私とあの子の黄昏酒場 (実質蒸しパン)
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私を酒場に連れてって

 今日もまた、変わり映えのない仕事が片付いた。

 

 午後六時。

 オフィスの壁にかけられた時計が鳴ったわけではないが、いつも定時に上がる係長が気怠そうに立ち上がったの見て就業を悟る。

 

 近頃の業務は忙しくもない。むしろ、残業するといい顔をされない風潮さえ感じる。

 私も定時上がりでいいだろう。

 

 とはいえ、帰ってから特別やりたいこともない。

 安心を得るために残業代を欲しい気分だったのだが、無いならないで仕方のないことだ。帰るしかあるまい。

 

 私は日報に数行書き加え、今日の分の簡単な事務仕事を保存し、パソコンを落とした。

 飲みかけだったインスタントコーヒーの最後の一口を飲み干して、席から立ち上がる。

 

 さて。

 軽く給湯室の食器を洗ったならば、さっさと帰ってしまおうか。

 

「あ、木野井(きのい)先輩。お帰りですか?」

「うん? まあね」

 

 私が首をコキコキ鳴らしていると、無口な米沢さんを挟んだ向こう側のデスクにいる彼女が、声をかけてきた。

 

 つい数ヶ月前に我が社に入ってきたばかりの新人OL、浅間(あさま)ちゃんである。

 

「それじゃあ、私も」

 

 彼女も私と同時に仕事を終えたのだろう。既に手荷物を抱えたまま、帰り支度を始めているようだった。

 

 浅間ちゃんは私と違って飲み込みも早く、そこそこ仕事ができるのだが、こうして定時ちょっと過ぎた時点で自信を持って帰り支度を始められるようになったのは、つい最近になってからのことである。

 図太さは成長の証だ。周りの様子を見すぎても良いことはない。

 

「そうだ、先輩。今日このあと飲みにいきませんか?」

「飲みか。ふむ……」

 

 成人なりたて、そして美人な浅間ちゃんからの“このあと飲み”発言。

 

 このオフィスには私達OLだけでなく、男性社員も多くいる。

 彼女の言葉は部屋の皆に聞こえているだろう。

 

 男であれば普通、フリーかつ綺麗な浅間ちゃんの“このあと飲み”発言に乗っかるものだ。

 実際、“あっ、じゃあ俺も行きたいなー”とでも言えば、浅間ちゃんは嫌な顔せずOKすることだろう。

 

 だが、ここの男性社員たちは何も言わない。

 ノーリアクション。無視を決め込んでいる。

 

 これは、別に浅間ちゃんがイジメられているわけではない。

 素直で可愛くて、何より若い彼女は、陰では人気者だ。

 狙っている人も多いと聞く。

 

 なのに誰一人この飲み会発言に反応しないのは何故なのか。

 

「昨日ですねぇー、ばみログですっっっごい美味しそうなローストビーフ出してるお店見つけたんですよぉ! もう画像見てもらえればわかると思うんですけど、コレと一緒ならジョッキ五つくらいいけるんじゃないかって感じでっ!」

 

 彼女は、男連中さえも圧倒するほどの酒豪なのだ。

 

 蟒蛇である。いや、妖怪というわけではない。いや、ある意味で妖怪的ではあるのだが……。

 彼女はとんでもない量の酒を浴びるように飲む、超大酒飲みなのである。

 

 定時だというのに男たちが息を潜めているは、巻き込まれたくないからだろう。

 彼らは浅間ちゃんが入社してすぐの歓迎会で愚かにも彼女を酔わせようとして、逆にトラウマができるレベルに潰された経験があるのだ。

 

 特に“俺酒強いんだぜアピール”をしていたマッチョな井上君などは、歓迎会で胃液すら出なくなったという失態を犯して以降、飲み会でやけに静かになっている。

 私としては気にしなくてもいいと思うのだが、やはりそこはそれ、傷ついた男のプライドが未だに癒えていないかもしれん。

 私は女なのでよくわからないが。

 

「あ、もしかして先輩、この後用事あったり……?」

 

 私がぼんやり考えていると、浅間ちゃんはどこか寂しそうな表情をこちらに向けていた。

 

 ……浅間ちゃんとの飲み。

 

 彼女は悪い子ではない。酒癖がものすごく悪いというわけではない。

 むしろとても盛り上がるので、一緒に飲んでいると楽しいくらいだ。

 

 けど、彼女と飲んでいるとついつい一緒にグイッといきたくなってしまうようで、終わる頃にはゲーする人が多発する。

 そんなこともあり、今や浅間ちゃんと一緒に飲みに出かける人はほとんどいなくなってしまった。

 

 まぁ、明日も仕事があるしね。

 今日は花金なんてこともないバリバリの平日なのだ。

 二日酔いのリスクを考えたら、周りもおいそれとついていきたくはないのだろう。

 皆の気持ちも分からないではない。

 

「いや、特に無いよ。一緒に行こうか」

「! やった、先輩と飲みだー」

 

 けど、私は誘われたならば、いつだって彼女に付き合っている。

 

 自慢するほどのことでもないが、私は私でとてもマイペースなのだ。

 彼女がイッキしていたとしても、私は隣でハハハとでも笑いながらこじんまりとチビチビやっていける自信がある。

 ノリが悪いとも言うのだろうが、自分の限界を弁えているとも言う。

 

「ローストビーフか。最近丼物では良く聞くよね。楽しみだ」

「ええ、とっても美味しそうなんです! ほら画像これ!」

「おおー」

 

 それに、いつも様々なお店を紹介してくれる浅間ちゃんからの飲みのお誘いは、窓際ぼっちのアラサーOLにとっては素直に嬉しい。

 こんな枯れ果てた女と一緒にデートしてくれるなら、断る理由は全く無いのだ。

 

「それじゃ、お先に失礼しまーす!」

「私も失礼します。お疲れ様です」

 

 こうして、今日も私と浅間ちゃんは街に繰り出してゆく。

 

 OL二人。

 食い気と飲み気だけの、色気の欠片もない居酒屋探訪が始まった。

 

 

 

 

 

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ローストビーフ丼

 

 私と浅間ちゃんがやってきたのは、とある英国風のバーであった。

 

 暗い色の木を主体とした店内は、ランタンのような暖かな明かりに照らされており、どこか異国を思わせる。

 定時上がりのあとすぐに訪れたものの、いくつかあるテーブルには既に何人かの客が酒やら料理を楽しんでいる。一体何時くらいから席についていたのか、気になるところではあるが……まぁ、人それぞれ、仕事上がりの時間も違うのだ。気にすることでもない。

