アイ・フォー・アイ【完結】 (ジマリス)
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【骸の代弁者】


 復讐は何も生まない、というやつがいる。

 それは恵まれた場所で、恵まれた環境で、まっとうな育ち方をしたやつのたわごとに違いない、と俺は考えていた。

 少なくとも、それを最初に言い出したのは、善意の理不尽さに何かを奪われたことのないやつだ。正義を振りかざして、あるいは大義名分のもとに肥大化する暴力は、なによりもたちが悪い。

 俺が犯罪組織の残党を撃ちぬいたのも、教会職員を仕留めたのも、それが理由の一つだった。

 もうたくさんだ。

 清濁織り交ぜたように見せかけているこんな世界が、俺にはひどく陰湿に見える。

 平和を目指して、皆が皆いい子ちゃんで手を繋いでいれば文句はなかっただろう。悪を崇拝し、皆が皆犯罪を犯していれば、文句はなかっただろう。

 冷たい錠をかけられてる間、俺はずっとそのことを考えていた。

 二十六人。俺が殺した人間の数。

 それはそのまま、俺の罪として、そして罰として、死という判決を下される種になった。

 さっさと殺してしまえばいいものを、国というのは簡単には死を認めない。

 あらゆる手続きをしなければいけないのだ。殺人鬼であれなんであれ、等しく倫理という鎖が誰をも苦しめる。その鎖がようやく断ち切られたのだ、という俺の安堵はしかし、ぬか喜びだった。

 電気椅子か首吊り台かを期待していた俺を待っていたのは、がらんとした部屋に飾り気のない机と椅子。

 とても、()()()に、苦しまずに殺すような道具には思えない。

 

「座れ」

 

 俺を連れてきた男が冷たく言う。

 その後ろには銃を持った男が二人。そのいずれにも、胸には今は無きラステイションの紋章がある。

 もちろんこれは大いにおかしいことだ。

 パープルシスター以外の女神が行方不明となって以降は、ほとんどの人間がプラネテューヌに移住せざるを得なくなった。もともと他三国の女神を崇拝していた国民たちにはパープルシスターを信仰する義務はないものの、公式の機関はすべてプラネテューヌ教会のもとで機能しているはずだ。

 これみよがしに「現女神を信仰していない」と見せてくるのは過激派のテロリストか、それとも犯罪組織の残党かしかいない。

 何にしろ、こいつらは俺と話す気はないらしい。顔は正面を向き、こちらを一瞥しようともしない。

 コツコツとリズミカルな音が聞こえてきた。女の足音だ。こちらに近づき、一瞬止まったかと思うと扉が開く。

 

「やあ」

 

 たった一言の挨拶。

 銀髪の女性が入ってきた。一見子どもにも見えるが、黒いスーツはなぜだかしっくりと似合っている。

 俺たちはこれが初対面だが、俺は向こうを知っているし、向こうも俺を知っているだろう。

 女は机を挟んで椅子に座り、品定めするように対面している俺を見る。

 

「で、元お偉いさんが俺に何の用だ」

 

 腹の探り合いをするつもりはない。俺は単刀直入に話を促した。

 捕えておいて、殺さずにわざわざ話し合いの場を設けたのに、違和感といらつきを覚える。

 

「自己紹介もなしにそれはないだろう。僕は……」

神宮寺(じんぐうじ)ケイ。元ラステイション教祖。国のナンバーツーだった女だ」

 

 俺は女の話を遮って言う。

 女、神宮司ケイは驚きもせずににやりと笑った。その態度が気に入らなくて、俺は舌打ちをして椅子の背にもたれかかる。

 ケイは答えの代わりに、ファイルを寄越してきた。表紙には「秘」とだけ書かれている。

 それっきり、ファイルを見ろと言わんばかりにケイは動かない。仕方なく、俺はファイルに手を伸ばしてめくる。一ページ目から、俺の顔が載っていた。顔だけじゃなく、俺に関するあらゆる情報が。

 

「君のことも知ってるよ、ベクター・ソーン。スカル・トーカーと呼んだほうがいいかい?」

 

 誰にも話したことのないものまで載っていることに、俺はさらにいらだちを募らせる。

 この女の目的がさらに測れないものになった。

 

「それで?」

 

 俺のことを知っているからなんだというのだ。脅しでもして何かを吐かせるつもりか。

 ファイルを乱暴に机に放り投げ、俺は続きを促す。

 

「仕事を頼みたい」

「はっ」

 

 俺は自嘲気味に笑った。

 昔のような国のお仕事をこなす兵士でもないし、殺し屋でもない。俺はただの殺人鬼だ。

 今までの殺しだって、誰に頼まれたわけじゃない。俺がやりたいからやった。

 それに関してはこいつだって知っているはずだ。なのに、わざわざ来るとは。

 

「どうやらファイルを読んでないらしいな」

「そう思うかい?」

「読んでいたなら、俺が傭兵でも殺し屋でもなく、金でも脅しでも大義でも動く人間じゃないって知ってるはずだ」

「リーンボックスの兵士だった君が、それを言うのかい?」

 

 大義。確かに俺はそれを持って戦っていたこともあった。だがこの世界において、個人に宿る意識が、命と同じようにいとも簡単に踏みにじられることはよくあることだ。

 もれなくその一人であることは、ケイもよく知っていることだろう。その薄いファイルのうえでは。

 

「もちろんこれはオフィシャルの任務じゃない。それを君に頼みたいのは、プラネテューヌと犯罪組織両方を相手にする仕事だからだよ」

 

 俺は眉をひそめる。

 敵対する二組織の、どちらをも敵にするようなことをしでかそうとしているケイの目は暗く、淀んでいた。罪のないものを手にかけた者の目だ。理不尽な死を受け入れずにいる者の目でもある。

 振り切った感情を感じてしまうと、感覚は麻痺する。だが、何をしているかはまだ失っていない。

 

「断る」

 

 任務の内容も聞かずに俺は首を横に振った。

 どんな報酬があるにせよ、俺には関係ない。俺はどこかの組織の犬になるつもりはない。

 世界に見捨てられ、世界を捨てた俺がいまさらどこかに「属する」なんてのは反吐が出る。

 もう話は終わりだ。俺が立とうとしたその瞬間―

 

「君がこの任務をこなしてくれたら、女神を殺す手段を与えよう」

 

 ケイから放たれた衝撃の一言が、俺の動きを止めた。

 

「なんだと?」

 

 聞き直す言葉が思わず口から出る。自分のペースになったと見えて、ケイはさらに話をつづける。

 

「プラネテューヌの女神。これは彼女を殺すための任務でもある」

 

 悔しいことに、俺はその話に引き込まれていた。

 ケイは放置されたままのファイルをめくり、こちらに向けた。

 

「この娘がその鍵だ」

 

 生気の宿っていない目の少女が載っていた。

 ナタリア。十一歳。浅黒い肌にくすんだ金髪が、彼女の印象をさらに暗くしていた。

 写真だけでもわかる生への執着のなさが気にかかった。というより、意思のなさ。何を考えているかわからないというかは、何も考えていないようなその目は、十一歳の女の子が持つはずのないものだった。

 

「この子をあるところへ連れて行ってもらいたい。ただそれだけ」

「……」

 

 この女と話す前には微動だにしていなかった心が揺れていた。

 女神を殺す。殺せる。その手段が手に入るということに、魅力を感じていた。

 正直なところを言えば、喉から手が出るほど欲しいものだ。人間の能力を遥かに超えた女神を相手にするのはほとんど自殺行為なのにもかかわらず、犯罪組織含めその命を狙っている者は少なくない。

 俺もその一人だ。だからこそ、それを手に入れなければならないのだ。

 

 

 

 パープルシスター以外の女神七人が行方不明になってから数年。

 世界は一変した。プラネテューヌ以外の国は、女神がいなくなったことで崩れていき、大陸ほどもあった三つの国は加護を失った。

 そのせいで、モンスターの被害はよりいっそう酷くなった。もともとその三国に住んでいた国民たちは、不満を言いながらもプラネテューヌに移住せざるを得なかった。

 急激に増えた人口も受け入れ、衣食住も確保したパープルシスターを認め、新しい女神として信仰を仰いだ新国民たちだったが、その全員を納得させることはできなかった。

 理由は大別して二つ。

 一つ、その人間が犯罪組織の残党であること。

 女神たちが行方知れずになる前、「マジェコンヌ」という犯罪組織が台頭していた。そのときほど、混沌とした時代はなかっただろう。モラルや倫理といったものは全くなかったといっていい。

 子どもだけでなく、その親でさえも犯罪に加担した。ただ楽だからだ。例えばゲームのコピーソフトの配布、使用。映画やアニメを無料で違法視聴といったものが、多く取り上げられた問題だ。

 最初は小さいものだったそれが、段々と見境なく膨張していき、大多数の人間が表向きでは女神を憧れの目で見ながらも、悪へと心を染めていった。

 楽だから。だからそれまで尽力していた女神を蔑ろにする。

 やがて悪への信仰は暴力的なまでに勢いを増し、女神たちを弱めていくこととなった。

 その事態を引き起こした犯罪組織は、女神によって壊滅寸前まで追い込まれた。だが、女神の数が激減したことで、その手を逃れられた何人かが、まだ息をひそめて女神の首を狙っている。

 もう一つは、女神の熱心な信者であること。

 女神が行方不明になった理由としてまことしやかに噂されているのが、現女神が他の女神を皆殺しにしたというものだ。

 それを見たという人間がいくらかおり、それは一つの有力な説としていまも世に流れている。

 元々女神を崇拝していた信者たちはその噂を信じ、パープルシスターに反旗を翻すことも珍しくなかった。

 神宮寺ケイは後者だろう。

 復讐。毒のように心を蝕むそれは、しかし今の彼女にとって唯一の原動力だ。たとえ目が、心が死んだとしても、彼女は動き続けるだろう。

 骸骨になったとして、彼女はパープルシスターを恨み続けるだろう。

 復讐とはそういうものだ。だが、そういうものでいい。たとえ死に近づかせる麻薬だとしても、すがるもののなくなった人間には必要なのだ。

 そんなことを考えながら、返された装備一式を眺める。灰色の防弾隠密スーツ、愛用のアサルトライフル、ぼろぼろのコート。

 捕まった時に没収されたそれらを、また身に着けることになるとは思いもしなかった。しかも、元教会職員の準トップからの依頼で動くなんて。

 

「さて、君への依頼をもう一度言うよ」

 

 俺が着替え終わったタイミングで、数人の兵士を連れてケイが入ってくる。

 ついて来いと促され、建物の廊下を歩く。蛍光灯は備え付けられているが、光はついていない。殺風景なのは俺が捕らえられていた場所やあの尋問室だけではない。この建物全体に重い空気が澱んでいる。

 死と恨みと罪だ。ここがどこなのか、なんとなく察しがついてきた。

 

「ナタリアを無事、リーンボックスまで届けること。ただそれだけ」

 

 それだけとは言うが、俺に頼むあたり、危険なことには間違いない。途中、モンスターだけではなく、どこからか話を聞きつけた輩が襲ってくるかもしれない。

 

「リーンボックスの誰に?」

「着けばわかるよ」

 

 別にはぐらかすことでもないだろうに。ケイはにこりとも表情を変えなかった。情報アドバンテージを持っていることを強調したかったのか。単純に知る必要がないからか。どちらにせよ、任務に支障がないならそれでいい。

 

「肝心のナタリアは?」

 

 出入り口に到達したところで、重々しい鉄の扉をケイが開ける。久しぶりの日差しが目に入り、うっと顔をそらす。しばらくして目が慣れると、外の様子が分かってきた。

 といっても、目の前に広がるのは、学校のグラウンドのような、ただの庭だった。そこいらに生えている雑草が、あまり手入れされていないことを伝えてくる。

 そして、その周りをぐるり囲むように、鉄の壁がそびえたっていた。

 振り返ると、頑丈で冷たい建物が俺を見下ろしていた。

 ラステイションの郊外にある刑務所だ。つまり、俺がいた牢屋はわざわざ作られたものじゃなくて、備え付けられたものだった。

 やはりと一人で納得する。長年使われてきたこの場は、その用途が変わっても人の負の部分がこびりついている。

 

「ナタリア、こっちだよ」

 

 ケイに促され、寄ってきたのは、いつの間にかそこにいた少女だった。

 写真で見るよりも深い闇を抱えた瞳に、何を考えているのかわからない無表情。まるで人形だ。

 粗末な服を身にまとい、リュックを背負っている。

 親はどこだ。ケイは何も知らせず、少女に危険な旅をさせるのか?

 

「ナタリアか、俺はベクター・ソーン」

 

 よろしくという挨拶も、握手もなし。ただ、こいつを送り届けるだけだ。仲良しこよしで旅をしようなんて思っちゃいない。

 ナタリアは無言で俺を見つめ、不思議そうに首をかしげる。

 今からのことについてはナタリアも知っているはずだ。もっと強いやつが来るとでも思ったか。

 

「さて紹介もすんだところで、さっそく任務にあたってもらいたいところだが……」

「リーンボックスに届けるだけだろ」

「そうだけど、その前に……武器の準備はいいかい?」

 

 ケイは正面の鉄の壁、今は閉ざされている大きな門を見つめながら言う。

 

「あそこが開けば、おそらく敵が襲ってくる。ナタリアを狙っている連中さ」

「まずはそれを退けろってことか?」

「話が早くて助かるよ。それに、一度君の実力を見てみたいところだしね」

 

 気に食わない。その程度先に倒してくれていいだろう。おそらく、それほどの戦力もないのではないのだろうか。

 どちらにせよ、邪魔をするならどかすまで。

 

「撃たれたくないなら下がらせろ」

 

 背中にかけたライフルを手に持つ。

 ケイは頷くと、武器を構えていた兵士たちを下げ、無線で門を開けるよう指示した。

 轟音が鳴り響き、ゆっくりと門が開いていく。それを待ちきれずに、無理やり潜り抜けてやってくる人影が見えた。

 距離はまだ遠い。それでもおもいおもいの武器を振り上げているのが見える。その奥から、さらに人数が増える。

 犯罪組織の残党はいまだ血気盛んなようだ。

 俺は懐から煙草を取り出し、咥えて火をつけた。久々の煙をゆっくり吸い込む。

 

「おい」

 

 悠長な俺を見て、後ろの兵士が慌てだす。だが、撃つには早い。それに、敵は自信があるのか馬鹿なのか、バットや鉄パイプなど、チンピラレベルの獲物しかない。

 数は十五人。たった一人の少女を奪うために、これだけ熱が入るのも気になる。こいつらといい、ケイといい、奇妙だ。

 それだけの価値がこの少女にはあるのだろうか。ちらりとナタリアを見て、再び前を向く。

 いや、そんなことはどうでもいい。重要なのは、ナタリアをどう届けるかであり、何者かを探ることじゃない。

 俺はやっと銃を構え、三発撃つ。

 弾丸は吸い込まれるように戦闘の三人の額に命中し、生を奪う。続けて、相手が驚く間も与えずに、次々と引き金を引く。一発ごとに一人。そのすべてが頭にヒットする。あっという間に半分が倒れた。

 これがたまらなく嫌だった。同時に、武器として銃を選ぶ理由でもあった。

 一発の銃弾が、人の命は尊いなんてのが嘘だと告げる。そして死の感触が伝わってくるわけでもない。

 引き金を引く、たったそれだけが相手の全てを奪う。

 敵の勢いは止まらず、まだ突っ込んでくる。死は覚悟のうえ、ということだろうか。

 だが、覚悟をするのと、実際に死ぬのとは比べ物にならないほどの差がある。道半ばで倒れてしまえば、覚悟もなにもあったものじゃない。

 何も、残らなくなるのだ。

 最後の一人を撃ち、もう一度煙を吸う。地面に投げ捨てて、火をもみ消す。

 銃を背中になおし、振り返ると、兵士たちは驚いて固まっていた。死体が転がっているというのに、ナタリアは無表情のままだったが。

 

「これで満足か?」

「ああ、いいものを見せてもらったよ」

 

 ケイが笑みをこぼす。

 

「それじゃ、用意しておけよ。女神を殺す手段とやらを」

「それに関しては問題ないよ。君がナタリアを届けてくれればね」

 

 いやらしく笑うケイを無視して、俺はナタリアを見る。彼女は何も言わず、俺のそばに寄ってくる。

 試しに門へ向かって歩き出すと、後ろについてくる。

 特に会話もなしに、俺たちは外へ出た。



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 復讐心というのはこの時代では珍しくない。

 犯罪組織と女神たちの戦いで、双方ともに多大な犠牲が出たからだ。

 しかし、復讐を実行するものはごくわずか。変えることや変わることは本能的に、あるいは理性的に避けたいのが大多数の人間だ。

 それでも復讐心は募り、残された人間が癒されることはない。そんな中、犯罪組織も女神側の人間も平等に殺していく者が現れた。

 そいつを悪魔と言う者もいれば、英雄だと言う者もいる。

 一見すれば無差別の殺人だったが、戦いに巻き込まれ、命を落とした人々を知る者にとっては一種の救いであったのだ。

 やがて、誰も顔を知らないその暗殺者は骸の代弁者(スカル・トーカー)と呼ばれることになる。

 

 

 

 ナタリアが歩きながら読んでいる雑誌に、そんなことが書かれていた。

 ずいぶんと持ち上げられたものだ。

 ただの殺人鬼が、象徴のようになっている。

 世も末。

 閉じ切った人の心はそこまで荒みきっている。だがそれは、犯罪組織の活動が活発だったころとあまり変わらない、と俺は思った。

 にしても、ナタリアは雑誌をかなり熱心に読んでいる。途中立ち寄ったコンビニで、彼女が手に取って立ち読みしていたものだが、俺の買い物が終わっても頑として動こうとしないので仕方なく買い与えてしまった。

 反応は薄いが、興味津々なのは見てわかる。

 

「そんなの読んで面白いか?」

「さあ」

 

 ナタリアは首をかしげて、再び読み始める。

 受け答えとしてはスッキリしないものだったが、こうしてみると、ただの十一歳の少女である。とても多数の人間に狙われるような奴には思えない。

 深いフードを被っているので表情はあまり読み取れないが、どうせ、相変わらずの無表情だろう。

 さて、と俺は周りを見渡す。

 元ラステイションの中心まで来たが、意外と栄えている。もっと荒れているものかと思ったが、人も大勢いるし、店もそこかしこにある。

 街としての機能もそれほど損なわれていないように見受けられた。

 これだけの人が残っているとは、ラステイションの女神は相当慕われていたらしい。

 宿屋も残っていて助かった。あの刑務所からここまで、元同じ国領内でもかなり遠かったのだ。

 早速泊まることに決め、俺たちは一番に見つけた宿にチェックインした。部屋を別々にとり、何かあったらすぐ言え、とナタリアに告げてから部屋に入る。

 木造の、えらく質素な宿だが、それが良い。変に高いところへ泊まるより、こっちのほうが落ち着く。背中の銃を壁にたてかけ、ベッドに腰掛ける。

 ふと窓から外を見ると、すでに日は落ちていた。

 リーンボックスまではまだ遠い。海を越えていかないといけないため、一度プラネテューヌに行ってから船に乗らないといけないのだ。

 プラネテューヌの女神は他の国への支援を怠ることはない。、どんな事情があるにせよ、泳いでいかなくて済む。

 ともあれ、敵の本拠地であるプラネテューヌに向かうのだ。栄えた街では、質素な格好は逆に目立つ。もう少し旅人らしい服を見繕うべきだろう。俺は上着でごまかせるし、銃だってこの時代は珍しくない。

 立ち上がり、部屋を出る。隣の部屋をノック。だが、返事はない。

 おかしいと思い、もう一度ノックする。やはり、何も返ってこない。

 

「お客様?」

 

 不意に声をかけてきたのは、宿の受付だ。

 

「連れを知らないか?」

「お連れ様、ですか? 十歳くらいの」

「ああ、そうだ」

「でしたら、先ほどお出かけになりましたよ」

「あの馬鹿……」

 

 毒づきながら、俺は出入り口まで駆け出す。

 始まって早々、失敗なんてのはごめんだ。

 急いで扉を開け、周囲を見渡す。すると、すぐ近くにいた。

 ナタリアはぼうっと佇んでいる。言いつけ通り、深くフードを被って、上を見つめていた。

 俺はとりあえず安堵し、深く息を吐いた。

 

「ナタリア」

 

 ナタリアはくるりと振り返った。

 

「勝手に外に出るんじゃない」

 

 こくりと頷いて、再び空を見上げる。それほど面白いものがあるわけじゃない。ただの夜の空だ。

 そんな何もない上空へと顔を向けながら、少しも動かないナタリアを見て、俺の先ほどまでの焦りと怒りは不思議とだんだん収まった。

 

「何か見えるのか?」

「あれ」

 

 そう言うと、ナタリアは空を指差した。あれとはどれのことだろうか、特別変わったことはない。

 

「どれだ」

「あの、光ってる、やつ」

 

 ああ、そういうことか。納得して俺もそれを指差す。

 

「星だ」

「あれが、ほし……」

「知らないのか」

「知ってるけど見たことない」

 

 やはりそうか。ケイにとって、こいつは何よりも秘匿すべき、最重要人物だ。それゆえに、外に出しもしなかったのだろう。

 だが、ケイに捕まるまでも見たことはなかったのだろうか。

 女神に復讐を願って、キーとなるこいつを捕まえたとしても、せいぜい今から二、三年前。

 謎に包まれた少女はなおも空を見続ける。その横顔が、ほんの少しだけ、誰かに似ているような気がした。

 

 

 

「そんなんでいいのか?」

 

 ナタリアがとったのは、何の飾りもない無地の白Tシャツだった。

 変装、というか、目立たない服を手に入れるため、朝から服屋に立ち寄ったが、なんとも欲のない注文をしたものだ。

 多少は上着で隠せるとはいえ、もっとらしい格好をしたほうがいいだろう。かと言って、いまどきの十一歳の女子のおしゃれなんぞ、俺は知らん。

 仕方なく店員を呼んで、合う服を選んでくれと頼む。

 十数分後、店員が試着室のカーテンが開くと、清楚な白のワンピースに、赤のカーディガンを羽織ったナタリアが現れた。

 まあ、かなりそれっぽいと言える。フードは似合わなくなるが、代わりに帽子でも被らせておけばいい。

 

「どうだ、ナタリア」

 

 頷く。どれでもいい、というような反応。まあ、いいならいいか。

 このまま買って、このまま着ていくことを告げ、金を払っている間に店員から話しかけてくる。

 

「あのぉ……本当に大丈夫ですか? 妹さん、お気に召していなかったみたいですけど……」

「ん? ……ああ」

 

 ナタリアは店内の服をきょろきょろと見るが、特に興味をもってはいない。見ているだけ。

 彼女は俺の妹に見えるだろうか。それ以外の選択肢がない、というのが正しいか。

 

「表に出ないだけだ。気にしなくていい」

 

 金を払い終え、ついでで買った大きなつばの帽子をナタリアに被せる。

 言われるまでもなく、ナタリアは帽子をぐっと深く被りなおした。

 

「行くぞ」

 

 またも返事をせずに、ナタリアはついてくる。

 店を出て、早速国の外へと向かうために歩き出す。

 装いも新たになったナタリアだが、全く気にするそぶりも見せず、ナタリアはリュックから雑誌を取り出し、読みだす。

 ひどく()()()()兄妹に見えることだろう。手を引くことも話すこともない兄に、ただついていくだけの妹。

 だからといって繕うこともしなかった。そんな必要はない。

 

 

 

 ラステイションからプラネテューヌに行くためには、山道を抜けなければならない。

 女神がいたころは、道は舗装されて定期的なモンスター討伐も行われていたが、今では荒れ果て、自然の状態に戻っている。

 とにかく、体力が必要だった。俺たちは山のふもとの林まで来たところで、休息をとることにした。

 だが、まともな旅の装備があるわけじゃない。寝袋を下に敷き、腰を下ろすだけしかできない。

 ナタリアも疲れたのか、地面に置いたランプをぼうっと見つめている。

 今度は動くなよ、と念押しして、俺は少し離れた木にもたれかかり、煙草に火をつける。

 山さえ越えれば、あとはプラネテューヌ領内だ。身元さえ気にすれば、脅威はなくなる。

 ゆっくりと煙を吐き出し、その行方を目で追う。

 頭上では、生い茂った木々の葉が光を遮っていた。おかげで、まだ夜になっていないというのに下は暗い。

 この暗さが俺を安心させた。光の下にいるのは嫌いではない。だが、暗殺者として過ごした年月が俺を影の住人にした。

 影とて、人間だ。感情の起伏もあれば、ものの好き嫌いもある。それを感じさせないナタリアに、嫌悪にも似た感情を感じずにはいられなかった。

 いや、ナタリアに、ではない。彼女をそんな存在にしてしまった何かに、だ。

 十一歳が感じるべきもの、知るべきものを封じた何か。親か、ケイか、時代か、あるいはそのすべてか。

 不意に何かが聞こえた。

 慎重かつ大胆に動く音。

 木が風に揺られたのではない。明らかに生きている者が作り出す不自然な音だった。すぐさま身体が警戒態勢に入る。

 銃を構えて、身をかがめる。音は移動しているが、出どころはそう遠くない。だが、この方角はまずい。俺がさっきまでいたところに向かっている。つまり……

 

「ナタリア……」

 

 ぱっと立ち上がり、俺は走り出す。わざと大げさに音を立ててみせるが、あちらは構わずにナタリアの方へ近づいていく。

 ランプの光が見えた。どうやら相手よりも速く到達できた。ナタリアの変わらない姿勢を見ても、まだ油断はできなかったが。

 光は点けたまま、周りに神経をとがらせる。ナタリアが顔を上げて俺を見るが、構ってられない。

 俺たちを囲む影は人のものではなかった。聞こえてくる唸り声が確信させる。まだ完全には暗くなっていないことが勝機だった。

 お粗末な犯罪組織や平和ボケしているプラネテューヌ兵士ならまだしも、モンスター相手となれば、暗闇ではひとたまりもない。

 アサルトライフルを背中に戻し、取り回ししやすい拳銃を両手に一つずつ、ホルスターから取り出す。

 左から、恐ろしい速さで何かが飛び出してきた。反射的に反応し、銃口を向けて発砲する。放たれた銃弾はそれの頭に直撃して倒れ伏させる。

 狼だ。ヤマイヌと呼称されるそれらが俺たちを狙っている。闇に溶け込んでいるつもりだろうが、殺気と怒りが位置を知らせてきた。仇とばかりに鋭い牙を突き立ててこようとするヤマイヌたちを、正確に射撃する。

 次々と死骸を増やし、全てが片付いたころには、再び静寂が戻った。しかし、いまの光と銃声が新たな敵を呼び出してしまうだろう。

 夜にうろうろするのは危険だが、ここに留まるのはもっと危険だ。俺はランプと寝袋をしまい、ナタリアの手を引いた。

 

「来い!」

 

 一刻も早く林を抜けようと、脚の力を緩めることはない。

 静寂が破られた。俺たちの走る音が敵を呼び寄せる。相手も全速力でこちらを追いかけてきている。見えないが、先ほどよりも多くの殺気と足音が感じられる。

 女神がいなくなった弊害が、ここにも表れていた。かつては女神の加護とやらがモンスターを人に近寄せなかった。街と街を繋ぐ道もそうで、交流が盛んだったのだ。

 今ではそれもなくなり、さすがのパープルシスターも改善することはできなかった。それでも輸送を生業とする者はまだおり、その危険さゆえハイリターンであるが、もちろんハイリスクでもある。

 このリスクこそが、ケイが俺を選んだ理由だ。危険を処理できる人間はもう少ない。まさか装備が揃っているプラネテューヌの兵士に頼むわけにもいかない。

 手を放し、ナタリアを先に行かせる。ライフルを構えて後ろを振り向く。

 相手の姿が見えるまで待つ暇はない。気配だけを頼りに引き金を引く。闇の中でモンスターたちが倒れていくのがわかる。

 そこでようやく、獣たちが吠える。潜むアドバンテージを捨てたのだ。後退しながら、それに応えるように連射する。ばたばたと倒れていくヤマイヌたちが見えた。

 徐々に視界が明るくなっていく。目が慣れたからではない。林の出口に近づいていた。一瞬だけ振り返ると、すでにナタリアは光の向こう側へと到達していた。

 だが、その一瞬が命取りだった。闇に慣れた目には、あまりにも眩しい光に目を細めてしまった。隙をついて、ヤマイヌが飛び出してくる。

 引き金を引いた時には遅かった。銃弾はあらぬ方向へ飛んでいき、右腕に鋭い痛みが走る。ヤマイヌが噛みついていた。振っても離れないそいつを木に叩きつけて大人しくさせる。

 幸い、銃は落とさなかったが、鋭くも重い痛みが襲ってくる。左手で拳銃を構え、まだ向かってくるヤマイヌどもを撃つ。弾が切れたのと同時に、ヤマイヌの襲来も収まった。

 これで片付いたのか。俺は警戒しながら下がる。何の音も聞こえないことを確認して、銃をしまう。

 思ったよりも消耗していた。人に対して有効な戦闘手段を持っているが、モンスター相手にはいまだこれといったものが見つかっていない。加えて、ナタリアの無事を確認しながらなのが想像よりも重仕事だ。

 さっさと林を抜けて、ナタリアと合流する。林の中よりは明るい。まだ夕方だった。

 いったん腰を落ち着けて、体力を回復すると同時に腕の手当をした。服を脱いで確かめると、くっきりと歯の跡がついている。スーツが阻んでくれたおかげで貫かれはしなかったが、血が滲んでいる。変な菌が入ってなければいいが。

 包帯を取り出して、ぐるぐると腕に巻く。終わると、ナタリアが腕に触ってきた。刻まれているのは噛まれた傷だけではない。これまで殺すにあたって抵抗されたことは少なくない。ときには銃で撃たれ、ときには刃物を突き立てられたりもした。モンスターの大群に襲われたこともあった。

 俺が誰かに傷つけられた証拠であると同時に、誰かを殺した証拠でもある。そんな殺しの腕を、ナタリアは遠慮なく触る。

 その顔はいつもの無表情だが、少しだけ、ほんの少しだけ、感情が浮かんだ気がした。

 何かを感じているにしても、それがいったいどんな感情なのか、俺にはわからなかった。



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 山道はそれほど苦ではなかった。元々は舗装されていたこともあり、雑草が生えているものの、歩くには困らない。何より周りを見回すことができる。これで不意の襲撃を受けることはないだろう。

 道はなだらかに斜めで、姿勢が悪くなるとはいえ、襲ってくるモンスターを退けるには苦労しない。

 進むにつれ、モンスターの影はいなくなり、山頂についたころには気配が消え去っていた。プラネテューヌが近いのだ。

 今や唯一神として君臨するパープルシスターの信仰は凄まじく、それによって得られた力は街の外にまで及んでいた。

 休憩にしよう。ナタリアはちょうどいい大きさの岩に座った。読み終わったのか飽きたのか、雑誌はリュックから出そうともしない。

 ぶらぶらと足を泳がせる様を見ながら、俺は少し離れた木陰に移り、煙草に火を点けようとする。右腕がずきりと痛んで、ライターを落としてしまった。舌打ちして、逆の手でライターを拾う。ようやくつけられた火が煙草に灯った。

 一番の山場は越えたはずだ。ここからリーンボックスまでは敵もそう出てこない。得られる報酬のことを考え、痛みから気をそらす。

 女神を殺す手段、とケイは言った。そんなものがあるのなら、犯罪組織に流せばいいのではないか。できないというなら、それほどまでに信じていないか、それほどまでに強力な武器なのか。

 そんなものをわざわざ俺に託そうとするとは、余計に謎は深まる。ここまでくれば、気にするなという方が無理がある。それでもやるしかない。

 一本吸い終わり、二本目に手をつけようとしたとき、そばにナタリアが寄ってきた。

 

「どうした」

 

 答えずに、俺を見る。俺の腕を。

 

「ごめんなさい」

 

 そっと俺の右手を掴む。

 なんとなく冷たそうなイメージだった小さなその手は、裏腹に安心するような暖かさだった。

 林で手を引いた時には、夢中で気づかなかった。

 こいつがどんな目的で利用され、これからどうなるのかは知らない。だが、今はまだ十一歳の子どもだ。世界の理不尽に触れるには早すぎる。

 十一歳には、早すぎるはずだった。

 

「気にするな」

 

 俺とて、その理不尽の一部だ。この何も知らない少女を、自らの復讐のためにただ届けているだけなのだから。

 

「痛むの?」

 

 なおも構ってくるナタリアをしっしと追い払う。煙草くらいゆっくり吸わせろ。

 顔を俯かせて、彼女はもとの位置に戻る。

 ようやく火を点けた。煙をふかしながら、さっきまでの俺を忌々しく憎んだ。何を思っている。俺も死にいく骸だ。復讐を願うただの骸だ。感情なんて必要なく、考えることも必要ない。

 もう陽が落ちていた。歩きっぱなしと戦闘は身体に堪えたようで、座るとどっと疲れが押し寄せてきた。ラステイションで買った眠気覚ましのドリンクを飲む。効果のほどは怪しかったが、これに頼るしかなかった。

 明日も長く歩く、とナタリアに言う。彼女は察して、リュックの中から寝袋を取り出して広げた。

 

「寝ないの?」

「俺はいい」

 

 プラネテューヌに近づいてきたとはいえ、ここはまだ危険だ。モンスターだけでなく、夜を狙った犯罪組織どもが襲ってくる可能性もある。街に着くまではまだ油断はできない。

 ランプを点けて、ライフルを杖のようにして地面に突き立てる。ナタリアは寝袋に入ると、すぐ寝てしまった。あたりは静寂で、ナタリアの寝息すら聞こえてくる。

 ふと気になって、彼女のリュックを拝借する。中は寝袋がスペースを占めていたようで、あとはいくつかの小物しかない。

 雑誌を抜き出してパラパラとめくる。プラネテューヌの情勢がどうのこうの、流行りのものは何だの、情報系の雑誌だ。特にページを割いているのは、「骸の代弁者(スカル・トーカー)」についてだった。

 殺人現場に残された少ない情報から、人物の特定を目指したが、被害者を撃ちぬいた弾丸からわかったことは、犯人はリーンボックスの人間かもしれないということだけだった。

 ミステリアスさが拍車をかけ、一部では熱狂的に人気があるらしい。そうなると不思議なもので、「骸の代弁者」を見たと言う者や、名を騙るものまで現れる始末。おかげでプラネテューヌ教会は毎日てんてこ舞いだそうだ。

 そこまで読んで、俺は雑誌を閉じた。

 女神を信仰する者も、死を願う者もプラネテューヌには混在している。あらゆる者にとっての善と悪が、そこではないまぜになっている。

 俺は立ち上がり、目的の方角を見据える。はるか遠くには光がぽつぽつと見えた。あそこは一番平和かもしれないが、一番混沌としている場所でもあるのだ。

 

 

 

 翌朝、ナタリアが起きたのを合図に、旅を再開した。

 山道を下るのは楽で、一切の障害もなく、ふもとまで下りることができた。あとはプラネテューヌまでもう少し、と言いたいところだが、まだ森を抜けないといけない。

 しかし、ラステイション側にある林より鬱蒼としているとはいえ、基本的には温厚な動物がいるだけだ。

 森は、あの林とは違って、全く嫌な雰囲気はしなかった。むしろ、暖かい空気が俺たちを歓迎してくれている。

 気配はない。森をうまく活かして消えているのか、あるいは疲労と怪我のせいで俺が気づけないだけか。山を越えた油断を見越して、敵が配置されているかもしれない。俺ならここに罠をしかける。

 細心の注意を払いながら、先を進む。右腕は昨日よりも痛んで、ライフルを支えることは難しくなっていた。拳銃の弾は昨日で使い切っている。ライフルが頼みの綱だった。

 歩くナタリアを手で制し、しゃがませる。一瞬だけ違和感を感じだのだ。森のものとは別の、ノイズとも言える何か。

 昨日もそうだった。生き物が発する音はどことなく不自然だ。相手に自分の位置を知らせる大きな要因になる。

 銃を構える。音の方に当たりをつけ、引き金に指をかける。

 

「誰だ。姿を見せないと、撃つ」

 

 ばれているぞ、と言外に示し、威嚇を同時に行う。はったりだ。満足に体が動かせず、保護対象がいるこの状況ではできれば戦闘は避けたかった。

 相手がもし、ナタリアを狙っているわけではなければ……

 

「ち、ちょっと待って!」

 

 まだ大人になりきっていない女の声だ。偶然、俺が照準をつけた木の陰から響いた。声の主が手を挙げながらゆっくりと現れる。

 長丈の青いコートに、携帯電話がずらりとベルトで留められている。何よりも特徴的なのは頭につけた緑の双葉リボン。風に揺られて動くそれと茶のロングヘアが、彼女を際立たせる。

 その幼さの残る顔に、俺は見覚えがあった。

 

「アイエフ?」

「……もしかして、ベクター?」

 

 訝しむような目つきで、彼女は言う。

 アイエフ。プラネテューヌの諜報部員だ。ちょっとした知り合いで、共に仕事をしたこともある。とはいえかなり前の話だから、彼女が俺を覚えていたのは少し驚いた。

 

「久しぶりね。リーンボックス以来だから……」

「もう何年にもなるな」

 

 銃を下ろして、ナタリアを立たせる。ナタリアはぐっと深く帽子を被って、できうる限り顔を見られまいとした。

 

「その子は?」

「護衛中だ。最近知り合って、リーンボックスまで届ける仕事をもらった」

「届ける? 今は運び屋(ベクター)ってわけ?」

「そういうわけじゃない。ただ単に、今回はそういう依頼が来たってだけだ」

 

 アイエフは勘が良い。下手に嘘をつけばすぐばれる。俺は深いところまでは言わず、話しても問題ないところまでを説明した。

 彼女の用もすでに終わっているみたいで、プラネテューヌに戻る途中だと言う。

 せっかくなので、案内を頼むことにした。実際は道を知らないわけではないが、戦力も兼ねてだ。傷のせいで万全とはいえない。プラネテューヌで身体が癒えるまでは、利用できるものはしなければならない。

 加えるとするならば、知り合いに会って、少し安心しているのかもしれない。

 森を抜けると、一面草原だった。遠くまで見渡せるとあって、敵の姿がまったく見えないことがそのまま安全だということを示していた。

 遠くにはプラネテューヌの象徴であるプラネタワーが見える。天高くそびえるそれは、女神が住む建物でもある。世界で唯一の国。世界で唯一の女神がいるそこは、世界で一番安全な場所でもある。

 「モンスターが襲ってこない」ということが安全安心とイコールならば、の話だが。

 実際にはそうもいかないだろう。「骸の代弁者」も、それを支持する者もいる。犯罪組織の残党も。

 時代は常に混沌としている。それは、その時代に生きる者が常に何かと争っているからだ。本能、理性、感情。生物を生物たらしめるために存在しているものが、相違を生み出しては敵を生み出す。自身としての敵を、あるいは集団としての敵を。

 人間らしく生きるとは、()()()()()()だと俺は思っていた。平和は自然な状態じゃない。手に入れるなら、人間性を犠牲にするしかない。

 

