風と神話の幻想譚 (ぎんがぁ!)
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序章
第零話 始まりの物語


この作品についての詳細は私の活動報告にありますので、そちらを参照ください。


 

 

 

 ――“神話”という言葉を、耳にした事はあるだろうか。

 

 いや、それ自体は誰にでもあるだろうと思う。漫画やアニメがサブカルチャーとして普及した昨今、ファンタジーの代表とも言える“神話”は盛んに題材とされているのだ。「神話のことならちょっとは詳しいぞ」と密かに思っている者も少なからずいるだろう。

 

 だから、敢えて問おう。

 神話とは何だ(・・・・・・)? と。

 

 “神話”という単語を調べると、こんな説明が出てくる。

 神話とは、民族や文化などの様々な事象を、世界が始まった時代における神などの超自然的、形而上的(けいじじょうてき)な存在と結び付けた一種の物語――と。

 

 一つには、最初に生まれた三柱の神、別天(ことあま)(かみ)の神話。

 一つには、神代七代である二柱の国産みの神話。

 一つには、三貴神の一柱による八岐大蛇退治の神話。etc……。

 数え出せばきりがない。 だが、それらは確かに存在する神達の物語である。

 

 神は信仰の象徴である。それにまつわる神話もまた、信仰の象徴の一つ。そんなオカルト(・・・・)が科学の普及した現代社会と同居している事を、疑問には思わずとも不思議に思った事はないだろうか。

 そもそも、神話とはそういう解釈で正し(・・・・・・・・・・・・・)いのか(・・・)――などと。

 

 神話。それは物語。

 もしかしたら、信じられてはいないかも知れない。

 もしかしたら、否定されているかも知れない。

 ――もしかしたら、忘れられた物語だって、あるのかも知れない。

 そんな、“曖昧に実在する”物語達なのだ。

 

 数多存在するにも関わらず、それらは何代にも渡って伝えられている。途方もない数だという事に加え、本当かどうかも定かでない物語をそれでも伝えているのは何故か。

 ――それは、その時代に生きる人々が神の存在を信じているからだ。神の存在を望み、崇めているからだ。

 

 そしてそこから言える事が、一つある。

 

 それは、神を望み、崇める者が居れば、一般に知られざる神話も後世に伝え得るという事だ。

 

 望まなければ、残す意味はない。

 崇められなければ、存在する意味はない。

 信じなければ、神などという存在はたちどころに意味を失くして消え去ってしまう。

 それが、この世界における神という存在である。

 

 それを踏まえて、さて。

 この辺りで一つ、ある物語を語るとしよう。

 なに、難しい物語ではない。せいぜいお伽話――例えば、夜眠れない子供に対して、親が子守唄代わりに聞かせるようなお話だと思ってくれれば、それでいい。

 それが事実なのか虚説なのかは、さておくとして。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 昔々、大昔。

 この国がまだ自然に溢れ、魑魅魍魎の跋扈していた時代。ある山々に囲まれた森の奥に、一つの集落があった。

 

 そこは、ある一人の男が作り上げた村だった。彼の知人や血縁者によって作られた、一民族の村である。

 人々は、周囲に山の様に溢れる自然と共に生き、活気を絶やさない生活を送っていた。

 木を切り、水を汲み、火を用い、風を利用し、時に襲ってくる異形の者共には、武器をとって暮らした。

 実に健康的で、程良い危険に絆を深める事のできる平和な村であった。

 そしてそんな村を作り上げた男を、長を、皆は本当の神として崇めていた。

 

 ある時、この村に一人の異形がやって来た。

 

 姿こそそれまでと違い人に近い形を取っていたが、その力は余りに不気味、且つ強大であった。

 

 武器をとって挑む者は、何とも知れぬ不可思議な力で奈落へ落とされ、二度と帰っては来ない。隙を突いて剣を振りかざした者は、瞬く間に肉塊と化す。

 異形は、“それ”を食す事を目的としていた。

 そして、向かってくる者共を食して満足した異形は、その血に濡れた口を舌で拭いながら去っていった。

 また来る――と。

 

 二度目にやって来た時、異形は、この村で最も美味い者を出せ、と要求した。

 その頃の村人達には、最早抵抗の気はすっかり削がれ、誰を差し出すのかと錯乱した様に叫ぶばかり。

 怒号とも言い難く、雑音と言うにも程度が低い。

 恐怖に打ち震えて泣き叫ぶ人々の声が混じり合ったそれは、不気味に響き渡る狂気の波に等しかった。

 しかしその中で一人だけ、自分が出ると言い出した勇敢な者がいた。

 

 ――一族を作り上げた、神として崇められる長である。

 

 異形は、その男を褒めた。

 なんと勇敢な人間か、ただ殺して食すのは惜しい心の持ち主だ、と。

 同時に、異形はその男を嘲った。

 なんと無謀な人間か、分際も弁えぬ愚かな人間だ、と。

 

 しかし、男は異形に屈しなかった。

 元々、食われるために出るのではない、人々を鎮めるために自分が出るのだ。簡単にお前の血肉となるほど安い命ではない、と。

 

 ならどうする?

 勝ったなら食われてやる。

 

 異形は笑った。

 笑って嗤って、そして最後に静かに嘲笑(わら)った。

 異形の声は人々の腹の底を抉り取るように響き渡り、その冷めた眼は男を容赦無く射抜く。

 

 身の程を知れ。

 非力な人間一人に何が出来ようか。

 男はそれでも屈しない。簡単に諦められる命なんて何処にもないのだ、と。

 その不屈の心意気をもへし折りたく思った異形は、もう一度来ると言って去って行った。

 

 そして三度目に来た時、異形は予想外の深手を負った。

 見下していたはずの男が不可思議な力を用いて抗い、そしてそれが、異形の想像を遙かに超えて強かったのだ。

 しかし、それは男も同じ事。

 想像以上の異形の強さに、深手を負っていた。

 

 最早、それは意思疎通に近かった。

 

 互いに傷付き過ぎた二人は、再戦を約束して身を引いた。

 互いの傷が癒えてから。全力で向かい、今度こそ叩き潰す、と。

 お互いに負けられない戦いであった。男は一族を護るため、異形はその誇りを護るため、死力を尽くして越えなければならない戦いだったのだ。

 そうして二人は、何度も何度も衝突した。

 

 しかし、何時だって結果は同じ。

 互いに傷付いて身を引き、癒えればまた戦い、そして傷付き――村の平穏は保たれたが、二人の関係は、益々激しいものとなっていった。

 そしてそこには、奇妙な絆すら生まれていた。

 

 ――だが、その時は来るべくして来たのだろう。

 

 いつか来ると分かっていた瞬間だった。

 最大限の力で、最後の衝突を遂げようとしたその刹那、男はパタリと、崩れ落ちたのだ。

 

 息を引き取るその間際、男は異形に頼み事をした。

 

 どうか、私の民達を見守ってほしい、と。

 異形は、それを拒まなかった。

 むしろ、男の手を取って約束した。

 全力を出し切り、ある種の絆を得た二人には、険悪ながらも、互いに恨み合いながらも、信頼に足る理解があったのだ。

 ――その理解を得たからこそ、男が護ろうとした一族を代わりに異形が護る理由足り得た。

 

 それからというもの、異形の強大な力に守られた民達は、異形の事を知る者全てがこの世を去った後も、平和に暮らした。

 

 この村へ人を喰らいに来る者いれば、異形の力の前に一瞬で消え失せる。

 木や山菜を採りに出かけた民いれば、異形の力が危険を退ける。

 

 異形は、男との約束を守り続けた。

 民達が平和に暮らせるよう、憎らしい程に信頼してしまった男に報いるように。

 

 そうして民達は影から異形に守られながら、平和な時を幸せに暮らしたのだった――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 これは、物語。

 本当かどうかも定かでない、神話の一つ。

 神の同格と相成った一人の男と、強大な異形の物語だ。

 この奇妙な絆の物語を、少しでも心に刻み込ませる事ができたのならば、語った甲斐は大いにあったと言うもの。

 

 この物語が、全ての始まり。

 この物語が、全ての鍵。

 

 さぁ、幕の準備は整った。

 これより先の物語は、はてさて、どんな結末を迎える事やら。

 

 舞台は、不思議に溢れる幻想の世界。 忘れられた楽園。――幻想郷。

 演じるは、ある一人の幼い少女。

 これはその少女が織り成す、風と神話にまつわる物語。

 

 “新たな神話”の幕開けである――。

 

 

 

 




ご意見、ご質問は遠慮無く。


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そよ風の章
第一話 いつもの一日


 

 

 

 灯り一つない闇夜に、後光が差した。

 

 東の空からは太陽が覗き、空気の澄み渡った朝の到来である。

 暗闇の支配する静かな夜が明ければ、そこに広がるのはひんやりと肌に心地よい空気。その冷い空気に応じてか、はたまた鶏の気魂しい鳴き声からか、眠れる人々はゆっくりと目を覚まし、そして自らの職務を開始するべく眠い目を擦りながらのそのそと準備を始める。

 

 どんな世界だろうと、恐らくは変わらないであろう平和な朝の風景。

 あるいは八百屋、あるいは草履屋、あるいは着物屋、あるいは道具屋。

 寺子屋の教師なんかも、早朝から営業を開始する職業の一つだろう。

 数時間後にはきっと、ここに住まう人間達と少しの妖怪達によって、活気の溢れる“人間の里”が姿を現す筈である。

 

 人々の動き出す朝の空気。それに乗り遅れぬ様にか、人間の里の一角では一人の少女が目を覚ました。

 

「ん、ふあぁあぁぁ〜……朝だぁ……」

 

 昇ったばかりの日が放つ陽光に照らされ、少女は未だに温もり求める身体に何とか抗う。

 暖かい布団を捲り、半身を起こし、欠伸を零す少女の目尻には、小さな朝露の如き涙が浮かんでいた。

 差し込む朝日の光が薄っすらとそれを照らして、キラリと露を光らせている。

 瞼をコシコシと擦ってそれを払うと、少女はグッと一つ、伸びをした。

「……準備しなきゃ」

 

 布団の暖かさにやはり名残惜しさを感じながら、少女はのろのろと布団を片付け始める。

 その動作一つ一つが覚束なくて、ふらふらとして、彼女の頭がまだ完全には覚醒していない事を分かりやすく示していた。

 差し込む光に当たっても、その程度では少女の目覚ましにはなり得ない。だが彼女にとっては毎朝の事なので、これはもう慣れっこだった。

 何をすれば朝の強大な睡魔を打ち倒せるのかも、既に彼女は知っている。

 眠気に負けまいと頻りに瞼を擦り、如何(どう)にかいつもの服、スカート、ペンダントを首に掛けて、羽を象った髪留めを着けた。

 後は居間への廊下を転ばずに進むだけ。

 睡魔を打ち倒す秘密兵器はその先だ。

 

「……うーん、鍵穴は……」

 

 カチャリ。

 廊下を進んで、部屋に入り、きっちりと閉めてある障子部分のすぐ横に目を向ける。

 耳に心地よい金属音と共に、少女は掌大の鉄の筒を壁に差し込んだ。

 

 ――すると、その直後。

 差し込まれた筒から、ひんやりとした風が吹き始めた。

 いや、それだけではない。

 筒が差し込まれ、風が入ってきた途端、この家の中は一瞬で緩やかな風に満たされたのだ。

 決して比喩ではない。流し込まれた風が余すところなく家の中を駆け巡り、ひんやりとしたそれに優しく包まれた少女の眠気をゆっくりと溶かしていく。

 少女はその白い髪をフワフワと靡かせながら、吹き抜ける風を全身で感じていた。

 それはそれは、心地良さそうに、

 

