姉弟の退屈しない夢語 (天むす)
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姉弟の退屈しない夢語 上


とりあえず無印編だけでも書き切れるといいね。そんな思いが詰まったアサシン直前までのF/HF(イリヤとエミヤ)×プリヤです。
結構捏造が酷い上、独自設定を盛っています。魔法の言葉「原作様とは一切関係のない二次創作です」
天むすの趣味!! 趣味作品(当たり前)です!!

前提設定
Fate/SN〔HF〕in プリズマ☆イリヤ


 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン
アーチャーを連れて大聖杯を閉じたイリヤ。その後ユスティーツアと混じり合う過程で「もっとシロウと一緒に外の世界に居たかったなー……」とか考えていたら、その願いを聖杯が叶え、アーチャーと一緒にプリヤ時空を遊ぶことになった。
新都の方で喫茶店を開きながら暮らしており、店の看板娘。大聖杯と繋がっており、聖杯パワーで奇跡のオンパレードだぜ。
プリヤ時空のイリヤたちのことはもちろん知っているが、彼らの世界を壊すような関わりを持たないようにしている。アーチャーに「姉さん」と呼ばせている。

 エミヤシロウ
HF√のイリヤに回収されたサーヴァント・アーチャー。座へ戻る前にイリヤと共にプリヤ時空へ放り出された。
新都で聖杯喫茶なる喫茶店を開いており、そこの店長。聖杯パワーにより全快しているが、士郎へ移植した左腕は生きているので隻腕のまま。マスターがイリヤなのでステータスも上がっている。
筋力C 耐久B 敏捷B 魔力A++
幸運E 宝具???
イリヤに「お兄ちゃん」と呼ばれている。

 プリヤ時空in前に、その過程で平行世界(冬木の聖杯が関わる世界全て)の記録が二人にはinされています。
 イリヤはアーチャー大好きですし、アーチャーもイリヤが一番大事な感じです。

12/29 修正
19/01/31 修正
19/03/07 修正




 000

 

 

 

 某県にある冬木市新都には、ビル郡に隠れるようにそっと、小さな喫茶店がある。その名は《聖杯喫茶》と言い、白髪に褐色の肌を持つ隻腕の男と、銀髪に紅い瞳を持つ美しい少女が切り盛りする、ちょっと不思議な義姉弟の、何処にでもある至って普通の喫茶店だ。

 午前七時半。まだ「準備中」の看板が立てられているその店の戸を、看板娘が疲れた様子で押し開いた。

「ただいま~お兄ちゃ~ん」

「お帰り、姉さん」

 姉と呼ばれた少女が男を兄と呼び、兄と呼ばれた男が少女を姉と呼ぶ。なんともあべこべなことだが、二人が気にしている様子はない。

 少女はそのままふらふらとカウンター席に凭れるように座ると、図ったように置かれていたオレンジジュースを手に取り、豪快に喉を鳴らして飲み干した。オレンジジュースを置いたのは当然目の前に男で、少女の飲みっ振りを眺めると、「それで」と口を開いた。

「やはりなかったのか?」

「……ぷはぁ。うん、なかったよ。綺麗さっぱり別物と入れ替わってた(・・・・・・・)

「原因に変わりは?」

「ないわ。やっぱり魔力の名残は感じたけど、もう混ざり過ぎて辿れない。何か変なのに遮られているみたいな感じがするんだよね」

「イリヤスフィールで無理なら、尚更私では探せんだろうな」

「こら、シロウ!」

 と、少女――イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、ムッとした表情を作って男を叱るように人差し指を突きつけた。

「私のことは『お姉ちゃん』か『イリヤ』って呼ぶ約束でしょ!」

「ああ、そうだったな。うっかりしていたよ、姉さん」

 男――エミヤシロウは、イリヤスフィールの指摘に照れ笑いを浮かべる。

 こういった生活をもう一年は続けているが、シロウにとっては中々慣れるのが難しい。

 かつて救えなかった(見殺しにした)姉が、自分のことを大切な家族(義弟)として受け入れ、こうやって何でもない日常を一緒に送れている。

 それはなんと言う幸福な夢だろうか。

 それはなんと言う残酷な夢だろうか。

 イリヤスフィールはシロウの姉ではないし、シロウもまたイリヤスフィールの求める弟ではないが、そんなことは互いに目を瞑れる些細なことでしかなく、今日も、彼らはこの不思議な舞台を続けている。

 ――というか、還れなくなった。

「はぁ……一年くらい遊んだらさすがに還るつもりだったんだけどなー」

「まさかその還り道を絶たれるとは……」

「聖杯は聖杯でも、そう言うところはやっぱり冬木の聖杯よね」

 はぁー、と義姉弟揃ってため息を()く。

 実は彼ら、この世界の住人ではない。所謂《異邦人》という者だ。それも異世界の。

 少々複雑な背景があるのだが、イリヤスフィールとシロウは、別世界にある《冬木の聖杯》に共に至った存在であり、その聖杯がイリヤスフィールの願いを気紛れに叶えたことが、彼らがここに居る経緯となっている。

 イリヤスフィールはただ、やっと出会えた弟ともっと遊びたいと思っただけだった。喩え共にあるシロウが衛宮士郎でなかったとしても、彼が自分の愛おしい弟であることに違いはなく、また救われぬ運命の中に溺れているのだと知れば、その運命へ還る時間を少しでも遅らせてやりたいと思った。それが、唯一残った家族と自分が得られる瞬きの夢であることは十分に承知している。彼と同じように、イリヤスフィールも、彼女が彼女であれる時間は少なかった。だから、少しでも互いの時間を埋め合いたいと、そう願ったのだ。

 元々駄目元ですらない、彼らにとっては過ぎた願いであったけれど、しかし何の因果か奇跡か、その願いを聖杯は聞き届けた。

 そう知った時には、イリヤスフィールとシロウは別世界の冬木に放り出されており、彼らは目を白黒させながらこの世界で一時の夢を見ることとなったのである。

「機能停止していたとは言え、大聖杯の解体が一年じゃそこらで終わるわけもないし」

「やはり、最近あったアレ(・・)のせいか」

「十中八九そうね」

 アレとは、近頃冬木市にて観測された霊脈の乱れを指している。

 それと同時に各所で歪みが生まれており、彼らが急いで原因だと思われる大聖杯の元へ向かえば、そこはもぬけの殻となっていたのだ。

「抜かったわ。大聖杯(あんな物)が突然なくなるだなんて思っても見なかった……どうやって還りましょう……いや、別に還る必要性は感じないけど、還らないのも還らないで色々不味そうなのよねー」

「聖杯の気紛れはよくわからないな」

「まあ、中身があれじゃあ、ねぇ?」

 頭が痛い、とイリヤスフィールは額を覆う。

 この何時まで続けられるわからないな夢も、還る手段であった大聖杯の消失も、ついでに聖杯の中身がアレで、そしてここが元居た世界の平行世界(・・・・・・・・・・)であることも、何もかもが彼らを悩ませる種となっている。

「……私たちが少々特殊であり、この世界の私たちとは別人であるため、まだ抑止力は抑えられている方だが……」

「気付かれてはいないからね。でも、それがずっと続くかはわからない」

 ここに居るイリヤスフィールは、大聖杯と一体となった物であり、エミヤシロウは既に死んでいるサーヴァント。これらをこの時代でただの人として生きる彼ら(自分)と同一人物である、と考えるのは少し難しい。

 ましてや、随分とルートが変化している世界であるために、彼らと自分らの違いは埋めようのない溝で隔たれているとも言える。

「教会の方にも寄って来たけど、何かカードがどうとか言っていたわ」

「カード?」

「ええ。もう既に魔術師が二枚回収して向こう(時計塔)に持って行ったみたいだけど……聞いた感じ、無関係とは言えないでしょうね」

 イリヤスフィールは席から立ち上がり、コップをシロウへ渡すと、代わりに赤いエプロンを受け取って身に付ける。

 ふわりと広がるエプロンには《Holy Grail》とプリントされており、慎ましいイリヤスフィールの胸元を覆い隠した。

「まあ、今後のことについてはまた改めて考えましょう」

「ああ、そうだな。さて、姉さん。さっそくだがボードの方に日替わりメニューを書いといてくれないか?」

「合点承知!」

 九時の開店に向け、義姉弟は手を動かし始める。

 その数日後の晩、二人の魔術師が仲間割れをした。

 

 

 

 義姉弟の退屈しない夢語

  001

 

 

 

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン――親しい者からは『イリヤ』と呼ばれる少女は、至って普通な小学五年生である。ちょっと貴族っぽい名前で、銀髪に赤目で、一戸建ての家にはメイドが二人居て、血の繋がらない義兄がいる、何処にでも居る普通の女の子である。

 ――というのは、昨夜までのこと。

「お、ちゃんと来たわね」

「そりゃあんな脅迫状出されたら……」

 今のイリヤは普通の女の子ではなかった。

 喋る星型ステッキを片手に、ふわふわミニスカートのピンクワンピースを身に付け、おまけに妖精のようなマントまで羽織っている魔法少女スタイル。どう見てもコスプレ。紛うことなきコスプレである。

 夜も深まったとは言え、些か問い質すべき案件であろうが、残念ながらこれには海より狭く谷より浅い訳がある。

 簡単に言えば、星型ステッキ――ルビー(愉悦製造機)による被害の結果であった。

 イリヤはひょんなことからルビーと魔法少女の契約をしてしまい、その経路からここ穂群原学園に彼女らを呼び出した魔術師・遠坂凛のサーヴァント(奴隷)となってしまっている。奴隷と言えど、内容は、本来は凛が探すはずだった《クラスカード》の回収をするというもの。要は、ルビーのせいでイリヤが凛の代行をしなくてはならなくなったのだ。

 そこの所にも、海より狭く谷より浅い訳があり、元々ペアであったこの任務だが、相方と仲間割れをしたために双方ステッキに見限られた、という仕様もない背景があるのだが、その詳細は省くとしよう。

「ってか、なんでもう転身してるのよ?」

『さっきまでいろいろ練習してたんですよー。付け焼き刃でもないよりはマシかと』

 元々イリヤは一般人である。それがいきなり魔法少女になって町を救え、などと言われても、基礎の「き」の字もわからなくては成りようもないため、待ち合わせの時間までルビーの指導の下、その力を試して来ていた。

『とりあえず基本的な魔力弾射出くらいなら問題なくいけます。あとの動作はまあ……タイミングとハートとかでどーにかするしか』

「なんとも頼もしい言葉ね……」

 ルビーの楽観的な発言に、凛は思わず呆れてしまう。

 駄目が元々での案件であるため期待してはいないが、これから実戦となる以上、それなりの形になっていなくてはどうしようもない。

 だが、不安がろうがルビーによってステッキのマスター権を拒絶されてしまっている。任務を遂行するために、凛はイリヤを頼るしか他にない。

「準備はいい?」

「う……うん!」

「カードの位置は既に特定してるわ。校庭のほぼ中央……歪みはそこを中心に観測されてる」

「中心って……なにもないんだけど?」

 イリヤの言う通り、彼女たちの目の前にカードらしき物は何もない。片付けられ、忘れたボールすらない綺麗に整備された校庭があるのみだ。

ここにはないわ(・・・・・・・)。カードがあるのはこっちの世界じゃない。ルビー」

『はいはーい。それじゃあいきますよー』

「わっ!?」

『半径二メートルで反射路形成! 境界回廊一部反転します!』

 途端、彼女たちの足元に魔法陣が広がった。

 ルビーの口振りから、これは彼女(?)によるワザなのだろう。

 驚くイリヤを他所に、凛は彼女のために今から飛ぶ世界(・・・・・・・)についての説明を続ける。

「無限に連なる合わせ鏡。この世界をその像の一つとした場合……それは境面そのものの(・・・・・・・)世界」

 突然、世界は反転した。

 先まで居た穂群原学園であるが、しかし圧倒的に世界が狭い(・・・・・)

 まるでこの学校しか世界がないように感じられ、また歪な色に染まった世界は、間違いなくイリヤの知らない別世界(・・・)であった。

 ここは世界と世界の境界――鏡面界である。

「この世界にカードはあるの。詳しく説明しているヒマはないわ! カードは校庭の中央! 構えて!」

「へ!?」

 その時、凛の言葉に答えるよう、校庭の真ん中にある(ひず)みから、ぬらりと人の手が現れた。

 まるでホラービデオの某貞なんとかさんのように現れたそれは、女である。

 紫の長髪を流し、顔の上半分を覆う女。

 一目で、それは人ならざる者であることを、イリヤに嫌と言う程理解させてくる。

「ヒーーッ!? な、なんか出てきたっキモッ!?」

「報告通りね……実体化した! 来るわよ!」

 イリヤが素人とは言え、相手は待ってはくれない。

 突撃して来た女は、大きく腕を振りかぶる。

 慌ててそれを避ければ、イリヤたちの居た場所に大きな窪みと、同時に校庭の一部が砕け散った。

Anfang(セット)――――! 爆炎弾三連!!」

 女の背中が無防備となっている。透かさず宝石を取り出した凛は、そこに込められた魔力を活性化させて魔術を繰り出す。

 ステッキに見捨てられようと、そこは時計塔主席候補。遠坂家は代々宝石魔術を極める魔術の家系であり、凛は希代の原石であった。そのため、彼女の攻撃は全て女に命中し、爆炎でその姿が見えなくなる。これでは女もひとたまりもないだろう。

「すごい!」

『いえ、まだです!』

 が、それは例外を除いての話。

 女は無傷でその爆炎を振り払うと、表情一つ変えることもなくそこに立っていた。

「やっぱり魔術は無効か……! 高い宝石だったのに!」

 女は人型であれど、人間で(あら)ず。

 多少でも傷付けられない無力さに、不適に笑みをたたえながらも歯を食い縛った凛は、右足を軸に一八〇度回転する。

「じゃ、後は任せた! わたしは建物の影に隠れてるから!」

「ええっ投げっぱなし!?」

『イリヤさん二撃目きますよ!』

 

 さて、イリヤと凛が悪戦苦闘している最中、鏡面界の穂群原学園、その屋上にて、イリヤと瓜二つの少女――イリヤスフィールは、まるで残念な物を見るようにして校庭を眺めていた。

「何あれ? アレがこの世界の私なの?」

「の、ようだな」

 隣には概念武装を身に纏うシロウも居り、この世界の柱である女――ライダーを何とも言えない表情で追っている。

 無理もない。元の世界ではあれ程献身的であり、悲運のマスターのために戦っていた彼女が、今では見る影もない暴れ馬となっているのだ。何も思うな、と言うのも無理な話だろう。

「あれは英霊でもサーヴァントでもない、ただの力の塊ね。それが元となっている英霊を象っているだけ。サーヴァント程の強さはないわ」

「君が言うのならそうなのだろうな」

「でも、面白いわね。アレ」

 イリヤスフィールはライダーを指差し、思考する。

「力の出所は例のカードで間違いないとして、そのカードが英霊の座へ繋がっているからこそ、カードからその力が漏れて歪みができてしまっている感じかしら? 機動力は周囲の魔力(マナ)を吸収しているのね……だから歪みができてるって感じかな」

「…………む?」

「どうしたの? 検討外れだった?」

 イリヤスフィールの説に、シロウが首を傾げた。

「いや、君の言うことは、やはり正しいのだろう。ただ……それが身に覚えがあるような……ないような……?」

「もしかしたらシロウの座にも繋がってるんじゃない?」

「その可能性もあるだろう」

 まったく、シロウは忘れっぽいんだから、とイリヤスフィールは肩を竦めた。

 英霊エミヤは守護者として酷使され続け、その記憶と記録の多くが磨耗してしまっている。そのため、彼自身ですら自覚できないことが多く、たまに思い出すこともあるが、忘れ去ってしまったものの方が数え切れない程に膨大であった。

 故に、シロウが何か引っ掛かりを覚えたとしても、それが余程強烈に印象付いていない限り、それを思い出すことは殆どない。それをわかっているからこそ、イリヤスフィールは気にせず再び校庭へ視線を戻した。

「まあ、カレンの情報によれば、回収されたカードは『アーチャー』と『ランサー』の二枚で、アーチャーは赤い武装に褐色の肌と白髪、ランサーは青くて赤い槍、と来たら……まあ十中八九貴方とクー・フーリンでしょうね」

「君も人が悪い。しかし……何かこの辺まで出かかっているのだが……」

「追々でいいわよ……む~~それにしても何よあの魔力の無駄遣い! ああっ!? そんな広範囲にしたら威力落ちるじゃない!! 全力投球一点集中でぶっ殺すのよ!! てか煙で何も見えない!!」

「気持ちはわかるが落ち着きたまえ」

 未熟な己を客観的に見ると言うのは、なかなかの苦行である。

 その道の経験者として、レディにあるまじき野次を飛ばす姉をシロウは納める――と不意に、校庭から視線を逸らした。

「……一人、いや二人組か。侵入者だ」

「ステッキは二本あるって言ってたから。その片割れかもね。こっちも、ライダーが宝具を使うみたい」

 スッと落ち着きを取り戻し、二人は改めてイリヤたちを見下ろす。そこには宝具を展開しようとするライダーと、それに戸惑う凛たち。そして、その場に忍び込むもう一人の魔法少女の姿があった。

「騎英の――……」

「クラスカード『ランサー』限定展開(インクルード)

 魔法少女の手に、赤い槍が現れる。

 それは禍々しい魔力を纏っており、その真価を発する時を今か今かと待ち望んでいる。

 それを眼で捉えた途端、ぞくり、とシロウの背を何かが這い上がった。

 彼は確信したのだ――アレが、本物であることを。

刺し穿つ(ゲイ)――――死棘の槍(ボルク)!!!」

 危機を察して振り返ったライダーの心臓を、槍は違えることなく貫いた。

 因果逆転の呪いの宿るその魔槍は、当たった定で繰り出されるため、放てば必中する槍である。それから逃れる術は、天性の幸運に見舞われるかその射程から外れるしかなく、ほぼ真後ろから狙われたライダーに回避は不可能であった。

「『ランサー』接続解除(アンインクルード)。対象撃破。クラスカード『ライダー』回収完了」

 ライダーの体は魔力が四散し、そこにカードを一枚残して消え去った。

「え……だ……誰……?」

 イリヤの言葉に、イリヤスフィールとシロウも同意する。

 黒髪に琥珀の瞳を持つ魔法少女など、彼らが持つ記録の中には存在しない人物であった。

「オーーッホッホッホ!!」

 ただし、この高笑いにシロウは覚えがあった。

 

 

 

 002

 

 

 

「バーサーカー欲しくない?」

「…………」

「ねえねえ、バーサーカー欲しいと思わない?」

「…………」

「ねぇーお兄ちゃーん。バーサーカー欲しいよー」

「…………」

「バーーサーーカーーほーーしーーいーー!!!!」

「わかったわかったから!!」

 翌日、本日は喫茶店が定休日であるため、のんびり朝食――自家製のパンにベーコン、フルーツ、ジャムと様々なトッピングを用意し、ミニサラダとオレンジジュースが付いたシンプルなメニューである――を摂っていたシロウは、姉の欲しい欲しい攻撃に折れていた。

 昨夜この世界のイリヤたちの戦いを見て、カードがどのような物であるかを確認してからずっと、イリヤスフィールはこの調子であり、ついにシロウは姉の願いを承諾したのが今である。

 イリヤスフィールとバーサーカーの関係は、元の世界で深い絆で繋がれた主従であった。バーサーカーは死ぬまでイリヤスフィールを守り続け、イリヤスフィールはそんなバーサーカーに欠けた心を沢山埋めてもらった。その思い出は死して尚彼女の中に色褪せることなく刻まれており、シロウもその想いを十分以上に承知している。伊達に一度殺されたり、片腕でも対峙していない。

 しかし、承知しているが、彼には渋る訳があった。

「バーサーカーのカードを取りに行くのはいい。だが、君も昨日のライダーを見ただろう?」

 この世界に突如現れたクラスカードなる物は、人型である時は暴走状態であり、とてもではないが「仲間になって♡」「いいよ♡」などという交渉は成り立たない。

 ライダーであれだったのだ。バーサーカーともなれば、その狂暴性は想像を優に上回るだろう。さらに宝具の使用が可能状態であれば、勝率は底辺以下にまで行きかねない。

 では、そんなバーサーカーを誰が抑えるのかと問われれば、

「オレがやるんだろ?」

「わかんないよ? もしかしたらバーサーカーも私を待ってるかもしれないよ? 『お待ちしておりましたお嬢様』って」

「それはもはやバーサーカーではないのでは……」

 

 朝食後、何だかんだでさっそくカード探しに出かけた義姉弟。シロウの靡く左袖とは反対側、右手を繋いでいるイリヤスフィールは、平日の午前のために疎らなフロアをキョロキョロと見回す。

 彼らは先ず新都のデパートに赴き、身支度をすることにした。

「なんでさ」

「バーサーカーに会いに行くんだもん。おめかしは大事でしょ?」

 ローズピンクのワンピースにレモンイエローのカーディガンを羽織ったイリヤスフィールが、るんるんと鼻歌を鳴らしてシロウの手を引いて行く。対し、シロウは少し困ったような表情で姉に従いつつも口を開いた。

「しかしだな、まだバーサーカーがヘラクレスだと決まったわけではないのだぞ」

「バーサーカーはヘラクレスよ。貴方も昨日のライダーを見たでしょう?」

 シロウの疑問に、イリヤスフィールは確信を持って応えた。

 昨夜見たライダーのクラスカード――ゴルゴーン三姉妹が末、怪物メドゥーサ。元は美しい少女であったが、ポセイドンに愛されたことがアテナの怒りを買い、怪物にされてしまうことが悲劇の始まりとされ、ひっそりと島で姉妹三人隠れるように暮らしていた女神。だが、数々押し掛ける者たちの牙が何時しか彼女を心無い存在へ陥れ、ついにペルセウスに首を切り落とされた――哀れな女だ。

「メドゥーサの召喚って結構難しいのよ? 先ずメドゥーサ関連の触媒がほとんどペルセウス由来だし、元々彼女は女神である伝承とゴルゴーンである伝承が有名だから、なかなか英霊として喚び出せないの。サクラが喚び出せたのは、彼女たちが似た運命に囚われていたからっぽいし。となれば、『ライダー』という『クラス』に当て嵌められている以上、クラスカードは聖杯戦争と関わりのある何かであり、ライダーにメドゥーサを喚び出したとなれば、それは少なくとも私たちの知る冬木の聖杯戦争をなぞったもの。関わりがあるはずよ」

「……メドゥーサは第五次聖杯戦争で喚び出されたサーヴァント。アーチャーは私、ランサーは光の御子、とくれば、私たちの知るバーサーカーのクラスはヘラクレス。故に、今回のクラスカードはヘラクレスと繋がっている。そう言いたいのかね?」

「その通り!」

 えっへん、とイリヤスフィールは胸を張った。

 母親に似ず大人しい胸の上で、小さなリボンが揺れる。

「バーサーカーったら、ビックリするかしら? あの私が、こんな普通の生活をしているだなんて」

「……ああ、きっと驚くだろう」

 シロウは頷いた。

 きっとヘラクレスは彼女のことを覚えていないだろう。そう思いながらも、そうであれと願う気持ちは本当だった。

「せっかくだもの、服以外にも色々新調したいな。この間可愛いブーティを見付けてね、ピンクとパープルがあって迷ったんだ。選んでくれる、お兄ちゃん?」

「勿論。光栄だとも。精一杯選ばせてもらうよ」

「ふふっ、じゃあ全身コーディネートでもお願いしようかしら? 私を輝かせてね、シロウ」

「エスコートなら任せたまえ、イリヤ」

 義姉弟は指を絡ませ、微笑み合った。

 

 五分後、シロウはお巡りさんに職務質問された。

 

 

「……やはり、ここの乱れが一番大きいな」

 昼食を終えて二時頃、シロウとイリヤスフィールは冬木大橋に来ていた。その傍にある公園には、昨日の学校と同じ不自然なものがあり、世界の変化に敏感であるシロウは、漠然とそこらを眺める。

 イリヤスフィールは彼の言葉に目を閉じ、暫く考えてから周囲を確認した。人気はなく、彼ら二人以外に生き物の気配も遠ざかった。

「人避けの結界を張ったわ。これから跳ぶけど、準備はいい?」

「問題ない」

 瞬間、彼らの足元に魔法陣が広がった。

 昨夜ルビーが展開したものと全く同じの、鏡面界へ跳ぶための術式だ。

 その陣の外へ、シロウは姉の服が入っている紙袋を置いておくのを忘れない。

 因みにであるが、イリヤスフィールの格好は、白いレースのワンピースに淡い紫のリボン帯、アーガイル・チェックの黒タイツと足元には濃い紫のエナメルブーティで着飾っている。どれもシロウが彼女に似合うだろうと選んだ物であり、その際の会話からショップ定員たちが赤面していたとか居なかったとか。

「バーサーカーかな?」

「そうだといいな」

 ワンピースを摘まみ、イリヤスフィールはシロウへ問いかける。

 彼らは乱れの大きさがわかれど、それを起こしているものの正体までは知ることができない。昨夜と似た感じからクラスカードによるものだろうと当たりを付けているが、もしかしたら全く別のものによる異変かもしれない。

 だが可能性がある限り、試す価値はあるだろう。

「よいっしょ!」

 と、そんな一生懸命な、しかし軽い一言により、世界は反転する。

 歪な色に覆われる、橋から川辺だけの狭まった世界。

 ここは鏡面界――クラスカードの造り出す、歪んだ世界の狭間だ。

「どうやら、半分正解で半分外れらしい」

「きゃっ!?」

 跳んで直ぐ、シロウはイリヤスフィールを抱えて大きく跳び退いた。

 その判断に間違いはなく、一瞬後、彼らの居た場所には巨大な魔力弾が連射され、爆炎が立ち上げられた。

 そんな野蛮な攻撃を仕掛けてきたのは、この世界の柱であるクラスカード――キャスターの他に居ない。

 フードを深く被り、黒いマントを羽のように広げるその魔術師は、ギリシャ神話に登場する裏切りの魔女。正体はメディアであり、やはり彼女は義姉弟が対峙したサーヴァントの一人だった。

 キャスターは背後に展開させている幾つもの魔法陣を動かし、攻撃から逃れたシロウたちを追った。逃走の際に概念武装を纏ったシロウは、橋の下に姉を避難させると干将を投影し、その場を飛び出した。

 イリヤスフィールは弟の意図する通り、その場を動かずに彼らをただ見守ることしかできない。

 喩えあれがキャスター・メディアの出来損ないであろうと、その力を馬鹿にすることはできないのも事実。イリヤスフィールが立ち向かったところで、シロウの邪魔になるだけだろう。しかし、足手まといさえ居なければ、シロウは元のステータスがパッとせずともキャスターに負けはしない。

 それがわかっているからこそ、弟の繰り広げる激しい戦闘を眺めつつ、大人しく防壁結界を編んだイリヤスフィールだったが、ふとこの世界に違和感を覚えた。

 シロウのように世界そのものの詳細からの分析ではなく、単純な客観的視覚からの違和感――そう、例えば昨夜の学校と比べ、クラスカード一枚にしては広過ぎるのだ。

 ライダーのカードで学校の敷地面積であったが、それをキャスターのカードで比較すれば、大体冬木大橋一つ分程だろう。だが、この世界はその倍以上も広がっている。これはキャスター故の魔力の大きさが起因しているのか。しかし、それにしても、魔女一人に対しては大き過ぎる。

「――――っ! 避けてシロウ!!」

 その正体を突き止めるのに、イリヤスフィールは一歩遅かった。

 

 シロウは干将を手に魔力弾を躱し、時計を足場にして大きく飛び上がった。跳躍によりキャスターとの距離は縮められ、短剣の間合いに相手を捉えると、干将で胴体を斬りにかかる。しかし、やはり飛行している相手はそう易々と捉えられてはくれず、上段から振り下ろした刃は頭部を外し、肩口を掠める程度に納められた。

 キャスターから溢れる鮮血は赤く、クラスカードの形作る殻でもまるで人のようだ、とシロウは思った。それでも彼の手が緩むことはなく、空中で姿勢も儘ならないままに呪文を唱え、周囲に剣郡を喚び出す。

 キャスターは唖然と口を開けていた。フードから見え隠れする瞳孔も散開しており、まるで信じられないものでも見ているかのような表情を浮かべている。クラスカードから漏れ出る現象にしては芸達者なものだ。

 変な感心を覚えながらも、シロウはキャスターへ剣郡を発射させた。三六十度からの攻撃に、成人女性の形を持つキャスターが逃れる隙間はない。もしイリヤスフィール以外の観客が居れば、肉塊へと変わるキャスターの姿を思い浮かべただろう――だが剣郡は目標を見失い、空中に針山のオブジェを作るのみとなった。

(瞬間転移……それくらいはできるのか)

 砂利の敷かれた川辺に着地し、シロウは身を捻る。彼が振り仰いだ先にキャスターが居た。

 劣化していようと、神代の魔女は伊達でないらしい。

「……さて、如何したものか」

 実は生前から死後にかけて、シロウは隻腕での戦闘経験が一度としてない。もしかしたらあったのかもしれないが、欠片も覚えていない。そのため、今回のキャスター戦が、この状態での初戦闘と言える。

 故に、シロウはバーサーカーのクラスカード探しを始めは渋っていた。正直に言えば、両腕があっても勝てる自信がないにも関わらず、隻腕ではまともに立ち合うことすら危ういと思えたのだ。無事にバーサーカーのカードを入手することは、間違いなく不可能であろう、と。

 しかし、イリヤスフィールが心底欲しいと告げたことで、シロウは覚悟を決めた。欲を制限され、閉鎖的環境で育った姉の願いを聞き入れないと言う選択肢は、壊れ果てている弟の目には映らなかったのだ。

(……だが、外れとは言え、キャスターと当たったのはよかったか)

 聖杯戦争の七クラスの内、最弱ともされる魔術師のクラス、それも弱体している相手は、初戦闘手段の実験に適した獲物であったかもしれない。その元がメディアであったり、場所が彼女の懐であったり、侵入者がシロウである点に目を瞑れば、であるが、本来のサーヴァントを相手するよりは条件が揃っている。流石に心の準備はしておきたい。

 幸い、先の攻防である程度のスタイルは把握することができた。隻腕では、通常の二刀流は使えない上、射撃も多大な集中力が要されるが、やりようはある。

 シロウは干将を四散させると、次に大弓を喚び出した。

 普通であれば隻腕の者に弓を扱うことは困難である。それは例え英雄であっても同じだろう。だが、彼はそれを可能とする者である。

 上体程もあるその大弓を、シロウは空間に座標指定し、固定し、そして()を喚び出した。

 先の剣郡と同じことだ。あれもシロウが喚び出す座標を指定し、発射ルートも指揮している。彼の扱う魔術の特性上の副産物であろうとされるそれは、死して英霊となった後でも、己のことながら理解し切れない力の一部だ。

 つがえた()を引き絞り、キャスターへ狙いを定める。その間に魔力弾が幾つも襲いかかるが、全て喚び出す剣を盾に弾き飛ばし、障害を除去する。

 鏃は反れない――剣は歪まない。

 彼の目に映るは、結果のみ。

「――――偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)

 指が、()から離れる。

 ()は眩い閃光と空間を削り、一寸の乱れなく標的へ襲いかかった。そして吸い込まれるように、主人の定めたままに――キャスターの胸に風穴を空けた。

 キャスターの口からヒュッとか細い息が漏れ、続いて反動で迫り上がった血が塊のように溢れる。心臓どころか肺ごと潰されたそこは、彼女の後ろに映る歪な空にぼたぼたと雨を降らせ、溢れ落ちては砂利に水溜まりを作り上げている。

 キャスターは虚ろな目でシロウを見下ろすと、それから壊れた人形のように落下し始めた。一瞬、鷹の目がキャスターの笑みを捉えた気がしたが、身構えるまでもなく、彼女は地面へ落ちる前にクラスカードへ戻り、水溜まりへと沈んだ。

 一歩、カードへ近付く――何も起こらない。

 本当に気のせいであったのか。シロウは訝しりながらも歩を進め、カードへ手を伸ばした。

 皮が厚く硬い褐色の指は、躊躇いなく血溜まりに触れ――同時にイリヤスフィールの声が届いた。

「――――避けてシロウ!!」

 しかし、既に手遅れである。

 何故ならば、彼女(・・)は既に背後に居たのだから。

「――――っ!?」

 鋼の瞳が、目尻にそれを捉える。

 黒く染まった聖剣を構え、表情を隠す面を付ける少女(・・)

 乱れぬ色褪せた金糸に禍々しい魔力を反射させ、漆黒のドレスを翻す少女(・・)

約束された(エクス)――」

 彼女は、冷たい音を淡々と口にした。

「――勝利の剣(カリバー)

 闇が、シロウを包み込んだ。

 

 

 

 003

 

 

 

 日の傾き出した公園に、突如二人の人間が現れた。

 イリヤスフィールがシロウを連れて鏡面界を脱したのだ。

「ハッハッ……ッ、迂闊だったわ! まさか同じ空間に二枚もあるなんて!」

「ぐうッ、……すま……ない、ぐっ……っカード、ぉ…………っ」

 平和な公園の地面に、ボタボタと赤い水溜まりが広がる。それは留まることを知らぬとばかりに無手の(・・・)シロウから流れ落ち、イリヤスフィールの白いワンピースを染め上げていた。

「無理しないでシロウ。今は傷を癒しなさい」

「し、しかし……っ」

「お願いだから、今はお姉ちゃんの言うこと聞いて」

 これ以上汚れることも厭わず、姉は弟の頭を抱いた。

 その体は雪のように冷え切っており、隠しようのない震えが見て取れる。

 シロウは一度目を閉じると、か細い声で謝罪を呟き、その体を空気に溶けさせた。彼はイリヤスフィールと違いサーヴァントであるため、傷の治癒を図るためには少しでも消費魔力を抑えるのが求められる。加え、治癒魔術での回復も、今は色々と都合が悪かった。

 シロウが居なくなったことにより、ワンピースも徐々に元の色を取り戻し始める。しかし、やはりこの格好も色々と不味い。徐々に変化するワンピースを着た少女。一般人にでも見られようものなら、一体どんな騒ぎになるだろうか。

 イリヤスフィールは置いて行った紙袋を拾うと、近付いて来る気配にため息を吐き――その場から一瞬にして姿を消した。

 

 遠坂凛とルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは、冬木大橋の下にある公園に来ていた。

 彼女らはぐるりと周囲を見回し、それから互いに視線を合わせてぐっと眉間にしわを寄せる。

 昨夜のことだ。彼女らとイリヤ、そしてもう一人の魔法少女――美遊・エーデルフェルトは、この公園で鏡面界へ接界し、侵入早々キャスターの歓迎魔力弾放火に見舞われて退散した。それはそれは見事なまでの敗北であり、文字通り手も足も出ないもので、急遽戦力拡大のために飛行訓練のインターバルをとっているのが現状である。

 では、いたいけな小学生魔法少女たちの意地と苦悩と困惑の特訓の裏で、彼女たちは何をしているのかと問えば、

「……どうやら、あれから戻っては居ないようですわね」

「そうね。一体何者なのかしら……」

 凛もルヴィアも固い表情で周囲を隈無く解析していた。

 彼女らがこの公園にクラスカード『キャスター』の鏡面界があることを知る前、ここには人避けの結界が張られていた痕跡があったのだ。

 辿り着いた時には結界は解かれ、術者の姿も見えなかったが、タイミングを考えれば自分たち(時計塔)以外の何者かがクラスカードを嗅ぎ回っていることが窺い知れる。加え、対峙したキャスターから感じられた魔力は、ライダーに比べて希薄しているようであった。元々そういった英霊が元であるとも思えるが、鏡面界の状態を思えば、あれは戦闘して負傷した後、回復しきれていないものだと捉えられる――と言うのも、イリヤたちが跳んだそこは、既に幾つものクレーターが刻まれていたからだ。鏡面界は世界と世界を写し出す鏡の世界。その写しが、被写体であるこの世界とかけ離れているならば、それは間違いなく何者かに先を越された証であろう。

 昨夜のまま、まだここには歪みが残っているため、撤退後にその何者かが再度カードを回収しに来たようではないが、彼方と此方が鉢合うのも時間の問題だ。何せ、歪みの数は全てで七つ。内のアーチャー、ランサー、ライダーの三枚は回収済みであるため、残り四枚だ。本当にカードを求めてやって来る者であるなら、必ず接触して来るだろう。

「カレイドステッキの独断に加え、第三者の介入、か」

「まったく、頭が痛くなりますわ」

 ここで問題になるのは、第三者の存在ではなくその実力だ。

 まだカードの回収を先越されるのはいい。良くはないが、先に無力化してくれているのだ。それを奪い取ればいいと考えれば、カードを相手にするよりかは気が楽だろう。

 しかし、この奪い取る相手がカード以上の実力者であれば、その思惑は手痛い悪手へとなり得る。

 クラスカードの回収任務は、凛たちがカレイドステッキの礼装を用いた無限の魔力あって相対できるものだ。そのステッキは世界に三本と在り得ず、つまりイリヤと美遊の持つ物しか存在しない。だが、この第三者はステッキを用いずキャスターと対等に()り合ったのだとすれば、それは彼女たち以上の力を持っていることになる。そんな相手に勝てるかと問われれば、凛たちは押し黙ることしかできないだろう。

「せめて個人なのか複数なのか、それがわかれば手の打ちようもありますが」

「そう簡単には尻尾を掴ませてくれはしないでしょうね」

「――ふふ、それくらいなら教えてあげてもいいよ」

 揃ってため息を吐いた二人の間に、にょっと可愛らしい鈴の音が響いた。

 全く気配もなくそこに忽然と現れたそれに、凛とルヴィアは示し合わせずに跳び退いて距離をとる。

「なっ!?」

「えっ?!」

 しかし、そうしてそれの正体を見た二人だったが、その口から出たのは困惑の一言。

 何故ならば、そこに居たのは雪のように透き通る肌に銀髪、それからウサギと同じ赤目の少女――イリヤスフィール・フォン・アインツベルンであったからだ。

「ちょ……ちょっと驚かせないでよ、イリヤ。なに? またルビーのイタズラ? それよりなんであんたはここに居んのよ? 特訓は?」

「はしたないわよ、リン。淑女たるもの、そう一度に何度も問いかけるものじゃないわ。品が知れるわよ」

「は?」

「それに相変わらず野蛮。そんな珍獣にでも会ったかのように人を避けるだなんて。うっかり殺したくなっちゃうじゃん」

「ちょ、ちょっとお待ちなさい! 貴女……イリヤではなくって?」

 普段のイリヤからは考えられない言葉に、ルヴィアは思わず制止をかける。

 そうだ。この少女がイリヤであるならばおかしい。

 少女は確かにイリヤと瓜二つであったが、その纏っている雰囲気は氷のように冷たく、細められた瞳もまるで親しみの籠っていない品定めするもの。

 太陽のようで能天気で魔法少女に夢見るイリヤとは全くかけ離れた、寧ろ凛やルヴィア(魔術師)に近いものが感じられる。

「負け犬のエーデルフェルトにしては勘がいいんじゃない?」

「なんですって!?」

「あら、でもやっぱり室内犬は駄目ね。甘やかされてばかりで躾がなっていないから、キャンキャン吠えてうるさいわ。その辺はリンと一緒ね。お似合いよ、貴女たち」

「こいつイリヤじゃない! 絶対にイリヤじゃないわ!!」

「そんなこと言われなくともわかってますわよ!!」

「当たり前じゃん。あんな出来損ないと一緒にしないでよ」

 ぷんすこ、と少女が頬を膨らませる。そこは何となくイリヤと似ているが、やはりイリヤとは違った。

 イリヤとそっくりでありながら、その口から溢れる鈴の音は蕀のよう。だからこそ、それがイリヤと決定的な差違となっている。

 つまり、この少女はイリヤの姿を借りている紛い物――何者かによる変装だと考えられた。

「で、貴女は何者なのかしら?」

 漸く平静を取り戻した凛が、ポケットに手を入れて問いかける。自衛用に持ち歩いている宝石は少ない。この後のクラスカード戦を思えば、なるべく使いたくない物だ。

 凛はなるべく冷静になるよう努める。

 明らかに警戒を示している相手。しかし少女はにっこりと笑って見せた。

「はじめまして、此方のリン。それからルヴィアゼリッタ。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

「嘘おっしゃい。貴女がイリヤですって? 吐くならもっとマシな嘘を吐きなさいな」

「もうその下手な変装を解いたらどう? いつまでも他人の殻を借りてるなんて、それこそ程度が知れるわよ」

「あ、貴女たちは私のことを『イリヤ』って呼ばないでね。馴れ合うつもりはないんだから」

「だから……」

 何故か自分をイリヤだと思い込んでいるらしい少女に、二人は頭が痛くなる。

 何を考えてイリヤの殻を選んだかは知らないが、本来のイリヤとキャラが大きくぶれている。観察の足りなさが浮き彫りであり、三流魔術師であることが丸わかりだ。

「なんか……可哀想に思えてきたわ……」

「ええ……これは早急に畳んでしまうのがせめてもの慈悲でしょう……」

「むぅ、親切にも教えてあげようとしたのに。本当に貴女たちって野蛮。こんな昼間っから魔術なんて使っちゃ駄目なんだから」

「お生憎様、人避けは張ってあるの。目撃者なんて居ないわ」

「ええ、ですので。安心して倒されてくれて構わなくってよ」

「ふーん……私とやろうって言うの」

 つり上がる少女の口角。

 赤い瞳には殺気が宿り、この場の温度が一つ下がったような気がした。

 純粋な殺気。

 凛もルヴィアも宝石を構え、直ぐに対応できるよう構える。

「なーんて、するわけないじゃん」

 が、その殺気はすぐに四散した。

「せっかくお兄ちゃんと私が苦労してステージを分けといたんだから。あんな張りぼてのキャスターくらい、楽に捻ってよね」

「やっぱり! 貴女が私たち以外の……!」

「あ、そうそう、第三者の存在だよね? 貴女たちの言うそれって私たちのことだから、私とお兄ちゃんの二人だけよ。メインアタッカーはお兄ちゃんだから、実質上こっちの戦力は一人みたいなものだけど」

 眼光を鋭くした二人に人差し指を立てて告げ、くるりと少女はスカートを翻した。

 ふわりと広がったレースの裾が波打ち、少女の白い太股が彼女たちの目に晒される。一瞬、その無防備さに二人の気が逸れた瞬間、少女の瞳がそっと細められた。

「……ああ、そうだ」

 背中まで伸ばされた銀糸が、さらさらと流れる。

「お兄ちゃんを狙ったら――殺すから」

 まるで温度の感じられない。氷のような音。それだけ言い残し、少女は公園から出て行った。

 凛もルヴィアも、彼女を止めることはできない。

 何故ならば、最後の言葉。あれには先までのが子供騙しとも思えぬようなものが込められていたのだから。

 まるで、いきなり冬の海に沈められたような、それ程に凍てついて重苦しい殺気であった。

「な、なんなのよ、あれ」

「わ、私が、知るわけが、ないでしょう」

 

 

 

 004

 

 

 

「なんでさなんでさ♪ ななななんでさ♪」

「……一応訊こう。なんだね、それは」

「お兄ちゃんのテーマだよ」

「なんでさ」

「ミリオンヒットでランキング一位だって」

「なんでさ」

「作詞作曲はタイガだよ」

「そこまでにしておけよ藤村」

「これで今日のイチオシも書いちゃうんだから」

「やめろ。うちの店をそんな面白喫茶にするな」

「なんでさなんでさ♪ ななななんでさ♪ めめめ目玉目玉目玉メニューはスペシャルトッピングフルーツ特盛チョコレート&ホイップ&カスタード&キャラメルソースましましデラックス五十人前パンケーキ♪ おたおたおたおたお楽しみに♪」