 

「座りましょっか」

「だね、あそこがいいかな?」

「はーい」

 

 私と浅間ちゃんは注文がしやすいカウンター近くのテーブルに腰を落ち着け、メニューを開いた。

 ここは既に浅間ちゃんが来たことのある店なので、オーダー周りは彼女に任せようと思う。

 それが案内役に対する敬意というものだ。先輩としての威厳どうこうではない。

 

「まずお酒にしますか!」

 

 目当ての食事よりも先にお酒に目がいってしまうのはご愛嬌。

 

「そうだね、私も一杯」

「どれにします? 色々種類がありますけど」

 

 ドリンクメニューを見ると、色々な国のビールが並んでいた。

 

 イギリス、インド、ドイツ、ベルギー、アメリカ……。

 見たことのある銘柄も多いが、知らない種類も多い。

 

 ふむ、私はあまりビールに詳しくはないのだが……はてさて。

 ここはお酒に詳しい彼女に聞いてみることにしようか。

 

「浅間ちゃんはどれに?」

「私はスーパードライのメガジョッキで!」

 

 はは、そうきますか。

 

「じゃ、私もそれにしようかな」

「あれっ、先輩がメガなんて珍しいですね!?」

「うん、そんな気分だからね」

 

 メガは1リットルほど入る大きなジョッキだ。

 ロング缶二本分のビールである。ゆっくり飲んでいたらすぐに温くなってしまうだろうが、まぁ、たまには頑張るさ。

 

「すいません、メガふたっつー」

「かしこまりました」

 

 浅間ちゃんが注文している間に、私は配られたお絞りで手を拭きながら。メニューを眺める。

 

 英国風というだけあって、メニューにはイギリスをイメージしたものが多い。

 フィッシュアンドチップス、ローストビーフ、ミートローフ……。

 そして端っこの方には、つい最近追加されたらしい手書きのメニューがペタリと張り付いている。

 

「あ、これですこれ。ローストビーフ丼!」

 

 ローストビーフ丼、九百円。

 なるほどそこそこのお値段である。

 

「これ、前来たときに食べてた人がいたんですけど、本当に美味しそうだったんですよ」

「ほほー……じゃあ私もこれにしてみようかな」

「他にもつまめるもの頼みますか?」

「フィッシュアンドチップスとかどうかな」

「良いですね! じゃあそれで! すいませーん」

 

 私たちは料理を注文し、それと交換するかのように、先にビールがやってきた。

 堂々たるメガジョッキ、大容量のビールである。

 泡などもあるし実際のところは九百ミリリットルといったところなのだろうが、それでも手に持った時にズシンとくる重みは、本物だった。

 

「こちら、サービスのナッツです。料理はこちらの番号札をテーブルの上に置いたまま、お待ち下さい」

「わーい」

 

 この仰々しいビールを何もつまむもの無しで飲むのは正直どうかと思っていたので、思いがけずやってきたナッツ類はありがたい。

 中はピーナッツ、カシューナッツ、アーモンド、クルミ、それと……多分ピスタチオだろうか。

 小皿は小さめだしすぐに食べきってしまうだろうけど、嬉しいサービスだった。

 

「それじゃ、先輩」

「ん」

 

 ビールの香りについつい誘惑されてしまうが、この儀式を無しに口を付けては社会人としての矜持が廃る。

 

「乾杯! お疲れ様です!」

「乾杯 お疲れ様」

 

 私と浅間ちゃんは大きなジョッキを打ち鳴らし、本日の仕事を労うのだった。

 

 

 

「んッ、んッ、んッ……」

 

 まるで一気飲みのように、浅間ちゃんは大きなジョッキを傾けてゆく。

 その素晴らしい飲みっぷりは、他のテーブルについた客の目を引くほどだ。

 

 最も安い銘柄の日本の発泡酒であるはずなのに、こんなにも美味しそうに飲めてしまう。

 私はそんな彼女の酒好きを、とても尊いものだと思っている。

 

「ぷひゃー! んっまー!」

「はは、随分飲むね」

 

 もう既にジョッキを半分にしてしまったよ。

 きっと男連中だったら、このペースに追いつこうと必死になるはずだ。

 だからこそ浅間ちゃんに潰されるのだが、私は無理に追従しない。

 ゆっくり自分のペースで。それが一番大事なのだ。

 

「先輩、イギリスって行ったことありますか?」

「うん?」

 

 ビール髭をつけた浅間ちゃんが問いかけた。

 答えるより先に指差して“ここ”と示すと、彼女は恥ずかしそうにおしぼりで拭った。

 

「いやぁ、ないね。私、海外はずっと前に両親と言ったハワイくらいだよ」

「へえー、そうなんですか。私も無いですね、サイパンくらいで」

「まぁ、大抵そんなところだよね」

 

 イギリス旅行か。どんな名所があっただろうか。

 ビッグベン。ロンドン……そうだな、やはりロンドンという印象が強い。

 

「イギリスって、どんなお店入っても美味しくないって聞いたことあります」

「あー……それはなんとなく聞いたことがあるかな」

「ビールもぬるいままで出てくるらしいですよ! ちょっと考えられないですよね!」

「ぬるいビールか……日本人には辛いところだね」

 

 私は冬場なんぞはベランダに出しておいた。ビール缶をそのまま飲んだりしているが、さすがに他の季節で常温のビールを飲もうとはしないかな。

 

「揚げ物は揚げすぎ、野菜はクタクタになるまで煮込む……下味とかは一切付けないで、料理と一緒に調味料を出して、それを自分でつけて、っていう感じみたいなんです! あ、これネットで見たんですけどね」

「ああ……なんだっけ、聞いたことがあるなぁ。ビネガーと塩とか、そういうのを出すんだよね」

「はい、そうみたいです! ポテトにケチャップも無いらしいですよ」

「ほー。それはまた珍しいね。日本人特有なのかな、トマトケチャップって」

 

 なんてことを話している間に、フィッシュアンドチップスがやってきた。

 カントリーポテトと衣付きの白身魚。伝統的な様相である。

 隣にくっついてきた小皿には、塩コショウの入ったオイルらしきものと、おそらくはビネガー。これらを好きに付けて食べろということなのだろう。

 うん、やはりこうして見ると、ケチャップを要求したくなるな。

 

「どれどれ、食べてみようか」

「わあ、美味しそー」

 

