盟友 (ろっくLWK)
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前編

・「黄前久美子、最後の夏(以下、本編)」の登場人物、東中幸恵の視点で綴られるスピンオフ短編。
・性質上、原作および本編のネタバレ、オリジナルキャラクターの複数名登場、独自の設定などがあります為、本編読了後に本作品をお読み頂くことを推奨いたします。








 憧れ。

 それは幼い頃には、とてもぼんやりとして掴みどころのないものだった。例えばアイドル。テレビの画面の向こうでスポットライトを浴び、きらきらと輝く彼女達の姿を見て、『私もアイドルになりたい!』などと思ったりする。例えば学校の先生。教壇に立つ先生の凛々しい、時に面白おかしい姿に『いつか自分も教師になって、こうして人に何かを教えたい』と夢を抱くようになる。憧れの形は様々で、それは時に将来とは全く関係の無いものである事もまま有るだろう。

 (さち)()にとって、その対象となるものは長らく存在していなかった。随分と小さい頃には何かに憧れた事もあったような気がするのだが、いつの頃からか具体的な夢や希望を思い描く事が出来ぬまま、今日まで歩んできた。とは言え幸恵は特にそれを気にしてはいなかった。まだ中学生なんだし、将来の事なんて考えたってわかりっこない。『自分は何になりたいか』と尋ねられたところで、そんなイメージなどこれっぽっちも湧くことは無かった。

 吹奏楽を始めたのだって、理由の半分くらいは遠い親戚で二つ年上の大好きな『くみ姉』が吹奏楽部に入部した、という話を以前に聞いていて興味があったからに過ぎず、幸恵自身は昔から特段音楽が好きなわけでも得意なわけでも無かった。ただ、いざ吹部に入りトランペットを担当することになり、慣れない楽器に悪戦苦闘しながらも、ようやく人並みに扱えるようになったトランペットを吹いているのは楽しかった。たくさん練習して演奏会で曲を演奏し、聴衆がそれに拍手をしてくれる瞬間は心地良かった。それが音楽の良いところであり最大の魅力なのだからそれで良いのだ、と幸恵は考えていた。そう、あの時までは。

 美しく高らかに響き渡るその音色は、それまで幸恵が一度も耳にしたことの無い、本物のトランペットの音だった。音の一粒ずつが黄金のように眩く輝き、その圧は数十メートルも離れた自分の頭蓋を貫くかのように鋭く一直線に放たれる。かと思えばそれは柔らかく包み込むような音に姿を変え、全身に染み渡って溶けていった。周りの聴衆も皆一様にその人の演奏に聞き惚れ、あるいは高揚していたようだった。

 演奏を終えるや否や、満場から嵐と見紛うばかりの大きな拍手が鳴らされた。その拍手の音に混じる人々の感情もまた、幸恵がこれまでに味わったことの無い、大きく激しいものだった。吹きたい。私もあの人みたいに、本物の音を鳴らしたい。あの人に近付きたい。こんな風に上手くなりたい。手元で丸めていたプログラム表を開き、今さっき演奏していた団体の名を、幸恵は改めて確認する。

『北宇治高等学校』

 北宇治に行けば、自分もきっとあんな演奏が出来る。あの人のようなトランペット吹きになれる。幸恵は奥歯をぎりりと噛み締める。そう考えた時、唇の端が上に引きつるのが自分でも分かった。自分の進路はここしか無い。来年絶対に北宇治に入って、この人みたいになるんだ。初めて目標らしいものを見つけた幸恵の瞳はこの時、今までで一番輝いていた。

 

 

 

 

 午前の『試し合奏』が終了し、パートの一同はいつもの練習場所である教室へと戻って来ていた。どうやら顧問の(たき)からはまずまずの及第点が貰えたようで、先輩達は一様にリラックスした表情を浮かべている。幸恵個人はと言えば、多少の注意は受けたものの、最初の合奏としてはまあこんなものだろう、という手応えは得ていた。とは言えコンクールが近づいてくると、滝は今より更に厳しくなるらしい。やはり全国に行く学校ともなれば油断は禁物、といったところなのだろう。それでもパート練習の方が遥かに厳しいと感じていた幸恵にしてみれば、夏のコンクールなどまだまだ遠い先の話ではあった。

「それじゃ私は滝先生のところに、楽譜取りに行ってくるから。皆は先にお昼食べてて」

「はい」

 幸恵達が返事をしたその相手はトランペットパートのリーダー、(こう)(さか)(れい)()。彼女は北宇治の三年生であり、昨年の地区定期発表演奏会でソロを吹いていた人物であり、幸恵にとって憧れの存在だ。彼女の音に近付くために幸恵は一生懸命練習を重ねてきたし、あまり得意とは言えなかった勉強にも石に齧りつく思いで取り組んだ。その甲斐あって入試に見事合格し、晴れてこの春から北宇治高校の生徒として通うこととなり、そして今は吹奏楽部のトランペットパートの一員として、憧れの麗奈の指導を仰いでいる。

「それにしても高坂先輩、ホント上手ですよねー。同じ高校生じゃないみたい」

 幸恵は率先して周囲に話を振る。彼女にとって、それは特に意味のある会話という訳では無かった。ただ、会話の発端には何かしらの取っ掛かりが必要になる。幸恵はそれを自分から積極的に振り、それに誰かが応えるところから会話を膨らませていくのが得意だった。逆に誰も応じない場合、それは単に独り言として片付く。誰も何も喋らないよりはずっと居心地が良い。幸恵はそう考えていた。

「まあね。高坂さん家って、レコーディングスタジオみたいな防音室あるらしいし」

 今回それに応えてくれたのは、麗奈と同じ三年生の(よし)(ざわ)(あき)()だった。彼女もまた麗奈と三年間の練習を共にしてきたからか、その演奏技術はパート内でもかなり上手な方である。とは言え、それはあくまでも麗奈を抜きにしての話ではあるのだが。ちなみに吉沢は何故か他の先輩達から『ピースちゃん先輩』と呼ばれていて、しかし本人を含めた誰もその由来を知らなかった。一体誰が何を思ってそんな異名を付けたのだろう。

「防音室ですか。凄いですね」

 友達が多いことが自慢の幸恵だが、自宅に防音室なんて備えているという人には出会ったことが無い。親はどんな金持ちなんだろうか。そんな疑問を、幸恵は素直に口にしてみる。

「っていうより、お父さんがプロのトランペット奏者だからじゃないかな。自宅でも練習できるようにだと思うよ」

「あー。なるほど」

 それであんなに上手いのか。麗奈の超人じみた演奏技術の謎がようやく解けて、幸恵の腑にコトリと何かが丁度良く落ちる。親がプロの音楽家なら、そりゃあ上手くならないわけが無い。日頃から練習熱心な先輩でもあるし、きっと家に帰ってからもレッスンを欠かすことは無いのだろう。いくら部活中は一生懸命練習していると言えど、家に帰ればだらだらとテレビを見たり雑誌を読んだりして過ごす自分とは天と地ぐらいの大きな違いだ。自身の日頃の行動を省みつつ、でも仕方ないよね、と幸恵は心の中で呟く。

 幸恵の家は決して裕福でも何でもない、ごくごく普通の一般家庭だ。母親は学生時代に少しだけ音楽をやっていた事があったらしいけれど、他人に手解き出来るだけの知識や技術を持っていなかったからなのか、幸恵が母親から直接音楽を教わったことは一度も無かった。中学時代の周りの部員もほとんどがそんな感じだったし、それは高校でも恐らく大して変わらないものだろう。

「高坂先輩は、特別なんですね」

 幸恵の言葉に吉沢は「だねえ」と返す。

「でも高坂さん、一年の頃は結構凄かったんだよ。当時三年の先輩とソロの座を賭けて対決したり、それが原因で人間関係こじれちゃったり、色々あったもん」

「そうなんですか」

「うん、今は落ち着いてるけどね。私もあの頃は、高坂さんとあんまり仲良く出来てなかったなあ。正直ちょっと怖かったくらい」

 怖かった、という吉沢の評が、幸恵にはちょっとだけ理解できる。実際に北宇治吹部に入部して分かった事なのだが、麗奈はこと音楽に関しては本当に厳しい人だった。新入部員の中でも楽器経験のある者は入部直後からパート練に編入され、今日の試し合奏に向けて練習を重ねてきたのだが、そこでの麗奈の指導は事前に本人から言われていた通り、ズバズバと厳しい指摘が飛ぶものだった。

「そこの音、全然ハーモニーが出来てない。ちゃんと耳使ってる?」

「タンギングがぶさぶさ過ぎて話にならない。そんな音じゃ百回やっても揃わないのは当たり前でしょ」

「パート練は個人の基礎をやる時間じゃない。個人で出来てないものをパートや合奏に持ち込まないで」

 こんな調子で、このたった数日の間に麗奈からいくつ注意を貰ったかなどとても数え切れない。もっともそのお陰でパート全体の音はみるみるうちに良くなったし、今日の合奏でも滝に注意された回数が一番少なかったパートは恐らくトランペットだった。麗奈の指導が厳しい分、それに対応することが出来れば飛躍的にレベルアップすることが出来る。それは一重に彼女の音楽的センスが優れていて、その指摘が間違っていないという事の証でもあった。

 吉沢を始め周囲の先輩達もその事をよく理解しているらしく、麗奈からの指摘には皆素直に頷くし、その直後には指摘通りに音を修正して吹いている。それによって自分達の音がますます高まっていくという事に、誰もが確信を持てているからこそなのだろう。

「さて、じゃあお昼食べちゃおっか。午後からはサンフェスの曲練始まると思うし、高坂さんから楽譜渡されたら皆も譜読みして、早く吹けるようになっておいてね」

 はい、と返事をしてパートの皆は昼休憩の体勢に入った。お昼の前にトイレを済ませておこう、と幸恵は一旦教室を抜け出る。道すがら廊下の窓に目を向けると、そこにはきれいに整備された校庭が顔を覗かせていた。サンフェス用の練習にはマーチングの行進もあるらしく、明日の練習はあそこで行われる予定になっている。マーチング未経験の幸恵にとっては多少の不安もあれど、新しいことに触れられる期待感に自然と胸が膨らむ。新しい環境で、新しいことが出来る。その喜びを、幸恵は存分に満喫していた。

「あれ、」

 廊下の角を曲がったところでばったりと、幸恵はその女子に遭遇した。さっぱりとした短髪に切れ長の瞳。身長は自分よりやや小さいぐらいだが、一言で『美人』と表せる容貌。その子の事は良く知っている。入部式の日、ユーフォニアムで物凄く上手な演奏をしてみせた、自分と同じ一年生の子だ。まだ入部した直後のタイミングであれだけ強烈なインパクトを与えられれば、流石に彼女のことを覚えないわけにはいかなかった。

「確か、芹沢、雫さん」

 その子の名前は、先日久美子達と一緒に下校した時に他の先輩達から聞いていた。他にも聖女出身で三年間ずっとレギュラーだった、という話も聞いてはいたが、本人と直接会話をするのはこれが初めてとなる。一体どんな子なのだろう。名前を呼ばれた雫はこくりと頷いたが、しかし何かを喋ろうという気配も無いまま、おもむろに横を通り過ぎていった。咄嗟に幸恵は彼女の背中に声を掛ける。

「あの」

 呼び止められた雫がぬるりと振り向く。何故声を掛けられたのか不可解、とでも言うように、雫は僅かに小首を傾げた。

「芹沢さん、お昼はもう食べた?」

 探るように雫に話し掛ける。相手のリアクションが薄いせいだろうか、何だか妙に窮屈な感じがする。雫は幸恵の問い掛けに小さくかぶりを振り、そしてやはり言葉を返しては来なかった。

「それじゃあさ、あたしと一緒に食べない? 実はあたしもまだなんだ」

 思い切って幸恵は雫をお昼に誘ってみる。この窮屈さももしかしたら、この子の事を良く知らないからなのかも知れない。それに同じ吹部の一年生とは言え、初対面なので警戒されているという節も無いとは言えない。一緒にお昼を食べながらあれこれ話をするうちに、そういう感覚もお互いに薄れていくだろう。まずは何事も最初の取っ掛かりが肝心だ。

「ごめん」

 そこで初めて雫の口から言葉が出てきた。その温度感の無い透明な声に、幸恵は思わず唾を飲み込む。

「これからお昼に行くから」

 それだけ告げると軽く会釈をし、そして雫は歩き去ってしまった。その断り方があまりにスマートだったもので、呆気に取られた幸恵はただ黙って雫の後ろ姿を見送るしかなかった。廊下のずっと向こうで彼女が角を曲がり、そこでようやく我に返った幸恵は、ふとあることに気が付く。

「お昼の誘いを断る理由が『お昼に行くから』って、何かおかしくない?」

 とは言え不思議なことに、不快感は全くと言っていいほど抱かなかった。この時の雫に対する幸恵の心象は、『ちょっと変わったところもあるけど、悪い子じゃないな』という程度のものだった。今回は駄目だったけれど、また今度お昼に誘ってみよう。それか、時間が空いたらどこか一緒に寄り道をするのもいいかも知れない。そんな風にこの時の幸恵は考えていた。

 それが、幸恵と雫との、最初のやり取りだった。

 

 

 

 

 幸恵は友達を作るのが得意だった。とは言え、生まれもってそういう性質だったというわけでは決して無い。

 まだ本当に幼かった当時、『くみ姉』によく遊んでもらっていた頃の幸恵は、どちらかと言えば他人と関わることが苦手なタイプと言えた。同年代の子達と一緒に遊ぶことがあっても、何となく友達になれないまま終わってしまう。他の子達が喋っているところにすんなりと割って入って一緒に過ごす、ということがどうしても上手く出来ない。それが幼少期の幸恵の姿だった。結果、一人で本を読んだりノートの端っこに落書きをしたりして休み時間を過ごし、家に帰ってからも友達と各々の家で遊んだりすることも特になく、一人で過ごす時間の方が圧倒的に多かった。

 それがいつの頃からか、恐らく小学校高学年になった辺りと本人は記憶しているのだが、「自分から壁を越えて仲良くしていけば、相手もそれに応えてくれる」ということに幸恵は気が付いた。今まで友達作りが下手だったのは、自分が勝手に相手との間に壁を作っていたからなのであって、その壁さえ越えることが出来れば仲良くなるのなんて簡単な事じゃないか、と。それに気付いて以来、幸恵の人間関係は大きく変わった。友達の数は徐々に増えていき、小学校を卒業する頃にはクラス全員の連絡先を把握し、男女の別なく相手の家に遊びに行けるまでになっていた。

 中学校で吹奏楽部への入部を決めた理由も、実のところもう半分は単純に部員数が多く、友達を作りやすい環境にあると思ったからだ。果たしてその読みは的中し、中学時代の三年間で学年中のほとんどの生徒と気軽に会話出来るようになっていたし、下校途中の話し相手にも毎日不自由することは無かった。とは言え彼女自身、友達を増やすことを決して打算的に考えていたわけでは無い。単純に友達が多い方が楽しく過ごせる。仲が悪いよりは仲良くした方が快適で良い。強いて言えばそのぐらいの発想だった。だから、高校に入ってからも幸恵は友達を増やすことに躊躇はしなかったし、また今までと同じように誰とでも友達になれると思っていた。

 

 

『こんなはずじゃなかった!』

 校舎の壁に背を預け虚空を仰ぎながら、幸恵は荒ぶる自分の息を整えることに必死になっていた。楽しそう、という事前の想像とは裏腹に、いざマーチングの練習が始まるとひたすら動き続けるだけの過酷な時間が幸恵を待っていた。

 元々運動はそれほど苦手では無いのだが、どういうわけかマーチングの行進練習は生半な運動よりも格段に体力を消耗するような気がする。まず腕から肘までを直角に構え、ラッパを持つように組んだ手が顔の真正面に来るようにする。これが『楽器を手に持って構えている』ことを意味する仕草である。次に、その構えのまま背筋をぴんと伸ばし胸を張る。イメージとしては真上よりやや前方から糸で頭を引っ張られている、という感覚だ。

 これが整ったところで、次はマークタイムと呼ばれる足踏み練習。太ももが水平になる高さまで足を上げ、それと同時に足首は次に地面を踏むのに備えて真下を向かせる。これを左右交互に繰り返す。およそ数十分間のマークタイム練習が終わり、ようやく行進の練習へ。今回はパレードでの行進を想定しているため基本的にはフォワードマーチ、すなわち前進の動きがメインとなるのだが、歩く時の歩幅は予め決まっていて、一歩で六十二.五センチメートル、つまり八歩で五メートル。この間隔が基本となる。行進中はこの間隔を乱さず完璧に揃えることが常に求められるわけだ。

 そして歩く間は上体を崩さないよう保ちつつ、足はつま先をぴんと上に向けながら踵を地面に付け、そのまま足の裏全体で地面を捉えるように踏みしめ、最後はつま先で地面を蹴り出す。これまたマーチング用語でグライドステップと呼ばれるこの足捌きによって歩行時の上体のぶれが軽減され、安定した音を出しやすくなる。そのためこれが乱れて足元がばたばたしていると、ドラムメジャーの(つか)(もと)や『軍曹先生』と呼ばれる副顧問の(まつ)(もと)()()()から即座に注意を飛ばされる。さらに隊列全体が左右に曲がる時などには歩幅を微調整し、縦や横の人との列が崩れないよう自分の位置取りをキープしつつ、整然と行進を継続しなければならない。

 これらの事に気を付けながら数時間にも渡り連続して、しかも強い日差しの照りつける屋外で行われる行進練習は、全身の筋肉と神経とを恐ろしい勢いで摩耗させてしまう。運動部のそれには及ばないとは言え、日頃屋内で楽器を吹いている吹奏楽部員にとっては相当な運動量だ。それは幸恵にとって、まったくの想定外と言うべき事態だった。休憩中の今は校舎が日光を遮ってくれているはずなのに、火照り切った体の熱はこれっぽっちも下がる気配が無い。だくだくと流れ落ちる汗は瞬く間にジャージを濡らしていく。心臓は今にも大量の血流に堪えかねて破裂してしまいそうだ。

 しかもあろうことか、昨日先輩に言われてせっかく着替えも水筒も用意して来ていたのに、その水筒を着替えと一緒にうっかり部室に置いたままにしてしまっていた。僅か十分間の休憩のうちに部室まで行って戻れるほどの体力も、もはや残されていない。そんな体力があるならまだ昼までたっぷり続く練習に備えて温存しておかなければならず、従って幸恵の状況は限りなく絶望的、という他は無かった。

「そろそろ練習再開でーす。元の位置に戻って整列してくださーい」

 ドラムメジャーの一声が、幸恵の耳を重たく揺らす。もうすぐ休憩が終わってしまう。さっきまで周りで一緒にへばっていた他の部員達も、徐々にグラウンドへと戻り始めている。なのに自分の体力は全然回復していない。このままではまずい、と幸恵は直感した。もしも万一練習中に倒れでもしたら全体の練習がストップする。フォーメーションも崩れることで、他の人達にまで迷惑を掛けてしまうことになる。それだけは嫌だった。振り絞れ、ここでダウンしてる場合じゃない。例えとっくに限界を超えていたとしても、ほんの僅かに残っている力の残りかすまで振り絞るんだ。そう自分に言い聞かせつつ、がくがく震える膝を押さえながら立ち上がったところで突如、幸恵の目の前に青銀色の水筒が飛び出してきた。

「わっ」

 本当に突然だったもので、思わず口から声が漏れる。ずいと突き出された水筒の向こうを目で辿っていくと、それを差し出したのは、

「芹沢さん」

 水筒を手にした雫は無言でこちらを見つめていた。『飲む?』彼女のその瞳は、自分にそう告げているみたいだった。

「いいの?」

 幸恵の問いに雫は無言で頷く。ありがとう、と言う前に幸恵は雫の手から水筒を受け取り、すぐさま中身をごくごくと飲み下した。冷たい液体の感覚に舌がびりびりと痺れる。美味い、美味すぎる。干からびかけていた身体の隅々に、甘しょっぱいその液体が沁み渡っていくのが分かる。ぷはあ、と一息ついてから幸恵は、水筒の中身を全て飲み切ってしまったことに気が付いた。

「ごめん、全部飲んじゃった」

 彼女が自分で飲むために用意していたものだったろうに、差し出されたものを全部平らげるなんて。恥ずかしさと申し訳無さから幸恵はあたふたしてしまう。無表情のままで雫はゆっくりとかぶりを振り、幸恵の手から水筒をするりと抜き取った。蓋を閉めその場に置くと、雫は何事も無かったようにすたすたとグラウンドへ歩いていく。

 その背中に向かって「ありがとう!」と、幸恵は心からの感謝を告げた。雫は振り返ることはしなかったが、微かに首を縦に振った、ように見えた。

 

 

 芹沢雫。幸恵の中でその存在は、日増しに大きく膨らみ始めていた。同学年の女の子。聖女出身で三年間レギュラーだった子。ユーフォがとても上手い子。寡黙な子。反応の薄い子。人付き合いの悪い子。いつも一人で過ごしている子。暇があれば楽譜ばかり眺めている子。周囲からはいろいろな評判を聞くことが出来る。しかして幸恵自身はと言えば、雫の何たるかを語れるほど彼女の詳細を知らない。ただ無口で素っ気ないけれど、決して悪い子では無さそうだという感触だけはあった。

 どうやってあんなにユーフォが上手くなったのか、家ではどんなことをしているのか、家族は何人いるのか、地元にはどんな友達がいるのか、音楽以外の趣味はあるのか――そんな雫にまつわる諸々のことが知りたいと、いつしかそう思うようになっていた。どうしてこんなに他人のことが気になるのか。初めてのその感覚に少しだけ戸惑う気持ちも、幸恵にはあった。

「あ、芹沢さん」

 いつものように六地蔵駅から乗り込んだ、京阪宇治線の電車。比較的空いている座席に、いつもは見かける事の無い雫の姿があった。彼女の膝の上にはユーフォが収まっているであろう黒い楽器ケースが横たわっている。ほっそりとした太ももを圧迫しているそのケースは、率直に言って重たそうだった。幸恵の声を聞き留めた雫が顔をのろりとこちらに向ける。彼女の細い首筋が制服の裾から覗き、そのあまりの白さに幸恵は思わずドキリとしてしまう。

「隣、座っていい?」

 一応尋ねると、雫はこくりと頷いた。お言葉に甘え、幸恵は雫の隣へと腰掛ける。

「楽器、持って帰るんだね」

 見れば分かる当たり前のことを雫に訊く。これも幸恵にとってはただの会話の取っ掛かりに過ぎなかった。無言で頷かれるだけかも知れないし、短い返事で終わるかも知れない。けれどお互い無言で降車駅まで過ごすよりだったら、ずっと良い。