「流れるように新メニューまで作るな」

「お一人様限定挑戦メニューだぞ♪ お値段二万円で制限時間は四〇分だ!」

「それは漏れなくバッドエンド確定だろ」

「――何やってんだよ?」

 ここは新都の片隅にひっそりとある、何処にでもある喫茶店《聖杯喫茶》。そこでアルバイトをしている高校二年生の衛宮士郎は、扉を開けて早々、仲良く戯れる店長義姉弟に首を傾げると、店の看板娘であるイリヤスフィールが抱える黒板を覗き込んだ。

「スペシャルトッピングフルーツ特盛……何だこれ? こんなメニューって今まであったか?」

「今作ったんだよ」

「作るかたわけ」

 軽くイリヤスフィールの額を叩いた店長のシロウは、士郎に制服に着替えて来るように言うと、また仕込み作業へと戻って行く。相変わらず片腕だけで器用に器具を操る雇い主に、士郎は尊敬の眼差しを向けつつ更衣室へと向かった。

 この喫茶店の店長は、士郎と同じ音をファーストネームに持っている。フルネームをシロウ・E・アーチャーと聞いており、なんとも不思議な名前であるが、自分が弓道部なのもあって、士郎は勝手に親近感を抱いている。また、あの身長差でシロウの姉だと言う、士郎の義妹と見た目も名前もそっくりなイリヤスフィールは、イリヤスフィール・フォン・E・アインツベルンと士郎に告げた。イリヤたちと同じアインツベルンのファミリーネームであるのは、彼女が親戚であるかららしく、今は義姉弟の禁断の恋愛による駆け落ちだとか、望まぬ許嫁から逃げて来ただとか、本当か嘘かわからないことで、こっそりと来日しているのだとか。

 つまり、血の繋がりはなくとも士郎とも彼女らは親戚になる。ならば、こっそりなどとそんな寂しいことは言わないでほしい、と思うも……士郎自身は、イリヤの母・アイリスフィールの夫である衛宮切嗣の、書類上は養子である。そのため、家族と言えどアインツベル家系には疎く、気にせず家へ気軽に訪れろ、とは勝手に口にできない。彼女たちはこのまま、イリヤたちに自分たちのことを知らせず過ごしていくそうだ。

 さて、そんな不思議な姉弟の元でアルバイトをすることになったきっかけだが、実は士郎にもよくわからない。

 道端で友人と部活のない日だけでもバイトをしたい、と話をしていた所をイリヤスフィールに捕まり、そのままこの店に連れ込まれ、初めこそ反対していたシロウが捩じ伏せられるのを見ていたら、いつの間にか雇われていたのだ。今でもよくわからないのは仕方ないのかもしれない。

 因みに、彼女ら雇い主にタメ口なのは、イリヤスフィール命令であり、また『イリヤ』とも呼ぶように言われたが、そこは義妹と混同しないためにも丁寧にお断りした。

「そもそも何故五〇人前なんてトチ狂った量なんだ」

「第五次聖杯戦争とかけてみました」

「そのこころは?」

「どちらもデキレースよね。勝者なんて居やしないわ」

「クレームが来るから止めてくれ」

「でもこの聖杯(早食い)戦争ならセイバーの圧勝だよね。賭けてもいいよ」

「賭けにならんだろ」

 着替えてタイムカードを押し、厨房に入れば、シロウがさっそく件のパンケーキ作りに取りかかっており、イリヤスフィールがそれをにこにこと眺めていた。

「あ、結局作るんだ」

「ええ、今日から看板メニューよ」

「らしいぞ」

「店長さ、そうやって増えた新メニュー幾つ目だよ」

「…………」

 士郎が働き始めた時よりも厚くなったメニュー表。その半分以上が突発的にイリヤスフィールが提案したものである。

 シロウは士郎の指摘には答えず、黙ってパンケーキをひっくり返した。どうやら、姉に甘い自覚があるらしい。

 その反応にやれやれと肩を竦め、心の中で勝手に師にしている男のパンケーキへ視線を戻す。パンケーキの表面は斑な狐色をしており、完成前だと言うのに食欲を刺激してくる。

「……て、あれ?」

 そこでふと違和感を覚えた士郎は、首を傾げてイリヤスフィールの傍に寄る。そして本当に義妹と変わらない小さな耳に口元を添えると、小声で尋ねた。

「店長、もしかして調子悪いのか?」

「あら、どうして?」

「どうしてって……なんか、だるそう?」

 自分でもよくわからない。しかし、いつものシロウであれば、パンケーキの焼き面はもう少し整っているはずだ(と思う)。

 これもこれで十分美味しそうではあるが、こと料理にいたって妥協を許さぬこの男にしてはおかしい。

「だって。バレちゃったね、お兄ちゃん」

「ハッ、小僧程度に見破られるとは、私も焼きが回ったかね」

 何故か士郎に対して嫌みが強いシロウは、焼き上がったパンケーキを皿に移しつつ自嘲染みた笑みを浮かべる。

「む、そう言う言い方しなくったっていいだろ。で、何かあったのか? 風邪なら厨房に立たない方がいいぞ」

「たわけ。風邪なんぞひかん。少し怪我をしただけだ。営業に支障はないさ」

「怪我? 大丈夫なのか?」

「くどいぞ。そう言う心配は茶の一杯でも満足に淹れられるようになってから言え。この未熟者」

 鋼の瞳で鋭く睨み付けられるが、ホイップクリームやらカスタードクリーム、あとフルーツの乗ったパンケーキにチョコペンでウサギを描いていては、怖がるものも怖がれない。隻腕であったり厳つい見た目に反して、彼はなかなか指先が器用な男なのだ。

 そんな店主が完成させたパンケーキは、イリヤスフィールの前に置かれ、紅茶も添えられた。

「もう殆ど治っている。そんなことに気をやるならば、少しは技を盗む目でも磨いていろ。一昨日の物は相変わらず蒸らしが甘いから香りが飛んで――」

「はいはい、精進するよ!」

「あははっ、頑張ってね、シロウ」

 イリヤスフィールの声援を背に、士郎は黒板を掴んで逃げるように表へ出た。

 聖杯喫茶。なんともネーミングセンスが欠片も感じられない店で働く士郎だが、実は家族には内緒で行っている。その理由としては、自分が衛宮家の養子であり、これまでの生活で何不自由なく過ごして来れたことが挙げられる。

 士郎は正義感の強い少年だった。未だ原因不明の事故により両親を亡くした赤の他人を引き取ってくれたことにも感謝が尽きないにもかかわらず、義理の息子として家族の中へ本当の子どものように引き入れ、愛情を注いで貰って育って来た。故に、士郎は貰ったものを返したいと思うし、なるべく迷惑をかけたくないとも思っている。

 では、養父たちへの負担を軽減するために何が必要であるか。士郎が学生の身分であることから、今後も金銭がかかることだろう。今は高校二年生であるが、卒業後の進路をそろそろ固めなくてはならない。就職するにしろ進学するにしろ、やはり金はかかるものだ。そこで、その費用を少しでも軽減できないか、と考えるのは自然な成り行きであった。

 ついでに買いたい物もあり、そういった事情から、士郎はアルバイトを考えていた。それがたまたまイリヤスフィールの耳に入り、こうして働かせてもらっているのだから渡りに船と言ったものか。

「お待たせ致しました」

 上品な豆の香りが鼻を擽る。

 コーヒーとレアチーズケーキを窓際席で談笑する老夫婦へ配った士郎は、軽く礼をとってその場を離れた。

 この喫茶店は知る人ぞ知る物のようで、分厚いメニューに反して客足は多くない。今日も常連である老夫婦以外には、朝に後輩と友人の兄妹が来店したくらいで、とても静かに時間が流れている。

 よくこの集客で成り立っているものだと思うが、義姉弟はお金欲しさで経営している訳ではないらしく、あまり気にしている様子はない。

(元々が金持ちなのか?)

 自分の家はともかく、アインツベルン家とは、聞こえは何処かの貴族を思わせる響きだ。彼女たちが上流階級の出であっても不思議ではない。

 そう思うのも、店内にもそのようは色は見られるからだ。飴色のテーブルや、手触りの良い柔らかな布地の使われた椅子、紅茶のカップなどの食器も一つ一つ僅かに柄の異なる一点物で、店主の拘りがそこかしこから窺える。イリヤスフィール曰く、カーテンは間違いなくシルク製であるため、裕福であることに違いないだろう。

 働き始めてから幾度となく繰り返した、謎多き雇い主たちのことを考えていると、音楽に紛れて鈴が鳴った。

「いらっしゃいま――――ん?」

 すぐさま入り口へ顔を向けた士郎だったが、瞳に写るのは半開きになったレトロな扉のみで、人の姿はない。はて、この不可解な現象は何かと思えば、「おい」とやや不機嫌な声がかけられる。シロウのものだ。

「何を木偶のように立ち止まっている。早く席へ案内しろ」

「いや、あの……」

「視線を下げろ、たわけ」

「へ? ……………………え?」

 言われた通り下げれば、そこには不思議なお客様が居た。

 白のタートルネックにワインレッドのロングスカート。肩口で揃えられた髪は天使の輪がかかる金色で――その上にちょこんっと猫耳が乗っかっていた。

「え?」

 士郎は目を瞬く。

 見間違いではない。

 なんか、よくわからない人(これを『人類』の定義に含めていいものなのか?)が、片手で扉を支え、壁に凭れかかりながら士郎を待っていた。

「んーーまだまだ世を知らぬ少年だぜ。染まり切ってにゃい少年よ、カウンター席に座ってもいいかにゃ?」

「あ、はい」

 何故かはわからない大先輩オーラに、言われるがまま頷いた士郎は、豆を引くシロウの前まで客を案内した。

 客は士郎でも足が付かない丸椅子に飛び乗ると、憂い気な様子で頬杖をつく。

「そちらの店はいいのかね?」

「なーに、今は休憩中にゃ。まーあちしたちはあちしたちでのーんびりやってるから、どっかの金ぴかとかハーレム主人公とか来ん限り問題にゃいね」

「そうか、それは何よりだ。ところで、今朝方新メニューが出来たのだが、一ついかがかな?」

「まーたメニューが分厚くにゃっちまってますにゃ。んじゃーそれとーー、あとはミルクでも貰おうか」

「了解した。小僧、ホイップの用意をしろ」

「お、おう」

「お兄ちゃーん、ペーパーのストック少ないから買い物に――ってきゃーーーーっ!!!!」

 シロウと気安い雰囲気から、彼女(?)も喫茶店の常連らしい。二人のやり取りを眺めつつ、冷蔵庫から生クリームと砂糖、卵を取り出した士郎は、それらをボウルの中で混ぜ合わせる。すると、ちょうど裏から戻ったイリヤスフィールの口から、珍しくも絹を裂くような悲鳴が上がった。何事かと見れば、彼女は青い顔で猫っぽい客を指さしている。

「な、なななっ! なんで居るのよ!?」

「こらっイリヤ。人に指さしちゃダメだろ!」

「そーにゃそーにゃ!」

(……いや、アンタは人間じゃないだろ……)

 ハンドミキサーの電源を入れ、メレンゲの食感を持つホイップクリームを作りながら眺める。

 まだ1年足らずの付き合いであるが、士郎は初めて知った。イリヤスフィールは猫が苦手らしい。

「この間アンタは出入り禁止にしたじゃん! どういうことよ、シロウ!!」

「どうもなにも、彼女は客人だ。客である以上、もてなすのが私の心情さ」

「そうやってまたフェミニスト振る! てかあれ人間じゃないじゃん! どう見ても化け物でしょ! あれを女扱いとか正気!?」

「酷い言われようだにゃ! あちしはどこからどう見ても立派なキューティーレディキャット他ならんだろう! そんなこと言う奴には肉球タッチだにゃ!」

「やあーーーー! ちーかーよーるーなーー!!」

「こらっ! 店内で暴れるな!」

「おーい、ホイップできたぞー……って、聞こえちゃいないか……」

 カウンターを挟んで喧嘩する二人(?)を仲裁するシロウを見て、完成したホイップクリームを脇へ避難させた士郎は、こっそりとため息を吐く。

(……もしかして、とんでもない所で働いてるのか、俺は……)

 もしかしなくても、彼の予想は大正解だったりする。

「士郎くん。会計を頼めるかい?」

「あ、はい」

 しかし、士郎にとっては大変なことでも、常連客は慣れたものなのだろう。コーヒーを飲み終えた老夫婦は、カウンター隅へ避難する士郎へ声をかけて清算すると「また」と一言残して立ち去って行った。

 さて、これで店にある客の姿は猫っぽい客のみ。イリヤスフィールと彼女の喧嘩はますますヒートアップしていた。

「大っ体! 貴女が出て来ると決まって厄介事が起こるに決まってるじゃない! 今度また店中猫だらけにしたら、その首捻ってぶっ殺すから!!」

「動物虐待! 動物愛護団体が黙ってにゃいぞコラァ! やれるもんならやってみやがれってんだ、このジェノサイドシスター!」

「ええ、やってやるわよ! アインツベルンが最高傑作をなめないことね!!」

「やめろ二人共! 本気で怒る――」

 その時、店の扉が開かれた。カランカラン、と開閉を知らせる鈴が鳴り、思わず全員の目がそちらへ移る。

 そこに居たのは、女であった。

 赤みがかった髪を一つにまとめ、橙色のアタッシュケースを下げるスーツの女。人さし指と中指で挟む煙草からは煙が踊り、店主の額に谷を作らせる。

「久し振りに来たが、随分と騒がしいな」

「うちは禁煙だぞ、蒼崎橙子」

 眉間を揉むシロウの言葉に、女――橙子は瞬きを返し、その後すぐに手の煙草を握り潰した。

「思うに、どうも最近、愛煙家には世知辛い世になってきたんじゃないか?」

「言っておくが、歩き煙草も注意される世の中だからな。たばこ税も上がるぞ」

「何……だと……お前が言うと洒落にならんぞ」

 金あったっけー、と橙子は首を捻りながら歩き出し、シロウの前に腰かけた――つまり、猫っぽい客の隣に座った。彼女はその小さな体を跳ねさせ、そろり、と椅子から降りて行く。それは何かを恐れるようで、何かから隠れるようでもあった。

「ん? なんだ、帰るのか?」

「あー……あちし、ちょっと用事を思い出してぇ……」

「ん? 私に気を遣うことはないぞ」

「いやー遠慮しときますわー。なんつーか、こいつからみょーに鋭い匂いを感じるんでにゃぁ……具体的に言うなら銀幕のヒロイン(ヒーロー)的にゃ、バッサバッサ首切っちまう方のバーニィ的な……じゃ、そういうわけで、ばいにゃら!」

「もう二度と来んなーー!!」

「あ、ありがとうございましたー……」

 猫っぽい客は、何やらぼそぼそと言葉を濁しつつ、颯爽とCOOLに去って行った。その小さくも逞しい背中を送り出したイリヤスフィールは、開けっ放しにされた扉を気持ちよく勢いのまま閉じる――ガッチャン! チリンチリン! ――なんのために彼女は来たのだろうか。士郎の疑問は、誰にも答えられることなく、平坦な声に乗って消えていった。

 そんな従業員二人に肩を竦めたシロウは、さてと、と手元の料理を見下ろす。実はあの状況でもせっせと作っていたパンケーキだが、注文した客が居なくなって無意味なものとなってしまった。折角用意したのに勿体ない。ものの行く宛を探し、とりあえず橙子の前へ差し出した。

「良かったら如何かね? うちの新作だ」

「何これ? ホットケーキ?」

「デコレーションパンケーキだ」

「うわっこれ分厚いな」

 出されたパンケーキの厚みに感嘆を溢した。橙子のそれに気を良くしたシロウは、エスプレッソもおまけで添える。

「ちょうど挽いたところだ。そのパンケーキとよく合うだろう。ああ、お代は結構だ。以前の礼として受け取ってくれ」

「報酬は十分貰ったんだけど、まあ貰えるものは貰っておくよ」

 ざっくりと豪快にパンケーキをナイフで二等分し、更に切り分ける橙子に、士郎は首を傾げた。

 この女性客もどうやらあの猫っぽい客同様、シロウと交流があるようだが……はて、「以前の礼」とは何のことだろうか。秘密主義な所のあるこの義姉弟だ。士郎の知らないことなど、それこそ数えられない程あるのだろうが、彼女たちとの関係からは、何やら奇妙なもの(・・・・・)を感じさせる。

「シロウ」

「っぅわ!」

「もう、見すぎよ」

 エプロンをイリヤスフィールに引っ張られ、そこで漸く士郎は橙子を凝視していることに気が付いた。その失礼な態度に慌てて謝罪を述べて顔を逸らした店員を、店主はため息で咎める。

 見られていた橙子は、あまり気にした様子なく士郎を眺めていた。

「そうだ、シロウ。ちょっとお使いに行ってきてくれる? ペーパーがなくなっちゃったの」

「え、ああ。別に構わないぞ」

「そう。じゃあ……はい、これとかもついでにお願い」

 そう言えばそんなことを言っていた。

 渡されたお使いのメモと財布をズボンのポケットへ入れ、エプロンを外した士郎は、唯一の客へ礼をしてから店を出て行く。彼女の視線が、その背をずっと追いかけていることなど知るよしもなく。

「……なあ、あの少年って……」

「黙秘権を行使する」

「あまり私の弟を苛めないでちょうだい。で、何の用なのかしら? 貴女がただの様子見でここに来ることなんてないでしょう?」

「ああ、それはな――」

 

 その日の夜。

「あ、そうだ。言うの忘れてたけど」

「なんだ?」

「朝方、リン達と会ったから」

「そうか……は?」

「人避けの結界とキャスターとの戦闘跡を見て第三者の介入に気付いていたみたいなの。だから見当違いな方に模索されるよりはいいかなーって思って」

「そう言うことは先に相談してから行動してくれたまえ……」

「だってシロウったら、昨日の戦闘でダウンしてたでしょ? 私たちもカードを狙う以上は宣戦布告しとくに越したことはないし、いずれ鉢合わせるなら心の準備をさせておいてあげるべきだと思うの」

「私にもその配慮をしてくれないかね」

「だってお兄ちゃんの驚く顔が見たかったんだも~ん☆」

「姉さん……しかし、それならば尚更バーサーカーを早急に見付けなくてはならんな」

「そうね。鉢合わせても負ける気は全然しないけど、羽虫にチョロチョロされるのも鬱陶しいし」

「羽虫……」

「リンとルヴィアのことだよ。なに? もしかしてお兄ちゃんはリン贔屓なわけ?」

「いや……む、うむ……」

「やっぱり! 昔の女を引きずるなんて情けないわよ!」

「誤解を生む言い回しは止めたまえ!」

「私が居るのに他所の女に目移りするなんてサイテー! これだから日本人はみんなロリコンなのよ!」

「やめなさい! ロリコンじゃない日本人が可哀想だろう!」

「じゃあお兄ちゃんはロリコンじゃないって言うワケ!?」

「当たり前だろ!」

「サッッッイテー!!」

「なんでさっ!!??」

 

 

 

 005

 

 

 

 夜も染み渡った新都。そこにある一つのビルに舞い降りた義姉弟は、風が乱す髪を掻き上げて冬木大橋の方に視線をやる。

 ここからは、灯によって照らされて赤く浮かび上がっている橋しか見えないが、その下にある公園にて、イリヤたちはキャスターの討伐に再チャレンジしている最中だろう。そうなれば、今の彼らを邪魔する存在はいない。

「調子はどう? お兄ちゃん」

「問題ない」

 はためく赤い外套に身を包んだシロウは、静かにイリヤスフィールへ答えた。

 今のシロウのマスターはイリヤスフィールである。彼女は現在、聖杯と一体化することで(今は単独行動中であるが)聖杯から魔力を潤沢に提供されている状態にある。そのため、シロウの胴体を半分切り裂いた、あのセイバーによる傷は綺麗に塞がっていた。

投影(トレース)開始(オン)

 撃鉄を落としたシロウの手に、黒い洋弓と偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)が造り出される。

 ヘラクレスの脅威の一つとして挙げられる常時発動型宝具《十二の試練(ゴッド・ハンド)》は、Bランク以下の攻撃を全て無効にし、さらに命のストックをも授ける逸話の宝具だ。シロウが持つ多くの武器の中でもAランク以上に分類されるものは少なく、偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)はその貴重な威力に届きうる物の一つである。実際、これは過去に彼の宝具を突破して見せた神秘が込められている。

 それを構えた姿勢で、シロウは待機する。即戦闘に移せるよう、確実に有利性を掴むため、隙を見せないため、そしてイリヤスフィールを守るために。

「イリヤ、飛んでくれ」

「うん」

 魔術の余波により、イリヤスフィールの白いワンピースが膨れる。

 そして、彼らはそこから姿を消した。

 

 結果から述べるならば、彼らは当たりを引いた。

 今回訪れた鏡面界はバーサーカーのクラスカードの世界であり、それは間違いなくヘラクレスの英霊であった。

 それを、十分に理解した。

 理解させられた。

 理解せざるを得なかった。

「■■■■■■■■■■――――!!!!」

 バーサーカーは彼らの目の前に居た。

 鋼の肉体が視界を埋め、圧倒的で暴力的な魔力が全身に叩き込まれる。

 彼の咆哮は全身の血肉を震わせ、血管を破裂させるような沸騰を感じさせた。

 その咆哮は大地を震わせた。

 空間を震わせた。

 世界を震わせた。

「――――っ」

 故に、一瞬の硬直がシロウたちを襲った。

「」

 声など、一音たりとも零れ落ちることはない。

 遅い。

 遅過ぎる。

 何もかもが致命的なまでに遅過ぎる。

 シロウは屋上に殴り倒され、そのままコンクリートを破壊した。ビルが悲鳴を上げて揺れるが、クッションがあったとは言え、大英雄の一撃をよく耐えたものである。屋上の床は陥没のみで済んでおり、人一人分の水溜まりに沈む人形を作り上げる土台の役目をこなしていた。

 その人形と共に居たイリヤスフィールは、直撃を免れたもののその余りの暴力に巻き込まれ、屋上の端まで吹き飛ばされていた。

 彼女の軟らかい四肢は固い床を数度跳ね、縁にぶつかる形で漸く制止する。

 あまりに呆気ない。

 あまりに情けない。

 あまりに果敢ない。

 しかし、この程度――予想の範囲内だ。

「令呪に告げる! 全快しなさい!!」

 如何に可憐に映ろうと、イリヤスフィールは魔術師だった。聖杯戦争のために造られた最強のマスターである彼女に、この程度の痛みは慣れていた。

 彼女は知っている。

 全身を切り開かれる痛みを知っている。

 血が沸騰する痛みを知っている。

 捕食される痛みを知っている。

 心臓を抉られる痛みを知っている。

 聖杯戦争のために数々の痛みがこの幼い体を貫いてきた。

 泣こうが喚こうが、誰も救ってはくれない。止めてはくれない。

 故に、彼女は痛みに慣れていた。

 痛みを受け入れる覚悟に、慣れていた。

 聖杯戦争の勝利のために、あらゆる全てを受け入れた。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは勝ち残るために造られた最強にして最凶のマスターだ。

 ならば、血を流そう。

 ならば、立ち上がろう。

 ならば、叫ぼう。

 ならば、この全てを――

I am the bone of my sword.(我が骨子は捻じれ狂う)

 ――彼女(マスター)の勝利へ捧げよう。

偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)!!」

 ゼロ距離から放たれた英霊の剣は、寸分の狂いなくバーサーカーの心臓を射ち抜いた。

 巨大で頑丈な体を動かすエンジンに似合う大きな穴。そこから大量の鮮血が溢れ、真下に居るシロウの髪を赤く染め上げる。

 それを拭う間も惜しんで、シロウは血溜まりから素早く飛び出した。そしてイリヤスフィールとは反対に位置する場にてある宝具を構え、ヘラクレスを注視する。

(イリヤ)

(あ、はは……凄いでしょ、わ、たしの……バ……んっ、バーサーカーは、世界で一番強いんだから!)

(……知っているとも)

 弟の心配を不要と返した姉に、思わず奥歯を噛み締める。

 全身の魔術回路を起動させ、壊れた箇所を無理矢理動かし、血だらけで立ち上がったイリヤスフィール。膨大な魔力を持ってして既にその影はワンピースの染みにしか残されていないが、しかしシロウの脳裏にはその姿が焼き付いている。

 今の彼女はシロウの姉ではなく、彼のマスターである魔術師だ。

 その覚悟を、シロウは衛宮士郎でないが故に踏みにじれなかった。

(ほら、なにを呆けているの。次来るよ!)

(わかっているさ)

 イリヤスフィール(マスター)の言葉に、シロウは記録より喚び出したある宝具の効果をトレースする。

「■■■■■■■■■■」

 突撃してくる豪腕。まるで突風のようであり、その一振りが空気を切り、真空を作る。

 シロウはそれを防ぐことはせず、回避で対応した。いくらイリヤスフィールがマスターであるとは言え、シロウの素のステータスはあまり高くない。強いて挙げるならば、魔力が向上したくらいだろう。幸運はピクリとも動いていないが。

 そんな低スペック英霊の耐久値ではたかが知れており、喩え現象の英霊であろうとバーサーカーの攻撃を無防備に食らえば、またただの人形に成り果てる恐れがある。 

「ふっ!」

 故に回避し、バーサーカーが地面を叩き割った瞬間、その無防備に晒された脇腹から肩甲骨までをシロウは鎌剣で切り裂いた。

 バーサーカーの胴体が僅かにずれ、ピンク色の断面を覗かせる。しかしそれは一瞬であり、次の瞬間には一気にそこから鮮血が溢れ、レッドカーペットを作り上げた。

 彼の鋼を貫いた物は、メドゥーサの首を刈り取った《不死殺しの鎌(ハルパー)》――その原典であり、それを投影した物である。

 シロウの保有する宝具の大半は、主にウルクの王が集めた原典にあたる物だ。生前にそれを見る機会があった故に記録された物たちであり、最古の英雄の所有物なだけあって、そのどれもが劣化していようと高ランクに位置付けられる。加え、不死殺しの鎌(ハルパー)の元なだけあり、その不死殺し性はバーサーカーに対して治癒を遅延させる抜群の効果をもたらしていた。

「…………イリヤ」

 今度はイリヤスフィールの隣まで後退し、シロウは鎌剣を四散させて新たな投影品を検索しながら口を開く。

「あのバーサーカーは、予想以上に劣化している可能性がある」

「劣化?」

「まずライダーやキャスターと同じように理性がない。そのため戦術に無駄が目立ち、隙も多い」

「ただでさえない理性が、更に削れているってこと?」

「ああ。そして次に今とさっきの攻撃。偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)の感覚で思ったが、今ので確認がとれた。奴の十二の試練(ゴッド・ハンド)はAランク以上のみではなく、Bランクも通すようだ」

 イリヤスフィールがマスターになって魔力に余裕ができたため、真作に迫る投影が行えるようになったシロウだが、あくまでも投影品であるためランクが一つ下がる。先の鎌剣はわざとランクを落として創った物であるが、不死殺しがあったにしては、バーサーカーの体にすんなりと刃が通った。

 それが示す答えは一つ。このバーサーカー・ヘラクレスは第五次聖杯戦争のサーヴァントと比べ、明らかに弱体化している。

「じゃあ、もしかしたら命のストックも……」

「十一回の蘇生力はないだろう」

 再度洋弓を創り上げ、黒い剣をつがえる。

 未だバーサーカーは完全に蘇生されていない。脊髄が切断されてしまっているため、いくら英霊と言えど、背中が治るまでは立ち上がることもできないのだろう。そのため、時間ならば十分にある。

 弓を座標固定し、シロウは構えをとった。

 射法八節。射の基本動作であり、指導の際に用いられる。それを狂いなく行い、ぶれることなく引き分けにて静止する。

「…………イリヤ、構わんかね?」

 十秒。

「……うん。いいよ。バーサーカーはバーサーカーだけど……私のバーサーカーじゃないもの」

 二十秒。

「でも、勘違いしちゃダメだからね。バーサーカーはこんな簡単にやられたりなんかしないんだから」

「勿論だとも。身に染みているさ」

 三十秒。

「■■■■■■■■――!!!!」

 四十秒。

 穏やかに過ぎ去った僅かな時間は、狂戦士の叫びにより消し去られる。

 ぐるりと反転し、跳び上がった巨体。

 盛り上がり、振り上げられた右腕は、義姉弟が潰れて抉れ壊れる感触を今か今かと待ちわびている。

 例えるならば、正に隕石。抗いようのない脅威そのものである。

「喰らいつけ、赤原猟犬(フルンディング)!」

 しかし、やはり隙だらけだった。

 惜しみなく空けられた胴体。

 遮蔽物のない空中。

 回避行動など、不可能。

 こんなもの、ただ当ててくれと言っているようなものではないか。

「――――■■■■■!!」

「なにっ!?」

 当然、赤原猟犬(フルンディング)はバーサーカーの胸に直撃し、その上半身を吹き飛ばした。だが恐るべきことに、それでもバーサーカーは止まらなかった。

 これも当然である。バーサーカーは既に攻撃を繰り出している最中である。それも空中だ。体勢を崩されようと関係ない。真空をも作り上げる速度で放たれたその豪腕は、命尽きようと振り抜かれるしかない。

 脱力の気配を見せない恐怖に、シロウはイリヤスフィールを抱えてその場を跳び退いた。

 標的を失った鉄槌は、ビルの縁諸共に先まで彼らが居た場を破壊し、そのまま地上へと落ちていった。

「……落ちちゃった」

「……そのようだな」

 しかし、唖然と感想をのべられるのも数秒のみ。その後すぐ、世界を地鳴りが襲った。

 義姉弟は急いで崩れた縁から下を覗き込むが、地面に陥没が確認できるのみで、バーサーカーの姿は見えない。

「落下中に蘇生したか」

「どうやって上がって来るのかな? 階段だと大変そう」

「それはないと思うが……」

「じゃあエレベーター?」

 ウィーーン……チンッ!

 オープン・ザ・ドア!

 バーサーカー・ヘラクレスだよ!

「それはなかなかシュールだ――なっ!?」

「きゃっ!」

 何度目の揺れか。ビルが大きく震え、悲鳴が上がった。

 咄嗟にイリヤスフィールを抱き寄せ、シロウは周囲を見回す。

 揺れは続いているが、バーサーカーが接近してくる気配はない。揺れと共に聞こえてくる音も同じだ。

「なに、これ? まるで何かを壊してるような……」

「出所は足下、となればバーサーカーが……――まずい!」

 その時、ビルが今までで一番大きく揺れた。

 否、崩れ始めたのだ。

「奴め、柱を叩き壊したな!」

 意図してか、それともただの暴力か。

 バーサーカーはビルの一階フロアを全て破壊し尽くしていた。壁も床も柱も、ビルを支える全てをその持ちうる力で余すことなく粉砕していた。

 バーサーカーもシロウも、英霊でありサーヴァント、また力の現象だ。神秘を含まないビルの倒壊では、その体に傷を付けることはできないが、しかしイリヤスフィールは違う。

 聖杯と一体化していようと、受肉してこの世に送り出された彼女は、その在り方は人間の肉体と然程変わらない。そのため、巻き込まれれば押し潰され、身を磨り潰され、か弱く死ぬしかない。

熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)!」

 イリヤスフィールを放さぬよう抱き込んだシロウは、落下方向に花弁の盾を展開する。

 崩壊の音に混じり、今度こそ迫り来る轟音。それは間違いなくヘラクレスの接近を知らしめていた。

I am the bone of my sword.(――――――体は剣で出来ている)

 この倒壊の中、イリヤスフィールを庇いながらの戦闘は圧倒的に不利。ならば勝てるものを、最強の一手を、持てる全てのカードを切ろう。

Steel is my body,(血潮は鉄で) and fire is my blood.(心は硝子)

 土煙を掻き切り、眼前に現れる。

 瓦礫を押し退け、眼前に現れる。

 ヘラクレスが眼前に現れる。

I have created over a thousand blades.(幾たびの戦場を越えて不敗)

 繰り出される剛力の連撃。

 絶対の守りである花弁一枚にヒビが入る。

Unknown to Death.(ただの一度も敗走はなく、)Nor known to Life.(ただの一度も理解されない)

 しかし、ならば持つ。

 ならば間に合う。

Have withstood pain to create many weapons.(彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う)

 花弁が七枚展開された、完成形の熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)。その守りはトロイア戦争にてアイアスが使用した絶対の守り。大神宣言(グングニル)であろうと防ぐそれが、たかが英霊の現象程度に突破されることはない。まして、このバーサーカーはただの腕力のみしか持たぬ、理性なき獣だ。

Yet, those hands will never hold anything.(故に、生涯に意味はなく)

 最早、イリヤスフィールに問うことはない。

 傍にある温もりを抱き締め、シロウは最後の一節を音にした。

So as I pray, unlimited blade works.(その体は、きっと剣で出来ていた)

 世界を、炎が包み込んだ。

 

 

 

 006

 

 

 

 そこはさびれた荒野である。

 果てなどない、無限に続く地平があるばかりの赤錆の丘。

 あるものと言えば、墓標のように突き刺さる剣ばかり。

 ただの男が辿り着いた場所(果て)

 見返りを求めず、敗北を許さず、ただ理想のためだけに生きた男の終着駅。

 茜色の空には、空転する幾つもの歯車が浮かんでいる。

 主は一人。他に人などいないさびれた世界。

 そこに、二人の客人が招かれた。

 一人は雪の妖精を思わせる可憐な少女。

 一人は岩を思わせる狂戦士の大英雄。

 さびれた世界の主は、静かに腕を振り下ろした。

 

 

 

 007

 

 

 

 既にバーサーカーを六度殺した。

 一度目は偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)を用いて心臓に風穴を空けた。

 二度目は不死殺しの鎌(ハルパー)の原典にて胴体を半分以上切り裂いた。

 三度目は赤原猟犬(フルンディング)を限界まで溜めた上で放ち、上半身を吹き飛ばして見せた。

 そして四、五、六度目は無限の剣製(アンリミテッド・ブレイド・ワークス)の発動と同時に、数の暴力を持ってして削ぎ落とした。

 続く七度目は――

「っ!!」

 バーサーカーはシロウの振り下ろした剣を躱した。追い切れなかった髪が数束程切り離されるが、バーサーカーには傷一つ付いていない。

 その動きを追うように、返す刃で追い討ちをかけるも、それもバックステップにて距離を取られ、捉えることはできなかった。どころか素早いカウンターが繰り出され、シロウも大きく後退させられることになる。

「……っバケモノめ!」

 シロウが呻くのも無理はない。

 なんせ先のようなやり取りは、既に数度は繰り返している。同時に三つのストックを切らせた後から、明らかにバーサーカーの動きが良くなってきていた。

 それはおかしい。このバーサーカーはあくまでもクラスカードから漏れ出る現象に過ぎず、英霊の力と言う形でしかない。それに備わっているのは《本能》のみであり、《理性》など備わっているわけがないのだ。

 しかし、それが今はどうだ。

 バーサーカーは明らかにシロウの動きを読み、その上で回避を選択している。危機察知からではない。シロウの動きを見て、予測して(・・・・)動いているのだ。

「うそ……」

 それはシロウのみならず、端から見ているイリヤスフィールにもわかることである。

 にわかに信じがたい。しかし、目の前で起きている現象。

「……まさか……読み込んでいる(・・・・・・・)の?」

 そんな、まさか――有り得ない。

 バーサーカーを目の前にすることで、嫌でも思い出される聖杯戦争の記憶。

 イリヤスフィールのバーサーカーは、衛宮士郎(エミヤシロウ)に殺されている。

 ある世界では囮となったアーチャーに。

 ある世界では正義を捨てた少年に。

 どちらも同じ、ある男(エミヤ)の手によって。

「■■■■■――――!!!!」

「悪い冗談、だ!」

 いつの間にか、バーサーカーの右手に大剣が握られていた。

 成人男性程の幅広い、岩の斧剣。

 本来なら現象程度には過ぎた装備であるが、彼らの知る補われた(・・・・)バーサーカーにはあって当然の武器である。

「ちっ、まさか宝具(固有結界)が裏目に出るとはな」

 シロウは気付いた。

 このバーサーカーに何が起きているのか。何によってもたらされているのか。

 故に歯噛みし、眉間にしわを寄せる。

「これ以上は不利……しかし、」

 固有結界は心象世界を現実に展開し、世界を塗り替える大魔術。つまり無限の剣製はシロウの心そのものである。加え、この場にはシロウのマスター(・・・・・・・・)であるイリヤスフィールもいる。これらの条件により、バーサーカーは第五次聖杯戦争のサーヴァントに置換されつつあった。

 理由はいたってシンプルだ。

 イリヤスフィールがバーサーカーを求めるのは、嘗てのバーサーカーに会いたいからだ。喩え記憶がなくても構わないと言えど、あるに越したことはない。そのため、イリヤスフィール(聖杯)は記憶を持ったヘラクレスを望んでいる。

 次にシロウが展開した固有結界。心象世界で現実世界を塗り替えるとは、即ちその場をシロウの心の世界に変えると言うこと。これにより直接、バーサーカーはシロウの心に触れている状況が出来上がる。

 さて、クラスカードはそもそも何故回収しなくてはならないのだろうか? 歪みを生み、それを広げてしまうから? ならば何故、歪みが生まれる? それは、周囲の魔力を吸い上げている(・・・・・・・・・・・・・)からだ。

 もう、答えは見えただろう。

 バーサーカーは固有結界の発動により、またイリヤスフィールの望みにより、心象世界から直接第五次聖杯戦争のバーサーカーの情報を読み込んでいたのだ。

 磨耗による記憶喪失がお家芸とは言え、このシロウ(エミヤ)は座に戻っていない。そのため現在、前の世界のことや、追加されたデータを記憶し、記録して保持している。それが固有結界を通し、バーサーカーへ流れているのだ。

「はぁっ!」

「■■■■■」

 ならば固有結界を解けば良いのかも知れないが、鏡面界と比べて場所の良し悪しではこちらの方が勝っている。

 瓦礫の中でバーサーカーとやり合うには、イリヤスフィールの安全に些か懸念が残るのだ。

 今のシロウにとって、何者よりも優先すべきはイリヤスフィールの存在である。彼女の願いはなるべく叶えたいと思い、彼はここに立っている。彼女の悲しむ顔が見たくなくて、彼は共にいる。

 衛宮士郎の代わりだとか、サーヴァントだとか、そんな理由などない。

 喩え己がイリヤスフィールのエミヤシロウでなくとも、シロウは彼女の家族でありたいから、そして彼女もまた同じように望むから、彼らは一緒に過ごしてきた。

 夢で構わない。

 嘘でも構わない。

 それが、互いに家族を失った彼らの望みである。

 故に、シロウは固有結界を展開し続けた。家族を守るために、意地を通すことにした。

 周囲から記録を読み込んで強化されていく?

