞き覚えがある。なんだろう、頭の中からその答えが出たがっているみたいだが、どこかで引っかかっている。

 こういうときこそ情報だ。なにかのきっかけで思い出すかもしれない。

「ほかになにかない?俺に関すること」

 法生くんと高橋くんはしばらく考えた後、

「カメラ」

「カメラだな」

 口をそろえて言う。さっきも聞いたよ、それ。

「カメラ、だけ?」

「うん」

「ああ」

 私はスマフォに《カメラしか能がない》、と付け足す。案外おもしろみのない人間なのかも、と思う。おかげでさっきまで引っかかっていたなにかは完全にどこかへ消えてしまった。

 私に関して話すことがなくなると、高橋くんが切り出す。

「お、そういえばな、さっき部長さんに聞いたんだけど、こっから三、四十分くらい国道を北に向かっていくと、こぢんまりした滝とか、もうちょい行くとでかいダムがあるらしい。ダムの湖畔でバーベキュー場も貸し切れるって」

「お、いいね、今度の土日はそれでいこう。冬が近いのにバーベキューってのはあれだけどな。高橋、実習は一週間くらいで終わるんだろ?」

 法生くんが同意する。高橋くんはおう、とうなずいて私にも同意を求めてくる。

「あと一当番で学校に戻るけえ、また土日は出れる。バーベキューするかどうかはともかく、ダムからの眺めとかは最高らしいぞ、弾も行くだろ?」

 眺めとかカメラとかはよくわからないが、私はもう一つのものにひどく興味をそそられていた。東京にいた八年間、一度も経験したことのないアウトドアな遊び、忙しい部活の日々で休日もあまりなく、お姉ちゃんと二人暮らしではそんなこと一度も経験できなかった。行くに決まっている。

「バ、バ、バーキュー!?」

 二人は若干引いていたが、それでも約束を取り付けるだけの価値はあったと思う。あとは、当日にもう一度この弾という人間になる夢を見たいものだ。

 と、スマフォが激しく鳴り響く。

「わわっ」

 慌てて出ると、スマフォの向こうからお父さんが話しかけてくる。内容は、お祖母ちゃんの調子が悪くなったのでお母さんが病院に連れて行く、というものだった。

「今日は午後も授業あるんか、もしなかったら、向かえに行くけえ、収穫手伝ってくれ」

 そういえば朝も収穫するって言ってたな、一人じゃさばききれない量なのだろうか、そもそも何を?

「どうしよう、お祖母ちゃん調子悪くて、なんや収穫手伝って欲しいって。俺、今日の午後授業あるんやっけ」

 私は法生くんに確認する。

「ああ、お祖母ちゃん、ひと月前もそんなことあったな。今日は午後入れてないだろ、たまには実家手伝ってあげたら?」

「そ、そうやね」

 お父さんにはここまで送ってもらった恩があるわけやし、家族のピンチに断る理由はない。私は二つ返事で引き受ける。

「じゃあ先に帰るね。お茶、ありがとうございました」

 二人の友達と上司らしき人に挨拶して、私は交番を後にする。サワちんの叔父さんもこういうところで働いてるんだな。警察官って硬いイメージだったけど、気さくな人もいるみたいだ。

 

 

 

「弾!こんな若いもんとってどうするんな!」

「籠がいっぱいになったら次運べや!」

「腐ったり傷がついたもんを一緒に入れるな!病気がうつる!」

「作業が遅い、()よせえ!」

「弾!」

 夕方、太陽が傾き、赤と黄の中間の色になってくる。私はその光と同じつやつやとした実をまた一つ、手に取る。

 収穫とはミカンのことだった。お父さんの農園では、ミカンやデコポンを栽培しているという。しかしこの作業が結構難しい。収穫時期が来たものだけを採っていくのだが、その見極めが初心者の私にはわからないのだ。

 それでも収穫時期は逃せないらしく、お父さんは容赦がない。

「もう、この夢いつおわるんやさ」

 これではまるで悪夢だ。鞭で打たれるように、私は休みなく働き続け、際限なく出てくる籠にミカンを一つ、また一つと放り込む。

 

 

 

「どっはああ」

 すっかり夜も更け、私は自分()の部屋でベッドに倒れこむ。お祖母ちゃんとお母さんはまだ病院から帰ってきておらず、晩御飯は男二人でインスタントラーメンだった。私は普通に料理とかできるけど、今日は疲れきってしまって、それどころではない。結構部活で鍛えてきた自信があったのにな、自分の体じゃないから?私より太い腕してるくせに軟弱な。自分の体でないことがこんなに恨めしいことだとは思わなかった。

 これまで部活一筋で、バイトも含めて働いたことは一度もなかった。神社での舞とかを仕事と言うのであれば別だが、あれは私にとって糸守の生活の一部で、仕事という感じではない。

 それに比べて、今日の作業は完全に仕事だ。大人の人ってすごい、と思う。こんなにしんどい作業を毎日毎日繰り返すのか。お姉ちゃんは社会人になってもう三年、それでも毎日、私のために朝ご飯とお弁当を作ってくれていた。それは、今も続けてくれている。

 もっと感謝しよう。

 普段頼りない姉が急にしっかり者に見えてきて、ちょっとおかしくなる。クスリと笑うと、ふと枕もとのカメラが目に入る。

「そういえば、カメラ好きなんやっけ」

 私はつぶやいて、カメラを手に取る。ずっしりと重たいカメラはボタンがいっぱいついていて、どれが電源ボタンなのかよくわからない。しばらく試行錯誤した後、電源を入れることに成功する。再生ボタンはすぐにわかったのでポチリと押す。すると、この島だろうか、風景の写真が出てくる。右の矢印を押すと、次々と写真が切り替わる。ほとんどが風景の写真で、田舎の木々や海、田んぼのあぜ道、神社の鳥居に古い校舎もあれば、一転して光でいっぱいの都会の写真もある。車のヘッドライトが線を描いていて、機械的な対象のはずなのにすごく幻想的に感じる。数は少ないが、動物や昆虫を撮ったものもある。人といえば、昼間の二人がたまに出てくるくらいで、女の人は一人もいない。

「ほんとに女に興味がないんやなあ」

 そんな人生でおもしろいのだろうか、まあ私も彼氏とかいたことないけど。

「あ」

 一枚の風景写真に、私は心奪われる。それは、どこか小高い場所から海に浮かぶ小さな島をとらえた写真だった。その島はハートの形をしていて、後ろからさす真っ赤な夕日がどことなくロマンチックな雰囲気を演出している。

「これ、ええなあ」

 私は、仕事が終わった達成感ときれいな写真に、心の奥が優しく揺さぶられるのを感じる。なかなか、悪くない夢だったかも。今日は何年かぶりに本物の植物や地面に触れて、体は疲れて服はぐちゃぐちゃだけど、心が洗われたような気分だ。

 弾という人間は、この田舎のきれいな景色を満喫しているみたいだ。糸守のことをまた思い出して、すこし寂しく、うらやましくなる。同時に、単語帳に書かれていた言葉を思い出す。

 

  君はだれ?

  俺は弾

  大学生

 

 そうだ、私も自分のことを教えてあげよう。私はすとんとリンゴが落ちるようにそう思い、ベッドから起き上がり、スマフォで新しいメモを作成して、自分の名前や今日の出来事を記録していく。

 十分ほどで完成させてもう一度ベッドに横たわると、下から風呂入ったぞ、という声が聞こえてきた。そうか、お風呂入んなきゃ……でも、疲れてすごく眠たい。

 ふわーあ……

 今日一番のあくび。五分だけ、五分だけ寝てからお風呂に行こう。そう思いながら、私は巨大な重力に引きずり込まれるように眠りに落ちていった。

 

 

 

「……なんじゃ、これ」

 俺は電池が残り五パーセントしかない、画面つけっぱなしのスマフォを見て思わず声に出した。それにしても体中が痛い。筋肉が固まって、動かすたびにみしみしと軋む。

 なんとか起き上がって、スマフォから自分の体に視線を移すと、どろどろのジャージとタオル。……風呂も入らず寝たってことか?

「――な、な、なんじゃこりゃ⁉」

 シャワーを浴び、着替えた後、半分ほど充電が済んだスマフォでメモを読んだ俺は叫んでしまった。覚えのない日記、そして友との約束が書かれている。

 

  ……今週末は二人と一緒にバーベキューの約束!きれいな滝やダムも見られるらしいよ。一石二鳥♡

 

 駄目だ、今週末は朝市を手伝う約束が、ああ、もうどうなってんだ。こんな女みたいな文章……女?そういえば―――頭の中で、記憶がフラッシュバックする。

 

 見知らぬ部屋で目覚めると女になっていて、胸には全世界の男の希望であるやわらかなふくらみが、不思議に思ってそれを揉んでみると、えも言われぬ幸福感に包まれて、一心不乱に揉み続けてしまう。

 気が付くと、これまた見知らぬ年上の美女が、右手にお玉を持ってこちらをじっと見ている。『四葉、何しとるの?ご飯できたから()よう来ない』

 顔を洗おうものなら、鏡にはさっきの美女に負けず劣らずの整った顔が映り、びっくりして一瞬で目が覚める。

 そして、美女とその旦那?彼氏?的な人と一緒に飯を食べ、同級生の『おっはよーう』が耳に響く。そうだ、学校に行った気がする。それから、それから……これ以上は思い出せない。

 

 しかし、このメモの最後にある名前、これは聞き覚えがある。俺は夢の中でいろんな人にこの名前で呼ばれていた気がする。

「よつは……?」

 口に出して言ってみるが、それ以上思い出すことはできなかった。

 

 

 

「弾、今日の昼どうする?」

 授業終わりに法生が聞いてくる。

「わりい、今日は家の手伝いしなきゃいけねえんだ、もう帰るよ」

「そうか、昨日もしてたもんな。ちゃんと一人で帰れるのか?」

「は?……ああ!法生お前、もしかして俺のスマフォに……」

 俺は反射的に声を荒げる。ていうかむしろこいつの仕業であってほしい。だが、法生の怪訝な表情でそれは違うと分かる。こいつは手間暇かけていたずらするようなやつではない、それは自分でもわかっている。

 俺は椅子から立ち上がりながら、渋々と言う。

「……いや、やっぱいいや、また明日」

俺は周囲の世界に対する不信感を振り払うように教室を後にする。朝からなにか妙なことが起きている。

 

 

 

「な、なんだよ」

 なぜか親父がマンツーマンのような形で一緒に作業する。俺がミカンを選ぶのをじっと見てくるし、籠を運ぶときは頼んでもないのに反対側を持ってくる。いやいや、バカにすんな。そりゃあ筋肉痛で動きは鈍いし、親父ほど年季は入っていないが、こっちだってガキの頃からも何度も手伝ってきたんだ。最近はさぼり気味だったけど、母さんがいないならやるしかないだろ。

「お前は目が離せん。ほっといたら神隠しにでもあいそうじゃ」

「はあ?」

 そんな非現実的な話を真面目にする親父が信じられない。怖い。寒気が走り、今すぐ収穫したミカンを全部きれいに磨き上げて土下座して謝りたい気分になる。なにを謝ったらいいのかわからないけど。

「あ、それとさ、親父」

 気分は重いが、土曜の予定を話さねばならない。

「なんじゃ?」

「次の土曜なんだけど、その、友達との予定が入っちゃってさ……。忙しいのはわかってるんだけど、俺も知らないうちに自分で予定入れちゃったみたいで、どしたらええと思う?」

 まるで自分のことじゃないみたいに話す俺を、親父は額に汗をいっぱい浮かべながら見ている。そして目をつむると、慣れてない英語を翻訳しながらゆっくり読むみたいに、じんわりと告げる。

「頼むで、弾。うちはお前しかおらんのじゃけえな。土曜か、ワシが何とかするけえ、ストレス発散に行って来い」

 マジか、怒られなかった。それどころか、これは憐れんでるのか?だったら怒られた方がよかった。

 いったいぜんたい、俺の知らないところで、俺はなにをしたっていうんだ?

「四葉」っていったいどこの誰なんだ?

 

 

 

 チュン、チュンと、雀がさえずっている。窓から差し込む朝日は都会の空で少し濁って感じるが、ここは私の知っているいつもの朝だ。一つ違うのは、私の体の上に例の単語帳が乗っているということだ。気になって表紙をめくると、前に見た三つの謎単語の後ろのページに、何枚にもわたってメモが追加されていた。

 

  東京

  女になってる

 

  宮水四葉

  高校生

 

  サワちん(米沢志保)かわいい

  タカジー(高藤流星)ヘッドホン

 

  机は右から五、前から三

  ロッカーは左から二、一番上

 

  元柔道部エース

  成績はいい

 

  女らしくない

  でも男子にモテる

 

 な、なにこれ、ていうかモテてないし!女らしくないは余計だし!変なこと書くな!私は謎のメモを凝視する。

「朝から勉強?感心やね」

 見ると、お姉ちゃんがドアを開けて立っている。いや、これは勉強じゃないんやよ、お姉ちゃん。まあいいんやけど。

「今日は自分のおっぱい触っとらんのね。ご飯できたから、()よう来ない」

 パタン、とドアを閉めて姉は去っていく。

「おっぱい⁉」

 いや、前も揉んだけど、瀧兄ちゃんに見られたあと、またやったってこと?クセになってるみたいで、完全にヘンタイじゃん!

 

 

 

「おはようー」

 そう言いながら教室に入ったとたん、クラスメイトたちの視線が一斉に私に向いた。へっ、と私は頭に疑問符が浮かぶ。な、なに?自分の席に向かう私に、ひそひそとささやき声が届く。昨日の宮水よかったな。今日は髪結んでるのか。あんな顔するなんて、初めて知った。ファンの人数増えたらしい。あいつ、性格変わったよな。

「なんか視線を感じるんやけど……」

 私は隣に来たサワちんに話しかける。

「昨日の四葉ちゃん、一段とかわいかったからねぇ」

「は?な、なんの話よ?」

 カバンから教科書を出しながら問う私の顔を、サワちんが不思議そうに心配そうに覗き込んだ。

 

 ――ほら、昨日の体育の時間、バスケで、ほんとに覚えてないの?四葉ちゃん大丈夫?私と四葉ちゃんは別のチームで、私は四葉ちゃんの試合を見てたの。いつも運動神経抜群の四葉ちゃんは相手チームからもすごく警戒されててね、そこまでは普段通りだったんだけど、四葉ちゃん調子が悪いみたいで、パス受け取っても全然動かないし、すぐボールとられちゃうし、その度にあうあう言って、必死にパタパタしてるのがすごく可愛くて。あっ、ごめんごめん、それで、最後の方は競り合いに負けて転んじゃって、足をすりむいてちょっと涙目になってたの。その姿があまりに乙女で、隣のコートで試合してた男子がみんなバスケそっちのけで見てたんだよ、ほんとに、超絶美少女って感じ!ご、ごめんてば。あとは、急に写真部に顔出したかと思ったら、自分でモデルになったり、重たいカメラ使ってガンガン写真撮ったりして、かわいいしかっこいいし、私、四葉ちゃんのファンクラブに入りたくなっちゃったよ!

 

「な……な……。なんよそれ?」

 私は青ざめる。ファンクラブ?すぐに壊滅させなければならないが、そんなものよりもはるかに恐ろしいことが起きている。授業が終わると、私は勉強会をキャンセルしてダッシュで家に帰る。お姉ちゃんは仕事、瀧兄ちゃんはどこかへ出かけている。リビングでカバンをひっくり返し、ありとあらゆる単語帳やノートを片っ端からめくっていく。

 古典のノートをめくったとき、ぞわっ、と全身が粟立つ。単語帳に書かれた文字と同じ筆跡で、見開きページいっぱいに何か書かれている。冷静に読んでいくと、私の個人情報が事細かに書かれている。

 

  彗星の糸守町出身/親父は偉い人らしい/特に仲のいいのは二人/ファンクラブがある。利用できる/柔道は全国クラス

  親父と婆ちゃんは別のところに住んでる/自宅には実の姉とその彼氏が同棲中/お姉さんも美人/彼氏はなんか頼りない、けど優しい/女にしては筋肉質だけど、胸もある

 

 そしてひときわ大きく、「なんで俺がお前になってんだ?」の文字。

 震えながらノートを見つめる私の頭の中に、うっすらと法生くんの言葉と、お姉ちゃんがお父さんにした話がよみがえる。東京じゃない田舎の島、肩を抱いてくる友達に警官、怒られながら収穫したオレンジ色のまん丸の実……。

 話には聞いていた。しかし、ありえないと思っていた。その結論が、私の中で形になっていく。

「これって……これってもしかして」

 

 

「これって、もしかして本当に……」

 俺は部屋にこもり、信じられない思いでスマフォを凝視している。さっきから、指先が自分のものでないように勝手に震えている。その指で、俺は作成した覚えのないメモを読む。

 

  人生初大学!/ダイヘンすればさぼってもいい/図書館は三つもある!なんで?/二人との出会いはネットのカメラ同好会/意外とアクティブ/彼女いない歴=年齢(笑)

 

 俺の頭の片隅が、あり得ないはずの結論と結びつく。

 もしかして――

 

 俺は夢の中でこの女の子と――

 私は夢の中であの男と――

 

 入れ替わってる⁉

 入れ替わっとる⁉

 

 

 島の端から朝日が昇る。海の町を、太陽の光が順番に照らしていく。朝の波音、昼の静寂、夕の虫の音、夜空の瞬き。

 ビルの間から朝日が昇る。無数の窓を、太陽が順番に光らせていく。朝の人波、昼のざわめき、カタワレ時の生活の匂い、夜の街の煌き。

 私たちは、そのひとときひと時に、なんども見とれる。

 そして俺たちはだんだんと理解する。

 古川弾――弾はど田舎に暮らす一つ年上の大学生で、

 東京住まいの宮水四葉との入れ替わりは不定期で、週に何度か訪れる。

 私は、入れ替わり経験のあるお姉ちゃんと瀧兄ちゃんから、入れ替わりのルールを聞き出す。

 それによると、トリガーは眠ること、入れ替わり時の記憶は、目覚めるとすぐ不鮮明になってしまうこと。最初は半信半疑だったが――

 それでも、私たちは確かに入れ替わっている。なによりも周囲の反応がそれを証明している。

 そして、入れ替わり体験を意識するようになってからは、夢の記憶も少しずつキープできるようになってきた。例えば今では大学で授業を受けていても、四葉という女の子が東京に暮らしているんだと、俺にはわかる。

 どこかの田舎に弾という男が暮らしているのだと、今では確信している。お姉ちゃんたちの話からしても、間違いはない。

 そして俺たちは、お姉さんたちのアドバイスで、お互いに日記をつけることにした。

 メールや電話も試したが、なぜか通じなかった。でもとにかく、コミュニケーションの方法があったのは幸運だった。事情を理解してくれるのはお姉ちゃんと瀧兄ちゃんくらいで、そのほかの人の前では、普段通りに振舞わなければならないからだ。だから、私たちはルールを決めた。

 

〈弾へ 禁止事項一覧第二項〉

 気安く呼び捨てしないで

 風呂に入らない、体を触らない。お姉ちゃんに監視依頼済み

 座るときはスカートに注意

 タカジーにボディタッチしんの!サワちんを泣かせたいのか、あんたは!

 写真を撮らせない

 あと運動神経どうにかならんの

 

〈四葉ちゃんへ これだけは守ってその三〉

 通学時、交通ルールは守って

 代返ばっかりしないで授業に出て

 変な訛りしないで

 そっちこそ勝手に風呂入るなよ!俺のシャンプーの減り方おかしいんですけど

 法生のあざが増えてる。殴んな。

 カメラのレンズを素手で触るな!

 

 ――それなのに、と、弾の残した日記を読みながら、私は今日も歯ぎしりをする。

 俺は四葉ちゃんの日記を読みながら、むかむかと腹が立って仕方がない。まったく全く本当に、

 

 あの男は……!

 あの女は……!

 

 ちょっと!あんた体育の授業でこけすぎ!しかも男子の前で何回も泣かんといてよね!私、そういうキャラじゃないんやって!あと、髪結ばんのはまだいいけど、ブラシぐらいかけて!最近身だしなみがなってないって、サワちんに怒られたんやよ!

    ▼

 四葉ちゃん、切符切られすぎ!ヘルメットは出発前に確認!三車線以上は二段階右折!免許停止になってしまうじゃろ?あと、バーベキューで金使いすぎ!新しいレンズ買うために貯金しとるんじゃけえ!

    ▼

 原付なんか初めて乗るんやから、わかるわけないんやさ。年上なんやったら、その辺わかりやすく説明してよね。ていうかあんた、バーベキューの準備で筋肉痛って何?もうちょっと鍛えない!

    ▼

 俺は四葉ちゃんみたいに柔道バカじゃないの、それと組紐づくりに舞⁉難しすぎるよあれ。

    ▼

 ちょっと弾!なんで写真部でモデルとかやっとるの⁉学校中に写真が出回っとるんやけど!

    ▼

 せっかく見た目だけはええんじゃから、世の中のために貢献すべき。ファンクラブも人数増えていいじゃないか。うまく使えよ。

    ▼

 ええ迷惑よ!ラブレターに告白、断る方の身にもなりない!口もきいたことない男子ばっかりやし、受験勉強で忙しの!

    ▼

 なんだよ、男らしくしてても彼氏できんじゃろ?俺に人生任せた方が確実にモテるんじゃね?

    ▼

 調子に乗らんといてよね!彼女どころか、女友達すらおらんくせに!

    ▼

 お前だって柔道でしか男と触れ合ったことねえくせに!彼氏いたことあんのか?

    ▼

 私は、いないんじゃなくて作らないの!

 俺は、いないんじゃなくて作らないの!

 

 

 

 

 

第七章 出発

 

 

 

 四葉ちゃんのベルの音だ。

 てことは、今日は東京暮らしだ。また女の子特有の、かわいい小道具がいっぱいで、そのくせ妙にきちんと片づけられた部屋に来てしまったということだ。

 よし、急いでお姉さんが起こしに来る前に胸を揉んでおかねば。四葉ちゃんが依頼したせいで、入れ替わり中はお姉さんの監視が非常に厳しい。寝起きは必ず起こしに来るし、着替え中もずっと見られている。俺は(女の体とはいえ)着替えで下着姿になるところを、年上の女性(しかも美人)に見られるという恥辱を味わっているのだが、そこはノーカウントなのだろうか。

 布団から上半身を起こし、体を見おろす。

 最近、四葉ちゃんはガードが固くなった。以前はノーブラだったのが、最近はちゃんとブラジャーをつけて寝ている。寝苦しいけど背に腹は代えられない、と四葉ちゃんは言っていた。気持ちは分かる、分かるのだが。

 俺は胸に手を伸ばす。今日これは俺の体で、俺が一日頑張って四葉ちゃんを演じるのだ。すこし触るくらい、なんの(ばち)も当たらない。いや、しかし、でも……。

 俺は手を止め、小さく呟く。

「……四葉ちゃんに悪いか」

「なにが悪いと思うとるの」

 はっと振り向くと、お姉さんがお玉を持って腕を組み、こちらをすごい形相でにらんでいる。

「い、いや、お姉さん。今日はまだなにもしてませんから!」

 とっさに謝る。お姉さん、と呼ぶことで今日の中身は古川弾であるとすぐに理解してもらえる。四葉ちゃんの家族は入れ替わりの経験があるだけに、家の中では自然体でいられる。が、

「今日は、ってことは普段はしとるのね、弾くん」

 しまった、間違えた。いや、うん。いつもはバレないようにしてたけど、今日してないのは事実だし。

「まだってことは、これからするつもりやったのね、弾くん」

 怖い。

「す、すいませんでした」

 一言言うのが精いっぱいだ。

「朝ご飯やから、()よ来ない」

 お姉さんは、冷ややかな目のまま部屋を後にした。俺はすごすごと後に続く。

「おはよう、四葉ちゃん」

 瀧お義兄さんだ、お姉さんと同棲している彼氏。大学四年生で就活中らしいが、就職先は決まったのだろうか。入れ替わりを幾度も経験して気付いたが、この人は夜遅くに帰ってきたり、下手をすると俺が四葉ちゃんとして目覚めたころに帰ってきたりする。帰ってくると飯も食わずにすぐ寝てしまうのだが、いったい外で何をしているのだろう。お姉さんや四葉ちゃんも何度か聞いているみたいだが、大事なこと、と言って取り合ってくれないらしい。それでも信じ続けているお姉さんは正直すごいと思う。

「おはようございます。お義兄さん」

「あ、今日は弾くんか」

 お義兄さんも一言で気付いたみたいで、そっと俺に近づいて小声で耳打ちしてくる。

「なんか三葉の機嫌が悪いんだけど」

 どん!と勢いよく置かれたみそ汁のお椀で、俺とお義兄さんは引き離される。お椀を置いたのはほかでもない、お姉さんだ。

「機嫌が悪いのは最近誰かさんの帰りが遅いからで、弾くんのせいじゃありません」

「は、はは。すまん」

 お義兄さんが謝る。俺は自分が怒られていないと知り、ほっとする。

「今日は晩ごはん、いるの?」

 お姉さんはお義兄さんの方をちらりとも見ないで続ける。

「うーん、まだわからない。昼までには連絡するよ」

「早めにしてくれんと、私も準備するとき困るでね」

 不満そうにいただきます、と言ってお姉さんもご飯を食べ始める。

 気まずい空気を振り払うためか、お義兄さんは俺に話しかけてくる。

「そういえば弾くん、時間のズレは解明できた?」

 入れ替わりが始まったころに四葉ちゃんが聞き出した情報によると、お姉さんとお義兄さんは入れ替わり時に三年という時間のズレがあったらしい。俺たちにもあるんじゃないかと思って、探ってみようとは思うのだが、

「それが、曜日の感覚や、ニュースの内容までは目が覚めるとあいまいになって、四葉ちゃんのスマフォに曜日を記録しても、向こうの俺のスマフォに反映されなくて、確認もできませんし……。入れ替わるたびに体内時計がリセットされてるみたいな感じもします」

「そうか、なかなか難しいもんだな。俺たちなんか最後まで全然気が付かなかったわけだし」

「起きてても覚えてることは四葉ちゃんのことばっかりで、なんかもどかしいというか」

 つい口走ってしまったが、その内容が遅れて頭の中に入ってきて恥ずかしくなる。

 これって、四六時中四葉ちゃんのこと考えてるみたいじゃねえか!

「四葉も」

 みそ汁をすすってお姉さんが言う。

「こっちにおる時は弾くんの話ばかりしとるのよ、弾くんがまたこけたとか、弾くんの体は動きづらいとか、弾くんのカメラはいじってて面白いとか、写真だけは褒めてあげるとか、そんな話。勉強に集中しないって言っても、無理なんやろなあ」

 お姉さんはどこか遠くを見るようにため息をつく。

 はて、四葉ちゃんに写真のことで褒められたことなんてあったっけ?いつも何かにつけて怒られているだけのような……。

「本人は認めんし、口には出さんけど、あなたのこと少しは、その、信頼しとるみたいよ?」

 そうだったのか、たしかに最近は髪にちゃんとブラシをかけるし、授業のノートも真面目にとるようにしている。もちろん髪を結んだりはまだできないし、体育の授業もひどいありさまだが、俺は俺で、できることは必死に頑張っているのだ。少しはその頑張りに気付いてくれたのだろうか。

「やから、四葉の胸を触らん事!女の子の体はね、好き勝手に触ってええもんやないの。特に思春期の女の子は体も心も繊細なんやから、わかった?」

「「はい、すいません」」

 なぜかお義兄さんも一緒に謝る。しかし繊細な四葉ちゃんか、想像できない。

 

 

 なんだか俺まで怒られている気分だ。まあ八年前に触ったのは事実だけど。いまだに三葉は、俺が胸を一度しか触ってないと思っている。(何度も触っていたことは誰にも話していない)はずだ。どうかそのまま気づかないでいて欲しい。

 四葉ちゃん――に入った弾くんも、悪気があって触ってるわけじゃない。そこに胸がある。触る。これは男の条件反射のようなものだ。万有引力の法則のように、世界万国共通、永久不変なのだ。もちろん普段は理性で抑えているわけだが、寝起きに自分の体がやわらかくなっていたら、理性が入り込む隙間もない。これは実際に経験したからこそわかる感覚だ。

 しかし八年前か、懐かしいな。

「三葉」

 俺はある提案をする。

「来週の土曜か日曜なんだけど、山でも登らないか」

 

 

 瀧くんの突然の提案に、私は驚きと疑問を隠せない。

「山?もう十二月よ?」

 瀧くんは何がしたいのだろう、最近は就職に関係ある、とか言って夜遅くまで帰ってこんし、かと思えばこの真冬に登山?まぁ、ちゃんと装備を整えれば冬の登山も楽しいって聞いたことはあるし、それにヒマラヤとかは年中真冬みたいなものだから、そう考えれば普通なのかしら。

 同棲を始めて一か月がたつけど、最初の頃のときめきはだんだん薄れてきている。お互い慣れてきたのもあるけど、瀧くんはなんだか冷たいというか、そっけないというか、隠し事?でもしているみたいだ。ただの勘だけど。

「別にええけど、どの山に登るん?」

 断る理由は特にないし、久しぶりに二人きりになれるなら、山でも森でもどこでもいい。瀧くんの隠し事を聞き出すチャンスになるかもしれないし。

「宮水神社のご神体」

 私は、その言葉で全身が震えるのを感じる。ご神体には八年前のあの日以来、一度も行ったことがない。山頂からの糸守の姿も、瀧くんの体の中で一度目にしたきりだ。あれをわざわざもう一度見に行く理由は何なの?瀧くんは本当に何を考えているのだろう。どんどんわからなくなってくる。

「なんで、急に?」

 言葉にできない色んな重圧がどっと押し寄せてきて、私は不安になる。でも瀧くんは

「嫌ならいいんだ、別の場所でも考えるよ」

 と意に介していない。そのフランクさは何なのよ、それとも私のことなんかどうでもいいの?あんまりないがしろにしてたら怒るんやからね!

「もう……ええわよ、登ればええんでしょ、登れば」

 目の前にいる四葉が弾くんである以上、声を荒げて怒ることもできない。でも見てなさいよ。いつか、隠し事のしっぽを掴んでやるんだから!

