黒魔女にっき。 (宇宮 祐樹)
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黒魔女はお茶会がしたい。

 よろしくお願いします。


 

 ミーシャ・エリザベートは邪悪で冷酷な黒魔女である。

 

 杖を振るえば闇が蠢き、魔法を紡げば混沌が訪れる。人ならざるものを使役し、まるで羽虫を潰すかのように人間を蹂躙する様子は、人々を震え上がらせた。

 その手に握るのは、全てを統べる魔法の黒杖。身に纏うは、夜空を切り取ったようなローブ。頭の上には深淵よりも黒い三角帽子。その下の肩口まで届く髪は、夜空で瞬く星のような金だった。

 

 全てが黒で構成された、少女とも呼べるような容姿の黒魔女は、森の小さなテラスで独りカップを傾ける。

 麗しくも幼さを想起させる、憂鬱気な表情を浮かべながら、彼女はその薄い桃の唇を開いた。

 

「ねっむー……」

 

 ミーシャの寝覚めはクソみたいに悪い。口を開けて寝たので口の中がイガイガした。

 

「うぅ……朝なんてなくなればいいのに……」

 

 適当な安い茶葉で淹れた紅茶が彼女の口の中へ注がれる。淹れてからまたちょっと二度寝したので、彼女の喉を潤すその液体はぬるかった。もっと言うと結構苦かった。さては砂糖入れてねえなこれ。

 小さなテーブルに置かれていた角砂糖をドバドバとブチ込んで、ミーシャが再びカップを傾ける。

 

 今日は運命の日。あの白魔女であるアイリスとのお茶会の日なのだ。

 

 もちろんただ平和にお茶会をするなんてことはない。このお茶会はあの忌々しき白い魔女にこれ以上にない羞恥と辱めを与えるための、いわば処刑なのだ。

 そのために今回のお茶会は色々お金をかけた。白魔女に盛る毒薬の材料と、ケーキとクッキーとイチゴのタルトとモンブラン。ぶっちゃけ自分の食べたいものにかけたお金の方が多かった。仕方のない出費だった。

 

 それでも、ちゃんと彼女に盛るための毒薬は完成した。

 ローブの懐から紫色の小瓶を取り出し、黒魔女は不敵な笑みを浮かべる。

 

「ふっふっふ……これさえあれば、あの白魔女も……」

 

 邪悪な黒魔女が一晩をかけて自ら作り出した、禁断の毒薬。どれほど恐ろしいものだろうか。これを呑んだ白魔女の事を思うと、今から黒魔女はわははと声高らかに笑いたい気分になった。

 しかしまだその時ではない。静かな笑みと共に、黒魔女は小瓶を懐へと忍ばせる。

 

 呼び鈴のベルが鳴ったのは、その時だった。

 

「はーい、今行きまーす!」

 

 椅子からぴょんと降り立って、ミーシャが机に立てかけておいた黒杖をふるう。

 黒魔女の家は湖の岸辺に立つ、大きな館である。その裏に設けられたテラスなので、玄関からは一番遠い。しかしミーシャは黒魔女であり、魔法使い。玄関までの転移など造作もないことだった。

 

 大きな屋敷のこれまた巨大な玄関にミーシャは黒い煙とともに現れ、錆びついた金属のドアノブを掴む。

 そうして開いたその先には、一面の白が広がっていた。

 

 まず目に入ってきたのは、金の刺繍が施された純白のローブ。その上から被せられるように薄い白のストールが巻かれていて、見上げた先にある三角帽子も、同じように白かった。

 体を隠すローブからでも分かる、豊満な体。均整の取れた、端正な顔つき。目に灯ったひとみの色は翡翠で、流れるようになびく髪だけが、黒に染まっている。

 全体的に大人びた印象を持つその女性は、うげ、と顔をゆがめるミーシャにゆったりとほほ笑んだ。

 

「おはよう、ミーシャちゃん」

「アイリス……」

 

 その名を、アイリス・ミルフィーユ。純白に染められた、白魔女の名を冠する者である。

 

「今日はお茶会に呼んでくれて、嬉しいわ」

「うん……あっ、えと、あなたこそよく来たわ! ま、ヒマということね」

 

 一瞬素が出たのを取り繕って、ミーシャが肩をすくめる。

 

「とりあえず早くお茶にしましょ。ほら、着いてきなさい」

「あ、待ってミーシャちゃん。その前に」

「ん? 何よ」

 

 と振り向いたミーシャの帽子を、アイリスが優しく脱がせる。

 いきなり何を、と言いかけたミーシャの前髪に、アイリスの細い指が触れた。

 

「前髪が乱れてるわ。直さないと」

「……い、いいわよそんなの。別に外行くわけじゃないし」

「ダメよ? せっかくの綺麗な髪だし、女の子なんだから、ちゃんとしないと」

「うぅ……」

 

 アイリスの翡翠の瞳が、ミーシャの金の瞳と交差する。自分の頬が赤くなるのを感じて、ミーシャはたまらずその視線を外した。

 しばらく経ってから、アイリスがよし、とミーシャの頭ぽんぽん、と軽く叩く。少しだけくすぐったい感触にミーシャは目を閉じると、お気に入りの黒い三角帽子が頭の上へと戻ってきた。

 

「終わった?」

「ええ、終わったわ。可愛いわよ、ミーシャちゃん」

「ちゃっ、ちゃんはやめてってば!」

 

 三角帽子のつばを両手で掴み、赤くなる顔を隠してミーシャが口を尖らせる。

 

「……ほかに、変なところない?」

「ないわよ?」

「……よし! それじゃあついてきなさい!」

 

 改めてミーシャが声高らかに叫び、黒杖をとんとんと鳴らす。

 黒い煙がミーシャを包み込み、目を開けた次の瞬間には、彼女は元のテラスへと移動していた。

 その隣には、同じようにして白い煙に乗って木漏れ日に現れたアイリスの姿。既に両の手では数えきれないほどにお茶会に誘われ、案内されたこのテラスは、アイリスの家からでも転移できるくらいには覚えていた。

 

「さ、座って。今からお茶淹れるから」

「ええ、お願いね」

 

 アイリスが席に腰を下ろしたのを確認し、ミーシャが少し離れたテーブルで彼女の背を向けながらポットを手に取る。朝入れた紅茶とは違って、ちゃんとお店の人に聞いた客人用の高級な茶葉だ。これであの白魔女に怪しまれることはない。

 

 そして、ここから彼女の計画が始動する。

 彼女の懐に忍ばせていた小瓶から、紫色の液体が滴り落ちた。

 

(ふふふ……油断している今がチャンス! まさかあいつも最初から毒を盛られるとは思っていないでしょう!)

 

 ちらりと後ろのテーブルを確認すると、アイリスは帽子を脱いで、ふわあと呑気にあくびをしていた。その仕草でさえ、お花に包まれたような上品さがうかがえる。

 だがこの紅茶を飲めば、彼女は見るも絶えない姿に変貌してしまう。そうして、黒魔法の恐ろしさを身をもって知ることになるのだ。くっくっく、とほくそ笑みながら、ミーシャはカップに注いだ毒薬入りの紅茶をアイリスのいるテーブルの上へと運んだ。

 

「ほら、まずはこれでも飲みなさい」

「ありがとう、ミーシャちゃん」

「だからー! ちゃんはやめてよ!」

 

 その余裕も今のうちだ、と内心でほくそ笑みながらも、ミーシャが顔を赤らめる。

 そうしてアイリスが紅茶のカップを傾けたのを見て、ミーシャは満足気に自分の分の紅茶を手に取った。

 すると、はたとミーシャが疑問に思う

 

(あれ……どっちに盛ったっけ……?)

 

 カップはどちらも同じ柄だ。それこそ区別はつきようもない。ならば色はどうか。これもミーシャが開発したのはとても完成度が高く、一旦溶けてしまえば色を失う、無味無臭の完璧な毒薬である。紅茶は平然と秋の紅葉のような色で湯気を立てていた。

 

(わっ……忘れた……!?)

 

 完璧な誤算である。まさかどっちのカップに毒を盛ったかを忘れてしまうなど。

 しかし、まだ慌てるような時ではない。最終的な確率は二分の一。当たる確率も、外れる確率も均等だ。だが、その大きすぎる確率ゆえにミーシャはカップを傾けるのを躊躇ってしまう。

 

 何か、確実な手がかりさえあれば。混乱しているミーシャの耳に、ふとアイリスの呟きが入ってきた。

 

「うーん、この紅茶、やっぱり……」

 

 ミーシャはそれを見逃さなかった。

 

 アイリスがテーブルの角砂糖へ手を伸ばした瞬間、ミーシャは自分のカップを一気に煽る。

 びっくりしたアイリスを無視して、ごくごくぐびぐび、とミーシャの細いのどが精いっぱいの音を鳴らした。思ったより苦くて全部飲むのに時間をかけたが、ミーシャは安全な方の紅茶を飲み干し、テーブルにカップを叩きつけた。

 

 あのアイリスのことだ。いくらミーシャの作った毒薬が優秀であろうと、それに気づく可能性は高い。

 だからこそ、気づいた瞬間に自分の紅茶を全て飲み干すのだ。そうすれば、アイリスは自分に出された紅茶を飲まざるを得ない。そうして、ミーシャの目の前で無様な姿を晒すのだ。

 

 このアイリスの呟きによって、あちらの紅茶に毒が盛られているのは確実。

 完全勝利である。思わず椅子から立ち上がり、自分の紅茶に砂糖を入れている白魔女を指さして、黒魔女が口を開く。

 

 そして――

 

 

 

「ふはははは! アイリス、あなたの負けおぼろろっろうぇおぉろろろっぬうぷぅぇげろ」

 

 

 

 ミーシャはゲロを吐いた。

 

 

 

 

「ミーシャちゃん、大丈夫? 手伝おうか?」

「うるさいっ!」

 

 テーブルの下で雑巾を握りしめながら、ミーシャが涙目で叫ぶ。椅子に座ったままのアイリスは、あららと口元に手をやりながら、さきほど砂糖を淹れた紅茶を傾ける。アイリスは少し苦いのが苦手だった。

 ミーシャの開発した毒薬は、端的に言ってしまえば催吐薬だった。それも一口飲めば胃の中のものを全てブチ撒けるような劇薬である。

 それを使ってアイリスを辱めようと策した結果、朝飲んだ紅茶はミーシャを経て大地へと還っていった。割といっぱい出た。

 

「うう……なんでこんなことに……」

 

 アイリスを騙すことだけで頭がいっぱいだった。くそぅ、と歯を食いしばり、ミーシャが顔を歪める。

 すっぱい臭いに包まれながら雑巾を力任せに絞ると、バケツの中にどぼどぼと水が落ちた。

 

「それにしてもミーシャちゃん、また失敗しちゃったわね」

「うるさいうるさいうるさーい! あんたは黙ってケーキでも食ってなさいよ!」

 

 雑巾を床にたたきつけて、黒魔女が叫ぶ。それに呼応するようにして、奥の部屋からふわふわと白い皿の上に載ったショートケーキがふたつ、魔法によって運ばれてきた。

 今日で十六回目の負けである。今のところ、ミーシャに白星は微笑んでくれない。

 

「あら?……このケーキ」

 

 目の前に出されたイチゴのショートケーキを見て、アイリスが目を大きく開いた。

 ふわふわの白いクリームの上に、自己主張が激しい大きなイチゴ。スポンジに挟まれたフルーツの色彩は鮮やかで、爽やかな甘い香りがアイリスの鼻孔をくすぐる。

 

「ん? ああ、それ? あんたが好きって言ってたから。感謝しなさいよね」

「でも、これって……」

 

 アイリスが覚えている限り、このケーキは一日数十個しか生産しない限定品だ。シンプルながらも丁寧に作られたそのケーキは、アイリスの住んでいる王都でも人気の一品となっている。

 

「まったく、それ買うために朝から並んだんだから。しっかり味わいなさい」

「ミーシャちゃん……!」

「だーっ! 何よあんた! いきなり抱き着いてくるんじゃないわよ!」

 

 急に立ち上がってきたアイリスに、ミーシャが驚いて悲鳴を上げる。彼女の無駄に巨大なバストへ顔がうずめられ、ミーシャは目の前の果実をもぎ取って自分のに付け足したい気分になった。

 体格差ゆえに少しだけ拘束されたミーシャに、ふと気づいたアイリスが呟く。

 

「でもミーシャちゃん、私に毒を盛りたかったらこのケーキに盛ればよかったんじゃない?」

「何言ってるのよ、それだとあんたがケーキ吐くでしょ? そうしたら私が朝早く並んだ意味がないじゃない」

「ミーシャちゃん……あなたって子は……!!」

「だから抱き着くなーっ! 苦しいからさっさと離しなさいよぉー!」

 

 うがー! と吠えながらミーシャが短い手足をじたばたと動かす。ようやく解放されたのは、これでもかというほどに柔らかくハリと弾力のある胸の感触を味わった後だった。

 

「ありがとね、ミーシャちゃん」

「……ふん! さっさと食べるわよ」

 

 頬を膨らませながら、ミーシャがアイリスの対面へと腰を下ろす。そうしてアイリスのものと共に運ばれてきたケーキに、ミーシャは優しくフォークを入れた。

 

「ん~おいし! 朝早く起きた甲斐があるわ!」

 

 口の中に広がるクリームの甘さと、スポンジのふわふわした触感。フルーツの酸味がアクセントとなって、ミーシャは思わず両手で頬を押さえた。この美味しさなら、あの白魔女が気に入るのも分かる気がする。

 アイリスもそんなミーシャを見て、微笑みながらフォークを動かす。流れていく時間は、とてもゆったりとしていて、すばらしいもののように思えた。

 

「ねえ、ミーシャちゃん」

「んむ?」

 

 ケーキを口いっぱいに頬張ったミーシャが、アイリスの呼びかけに顔を向ける。

 

「ミーシャちゃんは、私にいつまで挑戦してくれる?」

「ふん、愚問ね。白魔女はそんなことも分からないのかしら」

 

 優しく首をかしげるアイリスに、ミーシャは嘲笑を含めて返した。

 

「もちろんあなたが負けるまでよ。そうして、みんなに黒魔法を認めてもらうの!」

 

 椅子に座ったままふんぞり返り、黒魔女は高らかに笑う。それを見る白魔女の瞳は、まるで雨の日の空のように鈍く重い輝きを灯していた。

 しばらくの短い時間が流れ、アイリスが閉ざしていた口を開く。

 

「そっか……ごめんね、変なコト聞いて。ミーシャちゃんも頑張ってるのね」

「そうよ! 昨日なんて新しい黒魔法を発明したんだから!」

「あらそうなの? ちなみにどんな魔法?」

「ふふふ、それはね……」

 

 絶えない笑顔を浮かべるミーシャに、アイリスもつられて頬を緩める。

 黒魔女と白魔女。二人のお茶会の時間は、日の沈むころまで続いていった。

 

 



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黒魔女はケーキが食べたい。

 

 昼下がりの王都は、どこもかしこも賑わっていた。

 

 街の中心をまたぐ大通りには、煉瓦造りの建物が連なっている。そこを行きかう人影は様々で、その中で一人、黒いローブに三角帽子を被った奇妙な少女の姿があった。

 肩まで伸ばした金髪を流し、ご機嫌で歩く彼女はとある一件のケーキ屋さんで足を止める。そして鼻唄を歌いながら、その黒魔女はケーキ屋のドアを勢いよく蹴破った。躊躇はなかった。

 

「おっはよーぅ! 今日もいつものよろしくぅー!」

「もっと静かに開けろ!」

 

 豪快な入店をキメたミーシャに、カウンターに座っていた男が声を上げた。それを気にする様子もなく、ミーシャはカウンターに背伸びしていつもと同じ量の銀貨を投げる。

 

「いいか、俺いつも言ってるよな? お前のせいで何度その扉を直したと思って……」

「早くしてよケインー、今日わたし昼食べてないのよー」

「クソっ……お前は人の話を聞く気が無いのか……!」

 

 ない。あるはずがない。

 ケインと呼ばれたケーキ屋の男は、そう悪態を吐きながらガラスケースに並ぶケーキへと手を伸ばす。半ば雑に揃えられたショートケーキとモンブランを皿の上に一度に乗せると、それをカウンターテーブルへと置いた。

 

「おら、さっさと食って出てけ」

「ひどーい。ケイン、そんな態度取ってたら女の子に嫌われるわよ?」

「お前に態度の事だけは言われたくないんだが……」

「ん~、おいしそ! いただきまーす!」

「話を聞け!」

 

 カウンター席に座ったミーシャが、ショートケーキへフォークを入れる。柔らかなスポンジとなめらかなクリームで構成されたそれは、彼女の表情を緩ませるには十分すぎた。

 朝に並ぶ限定品とは違う、また別のケーキ。それでも苺の酸味が効いていて、シンプルな味わいが飽きさせないようになっている。これなら何皿でも食べれられるような気がした。

 頬に手をあてて、もぐもぐとケーキを食べ進めるミーシャにケインが頭を抱えて呟く。

 

「……お前、おととい来たばっかじゃねえか。そんなに食って太らねえのか?」

「別に? ふふん、黒魔法にはナイスバディを維持できる魔法があるのよ!」

「ショボい魔法だな」

「なにおう!?」

 

 がたん! とミーシャが両手をテーブルに叩きつけた。

 

「あー違う違う! そうだな、凄い魔法だと思うよ」

「そうでしょうそうでしょう? もっと黒魔法を褒めなさいよ!」

 

 胸を張りながらモンブランへと手を付け始めたミーシャに、ケインは少しだけ憂鬱な視線を向けた。

 

 ミーシャ・エリザベート。ケインの営むケーキ屋へ常駐していて、自らを黒魔女と称する奇妙な少女だ。好きなケーキは苺のショートとモンブラン。たまにチーズケーキを頼むときもある。

 黒魔法の稀代の使い手という点を覗けば、いたって普通の可愛らしい彼女に、ケインはどうしても違和感を抱かずにはいられなかった。

 

 前に一度、彼女の魔法を見たことがある。

 彼女が杖を振るうたびに辺りが漆黒に包まれ、言葉を紡ぐたびに闇がうごめき出す。まるでミーシャが黒そのものになっているようだった。

 彼女が言うには初級も初級の魔法らしいが、魔法に疎いケインでもそれが並大抵な事ではないことが分かった。そして、ケインはそれに恐怖すらも覚えていたのだ。

 

 その光景を思い出し、改めて幸せそうにケーキを頬張るミーシャへ視線を向ける。

 考える前に、既にケインの口は開いていた。

 

「お前さ」

「ん?」

「いや……もうちょっと、なんか、欲とかねえのかな、とか」

「欲? どうしてよ」

「自分を誇るより、黒魔法を誇ってるように見える。それでいいのか、なんて思ってな」

 

 ケインの口から出たのは。不安というよりは羨望に近かった。

 それは嫉妬と呼んだ方が、良かったのかもしれない。

 

「お前、自分が黒魔法を使えてる自覚あるんだろ? だったら、それをもっと広めりゃいいじゃねえか。黒魔法って難しい魔法なんだし、それが使えるってだけ凄いだろ。それこそ黒魔法を使って金持ちになれば、こんな一介の菓子屋のケーキなんていくらでも食えるし……」

「はーあ、……分かってないわねえ、ケインは」

 

 ミーシャが肩をすくめて、呆れたように首を振る。

 馬鹿にされたような反応に、ケインは苛立ちよりも先に疑問が湧いた。

 

「何がだ?」

「あのね、私は別に黒魔法を使って有名になろうっていう気はないの。ただ私は、みんなに黒魔法がいかに素晴らしいかを知ってほしいだけよ」

 

 フォークの先をくるくると回しながら、ミーシャが語る。

 

「私がどれだけ黒魔法を使えるかなんて関係ないわ。大事なのはみんなが使えるかどうか。この魔法のすばらしさを知ってもらうために一番手っ取り早いのが、私が直々に使うこと、ってだけ」

「そこまでの価値が、黒魔法に」

「あるわ。絶対。確実に。必ず」

 

 ケインの言葉を遮って、ミーシャがはっきりと口にする。彼女の金色の瞳には、ケインが今まで一度も目にしたことがないまっすぐとした意志が灯っていた。

 

「確かに私は黒魔法を覚えるまで時間がかかったわ。辛かったし、何度も折れそうになった。でも、好きだったからここまで使うようになったの。だから、黒魔法をみんなに好きになってほしい。それだけのことよ」

 

 気圧されるような表情に、ケインが恐る恐る口を開く。

 

「じゃあ、さ。なんでお前は、黒魔女なんて名乗ってるんだ?」

「……ほんとに知りたい?」

 

 覗き込むように問いかけるミーシャに、ケインが黙ってうなずく。

 そうして彼女は、頬に就いたクリームを人さし指ですくい、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「そっちの方が、かっこいいでしょ?」

 

 黒い三角帽子を傾けて、ミーシャが人差し指のクリームを舐める。その様子にケインは呆けたように口を開けていた。

 

「お前は……」

「んー?」

「……やっぱ俺、お前のこと分かんねえわ」

「何よそれ。そんなことより、ほら、これ!」

 

 肩を落とすケインに、ミーシャが空になった皿を突き出す。

 

「おかわり早くしてよ!」

「あーはいはい、分かりましたよ黒魔女さん」

「むっ、何その言い方。舐めてるでしょ!」

「舐めてねえよ」

 

 そこまで馬鹿にできるほど、ケインは肝が据わっていない。

 早く早くと急かすミーシャに微笑みながら、ケインはもう一度ガラスケースへと手を伸ばした。

 

 

「お前、それ以上食うとさすがに太るぞ」

「いいのいいの! 魔法使ってるし!」

 

 既にモンブラン五皿目に突入したミーシャに、ケインが呆れたような視線を向けた。カウンターテーブルには既に九枚の皿が重なっており、あの小さな身体にどれだけ入るんだ、とケインが心の中で呟く。

 計十皿目になってもミーシャの勢いは止まろうとせず、満面の笑みを浮かべながらケーキに舌鼓を打っている。黒魔女の尊厳なんてものは見つけられなかった。というよりも、元よりそんなものはない。

 

 ドアベルの音がなったのは、その時だった。

 

「いらっしゃい」

「こんにちはー……って、あら?」

 

 透き通るような声に、気配だけでも解る上品さ。その体にいち早くミーシャは反応し、受け皿を手に取りながら椅子をくるりと回して振り向いた。

 

「うげ、アイリス」

「ミーシャちゃん、今日はあなたもいるのね」

 

 背中まで届く黒髪をなびかせて、アイリスが微笑んだ。

 

「何してんのよあんた。仕事はどうしたのよ」

「今日は早く上がれたから、ここでお茶でもしようと思って」

「ふーん。まあ良かったじゃない。ほら、隣座りなさいよ」

 

 視線だけでミーシャが席を示し、再びカウンターテーブルへと体を向ける。その隣に座ったアイリスは、頭にかぶった三角帽子を脱いでケインへ話しかけた。

 

「いつもの、お願いね」

「もうできてますよ」

「あら」

 

 待ってましたとでも言わんばかりに、ケインが湯気の立つカップをアイリスへと差し出す。中に注がれている液体は、隣に座るミーシャの三角帽子のように黒かった。

 

「なにそれ」

「コーヒーよ。もしかしてミーシャちゃん、コーヒー知らないの?」

「こーひー?……知らないわね」

 

 甘党であるミーシャには縁のない言葉だった。思わずケインへ視線を向けると、彼はとても面倒くさそうな顔をしていた。

 

「苦いぞ。彼女のはブラックだから」

「ブラック……ケイン! 私もそれちょうだい!」

「お前さ俺の話聞いてた?」

「いいから! アイリスとおんなじの!」

 

 急かされたミーシャに、ケインが渋々ポットを傾ける。そうしてアイリスのものと同じように黒い液体がカウンターテーブルに出され、ミーシャは物珍しそうにその中を覗いていた。

 

「黒いわね……まさに黒魔女の私にぴったりの飲み物だわ」

「なあアイリスさん、こいつ本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫よ? ミーシャちゃんって黒魔女だし」

「何を根拠に……」

 

 そんなケインとアイリスの会話なんて露も聞かず、ミーシャが白いカップを一気に煽る。

 急な行動に思わずケインが口を開け、アイリスがあらあらと口に手を当てた瞬間、その音は聞こえてきた。

 

「んぐッ! おえッぶ! うごォぅんっふ! ふぶぅォあッ!」

「うわっ、汚ぇ! 飛ばすんじゃねえよ!」

 

 口元からコーヒーをまき散らしながら、ミーシャが必死に目をつぶって喉を鳴らす。なんとかして吐きだしたい気持ちを押さえ、ぐぐっと一気にカップを傾けてミーシャは空になったカップをテーブルに叩きつけた。

 

「にがぁぃ……何よこれぇ……泥水じゃないの……」

「だから言ったじゃねえか。話聞けって」

 

 そしてコーヒーは一気飲みするようなものでもない。

 魔法で取り出したハンカチでテーブルを拭きながら、ミーシャが涙目になって訴える。その隣のアイリスは、あらあらと笑ったまま、コーヒーに砂糖を入れていた。

 

「あー! アイリスずるい! 砂糖入れてる!」

「あら、別に私ブラックで飲むなんて言ってないもの」

「ふぬぬぬぬぬぬぅ……ずりぃ……!」

「そんな他人に見せられないような顔してねえで、ほら。口直しにこれでも飲んどけよ」

 

 見かねたケインがグラスに入ったオレンジジュースを差し出し、ミーシャが不満そうにそれを手に取る。少しだけ甘酸っぱい香りがミーシャの鼻を抜けて、爽やかな柑橘類の香りが口の中に広がった。

 

「おいしい……!」

「そうかい」

 

 一発でご機嫌になったミーシャに呆れるような視線を向けて、ケインがふとアイリスに尋ねる。

 

「そういやアイリスさん、こいつと知り合いなんですね」

「ええ、前からね。いつからだったかしら」

「そんなに長いんですか」

「少なくとも、このケーキ屋が開く前からだったと思うわ」

「えっ?」

 

 目を見開いたケインが、思わずミーシャへと視線を移す。彼がこのケーキ屋を開いたのは三年も前の事だ。そんなに深い仲なのか、とケインが一人で頷いた。

 

「……別に、そんなに仲良くないし。たまたま知り合っただけだし」

「あら? でもミーシャちゃん、たまにお茶会誘ってくれるじゃない」

「そ、それはあんたを黒魔法で倒すためだから! 別にあんたとお茶したいわけじゃないのよ!」

「どういう理屈だよ、それ」

 

 びし、と指をさすミーシャにケインが毒づく。傍から見ても照れ隠ししてるようにしか思えないが、ミーシャの中ではそうなのだろう。と、一人で納得しているケインが、ふと隣のアイリスへ視線を向ける。

 

「そんな……ミーシャちゃん、私とお茶したくなかったのね……?」

 

 そこには瞳をうるうるとさせながらミーシャの肩を掴んでいるアイリスの姿があった。

 

「うぇ!? ちが、違うから! そんなつもりで言ったんじゃ……」

「でもミーシャちゃん、さっき……」

「あー違う違う! そう! アイリスとお茶したかったの! ほら、これでいいでしょ!」

「ミーシャちゃん!」

「えぼォ」

 

 アイリスに抱きつかれて、ミーシャがなんとも可愛らしくない声を上げる。 

 しばらくアイリスの豊満で夢の詰まった胸の感触を嫌というほど味わったミーシャは、顔を真っ赤にしながらコップを手に取った。心なしか、視線がおぼつかないようにも見える。

 

「でもまあ、初めて会った時は驚いたわ。何せいきなり『勝負よ!』だなんて言って、黒魔法を撃ってくるんだから。私もびっくりして、危うくケガさせちゃうところだったの」

「その様子が容易に想像できますね。負けるとこまで想像できるのがミーシャらしいです」

「くそぉ……好き勝手言いやがってぇ……」

 

 歯をぎりぎりと軋ませながら、ミーシャがグラスの残り少ないオレンジジュースを一気に飲み干す。そうしてテーブルの上にコップを叩きつけると、懐から銀貨を数枚ケインに投げ渡し、椅子の上からぴょこんと飛び降りた。

 

「こうしちゃいられないわ! 黒魔法の研究を進めて、またあんたのことぎゃふんと言わせてやるんだから!」

「あら、ということは、またお茶会かしら」

「そうよ! 次の日曜日にまたうちで開くから、その時に来なさいよね!」

「ええ、楽しみにしてるわ」

「ふん、その余裕も今の内よ! ごちそーさま!」

 

 嵐のようにまくし立てて、ミーシャが勢いよく扉を閉める。ドアベルが激しく揺れ、ケインが頭を掻いて疲れたようにため息を吐いた。

 

「……本当に、あいつとアイリスさんってどういう関係なんですか」

「ふふ、ちょっと仲のいい友達よ?」

「友達ですか。とても騒がしい友達ですね」

「そう。ちょっと騒がしくて、ちょっとお転婆で、ちょっとドジっ子で、ちょっと残念だけど――」

 

 ごまかすような笑みを浮かべて、アイリスが小さく笑う。

 

「――とても強い、私の誇れる友達。それが、ミーシャよ」

 

 黒いコーヒーを包むカップは、白魔女の三角帽子のように白かった。

 

 




 一話目でゲロ吐いて二話目で汚いって言われるミーシャちゃんかわいそう


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黒魔女はお掃除がしたい。

 

 黒魔女ミーシャの住む屋敷は、とても大きい。

 

 湖のほとりに立つ豪邸で、かつての持ち主がどんな人間だったかは容易に想像できる。放浪していたミーシャが勝手に見つけて、勝手に住み始めた自慢のマイホームである。

 そして、この巨大な屋敷に住んでいるのは、黒魔女のミーシャただ一人。その他には人っ子一人いやしない。たまに来るのは白魔女だけで、基本的に悠々自適な一人暮らしを送っている。

 ただ、一人暮らしをしたとしても、これだけ大きな屋敷だ。いくらミーシャが魔法の研究をするからと言って、全ての部屋をまんべんなく使う訳ではない。

 

 ゆえに。

 

「なんでこんなに汚いのよぉー!」

 

 ミーシャの悲痛な叫びと共に、彼女の周りからネズミやクモが逃げ出していく。お気に入りの三角帽子には、クモの巣が被っていた。

 思い立って掃除をしようものなら、一日二日では終わらない。ミーシャは掃除をするたびに、この屋敷を作ったアホを呪った。おそらくこの世に存在していないが。

 

「うぅ、げほ……ホコリが目にぃ……!」

 

 積まれた段ボールを開くと、白い煙と共に箱詰めにされていた本が姿を現した。

 

 現在彼女が掃除をしているのは、一階の突きあたりにある大きな図書室だった。ここには古今東西の様々な魔導書が保管されており、室内は下手な図書館よりも多くの本棚で埋め尽くされている。

 その中には禁術指定されているものや、まだこの世には出回っていない未知の魔法が記されたものまで多彩である。しかし、そのどれもがミーシャにとっては既に不要の長物と化していた。

 

「白魔法……これも白魔法……やっぱり、ほとんど白魔法ね」

 

 埃まみれの表紙をぱんぱんと払いながら、ミーシャが憂鬱げに呟く。

 

 白魔法。純白の名を冠すその魔法は、俗にいう光の魔法だった。

 聖なる光によって全てを浄化し、万物を幸福で満たす。古代の文献には神との繋がりも記されており、白魔法は他の魔法よりも一線を画す、高度な魔法である。さらにそれは限られた者にしか使うことができず、その力を持つものは神の加護を持つと言われている。

 

 だがそんなものに当然興味はなく、ミーシャは次々と湧いてくる白魔法の魔導書をぽいぽいと後ろへ放っていく。既に後方には大きな本の山ができていた。

 

「これは、白……これも白……これ、は……あーっ!」

 

 死んだ目で分別をしているミーシャが、思わず声を張り上げる。

 

「間違いないわ! 黒魔法の魔導書! こんなとこにもあるなんて!」

 

 掲げたその本の表紙には、黒魔法の字がばっちりと刻まれていた。ミーシャは目をきらきらと輝かせながら、埃まみれのその魔導書に指を走らせる。

 

 黒魔法。漆黒の名を冠すその魔法は、俗にいう闇の魔法だった。

 邪なる闇をもって全てを穢れさせ、万物を絶望に堕とす。古代の文献には悪魔とのつながりも記されており、黒魔法は他の魔法よりも扱いが難しい高度な魔法である。

 魔法が確立されてから長い月日が経った今でも研究が進められている魔法で、扱うには相応の知識と努力と根気が必要になる。ゆえに黒魔法を好んで使う者は、あまりにも少なかった。

 

 一言でいえば、不人気で不思議な魔法。

 それが、ミーシャが得意とする黒魔法である。 

 

「なになに……黒魔法初級、基礎論理の第三章?」

 

 分厚い魔導書をぺらぺらと捲りながら、ミーシャがひとりごちる。既に掃除という目的は彼女の頭から抜け落ちていた。

 

「ああなんだ、この前一個だけ抜けてたやつだわ。こんな所に埋まってたのね」

 

 そんなこと思い出したミーシャはその場から立ち上がると、大きな本棚の間をぱたぱたと小走りで駆け抜けていく。そうして目当ての真っ黒な本棚を見つけると、魔法でほうきを取り出して、その上へ横に腰かけた。

 

「ええと、黒魔法初級、黒魔法初級……」

 

 ほうきで上へあがりながら、ミーシャが黒い本に一つ一つ指で確認していく。そうして一番上にたどり着き、黒い本たちの中に一つだけ空いている隙間を見つけた。

 第二章と、第四章の間。その後ろには、第十三章まで黒魔法の理論書が続いている。

 

「うん、よし! これで全編揃ったわね!」

 

 一列に連なった黒魔法の魔導書を見て、ミーシャが満足気に頷く。初級の魔導書が全て揃ったことにより、これで初心者にも安心して黒魔法を教えられる。今日の発見は、ミーシャにとっては中々大きな一歩だった。

 

「ふふふ、これでまた黒魔法が一歩前進したわ……この調子でいけば、みんなが黒魔法を認めてくれるのもそう遠くないわね!」

 

 ほうきの上で、ミーシャが腰に手を当てて満足気に胸を張る。そしてゆっくりとほうきを下ろしていき、木の床にすとんと降り立った。

 一面に染まった黒の本棚。改めてそれを見上げていると、ミーシャは心の底から湧き上がる高揚感に、思わず頬が緩んでいた。何ならその場で飛び跳ねたい気分だった。

 

「よし、それじゃあ掃除の続きを――きゃあ!?」

 

 そう呟いた瞬間、ミーシャの目の前を何かの影が勢いよく通り過ぎた。突然のことにミーシャは軽く悲鳴を上げて、思わず後ろに身を引いた。どん、と本棚に小さな身体がぶつかる。

 恐る恐るミーシャが顔を上げると、そこには真っ黒なコウモリが飛んでいた。いつから住んでいたのか、そのコウモリはきっきっとあざ笑うかのような鳴き声でミーシャの事を見下ろしている

 

「なーんだ、蝙蝠か……って、なんか腹立つ!」

 

 むす、と頬を膨らませて、ミーシャが魔法で取り出した黒杖をふるう。その瞬間、黒い雷が杖の先から迸り、コウモリへと一直線に飛んで行った。

 小さな落雷の音が図書室に響き、爆発が巻き起こる。笑っていたコウモリはチリも残らず消滅し、ミーシャは腰に手を当てて高らかに叫んだ。

 

「ふっふん、私をバカにするからよ! 地獄で後悔しなさい!」

 

 はっはっはと笑うミーシャの後ろで、ぐらん、と鈍い音が鳴った。先程の爆発により、黒い本棚がバランスを崩して倒れようとしている音だった。

 

「ん? 何の音――」

 

 それに気づいたミーシャが振り向いた時には、既に本棚は彼女の目の前に迫っている。よく分からないミーシャは倒れてくる黒い壁を見て、ぽかんと口を開けたままだった。

 

 そして。

 ばたばたばた。どぐちゃ。ずしん。ずんだかだっだん。「あっこれ死ぬ」――と。

 ミーシャの叫び声と共に、さっきよりも各段に大きな音が図書室に響いた。

 

 それから、しばらく。

 

「……んぅ、ぶはぁ! あー、死ぬかと思った!」

 

 出来上がった黒い本の山からなんとか顔を出して、ミーシャが体を這い出す。体についた埃を払い取り、そこらへんに放り投げられた三角帽子を被ると、もう一度悲惨なことになった本棚へと目を向ける。

 

「なんで……なんでいつもこうなるのよぉー!」

 

 彼女が昼食にありつけるのは、もう少し先になりそうだった。

 

 

 

 かなり遅めの昼食を取った後、ミーシャは屋敷の庭の掃除に取り掛かった。

 湖を近くに眺められる大きな庭は、ぼうぼうに伸びた雑草で埋め尽くされている。ここ最近、魔法の研究ばかりしていて、外に出る余裕がなかったのだ。自分の膝まである草を見下ろして、ミーシャが重たい息を吐く。

 

「うーん、さすがにここまで伸びてるとは思わなかったわ……」

 

 人力でやろうにしても、今日中には終わらないだろう。既に時刻は夕暮れに差し掛かろうとしており、薄くなった空が山の向こうに広がっている。

 

「しょうがない……悪魔さんにお願いしますか」

 

 不服そうにミーシャが黒杖を取り出し、その先を地面に向ける。すると彼女の足元を包むよう紫の光が迸り、地面に複雑な魔方陣を刻む。

 黒魔法の一つ、悪魔の召喚。自らの配下とした悪魔の存在を、魔力を介してその場に現界させるという高度な召喚魔法だった。

 

「おいでませ、古き森の災厄さん!」

 

 ミーシャがそう紡いだ瞬間、周囲の空気が変化する。

 激しい地鳴りと共に魔方陣から現れるのは、枯れ果てたような巨木。それがミーシャの周りから天を貫かんと伸び始め、いくつも絡み合ってはその形を成していく。

 めきめき、ぱきぱき、と音を立てて姿を現したのは、大木で構成された巨人だった。その頭は騎士の鎧のような無機質さを感じさせ、下半身はミーシャを護る籠のような形状をしている。

 

 現界が終わったのを確認して、ミーシャが自身を包む木の籠を掻き分ける。そうして後ろを振り向くと、その異形めいた人影は、沈みゆく夕日を背負ってじっとミーシャの事を見下ろしていた。

 そうして、災厄が枯れ木で構成されたその指を、ミーシャの方へとゆっくり伸ばす。

 

「久しいな……ミーシャよ……」

「うん、災厄さんもお久しぶり!」

 

 伸ばされた指に頬を擦り寄せて、ミーシャが頬を綻ばせて笑う。

 

 古き森の災厄。森の全てを汚し、世界に終焉を振りまく災禍の化身である。

 全ての生命を滅ぼす力を持ち、振るわれる杖は全てを穢れさせる。終わりを招くものとして畏れられ、祟られる森の化身を、ミーシャは自らの配下として従えていた。

 

 そんな災厄を前に、主であるミーシャは災厄に命令を下す。

 

「今日はね、ここの草刈りをしてほしいの」

「草刈り」

「そう、草刈り!」

 

 災厄の指から離れて、ミーシャが庭に生え散らかした雑草へ両手を広げた。

 

「草刈り、とは……」

「え、知らないの? この草、邪魔だから全部切ってほしいの」

 

 ほらこんなにぼーぼー、と自分の膝まで伸びた草木を踏みつける。

 

「できれば全部刈ってほしいんだけど……」

「請け負った……ではミーシャよ、こちらへ……」

「ん? どうしたの?」

 

 再びミーシャが災厄の指へと近づき、こてんと首を傾げる。その彼女の目の前に、災厄は巨大な指を突き出したかと思うと、その指の先にはから一個の真っ赤な木の実が成っていた。

 

「レムレスの実だ……それをそなたが食べ終えるまでに、全てを終わらせよう……」

「いいの? ありがとう!」

 

 朱に染まったレムレスの実をもぎ取って、ミーシャがぱぁ、と笑顔を浮かべる。

 そうして災厄は右手を掲げたかと思うと、その手のからいくつもの枝が伸びる。絡み合う枝は巨大な杖の形となって、災厄はそれを地面に突き刺すと、地獄から響くような声で、ぶつぶつと詠唱を始める。

 

 しゃり、とミーシャがレムレスの実に歯を立てた。

 

「全ての森の精よ! 我が杖の糧とあれ!」

 

 地面に立つ杖から、黒い波と共に穢れが広がった。

 うっそうと茂る雑草は黒い波に揺らされた途端に塵となり、荒々しい大地を露出させる。漆黒の波動は広がり、屋敷の庭は一瞬にして更地と化して、辺りを冷たい風が吹き抜けた。

 全ての生命を滅ぼし、無へと返す災厄の化身。深き森の意志より生まれしその異形たる者は、ゆっくりと巨大な杖を振り上げた。

 

「我が主の、望みのままに……」

 

 紅に染まった空を背負い、災厄が静かに紡ぐ。

 

 すると大地から草木が芽吹き、荒廃した世界へと色が戻る。程よく伸びた草は冷たい風を受けて、さらさらと波をうつ。色とりどりに咲く花が、災厄の虚ろな瞳に映る。

 そしてミーシャの方へと向き直ると、その指を頬へと伸ばした。

 

「これで、よいか……?」

「うん、ありがとう! この木の実も美味しかったよ!」

「それならば……よい……」

 

 指から伸びる細い枝が、ミーシャの手にある木の実のかけらへ伸びる。そうしてその枝が彼女の頭を撫でた後、災厄は伸ばす指を引いて杖を地面に立て、改めてミーシャへと向き直った。

 

「ミーシャよ……私は、災厄の化身……全ての始原と終焉を司る、輪廻そのものである……」

「ん? どうしたの?」

「……そなたの意志一つで、私は万物を無に帰すことも、新たな世界を作り出すことも出来る……全ては、ミーシャ……我が主の望みのままに……」

 

 悪魔のささやきが、ミーシャへと降り注ぐ。森羅万象を統べる怪物は、その手を主へと差し伸べる。

 だが、その手は優しい言葉で包まれた。

 

「世界なんてそんなこといいよ! それより私は、災厄さんがいてくれることの方がうれしいもん!」

 

 太陽のような笑みを浮かべて、黒魔女が災厄へと両手を広げる。肩で切りそろえられた金色の髪が夕日に反射して輝き、災厄の瞳にはそれが印象深く映っていた。

 しばらく、無言の時間が流れる。ミーシャはえへ、と少し恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「……それが、我が主の望みならば、そうしよう……それでいい……それがいい……」

「でしょ? 私も、災厄さんといる方が好き!」

「うむ……私も、ミーシャの事は好んでいる……主として、すばらしい人物だ……」

「やだもー、そんなに褒めても何も出ないってばー!」

 

 頬に両手を当て、体をくねらせながらミーシャが笑う。

 

「それじゃあ災厄さん、今日はありがとね! おかげで助かったよ! 何かお礼しないと……」

「よい……私はそなたに仕える有象無象の一つである……これしきの事は取るに足らん……」

「そうなんだ……うーん、でも……あ、そうだ」

 

 考え込んでいたミーシャが、思い出したように手をポンと叩く。

 

「災厄さん、一緒にご飯食べよう! 私がご馳走してあげるから!」

「……それが、ミーシャの望みであるのなら……」

「うん、よし! それじゃあ今日は外で食べよっか!」

 

 るんるんと腕を振りながら、ミーシャが夕日に照らされる館へと歩み出す。災厄もそれをゆっくりと追うように地面に生える根を動かし、その巨体を動かす。

 

「ちなみに災厄さんって何食べるの?」

「私に食事というものはあまり必要ない……故に、何を食べてもあまり変わらぬ……」

「じゃあこの前買ってきたケーキにしよ! すごい美味しいケーキがあってね……」

「そうか……それは楽しみだ……」

 

 一人の少女と、一体の邪神。その二人の間には、言い得ぬような繋がりがあった。

 




 草刈りするためだけに呼ばれた災厄くんかわいそう


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黒魔女は授業があんまりしたくない。

 

 グローレンス王立魔法学校。

 

 南の大陸でも最高峰の魔法学校で、その歴史は魔法と共に歩まれたと言っても過言ではない。数多くの歴史に名を残す魔術師を輩出しており、全ての魔術師の憧れる場所でもあった。

 そんなグローレンス魔法学校の図書室は広く、ミーシャの館が丸ごと入るような大きさである。その全ては魔術書で埋め尽くされていて、古今東西あらゆる魔術書がそこに存在していた。

 

 知識と静寂の二つが支配する空間に、白い衣装を身に纏った女性が一人。

 この図書室の司書であり、学院で白魔法の教師をしているアイリスは、手に持っていた本をぱたりと閉じた。

 

 やはり違う。どれもこれも、彼女の目的に適したものではない。いつもなら気品の溢れる彼女の表情は、今だけは物憂げなそれに染まっていた。

 肩肘をついて、アイリスが薄い唇から静かな吐息を漏らす。顔の横に垂れるつややかな黒髪を指でいじりながら、アイリスは退屈に思いを馳せていた。

 

(黒魔法、どうしようかしら……)

 

 きっかけは今日の朝だった。

 

『アイリス先生。図書室に黒魔法の魔術書ってないですか?』

 

 とある男子生徒から、こんなことを聞かれたのだ。思わずアイリスは長い廊下を歩く足を止め、並行して歩く男子生徒に訝しげな視線を向けられた。

 黒魔法。全てが謎に包まれた闇の魔法である。アイリスはふむ、と顎に手を当てて、生徒に優しく問いかけた。

 

『あら、どうして?』

『はい。志望する学院の試験に黒魔法の科目があるらしくて』

『あらあら』

 

 珍しくアイリスがうろたえた。なるほど、試験の科目にあるのなら必要になるはずだ。それで、その参考資料を探すために司書であるアイリスへと問いに来るのは必然である。

 

『探してもどこにもなくて困ってるんですよ。仲間にも探してもらってるんですけど、全然集まらなくて』

『そうねえ……待って、仲間? 何人いるの?』

『他に黒魔法が必要になってる奴らで……あー……10人ちょいですかね』

『あらあらまあまあ』

 

 まさか複数人いるとは。アイリスは今年の上半期で一番動揺した。

 アイリスの経験上、そういった試験に黒魔法が出されるのはかなり珍しいケースである。なにせ黒魔法というのは、未だ研究が続いている未知の分野の魔法だ。それをまだ最高峰の魔法学校とはいえ、発展途上の生徒に課すのは酷も酷だろう。

 だが、確かに黒魔法を試験に使うような学院はあった。しかしそれは志望者が一人とか二人とかのまだ許容できるようなスケールで、二桁ともなると話が違ってくる。予想外の事態に、アイリスの視線が泳ぐ。

 

『それで、魔術書の方は……』

『……ないのよ、それが』

『へっ?』

『ごめんなさいね、少なくともこの学校にはないのよ』

『あ……えぇっ!? 本当ですか!?』

『ええ、本当』

 

 この学校には黒魔法を記した魔術書は存在しなかった。大半の魔術書はほとんど研究所だったり専門の学院に回されたりしていて、一般の学校に出回ることはほとんどなかった。

 だからこの学校に限らず、黒魔法の授業というのはほとんど存在しない。例えあったとしても、それは講師がたまに見せるような独学のものだったり、たまたま白魔術の対比として魔術書に出てくるようなレベルである。

 

『そ、それじゃあどうすれば……』

『大丈夫。私も、いくつか当たってみるわ。お仲間さんにもそう伝えておいてちょうだい』

『わかりました。こっちでも何か探してみます』

『ええ、頑張ってね』

 

 そうして驚きながら去っていた彼は黒魔法の魔術書を見つけられたのだろうか。見つけたとしても、その仲間同士で理解できるのだろうか。アイリスの頭は、今日そのことでいっぱいだった。

 そして放課後になってからアイリスは自分で図書室を探してみたが、やはり黒魔法の魔術書は見つからない。関連する文献を漁ってみても、とても試験で使えるような内容のものは存在しなかった。

 

 本格的にどうしようか、と悩んでいるその時。

 アイリスの耳に、図書室らしからぬどたばたとした足音が鳴り響いた。

 

「うおおおおおアイリス! くたばれええええええ!」

 

 聞き覚えのある叫び声に、アイリスがゆっくりと振り返る。そうして視界を埋める黒い霧へ咄嗟に取り出した杖を振るうと、白銀の矢が黒の煙を貫いた。

 霧が晴れ、姿を現したのは黒の長杖を持った少女の姿。黒いローブに金の髪をなびかせる、ミーシャがそこに立っていた。

 

「ふふふ、中々奇襲は効いたようね。いくら白魔女でも、仕事中に襲われるとは思ってなかったでしょう?」

 

 腕を組みながら、ミーシャがにやにやと頬を吊り上げる。彼女の言う通り、アイリスの反応はいつもよりも数瞬だけ遅れていた。そのことを理解したミーシャが、再び杖を天へと掲げる。その先には、漆黒の霧が塊を成し、雷を纏っていた。

 

「何をやってたかは知らないけど、こんな狭い場所ならチャンス! アイリス、今日こそあなたを黒魔法で始末してやるわ!」

 

 椅子に座ったまま口を開かないアイリスに、ミーシャが高らかに叫ぶ。何やら余裕をブッこいてるようだが、この魔法は昨日ミーシャが作り上げた、まだ世に出ていない完全新作の魔法。一発で防ぐのはそれこそ奇跡でもない限り不可能である。

 勝利を確信した笑みを浮かべ、ミーシャは黒杖を振り下ろす。黒く染まった闇からいくつもの雷撃の槍が生まれ、その全てがアイリスへと襲い掛かった。

 

 稲妻がアイリスの眼前へと迫る。そうしてミーシャは――笑顔のまま、固まった。

 

「ミーシャちゃん」

 

 雷の音に紛れる、微かな呟き。普通に考えれば掻き消えるはずのその声が、どうしてかミーシャにはとてつもない不安と共に感じ取れた。ぶわっ、とミーシャの全身が氷水に浸されたような寒気が走る。

 鳴り響く爆発音と巻き上がる砂煙。得体のしれない不安に身をこわばらせるミーシャの目に、それは入ってきた。

 

「ここは図書館ですよ?」

 

 静かに呟くアイリスの左手には、ミーシャの放った雷撃がまるで藁のように束になって掴まれている。昨日一晩中かけて開発したミーシャの魔法は、アイリスに簡単に防がれていた。

 そのまますたすたとアイリスが間合いを詰めて、かたかたと震えているミーシャの前へ立つ。そして左手に持った雷撃の束をミーシャの顔面の前へ突き出すと、生徒に教えるような優しさで問いかけた。

 

「図書館では静かに、って教わらなかった?」

「あ……えっと……で、でも」

「ミーシャちゃん」

 

 突きつけられたアイリスの左手の雷が、ミーシャの目の前でばぢん、と跳ねる。上から見下ろすアイリスの瞳はとても冷たく、ミーシャは一瞬息を呑んだ。

 

「ひぇ、ご、ごめんなさいっ」

「分かってくれればいいのよ? もうしない?」

「しません……すいませんでした……」

 

 目に涙をうるうると溜めながら、ミーシャが震えた声で答える。そんな黒魔女の姿を見て、ふとアイリスは考えを巡らせた。そうして心の中でだけ笑みを浮かべると、涙目になったミーシャへと口を開く。

 

「ねえねえ、ミーシャちゃん。ちょっと私のお願い、聞いてくれる?」

「な……い、嫌よ! 誰があんたのお願いなんか!! 」

「図書室」

「ひぅっ……すみませんでした……やります……なんでもします……」

「まあ嬉しい。ミーシャちゃんってとっても優しいのね」

 

 ガチ泣きをキメたミーシャに、アイリスが頬に手を添えて笑う。そして手に持った雷撃へ魔法をかけると、それらはアイリスの手の中で収縮し、完全に虚空へと消えていった。

 そしてアイリスはミーシャの肩に優しく手を添えて、そのうるんだ金の瞳を覗き込む。そうして反対の手に、とある時間表を取り出した。

 

 かくして。

 

 

「今日からあなた達に黒魔法を教える黒魔女のミーシャよ! ビシビシいくからついてきなさい!」

 

 場所は放課後の小さな多目的教室。

 昨日の一件はすでに忘れてしまったのか、教壇に立ったミーシャはふんぞり返り、唖然とした表情を浮かべる十人程度の男子生徒の前で声高らかに宣言する。教卓は置いてあるとミーシャの身体が隠れて生首になってしまうので、今は教室の端に置いてあった。

 

 あれから数日後、ミーシャは家から黒魔法の魔術書をいくつか学校に持ち込み、黒魔法の講座を開くことになった。教える事自体は基礎中の基礎なので断りたかったが、教室の後ろで微笑んでいるアイリスがそれを許してくれなかった。普通に漏らしそうになった。

 しかし、別段ミーシャとしても黒魔法を教えることに抵抗はない。むしろこれを切っ掛けに黒魔法に興味を持ってもらいたいと思い、退屈ながらも講座用の小さな資料を作るくらいには頑張った。

 

 生徒一人一人の机の上にある黒い冊子を見て、ミーシャがごほん、と咳払いをする。

 

「まあ黒魔法を教えるって言っても分からない事だらけだろうし、分からない事があったら何でも質問しなさい。黒魔女である私が完璧に答えてあげるわ」

「はい、じゃあ先生、質問いいですか」

「あらいきなり? でもいいわ、許可してあげる」

 

 生徒から先生、と呼ばれたことに少しだけ浮ついたミーシャが、手を挙げた気だるそうな生徒を指さす。

 

「先生パンツ何色ですか?」

 

 …………。

 

「黒魔女だからもちろん黒よ! 当然じゃない!」

「おおっ……!」

「なるほどっ……!」

 

 湧き上がるしょうもない歓声に、続けて隣の生徒が手を上げる。

 

「じゃあ先生! カップいくつですか!?」

「黒魔女だからもちろん、ブラックのBよ! ちゃんとあるわ!」

「あっそっすか」

「む、何よその反応……ってか、見ればわかるでしょ!」

 

 ダークのDではないらしい。急にテンションを落とした男子生徒に、ミーシャは口を尖らせた。

 別に貧乳でも悪くはない。あの控え目な胸部から生み出される柔らかな曲線は、大きいだけの胸には作り出せない魅惑のラインだ。それを理解できないようではまだまだ未熟な魔術師である。

 

「じゃあ先生、彼氏って――」

「あらあらあらあら、私ミーシャちゃんの講座を早く聴きたいわ」

 

 推定Fカップ、今日の下着は水色のアイリスが静かにため息を吐く。口を開けたままの男子生徒は凍り付き、静かにイスへと腰を下ろした。やったなアイツ、と同じ穴の狢である他の生徒が男子生徒へと視線を向ける。

 

「む、アイリスに向けての講座じゃないし」

「でも、ミーシャちゃんは優しいからやってくれるんでしょ?」

「やるけど……」

 

 不服そうにミーシャが魔法で本を取り出し、渋々と言った様子で語り始める。

 

「それじゃあ今から始めるわよ。みんなは私が作ってきたヤツ読んだ?」

「読みましたけど……」

「じゃ、それを前提に話をしていくから」

 

 そう言ってミーシャは白い粉のついたチョークを手に取り、かつかつと背伸びして黒板の半分辺りに白い線を走らせていく。

 

「それにも書いた通り、黒魔法っていうのは主に白魔法の『表』とを対をなす、『裏』の性質を持つの。一番わかりやすい例えは光と影ね」

 

 ミーシャが描いたのは、光に照らされた木の絵だった。その一本だけ描かれた木には太陽から隠れるように影が伸びており、ミーシャがそこにぐるぐるとチョークで円を何度も描く。

 

「今この状態には、光と影の二つの概念があるのは分かる? その二つの概念を表と裏に分けると、この木の影の部分が黒魔法である『裏』ね」

 

 逆に表はこっち、と木の反対側の太陽が当たっている地面に、ミーシャがぐるぐると丸をつける。

 

「実は本質的な違いはこれだけなの。白魔法はこの日の当たる部分に。黒魔法はこの影のある部分に性質を持つわ。アイリス、そうでしょ?」

「ええ、そうね」

 

 生徒が後ろに視線をやると、アイリスは微笑みながら頷いた。

 

「例えばアイリスは転移魔法の手段として、光から光へ転移するわ。だから、この日の当たっている地面ならどこにでも行けるのよね。逆に黒魔法は影から影にしか移動できないの」

 

 と、もう一本の木を描き始め、それに影を付け足しながらミーシャが説明を続ける。

 

「だから転移ができる場所は少ない。私もこうして木の影から木の影へしか転移できないし、砂漠みたいな影が無い場所だったら、転移の魔法を使う事すらできないわ。ま、建物みたいな影しかないところだったら別ね」

 

 だけど。そう付け足して、ミーシャが黒板消しへと手をかける。そうして丸い太陽と木から伸びる影を消すと、そこに細い三日月を描いた。

 

「私は夜になると、アイリスみたいに転移魔法が使えるようになるの。さて、ここで問題。どうして私は使えるようになると思う? あ、別に隣と話してもいいわ」

 

 数秒の沈黙があったあと、ざわざわと静かに生徒がざわめき始める。今の分かったか、あんまり分かんねえ、などと会話を続けているうちに、一人のメガネをかけた生徒が右腕を挙げた。

 

「はい、そこ」

「夜になって、影っていう区別がなくなるから、じゃないですか?」

「うーん、ちょっと惜しいかな。まあ、間違いではないんだけどね」

 

 残念、とミーシャが付け足して、手の内でチョークを遊ばせた。

 

「確かに夜になると辺りは暗くなるし、そうなると影とかの区別がつかなくなるわ。だから転移もやりやすくなる。でも月の明るい日とかだと、どうしても月明りの当たるところと、その影ができちゃうの」

 

 ミーシャがチョークを弱く握り、うすく木から伸びる影を描く。

 

「だからまあ、間違いではないのだけれど、答えとしては違うわね。他にいる?」

「じゃあ」

「お、またあなたね。いいわ、言ってみなさい」

 

 手を挙げた気だるげな生徒に、ミーシャが指をさす。

 

「夜だから、とかどうでしょうか」

「お、当たり。そういうことね」

 

 は? と教室の空気が一瞬だけ止まったような気がした。

 それを気にするような様子も見せず、ミーシャがかつかつとチョークを走らせる。再び丸い太陽の絵を今度は三日月の隣に写し、その二つを斜線で隔てた。

 

「仕組みはこう。さっきも言ったように、白魔法と黒魔法は二つの相反する概念によって成り立ってるの。そして、ここには今『昼』と『夜』っていう全く違う二つの概念があるのね」

 

 ここまで来ればあとは簡単。そう呟いて、ミーシャは三日月を丸で囲い、生徒たちの方へ振り向いた。

 

「つまり、私は夜という『状況』に裏の性質を持たせたの。そうすれば、昼は白魔法の天下だけど、夜になればひっくり返って黒魔法が使えるようになるってわけ」

「でも先生、さっき影と光って言ってましたけど」

「だから言ったじゃない、アレは例えばの話。アイリスもあんな方法じゃなくて普通に『昼間』っていう『表』の状況だからどこでも転移できるのよ。そうでしょ、アイリス?」

 

 そうミーシャが問いかけると、後ろのアイリスはこくりと頷いてみせた。ぽかんとして後ろに視線を向ける生徒たちに、ぺちぺちと両手を叩いてミーシャが口を開く。

 

「あなた達が学ぼうとしてる黒魔法っていうのは、こういうことなの。要するに思考の問題。概念を二つに分けて、それを正しく判断することがまず第一歩ね」

 

 揃いも揃って呆け顔を浮かべる生徒たちに、こんなところか、とミーシャがチョークを手放す。

 

「ま、そんなに難しく考えなくてもいいわ。慣れればいいだけの話だから」

 

 そしてミーシャが魔法で取り出した黒杖を振ると、出現した黒い煙が小さく分裂しそれぞれの生徒の前へとなびく。蠢く闇はだんだんと形を成していき、それは数冊の魔術書へと姿を変えた。

 

「来週までの宿題よ。今渡した本を全部覚えてきなさい。次の講座の一番最初でテストするから」

「こっ……これ全部ですか!?」

「当り前よ。それくらいしないと」

 

 試しにミーシャが自分の分をぱらぱらと捲ってみるが、別に問題はない。最初に予定した通り、これに記されている基本の思考方法をテストするつもりだ。

 唖然としたままの生徒に向けて、ミーシャが黒杖をしまって手を叩く。

 

「はい、じゃあ今日は初めてだからここまで! 私も面倒になってきたし、次の宿題ちゃんとやってきなさいよ! それじゃあ、解散!」

 

 

 誰もいなくなった、西日の光が眩しい教室。端に追いやっておいた教卓を魔法で運び、ミーシャがふぅ、と息を吐く。その様子を、アイリスは位置を変えずにずっと見つめていた。

 

「ここで良かった?」

「ええ、そこで大丈夫よ。ありがとう」

 

 確認をするミーシャに、アイリスが優しく答える。すると何を思い立ったのか、ミーシャが教壇の上に立ち、教卓の裏へと回る。そうして上から顔を覗かせると、再びアイリスへ問いかけた。

 

「どう?」

「うーん、やっぱり生首ねえ」

「クソっ……」

 

 身長が足りない。もっとグラマラスにならなくては。その点だけミーシャはアイリスが羨ましかった。

 なんてな事を考えていると、ふとアイリスが目の前へと歩み寄る。生首のままのミーシャを見下ろしながら、アイリスは重たげな雰囲気を纏って、その口を開いた。

 

「ミーシャちゃん、今日はどうだった?」

「ん、まあ普通ね。初めてだったらあんなんじゃないかしら」

 

 アイリスの視線に気づかず、ミーシャが肩をすくめる。

 

「でも、黒魔法を教えるのは悪いものじゃなかったわ。あんなに私の話を聞いてくれるの、初めてだったもん」

「……じゃあ、次の講座もやってくれる?」

「ふん、愚問ね! あなたが嫌って言っても無理矢理やってやるんだから!」

 

 悪戯めいた笑みを浮かべるミーシャに、アイリスもつられて笑う。さっきまでの重たい表情は、既にどこかへと消え去ってしまった。

 夕日が落ちる。赤く染まった太陽の光が、ミーシャの髪に反射してきらきらと輝いていた。

 

「ねえ、ミーシャちゃん。私、今日のお礼がしたいんだけど」

「え? なんかくれるの!?」

「そうねえ……この前、パスタが美味しいお店を見つけたの。この後行かない?」

「いいわねいいわね! あんたの奢りだからね?」

「ええ、もちろん。それじゃ、行きましょうか」

 

 教壇からぴょんと降り立って、ミーシャが教室を後にするアイリスを追う。

 差し込む日差しは、白いローブと黒いローブの二つを、朱色に染めていた。

 

 




 5話もしないうちにゲロ吐いたり下着晒されるミーシャちゃんかわいそう


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『追憶』

 

 じめじめとした森の中。木漏れ日の光は地面まで届かず、溶けるようにして森を薄暗く照らしている。背の高い樹の枝では小さな鳥がさえずり、その様子を見上げているのは、一人の黒いローブを纏った少女だった。

 大木に手を添えながら、黒魔女が足元をとんとんと踏み鳴らす。すると集まっていた小さな虫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていき、露出した木の根が姿を現した。

 

「ん~、もう少し先ねえ」

 

 根本に流れる魔力を元に、ミーシャが呟く。そうして森の奥へと視線を向けると、そこに広がる暗闇へと歩いていく。湿気の多い雑草を踏みしめながら、黒魔女は森の奥へと進んでいく。

 彼女の今日の夕食は、キノコのスープだった。

 

「うう……なんでこんなジメジメしたところに……」

 

 目の前をふさぐ枝葉を掻き分けながら、ミーシャが忌々しそうに呟く。目的のキノコはもう少し魔力の濃い森の深くにあるので、まだまだ進まなければならない。しかし、ミーシャの精神は既に限界に達しそうだった。