「テスト期間中は、学校で練習出来ないから」

 不意の返答に思わず幸恵の身体が強張る。てっきり雫からはまたいつものように、まともな言葉が出てくることは無いものと思っていた。初めて雫との会話が成立した。その事に、少なからず幸恵は動揺してしまっていた。それでも相手に不自然さを感じさせないよう、幸恵は頭に浮かんだ言葉を拾い集めて会話を継続させようと努める。

「やっぱり部活以外でも練習してるんだ。芹沢さん、ユーフォ上手だもんね」

 それは決してお世辞などではなく、限りなく素直な感想を述べたつもりだった。ところが上手と言われた雫自身は微動だにせず、足元をじっと見るような仕草のままで何の反応も示さない。まずい。変なところを突いてしまったのだろうか。

「えと、高校に入ってから勉強大変だよね」

 幸恵は慌てて話題の方向転換を図る。いきなり舵を大きく切り過ぎた感もあったが、そのぐらいの方が却って場の空気を入れ替えるのには良いかも知れない、と思ったからだ。こくり、と雫が反応したのを見て、幸恵は話題を次へと繋ぐ。

「あたし、中学の頃から数学がホント駄目でさー。芹沢さんは数学どう?」

「それなり」

 一度は止まり掛けた会話が再び動き出していく。その状況に、幸恵は少し安堵していた。あのまま会話が途切れてしまえば、次の一言を喋り出すことは難しくなる。そうなれば幸恵か雫のどちらかが電車から降りるまでの間、二人は極めて気まずい沈黙の時間に晒されることになっただろう。会話が繋がりさえすれば、そんな時間を耐え凌ぐ必要も無くなる。幸恵は次々と話題の種を繰り出し、反応の薄い雫から一つでも言葉を引き出すことに腐心していた。

「部活もさ、練習きついよね。うちんとこはあの高坂先輩がパートリーダーだから、もうパート練が厳しくて」

「そう」

「でも他の先輩が皆優しいから平気だけどね。特に三年の吉沢先輩が――」

「ねえ」

 急に向こうから話し掛けられ、幸恵はそれまで動かしていた口をばくりと閉じた。雫から何かを言おうとしているのもこれが初めてだ。この子は次に何を喋るのだろう。どんなことを言い出すのだろう。それを待つ間、こめかみがちりちりと疼く。数秒ほどの間を置いてから、雫の唇が動き出した。

黄前(おうまえ)先輩の事、どう思う?」

「えっ」

 そこで唐突に『くみ姉』の名前が出てきたせいで、何故そんなことを雫が尋ねたのか、その理由を幸恵は一瞬考えてしまう。けれどその疑問はすぐに霧消した。そもそもユーフォ吹きの雫は低音パートであり、『くみ姉』はその低音パートの一員でユーフォ担当、つまり雫の直属の先輩なのだ。吹奏楽部の部長という立場も踏まえて考えれば、雫にとって最も近しく最も話題にしやすい存在が『くみ姉』、という事なのだろう。

「実はね、って芹沢さんはもう知ってるかもだけど、黄前先輩ってあたしの遠い親戚なんだ」

「そうなんだ」

「あれ、知らなかった?」

 雫は特に驚いた様子も見せなかったが、しかし幸恵の問いにはゆっくり首を振ってみせた。ともすれば『くみ姉』から聞かされているのでは、とも思っていたのだがしかし、『くみ姉』は部長として部内にあまり私情を持ち込みたくないと考えているのかも知れない。仮にそうでないとしても、これまで話題に上ることが無かっただけという可能性もある。ここは深く考えてもしょうがなさそうだ。

「あたしは小さい頃から面識あったから、『()()()姉ちゃん』を略して、ずっと『くみ姉、くみ姉』って呼んでてね。くみ姉が中学校に上がるぐらいまでは、よく遊んでもらったっけなあ。くみ姉が吹奏楽始めたって聞いて、あたしもいつか吹奏楽やるんだって思ったりしてね」

 昔の事を懐かしむように、幸恵は言葉を紡ぐ。

「そう言えばくみ姉って、小四の頃からユーフォやってるんだって。それは知ってた?」

「ううん」

 雫が今度は声付きでかぶりを振る。

「流石って感じだよね、くみ姉、めちゃくちゃ上手いし」

「うん」

 その時の雫の声色には、それまでの淡々とした返事とは違う、何らかの意志が籠っているような気がした。え、と幸恵が雫の様子を窺おうとするより先に、車内にアナウンスの声が響き渡る。

『次はー(ちゅう)(しょ)(じま)、中書島です。お降りのお客様は……』

「あ、もう降りなくちゃ」

 忘れ物をしないようにと鞄を肩に引っ掛けてから、幸恵は雫に尋ねる。

「芹沢さんはここから乗り換えるの?」

 その問いに雫はこくりと頷いた。

「この駅の一番ホーム」

 へえ、と幸恵は吐息を漏らす。そういえば雫は聖女出身だ、と言っていた。聖女はここからもっと北に所在する学校であり、彼女がこれから乗ることになる電車の行き先もその方角である。雫が聖女に通っていたとするならば、その近辺に家がある可能性は高い。いや、実は中学時代からも吹奏楽の為に、もっと遠くから通っていたのかも。彼女の家はどこにあるのだろう。どんな家なのだろう。二人揃って電車のドアをくぐりつつ、幸恵はそれとなしに探りを入れてみる。

「芹沢さんのお家って、どんな感じなの? 実は豪邸だったりとか」

 ううん、と雫は首を横に振る。

「家は普通のマンションだから」

「そうなんだ」

 この時、幸恵はほんのちょっぴり嬉しさを覚えていた。雫があれだけ上手ならもしかして、麗奈のように自宅に防音室があったりするのかも、と思っていたからだ。詳しいことは分からないけれど、雫の家庭環境は恐らく自分とそう遠くかけ離れたものじゃない。幸恵の中にはそんな感触があった。

 もう少し話をしていたかったけれど、雫は乗り換えのために移動をしなければならない。あまり長い時間引き留めてしまうのも迷惑だろう。跨線橋を上った先、ホームの分岐点で、幸恵は雫に向き直る。

「それじゃ私はこっちだから。芹沢さんも帰り道、気を付けてね」

「うん」

「じゃあ、また学校で」

 手を振り、雫と別れる。重たそうに楽器ケースを携え一番ホームへ向かう雫の後ろ姿を見送る間中ずっと、幸恵の心はほかほかと温まっていた。雫と普通に会話出来た。電車に乗っている時間は十分にも満たない僅かなものだったけれど、その間に雫からは色々な話を引き出すことが出来た。こうしてみると、他人の評判なんて存外あてにならないものだ。芹沢さん、普通に喋れるじゃないか。たったそれだけの事がなんだか妙にくすぐったくて、幸恵はその日家に帰ってからも度々その事を思い出しては一人くすくすと笑っていた。

 

 

 

 テスト期間中は幸恵にとって、さながら地獄と呼ぶべき長い長い苦行の日々となった。何しろ幸恵は元々勉強が得意ではない。というか、有り体に言って大嫌いだった。数式や化学記号の意味するものなんて何が何だかさっぱり理解できないし、歴史上の著名な人物や出来事にもとんと興味が湧かない。勿論、英単語の暗記なんて嫌いな行為の最たるものだし、だからと言って国語の文章読解が得意かと言えば、別段そんな事も無かった。

 地頭が良かったからなのか、それとも当時はまだ勉強自体が簡単だったからなのか、小学生くらいの頃は特に宿題などしなくてもそれなりに好成績を収めることが出来ていた。それなのに中学校に入ってしばらく後、幸恵の成績は急激に悪化の一途を辿った。中三に上がる頃には既に、学年中で下から数えた方が早いという順位にまで下がっていた。そのままでは北宇治への進学など夢のまた夢、という状況だった彼女の成績は、麗奈の下でトランペットを吹きたいという目標によって勉強漬けの生活を余儀なくされた結果、秋頃に少しずつ上向き始め、最終的には辛うじて北宇治の合格圏内へと滑り込むことに成功したのだった。

 がしかし、そうしてまで入った高校でもやはり、嫌いな勉強は容赦なく牙を剥いてくる。今はまだ進級にも進路にも直接影響しないので気楽と言えば気楽なのだが、先日久美子にも指摘された通り、もし赤点が積み重なれば補講を受けることを強制され、その間は部活にも出られなくなってしまう。そんな事になれば本末転倒、何のために北宇治に来たのか分からない。自分の望みを叶えるために、好きでもない勉強とも、幸恵は否応なしに向き合わざるを得なかったのである。

「――とまあこんな具合に、超大変だったけど何とかなったってわけです」

 いつもの練習場所である教室で、幸恵はパートのメンバー達を相手に、まるで武勇伝でも語るかのような口調で中間テストの顛末を報告していた。麗奈はパートリーダー会議のため席を外しており、パートの面々も今は楽器や譜面台を準備している状況なので、こうしてのんびり会話をしていても咎める者は誰もいない。ちなみに、今回のテストで幸恵が獲得した赤点の教科は数学Aと英文法の二つ。他は辛うじて赤点を回避する事には成功したものの、いずれも点数はぎりぎり低空飛行といった具合であり、担任からは既に「もっと頑張らないと期末はやばいぞ」と半ば脅しをかけられていた。

「そりゃあ、期末は頑張らなくちゃだねえ」

 幸恵の話を聞いていた吉沢の表情には、苦笑いとも呆れともつかぬ複雑な色が浮かんでいる。高校入学最初の定期テストで後輩がここまでズタボロの成績を叩き出した、なんて話を聞かされれば、先輩として幸恵のその後が心配になったであろう事は間違いない。しかして当の幸恵はそんな吉沢の視線など気にも留めず、勉学の苦しみから解放された喜びをただひたすらに噛み締めていた。そう、テストという名の戦争はもう終わったのだ。あと一ヶ月もしたら次のテストがあるだなんて、今は考えたくもない。

「それにしてもテスト終わったと思ったら、もうすぐ六月ですね」

「そうだね」

「六月って言ったら宇治でお祭りあるじゃないですか、あがた祭り。先輩達は誰かと一緒に行ったりするんですか?」

 幸恵の質問に、上級生達は各々の予定を述べる。友達と。彼氏や彼女と。様々な回答が挙がる中、吉沢はにこにこしながらその質問には一切答えなかった。果たして彼女には一緒に行く相手が居るのか、居ないのか、はたまた行く予定自体が無いのか、一体どれなのだろう。

「皆は?」

 幸恵は同級のパート員達にも尋ねてみる。

「んー。ウチから遠いし、私はパス」

「私は中学の友達と一緒に行くかなー、(あがた)神社に近い家の子が居るから」

「そうなんだ。そう言えばくみ……黄前先輩の家も、神社近いんだよなあ」

 ふと幸恵は昔の事を思い出す。あれは確か、久美子の一家が京都に引っ越して来てまだ間もない頃。親戚一同が寄り集まって、皆であがた祭りに出掛けたことがあった。幼かった幸恵は久美子に手を引かれ、その久美子は姉である麻美子に手を引かれ。そうやって三人で屋台を巡ったり神社でかき氷を食べたりしたっけなあ、と幸恵はしばし感傷に浸る。あれは果たして何年前の事だったろう。なんだか急に懐かしさが込み上げて、あの景色をもう一度見てみたい、と幸恵は強い衝動に駆られる。

「せっかく行くんなら、誰か誘おうかなあ」

 誰にともなく呟いた幸恵はそこで、周囲の様子がおかしいことに気付いた。さっきまでの会話の輪はいつの間にかぼろりと崩れ去り、全員がいそいそと楽器を構えたり楽譜に目を遣ったりしている。視界の端では同学年の女子が、こちらに目配せで何かを訴えていた。その視線の行き先に嫌な予感を覚えつつ、幸恵はゆっくりと、後ろを振り向く。

「こ、高坂先輩!」

 そこには極めて不機嫌そうな気配を放つ麗奈が立っていた。会議が予定より早く終わったのか。己の気迫にすっかり委縮して震える幸恵の心中を知ってか知らずか、麗奈は教室中をギロリと一瞥すると、今度はその刺さるような強い視線を幸恵へと向ける。

「東中さん、練習の準備は?」

「え、いやあの。これから個人練に行こうと……」

「楽器は?」

 幸恵の喉からひゅっと乾いた音が鳴る。しまった。雑談に熱中するあまり、トランペットをケースから出しておくのをすっかり忘れていた。これではどうとも言い訳のしようが無い。終わった、とばかり幸恵は歯を食いしばる。麗奈は溜め息のように小さな呼気を漏らし、それから『すうっ』と大きく鼻を鳴らした。

「コンクールメンバーのオーディションまであと一カ月を切ってるっていうのに、さぼってるような時間は――」

「高坂先輩は!」

 半ばやけっぱちで、無理くりに声を張る。その勢いに押された麗奈がばくりと口を閉じた。とにかく何でもいい、畳み掛けなければ。そうしなければこの状況はどうにもならない。しかしいくら知恵を絞ってみても、焦燥を極める幸恵の脳裏にはさっきまで皆としていた話題ぐらいしか浮かんでは来なかった。

「高坂先輩はあがた祭り、誰かと行くんですか?」

「あがた祭り?」

 問われた麗奈の眉がぴくりと動く。さっきまでの激情に駆られた表情から一転、麗奈は思考の端を探るようにその瞳を斜め上に向けた。周囲の温度が僅かに下がったのを感じた幸恵は、即座に傍らの楽器ケースへ手を伸ばす。

「そうです! 誰かと行く予定とか、もうあります?」

「あるって言うか、多分、行くと思うけど」

 その場しのぎで質問をしたつもりだったのに、麗奈のその反応は少し意外なものだった。何しろ麗奈は日頃、誰かと仲良くするような素振りなど、ほぼ全く見せることが無い。パート内で同学年の吉沢とは悪い関係では決して無いものの、一緒に帰ったりどこかへ遊びに行ったり、というほど親しいわけでも無いようだった。恋人などの存在も露ほども匂わせたことは無い。強いて言えば、麗奈と比較的仲が良いと言えるのは低音パートの三年生、()(とう)()(づき)(かわ)(しま)緑輝(さふぁいあ)、そして久美子の三名ぐらいだ。

 ひょっとしてこの中の誰か、もしくは四人揃って出掛けるつもりなのだろうか。未だ知られざる麗奈の交友関係に思いを馳せつつも、幸恵は抜かりなくケースから取り出したトランペットにそろりとマウスピースを挿し込む。

「じゃあ、もう約束してるんですね」

「約束は……してない」

「ええ、相手の方が先に予定入れちゃったりしません?」

「それは無い」

 麗奈の口調は明らかな確信に満ちていた。そう言える根拠は何処にあるのだろう。そして麗奈からこれほどまでの信頼を寄せられている、その相手とは? それを聞き出してみたい気持ちがチロリと心の裾から顔を覗かせたが、しかし今はそれどころではない。この状況をかわせる千載一遇の機会を逃してはならぬとばかり、幸恵は畳んだままの譜面台と楽譜ファイルを鷲掴みにする。

「そうなんですね。それじゃあ私、個人練に行ってきまーす!」

 そう言い残すや否や、幸恵は脱兎の如く教室を飛び出した。「ちょっと、東中さん!」という麗奈の声を置き去りにして。後でパート練の時に怒られてしまうかも知れないが、まあその時はその時。心の準備をするだけの時間は確保できたし、もし何か言われたらその時は素直に謝ろう。小走りに廊下を駆けゆく幸恵は、罪悪感と愉快さの両方がちゃぷちゃぷと音を立てて心に注がれるような、不思議な感触を覚えていた。

 

 

 

「どうしよっかなー」

 トランペットをケースに仕舞いながら、幸恵はしばし思案する。今日はあがた祭り当日。交通規制に巻き込まれないよう、練習はいつもよりかなり早く終わることとなった。幸恵も当初は誰かを誘って一緒にお祭りに行こうかな、と考えていたのだが、結局その相手を決め切れぬまま時は過ぎ、こうして当日を迎えてしまったのだった。そうこうしているうちに周囲はさっさと一緒に行く相手を決めていたようで、しかし後から混ぜてもらうのも何だか気が引けるという理由で、未だに祭りに行くべきかどうするかを躊躇していた。

 幸恵は夏が好きだ。冬は寒いし楽しい事も少ない。友達は多くても恋愛事にはそれほど興味を持たなかった幸恵にとって、クリスマスやバレンタインデーのような冬のイベントは面白いと思えるものが少なかった、というのもある。それよりは夏の方がお祭りや花火大会など楽しい行事が多く、海や山など皆で連れ立って出掛けられる場所も多い。春や秋の風情を楽しむのも京都らしくて良いけれど、どちらかと言えば夏の方が自分の性に合っている、と自認していた。

 とは言うものの、である。そもそもあがた祭りの中心地となる県神社は、立地的に自宅の方角とは真逆に位置している。それに見物客の混雑に巻き込まれれば、帰宅の時刻はずっと遅くなってしまうだろう。開催の日付が毎年固定されており曜日は関係無しに行われるため、今年のあがた祭りは折も悪く月曜開催となってしまっていた。まだまだ長い一週間が続くことを思えば、週の頭から夜遅くまで出歩くのも正直気が引ける。誰とも予定を組めなかったならそれはそれでいっその事、今日は祭りには行かず、このまま家に帰ってのんびり過ごした方が良いかも知れない。そんな事を考えながら廊下を歩き玄関に到着した時、幸恵は下駄箱の前に立っている人物に気が付いた。

「芹沢さん」

 幸恵に名を呼ばれた雫が、相も変わらぬ緩慢な挙動で振り向く。

「そっちも練習終わったんだね。これから帰り?」

「うん」

 珍しく雫の返答が早めに来た。今日の雫はひょっとして、いつもより機嫌が良いのかも知れない。

「あたしもこれから帰るとこ。良かったら途中まで一緒に帰らない?」

「ごめん。今日はお母さんが迎えに来てくれるから」

 お母さん。雫のその物言いに、幸恵は喉笛を撫でられた時のようなくすぐったい気持ちを覚える。この雫の口からこんな丸くてあったかい言葉が出てくるなんて。それを聞いた事があるのはもしかして、部員達の中でも自分だけなのかも知れない。そんな優越感もまた、たまらなく心地の良いものだった。

「それじゃあ、あがた祭りには行ったりしないんだね」

 幸恵の問いにコクリと頷く雫。きっとこの子ならそうだろう、と幸恵は何となく予想していた。雫はこういった行事や集団行動には、とんと興味を示さない。いつも一人でいるのは決して周囲から除け者にされているとかではなくて、雫自身がそういったものに付き合う姿勢を見せることがまるで無いからなのだ――とは、他の部員達や雫のクラスメイトから聞いていたことだ。

「じゃあさ、あたしと一緒に行ってみない? あがた祭り」

 幸恵は思い切ってその一言を投げ掛ける。言われた側の雫は、何を言っているのか理解出来ないとでもいうようにその瞼を微かに広げ、こちらを覗き込んだ。

「お母さんには、お祭り行くって今から連絡してさ。そんで二人で電車乗って、神社まで行ってみようよ。帰りはうちの親に頼んで、芹沢さんのお家までちゃんと送るから」

「でも、迷惑だし」

「迷惑なんかじゃないって。うちの親、そういうのあんまり気にしないし」

「そうじゃなくて」

「じゃなくて、何?」

 これまた珍しいことに、雫との会話がテンポ良く成立している。幸恵は内心驚いていた。今まで雫との会話は、どちらかと言えば自分から一方的に仕掛けるばかりであり、それに対する雫の反応も極めて薄いものばかりだった。今回の誘いにしたって、無言で首を振られるか短い返答に終始するだろうと思っていた。それがどうだろう。平坦な声色には感情の色こそほとんど乗っていないものの、雫が普通に会話をしてくれている。まるで偶然開けた扉の先に、お菓子がいっぱい詰まった部屋を見つけた時みたい。そんな嬉しい驚きが、幸恵の心を包んでいた。

「私と一緒にお祭り行ったって、きっと面白くなんかないから」

 雫のその言葉に幸恵は瞠目する。雫が気に掛けているのは、他でもない幸恵の事。どういう理由でかは分からないが、雫は自分と過ごす相手がつまらないと感じるだろうと考えているらしかった。

「そんな事ないよ、きっと。それにあたしが芹沢さんと一緒にお祭り行きたい、って思ってるんだもん」

 ね、行こう? 幸恵は雫に向かって手を伸ばす。その瞬間、幸恵は見た。普段あれだけ無表情な、それこそ鉄の仮面を被っているかの如く感情を表に出さない雫が、困っているような恥ずかしがっているような、そんな心の動きを眉の端に描き出すのを。幸恵が思わず息を呑み、瞬いた刹那の後にはもう、彼女の表情はいつも通りに戻っていた。

 数秒の沈黙。幸恵は伸ばしたままの手をまだ降ろさない。雫は観念するようにゆっくりと目を閉じ、そして、

「うん」

 幸恵の手をきゅっと握る。雪のように白くしなやかな雫の指は思ったよりもずっと小さく、そして事前の想像よりもずっと温かかった。

「そうだ、まだ自己紹介してなかったね」

 雫の指の感触を掌に感じながら、幸恵はにっこりと微笑む。

「あたし(ひがし)(なか)(さち)()。よろしくね、芹沢さん」

 

 

 

 祭りの喧騒から離れ、二人は家々が入り組む裏路地を歩いていた。

 遡ること数時間前。県神社に到着した幸恵と雫はまずお参りを済ませたあと、通りに並ぶ夜店を順々に巡った。輪投げをしたり射的をしたり、きらきらと七色に光るブレスレットをしばらく眺めたり、買ったたこ焼きを二人で分け合ったり。冷やしきゅうりを買った雫はそれをいつまでもシャリシャリと懸命にかじっていて、それが何だか妙に可笑しくて、幸恵はけらけらと笑い声を上げた。やがて人の波に疲れたのか、「静かなところに行きたい」と雫が言い出して、それならばと幸恵が案内したのは平等院の裏手、『あじろぎの道』と呼ばれる小道の途中にあるベンチだった。

 すぐ傍にある古めかしい建物には何か名前もあるらしいのだが、残念なことに幸恵は郷土の歴史にもほとんど興味がなく、従ってその建物の名前も何のためのものなのかも全く知らない。けれど、このベンチのことだけは良く覚えていた。まだ久美子も自分も小学生の頃、久美子に連れられてこの辺で遊んでいた時、休憩のために腰を下ろしたのはいつもこのベンチだったから。