 

 

 

 毎日、四葉(もしくはその姿をした弾くん)を起こしてご飯を出し、学校へ行くのを見届ける。瀧くんも出かけ、私は仕事に行く。

 太陽が東からゆっくりと顔を出す。雲が流れてきて、曇りと晴れを繰り返し、その間を飛行機が横切る。

 地表から見た景色は、たくさんのビル、その隙間を縫うようにあふれ出てくるたくさんの人。

 私の職場は、一つのフロアにたくさんのしゃれた机と椅子が並べられ、いくつかのブースに区切られている。それぞれ割り当てられたブースで、決められた仕事をこなしていく。デザインを決めたら印刷ボタンをクリックして、元のデータは社内専用のUSBに入れる。遠く離れた印刷機まで歩き、機械から吐き出される用紙を手に取り、会議の人数分ファイリングして資料を作る。できた資料をカートにのせ、人でごった返すエレベーターに何とか割り込む。三階上がったところで降りて、廊下を二度曲がり、会議室へ。机の上に資料を並べ、プレゼン用のプロジェクターにつながったパソコンに、USBを接続する。必要なデータを開き、いつでも会議を始められるようにセッティングを終える。あとは、会議が始まる十分前に、取引先のお客様用にペットボトルの飲料水をもってくれば完璧だ。

 仕事は忙しいが、なんとか二人(最近は一人だけど)が帰ってくるまでには晩ごはんを作って、テーブルに並べる。みんなが食べ終えれば洗い物をして、洗濯物をして、服にアイロンをかけて寝る。土日はトイレやお風呂場の掃除をして、足りない生活用品を買い出しに行く。なんだか休める日がない。申し訳なくなったのか、四葉は土日の晩御飯くらいは作ってくれるようになったけど、弾くんになっているときはそれも期待できないし、瀧くんに至っては土日もどこかへ行ってしまう。これではもう同棲ではなく、私はご飯を出してあげるロボットみたいだ。

 ありがとう、とか、うれしいよ、とかを一言言ってくれるだけで頑張れるのに。あの人は女心がわかっていない。

 二週間ぶりのデートが今週末に控えている、というのが唯一の心の支えだ。そのデートも、行先に不安が残るのだけど。

「はあ」

 もう何度目かわからないため息をつきながら、私は職場から駅のホームへと歩く。十二月ともなれば、東京でも雪のちらつく日が何度かある。今日は、傘が必要ない程度に雪が舞っている。クリスマスが近づいてきたことで、街はいつもよりもきらびやかだ。いたるところが金色に輝いて、赤色と緑色がいいアクセントになっている。サンタのコスプレをした店員が忙しそうに動き回り、道行くカップルは手をつないだり腕を組んだりして、幸せそうに歩ている。

「もう、クリスマスか」

 一人でつぶやく。そういえば、瀧くんと迎える初めてのクリスマスだ。少し奮発してもいいかもしれない。今日は仕事も早めに終わったし、まだ時間もあるから、クリスマスプレゼントでも見に行ってみよう。

 私はそう思って、駅へ向かう足を止め、回れ右をして歩き始めた。プレゼントをもらって、驚きながらも喜んでいる瀧くんを想像するとおかしくて、うれしくて、つい一人で笑ってしまう。たまには明るい話題もないといけないもの。年中お通夜みたいに暮らすのはごめんだわ。

 三十分後、私は腕時計のお店に入っていた。男の人の欲しいものがよくわからなかったので、就職が決まったら身につけてもらえるものにしよう、と思いついたのだ。腕時計ならもらっても困らないだろうし。

 しかし、瀧くんにはどんな時計が似合うだろうか。やっぱりシルバーの、お父さんがつけてるようなタイプがいいかしら。でも瀧くんまだ若いし、スポーツタイプの時計がいいかも、これならプライベートでつけても似合いそう。

 あれこれ考えた後、ある程度商品に目星をつけた私は、ほかも見て回って後日また来ようといったん店を出た。その時だった。

 

 向かいの、おそらく貴金属とか指輪とかの店の前に、瀧くんを見つけた。

 

 いや、きっと瀧くんに似ているだけだ。そうに違いない。そう思いたい。なぜなら、

 

 なぜなら、瀧くんの隣には、どう見ても私の親友と思われる女性がいたから。

 学生時代、瀧くんが好きだった、そして、瀧くんに少なからず好意を寄せていた、ミキちゃんがいたからだ。

 

 

 

 時刻は九時を回っている、私は重たい足を引きずって電灯に照らされたアパートの階段をのぼる。

「ただいまー」

 あいかわらず、この入れ替わり生活は疲れる。今日は東京の方だったが、弾が余計なことばかりするので、その修復に一日のエネルギーの大半を使ってしまう。そのうえ、近づく受験に備えての勉強会は夜遅くまで続き、終わりがまったく見えない。私は鈍くなった頭を支えるようにゆっくりとリビングへむかう。ご飯を食べて早く寝よう、いや、寝る前にもう一度復習をしなければ……

「どういうことか説明して!」

 お姉ちゃんの大きな声に、一気に目がさえる。その声は張りつめていたけど、どこか震えているようで、あきらかに怒っている。

 私は入りたくないのと気になるのが半分ずつぐらいになって、リビングのドアに右耳をあて、中の会話を聞きとる。

「だから、必要なことをやってるんだよ。俺たち二人に必要なことだ」

 瀧兄ちゃんの声だ。もしかして、瀧兄ちゃんの帰りが遅いことについにお姉ちゃんの堪忍袋の緒が切れたのだろうか、でも、それにしてはひどく――静かだ。

「必要なことってなんなんよ、一つも教えてくれんから、なんにもわからんよ!」

「そのうち必ずわかるって、なあ三葉、もうちょっと待ってくれよ」

 声を張り上げるお姉ちゃんに対して、瀧兄ちゃんはなだめるように話しかける。

「私が毎日どういう気でおるかも知らんで!瀧くんと四葉のご飯作って、洗い物も洗濯物も、掃除も買い物も全部やって、帰りが遅いのだって、ちゃんと理由があるって、ずっと自分に言い聞かせて!」

「三葉――」

「それやのに、デートもしてくれん、ご飯も一緒に食べん!いきなり糸守に行こうとか言いだすし、もうわからんよ!あんな、あんなところに行って瀧くんは何がしたいの!」

 糸守?復興事業はまだ先の話だ。瀧兄ちゃんは私たちにとって決定的な場所(、、、、、、)に、よりによって一番糸守を嫌っていたお姉ちゃんを連れて行こうというのか。

「それは、まだ言えないんだ、なあ三葉――」

「そればっかりよ!就職のために必要?大事なこと?二人のために?そんなのうそよ!」

「うそじゃないよ、三葉、ちゃんと――」

「じゃあ」

 突然、お姉ちゃんの声が聞き取れないくらい小さくなった。私は周りの温度が一気に下がるのを感じる。外にいるより、何倍も冷たい。

「なんで……ミキちゃんとおったの……?」

 私は震える。お姉ちゃんが泣いている。怒りと悲しみと、私にはわからない様々な感情が混じった声だ。こんなに小さい声なのに、心の一番深いところまで一瞬で突き刺さる。お姉ちゃんの痛みが私の痛みになって、呼吸が苦しくなる。

 うそだ。瀧兄ちゃんが浮気?そんなはずない。たしかに最近帰りが遅いけど、瀧兄ちゃんがお姉ちゃんを見るときの顔はとっても穏やかで、優しかった。帰ってくるといつも疲れきってしんどそうだったけど、先に寝てるお姉ちゃんのこと、誰にも渡せない宝物を守るみたいに、大事そうに見ていたのを知っている。なにかの間違いだ。

 突然ドアが開き、視界がクリアになる。目の前には大粒の涙を流しながら、それを隠すこともなく、お姉ちゃんが立っている。

「お姉ちゃん、まっ――」

 お姉ちゃんは何にも言わず、私の顔を一瞥すると廊下を一直線に走って、玄関で靴を足に引っ掛け、そのまま外へ出て行った。

 家の中には、お姉ちゃんが勢いよく閉めたドアの音が、いつまでも低く、不協和音のように響いていた。

 

 

 

 聞きなれたベルの音に、低く聞こえる雀の鳴き声、リビングから漂ってくる洋食の匂い。曇っているせいか朝日は差し込んでこない。

 東京か。

 ああ、今日くらいは向こうがよかった。こっちにいてもろくなことがない。

 あの日以来、お姉ちゃんは家出したままだ。ていうか、家主が家出ってどういうことなん?普通なら瀧兄ちゃんに対して出て行け!って言うところではないだろうか。やっぱり天然な人だ。

 食事は瀧兄ちゃんが作ってくれるようになった。イタリアンを中心に洋食ばかりだが、見た目はともかく、味はけっこうおいしい、と思う。

 私は顔を洗って制服に着替え、身だしなみを整えてからご飯を食べに行く。

「四葉ちゃん、おはよう」

「おはよう」

 瀧兄ちゃんと挨拶をして、用意されたトーストにマーガリンを塗ってかじりつく。

「はい、これ」

「ありがとう」

 瀧兄ちゃんが野菜のスープを出してくれる。忙しい朝にご飯を作ってくれるのはうれしいけど、これでは何ら根本的な解決になっていない。

「まだ帰ってきとらんのやね」

 私の一言に、瀧兄ちゃんはがっくりとうなだれる。

「そうなんだよなあ」

 こんなに参っている瀧兄ちゃんを見るのは初めてだ。就活の日程が一番詰まっていた時より疲れて、憔悴しきっている。このまま放っておいたらどんどん落ち込んでいって、何をしでかすかわからない。ていうか、そんなに好きなんやったら――

「ここまで大きな話になる前に、最初から話しとけばよかったんやさ」

 そう、瀧兄ちゃんが隠しごとばっかりするのがすべての元凶なのだ。あのあと、瀧兄ちゃんを問い詰めてことの顛末をきっちり聞き出したが、別に隠す必要がある内容ではなかった。堂々とすればいいのだ。でも、瀧兄ちゃんにとっては大切なことだという。

「それはマジで反省してます。すいません」

「私は別に、瀧兄ちゃんにご飯作ってくれて助かるんやけど、()よう謝るんよ」

「う、うん。わかってるんだけど……」

 瀧兄ちゃんの反応で、私はまた一つ大きなため息をつく。最近、ため息ばかりついてる気がする。そろそろやめたい。

「出てくれんの?」

「うん、全く」

 喧嘩した翌日から、瀧兄ちゃんは何度も電話をかけ、謝罪のメールを送り、LINEを送り……と繰り返しているが、電話はコールするだけで出ず、メールは返ってこず、LINEは既読すらつかない。完全に無視されている。しかも、お姉ちゃんの家はこのアパ―トのため、ここに帰ってこない限り会うこともできない。

「四葉ちゃんには、なにか連絡入ったりしてない?」

 (わら)にも(すが)る、とはこのことだろう、瀧兄ちゃんは必死な顔で聞いてくる。

「ううん、何にも。もし入っとっても、私はお姉ちゃんの味方やから」

 とは言ったものの、実はさっきスマフォに

  

  瀧くん、ちゃんと朝ご飯食べとる?

 

 とメッセージが来ていた。

 だが、私はどちらの味方もしない。気になるなら自分で聞けばいいのだ。

「そうだよな、うん。それはわかってる」

 瀧兄ちゃんはそう言いながらまたしょげる。しょぼーん、という字が背中越しに見えた気がする。

「お姉ちゃんもお姉ちゃんやけど……、瀧兄ちゃんも、そんなに焦ることなかったんやないの?もっとゆっくり――」

「いや」

 瀧兄ちゃんはさっきまでの自身の無い表情が嘘のようにパリッと乾いた顔で、強い目をして言う。

「八年待たせたんだ。これ以上は延ばせない」

 言いたいことは分かるけど、困るのは私なんよ、なあお姉ちゃん、瀧兄ちゃん。私はため息をもう一回追加する。

 

 

 

「それで、瀧くんはあれからどうしとる?」

 昼休み、私は高校の屋上でスマフォを相手に一人昼食をとる。こんな会話をサワちんたちに聞かれたくない。空は灰色の雲がぐるぐると渦巻いて、今にも雨が降り出しそうだ。

「普通」

 もう、説明するのもだるい。

「普通じゃわからんでしょ!こう、落ちこんどるとか、反省しとるとか」

 電話の相手はもちろん姉だ。

「落ち込んどるし反省しとるよ、なあお姉ちゃん、気になるなら自分で聞いたらいいにん」

「……」

 しばらくの沈黙の後、

「だめよ、絶対だめ」

 だめですか、そうですか。

「私から聞くのはだめ、こう、威厳の問題とかでだめよ。仮にも私、年上なんやから、瀧くんの方から謝ってこんとだめ」

 年上を理由にするなら、もっと余裕のある対応をしてほしい。

「瀧兄ちゃん電話もメールもLINEもしとるやない、出てあげればええんやさ。瀧兄ちゃん喜んで謝るわ」

 喜びながら謝ったらそれはそれで怖いが。

「それは……私から家出した手前、恥ず……い、威厳の問題で……」

 ああ、もう、なぜ人間と言う生き物は一度意地を張るとなかなか折れることができないのだろう。お姉ちゃんは確かにショックを受けるものを見たはずだ。その心中は察するに余りある。だが、

「あのなあ、お姉ちゃんもわかっとるんやろ?瀧兄ちゃんがそんなことする人やない、って」

「……」

 再びの沈黙。私は瀧兄ちゃんが作ってくれたお弁当を食べながら、お姉ちゃんの反応を待つ。ん、おいし。

「うん」

 はいはい、そうね、そう簡単にわかったら苦労しない……って、え?

「わかっとるの⁉」

「そ、それは……瀧くん奥手やし、ミキちゃんは結婚しとるし、そもそも、瀧くんはそんなあほなことする人じゃないし」

「だったら()よう仲直りしない!瀧兄ちゃん、死にそうなくらい落ち込んどるよ?」

「ゆ、許せんかったんよ!私はずっとデートも食事も一緒にしとらんのに、ミキちゃんとは一緒におるんよ?そりゃあ、ミキちゃんのほうが美人やし、胸も大きいし、なんかつやつやしとるし……、そんなの、そんなの、なんか許せんの!」

 はあ、もう、あほな人や

「瀧兄ちゃんの、二人のために大切って話、あれは間違いないと思うよ?少しでもいいから話聞いてあげない」

「ほ、本当?瀧くん、なんて言っとった?」

 お姉ちゃんの声が微妙に明るくなる。うれしさを隠しきれていないのがバレバレだ。

「私は伝令係やないの!自分で聞きない!」

 つい大声を出してしまって、周りの生徒に奇異の視線を向けられる。

「ああ!いつもご飯作ってあげたのに、恩知らずな妹やな」

「今作ってくれとるのは瀧兄ちゃん、やから私は瀧兄ちゃんの味方しとるの」

 私はどちらの味方もしない。これは二人が解決するべき問題だ。それに、私は私で入れ替わりという大問題を抱えているので、それどころではない。

「もう週末なんやから、今日でも帰ってきない、授業やから、また後で」

「あ、ちょっと待ちなさい、よつ――」

 ブツッ。

 私は無視して通話を切る。甘やかしてはダメだ。あの人は会社の休憩時間が終わるまで延々と同じ話を繰り返すのだ。全く、あれだけ大喧嘩しておきながら、結局瀧兄ちゃんのことが好きで、心配で仕方ないのだ。

 しかし、受験勉強が大事、そう言ったのは他でもない姉だ。私の勉強時間を邪魔しないでほしい。私はお弁当箱をしまい、紙パックのカフェオレをじゅーっと飲み干し、ごみ箱に捨てた。

 ぴろりん!

 スマフォの画面に、メッセージがでる。

 

  瀧くん、ちゃんとお昼ごはん食べとる?

 

 知らん自分で聞いて、と返信して私は教室に戻った。

 

 

 

 家に帰ると、瀧兄ちゃんはお風呂に入っていた。シャワーの音を聞きながらリビングに入ると、机の上に「温めて食べてね」という書置きと、簡単なイタリアンが置いてある。けっこうマメな人だ。

 お茶を出そうと冷蔵庫を開けると、冷蔵庫の一段目に、テーブルの上に置いてあるのとまったく同じ料理が、もう一人分ラップに包まれている。瀧兄ちゃんが食べていないのかと思ったが、流し台には水につけた食器がおいてある。

 つまりこれは、お姉ちゃんがいつ帰ってきてもいいように三人分作っているということか。余った分は明日のお弁当に回しているのだろう。そう推理しながら、ボトルに入ったお茶をコップに注ぐ。

 お姉ちゃんのこと、本当に好きなんだな。立ったままお茶を飲みながら、しみじみとそう思う。直接そう言っているのを聞いたことはないけれど、行動の一つ一つににじみ出ている。

 瀧兄ちゃんは入れ替わりをしている時、どんな気分だったのだろう。今の私のように、嫌なことや不自由なことがいっぱいあったはずだ。でも、最後はお姉ちゃんに会うために、名前も場所もわからない糸守まで一人でやって来て街を救い、八年たった今も、その愛情を変わらずに注ぎ続けている。素敵な話だ。早く仲直りすればいいのに。

 あいつも――、ふと、考える。あいつも、私に会えなくなったら、来て、くれるかな。

 思わずお茶お吹き出しそうになって、無理やり飲み込んだ。当然お茶がのどにつかえて、げほげほとむせ返る。

 私は今、とんでもないことを考えている。

 あいつに会いたい(、、、、、、、、)の?

 いいや、そんなはずない。絶対に。あんなカメラ野郎。お姉ちゃんたちの喧嘩のせいで、変なストレスが溜まっているに違いない。そうに違いない。

 ぴろりん!

「ひゃっ」

 急に鳴ったスマフォに驚いて、今度はお茶を少しこぼしてしまった。

「もう、なんなんやさ」

 コップを流し台の上に置いて、スマフォの画面を付ける。そこには、メッセージが表示されていた。

 

  瀧くん、ちゃんと晩ご飯食べとる?

 

 何度も言うが、そんなに気になるなら自分で聞いてほしい。私も我慢の限界だ。

 

 

 ぴろりん!

 メッセージが返ってくる。

 

  瀧兄ちゃん、実はイタリアン作れるんやよ、絶品!

 

 ご丁寧に料理の画像までついている。メッセージはさらに続く

 

  お姉ちゃんよりも先に瀧兄ちゃんの手料理食べてしまって、ごめんやよ!

 

 全く悪びれていない絵文字が後に続く。さらに追加で、隠し撮りだろうか、瀧くんがお酒を飲んでいる写真が送られてくる。絶対わざとだ。あの子はどうも昔から、姉よりも自分の方がしっかりしていると断じている節がある。私が困っているときに追い打ちをかけてくるとは、やるじゃない。

 瀧くんも瀧くんだ。イタリアンが作れるなんて、一度も聞いたことがなかった。私には作らんで、四葉には惜しみなくその腕を披露するってどういうことなんよ!しかも私がいなくなったとたん、四葉と一緒に机を囲むなんて!

 自分のふがいなさにイライラして、今日の午後はちょっぴり反省もしていたが、今度は二人に対してのイライラが募ってくる。私がなにしたっていうのよ。そうよ、毎日一生懸命やってきたのに。

 私はやりきれなくなって、グラスに手を伸ばす。中に入っているどろりとした茶色の液体は、お父さん秘蔵のウイスキーかなにかだ。お酒の味なんてわかりもしないが、酔えればなんでもいい。

 

 

「あーもうやってられねえ、だいたいな、なんでこんなに謝ってるのに無視するんだよ!俺だけが悪いみたいな――ヒック、俺悪いかな?四葉ちゃん」

 瀧兄ちゃんは酔っぱらっていた。お風呂から上がるなり、ビールやらチューハイやら、家にある酒を片っ端から空けていく。

「ううん、もうこの際お姉ちゃんのせいにしたら?全部」

 私はというと、ご飯を食べた後お風呂に入り、濡れた髪をタオルでまとめて、瀧兄ちゃんの飲みにウーロン茶やコーラで付き合っている。度重なるお姉ちゃんからの催促に嫌気がさして、もうどうでもよくなってしまった。こうなったら、二人ともとことんやるところまでやればいい。

「私もかなわんもん、休み時間の度に何回も電話してきて、勉強に集中できんのよ!実の姉がそんなんでええと思う?」

「いいや、ダメだ。ぜんっぜんダメだね。そもそも、帰ってこないって何だよ、自分の家だろ?」

 瀧兄ちゃんの味方をするつもりはないが、今日は私も言いたいことを言わせてもらう。どこかですっきりさせないと、本当に頭がおかしくなってしまいそうだ。

「そうやよ、お姉ちゃん逃げとるだけよ、天然で小心者よ」

「昔から小さいことばっかり気にするんだぜ?ちょっと胸触ったくらいで怒るし」

 そういえば、あのころお姉ちゃんは(中身はもちろん瀧兄ちゃんだが)よく自分のおっぱい触っていたような……、いったい何回触ったのだろうか。酔っぱらってるうちに聞き出して、瀧兄ちゃんの弱みを握っておこう。酔えない私は、それくらいしないと腹の虫が収まらない。

「お姉ちゃんて、見た目より胸、あるやろ」

 試しに話題を与えてみると、瀧兄ちゃんは見事に話に乗ってくる。

「そうそう、あいつは自分から主張しないだけで、胸もあるし、スタイルいいし、すげえ美人だよなあ、黒い髪がつやつやしてて、さらっと長くて、きれいで、笑うとこう、ぱーっとするんだ。手は白くてほっそりして、足もすらっと長くてさ――」

 うれしくて仕方ないのか、すっごいにやけている。瀧兄ちゃんの恋人自慢は終わらない。

「料理は上手ですごくおいしいし、仕事も頑張ってて、あいつがデザインした服とか売っててさ。組紐作ってるときの着物姿とかもう、あまりにきれいで、俺、婆ちゃんの前であいつのこと抱きしめそうになって。で、巫女のかっこうがこれまたすげえ似合ってて、舞を舞ってるのなんてもう見とれて何にも言えないよ」

 上機嫌で缶チューハイをぐびぐび飲んでいるが、これはまずい。軌道修正しなければお姉ちゃんの自慢話だけで朝になってしまう。ていうかどんだけ好きなの、この人。

「でもお姉ちゃん、なぜか自分に自信がないみたいでさ、昔からずっと引っ込み思案と言うか、なるべく目立たないようにしとるよね」

「そうなんだよ、自分に自信がなくて、周りの目ばっかり気にして、宝の持ち腐れってまさにああいうことを言うんだよ!俺は、声を高らかにして言いたい!」

「でも、お姉ちゃんがモテたら困るやろ?」

「それは、それはあ……ダメだ!そんなの!」

 瀧兄ちゃんは鼻息を荒くし、缶チューハイを思いっきり机に叩きつける。よし、このまま私のペースに持ち込んでやる。

 

 

「三葉、いつまで飲んでるんだ」

 お父さんがボトルを引っ張る。

「ええやない、たまに飲むくらい!それとも、娘に出す酒も持っとらんの?お父さんは!」

 私はお父さんの手からボトルをひったくる。お父さんは困ったような顔をするが、あきらめたように、自分のグラスを持ってくる。

「はあ、わかったわかった、俺にも一杯ついでくれ」

 

 

 三葉は三日前の夜に急に訪ねてきた。かと思えば、しばらくここに住むと言い出して聞かなかった。

 俺がどうしたのか、と聞いても頑として答えず、二日目の夜にようやくお義母さんを通じて事情を知ることができた。その後、四葉に連絡を取ってことの真相を知ったが、俺の口から話すのもはばかられるし、まだ付き合い始めて日の浅い二人のことだ、そのうち仲直りするだろうと軽い気持ちで考えていた。

 しかし、二葉に似て三葉はとても頑固で、一向に帰ろうとしない。それどころか連日、俺の大切にしていたコレクションを飲みあさる始末だ。頭が痛い。

「三葉」

 俺は注いでもらった酒を持って、三葉の向かい側に座る。

「なんやさ」

 アルコールが回った三葉は目を真っ赤に充血させ、頬もほんのり赤みがさしている。今まで色恋沙汰など一度もなかった子だ。瀧くんのことを心から愛して、信頼しているのだろう。だからこそ、許せないものがあるはずだ。

「三葉、少し飲むのをやめて、俺の話を聞かないか」

 父親らしいことは何一つしてやれなかったが、人生経験だけはある。それで救いになるかどうかは別として、とにかく何か話してやりたい。

「いやや、まだ飲ませて」

 三葉は子どものように駄々をこねる。ボトルを両方の腕で抱え込み、放そうとしない。その姿が、何とも愛おしかった。いくつになっても、大人になっても、この子は俺の子だ。

「じゃあまず俺の話を聞きなさい。そのあとどうしても飲みたければ、気のすむまで飲みなさい」

 三葉はしぶしぶ、ボトルとグラスから手を放す。それを受け取って手の届かない机の上に置き、俺はグラスに入ったウイスキーを一口だけ口にする。さて、何から話すべきか。

 しばらく考えて、俺は口を開いた。

 「母さんの話をしよう」

 

 

「うーん……」

 私が盛り上げたせいで、瀧兄ちゃんは酔いつぶれている。その隙に、瀧兄ちゃんが調子に乗ってしゃべった話をスマフォに(といってもあいつに見つからないように)メモしていく。これで瀧兄ちゃんは今後、私の言うことを聞くしかない。これだけ迷惑をかけた(ばつ)だ。

  瀧兄ちゃんは入れ替わる度におっぱいを触ってた

  入れ替わりの初日に、お姉ちゃんの裸を見てる

 これでよし。私はふわあ、と大きなあくびをする。そろそろ寝よう、まずは髪を乾かさなくちゃ。髪をまとめていたタオルを外す。はらり、と落ちる真っ白の布、解放されて、もとある場所に戻る黒くて長い髪。

「ん?」

 急に、寝ていた瀧兄ちゃんが顔をあげてこっちを見る。

「んー?」

 目が据わっている。じーっと私の顔を覗き込む。

「え、えっと、瀧兄ちゃん?」

 なんだか危ない気配を感じて、私は座ったまま後ずさる

「……三葉?」

 へっ?

「三葉ぁ!」

 そう叫ぶと、瀧兄ちゃんは私に覆いかぶさってきた。

「ちょ、ちょっとお!」

 

 

 三葉は俺の言葉に驚いているようだった。無理もない、今まで二葉の話をしたことは一度もなかった。俺自身、鍵をかけて思い返さないようにしてきた。しかし八年前のあの日、その鍵を開けたのはほかでもない三葉だ。今なら自然に話ができる。そう思った。

「母さんと会ったのは、今から三十年くらい前か、俺は当時、大学の研究所で歴史文化学という分野を研究していた」

 頭の中に、糸守を訪ねた時の情景がよみがえってくる。隕石によってできた湖と、その淵を一周するように発展している町。

「日本中の神社を回っていて、そのうちの一つが宮水神社だった。宮水は他のどの神社とも違うところで、俺は話を聞かせてもらおうと訪ねた。そこで会ったのが二葉だ」

 玄関を開けて出てくる二葉、洋間に案内され、二人で話をする。

「母さんは宮水のことについて快く話をしてくれた。それどころか、俺の研究についていろんな感想や意見を言ってくれた。初対面だというのになぜか話し込んでしまってな。そして、たくさんの資料をもらってさあ帰ろうかと言うとき、母さんは俺にこう言ったんだ」

『初めてお会いしたとき、私はあなたと結婚するような気がしたのです』

 三葉は両手を口元に当て、はっと息をのむ。

「正直面食らったが、気が付くと何度も宮水に足を運んでいた。そして、母さんの言うとおりになった。実家を捨て、大学を辞め、帰る場所を全てなくして、俺は宮水に嫁いだ。二葉が手に入るなら、それでよかった。何もいらなかった」

 お義母さんと対立した日々、自分のしがらみと戦う日々、やがてそれを乗り越えて訪れる、幸せな日々。

「そうしているうちにお前が生まれ、四葉が生まれ」

 頭の中で当時の記憶と声がこだまする

 《二人は父さんの宝だ》

 《あなた、お姉ちゃんになったんやよ》

「母さんは、病に倒れた」

 話をいったん止め、グラスに口を付ける。三葉は静かに聞いている。

「俺は何度も説得した。入院してくれ、でかい病院で専門の治療を受けてくれ、と。母さんは頑として聞かなかった。自分でも、なぜ断っているのかわかっていないみたいだった」

 だんだんと見ていられない姿になる二葉。その姿をわきによけ、もっと前の、出会ったころの二葉を思い出す。

「だが、俺は分かっていた。あいつは治療を受けなかったんじゃない。受けられなかったんだ」

 若くてきれいなだけではない、町中の人から頼られ、信仰の対象にまでなりかけていた。誰もが口をそろえて二葉、二葉、と言う。

「当時の母さんは糸守でも特別な存在でな。町の人はみな、迷い事や悩み事があると母さんの所へ持ちこんで、意見を聞いて行った。母さんの一言はとても重きを置かれていた。中には、母さんの中に神がいると本気で信じている人もいた。二葉は、そんな糸守の古く、悪しき風習に縛り付けられていたんだ。気が付いた時にはすでに手遅れだった。母さんは、死ぬ前に俺に言った。『あるべきようになるから』と、口癖みたいなものだ『この世のすべてはあるべきところにおさまるんやよ』とな」

 もうひとつの言葉は、頭の中だけで思い出す。《これがお別れではないから》と。

「それまで、母さんが言ってきたことは何でも正しかった。だが、その時ばかりは意味が分からなかった。死とは永遠の別れだ。二度と会うことはない。俺は生まれて初めて、声をあげて泣いた」

 失意の日々、

 《救えなかった》

 《あんたがそないで、どうするんや》

 お義母さんとの確執。

「泣いて泣いて、残ったのは怒りだった。母さんを縛り付けていた宮水への怒り、悪しき風習をいまだに続ける糸守への怒り。俺は、近代化によって糸守を内側からぶち壊そうと考えた」

 秘密裏に支援者を増やしていき、思い切って勅使河原建設を取り込みに行った。最初は胡乱(うらん)そうだった者たちも、次第についてきた。

「町のことを徹底的に調べ上げ、根回しをして、町長になった。あとは政治の力で、糸守を変えるだけだった。八年前の、あの日までは」

 突如停電する糸守、鳴り響く防災スピーカー

「あの日、変電所が爆発して、防災無線が乗っ取られた」

 町長になって初めて、役場を訪れたお義母さん。

「お義母さんまでもが役場に来て、お前の話を聞いてやってくれと言い出した。四葉もだ。そのとき、俺はうすうす感づいていた。俺が、三葉、お前の非現実的な願いを聞き入れ、町民すべてに避難を命令することができる、唯一の人間だと。自分で望んでなったはずなのに、『あるべきところにおさまっていた』んだ」

 そして、《あれでお別れではなかった》。彗星の来訪を伝えに来た三葉と、結婚を告げたときの二葉の顔が重なる。

「お前の母さんは正しかった」

 三葉は、ぽろぽろと涙を流して聞いている。

 

 

「三葉、三葉」

 瀧兄ちゃんは必死に私に抱きついてくる。これはもう、本当にまずい。私まだ彼氏おったことないのに、姉の彼氏に、襲われてしまうん?ていうか私、お姉ちゃんやないんやけど!

「ちょ、ちょっと瀧兄ちゃん、こんなことしたら、お姉ちゃん悲しむって!」

 何とか頭を押して下の方へ押しやるが、今度は瀧兄ちゃんの顔が胸に触れる。

「ちょっ⁉いい加減に――」

 本気で殴ろうかと思った。その時だった。瀧兄ちゃんがぴたりと止まり、今度は私の上ですすり泣きを始めた。

「た、瀧兄ちゃん?」

 恐る恐る声をかけると、瀧兄ちゃんは泣きながら訴え始めた。

「三葉あ、俺、いっつも三葉に迷惑ばっかりかけてえ、わがままでえ、自分のやりたいことばっかりやってえ、本当うにごめん!八年も待たせたのにい、またお前を泣かせてえ……。俺、もう絶対隠し事しないからあ、絶対にお前のこと、一人にしないからあ!絶対に、絶対に幸せにするからあ、約束するう!」

 この人は、相当酔っている。吐く息はお酒臭いし、私をお姉ちゃんと勘違いして抱き着いてくるし、泣くし。

 でも、一生懸命だ。本当に、お姉ちゃんのことだけを考えて、お姉ちゃんのためだけに行動している。私に向かって言われた言葉じゃないのに、ちょっとキュンとしてしまった。

「うらやましいな」

 お姉ちゃん、こんなに愛されとるんやよ。

 でも、

「いい加減にしない!」

 やっぱり殴った。

 

 

「あれから八年がたち、お前が生まれて初めて男を連れてくると言い出した。俺は絶対にお前をやるものかと思っていた。命を懸けてでもお前を幸せにする。それくらい言ってのけなければ、母さんから託されたお前を任せられない、とな」

 三葉が連れてきた青年は、わけのわからない話をしてきた。自分と三葉は八年前に入れ替わっていた。そのおかげで彗星の衝突を知ることができた。よくもこんな話で三葉をたぶらかしおって、絶対に許すものか。

「そしたらどうだ、あの時と同じ、お義母さんが『話だけでも聞いてやれ』と言い出した。俺は従うしかなかった」

 ここからは、あの青年が三葉には黙っておいて欲しいといった話だ。だが、今の三葉には必要な話だ。

 

 

 

『それで?話とは何だ』

 椅子に腰かけながら、俺は目の前の男に鋭い視線を向ける。どうせ戯言を言うにきまっている。耳など貸すものか。

『俺は、僕は』

 すうと息を吸って吐き、男は語り始める。

『糸守の景色が、好きでした』

『何を、君は彗星の落下から三年たった糸守しか見てないだろう』

『いいえ、見てました。信じるか信じないかはどちらでも結構です。でも、僕は確かにあいつの、三葉の目を通して、糸守の美しい街を、自然を見ていました。神社の鳥居や、高校の校庭、二軒だけあるスナック、川にかかる橋、電車の通らない踏切、あいつの部屋から見える糸守湖と町の景色。あいつと再会した今、僕の中はあの頃の糸守で、あいつが住んでいた町であふれかえっています』

 この男はめちゃくちゃなことを言っている。しかしなぜだか、真に迫る感じだ。

『先日、テッシー、勅使河原さんに会いました』

 知っている名前が出てきて、思わず組んでいた手がぴくっと動く。

『勅使河原さんは、お父さんの会社で建築、土木の仕事をしているそうです。今はある大きなプロジェクトの準備で、人手が足りなくて困っていると聞きました』

 男は、ごくりと唾を飲み込んで続ける。

『僕は、そのプロジェクトに入らないかと声をかけられました。僕は、俺は即答しました。糸守を、あの町を復活させるなら、なんでもしますって』

 俺は、次第に心の中にある氷が解けていくのを感じる。バカみたいに口を半分開き、男の言葉に聞き入ってしまう。

『あなたが糸守復興プロジェクトのリーダーだと、俺は知っています。だからこそ聞いて欲しいんです。俺や、あいつの話を。嘘を言っていると思われるのはわかります。でも、俺は、あの町にもう一度命を与えたいんです!あいつを、三葉に、いつか住んでいた糸守の地を、もう一度踏ませてやりたいんです!』

 一呼吸おいて、男はもう一つの問題に話を移す。

『あいつにはまだ言えてませんが、俺は、絶対、あいつを幸せにします。昔、自分に誓ったことなんです。世界のどこにいても、必ず見つけ出すって。でも、俺のせいで八年もあいつを待たせてしまった。それなのに、あいつは待っててくれた――』

 男の目には涙が溢れている。距離を詰めて、こちらに近づいてくる。八年前の記憶がよみがえる。娘の姿をした、なにか(、、、)

『だから、もうぜったいに離しません。どんなことがあっても、俺は諦めません。俺は――』

 俺は手を挙げて青年の話を制した。彼は、俺の机に両手をついて、今にも乗り越えんとしている。

『あ、すいません』

 やってしまった。とバツの悪そうな顔をして、彼は後ろに下がる。

 俺は、告げるべくして告げる。

『いや、いいんだ。私の方こそ、すまなかった』

『え?』

 予想外の返事だったのだろう、彼は驚く。

『君のことを勘違いしていたようだ』

 椅子の上で体制を変えながら、俺は続ける。彼が、そうなのだ。

『勅使河原のところは……あそことは古い付き合いでな、私からもひとつよろしく言っておく』

 それで、と彼の目を見る。

『三葉とは、いつ結婚するんだ』

 さっきまでの威勢がどこ吹く風、彼は頭をかきながらぼそぼそと言う。

『いや、三葉、さんとは、まだ付き合ってるというわけではなくて……』

 それを聞いて、俺はあきれる。

『なにをやっとるんだ君は、早く結婚の日程を決めなさい。お義母さんはもう九十になるんだ。待たせてはいかん』

『は、はい!』

 背中をバシッと叩かれたように、彼は背筋を伸ばす。いや、実際に叩いて活を入れてやりたい。

 俺は我慢できず、彼の隣まで近づくと、右の手の平で背中を思いっきり叩いた。

 

 