「〜♪ 今日も良い日になりそうっ」

 

 これが、毎朝に行われる目覚ましである。

 ついさっきまで彼女を追い詰めていた睡魔は、まるで鬼が炒豆を投げつけられたかのように逃げ出し、もう睡魔の魔力(強い眠気)は欠片も残ってはいない。

 代わりに、少女の心の内からは溢れんばかりの元気が湧いてきていた。

 どんな眠気も、朝のひんやりした風を感じれば一網打尽なのだ。

 彼女にとって、そんな風ほど心地良く、そして眠気を吹き飛ばすのに丁度良い物はないのだった。

 靡く髪は踊るように舞い、そこから見える横顔は微笑んでいる。

 ――少女は、風が好きだった。

 

「……さて、朝ごはん食べよ」

 

 お祈りもしなきゃ――と、部屋の隅に備えられた一つの神棚に意識を傾ける。

 小さくはあるが、何処か圧倒的な存在感を示すそれを横目で見遣り、少女は台所へと向かった。

 

「お腹、減ったなぁ」

 

 朝ごはんは何にしようか、なんて簡単な事を思い浮かべながら、少女は軽い足取りで台所へ。

 朝の食事は、一日を生きる生命の源である。

 幾ら風を浴びて元気が出ても、栄養が無ければエネルギーを作り出せないのが生物の身体だ。

 

 ――ご飯に、お味噌汁に、焼き魚と……お惣菜もまだあったかな。

 

 まだ幼い彼女も、それくらいは分かっているようで。

 頭の中で出来るだけバランスの取れた献立を立案しながら、食事の準備を始める。

 そしてそれが終われば、仕事を始める前に神棚の前で“お祈り”をし、今日一日の加護を願う。

 それが、彼女の朝の日課だった。

 

 かくして、少女――風成(かざなし) 吹羽(ふう)の一日は、始まる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 幻想郷には、一つだけ神社が存在する。

 神や幽霊などが常識的に信じられるこの世界で、本来神を祀るべきである神社が一つだけというのは如何なものかと言うところだが、この神社にはしっかりとした役割が、その他にも存在した。

 

 ――博麗神社。

 

 幻想郷と外の世界の丁度境目、この世界の最東端に位置する古い神社だ。

 幻想郷の創生と同時期からある大変古い神社で、鳥居の色も禿げ掛かっていたり鈴が錆び付いていたり。

 古さ――良く言えば、歴史の深さを物語る程度には、所々ボロが目立つ。

 

 しかし、全く放置されているというわけでもない。

 放置されてしまうほど、如何でもいい役割を担っているわけではない。

 

 幻想郷と外の世界――幻想と現実を隔てる巨大且つ強大な大結界、“博麗大結界”の管理の中心となっているのだ。

 この結界があってこそ幻想郷は形を保ち、忘れ去られた者を受け入れる楽園と成る。

 故に、幻想郷にとっての博麗神社は、生物で言うところの心臓部に等しかった。

 世界の最東端という紛れもない僻地に立地しているとはいえ、この神社にとってはそれにこそ意味があるし、幻想郷には必要不可欠な、全く以って大切な神社なのだ。

 

 そして当然ながら、そんな大切な神社が無人であるはずがない。

 たった一人だけ。

 成人にも満たない一人の少女が、赤と白の不思議な装束を纏って巫女を務めている。

 彼女は、代々妖怪退治を生業としてきた博麗大結界の管理者。

 当代、“博麗の巫女”と呼ばれる。

 

 歴代最高の才覚を持ち、結界術に秀で、これまで才能のみで悪事を働く妖怪を退治し続けてきた天才。

 彼女の行う戦闘は、華麗且つ優雅、そして敵対する者に“勝てる気”そのものを抱かせないというのが、この世界での通説である。

 余談だが、彼女の事を良く知る“ある人間”曰く、「あいつは完璧に仕事をこなせる癖に、ちょっと面倒臭がりなのが玉に瑕」なのだとか。

 勿論、そんなことを言われているなど当人には知る由もないのだが。

 

 兎も角、幻想郷にはそんな巫女が存在する。

 妖怪からは畏怖され、木っ端妖怪などは見ただけで逃げ出すレベル。

 幻想郷で知らない者などいない程にその名を轟かせる彼女は――。

 

 “楽園の素敵な巫女”、博麗(はくれい) 霊夢(れいむ)という。

 

 

 

 そして件の博麗の巫女は今、ある場所に向けて人間の里を歩んでいた。

 

 

 

「(今は……正午近くね。 あの子もそろそろ昼休憩かしら)」

 

 今や天高くに昇りつめ、澄み渡った青空の中心で煌々と世界を照らす太陽を見上げて。

 人々の行き交う里の道を、霊夢は悠々と歩いていた。

 大きな赤いリボンがゆらゆらと揺れ、それに合わせるように艶やかな黒髪が風に吹かれている。太陽の光は、きらりと反射して輝いていた。

 

 これから霊夢が向かうのは、彼女の数少ない友人の家である。

 彼女が人里へ訪れる理由と言えば大抵はこれだ。何せ、他に訪れる理由がない。

 僻地に住む彼女が人里に訪れる理由といえば、まず挙がるのが買い出し、そして妖怪退治。……これだけだ。“まず”という言葉にはほとんど意味が篭っていない。友人の件を除けば、他に理由などないのである。

 友人というのも、人里に住むその人以外で挙げるなら、“瘴気の漂う危険な森に住む魔法使い”ときたものだ。

 彼女の友好関係がどれだけ特殊であるか、想像には難くないだろう。

 

 だから、今回も友人に会う為である。

 他に理由なんてなかった。

 

 巫女が神社を空けていいのか、なんて問いは、この際無粋である。

 そもそも前述のように、霊夢自身を恐れる妖怪が多いこの世界。

 仮に妖怪が来たとしても、それは霊夢に一度叩きのめされてある程度友好的になった者か、あるいは神社の必要性と重要性を熟知している知識人のみである。

 問題など、無いのだ。

 

 活気付く人里の中を、霊夢はすり抜けるように歩いていく。

 有名な彼女が里の中を歩いていても、人々はいつも通りとばかりに通り過ぎていった。

 そこの角を曲がって二つ目、まっすぐ行ったら裏道に入って――。

 最早通り慣れた道を逡巡無く選んで歩いていくと、段々と“近付いて来た”という合図の音が聞こえてくる。

 カンッ、カンッ、カンッという、鋼を打ち付ける鈍いながらも何処か高い音。

 風に乗って流れてくるそのリズムを頼りに、霊夢の足は更に迷いなく前へ出る。

 ――やがて、道が開けた。

 

「着いた。中にいるかしら?」

 

 呟きながら、目の前の一軒家に歩を進める。

 合図の音はますます大きく、そしてよりクリアに響いていた。

 微かに香る煤の匂いと、ちょっとだけ感じられる炎の熱。煤の匂いがこびり付くのは少々遠慮願うところだが、共に感じる炎の熱は肌寒いこの時期には丁度良い焚き火代わりとなろう。

 鼻を突く煤の匂いと、熱を照りつける炎。しかしそれも最早慣れたものだと、霊夢は音の響く倉庫のような建物を覗き込んだ。

 

「吹羽〜! 来たわよ〜!」

 

 

 

 此処、“風成(かざなし)利器店(りきてん)”の工房を――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「いやぁ、でも本当にちょうど良かったですよ霊夢さん。ボクもお昼はまだでしたし」

「それは何より。まさかあたしの分のご飯まで作ってくれるとは思ってなかったけど」

「気にしないでくださいよ。ほら、よく言うじゃないですか。“一人分も二人分も作る手間は変わらない”って」

「……まぁ、あんたが良いなら良いんだけどね」

 

 上がり込んだ友人の家、その居間で、二人の楽しげな会話が響く。

 空となった食器を片付ける吹羽は、霊夢が訪ねてきた事を心底嬉しく思ったのか満面の笑みをたたえており、当の霊夢もそれに吊られて、僅かに口元を緩ませていた。

 ただ、楽しそうに会話をしながらも手は休めることなく食器を洗う彼女の姿には、一見して薄情と言われる霊夢も僅かな罪悪感を感じた。

 だって、上がらせてもらった上にお昼まで貰って何も思わないなんて、それはもう人として腐っているだろう。

 霊夢自身、自分はそこまでダメな人間ではないという自負はあるのだ。

 

「……そうね、お昼も食べさせてもらったし、片付けくらいなら手伝おうか?」

「いえ、大丈夫ですよ。何たってボク、立派に一人暮らししてるんですからねっ! 掃除に洗濯料理と仕事! それに比べれば、食器の片付けくらいちょちょいのちょいですよっ」

 

 そう言い、僅かに膨らみの窺える胸を張る吹羽。

 彼女のその表情ときたら、これ以上は無いと言える程のドヤ顔である。

 それはある種では可愛らしく、そして実に微笑ましい仕草だった。

 

 吹羽という少女には、普段からこうして“大人っぽく振る舞おうとする”きらいがあった。勿論それを悪いとは思わないし、文句を言ったりもしない訳だが、一つだけ言わせて貰えば――霊夢に対してはあまり意味のない行為である。

 それなりに長い付き合いであり、吹羽の人となりを知っている霊夢は、当然素の彼女がどんな人間なのかをよく知っているのだ。

 よく見知った吹羽のそんな見栄は、図らずも霊夢を噴き出させるのには十分だった。

 

「…………ぷっ、あははははっ!」

「んなっ!? なんで笑うんですか霊夢さん! ボク変な事言いましたかっ!?」

「ふふふっ、いやいや、毎度思うけれどね、年端もいかないお子様の癖してそんな“大人アピール”とか、逆に子供っぽいわよ吹羽! 相変わらずねあんたは! くくくくっ」

「〜〜ッ」

 

 遠慮も躊躇いもなく大笑いする霊夢を前に、吹羽はみるみると顔を赤くする。

 確かに吹羽は幼いし、霊夢とも幾つか年が離れている。だが吹羽としてはやはり、その程度の差で子供扱いして欲しくないのだった。

 一人で暮らすには大きい家に一人で住んで、家事に仕事に近所付き合いと、子供には少々難しいとさえ思える環境の中で生活していると言うのに。

 ちょっとした気持ちと癖で張った見栄が原因で、またその相手が自分をよく知る霊夢だった事で、彼女の心はたった今猛烈な羞恥に襲われていた。

 

「い、良いじゃないですかこれくらい!

 “するは一時(いっとき)()末代(まつだい)”って(ことわざ)があります!