 そうして辿り着いたこの場所を、感慨をもって幸恵は見渡す。あの頃に比べるとベンチもすっかり色褪せてしまった気がするけれど、こうして腰掛けると当時の思い出が昨日の事のように胸の奥から蘇ってくる。その甘酸っぱい感覚は、祭りの夜風の生温さとも相まって、火照った自分の体を程よく冷ましてくれた。

「芹沢さんも座ろうよ」

 幸恵が促すと、雫はこくりと頷いて隣に腰掛けた。目の前には街の明かりを反射してきらきらと光り輝く宇治川の水面。滔々と流れゆくその水の動きを、幸恵と雫はしばし無言で眺める。不思議なことに、一言も喋らずに誰かと過ごすその時間をまるで苦痛に感じなかったのは、これまでの人生でこれが初めてのことだった。余計な言葉なんて無くたっていい。今はただこの水音だけを聴きながら、ずっとこうして二人で座っていたい、とさえ思う。

 おもむろに隣を見やると、雫もまた川の行方を目で追っていた。自分とお祭りに行ったって、きっと面白くなんかない。そう言っていた雫の方こそ、逆に自分と過ごすこの時間を苦痛に思ってはいないか。それが少しだけ心配だったのだが、どうやらそんな気配は無さそうだと幸恵は感じ取っていた。祭りの賑わいを遠くに置き去って、さっきまで吹いていた夜風すらも止んでしまうと、まるでこの世界から自分達二人だけが切り取られたかのような錯覚に襲われる。

 もしも本当に、そうなってしまったならば。ふとそんな想像を巡らせてみる。いっそ、それも悪くないかも知れない。こんなに静かで心安らげる時間を過ごしていけるのならば、雫と二人きりの世界になってしまっても構わない。普段の自分からは絶対に出て来そうにない結論に、幸恵はくすりと笑みをこぼす。

「そう言えば、前から聞きたいって思ってたんだけどさ」

 唐突に思い出して、幸恵は雫に話し掛ける。それは自分でもはっきりと分かるぐらいに、とても穏やかな声だった。

「芹沢さんって、どうして北宇治に来ようと思ったの?」

 雫はいつものように、ゆるりとこちらへ顔を向ける。

「どうして?」

 その『どうして』はこっちの質問を反芻したつもりなのか、はたまた何故そんなことを今尋ねるのかという確認の意味なのか。幸恵にはどちらとも判断がつかなかった。

「あ、別に大した意味は無いんだけどね。あたしもほら、わざわざ遠くから北宇治通ってるからさ。何となく、芹沢さんにも何か理由でもあったのかな、って」

「東中さんの理由って?」

 雫はすぐには答えを寄越さず、小首を傾げて問い返してきた。確かに、人に理由を尋ねておいて自分が何も語らないのも不公平かも知れない。

「あたしの理由はね、高坂先輩に憧れたから」

 幸恵は夜空を見上げる。その星の瞬きの向こうに、あの日の麗奈の姿がくっきりと映って見えた。

「去年、地区の定期発表演奏会で、たまたま北宇治の演奏聴いてたんだけどさ。そこで高坂先輩のトランペットの音に出会って、それで感じたの。これが本物のトランペットの音なんだって。あたしもこんなトランペット吹きになりたい、って思った。それで家からちょっと遠かったけど、北宇治に入ることにしたんだ」

 幸恵のその告白に、雫は相槌どころか微動だにすらしなかった。しょうがないか、と幸恵は思う。こんな理由で進路を選ぶだなんて、他人からしてみれば呆れ返るような話だったことだろう。全国に行って金賞を取りたいからとか、とても優秀な滝の指導を仰ぎたかったからとか、そんな『らしい』理由でも言った方がこの場の雰囲気には相応しかったかも知れない。けれど何故か今は、雫に対して取り繕うような真似はしたくなかった。

「憧れ……」

 焦れったくなるほどの間を経てようやく、幸恵の言葉をなぞるように雫が呟く。

「そ。まあ高坂先輩めちゃくちゃ上手いし努力家だし、しかも先輩のお父さん、プロのトランペット奏者だって話だから。あたしなんか到底追いつけるわけないんだろうけど」

 何だか気恥ずかしくなって立ち上がり、幸恵は目の前の石段を下りた。そのまま河原にしゃがみ込み、膝頭を指でぽりぽりと掻く。雫ぐらい音楽に精通した人からしてみれば、こんな動機は荒唐無稽も甚だしいに違いない。何しろその高坂麗奈は北宇治どころか、全国の高校生の中でも恐らく数本の指に数えられるであろう実力者。単に憧れているだけならまだしも、彼女の下でトランペットを吹くためだけに同じ学校へ進学するというのは、冷静に考えてみると無謀とさえ言えたかも知れなかった。

 片や才能と環境に恵まれた者。片やそれに憧れるだけの、どこにでも居るようなごくごく普通の高校生。憧れ、などと口にするのも本来ならば憚られるのかも知れない。この数カ月間で、幸恵は自分と麗奈の間にそびえ立つ余りにも高く分厚い壁の存在を嫌というほど痛感して来た。高坂先輩は元々『特別』なんだ。自分とは違う。自分はあんな風にはきっとなれない。そんな意識が徐々に心の中に染み出してきていることを、ここのところ幸恵は感じ始めていた。

 背後にいる筈の雫は、さっきからずっと沈黙を保っている。やっぱり馬鹿な女と思われてしまっただろうか。けど、別にそれでもいい。幸恵は素直にそう思った。こうして腹を割って、雫に自分を曝け出すことが出来た。つい先日までは絶対に考えられなかったことだ。そんな時間を、このあがた祭りの夜、雫と過ごせた。それだけでもう充分に満足だった。

「笑わない」

 突然後ろから大きな声がして、幸恵は反射的に振り向く。それが雫の発したものであることを認識するまでにはしばらく時間がかかった。いつの間にかベンチから立ち上がっていた雫の、暗闇に浮かぶその表情には、とても強い感情が色濃く浮かんでいた。ここからだと怒っているようにも、今にも張り裂けそうなほど真剣なようにも見える。その勢いに圧倒され、幸恵はすっかり言葉を失ってしまう。

「私は笑わない」

 もう一度宣言して、雫が石段を一歩、また一歩と降りて来る。あまりのことに幸恵は思わず後ずさっていた。何か、自分でも気付かぬうちに何か、雫の癇に障ることを言ってしまったのだろうか。氷のように透明な声が普段よりずっと鋭く、臓腑を貫いてくるような気さえする。

 そうこうするうち、とうとう雫が自分の目の前までやって来た。怒らせたならごめん、と謝りそうになる幸恵の手が、雫にぎゅうと握られる。あの細く小さな手のどこにこんな力があるのかと思うほど、彼女の指には強い意志が込められていた。

「同じだから」

 同じ? それはいったい何と? 一瞬の間に予想外の出来事がいくつも起こり過ぎて、幸恵はすっかり混乱してしまう。けれど落ち着こうと考える余裕すら、完全に失ってしまっていた。目の前には雫が居て、しかも熱の籠った視線でこちらをじっと見つめている。おまけに手までしっかり握られてしまい、身じろぎはおろか顔を背ける事さえも許されない状況だ。雫の瞳から放たれた熱が、自分の眼球を通じて全身に注がれていく。熱い。息が苦しい。幸恵は今、自分の体に火が点いているのではないかとさえ思った。

「私が北宇治に来た理由」

「芹沢さんが、来た、理由」

 雫の言葉を、幸恵はただ壊れた機械のように復唱するのが精いっぱいだった。次に雫が何を言い出すのか、どう行動するのか、全く読めない。何もかもが、これまでの雫の振る舞いと違う。自分の理解の範疇をとっくに超えている。迂闊な事を言えば次の瞬間、この首を刎ね飛ばされてしまうかも知れない。そんなイメージが頭の中に浮かび、自分の肌がぞわぞわと粟立っていくのが分かる。

「私も憧れたから。黄前先輩に」

 え、と幸恵は息と共に溜まり切った緊張を吐き出す。雫は何と言った? 何かの聞き間違いか、と耳を押さえようとした幸恵の左手は、まだがたがたと震えていた。

「私もそこに居た。去年の定期発表演奏会」

 雫が手を握る力をさらに強めてくる。痛い、とは言えなかった。雫の手もまたぶるぶると震えていることに、気付いてしまったから。

「黄前先輩の音、すごく綺麗で温かい音だった。でも芯のある音で、ビブラートも豊かだしパッセージの発音もくっきりしてた。本物のユーフォの音だって思った。その音に、少しでも近づきたい。そう思った」

 幸恵は肚の底まで驚愕した。目の前の雫が、すらすらと喋っている。あの雫が。その吐息に膨大な量の感情を混ぜながら。それはまるで異次元のものを見せられた時のような、そんな心地だった。

「あんな風に私も上手くなりたい。あの人を超えていきたい。そして、黄前先輩に私のことを認めて欲しい。こんなにユーフォが好きなんだって、上手くなりたいって思ってる、私のことを」

 そこで思いの丈を吐き出し終えたのか、ふう、と一息ついて雫の手の力が弱まる。にも関わらず、幸恵は未だに固まったままでいた。それは必ずしも雫の突飛な行動に驚かされたから、というだけではない。初めて雫と出会った時、幸恵は彼女のことをちょっと変わった子ぐらいに思っていた。マーチング練習で救いの手を差し伸べられた時は、無口だけど優しい子と解釈していた。同じ電車に乗り合わせた時は普通に喋れる子だと感じた。そしてその認識は、今日この時までほとんど変わることがなかった。芹沢雫とはそういう人物なのだと、自分の中で彼女のことをいつの間にか、そう定義付けていたのだ。

 甘かった。雫のことを勝手に理解出来ていた気になっていた。雫がこんなに流暢に喋れるなんて、雫がこんなに熱い思いを胸の内に秘めているなんて、ひとつも知らなかった。それなのに、知ったつもりになっていた。雫について知らないことはまだまだ沢山あるかも知れない。今見せている雫のこの猛々しい感情だって、あくまで彼女の中のほんの一部分でしかなくて、もっと深く彼女のことを知ればまた違う一面を見ることもあるだろう。むしろ無ければおかしい。だって、人という生き物はそれほど単純ではないのだから。そんなことに思考を巡らせることすら出来なくなっていた自分自身の愚かさが、情けなかった。波濤のように押し寄せる後悔の念に責め立てられて、幸恵は奥歯をぎりりと噛み締めていた。

「それが私が北宇治に来た理由。だから、私は絶対笑わない、東中さんのこと」

 雫のその瞳は未だ強い熱を帯びて、はらはらと燻っている。幸恵はこの間、ずっと呼吸を忘れてしまっていたみたいだった。せめて自分を落ち着かせようと、雫が語った事の一つひとつを頭の中で整理していく。雫の憧れの人は久美子。雫が北宇治に来た理由は久美子に憧れたから。まるで自分が麗奈に憧れたのと同じように。そっか、そうなんだ。と、そこで幸恵はようやく息を大きく吸い、吐き出すことが出来た。

「そうだったんだ……」

 あまりに長いこと緊張の糸が張り詰めていたからか、喉から出たその声はひどく枯れていた。それにしても、まさか雫があの久美子に憧れの念を抱いていたとは、全く予想もつかないことではあったが、しかしいざ言われてみると、なるほど納得出来る部分もある。

「くみ姉って、ユーフォすっごい上手だもんね」

 その言葉に雫もこくりと頷く。

「春に入学した時、玄関前でやってた吹部の演奏。あの時、黄前先輩も吹いてた。先輩、去年よりずっと上手くなってた」

 そうなんだ、と幸恵は驚く。件の新入生歓迎演奏のことを、幸恵は当初知らなかった。彼女が入学式の日に登校した折、吹部は既に演奏を終えて撤収した後だったから。後日その話を友人達から聞いた時はとんでもないチャンスを逃したと思っていたものだが、どうやら雫はそこに居合わせていたらしい。

「今は隣で一緒に吹いてるから、もっと良く分かる。黄前先輩は凄い。きっと、もっと特別なところまで行くと思う」

 確かに凄いことかも知れない。自分のことでもないというのに、雫ほどの奏者に久美子が手放しの賞賛を受けているその事実こそが。

 流石に麗奈は別格としても、久美子の演奏技術はコントラバスの川島と共に、他の部員達からは頭一つも二つも飛び抜けている。小さい頃から良く知っている相手がそんな存在になっていることには内心驚きもあったものだが、いざ顔を合わせて会話をすれば彼女はやはり自分の良く知っている久美子で、その度に幸恵は密かに『ああ、やっぱりくみ姉だ』と安心していた。けれど、彼女がその領域に辿り着くまでには多分、尋常ならざる質と量の努力の積み重ねがあったことだろう。それは本当に凄いことだ。久美子がこれまで歩んできたであろう道程に、幸恵は思いを馳せる。

「芹沢さんの目標って、くみ姉に勝つことなの?」

 そう尋ねた幸恵に、雫はすぐには答えなかった。俯き、何かを吟味するように間を置く。

「勝ちたい、じゃないと思う」

 ぽつりと漏らして、雫はおもむろに川の流れに目をやった。つられるように幸恵もまた、雫の視線の先を伺う。

「先輩に認めて欲しい。認められるために、先輩よりも上手くなりたい。それだけ」

 雫の語るその理屈は、幸恵にはもう一つ理解しがたいものだった。それは一般的に言うところの『勝つ』ということと何が違うのか? そう考えた時、自分の中で何か得体の知れないもやもやとした感情が微かに蠢く。それは全くと言っていいほど掴みどころのないもので、手を伸ばした途端にするりとほどけて心の中に紛れ込んでしまった。

 今のこの思いをいっそ本人に直接ぶつけてみても良かったのだが、何故かそうすることは憚られた。雫ほど優れた音楽的能力の持ち主ならばもしかして、彼女にしか見えない世界があるのかも知れない。だとすればこのもやもやの正体も、自分には解き明かすことの出来ないものなのだろう。この時の幸恵はそう考えることで、納得させようとしていた。答えを見つけられずにいる自分自身のことを。

「とにかく、芹沢さんがくみ姉のこと、とっても尊敬してるんだってのは良く分かったよ」

 思考を振り切るように、幸恵は雫へと向き直る。そして今度は自分から雫の手を取った。

「じゃあ、あたしと芹沢さんは、これから盟友だね」

「盟友?」

「そう。芹沢さんがくみ姉に憧れてるように、あたしも高坂先輩に憧れてる。もっと上手くなりたい、認められたいって思ってる。同じ目標を持ってるんだから、お互い叶うように一緒に頑張ろうよ」

「それが、盟友、なの?」

 幸恵は大きく頷いてみせる。言っている事の意味を上手く呑み込めなかったのか、少しの間きょとんとしていた雫は、ふと何かに気付いたようにその視線を泳がせ始めた。ひょっとして今、雫は照れているのだろうか? そう思った時、とても言い表すことの出来ない温かくて豊かな感情が泉のように湧き上がってくるのを、幸恵は確かに感じ取った。

「そうだ。これからはあたしのこと、下の名前で呼んでくれていいから」

「下の名前?」

「うん。幸恵、って」

 その方が気兼ねしなくていいから、と幸恵は促す。初めは少し躊躇っている様子の雫だったが、やがて観念したようにおずおずと、唇を開く。

「……じゃあ、幸恵」

 それを耳にして、幸恵の頬が自然と緩んでしまう。凛とした涼しげな彼女の声で自分の名を呼ばれるのは、とても心地が良かった。

「さぁて、もう大分遅いし、そろそろ帰ろっか。あたしお母さんに連絡するね」

 誤魔化しついでに携帯を鞄から取り出そうとしたその時、グイと何かに身体を引っ張られる。見ると、少し俯き加減の雫が綺麗に尖った指先で、自分の制服の裾をチョンとつまんでいた。

「私のことも」

 そう言いながら雫は顔を上げた。その時捉えた雫の眼差しは、今までで一番柔らかく、じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうなほどに、優しかった。

「下の名前で呼んでいい」

 その表情、その一言に、幸恵の心臓はものの見事に撃ち抜かれてしまった。嬉しさと恥ずかしさで変な形に歪みそうになる己の口をたしなめるように、幸恵はきゅっと唇を結ぶ。それでも自分の内側からどんどん染み出してくる幸福感が、表情を自然と綻ばせてしまっていた。

「ありがとね、雫」

 

 

 迎えを手配すると宣言したのは幸恵だったが、実際に迎えに来てくれたのは自分の親ではなく雫の母親だった。たまたま雫の母親が用事で黄檗(おうばく)の辺りまで来ていたから、と雫は言っていたのだが、もしかするとそれは自分に気を遣わせないようにと捻り出した彼女の方便だったのかも知れない。それはともかくとして、幸恵は雫の母が運転する車で自宅まで送ってもらい、また明日、と手を振って雫と別れた。

「おかえり」

 玄関を開けると居間から母の声が出迎えてくれた。ただいまー、と低い声で返事をして、幸恵は靴を脱ぎ家に上がる。

「わざわざ送ってもらって、お友達のお母さんにご迷惑掛けちゃったわね。今度何かお礼しなくちゃ」

「うん」

 頷いた幸恵は居間を通り抜け、二階へと続く階段に足を掛けようとする。

「あ、ちょっと幸恵。お風呂はどうする?」

「後で入るー」

 だらりと間延びした声で母にそう告げるなり、幸恵はさっさと階段をのぼった。自室に入り、明かりを点ける。鞄をその場に置き、勉強机の椅子を引いてそこに座る。肘を枕にして顔を乗せ、そのままの体勢で深く息を吸う。制服の裾からは焦げたソースみたいな香ばしさと共に、爽やかで微かに甘酸っぱい柑橘のような雫の匂いが、どこかにほんのり漂っている。何だかまるで、雫を全身にまとっているみたい。そんな風に感じて、幸恵はとてもくすぐったい気持ちになった。

 帰りの車中、送ってくれた雫の母がずっと嬉しそうにしていたことは、今思い返してみるととても印象深い。見た目が美人系なのは母娘でそっくりではあったけれど、あの人からこの子が生まれたとはにわかに信じがたいほど、母親は社交的な性格の持ち主だった。「小さい頃から友達が少なくて」とか「家から遠い高校に通うと言い出した時はどうなるか心配だった」などなど雫の半生についてひとしきり語った後、母親は幸恵にこう述べた。

『高校で良い友達が出来て、本当に安心した。これからも雫のこと、よろしくお願いしますね』

 面と向かってそう言われたことは、純粋に嬉しかった。母親が雫のことをどれだけ大事に思っているかを十全に推し量ることが出来たし、その雫の友達として認めてもらえたから。それを思い返す度、自分の方こそ雫と知り合えて良かった、と心の底から思うばかりだった。

「雫、かあ」

 ころころと口の中で飴玉を転がすみたいに、幸恵はその名を呟く。友達や同級生を呼び捨てするのはとっくの昔に慣れ切っているにも関わらず、こうやって雫の名を呼ぶことは、それまでとは次元の違うときめきと感銘を覚えるものがあった。生まれて初めて出来た盟友。明日からは同じ目標を掲げ、練習に精を出すことになる。雫のようにとびきり上手い奏者になれるかは分からないけれど、いつの日かきっと肩を並べて吹けるようになってみせる。そして憧れの人達に認めてもらうんだ。必ず、二人一緒に。

 その道を一人きりで歩くのではないということがこんなにも心を満たしてくれるだなんて、今の今まで思いもしなかった。満ち足りた気持ちをじっくりと堪能するように、その夜幸恵は何度も何度も雫とのやり取りを思い返しては、彼女の名を口にしていた。

 

 

 

 

「東中さん、最近だいぶ上手くなったね」

「へっ?」

 とある日のパート練習の最中、唐突に吉沢からそんなことを言われ、幸恵は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。

「ね、高坂さんもそう思うよね?」

 吉沢に話を振られた麗奈がちらりと幸恵を見る。その射抜かれるような視線に、幸恵の身体はぞくりと震え上がった。麗奈はそのまま少しの間だけこちらを凝視していたが、やがて、

「そうね」

 小さく告げ、その薄紅色の口角に緩やかな弧を描かせた。彼女のその一言はまるで電撃みたいに幸恵の耳から入って全身に激しい衝撃をもたらし、背中からすうっと抜けていく。

「あ、ありがとうございます!」

 しどろもどろになりながらも、幸恵は二人に向かって頭を下げる。あの麗奈に、自分の上達を一つ認めてもらえた。憧れに一歩近付けたような気がして、身体の中を達成感が駆け巡っていく。これもきっと雫のおかげだ。ぎゅっと拳を握り締めながら、幸恵は二人での練習の日々を思い返していた。

 

 

 

 

 吹奏楽部員の日々の練習は、最初に各々自由に音出しや基礎練習を行うところから始まる。パートによっては基礎練習から全員一緒に取り組むところもあるのだが、ことトランペットパートに関しては個々の自主性を重んじる麗奈の方針から、原則としてそれぞれがバラバラに基礎練習を行っていた。その後、三十分から一時間ほど個人練習の時間を経てからのパート練習。ここではパートリーダーである麗奈が指導を担当し、パートとしての演奏の完成度を高めていくことになる。合奏のある日はパート練習は早めに切り上げられ、音楽室での全体練習。それが終わる頃には部活としては解散の時刻を迎えるのだが、吹部のほぼ全員はその後も自主的に居残り、個人練を重ねて合奏で見つかった課題を徹底的に復習していく。これが概ね、北宇治吹部の平常的な練習スケジュールとなっている。

 あがた祭りの夜以来、幸恵は基礎練習や個人練習を雫と一緒に行うようになっていた。何しろ雫の演奏技術は部内でも群を抜いて上手い。同じ一年生の中では間違いなく、彼女がトップの腕前を持っていると断言することが出来る。それどころか、雫が憧れているという久美子の水準にだって既に匹敵するものを持っているかも知れない。そんな雫と練習を共にすることで、少しでも自分の技術向上を図ることが出来れば。そう幸恵は期していた。

「駄目、また音が掠れてる」

「出し方切り方が乱暴。求められてる曲調に合ってない」

「いつもハイAの時にピッチが不安定になってる。幸恵の悪い癖」

 こんな風に雫からは、びしびしと鋭い指摘が矢継ぎ早に飛んでくる。麗奈や滝の指導も同じことが言えるのだが、雫は幸恵の本当に些細なミスや、ミスとすら呼べないような小さな音の揺らぎまで見逃してくれない。一般的に、音楽に長けた人は耳が良いと言われる。この耳の良さとは遠くで交わしている話し声も良く聞き取れるというような意味ではなく、音程の高い低い、音の形、響き方や音量、それと奏者達が音色(おんしょく)と呼んでいる音の質感、そういった様々な要素の差異を聞き分ける感覚能力を示すものだ。この点において、雫は非常に良い耳を持っていた。