 ならば、完全に上書きされる前に打倒せばいい。

 その命が尽きるまで、無限の剣を磨ぎ続けよう。

 それが、最も姉の身を守る最適解なのだから。

「ぐっ!」

「■■■■■――!!」

 回避されようが、シロウは構わず踏み込み続ける。

 斧剣とぶつかり合う度に、シロウの腕は痺れた。

 元々このバーサーカーは、パワーだけなら当然相当なものであった。隙だらけであったとは言え、シロウは初撃で頭からダブル・スレッジ・ハンマーを食らい、霊基の大部分を駄目にされた。己でも間抜けと罵りたい失態であり、イリヤスフィールがマスターでなければあのままリタイアまっしぐらであっただろう。そんなパワーを遠心力を加えてぶつけられているのだ。サーヴァントでなければ吹き飛ばされている。

 加え、今のシロウは隻腕であるため、以前程の力を込めることはできない。力比べともなれば、バーサーカーが相手だ。彼は押し負けるだろう。

壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)!」

 そのため気合いと根性、そして腕への強化で瞬発的に斧剣を弾いたシロウは、周囲の剣をバーサーカーめがけて発射させた。数はおよそ五十。四方八方から押し寄せる名剣名刀は、主人の操るままに寸分狂いなくバーサーカーへ襲いかかる。

 瞬間に巻き起こる圧倒的な爆発。

 《壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)》は宝具に秘められた魔力を炸裂させ、その内包する神秘そのもので敵を破壊する。他の英霊には真似のできない、しようとも思えない、投影を得意とするシロウならではの技である。それが宝具であれば、先ず並みの者では霊核ごと焼き尽くされかねない程の威力だろう。故にシロウの切り札の一つであるが、それでも彼は油断しなかった。

 砂を巻き上げるその爆風に紛れ、シロウは姿勢を落とし、煙に影を写すバーサーカーへと接近した。そしてその腹にオーバーエッジした干将を走らせ、一文字に切り裂いた。

「……っ、そろそろ尽きる頃だと思ったのだがね」

「■■■■■■■■――!!」

 だが、まだバーサーカーは蘇生される。

 用なしとなった干将も四散させ、その勢いに乗る形で距離をとったシロウは、次の獲物を検索する。脳裏を駆け巡るのは数多の武具。この中にあと幾つ、バーサーカーの命を削るものがあるだろうか。

 時間もあまり残されていない。完全に上書きされる前に仕留めたいが、状況処理とそれによる反応速度が、相対した時と比べて既に段違いの域に達している。動きを完全に止めなくては、また一進一退の攻防に持ち込まれ、一殺入れるのは困難であろう。

「…………」

 そんな焦りの中、不意にある物が検索にヒットした。

 それは剣でなければ、また殺傷力もない、宝具には至らぬ物だ。しかしその能力は絶大であり、あの聖杯の泥すら退けた英雄王にすら効果を発揮した一級品の代物である。心なしか、自分も苦い思い出が過った気がしたが、気のせいにしておきたい。

 何にしても、そろそろ蹴りを着けたい。時刻は既に深夜を回っており、シロウは兎も角イリヤスフィールの体に障る。

 向かって来るバーサーカーから距離を取りつつ、シロウはそれ投影した。

「――ノリ・メ・タンゲレ」

 それは真赤な帯状の布であった。かつて出会った極悪シスターが使用していた聖骸布――《マグダラの聖骸布》だ。

 「ノリ・メ・タンゲレ(私に触れるな)」の呪文によりその効果を発揮する物であり、魂の色が男性であるものを拘束する力が宿っている。それにより、冬木市では英雄王やら光の御子やらの大物が弄ばれている姿があったとかなかったとか。

 要は、ほぼ絶対的男性特攻拘束聖骸布であるそれは、投影による劣化品であろうと十分にその効力を発揮した。

「■■■■■――!?」

 腕を絡め取られた途端、バーサーカーは停止した。

 ただそこに薄っぺらな布が巻かれた程度にも関わらず、それを外そうとすることもできずにいる。鉄錆の地を踏み、巌の肌を焼き焦がす大英雄が、名を後世に轟かせるあの大英雄が、だ。

 なんと恐ろしいものであろうか。己の所業ながらゾッとしたシロウだが、勿論外すつもりは欠片もない。

「さて……これで終わりにしよう」

 八つ目の命。

 一度目を閉じ、それから覚悟を決めたシロウは、さびれた丘より一振りの剣を呼び寄せる。

 手に取るのは黄金の剣だった。

 

 

 

 008

 

 

 

 鈴の音も寝静まった夜の公園。そこに魔法少女二人と魔術師二人が鏡面界より帰還して現れた。

「はぁ……なんとかキャスターのカードも回収できたね」

 キャスターの反撃には驚いたが、それもイリヤの気転と美遊との連携により打破することができた。

 危険な真似を、とルヴィアには怒られたものの、大した怪我もなく終えることができたのだ。初戦を思えば万々歳の出来だろう。

「さて、じゃあさっさと解散して帰りましょうか」

「ですわね。任務とは言え、この子たち(小学生)にこれ以上夜更かしさせるわけにはいきませんし。次については追って連絡を致します。美遊帰りますわよ」

「わかりました」

「あ、ミユさん!」

 ルヴィアに促され、転身を解いた美遊にイリヤは声をかけた。

「……なに?」

「あ、えっとね……」

 相変わらず冷たい態度ではあるが、ちゃんと体を返ってくれているため、昨日に比べれば心を許してくれているのだろう。

 イリヤも転身を解き、彼女の傍に寄ってから口を開いた。

「ごめんね。あとね、ありがとう!」

「え?」

「いきなり魔力弾なんて撃たれて驚いたと思うけど、それでもわたしの考えに気付いてくれてすっごく嬉しかった。なんか、やっとコンビで戦ってるんだなって思えて」

「……コンビ」

 そうだ。元々、このクラスカード回収の任務は凛とルヴィアの二人がコンビで行うもので、単独での撃破は(一応)想定されていない。にも拘らず、現状は二人の対立からイリヤと美遊のカードの奪い合いのようになってしまっている。

 美遊にもある責任感(・・・・・)から単独での回収を行いたい気持ちはある。そしてイリヤが一般人であるため、彼女を無闇に巻き込みたくない気持ちもあった。

 故に、昨日の「カードの回収は、全部わたしがやる」の発言になるのだが、今回の戦いを振り返ると、自分一人で本当に回収できたかなんて断言できない。少なくとも、無傷での回収は不可能であっただろう。

「だから、ミユさん。ごめんね、それからありがとうございました!」

「……ううん。それを言うなら、むしろわたしの方」

 美遊一人であったら、別にどれだけ傷付いても構わない。あの人(・・・)との約束で死ぬなんてことはできないが、怪我くらいならなんてことはない。

 しかし、今日の戦闘ではルヴィアたちがどうなっていたかと考えるとゾッとする。

 最後の力を振り絞って、空間ごと焼き尽くそうとしたキャスターの攻撃は、間違いなく彼女たちに届くだろう。ステッキを持っていない彼女たちではあの攻撃を防ぎきることはできず、間違いなくその命を焼き切きられていたことは想像に難くない。

「わたしだけじゃ、みんなを守れなかった。イリヤスフィールが居なかったら、カードは回収できても無事じゃ済まなかったと思う」

「ミユさん……」

「だから、ありがとうイリヤスフィール」

「うん! どういたしまして!」

 イリヤは破顔した。

 まだ美遊が何を考えているのかはわからない。だが、一歩彼女に近付けたのは確かだろう。

 今後どうなるかと思っていたが、これならなんとかやっていけそうだ。

「そうだ! 美遊さん!」

「え?」

 突然、イリヤはぐわしっと美遊の両肩わ鷲掴んだ。そのあまりにも予想外の行動に、思わず美遊の目が点になる。それも仕方ない。目の前に迫ってきたイリヤの表情は、目がキラキラと輝いており、頬も何故か上気して明らかに興奮を表しているのだ。こんな奇態を目の前に、戸惑うなと言う方が難しい。

「そうだよ、美遊さん!」

「な、なにが? イリヤスフィール?」

「ううん、イリヤスフィールなんて他人行儀じゃなくて『イリヤ』って呼んで! 友達はみんなそうしてるから!」

「友達……」

「そう友達なら……って、あれ? もしかしてそう思ってたのわたしだけ? わたしの片想い!?」

 鸚鵡返しの反応に、イリヤの熱が急速に冷めていく。

 そう言えば美遊と共にクラスカードの回収を頑張っているが、友達というには友達らしいことをした覚えは全くない。まともに会話できたのも、今日くらいではなかろうか。

「あ、あのですね……無理にと言うわけではなくてですね……」

「あ、いや、そうじゃなくて……」

 今度はしどろもどろとなるイリヤへ、美遊は肩にかかるものに手を添えて、やや地面に視線をやりながら口を開く。

「それならその……わたしも……呼び捨てでいい……」

「……美遊さん……ううん、ミユ」

「イリヤ……」

「これから、あらためてよろしくね」

「うん、こちらこそ」

 深夜の公園に淡い桃色結界が作られる。互いを見つめ合う少女二人を、ばっちりしっかり捉える影が一つ二つとあるが、彼女らの目にそんなものは欠片も映っていなかった。

『いや~初々しくて眩しいですね~~。()マスターたちにも見習って頂きたいものですね~~』

「ちょっと、それはどういう意味かしら、ル・ビ・ィ?」

『はい。イリヤ様と美遊様()良きコンビとなるでしょう』

「サファイアも何を強調していらっしゃるのかしら?」

 ふわふわ空間を眺めるステッキと、その後ろで怪しげなオーラを撒き散らす凛とルヴィア。

「へぇーあの子ってミユって言うんだね」

 その更に後ろに、にょっきりと割り込む鈴の音があった。

『おや?』

「うん?」

「あんたは!!」

 公園に唯一ある時計の下。その柱に凭れるように、銀糸の髪を流す赤目の――イリヤそっくりの少女がそこにいた。

「こんばんは、リン、ルヴィア。そっちの(イリヤ)とミユは初めまして」

 少女は柱から身を起こし、ワンピースを摘まみ上げて礼をとる。その動きはやはり洗練されたもので、見た目はそっくりでもイリヤとの違いを見せつけた。

 魔術師二人が少女から距離をとるのに倣い、イリヤと美遊もその場から飛び退く。

 先まで居なかった少女がいきなり現れたのだ。これを警戒するなと言う方が難しい。

「出たわね、イリヤの偽者!」

「わ、わたしの偽者なの!?」

 確かに、本物のイリヤスフィールはここにいるイリヤである以上、目の前にいる者は偽者ということになる。

 しかし、何故かイリヤには目の前の少女が偽者とは思えなかった。おかしな考えであるが、寧ろ自分でない自分(・・・・・・・)だと思えてならない。

「知っているんですか?」

「ええ、昨日からこの公園には人避け結界が張られた痕跡がありまして、それを調べていた今朝方に……」

 ルヴィアは少女からぶつけられた純粋な殺気を思い出していた。

 今にも心臓を撃ち抜かれそうな、首を捻り切られそうな、そんな殺気。

 思わず宝石に手をかける後見人を見て、美遊はサファイアを握り締めた。

『あ、のーー、ちょーっといいですか?』

 そんな緊張に包まれる空気のなかでも、ルビーの声はよく響いた。

「なによ、ルビー。見てわかる通り、今取り込み中なんだけど」

『ええ、まあはい。それはわかりますが、なんだか皆さん勘違いしているみたいなので、ちょっと訂正しておこうかと』

「訂正?」

 なんとも緊迫感の欠片もない調子のルビーに、凛はイライラを抑えつつ応える。

『サファイアちゃんはもう気付いてますよねー?』

『はい、姉さん。彼女の発する魔力の解析率から見て、まず間違いないかと』

「ど、どういうこと?」

 まるで付いていけない会話に、イリヤは白旗を上げる。

「へー、その魔術礼装ってそんなことまでできるんだね」

「……っ」

 そんな彼女たちの様子を、少女は目を細めて眺める。

 まるでモルモットでも観察するようなそれに、美遊の肌が粟立った。

「勿体ぶってないでさっさと言いなさいよ」

『えー、ではぶっちゃけますね』

 全員の視線を集めたルビーは、器用に羽根で少女を指差すと、ある衝撃的な事実を告げた。

『あの美少女――平行世界のイリヤさんです』

 

 

 

 009

 

 

 

「クラスカード『バーサーカー』回収完了……と言ってみたが、様になっているか?」

「うん。かっこよかったよ。お疲れ様、シロウ」

 ヘラクレスを打倒し、カードを手に入れた義姉弟。今は疲労を癒すため、共に湯船に浸かっていた。

 その浴槽は武家屋敷と違い、一般的な住宅に付いている広いとは言えない大きさとなっている。そのため成人程の二人が入るには適していないが、イリヤスフィールが年齢に比べて小柄であるため、シロウに身を預けるような形で仲良く収まれていた。

「…………ふぅ……」

「…………はぁ……」

 イリヤスフィールもシロウも、天井で揺れる湯気を眺めながらほっと一息吐く。

 流石に傷は回復し、既に次の戦闘に支障がないまでに回復しているが、流石に気疲れが重い。心なしか肩が石のようだ。

 それも仕方ないことだろう。劣化していたとは言え、ヘラクレスと対峙したのだ。加え、初撃で手痛い失態も犯している。体が緊張していないわけがない。

 手に取るクラスカードに視線をやり、イリヤスフィールはガックリと項垂れた。

 本来の聖杯戦争にて宝具の次に切り札となり得る令呪。全三画あり、その一つ一つが魔力の塊で、それを解放することにより奇跡に近い真似すらできる、サーヴァントへの絶対命令権。

 シロウがイリヤスフィールのサーヴァントとして現界していること、また冬木の聖杯を通して転移して来ていることが関係し、彼らは聖杯戦争のマスターとサーヴァントと変わりない関係にある。それ故に、イリヤスフィールは令呪を三画宿しており、それを今夜のようにシロウへ行使することができた。

「視野に入れていたとは言え、なるべく使いたくはなかったなー……」

「キャスターの前例があったにも関わらず、対策していなかったオレたちの落ち度、いや、油断だろうな。仕方ないさ」

「でも、この後はあのセイバーを相手するんだよ?」

 件のセイバーとは、キャスターと同空間に居たクラスカードのこと。

 だった数瞬の対峙で撤退したが、それだけでもあのセイバーの異常性(・・・・・・・・)を知ることができていた。

「……それはそうと、相変わらず意地悪だな。イリヤは」

「何のこと?」

「さっきのことだよ。この世界の君と出会った時のことだ」

「あー……」

 シロウが困った顔で問えば、イリヤスフィールは濡れた髪先を指に絡めて記憶を遡る。

 時間は二時間程前――イリヤスフィールたちがバーサーカーを回収し、イリヤたちがキャスターを回収した時のことだ。

 つまり、イリヤスフィールの正体が暴露された時である。

「「へ、平行世界のイリヤーー!!??」」

「わ、わたしーー!!??」

 予想外の事実に、一同騒然となる。

 美遊だけはその身を固めたが、誰も気付く()は居なかった。

「では、改めて自己紹介するね。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。この世界とは別の……魔術師として育てられたイリヤ、と言った方がわかるかしら?」

 なるほど、とルヴィアは内心で納得がいった。このイリヤスフィールの神出鬼没さに、明らかにイリヤとは違った雰囲気は、育った環境の違いに寄るものだったのだと。一般人としてのイリヤが魔術と関わることにより何がどうしてああなるのかは全くわからないが、魔術とはそれだけ一般とは一線を画するものであるということは、そこに身を置く者としてよく知っているつもりだ。

「まずはキャスターの討伐おめでとう。メディアを倒すなんて、ちょっとは見直したわ」

『ほぇーーあの神代の魔女っ子、まさかあのコルキスの魔女さんだったとは! そりゃあの強さも頷けますよ!』

「メディアって誰?」

『ギリシャ時代の王女・メーディアのことです、イリヤ様。イアソン率いるアルゴー船の一員にして、その妻でしたが……陰謀と裏切りを重ねた魔女として有名です』

「あ、どっかで聞いたことがあるかも」

「……随分と、詳しいんですね」

 感心するイリヤを背に、美遊は問いかける。

 何故クラスカードの元となった英霊の力を知っているのかと。

 彼女が平行世界のイリヤであるならば、年代からしてもメディアと面識があるはずもなく、であれば彼女と対峙しても正体を看破することは難しい。まして、時代を無視しなければ(・・・・・・・・・・)不可能だ。

「まあ、ちょっとした知り合いよ。気にしないで」

「いや、気になりすぎるんですけど」

 まあまあと流すイリヤスフィールに、凛は脱力する。

 この少女はイリヤとは違い、強烈なカウンターを隠し持っていそうだ。下手につついたら蛇どころか虎が飛び出て来かねない。

「それで? 要件を訊きましょうか。待ち伏せしていたと言うことは、見ていたのでしょう?」

「うん。話が早くていいね。もう遅いし、眠たいからパパっと済ませよっか」

 イリヤスフィールは軽い足取りでイリヤたちに近付いてくる。そして約五歩手前で立ち止まると「まずは」と誰かを紹介するように右手を持ち上げた。

「前に言った『お兄ちゃん』を御披露目するわ」

 『お兄ちゃん』と言われてイリヤに思い当たるのは、自身の義兄である衛宮士郎だ。

 あの赤毛で優しい琥珀色の瞳を持つ人が、平行世界でも自分の兄であるのだろうか……。

「遠距離攻撃適正である弓兵にしか該当できないくせに、近距離戦闘が大好きな私のお兄ちゃん(サーヴァント)だよ。『アーチャー』って呼んでね」

「トゲがあるように思えるのは私の気のせいかね?」

(全っ然知らない人だったーー!!)

 と思っていたイリヤの期待を裏切り、現れたのは褐色の肌を持つ長身の男。真っ白の髪は掻き上げられ、晒されている額に谷が作られている。また瞳は鉄色をしており、さらに左腕がない。兄の面影など欠片も感じられない男だった。

 と言うより、突然なにもないところから蜃気楼のように現れたこの男――アーチャーは、間違いなく兄とは別人である。て言うかアーチャーは明らかに人外だ。ついでにちょっとファンタジーな格好してるし。

「人型の使い魔(サーヴァント)ですって!?」

「しかもこの高密度な魔力っ! 有り得ませんわ!」

「そっちの常識で図らないでよね」

 片目を閉じ、髪を掻き上げたイリヤスフィールは、その視線を魔法少女二人に送る。

「要件は共闘の提案よ。今後のクラスカード集めの、ね」

「冗談。だれが共闘なんてするもんですか」

「え? なんでダメなの?」

 きょとんと首を傾げるイリヤに、ルビーがそそっと囁いた。

『あちらのイリヤさんが魔術師なので、信用ならないんですよー。魔術師ってのは利己的で冷酷非道な連中ですから、手を組むと言っておいて後ろからドカン! 漁夫の利ゲットー! になりかねないのです』

「なにそれこわっ」

 そう易々と倒される気はないが、だからと言って自分たちを攻撃してくる不穏分子には背中を任せられない。

 身を抱き後ずさったイリヤだが、その一歩前に、庇うようにして美遊が立った。

「貴方は、どうしてクラスカードを求めるの?」

 声が、硬い。

 まるで初めてまともにイリヤと美遊が会話した時のような、そんな突き放すような感情のない声が彼女の口から発せられる。

「別に、私たちはカードになんて興味ないわ」

 そんな美遊へ、イリヤスフィールはバッサリと切り返した。

 その答えに、美遊のみならず他の面々も目を見開く。

 クラスカード回収を共闘しないかと持ちかけながら、興味がないとはどういうことであるのか。

「私たちはある原因の手がかりとしてカードを求めているだけ。集まったカードに何か変化が起こるのか、そもそもカードは何のために作られたのか、何故そのカードが現れたと同じくしてアレ(・・)がなくなったのか。これらを知りたいから、私たちはカードを調べているに過ぎないわ」

「『アレ』?」

 イリヤスフィールたちは自分たちも知り得ないなにかを掴んでいるようだ。不可解に伏せられた単語に美遊が眉を寄せるが、彼女はそれに微笑むのみで応えない。

「別に悪い提案ではないと思うんだけど。こっちは貴女たちが苦労して倒したキャスターを翻弄させて見せたお兄ちゃんを戦力として提供する。貴女たちは回収したカードを私たちにも調べさせる機会を与える。ね? 素敵なギブアンドテイクだよ?」

「素敵なギブアンドテイク? 笑わせますわね。それで、どうして貴方方がカードを持ち逃げする可能性を潰せますのよ」

「じゃあ、これにサインでもしましょうか?」

 未だ頷かない相手に、イリヤスフィールはアーチャーへ合図を送る。アーチャーは彼女の意を理解し、ある一枚の羊皮紙を取り出した。

「それは!?」

自己強制証明(セルフギアス・スクロール)!?」

「……って、」

「……なんですか?」

 魔術師二人が驚愕する隣で、魔法少女二人が疑問符を浮かべる。

『美遊様、イリヤ様。自己強制証明(セルフギアス・スクロール)とは所謂契約書のことです』

『まあ、お二人が知らなくっても仕方ないくらい、えげつな~くてマイナーな代物ですけどね~』

「サファイア、それってどういった物なの?」

『契約の内容に、それにサインした者は魂ごと縛られる物です。現在するあらゆる魔術での解除が不可な上、魔術刻印に作用しますから、それを受け継ぐ代々まで縛ることも可能になります』

『陰謀の策略が渦巻く意地汚い魔術師による、行き過ぎた安全装置みたいなものですね。お前が信用ならないから破ったら末代まで死ねよ、みたいな』

「こわっ」

 魔術師に対して夢の壊れる話に、イリヤは口をひきつらせる。

 凛たちにここ数日で多少理不尽な目に合わされてきたが、あんなもの序の口だったらしい。

「ここには私たちが貴女たちに協力し、カードを明け渡すこと。それから貴女たちが私たちに、調査を目的としたカードの貸し出しを契約する内容が書かれているわ。ああ、ついでに貴女たちを裏切らないことも加えよっか。これなら、私たちを信用してくれるよね?」

 何の問題もないとばかりに、イリヤスフィールはシロウから契約書を受け取り、何処かから取り出したペンで内容を書き加える。そしてそれをイリヤたちへ見えるように晒し、妖艶に微笑んだ。

「どう? これなら安心でしょう?」

「貴方たち正気!? それが何かわかって言ってるの!?」

「わかっているわ。その上で提示しているの。これが私たちの覚悟の形。わかりやすいでしょ?」

 にっこりと笑う。

 まるで人形のようだ。イリヤは鏡のような平行世界の自分に目眩がした。

 何か決定的なものが、自分と彼女では違っている。それが何かはわからないが、その違いがイリヤとイリヤスフィールを別々の存在として作り上げているのだろう。

「……ルヴィア……」

「……言われずとも……」

 凛とルヴィアは互いに目配せし、それからイリヤスフィールへ視線を戻す。

 その瞳には決意が宿っていた。

自己強制証明(セルフギアス・スクロール)は要りません。貴方方の提案を受け入れましょう」

「いい? 妙なことしたら袋叩きにするから、変に企んだりするんじゃないわよ」

「そう。快い返事が受けられて何よりよ。ね、お兄ちゃん」

「ああ、そうだな」

 不要になった契約書を破り捨てて燃やしてしまうイリヤスフィールに、アーチャーはちょっと遠い目になる。教会のシスター(つて)にそれ一枚用意するのも大変だったんだけどなー……。

 なんて弟が考えているなんてことなど露知らず、姉は髪を一本引き抜き、それを使って鳩程の鳥型使い魔を形作ると、その使い魔をイリヤたちへ送った。

「連絡はその子を通してできるから、クラスカードの回収に行くなら知らせてね」

「では、失礼する。君たちも体を冷やす前に帰りたまえ」

「あ、ちょっと!」

 凛たちが呼び止めようとするのも聞かず、アーチャーはイリヤスフィールを抱え上げ、文字通りその場から跳び去った。

 ステッキでの飛行とは違った、脚力のみでの超跳躍。冬木大橋の骨組みに飛び乗った彼らは、そのまま徒歩で新都へと向かって行く。

 そんな彼らを見送ったイリヤは、思い出したようにポツリと呟いた。

「あ、でもなんか……目元が似てたかも」

 

「君は彼女たちが自己強制証明(セルフギアス・スクロール)を不要とするのをわかっていたのだろう?」

「リンなら要らないって言うんだろうなって思ってたよ。ルヴィアの方がわからなかったけど、なんかあの二人似てたし行けるかなーって。それに契約書にサインしても、私たちは痛くも痒くもないものだったし」

「そこも、君は意地が悪い。誰に似たんだか」

「さあ? 誰でもいいんじゃない?」

 ぶくぶくっと、イリヤスフィールは湯船に口を付けて遊ぶ。

 あの自己強制証明(セルフギアス・スクロール)は、姉弟たちにとって何の制約のない物であったのは本当である。勿論自己強制証明(セルフギアス・スクロール)自体は本物で、要は形ばかりを整えたスカスカの契約書。

 あの契約書が効力を発揮すれば、イリヤスフィールはバーサーカーのカードをイリヤたちに渡さなくてはならなくなるが、それは相手が知っていて要求してきた場合にのみ限られる。契約内容には最終的に渡さなくてはならないが、回収して直ぐに渡すとは何処にも書かれていなかった。屁理屈ではあるが、これが契約上成り立つものであれば自己強制証明(セルフギアス・スクロール)にて保証される行為となる。

 今となっては関係ないことであるが、もし凛たちがサインに同意していようものならしろいあくまに弄ばれていたことだろう。

「あっちがちゃんとカードの回収ができていたってことは、残るクラスは『アサシン』と『セイバー』のみ」

「狙うならアサシンが先だな。力を付けているとは言え、今の彼女たちにセイバーの相手をさせるのは不可能だ」

「そうね。その辺は……まあ、その内

にどうにかするとして。ところで、アサシンはどっちで現れのかな?」

「オレたちが知っているのは二人だが」

 一人は日本人の亡霊である佐々木小次郎。

 もう一人は、本来のアサシンである呪腕のハサン。

 第五次聖杯戦争を模しているならば、このどちらかが次の相手となるだろう。

「どちらも侮れん英霊だが」

「様子見にはいいかもね」

 うっそりと微笑むイリヤスフィールに、シロウはやれやれと肩を竦めた。

 





勉強の合間に書いていた一発ネタの予定が、ちょっと思った以上に長くなったので投稿してみました。
無印編だけの予定で書いてたので、書ききりたいなぁとは思ってます。プリヤクロスネタは一杯あるけど、このネタはなかった気がするので……ないよね? 見落としでネタ被りがあったら下げます。
どっちの映画も最高でしたね。DVD欲しいです。


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盤外

ばんがいへんのゆめ
本編の過去
シロウと大切なもう一人の家族のお話
 


 

 藤村大河は酔っ払っていた。足元が覚束ない程ではなく、気分のよいふわふわした気持ちで、所謂『ほろ酔い』と言うものだった。

 場所は新都の表通りで、残業終わりのサラリーマンや、彼女と同じ飲み会参加者等がぽつぽつと目につく。

 いい気分だ。鼻唄を歌って、目的のバス停を通り過ぎる。この気分ならばもう一つ向こうまで歩いて行けそうだ。

 女性の一人歩きに同僚たちは心配そうな声をかけてくれていたが、この冬木で彼女へ身の危険が及ぶことは滅多にない。それは大河の生家に関係しているのだが、それは今回割愛しよう。

 兎に角、大河は気分が良かった。飲み会へ赴いていたため、愛用のスクーターがない徒歩だし、少し肌寒い夜であったが、それでもいつもは歩かない道を歩く程度には、大いにご機嫌であった。

 だから、彼女はひっそりとした脇道の奥にある灯りに気が付く。

「あっれ~~?」

 そして、その灯りが漏れる窓の向こうに、知っている顔の男を見付けた。

「ちょっと~~あんたなにしてんの~~」

 迷惑も考えず、大河は目の前の窓を叩いた。にこにこ笑顔で、嬉しそうに。

 ぎょっと驚いたのは窓の向こうの住人だ。彼は何事かと窓を見て、一瞬固まったかと思うと、慌てて大河の側へと駆け寄ってきた。

「ちょ、何してんだ!?」

 男は大河の横にあった出入り口を開き、彼女へ直接その顔を見せた。

 傷んだ白髪、褐色の肌、逞しい隻腕。何処をとっても大河の知人に一致するものはない。しかし、それでも彼女には確信があった。

「それはこっちのセリフよ、士郎!」

 破顔した大河は男――シロウへと飛びかかった。

 

 

 

 夢

 

 

 

「えへへ~~士郎ったら隅に置けないんだから。こーんな良いお店持ってるなんて、お姉ちゃん知らなかったんだよー」

「何度も言っているが、人違いだ。貴女の言う《しろう》は私ではない」

「士郎はすごいわねー。昔よりもっと美味しいご飯作れるようになったのね」

「だから」

「あ、私ラーメン食べたい! あと熱燗!」

「うちは喫茶店だが?」

「常連メニューとかあるんでしょー? ならお姉ちゃんメニューもあっていいじゃない」

 厚さ五センチのバタートーストをペロリと平らげた大河は、カウンター席にて溶けるように項垂れる。

 やはり様子は終始ご機嫌で、言葉の合間に可笑しそうにくすくすと笑みを溢す。それを見るのは彼女のジャケットを入り口脇のハンガーラックにかけるシロウのみで、彼はやれやれと肩を竦めた。

 一体、大河は何処を見て彼を《士郎》と呼ぶのだろうか。凡そ日本人らしからぬ風貌で、初対面の男にこうも懐くには、二人の時間はあまりにも短い。不思議そうに眉を寄せるシロウへ、大河は腕組の上に落ちる頬を膨らませる。

「あーあ、お姉ちゃんは悲しいわーとっても悲しいわー。士郎がこんなふうにぐれちゃうなんて、保護者として責任感じちゃうわー」

「誰が保護者だ」

「いーやぐれてるぜ、ボーイミーツガール。私に店のことを話さないとは何事でござるのか!? 我姉ぞ? 姉ぞ?」

「話を聞いていないな。しかも酔ってるし……」

 もはや言葉がおかしなことになっている。ここまで面倒くさい出来となっているとは、楽しい時間を過ごしたのだろう。そう想像できる。

 大河の前にある皿を回収し、シロウは冷蔵庫からタッパーを取り出した。中にあるのは白色の生地で、気付いた彼女は両腕を天井へ掲げる。それはまさに歓喜を表すポーズであった。

「きゃーーありがとう、士郎! お姉ちゃん、そんな士郎が大好きよ!」

「悪いがラーメンのスープなど作っていないのでね。うどんで我慢してくれたまえ」

「いいわよー。うどんも大好きだもの」

 元々シロウは料理の試作を行っていたため――そのために喫茶店の明かりが灯っていた――サブ(バイト)の調理スペースには出汁が置いてあった。それを一人分小鍋へ移し、麺茹で用の鍋と共に火を付ける。さらに醤油、酒、みりんを適量出汁に加えて味を整え、温まるまでの間に薬味に取りかかった。

 取り出したのは定番のネギと油揚げだ。ネギは斜め薄切りにして軽く水に通しておくことで辛味を抜いておき、油揚げにはお湯をかけて油抜きをしておく。油揚げはやや大きめに短冊切りにしておくと、個人的にうどんと絡めやすく食べ応えがある。揚げへの味付けを今回は見送り、さっぱりとしたシンプルに仕上げる予定だ。

 そうしている間に熱湯の準備が出来たため、うどんを入れて麺をほぐし、茹で加減を見る。固さは芯の残らない程度の普通にし、てぼで湯切りすると器へ盛り付ける。後はつゆを入れて薬味を乗せれば完成だ。

「待たせたな」

「待ってましたー!」

 ほかほかの湯気を上げるうどんを出せば、大河の頬が盛り上がる。表情豊かな人であるが、とりわけ笑顔が似合う女性代表として彼女は十分にやっていけるだろう。何をやるかは知らないが、そう思ったシロウは、戸棚から自前の七味を取り出し、先ずはつゆを味わう大河の前に置いた。

「おいし~~わ~~……あったまるね~~」

「お好みで使うと良い。何なら柚子でも生姜でも何でもあるものなら用意するが?」

「迷うな~~どれも美味しそう」

 増える薬味を少しずつ楽しみ、一つ一つへ美味しいと笑顔を浮かべる。そうやって幸せそうにうどんを啜るものだから、ついついシロウもその食べっぷりに見惚れてしまった。

 もう店仕舞いしているためにBGMのかかっていない店内。音は大河が食事するもの程度だが、その音がとても心地好いために、シロウは片付けをせずに手を止めてしまう。

「はぁーーごちそうさま! 美味しかったーー!」

「お粗末様。口に合ったようで何よりだ」

「当たり前よー。だって士郎のご飯だもの。私の好きな味に決まってるじゃない」

 行儀よく手を合わせて破顔する大河に、ついシロウも釣られてしまう。小さな微笑みであったが、それを目にした大河は、一瞬だけ目を見張り、そしてまた笑った。

「ねえ、士郎。好きな子できた?」

「ぶっ」

 そして、脈絡もなく問いかけてきた。

 予想していなかった問いに吹き出したシロウだが、取り乱すことはせずに口元を拭って眉を下げる。あからさまに困ってますと言わんばかりの表情だが、大河はにやにやとした笑みへ切り替えて追撃する。

「だって士郎ってばこーんな男前になっちゃったんだもん。料理もできて、男前で、大人になった士郎はかっこいいわよー」

「……生憎、色めいた話はなかったよ」

「えーーうっそだーー」

「嘘ではない」

「そうなの? じゃあさ」

 カウンターを挟んだ向こう側。そこにいるシロウへ、大河は言った。

「私が貰ってあげよっか?」

「ああ、いい―――」

「うぉらあ!!!!」

 その瞬間、大河の脳天へ、妖精の振りかぶったピコピコハンマーがクリーンヒットした。

 ピコン☆ 可愛らしい音を立てて気絶した大河は、そのまま派手に額をカウンターに打ち付けて沈黙する。

 何が起きたのか瞬間的に変化した展開に置いて行かれたシロウは、ただただ呆然として瞬きをした。

「さすが師匠だぜ。油断も隙もないっすね。けど残念。お姉ちゃんはシロウを絶対に嫁がせたりなんかさせないわ。例えそれがタイガが相手でも、今は私のお兄ちゃんなんだから」

「え、……? 藤ねえ?」

「あぶねえ、あぶねえ。既に三秒ルートに差し掛かっているじゃない。寧ろ既にアウト? ゴールイン済み? 最速最強ギャグトゥルーエンドだから後々のシリアスは全てノーカン? 記憶を消せば大丈夫よ。師匠だって人間だもの。幸運EXの壁を越えるわ。弟子は師匠を越えるものよ」

「イリヤ? 何を言って……?」

「シロウもシロウよ! 今は私のなんだから、ちゃんとその自覚を持たないとダメなんだから! 次反射で答えたらお仕置きしちゃうからね!」

「りょ、了解した」

 よくわからないが、自分はイリヤスフィールの機嫌を損ねたらしい。ぷんすこ怒る姉を見て首を傾げるシロウは、とりあえず了承を伝えておく。本当によくわからないが、今後ともよく考えて返答していこう。でなければ、何時だったかに用意された新しい体とやらへぶち込まれかねない。

 それはさておき、完全に寝てしまったらしい大河を見たシロウは、ハンガーラックにかけた彼女の上着を取りに行く。それを大河へ着せてやり、ついでに投影したマフラーを首元へ巻きつければ、防寒は完璧だ。

 時刻はそろそろ深夜となる。寝てしまった彼女をここへ泊めることは出来ないため、家まで送り届けなくてはならない。

「では、少し出掛けてくるぞ、イリヤ」

「はーい。いってらっしゃい、シロウ。変なことしちゃダメよ」

「しないよ」

 姉から送られた言葉に背を向け、シロウは大河を抱えて深山町へ足を動かす。ふと顔を上げれば、空気が澄んでいる今夜は遠くの星まで輝かせていた。

 小さくて、日によっては埋もれてしまうような瞬きの星。人の肩口でぐーすかと寝こける大河を見て、再びその星を眺める。

「…………敵わないな……」

 今は一つしかない腕で、しかし落とさぬようにしっかりと抱え直し、シロウは呟く。

 良い夢を見ることができた。

 

「ふあ~~~~ん~~~~……」

 自室にて目覚めた大河は、布団の中で伸びをする。気持ちよく飲んだ翌朝は、やはり気持ちのよい目覚めだ。

 ハッキリとする意識に満足し、よいしょっと布団から抜け出した彼女は、先ず洗面所へと向かって顔を洗う。温い湯で顔を洗い、柔らかいタオルで拭うとよりさっぱりして脳が働き始めた。

「あれ? 私って何時帰ってきたっけ?」

 気持ち良く飲み会を終えたことは覚えているが、帰り道の記憶は全くない。自宅にいる、ということは帰ってきたということだが、どうやって帰った来たのやら。

「ま、いっかーー」

 記憶はないが、ちゃんとパジャマに着替えて寝ていたのだ。変なトラブルに巻き込まれてはいないだろう。

 ついでに体もさっぱりしているから風呂も済ませたらしい。下着は同じ物を着けているのは酔っ払い故のご愛嬌。冷蔵庫に魚メインの朝食もあるとは、昨夜の私は過去最強の酔っ払いだったらしい。グッジョブ!

「んーーそれにしても、いい夢見たなーー」

 藤村大河の一日は、こうしてまたいつも通りに始まった。

 




 
そんな夢も、良いのかもしれない
みんなで藤ねえの所に帰れ
ちゃんと五体満足で帰れ

エタったと思いました? 筆者も思いました。
スランプはまだ続いていますが、この一年で地味に続きを書いています。
現在の執筆状況は、F/PMは次回投稿予定のミュウツー編を地道に書いてます。まだ序盤しか書けてない上に、書き直しもしてるあれですけど、地道に進んでいます。
そしてこちらの衛宮姉弟物語の本編ですが……あともう少しで完成予定です。現在完成まで80%程といった進行度でしょうか? と言うのも、アサシン戦を書き上げるのにネタが思いつかなさ過ぎて一年間かけて書いたようなものなので(ただし面白いとは限らない)、後は書きたいところしか残ってない状況です。リアル忙しい時期とKH3を脱したらアップ予定です。もし待っていて下さっていた方がいたら、大変長らく待たせてしまいすみません。期待に添えないかもしれませんが、頑張って書き切ります。
それはそうと、映画二章が最高でしたね。藤ねえがMVPでした。本当に美人過ぎてもうネタとしてSSFとか言えない。だってマジですやん。
 


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姉弟の退屈しない夢語 中

すみません。好き勝手に書いていたら文字数がえらいこっちゃになったので、予定になかった中編を上げます。終わりませんでした。今から20%を書きます……ひぇ。
今回は筆者の独自解釈やノリが酷いので、読む方にとってはとても疑問符が拭えないかもしれません。長いですし、くどい書き方をしたので疲れると思います。それでも良いと言う方は、頑張って下さると有り難いです。

03/08 修正



 010

 

 

 

「ねえ、少しお話しできない?」

「ふぇ!?」

 学校が終わって直ぐ。美遊と共に帰宅し、家の扉を開けようとしたイリヤの後ろから、イリヤスフィールが声をかけてきた。

 一体何時からそこに居たのか。いきなり現れた彼女にイリヤはすっとんきょうな声を上げ、それに気付いた美遊が急いで駆け戻ってくる。

「貴女、何時から」

「今さっきよ。ねえ、そんなことより少し話さない? 今夜討伐に赴く前に、貴女たちのことを知っておきたいの」

 イリヤの前に割って入ってきた美遊を気にせず、イリヤスフィールは髪を掻き上げて問う。イリヤたちはその答えに迷った。

 彼女の言葉をただ鵜呑みにして素直に従うには、あまりに材料が不足している。協力関係になったとはいえ、まだイリヤスフィールたちの真意は謎が多いことに加えて、あのアーチャーと言う、何故かクラスカードにあるクラスを名乗る男。今は居ないが、昨夜を思えばただ姿を隠して控えているとも考えられる。それに対してこちらはイリヤと美遊の二人。ルビーとサファイアも居るが、それでも凛とルヴィアが居ないのは心許ない。

 まだこの距離であれば、向かいに暮らしているルヴィアを呼びに行けるかもしれないが、それをイリヤスフィールは快く思わないようであった。

「リンとルヴィアはいいわ。あの二人なら、見なくても大体の予想はつくもの」

「……貴女の世界でも、あの人たちと貴女は知り合いだったの?」

「ええ、ルヴィアのことはあまり知らないけど、リンの実力ならある程度知っているわ」

 一転して、何故か苦い顔色になったイリヤスフィールに、イリヤと美遊は顔を見合わせる。感情を付けるならば「悔しい」だろうか。眉間にしわを寄せ、むっと唇を尖らせる様は、自分と同じ容姿でありながら別人のようだ、とイリヤに思わせた。有り体に言えば、ちょっとかわいいと思ったイリヤだった。

「あのリンが隣に並ばせる魔術師なら、ルヴィアの実力も知れるわ。でもね、それと貴女たちは別よ。貴女たちは見ているだけじゃ、何処までできるのかわからないもの」

『えー、つまり、平行世界のイリヤさんは「ここに居るメンバーだけでお話ししましょう」と言いたいわけですね?』

「ええ、さっきからそう言っているわ」

 鞄から飛び出したルビーの要約に、イリヤスフィールは頷く。

『しかし、ルヴィア様たちにも一応は話を通しておくべきでは?』

「えーーめんどくさーい。いーじゃん別に、一時間くらいだよ、話すの。ちょっと過保護すぎるんじゃない?」

『いやいやいや、魔術師相手に過保護に過ぎるってありませんから! まあ、たしかに? ルビーちゃん的には? 魔法少女にはハラハラ☆ドキドキハプニング的なものも大事なので? 大歓迎と言えば大歓迎なんですけどね?』

『こればかりは私たちの一存では決められませんから』

「そ、そうなのです!」

「普通の反応です」

「むむ……」

 一般的感性からの正当な反論に、流石のイリヤスフィールも唸り声を溢す。

 イリヤたちは小学生である。今時の小学生、怪しい人に付いて行ってはいけないことなど、誰でも知っている常識だ。

「なら、こうしましょう!」

 ぱちん、とイリヤスフィールが指を鳴らした途端、ブレーキ音を立てて彼女たちの前に一台の車が停まる。

 そのホワイトのボディには傷一つなく、窓にも曇った箇所は見られない。陽の光を反射し、輝くエンブレムはリングに嵌まるスリーポインテッド・スター。

 世界に名を轟かす高級車の登場に目を白黒させるが、さらにその屋根が外れ、ドライバーが姿を見せたことにも驚かされる――何故か執事服を着ていたが。

 そのドライバーは白髪をオールバックにし、褐色の肌にサングラスをかけていた。逞しい体躯は乱れのないスーツに包まれ、左腕がないためにややアンバランスに映るが、それでも十分に似合っている。その体を赤いシートへ凭れかからせるドライバーの男は、開放的になった車体からイリヤスフィールを見上げた。

「私を呼んだかね、マスター」

((なんか凄くかっこつけてるー!!))

 現れたのはアーチャーであった。

 サングラス越しでもわかるドヤ顔であった。

 サングラスを外すのにも格好つける(ざま)であった。

『ひゅーひゅーーかっこいいーー! いやー様になってますねぇ! あ、ちょっと顎下げて……そうそうそれです! その角度のままちょっとサングラスのフレームを唇に……そーですそーですナイスショット!』

「む……ふむ、そうだろうか」

(のせられてるー!!)

『いやーこれは後の反応が楽しみですねぇ~』

「ん? 何か言ったか?」

 終いにはルビーに煽てられ、車から降りて車体にポージングし始めるアーチャーに、ますますイリヤたちの目が点になる。

 怖い男かと思っていたが、意外とノリがいいらしい。

「アーチャー、遊んでないで準備しなさい」

「ああ、任された」

 呆れた様子でため息を吐いたマスターに、アーチャーは何でもない顔をして頷くと、サングラスをかけ直してから後部座席の扉を開き――そこへイリヤと美遊を勢い良く、しかし丁寧に投げ入れた。続いてイリヤスフィールが助手席へと乗り込むと、ドライバーは心得ているとばかりに屋根を再展開させて急発進する。

 簡潔に表すなら、イリヤスフィールたちはイリヤと美遊を誘拐した。

「ひ、人拐いだーーーー!!」

「貴女たちが言うこと聞かないのが悪いのよ」

『いやー見事で滑らかなテクニックでしたね。これは初犯じゃありませんよ』

「手荒な真似をしたが、心配することはない。およそ数分のドライブだ。少し私のマスターの我が儘に付き合ってはくれないか?」

「わたしたちを、どうするつもりですか?」

 高速で移り変わる景色に、車が新都へ向かっていることがわかったが、目的地は全く想像つかない。アーチャーの言う通り、ただのドライブであるなどとは信じられない美遊が、倒れ込んだ姿勢を正しつつ問い質す。それの何が面白いのか、イリヤスフィールもアーチャーも、口角を吊り上げて口を開く。

「甘いものは好きかね?」

「お茶をしましょう?」

 

 新都にひっそりとあるレトロな喫茶店へ連れ込まれたイリヤと美遊は、窓際の席でアーチャーの出したアップルパイとオレンジジュースを前に固まっていた。

 二人の前に座るイリヤスフィールにはレモンティーが出され、唖然とする二人とは反対に、優雅にその味を楽しんでいる。

「食べないの? お兄ちゃんが作るのはどれも絶品よ?」

「いや、その前にここどこなの?」

 差し出されるものは確かに美味しそうではある。だが、だからと言って知らない店に連れ込まれて腰を落ち着けるのは難しい。

「ああ、ここは私たちの店よ」

「ああ、なるほど! アインツベルンさんたちのお店――ええええええーーっ!!??」

 イリヤの驚きも仕方ない。

 どうやって生活しているのかと思えば、まさかお店を開いて溶け込んでいると誰が思うだろうか。

「いきなり大声出さないでよ……って、私のことファミリーネームで呼んでるの?」

「え、だってわたしとあなたは同じ名前でちょっと違和感が……ってそんなことより何でお店!? 異世界の人ってそんな簡単に他所の世界でお店とか持てるの!?」

「現に持ってるじゃない。ちょっとやりたかったのよ」

「そんな気軽に習い事するみたいに始められるの!?」

「い、イリヤ落ち着いて」

 平行世界での自分の突拍子のない行動に、イリヤは頭が混乱するようであった。

 やっぱり違う。このイリヤスフィールとイリヤは、根本的価値観と言うか、取り巻く世界が何もかも違い過ぎて、どう頑張っても自分には思えない。イリヤは彼女のように異世界へ移った際、店を持とうと思うだろうか? いや思うまい。てかどうやってやるかも想像できない。

「はい、疑問は解消できたわね。じゃあ、どうぞ召し上がってちょうだい。せっかくお兄ちゃんが用意してくれたの。無駄にしてくれないでよね」

「え、あっはい……じゃあ、いただきまーす」

「い、いただきます……」

 落ち着いてきたところで促されるまま、とりあえずフォークを手に取り、パイ生地へさくりと突き刺す。さっくり、しっとりとフォークの先に乗った一口大のパイは、キャラメル色でとても食欲をそそってくる。

 二人は同時にそれを口へと運び込んだ。

「「お……」」

「『お』?」

「「おいしいっ!!」」

 口の中で広がる香りに、トロリとしたカスタードクリームとじっくり漬け込まれた林檎の甘酸っぱさは、市販の物にはない味わい深さとなって二人に衝撃を走らせる。

 こんなお菓子、今までに食べたことがない。何処の高級メーカーだ、なに!? あのアーチャーと言う男の手作り!? サーヴァントってそんなことまでできるの!?