 さっきまで散々イギリス料理にケチをつけていたが、目の前にアツアツのがやってくれば手のひらを返さざるをえない。

 私と浅間ちゃんは各々ポテトや魚と箸に取って、備え付けの調味料に付けて食べる。

 

「ふむ……美味しい。まぁ、シンプルな白身のフライだね。それ以上でもそれ以下でもない……」

「けど揚げたては、やっぱり美味しいですね」

「だね。何であれ、揚げたては正義だよ」

「あ、結構ビネガーも美味しいかも」

 

 自分で作ると手間ばかりで面倒だけど、こうして人が作ってくれるなら大歓迎だ。

 それをそこそこの安値で提供してもらえるのなら、これ以上のものはない。

 その点、外食における揚げ物というのは、有意義に思える。

 

 うん、衣がサクサクしていて美味しい。

 揚げ物とビールの相性は抜群だ。

 ちょっと量が多いかなと心配だったけど、ビールもそれに応じて沢山あるし、丁度いい感じだ。

 

「あ、先輩。それでですね、イギリス料理ってそういう美味しくないのが多いんですけど、その中でもローストビーフだけは安定してるみたいなんですよ」

「んー……まぁ、ローストビーフだしね。牛の肉を加熱調理したものが不味かったら、これはもう冒涜だよ」

「あっ、それもそっか……確かに」

 

 ローストビーフといえば、主にイギリスの貴族が食べていたとされる料理だ。

 牛を潰し、採れた肉を調理して、何日もかけて食べる。

 まぁ、不味いはずもないシンプルな料理だ。要するにステーキや焼肉みたいなものなのだから。

 

「あっ、来た」

「おまたせ致しました、こちらローストビーフ丼になります」

 

 そんな話をしていると、ようやくローストビーフ丼がやってきた。

 黒い丼物の器に控えめにライスが盛られ、その上に厚切りのローストビーフが瓦のように重ねられている。

 器の縁には塩わさびがつけられ、それを少しずつ箸でつまみながら食べていくのだろう。

 

 赤みの強い柔らかそうな肉は、これまで食べていた白身魚とは違い、きっとしっかりした味を主張してくるに違いない。

 フライを食べてそこそこ腹を満たされていた私であったが、それでもまだ唾を飲み込ませるだけのポテンシャルが、そこにはあった。

 

「すみません、メガおかわりひとつ」

「えっ? あ、はい、かしこまりました」

 

 浅間ちゃんも臨戦態勢だ。

 さて、実食といきましょう。

 

 

 

「おお……」

 

 ローストビーフの一枚を、箸で持ち上げる。

 端を重ねていたので、一枚一枚はさほど大きくないのかと思いきや、想定以上に幅広だった。

 そして厚みもすごい。一枚は七ミリくらいあるのだろうか。かなりしっかりした肉である。少なくとも、牛丼屋では出てこないボリュームだ。

 

「あーん」

「んむ」

 

 二人一緒に、ライスと肉を頬張る。

 

「ん、ん……」

「んむ」

 

 そして噛む。

 

 ……肉汁はさほど多くない。

 だけど、しっかりと下味のついたエキスは滲み出てくる。溢れる旨味とライスは上手くバランスが取れている。

 歯ごたえのある肉は、それでも硬すぎることはなく、十分な肉の満足感を顎に伝えてくる。

 

 要するに、美味い。

 噛み続けるほどに旨味の出る肉によって、ビールが更に進む。

 

「うん、美味しい」

「美味しいですね!」

 

 添えられた塩わさびと一緒に食べると尚良い。

 英国風が一気に和風になるようだ。単調になりすぎない工夫があって、なかなか嬉しい。

 

「これはまぁ、確かに。ローストビーフは、美味しいに違いないよね」

「えへへ、ですねえ」

 

 料理は世界各地に色々あれど、肉を使ったものに外れはほとんどない。

 ましてやそれが牛ともなれば、何を恐れることがあるだろうか。

 

「ごちそうさまです」

「ごちそうさま」

 

 私と浅間ちゃんは言葉少なめに、黙々と箸を進め、ローストビーフ丼を完食した。

 

 残された少し冷めたフライも二人でゆっくりと、適当な雑談を交えながら食べきり、そうして今日の飲み会はお開きとなったのであった。

 

 

 

「いやー、牛丼も同じ牛肉の丼ですけど、ローストビーフはまた格別でしたね!」

「だねえ。近頃人気だっていう理由が、私も少しわかったような気がするよ」

「あの肉厚な食感が、やっぱり良いんですかね」

「うむ。ペラペラな肉を煮たものとは、やっぱり違うんだろうね」

 

 店を出た私と浅間ちゃんは、夜の町を並んで歩いている。

 女二人、酔いも回ってきて少し無防備な姿ではあれど、背が高く色気のない私が側にいれば、少しは浅間ちゃんの男よけにはなるだろう。

 

「ローストビーフかぁ……でも先輩、イギリスに行って、ローストビーフだけずっと食べたら、ものすごい出費になりそうですよね」

「ははは、いやぁ。さすがにローストビーフだけを食べるわけにはいかないでしょ」

「やっぱりそうですかねえ……」

「イギリス旅行か……そうだね、行くとしたら、あらかじめ食事処の下調べは必要になるだろうね」

「うーん……旅行先できままにお店に入れないのって、なんだかなぁ……」

 

 浅間ちゃんは大酒飲みだけど、同時に健啖家でもある。

 おつまみと酒は表裏一体だ。それも当然の摂理というやつなのだろう。

 

「けど色々話したけど浅間ちゃん。浅間ちゃんは、イギリス旅行に行く予定でもあるのかな」

「え? ないですよ?」

「ないんだ」

「はい。お給料のほとんどは、今のところお酒に消えてますから! イギリス旅行なんて、夢のまた夢です!」

 

 わりと酷いことを言ってると思うのだが、そう断言した浅間ちゃんの笑顔は、何の悔いもないような、晴れ晴れした笑顔だった。

 

「そっか、それじゃあしょうがないね」

「ええ。もっとお給料があればなー……」

「ま、英国風のお店は東京には沢山あるし。多分本場よりもこっちのお店のが美味しいから、別にいいんじゃないかな?」

「あ! それもそうですね! 先輩さすが!」

 

 実際、本場のイギリス料理やにいくより、日本人が日本で経営してる英国風料理やの方が美味しいと思うのだ。

 そちらの方が、今日のローストビーフ丼についてきたわさびのように、日本人向けの心遣いをしてくれそうな気がするしね。

 

「じゃ、イギリスは別に行かなくていっかー」

「ははは」

 