 そして彼女はこと音楽に関して、ほんの僅かの妥協をも許さない。幸恵にしてみれば『アドバイスの一つでも貰えたら』程度の軽い感覚でお願いしたことだったのだが、そのつもりでいざ一緒に練習を始めた途端、雫からは針の山のように沢山の鋭い指摘が飛び出して来た。初めのうちはそれらに貫かれ打ちのめされ、下校の時間を迎える頃にはほうほうの体となっていたものだ。

 しかしここで負けてなるものか、と幸恵は歯を食いしばった。指摘を受けた箇所は速やかに修正するよう努め、楽譜を毎日家に持ち帰っては何度も何度も目を通しながらメロディを口ずさみ、頭の中に克明な音のイメージを描いていく。今までに無いほど自分の音に神経を集中させ、一つ一つに魂を注ぎ込むように吹くことを意識する。これらを日々繰り返すうち、徐々に雫からの指摘は減っていき、それと同時に自分の演奏技術が少しずつ高まりゆく実感を得始めた。気付けばこんな音楽漬けの毎日に、幸恵はすっかりのめり込んでいたのだった。

 

 

 

 

 マウスピースから唇を離し、手の甲でぐいっと口元を拭う。あがた祭りから既に三週間弱。明日からはいよいよ、コンクールメンバーを決めるためのオーディションが行われる。

 二日に分けられたオーディションの日程で、トランペットは一日目の最初、すなわち金管の一番手となっている。憧れの麗奈と一緒にコンクールの舞台に立つためには、何としてでもこのオーディションでレギュラーメンバーに選出される必要がある。他のトランペットパートの面々も、今はオーディションに向けて各々準備を入念に行っていた。同じパートの仲間同士とは言え、この時ばかりはお互い競争相手となってしまう。こればかりはオーディションの性質上、致し方の無いところである。

 幸恵もまたその時に向け、個人練を通して最後の調整を怠りなく進めているところだった。トランペットに息を吹き込み感触を確かめつつ、隣にいる雫に声を掛ける。

「調子はどう?」

「悪くない」

 雫はいつも通り、眉一つ動かさずに返事をする。彼女の持つ銀色のユーフォから奏でられる音は、それが虚勢やハッタリではないことを雄弁に物語っていた。ただでさえ凄いと思っていた雫の演奏技術は、ここ数週間の間にさらに高められている。課題曲・自由曲共に楽譜全編はとうにさらえているようだったが、元より緻密な音楽表現には数段も磨きが掛けられ、何度吹いても美しい音色を放っていた。一体この子はどこまで伸びていくんだろう。これならば明日のオーディションでレギュラーの座を射止めるのは間違いない、と幸恵は確信していた。

「幸恵の方は?」

「あたしはめっちゃ緊張してきた。明日ミスしなきゃいいなとか、自信の無いとこ指定されたらどうしようか、とかって」

 その瞬間を想像して、ピストンに置かれた幸恵の指が微かに震える。中学時代に在籍していた吹奏楽部ではオーディションは無く、コンクールのメンバーは上級生や小学校からの経験者が優先して選ばれていた。なのでこのように部内の人間同士で本格的な競争をするのも、幸恵の音楽人生の中では初めてのことだ。

 現在のトランペットパートは三年生が麗奈と吉沢の二人、二年生が三人、そして一年生は幸恵を含めて四人。この中から何人がメンバーに選ばれることになるかは滝の采配次第ということにはなるのだが、標準的な編成から考えて六人前後になる可能性が高い。とは言え経験者が多い上にあの麗奈に揉まれてきただけあって、トランペットパートは実力者揃いだ。いくら上達の手応えを感じていると言えども、この一同からレギュラーの座を勝ち取れると断言出来るほど、幸恵も絶対の自信を持てているわけではなかった。

「大丈夫。普段通りにやれば、幸恵はきっと受かる」

 雫の言葉に幸恵は素直に「ありがとう」とはにかむ。その言葉を幸恵は純粋に、励ましの一種として受け止めていた。

「頑張ろうね、お互い」

「うん」

 互いに顔を見合わせ、幸恵は雫と頷き合う。雫は表情を変えることはなかったが、その瞳の奥にはいつもと違って小さな炎が静かに灯っているみたいだった。

 

 

「失礼します」

「どうぞ」

 一礼し、幸恵は音楽室へと入る。今日はいつものように部室中ところ狭しと椅子が並べられてはおらず、室内の手前側に置かれた二つの学生机にそれぞれ滝と松本が座り、対面する位置には空っぽの椅子と譜面台が一つ置かれているのみだ。その譜面台に自分の楽譜を置き、椅子に座る。正面の滝は幸恵ににっこりと朗らかな笑みを向けた。その笑顔と無音の空間に、幸恵はますます委縮してしまう。

「東中幸恵さんですね。失礼ですが、東中さんはいつからトランペットを始めたのですか?」

「はい、えっと、中学の、いえ中学校に入ってからです」

「なるほど」

 何かを手元のノートに書き留めた滝はもう一度顔を上げ、

「緊張していますか?」

 と、様子を探るように話し掛けてきた。そんな事を言われるまでもなく、既に緊張はピークを越えてしまっている。元々があがり症な体質で、いざ本番というその直前になると、この世が終わってしまったかのような絶望感に全身を縛られてしまう。例えば先日のサンフェスのように、自分達の成果をただ聴衆に披露するだけの演奏会であればここまで緊張することは無い。しかしコンクールの本番のような一発勝負の状況になると、幸恵は毎回決まってこのような状態になってしまうのだった。

「はい」

 素直に頷く幸恵の青白い表情を見て、滝は苦笑めいた吐息を漏らしてから、両の手のひらを幸恵に向ける。

「焦らなくて大丈夫ですよ。呼吸を整えて、落ち着いてから始めて下さい。トランペットパートの課題は自由曲第三部、金管の連符が始まるRの小節からですね」

「はいっ」

 何とか滝に返事をしたものの、もはや幸恵はいっぱいいっぱいだった。自分が息を吸っているのか、それとも息を吐き出しているのか、それすらも分からない。楽器を構えようとして、ベルが小刻みに揺れていることに気が付く。微かに震える唇はちっともマウスピースの感触を捉えない。そのままでは例え吹き始めたとしても、まともに音が出るかどうかは怪しかっただろう。幸恵は一度楽器を下ろし、その場で大きく深呼吸を始めた。

『普段通りにやれば、幸恵はきっと受かる』

 頭の中に雫の声が響く。すっきりと澄み切った彼女の声の涼やかさは、ぐつぐつと煮え滾る幸恵の脳内を冷ましていくかのようだった。そうだ。自分は自分なりに、今日この日のために一生懸命頑張ってきた。今さらジタバタしたってしょうがない。自分の持っているものを全て吐き出し切って、後は運を天に任せよう。そして、もしも万が一、自分がコンクールメンバーに選ばれたなら、その時は。

 意を決し、幸恵は短く強く息を吐き出す。

「お願いします」

 楽器を構えた幸恵は呼吸を合わせ、トランペットに息を吹き込んでいった。後はもうとにかく、練習したことをそのまま滝の前で披露するしかなかった。自分が上手に吹き切れたかどうか。それすらも今一つ記憶に残っていないほど緊張していたのは確かだが、指定された箇所の演奏を終え音楽室を出た後の幸恵の心情は、実に晴れ晴れとしていた。

 

 

 

 

「最後にトランペット。三年、高坂麗奈」

「はい」

 副顧問の松本の点呼に、麗奈が凛とした声で力強く応じる。既にオーディションの二日間は過ぎ、滝によって決められたコンクールメンバーの発表を、副顧問の松本が行っているところだった。

 この直前に発表された低音パートのメンバーには、久美子と雫が共に合格を果たしていた。それを喜ばしく思う気持ちもあるものの、そのことに思いを巡らせる余裕も今の幸恵には殆ど無い。目の前の光景がぐるぐると渦を巻いているように見える。身体の内側では心臓がバスドラムみたいな重い音を鳴らしているみたいだ。気管が荒縄で締め上げられたかのように息苦しい。合格者の名が順番に読み上げられる中、幸恵は祈りの手を固く握りしめた。どうか、どうか選ばれますように。麗奈と、雫と、憧れの人達と、一緒の舞台に立てますように。

「一年、東中幸恵」

 松本に名前を読み上げられた瞬間、幸恵は自分の身体の機能が全て停止してしまったかと思うくらい、その身を極限まで強張らせてしまった。

「はい!」

 力強く返事をする。本当に、自分が選ばれたのか。そう思ってふと目の前を見ると、ホルンパートの上級生が両手で顔を覆い肩を小刻みに震わせていた。すぐ隣からも静かにすすり泣くような音が聞こえる。二年生の先輩は三人いた。そして自分の名が呼ばれるまでに、彼らの名は二つ分しか読み上げられていない。それが何を意味するか。彼女達だって昼夜を問わず毎日必死に努力していたし、当日だって合格出来るように力の限りを尽くしたことだろう。だがオーディションの裁定基準は実力主義。努力の多寡や学年などでは決まらない。一人ひとりの頑張りだとか事情だとか、そんな事はお構いなしに突きつけられた結果が、部員達一人ひとりに優劣を付けていく。落ちてしまった人がどんなに泣こうが喚こうが、最早この裁定が覆ることもないのである。

 その残酷な現実を目の当たりにしながら、しかしそれでも、幸恵は身体の内から湧き上がる喜びを抑えられずにいた。やった。やっと中学時代からの夢が叶えられる。憧れの麗奈と一緒に、コンクールの舞台で演奏出来る。だけどそれで終わりじゃない。もっとだ。本当の意味で憧れに辿り着くためには、もっと手を伸ばさなければ。

 幸恵の他に一年生からはもう一人が選ばれ、トランペットパートからは合計で六人がコンクールメンバーに選出された。未だ発表の続く中、幸恵はそうっと雫を見やる。やはりと言うべきか何と言うべきか、メンバー入りが決まったこの時でも雫は至って平静を保っていた。雫にとってこのオーディションはただの通過点でしかないのかも知れない。彼女もまた、本当の目標とすべきものはその先にある。久美子より上手くなりたい。久美子に認められたい。その思いを遂げるためには雫にだって、まだやらなければならない事があるのだから。

 丁度その時、こっちに顔を向ける久美子とパチリと目が合った。反射的に幸恵は周りに気付かれない角度でにっこり微笑み、胸の前でピースサインを送る。久美子は周囲に配慮してか表情こそ変えなかったものの、やはり胸の前でこっそりと細いピースを返してくれた。そうだ、レギュラーに選ばれたという事は、久美子とも一緒の大舞台で吹くことになるんだ。それを改めて認識した時、幸恵は体の芯にじゅうっと熱い何かが染み渡っていくのを感じ取った。

「では次に、今ここに残ったレギュラーメンバーを対象に、ソロオーディションの希望者を募る」

 落ちてしまった人達が退室した後で、松本は高らかに宣言をした。一度は落ち着いた幸恵の心臓が、再びドクドクと脈動を強めていく。これから自分のすることは、恐ろしく非常識なことだ。荒唐無稽に輪をかけて無鉄砲とさえ言えるかも知れない。こんなことをしてその後、周囲とどんな関係になってしまうか。どんなことを言われるのか。幸恵にはまるで想像もつかないものだった。けれどそれらに対する恐怖心は、一つとして無かった。

 だって、今しかチャンスは無い。例え届かなくたっていい。手を伸ばした分だけ、必ずそこへ近付いていくはずだ。それを何度も何度も繰り返した先にきっと、望み焦がれた自分自身が居るに違いない。そこへ向かって手を伸ばせるのは、今この時だけなのだ。

「次、トランペットパート。ソロを希望する者は」

 松本の問い掛けに、ちょうど空の月を掴もうとする時のように、幸恵はぴんと高く真っすぐ手を挙げた。

 

 



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後編

・「黄前久美子、最後の夏(以下、本編)」の登場人物、東中幸恵の視点で綴られるスピンオフ短編。
・性質上、原作および本編のネタバレ、オリジナルキャラクターの複数名登場、独自の設定などがあります為、本編読了後に本作品をお読み頂くことを推奨いたします。


 一学期の期末テストは猛勉強の甲斐もあって、今回もぎりぎりではあったが全教科で赤点を回避することに成功し、補講を免れた幸恵はひとまず胸を撫で下ろしていた。とは言え、中間での赤点がこれで解消されたというわけではない。各学期の教科ごとの成績は、中間テストと期末テストの点数を平均した値で判断される。このため今回の期末では赤点を回避出来ていた数学Aはしかし、中間テストでの破滅的な点数を取り返すには至らず、一学期総合の成績としては赤点のままとなってしまった。数Aの単位をきちんと拾えるかどうかは夏休み明け直後に行われる実力テストへと持ち越される。もしここで酷い点数を取ってしまった場合、休み明け早々に追試を受けることになる。そう担任から宣告された幸恵の気分は、もう一つ晴れてはいなかった。

 夏休みが明ける頃にはコンクールも府大会どころか関西大会まで終わっている計算だ。部員達の間では立華高校の演奏力アップの噂もあり、更にはここ数年全国行きを逃している洛秋や秀大附属の猛追を不安視する声も相まって、関西大会以降は去年以上に激しい競争となる、等と囁かれたりもしている。けれど過去の実績や今のコンクールメンバーの実力から考えれば、ひとまず今年の北宇治が府大会を突破するのは間違いないだろう。――そんな部員達の当初の目論見はここ最近、暗礁に乗り上げつつあった。

「どうなの、低音パートの調子」

 基礎練習を一通り終えた幸恵は、隣でユーフォを吹く雫に話し掛ける。ゆるりと楽器を下ろした雫がこちらを向き、伏し目がちに答えた。

「川島先輩の調子がまだ戻らないみたい」

「そっか」

 期末テスト以前から低音パートが調子を乱していることは、もはや吹部の誰もが認識するところとなっていた。吹奏楽は元々、メンバー全員が乱れなく楽器を演奏することで成立するものだ。その中でも低音パートは重低音で他の音を支え、曲全体のテンポや和音の礎となることが多い。それだけに、低音パートに不具合があればその上に構築される他の楽器も収拾がつかなくなり、全体の音楽は一気に破綻してしまう。特に今年の自由曲のように金管同士が細かな音まできっちり合わせることが求められる場合、それが出来るのと出来ないのとでは曲の完成度は雲泥の差となってしまう。このままでは府大会突破すら危うい、という部員達の危機感は次第に強まり、もはや無視できない領域にまで差し掛かっていた。

「加藤先輩とか、くみ姉は?」

 幸恵の問いに、雫は無言で首を振った。無理もない。先輩後輩の間で気付いた点を指摘する程度ならまだしも、いきなりパートリーダーの代理として他の部員のことまで面倒を見ろ、と言われたってそうそう出来るものでは無い。まして川島緑輝は雫と同じ聖女出身であり、部内でも三本の指に入ると言われる腕前と音楽的見識の持ち主だ。緊急的な代役と言っても、絶対的に音楽経験の乏しい加藤葉月がその役目をそつなくこなせるとは思えなかった。久美子ならばあるいは、とも思ったのだがしかし、久美子には部長としての職務もある。彼女の日々の忙しさを見ていれば、パート練習を充実させるためにあれやこれやと手を回すような暇などはまるで無いことだろう。

「それにしても川島先輩、どうして急に不調になっちゃったのかな」

「分からない」

 呟く雫の横顔は至って平静を保っている。それを眺めながら、幸恵はひっそりと溜め息を吐いた。この窮状を雫がきっとどうにかしてくれるだろう、などとは流石の幸恵も考えてはいない。いかに雫が優れた奏者であっても、それと他の人を指導する能力はまた別物である。それに、仮に雫が指導の面でも才覚があったとしても、一年生があれこれと物を言うのを上級生が黙って聞き入れるとは限らないものだ。それどころか、場合によってはパート内の人間関係が更にこじれてしまう可能性さえもある。コンクールまで残すところ三週間も無い中、そんな危険を冒す必要性は皆無であり、従って一年生にこの問題を解決するのは実質不可能であると言わざるを得なかった。

「ひとまず、あたし達も練習頑張らないとね。もうソロオーディションまで時間無いし」

「うん」

 そうしてまた二人で楽器を構える。今しがた言った通り、ソロオーディションは今度の日曜日、市内のホール練習の場にて行われる。二人ともソロを志願した身であり、しかも各々の憧れに挑むことになるのだから、その時に備えて自分の演奏をしっかり仕上げなくてはならない。

 幸恵も近頃は雫からこまごまと指摘されることも随分と減り、純粋に演奏を磨き上げることに注力していた。それは雫とてまた然り、彼女の音は数週間前に比べてもさらに熟成が進んでいる。きっと雫は今回のテスト期間も楽器を家に持ち帰り、どこかで練習をしていたに違いない。かく言う幸恵もテスト勉強の合間を見てはトランペットを持ち出し、自宅近くを流れる桂川の河川敷まで行って練習を重ねてきた。自分も負けてられない。残された時間の中で、麗奈に向かって精一杯、自分の音を高めていくんだ。手に持ったトランペットのベルから奏でられる音が日に日に良くなっているのを実感しつつ、そして隣で響く雫のユーフォニアムの音に陶酔しつつ、幸恵は練磨の時間に没頭した。

「あ、そろそろパート練の時間。もう戻らないと」

 腕に巻いていた時計に現在の時刻を教えられ、幸恵はばたばたと譜面台を片付けにかかる。雫はこくりと一度頷いて、そのまま再び自分の練習に戻った。彼女にとってもこれからオーディションまでの時間は一分一秒が貴重なものになることだろう。邪魔をしないうちに、と幸恵は楽譜ファイルを腕で挟むように抱えた。

「じゃあまたね」

 雫の奏でるユーフォソロの音色を背に浴びながら、中庭を歩いて校舎へと戻る。つい先日には梅雨明けも発表された。既に傾きつつあるにも拘わらず、太陽はいよいよこれからが夏本番、とばかりにかんかんと照り輝いている。その灼けるような日差しに、幸恵は心を躍らせる。ついに夏がやって来る。ずっと待ち焦がれていた夏が。今年はどんな夏になるだろう。この分だと吹奏楽漬けになることはほぼ間違いなかったけれど、しかし今年の幸恵はそれすらも含めて、間もなく訪れる未来が楽しみで仕方が無かった。

 とその時、校舎裏の方角からもユーフォの音が聴こえてきた。その温かくて柔らかい、けれど奥深くに芯を感じるような音色は、久美子のものだ。幸恵はそれを耳で判別した。玄関に向かおうとしていた足をぐるりと横に向け、音のする方へと歩を進める。校舎の角から少し向こうを覗くと、そこには予想通りユーフォを構える久美子の姿があった。一心不乱に譜面と向かい合い楽器を奏でる彼女の表情には鬼気迫るものがあり、遠目からでもその真剣さが良く伝わってくる。こちらも邪魔をしてはいけない。そう思った幸恵はその場にそろりとファイルと譜面台を置く。

「おーっす、くみ姉」

 久美子が楽器を下ろしたところを見計らって、幸恵は角から姿を現した。こちらに気付いた久美子がハンカチで口元をぐいと拭い、それから返事を寄越した。

「さっちゃんも個人練?」

「うん、ソロオーディションももうすぐ近づいて来てるから。高坂先輩も頑張ってるし」

 幸恵は校舎を見上げる。露天の渡り廊下、そこは麗奈が個人練に集中したい時の、お決まりの練習場所だった。天から明快に放たれるその美しい響きには、今日も塵一つ分ほどの淀みすら見られない。北宇治に入学してから早三ヶ月、ずっと麗奈の下で練習の日々を送って来た。けれど彼女の居る領域は未だ果てしなく高いところにあり、自分はそれをこんな風に麓から眺めるばかりで未だに手が届かない。そこに自分が辿り着くのは果たしていつになるのだろうか。小さな焦燥感が、胸の奥でずきずきと疼く。

「ねえ、さっちゃん。前から思ってたんだけど、どうして麗奈がいるのにソロオーディションを希望したの?」

 唐突に変な事を訊かれ、幸恵はほんの少し気分を害してしまう。ソロ希望に手を挙げたその日からこれまで、その質問はパートの同僚達や部内の友人達からいやと言うほど投げ掛けられていた。くみ姉までそんなことが気になるのか、と喉の奥に広がる苦味を幸恵は無理やり嚥下する。

「それって、『どうせ高坂先輩に勝てるわけないのに』ってこと?」

「いや、そうじゃなくてその、まあ何というか」

 相変わらずなんだから、くみ姉は。と胸の内でぼやく。この人は基本、嘘がつけない。昔から思ったことを後先考えずに口にしてしまうのが彼女の性分であり、それは時として悪癖とも言えるものだった。この質問にしたって、久美子の中では「誰がトランペットソロを吹くことになるか」なんて、とっくに見えているからこそのものだろう。そうでなければわざわざ『麗奈が居るのに』と言う必要など無いからだ。久美子の見解の是非はさて置いても、せめてそこは伏せておいて欲しかった、と幸恵はちょっとだけ拗ねていた。

「わかってないなー、くみ姉は」

 ちっちっち、と幸恵は久美子に向かって指を振る。

「高坂先輩はあたしにとっての憧れなんだもん。少しでも追いつきたいって思ったら、必死で手を伸ばさなきゃ届かないでしょ?」

 憧れに手を伸ばす。届くまで必死に努力を重ねる。ぐうたらで努力嫌いで勝負事を好まなかった自分がそう思えるようになったのは、間違いなく雫の影響によるものだ。あがた祭りのあの夜、雫の想いを知って、雫と打ち解けたあの時、幸恵は本当は少しだけ己を恥じていた。麗奈のことを憧れと呼び、彼女を慕って北宇治までやって来たくせに、その憧れに届くだけの努力を何一つとしてしなかった、今までの自分のことを。

 それからの数週間、憧れに向かってただひたすらに手を伸ばし続ける雫の眩しさを目の当たりにして、幸恵は自分が向かうべき道を、その先に在るべきものを見出した気分だった。だからこそ今は迷っている場合じゃない。自分の憧れに挑む瞬間が、もうすぐそこまで迫っているのだから。

「そりゃまあ、そうだけど」

 対する久美子の返事は、随分と歯切れが悪かった。今や部内でも有数と言われるほど優れた奏者となった久美子にも、いやむしろそんな久美子だからこそ、自分のこの感覚はちょっと理解しがたいものがあるのかも知れない。久美子と自分の間にどうにも跨げない溝があるように感じて、幸恵の眉間がぴりりとむず痒くなる。

「それに、私だってトランペット吹きだし。もっと上手くなりたい、誰にも負けたくないって気持ちはあるよ。例え今は全然ダメでも、そういうつもりでやらなくちゃ、いつまでも高坂先輩に追いつけないまんまだから」