「凛たちには今連絡を入れておいたぞ」

『凛さんのあの慌てようはなかなか面白かったですねー』

『なにか壊したような音がしましたが……まあ、ルヴィア様なら大丈夫でしょう』

 カウンターキッチンから出て来たアーチャーが、ルビーとサファイアを連れて席まで近寄ってくる。その格好は既に燕尾服ではなく、グレーのシャツに黒のスラックスで身を包んでいた。そういった格好をしていると人外には全く見えない、鍛えている外国人のようだ。

「味は如何かね、と聞くまでもないのだろうな」

「とっても美味しいです」

「美味しいです」

「そうか。おかわりもあるから、申し訳ないが自分で取り分けてくれると有難い。では、ゆっくりとしていってくれ。マスター、私は奥で準備をしているから、用があれば呼んでくれ」

 アーチャーは残ったアップルパイのホールをテーブルに置き、一礼してカウンターの奥へと引っ込んで行った。

『……サファイアちゃん、ルビーちゃんちょっと野暮用があるので、ここは任せちゃっていいでしょうか?』

『はい?』

『じゃ、後で録画くださいねーー!!』

 ばびゅっとルビーがアーチャーを追って店の奥へと飛び差って行く。それを理由もわからぬまま見送ったサファイアは、暫く呆然とした様子でいたが、あの姉なら仕方ないと思考を放棄して美遊の元へと戻ってきた。

「ルビーどうしたんだろ?」

「サファイア、ルヴィアさんは何て?」

『はい、アーチャー様が美遊様とイリヤ様を誘拐した主旨を伝えたところ、どうやらティータイムの最中だったようで、カップを割って火傷したみたいでした。心配は無用でしょう』

「それ、心配すべきことなんじゃ……」

 何だかんだでサファイアも元マスターへの当たりが強い。しれっとした態度で報告する様に、美遊は少し困った表情になった。

 ルビーとアーチャーが居なくなったことで、店内にはイリヤと美遊とサファイア、それとイリヤスフィールのみとなる。

 オルゴールの音が、静かに少女たちの間に流れていた。

「ねぇ(イリヤ)、ミユ。貴女たちは何故戦うのかしら?」

 静かな音色を割って、イリヤスフィールが口を開く。

 ソーサーへ戻されたカップが、陶器の甲高い音を立てた。

「貴女たちは、元々ただの一般人で、魔術師でもその見習いでもないんでしょう? クラスカードの討伐は、貴女たちが最初に思っていたより遥かに大変で、生半可な戦闘じゃなかったはず。それなのに、なんで続けようって思ったの?」

 その問いは、イリヤと美遊にとって覚えのあるものであった。

 初めて二人が出会い、再開した学校の放課後、美遊がイリヤに対して問いかけたもの。あの時は互いの認識違いにより、ギスギスとした関係に一時なってしまったが、少し時間を得た今ならばイリヤも考えて答えることができる。

「わたしは、最初はゲームやアニメの魔法少女みたいに、面白そうだなって思ったのがきっかけだった」

「そう」

「今思うと、ちょっと凛さんたちには申し訳ないなって思うんだ。ルビーに魔法少女にされて、何だかんだで流されるままにやって来たけど、みんなは真面目なのにわたしだけ中途半端だったから……」

 あの時、何故美遊が怒ったのか。今ならイリヤも少しだけ理解することができる。

 美遊や凛とルヴィアは、クラスカードに関わることが危険なことだとわかっていた。そして覚悟を決めて挑んでいた。それなのにイリヤ一人が不誠実であれば、彼女が不快に思うのも無理はない。

「けど、けどね、今は面白半分でできるようなことじゃない、凄く大変で凄く危ないことだってわかってきたんだ。それに、クラスカードがあるとこの街が大変なことになって、それを止めることができるのがわたしたちだけだってことも、ちゃんとわかってきた」

 クラスカードの歪みが深刻になれば、それは何時かイリヤの友達に、また家族に悪影響を及ぼすかもしれない。

 大好きな人たちが、傷付くかもしれない。

「だから、わたしは戦う。みんなを守ってみせる!」

 脳裏に過る友達の、家族の、そして兄の笑顔。

 イリヤは自分に言い聞かせるように、胸の前で拳を握り込んだ。その様子を眺めるイリヤスフィールは、そっくりな顔に変化を浮かべず、ただ「ふーん」と頷きを返す。

「……そう言うこともあるんだ」

「え?」

「なんでもないわ。じゃあ、次はミユね」

「……わたしは……」

『美遊様……』

 イリヤスフィールの問いに、美遊は口ごもり、視線が膝へと逸れる。

 美遊は、少しだけイリヤスフィールが苦手だった。

 見た目はイリヤとそっくりで、彼女はイリヤの同一人物であるが、しかし美遊にとってもイリヤスフィールとイリヤは何もかもが違うように思えていた。

 例えるなら、イリヤは向日葵のような暖かさ、月のようなを安らぎを感じさせ、美遊を優しく包み込んでくれている。対し、イリヤスフィールは雪のように冷たい。一見美しく映るが、その実、触れる者を心臓から凍りつかせる冷酷さが窺えるようだった。

 まるで、彼女をただの道具のように扱った――

「どうしたの? 美遊」

 様子のおかしいことに気付いたイリヤが声をかけると、美遊はゆっくりと顔を上げ、友達の瞳を覗き込んだ。

 美遊にとって、イリヤは初めてできた友達だった。

 あの人の願いに近付く大きな一歩をくれた人で、不器用な美遊に何度でも手を差し出してくれた、大事な人。

 純粋に気にかけてくれるその瞳にそっと息を吐いた美遊は、先とは違って強い眼差しを持ち、イリヤスフィールへと向き直った。

「わたしは、責任を果たすために戦う。この街が平和であれるように、もう誰も傷付けないために、わたしは戦うと決めた」

 膝に置かれた拳が、美遊のスカートにしわを作る。

 イリヤは、そんな美遊に小さく首を傾げた。

(責任?)

 美遊の語った決意には、イリヤには検討の付かない単語があった。

 まだ浅い付き合いだが、美遊がとても真面目なことは言動の節々から窺うことができる。しかし、クラスカードと美遊に、一体何の「責任」を求める事柄があると言うのだろうか。

 考えても見えない疑問。推理することを諦めたイリヤは、それをアップルパイと共に飲み込んだ。

「そう」

 美遊の言葉にも、イリヤスフィールは素っ気ない言葉を返すだけだった。

 そちらから訊ねておいてその反応はどうかと思うが、彼女はそれほど戦いへ赴く理由に拘りがあったわけではないらしい。

 カップの紅茶を飲み干し、アップルパイもさらえたイリヤスフィールは、もう一切れ皿へと移した。

「まあ、そんなものでいいのかもね」

「は、はあ……そうですか」

「…………うん、そうね、そういうものかも」

 二つ目のアップルパイを咀嚼しながら、イリヤスフィールは一人納得して頷く。正直、イリヤたちは置いていかれている気分だ。

 育った環境が違うと言うイリヤスフィールは、彼女の言う通りイリヤとの思考回路が違い過ぎる。そんなある種の未知を知るには、出会ってからの付き合いがイリヤと美遊の間以上に短いのだから難しい。

「ありがとう、二人共。ちょっとは夢を見られたわ」

「夢?」

「それは、どういう……?」

「貴女たちは知らないままでいいのよ」

 相変わらず、魔術師とはよく分からない。

 自己完結してしまったイリヤスフィールに、イリヤと美遊は目を見合わせ、それから揃って首を傾げた。

『では、こちらからも訪ねても構いませんか?』

 何も訊けない少女たちに代わり、サファイアがひらひらと羽のようなリボンをはためかせてイリヤスフィールの前に舞い降りる。

「なにかしら?」

『貴女たちがクラスカードと戦う理由です。イリヤスフィール様とアーチャー様の力があれば、ルヴィア様と凛様から直接カードを奪うことも可能であったはずです。リスクで言えば、実力を把握している彼女たちの方が軽いはず。それなのに何故、貴女たちは直接クラスカードに挑む方を選んだのですか?』

 これまでの言動で、イリヤスフィールがこちらの戦力をある程度正確に掴んでいたことは明白だ。イリヤたち魔法少女が戦い慣れしていないことも知っていただろう。彼女たちと英霊の現象たるクラスカードでは、前者を狙った方が遥かに楽なはずだ。にもかかわらず何故、イリヤスフィールとアーチャーは協力など持ちかけて来たのだろうか。

「そうね、クラスカードに比べれば、確かに貴女たちの方が楽な戦いかもね」

 フォークを置き、イリヤスフィールは厨房の奥へと目を向ける。

 それから目を閉じ、優しい音で言葉を紡いだ。

「でもね、夢の中でくらい――家族の悲しむ顔は見たくないわ」

 

 

 

 011

 

 

 

「なーにが『じゃ、夜を楽しみにしているわ。実力の程、期待しないで見てあげる』よ!?」

「まさか言った本人が来れなくなるなんて、これぞ間抜けとしか言えませんわね!」

 郊外へと向かう高級リムジンには、凛とルヴィアとイリヤと美遊、それからカレイドステッキ他アーチャーの五人と二本が乗っていた。

 つまり、イリヤスフィールは欠席であった。

 凛とルヴィアが文句を垂れるのは無理もない。遡ること数時間前、無事にイリヤと美遊をエーデルフェルト邸前まで届けたイリヤスフィールとアーチャーは、そこに待ち構えていた二人の保護者へ挑発を投げ掛けていたのだから。

『作戦とかメンドーだから、現場に行くまでに聞くってことで――じゃ、夜を楽しみにしているわ。実力の程、期待しないで見てあげる』

 明らかに下に見たその態度に、カチンと来ないわけがない。加え、魔法少女二人の行方を探るべく、イリヤスフィールから渡されていた鳥型使い魔と戯れていたらしい二人は、それはもうボロボロの有り様で……ブチブチッと何かが切れる音がしたとかしなかったとか。

 そんな背景があり、イリヤスフィール陣営に対する好感度がマイナスへ到達している凛とルヴィアは、のこのこ主の不在を告げに着たカジュアル姿のアーチャーにチクチクと当たっていた。

 しかし、アーチャーはそんな嫌味などお構いなしに、ゆったりとした広い座席で使い魔を膝に乗せながら寛いでいる。

「マスターが不在な件については、想定外の事態があったとは言え、前言撤回の形になった以上は謝罪しよう」

「『想定外の事態』って、ただ寝込んだだけなんでしょ?」

『まあ、春先とは言え冷えますからねーイリヤさんたちも風邪には気を付けてくださいよー』

『特に夜は冷え込みが増しますから』

 エーデルフェルト邸の前、そこに集合していた面々へ現れたアーチャーが言うに、イリヤスフィール不在の理由は何でも、ある意味うっかりでベッドの住人になってしまったためだとか。

 本当ならマスターの傍で世話をしたい中、渋々訪れたのであろうその従者は、以前見たときよりもやや厳しい表情で彼女たちにそう告げた。

「あの、アインツベルンさんは大丈夫なんですか?」

「ああ、一晩も休めば回復するだろう。心配をかける」

 イリヤが問えば、アーチャーは眉間のしわを緩めて頷く。その表情を見て、凛とルヴィアは同時に口を開いた。

「イリヤ、そいつ(ロリコン)から離れなさい」

「美遊、あまり近付いてはいけませんわ」

「「え?」」

「待て、誰がロリコンだ」

「話は聞いてるわ。昼間から小学生(イリヤと美遊)を誘拐するような奴を、ロリコン以外に何て言うのかしら?」

「あれはマスターの命令であって、私の意思ではないのだが」

「生娘の体に無遠慮に触れる殿方など、それはもう立派な変態(ロリコン)である、とは世の常識ですので」

「いや、だからだな……」

「しかも小学生相手に決めちゃうの(あの格好)は言い逃れできないわー。しかもしかもイリヤと変わらない子どもをマスターとか呼んでベタベタ触ってるのもやばいわー」

「白昼堂々小学生相手にナンパとは、流石はミスター・ロリコン――いえ、キング・ロリコンですわね。ああ、これは言い逃れのできないキング・オブ・キング・ロリコンですわ!」

『あ、証拠写真お見せしましょうか? すぐ準備できま「やめろたわけ!!」

 今更になってちょっと頭を抱えるアーチャーだった。言及したいことは幾つかあれど、改めてはしゃいでいたことを指摘されるの少し恥ずかしい。

 アーチャーは空気を変えようと一つ咳払いをし、じと目を向けてくる少女たちに向き直った。

「それはそれとして、今回のクラスカードについて、こちらが掴んでいる情報を提供しよう」

(話そらした)

(あからさまに話をそらしてる)

(逃げたわね)

(逃げましたわ)

(『意外とわかりやすい方ですね』)

(『なるほど、こういった角度からは弱いようですね』)

「ルヴィア嬢、車は郊外の森へ向かっていることに変わりはないかね?」

 案外真面目な表情で問われ、佇まいを正したルヴィアはアーチャーに是と頷き返した。

「ええ、その予定です」

「ならば、これから君たちが挑むクラスカードは『アサシン』だ」

『何故、そう確信を?』

「消去法だな」

 クラスカードがどのクラスの英霊を型作るのか、それは実際に相対するまでわからないのがこれまでだった。しかし、それはイリヤたちの陣営側の事情に限った話である。今回はイリヤスフィール陣営も動いていたことで、今から相対するターゲットは双方の戦績具合から想定して考えられる。

「君たちは今日までに『アーチャー』『ランサー』『ライダー』そして『キャスター』の回収を済ませているだろう? 私たちはその間に他のカードと接触している」

「なるほど、つまり貴方たちは既に残りのカードの位置、そしてそのクラスも把握してるってわけね」

「その通りだ」

「じゃ、じゃあ、何の英霊がアサシンかもわかるんですか?」

 アサシンとは『暗殺者』の役職を指す言葉だ。ゲームやアニメでよく見られるそれに、一体どのような英雄が該当するのだろうか。

 イリヤが問うも、それにアーチャーはわからないと首を振った。

「え、わからないんですか?」

「姿は確認していないからな。だが、カードの接続先である英霊の予想はできている」

「……と言うのは?」

「君たちは『アサシン』の語源が何であるか知っているかね?」

 投げ掛けられた問いに、真っ先に首を傾げたのはイリヤだった。

 ゲームなどの二次元ではよく耳にする『暗殺者(アサシン)』の呼称であるが、それが一体どこから生まれたのかと訊かれると全く想像できない。

「……『アサシン』の語源は、イスラム教の伝承に残る暗殺教団からだと本で読んだことがあります」

 その疑問に答えたのは、意外なことに、凛やルヴィアではなく美遊であった。「意外」と言葉を使ったが、彼女は既に高校生以上の頭脳を身に付けているらしいため、わざわざ枕に付ける言葉ではなく、おかしなことでもないのかもしれない。しかし、あまりこういった単語とは無縁そうにも思えたため、イリヤはやはり「意外」と感じていた。

 そんなイリヤの心状はさておき、美遊の答えにアーチャーは言葉を続けた。

「その通り。『アサシン』は暗殺教団から流れて変化したものだと一説がある。今回の場合この言葉自体が触媒となっているため、その教団の歴代教主《山の翁(ハサン・サッバーハ)》が相手になる可能性が高いと考えられる」

「い、一気にそんなに沢山の英霊と戦うの!?」

「まさか。現れるのは精々その内の一人に過ぎんよ。しかし、油断もできん相手だがな」

 アサシンは文字通り暗殺を得意とするクラスだ。如何にも戦闘慣れしているアーチャーだけならまだしも、未だ素人同然であるイリヤと美遊たちには、これまで通り油断して良い相手ではない。

「もう一人候補が居るが、こちらの確率はハサン・サッバーハに比べれば低いと言える」

「それは?」

「佐々木小次郎」

「……は?」

 思わず凛の目が点になる。

 佐々木小次郎と言えば、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客であり、宮本武蔵の宿敵として「巌流島の決闘」が有名だろう。銅像にもなっている有名人であり、日本史に詳しければ大抵の者が知っている程の人物だ。

 その佐々木小次郎が、何故アサシンの話で名が挙がるのか。

「………………これはとある情報筋からの情報で、私たちも確証はない」

「はあ? じゃあなんだった佐々木小次郎なんてのが候補に上がるのよ?」

「知らん。そんなものはあの浮かれ魔女に訊け」

 そもそもあんな宝具が反則なのだどうのこうの、とアーチャーは使い魔の嘴で遊びながら呟く。その怨念のようなくぐもった呟きは少女たちの耳に入ることなく、四人は互いに顔を見合わせた。きっとこの場に某浮かれ魔女が居たならば「貴方だけには言われたくない」とでも言い返していたことだろう。そんな愚痴であった。

 そうして、一頻り文句も言い終えたのだろう。アーチャーはおもむろに姿勢を正した。膝の上に居た使い魔はぴょんっと座席の上に移り、顔のない頭をイリヤたちへ向ける。

 仕切り直されたような空気に、自然と少女たちの背も伸びた。これから重要なことが告げられる、そう感じ取れたのだ。

「いいか、アサシンが厄介なのは、そのクラス特有の《気配遮断》スキルだ。これは言葉通り、気配の一切を掻き消すことのできる」

「厄介ですわね……」

 話を聞いて、ルヴィアは唇に指を添える。

 気配を一切感じさせないとなれば、相手からのモーションがない限りこちらから仕掛けるのは難しくなる。その上主戦力のイリヤと美遊は、未だ戦闘に慣れていないため、後手に回れば回る程不利な状況にもなりかねない。現にキャスター戦では先手を打たれ、まともな対応もできなかったのだから、また繰り返す恐れがあった。

「…………て言うか、どうしてそう言うのを直前に言うのかしらねぇ? 協力関係になったのなら、事前に言えるタイミングはいくらでもあったんじゃないの?」

「……君たちがクラスはともかく、クラススキルを把握していないとは思わなかった――いや、寧ろ知っていて当然だと思い込んでいたからな」

「は?」

「ふむ、そうなるとこちらの落ち度か。すまなかったな」

「ちょ、待った待った! なに? 今の言い方だとあんたたちの世界だとクラスカードが当たり前の礼装なわけ!? てことはもしかしてこれってあんたたちのせいで起きてるんじゃ……」

「それはないと断言しよう」

 凛の文句にアーチャーは遮るように答えた。

「私から答えられることは限られるが、少なくともクラスカードと言った礼装を私たちは知らない」

 何の前触れもなく、突然冬木の街に現れた魔術礼装。クラス分けされたそれぞれのカードは、何らかの魔術式により英霊の座へと接続され、そこから力の一部を引っ張り出すことのできる前代未聞の代物だ。しかし誰が何の目的で作ったのか、その製造主から構築式まで時計塔の力をもってしても何もかもが未だ解明されていない。

 アーチャーの視線が、イリヤと美遊の保持するホルスターへ流れる。その鉄のような冷たい瞳が、そっと細められた。

「気を付けたまえ。それは君たちが思う以上に未知の物だ」

 

 

 

 013

 

 

 

 五人と二本のステッキが到着したのは、郊外の森だ。空はすっかり暗くなっており、木々が擦れる音が幼い少女の心に小さくない刺激を与えてくる。

 イリヤは一度ぶるりと身震いし、それから目の前に居るアーチャーを見た。彼は何事か使い魔に呟いている。己の主と通信しているのだろう。あの使い魔は元々そのためにイリヤたちへ与えられたものであった。

「作戦は『油断せずに行こう』よ!」

『ボールが独りでに寄ってきたり離れていったりしそうな名前ですね』

「気配を一切感じさせない。その利点をカードが使ってこないわけがありませんわ。接続後、まずガードを固めますわよ」

「単独行動禁止。持久戦になると思うけど、先ずは相手の出方を見るのが第一段階。第二段階はカードの姿を見て臨機応変に!」

「つまり行き当たりばったりということだな」

 四人の元に加わったアーチャーは、話しながら外套を変化させる。そうすると、先まで外国人チックな褐色肌のお兄さんから、今度はどことなくチャイナチックなファンタジーお兄さんの登場だ。魔法少女とは違った不思議な変身シーンを見て、イリヤは思わず感嘆の声をこぼした。

 アーチャーの右手には白い刀身の短剣が握られていた。「アーチャー」と呼ばれるには不似合いな装備であるが、片腕ながら違和感なく握る姿にこれが彼の主装備なのだと窺わせる。

 まじまじと、イリヤたちは遠慮することなく正体不明であるこのアーチャーなる男を見た。全身に纏わり付いた逞しい筋肉、日に焼けたような褐色の肌、奥が透けるような白髪。使い魔だと言う人外には似合いのような、不思議な存在感を放つ何処の人種かわからない存在。今から自分たちは碌に知りもしないこの男に背中を預けなくてはならない。勢いのようなものでここまで来たが、本当に大丈夫であるのだろうか。

 当然の疑問が今更過ったところでもう遅い。否、ここでアーチャーを置いて行く、という選択肢もあるが、それは最も頭の悪い選択と言える。何故ならば、アーチャーを置いて行くということは、戦闘後疲労困憊であろう自分たちを出迎えるのは彼になるからだ。自ら首を差し出すような真似をする程バカではない。

「心配せずとも、私が前に出よう」

「え、」

 アーチャーを自分たちが持て余していることを察してか、本人からそんな申告が降ってきた。察するも何も、凛とルヴィアは普通に顔に出していたので、余程の鈍感でなくては気付くものであったが……アーチャーは驚く面々にやれやれと肩を竦めた。その様は随分と様になっており、彼が幾度もその反応を繰り返してきたことが窺える。眉を下げる様子が、その表情を推し量る大きなポイントだとでも言いたげだ。

「何を驚く? 共闘をするにも、まずこちらの手を晒さなくては協力も何もないだろう?」

 上記にある通り、少女らはアーチャーがどのようなカードを切れるのかを知らない。彼女らが知っているのは、キャスターを翻弄する実力の持ち主であること、のみ。それは彼の戦闘能力の高さを示すようで、実際は全く中身の窺えない穴を覗くような話である――つまり、これではアーチャーがどんな戦い方をするのか欠片も伝わらないのだ。

 故に、協力するには双方情報共有不足であることが否めないのである。勿論この非はアーチャー、もといイリヤスフィールにあるのだが、この場にいない白い悪魔に文句を言っても意味はない。

「君たちのことをこちらは把握しているが、そちらは何も知らないではあまりに不公平だ。ならばこの機に私の力を見てもらい、それをどう活かすかをゆっくり考えるといい」

 メインはあくまで君たちなのだから。

 言っていることは、自分を盾にしてその間にじっくりと戦況を見ろ、ということであるが、彼の声色はあまりに優しい温かみに満ちていたため、四人は揃ってぽかんとした表情を晒してしまった。例えるならば近所の優しいお兄さん。どこかの女学生に片恋されていそうな、それで本人は全く気付かず近所の子どもとの用事を優先していそうな、そんな優男がふと湧いてきた。こんな見た目のくせして。

(そ、そういえばお菓子とか作ってるんだっけ……)

 この見た目で。

 最近の弁当男子やら何やらの流行を無視し、イリヤはそんな感想を抱くことで胸を打った鼓動を誤魔化した。イリヤ以外にも凛などが同じような何とも言えない表情を浮かべ、僅かに頬を染めているのを、アーチャーだけが不思議そうに眺めている。お前のせいだとは誰も言えるはずがなかった。

「ん? なんだか様子がおかしいが……まさかこんな時に風邪でも引いたのかね?」

『まあまあアーチャーさん。ここは触れないでください。皆さん思春期なんですよ☆』

「彼女らの年齢的に見て、思春期なのは当たり前ではないか?」

『いやですねー。気持ちの問題ですよ! 気・持・ち・の』

「ますます何を言っているのかわからんのだが……」

「と、兎に角! 行くわよ!」

 頻りに首を傾げるアーチャーと、それを面白がるルビーのやり取りを覆い隠すような、そんな勢いのこもった気合いの声を、凛は近所迷惑だとか考えずに張り上げる。郊外であるため苦情が来るようなことはないだろうが、夜の木々にその声はよく響き渡った。

 まあ、それは兎も角として、今は人外お兄さんとの交流を図る時ではない。一部の関係者にしか知られていないが、今はこの町の未来を賭けた大切な任務の真っ最中なのだ。時間も限られているため、そろそろ身を引き締めなくてはならない。

「たしかに、少し御喋りが過ぎたな」

『ルビーちゃん的にはまだ物足りないですけど』

『姉さん、当初より文字数が二千程増えてきているので巻いて下さい』

『……仕方ありません。それじゃあさっさと本編に行きましょう! 半径二メートルで反射路形成! 境界回廊一部反転しますよ!』

『限定次元反射炉形成! 境界回廊一部反転します!』

『イリヤさん行きますよ!』

『美遊様行きます!』

「「接続(ジャンプ)!!」」

 彼らの足元に浮かび上がった魔法陣が魔力を放出する。それに呼応するように森の木々は騒めき、闇に紛れる木の葉を増やす。

 世界が反転する瞬間、アーチャーは一人遠い空を見上げた。今夜は少し雲がかかっているが、町明かりが遠いおかげか星空がよく眺めることができる。天体観測をするには十分な条件が整っていると言えるだろう――にも拘らず、胸騒ぎがした。

 核が落ち着かない。そんな、彼が今まで感じたことのない、らしからぬ感覚であった。

 

 

 

 014

 

 

 

「魔術障壁展開!」

「総員固まって下さい!」

 接続後すぐ、イリヤと美遊は魔法障壁を張り、身を寄せ合った。これで無防備にも身を晒しているのはアーチャーのみとなり、格好の的の出来上がりだ。

 アーチャーは人外であり、魔術師としての凛とルヴィアが彼を囮にすることに異を唱えなかった時点で、囮役として十分に役をこなせる人物なのであろう。しかしイリヤは彼の背中を見ると、どうしてか不安な気持ちを抱いてしまう。それは彼が隻腕だからだろうか、それとも一人で居るからだろうか。何故なのかはわからなかった。

「一つアドバイスをしよう」

 イリヤの不安をよそに、アーチャーは口を開いた。声に焦りは見られず、立ち姿はどこか余裕を感じられるようにゆったりとして見える。こう話しかけてくるせいで、余計にそう感じられるのだろう。

「《気配遮断》スキルだが。このスキルはどんなにランクが高かろうが、完全に気配を消すことができない瞬間があるのを知っているかね?」

「気配が消せない、瞬間?」

「え、えっと……」

 カァン――誰かが答える前に、金属音が響き渡った。

 ハッと見れば、アーチャーが右腕を上げている。そして彼の足元の視線を移せば、黒いナイフのような物が地面に突き刺さっていた。

 刃渡り三十センチ前後。黒いため夜闇に紛れやすく、薄いため風の抵抗も受けにくい。投擲に適した刃物だ。

 それを認め、アーチャーはゆっくりと拾い上げる。

「正解は、暗殺する瞬間だ。どんなに動作の気配を消そうと人を殺すその瞬間には気配を消せはしない。如何に気付かれる前に始末するか。暗殺で求められるのは速さではないか、と私は思うのだが……どう思うかね?」

「え、は、はい! そうなんじゃないでしょうか?」

 イリヤは飛び上がるような上擦った声で肯定した。

 先まで抱いていた不安など何処かへ飛んで行ってしまった。

 この様子のアーチャーの何処を心配しろというんか。見た目通り余裕綽々とダガーの検分をしているというのに。それも森に背を向けてこちらを向いてすらいた。

 あと話してる内容が怖い。一般的小学生が暗殺の極意など知るはずがないので普通に怖い。

「ではついでにもう一問、クイズを出そう」

「あ、あんた……よくそんな暇があるわね……」

「余裕などないさ」

 そう言いながらも、アーチャーは短剣を握りながら器用にダガーを指先で振った。

「ダガーは見た目通り小型の刃物だ。主に刺す投げるといった使い方をするが、実は暗殺向きではないことをご存知かね?」

「そ、そうなの?」

「それは……刺すには近付かないといけないから。投げるには急所に当たりづらいから、ですか?」

「その通りだ」

「へー……」

 暗殺者と言えばダガーというイメージがある。だが確かに、実際見てみるとこんな小さな物で一瞬にして人が殺せるのかと問われれば、頷くのは難しいかもしれない。

 もちろんプロフェッショナルならばできるのだろうが、凛とルヴィアが頷かないため難しい部類となるのだろうことが垣間見えた。

「だがこのアサシンはダガーを使用する。理由としては数あるだろうが、一つ明確であることもある。ある条件に持ち込んでしまえばどうとでもなるからだ」

「ある条件って……」

「動けなくさせればいい」

「――――っ」

 その声は冷たかった。感情が全て削ぎ落とされたかのような、人は一瞬で変わることができるのだと、そう知らしめるかのような声だった。

 彼は隠すことなく告げている。動けなければ、どれも容易く摘まれるものでしかないのだと。冷静に、平坦に告げている。

 そうイリヤが感じたと同時に――カァン――再度金属音が響く。アサシンからの二投目を見本にしていたダガーで弾き飛ばした音だ。続けて右斜めから三投目がアーチャーへ襲い掛かるも、それも手にする短剣で払い、無傷でその場に立っている。

「そう言うわけだ。このダガーには毒が塗られているので気を付けたまえ」

「だろうと思った」

 冷や汗を流しつつ、凛は口角をつり上げる。その好戦的な表情はアーチャーの好むもので、直接見ずとも容易に感じられる気配に、彼は肩を揺らして見せた。

「知っての通りクラスカードが形作る物体は魔力で作られている。毒とて例外ではない。簡単には解毒させてくれはしないだろう。薄皮一枚掠ったら終わりだと思っておくといい」

「そんな事教えられずとも知ってるわよ!」

「ならば結構。しかし、凛。今は喚くより作戦を練るといい――ほら、来たぞ」

 言ったと同時に、アーチャーは大きく地を蹴った。三六十度から襲いかかったダガーの群れは魔法少女たちの張るシールドに弾かれ、目的を達成できずに地へと無惨に落ちていく。

 そのガラクタを見ず、夜空に身を踊らせたアーチャーは、赤い外套を翻して暗い森の木々へ目を走らせる。街から離れた郊外であるここには自然の明かり程度しかないため、森全てを見通す術はないものの、彼の眼は闇を駆ける者共の一端を捉えていた。

 しかし、だからこそアーチャーは困惑する。

(本体は何処だっ?)

 先のダガーの群れ。それ以前の複数の攻撃。これらの情報がアーチャーを混乱させる。

 クラスカードは一枚につき一つの英霊の座に繋がっている。つまりカードは一体の英霊の姿しかとれないはずなのだ。場合によっては座に複数人登録されており、それが個とされることもあるのだろう。しかしクラスカードは聖杯のように英霊のコピーを一体でもまともに造り出せるような、そんな便利なアイテムではない。今までのを見るに、力に殻を被せるのが精一杯と言ったところだ。

 此度のこのアサシン、余程の高速移動を保持しているにしては動きが速すぎる。まるで分身でもしているかのような同時攻撃だ。そう考えなくては、神速持ちにしても、先の光景の説明がつかない。

 ここまでの様子見にて、アーチャーは元の世界で見た真アサシン、そして大穴であった佐々木小次郎の可能性を潰す。彼らにはこの状況に該当する戦闘スタイルの覚えがないからだ。特に後者は論外とすら言えるだろう。

 つまりは、新手のアサシン。そしてこのアサシンの宝具は分身と言ったところか。本体以外は全て偽物と考えるべきだろう。もしかすると全て本体、などという面倒なものの可能性もあるが、全滅させればどちらも変わらない。つまりは、地道な当たり探し。そうアーチャーは方針を定めるが、表面に一切見せず内心でどうしたものかと眉を寄せる。アーチャーは張りぼてを立て続けることはできても、そこに自信は欠片もなかった。自身の評価を正当にしているつもりであるが故の、焦り。底辺の存在であるアーチャーに、半端とはいえ正当な英霊に何処まで食い下がれるだろうか。キャスターとバーサーカー同様、負けるつもりはないが、無事で済むとも思えない。

 しかし、背後にいる存在を――憧れの少女を思うと、不思議な気持ちとなる。彼女が後ろにいるのだと思うと、己の背中を見ているのだと思うと、力が湧いてくるようだった。無様な姿など晒せない。

「炙り出すしかないか……」

 アーチャーは着地する寸前、再度襲い来るダガーの群れを同等以上のダガーにて迎え撃った。

 

「凄い……」

「……何が起こってるかわかんないよ……」

 透明な障壁の向こう側、激戦地となった郊外の森では、アーチャーが鮮やかに暴れ回っていた。

 跳んで、沈んで、回って。まるで演舞でも見ているかのように、一切の無駄がない動きにてダガーを防ぎ、森に潜む者を誘き寄せる様は、自分達にない経験が窺える。

 それを唖然と見る事しかできない美遊とイリヤだが、その後ろで魔術師たちは冷や汗を抑えることができずにいた。

(なんてデタラメで恐ろしい奴っ!)

 唇を噛まずには居られない。

 何が恐ろしいかと言えば、複数ある。

 先ずアーチャーが繰り出す無数のダガー。何もない場所に突如現れては四方八方へ射出されるそれらは、正確に森に潜む者共の退路を絶ち、表へと踊り出させている。本能で動くが故の動きにてアーチャーの前に現れることを選ぶアサシンは、彼が狙った通りの行動をさせられているのだろう。

 そして次に、そのまな板の上のなんとやらになったアサシンを、無慈悲に短剣にて斬り伏せる手腕。殻の存在とは言え、英霊相手に一度のチャンスで確実に仕留め続けている様は、彼が相当の実力者であることを物語っている。先まで語られた暗殺の極意と言ったような会話は、空想で語られたものではなく、アーチャーの経験に裏付けされたものであるのだろう。でなければ、これ程までに躊躇いなく急所を一振りで捉えられまい。

 こんな存在に先まで無防備に接していたことが恐ろしくなるが、怯えるだけで終える彼女らではない。

(こんなバケモノを寄越してくれるなんて……)

(なんて好都合!)

 知らず知らずの内に口角が上がる。

 凛もルヴィアも、恐怖とは裏腹に予想以上の戦力が手に入ったことに心労が降りたような気持ちを抱いていた。

 自業自得により、無関係であった一般人を――それも小学生を危険な場に招き込んでしまったことは、魔術師としては人間味が深い彼女らに罪悪感を少なからず抱かせていた。油断すれば何時命を落とすかわからぬ場へ、ついこの間まで命のやり取りなど空想上の物のように捉えていたであろう子どもを押しやる非道には成り切れない。

 そこへふと湧いて出たアーチャーというこの戦力は、願ってもない誤算と言えるだろう。

 当然そこにある底知れぬ淵には気付いている。別世界から来たイリヤスフィールと言う存在は、徹底した魔術師だ。それを主とするのだから、この男も一筋縄では行かぬし、何時自分たちにその切っ先を向けると知れない。しかし、利用できる内に使えるものを使わぬ等と言う、彼女たちは無能ではない。

 今はこうして味方であるのだから、その背中を押さずしてどうすると言うのだ。そのためには“結果”が必要だ。

「わかっているわね、イリヤ?」

「わ、わかってるとは?」

 アーチャーの戦いに見入っていたイリヤは、突然凛からそう問われても何を指して「わかっている」なのかわからない。素直に首を傾げれば、頭が痛いとばかりに赤い悪魔は額に手をやった。

「あんた忘れたの? アーチャーがどうして今日この場に居るのか、その目的よ」

「え、えーと……たしか、アーチャーさんの実力をわたしたちが知るって……」

「それはついさっきアイツが言ったことでしょ。それじゃなくて、アーチャーとイリヤスフィールの本来の目的よ」

「ちゃんと思い出してみなさいな」

「アーチャーさんとアインツベルンさんの目的……」

 ルヴィアにも促され、イリヤの記憶が次々と巻き戻されていく。境界に入る前、車の中、そして昼間――そこまで思い出せば、凛の言う事に心当たりがある。

 本来ならばこの場にイリヤスフィールも居て、アーチャーが今回この場に赴いた本来の目的。それは凛とルヴィアの機嫌を著しく下げた原因であったはずだ。

「わたしたちの実力を見る」

「そう、それ。もう一回訊くけど、わかっているわね?」

「はい?」

「わたしたちの実力って、貴方のよ」

「美遊のことですわよ」

「はいいいいいッ!?」

『アイタタタタ』

 イリヤはルビーを握り締めて絶叫した。その声は障壁を越えてアーチャーの耳まで余裕で届き、ちらりと目尻に確認される。だが何事もない――少女二人の奥でいがみ合う悪魔が二人いた気がするが……気のせいだろう――ことを見て取ったアーチャーは、再び戦闘へと戻って行った。

 アーチャーに不審がられた事など知らないイリヤは、青い顔でわたわたとしていた。何がどうしてあのアーチャーへ自分の戦いを見せる流れとなっているのか。全く自覚してなかったのであろう様子に、ますます凛の額に皺が寄った。

「……いい、今の私たちの戦力の要はルビーとサファイアなの。それを使えるのは貴方たち二人なんだから、アーチャーが目的としてるのは貴方たちの実力よ」

「わたしたちが……」

 イリヤはギギギッとアーチャーを見た。先頭は落ち着いたようで、今は短剣を構える手の甲に止まる鳥の使い魔となにやら話している。戦場の真っ只中に居るにも関わらず、その余裕。彼がこの状況に苦戦しているようには見えない。

「アーチャーさんに実力を……」

 あのダガーの群れを掻い潜り、何処に潜むとも知れないアサシンを次々に仕止める強者相手に、ただの小学生である自分が並び立つ――ちょっと想像が出来なさ過ぎて泣きそうだ。

「………………」

『あちゃー……イリヤさんってば、完全完璧マナーモードですよこれー。心拍数上昇、一〇〇オーバー。顔色変えてトキメキますねー。これが恋ってやつですかーーたはーー☆』

『どう見ても真っ青ですが、姉さん』

「イリヤ、大丈夫?」

「だ、だだだだだだだいじょばばばばばば、ない!!!!」

 大丈夫じゃなかった。

 涙目になったイリヤを美遊が心配そうに覗き込むが、ちょっとした慰めで収まるような震えには見えない。当たり前だ。イリヤは自分とは違い(・・・・・・)、元々はただの小学生なのだ。ここにこうして立ち、命の危ぶまれる場に居ること自体が可笑しいのである。

(……わたしが、守らないと)

 せめて大切な友達(イリヤ)と、その周囲の人たちが悲しまないように。悲劇が起きないように、彼の(・・)願い(・・)()叶える(・・・)ために(・・・)、出来ることを精一杯しよう。

 それが、願って(・・・)くれた(・・・)ことへ報いる術であるのだから。

「少しいいかね」

 決意を固める少女の背中へ、アーチャーの声が降りてきた。振り返ると困ったような、怒っているような、そんな固い表情を浮かべるアーチャーの姿がある。何か不測の事態でも起きたかのような顔だ。

 その予想は当たっているのだろう。アーチャーは頭の上で我が物顔で居座る使い魔を一瞥した後、一層眉間のしわを増やして口を開いた。

「マスターからの命だ。ここより戦闘を交代する」

「「…………え?」」

 イリヤと美遊の声が重なった。

 アーチャーがもたらした言葉に、四人共が静止する。こうなることをわかっていたのだろう。少々ばつが悪そうにため息を吐くアーチャーは、渋々と言ったように言葉を続けた。

「マスターから苦言を呈されてしまったよ。『甘やかすな。それでは意味がない』とね」

「…………つまり、貴方はアサシンを全て倒してしまうつもりだった。そう言いたいのです?」

 ルヴィアにアーチャーは肩を竦めて答える。つまりはそう言うことである。

 イリヤたちの実力を見る。そう言っておきながら、アーチャーはその機会を与えるつもりはなかった、と言うのだ。当然そうとわかればいい気分はしない。言外に自分たちを不要なものとしたも同然なのからだ。

「どういうつもりよ……っ」

「勘違いしてもらいたくはないが、私とて君たちとの協力は吝かではない。マスターの意に背くつもりもない。あくまでも君たち(・・・)ならば、な」

「……あ……」

 凛とルヴィアは、アーチャーが言わんとしていることを直ぐに察した。彼が指す「君たち」とは、目の前にいる凛とルヴィアのことであり、イリヤと美遊は含まれていないのだ。

 二人の様子でイリヤたちも察したようで、困惑の表情を浮かべる。戦場にまで共に赴いていながら、アーチャーは今更何を言っているのだろう、と。

『そうよね。今更何を言っているのかしら……』

 そこへ、鈴の音が落ちる。アーチャーの頭の上を我が物顔で陣取る使い魔から――イリヤスフィールの声だ。

 イリヤスフィールは呆れた、といった雰囲気を声に乗せ、己のサーヴァントを咎める。

『流石は彼女のサーヴァントよね。皮肉屋であってもマスターを立てる従順さに、私生活から戦闘まで支えられる優秀さ。奴隷としての評価は最高と言えるけど、主人の目がない所で何をして、何を考えて居るかは不明だわ。そんな狡賢く育てた覚えは、お姉ちゃんにはないんだけど』

「生憎、そう言った教育を受けるようなキョウダイは居なかったものでね」

『……でしょうね。貴方には居なかったし、居なくなっちゃったんでしょうね。だからこうもひねちゃったんだものね』

「何のことやら」

『だからって甘やかしちゃ駄目だよ』

「…………」

 鼻を鳴らすアーチャーへ、イリヤスフィールは冷たい声で告げた。イリヤたちにも覚えのある、あの魔術師としての声だ。

『貴方の心情なんて今は要らないの。そこに居る(イリヤ)とミユの覚悟はもう聴いたわ。少なくとも、クラスカードと戦う覚悟は出来てる。アーチャーも聞いていたはずよ』

「私は地下に居ただろう」

『ルビーさんは聞いていましたよ。つまりそこの意地っ張り色黒おにーさんも聞こえていたはずですね』

「そう言えば、ルビーはアーチャーさんに付いて行ったんだった」

 イリヤとミユは嬉々としてアーチャーに付いて行ったルビーを思い出す。結局、この愉悦依存症ステッキは何をしに行って、何を行ってきたのやら。あの後に問うても答えなかった様子から、彼女(?)は話す気がないのだろう。

 それはさておき、二人から誘拐事件の詳細は聞いていた凛とルヴィアは、改めてアーチャーを見た。

 やはり渋々と言った顔で、納得いかないとばかりに眉間にしわを寄せ、右手は腰に当てている。どう見ても拗ねている。大の男が幼女の言葉に拗ねている。

『こうなるだろうって思ってたから、本当はお兄ちゃんだけで行かせたくなかったんだけど……今からでも行こうかしら?』

「絶対に駄目だ。布団から出るんじゃないぞ」

『あ、その言い方お兄ちゃんみたい』

「………………」

 ますます拗ねた。

 今度は苦虫でも噛み潰したかのような表情もプラスし、しわも三割増しといったところか――この時、アーチャーは拠点を出る前にした姉との一緒に行く、行かない攻防戦を思い出していた。実はエーデルフェルト邸へ訪れた際に渋顔であった理由は、この攻防による疲弊であったりする。

 聞いている方からしたら『お兄ちゃん』と呼ばれるアーチャーと、アーチャーが忌避しているらしい『お兄ちゃん』の違いがわからない上、話が脱線している。だから仕方なく、ルヴィアが「それで?」と軌道修正を図った。

「貴方のマスターであるイリヤスフィールは私たちと協力関係を結ぶ意思があり、またそこには美遊たちも含まれている。でも貴方は美遊たちが戦うことに納得がいかない。そう解釈してよろしくて?」

『その通りね』

「……その通りだ」

「率直に訊きますが……それは何故?」

 アーチャーはルヴィアたちへと向き直った。

 不思議と、アサシンたちは空気を読んでか、ピタリと気配を見せなくなった。鏡面界が維持されていなくては、ここに自分たち以外の存在があるとは思えない程に、風一つ吹かない静けさで包まれている。