 なんとも酷い理由でイギリス旅行の可能性が閉ざされてしまった気がするが、まぁ、浅間ちゃんらしい決断だと思う。

 

「本場のローストビーフを食べても、冷えたビールが出てこないんじゃダメダメですしね」

「それもそうだ」

 

 なるほど、ぬるいビーフはいただけないな。

 

「どんなに美味しくて珍しいビールでも、やっぱりビールは冷えてなくちゃ!」

「うん、真理だ」

「先輩もそう思いますよね!?」

「うん」

「じゃあこれからもう一軒いきましょうか!」

「冷えたビール?」

「冷えたビール」

「んー、しょうがない。それじゃ私は一杯だけ」

「はい! それじゃあこっちの方に、確か安くて美味しいところが……」

 

 日も沈み、街灯と看板の輝きで彩られた酒場通り。

 私と浅間ちゃんはもうしばらく、この陽気な町中で、他愛もないことを話しながら、酔っ払うのであった。

 

 



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鳥刺しの盛り合わせ

 

「木野井せんぱーい」

「うん?」

 

 今日も今日とて仕事上がり。さあ帰ろうとデスクから立ち上がったその時、狙いすましたかのようなタイミングで浅間ちゃんが声をかけてきた。

 要件はその笑顔を見ればなんとなくわかる。

 

「これから一杯、いきませんか?」

 

 うん。良い笑顔だ。

 でもね浅間ちゃん。私は時々心配になるよ。

 

「そのお猪口をクイッとやるポーズ、おっさんみたいだね」

「がーん」

「擬音も」

「がびーん」

 

 さては君、わざと古いのチョイスして楽しんでるね?

 

「……うん、飲みか。良いね。わかった、私も一緒に連れて行っておくれ」

「わーい」

「ところで、さっきお猪口をクイッとやってたけど。ひょっとして日本酒系かな」

 

 浅間ちゃんはまだ若い。なんといっても新卒だ。二十代の前半も前半である。

 しかしだからといって、そこらへんのチェーン店のような安っぽく画一化された居酒屋にはほとんど行かない。彼女のチョイスする店はいつだってうらぶれた場所にあるような、隠れた名店ばかりなのだ。

 もちろん普通の居酒屋にも行かないわけではない。けど会社とか友人付き合いではほとんどそういった店なので、わざわざ一人でそういう場所には行きたくないのだそうな。

 

「この前にですねー、美味しそうな居酒屋を見つけたんですよ。飲み友がブログで紹介してて、その時上げてた画像がすっごく美味しそうで」

「ほほう。それは楽しみだ」

 

 私もペースこそかたつむりだが、酒が嫌いなわけじゃない。

 日本人の血がちゃんと流れているのだろう。日本酒も大の好みである。

 浅間ちゃんのように徳利を何本も飲めやしないけれど。

 

「じゃ、行きましょっか。電車も帰りが近い路線なんで、安心ですよ!」

 

 下調べもバッチリだ。

 うーん。既に幹事ができそうな風格なんだけども。

 悲しいかなうちの会社は浅間ちゃんの蟒蛇っぷりを恐れ、なかなかお鉢は回ってこない。

 

 

 

 電車で数駅、歩いて数分。

 都内に相応しい間近な場所に、お目当ての店はあった。

 大通りから二本ほどずれた場所にある平屋は、一見すると普通の居酒屋だ。

 古びた引き戸の上半分は色あせた暖簾に隠れ、店内が窺えない。

 

「席あるかなー」

 

 が、そこはそれ、臆さない浅間ちゃんである。迷いなく店内に突入した。

 重厚なバーであっても一人でずいずい開拓していくのだから、そのアクティブさは凄まじい。私もたまに見習いたいと思うことがある。

 

 この店の席はカウンターだけらしい。混雑具合といえば、店主と会話している常連らしき男が数人いる程度で、二人分の座席を確保できたのはありがたい。

 とりあえず店の奥側に浅間ちゃんを座らせ、私が内寄りの席に座ることにした。

 

「えーと、じゃあまずは私大ジョッキのビールと……先輩何にします?」

 

 おっと。浅間ちゃんいきなりビールか。お猪口をクイッとやるのはどうしたのかな。

 

「後で飲みます!」

「さすがだ。それじゃあ、まず大を一つ。それと日本酒の大関を二合徳利、冷で。お猪口二つでお願いします」

「はいよー」

「あっ。それと鳥刺し。鳥刺し二つください」

「はいー、鳥刺し二つ」

 

 おおそうだった。鳥刺しだったね。

 

「木野井先輩。鳥刺しって食べたことありますか?」

「鳥刺しかぁ。どうだったかな」

 

 鳥刺し。それはつまり、そのまんま、鳥のお刺身である。

 鶏の新鮮な肉を刺し身のように醤油につけて食べるやつである。

 

「炙ってあるのだったら食べたことがあると思う。どこで食べたかな……」

「ふふふ……この店はなんと。完全に生なんですよ」

「はい、生の大おまちー」

「あっ、どうも」

「こっちは冷酒ね」

「どうも」

 

 まあ、何はともあれ。

 

「まずは乾杯ですね!」

「うん、そうしよう」

 

 大ジョッキとお猪口。なんともちぐはぐだけれど、私達は今日の労働をいたわるため、カツンと安っぽい音を鳴らした。

 

「……んッ……んッ……かーッ! うまい!」

「おお……」

 

 で、鳥刺しどころかお通しもまだ来てないっていうのに大ジョッキが既に半分になっている。

 さすがだ浅間ちゃん。なるほどたしかにそのまますぐに日本酒にシフトできそうだ。

 

「魚であれ鳥であれ、お刺身と聞いたからには日本酒! これはゆずれません!」

「前座で大ジョッキとはまた豪快な」

「いやーこれがないと始まりませんからー」

 

 上機嫌だ。この子は本当に楽しそうにお酒を飲む。

 

「しかし浅間ちゃん。お刺身っていうと、魚や鳥以外にも色々あるよね。馬刺しとか、鯨とか、コンニャクとか」

「鯨も美味しいですよねー……馬刺しも最高です。あ、今度馬刺しのお店いきませんか?」

「はは、気が早い気が早い」

 

 もちろんお誘いいただけるなら私も喜んで行かせてもらうけど。

 

「はい、鳥刺し二人分お待ち」

「わお」

 

 そうこう話しているうちに、お目当ての品がやってきた。

 肉の見た目は……鳥の生肉を一口サイズに切り分けたようなものである。

 新鮮だからといって、スーパーでパック詰めされているものと大きく違うことはなかった。

 しかし注目すべきは、肉よりも色の濃い他の二種類のものであろう。

 