 そんなのは嫌。それは精一杯絞り出した、幸恵の偽らざる本音だった。いつの間にか芽生えていた気持ち。泥臭い足掻きや気の遠くなるような努力を避けるために、この気持ちには長いこと蓋をしてしまっていた。けれど、その蓋を雫に思い切り揺さぶられ取り払われた奥で眠っていたものは、燦然と光り輝いていた。上手くなりたい。麗奈にだって追いつきたい。そしていつの日か彼女に追いついて、追い越して、そんな自分を麗奈に認めて欲しい。それを叶えるためにこの数週間、猛特訓を重ねて来たのだ。

 とは言え正直、その程度で麗奈に追いつけるなどと考えるほど、自惚れてもいなければ自分の才を過大評価している訳でも無い。彼我の実力差はそれこそ、久美子や他の部員達に言われるまでもなく自明だった。部内でも何やら自分のことを噂立てている人達がいるのは知っていたが、それについては幸恵本人は特に気にしていなかった。自分が割と図太い性格をしていることにはそれなりに自覚があったが、それより何より、当の麗奈がそのことを気にする素振りをまるで見せなかったから。

『オーディションで勝負するからには、他のことなんて気にしないで、お互いに今出来る最高の演奏をぶつけ合おう』

 ソロ志望に手を挙げた翌日、放課後いきなり麗奈に呼び出された時は『これは絶対殺される』と半ば覚悟すらしていたのだが、実際に麗奈から掛けられたのは彼女なりの力強い激励の言葉だった。それもまた、惰眠を貪り続けていた幸恵の闘争心とやる気にさらなる火を点けたのは言うまでもない。

「私も負けないように頑張らなくちゃね。今はまず、オーディションで雫ちゃんに勝たないと」

 勝たないと、か。何気なくこぼした久美子の一言を咀嚼するように、幸恵はあの夜の雫との会話を思い出しながら呟く。

『勝ちたい、じゃないと思う』

『先輩に認めて欲しい。認められるために、先輩よりも上手くなりたい。それだけ』

 あの日の雫の声そのままに、幸恵の鼓膜がひとりでに揺れた、ような錯覚があった。そうだ。雫は久美子に勝ちたいわけじゃない。ただ久美子に認めて欲しいと願っているだけ。少なくとも雫にとって、オーディションで勝つことはその目的を成し遂げるための手段でしかない。翻って久美子の方はどうだろう。彼女にも常人の域を超えるぐらいの向上心や他より抜きん出たいという気持ちが、きっとある。そうでもなければ、高校の部活動の枠内であれほどの技術を身に付けることは出来なかった筈だ。

 互いに他の奏者に絶対に負けたくない、どうしても勝ちたいと思う理由があるというならば、その意味では確かに今回のオーディションは久美子と雫、二人の雌雄を決する一騎打ちとも言える。けれど果たしてそれ以外に、久美子の物言いには何か刺々しさがあることを、幸恵はうっすらと感じ取っていた。だから、その感じ取ったままをあえて久美子にぶつけてみる。

「くみ姉、もしかして雫のこと、敵みたいに思ってたりする?」

 そう尋ねた直後、久美子の顔から途端に血の気が引いたのが分かった。やっぱりだ、と幸恵は確信する。久美子は雫の想いには全く気が付いていない。雫はただ純粋に久美子を憧れと思っているだけなのに。否定の一つも出てこない久美子の態度に微かな怒りを感じ、幸恵はふんと鼻を鳴らす。

「雫もあたしやくみ姉と同じで、ただ誰よりも上手くなりたいだけなんじゃないかな」

「どういう事?」

 どうやらその発言の真意とするところを、久美子は受け止め損ねたようだった。理解不能、といった顔付きの久美子からじとりと怒気の籠った視線と言葉が投げ掛けられる。

 結果的にはそうなってしまうのだとしても、雫は別に、久美子を負かしたいと思っているわけじゃない。久美子に敗北感を味わわせるのが目的で、真っ向勝負を挑もうとしているんじゃない。あの子はただ、憧れているくみ姉に認めて欲しいと思っているだけなんだ。そう思えども、それを自分の口から久美子に告げるのは憚られた。それは自分からではなく、雫自身から久美子に伝えられるべきことだ。雫の信じるやり方で、ソロオーディションという舞台で、音楽という方法で。そしてそうである以上、ここは外野に立つ自分の出る幕では無い。しばらく久美子と睨み合いを続けた後、幸恵は目を瞑り大きく息を吐き出す。

「あたしはそろそろ練習戻るから。くみ姉もソロ練習、がんばってね。じゃ」

 久美子の返答を待たずに幸恵はくるりと向きを変える。そこから場を立ち去るまでの間、追って久美子に声を掛けられることも無ければ、後で携帯にメッセージが届くことすらも無かった。いつも部長として堂々と振る舞う久美子。彼女のこんな姿を見てしまったことが無性に腹立たしかったし、そしてそれ以上に、ひどく悲しかった。何故そんな風に感じるのか。その時の幸恵に、己の心理を解き明かすことは出来なかった。

 

 

 

 

「スイソウガク、ってなーに?」

 真っ白なノートの端っこにちょこちょこと走らせる落書きの手を止め、幸恵はくみ姉に問うた。くみ姉は自分の遠い親戚。自分より二つ年上のお姉さん。とっても可愛らしくて優しい人。くみ姉のことは、そんな風に思っていた。そのくみ姉はこの春に中学校に上がり、スイソウガクというのを始めたと言う。それが何なのか分からなかった幸恵は、ただ純粋にその言葉の意味を尋ねた。

「吹奏楽っていうのは、楽器を吹いて楽しむって意味だよ。クラリネットとかトランペットとか。打楽器やコンバスみたいに吹かない楽器もあるけど」

「そうなんだ。じゃあ、くみ姉はクラリネット吹いてるの?」

「クラは吹かないかな。私が吹くのはユーフォ。ユーフォニアム、っていう楽器なんだけど」

「UFO?」

 幸恵の頭の中に疑問符がぽこぽこと浮かぶ。あんな銀色の円盤が、果たして楽器になるのだろうか? 首を傾げる幸恵を見て、くみ姉は苦笑と共に肩をすくめる。

「UFOじゃなくてユーフォだよ。こう、管がぐるぐるーってなってる大きな金管の楽器」

「カンがぐるぐる? キンカン?」

 指をぐるぐる回して説明をされたところで何が何だか、ちっとも想像が及ばない。それもその筈、幸恵の通う小学校に音楽クラブや金管バンドといったものは存在していなかった。音楽をやりたい同級生達は皆、街にある音楽教室や合唱クラブに所属している。幸恵自身も楽器と言えば、音楽の授業でリコーダーを吹いたりカスタネットを叩いたりぐらいの経験しか無い。そこにいきなり『ユーフォ』なる正体不明な楽器の説明をされても、それが何なのかを想像するために必要な情報すら揃っていない状態であり、つまり色々と端折ったくみ姉の説明など理解出来るわけもなかった。

「まあ、さっちゃんも中学校に上がったらきっと見ることもあると思うよ、大抵の学校に吹奏楽部はあるはずだし」

 良くは分からないけれど、くみ姉はその『スイソウガク部』というのに入ったらしい。その時のくみ姉はとても生き生きとしていた。こうやって二人で話している間でさえも、くみ姉はトートバッグからファイルを取り出して、中に挟んだ楽譜を目で追いながら時折何かを口ずさんでいる。その楽譜の上にしたためられていたものはしかし、幸恵の目にはただの黒い記号の塊にしか見えなかった。

 音楽の授業は楽しいし嫌いじゃないけど、楽譜はちんぷんかんぷんで、それを読むのは昔からあまり好きじゃない。こんなのを見て、どうしてくみ姉はそれを音に換えて歌い上げることが出来るのだろう。彼女のその姿はまるで外国語を難なく読み下しているようですらあった。勉強嫌いな自分には、一生掛かったって出来そうにない。けれどくみ姉の表情はとても明るかった。それがほんの少しだけ、幸恵の秘めたる好奇心を疼かせた。

「くみ姉。スイソウガクって楽しいの?」

 幸恵のその質問に、くみ姉はくしゃっと目尻を下げる。

「うん、とっても楽しいよ」

 ふーん。そう呟いて、幸恵はまた落書き中のノートに視線を戻す。たんたんたん、と手でリズムを取りながら楽譜を読み進めるくみ姉の姿は、確かに幸恵の目にも楽しそうに映っていた。そうか、スイソウガクって楽しいものなんだ。それじゃあ中学校に上がったら、自分もスイソウガクを始めてみよう。頑張って楽譜も読めるようになって、上手に楽器を吹けるようになって。そして、いつか、きっと――

 

 

 

 

 淡い記憶をしばし思い起こした後、幸恵は重たい溜め息をつく。

 久美子と喧嘩してしまった。別にそんなつもりじゃなかったのに。昨日は話の成り行きであんなことになってしまったけれど、久美子に対して悪意があったわけじゃない。それは本当に? いいや、きっと違う。頬杖をついて窓の外の景色をぼうっと眺めながら、幸恵は自分の心の奥底を掻き分けてゆく。

 あがた祭りの夜から数週間。急速に雫との距離を縮めたことをきっかけに、雫からは色々な話を聞いていた。雫がいつ音楽を始めたのか。どんな経緯でユーフォを吹くことになったのか。吹奏楽の強豪校として知られる聖女での三年間のうちにどんなことがあったか。両親がどれだけ彼女の活動を支えてくれているか。久美子のどんな所に憧れを抱いているのか。二人は普段どんなやり取りをしているのか。……そうやって話を聞くうちに、久美子と雫の距離が入学時からここまで殆ど縮まっていない、という事実に幸恵は気が付いた。

 もっとも雫がこういう性格の子である以上、部内の先輩に軽々と擦り寄れるタイプでないことぐらいは理解出来ている。それでも久美子とは直属の先輩と後輩という間柄である以上、せめて互いの身の上話でもする程度には仲良くなっていてもおかしくない筈だ。果たして実情はどうなのか、と二人の様子を窺る中で、どうも久美子の方から雫を避けているような節があるのを幸恵は度々目撃してしまっていた。

 それが何故なのかは分からない。上手な後輩に嫉妬しているだけなのかも知れないし、迫り来るソロオーディションで栄誉あるソロの座を奪われる危機に、久美子は怯えているのかも知れない。それか或いは、誤解されやすい性格の雫を単純に毛嫌いしているのかも。そんなことを考えるうちに段々と、久美子のことが憎らしく思えてきた部分はあったかも知れなかった。それを悪意と呼ぶのなら、間違いなく自分の中には悪意があったということになるだろう。だからと言って、あんなつっけんどんな態度を取って良いということにはならない。そんな風に自分を責め苛む思考は、今日が一学期の終業式だという事実さえも頭の中からすっかり消し去ってしまっていた。

「では体に気を付けて夏休みを過ごすこと。先生からの話は以上。起立!」

 上の空で担任の言葉を聞き流すうちに、気付けば一学期最後のホームルームは終わっていた。連絡事項などは後でクラスメイトの誰かから聞き出すからいいとして、問題はこれからのことだ。この後お昼を挟んで、午後からは部活の練習が始まる。ここからソロオーディションや府大会に向けて最後の追い込みが始まるというのに、どんよりした気分は一向に晴れそうも無かった。もしも久美子と行き会ったらどうしよう。普段通りに喋れる自信は無い。それでも今はコンクールに向けて大事な時期でもあり、自ら志願したソロオーディションについては残すところ数日にまで迫っている。そんな中、こんな気持ちを理由に部活を休むなど出来よう筈も無い。

 久美子と顔を合わせてしまったらその時はその時、素直に自分から謝ろう。昨日は自分もついつい感情が昂ってしまっていた。雫にまつわる様々な事情を未だ久美子が知らないのだとすれば、訳も分からぬまま腹を立てたとしても仕方の無い話だ。だから潔く謝って、それで仲直りしよう。そう自分に言い聞かせつつ、お弁当の中身を作業のように胃袋へと放り込んで席を立つ。いつもは楽しみにしている母親手作りのお弁当なのに、その日に限ってはほとんど味を感じることが出来なかった。

 今日は午後一番にパートリーダー会議があり、その後はパート練および全体合奏、というスケジュールとなっている。基礎練習を終えた幸恵はいつもの教室に戻り、他のメンバー達と一緒にパート練の開始を待っていた。

「遅いね、高坂さん」

 ふう、と吉沢が溜め息を吐く。今日のリーダー会議では夏休み中の練習方針と三日後に行われるホール練習、そしてソロオーディション等のスケジュール確認などが話し合われている筈だ。基本的にこの時期はコンクール以外に大きな演奏会なども無いため、協議する事柄もそんなに多くは無い。であればリーダー会議はとっくに終わっていても良い頃合いなのだが、予定していたパート練開始の時刻を過ぎてしばらく経っても麗奈は一向に姿を現さなかった。麗奈の性格、そして日頃の行動からすれば、彼女が遅刻するなんて到底考えられない事だ。もしかして何かトラブルでも発生しているのだろうか? 心配そうに教室の戸をちらちらと見やる吉沢の姿に、幸恵も何となく不安な気持ちを抱かされる。

 それから数分後。コンコン、と戸を叩く音。「どうぞ」と吉沢が促すと、辺りに忍ぶかのようにそろりと戸が開けられた。そこに立っていたのはホルンパートの三年生、(ひとみ)ララだ。何か慌てていたらしく、彼女はぜえぜえと浅く息を切らしていた。

「秋子ちゃん、いる?」

 彼女のただならぬ様子を察知した吉沢は立ち上がり、瞳に歩み寄る。

「ララちゃん、どうしたの?」

「あのさ。私、聞いちゃったんだけど」

 瞳は室内の様子を窺うようにキョロキョロを辺りを見渡し、それから吉沢に耳を貸すよう促した。それに応えて頭を瞳の口元に寄せた吉沢はしばらくそのまま瞳の話を聞いていたようだったが、突如その表情を凍り付かせる。

「え、黄前さんが?」

 うっかり吉沢が洩らしたその名の響きに、幸恵は脳を打ち砕かれた。くみ姉が、どうしたって? 二人の話はまだ続いているようで、吉沢は時おり相槌を打つように、うん、うん、それで、と反応をしている。彼女の表情は依然として強張ったままだ。その様子を見ていた幸恵の胸中に、とてつもなく嫌な予感がどろどろとなだれ込んで来る。

「分かった。こっちは大丈夫」

 教えてくれてありがとう、と吉沢は瞳に告げる。来た時と同じように瞳がそろりと教室の戸を閉めて退室し、それを見送ってから吉沢が席に戻って来た。

「くみ……黄前先輩、どうかしたんですか」

 幸恵がそう尋ねると、吉沢はハッとした表情でこちらを見やった。

「そう言えば東中さん、黄前さんの……」

 そこまで呟いたところで、吉沢の言葉がぷつりと途切れる。すうっと顔を伏せた彼女の雰囲気からは『これを今、幸恵に言うべきではない』というような思惑を感じ取ることが出来た。次第に強まる不安感に、幸恵の心臓はぎりぎりと締め付けられる。いつまで経っても口を開こうとしない吉沢に追って頼み込もうとした時、教室の戸が大きな音を立てて開け放たれた。

「高坂先輩」

 パート員の上げた一声に、幸恵と吉沢は同時にそちらを向く。麗奈の顔はいつもの凛としたものではなく、まるでついさっきまで強烈な苦痛を味わっていたみたいに引きつっていた。あまりに切迫したその空気に、場の全員が固まってしまう。

「練習、始めるよ」

 長い長い数秒間が過ぎ去った後で、麗奈はそれだけを絞るように吐き出してから自分の席に向かった。幸恵は、聞けなかった。久美子に何があったのか。部長である久美子はパートリーダー会議にも当然参加していた筈だ。その時何かがあったというのなら、会議の出席者である麗奈なら勿論知っているだろう。けれど今、目の前の麗奈から放たれている殺気にも似た圧迫感に、幸恵の喉はぎしりと縛られてしまっている。それは吉沢も同じだったらしく、口を真一文字に結んだままで一言も発することは無かった。

 その後も麗奈は余計な事を一切言わず、幸恵達はただ黙々とパート練習に取り組んだ。久美子の件については誰からも話題が上がることもなく、パート練習を終えていざ合奏の時間になっても久美子の姿はどこにも見当たらない。その代わりに副部長の塚本や他のパートリーダー達が、さっきの麗奈と同じような顔つきをしているのが分かった。結局その日の練習が終わるまで、麗奈の表情から翳りが取り払われることは無かった。その様子、その状況の一つひとつが、全てを物語っていた。

 久美子の身に何か、とんでもないことが起こってしまった。

 幸恵の体はずっと震えていた。想像の積み重ねが導き出す結論はとてつもなく昏く、ただただ恐ろしかった。

 

 

 自室のソファに背中を預けるようにして、幸恵は床に座り込んでいた。家に帰ってからずっとこの姿勢のままだ。階下から夕食を告げる母の声が何度か聞こえていたが、その呼び掛けにも応えられなかった。例え食卓に着いたとしても、今のこの状況ではとてもまともに咀嚼出来る気がしない。テレビを見たり雑誌を読んだりする気力すらも無く、幸恵はただぼうっと天井の蛍光灯を眺めていた。

 部活終了後、堪りかねた幸恵は吉沢をそっと誘い出し、そして久美子に何があったか聞かせて欲しいと必死に頼み込んだ。初めはその要請を頑なに拒んでいた吉沢だが、幸恵が何度も何度も頼み込んだ結果、ついに根負けしてしまったようだった。それを告げるにあたって彼女から出された条件は、むやみに他言しないこと。そして、幸恵自身が引きずらないこと。後者の条件を守れる自信は無かったが、それでも幸恵は覚悟して頷いた。

 パートリーダー会議は原則、その時空いている教室を使って行われることになっている。今回たまたま空いていた教室は、普段ホルンパートが使っている教室の隣だった。幸恵達と同じように教室で留守番をしていた瞳は、隣の教室から何やらガタンと大きな音がしたのに気付いて壁に耳をそばだてた。何を言っているかまでは正確に聞き取れないものの、隣で声を荒げているのがどうやら久美子らしい、ということには瞳もすぐに気が付いたそうだ。いつも大人しく振る舞っていて感情的になることのない久美子の激昂ぶりには、瞳も心底驚かされたという。

 最後は悲鳴のようですらあった久美子の声が突如ぷつりと途切れ、その後しばらく静かになったと思っていたら戸の開く音がして、青白い顔で廊下をふらふらと歩いていく久美子の姿が見えた。瞳はすぐさま隣の教室に這い寄り、そこに居る全員が暗い表情で話し合っているのを目撃して事態の全容を把握するに至り、日頃懇意にしている自分に状況を伝えに来てくれた――というのが、吉沢が話してくれたことの全てだった。

 それからというもの、幸恵の心は重く沈み切ってしまっていた。

『黄前さん、きっとどこか具合が悪かっただけだと思うから。東中さんもくれぐれも気に病まないでね』

 別れ際、繰り返すように吉沢から掛けられたその言葉が、耳の中でじんじんと疼いている。吉沢とあんな約束なんかしなければ良かった。「気に病むな」と言われたってそんなの無理に決まってる。とは言え吉沢だって、幸恵がこの騒動を知れば心を搔き乱されることぐらい百も承知していたからこそ、言わぬ方が良いと気を遣ってくれていたのだろう。そんな彼女の配慮に目もくれず事の次第を無理矢理聞き出したのは他ならぬ自分であり、従ってそれも全て自業自得という他は無い。

 だって久美子とは、つい昨日喧嘩をしてしまったばかりだ。今回の一件に、その影響が無かった筈が無い。近頃の低音パートの不調も含め、久美子には日頃から部長として様々な問題が降りかかっていた。そういう立場である以上仕方が無いとは言え、『耐えて当たり前』『出来て当然』なんてこと、あるわけない。それに理由はともかくとして、間もなく行われるソロオーディションにも、久美子が並々ならぬ思いと姿勢でもって臨んでいたのは確かだ。三年生なら勉強のこともあるし、部長としての責任もある。もしかしたらもっと大変な問題だって抱え込んでいたかも知れない。そんな諸々の重圧に責め立てられ弱っていた久美子に最後の止めを刺してしまったのは、ひょっとして自分だったのではないか?