「はっ⁉」

 瀧兄ちゃんはやっと我に返ったようだった。

「俺は、何を……」

 私は今のうちに、と瀧兄ちゃんから距離をとる。

「あ、そうだ、三葉?三葉は?」

 瀧兄ちゃんはあたりをきょろきょろ見渡してお姉ちゃんを探すが、私しかいないことに気が付いて、朝と同じようにまたげんなりとした。

「なんだ、夢か」

 心底さみしい、という風に呟いている。私はなんだか見てられなくて、声をかける。

「夢やないよ」

 そう、夢ではない。夢で、終わらせてはいけない。

「瀧兄ちゃん、やっぱりお姉ちゃんに会って、ちゃんと謝るべきやよ。伝えること、いっぱいあるんやし」

 さっきの告白が頭をよぎる。このまま二人がすれ違ったままなんて、間違っている。宇宙の仕組みとか、命の法則みたいなものに反している。

 瀧兄ちゃんは私の話を聞いて、しばらく床を見つめて考え込んでいる。何にも言わず、一点だけを見つめる。スケッチをしている時の、真剣な瀧兄ちゃんだ。

 このまま何も言わないのかと思い始めたころ、はっきりとした口調で、私ではなく、自分自身に言い聞かせるように言う。

「あいつと、約束したんだ」

 

 

 三葉は瀧くんが隠していた真実を知り、涙を流している。俺は話を続ける。

「あれから、八年、俺が大臣になり、糸守の復興を呼びかけ、そのための準備を整えた。そしてまさにその年に、お前が糸守の復活を願う男を連れてきた」

『この世のすべてはあるべきところにおさまるんやよ』二葉の声が再びこだまする。

「すべて、あるべきところに自然に導かれている」

「うん、うん……」

 三葉は両手で涙を拭いながら、何度も何度もうなずいている。俺は、そんな娘に優しく語り掛ける。

「瀧くんが本当に浮気をして、お前を悲しませているのなら、俺はお前のことを全力で守る。だがそうでないのなら、お前は瀧くんのところに戻るべきだ」

 三葉はしばらく泣いていた。俺はそんな娘の頭に手を乗せ、子どものときしてやったようになでてやる。

 やがて三葉は手を止め、俺の目をまっすぐに見てくる。

「お父さん。明日、車貸して」

 それは、八年前と同じ、決意の表情だった。

「瀧くんと、約束したの」

 

 

「約束……?」

 もしかして、と私の頭に嫌な考えがよぎる。

「もう一度、宮水神社のご神体に行こうって」

 それは喧嘩をする前、私と弾が入れ替わっている間に、いつの間にかしていた約束だ。

「瀧兄ちゃん、それは」

「明日なんだ。俺、行ってくるよ」

「お姉ちゃんは――」来ないかもしれない。

 私が言いかけた言葉を、瀧兄ちゃんは理解したようだった。けど、

「来るさ。だってあそこは」

 瀧兄ちゃんは何かを思い出すように、目をつむる。

 

 

 

「俺たちが、初めて逢った場所だから」

 

 

 

 俺は厚手のジャケットにトレッキングパンツと、登山用の装備を身に着け、大きいカバンには手袋やネックウォーマーなどを入れて背負い、準備を終える。

 四葉ちゃんには申し訳ないが、今日のご飯は自分で何とかしてもらうことにした。

 始発の新幹線に乗るため、まだ朝日の昇らない、薄暗い東京に繰り出す。途中のコンビニにより、適当な朝食を買っていく。

 五年前が懐かしくなる。あの日の俺は、まったくもって無謀なことをやろうとしていた。三葉に会いたい一心で、住所も名前もわからない町を、数枚の絵だけを頼りに探していた。

 今回は逆だ。行先は分かっているのに、目的地にその人がいるのかどうかわからない。

 いや、大丈夫だ。特急『ひだ』に揺られながら、俺は自分に言い聞かせる。根拠なんてないが、三葉は来る。あそこに。

 

 

 私は登山用に、厚手の服を着こむ。もともとこんな服は持っていなかったし、喧嘩した後は準備するのもバカバカしくて、買ったりしなかった。でも、昨日の今日でお父さんが用意してくれた。さすがというか、いいのだろうか、これは。

 お父さんの私有車は、水色の小さな車だ。あんまり使ってないらしいが、誰かが磨いているのだろう、手入れが行き届いている。冬に合わせて、スタッドレスタイヤも装着済みだ。肝心のドライバーである私は、大学生の時に免許を取ったきりだけど、やるしかない。昨日飲んだお酒が抜けるまで待ってから、私は車のエンジンをかける。もう日が昇り、休日の都会はにぎやかになってきている。私は確信している。瀧くんは、糸守に向かっている。あの場所に。

 

 

 昼をすぎ、俺は高山ラーメンの店に来ていた。この店は異様に離れている駅と駅の間にあるのだが、俺はある目的があってわざわざ歩いてきた。

「あら?あんた」

 注文を取りに来た三角巾をかぶったおばちゃんが、目を見開いてこちらを見る。

「覚えて、くれてたんですか?」

「いや、忘れとったけど、あんたの顔見たら思い出したわ」

 そう言っておばちゃんは店の壁に貼り付けてある絵を指でさす。年数がたち、紙が若干変色しているが間違いない。五年前、何も持っていなかった俺がせめてものお礼にと手渡した、彗星が落ちる前の糸守の絵だ。

「もうずいぶん昔のことやろ、あんた!」

 おばちゃんに呼ばれて、厨房からオヤジが出てくる。五年前よりも、白髪と目じりのシワが増えている。

「あんたか、なつかしいな」

「その節は大変お世話になりました」

 俺は席を立ち、深々と頭を下げる。オヤジはそんなことしなくていい、と手を降り、オレの反対側に座る。

「他に客もおらんし、ええか?」

 そう言ってタバコを取り出すオヤジに、俺は無言でうなずく。おばちゃんがコップに水をついで持ってきて、俺とオヤジの前においていく。

 オヤジはタバコを(くゆ)らせながら、話し出す。

「あの後のあんたが心配でな、思い詰めて、死ににいくような顔をしようてたからな」

 やっぱり危なっかしく見えてたんだろう。そうでなければ、五年前に来た客なんて覚えてくれるわけがない。

「ご心配をおかけして、すいません」

 今度は座ったまま頭を下げる。

「元気そうでよかった」

 口数は少ないが、オヤジは優しい顔をしていた。

「それで、なんでまたここまで」

「あ、はい。まずは、五年前のお礼を伝えたくて、ありがとうございました。あとは」

 俺は、今度は机に頭が付きそうなくらい頭を下げる

「無理を承知でお願いします。もう一度、俺をあの場所までつれていってください」

 オヤジは驚きもせず、断ることもせず、無言でタバコを吸っている。

 俺は黙って頭を下げ続ける。もし断られたら、糸守まで歩いていくことになる。時間はかかるが、電車が途中で寸断されている以上、それしか方法はない。それでもオレの中に、諦めるという選択肢はなかった。

「今回は、ちゃんと理由があるんか」

 オヤジはタバコを口から離し、おもむろに聞いてくる。

「へ?」

 返事につまった俺は、顔だけ上にあげる。

「糸守までいく理由が、あるんか」

 オヤジは重ねて聞いてくる。

「はい」

 俺は短く答え、まっすぐオヤジの目を見る。

 五年前は根拠や理屈なんてものはなく、わずかな可能性にかけてがむしゃらに山を登った。今回は違う。俺は目的があってあそこに戻る。

 オヤジはタバコを灰皿に押し付け、

「あんたの事情は知らんが」

 席を立ちながら、その火を消す。

「出発は腹ごしらえしてからや」

 そう言って、厨房に戻っていった。おばちゃんは、困った顔に笑顔を浮かべている。

「ホントにあの人は、糸守が忘れられんのやさ。さ、兄ちゃん、注文は?」

 糸守が忘れられない。その言葉が、俺の中にずっしりとしずみこんでくる。みんな同じだ。故郷を愛している。三葉だって、きっとそうだ。

 俺は、感謝の気持ちを込めて笑顔で注文する。

「高山ラーメンひとつ」

「あいよ、ラーメン一丁!」

 

 

 

 糸守へ向かう車に揺られながら、俺はオヤジに糸守の復興計画について話をした。

「宮水さんはそんなことまで考えとるんか、こんな田舎にはなかなか情報がこんでな」

 助手席の窓からは、新糸守湖の縁が見下ろせる。半壊した民家や途切れたアスファルトが水に遣っている。ただ、五年前と違う部分に俺は気が付く。

 プレハブのような建物が所々にあり、湖の中には仰々しい鉄の骨組みが見える。その回りをゴムボートがくるくる周り、酸素ボンベを背負った人が湖の中に潜っていく。

「ありゃあ、彗星の研究しとる学者たちや」

 俺が不思議そうに眺めているのを察したのか、オヤジが説明してくれる。

「今 思うと、あれも宮水さんの復興計画のうちやったんやろ。あんたを山の上まで送った次の年くらいか、研究者がぞろぞろ入り始めてな。ワシら糸守のもんは反対した。どこぞの馬の骨とも知らんやつらに、故郷を掘り返されるなんてたまったもんやない。たとえその故郷が、人の住めん場所であってもな」

 オヤジはもともと頑固そうな表情だったが、その顔をさらに険しくする。

「そんな反対の声を押さえたのも宮水さんやった。僻地にも足を運んで、かつての町民を説得して回った。ワシがその説明会で聞いたのは、研究機関を呼ぶ代わりに、保安上の理由で入場料(、、、)を払わせるようにしたらしい。この規模で宇宙から落ちてきたもんやから、たくさんの人とモノが流れてきとる」

 三葉のお義父さんは、復興大臣になる前からずっと糸守のために手をまわしていたのか。たしかに彗星の落下、言い方を変えれば隕石の衝突は、多くの研究者にとって喉から手が出るくらい貴重な研究対象になるはずだ。オヤジによれば、かつて糸守で飲食店やコンビニを経営していた人たちはプレハブではあるが建物を貸し与えられ、泊まり込みで働く研究者相手に商売しているらしい。これだけの人が集まっていれば、多くの金が糸守に落ちていく。

 お義父さんはいろんなところからの批判や反対を、時に押し切り、時に説得しながら、復興に必要なお金、人材、世論を集めて、つなげようとしている。

 もう車ではこれ以上登れないというところまできて、オヤジはサイドブレーキをあげた。

「本当にありがとうございました」

「冬やからな、気ぃつけて登れ。なんかあったら必ず電話しろ」

「はい」

「それからな、三葉ちゃん、泣かせるなよ」

「は、はい」

 俺は糸守復興の話に合わせて、三葉との関係を簡単に話していた。さすが糸守と言うか、宮水家の人は特に有名らしくて、オヤジは三葉のことも当然のように知っていた。

 そこまで詳しく言うつもりはもちろんなかったが、今日山に登る理由とつなげると、どうしても三葉と喧嘩した話をする羽目になり、俺はオヤジに怒られた。

「男が女を泣かせてええのは、死ぬ時だけや。自分の死だけは、どうやっても乗り越えられん。受け入れるしかない。やから、それ以外のもんはお前が全部乗り越えろ。お前はまだ死んどらんやろう」

 映画に出てきそうなかっこいいアドバイスをして、オヤジは元来た道を帰って行った。俺は深く深く頭を下げた。

 

 

 

 天気は良かったが、冬の寒さは少し堪えた。とはいっても、二十分も歩くと体がほてって、むしろ熱いくらいになってくる。俺は小さな洞窟で休憩をとり、水筒からお茶を出して飲む。

 ひたすらに頂上をめざしていると、いつの間にか樹木の姿は消え、周囲は苔だらけの岩場となっている。眼下には、雲一つない空を通して、ひょうたん型の湖が見えている。

「……あった」

 果たしてその先には、カルデラ型の窪地と、ご神体の巨木の姿。

 俺は窪地におり、小川のほとりまで歩く。

 ここから先は、あの世。

 俺は、婆ちゃんからいろいろ教わってきたのだ。小川を渡りながら、その言葉を思い出す。

『三葉と四葉の作った口噛み酒は、二人が少女のころにご神体に奉納したもの。じゃが、永遠に神様にお供えしておくものではない。神道では、神様にお供えしたものを人間が口に入れて、腹におさめるということがとても重要なこととされとる』

 俺は根と岩の間の隙間にある小さな階段を降りる。

『本来であればきちんとした手順を踏まねばならん。そのうちあの子らに回収に行かせるつもりやった……ワシはもうあそこまでいくことができんでな。じゃが、八年という長い年月が経っておる。多少簡単にすませても、問題ないわ』

 階段を降りると、四畳程度の空間がぽっかりと口を開けている。俺はあの時、三葉の口噛み酒を飲んでそのままにしていたはずだが、床に置いてある瓶子はなぜかコルク栓を元に戻されて、蓋もかぶせられていた。誰のおかげか知らないが、よかった。ちゃんと残っていて。

 俺は、苔で床に張り付いた瓶子を持ち上げ、祭壇の上に一度戻した。そして、婆ちゃんから教わった《申立》を奏上する。一般的には、《祝詞》と言われているものだ。

 この《申立》や口噛み酒などは、本来は俺みたいな部外者には教えてくれない、宮水家の神髄の部分だと思う。だが、婆ちゃんは俺を信頼して、口噛み酒の回収を任せてくれた。その期待にはきちんと応えたい。なによりこの口噛み酒は、彗星が落ちる前の宮水神社にまつわる、数少ないものの一つなのだ。俺はきちんと、責任を持ってこれを回収しておきたかった。

 この酒は、三葉の半分だから。

 ほかの誰でもない、俺の手で。

 だって俺は、君のことが――

 

 

 一人で頑張っていた。家事をして、仕事をして、休む間もなく、働き続けていた。一人で頑張っていると、思い込んでいた。

 全速力で車を飛ばしてきたけれど、予想以上に時間がかかってしまった。もう夕方になっていて、太陽が西の空から赤い光を放っている。トンビの一鳴きが、私をせかすように響く。長時間の運転で、腰は痛むし肩もこった。それでも――それでも、私は走る。眼下には見るも無残な糸守が広がっている。しかも、酸素ボンベを背負った人たちがたくさん行き交っている。私たちがかつて歩き、笑い、生活していた場所を、ひどくけがされている気分になる。

 けがされる、という表現に私は今さら気が付く。町を離れて八年、私は糸守が恋しくて仕方なかったのだ。あの美しい景色をもう一度見たいと、心の奥底で思っていたのだ。だから、部外者に荒らされる様は見たくはない、けど。

 けど、もう目を背けない。必要なことを、お父さんはやっている。お父さんだけじゃない。かつて私が嫌っていた町は、たくさんの人に愛され、その人たちが再び命を与えるために力を出しあっている。

 そして、昔、四葉が言っていた『私たちは、コドクではないよ』という言葉。この幼女は何を言っているの、と思ったものだが、今はその意味が分かる。お父さんは車から服まで準備してくれて、お祖母ちゃんは瀧くんが宮水のためにやろうとしていることを教えてくれた。あの子にも助けられた。お父さんの家を出る前、急に電話をかけてきて、泣きそうな声で『朝起きたら、瀧兄ちゃん本当におらんようなって……糸守に行ったんやよ!お姉ちゃんいつまで意地はっとるの!瀧兄ちゃん、お姉ちゃんのために糸守に行きよるのよ!』と訴えてきた。

 そうだ、糸守のことも瀧くんのことも、私はずっと意地になっていた。

 あんな田舎町、出られて清々したと思っていた。浮気する人の話なんか聞くものかと思っていた。

 今は分かる。私は、糸守に帰りたい。私は、瀧くんに会いたい。

 今は分かる。私は、一人じゃなかった。瀧くんが、みんなが支えてくれていた。

 瀧くん、必ず行くから。君が、そうだったように。

 そして、伝えるから。君が、あの時教えてくれたように。

 私は、君のことが――

 

 

 俺は瓶子をカバンに詰めて、ご神体を出る。外に出ると、もう日が落ちかけて薄暗くなっていた。周りを見渡すが、三葉の姿はない。

 しかたない、俺が、泣かせてしまったんだ。とりあえず、一つの目標は達成した。このまま頂上にいて凍死したら笑えないし、いったん山をおりよう。ふもとで何とか三葉を待ってみればいい。どうしても会えなければ、明日にでも東京に戻って謝ろう。いつ許してもらえるかわからないけど。誠心誠意謝ろう。

 俺はご神体から離れ、小川を渡る。ゆっくりと窪地の底を歩き、そして上り坂のふもとにたどりつく。その時だ。

 風が吹き上げて、髪が一瞬舞い上がる。

 俺は、全身が震えるのを感じて立ち止まる。

 ずっと待ちわびていたものが、すぐそばに来ている。

 体の半分が欠けていたような違和感が、消える。

 全身が、緩やかに満たされていく。

 俺はゆっくりと上を見上げる。

 

「三葉」

 

 本当に、来てくれた。

 俺は坂をのぼり、五年前と同じように三葉の前に立つ。

 

 

 瀧くんが八年前と同じように、目の前にいる。

 私は固まってしまって、何も言うことができない。

 あんなに会いたかったはずなのに、言いたいこともいっぱいあったのに。

「会いに来て、くれたんだな」

 そう言って、瀧くんが一歩、近づいてくる。

 反射的に、一歩下がる。近づきたくてしかたないのに、体が言うことを聞かない。

 どうして、どうして――必死に考えて頭に浮かんだのは、ミキちゃんと一緒にいた瀧くんだ。

 ああ、そうか。瀧くんがなぜミキちゃんといたのか、まだわかっていない。

 わかってないから、怖いんだ。

「やめて」

 思わず、言葉が口から出てくる。自分から会いに来たくせに、こんなこと言ってたら、瀧くんに嫌われちゃう、やめなきゃ。

 瀧くんはそんな私を見て、寂しそうな笑顔になる。そしてカバンを背中から下ろして、また一歩、私に近づいてくる。

「違うの」

 声が震える。どうして、こんなことばっかり言ってしまうの?

「だめ、来ないで」

 触れたいのに、怖くて触れられない、訳がわからない。感情がコントロールできなくなって、蛇口が壊れたみたいに涙が溢れてくる。

 それでも、一歩ずつ近づいてくる瀧くんが見える。私の名前を呼びながら、少しずつ、距離をつめてくる。

「三葉」

 一歩。

「いやや、瀧くんなんか」

「三葉」

 また一歩。

「ミキちゃんのとこにいけばええんやさ」

「三葉」

 

 

 俺は、逃げる三葉を捕まえる。

「離して、離して――」

 三葉はそう言って泣きじゃくりながら、なんとか逃れようと両手で俺の胸を思いっきり押してくる。

「三葉」

 俺は三葉を逃がさないように、両腕にありったけの力を込める。

「いやや、瀧くんなんか嫌いや……」

 最後は力なく崩れ、三葉は抵抗をやめて俺の胸で泣き続ける。

「瀧くん」

 その声は、俺に助けを求める声だった。

 どうやって俺を信じればいいのか、わからなくなってしまった声だった。

 一人にさせてしまった。二人で築き上げるべきだった。三葉の信頼を裏切ってしまった。これは、俺が乗り越えなければならない壁だ。

 俺は三葉を抱き締めたまま、耳元でささやく。ゆっくりと、思いを込めて、その意味が三葉の頭のてっぺんから爪先まで届くように。

「三葉、ごめん。もうぜったいに離さない。隠し事もしない。家事も手伝う。仕事の話も、ちゃんとする。約束する」

 一つ一つ言う度に、三葉の体の強ばりが溶けていく。すすり泣く声も、少しずつ小さくなる。

 もぞもぞと動く三葉のために、俺は腕を緩めて、顔が見えるようにする。

 三葉は宝石みたいな涙を目にいっぱい溜めて、不安そうに俺の顔を見上げている。

「他の女の子を見ん?たまにはデートする?ごはんは、一緒に食べる?」

 三葉に一つずつ確認されることで、自分がこんなにも当たり前のことをできていなかった、と思い知らされる。

 俺は、やさしく笑って答える。

「三葉だけを見るよ。仕事が休みの日はデートする。時間があうときは、ご飯を一緒に食べる」

 

 

 よかった。瀧くんは、私の知ってる瀧くんだ。

 最近は何だか別人みたいで、何を考えてるのか、何がしたいのか、果ては瀧くんという人間そのものがわからなくなっていたけど、今ここにいる瀧くんは、瀧くんだ。

 でも、

「約束、する?」

 やっぱり不安で、念を押してしまう。そんなどうしようもない私に、瀧くんは

「約束する」

 と即答してくれる。

 ようやく安堵して笑うことができる。さっきまで感じていた不安や恐怖は涙と一緒になって消えて行った。今は、瀧くんといられることに安心を感じる。心が、温かくなる。

 余裕が生まれると、ここまで大変な思いをさせられた仕返しに、ちょっぴりからかってやりたくもなる。

 私は腕を組んで、笑顔を無理やりしかめっ面にかえる。

「あー、でも瀧くん、嘘つきやからなあ」

「えっ」

 安心しきっていたのか、私の急な反撃に瀧くんは驚く。

「信用できんわ」

「えええっ」

 わざとらしく、ぷいっと横を向いてみる。

 瀧くんは片手で頭を抱えて、うーんとうなっている。

 どうだ、これで少し困ればいいのよ。私はちょっと満足して、勝ち誇った笑顔をする。

 しかし、瀧くんはわかった、と短くつぶやくと、真剣な眼差しでこちらを見てくる。

「証明してやる」

 そう言うと、私の両肩に手を乗せる。さっきまで私が握っていた主導権はどこ吹く風だ。

「え⁉」

 驚く私に、瀧くんはさらに驚くことを告げる。

「三葉、目、つむって」

「えっ⁉ちょ、ちょっと待って⁉」

 うそ⁉こういう流れ?予想外の展開に、私は必死に抵抗する。

「ほら早くつむって」

「いや、でも私っ、心の準備が……」

「いいからつむれ!先に進まないだろ」

 えええ、瀧くんのあほ!いつもいきなりすぎ!ああ、もう、知らん!

 私はぎゅっと目をつぶり、全身に力を込めてみがまえる。

 一秒、二秒、三秒……何も来ない。四秒、五秒、

「いいよ、三葉、目を開けて」

 瀧くんの声に、私は半分ほっとして、もう半分はちょっと残念な気持ちで、ゆっくり目を開けていく。

 徐々に開けてくる視界は、薄暗い中瞬く星で埋め尽くされる。その中心に、ひときわ明るく光るものがある。それは、不思議な存在感を放っている。

 私は、目を見開く。

 

 

 指輪だ。

 

 

「え……」

 私の頭は理解が追い付かない。わけもわからず、止まっていたはずの涙がまた、ひとりでに頬をつたう。

 瀧くんの手のひらに載っているのは、指輪だった。ケースに入れられたそれは、何本かの線が入ったシルバーのリングに、星形にカットされた青の宝石。その斜め下にちょこんと引っ付くように、同じく星形の、赤い宝石。それぞれの宝石は、銀色のふちでコーティングされている。

「瀧くん……これ」

 驚いて口をパクパクさせる私に、瀧くんは照れくさそうに、でも真剣に答える。

「お前のために、作ったんだ」

 え?私のため?作った?

「大変だったよ、俺、金も全然持ってないし、デザインも決まらないし」

 瀧くんは笑って続ける。

「だからさ、テッシーとこに頼んで、建設とか工事現場のバイトどんどん入れてもらって、お金かき集めたんだ。デザインは奥寺先輩にアドバイスもらって。ほら、先輩デザイナーだし、大学で四年間一緒だったから、俺よりもお前の好みとか、知ってそうだったし……」

 そうだったんだ。やっと思考が追いついてくる。

「私、バカだな」

 自分のことばっかり考えていた。瀧くんは、こんなに私のために一生懸命になってくれていたのに。

「いや、俺も悪かったよ。お前を驚かせたいと思って、ずっと秘密にしてたんだ。そのせいでお前を不安にさせて、泣かせて、ほんとに、ごめん」

 瀧くんは頭を下げる。

「ううん、ええんやよ」

 私は首を横に振る。

「瀧くんて、一生懸命やわあ」

 そうだ、いつだって。

 

 

 その一言に、三葉の想いが全部がつまっていた。前に言われた時にはわからなかったけど。今の俺は、三葉が何を言いたかったのかわかる。だから

「三葉」

 俺もその思いに、応えたいと思う。

「指に、はめさせてくれないか」

 三葉はどうしようか考えているようだった。左手を出そうとしたり、ひっこめたり、何度か宙をさまよった後、おずおずと俺の方に差し出してきた。顔を真っ赤にして、目はどこか、眼下の糸守湖の方に向けられている。

 俺は、指輪をケースからとりだすと、ひざをついて、優しく、これ以上ないくらい丁寧に、三葉の左手に手を添える。

 三葉はそらしていた目を、自分の左手へと向ける。

 俺は深呼吸して、指輪を、ゆっくりと、しっかりと滑らせていく。

 第二関節のふくらみを超え、指輪は、三葉の薬指に収まる。

 俺は、笑顔で三葉を見上げる。

 三葉は、自分の右手で左手を持ちあげ、愛おしそうに指輪を眺める。

「青と赤の宝石は」

 俺は、指輪のデザインに込めた意味を説明する。

「二つに割れた彗星でもあるし、俺たち二人でもあるんだ。青が俺、赤が三葉。リングは彗星の尾で、それがつながって輪を作る。彗星が、俺と三葉をつなげてくれた、ムスビなんだ」

 三葉は無言で、しかし笑顔でうなずく。俺は、話を核心へ持っていく。

「あのさ、俺、テッシーのところで働くことになったんだ。糸守をもう一度、人の集まる場所にしようって、そう言われた。俺は、その話に乗ろうと思ってる。お前にも、その……」

 また肝心なところで詰まって、目を背けてしまう。あーもー、俺のバカ!三葉と再会してから全く成長できてないじゃないか!

「その……なあに?」

 三葉は俺が目を背けた先にちょこん、と入ってきて、上目遣いでこちらを見てくる。毎度思うが、やっぱりこいつの上目遣いは反則だ。言うしかないじゃないか。

「俺と、一緒に、来てほしい。その、糸守まで」

 しっかりと目を見て言うべきなんだろうが、さすがにそこまでの度胸はなかった。

「なに言っとるの、糸守は私が生まれたところやよ、戻らん理由がないでしょ」

 三葉は当たり前でしょ、というように答える。その顔は笑顔でいっぱいになっている。俺も、抱えていた悩みや不安を全部振り切って笑う。二人の心は、今一つになっている。理屈じゃない。そうだと分かるのだ。

 俺たちは、お互いに語り掛ける。

「なあ三葉、俺、五年前に言い残したことがあるんだ」

「私、八年前から、瀧くんに言いたかったことがあるの」

 初めて逢ったこの場所で、あの頃の記憶を胸に抱き、俺たちは互いに、一番伝えたかったことを口にする。

 

 

 君のことが――好きだ。

 

 

 どちらからというわけでもなく、俺たちは笑いかける。過去を清算し、新しい未来へ、二人で作り上げていく未来へ、ともに走り出すために。

「三葉」

「なあに?」

 三葉の顔を、俺はまっすぐ見据える。三葉も目をそらさずに、俺の言葉を待っている。もう詰まったりしない。もう迷わない。俺は、覚悟を決めて伝える。

「結婚しよう」

 三葉は涙を流しながら、しかし、喜びに満ちた笑顔で、はじけるように答えた。

「うん!」

 

 

 

 

 

第八章 ムスビ

 

 

 

 俺は、朝からおっぱいを揉んでいる。

 十九年生きてきて一度も触ったことがなかったが、ここ最近で味をしめてしまった。

 おっぱいというものはハリや弾力のあるものだと思っていたが、なかなかどうして、本物はやわらかくてふよふよしてて、手のひらにあわせてふにゃんふにゃんと形をかえる。

 揉んでいると、なんともいえない幸福感に包まれるのは俺だけではないはずだ。男の本能ってやつなんだと思う。

 だから、揉み続けている。

 残念なのは、これが俺の体ではないということだ。だから揉むだけで、それ以上発展することがない。まあそれでもいいか、と思う。 揉めば大きくなるというから、この体の持ち主にとっても悪いことにはならない。つまり、お互いにとってウィンウィンな関係ということだ。

 それなのに、いつもは厳しい監視の目にさらされて一ミリたりとも触ることができない。起きている間、すなわち十六、七時間もの長時間、目の前にあるにもかかわらず、だ。これでは生殺しだ。

 だが、今朝目覚めてみると、いつもいる美人のお姉さんやその彼氏の爽やかイケメンはおらず、スマフォには

 

  遅くなるので瀧くんも私も近くの宿で適当に泊まります。

  明日には帰るから!

 

 とのメッセージが残されていた。

 と、なれば普段押さえつけられていた欲望が爆発してしまうのも無理はない。俺は一人っきりの冬の朝を、それはもう、満喫していた。

 一人ついでに、胸を揉みながら普段食事以外では入らないリビングを探検してみることにした。

 リビングとして使っている部屋は、お姉さんとその彼氏の部屋でもある。折り畳みの小さな机を壁に立て掛け、ベッドが一つ、その上にたたまれた布団が置いてある。一緒に寝ているわけでは無いのか。まあシングル用ベッドに二人は少し狭いか。

 むう、さすがにこれ以上揉んでいたら学校に遅刻してしまう。さすがの俺も理性がないわけでは無い。この体の持ち主がもうすぐ受験を控えている以上、授業の内容くらいはノートに取ってあげる必要がある。

 俺は洗面を済ませ、パジャマを脱ぎ、制服のブラウスに袖を通す。外は寒いのでカーディガンを着て、その上からブレザーを羽織る。コートは出かける直前でいいだろう。お、そうだ、マフラーでもつけてみるかな。

 どう巻けばかわいく見えるか、俺は鏡の前で試すことにした。黄色のマフラーはどこか子供っぽく感じるが、この体の持ち主にはよく似合う。マフラーの両端を伸ばして両肩から後ろに垂らしてみたり、片方だけ伸ばして右肩から前に垂らしてみたり、両端をまとめて、コートの中に入れてみたり、ひとしきりファッションショーを楽しんだ。

 結論はどれも似合う、だった。この体にしろ顔立ちにしろ、なかなかの逸材だと俺は思っている。本人は否定しているが、学校にはファンクラブなるものも存在しているし、入れ替わりが始まってから少なくとも二回は告白されている。

 それと、写真家を自称する俺にとってはモデルとしても無視できない。俺の専門はもともと風景の方なのだが、人物を被写体に選ばないわけじゃない。ていうか、この見た目で自分の自由にポーズを決められるのに、撮るのを我慢する方が無理なのだ。難点は、思い通りにポーズが取れる反面、今度はカメラを操作できないということだ。人生って難しい。

 ……うーむ、おかしい。いつもならこうやってバカをしている間に、元気な声で『四葉ちゃん、おっはよーう』とお呼びがかかるはずなのだが、今日は誰も迎えに来ない。俺は不安になって、スマフォの発着信履歴を見る。

 

  お姉ちゃん、瀧兄ちゃん、サワちん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん

 

 なぜだかやけにお姉さんとの会話が多い。しかも一日に何回も。意外とお姉ちゃんっ子なのかもしれないな。そんなことを考えながら俺は上から三番目の連絡先をタップする。

「え?今日は日曜だよぉ?あ、もしかして、日曜でも朝からMAXで勉強頑張っちゃうやつ?いいねー賛成だよー」

 にぱー、と聞こえてきそうな明るい声だ。だがしかし、日曜?なるほど、だから学校がないのか。入れ替わりをしていると曜日はもとより、日付や時間の感覚が狂ってしまって困る。

 とはいえ、日曜日か、しまった。お姉さんたちが返ってくるまでの間やりたい放題だったのに!電話してしまった手前、何もなしでバイバイというわけにもいかなくなってしまった。

 

 

 

「四葉ちゃーん、おっはよーう」

 いつもより一時間遅くサワちんはやってきた。学校がないから当然のことではあるが、この声を聴かないとさっぱり目が覚めないというか、そんな感じがする。

 結局俺たちはいつもの三人で、いつものタカジーの家で勉強会をすることになった。俺とサワちんは二人で木枯らしふく中、葉が落ちて枝だけになった並木道を歩く。手には途中で買ったたい焼きだ。

「四葉ちゃん、今日も制服なんだね」

 たい焼きをほおばりながらサワちんが言う。

「え?ああ、うん。そうなの」

 正直言って、女の私服なんてどれを着ていいかわからなかったのだ。さすがにジャージとかで外出するわけにもいかず、消去法で制服になった。

「でも私服いちいち考えるのも大変だよねー。平日の方が気楽っていうかさ」

 そう言いつつ、サワちんは見事におしゃれをしていた。服の種類なんてよくわからないが、白いニットのセーターに抑え気味な赤色のスカート、そこから黒いタイツに包まれた細い足が見えて、黒い、ムートンブーツというのだろうか、そのようなものを履いている。上にはベージュのコートを羽織って、右肩にカバン、といった具合だ。

 いつも制服のサワちんしか見たことなかった俺は、正直に驚く。服装一つでこんなにも印象が変わるものなのか。人物を対象に撮るときは、衣装にも気を配らなければならないな。カメラ映えするものとか、周囲の景色に合わせて……。

「四葉ちゃん?また考えごと?」

 サワちんに話しかけられ、俺は飛び上がる。

「へ?あれ、また声に出してた?俺、じゃない、私」

「なんだか真剣にぶつぶつ言ってたよー、最近多いよね、四葉ちゃん。あっ、もしかしてー、恋の悩み?好きな人でもできたとか?」

 なんとも唐突な話に、俺はなぜだか全身の毛穴から汗がどっと吹き出すのを感じる。たい焼きを持つ手に力が入り、あんこが少し飛び出る。

「え?好きな人?ないない、ないよ!」

 一瞬、口の悪い年下が頭に浮かんだが、今の自分の姿とかぶっただけだ。関係ない。関係ない。

「ほんとかなー」

「ほんとだよ、本当」

 サワちんは怪しい、と目線で訴えてくる。

「もしかして……タカジーとか?」

「へ?タカジー?なんで?」

 これは意外だった。四葉ちゃんからは常に、タカジーとサワちんの邪魔をするなと注意されてきたからだ。てっきり二人はお付き合い、もしくはそれに近い関係なのだと思っていた。