「こちらは砂肝、こっちがレバーになってます。こちらは悪くならないうちに早めに。塩ごま油につけてどうぞ」

 

 おお、鳥のレバ刺し。これは初めてだ。砂肝の刺し身も初めてかな。

 

「おー……じゃあ早速日本酒いただきましてー……」

「あ、ごめん」

「うふふ。いただきますー」

 

 浅間ちゃんはいつのまにか大ジョッキを飲み干しており、そのまま自分のお猪口に並々と酒を注いだ。

 これで鳥刺しを楽しむ準備は万全ということである。

 

「いただきます」

「いただきまーす」

 

 レバーが気になる。けどまずは普通のお肉をいただこう。

 醤油皿にわさびをひとつまみ入れて、ほぐして……適度につけてから、ぱくり。

 

 ふむ。……おお、なかなかこれは。しっかりした歯ごたえ……。

 

「うわー、美味しい。美味しいですよね?」

「うん。噛むほど甘く感じる」

「日本酒も合う!」

「はい、おかわりどうぞ」

「おっとっと」

「まぁまぁまぁ」

 

 味わいは鶏肉。鶏肉だけど……なんだろうか。チキンって感じがあまりしない。

 不思議だ。それよりはむしろ、刺し身のせいで錯覚でも起こしているんだろうか。上品な白身魚のような味わいがある。……気がする。

 

「砂肝も美味しいなぁー」

 

 ほほう? どれどれ……おー、これは良い。さすが砂肝だ。良い歯ごたえ。

 日本酒……二合じゃ足りないな。

 

「すみません、日本酒二合徳利もうひとつ」

「あ、それとここにある厚揚げください」

「はいよー、お酒と厚揚げー」

 

 厚揚げか。良いね。私も豆腐は好きだよ。

 こういうメニューが美味しいのが、居酒屋の醍醐味だよね。

 

「……さて」

 

 店主に急かされているので、こっちのレバーもさっさと味わってしまおう。

 下に氷が敷かれているからすぐにどうこうなるってわけじゃないだろうけど、だらだら食して私達が食あたりでも起こせば、この店が営業できなくなってしまうかもしれない。それは避けなくちゃね。

 

 さて、塩ごま油につけて。……ふむ。

 

「レバーは良い……」

「わかる……」

 

 隣で同時に食べた浅間ちゃんも感慨深そうに頷いている。

 わかってくれるか。レバーは良いよね。

 

「肝臓って日本酒のためにありますよね……」

「すごい日本語だけど、言いたいことはよくわかる。美味しいね」

「食べるとお酒に強くなりそうな気もしますし……」

「ヘパリーゼみたいな?」

「はい、そういう感じ」

 

 肝臓を食べながら、アルコールを飲み、自らの肝臓を苛める……。

 うーん……人間とは罪深い生き物だ。

 

「はい、お酒。それと厚揚げねー」

「わーい」

 

 温かい豆腐もやってきた。素晴らしいね。

 日本酒をちびちび飲み、高級な鳥のお刺身を食べ、時々豆腐にちょっかいをかける。

 席はカウンターで、浅間ちゃんと向い合わせになっているわけではないけれど、なんとなく私はこの雰囲気が好きだ。

 

 私は高身長なものだから、元々人と話す時にはどうしても相手を見下すようになってしまう。ひょっとすると、人知れず相手の気を悪くしたこともあるかもしれない。

 でもカウンター席ならその心配は無用だ。

 だらりとテーブルを見つめていても、隣の席の人と同じものを食べ、同じ酒を飲んでいれば、目線が合わなくたって心は通い合うのだと思う。

 

 ……いや、どうだろう。勢いで言ってみただけだ。私も酔っているかもしれない。

 

「良いお店ですね」

「うん。教えてくれてありがとう」

 

 ほんのり顔を赤くした彼女の笑みは、とても魅力的だ。

 私ごときが彼女の晩酌の相手をするのは、ちょっともったいないのではないかと思えるほどに。

 

「じゃあ最後に、あれ頼みませんか?」

「あれ? なんだろう。じゃあ、一緒に頼んでみようか」

「せーので頼みましょう! せーのっ」

 

 彼女もいつか、私以外の身近な飲み友達を作るだろう。

 その時まではどうか、こんな私も一緒に連れて行ってほしい。

 

「焼きおにぎりください!」

「お茶漬けください」

 

 



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謎多きアオウミガメ

 

「むふふ」

 

 仕事中、浅間ちゃんが上機嫌そうに笑っていた。

 こういう時の彼女のパターンは実にシンプルだ。きっとまた新しいお店を見つけたのだろう。

 私にも帰りが楽しみになるような事はそこそこあるけど、彼女のように仕事中にニマニマと笑える程ではない。

 それが個人の感受性の問題なのか、浅間ちゃんが特別底抜けに明るく表に出しやすいタイプだからなのかはわからないけど、ともかく羨ましくはある。

 

 しかし、人は人だ。私は私なりの楽しみを日々追い求めていればいい。

 浅間ちゃんがいい感じの店を見つけたのなら、それは何より。それはそれだ。私はその数カ月後にでも教えてもらえれば何も言うことはないのである。

 

 

 

「木野井せんぱ~い、今日どうですか?」

 

 と思っていたら、その日の就業時間にはもう浅間ちゃんからのお誘いがあった。

 

「私は大丈夫だけど、浅間ちゃん。まだ少し仕事が残ってるから数十分ばかし待ってもらうことになるよ?」

「四十とか五十分くらいになりますかね……?」

 

 私にも自分の仕事はある。けど、まあ、ふむ。かわいい後輩からのお誘いだ。喜んで乗るとしよう。

 

「二十分……くらいには終わらせるよ」

 

 普段ならそんな、無駄に効率的にはならないんだけど。

 

「そうだ。浅間ちゃん。その間、外のコンビニでペットボトルのお水を買ってきてくれると嬉しいな」

「はーい!」

 

 君が誘ってくれるのなら、喜んで仕事人間になるとしよう。

 

 

 

「木野井君。普段からもうちょっとそのくらい仕事してくれたらねぇ……」

 

 おっと上司に見つかってしまった。

 ごめんなさい。ぺこりと頭を下げて謝ったけれども、上司は顔をしかめるだけだった。

 

 

 

「せんぱーい」

 

 ビルの外に出ると、そこには大きなビニール袋を手にした浅間ちゃんがいた。

 ……私は水を所望しただけなのだが、そんなにたくさん買う必要はあったのかな?