 それは幸恵にとって、到底堪え難い想像だった。目の前の視界がじわりと歪む。事前に薄々予感していたことが詳細を聞いて確信に変わった時、それまで抱いていた不安は急激に自分自身を詰る怒りへと変貌していた。雫の肩を持つことと、久美子に悪しざまな態度を取ってしまったこととは、全く別の問題だ。あんなこと、久美子に言わなければ良かった。

 何故あの時、久美子の立場や心境を慮れなかったのか。

 どうして自分はこんなに考えが浅いのか。

 どうしてこんなに愚かなのか。

 自分はただ、久美子に、久美子に……。

 どうして欲しかったんだろう。幸恵の思考がそこでコトリと動きを止める。あの時、雫に勝たなくちゃと言った久美子に、本当はどんな言葉を語って欲しかったのだろう。どんな振る舞いをして欲しかったのだろう。

「あたし、くみ姉のこと、どんな風に見てたんだろ……」

 幸恵は尚も黙考を続ける。自分は自分でも知らぬうちに、久美子に甘えてしまっていたのかも知れない。何を言っても、どんな態度を取っても、久美子なら全て柔らかく受け入れてくれる。そう信じ切ってしまっていたのかも知れない。だからこそ久美子が自分に明確な怒りを、苛立ちを向けて来た時、幸恵はそのことに少なからずショックを受けていた。あの久美子が自分に、こんな目を向けて来るなんて。その事実を受け入れられず、幸恵は久美子に反発してしまった。いつもの自分だったらきちんと久美子の事情や気配を読んで、上手に矛を収めることも出来ただろうに。冗談めかして笑顔でその場を片付けてさえいたら、こんな事にはならなかった。たったそれだけのことが出来なかった事実がひたすらに悔しくて悔しくて、その夜幸恵はベッドに入る事も出来ぬまま、ずっと悶え苦しんでいた。

 

 

 

 どんなにそれを望まなくとも、沈んだ太陽は夜の闇を潜り、また朝陽となって巡って来る。

 この一晩中、久美子に電話を掛けようか、あるいは携帯のインスタントメッセージを送ろうかと思い悩んでは、その思いを必死に押し殺し続けた。もうこれ以上、久美子に迷惑を掛けるわけにはいかない。下手に連絡を取ったがために、却って久美子に追い打ちをかけるようなことになってしまえば、今度こそ自分も耐え切れないだろう。果たして久美子が今日部活に出てこられるかどうかは不透明だが、仮に今日も部活を休んだ場合であっても、久美子が落ち着いてくれるまで待つより他は無い。そう自分に言い聞かせることで、幸恵は今にも久美子の家目掛けて走り出したくなる衝動を辛うじて抑制していた。

 重い足を引きずるように通学路を歩き、学校へと辿り着く。ゆうべから灰色に染まった溜め息ばかりを数え切れないほど吐いているせいで、荒れた胸がむかむかする。

「おはようございます」

 挨拶をして部室に入る。まだ朝のミーティングまでには一時間以上も余裕があるが、既に部員達は朝練のために多くが登校してきていた。今ここに姿の見えない部員も大概はもっと早くから朝練を行うため、学校の各所へと散らばっている。それは今日に限らずいつものことであり、中でも学校に一番乗りして部室の鍵を開けるのは決まって麗奈と久美子だった。その麗奈は今日に限って珍しく、トランペットの列の第一席に座って楽譜と向き合っている。どうやら今朝はいつもの練習場所へは行かず、ずっと部室で朝練を行っていたらしい。こちらに気付いた麗奈が構えていたトランペットを下ろす。

「おはよう」

 麗奈はいつも通りの挨拶を返してくれた。が、それだけ。彼女はまたすぐ音出しに戻り、昨日のこともあの後どうなったのかも、一言も喋らなかった。麗奈のその姿勢に、こちらも迂闊に触れるべきではないと直感した幸恵は顔を背ける。何気なく向けた視線。その先にはちょうど、低音パートの座る椅子の列が並んでいた。 

 盗み見るような目つきで久美子の席へと視線を注ぐ。付近に彼女の鞄や水筒、そして楽譜の類は見当たらず、空っぽの譜面台だけが立てられたままだ。久美子はまだ来ていない。それを確認した途端、心配に思うような安心するような、えも言われぬ不気味な気持ちが突如として湧き出すのを幸恵は感じた。これではまるで久美子が今日ここに居ない事を、密かに期待していたみたいじゃないか。

「どうかしてる、今日の私」

 堪らず楽器室に飛び込んだ幸恵は、トランペットのケースが並ぶ棚に手をつき呻きを漏らす。駄目だ。何かを考えるとどんどんそれに囚われて、際限なく深みに嵌まってしまう。今ここで悩んだってどうしようもない。練習に集中しよう。そう口の中で唱えながら、幸恵は楽器ケースを手に廊下を歩く。

 教室に着いてすぐ、ケースからトランペットを出す。適当に楽譜を机の上へ広げ、基礎練習も何もせず、ただひたすら音符の示すまま音を出すことにのみ意識を傾け続ける。調子は決して良いとは言えなかったものの、ひとまず楽器を吹いている間だけは余計なことなど一切忘れることが出来た。そうしてがむしゃらに楽器を吹きながら時を過ごすうちに、真っ暗な闇の中でもがいていたような自分の心境にも少しずつ光が差し込んでくるのが分かった。

 出来れば今日は一日中こうしていたいぐらいだったが、部活動である以上はそうも行かない。そろそろ朝のミーティングが始まる時間であり、その後は昨日同様麗奈の指導の下でパート練が行われる。正直、あんな空気を帯びた麗奈と一緒に過ごすのはかなりの苦痛を伴うことだ。それでも部としての決まり事である以上、一度は部室に戻らなければならないし、その後のパート練習にもきちんと参加しなければならない。落ち着かない気持ちを力任せに押さえ込むように、幸恵は大きく溜め息をついた。

 こうして戻った部室には、さっきと同じ姿勢のままの麗奈がいた。傍目には練習に勤しんでいるだけのようにも見えるが、もしかすると麗奈はここでこうして久美子が登校してくるのをひたすらに待っているのかも知れない。一心不乱に楽譜に向かう麗奈の張り詰めた顔付きからは痛々しささえ感じられて、なんだか雨の中ずぶ濡れになりながら飼い主を待つ仔犬みたいだ、と幸恵は思った。

 ミーティングの時間が迫るに連れ続々と集まり始めた部員達も、部長の身を案じてなのか皆一様に浮かない顔をしている。いや、それとももしかして、彼らが本当に案じているのは『こんな調子でコンクールはどうなってしまうのか』ということではないのだろうか? 普段ならこんな邪推をすることなど滅多にないのに、今日に限ってはあらぬ発想を抱いてしまう。そんな自分への憂いを噛み殺すようにしながら幸恵が席に座ろうとしたのと、部室の扉を開けたその人物に対して皆が声を上げたのは、ほぼ同時だった。

「久美子」

 麗奈の呟き。それを聞き取った幸恵は弾かれたように扉の方を向く。そこに久美子は立っていた。真っ先に駆け寄った加藤は彼女の体調を心配している様子だったが、遠目に見る限り久美子は特に顔色も悪くなく、むしろ至って健康そうだった。加藤の後を追うようにして他のパートリーダー達もぞろぞろと集う。互いに頭を下げ合った後、久美子は副部長の塚本と何か言葉を交わし、そして彼と加藤、さらには川島緑輝を伴って部室から出て行った。一体何がどうしたのか、とざわつく部員達。けれどそれはすぐに収まった。

「さあ、ぼーっとしてる暇は無いよ。部長達が戻るまで音出し!」

 その声に部員達はハッとなり、思い出したように楽器を手に取って音出しを開始する。部員達に発破を掛けたのは、いつの間にか立ち上がっていた麗奈だ。ふう、と息をついて自分の席に座った麗奈の横顔は、とても和らいだものだった。それを見た幸恵もまた、心を覆っていた黒い雲がすうっと引いていくような感覚を覚える。

 詳しいことは全然分からないし、何がどうなっているのかもさっぱりだったけれど、きっとくみ姉はもう大丈夫。ちゃんと立ち直れたんだ。誰よりも何よりも、それを麗奈が確信しているのが彼女の表情から読み取れたことで、幸恵はようやく心の底から安堵のひと息を吐くことが出来たのだった。

 

 

 

「それでその後はどうだった? くみ姉の調子」

「凄く良かった。休む前よりも良くなってるかも知れない」

 その日の合奏を終え、既に部員達は各々の練習場所に散り、居残りの個人練習を開始していた。幸恵は結局あの後も久美子との接触を控えておいた。ソロオーディションまであと僅かという中、昨日休んだ分の遅れを取り戻すべく必死に練習に打ち込む久美子の邪魔をしてしまわないように。そういう配慮もあるにはあったのだが、本当のところはただ単純に、久美子に話し掛けるのが怖かったからだ。折角立ち直って来たのに、自分がまた余計なことを言って久美子の調子を乱してしまったら。そう思うととてもじゃないが、今すぐに久美子のところへ行こうという気持ちにはなれなかった。

「大丈夫。黄前先輩ならオーディションまでに、ちゃんと仕上げて来ると思う」

 雫の言葉に幸恵は黙って頷く。ともすれば雫にとって、それは本当に言葉通りの意味でしかなかったのかも知れない。が、自分の本音を言えばもはや、ソロオーディションのことなどどうでも良かった。だからなのだろう。そのときの雫の発言を、幸恵はただ純粋に雫なりの励ましとしてしか受け取っていなかった。

「雫はさ、やっぱりソロオーディション、全力で勝ちに行くよね」

 唐突な質問をした幸恵を、雫は無言でじっと見つめる。彼女のその目つきは、答えの分かり切っていることをわざわざ聞いてくるのが理解出来ない、とでも言いたげな眼差しだった。緩やかに視線を戻し、雫は口を開いた。

「勿論。そうじゃなかったら、先輩には認めてもらえないから」

「だよね」

 やっぱり雫らしい。そう思いつつも、何かが心のどこかに引っかかる。それはいつぞや感じたあのもやもやとした感覚にも似ていた。認められるために相手を超える。誰かに認められるということは自分がそれに見合うだけ大きな存在になるということであり、少なくとも部内において客観的にそれを証明できるのは、今回のソロオーディションのような機会をおいて他に無い。それは確かに理に適っていて、間違っているところなど無いように思える。

 けれど、本当にそうなのだろうか。それだけなのだろうか。そう思って改めて考え直しても、やっぱり特に間違っているところなんて見当たらなくて、結局のところ雫が良いならそれで良いのではないか、という結論に至ってしまう。けれどその結論がどこまでも腑に落ちない。それは掻きたいところに手が届かない時のような、何とも言い表しがたいもどかしさだった。

 ともかく、と幸恵は思考を打ち払うように大きくかぶりを振った。今はあれこれ考える時間を割いている場合ではない。幸恵にとっても、二日後のソロオーディションは麗奈という憧れの存在に向かって直接手を伸ばせる最初で最後のチャンスになる。それに向け、自分の演奏を今出来る最高のものへと仕上げておかなくてはならない。それが出来なかったら、中途半端な気持ちで挑む程度のものでしかないのだったら、憧れなんて言葉は嘘になってしまう。

「頑張ろうね、お互いに。このソロオーディションで、絶対先輩達に認めてもらおう」 

 幸恵と雫は目を見合わせ頷き合う。久美子のことも一旦後回しにして、まずは自分のこと、ソロのことだけを考えよう。幸恵は自分の音に神経を研ぎ澄ましながら、自分のイメージする音がきちんと出せているか、一つ一つの音を確かめるように吹いていった。

 

 

 

 

 

 そしてその時はついにやって来た。ホールの舞台上、そのほぼど真ん中に、幸恵は麗奈と二人並んで立つ。

 既に麗奈は演奏を終えており、今は幸恵が演奏する番だった。自分なりに練習し積み上げてきたことの全てをトランペットに注ぎ込み、音に換えて観客席へと放つ。例え最初から勝敗が明らかであるにしても、それを理由に投げ出すようなことは絶対にしたくなかった。最後の音を吹き切った幸恵はマウスピースから唇を離す。疲労と緊張で大きく乱れそうになる呼吸を、必死に抑え込む。いつの間にか滲み出ていた全身の汗がホール内の空調に冷やされ、幸恵は思わず身震いしてしまった。

「ありがとうございました」

 聴衆となってくれた部員達に向かって、幸恵は精一杯の感謝を込めて一礼する。

「それでは、採決を行います。高坂さんがソロに相応しいと思った人」

 その結果は大方の予想通りと言うべきか、圧倒的多勢が麗奈に手を挙げた。とっくに分かり切っていたその光景には目もくれず、幸恵は雫を見る。彼女は、手を挙げていなかった。ほっとするような申し訳ないような、そんな複雑な気持ちに蓋をするように、幸恵はそっと目を伏せる。

「はい、もう下ろして結構です」

 滝の一声に、部員達は挙げていた手を下ろす。

「皆さんの意見通り、私も高坂さんの演奏は際立って優れていると感じました。一つひとつの音の精度が高く、微細な表現の違いがきちんと出来ています。東中さんの演奏も素晴らしかったですが、この点で高坂さんと大きな差が開いています。今後の練習を通じて、高坂さんから多くを学んで下さい」

「はい」

 返事をして、それから幸恵はゆっくりとホールの天井を見上げる。真っ暗な天蓋に備わった無数の照明から、観客席に向かって垂直に降り注ぐ光の帯。それを眺める幸恵の顔つきはとてもすっきりとしていた。他の人からは、まるで何のわだかまりもなく憑き物が落ちたかのように見えていたかも知れない。けれど幸恵自身はこの時、そんな達観めいた表情とはまったく裏腹な感情を抱いていた。

 悔しい。

 悔しい。悔しい。

 相手はあの麗奈だし、自分なんてここ二カ月あまりの間だけちょっと本腰を入れた程度だし、負けたくないとは言いつつも、本気で勝てると思っていたわけでもなかった。自分なりに必死に練習に打ち込んで自分に出来る最高のものをぶつけたら、そこで満足して終われると思っていた。なのに、いざオーディションの場で麗奈に負けたとなったその途端、腹の底からじくじくと滲み上がる思いに全身を縛り付けられている。悔しい。悔しい。負けたらこんなにも悔しいと感じるなんて、思わなかった。その感情が自分の体を焼き焦がして、周りの酸素を奪い尽くしてしまったみたいに息苦しい。このままでは死んでしまう。こんな気持ちのままじゃ終われない。もっと、もっと上手くなりたい。今まで幸恵が音楽をやって来た中で、こんな気持ちを抱いたのは初めてのことだった。

 絶え間なく襲い来る悔しさを奥歯で噛み殺しながら、幸恵は決意した。もっと上手くなる。こんな悔しい思いは、もう二度としたくない。いつの日か誰よりも、この麗奈さえも超えていくほど、上手くなってみせる。

 こうして幸恵の挑戦の時間は終わった。二人は舞台手前にある掛け階段から観客席へと向かう。それと入れ替わるように、ユーフォパートの久美子と雫の二人が舞台の上に立った。席に着いた幸恵は掌をぎゅっと握り締める。本音を言えば雫にも久美子にも、どちらにも頑張って欲しい。けれどソロを吹くことが出来るのはどちらか一人だけ。このオーディションで部員達に、そして滝に選ばれた者だけだ。どちらを応援するべきか、幸恵は未だに迷っていた。どちらか片方に必ず手を挙げなければいけないのだとしたら、果たして自分は久美子と雫、どちらに手を挙げるべきなのだろう。

 そんな事を考えている間に、先手となる久美子は演奏の支度を整えたようだった。一つ息を吸い込んで、その胸に抱いたユーフォニアムから、ふわりと広がる花のように綺麗なハイトーンを奏で始める。こうして改めて独奏を聞いていると、やっぱり久美子も並外れて上手いということを改めて実感させられる。ユーフォニアムの特徴である、温かくて柔らかい伸びやかな音色。その中に芯が一本通っているのを感じる。ゆらゆらと揺れ動く一つひとつの音は確信に満ちていて、けれど決して鋭利なわけではなく、聴く者の鼓膜に心地良い刺激を与えてはじわりと溶けて体に沁み渡っていく。その音色は、まるで久美子そのものみたいだった。そこに在るべきという音色を、久美子は一貫して奏でていた。

「ありがとうございました」

 演奏を終え、久美子が一礼して後ろに下がる。彼女の演奏はまさしく完璧と呼ぶに相応しい出来栄えだった。今度は雫がその久美子に挑戦する番だ。自分とは違い、雫は『憧れ』に手が届くだけの実力を既に備えている。それだけに、ほんの僅かな差が二人の勝敗を分かつことになるかも知れない。どちらが選ばれることになるのか、この時点では全く予想がつかなかった。

「それでは芹沢さん、お願いします」

「はい」

 滝の言葉に返事をした雫は前に出て、いつもと同じようにゆっくりと楽器を構える。すうっと息を吸い込み鳴らされた最初のハイトーンは、幸恵の全身を大きく揺さぶる豊かな音だった。稲妻のように閃き、毛布のように柔らかく温かく、場面に合わせて数々の音を使い分けていく雫の音に、その場にいた誰もが翻弄されていく。

 そしてその瞬間、幸恵は結果を悟ってしまった。愕然としながら、壇上で照明を浴びてきらきら輝く雫を凝視する。理屈や根拠を抜きに、体に刻まれていた何かが先に、その答えを弾き出してしまった。

 

 

 ――ああ。きっと雫は、負ける。

 

 

 その後のことは幸恵自身もハッキリとは覚えていない。採決の後で滝が何やら講評をしていたけれど、それらは何一つとして頭には入って来なかった。少しずつ雫が俯き、やがてその小さな肩を震わせ始めた時、幸恵は弾かれたように立ち上がり壇上へと向かった。雫の元に辿り着いたのは、ちょうど久美子と滝が雫の異変に気付いた時。何が起こっているのか分からず完全に固まってしまった二人を尻目に、幸恵はまだぶるぶると震えている雫の肩を掴んだ。

「すみません滝先生。雫が落ち着くまで少し、外に行ってきます」

 流石の滝もこの状況に唖然としているようだったが、幸恵の言葉に反応して気を取り直し、眼鏡の縁に手を掛けた。

「わかりました。芹沢さんのことはお願いします」

「はい」

「他の皆さんはこの後の合奏の準備を進めて下さい。当初の予定通り、十分後に合奏を始めます」

 滝の号令に、部員達が観客席を立ち壇上へと集まってくる。その人の波から逃れるように、幸恵は雫の手を引いてホールの外へと歩いて行った。その間もずっと、雫は唇をきっと結んで必死に嗚咽を噛み殺そうとしている。こんな姿の雫を目の当たりにして、自分はどうしたらいいのか。幸恵にはおよそ見当もつかぬ事態だった。

 ロビーに辿り着いた幸恵はまず、手に握ったまま持ち出してしまった自分のトランペットを長椅子に置く。

「ほら、とにかく、いったん座ろう」

 幸恵は雫の胸に抱かれていた銀色のユーフォに手を掛ける。しかし、雫はそれを決して手放そうとはしなかった。幸恵がユーフォを雫から引き剥がそうとすると雫が引っ張り返してくる。この華奢な体躯のどこにこれほどの力があるのかと思うほど、雫は強く固くユーフォを抱え込んでいた。しばし引き合い状態になった後、このままでは楽器が壊れてしまう、と思った幸恵は自分からその手の力を緩める。引き合いから解放された雫はよろよろと後ずさり、そしてぺたりと長椅子に座り込んだ。勢い余って雫が転倒しなくて良かった。緊張が抜けた幸恵もまた、ほうと息をつく。

 その後もしばらく、雫は自分のユーフォを抱き締めたまま静かに泣いていた。幸恵は声を掛けることも出来ず、ただそっと雫の隣に腰掛け、彼女が泣き止むまで寄り添おうと思った。部員達の準備が整ったのか、それとも自分達が戻るのを待ちかねたのか、やがてホールからは合奏の音が漏れ聞こえてくる。それでも幸恵はただじっと雫の感情が治まるのを待った。やがて、雫のすすり泣きの音が小さくなっていく。呼吸が整い始めた頃を見計らって、幸恵はポケットからハンカチを取り出した。

「顔。これで拭いて」

 差し出した幸恵のハンカチを、雫が震える手で掴む。そして乱暴に、自分の目頭をごしごしと拭った。

「少し落ち着いた?」

 雫はハンカチで顔を押さえたまま黙って頷く。本当は幸恵も一連のやり取りですっかり汗だくになってしまった自分の体を拭きたかったのだけれど、隣にいる雫がこの状況ではそんなことも出来そうにはない。額から流れた汗が顎の先端を伝って滴り落ちていくのを感じる。雫の方から何かを喋り始めるまでの間、幸恵は先程までの状況を一つ一つ、頭の中で整理していた。

 雫の演奏は語るまでもなく素晴らしい出来だった。その後の挙手で他の部員達が誰に手を挙げたのか、観客席の前方に座っていた幸恵には正確な事は分からない。けれど恐らく、技術的には二人とも甲乙つけがたいと誰もが思ったことだろう。そのぐらい二人の演奏力には明確な差など無かった。幸恵が一瞬で聴き取った僅かな、そして決定的な二人の差異。それは幸恵だからこそ感じることの出来たものだったかも知れない。

 自由曲第三部の終盤、ユーフォから始まるそのソロパートは次にトランペットソロへと継承されていく。トランペットはユーフォのソロと同じフレーズをなぞるように動き、二つの音がぴたりと一致して完璧なユニゾンとなった後にユーフォは演奏を終え、今度は伴奏と共にトランペットの独奏へと移行していく。

 雫の演奏は確かに素晴らしかった。彼女がどれほどの技術、そして力量を備えているかを存分に主張する、そんな演奏だった。言い方を変えれば、雫の演奏は素晴らし過ぎた。それが彼女一人のソロで終始するものであったならば、あるいは雫が勝っていてもおかしくは無かったのかも知れない。それと比較しての久美子の演奏は、ともすれば抑揚に乏しいと感じるものだった。けれどその音は、その表現は、後から入ってくる麗奈と全体の音楽とのバランスを見事に取り持つものだった。まるで麗奈の音を照らすためにその音があるように。そして後から入ってくるであろう麗奈の音は、久美子の音の余韻をさらに引き立てるように寄り添い、二つの音が互いを輝かせるみたいに繋がり合っていた。

 幸恵がそれを感じ取れたのは他でもない、彼女が入学からずっと麗奈の傍でその音を聴き続け、そして直前のソロオーディションでもすぐ横に立つ麗奈の演奏を肌で感じていたからこそだ。頭の中に響く麗奈の音が久美子や雫の奏でる音とひとりでに重なり、二つのソロの完成系がどうなるかを無意識のうちに描き出していた。久美子の音が麗奈の音と美しく融和し、一つの音楽として成立していたこと。そして雫の音がどんなに美しくとも、麗奈の響きには馴染まなかったことも。

 どうして久美子と麗奈の音がほぼ完璧に一致していたのか。こればかりは幸恵には全く理解の及ばない話である。二人が重ねてきた三年間の間に生まれた相互理解が成せる業なのか。あるいはそれすらも超えるもっと尊い何か、例えば絆とでも呼ぶべきものが二人の間を繋いでいたからこそなのか。いずれにせよ、麗奈は麗奈で音楽としての美しさに従い、自分の音の美しさを最大限に主張しながら、しかし久美子の音とも溶け込むような演奏を行っていたのだろう。それはきっと久美子も同じように、麗奈の存在を、その音を意識しながらの演奏だったのだと思う。雫はそうでは無かった。彼女は彼女が信じるこの場面での、最高のソロを自身の演奏で体現していた。そしてそれこそが多分、ソロオーディションの勝敗を分かつ致命的な要因になってしまったのだ。

「ごめん」

 唐突にぽつりと漏らした雫の声に、幸恵は我に返る。

「幸恵と、約束してたのに。私、オーディション勝てなかった」

 まだ感情を抑え切れないのか、途切れ途切れな雫の声は、まるで吐息と一緒に言葉を吐き出しているみたいだった。いいよ、と幸恵は雫の肩に手を置く。実際勝てなかったのは自分だってそうだったし、雫が勝てなかったからと言って彼女を責めるつもりなど毛頭ない。これは二人にとって、憧れへの挑戦。勝ちたいと思って手を伸ばしたし、勝てなければこの上なく悔しいとも感じたけれど、いざ負けたからと言ってそこで全てが終わるわけじゃない。少なくとも幸恵にとっては、そういうつもりのことだった。