 故に、アーチャーの声は少女たちの耳によく届いた。

「……そこに居るイリヤスフィール・フォン・アインツベルと美遊・エーデルフェルトは魔術師ではなく、また戦士でもない。そして本来ならばこんな場に居るべきではない一般人だ」

 アーチャーは鋼の瞳を細める。

「ステッキがどうであれ、君たちは彼女たちを巻き込むべきではなかった。巻き込んでしまったのならば、記憶を消してでも遠ざけるべきであった。それが、魔術師としての君たちが取るべき正しい選択肢であったはずだ」

「それは……」

「主観的意見を抜きにしても、客観的に見て、彼女たちが戦場に立つ必要性を、私は感じない」

 アーチャーの言うことは正しい。それは凛とルヴィアも思っていたことだ。

 しかし、思っていても本来取るべき選択肢を選べなかったことには、ちゃんとした理由があった。

記憶消去(そーんなこと)くらいで引き下がるルビーちゃんじゃありませんよーだ。ルビーちゃんはイリヤさんを一度マスターと定めた以上、何度だって不死鳥の如く虎視眈々とリターン契約を結びますとも! ええ、勝てないのであれば勝ち取るまで! 欲しがりますよ、勝つまでは!』

「それってどちらかと言うとゾンビだよね……」

 こいつが原因である。

 サファイアは比較的常識人格であるが、それはルビーと比べるからであり、このステッキ共はそんじょそこらの即席隠蔽で足止め出来るものではない。この人をマスターと決めたならば、必ず契約をやり遂げるだろう。それこそ破廉恥だと罵られる方法でも構わずに。

 また、もう一つ取り上げねばならない原因もある。

「……わたしは、自分の意思でここに居ます。誰かに強制されたわけでも、頼まれたわけでもありません。わたしが、やりたくてやっています」

 美遊は真っ直ぐにアーチャーを見て宣言した。

 彼女は自らの意思で魔法少女となったのだと。初めから戦う覚悟を持って戦場に来たのだと、そう告げる。

「そうか……そんな素人(・・・・・)の手で(・・・)よく(・・)戦場に(・・・)立とうと(・・・・)思えたな(・・・・)

「…………っ」

 そんな美遊に送られた言葉は、何処までも冷たかった。

 それは決して褒めるものではない。卑下するようであり、正しく貶しているのであろう。到底子どもにかけるべき言葉ではなかったが、アーチャーはこの場で彼女たちを子ども扱いする優しさは持ち合わせていなかった――否、子ども扱いしているが故の厳しさであろう。

 現に、アーチャーは美遊の手を正しく理解していた。タコのない、柔らかで白百合のような白い手。きっとこの子どもは外で土遊びをすることや、ましてや殴り合いの喧嘩もしたことがないであろうと確信させる程に、綺麗でふっくらとした手だ。

 それを認めて、アーチャーは美遊を見下す。

 美遊は後退った。

「経験のない子どもなど戦場には不要だ」

「……わたしは……」

「一端の覚悟を語る程度で酔うとは浅ましいな」

「ちがう。そんなつもり……」

『……やめなさい』

「君はこの足元にある小石程の役にも立たないだろう」

「違う……わたしは、ちゃんと覚悟して」

「そうだな。聴いていたとも。だが、君は己が語った覚悟を理解できていない」

『やめなさい、アーチャー』

 障壁との距離を詰め、アーチャーは続ける。イリヤスフィールの制止も聞かず、口を閉ざさず、障壁の手前で立ち止まる。

「故に、君の覚悟は無意味だ」

「――――」

『アーチャー!』

「うるさーーーーっい!!!!」

 アーチャーへ答えたのは、美遊の前に立ったイリヤだった。

 肩を揺らし、大きく呼吸を繰り返す彼女は、力一杯に叫んだ。静かな夜にはよく響き、障壁はビリビリと震え、そして凛とルヴィアが目を剥いて凝視する。それ程に大きな声であり、周りを黙らせる力が込められていた。

 息も整わない内に、イリヤはキッとアーチャーを睨み付けた。そこには先まであった憧憬の色はなく、赤い瞳を怒りに染めている。今までに見たことのないイリヤの様子に、その場に居る者は益々驚愕を表さずには居られない――アーチャー以外は。

 アーチャーは表情を変えず、静かな目でイリヤを見ていた。

「さっきから聞いてれば勝手ばっかり言って! 貴方なんかミユのこと何にも知らないくせに、知ったふうな口をきかないでください!!」

「……では訊くが、君は彼女を理解していると言うのかね? 美遊くんが言う『責任』を正しく理解し、それが死と隣り合わせにある戦場に立つに値する、立たなくてはならない理由であると、そう言うのか?」

「そんなの知りません!!」

「「…………はぁ!?」」

 会話のキャッチボールを放棄し、その上焼却炉へシュートする回答に、堪らず凛とルヴィアはすっとんきょうな声を上げた。

 これにな思わずイリヤの手の中にあるルビーもビックリ仰天の様子で、小声で『なん……だと……』と狼狽えているが、そんなことは持ち主には関係ない。

 イリヤはずんずんと障壁へ近付き、アーチャーの手前で立ち止まった。そうなると二人の身長差約五十センチが如何に大きなものかを窺い知ることができる。正に大人と子どもと言い表す対格差であった。

「ミユのこと全部知ってないと友達でいちゃダメなんですか!? たしかにミユのこと全部知ることができて、それでミユと友達で居られることは素敵だと思います……でも、そんなのできっこないじゃん!」

「…………」

「どんなに仲がよくたって知らないことはわからないし、知ってほしくないことだってあるよ! ヒミツなんて誰にだってあって当たり前なんだよ!」

「……では、その大切な友人が死にに行くのを、君は黙って見送るのかね、イリヤスフィール?」

「一緒に行く!」

 イリヤは胸に手を当て、目を逸らさずに答えた。

 今度こそ、研ぎ澄まされた鉄が見開かれる。

「ミユと一緒に行って、一緒に戦います! わたしが危なかったらミユが、ミユが危なかったらわたしが、お互いに助け合って戦います! 今まで、そうやって戦ってきたから!」

「…………イリヤ……」

 美遊は唇を震わせた。胸には今まで感じたことのない温もりが宿り、ふとすれば何かが溢れてしまうような熱が目元に灯る。

 あたたかい――彼女の心を満たす想いは、一色に染まる。

 イリヤの気持ちがあたたかい。無理矢理暴こうとせず、歩みを阻もうとせず、隣に在り、手を繋いで歩いてくれる。その優しさが嬉しくて、尊くて、眩しくて――同時に申し訳なさが顔をもたげる。

「わたしは、ミユの友達だから! だから戦います!」

「………………君たちは、」

『無意味よ、お兄ちゃん』

 尚も何か言おうとしたアーチャーを漸く止めたのは、ひたすらに後頭部をつついていた使い魔の向こうに居るイリヤスフィールだ。

 アーチャーは使い魔を右手で捕まえ、自分の正面へと持ってくる。そして未だ納得いかない、と言った顔で使い魔越しにマスターを見た。

「……イリヤ」

『そんな拗ねた声出さないの。この子たちがここまで言っているのだから、止めても無意味よ。それはわかるでしょう?』

「…………」

『それに、無関係だもの』

 翼を広げてアーチャーの手から逃れた使い魔。くるりとイリヤたちの頭上を回る。表情のない、ワイヤーアートのようなそれは、時々羽ばたきつつ、滑るように飛んでいた。

 その動きを目だけで追うアーチャーの眉間には、やはり深い谷がある。

『この世界の(イリヤ)がどうなろうと、リンがどうなろうと、貴方と私には無関係で無意味なのはわかっているでしょう? 死んじゃったって、私たちには何の影響もない。元の世界(あっち)にも影響はない。クラスカードだって、本当はリンたちが居なくてもどうにかできる』

「…………」

『私たちがこの子たちと関わったのは、彼女(・・)に確実に勝つためっていうのが本来であって、この子の人生に爪痕を残したいわけじゃあないの。お兄ちゃんが納得できなくたって、この子たちはこの子たちの覚悟を持ってる。この子たちが納得しているのなら、それでいいんだよ――お兄ちゃん』

 最後は優しい声で、イリヤスフィールはアーチャーを呼んだ。先までの諭すような、説教をするようなものとは違う、聞き分けのない子どもを叱るような音。仕方ないから怒る声色のように聞こえる。

 そこまで言われて、アーチャーは両目を閉じだ。一度短く息を吸い、少しだけ長いため息を吐く。それには様々な感情が込められているようで、イリヤの目の前、瞳を再び覗かせた彼の眉間に、しわは見られなかった。

「…………侮辱を詫びよう。君たちの覚悟を疎かにした。すまない」

 黙礼にて漸く、アーチャーは引き下がった。それを認めて、四人はホッと全身から力が抜ける。

 アーチャーによる問答は数分のものであったけれど、彼からかけらされるプレッシャーは相当なものであった。数時間は向かい合っていたかのような気疲れに、ここが戦場のど真ん中であることも忘れて気を抜いてしまう。

 何が悲しくて戦闘以外でこうも疲弊しなくてはならないのか。先までの高揚感とは一転し、恨みがましい目でアーチャーは見られる。しかしその程度で怯む様子はなく、アーチャーは伏せた瞼を持ち上げて彼女たちの正面を空けた。

「さて、では交代しよう。様子見をしているだけでアサシンはまだ残っている。さっさと本体を倒し―――」

 その時、アーチャーは背後に気配を感じ取った。

 確認するまでもない。この場にいる味方はイリヤたち四人とステッキ二本のみ。他に鏡面界へ侵入した気配はないため、今アーチャーの背後にいるこれはアサシンであろう。

 故に、アーチャーは躊躇いなく莫耶を投影した。振り向き様に腕を振るうと、予想通り、アサシンは容易くその生白い刃に体を切り裂かれる。右頬から左胸へ、刃を半分近く埋めて、身を削がれる。

「しま――――っ」

 アーチャーの背後を取ったアサシンは、まだ幼い姿をしている者であった。栄養が足りず、僅かな肉に覆われる細い手足に、肩まで伸びる髪。顔は仮面に覆われているが、先の一撃により一部欠けており、子ども特有の大きな眼が見え隠れする。イリヤと美遊とそれ程歳が変わらないような見た目をしている。

 そのアサシンを斬り伏せて、アーチャーは大きく顔を歪めた。失敗した、と隠すことなく示した。

「――――え、」

 パッと赤い花が咲く。障壁に、地面に、アーチャーの持つ短剣に、噴水のように飛び出した赤が塗られる。

 その様を間近で見たイリヤは固まった。思考が止まり、スローモーションで倒れるアサシン(こども)を見る。

 無抵抗に、簡単に、一瞬で刈り取られた命が尽きる様を、目の前をただ眺め、目を見張る。

 もしかすると、美遊を重ねたのかもしれない。この子どものアサシンは何処か彼女と似通った部分がある。濃いセミロングの髪色、大きな眼、子どもの背格好。並べれば別人だとわかっても、生まれて(・・・・)初めて(・・・)人の形のものが(・・・・・・・)目の前で(・・・・)殺される様(・・・・・)を見て、イリヤは呆然とし、大きく動揺した。

「……あ……ぁ……」

『いけませんイリヤさん!!』

 イリヤの動揺に反応して、障壁が大きくぶれる。

 目の前に子どもの死体など既にない。血溜まりもなければ、子どもが居た痕跡すら何処にもない。

 あれは生きた子どもではない。善となるものではない。守らなくてはならないものではない。

 あれは倒さなくてはならないものだった。アーチャーがやらなければ、自分たちが行うだけで、あのアサシンの結末は変わらない。

「落ち着きなさい、イリヤ! あれは敵ですわ! 情をかけるものではありません!」

「ちょ、これやば、」

「イリヤ!」

 美遊たちがイリヤを案じて駆け寄る。

 二人で展開している障壁の片割れが崩れれば、まともな機能を維持し続けるのは難しい。また美遊もイリヤの動揺に驚愕し、ステッキの補助はあれど、一瞬だけ(・・・・)魔力の扱いを乱してしまう。

 クラスカードのアサシンは理性を失い、本能で動くが、暗殺者の代表として選ばれている。彼らにとってその隙は格好の的だ。

 一瞬だけ障壁が乱れ、穴ができた――それと同時に、彼らの周囲を無数のダガーが囲っていた。

 暗殺者の本能として、アサシンは今まで期を窺っていたのだろう。全方位隙のない攻撃に、再び障壁を張るのでは間に合わない。さらにイリヤへ注意が集まっていたこともあり、皆の動きはワンテンポ遅くなる。

 咄嗟に、アーチャーは少女たちの前にその身を押し込んだ。

 

 

 

 015

 

 

 

 気が付くと、イリヤは倒れていた。衣服に土汚れがある程度で、傷はない。

 体を起こそうとして、全身に重いものがのし掛かっていることに気付く。見るとそれは凛やルヴィア、美遊であり、どうりで重いわけだ、と納得する。そしてその向こうにアーチャーの姿があった。彼は覆い被さるように上を陣取っており、まるで自分たちを守る盾のようだった。

 そこまで考えて、周囲の異変に気付く。見ると、自分たちの周りには見たことのない幅広の剣が幾つか突き刺さっていた。囲うように、檻のように、円形に突き刺さるそれらの隙間には、夜の森が映る。そう言えばクラスカードの回収に来ていたのだった。

 いち、にい、さん……地面に刺さるダガーを数えて、イリヤは改めてアーチャーを見る。彼はゆっくりと体を起こすところだった。

「怪我はないかね?」

 痛いところはない。あるのは驚きによって忙しなくなった心臓のドキドキと、それによって火照る体の熱くらいだ。

 目が合ったので、イリヤは素直に頷く。するとアーチャーは見るからにホッとした顔を見せ、ゆっくりと自分たちの前で立ち上がった。

「いたたたっ、何が起きたのよ……」

「くぅ~~っ、頭を打ちましたわっ」

『お怪我はありませんか、美遊様?』

「ないよ、サファイア」

『下敷きのイリヤさんも無事ですか~?』

「…………うん……」

 アーチャーが退いたことによりそれぞれも起き上がる。節々に当たり所が悪く、痛みを感じるが、怪我となるものはないようだ。

 そうか。この周りにある剣の檻がダガーの群れから自分たちを守ってくれたのか。状況的にそう理解して、少しぼーっとするまま、イリヤは再度地面に刺さるダガーへ目を向ける。

 剣の盾の外と、隙間から入り込んだもの、それから……それから―――

「ちょっ、あんたどうしたのよ!?」

 慌てた凛の声に顔を向けると、彼女の目の前でアーチャーが伏せていた。イリヤは瞬きをする。違う。あれは伏せているんじゃない。倒れているんだ。

 何故かなんて見ればわかる。アーチャーの背中にはダガーが幾つも刺さっており、この剣の盾で防げなかったものをその身で受けたのだ。アサシンのダガーには毒がある。掠りでもすると動けなくなるだろう、そう言ったのはアーチャー自身だった。

 そう認めた途端に甦る。瞬きの前を思い出す。

 イリヤの目の前、引き寄せられる美遊たちと、そしてその上に覆い被さったアーチャー。迫り来る何か。周囲に生まれた荒い檻。覚えている。

「……そうだ……」

 啖呵を切ったのに、その直後に動揺してしまったことを思い出した。覚悟をしていたにもかかわらず、一つの命が終わる姿を見て揺らいでしまった。そしてそれが原因で足を引っ張り、みんなを危険な目に遭わせてしまった。

 自分のせいで。

「……わたしのせいで……」

 アーチャーが死んでしまう。

 自分がちゃんとしていなかったから。

 覚悟に行動が伴っていなかったから。

 自分のせいで、みんな死んでしまうかもしれない。

「……やらないと……」

 ならば、責任をとらなくてはならない。

『イリヤさん?』

 汚名返上しなくてはならない。

 失態を晒したままではいけない。

 このままではいけない。

「……わたしが……」

 ちゃんとするには力が必要だ。

 アーチャーのように戦う覚悟がある、殺せる覚悟がある、嘘偽りない有言実行できる力が必要だ。

 アーチャーのように(・・・・・・・・・)殺せる手段と方法と力で、戦わなくてはいけない。

「ああ―――そういえば」

 力なら、ここにあった。

 

 鍵が、外れる音がした。

 

 

 

 016

 

 

 

夢幻召喚(インストール)

 イリヤがそう呟き、一枚のクラスカードを地面に置いた瞬間、そこには見たことのない魔法陣が展開し、そして魔力が溢れ出した。

 一体何が起こったのか。アーチャーへ気を取られていた面々は唖然とするしかない。そうしている間にもイリヤは魔力をその(・・)身に纏い(・・・・)、姿を表した。

「嘘……どうして……?」

 無意識に、美遊は疑問を口にする。

 イリヤの姿は一変してしまっていたのだ。イリヤ自身に変化は見られないが、その出で立ちは魔法少女のものとは異なっていた。

『え、ええ? なに? Do you KO☆TO?』

 イリヤの周りにて困惑するルビー。三百六十度の角度で持ち主の姿を記録するが、今までの杖生でこんな現象に遭遇したことは一度もない。

 赤い外套は両肩から腕にかけてと腰にあり、胸元には黒い胸当てのインナー、ショートパンツから覗く足にはベルトが巻かれている。そして小さな手に携えられているのは、大きく武骨な大弓。弓以外はとても見覚えのあるカラーリングと衣装だ。故に、皆は次に倒れるアーチャーを見たが、彼も例に漏れず目を見張っていた。動けない体でなんとか上体を起こし、何故と問うようにイリヤを見つめている。何が起きているのか、どうしてこんなことになっているのか。アーチャーにも皆目検討がつかない。

 だが、わかることが一つ――このイリヤは(・・・・)間違いなく(・・・・・)アーチャー(・・・・・)である(・・・)

 転移する際に感じた覚えのある軋み。エーテルでできた体の奥にあるサーヴァントとして核が揺さぶられ、共鳴している。何故かはわからない。この場にイリヤスフィールが居れば、もしかしたら何かしらの答えを出したのかもしれないが、先から静かにしている。もしかしたら静観しているのかもしれないし、疲労で眠っているのかもしれない。パスによる念話にすら反応がない。

「な、何なのですか、これは!?」

「ちょっと、説明しなさいよ、アーチャー!!」

「……私も見たことがな――」

 本当に?

 アーチャーは自問した。

「…………これって……」

『美遊様?』

『って、あ、ちょ、イリヤさーーん!!』

 そうしている間に、イリヤは大きく飛躍した。魔力によるブーストもなく、ステッキも使わず、自身の能力にて軽々と跳び上がり、剣の檻を越えて森に紛れるアサシンたちへその姿を晒す。

 なんて無防備な真似を。そう思えど、直ぐ様杞憂となる。

 闇に紛れて襲いかかった三本のダガーは、イリヤが手の中に生み出した三本の矢によって射ち落とされたからだ。

 正確無比なその射撃性は敏腕と言えるだろう。アーチャーを想起させる腕前に感心している間を与えず、イリヤは次の矢を生み出す。少女の手にあったのは、捻れる剣であった。

偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)だと!?」

 アーチャーも愛用するケルト神話の英雄フェルグス・マック・ロイの魔剣。その投影品をイリヤが手にしていると一目でわかったアーチャーは、益々混乱に陥った。

 どうしてイリヤがそれを投影できるのか。彼女が本来持つ能力を思えば不可能ではないが、この世界では一般人である少女にそんな機会――カラドボルグを解析する機会――が訪れることは有り得ない。ましてや魔術と関わりもないはずだ。つまり、イリヤが偽・螺旋剣を投影することも、ましてや魔術を扱うことも有り得ないはずなのだ。

 今まで行っていたものは、全てルビーという魔術道具があったからこそ実現されてきたもので、本来の魔術の「ま」の字を知らないイリヤには到底出来っこない芸当である。ならば、どうしてあのような状態であるのか。

「―――偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)

 真名解放されたそれは、イリヤの手を離れ、森へと一射される。

 空を切るのは一瞬だ。捻れる剣は空間を削り、魔力を乗せて目の前の森へと瞬く間に届き――森に大穴を空けた。

「…………うっそ!?」

「なんという威力!!」

 イリヤの目の前、そこにあったはずの森には、隕石でも落ちたのかと言いたくなる程に大きく抉れた道が出来ていた。あの魔剣により造られたのだ、と嫌でもわかる。その威力、鏡面界の壁に亀裂を生む程だ。

 そんな恐ろしい力を扱いながらも、イリヤは終始、静かな面持ちで居た。抉りとった場にアサシンが居ないのを認めて、大弓を四散させる。

 何をするのか。今度は両手を手前へ持ち上げた彼女は、その小さな唇で呪文を唱えた。

投影(トレース)開始(オン)

 魔力によって少女の手に生み出(投影)された物。それは歪で禍々しい形をする深紅の長剣であった。イリヤの身の丈程もある重たそうなそれを、しかし軽々と扱って見せる。

「あれ、は……隕鉄の鞴『原初の火(アエストゥス・エストゥス)』」

「あえすとぅす……?」

「ラテン語で『情熱』を意味する言葉ですわ、美遊」

「で? 貴方はあれが何なのかわかるのね、アーチャー?」

 イリヤの状態を少しでも理解しているらしいアーチャーへ問えば、彼は動かない体に歯噛みし、重々しく頷いた。

「彼女が、今……投影した物は……五代目ローマ皇帝、ネロ・クラウディ、ウス・カエサル・ドルー……ススの作品……だ。彼が自ら生み出した、とされ……ステータス上昇、の他、感情の高ぶりにより……炎を生み出す……こと……が、できるっ、悪、趣味な剣だった……はずだ」

 何故か片隅の方から「悪趣味とは何だ! 余の芸術がわからぬとはうんぬんかんぬん」と可愛らしい、とても男のものとは思えない声での文句が聞こえてきた気がしたが、毒による幻聴だろう、とアーチャーは無視した。

 改めてイリヤを見る。アーチャーの言う通り、イリヤが持つ原初の火には炎が纏われ出した。そしてそれを持って、イリヤは森へと駆け出す。

「あれが……投影ですって!?」

『それがわかると言うことは……アーチャー様はイリヤ様が何故あの姿となったのかわかる、と言うことですね?』

「それよ! 何でイリヤがあんな格好してるわけ? あれってどう見ても貴方よね?」

「やれやれ……一辺、に……訊かないで、くれ……毒が、回る……」

 ぜえぜえ、とアーチャーは呼吸を繰り返す。そこまで強力な毒ではないだろうが、額には冷や汗が浮かんでいる。

 目の前でそれを見ている凛は心配そうな顔色を浮かべるが、しかし態度には出さず、アーチャーへ問う姿勢を変えない。魔術師らしい彼女の様を見て、アーチャーは口角を持ち上げた。

「言っておく、が……私とて……あれがどういう、も、のか……は、わからん」

「わからんって……」

「だが、あの姿は……」

 アーチャーが何か言おうとした――その瞬間。

「―――任務完了」

 イリヤが舞い戻って来た――同時に、周囲の森から火柱が上がる。

「対象撃破――クラスカード『アサシン』回収完了」

 

 

 

 017

 

 

 

 女が泣いている。

 男が泣いている。

 赤子が寝ている。

 錆び付いたトラックが走るのは荒野であり、東の空は白み出している。

 朝になる。三日三晩、人の目を隠れて走り続けた道の先に、大きな街が見える。

 今日この日まで味わった地獄の終わり。希望の日々が目の前にある。

 今日のために生きてきた。今日のために守ってきた。

 女と男は赤子を愛しいとばかりに見つめる。涙に濡れた目で見つめる。

 思い描くは幸福な未来。

 当たり前に学び、当たり前に食べ、当たり前に笑う。そんな幸福。

 街まで残り五メートル――それを、■■■(わたし)は見下ろしていた。

 手に持つのは黒い大弓。手に馴染む(実感のない)、命を摘み取るもの。

 弦を引き絞る。つがえるのは三本の剣。

 ■■■(わたし)はトラックに向けて、指を離した。

 

 人が寝ている。

 人が寝ている。

 人が寝ている。

 数え切れない程の人が寝ている。

 場所は薄暗い建物の中。傍にある机には地図とコンパス、それから■■■(わたし)の知らない異国の言葉。

 宴でもあったのか、部屋の至る所に酒のボトルが転がっている。つまみのチーズに、カリカリのパン。スパイスの効き過ぎたソースに散る不純物は、山盛りの煙草から溢れた吸い殻の灰。

 細やかな宴があったのだろう。

 一人一人音を立てず、立っている者は一人もいない。

 皆が皆、同じ赤の上で寝ている。

 人が死んでいる。

 人が死んでいる。

 人が死んでいる。

 数え切れない程の人が、■■■(わたし)の足元で死んでいる。

 ■■■(わたし)はただ、それを見ていた。

 

 女が泣いている。

 女が叫んでいる。

 女が眠っている。

 ■■■(わたし)は止まらない。止まれない。

 山程の人が寝ている。山程の人が泣いている。山程の人が嘆いている。

 誰もの目の前で、山程の救いが両手を伸ばしている。その一つ一つを救い上げ、手に取り、頬擦りすることはできない。誰にもできない。誰も選ぶことはできない。

 感謝を口にして、涙を浮かべて、抱き上げる。当たり前の救済は目の前にあるのに、■■■(わたし)は振り返らずにその隣を歩いた。

 眠っている女を置いて、叫んでいる女を置いて、泣いている女の前まで歩いた。

 止まれなかった――止まりたいとは思わなかった。

 守りたかった――守っていると思っていた。

 大切だった――心から笑い合うことはなかった。

 女は■■■(わたし)を見て、泣いた。

「■■■■」

 ■■■(わたし)に、女の声は聞こえなかった。

 

 墓の前にいる。

 同じような石が並ぶ墓の一つ。そこの前に、■■■(わたし)は立っていた。

 おかしい。■■■(わたし)はここに居るのに、目の前には■■■(わたし)の名前がある。

 ちゃんと地に立ち、風を感じ、息をしている。ちゃんと人としての機能を維持している。

 なのに、墓には■■■(わたし)の名前がある。

 ああ、そうだ――そうだった。

 思い出した(思い描いた)

 今日は、あの日から見て未来なのだろう。■■■(わたし)は変に納得し、一人で頷いた。

 全て、わかっている。

 ■■■は――わたしは――私は――

 

 遡る宝箱――記憶――思い出。

 

 美しいものを見た。

 例え地獄に堕ちても色褪せないような、色褪せることがないよう願うような――ずっと、ずっと記憶に刻み付けたいと思う美しいものを見た。

 暗い土蔵の中、月明かりに照らされるその人。

 数秒の時もない。瞬きをする間も、きっとなかった。

 それでも、人生で見たものの全てで、彼女は一番美しかった。

 

 そんな夢を――イリヤ(■■■)は見た。

 

 

 

 018

 

 

 

 イリヤは目を覚ました。夢を見ていたらしいが、ぼーっとする頭ではよく思い出せない。写真があったことは覚えていても、そこに何が写っていたのかわからない。そんな感覚に眉を寄せるが、思い出せないものはいつまでもわからないままだった。

 今朝、熱を出したイリヤは一日中自室に閉じ込められている。特に風邪を引いた等といったウィルス関連のものではなく、ただの知恵熱らしいのだが、過保護な家政婦(セラ)により学校を休んだ。そうなるとただ寝る以外にやることがなく、ふと湧いた暇にイリヤは悶々と悩むことしかできない。

 ゲームもアニメ鑑賞も、テレビはセラが居る一階にしかない。そうなれば使用は不可と言える。ならばマンガを読むかとも思ったが、今は読みたい気分ではない。

「勉強とか仕事とかに縛られることで、ようやく人は人らしく生きられるんだわ……」

『その歳で老成した人生観をもつのもいかがなものかと思いますがー』

 とどのつまり、イリヤはひたすらに暇であった。それはもう、小学生らしからぬ意見を言う程に暇であった。

 熱は一眠りすると引いており、寧ろ休んでいることに罪悪感すら感じる程に元気になっている。ここのところ小学生の日常に魔術師の非日常を真面目に勤しんでいた反動だろうか。アーチャーに覚悟を叫んだこともあり、イリヤはその直後にこうして休んでいることに後ろめたさを抱いていた。

「……あれ? わたしってどうやって帰って来たのかな?」

 美遊と凛、ルヴィア、それからアーチャーと共にアサシンのクラスカードの討伐に赴いたことは覚えている。その際にアーチャーと今後の方針で揉めてしまい、何だかんだで協力は継続する、そう言うオチには辿り着いたはずだ。そこまでは覚えている。

 しかしその後、肝心のクラスカードの討伐結果については丸々記憶にないので、イリヤは首を傾げざるを得ない。何か大変なことになった気もするが、案外すんなり終えたような気もする。不思議な感覚だが、現状発熱以外に無傷であることを思うなら、無事に任務を終えたと言うことだろう。

「〇対三……か」

『? なにがですか?』

「戦績っていうか……わたしとミユのカードゲット枚数」

 机の上にあるアーチャーのクラスカードが目に入る。これは元々凛が持っていたものであり、イリヤが討伐しただけの結果を数えると一つもない。ライダーもキャスターも、全て止めを美遊が差し、回収している。きっとアサシンもそうだったのだろ。

 そう思っていた。

『いえ、アサシンはイリヤさんがゲットしましたよ?』

「え?」

『ほら』

 そう言って、ルビーはアーチャーのカードをずらす。たしかに、その下にアサシンのクラスカードはあった。だが、それはおかしい。

 繰り返すが、イリヤにアサシンを倒した記憶はないのだ。あの状況で、自分が一体どのようにして勝利を納めたのか、全くわからないのである。にもかかわらず、自分がアサシンを倒し、クラスカードを回収したのだと言われても、そうなのか、とは納得できない。

「え、えええ? なんで!?」

『何でと言われましても……んー、これ元マスターに止められてるんですよねー。どーしましょ?』

「なになになに!? 何を止められてるの!? 昨夜一体何があったわけ!?」

『ルビーちゃんとしてはー秘められた力が解放される主人公補正バリバリの覚醒イベント大好きなのですよ。なので別にネタバレしちゃってもいいんですけど、でも世の中には展開をなんとなく予想できる感想ネタバレにすら過剰反応する方もいますし? いやー悩んじゃいますよねー☆』

「こわい! ルビーが言うことのほとんどがわからないけど、なんかこわい! ぜんっぜん悩んでる感じのトーンじゃないのが尚更こわいよ! 性質悪いよこのステッキ! 知ってた!」

『あ、これ映像見せた方が早いですね。さっそく行っちゃいます?』

「何処に!?」

「なら、私も混ぜてくれる?」

 カラカラ、と窓が開かれる。ベランダには何時から居たのか、イリヤスフィールが立っていた。いつも突然現れる人物であるが、そうと知っていても忽然と現れられてはこちらの心臓が持たない。悲鳴も上げられず、ただドキドキと胸を動悸させることしかできないイリヤへ、しかしイリヤスフィールは普段と変わらない態度で口を開く。

「記録機能もあるのよね? いいわ。改めてそれを確認して、それで場を整えるわ」

「場を?」

『整える?』

「ええ」

 イリヤスフィールは背後を見た。そこにあるのはお向かいさんのエーデルフェルト邸である。

「アポイントメントはしてあるの。後は貴方だけよ、(イリヤ)

「あ、あの~~……さっきから何を言っているのかちんぷんかんぷんなんですけど……」

「わからなくていいわ。私がやるから」

 イリヤスフィールはイリヤの手をとった。土足で部屋に入って来たことを注意しようと思ったが、同じ赤い瞳に見つめられると言葉が出なくなる。

 されるがまま、まるで人形になったように、イリヤは素直にイリヤスフィールに手を引かれる。後ろでルビーが困惑しているが、その音は遠い。

(……あ、パジャマのままだ……)

 そう思ったのが最後。イリヤたちはその場から姿を消していた。

 

「そもそも、よくよく考えてみると、他人の魔術を工房内に入れるのって有り得ないわよね……」

「今更ですわ」

 所変わってエーデルフェルト邸の応接間。一目で職人によるとわかる手の込んだ内装に、控えめながらも主張する趣味のよい家具。この部屋のみで家主の富豪さを知ることができるだろう。

 そんな部屋にあるふかふかのソファーに座るのは、件の家主であるルヴィアと、招かれた凛であった。二人の傍には、何故かメイド服を身に纏う美遊の姿があり、彼女は無言でもてなしの用意をしている。

 さて、彼女たちが何故この場に集っているのかと問えば、それはイリヤスフィールからの要請があったためである。今より三時間程前、彼女が寄越してきた使い魔を通し、一ヶ所に集まるようにと伝達されたのだ。

 主にルヴィアが管理するその使い魔は――ルヴィアと凛のどちらがイリヤスフィールの使い魔を持ち帰るのかで揉めた際、凛が辛うじて競り勝ったためである。要は押し付けられたのだ――現在魔術師二人の前で行儀よく座している。アーチャーと戯れていた時のように、無駄に飛び回ることはせず、また今はお喋りすることもないオブジェとしているこの鳥。他人の魔術にて形を成しているものを、こうして魔術師の家に置いているのは、ある種の奇跡である。

「本当にこそ泥の類いではなくって? サファイア」

『はい。この使い魔に搭載されている能力は、オンオフが明確にされた通信機能、そして身の危険を察知した際の迎撃機能のみです』

「……迎撃……」

 今の自分達が持つ最高峰の魔術礼装であるカレイドステッキによる解析。サファイアがこう言うのであれば、そうなのだろう。

 『迎撃』の言葉に苦い顔をしたルヴィアは放って置き、凛は美遊の淹れた紅茶をソーサーに戻して腕を組む。あと一分もせずに約束の時間となるが、呼び出した本人が一向に現れる気配を見せない。外国では約束への遅刻など日常茶飯事であるが、日本は律儀を守る国柄だ。郷に入れば郷に従えと言うのだから、日本に滞在している以上、イリヤスフィールは約束を守るべきだろう。それも一方的に押し付けられた約束だ。遅刻するようであれば只ではおかない。

「あと十秒よ!?」

「余裕がないわよ、リン」

 部屋の置時計の針が動く――その時だ。使い魔の真上に、突如魔力が集まったかと思えば、そこにイリヤスフィールが現れた。一緒に居るのはイリヤとルビーであり、仲良く手を繋いでの登場である。

 予想していなかった――いつも通り突然現れるにしても、背後から何食わぬ顔で声をかけてくるのだろうと予想していたのだ――訪問に、三人はポカンと目と口を開いた。一体何処の誰が転移で訪問してくると思うだろうか。それも魔術師の工房内に。

「はい、到着」

「ひえ、え、ええええーーー!!?」

 驚いているのは何も三人だけではない。一緒に現れたイリヤも同じであり、何故か空中でイリヤスフィールと共に立っている彼女は、もう何がなんだかといった声を上げる。

『転移に魔力固定……ひゃーこの魔女っ子イリヤさんってば、めちゃくちゃチートじゃないですか』

「そういう風に作られているもの」

 美遊の上空戦闘手段である魔力を固定化させ、足場とする技術。それはカレイドステッキあってこそ行える魔術運用であって、通常の魔術師では容易に行うことのできない高度な技術である。何故ならば、人一人分を支える足場の強度を魔力で作ることが困難であり、そしてそのための術式が複雑なものとなるからだ。

 美遊の場合、必要な術式は全てカレイドステッキのサファイアに組み込まれており、そして同じく必要な魔力も彼女(?)により提供されている。美遊はそれを発動させるかさせないかを決めるスイッチの役割に過ぎないのであるが、イリヤスフィールはこれを自身一人で行っている。それを行える理由は彼女が小聖杯であり、また大聖杯へと至った存在であるためだが、そんな裏事情を知る故もないイリヤたちにしたらチートにしか見えなかった。

「……いちいち自身を誇示しなくては気が済まないのです?」

「めんどーだっただけよ。いいじゃない、これくらいのお遊び。昨日はろくに動けなかったんだもの、私」

 とん、とん、とん。イリヤスフィールは不可視の床を足場に、軟らかな絨毯へ足を下ろした。連れられて足を付けたイリヤは、予想以上の肌触りに裸足の自分に少し得した気分を得る。

 感心するイリヤの手を放したイリヤスフィールは、視線をルヴィアに向けた。ルヴィアは目を細めた後、小さなため息を吐いて目の前のソファーを指さした。

「どうぞ、お座りになってください。訪問の仕方は兎も角、一応きちんと礼儀を持ってアポイントメントをとられた以上、貴方をお客様としておもてなししますわ」

「そう。なら失礼するわ」

「あ、わたしはどうすれば……」

「イリヤ、こっち」

 どうしてこの場が設けられたのか。それすらわからないイリヤがオロオロとすると、助け船を出したのは美遊であった。

 スリッパを持ってイリヤを手招きした美遊に、やっと安心できる、と顔を向けたイリヤは――胸を撃ち抜かれた。

「メッ……メイド服ーッ!?」

『あらあらまあまあ……! なんとも良いご趣味をおもちのようで』

「あっ、こっ……これは違う……っ!!」

 イリヤに指摘されて赤面する様子に、彼女に見られることを想定していなかったのだろう。イリヤスフィールの突飛な登場に本来備わっていた羞恥心を思い出した美遊は、涙目になった顔を手で覆い隠した。

「そのっ……わたしの趣味とかじゃなくて……っ、ルヴィアさんに無理矢理着せられてっ……!」

 美少女の赤面涙目+震え声。

 その時、かちりと――イリヤの中で何か変なスイッチが入る音がした。

「ふおおおおおーー!!」

「あうッ!?」

 イリヤは美遊へ一直線に抱き付いた。それはそれはまさに野獣の如く俊敏な動きであり、また餓えるギラギラとした目をしていた。

 イリヤの変貌に驚いたのは美遊たちである。彼女らはイリヤが奇声を上げ、病み上がりとは思えない動きをしたことに目をぱちくりとさせた。

「すっごーい! 本当にメイド服だーっ! 生メイド服だーっ! メイドさんだー!!」

「あ……あああの」

「やっぱり日本人足るもの王道のモノクロフリルメイドだよね! カラフルなのもいいし、セラとリズの真っ白な純白さから窺える正統派メイド服もいいけど、やっぱり日本人は心に突き刺さる萌えと尊さを大事にしないとね! まったく、メイド服は最高だぜ!!」

『イリヤさんって日本人じゃないですよね?』

「シャラップ! 日本生まれ日本育ちで日本語しか喋れないわたしは立派な日本人だよ! 日本に生まれて良かった! オタクの聖地ってサイコーだよね!?」

「……この(イリヤ)の可能性は予想外だわ……」

「ちょっとイリヤ、少しは落ち着いて……」

「なんか良い生地使ってるし、縫製もしっかりしてるし……本物? 本物の小学生メイド? ちょっと『ご主人様』って言ってみて!」

「え、普通は『お嬢様』じゃ……」

「いいから!」

「ごっご主人様ーッ!?」

 あまりのイリヤの気迫に圧され、美遊は涙目のままに叫んだ。その声は屋敷中に響き渡り、庭の手入れをするメイドや屋敷の点検をする執事のオーギュストの耳にも聞こえていたのだが、そんなことはどうでも良い。因みに、イリヤの生まれは日本ではないのだが、これまでの人生の九割を日本で暮らしてきた本人は知らない事実であったりするので、そこは誰も突っ込めないことであった。

 さて、図らずともオタク魂を燃え上がらせたイリヤは、サファイアのチョップで落ち着きを取り戻した。他所の家で趣味丸出しにしてしまった件について自責の念もあり、素直に美遊とルヴィアへ謝罪した彼女は、スリッパを履いてちょこん、とソファーへ腰を落ち着かせた。マナーを大切にしよう。そう心に刻み付けて。

(えへへ……ミユかわいい……)

 しかし後悔はしていない様子であった。

「…………こほんっ、では改めて、要件を伺いますわ」

「うん……話して良いかしら?」

「ええ、話してちょうだい」

 もう脱力してしまっている魔術師三人。一般人(オタク)の熱意って凄い、と思いつつも、今は関係ない。

 事前に大切な話だと銘打って訪れたイリヤスフィールは、一枚のカードをポケットから取り出した。それはイリヤたちにも見覚えのある礼装――クラスカードであった。

 凛とルヴィアの目が鋭くなる。イリヤスフィールたちもクラスカードを目的にして動いている以上、一枚でも持っていることに不思議さはない――だからこそ、ルヴィアたちは彼女のアポイントメントに応えたのである――だが、こうして実際に所持している様を見ると油断ならない相手であることがより知ることができる。

 彼女が所持しているのはバーサーカーのクラスカードであり、自分達が所持する物と同じような絵が描かれていた。偽物の可能性もあるが、街の歪みの数が減っていることを見るに、十中八九本物であろう。

「未知数のものってわかっていたけれど、貴方たちも、そして私たちも、クラスカード(これ)を勘違いしていたわ」

 思い出されるのは昨夜の戦い。そこで見せたイリヤの変貌は、誰の記憶にも色濃く焼き付いている。

 あれこそが本来のクラスカードの扱い方であったのだろう。今まで宝具を一部座から取り出すのみであったが、自身へ英霊の力を纏わせ、置換(・・)する。それこそがこのカードが造られた目的だったのだ。

「……一体何処のどいつよ……こんな物造り出した奴はっ……!」

「英霊の座へアクセスしていることも前代未聞ですし、そこから力を引き出して術者を英霊に置き換えるですって……ますます目的が見えませんわ!」

 ルヴィアの言う通り、クラスカードの本来の使い方は当たりと見るべきだろう。しかし、未だ製作者が何故これを生み出したのか、その真意は見えない。

 英霊の力を解析することは世界の意思を知ることに繋がり、そしてそれは根源へと至る一つの道となるだろう。しかし、魔術師が扱うにしてはあまりにもリスクが高過ぎる。

 根源へと至る魔術師自身が使うには、人間とは別階層にある英霊をその身に落とすのだ。暴走の可能性を考えると自殺ものの研究であり、また身代わりの実験体を用意するにしても、それが自身に逆らうような事態になればそれこそ手が付けられないものとなる。

 英霊とはそれだけ未知の存在であり、強力なものであるのだ。何らかの制約を設けなくては、自在に操るなど不可能と言える。そしてそんな力量の魔術師が居るならば、先ず無名であるはずがないのだ。

「私も、このクラスカードは非効率だと思うわ。てっきり英霊を召喚するための触媒だとばかり思っていたんだけど」

「英霊を召喚って、できるの?」

「ええ、不可能ではないわ」

 イリヤへ、イリヤスフィールは目を向ける。

「このクラスカードは既に特定の英霊の座へアクセスされている。それって既にこのカードが英霊の座とこの世界を繋ぐ門の役割を成しているってことでしょ? なら、後はそこから英霊を引っ張り出せる術式と魔力、あとサーヴァントとなった英霊を維持できるだけの魔力があればできるわ」

「理論上の話でしょ? 実質不可能じゃない、それ」

「ふふ……」

 術式は兎も角、そんな魔力など人間が持つわけがない。眉間にしわを寄せてため息を吐いた凛に、イリヤスフィールは意味深な微笑みを向けるのみだ。

 まるで実在するのだと言いたげだ。アーチャーの話を思い出せばその可能性は十分にあるが、現象でない召喚された実物を見ていない、加えて口にされない以上、空想に過ぎない話である。

「まさか、クラスカードの話をするためだけに集めたのです?」

「それこそまさかよ。この程度の解析は貴方たちが求めることであって、私たちの目的外なの。見て欲しいのはバーサーカーのカードと、さっき私がした話。それから昨夜のこと」

 暗に英霊にも根源にも興味ないと告げるイリヤスフィールにますます驚くばかりだが、今は置いておこう。彼女の言う通りに話を振り返ってみる。

 イリヤスフィールは言った。バーサーカーのクラスカードを見て欲しいと。そして思い出せと言った。クラスカードは英霊召喚の触媒と思っていたこと、イリヤがクラスカードを使ってその身に英霊を下ろしたと。