 

「あっ、これ先輩のです。はい」

 

 なんと二リットルである。でかい。重い。

 

「値段が五百のペットボトルと一緒なんですよ。値段同じで四倍なんですよ!? お得ですよねー」

 

 まぁ確かに量を考えるならその通りだ。

 

「ありがとう、浅間ちゃん」

「でへへ」

 

 ちょっと重いけど気にすることはない。

 アルコールを嗜む者にとっては、それにつけあわせする水分量も大切だ。これだけあれば一日分の深酒は、まぁどうにかなるだろう。

 

「じゃあ先輩、行きますか?」

 

 深酒。とは限らないのだか。浅間ちゃんだからね。

 

「行こうか。どこに行くのかは知らないけどね」

 

 そういう感じで、私達は退勤兼飲み歩きを開始したのだった。

 

 

 

「実はですねぇ、良いお店を見つけたんですよー」

 

 電車を降りて、浅間ちゃんは歩きながら語る。

 細い腰。ちょっと捻れば取れそうな首。まだまだか弱い女の子だ。

 話し方もあどけなく、大人と呼ぶには程遠い。

 

「そこのお刺身が結構面白いものばっかりなんですよ! 色々と面白いのがありまして、二週間に一度くらいで変わるみたいなんですけどねっ」

 

 彼女は物知りだ。お酒だけではなく、色々なことを貪欲に知ろうとし、体験しようとする。

 若者らしいエネルギッシュさと言えばまさにその通りだけど、かといって数年前の私に彼女のような貪欲さは無かったように思う。

 

 だから、素直に嬉しいよ。

 こうして誘ってもらえるからこそ、私も貴女の力をお裾分けしてもらえるような気がするから。

 

「それは楽しみだ」

「へへへ」

 

 私達は二キロ分重い荷物を引っさげながら、暗くなりかけの道をゆくのだった。

 

 

 

 浅間ちゃんが見つけたのは近場にある創作居酒屋だった。

 店内は暖色の仄暗い感じで、テーブル席が暖簾で仕切られている半個室のような感じだ。席は窮屈ではないし、暗さも相まって暖簾だけでも気になることはない。

 

「ビール、ワイン、日本酒、焼酎、ハイボールなんでもあるみたいですよ」

「ほほう。けどお刺身なんだよね」

「はい! ここのお刺身は美味しいので是非日本酒で!」

「なるほど。じゃあ浅間ちゃん、まず一杯目はどうする?」

「ビールで!」

「はは」

 

 とのことである。

 いやはや、とりあえず最初はビールを崩さないその姿勢、尊敬に値するよ。

 

「じゃあ私はこの七本槍で」

「一口いいです?」

「じゃ二合でお猪口もらおう」

 

 酒はよし。フードメニューはさて、どうだろうか。

 そもそも私は今日何のお刺身を食べるかも知らずに来たんだよな。

 

「あっ、メニュー変わってる。これは……」

「ウミガメのお刺身」

 

 ウミガメ。

 

「ウミガメ? うへぇ……?」

「アオウミガメだって」

 

 テーブル脇のベルを鳴らすとすぐにオーダーを取りに来てくれた。

 

「ご注文は」

「ええと、プレモル大……あ、メガってありますか」

「ありますよー」

「ではプレモルメガをひとつと、七本槍を二合、お猪口ふたつで。……それと、ウミガメのお刺身と、ながらみの醤油煮、春野菜の天ぷら、……あとお刺身の盛り合わせをください」

「かしこまりましたー」

 

 さて、浅間ちゃんが固まっている間にオーダーを取ってしまったのだが。

 

「……浅間ちゃん、ウミガメ嫌い?」

「い、いえ……嫌いとか好きとかそういうのは無いんですけど……全くの未知で……」

「あ、前に来た時はこういうお刺身じゃなかったんだ?」

「はい……前は鹿肉のお刺身だったんですけど……」

「ジビエかぁ。それも美味しそうだね」

「でもウミガメって……どんな味がするんでしょうねえ……」

 

 どことなく不安そうである。

 結構物怖じしない性格してるのに、ふとした拍子に弱気になるんだよね。貴女は。

 

「木野井先輩は食べたことあるんですか? 余裕そうですけど……」

「いいや? 無いよ。爬虫類も食べたことはない」

 

 ふむ。つまり私達の爬虫類初体験はアオウミガメになるということか。

 ところでアオウミガメとは普通のウミガメとどう違うのだろうか?

 

「調べてみよっと」

 

 真相を究明するために私達はアマゾンでも太平洋でもなくスマホに向き合った。

 

「アオウミガメ(青海亀、Chelonia(チェロニア) mydas(メイダス))は、爬虫綱カメ目ウミガメ科アオウミガメ属に分類されるカメ。本種のみでアオウミガメ属を構成する……」

 

 おそらく、というか間違いなく私も浅間ちゃんと同じであろうページを読んでいるのだろう。

 しかし浅間ちゃんが音読したその読み方が正しいのかどうかは正直なところわからない。

 

「はい、こちらプレミアムモルツのメガジョッキになりまーす」

「あ、やったー来たー」

 

 お目当てのものがきて、スマホは音速でスリープ状態に戻された。

 アオウミガメの真相は早々に闇へと葬られたわけだ。

 

「こちらが七本槍、滋賀のお酒ですねー」

 

 私の方に供されたものは細身のグラスに注がれた日本酒。

 徳利の方は少し大きめの土瓶のような、少し風情のある容れ物に入っていた。

 

「それじゃあ、乾杯しましょうか?」

 

 うむ、それがいい。

 私もアオウミガメの謎の究明は断念して、浅間ちゃんとグラスを鳴らし合うのだった。

 

 

 

 おつまみは小鉢料理。マヨネーズ和えの細い鶏肉とちくわ。

 私は特にこれといったコメントはないけど、浅間ちゃんはまるで私が食べているものとは全く別の絶品料理を味わっているかのような顔をする。

 単純にビールに合うお通しだったということもあるのかもしれないけど、そういうところが魅力的なのだろうと思う。

 

「こちらアオガメのお刺身になりますー。こちらの醤油にわさび、しょうが、ねぎをお好みでつけて召し上がってくださいー」

 

 熱を使わない料理だからか、ウミガメの刺し身は早くやってきた。

 テーブルに置かれたそれを見て、私達は暫しその皿をじっと見つめる。

 

「……鶏肉?」

 