 湖のほとりに立つミーシャの館の、北側に位置する魔法の森。うっそうとした魔力を含む木々が森を覆いつくし、深部に向かうにつれてその濃度は強くなっていく。ぴりぴりとした瘴気を感じながら、ミーシャは手元の地図をぐるぐると回していた。

 

「こっちがこうだから……あー、えっと……ん? こんな木あったっけ? ってか今どこ……?」

 

 森の地図というのは分かりにくい。だんだんと苛立ちを覚えてきたミーシャは手に持った地図をくるくると丸め、魔法でそれを黒杖へ変換すると、それを勢いよく地面へ突き立てた。

 彼女の足元に、召喚の魔方陣が浮かぶ。そうして彼女は口を開くと、その言葉を紡いだ。

 

「おいでませ! ベルゼビュート!」

 

 瞬間、空気が変動する。ミーシャの周囲を漂う瘴気が一層に濃くなり、魔方陣の周囲で小さな雷が弾けた。そして魔方陣から煙が立つように小さな蟲の大群が噴き出し、塊となって宙に浮き始める。

 深淵から響くような重たい悲鳴が鳴り響き、蟲の塊からその化身が姿を現す。ぎょろりとした巨大な赤い複眼。触れれば全てを引き裂く、六本の節足。濁り切った不透明な翅をばたばたと動かして、その怪物は瘴気の満ちる森へと降り立った。

 大魔王ベルゼビュート。魔界を統べる、蠅の化け物である。

 

「べルさん、おはよう」

 

 こちらを覗き込む赤い複眼に、ミーシャが両手を広げる。まるでガラスのような複眼へ映ったミーシャの姿を見て、その蠅の形をした王はミーシャへとすり寄った。

 

「ミーシャ、ミーシャだ。久しぶりだね」

「ん? そうだったっけ?」

「ずっと呼んでくれなかったから、捨てられたのかと思った。怖かった」

「そんなことするわけないでしょ! まったく、ベルさんは心配性なんだから」

 

 おぞましい蠅の姿に怯えることもなく、ミーシャが翅の付け根をぽんぽんと叩く。そうするとベルゼビュートはミーシャから距離を取り、宙に浮かびながら頭を傾けた。

 

「今日はどうしたの」

「ちょっと道に迷っちゃったのよ。だから蟲さんにお願いしてキノコのあるとこまで連れてって」

「わかった。ミーシャの頼みなら、従う」

 

 首を縦に振ったベルゼビュートは、六つあるうちの二本の脚を広げて魔力を放つ。するとどこからかやってきた蟲の大群が、ベルゼビュートとミーシャを囲むようにして現れた。

 そして周囲に浮かぶ黒い煙に対して、ベルゼビュートが片脚で宙に線を引く。その途端に、周囲を取り囲んでいた虫たちは煙が晴れるようにして飛んで行き、森の中へと消えていった。

 

「……見つけた。行こう、ミーシャ」

「うん、ありがとね」

 

 宙をふよふよと漂うベルゼビュートに続いて、ミーシャが歩み出す。鬱蒼とした森を進む蠅の怪物と少女という奇妙な光景はしばらく続き、やがて少し進んだ地点で二人は進む足を止めた。

 目の前に立ちはだかるのは、大きな岩。苔むしたその巨岩を見上げて、ミーシャが呟く。

 

「こんなのあったっけ?」

「分からない。でも、この先にミーシャの望むものがあると思う」

 

 岩の前に近づいたベルゼビュートが、その表面をかぎ爪で掻く。そうして何かの紋章を刻んだかと思うと、ベルゼビュートはその目の前の地面に降り立ち、再び両脚を広げて魔力を放った。

 大地が揺らぎ、木々がざわめく。ミーシャがおっと、とバランスを崩すと、それを支えるようにベルゼビュートが彼女のローブを掴んで飛び上がった。

 

「何これ」

「僕では無理だから、他の人にお願いした」

 

 そして大地からせりあがるように出現したのは、ベルゼビュートよりも大きな体躯を持ったサソリだった。体を覆う土を剥がしながら、そのサソリはミーシャ達の方を一瞥すると、腕のはさみをばちんと鳴らして苔むした岩へとそれを向ける。

 堅牢な岩石にサソリのはさみが突き刺さり、岩肌にヒビが走る。しばらく岩とはさみが打ち合う音が森の中に響き、ミーシャは洗濯物のようにベルゼビュートに吊るされながら、その光景を眺めていた。

 しばらくして岩が崩れ、ベルゼビュートが優しくミーシャを地面に下ろす。サソリがその場を退くと、崩れたがれきの向こうにミーシャの探していたキノコが見えた。

 

「これでいい?」

「ありがとう! 思ったより早く見つかったわ!」

 

 とたとたとキノコの近くに駆け寄り、ミーシャが一つをつまんで興奮気味に話す。ぼんやりと光を灯した傘に、少し細めで手に収まるほどの柄。三角帽子を脱いだミーシャはその場にしゃがみ込んで、手に持った一本目を帽子の中へ放り投げた。

 

「良い色してるわ。ベルさん、一個食べてみる?」

「それじゃあ貰おうかな」

 

 そう言ってミーシャがつまんだ一個を差し出すと、ベルゼビュートは歯のついた口をがばりと開いてキノコを齧る。そうして上を向きながら咀嚼を繰り返すと、口の端を脚で掻きながら満足気に頷いた。

 

「良い魔力が溜まってる。味もいい」

「そう? じゃあ良かった」

 

 半分ほどまでキノコが入った三角帽子を被り、ミーシャがスカートについた土を軽く払う。

 

「ミーシャ。他にも見つけたみたいだけど、どうする?」

「ほんと? それじゃあ行きましょ!」

 

 そう言ったミーシャの前に、ふと大きな影が迫る。驚いたミーシャが視線を降ろすと、そこには尻尾を犬のように左右に振り、はさみを小さくぱちぱちと鳴らしているサソリが上目遣いでミーシャの事を見上げていた。

 いきなりグイグイくるサソリに、ミーシャが少し狼狽える。それを見て、サソリの意志を汲み取ったベルゼビュートがミーシャに答えた。

 

「乗ってもいいんだって」

「乗る」

「ほら、背中」

 

 ベルゼビュートが足で示すと、サソリがふんすと胸を張ったような気がした。

 

「もっとミーシャに頼られたいんだって」

「えっ……じゃあ、お願いね」

 

 遠慮しがちにミーシャがはさみを伝ってサソリの背中へ飛び乗り、腰を下ろす。つるつるの甲殻にすわると、どういう訳か少しだけひんやりとしていた。

 

「それじゃあ、行こうか」

「うん、よろしく!」

 

 ベルゼビュートが動き出し、サソリもそれを追うようにして足を動かす。妙な安定感を発揮しながら、サソリと蠅の化け物に囲まれたミーシャは更に森を進んでいくのだった。

 

 

「いや~、まさかこんなに取れるとは思わなかったわ! 二人とも、ありがとね!」

 

 帽子から溢れそうなキノコの山を見て、ミーシャが笑顔で隣のベルゼビュートと足元のサソリに視線を向ける。既に三か所ほどキノコの生えている場所を回り、むこう一週間分のキノコを手に入れた。これでしばらく食料には困らないだろう。むしろキノコだけで飽きる心配が出てくるほどだ。

 そうしてベルゼビュートの導くまま、帰る足をサソリに任せてミーシャがうん、と伸びを一つ。既に日は頭の上よりも少し西に傾いていて、ミーシャの腹の虫はさっきからずっと鳴っていた。

 

「お家帰ったら、サソリさんもベルさんも一緒にご飯食べよっか」

「いいの?」

「大丈夫、大丈夫! 私がご馳走してあげるから!」

 

 胸を張って言うと、足元のサソリが嬉しそうにハサミを鳴らす。そういえばサソリって何食べるんだろう、とミーシャが疑問に思った時、ふと一行の目の前を横切るように、日差しが差し込んだ。

 

「……あれ?」

「うん」

 

 その光と共に伸びているのは、程よく整備された並木道。巨大なベルゼビュートの身体さえ入るその並木道に出ると、ミーシャとベルゼビュートはお互いに顔を見合わせて首を傾げた。

 

「ここはまだ、調べてないね」

「こんなところあったんだ……ちょっと、行ってみよっか」

 

 足元のサソリにそう呼び掛けると、ベルゼビュートとサソリが同じように歩みを進めて行く。だんだんと進むにつれて差し込む光は強くなり、辺りの瘴気が濃くなっていく。不思議な感覚に身を委ねながら、ミーシャたちは並木道を抜けた。

 

 そして。

 

「わあ……!」

 

 ミーシャの視界に入ってきたのは、一面の黄色い花畑だった。地平線の向こうまで続く黄色い絨毯が、青い空の下に広がっている。太陽の光を受けて、黄色い花は一様にきらきらと輝いていた。

 たまらずミーシャがサソリの上から飛び降りて、花畑の中を駆けだす。黄色の中に混じり入る黒色は、その場でくるくると回ると、とても嬉しそうな笑顔でベルゼビュートたちへ微笑んだ。

 

「すごいすごい! こんな綺麗な場所があったなんて驚きだわ!」

 

 そのままミーシャが両腕を広げて、花畑へと身をゆだねる。空は突き抜けるほどに高く、太陽はミーシャの真上でさんさんと輝いている。一面を黄色の花で包まれたミーシャは、ふと胸の奥に何か熱いものを感じた。

 

「あれ……?」

 

 不穏な心の変化に、ミーシャが言葉を漏らす。懐かしさにも、寂しさにも似たような、喪失感のようなもの。それが急激にミーシャの心を埋め尽くし、頭の中から離れなくなっていた。

 黄色い花畑の中で、そんな気持ちに包まれる。そのことが、ミーシャにはどうしても違うような気がした。

 悲しいのではない。悲しくなっては、いけない。信じなければ。いつまでも、ここで待たなければいけなかった。それなのに、私は。どうして私は、信じられなかったのだろう。

 

 さあ、と風が吹く。黄色い花の香りが、ミーシャを包み込んだ。

 

「ミーシャ。ここはダメだ」

 

 ベルゼビュートの言葉に、ミーシャがゆっくりと体を起こした。

 

「どうして?」

「変な魔力が流れている。ずっとここにいると、ミーシャがおかしくなる」

 

 地面に置いた手のひらに、黄色の花が絡みつく。まるでミーシャの手を取るようにして触れる花の色は、ミーシャの髪の色の同じような色だった。

 

「こんなに、素敵な色なのに」

「ミーシャ、どうして君はここを素敵だと思うの?」

「それは……」

 

 どうしてだろう。ミーシャの心の中に、そんな疑問が湧き上がる。

 

「とにかくここは危険だよ、ミーシャ。早くこっちへ」

「……わかった」

 

 渋々呟いて、ミーシャが立ち上がる。ローブについた花びらを落として、まるで花畑に入るのを躊躇うかのようにしているサソリの上へと飛び乗ると、ミーシャはもう一度だけ黄色の花畑を眺めた。

 風に揺れる花畑。おかしな感情が渦巻いて、ミーシャの口から消え入るような小さな言葉が漏れる。

 

 

「裏切られた……」

 

 

 しかしそれは森のざわめきによってかき消され黄色の花畑はミーシャの視界から外れていく。待って、という言葉は出なかった。その言葉は、一度だけ言ったような気がしたから。ミーシャの口は、動かなかった。

 光から逃げるように伸びる並木道を進み、ベルゼビュートは虚ろ気な表情を浮かべたミーシャに言葉をかける。

 

「ミーシャ、大丈夫」

「うん……大丈夫」

「たぶんお腹が空いてるんだよ。早くご飯にしよう」

「……そうよ! そういえばまだ昼ごはん食べてなかったわ!」

 

 手をぽんと叩き、ミーシャがはたと気づく。もしかするとさっきの感情も空腹によるものかもしれない。それほどまでに腹が空いてるとは、こうしてはいられない。

 

「早くご飯にしなきゃ! サソリさん、頑張ってね!」

 

 足元へ呼び掛けると、それに呼応するようにハサミが鳴る。その光景を、ベルゼビュートの複眼はただじっと見つめていた。

 

 

 黄色の花畑に包まれて、あなたは何を思い出す?



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黒魔女は誘惑がしたい。

 

 ぱらり、とページを捲る音が、黒魔女の館のキッチンで響く。

 

「むむむ……やっぱりいくつか足りない……」

 

 大釜の前で唸る黒魔女の手には、錬金術と綴られた分厚い魔術書。やけに古ぼけたその本には、錬金術による材料の生成方法が記されていた。

 錬金術。万物を魔術的に解析し、流転させる術である。

 その中で黒魔法に関するものを見つけ、嬉々として作成に取り組むミーシャだったが、事前準備も無しにうまく行くはずもなし。材料が圧倒的に足りなく、ミーシャは外出することを余儀なくされていた。

 

「処女の血は……ま、カエルの血とかでいいかしら。別にいいわよね。ダメって書いてないし」

 

 明らかに無理がある解釈を呟きながら、ミーシャが魔術書に目を通していく。

 

「このよく分かんないキノコはこの前取ってきたので……うわ、何この石。私知らないし。そこらへんに落ちてるのでいいや。適当に魔力込めれば大丈夫でしょ」

 

 もうほとんど目的のものから離れているが、そうとも知らずミーシャが思考を巡らせる。そして半ば闇鍋のようになってきた材料の一番最後に、ふと見慣れないものがミーシャの目に入ってきた。

 

「男の、さ……さい、まる?」

 

 初めて見るその文字に、ミーシャが魔術書を読む手を止める。

 ミーシャも黒魔女以前に魔術師として色々な魔術書を読んできたつもりだ。そのミーシャが見たことがないという事は、よほどの貴重な素材で、なおかつ代用が効かないものらしい。それならば、確実に手に入れる以外に道はないようだ。

 だが、何度も言うようにミーシャはこの物体を見たことがない。かろうじて得られるヒントは、男が持っていて、おそらく球体のもの。

 

「……こればっかりは、取りに行くしかないわね」

 

 幸い、男なら王都に腐るほどいる。それなら別に一人や二人くらい頂いても構わないはずだ。後はどうやって男を捕まえるか。ふとミーシャは過去に読んだ魔術書の中から、とある一節を思い出した。

 

「ええと、確か誘惑すればいいんだったっけ」

 

 露出度の高い衣装を着ていけば男は簡単に釣れる。どこに書いてあったかは知らないが、まあ記憶にあるのなら間違いではないはず。むしろそれだけなら、思っていたよりも簡単だ。

 

 開いていた魔術書をぱたん、と閉じる。

 

「よし! それじゃあ早速男のさいまる、取りに行くわよ!」

 

 まるで他人には聞かせられないようなことを叫び、ミーシャが身に纏うローブを脱ぎ捨てる。

 

 かくして。

 

 

 小さな通りのそのまた路地裏。ミーシャはローブを念入りに羽織り、ちらちらと表の通りに顔を出していた。その白く柔らかい頬は、少しだけ朱色に染まっている。

 

「うう……実際に着てみると少し恥ずかしい……」

 

 路地裏に身を引っ込めて、ミーシャが恐る恐るローブを少し開ける。黒色の薄い布を挟んだ先には、紐と小さな布で最低限の部分を隠しているだけのミーシャの身体が覗いていた。

 なだらかな胸部から下腹部にかける曲線は大胆に露出していて、肉付きの薄い太ももと、幼さを感じさせる細い脚も全て丸見えである。思いのほか寒いので、帰ったら風呂に入ろうと思った。

 明らかにやりすぎた感が出ている服装に身を包んだ自分の体を見て、ミーシャが溜まらずローブを閉じる。その顔は、耳まで真っ赤になっていた。

 

「く、黒魔法のためだもん、仕方ないし……!」

 

 火照った顔をぶんぶんと振って、ミーシャが再び表の通りを覗く。すると、向こうの方から聞こえてくる足音に、ミーシャの眉がぴくりと動いた。

 三十代の半ばほどの、至って普通の顔をした男性。こうなりゃヤケだ、とミーシャはローブを握りしめ、勢いよくその男の元へと近づいた。

 

「お、おじさん!」

「ん? どうしたんだい、お嬢ちゃん」

 

 少し上ずった声で呼びかけると、その男性は微笑みながらミーシャの方へと振り向いた。

 

「わ、わた、私とちょっとイイことしない? ほら、そこの路地裏で……」

 

 ローブのつなぎ目をしっかし握りながら、ミーシャが恐る恐る自分が出てきた路地を指で示す。少し声が上ずってしまったが、もうここまで来てしまえばゴリ押していくしかない。顔を真っ赤にしながらミーシャが上目遣いで男の顔を見上げる。

 対する男の方はいきなり現れた奇妙な少女にきょとんと眼を見開くと、そのまま大口を開けて笑った。

 

「はっはっは、お嬢ちゃん、どこでそんなこと覚えてきたんだい?」

「あ、いや、えっと……」

「ほら、アメちゃんやるよ。おいしいから食べてみな」

 

 予想とは違う反応に困惑しながらも、ミーシャが差し出されたアメを口に放り込む。

 

「しゅわしゅわする……おいしい……!」

「だろ? もう一つあるから、帰ったら食べな」

 

 目をキラキラと輝かせ、ミーシャがもう一つ渡されたしゅわしゅわのアメを三角帽子の中へしまい込む。舌の上で泡がはじける不思議な感覚に、ミーシャはしばらく虜になっていた。

 そうしてはたとお礼を言っていない事に気づき、ミーシャが顔を上げて笑う。

 

「おじさん、ありがとう!」

「おう、もう変な遊びはやめとけよ!」

「うん、わかった!」

 

 ばいばーい! と元気に手を振りながら、ミーシャが路地裏へと帰っていく。るんるんとスキップをして元の位置に戻り、頬を押さえながらアメを味わっていると、はたとミーシャが叫んだ。

 

「って違うっ! おいしいけど違うっ!」

 

 地団駄を踏みながら、ミーシャがぷんすかと腕を振り回す。しかし貰った身としてアメを吐き出すわけにもいかず、ころころとほっぺたの裏側で転がしながら、ミーシャが腕を組む。実際にアメはおいしかった。

 急いで表の通りに赴いても、既に男の姿は見えない。騙された、とミーシャはアメを噛み潰さないように歯を食いしばり、路地裏へと顔を戻す。

 

「ま、まあいいわ。次の男に期待するとしましょう。男なんて腐るほどいるんだから」

 

 そうしてミーシャが再び路地裏から顔を出し、きょろきょろとあたりを見回した。しかし人の通りが少ないところを選んだせいで、表の小さな通りに人影は見られない。先ほどの男性が珍しいだけだったのか、からんとした通りにミーシャがため息をこぼす。

 

 後ろから声がかけられたのは、その時だった

 

「あら、ミーシャちゃん?」

「うわあぁ!?」

 

 唐突にかかる柔らかな声に、ミーシャが体を跳ねさせる。

 そうして勢いよく振り向くと、そこにはきょとんとしてミーシャの事を見下ろしているアイリスの姿があった。

 

「なんであんたがここに!?」

「ちょっとご飯を食べに行った帰りなんだけど……ミーシャちゃんは?」

「う、わ、私!?」

 

 ローブを握りしめながら、ミーシャが一歩後ずさる。舌の上の小さくなったアメを転がすのを忘れ、目をきょろきょろと泳がせながら、ミーシャは言葉を詰まらせた。

 何せ、黒魔法のために男をさらう真っ最中なのである。それを白魔女のアイリスに知られれば、絶対に止められてしまう。何とかしてこの状況を脱しなくては、とミーシャは足りない頭をフル回転させた。

 

「私は、ええっとぉ……そう、アメを買いに来たの! ほら、んべ」

 

 ミーシャが舌の上に乗ったしゅわしゅわのアメをアイリスに見せつける。

 

「あら、美味しそう」

「そうよ。あ、アイリスにもあげるわ」

 

 と、ミーシャが三角帽子に手を伸ばした次の瞬間。

 彼女の姿を包むローブが、ぱさり、と落ちた。

 

「…………」

「あら、ミーシャちゃんその格好」

「ぎゃあああああああああ!!」

 

 思わず身体を手で隠すも、その細い腕で隠れる面積は雀の涙ほど。ほぼすっぽんぽんの身体を見られたミーシャは、目をぐるぐる泳がせながらなんとかして口を動かす。

 

「ち、違うの! ホラちょっと今日暑いじゃない!? だから少し薄着でもしようかなって思って! 別にこれで誘惑とかしようとしてないし! ってかもう見ないでえええ!」

「あらあらあらあら」

 

 号泣寸前でしゃがみ込んだミーシャに、アイリスが困ったような視線を向ける。そうしてアイリスが腰を下ろして視線を合わせると、優しく微笑みながらミーシャに口を開いた。

 

「ミーシャちゃん、いくら暑いからって、こんなおへそが出るようなおめかししちゃダメよ? それじゃあまるで危ない人みたいだわ」

「危ない人ッ……!」

「そうよ? それに、そんなにお肌を見せたらカゼ引いちゃうわ。帰ったらちゃんとお風呂入りなさいね?」

 

 そうなろうとしていたのに、こう優しい言葉をかけられると途端に恥ずかしくなってくる。ミーシャは足元に落ちていたローブを急いで羽織り、目元に涙を溜めながら、そういえば、とアイリスに向き直る。

 

「アイリス、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「ええ、いいわよ。どうしたの?」

 

 黒杖を取り出して、ミーシャが宙に例の文字を走らせる。アイリスの顔が少しだけしかめっ面になった。

 

「錬金術でみたんだけど、この素材がどうしても分かんなかったの。男のさいまる? って言うんだけど」

「あらあら……」

 

 ふよふよと漂う文字にアイリスが困ったような声を漏らす。ミーシャはその様子を見て、どうしたのだろうと首をかしげた。

 

「なるほどね……ミーシャちゃん、それが欲しかったのね……」

「ほ、欲しいなんて一度も言ってないでしょ!? それより、知ってるんなら早く教えなさいよ!」

 

 ずるいずるい! とばたばたするミーシャに、アイリスが考え込むような素振りを見せる。しかしまあ、ここまで来てしまえば戻るにも戻れないだろう。

 半ば諦めのような気持ちになりながら、アイリスがミーシャを手招きした

 

「ミーシャちゃん、ちょっとお耳貸して?」

「ん? 別にいいけど……」

 

 ごにょごにょごにょ。

 ……。

 ぼんっ。

 

「な、なななななな! あ、アンタいきなり何言ってるの!?」

「でもミーシャちゃん、知りたいって」

「うわあああ違う違う! 違うのおお!!」

 

 別に違わないが、ミーシャにはそう叫ぶしかできなかった。

 顔を真っ赤にして膝をつき、頭を抱えながら唸るミーシャ。あホントに知らなかったんだ、とアイリスは口に手を当てて、慰めるようにミーシャへ声をかける。

 

「大丈夫よ、ミーシャちゃん。そういうことって誰にでもあるもの。恥ずかしがることないわ」

「うわあああああああん!!」

 

 逆効果である。ミーシャは死にたくなった。

 一しきり騒いだ後、二つ目のアメを舐めてだいぶ落ち着いたミーシャは、ふと冷静になって考え込む。

 

「別に……別に、正体が分かったなら取りにいけばいいじゃない!」

「えっ」

 

 それこそ違う。そうではない。

 アイリスが呼び止める前に、ミーシャが立ち上がって表へとおどり出る。そうして都合よく歩いていた男性を見つけると、大声を張り上げて駆け出した。

 

「うおおおおおお!! そこの野郎、キンタマよこせええええ!!」

「待ってミーシャちゃん! 今まで伏せてきたのに!」

「一個でいいから! 片方だけでいいから!」

「落ち着いてミーシャちゃん! どっちもダメなの!」

 

 珍しくアイリスが叫び、ミーシャを後ろから羽交い締める。不審がって振り向いた男性にすいません! と頭を下げて、アイリスは急いで路地裏へと引っ込んだ。

 

「何するのよアイリス!」

「ダメなの……ミーシャちゃん、ダメなのよ……!」

 

 見ず知らずの男性にキンタマよこせなんて言う奴がどこにいるだろうか。目の前にいることにアイリスは気がつかなかった。

 ぜえはあと肩で息をして、アイリスが諭すように人差し指を立てる。

 

「いい? ミーシャちゃん、見ず知らずの人にそう言うことを言っちゃダメなの。分かってくれる?」

「じゃあケインのキンタマを……」

「それもダメね」

 

 危ねえ。

 

「むー、じゃあどうすればいいのよ! タマがないと錬金術ができないじゃない!」

「うーん、そうねえ……」

 

 このままでは被害が拡大してしまう。どうにかして食い止めなければ、とアイリスは思考を巡らせる。できるだけ彼女に嘘を吐きたくはなかった。

 

「カエルの卵とかで代用できるかもしれないわ。同じ性質を持ったものだし、試してみるといいかも」

「カエルの卵……それだわ! その方が簡単に手に入るし! 名案ね!」

 

 目をキラキラと輝かせ、ミーシャが笑顔を向ける。少しだけ心が痛くなったが、アイリスにはそうする事でしかこの街の男性を守ることができなかった。

 

「こうしちゃいられないわ! アイリス、ありがとう! 早速帰って実験してみる!」

「ええ、その前にお風呂に入っておくのよ?」

 

 バタバタと走って去るミーシャにそう言い残し、アイリスがほっと息を吐く。危うく黒魔法によってこの街の男性が地獄をみるところだったが、これで最悪の事態は回避できた。

 

「これで……これで、いいの」

 

 この街を邪悪から守ることが、白魔女であるアイリスの使命だ。そのためならば、どんな方法を使うことも厭わない。

 キンタマの代わりを提示しただけなのに寂しそうに呟いたアイリスは、静かにその場から去っていく。辺りに残ったのは、ただの静寂だった。

 

 なお、結局ミーシャの実験は失敗に終わり、王都では再びミーシャを羽交い締めにするアイリスの姿が見られた。

 

◼︎




 今回は誰にも被害が出てないので安心しました。


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黒魔女は涼みたい。

 

「うぅ……あぢぃ……」

 

 だらだらと暑い、初夏の日差しが降り注ぐ。木漏れ日が降り注ぐテラスで、ミーシャはテーブルに突っ伏して亡霊のような呻き声を上げていた。

 黒いローブに包まれた体は蒸し暑く火照り、額には汗が滲んでいる。はりつく髪を掻き上げて、暑さにうなされる黒魔女はもう一度深いため息をついた。

 

「何でこんなに暑いのよ……この前まで春じゃなかったの……?」

 

 脇に置いた三角帽子に手を突っ込み、買ってきたアイスをぺろぺろと舐めながらミーシャが項垂れる。ラムネの混じったソーダ味を味わいながら、ミーシャは木々の隙間から見える途切れた青空を見上げた。

 既に三本目に突入したアイスをぺろりと平らげて、ハズレの木の棒をぽい、と放り投げる。魔法が宿った木の棒はひとりでにぴょこぴょこ跳ねると、隅にあるごみ箱へ飛び込んだ。

 

「ああ暑い! もうこれ以上耐えられないわ!」

 

 とローブを脱ぎ捨て、黒のワンピースに着替えたミーシャが魔法の杖を取り出す。そしてテラスの柵からよいしょと身を乗り出し、草木の生い茂る地面に降り立つと、その大地に杖を突き立てた。

 魔法陣が浮かび上がり、周囲を重たい空気が包み込む。目を閉じて魔力を流し、ミーシャはその言葉を紡いだ。

 

「おいでませ! コキュートス!」

 

 魔力が一瞬だけ晴れ、次の瞬間、周囲を吹雪が包み込む。

 吹き荒れる豪雪に、ミーシャの金髪が揺れる。辺り一面は瞬く間に銀に包まれて、緑の生い茂る大地は純白の絨毯へと姿を変える。そして見上げた先には、一人の少女がまるで儚く舞い落ちる雪のように、その銀世界へと舞い降りた。

 

 かの名をコキュートス。氷獄に棲み、全てを氷雪で包む氷の化身である。

 足先まで届く銀髪を広げ、コキュートスはミーシャへ視線を向ける。その青色に灯された色はミーシャを捉えた瞬間に歓喜に染まり、ゆったりとした白色の衣装をはためかせながら、コキュートスは雪の上を駆けだした。

 

「きゅーちゃーん!」

「ミーシャさまー! 呼んでくれてありがとなのです!」

 

 両手を広げて、ミーシャがコキュートスを受け止める。ひんやりと冷たい彼女の肌は、ミーシャの火照った体を十分すぎるほどに冷やしてくれた。夏の暑さは既にどこかに消え、銀の世界が二人を包む。

 

「は~、きゅーちゃん冷たい! 来てくれてありがと~」

「はい! ミーシャさまのためなら、コキュートスはどこでも行くのです!」

 

 ミーシャの腕の中で胸を張りながら、コキュートスがふんすと鼻を鳴らす。そんなコキュートスにほっぺたをくっつけながら、ミーシャがごろんと雪の上に転がった。ふかふかでひんやりとした雪の枕に沈み、ミーシャがきゅ、とコキュートスを抱く力を強くする。

 

「ミーシャさま、涼しいですか?」

「うん、すずしー……最高……!」

「よかったのです! もっとコキュートスで涼んでほしいのです!」

 

 にぱ、とコキュートスが微笑んだ瞬間、あたりに霧が立ち込める。ひんやりとした冷気は周囲の木々を包み込み、太陽の日差しを遮った。あたりは暗くなり、はらはらと白い雪が舞い落ちる。

 喜びを増すコキュートスとは正反対に下がっていく気温に、ミーシャの体が少し震えた。少し寒くないか。いやでもこれ止めると暑いし。けどさすがに下がりすぎじゃないこれ。鼻水が出てきた。

 だんだんとミーシャの顔が寒さを耐えるそれへと変わっていく。それとは真逆に、目の前で笑顔を見せるコキュートスへ、たまらずミーシャがおずおずと口を開く。

 

「そのー……き、きゅーちゃん? ちょっと寒いかな~……って」

「ですっ!?」

 

 そう呼び掛けた途端、変な声を上げながらコキュートスの体が跳ねて、周囲の景色が戻っていく。降り注ぐ日差しは熱いまま、積もった雪の上に座り込んだコキュートスは、うるうると瞳に涙を溜めてミーシャの事を見上げていた。

 

「コキュートス、またやりすぎちゃったですか……?」

 

 ぽろり、とコキュートスの頬を小さな結晶が転がる。氷の涙が、雪の上に落ちた。

 

「あーいや、違うの! きゅーちゃんは悪くないよ、ただ私が薄着すぎただけで!」

「うう……ごめんなさいです……ミーシャさま、捨てないでください……」

「捨てないよ! 大丈夫だから、ほら、抱っこしてあげるから!」

 

 雪の上に散らばる氷晶を見て、ミーシャが慌てて両手を広げる。しかしコキュートスは動く様子を見せず、うつむいたまま青色の瞳から氷の結晶を吐き出していた。

 

「あわわわわ……きゅーちゃん、落ち着いて! ほら、今だと全然平気だから!」

「ほんとですか……? コキュートス、今の方がいいですか……?」

「そうだよ! だから、この調子で涼しく――」

 

 そうミーシャが言葉を続けようとした瞬間だった。

 白の雪原にぽつりと立つ黒杖から、ひとりでに魔方陣が浮かび上がる。突然のことに驚いたミーシャとコキュートスが視線を向けると、そこからは黒杖を囲むようにして、六本の火柱が昇っていた。

 

「うわぁ!? きゅーちゃん、隠れてて!」

「は、はいなのです!」

 

 コキュートスの冷たい体に背を向けながら、ミーシャが火柱へと視線を向ける。周囲の雪は全て溶け、荒々しい大地が火柱の周りに広がっている。冷えたミーシャの体を急激な熱が遅い、頬をぬるい風が撫でた。

 そして見上げた先には、一人の少女が舞い落ちる火の粉のように火柱を背に降りてくる。ミーシャ達の目の前に立つその少女の瞳は、燃えるような赤色だった。

 名をイフリート。炎獄に棲み、全てを灼熱で包み込む炎の化身である。

 

「ふ、ふーちゃん? どうしたの、急に」

「ごめんね、ミーシャさま。ボクの妹が迷惑をかけたみたいだから、連れ戻しに来たんだよ」

 

 申し訳なさそうにミーシャへ頭を軽く下げながら、イフリートが呟く。そうしてその後ろに隠れているコキュートスを見つけると、イフリートはすぐさま顔をしかめて叫んだ。

 

「コキュートス! またミーシャさまに迷惑かけたでしょ!」

 

 足先まで届く金髪を揺らして、イフリートがミーシャの後ろのコキュートスへと指をさす。当の本人のコキュートスは、頬のあたりについた氷の結晶を指で取りながら、頬を膨らませた。

 

「イフリートこそまた勝手に出てきたですよ! それこそミーシャさまの迷惑じゃないのですか!?」

「ボクはキミの世話役なんだよ! 何かあったらキミをこっちに戻すためにこうして出てきてるんじゃないか!」

「そんなこと言って、本当はミーシャさまと二人になりたいだけです? 私を引きはがす気です!」

「ち、違うに決まってるだろ!? なんでボクがミーシャさまと二人っきりにならないといけないんだよ!」

 

 板挟みに続けられる会話に、ミーシャが交互に視線を泳がせる。しかしそんなミーシャなぞつゆも知らずに、姉妹の口喧嘩は続けられた。

 

「そもそもイフリートは呼ばれた時以外でてくんなですー! 勝手に出てきて恥ずかしくないですか?」

「なにおう!? 未熟なキミがミーシャさまに色々失礼をするよりは恥ずかしくないさ!」

「言ったですね!? ほんとはミーシャさまと二人っきりになりたいだけのくせして、ワガママです!」

「キミこそミーシャさまを独り占めしたいだけじゃないか! このおませさん!」

 

 最早全てをあきらめたミーシャは、ああやっぱり姉妹なんだなとか適当に思っていた。

 それと体の前から熱い空気が吹いてきて、後ろには冷たい空気が漂っているので真ん中に立っているミーシャの気温はちょうど良かった。最初からこうすればよかったらしい。

 

「こうなったらミーシャさまに決めてもらえばいいです!」

「そうだな、そっちの方が分かりやすいさ!」

 

 などと考えているうちに話があらぬ方向へと進み、何やら大変なことに巻き込まれたらしい。それに気づいた時には遅く、ミーシャの目の前にはコキュートスとイフリートが、それぞれミーシャの顔を覗き込むように立っていた。

 

「ミーシャさま、こいつとコキュートス、どっちの方がいいですか!?」

「こいつって何だ! ボクの方がお姉ちゃんなんだぞ!」

「勝手にしゃしゃり出てくるお姉ちゃんなんて、妹として恥ずかしいです!」

「なんだとぅ!?」

 

「あー待って待って! 二人とも、そろそろ落ち着いてっ!」

 

 再び始まった二人の口論に、ミーシャが慌てて引き留める。そんな彼女らの後ろでは、炎と氷とが乱れる壮絶な光景となっていた。

 それを知らないコキュートスとイフリートにこちらを向かせ、ミーシャが目線を漂わせて口を開く。

 

「その、私は二人とも大事だと思ってるよ! きゅーちゃんは素直でいい子だし、ふーちゃんは妹思いのしっかり者だし! どっちかってよりは、ええっと……!」

 

 ふらつく言葉をなんとか探しながら、ミーシャが苦し紛れに手をばたばたと泳がせる。左右に揺れる手を不思議そうに目で追いかけながら、コキュートスとイフリートは次の言葉を待っている。

 

「ごめん! 私は二人とも大好きだから、どっちかなんて決められないよ!」

 

 手をぱんと合わせて、ミーシャが目をつむって頭を下げる。ヘタレ野郎のような完全な逃げの姿勢にミーシャは顔が赤くなったが、彼女にはこれしかできなくなった。それと少しだけ男の気持ちが分かったような気がする。

 そうして恐る恐る目を開くと、そこにはぽかんと口を開けている二人の顔があった。地雷を踏んだかもしれない。既に覚悟はできていた。

 

「ミーシャさま……」

「はい……っ」

「やっぱり大好きですぅー!」

「ぬはッ」

 

 下腹部に飛び込んできたコキュートスに、ミーシャが汚い悲鳴を上げる。なんとかして受け止めると、コキュートスはとてもうれしそうにミーシャの胸へ頬ずりを決め込んでいた。

 

「ふふっ、やっぱりミーシャさまって優しいんだね」

「そうなの?」

「そうだよ。だって、ボク達のことを大好きって言ってくれるの、ミーシャさまだけだもん」

「うーん……私にはよく分からない……」

 

 よく分からないが、最悪の事態は免れたらしい。少し寂しそうに視線を逸らすイフリートにミーシャはふと思いつき、右腕でコキュートスを撫でながら、もう片方の腕をイフリートの方へと差し出した。

 

「ふーちゃん、こっちおいで?」

「……いや、ボクはいいよ。ミーシャさまの手を煩わせちゃうから」

「む、これくらい平気だし。そんなに体弱くないもん」

 

 ほっぺたを膨らませるミーシャが、イフリートに手招きを続ける。

 

「それじゃあ、頭撫でるだけ。ホラ、これなら別に私も疲れないでしょ?」

「だ……だったら、そうしよう、かな。」

 

 そろそろ寒くなってきたので、イフリートは恥ずかしそうに寄ってくるのではなく、それこそ全力ダッシュでこっちに来てほしい。あとちょっとで鼻水が垂れるしもう少しで凍え死んでしまう。

 などということは口に出すことはせず、ミーシャはイフリートの金の髪へと優しく触れる。そしてさらされと流れるような髪を撫でると、イフリートはくすぐったそうに目を細めた。心なしか、頬が赤く染まっているような気がした。

 

「丁度いい……」

「ミーシャさま? どうしたですか?」

「なんでもないよ。きゅーちゃんも、ふーちゃんも、二人とも大好き!」

 

 風呂の湯加減を調節するのに似てるな、なんてことを思いつつも、ミーシャが晴れやかに笑う。

 

「二人とも、この後どうする? 何ならお茶でも飲んでく?」

「はい! ミーシャさまと一緒に!」

「ボクも、そうする」

 

 かたや笑顔で、かたやちょっと恥ずかしそうに、応えが返ってくる。この前買いすぎたケーキがまだ残っているのでそれを手分けして食べてしまおう、とミーシャが用意を始めるために二人を撫でる手を離す。

 しかしその両手は、暖かい手と冷たい手に握り返された。

 

「ふーちゃん? きゅーちゃん?」

「……も、もう少しこのままがいいな」

「私もです! もっとミーシャさまに撫でられたいです!」

 

 向けられる二人の視線に、ミーシャがわざとらしく息を漏らす。

 

「まったく、二人とも甘えんぼなんだから! ほら、もっとこっち寄って?」

「やったです! いっぱい撫でてほしいです!」

「ふふ、嬉しい」

 

 微笑む氷と炎の化身へミーシャの細い手が触れる。

 氷雪と獄炎、相反する二つを手中に納めし黒魔女は、その顔に笑みを浮かべながら、灼熱と氷冷に包まれた静かな時間を、今しばらく過ごすことにした。

 

 




 書き溜めこれで尽きました。次回の更新は多分二週間後くらいだといいなって思ってます。実際は知らないですけど


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黒魔女は休みたい。

 一週間って日曜から数えますか? それとも月曜から数えますか?


 

 窓から差し込む透き通るような太陽の光が、ミーシャの寝室を照らす。既に太陽は昇り始めて、朝に響く鳥の囀りはどこかに消えていた。

 午前十時。だんだんと熱くなる、夏日の日差しが降り注ぐ。

 そのけだるい暑さの中だというのに、ミーシャは未だベッドにくるまっていた。偉大なる黒魔法を使うミーシャは、どの季節でも掛け布団がないと寝れない性質の黒魔女であった。薄手のシーツからひょっこり頭を出すと、ミーシャがうずうずと体を震わせる。

 

「ぶぇっくしょへぇーぃ!!!」

 

 屋敷が揺れるかと思うほどの轟音を鳴り響かせて、ミーシャはずる、と鼻水を啜った。だるい体を無理やり動かしてベッドの横に置いてある小瓶を掴むと、目を瞑ってその中にある緑色の液体を一思いに飲み干した。

 中々に奇抜な緑色に染まった舌をおえー、と晒しながら、ミーシャが小瓶を宙へ放り投げる。魔力を与えられてふよふよと浮かび始めた小瓶は、ミーシャの寝室に備えられた醸造台へと吸い込まれるようにして入り込んだ。

 

「うう……なんでこんなこと……」

 

 机の上の材料をベッドの上から魔法で操作して、ミーシャが忌々しく呟く。ずきずき痛む頭を押さえながら、ミーシャは事の顛末を思い出そうとしたが、普通にアイスを食べながら半裸でヘソを出して寝ただけだったのですぐに終わった。女子力もあったものではなかった。

 

 乾燥させた薬草とキノコをすり潰し、水に溶かしながら熱を加えていくが、思ったよりも手元がおぼつかない。水差しの動きはふらふらと心配になるほどで、かき混ぜ棒の動きも何かに引っかかるようで、ミーシャは眉間に皺を寄せながら自分の頭を押さえていた。

 

「やっぱ調子でない……仕方ないわね……」

 

 ため息を一つこぼすと、ミーシャは手の内にいつもより小さな杖を取り出した。調合を続けながらミーシャがそれを天井に放り投げると、すとん、と音を立てて小さな杖が突き刺さる。魔方陣は小さく広がり、ミーシャはそれに向かって小さく呟いた。

 

「おいでませ、エリクシア……」

 

 ぴちょん、と澄んだ水滴の音が鳴り響く。

 杖の突き刺さった天井は波打つ水面のように揺らめき、その中心から一輪の巨大な白いつぼみが顔を出す。閉じた傘のような形をしたそのつぼみは、ミーシャの真上に茎をのばすとゆっくりと花弁を開きはじめた。

 中から現れたのは、一人の女性だった。上から垂れる長い髪は明るい銀に染まり、瞳を閉じたその表情は儚げに映る。身に纏う白の布をゆらゆら揺らしながら、その女性はうすい瞼を開く。

 

 エリクシア。全てを癒し、慈愛で包み込む施しの女神である。

 

「わぷっ」

「ぅげぇ」

 

 どういう訳か逆さに呼ばれたエリクシアは当然、重力に従ってベッドに落ちる。エリクシアの可愛らしい声とは正反対に、急に体を潰されたミーシャは中年のおじさんがえづいたような悲鳴をあげた。

 

「ううー……ミーシャさん、おはようございます~……」

 

 薄いシーツから顔を上げたエリクシアが、欠伸混じりにその緑の双眸をミーシャに向ける。そしてぷるぷると震えているのを見つけると、エリクシアはがばりと身を乗り上げて、ミーシャの額に手を当てた。

 

「え、エリ姉……」

「大変ですミーシャさん! カゼ引いてるじゃないですか! 急いで治療しないと!」

「そうなの……だから……」

「ええと、あ、醸造はもうできてるんですね! それじゃあ後は私に任せてください! バッチリ回復してみせますからね!」

「うおお……! 頼もしいな……!」

 

 体の上にのしかかる重圧にミーシャの喉がだんだん掠れていく。はっきり重いとは言えずにうすら笑いを浮かべながら返事をすると、エリクシアはミーシャの身体の上を四つん這いで歩いてベッドから降りた。女の子の体って普通に重いし痛いんだな、とミーシャは思った。

 

「ええと、トビエグサにノラヒダケ……? なんで霧の粉まで入れてるんですか?」

「あれ……? 違ったっけ……」

「はい、全然違いますけど」

「……言われてみれば、違うかも」

 

 これは相当頭がやられているらしい。こんな簡単な風邪薬の調合すら忘れてしまったとなると、エリクシアを呼び出せたことすら奇跡に等しいだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、ミーシャは未だに波のうつ天井を見上げた。

 こぽこぽ、と静かな泡立ちの音と薬草の香りが部屋を包み込む。すこし苦い、喉の奥に届くような薬の匂いに、ミーシャは少しだけ顔を歪めた。そして同時に、風邪薬のあの苦い味を思い出す。

 

「はい、ミーシャさん。風邪に効くのはヒラノダケとキリガクレの調剤ですよ」

「う……ありがとう……」

 

 ゆっくりとベッドから身を起こし、ミーシャがエリクシアから先ほどよりも少し薄い緑の液体の入った小瓶を受け取る。瓶口から香るきつい匂いに眉をひそめながら、ぐい、とそれを煽る。かさかさになった口の中に、キリガクレの青っぽい匂いとヒラノダケのぬめぬめした粘液の香りが広がった。

 

「エリ姉、ごめんねこんなころろっおぼろろっろぬぼぉろろっげぇぽ」

「ミーシャさん、吐きながら喋らないで下さいね?」

 

 びちゃびちゃと零れる緑色の液体に、エリクシアが少し怒ったように声をかける。既にゲロに耐性ができていたミーシャは、もう一度目をつむり、緑色の粘つく液体を喉に通した。スライムを呑んでいるようだった。

 やがて飲み干したガラスの小瓶から口を離し、ミーシャが眉をひそめて腕をエリクシアに差し出す。とても他人には見せられないような顔のミーシャの手から小瓶を受け取ったエリクシアは、にっこりと微笑んだ。

 

「これでもう大丈夫ですからね。あとはしっかり寝てください!」

「うん……ごめんね、エリ姉……」

「謝る必要はないですよ。そのために私は呼ばれたんですから」

 

 全てを癒す施しの女神は、黒の魔女に優しく微笑む。自らの主の姿に従者はできる限りの手を尽くし、その手を金に輝く髪へと伸ばす。

 

「ミーシャさん、後は何かして欲しいことはありますか?」

「それなら、実は……」

 

 と、ミーシャが言いかけた時だった。

 その声を遮るようにして、呼び鈴のベルが音を立てたのは。

 

「お客さんですかね? 私行ってきます!」

「あ、いや、エリ姉っ」

 

 白い髪を揺らして、エリクシアがドアを開けて廊下へ向かう。そしてドアのぱたんと閉まる音と共に、寝室に静寂が訪れた。

 ミーシャがやっちまった、と顔を手で押さえてから、しばらく。

 

「ミーシャちゃん!? 大丈夫なの!?」

 

 どたどたと騒がしい音を立てて姿を現したのは、お茶会のために呼ばれたアイリスだった。

 

「あ、アイリスぅ……」

「あれだけアイス食べるときは暖かくして寝なさいって言ったじゃない! 熱はあるの? 体はだるくない? 何か欲しいものはある?」

 

 右手でミーシャの小さな手を、もう片方で額を押さえながらアイリスが立て続けに問いかける。その後ろでは、ようやくふらふらと寝室に入って来るエリクシアの姿があった。

 

「ミーシャさん……すみません、急に行っちゃうもんですから……」

 

 よほど勢いが強かったのだろう、未だに肩で息を鳴らしているアイリスの姿から、その壮絶さは容易に想像できた。

 

「あなた、ミーシャちゃんの悪魔さん? ミーシャちゃんは大丈夫なの?」

「えっ……? あ、はい! お薬は飲ませたので、あとは安静にしていればすぐに元気になりますよ」

 

 落ち着かせるような声色に、アイリスも安心したのか長い息を吐いた。そうして熱っぽいミーシャの額から手を離し、両手でミーシャの手を包むと、アイリスが視線を合わせて口を開く。

 

「ミーシャちゃん、ホントに体調だけは気をつけるのよ? いくら悪魔さんが出てこれるからと言って、あなたは一人暮らしなんだから」

「うう……わかってるわよ……、へくちっ!」

 

 小さくくしゃみをするミーシャに、アイリスが優しくシーツを被せる。そして頭を軽くぽんぽん、と叩くと、見守るような視線を向けるエリクシアに向き直った。

 

「悪魔さんもありがとう。あなたがいなかったら大変だったわ」

「いえ、当然のことをしたまでです! それよりも……」

 

 と、エリクシアが視線を逸らし、アイリスのことを見上げているミーシャへと目を向ける。そうしてくすりと笑うと、再びアイリスへと目線を戻して続けた。

 

「私はミーシャさんへ薬を作ったただけですから。あとはあなたが身の回りのお世話をしてあげて下さい」

「あらそう? それじゃあ……」

「ちょっ、なんでよ!」

 

 自分を無視して進んで行く話に、ミーシャが口を尖らせる。だがそれを諭すかのように、エリクシアがベッドの反対側へと歩き、口を開いた。

 

「いいですかミーシャさん。病は気から、とよく言います。ですから私なんかがお世話をするよりも、大好きな人にお世話をされた方が嬉しでしょう?」

「だ、誰がアイリスのことなんかっ」

「それに私がこっちにいると、ミーシャさんの魔力もずっと使っちゃいますから。あとはアイリスさんに任せて、ゆっくり休養して下さい」

「くそ……ちくしょう……!」

 

 歯を食いしばるミーシャだったが、エリクシアの言う事に間違いはない。赤く染まった頬は、風邪のせいではないように見えた。

 

「それじゃあ私はこれにて! 後は頼みました!」

「うがーっ! 待てこのやろぉー! にやにやするなぁー!」

 

 じたばたとベッドで暴れるミーシャをからかうように、真上からぽとりと黒杖が落ちてくる。揺らいでいた水面は元のシミだらけの天井に戻り、ぜえはあと肩で息をしながら、ミーシャはふとアイリスの顔を見上げた。

 

「ミーシャちゃん」

「……なによ」

「欲しいものがあったら何でも言ってね? 色々お世話してあげるから」

 

 にまにまとした笑みを浮かべているアイリスに、思わずミーシャがシーツへと顔を沈める。どうして倒すはずの敵に親身になって世話をされなければならないのだろうか。アイリスの無垢な笑顔が、ぐさぐさとミーシャの心に突き刺さっていた。

 しかし、こうして悪魔を召喚して魔力を使い切ったせいで余り動けないのも事実。それにもしここで断ると、それはそれでアイリスが面倒くさくなりそうだし、そんなアイリスを風邪を引いた状態で応対するのも辛いものがある。

 長いため息をついたミーシャは被ったシーツから目だけを出し、アイリスを見上げて小さく呟いた。

 

「……りんご」

「ん?」

「りんご、……むいてほしい……」

 

 ぱぁ、とアイリスが目を輝かせ、ミーシャに優しく問いかける。

 

「ウサギさんがいい? それともカニさん?」

「…………どっちも、見たい」

「ふふ、わかったわ。すぐに用意するからね」

 

 そう応えてアイリスが寝室を後にした途端、ふわりと浮かぶような感覚がミーシャを襲う。そして同時に感じる瞼の重みに、ミーシャの意識がゆっくりと閉じていく。突然の魔力の喪失に、体が限界を迎えたらしい。

 ぼんやりと歪む視界を眺めながら、ミーシャは暗闇に包まれた。

 

 

「ミーシャちゃん?」

 

 整えられたリンゴの切り身が乗った皿を手にしたアイリスが、寝室の扉を開く。そしてシーツにくるまって、すぅすぅと静かな寝息を立てているミーシャの顔を覗き込むと、アイリスは優しく微笑んだ。

 

「ふふ、寝ちゃったのね……」

 

 リンゴの乗った皿を醸造台の隣に置いて、アイリスがベッドの隣に腰かける。そうしてミーシャの寝顔を眺めていると、ふとその小さな手が顔を出しているのが目に映った。

 ゆっくりと動く細い指は、まるで何かを掴もうとするように幾度もシーツの上を這う。その柔らかな熱のこもった指に、アイリスは自分の手を優しく重ねた。

 

「……あい、りす?」

 

 薄く開いた唇から発せられる声に、アイリスがあら、と思わず小さく呟く。困り顔で寝言を口にするミーシャに、どんな夢を見ているのだろう、とアイリスは頬に手を当てながらその様子を見守っていた。

 

「あいり、す……アイリスぅ……」

 

 立て続けに名を呼ぶミーシャに、アイリスがくすりと微笑む。その手の内にあるミーシャの右手は、しっかりとアイリスの左手を握っていた。

 

 金の髪を揺らし、ミーシャがシーツに顔を擦りつけて、唸り声をあげる。風邪の熱によるものなのか、彼女の顔はいつもよりも険しいもののように思えた。

 いつものミーシャなら見せることのないそのしおらしい表情に、アイリスが思わず笑みをこぼす。ミーシャには少し悪いが、今日は来て良かった、とアイリスはそう思っていた。

 

 と。

 

 

「……おいて、いかないで……アイリス……」

 

 

 白魔女の顔から笑顔が消えたのは、突然のことだった。

 

「なん、で……しんじてた、のに……」

 

 乾いた静寂が、二人の間を包み込む。アイリスの背筋を、ぞわりと何かが撫でた。そしてその翡翠の瞳は、大きく見開かれている。古傷をナイフで抉られたような、まさにそんな感覚だった。

 

 表情を失った白魔女に、黒魔女の言葉は続く。

 

「どこ……いっちゃう、の……どう、して……」

「ミーシャちゃん」

 

 続く言葉を遮るように、アイリスが口を開く。

 例えそれが意図したものでもなく、封じられた記憶だったとしても。

 

 白魔女であるアイリスは告げなければならなかった。

 

「私は……あなたの友達は、ずっとここにいるわ。今までも、これからも、ずっと」

 

 包み込む手は柔らかく、浮かぶ笑みは優しく。自分に言い聞かせるようにも聞こえるようにアイリスは呟いて、ミーシャの頬を撫でる。そのミーシャの手には、握りしめられた赤い痕が残っていた。

 

「もう、裏切らない。置いていくことなんて、絶対にしないから」

 

 独白は空に消える。紡いだ言葉は、静寂に溶けていった。

 

「……んぅ? あれ、アイリス……?」

 

 小さなミーシャの声が、アイリスの耳に入る。見上げるミーシャの瞳はぼんやりと虚ろで、その揺らめく視界には、心配そうな顔でこちらの事を見下ろしているアイリスの姿があった。

 寝ぼけた頭であたりを見回して、ミーシャが首をかしげる。

 

「私、寝ちゃってたの?」

「……ええ。とても気持ちよさそうだったわ」

「むぅ、起こしてくれても良かったのに」

 

 寝顔を見られたのが恥ずかしいのか、ミーシャが口を尖らせる。

 そうしてはっきりと見えてきた視界に、ふとミーシャはとあることに気づき、寝たまま腕を伸ばす。その腕はゆっくりと、アイリスの頬に触れた。

 

「ミーシャちゃん?」

「ねえ、アイリス」

 

 戸惑うアイリスに、ミーシャがぽつりと呟く。

 

「どうして、泣いてるの?」

 

 ぱたり、と頬を伝う涙が、シーツに跳ねる。覚束ない指で頬を撫でると、そこには涙の痕があった。

 途端に胸が空いた感覚に、アイリスが握っていた手を離して思わず立ち上がる。そうして自らの目元から流れる液体を何度も拭い、アイリスは声を震わせた。

 

「あら、あらあら?」

「……アイリス」

 

 虚ろな笑みで取り繕うアイリスに、ミーシャがはあ、と息を吐く。そしてベッドから体だけを起こすと、びし、と腰に手を当てて指をさし、アイリスへと口を開いた。

 

「いろいろ溜め込むのもいい加減にしときなさい! 何だったら私が聞いてあげるから!」

 

 そう言って肩をすくめるミーシャを、アイリスはきょとん、と呆けたような顔で見つめていた。そして何かを悟ったようにくすりとほほ笑むと、ミーシャがむ、と眉をひそめる。

 

「なによ、あんたのこと心配してあげてるのに!」

「ふふっ、ごめんね? でも、ミーシャちゃんがそんなに心配してくれるなんて」

 

 空に溶けた言葉を胸に、アイリスは笑みを作る。いつの日か見た黄色い花が、ばたばたと暴れるたびに揺れるミーシャの髪の色と、重なって見えた。

 

「もういいわ、それよりリンゴ! リンゴ早く食べさせなさいよ!」

「はいはい、今持ってきてあげるから」

 

 あれは無意識の言葉なのか、それとも彼女の本心なのか。アイリスにはそれは分からない。それを知ろうとするのが愚かしいという事なのかも、全ては彼女の記憶が知っている。

 全てを見抜いているのか、はたまた何も知らないのか。そんな黒魔女に思いを馳せながら、アイリスはいつも通り、白魔女として微笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

「ほんとにカニさんだ……! すげぇ……!」

「そうでしょう? 自信作なの」

 

 




 次は本当に来週くらいになります


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黒魔女はもうちょっと教えたい。

 

「うーん……?」

 

 二回目の講座が終え、小さな机が壁に沿って並ぶ司書室の一番奥で。ミーシャはふくれっ面になりながら、ぷらぷらと足をばたつかせていた。

 頬杖をつく手には赤ペンが握られており、少し機嫌の悪そうな目線の先には、採点が終わった十数枚のテスト用紙が机の上に広がっている。割とバツの多いテスト用紙を眺めながら、ミーシャははあ、とため息を一つこぼした。

 

「ミーシャちゃん、どう?」

「全然ダメね」

 

 後ろから覗き込むようにして問いかけるアイリスに、ミーシャは口を尖らせる。

 

「出来てる子はいるにはいるんだけど……思ったより出来てないわ。どうしてなのかしら」

 

 いつもよりも真剣な表情になりながら、ミーシャが呟く。今一度問題を確認するも、その内容はミーシャにとっては基本中の基本ばかり。黒魔女にとっては間違える方が難しい問題だらけだったが、それでもこの結果なのだ。

 といってもそれはミーシャの中の話であって、教師であるアイリスからすれば割と無茶な話なのだが。

 

「今日の講座もみんな分かってないみたいだったし……やっぱり、教えるのって難しいのね」

「あら」

 

 うつ伏せになって珍しく弱音を吐くミーシャに、アイリスが思わず声を漏らす。どうやら本当に参っているらしく、聞こえてきた声も気にせずにミーシャはアイリスの顔を見上げて問いかけた。

 

「どうしよ、アイリス」

「そうねえ……」

 

 生徒たちの身を案ずるアイリスも、他人事ではない。そう頬に手を当てながらアイリスは思考を巡らせるが、やはり黒魔法という事もあって中々思うように進まない。白魔女と黒魔女がこうして熟考するのは、なかなか珍しい光景でもあった。

 

「もう少し教える速度をゆっくりにしてみたら? さすがにあの課題は多すぎると思うの」

「うーん……そうなのかなぁ……?」

「その結果がそれだもの。生徒はミーシャちゃんじゃないのよ?」

 

 もっともな意見に、ミーシャが顎に手を当てて黙り込む。見つめるテスト用紙は基本が出来ていないものばかりで、これでは黒魔法の基本である召喚魔法すらロクに扱えないだろう。それでは、ミーシャが頑張って教えた意味がない。

 しばらくの沈黙が流れ、それをミーシャが断ち切る。

 

「そうだ、分からないなら実演すればいいのよ!」

 

 思い立ったようにミーシャが声を上げ、勢いよく立ち上がる。そうして驚いた様子のアイリスの方へと視線を向けると、そのまま立て続けにミーシャは口を開く。

 

「この学校で一番広い所って、どこ?」

「え? ええと……第二演習室かしらね」

「じゃあ次の講座の時、そこ借りれる?」

「それは問題ないと思うけど……」

「じゃあ明日そこでやるから、生徒たちに言っておいて」

 

 そう言って、ミーシャがそそくさとテスト用紙をまとめ始めてぶつぶつと何かを考え始めた。忙しなく手を動かすその横顔は、何かを思いついたように少しだけ微笑んでいる。

 妙に気張り始めたミーシャを横目に、アイリスが困ったように首を傾げた。

 

「ミーシャちゃん、本当に大丈夫?」

「大丈夫だって! 私に任せておきなさい!」

 

 かくして。

 

 

「それじゃ、今日も始めるわよ!」

 

 校舎が丸ごと一つ入りそうなほどに大きな演習室で、ミーシャの甲高い声が響く。天井は見上げるほどに高く、ミーシャと集められた生徒はその広大な室内の中心にぽつんと立たされていた。

 整えられた土の地面に、ミーシャが手の内に生成した杖を突き立てる。広がる魔方陣は大きく、みるみるうちに生徒とその後ろに立つアイリスまで覆い込む。

 広がり切った魔方陣を見て、よし、と確認すると、ミーシャは生徒たちに向けて口を開いた。

 

「昨日のテスト見たけど……そうねぇ。あんまり良くなかったわ」

 

 クソみたいに駄目だったわね! というのを何とか抑えて、ミーシャは残念そうに肩をすくめて見せる。そりゃ当然だろうという生徒たちの心の声を無視して、ミーシャは黒杖の周りを歩きながら続けた。

 

「ま、それはそれとして。今日の講座は、黒魔法を実際に見せながら進めて行くわよ」

 

 そのための魔方陣をとんとん、と足で示しながら、ミーシャが指を立てる。それに呼応するように魔方陣は淡く光を放ち始め、地面に刻まれた紋様はかちゃかちゃと音を立てながら虫が蠢くように踊る。

 突然のことに驚く生徒たちに、ミーシャは手を叩いて言った。

 

「じゃ、実際に始めましょう。今回行うのは、黒魔法の一つ、召喚術よ」

 

 黒杖の横に立ったミーシャは、宙に手のひらを差し出しながら口を動かす。

 

「召喚術のそもそもの構造は、黒魔法の基本の概念である『裏』を何らかの形で顕現させる、みたいな感じね。ここでいう『裏』っていうのは、この前言った影だったり、夜だったり、ほぼ全ての概念に通じているわ」

 

 突き出したミーシャの手のひらに、小さな魔方陣が生み出される。くるくると回転しながら浮かび上がったその魔方陣は、ふわりと浮かび上がって黒杖の周りをふよふよと漂い始めた。

 

「だから、召喚術っていうのは本を読めば大まかな悪魔を召喚できるの。面白いところは、この『悪魔』っていうのも『存在』における裏の概念っていう事ね」

 

 だからと言って、召喚されるのは悪魔的な物ではない。世界の裏で終焉と始動を司る神だって呼び寄せれるし、お互いが相反し、コインの裏のようになっている氷獄と炎獄の権化も召喚することができる。

 いつの間にか黒杖の周りを漂う魔方陣の数は増え、それを確認したミーシャがよし、と腰に手を当てる。

 

「それでは今から実際に召喚するわ。今回呼び寄せるのは、デュラハンっていう騎士の悪魔ね。はい、じゃあ早速だけど、ここで問題!」

 

 右手の人さし指を立てて、ミーシャは生徒たちへと視線を投げる。

 

「騎士って言われて、なんの『裏』がイメージできるでしょーか? はいそこ、メガネくん!」

「うえぇ、ボクですか!?」

 

 突然の問いかけに、メガネをかけた男子生徒が目を見開く。そうして急いで何かを考えるような素振りを見せたかと思うと、あれでもないこれでもないと呻きながら小さな声で呟く。

 

「は、『敗北』とか……」

「うん、悪くないわ。騎士ってのは戦って『勝利』と『敗北』のどちらかを決めるもの。そもそも裏には『負』のイメージがあるから、その場合の裏は『敗北』。じゃあ隣の金髪くん! 他には?」

 

 びし、とミーシャが隣の男子生徒へと指をさす。

 

「ええーっと、あー……敗北だから『死』と、か?」

「そうね。『死』という概念は割と広範に『裏』として扱えるわ。それに敗北から死につなげられたのは、中々イイ線行ってるわよ」

 

 感心したように顎に手を当てて頷き、ミーシャが答えた。その後ろでは、浮かんでいる魔方陣のうちの二つが紫色の光を放ち、黒杖の下に広がる魔方陣が、かちゃりかちゃりと形を変えた。

 それを少し見た後に、ミーシャが生徒たちへと再び指をさす。

 

「それじゃあ次にその後ろの黒髪くん! 何か思いつく?」

 