 嫌な予感がする。一人完全に蚊帳の外の気分であるイリヤ以外が、背筋に冷たいものを走らせた。

「言ったわよね? 私は実力を見るって」

「…………そんなことも言っていましたわね」

「あんたが来れなくなって有耶無耶になったやつでしょ」

「私が行けなくて有耶無耶になったんじゃないわ。お兄ちゃんが生前返りなんかする(思い出す)から有耶無耶になったのよ。私はちゃんと見ていたわ」

 アーチャーの目を通して、貴方たちを見ていたわ。

 イリヤスフィールは口角を引く。赤い瞳が細められた。

「《夢幻召喚(インストール)》……これ、使いこなしてくれる?」

『「……は?」』

 また突拍子のないことを言い出した。そもそも話の繋がりがわからない。

 これには四人と二本も言葉の機能を放棄せざるを得ない。

「何を……言っているの?」

「馬鹿なことを……それがどれだけ命知らずなことかお分かりになって!?」

『危険です。イリヤ様の実例があれど、未知にて不明瞭な力を使うのは薦めることができません』

「でも(イリヤ)は実際にちゃんと出来ていたじゃない」

「あれは偶然の産物に過ぎないわ! 二度目なんかあるわけないでしょ!?」

「貴方、一般人を犠牲にするつもりですの!?」

「え、え? なんの話? どういうこと、ミユ?」

「…………」

「……ミユ?」

『美遊様?』

 全く付いて行けない。混乱するばかりのイリヤはついに美遊へ助けを求めるが、彼女は青い顔で俯いていた。尋常ではないそれに、イリヤとサファイアはそっと再度名を呼ぶが、そちらに気付く様子はない。

 アイコンタクト(?)っぽいものでサファイアから「任せろ」と言う意思を受け取ったイリヤは、次に頭の上で浮かんでいるルビーへ目を向けた。

「ルビーはわかる?」

『えーと、(解析)するに……昨夜イリヤさんは自覚なくクラスカードの力を使った。これはわかります?』

「えっと、私の部屋でしてた話だよね?」

『ええ、それです。魔女っ子イリヤさんがその話もすると仰ってましたから、そのネタバレはまた後でするとしてですね……その力は故意に発動させるには危険な力というわけなんですが、それをしろと言っているのが魔女っ子イリヤさんです』

「つまり……」

『DEAD OR ALIVE. 次なる試練が君を待ってるZE☆』

「…………」

 絶句。

 そんか命に関わる力を自分が使ったことも、再びその機会が訪れようとしていることも、この状況も、イリヤにとって絶句するしかない。

 話が壮大過ぎて付いて行けないです。

「……ふふ、やっぱり……」

 しかし、この状況の何が楽しいのか。絶句するイリヤの隣で、微笑みを絶やさないイリヤスフィールは、何処か浮いて見える。

 この時、イリヤスフィールは凛とルヴィアの言葉に内心で花丸を付けていた。魔術師として論外であるが、二人は一般人であるイリヤと美遊を巻き込んでクラスカードの回収に当たっていること、また昨夜イリヤが一般人にあるまじき力の一端を見せたことを時計塔へ報告するつもりがないのだ。そのことを先の会話で掴んだイリヤスフィールは、微笑みを浮かべる他ない。

 何故ならば、この世界の自分(イリヤ)は平和に暮らしていけるのだから。何時帰るかもわからない父に裏切られることはなく、指折り数える年月でしか母の温もりを知らないことはなく、世話焼きで賑やかなハウスメイドが居なくなることはなく、そして――大切な()とずっと一緒に居られる。

 イリヤスフィールたちにとって儚く脆いその平和を、彼女たちは守ると言ったのだ。これに微笑まずして何に微笑むと言うのか。

 気に食わないが、しかし彼女たちの真っ直ぐな想いは一応知っている。二人ならば必ず隠し通して見せるだろう。

 故に、イリヤスフィールは微笑みを浮かべたまま絶望を口にした(悪魔になった)

「もう一度言ってあげる。夢幻召喚(インストール)を使いこなして、バーサーカーを倒しなさい」

「…………は?」

 もう何を言われても驚かないつもりでいたが、意味不明過ぎて本日何度目かの思考停止が訪れる。

 バーサーカーを倒せと言われても、そのクラスカードは既にイリヤスフィールが回収しているではないか。それなのに何を倒せと言うのか。

「思い出しなさい。私は、既に言ったわ」

 イリヤスフィールは繰り返した。話を振り返ろと繰り返した。

 彼女は既に話したという。つまり、この場でした話は―――

『マジで成功させちゃったんです?』

「ルビー、何か知ってるの?」

 冷や汗らしきものを流すルビーへ、わからなさ過ぎて平静でいるイリヤが問う。ルビーは羽で頭部と思われる部分を撫でた。

『イリヤさんと美遊さんが誘拐された時、ルビーちゃんだけアーチャーさんに付いて行ったの覚えてます?』

「うん」

『あの後、アーチャーさんは地下に向かわれたんですけど、そこが大きな霊脈ドンピシャに位置していたんですよ。それでですね、その部屋にはとある陣が用意されていまして』

『姉さん……それは黙っていることではありません』

『てへっ☆』

「まさか……嘘でしょ?」

 そこまで言われればわかる。

 血の気が引く思いで言葉を絞り出した凛は、手の震えを押さえることが出来なかった。それはルヴィアも同じであり、ソファーに座していなければ、その場から数歩は後退りしていたことだろう。

 イリヤスフィールの背後で、何かが揺らめいた。魔力の塊がある。そうわかったと同時に、それは視認できる(・・・・・)姿でそこに現れた。

 一言で表すならば『屈強』。この言葉がここまでピタリと当て嵌まるものは早々お目にかかることはできないだろう。

 鋼のように屈強で、折れることを知らぬような鋭い眼。岩を思わせる巨大な体躯は、この部屋が小さく思える程。イリヤスフィールが小人のように見えてしまう。

「――――ぁ……」

 イリヤと美遊は声を喉に張り付かせた。上手く発音出来ず、もがくような音が溢れる。

 圧倒的存在感と魔力の密度に溺れそうだ。一気に深海に落とされたような圧迫感に襲われ、呼吸を忘れそうになる。

 そんな二人の前に立ち塞がったのは、凛とルヴィアであった。

 彼女たちとて肌に鳥肌を立たせている。恐怖を感じていないわけではない。しかしイリヤと美遊は巻き込まれた協力者であり、本来ならば守らなければならない一般人で、脅威の前へ無防備に立たせるべき存在でないのだ。それも、クラスカードとの戦いではないこんな平和な昼間になど、論外である。

 わかっている。この目の前にいる存在に自分たちは敵うことはない。その大きな指先一つで、埃のように飛ぶ命に過ぎないことはわかっている。

 しかし、二人は恐怖を押して立ち上がった。プライドにかけて、ここで退くなど有り得なかった。

 そんな彼女らを見て、イリヤスフィールは「上出来」と嬉しそうに呟く。

「ヒントをあげる。狂化によって各ステータスを向上されたサーヴァント。それがクラス『バーサーカー』の特性。真名はギリシャ神話のヘラクレスよ」

「え、英霊を召喚したって言うわけ!?」

「そしてそれを美遊たちに倒せと? 殺すつもりですの!?」

「じゃないと勝てないわ」

 ここで、イリヤスフィールの微笑みが落ちた。魔術師のもの――否、それともまた違う、戦いに赴く覚悟をした者の顔をしている。

「種明かしもしてあげる。最後のクラスカード――セイバーのクラスカードは、英霊の現象ではないわ」

「それってどういう意味よ!?」

「バーサーカーと同じ……ううん、もっと純粋な力(・・・・)。セイバーというクラスの枠組みに収められただけのそのもの(・・・・)と思ってもらって良い。お兄ちゃんも一撃で追い払われちゃったし」

 アーチャーですら露払いされた。その言葉で最後のクラスカードが一筋縄で行かないことは十分にわかってしまう。

 そして、それを直接見たイリヤスフィールは、彼女が喚び出したサーヴァント・バーサーカーを倒さねば勝てない相手だと告げる。

「嘘でしょ……」

「本当よ。残念ながら」

 ふっとバーサーカーが空気に溶けるようにして消えた。アーチャーの時と同様の現象に、まさか……と凛は目を見張った。

「アーチャーも英霊……!?」

「そうですわ……何故気付かなかったのです!? クラスカードが英霊の座へアクセスされているものなら、あの時の夢幻召喚(インストール)でイリヤがアーチャーと似ているなど当然ですわ!! アーチャーはクラスカード『アーチャー』の英霊なんですから!!」

「つまり……貴方は英霊を二体、サーヴァントとして使役している」

 乾いた声で、美遊は呟く。掠れて小さな音であったが、イリヤスフィールはきちんと拾い上げて頷いた。

「正直言って……今の戦力でも、あのセイバーに勝てる確率は五分五分なの。だから保険として貴方たちに協力を求めたんだけど……やっぱりカレイドステッキのみの出力じゃあ、貴方たちの身が持たないわ。現状、クラスカードを使いこなして漸く戦力にカウントできるの」

「……あのー……そんなにインストールって言うのは凄かったの?」

 ルビーの説明で場の流れは何とか掴めたが、記憶がなく自覚のないイリヤには、いまいち夢幻召喚(インストール)の凄さがわからない。

「そう言えばまだ見てなかったわね。ルビーだったかしら? 昨夜の記録、映せる?」

『もちろん! バッチリしっかり撮っていますよ!』

「ちょ、あれをこの子に見せる気!?」

 先ず待ったかけたのは凛だった。元々イリヤを巻き込んだことや、未知の力を使わせてしまったことに負い目を感じていた彼女は、イリヤが異常を体現する記録を本人に見せることに反対であった。クラスカードの回収が終われば、本来の日常へ帰してあげる予定なのだ。意味のわからない未知の領域へ足を進めさせるべきではない。

「わたしも、反た―――っ」

 美遊も同意しようとして、イリヤスフィールの冷たい目に黙殺された。あの目が、やはり苦手だ。自分に権利などないと思わせるような目。そしてイリヤスフィールはそれをわかっていて、その目を美遊へ向けてきていた。

「戦うならば、使い手が見た方が早いわ。(イリヤ)なら尚更」

()わたしなら(・・・・・)?」

「知らなくて良いのよ。そして知るべきじゃないの。ルビー、映しなさい」

『はぁん♡ マスターじゃないですけど……小悪魔イリヤさんによる貴重な命令、聞かずにはいられない! ぽちっとなー』

 ルビーからホログラム画面が映し出される。

 アーチャーが倒れた時点から開始されたその映像は、イリヤの声を拾って彼女の方へとカメラが動かされた。

 ルビーの視点で撮られているのだろう。すぐ傍に焦点の定まっていないような、表情のないイリヤが座り込んでいた。

 ああ、何となくだが覚えがある。初見のように思えなかったイリヤは、これは確かに昨夜あったことなのだろう、と不思議な面持ちで受け入れる。探していた額縁の中の写真を見付けた感覚に近いだろうか。そこにあって当然であったものを思い出すような、欠けていたものが補われるような感覚を抱く。

 だからか、イリヤは映し出される記録から目を逸らすことが出来なかった。

『……わたしのせいで……』

「――――ぅ、」

 映像の中で、イリヤが呟く。

 その声を聞いて、イリヤは頭痛を覚えた。

『ああ―――』

 交差する血と、倒れる女の子。

 見ず知らずの子どもが美遊と重なり、人形のように転がる様に血の気が下がる。

『そういえば』

 力なら、ここにある。

「ぁ―――ぃ―――」

 このままではダメだ――このままではみんな殺されてしまう。

 脳裏に過るのは赤色。

 無遠慮に、慈悲なく、作業のように、当たり前に下ろされる脅威と悲劇。

 赤色の水溜まりができる程の血。

 目の前で摘み取られる儚さ。

 子どもが死んでいくのを見ていた。

 同じ力が必要だ。

 その力と同じものを、自分は手にした。

夢幻召喚(インストール)

 昨夜のイリヤが呪文を唱える。

 記憶の中で同じ呪文が木霊する。

 脳が揺れている。ぐわんぐわんと掻き回され、昨夜の記憶――夢――が目の前一杯に広がっていく。

「――――ゃ――――ぁ」

 女を殺した。

 男を殺した。

 赤子を殺した。

 仲間を殺した。

 子どもを殺した。

 大切な人を殺した。

 ■■■を殺した。

「――――――――」

 

 わたしが、殺した。

 

「―――違う!!!!」

 

 

 

 019

 

 

 

「…………だから駄目だって言ったのよ」

 静まり返った応接間にて、凛が頭を抱えた。この場には凛とルヴィア、美遊、サファイア、そしてイリヤスフィールが居るのみだ。厳密には見えないサーヴァントのバーサーカーも居るが、着眼点はそこではない。

 イリヤの姿は、何処にもなかった。

 昨夜の記録を投影していた際、彼女はルビーを掴むと、その場からチリも残さず姿を消したのである。イリヤを気にかけていた凛たちは、その異常現象に何の対応も出来ず見送るしかなかった。何かしらの反応はあるだろうと思っていたが、せいぜい部屋を飛び出す程度だろうと高を括っていたのである。まさか一般人(・・・)()イリヤが(・・・・)転移で居なくなるとは思わなかったのだ。

「うん、転移ができるなら夢幻召喚(インストール)も楽勝ね」

「そういう問題じゃない!」

 楽観的で的の外れたイリヤスフィールへ、声を張ったのは美遊であった。珍しく興奮している様子で、先まであった恐怖を忘れ、鋭い眼光でイリヤスフィールを睨み付ける。

「……そう言う問題じゃない。イリヤは、元々普通の女の子だから……突然身に覚えのない脅威が――自分から街を壊す脅威が溢れる様を見たら、動揺するのは当たり前だと思う。こうなることは、予想できたはず」

『つまり、イリヤスフィール様はわざとイリヤ様に映像を見せた、と?』

「わざとよ?」

 落ち着きを取り戻した美遊が飛び出したイリヤを想い、イリヤスフィールを責めるが、本人は気にした素振りもなくサイドの髪を掬い上げる。その態度にますます怒りを募らせようとした美遊であるが、ぐっと拳を握ることで我慢した。

 イリヤは美遊にとって唯一無二の大切な友達だ。彼女を傷付けるものを、何があろうと許すつもりはない。しかし、今は私情を優先する時でない。それを見失う程、美遊は現実を受け入れて悟っていた。

 残りのクラスカードはセイバーの一枚のみ。それを回収することは美遊の義務であり、責任である。彼女の周囲に集い、この無垢で無知な手を取ってくれた優しい世界を壊さないために、美遊は怒りを堪えて見せた。

 イリヤスフィールは、セイバーのクラスカードが最大の難敵であると言った。セイバーを回収するには夢幻召喚(インストール)の力が不可欠であり、そして先ずは夢幻召喚(インストール)を伴っての自分達の力を見ると。それを見て、セイバーへ挑むに足る戦士と成り得ているか判断するのだと。

(わたしは……いや、わたし()、やらないと)

 平行世界で魔術師のイリヤスフィールと違い、同じだけの才能があるのかもしれないが、一般人であるイリヤ。彼女は正に巻き込まれただけの守られるべき女の子なのだ。

 初めはルビーに無理矢理魔法少女にされ、アニメやゲームの登場人物に憧れるような、夢見る幼子のママゴトのような、そんな不誠実で自覚のない危うさで戦っていた。美遊が怒るのも仕方ない程の、綱渡りを命綱もなく無自覚に笑顔で渡る様な危なっかしさ。しかし、キャスターとの戦いで美遊と協力して戦うことで、強大な敵と戦う痛みを知ったことで、彼女も危険な世界に立っていることを自覚した。そしてその危険がこの街を脅かし、自分の家族や友人(大切なもの)を危険に晒すものだと知ったイリヤは、言葉にして覚悟を口にした。

 ――だから、わたしは戦う。みんなを守ってみせる!

 あの言葉に嘘はない。あの時のイリヤは本気でそう思っていて、昨夜もその覚悟に揺るぎはなかった。

 しかし、その覚悟を示した危険が、自分自身であったらどう思う?

 大切なものを守ると誓った。そしてそれを傷付ける危険――その危険が、もしも自分ならば?

 イリヤにとって、それは多大な恐怖であっただろう。身をもって知っている、命を落とす程に強いクラスカードの現象の力が自分にある。その危険が、大切なものの傍にある恐怖。守ると誓ったものを、自分が傷付けてしまうかもしれない恐怖。まだ幼い彼女には、堪えられないものだろう。パニックになって逃げ出しても仕方ない。あのあたたかな心に深い傷を負わせた可能性すらある。

 だから、これで良かったのかもしれない。

 共に戦ってくれると言ってくれたのが嬉しかった。

 笑顔を隣で見せてくれることが嬉しかった。

 友達になってくれたことが嬉しかった。

 手を取ってくれたことが嬉しかった。

 だから―――

「わたしがやります」

 美遊はサファイアを握り締めた。

「イリヤはもう戦わなくていい……」

 イリヤがもう傷付かないように、

 イリヤがもう怖がらないように、

 イリヤの世界を守れるように、

「後は全部、わたしが終わらせる」

『美遊様……』

 サファイアは無茶だ、と止めることが出来なかった。それは凛もルヴィアも同じことだ。

 美遊が何かを背負い込んでいることは、短いながらも共に居てわかってきた。だからこそ、サファイアは同時に彼女の覚悟が本気であることも理解していた。

 美遊は本気でこの街から脅威を取り除き、イリヤを守ろうとしている。理由などわからないが、そこに嘘は欠片もない。幼いが故の真っ直ぐで純粋な願いだ。

 そんな戦うことを決めた主人にサファイアができることは、その足が折れないように支えることだけ。柔らかな肌を守り、幼い心を守り、ささやかな祈りを守る。それが、今のサファイアが必要だと思える、美遊へしてあげられることであった。

「時は明日の夜〇時丁度。場所は郊外の森」

 美遊の言葉を受け止めたイリヤスフィールは地図を広げ、ここ、ととある土地を指さす。そこは人の寄り付かない私有地であった。

「これ以上待てる時間はないわ。明日の夜までに夢幻召喚(インストール)をものにして来てちょうだい」

 

 イリヤはパニックになっていた。

 突き付けれた現実を受け止め切れず、わけも分からないままに飛び出して来ていた。

『ほへあっ自宅前……!? 魔術師の工房内から転移を!? 本当に潜在的才能の開花ですか、イリヤさん!?』

「…………」

 気が付けば、目の前に自宅の玄関がある。鷲掴みにされているルビーの声は、どくどくと木霊する音に阻まれてイリヤに届いて居らず、目の前の事実にしか思考は追い付かない。

 いつの間にここまで走って来たのかはわからないが、どうにか日常に戻れたらしい。ホッと胸を撫で下ろし、玄関へと手を伸ばそうとしたその時、向こう側から扉は開かれた。

「じゃあ、俺たちイリヤのこと探してきまーす」

「いえ、あまり帰りが遅いとご家族が心配します。イリヤさんは私たちが探しますので、皆さんはご帰宅を。わざわざお見舞いに来てくださったのに申し訳ありません」

「え、いえ、あの……居なくなったと言うことは元気になったってことだと思うので……たぶんそこまで遠くに出かけては……あ」

「ん? ……あ」

「あ、ああーーーー!」

 開かれた先に、イリヤが戻りたいと求めた日常があった。

 世話焼きな家政婦と優しくて楽しい友達――イリヤが守りたいと願った大切なものが司会一杯に飛び込んで来る。どうやらイリヤがエーデルフェルト邸へ誘拐されている間に友人たちが見舞いに来ていたらしい。入れ違いしてしまっていたことで、彼女らへ心配をかけていたことを察したイリヤは頬を指先で掻いた。

「何処行ってたんだよイリヤ!! それもパジャマで!!」

「イリヤさん!! 一体何処へ行かれていたのです!? 貴方は病人なんですよ!!」

「あーー……えっと、ちょと散歩がしたくて……」

 一階に居たはずのセラとリズの目を掻い潜って出掛けたにしては無理がある。不出来な言い訳に目を逸らすと、握り締めたままのルビーが視界に入った。

 一般人の目があるためだろう。玩具の振りをして微動だにしない様は、普段のお喋りさんとは思えない程に無機物のようだ。

「――――」

 ルビーを見て、イリヤは何故エーデルフェルト邸を飛び出したのかを思い出した。どっと血の気が引き、木霊していた音が押し戻ってくる。

 ゆっくりと視線を戻す。目の前にいるあるのは平和な日常(大切なもの)。心配したのだ、と手を伸ばしてくれるそれは、簡単に裂けて血を溢すように軟らかに映る。軽い力で押しても、簡単に足を縺れさせて尻餅を着くだろう。そうなれば動きがますます鈍り、細くてか弱い首すら離れてしまうかもしれない。

 自分が傷付けて(・・・・・・・)しまう(・・・)かも(・・)しれ(・・)ない(・・)

 クラスカード(バケモノ)のように、躊躇いや慈悲などなく、簡単に命を摘み取ってしまうのかもしれない。助けを請う声に耳も貸さず、涙する顔を一瞥するのみで、応えると見せかけて首を折るのかもしれない

 そんなことさせられない。そんな目に遭わせるわけにはいかない。大切なものを守ると誓ったのに、それを傷付けてしまっては、今度こそ変わって(・・・・)しまう(・・・)

 自分が自分で(・・・・・・)無く(・・)なって(・・・)しま(・・)()

「え?」

 イリヤは、伸ばされた手を叩き落としていた。予想していなかった行動に、した方もされた方も唖然とした顔になる。

「い、イリヤちゃん?」

「お、おい……どうしたんだ?」

「…………イリヤさん?」

 ここに居ては駄目だ。

 激しい脈動は何時しか耳鳴りとなり、思考の幅を狭めていく。

 逃げなくてはいけない。ここから離れなくてはいけない。早く走って、逃げて、遠ざけて――大切なものを守らないと。

 イリヤは走り出した。引き留めようとする声を振り切って、霞む視界にわけも分からないままに足を動かす。自分が大切なものを傷付けるのだ。ならば、ここに居てはいけない。ここに居ては、大切なものを守ることが出来なくなってしまう。

 元から足の速いイリヤに追い付ける者は居なかった。後を追って来た友人たちを振り切り、セラの声にも耳を塞ぎ、滅茶苦茶に角を曲がる。

 すると、その先で人とぶつかってしまった。前を見ていなかったイリヤとその相手は互いによろめき、尻餅を着く。

「あいたたた……すみません、大丈夫ですか……って、イリヤじゃないか」

 覚えのある声に顔を上げれば、そこには義理の兄の士郎の姿があった。周囲には彼の荷物が落ちており、帰宅途中の彼とぶつかったようだ。

 士郎は立ち上がると、汚れた制服も気にせずにイリヤへと手を差し出した。理由も訊かず、当たり前のよう差し出されるそれへ、反射的に手を伸ばそうとしたイリヤは、触れる寸前に動きを止める。

「イリヤ?」

「……ごめんなさい……」

 士郎の手を取らず、イリヤは背を向けて走り出した。アスファルトに擦れる素足に痛みが走るが、唇を噛んで堪える。

「イリヤ!」

 士郎が遠ざかる小さな背へ手を伸ばした。しかしその背はどんどん小さくなる。追いかけなくてはいけない。

 散らばったままの荷物も持たずに、士郎も駆け出した。

 

『大丈夫ですかーイリヤさーん?』

 人気のない公園に辿り着いたイリヤは、滑り台の下で膝を抱えていた。パジャマのまま、それも裸足の小学生が一人で居る様は補導されてもおかしくないが、誰も寄り付かない公園ではそんな気配欠片も感じられない。

 今は一人きりの世界の中に居る。そう思うと耳鳴りも治まり、鼓動も落ち着きを取り戻していく。落ち着いて考える時間を得たことからか、イリヤは自分の足を見た。漸く認識した裸足のそこは、爪に泥が入り、じくじくとした痛みを生んでいる。

「痛い……」

 目頭に熱が集まる。

 こんなはずではなかった。こんなことに成るなんて知らなかったのだ。

 自分は普通の女の子であるはずだ。この冬木市で育った、少し夢見る何処にでも居るただの女の子である。

 このルビーと名乗る愉快な魔法のステッキに弄ばれて契約し、魔法少女になった。街を脅かすクラスカードを回収する、というまるでアニメの登場人物に成ったかのような展開にちょっとワクワクして、ドキドキしただけの、魔術のことなんて右も左も分からない女の子。

 確かにこの任務の重要性は理解してきている。キャスターとの戦いで、クラスカードは人の手に余る物なのだと知ったから、クラスカードに人を傷付ける力をあることを知ったから、だから頑張って戦おうと覚悟するようになった。

 けれど、自分がバケモノに成るだなんて思わなかったのだ。

「……いたい……よぉ……」

 足が痛い。

 心が痛い。

 こんなにも自分は人間らしいのに、昨夜の自分はクラスカード(バケモノ)と同じに成っていた。人を傷付けるものと変わらないものに成っていた。

「もう……やめたいよ……」

『じゃあ、やめちゃいましょう』

「え?」

 てっきりあの手この手で励まし、再び魔法少女に仕立て上げられるのだとばかり思っていたイリヤは、あっけらかんと宣ったルビーに涙に濡れた目を向けた。

 顔色などないルビーは、何を考えているかわからない様でイリヤの前でくるくると躍る。そして羽根を指のようにビシッと指した。

『いいんじゃないですか、別にー。そもそもカード回収は凛さんとルヴィアさんに課せられた任務ですから』

「……止めないの?」

『わたし的にはカードとか別にどうでもいいことですしー。だいたいあんな血生臭い泥仕事は魔法少女のやることじゃありません!』

「血生臭い……」

 そうだ。クラスカードの回収は命のやり取りと変わらない。今まで生きているのはルビーの力を使って魔法少女であったからだ。魔法少女でなければ、凛やルヴィアのように生身で立ち向かうことなど出来ず、一瞬で文字通り血生臭い物体へと成り果てていただろう。

 だが――思考が堂々巡りする――昨夜は、違った。イリヤの手にルビーはなかった。ルビーの力ではなく、自分(・・)自身(・・)の力で(・・・)戦っていた。

(…………わたしは、わたしが怖いよ)

 自分がわからなくなる。

 何故戦えたのだろうか。何故クラスカードを扱えたのだろうか。何故躊躇わなかったのだろうか。わからないことばかりで、自分を見失っていく。

 だから、怖い。今までの自分が居なくなるようで、変わってしまうようで、バケモノに成ってしまうようで、立てなくなってしまった。

『だから、イリヤさんがやりたくないなら、やらなくていいんです』

「……そっか」

「―――そうだ」

 降って湧いた声。ハッとして後ろを向けば、背後にアーチャーが立っていた。

 上下黒の服を身に纏う彼は、中身のない左袖を揺らし、静かにイリヤを見下ろしている。目は、優しい。昨夜の冷め切ったものではなく、見守るようなものを感じさせる目をしていた。

「ア、アーチャーさん……」

 いつの間に居たのだろう。全く気付かなかった存在に、驚きで声が震えた。

 否、それだけではない。イリヤが感じたのは驚き以外にも、確かに恐怖も込み上げている。当たり前だ。自分を変えようとするきっかけの一つは、目の前にこの英霊なのだから。

『おやおや、アーチャーさんではないですか。涙する少女を覗き見とは愉快な趣味をお持ちですね』

「人聞きの悪いことを言うな。出掛けのついでに見かけただけだ」

『そう言えば先程は姿が見えませんでしたね。マスター不在の間はお店の仕入れですか? 異世界生活もなかなか庶民染みていますねー』

「人の話を聞く気がないのだな、貴様は」

 会話と見せかけて一方通行のドッチボールに、アーチャーはため息を吐いた。このステッキを造ったのは宝石翁と伝わるが、はてさて、彼の偉大なる第二魔法の体現者がこんな愉快痛快な人格を生み出すのだろうか。事実ならば、それこそ趣味が悪い。

 アーチャーは肩を竦め、それから右肩にかけるトートバッグをルビーへ差し出した。

「マスターより留守を預かっていたが、来訪者が忘れ物を仕出かしたのでな。私はそれを届ける途中だ」

『どれどれ……おや? ケーキです?』

「オートミールと野菜のキッシュだ。作り過ぎたから持たせたのだが……あの未熟者、慌てて帰るものだから案の定忘れて行った」

『えーー!  こんなケーキ用のボックスに入れてたらケーキだって勘違いしちゃいますよー。ちびっ子しょんぼり案件ですよ。特に野菜ってところがガッカリです! おやつだヒャッホーイからの絶望を送るつもりですか!? こー言うのはちゃんと外から見ても野菜が入ってるってわかるようにしないと!』

「む、一理ある……」

(一理あるんだ……)

 ルビーに流され始めたアーチャーに、イリヤは内心でツッコミを入れる。玩具のようなステッキに真剣な眼差しで頷く成人男性の様は、なかなかに不審であった。

『それにしても見た目もう平気そうですね。昨夜は赤い帯に森の中へ引き摺られて退場してましたから、もう会うことがないのかと思ってましたよ』

「やめろ。思い出させるな。頼むから止めてくれ」

 本気で青い顔になるアーチャーに、イリヤは首を傾げる。

 昨夜の記憶は何となく思い出したが、イリヤにクラスカード回収後の記憶はない。それも当然だ。彼女はあの後気を失い、凛によって自宅へと送り届けられたのだから。故に、あの戦いの後、《呪い》ではなく《毒》のためにアサシンが消えても動けないで居たアーチャーが、鏡面界から脱した後に謎の赤帯に捕まり、森の中へとガタガタ震えながら去って行ったことを知らない。

「……あの!」

 楽しく(?)ルビーと談笑(?)するアーチャーへ、イリヤは絞り出すように声をかけた。アーチャーはトートバッグごとルビーの杖部分へキッシュをかけ、幼い少女へ再び目を向ける。

「昨日は……すみませんでした」

「……それは、何に対しての謝罪だろうか?」

「わたし、偉そうなこと言って……結局ちゃんと覚悟ができてなかったのはわたしだったんだって……アーチャーさんにはすっごく迷惑かけたと思うし……」

 戦うと言っておきながら、現に今こうして逃げている。これは明らかな矛盾であり、昨日までの自分を裏切る行為他ならない。昨夜のアーチャーは何一つ間違っては居なかったのだ。こんな足手まといが戦場に居れば、彼が不快に思うのも仕方ない

 だから、イリヤはパジャマの丈を握り、後ろめたさから目を合わせられず、砂利を数えて謝罪を告げる。アーチャーがどんな目で自分を見て居るかなど知らず、自分を責めながら。

「……何も、戦うことだけが守ることではない」

 イリヤが数えた石が二十を越えた時、アーチャーはゆっくりと口を開いた。そこに責める色はなく、呆れたものもない。

 イリヤがそっと顔を持ち上げる。アーチャーは滑り台へ背を預けているため、彼の表情を見ることはできなかった。しかし、やはり声に棘はない。優しい声だ、と聞く側にわかる程に、丁寧にアーチャーは言葉を選んでいく。

「戦いに赴くことで、確かに守ることはできる。脅威を払い退け、大切なものの安全を作り出せるだろう。しかし、時に剣を手放すことも大切だ」

「剣を手放す……」

 つまりは、武力の放棄。

 イリヤにすれば、ルビーを手放し、魔法少女でなくなることに値するだろうか。

「忘れてはいけない。君が大切だと思う人たちにとっても、イリヤ……君が大切なのだということを」

 イリヤが守りたい人たちに傷付いて欲しくないと願うように、彼らもイリヤに対して同じ想いを抱いている。

 家族が、友人たちが、イリヤが命懸けの戦いをして居ることを知って、どう思うだろうか? きっと、やめて欲しいと思うだろう。戦いから遠退いて欲しいと思うだろう。イリヤが守ろうとしたように、彼らもイリヤを守ろうとするだろう。

 だから、

「前線から退くことは、敗走ではない。(カタチ)ばかりではなく、(ナカミ)を守ることも、また戦うことと言える。勘定へ己を組み入れなくては、いつの日か取り返しのつかない過ちとなる結末もあるんだ。君の選択は、間違っていないよ」

 ついに、ボロボロと大粒の涙が零れた。次々と溢れた、袖を濡らし、地面に染みをつくる程の涙に、イリヤの喉は引き攣る。

 イリヤは、心底安心していた。逃げ出したことは間違いではないのだと教えられ、肩の荷が下りる思いだった。

 このまま戦い続けることが怖かった。自分が自分でなくなることが怖かった。自分が誰かを傷付けることが怖かった。だから、イリヤは逃げ出した。覚悟も約束も責任も投げ出し、現実から逃れようとした。それは、決して褒められる行いではなかっただろう。人に後ろ指さされ、臆病者だと罵られても仕方のない行いであっただろう。

 しかし、アーチャーは正しいことなのだと肯定してくれた。ルビーが作ってくれた逃げ道への一歩を、押してくれた。

 ありのままの自分で居ることを、許してくれた。

「うああ、あああーーあぁーーーー」

 高学年になって情けないが、イリヤは大きな声を上げて泣いた。キャスターとの戦いで血を流した時ですら泣かなかった彼女は、両手から溢れる程の涙を流した。

 そして、それを優しくて見守っていたアーチャーは、

「見付けましたよ――――フィッシュ」

「ぐおっ!?」

「『!?』」

 公園の入り口より伸ばされた赤い帯に拘束された。

 何がどうなっているのやら。雰囲気もぶち壊しにする謎の物体の登場に困惑する彼らだが、そんなもの知らぬとばかりにあの女は公園へと足を踏み入れた。

「本当に、どうしようもないアリだこと。女の子の甘い香りに群がるだなんて、働きアリなら働きアリらしく役割だけを全うしていただけますか? 余分な仕事が増えるので」

華憐(カレン)先生!?」

 涙も引っ込む衝撃。白衣に淡い紫のフリルブラウス、下はブルーのミニスカートとタイツ、とイリヤにとって学校の保健室で見慣れた人物――折手死亜可憐が公園の地を踏み締める。

 何故ここに居るのか。そんな疑問は口に出る前に飲み込まれる。何故ならば、イリヤのすぐ傍、アーチャーの方からギチギチとえげつなく絞まる音が聞こえてきたからだ。率直に痛そうな音がしている。

「こ、これは……!」

「はい、ご存知の通り正真正銘のマグダラの聖骸布です。貴方のご主人様より、昨夜に続いて別料金プラスプランの追加がありました。理由は現状から見てわかりますね? 脱獄がバレています」

「ま、待てっ。別料金だと!? 昨夜は二週間と言って居たではないか!!」

「一ヶ月……いえ、二ヶ月に延長します」

「よ、四倍だと!?」

「私とて忙しい身の上なのです。それなのにこうしてわざわざリードを持って来て差し上げたのですから……膝をつき三つ指揃えて敬いなさい、主を」

「宗教が混同しているぞ!」

「主を思う姿勢に枠はありません。受け入れられない、と言うならば……そうですね、巣に水をかけましょうか? 面倒ですが毎日寄付金催促に家に行きますよ」

「本当に君はいい性格をしているな!?」

「そんな……何も出ませんよ、お礼にダニの好物を譲与しましょう」

「褒めてない! と言うよりそれはただの嫌がら……あいたたた!!」

『お達者で~~』

「…………」

 台無しだ。全てが台無しだ。

 もう無言で華憐に引き摺られていくアーチャーを見送るしかできないイリヤは、頬を撫でた。さっきの大泣きが嘘のようだが、目元がヒリヒリするので泣いたのは現実らしい。悪い意味で夢みたいだ。

「……これからどうしよう……」

 アーチャーは去った。自分の立ち位置も落ち着いてきたが、だが飛び出して来たら手前、のこのこと家に帰る気にはなれない。

 再び膝を抱え、腕の中に顔を埋める。心配をかけてしまった人たちに吐く言い訳が思い付かない。

「やっと見付けた」

 ぽん、とイリヤの頭に誰かの手が乗る。

「あ……」

 誰か、ではない。知っている。覚えている。

 この手は、イリヤが守りたいと願った――大切な人のあたたかな手だ。

「探したぞ、イリヤ」

「お兄ちゃん……」

 顔を上げると、目の前には優しい顔でしゃがむ士郎の姿があった。

 前髪が額に張り付いているのを見るに、ずっと走り回って自分を探していてくれたらしい。頭から離れ、頬に当たる指は熱いくらいだ。

「怪我してるじゃないか。裸足で走ったら駄目だろ」

「お兄ちゃん……わたし……」

「痛かっただろ?」

 理由は訊かない。ただただあたたかく身を案じてくれる存在に、イリヤの瞳は潤んだ。

 今日で何度泣いただろう。痛むくらいに泣いたのに、まだまだ足りないとばかりに溢れて感情を露見させていく。

「泣く程痛いのか? よく我慢したな」

「ちが……わ、わた……わたし……っ」

「寒かっただろ。そんな薄着で居て。帰ったら温かいスープ作ってやるからな」

「うっ……うぅ……」

「よしよし……」

 イリヤを優しくて撫でる。兄として、家族として、彼女を大切に思う者として、士郎はイリヤをあたたかく受け入れる。

 そして、彼女が求めている言葉を告げた。

「帰ろう、イリヤ」

 差し出される、大好きな人のあたたかな手。

 大切で、傷付けたくないと願った手。

 遠ざけて、振り払った手。

「―――うん」

 それを、今度こそイリヤは握り返した

 




マジかよ……これからバーサーカー戦とセイバー戦を書くのかよ……(震え声)後編って何時上げられるんだ……。待たせてしまう方には申し訳ありません。もう暫くお待ち下さい。
あと、こちらの作品。無印編を書き終えたらどれだけフラグが残っていようと終了する予定でいます。と言うのも、本気で筆者は無印編しか内容を考えていないままに書いているので、続編を作るに作れないからです。なので、読んで下さっている方々には完結後も疑問を残し、モヤモヤさせる結末もあるあるかもしれません。そうなった場合、番外編として設定回ならぬ質問回答回というか赤裸々回を設けたいと思っています。完結後に活動報告かTwitterか何かで募集しようかな? 思っているんですが、付属する設定回の投稿はできてもQ&A回を投稿できるのかはちょっと調べたんですけどわからなかったので、こちらはあくまで予定です。後程確認して再度周知したいと思いますが、この予定は蛇足なので皆様に疑問などがなければ実施はしません。疑問なく綺麗さっぱりに読んでいただけることが幸いですが、なにぶん筆者の力量不足で申し訳ない……。
ではでは、ここまで長々とお付き合い有り難うございます。天むすの次回作にご期待下さい。


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盤外 2

ばんがいへんのあいま
本編の隙間
同一人物の別人と姉
 


 

 店長に熱が出た。

「まあ、毒も魔力だものね。英霊にも効くかー」

「え? ……ごめん、イリヤスフィールさん。今なんて言った?」

「シロウは気にしなくていいわ。油断していたお兄ちゃんの自業自得だもの」

 シロウの額に片手を置き、やれやれと首を振るイリヤスフィールへ、士郎は首を傾げることしか出来ない。

 午後四時前の放課後、友人の世間話でアルバイト先である聖杯喫茶の店長が熱を出したと知った士郎は、部活を休んで見舞いにやって来た。元々部活は早めに切り上げる予定であったので、友人に文句を言われたが、まあ問題ないだろう。彼とはファミリーレストランで奢ることで手を打ってある。

 さて、そうして時間を作った士郎の目の前には、噂通りの物があった。店の扉にある臨時休業の看板だ。加えて鍵もかかっていた。そこまで気を回していなかった士郎は、右手に下げるビニール袋へ目線を落とす。見舞いにと病人食の材料を買ってきたが、入れないのではどうしようもない。

 どうしたものか。考えて、一つだけカーテンの閉めが甘い窓に士郎は気が付いた。誰かしら居ないかと窓越しより店内を覗けば、イリヤスフィールがカウンターキッチンにてうんうんと唸っているではないか。となれば、寝込んでいるであろう病人はシロウの方だと予想できる。士郎には想像できない光景だが、現実とは小説より奇らしい。

 窓を三度ノックすると、イリヤスフィールは直ぐ様顔を上げて、士郎と目を合わせた。彼女は快く扉を開けて士郎を招き入れると、彼が持つビニール袋へと視線をやった。

「お粥でも作ろうと思って」

「おかゆ……ありがとう、シロウ。お兄ちゃんも喜ぶと思うわ」

 それはないな。

 にこりと微笑むイリヤスフィールに内心思う。素直に肯定できない士郎は頬を引き攣らせた。いつも小言を贈ることを忘れないあの師匠(暫定)が、そんな賞賛を口にするとは思えない。無言でも目が皮肉を語る男だ。有り得ない。

 そんなアルバイトの思いなど知らないイリヤスフィールは、カウンターキッチンへと士郎の手を引いた。普段はシロウの聖域(テリトリー)であるそこは、メインスペース以外は普段と変わらない清潔さを維持している――メインスペース以外は。

 士郎の背に冷や汗が伝う。彼の目の前、シロウがいつも陣取るそこは、一言で表すなら実験現場となっていた。

 錬金術は台所で行われた。昔何処かの国では自宅の台所で錬金術は行われていたという。そんな小さなスペースで出来るものなのかと思うが、今のような施設という物はなかったであろうと考えると、自宅で簡単に行える場は台所であると言うのは頷ける。

「前にお兄ちゃんが作ってくれたオートミールを作ってたんだけど、ちょっと目を離したら吹きこぼれちゃって」

「ふきこぼれ……」

 はて、吹きこぼれが緑色とはこれ如何に。

 士郎の前には一つの小鍋が置いてある。イリヤスフィールの言う通り、何かが吹きこぼれたのか、鍋の周りはぐちゃぐちゃになっていた。

 まだ、それはいい。ただの吹きこぼれならば掃除すればいいのだから。乾いてこびり付いたものを剥がすのは大変だが、最近は様々な便利道具が手軽に手に入る上に、主婦の知恵と言うのもシロウが知っていそうだ。

 だが、何故に緑色なのか。

 オートミールは麦のスープだったはずだ。言うなら麦粥。つまり本来ならば白濁した色であるはずだ。

「…………」

 火は既に消えている。士郎は鍋へと近付き、蓋を持ち上げた。そして直ぐに冷蔵庫の野菜室を開けた。

「野菜とか一杯入ってて、すっごく美味しかったんだよ!」

「…………うん……」

 とりあえず、備蓄野菜を丸ごと入れるのは止めてさしあげてください。

 取れるだけの吹きこぼれ汚れを片付け、元凶を避けた(後でパイ等にしてしまおう)士郎は、新しい土鍋を取り出した。

「店長の体調はどうなんだ?」

「んーー……まあまあ、かな? 殆ど回復してるんだけど、神経系の毒だから手足が麻痺してて、帰って来て貰った時には舌も回らなくなってたわ。だから今は大事をとって寝て貰っているの」

「え、それって大丈夫なのかよ? 病院には行ったのか?」

「大丈夫だよ。原因を叩いたから、本当にもう寝てるだけでいいの。シロウってばリンが居るからって張り切っちゃって……バカじゃないの」

 どうやらだだの風邪だとか、そういう流行り病ではないらしい。毒云々は……絶対にただの職業:喫茶店店長だけではないだろうと思っていたが……うん、深くは考えまい。士郎は遠い目をして笑った。多分笑えていた。

 その後も色々とイリヤスフィールの愚痴を聞いている間に、病人食は完成した。和風出汁をベースにした卵粥だ。

 味見をする。悪くない出来だ。イリヤスフィールへも一口食べてもらうが、彼女も笑顔を見せる味に仕上がっている。完成したのならば、役目を全うさせなくてはならない。

 一人用の土鍋を手に、士郎たちは奥の住居スペースへと足を踏み入れた。リビングを抜けた、地下に向くとは反対の、ギシギシと鳴く木製階段を上がり、すぐ左手の部屋。そこがシロウの部屋である。士郎は一度も、ここに立ち入ったことはない。

 躊躇いはあった。彼は士郎に馴れ馴れしい嫌味を口にすれど、親しみを寄越すことはなかったからだ。あれをしろこれをどうしろ、と人のことを細かく見ておきながら、その実士郎から歩み寄ろうとすると嫌味と言う壁が立ち塞がる。士郎はシロウから命令はされても、直接的指導をされたことはないのである。まあ、士郎は命令を指導として捉えているのだが、発言者の意図を読み取るならば、指導ではなかったはずだ。

 そんな彼が、この扉を潜ることを許すだろうか。それも、心配した見舞い人として訪れることを。

 答えは否だ。彼は快く思わないだろう。必要以上に弱味を見せたがらない人だというのは、この短い付き合いでもよく知っている。家族であるイリヤスフィールなら兎も角、他人の士郎が立ち入ることを善しとすることはないだろう。

 故に、士郎は躊躇する――が、姉にすれば弟のそんな葛藤など踏み越えるべき石でもないらしい。

 イリヤスフィールは躊躇いなく扉を開いた。挨拶もノックもない、士郎への気遣いもない、自然な動きでドアノブを捻り、「おバカさんのシロウは起きてるー?」なんて口にして、踏み入っていく。

「…………」

 きっと、あの人にはこれくらいの大胆さが丁度良いのだ。

 先までの葛藤がバカらしく思えて、士郎は苦笑いをした。自分の家族もあたたかいが、彼らの家族(在り方)も幸せそうだ。

「…………イリヤ……」

 シロウは、確かにベッドの住人となっていた。大人しく、きっちりと布団に収まっている。

 そんな彼は先ず姉が訪れたことに口元を震わせ、次にシロウを見て眉間に皺を寄せた。わかっていた反応に寧ろ安心してしまう慣れに再び苦笑いを溢し、士郎はイリヤスフィールに続いてシロウの傍に立つ。

 肌の色でわかりづらいが、顔色はやや悪いだろうか。見た目熱などはないようだが、気だるそうな雰囲気を窺い知れる。たしかに、この状態であれば台所に立つのが憚られるだろう。臨時休業に納得する。本人がよくても客がハラハラしてしまう。

「…………何をしに来た、小僧……」

「見た通り、見舞いに来たんだよ」

「シロウが作ってくれたのよ」

 近くのテーブルに土鍋を置き、蓋を取れば心地好い香りがする。寝たままにそれを一瞥したシロウは、イリヤスフィールへ目を向けた。

「はい、どーぞ。食べないとダメよ、シロウ」

「しかし、オレには……」

「気持ちを受け取ることが大事なの。大丈夫。美味しいわ」

 イリヤスフィールがシロウの眉間を人指し指でつつくと、彼はきょろりと眼球を動かす。それから次にイリヤスフィールと数秒の間目を合わせ、二度瞬きをした。

 士郎はどうしてかその動きが目についた。特別おかしくはないだろう、気不味そうな弟と世話焼きな姉の構図であるはずだが、それが何かの合図のように思えたのだ。

 はて、と自分の感受性へ頭を捻った士郎の前で、シロウは渋々と体を起こした。動きはやはり若干しんどそうに見える。

 イリヤスフィールがサイドテーブルを動かそうとしているのを見た士郎は、彼女にお粥を渡し、代わりにシロウの傍まで移動させる。やけに重いと思えば、テーブルそこにある付属ボックスの中に分厚い本が入っていた。イリヤスフィールがテーブルへお粥を置く下で、彼はその本を取り出した。

「アーサー王物語?」

 アーサー王物語、あるいは伝説と伝えられている。イギリスにあるブリテン島が舞台であり、彼の有名な剣エクスカリバーが登場する騎士と魔法の伝承物語であったか。

 ここにあった物は日本語版と英語版、それから手書きのレポートのような紙束の三種。本も紙も、何度も捲られた跡があり、余程使い込まれていることが窺える。持ち主のこれらへ思い入れのある気持ちが手に取るようにわかる様であった。

「……何をしている」

「あ、わり―――っ!」

 勝手に人の物を引っ張り出したことを謝れば、怖い顔でシロウが睨んできていた。正に今殺さんとばかりの殺気すら感じ、背筋が凍る思いを抱くが、同時に変な対抗意識も湧いてくる。見たこちらが悪いが、そこまで怒らなくてもいいだろう――普段であれば思わない責任転嫁なような思考。そこへ疑問を持つ前に、思考を断ったのはイリヤスフィールであった。

「人のラブレター見ちゃダメよ、シロウ」

 ははーん、なるほど。ラブレターか。

 ならば、この反応も頷け…………、

「ら、ららららラブレターァ!!??」

 店長の!?