「最近はどうだ?」

「要領を得ない質問ね……まあいいわ」

 

 それから、アイエフは犯罪組織がほとんど壊滅してからのことを話しだした。

 パープルシスターが他の女神を殺したという噂は、教会内部にも大きな影響を与えていた。

 臭いだけでも人は煙を感じ、火を思う。生まれた疑心暗鬼はやがて、その心に影を差す。女神を信じられなくなった者たちは次々と辞めていき、人数不足に陥る結果となった。

 国の運営を支える立場としては、これが一番の痛手だった。しかも、辞めるまでもなく、教会の人間は減っていく一方だった。プラネテューヌ教会では国を背負う重圧とともに、死への恐怖が蔓延していた。原因はもちろん「骸の代弁者」だ。

 教会も犯罪組織も平等に殺していく彼の目的は不明瞭で、つかみどころがない。

 

「やっぱり「骸の代弁者」のことが一番気がかりかしら。あなたも知ってるわよね?」

「あの、頭のいかれた殺人鬼か」

「ええ。一部では英雄なんて持て囃されているけど、そいつのせいで仕事が山積みになってるの」

 

 その張本人が、目の前にいる男だと知ったらアイエフはどうするだろう。殺すか捕らえるか、あるいは仕事をともにした男のなれの果てを嘆くのか。かつての戦友がただの骸となったと知って、何を思うだろうか。

 

「そんなお前が、あんな森の中で何をしてたんだ」

「友達に頼まれて、薬草を取りに来てたのよ。モンスターを倒せる人も、最近では貴重だから」

「だろうな」

 

 昔であれば珍しくはなかった。むしろ、モンスターを倒せることは当たり前だったのだ。もちろん、大なり小なり倒せる相手は違うが、敵に対して臆することは今より少なかっただろう。

 

「ねえ、よかったら手伝ってくれない?」

「断る。こっちはこっちで仕事中だ」

「それが終わったら?」

「悪いが、俺にはまだやることがある」

 

 アイエフが心底がっかりしたように肩を下げる。

 

「他のやつに頼めばいいだろう。国がなくなって、暇してるんじゃないのか」

「もしそうなら、こんなに手いっぱいになってないわ」

「リリィは?」

「ルウィーに戻ってるわ」

「エリカ」

「行方不明」

 

 共通の知り合いは、俺と同じように各々のところへ戻ったようだ。

 平和に近づいているとはいえ、戦力は必要になる。しかしいまプラネテューヌの手にあるのは、少数の精鋭と実戦経験のない兵士だけ。

 技術はともかく、実際に戦うことで得られる「経験」 ―「精神」と言ってもいい― が一番大事な要素なのだ。引き金を引こうとする意思と、実際に引き金を引くのとでは天と地ほどの差がある。その差が埋められていないというのが、アイエフを悩ませていた。

 まあ、武器を振るうことができないというのは、普通のことだ。それは命を奪うことと同義で、もっと言えば地獄に堕ちることと等しい。死後の行き先が決められることだけでなく、心を手放してしまうということだ。

 人は何かを殺したぶんだけ、その魂が穢れ、削り取られていく。殺しに慣れるというのはすなわち、自身の中にある「人間」を捨てることなのだ。

 人であるうちは、それを捨てるのをためらうことはごく自然なことだった。

 

「かなり大人しい子みたいね、あの子……もう中学生くらいじゃないの?」

「十一だ」

 

 俺たちは離れずについてくるナタリアを見た。

 中学生だからって、騒がしくなるわけでもあるまい。アイエフの周りには変に変な奴が集まるから、余計にそう思えるのだろう。

 大人しいというよりは落ち着いた雰囲気と、少女が持つべきでない濁りきった目が彼女を実際よりも上に見せる。

 しかしこれは、喜ばしいことではない。歳と見た目には相応というものがある。ギャップがあるとはつまり、早すぎる経験をしているか、必要のない体験をしているか。

 そうでなくとも分不相応に見られることは好ましくない。誰もが自分のことを等身大として見てくれることがない。それは、自分を知る人間が一人もいないことと通じる。

 誰も知らない。世界から隔絶されたような孤独は心を蝕む。ナタリアは大人しいんじゃない。身の振り方を知らないのだ。

 

「ワケアリね」

「ワケアリだ」

 

 現代において、「異常」は「正常」と混じり合っている。ナタリアのような「異常」も、残念ながら珍しくはない。察したようで、アイエフはそれ以上の詮索はしてこなかった。代わりに、話は俺の方へ飛んでくる。

 

「あなた変わったわね」

「あん?」

「前に会ったときは、今よりもっとこう、表情豊かだったような気がするんだけど」

 

 まあ、いろいろあったのだ。特に精神のうえで、リーンボックスの兵士から暗殺者へと変わるいろいろが。

 

「もとからこんな顔だ」

 

 アイエフは肩をすくめた。この話に関しても、ここから広げられるものはない。それに、俺はこれ以上話をつづける気はなかった。

 プラネテューヌの街が、すぐそこまで迫っていた。



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「三日後?」

「ああ、直近で三日後だよ」

 

 プラネテューヌに着くやいなや、港に直行した俺たちは肩をおとした。

 

「渡る人数も少ないからねえ。一人二人送ったんじゃ、こっちも割に合わないし……すまんな兄ちゃん」

「いや、いいんだ。三日後だな」

「そのときにまた来てくれよ」

 

 船乗りのおっさんも、悩ましげな顔を見せながら手を振った。

 以前日に数度出ていたリーンボックスへの定期便は、今は一週間に一度となっていた。人があちらの国へ行く理由がなくなったからだ。輸入輸出はもちろんなく、しかも、ラステイションと同じような独自の国を運営しているあちらのお偉いさんがパープルシスターのことをひどく嫌っているせいで、観光ツアーなども立てられない。それでも細々と定期便が出されているのは、パープルシスターの支援があるからだ。

 かつて四か国が信仰の奪い合いをしつつも、協力し合っていたころの名残と言われているが、国民の間では一つのうわさが飛び交っていた。

 罪滅ぼし。

 パープルシスターが他の女神を殺した負い目から支援を行っているというものだ。もちろんこれはパープルシスターが女神を手にかけたという噂を根拠とするもので、真偽は定かではない。一種の都市伝説だが、無視できない部分があるのもまた事実だ。

 結局は神の、いや、女神のみぞ知るところ。

 

「それで、どうするの?」

 

 ついてきたアイエフが、携帯電話を弄りながら訊いてきた。

 

「適当に時間を潰すさ」

「それなら……」

 

 俺は首を横に振った。

 今はあまり大きく動くべきではないし、広く顔を知られるわけにもいかない。

 

「もう、強情なんだから」

「すまないな」

「心がこもってないわよ」

 

 ジト目で俺を見る彼女の顔は疲れきっていて、気を抜けばそのまま倒れそうだ。

 

「ま、気が変わったら呼んでちょうだい。私はこれから薬草を届けなきゃいけないから、失礼するわ」

 

 踵を返し、去っていく彼女の背中は、一人の少女のそれでしかない。しかし、その方には計り知れない重圧がのしかかっている。

 この世界では、誰もが大人にならざるを得ない。

 

「というわけで、猶予ができた。行きたいところはあるか?」

 

 俺はナタリアの方を向いた。「別に」と返す彼女の反応に、何かおすすめの場所を開くんだった、と後悔した。まあ、女の子が好きそうな場所はいくつかあるだろうと楽観的に考えながら、俺は街の中へと進んでいった。

 

 

 

「二人で。部屋は一つで頼む」

 

 ホテルの受付係は俺とナタリアを交互に見て、これまた兄弟だと思ったのか、怪しむ様子もなく端末で空き部屋を探した。

 

「でしたら、六階の二人部屋でよろしいでしょうか?」

「それでいい」

 

 周りを見渡しながら頷く。さすがプラネテューヌとあって、内装は豪華だ。広く、優雅な空間をつくるホールはくつろげるような雰囲気を作り出しつつも、客に「自分が上流だ」という錯覚を見せる。

 大勢いる従業員は、客の一人一人に目を光らせていた。不審者を見張るのもあるが、困っている客に一瞬でも早く駆けつけられるように、だろう。だが、誰が不審者かを見分けるのは難しい。昔から様々な職業の人間が利用することが多かったが、国が一つとなってからは余計に顕著だ。とはいえ、不審な行動はすぐに目をつく。ここを選んだのは、それが一つ。

 鍵を受け取り、エレベーターで上がる。尾行している奴はいないようだ。なおも警戒しながら部屋に入る。

 中の設備は一通りそろっていて、物は綺麗に整頓されている。食事や飲み物は、必要とあらば電話一本で何でもそろうし、娯楽だってホテルの中にある。

 武器を取り外して、二つあるベッドの片方に腰掛ける。とたんにどっと疲れが押し寄せ、視界が揺れた。ラステイションからここまで、一睡もせずに歩き、山も越えた。急いでいるのもあったが、いつ敵に襲われるかわからないプレッシャーもあった。ドリンクと気力でごまかしたツケが、今になって身体の動きを奪う。

 部屋に誰も入ってこれないよう仕掛けをしなければならないし、右腕の治療もしなければ。しかし、思考とは裏腹に、身体は休息を求めてベッドに横たわった。まぶたが重い。

 少し、ほんの少しだけだ。まどろむままに任せ、俺は意識を手放した。

 

 

 

 そこかしこで誰かが争い、暴れ、何かが壊れる音がする。建物に火が回り、人は逃げまどう。そんな中、俺はただひたすら目の前の敵に銃を撃つことしかできなかった。

 またどこかで爆発したような音が聞こえる。数時間前から始まった戦闘は、止むことはなく、むしろ激しくなる一方だった。

 突如として現れた、犯罪神四天王を名乗る一人の女性が、モンスターを引き連れてきたのだ。俺が纏っているダークグリーンの軍服は何か所も引き裂かれ、血でべっとりと汚れている。俺の血もあるが、大半は死んでいった仲間たちのものだ。

 

「ベクター、これ以上は耐えられない!」

「喋る暇があったら撃て! 敵は逃がしてくれんぞ!」

 

 弱音を吐く部下を叱る。すっかり囲まれてしまったこの状況じゃ、口を開ける労力も惜しかった。地面に転がっている死骸の仲間入りになるのはごめんだが、このままじゃ時間の問題。銃もナイフも体術も、使えるものはすべて利用しているが、それでも足りない。

 こみ上げてくる絶望を、がむしゃらに振り払う。

 

「ベクター!」

 

 部下がまた情けない声を上げる。ちらりと目をやると、あの女が迫ってきていた。犯罪神四天王、マジック・ザ・ハードが、身の丈以上もある鎌を振るって次々仲間をなぎ倒していく。

 俺は毒づきながら、マジックに銃口を向ける。フルオートで発射された弾丸は、彼女に当たることはなかった。モンスターが自らを盾にして、マジックとの間に入ったのだ。

 

「ぐああっ」

 

 ついに、最後の部下までやられてしまった。ついでに、俺の銃の弾も切れた。銃を地面にたたきつけて、ナイフを取り出す。

 

「ほう、まだ歯向かうか」

 

 マジックはにやりと笑って、モンスターを制した。あれだけ暴れていたそいつらは、置物のようにおとなしくなる。

 

「私の下で働く気はないか?」

「ない」

 

 実力さえあれば、犯罪組織は莫大な報酬をひっさげてスカウトしてくる。何度か経験があったことだ。

 俺はきっぱり断った。仲間をこれだけ殺されて、敵の軍門に下るほど愚かではない。

 

「そうか……やれ」

 

 それを合図に、ぴたりと止まっていたモンスターたちがぱっと飛びついてくる。牙か角か爪か、どれかが俺の身体を八つ裂きにする前に、獣にナイフを突き立てて、盾にしながら次々と他を倒していく。

 歯を突き立てられ、爪で裂かれ、血だらけになりつつもなお、俺は諦めない。そこからは、何をどうしたか、細かいところは覚えていない。気づいた時には、横たわるモンスターの死骸の上に立っていた。何もかもが限界で、気力だけが俺の身体を支えていた。

 息をするたび痛む全身に鞭打って、残ったマジックへ向かおうとしたが、当の彼女はこちらへの興味を失っていた。

 

「来たな、女神」

 

 彼女の視線の先には、八つの人影が浮いていた。女神だ。四か国の女神、女神候補生がそこに集結していた。

 

「これ以上、私の国を好き勝手させませんわ! 覚悟なさい!」

 

 豊満さと優雅さを兼ね備えるリーンボックスの女神、グリーンハートが叫ぶ。彼女がこれだけ怒っているのは、俺も初めて見た。

 

「覚悟するのは貴様たちの方だ。今度はその命があると思うなよ」

 

 マジック・ザ・ハードが空へ急上昇し、鎌を薙いだ。グリーンハートも己が槍で受ける。その攻防の衝撃はすさまじく、発せられた空気の圧が俺を吹き飛ばした。

 

 

 

 暑苦しい。目が覚めた瞬間、頭に浮かんだのはそれだった。

 それに眩しい。部屋の光が、俺の目に直に入ってくる。思わず唸って、身体を起こした。

 こみ上げる吐き気を抑え、噴き出す汗を拭う。

 

「うなされてた」

 

 もう片方のベッドに座っていたナタリアの言葉が、俺を現実に引き戻した。

 窓の外は暗く、時計を見るとすでに七時を回っていた。ここに来たときはまだ午前だったはずだ。無防備にも、何時間も眠りこけていたらしい。その間こいつはずっと起きていたんだろうか。

 

「ただの、昔の夢だ」

「昔」

 

 訊かれてもいないことを口走ってしまったことに、後悔を覚えた。悪夢に気をやられてしまったのか。夢ごときに情を揺さぶられるほど、俺は人間を捨てきれていないのか。それが正でも負でも、感情が動いてしまうことに、歯噛みした。

 

「ベクターの昔って、どんなの?」

 

 少なからず一緒にいたせいで、俺に興味を持ったのか、ナタリアの眼には好奇が宿っていた……ような気がする。だが、その好奇心を満たすつもりは毛頭なかった。

 

「昔は昔だ。話す気はない」

 

 ちょっとむっとしたような、相変わらずの無表情か、わからん。ミリ単位で顔が変わったような気がするが、洞察するほどの気力もない。悪夢はまだ尾を引いて、心臓を鷲掴みにする。

 よろよろと立ち上がって、洗面台へ向かう。二度三度顔を洗って、鏡に映る自分を見る。骨に、肉と血と皮、それにいくつかのパーツがついているだけだ。

 喋る骸骨。あの日倒れていった仲間たちと何ら変わらない、ただの死体だ。

 そうだ、それでいい。復讐を糧に動く骸でいい。死を振りまく運び屋(ベクター)でいい。

 たとえ後に残るものが何もなくても。

 

 

 

 ホテル内のレストランへ、ナタリアを連れた。高級店というわけではないが、ラステイションやリーンボックスとは違う。もちろんルウィーとも。金を払えば、いくらでも好きなものが選べる。

 まじまじとメニューを眺めるナタリアだが、どれが何かわからないということはない。書かれているものはすべて写真つきだった。しかし味がわからないとあっては、写真も意味をなさない。そういった意味では、名も像もひとつとして本来の機能を果たしていない。

 

「スパゲッティ、ハンバーグ、ステーキ、サンドイッチ……」

「ハンバーグにしろ。ここのに外れはないが、それなら問題ない」

 

 一度来たときに食べたが、ここのハンバーグは絶品だった。肉は鉄板の上で焼かれ、しかも目の前で切ってくれる。添え物の野菜も柔らかく甘く、素材と調理の良さが皿の上で一つとなる。

 促され、それを注文したナタリア。俺はステーキを頼み、しばしの間流れた沈黙を破ったのは、ナタリアだった。

 

「どうしたら、ベクターのこと教えてくれるの?」

「俺かお前が死ぬ時だ」

 

 俺はうんざりして、そう答えた。

 身の上は話す気もなかった。なにがどうなって、俺がこうなったか。それが知られるときは、俺が死ぬ時だ。そうなれば、誰かがベクター・ソーンのことを調べ上げ、いかにして一人の軍人が人殺しになったかを嬉々として語るだろう。俺の代わりに誰かが代弁する。面白おかしく捻じ曲げられようとも、それは一種の事実だ。そうして埋もれる歴史の一部になる諦めはついている。

 

「私は……」

 

 ナタリアが口を開いた瞬間、ジュワァと迸る音がして、ステーキとハンバーグが同時に届けられる。テーブルの上はいい匂いで満たされ、空腹をあおった。

 俺はナイフとフォークを使って、肉を丁寧に食らう。ナタリアにナイフはなし。だが、見よう見まねでハンバーグを切って見せた。創作でよくあるような、フォークを突き立てて貪り食うようなことをしなくてほっとした。

 一口食べて、少し止まった。味の感想でも言うのかと思ったが、

 

「私は死んでるのと変わらない」

 

 その声には恨みも怒りもない。

 まるで真実のように、ただ語るのみだった。



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 私に過去はない。あったとしても覚えていない。あるべき積み重ねが、元からないのか失ったのか、どちらにしても、「私」を構成するものが今の私にはない。だから、誰もが私を物として扱うことに抵抗がない。

 十一年前、ラステイションで生まれ、ナタリアという名をつけられた。裕福ではないが、貧しくもない、有名でもなければ、何か特別な能力があったわけでもない。

 ごく普通の家庭だった。ありふれた、どこにでもある普通。その平凡で幸せな日々は突如として崩れ去った。私が十に満たない歳のとき、何かが全てを壊した。

 後に語られる女神と犯罪組織の戦争が、私の世界を奪った。

 ここまでが、ケイが私に話した全て。

 気づいた時には、私は囚われていた。記憶喪失となって。

 いや、喪失とは呼べないかもしれない。奪われたんだ、記憶も感情も。

 外を見ることもなく、ただ一人で何かを待っていた。何もかもを失った私には、待つことしかできない。

 何もすることができなかった。何も思えなくて、何も感じなくて、無力だから。

 

 

 

 食事を終え、ひとしきり話し終わったナタリアは、一息ついた。

 失くしたのは、記憶だけじゃない。

 痛み。家族が感じた痛み、家族を失った痛み。感じるべき怒りも、その身には収まらないほどの絶望も、取り上げられたのだ。

 空っぽになり、どうしようもせず、どうしようもない。それは生きていると言えるのだろうか。ただ命があれば、生を全うしていると言えるのだろうか。

 ナタリアはその答えを知っていた。「私は死んでるのと変わらない」と言ったのが、答えだった。

 自身が歩く死体だと結論づけておいて、俺についてきたのは何故か。

 「何かを待っていた」と彼女は言った。その「何か」は彼女に生を与える希望の手か、それとも本当の死を与える死神の手か。

 「何か」が俺なら、残念ながら後者だ。生が何かなんて俺にはちっともわからない。死神もまた、自らを地獄へ引き連れる死の手を待つのみ。世界への呪いを運ぶ病はやがて、その身すら侵していくだけなのだから。

 胃が重苦しい。いや、ステーキは最高だった。だが、食ってるときにあんな話をされて、むかむかしない奴がいるか?

 

「ナタリア……」

 

 何か言おうとして、結局何も出なかった。この話を続けるのは嫌だったが、話を逸らすのも不自然だ。やがて沈黙が場を支配する。

 立ち上がって、部屋へ戻ろうとすると、ナタリアも無言でついてきた。雰囲気は最悪。部屋へ入った瞬間、仕方なく俺は口を開いた。

 

「この任務に関して知ってることは?」

「ない。私はただ……」

「待ってただけ」

 

 彼女は頷いた。

 あらゆることが気になり始めて訊いてみたが、やはりナタリアは何も知らない、知らされていない。だが、俺の頭には確かに復讐以外の何かが芽生え始めていた。ナタリアの話から生まれた、ケイに対しての猜疑心か、大きな違和感が襲ってくる。

 

「なぜお前が選ばれたんだ。なぜリーンボックスにお前を届けなければならないんだ?」

「わからない」

「何か言われたはずだ。どんな些細なことでもいい。一見関係なさそうなことでも」

 

 黙りこくって考えるナタリアを見て、自分が冷静さを欠いていたことを思い知らされる。任務を聞いた時に見たファイルには、先ほど語られたナタリアの過去も載っていた。しかし、そこには彼女が重要人物である証拠は一切載っていなかった。平凡な過去と記憶喪失で、ナタリア自身もわからないのだろう。糸口となるのは、俺の知らない情報。ケイが発した情報のみだ。

 長考していたナタリアははっとして、俺の目を見た。

 

「犯罪神……そう、犯罪神って、確かに言ってた」

 

 出たのは、思いもよらない言葉だった。それは今生きる者たちだけでなく、死んでいった者たちにとっても「絶望」と同義語だった。

 

「犯罪神……」

「知ってるの?」

 

 犯罪神マジェコンヌ。伝説としてその名は残っていた。かつて大昔に現れたそれは、破壊神とも称され、当時の女神が総出で、しかも命を賭して封印した化け物だ。だが、あくまでそれは架空の神話として、ついには人々の中から薄れていった。

 それが現実の脅威となったのは、今から数年前。女神が捕らわれたことから始まる。犯罪組織、その四天王を名乗る化け物たちが現れ、希望を手中に収めたことで、その後しばらくの世界は混乱の一途を辿ることになる。地獄のような三年が過ぎたあと、妹である女神候補生たちが姉を救い出し、犯罪組織を壊滅まで追い込んだ。

 だが払った代償は大きかった。女神七人は姿を消し、国は一つとなった。その結果は、今までに見て、思った通り、悲惨なものだ。

 原因となった犯罪神の名は、実在する悪魔としていまも語り継がれ、形のない恐怖として人々の心に巣食った。

 その恐怖を和らげたのが、皮肉にも「骸の代弁者(スカル・トーカー)」だった。「骸の代弁者」の後に残る転がった死体と銃弾が、彼を実在する人間だと知らせていた。オカルトの類では一切ない、殺意を持った人間の業。ゆえに、影でも亡霊でもなく、「骸の代弁者」。

 殺人鬼への注意と不安は、しかし存在しない恐怖を上回った。

 しかし怒りの対象である犯罪神と比べられるのは、俺にとっては屈辱でしかない。

 感情の部分は隠して、ナタリアに話しても、やはり身に覚えはないようだ。

 

「私が何か覚えてたら……」

「もしもの話はいい。他のことは?」

 

 首を横に振る。俺は大きく息を吐き出した。結局のところ、何もわかっていないのと同じだった。リーンボックスの中でも口外できない秘密を知りうるところにいたが、記憶をどれだけ引っ張り出しても、答えに辿り着けない。

 俺は、俺たちは何かを知ったとき、一つ賢くなったような気がする。世界の一部に触れたような錯覚を覚える。だが実際のところ、それがどれだけ重要であろうとも、0.0一パーセントも中心に近づくことはない。

 犯罪神のことすらも、世界のことも、自分自身のことすら知らないナタリアに、俺は少し同情してしまった。

 孤独は人を殺す。人は独りでは生きていけないとはそういうことだ。孤独であると自覚がなくなった瞬間、人は人でなくなるのだ。心の中にある「人間」が殺されるのだ。

 まだ彼女の中には「人間」が残っているのだろうか。人生を感じることはできるのだろうか。俺はその手伝いをできるのだろうか。

 

 

 

 翌朝、俺はナタリアを連れ、街を回った。彼女の中にある、何かしらに触れるような刺激を求めて。

 試しに屋台で売っていた、これでもかというほどクリームが乗ったクレープを頼んだ。具やクリームがこぼれそうになっても、慌てずに対応するが、クレープを手に持って頬張る姿は、そこらにいる少女と変わらない。

 

「美味いか?」

「うん」

 

 またしても無表情に頷く。だが、俺にはとても「何も感じていない」ようには思えない。感情が動くということがどういうことかわからないから、そう思っているんじゃないか。雑誌を読んでるとき、俺と話しているとき、ハンバーグを食べていたとき、そして今こうやって共に歩いているときも、彼女にはほんの少しの兆候が見える。

 あるいはそれも、俺が求めているからそう見えるのか。

 俺はナタリアの手を引いて、次の場所へ向かう。帽子のおかげで、誰も彼女に気づく者はいない。

 昨日のアイエフの反応や話を伺う限り、教会の人間もナタリアのことはあまり知らないようだった。ナタリアを要注意人物として見ているのは犯罪組織くらいなのだ。堂々と振舞っていれば、バレはしない。

 服屋も菓子屋も、公園だって行った。色々なものを見て、食べ歩いた結果としては、いまいち成果はなかった。

 失われた彼女の十一年は、俺が思ったよりも長く、重い。

 ナタリアをリーンボックスまで届けたら、どうなるかわからない。しかし、今この旅においては、誰かの意思に操られる人形じゃない。自らが考えて動く人間でいていいのだ。

 そう思いながらも、俺はナタリアの手を離せなかった。離してしまった瞬間、世界に蔓延る悪意が彼女を連れ去ってしまいそうで。

 

「あら、ベクター」

 

 アイエフだ。

 兵士たちを引き連れて、そのほとんどが殺気立っている。余裕がないといってもいい。

 対照に、先頭のアイエフは緊張を保ちながらもリラックスしていた。張りと慣れが生む反応の遅れが、戦場でいかに命を危険にさらすかわかっている。その域に達しているのは、彼女だけだった。

 

「私のお願いを拒んでおいて、デート中かしら?」

「そう思うなら、邪魔しないでほしかった」

「あなた、ナタリア……だったわよね? こんにちは」

「こんにちは」

 

 ナタリアはぺこりと頭を下げる。これがまた、彼女の存在を曇らせる姿勢だった。哲学的な話ではない。この普通の反応が、目の前の少女が何の変哲もない人間だと錯覚させる。教えなくてもそういうふうに振舞うことに、俺はいくらか安堵していた。

 ついてきているときも、食べてるときもそう、彼女はただの人間なのだ。

 

「大仰だな。事件か?」

「街の近くまでモンスターが来てるって連絡があったの。今から追い払ってくるわ」

 

 街を出る奴なんてそうそういないし、モンスターだって入ってくるわけじゃないのに、真面目だな。浮かんだ言葉を口に出そうとした瞬間、かすかに異様な音が聞こえた。

 

「アイエフ」

「ええ、いまの……」

 

 俺たちは耳を澄ませた。地鳴り? いや、違う。足元はかすかに振動しているが、地震じゃない。

 

「嫌な予感がするわ」

「やめてくれ。お前の嫌な予感は当たるんだからな」

 

 その予感が的中したことは、すぐに理解できた。目の前に広がる光景に、俺は唖然とする。

 地を震わせている張本人が姿を現した。

 

「なんてこった……」

 

 背筋がぞくりと凍る。

 ここにいるはずのない奴が、奴らが真っすぐにこちらへ向かってくる。夥しいほどの数のモンスターがその敵意をむき出しにして、逸れることなく俺たちを狙う。

 何故、に続く様々な疑問の答えを探している隙は無かった。迷えば一瞬で噛み千切られるか、刺されるか、斬られる。

 俺はナタリアを兵士たちよりも後ろ、さらにその後ろに逃げるように退かせる。

 種類は違えど、モンスターたちが一斉に向かってくる。

 迷ってる暇はない。俺はライフルを構え、放つ。スライム、犬、鳥を立て続けに撃ち、その後ろの角ばったブロックのような敵も倒す。

 それに構わず、飛びかかってくる。ようやく兵士たちが動き出した。各々の武器を取り出し、応戦する。だが実戦経験のない、理想の条件で訓練を積んできた兵士たちが、こんな最悪の状況で動転しないはずもなく、弾や矢は逸れ、剣や槍を持つ者は腰が引けている。

 舌打ちして、ライフルを連射する。一撃一撃が敵を砕いていく。同時に、右腕が痛んだ。歯を食いしばって、次のモンスターをポイントするが、兵士が間に入る。またも舌打ちして、すぐさま標的を変える。拙くても、戦力を失うわけにはいかない。盾だろうが囮だろうが、撃ってしまえばそれを失うことになる。そして次に狙われるのは俺だ。

 兵士たちを避けながら、引き金を引き続ける。死と隣り合わせになりながら、過去を思い出す。昔と似た状況に、既視感(デジャブ)を感じたのだ。

 あの時も乱れに乱れきっていた。マジック・ザ・ハードが軍勢を引き連れたあの時。

 国のため、平和のため、人々のためという大義が残っていた。長らく不在だった女神が戻ってきたが、まだ体力が戻っていないために、油断はできなかった。犯罪組織の威はまだ衰えておらず、むしろ四天王の動きが活発化したことで増していた。

 女神復活という希望を感じた人たちにとって、敵の大群の出現はどん底に落とされたも同然。なら小さな光でいい。小さくとも、落とされた人たちが上を見ればすぐに気づく。望みはそこにあると。

 俺は少しでも平和を取り戻すために撃ち続けた。胸には希望と誇りをもって。

 そのときと酷似した状況でもあるが、しかし全く逆の状況ともいえる。

 この中でよく立ち回っているのは、影のようにぬるりと動き、敵を捌くアイエフだけだった。が、他の兵士を邪魔だと感じても、昔の俺たちとどう違う? かかってくるモンスターに向けて銃を撃ちまくっていた時と何も変わらない。

 どこまで行っても、どれほど経っても。変わらないのは世界だけではなく人間も。

 「歴史は繰り返す」とはよく言ったものだ。過去を知ってなお、人は同じ罪を繰り返す。所詮はいつかどこかで起きた、去った過ちでしかないからだ。その罪を身をもって知ったのは、今は限られた者だけだ。

 兵士と取っ組み合う人型トカゲを撃つ。牙を立てようとする狼を撃つ。弾が切れたところで、素早くハンドガンを取り出した。

 撃つ、撃つ、撃つ。

 一発も外さずに頭に穴をあけていく。両手に持った銃が常に火を吹き、そのたびに敵が倒れていく。反動で感じる痛みが、より一層増していく気がする。

 銃の腕だけは自信を持っていた。荒立てずに事を収める隠密特殊部隊には、時には、いいや、始終一撃で仕留める技術が要求される。殺される前に殺すには、何よりも素早さと正確さが必要だったのだ。

 その技が、兵士たちを守るために発揮されている。そんなつもりはないが、結果としてそう現れてしまっている。

 あくまでこれはナタリアのためだ。ナタリアを守って、俺の復讐を果たすためだ。

 結論に至ったと同時、最後のモンスターも撃ち殺した。

 銃をホルスターになおし、振り向く、けがの程度はあれど、死んだ者はいなかった。一番重傷の兵士も、血は流れているが命に別状はない。

 

「相変わらずの腕ね、助かったわ」

 

 ぱん、と背中をたたいて激励するアイエフも、ほとんど傷はついていない。

 

「おかげで弾がほとんどない。そっちで補充してくれ」

「任せて。それくらいならお安い御用よ」

「それにしても変だな」

「ええ、モンスターが街の中に入ってくるなんて……」

「女神の加護は?」

「十分効いてるはずよ。シェアが減ってるわけでもない」

「だとすれば……」

 

 ずしん、と音がした。地面が揺れ、その場の全員がバランスを崩す。続いて耳を聾する音、咆哮だ。

 地鳴りは一定のリズムを刻みながら大きくなる。巨大な何かが近づいてくる。それが発する音は空気を震わせ、姿は見えずとも心を脅かす。

 目の前のビルが崩れ、その姿が現れた。

 二足歩行の恐るべき怪物が君臨していた。鋭い牙に、重厚感のある翼、大木ほどもある腕。俺は何度かこいつを見たことがある。

 エンシェントドラゴン。

 危険種と称されるそれは、普段であれば山奥や洞窟など、人目につかない場所を生息地をしている。しかもその領域から出ることはほとんどない。お目にかかるとすれば、開拓のための狩りか、少し腕に覚えのある無謀者が挑戦するときかだ。

 前者にしても、女神に依頼するか、一個大隊が遠くから砲撃するほどの凶竜が、今目の前にいる。

 すぐさま立ち上がり、ナタリアの手を引いて逃げようとするが、

 

「アイエフ! 逃げるぞ!」

 

 アイエフは竜と対峙し、武器を構える。長い袖から覗くカタールの刃は、あいつを仕留めるには心許なさすぎる。

 

「ここで逃げたら被害はもっと拡大するわ。あなたは逃げて。私が食い止める」

 

 馬鹿なことを言う。いくらアイエフだからと言って、圧倒的な質量の前には無力だ。

 俺はまだ死ぬわけにはいかない。女神に復讐するチャンスをふいにするわけにはいかない。それに……くそ、まだナタリアに何も与えることが出来ていない。

 だから逃げることは最善手だ。ここで無駄死にするくらいなら、アイエフや兵士たちを犠牲にしてもかまわない。

 そのはずだ。しかし、自分を正当化しようとすると、死体がフラッシュバックする。

 歯ぎしりして、銃を構える。何をばかやってるんだ、と思いつつも、銃口は敵からそらさない。

 

「ナタリア、逃げろ」

 

 ドラゴンを刺激しないように、ナタリアに言う。だが、彼女は首を横に振る。

 「私は死体と変わらない」

 昨日、そう言ってみせたナタリアの顔を見たとき、悲しそうだと俺は思った。人は独りでは生きていけない。それをわかっていながらも、自分は独りなんだと感じた彼女が一体どんな感情を抱いたのか。

 だからこそ、「待っていた何か」である俺と、死ぬときは一緒だと決めたのだろうか。

 ナタリアは決してその場を動かなかった。

 ドラゴンがゆっくりと大きな口を開ける。その体内に計り知れないほどのエネルギーが溜まっていく。

 火だ、と俺は感じた。過去に見たことがある。映画に出てくる怪獣のように、その口から噴き出されるは辺りを焼き尽くす炎。その前兆。

 エネルギーが最高潮まで高まった瞬間、俺はドラゴンの目、口内、喉を撃った。分厚く堅い皮膚で覆われた喉に弾丸は通らない。しかし、他は別だ。

 目が潰され、口に嫌な衝撃が走ったドラゴンは、たまらず上を向いてしまった。同時に、火炎が空へ舞った。

 吐き出された炎の熱が、遠く離れた俺たちにも届く。だが直撃を食らって灰になるよかマシだ。

 炎が尽きた。ドラゴンは残った片目で俺を睨む。ならもう一方の目も、と引き金を引いたが、カチッという乾いた音が鳴るだけだった。

 撃ち尽くしてしまった。あっけにとられた俺を尻目に、ドラゴンの巨体がぐるりと回る。

 塔のような尻尾が、俺に直撃した。抵抗もなく吹き飛ばされ、崩壊したビルに激突してしまう。砕けるような痛みが襲い、肺の中の空気が一気に吐き出される。視界が定まらず、身体に力が入らない。かろうじて見えたのは、ドラゴンに向かっていこうとするアイエフたちだった。

 戦いに戻ろうとするが、地面はどっちだ。空の反対側のはずだ。しかし、意思に反して、身体は上を向く。

 戦いなんてどこ吹く風で、空は澄み渡っている。と、青空に何かが横切った。とてつもなく速いそれは、急降下したかと思うと、ドラゴンに真正面からぶつかった。

 薄れゆく意識の中でも、輝くそれは鮮明に見えた。

 あれはなんだ。見たことがある。あれは……あれは……

 

「ベクター!」

 

 消える意識の最後に聞いたのは、誰かの悲鳴だった。



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 二十数年前、俺はリーンボックスで生まれた。国軍兵士である父と教会職員である母の子として。

 国の運営と平和を担う両親が帰ってこないことはたびたびあったが、俺は不満を漏らすことはなかった。

 寂しくなかったと言えば嘘になるが、何を言っても、誰が聞いてくれるわけじゃない。

 振り返ってみれば、一人で飯を食うことにもなれていたし、学校のテストでいい点を取って帰っても、誰もいないことに何も感じなかった。

 そんな折、新しい家族が生まれたのは、俺が十二の時。中学校に上がって間もないころだった。

 人付き合いがどういうものかわからずに育った俺は、友達が出来ずに過ごしていた、欲しくなかったわけじゃない。むしろ欲しくてたまらなかった。テストやテレビ、ゲームやアニメの話でもいい。くだらないことでも笑えるような誰かがいてほしかった。だけど何を話していいかわからず、適当な答えも返せない俺には、叶わない願いだった。

 たった一人の休み時間、クラスの担任が飛び出してくる勢いで扉を開けてきた。肩で息をする先生から聞かされたのは、母が危ない状態ということだった。

 妊娠して入院しているのは知っていたが、危ないとは一言も聞かされていなかった。急いで病院に向かった俺を待っていたのは、腕に収まるくらい小さな人間――これが妹だと知るのは、これから数時間後だった――とぐったりと動かない母だった。

 過労で体調が崩れていたところ、出産の痛みと終わった安心感が、死神に隙を与えた。

 母の中にわずかに残っている意識が動いた。息も絶え絶えに俺を見る。焦点は定まっていなかった。だが、俺がいるとわかっている確固たる意志を感じる。

 

「ベクター」

 

 蚊が鳴くような声が響く。聞き逃すまいと、俺は母の口に耳を近づけた。

 

「ごめんね、かまってやれなくて」

 

 それは懺悔の言葉だった。親として十分な愛情を注げなかった母の後悔。あまりにも遅くて、あまりにも尊い言葉だった。

 いいんだ、気にしてない。わかってる。あんたたちは忙しかったんだ。

 俺はそう言うことができなかった。十二年間蓄えられた複雑な感情は、許しの言葉を喉で阻んだ。

 

「お父さんを許してあげて」

 

 その言葉を最期に、母が目を開けることはもうなかった。

 俺は凍りついた。母が死んでしまったショックで、そして、母が最期の最後まで他人を想っていたことに。そのことに気づいた瞬間、俺は地獄に堕ちたかのような叫び声をあげた。

 誤報だと信じたかった。陣痛がきた、というのが伝言ゲームよろしく、大げさに伝わってきたのだと。しかし急に突き付けられた現実は、あまりにも酷だ。

 それほど構ってくれたことがなくとも、やはり母なのだ。

 家族を失った痛みは、心臓を裂くほどに俺を蝕む。どれだけ涙を流しただろうか。看護師から手渡されたハンカチは滴るほどに濡れ、くしゃくしゃになっていた。

 気づいた時には、母が遺した家族を眺めていた。生まれたと同時に親を失ったとはつゆ知らず、妹はすやすやと眠っていた。ただ抜け殻のように、俺はぼうっと見つめていた。やがて妹も運ばれ、一人になる。そんな哀れな男を察して、どれだけ経っても看護師は関わってくることはなかった。

 

「ベクター」

 

 話しかけてきたのは、父だった。軍指定の装備を点けたまま、俺の正面に立っていた。母が死んでから六時間が経過していた。

 

「いまさら何しに来た」

 

 顔も見ずに、ぶっきらぼうに言う。

 

「母さんが死んだって……」

「死んださ。もう運ばれた」

「そうか……」

「『そうか』だって?」

 

 その言葉を信じられず、がばっと立ち上がって、乱暴に父を押しやった。

 

「『そうか』だって? あんたがそんなんだから母さんは……」

 

 こんな男だから、母は代弁したのだ。

 今際の際に、離れてしまった親子を繋げられたらと、母は願った。自分が言いたいことはたくさんあっただろう。それでも、今を生きる愛する者たちのために最期まで祈った。だが、この男はそんなことはお構いなしだ。

 あとはもう、何を言ったか覚えていない。心にあることないこと、何もかも吐き出したような気がする。

 その後は……そう、妹のことを育てた。学校のこともあったから、祖父母に助けられっぱなしだった。

 父は増して、帰ってくることが少なくなった。たまにあっても、一言すら言葉を交わさない。何年たっても許す気は起きなかった。

 やがて、俺が高校生になり、妹が小学生になった時、その妹リンにこう言われた。

 

「ねえ、お兄ちゃん。お母さんってどこにいるの?」

 

 入学式という、一つの節目。もちろん他の子どもたちの周りには親が揃っていた。対してうちは、祖父母と俺だけ。リンが疑問に思うのも当然のことだった。

 

「母さんは遠くから見てるよ」

 

 天国などというものを信じているわけではない。しかし、真実を伝えるにはまだ早すぎる。

 澄み切った空に桜が舞う。このめでたいときに、悲しみを振りまくことはしたくなかった。

 だが、死神はまだ俺を離していなかった。

 

「君がベクターくんだね」

 

 父と同じ軍服に身を包んだ男が俺を訪ねてきた。ぼろぼろで血まみれの軍服を手に持って。

 

「本当にすまない……すまない……」

 

 いきなり涙を流して頭を下げる男に、俺は戸惑った。

 兵士としての実力を認められていた父は、開拓隊のメンバーに選ばれていた。

 リーンボックスは、他の国とは海で隔たれ、資源を取るにもいささか苦労していたため、街から少し離れた洞窟を採掘場として利用するために開拓を始めたのだ。

 誤算だったのは、巨大な狼型モンスターが開拓隊を襲ったことだ。これまでの情報にない敵に、父が率いるメンバーは撤退を余儀なくされることになる。だが、新米である男が腰を抜かせてしまい、逃げ遅れたのだ。隊長という義務をもってしんがりを務めていた父は、男を逃がすために戦った。

 たった一人で。

 

「ありがとう……」

 

 ぽろぽろと涙を流す男の姿が、幼い俺には理解できないもののように映った。父が守った男が、父を悼んで泣く。彼の記憶の中にいる父と、俺の中にいるのが同一人物だとは思えなかった。

 思えば、あんたと話したことはなかったな。男に案内されて、すでに綺麗にされて横たわる死体を見ても、俺の心はそう動かなかった。

 気の籠ってない言葉なら何度も投げかけた。しかし対話、相手を想い、相手と向かい合って話すことはしなかった。

 俺は兵士になることを選んだ。

 まだ父を許してはいなかったが、だからこそこの道を選んだ。

 母の最期の言葉、父の戦友の涙ながらの感謝。それが微かに見せたのは、俺の知らない父の姿。夫として、兵士として死んでいった一人の男の姿。

 最期にどんなことを思ったのだろうか。最期にどんなものを見たのか。

 俺には見えるだろうか。怒りであんたを見ようとしなかった俺に、あんたの姿は見えるだろうか。母が最期に言ったように、あんたに救われた部下が認めたように、俺はあんたを許すことが出来るだろうか。

 あんたのことが見たくて、あんたの見た景色が見たくて、俺はこの道を選んだんだ。

 

 

 

「おはようございます」

 

 底に溶け込んだ意識がゆっくりと浮上する。目は開いているが、何も見えてはいなかった。靄のようなものがかかって、視界がぼやける。何度か瞬きをして、ようやく視界が開けてくる。焦点が合ってくるにしたがって、明るい光が目に入ってくる。

 身体にかかる暖かさが、それが人口の光ではなく、日差しだということを気づかせた。

 外か? いや、それにしては眩しくない。輪郭がはっきりしてきて、ようやく目に見えたものがわかってきた。白い天井だ。

 規則的に鳴る電子音が聞こえてきた。ここは病院に違いない。電子音は俺の心臓の音だ。

 首を動かすと、白い景色の中にピンク色が混ざった。シルエットから少女だということがわかる。再び目をしばたかせると、今度ははっきり見えた。

 ぼんやりとした意識の中で、複雑な感情が一気に湧き出てきた。

 そいつは()()()()()()()()()()()()、ベッドに横たわる俺を心配そうに覗きこむ。

 俺を見つめる彼女は、俺が無事覚醒したことを確認すると、日差しよりも柔らかく暖かい笑みを浮かべた。皮肉にも、噴き出した感情が意識をはっきりさせた。彼女とは対照的に、俺は苦い顔をしていただろう。

 パープルシスターがそこにいた。何年も憎んできた復讐の対象が目の前で笑っている。そのことに戸惑いながら、引きずるように身体を起こす。

 

「お前は……」

 

 と喋ったつもりだったが、うまく口が回らなかった。電子音の間隔が早まる。それを知ってか知らずか、パープルシスターが口を開く。

 

「あなたのことは聞きました」

 

 なんだって? 俺が殺人者だと、「骸の代弁者」だと誰かが言ったのか?