 それが大人ってものじゃないんですかっ!?」

「くふふ、そうねぇ吹羽はもう大人ね〜」

「……ぅぅう! 凄まじく馬鹿にされている気がしますぅ……っ!」

 

 そんな事ないわよ、と弁明する霊夢の口は、相変わらず微笑ましそうに緩んでいた。

 吹羽にも反論の意思は確かにあったが、同時に“言っても無駄だ”という推測も心の何処かに存在する。

 その為に言い返せず、小さく唸り続ける彼女のジトッとした視線に晒され続けた霊夢は、ようやく収まってきた笑いの余韻を振り払って深呼吸。

 息を整えてから、改めて吹羽を見遣った。

 

「……何ですか。まだボクを笑う気ですかっ」

「いや、そんなつもりはないけどね。……でもホント、あんたは良くやってると思うわよ」

「……?」

 

 ふと、口調の柔らかくなった霊夢に、吹羽は僅かに首を傾げる。

 つい先程までの怒りの矛も収め、彼女の言葉に聞き入った。

 

「あたしも一人暮らしだけど、毎日あんたみたいな仕事までこなせって言われたら、正直一ヶ月経たない内に音を上げると思うわ」

 

 吹羽を横目で見、そして更に横に流れていった彼女の視線は、この家の隣に立つ工房を見透かしていた。

 吹羽も彼女の真摯な気持ちに気が付いたのか、霊夢の隣に腰を下ろして柔らかく微笑む。

 それは嬉しさからか、はたまた照れ隠しか。

 

「……確かに、鍛冶仕事は慣れないと辛いかも知れませんね。それこそ、ボクみたいに昔から修行してないと」

「家業なんでしょ? こんな仕事、よく継ごうと思ったもんだわ。一人で暮らすには嫌でもやらなきゃいけない事が他にも山ほどあるのに」

「絶えさせる訳にはいかないって、言われた事があるんです。……それに――」

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 目の前の机、畳、木製の壁と来て、遂に天井を見上げた。

 相変わらず緩く流れる風に揺れる髪をそっと耳に掛けながら、吹羽は天井に彫り込まれたススキのような彫り物を見つめた。

 

 風に揺れる草花のように、天井中に彫り巡らされたその紋様は、最早芸術的な迄に“流れ”という物の美しさを表している。

 それをじっと見つめ、そして流れる空気を肌で感じながら、吹羽は独り言のように呟いた。

 

「……ボク達一族の技術を学べば、もっと風を感じていられるかなって、思ってましたから」

 

 吹羽に吊られ、霊夢も天井を見上げる。

 それは霊夢の目にも紋様としての美しさをありありと見せつけていたが、その一方で、彼女にとってはそれが感嘆に値する物であるとも感じた。

 

 霊夢は知っているのだ。天井に彫り込まれた紋様が、どのような意味を持つのか。

 そしてそれが、幾ら天才の霊夢でも会得のしようのない程に高度なものなのだと。

 じっと見つめて、その太さや長さ、形、彫り込みの深さにまで目を向けてみる。

 ――しかし残念ながら、霊夢には何がどうなっているのかさえ分からないのだった。

 

「……相変わらず意味不明よねぇ。ほんとインチキ技術だわ」

「む、“風紋”をそんな風に言わないでくださいよ。確かにインチキ臭くはありますけど……」

「あんたが認めてどうすんの。 あれ彫ったのあんたでしょうが」

「そうですけどぉ……」

 

 ――風紋。

 そう呼ばれた天井の彫り込みに対して、霊夢は軽い溜め息ながらに皮肉を放つ。

 突出して秀でるものは、他の目からは奇妙に映るものだ。突飛出て強力な存在が居たとして、その力を持て囃されて磨き続けても、力がある一定を超えると尊敬が恐怖へと変わり、連鎖的にその存在は『英雄』から『化け物』へと様変わりしてしまうのだ。

 同じ様に、“彫り込みによって空気の流れ(・・・・・・・・・・・・・)を操る技術(・・・・・)”である風紋は、霊夢にとって非常に理解し難い技術なのだった。

 風紋の機構を理解できない彼女にからすれば、正しくインチキ技術と言う他ない。それ程までに信じ難い技術であり、その道に精通した吹羽の一族でしか扱えない、極めて高度な技術。

 出る杭が異様に見えるのは、当然と言えば当然の事なのである。

 

「ま、あんたがあれを彫ってくれたお陰で、あたしは今こうして気持ちよーく過ごせる訳なんだけどね」

「……別に霊夢さんの為に彫った訳じゃないですよ?」

「あら、あたしの為には彫ってくれないの?」

「…………ぅぅ……その言い方はズルいと思いますぅ」

 

 

 文句も度々口から出せど、なんだかんだで吹羽も霊夢の事を悪くは思っていない。

 彼女の反応から何となくそれを察した霊夢は、彼女に悟られない程度に、僅かに頬を綻ばせた。

 

 “他人に等しく興味を抱かない”

 そう評価されることの多い霊夢としては珍しいとも言える様子である。

 彼女自身、その理由は漠然としか把握していなくて。

 だけど、ちゃんと吹羽の事は友人と認識していて。

 

「(……我ながら、不思議な事もあるものね)」

 

 現実と自己認識に僅かな差異を感じつつ、“まぁいいか”程度に思考を打ち切る。

 友人が居て、困る事など多くはない。

 友人という存在が時に煩わしいものとなるのを霊夢は知っていたが、吹羽にはその心配も必要なかった。少なくとも、今まで接してきた彼女はそうだった。

 だから霊夢にとっても、吹羽との付き合いは決して無駄ではない。

 無駄だと切り捨てられるほど、浅く無意味な付き合いではなかった。

 

「――っと、そろそろ仕事に戻らないとですね。霊夢さんは如何しますか? ボクはまた工房に篭りますけど」

「ん〜……邪魔するのも何だから、あたしも帰ろうかしら。里の見回りでもしながら、ね」

 

 そう言いながら、霊夢はすくっと立ち上がった。

 ここは風が心地良いし、なんだかんだ言って吹羽との会話はちゃんと実がある。

 だから、もう少しここに居たい気持ちも確かにあったのだが、吹羽が仕事を再開すると言うのならば、自分の衝動を抑え込むのには何の障害もない。

 

 仮に吹羽が八百屋を営んでいたのなら、霊夢は喜んでこの場に留まるという選択をするだろう。そういう商売は会話しながらでも問題はないのだから。

 だが、実際はそうではない。

 そんな“もしも”は、想像するだけ無駄なのだ。

 吹羽の仕事は、集中を欠けば大怪我をしかねない類のものである。

 全ての工程が危険な訳ではないにしても、わざわざ危険を冒してまで、自分の相手をしてくれなくてもいい。

 だからここに居ては、吹羽の邪魔になってしまう。

 

 せっかく会いに来たのに、お昼を食べてもう終わり?

 霊夢は帰らざるを得なくなった事をほんの少しだけ残念には思いながらも、仕方なく玄関を出る。

 少し進むと、半身だけ翻して吹羽を見遣った。

 

「……また来るわ。じゃあね、吹羽」

「はい! また来てくださいね!」

 

 吹羽の輝くような笑顔を背に、霊夢は元来た道を戻って行く。

 もう一度振り向く事はなくとも、霊夢は、片手をヒラヒラと振る事だけは忘れなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 帰り道、霊夢はふと空を見上げた。

 真っ白な雲が浮かぶ青い空は、清々しいほどの晴天である。未だ日は高く登っていた。ただ、少しだけ傾き始めただけだった。

 彼女が吹羽の家を訪れてからは、時間にして二、三時間経った頃だろうか。

 正直な所、今から神社に戻っても特にする事がない。事件だって特には起きていないし、なんだったらこの間“月”に関する事件が起きたばかりである。

 勿論、そんな出来事が頻発しては霊夢としても堪ったものではないが、余りにも暇に思う時だけ、不謹慎にも“何か起こらないかなぁ”なんて事を考えてしまうのは、彼女が自分勝手だからなのだろうか。

 霊夢は無意識の内に、自らへの呆れとも暇な事への軽い鬱とも取れる溜め息を零した。

 

 取り敢えず、帰って考えよう。

 そして少しでも暇が潰れるように帰ろう。

 ぼんやりとそんな事を考える。

 飛んで帰る事もできるが、何となく霊夢は、それを勿体無いと思った。

 そしてそれは今考えれば、吹羽の家に来た時もそうだった。

 曖昧な気持ちだったし、それに従わなければならない訳でもない。

 しかし霊夢は、やっぱり歩くのが良いなと思った。

 

「うぅ〜ん……今日も平和ねぇ……」

 

 平和過ぎて、退屈なのが皮肉だなぁ。

 不意に立ち止まり、寝起きのようにググッと伸びをした霊夢の額に、一枚の葉っぱがふわりと乗る。

 払うように手で取ってみれば、その葉は見事な迄に鮮やかな色をしていた。

 

 赤、黄、橙。

 少しだけ緑が混じっても綺麗だろうが、この葉は燃えるように鮮烈且つ実に美しい色をしていた。

 そしてその色が、今のこの世界を綺麗に染め上げているのだと、霊夢はふと思い返した。

 

 太陽は天高い。

 だんだんと冷えていく事は想像に難くないが、今の空気は程良く暖かく、風がとても心地良い。

 ちょっとした拍子に焼き芋の甘い匂いが流れてきても、きっとこの素晴らしい環境を感じる良いファクターにしかならないだろう。

 

 

 

 ――幻想郷は、鮮やかな秋を迎えた。

 

 

 

「さーて、戻ってお茶でも飲もうかな」

 

 暢気な呟きを零しながら、そして横目に景色を楽しみながら、霊夢はゆっくりと神社へと戻って行くのだった。

 

 現在の幻想郷は、退屈な程に平和である。

 

 

 

 




 今話のことわざ
「するは一時(いっとき)()末代(まつだい)

 つらい嫌な事でも一時我慢してやれば済むことであり、するべき事をしないでいれば、不名誉は後々まで残るの意。するべきことは、苦痛であってもしなければいけないという教え。


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第二話 友達の形

  

 

 

 幻想郷においての“名家”として、最も有名なのは『稗田家』である。

 幻想郷の創生期頃から続く由緒正しい家柄で、人間の里でのその権力は、幻想郷全土で言うところの博麗の巫女と同レベルに値する。

 勿論、実際に稗田家と博麗の巫女を比べれば、どちらが上の立場にいるのかは明白なのだが。

 しかし、幻想郷屈指の名家である事に間違いはない。

 

 『稗田家』がそれ程までに幻想郷で有名な所以と言えば、それは“幻想郷縁起”と呼ばれる書物にある。

 幻想郷のあらゆる情報――地域の詳細や大昔の出来事、それに関連した妖怪やその特性、能力や危険度、果てには人間友好度や対策まで。 実に多様且つ根深いところの情報を網羅した、正真正銘、幻想郷の歴史書である。

 稗田家はこの歴史書の編纂及び管理を、千年以上も続けてきた。

 そしてその“編纂”を受け持つのが、百数年単位でかの家に生まれる『阿礼乙女』と呼ばれる者達。

 ――いや、“達”と括るのには少々語弊がある。

 阿礼乙女――別称で言うところの“御阿礼の子”は全員、初代 稗田 阿礼(ひえだのあれい)の生まれ変わり。 先祖である阿礼が宿していた求聞史(ぐもんじ)の能力、そして朧げながらもその他の記憶を受け継いできた、稗田家永遠の当主である。

 現在では九代目、稗田 阿求(ひえだのあきゅう)が勤めている。

 

 さて、そんな背景があるからして、幻想郷での名家と言えば『稗田家』が主流である。

 それに反論の意を唱える者など決していないし、それを覆すような事実も存在しない。

 ――ただ、幻想郷に存在する名家は、もう一つだけあるのだ。

 

 名家とはそもそも、古くからの伝統や行事などを変わらず伝え続ける古い家系の名称である。

 千年以上前から“幻想郷縁起”の編纂と管理を続けてきた稗田家は、まさしく名家と言えよう。

 しかし、古くからの伝統を伝え続けてきた家は、実は稗田家だけではないのだ。

 

 古くから――それこそ、稗田家を超える程の古の時代から、変わりない技術と信仰を伝え続けてきた家。

 稗田家同様幻想郷の創生期から存在する家系であるが、現在は人数が減少し、その家が名家であると知る者自体が絶えつつある。

 

 古より絶対不変を貫く風神信仰。

 そして、人の身でありながら風を操る術を身に付けた人々。

 

 それこそが、今や廃れた風の一族――『風成家』である。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 “古くからの付き合い”と言うのは、例えそれがどんな性質の関係であろうとも基本的に大切にされるものだ。程度に差は勿論あるが、付き合いが長ければ長いほどそれは顕著になっていく。