「だって、タカジー、もしかしたら、四葉ちゃんのこと好きかもだよ」

「ええ⁉ウソ⁉」

 サワちんのいきなりの大胆推理に、俺は唖然とする。そんな話一度も聞いたことねえよ!そんなそぶりも、ない、はず……?いや待て、この体の主はとびきり鈍い、というのが俺の定説だ。ファンクラブの存在だって俺が教えるまで本気で知らなかったらしいし、自分がモテているという実感がおそらく、ない。たぶん、男みたいに性格がサバサバしている部分が少なからずあるからだと思うのだが。

「うーん、でも……」

 頭のなかで、四葉ちゃんとタカジーが手をつないでいるところを想像する。ないな。ない。ダメだ。タカジーがぼこぼこにされる未来しか見えない。タカジーのためにも、よくない。

「タカジーはないな」

 四葉ちゃん的にもそう言うはずだし、とりあえずこの回答で間違いないはずだ。

「そ、そっか」

 サワちんはほっとした様子だった。けっこう気にしてたんだろうか。ちょっと励ましてみるかな。

「タカジーだってきっと、サワちんの可愛さに気づいてるよ、大丈夫!」

 右手でぐっとサムズアップを作って、白い歯を見せてキザに笑いかけてみる。

「ええ?そんなこと、無いよぅ……。私なんか、全然……」

 あれ、真っ赤になって黙り込んでしまった。四葉ちゃんもそうだが、サワちんもたいがい自分のことを過小評価しすぎなのだ。風のうわさで、サワちんのファンクラブもあるとどこかで聞いたことがある。以外と多い高校なのかもしれない。何が、とは言わないが。

「でも、どっちにしても受験が終わるまでは恋愛してる場合じゃないしね、勉強あるのみだよー」

 サワちんは気を取り直したようで、自ら気合いを入れるように言う。

 こういうところ、女の子は強いと思う。俺も去年受験勉に追われていたが、周りでは勉強の忙しさですれ違い、破局するカップルが何組かいた。たいがい男の方はやる気を失ってずるずると引きずるのだが、女の方はわりとすんなり受験までコンディションを維持していた気がする。無論、今まで恋人がいたことのない俺にはよくわからない話ではあるのだが。

 そんな会話をしつつ、たい焼きを食べつつ、俺たちはタカジーの家に着いた。タカジーの家は秋葉原にある無線ショップで、一階が店舗、二階が家になっている。秋葉原と言ってもメインの通りから少し離れた場所にあるため、人通りはまばらだ。

 二階に上がると、タカジーが出迎えてくれる。

「おっす」

 休日で、しかも自宅と言うこともあってタカジーはラフな格好をしていた。とはいえ、外に出てもおかしくないレベルの服だ。

「おっすー」

 と返事をするサワちんに続いて、俺も玄関で靴を脱ぐ。ふと、サワちんがさっき言っていたことを思い出して、試しにタカジーの目をじっと見てみることにした。もしかしたら何かアクションがあるかもしれない。

「な、なんだよ宮水……」

 タカジーは、俺の目線に耐えている。が、三秒ほどで顔を赤くして目をそらした。

 んん?こいつもしかして……いや、まだそうと決まったわけじゃない。女子に見つめられたら、たいていの男は気恥ずかしくなるもんだ。目線に耐えられるのはよっぽどの遊び人か、超のつくやり手のどっちかだ。

「ちょっと、タカジー」

 俺はサワちんに気付かれないように、小声で話しかける。

「な、なんだよ」

 俺が近づいたことにより、タカジーは顔を余計に赤くしている。これはまずい。俺は宮水四葉という衣を脱ぎ捨てて、一人の男友達としてアドバイスをする。

「よく考えてみろ、こんな暴力女のどこがいいんだ?何かあれば言葉より先に手が出る。もっとおしとやかで、女の子らしい、可愛い子が近くにいるだろ。今ならまだ間に合う。今後の人生すべてを左右することになるかもしれないんだ。真剣に考えた方がいい。OK?」

 決まった。完璧だ。

 しかし、タカジーの反応はなんとも薄い。赤かった顔が逆に青く見える。

「お前、大丈夫か?熱でもあるんじゃねえの?」

 失礼な奴だ。人が本気で心配してやっているというのに。

 

 

 

「それにしてもさ」

 タカジーが天井を見上げて言う。

「俺たちはいつまで勉強し続けなきゃいけないんだろうな」

「うーん……受験が終わるまで、かな」

 きらり、と目を光らせてサワちんが答える。

 昼飯をはさんでかれこれ五時間、勉強会は続いていた。タカジー()の居間は六畳しかない畳の部屋で、真ん中にちゃぶ台が置かれている。そのちゃぶ台の上で各々勉強道具を広げ、黙々と問題を解いたり、時には分からないところを教え合ったりするのだ。俺自身は勉強しても意味がないので、基本的には二人が教えてくれる要点をノートにまとめる作業に没頭している。

「ちょっと休憩しねえ?さすがに疲れた」

 タカジーは天井を見上げたまま、背中を床につけて横になる。

「うーん、もう二時間たつし、いったん休憩にしよっか」

 サワちんも賛成して、タカジーの隣に横になる。俺も疲れた右手をさすりながら、二人にならって畳に身を投げ出す。

「お前らはさあ、将来、どうすんの?」

 おもむろにタカジーが話し出す。

「うーん、私はね、夢はやっぱりお嫁さんかな」

 サワちんは嬉しそうに言う。たしかに花嫁は似合ってると思う。主に被写体として。

「そういうことじゃなくて、仕事どうすんのって話」

 タカジーは笑って突っ込む。別にいいじゃないか、花嫁が仕事で。いい被写体になる。

「そだね、お嫁さんは最終的な夢だけど、仕事はね、えーと、お菓子屋さんとかかな」

 お菓子屋さん?あー、でも、ケーキとかも被写体としていいかもしれない。美人パティシエと宝石のような絶品スイーツ!みたいな。

「お菓子?お菓子ねえ、料理得意なんだっけ?」

「ちょっとできるだけだよぉ、あ、今度ケーキ作ってくるから、食べてみてよ」

 サワちん、思ったより積極的だな。俺はちゃぶ台の隙間からサワちんだけに見えるようにサムズアップする。

「おーいいね、勉強で疲れた頭に、糖分は欠かせないよ」

 タカジーもノリノリだ。

「宮水、お前は?」

 急に話を振られて、俺は固まる。普段から日常生活でボロが出ないように、四葉ちゃんとの間では様々な情報のやり取りが行われている。しかし、将来の夢まではさすがに網羅していない。さてどうしたものか。

「おい?どした?寝てんのか?」

 俺が黙っているので、タカジーが顔だけこちらに向けて、また聞いてくる。

「いや、俺、私は……」

 俺の夢は、もちろんカメラマンだ。世界中のいろんな景色をレンズに収めたいと思っている。しかし、四葉ちゃんの夢ってなんだ?柔道家?いや、だったらスポーツ推薦で大学に行けばいい。それくらいの実力はあると聞いている。実家の神社を継ぐとか?それならお姉さんが優先されるだろうし、そもそも今は糸守町がない。かといって、ほかに思い当たるものもない。

「私は、どうしたいんだろう。とりあえずは、大学行ってからかな」

 適当に濁しておいたが、意外と気になる話題だな。今度聞いておこうと、俺は頭の隅にメモしておく。

「ふーん、そっか」

 タカジーのそっけない声からは、何も読み取れない。

「タカジーはどうしたいの?」

 今度はサワちんが質問する。

「俺?俺はまあ、この店継ぐんだと思うよ、遅かれ早かれ。そんなに好きってわけじゃないけどさ、どうしようもないことがあるじゃん?人生って」

「そんなもんかなあ」

 淡々と語るタカジーに、サワちんはちょっとつまらなそうにつぶやく。

 どうしようもないこと、か。俺も実家のミカン畑をいつか継がなきゃいけないのかな。嫌だって言ったら、世界を旅してまわりたいって言ったら、親父はどんな反応するかな。怒るかな、それとも泣くかな?おそらく前者だろう。代々島で作り続けてきたんだ。伝統というほどのものはないが、親父にも誇りはある。

「ああ、もうやる気がでねえ!ちょっとお茶でも持ってくるわ」

 タカジーがそう言って立ち上がろうとした時

「あっそうだ、気分転換にちょっとあれでも見に行こうよ」

 サワちんが飛び跳ねるように提案する。

「あれ?あれって何」

 タカジーはよくわかっていないようだ。もちろん俺も。

「ほら、ライブ会場だよ」

「「ライブ会場?」」

 目をキラキラさせるサワちんはそれはもう魅力的で、俺たち(、、、)野郎二人は断ることなどできなかった。

 

 

 

 俺たちの目の前には、高くて白い壁がそそり立っている。ただ、壁との間には工事用のフェンスが立っていて、近寄ることはできない。工事自体は休みのようだ。

「うわあ、大きいねえ」

 サワちんは驚嘆の声をあげる。こっそりにやけるな、タカジー。

「これがライブ会場?」

 俺は白い壁を指す。壁と言っても、左右に広がっていくにつれてそのフォルムは丸みを帯びていく。ぐるりと円形になっている構造物は東西南北四か所に大きく開かれた出入り口が設けられている。

「そうそう、もうほとんど完成してるみたいだよ、中入れないかなー。見てみたいなー」

 一生懸命に背伸びして中を覗こうとするサワちん。ちゃっかり横目で見てんじゃん、タカジー。まあ見ちゃうよね、そのスカートの丈だと。

 俺の視線に気づいたのか、タカジーは取り繕うように聞いてもない解説を始める。

「も、もともとライブ会場用として建設さてたのを、途中から仕様変更してこんなデザインになったみたいだぞ。収容人数はたしか三万八千人とか」

「ふーん」

 俺は特に興味がないので受け流す。そんなことよりサワちんに気があるならアタックしろよ、と目線を送る。当のタカジーは何を勘違いしたのか、さらに慌てて話題を変えようとする。

「あ、そうだ。宮水の名前を使えば中に入れてもらえるんじゃねえの?」

「え?私?」

 いきなり振られてびっくりだ。四葉ちゃんのお父さんは偉い人だとなんとなく聞いていたが、一度しか会ったことがなく、実のところよくわかっていない。会ったと言っても、婆ちゃんに組紐を教わるとき遠目に見ただけで、ほかの日は仕事が忙しいとか何とかで家をいつも留守にしている。

 どうしたものかと悩んでいたら

「あー、そうかもしれないねえ、もしかしたらいけるかも」

 サワちんがワクワクを抑えきれない眼差しを向けてくる。

 むむ、よくわからないが男としてこの期待に応えないわけにはいかない。俺は斜め前の入り口にポツンと立っている、警備員らしき白髪のおじさんにアタックをしかけることにした。

 親父さんの名前をド忘れしたので、宮水の娘だ、と名乗って学生証を見せてみた。おじさんは最初こそ首をかしげて嫌そうな顔をしていたが、誰かに電話をかけて話をするや否や血相を変えて走り出し、どこからかヘルメットを持ってきた。

「本日は工事が休みですので、特別に許可が下りました。正式公開の前ですから、写真撮影はお控えください。あと、安全のためにこのヘルメットをご着用ください」

 ヘルメットを受け取りながら、俺は妙に感心してしまう。本当に、というか想像よりもはるかに偉い人らしい。親父さんの正体がますます気になる。

「あっ。あの二人の分もお願いします」

 後ろで口をぽかんと開けている友人を見て思い出し、俺は追加のヘルメットを頼んだ。

 

 

 

 カツン、カツン、と人気のない階段に足音が響く。工事がほとんど終了したとはいえ、内装なんかはまだ一部手つかずのようだ。壁のいたるところにビニールがかぶせられて、これまた無地の階段とあいまってゴーストタウンのような不気味さを感じる。

 と、前方斜め上に外の光が見えてくる。光は一歩登るごとに大きくなり、最後の一段に足をかけるころには視界いっぱいに広がる。

「すげえ」

 俺は感嘆の声をあげる。

 目の前には、右側に向かって何百、何千の座席が整然と並び、それらが正面、はるか向こう側まで延々と弧を描き、左側から戻ってくる。

 その座席は段々畑のように上下に放射状に配置されていき、最上端からは客席部分を覆うように屋根がせり出している。屋根が透明な素材でできているため、日の光をこれでもかとよく通し、それが座席の白に反射して思わず目を細める。一方、最下端は野球場みたいに地面から数メートルの高さでいったん区切られて、その内側にも中心に向かって背が低くなっていくように座席が設置されている。

 会場中心には大きな円形のステージと、そこから四方に十字の通路が延びている。

「うわー、すっごーい」

 サワちんの半分叫んだような声が反響して響く。反響のもとは円形の構造と、正面に見える大きな電光掲示板だ。そこに表示されているのは、ライブ開催までのカウントダウンと、とてつもなく大きな

「彗星……」

 青いほうき星は長い長い尾をまとって、その一部から赤い星が欠けて出ている。映像ではなく絵で描かれているが、星や尾から立ち上る淡い光が揺らめいているように見える。

「でけえな、ライブ専用スタジアム型会場なんて、豪華なもの造るよな、東京は」

 タカジーの言葉で、俺は改めてその大きさに驚く。収容人数は約四万人と聞いていたから、東京ドームよりは小さいんだろう、と高を括っていたが、こうして実際に入ってみると想像以上に広い。そしてなにより、自分たち以外誰もいないということが一層寂しさを助長させる。人間なんて、なんてちっぽけな存在なんだろうか。

「これだけ広かったらライブも盛り上がるだろうねえ。そういえば四葉ちゃん、お姉さんから許可はもらえたの?」

「許可?」

 サワちんが何の話をしているのかわからない。いったい何の許可だろう。

「ほら、復興応援ライブだよ。四葉ちゃん前から行きたいって――」

 なぜか聞き覚えのある言葉が、頭に引っかかる。どこかで聞いたような、なんだ?何かの結論が見えかかっているのに、でかい雲がかかっていて判然としない。

 ずっと黙っている俺を不思議そうに見つめるサワちんだったが、何かに気が付いてまた顔を会場に向ける。

「あっ、もうカタワレ時だねえ」

「カタワレ時……?」

 サワちんにつられて頭をあげた俺は、思わず息をのむ。

 夕焼けとはまた違う、ピンクの間接光に包まれ、幻想的に光るスタジアム。それに電光掲示板の光が加わって、この世のものとは思えない空気感を生み出している。座席でたむろしていた雀たちがさえずりながら飛び立ち、それを追うように遠くでカラスが鳴く。

 綺麗だった。今すぐ撮りたい、いや、写真なんて型に収めるんじゃなくて、この一瞬を永遠に閉じ込めて眺めていたかった。人の造ったものでこれほど強く胸を打たれたのは初めてだった。

 そう思って、目の前の景色に意識の手を伸ばした時だった。

 スマフォが、けたたましく鳴り始めた。

 電話の相手は、お姉さんだった。

「――え?」

 

 

 

 俺は、全速力で走る。冬服がじゃまで、熱くなって汗が止まらなくなる。それでも俺は走り続ける。

 そして俺は、正面玄関に着いた。待っていたのはお義兄さんだった。

 お義兄さんは、俺の姿に気づいて近づいてくる。

「四葉ちゃん―—」

「どうしようお義兄さん、俺――」

 俺の一言に、お義兄さんはハッとして表情を曇らせる。

「――行こう」

 俺は言われるがまま、後をついて行った。

 

 

 

 不気味なくらい足音が大きく聞こえる。周りではいろんな機械がけたたましいアラームを響かせているはずなのに、俺の耳にはなぜか届かない。体に薄い膜が這ったように、自分の出す音だけが反響して何度も響く。俺は、自分の息が荒くなっていることに気付く。走ったせいじゃない。頭がパニックに陥っている、混乱している。それなのに、自分の行動を少し離れた位置から観察しているような感覚もある。

 お義兄さんが立ち止まる。ちょっと待ってて、とドアを半分だけ開け、誰かを呼んでいる。出てきたのは、お姉さんだ。

「三葉、こんな時だけど、弾くんなんだ」

 お義兄さんは、決定的な事実を告げる。隠してもどうしようもないことだと知っているのだ。しかし、当の本人である俺はどうしていいかわからない。

 お姉さんは絶望的な顔をして、俺の方を見る。その眼には、涙。

「弾くんお願い。あなたのせいじゃないのはわかってるの、でも、なんとか……」

 途中まで言って、お姉さんは泣き崩れる。お義兄さんはそんなお姉さんを支えながら、俺の方を向いて無言でうなずく。俺は何の覚悟もできていなかったが、時間がない。うなずいて返すしかなかった。

 お義兄さんは、お姉さんを支えながら部屋に入る。それに続いて、俺も中へ足を踏み入れる。真っ白な部屋には、四葉ちゃんのお父さんも来ている。

「お祖母ちゃん」

 俺は、話しかける。

 周りの世界から、音が消える。

「お祖母ちゃん、来たよ」

 もう一度、話しかける。

「四葉」

 無音の世界に、婆ちゃんの声が頼りなく響く。一気に周りの音がよみがえり、情景が目に入ってくる。

 目の前にいる婆ちゃんは、包帯でぐるぐる巻きにされて、体にはいろんな線がつながれていた。脈拍をつたえる心電図の音が、ピッピッ、とリズムを刻んでいる。だが、そのリズムはあきらかにスピード不足だ。

「お祖母ちゃん」

 俺は、それしか言えない。

「四葉、学校はどうや」

 なんでそんなに優しいこと聞いてくるんだよ。そんな状況じゃないだろ。俺は思わず泣きそうになる。どう答えていいかわからず、なんとか口を開いてみたものの、出てきたのは言葉にならない声だった。

「四葉はようやってくれとるよ、勉強も頑張っとるし、最近は家事も手伝ってくれとるんやよ」

 困っている俺に、お姉さんが助け舟を出してくれる。

「そ、そうなんよ、今日も、サワちんとタカジーと勉強してきたとこ!」

 俺はお姉さんの話に合わせて、無理やり笑顔を作る。俺は脳をフル回転させて、四葉ちゃんとして生活してきたこの一か月を振り返る。そうだ、組紐に、舞だ。

「組紐も、舞も、一生懸命練習してるよ。だいぶ、上達したの」

 そう言って婆ちゃんに近づいて、その弱々しい手を両手で握った。婆ちゃんは本当にちょっとだけ握り返してきたが、その力も長くは続かなかった。その代わりか、俺の目を見てじわりと目を細める。

「おや、あんた、四葉やないんか?」

「なっ……」

 その一言に、俺は愕然とする。絶対にバレないと思っていたのに、後ろでは、お姉さんが同じように息をのんでいるのがわかる。

「お義母さん、いったい何を」

 お父さんだけはわけがわからない、と言った感じだ。しかし婆ちゃんの目にゆらぎはなく、確信をもって言っているのだと分かる。

 俺はお姉さんとお義兄さんを順番に見て助けを仰ぐが、二人とも首を横に振るだけだった。

「お祖母ちゃん、あの、ごめん」

 俺は、正直に言うしかなかった。

「こんな時に俺なんかで、ごめん。四葉ちゃんは――」

「ええんやさ」

 婆ちゃんは、俺の話を遮る。

「ワシも昔、同じように夢を見とった。不思議な夢やった。突然終わってまったが」

 そういって、仰向けの体をわずかに、こちらに向ける。

「この年になって、三葉の話を聞いて、分かったんやさ。ワシら宮水の人間が見る夢には、なにかの意味がある。なにかの理由があって、あんたと四葉はムスビついとる。だから、今のあんたを、見ているものを、あんたは大事にしないよ」

 婆ちゃんの言葉は、痛いほど俺の胸に食い込んでいる。いや、痛んでるこの胸は四葉ちゃんのものだ。

 心とはなんだ?魂とはなんだ?体とは別物なのか?今俺は、四葉ちゃんの体の中にいる。心はそうだ。では魂は?俺の体にあるんじゃないのか?向こうの俺が死んだら、俺の心はどこに帰る?そして、四葉ちゃんの心と魂は今どこにある?脳か?心臓か?向こうの俺の体か?だとしたら、俺の目から出てくる涙は、いったいどっちの(、、、、)涙なんだ?

「お祖母ちゃん、俺」

「わかっとる。四葉は、ええ子や。ええ子で、かしこい。三葉」

 俺は婆ちゃんの手を放して、お姉さんに場所を開ける。

「幸せになるんやよ」

 婆ちゃんはそう言って、顔を近づけたお姉さんの頬をなでる。

「うん、うん」

 お姉さんは泣きながら婆ちゃんの手を両手で包みこむ。その薬指には、指輪が光って見える。婆ちゃんはお姉さんを愛おしそうに見た後、お義兄さんとお父さんに

「この子らを、頼むでな」

 と話しかける。お義兄さんもお父さんも、お姉さんが泣くのを邪魔しないように、無言でうなずく。最後に、婆ちゃんは俺を見る。

「一つだけ、伝えといてくれるか」

 俺はうなずいて、婆ちゃんの言葉を聞き漏らすまいと全神経を集中させる。婆ちゃんが、最後の力を振り絞って、言う。

「これが、お別れではないんやさ」

 すうっと波が引くように、婆ちゃんの顔から光が消えていく。満足そうな顔をしたまま、お姉さんの頬に手を添えたまま、婆ちゃんはまるで時間ごと止まったかのように動かない。

「お祖母ちゃん、いやや、お祖母ちゃん、お祖母ちゃん――」

 お姉さんの泣きじゃくる声と、リズムを刻むことをやめた心電図の音だけが、この寂しい部屋を満たしていた。

 

 

 

 病院の待合室。ここはでかい総合病院のようで、それこそ百人くらい簡単に入れそうな待合室だが、夜も更けたこの時間、ここにいるのは俺とお義兄さんだけだった。営業時間もすぎ、薄暗い明りの中、時折通る看護師の足音だけが鈍く、重く響く。

「婆ちゃんは、俺と三葉が家に帰らないことを知って、四葉ちゃんに会いに行こうとしてたらしい。お義父さんのおつきの人が車を出して、アパートまで来たのが、だいたい昼の十二時くらい」

 俺がちょうど、タカジーの家で昼飯を食ってたころだ。

「でも不在だったから、もう一度車に乗って帰ることになったみたいで、その途中、事故にあった」

 お義兄さんは、淡々と語る。

「相手の車は相当スピードを出していて、警察の話だと、ブレーキをかけた後も見つからなかったそうなんだ。理由はわからないけどとにかくすごい衝撃で、婆ちゃんは全身を強く打ってほとんどの骨を骨折、内臓も損傷、年齢が年齢だけに、手の施しようがないって診断されてさ」

 そこまで話して、お義兄さんは太ももに肘をついて、両手で頭を抱え込む。

「一番悪いのは、相手が現場から逃げてることなんだ。これだけの大事故だから無傷じゃすまないはずなのに、どこかへ逃げてる。俺はもう、三葉を見てられなくてね」

 お義兄さんは、顔をゆっくりとあげて、俺に告げる。俺も頭ではわかっていたが、その役目は非常に心が重たくなるものだ。

「君から、四葉ちゃんに伝えてくれないか。今の四葉ちゃんをよく知っているのは、俺よりも君だと思うんだ」

 

 

 

 世界が急に変わることがある。私にとって、それは八年前だった。人類史上例のない大災害が、私の故郷を襲った。土地はなくなり、家もなくなり、友達とは離れ離れになり、私は、孤独になった。

 今は新しい土地にも慣れ、友達もでき、来春からの新しい生活に、胸を躍らせることすらあった。

 

 昨日までは。

 

 世界が急に変わることがある。私の目の前には、丁寧な字で、びっしりと書かれた手紙が一枚、二枚、三枚ある。筆跡から、あいつが書いたものだと分かる。普段であればスマフォにメモを残すのが私たちの決まりだったが、手で書くことで、あいつなりに気持ちを表したかったのかもしれない。

 

 

 俺は、重たい頭をあげる。ここは、俺の部屋だ。できることなら、もう一日、いや、一週間でも、変わってやりたかった。彼女の痛みを、悲しみを思うと、胸が苦しく、居ても立ってもいられない気分になる。

 だが、どうすることもできない。連絡する手段も、会いに行くことも、励ましてあげることもできない。声をかけることすら、できない。

 俺は、自分の無力さが恨めしかった。悔しかった。何もできない自分に、怒りさえ沸いた。

「四葉ちゃん――」

 俺は、壁を殴って、机を蹴って、大切だったカメラを投げつけて、自分を罵ることしかできなかった。

 ――ちくしょう!

 

 

「四葉ちゃん」

 俺は、ドアの前に立っている。重たくて、開くかどうかわからないドアに。

 俺はもう一度ノックする。返事はない。

 だが、いつかは行かなければいけない。

 俺は、最後のノックをする。

「四葉ちゃん、ごめんね、開けるよ」

 ドアを開け、足を踏み入れる。本来であれば絶対に入ることのない部屋だ。

 ベッドの上に、壁の方を向いて座り、肩を震わせている少女がいる。できることなら、このままにしてあげたい。

 だが、行かなければならない。

「四葉ちゃん、今日通夜祭なんだ。三葉は先に行って準備してる。俺たちも出なきゃいけないから、学生服に着替えて。玄関で待ってるから」

 必要なことは伝えた。俺は、部屋を後にする。

「瀧兄ちゃん」

 ふいに、少女が声をあげる。俺は部屋の入り口で立ち止まり、彼女の方を向く。

「瀧兄ちゃん」

「うん」

 俺は、短い返事だけをする。それを俺の口から言うのは、違う気がしたから。

「お祖母ちゃん、死んだん……?」

 顔だけで振り向いた彼女の顔は、涙でくしゃくしゃだった。

「うん」

 俺は、やはり短く答える。俺は、この子を癒す言葉を持ち合わせていない。

 少女は嗚咽に邪魔されながら、一言一言、大きく息を吸ったり吐いたりして、何とか言葉にしていく

「私が 入れ替わっとる間に なんで……」

 最後は言葉にならず、俺の胸にしがみついてむせび泣く。

 少女の声にならない泣き声を聞きながら、俺は、優しく頭をなでてやることしかできなかった。

 

 

 

 俺の家系は、熱心ではないにしろ、多くの日本人家庭と同じく仏教徒だった。そのため、神道の葬儀にはうとい。三葉は忙しい中、そんな俺に式の手順や作法を教えてくれた。俺はそれらを覚えるのに必死で、たくさんあった様々な式があっという間に過ぎていったように感じる。

 なんとなく記憶にあるのは、式が盛大に執り行われたということだ。お義父さんが政界の重役であり、かつ、婆ちゃんが糸守の要である宮水の宮司であったことが重なったためだろう。式には政界の大物、テッシーやサヤちん、はてはあのラーメン屋のオヤジまで来ていた。俺は、宮水家が糸守でどれほど大きな存在であったかを初めて認識した。

 三葉は宮水の次期宮司として、多くの弔問客への対応、式の準備から進行と、悲しむ暇もなく動き回っていた。俺は婚約したとはいえ、正式な親族でもなく、神道のしきたりもよくわからず、遠くから三葉を見守ってやることしかできなかった。

 

 

 

 私は神道の決まりやしきたりについて、お祖母ちゃんから多くを学んでいた。たいていのことは分かるしできる。もちろん葬儀に関することも。

 しかし、私はまだ子どもだった。だから、式の準備も進行も、ほとんどお父さんとお姉ちゃんがやった。その間は、瀧兄ちゃんがずっと私についていてくれた。子どもだったから、私が泣いても叫んでも、誰も何も言わなかった。手伝って、とか、行儀よくしなさい、等と注意されることもなかった。

 私は泣いた。ずっと泣いていた。家でも式場でも、式に来てくれた友達の前でも、瀧兄ちゃんの前でも、お父さんの前でもお姉ちゃんの前でも、朝起きてから夜眠るまで、ずっと泣いた。涙が止まらなかった。

 お母さんが死んだときは、『死』というものがわかっていなかった。わかるようになったころには、悲しむ時期は過ぎ去っていた。

 今回はわけが違った。『死』を理解していた。そしてなにより、お祖母ちゃんは、私の中であまりにも大きい存在だった。お母さんのことをほとんど覚えていない私にとって、小さいころから現在までの記憶ほとんどがお祖母ちゃんだった。私という人間を育て上げ、私という人間を形成してくれたのも、まぎれもなくお祖母ちゃんだった。わからない時、悩んだ時、悲しい時、怒った時、苦しい時、悔しい時、相談に乗ってくれたのもお祖母ちゃんだった。そのお祖母ちゃんが、いなくなった。

 夢を見て、目を覚ましたらいつのまにかいなくなっていた。

 

 

 

 世界が急に変わる時がある。私にとって、それは一週間前だ。今まで生きてきて、一番大切な人を亡くした。話もできず、教えを乞うこともできず、声を聴くこともできず、私は、独りになった。

 涙は枯れ、少しずつ日常を取り戻しつつあったが、真っ暗な穴の底に、一人取り残されたという感覚が抜けない。学校にも通いはじめ、入れ替わりも継続しているが、自分のやっていること、話していること、周りのこと、周りが話しかけてくること、すべてがぼんやりと流れて行くだけで、すぐに遠い昔の記憶のようにかすんでいく。

 今日は、新しい組紐を教わる日だった。わけのわからない私はお父さんの家にふらりと立ち寄り、お祖母ちゃんにもお父さんにも会えず、迎えに来た瀧兄ちゃんに引きずられるようにアパートに連れ戻された。らしい。家に帰ってからは、『疲れてるのよ、横になりなさい』 みたいなことをとお姉ちゃんに言われ、ずっとベッドに寝転がっている。

 太陽が落ち、月や星が瞬きはじめた。もう何時間天井を見上げているのかわからない、そう思うと急に喉が渇いてきて、私は機械的に起き上がり、部屋を出た。

 廊下を歩いて、ほんのり明るいリビングに向かう。中に入ろうとドアノブに手をかけたが、はっとして反射的に放した。中からすすり泣く声が聞こえる。

 おそるおそるドアノブをまわし、わずかな隙間から中をのぞくと、ぼんやり明るいスタンドライトのもと、くっついている二人が見えた。

 ベッドにもたれるように座る瀧兄ちゃんの肩で、お姉ちゃんが泣いている。

 お姉ちゃんが泣いているのを見るのは初めてだった。もちろん、式の最中に涙を流しているのは見えたが、こんな風に声を出して泣いているのは見たことがない。

 私はなんとなくわかっていた。お姉ちゃんが泣かなかったのは、強いからじゃない。次期宮司としてやるべきことがたくさんあったから、そしてなにより、(わたし)がいたからだ。私の前では、一度も泣かなかった。

「瀧くん」

 切ない声で、お姉ちゃんは瀧兄ちゃんの肩に頬をすり寄せる。

「大丈夫だよ、三葉、お疲れさま」

 瀧兄ちゃんはお姉ちゃんを抱きとめて、両の手で頭と背中を優しくなでている。ここ最近の緊張が解けたのか、お姉ちゃんはより一層激しく泣く。

「大丈夫、俺がずっとついてるから、大丈夫」

 そんなお姉ちゃんをなで続けながら、瀧兄ちゃんは慰めの声をかける。

 ああ、と私は思う。いいな、と心が締め付けられる。その場に立っていられなくて、のどが渇いたのもどうでもよくなって、自分の部屋に戻った。

 お姉ちゃんには悲しみを共有してくれる相手がいる。慰めて、励ましてくれる相手がいる。

 私は?私には、誰もいない。私は独りぼっちだ。

 

 ……私は、気付いた。気付いて泣いた。

 どうしようもないことに。

 どんなに願っても叶わないことに、気が付いて、泣いた。

「――弾」

 

 

 

 

 

第九章 東京

 

 

 

 俺は、重たい頭をあげる。ここは、俺の部屋だ。おかしいな、昨日は四葉ちゃんになっていたはずなのに、濁流のように押し寄せる感情のせいで、一日があっという間に終わってしまった。初めて入れ替わった時のように、記憶が不鮮明になって思い出せない。婆ちゃんが亡くなってから、ずっとこの調子だ。

 そして俺は、四葉ちゃんにどんなメッセージを残してあげればいいのかまだ分かっていない。

 だが、そんな悩みは一瞬で俺の頭から吹き飛んだ。

 腕に、文字が書いてある。

 感情のままに書きなぐったように。

 スマフォじゃなくて体に書いたのは、絶対に見逃すなということか。それとも、なんとか気付いてほしいという、彼女の願いか。

 俺は、その言葉を確認するように口にする。

 

  会いたい

 

 

 

 時速約三百キロで走る新幹線から、俺は外の景色を眺める。空は灰色の雲に覆われ、出発前から降り出した雨が窓ガラスをたたいている。その向こうには、一面に広がる田んぼと点々とある民家が次々と流れて行き、遠くにある背の高い建物だけがいつまでも視界に残る。

 寒がりやの俺は、ジーンズに青いニットのセーターと厚着をしている。上に羽織るネイビーのコートはさすがに膝の上だ。

 手にはカメラ。このカメラは、旅行でよく使っているミラーレス一眼だ。いつも家に置いてあるカメラよりも小さめで、持ち運びしやすい。このカメラをもらったのはちょうど一年ほど前で、いい写真が撮れるようにと青い紐をストラップにしている。もちろん、幸せの青い鳥にあやかってのことだ。

 俺は残されたメモを確認するため、スマホの画面を表示する。

 

  いつもの駅前

  十五時三〇分

  ムリならいい

 

 この三つだ。腕に残された文字と合わせても四つ。

 この少なさが、逆に四葉ちゃんの願いの切実さを表していた。俺は大急ぎで荷物をまとめ、レンズのために貯めていた貯金を全額解禁し、新幹線に飛び乗った。

 親父にはサークルの合宿だと嘘をつき、法生には口裏合わせと、東京滞在中の宿泊地の提供を頼んだ。法生の兄夫婦が千葉に住んでいるらしく、冬休みを利用して友達と旅行、という名目でそこに泊めてもらえることになった。

「で?その入れ替わってた女の子に会いに行くんじゃろ?」

「お、おう」

 俺は突然のムリなお願いを聞いてもらう代わりに、法生に東京へ行く理由を説明する羽目になった。最初は東京の風景を撮りに行きたい、とごまかすつもりだったが法生は無駄に鋭く、俺が必死なのには理由があると言って追及してきた。

 結局、どうせ信じてもらえないだろう、と半ばやけくそで真実をありのままに伝えたのだが、

「ふーん、いいんじゃない。俺は信じるぞ」

「へ⁉」

 法生の返事に、俺は面食らった。こんな突拍子もない話を信じてくれる日本人がいたとは。こいつは超天然記念物くらいの価値がある。いや、人間国宝にしてもいいかもしれない。

「信じて欲しいんじゃろ?」

 法生は眉間にしわを寄せる。

「そ、そりゃもちろん、それに越したことはない。です」

「問題なのはさ」

 スナック菓子を開けながら法生は言う。

「果たしてその子に会えるか、じゃねえの?」

 その言葉は、的を得ていた。

 実際に会えるかどうか、これが大きな問題だ。

 メッセージの内容は分かる。

 いつもの駅前。これは毎朝見てきた、タカジーと待ち合わせしている高校に一番近い駅だ。四葉ちゃんとの入れ替わり生活でこの駅が一番利用頻度が高く、使わなかったことがないくらいだ。

 一五時三〇分。これは読んで字のごとく。この時間にいつもの駅前で待っている、ということだろう。俺の住んでいる場所は幸い新幹線の止まる駅が近く、朝一に乗ればこの時間には余裕で間に合う。

 しかし、一つの問題がある。

「時間のズレの問題が、解明できてないんじゃろ」

「ああ……」

 これが唯一にして最大の障害。お義兄さんたちにもさんざん言われてきたし、俺たち自身もいろいろ試してきたが、結局不明なままなのだ。それは、四葉ちゃんだってよくわかっているはずだ。

 希望的観測をすれば、俺たちの知っている前例は一つしかない。つまり、その例がすべてとは限らない。時間がズレている方がレアで、時間に全くズレのないほうが標準かもしれないのだ。

 しかし、もしズレている方が標準だったら……。いや、それでも四葉ちゃんの身に起こったことを考えると、俺は行かずにはいられなかった。理屈じゃなかった。

 ムリならいい?