 背伸びしてミーシャが指をさした先で、気だるげな顔をした生徒がゆっくりと顔を上げる。その眠たげな目はどこを向いているわけでもなく、右手はぼさぼさに伸びた黒髪をいじり続けていた。

 妙な沈黙が流れ、ミーシャがあれ、と首をかしげる。

 

「思いつかない?」

「あー……」

 

 と、黒髪の生徒は何かを考えるように上へと視線を向ける。そしてまたしばらく黙ったかと思うと、突然ミーシャの方を向いて口を開いた。

 

「『復讐』、『失望』、えと、後は……『怨恨』」

「おお、すごい」

 

 すらすらと述べる男子生徒に、ミーシャが思わず声を上げる。

 

「ぜんぶ正解! ってことは、この前渡した魔導書、全部覚えてるの?」

「ええ、まあ……」

 

 怠そうに答える生徒に、ミーシャが感心したように首を振った。

 

「そういえばあなた、この前も正解答えたわね」

「そうでしたっけ」

「ほら、夜って答えてくれたでしょ? もしかするとあなた、中々才能あるかもよ」

「はあ」

 

 それじゃあ、と黒杖の魔方陣を見下ろして、ミーシャがとんとん、と足を鳴らす。

 

「これで全部概念は揃ったわ。『敗北』、『死』、『復讐』、『失望』、『怨恨』と、この五つね」

 

 一つ一つ口にするたびに、黒杖から低い音が鳴り響く。そうして全ての概念を灯した後に、ミーシャは魔力を込めてその言葉を紡ぐ。

 

「それじゃあ行くわよ! おいでませ、デュラハン!」

 

 魔方陣に魔力が宿る。周囲の空気は強張り、威圧するような魔力を放ちながら、漆黒の煙が立ち上がった。

 立ち込める黒煙はだんだんと人の形を成していく。それが晴れた後には銀色の鎧が輝き、蠢く煙は漆黒の外套へ。重工な鎧を纏い、ミーシャの隣へと膝をつくその騎士の首には、兜ではなく青色の炎が灯っていた。

 デュラハン。怨念の剣を降る、復讐の騎士である。

 

「黒の騎士、デュラハン。ミーシャ殿の呼びかけに応じ、参上致した」

「うん、ありがとね」

 

 低く重たいその声に、ミーシャが笑顔で応える。するとデュラハンは唐突に立ち上がり、その腰に吊った巨大な剣を抜き放つ。その刀身は漆黒に染まっており、鈍い輝きを放ちながら地面へと突き立てられる。

 

「して、ミーシャ殿。私はどうすれば」

「えーっと……ごめんデュラおじさん、そのままちょっと立ってて!」

「承知した」

 

 手を合わせて頭を下げるミーシャに、デュラハンは突き立てた剣の柄に両手を添える。そして振り向いたミーシャは、突然現れた騎士に驚いたままの生徒に対し、呼び掛ける。

 

「はい、これで召喚魔法の一連の動作は終わり! こんな風に、概念さえ揃っていれば召喚の構造自体は簡単なの」

 

 概念の集合による、対応した悪魔の召喚。いつもならそれを瞬時に終わらせているそれを、一から説明することによって理解を得ることが、今日のミーシャの講座の内容だった。

 しかしまあ、手順を分かりやすくしたところで、概念を理解できるかと言えばそれはまた別の話で。

 

「……あれ? わかんなかった?」

 

 首をかしげるミーシャに、生徒が顔を見合わせる。その表情は呆れたようで、中には首を振って肩をすくめている者の姿もあった。どうやら、ここまでやっても本当に理解できている者は少ないらしい。

 

「むぅ……結構分かりやすくやったつもりなんだけど……」

 

 顎に手を当てながら、ミーシャが不思議そうに呟く。そうしてむむむと考えた後に、何かお思いついたように手を叩くと、ミーシャは再び声を上げる。

 

「よし、分かった。とりあえずみんな、知識量を増やさないといけないみたいだから、もっかいテストします!」

 

 その声に、一瞬の間を置いて生徒たちからため息が漏れる。そんな事は露も気にせず、ミーシャは三角帽子の中から魔導書を開き、確かめるように目を走らせる。

 

「この前のはさすがに範囲が広すぎたから、今回は一つめの魔導書の、概念の話までね。詳しいページとかはまた後日アイリスに連絡してもらうから、みんな勉強してくるように!」

 

 ぱたん、と魔導書を閉じて、ミーシャが口を開く。

 その表情は、いつもよりもどこか曇っているようだった。

 

 

「ねー、デュラおじさん聞いてよぉー」

「承知した」

 

 ほどほどの時間が経ち、生徒たちがいなくなった演習室。ミーシャは呼び出したままのデュラハンの差し出した腕に腰かけて、ほっぺたを肩当てにむにむにと押し付けていた。

 

「なんでみんな黒魔法分かってくれないのぉー? こんな簡単にやったのにぃー」

 

 今回はもう死ぬほど分かりやすく説明した筈である。それなのに生徒たちの様子は、一回目と同じような疑問符を浮かべたような顔のまま。あれだけ考えたミーシャの努力は、惜しくも水の泡と化してしまった。

 

「せっかくデュラおじさんに来てくれたのに、ごめんね?」

「ミーシャ殿が謝る事ではない。私はそなたの駒なのだから」

 

 首無し騎士の優しい言葉が、ミーシャの胸に突き刺さる。それに耐えられなくなって、ミーシャは小さな腕を組み、黙りこくって顔を埋めてしまった。

 

「……私、先生向いてないのかなぁ」

 

 ぽつりとつぶやいた言葉に、低い声が重なる。

 

「思うに、ミーシャ殿の持つ力は特別な物だ。その力を他人に伝えるという事は、時間がかかると私は思う」

 

 デュラハンの言葉に、ミーシャは沈黙で返す。

 

「私は傍から見ている事しかできないが、端的に見ればまだミーシャ殿はそのような事を言うには早い。もう一度言うが、そなたの力は特別だ。それを伝えるのには、少しの時間がかかる」

「特別……そうなの?」

「然り」

 

 ミーシャ自身の魔力を引いて呼ばれているからこそ、デュラハンは応える。未だに地面へと突き刺さっている黒杖をデュラハンの腕から見下ろして、ミーシャは思いふけるような顔で呟く。

 

「私は特別でも、みんなに知ってほしいな」

「ならば、精進するとよい」

「……うん、頑張ってみる!」

 

 騎士の腕からぴょんと飛び降り、ミーシャが黒杖に手をかける。

 

「今日はありがとね、デュラおじさん!」

「問題ない。そなたに従うのが、私の役目である」

 

 そう言ってデュラハンは外套を翻し、黒い煙となって消えていく。それに手を振った後、ミーシャは地面に刺さった黒杖を魔法でしまう。地面に刻まれた魔方陣は、その中心に向かって収縮するように消えていった。

 演習室に静寂が戻る。それを見計らったように、遠くのドアが開いた。

 

「ミーシャちゃん? もういいかしら」

「あっ、アイリス。大丈夫よ」

 

 演習室の鍵を持ったアイリスに、ミーシャが笑顔で返す。

 

「今日もお疲れさまね、ミーシャちゃん」

「そうよ、疲れたわ。だから何か甘いものでも食べたくなるわね!」

「ふふ、それじゃあケインさんのところにでも行く?」

「もちろん!」

 

 先程の表情はどこかに消えて、ミーシャは明るい笑顔を浮かべる。

 まだまだ、道のりは長そうだった。

 

 




更新間隔開けすぎて殴られそう


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黒魔女は探しものがしたい。

 

 黒魔女の朝は早い。

 

 珍しく寝起きが良かった黒魔女は、軽めの朝食を摂ったのち、いち早く自らの屋敷の庭へと足を踏み入れた。とある邪神によって整えられたその庭は、爽やかな朝の空気に包まれている。冷たい風を頬に受け、お気に入りの三角帽子とローブを身に着けた黒魔女は、うんと一つ伸びをした。

 軽く吐息をした後に、黒魔女は魔法の黒杖を右手に握る。太陽の光を吸い込むほどに黒い杖は、黒魔女の手の内で鈍く光っていた。魔法で取り出したそれを黒魔女は手の内で遊ばせて、何かを考えるような素振りを見せる。そうして思いついたように指を鳴らすと、その黒杖を両手で握り、地面へと突き刺した。

 

 周囲の空気が重くなり、集められた魔力が黒杖を中心に、魔方陣となって広がっていく。膨大な魔力が流れるのを感じ、黒魔女は息を一つ吸い込んで、その言葉を紡いだ。

 

「おいでませ、ファフニール!」

 

 そして、世界に業火が訪れる。

 

 舞い上がる炎は黒魔女の周囲を包み込み、紅に染まる炎柱が燃え上がる。三角帽子を吹き飛ばすほどに猛々しく燃える焔は、黒魔女の眼前まで迫り、彼女の世界を炎獄に包みこんだ。そして包み込む炎の幕は緋色の爪によって切り開かれ、獄炎から現れたのは一匹の龍だった。

 昏き紅に染まる鱗に、全てをかき喰らう(あぎと)。強靭な四肢は大地を掴み、天を貫かんとするほどに伸びる角は、赤熱した鉄のように燃え上がる。空を多い尽くすほどの翼は夕日の色に染まり、黒魔女の真上には夕焼けが広がっていた。

 

 ファフニール。獄炎を司り、世界に焔をもたらす邪龍である。

 

「ふむ……ミーシャか」

 

 白牙から洩れる吐息に乗せて、邪龍が重い声を上げる。そうして伏せた瞳を開き、黒魔女に仕える者として、ファフニールは自らの主へと視線を向けた。

 

「うん、ふにーちゃん、おはよう!」

 

 寝癖でぼさぼさになった髪を気にすることも無く、ミーシャが腕を上げてファフニールに返す。口の端には今朝食べたジャムがついていた。主の威厳もクソもあったものではなかった。

 

「……ミーシャよ、こちらへきなさい」

「ん? どうしたの?」

 

 首を傾げて近づくミーシャを、静かに燃える炎が包み込む。揺らめく炎は形を変えて、まるで蛇の様にうねりながらミーシャの髪へと纏わり始める。

 

「わっ、ふにーちゃん?」

「心配せずともよい……熱くはないだろう?」

「ん……あれ、ほんとだ」

 

 不思議そうに声をもらすミーシャの髪に、ほんのりと熱を持った焔が触れる。そうして揺らめく炎は金の髪を優しく撫でて、ぼさぼさだった彼女の髪を丁寧に梳いた。

 ひとしきり髪を整えた後に、柔らかい炎は頭をぽんぽんと叩く。ミーシャはくすぐったそうに口元を緩める。

 

「そなたはまだうら若き少女の身である。身の振る舞いには気を付けた方が良い」

「むぅ、アイリスと同じこと言ってる……」

「私もその者も、そなたを思っての事だ。それと、口元に食べ物のあとがついている」

「えっ、うそ!?」

 

 口の端っこについたジャムをあわてて指ですくい、その指をミーシャがぺろりと舐める。するとどこからか飛んできた三角帽子がミーシャの頭に深く被せられ、腕代わりの炎を消しながらファフニールはその目を細めた。

 

「それでよい。麗しいぞ、ミーシャよ」

「うぅ、そんな面と向かって言われても……」

 

 三角帽子のつばを両手で握り、ミーシャが少しだけ顔を赤らめさせる。そういった言葉を貰うのには、慣れていないようだった。

 

「して、ミーシャよ。此度の召喚は、如何様に?」

「あ、そうだった。えっとね……」

 

 そう呟いてミーシャが頭の上の三角帽子に手を突っ込み、ごそごそと中身を漁る。そこから取り出したのは、一枚の古ぼけた地図だった。

 地図を手に持ったミーシャは、首をもたげたファフニールの横に立ち、丸められた中身を広げる。巨大な青の双眸と、小さな金の瞳が同じように地図を見下ろした。

 

「ちょっと欲しい素材があるの。それで、ふにーちゃんに運んでもらおうと思って」

「うむ、良いだろう」

 

 大きな赤い丸が付けられた地点を指さして、ミーシャがファフニールの顔を覗き込む。

 

「ここの西の竜峰ってところなんだけど、ふにーちゃん知ってる?」

「ああ、知っているとも。そこなら直ぐに着くだろう」

「ほんと? じゃあ、お願い!」

 

 目を輝かせ、ミーシャが地図を持ったままファフニールの赤い角へと手をかける。そのまま長い首へとよじ登ると、ゆっくりと首の上を伝い、大きな翼の付け根へ挟まるようにちょこんと座り込んだ。

 背中にミーシャの小さな体が乗ったのを確認して、ファフニールが夕焼けの翼を広げる。

 

「それでは、行くとしようか」

「うん、よろしくね!」

 

 赤い邪龍が地面から浮かび上がり、背中の黒魔女は三角帽子を押さえて応える。

 朝の光に照らされながら、ファフニールは西へと飛び立った。

 

 

「してミーシャよ。そなたの探し物というのは?」

 

 大陸は既に遠く、翼の下には穏やかな海が広がっている。風で飛ばされないよう、魔力で体の周りを覆っているミーシャはふとファフニールからそんな言葉を投げかけられた。

 

「えとね……らくりゅーのみ? ってやつ」

「ふむ、落龍の実か」

 

 ミーシャの応えに、ファフニールが意外そうに返す。

 

「もちろん食べるのだろう?」

「そうなの! ケイン……あ、知り合いのケーキ屋さんに訊いたら、その木の実を使って作るケーキはもう最高に美味しいらしくって! だから、今度作ってもらうための材料集めってわけ!」

 

 頬に手を当てながら、ミーシャがまだ見ぬケーキへと思いを馳せる。あのケインがミーシャへ何の誇張もなしに美味いものだと言ったのだ。その味は想像できないほどのものなのだろう。

 自分の体の上でヨダレを垂らしているミーシャへ、ファフニールが口元を緩める。

 

「しかしミーシャ、落龍の実を探すのは難しいぞ。そもそもあれは龍が空から落ちるとき、その空の下で育つ果実。ちゃんと実が生ることでさえ中々に珍しいものだ」

「えっ、そうなの?」

「ああ。それにこの時期になると、もう実っているものはほとんど採られてしまっているかもしれんな。あの実の旬は初夏から真夏にかけてだから、採りに行くにはよい時期ではあるが」

「うぅ……それ知ってれば、もうちょっと早く行ったのに……」

「なに、まだ探してもいないのだ。残念がるにはまだ早い」

 

 ちょっとしょんぼりしたミーシャに、ファフニールが笑って返す。

 

「それと、西の竜峰はここよりも少し寒いぞ。何か羽織るものは持ってきたか?」

「あ、ごめん……何も持ってきてないや」

「ふむ、それならば」

 

 そうファフニールが呟いた瞬間、ミーシャの周囲を再び暖かい炎が包み込む。そうしてまとわりつく炎は形を変え、ゆったりとしたマフラーとなってミーシャの首元へまとわりついた。

 

「わ、あったかい」

「これをつけておくとよい。凍える事はないだろう」

「うん! ふにーちゃん、ありがと!」

「だが案ずるでないぞ。もしかしたらあちらには雪が降っているかもしれん。少しでも寒いと思ったら、すぐに私のそばに寄りなさい」

「わかった!」

 

 かけられた炎の布を握りながら、ミーシャが笑って答える。ぬくぬくと熱を持ったその薄布を大事そうに手で押さえながら、ふとミーシャは思い立ったように口を開いた。

 

「ふにーちゃんって、すっごく物知りだよね」

「む……?」

 

 かけられたミーシャの言葉に、ファフニールは意外そうな唸り声をあげた。

 

「だって珍しい木の実のことも知ってるし、遠くの方のことも知ってるもん。私の知らない事、いっぱい知ってるから」

「なるほど……それならば、私はミーシャより多くのことを知っているかもしれない。そもそも私とミーシャでは、生きている年数が違う」

 

 かたやまだ少女とも呼べるような外見の黒魔女と、かたや世界に終焉を告げるような邪龍である。多くの人間から畏れられたその龍は、ミーシャが決して見ることのないような、様々な世界をその青い双眸で眺めてきたのだ。

 

「しかしミーシャは、黒魔術のことをたくさん知っているだろう?」

「うん、だっていつも使ってるからね! 黒魔法で知らない事はないよ!」

「ならば、そういうことだ。私はいつも黒魔法を使わない。だがいつも空を飛び、様々な景色を眺めている。つまり私はこの空を。ミーシャは黒魔法という空を飛んでいるのだ」

「ふーん……」

 

 どこか羨ましそうに視線を泳がせながら、ミーシャがファフニールへ返す。

 

「……もしミーシャが望むのならば、私はいつでもミーシャと共にこの空を飛ぼう」

「いいの?」

「もちろん。ミーシャの見たことのない、様々な景色を見せると約束しよう」

「うん! じゃあまた今度、一緒にどこか行こうね!」

「ああ、そうしよう」

 

 そうして納得したようなミーシャの視界に、ぽつりと白いものが降りてくる。

 

「あ、雪」

「うむ、そろそろだな」

 

 いつのまにか燦々と輝いていた朝陽は隠れ、ミーシャが見上げた先には鈍い鉄のような雲と、静かに降り注ぐ白い雪が広がっていた。向こうに連なる岩山には万年雪が覆い被さり、白い雪の中に荒い岩肌を覗かせている。

 先ほどの青いものとはうってかわって、高い波の荒れている海を見下ろしたミーシャにファフニールが声をかけた。

 

「潮風が強いな。ミーシャ、帽子を深く被っておきなさい」

「どうして?」

「髪が痛むからだ。ひどいと抜け落ちるぞ」

 

 それを聞いたミーシャが、両手で帽子のつばを強く握る。

 

「この年でハゲは嫌っ!」

「うむ、それならば大丈夫だ」

 

 口元に薄い笑みを浮かべながら、ファフニールは荒れた海を抜け、曇り空を飛ぶ。そうして切り立った岩山をゆっくりと旋回し、中腹にある開けた崖へと降り立った。

 辺りに大きな風圧をまき散らしながら、ファフニールが翼を畳む。そして周りを見渡した後、その首をゆっくりと地面へ着けた。

 

「滑らぬように」

「はーいっ」

 

 燃えるような紅のマフラーを身に着けたミーシャが、さく、と地面へ足を踏み下ろす。薄い雪に足跡を付けながら、ミーシャはファフニールのほうへと振り向いた。

 

「こんなところにあるの?」

「うむ。落龍の実は、ある程度高い場所にしか実らない。頂上を目指しながら、道なりに進んでいくとよい。真っ赤な実だからすぐに見つかるはずだ」

「ん、わかった」

 

 首を持ち上げたファフニールが、岩肌に挟まれた奥へと続く道を指す。そちらの方へととてとて歩いていくミーシャを追うようにして、ファフニールはその大きな身体をのっしのっしと揺らして進んでいく。

 切り拓かれた道は思ったよりも広く、ファフニールは翼で雪を避けながらミーシャの後ろをついていく。その夕焼けの真下でミーシャは雪に足跡を付けながら、ファフニールへと話しかけた。

 

「ふにーちゃんは、落龍の実って食べたことあるの?」

「ああ、あるぞ。あれはとても美味だったな……」

 

 その当時の事を思い出したように、ファフニールが思いを馳せる。

 

「落ちた竜の実というのが、あれほどまでに美味だったとは。長い間を生きてきたが、食べてきた果物ではあの実が一番印象に残っている」

「物知りなふにーちゃんがそこまで言うなんて、すごくおいしいんだね」

「ああ。ミーシャにも是非に味わってもらいたいものだ」

 

 ファフニールが目の前を歩くミーシャへ優し気な視線を向ける。

 

「でも、ふにーちゃんは生で食べたんだよね? ってことは、とれたてが一番おいしいのかな」

「一概にそうとは言えないな。その料理人の腕が確かなら、落龍の実は最高の材料になるはずだ。特に甘味にするのなら、あの果汁はいい」

「そんなに甘いんだ。じゃあケインには頑張ってもらわないとね!」

 

 などと軽い会話を交わして歩いていると、ミーシャの眼前に蔦の這う崖が姿を現した。どうやら突き当りになっているらしいその嶮しい崖を見上げると、上の方には、さらに奥へと続く小さな洞窟が顔を覗かせている。

 

「頂上はあの先みたいだが」

「うん、もうすぐだね」

 

 崖の前に立ったミーシャが調子を確かめるように、蔦を手元へ手繰り寄せる。ぐいぐいと引っ張ると、枯れかけた蔦はみしみしと危なげな音を立てた。

 

「ミーシャ、背中に乗るといい。ここを上るのは……」

「よっし、頑張って登ろっか!」

 

 危険だ、というファフニールの言葉を遮って、ミーシャがふんすと鼻を鳴らす。そうしてかさかさの蔦へと足を駆けると、ミーシャは短い手足を小さく動かしながら、蔦のひしめく崖を登り始めた。

 体が軽いのか、はたまたこういった事に慣れていたのか、思いのほかひょいひょいと登っていくミーシャを、ファフニールは心配そうに見つめている。その大きな翼は、既に半分ほど開かれていた。

 

「ミーシャ、危ないぞ。今からでもいいから、降りたほうがよい」

「だいじょーぶだって! あと少しだし!」

 

 下にいるファフニールの方へと振り向きながら、ミーシャが得意げになって答える。

 

「それにこんなところまでふにーちゃんに頼ってたらダメだし! 私一人でもできるもん!」

「しかし、だな」

「まあ見ててって! ほら、もう頂上」

 

 ぶちっ。

 

「うおおおおおぉぉぉ!! やべえええぇぇ!!」

 

 握った蔦は情けない音を立ててちぎれ、ミーシャが野太い悲鳴と共に宙を舞う。ひゅー、とじたばた手足を動かしながら落ちていくミーシャの視界には、紅の翼がはためいていた。

 

「へぶぅっ」

 

 顔面から真っ赤な鱗へ追突したミーシャが、潰れた声を上げる。

 

「……次からは私を頼りなさい」

 

 ため息交じりに翼を動かして、ファフニールは背中のミーシャへと呟いた。

 

「あ、ありがと……ごめんね、ふにーちゃん」

「よい。こういう時は素直に飛べ、と私に命じるものだ」

 

 鼻を赤くし、涙目になったミーシャに呆れたような視線を向け、ファフニールは翼を動かす。そして崖の上で大きな翼を折りたたむと、長い首をもたげてミーシャを地上へと降り立たせた。

 涙をぐじぐじと袖で拭くミーシャに、ファフニールが静かに告げる。

 

「ミーシャよ、そなたは私の――私達の主である」

 

 重く響く邪龍の囁きに、ミーシャは顔を上げた。

 

「そなたが望むのなら、私達は敵を切り裂く剣となり、そなたを護る盾となる。そなたに新しい世界を見せるための翼となり、そなたの意思を継ぐ礎ともなろう」

 

 黒魔女に召喚されたものとして。ミーシャという主に仕えるものとして。炎の邪龍はその言葉を、ミーシャへと諭すように紡ぐ。

 

「私達はそなたに身を捧ぐと誓った身。ミーシャが願うならば、その意思に動く傀儡として、私達はその身の全てを尽くそう。全てを尽くし、その願いに応えよう」

 

 青く光る眼光は、黒の魔女へと向けられる。金色の瞳は、ただじっと赤の龍を写していた。

 

「我が主の、望みのままに」

 

 その言葉と共に、しん、と静寂が訪れる。風の吹く音が、どこか遠くで鳴り響く。

 ぽかんと口を開けたままのミーシャに、ファフニールはいつもの調子に戻って、小さく息を吐いた。

 

「……つまり、もっと私達を頼れということだな」

「そういうものなの?」

「そういうものだ」

 

 どこか不思議に思う様子で、ミーシャが顎に手を当てる。その思考を遮るように、ファフニールは口を開いた。

 

「さあ、ここを抜ければ頂上だ。ミーシャ、進もうか」

「……うん、行こっか!」

 

 その声に笑顔で応じ、ミーシャは首を縦に振る。幼い黒魔女と巨大な邪龍は、同じ道を歩む。

 

 かくして。

 

 

 

「ついたーっ!」

 

 三角帽子のつばに雪を積もらせながら、ミーシャが両手を掲げて笑顔で叫ぶ。その真上に大きな翼の傘を広げたファフニールが、とてとてと走り出すミーシャの後をゆっくりと追った。

 

「ここにあるの?」

「ああ、このくらいの高さならばすぐに見つかるだろう。だが足元には気を付けるように」

「はーい」

 

 薄く敷かれた白色の絨毯に小さく足跡をつけながら、ミーシャがきょろきょろと辺りへ視線を向ける。後ろには嶮しい壁がそびえ立ち、その周囲には曇り空がどこまでも続いている。

 

「探すべきは細い枝だ。あれは木の実というよりは細い枝に生える花に似ているからな」

「でもでも、こんなに雪が降ってたら分かんないかも」

「なに、心配することはない。これくらいの雪なら、それに埋もれてしまうこともないだろう」

 

 などと会話を交わしてから、しばらく。

 ひとしきり辺りを見回したミーシャは、不満そうに口元を尖らせながらファフニールへと向き直った。

 

「どこにもないよ?」

「……まだ分からぬ。もう少しよく探してみるといい」

 

 とは言ったものの、ミーシャとファフニールの周囲は全て雪に覆われている。探しようもないその情景に、ミーシャはふらふらと辺りをうろつきながら、切り拓かれた平地の端までたどり着いた。

 足元の雪を払いながら、ミーシャが膝を折ってうずくまる。 

 

「この下とかないのかな?」

「うむ、探してみると良いかもしれぬ」

 

 そう軽く返して、ミーシャが恐る恐る崖の下を覗き込む。

 

「落ちぬようにな」

「うん、だいじょうぶ」

 

 眼下には深い森が広がっていて、緑色の木々に白い雪が砂糖の様に被さっている。崖の表面は荒々しい岩肌で、身を乗り出しながらそう眺めているミーシャの視界に、ふと目に留まるものが一つ。

 

「あっ、あれ!」

 

 崖から突き出る小さな枝には、真っ赤な木の実がいくつも成っていた。

 見つけたその紅色にミーシャがぱぁ、と目を輝かせ、ファフニールの方へと向き直る。

 

「ふにーちゃん!」

「ああ、まさしくあれが落龍の実だ。よく見つけたな」

 

 そのファフニールの答えに、ふとミーシャが困ったような声を上げる。

 

「でも、あんなところ取れないよ……」

「ふむ……」

 

 呆れのような、応じるような声でファフニールが翼を一つはためかせる。

 

「ミーシャよ」

「えっと……いいの?」

「無論。この翼は、そなたの翼だ」

 

 広げられた紅の翼はミーシャを覆いつくし、あたりを夕焼けの空が包み込む。

 地面につけられた頭にミーシャが足を乗せると、邪龍は雪の降る空へと飛び立った。

 

「落ちぬように」

「うん、わかった」

 

 鉄が赤熱したような角にしがみつき、ファフニールの眉間に座り込むミーシャが頷く。ファフニールは翼を今一度大きく動かし、崖へその大きな体を寄せる。

 だんだんと近づく赤い色をした木の実のうちの一つに、ミーシャの目の輝きが強さを増した。

 

「ミーシャ、届くか」

「うんっ、だい、じょうぶっ……!」

 

 途切れた声をあげながら、ミーシャが震える手を伸ばす。伸ばされた小さな手のひらは、冷たい空気を何度か掴み、その果実へと辿り着いた。角を握る手を強くして、ファフニールの眉間へとへたり込んだミーシャは、手の内に収まる落龍の実を見て、ぱぁ、と明るい笑みを浮かべる。

 

「とれたっ!」

「おめでとう、ミーシャ」

 

 赤い果実を掲げたミーシャが、ファフニールの言葉にもう一度枝へと視線を向ける。

 細い枝に実っている残された木の実は、砂糖菓子のようにまぶされた雪の下で、赤い光沢を放っている。

 

「誰も見てないだし、全部とっちゃえ!」

「その方がよい。あって困るものではないからな」

 

 そう呟くファフニールの頭の上で、ミーシャは木の実を一つずつ三角帽子へどんどん詰めていく。そうしてたくさんの木の実の詰められた帽子を抱きしめて、ミーシャはその中を覗き込みながら、ファフニールへと口を開く。

 

「見てみて、ふにーちゃん! こんなにいっぱい取れた!」

「ああ、素晴らしいな」

「これもふにーちゃんのお陰だよ! ありがとね、ふにーちゃん!」

 

 ミーシャの明るい笑みに、ファフニールが静かに目を伏せる。まるで呆れとも諦めとも取れるその表情を浮かべながら、ファフニールが牙を開く。

 

「ミーシャよ、礼には及ばぬ。それはそなたの力で勝ち取ったものだ」

 

 ファフニールの言葉に、ミーシャは不思議そうに首を傾げる。

 

「私はそなたに仕える者であり、そなたのために羽ばたく翼である」

「でも、ふにーちゃんは私のために力を貸してくれたんでしょ?」

「そうだ。そなたに従える者として、当然のことをしたまで。だから、礼などはいらぬ。むしろ当然のこととして受け取るとよい」

「そんなことないと思うんだけどなぁ……」

 

 諭すファフニールの言葉に、ミーシャがむぅー、と不満そうにほっぺたを膨らませた。

 

「ミーシャは優しすぎる」

「やさしすぎる……そうなの?」

「ああ」

 

 翼を動かし、薄い雪にミーシャを下ろしながらファフニールは続ける。

 

「ミーシャのその優しさは誇るべきものであり、その光に私は惹かれたのだろう。しかし、時にその光はミーシャの目を眩ませ、優しさはそなたの後ろから刃を突き立てる。そうすれば、そなたの翼は落とされてしまうかもしれぬ」

「だけど、今まではそんなことなかったよ?」

「ではこれからは? そなたが歩む道の先は、どうだ」

 

 ミーシャの言葉を遮るように、ファフニールは問いかける。

 

「私は終末の権化として、様々な者と出会ってきた。そなたのような輝きを放つ者とも出会い、幾度となく剣を交えてきた。そして、その末路を私はこの目で見届けた。彼らの結末は……ひどいものだった」

「……私も、そうなっちゃうの?」

「いや。ミーシャは、そのような終わりを迎えるべきではない。そなたの終わりは……幸せに満たされなければ」

 

 怯えたような表情のミーシャに、終焉を司る龍は告げる。

 

「私は、ミーシャが心配だ。そなたの終焉が、どうなるのか」

 

 一迅の風が吹き抜ける。冷たい風が、ミーシャの髪を揺らした。

 

「……すまない。一介の従者が、口を挟みすぎたな」

「ふにーちゃん?」

 

 申し訳なさそうに目をふせて、ファフニールは首を垂れる。そうしてミーシャに乗るように首を少し動かすと、ファフニールは三度その大きな翼を広げた。

 

「さあ。帰るとしようか、ミーシャよ」

「うん」

 

 羽ばたくファフニールの上で、ミーシャは膝を抱えてうずくまる。

 雪で覆われた森を眼下に、ミーシャの金の瞳はどこか遠くを見つめていた。

 

 

 輝く夕陽を受けながら、ファフニールは翼を折りたたむ。辺りには旋風が巻き起こり、ミーシャは木の実の帽子を飛ばされないように両手で抱えながら、ぴょんとファフニールの体から飛び降りた。

 整えられた庭にミーシャが座り込み、帽子の中を確かめるようにごそごそ漁る。その中から真っ赤に熟れた木のみを手に取ると、ミーシャはファフニールの青い瞳の前へと差し出した。

 

「みてみて、こんなに取れた! すっごくおいしそうだよね!」

「ああ。そなたのためになったのなら、何よりだ」

 

 にっこりと笑うミーシャに、ファフニールが優しく牙を動かす。するちミーシャは三角帽子を置いたまま立ち上がり、両手を後ろに回しながらファフニールの鼻先へと静かに歩んでいく。

 閉じられた邪龍の咢の前で、ミーシャは少し悪戯めいた笑みを浮かべていた。

 

「ふにーちゃん、ちょっとお口開けて?」

「どうしてだ?」

「いいからいいから、ほら」

「……それが、そなたの望みなら」

 

 赤熱した牙は開かれ、ミーシャの眼前で邪龍の咢が開かれる。

 次の瞬間、ファフニールの大きな口の中に、甘い香りが広がった。

 

「……ミーシャ?」

「どう? 甘いかな?」

 

 開いた顎を閉じると、すぅ、と抜けるような甘い香りがファフニールの口の中を満たす。眼前のミーシャは、すこし意地悪そうに笑っていた。

 

「……ああ、甘いな。そなたも、この果実も」

「ふふ、よかった」

 

 呆れたような声のファフニールに、ミーシャは口を開く。

 

「ふにーちゃん。私ね、ありがとう、って言葉が好きなの」

 

 少女の声に、龍は沈黙で応えた。

 

「辛いときも、悲しいときも、そうやって言ってくれれば元気になれる。それで、こんなに簡単に自分の気持ちを伝えられるんだもん。すごくいい言葉だと思わない?」

 

 両手を広げ、爽やかな夕暮れの風を浴びてミーシャは続ける。

 

「だから、この気持ちを伝えるために、私はそうやって言うことにしてる。将来がどうとか、終末がどうとか、私には分からない。それが正しいのか、間違ってるのかすらも、私には分からない……けどね」

 

 後ろへ回した両手を組んで、ミーシャがファフニールへと振り返る。

 

「この気持ちを伝えられるのは、今だけ。全部終わった後じゃなにも言えないから、私はこの気持ちをいっぱい伝えるようにしてるの」

 

 だから、とミーシャはファフニールの青い瞳を覗き込み、太陽のような明るい笑みを浮かべて告げる。

 

「ふにーちゃん、ありがとうっ!」

 

 その眩い笑みに、ファフニールは目を見開いた。口の中に残った甘い香りが、どこか遠くから漂ってきた。

 

「ミーシャよ」

「ん?」

「そなたは……本当に、優しすぎる」

「あははっ。でもそうやって言ってくれるの、ほんとはちょっと嬉しいかも」

 

 少し恥ずかしそうに頬を掻きながら、ミーシャが呟く。それにファフニールは小さく息を吐き、口を開いた。

 

「それでは……私はもう、行くとしよう」

「えー? 何か食べていかないの?」

「問題はない。それに、私はもう満たされた」

 

 そう言って青い目を伏せたファフニールの体を、紅の炎が包み込む。広がる赤い魔法陣は淡く光り、ミーシャの視界を赤で埋め尽くした。

 爆炎に姿を隠しながら、ファフニールがその双眸を開く。

 

「そなたの辿る空に、良き終焉があらんことを」

 

 終焉の龍として。主人に仕えるものとして、素晴らしき終わりを迎えられるよう。

 その小さな呟きは、舞い上がる紅蓮に消えた。

 

「では、さらばだ、ミーシャよ」

「うん! ふにーちゃん、ばいばーい!」

 

 包み込む炎に、ミーシャが大きく右手を振り上げる。

 燃えるような夕陽と。輝くような焔と共に、ファフニールはその姿を消した。

 

 



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『追放』

 

 ちりんちりん、と呼び鈴の鳴る音がする。

 

「んぁー……?」

 

 よだれのついた口元をこすり、半裸になった体を起こしながらミーシャが寝ぼけた頭で声を上げた。窓から差し込む光はまだ弱く、朝陽も満足に顔を出せていない。眠たげな瞳に青い空を移しながら、ミーシャはのそのそとベッドから這いずり出た。

 机の上に置きっぱなしだった短い杖を振ると、ミーシャの体を紫色のきらきらした光が包み込む。身を包むものは黒の寝間着からいつものローブへと変わり、頭の上には三角ぼうし。ふわぁ、とあくびを一つして、ミーシャは寝室のドアを開けた。

 

「こんな朝からなんだろ……?」

 

 寝ぼけた頭を必死に働かせるが、ミーシャの思い当たるようなものはない。アイリスはまだ寝ている頃だろうし、それ以外にわざわざこんな森の奥の湖まで足を運び入れる人間も少ない。さて誰か、とぐだぐだ考えているうちに、ミーシャの足は無駄に大きな玄関の前へと辿り着いた。

 錆びかけのドアノブを握り、ミーシャが外へと顔を出す。

 

「はーい、どちらさま?」

 

 朝焼けの広がるミーシャの眼に映ったのは、(くれない)に染まった三つの鎧だった。

 頭部を全て覆い隠すルビーのような兜に、ゆったりとした白の服装。通された袖から覗く緋色の手甲と、所々に装飾されている赤いバラの刺繍が、ミーシャの目に印象に残っていた。

 朝イチに見るにはあまりにも異質なその光景にミーシャがぽかんと口を開ける。それを見かねたように、中央の鎧が兜の下の重たい口を開いた。

 

「失礼ですが、こちらが黒魔女の館ですか」

「うん、そうだよ」

「それではあなたが、黒魔女のミーシャ様で?」

「えっと、私がミーシャだけど……」

 

 立て続けに問いかける男の声に、ミーシャが困惑しながら首を縦に振った。すると赤い鎧たちは何かを話すようにして身を寄せ合い、赤い手甲に包まれた指をせわしなく動かし始める。

 ひとしきり話し終わった後に、再び赤い鎧がミーシャへと向き直った。

 

「実は私達、旅をしている者なのですが……偉大なる黒魔女であるあなたに、頼み事がしたくて参ったのです」

「……いだいなる、くろまじょ……ふふ、いいわ! 何でもやってあげる!」

 

 調子に乗ったミーシャがにやついた顔をなんとか隠しながら高らかに叫ぶ。

 

「それにしても、こんな朝にどうしたの?」

「ええ。何分火急なものでして。あなたにしか頼める方がいないのです」

「そっか、それなら仕方ないわね! それで、その頼み事ってのは?」

 

 ふんす、と無い胸を張りながら、ミーシャが上機嫌になって問いかけた。すると赤い鎧の男は腰に着いたポーチに手を入れて、小さな時計のようなものをミーシャの目の前へと差し伸べる。

 

「こちらの魔道具を直してほしいのですが」

「魔道具?」

「はい」

 

 ごつごつとした鎧から受け取ったそれに、ミーシャが不思議そうな視線を向けた。

 

「記憶した座標を示す魔道具です。それがないと私達は旅を続けられなくなってしまうのです」

「なるほど、それが動かなくなったのね」

 

 手の内の時計を眺めながら、ミーシャは顎に手を当てて呟く。確かに同じ方向を示し続ける筈の赤い針は黙りこくって、ミーシャが手を傾けてもぴくりとも動かない。

 

「私、あんまり道具とかは分かんないんだけどなぁ……」

「そこを何とかお願いします、黒魔女様」

「うーん……ま、やるだけやって――」

 

 みよう、とミーシャが呟こうとしたその瞬間。

 ばちん! と何かがはじけ飛ぶような音が鳴り、ミーシャの掌から閃光が広がった。

 

「うおあぁぁーーーっ!?」

 

 野太い悲鳴を上げながら、ミーシャが手の内の魔道具を放り投げ、腕で視界を覆う。焼けつくような痛みをこらえながら、ミーシャがゆっくりと目を開くと、そこにはぼんやりと揺らぐ紅色があった。

 突然の強い光でおぼつかない視界を頼りに、ミーシャが恐る恐る声を上げる。

 

「あっぶなー……旅人さん、大丈夫だった?」

 

 まどろみにも似た視界の歪みに、ミーシャは目を擦りながら続ける。

 

「たぶん、魔力がはじけたんだね。どっかの回路が詰まってたみたい」

「……か、なら……ぅ」

「あれっ、旅人さん? 私ちょっと目をやられちゃったから、分からないよ」

 

 目の前のぼやけた赤い影に手を振りながら、ミーシャが不思議そうな声を上げるが、帰ってくるのは沈黙ばかり。ミーシャがきょろきょろと見えない視界を泳がせるたびに、耳鳴りの音が頭を揺さぶった。

 

「うぁ、耳も痛い……まいったな、これしばらく治りそうにないや」

 

 突然の事態に戸惑いながらも、とりあえず落ちている魔法具を拾おうとミーシャがぼやついた視線を地面に向かってひざを折る。そうして地面をまさぐるミーシャの景色が、ふと少しだけ暗くなったような気がした。

 

「あれ? 旅人さん」

 

 眼前に立つ赤い影に、ミーシャが気付いて顔を上げる。見上げた視界に映るのは、紅に染まった重たい鎧と、その上で輝く銀色の光だった。焼けついた瞳へ差し込む閃光に、ミーシャが思わず目を瞑る。

 

 そうしてミーシャは――風を切る音と、飛び散る血の音を聴いた。

 

「……ぁ……え?」

 

 手に感じる生暖かい感触に、ミーシャの困惑が小さな声になって漏れる。流れ出した血はミーシャの黒いローブをさらに赤黒く染みわたり、それがにじむと同時に全身を切り裂くような痛みが覆った。

 

「うわあぁぁっ!! いだ、痛っ」

 

 引き裂くような絶叫は、剣閃に遮られる。ミーシャの頭の上の三角帽子が、ぽすりと地面に落ちた。

 間一髪でうずくまったミーシャの体を、強い衝撃が稲妻のように走る。ごろごろと小さな体は無残に転がっていき、ミーシャが蹴られたのを理解したのは、古ぼけたドアに体が打ち付けられた直後だった。

 

「げほっ、うぇ……っ、がはっ」

 

 口元からこぼれる涎を拭い、ミーシャはようやく戻ってきた目を眼前の鎧へと向ける。

 朝陽に輝く銀の剣は、真っ赤に染まった血が雫を垂らしていた。

 

「しかし……るのか? 俺は反対……ず……だが」

 

 耳鳴りの音はだんだんと止み、男たちの会話がミーシャの耳へと流れ込む。しかしそれを気にする余裕もなく、ミーシャは鋭く痛む身体を何とかして立ち上がらせた。

 刀身に着いた血を振り払い、赤い鎧が腕を構える。それに応じるように、後ろに控えていた二人の鎧の男たちも、それぞれ剣を抜き放つ。

 

「ぅ……い、たい……」

 

 かすれた声で毒づきながら、ミーシャが魔力を集中させる。流れる紫の魔力は長い杖を象って、ミーシャの手のひらへと収束していく。

 そうしてミーシャが杖を握ろうとした瞬間――黒い杖は、溶けるように消えていった。

 

「あぇ……? なん、で」

 

 それを合図に、ぎらぎらと光る銀の剣がミーシャへと向けられる。赤く磨かれた鎧に映ったミーシャの顔には、焦りと恐怖が入り混じったような、ぐちゃぐちゃの表情が張り付けられていた。

 再びミーシャが手のひらに魔力を込めようとするが、集められた魔力は無残に溶けていく。ミーシャは信じられないような表情で自分の掌を見つめ、なんで、と何度も呟いていた。

 

 ずんずんと近づく赤い鎧に、ミーシャは壁に手を突きながら血を吐き捨てる。

 やがて近づいた赤い鎧が、銀の剣を振り下ろそうとしたその刹那、ミーシャは右手を掲げて叫んだ。

 

「えん、まくっ!」

 

 紡いだ言葉と同時に、ミーシャの手のひらから黒い煙が巻きあがる。黒魔法の初歩の初歩に位置する、光の裏である暗闇を生み出す魔法。今のミーシャには、その魔法を現象させることすら難しいように思えた。

 突如として視界を覆う黒い煙に、赤い鎧は一瞬だけ身を屈め、すぐさま闇雲に剣を振り始める。振り払われる剣を身体を低くして躱しながら、ミーシャは傷だらけの体を動かして煙の外へと逃げ出した。

 

「畜生、どこだ!? 逃げられたか!?」

「なんでとっとと仕留めなかったんだ! とにかく追うぞ!」

 

 怒声がミーシャの傷口へと染みるように響く。軋む体を動かして、ミーシャは立ち上がる。後ろから迫る剣閃の音に、ミーシャが表情を凍り付かせながら駆けだした。流れている黒い血が、細い脚へと伝わって地面に落ちる。

 

「いいか、絶対に逃がすんじゃない! 必ずあの黒魔女を殺すんだ!」

 

 後ろから聞こえてくる叫び声に、ミーシャは夢中になって足を動かした。 

 

 

 差し込む木漏れ日は薄く、暗い森の中をミーシャが走り抜ける。背後から聞こえるのは魔法が放たれる風切り音と、土煙の舞う錆びついた音。赤い光弾がミーシャの顔の横をすり抜けて、古ぼけた木へと当たって爆ぜた。

 巻き起こる熱がミーシャの体を横に凪ぎ、飛び散る破片が肌を裂く。頬についた血を拭い、涙を堪えてミーシャは逃げる。

 

「なんで……なんで、っ!」

 

 吐き捨てる言葉は大地の弾ける音に消え、ミーシャの体は前方へと吹き飛んだ。急いで起こそうとするが、重い体はミーシャの言うことを聴きそうにない。短い腕を必死に動かしながら、ミーシャが前へ前へと進みだす。

 そのミーシャの右足に、飛来した鉄の釘が突きたてられた。

 

「ひぎゃっ!」

 

 引きちぎれたような悲鳴が鳴り、ミーシャの右足が地面に縫い付けられる。どくどくと赤い血は流れ出し、地面を紅の液体が染め上げる。なんとかして突き刺さった鉄の釘を引き抜こうとするが、肉に深く刺さった釘はぬるぬるとミーシャの手をすり抜けてしまう。

 突き刺すような痛みに、ミーシャの目からぽろぽろと涙がこぼれた。

 

「い、たい……いたい、よぉ……」

 

 とすとす、と。

 そう呻くミーシャの左腕に、立て続けに釘が撃ち出された。

 

「あゔっ!」

 

 ミーシャの肌を穿った釘は地面に突き刺さり、赤い液体を土の上に散らす。貫かれた腕からは溶けるように力が失われてゆき、ミーシャの身体の支えを失わせる。既に限界を越した身体をなんとかよじらせながら、ミーシャは自らの脚に突き刺さったままの釘へと腕を伸ばした。

 無理矢理に肉をこじ開けた釘はようやくミーシャの脚から離れ、ふらふらと体を揺らしながらミーシャは立ち上がる。視界は暗くなりはじめ、身体は水に沈むように重くなっていくのも構わず、ミーシャは傷だらけの脚を動かした。

 

「にげ、ないと……しん、じゃう……」

 

 口元から血を垂らし、ミーシャがずるずると体を前へと引きずる。いつの間にか目の前にはまっすぐな並木道が広がっていて、後ろにも前にも人影は見えない。しかしそれに気づく素振りすら見せず、ミーシャは血の足跡を付けながら前へ前へと逃げてゆく。 

 ひらり、と木の葉が落ちる音。

 

「ゔぁっ! ひ、があぁっ!」

 

 真上から降り注ぐ剣の雨が、ミーシャの身体へと突き刺さる。身体は無残に投げ出され、ミーシャの周りには赤い水たまりができていた。それでもまだ、ミーシャは前へと這いずって進む。剥がれた爪が、地面に赤い線を描いた。

 立ち並ぶ樹の一つにたどり着き、ミーシャが幹へと手を伸ばす。そうして左脚を地面につけて、樹の幹へ血糊を塗りたくりながら、ミーシャはふらふらと立ち上がった。頭から流れ出す血が、ミーシャの視界を紅く染め上げる。

 

「…………ぁ……いや……」

 

 呟かれる言葉に返ってくるのは、がちゃがちゃと響く鎧の音。ミーシャの背後ですらりと剣を抜く音がしたかと思うと、ミーシャの身体は地面を転がっていた。ぼやけた視界に、赤い鎧が映る。

 

「全く、手間取らせやがって……」

 

 赤い液体が銀の刀身をつたう。苛立った声と共に足音が近づいていき、ミーシャは夢中になって体を動かした。

 ずるずる、と粘ついた液体が擦れる音を立てながら、ミーシャは並木道を這い進む。背後から迫る影は三つ、バラの色をした重たい鎧が深緑でかしゃかしゃと音を立てる。

 

「うぅ、げほ……か、はっ」

 

 口に当てた手が、赤色に染まる。皮膚はぼろぼろに裂かれ、鋭く切り開かれた傷口に涙が垂れる。染み入る痛みをこらえてミーシャは地面を這って進む。続く並木道の果てはそこにあり、ミーシャの伸ばした手は差し込む光の渦に飲み込まれた。

 

 そして、ミーシャの瞳に光が訪れる。

 視界に広がったのは、見覚えのある、一面の黄色い花畑だった。

 

「……ぁ、れ?」

 

 爽やかな風がミーシャの頬を撫で、さらさらと花の踊る音が耳に流れ込む。広がる景色は青と黄色に染め上げられて、太陽のように輝いて揺れ踊る花は、血だらけのミーシャを優しく包み込んでいた。

 唐突に視界へ入り込んだ光景に、ミーシャがぽかんと口を開ける。唇の端から垂れた血が、黄色い花の上にぽたりと落ちた。

 

 そして動かないミーシャの身体に、銀の剣が深々と突き刺さる。

 

「がはっ……!」

 

 ミーシャの身体がびくんと跳ねて、全身の力が抜けていく。血塗られた銀の剣は掲げられ、ミーシャの小さな軽い体は天へと仰がれ、ずぶずぶとミーシャの身体を銀色が犯していく。

 視界には突き抜けるような青空が広がり、そのままミーシャはわずかな浮遊感と鈍い痛みを感じ取った。

 びちゃ、と水音が花畑に広がる。流れ出す赤色が、眩しい黄色に溶けていく。

 

「あ……うぅ……」

「まだ生きてるのか。ただのチビだと思っていたが、存外しぶといな」

 

 降り注ぐ言葉に返ってくるのは、ミーシャの途切れ途切れに呻く声。剣についた血を振り払うと、赤い鎧の一人はは剣を両手で構え、ミーシャの首元へと剣をあてがった。

 かしゃり、と鎧がこすれ合う音がする。振り上げられた剣は、太陽に反射してぎらぎらと輝きを増した。

 

「これで、終わりだ!」

 

 そう赤い鎧が腕を振り下ろしたその瞬間だった。

 ごちゃ、と金属と肉とがつぶれ合う音が、花畑に鳴り響く。一瞬の間を置いて、とす、と宙を舞う剣が地面に突き刺さった。

 

「あが……? なにっ……!?」

 

 失われた両手を目の当たりにして、赤い鎧が信じられないような声を上げる。後ろに控えていた二人はすぐさま剣を抜き放ち、もう片方の手に魔方陣を展開させる。ぼたぼたと流れる血が地面で跳ねて、ミーシャの頬に飛び散った。

 男の絶叫する声が木霊して、花畑に一陣の風が吹き荒れる。

 そしてそれに流されるように姿を現したのは、白色に染まった魔女だった。

 

「ごきげんよう」

 

 艶のある黒髪を揺らし、右手には純白の長い杖。黒に染まった瞳は冷たく輝き、ふわりと舞い降りた白魔女は、目の前の赤い影へ向かって言葉を紡ぐ。

 

「紅いバラの騎士様方ね。こんな辺鄙な地までご苦労さま」

「白魔女……? どういうことだ!」

 

 返ってくる怒声に、アイリスは抑揚のない声で続ける。

 

「閃光魔弾で視覚と聴力、魔力を奪って殺そうとしたわけね。まったくあのバラ好きの思いつきそうな狡い考えだわ」

「な、何を……?」

「あら、まだ気づかないの? 私、いま怒ってるのよ」

 

 貼り付けられた表情をそのままに、アイリスは語る。

 

「あなたたちは私の友達を傷つけた。だから私は、あなたたちに同じことをしてあげる」

「なッ……貴様、自分が言っていることを理解しているのか!?」

「ええ、もちろん。そうでなければ、私はここにいないもの」

 

 そうしてアイリスは虚空を睨みつけ、初めて表情を作り出す。整った顔は忌々しく歪み、唸るような低い声でアイリスが口を開いた。

 

「ローザ、あなたは赤いバラが好きだったわね」

 

 白魔女が杖を振るう。その直後に肉の潰れる音と絶叫が響き渡り、赤いバラが黄色の花畑に咲き乱れる。

 

「今度あなたの立派なお屋敷を、沢山のバラで飾ってあげるわ」

 

 肉が転がり、血がまき散らされる。目の前に広がる沢山の赤色を睨みつけながら、アイリスは杖を地面に突き立てた。白い魔方陣が広がって、動かないミーシャとその後ろの赤いバラを包み込む。

 淡い光に包まれながら、アイリスがミーシャのそばへと腰を下ろす。そうして小さな頭を膝の上に乗せると、血まみれの髪を優しく撫でた。ぱりぱり、と乾いた血の剥がれる音が微かに聞こえる。

 

「ミーシャ……ごめんなさい……」

 

 血まみれの顔のなか、僅かに覗く涙の痕に、アイリスが静かに呟く。その頬を撫でると、ミーシャの体は光に包まれ、傷はだんだんと塞がれていった。

 ミーシャの体を包む癒しの光輝に、アイリスは悲しそうな目を伏せる。

 

「私がもっと早く気づいていれば。私が、ずっとあなたのそばにいてあげたなら」

 

 懺悔を聴く者はおらず、独白は青空へ消えた。そしてアイリスは淡い光に包まれるミーシャの頭に手を置いて、静かに魔力を込める。

 かちゃ、とどこかで鍵を閉める音がする。その金属音がなったあとに、アイリスは静かに唇を動かした。

 

「……全てを光へ。夢幻へ、消してしまいましょう」

 

 

「んぅ……?」

 

 爽やかな風が頬を撫で、ミーシャはゆっくりと瞳を開く。おぼろげに浮かび上がった意識にはかすかな花の香りと、頭の後ろに感じる柔らかな感触が感じられた。

 そして真上から降ろされるのは、漆黒に染まった黒の瞳。うっすらと細くなるその双眸は、よだれを垂らして呆けたミーシャの顔へと向けられる。

 

「あいりす……?」

 

 ぼやけけた視界に映る見慣れた顔に、ミーシャはゆっくり呟いた。

 

「おはよう、ミーシャちゃん」

「ん、おはよ」

「よく眠れたかしら?」

「だいぶ……」

 

 と答えた時点でミーシャがはたと目を覚まし、がばりと体を起こしてきょろきょろとあたりを見回す。ミーシャとアイリスと包んでいるのは、黄金の一色に染まった花畑だった。

 

「あれ、なんで!? ベッドは? ってかここどこよ!」

「あらあら、ミーシャちゃんってば起きたばっかりなのに元気なのね」

「元気とかそういう問題じゃないっ! いつもの帽子もないし!」

 

 あたまの上をぺたぺた触りながら、ミーシャが目をつむって叫ぶ。しかしアイリスは不思議そうに首をかしげるだけで、ミーシャは頬を膨らませながら地団駄を踏みたくなった。

 

「それにしてもミーシャちゃん、気持ちよさそうに眠ってたわ」

「勝手に人の寝顔を見ないでよ! あーもう、なんでこんなことに……」

 

 と、うずくまって頭をかかえたミーシャの動きがぴたりと止まる。そうして恐る恐る顔を上げたかと思うと、ミーシャは驚きとも恐怖ともとれるような混沌とした表情を張りつけながら、その口を動かした。

 

「なんで、私はここにいるの?」

 

 黄色の花畑に包まれて、ミーシャの呟きが木霊する。

 

「ミーシャちゃん、覚えてないの?」

「うん、忘れちゃった……」

「あらあら……もしかしたら、疲れてたのかもしれないわ」

 

 そう口にしたアイリスが、ぽんぽんと自分の膝を軽く叩く。にんまりと浮かんだアイリスの笑みに、ミーシャが訝し気な視線を流した。

 

「ほら、ミーシャちゃん」

「……なによ」

「もう一回ひざまくらしてあげる。ゆっくり休みましょ?」

 

 じりじりと間合いをつめながら、ミーシャがアイリスへと近寄っていく。さながら小動物のようなその様子にアイリスは普段通りの笑みを浮かべて、飛び込んできたミーシャを優しく受け止めた。

 膝の上でごろごろと転がるミーシャの頭を、アイリスが優しく撫でる。

 

「でも変ね。ここまで来たこと、まったく覚えてないもの」

「それは仕方のないことよ。忘れるということは、避けられないものだから」

 

 頭からふにふにとした頬へと手を伸ばして、アイリスが続ける。

 

「忘れてしまったということは、それで終わりということ。けれど、本当に大切なものはずっと覚えているものなの。ミーシャちゃんにも、ずっと覚えているものはあるでしょ?」

「ずっと、覚えてるもの……?」

 

 アイリスの言葉に、ミーシャはふと思考を巡らせる。黄金の花びらが舞って、ミーシャはどこかで見たその光景をゆっくりと思い出した。

 やがて、ミーシャがぽつりとその言葉を口にする。

 

「……うらぎ、られた」

 

 アイリスの瞳を覗き込み、ミーシャは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 悲しみとは違う。どちらかというと、怒りのような、不思議な気持ち。どろどろになったそんな何かを心に浮かべて、ミーシャが首を傾げたままアイリスへと視線を向ける。

 

「裏切り? 誰に?」

「だれだろう……わかんない。忘れちゃった」

 

 ぼんやりと浮かぶその感情に、ミーシャは曖昧な答えを返す。その瞳には涙が浮かび上がり、ミーシャの頬を伝って小さな雫が花びらへと落ちた。

 それに気づく素振りも見せず、ミーシャはだんだんと感じるまどろみへと体を預ける。

 

「でも、覚えているのなら、それがミーシャちゃんの大事なことなのかもしれないわ」

「……それが、誰かもわからないのに?」

「ええ。それが分かったとき、ミーシャちゃんがどうするかが大切なのかも」

「どう、するか?」

 

 その誰かに会った時、どうしてしまうのだろう。裏切った相手を問いただすのか、そのまま怒りに任せて殴りつけるのか。あるいは、全てに目をつむって許してしまうのか。今のミーシャには、それすら分からないようだった。

 だんだんと暗闇をミーシャの視界が支配していく。うっすらと見えるアイリスの表情は、どうしてかとても悲しそうなものに見える。

 

「どうして、そんなに」 

 

 悲しいの、という言葉は届かずに、暗闇へ消えていく。

 渦巻く疑問に身を任せながら、ミーシャはゆっくりと眠りに落ちていった。

 

 

 黄色の花畑に包まれて、あなたは全てを失った。

 



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黒魔女は泣きつきたい。

なんかアホみたいに時間空いてすいませんでした


 

 ころんころん、と古びたベルの音が、朝のケーキ屋に響く。

 

「こんにちは」

「ああ、アイリスさん。いらっしゃい」

 

 玄関に立ちすくむ白の魔女にケインは少しだけ驚いた顔をして、すぐさまコーヒーを淹れる準備に取り掛かる。そのまましばらくの時間が経ったあとに、ケインは目の前に座ったアイリスへ真っ黒な液体を差し出した。傍に角砂糖を添えるのも忘れずに。

 

「珍しいですね、こんな時間に」

「ええ、今日は休みですもの。ちょっと早く来ちゃったわ」

 

 迷惑だったかしら? とおどけて言うアイリスに、ケインは目を伏せて首を振る。あの真っ黒少女に比べればどうという事はない。むしろアイリスのような客ならば毎日来てほしいくらいなものだ。

 コーヒーに角砂糖をぽとりと落とし、小さなスプーンでかき混ぜるアイリスがふとため息を吐いた。その瞳はどこでもないところを向いていて、ケインはその珍しい物憂げな表情に思わず口を動かす。

 

「何かあったんですか?」

「……あらやだ、顔に出てたかしら?」

「愚痴なら聞きますよ。今なら誰もいないんで」

 

 閑散とした店内を示すようにケインが軽く両手を広げる。そんな彼を見てアイリスは少しだけ口元に自虐的な笑みを浮かべ、黒い液体を口の中へ流し込む。目の覚める苦みとコーヒーの香りが、アイリスの鼻先へ抜けるように広がった。

 かちゃり、陶器の擦れる音のあとに、アイリスはぽつりと語りだす。

 

「ローザ――いえ、紅の魔女って知ってるかしら」

「紅……ああ、ノールド地方の領主ですか。知ってますよ」

 

 少しだけ考えた素振りを見せて、ケインが首を縦に振る。

 紅の魔女、ローザ。この南の大陸でも広範な勢力を持ち、その名を知らない者は居ないという。魔法の腕も随一であり、抱えている兵力も多い。端的に言えば、分かりやすい力を持つ領主だった。

 

「確かこの前、どこかで表彰されてませんでしたっけ」

「あら、よく知ってるわね。魔力の負荷に比例して硬度が変化する鉱物の開発。変な所で頭がいいのよね、あの人」

「はあ……まあ確かに、あそこはそういった人たちの集まりですもんね」

 

 ここより東に位置するノールド地方は、魔術的に発展した都市として知られている。それはアイリスの勤め先で学ぶ生徒たちにも広く知られており、それこそ憧れの的のような意味合いも含まれていた。

 

「うちの学校にもあそこに進学したい、って子は多くてね。本当はやめてほしい、って言いたくなるけど」

「はあ……どうしてですか?」

「どうしても何も、あのローザよ? あんな人の近くに、可愛い生徒たちを送り出そうなんて考えたくないわ」

 

 頬杖をつきながら紅の魔女の名を口にしたアイリスに、ケインがカウンターに手をつきながら問いかける。

 

「それで、ローザさんがどうされたんですか? 何かいざこざでも?」

「いざこざ……まあ、そうね。ちょっとだけ揉めちゃったの」

 

 言葉を濁すアイリスに、ケインの目が怪訝な物へと変わる。相手はあの紅の魔女だ。下手をすればアイリスが原因となって妙な抗争に発展しかねない。紅の魔女とは、そういった点でひどく名の知れた魔女だった。

 

「そんな心配しないで。これは私とあの人との問題だから。そこまで大きくするつもりはないわ」

「……そうだったとしても、あなたが心配ですよ」

 

 肩の力を抜きながら、ケインがため息交じりに呟く。

 

「相手はあの紅の魔女ですよ? 一体何をしたんですか」

「んー……ないしょ?」

「はあ」

 

 変なところでおどけて見せるアイリスに、ケインが続けて肩を落とした。そうして軽くからかうような笑みを浮かべ、アイリスは苦い液体を口に含む。受け皿の隣に置かれた砂糖の瓶は、蓋が閉じられたまま動いていない。

 そんな触れられていない砂糖の瓶へと目を落としたケインは、ふと思い立ってアイリスへと言葉を投げる。

 

「それにしても、アイリスさんって紅の魔女と知り合いだったんですね」

「知り合いというよりも、喧嘩する相手みたいなものよ? 仲は良くないし、私も嫌いよ」

「そこまで言いますか」

「ええ、だって嫌いだもの。私の友達を……いじめたんだし」

 

 昔を懐かしむように、アイリスが空になったカップの中を覗き込む。その瞳はどこか虚ろになっていて、それに気づいたケインはすぐにカウンターの下へと手を伸ばした。

 

「ローザさんと知り合いってことは、もしかしてアイリスさんもノールド地方の出身だったんですか?」

「ええ、そう。あんまり言いたくはないのだけどね」

「なるほど、確かにアイリスさんがノールド出身って聞いても、あんまり驚きませんし」

「そうかしら。でも生まれはここよ、私。あっちには勉強しに行っただけ」

 

 湯気の立つコーヒーが、再びアイリスの前へと差し出される。白いカップに包まれた黒い液体を見て、アイリスは一度だけ目を伏せてため息を吐いた。

 

「それで……友達って言うと? その人もまた有名どころなんですか?」

「あら、言わなかったかしら。私の唯一の友達って――」

 

 その言葉を遮るように、店が少し揺れるほどの轟音が鳴り響く。聞き覚えのあるそのドアを蹴破る音に、ケインは頭を掻き毟りながらも玄関へと苛立つ視線を向けた。

 

「ぜぇっ……はぁっ……」

 

 真っ黒に染まったとんがり帽子。朝陽に輝く金髪を揺らしながら、彼女は蹴破ったドアに脇目もふらず、一直線に店内をどたどたと駆け抜ける。

 そしてまるで待っていたかのように手を広げているアイリスの胸へ収まったかと思うと、ミーシャは震える唇を開く。

 