 それが数人、数十人、数世代――。

 積み重なる程にその距離は縮まっていき、果てに千年以上の仲ともなれば、その“近さ”たるや、推して知るべし。

 少なくとも、軽率な行動は咎められやすい筈の当主が突然“私、遊びに行ってきます”と宣言したとしても、笑って見送られる程であろう。

 ――そして、“彼女”もまた、そうした人間の一人なのだった。

 

「今頃は、何していますかね……」

 

 紅葉が彩る小道を、小柄な少女が歩んでいる。

 一目で“位の高い家の娘”だと分かる程に美しい着物を纏っており、華奢で小さな体格も作用して非常に可憐な雰囲気を醸していたが、それだけには留まらない。小道の空を舞い散る紅葉の葉と木漏れ日で、彼女はより一層美しく、可愛らしく映えていた。

 元々人通りの多い道ではない事も相まって、彼女の周囲は静まり返り、砂利を踏みしめる音のみが葉掠れ音に混じって響き渡る。

 ――やがて、少女は鮮やかな小道を抜けた。

 

 彼女の目的地は、目の前だった。

 大きく開いた工房に遠慮も無く入ると、煤と鉄の微かな匂いが鼻腔を突いてくる。しかし、彼女とっては最早苦にはならない匂いだった。

 見慣れた工房を少しばかり進んで見回していると、彼女の耳に、銀鈴のように澄み透った声が聞こえてきた。

 

「あれ? 阿求さんじゃないですか」

 

 少女――稗田 阿求は、半ば反射のようにして振り返る。

 浮かんだ笑みが、太陽のように輝いていた。

 

「吹羽さん、こんにちは!」

「こんにちは。どうしたんです? 何か用事ですか?」

「用事が無くては、来てはいけませんか?」

「えっ? ああっ、そういう意味じゃなくてですねっ!」

「冗談ですよ。趣向を変えた、ちょっとした意地悪(挨拶)です」

「っ! うぅ……出会い頭にそれは酷くないですか……? 相変わらずですねぇ……」

 

 出会って早々、吹羽に軽い意地悪を吹っかけたのは、親しい仲であるという自負から来る阿求の軽い茶目っ気の表れだ。

 少しばかり会っていない期間が続いていたが、何事もないらしくて何よりである。

 

 改めて吹羽を見てみると、彼女は私服でなく、動きやすい作務衣(さむえ)姿をしていた。

 普段は若葉色のスカートと、フリルをあしらった白色の服を赤い紐リボンで飾っているが、今の姿はそれと比べると少しばかり地味である。

 ただ、服の裾や胸の辺りに花の刺繍があったり、髪を綺麗に纏めていたりする分、僅かながらに女の子らしさは滲んでいた。勿論、常に身に付けている勾玉のペンダントと羽の形をした髪留めだけは、変わらず彼女を彩っている。

 ――という事は、仕事の休憩中だったか。

 彼女が姿を現した方向からそう結論付け、阿求は懐から一枚の紙を取り出した。

 

「今日は依頼があるんです。次いでに顔も見ておこうかと思って私が来ました。変わりないようですね、吹羽さん」

「はい! 健康そのものです! お仕事も順調ですよ!」

「なら良かったです。無理はしないでくださいね? ――はい、これが注文です」

 

 差し出された紙を受け取ると、吹羽はその場で広げて目を通した。

 紙に書かれていたのは、注文に必要な諸々の情報と――望む『風紋』の内容である。

 一通り斜め読みで目を通した吹羽は、微笑みながら小さく頷いた。

 

「分かりました。 御注文は出刃包丁ですね」

「はい。如何やら、今まで使っていたものがもうダメになってしまったらしくて……。それに手が慣れてしまったのか、風紋包丁でないとしっくりこないそうなんです。風紋包丁はちょっと高いですけど、そうなったなら買い換えないと」

「えへへ……なんだか、そんな感想を貰うと照れちゃいますねぇ」

「期待してますよ」

 

 阿求の真っ直ぐな言葉に、吹羽は得意げな表情を浮かべた。

 

「お任せを! ボクの腕を嘗めないで下さいっ」

「――と、稗田家の料理人一同が口を揃えて言っていました」

「……ご、ご期待に沿えるように……頑張り、ます……」

 

 少しだけ緊張してしまった様子の吹羽に、阿求は優しく笑い掛けた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 『巫女』の仕事とは何か?

 そう訊かれれば、“神社の掃除とお祈り”と答えるのが一般的かと思われる。実際、境内の掃除はその神社の巫女が勤めているし、お祈りだってする事はある――主には神主の仕事だが――。

 他に挙げるとすれば、例大祭などでの舞などだろうか。御神体への奉納として、巫女が三番叟(さんばそう)などを舞う事はある。

 ただ、“幻想郷の”巫女の仕事とは何かと訊かれれば、答えは十中八九“妖怪退治だ”と返ってくる。

 流石幻想郷、と言うべきなのか、はたまた伝統芸能すら失われているとは、と嘆くべきなのか。それは人それぞれというものである。尤も、幻想郷住民ならば確実に前者であろうが。

 ――そう、そんな世論や常識も相まり、幻想郷の巫女の仕事と言えばそれ以外に挙げられない。

 流石に、幻想郷の神社――博麗神社は、巫女の生活空間でもあるので掃除くらいはして当然だが、そもそもそんな事は仕事以前の話である。掃除も出来なくて何が一人暮らしか。嘆かわしい事である。

 

 では、掃除をし終わった後の巫女は何をしているのか?

 仕事も特になくなり、お祈りも定期的にしなければいけない訳では――博麗神社では――ない。 妖怪退治の代表例と言える『異変』もそう頻繁に起きるものではないし、一体何をしているのか。

 答えは至極単純。

 

 ――お茶でも飲みながら、お賽銭の一つでもないかなぁなんて妄想に耽っているのだ。

 

「(――まぁ想像なんてしたところで、叶ったことは一度も無いんだけどねぇ……)」

 

 美しい正座と仕草でお茶を啜りながら、霊夢は諦めるようにそう思った。

 生活には困っていないものの、博麗神社は何時だって貧困真っ盛りである。

 今だってこのお茶、何度使ったか分からない出涸らしだ。そのあまりに薄くなった苦味の事を、霊夢はあまり考えないようにしていた。したら、悲しくなってくるから。

 その日食べる物に困る程火の車な訳ではないし、少しおやつを買うくらいの出費は問題無いのだが、お賽銭を切に願う程度にはお金がない。

 彼女くらいの年頃の女の子には少々頭の痛い話である。

 この間吹羽にお昼を貰ったのはその実、霊夢としては吹羽が思う以上の救済措置に他ならないのだった。

 

「はぁっ、お金あっても使い道ないんだから、いいか」

 

 と言いながら、口に出して諦めようとしている自分から目を反らす。

 己の生活を惨めだなどとは思っていないが、もう少しくらい贅沢もしてみたい。しかし、そんな叶わぬ夢を空想するのも辛くなってしまうから、霊夢はそれにすらも目を反らした。反らさざるを得なかった。

 無意識に漏れた彼女の嘲笑は、その複雑な心境を表すかのように変な形に歪んでいるのだった。

 

 ――と、そうして退屈な時間を無為に過ごしていた、その時である。外の方から、聞き慣れた声が聞こえてきた。

 

「お〜い霊夢! 邪魔するぜー!」

 

 快活な女の子の声だ。

 語尾が特徴的な、霊夢の“もう一人の友人”のものである。

 何時もの事ながら彼女の声には何の反応も示さなかったが、当然の様に縁側から入ってくる足音がした。

 常識知らずな事この上ない。しかし、当の霊夢は気にしていない。

 否、言っても無駄だと知っているのだ。

 

「なんだなんだ、博麗の巫女ってのは暇だなぁ霊夢。お茶啜ってるだけかよ」

「煩いわね。仕事はもう終わらせたんだから何してたって良いでしょ」

「お前じゃなくて、博麗の巫女っていう暇な職業について言ってるだけだぜ」

「どっちにしてもあたしに言ってるじゃないの!」

「ははははっ! そうとも言うな!」

 

 少女はからからと笑いながら、霊夢に向かい合うように座った。

 隣に大きなとんがり帽子を置き、肩に掛かった金色の髪を払う。

 口調こそ男性的だが、彼女は実に可愛らしい少女である。

 

「っていうか、暇だとかあんたに言われる筋合いはないわよ。お店放ったらかして研究ばっかりしてる癖に」

「あれは物置だぜ? 看板がついてるのは、それを拾ってきたついでに飾ってるだけだからさ」

「あーハイハイ、そういう事にしておいてあげるわよ。あんたはホントに屁理屈ばっかり言うわよねぇ、魔理沙」

 

 少女――霧雨 魔理沙(きりさめ まりさ)は、何処か得意げに笑った。

 

「会話が続くって良い事だと思わないか? 図星を突かれて会話が途切れるとか、そういうの私は良くないと思うんだよなぁ」

「ふん。それすら屁理屈なんでしょ?」

「へへ、分かってるじゃないか」

 

 見て分かる通り、魔理沙は明るく元気な少女だ。

 冷静を貫き、激情を露わにする事の少ない霊夢とはある意味対照的である。事実、彼女のその気性は、度々霊夢の疲れの元ともなっているのだ。

 がしかし、だ。

 反対に、魔理沙の明るい性格が霊夢を元気付けることがあるのもまた、事実。

 霊夢にとっては、魔理沙もまた必要な存在なのである。

 

 魔理沙の返答に軽く息を吐くと、霊夢は立ち上がって引き出しを漁り始めた。

 

「そういえばお前、此間どこに行ってたんだ?」

「ん? 何の事?」

「昼頃に来たんだけどな、お前がいなかったから引き返したんだ。家主のいない家に止まるのもアレだったんでな」

 

 そういう常識は持っていたのか――なんて少しばかり失礼な考えは一先ず頭の隅に追いやり、霊夢は引き出しから煎餅の袋を取り出した。

 常備してあるお茶請けである。

 霊夢はその足で湯飲みとお盆を取ってくると、魔理沙に差し出しながら、煎餅を広げた。

 

「昼頃ねぇ……最近は神社にいたと思うけど、だとすると――」

 

 魔理沙の湯飲みにお茶を注ぎながら、片手間に思い出す。

 ああ、あの日か、と。

 思い当たる出来事は、案外容易に見つかった。お昼頃出かけていた日と言えば、近頃ではあの日しかない。

 

「あー、その時は吹羽の家に行ってたわね。退屈だったから行ったんだけど、予想外にお昼を貰っちゃってね。帰って来たのは夕方前だったかしら」

「ふう? えーっと、待てよ……あ、あー、あのちっこいのか。白い髪の」

「そうだけど……何、忘れてたの?」

「会う事自体がないんでなぁ。言い訳じゃないが、忘れてても仕方ないと思うぜ」

「そう……」

 

 考えてみれば、魔理沙と吹羽が出会う機会は確かに少なそうだ。

 魔理沙は実家の関係で、用がある時以外は人里に近寄らない。

 対して吹羽は、人里からはあまり出ない上に店の所在も少々分かり辛い場所にある。少なくとも、ぶらぶらと散歩をしていて入ろうなんて思うような道ではない。まぁ紅葉狩りする為になら入る者もいるかもしれないが。

 仮にすれ違ったとしても、忘れてしまう程淡白な関係では挨拶すら交わさないだろう。

 道ゆく他人に一々挨拶する程几帳面な人が何処に居ようか。

 魔理沙と吹羽の関係などその程度である。

 