 いいわけない。だったらこんなメッセージ残すわけない。会って、一分でも一秒でもいい、彼女に何か声をかけてやりたいと思った。曲がりなりにも一か月もの間、お互い入れ替わって頑張ってきた相手だ。なんというか、戦友のような親近感を俺は抱いているのかもしれない。

 

 

 

 四葉が、いなくなった。

「ああ、そうなのね、ううん。ごめんね、ありがとう」

 そこまで言って、通話を切る。

「どうだった?」

 心配そうに聞いてくる瀧くんに、私は首を振りながら答える。

「米沢さんのところにも行ってないみたい」

「四葉ちゃん、どこに行っちゃったんだろう」

 昨日、学校は終業式をむかえて冬休みに入った。その初日だというのに、四葉は朝早くからどこかへ消えてしまった。

 ここ最近の四葉の落ち込み振りを見ていただけに、私は心配でいろんなところに電話をかけ続けている。

「三葉、お義父さんにも電話してみて、俺は外に出て探すから」

 瀧くんは服を着替えて、出る準備をしている。

「うん、でも……、私も」

 私も探しに行きたかった。家で待っているなんて耐えられない。でも、瀧くんに両肩を抑えられてその場に座り込む。

「三葉はここにいて。四葉ちゃんが帰ってきたら、迎える人がいなきゃ。大丈夫、四葉ちゃんは俺にとっても大切な家族だから。絶対見つけ出すよ」

 瀧くんの言葉に、少しだけ落ち着きを取り戻す。

「うん」

「じゃあ行ってくる」

「瀧くん、もし外であの子を見つけたら、これ、お願い」

 私はベッド脇に置いていたプレゼントを瀧くんに託す。一足早めのクリスマスプレゼントにと、瀧くんと二人で考えて買っていたものだ。四葉が外にいる以上、瀧くんの方が早く渡せる確率が高いだろう。

「任せて、お義父さんによろしく」

「うん、お願いね。気を付けて」

 瀧くんは、雪が降る東京へ駆け出して行った。

 一番仲のいい友達二人には電話したが、二人とも四葉の行方を知らなかった。二人も協力して探してくれる、とのことだったが、狭くても行く場所の多い東京だ。瀧くんと合わせても三人、それでは限度がある。

 私はお父さんの連絡先を表示して考える。お父さんにとって、今日はすごく忙しい日なのだ。できれば無用な心配はかけたくないけれど、四葉の状態を考えると四の五の言っていられない。

 私は発信の二文字に触れる。

「そうか、わかった。俺の方でも声をかけられるところにはかけてみる。昨日まで特に変わった様子はなかったんだな?瀧くんは?」

 仕事で忙しいのか、通話口の向こうからはいろんな人の話し声や、時には大声で飛ばされる指示が聞こえてくる。

「お祖母ちゃんが死んでからずっとふさぎ込んでて、ずっと心配はしとったんやけど……。でも、どこかに行くとか、そういう話は一度もしとらんで。瀧くんは四葉を探しにさっき出たの」

「わかった。瀧くんが探してくれるならお前は家にいるんだ。何かあったらすぐに電話しろ。仕事中でも構わん」

 お父さんの言葉は、すごく心強かった。

「うん。お父さん、ありがとう」

 

 

 

 電車を降りた。まだ朝の七時にもなっていない。ホームに降り、電車が出発するのを一人、眺めてみる。こんな感じなんだな。いつもはサワちんと二人、おしゃべりしながら降りて、電車の行方など見向きもせずに改札をくぐっていた。こうして電車が次の駅へ出発していくさまを見ていると、なんだか置いてけぼりにされたような、寂しい感じがする。

 私は黄色いマフラーを首に巻いて、お祖母ちゃんと最後に一緒に作った青い組紐でツインテールをつくって、制服以外ではなかなか履かないスカートを着て、目いっぱいおしゃれをした。はたしてあいつは喜んでくれるだろうか。

 そして、会えるだろうか。

 

 

 

 駅のホームを出て、いつもタカジーが待っている柱に寄りかかった。

 太陽が完全に顔を出し、冷えきった大地を暖める。

 この日でも仕事のある社会人が、とぼとぼと目の前を通る。

 

 

 新幹線を乗り継ぎ、四時間以上かけて俺たちは東京に着いた。電車に乗って目的地へ行こうとしたが、信号のトラブルだかなんだかで、電車が止まっていた。

 せっかく早く出たのに、これではなんの意味もない。

 

 

 夜勤明けの作業員が帰宅の途につく。

 制服から解放された学生たちが、友達と、あるいは恋人と語らいながら街へ繰り出す。

 

 

 これで腕時計を見るのは十何度目かになるが、さっきから針が全く進んでいないように感じる。

 復旧の見通しはまだ立たない。

 

 

 昼食時で、人並みが少し落ち着きを見せる。

 しばらくすると、午後から遊びに出る人で、再び駅は騒がしくなる。

 

 

 待てど暮らせど、電車は動かない。俺はあきらめてホームから出た。

 金がかかったって構わない。タクシー乗り場へ走り、客待ちをしていた一台に飛び乗った。

 

 

 雲は流れていくが、雪は降り続けている。

 時間の流れを見たくない私は、ひたすら目の前の空間を眺める。

 

 

 見覚えのある景色が目に入ってくるが、駅まであと一キロというところで渋滞に捕まってしまった。

「お客さん、これはしばらくかかりますよ」

 運転手のため息と同時に俺は言った。

「法生、俺先に降りる」

「おい!弾?」

 あと少しなんだ、足踏みするくらいなら走っていく。

 

 

 ついに時計を見てしまった。約束の時間まであと一分を切っている。

 あいつの姿は見えない。

 

 

 約束の時間になってしまった。

 駅まではあと五百メートル。

 

 

 約束の時間を過ぎた。

 あいつはまだ来ない。

 

 

 俺は力尽きて走れなくなる。普段の運動不足がたたった。

 それでも、なんとか歩き続ける。

 

 

 五分が過ぎた。やっぱり、ダメか。

 私は、独りぼっちのままだ。

 

 

 六分経過したところで、駅が見えてきた。

 あと少しだ。

 

 

 七分が経った。やっぱり会えっこない。何日も前から我慢していた感情が溢れだしそうになる。

 でも、もし会えたら……。涙をこらえて視線を右に移すと、目の端に存在(、、)を感じる。

 

 

 八分、ついに駅のホームが見えてきた。

 呼吸も整ってきた俺は、一歩歩くごとに周囲を見渡し、四葉ちゃんを探す。

 

 

 ジーンズを履いて、青いセーターの上に濃い色のコートを羽織った男の子がいる。

 首からカメラをぶら下げて、あたりをきょろきょろと見渡している。

 

 

 もうすぐ改札口だ、四葉ちゃんはいったいどこだ。

 俺は、タカジーがいつも待っている柱に近づく。

 

 

 この顔に見覚えがある。いや、見覚えなんてものではない。会いに来てくれた。本当に来てくれた。

 涙をこらえて、震える声で話しかける。

「あ、あの、すいません――」

 

 

 ついに柱の前にたどり着いた。と、同時に後ろから声をかけられる。

「あ、あの、すいません――」

 

 

 

 俺は、四葉ちゃんを探して走り回っていた。昼飯はコンビニで買って、食べながら歩いた。

 三葉から四葉ちゃんがよく行く場所を聞いて、足を運んだ。行く先々でスマフォにある写真を使って店の人に聞いたりしてみたが、いい情報は一つもなかった。

 一五時ころには探すべき場所がほとんどなくなったので、四葉ちゃんが一度でも訪れたことがある場所を隅から隅まで回ることにした。

 友達二人の状況も三葉経由で聞いてみたが、結果は同じようなものだった。

 俺は痛む足を休めるため、駅のホームに座って一息入れることにした。座ったまま、三葉にこれまでの状況をLINEで報告する。そして、三葉に俺と友達二人が回った場所をリストアップしてもらい、漏れがないかを探す。

 LINEに送られてくるたくさんの建物、住所を眺めていて、俺はあることに気が付いた。冬休みというのが盲点だったのか、誰も学校に行っていない。急いで電車の時間を調べ、立ち上がる。

 普通、高校という場所へ入るにはその学校の学生か保護者である必要がある。俺はそのどちらでもない。そこで、俺と同じく調べる場所に行き詰まった友達二人にも高校へ来てもらって、一緒に入ることにした。

「すいません、お待たせしましたー」

 校門で待っていると、可愛らしい女の子がやってきた。名前はたしか米沢さんだったか。

「おー来た来た、手分けして中探すぞ」

 少し前に来ていた高藤くんが答える。俺は二人と一緒に校門にいる職員に事情を説明して、中に入れてもらった。

 三人で分担して、学校の中を探し回る。俺は上から順に探そうと階段を駆け上がり、屋上の扉を開ける。雪が止み、太陽の赤い光が雲の切れ間からさしている。

 ――いた。

 落下防止用のフェンスのそばで、外の景色を眺めている。その後ろ姿は、いつもの四葉ちゃんと違ってどこか寂しげだった。髪型も違う。いつものツインテールではなく、ひとまとめにして横に流している。サイドテールと言うやつだろうか。だが今はそんなこと関係ない。俺は三葉に「屋上にいる」と手短にLINEを送り、四葉ちゃんに話しかける。

 

 

「四葉ちゃん」

 後ろから瀧兄ちゃんの声がする。不思議に思って、私は振り向く。

「瀧兄ちゃん……?」

 一瞬、今にも泣きだしそうな瀧兄ちゃんの顔が目に入る。しかし、私の顔を見るなりその表情が安堵に代わる。

「よかった」

 瀧兄ちゃんは両ひざに手をついて、大きく息をはく。

「どうして?」

 どうして、瀧にいちゃんがここに?

「いや、急にいなくなるから心配して」

 瀧兄ちゃんは息を整えながら話す。

「みんなで探したよ、三葉に司令官になってもらってさ。いつもの二人も、すぐそばまで来てる」

「え?」

 サワちんとタカジーが?そして、

「司令官ってなに?」

「ああ、いや、深い意味はないんだ。かっこよく聞こえると思って」

 瀧兄ちゃんは恥ずかしそうに答える。照れるなら言わなきゃいいのに。

「それと、これを渡したかったんだ」

 そう言って、瀧兄ちゃんは上着の内ポケットから封筒を取り出す。

「俺と三葉から、ちょっと早いけどメリークリスマス」

 受け取った封筒はきれいな包装紙でできている。が、一部がふやけている。

「瀧兄ちゃん、汗が染みこんどる」

「ええ⁉マジで?ご、ごめん」

 それだけ必死に走り回ってくれたということで、本来感動するべきところなのだが、慌てる瀧兄ちゃんがおかしくて私はつい吹き出してしまう。

「なあなあ、開けてもいい?」

 クスクス笑いながら、瀧兄ちゃんに聞いてみる。

「あ、ああ」

 包装紙をびりびりと破いていくと、中からチケットが三枚出てくる。そのチケットには

 

  糸守町復興応援ライブ

 

 と、でかでかとポップな字で書いてある。彗星があしらわれた派手なデザインが、夕日を反射してチラチラ光る。

「ああ、ライブや……」

 私は、信じられない思いで瀧兄ちゃんの顔を見る。これは瀧兄ちゃんから?いや、さっきお姉ちゃんと一緒にって言ってた。あんなに反対してたのに?なんで?

「三葉がさ、四葉ちゃんいつも勉強頑張ってるから、一日くらいご褒美だって。友達二人も一緒に行きたいって言ってたから、お義父さんに頼んでいい席のチケット三枚押さえてもらったんだ。けっこう高かったよ」

「お姉ちゃんが?お父さんも?」

 瀧兄ちゃんはうん、とうなずく。その後ろから、サワちんとタカジーが汗だくになって走ってくる。

「四葉ちゃーん」

「いなくなるなら行先言えよな」

 サワちんは泣きながら、タカジーはいつもみたいに冗談を言いながら駆け寄ってくる。

「よかった、よかったよぉ」

 涙をキラキラさせながらサワちんが抱き着いてくる。触れ合うほっぺたはすごく冷たいのに、体はすごい熱を持っている。

「ごめんね、心配かけて。瀧兄ちゃんもありがとう」

 私はサワちんとタカジー、瀧兄ちゃんを順番に見ながら謝る。そして、心の中でお姉ちゃんとお父さんにも謝る。三人は何も言わず、でも笑ってくれている。

 私は独りじゃなかった。瀧兄ちゃんは私を一生懸命探してくれた。お父さんはライブのチケットを用意してくれた。サワちんとタカジーは、こんなに自分勝手な私のところまで駆けつけてくれた。あんなに厳しかったお姉ちゃんが、私にクリスマスプレゼントをくれた。みんなが心配してくれて、落ち込んだ私を励まそうとしてくれている。

「じゃあ四葉ちゃん、俺は戻るから。ライブ、楽しんでおいで」

 瀧兄ちゃんはそう言って、手を振りながら帰って行った。私はもう一度ありがとう、と言い、手を振る。あとでお姉ちゃんにもお礼を言わなきゃ。

 瀧兄ちゃんの姿が見えなくなったころで、サワちんが私の髪型に気が付いて、手のひらで髪をポンポンとはずませる。

「あれ?四葉ちゃん、いつもと雰囲気違うねぇ」

「ライブやもん、張り切っておしゃれしんと!」

「四葉ちゃん、なまってる」

 サワちんの突っ込みで私たちは笑う。そうだ、せっかくだもん。楽しまなくちゃ。私は、胸の奥でチクリと感じていた痛みに蓋をした。

 

 

 

 俺は自分の机に頭を突っ伏していた。薄暗い中、スタンドライトの明かりだけが部屋の一部分を照らしている。大学のサークルにも顔を出さず、法生や高橋とも遊ばず、家の仕事も手伝わず。大晦日の夜更かしも、正月の初詣もしなかった。何もできなかった。何も手につかなかった。自分の半分を東京に置き忘れてきたかのような、どうしようもない脱力感に襲われていた。

 鈍い頭で、俺はあの日のことを思い出す。

 

「あ、あの、すいません。落としましたよ?」

 振り返った先にいたのは、なじみのある年下の女の子ではなかった。名前も顔も知らない人だ。

 その人は、手に青い紐を持っている。俺がカメラにつけていたストラップだ。いつの間にかほどけて落ちてしまったらしい。

「あっ。僕のです。ありがとうございます」

 そういって受け取ったとき、何かが頭の中で引っかかる。一瞬だけ似たような状況が目の前に映し出され、すぐに消える。

「きれいですね。これ、組紐ですか?」

 女性は、俺が手に握った組紐を眺めながら言う。

「ああ、もらいものなんですけど、なんとなくストラップに……。え?今なんて?」

 女性の一言と、ほかでもない自分の言葉が、俺の頭にまた引っかかる。

「組紐ですよ。ほら、この模様が……」

 最初の言葉以外、俺の耳に女性の言葉は入ってこなかった。組紐、もらった、誰に……?いつ?

 頭の中で、何かがつながりかけている。しかし、答えは見えそうになるたびに形が不安定になり、消えていく。何だ。何か、大事なことを忘れている。

「おい、弾」

 法生の声で、俺は我に返る。目の前にいた女性は、いつの間にかいなくなっていた。

「遠目にしか見えんかったけど、さっきのが会いたかった女の子?」

「いや、違う」

 俺は周りも見ず、忘れている何かを必死に思い出そうとする。何を忘れているのかわからないが、なぜか大切なことのように感じる。

『弾、弾?』

 女の声が聞こえ、今にも涙のこぼれそうな瞳がちらつく。

『覚えて、ない?』

 一瞬泣いているのでは、と思うほど張りつめた、世界の終わりを告げるかのような儚い声が響く。はっとして顔をあげ、目の前の、いつも四葉ちゃんとして見ていた景色を見つめる。そこに、映像が重なる。

 

 今にも泣きそうな顔しながら、髪留めを外す女の子、その髪留めをこちらに向かって伸ばす。俺は、その青を掴み――

 

 そこで、映像が途切れる。俺の目の前には、駅を出入りする人々だけが見える。

 

 結局俺は四葉ちゃんに会えず、帰ってきた。あの日以来入れ替わりは途切れ、すでに一週間以上が経過し、あいかわらず電話もメールも通じない。もしかして、彼女の身に何か起きたのではないか?と不安が頭をよぎることもあった。

 しかし――

 日が経つにつれて彼女の記憶は薄れ、ただ何かを探している、という感覚が強く残る。

 法生から話を聞いた高橋が出した結論が、俺の頭の中で何度も渦巻いている。

「すべてただの夢で、東京の景色を知っていたのは、昔写真を撮りに回ったことがあったから。そうでなければ、幽霊?俺の、妄想?」

 そんな、そんな馬鹿な。スマフォに残っているメモはなんだ?これも俺が無意識に書いたっていうのか?頭の中に様々な疑念が渦巻く。

 突然鳴り始めたスマフォに、俺は飛び上がる。急いでベッドに置いてあるスマフォをとる。希望と期待を持って電話にでる。

 だが、俺は大きなため息をつく。

「なんじゃ、高橋か……」

「なんじゃとはなんじゃ!女に振られたお前を励ましてやろうというのに」

 高橋は年末年始の休暇で、警察学校から出ている。もうすぐ交番に出るらしく、まとまって遊べるチャンスはこれが最後だ。

「ああ?いいよ、余計なお世――」

「まあ聞けや、今日合コンするけえの、人数足りんけえ市内まで来てくれや、法生と待っとるけえ」

「え?合コン?俺そんな気分じゃ」

 高橋は俺の話を聞こうとしない。

「たまには楽しく盛り上がらんといけんじゃろ、失恋のショックから立ち直るのは新たな恋!写真ばっか撮っとる場合か!」

「うるせえな、ええじゃろ別に?俺の趣味じゃ」

「去年も今年も東京まで行って、また賞でも狙いに行ったんか?」

 去年も今年も?賞をとった?

「高橋、お前今なんて言った?」

「はあ?お前ほんまに大丈夫か?去年東京行って撮ってきた写真が、なんかの賞とったじゃろ。詳しくは忘れたけど、テーマが冬かなんかの――」

 高橋の言葉は、まるでなくしていたパズルのピースのように、頭の中で渦巻く疑念にかちりとはまる。

「それだ……。それだ!ありがとう!」

 ちょっとお前待て、という言葉を無視して俺は電話を切る。

 俺は部屋の明かりをつけ、床に散らばる雑誌を全て脇へ追いやった。こいつらは邪魔だ。

 

 

 

 分厚いアルバムを一枚一枚めくる。今までの人生で撮りためた何千、何万の写真、その全てに目を通す。部屋の押し入れから物置の奥に眠っていたものまで、何十冊ものアルバムをかき集め、確認するごとに一冊ずつベッド脇に積み上げる。

 

 短期バイトに申しこむ。目の前を通る車の数をひたすら数える。空気は日に日に冷たくなっていき、空は透明度を増していく。

 

 初めて一眼を手にした時の写真、朝焼けの海、日の光が重なる橋、手近なものを手当たり次第に撮影していたころがよみがえる。

 

 サークル活動に復帰する。土日には法生と高橋と一緒に出掛ける。二人は何も言わず、俺も何も言わない。普段通り悪ふざけをしながら、冬の景色を撮っていく。

 

 布団にくるまっても体が震える。筋肉痛で腕も肩も痛い。それでも、眠たい目をこすってページをめくり続ける。探している物のビジョンが見えてくる。

 

 工事現場で交通整理をする。旗を振る手が寒さで痛くなる。手をこすり合わせて感覚を呼び戻す。帰り際に暗い空を見上げると、市街までつながる予定の道と、作業用の重機が山の上に見える。

 

 そして俺は、ようやく探していたものを見つける。

 東京の写真が並ぶアルバム。これだ、間違いない。興奮して胸が高鳴る。俺の求めているものがもうすぐそこにある。鼓動と共に、ページをめくる速度も早くなる。どこだ、どこだ、どこだ――。

 俺は、手を止める。周りの音も空気も全て止まる。目の前の一枚に目が釘付けになる。

 震える手で、それを取り出す。

 一年前だ。俺は冬がテーマの写真展にこれを出展し、賞をとった。

 写っているのは東京、都会の街並み、雪降る中行き交う人々。中心には、そこだけ光っているかのように存在感を放つ少女。くっきりと見える後姿、その首には黄色のマフラー。

 弾、弾?

 四葉ちゃんの声が響く。

 覚えて、ない?

 頭の芯がうずく。俺は、このシーンを知っている。

 

 一年前だ。

 推薦で大学が決まっていた俺は、ご褒美に東京に連れて行ってもらえることになった。ジーンズに青いニットのセーターを着て、ネイビーのコートは脱いで膝の上にかけている。冬休みの初日、新幹線の中で母さんから早めのクリスマスプレゼントをもらう。

『開けてもいい?』

 包装紙を破いて行くと、中からミラーレス一眼が出てくる。俺は喜びと興奮で胸がいっぱいになる。

 東京に着くなり、新品のカメラを試したくて俺は一人都会に繰り出す。そして、適当に乗った電車を適当に降りて駅を出る。そのまま大きな道に沿って、隣の駅まで写真を撮りながら歩く。周りの景色は鮮やかに見え、耳に入ってくる音は俺のためだけにかけられたアップテンポでテンションの上がるBGMだ。意気揚々と隣駅にたどり着き、いいアングルがないか周りをきょろきょろと見渡していると、後ろから声をかけられる。

『あ、あの、すいません』

 俺は、はい?と振り向く。そこには、黄色いマフラーをして、髪の片方をゴムで、もう片方をきらびやかな青い紐で結んでツインテールにした女の子が、はにかんで立っている。

 知らない子だ。なんで声をかけてきたんだ?わからなくて眉をひそめる。

 それを見て、女の子はまるで何かに追われているかのように、額に汗を浮かべている。

『弾、弾?私……あー、覚えて、ない?』

 そう言って自分のことを指さしているが、あいにくこんな子と知り合った覚えはない。ていうか、いきなりなんなんだこの女。

『あー、えーと、どこかでお会いしましたっけ?』

 俺はなるべく失礼の無いように答えるが、女の子は小さく悲鳴をあげるように息を飲み、泣きそうな表情になる。顔が真っ赤だ。

『……すみません』

 目を伏せて、今にも消え入りそうな声でそういうと、女の子は踵を返し、離れていく。

 その後ろ姿を見て、俺は突如激しい衝動に駆られる。彼女の名前を知っておくべきではないか。理由なんてない。ただ、誰にも説明できない強烈な直感に突き動かされ、あの!と叫ぶように呼び止める。

 女の子は、足をとめて、こちらを振り向く。涙をためて、すがるような目線を向けてくる。

『あ、えっと、お名前は……』

 俺は目を合わせられなくて、もごもごと聞いてしまう。すると、女の子は諦めたように息をはき、髪留めを外す。解放されて、もとある場所に戻る黒くて長い髪。

『よつは』

 そう言いながら、周りを舞う雪と同じように、わずかな日光にきらめく青い紐を差し出す。反射的にその色を強く掴む。

『名前は、四葉!』

 女の子は紐から手を放すと、背を向けて人ごみの中へ消えていく。その姿を忘れまいと、俺は急いでカメラを起動する。慣れない操作にもたつきながらも、必死にシャッターを切った。

 一年前だ。

 

 夢じゃなかった。本当にいた。

 俺は口に出す。目からは、涙が出てくる。

 俺たちは、一年前に、会っていたんだ。

 

 

 

 行先は決まった。彼女は存在する。時間のズレは一年。あとわからないのは、入れ替わらなくなった理由だけだ。

 俺は手早く荷物をまとめ、原付で山を越える。鍵をかけて駐輪場を後にし、新幹線に乗る。二、三週間前に来た駅を通り過ぎ、通学で乗っていた場所で降りる。改札を出て、歩く。

 記憶は毎日徐々に薄れおり、アパートにたどり着くまで何度も道に迷った。肝心のアパートでも部屋の位置がわからず、郵便受けを見て探すことにした。

 左上から順に見て、三十秒後、宮水、という名前を見つける。よかった。俺は安堵する一方、胸が高鳴るのを感じる。一年後も、彼女はここに住んでいるのだ。

 しかし、大学に進学していればどこかで独り暮らしをしているかもしれない。だがどちらにせよ、彼女か彼女の家族に会って、消息を聞かないことにはたどりつけない。

 俺は久しぶりに明るい気持ちで、一段一段階段を登る。もうすぐだ。一年待たせてしまった。今度こそ、お互いの名前を呼び合える。一年前のことを謝って、遅れた分を謝って、もう手遅れだが、彼女に励ましの言葉をかけられる。そして、そして伝えるんだ。俺は、君のことが――

 踊り場を出て、右に曲がる。部屋まで続く通路に出た、その時。

 目の前に、なじみのある顔が現れる。

 ドアに鍵を差し込んで今にも中に入ろうとしている男性は、口の周りに髭こそ生えているが、間違いない。

「お義兄さん!」

 うれしくてつい叫んでしまう。男性はそう呼ばれたことに驚いたのか、目を見開いてこっちを見てくる。そして、幽霊でも見るかのように、ふらふらと近づいてくる。しばらく俺の姿を上から下まで見回した後、震える声で聞いてくる。

「君の、名前は――」

 そうか、この姿で会うのは初めてなのか。俺は、笑顔で答える。

「弾です。古川弾です。一年ぶりです。お久し、いや、初めまして、になりますね」

 やっぱり、とつぶやくと、お義兄さんはなぜか険しい表情になる。

「君を、待っていたんだ」

 

 

 

「一年前、糸守復興をうたったライブで、テロが起きた」

 タクシーの後部座席で、お義兄さんは説明する。俺は震える手でスマフォの画面を操作する。当時のニュース記事だ。

 

  カルト教団の凶行  史上最悪死傷者四百名以上

 

「実行したのは彗星団。九年前の彗星に魅せられた(、、、、、)人たちが作り上げた宗教団体。実態は、妄信的なまでに彗星にとりつかれて、神のためなら手段をえらばない、危険な集団だった」

 人は理解できないものに恐れを抱く。大災害や疫病、死。そして、それらが己に降りかからぬよう神に祈るか、時として現象そのものを神とあがめ、まつりあげる。九年前、空一面を縦断した鮮烈なイメージと町一つを壊滅させた強大な力も、人々に畏怖と尊敬の念を抱かせたのだ。

 これは四葉ちゃんの婆ちゃんから聞いた話だが、他でもない宮水の言い伝えの中に、大昔の彗星を龍退治に例えたのではないか、と思われるものがあるらしい。彗星を神やそれに準ずるものとあがめる人が出てくることは、ある意味千年以上前の歴史が証明していたと言える。

 さらに状況を悪くしたのが、四葉ちゃんのお父さんの異例のキャリアだった。様々な黒いうわさが付きまとい、

「彗星団は、お義父さんを人ならざるものだと言ってね。彗星の落下はお義父さんと、お義父さんに洗脳された糸守の人々を粛正する神の審判だと結論付けたらしい。そして知っての通り、その粛正(、、)は失敗に終わってる。他でもない、お義父さんの手で」

 お義兄さんは持っていたカバンから当時の新聞や雑誌をいくつか取り出す。週刊誌には彗星団の結成から思想、構成員の数、組織図などが事細かに書かれている。

「そんな考えを持つ奴らにとって、糸守を復興させるという動きは神に逆らうことと同じだったらしい。糸守の復活を願う人々と、その活動を主導する当時の糸守町長、これが一挙に集うライブを奴らは見逃さなかった」

 週刊誌のページをめくる。

 

  宮水大臣、凶弾に倒れる

 

 の見出しと共に、ライブ会場のステージでお父さんが胸を押さえてうずくまっている写真が掲載されている。

「ライブの挨拶でお義父さんがステージに上がったとき、誰かが銃を撃った」

 タクシーが目的地に着く。お義兄さんは、まだここに来た理由を言わない。何かを先延ばしにしている。

「観客が悲鳴をあげるのと同時に、会場の出入り口すべが爆破され、」

 俺はお義兄さんに続いてエレベーターに乗る。

「逃げ場を失った人たちを追い詰めるように、客席四か所から神経ガスがばらまかれた」

 俺はあの日、婆ちゃんが死んだ日と同じような、白い部屋に通される。青いカーテンがはっていて、部屋の中は見えない。

「四葉ちゃんは、友達二人とライブに行ってたんだけど」

 俺の脳は、ある可能性を必死に否定する。そんなわけない、そんなはずが――。

「たまたますぐ近くが、ガスの発生場所でね――」

 そう言ってお義兄さんはカーテンを引く。そこには、

 

 彼女が横たわっていた。まるで眠っているかのように、安らかな顔で。

 

 俺は、一瞬で真っ暗な闇に引きずり込まれる。声にならない悲鳴だか嗚咽だかが俺を襲う。息が苦しい。

「なんとか一命はとりとめたけど、あの日以来、一度も(、、、)目を覚ましていない」

 お義兄さんは、四葉ちゃんを悲しそうな、寂しそうな目で見つめる。

「そしてこれからも、四葉ちゃんが目を覚ますことは、無いそうだ」

 四葉ちゃんの寝顔を見るのは初めてだった。その顔はとても穏やかで、言われなければただ眠っているようにしか見えない。だが、その体には様々な機械がつながれ、それぞれの作動音がぐちゃぐちゃなリズムとなって部屋を埋め尽くす。

「……ちゃん。……よつはちゃん」

 呼びかけようとしたのに、かすれて声にならない。俺の喉は、声の出し方を忘れてしまったみたいに動きが鈍い。

「よつはちゃん、四葉ちゃん!」

 必死にのどの奥から声を絞り出す。

「俺じゃ!弾じゃ!目え覚まして!」

 最後はやけくそだった。でもどれだけ呼びかけても、名前を呼んでも、彼女はピクリとも動かない。安らかな顔で眠り続けている。

 うそだ、うそだ、うそだ、うそだ。

「嘘だ!」

 嫌だ、現実を受け入れたくない。なんでお義兄さんは黙ってるんだ。否定してくれよ。ねえこんなのでいいはずないでしょ!やっと逢えたのに!