「これじゃ私、黄前先輩に、認めてもらえない」

「何で? 雫の演奏だって凄く良かったよ。これならくみ姉だってきっと、」

「駄目。先輩の演奏を超えられなかったら、先輩はきっと認めてくれない」

 またこの理屈。何故雫はここまで勝敗に拘るのか。相手に認められるために、どうしても勝たなければならないと考える、その理由は一体何なのだろう。先日久美子に言い放った『雫のこと、敵みたいに思ってたりする?』という言葉が、今度は『くみ姉のこと、敵みたいに思ってたりする?』という言葉に変換されて雫へと飛び出してしまいそうになる。でもあの時のような事態をもう一度引き起こすのは懲り懲りだ。そう思った幸恵は、喉まで出かかった言葉を唾と一緒にゴクリと飲み込む。

「そんなことないって。雫がどれだけ上手でどんなにユーフォ好きか、くみ姉だってきっと分かったと思う。同じユーフォ吹きなんだもん」

 なるべく雫の心境を慮ったとは言え、その発言は自分でもそれと分かるほど妙に白々しいものになってしまった。雫もそれを感じ取ったのか、俯いたまま否定も肯定もしない。互いに煮え切らぬ状況のせいでか、幸恵の中で押し込められていたもやもやが再び広がってくる。でも、仕方が無かった。

 核心を突いたことを言ってしまえば、折角落ち着いてきた雫の感情を逆撫でしてしまうかも知れない。ことによっては雫と久美子の関係に亀裂を生じさせてしまう恐れさえある。こんなことを心配して発言を選ぶ自分はきっと、随分臆病になってしまっている。それでも今はそうせざるを得なかった。けれど何となく、心の中に時々浮かんでいたもやもやの正体が掴みかけてきたような、そんな感覚が幸恵には生まれ始めていた。

「府大会ももうすぐだしさ。そこまで頑張って本番で良い演奏出来たら、今度こそくみ姉も雫のこと認めてくれるかも知れないよ。私もこれから高坂先輩に認めてもらえるよう頑張るから、雫も頑張ろう」

 励ましの言葉を掛けると共に、雫の肩に掛けた手に力を込める。雫はしばらく逡巡した様子だったが、やがて心を決めたらしく、小さく頷いてから顔を上げた。その瞳にはもう涙は浮かんでいなかった。

「よし、それじゃ皆のところに戻ろう。遅くなっちゃったから、二人して謝らないとね」

 先に立ち上がり雫の手を取る。彼女の白い指先はその時、真っ赤になっているのではないかと思うくらいに熱かった。そう、雫は本来はそういう子なのだ。無表情で口数少なくて、傍から見たら冷めているようにも見えるけれど、本当は誰よりも熱い気持ちを持っている。はち切れそうなほど沢山の思いを胸に秘めていて、けれどそれを表に出そうとしない彼女がユーフォニアムを吹いているのはきっと、それこそが彼女にとって他人と繋がるためのほぼ唯一の手段だったからなのだろう。ここまで雫のことを理解出来るようになったからこそ、幸恵にはそれが分かる。けど、だからこそ。

 自分のトランペットを手にした幸恵は、もう片方の手で雫の手を引きながらホールへと向かう。これからコンクールまでの間に久美子と雫が分かり合ってくれることを、幸恵は願った。自分なんかが介入せずとも、二人が互いを認め合えるようになれば良いと。けれどもしも、そうならなかったら。その時は自分も腹を括ろう。それが例え、初めて出来たたった一人の盟友を、失ってしまうことになるのだとしても。握っていた雫の手をいっそう固く繋ぐ。その温もりと柔らかさを失わずに済むことを、密かに願いながら。

 

 

 

 

 

 

 ソロオーディションの決着から二日後。

 お礼参りをしよう。幸恵はそう心に決めていた。と言っても決して物騒なことをしようというのではなく、彼女の頭の中に思い描かれていたものは、正しくは『お詫び行脚』と呼ぶべき行為だ。個人練の時間を利用して、幸恵はその対象となる相手を探すべく校舎の中を巡る。

 一人目はすぐに見つかった。本校舎へと繋がる渡り廊下。そのちょうど中央に、いつものように金色に光るトランペットを構えた彼女の姿があった。

「高坂先輩」

 呼び掛けられた麗奈は楽器を下ろし、そしてこちらを見やる。

「東中さん。どうかしたの」

「すみませんでした」

 突然幸恵が深々と頭を下げたことに、麗奈は何事かと面食らった様子だった。彼女の場合は春に食らった強烈な先制パンチの印象がある分、こういった幸恵の突飛な行動には余計に警戒する癖がついているのかも知れない。それには構わず頭を下げたまま、幸恵は言葉を続ける。

「あたし、先輩にどうしても追いつきたくて。認めてもらいたくて。それでソロオーディションを希望しました。でも自分の実力なんて、先輩の足元にも及ばないことも分かってました」

 ご迷惑をお掛けしてしまって本当にすみませんでした、と幸恵はもう一度頭を下げる。

「もういいから、頭上げて」

 迷惑を掛けたことを謝罪するのが新たな迷惑の種になってはいけない。麗奈の言葉に従い、幸恵は姿勢を正す。

「私は気にしてないから。最初から、誰が相手でも捻じ伏せるって思ってるし」

 流石だな、と幸恵は思った。この人は本当に揺らがない。雫とはまた別の意味で、麗奈も自分の演奏技術に絶対の自信を持っている。だからこそ幸恵は麗奈の音に惚れ込み、彼女に憧れを抱いてここまでやってきたのだ。少しでも近付きたい、いつかあんな風になれたらいい。そういう存在だった。けれど今は、少し違う。

「あたし、これからも先輩を目標にしたいです。もっとトランペット上手くなって、誰よりも上手くなって、いつかきっと先輩に追いつきたいです。ですから、これからもご指導よろしくお願いします」

 真剣な眼差しで麗奈の瞳を捉えながら、幸恵は宣言した。これは自分なりのけじめだ。ソロオーディションに敗れた時のあの悔しさを、胸の疼きを、自分はまだ忘れてはいない。まるでかさぶたの痕みたいに、そのもどかしさを抱えながら、自分はこれからもトランペットを吹いていくのだろう。それを癒すにはきっと、これまでのように麗奈をただ単に憧れだと思ってばかりいては駄目だ。そう思ったからこそ、幸恵はあえて麗奈本人にこんな宣言をしたのだった。この圧倒的天才である高坂麗奈に負けないくらい努力し、いつか追いつき、追い越すために。そして、こんな生々しい感情を抱きながらもなお、麗奈に対する尊敬と感謝の念を忘れずにいるために。

 麗奈はしばし瞠目していた。しかし幸恵の意図が伝わったのか、あるいはその道はそう甘くは無いぞというつもりなのか、口角を吊り上げ挑発的な笑顔を形作る。

「東中さんが私に追いつきたいって言うなら、じゃあ私はもっともっと『特別』になる」

 その言葉に、幸恵の心臓は一際強く脈動する。その『特別』とはどんなことを意味するのか。この時の幸恵にはまだ、もう一つ理解が追いついてはいなかった。けれどきっと、麗奈が目指している地平の果てにあるものがそれなのだ。彼女はそこに向かって何年も弛まぬ努力を続けてきて、それが幾重にも積み重なって、自分を含む他との大きな差となっている。

 音楽を、トランペットを始めて三年とちょっとの自分には、それに比するほどの努力すら出来ていない。けれど、きっと今の自分の方向性は間違っていない。この道をずっと歩んでいった先の未来で、辿り着きたい。麗奈すら目指しているその『特別』という領域に。いつかじゃなくて、必ず。ぎゅっと握り締めた拳の内側で、指先に通う血潮が炎のように熱く滾っているのが分かる。

「それはそれとして、もう府大会も近いから、希望通り指導は今まで以上に厳しくいくからね」

「はい。お願いします、師匠!」

 最後のその台詞だけは意にそぐわなかったのか、麗奈はあからさまに眉をひそめる。しかしそれはすぐに苦笑へと変化した。それにつられるように、幸恵もふわりと笑顔を浮かべる。何となく、今までより一歩だけ麗奈に近付くことが出来た。そんな気がした。

 麗奈の下を離れ、次に幸恵は校舎裏へと向かう。二人目の居場所にも既に見当はついていた。集中して個人練を行いたい時、彼女は大抵そこに居るはずだ。だから幸恵は迷わずに歩を進める。ごみ捨て場の角を曲がり、校舎沿いに歩いていった先に、その人物は予想通り椅子と譜面台を置いて練習に耽っていた。

「くみ姉」

 幸恵が近付いてきたことに気付き、久美子は楽器を下ろした。が、幸恵をじっと見つめたまま一言も発しない。ほんのひと時、二人の時が静止する。無理もないことだ、と幸恵は思った。つい先日、久美子は自分のせいで、精神を乱されてしまったばかりだ。いかに復調したと言えど、同じことの繰り返しにならないようにと身構える気持ちもあって当然だろう。だから、ここはまず自分から。幸恵は麗奈にしたときと同様、深々と頭を下げる。

「ごめんねくみ姉。こないだは変なこと言っちゃって」

 謝って済むことじゃない。けれどあれ以来、久美子とは満足に会話も出来ない状態が続いたままだった。仲直り、だなんてそんな都合の良いことは望まない。けれどせめて自分が申し訳ないと思っている、その気持ちだけでも伝えたい。その意思を込めて幸恵は久美子に頭を垂れたのだった。

「あたしあの時、ついカッとなっちゃって。あの後くみ姉が体調崩したって聞いて、すごく後悔した。あんなこと言わなきゃ良かった。あんな態度取っちゃいけなかった、って」

 反省の弁を述べる間も、久美子はやはり何も言わない。頭を下げたままの自分には今、久美子がどんな表情をしているのかは分からない。けれどその無言の状況に、やはり自分はまだ久美子には許されていないのだ、と幸恵は考えた。もうこの際、言うだけ言って逃げてしまおうか。久美子の許しが欲しいと思ってこうしているわけではないのだから、心からの思いを久美子に言うことさえ出来たら、もうそれでいいのではないか。ちろりと顔を覗かせるそんな気持ちを、幸恵は歯を食いしばり噛み潰す。

 許されないならそれでもいい。それは自分が悪いのであって、自業自得なんだ。でも逃げるのは、それだけは駄目だ。逃げたら本気で謝っていることにはならない。罵声を浴びせられたって嫌味を言われたって、最悪無視されたって構わない。自分の気持ちを精一杯、くみ姉に伝えるんだ。そしてその返答はきちんと受け止めなくちゃいけない。そう自分に言い聞かせながら、幸恵は黙って地面を睨み続ける。と、その時、幸恵の肩にとても温かい何かが圧し掛かった。

「いいよ。私の方こそさっちゃんに変な気遣わせちゃって、ごめんね」

 柔らかい声色。肩にあるものが久美子の両手であることに気が付いて、おずおずと顔を上げた幸恵の眼前には、いつもと変わらぬあの優しい笑みが広がっていた。

「私も、ソロオーディションの前で気が立ってたってのもあったけど、他に寝不足とか色々あって。こないだはちょっと疲れが溜まってただけだから」

 おどけたように微笑んでみせる久美子。その表情に、幸恵は心の底から救われる思いだった。ぎゅっと目頭が熱くなって、幸恵は再び顔を下げた。

「ごめんね、本当、ごめん」

 声が震えてしまうのを、どうにも抑えられない。泣くつもりなんてなかったのに。一生の不覚だった。

「だから気にしないでって。それよりも、これからは本番に向けて練習頑張らないとだから、さっちゃんも自分の演奏に集中していこう。ね?」

 なだめるように、久美子が幸恵の髪をさわさわと撫でる。あったかい。小さかった頃を思い出すような、そんな温かさ。転んだか何かで泣いていた自分を慰めるように、あるいは痛みを忘れさせるように、頭を撫でてくれた久美子の掌。あの時と変わらない彼女の優しさにまた出会えたような気がして、幸恵はいよいよ嗚咽を堪え切れなくなってしまった。ぐずぐず、と幸恵が鼻を鳴らしている間中、久美子はずっと幸恵の頭を撫でながら、まるで子供をあやす母親みたいに見守ってくれていた。

「ところで、どうしてわざわざ謝りに来たの?」

 涙がひとしきり落ち着いた頃、唐突に久美子がそんなことを尋ねてくる。わざわざここまで来なくとも、練習中どこかで行き会った折にでも話をしてくれたら良かったのに。久美子にしてみればそういう話だったのかも知れない。瞼にこびりついたものを拭いながら、幸恵は答えた。

「特に理由は無かったんだけどね。ソロオーディションも終わって色々落ち着いたことだし、他にも迷惑掛けちゃった人とかも居たりしたから、この機会にお礼参りしようと思って」

「えっ」

 それを聞いた久美子の顔が一瞬にして青ざめたことに、すっかり視界が滲んでしまっていた幸恵は気付くことが出来なかった。

「でも今は何て言うか、すっきりした気持ちだよ。あたしの方こそありがとね、くみ姉」

 何だか急に照れくさくなって、幸恵は久美子から一歩離れる。

「じゃあ、あたしそろそろ個人練行くね。コンクールに向けて練習頑張ろうね、くみ姉」

 精一杯の笑顔を浮かべてみせ、幸恵はその場を後にする。久美子はと言えばこの時、完全に凍てついた表情でぎこちなく手を振っていた。別れ際のその様子には幸恵も若干心に引っかかるものを覚えたが、それまでの経緯も鑑みてあえて気にしないことにした。その上、後日顔を合わせた久美子がごくごく普段通りに振る舞っていたもので、ほどなく幸恵自身もそのことをすっかり忘れてしまった。

 この時の自分の発言を、出来るものなら取り消したい。ずっとずっと後になってから、幸恵は激しい羞恥と後悔に苛まれることとなるのだった。

 

 

 

 

 あれから二週間が過ぎ。

 過日行われたコンクール京都府大会で北宇治は見事金賞を受賞し、さらに関西大会への代表権をも獲得するに至った。ここ最近のパート練習における麗奈の指導は彼女の前言通り以前よりも輪をかけて厳しくなったが、それに一つずつでも着実に応えていく日々の中で、幸恵は確かに己の成長を実感していた。

 春に吹奏楽部に入部した時よりも、レギュラー選抜のオーディションに合格した時よりも、自分はどんどん上達している。舞台が関西大会に移ることで他校との競争がさらに激化する見通しの中、幸恵自身もまた『全国金賞』という目標を今まで以上に強く意識するようになっていた。それが麗奈や久美子の目標であり、さらには自分自身が目指す『特別』への過程にあるものならば、是が非でも全国金賞を狙いに行かなければならない。

 関西大会がいかに狭き門であろうとも、それを潜り抜けて全国大会への代表権を勝ち取らねばならないと言うのなら、コンクールメンバーである自分に出来ることはひたすら己の腕を磨き、全体の音楽のクオリティを高めることに貢献するより他にない。そんな思いから、近頃の幸恵は学校帰りの寄り道や見たいテレビドラマの視聴も我慢して、かき集めた時間をひたすら音楽へと注いでいた。

「それでは、本日の合奏はここまでにします」

 滝の言葉で場は締められ、続いて部長である久美子からの業務連絡が一通り終わったところで、場はいったん解散となった。ここから部員達のほとんどは各々の課題を解消するべく個人練に向かったり、時にはパート単位でまとまって問題個所の修正に時間を割いたりする。自分も居残り練習に向かおう。そう思っていた矢先、視界の端に誰かの強い視線を感じる。よくよく焦点を合わせてみると、それは雫から発せられたものだった。他の人にはそれと分からなかっただろうが、雫は哀願するような瞳をこちらへ真っすぐに向けていた。

「どうしたの、雫」

 合奏後の片付け作業をする部員達の人波をすり抜けるようにして、幸恵は雫に近寄り声を掛ける。

「ちょっと、一緒に来て欲しい」

 雫から誘いが掛かるのは珍しい。けれど、その用件には何となく察しも付いていた。いいよ、と返事をしながら幸恵は指揮台横の机に座る久美子を見やる。彼女は机の上にあったメトロノームを退けて複数枚の書類を広げ、何やら事務作業をしているみたいだった。あの様子だと当面の間、彼女がこの音楽室から動くことは無さそうである。ここでは出来ない話。雫の要件とは多分、そういうことだ。

 楽器を置いた幸恵は雫に導かれるまま、夕焼けに染められた校舎の廊下を歩いて行った。やがて本校舎へと繋がる露天の渡り廊下に出たところで、雫が扉を閉める。どうやら彼女はここを対話の場所に選んだようだ。随分日が短くなってきたとは言え、まだまだ勢い盛んな西日は肌をじりじりと焼いてくる。その熱と緊張に汗ばむ己の腕を、幸恵は戒めるようにするりと撫でた。

「話はくみ姉のこと、だよね」

 こちらから切り出すと、雫はそれにゆるりと頷く。

「府大会、黄前先輩に認められるように、演奏頑張ろうって思ってた。けど、」

 認められなかった。そんな雫の呻きが、幸恵の頭の中には既に浮かんでいた。いつになく暗く沈んだ表情の雫は、迷っているみたいに言葉を選びながら、とつとつと喋る。

「ソロオーディションも終わって、これからはもうコンクールと文化祭くらいしか行事が無い。なのに、今までと何も変わらない。このままじゃやっぱり私、先輩に認めてもらえない気がする」

 その語り口からは明らかな焦燥感を見て取ることが出来た。しかしそれも無理からぬこと。北宇治がこのコンクールを全国大会まで進出したとして、久美子ら三年生が部活に主軸として関わるのも、せいぜいそこまで。それ以降の主役はいまの二年生にバトンタッチとなり、三年生は実質的な引退となる。

 北宇治は二月に定期演奏会があり、その時点で進路の決まっている人が定演に参加することも無くはないとのことだけれど、それは彼らにとって実質『客演』みたいなものだ。公の行事としては他に、秋から冬にかけてのソロコンテストやアンサンブルコンテストなどもあるにはあるのだが、現三年生がそれらに参加することはまずもって無いだろう。と言うことはつまり、雫がその実力を、想いを客観的に久美子に示すための手段は、少なくとも久美子の在学期間中にはもう無いであろうことを意味していた。

「私、何のために北宇治に来たんだろう……」

 俯きながら一人ごちる雫の姿はまるで、北宇治を選んだことを後悔しているみたいだった。幸恵はそれをただ黙って受け止める。雫のことが気の毒だとかかわいそうだとか、そういった類の感情はその時、一切存在していなかった。その代わりに以前から介在していた心の中のもやもや、その正体と、幸恵は改めて向き合っていた。

 雫は、誰かに認められるために「音楽」という手段を用いる。それは一見して正しい。自分がどんなに音楽が好きか。ユーフォが好きであるか。それを誰かに伝えるためにユーフォそのものを使って想いを示すことは、限りなく有効な手段だと言えるだろう。相手もまた同じように音楽が好きでユーフォが好きならば尚更のことだ。それは幸恵自身も雫と接する中で何度も考え、その度に辿り着いた仮初めの終着点だった。そして雫はこれまでずっと、己の想いを証明するために、オーディションという場でそれを示してきたのだろう。結果だけを抜き出して言うなれば、相手を制することで自分という存在の全てを認めさせてきた。だからこそ雫は今でもその手段に拘り続けている。

 けれど、本当にそれだけなのか?

 以前は答えを見出せなかったことが、ここ数カ月の練習やソロオーディションを経た今の幸恵にはハッキリ疑問として浮かび上がっていた。もしも本当に他人に認められるための手段が相手よりも上手くなること以外に無いのだとしたら、じゃあ、自分はどうなるというのだ。麗奈は、幸恵の想いを汲んでくれた。もっと上手くなりたい、憧れに辿り着きたいと思う自分の為に、今まで以上に厳しくも温かく接してくれている。久美子は、自分を許してくれた。一度は失われたと思ったその優しい眼差しは今、もう一度自分に向けて注がれている。認められる、ということとは少し違うかも知れないけれど、それらはお互いの理解がひとつ進んだからだ。そのひとつの理解が互いの距離を縮めたり、壊れてしまった仲を修復させることもある。

 自分だって別に、この二人に、音楽や演奏で勝ったわけじゃない。それどころか、はっきり言って音楽も楽器も何の関係もない話だ。けれどそうやって色んな手段を通じてお互いを理解し合ったり打ち解け合ったり、時には喧嘩をしてぶつかり合ってでも相手のことを考えたり慮ったり……そういうことの繰り返しの先にだって、自分を認めてもらえる可能性はあるものではないのだろうか。

「雫はさ」

 意を決し、幸恵は雫に問い掛ける。これから先、自分の言うことがもしかしたら雫の感情を損ねることになるかも知れない。それは幸恵にも分かっていた。前々からもどこか心の片隅で思っていたことではあったのだが、その度に幸恵はその気持ちを欺瞞という名のラップで丁寧にくるみ、自分でも気付かぬところへと追いやっていた。久美子との一件があってからは余計に、妙な事を口走って亀裂を生むことに怯えていた。言わない方がいい。言わぬままでいた方が、お互いの関係を保つためにはいいのだ。そう考えてこれまでつぐんできた口を、あえて幸恵は開く。

「もしかしてユーフォさえあれば、言葉なんかいらないって、そう思ってない?」

 その鋭い一言に、雫はどきりとしたようにこちらを向いた。その表情には微かな困惑、そして心外、といった色が浮かんでいる。突き刺すように幸恵を見る彼女の視線は、極寒の吹雪をも連想させるほど冷たかった。

「そりゃ雫は凄いよ。あたしと同い年なのに、全国金が常連の聖女で三年間ずっとレギュラーで、ソロになるぐらいユーフォめちゃくちゃ上手で。あたしなんかからしてみたら天才なんじゃないかって思うぐらい。だから雫はきっと、音楽とかユーフォさえあれば自分を他人に理解してもらえる、認めてもらえるって、そう思ってるのかも知れないけど」

 喋り出した途端、口の中が恐ろしい速度で渇いていく。緊張と恐怖。いかに仲良くなったと言えど、こんなことを雫に言うのは初めてで、それに彼女がどういう反応を示すのかは全く予想がつかなかった。無言でこちらを凝視する雫から放たれる威圧感はあまりにも強く鋭く、まるで内臓がずたすたに引き裂かれているような錯覚さえ抱かせるほどのものだった。それまで幸恵が関わって来たどんな人物からも、あの麗奈からでさえも、これほどまでの鋭気を受けたことは無い。重苦しい沈黙も相まって、全身を無数の針が貫いていくみたいだ。その苦痛に自分の顔が次第にひしゃげていくのを感じながら、それでも幸恵は、ここで引き下がるわけにはいかない。

「あたしはそうは思わない。誰かに認められるって、それだけじゃないと思う」

 決然と言い切る。雫は未だ黙ったままだったが、その全身から滲み出た強烈な感情は激流となって幸恵に襲い掛かり、ちっぽけなその身体を押し流そうとしてきた。幸恵もまた負けじと、雫の瞳をじっと見据える。その表面に、様々な感情が浮かんでは消えていく。怒り。悲しみ。混乱。絶望。目まぐるしく変わっていくその色は、雫自身にも己の気持ちをコントロールし切れていない事を表していた。