「初めて会ったのは……ここだったな。わたしが来たら、お前があいつと楽しそうに話してるもんだから、心底びっくりしたぜ」

「あたしが楽しそうにしてたらおかしい訳?」

「そうじゃねーよ。珍しいなって思っただけさ。自覚あるか? お前、結構いろんな奴から“薄情な奴だ”とか思われてるぜ?」

「…………薄情なんじゃなくて、興味が湧かないだけよ」

 

 覚えている。

 その日は珍しく、吹羽がここに遊びに来たのだった。久しぶりに注文がない日だったから、という理由だった筈だ。

 相変わらずからかうのが楽しかったものだから、ついついやり過ぎてしまったと後で後悔したのもまだ覚えている。

 魔理沙が来たのもその時であった。

 

 ――あれが初めてだったのか。

 霊夢は、はたと思った。

 それからも吹羽が遊びに来る事は極稀にあったが、思い返してみれば、魔理沙と吹羽が鉢合わせた事はそれ以来なかったように思う。まぁ、それは単なる偶然なのだろうが。

 

「珍しいよな。妖怪に好かれやすいお前が人間に好かれるなんて。“友達になってくれ”とでも頼んだのか?」

「そんな訳ないでしょ……。吹羽は普通に友達よ。あの子はあんたみたいに捻くれてないからね」

「お? なんだ、直せってか?」

「何処ぞのお姫様でもなし、無理難題を押し付ける程あたしは理不尽なつもりないわ」

「……言い方に悪意を感じるんだが……」

 

 軽口を交わしつつ、お茶を啜りつつ、霊夢も魔理沙の言い分には少しだけ同感していた。

 霊夢が妖怪に好かれやすいというのは本当の事だ。

 今まで起きた『異変』の数々――その主犯格一同は、その後に開かれた宴会をきっかけにして時々博麗神社へと訪れる。仮にも自分を退治した相手だというのに、である。

 それは客観的に見て普通ではない。いや、妖怪相手に普通がどうのこうのと適用するのは無駄な事かもしれないが、“霊夢が妖怪に好かれやすい”と捉えるには十分な判断材料だ。

 そんな中では、吹羽という存在は少々奇ッ怪に写る。

 

 いつの時代でも、出る杭は打たれるものだ。

 それに苛烈な意味(・・・・・)が無いとしても、霊夢に普通の人間達との交流が少ないのは事実である。 況してや、神社にまで遊びに来るなんて。

 魔理沙からして、それは不思議で珍しい事だった。

 

「(――いや、分かってる。あの子の近くにいようとしてるのは、むしろあたしの方だ……)」

 

 魔理沙が煎餅を頬張る前で、霊夢は小さく俯く。

 まるで何かを背負っている(・・・・・・・・・)かのような雰囲気が、僅かばかり霊夢から滲み出ていた。

 しかし、それも一瞬の事。

 魔理沙がそれに気が付くよりも先にはっと我に帰り、何事も無かったかのようにお茶を啜る。

 魔理沙は、彼女の雰囲気の変化に気が付かなかった。気が付く間も無い程、霊夢の切り替えは早かった。

 

「兎に角、あんたが思うような関係じゃないから変に勘繰るのはよしなさい。あたしからすればあんたと同じような立場よ、吹羽は」

「わたしが思うような関係って?」

「“友達料”が必要になる浅い友人関係」

「そんな生々しい事考えてないぜ」

「どうだかねぇ」

「はぁ〜、何だかわたしももう一度あいつに会ってみたくなってきたなぁ。今度行ってみるか。んで暇がありゃ勝負でもしてみるか」

「止めときなさい。負けるわよ」

「冗談キツイぜ霊夢」

 

 からからと笑う魔理沙に吊られて、霊夢も僅かに微笑みを零した。

 やはり、友人はいても損しないな、と。

 周囲との関係が比較的薄い霊夢でさえ、そう思った。“友は人生の宝”とは、よく言ったものである。

 昼下がりの博麗神社は、順調に“いつも通り”を過ごしていた――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 包丁作りは、まず『火造り』から始まる。

 火で鋼を千度程にまで赤らめ、鎚と経験にのみ基付いて打ちつけ、形を作る。

 次に不銹鋼(ふしゅうこう)と鋼を重ねたら、間に硼砂(ほうしゃ)と鍛接材を挟み込み、もう一度赤らめて打ち付け、鋼同士を接合させる。 通常は接合しにくい鋼同士も、こうして鎚で打ち付ければ硬く接合していくのだ。

 

 それを続けると、三枚の鋼は次第に一枚となっていく。

 更に更にと打ち付け、より強靭な素材へとなっていくそれに『こみ』を彫り、形状と厚さを合わせていく。

 それでもおかしくなってしまう部分を、今度は『裁ち』始める。 余分な部分を削り切り、より製品に近い形に仕上げていくのだ。

 『裁ち』や『押し切り』で歪んだ細かい部分を直すため、鋼は更に赤められる。

 そして手打ちで形をならしていけば、後は鍔を後付けで整形して、包丁作りは一段落だ。

 

 包丁は刀身がそれほど大きくはないため、刀と違って一日で製作し切ることができる。早ければ四、五時間ほどの所要時間で完成するのだ。

 ただ、『風紋』を刻むのに一時間程を要する。

 勿論、いくら早かろうと品質が劣悪ならば意味など無いが、吹羽にとっては――否、風成利器店にとってそれは、気にするほどの事ではない。

 気になどせずとも、遺伝子レベルで染み付いたその技術によって、質の高い刃物を比較的短時間で仕上げる事ができるのだ。

 それは、未だ幼い吹羽にだって同じ事。

 先祖代々に引き継いできた技法は、しっかりと彼女の身の内に刻まれているのだ。

 その小さな手に握られた鎚からは、力強い金属音が鳴り響く。

 その翡翠色の綺麗な瞳は、焼けるような火の色を決して見逃さない。

 その端正な顔はきゅっと引き締められて、目の前の鋼と真摯に向かい合っている。

 

 ――阿求は、その様子をじぃっと見つめていた。

 

「……阿求さん」

「なんですか?」

「ボクの仕事なんか見ていても、詰まらなくありませんか?」

「そんな事ないですよ! 見ていて飽きなんて来ませんっ!」

 

 軽く息を吐き、汗を拭って、ずっと秘めていたかのように吹羽が尋ねると、阿求は滅相もない、とでも言うかのように即否定した。

 鍛治仕事なんて、当事者である吹羽でさえ見ていても面白いものではないだろうなぁ、と切り捨てている。そもそもが“見られる仕事”ではないと分かっているからだ。

 だが、彼女の意に反して阿求は、そんな吹羽の鍛治仕事に並ならぬ興味を示していた。

 

「吹羽さんの仕事姿、格好良いと思います! 私には絶対に出来ませんからね、鍛治仕事なんて!」

「は、はぁ……そう、なんですか」

 

 阿求の吹羽に向ける視線は、まさに羨望のそれであった。何を羨ましがっているのかなど、一目瞭然である。

 阿求は、少女の身でありながら常人では決して辿り着けない領域――風紋技術を含め――にいる吹羽の、その才能と技術を羨んでいるのだ。

 強いて言えば、か弱い少女であるはずの吹羽から滲み出す、凛々しさと逞しさにも憧れていた。

 風成家の人間としては当然の事――そう思って習得してきた技術にそんな視線を向けられては、吹羽も言葉に詰まってしまう。

 自分にとって普通の事が、他人からすれば羨む対象となり得る。それに多少の違和感があった。

 今の吹羽の心境は、複雑である。

 

「鍛治仕事なんて、出来ても得なんかしませんよ。熱いし、手は疲れるし、神経が擦り減っちゃいますし」

「そう言う割には、真面目にやっていますよね」

「そ、そりゃ家業ですから。真面目にやらないとボク自身の生活が厳しくなりますしっ。自分で自分の首は絞めたくないです!」

「では、楽しくはないんですか? 楽しくもない事を、家業だからといやいや営んでいるんですか?」

「そ、それは……いえ、楽しいですけど……」

 

 にこりと微笑む阿求が見えて、ほんのりと頰を赤く染めて目を逸らす。阿求の言い分は、図星だった。

 楽しくない訳がない。

 風を常に感じていたいと願う吹羽にとって、風を操る『風紋』の技術は、まるで自分の為に生み出されたものかのように思えた。

 事実その風紋の技術が、吹羽の目論見通り、彼女の家の中に絶えず風を流しているのだ。

 風を感じられて、その術を学べて、楽しくない訳がなかった。

 

 ――でも、それとこれとは話が違います!

 図星を突かれた羞恥を振り洗うように、吹羽は頭をふるふると振るった。

 

「阿求さんだって、ボクには絶対に出来ない事をしているじゃありませんかっ。ボクを羨む必要なんてありませんよ!」

「……幻想郷縁起の事ですか?」

 

 そうです! と力強く頷いた吹羽に返ってきたのは、優しげな微笑みだった。

 

「ふむ……そうかも、知れませんね。本当は、誰かを羨む事に意味なんて無いかも知れません。“隣の家の芝は青い”って言いますしね」

 

 でも――。

 阿求の柔らかな笑みは、吹羽に何処となく真剣味さえ感じさせた。

 

「誰にだって、出来る事と出来ない事があります。 全てを完璧に、誰の手も借りずにこなす人なんていません。だから人を羨んだり、嫉妬したりする。そして、追い付こうと努力する。その結果がどうかはさておくとして、その心意気に意味がある。

 ――私はそう思っています」

 

 人は完全ではないからこそ、誰かと助け合ったり、努力したりする。

 そしてその力の源となるものこそが、羨望や嫉妬だ。それは言い換えれば、“向上心”と同義である。

 そしてその向上心は、人が成長する為には必要不可欠なものなのだ。

 幾百年と歴史書を編纂し続け、その記憶は朧げながらも、長い間人間を見てきた阿求だからこそ確信の持てる理論だった。

 

「私は凄いと思いますよ、吹羽さんの事。私には絶対に真似出来ません。その才能を羨ましく思うのって、可笑しな事ですか?」

 

 本心からの言葉と悟り、吹羽は阿求の目を見る事が出来なくなった。

 面と向かって心からの賛辞を述べられるのは、仕事柄、吹羽にとって非常に珍しいことである。

 照れてしまって、まともに顔が合わせられない。

 吹羽はどうしようかと泳がせていた視界に入った、作業中の包丁に視線を止めた。

 

「……さ、作業に戻りますっ!」

「はい、どうぞ戻ってください」

「……やっぱり、見ていくつもりなんですか?」

「もちろん。出来れば最後まで見て行きたいですね。格好良い吹羽さんの姿」

「ぁぅ……ボク、阿求さんのこと苦手かもしれません……」

「大丈夫ですよ。私は苦手なんかじゃありませんから」

「そういうところが苦手なんですよぅ……」

 

 阿求は吹羽に憧れた。

 “羨む必要はない”と説得されるのは論を俟たないほどの才能を他分野において持っていながら、阿求は吹羽に羨望を見、深い尊敬を心に宿していた。

 鍛治仕事に関してだけではない。

 彼女の才能とは、生活全般に通じていることである。

 未だ幼いにも関わらず、そこらの大人なんかよりもよっぽど安定した生活を、たった一人で営んでいるのだ。

 自立し切ったその姿が、主に侍従の者に世話を焼かせている阿求からして、輝いて見えるのはある意味自明の理とも言えよう。

 ――そういう意味では、“才能を羨んでいる”と言うよりも、“彼女自身を心から尊敬している”と言う方が正しいかも分からない。どちらにせよ的外れな表現ではない。

 ついついからかってしまうのも、尊敬心から来る親しみの表れなのだと、彼女自身には自覚があった。

 それをやめようとも思っていない。

 阿求にとって、吹羽は親しくありたいと願う程に憧れの対象だった。

 