 俺が叫んでも、お義兄さんは何も言わない。ただ黙って、悲しい目をして、四葉ちゃんを見つめている。

 俺は、全身の力が抜けるのを感じる。立っていられなくなり、崩れるようにその場に座り込む。

 

 なんだよそれ。

 

 なんで、四葉ちゃんなんだよ。

 

 

 

 一時間後、俺は四葉ちゃんのアパートに戻っていた。隣にはお義兄さんがいる。

 お義兄さんは髭をいじりながら、説明を続ける。

 テロ発生後、警察は事件を彗星団によるものと断定、実行犯や幹部の身柄を拘束し、各地の支部を家宅捜索するなど、徹底した捜査が行われた。その後、他の団員が宮水一葉の死亡事故に関与したとの供述を始めるなど、他の方面での犯行も次々に明るみとなり、事件から半年後、彗星団は団体規制法の適用対象とされた。

 俺だって、この事件のことは知っていた。史上最悪のテロが発生したと、年末年始にかけてずっと報道されていた。一年前の話だ。でもまさか、そんな現実じゃないみたいな大事件に、俺の知り合いが、四葉ちゃんが巻き込まれているなんて思いもしなかった。同じ日本なのに、どこか遠い国の出来事のように感じていた。

「お義父さんが亡くなった後、誰も糸守のことを口に出さなくなったんだ。彗星団の報復を恐れて、マスコミも復興計画について取り上げなくなってね。あれだけ進められていた計画が、いろんな噂や憶測で立ち消えになった。俺がお世話になってた会社も復興事業を当てにしてたんだ。今じゃ経営が厳しくなって、恥ずかしいことに仕事のない日が多いよ」

 お義兄さんはやりきれない、と言う顔で天井を見上げる。俺は、何も言うことができない。

「それ、組紐だね」

 俺が手の上でカメラを転がしていると、それを見てお義兄さんがつぶやく。

「はい、これは、一年前にもらったんです。四葉ちゃんに。俺はまだ四葉ちゃんを知らなくて、そのことをすっかり忘れていたんですけど」

 当時の情景が嫌でも頭に浮かんできて、俺は泣きそうになる。あの時俺が呼び止めていれば、四葉ちゃんは助かったのに。

「昔、組紐を作る人に聞いたことがあるんだ」

 お義兄さんは、遠くを見るような目で話す。

「紐は、時間の流れそのものだって、捻じれたり絡まったり、戻ったりつながったり。それが時間なんだって。それが、ムスビ」

「ムスビ――」

「糸を繋げることも、人を繋げることも、時間が流れることもムスビ。神さまの力、技、時間の流れそのものを表しているんだ」

 よく分からない話だ。でも何か、大切な気がする。

 やかんの音がして、お義兄さんはいったんキッチンの方に行く。そして、お茶を持って戻ってくる。

「俺も本当の意味で理解したわけじゃないんだ。でも、君と四葉ちゃんだけにあるつながりもムスビ。これくらいは分かる」

 お茶が差し出される。俺は、冷え切った心を温めるために一口すする。

「それも、ムスビ。水でも、米でも、酒でも、何かを体に入れる行いもまた、ムスビと言うそうなんだ」

 そう言って、お義兄さんは瓶子を取り出す。神棚とかによく置いてあるやつだ。

「これは、口噛み酒と言ってね、四葉ちゃんの半分なんだ」

「四葉ちゃんの、半分……」

 そう聞くと、不思議とこの瓶子が輝いて見える気がする。

「三葉の分と一緒に回収してたんだけど、俺よりも君が持っておくべきだ。ほら」

 俺はお義兄さんから瓶子を受け取る。真っ白なそれを、生まれたての赤ん坊を抱きあげるように、大切に、慎重に持つ。

「弾くん」

 名前を呼ばれ、俺は顔をあげる。

 お義兄さんは俺の目をじっと見てくる。その眼は、深い悲しみと憂いに満ちていている。とてつもない苦労を背負ってきてきたことがわかる。でもその中に、一筋の光も見える。希望をなくしていない目だ。

「俺は昔、普通じゃありえないことをしてね。奇跡としか言いようがないけど、無我夢中だったんだ。もしかしたら、君の入れ替わりのヒントになるかもしれない。ただ、いろんな人に話してきたけど、信じてくれない人の方が多くてね」

「信じます」

 瓶子を置きながら、俺は即答する。どんな話をするか知らないが、この人の目を見ればわかる。嘘をつく人ではない。

 お義兄さんは眉をピクリと動かし、頬杖をついて考え込んでいるようだった。

 やがて、重たい蓋をゆっくりと開けるように、話し始めた。

「君も知っての通り、俺と三葉は六年前、入れ替わってた。三葉にとっては九年前だけどね。けどある日、俺は今の君のように、三葉と入れ替われなくなった。十月四日、彗星が落ちた日を境に」

 俺は息をのむ。もし今の俺と同じような理由で入れ替わりが止まったのだとしたら、まさか――

「あの日、糸守に落ちた彗星は、三葉と町の住人五百人の命を奪った」

 俺の知っている歴史と違う。あの災害では町民のほとんどが助かったはずだ。

「俺はそんな大災害のことを忘れていてね、しかもまさか、三葉がそこの住人だとは一度も思わなかった。だから、ふいに会えなくなったあいつに会いに行った。そして糸守までたどり着いて、あいつが死んだことを初めて知った」

 お義兄さんは糸守の写真集を取り出す。そこには彗星が落ちる前の糸守の写真がびっしりとある。

「ショックだった。俺が見ていたのはただの夢、妄想だったと思い込んで、最後にはあいつの名前もわからなくなった」

 二週間前の俺と同じだ。毎日、少しずつ薄れていく記憶。わからなくなっていく真実。

「でも、俺は口噛み酒のこと、ムスビのことを思い出してね。宮水神社のご神体に登って、三葉の口噛み酒を飲んだんだ」

 お義兄さんは窓の外を見る。俺は目の前の瓶子を見る。

「わかってたわけじゃない。今でも理由は分からない。でも俺は、彗星が落ちる前の糸守に戻った。そして、使えるものは何でも使って、できることは何でもやって、糸守の人たちを動かした。あとは、君の知っている通りだ」

 糸守を救ったのは町長ではなかった。町長と娘、その娘と入れ替わっていたお義兄さん。でもそんな、たまたまの偶然だ。

「少しでも狂えば、一人でも欠ければ絶対に成功しない。そんなことって――」

「この世のすべては、あるべきところに収まるようになっているんだよ」

 俺の混乱を察したのか、お義兄さんが助け舟を出してくる。

「三葉のお母さんの言葉だそうだけど、それを聞いて、ああ、と思ったよ。宮水の人たちが見る夢には、必ず意味がある」

『ワシら宮水の人間が見る夢には、なにかの意味がある。なにかの理由があって、あんたと四葉はムスビついとる』

 婆ちゃんの言葉がよみがえる。なぜ人は糸守を捨てようとしない?なぜ彗星で破壊されても、また戻ろうとする?その中心にいる宮水とは?

「こんな突拍子もない話しかできなくて、本当にすまない。でもね、俺は六年前、あいつに伝えるべきことを伝えられなくて、とても長い時間待たせてしまった。だから君は、ちゃんと伝えるんだ。言葉にできなかったら紙に書いてでもいい。四葉ちゃんを泣かせるな」

 お義兄さんは再び俺の目を見てくる。有無を言わせぬ、強い意志を持った目で。

「男が女を泣かせていいのは、死ぬ時だけだ。自分の死だけはどうやっても乗り越えられない。受け入れるしかない。だから、それ以外のものは全部乗り越えなきゃいけない」

 そしてお義兄さんは、確信をもって聞いてくる。

「君はまだ、死んでないだろう?」

 

 

 

「三葉」

 俺は、仕事から帰ってきた妻に話しかける。

()が、来たよ」

 俺は彼に渡したもの、話したことを伝える。

「大丈夫、まだきっと間に合う」

 それは、俺の願いでもあった。

 

 

 

「お前なあ、こんな夜中に、しかも学校に電話かけてくんなよ。教官になんて説明したらええんじゃ」

 高橋はあきらかに怒っている。だが、こいつに頼るしかないのだ。俺は必死に訴える。

「頼む高橋、お前しかおらんのじゃ……頼む」

 最後の一言は、押し寄せてくる感情に邪魔されてうまく言えなかった。それでも何かを察したのか、高橋はしばらく黙り込む。そして

「……わかったわかった。何とかしちゃるわい。その代わり、後で飯おごれよ」

 俺は、見えない高橋に深く頭を下げた。

 

 

 

 俺はホテルの机の上に、ノートを広げる。わかっている情報をメモする。さらに、壁一面に貼った大きな白い紙に、重要な情報をまとめていく。スマフォのスピーカーからは、高橋の声が聞こえてくる。

「捜査の教官に、刑事志望なんで教えてくださいって頼んできたわい。その教官、ちょうど彗星団関連の捜査本部に知り合いがおる人じゃったから、色々聞いてくれたわ。言うで」

「頼む」

 俺は、メモを開始する。

「まず、お前のそのわけのわからん入れ替わりの話とやらが本当だとしよう。そうしたところで、いかに彗星団のテロ止めるかじゃが、これはやっぱり警察官に捕まえさせるしかない。そのために必要なのは、証拠じゃ。じゃがこれには問題がある」

 目標は彗星団の逮捕、しかし問題あり。

「いくら奴らが銃やら爆薬やら神経ガスなんかを持っとったとしても、それを大学生、いや、女子高生が『あの家にテロリストがいるんです!』みたいな通報じゃ警察も踏み込めん。テロを起こす前の彗星団はただの宗教団体じゃけえ、家宅捜索する理由にはならん。確実なのは、現行犯逮捕じゃ。いくら事前情報が無くても、例えば目の前に銃でも弾でも持っとる奴がおりゃあ、銃刀法違反でその場で逮捕できる」

 確実なのは現行犯逮捕。

「つまり、奴らが集結する日が狙い目じゃ。それ以前の動きは全国にちらばっとるけえどうにもならん。それ以降じゃと地下にもぐってしまって本番まで出て来んくなる」

 奴らが集まる日を狙う。

「地下に潜るってなんだ?」

「要は協力者に食料とか持って来させて、自分らは一歩も外に出んのじゃ。こうなると掴むしっぽがなくなる」

 なるほど。その集まる日が唯一にして最後のチャンスということか。

「捕まったやつらの供述によると、テロ前の最後の集会は十月四日、これは彗星団にとって神の声が聞けるとかなんとかで、神聖な日らしいわい」

 Xデーは十月四日。まさに彗星が落ちた日だ。俺は壁の紙に日付を大きく書いて丸で囲む。

「集合場所はライブ会場からまあまあ近いボロアパートじゃ、詳しい住所を言うけえメモせえ」

 高橋が教えてくれた住所をメモし、グーグルマップで位置を表示する。あの会場から徒歩一時間はかかる場所だ。

「ほんで、集まるのは実行犯九人。銃を持った奴が一人。こいつがリーダー格じゃ。残りは爆発物の担当が四人、ガス担当が四人。このうち誰か一人でも警察の前に持っていければ、あとは芋づる式で教団ごとお縄にできるじゃろう」

 実行犯は九人、誰でもいいから捕まえる。

「そいつらの顔と名前は散々ニュースで出とるし、リーダーは捕まる前から彗星の導きがどうとかいう主張を繰り返して、よくメディアにも出とったやつじゃけえ、いくらでも情報が出てくるわ」

 俺はスマフォで犯人の写真を検索して、近くのコンビニでそれらを印刷する。その間も、イヤホンで高橋との会話を続ける。

「奴らはそれぞれ、地下鉄やバスで目立たんように集まってくる。ある奴は県外から、ある奴は都内からそのまま来る。じゃが、目的地は一つじゃ。アパートの近くで張るのが一番確実じゃろう。捜査の段階で、それぞれどういう経路で集まったのかがわかっとる。あとは、所持品とかもな。これは物が物だけに特徴的じゃけえ覚えて損はない。一人ずつ言うけえ、聞き漏らすなよ」

 高橋から、実行犯九人の行動を逐一聞き取る。一番早いやつは午後三時過ぎに、一番遅いやつは午後九時前にアパートに入ってくる。俺は印刷してきた犯人の写真を、早く集まる順に壁に貼って行き、それぞれの写真の下に、当時の服装、持ち物、使用する駅、アパートへ着く時間を書き込む。この中の誰でもいいのだ。チャンスは九回。

「ああ、あと、アパートの目の前で張るのだけはやめとけよ」

「え?なんで?確実じゃねえか」

「九人来る前に、もともとそこに住んどる協力者もおる。目の前にずっとおれば怪しんで誰も来んくなるかもしれんし、一対一ならまだしも、複数で来られたらお前じゃ止められんじゃろう。アパートから駅の間で何とか見つけるのが安全じゃ。あいつら銃とか持っとるんじゃけえな、それは忘れんなよ」

 すべての情報を言い終えた高橋の声は、本当に不安そうだった。

「ああ、ありがとう、高橋」

 必要な情報はそろった。

「お前最近危なっかしいけえのう、無茶はすんなよ、て言っても一年前の話じゃけどな、これ」

 大丈夫、と約束して俺は電話を終えた。

 目の前には大量の情報に埋め尽くされたノート、壁には九人の犯人の写真と情報がびっしりと書き込まれている。もし四葉ちゃんの体に戻れても、その時このメモは持っていけない。俺は、ノートと壁に書いた情報を覚えることに一日を費やした。

 

 

 

 翌朝、俺は壁に貼った大きな紙を外し、ノートを閉じ、瓶子と合わせてカバンに詰めた。

 向かったのは、ライブ会場だった。ここに来る前に、奴らのアジト周辺を何度か実際に歩き、頭に叩き込んだ。

 あとは、入れ替われるかどうかだけだ。その一番の懸けのげん担ぎに、この会場を選んだ。

 俺と四葉ちゃん、そして奴ら(彗星団)と彗星の因縁の場所だ。現在の会場は二メーートルはあろうかというフェンスに囲まれ、一般人は入れないようになっている。フェンスの向こうには、爆発でくずれた入り口と、そのわずかな隙間の奥の、暗い闇が見える。白かった壁は一部が焼け焦げ、いたるところにひびが入っている。事件の現場であったことからしばらく保存されていたが、現在はその高すぎる解体費用が捻出できずに、ほったらかしにされているらしい。

 そのため、この異様な大きさの廃屋は一年もこの場所に鎮座し続け、大勢の人が死んだことも相まって事件後は人通りもまばらに、付近に住んでいた人もほかの地域に出て行ったりしている。

 しかし、今日に限っては人通りが少ないのが助かる。俺は周りに人がいないことを確認して、フェンスにとびかかる。なんとか一番上に手が届き、懸命に力を込めて体を持ち上げる。そして、反対側に――着地のことを考えていなかったので思いっきり――落ちた。左腕を強打して、あまりの痛みにしばらく悶絶する。

 痛みがじわじわと引いてきたので顔をあげると、さっきよりも近づいた会場が見える。よく見ると柱が欠けているところもあって、いつ崩れてもおかしくない。

 いや、それでも乗り越えるんだ。今更怖がっていられるか。

 この地が、四葉ちゃんが一番最後に立っていた場所なのだ。つまり、一番四葉ちゃんの魂に近いはずだ。これは完全に俺の勘だけど、お義兄さんと同じで、とにかくがむしゃらにやるしかないのだ。

 四つあるうち、一番被害の少ない西側の入り口から中へ入ることにした。がれきの散乱する内部は、観客の悲鳴や痛みがしみ込んでいるみたいで、一つ一つのひび割れやかけらの形が苦悶の表情にすら見える。この中を通るだけで、気温のせいじゃない寒気を感じる。

 内部の観客席へつながるゲートをくぐり、俺は再び日の光の中に出た。

 思わず、会場全体を内側から見渡してしまう。なぎ倒された椅子、落ちたままの照明、爆発の衝撃で一部落下し、多くの人を巻き込んだであろう天井の残骸。目をつぶれば、ライブの熱狂が悲鳴に変わる瞬間が嫌でも耳に響く。ここはまるで地獄みたいだ。たくさんの人の苦しみと命がこの地にへばりついてる。ただでは帰れないような、そんな気がする。

 それでも一歩ずつ中心に近づく。お義兄さんから聞いた四葉ちゃんの席番号を探す。白い椅子はガスのせいで変色していて番号が読み取れないものもあったが、一五分ほど悪戦苦闘したのち、ついに見つけた。

「あった」

 この席自体は番号が読めないが、その両隣が読める。おそらく、ここには

「高藤と、米沢」

 二人の顔が目に浮かぶ。受験勉強の疲れを癒しに来ていたに違いない。彼らと過ごした一か月が嫌でもよみがえる。

 震える心を落ち着けて、俺は四葉ちゃんの席に座る。

 カバンから瓶子を取り出し、手の上で転がしてみる。お義兄さんの話によれば、これは九年前に作られたものらしい。はたして飲んでも大丈夫なのだろうか。口噛み酒の保存期間なんてはっきり言って知らないし、そもそも酒なんて飲んだことがない。しかし、世の中には何十年も前のワインがとんでもない値段で売られていたりするし、お酒というものは案外長持ちするのかもしれない。

 肌を突き刺すような風が吹き込んできて、思わず身をすくめる。さっき打った左腕に痛みが響く。俺はカバンからジャンパーを取り出して上に羽織った。これで少しマシだ。さて、

「飲むか」

 声に出して、自分に言い聞かせる。足踏みしたって変わらない。蓋を封印している組紐をほどく。蓋の下には、さらにコルクで栓がしてある。

「四葉ちゃんの、半分」

 この場所で名前を口にしたせいか、全身に震えが走り、エネルギーが血管の先まで満たされていく。コルク栓を抜くと、かすかなアルコールの匂いが立つ。蓋に、酒を注いでみる。

『捻じれたり絡まったり、戻ったりつながったり。それが時間』お義兄さんの声を思い出す。

「それが、ムスビ」

 口噛み酒は透き通っていて、ところどころに小さな粒子が浮いている。

「……本当に四葉ちゃんに戻れるなら、もう一回だけ―ー」

 四葉ちゃん!強く思いながら、一口で飲み干した。喉が鳴る音が、驚くくらい大きく響く。体の中を熱い塊が通り抜けていく。それは胃の底で、はじけるように拡散する。

「……」

 でも、何も起きない。なんで、やっぱりお義兄さんが奇跡を起こしただけで、俺にはそんな力がないのか。周りを見渡しても、自分の体を見ても、何の変化も無い。

「ちくしょう!なんだよ、この!」

 腹が立って蓋を投げ捨て、俺は瓶子をそのまま口につけた。強烈なにおいで文字通り鼻が曲がりそうになるが、そんなこと関係ない。こうなったら全部飲み干してやる。

 ビールのCMみたいに喉をぐびぐび言わせて飲んでみたが、突如、口の中から食道、胃まで全部が焼けるような痛みに襲われて、俺は瓶子を乱暴に置いてその場でむせ返った。

「まっず‼」

 こんなものをおいしそうに飲んでる大人は頭がおかしい。世の中、酒祭りとかいう酔うためだけの祭りもあるらしいし、意味不明だ。しかもなんだ、すごく、頭が、重い、いや、世界が回っている。ぐるぐると、いや、ぐわんぐわん、か?違う、回っているのは、俺の、頭か、いや――あれは?彗星?

 電光掲示板の横に描かれた彗星が、浮かんで見える。揺らめいていた尾が熱を帯びて加速する。俺に向かって落ちてくる。やめろ、ぶつかる。立ち上がろうとするが足に力が入らない。よろめく俺に、彗星はどんどん距離を詰めてくる。青い光を放ち、絵の細かい色の濃淡まで手に取るようにわかる。

 そのまま倒れこんだ俺の頭が地面に打ち付けられるのと、彗星が俺の体にぶつかったのは、同時だった。

 

 

 

 

 

第十章 追憶

 

 

 

 どこまでも落ちていく。

 あるいは、昇っていく。

 そんな判然としない浮遊感の中、夜空には彗星が輝いている。

 彗星はふいに割れ、片割れが落ちてくる。

 その隕石は、山間の町に落ちる。町は壊滅し、湖が大きく形を変える。

 

 時が経ち、少女はざわめきの中で過ごす。

「お姉ちゃん、もう糸守には戻れんの?」「今日からここで暮らすのよ」

 姉とたった二人の生活、周りにいた友達は誰もいない。

 

 馴染みのない言葉、習慣、暮らし、周囲との溝が埋まらない。

「あいつ糸守出身らしいぞ」「あの町長の娘だって」「お嬢様?きゃー」「一緒にいたら彗星落ちてくるぞ」

 妬み、軽蔑、蔑み、彼女は次第に孤立していく。

「もう学校行きたくない」「ちょっと四葉?」

 泣いて終わる夜。四葉ちゃんの中に、消えることのない傷が、日に日に深さを増して刻まれていく。

 

「四葉、学校はどうや」

 支えてくれたのは母であり、祖母である女性。彼女にとってこれほど大きくて、頼りになる存在はない。

 

「あなた糸守の出身なの?」「いいじゃない、どこでも一緒だよぉ」

 初めてできた友。

「柔道?そうだな、心と体両方鍛えられるからな」

 ともに切磋琢磨するもう一人の友。

 

 ――これは、

 四葉ちゃんの、記憶?

 俺はなすすべもなく濁流に流されるように、四葉ちゃんの記憶にさらされている。

 

 そして俺も知っている、入れ替わりの日々。

 四葉ちゃんの視点で見る俺の地元は、懐かしい糸守のように輝いている。俺たちは同じ器官を持って生きているのに、まるで違う世界を見ている。

「お祖母ちゃん、死んだん……?」

 四葉ちゃんの声が聞こえる。

 婆ちゃんが死んだ、次の日だ。

「私が 入れ替わっとる間に なんで……」

 

「瀧くん」

 今度はお姉さんだ。四葉ちゃんは物陰からこっそり見ている。

「大丈夫だよ、三葉、お疲れさま」

 お義兄さんがお姉さんを慰めている。

「大丈夫、俺がずっとついてるから、大丈夫」

 ああ、いいな、と四葉ちゃんが泣き崩れる。

「――弾」

 これは、最後に入れ替わる前の四葉ちゃんか?この四葉ちゃんを、俺は知らない。

「……いたい、会いに来てよぅ……」

 

 一週間後、四葉ちゃんはライブ会場に向かっている。

「すごーい!サワちん、あれも買っていこうよ!」

 三人でグッズを買って盛り上がっている。

 四葉ちゃん!

 俺は叫ぶ。

 グッズ売り場の窓から、周りの喧騒に負けないように必死で叫ぶ。

 四葉ちゃん、そこにいちゃ駄目だ!

 テロが起きる前に、会場から逃げるんだ!

 でも俺の声は四葉ちゃんに届かない。気付かれない。

 ライブが始まり、四葉ちゃんの目の前に、派手な衣装で着飾ったアーティストたちが登場する。

 そしてライブの盛り上がりが最高潮に達しようという時、お父さんがステージに登り、挨拶を始める。

 その眺めさえも、ライブの高揚感で美化されて見える。

 四葉ちゃん、逃げろ!

 俺は声を限りに叫ぶ。

 四葉ちゃん、逃げろ、逃げてくれ!四葉ちゃん、四葉ちゃん、四葉!

 そして、銃声が鳴り響く。

 

 

 

 

 

第十一章 出逢い

 

 

 

 目を覚ました。

 その瞬間に、確信があった。

 俺は上半身を跳ね上げ、自分の体を見る。細い指、見慣れたパジャマ。胸のふくらみ。

「四葉ちゃんだ……」

 思わずつぶやく。この声も。細い喉も。血も肉も骨も皮膚も。四葉ちゃんの全部が脈うって、命があることを教えてくれる。

「やった……!」

 両手で自分を抱きしめる。涙があとからあとから湧き出てくる。止まらないし、止めようとも思わない。ひざを曲げて、首を引っ込めて、腕により強く力を込めて、やわらかい四葉ちゃんの体を全身で感じるために、ぎゅーっと体を丸めていく。

 四葉ちゃん。

 四葉。四葉。四葉。

 もう二度と会えないと思っていた。お義兄さんの話にすがるように、必死にたどり着いてきた奇跡だった。

 

 

 

「……四葉、なにしとるの?」

 懐かしい声に顔をあげると、ドアの向こうにお姉さんが立っていた。お玉を右手に持って、訝しげな顔をこちらに向けている。

「あ……お姉さんだ……」

 俺は涙をボロボロ流しながら言う。お姉さんは四葉ちゃんにまた逢えてうれしくないのだろうか、絶対うれしいに決まっている。しかし、泣きながら胸を揉む俺を、お姉さんはただ呆然と見つめるだけだ。

「お姉さあぁぁん!」

 抱き着いてこの喜びを分かち合おうと駆け寄ったが、お姉さんはひっ、と悲鳴をあげて、俺の鼻先でぴしゃりと扉を閉めた。

「どうしよう、四葉が壊れてまった」

 ドア越しに、若干おびえたような声が聞こえる。失礼なお姉さんだ。俺がはるばる時空を超えて、四葉ちゃんと糸守を救いに来たというのに!

 

 

 

 アナウンサーのお姉さんがにこやかに喋っている。俺は制服に着替え、いつも通りお姉さんの朝食を食べに来たところだ。すーすーするスカートは久しぶりで、下半身が妙に落ち着かない。その感覚を振り払うために、仁王立ちでテレビを睨み付ける。

『ティアマト彗星の最接近から、ちょうど八年を迎える今日、今年十二月に予定されている、糸守町復興応援ライブの記念チケットの販売が始まります。各地の券売所では、限定グッズの準備などに追われ……』

「十月四日!まだ間に合う……」

 やはりこの日に戻ってくるのか。武者震いが全身を襲う。

「何を気合い入れとんの、はよご飯食べない」

 その声を聴いて、俺は座って、朝飯にありつく。

「はい。ありがたくいただきます。あれ?お義兄さんは?」

 そういえば、さわやかイケメンの姿が見当たらない。

「何をかしこまってわけのわからん事言っとるの。うちは私とあんたしか住んどらんでしょう」

「え?お姉さん、だってあの……」

 お義兄さんの名前を言おうとして口を開いたが、あることに気が付く。名前が思い出せない。

「お姉さん?あんた、朝からどうしたの」

 もしかすると、お義兄さんと再会する前なのかもしれない。そうなると困ったことになる。俺のプランは、入れ替わりを知っているお義兄さんやお姉さんに手伝ってもらって、彗星団を追い詰めるというものだったのだ。

 この分では、入れ替わりの話をしても信じてもらえない。早急に作戦を練り直さねばならない。

「あら四葉、あんた髪は……」

 お姉さんは俺が髪を結んでないことに気が付いて声をかけてくるが、途中で言葉を切り、じっと俺の顔を見て、じわり、と目を細める。

「あんた、四葉やないな」

「なっ……」なんで⁉

 入れ替わりの話知らないんじゃないの?そういえば、婆ちゃんにもバレたっけ、あの時。

「お姉さん、わかるんですか?」

 お姉さんは特に表情も変えず、俺の向かいに座っていただきますをする。

「うーん、なんとなくやけど。でも、あんたの目を見たら思い出したわ。私もあんたと同じくらいの頃、不思議な夢を見とったんやよ」

 なんと!お義兄さんがいなくてどうしようかと思っていたが、これは案外こちらの話を理解してもらえるかもしれないぞ。みそ汁をすすり、お姉さんは話を続ける。

「あれ、おかしな夢やったなあ、ううん、夢というより、別の人の……人生?私は糸守とは違う町で、知らない男の子になっとったよ」

 俺はごくりとつばを飲み込む。そのままお義兄さんのこと、思い出してくれないだろうか。

「でも、ある時突然、夢は終わってまって。今ではもう、覚えとるのは不思議な夢があったってことだけ。夢で誰になっとったか、そんな記憶は消えてまったんやよ」

「消える……」

 お姉さんの言葉は、俺と四葉ちゃんの宿命を暗示しているかのようだ。当のお姉さんも箸を止め、寂しそうな顔をして窓の外を見上げている。

 そんなお姉さんを見て、俺は思う。この人は完全に忘れてはいない。このあといつになるかわからないが、お義兄さんと再会するはずなのだ。あるべきところに収まるように。そして、すべてを思い出す。だから、これから俺がする話も、信じてくれるはず。

「ねえ、お姉さん。彗星団って知ってますか?」

「彗星団?最近よく出てくるなあ。糸守は消える運命だった、とか言っとる人たちやろ?」

 お姉さんは驚いた顔でこちらに向き直る。よかった、知ってるみたいだ。まずは第一関門突破。あとはお姉さんが協力してくれれば……。

「聞いてください。今日、彗星団が銃や爆弾や神経ガスを持って集まるんです!それを止めないと、大変なことになる!」

 お姉さんは驚きの表情を怪訝そうな顔に変え、ため息をつく。

 

 

 

 ――気持ちは分かるけど、早く学校に行きなさいって、意外に普通のこと言うな、お姉さんは。

 いつもの通学の道を駆けながら、俺はぶつぶつとそう思う。

 入れ替わりの話は分かるくせに、なんでテロの話は信じてくれないんだ?お義兄さんがいれば、話は変わっていたのに。

 お姉さんを無駄に説得したせいで、完全に遅刻だ。周囲に学生服は見当たらない。ゆったりと出勤するサラリーマンが電車に乗り込んでくるばかりだ。こうなったら、あの二人にお願いするしかない、と俺は思う。

「絶対に、止めてやる!」

 自分自身に言い聞かせるように、俺は強く口に出す。周りの乗客が何事かとこちらを見てくるが、そんなもの関係ない。リミットまで、あと半日もないのだ。

 

 

 

「あれ?四葉ちゃん、その髪……」

「んー?今日は結んでねえの?」

 タカジーとサワちんが、教室に入ってきたばかりの俺の顔を見て驚く。そうか、こいつらにとっても今日が初めての入れ替わりなのか。

「あ~、めんどくさかった。ええじゃん、これでもかわいいんだし」

「へっ?お、おう」タカジーの反応に、ジロリ、とサワちんが目を向ける。

 俺は手入れされた黒髪ロングを片手で払いながら言う。実際この状態でも人気は衰え、いや、むしろ人気が上がってたんだから、いいじゃないか。今はそんなことより!

「今夜彗星団を止めないと、テロが起きる!」

 ぴたり、と教室のざわめきが止む。クラスメイト全員が俺を見ている。

「は?宮水、お前何言ってんの?」

 タカジーが慌てて立ち上がり、サワちんが強引に俺の手を引っ張る。二人に引きずられて教室を後にしながら、まあこれが当然の反応か、と冷静に考える。ある程度理解のあるお姉さんですら説得できなかったんだ。久しぶりの入れ替わりで、俺は無敵のヒーローになったと勘違いするくらいテンションが上がっていたのだ。

 さて、ここからどうしたものか。

 

 

 

 と、心配していたが、サワちんは別だった。

「それは一大事だよ、私たちで止めなくちゃ!」

「そうなんだよ、今日止めればライブも無事に終わって、大勢の命が助かるし、糸守の復興も叶うの!」

「タカジー、私たちも手伝おう!」

「ちょ、ちょっと待てって、なんでお前まで真剣な顔すんだよ。宮水、それはどっからの情報なんだ」

 当然、タカジーは取り合ってくれない。

「そんな話、なんで警察じゃなくて俺たちにする?親父さんは?その方が止められる可能性あるんじゃねえの?」

 どこまでも通り一辺倒のことしか言わないタカジーに、俺は少しイラついてきた。そんなんだからお前はサワちんと進展しないんだよ。

「おどりゃあ、男のくせに細けえことばっか気にすんな!これが終わったら何でも言うこと聞いちゃるけえ、気合い入れえや!」

 一つも細かいところはないのに、ついタカジーの胸ぐらをつかんで恫喝してしまった。しかし、タカジーは顔を赤くして慌てだす。

「い、いや、何でもってお前な……」

 そっちかよ!思わず俺はマンガみたいにずっこけそうになる。男子高校生には刺激が強すぎたか。しかし、冷静に考えて四葉ちゃんを好きにされては困る。

「サワちんが!ね!」と、目線と全責任を親友に送る。これでみんな丸く収まる。

「ええ⁉私⁉そ、そんなのだめだよぅ……」

 何を想像したのか知らないが、サワちんは顔を真っ赤にしてふるふると首を横にする。女子高生にも刺激が強すぎたみたいだ。みんな何考えてんだか。あえて聞くまい。

 

 

 

 結局美女二人でタカジーを丸め込み、俺たちはこっそり学校を早退して、いつものタカジー()に集合していた。

 目標は、彗星団テロリスト九名のうち、誰か一人でもいいので捕まえること。タイムリミットはおおむね午後三時から午後九時の間。それぞれの服装や所持品の特徴、利用する駅と時間を二人に教え、俺自身も単語帳にメモしていく。

 問題は人の多い東京でどうやってこいつらを見つけるかと、どうやって警察に通報するかだ。スマフォがあれば一一〇番できるが、もし犯人と取っ組み合いになればそんな暇はない。

「警察無線を使うのはどうだ?」

 タカジーが提案する。

「警察無線?」

「交番のお巡りならだれでも持ってるやつ。見たことあるだろ?」

「あー……、よく警察特番とかでマイク持ってしゃべってるやつ?」

「そうそう、あれはGPS機能が搭載されてるから、どこで発信してるとかすぐにわかるようになってんだよ」

「でも一一〇番でもスマフォのGPSで位置分かるんじゃないの?」

 しかもマイクを持って話をするなら、結局手がふさがってしまう。

 タカジーはちょっと待ってろ、と言い、店の売り物らしき無線機を取り出してきた。

「これはアマチュア用無線機だけど、ここに赤いボタンが付いてるだろ、いわゆる緊急ボタンで、これを押すと通信がつながりっぱなしになる」

「マイクのボタン押さなくても通話できるってこと?」

「そうそう、無線は電話と違って片方しかしゃべれないけど、GPSで場所がわかればそこめがけて応援を送れるってわけ。市販の無線機にあるくらいだから、警察無線にも似たような機能が絶対ある」

「なるほど、使える!で、タカジーの店には警察無線、あるの?」

「ないよ」

 けろりとした顔でタカジーは否定する。

「昔は傍受出来たらしいけど、個人情報とかの関係で、俺たちが生まれるより前に暗号化されて聞けなくなってる」

「そこをなんとか!なんとかならない?」

「ええ⁉傍受するの⁉」

 サワちんは驚きを隠せない。

「いやいや、さすがに無理だって。仮に解析できたとして、コードを変えられたら一発でアウトだし」

「わからん!日本語でしゃべれ!」

 俺はタカジーに詰め寄る。

「つまり無理ってこと!可能性が一番高いのは、実物をどっかからくすねてくることだけ」

「どろぼう⁉」

 再び驚くサワちんを、タカジーは意味ありげな目線で見つめる。つられて、俺もサワちんを見る。

「え、あ、私?」

 サワちんは、急に注目を浴びて額に汗を浮かべる。そういえば、この子の叔父は警察官だった。ということは、無線も持っているはずだ。

「無線が盗難されたとわかったら、たぶん無力化されるんだよね。スマフォも毎月の料金支払わなかったら止められるだろ?デジタル無線だからそういうことも可能だし、やるだろうな」

 タカジーは簡単な絵をかいて説明してくれる。なんか本拠地っぽいところから青いビームを出して、無線機に大きくバツをする。

「と、いうことは、借りたことがわからないようにしなきゃいけないんだね」

 俺は初めてタカジーの説明を理解する。

「そのとおり!」

 タカジーも少しずつノってきたようだ。

「つまり、サワちんの叔父さんから無線機を借りて、その間、サワちんはばれないように叔父さんに接待し続ければいいってことか」

「それって……は、犯罪だよお」

 予想外の方向に話が進んだのか、サワちんはちょっと泣きそうだ。

「大丈夫だよ、できるって」

 タカジーがフォローに入る。お?これはいい流れだ。もうちょっと褒めてあげればなおいい。

「お前ならどんな男でもイチコロだろ。たとえ相手が叔父さんでも」

 うーん、その褒め方はちょっと……

「だったら苦労しないよぅ……」

 そうなるよね。逆にサワちん追い詰めてどーすんだよ、この男は。まあ悪気があってのことじゃないんだろけど。

「大丈夫大丈夫!サワちんは無敵だから!ファンクラブもあるし」

 すかさず俺が励ましの言葉をかける。

「ええ⁉ファンクラブ?それって四葉ちゃんの話じゃないの?」

 サワちんはびっくりして俺とタカジーの顔を交互に見る。

 あれ?