 だとすれば今、俺は憎んでいる相手に捕らわれていることになる。それは屈辱だった。ケイや殺した者の家族ならいい。だがこいつにだけは……

 そんな俺の心配は次の一言ですぐに晴れた。

 

「国の代表として、礼を言わせていただきます」

 

 パープルシスターが頭を下げる。今の彼女はいわゆる「変身後」の姿ではない。とても信じられたことではないが、女神はその姿を変える。普通の少女である状態から、「女神化」とも言われる変身を行ってその身を成長させる。

 こんなに近くで見たのは初めてだった。女神と言われるだけあって可憐ではあるが、やはり人間に見える。姉であるパープルハートも、変身前は可愛らしい少女だった。彼女たちの力の源は人々の信仰であり、彼女たちが生まれるのもまた、人々の願いによってだ。

 

「国の代表?」

 

 心の中で嘲笑する。

 エゴによって生み出され、エゴによって生かされているのだ。言わば利己の塊である女神が「国の代表」などと、おかしくてたまらない。

 そんな俺の反応を、「国の代表だって? お前は誰だ?」というふうに捉えたのだろう。

 

「私はプラネテューヌの女神、パープルシスターです」

 

 と前置きして、彼女は話をつづけた。

 

「あなたがいなければ、被害はもっと酷いものになっていました」

 

 そうだろうさ。お前のとこの兵士は使い物にならない。その言葉も飲み込む。

 身体に貼り付けられた電極や包帯を外す。狼に噛まれた右腕も治療が施されていた。痛みはすっかり消え失せていて、その完璧な技を確認する。

 そこでようやく、俺はナタリアの姿を視認した。俺の足を枕にして、突っ伏している。小さな寝息を発して、わずかに顔が動いている。

 ずっとここにいたのか、少し汚れた服はそのままだ。

 

「ナタリアちゃんは無事です」

 

 一番知りたかったことを、パープルハートが伝える。

 あの猛攻のなか、ナタリアには怪我の一つもつけられることはなかった。俺はほっと胸をなでおろし、ナタリアの頭を撫でる。

 

「俺はどれだけ寝ていた」

「ほぼ丸一日です」

 

 俺は頭を抱えた。体力や消耗品が減って、また整えなければならない。リーンボックスへの船はあと一日で出るのに。

 身に着けていた装備がどこにもないことに、ようやく気づいた。スーツもない。どこかで保管されているのだろう。武器もなく、薄い病院着に身を包んでいると、無防備だと実感させられる。

 これが普通なのだ。武器も防具もなく、それを歯牙にもかけず歩くことが。不安に駆られている俺は、今どこまで堕ちていってしまっているのか。

 

「アイエフさんから話は聞きました、ベクターさん。船はいつでも出せるように準備させています」

 

 パープルシスターはそう言った。

 準備期間は与えられた。女神直々に配慮してくれるとは、最上級の特別扱い。俺を英雄かなにかだと勘違いしてないか。

 

「少しだけ、話をさせていただけませんか」

「話?」

「ええ、話です」

「話すことはない」

 

 突き放して、起き上がろうとする。そろっとナタリアの頭を動かして、起こさないように立ち上がった。

 五体は満足に動く。この国に着いたときよりも、身体は元気だった。

 

「銃弾もスーツもこちらで調整しています。それが終わるまでの、ほんの、ほんの少しだけですから……」

 

 すがるように、パープルシスターが俺を見上げる。

 そこまでして話したいことがあるのか、義理堅いのか、どうしてもという目が俺を止めた。

 分かりやすいようにため息をついて、俺はナタリアを見る。まだ目覚めそうにはない。

 

「この子が目覚めるまでの間だ。その間はアイエフに見張らせろ。それが条件だ」

 

 パープルシスターは柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 

 仮で与えられたスーツ(戦闘用スーツじゃなく、洒落たカジュアルスーツだ)を身に着け、パープルシスターに並んだ。

 道行く人たちは珍しく直にパープルシスターを見たことで、不思議そうにこちらを見ている。まさか女神と殺人鬼が並んで歩いているなんて、俺以外は知る由もないだろう。

 

「護衛は必要ないのか、パープルシスター?」

「ただ話すだけに、護衛が必要ですか?」

 

 まあ、正論だな。

 「骸の代弁者(スカル・トーカー)」も、まさか女神が殺せるわけではない。だから今まで女神だけは被害を受けていない。護衛なんて付ければ、むしろそいつの身のほうが危ない。

 パープルシスターは堂々と街を闊歩する。自分の国だからではない。人の上に立つ者として、女神として、そう振舞うことを自らに強いているのだ。

 彼女は肩にかかる重荷を自覚しているのだろうか。ふと、そんなことを思った。人の信仰をもとに生まれた彼女は、つまり、当たり前だが生まれたときから女神なのだ。この世に生を受けたときから、何をすべきかというのが決められている。

 もしも生まれたときから道を選べないとわかったら、俺はどう思うか。いや、「どう思うか」ということすら奪われてしまうのかもしれない。

 誰かの願いで生まれた少女は、自分の願いを叶えることはできない。

 

「ベクターさん、この街をどう思いますか?」

 

 歩きながら、そんなことを言う。訊きたかったのはこれか。

 プラネテューヌは、全国の人口のほとんどが集まっている。国民はいまある国の姿に慣れてしまっていて、なにが良いか悪いか、その感覚が麻痺してしまっている。街の外側から来た人間が、パープルシスターが立て直した国をどう思うか、それを聞きたいのだ。

 

「一見平和に見えるが……」

 

 俺は少しためらって……

 

「その裏で、何も変わっちゃいない」

 

 この平和は、犯罪組織が勢いにのっていたころを知っている者が維持している。だが、そう、歴史は繰り返す。こんどから生まれてくる次世代の子どもたちは、悪を知らずに育つ。そんな純真な心に、ひとかけらでも黒が混じれば、いとも簡単に染まってしまう。

 明るく眩しい光に慣れた目には、暗く深い闇はさぞ魅力的に映ることだろう。

 人々は混乱を求め、やがて世界は再び地獄へ落ちる。

 女神が悪いんじゃない。人間はそういう生き物なんだ。

 平和は人間の関係にとって不自然な状態。そんなことを聞いたことがある。人の本能は闘争を求める。自由な状態は人を獣に変える。だから人は、人間であるために自らを縛る鎖を必要とする。女神はそのために存在していた。人の希望、欲望、未来、憎悪でさえも一方に導くために、女神という鎖は欲された。

 自由は人を人でなくしてしまうのに、底ではそれを疎ましく思う者もいる。

 安定に見えて、常に不安定な状態が、そのままいまのプラネテューヌだ。

 

「……」

 

 思うところがあるのか、パープルシスターが俯く。

 この国の現状を、行く末を、彼女自身もわかっていた。このままでは犯罪組織と同じような何かがまた現れてしまうことを。

 

「この世界は、あとは滅びるのみだって……とある相手に言われたんです」

 

 その相手が誰か、彼女は言わなかった。だが、女神にそんなことを言うのは、犯罪組織の誰かに違いない。おそらくは犯罪神四天王、もしくはその上の何者か。

 

「人間は極端な世界には生きられない。平和と戦争の間にしか、人間は存在できない」

 

 安心と安全は平和の中に、発展と競争は戦争の中にある。ボールの上に立つような危ういバランスの上でしか、人は生きていることを実感できない。

 真面目に考えている自分が自分じゃないような気がして、俺は話を逸らした。

 

「あんたに聞きたいことがある。言いたくないなら言わなくていい」

「はい」

「女神を殺したっていう噂についてだ」

 

 無言。言いたくないってことだ。それはつまり、真実だということを示していた。

 このことについて、俺は特に驚きはしなかった。様々な根拠や証拠が、やったやってないの可能性としては半々だったところに、ケイの話だ。九対一で、どちらを信じるかはわかりきっていた。

 それに、パープルハートが死んだこと自体はすでに察しがついていた。彼女が「パープルシスター」と名乗っているのが証拠だ。引退したなら名を継げばいい。だが、死んでしまったゆえに、彼女は妹であることを証明している。姉が存在したことを忘れさせないために。

 話を聞いて、それだけではないことが理解できた。彼女は殺した罪を胸に抱きながらも、それを乗り越えられないでいるのだ。

 それが悪いことだとは言わない。死を引きずっている限り、重さは消えることはない。パープルシスターの存在は、死んだ者にある種の永遠性を与えていた。

 その後は、まったくの沈黙だった。お互いの知りたいことはたった一言で、いや言葉がなくとも終わる話だった。

 表情が読み取ることができれば、ナタリアとも無言の会話ができるだろうか。

 ふとそんなことが頭をよぎった。



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 本当に、ほんの少しの話し合いを終えた俺とパープルシスターは、それ以上言葉を交わすことなく病院へと戻ってきた。

 

「ベクター」

 

 廊下を歩いていると、アイエフが声をかけてきた。条件は満たされていたみたいで、脇にナタリアを連れている。

 俺の姿を認めると、ナタリアは俺のほうへ寄ってきた。小さな手で袖をぎゅっと握ってくる。

 

「忙しいところ悪かったな。どうだった」

「大人しかったわよ。全然喋ろうとしないのが気になったけど」

 

 悪意のかけらもない笑顔をナタリアに向けたが、彼女はまったく見ていなかった。仲良くなることを諦め、アイエフは俺をジト目で見た。保護者責任とでも言いたいのか。

 やめてくれ。こいつと会ってから、まだ数日しか経ってないんだ。

 

「ところで、何を話ししてたの?」

「ちょっとな」

「ええ、ちょっと、です」

 

 パープルシスターは無理に笑ってみせる。

 言いふらすようなことでもない。そこで、俺たちは濁したまま話を打ち切る。アイエフは察して、それ以上追及してくることはなかった。

 

「装備は病室に置いてあるわ。どうせ、もう行く気なんでしょ?」

 

 そう言われて、俺ははっとした。そうだ、俺はまだ道半ば。女神を殺すために、少女を届ける任務中なのだ。

 アイエフとの再会、パープルシスターとの話し合い、ナタリアとともにいる時間がそのことを忘れさせていた。決して頭から消してはいけない復讐の黒が、頭の隅へ追いやられていた。

 脳の中が染められてしまっていた。白ではなく、透明に。

 ぐっと苦さを思い出す。失った痛みを全身に巡らせて、緩んでしまった身体と心に喝を入れた。

 

「ああ」

 

 ぎりり、と音が聞こえるほど歯噛んで、俺は答えた。

 

 

 

 ベッドの上に置かれた装備で準備を整える。武器は綺麗にされているが、弄られているところはない。念のため丁寧に点検して、戦闘スーツに合わせた。

 お洒落スーツより、こっちのほうが落ち着く。それでいい。戦闘服に着替えて武器を持つと、戻ってきたと思う。

 鏡に映る俺は血に塗れて、肌色の部分は一切ない。もちろん実際にはそうではなく、血なんて一滴もついていない。しかし鏡は時として、現実よりも真実を映し出す。昔から鏡にはそういった都市伝説がある。過去や未来が見えるだとか、深夜に悪魔が映るだとか。

 いま映っているのは、紛れもない俺自身であると同時に、俺ではない何かだ。誰かから見た俺は、ベクター・ソーンという人間として映っているのか。

 

「ばかばかしい」

 

 そんな下らない妄想を断ち切って外へ出る。

 パープルシスターとアイエフへの挨拶もそこそこに、俺とナタリアはまた二人になった。

 港には、パープルシスターの言った通り、船が待ち受けていた。この街に来た初日に会ったおっさん船長が、今か今かとうずうずしながら辺りを見回している。

 予定よりかは一日早いが、あれだけのモンスターを退けた返しとしては、これでも安いくらいだ。

 俺が船長に声をかけると、少年のような輝いた顔で笑った。船を動かすのが好きで船員になったおっさんからしたら、急であろうと、船を出せる機会が増えたのは喜ばしいことらしい。

 早速船に乗り、出発を頼む。やけにいい返事とともに、船は動き出した。

 リーンボックスまではまだ遠い。先に見えるは水平線のみだ。

 デッキに座り込んで、揺れるさまに任せる。プラネテューヌでは、思わぬアクシデントに会ったせいで、心身ともに疲れきっていた。

 ナタリアの話、モンスターの大群、そしてパープルシスター。その一つ一つが、俺の中の色々を変えてしまうことだった。価値観、偏見、自身の気持ち、そういったものが更新されていく。

 

「ベクターって妹がいるの?」

 

 もう少しでどこにか行きそうになった意識が、急激に引き戻される。そんな爆弾を落としたのは、ナタリアだ。

 妹どころか、家族のことは一切話していなかったはずだ。アイエフめ、余計なことを吹き込んだな。

 

「ああ」

 

 できるだけ話を広げないように、ぶっきらぼうに答える。

 

「どんな妹?」

 

 またしても無言で答える俺。だが、前に俺のことについて訊かれたときのような、答えたくないゆえの沈黙ではない。何を言えばいいのかわからないのだ。

 

「……リンって名前だ」

 

 お前によく似ている、と言いかけてやめた。妹は、元気に走り回るような快活な少女だった。表情も明るく、何を考えているのかすぐわかるやつだった。ナタリアとは真逆。それでも、彼女たちの中に似たようなものを感じたのも確かだ。

 

「いくつなの?」

「さあな」

 

 これも、どう答えたらいいかわからなかった。相応しい言葉を探そうとして昔を思い出すと、途端に目頭が熱くなる。

 

「今は何をしてるの?」

「……死んださ」

 

 こみ上げてくるものをぐっとこらえて、何でもないように振舞う。

 いやに感傷的になって、顔を俯かせる。ナタリアが隣に座って、俺の肩に頭を乗っけてくる。そよぐ風が彼女の髪をなびかせる。

 ふわりと、昔の匂いが鼻についた気がした。

 

 

 

 リーンボックスの船着き場は、プラネテューヌのそれよりも閑散としていた。というより、人がいなかった。ここに用のある人間はそうそういない。

 だが近づくにつれて、人影が見えた。船がゆっくりと止まって、停泊所に着くころには、そいつが誰か判別できた。

 船長に礼を言って降りると、案の定、その女性がこちらへ寄ってきた。グリーンハートの変身前に似たデザインの、黒いドレスを纏う彼女は、ケイに負けじと顔に影がささっている。

 

「ベクター、久しぶりね」

 

 箱崎チカ。リーンボックスの教祖。女神グリーンハートを「お姉さま」と慕うほど溺愛していた女性だ。

 女神が捕らわれていたころ、妹である女神候補生がいない唯一の国を切り盛りしてきた有能な立役者でもある。

 そのチカが俺を覚えていることに、少し驚いた。彼女はグリーンハートを愛するがあまり、そのほかの人間に対してはそれほど興味を持っていなかったからだ。俺も直に会ったのは数度で、残りの数少ないやりとりのほとんどは電話とメール、あと報告書を送ったくらい。

 

「チカ、あんたが直々に現れるとはな」

「待ちに待ったお届け物だもの」

 

 ふわり、と緑の長髪をたなびかせる彼女は、この任務に関係していることを隠す様子もなく、胸の前で手を合わせる。

 ケイの、「着けばわかる」とはこのことだったのか。確かに、顔を見て一発で理解できた。彼女もケイと同じく、女神を憎む一人なのだ。パープルシスターに敬愛する女神を殺された同士として、怒りと憎悪で繋がっている。

 

「その子がそうなの?」

 

 俺の後ろに隠れるようについてくるナタリアをいやらしい目で見る。俺は遮るように間に立った。

 

「そうだ。それはそうと、女神を殺す手段とやらは本当にあるのか?」

 

 ここまで来て、まだ半信半疑だった。あの竜を倒したとあれば、女神の実力は噂以上のものだ。それを、ただの人間が殺せるとは考えにくい。

 

「ええ、本当。準備はできてるわ。ついてきて」

 

 チカはそう言って、元リーンボックスへと俺たちを入れる。ここも、ラステイションと同じように機能していた。

 かつての国と同じように、その栄華を再現しようとしている。だが住人達には何かが欠けていた。

 グリーンハートがいなくなったことは、リーンボックスの国民の支えがなくなってしまったことでもある。死んだと知らないのは、果たして幸福か否か。現れることはないと知らずに待つのは、一種の地獄ではないか。

 

「あれからもう二年かしら?」

「ああ」

 

 あれというのが、女神が死んだときか、俺がいなくなったときかはかりかねたが、どちらにしても変わらない。

 

「あなたが「骸の代弁者(スカル・トーカー)」だとはね」

 

 ケイから聞いたのか。人殺しを非難する様子もなく、チカは興味深そうに言った。

 

「意外か?」

「いいえ、驚きはしたけれど、ありえなくはないと思ったわ」

 

 アタクシも同じだもの、と続けて彼女は微笑んだ。

 

「あんたも俺も、こうなるなんて昔は考えもしなかったな」

「片や教祖、片や兵士、やってることは違うくても、国を想って戦ってたのは変わらなかったものね」

「ベクター、兵士だったの?」

 

 口を挟んだのは、それまで沈黙していたナタリアだった。

 

「ええ、あまり喋りはできなかったけど、仕事はできる奴だったのよ」

 

 そんな評価は聞いたことがない。まあ、お世辞でも悪い気はしなかった。

 

「それで、あなたがパープルシスターを殺してくれるの?」

「ああ」

 

 そのためにわざわざこんな柄にもない仕事をしているんだ。

 街の中心部にいくにつれて、人の活気が目についてきた。街行く人々に、チカが手を振る。人々もそれに応えて振り返す。

 柱を失ったこの国では、代わりになるものが必要だ。今は、チカがその役目を果たしている。しかし、幻影の柱はそれ自体がもろいことを知っている。女神を失って一番穴が空いているのは、他ならぬチカ自身だ。心にぽっかりとできてしまった空虚に、パープルシスターへの復讐心が埋まっている。

 

「ラステイションにリーンボックス。ルウィーも一枚かんでいるのか?」

「いいえ、やり方だけは教えてもらったけど、協力は得られなかったわ」

 

 四国の中では一番古いルウィーは、女神の数もほかより多かった。女神ホワイトハートに、妹が二人。そのルウィーもまだ存在している。

 やり方、とは女神を殺す手段のことだ。犯罪神の伝承が残っているくらいだから、何かしら物騒な文書が残っていても不思議ではない。

 

「着いたわ」

 

 案内されたのは、緑の線が入っている白い箱のような、近未来的な巨大な建物、教会だ。

 中に通され、最上階に位置する執務室までたどり着く。整然とした空間の中に、机が一つ。上には大量の書類とPCが乱雑に置かれていた。奥に続く扉があるが、閉ざされていて中は見えない。あの中は女神の部屋だ。きっと、何の配置も変えていないに違いない。

 グリーンハートが生きていた場所を崩したくないのか。あるいは……

 生前、人が使っていた部屋をそのままにしておくと、地縛霊がついてしまう。そんなことを思い出した。たとえ霊でも現れてくれれば、と思っているのか。

 俺たちが執務室に入るやいなや、二人の教会員が後ろを固める。

 

「連れて行きなさい」

 

 それを合図に、教会員がナタリアの手を掴む。俺はとっさに反対の手を掴んで引き留めた。

 

「待て、何をするつもりだ」

「必要なことよ。悪いようにはしないわ」

 

 それを聞いても、ナタリアの手を離せずに俺は固まる。ピリピリとした緊張が空気の中に混じる。解いたのはナタリアだった。

 

「ベクター、私は大丈夫」

 

 無理に笑おうとして、ただ口角を上げるだけのナタリアを見て、仕方なく手を離す。教会員はナタリアを外に連れていく。扉が閉じられ、姿が見えなくなった瞬間に不安が胸をよぎった。

 

「ナタリアをどうするつもりだ」

「だから言ったでしょ。悪いようにはしないって」

 

 疑いは晴れず、睨み続ける。チカはため息を吐いた。

 

「何も聞いてないのね」

 

 チカは手招きする。積まれた紙の束をいくつか整理して、俺に渡してきた。

 

「あなたにはそうね……最初から話しましょうか」

 

 チカはそう言って、俺が書類を読むスピードに合わせて話を始めた。

 女神と犯罪神、その戦いの歴史を。

 事の発端は、かつて封印された犯罪神が、時間の経過と人々の悪の信仰によって復活の兆しを見せたことからだ。

 犯罪神は自分の分身を作り出し、女神の弱体化を狙った。生まれた四天王は手足として動き、十分にその働きをなし、恐れられた。植えつけられた恐怖は犯罪神の糧となった。このままではいけないと思った女神たちは、犯罪神の眠る墓場へと急行。しかし四天王に返り討ちにされ、逆に捕らわれてしまう。

 三年が経ったあと、女神の妹である女神候補生たちが立ち上がり、女神たちの救出に成功。ついには復活してしまった犯罪神も倒したのであった。

 

「その話は誰でも知ってる」

 

 今や伝説として語り継がれてる神話だ。その仲間には、看護師見習いや錬金術師、歌姫、さらにはアイエフもいたそうだ。彼女のもとに人が集うのは、彼女が一つの象徴だからだ。世界を救った英雄。生ける伝説。

 

「この話には、隠されてる部分があるの」

 

 チカは深く息を吸って、続きを話す。

 女神たちは力を合わせて四天王を倒した。それは同時に、犯罪神の復活を示していた。分割された魂は消えることなく犯罪神のもとへ戻り、不完全ながらも犯罪神は目覚めた。

 だが、その力は女神たちに絶望を与えるに足るものだった。遠く離れてもわかる圧倒的な力を前に、彼女たちは考えた。考えた。考え抜いた。それでも、決定的な策は出なかった。

 そんななか、「女神の力の源であるシェアを一点に集める」という作戦を、パープルシスターが提案したことで女神たちの間に亀裂が走る。それも当然のことで、他の女神を瀕死に追いやることと同義だったからだ。

 意地でもそれを通そうとするパープルシスターのもとからは、他の女神は離れていった。

 結果的に戦力が分かれてしまっても、パープルシスターは諦めなかった。姉とともにシェアを集める作戦の遂行を決意したのだ。

 まず初めにラステイションを標的とした彼女たちの前に、その国の女神ブラックハートとブラックシスターが立ちはだかる。

 壮絶な戦いの果て、黒の姉妹にトドメをさしたのは、呪われた魔剣。絶対的な力を持つ伝説のある武器だった。

 各地にちらばる噂を巡って手に入れた、女神の命を奪うことで力を増すそれを、パープルシスターは仲間に突き刺した。

 ブラックハートがそれを望んだ。それしか方法がないことを、彼女が一番わかっていたのだ。

 最愛の姉を失ったブラックシスターもまた、パープルシスターを憎みながらも、その身体を貫かれた。

 一人殺せば、もう戻ることは許されなかった。二人殺せば、進むことしかできなかった。

 ホワイトハート、ホワイトシスターたち、グリーンハート、そしてパープルハート。紆余曲折しながらも共に歩んだ仲間を、捕らわれてから再び会い焦がれた姉を、パープルシスターは殺した。

 犯罪神を倒す。ただそのために、姉と約束した平和のために。



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「ふぅ」

 

 チカは一息ついた。

 彼女の話には憎しみが籠っていた。その話から俺が感じたのは、この世の終わりだった。

 勝利を勝ち取るために、救った命さえ犠牲にする。人間という多数を取ったのではなく、女神として選択したのだ。いや、その道しかなかった。どの命を優先すべきか、選ぶこともできない。

 抵抗はしただろう。だが、結果はどうあれ変わることはない。たった一人の女神だけが生き残り、他の女神の命と人間の未来を背負うことになる。

 任されたのはパープルシスター。この地獄のような世界でただ一人、絶望しても死ぬことは許されず、犯罪神が遺した言葉が嘘だと証明するまで生き続けなければいけない。

 永遠とも呼べる生の鎖に苦しめられている彼女の顔を思い出した。これまであらゆる底を見せつけられたパープルシスターを解放できるものは、存在しない。

 

「ナタリアはなんの関係がある」

「犯罪神は倒された。だけどパープルシスターが壊したのはその器だけ。魂は覚醒の時を待ってる」

 

 目に見えるものはあくまで容れ物に過ぎない。

 その圧倒的なしぶとさを誇る魂が本体なのだとチカは語る。

 容器を壊せば中身もダメージを受ける。だが本当の意味で消滅させることはできない。昔の女神が封印という手段を取ったのは、それが原因だ。

 

「だから、それがなんの……」

 

 言いかけて、悪寒が走った。

 

「ナタリアがそうなのか?」

「ええ」

 

 間違ってほしかった答えが、合っていると言われた。

 ナタリアの中に犯罪神がいる。

 

「そんな馬鹿な」

「いいえ、本当よ。かなり弱って不完全ではあるけれど、あの子の中には犯罪神が眠ってる」

 

 否定はできなかった。

 モンスターが凶暴化して襲ってきたのも、プラネテューヌに押し寄せてきたのも、ナタリアがいたから。一番最初、ラステイションの刑務所で犯罪組織の残党が現れたのもそう。小さな身体から発せられる正気に引き寄せられたのだ。

 心臓が跳ね上がる。

 ナタリアは記憶も感情も侵され、貪られ、理不尽にも身を乗っ取られつつあるのか。

 

「だからアタクシたちはあの子に目をつけたの。弱っていても、あの子の中にあるのは、女神と反対の力。それも純度が高い。その力を抽出できれば女神を殺すこともできる」

 

 抽出、という言葉が引っ掛かった。

 

「ナタリアは無事なんだろうな」

「悪いようには……」

「それはお前にとってか?」

「あなたにも、世界にとってもよ。犯罪神も消え去って、女神も死ぬ。後に残るのは、人間が人間のために築く人間だけの世界。そのために一人の少女が犠牲になるだけよ」

 

 嘘だ。女神を愛し、女神に支えられたこの世界も愛していたチカは、復讐に目が眩んでいる。女神が強いられた望まない犠牲を、ナタリアに課せようというのか。パープルシスターに相応しい死を与えるために。

 だが……ナタリアの命はそんなことのために浪費されるほどの価値しかないのか?

 彼女の顔が浮かんだ。無理に笑おうとして、失敗した顔だ。彼女は自らの中に犯罪神が宿っているなど知ってないはずだ。しかし解放されるべきでない何かが、心身を蝕んでいるのはわかっていたのだろう。だからこそ、抵抗もせずに連れていかれることを望んだ。女神を殺す手段が自身の中にあることをなんとなく理解して、命を扱われることを覚悟した。

 あの笑顔はそういうことだ。俺の復讐を果たさせようとした少女の、精一杯の強がりなのだ。

 

「ナタリアを渡せ」

 

 いつの間にか、拳銃を握っていた。銃口は真っすぐチカへと向いている。

 復讐に生き、何人も殺した俺が、いまさら誰かを守るために銃を握っている。何日か前の俺が見たら、滑稽に映るだろうか。笑われたとしても、ここだけは退けない。

 鏡に映った血まみれの鬼の姿が頭をよぎった。あれが理想の姿だったはずだ。容赦も感情もない、犯罪神のような破壊の化身が。だが今の俺は鬼と人間の間を行ったり来たりしている。限りなく人間の方へ揺れる心は、鼓動を早くさせる。

 

「ベクター……」

 

 少し目を伏せて、チカは……

 

「変わらないわね」

 

 悲しそうに微笑んだ、ような気がした。

 次の瞬間、脳が千切れるような痛みが襲ってきた。茨に巻かれたように、全身に痛みを感じながらも、ぴくりとも動けない。

 電気を流されたと気づいたのは、それが止んで伏したあとだった。

 床か、あるいは服に何か仕込まれたか、迂闊だった。動きを奪われた俺は、そのまま屈強な男たちに運ばれた。麻痺の影響はずっと続き、目を開けることは許されなかった。

 両腕を掴まれ、ずるずると引きずられる。身体は傷つけられていない。体力も万全のはずなのに、動かない。痙攣もしない。

 身体が揺られていることは知覚できた。歯車が動く音も聞こえる。

 エレベーターで下がっているのだ。

 内臓が浮き上がるような奇妙な感覚を抑え、今がどこか探ろうとする。やがて音もなくなり、落ちる感覚もなくなった、

 再び引きずられる。足音が反響していた。

 大げさに金属がきしむ音が聞こえ、どさりと放り投げられる。

 床は冷たく、空気は埃っぽい。無理をいわせ、かたつむりが這うような速さで手を動かす。

 長い時間をかけて、ようやく身体の主導権を取り戻した。身をよじって壁にもたれかかる。

 捕らえられ、外に出たかと思ったらまた捕らわれの身だ。

 ラステイションと違うのは、ここは牢屋ではないことだった。元は倉庫か。さびれた部屋だが、金属の扉は頑丈そうだった。

 また痺れる身体を何とか動かして、扉を押したり引いたりしてみる。びくともしない。苛立ってタックルするが、これも意味はなかった。

 頭がこんがらがっていた。女神が死んだ本当の話だとか、ナタリアの中に犯罪神がいるとか、そんなことをはどうでもいい。

 だが、ナタリアがその歴史の犠牲になるのはごめんだ。

 彼女に記憶が、過去がどれだけあっても、今がどうであろうと、ただの少女だ。十一歳の少女だ。

 未来を謳歌する資格は十分にある。なくちゃいけない。

 武器は取り上げられたが、戦闘スーツはそのままだ。諦めきれずにポケットを探る。捕らえられたらそれまでだと思っていたから、脱走用の装備なんてない。

 残っていたのは煙草とライターだけだった。一本咥えて火を点ける。

 落ち着くことはできなかった。まだ吸い終わらないうちに、手が痺れて煙草を落としてしまう。苛つきが増して、煙草を踏みにじる。

 ずっとここに閉じ込めておく気はないだろう。女神を殺すには、俺が必要なはずだ。だから俺を選んだ。

 俺の復讐心を利用しようと企んで、命を奪うところまでを完遂させようとしている。

 俺はいい。一線を越えた俺がどう扱われようと、自業自得だ。だがナタリアは……彼女には罪はない。

 どうしようもなくて、床を叩く。軽々しく頼みを受けた自分を呪った。

 結局は、ケイやチカと変わらない。いや、軸がぶれているぶん、彼女たちよりたちが悪い。

 誰がどんな目に遭っても気にすることがなかったなら、どれだけ楽か。どうしようもなく心が揺さぶられる俺は、どうしようもなく人間だ、

 これが報いか。

 鬼を騙り、人を殺した報いを受けさせられているのか。

 巻きつく(ソーン)は、人間である痛みだけを残して、俺を離さない。

 あの時からずっとそうだ。

 

 

 

 グリーンハートたちとマジック・ザ・ハードの迫り合いは、別次元のものだ。

 その一撃一撃から、爆発を起こすような衝撃が放たれる。

 抵抗できずに地面に叩きつけられた俺の身体はもうぼろぼろで、意識があるのが奇跡的だった。

 血が流れ続けているが、立ち上がる。

 女神とマジック・ザ・ハードはあっちとこっちを行き来している。上空で轟音を響かせながら、苛烈な戦いを繰り広げていた。

 女神八人を相手に、マジックは引けを取っていなかった。

 目にも止まらぬ速さで交えられた刃が、衝撃波を飛ばす。また飛ばされそうになった身体を、踏ん張って留まらせる。

 たまらず膝をつく。視線が地へ落ちる。

 何十、百へと届きそうな死体が目に入った。どれもこれも目に光はなく、ぴくりとも動かない。

 その中で俺だけが立っている。骸の山に囲まれてたった一人、俺だけが生きていた。

 戦いの衝撃で建物が崩れ落ちる。地面に、壁に、傷がつく。

 あらゆる建物に、道に、跡がつけられていく。

 不安が襲ってきて、急いである場所を目指す。

 全身がずきずきと痛むが、歩を緩めることはしなかった。一歩進むたびに嫌な予感は増してくる。

 一キロか二キロ。普段なら大したことのない間を、身体を引きずるようにして進む。

 やがて、両親が遺した一軒家へ着いた。

 思い出がありつつも、一方で抜け殻のようなこの場所で俺は育った。

 願いとは反して、やはり傷がついていた。かまいたちに遭ったように、すっぱりと切れた線が入っている。

 急激に胸が締めつけられて、おぼつかない手で扉を開ける。

 開ければ、妹が笑顔で迎えてくれるものだと希望を持っていた。いや、これは望みすぎだ。

 最後に家を出ていく前の夜、俺は妹と喧嘩した。

 きっかけは俺。

 仕事を終えてぐったりとしていたところに、妹は言った。

 寂しい、と。

 雷に打たれたようだった。父の道を追うがあまり、俺は小さいころに感じた負の気持ちを妹にも押しつけてしまった。

 あれだけ嫌っていた父親になってしまったようで嫌だった。素直に感情をさらけ出せる妹が羨ましくて嫌だった。

 俺はクソガキみたいに喚き散らした。いいや、クソガキだったのだ。自分の罪を認めたくなくて暴れるクソガキ。

 全ては俺の責任だった。

 俺が独りだったのも、母にあの言葉を遺させてしまったのも、妹に父との思い出を残してやれなかったのも。

 後悔するときにはいつも遅かった。何もかもが手遅れになったと気づいたとき、ようやく認めることが出来る。

 全ては俺が何もしなかったからこそだと。

 だから今度は手遅れにならないうちに

 この戦いが終わったら、謝ろう。

 許してくれないかもしれない。それでも、何も言わないときっと後悔する。

 明日からは休みにしよう。

 屋台で売っている胸焼けしそうなクレープでも食べながら、街を回ろう。

 お洒落な服屋にでも行って、何度も試着して好きなものを買ってやろう。どこかの菓子屋にでも行って、高級なチョコでも食おう。公園のベンチにでも座って、これまで話せなかったことをゆっくり話そう。

 だが、目の前に広がっていたのはその未来を全て潰すものだった。

 裂かれた机や椅子はどうでもいい。切れた壁や床はどうでもいい。

 俺の視線は真っすぐ、床に横たわる小さな身体にのみ注がれた。

 ぱっくりと斬られた傷から血がとめどなく出ている。俺なんかとは比にならないくらいの量が床を赤く染める。

 青白い身体から魂はすでに抜け出して、言葉は届かない。

 

「あ……あ……」

 