「ゔあああん!! アイリスぅぅぅ!! どうしよおおおおおおお!!」

 

 入店からガン泣きというありえないプロセスを踏んだアイリスの友達に、ケインが思わず後ずさった。しかしそんな事実に目も向けず、ミーシャはアイリスの豊満な胸に顔を埋めながらぎゃんぎゃん泣きわめく。

 

「あらあらミーシャちゃん、どうしたの?」

「もごごもごごががもおごごが」

「ミーシャちゃん、聞こえないわ。おっぱいから離れてくれる?」

 

 割としっかり胸を揉んでいるミーシャをアイリスが引きはがし、そのまま隣の席へと座らせる。その間にもミーシャは涙をぽろぽろ流し、時折それを手の甲で拭いながらアイリスへと悔しそうに言い放った。

 

「ちくしょう……なんでそんなに大きいんだ……少し私にもくれよ……」

「ごめんなさいね」

「えゔっ……うぅ……ぢぐじょおっ!!」

 

 先ほどよりも二割増しで涙を流すミーシャに、アイリスとケインが同じように首を傾げた。

 

「ミーシャちゃん、とりあえず落ち着いて? きれいな顔が台無しよ?」

「綺麗じゃないもん……! どうせ私はまな板の女だもん……!」

「どんだけそこ掘り下げるんだよ……とりあえずこれでも食って落ち着け」

 

 そろそろ飽きてきたケインがそう呟いて、食器に乗った苺のショートケーキをテーブルへ乗せる。添えられたフォークに震える手を伸ばし、ミーシャは嗚咽を混じらせながらケーキを口へと運んだ。少しだけしょっぱかった。

 しばらくしたのちに一通りケーキを食べ終え、ミーシャがフォークを皿の上へ置く。そうして頬についたクリームを指ですくうと、ミーシャが落ち着きを取り戻してケインへと視線を向けた。

 

「ありがと……おいしかった」

「そりゃ結構」

 

 呆れた様子のケインに、ミーシャがたまらず肩を落とす。

 

「それにしてもミーシャちゃん、本当にどうしたの?」

「あぅ……えっと……」

 

 先ほどとは打って変わってしおらしくなったミーシャに、アイリスが思わず首をかしげる。ケーキついでにオレンジジュースを用意したケインも不思議そうな視線を向けて、ミーシャはたまらず小さな唇を開いた。

 

「ケインもアイリスも……その、笑わない?」

「何をだよ?」

「今から見せるの……」

 

 三角帽子つばを両手でつかみ、ミーシャが恐る恐る問いかける。いつもなら絶対に見せないようなおずおずとしたその様子に、アイリスとケインは思わず顔を見合わせた。

 じっと三角帽子の下から瞳を覗かせるミーシャに、アイリスが優しく声をかける。

 

「大丈夫よ、ぜったい笑わないわ」

「ほんと?」

「ほんとよ。ケインさんもそうでしょ?」

 

 そう向けられたアイリスの視線に、ケインが肩をすくめて首肯する。

 

「だから、見せてみて? ミーシャちゃんが見せてくれないと私も何もできないわ」

「うん…………じゃあ、行くよ?」

 

 そう言った後にミーシャが息を吸い、三角帽子から手を離したその瞬間だった。

 ぽいん、と滑稽な音を立てて、三角帽子がミーシャの頭から跳ねる。そうして自分の目の前へ飛んできた帽子をつかむと、それで自分の顔を隠すように両手で抱きしめ、頬をかぁっと熱くさせながら、ミーシャはアイリスへと俯いて口にする。

 

 

「……その、変なの……生えてきちゃった」

 

 

 ぴこぴこ、と。

 ミーシャの頭の上で元気に跳ねたのは、黄色い猫の耳だった。

 

「あらかわいい」

「かわいくないっ! 変でしょっ!」

 

 アイリスの言葉にミーシャがうがー、と吠える。その間にもネコミミはじたばた騒ぐミーシャの意志に呼応するようにぴこぴこ動いており、それにケインは終始興味のない目を送っていた。何ならミルクでも出す心意気だった。

 そんな冷めた反応の二人に、ぜえはあと息を切らしたミーシャがぽつりと語りだす。

 

「朝起きたらいきなりこんな風になってたの。別に昨日はお風呂に入ってから早く寝たし、研究とかもしてないから私の魔法じゃないと思うんだけど……」

「そうねえ。見る限り、誰かの魔法以外に考えられないわ」

「……それにしても、ずいぶんヘンテコな魔法なんだな」

 

 未だにアグレッシブに動くその黄色い耳に、ケインがぽつりと呟く。それを聞いた瞬間ミーシャはケインの方に向き直って、びし、と音が鳴りそうな勢いで細い指を突き出した。

 

「甘いわケイン! これは魔女にとってこの上ない屈辱なのよ!」

「と、言うと?」

 

 ケインがミーシャの言葉を受け流し、アイリスへと問いかける。

 

「『魔女の猫』ね。刻印の一種で、重要なのはただの猫じゃなくて『魔女の猫』だということ」

「魔女の猫……黒猫とか、そういう?」

「いえ、もっと広範な意味合いよ。魔女にとって猫っていうのは、簡単に言えば都合のいい奴隷みたいなものなの」

 

 爪に毒を仕込ませれば暗器に。目を抉りだせば宝石に。毛を毟れば服飾に。尻尾を切り落とせば贄代わりに。

 使い捨てるところはなく、骨の髄まで余すことなく使われる存在。搾取され、その命を魔女へ捧げる便利な道具。魔女にとっての猫とはそういうものだと、アイリスはケインに語って見せる。

 

「そして、そういった猫の刻印を刻むのは、行ってしまえばただの侮辱よ。『お前なんかいつでも私の奴隷にできる』ってのを直接言ってるようなものね」

「はあ……そんなことするんですか、魔女ってのは」

「昔はね。でも今はそんな事をする魔女なんて全然よ。やってる方が珍しいくらい」

 

 呆れたように息を吐き、アイリスがカップを手に取った。その瞳はどこか冷たく、いつもは見せない凍った表情にケインは口を開くことができなかった。隣でごきゅごきゅ喉を鳴らしながらオレンジジュースを飲んでいるミーシャのことなど、目に入ってこなかった。

 ぷは、と息を一つついて、ミーシャが空になったグラスをケインへ突き出す。

 

「ジュースおかわり! あとイチゴのケーキもちょうだーい」

 

 腕をぶんぶん振りながら元気に言うミーシャに、ケインが冷めた視線を送りつけた。確かにこんなジュース一個で機嫌を取り戻す魔女なんて、それこそ甘いものでもチラつかせれば簡単に釣れそうな気がする。そう考えると、ミーシャの頭の上で動く耳がえらく似合っているような気がした。

 イスの上でぱたぱた足を振るミーシャの頭の上に、アイリスが優しく手を乗せる。そのまま金の髪を梳くように指を動かすと、ミーシャはくすぐったそうに目を細めた。

 

「んー……アイリス? なにしてるのー?」

「この魔法を調べてるの。犯人を捜さないと、ミーシャちゃんも納得できないでしょ?」

 

 そのままアイリスの細い指はミーシャの頬を撫で、顎の下へと運ばれる。軽く爪を立てながらくすぐると、ミーシャが口元をにんまりと緩ませながら、抜けるようなだらけた声を漏らした。

 

「ぅにゃー、くすぐったいぃ……」

「うーん……これは……」

 

 ぴこぴこ嬉しそうに動くネコミミに、アイリスがぼそりと呟く。するとアイリスは何を思ったのかミーシャの脇腹へと両手を伸ばし、小さな身体を抱え上げると、すとん、と自らの膝の上へと腕を降ろした。

 無駄のない一連の動きに、ケインが目を見開く。余りにも早いその動きと、アイリスのにやけきった表情。何より今の動きに気が付かず、アイリスの手の内でごろごろと喉を鳴らしているミーシャを見て、さすがにバカすぎると思っていた。

 

「ミーシャちゃん? どう? 気持ちいい?」

「うん、さいこー……にゃ~」

「……感覚まで猫になってるのね。ほんとに趣味が悪いわ」

「んにゃー?」

 

 やけに慣れたような手つきで、アイリスがミーシャの両頬を撫でる。対してミーシャはアイリスの白い手を求めるように、顔だけを動かしてすりすりとアイリスの手に頬ずりを続けていた。

 そろそろ尻尾でも生えそうになってきたころ、ミーシャが笑みを浮かべたままで問いかける。

 

「ねーねーアイリス~、何かわかった~?」

「ミーシャちゃんが可愛いってくらいね」

「そっかー……ってそうじゃないでしょっ! 撫でるのやめてよっ!」

 

 ぷんすか怒りながら、ミーシャが手足をじたばたして声を荒げる。対照的にアイリスはのほほんと微笑みながら、それでもミーシャの頭の上で手を動かし続けていた。

 ほっぺたを膨らませながらも撫でられる感覚が気持ちいいのか、ミーシャがむすっとした顔で出されたイチゴのケーキへと視線を落とす。既に右手にはフォークが握られていた。

 

「それでアイリスさん、犯人ってのは分かったんですか?」

「……まあ、アテはあるわ。ええ。こんなことをするなんて、その人くらいしかいないもの」

「もんほ!? もえっみゃあはまむもみまめ」

「ミーシャちゃん、口に食べ物を入れたまま喋らない」

 

 言われるがまま、もぐもぐと黙ってケーキを頬張るミーシャの頭に手を翳し、アイリスが手のひらへ魔力を込める。すると淡い光と共に魔方陣が現れて、ぷにぷに動くネコミミを覆うように形を変えた。

 アイリスが手を翻し、魔力を弾けさせる。ミーシャの頭に刻まれた魔方陣が魔力の加重によって砕け散り、ぽん、とコミカルな音を立てて爆ぜた。

 

「わぷっ! け、ケーキ!」

「あらあら」

 

 バランスを崩したミーシャの身体を、アイリスの腕が支える。落ちていくケーキと皿は地面に追突する瞬間に動きを止めて、アイリスの魔力に導かれるままにテーブルの上へとふよふよ動いていった。

 ほっと胸をなでおろすミーシャの前に、アイリスがどこからか取り出した一枚の紅い手紙を見せた。

 

「なーに? これ」

「さっきの刻印と一緒に刻まれてたものよ。ミーシャちゃんの可愛いお耳はこれが変化したものみたいね」

「刻印に手紙……? そんなの、聞いたことないけど……」

 

 訳も分からず首を傾げたまま、ミーシャが手紙の封を切る。その中に入っていたのは、たった一枚の小さな紙だった。ケインもそれに興味を示したのか、ミーシャと同じように机の上に置かれた紙を覗き込む。

 そしてミーシャの口が、綴られた文字を読み上げたとき、アイリスの表情が一瞬だけ曇りを見せる。

 

「『親愛なる黒魔女、ミーシャ様へ。

  此度に開かれる『魔女の夜会』へ、あなた様を招待いたします。次の満月の夜に、どうぞ私の屋敷へと足をお運びください。あなた様の参加を、心よりお待ちしております』……?」

「……なんですか、これ」

「ただの招待状」

 

 つん、と返す不機嫌なアイリスに、ケインが首をかしげる。するとミーシャはぷるぷると震えだし、その招待状を天に掲げたのちに、思いっきりテーブルへと叩きつけた。

 

「なにこれ! 意味わかんない! なんで私にネコミミ付けたあげく魔女の夜会に招待するの!? ぜんっぜんわけわかんないんだけどっ! この人頭おかしいよっ!」

「ミーシャちゃん、落ち着いて。もっとよく読みましょう?」

「落ち着けないわよ! なんなのこいつ、バカじゃないの!? 良いわよ夜会に行って顔見たらボコボコに殴りつけてやるんだから!」

 

 怒声を吐き捨てながら、ミーシャが手紙の裏へと目を通す。するとさっきまで喚き散らしていたミーシャがすぅ、と落ち着いた様子を取り戻し、ただただその裏に書かれている文字を黄色い瞳で追っていた。

 

「ミーシャちゃん、差出人は誰?」

 

 一瞬の静寂を破り、アイリスが問いかける。

 そのアイリスの言葉に応じるように、ミーシャは静かな呟きを放つ。

 

「……紅魔女。紅い魔女の、ローザ」

 

 そう綴られた名の後ろには、深い紅のバラが、咲いていた。

 

 



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黒魔女は乗り物に弱い。

なんかクソみたいに時間空いてすいませんでした。


 

 しゅっぽー、と汽笛の音が平原に響き渡る。

 

「すごいすごい! 見てアイリス、街がもうあんな遠くにある!」

「ええ、そうね」

 

 車窓から身を乗り出しながら、ミーシャが山の向こうを指で示す。遠野に見える国は薄く霧がかかり、その向こうにはまだ顔を出して間もない朝陽が白い光を放っている。その対面に座るアイリスはミーシャの指をさす方を向きながら、ミーシャのケツへと優しい笑みを浮かべていた。

 

「汽車って初めて乗ったけどすごいのね。ふにーちゃんよりも速くないけど、面白いわ」

「あらそう? それは良かったわ」

 

 終焉を司る炎龍と汽車を比べるのはどうかと思ったが、とりあえずアイリスはそう頷いておいた。

 

「ミーシャちゃん。落ちると危ないから、ちゃんと椅子に座りましょう?」

「はーい」

 

 ぽす、とアイリスの対面に腰を下ろして、ミーシャが風で乱れた三角帽子を整える。せっかくの外出なので、今日のミーシャの黒い三角帽子には小さな白いリボンがついていた。

 おめかしした帽子を深めに被りなおし、ミーシャが車窓の外へ目を向ける。草原の間を抜ける列車は周りの景色をゆっくりと長し、車窓に一面の緑を映す。

 

「それにしても、汽車で行くなんてよっぽど遠いのね。ええと……の、のるー?」

「ノールドね」

「そうよ、それ」

 

 聞きなれない地名に、ミーシャが人さし指を立てる。

 

「そんな遠いところでやる必要あるのかしら? こっちは呼ばれたから仕方なく行ってるのに、逆にそっちが来てほしいわ」

「それなら私が代わりに言っておいてあげましょうか? ミーシャちゃんは今日はお休みです、って」

「あ、いや、ぜ、ぜったいダメっ! せっかくあんな手紙まで貰ったのに休むなんて勿体ないわ!」

「あらあら」

 

 がばり、とミーシャが身を乗り出してアイリスの顔を覗き込む。どうやら彼女も、他の魔女と変わりなく魔女の夜会に呼ばれたことに内心で浮かれているらしい。そんな意地っ張りの彼女に、アイリスは思わず笑みをこぼした。

 

 魔術の発展したノールドで開かれる、魔女の夜会。その内容は魔女の中でもあまり言及はされず、ただ一部の認められた魔女のみが参加を許されるという、明らかに怪しい集会でもあった。

 そんな夜会が魔女たちの憧れであるのは、領主であるローザが主催するというのが大きな理由だった。一地方を治める人物でありながら、学会で優秀な成績を収めている彼女の元には、当然それ相応の力が集まってくる。故にそれを求める魔女が後を絶たず、魔女の夜会とはそう言った魔女たちによる争いの場でもあるらしかった。

 

 そんな事をつゆも知らず、夜会を『何か偉い人が集まってどんちゃん騒いでるだけのパーティー』と勘違いしているミーシャは、両肘をつきながら車窓へと視線を向ける。

 

「で、でも別に魔女の夜会なんてどうでもいいし―? むしろあんな失礼なことしてくれたローザってやつを許そうとも思ってないし! 見てなさいよ、あんなクソ野郎いまにメッタメタの豚のエサにしてやるんだから!!」

「ミーシャちゃん、言葉遣いが汚いわ」

「……てか。なんでアイリスもついてきてるの?」

「あら、ついてきちゃ駄目だったかしら」

 

 少し悪戯めいた笑みを浮かべるアイリスに、ミーシャが唇を尖らせながらふん、とそっぽを向いた。

 

「私とローザは友達だから。魔女の夜会をする時はいつでも来て頂戴、って彼女から言われたのよ」

「じゃあ一人で行けばいいじゃん。今回呼ばれたのは私なのよ?」

「それじゃあ、ミーシャちゃんは一人までローザのところへ行けるかしら?」

「うぐ……」

 

 それを言われると弱い。現に列車のチケット代まで払ってくれたアイリスに、ミーシャは何も言い返すことができなかった。ちなみに子供料金だった。屈辱的だった。

 ポケットに入ったチケットの切れ端へ一瞬だけ視線を落としながら、ミーシャはアイリスの方へと向き直る。

 

「でもさ、なんでローザさんはこんな急に誘ってきたんだろ? アイリスは何か知ってる?」

 

 その問いかけに、アイリスは困ったように首を傾げた。

 

「ごめんなさいね、私も最近会ってないからローザの事情はよく知らないわ」

「ふーん。あ、でも、もしかしらら私の使ってる黒魔法がみんなに認められたのかも! きっとそうよね!」

「ええ、そうかもね」

 

 少し興奮気味になって話すミーシャへ、アイリスが笑顔で返す。本来ならば顔も合わせていない魔女に夜会の招待状を送り付けるなど不穏で仕方がなかったが、それでもアイリスはその誘いを止めることはなかった。

 そして、アイリスは少しだけ目を伏せる。

 

「ミーシャちゃん、夜会は楽しみ?」

「な、何よいきなり……ま、楽しみじゃないって言えば嘘になるわね。思いっきり楽しんで、美味しいものいっぱい食べて、友達もいっぱい作るの!」

「ふふ、それは良さそうね。素敵な夜会になるといいわ」

 

 にへら、と笑うミーシャに、アイリスが少しだけ顔に影を作る。それは、魔女の夜会も、魔女同士の争いも、全てを知らないミーシャへの、言い表せない歪な感情だった。

 それを胸の内へ抑え込め、アイリスがすぐに笑顔を浮かべる。そうしてふと、アイリスは気になっている事をご機嫌なミーシャへと問いかけた。

 

「そういえばミーシャちゃん、体調は大丈夫?」

「へ? 体調? なんで?」

 

 反対の方へと首を傾げ、一気にアホみたいな声色になったミーシャが問いかける。

 

「ミーシャちゃんは汽車に乗るのは初めてでしょう? 汽車って結構揺れるから、それで酔わないかと思って……」

 

 頬に手を当てて不安そうにアイリスが目を伏せる。

 

「大丈夫? ミーシャちゃん、どこか気持ち悪いところない?」

「別に大丈夫よ。今のところ気持ち悪くもないし、変な気分でもないし」

 

 心配するアイリスを鬱陶しがるように、ミーシャが手を払いながら応える。実際ミーシャは車両の揺れは感じでも、そこまで気にかかるようなものではなかった。乗り物酔いという単語がどうして生まれたのか疑問に持つほどのものだった。

 

「というか、酔うんだったらもう今の時点で気持ち悪くなってるわよ」

「そうかしら……? でも心配だわ。ミーシャちゃん、もしおえっ、てになったらすぐに言うのよ?」

「まっさかー! そんなことあるはずないでしょ!」

 

 不安げな表情を浮かべるアイリスに、ミーシャが、へっ、と肩をすくめて笑う。

 

 

 

「みんなから認められた黒魔女の私が、こんな汽車ごときで酔うわけないもん。らくしょーらくしょー!」

 

 

 

 

 

 

「おろろろっぬぷっげろろっろろっ! うぇぼろろっぼろろおぇぼぼぼっおろろろろ!」

 

 

 

 ミーシャは哀れで間抜けな黒魔女だった。それと乗り物にはそこまで強くはなかった。

 魔法で用意したゲボ袋に顔を突っ込んだまま、ミーシャが喉の奥から吐しゃ物をまき散らす。誰もいない駅のホームで、アイリスは諦めを含んだ笑みを浮かべたままミーシャの背中を優しく撫でていた。

 

「ミーシャちゃん、大丈夫?」

「そんな風に見え……ぅぷっ、で、出る……」

 

 まだまだ出てくる。モリモリ湧き上がる吐き気にミーシャは顔色を青くしながら、再び袋の中へ吐き出す。朝に食べたジャムのトーストが赤いドロドロした何かになって出てきた。

 既に乗っていた列車はゲロを吐くために下車しているうちに行ってしまい、次の列車が来るまではかなりの時間がある。しばらくはここでゆっくりするかと目途を立てながら、アイリスは袋に顔を突っ込んでいるミーシャへ言葉をかけた。

 

「ミーシャちゃん、次の列車が来るまでここで待ちましょう」

「うぅ……わかった……ごめんね……」

 

 たぷんと揺れるゲロ袋を縛り、ミーシャがぼそぼそと弱弱しく呟く。そしてアイリスがミーシャからその袋を受け取ると、魔方陣が袋の周りに浮かび上がり、魔力が注がれた。黒い袋はアイリスの手の中で収縮し、虚空へと姿を消していく。

 おそらく生きてきた中で一番しょうもない白魔法の使い方をしたアイリスは、ミーシャと一緒にホームの椅子へ腰を下ろした。

 

「まさかあんなに縦揺れがあるなんて……ふにーちゃんの飛び方が上手かったのね……」

「そうかもしれないわ。ふにーちゃんさんに感謝しないとね」

 

 若干敬称がおかしな気がしたが、吐き疲れたミーシャにそんな事を指摘する余裕はなかった。

 

「それにしても、列車がもう行っちゃうなんて……」

「大丈夫よ、また次のに乗ればいいんだから。それまでゆっくり待ちましょう?」

「うん……」

 

 励ますように笑いかけるアイリスに、ミーシャは小さく頷いた。頭の上の三角帽子が小さく揺れる。

 そうしてしばらくホームで待っているうちに、ミーシャは誰かの足音が近づいてくるのを聞いた。別段駅のホームであるので何も不思議なことではないが、特に何をするでもなく暇だったミーシャはふとその音がする方へと視線を動かした。

 

 視界に映ってきたのは、白衣を身に纏った一人の女性だった。

 ぼさぼさの肩まで伸ばした茶髪に、半開きの茶色い瞳。かけている眼鏡は手垢まみれで、全体的にどうも不健康そうな雰囲気を出している。まるで今起きました、とでも言わんばかりのその女性は、腕時計をぼんやり眺めながら眠そうにあくびをついた。

 

「……あら?」

 

 なんとも変なその女性をミーシャが眺めていると、ふと隣のアイリスが小さく声を上げた。見るとアイリスの視線はミーシャと同じくその女性へと向けられており、彼女も何かに気づいたかのようにして眼鏡の下の気だるげな瞳をこちらへと向けてきた。

 

「もしかして……ウィスティリア?」

「……あれま、アイリスじゃん。やっほー」

 

 交わされる名前に、板挟みになったミーシャが交互にそれぞれの顔を見やる。するとそのウィスティリアと呼ばれた女性は軽く手を振りながらこちらへと歩み寄り、ミーシャの隣に空いている席へ、どさりと腰を下ろした。

 

「ひっさしぶりじゃん。うわ、すげー懐かしい」

「ええ、そうね。確かウィスティとは卒業してから会ってないもの……三年くらい経ったんじゃないかしら?」

「まじ? そんなに? はー、やっぱ研究室籠ってると時間の間隔狂うなー……」

 

 腕を組みながらため息を吐くその女性に、ミーシャが不思議そうに視線を送った。するとその視線に気づいたのか、その女性はミーシャへと怪訝な目を向けながらアイリスへと問いかける。

 

「アイリス、この子は? あんたの子供?」

「んなわけないでしょっ!」

 

 子供扱いされたのが悔しいのか、がるるるるると歯を立てながらミーシャがにらみつける。

 

「私はミーシャ! 偉大なる黒魔女よ!」

「ほーん。あ、私ウィスティね。そこのアイリスと研究所で同じ研究室だったの。よろしく」

 

 割と軽く流されて固まったミーシャを気にするそぶりも見せず、ウィスティが不思議そうにアイリスへ問いかける。

 

「それにしても、今日はどったの? こんな辺境までわざわざ」

「ミーシャちゃんが今日の魔女の夜会に呼ばれてね。それで、私は付添人ってわけ」

「あ、まじ? へー、すごいじゃん……って、あれ? なんでここで降りたん?」

「ミーシャちゃんが電車酔いでゲロ吐いちゃったからよ」

「あー」

「なんで言うのよぉー!!」

 

 前触れもなしにゲロった話を暴露されたミーシャが、びぃびぃ鳴きながらアイリスの首元を掴む。そんないつも通りガン泣きするミーシャに、ウィスティが怪訝な視線を向けていた。

 

「それじゃあウィスティ、あなたはどうして?」

「ふっふふ……実は、私もあんた達と同じよ」

 

 と、眼鏡を光らせてウィスティは懐から赤い便箋を取り出した。

 

「あ、それって私に来たのと同じやつ!」

「実は私も夜会に呼ばれてね。ま、メンドーだし行くか迷ったけど」

 

 手の内の招待状をひらひら遊ばせながらウィスティが口を尖らせる。

 

「なんだか黒魔法についての発表するって書いてあったからさー。まあ顔でも出しておこうかなーってワケ」 

「……ああ、確かあなたの専門だったものね。黒魔法」

「え、そうなの?」

 

 と、黒魔法という単語に食いついたミーシャが、ずい、とウィスティの方へと身を乗り出した。

 

「一応研究主任とかやってるしね。ま、黒魔法のことならお任せって感じよ」

「あら、じゃあミーシャちゃんと同じね」

「へ?」

 

 かけられたアイリスの言葉に素っ頓狂な声を上げながら、ウィスティが隣のミーシャへと視線を降ろす。

 

「こんなちっちゃい子が? 黒魔法を? アイリス、あんた昔っから嘘が下手だね」

「だからちっちゃいって言わないでよっ! それに、私も黒魔法使えるし! そこで見てなさいよね!」

 

 ホームの椅子からぴょこんと飛び降り、ミーシャが右腕に黒の杖を握る。そうしてヤケクソ気味に黒杖を自らの脚元へ突き刺すと、そこを囲むようにして魔方陣が描かれる。そして魔方陣を開きながら、ミーシャがその名前を口にした。

 

「おいでませ、フェンリルっ!」

 

 風の音が、ひゅぅ、と抜ける。

 吹き抜ける暴風がミーシャの周囲を包み込み、一つの形を成していく。隙間から除く瞳は、月の色。風はやがて纏う毛並みへと変わってゆき、牙を、爪を、尾を作り出す。そうして最後に現れたのは一匹の狼だった。

 その名をフェンリル。古より伝わりし、風を纏う獣である。

 

「りっくーん! よーしよしよしよし! 来てくれてありがとねー?」

 

 目の前に現れたフェンリルの前脚に、ミーシャが全身で抱きつきながら毛並みを手で流す。既にミーシャの体はフェンリルの脚に半分埋まっており、それを見かねたフェンリルがミーシャから離れながら、体をぶるぶると水に濡れた犬のように振った。

 身に纏う風を払い、フェンリルの体がだんだんと収縮していく。そして小型犬サイズになったフェンリルをミーシャが両手で抱きかかえると、勝ち誇った表情を浮かべながらウィスティの方へと振り向いた。

 

「どう? これで信じてくれる?」

「あ……えっ……まじ……まじで!?」

 

 ミーシャとアイリスを交互に見ながら、ウィスティが言葉にならない声を上げる。

 

「えっ、子供……召喚して……えっ、まじ?」

「まじよ。その子が今日の夜会で招待されたミーシャちゃん」

「嘘……えっ? ほんと? いや……」

 

 目の前で驚いたままのウィスティに、ミーシャがふふんと鼻を鳴らす。すると突然肩を強く掴まれ、見上げるとそこには鼻息を荒くしてミーシャの顔を覗き込んでいるウィスティの姿があった。

 ぎらぎらと眼鏡の奥の瞳を光らせながら、ウィスティが口をにやりと歪める。

 

「ミーシャちゃんだっけ……? 私ね、研究所で黒魔法の研究してるんだよね……」

「う、うん。それはさっき聞いたけど……?」

「……ミーシャちゃん、すごいね……? 私、ミーシャちゃんといろいろお話したくなっちゃった……な」

「別にいいけど……ウィスティ、さん? なんだか、顔が怖いよ……?」

 

 そんなウィスティの後ろにちょうど、ぷしゅー、と音を立てて列車が停まる。重たい鉄の扉が開かれるのと同時、ウィスティはミーシャの両肩を掴んだまま列車の扉へと歩き出した。

 

「さあ、まだノールドまでは時間あるから……たっぷり、たっぷり……!」

「い、嫌だぁー! アイリスぅー!? 助けてぇー!!」 

「あらあら」

 

 アイリスへ助けを求めるも、当の本人は面白そうに頬に手を当てて笑ったままミーシャを前から列車へぎゅうぎゅうと押し込んでくる。もはや逃げ場など無い。間に挟まれたフェンリルが、わふぅ、と苦しそうに鳴いた。

 

「ほらミーシャちゃん、早く乗らないと」

「ゔあ"ー!! アイリスも嫌いだぁー!」

 

 涙目になったミーシャの叫びを隔てるかのように、列車のドアが勢いよく閉じた。

 

 




次回更新は未定です


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『黒の花』

『ウイスティリア』

「歓迎」「優しさ」「恋に酔う」「確固たる」


 ――――「決して離れない」


 

「それじゃ結局、ミーシャちゃんは生まれつき黒魔法を使えてた、ってこと? じゃあ眷属との契約とかも簡単に済んだわけ? なんか生贄とか、代償とかそういったのもなかったわけなん?」

「そういうのを用意した覚えは……うん、やっぱりないよ。普通はそういうの用意するの?」

「むしろ用意しなかったら対価として釣り合わないでしょ。自分より高位の存在を呼んでおいて、無償で自分に仕えてくださいって……それ、受諾されるほうがおかしいと思うんだけど」

「そうなのかな……? りっくん、どう?」

 

 そうミーシャがおなかに抱えたフェンリルに問いかけると、フェンリルはわふ、と眠たげな瞳を真上のミーシャへと向けた。どうやら否定するような意志はなく、むしろそのミーシャを好意的に受け取っているようにも思える。そんな黒魔女とその配下の眷属を見て、ウィスティは再び頭に手を当てて唸った。

 黒魔法を研究している立場上、その手に関しての知識はそれなりにあるはずだった。しかし目の前の彼女を見ていると、どうも全てがぎこちなく感じてしまう。ぼさぼさの茶髪を掻きながら、ウィスティは諦めたような視線を、隣に座っているアイリスへと投げかけた。

 

「もー私はダメもわからんね」

「しょうがないわよ。誰にだってそういう事はあるわ。自分の見ているものだけが全てじゃないんだし」

 

 長年付き合ってきたアイリスからのその言葉に、ウィスティががっくりと肩を落として嘆息を一つ。あれだけの黒魔術を目の前で見せられた挙句、自分の持っている知識まで覆されてしまっては自信もなくなってしまうというもの。

 

「うーん……私に魔力が無いのが悔やまれる……」

「魔力があっても黒魔法は無理よ? ミーシャちゃんはあんなんだけど眷属の使役って相当きついんだから」

「ちょっとあんなんって何よ!」

 

 むきー、と足をじたばたさせながらミーシャがアイリスを睨む。そのまだ子供のような様子のミーシャと先ほどの眷属を召喚したミーシャがウイスティの中で重なり、彼女は再びため息を漏らした。

 

「あー、ミーシャちゃんがうちの研究所に来てくれたらなー。ちらちら」

「ダメよ? ミーシャちゃんは私の友達なんだから」

「半分だけでも?」

「だーめ」

「本人の前でそういう会話しないでよっ!」

 

 もう、と頬を膨らませながら、ミーシャが膝の上のフェンリルの毛並みを撫でる。既に呼び出されてから一時間弱が経過した今、フェンリルはとても暇そうに欠伸をついていた。それを見かねたミーシャが、フェンリルの顎の舌へと小さな手を伸ばす。

 

「ごめんねりっくん。でもほら、最近お散歩できてなかったし……ノールドに行ったら一緒にお散歩しようね?」

「わん」

「よしよし、いーこいーこ。もっふもふー」

「わふぅ」

「……あれ、ほんとに悪魔とかと同類なのかね? 私にはただの犬にしか見えないんだけど」

「あら、目の前で見せられてもまだ疑っているのかしら?」

 

 にっこりとほほ笑むアイリスに、ウイスティが黙り込む。吹き荒れる風と共に眼前へと現れた、月色の爪と牙を持つ風の狼。そのぎらぎらと輝いていた瞳は、今は眠たげに細められていた。

 腕の中のフェンリルを見つめるウィスティに、ふとミーシャが不思議になって問いかけた。

 

「ねえねえ、ウィスティさんはどうして黒魔法を研究してるの?」

「あ? えー……そうさね。えーと……」

 

 突然投げかけられた質問に、ウィスティが困ったように言いよどむ。隣のアイリスは面白そうなものを見ているように笑みを浮かべたまま黙しており、そんな彼女に促されるままウィスティが続けた。

 

「……ミーシャちゃんはさ、十年前くらい前に起こった事件って知ってる?」

「十年……? ううん、知らない」

「そか。学会の界隈では結構有名なんだけど……」

 

 まあそれはいいや、と置いて、ウィスティが列車の車窓へと肘をかけた。

 

「十年前にね、一人の魔女がある大きな魔法を使ったんだ」

 

 そう遠くを見ながら語りだすウイスティは、どこか疑問のあるような、まるで遠くの誰かを思っているような表情だった。

 

「それも結構おおきな魔方陣らしくてね。分類的に言えば、今でいう召喚陣。でもそれは少し特殊な魔法でね。結果的にその魔法を使った瞬間、その魔女は別の怪物になってしまったんだ」

「怪物?」

「そう、怪物」

 

 告げられたその言葉に、ミーシャが首をかしげる。

 

「龍の翼を背負い、古びた樹と蠢く蠅の腕を持ち、紅と蒼に瞳を染めた魔女。召喚陣の応用なんだろうね、あれは。それはもう魔女でも……人間でもない。怪物に成り果てた」

「……もしかして、ウイスティさんはそれを……」

「うん。目の前で見たんだ。ちょうどその近くに住んでいたから」

 

 遠くを見据えるその瞳には、恐怖とも疑問とも思えるような色に染まっていた。

 その時を思い出すかのように、ウイスティはぽつりとその名前を紡ぐ。

 

「フリティラリア……そいつは、そう呼ばれている。とある花の名前なんだけどね。でも言われてみれば、あれは花にも見えたかもしれない。黒色の、不気味な花だった……」

 

 目を伏せて、瞼の中の暗闇でウイスティは思い出す。夜の闇に包まれて咲いたその黒の花には、言い表せない何かが宿っていたような気もした。

 いつしかの記憶を放し、ウイスティは目の前の黒い少女へと続ける。

 

「フリティラリアは一言でいえば災害だった。目につくものは全てを破壊し、殺し、自らの糧にしていった」

「殺す、って」

「被害で言えば、森一つにそこに立っていたお屋敷ひとつ。でもそれだけみんな殺されたんだ。小さいなんてもんじゃない。あれが人間だったとは……私は思えない。だから怪物に……フリティラリアという存在に、なってしまったんだと思う」

 

 めらめらと燃え盛る焔。緑だったものは一瞬にして黒に溶けていき、全てが無へと帰っていく。それは人であったことも、魔女であったことも、全てが泡沫のように消えていくように。

 森を一つ焼き、人を殺してまで求めたものは何か。そんな疑問を、ウイスティはずっと抱いていた。

 

「それでそのふ、ふぃら……怪物は?」

「最終的には捕まえられた。まあ結構な騒ぎだったからね。近くに住んでいる魔女たちが協力して、フリティラリアを抑えたんだ。幸いその怪物も魔力が長く続かなかったらしくてね、一夜で収集はついたけど」

「けど?」

「……一夜で森を一つ焼き払い、その上で近くの屋敷に住む人間を全員殺したんだ。もしもそこで止まらなかったらと思うと、ね」

「ひええ」

「ミーシャちゃん、フェンリルが苦しそうよ」

 

 ぐえ、と舌を出しているフェンリルに目をやりながら、ウィスティが続ける。

 

「それでその事件の後に、その魔女は捕えられたんだ。罪人としてではなく、研究の対象として」

「研究? なんで?」

「無論、その魔法だよ。魔女っていうのは自分の魔法を高めるためなら何でも使うらしいね? それがたとえ人を殺して怪物になった同族だとしても……」

 

 と、ウイスティがからかうようにアイリスの顔を覗き込む。帽子の下のアイリスの表情は固まっているように冷たく、その視線はいつもの様子からは想像できないほどに鋭い。

 急に空気が変わったことにミーシャがおろおろと視線を泳がせると、アイリスは嘆息をついてふてくされながら口を開いた。

 

「そうね。私は違うけど、彼女はそうみたいよ?」

「彼女って?」

「ローザ」

 

 ミーシャの問いかけに、アイリスはつまらなさそうに答えた。

 

「彼女もフリティラリアを捕えて研究を始めた魔女の一人なの」

「え? でもそれって十年前で……」

「そう。彼女は十年前から学会と繋がりがあったってわけ。言葉遊びでもなんでもない、本当に才能だけでそこまで上り詰めた人間、ってこと」

 

 アイリスは理解が追い付かない、と言ったように肩をすくめる。その隣のウイスティも呆れたような笑みを浮かべており、改めてミーシャはそのローザという存在の異常さに気が付いた。元々人の頭に猫の耳を付ける時点で頭のおかしいド畜生ゴミカスクソ魔女だとは思っていたが、それを凌駕するほどだった。

 

「そんなド畜生ゴミカスクソ魔女もその魔法を研究したかったんだ?」

「ミーシャちゃん、言葉づかい」

 

 急な暴言に少しだけ驚いたが、ウイスティはとりあえず続けることにした。

 

「ま、今まで誰もみたことのない魔法だったからね。ローザさんだけじゃなくて、他の人もこぞって参加したらしい。それでその魔女の魔法が解明されて、今の私達に伝わった」

「今の? それってどういう……」

「つまり、ね」

 

 とウイスティが伸ばした指の先には、ミーシャの腕の中ですやすや眠るフェンリルの影。

 

「その研究で生まれたのは、黒魔法ってわけ」

「え、そうなの!?」

 

 放たれたその事実にミーシャが声を荒げ、それにうんざりするようにフェンリルが瞳を開けた。くあ、と固まったままのミーシャを置いて欠伸を一つすると、フェンリルは再びミーシャの腕の中で眠りに落ちる。

 

「むしろ知らなかったことが驚きだよ。黒魔法が一般的に浸透していないのも、そういう理由」

「ぜんっぜん知らなかった……」

「仕方ないわ。ミーシャちゃんはずっと引きこもりだったんだし」

「引きこもりじゃないわよ! ちゃんとお外出てるし!」

 

 日々研究に没頭しながら家でゴロゴロ過ごす黒魔女が、教師という職を手にしている(?)アイリスへ吠える。ミーシャは職を持たぬ黒魔女であった。働こうとしても子供だと思われたので門前払いが多かった。

 無職の引きこもりであるミーシャはふん、とそっぽを向いて車窓へと目を向ける。既に陽は真上へと昇り、そろそろミーシャのお腹の虫は鳴きだしそうだった。

 

「……それで、結局ウイスティさんが研究を始めたのは、なんで?」

「んー、ね。まあ一言でいえば、彼女の事を知りたかった、って感じかなあ」

 

 どこかふわふわとした彼女の物言いに、ミーシャが首を傾けた。

 

「彼女は……フリティラリアは、何がしたかったんだと思う?」

「何が、って……わかんない」

「そうだよね、私も分からない。だから私はそれが知りたいの。彼女が何を思ってフリティラリアに成り果てたのか。どうしてあんな災禍をもたらしたのか。その理由を知るために、私は黒魔法の研究を続けている」

 

 まだ進展はないんだけどね、とウイスティは肩をすくめて笑った。

 

「だから今日の黒魔法についての発表にもうっかり顔を出しちゃったの。黒魔法ってそもそもの資料とかが足りないし、見つけたのは片っ端から使わないと」

「そうねえ……あなたもどちらかというと引きこもりだったわね」

「いやいや私はちゃんと仕事だし」

「ちょっとアイリス、『も』って何よ『も』って」

 

 隣のアイリスに笑いかけて、ふとウイスティがミーシャと同じように車窓の外へと視線を向ける。小さな枠の外では若々しい緑色と透き通る青色が広がっており、遠くにはうっすらと赤い煉瓦の街並みが見えてきた。

 

「ま、何かの手掛かりがつかめればいいよ。今ある手がかりが黒魔法ってものと、あと一つ、変な場所だけしかないからね」

「変な場所?」

「そ。とある魔女が黒魔法を生み出し、フリティラリアが現れたのは――」

 

 と、ウイスティはミーシャの金色に染まった瞳を見つめ、告げる。

 

 

「――黄色い、花畑だったらしい」

 

 

 

 

「げゲっおぼろゲろおろろっゲェー! おゲろろろろっげゲろェー!!」

 

 

 ミーシャは学ばぬ女だった。既に本日二回目のゲロなので、吐しゃ物の中に胃液が混じっていた。

 大きなドーム状の駅のトイレの傍、黒いゲボ袋へ吐しゃ物が溜まっていく。傍を行き交う人が時たま怪訝な視線を黒魔女へ向けていたが、ミーシャはそれどころではなかった。

 

「ミーシャちゃん、ゆっくり吐いていいからね」

「うわー……ほんとにゲロ吐いてる……」

「ウィスティ、あなたもよ。ミーシャちゃんをあまりイジメないであげて?」

「あっははー、ごめんごめん」

 

 なんて会話を交わしている二人に、ミーシャがゲロを吐きながら鋭い視線を送る。その隣では、小さくなったままのフェンリルが心配そうにミーシャの顔を見上げていた。

 やがて胃液を吐き終わったミーシャがゲボ袋をアイリスへ突き出す。そうして虚空に消えていく黒い袋を眺めた後に、ミーシャは足元にとてとて寄ってきたフェンリルに俯いたまま口を開いた。

 

「なんで私だけこんな目に……列車嫌い……」

「わふ」

「ごめんねりっくん……私は乗り物酔いする黒魔女なんだ……こんな魔女でごめんね……」

 

 落ち込んだミーシャを慰めるように、フェンリルがその体をミーシャへ寄せる。そんなゲロを吐いて犬に慰められる黒魔女に、アイリスがさて、と調子を整えて声をかけた。

 

「ミーシャちゃん、そろそろ行きましょう。夜会のために今日の宿をとっておかないと」

「はーい。んじゃりっくん、お散歩しよっか」

「わう」

 

 フェンリルの首元を優しく撫でて、ミーシャが立ち上がる。そうしてまばらな人波に流されるように、ミーシャは駅の外へと足を踏み出した。

 

 ホームを抜けると、そこには赤レンガに彩られた街並みが広がっていた。

 

 駅を囲むようにして大きな通りが広がっており、そこから蜘蛛の巣のように小さな道が広がっている。駅の周囲には様々な店が立ち並んでおり、蜘蛛の巣の端に行くにつれて住宅が並ぶようになり、分かりやすく言えば、普通の街並みだった。

 駅の前に設けられた観光客向けの地図を手に取って、ミーシャとウイスティは二人揃って顔を上げる。

 

「わかんなーい」

「わからん」

「だから引きこもりって言われるのよ?」

 

 地図も読めない自宅警備員二人を差し置いて、アイリスがため息をついた。

 

「とりあえず軽く観光でもしながら宿を探しましょう。まだお昼くらいだし、昼食をとった後でも遅くないわ」

「ん、そだね。とりあえず泊まるとこだけ探しとかないと」

「ウイスティ、あなたはどこか行きたいところない?」

「べつにー? アイリスに任せるよ」

「そう。じゃあミーシャちゃんは?」

「うーん……私もあんまり……」

 

 そう地図に目を降ろして悩む声を上げるミーシャの袖を、ふとフェンリルがくい、と引っ張った。

 

「りっくん、どうしたの? どっか変?」

「……が……する」

「りっくん?」

「匂いが、する」

 

 ざわざわと風が蠢き、フェンリルの体毛が逆立つ。纏う疾風は勢いを増し、フェンリルの周囲には小さな竜巻が発生していた。月色の瞳はどこか遠くを見据えていて、あまりの異常なフェンリルの様子にミーシャの顔色が心配の色を帯びていく。

 

「りっくん喋れたんだ……ってか、大丈夫? どこか落ち着かないの?」

「ミーシャ、匂いがする……穢れた魔女の匂いが……!」

「へ? におい、ってどういう――」

 

 とミーシャがフェンリルの頭に手をかけた瞬間。

 風の爆ぜる音が、鳴り響いた。

 

「うわあああああああ!! りっくーん!? どうしたのよぉー!!」

 

 びゅぅ、と風が吹く音と共に、人の波を割るようにを緑の獣が駆ける。大地を蹴る四肢は大樹のように太く、纏う毛並みは突風のように靡く。一陣の風となったフェンリルは、何かに取り憑かれたように雑多を掻き分けて前へ前へと進んでいく。

 あまりの突飛な出来事にあんぐりと口をあけたまま固まるウイスティをよそに、アイリスが焦った顔で手のひらに転移の魔方陣を映し出す。

 

「りっくん! 待て! お手! おすわり! ちんちん! ちんちーん!」

 

 なんとか尻尾を掴んだミーシャがそう叫ぶが、フェンリルの進行は止まらない。ブンブンと自分のご主人さまを振り回しながら、赤煉瓦の街並みを駆けていく。

 

「止まってよおおお!! りっくーん!? りっくんってば! ちょっと!」

 

 何度命令しても聞こうとしないフェンリルに、ミーシャの機嫌が悪くなってゆく。そして息をすぅ、と吸い込むと、いつまで経っても主人の言いつけを聴かない眷属に向かい、口を開く。

 

「…………っ、フェンリル! 止まれ!」

 

 その言葉と同時に、まるで足に杭を打ち付けられたようにして緑の獣の脚が動きを止めた。その爪は地面に縫い付けられ、後ろから吹き抜ける風がミーシャの髪をなびかせる。

 ようやく言う事を聞いたフェンリルに、ミーシャが肩で息をしながら頬を膨らませた。

 

「……ミーシャよ、どうしてここで止めたんだ……」

「どうして? どうしてもこうもないよっ! あのね、久しぶりのお散歩だからってはしゃぎすぎ!」

「しかし、俺はあいつを……」

「しかしもおかしもないっ!」

 

 地団駄を踏んで、ミーシャがフェンリルの顔を見上げる。その顔はどこか失望したようであり、主人の命令をもってしても未だ諦めきれないような様子だった。

 そのフェンリルの不穏な表情に、ミーシャが少しだけ不思議になって首を傾げる。

 

「……りっくん?」

「ミーシャ、逃げろ。あいつは、お前の……!」

 

 フェンリルの瞳の向かう先。そこに立っていたのは、一人の女性だった。

 

 視界を照らすのは、一面の紅。伸びる赤い髪は背中まで続き、きらめくような金色の瞳はミーシャの方へと向けられている。雰囲気はアイリスに似ているが、アイリスにはない鋭さを感じさせるよう。

 まるで、焔を纏っているような雰囲気を漂わせているその女性に、ミーシャは思わず目を見開いた。周囲の人々なんて気にも留めず、その女性はミーシャとフェンリルの方へと歩く。

 

 そして呆けたような顔をしているミーシャの眼前に立つと、紅色の唇は開かれた。

 

「ごきげんよう、ミーシャ様」

 

 恭しく礼をして、その女性はミーシャの瞳を覗き込む。その色はどこか恍惚の色に染まっているようで、ミーシャは得体のしれない不審な感覚を覚えた。それこそフェンリルが駆られたその『何か』に気づいたような気がして、ミーシャは思わず後ずさる。

 そんなミーシャの様子を気にすることもなく、その赤い女性は頬に手を当てて続けた。

 

「そちらの眷属のお方もごきげんよう。先程まで何か騒ぎがあったようですが、この街に何かお気に召さない点でもございましたでしょうか?」

「だ、れ……?」

「あら、いけませんね。自己紹介をするのがまだでした。」

 

 くすり、と唇に手を当てて、彼女は告げる。

 

「私が、紅魔女のローザでございます。以後、お見知りおきを……」  

 

 



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黒魔女は迎えられたい。

 

 邂逅するのは、紅の魔女――ローザ。焔のように赤いその髪を揺らしながら、彼女はミーシャへとどこか艶やかな笑みを浮かべた。まるで、今まで出会えなかった何かとようやく再開を果たしたような、恍惚の表情。

 その細められた瞳から覗く視線に、ミーシャは首に刃物を当てられたような気配を感じ取り、震えた唇を開く。

 

「ど……、ど……」

「……ど?」

「ド畜生ゴミカスクソ魔女……」

「…………」

 

 …………。

 

「ん? あの、えっ? すいません、私何かして……」

「ついに見つけたわ、この忌まわしき悪趣味魔女めっ! よくも私の頭にあんなヘンテコなネコミミつけてくれたわねっ! あの時の屈辱を忘れるもんですか! ここで成敗してくれるわ!」

「は? え、と……?」

「りっくん、ごー! あいつをめちゃくちゃにしてやりなさいっ!」

「御意ッ……!」

 

 ミーシャが指を突き出した瞬間、後ろに控えていたフェンリルが地面を強く蹴る。そして全身に逆立つ毛並みを騒がせたかと思うと、自らの躰を駆け抜ける疾風へと変えた。

 一迅の風と化した嵐の獣が、ローザの首元を目掛けて牙を光らせる。前から吹き抜けるその殺気にローザは動ずることもせず、向かう突風を睨みつけながらゆっくりと右腕を前に向ける

 瞬間、ミーシャの視界を一面の火炎が遮った。

 

「ぶおわああ!! こなくそおおおおおお!!」

 

 突然襲い掛かる熱の壁に、ミーシャが喉の奥から野太い悲鳴を上げる。思わずふさいだ腕の隙間から抜ける熱風がミーシャの髪をばさばさと揺らし、その後ろで吹き飛ばされたフェンリルがべち、と情けなく地面に打ち付けられた。

 

「くぅん」

「あーーりっくん!! 畜生このまっかっか女めっ! よくもうちの可愛いりっくんを!!」

「いやその……正当防衛?」

 

 ガラガラ声で叫ぶミーシャに、ローザがはて、と首を傾げる。勝手にイキり散らして暴言吐きながら殺人に走った犯罪スレスレの黒魔女は、うぐぐと悶えながらも自らの手に黒い杖を取り出そうと魔力を込めた。

 

「クッッソテメー……! こうなったら、みんなでこいつを……」

 

 と、黒い杖を取り出そうとしたミーシャの前に、ふわり、と優しい風が吹く。

 次の瞬間、視界を埋め尽くしたのは穢れの無い純白だった。

 

「あ、アイリス?」

「アイリス……」

 

 白い花びらがミーシャの背中から流れて、青い空へと舞い上がる。何度も目にした、転移の白魔法。後ずさるミーシャの背中を、同時に運ばれてきたウイスティが優しく支えた。

 困惑したような黒の魔女の視線と、待ち焦がれていたような紅の魔女の視線が白の魔女へ重なる。その四つの金の瞳に映るアイリスは、ミーシャを守るように手で制しながらその薄い唇を開いた。

 

「ごきげんよう、ローザ。貴女に会えるこの日を、ずっと待っていたわ」

「ええ、アイリス。私もです……ずっと、ずっとあなたを待っておりました……」

 

 二人の間に沈黙が流れる。視線は一切の動きを見せず、どこか遠くから見つめ合っているよう。その裏には言葉だけでは表せないような、ぐちゃぐちゃとした得体の知れない感情が秘められているような、そんな気がした。

 やがてひとつの風が吹き、アイリスとローザの髪を揺らす。静寂は溶けるように消えてゆき、先に言葉を切り出したのはローザからだった。

 

「アイリス、私の屋敷に場所を移しませんか? 見たところ、本日のお宿もまだ決まっていないご様子……でしたら、空いているお部屋をいくつかお貸しいたします」

 

 周囲に目を配らせながら、ローザがそんなことを口にする。その言葉に、アイリスは冷たい視線を送ったまま閉じていた口を開く。

 

「あらあら、やけに準備がいいのね?」

「ふふ、あなた方が来ると聞いて居てもたっても居られませんでしたもの。それにノールドを統括する者として、そして夜会の主催者として、主賓であるあなた達をお迎えしないわけにはいきませんから」

「主賓だって? 私()()が?」

 

 そう不審がって疑問を口にしたウイスティに、ローザが目を向けた。

 

「もちろんです、ウイスティリア様。黒魔法を研究する第一人者であるあなた。私の友人であり、白魔法を極めた白魔女のアイリス。そして稀代の黒魔法の使い手である、黒魔女のミーシャ様……今宵の夜会は、とても満ち足りたものになりそうです」

「しゅひんっ」

 

 突然名前が挙がったことに食いついたミーシャが、瞳をきらきらと輝かせながらローザに問いかける。

 

「主賓って、パーティーの主役ってことだよね?」

「もちろんですよ、ミーシャ様」

「ってことは、皆から黒魔法を認めて貰えたってこと?」

「ええ。今回はそのための夜会です。ですから、黒魔法の素晴らしさを私達に伝えて頂ければ、と」

「美味しいものもいっぱい出る?」

「はい。ノールドでも最高級の食材を、それはもうたんまりと」

「うぇっへへ、へへへ……主賓……」

 

 口の端からヨダレを垂らすミーシャの両肩に手を乗せて、ウイスティが口を尖らせる。

 

「……主賓、ねえ。あなたと何もつながりのない私達が、いきなり」

「そんなことはありません。あなた達はアイリスの友達なのでしょう? それなら、最高級のおもてなしで迎えなければいけませんからね」

「そんなもんかね?」

「ええ。少なくとも、私の中では」

 

 にっこりと目を細めているローザに、ウイスティはどこか浮つくような違和感を覚えた。蜘蛛の糸に指先で触れたような、そんな感覚。流れる妙な雰囲気を乱雑にかき消すように、ローザは再びアイリスへと口を開く。

 

「では、話はここまでに。しばらく揺れますので、どうかお許しを……」

 

 その瞬間、紅の花びらがミーシャ達を包み込む。

 ふわりとした浮遊感を感じたのは、ローザの吊り上がったような笑みが、花びらに溶けてからだった。

 

 

 ミーシャ達が次に立っていたのは、紅に染まった荘厳な屋敷の前の前だった。

 壁を埋め尽くすのは、薄暗くも照り付けるような薔薇の色。華々しさを感じさせながらも荘厳な雰囲気を見せつけるその豪邸は、見上げるほどに大きく、青空を背にしてミーシャの眼前に佇んでいる。

 

「でっか……」

「アホじゃね……?」

「ミーシャ様方、こちらへどうぞ。お部屋をご紹介してから昼食も用意させていただきます」

 

 あんぐりと口を開けたままのミーシャとウイスティに、門へ手をかけたローザが声をかける。アイリスの方はもう見慣れているのかはたまた興味がないのか、激しく自己主張をしている屋敷には目もくれずにミーシャの後を歩いて門の中へと足を踏み入れた。

 これまた広い庭に敷かれた石畳を歩き、ミーシャが問いかける。

 

「このお屋敷、全部ローザさんの?」

「はい。と言っても、私一人ではなく使用人や抱えている魔女との共用ですね。どちらかと言えば大家さんと言った方がよいのでしょうか……?」

「いや私らに訊かれても困るよ……」

「ふふ、それもそうでした」

 

 くすりと笑うローザを先頭に、ミーシャが再び問いかける。

 

「抱えている魔女、って?」

「そうですね……ひとことで表すなら、弟子でしょうか」

 

 口元に手を当てながら、ローザは恥ずかしそうに笑う。

 

「数年前から私の研究した魔法を教えているんです。といっても私はあまり魔法が得意ではないですし、私は他人に教えるよりも自分ひとりで研究する方が性に合っているのですけれど」

「ほえー」

「でも、私としては研究の成果を試してくれるのでとても助かっています。家事や研究を手伝ってくれたりもして、いい子たちなんですよ。このあとご紹介いたしますので、どうか仲良くしてあげてくださいね?」

 

 そう話を続けているローザの歩みが屋敷の前で止まり。固く閉ざされたその扉に手を触れる。ミーシャの目の前に荘厳として立ちはだかっていた扉は、ぎぎぎ、と古びた音を立てて開かれた。

 

 そうしてミーシャ達を出迎えたのは、紅と金の交錯だった。

 視界を埋め尽くす紅と、シャンデリアから降り注ぐ黄金の色。ミーシャが勝手に寄生している屋敷と同じ広さでありながら、豪華絢爛なその雰囲気に、ミーシャは呑まれたまま固まっていた。帰ったら掃除でもしようかなとかそんな事を思っていた。

 そんなどうでもいい思考を巡らせているミーシャの前を、ローザが歩む。その凛とした佇まいはどこか惹かれるようであり、ローザの纏う雰囲気にぴたりと合てはまるようだった。

 

「ジオラ、ソフィー。お客様がいらっしゃいましたよ。研究室から出てきてくださいね」

「はーい」

「いー」

 

 そんな間の抜けたような声と共に、ローザの両脇に淡い紫の花びらが舞う。ひゅぅ、と風がミーシャの頬を撫でると、そこには三角帽子を被った、二人の少女が立っていた。

 瞳の色は、それぞれが紅と蒼。かたや昏い深淵を映したようで、もう一つは突き抜けるような蒼天を映したよう。それ以外はまるで鏡に映したように瓜二つであり、それぞれの瞳の色と白を基調としたローブに短めのスカート。髪の色はどちらも銀であり、十六、七ほどの背丈もほとんど同じで、頭の上にはふんぞり返るように大きな三角帽子が乗せられていた。

 深めに被った帽子の調子を整えて、二人は同時にローザへと声をかける。

 

「おかえり師匠、やけに早かったねー」

「……おか、えり。ししょ」

 

 紅の瞳の少女に続くように、蒼の瞳の少女が小さく呟く。その様子は対照的であり、紅い方の少女の後ろに蒼い少女が付いていくような、そんな雰囲気がミーシャには感ぜられた。

 

「はい、ただいま。それよりもほら。今朝お話をしたでしょう? お客様に挨拶を」

「はーい」

「いー」

 

 ローザがそうミーシャ達の方を手で示すと、二人はとてとてと絨毯を辿ってゆき、先頭に立つミーシャの前でその足を止めた。

 

「おっすー! そっちが噂の黒魔女ちゃん?」

「ねえちゃ……初対面に、それはしつれい……」

 

「そうよ! 私が! 今回の魔女の夜会の! 主賓の! 偉大なる! 黒魔女のミーシャよ!!」

「うわすっごいテンション高い」

「…………びっくり、した」

 

 胸を張りすぎてほとんどのけぞるような姿勢で豪語するミーシャに、二人が少しだけ引いた。ミーシャは自分から喋りすぎてコミュニケーションが取れない方のコミュ障だった。

 笑いすぎて少し喉が痛くなってきたミーシャをよそに、二人がそれぞれ口を開く。

 

「私は紅魔女の一番弟子、記魔女(しるしまじょ)のグラジオラ! 気軽にジオラちゃん、って呼んでね!」

「……ソフィーは、夢魔女(ゆめまじょ)のジプソフィー……そふぃー、がいい……」

「アイリス様も、ウイスティリア様も師匠から話は聞いているわ! 二人とも遠い所からご苦労さま! 今日と明日はよろしくね!」

「よろ……し、く……」

 

 そう言葉を終えたジオラとソフィーを見計らったかのように、ローザが二人へと声をかけた。

 

「ではジオラ、ソフィー、今朝話したようにミーシャ様方をお部屋へ案内してください。私はその間にお昼ご飯の準備をしておきます。出来上がったら呼びますね」

 

 はーい、いー、と続く声を背に受けて、ローザが花びらに包まれる。姿を消したローザを後にして、ジオラとソフィーは後ろに手を回しながら、そろそろ腰が痛くなってきたミーシャに驚き、少し躊躇いながらも声をかけた。

 

「えっと……ミーシャ様? お部屋へご案内……」

「いいわよ! 黒魔女の私にふさわしい立派なお部屋なんでしょうね!」

「たぶん」

「それじゃあ案内よろしく! ふっふっふ、今から夜会が楽しみになってきたわ!」

 

 ルンルン気分でジオラとソフィーの後をミーシャがついていく。そんな彼女の背中を見つめながら、ウイスティは険しい表情を浮かべながら、ふと隣を歩き出すアイリスに問いかけた。

 

「なあ、アイリス」

「どうしたの?」

「……ちょっと、話が出来すぎじゃない? 別に私達は一緒に来る予定もなかったでしょ? それなのにあの子たち、まるで私達が同時に来るような口ぶりだったし……何か、おかしくないか?」

「そう、かもね」

 

 口元に手を当てて、深刻な表情でウイスティが考え込む。そんなウイスティに呆れるようにアイリスがため息を吐いて、彼女の方へ振り向いた。

 

「ウイスティ、あなたの悪い癖よ。考える時間はまだあるわ」

「そうかな……」

「それに、()()()()()()歓迎されているみたいだし。あの子たちも別に騙そうとしているわけではないみたい。今はとりあえず彼女たちに従っておきましょう」

「……だ、ね。そうだ。考えるのは後でいくらでも、できる……」

 

 そう会話を交わし、ウイスティとアイリスが紅の絨毯を歩む。一方は未だ不安そうに、もう一方はまるで覚悟がついたようにで、二人は前を行く白と黒の少女の後ろを歩んでいった。

 

 

「ねーまだー?」

「もう少しだから……ってそれ、二分前に聞いたよ?」

「せっかち……」

「まったく、こっちは偉大なる黒魔女なのよ? 今回の夜会の主賓なのよ?」

「黒魔女ならこれくらい我慢できるでしょー」

「むぅー……仕方ないわね」

「……ちょろ」

 

 大体ミーシャの扱い方が分かってきたジオラとソフィーを先頭に、ミーシャ達が長い廊下を歩いてゆく。案内を始めてから五分ほどしか時間が経っていないが、ミーシャの顔は気だるげで退屈さがにじみ出ている。ミーシャは知恵の輪を解こうとして三回くらいであきらめるタイプの黒魔女であった。

 後ろ手を組みながらミーシャが周囲の景色へ目を向けようと思ったが、見えるのは赤と金の色彩と、一定の感覚で設置された窓からの街並みだけ。いくらか続くその景観に、ミーシャがふと前を歩く二人へと声をかけた。

 

「てかさー、このお屋敷むちゃくちゃ広くない? こんなところにあなた達だけで住んでるの?」

「んー、全部ってわけじゃないよ? 部屋はいっぱいあるけどほとんど研究室だし」

「……ししょーが、いっぱいお部屋使うから。私達とか、使用人さんが住んでるのは、お屋敷のはじっこ……」

「二人で共同部屋だしね……」

「べっども、いっしょ……」

 

 しょんぼりと言うジオラとソフィーを見る限り、どうやら生活環境はあまり良くないらしい。そう話を続けているうちに、二人は廊下の突き当りにたてられた、大きなドアの前で足を止める。

 

「はい、ここ! 一部屋しかないけど、このお屋敷の中で一番広い部屋だから大丈夫! お布団も三つあるし、その他に何か必要だったらまた私達に言ってね!」

「……ここのお屋敷は、北館と、南館でわかれてて、ミーシャさまたちが今いるのは……南館の、二階……」

「分からなかったらそこらへんにいる使用人さんに訊けばなんとかなるよ。今は明日の夜会の準備であんまりいないけど、夜になったらまた出てくると思うから」

「あら、ご丁寧にありがとうね」

「大切な師匠のお客さんだもん、当然だよ! ね、ソフィー」

「……うん……ししょーの、ともだち……」

 

 ジオラとソフィーの尊敬とも取れるような視線が、アイリスへと向けられる。その赤と青の瞳にアイリスが少しだけ口を噤んだが、それを隠すようにウイスティが横へ割り込んだ。