 という怪訝そうな浅間ちゃんのコメントの申す通り、そのお刺身は鳥刺しに近い見た目を持っていた。

 薄切りで、しかし面積は広く、色はまんま鶏肉のような綺麗な赤ピンク色。そこに、鶏肉にもありそうな白い筋が入っている感じである。

 つまるところ、薄切りにした鶏肉のような感じだった。

 

「鶏肉っぽいね」

「鶏肉みたいな味がしそうですね……」

 

 かといってこんな鶏肉しい鶏肉をお刺身で食べたこともない。

 食べてみないことには始まらないだろうということで、私達は同時に食べてみることにした。

 

 とりあえず生臭さを警戒して、わさびとしょうがをしっかりつけてから。

 

「あーんっ」

 

 ぱくり。

 もぐもぐ……。

 

「……」

「……」

 

 浅間ちゃんのにやけ顔を目が合った。わかるよ。言いたいことはよく分かる。

 

「鶏肉……」

 

 だよね、鶏肉だ。鶏肉みたいな味がするよね。

 

「でも美味しい」

「はい、美味しいです! 鳥刺しみたいな味……お酒が進む!」

 

 鶏肉っぽいけど、薄いのにしっかりした歯ごたえを感じる。筋っぽいところは特に硬い。安っぽい肉の硬さに似てるだろうか。そういうところはどちらかといえば牛っぽくて、けど噛むほど旨味を感じる。

 ……うむ、これは日本酒に合う味だ。

 

「すみませーん! ビールおかわりください!」

 

 けどビールにも合う味だね。鳥刺しとはそういうものだ。

 

「なんだかこれ、前に食べた鳥刺しを思い出しますねえ……どうしてこんなに鶏肉みたいな味がするんだろう?」

「味のたとえで鶏肉って、結構多い気がするよ」

「あーわかるような?」

 

 お刺身の面積が広い分、上品に盛られたお皿からはあっというまに刺し身が消えていった。

 けどそれと代わる代わるでやってきた海鮮の刺盛りのおかげで、箸が寂しがることもない。

 

「うーんタコ美味しい……同じ海の生き物なのに、どうしてこんなに味が違うんでしょうねぇ……」

「爬虫類だからかなぁ……海の爬虫類ってウミガメくらいだから?」

「ウミヘビとかも?」

「ああそれもいたか。けど蛇はどうなんだろう。蛇も似たような味がするのかな」

「アナゴみたいな味がするんでしょうか……」

 

 わりとどうでもいいことなので後日調べたことを書いてしまうと、ウミヘビはどうもそんなに美味しくはないそうである。

 郷土料理などであるにはあるが、仕込みやら色々と面倒らしいそうだ。

 

「やはり、魚類や軟体類や甲殻類で味が違うように、爬虫類も独自の味をしているということなんだろうね。……ああ、海にはクジラみたいな哺乳類もいたか」

「あー、やっぱり種類で大きく違ってるんですね……クジラもいかにもお肉って感じのものですもんねぇ」

 

 鯨ベーコンか。おつまみに良いよね。

 

「あっ、先輩鯨ベーコンがメニューに載ってますよ!」

「おおっと。それはそれは……」

「ながらみの醤油煮をお持ちしましたー」

「おっとっと」

「わ、貝類追加きた」

 

 続けざまに色々とやってくる。けど、こうして会話で繋ぐ必要のない食を楽しむばかりの飲み会というのも純粋に良いものだ。

 

「浅間ちゃん。鯨のベーコンも頼んじゃおうか」

「お、いいですね! じゃあ私はー……唐揚げも!」

「良いね」

「んっふっふ。二日酔い防止のお水も常備してありますからねー」

 

 得意げににまにま笑う浅間ちゃん。

 しかし浅間ちゃん。君は仮に水を飲まなかったとして、二日酔いになることなんてあるのかね?

 

「貝類のこの、殻に籠もる戦略。合理的ですよねっ……!」

「わかる」

 

 つまようじで巻き貝から中身を取り出したり、春野菜の香りとほろ苦さを楽しんだり、鯨ベーコンに懐かしいようなそうでもないような感慨を味わったり、その後も私達は大いに飲み食いを楽しんだのであった。

 

 

 

「いやー、食べた食べた! ウミガメもちょっと繊維っぽいけど美味しかったです!」

「良かったねえ。いい経験ができたよ」

 

 知らないものを食べる。それだけならきっと私一人でもできたのだろう。

 けど、それについて語ってみたりだとか、きっとそういうのは一人じゃできない経験だ。

 一人で考えをぐるぐる回すのは悪くない。けど、やっぱりそれだけだとたどり着けない答えっていうのはあるんだろうね。

 

 なんてことを、路上で水をちびちび飲みながら思ってしまうのだった。

 

「あっ、木野井先輩!」

「うん?」

「私、気付いちゃいました。私……爬虫類はアオウミガメが初めてじゃないです」

「おおう?」

 

 真剣そうに私を見上げる浅間ちゃんの顔。

 

「私……すっぽんは食べたことあります! スープの具材で!」

 

 なんと。

 

「それ……私もだ」

 

 すっぽん。なるほど、確かにそうだ。お前もだったな。

 

「……すっぽんかぁー! なんともいえないなぁー!」

「あはは」

 

 ま、良いじゃないの。すっぽんっていうのが少しメジャーっぽいのがもやっとするその気持はわからないでもないけど。

 

 ウミガメとすっぽんじゃ、そう大差あるものでもないだろうさ。

 

 私達はアオウミガメについて、ほとんど何も知らないけどね。

 

 



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薄暗いバーの前で

 

「チェローニア・マイダス」

「うん?」

「青海亀です。読み、これだったんですねえ」

 

 仕事の終わり際、給湯室にて。私は浅間ちゃんのよくわからない会話の切り出しにポカンとしていた。

 シンクの側面についた洗剤痕をこすっていた手を止め、しばし考え込む。

 

「……ああ、前にアオウミガメについて調べてたね」

「そうですそれです。あれから気になっちゃっててー。あ、こっちの器しまっておきますね」

「うん、ありがとう」

 

 アオウミガメなんてもう二週間近く前の話じゃなかったかな。

 これだけ時間が経ってもふと思い出せるのは若さ故か、それとも浅間ちゃんだからなのか。

 

 ふむ……あと十分もしないうちに終業時間になる。

 さっきから浅間ちゃんが仕舞うべき器を手にしたままわざとらしくこっちをチラチラ見ているし……。

 

「……これかい?」

 