 出たとしても、そんな意味のない言葉しか出なかった。

 見間違えるはずがない。

 妹だ。リンだ。

 水たまりのように溢れる血に構わず、俺は跪いてリンの身体を揺する。何も返しはない。

 リンを担ぐ。

 現実味のない絶望に、地面がなくなっていく錯覚を覚える。足に力が入らない。がくがくと震えながらも外へ出る。戦いが終わったのか、すでに振動は感じなくなっていた。

 街はどこもかしこも傷つけられている。何も変わらないのは、空だけだった。

 がくり、と両膝をついた。

 憤怒が俺を支配する。

 この死をもたらした理不尽への憤怒。

 犯罪組織、モンスター、マジック・ザ・ハード……女神。自分に、世界に向けられた憤怒だ。

 それすらも、俺には感じる資格はない。

 何も救えることが出来ないなら、悪も善もない。何もない俺にできることは、殺すことだけだ。

 世界を殺す。ただ復讐のためだけに銃を撃つ。

 そのために、俺は誰でもない骸になる。

 

 

 

 ぐるぐると、悪い考えだけが頭を支配する。摩耗した心に引きずられるように、身体が重い。

 朝か夜かもわからず、吊るされている裸電球だけが唯一の光だった。

 がたん、と音がした。そっちを向くと、扉の前に紙袋が置かれている。

 扉に小さく開く窓があったのか。そこから投げ込まれたのだろう。

 ずりずりと身体を動かして、袋の中を見る。パンがいくつかと、ペットボトルに入った水があった。

 まるで飼われているみたいだな。鼻で笑って、ゆっくりとパンを食べる。水をあおり、息をついた。

 痺れはとれていたが、それ以上にこの状態が心身を麻痺させていた。

 そうして、何時間、何日経っただろうか。

 横たわる俺の頬を誰かが叩いた。

 

「おい、生きてるか?」

 

 リーンボックスの兵士が俺を見下ろしていた。ここに連れてきたうちの一人だ。

 

「準備ができた。お前を連れてこいとのお通しだ。ほら、立て」

 

 その男は俺を無理やり立たせる。

 周りを確認した。扉は開いている。その向こうに、連れてきたもう一人が立っていた。二人ともリーンボックスの戦闘服を着ている。

 

「お前も手伝ってくれ」

 

 俺の肩を支えていた男が、もう一人へ声をかける。

 その男が面倒くさそうにこっちへ近づいてきた瞬間、俺はそいつの頭を掴んで、膝に叩きつける。

 骨の砕ける感触の余韻が消えないまま、ぱっと頭を離して肩を掴んでいる男の背中へ手を回す。思った通りナイフがあった。

 柄を掴んで引き抜き、太ももへ刺す。

 絶叫が重なった。

 床へへたり込んだ男たちの腰から拳銃を奪い、一発ずつ眉間に命中させる。叫びは止んで、二体が倒れる。

 俺は飛び出すように扉を抜けた。教会の中は大体わかる。

 ナタリアがいるとすれば、ここより上の研究室か、最上階。

 生きていれば、だが。



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 銃を構えながら階段を上がる。

 今死体が二つ転がっている地下四階はほぼ放置されていて、人はいなかった。同じく人の気配のない、暗い地下三階をスルーして、地下二階までたどり着く。

 他よりも綺麗な廊下を進み、足音を忍ばせて角に張り付く。二人分の足音が聞こえた。息をひそめる。

 何やら談笑しているおかげで、距離が測りやすくなった。

 ぬっと顔が見えた瞬間、俺はその鼻を肘で砕く。そいつの一歩後ろを歩いていた男の前に姿を現し、銃弾を叩き込む。

 二人とも白衣を着ていた。鼻からとめどなく血を流す男の首を掴む。

 

「ナタリアはどこだ」

「あ……ひ……」

 

 そんな声にならない悲鳴を上げて、恐怖に目を見開く。

 

「十一歳の女の子がいるはずだ。どこだ!」

 

 銃口を頭に突き付け、もう一度問う。だが、あわあわとしているだけで男は答えない。

 引き金を引いて、俺は進む。

 銃声を聞きつけたか、次の角からさらに誰かがやってくる。

 防弾着の上に、胸や肘膝に金属プレートをつけた、完全防具兵だ。

 試しに撃ってみるも、厚いヘルメットに阻まれる。しかしよろめくという効果が出ただけで十分だ。

 立て続けに二、三発撃ちながら走る。のけぞったまま戻らないうちに、壁を蹴って跳躍する。膝をヘルメットに打ち付け、勢いで下がらせる。

 ダメージはないが、顔は完全に上を向いていた。

 着地と同時に銃を撃つ。相手は防護されていない喉から鮮血を迸らせて倒れた。

 その陰からもう一人、防具兵が来る。

 ごそりと取り出したのは警棒だ。

 気づいた時には遅かった。不意を突かれて、ガツン、と頭に衝撃が走る。

 思考と視界がぼやけて、反射的に後ろに下がる。

 俺は銃を収め、振り下ろされる棒を避ける。来るとわかっていたら、大ぶりの攻撃じゃ当たらない。次々と振られる武器を、身体をわずかに逸らすことでいなす。

 腕をつかみ取り、警棒を取り上げる。奪った武器で顎を打ち上げて、さらに首の骨を殴り折る。

 叩き落とすように、警棒を投げ捨てた。

 角を曲がり、奥にある扉へたどり着く。前へ立つと、自動で開いた。

 壁も床も机も、白一色で調えられた大きな部屋だ。ガラスの扉で仕切られた部屋が隅にある。

 リーンボックスの、秘匿された研究室だ。ここが出来たのは何年も前で、犯罪組織を倒すためのあらゆる開発が行われていた。

 今や逆の使い道をされているなんて、皮肉以外のなにものでもない。

 

「ナタリア!」

 

 叫んだのはまずかった。待ち構えていた兵士が机の影から現れ、銃弾を放ってくる。

 慌てて近くの柱に身を隠した。

 左肩と脇腹に痛みが走った。血は出ていない。

 このスーツは実弾でも身体に届かせないが、衝撃は別だ。ハンマーのフルスイングを食らったような痛みに顔をしかめる。

 舌打ちして銃を取る。

 ちらりとしか見えなかったが、あの男は普通の戦闘服しかつけていなかった。負けるはずがない。

 ぱっと飛び出す。同時に相手も銃を向けてきた。頭に当てないよう、銃口は少し低め。おかげで狙いやすい。

 撃たれる前に一発で仕留める。

 安堵する間もなく、視界の両端から敵が現れる。

 再び柱に隠れた。先ほどまでいたところに、集中砲火が浴びせられた。

 こうなれば、仕留める気があるのかないのかわからないが、ここで死ぬ気はない。

 撃たれている場所に、銃を一丁投げる。釣られて、二人が弾を放った。宙を舞う拳銃に弾は当たらない。へたくそが。

 柱の反対側から出て、二人を仕留める。

 柱から柱へ、机から机へ移動する。敵の姿はもうない。

 警戒しながらゆっくりと移動し、隅の部屋へ向かう。

 中にはいくつかのモニター、取り外された電極。中央のベッドには、見慣れたものが置いてあった。

 中に入り、それを掴む。ナタリアに与えた帽子だ。彼女はここにいた。今は?

 周りを見ても、ヒントになるようなものはない。

 ふと、モニターが置いてある机が気になった。小さな箱が置いてある。

 開けてみると、銃弾が五発。紫色のそれを、箱ごとポケットにしまう。

 おそらくこれが、女神を殺す手段。ナタリアの中の犯罪神から取り出された破壊の力。

 力の抽出はもう終わっている。だとすればナタリアは……

 脈打つ心臓の鼓動に押されるように、俺は動いた。投げ出した拳銃を拾い、倒れている男から小銃も拝借した。

 最上階にあがあるには、かなりの段を上がらなければならない。しかし、エレベータは危険だ。

 選択の余地なく、階段を駆ける。すぐに一階へ出た。

 都合の悪いことに、そのまま上へは上がれない。広いエントランスを横切って、逆側のドアへ駆け込まなければ。

 一階の通路を渡り、入り口まで来た。

 さらに悪いことに、予想よりも多い兵士たちが待ち構えていた。

 俺は戦闘の兵士へ発砲する。糸が切れたように倒れた兵士を見て、他がたじろぐ。

 先制を奪われて、怖気づいたのだ。

 その隙をついて、もう二発。銃声とともに二人の命が消える。

 ようやく我に返った兵士たちが、何発もの銃弾を放つ。

 その半分ほどが俺の身体に命中する。燃えるような感覚のせいで、どの弾がどこに当たったのかがわかる。

 一瞬、視界が灰色に染まる。痛みにうめく前に、必死で動く。

 ぐるりと前回りして、横へ飛ぶ。

 敵が俺を捉えなおす前に、銃を連射して四人を倒す。

 留まることをせずに、常にがむしゃらに動きながら弾を放つ。

 まだ敵は残っていた。何発か銃弾を受けながら、的確に撃ちぬいていく。

 小銃の弾が切れたときには、二桁ほどの死体の中に立っていた。

 全身が怒りで満たされていた。灼熱のような痛みがそれに拍車をかける。

 生きているのが不思議だった。どれだけ傷つけられようと命が消えないことに、俺はさらに怒りを覚えた。

 限界を超えた身体を、感情だけが動かしている。

 燃え盛る感情が吹き飛ぶ前に、俺は歩を進める。血だまりに倒れる兵士に小銃を投げ捨てる。

 この兵士たちと同じように倒れてしまえば、いや膝をついただけでも地獄に堕ちそうだった。

 いつかは堕ちる覚悟はある。だがまだ早い。

 首元に死神の鎌を添えられても、立ち止まる理由にはならなかった。

 死体を踏みながら奥へ踏み出し、階段を上がる。

 敵もそれをわかっていた。次々と現れる兵士たちに、俺は拳銃の銃口を向けた。

 殺意を向けられる前に、殺す。かつて彼らと同じ立場で培った能力を存分に生かす。

 どれだけ近くに寄ってこられようが、意地になって弾丸を浴びせる。

 この建物には死が蔓延していた。命を守ろうとすれば失う。手に入れようとすれば遠のく。

 後悔も懺悔も意味はなさない。もはやここは教会などではない。救いを乞うべき女神はここにいない。

 壁に手をつきながら、朦朧とした頭で足を動かす。

 音がなくなった。

 俺以外の誰も彼もが死に絶えた。死者は階段を永遠の寝床とし、静寂の空間を作り出す。

 いつもこうだった。

 他人も自分も傷つける(ソーン)の周りでは、銃声と悲鳴だけが耳に届く。

 足や腕、全身に砂袋をつけられたような重みを感じながら、一段、また一段と上がる。

 気を抜けば転げ落ちてしまいそうだった。

 誰かに引きずられている、と錯覚した。誰かの手が俺の足を掴んでいる。

 ちらりと下を見ると、闇がぱっくりと口を開けていた。何者かが、そこへ俺を引きずり込もうとしている。

 今まで殺してきた人間の憎悪か、あるいは悪魔が誘っているのか。

 ぐっと力を込め、ようやく最上階に着いた頃には、息が上がるのを隠せなかった。

 廊下を渡り、執務室の扉を叩くように開ける。

 信じられないものを見るような目が四つ。いたのは二人だけだった。

 ナタリアとチカ。

 おびえた様子もなく、チカは俺を眺める。

 こうなることを予測していたような、諦めの闇が目の中に見える。

 無言で銃口を向ける。

 引き金を引くと、カチッという乾いた音がした。弾切れだ。

 銃を投げ捨てて、よろよろと近寄っていく。

 ナタリアの手を引くと、チカは簡単にそれを許した。

 

「女神を殺す弾丸は地下にあるわ」

 

 背中越しにそれを聞く。

 この状況にあっても、彼女は復讐心を捨てきれないでいる。

 どれだけ周りを殺されようと、自分が殺されようと構わない。

 彼女の心は、女神が殺された時から変わっていない。

 

「もういただいた」

 

 ポケットから箱を取り出して、見せる。

 戦闘が終わって、俺の身体はさらに痛みを自覚し始めた。

 閉じてしまいそうな瞼を、無理やり開ける。

 

「それはあなたの銃に合わせてある」

 

 チカが、長いバックパックをナタリアに持たせる。

 俺の銃だ。

 人間と女神を殺すのに必要な武器を、彼女は再び俺に戻した。

 

「女神を殺して。そのあとは、どうしてくれても構わないわ。アタクシを殺すのも自由」

 

 ふん、と鼻で笑って、俺は出口へ向かう。

 この身体じゃ、銃を掴むことも難しい。この女を殺すのは、また今度だ。

 今やるべきことは二つ。生きることと生かすこと。

 来た道を戻る。ぬるりとぬめる血に足を取られまいと踏ん張る。

 転がる死体を無視して、入り口から外へ出た。

 差し込む光に意識がもっていかれそうになる。

 朝だ。

 右足、左足、右足、左足。亀の進むようなスピードで前へ進む。

 耐え切れなくなって、糸が切れたように俺は潰れた。

 どしゃりと音を立てて、地面に突っ伏してしまう。

 防弾着はあくまで命を救うためのものだ。弾丸の威力を削ぐだけで、撃たれても平気なわけじゃない。むしろ、一発でも撃たれれば戦闘続行不可と考えていい。

 それを何発、十何発と受けて、俺の身体は限界を超えていた。

 力が入らない。這うようにして進む。

 やがて指一本すら動かなくなって、地面に沈む。

 ばらばらにされるような激痛を感じながら、意識は地に還っていこうとする。

 ぬるり、と液体が手に触れた。赤黒い染みが地面に広がる。

 その血が、もうどこからか出ているのかわからない。あるいは、全身から噴き出しているのか。

 俺はここで死ぬのか。何もかもが中途半端なまま、何もこなすことができないまま地獄へ堕ちるのか。

 褐色の手が、すっと視界に入ってきた。

 やけに暖かい感触が頬に当たった。



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10

 事実と真実は違う。

 様々な情報の中から必要なものを見つけ、現場で本当のことを知る仕事についていた俺にとって、そんなことは百も承知だった。

 たとえ国が必死に隠す記録でさえ、それが真実であるかどうかなんて保証はない。個人が語る物語なら特に、感情や偏見が混じってしまうぶん歪められかたは尋常じゃない。

 時代が経るごとに、語る人間によって都合よく、もしくは好き勝手に変えられていく物語に意味はない。

 ケイはそのことをよくわかっていた。だから、最低限のことしか語らなかったのだ。

 自分の目で見て判断することの重要さが、俺と直に話した理由だ。ベクター・ソーンがどれほどの復讐心を持っているのかを見定めるために、あの場で顔を突き合わせた。

 はたしてそれは、満足のいく結果だったのだろう。あのとき俺が感じた既視感は、彼女も感じていたはずだ。

 まるで自分を見ているようだった。生きる理由は復讐しかない。心に負った傷に苛まれながらも、俺たちは戦うしかない。

 失ったものは戻ってこない。それでもここで止まることなんて、許されはしないのだ。

 いたずらに増えていく痛みを癒すための戦いでも、やめてしまえば意味をなさなくなってしまう。

 それが怖くて、俺たちは戦う。これ以上何かを失わないように、誰かのものを奪いながら。

 だけども、俺が復讐する相手は女神で間違いないのだろうか。世界を相手に人を殺していくのに、間違いはないのだろうか。

 パープルシスターと話して、彼女にも悩みがあることを知った。

 目を逸らしていたことを知ってしまったのだ。女神だって、ただの一人の少女であることを。

 

 

 

 全身の痛みに苛まれながら、目が覚めた。

 捕らえられた時よりも、ドラゴンに襲われた後よりも身体が悲鳴を上げている。ひどい頭痛も襲ってくる。

 首を動かした。綺麗な部屋だ。しかし病院ではない。

 物がいくつか置いてある。そのほとんどが音楽系のものだった。コンポにマイク、部屋の隅にあるのは形状からギターの入れ物だということがわかる。

 誰かの部屋だ。

 身体を動かそうとして、うまく動かないことに気づく。他人のもののように脳の指令が伝わらない。そのくせ、痛みだけははっきりと感じられた。

 焼きつくような痛みのせいで、意識が無理やり現実に引っ張られる。再び昏睡することを許してはくれない。

 ごとり、と大きな音を立てて何かが落ちた。

 俺の身体だ。

 フローリングがいつの間にか目の前にあるのを自覚して、そう思う。

 立とうとして、先ほどまで寝ていたベッドに片肘をついたところが限界だった。それ以上身体が動かない。

 不意に誰かの手が俺の身体を支えた。柔らかく、しかし力強い手だ。

 その力を借りながら、俺は上半身、そして足に力を入れてベッドに腰掛けることが出来た。

 

「大丈夫ですか?」

 

 手助けしてくれた女性を見る。

 青い髪の少女が可愛らしい少女が心配そうにこちらを覗きこんでくる。

 俺はこいつを知っている。

5pb.(ファイブピービー)というリーンボックスのアイドル。

 以前、この女がらみで仕事をしたことがある。犯罪組織に狙われた彼女を守るための任務を任されたことがある。

 

「あの、聞こえてますか?」 

「ああ」 

 

 喉を絞って、やっとそれだけ言う。

 

「女の子が近くにいたボクを呼んだんです。助けてって」

 

 ナタリアだ。助けるべき対象に助けられた。そして生き延びた。

 あれだけの銃撃を受けてなお、俺にはまだ死は許されていないのか。

 

「あの、ベクターさん、ですよね」

 

 声を出そうとして、叶わなかった。頷いて応答する。

 あの仕事で話したのはそれほど長くない。しかも、5pb.は極度の人見知りで、俺とは目を合わせなかった。なのに俺を覚えている。

 アイエフといい、人の記憶はそれほど曖昧なものでもないみたいだ。

 

「お久しぶりです。ボクのこと、覚えてますか?」

「5pb.」

 

 忘れるわけはなかった。あの任務は俺にとっても珍しく、激しい戦いだった。

 負の力を弱め、正の力を助ける彼女の歌は、犯罪組織にとって目障りなもので、教会側にとっては逆転のカギだった。

 それゆえに、彼女が狙われていたときは四国合同で事に当たったものだ。

 

「何があった。ナタリアはどこだ」

 

 額に手を当てて、俺は問う。しかし、5pb.は首を横に振った。

 

「わかりません。傷だらけのあなたを、女の子……ナタリアちゃんが引きずろうとして……」

 

 それで、偶然近くにいた5pb.に助けを求めたのだ。

 

「ナタリアはどこだ……!」

 

 繰り返す問いにも、彼女は首を振る。

 

「あなたをここに運んだあと、どこかに行きました」

 

 それを聞いて、俺の脳はまたしても無理やり身体を動かそうとした。

 

「だめ、だめ……です」

 

 5pb.が俺を押しとどめる。

 

「ナタリアちゃんに言われたんです。あなたを休ませるように」

 

 そのナタリアがここにいなければ、俺がここにいる理由もない。

 ぐっと立ち上がろうとしても、5pb.に無理やり寝かしつけられる。

 抵抗もできないほど、俺の身体は弱りきっていた。

 

「今はただ、休んでください」

 

 その言葉に誘われるように、俺は眠りについた。

 

 

 

 昏睡と覚醒を繰り返して、三日経ったころには、ようやく歩けるくらいに回復していた。

 その間、5pb.は決して俺を外に出すことはなかった。

 

「今日は食べられますか?」

 

 呻きながらテーブルに座る俺に、粥を持ってきた5pb.。

 彼女の持つ特異な能力、それだけでなく献身的な介護がなければ、ここまで早く回復することもなかっただろう。

 

「ああ」

 

 スプーンを持って、湯気の立つ粥をひとすくい、喉に流し込むようにして食べる。

 久しぶりの食事が食えたことに、唾がわいてきた。せわしなく手を動かして貪る。

 

「美味い」

 

 腹が減っては戦はできない。なにより暖かい食事は身体に活力を与える。

 俺の回復を見て微笑みながら、5pb.は空になった食器にもう一杯入れて差し出してきた。

 礼よりも早く、俺はそれを頬張る。

 

「よかったです。ここまで元気になって」

 

 5pb.は俺の向かいに座り、同じく粥を食べる。

 

「俺の銃は?」

「秘密です」

「煙草は」

「秘密です」

 

 この三日間、5pb.はがんとして武器どころか、持っていたものの場所すらを教えない。知らせてしまえば、どこかに行ってしまうことを分かっているのだろう。

 歩くことが出来るようになったが、逆に言ってしまえば歩くのが精いっぱいなのだ。痣だらけの身体は、戦いができるほど激しく動けない。

 この前のような銃撃戦になれば、たちまち蜂の巣になってしまうだろう。

 それでも俺は止まることはできない。俺はまだ、ナタリアに生きるということを教えられていない。犯罪神の器でもなく、女神への復讐の手段でもなく、彼女が彼女として生きていられる場所へ連れていきたい。

 そのナタリアに言われて、5pb.は俺を戦いから遠ざけている。

 いてもたってもいられない俺を宥めるように、彼女は落ち着いた表情で接する。

 その強い意志に根負けして、俺は話題を変えた。

 

「アイドルはまだ続けているのか?」

「はい」

「このリーンボックスで?」

「ベール様が遺したこの国を離れるなんて、ボクにはできませんから」

 

 そう言って浮かべたのは、悲しい笑みだった。

 何度か5pb.のライブを見たことがある。大きな歓声と照るライト、それが作り出す熱、その中でも燦然と輝く彼女の姿はまだ目に焼き付いている。

 まるで星だ。そう思った。

 人間の持つ喜怒哀楽を表現しきった彼女を見た者は、笑顔、感動、興奮、憧憬、様々な感情を現した。5pb.が心の底から楽しんでいるからこそ、できることだと俺は感じていた。

 だが、その彼女の先ほどの言葉は、まるでやらなければいけないことのように「アイドル」を語った。

 リーンボックスのアイドルである5pb.は、今でもこの国の象徴だ。

 だからこそ、この国を放すことが出来ないのではないか。リーンボックスの偶像である彼女は、同時に人々と自分に縛られているのだ。

 女神と似ている。

 人の希望を背負って歌うことは、5pb.にとって重荷になっていやしないか。努力して手に入れた彼女の夢が崩れてしまってはしないか。俺は問わずにはいられなかった。

 

「わがままを言えたらいいんですけどね」

 

 5pb.はそんな言葉をこぼした。

 それが俺に確信を与えた。さっき思ったことは、そう間違ったことでもない。

 

「あれから何があったんだ」

 

 俺が聞いてるのは、女神が捕らわれてから、女神が死ぬまでの空白の三年間。

 犯罪組織を相手に奔走していた期間のことだ。

 

「女神様たちが捕まってから、その妹さんたちと旅をしていました」

 

 俺は驚いた。

 彼女もまた、アイエフと同じように女神救出の旅の一員だったのだ。

 

「少しは変われると思ってました。だけど、少し世界に触れただけで、ボクの弱さは変わりませんでした」

 

 ゆっくりと食べ終わったあとの食器にスプーンを置き、膝の上で拳を固める。

 身体が震えていた。

 

「ボクは無力だ……」

 

 人見知りが直ったのは、変わった証拠だ。だけども、5pb.はそこまでいっても自分の成長を認めなかった。誰に何を言われようとも、努力と経験を否定せずにはいられなかった。

 女神についていき、そして生き残っていること自体が、彼女の強さを示していた。

 それ以上に空虚な何かが心の中を占めている。

 

「見たんだな、その目で、女神が死ぬところを」

 

 声もなく頷くとともに、身体の震えが大きくなった。何かを喋ろうとしても、涙と嗚咽が邪魔をしている。

 俺でさえ、死んだという事実と骸だけで心をかき乱され、地獄に落とされた感覚がしたのだ。

 チカが話したような凄惨な事件を、目の前で目撃してしまった彼女の心情は察するにあまりある。

 それでも、彼女はグリーンハートのいた世界を守ろうと戦っている。彼女ができることで、できうる限りの力をもって。 

 その身一つで。

 

 

 

 窓の外から見える景色は、荒れていない程度に手入れされている庭だけだ。それがむしろ寂しい。自分が壊れてしまっていくことを見て見ぬふりするような状態。ギリギリのところで踏ん張っている5pb.の状況を、そのまま表しているようだった。

 5pb.の家は間取りが広く、部屋も複数ある。一人暮らしとしては豪華だが、歌やダンスの練習場所も兼ねているとのことだ。いくつかの部屋は防音仕様になっているのだろう。

 これだけ大きな空間を、いま彼女はどれだけ使えているんだろうか。

 俺たちはモニターを見ていた。映っているのは、歌って踊る5pb.の姿だ。

 過去を収めたディスクはたくさんあるが、療養を強制されているいまなら時間はたっぷりある。

 

「あのときはデビューしたてだったな。いまじゃ、すっかりプロだ」

「ちょっと恥ずかしいかも」

 

 隣に座る5pb.が、少し俯いて頬を掻いた。

 

「見られる仕事だろ」

 

 それとこれとは違います。そう呟いて、頬を膨らます。

 仕事をしている姿を知り合いに見られるのは気恥ずかしいものがある。それは、一般論としては頷ける。アイドルもそうだというのは初めて知った。

 二つ目のディスク、5pb.がリーンボックスで行った大規模なライブのDVDを再生する。

 この時は確か、女神が捕らわれて犯罪組織の活動が活発になっていた時期だ。女神候補生が立ち上がり、旅をしていたころでもある。

 どん底に突き落とされても、希望を持っていたから戦っていたはずだ。今は?

 

「ボクのステージ、実際に見てくださったんですよね」

 

 モニターから目を逸らさずに、5pb.が言う。

 

「ああ、招待されたときと、警備のときで何度か」

「控室には来てくれませんでしたね」

「俺が個人としてお前を訪ねたと知られたら、リーンボックスの兵士がこぞって押し寄せてきてたぞ」

「でも、少しくらいは顔を見せてほしかったです」

 

 そのことは知っている。5pb.から送られてきた手紙には、チケットとともに彼女直筆の文もついてきていからだ。どちらかというと、チケットのほうがおまけか。

 

「ボク、人見知りが激しくて、話せる知り合いって少なかったんです。だからベクターさんに話したいことがいくつもあって……」

「買い被りすぎだ」

 

 お前の話を聞いて、何か気の利いたことを言えるほど、面白い人間じゃない。それほどお前に近い人間でもない。

 周りにはもっと話ができる人間がいるはずだ。

 

「このとき、何千人とお客さんがいたんです。だけど、この人たちはステージの上に立っているボクしか知りません」

 

5pb.はサイリウムを振る人々を指差す。

 

「人って、誰かを見るとき、何かのフィルターを通して見ることがほとんどなんです。グリーンハート様を見るときは女神様として、チカ様を見るときは教祖様として。ボクはアイドルとして見られました。それを望んでたはずなのに、いざそれを感じてしまうと、どうしようもなく寂しく感じるんです」

 

人に触れる機会が多いからこそ、孤独を感じてしまうのだろう。その孤独を誰かに癒してほしかった。しょうもない話、例えば最近あったことや食べたもの話の中で。

同じようなことを感じていた男を知っている。

本当は聞いてほしいことがあるくせに、誰にも理解できないと決めつけて、話しても何も変わらないと抱え込んで、自ら他人を遠ざけた。

そこから、どれだけ進めただろうか。



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11

 動けるようになるにつれて、心はざわめいていく。癒えた身体は早急に動きたがる。

 理性で抑えつけているぶん、いつ爆発するかわからない。

 目を瞑るたびに襲い掛かってくる過去から逃げるように、そわそわと落ち着かない。

 俺は何をしてるんだ。何のために生きて、何のために戦っているんだ。

 どこを進んでいるのか、どこに進んでいくのかもわからず、俺は何のために引き金を引くんだ。

 五十三人。俺が殺した人間の数。

 血が、死体の感触が、死の感覚が消えない。奪った命が魂に重りをつける。生きていることが信じられないほど苦しくなる。

 外に出て、煙草を咥え、火をつける。

 父と同じようにこれを吸えば、少しは近づけるかと思った。身体を悪くするこいつが、死へ近づかせてくれると信じた。

 結局、両方とも叶わない。

 風にさらわれた煙がどこかへ飛んでいく。それを生み出した俺を置いて。

 万全とは言えないが、回復した身体に許されたのはこれだけだ。

 

「リーンボックスには何の知らせもありません。あなたがいたことも、逃げたことも」

 

 一本吸い終わったタイミングで、5pb.が横へ並ぶ。

 

「今ならここを出ていけます」

 

 5pb.にお世話になっている間、チカはまったく動きを見せなかった。あれだけの大人数を失っておきながら、俺を探そうとする気は一切ない。

 あの紫色に光る弾丸が俺の手に渡ったことが彼女にとって重要なのだ。俺が女神を殺しさえすれば、あとはナタリア……いや、犯罪神を滅することだけが必要になる。

 5pb.は俺を家の中に招いて、机に並べたものを示した。俺の持ち物だ。俺が手を伸ばそうとした瞬間、彼女は銃の上に手を置いた。

 

「本当なら、あなたを行かせたくありません」

 

 握りつぶそうとするくらいに強く銃を掴んで、5pb.は訴える。

 

「身体じゅう痣だらけで血を流して、少しも動かないあなたを見て、ボクがどう思ったか、ナタリアちゃんがどんな顔をしたかわかりますか? あなたが傷つけば、悲しむ人がたくさんいるんですよ」

 

 そんなこと知るわけがない。俺はただ殺して、殺して、殺し続けるか殺されるのを待つだけだった。

 だが、5pb.はそんなことを言っているわけじゃない。兵士ではなく、暗殺者でもなく、俺をベクター・ソーンとして見てくれている人間がいることを説いているのだ。

 親も妹も死なせてしまい、人を殺してきた俺にかけられるはずもないと思っていた言葉と感情が向けられ、戸惑った。

 もう戦わなくていいと言われたような気分だ。

 だが、殴られ、叩かれ、撃たれ、それでもなお生きる俺には、戦い以外の道はない。

 それ以外の道を知らないわけじゃない。まだ終わっていないからだ。

 

「それでも俺は戦うしかない」

 

 復讐のために始めた旅は、もう一つの目的を生み出した。

 ナタリアに人間とはなんなのかを教えると約束したんだ。俺が勝手に、心の中で

 犯罪神の器ではなく、普通の少女としての道を進めることを示さないと、俺は先に進めない。

 

「頼む、5pb.。俺はもうこれ以上、止まるわけにはいかないんだ」

 

 ここで戦いをやめてしまえば、なにもかもが中途半端で終わることになる。死んだ命も殺した命もすべて意味のなかったものになってしまう。

 5pb.は長い間ためらって、ようやく手を動かした。

 俺は置かれたすべてを手にし、身に着ける。

 以前これらを着けたときに感じたのは、悪魔となった自分自身だ。消えない血が色濃く匂い濃くこびりついている。

 今も変わらないそれをさらに濃くしようと続けるのか、拭うために終わらせようとしているのか、俺にもわからない。

 

「ナタリアはどこに行ったんだ」

 

 それを言ってしまえば、ついに俺は旅を始めてしまう。

 最後の壁を守るために口をつぐむ5pb.を睨んだ。

 

「5pb.」

「どこに行ったかはわかりません。ですけど、終わらせるって言ってました」

「終わらせる?」

 

 震える声で言った言葉は唯一の手掛かり。

 ナタリアが幕を閉じさせようとしているのは、この旅か、それとも命か。

 大丈夫。そう言ったナタリアは、何を思って自分を犠牲にしようとしたのか。過去という判断材料のない彼女には、ただついていくしかなかったのだろうか。

 ならあの不器用な笑顔はいったいなんなんだ。連れていかれるときのあの無理な笑顔、初めての笑顔はなんなんだ。

 その答えが知りたい。

 

「世話になった」

 

 家の扉を開け、外へ出る。

 

「ベクターさん」

 

 くるりと振り返ると、5pb.の顔はあのときのナタリアと同じような、無理に作った笑顔が貼り付けてあった。

 彼女は大きく息を吸うと、口から綺麗な歌声を発した。

 以前にも聴いたことがある。CDやスピーカーからではなく、生の声で。

 その時と同じような澄んだ綺麗な声で、彼女は精一杯力強く歌ってみせた。前もそうだった。他の音が無くなったように、耳には彼女の歌しか聞こえてこない。それほどの魅力が彼女にはある。

 一曲歌い終わると、5pb.は先ほどよりも自然な笑顔を向けた。

 

「またライブ、観に来てくださいね」

「ああ」

 

 生きて帰る。

 そのときはナタリアとともに見れるだろうか。星のように輝く5pb.の姿が。

 

 

 

 船がぐらりと揺れた。

 俺はつとめて、脈打つ心臓を落ち着かせようとした。焦っても船は速くならない。

 

「あの女の子が一人で来たときはびっくりしたよ。あんたと喧嘩別れでもしたかなって」

 

 リーンボックスに来た時と同じ船長が軽い口調で言う。

 彼はナタリアを送ったあと、定期便としての役割を果たしながら俺を待ってくれていた。

 ナタリアは何か言っていたか。そう訊いても、期待した答えは返ってこなかった。

 いったいどこだ。終わらせるというのが、犯罪神の器としてのナタリアの命を指しているなら、チカのところへ行っても同じだ。わざわざ海を渡った目的は何だ。

 向こうにしかない何を求めたのか。考えてもわからない。

 終わらせるのがこの旅自体だとするなら、それは女神の死を意味する。ナタリアは女神を殺す気だろうか。どうやって? その手段である魔弾は俺の手元にある。

 いや、方法はもう一つだけある。ナタリアの中にいる犯罪神、それを解き放ったなら、世界は再び破壊の渦に飲み込まれることになる。

 嫌な予感に、頭がひりつく。 

 プラネテューヌに着いてすぐ思いついたのは、アイエフだった。 

 ナタリアが何をする気にせよ、他の国に行くとは考えにくい。彼女の中にある犯罪神の力がモンスターや犯罪組織を刺激する限り、うかつにどこかへ向かうことはできない。

 彼女だって自分が狙われていることはわかっている。それに、旅の最大の目的である女神はここにいるのだ。

 教会に辿り着くと、入り口を固めている兵士たちが見えた。だが、そいつらは俺を簡単に中に通した。

 以前ここで戦ったことが、彼らの信用を勝ち取っている。だがそんなことはどうでもいい。俺の目的は、入ってすぐ、パープルシスターと一対一で話をしているアイエフだ。

 

「アイエフ」

 

 声をかけると、すぐさまこちらへ寄ってきた。

 

「来たわね、ベクター」

 

 焦りと怒りを浮かべながら目の前で来るアイエフ。その表情は俺とどれだけ違うだろうか。

 

「この前のモンスターのプラネテューヌへの襲撃、それに今は犯罪組織が女神に対して宣戦布告を出してきたの。どうしてこんなことが起こったか、知ってる?」

 

 非難するような言い方だ。その答えを、アイエフはすでに知っている。

 

「ナタリアだな」

「あの子のことを知ってたのに黙ってたの? いいえ、それよりも、なんであの子を……」

「その時は知らなかったんだ」

 

 俺は首を横に振った。

 

「いや、最初から知ったとしても受けていたかもしれない」

 

 最初、ケイから話をされたときは復讐のことしか頭になかった。

 むしろそんなことは関係ないと思って受けただろう。女神を殺すことのできる根拠として、あの話し合いがもっと早く終わっていたかもしれない。

 

「あの子は犯罪神なのよ」

「違う!」

 

 教会の中に、俺の叫びがこだまする。いまこの場にはこの三人以外いない。それが余計に響いたように思わせた。

 思いがけない怒りに、アイエフとパープルシスターはびくっと身を震わせた。自分ですら、この荒々しさにショックを受けたくらいだ。

 

「違う。あいつはただの少女だ。犯罪神の器になっても、あいつはただの人間なんだよ」

「ベクター……」

 

 深く呼吸して落ち着く。少なくとも見た目は。心の中は、相変わらず俺を急かしていらいらさせる。

 

「ナタリアの場所はわかっているのか」

 

 アイエフが口を噤む。二人きりで話していたことを鑑みると、犯罪組織からの通達は機密事項だ。そして俺に言うほど、信用が出来ていない。代わりにパープルシスターが前へ出た。

 

「犯罪組織の宣戦布告の内容に、ナタリアちゃんのことも書かれていました。彼らはナタリアちゃんから、犯罪神を解き放つつもりでいます。阻止したいなら、来い、ただし女神一人で来ないなら、ナタリアちゃんを殺すと」

 

 パープルシスターはあっさりとばらしたが、強い眼差しで俺を制しようとする。

 

「場所は教えられません。ベクターさんの言う通り、ナタリアちゃんは人間です。犠牲にはできません」

 

 言うなり、彼女は奥の部屋へと引っ込んでいった。敵地へ向かう用意をするのだろう。もしかしたら帰ってこれない可能性もある。その際の処理に関しても、彼女は考えているのかもしれない。

 しばらくの沈黙の後、俺はすがるようにアイエフを見た。

 

「アイエフ」

「無理よ。教えられないわ」

 

 目を伏せて、それでも即答するアイエフ。

 機密、信用、犠牲、信念。様々なものが彼女の中に渦巻いている。だが、譲れないものがあるのは俺も同じだ。

 

「犯罪神がいなくなって、リーンボックスもなくなって、なんで俺が戦い続けていたと思う」

「は?」

「妹が死んだからだ。俺が愛した者がみんな死んだからだ」

 

 いきなりのことに、アイエフはぽかんと口を開ける。構わずに俺はつづけた。

 

「この理不尽な世界が殺したと思って、復讐のために戦った。だけど違った。俺の決断と理解が遅かったせいで殺されたんだ」

 

 世界はただ、なるようになるだけ。未来を作っていくのはいつだって生きている者だ。いま俺が後悔しているのなら、それは俺が作り出してしまった未来の道だ。誰にも擦りつけてはいけない責任だ。

 そのことに気づくのに、遠回りをしすぎた。

 すうっと息を吸い込んで、身体の内にある全てを吐き出すように、次の言葉を吐いた。

 

「何年も見たはずの笑顔が、今はもう思い出せない。数時間しか見ていない死に顔しか思い出せないんだ」

 

 骸の代弁者(スカル・トーカー)と呼ばれているが、皮肉にも俺は身近な人の考えもわからない。

 父と母と妹が何を思って生きていたのかは俺にはわからない。俺が手を伸ばせば、その思いに届いただろうか。

 

「これ以上手遅れになるのはごめんだ」

 

 ナタリアをこの手で救わなければ、一生見ることはできない。俺が人生で感じた疑問の答えも、ナタリアの笑顔も。

 アイエフは長いことためらって、口を開いた。

 

「プラネテューヌの外側、南に位置する森の中に工場を作ってる」

「恩に着る」

 

 俺はそれだけ言って、踵を返す。この先に望んだ未来があるか確かめる。

 それを見られるかどうかは、俺次第だ。



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12

 施設の入り口を見張る。

 工場は隠されるように森の中に建てられていて、ばれないまま近くまで寄るのは容易だった。

 妙だと感じたのは、その周りには何もいなかったことだ。女神を呼んでおきながら、そして重要人物であるナタリアを捕らえておきながら、人の気配を感じない。

 罠のにおいがぷんぷんするが、そこにナタリアがいるなら行くしかない。

 監視装置がないことを確認し、すっと近づく。頑丈な金属の扉を開ける。中は最低限の照明だけが点けられ、若干暗い。

 やはり人はいない。それほど大きい空間ではない内部を進んでいくなか、おかしさが増していく。ナタリアはいわば、犯罪組織にとっては最終兵器のはずだ。

 異様な静寂に包まれながら歩を進める。汗をかいているのがわかる。沈殿した空気が、人がいないことを知らせる。それが余計に心配だった。

 ここに誰もいないなら、ナタリアはどうなった。用済みになったのか?