 

「とりあえず私カバン置いていいかな? 荷物が多いの私だけみたいだし」

「はいはーい! じゃ、さっそくごあんなーい!」

 

 そんなジオラの高い声と共に、きぃ、と扉が開けられる。

 室内は走り回れそうなほどに広く、椅子やテーブルを始めとしたいかにも高級そうな家具が並んでいる。ドアを抜けて左手、北館の方にはどうやって入れたのか疑問に思うような天蓋付きのベッドが三つ。さらにその奥はテラスにつながっており、そこからは色とりどりの花が咲き乱れる中庭が覗いてる。

 

「おー……」

「広い……」

 

 ドアの前で立ちすくみながら、ミーシャとウイスティがそんな声を漏らした。

 

「いやはや、こんなとこに泊まれるなんて思わなかったよ。半ば旅行気分だね」

「そう言ってくれて嬉しいわ! ここね、私とソフィーがいっしょになって準備したの!」

「ねえちゃ、そういうのは言わないやくそく……」

「あ、はは……でも凄いよ。ありがと」

 

 わちゃわちゃと話すジオラとソフィーに、ウイスティが少し呆気に取られながら笑う。一見すれば彼女たちが何か企んでいるような風には見えないし、この振る舞いにそういった意志も見られない。ジオラとソフィー達に対するウイスティの心配は、空回りのようにすら思えるようだった。

 では、先ほどの杞憂は何だったのか――と思いふけるウイスティの思考を、その叫び声がかき消した。

 

「うおー! ベッドふかふか!! だーいぶ! いえーい!!」

「ミーシャちゃん、そんなに跳ねると危ないわ」

「だいじょーぶだいじょーぶ! ほらほら、空中一回転もできンぶひゅッ」

「あらあら埋まったわ」

 

 ベッドに逆さまで突き刺さったミーシャに、アイリスが困ったように頬に手を当てる。ミーシャは運動があまり得意ではない黒魔女だった。最近は筋肉痛が二日遅れでやってくるようになった。

 根菜を収穫する感じでアイリスがミーシャをベッドから引き抜くと、目をぐるぐると回しながらミーシャがベッドの上へと寝転がる。

 

「……く、屈辱よ……紅の魔女、まさかここまでやるなんて……」

「まだなんも、してない……」

「まだ何も? 冗談じゃないわ!あの魔女、私にヘンテコなネコミミ付けたのよ! 今まで忘れてたけど!」

「そんなこと忘れてたの……?」

 

 魔女にとって猫の耳を付けられるのは侮辱に等しい行為である。自らの師匠がそんな事をするだろうか、とソフィーはギャーギャー騒ぐミーシャへ、半ば疑いの目を向けた。残りの半分は自分に猫耳を付けられたことすら忘れる黒魔女への呆れた視線だった。

 そんなベッドの上でぷんすか怒ったままのミーシャへ、どこからか戻ってきたジオラが声をかける。

 

「ミーシャ様方、ご飯の用意ができたってー」

「ごはん! じゃあそこにもローザはいるのね! すぐ行くわよすぐ!」

「え、あ、そんなにお腹空いてたの? てか待ってよミーシャ様! 一人で食堂行けるのー!?」

 

 ジオラの報告を受けたミーシャが、ほとんど転がるようにベッドから抜け出して廊下へ走り出す。そんな突飛なミーシャの行動に驚きながらも、ジオラが慌ててその後を追った。

 まるで嵐のように去っていった黒魔女に対して、ソフィーが我慢できないように小さく震えて一言。

 

「……うるっさ…………」

「ホントにね」

「ごめんなさいね、ミーシャちゃんがあんなので」

 

 遠くから聞こえてくるどたばたとした音に、アイリスが困ったようにため息を吐いた。

 

 

 



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黒魔女は復讐がしたい。

書き始めです
今年度中には完結させたいです


 

 ばーんっ、と勢いよく開かれた扉に、ローザがゆっくりと視線を向ける。

 

「あらミーシャ様、随分とお早くいらっしゃい――」

「とぼけたって無駄よ、ローザ! 今日があなたの命日なんだから! いっけええええ!!」

 

 手に持った杖の先に暗闇が灯り、ミーシャが高らかに謳う。そして素っ頓狂な顔をしたままのローザへ黒杖を差し向けると、唸るような叫び声と共に漆黒の閃光が迸った。

 まるで屋敷全体が揺れるような轟音が鳴り、絵画の飾られた壁や吊られている煌びやかなシャンデリアを揺らす。そして黒の槍はローザの元へ撃ち出されたか思うと、その手前で急激に方向を変えて食堂の天井へと打ち上げられた。

 紅く滲む右腕を見つめたあと、ローザがミーシャへ目を向ける。まるでそれを知っていたような落ち着いた動作に対し、ミーシャの表情はどこか焦りが感じられた。

 

「ミーシャ様、これはどういう……?」

「だぁークソ! また失敗した! なんでいつも失敗するのよぉー!」

 

 地団太をだんだんと踏みながら、ミーシャが叫ぶ。そんないきなりやって来て殺傷力マシマシの魔法をぶち込んできた黒魔女に、ローザはただただ首を傾げていた。

 

「っ、師匠! 今の音なに!?」

 

 と、肩で息をしているミーシャの後ろから、騒音と共にジオラが現れる。ミーシャを追っていたのだろうか、同じく息を切らしているジオラは一瞬目を見開いたあと、こちらを睨みつけているミーシャの元へ近づいて、勢いよく胸倉を掴み上げた。

 

「ミーシャ様、なにやってんの!? 師匠にいったい何したのよ!」

 

 呆気にとられたミーシャだが、すぐに眉間に皺を寄せて怒鳴り返す。

 

「な……何って、こいつは私に猫の耳をつけるようなヤツなのよ!? そんなこと許せないわ!」

「猫の耳!? 師匠が……ローザ様が、そんなくだらない事する筈がないじゃない!」

「でも私は本当にやられたのよ! アイリスだって知ってるもん! ほんとだもん!」

「そんなでたらめ言わないでよ! いくらお客様だからってこれ以上は――」

 

「グラジオラ」

 

 ローザの冷たい声と共に、ぴしゃりと水を撃ったような沈黙が訪れた。

 

「……し、師匠?」

「ミーシャ様は大切なお客様ですよ。今すぐその手を離してください」

「で、でも」

「お願いです。ミーシャ様も驚いていますから」

 

 ローザの視線に耐えかねたように、ジオラが一瞬だけミーシャを睨んで突き放す。未だに憤りが収まらないジオラをかばうように、ローザはミーシャへと優しく語り掛けた。

 

「ミーシャ様、あなたは私と初めて会った時もそのような振る舞いをされましたよね」

「……ふん」

「ですが、私にはミーシャ様がそこまでお怒りになられる理由が分からないのです。私、もしくは私の弟子に何か至らぬ点があったのか……せめて理由だけでも、どうかお聞かせください」

 

 その言葉にミーシャはブチ切れて奇声を上げながら暴れまわりそうになったが、対するローザの顔は真剣そのもの。声色は優しいけれど、こちらへ向けられる眼差しには強い意志が込められているようだった。少なくともミーシャが押し黙るほどには、その意志は強いようだった。

 須臾の静寂。紅魔女と黒魔女の視線が交錯し、辺りに得体の知れない緊張感が漂う。

 

 そうして、沈黙を破ったのはローザでもミーシャでもなく――ドアの向こうから響く足音だった。

 

「……アイリス」

「ローザ、あまりミーシャちゃんを責めないでくれる? あなたも魔女なら、猫の耳をつけられる屈辱が分かるでしょうに」

 

 呆れたように肩をすくめてたアイリスが、我が物顔で食堂へと足を踏み入れる。後ろのドアの近くではあわあわと覚束ない様子のウイスティがのぞいており、驚いたような顔をするローザに向かって、アイリスは淡々と語りだした。

 

「今ミーシャちゃんの言っている事は全て本当よ。問題は、その猫の耳を解除したらあなたの夜会の招待状が出てきた、ということ。これは一体どういう説明するつもり?」

「そ、れは……本当ですか?」

「本当よっ! なに、知らないとは言わせないわ!」

 

 輝く金の瞳に、驚きと困惑の色が浮かぶ。調子を取り戻してイキり始めたミーシャを差し置いてそのまましばらくローザは黙り込んでしまい、何かを必死に考えているような素振りを見せた。

 しばらくの思考の末、ローザが意を決したようにして口を開く。

 

「……申し上げにくいのですが、ミーシャ様。私にはそのような無礼をした覚えはございません」

「はぁ!? でも実際に私はその魔法をかけられたのよ! あんたが知らなくても!」

「はい、アイリスが言うのならそれは真なのでしょう……たとえ私の身に覚えがなくとも、ミーシャ様を不快な気分にさせてしまったのは事実。であれば、私に非があるのもまた揺るぎない事実ということ」

「……師匠? 何言ってるの?」

 

 つらつらと語るローザに、唯一ジオラだけが唇を震わせる。怒りとも失望ともとれるような、歪に染められた表情だった。その彼女の視線を真に受けながらも、ローザが淡々とその言葉を口にする。

 

「ミーシャ様、大変申し訳ございませんでした……」

 

 行為にしてみれば、何ということはないただの一礼。けれどその姿には、領主としての威厳も、魔女としての尊厳も、何もないただの純粋な人間のようだった。

 

「し、師匠! いくらなんでもそんな――」

「グラジオラ、黙りなさい」

 

 慌てた様子で声をかける自らの弟子に、ローザが強い口調で言い放つ。完全に圧し返されたグラジオラは、行き場を失った言葉を喉の奥に呑みこんだ。

 奇妙で異質な、三度目の沈黙が流れる。想定していたよりも斜め上のその反応に戸惑っているミーシャを差し置くように、アイリスが一歩前へ出た。

 そうして地へ頭を向ける紅の魔女の前に立ち、告げる。

 

「あなたは昔からそうね。何も考えずに何とかしてその場を乗り切ろうとして。全て自分が責任を取ればなんとかなるとでも思っているの? 弟子を持ったと聞いて驚いたけど、その様子じゃお弟子さんたちも大変そうだわ」

「…………」

「そうやってまた相手が機嫌を直すまで動かないつもりでしょ? だからあなたはそのままなのよ。いつまでも怖がって耐えるだけじゃなくて、もう少し周りに目を向けてみるといいわ。同輩としての忠告よ」

 

 それだけ言い放つと、アイリスはジオラの方を一瞥して嘆息をひとつ。やりきれないといったような様子で冷たい視線を向けると、黙り込んだままのローザの前から去り、ぼけっと突っ立っているミーシャの肩をぽん、と叩いた。

 

「ごめんなさいね、ローザと話しているのに割り込んでしまって。でも、どうしてもこれだけは言いたかったの……もう、私は喋らないから」

「そ、そう言われても……どうすれば……」

「ミーシャちゃんのしたいようにすればいいと思うわ」

「むぅ……んー……?」

 

 そう言い残し、アイリスが後ろで控えているウイスティの元へと歩み寄る。ひそひそと一言二言と会話しているアイリスたちをよそに、ミーシャが恐る恐ると言った様子で頭を下げているローザへと声をかけた。

 

「ろ、ローザ……さん? とりあえず頭あげて、ください……?」

「……はい、そう致しましょう」

 

 なんとも事務的なその台詞に、ミーシャは後ろ首が痒くなった。

 

「……聞いておくけど、ローザさんには悪意はなかったのね?」

「はい。ミーシャ様はお客様ですから」

「それで、魔法も間違えちゃっただけ?」

「はい。未だ魔法には未熟なものでして、この度は大変申し訳ございませんでした」

「ふーん……」

 

 と、腕を組んで何かを考えるそぶりを見せるミーシャ。しばらくして腕をぽん、と叩くと、ミーシャは沈んだ顔のままのローザへ向かって咳払いを一つ二つして、大きく口を開く。

 

「ご、ごほん! ……そ、それなら仕方ないわね! 間違いなら誰にでもあることだし、悪意がないのも分かったし! それにローザさんがこれだけ謝ったんだから、許してあげる!」

「…………へ?」

 

 あまりに突飛なミーシャの発言に、ローザが思わずどこから出したのか分からない声を上げた。それに対してミーシャは自信満々に胸を張ったままで、ローザにはそれがとても歪んだものとして見えていた。

 しばらく呆けたように口を開けたままのローザが、はたと我に返ったようにしてミーシャへ語り掛ける。

 

「わ、私を許して下さるのですか? まだミーシャ様にお詫びもしていないのに……」

「だからそう言ってるじゃない! 黒魔女には全てを許す寛容さも必要なのよ!」

 

 まったくもう、とミーシャが頬を膨らませる。しかしふと何かに気づいたかと思うと、あたふたと分かりやすいように慌て、ローザへ申し訳なさそうに口を開く。

 

「あ、でも……私のほうこそごめんね? いくら間違いって言っても、やりすぎちゃった……でもローザさんも間違えちゃったんだし、これでおあいこって事で……ダメかな?」

「それは……」

 

 上目づかいで恥ずかしそうに言うミーシャに、ローザが思わず言い淀む。向けられたその瞳は眩しすぎるほどに輝いていて、ローザにはそれに畏怖すらも覚えていた。初めて、人の恐ろしさを知ったような感触だった。

 返す言葉を選ぶのに、時間などというものは要らなかった。

 

「もちろんです。こちらこそ、ありがとうございました」

「うん、よし! これでお互いさま、恨みっこなしね!」

 

 それだけ告げると、ミーシャは沈んだ表情から一転して、ぱぁ、と明るく目を細める。その起伏のある表情がどうにもおかしくて、ローザは思わず口に手を当てながら、ミーシャと同じように優しい笑みを浮かべていた。

 ふとミーシャが後ろを振り向くと、そこにはふてぶてしそうに腕を組んでいるジオラの姿が目に映る。するとミーシャははたと彼女とのやり取りを思い出し、慌てたようにして口を開いた。

 

「ジオラちゃん!」

「ふぇっ!? ……な、なによ」

 

 とてとて、とミーシャがジオラに近づいて、申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「えっと、その……さっきはごめんね? ジオラちゃんも分からなかったんだよね」

「うえ!? え、そ、そうだけどさ……」

「それに、あなたのお師匠さんを危険な目にも合わせちゃって……ほんっとーに、ごめんなさいっ!」

「も、もうわかったから! 私の方こそ話を聞かなかったんだし!」

 

 手を合わせて謝罪するミーシャに、ジオラがまた宥めるように話す。先程の流れを見て、許せないというのが酷なものだろう。黒魔女と言われている割には想像以上に純粋なミーシャに、ジオラは不思議に思いながらもどこか達することのできない違いを感じていた。

 

「ミーシャ様は、お優しいのですね」

「ん? なんで?」

「私達の失態を許してくれて、それでも自分の罪を認められる……そのようなお方が、世界を探してどれほどいるでしょうか。少なくとも、ノールドにはそのような人間は存在いたしません」

 

 言葉とは裏腹に、ミーシャへと向けられる視線はどこか虚ろなものだった。まるで、ミーシャと話しているのではなく、遠くのどこかの人間を思うような語り。その表情にミーシャは気づかずとも、少しだけ違和感を覚えていた。

 やがて、ローザが優しく笑みを作ってミーシャへ話しかける。

 

「ミーシャ様、昼食にいたしませんか? せめてものお詫びとして、極上の品を振る舞いましょう」

「ふふん、そうこなくっちゃ! みんなも呼んで、一緒にね!」

 

 花の咲いたような笑みで、ミーシャがドアの裏に控えているウイスティ達の元へと向かう。

 そんな彼女を見つめているローザは、ただ一人、変わらぬ笑みを作っていた。

 

 

「うわー、すごいすごーい!」

 

 ミーシャの驚きに満ちた叫び声が、地平線のかなたまで続く。一面を埋め尽くすのは、燃え上がるような真紅。紅色のバラの花びらがミーシャの目の前を過ぎたかと思うと、突き抜けるような青い空へと舞い上がり、さわやかな風を運んで行った。

 昼食を終えたミーシャがやってきたのは、丘の向こうまで続くバラの花畑だった。まだ夜会までには一日と少しの時間があるので、それならばノールドの観光を自ら買って出ようというローザの意向である。別段することもなかったミーシャ達は、それにありがたく乗ることにした。

 

「これ全部ローザさんのバラなの?」

「はい。ここの花畑は全て私の管轄下ですわ」

「いやー、この年になってお花に感動することになろうとは……」

 

 多少自虐的な笑みを浮かべて、ウイスティがそう呟く。それほどに眼前に広がる光景は壮大で、心を満たしてくれるものだった。

 ノールドの北側に位置する、バラの花畑。ローザの住んでいる屋敷の十倍の広さを持つこの花畑は、全て彼女が管理し、使用人の手を使わずに面倒を見ているという。いつもならついてくるジオラとソフィーも、この時だけはローザの下を離れて屋敷の仕事にあたっていた。

 

「あなた、まだこんなことしてたのね。よくも飽きないわ」

「こんなこととは何ですか、アイリス。私は好きでやっているんですから」

 

 呆れたアイリスのつぶやきに、ローザがむっ、と頬を膨らませる。いつもなら見せないローザの少し怒った表情に、アイリスは嘆息で返した。

 

「ねね、ローザさん、お花畑の中、入ってもいい?」

「もちろんです。何でしたら、いくつか摘んでいってもらっても構いませんよ?」

「ほんと!? わーいっ!」

 

 そう答えると、飛び跳ねるようにミーシャが赤い花の中へと躍り出る。紅の中に一点の暗黒が混じり入り、花畑の紅い波の中で黒い三角帽子がぴょこぴょこと飛び跳ねていた。

 やがてしばらく花畑の中を突き抜けて、ミーシャがぽす、と赤の海へと身を投げ出す。視界の端で緋色の花々がミーシャの顔を覗き込むように波を打ち、ミーシャの瞳には紅の額縁に彩られた空の海が鮮やかに彩られていた。

 

「綺麗ですか?」

「うん、とっても!」

 

 何時の間にか紅のバラを散らしながらそこにいたローザに、ミーシャが笑顔で答える。少なくとも、そこには裏も何も無いように思えた。

 

「私も子供のころに、よくここで寝転んでいました。バラの隙間から見える青色がとても素敵で……ほら、空の青色とバラの紅色が対比して、とても綺麗なんです」

「そうだよね! こんな景色、他では見られないもん!」

 

 そう言いながらミーシャがむくりと起き上がり、ふと目の前のバラへと手を伸ばす。何枚もの花弁が重なったその花はまるでミーシャを誘うかのようにしてそこに在り、ミーシャは何のためらいも無く自らの腕を伸ばす。紅の色は、簡単にミーシャの手へと収まったかに思えた。

 その瞬間、ちく、と小さな痛みがミーシャの手のひらに走る。

 

「あいたっ」

「ミーシャ様?」

 

 驚いたようにローザが声を上げ、ミーシャの側へとしゃがみ込む。恐る恐るミーシャが手のひらを開くと、そこには指の間から洩れている小さな血の雫が見えた。

 自らの手に出来た血の球を見て、ミーシャがばつの悪そうに頬を掻く。そんなミーシャに、ローザはうすく微笑みを浮かべながら優しい口調で語りかけた。

 

「大丈夫ですか、ミーシャ様?」

「むぅ……黒魔女の私に傷をつけるなんて、このバラ中々やるじゃない……!」

「ふふっ。ミーシャ様、お手をお出しになって下さい。傷口から菌が入ったら大変です」

 

 ローザの細い指が、ミーシャの手をつたう。そして膨らんだ血球を包み込むと、そこから魔力が流れ込むのをミーシャは感じた。指の間からあふれる光の色は、穏やかな紅色をしている。

 痛みが引くのに、時間はさほどかからなかった。すっかり治った手を見て驚いているミーシャに、ローザが少しおどけた様子で口にする。

 

「ミーシャ様、バラを摘むときは気を付けなければなりませんよ? ほら、昔から言うじゃないですか。綺麗なバラには棘がある、って」

 

 その言葉に、ふとミーシャがローザと視線を交わす。

 

「綺麗なバラ……」

「……ミーシャ様? どうかなさいました?」

 

 不思議そうに首を傾げ、ローザが問いかける。

 答えようとするミーシャは、自分でも少しおかしくなって、恥ずかしそうに笑った。

 

「いや、ローザさんはバラっぽいなー……って」

「私がバラ……ですか?」

「だってだって、ローザさんって珍しい紅の髪だし、それにすっごく美人だし、性格も優しいし。それに、棘もないんだからお花にしたらすっごく綺麗で真っ赤なバラになると思うの!」

 

 突拍子もないミーシャの物言いに、ローザが呆気にとられてぽかんと口を開ける。そして一瞬だけ目を伏せたかと思うと、耐え切れないような笑みをこぼしてミーシャへ言った。

 

「ふふっ、ミーシャ様は本当に面白いお方ですね。もしも私がバラになってしまったら……その時は、どうか棘にお気をつけてください。またお手を怪我されては、悲しくなってしまいますから」

「うぐ、それは……」

「冗談ですよ、ミーシャ様。そもそも、私はバラになるつもりはありません。だって、私がバラになってしまってはこの花畑の面倒を見れなくなってしまいますもの。それに、バラになってミーシャ様と話せなくなるのは、とても寂しいものですから」

 

 ローザの語るような物言いに、ミーシャが零れるような笑みで返す。そこには先程のような敵意やぎこちなさは既になく、ただ純粋に広がる情景と流れる時間を楽しむ、二人の魔女だけが存在していた。

 

 満開の花畑の中で、黒魔女は幸せに満たされる。

 

 ミーシャには、ふとそれがどこか懐かしいことのように感じられた。

 

 




そろそろタイトルのネタがなくなってきた


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『追想』

 

「あ、師匠。おかえりー」

「りー……」

 

 バラ園から戻ってきたミーシャ達を出迎えたのは、ジオラとソフィーの二人だった。何やら二人であれこれと話していたらしく、様子を見かねたローザが二人へ心配そうに声をかける。

 

「ただいま、ジオラ、ソフィー。仕事の方は順調ですか?」

「それがさー、裏庭のお掃除まだ終わってないんだよね。ごめん!」

「……いつもしてないから、ぼーぼー。私たちだけじゃ、むり」

「あらあら、それは大変ですね。私もすぐに手伝いましょう」

 

 そうローザがジオラ達と言葉を交わすと、申し訳なさそうにミーシャ達へと振り返った。

 

「申し訳ありません、先にお部屋の方へ戻って貰ってもよろしいでしょうか? また夕食が出来上がった際にお呼びいたしますので、何かあれば近くの使用人にお申しつけください」

「ローザさんは?」

「いま話した通り、裏庭の掃除を手伝って参ります。明日の夜会までに間に合わせたいのですが……」

 

 続く言葉の代わりに、ローザが嘆息を一つ。その様子を見るにあまり状況は良くないらしい。それもそのはず、この屋敷はとにかく大きい。さらにその裏庭の掃除がたった三人で終わらないことなど、ミーシャですら分かることだった。

 困り顔のローザに、ミーシャが見かねて口を開く。

 

「それじゃあ私もお手伝いするわ! 一人でも多い方が早く終わるでしょ?」

「さ、さすがにそこまでさせるわけにはいきません。ミーシャ様はお客様ですから……」

「いいのいいの! だってどうせお部屋いてもヒマなんだし! ジオラー、ソフィー! 裏庭つれてって!」

「え、あ、ミーシャ様?」

 

 ローザの静止も聞かずに、ミーシャがジオラとソフィーへ呼びかける。あまりの突飛な行動にローザがあたふたと狼狽を見せていたが、ふとそんな彼女の右肩にぽん、と手が置かれる。

 振り返れば全てを悟ったようなアイリスが、ローザに向かって首を横に振っていた。

 

「諦めなさい、ミーシャちゃんはあれで止まらないの、もう分かってきたでしょう?」

「……ええ、そうですね。申し訳ありませんが、お願いしたいと思います」

「それでいいのよ。さ、ウイスティ。あなたも行って来たら?」

「へ? 私も? なんで?」

「当然よ。あなた、引きこもってるから最近太ってきたんじゃない? 少しは運動しなさい」 

「うぐ……実家のおかあさん……」

「私はあなたを生んだ覚えはないわ。ほらほら、さっさとしないとミーシャちゃんに置いて行かれちゃうわよ」

 

 しっしっ、と手で払う様にしてアイリスが言うと、ウイスティは渋々といった様子でミーシャ達の方へと歩み出した。適当に言っただけだが、どうやら図星らしい。長年変わらない彼女の引きこもり癖に、アイリスは疲れたような溜め息を吐いた。

 やがてミーシャもウイスティの姿もなくなり、赤い館を背に立つのはローザとアイリスの二人だけ。肩に触れる手は決して離れようとはせず、アイリスは氷のように冷たい視線をローザへと向けたまま動こうとしなかった。

 

 ローザを捕らえたまま、アイリスが口を開く。

 

 

「さて、これで二人っきりね」

「……アイリス」

 

 肩に乗ったアイリスの手をなぞるように、ローザが指を動かす。その瞬間、アイリスはまるで気味悪がるようにしてローザを突き飛ばし、その顔面へ白銀の杖を向けた。瞳孔は覚束ない様子で、震えた唇からは強張った声が漏れた。

 

「まず、あなたに聞くわ。ミーシャに魔女の猫をかけたの、あなたでしょ」

「……違うと言ったら?」

 

 そう問い返すローザの視界を、光が薙いだ。

 

 白い杖から吐き出された雷光の槍は、ローザの帽子を軽々と吹き飛ばし、右肩を穿つ。肉の焦げる匂いと共に、ローザは肩から先の感覚が無くなっていくのを感じていた。腕の中を電撃が裂き、焼け斬れた手の先からは、紅の血が漏れ出している。

 しかしローザの顔に浮かぶのは、滲むような笑みだった。

 

「ミーシャに魔女の猫をかけたのは?」

「ええ、私です。そもそもあれを紡げる人間は私くらいしかいませんよ」

 

 悪びれる様子もなく、ローザはつらつらと語る。

 

「どうして嘘をついたの? あんな見え見えの嘘、ウイスティですら気づけるわよ」

「ですが、彼女は私を信じました。そこも含めて、あの魔法は彼女にとても似合っていると思います」

「……わざわざ、あんな回りくどい真似を」

「自分の飼い猫には鈴をつけておくのが当然ですよ。飼い主が誰か分かるように」

 

 にたり、とローザが口を釣り上げる。アイリスは得体の知れない不気味さを感じていた。

 

「ミーシャはあなたの飼い猫なんかじゃない」

「そうですね。そう呼ぶより、彼女は実験動物と――」

 

 続く言葉を遮ったのは、雷電と轟音だった。

 全てを埋め尽くすような純白がローザの視界を奪い、同時に服の下の半身が燃え上がるような痛みを上げる。立ち込める焼け爛れた人肉の匂いと、噴き出し続ける血の匂いに包まれながら、白と紅の魔女の対峙は続けられる。

 

「……つぎに、彼女をそう呼んでみなさい。この屋敷ごと吹き飛ばしてあげる」

「それではジオラとソフィーが困りますね。ではミーシャ様と呼びましょう」

 

 からかうようにローザが言い、アイリスが歯を食いしばる。半身を雷光で焼いたというのに、当の本人はまるでそれを感じていないかのようにうっすらと笑っていた。まるで子供を諭す親のような、そんな笑みだった。

 感じるのは狂気と恐怖。アイリスの目に映るローザを構成しているのは、それだけだった。

 

「あなたは……何が目的なの?」

「この十年間、ずっと変わっていません。あなたを救うことですよ、アイリス」

「……ぇ……何を、言って……?」

 

 当惑から絞り出されたような、アイリスの声が響く。

 

「あなたを黒魔女の呪縛から救い出すこと。孤独の追想から解放すること。それだけが、私の望むことです」

 

 その刹那だけ、ローザの瞳は何かを想うように細められていた。いつも通りの優しい様子でもなく、先ほどのように狂気に包まれたものでもなく。そこにあるのは今までのような嘘ではなく、ただ一つの悲願のようにも思えた。

 

「……ふざけないで。あなたはただ自分のために動いてるだけでしょう?」

「そんな事はありません。確かに彼女は私のものですが、今それは問題ではないですから」

 

 ざり、とローザが一歩を踏み出す。それに怯えるかのように、アイリスが片足を退ける。 

 

「私は一人なんかじゃない。それに私は、彼女の……記憶を、奪っ、て」

「ですが、彼女はあなたから全てを奪ったではありませんか。それに、彼女を封じるためには記憶を消すしかなかったのでしょう? 仕方のないことです。これは定められた運命なのですよ、アイリス」

「違う! 私は……違う! 違うっ!」

 

 まるで駄々をこねる子供のように、アイリスが叫ぶ。そして吐き出されるのは雷光と衝撃。そのすべてがローザを避けるように飛来して、辺りに焼け焦げた跡をつくる。

 立ち込める煙の中を怯むことなく歩み続け、ローザは続ける。

 

「十年前のあの日、あなたは全てを失った。あの黒い花はあなた以外の人間を殺し、あなたを孤独へと誘った」

「それ、は……」

「私はあなたを救いたい。あなたをその孤独から解放したい。それだけの……ただ、それだけのことなのです」

 

 ぽつり、ぽつりとローザは紡ぐ。星に願うように語られるその言葉の一つ一つが、アイリスの心へ染み渡るように、深く響く。向けられた白い杖に臆することもなく、ローザはアイリスへと一歩ずつ歩み寄る。

 

「……近づかないで」

「怖がらなくても大丈夫ですよ、アイリス。もう誰もあなたを一人にはさせません」

「私は、このままでいい……これ以上、彼女を……!」

 

 喉から吐き出される掠れた声と共に、からん、と白い杖が鳴く。吹きすさぶ風はアイリスの頬を撫で、ローザの両手がその頬を包んだ。血塗れの焼け爛れた腕が、アイリスの白い肌を犯し、埋め尽くしてゆく。

 

「アイリス、今まで辛かったでしょう」

「……ロー、ザ」

「もう耐える必要はありません。あなたの孤独も罪も、全て私が消し去りましょう」

 

 だから、とローザはうつむいたままのアイリスを抱き締める。

 

「一人で抱え込むのは、もうやめてください……」

 

 金色の瞳から、雫が流れ落ちた。

 

 

 

「うわー、結構やられてるわね」

 

 膝の上まで届く雑草群を目にして、ミーシャが思わず呟く。ジオラとソフィーは情けなさそうに眉をひそめ、ウイスティは面倒くさそうに溜め息を吐いていた。

 紅の屋敷をぐるりと回り、辿り着いたそこは草原だった。

 

「うう……ミーシャ様、お客さんなのに……」

「……ごめんなさい」

「いーのいーの、私もヒマだったし! さすがにコレは無理あるけど」

 

 目の前に広がる膨大な量の雑草を見て、ミーシャが呆れた笑いを浮かべた。

 

「……で、結局どうすんのさ。完全に私たちだけじゃ足りないよ?」

「まあ任せて! 眷属さんにお願いしてみる!」 

 

 そう意気揚々とウイスティに応え、ミーシャが魔法の黒い杖を取り出す。込められた魔力によって周囲の空気は重くすり替わり、ミーシャを瘴気が包み込む。突如として現れた大きな気配にジオラとソフィーが思わず後ずさり、ウイスティはその様子を離れた場所でじっと見つめていた。

 杖は大地へ穿たれ、魔法陣が地を走る。刻まれた円環から這い出るように古びた蔓が何本も伸び始め、それらがミーシャを包み込むような籠を作り出す。そしてその真上に形作るのは、歪んだ人形。ぱきぱきと古ぼけた音を立てながら、その怪物は主の呼び声を待つ。

 

「おいでませ! 古き森の災厄さん!」

 

 終焉と災禍が訪れた。

 自らを包む籠を掻き分けると、伸びる蔓が頬を撫でる。その先に佇んでいるのは、蔦で構成された森の化物。

 

「こんにちは災厄さん! 元気してた?」

「ああ……いつもと変わらぬ。そちらも元気そうで良かった……」

 

 ミーシャの体をくすぐるように蔦を伸ばし、災厄が声を漏らす。驚いたままの後ろの三人を気にもせず、ミーシャが自らの化身へ向けて言葉をかけた。

 

「あのね、今日も草刈りしてほしいの」 

「ああ、いいだろう……して、如何様に……」

「このあたりの雑草、ぜーんぶお願い!」

「請け負った……ではミーシャよ、手を出して……」

 

 言われるがままに両手を差し出したミーシャに、災厄が蔦を伸ばす。ひょろひょろと繊細に動くその先に吊っていたのは、艶やかな黄色を映す果実だった。ミーシャの掌に黄色の木の実を落として、災厄がそのままの蔓で彼女の頬を撫でる。

 

「ラビアンの実だ……この時期が一番美味い。それを食べ終えるまでに全てを終わらせよう……」

「わーい! ありがと!」

 

 と、ふと災厄がミーシャの後ろの人影に目を向ける。銀髪の二人の少女はお互いを抱き合う様にして怯えた瞳を向けており、その場に座り込んだままの女性は呆然と災厄のことを見上げていた。

 そんな彼女らの反応は気にも留めずに、災厄はミーシャへ問いかける。

 

「ミーシャよ……後ろの人間どもは、そなたの知り合いか?」

「うん、みんな私の友達だよ……ってあれ!? ジオラ、ソフィー? ウイスティさんまで、みんなどうしたの?」

 

 災厄を目の当たりにした三人に、ミーシャが驚いて声を上げる。ミーシャは黒の魔法を使役する魔女である。故に目の前に樹木の化物が現れようと、憶する事は無い。けれどそれは他人にはできない事だった。

 それすらも理解できず、おろおろと慌てるミーシャの代わりに、災厄が蔦を伸ばす。最初に狙われたのは、かたかたと震えたままのジオラとソフィー。明確に意識を向けられたことに、二人は思わずお互いを抱きしめる腕に力を込めた。

 

 迫りくる蔦にジオラがぎゅっと目を瞑っていると、ふと頭をざりざりと撫でられる感覚。見上げれば黄色い果実がふたつ、目の前に実っている。ソフィーはジオラの腕をぎゅ、と握りながらその木の実をじっと見つめていた。

 

「安心するとよい……ミーシャの命が無い限りは、そなた達に危害を加えることは、ない……」

「え、あ?」

「怯えることはない。ラビアンの実だ……甘いぞ……」

 

 ぽとり、ぽとりと災厄が実を落とす。目の前に落とされた二つの果実を手に取って、ジオラとソフィーはお互いを見合わせた。そして手の内にある木の実を恐る恐る剥き始め、意を決したように同時にそれを口に含む。

 

「あ、うまい」

「……おいし」

「それは……良いことだ……」

 

 それだけ告げて、次に災厄が目を向けるのはへたり込んだまま動かない白衣の女性。いくつもの蔦を伸ばしてウイスティを囲むと、災厄は不思議そうな声で彼女に語り掛けた。 

 

「貴様は……あれらとは違うな……その瞳は怯えたものではない……何かを、探している目だ」

「……割と人間らしいんだね、眷属って。初めて知ったよ」

 

 特に憶するような様子も見せず、ウイスティが口を開く。

 

「私はミーシャの眷属である……故に、彼女の命が無ければ動くことはない……」

「そんなに彼女を気に入ってるの? それとも、何かされたお返し?」

「……それに応える理由は無し……が、私は私の意志でミーシャに従っている、とだけ……」

 

 そうしてウイスティの目の前に木の実を差し出しながら、頭を撫でる。掠れた木の感覚にウイスティが首を傾げながら、目の前の黄色い実を摘んで一つかじった。

 

「サンキュー、美味いよ」

「ならば、良し」

 

 改めてミーシャに向かい、災厄が口から零す。

 

「良い人間を見つけたな、ミーシャよ」

「うん、今日会ったけど、みんなもう友達だよ!」

「それでよい……では、始めるとしよう……」 

 

 災厄が右腕を掲げ、そこに樹の杖が現れる。大木のようなその杖を地面に突き刺して、災厄は告げる。

 

「この地に在りし森の精よ! 我が主の命に従い、我が杖の糧とあれ!」

 

 その瞬間、地面に立つ杖から黒い波が吹き荒れる。漆黒に吹かれた雑草はみるみるうちに灰と化してゆき、鬱蒼とした草原を枯れた大地へと帰してゆく。暗黒が広がり切ったころ、ミーシャの目の前には荒地が広がっていた。

 命のあるものは尽き、終焉がもたらされる。そして再び災厄が杖を突きたてて、地を揺らす。

 

「我が主、ミーシャの望みのままに……ここより世界へ繁栄を」

 

 静かに紡がれる言葉と共に、草花が芽吹き始めた。荒れ果てた大地は一瞬にして色を変え、一面の紅が広がってゆく。咲き乱れるその花は、あの時に見たバラだった。

 指に着いた果汁をぺろりと舐めとって、ミーシャが災厄に呼びかける。

 

「災厄さん、ありがとー! ローザさんもバラが好きだって言ってたし、完璧だね!」

「…………」

 

 満面の笑みを浮かべるミーシャとは反対に、災厄は口をつぐんだまま咲き誇るバラを見つめていた。その様子に気づいていないミーシャは、とたたた、とジオラとソフィーに駆け寄って問いかける。

 

「こんな感じ! どう? これでいい?」

「うんうん、すっごくいい感じ! さすが黒魔女さまだね!」

「……しょーじき、みなおした」

「ふふふ、そうでしょそうでしょ! もっと褒めてもいいわよ!」

 

 と、胸を張っているミーシャの肩をウイスティが叩く。

 

「ん? どしたのウイスティさん」

「……あんたの眷属、さっきからなんか変だよ? ずっと自分の咲かせたやつ見つめてるけど」

「あれ? ほんとだ。どうしたんだろ?」

 

 ようやく災厄の異変に気付いたミーシャが、遠くで佇んだままの災厄へと叫んだ。

 

「災厄さん、どうしたのー? どっか調子わるいのー?」

「この、薔薇は……この穢れた魔力は、あの紅の魔女……!」

「え? なんて?」

 

 しゅるしゅる、と災厄を形作る蔦が蠢き始める。手に持った杖を地面に打ち付けて、災厄はミーシャの方へと振り向き、その背後で喜んでいるジオラとソフィーへ杖を向けた。

 

「さ、災厄さん? 何して――」

「災厄の化身としてこの地に命ず! 生ある者よ、その命に終焉を!」

 

 終焉の奔流が、杖の先から迸る。全てを呑みこむような深淵の槍がジオラとソフィーに向けられて、その命を果てさせようと切っ先が風を切る。終焉の権化による審判が、二人の魔女へと下る。

 迫り来る絶望に最初に気が付いたのはソフィーだった。目の前を包み込む暗黒に、思わずソフィーは叫び声を上げる。それに気づいたジオラが目にしたのは、視界を埋め尽くす槍と、その間に飛び込んできた黒い三角帽子だった。

 

「あっぶ……ふ、ぬ、んぎぎぎぎぎぎぎぎっ!! うおりゃあ!」

 

 手にした杖を両手で支えながら、ミーシャが災厄の槍を防ぐ。そして一気に力を籠めると、黒い槍は天に向かって突き進み、真上に広がる雲を霧散させた。無残に散り散りになった雲の下で、ミーシャが声を荒げる。

 

「災厄さん、なにしてるの!」

「……何故だ……! ミーシャよ、どうしてそなたは私の邪魔をしてくれる!?」

 

 体に纏う木々を軋ませながら、災厄は叫ぶ。木々を揺るがすようなその重たい声に臆することもなく、ミーシャは災厄に言い返す。

 

「どうしてもああしてない! 私の友達にいきなりなんてことするのよ!」

「し、かし……ミーシャよ、そなたは何も知らないのか……?」

「知らない知らない知らなーいっ! もう! 災厄さんもりっくんと同じなの!?」

「違う……私は……」

 

 向けた杖はふらふらと宙を彷徨い、災厄は困り果てた声を上げる。しかし全て悟ったように災厄は一瞬だけ押し黙ると、改めてミーシャへと向けて言った。

 

「すまない……ミーシャよ、私は……愚かだった……」

「もういいから落ち着いて下がって! 次からそんなことしちゃダメだからね!」

 

 と、ミーシャが杖を叩くと災厄の真下の魔法陣が光を放つ。まるで泥に沈むかのようにして災厄の体は魔法陣に吸い込まれてゆき、その体を構成する古く腐りきった樹木がぼろぼろと零れ落ちていく。

 崩れゆく体を見つめながら、災厄が最後にミーシャへ呟く。

 

「ミーシャ……私は、そなたの……味方、だ……」

 

 消えゆく声がミーシャに届いたのかは分からない。けれどミーシャは少しだけ思い悩むように消える魔法陣を見つめた後、後ろでうずくまったままのジオラとソフィーの元へと駆け付けた。

 

「二人とも、大丈夫だった?」

「だ、大丈夫だったけど……」

「……な、にあれ。急に、わたしたち……」

 

 恐怖と困惑に包まれながら、ジオラとソフィーは化物を使役しているミーシャへと怯えた視線を向ける。けれどミーシャはその震える瞳を物ともせず、ジオラとソフィーの顔をぺちぺちと触りながら安堵の息を吐いた。

 

「とりあえず大丈夫みたいだね……ケガなくてよかったね」

「……ミーシャちゃん、今のは?」

「わかんない。けど、災厄さんがあんなに怒ってるの初めて見たかも……」

 

 首を傾げながら答えるミーシャに、ウイスティがふと思考に耽る。考えてみれば、午前中のフェンリルもそんな様子をしていた気がする。ミーシャの意志を無視して、あの風の眷属は何かを求めるようにして一目散に街の中を駆けていた。

 今の森の眷属だってそうだ。ミーシャの意志を無視し、ジオラとソフィーを目の敵のようにして攻撃を向けていた。眷属ならば黒魔法を使役する主人に逆らう筈がないが、今のこの光景を見てウイスティはそれすらも信じられなくなっていた。

 

「ごめんね、災厄さんはあとできっちり叱っておくから! けどこれで裏庭の掃除は終わりでしょ?」

「うん、ありがと! それじゃあ御夕飯の準備するよ!」

「……今日は、とりにく」

「鶏肉! 私から揚げがいなー!」

 

 少女たちの声がどこか遠くに聞こえる。ウイスティの思考だけがその場で渦巻いていた。

 自らの主人を構うことなく駆け抜けて、その友人を危機にさらしてまで彼らが求めているものは何か。何も知らないウイスティにはその疑問を浮かべることしかできなかった。それを知るには、ミーシャという人間の深い所に行かなければならないような気がした。

 

「そういえばアイリスとローザさんは? 二人ともいないよね?」

「あ、ほんとだ。でももう終わっちゃったから、もしかしたらお屋敷に戻ってるかも!」

「……ししょーが掃除すると、いつもボヤになるから……ミーシャさまがいてくれて、たすかった」

「そうなんだ。ま、これくらい黒魔女の私にかかればこんなもんよ! すごいでしょ!」

 

 ただ一つ確かなのは、彼らが口にしていたその言葉。

 

「紅の魔女……」

 

 誰に聞こえるでもなく、ウイスティがそう呟いた。

 

 

 

 

 

「これがあなたを孤独に落とした者の正体です。漆黒、深淵、絶望の権化。私はあなたをあの黒に染まった魔女から救い出して見せましょう。だから――もう一人で全てを背負い込むのは止めてください」

 

 

 

 



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『追究』

 

「おさけ?」

「はい」

 

 次々と運ばれてくる郷土料理に目を輝かせながら、それをハムスターのように口につめ込んでいるミーシャへ、ローザがふと声をかけた。同じくもそもそと白身魚のスープを口に運んでいるウイスティがそれに気づいて、ローザに声をかける。

 

「いやアウトでしょ」

「むっ! 誰がアウトよ! これでも私はお酒飲めるんだから!」

「ダメです。これは大人の悪い飲み物なんだから」

 

 明らかに身長も体重も知識も風貌も胸も雰囲気も何もかもが足りていないミーシャが、ウイスティにむすっとした顔を向ける。いつもなら彼女の見栄を張った戯言として流せるが、今回ばかりはそうはいかない。ウイスティは腐っても大人の女性なのだ。正しく子供を導かなければいけない。

 

「ローザさんも。いくらお客さんだからって、子供にお酒進めちゃダメでしょ」

「あ、あら……?」

 

 なんて普段は見せないような正義感を見せるウイスティに、アイリスが不思議そうに首を傾げて言う。

 

「何言ってるのウイスティ。ミーシャちゃんは私と同い年よ?」

「あ、アイリスこそ何言ってるのさ。もしかしてもう酔ってるの?」

「ええと……アウイスティ様がアイリスのご同輩でしたら、おそらくミーシャ様もウイスティ様と年は同じはずですが……」

 

 その言葉にウイスティが驚いたように斜め前、アイリスの隣のミーシャへと視線を向ける。そこには明らかに十と五にすら届いていないような黒魔女が、同じような年頃の銀髪少女二人と一緒に酒瓶を囲んでいるのが見えた。

 

「ジオラ―、このお酒なにー?」

「えと、ぶどう……しゅ? よくわかんないけどワインみたい!」

「……ミーシャさま、そそいであげる」

「ありがとソフィー! ん~、いい匂い! 最近飲んでなかったからたまんないわ!」

 

 グラスに注がれていく艶やかな紫色に、ミーシャが思わず目を細める。これだけ見ればただのぶどうジュースをイキって呑んでいるような少女にしか見えないが、辺りに漂う高級な香りがそれをかき消した。そこにいるのは、明らかに酒を喜んで飲まんとしている幼女だった。

 

「こ、これ大丈夫なの……?」

「大丈夫って言ってるじゃない。ソフィーちゃん、私にもくれるかしら?」

「……ん、わかった」

 

 とてとて、とソフィーがワインを持ってアイリスの隣へと立つ。そしてミーシャにしたのと同じようにアイリスのグラスへワインを注ぐと、そのまま流れるようにしてウイスティの方へと視線を投げる。

 

「ウイスティ様も、いる……?」

「いや、あたしはお酒ダメだからいい……」

 

 そもそもこんな幼い少女に酌を刺せている時点で色々とおかしいが、目の前の黒魔女を見るとそれがものすごく小さい事に思えた。風邪の時に見る夢の様にとてつもない違和感がウイスティを襲う。

 いつのまにかローザの手にもグラスが握られており、それを確認したミーシャが耐えられなくなったようにしてグラスを掲げる。

 

「かんぱーいっ! んぐ、んぐ……」

「あら一気飲み」

「素晴らしいですね。さ、アイリス。私たちも頂きましょう」

「おかしい……おかしくない?」

 

 ついに突っ込みが追い付かなくなったウイスティは、明らかに歪な絵面に何も関与しないアイリスたちへそんな言葉を投げた。しかし当の本人たちはどこ吹く風。まるで同じようなタイミングでグラスを煽り、同時に唇を離す。

 

「あら美味しい。ちょっと甘いのね」

「ふふふ、そうでしょう? 今年のは少し面白いんです」

 

 酒に弱いウイスティは、彼女らの会話に訝しげな視線を向けることしかできなかった。酒が甘いというのはどういう事だろうか。少なくともあのアルコールの香りと、飲んだ後の浮遊感に慣れていないウイスティは、どうにかしてそんなことを考え続けていた。

 なんだか聞こえてくるのは、ものすごいペースで繰り返される喉の音と、度々聞こえてくる下品な笑い声。視界の端ではジオラとソフィーがわたわたと慌てる様子がちらついており、何やら大変そうな様子が伺えた。

 が、ウイスティには全く関係のないことである。私は知らん。知らないったら知らない。しるもんか。

 

 ちらりと現実に視線を向ける。

 

「だぁっはっはっは! 美味しいわねコレ! ほらほらソフィーちゃーん! もう一本ちょーだいっ!」

「み、ミーシャさま、もう一瓶あけたの……? あんまりのみすぎると……」

「あによー黒魔女のわたしに文句あんの? しゅひんよ! しゅひん! いいからもっと呑ませなさいよ!」

「はーいはーいミーシャ様ー! もう一本持ってきたよー! ほら!」

「んぁ? 今度はジオラちゃんがついでくれるのー? えへへー、ありがとー! いいこいいこー」

「……ソフィー、今のうちに追加で二本くらい持ってきといて。ミーシャ様の相手は私がするから」

「ねえちゃ……まかせた」

 

 飲み干した空瓶をぷらぷらと振り回しながら、ミーシャが注がれたグラスをジュースを飲むかのようにくぃ、と煽る。そこには子供らしさも品性もなく、唯一つ残るのは、どうしてアイリスがゴーサインを出したのかという疑問だけであった。

 目の前に広がっている惨状にウイスティが疑問符を五つくらい並べながら、助けを求めるようにしてアイリスの方へと視線を投げる。

 

「あらあら、ミーシャちゃんがご機嫌そうで何よりだわ」

「ええ、そうですね。あんなに喜んでもらえて何よりです」

「びゃァーっはっはっはっは! んぐ、んぐ、あーヴめえ! やっぱりお酒さいこー! フゥー!」

 

 地獄である。これだからウイスティは酒が好きになれなかった。

 

「でもそろそろミーシャちゃんが吐きそうだわ。私、ちょっと見てくるわね」

「ついにゲロのタイミングまで理解するようになったの?」

「ええ。だって友達ですもの」

 

 関係ないと思う。ウイスティはほんのりと?を赤らめるアイリスに訝しげな視線を向けた。

 そんなことはつゆ知らず、椅子の上で短い手足をぶんぶん振っているミーシャにアイリスが優しく声をかける。

 

「ミーシャちゃん、私すこし酔っちゃったみたい。よかったら一緒に外で涼まない?」

「むー? でもわらひ、まらぜんじぇん飲み足りないろ……」

「お願い、ね?」

「もぉ、しょうがないわねえ……仕方ないからついてってあげるわ!」

 

 ぴょこん、と椅子を飛び降りたものの、ミーシャはふらふらとおぼつかない足取りでアイリスの方へと歩いて行く。そんな彼女の体をぽす、と受け止めながら、アイリスは申し訳なさそうな顔でウイスティの方へと頭を下げた。

 

「それじゃあ、私たちは少し涼んでくるわ。あとは二人で、ね?」

 

 ぱたん、と扉が閉められて、大きな食堂に残ったのはローザとウイスティの二人だけ。ジオラとソフィーはすでに隙を見つけてキッチンの方へと退散しているらしく、先ほどの喧騒はとうの昔のようにも思えた。

 

「えと、そうですね……ウイスティ様、他に何か御用はありますでしょうか? よろしければデザートなどでも」

「あー、うん。そこまではいいよ。なんだか、疲れちゃって」

「そうですか? ですが……いけませんね、どうにも何かしないと落ち着かなくて」

「そんなに気を使わなくてもいいよ。でもそうだね、少しローザさんとお話がしたいな」

「話、ですか?」

 

 思いがけぬウイスティの提案に、ローザが目を見張る。その彼女の瞳には、まさに震えるような、一歩先の崖に踏み出しそうなウイスティの姿が映っていた。

 

 (ただ)、ウイスティは(きわ)めるものであった。

 

 知りたいという欲求は万人に等しく存在する。ウイスティはただそれに従い、しかしながらそれに対して過剰なまでに貪欲だった。それこそ、まだ公に誰も手を出したことがない黒魔法を、自ら主任として研究するほどに、その欲望は大きいものだった。

 全てを悟り、全てを見極め、全てを識る。ただその欲のままにウイスティは生き、その人生を捧げてきた。ウイスティという人間が歩む道は、それ以外にないようにも思えた。

 

 故にウイスティリアという人間は追い求める。

 

「あんた、何を隠してるんだ?」

 

 眼前のローザの目が見開かれる。わずかに見えた驚愕の色を、ウイスティは見逃さなかった。

 

「私の悪い癖でね。昔っから妙にカンがいいんだ。といっても所詮はカンだから必ずしも当たる、というわけじゃないけど」

「…………」

「あんたの様子を見るに、それも違うみたいだね。それじゃあ、話をしようか。紅の魔女さん」

「どうぞ。聴きましょう」

 

 ローザとウイスティの視線が交錯する。かくして、対話は始められた。

 

「まず一つ。ミーシャの眷属たちが、あんたの事を言ってた。紅の魔女、って恨めしそうにね。おそらくあんたはあの眷属たち――というよりは、ミーシャに『何か』をしたんだろう。そうじゃなきゃ、ミーシャの配下である眷属がいきなりジオラやソフィーを襲う訳がない」

「あら。アレにも物を覚えられるほどの脳はありましたか」

「……けど当の本人はそれを知らないどころか、眷属たちを止めるようにしていた。つまり、眷属は覚えているけどミーシャ本人は記憶が無いんだ。いや、記憶を奪われているのかな。そこのあたりはまだ分からないけれど」

「つまり、私がミーシャ様の記憶を消した、と言いたいのですか?」

「そう言いたいんだけど、それも違う。あんたがしたのはもっと別のことだと思う」

 

 存外に動く口とは裏腹に、机の下の手は小さく震える。ローザの視線が自らの胸を穿つ杭のように感じられ、ウイスティは高鳴る心臓を何とか抑えながら続けた。

 

「二つ。彼女はフリティラリアの事を知らなかった。確かさっき、ミーシャは私と同い年って言っていたけど、それならなおさらフリティラリアの事を知らないのはおかしいはずだ。あんなものを見て忘れられる人間は、絶対にいない。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()だぞ? それを知らないわけないだろ」

「だから、記憶を奪われていると仮定したのですね」

「ああ、そうだ。でもこれはあんたのした事じゃない。というよりも、あんたは別に何もおかしいことはしていないんだ。だってあんたがミーシャの記憶を消したなら、わざわざ彼女を此処に呼ぶ必要なんてないだろ? だからミーシャの記憶を消したのはあんたじゃない」

「つまり、私の他にミーシャの記憶を消した人物がいる、と」

「そういうこと。けれど私の一番の疑問は、どうしてミーシャからフリティラリアの記憶を奪う必要があったのか、ってことだな。記憶を消す、ってことは憶えてほしくないことがあるんだろ?つまり、だ。ミーシャとフリティラリアには何等かの関係性がある。違う?」

「……些か、推理と言う割には飛躍しすぎですが」

「でもいいセンはいってるでしょ?」

 

 にやり、と口元に笑みを浮かべながら、ウイスティがローザへ勘ぐるような視線を向ける。対する紅の魔女はうっすらとした笑みを張り付けたまま、ウイスティの独白へただ耳を傾けた。

 

「今わかってることは、ミーシャはフリティラリアと何らかの関係を持っていて、その時の記憶を誰かに消されている。で、それとは別にローザさん。あんたはミーシャの眷属に恨まれるような事をしていて、それに関する記憶をミーシャは持っていない、ってわけ」

「まあ、私がとてつもなく怪しい人物に見えてきますね」

「でも実際、あんたは何もしてない訳だ。さっき言った通り、ミーシャを呼び戻す理由がないからね。けれどあんたはそれに関する何かを知っている。違うか?」

 

 嫌味そうに言うウイスティを、ローザが睨む。その表情からは余裕が消えており、ウイスティはそんなローザへにやにやと意地の悪そうな笑みを向けていた。

 

「ただの人間かと思っていましたが、中々に勘のいいようで」

「悪いね。でも私はあんたを責めるつもりはないし、あんたに口封じされる気も持っちゃいない。私が欲しいのはただの答えだ。あの黒い花の、真実が知りたいだけ」

「ですが、あなたはもう既に見つけているのでは?」

「……見つけている?」

「ええ。あなた自身も分かっている筈です」

 

 目を伏せるローザに、ウイスティが言葉を重ねる。その瞳には確かな意志が宿っていた。渇望とも、期待とも取れるような、ぎらぎらとした眼。その視線はただただローザの口元へと向けられている。

 そうして彼女は、一つの答えに――。

 

「あなたは、フリティラもぐもがもげもごむがままむ」

「は?」

 

 辿り着こうとした瞬間、その口を細い指が遮った。 

 

「ふごも!? ごがもごもごご」

「あらローザ、面白そうな話をしているのね」

「むぐー!? もがが? もごがももごごご!」

 

 突然現れたアイリスがローザの真後ろへ立ち、その顔を手のひらでふさぐ。割とその力は強いらしく、ローザは椅子の上でじたばたと暴れた後に、ようやく肩で息をしながらアイリスの束縛から抜け出した。

 

「あ、アイリス? なにしてんの?」

「いえ、少し驚かそうと思って。どうかしら?」

「そりゃ驚いたけど……タイミングってもんがあるでしょ!」

「ええそうですよアイリス。あなたらしくない」

「そうだった? ごめんなさいね……」

 

 どうしてか不満そうに口を尖らせるウイスティに、アイリスがしゅんと頭を下げる。口元を軽く拭いながら、ローザは改まってアイリスへ目を向けた。

 

「えと、それでアイリス、どうしましたか?」

「ミーシャちゃんが吐きそうになったから手ごろな入れ物を取りに来たの。どこかにない?」

「それでしたら、ジオラとソフィーに持って行かせましょう」

「そう? ありがと。じゃあウイスティも手伝ってくれる?」

「え? いや、私まだ話終わってない……って、待ってよアイリス! まだ聴きたい事あるの!」

「明日にでも聞けるでしょう? 今は一刻を争うのよ」

「ではここらでお開きに致しましょうか」

「えぇー! ちょ、ちょっとー!」

 

 アイリスに手を引かれ、ウイスティが強引に椅子から立ち上がる。やけに強いアイリスの手に日ごろから運動をしないウイスティは抗えることが出来ず、助けを求めるようにローザに目を向けるも、そこにいたのは優しそうに手を振るローザのみであった。

 

「では今宵はここまで。ゆっくり休んでくださいね」

「えー待ってよ! さっきの続きは!?」

「それもまた明日、ということで。よろしいですね、アイリス」

「……ええ」

 

 後ろからかかる声に、アイリスは振り向かずに応える。

 ――最後に見えたのは、ローザの吊り上がるような笑みだった。

 

 

「ほンっぬろろろっろろぼろろろ! おげぼろろろろろんっぬろろろぼろろ!」

 

 テラスに水音が響く。月明かりの下で、ミーシャはゲロを吐いていた。

 ゲボ袋の中をびしゃびしゃ満たしていく吐しゃ物へウイスティが心底嫌そうな視線を向けながら、黒魔女の小さな背中を摩る。本当にどうしてアイリスはミーシャへゴーサインを出したのだろうか。ただただ純粋な疑問がウイスティの頭を埋め尽くしていた。

 

「ほらミーシャちゃん、まだ袋はいっぱいあるから。遠慮なく吐いてね?」

「うぼろろっぬろろぼろんぼ! おげれぼろろるぼろばばべべ!」

「ねえこれ大丈夫? 死なない?」

 

 割と高ペースで溜まっていくゲロに対し、ウイスティが口にした発言だった。ミーシャが独り入りそうな袋は既に、半分が吐しゃ物で埋まっている。もしかするとこのまま胃とか腸とかが出てくるんじゃないか、というくらいの勢いであった。

 袋の中に突っ込んだ頭を振り上げて、ミーシャが肩で息を吐く。

 

「やだ……まだ飲める……」

「いや無理でしょ」

 

 ほんのり顔が赤くなったミーシャに、ウイスティが間をおかず口をはさむ。既にアウトを通り越しているその状況にも関わらず、アイリスはやけに落ち着いた様子でミーシャに語り掛けた。

 

「大丈夫よミーシャちゃん。明日は夜会だもの。今日よりいっぱい飲めるわ」

「ほんと? じゃあもう寝ようかな……」

「ベッドには運んであげるわ。だからゆっくり眠りなさいね」

「んー……わかっ、た……」

 

 と、口の端にゲロを残したままミーシャがアイリスの方へと体を傾ける。しばらくするとすぐに規則的な息遣いが聞こえてきて、アイリスはそれを確認するとミーシャの小さな体をやさしく持ち上げた。

 腕の中で眠るミーシャに少しだけ視線を落とし、アイリスがウイスティの方へと視線を向ける。

 

「さ、ウイスティも寝ましょう。明日も早いことだし」

「…………」

「ウイスティ? どうかしたの?」

 

 不思議そうに顔を覗き込むアイリスに、ウイスティが静かに振り返る。その表情はどこか沈んでいて、瞳には微かな失望の色が映っていた。そうしてその虚ろのな眼のまま、ウイスティは口を開く。

 

「なんでもないよ。少しだけ考え事してただけ」

「そう? それならいいのだけど……」

「ああ、そう。考え事だよ。そうだ。これは只の妄想なんだから……そう、大丈夫」

「……ウイスティ」

 

 苦渋するように顔を抑えるウイスティに、アイリスが優しく語り掛ける。けれどその声をかき消すように、ウイスティは叫び散らした。

 

「ローザは過去に何をした!? 彼女の記憶を消したのは!? あんたらは一体何を隠してるんだ!? フリティラリアは何なんだ!? そいつは――ミーシャは何者なんだ!? 誰か教えてくれよ! なあ! アイリス!」

「…………」

「なあ、アイリスも知ってるんだろ? 教えてくれよ、私に! 本当のことを! なんであそこでローザを遮った? なんでアイリスはこの夜会に招かれた!? どうしてあんたはそいつと知り合った!? お前は何者なんだ!?」

 

 慟哭と渇望。欲に塗れた醜い人間は、宵闇に叫ぶ。

 

「分からないよ……なんで私は此処に居る? なんで、私は……知りたいと、思って――」

「ウイスティ、落ち着いて」

 

 縋るように蹲るウイスティの独白を、アイリスが受け止める。それはまるで手を差し伸べる聖母のようで、こちらに引きずり込もうとする魔女のようでもあった。

 結構重いし邪魔だったのでそこら辺に置かれたミーシャがすうすうと寝息を立てる中、アイリスがウイスティへと言葉をかける。

 

「ごめんなさいね。でも、明日全て終わらせてしまうから」

「終わらせる?」

「ええ。あなたの答えも見つかるわ。だから、もう――嫌なことは、忘れてしまいましょう?」

「わす、れ…………?」

 

 抱きしめられた腕の中、ウイスティはうつらうつらと瞼を閉じる。急激に襲い掛かる眠気の中、最後に聞こえたのはアイリスの囁くような声だった。

 

「全てを光へ。夢幻へ。純白のように、消してしまいましょう」

 

■ 

 



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『追懐の果て』

 

 窓から差し込む西日に照らされて、ウイスティが目を覚ます。

 まずはじめに見えたのは、鮮血のように紅に染まった天井だった。痛む頭を押さえながら体を起こすと、かけられていた上質な毛布がはらりと落ちる。その下にはよれよれになったいつもの白衣が見えて、ぼさぼさに垂れ下がった前髪を片手でかき上げながら、ウイスティはおぼろげな頭を動かそうと試みた。

 

「……あ?」

 

 思い出されるのは、透き通るような空白。まるで誰かから抜き取られたように、ウイスティの脳内は虚無に埋め尽くされていた。かろうじて思い出せるのは、ぼんやりとしたアイリスとローザの姿。何かを語らっている紅の魔女の顔には、吊り上がるような笑みが貼り付けられていた。

 そして、頭の奥底から響くような痛みがウイスティを襲う。

 

「あらウイスティ、ようやく起きたのね」

 

 そんな声とともに、白の魔女がウイスティの前へと姿を現した。ずきずきと重たい鐘を鳴らしている頭を動かして、ウイスティがアイリスへ問いかける。

 

「……わ、私、何して……?」

「あら、忘れちゃったの? 昨日の夜から今まで、あなたずっと眠っていたのよ」

「昨日の夜……?」

「ええ。ほら、窓見てごらんなさい」

 

 そうしてウイスティが向いた視線の先には、今にも沈まんとしている太陽があった。寝起きに夕日を見るという珍しい体験をした彼女に、アイリスが呆れたように声をかける。

 