 私はおちょこをクイッとやる仕草をしてみせた。

 途端、彼女は今日一番の良い笑顔になる。

 

「はい! これです! いかがですか?」

 

 そういう彼女は、ジョッキをガッとやる仕草をしてみせるのだった。

 

「是非、ご一緒させてください」

「やったー」

 

 私達は目に見えない器を打ち合わせ、あまりに気の早すぎる乾杯を交わした。

 

「今日はバー行きましょう、バー!」

「へえ、バーかぁ」

「木野井先輩はバーって行ったことあります?」

「一応あるよ。2、3回だけどね。浅間ちゃんは……まぁ聞くまでもないか」

「聞いていいですよ」

「……行ったことある?」

「沢山!」

 

 ぐっと親指立てられましてもね。知ってたよ。

 

 

 

 さて、バーといえばカクテルを出してくれるシックでオシャレなカウンターというのが一般的なイメージだろう。そしてそのイメージは間違いない。

 初めて入るにはあまりにも敷居が高く、門構えが閉鎖的なせいもあって経験したことのない人も多いだろう。

 何より高い。一息で飲めそうなカクテルが一杯千円は軽く超えるところも珍しくはない。二千、三千する店だってザラだ。ここまで言えばわかるだろう。満足いくまでベロンベロンに酔おうとして行く店ではないのだ。

 しかしそのような飲み方で、浅間ちゃんが満足できるのだろうか?

 

 と、少し心配していたのだが。

 

「浅間ちゃん。どうして私達はいつもの大衆居酒屋に入っているのだろうか」

「っぷはー! ……え?」

 

 バーに行くと言っていたのに、何故か私達は大衆居酒屋で腰を落ち着けていた。

 浅間ちゃんは既に大ジョッキの八割をお通しに手を付けること無く飲み干している。

 

「そりゃもちろん、ごはん食べてからじゃないと駄目ですからね。さすがに空きっ腹にカクテルみたいな強いお酒入れたら、胃に悪そうですから」

「……なるほど」

 

 じゃあその酒は? 胃に優しいの? と言いたかったがまぁ、ここで飲んでおかないことには気分良くカクテルも楽しめないのだろう。

 浅間ちゃんが丁度いい酔い気分になるためには、カクテル五杯じゃ足りないだろうからね。

 

 

 

「というわけで目的のバーはこちらになります!」

「なるほど……」

 

 腹も満たし、お酒もちょっと入れてから電車に乗り、心地よく揺られているうちに目的地についた。

 繁華街よりも少しだけ暗い通りにある重厚な窓なしの扉だ。

 浅間ちゃん曰く、値段安めだけどしっかりバーしてるとのことである。しっかりバーというのがよくわからないけど、まぁ普通のバーらしいバーってことなのだろう。

 

「あのーすみません」

 

 と、私がぼんやりと店の看板を見上げていると、暗いところから男の声が近づいてきた。

 二人組の若い男である。カジュアルな格好しているが、少し酔った私の目から見るとそれ以上の判別ができない。

 

「え? はあ、なんですか?」

「浅間ちゃん」

 

 私は小さめの声で咎めたのだが、彼女の耳には届かなかった。

 

「もしかして、これから飲みにいくの? このお店ってもうやってる?」

「あ、はい。開店してると思いますよ。ほら、営業中って」

 

 浅間ちゃんは親切にスマホを差し出し、店が営業中であることを男たちに示してみせた。

 けど浅間ちゃん。親切だけどこの二人はただのナンパだよ。まともに相手にするもんじゃない。

 

「へー、ありがとうございます! 優しいんだね」

「え? はぁ……」

「一緒に入ろうよ。一杯奢るからさ」

「いっぱい? それなら……」

「浅間ちゃん」

「!? きゃ……」

 

 私は彼女を肩を抱き寄せ、男達の前に躍り出た。

 

「う、わ……」

「でけえ……」

 

 自慢にもならないが、私は背が高い。靴の底だってそこそこ厚みがある。

 少なくとも、目の前のぱっとしない若者たちを見下せる程度には。

 

「彼女はこれから“私と”飲むんだ。そうだよね?」

「え……は、はいっ」

 

 抱き寄せたまま彼女に聞けば、彼女はおずおずと頷いた。

 うん、これで良し。

 

「二人で飲みたいんだ。他を当たってくれ」

「……行こうぜ」

「ああ……ごめんね! じゃあね!」

 

 そう言って、男二人は足早に去っていった。

 強引に同じ店に入ろうとはしないようだったので、一安心である。

 

「……浅間ちゃん」

「は、はい」

 

 抱き寄せていた身体を離し、少しだけよれた服を直す。……うん、よし。

 

「ごめんね。もしかすると、余計なお世話だったかな」

「い、いえ! そんなことないです。助かりました! まさかナンパだとは思わなくて……ありがとうございます」

「そうか、なら良かった。難しいだろうけど、こういう街で声をかけられたら無視が一番だよ」

「……はい。気をつけます……」

 

 飲み屋巡りは彼女の趣味だ。ライフワークにも近いだろう。

 けど、彼女は……私の目から見ても、とても可愛らしい子だ。若々しく、華奢で……だからあまりに無防備な振る舞いをしていると、すぐに目をつけられてしまう。

 

 そういう出会いもあるだろう。遊びもある。全てを否定はしない。私には縁の無いものだったから全てを知っているわけでもない。

 けど、やはり年上として、守ってあげなきゃいけない時というのは、それなりにわかるつもりだ。

 

 夜の街に繰り出すことの多い浅間ちゃんだからこそ、気をつけてほしいものだ。

 

「……さっきの木野井先輩、結構かっこよかったです」

「そう?」

「はい。すごいイケメンでした」

「うーむ……礼を言えばいいのかなそれは」

「えへへ。先輩よりも頼りになる男の人じゃないとナンパされたくないですね!」

 

 そんなこと言って、ぎゅっと腕にしがみついてくる。

 いや、褒めているんだろうけど。一応私も女だから、どう反応すれば良いんだろう。

 冗談めかしているわりに少し顔を赤くしている彼女からは、最適解が読み取れない。

 

「……それじゃあ、バーに入ろうか。はい、中へどうぞ。浅間様」

「わあ、エスコート! えへへーなんかいい気分」

 

 こうして、バーでの本番飲み会が始まったのである。

 

 浅間ちゃんも気分が乗っているようだし、今日は浅間ちゃんの彼氏っぽくリードしてあげることにしよう。

 

 ただし、奢るのは先輩としての一、二杯だけだからね。

 

 



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