 耳に痛いほどの静寂の中、俺以外の足音を察知して、すぐさまそちらへ銃を向ける。

 

「ベクターさん、私です」

 

 闇からぬっと出てくるように姿を現したその少女は両手を挙げて、危険を与えない意思を見せる。

 女神パープルシスターがそこにいた。彼女の身の丈ほどもある大きな剣を背中に差して、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

「お前がなぜここに……」

「それは私が訊きたいことです」

 

 互いに視線を相手から離さない。俺は銃口を向けたまま、パープルシスターに答えた。

 

「俺はナタリアを連れ戻しに来ただけだ」

「本当にそれだけですか」

 

 俺は頷いた。言ったことは目的の一つ、しかも一番の目的だ。本当ならここにいるはずの犯罪組織を皆殺しにするつもりだったが、ここにはいない。

 

「あなたがここにいることが知られて、ナタリアちゃんがもし……」

「ナタリアに何かするなら、そいつを殺す」

「ベクターさん……あなたは……」

 

 緊張が走った。空気を伝う俺の殺気を感じて、パープルシスターの身体が強張る。

 彼女は俺をいさめるように武器を下ろした。

 

「ナタリアちゃんは私が助けます。だからベクターさんは待っていてください」

「無理だ」

 

 俺は即答した。

 

「お前を信用できない」

「ナタリアちゃんが犯罪神だからですか?」

「お前がそう思っているからだ」

 

 少女が毒されている。その真実よりも、犯罪神がこの世にいて世界を滅ぼそうとしている事実がこいつらにとっては重大なのだ。

 器となっている少女はあくまで二の次。だが俺にとっては何よりも守るべき存在なんだ。

 

「俺以外にナタリアを任せるつもりはない」

「そこまでして、ナタリアちゃんを助けようとする理由はなんですか?」

「お前ならわかるはずだ、パープルシスター」

 

 以前会ったときとは違い、少しは真実に触れた。幾分かチカに偏った物語ではあるが、起きたことは真実だ。

 女神を殺してなお、パープルシスターは戦い続けている。

 失ったものに報いるための戦いは、さらに傷を深めていく。人との溝を広げていく。

 それでも戦う。

 

「あなたも誰かを……」

「殺した」

 

 煮えたぎるほどの憎悪が胸をかき乱す。それはまぎれもなく、自分自身に対してだ。

 

「俺が殺した」

 

 恨み、痛み、過去、復讐、戦い。自分の中に積もり、沈んでいるものに引きずられるままに進む道は、ただ失うだけの人生だ。

 そんなものに、俺の周りは汚された。たった一人の絶望が、数多の人間の歴史を断ち切った。両親、妹、教会職員、犯罪組織。

 だから、途切れさせた道を続かせていかなければならない。

 ときには語り、ときには動き、あらゆる方法でいなくなった人間の存在を伝え、いま在る人へ継いでいく。

 その義務が俺には、俺たちにはある。

 

「分かりました、ベクターさん」

 

 そう言うパープルシスターの目からは、完全に警戒心がなくなっていた。

 俺に背中を向けて進む姿は無防備だ。今なら殺せる。俺の手には女神の力を奪う銃弾がある。

 だが、すっかり撃つ気は無くなっていた。

 警戒しながら進んでいく。二人分の足音だけが反響していた。

 やがて一本の通路を見つけた。短いその一本道の奥にはエレベータが待っていた。それにもセキュリティはかけられていない。

 たった一つだけあるボタンを押すと、ごうんごうんという音と振動が感じられた。収まると、エレベータのドアが開く。一応銃を構えていたが、予想通り誰も乗っていない。

 中のボタンも少なく、「1」と「B1」しかない。B1を押してしばらく待つ。

 

「私がしたこと、知っているんですね」

 

 沈黙に耐えられなくなったのか、パープルシスターが話しかけてきた。

 

「チカから聞いた」

 

 隠すことでもないことと思い、正直に話す。

 パープルシスターにとってこいつは困った名前らしく、頷くでもなく俯いた。まあ確かに、彼女の複雑な過去を鑑みれば、この反応は当然のものだった。

 チカのあの苦々しい表情と言葉は、もちろんパープルシスターにも向けられたはずだ。

 その一つの原因である大剣を、俺は指差した。

 

「その剣か? 魔剣とやらは」

 

 俺が魔剣の存在を知っていることに驚きつつも、彼女は剣を抜いた。

 姉と仲間の血を吸った証拠品であるはずのそれを、一番大事なもののように抱きかかえた。

 紫色の剣は薄く光っている。

 

「はい、女神の命を糧に力を増す、呪いの剣です。これがないと、犯罪神には勝てませんでした」

 

 殺して真価を発揮するということは、女神の命を奪った剣であると同時に、女神の命があったことを示す剣でもある。

 犯罪神を倒したからといって捨ててしまえば、まるで女神の存在を手放したかのように、ただの剣になってしまう。

 ある種の形見。そこに魂がないことは分かっていつつも、命を奪ったことに意味があったと信じたくて、断ち切ることが出来ない。

 剣の呪いは最大の役目を終えたいまも、パープルシスターを蝕み続ける。彼女の罪の証明であり続ける。

 

「そう信じないと、無駄になってしまうんです」

 

 その言葉は到着したエレベータの音にかき乱されたが、はっきりと聞こえた。

 それほど大きくない箱に乗り込み、地下へと降りていく。

 

「チカさんはどうでした?」

「お前のこと、かなり恨んでたぞ」

 

 パープルシスターは乾いた笑いを浮かべた。

 

「そうでしょうね。チカさんはベールさんのこと大好きでしたから。ケイさんも、ミナさんも、いーすんさんも」

 

 ラステイション、ルウィー、プラネテューヌ、それぞれの教祖は女神の一番近くで補佐する立場にある。それゆえに、彼女たちとの心の距離も近かったはずだ。

 特に、犯罪組織に捕らえられ、救われたあとすぐに命を絶たれた彼女たちの絶望は計り知れない。

 だが、と俺は思う。

 その命を絶って世界を救うという責務を負わされたのは、まぎれもなくパープルシスターなのだ。

 世界を安定させる義務があるのが彼女なら、何かを恨む資格があるのも彼女だけだ。 

 

「姉は……パープルハートは最期のとき、どんな顔だった?」

「最期まで笑顔でした。痛いはずなのに、怖いはずなのに、私を安心させようとして、最期まで……」

 

 パープルハートが口をおさえ、嗚咽を漏らす。頭の中には、死んでいった者の笑顔と苦悶の表情と骸が鮮明に刻まれている。

 彼女は女神だ。人を導き、救う存在だ。だが、その前に一人の少女なのだ。課せられた責任を背負うには、あまりにも小さく未熟。

 それが当たり前だ。戦いなんて無縁のところにいるのが普通なのだ。なのに、人は、世界は、ただ女神だからといってパープルシスターを責め立てる。

 必死に戦い抜き、必死に選択し、必死に守ったこの世界が理不尽にも、彼女を追い立てる。

 そんな彼女の境遇に、俺の復讐心は薄れていった。

 死者に許されることは決してない。

 与えられることのない許しを求めて、彼女は進みつづけた。「もういい」と、「よく頑張った」と誰も言ってくれないから。

 きっとこれからも誰も言ってくれないだろう。

 だが、それでも……

 

「それでも、お前に救われた人間はいるはずだ」

「ベクターさん……」

 

 パープルシスターが口を開いた瞬間、地下へと着いた。

 何事もないまま地下へ降り立ったエレベータが開いた瞬間、すぐさま銃を構える。

 ドーム状のがらんとした空間には、上とは違って、設備が整っていた。たくさんのモニターにPC、書類が乱雑に置かれている。だが、それもいまや沈黙を貫いている。

 落ちている書類を、踏みざまにちらりと見る。数行の中に、「ナタリア」と「犯罪神」の文字がいくつもあった。

 この場所は犯罪神のために作られた施設なのか。これだけの空間と設備は、ただ破壊のために用意されたのか。

 いいや、それよりも、ここにいるのは俺たちだけなのか? 女神を呼んでおきながら、誰もいないのは腑に落ちない。まるで、何かから逃げたような……

 ドームの頭頂部は、おそらく五十メートルほど。この広い空間の中、一番奥に配置された大きな直方体カプセルへ近づく。SF映画でよく見るような冷凍睡眠用の装置に見える。

 

「私が見てみます」

「いいや、これがお前への罠なら、俺が見た方が危険は少ない」

 

 単純な爆弾などが女神に効かないことはあっちもわかっているはずだ。何か仕掛けられているとしたら、ナタリアを捕らえてからということを考えると、犯罪神の力を封じ込めた煙とかだろう。

 技術と時間があったリーンボックスでさえ、小さな銃弾、たった五発にしか込められなかったのだ。凝ったものを作っている暇はなかったはず。

 ここに含まれる矛盾に違和感を抱きながら、カプセルへ向かう。中を覗ける窓に顔を近づけても、何もなかった。中にも何も入っていない。

 

「問題ない」

 

 パープルシスターに向き直った瞬間、このドームをまるごと覆うような殺気が背筋を上ってきた。

 それが色濃く感じられる闇の中へ銃口を向ける。パープルシスターはすでに魔剣を構えていた。

 これだけの大きな気を発する相手はいったいどれだけの巨躯なのか。

 ぬるりと現れたそれは、しかし大きいどころか俺たちより小さかった。

 

「ナタリア……?」

 

 褐色の肌、白い服に赤い上着。俺が求めていた人物がそこにいた。

 

「違う」

 

 ナタリアはどす黒く、低く、ざらついた声で答えた。

 地に足がつかないような取り返しのつかなさが、心臓の鼓動を早める。呼吸が荒くなって、無意識の間に拳を握っていた。

 誰だ。混乱と焦燥で口が動かせない。

 いいや、相手が何かは分かってる。こいつは……こいつは……

 

「我は犯罪神。犯罪神マジェコンヌだ」



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13

 がくり、と膝が落ちる。全身に力が入らない。

 ショックで頭が真っ白になりながらも、少女から目が離せない。

 

「礼を言っておこう。ここまで、この器を運んでくれたことにな」

 

 浮かべたのは笑みだ。ナタリアがぎこちないながらも見せた顔じゃない。彼女の中にいる犯罪神の悪意あるにやけ顔だ。

 

「おかげでこの通り、不完全ではあるが復活することが出来た」

 

 音もなく、ゆるりと近づくナタリアはそう言った。

 犯罪神だ。まごうことなき、世界の破壊者。遅かった。遅すぎた。俺はまた手遅れになってしまった。

 銃が手から落ちる。心身が麻痺したように、それを拾う力も気力もない。

 

「再びお前に問おう。我の下で働く気はないか?」

 

 過去、同じ問いを受けたことがある。モンスターの大群を相手にしたとき、マジック・ザ・ハードにスカウトを受けた。

 「再び」と彼女は言った。あの魔女と俺のことを知っているのだ。マジック・ザ・ハード含めた四天王は犯罪神の分身である、ということはチカに見せられた資料からすでに理解している。

 それだけじゃない。ナタリアが見て、感じたこともこいつは知っている。

 

「望むなら、世界を何割かやってもいい。この少女をお前のもとに返してやってもいい。我は女神を殺し、破壊ができればそれでいい」

 

 ただ破壊するだけの存在。それが犯罪神。

 その犯罪神が、いつの間にか手にした鎌で女神に襲い掛かる。

 小さな身体に似つかわしくない巨大な武器を振るう姿に、ナタリアの面影はない。いや、姿は知っている。動きと言葉と心が別物なのだ。

 

「久しぶりだな、女神。あれから競争のない平和は創れたか?」

「マジェコンヌ……!」

 

 とてつもなく急なスタートだったが、パープルシスターは攻撃を受け止める。

 復活したとはいえ、犯罪神はまだ不完全だ。一度倒した実績のあるパープルシスターのほうが有利だろう。普通ならば。 

 だが、犯罪神が器としているのは、十一歳の少女なのだ。

 

「あのときと同じように器を壊してみせるか? この少女が死んでもいいならな」

 

 血が滲むほどに唇を噛みしめる。

 ここに来たときに感じた違和感。倒す準備ができてから女神を呼べばいいのにという違和感は、綺麗に払しょくされた。

 犯罪組織が狙っていたのは犯罪神の力じゃない。犯罪神そのものだ。犯罪神を使って女神を倒そうとしたのだ。

 だが、あまりにも強大な力に恐れをなして逃げた。女神を呼んだのは、復活の直前か、それとも脅されてか。どちらにせよ、犯罪組織の思惑はだいたい成功。

 そして、利用されることすら犯罪神の手の内だった。

 二人の攻防に壁も床も引き裂かれ、紙も機械も真っ二つになる。

 これが、こんなのが犯罪組織が求めていたものか。

 破壊。

 犯罪組織が、人間が、ケイが、チカが求めたもの。いや、俺もだ。

 負をもって負を消滅させようとした俺は、この犯罪神と何が違うだろうか。

 ナタリアを利用して復讐を遂げようとした俺は、破壊の化身と何も変わらない。いつもそうだ。届かないと気づくまで、銃を撃つことしかできない。

 切り結ばれた刃が離れる。お互いが間合いから外れて、一呼吸置いた。もちろんそれで戦いが終わるわけではなく、むしろ本格的に始まる。

 目が眩む光が唐突に瞬いて現れたのは、ビキニのような防具に身を包み、扇のような翼を背に展開したパープルシスターだ。

 これが女神としての本来の姿。戦う女神の姿。

 

「パープルシスター」

 

 整理はできていないが、ようやっと頭が回ってきたところで、パープルシスターの横へつく。

 

「ごめんなさい、ベクターさん。私は犯罪神を生かしておくわけにはいかないんです」

 

 かつて女神七人を犠牲に手に入れた勝利。無駄にしないためにも、ここで討たなければいけない。

 それはわかっている。

 

「ナタリアが死ぬぞ」

「わかってます」

「わかってない!」

 

 彼女には彼女なりの理がある。過去の苦悩に基づいた理。この世界を守る責務。

 それはもたらすのは、俺が納得することのできない結果だ。

 苦悶の表情で、パープルシスターはまっすぐ飛ぶ。

 今度こそ、犯罪神をこの世界から消すつもりだ。それが意味することを理解しているはずなのに。

 一瞬にして間合いが詰められ、剣が振り下ろされる。

 

「やめろ!」

 

 即座に放った銃弾はパープルシスターの背中に直撃したが、動きを逸らしただけで害はほとんどない。

 魔剣は地面を穿った。ナタリアの身体には傷一つついていない。強大な力の前には、傷をつけることができない。

 パープルシスターも犯罪神も容赦なく刃を閃かせる。相手を殺す一撃を避けつつ、叩き込もうとする。しかし、女神のほうには躊躇が見られた。少女の命を絶つことに抵抗があるのだ。

 彼女は命の重さを知っている。死んだ女神の中には小さな子どももいたことも、要因かもしれない。この戦いの先にある骸を、過去の亡骸と重ねてしまっているのだ。

 俺は懐から弾を一発取り出した。旅の目的である女神を殺す銃弾。パープルシスターを止めるには、ナタリアを救うにはこれしかない。

 

「撃て、ベクター! 我と女神、どちらでもいい。その弾丸で撃てっ!」

 

 少女の姿を借りた犯罪神が叫ぶ。このままでは敗けてしまうことは、彼女にもわかっていた。

 女神がはっとこちらを向いた隙をついて、犯罪神が拳を叩きつけた。パープルシスターがごろごろと転がり、俺の足元で止まった。

 犯罪神の力をもったこの弾丸は、女神を弱め、犯罪神を強くする。どちらを撃っても、パープルシスターは死んでしまうだろう。

 何年も募っていた復讐を果たせることになる。

 ライフルに銃弾をこめる。今度命中させれば、おそらく弾丸は女神の身体を貫き、血を流させる。

 それがこの旅の最終目的だ。その結果を何年も思い描いてきたはずだ。妹が死んでから、自分に敷いた道だ。

 妹の顔は何年も見てきた。笑顔も、泣き顔も、怒った顔も。何年も、何年も……なのに、あいつの死んだ顔だけが頭から離れない。

 それを拭うために戦ってきた。この一瞬のために。

 パープルシスターが俺を見る顔は、命を諦めきれず、しかし覚悟のある目をしていた。

 引き金に指をかける。

 かつて、女神を殺した彼女は命を奪われる覚悟を持っていただろうか。

 他人の命と世界を背負う気概はあっただろう。だが自分の命を奪われる覚悟は? 誰かに恨まれ、その感情を一身に受ける覚悟は?

 

「俺にはできない」

 

 そんなの、覚悟する必要がない。

 パープルシスターもナタリアも誰かの道具じゃない。誰かの思惑に利用され、誰かに脅かされることを危惧されることなんて、考えなくていいはずなのだ。

 理不尽にさらされた彼女たちを自由にさせるなら、ここだ。

 

「あれだけ殺してきて、いまさら誰が死のうが関係あるのか」

 

 あるさ。

 

「俺が進む道がある。ナタリアとパープルシスターがそれを教えてくれた」

「戯言だ。違う道を進めるとでも思っているのか」

「それを確かめる」

 

 撃つしかしてこなかった俺の道を変えるなら、ここしかない。

 ここを逃してしまえば、もう二度と変えられない。

 

「だから、俺には撃てない」

 

 撃たないという選択。

 それは停滞ではなく、転換だ。代弁者と呼ばれた俺の、自分の選択だ。

 俺は銃を地面に下ろして、これまでの道を絶った。

 一歩、また一歩ナタリアに近づき、距離を詰める。戦うためでもなく、決着をつけるためでもない。

 あっけにとられたナタリアの身体を引き寄せ、抱きしめる。

 中にいるはずのナタリアが暖かさを感じられるように、しっかりと抱きとめる。

 ナタリア。俺もお前も死んでない。何かを失って、一人になって、底なしの孤独を感じても、俺たちは生きている。

 その小さな身体から、粘ついた黒い液体が染み出して手を伸ばしてきた。それが俺の身体に触れるたび、心の中に残された微かな憎悪が増していく。

 やがて形を持ち始めたそれは、ナタリアの身体から完全に離れていた。俺を新しい器にするつもりだ。

 うねうねと蠢く触手のようなものが伸びてきた。頭に触れた瞬間、これまでの骸が鮮明に浮かぶ。

 モンスターに殺された部下、母も父も、そして妹も。

 それは確かに俺が見た死だ。だが、無理やり引き出された感情に身を任せるわけにはいかない。

 

「ベクター」

 

 解放されたナタリアの顔には明らかな悲哀が浮かんでいた。

 初めて見る、彼女の本当の顔だ。

 

「ナタリア」

 

 だけど、そのままにしておいていいわけがない。

 お前はまだ十一歳。誰かの道具じゃなく、犯罪神でもない。未来ある一人の人間なんだ。

 

「大丈夫さ」

 

 安心させようと浮かべた笑顔はどう映っているだろうか。

 きっと、いまにも消え入りそうに見えているに違いない。経験からそれはわかる。

 ああ、そうか。

 母が今際の際に言った言葉の意味が、父が命を賭して人を守った理由がいま分かったような気がする。

 あんたたちは過去を見ながら、現実を感じて、その先の未来を見据えていたんだな。

 ナタリア。お前も、リーンボックスで見せたあのぎこちない笑顔は、俺の未来を作るためのものだったんだな。

 俺の復讐の道を遂げさせようと、その道を作ろうとした。

 もういい。もういいんだ。

 ナタリア。今のお前は、今を感じればいい。未来のことを考えるのはまだ早い。

 

「まだ死ぬわけにはいかない」

 

 俺は拳銃を手に持ち、銃弾を放った。

 無駄かもしれない。それでも撃つ。威嚇にしても牽制にしても、攻撃にはダメージを与える以外の道がある。それが犯罪神に効くかはわからない。だが、犯罪神であるはずの粘ついた液体は、俺から離れてよろめいたように見えた。

 スライム状の物体は、数センチしか伸びない触角で何かを捕らえようとするが、すでにその範囲には何もない。

 ひどく情けない。世界を恐怖に陥れた犯罪神が、モンスターの中で最弱のスライムになってしまうほどに弱められてしまうとは。犯罪組織が見たら、さぞ失望するだろう。

 俺はさらに一発撃ち込んだ。今度は悲鳴が聞こえた。

 

「ベクターさん、あとは任せてください」

 

 パープルシスターが魔剣を両手で構える。

 俺は頷いた。ここで終わりにしよう。ナタリアの手を引いて、後ろへ下がる。

 女神が剣を振り下ろす。しゅう、と音を立てて空気に溶けるように消えていった。

 あっさりとした幕切れだったが、これで本当に終わったのか。俺たちはしばらく何もない空間を見届け、息をついた。

 何もかも終わってしまった。

 

「終わった、の?」

「ああ、終わった」

 

 ナタリアが俺の腕をつかむ。

 もうここには用はない。なら、次は?

 わからない。これからのことなんて、俺たちには誰にもわからない。正しいと思えることをするしかないのだ。

 今の俺にとって正しいこととは……

 

「人を殺してきた」

 

 俺は腕を引っ張り続けるナタリアの手を握り、パープルシスターに向き直った。

 

「世界にも、犯罪組織にも、お前たち女神にもうんざりして、ただただ殺してきた。お前も殺すつもりだった。世界は理不尽だ。だが誰も守れなかったのは、俺のせいだ。掴めるはずだった手を離してしまったのは、誰でもない俺だ」

 

 罪を知ってほしかった。

 懺悔などではない。それよりももっと勝手な感情だ。

 溜め込むだけのはずだった心を吐き出したかった。

 ナタリアに、パープルシスター。情けないことに、理不尽に巻き込まれた少女たちに吐き出してしまいたかった。

 

「時間を巻き戻せないなんてわかってる。それでも、戻れたら、なんて毎日考えてしまうんだ」

「私も毎日考えます。命を差し出してくれたお姉ちゃんたちと一緒に戦っていたら、どうなっていただろうって」

 

 パープルシスターは近づいてきた。その距離が縮まるほどに、ナタリアの握る力が強まる。

 

「確かに世界は理不尽です。その世界の中で、あなたは間違いを犯したのかもしれません。私も間違いを犯したのかも。それは誰にも、女神である私にもわかりません」

 

 パープルシスターは音が鳴るほどに歯ぎしりした。

 後悔は積もる。生きている限り積もっていく。

 それでも……

 

「ベクターさん、私たちには前を向いて歩くことしかできません。だから、あなたもどうか、あなたの道を進んでください」



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14

 ナタリアの手を引いて外へ出る俺を、パープルシスターが追ってくることはなかった。

 だからといって、武器を捨てられるほど安全なわけじゃない。

 この世界にはまだ、俺たちを狙ってくる可能性のある者がたくさんいる。

 魔弾はまだ俺の手元にあって、いつケイやチカがやってくるかわからない。魔弾を欲しがっているだけではない。犯罪神という異質をこの世から消し去るために。

 手段や考え方は違えど、彼女たちもまた、世界を維持しようとしているのだ。愛する女神のいない、こんな荒れ果てた人の中で。

 世界はまだ、女神を必要としている。女神のいた世界のままでいようとしている。

 俺たちが戦っている相手は、そんな世界、そんな時代だ。

 女神だけに頼るだけじゃない世を創るには、人が自分の力で立ち上がらなければならない。いまこの時代にも、歴史を変える力を持った強い人間も、流されるだけの弱い人間もたくさんいる。一人の力が作り出す奔流は人々に影響を与え、この世界は良いほうにも悪いほうにも変わっていくだろう。

 俺も変わることが出来るだろうか。銃を手放すことが出来ないままでいる俺が、どこか落ち着ける場所を見つけられるだろうか。

 

 

 

「ねえ、ベクターのこと、妹のこと、話して?」

 

 ある日、ナタリアにそう言われた。

 俺かお前が死んだら話す。そう言ったが、死ぬ気がなく、死者を語るべき俺に、その約束はいまや意味のないものになった。

 だから、俺は躊躇なく話すことにした。とはいえ、俺は話すことが得意じゃない。それに、死んでいった者の想いを噛み砕くのにはまだ時間がかかる。

 待ってくれと言っても、ナタリアはしつこかった。

 それでいいから、話して。これまでのことを知って、これからのことを考えるために。

 空っぽだったナタリアの中に、少しでも俺たちの物語を伝えられることが出来るのならと思って、俺はしどろもどろしながら話をした。

 俺のこと、妹のこと、妹が感じたこと。それは実際のものとは異なり、俺が感じた「きっとこうだろう」という経験と感情の産物。

 それでも、それは一つの真実としてナタリアに語り継がれる。

 死者のことを語るなら、死者以外のものが語るしかない。代弁者が継いでいくその話は、少しずつ曲がり曲げられていくだろう。だが、それしかないのだ。亡き死者を、残すべき骸を、変わり行く時代に置き去りにしないためにも。

 だから俺は語り続ける。この世界と俺の命が続く限り。

 

 

 ここまで書いて、俺はペンを置いて一息ついた。

 最初は、俺の気持ちを整理するために書き始めたものだったが、過去のことを書き終えたいまも、俺が何をしたいかなんてのはわからない。

 この旅を経て、何を失って何を得たか、振り返ってもわからない。

 結局、犯罪神は消え去った。だが、また復活してしまうかもしれない。誰かの大事な人を器にして、その生を台無しにしてしまうかもしれない。

 ナタリアは、多くを失ってしまった。それでも、彼女は俺に会えてよかったと言ってくれた。記憶が奪われ、感情も侵され、その存在すら利用されるだけでも、人は死なない。生きている限り、人は生きることが出来る。犯罪神がいなくなってなお、何も戻らないナタリアはそう言った。

 全てを失っても、無くなったわけではない。長い時間をかけて、ナタリアは死にゆくまで生きたいと願う一人の少女になりつつある。

 俺たちがやったことは、破壊の先延ばしなのかもしれない。だが、ナタリアの「普通」への一歩、俺がその役に立てたら、と思う。あの凄惨な旅が、外を知る一歩になってくれたら、と。

 俺は再びペンを持ち、頭を切り替えた。ここからは、これまでのことではなくて、ここからのことを書かなければいけないからだ。 

 

 

 ここまで読んだなら、もうわかるだろう。

 俺はお前を殺すことが出来る弾丸を持っている。いまこれを書いているときも、俺の手にはお前を殺す手段がある。

 だが、今はこれを使う気はない。

 俺がリーンボックスで弾丸を撃ち込まれたとき、あるいは犯罪神が俺を乗っ取ろうとしたとき、斃れてしまおうかと思った。

 時に、人に依頼されて。時に、人に利用されて。時に、俺自身が望んで。どんな形でも、戦ってきた。もういいじゃないか、ここで終わりにしよう。そう思って、堕ちてしまおうと思った。

 だが、死んだ者、生きている者の顔がちらついて、それを許してくれなかった。なにより、俺自身が許さなかった。

 復讐も、代弁も、希望も、何もかも中途半端なままで、何も残せなかった。世界も自分も恨みながら、俺はなにも跡を残せていない。このまま終わって、ナタリアを置いていくわけにはいかない。

 お前も、やるべきことが、やりたいことがあるんだろう。

 この街をどう思うか。お前は俺に訊いた。お前が守る世界を自慢するのではなく、まるで窺うように。それはまだ、お前がプラネテューヌを理想の街として見ることが出来ていないことだと、俺は思う。

 この世界には、まだまだ女神を恨む人間がたくさんいる。それすらも包み込んで、お前は進むつもりだろう。茨の道だと知りながら、姉たちとの約束を守るために。

 おそらく、どこまでいってもお前は自分を許すことはできないだろう。

 それでも、お前に救われた人間がいるはずだ。いまこの世界に、お前を愛する人間も憎む人間も星の数ほどいる。

 そんな矛盾で理不尽な世界をまとめて守ったのは、女神パープルシスターであるお前自身だ。

 俺は世界を巡りながら、その末を見届けよう。

 今はまだ、お前を殺す気はない。だがもし、ありえないことだが、お前が世界に仇名す存在になった時は、容赦なく殺しにいく。

 だけど、覚えておいてほしい。

 お前が世界を守ろうとする限り、俺はお前に味方する。呼んでくれれば、すぐに向かう。

 

 俺は「骸の代弁者(スカル・トーカー)」だ。




ナタリア

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【悪魔】


 正義とは何か。

 よく言われるそんな言葉。

 よく言われるってことは、答えが見つかっていないということ。

 私は今日もその答えを探しながら、夜の街を跋扈する。

 今日は特に良い日だった。仕事は順調、天気は晴れ。朝はすっきりと起きれたし、昼にはいつも売り切れていた人気のパンが買えた。だというのに、とある情報が入ってきたせいで素晴らしい気分が雲散した。

 一台のトラックがゆっくりと大きな倉庫の中に入っていく。

 埠頭。昔から悪い人の取引場所として人気のここで、また一つ悪事が働かれる。

 トラックが止まり、二人の男が降りる。何人かが喋っている。全員で六人だ。

 短い一角のついた硬いマスクで顔を隠し、見た目よりも防御力の高い戦闘スーツは私を守りながらも身を隠す。

 ダークグレーに包まれた全身が、影に溶け込む。

 ぬるりと、一切音を立てずに倉庫の壁を沿っていく私に、男たちは気づいていない。取引に夢中なあまり、注意が散漫になっている。 

 私は腰から警棒を二つ取り出し、右手のを振り回した。警棒が中ほどで分かれ、恐ろしい速さと遠心力でトラックの荷台にもたれかかる男の肩に命中する。

 骨が陥没した感触を感じながら、警棒の小さなスイッチを押す。先端と柄を結ぶ頑強な糸が巻かれていき、警棒が元の姿に戻る。

 痛みとショックで声も上げずにどさりと倒れた男を見て、他がようやくざわめく。だけど、まだ私には気づいていない。

 次に私が警棒の先を伸ばしたのは、天井だ。糸が梁に巻かれて、スイッチを押すと私の身体が宙に浮く。

 じゅうぶんな高さまで上がると、糸を巻き上げて落下する。そのままの勢いで、銃を取り出した男たちの一人の顔を踏み潰す。

 ぐしゃり、と嫌な音が男たちの注意を引いた。私はぱっと詰め寄り、正面の男の鼻と喉を潰した。

 やっと放たれる銃弾を、素早くトラックを回り込んで防ぐ。隠れながら、警棒の先を飛ばして一人の脚を折り、もう一人の腕を折る。

 脚を折られて跪いたほうへ詰め寄り、武器を構える前に両肩を砕いた。苦悶の叫びをあげる男の顔を、今度は回し蹴りでめちゃくちゃにする。

 腕が使い物にならなくなったほうへ近寄り、落とした銃を拾う前に顎を蹴り上げる。

 残った男が、血だらけの惨状を見て、悲鳴を上げながら銃を乱射する。だけど、そこにはもう私はいない。

 カチッ、カチッ、と乾いた音を聞いても、男は引き金を引き続けた。

 私は警棒を腰に収め、影から抜け出してゆっくりと近づく。恐怖を目に浮かべた男は三回引き金を引いて、ようやく弾切れを悟った。そのあとは抵抗もなく、私の拳と脚を受ける。

 高い声でうめいた男の肩を掴み、トラックのドアにぶつける。ガラスが割れて地面に散らばるが、構わずに押しつける。

 

「お前誰だ……」

「関係ない」

 

 私の喉から出たのは、低い男の声だ。特殊な変声機で素性をばれないようにしているのだ。

 スーツで身体の線はわからないし、それにこの声。相手は完全に私のことを男性だと思っただろう。

 

「この取引は誰の差し金だ」

「言えない」

 

 言い終わると同時に男の腕に肘を叩きつける。

 ぼきりと音が鳴って、苦痛の叫び声が上がる。それが収まらないうちに言葉をつづけた。

 

「いいか、答えを一つ間違えれば骨を一本折る」

 

 この脅しは相当効いたらしく、男は息を荒げながら懸命に頭を縦に振った。

 

「知らないんだ。俺たちはメールで命令を受けて動いただけだ」

「誰に指示を受けた」

「知らない。誰も知らないんだ!」

 

 嘘ではなかった。しかし、心臓の鼓動からは恐怖とは別の緊張を感じた。

 

「何を隠してる」

「なに? 何をって……」

 

 もう一本の腕の骨を、拳で粉々にする。腹の底から響く悲鳴が倉庫にこだまする。

 だが、誰にも聞こえない。そんな場所を選んだのは、こいつらだ。

 

「もう一度訊く。何を、隠しているんだ」

「メールの送り主は『トリック』って名乗ってた。本当にそれだけだ! 誓ってそれだけだ!」

 

 トリック。その名前には、一人、いや一体しか心当たりがない。だが、そいつはもうこの世界にはいないはず。

 嫌な予感が胸を駆け巡った。

 

「誰に誓う? 女神か、それとも犯罪神か?」

 

 半ば八つ当たり気味に、男の頭をぶん殴った。

 

 

 

 執務室では、紙が擦る音、ボールペンが走る音すら聞こえるような静寂が感じられた。

 二人しかいないこの部屋は高層に位置しているが、景色を眺めることなく書類仕事に追われていた。

 

「リリィさん。話を聞きましたか?」

 

 目を通した書類を束ねて、きれいに机に並べながら口を開いたのは西沢(にしざわ)ミナ様。

 ここルウィーという国のトップに位置する人物だ。

 私、リリィは彼女の隣で補助をしている。ミナ様は教会教祖服の白いミニワンピースに赤いコート。対して私は黒のパンツスーツ。お互いこれが毎日見合わせる制服だ。

 

「話、ですか?」

「犯罪組織の残党が倉庫で倒れていたという話です。モンスターディスクが積まれたトラックと一緒に」

「今朝、回収に向かわせたあの倉庫ですか?」

 

 朝に、匿名で入ってきた情報があった。埠頭の倉庫で誰かが倒れていて、そばには何かが積まれたトラックがあるというもの。まあ、私が送ったものだけど。

 私はすぐに処理部隊を向かわせて、物品回収と現場鑑識を任せた。情報はまだあがってきていないが、問題なくこなせていることだろう。

 紙の報告書でじゅうぶんだと言っている私と違って、ミナ様のところには逐一連絡が入るようになっている。彼女がいろいろと先に知っているのはそのせいだ。

 こういうことは初めてではなく、むしろ最近はよく起こる。誰かが悪さをし、誰かがなんとかして、私たちが後始末をする。日々収まらない犯罪を処理する毎日は陰鬱になり、こうやって話もしたくなる。

 

「一人は強烈な打撃を受けたみたいで、脳に障害が残っていて、話を聞ける状態じゃないとか。うわごとで、『悪魔が来る』としか言わないそうですよ」

「『悪魔』……ですか」

 

 その二つ名は、いまやこの国で噂される都市伝説と化している。

 夜な夜な現れては、いまだ暗躍する犯罪組織をなぎ倒していく『灰色の悪魔』。悪魔と称されるのは癪だけど、その噂のおかげで一般人による犯罪率はほぼなし。しかし、組織による犯罪に関しては減る気配を見せない。

 

「近頃は物騒ですからね。プラネテューヌでも、教会職員や犯罪組織が次々と……」

「そういった事件は、犯罪神がいなくなる前にも珍しいものじゃありませんでしたよ」

 

 私がそう言ったように、物騒なのは昔から変わらない。

 犯罪組織が今よりも活発になっていたころは、他の三つの国もその被害を受けていた。特に、国民からの信仰で力を得る女神様が一番影響を受けた。人の心が荒んでいくとともに力を失う女神様たちは一度捕らえられ、その間に世界はさらに混沌を極めた。

 その後、妹たちである女神候補生様が女神様たちを救出し、犯罪組織も壊滅させたことで事件は終わりを迎えた。

 ……過程はどうあれ、結果的に収束したのだ。

 

「あなたのほうが詳しいのは、当たり前でしたね」

 

 今の職に収まる前、正確にはこの国のトップがミナ様になる前、私は女神護衛隊だった。

 その名の通り、女神様のすぐそばで警備を任される責任のある部隊。当時は女神様の命を奪おうとする者は少なくなく、プライベートのときまで護衛を任されていた。周りの危険を排除し、女神様が向かう場所に先に行って安全を確保する名誉ある仕事だった。

 今では、それすらできないけれど。

 

「『悪魔』を追う前に、犯罪組織の動きを知らないといけませんね。最近大胆に活動を許しすぎています。女神様が……取り締まる側の手が足りません」

「気を遣わなくても大丈夫です」

 

 言い直したことで、むしろ思い返してしまった。心に影が差してしまった私に対して、ミナ様は少なくとも表面には悲哀を一切出さずに続けた。

 

「ブラン様、ラム様とロム様がいなくなられてから、犯罪組織の残党でさえどうにかするのも難しい。とはいえ、この国を諦めるわけにはいきません」

 

 そう言う彼女の顔は、未来を見据えていた。

 

 

 

 この世界にブラン様はいない。犯罪神との戦いで命を落としてしまった。

 実際にその最期を見たわけではないが、ミナ様が嘘を言うわけないし、あの恐ろしい強さを誇るマジェコンヌ四天王が消えたこと、そしてブラン様が戻ってきていないことが全てを物語っていた。

 女神様の中で生き残ったのは、唯一パープルシスター様だけ。おかげでプラネテューヌは女神に守られている国として繁栄しつつある。唯一安全と言われ、他国からも移る人が多くなり、人口は随一だ。

 だがそれぞれ、国を捨てる気がない人も大勢いる。ルウィーは加護を失っても、ゆっくりと元の姿を戻そうとしている。

 

「リリィさん」

 

 呼ばれる声で私は目を覚ました。病院の待合室で寝てしまっていたようだ。私は目を揉みながら立ち上がった。

 声をかけてきたのはコンパ。ふんわりとしたウェーブがかった髪に雰囲気をもつ女性の医者だ。

 

「どうだった?」

「命に別状はありませんです」

 

 ふう、と二人で息をついた。コンパは疲れからで、私は安堵で。

 

「ごめんね。わざわざ来てもらって、あんな患者を任せてしまって」

「こちらこそごめんなさいです。それほど役に立てなくて……」

「役に立ってないなんて、そんなこと言わないで。一般の病人やけが人だけじゃなく、犯罪者も面倒を診てくれてるのには感謝してる」

「人を救うのがわたしの役目ですから」

 

 役目を果たすのが当たり前みたいに言うコンパには、助けられてばっかりだ。

 この国が国と呼べなくなったときから、ルウィーの公的機関はその働きをじゅうぶんに行えなくなった。病院もその一つであり、以前から交流のある彼女に助けを求めたのだ。報酬や条件なども聞かずに二つ返事で応えてくれた彼女には頭が上がらない。

 

「だからよ。今のこの世界に、役目をもって動いている人間がどれだけ希少か、あなたなら分かってるでしょう?」

 

 何も答えずに、彼女は俯いた。

 