「あなた、いつも研究所に閉じこもってるからそうなるの。心配したのよ?」

「あー……ごめん?」

「はい。でも体調はだいぶ良いみたいね。これなら夜会にもすぐに出られるわ」

 

 まったくもう、と肩をすくめているアイリスを、ウイスティはただ見つめることしかできなかった。昨日の夜も何も、それに関する記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。頭の中を支配する奇妙な虚無に、ウイスティは背中をなぞられるような恐怖感を覚えた。

 自らを認識するように、ウイスティは自らの手のひらへと視線を落とす。かさかさになった手のひらには何もなく、ただ自分の意思に従って指が動いている。今の彼女は、その当たり前の事にすら奇妙な感触を覚えていた。

 

 その空虚な手を、純白の手が包み込む。

 

「ウイスティ」

「……あい、りす?」

「あなたは大丈夫。何も心配はいらないわ。これはその……私の、ことなのだから」

 

 首元へと回された腕に、ウイスティが手を寄せる。

 

「全て私に任せて。あなたの謎も、ミーシャちゃんのことも、全て教えてあげる」

「あ、ん? それって、どういう……」

「すぐにわかるわ。ええ、賢いあなたなら、すぐに……だから、私に全てを……」

 

「ーーアイリス?」

「へっ?」

 

 唐突に聞こえて来たその声に、アイリスが素っ頓狂な声を上げた。そしてそんな彼女の退路を塞ぐように、ドアを閉める音が小さく響く。

 果たして、アイリスの視線の先にいるのは信じられないものを見て立ちすくんでいるミーシャだった。どうやら身支度もほとんど済ませたらしく、袖を通しているのはいつものローブではなく、多くのリボンで飾り付けた漆黒のドレス。長めのスカートから見える足は、苛立ちをおさえるように一定のリズムを刻んでいる。

 

「なにしてるの」

「あ、ぇ、んと、ええと、ミーシャちゃん、もう準備は終わっ」

「なにしてるの」

「それは、そうね、ウイスティがいつまで立っても起きないから。少し心配になっちゃって」

「なんか距離近くない?」

「そ、そうかしら? でもほら、髪の毛が崩れてるし直さな」

「…………ふんっ」

 

 わたわたという擬音が聞こえるほどに狼狽するアイリスに、ミーシャはぷい、と頰を膨らませる。

 

「……ばか」

「おあぁぁぁっ……!?」

 

 長年付き合っているウイスティが初めて聞く、アイリスの野太い絶句だった。そのままアイリスは地面へと崩れ落ちてゆき、そんな彼女へミーシャは侮蔑の視線すら向けずにウイスティへと口を開く。

 

「ウイスティさん、用意できたら下で集合ね。そろそろ夜会も始まるから」

「ん、わかった。すぐに向かう」

「あんまり時間ないし、そこのアイリスも連れて早く来てね?」

 

 少し心配するような声色で、ミーシャが閉めたドアへと手をかける。そして部屋から出ようとした時、ふともう一度だけウイスティの元へと振り向いて、思いつめるようにその唇を動かした。

 

「あ、あと! ウイスティさん!」

「……どした?」

「わ……わたしだってアイリスの友達だもん! だから……あんまり独り占めしないでよねっ!」

 

 ばたん! と力強くドアが閉められて、その向こうの足音が遠ざかる。いきなり惚気に巻き込まれたウイスティはしばらく呆然とドアを見つめていたが、ふと聞こえてくるうめき声に視線を地面へと動かした。

 

「違うの……違うのよ、ミーシャちゃん……そんなつもりじゃ……」

「おーい、戻ってこーい」

「あいたっ」

 

 先ほどの怪しげな雰囲気はどこへ行ってしまったのか、床に寝そべってぶつぶつと呟くアイリスにウイスティがげし、と蹴りを入れる。そうしてようやくベッドの上から這い出ると、凝りの固まった肩をこきこきと鳴らして、夕日を前にうん、と一つ伸びを済ませた。

 

「と、とりあえずウイスティ、早く用意済ませて降りて来なさい。私はミーシャちゃんに謝り倒してくるから……」

「ほいほい。ま、頑張りなよ」

「ええ…… そうね……」

 

 ふらふらとした足取りで部屋を去るアイリスを横目に、ウイスティが洗面台へと足を踏み入れる。ぼんやり目に映るのは、鏡に反射する自分の姿だった。白衣の内のポケットに入れたままの眼鏡をかけると、やつれたような表情が目に飛び込んでくる。

 いつまで経っても変わらない。目の下のクマも、伸ばしっぱなしの癖っ毛も、猫背になったまま固まった姿勢も、なにもあの時から変わらない。もし変わるとすれば、それは今日なのだろう。探す人から、知る人へ。それだけしか、ウイスティは変わることができないようだった。

 

「……ああ、そうだ。長かった。まったく、どれだけ待たせるんだ……でも、これで、ようやく」

 

 自らを律するように、ウイスティがひとりごちる。

 

「ようやく、辿り着いた」

 

 その口元は、これ以上にないほどの笑みが浮かんでいた。

 

 

「ねえ、ミーシャちゃん」

「なに」

「その、あれは違うのよ? ただウイスティが心配だっただけで」

「へー」

「ちょっと顔でも覗こうかな、って思ったらミーシャちゃんが来て」

「ふーん」

「だから別に他意はないのよ。ほんとよ?」

「ほーん」

「ミーシャちゃん……!」

 

 目の前をすたすたと歩いていくミーシャに、アイリスが崩れ落ちる。どうやら今だに許してもらっていないらしく、前を行くミーシャはぷんすか怒りながら北館へと続く渡り廊下を進んで行った。足元でうずくまっているアイリスの背中を撫でながら、ウイスティが声をかける。

 

「仕方ないって。ミーシャちゃんも時間が経てば許してくれるよ」

「でも……でもぅ……!」

「それに、今は夜会に集中した方がいいんじゃない? 私にはあんまりわかんないけど、あんた(魔女)達にとっちゃ夜会ってのは特別なもんじゃなかったの?」

「……そうね。それもそうだったわ」

 

 ウイスティの言葉に、アイリスの顔つきがすぅ、と変わる。まるで感情を押し込んだようにその瞳は冷たく、別人のように落ち着きを取り戻した白の魔女の変わりように、ウイスティは感じたことのない不信感を覚えた。

 呆気にとられているウイスティに、アイリスが少しだけ目を伏せて返す。

 

「ごめんなさいね、取り乱してしまって。それじゃ、行きましょう」

「……ああ」

 

 かくして、たどり着いたのは二人の背をゆうに越すような大きな扉だった。遠目からでもわかるその異質な大きさにウイスティは驚いたままだったが、アイリスはさほど興味を示さず、扉の前でこちらを睨んでいるミーシャの方へと一直線で歩いて行った。

 よく見るとジオラとソフィーの二人も揃っているようで、ウイスティがアイリスの後を追うと、待ちくたびれたようにジオラが口を動かす。

 

「よし、三人揃ったね! 時間ギリギリ!」

「……ごちそう、いっぱいよういしたから」

「ふふ、ついにこの時が来たのね! 今から楽しみだわ! なんたって主賓だもの! ね!」

「はいはい、そうですねーしゅひんしゅひん」

 

 むふー、と胸を張るミーシャには面倒臭そうにジオラが返す。どうやら彼女達もそうとうミーシャの扱いがわかって来たらしく、当の本人はそんなことつゆも知らずに一人優越感に浸っていた。

 

「それじゃあ、時間になったから開場しまーす。はい、ミーシャ様たち一番のりー!」

「のりー」

「いええええええいっ!!!」

 

 喉から声を張り上げて、ミーシャがその扉をくぐる。そして視界に飛び込んでくるのは、輝かしく装飾された大きなステージと、テーブルに盛り付けられた数多の豪華な料理。目に映るその光景にミーシャは目を輝かせながら、飛び跳ねる勢いで一番大きな中心の円卓へと駆け寄った。

 テーブルの上のまっさらなお皿と、銀のフォークを手にとって、ミーシャが盛り付けられた食材へと手を伸ばす。そこにはただの欲望だけが存在していた。今のミーシャは獣すら凌駕するような欲望に支配され、その食指を動かしていた。パスタがうまい。

 

「ごきげんよう、ミーシャ様」

 

 そんな声がステージの方から聞こえて来て、ミーシャはフォークをくるくると回しながらそちらの方へと視線を向ける。そこに立っていたのは、紅色の華美なドレスに身を包んだローザであった。いつもよりもその紅は輝かしく目に映り、それに思い出されるようにしてミーシャが言葉を漏らす。

 

「もーまふぁん、もまもふみまみた?」

「…………は? ええと、うん?」

「ミーシャちゃん、口の中」

 

 もぐもぐ、ごくん。

 

「あれ? ローザさん? 他の人たちは?」

「ああ、それでしたら心配はいりません。すぐに到着いたしますので、お構いなく」

 

 にっこりと笑うローザには、少しだけ曖昧な暗さが見えた。

 

「けれどまだ時間がかかりそうですね。では一つ、お話でもどうですか?」

「お話?」

「ええ。とても短くて、それでとても懐かしいお話を、ひとつ」

 

 

 

 

「昔々、あるお屋敷に一人の娘がおりました」

 

 何かを懐かしむように遠くを見つめ、薄い唇が開かれる。

 

「大きな屋敷の領主とその使用人の間に生まれたその娘に、味方はおりませんでした。いつも一人だったその娘は、誰かの温もりに飢えていたのです。温もりに飢えて、飢えて、そして彼女は天に縋りました。誰でも良い。見てくれるだけでもいい。どんな形でもいいから、他人の温もりを感じられるように、と。十と四歳のその娘は、願い続けていたのです。

 けれど、それが果たされることは長らくありませんでした。周りの人間は彼女を忌み子のように扱い、父親も彼女のことを良しとはしません。母も屋敷を追い出されて離れ離れになってしまい、娘はひとりぼっちになってしまいました」

 

 一つ一つ紡がれるその言葉を、何も知らないミーシャはただ受け止める。

 

「けれど、娘には利用価値がありました。その体も、流れる血統も、秘める魔力も、父親にとってはただの道具に過ぎません。娘は時に交渉材料として、時にただ欲望を満たすだけのものとして、その体と血を余すことなく使われました。何も知らない娘は、それをただ受け入れることしかできませんでした。怯えることも、逃げることも許されず、ただ物のようにして扱われることを、受け入れるしかありませんでした」

 

 そして少しだけ目を伏せて、ローザが言い放った。

 

「その娘の名前は、アイリスと言いました」

 

 ばたん、と。

 大きな扉が閉まる音がした。

 

「アイ……リス?」

「…………」

 

 信じられないものを見るようにして、ミーシャがアイリスの顔を恐る恐る覗き込む。けれどアイリスは黙したまま何も答えることはない。静寂による肯定がミーシャの背筋を凍らせて、震える視線は問いかけるように、ローザへと投げられた。

 そんな彼女を遮るように、追懐が続く。

 

「ある日、とある黄色の花畑で、アイリスは一人の少女と出会いました」

 

 その言葉に、ミーシャの脳裏で淡い光景が描かれる。地平線まで続く黄色の花々に、頬を撫でる優しい風。そしてそこに立っているのは、白魔女と呼ばれたひとだった。

 

「少女には親がいませんでした。産まれた時から一人ぼっちで、誰からも手を伸ばされることもない。孤独に包まれたその少女は、まるでアイリスにそっくりでした。二人はまるで惹かれ合うように邂逅を果たし、そうして彼女はアイリスへと問いかけました」

 

 震える手が、縋るように金の髪を梳く。まるで脳の中を掻きまわされるような得体の知れない感覚に、ミーシャは頭を掻き続けた。何度も何度も、そのある筈の記憶を探し続けた。

 

「私の、友達になってくれる? ――そう、彼女は告げました」

 

 黄色い花が揺れる。ミーシャの頭のどこかで、アイリスが嬉しそうに笑っていた。

 

「二人はずっと同じ時を過ごしました。見たこともない魔法に目を輝かせたり、小さなお茶会を開いて楽しくお話しをしたりする、そんなごく普通のことですら、二人にとってはこの上なく大切なものなのでした。

 二人が集まる時は、決まってその花畑でした。黄色い花畑に包まれているうちは、二人は幸せに満たされていたのです。優しさと温もりを初めて感じながら、二人はこれが永遠に続けばいいと、そう思っていました」

 

 白い彼女の影が、記憶の海へと沈んでいく。暗闇に落ちて、アイリスの笑顔が消えていく。

 

「そして、その時は訪れました」

 

 彼女の見る光景が、漆黒へと染まった。

 

「ある日を境にして、アイリスは少女の前から姿を消しました。たとえ穢れても、腐っても、彼女は貴族の子です。その愚図な男は自らの利益のために、アイリスを無理やり嫁がせたのでした。アイリスは自らの意思にそぐわず、遠くへと飛ばされてしまったのです。

 残された少女は、ただ絶望に突き落とされました。何も知らない彼女は、あれだけ信じていたアイリスに裏切られたと思ったのです。黄色い花畑には誰もおらず、ただ彼女は再び孤独へと還りました。

 そして彼女は全てを憎み、恨み、慟哭の果てに――裏切りの黒い花へ。フリティラリアへと、成り果てたのです」

 

 漆黒の花が咲く。全てを飲み込むような破壊と混沌が、ミーシャの中で広がっていく。

 ずきずきと痛む頭を押さえながら、ミーシャはただローザが紡ぐ言葉を聞くことしかできなかった。

 

「その花は全てを壊しました。アイリスを利用した全ての人間を燃やし、引き裂き、殺し尽くしました。それが、憎しみの果てにたどり着いた彼女の末路です。けれど、彼女にはあと一人だけ足りませんでした。そうして彼女は、ただ一人、いつもの黄色い花畑の中でアイリスを待ち続けました。ただ彼女を殺すために。自らを裏切った、あの憎き白魔女を殺すために、黄色の花畑の中でひとり待ち続けたのです。

 そしてーー」

 

 ローザは、告げる。

 

 

「アイリスを殺すと誓ったその少女の名前は、ミーシャ=エリザベートと言いました」

 

 

 すぅ、と。

 かき混ざっている頭の中が、全てなくなったような気がした。

 

「わたし、が……フリティラリア?」

 

 消え入るようなミーシャの呟きが響く。思わずミーシャが後ろへと振り向くが、アイリスは何も反応を示さない。その後ろのウイスティは、目を見開いて、少しだけ足を退いた。

 

「う……嘘だよね、ローザさん。これもパーティーの演出なんでしょ? まさか、私が……」

「嘘ではありませんよ。あなたはあの破壊の化身、フリティラリアです。アイリスの肉親を殺したのも、帰る場所を奪ったのも、彼女を殺そうとしたのも、すべてあなたです。何たって、そのフリティラリアを封印したのは私自身なのですから」

 

 唇の端を釣り上げながら、ローザが片手を前へ差し出す。指先からほとばしる魔力は紅の魔法陣を描き、その照準をミーシャへと向けた。

 

「全てを破壊したフリティラリアは紅の魔女によって封じ込められ、研究の対象になりました。数々の眷属を召喚するその魔法は黒魔法と呼ばれ、十年前に世に解き放たれたのです。けれどそれを扱える人間は存在しませんでした。たった一人、裏切りに愛された彼女を除いては」

 

 がちゃがちゃと鎧が擦れ合う音にミーシャが周りを見渡すと、そこには紅の鎧を纏った何人もの騎士が、彼女たちを取り囲むようにして立ちはだかっていた。その紅の檻に困惑するミーシャに覆いかぶせるように、ローザが続ける。

 

「……そしてある日、彼女の目の前にもう一度アイリスが現れたのです」

 

 淡々と語るローザの視線の先には、ただじっとこちらを見つめているアイリスの姿があった。

 

「彼女はフリティラリアの封印を解いて、ミーシャをあの黄色い花畑へと連れ出しました。そこから先は私も知り得ないのですが、いつのまにかミーシャは記憶を封じられ、アイリスと共に過ごしていたのです。いつものようにお茶会を開いたりしながら、まるであの日を思い出させるかのように。

 けれど私には魔女の猫がありました。ミーシャの位置はそれでつかめていたので、アイリスが何をする気だったのかを確かめていたのです。ですが、彼女はミーシャの記憶を封じたまま何もする気も起こさない。ですから、今回の夜会にアイリスとあなたを招いたのですよ。あなたを封じてしまうために」

 

 睨みつけるローザだが、それにアイリスは何も答えることはない。紅の魔法陣からは焔が吹き荒れ、ローザの腕を包み込む。

 

「アイリス……違う、よね? こんなの、変だよ。だって私、何も知らないもん! こんなの私じゃない! そうでしょ!?」

「………………」

「ねえ、何とか言ってよ……お願いだから……! 違う! 違うって、言ってよ!」

 

 縋るように項垂れるミーシャに、アイリスはただ冷たい視線を向けたままだった。その顔に映るのは、喪失と壊滅。瞳の色は力つき、項垂れるミーシャを撫でるはずの手は、何もない空間を通り過ぎた。

 

「さあ、思い出ごっこも終わりです。ミーシャ様……いいえ、憎きフリティラリアよ。私の友を孤独へと叩き落とした、愚かな黒の花よ。今ここで、その花びらを燃やしてあげましょう。塵も灰も、屑すらも残らずに、焼き払って差し上げましょう」

 

 爆炎と共に、ミーシャの視界を紅蓮が埋め尽くした。

 

 ローザの右腕から伸びた焔の腕が、ミーシャへと襲い掛かる。眼前に迫り来る煉獄に、ミーシャは打ちひしがれたまま、ただ瞳に揺れる炎をじっと見つめていた。そうすることでしか、アイリスに償うことはできないようにも思えた。

 吹き荒れる熱風が、金色の髪を揺らす。遠くでウイスティの叫ぶ声が聞こえる。けれどそれに振り向けるような時間も残ってはいない。ただ、彼女の心には見知らぬ後悔の念だけが残っていた。

 

 そして、迫る焔はミーシャの体を包みーー縄が解けるようにして、消えた。

 はらはらと木の葉のように落ちていく炎の先に見えたのは、全てを消し去るような清廉の白。

 

「…………何の真似ですか?」

 

 手に燻った炎を振り払い、ローザが不機嫌そうに視線を向ける。

 その先に立っていたのは、純白の杖を握る白の魔女だった。

 

「あい、りす…………!」

 

 足元でうずくまる黒魔女に、白魔女は屈み込む。そうして、伸ばした腕を頭の上に乗せながら、アイリスは言葉をかけた。

 

「ごめんなさいね、今まで黙っていて」

「……なんで……? もう、私、わかんないよ……」

「でも安心して、私が全て終わらせてあげるから。あなたのために、全てを捧げるから」

 

 くすり、とアイリスがいつも通り笑う。けれどミーシャには、それがひどく歪んだものに見えた。

 

「ウイスティ、こっちに来て。あなた、そんなところにいたら死ぬわよ?」

「し、死ぬって……」

「ええ。うっかり手を滑らせて殺しちゃうかもしれないから。できるだけ私の近くにいてね」

 

 眉をひそめながら笑みを浮かべるアイリスに、ウイスティは背筋の凍る感覚を覚えた。これもまた、ウイスティが初めてみるアイリスの表情であった。

 

「さて、ローザ。言っておくけど、私はあなたに協力している気は一つもないの」

「どうしてでしょう? ではなぜ此処へ足を踏み入れたのですか?」

「そんなこと決まっているじゃない。あなたを殺すためよ。ほら、この前も言ったでしょう? あなたのお屋敷をバラで埋め尽くしてあげる、って」

「そう、ですか。あなたはそうすることに決めたのですね」

 

 掲げられた白杖に、雷光が灯る。いくつもの紫電の槍が、周囲の騎士へと向けられる。そこにあるのは、明確な殺意だった。向けられた槍を睨むようにして、ローザが右腕を掲げる。紅の鎧たちは銀色の剣を抜き取って、その切っ先をアイリスとミーシャへと向けた。

 いくつもの視線が交錯する。困惑と、決意とが渦巻いていた。

 

「ミーシャ、私はあなたに謝らないといけない。今まで騙して来たこと、記憶を消して来たこと、全て。もしかしたら私は殺されてしまうかもしれないかも。いえ、それが妥当なのでしょうね。私は、あなたの望み通りに殺されなければいけない」

「……どういう、こと?」

「でも。それでも、私の最後のお願い、聞いてくれる?」

「……なによ」

「私のことを、信じて。そして、力を貸して欲しいの」

 

 その返事をかき消すように、爆発が当たりを包み込んだ。

 

 紅蓮と紫電が嵐を巻き起こす。放たれる雷電と燃え盛る炎とがぶつかり合い、巨大な空間を轟音が埋め尽くしていた。空気を振動させるその光景に、ウイスティが思わず耳を塞いで地にうずくまる。そしてその隣に立つアイリスは、紅に染まった鎧たちを蹂躙しながら、ただ一人の背中を見つめていた。

 赤と紫に彩られたその空間を、一つの黒が走り抜けていく。飛び交う焔を避けて、稲妻に導かれるようにして、黒の少女が駆け抜ける。こちらへと向かってくるそれに、ローザは信じられないように目を見開き、そしてその手に紅の杖を出現させた。

 

「そんな、貴女……!?」

「うおおおあああっ!!」

 

 がぎん、と、爆音にかき消されるように、金属音が鳴り響く。咄嗟に取り出した紅の杖が、黒い杖を受け止めた。

 

「どうして……どうしてあなたはアイリスに従うのですか!? あなたは彼女に騙された身なのですよ!? 記憶を消され、それを伝えられずに偽りの時間を過ごしてきた! そして、真実を突きつけられてもなお、奴隷のように彼女に動かされるのですか!?」

「それでもいい! 私はアイリスのためならなんだってする! だって、だって……!」

 

 震える声で、ミーシャが呟く。

 

「アイリスは、私の友達だから……!」

 

 その瞬間、ミーシャの足元に魔法陣が広がった。広がっていく紫の円環はローザを、ウイスティを、アイリスを全て包み込み、その空気を重たいものへと変える。肌がぴりぴりと痛み、視界が魔力によって揺らぐ。尋常ではないその魔力量に、ローザは思わず舌打ちをしてミーシャを乱暴に蹴り飛ばした。大地を揺らすほどの魔力が、屋敷全体を揺らす。

 

「狂っている……あなたは、狂っている」

「それでもいい。私は……私は、アイリスが幸せになってくれるなら!」

 

 壁面にまで到達した魔法陣の中心に黒い杖を打ち付けて、ミーシャが魔力を送り込む。混沌と漆黒が渦巻き、その姿を顕現させる。それに呼応するようにして、ミーシャの口がその言葉を紡ぎ出す。

 

「我が、名は黒の魔女。漆黒に染まり、全ての、暗黒を支配する者」

 

 そうしてミーシャは、震える両手で杖を握る。自らを律するように目を瞑り、全てを捨て切ったような表情を浮かべながら、叫ぶ。

 

「我が眷属よ、ここより彼方へ終焉を! 終わることのない、混沌を!」

 

 世界を、黒が支配した。

 



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『裏切りの彼我』

 

 枯れた樹の音がする。陰ではいくつもの蟲が蠢き、氷結と火炎が世界を染めた。大輪の花が揺れ、銀色の鎧が軋む。終焉の龍は翼をはためかせ、風に揺れる獣がぐるる、と喉を鳴らした。

 足元に広がる魔法陣を杖でとんとん、と叩きながら、ミーシャが両腕を組み合わせる。その後ろでは、黒魔女の眷属たちが、今にも襲いかからんとその瞳を、牙を、爪を紅の魔女へと向けた。

 すぅ、とミーシャが息を吸い込んで、その口を大きく開く。

 

「眷属よ! 我が望みに応え、その力を示せ!」

 

 漆黒による、蹂躙が始まった。

 

「ミーシャよ、この時が来たのだな……」

「うん、そうだね。やっと、私も分かったよ」

「ああ……素晴らしい。これこそが、我らの求めた……長かった……朽ち果てる、ほどに……」

 

 先に行ったコキュートスとイフリート、フェンリルを見つめながら、災厄が満ち足りた声を上げる。目の前で繰り広げられる炎獄と氷獄に災厄は目を輝かせ、数多もの鎧を斃してゆくフェンリルに恍惚の声を漏らした。これが、彼らの求めた世界。自らの主人によってようやくたどり着いた、眷属の悲願であった。

 それを祝福するように、ファフニールが天へと爆炎を放つ。吐き出された緋色の灼熱は天井を焼き払い、そこに暗闇に広がる星空を覗かせた。そうしてファフニールは翼を広げ、その夜空へと舞い上がる。満ちた月を背に、赤き龍はその双眸を見開いた。

 

「よい……この感覚は、良い。ミーシャよ、ようやく我々はそなたの望みを果たすことができる……!」

「うん、ふにーちゃん……いや、ファフニール! 世界の終焉に舞う龍よ! ここより、世界を炎で埋め尽くせ!」

 

 咆哮。緋色が全てを包み込む。吹き荒れる爆風は騎士たちを吹き飛ばし、ローザの紅い髪を乱れさせた。

 

「全員下がってください。状況が変わりました。残っている者は負傷した者を。まだ死んでいないうちに、必ず逃げてください」

「で、ですがローザ様……これでは、あまりにも……」

「大丈夫です」

 

 紅の魔女が手を突き出すと、そこから星と星を紡ぐように幾つもの魔法陣が展開する。増殖する魔法陣は上空に広がる夜空を埋め尽くしたかと思うと、その一つ一つから巨大な鐵の柱を打ち出した。天より降り注ぐ鉄の雨が、氷と炎を吹き飛ばす。砂煙が舞い上がり、荒れ狂う獄炎と氷土がかき消された。

 

「今のうちに、撤退を。急いで!」

「了解です!」

 

 砂煙に消えていく鎧騎士を見送って、ローザが白煙の向こうを見据える。次の瞬間、そのローザの横顔を飛来する氷の刃が掠めた。

 

「あーせっかくいいところだったのに! ぜってーイフリートのせいで外したです!」

「うるさいなコキュートス! 元はと言えばキミが暴れすぎだからこうなったんだろ! ボクの分も残しとけっていったのに!」

「ふん、またそうやって人のせいにするですか! まったくダメな姉を持って苦労するのです!」

「事実を言ったまでだろ! それよりも私たちにはまずするべきことがあるだろ!」

 

 頬を伝う血を拭いながら、ローザが紅杖(こうじょう)を振るう。宙に描かれた魔法陣からは鐵の槍が姿を露わにし、今だに言い合いを続けている赤と青の少女へと向けて放たれた。撃ち出された鉄の槍はコキュートスとイフリートを穿たんと、風を切りながら唸り声を上げる。

 そうして、鐵の槍が二人を貫こうとしたその瞬間、白の剣閃が風と共に駆け抜けた。

 

「……他愛なし。所詮は、只の鉄屑か」

 

 煙を立てながら地面を抉る二つの鉄塊に、デュラハンが吐き捨てる。その後ろに立っているミーシャは固まったままのイフリートとコキュートスへと駆け寄り、心配そうに声をかけた。

 

「二人とも無事? 怪我は?」

「み、ミーシャ様ぁ……」

「うん……大丈夫。ありがとう」

「そう、良かった」

 

 委縮するように答えるコキュートスとイフリートに胸をなでおろし、ミーシャがデュラハンの背からローザを見据える。銀の鎧の向こうに見える彼女は再びいくつかの魔法陣を自らの宙に描き、その先端から鉄塊を覗かせていた。

 冷たい視線がミーシャを穿つ。言葉は無く、ただ殺意のみがそこにはあった。

 

「エリクシア、ミーシャを下がらせよ。ここは危険だ」

「はい、わかりました。あなたもお気をつけて」

「ああ。ではコキュートス、イフリートよ。無駄口は済んだな? 私に続け」

「い、言われなくても分かってるです!」

「こいつと同じにしないでよ!」

 

 銀剣を構えたデュラハンを挟むようにして、炎と氷が顕現する。そうして撃ち出された鐵とが、鈍い鉄の音をいくつも打ち鳴らした。飛び交う鉄塊があたりを切り裂き、それを防ぐようにしてエリクシアがミーシャを抱えながら色とりどりの花びらをはためかせる。

 そして、黒魔女は災厄を背に、龍の舞う月夜に立つ。氷獄と獄炎とが顕現するその戦場を、ミーシャは腕を組み合わせて見下ろした。

 

「ミーシャよ、これを」

「ん?」

 

 ふと差し出されたのは、真っ赤に熟れた手のひらほどの果実。ぽとりと手の上に落ちた木のみをまじまじと見つめていると、災厄は諭すようにミーシャへと呟いた。

 

「未だ名も無い果実であるが……甘い。これを食べ終えるうちに、全てを終わらせよう」

「うん、分かった」

 

 しゃり、と木の実を齧る音がする。がぎん、と鉄を切り裂く音が響いた。

 

 

「はぁっ……は、ぁ……! な、何が起きてるの……!?」

 

 瓦礫の山に背を預けながら、ウイスティが崩れるように声をもらす。その前ではウイスティを守るようにしてアイリスが魔力の壁を拓き、飛び交う鉄杭と破片を防いでいた。

 

「これが()()()()()力よ。数多の眷属を使役し、それを自らの意のままとして操る黒魔女。これなら彼女がフリティラリアって言われても信じるでしょ?」

「あ、ああ……で、でも、さ。おか、しくない?」

 

 目の前に広がる惨状に、ウイスティが思わず疑問を上げる。

 

「おかしい? どこが?」

「だって、彼女は誰も、ころ、殺してないじゃないか。撤退してった騎士だって、みんな、生きてるみたいだったし、フリティラリアならみんな殺してるはずだ。あれは、手加減とか、そういうのを知っているものじゃない」

 

 未だに逃げ遅れている紅の騎士たちをみやりながら、ローザが上ずった声で告げる。例え龍の炎を浴びた者でも、風の獣に傷つけられた者でも、その命までは奪われていなかった。まるで殺す事を避けているかのようなミーシャのその振るまいに、ウイスティはこの戦いの最中で不穏な気配を感じていた。

 

「少なくとも、ミーシャは黒い花じゃない。だから、フリティラリアっていうのは――」

 

 その答えを遮るように、大きな金属音が鳴り響いた。

 

 次々と撃たれる鉄の杭を撃ち落しながら、デュラハンがローザへと迫る。その間合いに入った瞬間、ローザは地面へ魔法陣を走らせて、そこから鉄の壁を作り出した。下から吹き飛ばすように現れた鉄の塊に、デュラハンが剣を構えた。

 一迅の風が駆ける。吹き荒れる暴風は銀の剣へと収束し、その姿を表した。荒れ狂う深緑の毛並みに、月明かりの瞳。青銀の爪と牙が振るわれて、その鐵を乱暴なまでに引き裂いた。

 遠吠えが響き、鉄を裂いた青銀はローザへと向けられる。そうしてその牙がローザの首を掻き切ろうとしたその瞬間、フェンリルの体を鉄の杭が打ち付けられた。穿たれた毛並みは風に解け、後に暴風だけを残して消える。風の刃が鉄の壁を切り刻んだ。

 

「よくやった、フェンリル」

 

 風の隙間から頸の無い鎧が姿を現し、それに追随するようにしてコキュートスとイフリートがゆっくりと宙を舞う。掲げた銀の剣に二人が手を伸ばすと、火焔と霧氷が刀身を包み込んだ。

 荒れ狂う獄炎と凍てつく結晶が嵐となって、その剣を包み込む。

 

「やっちゃえおじさん!」

「ブチかますです!」

 

 逆手に持った剣に力を込めて、デュラハンが鉄の壁を穿つ。

 宙を裂く銀の刃は、()()()()その刀身を壁の中に埋め、ローザの額の目と鼻の先で止まった。

 

「……小癪な」

「ええ。そうでなければ、あなたには敵わないでしょう?」

 

 にやり、とローザが笑う。次の瞬間、彼女とデュラハンを隔てている――否、突き刺さった柱、穿たれた杭、周囲にまき散らされた破片までもが蛇の様になって蠢き始めた。まるで一つの命を吹き込まれたかのようになった鐵の蛇は、先端を刃のように変化させ、首無しの騎士へと襲い掛かる。

 数多の閃光が、宙を舞う。そうして一つ、大蛇が銀の鎧を貫いた。

 

「ああアレ、この前発表してた鉱物かしら? もう実用段階まで漕ぎ着けてるのね。まったく、本当に頭だけはいいのが癪だわ。これだから彼女は好きになれないのよ」

「いいのか? なんか一人やられちゃったっぽいけど」

「ま、問題ないわよ。すぐに食いつくすでしょ」

 

 適当に返すアイリスの視線の先には、次の獲物を探すようにして首をもたげている鉄の蛇の姿があった。その中心に立つローザの眼は未だにミーシャを睨み続けており、その意志を露わにしたかのようにいくつもの乱刃がミーシャへと向けられる。

 荒れ狂う刃は全て切り裂くように、ミーシャへと襲い掛かる。途中のコキュートスとイフリートの抵抗すら間に合わず、残った複数の刃がミーシャの胸元へとその切っ先を向ける。

 

「ベルゼビュート!」

 

 掲げた杖に応じるように、数多の蟲が、蛇を喰らい尽くした。

 それは、まるで蟲の河。幾重にも重なった蟲の大群が蠢きながら、刃と化した蛇を横から喰らいつくした。ぽりぽり、ぱきぱき、と金属を食む音が静かに響く。その虫達の頂点に君臨する王は、鉄の蛇を食い千切りながら、不満そうに吐き捨てた。

 

「不味い。変な魔力の味だ。何混ぜたらこうなるんだろう」

 

 蟲の河を下りてゆき、炎と氷の間を抜ける。夜空に浮かぶ月には龍が翼をはためかせ、それに手を伸ばすようにして数多の花びらに彩られた古き大木が、彼女の背に立っていた。銀の剣と風の獣は従者のように黒い彼女の側に立ち、ミーシャは黒杖を片手で握りながらその道を歩んでいく。

 

 食べ終えられた木の実のかけらが、ローザの前へ捨てられた。

 

「もうおしまい? これで満足した?」

「…………」

 

 紅の視線と、金の視線が交錯する。

 そして――ローザは、笑う。

 

「……………………待っていた」

「なに?」

「今のこの瞬間を、待ちわびていた。あの時から、ずっと、ずっと――!」

「――ッ! ミーシャ! 下がれ!」

 

 

 災厄の声が響く。それと同時に、ミーシャは自らの頭がかき回される感触を覚えた。

 

 

「へっへー、ようやく捕まえた! まったく、ここまで滅茶苦茶にするとは思わなかったよ」

「……せっかく用意したのに、こんなに散らかして、ミーシャさま、いけない子」

「あ、ああぁぁあ! 忘れてたああっ!」

 

 本気で頭から抜け落ちていたらしく、ミーシャが喉の奥から叫ぶ。そんな彼女を空から現れ組み伏せているのは、ジオラとソフィーの二人だった。それぞれの片方ずつがミーシャの両腕を押さえつけながら、もう片方の手でミーシャの頭へと手を添えている。次の瞬間、その手から白色の魔法陣が開かれた。

 

「まったくミーシャ様ったら、私たちのこと忘れるなんてひどいな!」

「……記憶力、なさすぎー」

「く、くそっ! デュラハン、フェンリル!」

「……そうは、させない」

 

 じたばたとミーシャが暴れながら叫ぼうとした瞬間、ソフィーが魔力を込めていく。その瞬間、ミーシャを襲ったのは押さえつけるように強烈な眠気だった。

 

「あ、ぅぐ……なに、して……」

「私は、夢魔女。だいじょうぶ、ミーシャさまに、素敵な夢を、見せてあげる」

「……くぁ……う、ぅ……」

 

 ごとり、とミーシャの頭が床に伏せられる。そしてぴくりとも動かなくなったミーシャにジオラがちょこんとまたがると、その丸出しになった後頭部へと魔法陣を走らせた。

 記魔女。刻まれた記憶を司り、それを読み解く追憶の魔女である。

 

「さーて……、これかな? 明らかに他のとは違うし、たぶんあってるでしょ」

「ねえちゃ、てきとー」

「そんな事ない……いや、待って?」

 

 わなわなと、触れた手が恐る恐る遠のいていく。

 

「違う。明らかに……違いすぎる。これ、本当にミーシャの記憶?」

「ねえちゃ? 何言ってるの?」

「……駄目だ。だめだ、ソフィー、離れて! 早く! すぐにここから逃げろ!」

 

 どくん、と。

 

「あ、あああっ! う、ぐぅぅううっ! い、あ、うが、あががががっ!」

 

 ミーシャの体を、強い衝撃が駆け巡る。既に二人の姿は無く、ただ地に伏せていたミーシャは、何かに苦しむように、ぼろぼろになった床をのたうち回っていた。

 瞳は血走るほどに見開かれ、縋るような手は喉元を掻きむしる。全身の皮膚の下を虫が走るような感覚と、ぼろぼろに焼け落ちていく記憶。暗闇へと堕ちていくその記憶の中に、ただ一人、笑顔を浮かべている人が居た。

 

 そして。

 

「あ、い、りす……?」

 

 夢と記憶が交差し、その真実を現実へと引き戻す。

 

 過去に埋められた漆黒が、目を覚ました。 

 

 

 

 

「……アイリス?」

 

 黒い少女の言葉に返ってくるのは、無為な静寂だった。

 虚ろな瞳は透き通る青空を映し出し、飲み込まれるほどに白い雲が太陽を隠していく。眼前に広がるのはかつての黄色い花畑。誰一人としていないその場所で、彼女は静かに言葉を紡ぎ続ける。

 

「アイリス……あいりす……あい、りす……?」

 

 その言葉に返ってくるのは、静寂のみ。あの優しさに包まれた笑顔は見えず、ミーシャの心に影が射す。感じたことのない不安に駆られ、ミーシャは唇を震わせた。

 孤独。もう相見えることのないはずのその感覚が、ミーシャの心を真っ黒に塗りつぶす。

 

「あ……いや……アイリス……っ」

 

 膝から崩れたミーシャの口から、弱々しく言葉が漏れる。独白は空に消え、綴る名前は風の音が消し去った。昏きは暗黒を凌駕して、深きは深淵へと達する。

 彼女の心を深く黒い感情が支配し、孤独による喪失感が一陣の風のように過ぎていった。

 

「私は……ひとり、ぼっち……また、ひとり……」

 

 二度と独りになることはない。ずっと側に寄り添い、その道を共に歩む。そう誓った彼女は、今この場にはいない。契られたはずの約束は、無惨にも泡沫の様にその希望を膨らませ、消えた。

 彼女にとってそれは何度も経験したものだった。けれど彼女は信じていた。自らに救いの手を差しのべてくれた、彼女を信じて疑わなかった。だからこそ、だからこそ彼女は。

 

「裏切られた……?」

 

 純白の笑顔が、ミーシャの中で解けていく。

 孤独は別の何かへと代わり、ミーシャの心を色褪せた感情が支配した。

 

「裏切られた……信じてたのに……ともだち、だったのに!」

 

 その瞬間、黒の感情がミーシャの内から弾け飛んだ。

 うずくまるミーシャの頭上に魔法陣が出現し、そこから黒い何かが放出される。煙とも蟲の集合体とも呼べるようなそれは、ミーシャの体を包み込むようにして形を変えていく。

 

「許さない……みんな、殺してやる……!」

 

 裏切りに満たされた彼女は、その手に黒い杖を握る。黒に染まった魔法に愛された彼女は、その裏切りを糧として暗黒を紡いでいく。染められた漆黒は、彼女の心を映していた。

 黄色の花畑に黒杖が突き立てられ、そこから黒の魔法陣が広がっていく。空気が重く振動し、花畑が一瞬だけ、それ呼応するように静寂を見せた。

 

 そして。

 

「フリティラリアよ! ここより世界へ殺戮を! 裏切りの果てに待つ、絶望による復讐を!」

 

 ミーシャは、叫ぶ。

 

 

 黄色い花畑に包まれて、孤独に怯えながら。

 

 

 

 

「ゔが、あ”ががががががが! い、痛”、あがぎぎぎぃぃぃぃっぎぎぎ!!」

 

 絶叫と共に、漆黒が広がってゆく。夜空を、暗闇が埋め尽くした。

 最初に変化が訪れたのは、ミーシャの背中。肉袋が裂けるようにしてミーシャの背中から黒い血が吹き出し、そして現れたのはミーシャの体を越すような巨大な龍の翼だった。血まみれのその翼は、一度だけ大きくその羽を広げ、旋風を巻き起こす。

 

「ミーシャ……まさか……」

 

 その災厄の言葉をかき消すように、紅の龍が墜ちた。地面に伏せたファフニールの体は解けるようになって消えてゆき、それに応じるようにして、ミーシャの背中に生えた翼は大きさを増していく。

 

「あ、ああ、解ける……私は、まだ……」

「ミーシャさん!? 何して、これ、まさか!」

「これは……そうか、そうか。それならば、僕は……」

「嫌です! あれは嫌です! 嫌だ、誰か、助けて……!」

 

 広がる漆黒は眷属を呑みこんでゆき、混沌の泥に溺れてゆく。ずぶずぶと足元を埋め尽くすその泥に、災厄が最期にぽつりと言葉を漏らす。

 

「それが、そなたの望みなら……我が主の、望みのままに……」

 

 

 絶叫が、その言葉をかき消した。

 

 

「あぇ、あへぇぁぅぅううぁあぁ……!! げ、ぉゔっ、おぼぼがががががばばげぎぎぎぎぃぃぃぃーー」

 

 耳の穴と口から泥を垂らして、ミーシャが声にならない叫びを上げる。目玉はぐりんと上を向き、足元はふらふらとおぼつかない。それはまるで、何かを植え付けられた虫のようだった。

 

「あ、ああ……? な、に、これ……」

「ねえちゃ、早く! 早くこっち来てっ!」

 

 呆然と立ちすくむジオラの手を、ソフィーが強引に引きよせる。次の瞬間には二人のいたその場所を、深淵を体現したような昏き泥が埋め尽くした。

 肩からは蔓のような黒い何かが延びて、しゅるしゅると音を立てながら形を成す。露になるのは何本もの腕だった。古びた蔓で形作られた樹の腕と、蠅のような節を持った虫の腕。数十を超えるその腕達は、まるで水面の波のようにゆらめいて規則的な模様を描いている。

 

「嫌っ! い"や"、だっ! い"や"あ"あ"っ"っ"っ"!!」

 

 身体中から吹き出す血を浴びながら、ミーシャは絶望に叫ぶ。頭の中に別の何かが入り、脳味噌をめちゃくちゃにかき回されているような感覚。立っていられるのがやっとというよりは、その何かに立たされていて、ミーシャはただただ叫ぶことしかできなかった。

 蟲と樹の腕が動く。それは統一されたかのようにミーシャの真上で全て合掌されたあと、その形を作り出す。

 それは、まるで。

 

「黒の、花……」

 

 ぽつりと呟いたその言葉を、慟哭がかき消した。

 

「お”ヴ、が、ぅぶっ! た、す、げ、げげげえ”あ”あ”あ”がががあ”っ”がががが!!」

 

 千切れるような、ミーシャの悲鳴。苦しみと歓喜がぐちゃぐちゃになったようで、それに呼応するようにいくつもの腕が模様を作る。現れたのは、すべてを誘うような渦の形。生理的な吐き気を想起させるようにその腕は規則正しく動き、その渦の中心をアイリスへと向けた。

 

「お、え"お"ぁぅぅぐぐぐぐぃぃぃぃいぎぎ!! がぐ、あががいがいぎぎいいぎいぃぃ――ぃぃいっぎぎぎぎぎぎ!」

 

 がちん、と杖を打ち付ける音。そうして、ミーシャがその眼を見開く。狂気に震え、血管の浮き出るその瞳は、紅と蒼に染まっていた。

 

 破壊と絶望に包まれた、黒の魔女の成れの果て。裏切りの末路に辿り着いた、彼女の悲願。

 その名を。

 

「フリティラリア……!」

 

 

 暗黒が、咲いた。

 

 

「ゔ、あっ! い”、あ、が、が、ががっががが!!」

 

 衝撃。吹き荒れる数多の腕は大地を揺らし、赤と青の眼に映る全てを破壊する。後に残ったのは泥のように撒き散らされた漆黒と、そこで静止したフリティラリア。全ては漆黒に呑みこまれ、辺りを昏き静謐が支配する。

 そしてそれを破ったのは、白の魔女だった。

 

「……怪我は?」

 

 白い杖を構えたまま、アイリスが後ろへ声をかける。

 

「アイリス? どうして……」

「無事みたいね。それじゃ、ローザ。他の三人を連れて逃げなさい」

「ですが、それではあなたが!」

「私はいいのよ。それとも、ここに残って足手まといでもするつもり? いつまでも迷惑な女ね」

 

 気だるげに白杖を振り回しながら、アイリスがローザを睨んだ。

 

「ミーシャの狙いは私一人よ。あなたたちには関係ない」

「でも、あなた一人であれを倒せるとは思えません! 私も戦います!」

「……まだ分かってないの? あなた」

 

 がん、と杖を叩きつけながら、アイリスがローザへ告げる。

 

 

「これ以上、私とミーシャに関わらないで……!」

 

 

 紅の魔女に冷たく言い放ち、アイリスは再び黒い花へと立ち向かう。

 黒い杖を持つ手は震え、双眸からは血を流し。背後にうごめく花は万華鏡のように形を作り、龍の翼は広げられる。すでにミーシャの見る影は跡形もなく消え去り、そこにいたのはミーシャの身体から生えた漆黒の化け物だった。

 

「あが、おぼぶがぎぐごががが!! いぃぃぃぃぃぎぎぎぎ!」

 

 黒い花がまたある形を作り出す。繋がっていた腕たちは一本一本が独立をはじめ、歪な白詰草(しろつめくさ)のように形を作る。真下のミーシャは何かに動かされるようにして杖を持ち上げると、それを自らの身体の奥深くへと突き刺した。

 そして――紡ぐ。

 

「数多の戦場を重ね、敗れ去る。血にまみれた銀剣を我が手に。死によって重ねた栄光を、その手に」

 

 紅い血が黒杖を伝う。うごめく声が木霊した。

 

「――デュラハンよ」

 

 その言葉と共に現れたのは、無数の銀剣だった。こちらを睨んだままの白魔女を映す剣の一本一本が樹と蟲の腕に握られ、その刀身を鈍く光らせる。首なし騎士の数多の剣は、虫と樹木の腕を伴って、アイリスへと向けられた。

 

「逃げなさい! 早く!」

 

 その叫びをかき消したのは、幾重にも連なる剣戟。降り注ぐ刀は豪雨のように地面を穿ち、アイリスへと迫ってゆく。まるで地面を全てひっくり返すようなその衝撃に、アイリスはただ一人魔法陣を構えた。

 雷光。紫電が加速して渦を巻き、張り詰めた糸を切るようにして、閃光が迸った。

 

「ぁ……」

 

 駆け抜ける稲妻は漆黒を切り開き、黒の花びらを闇夜へ散らす。ぼとり、ぼとりといくつもの腕が落ち、溢れ出る泥にミーシャがぽつりと声を漏らした。

 周囲に雷電を弾けさせ、白の魔女は黒の魔女と邂逅する。その瞳に映るのは、いつまで経っても変わらないかつての友だった。

 

「ーーミーシャ」

 

 名前を、呼ぶ。かつてのあの時のように、優しい声で。

 白い杖が地面をなぞる。描かれた魔法陣はアイリスを中心にして広がってゆき、ミーシャとを包み込む。

 

「一人で寂しかったのね。でも、大丈夫。あなたには私がいる。あなたの全てを、私が受け止めて上げる」

 

 魔法陣から現れるのは、目を眩ますほどの数多に咲く黄色の花だった。ぽつり、ぽつりと姿を表したその花々は水紋のように広がり、瞬く間に二人をまばゆいほどの鮮黄で埋め尽くした。

 

「だって、私たちは友達だもの。あなたの願いなら、私は何でも受け入れるわ」

 

 見渡すのは、一面の黄色い花畑。それは瓦礫も、泥も、漆黒も全てを覆い、白の魔女と黒の魔女を優しく包み込む。追憶と追想が交錯し、アイリスの心は刹那の追懐に満たされた。

 

「だから、ミーシャ」

 

 そして、いつものように。あの時のように、アイリスはミーシャへ笑う。

 

「どうか私を、殺してね」

 

 

 

 黄色い花畑に包まれて、二人は孤独に満たされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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『花畑にて』



『アイリス』


「純粋」「思いやり」「あなたを大切にします」

 ――――「希望」




 

 

 

 ――あなたは、黄色の花畑に立っていた。

 

 視界を埋め尽くす花々は地平線の向こうまで続き、あなたの心を懐かしい幸せで包み込んだ。吹き抜ける風は頬を撫で、花を揺らし、あなたの心に一筋の悲しさを呼び起こさせる。突き抜けるような青空はあなたの記憶の空白を映しているようで、ぽつんと佇むあなたは、優しい孤独を感じていた。

 悲哀と追放。追想、追懐。そして追憶の果てに、あなたは此処へ辿り着いた。

 

「……ここ、どこ?」

 

 ぴたり、と風が止む。虚ろだったあなたの瞳に、光が戻る。

 

「みんな? どこ行っちゃったの?」

 

 きょろきょろと周りを見渡すあなたを包んでいるのは、変わりなく咲き誇る黄色い花たち。そこには紅の魔女も、自らの眷属も、誰も存在しない。隔絶された世界に、あなたは一人で立ち竦んでいた。

 微かな孤独と懐かしい色褪せた感情が、あなたの心に思い浮かぶ。そして、あなたは彼女の姿を思い(えが)いた。

 

「アイリス?」

 

 満開の黄色に差し込んだ、一筋の純白。心に浮かぶその笑顔は、彼女の目の前に姿を現した。

 流れるような白のローブに、可憐さを感じさせる佇まい。緑のある艶やかな黒髪は空の青に解けていくようで、その瞳はまっすぐとこちらを見つめている。まるでこの世の闇を知らないような、その闇の中にいるにもかかわらず、それを受け入れているような、そんな笑顔だった。

 

「アイリス? どうしたの? てか、こんなとこで何してるの?」

 

 あなたの声に応えることも無く、彼女はこちらへと歩み寄る。

 いつも通り、何も変わらない彼女の笑顔に、あなたの心に少しの暖かな光が灯った。

 

「……って、なに無視してるのよ! ちょっとアイリス!? なんとか言いなさいよっ!」

 

 何も話さない彼女にあなたはそう言い放ったけれど、返ってくるのは静かな足音だけだった。だんだんと無言で近づいてくる彼女にあなたは少しの恐怖を覚え、その唇は少しだけ震えていた。

 心に差し込んでいるのは、光を覆う黒い陰。あなたにとって、彼女は信じるに値する人間だった。けれどあなたはそれを裏切られた。紛れもないその事実が、あなたの心に僅かな漆黒を感じさせた。

 

 そして――あなたの横を、彼女が通り抜ける。

 すれ違う彼女の横顔は、なおも儚げに笑っていた。

 

「アイリスっ」

 

 思わず振り返ったあなたは、目の前の光景に言葉を失った。

 

「アイリス、遅いわよ? まったく、私がどれだけ待ったと思ってるの?」

「ごめんなさいね、ミーシャ。でもほら、お菓子を持ってきたわ。二人でいっしょに食べましょう」

「わあ! これ、私が好きなお菓子! ありがとうアイリス!」

「ええ、どういたしまして。ふふ、ゆっくり食べるのよ」

 

 いつものように、アイリスが笑う。その隣に座っているのは、()()()ではなく、()()()だった。

 その手に握るのは、全てを統べる魔法の黒杖。身に纏うは、夜空を切り取ったようなローブ。頭の上には深淵よりも黒い三角帽子。その下の肩口まで届く髪は、夜空で瞬く星のような金だった。

 

「ぇ……、あ……?」

 

 手が震える。見てはいけない。けれど、心のどこかでそれを望んでいた。消えた記憶の中、あなたはそれを求め続けていた。ずっとアイリスのそばに居たいと、そう願い続けていた、彼女の名は。

 

「ミーシャ」

 

 暗闇の底から響くような声が、あなたを呼びかける。

 

「これが、貴様の望んだ景色なのだ」

 

 かけられる声にゆっくりと振り向くと、あなたは黒の花を見上げた。

 全ての生き物をバラバラにして、無理矢理組み合わせたような、異形の花。見上げるほどに大きなそれは、所々に古ぼけた樹々や蟲の足が見せて、それがあなたの親しい者たちを思い起こさせた。ゆらりゆらりと蠢くその花は、あなたに言葉をかける。

 

「これは、夢だ。貴様が一番に望んだ願い。目に映る全てが、貴様の幸せそのものである」

「あな、たは?」

「貴様はもう理解しているはずだ。この夢も、私も、自らの本当に成すべきことも」

 

 そして、その黒い花は、告げる。

 

 

「私の名はフリティラリア。貴様の望みから産み落とされた、ミーシャ=エリザベートのそのものである」

 

 

 

 

 

 

 花びらが散る。黒塗りの泥が、黄金を塗り潰す。

 

「ううぁあああああ!! アイリスうううぅぅっぅううううう!!!!」

 

 数多に広がる黒い腕が、銀の剣を伴ってアイリスへと向けられた。幾多もの剣閃が白の魔女を襲い、絶叫と共にその祈りを果たそうとする。そんな彼女を、アイリスはただただ受け入れていた。

 剣閃を弾く雷光はだんだんと勢いを落とし、吹き荒れる風がアイリスの髪を揺らす。既に手足にはいくつかの切り傷がにじんでおり、その刃の嵐の中でアイリスは笑っていた。

 

「そう……そう! ミーシャ、もっと……もっと私を……!」

 

 がぎん、とアイリスの額を剣が弾く。打ち上げられた白魔女の体が、花畑に紅の池を作り出した。

 額から溢れる赤い液体を手で拭い、アイリスが立ち上がる。握る白杖には赤いまだら模様が浮かぶ。

 

「足り、ない……まだ、私には、何も――」

 

 そう小さく呟く彼女の体を、風の獣が凪いだ。

 

「フェンリル」

 

 吹き荒れる風が体を引き裂き、地面を抉りながら進んでいく。当たりに瓦礫と血飛沫を散らしながら、嵐の化身が全てを喰らいつくす。打ち付けられた壁から、まるで赤い薔薇のように、どろりと血が滴り落ちた。

 そして、雷光が爆ぜる。巨大な風の獣の体が、弾け飛んで宙に溶ける。

 

「……げ、もので……私は、殺せない」

 

 破れた頬から血を流し、アイリスが立ち上がった。

 

「私は、あなたに……あなたに、殺されなければならない。そう、でしょう?」

 

 白光が肌を包み、傷を塞ぐ。にっこりと満面の笑みを浮かべたアイリスは、異形と化した唯一の友へと白杖を向ける。瞬間、雷鳴が轟いて、真後ろで牙を向けていたフェンリルを貫いた。

 溢れる血飛沫が、彼女を赤く染め上げる。黄色の花道を、アイリスが歩む。

 

「――コキュートス、イフリート」

 

 黒魔女の唇が紡ぐのは、地獄を支配する二柱。埋め込まれた蒼と赤の瞳には、広がる炎獄と氷獄とが映っていた。燃え盛る焔はアイリスの体を焼き尽くし、穿たれた氷の楔は進もうとする彼女の足を地面へ縫い付ける。

 けれど、彼女は笑っていた。体中を焼かれながら、足から夥しい程の血を流しながらも、彼女はミーシャへと笑みを浮かべていた。

 

「ま、だ。ミー、シャ。あなたが、ころして」

 

 杖を振るうと、黄色の花畑がその世界を塗り替える。少女たちの見た原風景が、二人を包み込む。

 

「……それは邪魔ね」

 

 白杖が宙を舞うと、アイリスの背後に幾多もの魔法陣が連なり、そこから光の槍が放たれた。溢れ出す光の奔流は闇を振り払い、花畑には暖かな光がもたらされる。ぼろぼろと腕の欠片が散り、あたりを黒い泥が埋め尽くす。

 背負う花を散らし、残ったのは彼女のみ。握る黒杖が魔法陣を描いたと同時に、ミーシャの腹を龍の牙が裂いた。

 

「ファフニール!」

 

 黒の血に(まみ)れた龍が、その咢を白魔女へ向ける。迫る幾多もの牙にアイリスは憶する事も無く、白杖をかつん、と床に着けると、そこから広がるように魔法陣を刻んだ。

 迅雷が鳴り響く。龍の体は二つに裂け、溢れ出る血の道をアイリスが歩んでいく。

 

「あと三つ」

「う、あ、あがががぎぎぎぁぃぃ――ぃぃぎぎぎ!!」

 

 がぢん、と黒杖を突きたてて、ミーシャが千切れるような悲鳴を叫ぶ。そして左腕から顕現するのは蠅の王。自らの卵を食い破るようにして、黒い蟲達がミーシャの左腕から産まれていく。食い散らされてぼろぼろになった左腕をだらんと垂らしながら、ミーシャが叫ぶ。

 

「ベ、ルゼ、ビュートぉおおぉぉぉおお!!」

  

 蟲の河がアイリスへと放たれる。流れる暴食の奔流が、アイリスの腕を、髪を、足を食い荒らした。

 自らの躰を喰われる痛みに屈することも無く、アイリスはただただ前へと進む。皮膚は所々が破れ、全身を爛れるほどの血で濡らしても、彼女は足を止めなかった。

 白い光が魔女を包む。全身を一から作り直す激しい痛みが、アイリスを襲う。その痛みに顔色一つ変えずに、アイリスが魔力を放つ。描かれた魔法陣から顕現したのは、光輝。迸る閃光が、蟲の河を切り裂き、その先にあるミーシャの右腕を撥ねた。

 

「……羽虫も落ちたわ。残りは、ふたつ」

 

 手の内に光をくすぶらせながら、アイリスがミーシャを睨んだ。

 

「……エリクシア」

 

 どぼどぼと零れ落ちる黒の泥に、ミーシャが紡ぐ。その瞬間に色とりどりの花々と伸びる蔦がが彼女の周りに浮かび、千切れた右腕とぼろぼろの左腕を包み込む。そうしてミーシャが黒杖を握ろうとした瞬間、彼女の視界を閃光が埋め尽くした。

 光輝による灼熱。花々はぼろぼろと体を崩し、ミーシャの半身が焼き払われる。

 

「ごめんなさいね。でも、あなたが成さなければならないもの。それ以外はいらない……あなただけが、欲しいから」

「あ、が、がぎ、がぎぎいいいいぎぎあああぁああっぁぁぁあああ――!!」

 

 ずぶずぶと、失われた半身の断面が蠢く。溢れ出る泥はミーシャの躰を補うように形を作り、そこからゆらゆらと揺らめく蛇のような刃を露わにさせた。暗闇が黄色い花畑を駆ける。宙を裂く黒刃はアイリスの四肢を貫き、その体を持ち上げて地面へと叩きつけた。

 

「古き、森の災厄よ!」

 

 掴んだ白魔女のの躰を何回も叩きつけながら、ミーシャが告げる。ぱきぱきと全身から生え始める枝はアイリスとミーシャを広く包み、花畑の世界を樹々の暗い世界で覆う。ぼろぼろの床に叩きつけられたアイリスは全身から血を流しながら、その昏く広がる世界を見上げていた。

 

「これで……よう、やく」

 

 手に握るのは、黒の杖。心に抱くのは、作られた憎しみ。

 背中に樹々を背負いながら、黒魔女が自らを裏切った白魔女へと杖を向ける。彼女を包む泥は握る杖を刃へと変え、その刃を鈍く煌めかせた。

 

「ヴヴうううああぁぁぁ――――あああああ!! アイリスぅぅぅぅううヴヴヴヴヴッヴ!!」

 

 慟哭と悲願が彼女たちを支配する。

 振り下ろされる刃に、アイリスは両手を広げ、まるで愛おしい誰かを呼ぶように、叫んだ。

 

 

「やっと、やっと私を殺してくれる――来て! 私を殺して! ミーシャ!」

 

 

 

 

 

 

「我らは貴様の望みである」

 

 黒の花は、あなたにそう告げた。

 

「孤独だった貴様は生まれ育った世界を亡ぼそうと願い、災厄を望んだ」

 

 伸びる枝があなたを包み込む。思い描くのは、いつも木の実をくれるあのひとだった。

 

「飢えた貴様は喰らいたいと願い、暴食(ベルゼビュート)を望んだ。世界を呪った貴様は、氷獄(コキュートス)炎獄(イフリート)を望んだ。そして、やがて訪れるはずの希望を願い、花々(エリクシア)そよ風(フェンリル)を望んだ。けれど辿り着かない自らの無力さを呪い、人を殺すための(デュラハン)を望んだ。そして、再び世界の終焉を願い、竜の翼(ファフニール)を望んだ」

 

 黒の花は形を変え、あなたにいくつもの姿を見せた。色とりどりの花々に塗れる、龍の翼。それを切り裂くように顕れる数多の銀剣は、焔と薄氷に包まれている。そよ風があなたの頬を撫で、あなたの視界をいくつもの蟲たちが埋め尽くした。

 

「しかし、我らとは別に、貴様の望みを叶える者が現れた」

 

 黒の花が示す先にあるのは、純白の彼女だった。同じ孤独の中で手を取り合った彼女は、あなたの望みを果たしてくれた。

 

「彼の者は貴様に望みの結末ではなく、希望をもたらした。人の温もりを与え、優しさを諭し、約束を告げた。もう一人にはしないと、彼の者は貴様に言った。光だ。彼の者は、貴様を抱擁する白き光となったのだ」

 

 彼女の笑みがあなたの脳裏に浮かぶ。思い描いた笑顔は現実となってあなたの目の前に現れた。それにあなたは手を伸ばす。けれどもう二度と届かない。掴もうとした指先が、宙を抱いた。

 約束が消える。世界を暗黒が包み、あなたの視界には燃え盛る炎と、その中で咲く黒い花が見えた。

 

「そして、貴様は裏切られた。そうして、一人になった貴様は復讐を願い、黒の花(フリティラリア)を――私を、望んだ」

 

 広がるのは災禍。世界を殺戮と破壊が支配し、混沌が全てを呑む。笑っていたあなたと彼女の姿は消え、残ったのは裏切りに泣き叫び、黒の花に成り果てるあなた自身だった。

 黄色の花畑は漆黒によって埋め尽くされ、ただ一つのフリティラリアが咲く。血を散らし、肉を裂き、骨を砕く。繰り広げられる暴虐を、あなたはその瞳に映していた。

 

「あの忌々しき紅の魔女に捕らえられた時でも、貴様は私を望んでいた。もはや貴様にはそれしかなかったのだろう。白魔女への渇望だけが、貴様を支配していた。故に、二度目の邂逅は引き起こされた」

 

 昏きが支配する世界に、一筋の白光がもたらされる。純白の魔女は黒の花と対峙し、その白杖を振るう。

 

「彼の者は私を消すことによって、貴様を助け出そうとしていたのだろう。けれどそれには届かなかった。貴様を助けることのできなかった白魔女は、愚かなことに貴様の記憶を消したのだ。そうすれば、貴様の望みによって生み出された私も姿を消す。けれど貴様は全てを失い、再び孤独へと還ったのだ」

 

 叫び声が聞こえる。空を覆う漆黒は晴れ、そよ風と花畑があなたを満たしていた。 

 

「一人になった貴様を動かしているのは我々だった。貴様から生まれた我々は、貴様の望みを果たすために貴様の心に生まれた空白を埋めようとした。全ては、我が主の望みのままに。命を司る樹々、花畑に吹く風、突き抜けるような青空、そして――白の彼の者への復讐も、全て」

 

 あなたの心に、少しだけ影が産まれた。

 

「そして、それはようやく果たされる。貴様の望みが、現実と成るのだ」 

 

 その言葉と同時に、あなたはぼろぼろになった白魔女を見た。

 

「見よ、これが貴様の望んだ光景だ。自らを裏切った白の魔女は、ようやく貴様の意志で殺される。もう二度と、貴様は裏切られることはない。永遠の安寧と、恒久の平穏を約束しよう」

 

 今ここで見ているはずもないのに、その映像は鮮明にあなたの脳裏に浮かんでいた。そこに映っているのは、今にも白の魔女を殺さんとしている黒い魔女と、それをただ受け入れるように、まるであの時に届かなかった手をもう一度伸ばしているような、白の魔女の姿。振り下ろされる黒の刃が、彼女の額を貫かんとしている。

 

「全ては、我が主の望みのままに……」

 

 これが、あなたの望んだ結末だった。あなたは自分を裏切った彼女を、殺したいと願った。

 

 

「……ち、がう」

 

 

 虚ろになった唇から、言葉が漏れる。

 

「なに?」

 

 沈黙を置いて、返ってきたのは疑問だった。するとその時、黒い花を構成する肉の花弁が、ぼろぼろとその形を崩していく。自らの躰が崩れ落ちていくと同時にフリティラリアが感じたのは、強い拒絶だった。

 あなたの望みが崩れていく。裏切りの化身が消えていく。

 

「なぜだ? 貴様は私を望んだのではなかったのか? 私は貴様の望みを果たせなかったのか!?」

「そうじゃない。あなたは、私の望みを叶えてくれた」

「では、貴様は私に何を願ったのだ? あの白の魔女に、何を求めただというのだ?」

 

 世界が崩れていく。彼女を見たいしていた黄色の花畑は裂け、突き抜けるような青空はガラスのように欠け落ちていく。吹き抜けたそよ風は嵐の様に巻き上がりながら消えてゆき、太陽は蝕まれるように昏きへと堕ちていく。

 

「あ、ああ、消える……消える!? 私が!? 貴様は私を望んだはずだ! なのに、どうして」

「消えないよ。あなたは、私自身なんだから。消えちゃうのは、私の望みだけ」

「望みが、消える!? どうして、私は……貴様の、ために……貴様の望みのために、彼の者を殺して……!」

 

 あなたの望んだ景色は消えてゆき、また再び世界を暗黒が包み込む。

 けれどそれは、白に染まるための黒。塗り替えられるための、孤独な世界。

 

 

「私はアイリスを殺したいんじゃない」

 

 

 夢から覚める刻が来た。

 

 

「私の、望みは――」

 

 

 



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『あなたを望む』



『フリティラリア』


「呪い」「復讐」

 ――――「愛」



 

 

 静寂が花畑を支配する。

 

 虚ろな双眸が、アイリスの呆然とした(まなこ)を覗き込む。額を貫かんとしている黒い槍は、今も彼女の目の前で鈍い輝きを放ったまま。二人を包んでいる枝はぼろぼろと崩れ落ち、世界を包んでいた漆黒は破れるように虚空へ溶けてゆく。崩れゆく世界の中、二人だけがただただ見つめ合っていた。

 

 黄金の花畑が、黒の彼女と白の彼女を包む。満たしているのは、一つの望みだった。

 

「……ミーシャ?」

 

 果てたような虚ろな表情で、アイリスが唇を開く。

 

「な、ん……で……き、さま……は、止め、た……?」

 

 黒い泥を口の端から垂らしながら、ミーシャは空を仰いだ。

 

「あああうううっ、ぅぅぁあああっっああぁぁぁぁ!? あ、ぎぎいいぃいぃぃいっいぎぎぎ!!」

 

 吐き出されたのは、引き千切れるような絶叫だった。

 皮膚は裂け、肉がはじけ飛ぶ。根を張った歪な裏切りの化身は、望みの果てに枯れていく。悲鳴と慟哭とがまじりあったその声を聴きながら、アイリスはただただ茫然と目の前の光景をその瞳に映していた。

 

「どうし、て!? 私は――無駄、だった、のか!? 私は、無意味だったのか!?」

 

 崩壊していく体に、ぐじゃぐじゃになった声が重なる。

 

「ああ、私は、貴様のために、わた、わ、あああぁぁあああああああああ!!!」

 

 そして――訪れるのは、枯死。

 黒百合(フリティラリア)が、散った。

 

 撒き散らされた血が、黄色い絨毯に黒い模様を映し出す。それはまるで、アイリスの心の中に咲いた、一輪の黒い花のようでもあった。

 とさり、と静かな音を立てて、小さな体が黄色い花々に沈む。

 

「ミー、シャ……? ミーシャ!?」

 

 呆然としていたアイリスが、倒れ込むミーシャに声を荒げて駆け寄った。血にまみれた細々とした体は今にも朽ち果てそうで、アイリスがその体を抱くと、ミーシャはゆっくりと首を上げた。

 

「ご、ぼ、あぃ、りすっ、げぶ」

「喋らないで! すぐに、すぐに治してあげるから……!」

 

 震えた声でミーシャの手を握りしめながら、アイリスが急いだ手で魔法陣を描く。暖かな光は白と黒の彼女らを照らし、血と泥に塗れた二人の手を優しく包み込んだ。

 

「駄目よ……あなたは、私を殺したいって……そう、ずっと望んできたんでしょう?」

「ちが、う、よ」

 

 伸ばした小さな指先が、アイリスの頬を伝う涙を辿る。何度も、何度も確かめるようにミーシャの手がアイリスの横顔を撫でて、赤い指の痕を付ける。こうして触れられることが、ミーシャにとってはこれ以上にない喜びのようにも思えた。

 彼女の腕に包まれながら、ミーシャが笑う。

 

「私は、アイリスを殺す、なんて望んでないもの」

「……どうして? 私はあなたを裏切って、あなたの記憶も消したのよ? 今更、そんな……」

 

 裏切りの末路も枯れ果て、願いは虚無に尽きる。 

 最後に黒魔女の中に残っているのは、ただ一つだけの望みだけ。

 

「本当はね、アイリス。あなたと、ずっと、一緒にいたかったの」

 

 追憶と追想の果て、彼女はようやく辿り着いた。

 

「私と、一緒に?」

「うん。だって、あなたといた時が、ずっと幸せだったから。あなたがいてくれたら、それ以外には何もいらなかったから。フリティラリアだって、それを望んでた。私の望み、は、アイリスと一緒にいることだか、ら」

「でも、私はあなたを裏切って……一人に、させたのに……」

「そんなの、関係ないよ」

 

 白魔女の暖かな光に包まれながら、黒魔女は口を開く。

 

「アイリスの事が、好きだったから。ずっと一緒にいたいって、思えたから」

 

 血に濡れた白い手を、黒い手が握り返す。何かに怯えるように震えているそれは、彼女の手をもう二度と掴んで離さないようだった。

 

「一人は、怖かった。怖いから、あなたを望んだ。もう、ど、こかに行って、しまわないよう、に、アイリスをずっと独り占めしたい、って。わがまま、だよね、こんなこと。でも、私は、あなたしかいないから。あなたが居ない世界なん、て、いらない、から」

「……だから、私の家族を殺してくれたの?」

「あなたを不幸にする人たちが、許せなくて、あの人達から、あなたを救いたかった。たとえ、記憶を消されて、も、あなたが不幸になるのは、嫌だったから。あなたが幸せになれるのなら、私は、いなくなっても良かった。あなたと一緒に居られなかったら、私は死んでも良かった」

 

 途切れ途切れのミーシャの声が、アイリスへと向けられる。

 

「あなた、と、一緒に居られるだけで、私は幸せ、だった。もう、これだけで、よかった」

 

 独白は、彼女の心を満たしていた。

 

「でも、記憶を消された私と、あなたはずっと一緒にいてくれた。まだフリティラリアの影響が消えなくて、あなたに敵意を向けていた私を、あなたは受け入れてくれた。本当、に、嬉しかった」

「当り前よ。あなたが願うなら、どんな望みだって聞いてあげるわ」

 

 だって――と、アイリスの手がミーシャの手を握る。微かに聞こえる呼吸音はだんだんと弱い物になり、金色の瞳はだんだんと光を失っていった。震える指先を強く握りしめながら、アイリスが口を開く。

 

「私とあなたの仲じゃない。そうでしょ、ミーシャ?