「“仇も情けも我が身から出る”という諺があります……。

 ボク……阿求さんに褒めちぎられるほどの事、しましたっけ……?」

 

 ぶつぶつと困ったように呟く吹羽を、阿求は純粋な笑顔で眺めていた。

 

 そうして出来上がった一振りの包丁――吹羽の技術の粋が結集された白銀の風紋包丁は、稗田家お抱えの料理人達に大変喜ばれたそうである。

 その皆の様子を見て、何故か阿求も嬉しくなって大喜びしたのを、当然吹羽には知る由も無いのだった。

 

 

 




 今話のことわざ
(あだ)(なさ)けも()()から()る」
 人から恨まれたり愛情を示されたりするのは、すべて自分が招いたものであるということ。ふだんの心掛けや行い次第であるということ。


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第三話 不思議な関係

  

 

 

 実際の所、『風成利器店』の知名度がどれ程かと言うと、実はそれ程広く知られている訳ではない。

 品の質や性能は、一般家庭に使われるものと比べれば頭抜けて高いのは確かなのだが、そもそも店自体が小道を抜けた先の、建物の入り組んだ場所に建っている。

 加えて、吹羽自身が一日中家や工房で過ごす事も少なくない。

 その為、名の広がる機会が無いのだった。

 

 仮に人数が多ければ、店に籠る者と宣伝をする者で役割を分担し、ある程度の知名度は得られるだろう。しかし残念ながら、現在の風成利器店は吹羽一人で切り盛りしている。

 そんな余裕がないのは明白だし、何よりも吹羽にその気が無かった。

 暮らしていけるだけのお金は、“風紋包丁”を二、三振り売りさえすれば十分に稼げるし、知名度が上がり、お客が多くなって、店の周囲が騒がしくなり過ぎるのもあまり好まない性分だった。

 ――さらに言えば。

 吹羽は、自分達一族が何故鍛冶屋を営ん(・・・・・・・・)でいるのか(・・・・・)をよく理解しているのだ。

 だからこそ稼ぎにはあまり頓着しないし、知名度にも興味がないのである。

 

 しかし、それでも人里に存在する以上、ある程度の人の目には触れる。

 偶然通りかかった百姓の一人が風紋包丁の性能と美しさに取り憑かれ、以来何代にも渡って風成利器店を贔屓している例も、何件かある。

 実は稗田家との関係もそれに近く、またお互いに長い歴史を持つ名家だからこそ、今でも交流が続いているのだ。

 百姓――ではないとしても、吹羽とその類の出会い方をしたのが、霊夢であった。

 二人何気ない出会いを果たし、それ以来ちょくちょくと店に足を運んでいる。

 そして今日も、霊夢は店に訪れていた。

 実に一週間振りの来訪であった。

 

「………………」

 

 ギンッ、ギンッ、ギンッ。

 炉の熱で暑くなった工房では、鎚が鋼を打ち付ける甲高い音が響いている。

 『火造り』を終え、銘を刻む『銘入れ』、組織のムラを無くす『焼きなまし』を終えた後の『ひずみ取り』の作業中である。

 霊夢は工房と住居を繋ぐ扉の縁に腰を下ろし、お茶を啜りながらぼんやりと吹羽の仕事を眺めていた。

 勿論、余計に話し掛けたりはしていない。

 その程度の配慮は、普段からしていることである。

 

「(……ホント、真剣ねぇ)」

 

 吹羽のキリッとした瞳を見て、霊夢はふと思った。

 普段の明るい雰囲気からは掛け離れた、静かで鋭い“気迫”にも似た空気を、仕事中の吹羽は纏っている。

 “鍛治仕事は稼ぎが主な目的ではない”という事を知っている霊夢としては、少々難解に感じた。

 

 嘗て名家として名を馳せた風成家は、最早吹羽ただ一人である。

 彼女はまだ幼い。本当ならば何処かの養子にでも引き取られるべきである。

 しかしそう(・・)ならなかったのは、かくいう吹羽自身がそう望んだからだった。

 ――お店を継ぎたい。

 ――潰してしまいたくない。

 彼女がそう言い始めた当時、それはもう周囲――特に風成利器店を贔屓している者達――から猛反対された。

 彼らも風成利器店が潰れることは心の底から悲しみながら、それでも吹羽の安否を願っていたのだ。 それが、およそ五年前の話。

 しかし結果として吹羽がそれを押し切り、立派にお店を切り盛りしているのだ。

 誰が見張っている訳でもない。

 少しくらい怠けたって、弱音を吐いたって、誰も彼女を責めたりしない。 蔑んだりしない。

 それでも吹羽は、鋼を打ち続けている。

 きっとそれ程までに、吹羽は風が好きなのだろう――と。

 その為の力を磨いているのだろう――と。

 確信に近い結論を、霊夢は既に得ていた。

 

 なんという努力家か。才能に恵まれていながら、それを更に磨き上げようとしている。

 同じく才能に恵まれ、でもそれに頼り切って生きてきた霊夢としては、それはある意味理解に苦しむ行動と言えた。勿論、彼女はそれで十分に仕事を全うしているので文句を垂れる輩はいないが、それとこれとは話の焦点が違う。

 霊夢と吹羽では少々人間性に差がある、という話だ。

 そんな思いを密かに抱く霊夢だったが、それでも吹羽にこれっぽっちも嫌悪感を抱かずにぼぅっと眺めている自分自身に対しても、実は不思議な感覚を覚えていた。

 

「(……まぁ、これは同情(・・)と同じような感情(もの)なんでしょうけど――)」

 

 ふと辿り着いた自己分析を、霊夢は緩く頭を振るって掻き消した。

 

「ふぅ……! 一段落ですね」

 

 声にはっとし、見てみれば、吹羽は包丁を太陽に照らし見ながら汗を拭っていた。

 日の光に照らされた刀身は、白銀の光を放って目に痛い程である。その刃の鋭さを明確且つ簡潔に物語っているようだ。

 ふと視線を移せば、吹羽の翡翠色の瞳も普段の柔らかな雰囲気に戻っている。

 刃を見つめる吹羽の満足気な表情が、霊夢にはなんとなく微笑ましく思えた。

 

「ねぇ吹羽、それにはあと柄を付けるだけ?」

「いえ、あとは風紋を刻む作業があります。この品の風紋はそんなに難しいものじゃないので、時間はそんなに掛からないんじゃないですか?」

「……そうなの?」

「はいっ!」

 

 眩いばかりの笑顔を放つ吹羽に対して、霊夢は己がかなり複雑な表情をしている事を自覚していた。

 相も変わらず、霊夢に風紋の事は分からない。

 いや、種類などはある程度知っているのだが、それ(・・)どれ(・・)で、何故そう(・・)なるのかは未だに理解出来ないのだ。

 人が動物を見ても個体それぞれの区別が付かないように、霊夢には風紋の区別が付かない。

 故に、何が簡単だから、どれだけ短い時間で出来るのか、なんて事が推測出来るはずもなく。

 風紋技術が特殊過ぎることもある上に当然といえば当然の事なので、その辺りの事は既に霊夢の中で諦めが着いているのだった。

 だって、基準すら分からないのでは、取り繕った苦笑いでしか返事を返す事が出来ない。

 それが分かっているから、吹羽も昔からその手の事には敢えて触れないでいた。

 

「ふーん……まぁ早く片付くのはいい事よね、どんな事でも」

「且つ、しっかりこなせてたら完璧ですよねっ」

「そりゃそうよ。 早い上に上手く出来てたら、お茶飲んで寛いでいても誰も文句言わないしね」

「そ、それは霊夢さんだけの考え方じゃ……?」

「何よ、文句あんの?」

「いえ、別に……」

 

 そう言いつつも、吹羽の言い分もよく理解している霊夢である。

 面倒臭がりか、向上心があるかの違い。

 物事を早くこなせたなら後は思う存分休む。文句など言わせない。――と言うのが霊夢であり、早く終わったから修行ついでにもう一振り! ――と言うのが吹羽なのだ。

 そう考えれば、なんともまぁ。

 似ているようで、正反対な二人である。

 

「ま、そうやって根を詰め込み過ぎないようにする事ね。それで腕は上がってるっぽいから、一概にダメとは言わないけど」

「分かってますよっ! 健康に気を遣えないで鍛治仕事なんて出来ませんからねっ!」

「そ。ならいいけど」

 

 簡潔に忠告した霊夢に、吹羽は満面の笑みで「はいっ!」と答えた。

 ――うわ、笑顔が眩しい。

 きっとこの子の前では、どんな大悪党も毒気を抜かれてしまうんだろうなぁ、なんてどうでもいい事を、何の気なしに考えてしまう。

 普段なら思い付きもしない事を思い付いてしまった事に気が付き、平和ボケ真っしぐらだ、と霊夢は心の片隅で痛感した。

 

「そうだ! 霊夢さん霊夢さん! 聞いて下さいよっ!」

 

 呼ばれた声に顔を上げれば、目の前では吹羽が一枚の紙を広げて見せつけていた。

 一瞬何か分からなかったものの、よく見ればそれは、何かのメモのようであった。

 下の方には横に長い長方形が描かれ、その上部の辺からはススキのような模様が描かれている。

 その模様の半ばからも何本もの線が描かれており、それと並列するように矢印や丸、一言のメモが書き連ねられていた。

 少しだけ首を傾げて数秒の沈黙の後、霊夢は小さく口を開いた。

 

「……これ、風紋のメモ?」

「はいっ! “技術は上達してる”って言われて思い出したんですけど、これ、ボクが考えたんですっ! 新作の風紋ですよ!」

 

 ――だから何?

 そう漏らしそうになった口を、霊夢は慌てて噤んだ。

 何せ、自分を見つめる吹羽の視線が、如何にも“褒めて下さいっ!”と言っているように見えたのだ。

 輝く瞳が眩しい。眉を顰めてしまいそうな程。

 風紋の事なんて分からない自分に褒められて嬉しいのか? と思わずにはいられない。しかしそれは問うまでもなかった。吹羽の表情が、それを明らかにしていたのだ。

 心の内で小さく嘆息しながら、半ば仕方がなくなったかのように、霊夢はポンポンと吹羽の頭を撫でた。

 

「あーすごいすごい。やっぱり吹羽は凄い子ねーあたしには絶対無理だわー」

「え、えへへ、それ程でもないですよぉ〜! ふふふ、これ実はですねぇ――」

 

 ――うわぁ、この子チョロいな……。

 霊夢自身、予想以上に感情の篭っていない声が出た事には少なからず驚き焦ったが、“それ故に”と言うのか、彼女は照れ笑いしながら自身の作品について語る吹羽にそんな感想を抱いた。

 あんな無感情も甚だしい褒め方でこの様子とは、純粋と言うのか単純というのか。

 その単純(純粋)さがいつか何事かの仇にならないか少しばかり心配に感じたものの、結局霊夢はそこで考えるのをやめた。

 この子は仮に単純ではあっても、決して馬鹿ではない。

 様々な物事に対して、適切な判断くらいは着けられるだろうという結論が、既に彼女の中では出ているのだ。

 あとはもう少し子供っぽさが抜ければ――。

 

「それでですねっ! ここを通った風をこっちで纏めると、前よりも効率的だって気が付いてですね! 一緒にここを利用出来たら――」

「(……って、この様子じゃ無理かな)」

 