「アイエフだって、部下を育てるのに苦労してるみたいだしね」

 

 現在で唯一女神様がいる国であるプラネテューヌ。そこに住んでいるアイエフという女性は諜報部員のはずなのだが、その高い戦闘能力を買われて街のパトロールもこなしている。

 その手も足りないみたいで、多人数を雇ってはいるものの、練度が足りなくて教える側も足りないという愚痴を以前聞いた。

 コンパは彼女と親友なのだが、こちらを優先してくれてもうしばらく経つ。

 

「悪いわね。パープルシスター様やアイエフにも長らく会ってないんじゃないの?」

「少しさびしいですけど、ここの人たちを放っておけませんから」

 

 この病院には、たくさんの人が救いを求めている。

 もちろんプラネテューヌに行けば、整っている設備で治療を受けられるが、国を越えていくのは危険もあるし、なによりこの国を離れたくないのだろう。

 そんな人たちの思いを、コンパはしっかりとくみ取ってくれる。

 

「ありがとう」

 

 病院を出て、街を歩く。

 ちょうど昼時だったのもあって、何か食べようと店を探すが、どこも満員でいまいち見つからなかった。お腹は空いていく一方だが、しかしその光景は決して嫌なものではなかった。

 

「賑やかになりましたね」

「まだ完全には元に戻ってはいないけれどね。でも、少しずつ街は回復してる」

 

 ルウィーは国として復興しつつある。その事実が、かつての国民をこの国に戻してきている。

 

「人は強い。みんなどうにかして、ここを維持しようとしてる」

「リリィさんも頑張ってます」

「まだ足りないわ。街を守る立場でありながら、犯罪組織をのさばらせているんだから」

 

 女神様がいないぶんの働きを、私はまだできていない。

 きっと、そのことがこの国を元通りにできていない原因なのだ。まだ、まだ足りない……

 

「少しくらい、自分のことを許せませんか?」

「それが出来たなら、きっとこの街にはいないでしょうね」



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 後処理の整理、それに捕まえた犯罪組織員の尋問はかなりの時間がかかった。

 特に後者は、相手がまともに喋れる状態じゃないので、収穫はほぼなしと言っていい。喋れたとしても、今以上の情報は得られなかっただろうが。

 黒幕である『トリック』はよほど用心深いようで、過去の資料を合わせても影すらも掴ませない。

 消沈しながら帰路につく。協会から家へは徒歩で十分ほど。二階建ての一軒家は独り暮らしには大きすぎる。

 

「おかえりなさい」

 

 扉を開けてすぐ、ミナ様が駆け寄ってきた。

 いつもの職員服ではなく、白いセーターにロング丈の赤いスカート。一旦家に帰ってからこっちに来たのだろう。

 

「来てたんですね」

「たまには、リリィさんの食事も管理しないとですから」

 

 ぱたぱたと台所に向かうミナ様に続いて、ではなく私は二階の自室へ上がる。スーツ(戦闘服でなく黒のフォーマルスーツ)を脱いで、私服へ着替える。

 一階のリビングへ戻ると、ミナ様がキッチンで料理していた。機能がたくさんあるが、あまり活用したことはない。

 

「私は大丈夫だと、何度も言ったでしょう」

「冷蔵庫の中にはレトルト食品、ごみ箱の中にもカップ麺の容器がいくつかありましたけど?」

 

 痛いところを突かれて、私はうめいた。

 ここ最近の食事は、昼も夜も手早く食べることだけを目的にしてる。人の温かみのある食事は、ミナ様の手料理しか覚えがない。

 

「よろしくお願いします」

「はい、任されました」

 

 笑顔で返して、ミナ様は料理をよそう。匂いだけで美味いとわかるビーフシチューがテーブルに並べられた。食材はなかったはずだから、わざわざ買ってきてくれたのだろう。

 こうやってたまに食事を作っていただけるのは、感謝しかない。私だとどうしても買ってきたものになる。料理が得意なわけじゃないし。

 

「もう、体調管理も仕事の一つなんですから」

「う……すみません」

「あなたが忙しいのは重々承知ですが、倒れてしまったら心配するんですよ」

「ありがとうございます」

 

 ブラン様たちがいなくなってから、ミナ様に言い聞かせてきたことだ。

 あの時はものが喉を通らず、げっそりとしていくミナ様を直に見ることができなかった。女神様たちと同じように離れてしまいそうで、怖かったことを覚えている。

 そういった経験があるからこそ、彼女は私に尽くしてくれるのだろう。私もその心遣いを心地よく思っている。でなければ合鍵を渡したりはしない。

 いつかは自立しないいけないとは思っているが、まだ遠い未来の話だ。

 

「リリィさんと初めて会ってから、もうずいぶん長いですね」

「そうですね」

 

 ご飯を食べ終えて、一息ついていたときにミナ様が口を開いた。

 

「あなたを女神護衛隊に配属させて正解でした」

「そう思いますか?」

「ええ、心の底から」

 

 ミナ様の心臓の鼓動が変わらない。感じなくても、今のが嘘でないことはわかっていたが、感じてしまうのだ。

 生まれ持った()()を賜物だと思うこともあれば、疎ましく感じることもある。

 

「それで?」

 

 食後の熱い紅茶を一口飲んだミナ様はきょとんとした顔で私を見た。

 

「ミナ様が私のところに来るときは、大体話があるときですから」

「敵いませんね」

「戦ってるわけじゃないでしょうに」

 

 ふふふ、と笑ったミナ様はしばらく黙り込んで、下唇を噛んだ。

 

「最近、色々なことを思い出します」

 

 口を開いたのは、紅茶が温くなったあとだ。

 

「ブラン様たちがいたときのこと」

 

 彼女は蚊の鳴くような声で言った。だけど、しんと静まったこの空間ではじゅうぶんに響く。

 

「まだ立ち直れてません」

「女神様が消えて、誰もが傷を負っています。あなただけじゃありません」

 

 私もまたそうだ。女神様が亡くなられた傷は、いまも癒されず、私を根深く痛めつける。

 

「引きずるな、なんて誰にも言えませんよ」

 

 

 

 傷が生んだのは、彼らが『悪魔』と呼ぶものだ。女神様を殺して、彼らが恐怖するものを生んでしまったのは皮肉としか言いようがない。

 だけど私は彼女たちのように甘くはない。

 

「おい、さっさと終わらせちまおうぜ」

「なにせかせかしてんだよ」

「『悪魔』が来る」

 

 前よりも大きなトラックに小さいコンテナを何個も積みながら、二人の男が愚痴る。

 コンテナの中身はディスクじゃない。軽いものや重いものが混じっている。しかも大量に。

 昼間に働く業者なら問題にもしていなかっただろうが、夜の、しかも路地裏でやると目立つ。隠れながらしているつもりでも、私にはわかる。

 

「あんなの信じてんのか? ヘマやらかした奴の言い訳だよ」

「だけど誰かがやってるのは間違いないだろ?」

 

 『悪魔』に怯える男の問いに対しての答えは返ってこなかった。目の前で話していた相方がいつの間にか消えている。

 あれだけおしゃべりだった男がしんと黙り、掴んでいたコンテナを下に置く。

 

「おい?」

 

 イタズラだ。そう思いつつも、『悪魔』への恐怖は消えない。息が乱れ、鼓動が早くなる。ついでに膝も震えている。

 トラックの陰から血だらけの相方が倒れる。男は悲鳴を上げて後ずさろうとするが、後ろに立っていた私に阻まれた。

 震える身体を掴んで、トラックに押し付ける。私を視界にとらえた瞬間に、男は余計に震えた。

 

「『トリック』は誰だ?」

「待て待て待て、本当に待ってくれ! 暴力は嫌いなんだ!」

 

 ろれつの回らない口を開く男の顔を殴る。小気味よい砕けた音が響いて、少しスッキリする。

 

「無駄口を叩くな。『トリック』は誰だ?」

「は、鼻が……」

「もっと折ってほしいか」

「何でも答える! 何でも答えるから!」

 

 押さえつけられた身体で、手だけをばたばたと動かしながら喚く。ぼたぼたと流れる血がさらに無様に見せる。

 灰色の戦闘スーツは闇に溶け込むが、目にすれば恐怖として映る。『悪魔』の称号はそれを際立たせた。『灰色の悪魔』。大仰で不名誉な二つ名だが、利用できるものはなんでもしてやる。それがお前たちへの復讐だ。

 

「その、『トリック』ってのはただ指示を出すだけで、顔は知らないんだ」

 

 何度も息をのんで、ようやくそう吐き出した。

 

「お前と同じだよ! 噂が蔓延して、恐怖を与えてる!」

 

 同じ? 違う。私がお前たちを痛めつけるのは正義のためでもある。面白半分に、何の信念もなく人を傷つけるお前たちとは違う。

 私は拳を握り、男の顔面を何度も殴りつけた。

 

 

 

 ファイリングされた十数枚の資料を()()に渡す。私にとっては少ない情報量でも、()()にとっては充分な量だ。

 実際のところ、こいつが男性なのか女性なのかは知らないけど、興味もない。

 

「これで全部」

「ふうん、どれも結構いいパーツね」

 

 加工された声が返ってくる。

 性別がわからないのは、このせいだ。纏っているピンクのアーマー。ロボットのような外見だが、どうやら中身はちゃんと入っているらしい。

 アノネデスと自称するこの天才ハッカーのおかげで、後追いではあるが、犯罪組織の動きをなんとかつかめていた。

 彼女(と便宜上呼ぶことにするが)とは数年前からの付き合いで、そのコネで取引をさせてもらっている。どこから仕入れてくるのかはわからないが、彼女の情報は信頼できる。

 今回はいつもの取引のほかに、もうひとつ頼みたいことがあった。

 昨日運び屋がトラックに積んでいたもの。機械のパーツだということはわかるが、何に使われるパーツかがわからない。モンスターディスクや違法薬物などはわかりやすいが、どうにも機械には疎いのだ。

 

「そうなの?」

「そうなのって、自分のところで調べてないの?」

「あなたに頼んだほうが早いわ」

「そうでしょうけどねえ」

 

 私は資料に書かれた文字をとんとんと指で叩いた。もちろん協会のほうでも調べさせてはいるが、調査機関はまともに機能しているとは言えない。プラネテューヌの諜報機関でも使えれば話は別だが。

 それか探偵。そっちのほうが能力的には信頼できるかも。

 

「そこに書かれてるものを大量に運ぶつもりだった。どこかで足がつくはず」

「二、三日もらえば調べがつくと思うわ」

「報酬は?」

「サービスしておくわ。あなたの普段の支払いは悪くないもの」

 

 アノネデスには相場の倍ほど払っている。急がせているのもそうだが、その量と質にはそれだけの価値があるからだ。それにこういうサービスが多い。

 

「それじゃ、これはアタシから」

 

 アノネデスは三つの厚いファイルを差し出してきた。こちらがいつもの取引だ。犯罪組織のこれからの動きが纏められている。いつもだいたいファイル一つだが、今回は……

 

「いつもより多いわね」

「活動が活発化してきてるの。ラステイションやプラネテューヌでもね」

 

 以前、組織が犯罪神復活を企てているという話を聞いた。

 昨日のトラックもそうだし、一日に二つ三つ取引を行うことも珍しくはなくなってきている。

 証拠を隠しきれてない。隠す気がないというほうが正しいかしら。計画の大詰めか、焦っているのか。後者のほうかしらね。犯罪組織の邪魔をしてるのは私だけじゃない。女神がいなくなっても、戦う人間はいる。

 有名どころは『一陣の風(アイエフ)』と『骸の代弁者(スカル・トーカー)』。

 正体を隠してないのはプラネテューヌのエージェントであるアイエフだけだ。しかもあそこには女神様がいる。誰もうかつに手出しはできない。

 

「あなた、相当憎まれてるわよ」

「でしょうね。大きな取引を何度も邪魔してる」

 

 最悪でも、日に一度犯罪組織を邪魔してる。それだけで足りるとは思えないけど、とにかく邪魔してる。そのことに関してはあっちもよく思ってないはず。いつかどこかで私を殺そうとしてくるはずだ。まだ油断してる間に決着をつけないと。

 

「そのおかげで犯罪組織は焦ってる。あなたがこの前取引阻止したモンスターディスクも、プラネテューヌで使う予定だったみたいだしね」

「他の国はどうでもいいわ」

 

 もらったファイルを脇に挟んで、私は踵を返した。



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 昼はいつも誰かと食べるわけじゃない。というより、一人で食べることが多い。

 私にとって食事は、楽しむものじゃないし、一人暮らしを始めてからは特に食に関心がなくなった。単純にそれ以外のものに追われているということが多いというだけなのかもしれないが、とにかく食に対して割く時間や手間がもったいないというだけだ。

 その私の前にいるのが……

 

「ミナ様」

「どうしたんですか? 緊張しているように見えますが」

 

 落ち着いた様子で、ミナ様がカップに注がれた紅茶を飲む。喫茶店のテラス席の対面に座る私は、対照的にそわそわと落ち着かない。

 

「それはそうでしょう。ミナ様と二人でご飯だなんて」

「そうかしこまらなくても大丈夫です。私だってただの一人の女ですよ?」

「は、はぁ……」

 

 とは言われても、ルウィー教会の運営を任されている人と一対一で気軽に話せるほど、私は偉くない。

 相手がミナ様といえば、緊張も度を超す。

 

「リラックスしてください。こうやってお昼に誘ったのはお話ししたいと思っていたからなんです」

「話ですか?」

「リリィさんとは、こうやって話すことがなかったものですから」

「といっても、私に話なんて……」

「あなたのこと、もっと知りたいんです」

 

 そう言われれば断れない。促されて、私が学生だったときのこと、訓練生時代のこと、あとは、女神護衛隊としてホワイトハート様とホワイトシスター様とともにした仕事とか。

 話が行ったり来たりで、聞くほうは理解するのが大変だろうに、ミナ様は和やかな表情で受け止めてくれた。

 

「と……こんな感じでしょうか」

 

 ひとしきり話し終えて、息をつく。

 

「いまのリリィさんのことも知りたいですね」

「いまの?」

「なぜ人を殺さないのか……とか」

「食事時にそういう話します?」

「そっちのほうが話しやすいんじゃありませんか?」

 

 まあ、確かに流行の話や堅苦しい仕事の話よりかはそっちのほうがいい。

 とはいえ、ミナ様がそういった話を切り出してきたことには驚かざるを得なかった。護衛隊の一人の人間に個人的な話を持ち出すなんて、珍しいどころの騒ぎじゃない。

 言葉が出ずにいたことを肯定とみなしたのか、ミナ様は言葉を続けた。

 

「こういう仕事に就く以上、命を奪ってしまうことは珍しくありません。覚悟をもって、または弾みで人を殺してしまうことは」

 

 ミナ様の優しい声に落ち着いた私は、すう、と息を吸って答えた。

 

殺してしまう(そういう)ことは当たり前といえば当たり前です。だからこそ、当たり前にしたくありません」

 

 女神護衛隊に配属されたときから、銃や刃物を使うことを拒んできた。誰かを守るために命を奪う。そんなことはしてしまいたくなかった。

 

「ルウィーはメルヘンでファンタジーな国です。それが屍の上に成り立っているとは、思いたくないんです。悪を裁くのに、殺すという手段を使ってしまうことは、私たちを動かしているホワイトハート様がそれをよしとする……そう解釈されても仕方ない。気高く、美しい女神様とルウィーがそんなふうに思われるのは、好ましくありません。悪もなく、誰もが平和に生きている。理想だとは分かっていますが、それを体現できる国であると信じています」

 

 現実を見ない、甘い理想論。それを求めるからこそ、ルウィーの国民なのだと思う。私はルウィーの民として、理想を現実に近づける義務がある。

 そう思わせるほどにこの国は素晴らしく、尊い。

 

「ルウィーが好きなんですね」

「ホワイトハート様の国ですから」

 

 これはいつかのときに話したこと。もうずいぶん昔に思える。

 そこに込められた信念を忘れてしまうほどに。

 

 

 

 

 振動覚というものがある。文字通り、振動を感じ取る感覚だ。

 地震のようなわかりやすいものだけでなく、空気や音など、ものの震えを感じる能力。

 生まれついて、私は振動覚が鋭い。遠くの音、話している内容、他人の鼓動まで感じることができる。人が動けば、その輪郭もはっきりとわかる。

 おかげで簡単に悪事が働かれている場所がわかるし、話している人間が嘘をついているかどうかわかる。

 鼓動を操れる人間にはまだ出会ったことがない。そしてそれは、今日救いを求めてきた男も一緒だった。

 

「それで……エイクさん?」

「なあ、もう何人にも同じ話したんだ」

 

 がたがたと忙しなく貧乏ゆすりをする男、エイクがきょろきょろと周りを見回す。だけど、この部屋には机と椅子しかない。

 今朝になって、エイクは教会に自供を申し出た。私がそれを知ったのは、アノネデスと取引して戻ってきてからだった。それまでに彼は何人かに尋問されたらしく、いらいらが募っていた。極度の緊張も。

 

「ここで決定権を持つ者は少ないの。私は持ってる。全部話してくれるかしら?」

「ルウィーで行われる犯罪について、俺の知ってることを喋る」

「見返りは?」

「保護してほしい」

「保護?」

 

 既に尋問した者の記録を読みながら、私は質問する。

 T・エイク。犯罪組織に雇われている運び屋。過去三度に渡ってモンスターディスクをラステイションとプラネテューヌに運んでいる。

 

「俺はただの運び屋で、危険のない仕事をするつもりだった。だけど昨日、同じ運び屋仲間が襲われた。一人は腕と足を折られて、もう一人は顔面がぐちゃぐちゃ」

 

 昨日のことだ。私がやった。つい感情を抑えきれず力の限り何度も殴った。幸い死んではいなかったが、骨は何本も折れ、顔は原型をとどめていない。

 

「一番酷いのは、そんな状態で生きてるってことだ。俺は死にたくないし、暴力を受けるのも嫌だ。わかるか?」

「『悪魔』に襲われたくないし、組織に報復を受けるのもごめん被るってことよね」

「あんたは話が早くて助かるよ」

 

 緊張が幾分か解ける。五体満足で生きていられる希望が見えてきたと考えているのだろう。

 

「安心するのはまだ早いわ。あなたの話に価値があれば、言うとおりにする」

「わかった、何が聞きたい?」

 

 一応、周りに誰もいないことを確認し、鞄からあるものを取り出す。これからやることは上の確認も仰がない私の独断だ。ただ、いまの私はその『上』だから、どうのこうの言ってくる人はいない。

 余裕が見え、意気揚々と身を乗り出してきたエイクに、私は資料を見せる。アノネデスに見せたのと同じものだ。

 

「最近、大量の物資が秘密裏に運搬されてる。その中でこれがあった。こそこそ運ぶ必要がないはずのこれが」

「これは……俺も運んだことがある。スピーカーのパーツだとか」

「スピーカー?」

 

 てっきり、何かの実験の道具かと……いやしかし、スピーカーの素材? それをわざわざ裏で運ぶ必要があるの?

 

「詳しくはないんだ。あらゆる素材で何かを作ろうとしている」

 

 運び屋はあくまで運び屋。知らないだろうと思って、私はこの質問を打ち切った。

 

「それじゃ、次の質問。これが一番聞きたいことよ」

 

 反応を見るために、資料を引き、相手の目を見る。

 

「『トリック』」

「……なんのことだ?」

 

 エイクの鼓動が跳ね上がった。

 

「もういい。わかったわ、入り口までは保護してあげる」

「待て待て待て! 待ってくれ、頼む!」

 

 立ち上がろうとした私を、エイクは必死に引き留める。その反応も予想通り。私は再び椅子につき、一転息を荒げた彼を睨みつけた。

 

「嘘や隠し事は通用しない。次やろうとしたら、追い出す。いいわね?」

「わ、わかった」

「じゃあ、『トリック』について知ってることを教えて」

「詳細は知らない。俺たちに連絡だけして、ものを運ばせる」

 

 かなりの時間鼓動を早鳴きさせながらも、息を整えてエイクが口を開く。

 

「ただ、俺の仲間が直接会おうとして、門前払いを食らったことだけは知ってる」

 

 出すのを渋っていた情報だったが、喋ってしまったことで枷が外れたのか、ずるずると言葉が出てくる。

 

「顔と顔を突き合わせて話しないと相手を信じない奴だったんだ。それが、会いに行こうとしただけで片手をちぎられた」

「門前払いってことは、つまり『門』までは行ったのよね?」

 

 エイクが頷く。

 

「『トリック』の場所を知ってた?」

「ああ、しつこく聞いたせいかもな。招待されて、腕をちぎられて、追い返された」

 

 酷い話だ。だが、今のでわかったことがある。『トリック』はしつこいことが嫌いなこと、そして、正体がばれることをひどく恐れている。

 

「その男の場所を言えば、あなたの条件を飲む」

 

 

 

 『悪魔』のスーツを着て、階段を上がる。さびれたアパートだ。誰も私に気づかない。尾行されてる様子もない。

 二階のある一室で歩を止める。呼吸の振動から中に誰かいることがわかった。

 エイクから知らされたのは、この部屋だ。ノブをゆっくり回し引くと、意外なことに扉は開いた。乱暴に壊さずに済んだのは幸いだ。

 中は暗かった。

 

「わかってる、殺しに来たんだろ?」

 

 滅茶苦茶に荒らされたような部屋から声が響く。

 顔色の悪い男が部屋の隅でうなだれていた。髪もひげもぼさぼさでやつれている。

 

「まさか『悪魔』を寄越すなんてな」

 

 彼は、私のことを犯罪組織が差し出した執行人だと思っているようだ。死に直面して、彼の鼓動はにわかに早く打ち始めた。

 

「私のことはよく知らないみたいだな」

「知ってるさ。『トリック』が俺を殺しに寄越した『悪魔』」

「私は組織の動きを阻害してるし、人を殺しはしない。あんたのことも、殺しに来たんじゃない」

「じゃあ何をしに? 運び屋も辞めて、手もなくなった俺に何の用だ?」

 

 見せつけるように右手を掲げる。腕より先がない。エイクの話は本当のようだ。

 こいつが『トリック』に会いに行こうとした運び屋。

 

「『トリック』の居場所を知りたい」

「場所?」

 

 男は自嘲気味に笑い、それは次第に泣き声に変わった。

 

「そこまで喋ったら、今度は手だけじゃ済まない」

「私がさせない」

「あんた、『トリック』を知らないからそんなことが言えるんだ。恐怖に耐えられなくなって辞めてったやつらがその後どうなったか知ってるか?」

 

 ついには恐怖の泣き声だけが響いて、嗚咽混じりに主張する。

 

「殺されたんだよ、一人残らず。だから辞めたくても辞められない。俺はまだ幸運だったのさ」

「ならなおさら知ってることを吐いたほうがいい」

 

 私は男のそばに膝をつき、グレーのマスクに覆われた自分の顔を指さした。

 

「私が『トリック』を倒す」



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 あっさりと聞きだせた『トリック』の居場所は、意外なことに教会の近くにある大屋敷だった。

 柵を乗り越えて庭へ、外壁を伝いながら慎重に進む。外に光が漏れないようにカーテンで遮られているが、四人ぶんの話し声が聞こえる。

 二階のベランダに警棒の先を伸ばして引っ掛け、身体を持ち上げる。音を発せずにベランダに着地し、警棒をなおす。

 窓に鍵はかけられていなかった。そろりと開けて、カーテンの隙間からのぞき込む。

 

「つまり、ここ最近は失敗続きということね」

「俺のせいじゃないけどな」

「阻止されたのは、自分の責任じゃないと?」

「お前も一人の女の子を捕まえることも出来てないじゃないか、ブレイブ」

「すぐに見つけ出す」

 

 話している人物が見えるように身を乗り出す。一階の大広間に長テーブルがひとつ。囲むように四人が座っている。

 ブレイブと呼ばれた、鉄の仮面を被った人物が腰に差した刀の柄を撫でる。他にも目が隠れるほど髪を垂らしている女、金髪のチャラい男、水色に淡く光るラインが特徴の黒いロボット。

 声こそ荒げないが、言い合いをしている。おかげで私には気づいてないようだ。

 二階はキャットウォーク。身を潜められる場所はないが、どうしても敵の正体を見ておきたい。

 急に、四人がしんと静まった。訪れたのは静寂と……恐怖。離れているはずのこっちまで身が引き締まる。

 音もなく、女の後ろから誰かが近づいてきた。四人よりも小柄、高校生ほどの少女。だが、この異様な雰囲気を醸し出しているのは間違いなくその少女だ。

 上はスーツ、下はキュロットかしら? 全体が黒色で、いまいち全容がつかめない。

 

「続けてくれ」

 

 机の周りを回りながら、その女の子は言う。

 そう言われても、沈黙は続く。つばを飲み込む振動でさえ、真横で感じてるかのようだ。

 ブレイブは震える手を、鞘を掴むことで抑えた。

 

「プラネテューヌでの作戦が失敗したのは、トリックからの供給が無かったせいだ」

「そうか? モンスターの数が足りなかったからって、失敗を擦りつけんなよ」

 

 金髪が言い返した。反応からして、こいつが『トリック』。ルウィーで暗躍する犯罪組織の黒幕。

 そいつが動くたびにじゃらりという音がする。いくつもの金属が重なってるようなこれは……鎖?

 

「女神がいなくなったのに、なんでこんなに手こずるんだ? 目障りな人間が多すぎるぞ」

「『灰色の悪魔』のことか?」

「『骸の代弁者』もだ。あいつのせいで、こっちは人手不足になってきている」

「相手はただの人間だろうが。ジャッジ、ブレイブ、相手するのはお前たちの役目のはずだぞ」

 

 黒いロボットの名前はジャッジというらしい。かつての犯罪組織マジェコンヌ四天王の名前が揃ってる。ブレイブ、トリック、ジャッジ。あの異常な体躯をもった三人とは違って、こちらのは人間サイズだが。

 

「そのためにはお前の装置の完成が急務だ。それか、マジックの作戦の完遂か」

 

 ブレイブはちらりと女のほうを見た。やはり、最後の一人はマジック。機械であるジャッジを除いて、彼女だけが唯一鼓動が変わらない。

 

「本当に復活するんだろうな、犯罪神様は」

「疑ってるの?」

 

 ピリっとした空気が広がる。こいつら、表面上は協力はしているけど、あくまで目的のためのようだ。気に入らなければおっぱじめそうな雰囲気。

 

「ちょっといいかな」

 

 そんな空気を止めたのは、やはり黒の少女だ。

 

「みんながそれぞれ役目があるのはわかってる。だけど、それらは全てリンクしているんだ。この世界の破滅と支配には、キミたちの力を合わせる必要がある。喧嘩してる場合じゃないんだ」

「わかってるが……」

「けど? けど、なんだい? ここで堂々巡りのお喋りをして良い策が思い浮かぶとでも?」

 

 トリックの言葉を、淡々として返す少女。そのやりとりで力関係ははっきり見て取れる。

 あの少女の鼓動が聞こえないのが不気味だった。まるでそこに存在していないかのように、発する振動が感じられない。

 

「追い詰められているのはキミたちのほうなんだ。必要なものは揃ってないし、敵は多い。だからこそ……」

「待ってくれ」

 

 人差し指を立てて、ブレイブが顔を上げる。仮面のせいでどこを見ているかわからないが、嫌な予感がする。

 

「誰かがいるぞ」

 

 空を裂く振動。それはまっすぐ私のほうへ飛んでくる。鋭いそれ、ナイフを警棒で弾く。

 こっちを見ていないはずなのに正確な投合で、相当手ごわいとわかる。今は全員こちらを見ている。五体一、しかも佇まいを見る限り、あの黒い少女とマジックは強者だ。ここは逃げるに限る。

 後退、ベランダを飛び越し、庭へ着地する。そのまま走ろうとしたが、腕に何かが絡みついて動きが止められた。鎖だ。

 小さく毒づいてそれを解くと、今度はナイフが二本飛んできた。警棒を両手に持ちつつ、宙返りでかわす。

 着地して武器を構えると、正面にブレイブとトリックがいた。

 

「お前か、『悪魔』は」

 

 ブレイブの息が荒くなっている。緊張ではない、怒りだ。彼は刀を抜いて切っ先を向けた。隣に立つトリックはチェーンをぐるぐると回しながらにやけている。

 

「だったらどうする」

「ここで討つ」

 

 振り下ろされた一閃を警棒で受ける。もう一方の警棒で首を叩こうとしたが、トリックの鎖で止められてしまった。

 次の刃はかわせなかった。わき腹をぱっくりと裂かれる。うめき声を上げてしまったが、鎖を引っ張った。完全に油断していたトリックは無様に転げ、縛りが緩む。

 まだ鎖が絡んでいる腕のまま、ブレイブへ拳を向ける。ブレイブは軽い身のこなしで下がりつつ、刀を振るう。間一髪のところで腕をそらしたが、軽く肉を削がれてしまった。

 歯を食いしばって痛みを我慢するが、ぐるんと視界が一周して、地面にしたたかに背中を打ち付けられた。トリックが鎖を引っ張ったのだ。

 膝をついて急いで鎖を外したときには、すでにブレイブが迫ってきていた。警棒を何度も振るが、当たらない。首を刈り取ろうとする刀をしゃがんでやり過ごし、足を狙う。ブレイブは跳びあがってかわしながら、つま先でこめかみを叩いた。

 受け身も取れず、私は地面に伏した。衝撃を吸収する戦闘スーツでも、今のは緩和しきれなかった。

 強い。トリックの妨害がなくとも、勝てない。これだけの攻防でも彼の息は乱れていない。

 

「俺たちの邪魔をして、どうするつもりだ」

 

 私はよろよろと立ち上がりながら、息を整える。

 

「人のことを訊くにはまず自分から」

「この世界の支配だ」

 

 あっさりと答えた瞬間、刃が肩に刺さる。刀に貫かれた箇所が熱く痛み、血が流れる。乱暴に抜かれ、そのまま胸を軽く斬られる。だけど逆に前へ踏み出し、ブレイブを蹴りつける。よろめいたものの、倒れもせずにすぐさま構える彼へ、あるものを転がす。

 これを使うなんて……

 ブレイブの足元に投げたものが爆発する。爆炎の代わりに上がったのは煙。万一のときに用意していた煙玉だ。

 視界を奪われたブレイブとトリックは、私がいる場所へ武器を投げつける。飛んできたナイフと鎖を警棒で弾いて、私は走り出した。

 

 

 

「はい、我慢してくださいね~」

 

 消毒液が染みて痛い。ぎゅっと目をつぶって我慢。考え事をして気をそらそうと思ったけど、頭の中が苦痛でいっぱいになる。

 しかし、コンパの処置は的確で素早かった。回復魔法でおおまかに傷は癒えたし、全力で動かせはしないものの、肩の痛みはすぐに和らいだ。

 

「こんな傷、どこでつけられたですか?」

「ちょっとね」

「戦わなくなったんじゃないんでしたっけ?」

「それも、ちょっとね」

 

 急に、彼女が泊まってるホテルの一室に押しかけてしまったのは申し訳なく思っている。しかし、何か所も斬りつけられた怪我をそのままにしておくわけにはいかなかったのだ。

 こんな深夜だ。文句の一つや二つ、いやいくらでも覚悟していたが、意外にも彼女は何も言わずに招き入れてくれた。

 

「急に来たときは驚いたです」

「ほんと悪いわね」

「いえいえ」

 

 戦闘スーツだけは家に放り投げてきた。ミナ様がいなかったのは幸いだった。代わりに着てきた安物のブラウスは血だらけ。もう汚れは取れないだろう。

 下着姿を誰かに見せるのは初めてで気恥ずかしいが、そうも言ってられない。腕や肩の傷が思ったよりも深かったが、胸は……お世辞にも豊満とはいえない身体のおかげで傷は浅かった。

 包帯を巻かれて、ゆったりとした彼女のセーターを借りる。背は私のほうが大きいはずなのに、やけにぶかぶかとしているような……決して、彼女のスタイルの良さが羨ましいわけじゃない……本当よ?

 

「本当なら一か月は安静にしてほしいところですけど」

「それは無理」

 

 これだけやってもらっておきながら即答する。

 昼の仕事だけでも、一日たりとて抜けるわけにはいかない。私的に行動して受けた傷が原因ならなおさら。

 治療された箇所をできるだけ動かさないようにしつつ、彼女の服まで血だらけにするわけにはいかない。

 

「ミナ様には言わないで。いえ、誰にも言わないで」

「わかりましたです」

「恩に着るわ」

 

 疑問に思うべき色んなことを深くは聞いてこない。だから彼女を選んだのだ。

 病院に行けば履歴が残るし、私が急患に来たとなればミナ様の耳に届く。傷のことを調べられたら、戦っていることだけでなく、最悪私が『悪魔』だということがばれる。それだけは避けたい。

 

「それじゃ」

 

 立ち去ろうとすると、傷がないほうの腕を掴まれた。

 

「今日は泊まっていってください」

 

 退かないときは退かない。コンパはこう見えて頑固なところがある。私を見張って、朝までドアの前に立ってくらいはやってみせるだろう。

 医者の言うことを聞くのは早く治すには必要だ。私は観念して、椅子に座りなおした。



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 女神様の私室兼執務室を二度ノックする。返事はない。もう二度ノック。やはり返ってこない。耳をそばだてても、音は聞こえなかった。

 仕方ない。そろりと扉を開け、一歩中に入る。

 

「ホワイトハート様」

 

 モダンな机の向こう、椅子に座る小さな少女に話しかけた。しかし扉の向こう側にいたときと同じく、何も返してこないどころか、動かない。

 少し近づいて、なぜ返事をしなかったのかわかった。小さな息と、上下する透き通るような白い肩。寝ているのだ。

 彼女の傍に使える護衛隊として数年経ったが、彼女の寝顔を見たのは初めてだ。

 犯罪組織を抑えようとする彼女の労力は計り知れない。シェアが低下しているいまじゃ、思う通りの力が出せないからなおさらだ。

 ルウィーをまとめるホワイトハート様は気配を察したのか、ゆっくりと目を開けた。

 

「悪いわね。少し疲れてて、眠ってしまったわ」

 

 彼女を雪のようだと感じたことがある。幻想的でありつつ、確かにそこにいる。触れてしまえば消えてしまいそうなか細さ。だけど誰にも平等に彼女は愛を注ぎ、心を温かくする。

 

「それで、どうしたの?」

 

 見とれている間に、ホワイトハート様はすっかり目を覚めしていた。

 次の仕事はリーンボックスとの直接対話。犯罪組織撲滅のための、国のトップによる対談だ。

 

「明日の会議ですが、私が運転手兼護衛を務めます。出発時間ですが……」

「どーん!」

 

 背中に衝撃が走る。抱き着いてきたのはホワイトハート様の妹、ホワイトシスターラム様だ。その後ろには双子の姉であるロム様もいらっしゃる。

 無邪気な性格に幼女と言って差し支えない姿。ホワイトハート様よりも女神には見えない。

 

「えっと、今はお仕事の話を……」

「ぶー、つまんない! 一緒に遊ぼうよ!」

「リリィさん、一緒に遊ぼ……?」

 

 スーツの袖をぐいぐいと引っ張るラム様に、控えめながらも訴えてくるロム様。

 困惑している私に、ホワイトハート様はため息をついたあと口を開いた。

 

「仕事の話はメールでもいいわ。二人と遊んであげてくれる?」

「は、はい」

 

 振り回されるまま返事をした。

 私は双子の女神候補生様に向き直り、しゃがんで目線を合わせる。

 

「何をしますか?」

「それじゃあね、リリィの真似!」

「私の真似……ですか?」

 

 私の真似をして、楽しいのだろうか? きょとんとしながら私は聞き返した。

 

「護衛する人と、される人」

 

 ああ、そう言うこと。女神様と護衛ごっこか。となれば……

 

「それでは、私が護衛いたしましょう」

「それじゃ、いつもと同じじゃない。私が警備の役!」

「私も……」

「じゃ、じゃあ私は……」

「リリィさん、女神の役」

「私がですか!?」

 

 私は驚いた。確かに彼女たちは「私の真似」と言ったけれど、だからといって私が女神? 遊びとはいえ、畏れ多い。

 そんな私の思いも知らず、ラム様とロム様は私の手を掴む。

 

「さあ、いくわよ。我こそは黒天のラムちゃんだぞー!」

「なんですか、その、黒天というのは……」

「他の人たちがそう呼んでたよ?」

「初耳です……」

 

 黒いスーツに身を包む女神の使い。『黒い天使』という二つ名で呼ばれていることを知らないのは、私だけらしい。

 そんな名前を付けられていることはとても恥ずかしく思ったが、女神の使いというのは悪くはない。

 彼女たちの下で働いていることを認められているような気がして、気分が滅入ることはなかった。

 

 

 

 

 寝ようとすれば、昔の夢を見る。

 トリックやブレイブ。忌むべき懐かしい名前を聞いて記憶が触発されたのか、女神様がいたころのことが思い出される。

 無理やり出ていくつもりはなかったが、どうしても深い眠りにつけなかった。

 あの大屋敷にいた五人のことが気になる。マジェコンヌ四天王と同じ名を冠する四人に、それらを束ねる黒い少女。犯罪組織の幹部たちなのは間違いない。その会合に鉢合わせたのは幸いだった。

 だけど、一人で相手をするには強すぎる。あのブレイブとかいう奴は素早すぎた。

 容赦のなさ。それがやつらと私の違い。

 かなり前に百発百中の銃の腕をもつ男と共闘したことがある。彼とブレイブには似たようなものを感じた。敵を絶対に殺そうとする意思。

 私は彼らとは違う。絶対に人は殺さない。奴らと一緒になってたまるか。

 

「ちゃんと眠らなきゃだめですよ」

 

 朝、コンパが朝食を用意してくれている間に顔を洗った。いくらかスッキリしたあとの私を見て、コンパが皿を並べながら言う。

 

「よくわかったわね」

「目の隈です」

 

 くす、と小さく笑う彼女の顔にも違和感があることに私は気づいた。

 

「あなたもよ」

 

 そう、コンパの目の下にも深い隈があった。

 コンパの心臓が早く脈打った。

 彼女もまた、女神の傍にいた人間だ。プラネテューヌのパープルハート様と友達だったと聞く。それだけじゃなく、共に旅をしたとも。私よりも女神様に近い場所にいた彼女はいったい何を見てきたのか。

 

「眠れないときがあります。あなたのように傷ついた人を見たときは、特に悪い夢を見ますです」

「全てが悪い夢だったらと思うわ」

「でも現実です」

 

 普段のふわふわとした雰囲気からは察せないほど、コンパは大人だ。

 成すべきことを成すために努力する。悪夢を見ても、傷ついた人々を放ってはおけない。その根底にあるのは喪失の念か、弔いか。

 私の底にあるのは?