「……そっ、か。アイリス、は、優しい、ね。」

 

 にっこりと、ミーシャが笑った。それは、アイリスが今まで見た彼女の中で、一番に幸せそうな表情だった。

 

「ね、え、アイリス」

「どうしたの?

「私の望み、言っても良い?」

 

 微かに聞こえる呟きに、アイリスが頷く。

 

「これからも、私と一緒にいてくれる?」

 

 十年の過去から続く、ずっと変わらないただ一つの望み。告げられたそれに、アイリスは静かに応えた。

 

「ええ。もちろん。例えあなたに殺されても、私たち、一緒にいましょうね」

 

 あのとき果たせなかった約束を、もう一度この胸に。

 黒と白の魔女は、そう誓った。

 

「ねえ、ア、イリス。私、もう眠いな。寝ちゃっても、いいか、な」

「今日は疲れたものね。起きたらまた、いつもの様にお茶会を開きましょう」

「いつ起きるか、分かんな、いよ」

「大丈夫よ。私はいつまでも、あなたの隣にいるもの。あなたが起きるまでずっと、あなたと一緒に待ってるわ」

「そっ、か。それなら、よかっ、た」

 

 

「……大好きだよ、アイリス」

「ええ、私も大好きよ、ミーシャ」

 

 

 

 ――黄色い花畑に包まれて、あなたは幸せに満たされた。

 

 

 

 

 

 

 暗闇に、一輪の花が咲く。

 漆黒の色をした花弁に、しおれた深い緑の茎。今にも枯れて落ちてしまいそうなそれは、暗黒のなかで、ただ一つ咲いていた。望みの花は既に枯れ、散り落ちる。悲願は果たされることはなく、ただただ消えていく。

 その花を摘むひとがいた。

 

「あ、こんなところにいたの? まったく、見つけづらいんだから」

「…………」

「でもよかった。あなたが居ないと始まらないものね。うん、よし! 帰ろっか!」

「……どこ、へ?」

「どこ、って……決まってるでしょ? ほら、行くよ」

「私は……貴様とは、相容れない……既に、望みは尽きた……花も、枯れ、残るのは、何もない……」

「……何言ってるの、フリちゃん」

「あ……?」

「あなた、こんなに綺麗に咲いてるじゃない。つやつやの茎に、夜みたいに深い花びら! すごく素敵! ふふ、黒魔女の私にとっても似合いそうで、いいじゃない、フリちゃん」

「……なぜだ? 私の望みは、消えたはず……」

「そんなことないよ」

「なに?」

「あなたの望みは、まだ尽きてない」

「……ああ、そう、だったのか」

「うん。だって――」

 

 

 

「だって私は、アイリスと、ずっと一緒にいたかったから」

 

 

 

 



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『黒魔女にっき。』

 

「ま、終わってみればこんなもん、ってわけね」

 

 朝日の差し込む研究室で、ウイスティはぱたり、と手に持った本を閉じた。

 

「アイリスと出会う前から、あの子は黒魔法のことを本能的に知ってたのさ。長い時間をかけて、世界そのものを恨んだ結果、あの子自身が黒魔法の本質である『裏』となった。つまり、彼女が望んだものは全て自らの眷属になる、ってわけだ。意味わかんないだろ?」

 

 既に本に埋もれている机の上に本を摘みながら、ウイスティが肩をすくめる。そうして細めた視線の先に座っていたのは、うっすらと笑みを浮かべているローザであった。

 

「では、フリティラリア――ミーシャは、なぜアイリスを殺そうと望んだでしょう?」

「それはそもそも前提が違う。アレの望みはアイリス本人だよ。彼女を自らのモノにしたい、っていう純粋なもんさ。それが行き過ぎて、彼女を死んだ者――つまり、生きている者の裏にしてしまえば、永遠に一緒にいられる、ってわけ。ま、あれは一過性の短い望みだったからね。だからあれだけ過剰に人を殺すものになってしまったんだろう」

 

 床に積まれた本の上へと腰を下ろし、ウイスティが語り続ける。

 

「それに、彼女が記憶を消されたにも関わらず、アイリスを狙っていたのもフリティラリアの影響だと思う。いくら記憶を消されたと言えど、あれだけ強大なものだ。その力が残留していてもおかしくはない。例としてさ、ミーシャは私たちと同じくらいの年なのに、ずいぶんと体がちっこいだろ? おそらくアレ、『アイリスと一緒になりたい』って望んだ当時のままの形を、フリティラリアが維持してるんじゃないかな」

「……では、ミーシャはフリティラリアに動かされていた、ということですか?」

「うーん、それも少し違うんだろうね。ミーシャは一緒になりたい、って願って、フリティラリアはそれを果たすために動いていた。どちらにもただ一つの望みのために動いてたのさ。ただ、少しだけ思いが強かっただけ。それこそあれだけの破壊を尽くすくらいのね」

 

 上手く言い表すことのできない自分に、ウイスティが苦笑を浮かべた。

 

「でもやっぱ、一人の人間がここまでの存在になるとは驚いたな。望んだものの性質を具現化させるなんて、今日び魔術や魔法でも見たことがない。元々私たちは眷属が別の世界のものだと仮定していたんだし、それも大幅に書き換えないと。全く、またアイリスに怒られるな」

「では私も一緒に謝ってあげますよ」

「嬉しいとは思うけどね。そうやって気遣ってくれるくらいなら、少しは手伝ったらどうなのさ。あんたが私の研究室に居る理由、もう忘れたの?」

「十年前の研究資料ならもう渡したはずですけれど……まだ足りませんでしたか?」

「足りない。ぜんっぜん。どうせまだ隠してるんでしょ。ほら、早く出してよ」

「ええと……そうですね、それでもう少しは保つと思っていたのですが……ジオラ、ソフィー」

「ほんとに隠してたのかい」

 

 額に手を当てながら嘆くウイスティをよそ目に、ローザが後ろの本の山へと声をかける。すると名前を呼ばれた二人はその本の山からぴょこりと顔を出し、手に持っている古びた箱をローザへと手渡す。

 

「はい、ししょー」

「……これ、でいい?」

「ええ。ありがとうございます。では引き続き、片付けの方をお願いしますね」

「はーいっ!」

「……りょ」

 

 とてとて、と小さく足音を立てて、ジオラとソフィーが再び本の山の中へと向かう。

 

「……あの二人も、この時のためだけに用意していたんですよ」

「だろうね。夢による願望の具現、それによって持ち上がった記憶の修復。フリティラリアを蘇らせるには、これ以上ない最適解だ」

「ええ。ですが、それを果たすことはできませんでした。もう彼女らに構っている暇などありません。そんな事、分かっているのに……愚かな魔女ですよ、私は」

「ああ。ひどく優しい魔女だね。それを自分で分かってるからなおさらタチが悪い」

 

 人懐っこそうな笑みを浮かべて、ローザが両手に抱えた箱の表面をなぞる。おそらく魔術的な結界でも作用しているのだろう、紅の紋章を描いた箱は、軋んだ音を立てながらひとりでに中身を空けた。

 

「これです。どうぞ、お取りになって下さい」

「あ? うーわ、ぼろっぼろじゃないか」

 

 中に入ってたのは、果たして古びた書類だった。それも、少し黄ばみが見えるような、長らく誰も触っていないという痕跡が見えるほどの、ぼろぼろになったもの。それを吟味するように手に取りながら、ウイスティが訝しげに呟く。

 

「なにこれ。日記……じゃないな。研究日誌? よく分からないけど……」

「十年前に書かれていたものの写しです。読めばわかりますよ」

 

 ぱりぱりと一枚ずつ固くなった紙をめくっていると、ウイスティがはたと気づいたように顔を上げる。

 

「……これ、もしかして」

「はい。フリティラリアを拘束していた際に記した、彼女の経過日誌です」

 

 笑みを浮かべたまま、ローザが淡々と告げる。

 

「本当に細かい所まで書いてありますので、黒魔法の原初についての研究を進めるなら、何かしらの役には立つかもしれません。ですが少々観測者目線のものも入っているかもしれませんから、そこは何とも言えませんね。もっとも、黒魔法ではなく、彼女自身を究めるのなら参考にはなりますが」

「……つまり、これの著者がミーシャの黒魔法を私たちが使える黒魔法にした、ってこと?」

「はい。そうなります。いずれ学会に発表しようかと思っていたのですが、少し内容に問題がありまして」

「だから写し、か」

「ええ、写しですとも。ほら、最後に筆者の名前も書いてありますよ」

「…………これ」

 

 彼女の示したまま、ウイスティが最後の頁へと目を走らせた。

 そうして彼女は、震えるように唇を開き、

 

「アイリス?」

 

 

「あーもう! ぜんっぜん終わらない! なんで本がこんなに沢山あるのよ!」

 

 散らかしたいくつもの本の中、ミーシャが嘆くように叫ぶ。ミーシャは片付けを始めると、気になった本を読み始めるタイプの愚かな黒魔女であった。無駄にした時間は計り知れない。というか計ろうとすると頭が痛くなった。

 時刻は既に昼過ぎを回り、そろそろアイリスがやって来る頃である。彼女の焦りを馬鹿にするかのように、撒き散らされた本はぴくりとも動かなかった。

 

「ってか白魔法の本が多すぎるのよ! なんで本棚三つも食ってるの? バカじゃないの? アホ! ドジ! 嫌い嫌い嫌いぃーっ!」

 

 こなくそっ、と投げつけた本は、彼女の魔力に導かれるようにして本棚の隙間へと入っていく。そのままぽいぽいと積み重なった本を投げていくと、宙を舞う本たちは羽ばたくようにして、空いた隙間へとその体を埋めていった。

 

「黒魔法の本は逆に少なすぎるし。あーもう、なんでこんなに少ないのかしら」

 

 手元にある黒色の本を見開きながら、ミーシャが不機嫌そうに呟く。目に映るのは、長い時間をかけて会得した、黒魔法の基礎だった。それらの記された知識を眺めながら、ミーシャがうーん、と考え込んだ。

 

「……思うに、あれだけ長い時間をかけて、出来た事をもう一度理解しただけなのよね」

 

 記憶を消されたミーシャが習得したのは、ただの黒魔法であった。それも、ミーシャが望めば簡単にできるような、身近なもの。それを改めて学ばせられていたという奇妙な感覚に、ミーシャは眉をひそめた。

 血の滲む――実際は血なんて一滴も出ず、出たのは知恵熱であった――ような努力の末に辿り着いたその真理に、ミーシャが頬を膨らませる。ぽい、と投げると、その本は真後ろの黒い本棚へと吸い込まれていった。

 そしてもう一度手に握るのは、真っ白な本。

 

「白魔法の本も、指南書ってよりはなんだか雑記みたいだし。これ、書いた人以外読めないんじゃないの?」

 

 悪態をつきながら、ミーシャが本を投げる。すっ飛んで行った本は、ミーシャの目の前の白い本棚へと収まった。

 

「あーってかもう本当に多すぎ! なんでこんなに多いのよっ! 研究所じゃないのよ、ここは!」

 

 これだけ効率化してもまだまだ終わらないのである。莫大な本の数に、ミーシャは何度目かわからない溜息をついた。

 わちゃわちゃと目の前に広がる本を掴んでは投げながら、ミーシャがぐぎぎぎ、と声にならない悲鳴を上げる。

 

「あれ?」

 

 と、ミーシャが手にした本に、ふと目を向ける。

 それは本というよりも、ぼろぼろになった紙の束であった。何枚にも積み重なったそれは既に風化して黄ばんでおり、虫にでも食われていたのか、所々に穴が空いていた。止めているヒモもぼろぼろになって今にも千切れそうになっており、その廃れた紙の束にミーシャは訝しげな視線を向けた。

 

「……かんさつ、にっ……き?」

 

 潰れて読めなくなっている文字を読み上げて、ミーシャがぱらりと頁をめくる。

 

「……は、まだ起……ない? あの……は、私を殺す……、望……た。な……ば、私は……されるべき……う。それ……彼女が幸せに……なら、……?」

 

 首を傾げたままで、ミーシャが目に映った文字を読み上げていく。

 

「――私は、彼女に殺されなければならない」

 

 ぽつりと。

 誰かの望みを、彼女が呟いた。

 

「ミーシャ?」

「うわぉあぁぁああ!?」

 

 唐突に掛けられた声に、ミーシャが手にした紙を撒き散らして叫ぶ。図書室に鳴り響くダミ声に、アイリスはあらあら、と困ったような笑みを浮かべていた。

 

「あ、な、なんでアイリスがいるのよ! ってかちゃんと来るときは言ってよ!」

「あら、ごめんなさいね。でもミーシャったら、何かに集中してるみたいだったから、つい」

 

 ふふ、と口元に手をあてて笑いながら、アイリスが足元へと落ちた紙を拾い上げる。

 

「それにしてもミーシャ、こんなのどこで見つけたの?」

「え? 本棚の片づけしてたら、出てきたけど……」

 

 本に包まれたその空間を見渡しながら、アイリスが口を開く。

 

「そうね、ここは本が多いもの。こういったのも混じっちゃうわよね」

「こういうの? アイリス、何かしってるの?」

「ええ、知ってるわ。でも教えてあげない」

「むぅ……何よそれ。気になるわ」

「ふふふ。でもね、ミーシャ。他人の日記って、あまり覗くものじゃないのよ?」

「日記?」

 

 首を傾げるミーシャに、アイリスは思い出したように告げた。

 

「それよりもミーシャ、掃除もそろそろにして、お茶会にしましょう? 今日は限定のケーキを買ってきたから」

「ほんと!? よし、それじゃあ早速準備するわ! すぐに行くから、いつものテラスで待っててね!」

「ええ。待ってるから、ゆっくりね」

 

 どたどたとミーシャが去ってゆき、静寂がアイリスを包む。

 手にした日誌に冷たい視線を向けながら、白魔女は忌々しそうに口を開いた。

 

「まったく、まだ残ってたのね。他人の家に上がり込んで書いた日記なんて、とてもあの子には見せられないわ」

 

 魔力が宿り、光輝がアイリスの手を包む。

 

「でも、これももう必要ない。あの子の望みは――もう、果たされたのだから」

 

 白光はぼろぼろの紙を焼き払い、虚無へと還していく。その紙の一片たりとも残さないように、純白の光が包み込む。 穢れの無い彼女の心を映すように、暗闇に包まれた彼女の心を照らすように。

 

 彼女の望みは、白く、白く――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれっ、もうこんな時間?」

 

「ええ。私もそろそろ帰らなきゃ」

 

「ん、そうだね。次はいつにしよっか?」

 

「ミーシャの好きな時でいいわよ? 明日でも、明後日でも」

 

「うーん……じゃあ、あさって! 明日は眷属さんたちのお世話しなきゃ」

 

「ええ。分かったわ」

 

「よーし、それじゃ、今日も書くとしますか!」

 

「あらミーシャ、それは?」

 

「ん? ああ、これ? 私ね、日記をつけることにしたの」

 

「日記?」

 

「ええ。これでまた記憶を消されても、あなたの事が思い出せるから」

 

「…………」

 

「……もう、そんな顔しないでよ。それに、私はこうして、あなたといられるだけで幸せなんだから」

 

 

「――そう、ね。私も幸せよ。ミーシャ」

 

「うん、私もよ、アイリス」

 

「それにしても日記なんて、ミーシャは続けられるの?」

 

「むっ、何よその言い方。ちゃーんと一週間も続いているもん」

 

「じゃあ昨日はなんて書いたの?」

 

「昨日? ええと……『魔法の研究に失敗した。ゲロが止まらなかった』」

 

「あらあら、それは大変だったわね」

 

「わ、笑わないでよっ! もう、アイリスったら……」

 

「ふふっ、ごめんなさい。それにしてもミーシャ、その日記って名前はあるの?」

 

「名前? 日記に名前なんてつけるの?」

 

「私はそうしたわ。そうすると、自分だけのものになって、少しだけ特別な気持ちになるから」

 

「ふーん……あっ、じゃあ私いいの思いついたわ!」

 

「あら、そんなにすぐ? どんなのか聞かせてくれる?」

 

「ふふふ、もちろんよ! この私、黒魔女のミーシャが記した、偉大なるにっき! その名も――」

 

 

 

 

 

 



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外伝『紅魔女ローザの婚活日誌』
01


お久しぶりです


 

「そういえばミーシャ、結婚に興味はないの?」

 

 とある午後の昼下がり。

 ミーシャの屋敷で開かれるいつものお茶会の中、アイリスはそう対面する黒魔女へと問いかける。口いっぱいにケーキをほおばる彼女は、翡翠の瞳を見つめると、こてん、と首をかしげて問い返した。

 

「ん? なんで?」

「年齢的にそうだな、って思って。ミーシャはどう? 結婚したい?」

「そうね、結婚かあ……」

 

 フォークの先を咥えたままで、ミーシャがそう思考にふける。

 結婚。男の人と添い遂げる、お嫁さんになるアレだ。人生の墓場と言う人もいるし、女の子の夢だと言う人もいる。けれどミーシャにとって確かなのは、それが人づてに聞いたことで、自分自身の知見は皆無だということだった。

 うんうんとうなり続ける彼女に、アイリスがくすりとほほ笑む。

 

「あんまり考えたことない?」

「……そう、ね。どんなものかの興味はあるけど、それだけ、って感じ。それに私、結婚してくれるような男のひとの知り合い、いないもの」

 

 べつに気にしてないけど、とアイリスにフォークを向けたあとに、またミーシャがケーキへと手を付ける。既に五皿目、横に積まれた白い皿へと目を配らせながら、アイリスはふぅん、と呟いた。

 

「別に、結婚するなら男の人じゃなくてもいいのよ?」

「……女のひととも結婚できるの?」

「もちろん。ミーシャがそうしたいのなら」

 

 そう言われて、ふとミーシャがもう一度考える。

 身近な女のひと。結婚を許してくれそうなひと。ずっと一緒にいてくれそうなひと。好きになれそうなひと。

 

「ミーシャ? どうしたの?」

「……な、なんでもない」

 

 笑顔のままのアイリスに、どうしてか恥ずかしくなって、ミーシャが顔をそらした。

 

「そ、それよりアイリスはどうなのよ。結婚とかしないの?」

「私はいいかな。今はそうしたことも考えてないし、一人の方が気楽だし……まあ、したいなって思う時はあるけど。でも、結婚するよりこうしてミーシャと過ごせるほうがいいのかな、って」

 

 紅茶の入ったカップを覗きながら、アイリスは優しい声で告げた。

 そのまま紅葉の色をした液体を喉に通すと、彼女はどこからか一枚の手紙を取り出して、机の上へとそれを滑らせる。今まで顔を真っ赤にしていたミーシャは、指先に当たった一枚の封筒に気づくと、それを急いだようにして取り上げた。

 

「アイリス……なにこれ? お手紙?」

「そうよ。開けてみて」

 

 先程からにこにことしたままのアイリスへ少しだけ訝し気な視線を向けながら、ミーシャがその手紙の封を切る。開かれたその封蝋には、鷲と獣の体を合わせたような、何かの動物を象った紋章が刻まれていた。

 ぺらり、と中に入っていた紙を手の中で開けて、その文字列を読み上げる。

 

「……夜会の招待状?」

 

 体が少しだけ強張るのを、ミーシャは感じていた。

 

「……親愛なるミーシャ様へ。此度は、ロジェクト王国にて開かれる夜会を開く予定です。つきましては、あなたにこの夜会へ参加していただきたく、この招待を遅らせていただきました。ミーシャ様の参加を、心よりお待ちしております。もし参加のご意向があれば、こちらの招待状をご持参ください……エムレス家の当主、アルヴァニア・エムレス」

 

 聞き覚えの無いその名前に、ミーシャが首を傾げる。

 そんな彼女の意志を汲み取って、アイリスは話を始めた。

 

「彼はね、私の知り合い」

「……いつからの?」

「そうねえ……子供のころ、ちょうどミーシャちゃんと離れちゃったころかしら。私ね、親に言われてその人のところに嫁ぐ予定だったの」

 

 一つひとつを思い出すように、彼女がぽつぽつと続けていく。

 

「でも実際はそこまで悪い人じゃなくてね。私の環境を慮ってくれたりして、結婚を断ってくれたのよ。それでミーシャのことも話したら、早く行ってやれ、とも言ってくれて」

「……いい人なんだ」

「そうよ? 私の恩人みたいなひと」

 

 どこか遠くを見つめながら呟く彼女に、ミーシャも柔らかな笑みを浮かべた。

 カップの中身をくるくると揺らしながら、アイリスがまた思い出したように口を開く。

 

「それで、今回の夜会は彼……ではなくて、彼の両親が開いててね」

「うん」

「その目的が、彼の結婚相手を決めることなのよ」

「……うん?」

 

 裏返った声で、ミーシャがアイリスへと問い直す。

 

「言っちゃえば、うちの息子と結婚したい人は集まって、ってこと。だからミーシャ以外の人にもその招待状は送られてるの」

「えーと……そんなにこの人、結婚したいの?」

「彼にその気はないんだけどね。まあ、どちらかというと、集められる人たちが彼と結婚したいみたいなの」

「……なんで?」

 

 頭の上にいくつもの疑問符を浮かべながら、ミーシャがそう問いかける。

 

「だって、アルヴァニアの父親は今のロジェクトの王様だもの。その人と結婚するってことは、つまりロジェクトのお姫様になるってことよ」

 

 なんでもなしにそう口にする彼女に、思わずミーシャはがたん、と立ち上がる。

 

「そ、そんな大事なこと、そんな方法で決めちゃっていいの!?」

「まあ、王様が言ってる事だから。それに、彼もこの招待状を出したってことは、その意志が少なからずあるってことよ。ま、彼にそんな余裕があるとは思えないけど」

「だ、だからってこんな……」

 

 手の内にある招待状へと目を落とすと、ふとミーシャはあることに気づいた。

 

「……この招待状を送られた人は、お姫様になれるんだよね」

「正確にはその権利がある、ってところだけど」

「……私のところに招待状があるってことは、つまりそういうこと?」

「ああ、それは……うん、そうね。でも……」

 

 よくよく考えてみれば、当然の反応だ。結婚というものに興味がないのに、こんな手紙を渡されても困惑するだけだろう。それに、ミーシャは彼――正確には彼の親御のやり方には疑問を感じているらしい。

 少しだけ先走ったかな、と申し訳ない気持ちになりながら、アイリスがミーシャの持つ招待状へと手を伸ばす。

 

「ミーシャは、興味ないものね。出すべきではなかったわ」

「…………」

 

 けれど、それが彼女の手へと渡ることはなかった。

 

「……ミーシャ?」

「ねえアイリス、この人って王子様なんだよね?」

「ええ、そうね。違いないわ」

 

 ぎゅ、と招待状を渡さんとばかりに握り締めるミーシャに、アイリスが戸惑いながら答える。

 

「……結婚した夫婦って、いろいろ都合が効くよね」

「まあ、ある程度は聞いてくれるんじゃないかしら」

「ってことは、黒魔術の実験材料にしても許されるよね」

「ん? え、いや、さすがにそれは――」

 

 だん!

 

「決めたわ、アイリス! 私、この人と結婚する!」

「えっ」

「それで、黒魔術の研究をもっと進めるのよ! 昔っから貴族の血は貴重なものって言われてるんだから、この人の血もきっと何かに使えるに違いないわ! ぜったいお姫様になって、この人の血を貰うのよ! 八リットルくらい!」

 

 椅子から立ち上がり、高らかにそんなことを叫ぶ親友に、アイリスの胃がキリキリと痛み始める。まず、人体に血液はせいぜい四リットルほどしかないところから指摘すればいいのだろうか。

 確かに興味とはいったが、そういう意味ではない。ナチュラルに人体実験を行おうとするミーシャへ、アイリスがおそるおそる問いかける。

 

「……ミーシャ、本当にその人と結婚したいの?」

「もちろん! それに私、いいお嫁さんになれそうでしょ?」

 

 孫娘にはなれそう、という言葉を、アイリスは何とか押しとどめた。

 

「その、招待状はミーシャ以外のひとにもいっぱい送られたのよ? お嫁さんになるにはその中で勝ち残らないと……」

「そんなもの、何とかしてみせるわ! なんたって私は、黒魔女のミーシャだもん! そこで勝ち残るくらいじゃないと、黒魔女どころか魔女すら名乗れないわ!」

 

 既にミーシャの頭の中には、勝利までの道筋が描かれている。ようは集まっているところをまとめて潰せばいい話だろう。それくらい、眷属に頼らなくても一人でできるもん。婚活も大したことねえな。

 などと考えていると、ふとした疑問が思い浮かび、ミーシャがアイリスのほうへと視線を向ける。

 

「そういえばアイリスには招待状、来てないの?」

「ええ。だって私は、彼の友達だもの。結婚する気はさらさらないわ」

「ふーん……そう」

「あ、でもその夜会には行くわよ?」

「え? なんで?」

 

 純粋なミーシャの疑問に、アイリスはくすり、とほほ笑んで、

 

「私ね、彼のお嫁さんがふさわしいかどうかを決める審査員なのよ」

 

 そう言ったアイリスに、ミーシャは一瞬だけ固まると、元の席にゆっくり座りながら、おずおずと食べ掛けの――もうほとんど欠片になったケーキを差し出した。

 

「その……つまらないものですが……」

「あらあら、もしかして賄賂? そんな汚い手を使う人、減点しちゃおうかしら」

「あーッいや待って! これやっぱり私の! ほら、間接キスになっちゃうし!」

「いただきまーす」

 

 ミーシャの静止の声も空しく、最後のひとかけらがアイリスの口へと入っていく。まるでこの世の終わりが来るかと思わんばかりの表情になって、ミーシャは震える瞳をアイリスの方へと向けた。

 

「あ、アイリス……これは違くて……」

「やっぱり美味しいわ、このケーキ。気分も良くなってきたかも。今なら、あの人に気にいられること、教えちゃいそうだわ」

 

 うつぶせになったミーシャががばりと顔を上げると、アイリスはそれがおかしくて、また笑みをこぼした。

 

「げ、減点は……!」

「そんなことするわけないでしょ? それに私、ミーシャがやりたいことなら全力で応援するつもりだもの。だからあなたがお姫様になることも応援するわ」

「天使! 聖母! アイリス大好き! 白魔法サイコー!!」

 

 手放しで喜ぶミーシャに、アイリスも頬に手を当てながら笑う。その結末に人体実験による親友の危機が迫ろうと、今の彼女の笑顔を見れば、些細なことに思えた。

 少しの申し訳ない気持ちを心の中にしまいながら、アイリスが少し考えてから声をかける。

 

「とりあえずミーシャちゃん、お返事のお手紙を書いたらどうかしら? アルヴァニアもあなたのことを知らないし、ここで挨拶すれば、覚えてくれるかもしれないし」

「なるほど! じゃあ早速!」

 

 そうと決まれば、こんなところでのんびりいている場合ではない。すぐにケーキの皿を片付けて、紅茶のぐびぐびと飲み干すと、ミーシャは取り出した杖をくるりと振って、屋敷のどこからかペンと手紙を呼び寄せた。

 意志を持つようにミーシャの前へと滑りこむ手紙へ向けて、ミーシャがペンを執る。

 

「えーと……『アルヴァニアさまへ』」

「うん」

「『やっほー! 元気してる?』」

「待って」

「『今回は、あなたの血を頂きに来ました! だいたい八リットルくらい』」

「ミーシャ」

「『黒魔術のさらなる発展のための、尊い生贄になってください!』」

「本当に待て」

 

 ある午後の昼下がり、二人の少女の声が、屋敷へと響き渡る。

 かくて、ミーシャの日記へ新たな一文が刻まれるのは、もう少し先のことだった。

 

 




というわけで外伝開始です 一周年記念ってことで
詳しいことは割烹に載せとくのでよろしければそちらへ


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02

 

「アル様」

 

 そう自らの名前を呼ばれ、アルヴァニア・エムレスはペンを動かす手を止めた。机の上に使い古した筆をおくと、軽く首を鳴らしてから、声のする方へと視線を投げる。

 

「どうした、ジーク」

「お手紙がございます」

 

 閉めた扉の前に立つのは、燕尾服を羽織る老齢の男性であった。

 ジークと呼ばれた彼は、かつかつと執務机の前へと歩み寄り、手に持った一枚の封筒をアルヴァニアへと差し渡す。しかし彼はすぐにそれを受け取ることはなく、深いため息をついたのち、やけに穏やかな表情を浮かべている彼と視線を合わせた。

 

「……またか?」

「はい」

「悪いが、取っておいてくれ。読む気になれない」

 

 眉間を強く抑えながら、アルヴァニアが手で払うような素振りを見せる。最近になって何度もなされるこのやり取りに多少の苛立ちを感じていたが、しかしどうしようもないことだ、とも割り切っていた。

 はあ、と再び漏らした溜め息は、とても重たいものに感じられる。

 アルヴァニアにとって、今回の夜会は非常に気の進まないものであった。

 

「お疲れのようですね」

「だってそうだろう。こんな……身勝手なことがあるか」

「やはり治りませんか」

「……女性は、苦手なんだ」

 

 絞り出すように呟きながら、アルヴァニアが顔の前で手を組んだ。

 個人としての女性の誰かが苦手なわけではない。といって、誰か一人の女性に罪があるわけでもない。単純に苦手というか、通じ合うことが難しいというか。何とか説明を続けようとしても、アルヴァニアの頭には、抽象的な言葉しか浮かんでこない。

 要するに経緯を説明することはできないが――アルヴァニア・エムレスという男は、自他ともに認める、極度の女性嫌いであった。

 それこそ親が呆れ、各地から結婚相手の候補を呼び寄せてしまうほどに。

 

「別に彼女らに何かをされる、というわけではないでしょう。不安を感じておられるかもしれませんが、その時は私が……」

「そういう問題じゃない……わかるんだ、心配をしすぎたというのも。ただ、感覚だけで決めている、というのも。でも……やっぱり、慣れないものは慣れない。だから、すまない。それはとっておいてくれ」

「本当によろしいのですか? どうやら、アイリス様のご友人からのようですが」

「なに?」

 

 出されたその名前に、アルヴァニアが顔を上げる。

 

「確か……ミーシャ、といったか。彼女の友は」

「はい。差出人もそのようになっています。どうされますか?」

「……少し、貸してくれ」

「どうぞ」

 

 考えを絞り切って出した手に、ジークはにっこりと頬へ皺を寄せながら、右手に持ったそれを差し出した。

 

「やはりアイリス様には甘いのですね」

「当然だろう。彼女は友だからな。彼女の紹介であれば、受け取るというものが礼儀じゃないのか……少し、贔屓な気もするが」

 

 そう軽く笑いながら、やや遅い手つきで封を切ると、アルヴァニアはその文字列へと目を落とす。

 

『アルヴァニアさまへ』

「ふむ」

『やっほー! 元気ですか? 私はとっても元気です!』

 

 ぱたん。

 

 

「どうされました?」

「いや……なんだか、その…………予想の斜め上を行くというか」

「それは面白い。とうとうアル様の興味を惹く女性が現れたと」

「違うだろう。これは女性というか……」

 

 女児というか、幼女というか。

 頑張って綺麗に整えた文字へと目を通しながら、アルヴァニアは改めて手紙を読み進めた。

 

『今回はアイリスのお誘いで、お嫁さん決定戦に参加します!』

「お嫁さん決定戦……なるほど。言い得て妙だな、これは」

『私の目標はもちろん一位です! それで、アルヴァニアさんのお嫁さんになって、王族の血を手に入れようと思っています!』

「……やはり、皆それが目当てか……」

『具体的には一リットル/dくらいで貰えると嬉しいな、って思います!』

「待て!!」

 

 思わずがたん、と立ち上がると、ジークがはて、と首を傾げる。

 

「どうされました」

「ジーク、お前これちゃんと読んだのか!?」

「はい。アル様の側近として、手紙は全て閲覧するようにしていますが……」

「なぜこれを通そうと思った!? 明らかに脅迫みたいなものがあるだろうが!」

「そうでしょうか? 意気込みがちゃんと書かれていて、よろしいと思います」

「私がおかしいのか……?」

 

 痛んでくる頭を押さえながら、アルヴァニアは腰を下ろす。

 読み進めるのがだんだんと怖くなってきた。

 

『あと、血だけじゃなくて髪の毛とか爪とか、いろいろ貰いたいと思っています』

「狂気だな……」

『それと、他の参加者もたくさんいるみたいですが、私の魔法だったら負けません! 私は黒魔女なので全員をかんたんに吹き飛ばせます! そこが私のアピールポイントです!』

「ジーク、彼女は本当に今回の趣旨を理解しているのか?」

「元気そうでよいではないですか」

 

 そういう問題ではない、と突っ込もうとしたが、最早その気力すらない。

 背もたれへ一度もたれかかり、天井を仰いで抜けるような息を吐くと、アルヴァニアはまた手紙へと相対する。ある意味、戦いのようなものでもあった。

 

『というわけで、これで手紙を終わりたいと思います! ここまで読んでくれてありがとうございました!』

「やっとか……こんなに読んでいて疲れる手紙は、初めてだ……」

『なおこの手紙は、アルヴァニアさんが読み終えた、その五秒後に魔法陣が起動して』

「…………? おい、これはどういう……」

 

「私が召喚されます!」

「は?」

 

 響き渡る少女の声と共に、手紙の表面へ魔法陣が浮かび上がった。

 淡い紫の色をしたそれは、意志を持つように机の上へと移動すると、その表面から眩い光を放ち出す。溢れんばかりの閃光に、アルヴァニアは思わず腕で目を覆う。そうして彼が次に目を開いたのは、数秒が経ってのことだった。

 

「い、一体何が……?」

 

 最初に見えたのは、黒い靴。だんだんと視線を上へ移していくと、黒いローブに、黒い杖に、黒いマントが目に映る。夜闇を更に深くしたようなその色の中、ただ一つ輝いていたのは、星のような金のひとみ。

 同じような金糸の髪の上に載せられているのは、トレードマークの三角帽子。

 その視線が交錯すると、机の上に立つ彼女はにかり、と太陽のような笑みを浮かべながら、

 

「というわけで、こんにちは! 私はミーシャ=エリザベート! これからよろしくね!」

 

 そう、言い放った。

 

 

「……つまり君が、あのアイリスの友人であるミーシャだと」

「そうよ、黒魔女のミーシャ。あなたがアルヴァニアさんね?」

「ああ。それで、こちらがジーク。私の執事だ」

「アル様の身の回りのお世話をさせて頂いております。以後、お見知りおきを」

「うん、よろしくね!」

 

 ぺこり、と深く頭を下げるジークに、ミーシャがうんうん、と首を振る。

 そんな彼女に、アルヴァニアは未だに疑うような視線を向けることを、やめられないでいた。執務机の上に立ったまま、先程まで書いていた書類をガッツリ踏みつけていることにも、気付かなかった。

 

「しかし……アイリスに、こんな小さな友人がいたとは」

「小さい?」

「ああ。見たところ、十三歳か四歳ほどだろう?」

「ううん、違うよ? 私、二十五歳だもん。アイリスと同い年」

 

 きょとんとした顔で答えるミーシャに、アルヴァニアがまた頭の上に疑問符を浮かべて固まる。そうして何も発さなくなった彼に、ジークがこっそりと彼の側へと通って、耳元で囁いた。

 

「よかったですね、二歳差です。法にも道徳にも引っかかりません」

「いやそれが問題だろう。明らかに異常ではないか!」

「まあ、そういった方もいるということで。世界は広いですから」

「私の友人だぞ!? 狭いわ!」

 

 ひそひそと何かを話す二人をよそに、ミーシャはきょろきょろと辺りへ視線を巡らせる。

 赤い絨毯の敷かれた、本棚に囲まれている大きな執務室。自分が立っている机以外にも、部屋の左後方にはソファーに囲まれたテーブルがあって、その反対には何かの症状とか、盾とかが置かれた棚がある。

 そして自分の真後ろの壁には、大きな扉が一枚。

 執務机からぴょん、と飛び降りると、ミーシャはその方へと駆けだした。

 

「……え、エリザベート嬢!? どこに!?」

「お外! お嫁さんになるんだから、間取りも確認しないと!」

「いや、そんな勝手に……ああもう! 悪いジーク、少し行ってくる!」

「いってらっしゃいませ」

 

 背もたれへとかけた上着をとって、アルヴァニアが急いでミーシャの後を追う。数日ぶりに執務室から出ていく主の姿を、ジークはほっこりとした笑みで見送った。

 

 

 廊下は長く、窓の外からはけだるい昼の日差しが入り込んでくる。壁には誰かの描いた肖像画とか、風景画とかが一定の感覚で飾られていて、その前を黒い三角帽子の影が過ぎていった。

 

「私のお屋敷より大きいわね……掃除とか、もっと頑張らないと」

 

 胸の前で両手をぐっと握りながら、ミーシャがそうひとりごちる。

 曲がり角を進んでいくと、少し進んだ先に大きな階段があるのが見える。そちらへと足を進め、階段をどたどたと降りた先には、大きな広間になっていた。

 向かい側と合わさるような踊り場で立ちすくみながら、ミーシャが天井を見上げる。華美な装飾がほどこされたそれは、ミーシャが何人縦に並んでも、届かないようにみえた。

 そんなことを考えていると、ふと後ろから、覚束ない足音が聞こえてくる。

 

「え、エリザベート嬢……! ちょっと、待ってくれ……!」

 

 振り返ったそこには、膝に手をついているアルヴァニアの姿があった。

 

「あれ? アルヴァニアさん? どうしたの?」

「それはこっちのセリフだ……勝手に出ていくものだから」

 

 ふぅ、と額の汗を拭い、呆れたように呟く。

 

「でも、お嫁さんになるんだから、この宮殿の間取りも確認しとかないと」

「だったらなおさら私が必要だろう? もし宮殿の中で迷ったらどうするんだ?」

「……そっか!」

「素で忘れてたのか?」

 

 ぽん! と手を叩いて頷くミーシャに、アルヴァニアはがっくりと肩を落とした。

 

「とにかく、宮殿を見て回るのなら私が案内する。ゆっくりな」

「でも、アルヴァニアさんもお仕事とかあるんじゃないの?」

「だからといって、客人を放っておくわけにはいかない。せっかく来てくれたんだ」

 

 というか、放っておいたら何が起こるか分からない。あの手紙だけで、アルヴァニアはミーシャの危険度をおおまかに把握していた。最悪衛兵を呼ぶ。

 心の中だけで付け足しながら、アルヴァニアが階段を降りていく。こつこつと進んでいく彼にミーシャもついていくと、そちらへと目をやりながら、口を開いた。

 

「とりあえず、行きたいところはあるか? 見ておきたいところとか」

「んー……じゃあまず、お外から! どんな宮殿かわたし、知らないし!」

「外はあちらだが……今はやめておいたほうが」

 

 階段を降りた先にある扉を指さしながら、アルヴァニアがそう告げる。両開きらしいそれは、駆け寄ったミーシャが手をかけると、すんなりと開いてくれた。

 

 外に出ると、そこに広がっていたのは――緑であった。

 ミーシャの背ほどにまで伸びた雑草に、遠くに見えるのは宮殿の全体を囲む森。道らしきものはかろうじて、という様子で通っており、進むにはいくらか草を掻き分けていくしかないらしい。

 玄関を飛び出して、そのままの勢いで草むらへと突っ込んだミーシャは、身をもって体験した。

 

「な、なにこれ!? 草ぼーぼーじゃん!? トウモロコシでも育ててんの?」

「……だから、今はやめた方がいいと」

 

 同じ様に扉をくぐりながら、アルヴァニアははあ、と溜め息を吐いた。

 

「元々、ここは十数年前まで抱えていた魔女の宮殿だったんだ。私としても、ここを個人的な意味で夜会には使いたくなかったんだが……父上が手当たり次第に知り合った女性へ招待状を送るものだから。規模的に、ここでしか開けなくなってしまって」

「じゃあ、まだ掃除はできてないの?」

「ここだけな。中や庭の掃除は済んだんだが、どうにも玄関は量が多くて。明日、庭師を何人か雇って間に合わせるつもりだ」

 

 不甲斐ない、と頬をかきながら、アルヴァニアが自嘲気味に笑う。しかしながら、ミーシャは少し何かを考えたそぶりをすると、ぽんと手を叩いて、アルヴァニアの方へと向き直った。

 

「ねえ、アルヴァニアさん」

「どうした?」

「もし玄関の掃除をしたら、誉めてくれる?」

「客人にそんなことはさせられない……と言いたいところだが、人手が増えるのはありがたい。謝礼は望むものをしよう」

「ほんと?! じゃあ、今からするから!」

「ああいや、待て。明日には他の手伝いもくるから、それまで――」

 

 アルヴァニアの静止を聞くことも無く、ミーシャが手に握った杖を地面へと突き立てる。瞬間、先程と同じ様な紫色の光が迸り、彼女の足元を中心に、複雑な紋様の魔法陣が辺り一面へと広がった。

 

「これ、は……!」

 

 自らの足元をも蝕むそれに、アルヴァニアが声を詰まらせる。しかし前を剥くミーシャはそんなことをつゆも知らず、口元に得意げな笑みを浮かべたまま、その名を呼んだ。

 

「おいでませ、古き森の災厄さん!」

 

 紡いだ言葉が、終焉を顕現させる。

 激しい地鳴りと共に、魔法陣から枯れた蔓が幾重にも伸びていく。それはだんだんと絡み合って、ミーシャを包み込むような、巨木へと形を変えた。

 そして、その上部に形作られるのは、歪んだ人のかたち。ぎりぎりと締め付けるような音を立てながら、その陰は手に一つの杖を握る。自らを包む籠のような蔦はいつからか自分から開くようになって、そこから体を出すと、伸びた蔓がミーシャの頬を撫でて、

 

「呼んだか……ミーシャよ……」

「うん!」

 

 枯れ果てたそれを手に取りながら、ミーシャは大きく頷いた。

 

「久しぶりだね、災厄さん! 元気してた?」

「ああ……変わらぬ。そちらも、元気そうで……」

 

 と。

 何か異変に気が付いたのか、災厄はぎりぎりと体をねじらせながら、後ろの方へと視線を向ける。

 

「……これ、は」

 

 そこにいたのは、その場にへたり込んでいる、アルヴァニアであった。

 

「ミーシャ……彼は、一体……」

「んー、あの人? えっとね、アルヴァニアさんって言って、私の結婚相手!」

「結……婚……相手……」

 

 ぱぁん、と災厄の足元から、一本の蔦が伸びる。

 それは正確にアルヴァニアの襟元を貫くと、強い力を持って彼の体を災厄の眼前へと引き寄せた。

 

「貴様……如何様にしてミーシャを唆した……!」

「そ、そそのか……? 違うぞ!? エリザベート嬢からこちらへ……!」

「無駄だ……そのような浅い言い訳が通用するか! 自らの考えを戒め、その身をもって償うがいい! 貴様に与える果実などないわ!」

「わー! ストップストップ! 災厄さん、やめてよっ!」

 

 眼球を貫かんと伸びた蔦が、アルヴァニアの前で動きを止める。

 そのまま蔦を足元へと収めると、災厄はゆっくりとミーシャの方へと問かけた。

 

「……では、本当にミーシャ、が?」

「そうだよ! アルヴァニアさんと結婚して、黒魔術の研究に使うんだから! だから、早く降ろしてあげて!」

「しかし……」

「いいから! これ以上アルヴァニアさんに変なことすると、しまっちゃうからね!?」

 

 もう、と災厄へ指をさすと、すんなりとアルヴァニアの体が地面へ降りる。普通に研究材料にされると言われたが、今のアルヴァニアにその言葉を拾う余裕などなかった。

 

「しかし、ミーシャよ……結婚か……」

「うん、そうだよ。どう? いいお嫁さんになれそう?」

「ああ……そなたなら、立派な伴侶になるであろう。しかし……だからこそ、よく考えてほしい。本当に、彼はそなたとこの先の道を添い遂げるものであるか。彼は、そなたの幸せに貢献してくれるものなのか。そなたが決めたことならば、私はそれを応援しよう……だが、立ち止まれれるのなら、もう一度。それが、そなたが幸せになれる確かな道なのだから」

「一番マトモじゃない恰好のがマトモなことを言ってるな……」

 

 思わずそう呟くと、それに気が付いたミーシャと災厄が、同じようにアルヴァニアへと視線を投げる。するとミーシャの方は急いで彼の方へと駆け寄って、その顔を覗き込んだ。

 

「ご、ごめんなさいアルヴァニアさん! 災厄さん、なんだか勘違いしちゃって……」

「大丈夫だ。いや、正確には問題しかないが……ともかく、私は無事だ」

「そっか……よかった。ほら、災厄さんも迷惑かけちゃったんだから! ちゃんと謝らないと!」

 

 腰に手を当て、頬を膨らませるミーシャに、災厄がまた蔦を伸ばす。しかしながらその動きはゆっくりで、アルヴァニアの前へと出てくると、そこから一つの黄色い果実を実らせた。

 

「ガリルの実だ。少し酸味は強いが……良い香りを放つ」

「はあ……」

「……すまなかった。だが、ミーシャを不幸にさせたその時は……覚えておくように」

 

 そう、言葉と同時に落とされた実を、アルヴァニアが両手で受け取る。

 

「ミーシャ、そなたにもこの実、を……どうか、手を」

「うん!」

 

 そのまま伸びた蔦は同じようにミーシャの手のひらの上に木の実を落として、まだ災厄の足元へ戻ってゆく。

 

「してミーシャ、此度は如何様に」

「あのね、この辺りの草むらをぜーんぶ刈っちゃって!」

「請け負った……では、それを食む前に、全てを」

 

 そうして災厄が杖を空に掲げると、黒い瘴気のようなものが杖の先端へと集ってゆく。青かった空はいつのまにか暗くなっていて、それが集まっている瘴気によるものだと気が付いたのは、杖が先端から末端にかけて黒く染まったのを見てからだった。

 しゃく、とミーシャが黄色の果実へ、歯を立てる。

 

「この地に在りし森の精よ! 我が声に、我が意志の下に!」

 

 そして災厄が杖を突きたて、終焉を齎した。

 扇状に広がった瘴気は先程まで茂っていた雑草を一瞬で塵へ変え、周囲の一帯を荒れ果てた大地へと変貌させる。何も残っていないその大地へ、災厄は再び杖を掲げた。

 太陽の光が杖へと集積し、光の粒が舞い始める。そうして災厄は杖を勢いよく振ると、その荒れた大地へ、光の粒子を散りばめた。

 

「ここより、世界へ繁栄を……我が主を祝福する、限りの無い、賛歌を」

 

 ぽつり、と。

 ひとつの蒼いつぼみが芽吹き、小さな花を芽吹かせる。

 荒廃した地は一瞬にして淡い蒼に染まり、大地の果てまでを塗り替える。広がるのは一面の青い花畑であり、それは広がる蒼天を映したようにも見えた。

 一瞬にして風変りしたその景色に、アルヴァニアは口を開けたまま。

 足元で眼前の風景へと目を馳せる彼女に、災厄がぽつりとつぶやいた。

 

「……魔力の質が、良い」

「そうなの?」

「この地には……誰かの、魔力が残留している。この蒼も、きっとその魔女のものなのだろう。しかし、これほどとは……素晴らしい」

 

 珍しく饒舌になる災厄にちょっと嬉しくなりながら、ミーシャが最後の果実のかけらを口の中へ放り込む。そうして後ろを振り返りながら、アルヴァニアの方へと声をかけた。

 

「はい、アルヴァニアさん! ちょっと変わっちゃったけど……でも、草刈り終わったよ! どう? すごいでしょ!」

「……ああ。想像していたよりも、遥かにはやく終わったな」

 

 杖を立てたまま動かない災厄を見上げながら、アルヴァニアがそう呟く。そうして初めて果実を口に含むと、少しの苦みと、柑橘系のさわやかな香りが鼻に抜けていった。

 広がるのは、空の蒼。

 

「……魔女か」

「そう! すごいでしょ? 私の黒魔法!」

「え? あ、ああ……そうだな。庭師を雇う金も浮いたし……本当に、助かったよ」

「ほんと!? よし、これでお嫁さん力アップね! 掃除だってできるんだから!」

 

 自分で掃除をしていることに気が付いてないが、ミーシャはそう両手を握り締める。

そんな彼女の頬を蔦で撫でると、災厄は彼女の方を向きながら、ぼそりと呟いた。

 

「では、ミーシャ……私はこれで……」

「ありがとね、災厄さん! ばいばーい!」

 

 はらはらと花びらが散るように、枯れた蔦がほどけてゆく。そうして古木の巨人は魔法陣の中へと姿を消してゆき、それを見送ったあとに、ミーシャは改めてアルヴァニアの方へと振り向いた。

 

「……もしかして、アルヴァニアさんって魔法に慣れてる?」

「ああ。この宮殿に住んでいた魔女は、私の子供のころにはいたから……それで、何度か魔法を見せて貰っていた」

「だから、災厄さんが出てきてもあんまり怖がらなかったの?」

「驚きはしたが……まあ、魔法なら何でもありなんだろう? それに、こう見せられれば納得するしかあるまい」

「……そっか!」

 

 疲れたように言うアルヴァニアに、ミーシャが抱えた不安を払う。

 

「災厄さん、初めて見る人は怖がってたから。でも、アルヴァニアさんは慣れてたみたいだし、この調子だと他の眷属さんとも仲良くできそう!」

「……あんなのが、他にもいるのか?」

「うん! そのうちみんなも紹介するから、楽しみにしててね!」

 

 ぶい、とピースサインを掲げるミーシャに、アルヴァニアが乾いた笑いで返す。

 運命の夜会まであと三日。既に彼の胃は、限界に達しそうだった。

 

 



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03

 

 プリンである。

 

「ほんもみもみむみんもみみーもめ!!」

「ちゃんと飲みこんでから喋りなさい」

 

 一回にある大きな食堂、いわゆるお誕生日席に座るミーシャは、スプーンを握り締めながらそう声を上げた。机の角を挟むようにして座るアルヴァニアは溜め息をついて、何本もの瓶詰めにされたプリンへと目を落とす。

 

「しかし、謝礼というのがこんなものでいいのか?」

「いいのいいの! だって、このプリン本当においしいんだもん!」

 

 空になった瓶を机の端に置いて、ミーシャが更にプリンの山へと手を伸ばす。累計六瓶目、そろそろ味に飽きてきそうな頃合いのはずだが、彼女の食指は止まるような様子を見せていない。

 頬に手を当てながら舌鼓を打つ彼女に、アルヴァニアも自然と顔に笑みを浮かべていた。

 

「それにしてもアルヴァニアさん、こんなに美味しいお菓子つくれるんだね」

 

 六瓶めを空にしたミーシャが、ふいにそんな言葉を口にする。

 

「気に入ってもらえたようで何よりだ。数少ない趣味の一つだが」

「ほんとに美味しいよ! この腕前なら、お店だって開いてもおかしくないもん!」

「誉めてもそれ以外は出てこないぞ」

「私からしたらそれでも充分! もう一個もらうね?」

 

 にま、と口元にプリンのかけらをつけながら、ミーシャが笑う。そんな彼女につられて、アルヴァニアも口元を緩めて、語り始めた。

 

「昔、魔女がいたという話はしたと思うが」

「この宮殿の持ち主だったんだよね」

「ああ。彼女は私の母親のような存在だったんだ。実の母親は私が産まれた直後に体を弱くして死んでしまったらしくて。父は政で忙しいし、一人だった子供の私の面倒を彼女が見てくれたんだ。このプリンも、その時に作り方を教えて貰った」

 

 ゆっくりとスプーンを口に運ぶと、ほんのりと甘い香りが喉の奥へと抜けていく。まろやかな舌触りと、しつこくない味わいが、先程からいくらか疲れているアルヴァニアの心を落ち着かせてくれた。

 そんな間にも既にミーシャはプリンを食べ進めていて、にっこりとした笑みを浮かべてまま。初対面でも分かる気分の良さに、思わずアルヴァニアが口を開いた。

 

「そんなに美味しそうに食べてくれるのは、君が初めてだよ」

「えっ、そうなの?」

「というより、他人にこんなもてなしをすることが無かったからな……私の作ったものを食べて貰うことが、初めてのことだ」

「ええ、もったいない! こんなにおいしいお菓子作れるなら、もっと女のひとにモテそうなのに」

「それは……少し、困るな」

 

 はは、と自嘲気味にアルヴァニアがそう呟く。やや顔に影を浮かべている彼に、ミーシャはスプーンを咥えながら、きょとんと首を傾げていた。

 

「なんで?」

「……エリザベート嬢。私は、女性があまり得意ではないんだ。言ってしまえば、嫌いだともいえる」

「そうなの?」

「ああ。この夜会も、私の女性嫌いに業を煮やした父親が開いたものだ。どうしても私を結婚させて、子を成してほしいらしい。まあ、私としてもこのひねくれた性格を直す機会だと思ってはいたが……やはり、少し気負ってしまう」

 

 食べ終わった瓶へとスプーンを収めて、アルヴァニアは軽く溜め息を漏らす。しかしながらすぐに空瓶をミーシャと同じ様に机の端へと寄せると、また薄い笑みで彼女の方へと向き直った。

 

「けれど、君を見ていたら少し自信がついた。そうだな、こうした会話のきっかけを作れられる、これから来る彼女らとも上手いやり取りができるかもしれない」

「うん、きっと大丈夫だよ! それにほら、アルヴァニアさんってイケメンだし! きっとすぐに結婚相手も見つかるって! たとえば私とか?」

「そうだな、考えておく。こうして私の料理を喜んで食べてくれると、こちらも嬉しい気持ちになるから」

「ほんと!? じゃあ、一日一リットルくらいの血液も……」

「それは考えさせてくれ」

 

 死んでしまう。言葉を続けようとしたミーシャに、アルヴァニアはたまらず答えた。

 そうやって会話を交わしていると、ふいに扉の開く音がする。ミーシャとアルヴァニアの二人が同じように視線を投げると、果たしてそこに立っていたのは、神妙な顔つきをしているジークであった。

 

「どうした?」

「アル様、すこしお耳を」

 

 つかつかと早足で主人の側へ寄りながら、ジークが片手を口に当てる。

 

「アイリス様からの伝言です」

「彼女から?」

「はい。何やら、この近辺で少し異質な魔力の反応があった、とのことで」

 

 小さく囁かれた言葉に、アルヴァニアが眉間に皺を寄せる。

 

「……元々あるものではないのか? ここには彼女が住んでいたんだぞ」

「それも承知のうえで、それとはまた別の魔力だというそうです。しかしながら量自体は微力であり、もしかするとただの勘違いという可能性もありますが……一応、何か変なことがあったら報告するように、と」

「……エリザベート嬢のことは」

「そんなことは百も承知だ、と」

「ふむ……」

 

 口元を手で覆いながら、小さく言葉を漏らす。確かにミーシャは先程大きな魔法を使っていたが、友人のアイリスがそれを危険視するはずがない。実際にミーシャが行ったのも規模は大きいがただの掃除であるし、となると他に魔女、もしくは魔力をもった何かがいる、ということになる。

 

「アイリスは」

「しばらく近辺の調査をしてから合流するとのこと。おそらく夕刻には」

「わかった。ではそこでもう一度、彼女から事情を聴くことにする。また何かあったら伝えてくれ」

「了解しました」

 

 それだけ残して深く頭を下げ、ジークがつかつかと去っていく。その年を重ねた小さな背中を見送りながら、ミーシャは神妙な顔つきのアルヴァニアへと問いかけた。

 

「アルヴァニアさん、何かあったの?」

「ああ、大したことではないんだが……いや、君にも話しておこうか」

 

 なにせ、アイリスの友人であり、さらに強力な魔女だ。このことをアイリスが伝えないわけがないし、それに彼女なら何か分かることがあるかもしれない。

 