「……知らなかったの?」

 まあこういうのは本人にバレないようにこっそりやるものなんだろうな。そして変に目をそらすな、タカジー。まさかお前……。

「……入ってんの?」

 絶対に聞いてはいけないのだろうが、絶対という文字が付くと聞かずにはいられないのが人間だ。たとえこんな状況でも。

「いやあ、どうなんだろうなあ、うん」

 タカジーは持ってきた無線機をいじりながらあいまいな返事をする。ごまかすのめっちゃ下手だな、こいつ。ていうか入んなくても毎日隣にいるじゃん!絶対好きじゃん!口で言えよ!

 でもサワちんにはちょっと効いたみたいだ。まんざらでもない表情してる。

 そりゃそうだよなあ。気になる男の子が、同じように自分のこと気にしてるって知ったら、普通うれしいよな。

「ふふっ」

 なんだかおかしくなって、笑いが止まらなくなる。この三人組、けっこうイケてるメンバーだとずっと思ってたのに、全員どこか鈍くて、奥手で、肝心なところに気づいてないって感じで憎めない。結局、似たもの同士のいいチームってわけだ。

「俺たちならできるよ、絶対」

 俺は、二人の顔を見渡す。二人とも顔を赤くしているが、無言でうなずいてくれる。

「うちにある無線機を貸してやるよ。小型のマイクとイヤホンで目立ちにくいから、これを連絡用に使う。スマフォみたいにいちいち電話かける必要がないからスピーディーだ。俺はここでお前たちの作戦進行具合を取りまとめる。宮水がもし犯人を見つけたら、俺もここから重ねて一一〇番できる。もしお前ができなかった時の保険な。それと、お前が叔父さんを説得するのに失敗したら、それも無線で伝える。そうすれば警察無線が使えるかどうかすぐにわかる」

 俺とサワちんは、それぞれ小型の無線機を受け取って、ポケットにしまう。イヤホンは右耳に、マイクは袖に通して、すぐ持てるようにする。

「じゃあ、まずはサワちんの叔父さんのところに行こう」

「うん!」

 俺は拳を作って、ちゃぶ台の上に差し出す。それを見て、タカジーとサワちんも順番に拳を差し出す。

 よし、やってやる!

 

 

 

「こんにちはー」

 サワちんがいつもの朝の挨拶みたいに飛び跳ねるような声で言う。この交番は三人の勤務員がいるらしいが、どこかに出ているのか、中にいるのは叔父さん一人だった。

「おや?志保ちゃん、どうしたの、学校は?」

 優しそうな顔をした人だ。年は五十代半ば、といった感じか。

「今日はねぇ、早く終わる日だったんだよ。私、叔父さんがどんな仕事してるか気になって、来ちゃった」

 サワちんが男籠絡モードに入っている。初めて見るが、これは無敵だ。同じ男だからわかる。

「そうかそうか、せっかくだから上がっていきなさい。んー?友達かい?」

「四葉ちゃん、中学からの友達なの、家が近くだから、ちょっとだけ寄ってみたいって」

「よ、よろしくおねがいしまーす」

 本物の四葉ちゃんなら絶対にしないであろう、全力の愛想笑いを作る。

「志保ちゃんが友達連れてくるのは初めてだね、いいよいいよ、お茶しか出せないけど、ちょっと待っててね」

 そう言って叔父さんは席を立ち、俺とサワちんに奥に入るよう手招きしてくれた。

 交番のカウンターを超えて中に入っていくと、小さな机と椅子が並べられていた。俺とサワちんはそこに腰かける。

「四葉ちゃん」

 サワちんが手を立てて、小声でこっそり話しかけてくる。

「あれ」

 そう言って、もう片方の手で部屋の奥を指す。そこには、充電中だろうか、無線機が立て掛けられている。叔父さんはまだ台所付近にいるらしく、食器を棚から出す音が聞こえる。

 今しかない。

「サワちんお願い」

 俺は一言だけ告げて、こっそりと、足音をたてないようにそろり、そろりと無線に近づいていく。

「温かいのと冷たいの、どっちがいい?」

 急に後ろから声が聞こえてきて、俺はぎょっとして立ち止まり、サワちんの方を振り向く。サワちんは額に一杯汗をかきながら、セーフ、と合図を送ってくる。

「ふ、二人とも温かいのがいーな」

「ポットのお湯きれててね、今沸かすからちょっと待ってて」

 二人の会話を聞いて、俺はふう、と安堵のため息をつく。これはチャンスだ。一気に無線に近づき、ひったくるように取る。そして、ばれないようにブレザーの右の内ポケットにしまう。すばやくサワちんのところに戻り、俺は右手でサムズアップを作る。

「あとは任せて」

 サワちんは右目をつむり、ぱちんとウインクを送ってくる。その可愛さに一瞬見とれて、無機質な交番がお花畑みたいに見える。全財産をこの子にあげて、俺もファンクラブに入りたい。そう思ってしまう笑顔でもあった。

 しかし落ち着け、今はそれどころじゃない。計画が押している。少しでも急がなければ。

「ごめんね、よろしく」

 俺は目線でありがとうを伝え、交番を後にした。

「無線確保完了!」

 俺はすかさず手元のマイクでタカジーに報告する。

「よし!でも、もう四時になるぞ。親父さんはどうすんだ?」

「まだ九時まで五時間ある、それに五時前に一人、霞が関の駅使うはずだから、ついでに行ってみる」

 この時間ならまだあと七人の犯人が来る。少しでも警察を動かせる確率をあげるために、四葉ちゃんのお父さんに頼みに行った方がいい。

 

 

 

「……何を言ってるんだ?お前は?」

 ざらついた重い声に、俺は負けそうになる。焦りといら立ちが大粒の汗となって、体中から噴き出してくる。

「だから!糸守のためには彗星団を止めないと!みんなが――」

「少し待ちなさい」

 静かに言われたのに、その声を聞いた俺は口を開けなくなってしまう。

 革張りの椅子に、大臣は深く腰を掛ける。体重をかけられた背もたれが音を立ててきしむ。

「たしかに彗星団は糸守の復興に反対しているが、テロを起こす?四百人以上の死傷者がでる?どうやってそれを信じろというんだ」

 大臣は、まっすぐ俺を見てくる。その顔は――疑念の目を向けるわけでもなく、怒っているわけでもなく、俺の胸を射抜くような、俺の正体を見抜こうとしているような、鋭い表情をしている。

「あ、だから、信じられないのはわかってるよ。でも、お願い!今日止めないと、もう」

「お前も、三葉と同じことを言うのか」

 大臣の言葉に、俺は固まる。それは、九年前のことを言ってるのか?

「お前の頭がおかしいとは言わん。だが俺にも立場がある。元糸守町長の俺が、ただの宗教団体に対してテロの疑いがあるなど、何の根拠もなしに言えばどうなる。糸守に傾いていた世論はあっというまに敵意に代わる。そうなれば復興どころか、ライブの開催自体危うい」

「いや、だから……」

 次の言葉が出てこない。つい一時間前までの自信が、もう一ミリも残っていないことに気付く。お姉さんもそうだった。大人はどうしてこうも頭が固くて、人の話を信じようとしないのだろうか。どうすればいい。俺がやってることは間違ってるのか、これはぜんぜん見当違いの方法なのか?そんな不安がみるみるつのる。

「四葉」

 ふいに大臣が席を立ち、俺に近づいてくる。

「学校を勝手に抜け出したそうだな。三葉から連絡があった。あいつも心配して、仕事を早めに切り上げると言ってたぞ。家に帰って休みなさい。あいつには俺から連絡を――」

 俺の肩に手を置いて、ひどく、優しく語り掛けてくる。まるで、そうすることが当然かのように。

「ちがう!」

 俺は思わず大声を出し、大臣の腕を振り払う。そうしなければ、挫けてしまいそうだった。ここであきらめて、家に帰ってしまいそうだった。

「……はっ」

 我に返ったとき、俺と大臣の間には大きな距離があった。それは、物理的な距離だけではなかった。

 大臣の顔に、驚きと困惑が浮かんでいる。かすかに震える口を開けたまま、俺たちは互いの目から視線を外せない。

「……またか」

 肺に残ったわずかな空気を絞り出すように、大臣が口を開く。

「……お前は、四葉じゃ、ないな?」

 震える声が、耳元で羽音を響かせる虫のように、俺の体に反響する。直感で悟る。俺は、この人を説得できない。

 

 

 

 俺は、復興庁を後にする。すでに空には赤みが差し、タイムリミットが近づいていることを知らせる。冬の近づきで、葉が少なくなった街路樹が目に入る。東京という町はいつでも音と匂いであふれている。季節によって多少の違いはあれど、田舎で暮らしている俺にはどれも密度が濃くて、すべてを把握しきれない。帰宅の途に就く学生や、早めに仕事を終えたサラリーマンが川の流れのように止まることなく、歩き続けている。

 どうしていいかわからなくなった俺は、街路樹の植え込みに座り込んだ。できると思っていた。四葉ちゃんを救って、テロを止めて、そしてまた、この子に会えると思っていた。あきらめたくない。この子を、死なせたくない。俺はまだ、大切なことを何一つ伝えていない。俺は、君のことが――

 その時だ、散々頭に叩き込んだ顔が目に入る。三人目に現れる犯人だ。壁に並べた九人の写真のうち、左から三番目の男がフラッシュバックする。緑のシャツに迷彩の上着を羽織ってジーンズを履き、大きな肩掛けカバンを二つも持っている。こいつは確か、神経ガスの材料を運んでいるはずだ。本当に霞が関に現れた。

 あまりに急な出来事に、俺はしばらく呆然と男の行先を眺めることしかできなかった。しかし、頭の中で理解が追いつくなり、はじけたように立ち上がる。

「いた!一人見つけた!」

 俺はマイクに向かって叫び、走り出す。

 あと五メートル、三メートル、一メートル……。

「待て!」

 男が地下へ降りる階段に差し掛かった時、俺はその肩に手をかける。

「は?何ですか急に」

 男は一瞬立ち止まるが、すぐに俺の手を振り払って先に行こうとする。そうはさせまいと必死に男の体を押して、階段の壁際においやる。

「ちょっと、何するんですか!」

 男は慌てた様子で俺から離れようとする。

「俺はあんたが持っとるものを知っとるんじゃ!行かせるもんか、出せ!」

 俺の言葉を聞いて、男は一瞬カバンの方をちらりと見る。俺はそれを見逃さず、カバンに手をかける。男の方は、カバンをとられまいと必死に抵抗する。

「ちょっと何するんですか!この人!この人泥棒です!誰か助けてください!泥棒です!」

 あろうことか、俺のことを泥棒呼ばわりしやがった。周りを通る人たちが、次第に足を止めてこちらを見てくる。おい、なんだ。もめごと?修羅場?そんな声がざわざわと増え始める。

 こんなに注目を浴びるつもりではなかったが、ここまでくるとむしろ好都合だ。この大衆の前で、こいつの犯行を暴いてやる。

「何が泥棒じゃ!お前テロリストのくせに!」

 しかしおかしい、さっきから渾身の力を込めているのに、カバンは一ミリも俺の方に寄ってこない。もしかして、この体が四葉ちゃん(女の体)だからか?いや、四葉ちゃんは柔道が強いと聞いている。こんなヒョロヒョロした奴なんか――

「こら、やめなさい!」

 俺は、右から聞こえてきた大声に引きはがされた。俺の右腕を掴んでいるのは、誰かが呼んできたであろう、駅員だ。なんだよこいつ、あと少しで――

「四葉!何しとるの!」

 駅員の後ろから新しい叱責が飛んでくる。

「すいませんでした、お怪我はありませんか」

 男に頭を下げる女性は、お姉さんだ。男の方は何も言わず、俺の顔を一瞥すると、走って階段を降りていく。

「ああ、ちょっと!」

 駅員が呼びかけるが、男は止まらない。そりゃそうだ、警察を呼ばれたらまずいのは向こうだ。

 これ以上なにも起きないと分かると、興味を失った野次馬が徐々に数を減らしていく。

「……行ってしまわれましたね。あなたは保護者の方ですか?」

「はい、姉です。妹がご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「気を付けてくださいよ、うちも駅の入り口でもめ事は勘弁してほしいですから」

「はい、よく言って聞かせますので」

 そんな会話をぼんやり聴きながら、駅員に取り押さえられたままの俺は、人ごみに消えていく男の後ろ姿をただ見送るしかできない。ああ、また失敗した……。俺は全身の力と、頭の中で張りつめていた緊張感が抜けていくのを感じる。俺は、何をやっている?

 駅員の手が離れると同時に、お姉さんがこちらに振り向く。

「あんた、いったい何しとるの!学校から抜け出したって先生から連絡がきて、心配でお父さんに相談しようと思って来てみたらこれよ!何考えとるの!」

 ものすごい剣幕で怒鳴られるが、俺はそれどころではない。あと少しであいつを捕まえられたのに、これではまた振り出しだ。

「さっきの男なんです!あいつが犯人の一人で!逃がしちゃいけなかったんですよ!」

「なによそれ、朝のテロの話?」

 お姉さんは心底あきれたという顔をする。その顔を見て、俺はまた一つ自信を無くす。

「俺じゃ、ダメなのか」

「はあ?」

 お姉さんは、どこから出したのかよくわからない声をあげる。四葉ちゃんなら、と頭に浮かぶ。それをそのまま口にする。

「四葉ちゃんなら……説得できたんですか?お姉さんも、お父さんも。俺じゃダメなんですか?」

「なにを言っとるの、落ち着きなさい、四葉」

「このままじゃ四葉ちゃん二度と目を覚まさないんですよ!」俺はもう泣きそうだ。

「しっかりしない!テロが起きるとか、学校抜け出して人様に迷惑かけるとか、今日のあんた、変やよ!」

 お姉さんの声は怯えに変わっている。俺の話をこれ以上聞きたくない、と伝わってくる。

「おい宮水、どうだ?捕まえたのか?親父さんの話はどうなった?」

 今度はイヤホンから、タカジーの声が聞こえる。俺はどちらにも返事ができない。混乱している。何から始めればいいのか、分からなくなっている。俺の話を、お姉さんもお父さんもまったく取り合ってくれない。それどころか、俺が四葉ちゃんじゃないってことばっかり気が付いて、心配ない、お前は疲れているだけだ、と逆に説得してくるありさまだ。このままでは、警察に通報したって絶対信じてもらえない。どうすればいいんだ。俺でダメなら、どうやって四葉ちゃんになりきればいいんだ?

 おい宮水?とタカジーが、四葉?四葉?とお姉さんがそれぞれ聞いてくる。

 四葉ちゃん、君は今どこにいる?目覚めることのない体の中で、必死にもがいてるのか?俺の声は、全く届いてなかったのか?

 ――いや、そんなわけない。俺たちのつながりは、ムスビは、誰よりも強く、つよくつながっている。

 俺は、目線を上げる。立ち並ぶビル群の向こう、直接見ることはできないが、赤くかすむ空の向こうに、それはある。四葉ちゃんが眠った場所。俺が眠っている場所。

「そうだ……そこにいるんだ」俺はつぶやく。

「ちょっと四葉?」

 お姉さんの声を無視して、俺は走り出す。

「タカジー、ちょっとライブ会場まで行ってくる!」

「はあ?お前、作戦は⁉」

「無線待機、しといてくれ!頼む!」

 俺は手元のマイクにむかって声を張り上げる。その声は、都会の雑踏に吸い込まれていく。その速度に負けないように、全力で走る。

 

 

 

「……ちゃん。……よつはちゃん」

 誰かに、名前を呼ばれている。

「よつはちゃん、四葉ちゃん」

 何かを訴えるように必死な声だ。私のふざがった頭の中ではね返って、わんわん反響して、どこから話しかけられているのか全く分からない。ん?ふさがっている?いや、それにしてはすごく澄んだ気分がする。

「俺じゃ!弾じゃ!目え覚まして!」

「はっ!」

 私は、目を覚ました。なんだか、とても長い間暗闇をさまよっていたような気がする。久しぶりに感じる太陽の光に、目を細める。

 あれ?

 ここは、いったいどこだろう。妙に開放的な場所だ。天井がなく、空が落ちてきそうなくらい視界いっぱいに見える。

「……どこ?」

 声が、喉が、重たい。

「……私、弾になっとる」

 思わず自分の体をペタペタと触る。

 ふと、目線を横へずらすと、汚れた白い椅子が何百、何千と目に入る。体を起こし、視点を高くすると、自分の周りすべてが破壊され、ぐちゃぐちゃになっているのが見えてくる。斜め上には、何メートルも続く客席が、そのさらに高いところには

「彗星……」

 ――そうだ。

 目をつむる前、私はここにいたはずだ。サワちんとタカジーと一緒に、ライブで盛り上がっていた。

 知っているアーティストもいれば、知らないアーティストもいて、それでも会場の雰囲気のせいか、なぜか夢中にはしゃいでいた。七色にライトアップされたステージに、きらびやかなサイリウム。

 

 あれ?と私は思う。

 おかしい。楽しい思い出のはずなのに、さっきから震えが止まらない。

 

 何万人もの歓声と掛け声が、体中に響く。スピーカーから流れてくる曲に心が躍る。そうしているうちに、八時四十二分のカウントダウンが始まり、お父さんが出てきた。

 

 ダメだ。

 怖い。

 怖くてたまらない。

 今すぐ叫びだしたいのに、喉からは空気さえも出てこない。

 私は、飾りが床に散乱したステージに目を向ける。

 

 このライブは糸守復興の第一歩だと、ここからさらに町は発展していくと、お父さんが声高らかに宣言している。観客席にいる私と、目が合う。私は思いっきりの笑顔で笑いかけるのに、お父さんはみるみる汗をかいて、口を開いたまま固まっていく。そして、口を大きく動かす。歓声に邪魔されて、何を言っているかわからない。

 

 筋肉が一斉に力を失ったように、私はその場に座り込む。

 私は、あの時。

 洪水みたいに、記憶が流れ込んでくる。弾の記憶。会場に広がる爆発音、悲鳴。本当は一年ずれた時間にいた、弾。気付いたとき、私はもう寝たきりになっていたこと。糸守復興ライブ、あの時、私は――

「……私、あの時……」

 それ以上、声にならなかった。

 頭の中で、銃声がいつまでも響いていた。

 

 

 

 俺は走っていた。走らずにはいられなかった。四葉ちゃんの記憶が、頭の中をちらついて離れない。

 独りになって、俺に会おうとして、でも出逢った俺は一年前の、何も知らない俺だった。結局、四葉ちゃんはまた独り。そんなどうしようもない喪失感の中、ライブに行った。そして、目の前でお父さんが倒れる。自分も、息が苦しいことに気が付く。吸っても吐いても、肺が満たされない。それどころか、どんどん胸が締め付けられる。これは、心が痛いのか?私が独りだから?やがて、真っ暗になる。上も下も、右も左もない。ない。ない。何もない。時間も、空間も、光もない。私は、独りだ。私?違う、俺は――

 意識が戻ってくる。目の前には、完成間近のライブ会場がある。

 《本日はチケット発売日です。》という表記の上から、《記念チケットの販売は終了しました。》とシールが貼られた看板が立てかけられている。工事は休みなのか、人の姿はどこにも見えない。いや、出入り口には警備員が立っている。

 隙を伺っていると、警備員は誰かと電話をしはじめて、その場を離れた。交代の時間だろうか。今しかない。俺は一気に走って、会場の中に入る。

 階段を駆け上がる。ビニールをかけられた壁と、無機質な階段を後にして、上の観客席へと躍り出る。

 小さい体に目いっぱい空気をためて、一番会いたい人の名前を叫ぶ。

「四葉ちゃーん!」

 

 声が、聞こえる。私は立ち上がって、あたりを見渡す。

 けど、どれだけ見回しても、あたりには会場の残骸しかない。

「弾?」

 一言、叫ぶ。冷たい空気の中、円形の会場に弾の低い声が響く。

「弾!」

 

 聞こえた。

 いる。四葉ちゃんだ。

 目を覚ましたんだ。

 俺は、観客席の一番上から、呼びかける。

「四葉ちゃん!おるんじゃろ?俺の体の中に!俺は、ここじゃー!」

 

 弾だ!

 私は確信する。姿の見えない会場に、大声で問いかける。

「弾!どこ?どこにおるの⁉」

 私はいてもたってもいられなくて、その場から駆け出す。

 

 声が、声だけが聞こえる。

 だが俺たちの間には一年のズレがある。いくら魂にその声が響いたって、会えなきゃ意味がない。なんとか、まずは場所だけでも近くまでよらなければ。

「四葉ちゃん!一番上じゃ!ここまで登ってきて!」

 そこまで言って、俺は淵をなぞるように走り出す。彼女がどの階段で上がってきても会えるように。

 

 上だ。上にいるんだ。私は中心のステージから離れて、階段を駆け上る。実際に会えるかどうかなんてわからないのに、無我夢中で走る。

 一番上まで着くと、視界が開ける。右に走る。会えるまでどこまででも走ってやる。

 あ!

 思わず声に出して、私は立ち止まる。

 

 俺は何かに引っ張られるような感覚に襲われ、その場で止まり、振り返る。

 いま、確かにすれ違った。

 懐かしい気配と、においを感じる。走ったせいじゃない。胸の中で、心臓が暴れている。

 

 姿は見えないけど、確かに弾がいる。目の前にいる。

 心臓の音がうるさくて、このままではあいつの声が聞こえないかもしれない。

「そこに――」

 

「――いるのか?」

 手を伸ばせば届くはずなのに、指先には何も触れない。

 

 伸ばした手には、何の感触もない。ただ、空気をなでただけだ。

 やっぱり、ダメなのか。会えないのか。あの時と同じ、あいつに近づくのに、一番近くまで行くのに、あいつは、一番遠い。

 私は目を伏せて、あの時と同じように、細く、長く、息を漏らす。

 そよ、と風が吹き、髪がふわりと持ち上がる。汗はすっかり乾いている。温度が急に下がった気がして、私は夕日に目をやる。彗星の絵の向こうに消えていく太陽は、いつの間にかビルの谷間に飲み込まれる。直射から解放された建造物の影は、光と溶け合って輪郭があいまいになっている。空はまだ輝いているが、私たちの足元は淡い影に包み込まれていて、ピンクの間接光だけがあたりを優しく照らす。

 そうだ、こういう時間帯の、呼び名があった。黄昏(たそがれ)()(かれ)()(たれ)。人の輪郭がぼやけて、この世ならざるものに出逢う時間。故郷に残る古い呼び方を、私は呟く。

 

 ――カタワレ時だ。

 

 はっと息をのむ。

 確かに今、声が、重なった。

 まさか

 彗星の絵から目を離して、俺は正面を向く。

 そこには、四葉ちゃんがいた。

 やっと逢えた喜びで、俺は何を言えばいいのかわからない。とにかく笑って、名前を呼ぶ。

「四葉ちゃん」

 そう呼びかけると、四葉ちゃんの目に大粒の涙が溢れてくる。なんとか涙をこぼすまいと、顔を上げたり左右に振ったりしているが、真珠みたいにきれいなそれは、すべすべとした頬をころころと転がっていく。声にならない声を何度か絞り出した後、彼女の小さな口が、ゆっくりと開く。

「……遅いよぉ」

 そう言って、俺の胸に頭をこつん、とぶつける。

「ごめん、全力で頑張ったんじゃけど、時間かかってしまった」

 泣きじゃくる四葉ちゃんに、俺はちょっと照れながら謝る。やっと逢えた。本当に逢えた。お互いの体で、時間を超えて、長い長い旅をして、ようやく逢うことができた。安心感と喜びで、全身が満たされる。四葉ちゃんからも、抑えきれない感情を感じる。

「あほ……」

 四葉ちゃんはそう言って、泣きながら顔を上げる。でも、何かを思い出して急に真顔になる。

「あれ、でもどうやって?私……」

「四葉ちゃんの口噛み酒を、飲んだんじゃ」

 お義兄さんに助けられたことを思い出す。あそこからよくここまでたどり着いたものだ。はるばる会いに来たんだし、きっと四葉ちゃんも感動してるはずだ。

「へ?あんなまずいの、飲んだん?」

 え?あれ、味の感想が先に来るの?まあ、でも確かにあれは……

「ああ、味は激まずだったな、確かに」

 と、思ったことをそのまま口にすると、四葉ちゃんは顔を真っ赤にして怒り出す。

「なっ、まずいとはなんやさ!まずいとは!」

「え?ええ⁉ご、ごめん」

 先に言ったのそっちじゃんか!なんだよこれ、女心ってやつか?さっぱりわからん。

「あ、それ」

 怒っていた表情をころりと変え、俺の胸元のカメラに、いや、それについている青い紐を指さす。

「ああ、四葉ちゃんから預かっとったんじゃ」

 俺は、カメラから紐をほどく。ほんの何分か前、あの時の四葉ちゃんの想いを垣間見たせいで、この紐は妙に重たく感じる。でも、ちゃんとなくさずに持ってきた。

「一年、俺が持ってた。次は四葉ちゃんの番ね」

 笑顔で、手渡す。

「うん」

 四葉ちゃんは、組紐を大事そうに受け取ると、少し考えて、髪を後ろに束ねて横に流し、サイドテールを作る。リボンのようになった結び目がアクセントになっていて、とても似合っている。

「どうかな?」ほほを染めて、上目遣いで俺に聴く。

「めちゃくちゃ似合ってる」

 思わず口から出る。四葉ちゃんは嬉しそうに笑う。しかしこれは――

「写真撮らせて」

 腕がうずく。

 

「だ、だめ!お金払わんとだめよ!」

 いきなりなにを言い出すのだ、このカメラ野郎は。そんなの、恥ずかしくてムリ!

「ええ⁉ちぇえ~」

 心の底から残念に思っているようだ。少し悪いことしたかな、そんなことを考えていると、

「あ、そうだ。四葉ちゃん、ちょっと目えつむって」

「え?なに?どういうこと?」

 いきなりなにを言い出すのだ、このカメラ野郎は。

「ちょっとしたプレゼントっていうか、ほら早く」

 なにをプレゼントするつもりなのだ、このカメラ野郎は!

「い、いや、そういうのはまだ早いって!」

 私は必死に抵抗するが、いつも男子を制裁(、、)する時のように力が入らない。もう一人の自分が、わざと力をセーブさせているみたいだ。

「いいから早く!カタワレ時終わってしまうじゃろ」

「うう」

 結局押し負けて。目をぎゅっとつむる。

 あいつが近づいてくるのを感じる。反射的に全身に力が入る。

 なにをされるのか、と身構えていると、すっと、制服の内側に手が差し込まれるのを感じる。

「ちょっと!どこ触るつもりやの!」

 びっくりして思いっきり両手を前に出す。自分より大きなあいつの体が吹き飛ぶ。

「い、いや、違うんだ!」

 しりもちをついて、必死に手を振り回している。

「なにが違うの!今、中に手を入れて――」

「ポケット!内ポケット見て!」

 ん?そういえば、制服の内ポケットになにやら重みが……

「あ……カメラや」

 真っ白の、手のひらに乗るくらい小さなカメラだ。それと、これは封筒?

「ただのコンデジじゃけどど、写真ってけっこう楽しいけえ、ほら、一緒に楽しめたらええなって。その封筒には、四葉ちゃんが大好きな写真が入っとる。寂しい時、つらい時、苦しい時、それを見たらええ」

 なんだかすごく得意げだ。ちょっとむかつく。

「今渡す?しかも、わざわざ服の中に手を入れんでも、外側にも胸ポケットあるやろ!」

「いや、なんか外ポケットだと、直接胸を触りに行ってるみたいで……」

 あたふたとしながら答えるその内容に、私も急に恥ずかしくなる。ていうか、思い出した!

「あ!あんた!私の胸触ったやろ!お姉ちゃんから聞いとるんやから!」

 私はマンガでよくあるように、自分の腕で胸を隠し、体を横にひねる。

「ご、ごめんなさい!違うんですこれには訳が」

 弾は途端に血の気を失い、青くなった顔で謝り始める。

「わけ?」

 

 ここを乗り切らなければ俺は死ぬ。せっかく会いに来たのに殺される。とにかく褒めよう。褒め殺し作戦だ。女はとにかく褒めればいいと、以前お義兄さんが言ってたことを思い出す。ほんとに人間と言う生き物はどうでもいいことばかり記憶に残る。

「四葉ちゃんの胸があまりに魅力的で、形もいいし、大きさもちょうどよくて、感触なんかもう最高で、俺の理性で抑えられる範囲を超えたというか、もう全人類が束になっても抗えないくらい魅力的で。ほんと、ごめんなさい!」

 褒めるつもりが、自分が変態ですと告白したような内容になってしまった。それでも、頭を深々と下げる。

「うーん……」

 お?どうやら悩んでいるようだ。何とか乗り切れるかもしれない。俺は顔だけ上げて四葉ちゃんの反応をうかがう。

「こっ、今回だけやからね!次から見ただけで罰金!」

 口では怒っているが、なにやら少しうれしそうだ。よかった、ここは調子に乗らずに謝っておこう。

「はい!気をつけます!」

「何をそんな必死になっとるの、男ってほんとにバカやわあ」

 四葉ちゃんは、くすくすと笑いだす。さっきまで泣いてたのに、今はお腹を抱えて、背中を丸めて笑い転げている。その姿を見ていると、なんだか俺までおかしく感じてきて、一緒になって笑う。やわらかい光に照らされながら、カタワレ時の世界の隅っこで、俺たちは小さな子どもみたいに、ずっと笑う。

 

 すこしずつ、気温が下がっていく。すこしずつ、光が褪せていく。

「四葉ちゃん、聞いて」

 もっとずっと一緒にいたかった。このまま、四葉ちゃんだけでもこっちに連れて帰りたかった。でも、俺たち(、、、)はまだやり残したことがある。

「まだ、やることがある」

 俺が立てた計画と、タカジーとサワちんの役割、そして、残り時間に来るであろう犯人の服装や特徴を説明する。真剣にうなずきながら話を聞く四葉ちゃんを見て、彼女は覚えているんだと俺は察する。テロが起き、父親が死んだこと。自分が、二度と出ることのない暗闇に閉じ込められたこと。

「私、やってみる。絶対あきらめない」

「大丈夫、四葉ちゃん、俺と違って強いけえ。絶対できる。……あ、カタワレ時が、もう――」

 そう言いながら、周りの景色も四葉ちゃんも淡い影色になっていることに気が付く。

「――もう、終わる」四葉ちゃんも、呟く。

「あ!」

 急に思い出したように、四葉ちゃんが叫ぶ。

「あんた、何か書くものもっとらんの?このままだと名前忘れてまうよ」

 そう言われて必死にポケットを探るが、あいにく筆記用具を入れているのは会場中央に置き去りにされたカバンの中だ。俺は開き直ってこたえる。

「大丈夫、絶対忘れない」

 これは少し強がりだった。お義兄さんやお姉さんの話、そしてここ数週間の記憶の薄れからしても、名前を忘れるのは確定事項なのだ。四葉ちゃんもそれは分かっている。でも、今は四葉ちゃんに生きてもらうことが一番大切なのだ。なんとか励まさなくては。

「ええ?なんでそんなに落ちついとるの⁉私、だって、あんたが……あぁ、もう!」

 四葉ちゃんは何かを言いかけたのに、あわてて自分で口をふさぐ。なんとか名前を残す手段がないかと、必死になって自分のポケットを探っている。

 俺は笑って、四葉ちゃんの両肩に手を置く。

「ちょ!ちょっと!……弾?」

 そんなことしてる場合か、と四葉ちゃんはじたばたと暴れる。

「大丈夫。四葉ちゃんが世界のどこにいても、俺が必ず、もう一度逢いに行く」

 真剣にささやくと、四葉ちゃんは暴れるのをやめる。俺は、手を乗せたまま、ひざを曲げて視線を合わせ、彼女の顔をまっすぐ見つめる。

 四葉ちゃんも、俺の目をじっと見つめる。

 

 そして俺たちは、同時に口を開く。

 

 いっせーのでとタイミングをとりあう子どもみたいに、声をそろえる。

 

 

 

 君のことが――

 

 

 

 その言葉の続きは、聞こえなかった。

 俺の口からも、音は出てこなかった。出せなかった。

 変わりに出てきたのは、涙だった。目の奥から、つぎからつぎへと溢れてくる。

 四葉ちゃん。四葉ちゃん。四葉ちゃん。いつか消える。スマフォに残っていたメモも、俺の頭の中からも、必ず消える。それは分かっている。でも、だからってあきらめるもんか。彼女も、あきらめずに戦っているのだから。

 頭の中に、彼女の顔が、体が、においが、声が浮かんでくる。彼女として見た東京が、彼女として過ごした生活が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。そして、その端っこから順に、記憶が、音もなく崩れていく。

 俺は、名前のわからなくなった女の子を想ってさらに泣く。腕を目にあてて、声を上げないように下唇を噛んで、独り泣く。届いてほしいと願いを込めて、震える声で、呟く。君のことが――

「――好きだ」

 

 

 

 

 

第十二章 あきらめず、いきる

 

 

 

 私は走る。

 暗い夜道を、あいつの名前を繰り返しながら、ひたすらに走る。

 弾、弾、弾、

 ――大丈夫、覚えてる。絶対に忘れない。

 やがて建物の合間から、眠らない町の明かりがちらちら見え始める。この会場は閑散地域の有効活用として建設されたため、近くに駅がない。あいつに教えてもらった場所まで、走って行くしかない。

 駄目だ、余計なことを考えただけで、もう名前がわからなくなる。どうして、なんで、あんなに、こんなにも、君のことが――私は、耐えきれなくなって叫ぶ。あいつに、私の声と想い、全部が届くように。

「君のことが、好き!」

 

 

 

 ついにあいつの指定した場所まで来た。ここは大通りから外れていて、左に進めばアパート、右に進めば人の多い街に続く。今はいったい何時だ。

「タカジー、状況!」

「もう七時まわったぞ!」

 さすがタカジーだ、シンプルに返してくれる。

「お前今までどこにいたんだ?あと二人しか来ねえぞ!」

 イヤホンから聞こえてくる声も、私の心も焦りでいっぱいだ。

「ごめん、あと二人、ぜったい見つけるから!」

「ちょっとそこのコンビニまで来い!急げ!」

 私はタカジーの指示通り右に進み、一番近くのコンビニまで行く。ここは繁華街のど真ん中で、ライブ会場の近くと打って変わって、大勢の人でにぎわっている。入り口の前に、タカジーが待っていた。全身に汗をびっしょりとかいて、背中には大きなリュックサックを背負っている。

「タカジー?」

 無線で指令役を務めていたはずだ、どうしてここに?