 

 

 マジェコンヌ四天王、プラネテューヌでの作戦、骸の代弁者、犯罪神の復活、剣、鎖、スピーカー、大量の機材、破滅、支配。

 朝早くから、あの会合で出たあらゆる言葉を片っ端から調べる。過去から今にかけてのすべての資料を書庫から引っ張り出しては、執務室の机に並べる。

 長い歴史を誇るルウィーだけあって、資料の数は膨大だ。気づけば机の上どころか、三百六十度が紙の入った段ボールやらファイルやらで埋め尽くされていた。

 

「えー……っと、これは何事ですか?」

 

 定刻通りに来たミナ様がこの惨状を見て言う。

 情報の整理です、と素っ気なく返事をして資料に目を通す。とはいえ、有益なものはなかった。かつて封印された犯罪神の復活でさえ、時間と犯罪神への崇拝が必要だった。それを無理やり復活させようなんて、無茶すぎる。私には方法が思いつかない。

 犯罪組織幹部の話し合い。得るものも多かったが、それを活かせないことに歯がゆい思いをした。

 くらりと眩暈がして、背もたれに身体を預ける。夜な夜な戦い続き、昨日は血を出した。そのうえ朝から膨大な情報と睨めっこしてほとんど進展なし。苛立ちと焦燥で心も頭も落ち着かない。

 ふう。息を吐いて、天井に目を向ける。

 そもそもを考えてみよう。一番の目的が犯罪神の復活なら、運んでいる機材なり何なりは、そのためのもの。そしてその機械の目的地は、犯罪神復活の場。

 それが何処にせよ、どこかに届けるはずだった。

 

「どこに?」

「はい?」

 

 思わず口に出してしまった言葉に、ミナ様が反応する。

 

「あの機械のパーツとか、何処に届けるつもりだったんだろうって思いまして……」

「捕らえた組織員からは、別のトラックに積む予定だと聞きましたが」

「はい、それまでの運び屋も同じことを。運搬担当者をいくつか経由して、目的地に届けてるようです」

「いやに慎重ですね……でも、どこかには届けるんですよね?」

「はい、どこかには」

「追っていけば、最後には辿り着く……でも、犯罪組織の密輸ルートは一回一回違いますし、街中を見張るには人数が足りませんし……」

「そう、ですね……」

 

 アノネデスからの連絡もない。まだ必要なことを掴めていないのだろう。やはり、「捜査は自分の足で」か。

 

 

 

 顔を何度も何度も殴る。血が出ても構わずに殴りつける。肩は痛むが、それよりも苛立ちが身体を突き動かす。

 気絶した男を地面に叩きつけ、腰が抜けたもう一人に詰め寄る。胸ぐらを掴んで、頬を思いっきりはたく。

 

「今夜は何人も痛めつけてきた。お前で何人目かわからないくらいにな」

 

 その男は悲鳴を上げ、じたばたと手足を暴れさせながら助けてくれと叫んだ。人気がまったくない路地の裏、トラックのライトに当てられ、情けない顔が浮かび上がる。

 

「お前の返答による」

「何でも聞いてくれ!」

 

 しかし、この男が知ってることを吐いたところで、痛めつけないという保証はない。

 今夜の襲撃はこれで四度目。それまで血を流させた人間が吐いたのは、次の輸送者が待っている場所だ。

 これがずっと続くように思える。殴り、吐かせて、次の場所へ。だが必ず終わりはある。その先に待つのは、この国の平和。

 だから、ここで止まるわけにはいかない。

 

「吐け」

「いいや、吐くのはお前だ」

 

 言ったのは、目の前の男じゃない。剣を構える誰かが私の後ろにいる。その方向を見なくてもブレイブだとわかる。

 男を殴り気絶させ、私はブレイブに向き直る。

 警棒を両手に持ち、空を跳んだ。平静だったブレイブの心臓が鼓動した。彼は話し合いをしようとしていたようで、剣の振りが遅れた。一撃目は防いだものの、二撃目は肩にいれることができた。さらに姿勢を崩したブレイブを蹴る。

 不意打ちに近い形だったが、彼は空中で身体をひねり、すっと着地した。

 反撃を許さないように、距離を縮めて武器を振る。合わせてブレイブも刀を薙いだ。静寂が支配する夜のなか、金属音がこだまする。

 ブレイブが一歩踏み出し、頭をはねようとする。慌てて上体を逸らし、退く。

 

「その身体、いくつか斬りつけたはずだが」

 

 どうやら、傷つけたはずの身体を気にしているようだ。昨日の今日でこんなに動けるのは自分でも驚いたが、これで『悪魔』が複数人だと勘違いしてくれれば助かる。

 しかし、不意打ちからの追撃にも関わらずあの返し。仕留めるのは難しそうだ。万全でもないこの身体じゃ、このまま戦うのもまずい。

 私は両方の警棒の先を飛ばした。片方はブレイブへ、もう片方は建物の屋上の柵へ。

 いきなりの飛び道具だったが、彼は弾いた。その隙に警棒の先と柄を繋ぐワイヤーを巻き取り、屋上へと逃げ行く。体重を受けて肩の傷が開く。歯を食いしばりながら屋上へ着地し、下を見る。

 仮面越しにじっとこちらを見てくる。たった一人の男に邪魔されたことに憤慨しつつも、私はその場を去ることしかできなかった。



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 結果として、得られるものはなかった。あちらに考えを見抜かれてたのは屈辱だった。

 誰かいるにしても、武装した組織員程度かと思っていたが、まさか敵の幹部が待ち伏せていようとは。『悪魔』はよほど嫌われているみたい。あの会合に現れたのが一番のきっかけでしょうね。場所はともかく、タイミングはあっちにとって最悪のものだった。

 ブレイブという男、相当な実力者だった。あれが出しゃばってくるようなら、今後はかなり動きづらくなってしまう。

 あの男とジャッジは戦闘の担当だと言われていた。ならば避けては通れない相手だが、正直いまの私じゃ勝てない。

 なんにしても、状況は振り出し。どうしたら犯罪組織を止められるのか。脅しも交渉もやりつくして、しらみつぶしもやった。次の一手が思い浮かばない。アノネデスもまだ敵の本拠地までは掴めてないようだ。

 

「お手上げね」

 

 ふらっと入った喫茶店のテラス席に腰を下ろし、コーヒーをぐいっと飲み干し、空を見上げる。私の心なんて知らずに澄み渡っていた。

 手当たり次第に人に手を出してた頃とは全く違うやり方。裏で巧妙に動かれては、影だけしかつかめない。

 だが昔は昔で厄介だった。わざわざ女神様が話し合いをするほど、事態が切迫していたときがあった。

 そう、あれは……まだ女神様が生きていたころ。

 

 

 

 

 リーンボックスは、他の国よりも少々騒々しさが足りなかった。

 まあ、どこも似たようなものか。いま活気づいているのは、モラルのない人間だけだ。

 それをどうにかするための、グリーンハート様との会談。ホワイトハート様が教会の中に入られてから、もう何時間も経っていた。しかし、私はその間シルバーの車の前でじっと待っていた。私は戦闘員で、難しい話はわからないし、変なことを言ってしまって時間を奪うのも申し訳ない。

 誰もがそうだとわかる高級車を手配しなかったのは、女神様を連れているとばれないためだ。しかし、教会の前でパンツスーツの女が待っているのを見れば、いささか妙だと気づく人もいるだろう。

 日が傾き始めたころ、ホワイトハート様がようやく出てきた。うんざりした顔で、ため息をつく様子からどうなったのかがわかる。

 

「待たせたわね」

「いえ、どうぞ」

 

 後部座席のドアを開け、ホワイトハート様が乗り込んだのを見て閉じる。

 車をゆっくりと走らせながら、ちらりとミラーでホワイトハート様を盗み見る。顔色が良くない。

 それに鼓動が乱れていた。

 振動覚が鋭いことはとても役に立つ。取り調べすれば相手の嘘がわかるし、後ろから襲おうとしてくる輩も察することが出来る。仕事ができると評判をもらったのも、この能力のおかげだ。

 だが、彼女の振動を感じてしまうたびに、プライベートを荒らしているようで嫌な気分になる。

 

「何も訊かないのね」

 

 車なら港までそうかからない。ひと眠りもせずに、彼女は言った。

 

「あとで報告書を見せていただきますから。ホワイトハート様を急かすなんて、私にはとても」

「犯罪組織を抑える方法を話し合ってたの。実りのあるものとは言えないけれど」

 

 私を気遣ってか、それとも愚痴を言いたいのか、ホワイトハート様は話を始めた。

 

「通話ではいけないんですか?」

「直に顔を合わせたほうが話が早いの」

 

 早いとはいえ、彼女が言った通り『実りのあるもの』ではなかったのだろう。全身がそう物語っていた。

 

「力が及ばず申し訳ありません、ホワイトハート様。対処はしているのですが……」

「あなたは充分やってくれてるわ。悪いのは犯罪組織よ」

 

 お褒めの言葉の後、彼女はミラー越しにじとっと睨んできた。

 

「それに、ブランでいい。そう言ったはずだけど」

 

 前からそう言われているのは確かだ。

 妹様たちに関しては、『ホワイトシスター様』ではどちらを呼んでいるのかわからないし、初対面のころから『ラムとロム』と呼べ、と言われたのでそれほど抵抗はなかった。

 だが、『ホワイトハート様』を崩すのはなかなかに難しい。それまでの慣れと気恥ずかしさが原因としてある。

 誰もいないところで注意されれば、そのときだけ呼ばせていただいているが、やはり畏まってしまう。

 

「外では流石に……」

「ここは外じゃないわ。だから誰にも聞かれない。あなたが何を言ってもね」

 

 つまり、思うまま正直に言えということだ。

 

「犯罪組織は日に日に力を増していっています。どれだけ戦っても、敵の数は増える一方」

「どうすればいいと思う?」

「やはり、元から絶たねばと。マジェコンヌ四天王を名乗る幹部たちの実力は驚異的ですが、その強さと恐怖に従っているものが大多数でしょう。崩れてしまえば、あとに残るのはわずかかと」

「やっぱりそれしかないのね」

「ですが……」

 

 それはつまり、犯罪組織相手への正面からの戦争を意味する。

 いままで直接の対決を避けてきたのは、ひとえに奴らの驚異的な力のせいだ。

 自らを犯罪神の分身と名乗る敵の言葉は嘘とは言い難く、引き分けか撤退か、決着はつけられず終いなのが結果を際立てる。

 

「あなた風に言うなら、『それが私の仕事』よ」

 

 堕ちていく世界を守るには、そうするしかない。

 その価値があるだろうかと考えるときがある。恐怖に敷かれ、あるいは楽や刺激を求めて犯罪組織の味方をする者、組織を悪く思わない者も多い。

 そいつらにとっては軽い気持ちだっただろうが、私にとっては女神様を捨てた裏切り者だ。

 そんな奴らを守る価値があるのかどうか、迷ってしまう。

 けどブラン様は迷わずに決戦の地へ向かおうとする。ルウィーの女神様だから? それとも彼女がブラン様だから?

 

「もし私が戻ってこなかったら、ルウィーと妹たちの面倒を頼むわ」

「ラム様とロム様は私が守ります。ですが、遊びとなると私一人では荷が重すぎます。ミナ様と二人でも」

 

 まるで死地へと向かうようなブラン様を引き止めるために、近しい人の名前を出す。

 最悪な結果になってしまう、そんな『もし』を認めたくはなかった。

 

「妹の相手をするのも、姉の仕事ですよ」

 

 

 

 

 あの言葉がきっかけだったのか、ブラン様はマジック・ザ・ハードが待ち受ける墓場へと向かった。そして捕らわれた。

 私があのときから手段を選んでいなければ、ブラン様はいまも生きていただろうか。

 そう考えると、罪悪感と自身に対する失望が押し寄せてくる。女神護衛隊が聞いてあきれるわね。私は国どころか、たった一人さえ救えない。

 苦みが胸に広がる。苛立ちと相まって、気分が悪くなる。

 今日はまた、しらみつぶしに襲っていこうかしら。あれは成功ではなかったが、失敗とも言えないわけだし。

 

「怖い顔になってますよ、リリィさん」

 

 ぽんと肩を叩いてきたのは、白衣を羽織ったコンパだった。

 

「コンパ。今日はもう仕事終わり?」

「いえいえ、やっと休憩がもらえたところです」

「やっとって……もう三時よ?」

「はい、だからもうお腹ペコペコです」

 

 お腹をさすりながら、えへへと笑うコンパ。相変わらずの目の隈、白衣はよれよれ、それに胃が強く収縮している。朝以降何も食べてないどころか、休憩もほとんどとってない。

 催促しているわけじゃないのはわかってるけど、放ってもおけなかった。彼女を対面に座らせて、メニュー表を手渡す。

 

「好きなものを頼みなさい」

 

 はじめは首を横に振っていたコンパだったが、強引に頼ませた。彼女が頼んだサンドイッチとカフェオレのセットに、特大のパフェを頼んでやる。

 相当空いていたのか、あっという間にペロリと平らげる。この時間にそれだけ食べても、コンパの場合はどうせ腹にはいかない。

 

「本当に同年代なのかしら」

「はい?」

「その胸よ。でかすぎる」

 

 コンパは腕をばっと胸を隠すように構える。そのせいで余計に強調された胸が柔らかく形を崩す。

 

「せ、セクハラですっ」

「なにをいまさら。あなただって私の身体見たじゃない」

「あれは治療ですっ」

 

 顔を赤くするコンパに、ふふふと笑って返す。まあ、私の身体は見ても面白くないものだけど。

 女神様は国民の思いで生まれる。なので、女神様が()()()な体形なのは分かる。だからってただの人である私まで()()()なのは、ちょっと納得がいかないというか……

 プラネテューヌの国民であるコンパがこんなにスタイルがいいのが悲しみに拍車をかけるわね。でも、パープルハート様は女神化すれば一気に育つし、パープルシスター様だって着やせするタイプみたいだし。

 単に食生活の問題かしら。ミナ様だって案外なかなかだものね。

 そんなことを考えていると、コンパの休憩時間もそろそろ終わりに近づいてきた。

 席を立ちあがった彼女についていき、半ば護衛のようにして周りを注意しながら歩く。夜に悪が跋扈している気配が微塵も感じられないほど穏やかなのはいつものことだ。

 つまり、ルウィーは常時危険に晒されている。いつ夜が昼に侵食してきてもおかしくない。

 この国の人たちにとって、それを知らないことは幸せなことだ。そしてそれを知らない間に片付ける義務が私にはある。この仮初の平和を本物にするためにするための義務。

 それのためにはまずあいつらの拠点を……

 

「どうしたんです、リリィさん?」

 

 コンパは急に足を止めた私を訝し気に見る。私は人差し指を立てて、『ちょっと待って』と『静かにして』を同時に示す。

 ああ、そうか、なんて馬鹿だ。

 情報が得られる確証はない。だが少なくとも、焦って何も手につかず、何度も読み返して積まれた資料をもう一度、なんて意味のないことをすることはせずに済む。

 

「病院についていくわ」

「さっきも聞きましたけど」

 

 私は頭を振った。

 

「病院の中によ」



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 今まで、暴力で脅しても情報を喋る奴は少なかった。口が堅いのか、あまり知らされていないのか、『トリック』の名前を出すものはこの前まで一切いなかった

 だが、知ってしまえばこちらの出方も変わる。『トリック』を知っているということは、『悪魔』は相当の人数を脅したか、かなり残酷な方法で聞き出したか。

 どちらにせよ、隠し事はできない。知らないと言えば骨を折られるか、最悪身体を使い物にされなくなり、『悪魔』は次へ向かうだけだ。

 実際、『トリック』の単語を手に入れただけで、そこから私はさらにある程度の情報を得られた

 なら、それまでにだんまりを決め込んでいた奴らにこれを聞けばどうなる?

 治療中の身じゃ逃げられない。黙るなら、少し痛い目を見てもらう。

 そんなわけで、私は病院患者の面会を求めた。

 犯罪組織だけでも、今は十数人入院している患者がいる。少しは何か知ってるといいんだけど。

 清潔に保たれたエントランスには、呼ばれるのを待っている患者が数人いた。今日のピークは過ぎたようで、病院内全体が静かだ。

 階段を上がって三階の病室を回る。残念なことに、何も知らない、または反応のできないくらい怪我を負っているのが大半だった。

 少し手加減したほうがよかったかしら? ふとそんなことを思ったが、頭を振った。悪さをしているのは間違いない。罪には罰を。骨の五本や十本折っておかなければ、悪事への抑制にはならない。

 一階上がる。四階には、下よりも軽い怪我の患者が多く、うわごとしか言わない男たちとは違う。

 ステーションの横を通り、一つ目の部屋をノックする。ドア越しで、中の患者がびくりと反応したのがわかる。

 ドアをゆっくり開けると、男は毛布にくるまって震えていた。足と頬が折れている。骨の軋み、擦れ、詳しい説明は省くがそれは振動覚でわかる。

 それよりも一番重傷なのは、その心だ。

 『悪魔』がそう呼ばれたてのころ、武器の運び屋だった彼に何度も拳を顔面に叩きつけたのを覚えている。

 心的なストレスが強く、看護師も手を焼いているらしい。けど、私は優しくする気はなかった。

 ベッドのすぐそばにある椅子にどっかりと据わり、観察する。

 怯えきって身体の震えが止まらないのは、私のことを『トリック』の手先か『悪魔』だと勘違いしているからだろう。厳密に言えば、後者は勘違いではないが、いまは<<話し合い>>しに来たのであって、拳を振るうためではない 

 手を出すどころか、一言も話しかけられないことに違和感をもったのか、男はゆっくりと顔を出す。

 ルウィー教会職員のバッジを見て、彼の表情は幾分和らいだ。

 

「あんた、誰なんだ?」

 

 かすれた声。喉と内臓を思いっきり痛めつけたのを思い出した。これでも、私が殴った相手の中ではまだマシなほうだ。

 

「教会の者よ。あなたに聞きたいことがあって来たの」

「聞きたいこと? もう全部喋った」

 

 骨が折れているせいでもごもごと聞きづらいが、そんな奴らが多かったせいで慣れた。

 

「あなたが運ぼうとしたものの最終的な目的地は?」

「目的地も喋っただろ」

「次の運搬者との合流地点ならね。私が聞きたいのは、最終的な目的地よ。あれはどこに納入されるはずだったの?」

「知らねえ」

 

 私は音を立てて立ち上がった。頂点に達した怒りが暴力に訴えようとする。

 びくびくしている男に椅子を投げるか、ベッドをひっくり返すかすれば、少しは気が晴れるでしょう。

 この考えは魅力的だったが、深呼吸して何とか抑える。またハズレ。一縷の望みは簡単に打ち砕かれてしまった。

 

「けど……」

 

 椅子に座り、うなだれた私を見て、男は口を開いた。

 

「けど、別の仕事のときは、俺が納入担当だった。その時の場所と同じかどうかは知らねえけど」

「教えて」

 

 唐突な情報に、思わず身を乗り出してしまう。しかし、彼はなかなか続きを喋らない。喋る気がなければこんなことは言わない。喋ってしまえばトリックに五体のいずれかを奪われることを懸念しているのか、何か取引できないかと考えているのか。

 それもすでにお見通し。後押しするために証人保護の書類を見せた。他と同じく、情報を渡せば教会が身の安全を守るという旨が記された、正式な書類だ。すでに私の判が押されている。これがあれば、彼の心配は消え去る。

 緊張が一気に説かれ、彼の鼓動が静かになる。

 極度の緊張から緩和され、黄金を扱うかのような手つきで書類を掴む。私がボールペンを渡すと、すぐさま自分の名前を付けたした。

 

「その場所は……」

「待って」

 

 騒がしい音が聞こえる。距離と方向からして、二階だ。

 何かが倒れるような振動、ジャラジャラと金属が擦れるのも感じられた。

 嫌な予感がして、部屋の扉を閉じた。止める者はだれもおらず、代わりに悲鳴が聞こえる。

 階段から誰かが上がってくる。姿は見えないが、緊張で息が少し乱れているのと、慎重すぎる足取りで患者でも見舞いでもないと分かる。

 息をひそめて、扉を少し開けて様子を見る。銃を持った男三人が廊下をゆっくりと歩いてくる。

 防弾服にヘルメット。慎重かつ大胆に、油断なく周囲を警戒している。見つかる前に扉を閉じた。それを察してか、一人がこちらに近づいてくる。

 音を立てないように息をひそめているが、私にとっては距離がまるわかりだ。経験か練度、あるいは両方が足りないのか、ぱっと扉が開く。

 かくして、圧倒的なアドバンテージをもつ私のいる場に一歩踏み出した運のない兵士は、一瞬の間に銃を取られ、膝を折られることになった。

 奪った銃で鼻を砕く。蹴って吹き飛ばすと、残りの敵がこちらに気づいた。

 銃口を向けられる前に、手に持ったままの銃を投げる。真っすぐ兵士の一人に向かったそれは、見事に頭にヒットしてのけぞらせる。

 相手の体勢が整う前に、もう一人の手に握られている銃を回し蹴りで弾く。そのままの勢いで、くらくらとしている兵士にも拳の突きを食らわせた。

 悪いことに、どちらも倒れなかった。兵士たちは驚きはしてもすぐに格闘の構えに入った。今までとは違う、鍛えられた兵士。

 挟み撃ちにされた形の私の首に何かが巻きついた。首を絞めてきた男 ―銃を弾かれたほう― が力を込める。ほどこうとして打ち出した肘は、しかし防弾服に吸収された。

 意識を刈り取られる前に脚にぐっと力を入れる。床を蹴って、背中を壁にぶつける。サンドイッチにされた兵士の腕が緩んだ。解放されたところで兵士の足を払い、膝をついた男の顔面を殴る。

 続いて、銃を向けてきた兵士の懐に飛び込む。そのおかげでポイントが逸れ、銃弾があらぬ方向へ飛んでいく。一瞬遅れていたら危なかった。敵の頭を掴んで、足を払いながらぐるりと敵の身体を回すように地面に叩きつける。

 まだ立ち上がろうとするそいつの頭を蹴り飛ばす。さらにもう一人へ向き直り、ぐるんと空中で回り、鎌のように振り下ろした足を叩きつける。

 肩で息をしながら、壁にもたれかかる。二人倒すのに、時間と体力を使いすぎた。弱い敵ばかり相手にしてきた慣れと油断のせいだ。

 今までの経験から、こんなのが大勢いるとは思えない。犯罪組織は実戦的な戦力を投入してきたのだ。

 何のためかはわからないが、それほどのことをするためのものがここにある。

 気づけば、悲鳴も銃声も止んでいた。下にはまだ襲ってきたやつらがいたはずなのに。

 二階に降り、廊下を見渡す。途端に吐き気がこみ上げてきた。先ほどの戦いで汗をかいていたが、身体は震えるほどに寒く感じた。

 床も壁も赤色に染まっていた。患者も医者も隔たりなく倒れていた。

 力が抜け、がくりと膝をつく。

 血が流れる音、絶えていく鼓動がやけに響く。耳を塞いでも意味がない。振動は骨を通じて、私に死を教えてくる。私の全身が他人の死を、その経過を伝える。

 折れそうなほど歯噛んで床に頭をついたとき、一際目立つ振動を感じた。

 廊下の隅で、うずくまって震える女性が私を見ていた。

 

「看護師さんが……」

 

 彼女は焦点のあっていない目で、かろうじて私を捉えながらそう言う。

 私はあたりを見回した。

 横たわる死体の中には、コンパはいない。今度はできるだけ死体を見ないようにして、何かヒントがないかを探る。

 集中しても、コンパの声を感じられない。いや、一つ違和感がある。病院の入り口のほうから、怒号が感じられた。四人分の足音の真ん中、ずるずると引きずられている何かがある。

 慌てて階段を下り、倒れている人々に見向きもせずにエントランスを隅々まで見る。

 もうすでにそこにはいなかったが、どこにいるのかはわかってる。病院の目の前に止められたワゴン車に、四階に来た男たちと同じ装備の四人が乗り込もうとしていた。

 その後部座席に押し込まれているのはやはりコンパだった。抵抗がないのは、彼女が気絶させられているからだ。

 底なしの怒りを覚え、先ほどの絶望と吐き気はどこへやら、私の足は床を蹴った。

 気づいた二人が悠然とこちらへ向かってきた。

 先にパンチしてきた兵士の腕を掴んで、そのまま折る。肘を二度叩きつけ、ヘルメットを割る。足を払って敵を仰向けに倒れさすと、露になった男の顔にもう一度肘を一発。

 続いて後ろに控えていた兵士から繰り出された足を、膝を蹴って抑える。肩と腕を乱暴に掴んで、腰を落として一本背負い。受け身の取れなかった兵士の首へ掌底を放ち、さらにみぞおちへ拳を沈める。

 ようやく片付いたが、それに構わず車のドアが閉められ、出発する。しだいにスピードを上げる車の後を追うが、追いつけるはずもなく、逃してしまった。

 

「くそっ」

 

 毒づいて地団太を踏む。何が目的は分からないが、よりによってコンパを攫っていくなんて……

 地面を何回踏みつけても気は晴れないが、落ち着けと言い聞かせて息を整える。

 死体と血、そして先ほどまでの戦闘が私の心臓と頭を乱す。しかし車は相当音を発するし、振動もでかい。離れても、私なら場所がわかる。

 どれだけ逃げても、絶対にコンパを助け出す。攫った奴らを潰してやる。



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「あーっ、リリィだ!」

「リリィさん……こっち」

「あ、あの……」

 

 私を見つけた瞬間、腕に抱き着いてきたのはロム様とラム様だった。戸惑うままにぐいっと引っ張られた先は、ホワイトハート様の私室だった。小説を読む、書くことを趣味としている彼女の部屋には、見上げるほど大きな棚にぎっしりと本が詰められている。

 普段は整理されているはずのそれらは、いま乱雑に積まれている。二人が嬉しそうに持ってきたのは、その中の一つ。びっしりと文字が書かれている中に、拙い絵が描かれている。

 

「ラム様、ロム様、これは……」

「へへへー! 上手いでしょ。わたしが描いたのよ!」

「こっちはわたし……」

「この本は……」

「うん、お姉ちゃんの本!」

「また怒られますよ」

 

 こういうイタズラを、妹様たちはよくする。ホワイトハート様がいたころは、烈火のように憤慨したものだ。これはまだ控えめな表現だけれども。

 彼女たちの悪ふざけは日に増して多くなっていく。

 

「怒ってくれるなら、落書きでもなんでもする……」

 

 ロム様が俯く。

 彼女らの愛する姉が墓場に赴いてから、数週間が経った。混沌の原因であるマジック・ザ・ハードを討つために、他の女神様と出向いたホワイトハート様はいまはここにいない。

 捕まったと知ったのは、マジック・ザ・ハードがそのことを高らかに宣言してからだ。

 それ以来、ラム様とロム様はその見た目にそぐわない憂いの顔を見せる。

 

「必ず戻ってこられますよ。ブラン様は強いですから」

「知ってる……」

「お姉ちゃんは誰よりも強いんだから」

「ええ、そうですね」

 

 強がっても、声に秘められた悲哀が隠しきれていない。

 泣きたいのは私も同じだった。だけど私には彼女たちに弱さを見せることが許されない。いま安心を与えられるのは私たち女神様の信者しかいないのだから。

 

「ですから、戻ってこられたときのために、ブラン様が喜ぶものを用意しましょう」

 

 大きくうなずいて、彼女たちは部屋を出た。

 きっと戻ってくる。そう思って待ち続けて、あとどれくらいかかる? 希望を抱いたぶん、後の絶望が大きくなるかもしれない。女神様はもしかしたら……

 嫌な想像だ。そんな妄想は必要ない。私は私の仕事をするだけ。

 

「お二人の面倒を見てくださって、ありがとうございます」

 

 いつの間にか、ミナ様が来ていた。

 いまや実質彼女がルウィーを仕切っている。この悪意に満ちた世界で奮闘する彼女の負担は計り知れない。

 

「約束しましたから」

「なら、少しくらいは厳しくしてもいいんじゃないですか?」

「怒れませんよ。あの二人から姉を奪ったのは私ですから」

「リリィさんのせいじゃありません」

「私があんなことを言わなければ」

 

 言ってしまって、自分を呪う。

 頭を崩せばどうにかなるという私の言葉を受けてか、ホワイトハート様は墓場へ身を投じた。その結果が、愛を受けるべき妹たちから姉を奪うという惨劇だ。

 過去が悔やまれる。女神様を守ると誓ったはずの自分の浅はかさと弱さを悔やむ。

 

「そうでなくても、きっとブラン様は行ってました」

 

 ざわついた心が音をひそめる。彼女の声はいつだって、ホワイトハート様と同じように私の心に響く。

 それが嘘でも気遣いでも、彼女の鼓動は、私を想ってくれることを知らせてくれる。

 

「そういう人だって知ってるでしょう?」

「……そうですね」

 

 勝ち目がなくとも、国民を守るためにすべてを投げうつ。そんな大それたことを女神様はしてみせる。

 私はそんな彼女の強さに惹かれたのだから。

 

 

 

 

 『悪魔』のスーツに身を包んだ私は、コンパを攫った車が止まった場所へとたどり着いた。

 そこは、あの会合があった大屋敷。トリックがこの場所を捨てた、と思っていた私には予想外のところだった。

 

「なあ、お嬢ちゃん。俺たちだってこんなことはしたくねえ。だけど命令なんだ」

「あの『悪魔』の正体を言え!」

「ほんとに知らないです!」

 

 その中、中央に配置された長テーブルのそばにある椅子に縛られたコンパを囲んで、男どもが詰め寄る。

 コンパは私のこと、いいえ『悪魔』のことは何も知らない。なのに、あの屑どもはまるで確証があるかのように問い詰める。

 

「しかたねえな。痛い目見ないと分からないらしい」

 

 しびれをきらした男がバットを振り上げた。だがそれはぎゅっと目を閉じたコンパには届かない。

 

「正体を知りたいなら、直接私に聞け」

 

 ぬるっと現れた私は、掴んだバットを取り上げて呆けた男の頭へフルスイング。続けて固まったままの一人へバットをぶん投げる。あっという間に二人片付けて、すぐさま私は動いた。

 恐怖でごくりと喉を鳴らした男の、何の工夫もない大振りパンチを最小限の動きでかわし、首へ掌底を叩き込む。嘔吐しそうなほど咳き込んでうずくまる身体を、容赦なく警棒で殴った。

 そのままの勢いで武器の先を飛ばす。どたどたと逃げようとする最後の一人の首へ、ワイヤーを絡ませる。ぐいっと引っ張ると、逃げようとした反動で男の身体が宙に浮いて、背中をテーブルにしたたかに打ち付けた。

 かすかにある意識を殴ることによって奪っていく。殴る、殴る、殴る。気を失ったと気づいた時には、私の拳は真っ赤に染まっていた。

 私はゆっくりとコンパを縛っている縄をほどいてやる。そこで、ようやく彼女は目を開いた。怪我をしていないのが幸い。泣き腫らして赤くなった目以外は、彼女に異常はない。

 

「大丈夫?」

「あなたは……」

「早く逃げて」

 

 私はコンパの言葉を無視して扉を指差した。

 それでも彼女は呆然として動かない。

 

「早く!」

 

 コンパはびくりと立ち上がって、怯えた目でこちらを見ながら足を動かした。こけそうになりながらも、急いでその場を離れる。何度もこちらを振り返りながら去っていくコンパの姿が見えなくなったとき、ようやく息を吐いた。

 大事にならなくて済んだ。だけど、間一髪だった。コンパの警備はより一層強める必要があるわね。

 奴らに近づくほど、こちらもただでは済まない。もしかしたら次に狙われるのは……私は首を横に振って、この嫌な想像を断ち切った。

 想像は現実になる。どこかで悪い流れを断ち切っておかなければならない。

 捕らえられた人間を助け出すというのは、今回が初めてじゃない。かつてあった、リーンボックスのアイドル誘拐事件の際にはそりの合わない者と共同で仕事をしたものだ。

 アクの強い面々を鬱陶しく感じることも多かったが、あのときとは違ってただ一人で

 それに、まだ終わってない。もう一人いる。仲間がやられても静観していた奴が。

 

「ブラボー、ブラボー」

 

 ぱちぱちと心ない拍手をしながら、そいつが奥から出てくる。目立つ金髪に、軽い口調。あの会合にいた一人だ。

 

「さすが俺とブレイブから逃げおおせただけはある」

「トリック……やっと追い詰めた」

「追い詰めた?」

 

 彼はくくく……気取った笑い声をあげた。

 

「追い詰めただと? この状況が分からないみたいだな。お前はおびき出されたんだよ」

 

 こんな簡単なことも理解できないのか? 大げさなジェスチャーで馬鹿にする。腕に巻きつけながら、床に垂れるほど長い鎖がじゃらりと音を立てた。

 彼が動くたびに重ねられた輪がいちいち擦れる。それは病院でも感じた。こいつはあの場にも来ていたのだ。コンパを攫うことを自ら考案し、現地に赴き、人を殺した。すべてがこいつが仕込んだことなのだ。たった一人を攫うために、たった一人の『悪魔』と対面するために。

 自分の存在で、コンパを危機に陥れてしまったことに、私は怒りを感じて距離を詰める。話し合いする気はなかった。

 先に動いたのはトリックだった。腕を振るうと、遅れて鎖が飛んでくる。

 私の拳が届く範囲外からの攻撃をしゃがんでかわす。近づく前に次々と飛んでくる金属を警棒で弾く。

 鎖は厄介な武器だった。振れば中距離の武器となり、打撃を加えることも相手を絡めとることもできる。

 素人が使えるほど簡単で扱いやすいものではないが、会得すればこれほど戦いづらい相手はない。

 彼は拳にも巻き、パンチの威力を上げる。とはいえ、ブレイブほど近接戦闘に強いわけではなく、拳を避けるのは難しくなかった。

 相手をするのはジャッジとブレイブ。会合で彼はそう言った。戦闘面で頼りにされているのはその二人なのだろう。トリックの役目はあくまで策謀や物資か、とにかくこうやって顔を突き合わせて戦うのは彼の得意とするものではない。

 だが、ならなぜ今さら目の前に現れてきたのか。今までのことからも、彼が矢面に立って姿を露にするのを嫌うことは承知している。

 私を引き寄せるにしても、納得のいかないことが多い。

 鎖を盾にもしながら殴りつけてくるが、その動きにはキレと経験が少ない。数度打ち合いをしたところで実力がだいたいわかる。病院に攻めてきた兵士よりは強いが、所詮……というレベルだ。

 一対一では大したものじゃない。

 ぐるりと体重を乗せた回し蹴りに合わせて、私も同じ技を繰り出す。ただし私は彼の足の付け根を狙った。

 カウンターの形で返されたトリックの身体はどすんと音を立てて地面に伏した。

 

「やるじゃないか」

 

 攻撃を受けた箇所をさすりながら、トリックはゆっくり立ち上がる。

 

「お前が弱いだけだ」

「ああ、確かに。戦闘はジャッジとブレイブが担当だからな」

 

 笑みは崩れないどころか、さらに口角を上げた。

 

「だからこそふさわしい。さあ、お披露目といこうじゃないか!」

 

 トリックがパチンと指を鳴らすと、部屋の端に設置されていたスピーカーから音楽が流れ始めた。

 いや、音楽というにはおこがましい。何の芸術性もない不協和音。黒板に爪を立てるが如く、人を不快にさせることだけを目的とした音。

 振動を鋭敏に感じる私にとっては、毒にも似たようなものだった。頭が締めつけられたように痛み、脳みそがぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような嫌悪感が襲ってくる。

 

「何、これは?」

 

 振動は全身で感じる。耳を塞いでも効果はなかった。あまりのグロテスクさに膝をついてしまう。

 

「お前が必死になって完成を阻止しようとした装置だ。これはまだプロトタイプだが、どうやら予想以上だな」

 

 装置? 最近押収した金属材料を思い出した。スピーカーのパーツ。あれはこの音を作り出して拡散するために必要だったのか。

 だけど、この音は一体何なのか? ただこの不快音を爆音で流すためだけにこそこそと裏で運んでいたのか?

 

「5pb.を知っているだろう。リーンボックスの歌姫。あいつは厄介なことに、俺たちを弱める力を持っていた。だが、俺はそれを利用しようとしたのさ。その能力を解析し、全く逆の力を生み出す音を作り上げた」

 

 その人物も力も知っている。善を助け、悪を挫く歌声をもつ5pb.は、リーンボックス教会から厳重な警備を派遣されるほどの重要人物だ。

 解析、と彼は言った。CDやライブを見聞きしたのではないと私はわかっている。

 5pb.は一度犯罪組織に誘拐されたことがある。結果として救い出せた彼女の身体には傷もなく、そして何かを問い詰められたこともなかったそうだ。

 あれもトリックが仕込んだことなのか。5pb.の能力を調べ、悪用するために。

 大量に機材を運んだのは、実験のためというわけだ。

 

「とは言っても、まだまだ発展途上。これは大音量で流さないと意味がないし、複数人、恩恵の対象者がいれば効果は拡散される。その対象って言うのが、悪の心を持つやつなのさ」

 

 トリックはうずくまる私に悠々と近づいてきた。

 

「お前には不協和音に聞こえるだろ。俺にはこの音がこれ以上ないくらい心地いいぜ」

「欠陥品だな」

 

 あれだけの人間を利用して、膨大な時間をかけて、結局効力はそれだけ。女神に戦争を仕掛けるには何もかもが足りない。

 私は挑発して返す。

 

「タフな男を気取るのはよせよ。お前が女だってことはブレイブから聞いてる」

 

 トリックは一番のにやけっ面を見せた。騒々しさの中でも鼓動がうるさく聞こえた。図星を突かれたことを誤魔化そうとするが、あまりにも急で露骨に狼狽してしまう。

 

「褒めてたぜ。しなやかな身のこなし、緩やかな身体の線……あとは忘れたが、とにかく戦闘に関しちゃ、あいつの言うことは絶対だ」

 

 あの数分間にも満たない戦いの中で、私が女だということを見抜くなんて……迂闊だった。

 

「ほんと、女ってのは恐ろしいよなぁ。マジックもあのガキも、敵に回したくねえ。犯罪神を蘇らせるためにガキに手をかけようとするやつらだからな」

「っ!」

 

 完全に油断していたトリックの顎に、警棒を一閃する。普通なら骨が折れ、顎が外れる一撃だったが、その手ごたえはなかった。

 

「いってえな!」

 

 トリックの足が腹にめりこんだ。既に上下が怪しくなっていた私は、受け身を取ることもできずに転がった。

 吐き気を抑え、立とうとするが力が入らない。この音はトリックを強化するだけでなく、私を弱体化させているのだ。5pb.の歌とは真逆。

 ダメージが重く鈍く響く。戦闘慣れしていないはずのトリックの一撃だけでこれなのだ。もしこれがブレイブの元に渡ったら……

 

「欠陥品ってのは認めてやるよ。てめえみてえな女にダメージを貰うなんてな!」

 

 鎖が叩きつけられる。まるでハンマーで殴られたような重さに悲鳴を上げてしまう。それを何度も何度も繰り返された。

 

「あれが完成したら、俺はこの世界の支配者になる。この世界に君臨するのさ。第二の犯罪神として、クソどもに恐怖を与える!」

「させると思う?」

 

 喉を絞り出して、抵抗の声を上げる。だが全身はじんじんと熱をもち、限界を訴えてきている。

 

「思う思わないはどうでもいい。そうなるんだからな」

 

 トリックはやっと攻撃を止め、しゃがんでできるだけ視線を合わせてきた。

 

「結果がすべてを物語ってるだろ。女神が独りだけになり、支える者のいなくなった国にしがみついている。破滅を求めてるんだよ、この世のクソどもは」

「違う。破滅なんて求めてない。げんに私はこの国を守ろうと……」

「守っているのは極少数の人間だ。すべての国民が団結すれば、俺たちなんざ簡単に止められるはず。平和か混沌を()()()()()()()なんだよ。だから『悪魔』や『骸の代弁者(スカル・トーカー)』を囃したてるのさ。楽しかっただろ? そんな衣装に身を包んで敵を倒していって、持て囃されるのは。まるでヒーローか女神にでもなった気分じゃないのか?」

「馬鹿にするな! 私は女神様の跡を継ぐために、お前たちみたいなクズと戦ってるんだ!」

 

 拳が白くなるほど握って一矢報いようとするが、やはりままならない。それならばと少しでも負けていないことを示すために言葉を吐き捨てる。

 

「殺すなんて生ぬるい。お前たちには一生苦しんでもらう」

「違う」

 

 トリックは迷いなく即答した。子どもを諭すように指を振って、ちっちっちと舌を鳴らした。

 

「違う違う。自分を騙すなよ。お前が人を殺さないのは、一線を越えてしまうのが怖いからだ。大義のために殺してしまえば、俺たちやお前の大好きな女神と何にも変わらないことになっちまうからなぁ!」

「女神様と……?」

 

 何を言っているのかわからなかった。お前たちと一緒に見られるのは屈辱だ。だけど、なぜそこに女神様が出てくるの?