 吹羽には人一倍子供っぽい所がある。それをあと少しでも抜くのは、案外難しいことなのかも知れない。

 彼女の満面の笑みを見て、霊夢は考えを改めた。

 まぁ、明るい性格と程良い子供らしさはある種の長所であり、可愛らしさの一つとも言えるわよね――と。

 暗い吹羽なんて吹羽じゃない。

 何時だって元気で明るいのが吹羽という少女だ。

 霊夢は明るく元気な彼女の語りに、仕方なさそうに――だが何処か嬉しそうな微笑みを湛えて、再度耳を傾けた。

 

「――っていう作品なんですよっ! ボク凄い頑張りました!」

「自分で言ってどうすんのよ」

「だって頑張りましたしっ! この風紋機構を考えるのにどれだけかかったことか……!」

「……どんだけ考えてたのよ?」

「えーっと……着想を得るのに三日……機構を組み上げるのに五日……刀身との兼ね合いで、大きさ縮小の計算に二日……」

「……ん?」

 

 視線を宙に泳がせながら記憶を辿る吹羽の姿。それを前にして、霊夢は先程放たれた言葉を吟味する。

 あれ、何かすごい矛盾が目の前で起こっている気がする――と、聞こえた言葉を口の中で反復し、転がし、吞み下そうとするとやはり何処か引っかかる。

 聞き間違いか? と訝しげな視線を吹羽に戻せば、彼女は視線による工房中の遊泳が二週目に入ろうかという所。その直前で、吹羽は閃いたようにポンと拳を掌に当てた。

 

「計二週間くらい、家でずぅっと考えてましたね」

「……い、家の中で……?」

「はい、家の中ですね。……え、何ですか?」

「あ、あんた……“健康には気を遣ってる”とか言っててソレ!?」

 

 やはり聞き間違いではなかった。

 この少女、数分前に健康がどうのと宣っておきながら不健康極まりない生活をしているではないか。

 そりゃあ毎日の事ではないだろうし、食事もしっかり摂ってはいるだろうが、そんな細かい事は今どうでもいい。というよりそれすら出来ていなかったら、強引にでも博麗神社へ連れて行って暫く拘束もとい監視する事も吝かではない。

 

 二週間ずぅっと家の中など。外には一歩も出ていないなど。

 幾ら外出の頻度が低いと言っても、そのあまりと言えばあまりの現状は霊夢に強い衝撃を与えた。己は引きこもりか! とでも言いたい気分である。

 人間は日の下に生きる存在だというのに、長々と日陰で縮こまるとは何事か――と。

 友人の鍛治生活の事実を目の当たりにし、霊夢は頭痛を起こしたかのように額に手を当てて溜め息を吐いた。

 そして、指摘に戸惑う吹羽の腕を強引に掴む。

 半ば、反射のような行動だった。

 

「外、行くわよ」

「ふぇ? れ、霊夢さん!? 何ですか急にぃ!?」

「ずっと影の下になんていたら人間だって腐るわよ! 特にあんた、まだ子供なんだからもう少し遊びなさい!」

「子供じゃないですっ! ――ってそうじゃなくて! まだボク仕事途中なんですけどっ!?」

「そんなもん後でやんなさい! 仕事だって身体が資本だって言うでしょ!」

「ボクは至って健康ですよ〜!」

 

 ああだこうだと喚く言葉をズバズバと斬り捨て、霊夢は吹羽を家の中へと引き摺っていく。

 自分はこんなにも世話焼きだっただろうか――と頭の片隅で思ったものの、今更どうでもいいかと、それすら霊夢は斬り捨てた。

 今はとにかく、この放って置けない友人を外に連れ出す事が先決である。

 後の事は、後で考えればいいのだ。

 

「さぁ、ちゃっちゃと着替えて行くわよ!」

「うわぁあっ!? 自分で着替えれますから! 脱がそうとしないでくださいっ!!」

 

 本日は珍しく、風成利器店も臨時休業である。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 幻想郷の子供達――取り分け、十歳程の子供達の学力は、意外にもそれ程低くない。

 外の世界と比べて文化水準が比較的低いとされる幻想郷であるが、流石に飛鳥時代の頃程本が貴重な訳ではない。

 勉強するのに必要な、所謂“正式な教科書”がある訳ではないが、何かを書いたりする為の紙はあるし、またその為の筆や墨汁なども市販されている。

 教師が優秀な事もあって勉学は滞りなく行う事が出来るため、幻想郷の学力水準は決して低くはないのだ。勿論同時に、特別高い訳でもないのだが。

 

 ――して、今日の寺子屋は休みであった。

 特に何か特別な日という訳ではない。単なる定休日だ。

 勉学の苦手な子、寺子屋を好いている子。どんな子だろうと恐らくは心待ちにしていたであろう週の節目。

 元気一杯な子は遊びに出掛けるだろうし、おとなしい気の子は一日中お気に入りの本を読み耽るだろう。勉学に熱心な子はずっと机に向かっているかもしれない。

 各々が自由に過ごせる自由な日。

 勿論それは生徒だけではなく、当然教師側にも与えられるものである。

 

 “節目”、特に週の境界に位置する日は、一週間で最も“面倒な”一日である――というのが、彼女(・・)の持論だった。

 するべき事が沢山ある。

 一瞬間で溜まりに溜まった埃やゴミの掃除、次の一週間を無事に生きるための食材の買い出し、その金銭の遣り繰り計算。洗濯などは体力がいる為余計に大変だ。

 それが終われば、残った時間は寺子屋での授業の為の内容のまとめ、成績云々、試験の採点……etc。

 食事の準備などは仕方ないとしても、それを抜きにして考えた時、その内容の多さから来る憂鬱感に溜め息を吐くのが、定休日前日の癖だった。

 ――取り敢えず、買い物から済ませてしまおう。

 そんな考えから始まるのが、寺子屋の教師、上白沢 慧音(かみしらさわ けいね)の一日である。

 

 人前でまで暗い顔を出さないよう、例え見慣れた風景であろうと、半ば心を誤魔化すかの如く横目に里を眺め、歩みは止めない。

 ただ、あんまり空を見上げたくはなかった。

 長らく一人暮らしの為、今日のような“節目の日”はそれこそ慣れ果てた日の訳だが、今日のように雲一つない快晴の空というのは、慧音の心にはなんとなく皮肉に映る。

 まるで、憂鬱な雲の色に染まった彼女の心を嘲っているようだ。

 ちらと視界の上端に空を映し、慧音は呆れとも自嘲とも取れる苦笑いを零した。

 

「(子供達が傍にいるならば、こんな気分にはならないのだがなぁ……)」

 

 平日の、賑やかで暖かい我が職場を愛おしく思う。

 子供と言うのは純粋で、それ故に残酷な部分もあるが、素直で明るく、表情豊かだ。

 そんな存在に囲まれて一日を過ごす“教師”という仕事が、如何に自分にとっての天職か。そう思い耽る度に、慧音の心は潤っていくのだ。

 全く、運命とはかくも優しきものなのか。

 このことに関しては、日々心からの感謝を抱く慧音である。

 

 ――ともあれ、さっさと用事は済ませなければ。

 今日はこれで最後だ、ともう一息だけ大きな溜め息を吐き、慧音はしっかりと一歩一歩を踏み締めた。

 今日も乗り切ってみせる――と。

 そうして意気込んだ歩みを紡ぎ、再度前を見据える。

 すると、視界に映った一人の人間が、彼女の気を引いた。

 

「……うん? あれは……見慣れない子だな」

 

 慧音の視界の先に居たのは、年端もいかない少女だった。

 彼女の営んでいる寺子屋の生徒達と同じくらいか、少し年下か。

 見慣れない子供ながら、柔らかそうな白い髪と輝く翠緑の瞳が非常に印象深い、可愛らしい少女である。

 彼女は通りの凡そ真ん中で佇み、風景を眺めるように周囲を見回していた。

 

「(……声、掛けてみるかな)」

 

 それは好奇心に近い思い付きだった。

 幾ら寺子屋を営んでいると言っても、慧音だって里の子供全員の面倒を見ている訳ではない。

 中には両親の仕事の手伝いをしていて通えない子も居るだろうし、単純に勉強したくないと寺子屋を拒む子も居るだろう。だからその少女に見覚えがなくとも、決して不思議な事ではない。

 それでも声を掛けようと思った理由は、実に単純明快。慧音は子供が好きだからである。

 子供が好きだから、見慣れない子の事を何となく知りたく思う――それだけの話だ。

 “子供と共にいる癒し”に飢えた彼女にとっては、ちょっとした救いにも近かったかも知れない。

 

「君、ちょっといいかな」

「……はい? ボク……ですか?」

「ああ、君だ。 少しいいかい?」

 

 返ってきたのは、顔立ちにも引けを取らぬ透明な声。特殊な一人称を訝しげに思うも、そんな疑問が一瞬で消えてしまうほどに綺麗な声である。

 腰を屈めて目線を合わせてみれば、慧音は不覚にも、その少女にドキリとしてしまった。

 透き通るようで健康的な白い肌。日の光を反射して淡く光るのは、絹糸のような純白の髪である。

 翡翠色の大きな瞳は、吸い込まれそうな程に美しい色を放ち、その心の純真さを明朗に表すかのようである。

 ――驚いた、こんな少女がいたのか。

 幻想郷では、人外が文字通りの人間離れした美しさを持っている傾向が強いのだが、この少女にも似た類の何かを感じる。

 そう思わずにはいられない程に、少女は慧音を驚愕させた。

 

 ――不意に、不思議そうな表情で見上げる少女に見つめられ、慧音は自分がじっと彼女を覗き込んでいたことに気が付いた。

 それにハッとし、“すまない”と呟きながら一つ咳払いをすると、慧音は元通りの笑顔を浮かべた。

 

「私は寺子屋の教師をしている上白沢 慧音と言う。君は?」

「ボクは風成 吹羽と言います。鍛冶屋を営んでいます!」

 

 ――鍛冶屋? ご両親のお手伝いをしているのだろうか?

 吹羽の言葉を聞き、慧音は簡潔に結論を出した。

 ならばやはり、手伝いで寺子屋に通えない子の一人なのだろう――と。

 

「吹羽か、いい名だな。ところで、君はここで何をしているんだ? 見た所、里の街並みを眺めていたようだが」

「ああえっと……実は、ボクの友人に外へ連れ出されまして……。あんまりこっちの通りには来たことがなかったので、ちょっとだけお店とかを眺めてたんです」

「そうか……それで、その友人は何処に?」

「何やら買ってきてくれるそうで……もうすぐ来ると思いますけど」

「……ふむ」

 

 これは興味深い子を見つけたな、と慧音は頷きながらに思った。

 普段から子供達と接している分、個性などを見抜く目は確かなものを持っている慧音であるが、彼女からしても、この吹羽という少女は不思議な要素が多いように思った。

 あまり外には出ない――と言うのはまぁ性格の問題だと片付けるとして、この歳の少女が鍛冶の手伝いとは。

 加え、幼い子供とは思えないほど丁寧な受け答えが、僅かに子供らしさは残るものの、何処か大人びた雰囲気を滲ませている。

 そして、この少女のある意味“人間離れした可愛らしさ”は、慧音の脳裏にも完全に焼き付いていた。

 ならば、この子が行う鍛冶とはどんなものなのだろう――?