「ば、ちが……そんなわけないだろ!?」

「毎日最低一回は読んで、物語からアーサー王の気持ちを読み取ろうと自己満足な手紙なんか書いて、あーでもないこーでもないって毎日頭悩ませて、それで大事に大事に仕舞っているじゃない。あの日からは特に顕著よねぇーー? どー見てもラブレターよ。ね、シロウ」

「え、」

「なんだその目は!?」

 人の趣味にとやかく言いたくはないが、恋愛対象が昔の王様……王様かぁ……。

 士郎は手元の本を見て、それから再びシロウを見る。相変わらず殺気みなぎる眼光を宿しているが、イリヤスフィールがニコニコしている隣にあるベッドから出てくる様子はない。寧ろ出たいのに出られない、のような変な身震いをしている感じにすら見える。どうしたのかと心配になる士郎だが、あえてそこに触れはしない。つつけば本当に殺されそうだ。

「い、いいんじゃないか? 恋愛は自由にするものだろ?」

「だからそんなものではないと言っているだろう!!」

 病人とは思えない大声が、静かな喫茶店から街に響いていった。

 

 

 

 隙間

 

 

 

 士郎は休業した喫茶店から出て行った。

 無人のキッチンにキッシュを置いたまま。

 




没予定でしたが、あまりにも本編の進行が微妙なので、時間稼ぎに番外編その2をそっと置いておきます。
やばい。年内に完結できないぞ。イベントと仕事で余計に遅筆が悪化してる。
あと最近ジャンプが面白い……めっちゃ面白い……。

アンケートのご協力ありがとうございます。分けなくても大丈夫との意見を多く頂いたので、このままにしておきます。
 


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姉弟の退屈しない夢語 下(未完)

セイバー戦書いてますが全然進まないので、多分大きな修正をする事はないだろうバーサーカー戦までを公開します。
セイバー戦書き上がったら加筆予定です。
本当はもっと凛とかルヴィアとか美遊を活躍させたいんだけど、描写力や構想力が……力が……無力だ……。


 020

 

 

 

 仁王立ちするイリヤスフィールと、それを背に感じながらスポンジ生地を作るシロウ。そんな二人が居る街の隠れた喫茶店は、いつもならば僅かな花の香りで居心地の良い空間に作られているのだが、どうしてか胸焼けする程に甘ったるい香りに包まれていた。この中で長時間作業するシロウはとっくに鼻が慣れてしまっているが、今しがた二階から下りて来たイリヤスフィールからすると暴力以外の何物でもない。さらにそれが自分の為ではなく、赤の他人の為に暫く続くと言うのだから、彼女の機嫌も降下していく事だろう。

 じとーっとした姉の視線を背に感じながら、シロウは型を揺すって生地から空気を抜き、余熱されているオーブンへ黄色い生生地を押し込んだ。既に三つ焼き上げたオーブンを開く際には、甘い香りが鼻へと襲いかかり、それが四つ目ともなると、店内の家具に香りが染み付きそうだ、とよろしくない想像が過ってしまう。そんな甘ったるく出来上がったものへデコレーションを加えれば、更に歯が溶けるような出来となるだろう。

 食べる相手の為に、あえて過剰な香り付けと甘さにしているとはいえ、さすがにやり過ぎたか。シロウは空になったグラニュー糖とバニラエッセンスを眺め、為息を吐く。やり過ぎであろうが、体に悪い事はわかっていても、食事には味覚と嗅覚が必要不可欠である。その機能が修復不可能なまでにイカれてしまっている相手ならば、この過剰で過激な調合も必要な事だったのだろう。なんとか妥協して己を納得させなくては、どうにも落ち着かない腹を殴りたくなる。

 シロウの得意な料理は、食べる人の体を想って作るものだが、それは食べる人が美味しいと思える事が前提である。どんなに健康へ気を遣おうと味気ないものであっては、それは彼の作りたいものではないのだ。だから、自身のやりたい事は二の次――否、最後で良い。前提として食べる人の好む味を、次に栄養面を考えて料理を作り上げる。前提を忘れてはならないのだ。

 そう無理矢理自分を納得させながら、シロウは流し台の前へ体を移した。

 焼き上がりまで時間がある。その間に片付けを行い、盛り付けの準備に取りかかろう。甘さの大ダメージはキャラメルを中心にする事で錬成するとしようか。そう思ってシロウは蛇口へ指を乗せる。

 そこへ、イリヤスフィールは己のものを重ねた。

「シロウ、こっちを向きなさい」

「…………」

「シロウ」

「…………わかった……」

 姉の怒りゲージが現在進行形で上昇傾向にある事を察した弟は、器具を水に浸けるだけにしておき、渋々と斜め後ろへ目を向けた。己の鍛え上げられた腕とは雲泥の差である白くて細い手。それを辿ると、腕に似合った容易く摘み取れる儚い少女が居た。

 はて、何故彼女の機嫌はこうも悪いのか――などと疑問に思う事はない。昨日の脱走についてだろう。シロウは無意味に他者への贈り物を増やした事については欠片も思い至らず、諦めた顔で素直に両手首をイリヤスフィールへ包ませた。気分はドナドナされる仔牛である。ホールへと移される足元を見つつ、シロウの脳裏には涙目の牛と流れる景色が過っていた。仔牛に人権は無いのであった。人じゃないから仕方ない。

 客が居ない事を良い事に、ちょこん、と一番日当たりの良い席についた彼ら。姉の視線を弟は目を閉じて受け止めていた。

「シロウって昔からそうよね。自分が出来ない事を人に要求するとこ、ちっとも変わってない」

「…………イリヤの時とオレの時では状況が……」

Halt den Mund(黙りなさい)! 弟が姉に口答えしない!」

「理不尽を感じる……」

「理にかなっているでしょう。この世界では妹だとしても、この私はシロウのお姉ちゃんなんだから。姉より優れた弟なぞ存在しないのよ! キリツグの置き土産(コミック)で学んだわ!」

「なんて世紀末を授けているんだ切嗣……」

 ジェノサイド系とは称されていたが、まさかその一端に父親が関わっていようとは――割りと根幹部分にもグッサリな気がしたが、シロウは目を逸らした。幸せな家庭像に養父の裏の顔を覗かせるのは藪蛇と言うものだろう。夢の中にまで現実を持ち込んでは花がない。

 咳払いにて姉の大暴れっ振りを払拭したシロウは、何気ない仕草で窓を開け、換気をする。そうすると部屋の甘い香りが掻き出され、頭も幾らか冷静さを取り戻したような気がした。元の土地柄もあるが、今日の気温は然程低くない為、丁度良い風を感じられた。

 改めて、シロウは頬を膨らませるイリヤスフィールを見た。彼女の体には傷一つ見当たらず、この世界に放り出された時と変わらない姿を保っている。

 それを認めて、次に足元へ視線をやった。実は、この喫茶店を切り盛りする二人しか知らない事であるが、店の床はマイカリソスピンクファンタジーで出来ている。落ち着いた店内に主張し過ぎる事なく、しかし美しさを控えめに示すその床は、この土地を紹介した魔術師の気紛れによりわざわざ張られた特注品の天然大理石である。だが、大理石とは意外に脆いもので、固いと思い込んでいると、ふとした衝撃で容易く石の方が欠けてしまう事もある。

 その均一でない様を、シロウはイリヤスフィールに重ねた。

 聖杯戦争の為に、勝つ為に調整された最強の魔術師。それに偽りはなく、イリヤスフィールは最強のサーヴァント(バーサーカー)を従え、他の参加者を圧倒して見せた。直に受けた身であるシロウは、彼女の強さと恐ろしさを嫌と言う程に知ってる。故に確信して言える。彼女は聖杯戦争の魔術師(マスター)として完璧な存在であった、と。

 しかし、アーチャーは二日前の事が忘れられなかった。

 どれ程最強とされ、入念な準備をしようと、イリヤスフィールの体は脆い物でしかない。その器に収まり切らない力が溢れれば、容易く皮膚は裂け、鮮血を撒き散らすのだ。

 あの日――アサシンのクラスカードの回収へ赴く前、イリヤスフィールはバーサーカー・ヘラクレスの召喚を試みた。聖杯戦争中でも、ましてやヘラクレス由縁のある土地でもない召喚に、凄まじい負荷がかかるだろう事は、二人共十分に把握していた。だから、その負担を減らそうと選んだ場所と環境のセッティングには手を抜かなかった。

 部屋を魔力で満たし、クラスカードを触媒に、あの日イリヤスフィールたちはバーサーカーの召喚を試みた。

『――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ』

 理論上であれば、召喚に不可能はなく、そして現れる英霊もヘラクレス以外にあり得ないと確信があった。イリヤスフィールもシロウも、バーサーカーを手に入れると決めて、そして手に入れてから、入念に入念を重ねて準備をしたのだ。外れれば何かしらの抑止力が働いたとしか思えない程に。

『――誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者』

 そして、

『――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ』

 掴み取った――瞬間、イリヤスフィールの体は弾け飛んだ。

 腕が飛び、胸が裂け、足が折れ、爪が剥がれ、臓物が落ち、血を噴き出す。

 死を逃れたのは奇跡だ。

 一瞬にしてシロウの目の前で肉塊へと成りかけたイリヤスフィール。地下室の床と天井は真っ赤になり、現れたバーサーカーの一部もを染める。

 バーサーカーを現世への固定に溢れた魔力が、イリヤスフィールの体を貫いた結果であった。術者が、英霊召喚の負荷に耐えられず破裂したのだ。先にも述べたが、場所は日本であり、この世界の聖杯を使用せず、また聖杯戦争期間外による召喚。当然相当な負担が術者へ及ぶだろうと考えられていたが、ここまでのものは想定外であった。シロウもイリヤスフィールも目を見開き、視点の移り変わる世界に唖然とする。

 悲鳴もなく、イリヤスフィールは冷たい床に崩れ落ちる。寸前の所で、シロウは腕に彼女を受け止めた。びちゃり、と粘膜が剥き出しとなった肉の触れる音と、滴り落ちて部屋を染め上げる血の臭いが鼻に付いた。

投影(トレース)開始(オン)

 己とマスターの鼓動を一身に聞き、溢さぬように大切に抱き締める。

 幸いとして、シロウはこういった姿の人間に見慣れていた。予想外の事態であれど、冷静な思考は瞬時に記録から対応できるであろう物を検索し、形作っていく。本来ならば不出来となる物であろうと、イリヤスフィールがマスターである今の状態であれば、ある程度の物を創り出す事ができるのだ。

 そうして生み出されたのは、荊の冠であった。被る者も触れる者も傷付けるそれは、シロウの頭に現れ、皮膚を貫いた。

『《偽・荊の冠(ヴェン・アダム・サクラ)》』

 剣でない物を生み出したシロウの残魔力も少ない。この投影で行える力は一度のみであろうと自覚し、十分だと穏やかな顔で口を開く。

『《奇跡(パレット)》』

 血が、止まる。

 徐々にではあるが、イリヤスフィールの傷が癒され始めた。爪が生え変わり、傷は塞がれ、皮一枚の手足が繋がっていく。

 偽りに偽りを重ねた物であったが、上手く行ったらしい。ホッと安堵し、血に濡れた髪を払ってやる。傷が癒えた後で風呂へ入れてやらなければならない。髪の一糸まで手入れし、元の美しい艶を取り戻させねば、彼女の淑女としての品が落ちてしまうだろう。

『……ぅ……し、しろ……』

『大丈夫だ、イリヤ』

 流石だ、とシロウは感心する。これだけの傷なのだ、想像を絶する苦痛の中に居るであろうイリヤスフィールは意識を保っていた。これを不幸とは言わない。彼女は意識を手離すまいと足掻いたのだから。

 イリヤスフィールを抱えたまま、シロウはバーサーカーの前に立った。召喚されたまま、陣から一歩も出る事なく、身動きもしないままに居たバーサーカーは、そこで漸く面を上げる。

 鋭い眼光、空気が蒸発する程の魔力、恐怖を思い起こさせる相貌に岩のような屈強な体躯。

 何れを取っても、

『……バーサーカー……』

『…………■■■……』

 彼は、二人の知るバーサーカーであった。

 シロウの腕の中、イリヤスフィールが弱々しく伸ばした手を、バーサーカーはその大きな手で掬い上げた。優しく、壊さないように、労る気持ちの表れた様子に、イリヤスフィールの目が大きく大きく見開かれた。

『……バーサーカー?』

『■■……■■■……』

『本当に?』

 シロウはそっとバーサーカーの手へイリヤスフィールを渡した。バーサーカーは抵抗もなく、慣れたように優しく彼女を掌へ迎い入れる。

 それで――それだけで、イリヤスフィールは大粒の涙を流し、バーサーカーへと抱き着いた。

『バーサーカー……バーサーカーァ!!』

『■■■■■』

 二人の姿を見て、シロウはそうか、と納得した。

 召喚されたヘラクレスは、間違いなくイリヤスフィールの従えていたバーサーカーその者であった。

 英霊の分霊(サーヴァント)は本来一度還したならば、二度と同じものとは出会う事はない。記憶を記録として共有されようと、あくまでもそれは分霊が持ち還ったコピーでしかないからだ。それは此度応えたヘラクレスにも違いのない事だ。ならば何故、シロウは彼をバーサーカーであると断じるのか。それは明解な事であり、ヘラクレスがイリヤスフィールの求めに(・・・)応えた(・・・)から他ならない。

 イリヤスフィールは聖杯である。それも大聖杯へと至った存在だ。聖杯その物と例えても良いだろう。そんな彼女が行った召喚に呼ばれたヘラクレスには、彼女が求める『共に過ごしたバーサーカー』の記録がインプットされていると考えられる。あるいは、その記録を持って召喚されるように術式へ介入しているのかもしれない。バーサーカーのクラスカードを触媒にした関係により、召喚されたヘラクレスのクラスがバーサーカーとされている事も考えられるが、重要なのはヘラク(・・・)レスが(・・・)受け入れ(・・・・)ている(・・・)点である。

 ヘラクレスがイリヤスフィールの求めに応じて受け止めている。そうする選択肢はヘラクレスにあり、ただのヘラクレスとなるか、少女の求めるバーサーカーと成るか、自由に選べる立場に彼はあった。その中でも、彼は選んだのだ――イリヤスフィールの元へ帰る事を。ならば、彼はイリヤスフィールのバーサーカーに成り、バーサーカーそのものであるのだろう。その思い遣りこそが、このヘラクレスがイリヤスフィールのバーサーカーである証明であった。

『バーサーカー・ヘラクレス。マスターとの再会を邪魔して申し訳ないが、そろそろ彼女を休ませてやってくれ。疲労が色濃いようだ』

『…………』

『ううん……大丈夫よ、シロウ。これくらい何ともないわ……』

『無理をするな。オレには単独行動スキルがある。こちらへの供給はカットしていいから、今は自分の事を考えてくれ』

『……でも……』

 彼女の気持ちもわかる。二度と出会えないと思っていた大切な人と再会できたのだ。一応は時間制限が無いとは言え、この瞬間の感動を手放したくはないのだろう。

 しかし、急激な魔力消費に加え、体の再生へも割いたのだ。精神共に体力への疲労は限界を超えているはずだ。そんな姉を家族として、また仕えるサーヴァントとして、シロウは見過ごす事はできない。

『イリヤ』

『……ほんとうに、だい……じょ、う……ぶ……』

 くらり、とイリヤスフィールの体が後ろへ傾く。しがみ付く力もなくし、気を失ったようだ。

 倒れかけた体を支えたバーサーカーは、彼女をシロウへとそっと譲り渡す。その動きはやはり大切なものを扱うように優しいもので、シロウもいつも以上に慎重に彼女を抱え上げた。それからはバーサーカーを地下室に残し、イリヤスフィールを風呂へ入れ、そうっとベッドへ寝かせた。

 さて、このまま明日の朝まで起きないだろうと思われた彼女だが、シロウの予想に反して夕方には目を覚ました。

『おはよう、お兄ちゃん。行くわよ』

『待て待て待て待て』

 更にはそのままが夜のアサシン討伐へ行こうとした為、シロウは待ちたまえ、と制止した。その青白い顔で外出など、どんな未熟な弟でも許さないだろう。

 姉が寝るベッドの前で、姉弟喧嘩の如く行く行かないの押し問答のレスバを繰り広げた二人は、場数の勝った弟に辛うじて勝利が与えられた。それが二日前の事である。大理石から少し長い回想が起こされた。随分と話が膨らむものだ。

 つまり何を思い出したかったのかと言うと、イリヤスフィールは一見完璧なようであって、魔術師的にべらぼうに強いが、その実、人間として幼く脆いと言う事だ。

 思考が落ち着く所へ落ち着いた。一人で納得したシロウだったが、余所事を考えていたのに気付いたイリヤスフィールの頬がますますぷっくりと膨らむ。流石に説教中に床ばかり見ていてはバレて当たり前であった。

「何処を見ているのかしらねぇ? シィロォ――」

 その時、来店を知らせるベルが鳴った。今日は営業日である為おかしくはなく、二人は同時に立ち上がって入口へと体を向けた。

 そして、絶句する。

「…………うそ……」

「…………」

 来店したのは、美しい銀髪の女性であった。ルビーのような瞳に、手入れの行き届いたきめ細かな白い肌、すらりと流れる手足、まるで人形と思わせる程に美女を体現するその客は、店員たちと同じように入口で唖然と目を見開かせている。

「…………お母様……」

 来店したのは、アイリスフィール・フォン・アインツベルン――イリヤの母親であった。

 

 

 

 021

 

 

 

 かつて冬木市で行われていた魔術儀式――聖杯戦争の後始末をする為、世界中を飛び回っているイリヤの両親。それは何も魔術師としての責任だとか、その儀式に関わる御三家だからだとか、そんな思いあっての行動ではなく、一人娘を守る為と言う、他ならない親心からのものであった。

 聖杯戦争は十年前まで冬木市で行われていた根源へ至る為の魔術儀式だ。その根幹部分に生まれながら関わるイリヤが日本で平和に暮らせるのは、彼らの努力あっての賜物である。彼らは娘に自分達が何者であるのかを隠し、覆い、紛らわせる事で、彼女の世界を守っている。その一つの手段に、イリヤをただの一般人として誤魔化すギミックがある。生まれた時から聖杯であるイリヤをそうと思わせない為、力を封印しているのだ。それはイリヤの命に危険が迫った時にのみ解除されるもの――逆に言うならば、平和に暮らす上では一生解除されない封印である。

 さて、その封印だが。つい先日、解かれたのを母・アイリスフィールは察知した。母親として、また封印を施した術者としてこの事態を放って置けなかった彼女は、偶然日本の近くであった事が幸いし、直ぐ様娘のもとへ向かう事ができた。夫の切嗣までもが帰郷する事は難しかったが、状況把握程度であれば彼女一人でも問題はない。

 一人日本の地を踏み締めたアイリスフィールは、山程の土産を先に家へと送り、身軽な装いで道を歩いていた。その足は不思議と自宅とは反対方向へと進んでおり、一度も訪れた事のない道へ一歩一歩誘って行く。

 彼女には確信があった。この先に、会わなくてはならない人が居るのだ、と。

「…………お母様……」

 そして、アイリスフィールは手にした扉の向こう――見た事のない喫茶店の中で、娘とそっくりな女の子と出会った。

「あら?」

 出会って、

「あらあら――まあまあ! なんて可愛らしいの、イリヤ!」

「――――へ?」

 満面の笑みを浮かべた。

 予想して居なかった反応に、イリヤスフィールもシロウも目を見張った。そうしている間にもアイリスフィールが戸から手を放し、ふくよかな胸と微笑みを浮かべる唇の間で両の指を合わせ、美しい目元を喜色に染め上げる。何処からどう見ても完璧な「嬉しい」を表す表情だ。

 はて、どうしたものか。シロウはちらりと姉を見た。完全に思考停止して瞬きするのみとなった彼女は、弟の視線に気付きはしない。

「素敵なお店ね。こういったものは切嗣から教えてもらっていないから、私にはよくわからないけれど、とても凄いと思うわ」

「…………」

「内装も素敵だわ。落ち着いた雰囲気で、私は好きよ。あら? 床は大理石なのね」

「…………な……」

「まあ、こんなに沢山のメニューがあるの? 迷ってしまうわ。どれも美味しそう」

「……な、な……」

「うーん……決められないわ。ねえ、えっと……貴方はアーチャーでよかったかしら?」

「え、あ……ああ」

「シェフの貴方に訊くのは申し訳ないのだけれど、どれも美味しそうで選べないの。貴方のおすすめをお願いできないかしら?」

「承知した」

「――――なな……ッなんですとーーーー!?」

 ここで漸く、イリヤスフィールは現実に帰還した。キッチンに入るシロウとカウンターへ座るアイリスフィールの背へ、盛大な絶叫をぶつけて。

 

 さてさて、イリヤスフィールが大人しくアイリスフィールの隣に座れる程に落ち着けば、彼女たちの前には出来立てのドーナッツとジンジャーティーが並べられた。

「ふふ、かわいいわ」

 アイリスフィールは目の前に並べられたドーナッツを見て、美しい睫毛を震わせる。

 彼女のドーナッツは猫の形をしていた。勿論リアルな物ではなく、ありふれた円形の物にちょこんと二つの耳のような膨らみがあり、デコレーションでデフォルメされた猫の顔が描いてあるものである。チョコレートで描かれたつぶらな瞳が、「おいしく食べて♪」とばかりに語りかけてくる様は、可愛らしいと言ってしまうのも仕方ない出来だ。

 そしてイリヤスフィールの物には、猫の代わりに兎の形が作られていた。彼女とそっくりな白い生地に赤い瞳の配色で描かれているそれも、十分に魅力的で、ナイフを通してしまうのが勿体ない出来だ。

「デコレーション自体は甘くはない。甘さが足りなければ、このソースを使ってくれ。貴女たちから見て、左手からキャラメルソース、ハチミツ、イチゴジャム、ブルーベリージャムとなっている。好みの物がなければ言ってくれ。できるだけ用意しよう」

「十分よ。ありがとう、アーチャー。美味しそうね、イリヤ」

「…………」

 いつも客から言われている言葉だが、何故かアイリスフィールに言われるとむず痒い。どう受け取れば良いのか戸惑ってしまったせいで、シロウは閉口したまま彼女へ背を向けてしまった。そんな弟の気持ちがわからなくはないが(いつもみたいに、格好つければいいのに……)と自分を棚に上げ、イリヤスフィールは心の中で揶揄う。それからイチゴジャムを躊躇いもなくドーナッツへかけ、ナイフでその顔を真っ二つにした。

 アイリスフィールが見つめる前で、イリヤスフィールは兎の顔を一口で食べてしまう。咀嚼して、飲み込んで、それから口の端に付いたジャムを舐め取る。そうすると気持ちの整理がつくようで、一息吐くと、不思議な事にイリヤスフィールの思考も正気を取り戻し始めた。

「…………どうしてここに来たの?」

 冷静になれば、先ず訊かなくてはならないのが目的だ。

 アイリスフィールが何故、この喫茶店を訪れたのか。理由を、知らなくてはならない。

 シロウもグラスを磨く手を止め、静かにアイリスフィールを見る。注目を集める本人は、ナイフとフォークを持ったところで、キョトンとした顔をしていた。

「どうして?」

「おかしな事じゃないでしょ? お母様。貴女は私が……貴方の娘じゃない事をもうわかっているはず。ううん、元々わかっていて来たんだよね? だって、もう私は……」

「…………貴女は、ユスティーツァに成っている、と言いたいのね?」

「……うん」

 アイリスフィールがイリヤスフィールの言葉を引き継いで訊ねれば、彼女は小さく頷いた。

 大聖杯へと至ったイリヤスフィールは、既に純粋なイリヤスフィール・フォン・アインツベルン一人ではない。現在のアインツベルンのホムンクルスの元となった存在、大聖杯その物であるユスティーツァと混じり合っている。そんなイリヤスフィールがイリヤスフィールであれるのは、この奇跡を願ったのが彼女であり、そしてその夢の中に居るからだ。この夢が終われば、完全に個としての認識は溶けていくだろう。

 それをきちんと自覚しているイリヤスフィールは、アイリスフィールがこの世界の娘と自分を混同しているのではないかと眉をひそめていた。

 イリヤスフィールとイリヤは同一人物ではあるが、同一存在ではない。生きた歳月が違えば、育った環境も、物事を認識する価値観ですら全く異なる。それだけに、イリヤスフィールはたとえ敬愛する母親が相手であろうと、己の人生を歪んだ認識をして否定するようであれば、容赦なく敵と認識するつもりでいた。誰が何と言おうと、魔術師として聖杯戦争の為に生きてきた人生を哀れむようであれば、もし自分の(・・・)娘が(・・)同じ(・・)環境下(・・・)であった(・・・・)なら(・・)()涙など(・・・)見せる(・・・)なら(・・)、バーサーカーをけしかけてしまう程の怒りに襲われるかもしれない。何故ならば、それは紛う事なき侮辱であるからだ。

 イリヤスフィールは家族相手であろうと、人生の否定だけは一度たりとも許す気はない。それが愛しい母親であろうと、当然目の前に居る弟であろうと――例外なく。

 だから眉をひそめ、アイリスフィールの出方を窺う。彼女がこれから何を言葉にするのか。自分にどう接するのか。観察して判断する為に。

「『どうして』……それは、貴方たちに会いたかったか。それではダメかしら?」

「『会いたかった』? おかしな事を言うのね。まるで、私たちの事は最初っ(・・・)から(・・)知っていたみたいだわ」

「ええ、最初から(・・・・)知っていたわ。正確には、貴方たちがこの世界に来た時に、彼が教えてくれたの(・・・・・・・・・)

 アイリスフィールの言い方に一瞬姉弟は首を傾げようとしたが、すぐに彼女が言う「彼」の存在に行き当たった。

 自分たちを知っていて、アイリスフィールとコンタクトが取れる存在。それはこの世に一つしか存在しない。

「大聖杯のあいつか……」

 黒くて、深くて、暗くて、哀しい、あいつだ。

「その想像通りの彼で合っているわ」

 シロウの指した答えに、アイリスフィールは頷いた。

「彼は、貴方たちがこの世界へ来る門を開いた時、その時一度だけ、私に語り掛けてきたの。『今日からあいつらの夢が始まるぞ』って」

「夢?」

「彼が何を言いたかったのかはわからない。でも、彼がそう言った瞬間に、私の頭の中で色々な映像が流れたわ」

 日本から遠く離れた大地で、突如襲った衝撃を、アイリスフィールは鮮明に覚えている。

 透明な水の中に墨汁を入れたかのように、一瞬にして思考を奪った記録の数々。それは少年が惨殺されるものであった。また少女が叫ぶものであった。血が視界を埋め尽くすものであった。男が消えるものであった。他にももっともっと沢山の記録を見た。どれもアイリスフィールの記憶にないものばかりであったが、彼女はそれが何の記録であるのか思い当たるものがあった。

 これらは聖杯戦争の記録だ。自分のものではなく、何処か遠い世界の、自分の娘と息子が織り成す、この世界に訪れて来た子供たちの記録。

 何故、彼が自分にこれらを見せたのかはわからない。何か意味があるのか、それとも物のついでであったのか。彼が自分に何を求めているのか、理解できなかったアイリスフィールであるが、それでも決意した事はあった。

 彼らに会って、話しをしよう。

 どんな事でもいい。ただ挨拶を交わすだけでもいい。

 どんな小さな言葉でも、見ず知らずの子供たちの目を見て贈りたい。そう思って、誘われるままに、アイリスフィールはここにやって来た。

「貴方たちの元気な姿を見て、こうやってお話がしたかった。それじゃあダメかしら?」

「……別に……だめじゃ、ないよ……」

「本当? 嬉しいわ。ありがとう、イリヤ」

(……照れているな……)

 今度はシロウが内心で微笑みを浮かべた。否、内心のみならず、つい微笑ましいと思ってしまった彼の口角は僅かに上がっている。当然気付いたイリヤスフィールの一睨みで表情を引っ込めるが、カウンターの下にある右足は機嫌よく半円を描いていた。

 なるほど、とシロウはグラスを手に取り直して、頭の片隅にあった疑問を四散させる。自分のクラスを伝えずとも言い当てていたアイリスフィールに合点が行ったからだ。既に知っていたのなら、アーチャーだと呼ぶのも当然だろう。息子と混同して呼ばなかったのは、己の心情を掬ってくれた為だろうか。優しい母親だ。

 その後、彼らは他愛のない会話をした。イリヤスフィールの考えは杞憂であったようで、アイリスフィールは一度としてイリヤスフィールの生い立ちについて話を振る事はなかった。ただ、別世界の娘が体験した楽しかった事を訊ね、シロウに料理について訊ね、姉弟二人を戦慄させた。そんな、何処にでもあるような会話で時間を過ごす。余談であるが、ドーナッツが綺麗になくなった事を確認して、シロウは体の陰で拳を握った。

 楽しい時間とはあっと言う間に過ぎるもので、気が付けば壁にかかっていた時計が二周しようとしていた。

 そろそろ時間だ。シロウから土産にとフルーツ飴を受け取ったアイリスフィールは、家族に会う為、店の戸へ指をかける。

「ふふ、ご馳走さま。美味しかったわ」

「ありがとう。またの来店を心待にしている」

 挨拶をして、戸を押す指に力を込める。

 彼女は不思議な気分でいた。娘と姿形の変わらない存在に会って楽しい時間を過ごしたにもかかわらず、何故か物足りないと思ってしまう。それはイリヤスフィールが自分の娘ではないからだろうか? 否、アイリスフィールは彼女たちが望めば、家族として迎え入れる心積りはある。言葉にしていないだけで、家族のように思っている。だが、どうしてだろう。何が、足りないのだろうか?

「……ねえ、最後に一つだけ、お話してもいい?」

「寂しい事を言わないで。幾つでも構わないわ。何かしら?」

 物思いに更けていると、見送りに来たイリヤスフィールから声をかけてきた。シロウはカウンターの中でオーブンを開き、甘い香りを中から引き出している。小声であれば、シロウの方までは会話は聞こえないだろう。そんな距離感であった。

 イリヤスフィールと目線を合わせたアイリスフィールは、小さな手がドームを作るのを見てそっとそこへ耳を近付けた。細く、透けるように艶のある銀糸に、イリヤスフィールはこそばゆさを感じてくすくすと小さく笑みを溢す。懐かしい感触。子どもではなくなった彼女を、幼い頃に戻すような触れ合いであった。

 それでも、

「あのね――」

 イリヤスフィールは、アイリスフィールの娘になれなかった。

「今夜は、邪魔しないでね」

 

 

 

 022

 

 

 

 約束の夜は普段と変わりなく訪れる。

 郊外の、人の子一人迷い込もうと思わない程に薄暗くて不気味な森に、凛とルヴィア、そして美遊は足を踏み入れる。彼女たちの他にはサファイアのステッキを除き、誰も居ない。イリヤはこの戦いに赴く事なく、日常に戻って行ったのだ。元の、本来の女の子に戻った彼女がこの場に居ないのは当然であり、三人は一人としてイリヤを責める事はなかった。ただし、断固としてイリヤの傍を離れなかったルビーには、凛が盛大に切れていたが。

 時刻は数時間後には日付が変わるであろう頃だ。三人は先行する使い魔に従って森の奥へと進んで行く。手入れのされていない荒れた山道が足元を不安定にしたが、今夜はよく晴れた夜空が広がっており、星々と月が彼女たちの行く先を照らしていた。

 一時間近く経っただろうか。厭に長く歩いたような気がする頃になって、漸く彼女たちの前が晴れる。美遊は足元から顔を上げ、木々が途切れた先を見た。

 三人の前に現れたのは、石造りの古城であった。青い屋根の、大きな大きなお城。何処か遠い国にありそうな、日本にある事が不思議に思えてしまうような、立派な西洋の城だ。

 流石の魔術師二人も、こんな物がこの冬木市近辺にある事を知らなかったのだろう。一瞬だけ大きく見張り、それから長い深呼吸をした。

「人気はないみたいね……」

「あのイリヤスフィールも見当たりませんから、きっと中に居るのでしょうね。美遊、準備はよろしくて?」

「……はい」

 ぎゅう、と美遊はサファイアを握りしめる。

 イリヤスフィールから押し付けられた使い魔は、城の正面玄関、大きな両開き扉の前に、まるで置物のように静止していた。あの先で、イリヤスフィールは待って居るのだろう。

 美遊は一人でやり遂げなくてはいけない。この先にある圧倒的な壁に一人で立ち向かい、破壊して歩き続けなくてはいけない。そこにある覚悟は、自分が存在している責任や()への報いだだけではない。イリヤを守る為に挫けてはならない、そういった、美遊が(・・・)自分で(・・・)決めて抱え込んだ覚悟があった。

 ここで美遊が折れては、次に連れて来られるのはイリヤだ。最後のクラスカード《セイバー》の回収は、きっとイリヤスフィールたちが行ってくれるのかもしれない。しかし、彼女は勝率は五分五分だと言った。負けてしまう可能性もあるのだと言った。なら、もしその可能性の未来となってしまったら、イリヤは強制的に戦場へ戻される事になる。泣いて、怯えて、拒絶しようと。この世界を守る事に比べれば、子ども一人の抵抗など息を吹きかければ倒れる張りぼてよりも脆い物でしかない。

 そんな未来はあってはいけない。そんな、イリヤ(友達)が泣いてしまうような未来が、存在してはいけないのだ――だから、美遊は覚悟を抱き、先陣を切った。

 確かに地面を踏み締める小さな足に、震えはなかった。

「行きます」

 戸を押し開くと、外観に比べてずっと明るいエントランスが彼女たちを迎えた。

 暖色の灯りが少女たちの冷える体を温める。歓迎するような雰囲気が、逆に不気味だと思えた。

「いらっしゃい。待っていたわ」

 そう時間を置かず、美遊たちを出迎えに現れたイリヤスフィールの声が下りてくる。辿れば、正面に伸びる大きな階段の踊り場に、紫色のブラウスに淡いピンク色のスカートを合わせるお嬢様然とした彼女が居た。

 イリヤスフィールの他には誰も居らず、アーチャーとバーサーカーの姿はない。また見えないように存在しているのか、それとも本当に不在にしているのだろうか。その疑問を投げる前に、答えはイリヤスフィールから与えられた。

「バーサーカーは中庭で待っているわ。お兄ちゃんはお使いに出かけているの。心配しなくても、お兄ちゃんがバーサーカーと一緒に貴方たちを叩き潰す事はないよ」

「……そう。なら一安心なのかしら?」

「ふふ、凄い自信ね。そういった度胸がある人は好きよ」

 くすくすと目を細め、イリヤスフィールは踵を返した。

「こっち。今日は貴方たちがお客様だから案内してあげる」

 イリヤスフィールが進むと、ルヴィアの足元で大人しくしていた使い魔が主人の元まで飛び立って行った。天井まで高く飛び上がり、滑降して小さな主人の指先に止まった。

 小さな城主の後に続くと、彼女の言う通り中庭に出る事ができた。所々に粗があるものの、美しく咲く薔薇はどれも大輪であり、美しく保とうとする誰かの手が加えられている事が窺えた。

 その美しい庭の中心に、バーサーカーは佇んでいた。

 何度見ても慣れないような屈強さに、三人は息を呑む。岩のように盛り上がった鋼の筋肉に、見劣りしない巨大な体。夜に紛れる事のない鋭い眼光は、戦場を待ち望むように爛々としている。

 見ただけで、圧倒されてしまう。武者震いではなく恐怖によって震える指を握り、美遊はサファイアを構える。

「行くよ、サファイア!」

『はい、美遊様!』

 恐怖を振り払うように、美遊は魔法少女へと変身する。それを見て、凛とルヴィアも臨戦態勢に入った。

 美遊はすうっと短く息を吸い込んだ。そしてバーサーカーに負けない眼光を持ち、覚悟を再度確かめる。

 イリヤがアーチャーへ宣言したように。美遊も、今度は揺れないように、決死の想いを持ってバーサーカーに挑む。

「今ここで、わたしが終わらせる!!」

「いい心がけね――――やっちゃえ! バーサーカー!!」

 

 

 

 023

 

 

 

 まだ間に合うだろうか。

 嘘吐きなわたしを、許してくれるだろうか。

 そう問いかけると、悲しい目をした人は、優しくわたしと手を繋いでくれた。

 

 

 

 024

 

 

 

 鬱蒼とした森に、平和とは程遠い地鳴りが響く。まるで大地の唸り声のようだ。凸凹で障害物の多い斜面を、転がるように下りながら美遊思う。

 爪先が木の根に引っ掛かった。前傾になり、顔面から落ちそうになるのを手をついて転がり避ける。その間際、頭上を何かが通り過ぎた。確認する前に、前方を塞ぐようにそれは地面に突き刺さった。煉瓦の塊だった。城壁の一つであっただろう、大人の三倍はある大きさの塊だ。

 頭に当たっていたら、間違いなく死んでいた。血の気が下がると同時に背後を振り返って右手に握っていた赤い槍を盾のように構える――間髪入れず、大きな岩の剣が振りかぶられた。バーサーカーの武器だ。もう距離を詰められた。剣と槍がぶつかり合った箇所から火花が散り、美遊の視界がぶれる。踏ん張りが利かず、美遊は剣に負けて吹き飛ばされた。背中で木々を折りながら、衝撃で詰めたままの呼吸で肺を圧迫し、思考が出来なくなる。森を抜けた美遊は近くの湖に着水した。咄嗟にサファイアが物理障壁を張ってくれたのか、大きな怪我は負っていないものの、酸欠と衝撃で頭がくらくらする。

 起き上がって構えなくては。美遊は痙攣する手足を立たせる。でなくては間に合わなくなる――ほら、眼前にもうバーサーカーが迫って来ている。

『美遊様!』

 物理障壁があれど、体でバーサーカーの攻撃を受ければただでは済まない。構えも間に合わずに迫る死を実感する事しか出来なくなった美遊だったが、直前に、すぐ脇で小さな爆発が起きた。その爆発は攻撃力は然程大きくはないものの、勢いは強く、美遊の上半身がぶれる。

 間一髪、岩剣が先まで居た場所を通過する。そして凄まじい水飛沫を起こし、湖に突き刺さった。

「くっ」

 何という威力か。波の勢いに美遊の体が浮き上がり、今度は宙に放り出される。このままでは身動きが取れない。そんな美遊の体を、誰かが抱えてバーサーカーから引き離した――凛だ。彼女は自身に強化をかけ、ホンの僅かな隙を縫って美遊を一旦撤退させる事に成功する。

 陸地に再び足を下ろした美遊は、傍にルヴィアの姿を確認した。慌てて森の中を駆けて来たのだろう。普段から整えられている髪は乱れ、美しいドレスの節々が破れていた。指の間に宝石があるのを見るに、先程の爆発は彼女が起こしてくれたようだ。

「ありがとうございます、ルヴィアさん、凛さん」

「怪我はなくって?」

「はい。今のところかすり傷程度です」

 少し余裕が持てた事で、美遊は深呼吸にて気持ちを落ち着かせる。

 未だに此方からバーサーカーへ明確な攻撃は通っていないが、此方も大きな怪我は負っていない。魔力も体力も、まだ余裕はある。反撃をする猶予は残されている。

 だが――美遊は強く槍を握り締めた。

 美遊は現在、クラスカード『ランサー』を幻夢召喚(インストール)している。理由としては単純だ。彼女の保有するクラスカード三枚の中で、一番戦闘に特化した英霊と繋がっているからである。

 クラスカード『ランサー』の接続先は、アルスター神話の大英雄・クー・フーリン(クランの猛犬)だ。幼少期から語られる圧倒的戦闘センスと獰猛とまで言える力強さに加え、風を切るスピードと、何よりも宝具《刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)》の効果から対バーサーカーへの対戦カードに選んだ。美遊の選択に凛とルヴィアは反対しなかった。二人共同じ考えだったからだ。そして彼女らは何故美遊が誰に教わる事も無く幻夢召喚を出来るのかは訊かず、こうしてサポートに回ってくれていた。それに有り難さを感じるが、今は後ろめたさが増してきている。

 水飛沫が落ち着くと、湖に佇むバーサーカーを確認出来た。溢れる魔力で空気を焼き、圧倒的な強さを恐怖として押し出すその在り方に、ぐっと美遊は唇を噛む。あんなものと()が戦って傷付いて来たのかと、実感して涙が溢れそうになった。

 あの人(・・・)が命を懸けて守った美遊の幸せを全うする為に、あのバーサーカーを倒さなくてはいけない。それはこの街に散らばったクラスカードを回収する事が最低条件で、そうでなくては最後のクラスカード《セイバー》の回収は不可能だ、とイリヤスフィールは語った。回収出来なくては、この街は近い未来に壊れてしまう。

 願いを、そしてイリヤ(友達)を守る為に、バーサーカーを倒さなくては――そう思うのに、どうしてこうも自分は何も出来ないのか!