「実はこの付近で、何らかの小さな魔力の反応があったらしい」

「そうなの?」

「ああ。アイリスから入った確かな情報だ。もしかすると、魔女かそれに関連する何かがこの付近に潜伏している可能性がある。まだ彼女も勘違いの可能性を捨てきれていないし、おそらく大丈夫だとは思うが……もしかすると、夜会を中止する可能性がある」

「ええ!?」

 

 がたん、とミーシャが立ち上がると、空瓶が机の上を転がった。

 

「そうなったら私の黒魔法の研究が進まないじゃん!」

「ごく自然に私が血液を差し出すと思っているな……」

「大丈夫だよアルヴァニアさん、心配しないで! 何かあっても私と私の眷属さんたちが守るからね! だから安心して私と結婚してね!」

「ああ、心強い。何かあったら力を頼ることにする」

 

 まかせて、と胸を叩くミーシャに、アルヴァニアが首を縦に振る。先程の彼女の魔法を見れば、その言葉が本心だということは、明確であった。

 とりあえず彼女も味方をしてくれるのなら、何か大事になっても対処できるだろう。そう考えていると、アルヴァニアが浮かべていた険しい表情も、次第と柔らかいものになっていた。

 

「……さて、そろそろ午後の仕事でもしに行ってくる。プリンも食べきれなかったら、食糧庫に運んでおいてくれ。宮殿の案内はもうしたから、場所は分かるな?」

「うん! じゃあ、お仕事頑張って!」

「ありがとう。君みたいに励ましてくれると、その、嬉しい」

 

 そう呟いてアルヴァニアが席を立ちあがり、ジークと同じ様に食堂を後にする。

 その背中には、一匹の小さな蠅が捕まっていた。

 

 

 渡り廊下を歩いていくと、大きな別館の広間へと到着する。

 

「ここがパーティーの会場だよね」

 

 そろそろ夕暮れにさしかかろうとするころ、小さな影を東へと伸ばしながら、ミーシャはその広間の中へと足を踏み入れた。

 中くらいの円卓がいくつも並べられたその空間は、よく見るダンスホールのようなもので、その奥には大きな舞台が構えられている。二階部分は壁の内側を添うように造られていて、そこから舞台を含めた一階を一望できるように設計されているようだ。

 そんな広間の中心まで行きながら、ミーシャがくるりと後ろを振り返る。

 

「二人とも、どう? 何か分かるもの、あった?」

 

 そこには――大きな蠅の怪物と、また緑の毛並みの狼が、同じようにミーシャのことを覗いていた。

 

「……あまり分からない。もともとここにいた魔女の匂いなのかな。それが結構濃いから、探知するのもけっこう難しい」

「ベルさんでも分かんないか……確かに、私でも感じられるくらいだもんね」

 

 しゅん、と四本の脚の肩を落とす巨大な蠅――ベルゼビュートに、ミーシャが宥めるように声をかける。小さな手で頭を撫でると、紅い複眼は少しだけ機嫌を良くしたように見えた。

 

「りっくん、そっちはどう?」

「駄目だ。鼻には何もかからない。まだこの地域に慣れていないというのもあるが、特にこれといって不穏なものはないな」

 

 地面へ鼻を向けていた狼――フェンリルも、目を伏せて首を横に振る。心なしか、長い尻尾はだらんと、力が抜けているようだった。

 

「うーん……そっか。まだ二人ともこの地域の魔力に慣れてないもんね」

「申し訳ない。俺は力不足で……」

「そんなことないよ! りっくんも、ベルさんも頑張ってくれて嬉しいもん!」

 

 ほら、とミーシャが両手を広げると、柔らかな風と共にフェンリルの体が子犬のように小さくなってゆく。そうして彼女の懐に潜りこめるようなサイズにまで縮まると、その腕の中にゆっくりと体を入れていった。

 新緑の毛並みを撫でると、くるる、とフェンリルの喉から転がるような声が漏れる。

 

「ベルさん、さっきアルヴァニアさんにつけたヤツはどう?」

「……まだ、何も反応はないね。とりあえず彼は安全みたいだ」

「そっか、よかった」

 

 ほっ、と安堵の息を吐いて、抱えたフェンリルを地面へ降ろす。ぱたぱたと尻尾をふるフェンリルの頭をもう一度だけ撫でると、ミーシャは後ろで控えているベルゼビュートのほうへと振り向いた。

 

「やっぱりベルさん、お願いできる? ちょっと心配かも」

「ああ。わかった」

 

 応えるようにベルゼビュートが杖を振るうと、どこからか湧いてきた蟲の大群が、まるでそれ一つが意志を持ったかのように、ミーシャたちの周囲を囲む。そうしてもう一度彼が杖を大きくふるうと、周囲に漂っていた蟲たちは、煙のように散らばって、窓の外へと消えていった。

 

「一応、魔力の認識感度は最大にしておいたよ。何かあったら、僕の方からミーシャへ伝えておく。けれど、油断はしないで」

「うん、ありがとね」

 

 頷いて笑みを浮かべるミーシャに、蠅の王は再び向き直る。

 

「それでミーシャ。君は本当にあの男と結婚するの?」

「うん、そうだけど……」

 

 何気も無く答えるが、やけにベルゼビュートの声が重い。心なしか足元のフェンリルもじっとこちらを見上げてくるし、なにやら重要なことを抱えているらしい。

 

「二人とも、どうしたの?」

「ミーシャよ、俺達は望みの具現だ。俺達はそれを叶えるためならば力を使うのを厭わないし、その望みの成就を心から望んでいる。だが……」

「……いや、いい。ハッキリ言うよ。僕は、止めた方がいいと思う」

「ええ?!」

 

 何も含みも遠慮もなく放たれた言葉に、ミーシャが思わず声を荒げた。

 

「な、なんで? なんかマズいのかな?」

「僕は人間の文化には疎いし、男の趣味とかは分からない。それはフェンリルも同じだ。ミーシャが結婚したいと思う男ならそれを否定はしない。だから僕たちは、魔術的な面で君と彼の結婚を否定する」

「つまり、あの男との結婚はミーシャの命に関わるんだ」

「……どういうこと?」

 

 心なしか小さな声になりながら、ミーシャが二人へと問いかける。

 

「さっきから話しているとおり、この宮殿には前に住んでいた魔女の魔力が残っている、って言ったよね。それも、他の魔力を覆ってしまう程に強いものが」

「うん。だから、ベルさんとりっくんに頼んで調査してもらったんだよ?」

「……そこからおかしいんだ。たった一人の男に、何人もの魔女の魔力が関わっていることが。そして、それをものともせず、何の危険もなしにミーシャへ打ち明けることが」

 

 魔法に慣れている、と言えばそれまでなのかもしれない。だが、それをミーシャへ打ち明け、心配はいらないと豪語することに、ベルゼビュートは不安を拭えなかった。

 魔女。魔法。人智を超えた、世界を歪める力。それは常人にとっては知り得もしない力であり、また畏怖の対象になるものである。

 

「分からない。未知数だ。なにせ、認知が出来ないから。けれど危険なことは確かで、それはミーシャにとっても望まないものだと、思う。そうだ、言うならば――」

 

 

「彼には、何人もの魔女が()()()()()

 

 



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04

ApexLegendsやってて更新忘れてました ごめん



 

『この事はアイリス以外、誰にも知らせないほうがいい。もし、他の魔女が彼の命を狙っていると知ったら、最悪の事態になってしまうから』

 

 執務室の扉の前、ベルゼビュートから渡された言葉を反芻し、ミーシャがふぅ、と息を吐く。そうして意を決したようにふるふる、と首を振ると、古ぼけたドアノブへと手を掛けた。

 

「アルヴァニアさん……?」

「ああ、エリザベート嬢。戻ってきたのか」

 

 恐る恐る声をかけると、机に向かっていたアルヴァニアは、明るい顔でミーシャの方へと視線を向けた。

 

「どうかしたのか? 用事があるのなら、仕事が終わるまで待ってもらうことになるが……」

「あ、うん! 大丈夫! その……ちょっと、アルヴァニアさんと一緒にいたいだけだから……」

 

 途切れ途切れの口調になりながら、ミーシャがそう口にする。

 

「そうか、そう言ってくれるのは嬉しいな。すぐに仕事を終わらせる」

「うん……」

 

 短く言葉を交わして、アルヴァニアは再び机へと向き直る。どうやら何も悟られることはなかったらしい。ほっ、と軽く息を吐いたミーシャは、扉をくぐってすぐ左にある、応接用のソファへちょこんと腰を下ろした。

 膝の上で指を絡ませながら、むむむ、と思考する。

 

「(……まず確かなのは、アルヴァニアさんを、他の魔女の誰かが狙ってるってこと。それで、それは一人じゃなくて、何人かいる、ってこと。けど、何人かまではまだ分かんない)」

 

 狙っているのが命なのか、その役割なのか。目的はまだ不明で、その手段も、動機も不明のまま。確かに言えることは、彼の周囲には複数の魔女がいるということ。そして、その事を知っているのは、ミーシャと、この事を伝える予定のアイリスだけ。

 

「(もし戦うことになっても、アイリスと私がいる……だから、今いちばんいけないのは、アルヴァニアさんを一人にすること。他の魔女に隙を見せちゃいけない)」

 

 だからこそ、こうしてアルヴァニアの近くにいるのだ。彼の身が危険に晒されることは、ミーシャによってあまり良くないことである。黒魔法の実験材料でもあるし、そしてなにより、あれだけのプリンを作れる人間が失われることだけは、絶対に避けなければならない。

 それに一応ではあるが、ベルゼビュートの配下がアルヴァニアの側にいる。たとえ一人になったとしても、その蟲を伝ってベルゼビュートから知らせがくるだろう。

 だとしても、受け身の姿勢は変わらない。彼女らがアルヴァニアの何を狙っているのかすらも、掴めない。

 

「(……やっぱり、情報が少なすぎる。うかつに動いても駄目だし、かといって待っているだけなのも無茶があるし……)」

 

 魔力を調査すればアルヴァニアを護る人員が減るし、かといって防衛に徹するのは相手に自由を与えてしまう。眷属に頼むという手もあるが、魔力がもつかどうかが怪しいところである。それに、眷属の力で魔女たちを抑えられるという確信も、今のところはない。

 

「(せめて、あともう一人味方がいてくれれば……)」

「考え事か?」

「うわぁ!?」

 

 唐突に顔を覗き込んできたアルヴァニアに、思わずミーシャが叫ぶ。

 

「い、いきなり声かけないでよ……びっくりしたじゃん」

「すまない。でも、やけに真剣に悩んでいるようだったから……心配になった。邪魔をしたのなら、謝ろう」

「ああいや、大丈夫だよ。そんなに大事なことじゃないから」

 

 手を振って否定するミーシャにそうか、と頷きながら、アルヴァニアが彼女の隣へ座る。手に持った書類を机の上で整えると、彼はまた振り向いて、言葉を続けた。

 

「まだ君もこちらに慣れていないだろう。困ったことがあったら、どんな些細な事でも頼ってくれ。夜会が始まったらそうもいかないが……今ならまあ、贔屓にはならないだろう」

 

 そう軽く笑う彼へ、ふと思いついたミーシャが、目を合わせる。

 

「……なら、ちょっと聞いてもいい?」

「ああ、何でも」

「今回招待された人の中に、魔女っているの?」

 

 真剣な表情で質してくる彼女に、アルヴァニアはふむ、と頷いた。

 

「どうしてだ?」

「んー、単純な疑問っていうか、興味があるっていうか……もし魔女がいてくれたら、お友達になれるかな、って。お願い、教えてくれない?」

「……そういうことか。少し待ってくれ」

 

 両手を合わせて懇願する彼女に、アルヴァニアが手元の資料へと手をつける。少し騙しているような気がしてるが、彼の身を案じてのことなのだ。書類を漁る彼の横顔を見つめながら、ミーシャはそう心の中で謝った。

 やがて書類をぱたりと閉じて、アルヴァニアがこちらへと向き直る。

 

「三人、かな」

「三人?」

「ああ。君を合わせれば、四人」

「……他に、どういった魔女か、ってのは?」

「どうしても声をかけた母数が多いからな。詳細はあまり分かっていない。それこそ、魔女ということだけだな。申し訳ない」

「ぜんっぜん大丈夫! ありがとね、アルヴァニアさん!」

 

 頭を下げるアルヴァニアに、ミーシャが胸の前で手を振った。

 これで少なくとも三人、魔女がこの宮殿を訪れるということが分かった。警戒する目星がついただけでも僥倖である。いまだに不明な魔力の解析や、アルヴァニアを襲う手段などは不明であるが、とりあえずはその三人の特定が先になるだろう。

 

「それにしても、意外だな」

「ん? なにが?」

「いや、エリザベート嬢のような人でも、友達ができるか不安になることがあるのかと。君は元気だし、人懐っこいからそういうものとは無縁だと思っていた」

「あー……うん、たしかにそうなのかも。私、アイリス以外にお友達、いないもん」

 

 特に気にしていることでもないが、ミーシャは思い出すようにそう答えた。

 といっても、アイリス以外に友人を作る余裕がなかったのだ。蘇った記憶には、子供のころの苦悩や、フリティラリアとしての意思が、まだ強く残っている。しかしながら、だからこそ今の自分があるのだ。ミーシャにとってそれは、もう二度と忘れてはいけないものだと信じられた。

 なんてことを思い出していると、アルヴァニアが真剣な眼差しを向けていることに気づく。

 

「……奇遇だな。実は私も、アイリス以外に友と呼べる人はいないんだ」

「そうなの? アルヴァニアさん、人に好かれやすいと思うんだけど」

「私がどうかは分からないが、親に他人との交流を制限されていてね。自分で言うのも何だが、こんな身分だ。いつ狙われてもおかしくない。その考えも分かるが……まあ、少し寂しくはあるかな」

 

 どうしようもなくて笑ってしまう彼に、ふとミーシャが呟く。

 

「じゃあ、私と友達になる?」

 

 なんてことはない、彼女の口から放たれてもおかしくないその言葉に、けれどアルヴァニアは目を見開いた。

 

「……いいのかい?」

「いい、ってそりゃもちろん! 友達になるのが嫌な人なんて、そうそういないよ。ましてアルヴァニアさんみたいな人となれるなんて、私すっごく嬉しい!」

「そう、か……そういうものか」

「それにほら、最初は友達からっていうでしょ? それで次はお婿さんになってもらって、最終的には実験材料に……」

「そこを着地点にするのはやめてほしいな……」

 

 なんだか、友人がアイリスだけな理由が分かった気がする。しかしながら、アルヴァニアにとっても、ミーシャとそういう関係を築くのは嬉しく思えることだった。

 

「それでは、これからもよろしく頼むよ。エリザベート嬢」

「あー、ダメダメ! そんなんじゃまだ友達じゃないよ!」

「……? それは、どういう……」

「ほら、友達だったらちゃんと名前で呼ばないと! それに私、そっちの名前で呼ばれるのあまり慣れてないし……」

 

 ?を膨らませて言うミーシャに、アルヴァニアすぐああ、と頷く。

 

「……では、よろしく頼むよ。ミーシャ」

「うん! よろしくね、アルヴァニアさん!」

 

 差し出された左手を、ミーシャが強く握った。

 

「さて、仕事もひと段落したことだし、どうする? 私としてはすることもないから、ミーシャに付き合うつもりだが……」

「そうなの? それじゃあ、うーん……」

 

「なら、ミーシャのお部屋とか決めたらどうかしら?」

 

 唐突に背後から聞こえてきた声に、ミーシャとアルヴァニアが振り向く。

 開かれたドアを背に佇んでいたのは、二人のよく知る、白い衣装を身にまとった魔女であった。

 

「アイリス!」

「……来てたのなら言ってくれ。それなりの出迎えをする」

「ごめんなさいね。でも、二人とも仲良くお話してたみたいだし、邪魔しちゃわるいかなって」

 

 頬に手を当て、笑みを浮かべながらアイリスがそう答える。

 

「それで、ミーシャのお部屋は?」

「部屋?」

 

 唐突に出てきたそんな言葉に、ミーシャが首を傾げた。

 

「部屋ってどういうこと? あ、控え室ってこと?」

「……アイリス、説明してないのか?」

「あら、うっかりしてたわ。そもそもミーシャが来ると思っていなかったから」

 

 にこにこと笑みを浮かべる彼女に対して、アルヴァナイが呆れたようにため息をひとつ。わけもわからなく二人を交互に見やるミーシャへ、彼は申し訳なさそうに告げた。

 

「今回の夜会は、五日間に分かれて行われる」

「えっ」

「まあ、君の言うようにお嫁さん決定戦みたいなものだからな……じっくり時間をかけて決めなければならない」

「私ひとりでほかの人を倒せるのに?」

「言っておくが魔法で参加者を消すとルール違反だからな?」

「そうなの!?」

 

 意外そうに叫ぶミーシャに、アイリスはただ先ほどと同じ笑みを浮かべたまま。これがおそらくいつもの彼女なのだろう。割とバイオレンスな性格のミーシャに、アルヴァニアは今日何度目か分からない重い息を吐いた。

 

「五日間、全員とちゃんと話したのちに決めるんだ。自分でも恥ずかしい話だが、もう決定事項だからな……そのため、参加者は五日間、この宮殿に泊まることになる」

「……ってことは、その魔女たちもここに泊まるってこと?」

「当然そうなるな。それだけ長ければ、仲良くなれるかもしれない」

 

 さも良いように言うアルヴァニアに、ミーシャは心の中で罵詈雑言を浴びせていた。いやふざけるなよお前マジで。危険以外の何物でもねえじゃねえか。

 ともあれ、魔女がここに五日間も滞在するのは決定事項である。そのぶん、アルヴァニアの危険も増えるし、ミーシャが注意しなければいけない期間も長くなる。

 

「まあ、そうだな。それも踏まえて、ミーシャの部屋を決めないと……」

 

 そのまま続けようとしたアルヴァニアに、ミーシャががばり、と迫り、

 

「アルヴァニアさん、私のお部屋、あなたの近くがいいの!」

「そ、それはどうして……」

「何かあったとき、すぐに駆け付けられるように! ほら、せっかくさっき友達になったんだから! 何かあったら私が守ってあげるから!」

「そうなのか? しかし、まだほかの参加者も来ていないし、ミーシャだけ先に決めるというのも……少し不公平な気が……」

「うっ……それもそうか……」

 

 珍しく正論に屈し、ミーシャが言葉を詰まらせる。確かに友達だとはいえ、そこまで要求するとなると、アルヴァニアに多少の迷惑がかかってしまうかもしれない。

 

「じゃ、じゃあこれから来る魔女たちのちかくに! アルヴァニアさんの近くでなくても、それなら大丈夫でしょ?」

「確かに不自然ではないが……それでいいのか? なら、そうできるように手配しておこう」

「よっし! よろしくね、アルヴァニアさん! 絶対に!」

 

 何度も念押しするようにミーシャがそう強く言うと、アルヴァニアはよくわからないまま、首を縦に振る。それを確認したミーシャは、ほっと肩の荷が下りたように、深い息を吐いた。

 とにかくこれで、彼に怪しまれることはなくなっただろう。あとはこちらでゆっくり魔女たちを観察しながら、対策を練れば――

 

「そういえばアル、このあたりに残留していた魔力の話なんだけど……」

「オオオーーー!!!」

 

 それはまずいぞ。

 

「あ、アイリス! 私あなたにちょっと用があるの思い出した!」

「えっ? ミーシャ? いま、大事な話を……」

「ごめんねアルヴァニアさん、アイリスと二人っきりでお話してくる! 二人だけで話したいことだから、絶対に盗み聞きとかしないでよ! いい!?」

 

 抵抗するアイリスの手をぐいぐいと引きながら、ミーシャがもう片方の手で執務室の扉を掴む。戸惑いながらもつれてゆかれる白魔女の姿を、アルヴァニアは茫然とした顔で眺めることしかできなかった。

 

「ちょっ、ミーシャ本当に……!あなた、こんなに力強かったっけ……?」

「じゃあね、アルヴァニアさん! また晩御飯に!」

「あ、ああ……ゆっくり話してくれ……」

 

 ばたん、と強く扉が閉められる。

 ただ一人残された彼は、ドアの向こうを見つめながら、ふと呟いた。

 

「……本当に仲が良いのだな、彼女らは」

 

 

「――なるほど。大体は理解したわ」

 

 執務室を出てすこし進んだ小部屋、ミーシャから事の顛末を伝えられたアイリスは、真剣な表情になってうなずいた。

 

「つまり、アルのことを何人かの魔女が狙ってる、ってことね」

「そう。まだどんな魔女か、どんな魔法を使ってかはわからないけど……でも、アイリスが感じていた魔力ってのは、たぶんそれだと思う」

「……杞憂で終わってほしかったのだけど」

 

 頬に手を添えながら、アイリスが深いため息を吐く。

 

「それとアルヴァニアさんから聞いたのは、この夜会に魔女が三人は参加するってこと。たぶん犯人はその中の誰かか、もしくは全員になると思うけど……」

「そっか。だから、アルに部屋をいろいろ工面してくれって言ってたのね」

「……ほんとは、アルヴァニアさんの近くにいるのがよかったんだ。けどまあ、不信感を抱かせるのもいけないし」

 

 何かがあったら伝えられるし、たとえ夜襲があったとしても、すぐに守ることができる。しかしながらそんな都合のよい話はないようで、ミーシャは敵のど真ん中へと送り込まれてしまったのだ。

 

「それなら、アルには私がついておくわ。だからミーシャにはさっき決めた通り、夜会に来る魔女たちを見張ってほしいんだけど……」

「……私ひとりじゃ厳しいかも」

「そうよねえ」

 

 不安そうにつぶやくミーシャに、アイリスも頬に手を当てて息を一つ。いくらミーシャに実力があるとはいえ、三人を相手にするのは厳しいだろう。

 

「でも、できる限りはやってみる。アルヴァニアさんの身に何かあったら大変だもん。全力で守ってみせるよ!」

 

 自分を鼓舞するように叫びながら、ミーシャがぽん、と胸をたたく。そんな彼女の様子を前にして、アイリスはくすり、と小さく微笑んだ。

 

「ミーシャ、アルと仲良しになったのね」

「うん、まずはお友達から、って思ったの」

「……ミーシャのことだから、てっきり『ほかの魔女に奪われる前に、実験材料にしないと』って言うかと思ってたわ」

「私はまじめな魔女だからね。ほかの魔女みたいにズルいことはしないもん。ちゃんと自分の実力でお嫁さんになって、それから実験するの」

 

 割と突っ込みどころは多いが、アイリスは笑みを浮かべるだけで、それ以上を言うことはやめておいた。それよりも今はほかの魔女への対策を練らなければ。

 

「とにかく、今の私たちにできることはその魔女たちの見極め。誰がどんな魔女で、アルを狙うならどんな手段を使うのかを予測すること。私はアルを守ることに専念するから……ミーシャ、よろしくね」

「うん、任せて。アイリスもアルヴァニアさんのこと、よろしく」

 

 そう会話を切り上げたのちに、ドアの外から声が聞こえてくる。

 

「ミーシャ、アイリス? もういいか?」

「あ、アルヴァニアさん?! いつからそこに!?」

 

 控えめに問いかける彼へ、ミーシャが驚いたように叫んだ。

 

「いや……今ここに来たんだ。仮ではあるが部屋割りが決まった。だから、それを伝えるついでにミーシャの部屋を案内しようと思って……」

「そういうことね、ならすぐに出るわ」

 

 軽く返しながら扉を開き、アイリスとアルヴァニアが視線を合わせる。きょとんとしたままの彼の顔から察するに、どうやら本当に今までの話は聞いていないらしい。ミーシャもそれを理解しているようで、いつも通りの調子のまま彼へと声をかけた。

 

「それで、私の部屋は? 魔女たちの隣にしてくれた?」

「ああ、すぐに案内する。ついてきてくれ」

 

 そうして、彼の後をついてゆくこと、しばらく。

 

 

「おじゃましまーっす!」

 

 ばん、と大きく音を立てて、扉が開かれる。

 中程度の広さを持った、ゆったりとした部屋だった。正面には四人で囲めるほどの円卓が置かれており、それを挟むようにして、両側の壁にベッドが配置されている。窓はそれぞれのベッドの枕側に配置されており、その窓と窓の中心には、何も入っていない小さな棚が置かれていた。

 

「相部屋になる。少し、狭くなってしまうが」

「ううん、全然だいじょうぶ! これくらい近いほうが仲良くなれそうだし!」

「……これから来る彼女らが君のようだったら、私も気疲れしないんだが」

「別の意味で疲れるわよ、それ」

 

 肩を落とす彼へ、アイリスがそう付け足した。

 そもそも、この宮殿に泊まることすら厭に思う人間のほうが多いだろう。それに、皆侍女がいないのなら自分に連れてくる、という者の方が多い。そのため宮殿内の部屋割りも、アルヴァニアにとって頭の痛くなる問題であった。

 

「それで、他の魔女は?」

「調べてみて分かったが、こちらに来る魔女のうち一人は侍女付きで、もう一人がそもそも侍女のように主人へ仕えている者らしい。残った一人はミーシャのように一人で来るから、その彼女との相部屋になる」

「残った二人はどこに配置するの?」

「……いちおう、君の要望どおりこの階層に集めておいた。この部屋のすぐ右が侍女を連れてくる魔女で、左が侍女を務めている魔女と、その主人の部屋になる。後は他の客人と同じだ」

 

 語るアルヴァニアに、アイリスが顎に手を当てて考える。

 彼の部屋からは距離があるため、もし何かしらの魔法が発動しても、ミーシャがそれを予知して伝達してくれるだろう。

 

「では、ミーシャはこれからこの部屋を使ってくれ。もう明日からは夜会の参加者の受け入れを行おうと思っている」

「……あら? 予定だともう一日二日は後じゃなくて?」

「ミーシャが庭の掃除を手伝ってくれたから、少し早めに予定を組んだ。それに、彼女らを待たせるのも悪いだろう。早められるのなら、早めたほうがよいと思う」

「それはそうだけど……」

 

 少し困ったように、アイリスがミーシャのほうへと視線を向ける。

 しかしながら彼女は何か自信のあるように、こくりと頷くだけだった。

 

「では明日の準備をしてくる。夕食は……アイリス、すまないが頼めるか? 君ならいろいろと都合が効くだろう」

「ええ、問題ないけど……あなたも気張りすぎないでよ?」

「善処しよう」

 

 弱音を吐くよりはマシだろうか。すでに疲れが見えている彼へ、アイリスは呆れながらもそう頷いた。

 

「それじゃあミーシャ、おやすみ。また明日に会おう」

「うん、アルヴァニアさんもおやすみ!」

 

 まったねー、という彼女の言葉を背に受けながら、アルヴァニアが扉を閉める。そのまま足音が遠くなっていくのを確認すると、アイリスとミーシャは再び互いの視線を合わせた。

 

「何か策はあるの?」

「んー、まあ一応。相部屋の人は確実に止められるし、両隣の人も抑制できるって感じ。みんなが部屋にいてくれたなら、大丈夫」

 

 あとは私の魔力次第かな、なんて言葉を付け足しながら、ミーシャが手の打ちに黒い杖を取り出して、目の前の床へと突き立てる。開かれたのは人ひとりほどの小さな魔法陣で、そこから現れたのは、小さな植木鉢に植えられた、一輪の黒い花であった。

 しゃがみこんだミーシャがその植木鉢を持ち上げると、暗い花弁を指先で撫でる。

 

「……それが、役に立つの?」

「うん。だって、アイリスが一番わかると思うよ?」

 

 その言葉が理解できず、白い魔女はただ首をかしげるだけであった。

 それを持ったままミーシャはベッドの上へと飛び乗って、その窓際に植木鉢をことりと置いた。そうしてもう一度開いたままの魔法陣へと手を突っ込むと、中から手のひらサイズのジョウロを取り出して、夜闇を眺める花へと傾ける。

 

「ほーら、よく飲んでね? 明日から頼むよ!」

 

 言葉をかけるミーシャの横顔に、少しの寂しさがあるのを、アイリスは見た。

 

「ミーシャ」

「ん? どうしたの?」

「…………いや、ごめんなさい。なんでもないわ」

 

 それ以上に踏み込むのはどうしてか怖くて、思わず言葉を詰まらせてしまう。ただ感じるのは、何かに対する恐怖のみであった。

 

「とにかく、あなたのことだから信用してる。それでミーシャ、話は変わるけど、晩御飯はどうしたい? せっかくだから調理所を借りて、いろいろ作ってみても……」

「んーとね、それなんだけど、ちょっと私はいいかな」

 

 遠慮するように笑うミーシャへ、アイリスが眉をひそめる。

 

「どうして?」

「明日まで時間がほしいの。ああいや、別に無理をするってわけじゃないから、心配しなくていいの。ただね、集中したいってだけ。明日の朝にいっぱい食べるから大丈夫!」

 

 むん、と胸を張る彼女に、アイリスはきょとんとした顔で首を縦に振った。口ぶりからするに、無理とか自己犠牲とか、そういった雰囲気では本当にないらしい。

 

「じゃあ……」

「うん、今日はこのままちょっと集中。だからアイリス、おやすみ。また明日ね」

 

 そう言われてしまうと、アイリスは部屋を出ていくことしかできなかった。

 扉が占められて、かつかつと足音が遠のいていく。一度だけそれは止まったかと思うと、また少しだけ早くなって、やがて聞こえなくなった。

 やがて静寂が訪れて、ミーシャが黒い花と目を合わす。

 

「じゃあ、一緒に始めよっか」

 

 



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05

 

 朝の白い光を浴びて、ミーシャがうん、と伸びをする。

 

「……やっぱ、よく分かんないなあ」

 

 観念したようにミーシャがつぶやいて、地面へと寝転がった。宮殿の裏庭には昨日に芽吹いた青い花が揺れていて、ミーシャがそれを一つ摘むと、朝日に照らして弄りだす。

 そんな彼女の傍には、首のない騎士が佇んでいた。

 

「デュラおじさんはなんか感じる?」

「何も。私は魔力にそこまで理解があるわけではないから」

「そっか……」

「だがまあ、不穏な空気があるのは分かる」

 

 地面へまっすぐ突き立てた剣へ手をかけて、デュラハンはそう呟く。おそらくここにある魔力が異質すぎて、一般人でも違和感を感じてしまうのだろう。これから来る人は大変だな、なんてことを、ミーシャはふと考えていた。

 しばらくして青い花を放り出し、ミーシャが体を起こす。

 

「いちおう、もう一周してから部屋に戻ろっか。もしかしたら、何かあるかもしれないし」

「承知した」

 

 剣を引き抜いて背中へ吊るし、デュラハンがそう答える。ミーシャも服をぱんぱんと叩きながら、前を行く甲冑の隣に寄り添った。

 

「やっぱり、これから来る人たちの中に犯人が混じってるのかな」

「その可能性は高い。だが、これだけの広さを持つ宮殿だ。外部からの侵入も警戒するべきだろう」

「だよねー……となると、もうちょっと眷属さんに頼ったほうがいいのかな」

「存分に活用するといい。そなたの為であるなら、我らはいくらでも力を貸そう」

「うん、ありがと!」

 

 なんて会話をしていると、裏庭から表の玄関へとたどり着く。その正面の門は固く閉ざされており、いかなる外敵をも阻み――

 

「あっ」

 

 そうぽつりと漏らした、ミーシャの視線の先には。

 門の上に跨る、三角帽子をかぶった少女の姿があった。

 

「…………」

「…………」

 

 …………。

 

「あ……」

「あ?」

「アイリスーー!! アイリス!! なんか玄関に変なのが!! 縄! 縄持ってきて!」

「ちょっ、ちょっと待て!! 待って、その前に下ろして!! ちょっ、おい!! 帰ってきて! ちょっとぉーー!!」

 

 

「侵入者をひっ捕らえました!」

 

 ばん、と扉を強く開き、ミーシャが執務室へと足を踏み入れる。

 驚いたアルヴァニアが向けた視線の先にあったのは、ぐるぐるに縛られた少女の姿であった。あまりにも急なその後継に、何か言葉を探していると、ミーシャが縛った彼女を床へと放り投げる。ぐえ、とつぶれた声を上げる少女に、思わずアルヴァニアはがたり、と席を立った。

 

「なっ……何をして?」

「正門から侵入しようとしてたみたいね」

 

 ミーシャの後ろに立つアイリスに、アルヴァニアはそうか、と相槌を打つことしかできなかった。しかしながら、床に寝転がる少女はなんとか顔をそちらへ向けると、急いだ口調で返す。

 

「そっ、そんなんじゃないよ! ちゃんと私は招待で……」

「はん、そんな言い訳が通用すると思ってるの? 証拠はいろいろあるんだよ? 今ゲロゲロ吐いたほうがいいと思うけど」

「……とりあえず、君の名前を教えてくれるか」

 

 問い詰めるミーシャを制しながら、アルヴァニアが問いかける。

 すると彼女はすぐに助けを求めるよう、彼方を向いて語りだした。

 

「ぼくは、ルリカラ。蒼魔女のルリカラっていうんだ」

「ルリカラ……?」

 

 何かに気づいたようにして、アルヴァニアが机の上にある資料へと手を伸ばす。

 そうしていくらかの文字へと目を走らせると、手元へと視線を落としたまま、呟いた。

 

「……ミーシャ、彼女を解放してやってくれ」

「えっ!? なんで?!」

「それは、君と同室になる魔女だ」

「は?」

「ん?」

 

 放たれた言葉に、ルリカラとミーシャが同時に声を上げる。

 

「ちょっ……本当に?」

「ああ。ここの名簿に、彼女の名前が書かれている。そのルリカラという魔女は、今回の夜会の参加者だ」

 

 ぽかん、と口を開けたミーシャへ、アルヴァニアが続ける。

 

「なぜこんな時間に来てしまったのかは分からないが……だがまあ、来てくれたのなら手間が省ける。だからその縄をほどいて、君の部屋へ案内してやってくれ」

「そ、そんなこと……」

「けれど、客人なんだ。それなりの出迎えをしなければならない」

 

 おろおろとしながら振り向くと、ルリカラはむふ、と口元へ笑みを浮かべた。

 

「ほら、僕は怪しくないって言っただろ? だから早くほどいてくれよ」

「んぎぎ……このクソガキ……舐めてるとつぶすぞ……!」

「クソガキ!? 君の方がどう考えたって子供だろ! 年上にナメた口を利いてると痛い目に合うんだぞ!?」

「その言葉、そっくりそのまま返してあげるわ! はいもうダメで~~す! ごめんなさいって言うまでほどいてあげませ~~ん! ざまあみやがれ!」

「……埒が明かんな」

 

 自らの手で顔を覆いながら、アルヴァニアが呆れてつぶやく。このままのテンションだと顔を踏みつけそうなミーシャへ、ようやく後ろのアイリスがとがめに入った。

 

「ミーシャ、その辺で勘弁してあげて。アルヴァニアが言う以上、彼女も夜会の参加者なのよ」

「でも……」

「ルリカラもごめんなさい。この子、ちょっと疑いすぎるところがあって」

「……別に、ほどいてくれるんならいいけどさ」

 

 アイリスが魔力を込めると、ルリカラの体を縛る縄がひとりでに解けてゆく。

 青い色の少女であった。

 み空の羽織と、灰色の袴に身を包んだ、十六ほどの女性。紺がかかった黒髪を後ろで一つに縛っていて、頭の上には魔女のしるしでいる三角帽子。そしてまた腰には、鞘に納められた一振りの刀が差されていた。

 こちらを睨むその瞳は、すくような青色で、大人びた顔立ちが凛とした雰囲気を漂わせている。

 何の興味もなしに縛り付けたミーシャは、はじめてちゃんとした彼女の姿を見た。

 

「……何さ、君は」

「別に? 魔女なんだなって思っただけ」

「君の目は節穴かい? この頭の上の三角帽子が見えないの?」

「じゃあその腰の剣は何よ。剣って。あれ? もしかして杖持てないタイプの魔女? ダサくね?」

「あん?」

「なに?」

「二人とも、その辺にしてね」

 

 再び激突しそうな彼女らを押しのけて、アイリスがため息をひとつ。喧嘩する犬みたいだな、という感想を少しだけ抱きながら、ミーシャの方へと語りかけた。

 

「私はこれからアルと用事があるから、ミーシャがルリカラを案内してあげて」

「は? 誰がこんなのと同じ部屋に……」

 

 ごっ。

 アイリスの拳が、ミーシャの脳天へとめり込んだ。

 

「お願いね?」

「わかりました……」

 

 アイリスは一定の許容を超えると割と暴力に訴えるタイプの白魔女であった。逆らうと待っているのは虐殺である。前世はゴリラなんじゃねえか、と思っても、ミーシャは賢いので口にすることはやめておいた。

 そんな思考をしていると、ふと耳元に声がかかる。

 

「仮にも魔女よ。ちゃんと見張っててね。何かおかしな動きをしたら、すぐに懲らしめちゃっていいから」

「……なるほど。わかったよ」

 

 アイリスとミーシャが小さく言葉を交わすと、こくり、とうなずき合う。

 

「じゃ、行くわよ。ほら、あんたもついてきなさい」

「……ふん」

 

 ぷい、とそっぽを向きながら、ルリカラがミーシャへとついていく。先ほどと比べてだいぶ静かになった執務室で、アイリスは再びアルヴァニアへと向き直った。

 

「警戒しなさすぎよ? あれは一応侵入者なのに」

「だが、彼女は客人でもある。せっかく来てくれたんだ。あれでは可哀そうだろう」

 

 煮え切らないが、彼の主張はわかる。まったくもう、と頬を膨らませながら、アイリスは魔法陣を開き、アルヴァニアへと声をかける。

 

「じゃあアル、初めてしまいましょうか」

「……彼女は、大丈夫なのだろうか」

「彼女って……ミーシャのこと? まあ、大丈夫だと思うけど……」

 

 親友であるアイリスがそう言うのなら、そうなのだろう。仲の悪さに内心ドン引きしているところはあるが、さすがに客を無下に扱うことはなさそうだ。そこに問題はない。それくらいは、信頼はできると思う。

 

 ただ。

 扉をくぐるルリカラの青い瞳が、じっとこちらを見つめていることだけは、確かに感じられた。

 

 

「まったく、なんでこんな奴と一緒の部屋に……」

「それ、僕のセリフなんだけど。泥棒しないでくれる?」

「は?」

「あ?」

 

 八度目の睨み合いであった。そのせいでいつまで経っても目的地へたどり着かない。たびたび発言に食いついてくるルリカラに、ミーシャのイライラはそろそろ限界に達しそうだった。

 

「いや、てかもう限界かも。本当に痛い目を見たいようね?」

「ふぅん? できるんだ」

「そんな口調いられるのも今のうちよ。ヒィヒィ泣かせてあげるんだから」

 

 魔法で黒い杖を取り出して、魔力を込める。あとでアイリスに怒られるだろうが、そんなことは関係ない。ミーシャにもプライドというものはあった。

 周囲を取り囲む空気が一瞬にして重いものへと変わり、凍り付くような感覚をルリカラに与えている。対する彼女は腰の刀へと手をかけるだけ。魔力の発現も、魔法陣が開かれる様子も、一切ない。

 

「…………?」

 

 その行動に、ミーシャは少し眉をひそめた。

 魔女と魔女の争いである。いうなれば、魔力と魔力とのぶつかり合い。この世界をゆがめる力が衝突し合い、果てには現実を改変させてしまうほどの闘争。

 しかしながら、これはそれではない。

 

「何? そっちが来ないなら、こっちから行くけど」

「いや……」

 

 そう言葉を残して、ミーシャは黒い杖を下ろす。

 たとえ下ろしたとしても、自分が傷つくことはないように思えたから。

 

「あなた、もしかしてそんなに魔力がない?」

 

 問いかけに、ルリカラが少し不機嫌そうにして、

 

「……それが、何?」

「何、って」

 

 それで流してよい問題ではないことを、ミーシャは知っていた。

 

 魔力とは、魔女にとて欠かせぬものであった。

 この世界を作り替え、人智を超越するための歪な力。確たる石を持って生み出された、自らの願いの昇華。先天的、後天的な差はあれど、魔力というのは、常に魔女とともにあるもの。

 その魔力があるからこそ、魔女は魔女足りえるわけで。

 

 つまり――魔女は、魔力を隠せない。

 そしてまた、魔女とはそう呼ばれるほどの魔力を有して然るべきであり。

 ミーシャが感じている違和感は、自らを魔女と呼称しながら、ルリカラは明らかに少ない魔力の量しか保有していないことだった。

 

「……弱い者いじめになっちゃうじゃない」

「どういうこと?」

「私だって、何の力もない人間をいたぶる趣味はないもん」

「……なんだって?」

 

 その言葉を置き去りにして、ルリカラの姿が消えた。

 銀の剣閃が、空を駆ける。光よりも早く引き抜かれた刀身はミーシャの首元へと吸い込まれるように向かってゆき――そして、止まる。

 捉えたのは、ミーシャの背丈よりも巨大な蟲の脚。

 その瞬間、目の前に紅の複眼が迫るのを、ルリカラは見た。

 

「――ッ!」

 

 息を飲みながら後ろへと跳んで、再び刀を前に構える。

 顕現したベルゼビュートは、その脚に持った杖を地面へと突き立てた。

 

「……ミーシャは戦わないといったから、僕も戦わない。けれど、もう一度彼女へと手を出したなら、僕は君を殺す。二度とミーシャへ危害が加えられないように、最善を尽くそうと思う」

 

 蝋燭のようなひとみが、ぼう、とルリカラのことを見つめる。

 そうして彼女は、初めて自分が相対している存在を認識した。

 

「……君、は」

「別に、本当にあなたと敵対するつもりはないよ。無論、今後もそうだっていう保証はないけど。

 

「そういうことだから、もうやめときましょ。これだといつまでたっても私たちの部屋につかないし、だからこれ以降も喧嘩はなし! いい?」

「……わかったよ」

 

 未だに不満は残るけれど、観念したようにルリカラは息を吐く。握った刀を一回だけ振ると、ぱちん、という音とともに鞘へ納めた。

 前を行く黒い魔女の隣へ、青い魔女が駆けよって、そのまま歩く。

 

「……僕は、魔女の見習いなんだ」

 

 幾分かの時間を空けてつぶやいた言葉に、ミーシャが隣を見上げた。

 

「見習い?」

「そう。君たちと違って、僕は生まれついての魔女じゃない。だから、他の魔女……僕が先生と呼んでいる人に、魔法を教えてもらっている」

「だから魔力がそんなに無いんだ」

 

 なるほど、とミーシャが心の中だけで頷く。

 

「魔法、まだあんまり使えないんだ。この三角帽子も、先生がお情けでくれた。いつか立派な魔女になるんだから、持っておきなさいって」

「でも、アルヴァニアさんの前では魔女って名乗ったよね」

「だって、そうじゃないとみんな見てくれないでしょ? 嘘でもいいから、魔女として振舞おうかと思って。君にはバレちゃったけどさ」

「だから、さっきまであんな口調だったんだ」

 

 いくらか柔らかくなった彼女の言葉に、ミーシャが納得したように頷く。

 

「……あとで、謝っておいたほうがいいかな?」

「別にいいんじゃない? 一般人から見たら、魔女も見習いもあんま変わんないし」

「そう、かな。それだったらいいんだけど」

 

 おかしいように、ルリカラが口元へ笑みを浮かべる。初めて見る、笑った顔だった。それに興味が惹かれて、ミーシャが続けて問いかける。

 

「ルリカラはなんでこの夜会に参加したの?」

「あの人と結婚したいから……っていうのは、もう分かるか。えっと、じゃあ、先生に楽をしてもらうため、って言えばいいのかな」

 

 探るような言葉に、ミーシャも首を傾げる。

 

「彼と結婚すれば、私はこの国のお姫様になれるんでしょ?」

「そうだね」

「だから僕、お姫様になって、先生に恩返しがしたいんだ。先生、女手一つで僕を拾って育ててくれたから。その、お姫様になって何ができるか、っていうのは分からないけど……でも、必ず先生の力にはなれると思う。それを見つけるのも、僕がここに来た目的になるのかな」

「じゃあルリカラは、その先生のためにアルヴァニアさんと結婚するの? 自分のためじゃなくて?」

「先生が幸せになってくれるのなら、それでもいい。そうすることが恩返しになるのなら、僕は何でもするさ」

 

 まっすぐな瞳から感じるのは、彼女の確かな意思。それが嘘ではないということを、ミーシャは疑いなく信じられた。

 ただ何か、得体のしれない違和感だけは拭えない。何か根本的なものがズレているような、そんな感覚。目を離すとどこか危険なところへ転がってしまいそうな、そんな危機感に似ていた。

 

「ミーシャはどうしてあの人と結婚したいの?」

「私? 私は黒魔法の研究のために」

「……ん?」

「アルヴァニアさんを材料にして、黒魔法の研究をもっと進めるの」

「そ、そう……」

 

 ルリカラの若干ひきつった顔に気づきもせず、ミーシャがふふん、と誇らしげに胸を張る。魔法の研究は、魔女にとって大切な仕事の一つでもあった。

 

「それにしても見直したわ、ルリカラ。あなた結構いいひとなのね」

「僕も君をちょっと見直したかな……」

 

 主に悪い意味ではあるが、当の本人は気づいていないらしい。ウキウキ気分のままでいるミーシャに、ルリカラは冷めた視線を送り続けていた。こいつはこういう人間なんだな。

 なんて会話を交わしていると、いつの間にか部屋の前に着いている。ドアノブへ手を駆けるミーシャのあとに続いて、ルリカラが足を踏み入れた

 

「ここが私たちの部屋。左のベッドはもう使ってるから、右のやつ使ってね」

「わかった」

「あ、それと枕元にある植木鉢は触らないでね。触ったら大変なことになるから」

「……気を付けるよ」

 

 何か黒魔法の一種だろうか。朝方の陽に照らされている黒い花を眺めながら、ルリカラはそう答えた。

 

「僕はどうしていればいい?」

「んー……何もすることないなら待機かな?」

「そうだね。じゃあじっとしてるよ」

 

 右側のベッドへと腰を下ろしながら、ルリカラが疲れたように息を吐く。そのまま腰に差した刀を鞘ごと抜くと、三角帽子と一緒に枕元へと纏めた。

 首をこきこきと鳴らし、いくらか休憩しているルリカラを確認すると、ミーシャが口を開く。

 

「じゃあ私、アイリスと連絡してくるから待っててね」

「分かったよ、行ってらっしゃい」

「行ってきまーす!」

 

 大きな声で返事を残して、ミーシャが部屋を去っていく。

 強く閉じられた扉を見つめながら、ルリカラはぽつりと漏らした。

 

「……黒魔法、か」

 

 

「ベルさん」

 

 部屋を出てすぐ、ミーシャが小さく漏らす。

 それに応えるように霧のように蟲が集まって、大きな蝿の形を成した。

 

「……今のところは、ミーシャと同じ見解だと思う」

「ベルさんもそう思う?」

「ああ。おそらく、彼女は恐怖になり得ない」

 

 そう言い切るベルゼビュートに、ミーシャも同調して頷く。

 

「明らかに魔力の量が少ないしね……たぶん、アイリスも分かってるよ」

「僕の蟲が感知できなかったのも、そのせいだと思う。それに、実際に彼女が魔法を起こしたとして、被害の想定は知れている。魔法の観点から述べるのならば、彼女は僕たちの敵じゃないよ」

 

 驕りや傲慢でもなく、それは事実であった。彼女の魔力量で魔法を発動させたとしても、人ひとりに危害を加えられるかどうかすらも怪しいだろう。ましてや、相手は黒魔女のミーシャである。蟻と象、というたとえがこれ以上にないくらい当てはまっていた。

 

「けれど、だからこそ注意しなければいけないんだと思う。彼女は僕たちの感知から逃れられるんだ。それになにも、アルヴァニアへ危害を加えるのなら魔法じゃなくてもいい。それこそ、彼女の使っている刀でも十分に使える」

「……ってことは、ずっと見張ってたほうがいいのかもね」

「脅威としての観点から述べるのなら、そうなんだろう。まだ彼女は何ができるかわからないから、そこも調査するべきだよ」

「そう、だね。何かあったときは頼むよ?」

「うん」

 

 返答する眷属は頼もしいが、しかしミーシャは顔を曇らせたまま考える。気になるのは、やはり彼女が纏う違和感であった。何かがおかしくはあるが、その何かが分からない。煮え切らないその感覚に、ミーシャが眉をひそめる。

 

「なんか……なんか、変なんだよなぁ……」

 

 魔力的な問題というか、彼女の精神的な問題というか。

 いずれにせよ警戒は解くべきではない。そのことだけを確認すると、ミーシャは再び後ろにある扉を開き、彼女と邂逅するのであった。

 

 



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06

実はほかの話書いてるので書き貯め放出し終わったら更新かなり遅くなります


 

「探検しよう!」

 

 脈略もなく叫んだミーシャに、ルリカラがびくりと肩を震わせる。

 

「……うん、そっか。行ってらっしゃい」

「違う違う! ルリカラも一緒に行くよ、ってこと!」

「はあ? なんで僕まで……」

「でもヒマでしょ?」

 

 きょとんとした彼女の言葉に、否定することができない。手持ち無沙汰なのを見透かされたのか、ミーシャはずいずいとルリカラへ近づきながら、言葉を続けていく。

 

「だってルリカラも、宮殿の中で迷ったら困るでしょ」

「それはそうだけど……あれ? でもミーシャは、先に来たのに案内とかされなかったの?」

「案内はされたけど、最低限だけだもん。まだ行ったことないところの方が多いよ。だから、探検!」

 

 ざっと見渡しただけで、ミーシャの屋敷が二つ三つは入りそうな広さである。すべてを見て回るとしても、丸一日はかかるだろう。そのぶん、探検のしがいはありそうだが。

 

「だからほら、行ってみようよ。なんか見つかるかもしれないし」

「……勝手に出て行って、大丈夫かな」

「だいじょーぶ! バレなきゃ何してもいいんだよ!」

「相当攻めた性格をしてるよね、君は」

 

 何と言われようが、いまのミーシャにそんなことを気にする余裕はない。この宮殿を取り巻く魔力については、未だに謎のままなのだ。それの調査しなければいけないし、だからといってルリカラを置いていくのも危険である。

 なので考えた策gア、ルリカラを傍に置きながら探検と銘打って調査を行うことなのだが。

 

「ねーねーお願いお願い一人じゃ寂しいもんねーねールリカラルリカラ」

「いや、ちょっ……だから服を引っ張るな! これ、一応正装なんだぞ!」

 

 袖をぐいぐいち引っ張るミーシャへ、ルリカラがそう叫ぶ。

 

「あーもう! わかった! 一緒に行けばいいんだろ! 行くよ!」

「いやったぁ!」

 

 ヤケクソに叫ぶルリカラに、ミーシャがにこりと笑みを浮かべる。咄嗟に口にした寂しいという言葉も、しかしながら彼女の本心であった。

 まったくもう、と口をとがらせながら、ルリカラが傍に置いていた青い帽子を頭にかぶる。続けて腰の帯へと刀を差すと、それを見計らって、ミーシャが彼女の手を引いて、

 

「とりあえず中庭! 中庭から見てみよ!」

「ああちょっと、待ってよミーシャ! そんなに急いだら転ぶよ!」

 

 とたとたと、二つの足音を静まりかえった廊下へと響かせた。

 

 

「ミーシャ……急ぎすぎだよ……」

「ごめんねー」

 

 ぜえはあ、と肩で息を吐きながら、ルリカラがそう言葉を漏らす。対してミーシャはきょろきょろとあたりを見回しながら、ついでとでも言わんばかりに返した。

 

「にしても、最初にこんなところに来るの? 道に迷うとかだったら、室内とかのほうがよくない?」

 

 果たして、二人があてもなくたどり着いたのは、宮殿の中庭であった。初めに見た玄関よりは手入れが行き届いているらしく、きちんと整えられた低木の茂みには、色とりどりの花の色が見えている。

 曲がりくねった小道を歩き、ふと見かけた樹の根本へと腰を下ろしながら、ミーシャがルリカラへと応えた。

 

「だってここも十分広いもん。私の屋敷、中庭なんてなかったのよ?」

 

 ざっと見まわしただけでも、家が一つは入ってしまいそうなほどに大きな中庭である。四方は宮殿の廊下に囲まれており、その窓の向こうの廊下に、人影はまだ見えない。

 

「……こんなに広いのに、働いてる人って少ないんだね」

 

 今までに見たのはジークと、今朝に仕事へ向かうのを見た数人のメイドのみ。明らかにこの広さの宮殿には不釣り合いな人数である。

 

「あまり人が入りたがらないんだよ、この宮殿は」

 

 うんうんと悩むミーシャに、ルリカラがふと答える。そのまま彼女の隣へ腰を下ろすと、何かを思い出すようにして続けた。

 

「もともと、ここに魔女が住んでたことはアルヴァニアから聞いたよね」

「うん。子供のころにお世話になった、っていう」

「……その魔女、今はどうなったか知ってる?」

「いや? そこは何も……」

 

「死んだんだ。数年前に」

 

 吹き抜けた風が、蒼い少女の髪を揺らした。

 

「……え?」

「この国の人間はね、あまり魔女のことを良く思っていないんだ。だってそうだろ? 僕たちみたいな魔女は、人間から見れば恐怖の対象でしかない。魔法っていう得体の知れない力を持ってるからね。ミーシャも、この国を一晩で滅ぼすくらい簡単だろ?」

 

 その問いかけに、ミーシャは否定することができなかった。一晩どころか、一瞬でこの地を消滅させることだってできる、と断言できた。

 

「でも……私は、そんなことしないよ」

「みんなそうだよ。そんなこと、普通はしない。けれどミーシャ、もし目の前に毒蛇が表れたら、君はなんとかしてそれを遠ざけようとするでしょ? たとえその蛇が、ミーシャに懐いていたとしても」

「……よく、分からない。懐いてたのなら、遊んじゃうと思う」

「そっか。君は、そう答えることができるのか」

 

 青い瞳にあるのは、羨望であった。そしてまた、理解できないものへと向ける、歪な色も混じって見えた。

 

「でも、この国の人間はそうじゃなかった。目の前にいる蛇を、遊ぼうとも遠ざけようともせず、殺そうとしたんだ」

「そんな……」

「もちろん、ただで殺させるなんてことはなかったさ。その魔女は国王の下に保護されて、王族に仕えることになった。子供のころのアルヴァニアの面倒を見ていたのも、その時期」

「……王様は優しかったんだね」

「うん。その王様が取った選択は正しかった」

 

 けれど、とルリカラが一つ置いて、

 

「周りの人間はそれを良い事だとは思わなかった。すぐに王様は非難を浴びて、民との信頼も薄れていった。国の運営もまともにできなかったらしい。それだけ、魔女っていう存在をここの人間は恐怖してるんだ」

「……その人は、何もしてないのに?」

「何もしていない。ただ生きているだけで、否定された」

 

 俯いた横顔には、悔恨の色が浮かんでいた。

 

「……魔女は、ある日に黙ってこの宮殿を抜け出した。誰にも告げずに、この国の外へと逃げた。誰にも迷惑をかけないために、自分から一人になったんだ……それ、なのに……!」

 

 強く握った拳は、すぐに解かれる。ぱたり、と地面に手のひらを落として、ルリカラは木々の隙間に見える青空を見上げ、

 

「……彼女は、この国に殺された」

 

 そう、言葉を呟いた。

 小鳥のさえずりが遠くに聞こえ、再び風が二人の間を通り抜ける。木漏れ日は優しく二人を包み込み、静謐の時間をどこまでも続けていった。

 しばらくの時間をおいて、ミーシャがゆっくりと彼女のほうへと顔を向ける。

 

「……ルリカラは、どこでその話を?」

「この国では有名な話だよ。悪い魔女を倒したっていう英雄譚として」

「そんなの絶対間違ってるよ! その魔女はなにもしてないのに……それに、殺すなんていくらなんでも……!」

「それくらい分かってる。だけど――」

 

「――この国では、それが正義なのよね」

 

 唐突にそんな声が聞こえてきて、ルリカラとミーシャが同時に振り返る。

 見えたのは、庭園の入り口に立つ二人の女性だった。ひとりは紫色のドレスを着る、悠然とした様の金髪の女性。もうひとりはその傍に控えるように立つ、白い衣装に袖を通した茶色の髪の少女。そしてミーシャが次に目を向けたのは、その少女の頭の上にある、純白の三角帽子であった。

 固まったミーシャをよそに、ルリカラがその二人を睨む。

 

「……誰?」

「いきなり話しかけてごめんね、私はロベリア。こっちは魔女のミントちゃん。あなたたちと同じ、夜会の参加者なの」

「よ、よろしくお願いします……!」

 

 ロベリアの言葉に続いて、ミントが頭を下げる。問いかけたルリカラが彼女の方を一瞥すると、ロベリアへ向かって立ち上がった。

 

「……僕はルリカラ。こっちはミーシャ。どっちも魔女だ」

「大丈夫よ、わかるわ。それに、私はロジェクトの人間じゃないから警戒しなくてもいいわよ」

 

 ひらひらと手を振って、ロベリアが面倒くさそうに答える。そのまま隣に立つミントの方へと向くと、その体を抱きしめながら続けていった。

 

「私も昨日までロジェクトに泊まってたんだけど、その時にミントちゃんが大変だったのよ~。だよね、ミントちゃん?」

「は、はい……ロベリア様に、助けていただいて感謝してます……」

 

 うつむいて呟くミントに、ロベリアがうんうんと大きく首を縦に振る。

 

「大変だったって?」

「そうなのよ、街の人がみんなミントちゃんのこと睨んでる気がして。私は何度も悪い魔女じゃないですよ、って言ったのに全然信じてくれなかったの。そのせいでお店とかもほとんど断られたりして、やっと取れた宿でも当たりがキツかったりで、本当に大変だったわ」

「……魔女なんて連れてるから、そんなことになるんだよ」

 

 呆れたようなルリカラに、しかしロベリアは頬を膨らませながら、

 

「でも、ミントちゃんは私の大切なミントちゃんだもん。離れるなんて考えられないわ。ミントちゃんもそう思うよね?」

「そう、ですね……でも、もし危なくなったら、その時はちゃんと逃げてください。あの調子だと、何があってもおかしくありませんから」

「ミントちゃんったら優しい! でも、そんなことにならないように私、頑張るからね!」

 

 あはは、と少し引き攣った笑みを浮かべる彼女の両手を握り、ロベリアがそう強く口にする。そろそろ面倒くさくなってきたのか、ルリカラは一つため息をついてから、いつまでも向き合う彼女らへと声をかけた。

 

「それで、あなた達はどうしてここに?」

「それがねー、お部屋が分からなくなっちゃったの。アルヴァニアさんが説明してくれたんだけど、この宮殿広くって。ミントちゃんも分からないみたいだから、迷ってたらここに来ちゃって」

「あー……じゃあ、ちょっと待ってて」

 

 思い出すようにミーシャが立ち上がって、二人のそばへと歩み寄る。

 

「実はロベリアさんとミントさん、私たちのお部屋の隣なんだ。あそこのドアから四階に上って、突き当りの部屋がそこになるのかな?」

 

 付き添いの魔女――おそらく、アルヴァニアが言っていたその魔女が、ミントのことなのだろう。それならば、部屋の案内は簡単に済ませられた。そしてまた、新たな監視の対象だということも理解できた。

 

「あら、そうなの。ご丁寧にどうも、ありがとうね」

「ありがとうございます」

「いいのいいの! せっかくだから、送ってこうか?」

「いいえ、そこまで迷惑はかけられないわ。教えてくださっただけでもありがたいもの」

 

 遠慮がちに首を横に振って、ロベリアがそう答える。そのまま彼女らはミーシャの示した順路を進んでいき、直後にふと振り返って、

 

「さようなら」

 

 ルリカラのほうをじっと見つめながら、そう呟いた。

 庭園には再び静寂が訪れて、ミーシャとルリカラが同じ場所へと腰を下ろす。しばらく何も言わないでいると、ルリカラはため息を一つ吐いて、どうにも疲れたように言葉を漏らした。

 

「……変な人だったね」

「そう?」

「なんだろう、なんていうか……掴みにくい人だったな。僕はうまく付き合えないかもしれない」

「そっか」

 

 樹の幹へと背をもたれさせながら、ルリカラがそうぼやく。対してミーシャは、顎へ手を当てながら、ぐるぐると思考を巡らせていた。

 

「……ミントさん、って言ったっけ」

「ああ、あの魔女?」

 

 白い衣装に袖を通した、いかにも気弱といった風の魔女。見たところによればロベリアに雇われているようであり、彼女にやたら気に入られているらしい。ミントのほうもロベリアと一定の信頼を置いているようだし、傍から見ればなんてことはない、いたって普通の主従関係である。

 だが。

 

「(ミントさんの魔力量はそこまでなかった……? いや、ルリカラよりは確かにあるんだけど、けれど何か危害を及ぼせるほどの魔力は感じられなかった……)」

 

 どこにでもいる、いたって普通の魔女というのが、ミーシャのミントへ対する評価であった。魔法もいくらか使えるようだが、しかしミーシャかアイリスのどちらか一人で対処できる程度のもの。格としては自分らのほうが確実に上だと言えた。

 だが。

 

「……ベルさん」

『ああ』

 

 小さな呟きに、傍らを飛ぶ蝿が答える。

 

『……気づけなかった。ごめん』

「いや、大丈夫だよ。あの程度なら私だけでもなんとかできる。問題は、なんでベルさんが気づけなかったか、ってこと」

 

 ルリカラと違い、ミントの魔力量ならばベルゼビュートの感知に引っかかるはずだ。しかしながらミーシャはその知らせを聞いていないし、彼の様子を見るに、ミーシャがミントを視認したと同時に、彼女が魔女だと認識したらしい。

 つまるところ、魔力による魔女の判断ができなかった、ということになる。

 

「(……ルリカラは単純に魔力がなかっただけだけど、ミントさんは魔力があった上で感知を逃れられた。そこが明確な違いで、問題になるところ。一体、どうして……)」

 

 だんだんと思考が凝り固まってきて、ミーシャが頭を抱え始める。心配そうに周囲を飛ぶベルゼビュートに大丈夫、と短く返して、再び木々の隙間から見える空を仰いだ。

 

「……いずれにせよ、警戒しておかないと」

『そうだね。それに、まだあと一人いる』

「わかってる……たぶん、今日中には……確認でき、るよ」

『……ミーシャ?』

 

 瞼が重い。体がどうにもおぼつかなくて、手や足の先に熱が籠っている感覚。聞こえてくる鳥のさえずりや、眷属の声がどこか遠くに聞こえていて、ミーシャはおぼろげな視界の中を、きょろきょろと見渡していた。

 

「あ、れ……? なんか、ねむい……」

 

 太陽の日差しは暖かく、そよ風は頬を撫でる。草木のそよぐ音をかすかに聞き取りながら、ミーシャが隣に座るルリカラへと振り向いて、

 

「ルリ、カラ……?」

 

 いつの間にか、彼女が地面へと伏せているのを見た。

 

「だめだよ、ルリカラ……こんなところで寝た、ら、風邪ひいちゃう……」

 

 手を伸ばそうとしても力が入らなくて、ミーシャが倒れたルリカラの上へと倒れこむ。視界に移る手のひらはどうしてか痺れているようで、動かすたびにきりきりとした痛みが走った。

 非常にまずい。このままでは、ミントの監視もできないし、これから来るもう一人の魔女のことも放っておくことになってしまう。

 

「……ぅ」

 

 最後の力を振り絞り、ミーシャが杖を手に取って、

 

「…………え、りくしあ」

 

 地面へ小さく突き立てると同時に、視界が黒く染まっていった。

 



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