 すっかり困惑した私の顔を見て、トリックも一瞬困惑した。その顔はすぐに玩具を見つけた子どものようにほころぶ。

 

「何も知らないのか? これは傑作だ。知らずに力を振るってたわけだ!」

「何を言ってるの!」

「お前のだーい好きな女神様の命を奪ったのは、俺たち組織でも、犯罪神でもない」

 

 これ以上の問答は必要ない。お前が一体何を知っているのか今すぐ教えろ。そう言おうとしたとき、トリックも焦らす気はなかったのか、口を開いた。

 

「パープルシスターだ」

 

 何を言っているのかわからなかった。何かの比喩? 私と同じような誰かの二つ名? それがプラネテューヌの女神様だと気づくのには、数秒を要した。

 自分の携帯端末を取り出し、ある動画を見せてきた。

 そこに映っていたのは、どこかの街だ。私はそこを知っている。ルウィーの街の端っこだ。

 建物に隠れながら撮っているが、そこに現れた人影がパープルハート様とパープルシスター様だということはわかる。対するように現れたのは、我が敬愛の女神様三人だ。

 

「うそ……」

 

 短く言葉を交わしたあと、その動画には信じられないものが映っていた。女神様たちが武器をもち、争い始めたのだ。

 まるで戦争だ。相手を潰うための戦い。

 なんで? なんでこんな戦いをしているの? そんなことをして、何になるの?

 やがて決着がついた。数の不利を押しのけて、紫が白を下した。

 膝をついたブラン様が何かを言う。それを受けてパープルシスター様も返す。

 何を言ったのかはわからない。だがそれが何にしろ、パープルシスター様の決心を固めた。

 紫色に鈍く光る剣を突き刺した。パープルシスター様が……ブラン様を……突き刺した。

 糸が切れたという表現がぴったり当てはまるほど、ブラン様の身体から力が抜けたのがわかる。

 ぐにゃりと世界が揺れた。心を裂くような痛みが、今まで信じてきたものを壊す。それでもまだトリックの流す動画は事実を映し続ける。

 

「ああ、こんなにも可愛らしい女神サマにも手をかけて、パープルシスターサマったら容赦がない」

 

 パープルシスター様が、大きな剣でラム様とロム様を貫く。小さな身体に信じられないほどの大きな傷がつく。

 彼女たちは倒れた身体で、じりじりと数センチを埋めようとする。かたつむりが進むスピードよりも遅く、無限にも思える距離を縮める。そうして触れ合った指先は、血の中に沈んでいた。

 死にゆくことの恐怖を我慢できずに泣き出した彼女たちは、最後の最後、消えゆくまで手を離さなかった。

 

「嘘嘘嘘」

 

 それしか言えなかった。こんなのは何もかも嘘だ。こいつがねつ造した虚像に決まっている。

 そう思いつつも、私は目が離せない。嘘だと信じたくても、揺らいでしまう心がある。認めてしまいたくなくて、壊れた機械のようにただ『嘘』としか言えない。

 

「どう思おうと自由だ。だが、真実は変わらない。今あるプラネテューヌは女神たちの死の上に成り立ってるのさ。喜べよ、犯罪神が倒されたのも、俺たちの勢力が弱まったのもそのおかげなんだからな!」

「私は……私の信じてきたものは……」

「俺たちを倒したところで、復讐は遂げられない。ただ少しだけ、この国が静かになるだけだ」

 

 トリックの鼓動は、いたって平静な男のそれだった。こんな変な男だから、私の反応を見て楽しむために鼓動を操るくらいはしてみせるに違いない。

 きっと、きっとこの動画は間違ってるに決まってる。毅然とした態度で言うことが出来ればいいのだけれど、私の口は動かなかった。

 響く音楽が完全に私の身体から力を奪う前、何かが聞こえた。走っていた車が止まる音、そして誰かが出てきた。五人分の足踏み。まだ屋敷の前で警戒しているが、入ってくるのも時間の問題だ。

 

「ちっ、喋りすぎたか」

 

 トリックは心底面倒くさい顔をして闇の中に去っていく。鎖を引きずる音が徐々に、徐々に遠ざかっていき、ついには完全にいなくなった。その瞬間ぱっと音が止んだ。途端に力が戻ってきた。

 とはいうものの、打ちのめされた身体は痛みに浸かっていた。猛烈な熱さに逆らい、なんとか立ち上がる。抑えることもできず叫んだ。

 こんなところで倒れたままでいるわけにはいかない。ずりずりと足を引きずって、窓へ足をかける。同時に扉から入ってきた人影と入れ違いになって、転げ落ちるように庭へ飛び出た。

 朦朧として揺れる視界の端に、ルウィー教会調査部隊の黒いバンが二台見えた。大仰な不協和音を聞かせられれば、そりゃ向かってくる。

 迅速に仕事をこなしてくれるのは頼もしいが、いまは目障りだ。

 もうとっくに日は沈んでいた。灰色のスーツはその効果をいかんなく発揮し、私の姿を隠す。なによりも調査部隊の目はこの屋敷の中にだけ注目がいっている。逃げるのはそう難しくなかった。

 ここで敗走するのは二回目だ。胸の奥からこみ上げてくるものだある。怒り、悲しみ、哀れ、無力さ、それら全部と言ってもいい。巡る負の感情が身体を突き動かす。

 心が昂っていたが、身体は限界だった。家に着くころには痛覚と振動覚以外が消えたように感じ、何故歩けているのか不思議に思ったくらいだった。

 誰も近くにいないことはわかっているが、念のために窓から入り、そのまま床にごろりと倒れた。

 全身が熱をもって、痛みを叫んでいる。手足を何とか動かして、這って進む。動くたびに意識が遠のいていく。目は開けているつもりだが、景色が暗くなっていく。

 最後には目の前が黒だけになって、感覚も意識もぷつんと切れた。



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 その日は、しとしとと雨が降っていた。

 こんなときくらい晴れならば、とは思ったが、しかし天も泣いてくれているなら受け入れるのもやぶさかではない。

 目の前に広がる景色は黒で埋め尽くされていた。黒い服に黒い傘、おまけに場にいる全員が表情まで陰に覆われて暗くなっている。

 唯一違うのは、いままさに地の中に埋められている白い棺だけだ。そこに何も入っていないことは、みんなが知っている。

 ここは死に去った者が埋められる墓所だ。だが、この棺の上に墓標は建たない。いま弔っているのは、死んでしまったと知られてはいけない人物なのだ。

 『ホワイトハート』と刻印された文字が土で見えなくなる。

 葬儀を執り行うと聞いても何の反応も示さなかった者の大半が涙を浮かべていた。薄情だとかセンチメンタルなわけじゃない。最初に言われたときは……つまり、『死んだ』と聞かされたときは実感が湧かなかったのだ。

 あまりにも唐突で、感情が止まってしまったのだ。誰もが信じたくなかった。しかしたとえ死体がなくとも、こうやって場を与えられれば、事実を認めざるを得ない。

 音楽もなく、生前の成し遂げたことへの謝意もない。終わりの合図もなく、一人、また一人と去っていく。ついには私一人になってしまった。

 何時間経っただろうか。雨に濡れた身体はすっかり冷たくなって、出る息は白いが、足は動かなかった。

 私は何を見ているのだろう。何を想い、何を感じて立っているのだろう。見える先には何もない。ブラン様が生きていた証も身体も、魂すらここにはないだろうというのに、なんで阿呆みたいに突っ立っているのだろう。

 私に影が差して、雨が遮られた。止んだんじゃない、傘が差されたのだ。

 そこでようやく雨の音が耳に入った。振動覚で無数の雨粒をより鋭敏に感じるはずなのに、一切感じなくなっていたことに驚きもしなかった。

 隣に立つミナ様は何も言わずに傘を差し続けた。そこからまた何分経ったかわからないけど、そのままじゃいられなくて私が口を開いたから、そんなに長くなかったと思う。

 

「お呼びいただき、ありがとうございます」

「あなたには知る権利がありますから」

 

 本来ならばこの墓所が埋め尽くされるほどの人数が集まるはずだが、情報は制限されていた。

 公には、女神様は行方不明ということになっている。女神様が死んだとあれば、混乱と混沌が国を支配する。女神様がどこかにいるという希望が、人と国を繋ぐ最後の糸だ。

 そんなわけで、この葬儀に呼ばれたのはごく一部、本当に信頼できる人間だけだ。

 

「本当にお亡くなりになられたんですね」

 

 ミナ様はこくりと頷いた。

 

「そう……ですか」

 

 彼女は嘘をつくような人ではない。それは何年も一緒にいてわかる。緊張や焦燥することはあっても、偽りを発することはなかった。

 首を縦に振るという単純な動作だけでも、説得力がある。

 女神様と犯罪神の最後の戦い。事実を知る者の中で非公式に『救世の悲愴』と呼ばれる戦いの結果は相打ち。帰ってきたのは、パープルシスター様だけだった。

 多くどころか、ほとんど何も語らない女神様に代わって事の顛末を話したのは、教祖様だ。国家が保存していた公式資料でさえ捨てられ、書き替えられ、女神様の死は秘匿された。

 女神様がいなくなれば、もちろんその加護は消え去り、信仰の力で得られていた安寧は崩れる。そうなれば人と国を繋ぐものはなくなってしまう。

 いずれ、国と呼べるのはプラネテューヌだけになる。

 それだけは避けたかった。女神様がいたことが記憶からも記録からも消えてしまうことだけは、どうしても耐えられない。

 

「ミナ様はどうするんですか?」

「ルウィーに居続けます。ここを離れるなんて、できませんから」

 

 誰よりも強く眩しいブラン様の姿は、象徴として残っている。その象徴はルウィーという国として、そしてそこで育った私たちという形で残っている。犯罪神が倒され、平和となった世界自体として残っている。

 ブラン様と、ラム様とロム様とも家族同然であったミナ様は、それ以上に残されたものが心の中にある。だから離れられない。使命の上でも、感情の上でも。

 

「リリィさんは?」

「私も残ります。ブラン様が守ったこの国を守り続けます」

 

 ルウィーを離れられないのは私も同じだ。離れることを『しない』のではなく、『できない』。

 この国は故郷で、私のいるべき場所。ここを捨てることは許されないし、したくない。

 私の理想とする世界を、ブラン様は見せてくれた。ならば今度は、彼女の理想とする世界を創ってみせる。

 

「ルウィーを壊させはしません」

「そう言うと思っていました」

 

 ミナ様は微笑んで続けた。

 

「リリィさんは国の運営側として、私の隣で働いてほしいんです」

 

 ミナ様はこちらを見た。私も目を合わす。

 悲しみの色を浮かべながらも、底には希望が宿っている。この先がどうなるかはわからない。なら、より良くしていくしかない。

 

「ルウィーはこれから混迷の時代を迎えます。支えるのは私たち。幸い、この国に残ってくれる人たちは少なくないので大丈夫でしょう」

「願わくば、そうなってほしいものです」

 

 そう、願わくば、国に尽くした女神様のように、この国を私の最期の場所としたい。ルウィーをあるべき姿にした後で。

 そのためなら、私は悪魔にだってなってみせる。

 

 

 

 

 光が差し込んできた。ぼんやりとした頭ではそれを認識するのでいっぱいだった。

 窮屈さを感じて立ち上がろうとする。横になったまま、意識を失ってしまったのか。

 そこで、私は奇妙なことに、ベッドに寝かされていると気づいた。無意識のうちに辿り着いたのだろうか。しかも、パジャマを着て、包帯を巻いて?

 ふと、何かが流れるような振動を感じた。洗面所へ通じる扉から音が聞こえる。

 私の部屋で誰かが水を流している。

 歯を食いしばって上半身を起こすと、その振動が止んだ。代わりに誰かがそのドアへ近づく。

 手の届く範囲には武器はない。

 ノブが回される。ゆっくりとドアが開いて、現れたのは見知った人物だった。

 

「寝ていてください」

 

 手をタオルで拭きながら、ミナ様がこちらに近づく。昨日から着ているであろう緩い私服には、普通ではない量の血にまみれていた。聞かずとも、それが私の血であることはわかった。

 

「ミナ様……これはあなたが?」

「はい。医者を呼ぼうとしたのですが、引き留められました」

「誰に?」

「あなたに、です」

 

 そう言って頬をさする。残った力でミナ様を殴ったのだろう。綺麗な白い肌が青く内出血を起こしている。正体が他人にばれることを恐れて、無意識のうちにやってしまったのだ。

 それよりもまずいことは……

 

「『悪魔』だってことを隠してたんですね」

 

 単刀直入にずばりと言われた。ミナ様の心臓が今まで聞いてきたなかで一番跳ね上がる。

 何かの間違いであってほしいと願っているのだろう。自分の秘書が、夜な夜な人を傷つける『悪魔』であるとは信じたくないのだ。

 否定の言葉を待っていたミナ様に、私はこくりと頷いた。

 

「あなたが知ってたとしても、何も変わりませんでしたよ」

 

 悪魔のスーツも戦いの傷も見られている。もう隠せない。

 私が言ったことの意味、つまりリリィは『悪魔』だということを知らされて、ミナ様の鼓動が余計に早くなる。

 

「これは私が望んだことです。手順を踏んで、許可を貰っても、私の戦い方は変わらない。徹底的に痛めつけて、情報を得て、次の標的を叩きのめす。その繰り返し」

「どうして……どうして」

 

 唇が震えて、次の言葉を発せないミナ様。私は察して口を開く。 

 

「ブラン様も、ラム様もロム様もいなくなった。散るには若すぎました」

 

 実際、彼女らが何歳なのかは知らないけど、どれだけ生きていたにせよ、死ぬには早すぎるし殺される理由もない。

 だから理由が欲しかった。殺されなければならなかった理由と、それが隠された意味を。

 

「ブラン様とロム様、ラム様が死んだ原因は何なんですか? 犯罪神と相打ちになったのは本当のことですか? パープルシスター様に殺されたのは本当なんですか?」

「それは……」

「本当なんですね」

 

 トリックの嘘ならどれだけ良かったか。たった一言『違う』とさえ言ってくれればそれだけで済んだ。あの動画も言葉も何の意味もない戯言だと一言でも証明してくれればじゅうぶんだった。

 だけど言い淀んだこと、鼓動の早鳴りが何よりも雄弁に答えてくれた。

 そのことよりも私が傷ついたのは……

 

「私を騙してた」

「違います! 私は……」

「知る権利があるって言いましたよね。真実を知る権利はなかったんですか? 私を利用したんですか。復讐心を利用した!」

 

 頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出していく。次の瞬間、私は驚くものを見た。

 

「じゃあどう言えばよかったんですか!」

 

 テーブルを力任せに叩いて、声を荒げるミナ様なんて初めて見た。顔を歪ませて、必死に訴えるミナ様なんて……

 

「『どうも、リリィさん。あなたの崇拝する女神様はまとめてネプギアさんの刃に貫かれてしまいました』とでも言えばよかったんですか?」

 

 気圧されて、私の勢いが弱まる。

 

「もっと……言い方はあるでしょう」

「どう言いつくろっても変わりません。真実はあなたが思う以上に残酷なんです。そこまで背負わせたくなかった」

「ルウィーを支えていくのに、女神様の死の真実を背負う覚悟が無いとでも思ったんですか?」

 

 心外だ。ずっと昔から女神様と共に戦ってきた私を、そんなにも見くびっていたのか。

 

「私が『悪魔』と呼ばれても戦ってるのは、何のためだと思ってるんですか。犯罪神がいなかったとして、いまも女神様たちが生きていると言えますか? 私には思えません。悪に染まる者がいる限り、危険は避けられない」

 

 身体のどこが痛んでも、構わずにまくしたてる。

 

「女神様が死んだとあなたに教えられたとき、無力だと感じました。表に出る悪事を叩いて退けても、それは氷山の一角であると。大元を叩かないと、この世界は変わらない。私がやるべきは、法や規制を超えて犯罪を未然に防ぐこと。私ならそれができます」

「今まで『悪魔』の仕業と言われているのは、全てあなたがやったんですか?」

「そうです」

「人を、二度と立てないようにして、まともに喋れないようにしたんですか」

 

 私だけじゃなく、ミナ様の語気も強まる。

 

「法があるのは人を守るためです。人が過ちを犯すのを留め、間違いを犯した人を更生させるチャンスを与えるためです。あなたはその番人であることに、誇りを持っていたじゃないですか!」

「その結果が!」

 

 ここまで話して何もわからないの? 限界に達して、私もついには立ち上がって叫んだ。

 

「犯罪組織の台頭に、モラルの低下! 女神様も死んで、国としてしっかり機能しているのはプラネテューヌだけ! 悪魔と呼ばれても、この国をこんなことにした奴たちを痛めつけてやる。そして教えてやる、間違いを犯せば痛みが飛んでくると。殺しはしないのは、一生を苦しみで満たしてやるためよ」

「人には改めるチャンスを与えるべきです」

「ホワイトハート様とホワイトシスター様たちがああなってしまったのも、そうやって甘くしてたからです。更生するチャンスなんて、与えたところで何も変わらないのが現状よ! 女神様がいなくなって、混沌としたこの時代には、この国には悪魔が必要なんです!」

 

 私の怒りは頂点を越えてしまった。犯罪組織の動きを掴んでいるのも、すべて私だ。私が『悪魔』として戦った結果は良いものとして反映されている。なのに、なんで、なんでこの人は否定するの?

 

「悪魔が戦ってくれたおかげで、犯罪は減っています。組織の動きも徐々に沈静化していっています。この国には、確かに悪魔が必要なのかも」

 

 ミナ様は真っすぐに私を見て、努めて冷静になろうと静かに話す。

 

「でも、私にはいりません。私が必要としているのは、悪魔じゃありません。リリィさん、私にはあなたが必要です。悪魔なんかではなく、友人として」

 

 それが全ての答えだった。その言葉を聞いてしまった瞬間、私の怒りも疑問もすっかり消えてしまった。

 彼女はすとん、とソファに腰を落として、手で顔を覆う。手から透明の液体がこぼれ、肩が震えていた。

 

「あなたまで失ってしまったら、私はどうすればいいんですか」

 

 ここまで話してきて、ずっと違和感があった。その正体は私とミナ様の違い。私は女神様やブラン様の部下として、そして『悪魔』として、この国を守る立場から語った。

 だけど、ミナ様は友人として私と話していたのだ。彼女が主張とは全く逆のことをやってみせている私を、まだ友と呼ぶのか。

 怒りも悲しみも憎悪も後悔も、負の感情がないまぜになって、彼女にふさわしい言葉を返せない。

 床に転がっている『悪魔』のスーツ一式を持って、外に出ようとする。

 トリックは私を亡き者にしようとした。なら、また姿を現すはず。いままで隠れていた敵を倒せるこんなチャンスはもうない。

 だけど、怪我を抜きにしても足はとても重く感じた。

 

「もう放っておいてください」

「できるわけないじゃないですか!」

 

 こんなふうに私は止めてほしかったのかもしれない。

 誰かに間違いだと言ってほしかったのかもしれない。

 けど、もう止まることはできない。私は『悪魔』になることを選んだのだから。

 泣き叫ぶミナ様を置いて、私はその場を去った。



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10

 

 病院はひどく荒れたままだった。

 応急的に片付けはされているものの、血はそこらじゅうにこびりついてるし、壁や床につけられた傷はそのままだ。

 昨日の今日だから受付はしていなかったが、私は入ることを許された。調査という名目だが、実際は治療だ。

 

「今までで一番ひどい傷です」

 

 いないと思っていたコンパは、私を見かけるなり寄ってきた。痣の残る私の顔を見て、ため息をつきながらもすぐに応急処置をしてくれた。

 

「いてくれて助かったわ」

 

 彼女の腕でも傷つけられた身体全部は治せなかった。トリックの攻撃は、それほど強烈で深かった。

 

「誘拐されたって聞いたわ」

「はい。でも助けてもらって……」

 

 誰に? とは聞かなかった。

 あの経験はコンパに恐怖を植え付けた。処置するときは抑えているものの、それ以外では腕は小刻みに震えている。思い出させるのは酷だろう。

 犯人や救出者について訊かないのは不自然だが、私は逸らした。

 

「怖いなら休んでもいいのよ。プラネテューヌに戻っても、誰もあなたを責めない」

 

 コンパは首を横に振った。

 

「人がいっぱい殺されました。でも、まだ生きている人もいます。見捨てるのは私が嫌なんです」

 

 使命だとか役割だとかを越えて、『嫌』。それが彼女の強さであり、弱さなのだ。見捨てることが出来たら、全員は救えないと納得できたなら、彼女はこんなにも苦しまなかっただろう。

 

「本当なら、リリィさんにも入院してもらいたいくらいですっ」

「いたた……」

 

 医者の仕事の一つは、患者に不安を与えないこと。

 包帯をぎゅっと縛ったコンパは、無理に笑顔を作った。

 

「でも、やるべきことがあるんですよね」

 

 彼女は腕を伸ばして……ひっこめた。

 

「ここで留めるべきか、それとも行かせるべきか、私にはわかりません」

 

 ルウィーとプラネテューヌの女神様の、生死をかけた戦い。あの場には、女神様とともに旅をしていたはずのアイエフもコンパも映っていなかった。

 あれは世界の行く末を決める戦いでもあると同時に、女神様だけでつけるべき決着でもあった。 

 止めていたら、世界は終わっていたかもしれない。

 先にある未来を背負うことは、コンパにとって耐えられないほど重いものだったのだろう。だから選ぶことができない。仲間とそれ以外を天秤にかける選択を、彼女はしたくないのだ。

 

「私は……」

 

 コンパが私のことを心配してくれるのは痛いほど伝わってくる。だからこそ、必ず戻ってくるなんて無責任なことを言えなかった。

 沈黙の中で、ぴりりりと音が鳴った。私の携帯電話だ。相手はアノネデス。

 彼女とそれ以上話をしないまま、私は立ち上がった。

 ブラン様。あなたもこんな気持ちだったのでしょうか。

 帰りを待ってくれる人の温かさと、それに応えられないかもしれない切なさを抱えて、戦いに行ったのでしょうか。

 なら、あの時の私は、いまのコンパのように涙を浮かべていたのでしょうか。

 一体、私はこの国に何を残せただろうか。最後の約束すら交わすことができずに、残すもののない私は、誰に何を託せばいいのだろう。

 

 

 

「遅かったわね」

「だから、二、三日かかるって言ったでしょ?」

 

 そうか、まだそんなに経っていないのか。

 自分がやるべきだと信じることのために、友人も捨てて、命すら投げだそうとしている。最後にアノネデスに会ったときには、そんなことになるなんて思ってなかった。

 

「なにかあったの? お友達が誘拐された件かしら」

 

 相変わらず耳が早い。そのことはまだ、ほとんどが知らないはずなのに。

 

「あの子は大丈夫。強いから」

 

 自嘲気味にふっと息を吐き出した。

 アノネデスは一枚の紙を差し出してきた。地図だ。とある一点に赤色の点がつけられている。

 

「これ、あれがどこに運ばれるの予定だったのかを調べたわ。モンスターディスクや薬はともかく、他の色んなものはここに運ばれてるみたいね」

 

 ようやく敵の本拠地を暴けた。ここにトリックがいるはず。

 これまで苦労してつかめなかった情報があっさり手に入ったということは、これは罠だと直感的にわかる。

 奴らは『悪魔』を排除する気でいた。ここをその最後の場所にするつもりだ。でも私は行かなければいけない。止めなければルウィーは犯罪組織の手に落ちてしまう。

 誰かがやってくれるなんて期待はこれっぽっちもできない。それが叶うなら、私はこんな選択をしなくて済んだはずだ。

 

 

 

 罠に飛び込むのはやはり夜にすることにして、闇を待つ間に私は街を見て回った。

 昨夜の事件はすでに知られていて、恐怖で街に繰り出す人は少ない。臨時休業する店だって多かった。

 まるで、女神様がいなくなったときみたいね。

 この国はまたしても振り出しに戻ってしまった。いや、もしかしたらずっと進んでいなかったのかもしれない。

 ルウィーに住んでいながら、女神様をこき下ろす者だっていた。それが、いなくなったらいなくなったで不安に苛まれる。

 人は現状に不満を漏らす生物なのだ、とトリックが言っていた。いまそれを身をもって感じている。

 善の世界に悪が生まれ、悪の世界を正すために善が対抗する。繰り返して繰り返して繰り返して、ずっと終わらない戦いを生んでいるのが人の心なら、理想は手が届かないものかもしれない。

 でも、私は残された者として、理想を掴み取る義務がある。

 日が落ちてきたころ、自宅には誰もいなかった。

 感情のままに飛び出して、お金もスーツも置いたままだった。ミナ様が残っていなかったのは幸いだ。きっといまごろは教会で仕事をしているのだろう。

 着替える前に何かないかと冷蔵庫を開ける。ラップの巻かれた皿があった。もちろん料理を作った覚えなんてない。

 ミナ様が作り置きしてくれたのだ。

 『食べてください』と書かれた小さな紙が上に置かれている。なんでもないような一日のように、私がとても遅く帰ってきただけの日と同じように、他のものも他に書かれていることもない。

 あれだけ言い合いをして、彼女の私に対する接し方は変わらない。

 温めた肉じゃがを口に運ぶ。ぼろぼろと涙が溢れてきた。

 全てを投げ出してしまいたかった。ただ楽観的に残りの人生を過ごして終わりにしたかった。

 生きたい。

 ブラン様も、ラム様もロム様も願ったはずだ。今際の際に願った一つの願いさえ、この世界では叶えられない。

 私はもう一度決心する。

 私がここでやめるわけにはいかないのだ。

 

 

 

 驚くほどの静寂だった。

 元々家電の試験場兼量産場であったこの建物は、いまはもう稼働していない。だが、その一階には数台のトラック、そして開けられた段ボール箱やコンテナがいくつも転がっていた。

 振動覚をフルに活用し、待ち伏せがいないことを確認しながら三階に上がる。

 電源はついているものの、照明はついていないから、頼りになるのは窓から差し込む月の光だけ。私は暗闇の中でも戦えるけど。

 量産棟の三階に上がって辺りを見る。小さな休憩所や開梱場を横目に通り抜けて奥へと進む。

 元のものは流石に全てのものが撤収されていて、見慣れた機材が雑に積まれている。前にトラックから回収した、あのスピーカーのパーツだ。

 試験場とあれば、防音の設備も整っている。そこで実験されたんじゃ、外に音が漏れることはないからばれることもない。

 試作場と書かれた横開きの扉を開ける。十五メートル四方の部屋に工具はまったくなく、中央には大きなスピーカーがつけられている。だが、それを囲うようにして防弾ガラスが設置されている。

 その陰に隠れるように男が座っていた。鎖を首に巻いたトリックが、私を認めるなり立ち上がった。

 たくさんの部下がいるはずなのに、わざわざ私をおびき出しておいて、この建物にはたった一人。それは私も同じか。

 

「来ると思ってたぜ」

「わざと情報を流したわね」

「そりゃもちろん。俺個人としても、お前の存在はやっかいそのものだからな。だが追おうとしてもお前は逃げおおせる。なら、おびきだすしかない」

「おびき出されてあげたわ」

 

 ぐっと両の足に力を込めて、両手に警棒を構える。

 

「ここで決着をつけよう。お前か俺か、どっちかが死ぬまで終わらないぞ」

 

 スピーカーからあの音が鳴る。断末魔のような不協和音。

 ゆっくり話すつもりはない。正体を暴くなら、殺したあとでじゅうぶんだということだ。

 悪の強化を一点に集めて叩きのめそうというのだ。昨日と同じように。

 二度目だからか、不協和音は前よりも気にならなくなっていた。

 先に動いたのはトリックだ。

 彼のチェーンが伸びる。首へ跳んできたそれを、警棒で弾いた……つもりだったが、鎖は警棒に巻き付き、腕ごとか絡めとられてしまった。

 グイっと引っ張られて体勢を崩しかけたところを、空中で一回り、着地してバランスを取り戻す。逆に引っ張ってやるが、トリックは少ししか動かない。

 彼がにやりと余裕をかましている間に、ガラスに肘を打ち付ける。予想通りびくともしなかった。

 ピンと張った鎖を、トリックが巻いていく。私が鎖を外したころにはすでに目の前に迫ってきていた。

 鎖が巻かれた拳を避ける。追撃のラッシュも避けていくが、じりじりと後ろに下がりつつある。ついに壁に背中がついてしまった。ここぞとばかいの大振りパンチをこれまたしゃがんでかわす。

 壁が砕けて、トリックの動きが止まった。腕が壁にめり込んだのだ。

 足、脇腹、首に武器を打ちつけ、顔面を突く。後ろによろめきながらトリックはのけぞる。その隙をついて、今度はこっちが仕掛ける。あらゆる個所を立て続けに叩き、全てを潰そうとする。

 どこも折れた感触はない。ならばと警棒の先を伸ばし、ワイヤーで首を絞めた。殺してしまいかねないほど強く絞める。

 

「まだだな」

 

 攻撃をした場所すべてに、ダメージが通ってない。普通なら血が止まって意識がもうろうとしてもおかしくないのに、トリックは笑いながら近づいてくる。

 

「まだ足りねえ!」

 

 あっけにとられた私の顔に、トリックの拳が飛んできた。強烈な一撃に私は吹き飛び、肺から空気が残らず吐き出される。

 トリックはせき込む私の傍に立ち、容赦なく蹴りを浴びせ、鎖を叩きつけた。

 一撃一撃が身に染みる。この脳に響く音は、異常なまでの力をトリックに与えている。

 

「なぜお前が負けると思う?」

 

 ひとしきり攻撃を終えて、横たわる私に言った。

 

「弱いからだ。自分が正しいと思い込んで、正義は勝つと自惚れているからだ!」

 

 もう一度、思い切り蹴られる。私の身体は転がり、壁にぶつかるまで止まらなかった。

 意識が混濁して、上も下もわからなくなる。

 

 

 

 

「ホワイトハート様」

 

 何故か、昔の景色が浮かんできた。

 

「その、ただの街の見回りとはいえ、護衛が私一人でよろしいんですか?」

「あまり大仰に人を連れるのは好きじゃないの。それにあなたなら信用できるわ。あなたの功績は私も認めてる。もう少し自信を持ちなさい」

「あ、ありがとうございます」

 

 ルウィーの街を二人で回る。

 これは……ブラン様が戻ってきてすぐのときだ。ラム様やロム様たちが奮闘して墓場から女神様を救出したあと、ブラン様は私を連れだしたのだ。

 

「お身体は問題ないのですか?」

「まだ本調子ではないけど、そんなこと言ってられないわ。この街がどれくらい変わったのか見ておかないと」

 

 ブラン様らしい。こちらに戻られてからすぐだというのに、自分の身体より国のことを考えてくれている。変わらないことに安心すると同時に心配もする。

 少しは安心してもらうために、これまであった事件と解決した経緯を説明しながら歩く。

 

「ミナ様もラム様もロム様も立派にこの街を守ってくださいました」

「あなたもね。みんなから聞いてるわ」

 

 みんなというのが誰を指しているのかわからないが、ブラン様に認めてもらうのは心地が良い。

 褒められたいとかいうつもりで仕事をしてきたんじゃないけど、この方の賞賛一言で報われた気分になる。

 

「ホワイトハート様と約束しましたから」

 

 『戻ってこなければ、ルウィーと妹様たちの面倒を見る』。三年間ずっとその約束を守ってきたつもりだ。

 

「待ってくれる人がいるなんて、私は幸せね」

 

 ブラン様が立ち止まる。さあ、と風が吹いて、彼女の短い髪を揺らした。

 

「ホワイトハート様?」

「ブラン。そう呼んでくれないと、返事してあげないわよ」

 

 知らない仲じゃないんだから、と付け足して彼女は空を見上げる。そう呼べと言われて、呼ぶことを誓ったが、それは周りに誰もいないことを条件とした約束だ。いまは街中で、誰もがブラン様に注目している。手を振り、お辞儀する者だっている。

 

「……ブラン様」

 

 だけど返事しないと言われれば、折れるしかない。そこにいるのに返ってこないなんて辛い。そんなのは夢の中だけでもうたくさんだった。

 

「あなたたちがいるなら、きっとルウィーは大丈夫よね」

 

 独り言のように呟くブラン様の背中は……ものすごく小さく見えた。彼女の身体は、ルウィーによく降る雪のように溶けて消えてしまいそうで、その腕を掴んでしまいたい衝動に襲われる。

 

「変な気は起こさないでくださいね」

「保証しかねるわ」

 

 即答してしまった彼女の心中には何が渦巻いているのか。鼓動はとても嫌な穏やかさを保っていた。

 まだ戦いは終わってない。むしろ女神様が戻られたこれからが勝負だ。私だってそんなことくらいわかってる。

 あなたがどこかに行ってしまうというなら、それでも構わないから……

 

「ルウィーの誰もが、あなたを必要としてます」

 

 最後には、ここに帰ってきてほしい。

 

「私にも、あなたがいないと」

 

 ずっとあなたの姿を見せてほしい。ずっとあなたの声を聞かせてほしい。ずっとあなたの鼓動を感じさせてほしい。

 名前なら何度でも呼んでみせるから、私の名前を呼んでほしい。

 そんな願いは贅沢かしら。平和を願うことは、そんなにも難しいことなのかしら。

 戦わなければ叶わないほど、あなたとの距離は遠いものなのかしら。

 

 

 

 

 私は弱い。

 ブラン様が捕らえられたのも、それを助けに行けなかったのも、女神様が殺されてしまったのも、私が弱かったからだ。

 そしてまた、私の弱さのせいで悪をのさばらせてしまう。

 私に必要なのは、戦闘スーツに身を包むことじゃない。闇に紛れてこそこそと動き回ることじゃない。

 ルウィーに蔓延る悪を、どんな手を使っても絶対に潰す。

 無力な天使か恐れられる悪魔か。やるべきことを果たせるなら、私は迷わず『悪魔』を選ぶ。

 意識が冴えてきた。身体の底から力が湧いてきて、ぐっと立ち上がる。アドレナリンのせいか、痛みも気にならない。

 トリックはにやりとして手を動かす。とどめの一撃、そのつもりで飛ばしてきた鎖はひどく緩慢に見えて、掴むのは容易かった。

 

「まさか、お前……」

 

 ぼろぼろのはずの身体で、強化された力を受け止められる。おののいたトリックにハイキックをかました。彼の口から歯が何本か転がり、血が流れる。

 信じられないといった顔で呆けるトリックを、二本の警棒で同時に殴る。肋骨が三本折れた心地の良い感触を感じ、振りぬく。

 悲鳴が気持ちいい。

 足をしならせて、胸を蹴る。また骨が折れて、トリックはガラスに激突した。無理やり立ち上がらせて殴る。ガラスにバウンドして戻ってきた身体をまた殴る。

 ぴしっ、と何かにひびが入った。全ての感情を警棒に、あるいは拳に、あるいは足に乗せて叩く。

 ついにガラスは粉砕され、中にあったスピーカーごとばらばらになった破片にまみれて倒れるトリックは、笑っていた。

 骨が折れた身体で笑うのは苦しいはずなのに、それでも彼は笑う。おかしくてたまらないといった様子でずっと笑う。それはあの不協和音よりも耳障りだった。

 

「何がおかしい」

「笑わせてくれよ。正義を語るお前が、本当に悪魔になっちまったんだからなぁ」

 

 破片を蹴とばして、私は胸ぐらを掴んだ。

 

「なに?」

「認めたくないのもわかるよ。だけど、事実として、お前は俺に勝った。勝ってしまったことが、お前が正義じゃない証拠だ!」

「何を……」

 

 何を言ってるんだ。そう続けようとしたところを、トリックは指を振って制する。

 

「いいや、お前は分かってる。わかってるはずだ。今この状況でお前が勝利すること、俺より強くなってしまったことの意味が!」

 

 拳を突き出して鼻を折る。だけどまだトリックは笑い続ける。とめどなく血を流して朦朧としながらもにやける彼に、思わず手を離してしまう。

 彼は恐ろしく緩慢な動きでふらふらと彷徨いながら、部屋を出てゆっくりと窓へ向かっていく。

 

「お前がどうなっていくのか、地の底から見させてもらうぜ。最高に楽しかったよ、『悪魔』さん」

 

 最後の力を振り絞って、トリックが飛ぶ。パリンと音を立てて彼の身体が宙に浮く。もちろん浮いたままだけでなく、地へ落ちていく。

 

「待てっ!」

 

 手を伸ばしたもののとっくに遅く、どん、という音がした。窓から下を覗くと、ぐしゃりと潰れた頭から血も脳も、骨だって飛び出していた。ひしゃげた顔の中で唯一残っていたのは口だけ。まだ角度が上がったままの口だけだ。

 狂気だ。化け物だ。あいつは感情のままに動いていた。だが、それは最も人間らしいともいえる。

 そうだ。人間は人間であるが、化け物でもある。

 割れた窓の破片に、私が映っていた。一瞬、私のいるところに別の何かが立っているかと錯覚した。角に牙、長くギザギザの舌をもつそれはすぐに消えた。今ここにいるのは、灰色の戦闘スーツに身を包んだ女だけだ。

 そんな私のことを化け物だと訴える目で見てくる奴らは何人もいた。ただの人間のことを、いるはずもない悪魔だと誰もが恐れる。

 それでいい。私は悪魔でいい。人間たちに恐怖を与え、その心を追い詰める悪魔でいい。

 怯えるがいい。それを生み出したのはお前たちだ。お前たちが生み出した、女神様に仕える悪魔が世界を平穏にする。

 そのことを、世界は思い知ることになる。



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