「……下がってください」

「美遊」

「わかっています。ちゃんと誘導(・・)します(・・・)

「……」

「ちゃんと、上手くやります。だから―――」

 美遊は凛とルヴィアへ距離を取るように告げた。二人は渋い顔になりながらも、直ぐに美遊の傍を離れた。

 バーサーカーから視線を外さず、そして何時でも動けるように腹を決め、槍を構える。バーサーカーは未だ湖の中で動いて居ない。

 今がチャンスだ。

「行くよ、サファイア」

『はい、美遊様!』

 美遊が槍を振るう。膝を低く折り、脇を絞め、穂先をバーサーカーへ定める。

 今放てば、確実に当たる。

「《刺し穿つ(ゲイ)――――」

 投げれば――穿てば――確実に勝てる。

「――()――」

 今がチャンスだ――そのはずだ。

「■■■■■■■■■■■■!!!!」

 なのに、腕が――振り切れない。

 穂先が、定まらない。

 美遊が槍を振り抜かんとしたその間際、湖に飛沫か立ち上った。そして美遊の眼前に、バーサーカーが迫り来ていた。

 戦闘が始まってからずっと、この繰り返しだった。美遊が殺気立ち槍を振るおうとする度、バーサーカーは瞬く間に接近して来ては美遊に防御姿勢を取らせ、そのか細く幼い体を豪風を伴わせて殴り飛ばして来る。その速度と剛力は大英雄の名に怠らぬものであり、ずっと攻めあぐねていた。

 咄嗟に槍を間に立てても、体格差による力にはどうしても押し負ける。足元の地面が衝撃に耐えきれずに陥没し、花開くように割れて持ち上がった。

 カクン、と美遊の片膝足が折れる。割れた砂に足底が滑ったらしい。防御の姿勢が崩れれば、すぐに足が地面から離れる感覚と、内臓が押し潰される衝撃が襲いかかった。繰り返し覚えさせられたそれに、美遊の目の焦点がぶれる。視界が離隔を手放し、滲んだ色だけを浮かび上がらせた。上下左右の感覚が狂い、上手く体勢を立て直せずに側頭部を何処かへぶつける。それにより更に狂わせられ、手足の感覚する微かになった。

 緩んだ指の中で、赤い槍が滑る。指の腹が、槍の凹凸をなぞったような気がした。

 まだ……まだ、手放す事は出来ない。滑り落ちかけた槍を握り直し、美遊は身を縮こまらせる。彼女の柔らかな皮膚は、泥と擦れて血が滲んでいた。

「……」

 またも森へと背を跳ねさせて転がり込む美遊を、反対の湖の淵に立つイリヤスフィールが静かに見ていた。その赤い瞳には哀れみも敵対意識による闘志も宿っておらず、ただ凪が写るのみだ。

「……遅いな、お兄ちゃん……」

 バーサーカーの雄叫びによる空気が震え、頬を擽った髪を風が流す。そうすると月明かりが照らす夜に、彼女の儚い白さが浮くように咲いた。風に遊ばせる銀糸の一つ一つが、キラキラと輝いては夜闇に溶けるようだ。

「このままじゃ、死んじゃうかもね」

 赤い瞳はつまらなさそうに細められた。

 

 

 

 025

 

 

 

 あのね、嘘じゃないんだ。

 あの夜に言った事は、全部本心で、本当に出来ると思ってたんだ。

 でも、嘘吐いちゃった。約束、破っちゃった。

 わたし、最悪だよね。こんなんじゃ、友達じゃないよね……。

 そう言うと、掌を包む大きな手に力がこもった気がした。

 どうしたい?

 ママと同じ問いで――優しい声が、わたしの背中を押した。

 

 

 

 026

 

 

 

 吐く息が喉を焼く。

 痛い、痛い――痛い。

 足が痛い。腕が痛い。頭が痛い。腹が痛い。背が痛い。全身のあちこちが痛い痛いと熱と共に訴えて来る。このまま動けば死んでしまうと、全身が一生懸命に訴えて来る。

 その足を止めてしまえ。その腕を下ろしてしまえ。立ち上がるな。拳を握るな。目を開けるな。耳を塞いで踞っていればいい。

 そうしたら――そうしたら?

 冷たい空気に肌を晒して、土を噛んで自問自答する。こんな事に意味はない。いつも、いつも、繰り返してきた問いかけの答えは決まっている。

(私に――そんな資格はないっ)

 ()が願ってくれた世界を守る為に存在している美遊に、戦いから逃げる選択肢等は存在していない。目に入れて良いものではない。どうして今、こんな事を考えてしまったのだろうか。わかりたくもない弱い自分を睨み、握る槍を支えに立ち上がろうと膝を曲げる。震えて、上手く立てなくとも、何度だって繰り返した。

 霞む視界の中に、大きな足があった。バーサーカーの屈強な足だ。

 美遊の目の前にはバーサーカーが居た。足を振り上げる事も、腕を振り下ろす事も、岩剣を向ける事もなく、そこに立って美遊を見下ろしている。

 無傷の戦士と、立てもしない哀れな少女。誰が見たって、彼女に勝ち目があるようには見えない。全身がボロボロで、弱って立てもせず、震えてばかりのちっぽけな存在が、目の前に在る戦士に片膝すら付かせる事は出来ないだろう。誰だってそう思うだろう。少女本人とて思っているだろう。

「でも……」

 それでも、どうしても、少女は立ち上がろうとする。誰に言われるでもなく、己で決めた誓いの為に、歯を食いしばっている。

「わたしは……」

 食いしばって、バーサーカーを睨み付けた。

「わたしは、」

「くっ――美遊から離れなさい!」

 その時、彼女の両脇を二つの閃光が走る。木々の間から飛び出したルヴィアと凛による宝石魔術だ。

「あーーっクソ! 何でこんな事に使わなくちゃいけないのよ!!」

 ルヴィアの隣で涙目になりながら叫ぶ凛は、ポケットの軽さに湧く怒りを魔力へ変えてバーサーカーへぶつけていた。

『ルヴィア様! 凛様も!』

「ル……ルヴィア、さん……り、ん……さん……なん、で……」

Anfang(セット)――!!」

Zeichen(サイン)――!!」

 どうして出て来たのか。最後のクラスカード《セイバー》へ備えて宝石を温存している筈の二人が、何故ああも大きな魔力を宝石へ込めているのだろうか。

 戸惑う美遊へ一瞥もする余裕無く、彼女たちは飛び出した勢いのままに地を蹴った。

獣縛の六枷(グレイプニル)!!!」

 二人が作り出した魔術は拘束具となり、バーサーカーをその場に縫い止める。こちらが宝具を使わなければ何故か襲い掛かって来ないバーサーカーだが、だからと言って何もせずに無防備の美遊をその前に晒す理由はない。相応の魔力と宝石を消失したが、これで漸く明確な隙を作る事が出来た。

「通った……! 瞬間契約(テンカウント)レベルの魔術なら通用しますわ!」

「あはははは!! 大赤字だわよコンチクショー!!」

 もはや虚しいを通り越して笑えてくる。泣き笑いする凛を他所に、ルヴィアは堂々と美遊の前で仁王立ちした。

「何を踞っているのです、美遊。さっさと立ち上がりなさい」

「ルヴィアさん……どうして……」

「どうしてもこうしてもありませんわ。一度やると言ったのなら、言葉にした事をやり遂げなさい」

 ルヴィアは美遊を見下ろした。

「『終わらせる』のでしょう? エーデルフェルトの娘(私の妹)なら、有言実行出来て当然であってよ」

「――――」

 ルヴィアの言葉を受け、美遊は強くサファイアを握り締める。

 どうしてだろう。先までの震えるばかりだった足にしっかりと力が入る。激痛に揺れる思考が定まって、視界もクリアに映り始める。

 美遊を見下ろすルヴィアは、それは美しい表情をしていた。心配するでも、怒りを表すでもない、勝ち気で厳めしい自信に溢れた笑みを浮かべている。

「行きなさい、美遊」

「――――はい!」

 低い姿勢のまま、美遊は地を蹴った。

 ルヴィアと凛の間を、力強く駆け抜ける。

(そうだ。私は決めたんだ。イリヤの為なら何だって出来る――絶対にこの戦いを終わらせるって誓った!)

 美遊は目の前のバーサーカーに肉薄した。槍を構えたまま、縛られるバーサーカーの懐に転がるように飛び込む。

「イリヤの為に――」

 倒す為じゃない。殺す為じゃない。殺気はない。ただ、あの場所(・・・・)()向かう為(・・・・)に槍を握り締め、拘束魔術の上から腹へ突き刺す――皮膚を破かずとも、その壁を力ずくで押しやる。

「友達の為に――――っ!」

 悲鳴を上げる骨を、筋肉を、血を、魔力の足場を押すことだけに全力で回す。ルヴィアに背を押されたのだ。出し惜しみなどしない。持てる全ての魔力を筋力に回し、バーサーカーを押す動かす。

 穂先が硬い皮膚を裂き、滲んだ血が美遊の手を伝った。

 その瞬間に、美遊とバーサーカーの足元に魔法陣が現れた。

「ああ――ああああああああっ!!!」

 押して、押して、押して、血管を破裂させて、唸り声を上げる。

 六つの円が連ねられたそれから逃げられぬよう、全身の力を奮い起たせて、美遊は叫んだ。

『美遊様! このままではっ!』

「撤退はしない!」

 魔法陣の内には美遊も含まれている。バーサーカーをこの場に押しやる為に、そしてこの場に留める為に、一歩たりとも退ける気は、彼女にない。

 美遊の覚悟に応えるように、槍が更に肉を裂く。溢れた血が、増えた。

「ドンピシャで美遊を回収しますわよ!」

「わかってるっつうの!」

 その覚悟を肌で感じ取っているルヴィアと凛は、魔法陣の本命に巻き込まれる前に美遊を退避させられるように構える。これが彼女たちが掴み取った勝機だ。絶対に手放してなるものか、と更にバーサーカーを抑える魔術、そして美遊を引き剥がす魔術をそれぞれが練り上げる。

 だが、バーサーカーもやられっぱなしではない。彼こそがギリシャ神話の大英雄なのだ。ここで黙ってやられる道理など持ち合わせてはいない。

 獣縛の六枷がかかっていながら、それでもバーサーカーは動いた。拘束を引き千切り、咆哮を上げて美遊の体を両手で鷲掴んむ。

「ぐぅ……っ」

『美遊様!』

「美遊!!」

「何てバカ力よ!!」

 骨が、軋んだ。今までの比でない激痛と熱が美遊を襲う。もしかしたら折れて粉々に砕けたかもしれない。

 全ての魔力を筋力に回している美遊に、防壁は薄皮一枚もない。直に受けるバーサーカーの力に、肉ごと引き千切られそうだと裂けた皮膚に血を滴らせて思う。

 けれど、ここで押し負ける事も、退く事も、許さない。

 誰が許そうと、自分が許さない。

「これで、終わらせる!!!!」

『いけません、美遊様!!』

「美遊!!」

「美遊――――ッ!!」

 サファイアの、ルヴィアと凛の悲鳴の中、美遊の覚悟に応えるように、魔法陣より魔力が溢れた。

 

「うん――一緒に、終わらせよう」

 

 闇を引き裂くように、眩い魔力の柱が立ち上る。

 これは美遊がバーサーカーの相手をしている間に、凛とルヴィアが設置していた魔術の地雷だった。美遊が戦いを引き延ばせば延ばすだけ、二人の魔力が込められ、十分に溜め込んだ魔力弾の威力は、月を影させようする雲を散らす程の物だ。例え英霊であれど、ゼロ距離からもろに食らえばただでは済まない。それこそ、生身の人が受ければ、骨一つ残さずに燃え尽きて居るだろう。

 その光の柱を、どうしてだろう。美遊は僅かに離れた場所から見ていた。

 何故――己もその柱の中に居る筈なのに、そう思う彼女の視界で、銀糸の髪が揺れた。

「ごめんなさい」

 美しい髪を追った先に、涙を堪える友達が――イリヤの顔があった。

 震える声で謝罪を口にした彼女の手は、痛い程の力が込められて美遊の肩を抱いている。不思議と、美遊は放して欲しいとは思わなかった。

「わたし――バカだった。ちゃんとわかってたのに、他人事じゃないって、ちゃんとこんなウソみたいな戦いが現実なんだってわかってたのに……なのに……」

 ぽたり、と美遊の頬に雫が落ちる。ぽたり、ぽたり、と止まらないイリヤの涙が落ちて、抑えられない彼女の後悔を溢れさせた。

「その『ウソみたいな力』が自分にもあるってわかって……急に……全部が怖くなって……!」

「イリヤ……」

「でも」

 美遊を抱き寄せたイリヤが、彼女の肩口に顔を埋める。直接触れる頬と頬と熱く、傷だらけの皮膚に痛みを生んだ。

「本当にバカだったのは、逃げ出したことだ! 約束を破って、自分に嘘吐いて、友達を裏切ったことだった!」

「……っ」

「ごめんなさい、ごめんなさいミユ! 嘘吐いてごめんなさい! 裏切ってごめんなさい! 逃げ出して、一人にしてごめんなさいっ!!」

「イリヤ……」

「もう逃げないよっ……どんな経緯でも、自分が関わった事を、関わった人を、なかったことになんてできない……もうっミユ一人に戦わせたりなんてしない……もう逃げたりしないよ……許して、ミユ」

「イ、リヤ」

「わたしと、もう一度友達になって下さいっ」

 頬の痛みが増した。美遊の瞳から涙が溢れていた。

 触れる頬が、世界を映す瞳が、イリヤの抱き締めてくれる腕が――痛い。痛くて痛くて、目の前のものを抱き締めたくて仕方ない程に、熱くて、堪えられない程の痛みを生んだ。

「イリヤは、わたしの〝友達〟だよ」

「ミユ……」

「裏切ってないよ……イリヤは逃げてない……ただ、守っていただけだよ。大切なものを傷付けないように、守れるように、頑張っただけだ」

 でも、

「っでも――戻ってきてくれて……嬉しいっ」

「ミユ……わたしが一緒に前へ進んでもいい?」

「……うん」

「わたしが〝友達〟でもいい?」

「うん――イリヤが〝友達〟じゃないと嫌だよ」

 その時、二本のステッキが震えた。溢れ出した魔力が音を生む程に共振し、ルビーとサファイアがイリヤと美遊の前で合わさる。

 光の柱が細まり、バーサーカーが姿を現した。皮膚を爛れさせて煙を上げる戦士は、それでも鋭い眼光をより一層強め、眼差しを寄り添う二人の少女から逸らさない。

 そんなバーサーカーを背後に、合わさるステッキの間には一枚のクラスカードがあった。アーチャーのクラスカードだ。

「これは……」

「うん。できるよ、二人なら」

 イリヤと美遊にはこれから何が起こるのかわかっていた。初めての現象にもかかわらず、これから起こる事に、二人で成せる事に不安を一つも感じる事はなかった。

「終わらせよう……そして、前に進もう!!」

 ――それは、獣が世界を震わせる咆哮を上げるのと同時の事。夜の森に、太陽が現れた。

 燦爛と輝くその黄金の光は、まるで――

万華鏡(Kaleidoscope)――――」

 イリヤと美遊が各々に握り締める、この世に存在しない、永久に届かない、遥か彼方への願いを映す黄金の剣を。

 二本の剣を始まりに、二人の頭上には数多の剣が列なっていた。一つは捻れ、また一つは細身で、更には日本刀と、世界中の在りとあらゆる時代の剣が、互いを写すように幾重にも続き、二人か掲げる太陽に集って構えられる。

 昼と見紛うその光が、バーサーカーへ濃い影を生み出す。

 イリヤと美遊は、剣を振り下ろした。

 

 

 

 027

 

 

 

 運命に囚われたまま進めない人の為に、料理をした事が数日ある。

 もう何日間どんな料理を振る舞ったか覚えてはいないが、その事実だけはなんとなく推察される。

 きっと毎日米を炊き、フライパンや鍋に油を広げ、彼女が差し出す茶碗に繰り返しおかわりを継げて居たのだろう。

 とても日常とは言えない、平穏とかけ離れた日々を送っていた。

 あれは、とても幸せな日々とは言えなかった。

 何処にでもない、ただ穏やかな終わりを望んだ人と、ただ壊れていた愚かな男の、あっただろうと今では仮初めに語るだけしかない、そんな日々。

 彼女が微笑む姿を、はて――オレは本当に見た事があるのだろうか。

 

 早朝に下ろして貰った新鮮な鮭を三枚に捌く。片腕のみしかないシロウがどうやって鮭を押さえられているのか不思議だが、当然、不思議な事をしているに過ぎない。身を傷付けるのを最小限に、鮭の頭を投影した針で固定しているだけの事だ。

 捌いた鮭と、先に切り分けていたエリンギに玉ねぎ、人参、そして調味料とをホイルに包み、オーブンへセットする。

 オーブンが動き出したのを認めたタイミングで、シロウは店の電話がコール音を響かせるのを聞いた。

「はい。聖杯喫茶、アーチャーです」

『もしもし? おはよう、アーチャー。アインツベルンです』

「その声は……アイリスフィール・フォン・アインツベルンか?」

『ふふ、正解です。あのね、お誘いしたい事があるの。今時間いいかしら?』

「ああ、問題ない」

『あら、ふふ……何だか照れ臭くなってしまうわ。今日これから――』

『この焦げ臭さは一体何処から……お、奥様!? 何故まだこちらに!?』

『どうしたんだ、セラ? 何か焦げ臭さ――火! 鍋から火が上がってる!?』

『こ、これはっ昨晩仕込んでいた鶏モモ……』

『こっちは昨日買ったばかりの本味醂とワイン……もう三分の一しか無いけど……』

『あらーちょっと焦げちゃったかしら?』

『あの……隣の鍋にあるこの黒い物は……?』

『お米よ。炭と一緒に炊いたら美味しいって切嗣が教えてくれたのよ』

『セ、セラ……洗剤が昨晩見た時より減ってるんだが……』

『奥様、まさかとは思いますが、食材を洗剤で』

『もちろんちゃんと洗ったわ! 新鮮な物でもちゃーんと綺麗にしなくちゃいけないものね!』

『おはよう………………シャワー浴びてくる』

『待ちなさいリーゼリット! 見て見ぬ振りをするとは何事ですか!』

『どうしたの朝から。それに何か臭いし……』

 バンッ

『え、なに!? 何の音!?』

『今電子レンジから変な音したぞ!?』

『あ、レンジなら茹で玉子が入っているはずよ~~』

『生卵を殻ごと入れたのですか!?』

『ああ~~~~レンジの中がぐちゃぐちゃだ』

『まさかママがキッチン触ったの!?』

『まさか……あちゃぁ……やっぱりか。夕飯用のパスタ生地もない……』

『リズお姉ちゃん雑巾! 雑巾取って!』

『ん』

『ありが…………なんで下着しか着てないのーっ!?』

『シャワー浴びるって言った』

『ハッ! シロウ!』

『お兄ちゃんこっち見た!?』

『みっ見てない! 俺はキッチンの片付けで忙しくて何も見てないぞ!!』

『でも耳が赤いわよ』

『アイリスフィールさん!?』

『シロウ!!』

『ちょ、まっ……不可抗りょ――』

 気が付けば、受話器を元の位置へ戻していた。無意識に切ってしまった電話をぼーっと眺めたシロウは、口元に小さな笑みを浮かべ、次に窓から遠い街並みを眺める。

 今日も天気が良い。洗濯物が気持ち良く乾きそうだ。

「……そうだ……付け合わせにコンソメスープを作るか。飾り切りした残りを入れよう」

「おはよーシロウ」

「■■■■■■■■■」

「ああ……おはよう。姉さん、バーサーカー」

「何を遠い目をしているの? それにさっきから電話、鳴ってるよ」

「…………ああ」

 置いたばかりの電話から、再びコール音が響いて来ている。受話器には置いたままにシロウの手が乗っている為、彼が対応しないのはおかしいだろう。

 何故か嫌な予感がすると思いながらも、シロウはイリヤスフィールとバーサーカーが見守る前で、再び受話器を耳元へ当てた。待て待て。まだリコールであるとは限らない。

「お待たせしました。聖杯喫茶、アーチャーです」

『ごめんなさい、アーチャー。アインツベルンです。途中で切れてしまったのかしら? 電話が切れてて驚いたわ。それで用件なのだけれど、貴方に少しお願いがあって……それにお礼として二人をお茶会に招待したいと思うのだけれど、来てくれるかしら?』

「…………」

「どうしたの、シロウ?」

 バーサーカーに抱えられてカウンター席に座ったイリヤスフィールは、受話器を握ったまま固まっている弟に首を傾げる。その背後では忠実な執事のように立つバーサーカーも同じように首を傾げており、息の合った主従の様に少しシロウは癒される気持ちを抱いた――が、のほほんとした声のアイリスフィールの背後から聞こえる阿鼻叫喚にどうしたものかと冷や汗をかく。

 これは、一サーヴァントの独断で決められる事態では無いだろう。

「マスター」

「シロウ?」

「君の判断に任せる」

「何を?」

「■■■■■……?」

 思わず震えてしまった声に気付かれなかっただろうか。

 マスターへ運命を託すことにしたサーヴァントは、遠い目のまま厨房へと戻って行く。普段の堂々とした様が欠けてしまっているもう一騎のサーヴァントより受話器を受け取ったイリヤスフィールは、一体全体何事やら、と疑問符を浮かべながら、賑やかな受話器を持ち上げた。

 

「私、何かしてしまったかしら?」

「見事に空っぽだな……」

「はい……目を放してしまったばかりに」

「してやられちゃったよねー」

「言動が児童にするそれだわ……」

 今月何度目かの臨時休業に喫茶店は切り替え、住宅街にあるアインツベルン家を訪れたイリヤスフィールとシロウは、その家の冷蔵庫の前で頭痛を覚えていた。

 今朝までは潤沢な食材が詰まっていたであろうその冷蔵庫は、今は幾つかの調味料と卵三つ、野菜室に半分の大根が一本あるのみ。見事に使い尽くされており、この家にセラと衛宮士郎が居るにもかかわらず、この有り様とは……朝の惨事が目に浮かぶようであった。

「さて、用件は簡単な菓子作りの指導、で良かっただろうか?」

 こんなことだろう、と訪問する前に商店街で揃えた材料をテーブルに並べながら、シロウはアイリスフィールを伺う。それへ彼女は微笑みと共に頷いた。

「あまりママらしいことができていないから、あの子達に少しでも親らしいことがしてみたいの」

「それならイリヤスフィールが戻ってからでも良いのではないか? 一緒に作るのは親子らしいだろう」

「練習しておくにこした事はないわ。ママだもの。立派なおやつを作れなくっちゃダメでしょ?」

 そう言うものだろうか。親子の在り方についてはもう欠片も思い出が無い為に、シロウは曖昧な相槌しか返せなかった。

 さて、おやつ作りへ早速取り掛かろう。

 真新しいエプロンに袖を通し、三角巾から長い髪を結ったポニーテール揺らしたアイリスフィールの隣で、シロウはイリヤスフィールの髪を編み込み、同じようにポニーテールで括り上げた。視界の端でセラから睨まれた気がしたが、はてどうしてだろうか。内心で首を傾げたシロウだが、結局わからないので放置する事とした。因みにリーゼリットはリビングのソファーでだらだらしながら見学している。

 全員がエプロンと三角巾を付けたなら、次はしっかりと手を洗わなくては。爪の先から指の間の皺まで、細かく隅々まで泡を通し、徹底的に洗い流す。ごっこ遊びとは言え飲食店を経営するのだ。シロウとイリヤスフィールは完璧に雑菌消毒を行う。後はダイニングテーブルへ向き直る。

「先ずは……」

 作るのは簡単なホットケーキだ。料理初心者向けの市販されているホットケーキミックスを使い、混ぜて焼いて作る。そうしたら完成だ。誰でも美味しく作れる上に、お手軽におやつにもご飯にもなる素晴らしい粉である。如何にダークマター製造一級検定余裕合格の素質があろうアイリスフィールであろうと、これでは手も足も出まい。一体何と張り合っているのやら。とりあえずレシピ通りに進めて欲しい事を伝え、シロウはパッケージの裏にあるレシピを見易い位置に設置する。

「えっと……粉と卵と牛乳をボールに入れたら良いのよね?」

「お待ち下さい、奥様。目分量では無く、ちゃんと計りで分量を計って下さい」

「アイリスフィール、お菓子作りは繊細な科学と変わらない。魔術師的に考えれば、アインツベルンの庭である錬金術だろう。全ての工程をキッチリ定められた手順に準じなくては完成には辿り着けない」

「錬金術……そう考えるとわかりやすくなったわ」

 料理を一般人がするものと認識するからわからなくなるだけで、魔術師であるアイリスフィールは決して繊細な作業が苦手である訳では無い。

(……いや、アインツベルン製のホムンクルスは聖杯と深い繋がりがある特別製だったな。たしか……工程を飛ばして魔術の行使が可能だったか……いや、待て。それだと結局繊細な作業は……待て待て。まだホムンクルス全てがそう言うものと決まった訳では無い。今は聖杯戦争中で無いのだから、彼女が仮に小聖杯であってもその恩恵があるとも……待て。その理屈だと我がマスターに矛盾が……でもイリヤは今大聖杯に接続されて……そもそもお嬢様育ちだったか? ……?)

 そこまで考えて、シロウは思考を放棄した。そもそも人への指導中に余所事を考えるとは失礼だろう。それに畑違いの事はよくわからない。イリヤスフィールに聞くともっとややこしい事になりそうなので、そっと思考の奥へと仕舞って置く事にして手を動かした。

「どうしたの、アーチャー?」

「いや、何でも無い。失礼した」

 アイリスフィールの隣で、彼女と同じようにボールの中へ卵と牛乳を入れて混ぜるイリヤスフィールへ、シロウはそっと首を振った。

「さて、もう一味加えよう。マヨネーズだ」

「マヨネーズ? トッピングに使うのですか?」

「いや、生地に入れる」

「生地に?」

 シロウがエコバッグからマヨネーズを取り出せば、セラは目を見張った。

「生地にマヨネーズを入れるとグルテンに作用してふっくらと仕上げる事が出来る。それに量も大さじ一程度で味も気にならんよ。何せ原材料は同じ卵だ。他にヨーグルトでも同じ効果が得られる。もう1つにはそちらを入れてみよう」

「まあ、理屈はわかりますが……」

 した事がないのだろう。未だ眉間に皺を作ったまま、それでも講師役のシロウが言うならば、とアイリスフィールの生地へマヨネーズを加えた。シロウもイリヤスフィールの生地に加え、改めてよく掻き混ぜる。そして篩に掛けた粉を合わせ、少し玉になってしまっている部分を指摘してそれぞれのものを窺う。アイリスフィールにはセラが付いている為だろうか、滑らかな生地が出来ていた。

「では生地をプレートへ」

 生地がしっかりと混ざったのを確認し、シロウは温めていたホットプレートへ薄くサラダ油を敷いた。その上に彼がお玉で掬った分を落とすと、正確に図ったような円が綺麗に広がった。

「凄いわ……ホットケーキみたい」

「ホットケーキですよ、奥様」

「正真正銘のホットケーキだが」

「ホットケーキミックスからは基本的にホットケーキしか出来ないわよ、お母様」

「いーぃにおーい」

 小さな気泡がプツプツと浮かぶ。フライ返しを持ったシロウは、その下へ差し込んでゆっくりとひっくり返した。すると均等な小麦色が顔を出し、食欲を刺激する甘い香りが強く立ち上がる。

「さて、焼き上がったぞ」

 シロウはアイリスフィールの前に何時の間にか作っていたホイップクリームをトッピングし、更に角切りバターを添えた出来立てのホットケーキを置いた。そして、こちらも本当に何時の間に準備していたのか、背後のキッチンから甘いバラの香りを立てる紅茶を持ち出して来る。可愛らしい花が散りばめられたカップとポットは店から持参してきた物らしい。一般家庭での料理教室が、途端にちょっと豪華なお茶会の場へと様変わりする。無骨なホットプレートがあべこべに感じる光景を作っていた。

「まあ、美味しい!」

 一口ホットケーキを食べたアイリスフィールは、その単純であるものの優しい味わいと柔らかさに瞳を輝かせた。

「本当にマヨネーズが入っているなんてわからないわ」

「これは……なかなか」

「お、いい感じじゃん」

「当然よ、お兄ちゃんが作ったんだもの!」

「イリヤ、手元を見ないと崩れるぞ」

 試作品一号に満足していただけたようで、その感想を聞いたイリヤスフィールは我が事のように胸を張る。えっへんとドヤ顔をして引っくり返したホットケーキは、弟が予想した通りに歪な形となって鉄板に着地した。

 

「はぁーー……今日は朝から疲れたぁーー」

「イリヤ、どうしたの?」

「今ママが帰ってきてるんだけど……」

 学校からの帰り道。今まで以上の友情を育み、無事に――特に喧嘩していたわけではないが――仲直りを果たしたイリヤと美遊は、手を繋いで仲良く歩いていた。と言うより、朝からべったりデレデレの美遊がイリヤに張り付いている為に、イリヤに美遊が絡み付いている、と表現すべきだろうか。とにかく仲良く帰路を進む二人は、しっかりと互いの指を絡め、強く強く繋がり合っていた。

 イリヤの朝から見られた疲労困憊の原因を知った美遊は、キラキラと瞳を輝かせた。

「会ってみたい……」

「え……?」

「イリヤのお母さん……ダメじゃなければ、ちゃんと挨拶したい」

「ダメじゃないけど……」

「ホント?」

 絶対に駄目と言う理由もない。歩きながら悩んでいると、もう自宅の近くまで差し掛かっている。

(友達を紹介するのなんて、普通だよね……)

「えっと……美遊・エーデルフェルトです……イリヤスフィールさんとは良くして貰ってて……えっと、末永くお互いを支え合いながら……」

(なーんか……ちょっと雰囲気が違うような……)

 頬を染めて瞳を潤わせながらぼそぼそと自己紹介の練習をする友達に、このまま紹介して良いのかと何故か悩んでしまう。要らぬ誤解を与えかねないような……親から変に勘繰られるなんて、ちょっと所でないショックを受けそうだ。

(ええーいっままよ! なるようになるさ!)

 さあ我が家へ到着だ。玄関を開けようと手を伸ばしたイリヤだった――が、玄関脇の庭に見間違いと思いたい人物を発見してしまった。

「「え?」」

「■■■■■……」

 昨夜戦ったクラス『バーサーカー』のサーヴァント・ヘラクレスが、そこにいた。

「「~~~~ッ!!?」」

 声にならない悲鳴を、イリヤの美遊は上げた。無理もない。昨夜の無慈悲ともされる暴力の嵐、そしてその脅威を未だ色濃く刻み込まれているのだ。わすれる事は出来ないあの恐ろしい存在が、日常の象徴である自宅の庭先にいる。腰を抜かさなかっただけ立派と言えるだろう。

 慌ててステッキを取り出そうとするが、今は昼間で、場所は住宅街の自宅だ。人に見られる可能性が高く、確実にこの時間は家族が在宅中である。魔法少女活動を家族に秘密にしているイリヤは勿論、魔術は隠匿すべきもの。戦闘は避けたい、と彼女たちは躊躇いから身動きがとれなくなる。

 そんな彼女たちを知ってか知らずか、バーサーカーも動かない。じっとイリヤたちをただ眺めるだけで、厳つい眼光で見下ろしてくる。敵意があるのかないのか。そもそも何故ここにいるのか。訊きたい事が次々に押し寄せるが、疑問は次に襲いかかった衝撃によって四散した。

「バサカちゃーん♪ おかわり出来たわよー♪」

「■■■■■ー♪」

「ば、バサカちゃんーー!?」

 庭の奥から現れたイリヤの母――アイリスフィールによって。

 アイリスフィールは娘が目を見開く目の前で当たり前のようにのほほんとバーサーカーへホットケーキを渡すし、くるりと着けるエプロンを広げてイリヤを出迎えた。

「イリヤ、お帰りなさい。そちらはお友達かしら?」

「いやいやちょっと待ってよママ! 何で普通に進めてるの!? これどういう事!? 何でバーサーカーとママが一緒にいるの!?」

「まあ、もうイリヤとバサカちゃんはお友達だったのね。良かったわね、バサカちゃん」

「■■ーー!」

「わたしは良くないよ!! 何これどうしてこうなったわけ!?」

「…………さきに……ともだちの……あいさつされた……」

「ミユはミユで変なショック受けて真っ白になってるしーー!!」

(『これ……出て行くべきでしょうか……』)

(『ルビーちゃん的にはもう少し楽しみたいので待機推奨ですね』)

「貴方もイリヤのお友達なのね。イリヤのママのアイリスフィールです」

 美しく微笑んだアイリスフィールに手を握られ、そこで美遊は彼方から色を取り戻した。

「あ、あの……わたし……あの……」

 あんなに練習したのに、いざ本番となるとなかなか言葉が出てこない。早く言わなくては、と焦るせいか、余計に今度は頭が真っ白になって同じ言葉ばかりを繰り返してしまう。

 ぎゅっと無意識にイリヤと繋いでいた手に力が入った。汗が滲み出してもいる。

「あのね、ママ」

 その手を、イリヤは握り返してくれた。

「ミユはね、わたしの友達なんだ」

「そう、ミユちゃんって言うのね」

「あ、はい。美遊・エーデルフェルトです。あの、向かいの家に住んでて……イリヤの、友達です」

「ミユちゃん、これからもイリヤの事をよろしくお願いするわ」

 イリヤ(友達)とアイリスフィールが微笑んで受け入れてくれている。意図せず力の入っていた肩を軽くした美遊は、イリヤの自宅に来てから固まっていた表情を崩した。

「はい。不束者ですがよろしくお願いします」

 そして、練習通りの挨拶を成し遂げたのであった。

「え、」

 因みに、イリヤが想定していた誤解は――

「そ、そうだったのか……こちらでの君たちはそう言った関係を……」

 何故かエプロンを着けて現れた遠い目をするアーチャーと、

「へー……こっちのイリヤ()ってそうなのね……」

 何故か同じエプロンを着けてニヤニヤとするイリヤスフィールヘ与える事となった。

「なん、ちがっな――何でいるのぉーーーーっ!?」

 想定外の登場人物二人の追加に、もう何から突っ込めばいいのやら。

 混乱して赤面したイリヤは、目を回して叫ぶ事しか出来なかった。

「私がお招きしたの」

「どうして!? て言うかどこで知り合ったの!?」

「まあ、その……立ち話も何だ。中に入ってはどうかね?」

「そんなに叫ぶと近所迷惑よ」

 さて、ツッコミ疲れでゼェハァ言うイリヤが背を押され、家人を漸く玄関から迎えたアインツベルン邸。そのリビング。バーサーカーは大き過ぎるので、生憎と庭に居るままホットケーキを食べている。どうしてホットケーキなのか、と言う問いをするまでもなく、答えはアイリスフィールが勝手にペラペラと喋った。

「久し振りに帰った来たから何かお料理をしてみたかったのだけれど、朝は失敗しちゃったでしょ? 今日の夕方にはキリツグの所に戻らないといけないからおやつくらいはちゃんと用意したいなって思ったの。それをアーチャーにお願いしたら快く受け入れてくれたのよ。優しいわよねー。それでホットケーキを作ったから、ミユちゃんも是非食べていってくれると嬉しいわ」

 なるほと、そういう事か。

 アーチャーのおやつと聞いて口の中に以前食べたアップルパイの美味しさが甦る。じわっと口腔内に溢れた涎を飲んだ彼女たちは、次に目の前に飛び込んで来た光景に歓声を上げた。

「おお~~っ!」

「すごい……っ」

 ダイニングテーブルの上には、色とりどりのホットケーキが並んでいた。

 定番のプレーンに加え、カットフルーツがふんだんに飾られた物、生クリームがかかった物、チョコレートソース、キャラメルソース、ジャム各種、キャラ型、筆休めに惣菜ケーキ、と様々なホットケーキがテーブル一杯に並べられている。ちょっとしたホットケーキ限定のスイーツパラダイスだ。

「これ全部ママが作ったの!?」

「えっへん! 頑張りました!」

「些かバリエーションに富み過ぎて余計に作ってしまった感が否めないが、これだけの人がいれば食べ切れるだろう」

 そう言ってキッチンから現れたアーチャーは、新しい皿を持っている。まだあるのか。朝の母とはもはや別人レベルに大成長を遂げた感動を味わっているイリヤは、最後に追加されたそれを見て先以上の声と拳を握った。

「何これすごい! すご過ぎるよ! こんなん写真でしか見た事ない!」

「こ、これ、何センチあるの?」

「マスターからのリクエストで十五センチ前後だ」

「じゅうごせんち~~~!」

 アーチャーが持って来たのは、彼の言う通り厚さ十五センチのホットケーキだった。

 生地を泡立て器できめ細かい泡立ちになるまでかき混ぜ、空気を多く含ませる事によりしっとりふわふわ厚焼きに仕上げる事が出来るのだが、とても根気と体力、丁寧な火加減の扱いが求められる。流石にこれはアイリスフィールには早いだろう、とマスターからのリクエストもあり、一人台所で作業をしていたアーチャーは、メインゲスト二人の反応に厳つい顔を僅かに綻ばせた。

「さあ、イリヤ。それにミユちゃん。召し上がれ」

「いっただっきまーす!」

「いただきます!」

 まずはアイリスフィールが差し出した、ハチミツシロップがふんだんにかかったケーキを一口。シロップを吸った生地はしっとりとしているが、口を動かすと生地に染み込んだ甘さがじわりと口一杯に溢れる。思わず口から飛び出そうな程の甘さに、二人は口元を押さえた。

 言葉にならない。早く感想を言いたいのに飲み込んでしまうのが勿体なく思えてしまう美味しさ。だけれど早く飲み込んでもっと沢山食べたい。味わいたい。そう思っている間に、何と呆気ないのか。無意識に喉は動き、二人は瞬く間にホットケーキをお腹の中へ納めてしまっていた。

 そして、

「おいしい~~」

「おいしい……」

 幸せの感想は、勝手に口から出て来ていた。

「ふふっ喜んで貰えてよかったわ!」

 愛娘とその友達の感想に、アイリスフィールと頬を染めて笑顔を浮かべる。あまり普通の親らしい事は出来ていなかっただけに、母親として手作りのおやつを味わって貰える事は喜びもひとしおだ。

 イリヤスフィールとアーチャーは、そんなこの幸福な世界に浸る彼らから少し離れ、バーサーカーの居る庭に出てホットケーキを味わう。当然彼らが作ったホットケーキも美味しいが、夢のような光景の話し声へ耳を傾ければ、どうしても胸があたたまってしまう。悪い事ではない。だからこそ、それを邪魔しない為に彼女たちは彼女たちで、そして自分たちは自分たちで境界を引く。

(いつか……そう、これはいつか終わる夢なんだから……)

 そう、夢見た自分に言い聞かせ、大好きなお兄ちゃんが作った幸福を、イリヤスフィールは小さく切り分けながら口にしていった。

「あの、奥様……そろそろ飛行機へ搭乗する時間が……」

「あら、もうそんな時間なの? もっとお話していたいけど、そろそろ出ないと飛行機に乗れなくなっちゃうわね」

 元々昨夜の内に日本を離れるつもりであったアイリスフィールに、もう伸ばし切れないタイムリミットが差し掛かった。セラから申し訳なさそうにかけられた声に、アイリスフィールは惜しむように立ち上がって玄関へと向かう。

「そっか……気を付けてね、ママ」

「ええ。なるべく早く帰って来れるよう、キリツグと一緒に頑張って来るわ。ミユちゃん、これからもイリヤと仲良くしてね」

「はい。今日はありがとうございます」

「どういたしまして。じゃあ、行ってくるわね」

 イリヤたちとミユに見送られ、アイリスフィールは自宅を出て行く。途中、庭の方を向けば、ちらりと見えた別の世界の家族たちから小さく手を振られた。何だかんだとお菓子作りに付き合ってくれた優しい彼ら。きっと彼らがこの街に居る限り、アイリスフィールと切嗣が守りたい大切な家族は無事だろう。少しだけ得られた安心感。けれどそれに胡座をかく事は出来ない。彼らも大切な家族だけれど、きっと瞬く間の住人だ。彼らが永遠にこの世界に居るとは限らない。もしかしたら、次に帰国した時には居ないかもしれない。

 だから、ちゃんとした当たり前の幸せを手に出来るよう頑張って来よう。愛しい愛娘の元へ、今度は夫と共に、当たり前に帰れるように。

(行っちゃった……)

 見えなくなった母。気が付けば、いつの間にか庭に居た筈のイリヤスフィールたちの姿も消えていた。

 気が付けばあっと言う間の出来事だったかのように思える。

 前までは当たり前ではなかったけれど、この短い数日間ですっかり馴染んで来ていた不思議な日常も、ずっとは続かない。

(今日が、きっと最後になる……)

 再び美遊と色とりどりのホットケーキを食べながら、イリヤも改めて覚悟を抱き、迫り来る時へと目を向けた。

 そして、

「――ああ、ついに……ついに、辿り着いた……シロウ、私は必ず貴方へ報いましょう」

 歪な空の下。大きな橋の上で、彼女もまた、覚悟を確かめる。

「貴方の死を、無駄にはしません」

 

 

 

 

 

 セイバー戦執筆中……

 




ごめんなさい(土下座)
セイバー戦頑張ります(土下座)

4/30 誤字報告ありがとうございます


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