「お前がずっと音信不通になるから、俺も出てきたんだよ!一時間くらい探してるけど、全然見つからねえ。人が多すぎるんだよ、東京は」

「ありがとう、サワちんは?」

「まだ何の連絡もない、叔父さんを止めてくれてる。それより宮水、もう時間がない。二人で探しても絶対に見つからねえし、誰かを説得するのはもう無理だ」

 タカジーの言うとおりだ、説得はもう無理だ。そして、二人で探すにはあまりにも時間が足りない。

「でも止めなきゃ。このままだと、糸守は絶対に復興せんの!」

 私はコンビニの明かりに照らされながら、必死に訴える。

「マジで起きんのか、テロが」

「起きる!この目で見たの!」

 タカジーの目をまっすぐ見て言う。タイムリミットはあと一時間と少し、説明している暇なんてない。タカジーは一瞬怪訝そうな顔をするが、「はっ!」と気合を入れるように自分の手のひらを打ち合わせる。

「見たのか、同じ部活のよしみだ、信じてやる。俺の最後の作戦、聞け」

「うん!」

 そう言って、私はタカジーについて走り出す。

「こうなったら危険を承知で、アパートの前で張るしかない。そうすれば絶対に見つけられる。ただ、お前がいくら黒帯級でも、一度に九人も来られたらさすがに敵わん」

「だから、あらかじめ警察を近くにおびきよせとくんだ。そうすればすぐに現場に来てもらえる」

「うん、でもどうやって?」

「お前らが出て行った後、最悪のパターンを想定していろいろ調べてたからな。この近くにある廃ビルから、ありったけの花火を飛ばしてやる。夏休みで余ったのが大量に家にあったからな、季節外れの花火大会だ!」

 私たちは、大通りに面しているのに電気のついていないビルにたどり着く。裏口に回ると勝手口のようなドアがあり、チェーンがかけられ、テナント募集中、関係者以外立ち入り禁止、と注意書きがされている。

「よし、これでもう不法侵入、二人仲良く犯罪者だ!」

「もう無線機盗んどるし、大丈夫。責任は全部私が!」

「バカ野郎、そんなこと言ってんじゃねえぞ!花火のセット、手伝え!」

 タカジーはそういうと、思い切りドアを蹴って破る。私はごくりとつばを飲み込む。もう、後戻りはできない。チェーンの下をくぐり、ビルの中へと入る。

 真っ暗な階段を、スマフォの明かりを頼りに最上階のフロアまで駆け上がる。

「まず打ち上げ型のやつを一発撃って、みんなの注目をあつめる。そのあとは音が激しいロケット花火をがんがん打って、誰かが警察に通報してくれるのを待つ」

 タカジーはリュックサックをひっくり返し、大量の花火を何もないコンクリートの床にばらまく。

 私は、その中からろうそくとライターを見つけ、火をつける。

「え~ん、四葉ちゃん、まだぁ?」

 右耳に、サワちんの泣きそうな声が聞こえてくる。その声に、私は胸が締め付けられる。

「ごめんサワちん、でも、お願いやから!」

 ばれたら、サワちんだっていたずらではすまない。しかも、すでに何時間も叔父さんを止めて続けている。私が同じ立場だったらとっくに泣き出してたはずだ。

 私のために、サワちんはありったけの勇気を振り絞ってくれている。

「一生のお願いやから!私たちがこれをしないと、たくさんの人が死ぬんよ!あと一時間だけ時間を稼いで!」

 返事がない。無線からは何の音も聞こえない。

「サワちん?サワちん?」

「叔父さんがトイレから戻ってくるよぉ。四葉ちゃん、終わったらライブのチケット、私とタカジーの分やからね!」

 震える声で、でもしっかりとした口調でサワちんは言う。

「サワちん、なまってる」

 私はうれしくて、つい笑う。向かいでは、タカジーも同じようにニヤリとして、マイクを握る。

「そうだ!やってやれ!」

 大声で叫び、小型の打ち上げ花火に火をつけ、タカジーは続ける。

「準備はできた。行け!宮水!俺も全部撃ち終えたら探しに戻る!」

 私はうなずきを返し、階段を駆け下りる。後ろから、ヒュッという発射音のあと、けたたましい破裂音が聞こえる。窓の外から、赤や黄色の光がちらついて見える。

「ははっ!次だ次!」

 タカジーの笑う声を背中に感じながら、私はビルの外に出る。大通りに目をやると、たくさんの人が上を見上げている。まぶしそうに顔をゆがめるおじさんや、何事かとイヤホンを外して周りを見渡す若者、スマフォでうれしそうに写真を撮る人もいる。

 上からは、ロケット花火のヒュンヒュンという音と煙りが絶え間なく降り注いでくる。私は大通りに戻り、駅に向かって走る。最後から二番目に来る犯人が駅を通るのは、ちょうどこの時間なのだ。うまくいけば出くわすかもしれない。

 間に合え!間に合え!

 ごったがえす夜の人波をかき分け、必死に走ること五分、駅に着いた。しかし、だめだ、やはり人が多すぎる。三十秒ほど辺りを見渡すが、情報量の多さに頭がくらくらする。私は回れ右をして、タカジーの言った通り、アパートに向かって走り出す。

 来た道を戻っていくと、さっきよりも人が集まっていることがわかる。ロケット花火の破裂音と、通行人のざわめきが道をふさいでいる。これでは通れない。私は裏の路地に入って、走り続ける。ひときわ大きな爆発音の後、一瞬の静寂が街を包み込む。

 ここまで大きな事態にしてしまった。

 やったのだ。私たちが。

 突然、静寂を打ち破るようにサイレンが聞こえ始める。

 

 ゥウウウーウウゥゥ、ゥウウウー………………!

 

 四方八方から、最初は小さく、そして徐々に大きく鳴り響く。パトカーの赤い光と耳をつんざく音が、ビルの森に反射する。

 誰かが通報した。タカジーは無事に抜け出しているだろうか。

「宮水!うまくいった!お前はアパートの前に行け!俺は途中の道を探す!」

 イヤフォンから、タカジーの声が聞こえる。よかった。

「うん!」

 私は、走るスピードを上げる。

 

 目の前に、アパートが見えてくる。あと五百メートルといったところだ。いつの間にかサイレンは消え、赤いランプが遠くのビルの隙間からちらちら見える。この辺りは人通りがほとんどない。と、脇の道から出てきた人影が、アパートの中に消えていく。パトカーの光が見えるせいか、小走りでそそくさと中に入っていく。アパートの頼りない明りに照らされたその背中には、大きな黒いカバンと、左手にこれまた大きなキャリーバッグ。この特徴は――最後から二番目、爆弾の材料を持って来たやつだ。

 間に合わなかった。私はタカジーに無線で報告する。これでもう、残るはあと一人。テロの首謀者で、銃を持ってくる奴だ。正直、こいつとは会いたくなかった。銃というものは、その人物の強さに関係なく撃てる。至近距離であれば、狙う必要もない。私がどれだけ柔道の技を仕掛けても、一発もらえばそこで終わりなのだ。でも、あきらめるわけにいかない。

 私は走るのをやめ、ゆっくりと、怪しまれないようにアパートに近づいていく。入り口からほんの数メートルというところで電柱の陰に隠れて、アパートに背を向ける。目の前には、ひとっこひとりいない大通りに続く長い道と、そこから左右に何本かの脇道がつながっている。みんな、表の花火につられて出て行ったのだろうか。逆に奴らを見つけやすいかもしれない。この脇道の、どれかから出てくるはずだ。

 乱れた息を整えて、気持ちを落ち着かせる。遠くでは、警察が花火の痕を見終わったのだろうか、赤い光が一つ、また一つと消えていく。

「ああ、行ってしまう!」

 独りつぶやいた、その時だ。

「どうしよう四葉ちゃん!叔父さん、無線機無いのに気が付いて、探しに行くって出て行っちゃったの。このままだと使えなくなっちゃうよ!」

 サワちんの報告に、私は焦る。

 まだ来ていないのに――

「いた!いたぞ!」

 今度はタカジーだ。興奮している。間違いない。見つけたんだ。

「アパートから大通りまで、二本目の路地だ、宮水――」

 

 暗闇に、一発の銃声が響いた。

 

 全身の毛が逆立つ。ゾワリ、と悪寒が走る。まさか。

 鼓動が早くなって、汗が噴き出す。何をすればいいのか、わからなくなる。

「宮水……宮水……」

 右耳に、今にも消えそうなタカジーの声が入る。私は恐怖で足がすくむ。アパートの部屋に光がともる。

「タカジー?」

 私は、泣きそうになりながら聞き返す。嘘であってほしい。

「わりい、せっかく見つけたのに……油断して逃がした」

 逃がした?そんなことはどうでもいい。タカジーはどうなのだ。

「タカジー、けがは?」

「一発撃たれたけど、こんなもんかすり傷だ。気にすんな」

「ダメだよ!タカジー死んじゃったら、私も、サワちんだって!」

 タカジーが撃たれた!どうしよう!どうしよう⁉救急車を呼んで、それから――

「知るかバカ!これはお前が始めたことだ!俺は撃たれて動けねえ!あと止められるのはお前だけだ!糸守を救うんじゃねえのか!死んでも止めろ!でも死ぬな!」

 タカジーの言葉で、背中を思いっきり叩かれたみたいに私は飛び出す。

「……うん!待ってて!すぐに終わらせる!」

 まっすぐ走って、アパートから二つ目の路地へ、右と左、どっちだ?暗闇に目をこらす。右の方を見ていた時、背後に、人の気配を感じた。

 振り向いた先に、目をらんらんと光らせた男がいる。暗闇の中、その表情は読めず、男の荒い息遣いだけが不気味に大きく聞こえてくる。タカジーともみ合ったのだろう、少し乱れたその服装は、灰色の上着、黒いチノパン、右手に――拳銃。

 見つけた!

 そう叫んで、男との間合いを詰めていく。上着の襟をつかめればこっちのものだ。

 

 極度に集中した試合でよくあるように、自分も含めたすべての動きがスローモーションのように感じる。

 

 相手の呼吸、目線、手の動き、すべてが手に取るようにわかる。

 

 動揺して、初動が遅れている。

 

 私は最短距離で近づいていく。

 

 右手を伸ばし、男の襟をつかむ。

 

 左手も前に出し、同じようにつかみにかかる。

 

 体をひねり、足をしっかり地面につけて、男の下に潜り込む。

 

 重心の移動を利用して、男を投げる。

 

 相手が地面に叩きつけられる。

 

 やった。喜びが全身を駆け巡る。

 

 それが、油断になる。

 

 地面にのびている男が、もぞもぞと動き出す。

 

 壁にもたれながら立ち上がり、私と距離をとり始める。

 

 頭ではわかっているのに、私の足はなぜか動かない。

 

 怖い。

 

 振り向いた男の右手が、ゆっくりと上がる。

 

 怖い。

 

 銃口が、私を向く。

 

 怖い。

 

 駄目だ、間に合わない。

 

 強烈な光と音で、私の目と耳は機能しなくなる。胸に強烈な衝撃を受け、弾き飛ばされるように倒れる。

 

「……っ」

 声も、呼吸も止まる。

 

 意識が闇に引きずり込まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……………………

 …………

 ……まだ、生きている。

 閉じていた喉が開き、冷たい空気が肺に流れ込んでくる。左胸がずきずき痛む。

「……はっ」

 意識が、戻る。

 左胸の違和感に、手を伸ばす。何かが触れる。

 カメラだ、あいつの――

 銃弾がもうすぐで貫通しそうな、でも、ぎりぎりで止まっている。大きく変形して、背面が山みたいに盛り上がって、側面はひびと隙間だらけだ。なんだこれ、映画みたいだ。普通なら木っ端みじんになるじゃないのか。なぜか頭はクリアで、冷静にそんなことを考えてしまう。

「あ……」

 カメラにへばりついていた封筒が目に入る。

「四葉ちゃんが大好きな写真が入っとる。寂しい時、つらい時、苦しい時、それを見たらええ」

 あいつの声が、聞こえる。中身を、取り出す。ハート形の島が、目に入る。何気なく、写真をひっくり返す。

 

 

 がんばれ!四葉ちゃん!

 

 

 息をのむ。全身に、力がみなぎる。ゆっくりと、よろめきながら立ち上がる。もう一度、あいつのメッセージを見る。右下には、《ファンクラブ会員 古川 弾》と書いてある。

 ……嘘つき、とつぶやく。涙が溢れて、文字がぼやける。冷え切っていた体に、胸の奥から温かい熱が戻る。私は泣きながら笑って、あいつに言う。

 名前書いとるなら、かっこつけてないで言いない、あほ。

 そしてもう一度、あいつの字を見る。

 全く、私の気も知らないで。

 がんばれ?

 痛くて、怖くて、もうやめたいのに。

 もう一歩も踏み出せないのに。

 大好きな君に言われたら。行くしかないじゃないか。

 世界のどこにいても、必ず逢いに行く?

 ちがう。

 あいつはもう、逢いに来てくれた。

 次は、私の番だ。

 だから生きる。

 ぜったいに生き抜く。

 彗星団を止めて、あいつに逢いに行く。

 

 

 

 喉がさけるくらいの声で、叫ぶ。ひざは震え、頭は必死にここから逃げろと訴えてくる。怖くて涙が止まらない。それでも、叫ぶ。

 

「待てえええぇぇぇ!」

 

 その声にびくっと肩を振るわせ、逃げていた男はおびえたように振り向く。私に投げられて怪我をしたのか、男はまだ少ししか進めていない。

 逃がすもんか。

 私は、警察無線の赤いボタンを押して投げ捨てる。ピーッ、という音を置き去りにして、男に向かって走り出す。

 飛んでくる銃弾が、頬をかすめ、左腕に当たる。痛い、でも止まるもんか。耳元に空気が走り、下腹部に激痛が走る。痛い!でも、止まるもんか!

 私は、独りじゃなかった。

 いつでもそばに、あいつがいてくれる。

 だから!負けない‼

 

 呆然とする男の右腕を掴んで、巻き込む。

 右足を軸にして、体を左にひねる。

 そして、男を地面に組み伏せる。

 

 かすむ視界の中に、アパートから走ってくる人影が見える。何人もいる。ああ、まずい。

 でも、急に人影がぴたりと止まる。遠くからかすかに、サイレンの音が聞こえる。赤い光も見えて――

 

 そのまま、視界が光でいっぱいになった。

 

 

 

 

 

第十三章 あるべきところに

 

 

 

 ピッピッ、規則正しいリズムが聞こえる。うるさいなあ、体がすごくだるい。まだ寝ていたい。

 ピッピッ、だめだ、うるさい。

 私は諦めて、目を開く。白い天井と、白いシーツ、白いフレームのベッド、なんだかよくわからない機械がいっぱい。

 目線を左にずらすと、座ったまま頭だけかくん、と下げて寝ている女性がいる。

「お姉ちゃん……?」

 痛む体を起こし、おそるおそる声をかけると、姉ははっと目を覚まし、私の顔を見る。その眼にみるみる涙がたまり、頬をつたう。

「四葉!」

 泣きながら抱き着いてきた。

「ちょっと、お姉ちゃん、苦しっ、痛い、痛い!」

 体を揺らされてお腹と左腕に焼けるような痛みが走る。お姉ちゃんは体を離してくれるが、代わりにがみがみとお説教を始める。

「あんた、なんて無茶しとるの!どこかに急に飛び出して、私もお父さんも必死に探しとったに!そしたら、銃を持っとる人を取り押さえとって、もうすぐで死ぬとこやったんやよ!お祖母ちゃんの寿命を縮める気?」

「ご、ごめんやよ、お姉ちゃん」

 私は謝る。しかし――

「今日、何日?私、どれだけ寝とったん?」

 窓から外を見ると、赤くなった太陽の光が目にまぶしい。いつの間にか、夜から夕方にワープしてしまった。

「今日は十月五日。あんたは昨日の夜運び込まれて、明け方手術が終わったばっかり。左腕は貫通しとったけど、お腹の方は中に弾が残っとって大変だったのよ。私がずっとつきっきりで――」

「え?でもお姉ちゃん、今日大事な仕事やって、前から言っとったに……」

 一週間前からそんなことを言っていたのを私は思い出す。どうしよう、私のせいで。

 困る私に、お姉ちゃんはちょっと怒ったように、でも笑いながら

「なに言っとるの、あんたより大事な仕事なんか、この世にあるわけないでしょ」

 と言って、頭をなでてくれる。嬉しいような、恥ずかしいような、なんだかむずがゆい感じがして、私ははにかみながら下を向く。

 そうして自分の胸のあたりを見ると、何かを忘れているような感覚にとらわれる。そういえば、ここも撃たれたような、でも大きな怪我になっていない。何かに守られたような……

「あ!お姉ちゃん、カメラ!カメラは⁉白いカメラなかった?」

「カメラ……?そういえば、警察の人が証拠品だから預かりますって、私、書類書かされたわ」

「ええ⁉じゃあ今は……」

「心配せんでも、捜査が終わったら返してくれるって言ってたわよ」

 それを聞いて、痛む胸をなでおろす。よかった。だってあれは――あれは、なんで大切なんやっけ?大切だということは分かるのだが、理由が思い出せない。暗証番号を忘れてしまったように、どんな答えを入力してもしっくりこない。

「そうそう、この写真はお返ししますって、預かってきたわよ」

 お姉ちゃんが、足元からカバンを拾って、その中から一枚の写真を取り出す。

 写真には、ハート形の島が写っている。妙に懐かしい感じがするが、これもカメラ同様、細かいことはよく思い出せない。何気なく、写真をひっくり返す。

  がんばれ!四葉ちゃん! 

 息をのむ。全身に、力がみなぎる。もう一度、メッセージを見る。右下には、《ファンクラブ会員 古川 弾》と書いてある。

 この筆跡を、私は知っている。とても大切な名前も見える。遠い昔、いや未来、夢の中で見たような、これから見るような、そんな淡い記憶が脳内にちらつく。

「あんたファンクラブなんてあるの、人気者やねえ」

 横から覗き見て、お姉ちゃんがぽそり、と言う。

「ないない!そんなものないよ!」

 恥ずかしくて必死に否定するが、お姉ちゃんはふふーん、と鼻息が聞こえてきそうなくらいにやにやしている。

「で?その古川……弾くん?って誰やの?もしかして彼氏?」

「うーん、それがわからんの。大事な名前のような気がするんやけど、思い出せんで……ああ、もう、わからん!」

 考えれば考えるほど煮詰まってしまい、イライラする。まどろっこしいことは嫌いだ。とりあえず、なくさないようにベッド脇の棚に写真を入れておくことにした。

 お姉ちゃんはそんな私を不思議そうに眺めていたが、特に何か突っ込むこともなく、静かにいたわってくれる。

「急にいろんなことがあったから、疲れが溜まっとるんやよ。しばらく横になって、ゆっくりしない」

「うん。ありがと」

 手短に答えて、私は再び横になる。

「あ、そうそう、高藤君もこの病院に入院しとるみたいやから、よくなったら連れてってあげるわよ」

 そう言って、お姉ちゃんは私の額に手をあてて、ゆっくりとなでてくれる。じわりと温かさが伝わってきて、心地よかった。

 

 

 

 季節は冬に変わった。私は、朝家を出て、職場で仕事をして、帰り道に四葉のいる病院による。そんな生活をこの二か月、続けていた。

 さっきまで雨だったけれど、夜になって気温が下がったせいか、雪に変わっている。

 大気にたっぷりと満ちた湿気のおかげか、雪の舞う町は妙に暖かく、私は間違った季節に迷い込んでしまったような不安を不意に感じる。

 歩道橋の上を歩いていた時、ふと何かに引っ張られるような感覚がして、立ち止まって後ろを振り返る。傘の向こうに見えるのは、後姿のスーツを着た男の人だ。何かを感じるその人から数秒、目が離せなくなる。けど、四葉が病院で待っているのだ。私は釘付けになった目線を引きはがすようにして、もう一度歩き続ける。

 どうしてあの日、四葉が彗星団の犯行に気が付いたのか、理由は分からなかった。四葉自身、気が付いたらあの場所にいたらしい。病院の先生によれば、血を流しすぎた影響で脳の血液が足りなくなり、一時的な記憶障害が起きたのではないか、とのことだ。

「あ、お姉ちゃん」

「元気にしとる?」

「今日はやっと車椅子で動ける許可がおりたんやよ、お姉ちゃん、()よ連れてって」

「ちょっと待ちない、着替えとか持って来たんやから」

 四葉はもう待ちきれないようだ。高藤君も四葉もずっとベッドから出られず、米沢さんが二人の間を行ったり来たりして見舞ってくれていたのだ。

 私は四葉の車椅子を押して、高藤君のいる病棟へ向かう。ご機嫌な四葉は、入院中にあったいろんな話をしてくれる。私は空いてる時間には勉強しなさいよ、と注意する。いつもの平和な日常が、徐々に戻りつつある。

「えーと、ここやね」

 入り口の名札に書いてある「高藤流星」の文字を確認し、私たちは中に入る。相部屋のため、中はカーテンで仕切られていて見えないが、四葉はそれをおかまいなしに思いっきり引く。

「久しぶり!タカジー、遊びに来た……よ」

 そこまで言って、四葉も私も言葉が出なくなる。

 視線の先では、口を半開きにして固まっている男の子と、その口にケーキを運んでいる女の子が、これまた固まってこちらを見ている。

 四葉は無言でカーテンをいったん元に戻し、再び開ける。

「久しぶり、タカジー、遊びに来たよ」

 ものすごく、棒読みで挨拶する。

「お、おう、久しぶりだな、宮水」

「四葉ちゃん、お久しぶりー」

 友人二人は何もなかったかのように離れている。ケーキはどこに行ったのかしら。

「ごめんなさいね、なんだかお邪魔しちゃったみたいで」

 私は一応、謝っておく。

「な、なんにもありませんから!あ、お姉さん、ケーキどうですか?私、作ってみたんですよぉ」

 パタパタと手を振ったり、慌ててカバンの中からケーキを取り出したり、可愛い子だな、と思ってしまう。

「ふふ、ありがとう。でもせっかくやから、みんなで食べて。四葉、あとで迎えに来るから連絡するんやよ」

 私は手を振って部屋を後にする。後ろからは、冷やかしの言葉をかける四葉と必死に言い訳をする二人の、楽しげな会話が聞こえてくる。

 いつもの平和な日常が、徐々に戻りつつある。

 

 

 

 桜が咲いて散り、長い雨が街を洗い、白い雲が高く沸きあがり、葉が色づき、凍える風が吹く。そしてまた桜が咲く。

 日々は加速していく。

 俺は大学を卒業し、なんとか手にした就職先で働いている。揺れる車から振り落とされないような必死さで、毎日を過ごしている。ほんのすこしずつだけれど、望んだ場所に近づいているように思える時もある。

 朝、目を覚まし、右手をじっと見る。人差し指に、小さな水滴がのっている。ついさっきまでの夢も、目尻を一瞬湿らせた涙も、気づけばもう乾いている。

 あとすこしだけでいいから――、そう思いながら、俺はベッドから降りる。

 俺は電車のドアによりかかり、外を見る。ビルの窓にも、車にも、歩道橋にも、人が溢れている。百人が乗った車輛、千人を運ぶ列車、その千本が流れる街。それを眺めながら、あと少しだけでいいから、と俺は願う。

 その瞬間、なんの前触れもなく、俺は出逢う。

 ほんの一メートルほど先に、彼女がいる。名前も知らない人なのに、彼女(、、)だと俺にはわかる。しかしお互いの電車はだんだんと離れていく。そして別の電車が俺たちの間に滑り込み、彼女の名前は見えなくなる。

 でも俺は、自分の願いをようやく知る。

 

 ずっと誰かを、探していた!

 

 停車した電車から駆け出し、俺は街を走っている。彼女の姿を探している。彼女も俺を探していると、俺はもう、確信している。

 俺たちはかつて出逢ったことがある。いや、それは気のせいかもしれない。夢みたいな思い込みかもしれない。前世のような妄想かもしれない。それでも、俺は、俺たちは、もうすこしだけ一緒にいたかったのだ。あとすこしだけでも、一緒にいたいのだ。

 細い路地を曲がると、すとんと道が切れている。階段だ。そこまで歩き、見上げると彼女がいる。

 走り出したいのをこらえて、俺はゆっくりと階段を登り始める。花の匂いのする風が吹き、スーツを膨らませる。階段の上には、彼女が立っている。でもその姿を直視することが出来なくて、俺は目の端で彼女の気配だけをとらえている。その気配が、階段を降り始める。春の大気に、彼女の靴音がそっと差し込まれている。俺の心臓が、肋骨の中で跳ねている。

 俺たちは目を伏せたまま近づいていく。俺は何も言えず、彼女も何も言わない。そして言えぬまま、俺たちはすれ違ってしまう。その瞬間、からだの内側で直接心を掴まれたように、俺の全身がぎゅっと苦しくなる。こんなのは間違ってると、俺は強くつよく思う。俺たちが見知らぬ人同士だなんて、ぜったいに間違っている。宇宙の仕組みとか、命の法則みたいなものに反している。だから、だから、俺は振り向く。

「あの、俺、君をどこかで……!」

 まったく同じ速度で、彼女も俺を見る。東京の景色を背負って、瞳をまんまるに見開いて、彼女は階段に立っている。

 彼女の長い髪が、夕陽みたいな色の紐で結ばれていることに、俺は気づく。全身が、かすかに震える。

「私も……」

 やっと逢えた。やっと出逢えた。彼女の流す涙を見て、俺の目からも涙が溢れてくる。泣きながら笑う。それを見て、彼女も笑う。予感をたっぷり溶かし込んだ春の空気を、思い切り吸い込む。

 

 そして俺たちは、同時に口を開く。

 

 いっせーのーでとタイミングをとりあう子どもみたいに、俺たちは声をそろえる。

 

 ――君の、名前は、と。

 

 

 

 

 

第十四章 君のこと。

 

 

 

「そのあと、おとーさんとおかーさんはどーなったの?」

 右下から、無邪気な疑問が投げかけられる。

「そのあとは、カフェに行って、夜は晩ごはんを一緒に食べたよ」

 俺は、手をつないだ先にいる彼女に答える。

「かふぇ?」

 しらない言葉が出てきて、想像ができないみたいだ。

「この町にはないけど、都会に行ったら、コーヒーを飲むおしゃれなお店があるんだよ」

「ふーん。そのあとは?」

 俺たちは立ち止まって、右に見えるひょうたん型の湖を眺める。真ん中のすぼんだ部分にぴかぴかの橋がかけられ、対岸まで車で行き来できるようになっている。

「そのあとは、お父さんとお母さんの友達とか、おじいちゃんやおばちゃんに、不思議なことがありましたって、話をしに行ったよ」

「ふーん。そのあとは?」

 少女は、続きが気になってしょうがないみたいだ。俺はキラキラ光る水面を眺めながら、小さく笑って続ける。

「そのあとは、お母さんとデートして、一緒に住むようになったよ」

 初めてデートに誘って、初めて手をつないだっけ。

「けっこんしたの?」

「ううん、結婚する前に一緒に住んでたんだよ」

 最初の緊張が少しずつほぐれて行って、よくケンカしてた毎日。

「けっこんは?」

「結婚は、もう少し後だったよ。お母さんの持ってるきれいな指輪、頑張って作らなきゃいけないだろ?」

 ウエディングドレス着たいって言われて、結局神前式と両方やる羽目になった。でも、どっちの三葉もとびきりきれいだった。

「ゆびわ!きれーですき!」

 目を輝かせて、うれしそうに笑っている。

「わたしも、ゆびわほしー!」

「いつか、不思議な夢を見る。その夢を、大事にするんだ。そうすれば、いつかきっと、誰かが、きれいな指輪を持って逢いに来てくれる」

「ほんとう?」

 俺はひざを曲げて彼女に目線を合わせ、確信をもってうなずく。

「本当だよ。お母さんも、おばちゃんも、今はもういないお祖母ちゃんや曾祖母ちゃんにも、そんなことがあったんだよ。大丈夫。宮水の女が孤独だったことは、一度もない」

「コドク?ふーん」

 ちょっと難しい話で興味を失ったのか、彼女は俺から目を離し、元来た道を戻り始める。その後ろ姿を眺めていると、視線の先に見覚えのある車が見える。俺は坂道を上って、車から降りてくる人影に近づく。

「四葉ちゃん、久しぶり」

「あ、瀧兄ちゃん。久しぶり」

「この前はミカンありがとう、とってもおいしかったよ。テッシーのとこも喜んでた」

「四葉おばちゃんだー!」

 少女に抱き着かれて、四葉ちゃんは少しよろめく。

「おー、大きくなったねー、もう何歳?」

 そう言いながら、少女の頭をくしゃくしゃとなでる。

「このまえね、えっとね、一、二、三、四さい!」

 人差し指を立てて数えながら、嬉しそうに答える。

「そうかー、もう四歳かー」

 これまた嬉しそうに答える四葉ちゃんだが、そのフォルムに違和感を感じて、つい口に出してしまう。

「四葉ちゃん、それ……」

「あっ、お姉ちゃんにはまだ内緒ね、びっくりさせたいから!」

 唇に人差し指をあて、無言でしーっと、言う。下の方でも、少女がつられて同じことをする。

「お義父さんは知ってるの?」

「一応連絡はしとるよ、でもお姉ちゃんには言わんように頼んで……、ちょっとあんた、()よ荷物運びない!」隣の旦那に蹴りが飛ぶ。

「い、痛いって」

「あいかわらずスパルタだね」

 俺は苦笑いしながら、荷おろしを手伝う。少女の先導で来客二人は先に玄関に向かい、チャイムを鳴らしている。中から、迎えが出てくる。

「あらやっと来たの、いらっしゃい――四葉⁉あんたそのお腹……」

 驚きと喜びがまじった叫び声が、玄関先に響く。

 それを聞きながら、俺は残りの荷物を持ち上げる。家の方から、ぱたぱたと少女が走ってくる。

「わたしもてつだうー」

「お、じゃあこれ持って、落とさないようにね」

 俺はカメラが入った小さなカバンを手渡す。少女はそれを一生懸命両手で受け止め、少しずつ歩いていく。ふと、立ち止まって俺の方を振り返る。

「ねー、おとーさん」

「なあに?」

「さっきのはなし。もし、わたしにゆびわもってきてくれて、うれしかったら、どうすればいいの?」

 この子はまだ、知らないことがいっぱいある。知らないというより、分かるようになってきたから、覚えることがたくさんあるのだ。

「簡単だよ。伝えればいいんだ」

 俺は、少女の顔をまっすぐ見て言う。向こうから、姉妹が久しぶりの再会を喜ぶ声が、空高くからは、トンビの鳴く声が、町からは、活気のある生活音が聞こえる。その音に混じって、少女は首をかしげて聞いてくる。

「つたえる?」

 俺はうなずいて、大切な感情を、言葉をつぶやく。人が皆、人である故に、必ず口にする言葉。

 

 君の、ことが――。

 

 

 

 

 



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