「どうして」

 やっとのことで雫が漏らしたその声は、ひどく震えていた。まるで今すぐにでも泣き出してしまうのではないか、と思えるくらいに。

「私は今まで、ずっとこうしてきた。憧れてる人に、尊敬する人に認めてもらうために、ユーフォを吹いてきた。上手くなれば人は自分を認めてくれる。そう思ってユーフォを吹いて、それで実際に認められてきた。なのに、何が違うって言うの」

「違わないよ」

 雫の言葉に、幸恵はかぶりを振る。

「何も違わない。それだって、自分を誰かに伝えるための大事な方法。今まではそれで認めて欲しい人に認めてもらえた。もしかしたら一番伝わりやすい方法かも知れない。でも、それはただの方法の一つ。他にも方法はきっとある、って私は思う」

「そんなの無い」

「どうして? 何で無いなんて言い切れるの」

 きっぱりと断言する雫に、幸恵はなおも食い下がる。雫がここまで頑なに他の手段を否定するのが、どうしても分からない。彼女の過去に何かがあったのかも知れないし、別に大したことじゃなくてもそれを遥かに上回るほど、音楽の力による伝達の凄さと快感を味わってしまった雫は、他の手段をすっかり忘れてしまっているのかも知れない。それにしたって、と幸恵は内心思っていた。幾らなんでもその考えは極端過ぎやしないか、と。

「例えば言葉でだって、人とは分かり合える。こうやって話し合うことだって、お互いに少しずつでも理解していく方法の一つだと思う。勿論それだって万能じゃないし、行き違うことだってあるけど。身振り手振りだって絵だって、出来る手段は他にも沢山ある。それをたくさん積み重ねたら、いつかお互いを認め合えることだって、ある筈だよ」

 それは、幸恵自身の信じるやり方だった。『自分から壁を越えて仲良くしていけば、相手もそれに応えてくれる』ということに気付いたその時からずっと、言葉という道具は互いの壁を越えるための最も重要な架け橋の一つだった。だからこそ幸恵は誰かと接する時、自分から話題を振ることを躊躇しない。何の益体も無い話題でも、相手と自分を繋ぐ最初の切っ掛けにはなるのだから。そしていざという時、相手に向かって真っすぐ正直な思いを相手に告げるのを悪いことでは無いとも考えていた。少なくとも幸恵にとって、自分を表現する手段としては、音楽や楽器よりも言葉の方がずっと得手であったから。

「そうじゃない?」

 窺うように問い掛けた幸恵に、しかし雫は悲しそうな表情でゆっくりと首を横に振る。

「だって、言葉に頼るのは卑怯だから。自分の気持ちと全然関係ないことだって、幾らでも取り繕えるから」

 雫から放たれたその言葉が、心臓にがつんと鈍い衝撃をもたらす。息が、出来なかった。目の前の景色が一瞬暗転したような錯覚。白と黒に染め抜かれた世界の只中で、雫の声だけが冷淡に響く。

「でも音は、そんなことは出来ない。自分で積み上げて、磨き上げてきたものしか出せない。だから私の本気を伝えるには、私が一番磨き上げられるユーフォの音以外に、無い」

 だからどうしてそうなるんだ。本当にそれ以外、自分には何も無いとでも思っているのか。雫のあまりの意固地さに、幸恵の感情も次第に沸騰しそうになる。

「だったら、あたしと雫はどうなるの。あがた祭りの日、雫が自分の気持ちを喋ってくれたから、雫が色々話してくれたから、あたしだって雫がこんなに熱い気持ちを持ってる子なんだって分かったんだよ。まだまだ雫のこと、知らないことだって一杯ある。けど少なくとも、雫が音楽もユーフォもくみ姉のことも大事に思ってる、ってことだけは理解出来てるつもりだよ。それってあたしと雫が、言葉でやり取り出来たからじゃないの?」

 胸の内から溢れ出す気持ちの全てを、のべつ幕なしに吐き切る。最後はほとんど叫ぶようだったかも知れない。雫はおもむろに目を逸らし、何かを堪えるように唇を閉じた。荒く息を吐きながら、幸恵は感じ取っていた。この子が今何を考えているかを。目の前にいる自分のことを、どう思っているのかを。

「あたしは、雫のことを認めてる。凄い子だって。音楽だって、ユーフォだって、憧れの人にだって、こんなに好きなものに一生懸命になれる子なんだって。そんな沢山の好きって気持ちを、自分なりのやり方で表現しようとしてることだって、全部は分かんないけど、応援したいって思ってる。そんな風に雫のこと認められるようになったのは、あたしが雫と話せたからだよ。雫と沢山、話をしたからなんだよ」

 幸恵は必死に声を絞り出す。けれどその声に、雫が顔を向けることは無かった。この時、幸恵は一つの確信を抱いていた。

 自分と雫は、根本的に、真逆だ。

 分かっていた。これまでの雫との会話で、彼女の行動の一つひとつで、そのことはもう十分に示唆されていた。なのにそれを受け容れたくないと思う自分自身が、真相から目を背けさせていた。そしてそれは、雫が幸恵のことを本質的には認めていないことをも同時に意味していた。

 発端は、ソロオーディションに敗れ泣き崩れる雫を慰めた時。本当は雫の方こそ久美子を敵と見ているのではないか、とふと考えた幸恵は同時に、雫が以前語っていたことを思い返していた。

『勝ちたい、じゃないと思う』

 憧れの人に勝ちたいわけじゃないのに、認められるためにはその相手に勝たなければいけない。それはどう見ても完全に矛盾していることだった。なのに雫の中では矛盾しないことらしい。それまでの幸恵はそこで、考えるのを止めてしまっていた。これはきっと雫のような超人にしか分からない領域の話なんだろう、と。けれどその論理が完全に通用しなくなり、憔悴する雫の姿を見続けるうち、幸恵はある一つの可能性を考え始めていた。

 そもそも過去、雫を認めてきた人達は本当に、彼女のことを心の底から認めてきたのだろうか。その確証はどこにある? 人の心は分からない。少なくとも表立って、それを知り得る完全な手段なんて有り得ないはずだ。仮にもし雫が今までのやり方で多くの人から認められてきたのだとしても、これからも全ての人に認められる保証なんて存在しない、その筈だ。例えばもしも、あの場で久美子が負けていたとしたら、久美子は雫という存在をどう思っただろうか? 麗奈ならどう考えるだろうか? 他の人達ならば? そして、自分なら? 仮に、どうしてもソロを吹きたいという気持ちで臨んだ最後のオーディションで、その夢を雫に完膚なきまでにへし折られてしまったなら。その時、自分を負かしたその相手に対して、自分ならば一体どんな感情を抱くのか?

 多分、堪えられない。それが幸恵の答えだった。あれだけ勝敗が明らかな、そしてあれだけ憧れ慕っていた麗奈との直接対決でさえ、いざ負けた時には灼熱の炎に全身を焼かれるような悔しさを味わったのだ。どんなに彼女のことを認めていても、どんなに彼女を理解出来ても、もしも実際に対決して負けてしまったとしたら、きっと自分は雫のことを憎むだろう。少なくとも自分を負かした相手を、そうやすやすと認めるなんて出来ない。それが自分自身の偽らざる本音であり、雫の考えをどこかで認め切れていないことの、これ以上ない証左でもあった。

 幸恵と雫。二人は共に憧れに向かって歩む盟友。その筈だった。けれど実際には、お互いの価値観や思想が相反している。まともにぶつかり合えばきっと、互いに互いを滅ぼしてしまうぐらいに。それが以前から抱いていた、雫に対するもやもやの真相。そこに初めて辿り着いた時の心境は、まるで断崖の上から奈落の底に突き落とされたかのようだった。

『じゃあ、あたしと芹沢さんはこれから盟友だね』

 雫のことを盟友だなんて一方的に言い張って、一人で舞い上がっていたそれまでの自分が、馬鹿みたいだった。無論、雫に何か落ち度があるという意味じゃない。雫はただ一本気で真っすぐなだけ。他のことなんて全然目に入っていない。本当にただそれだけなのだ。でもだからこそ、雫は幸恵の考えなど受け入れてはくれない。受け入れてしまったら、それは今まで無垢に信じ貫いてきた自身の考えを、やり方を、過去の自分そのものを、軒並み拒絶してしまうことになるのだから。

 そんな事実の断片は、実はあちこちに落ちていた。なのにそこから目を背け、表面的な出来事に浮かれ切ってばかりいた自分自身が、この上なく腹立たしかった。このことに気付いてしまった以上、これからも雫と盟友として同じ高みを目指していくなんて無理だ、とさえ思った。けれどその気持ちを一旦心の奥にしまって、無我夢中で日々の練習に打ち込みながら思考と感情を鎮める中で、幸恵は徐々に気付き始めたのだ。自分の中にまた一つ、別の想いが芽生えつつあることに。

「それに気付けたのだって、雫と沢山、話せたからなんだよ」

 その思いはいつの間にか、ぽろりと口から零れ出してしまっていた。かあっと熱くなった瞳から足元に向けて止め処もなく溢れるものを、幸恵はただじっと見つめる。こんなに残酷で悲しい真実でさえ、雫という人物のことを何一つ分からないままでは辿り着きようもなかった。雫に今までよりもさらに一歩踏み込んだがために、雫がどんな子なのかということをより深く知ったがために、雫に対する理解がここまで及んだのだ。それだってやっぱり、自分と雫を言葉が繋いでくれたから。雫と話せなかったら、こんなことにもきっと一生気付けないままだった。

 そして今、色々なことを知ってしまった幸恵は、それでも雫のことを嫌いになることなんて出来やしないのだ。だってこんなに一途で、純粋で、透き通る氷のようにひたすら透明な心を持っている雫のことを、自分はこんなにも好きになってしまったのだから。例え自分のことなんて何とも思っていなくても。ひょっとしたら盟友どころか友達とすら思ってくれていないのだとしても。それでも自分は、雫のことが好きだ。この子に出会えて良かった。そんな思いが胸一杯に溢れ返ってしまい、幸恵はもうこれ以上喋ることすらも出来ずにいた。

 雫はずっと言葉無く、そこに佇むばかりだった。幸恵を射抜かんとばかりに放たれていた殺気もいつの間にか失せてしまったらしい。ただひたすらこの状況に翻弄されてしまった結果、何がどうなっているのか、どうしたら良いのか、雫自身も混乱を極めているようだった。涙を呑み込み、まだ引きつる喉を手で押さえながら、幸恵は声を絞り出す。

「ごめんね」

 ううん、と雫は首を振る。けれど、目を合わせようとはしてくれない。彼女のその迷い、悩みを、出来ることならば取り去ってあげたかった。それは雫の為だけではない。その対象である久美子にも、こんなにもいじましくて愛おしい『芹沢雫』という子がこうしてここに居ることに、本当の意味で気付いて欲しかった。久美子ならきっとこの子の本当の姿を見てくれる。そして可愛い後輩と思って大事にしてくれる。けれど、このままではそれも叶わぬことだろう。自分にはこれ以上、雫の心に介入することは出来なさそうだ。後は全て、雫本人に委ねるしかない。

「くみ姉ってさ、あたしに似てるとこあってさ」

 せめて最後にこれだけは、と幸恵は雫に語り掛ける。もう雫は幸恵の言葉など要らないと思っているのかも知れない。それならそれで良かった。ただ、聞いてさえくれたら。

「あんなにユーフォ上手くて他の人のことには良く気付く癖に、自分が絡んでることには鈍感だし、思ってることをそのまま喋っちゃったりもするし。かと思えば一人でぐるぐる考えて溜め込んだりして。何て言うかさ、すっごい不器用なんだよね。あの人」

 いきなり久美子のことを悪しざまに語り出す幸恵に対し、雫はいよいよわけが分からない、と言いたげに訝しげな瞳を向けてくる。それにも構わず、幸恵は続きを述べた。

「だから思うんだ。分かって欲しい、伝えたい、って雫が思ってるものも、もしかしてくみ姉にはきちんと伝わってないんじゃないかって。くみ姉の方が変な風に誤解しちゃってるかも知れない。だから、きっと他の何かでその間を埋めることが出来たら、くみ姉にもちゃんと雫の気持ちが伝わるんじゃないかって」

 努めて穏やかな声で、まるで自分自身が噛み締めるように、幸恵は言葉を紡いだ。久美子は自分と似ている。だから、無駄でも卑怯でも何でも良いから、久美子と話してみて欲しい。雫が自分にそうしてくれたように。そうしたらきっと、久美子にだって何かが伝わるかも知れない。そんな願いを胸の奥に押し込んで、幸恵は目頭を手で拭った。

「あたしの言いたかったのはそれだけ。ごめんね、力になってあげられなくて」

 雫はゆっくりとかぶりを振り、それから深くうな垂れた。それはまるで、万策尽きて途方に暮れているみたいな仕草だった。やがて立っていることに疲れてしまったのか、雫はその場にしゃがみ込み膝を抱える。いつの間にか夕陽は西の空にとっぷりと沈み込み、既に辺りは薄暗くなり始めていた。渡り廊下に吹く風はもう冷たくなっていて、夏の終わりを告げるように、二人の間を鋭く断ち切った。

「あたし、そろそろ帰るね」

 幸恵は雫の横顔に声を掛ける。こくり、と雫は小さく頷きを返す。二人の会話はそこで終わった。込み上げる切なさと寂しさを堪えるように、目を閉じてすうっと息を吸う。いつだったかも嗅ぎ取った、爽やかで微かに甘酸っぱい、柑橘のような匂い。この芳しい匂いを感じるのも、もしかしたらこれが最後かも知れない。その香りを脳裏にしかと刻み付けてから、幸恵はそっと渡り廊下の扉を引き、その場を後にした。

 部室に置いていた楽器を片付けて玄関へと向かいながら、雫とのこれまでのやり取りを思い返す。初めて雫と会話した時のこと。雫が差し出してくれた水筒のこと。あがた祭りの夜。二人で一緒に練習した日々。オーディションに敗れ悲嘆に暮れる雫の涙。全てが夢みたいだった。きらきらと輝くその光景を、出来るならば全部写真に換えてアルバムに収めてしまいたい。けれど当然、そんなことは出来るわけも無い。ならば記憶の中に、心のずっと奥に、その全てを大切にしまっておこう。ずっと、雫の匂いと一緒に。明日からはもうただの他人同士に戻ってしまっても、その思い出を支えにして、いつか一人で歩いていけるように。

 名残惜しさに後ろ髪を引かれつつもゆっくりとゆっくりと踏みしめた歩みは、ついに玄関にまで辿り着いてしまった。靴を履き替え、校舎の外へと一歩を踏み出す。これでもう後戻りは出来ない。溢れそうになる感情を堪えながら、幸恵はすっかり暗闇に覆われた天を仰ぐ。空に瞬く星の一つひとつは、本当は互いに物凄く遠く離れた宇宙の只中に浮かんでいるものらしい。あそこにある二つの星だって、ここから見ればすぐ隣り同士のようにしか見えないのに。きっと彼らは互いのことをこんな風に、小さな光の点のようにしか認識出来ないのだろう。その孤独を思う時、幸恵は何だか今の自分と重なるものを感じてしまう。吐息をこぼしながら自然と頭を下げた時、その音色は、流れ込んで来た。

 とても温かくて、優しくて、けれどどこかに一本芯の通った音。これは、久美子の奏でるユーフォの音。そう直感出来るほど、それは特徴的な音色だった。何の曲かは分からないけれど、その旋律はとても美しく、星明りを遍く映したこの空一杯に響いているみたいだった。足を止め、その音色に聴き入りながら、幸恵は自分のあどけない声を思い出す。

『くみ姉、スイソウガクって楽しいの?』

 幸恵が幼い頃から久美子はずっと、幸恵の少し前を歩いていた。幸恵が吹奏楽に興味を持ったのも、そもそもは久美子が吹奏楽をやっていると聞いたから。ううん、本当は違う。吹奏楽という単語を初めて聞かされたその時、久美子がとても楽しそうだったからだ。そう言えば、と幸恵の記憶はさらに掘り起こされていく。中学校に上がって吹奏楽部に入ろうとした幸恵が、最初に希望していた楽器。それはトランペットではなかった。そのときの幸恵が唯一、名前を知っていた楽器。実物を見たことは一度も無かったけれど、ずっと吹いてみたいと思っていた楽器。あの時幸恵はその名前を、希望楽器として口にしていたのだ。

『あたし、ユーフォが吹きたいです』

 ところがその年は小学校からのユーフォ経験者が二人も入部したために、幸恵の希望が叶うことは無かった。その代わりに彼女に宛がわれたのが、人員不足で補充の必要があったトランペット。自分もくみ姉と同じユーフォが吹きたかったのに、という気持ちはしかし、入部から日が経って徐々にトランペットの腕前が上達するにつれ次第に薄れていった。

 そうしてすっかりトランペットにも馴染み切った頃、参加した地区の定期発表会。幸恵は自分の出番の後で、ホールをうろうろしていた。他校の演奏に興味はまるで無かったが、ふと開いたプログラム表の中に『北宇治高等学校』の文字があるのを見つけた彼女は、久美子が北宇治の吹部に入った、という話を母親から聞いていたのを思い出した。考えてみたら久美子が実際に楽器を吹くところを一度も見たことが無い。せっかくの機会だし、どんなものか見てみよう。そう思ってホールに入った時、幸恵は麗奈の音と出会い、そして麗奈を憧れにしようと心に決めたのだった。

 久美子の後ろ姿を追い掛けているうちに、幸恵は様々なものと出会い、色々なものを身に付け、そして今はこうして北宇治にいる。吹奏楽部に入部し、憧れの麗奈と肩を並べ、トランペットを吹いている。それすらも切っ掛けは、そこに久美子が居たから。そんな忘れがたい筈の事実を、幸恵は今更のように思い出したのだった。

「なんだ。あたしの始まりって全部、くみ姉だったんじゃん」

 力無く呟いて、幸恵は渡り廊下を見上げる。既に陽が落ち切ってしまい姿こそ見えないものの、久美子のユーフォの旋律は遥か頭上の渡り廊下からここまで、さざ波のように打ち寄せてきていた。そこはついさっきまで、雫と対峙していた場所。優しくて温かくて切なげなその曲が、もう一回、少しテンポを落として最初から奏でられる。

 その刹那、堰を切ったように、幸恵の感情は弾けてしまった。咄嗟に顔を押さえても、喉から洩れる自分の声を抑え切ることが出来ない。その場に立ち尽くしたまま、まるで子供みたいに、幸恵は人目も憚らず号泣していた。

 どうして泣いているのか。それは自分でも良く分からなかった。けれど、もう駄目だった。自分は雫のことが好きで、それに負けないくらい、久美子のことも好きだ。なのにどうして、その二人は分かり合えないのだろう。二人の間に立っていた自分はどうして、何も出来ずに終わってしまったのだろう。その事実が歯痒くて、悔しくて。朗々と歌い続けるユーフォの音色に包まれながら、幸恵は強く願った。その優しい調べが雫に届くことを。そしていつの日か、久美子と分かり合って欲しい。認め合って欲しい。二人とも大好きな人達だから。認め合えないまま終わって欲しくない。

 響き続けるユーフォの音は、幸恵の鼓膜にも鮮烈に焼き付いていった。その響きに包まれながら泣いている間中ずっと、幸恵はまるで久美子に頭を撫でられる時のような、そんな不思議に温かい感触に身を委ねていた。

 

 

 

 

 

 

 

 音一つしない校舎は、まだ微かにまどろんでいるみたいだった。ここのところ朝練にも意欲的に参加していた幸恵だが、こんなに朝早く登校するのは今日が初めてのことだ。暦の上ではまだ夏の筈なのに、夜が明けて間もないせいか、気温は随分と肌寒い。朝一番に部室の鍵を開けるのはいつも久美子と麗奈だ、とは聞いている。ひょっとしてこんな早い時間でも二人はもう登校しているのかも。そんなことを考えながら玄関で上履きに履き替え、幸恵は音楽室へと向かう。

 ゆうべは家に帰ってからもずっと、雫のことを考えては泣き、久美子のことを考えては泣いていた。そうしているうちにやがて涙も枯れ果て、ようやっと鎮まった自分の心にはぽっかりと大きく開いた穴のような喪失感と、拭い切れない寂寥だけが残されていた。

 夏休みに入ってからのたった数週間のうちに、眠れずに過ごした夜がもう何日もある。でもそれも昨日で終わりだ。きっともう自分には、こんなにも心動かされる出来事が訪れることは無い。あんなに楽しかった日々も、あんなに苦しかった日々も、全ては過ぎ去ったのだ。これからは自分の目標に、憧れに向かって、ひたすらに技術を磨いていこう。先輩達の、北宇治吹部の、そして自分自身の悲願を達成できるように。それでもどうしても耐えられないと思ったら、その時はひっそりと、心の奥底にしまった思い出の欠片を眺めよう。あの子の香りと一緒に。それさえあればきっと、また前を向いていけるはずだから。

 そう自分に言い聞かせながら階段を上ろうとしたところで、幸恵はふと何処かから漏れてくる音に気が付く。その瞬間、幸恵は駆け出していた。外履きに履き替えるのも忘れ、息を切らし、風を切って、全速力で。中庭の一角、その先に、銀色のユーフォを抱いた彼女の後ろ姿を見つける。そのベルから鳴り響く旋律を、幸恵の耳はしかと覚えていた。天から降り注ぐ朝の光を一身に浴びながら、毛布のように柔らかく温かいユーフォの音色は、まるで夢の続きに小舟を浮かべるようにゆらゆらと、ほんのちょっとだけたどたどしく、名も知らぬその曲を歌い上げてゆく。

「雫」

 幸恵はその名を呼ぶ。二度と自分の口から出ることは無いと思った、その名を。

「幸恵」

 雫は呼んでくれた。自分の名を。二度と呼ばれることは無いと覚悟していた、その名を。

 この時見せた雫の顔を、幸恵はずっと忘れることは無いだろう。それは彼女が奏でていた旋律と同じように、これまでに見た彼女のどんな表情よりも美しく、きらきらと輝いていた。

 

 

「ありがとう」

 

 




この物語はフィクションです。登場する人物、団体、その他名称などは、実在のものとは関係ありません。
 また、この作品は「宝島社」刊行の小説「響け! ユーフォニアム」およびこれを原作としたTVアニメの二次創作物であり、全ての権利及び許諾等は、原作者である武田綾乃先生、宝島社、響け!製作委員会に帰属します。


二〇十七年 八月某日  わんこ(Rocklimit)


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