 考え込む度、慧音は更なる好奇心を吹羽に抱いていく。

 ――これは、面白そうな子に出会ったものだ。実に興味深い。

 慧音の心は既に、暗雲など軽く吹き飛ばしてしまっていた。

 

「慧音さんは、ここで何を?」

「ん? 私は買い物だよ。今日の内に一週間分の買い出しをしておかないと、来週が辛くなるからな」

「ああ、買い溜めはしておくと便利ですよね! 保存には気を使わなくちゃいけなくなりますけど、その分出掛ける必要もなくなりますし!」

「そうだな、その中でも上手くやりくりしていけば、一週間以上困らないしな」

「はいっ! ボクなんかは小食なので、頑張れば三週間だって保ちますよっ!」

「そ、そこまでする必要は無いと思うが……」

 

 会話が弾む。れっきとした大人と子供の会話とは思えない程。

 別に慧音が吹羽に話題を合わせている訳ではない。むしろ、親元で育てられる子供には関係のない“一人暮らし故の話”すらしてしまっている。

 子供とする話ではないな――と自覚していながら、しかしそれに笑いながら付いてくる吹羽に少々感心を抱いた。

 

 ――この子は何者なんだろう……?

 心の片隅で、且つ心の底からの疑問……否、関心を寄せながら、吹羽との会話に花を咲かせる。

 買い物途中だということがどうでも良くなって来るくらいに、慧音は偶然出会ったこの少女との会話を楽しんでいた。

 そうしていると、横から、吹羽に掛けられる声が聞こえた。

 何処か聞き覚えのある声である。

 そう、ついこの間何処かで聞いたような――。

 

「待たせたわね、吹羽。店主さんが値切りに厳しくて、無駄に時間掛かったわ」

「あ、お帰りなさい霊夢さん。この匂い……鯛焼きですか!? やったぁ! ありがとうございますっ!」

「……ん? 霊夢じゃないか」

「――って、慧音じゃない。何で吹羽と一緒に?」

 

 現れたのは、鯛焼きの包みを二つ持った紅白の巫女――博麗 霊夢だった。

 キラキラと瞳を光らせてヨダレの一つでも垂らしそうな勢いの吹羽に包みの一つを渡しながら、霊夢は得心行かぬ表情で慧音を見つめていた。

 

「あれ……お二人共、お知り合いなんですか?」

「ん、まぁね。色々あって」

「ああ。それにしても、友人というのは霊夢の事だったのか。いや、想像もしていなかった」

「あーはいはい、その手の反応にはもう慣れたわ」

「む、そうか。まぁ、子供のうちにたくさん友達を作っておくのは良いことだ。その関係が、大人になってからも役立つことは案外あるからな」

「慧音さんの言う通りですよっ!

 “縁あれば千里”って諺があります!

 ボクはずっと友達ですけど、友達がボクだけじゃ寂しい人みたいに思われちゃいますよっ!」

「あんたに言われる筋合いだけは無いって断言するわ」

 

 また一つ、興味が引かれた。

 吹羽一人を見ても不思議な印象が強かったが、そこにまさか博麗の巫女が絡んで来るとは。

 二人の様子を見れば分かる。

 お互いちゃんと友人だと認識し合って、きっと、決して浅くはない繋がりを持っているのだろう。

 幻想郷勢力の一角として名を馳せる博麗の巫女と、そんな関係を――。

 つくづく興味深い少女だな、と慧音は吹羽に多大な関心を抱いた。

 となれば、善は急げである。

 逸る気持ちを抑えながら、そしてなるべく平静を装いながらも、慧音はある提案を二人に提示した。

 

「……なぁ、二人共。 これから何か予定はあるのか?」

「えっと、ボクはこれから戻って仕事を――」

「吹羽」

「……するつもりなんて全くないので、予定なんてありません、はい……」

「霊夢もそうか?」

「ええ、まぁ。何も考えずに飛び出してきたからね」

 

 しめた! 心の内で小さなガッツポーズを決めた。

 

「ならば、何処かでお茶していかないか? 暇なんだろう?」

「あ、良いですねソレ! ボクももっと慧音さんとお話ししてみたいですっ! ね、霊夢さん!」

「……良いけど、あたしはこれ以上買えないわよ。使い切っちゃったし」

「なに心配するな。大人として、子供に自腹を切らせる訳にはいかん。私が奢るよ」

「さっさと行くわよ吹羽!」

「か、変わり身早過ぎですよ霊夢さん……」

 

 慧音も働いているとはいえ、裕福とは縁遠い生活である。節約はなるべくしなければならない。

 しかし今の慧音にとっては、茶屋での出費くらい軽いものに思えた。

 今まで数多の子供達を見て来たが、これ程彼女の興味を引いた子は多くない。

 そんな子達と出会う度に、慧音は幼心を取り戻すのだ。

 この子の事をもっと知りたい――。

 きっと意味のある時間を過ごせる――。

 慧音の頰は、無意識に綻んでいた。

 

「さ、じゃあ行こう。好きなところを選ぶと良い」

「やったぁ!」

「じゃあ慧音! 里で一番高い茶屋って何処だったかしら!?」

「……それは勘弁してくれ」

 

 不意に視界に映った青空が、妙に清々しく思えた。

 

 

 

 




 今話のことわざ
(えん)あれば千里(せんり)
 縁があれば、千里も離れた遠いところの人と会うこともできるし、結ばれることもある、ということ。


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第四話 風紋

 

 

 

 ――“将来、何になりたいか”。

 何処の誰だって何十回と問われた事のある、実にポピュラーな質問ではないだろうか。

 現代社会に生きる者であれば、例えばお菓子屋さん。少し真面目なところで、考古学者とか。“正義の味方”なんて、微笑ましい限りの将来を夢見る者もいるだろう。

 己の将来を思い描くのは自由だ。

 その真っ白なキャンパスを好きな色で自由に彩り、明るい未来を夢に見る。実に純真、且つ無垢で、喜ばしい事である。

 そんな夢見る子らの光が、成長し非情な現実を叩きつけられて木っ端微塵となるのを想像するとこれまた非常に悲しい気持ちにもなってしまうが。

 まぁ、それは楽観思考か悲観思考かの違いであろう。

 それはさて置いて。

 

 将来何になりたいか――それは、一言で表せば“夢”である。夢とは、これまた言い換えて“人生の目標”。そして目標とは、人が生きる上で必要不可欠なものである。

 例えどんなに些細な事でも、人は目標無しには行動出来ない。

 少しそこまで行ってこよう――。

 これは完成させなくては――。

 適当にそこらを歩いてみよう――なんて、一見目的も何もなさそうな事ですら、“一定量歩く”という目標の元に起こる行動なのだ。

 

 目標があればこそ人は行動を起こし、目標があればこそ向上心が育まれる。

 

 時にそれは、一族を通しての“義務”として確立されている事すらあるのだ。

 忍者などが良い例だろうか。

 遥か昔、大名などの警護には忍者が就いていたと言われる。

 甲賀忍、伊賀忍などと呼ばれるように、彼らは一族を通しての目標――義務を果たすべく修行し、技を身につけ、自らに課せられた任務を遂行していったのだ。

 そしてそれが更に優秀な忍者を育て、その忍者が新たな技を開発していく。留まることを知らない、技術進歩のサイクルである。

 

 そして、そのサイクルをそのまま確立した一族が、実は幻想郷にも存在していた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「さんかいぎ……?」

 

 天高い太陽が燦々と光を注ぎ、朝と比べれば程良い気温となって過ごしやすくなった正午である。

 丁度昼飯を摂りに大勢が集まってきたある茶屋の一席で、三人はお茶を手元に談笑していた。

 とは言っても、主に話しているのは慧音と吹羽。それも、慧音が吹羽に質問をする形で成立する会話であり、霊夢はお団子を頬張りながら話を聞いているだけだ。

 

 吹羽の発した聞き慣れない単語に、慧音は首を傾げる。

 漢字が分かれば想像も付くのだが、生憎丁度いい文字は思い浮かばず、慧音は苦し紛れに視線を逸らした。

 

「えぇと……その“さんかいぎ”と言うのが、君達一族の――」

「はい! ボク達が一生を懸けて到達しなきゃいけない、三つの技術段階です! 因みに、三つの“三”と階段の“階”、義理の“義”の字で三階義(さんかいぎ)ですよ!」

「……成る程、それで三階義か」

 

 “三つの階層に辿り着く義務”

 慧音の脳内に浮かんだ訳語は、そんなところだった。

 技術段階と言うからには、きっと先程説明された“風紋”や、鍛治の腕の事なのだろう。

 それを一族通しての目的としている辺り、吹羽の家系がどれ程長い歴史を持っているのかは想像に難くない。少なくとも、数百年以上の単位であるのは確実だろう。

 教師として優れた学力を持つ慧音の推測は、見事に真実を捉えていた。

 しかし、まだ彼女の好奇心は収まらない。

 聞き慣れない単語を知ったからには、その内容までもを知りたくなるのは当然であった。

 

「……その、三つの階層と言うのを聞かせてもらってもいいかい?」

「勿論ですっ」

 

 吹羽の小さな人差し指が、上を差して立てられた。

 

「まず一つ目が『始階(しかい)』と言います。ボクの一族は、風をとっても重要なものと考えているんです。だからこその、“風と共に生活を営む”ことを目的とした階層ですね。ほとんどの人は子供の頃に到達する階層です」

「……いまいち想像が出来んな。風と共に生活するとは、どう言う……?」

「えーっと、昔からボク達の生活には何かと風が必要だったんですよ。風紋を生活にも使ってたからって言うのもあるんですけど、とにかく風を上手く使えないと生活するのが辛くてですね……」

「……??」

「…………吹羽の家に行けば、一番手っ取り早く理解出来るわよ」

 

 助け舟を出したのは、言わずもがな霊夢であった。

 吹羽のあたふたとした説明も、それによって余計に混乱した慧音も、側で会話を聞き流す霊夢からすればもやもやして仕方がない。

 コトリと湯飲みを置くと、霊夢は机に頬杖を突いた。

 

「吹羽の家の中は、壁や天井に彫られた風紋のお陰で一年中ゆるゆると風が吹いてるわ。まぁ元々、入り組んだ路地の先にある癖に風だけは通りやすい場所に立ってるんだけど、吹羽自身の意向でね」

「えへへ、とっても頑張ったんですよ!」

「……んで、その風を使っての風呂沸かしやら料理やら……風紋を使って、風を生活のあらゆる箇所に利用してるのよ、この子の家系はね。だから、始階は言い換えれば“生活に利用できるだけの風紋技術を身に付けるのが目的”って事よ。ちゃんと説明しなさい、吹羽」

「あはは……言い方が思い付かなかったんですぅ……」

「……風を使っての風呂沸かしとは?」

「風紋で風を集めて、薪の周りで強く摩擦させれば火は出ますよ? 角度とか強さとか、色々コツがあるんですよ。湿った日だと難しいんですけどね」

「な、成る程な……」

 

 と口で零しつつ、慧音は風紋とやらの技術を改めて認識した。

 言い換えれば風紋は、風で人の生活を成り立たせられる程に高度且つ便利で多様な物、と言う事。

 外の世界とは数代文化が劣ると言われるこの幻想郷、どこの家でも生活するには多大な苦労を要するものだ。

 風呂を沸かす事は勿論、水だって等しく供給されている訳ではないし、何なら夜を過ごすのもひとえに簡単とは言い難い――白熱灯などの普及が大して進んでいない。因みに風成家は完備――。

 それをこの子は、この一族は。

 たった一つの技術で、生活を成り立たせていると言うのだ。

 さらに言えば、この少女はそれ程の技術を既にある程度扱えると言う事である。

 感心の上限が、知れなかった。

 

「それで、二つ目は?」

「あ、はい。二つ目の階層は『次階(じかい)』。風紋の技術を鍛治に活かす事を目的とする階層ですね!鋼に刻むのもこれまた難しいんですよねぇ」

「……因みに、この子は既に次階までは到達しているらしいわよ。自称だけれど」

「一言! 一言多いです霊夢さんっ!」

 

 主に家を形作る木。ある程度柔らかい素材でもある木面に刻む所から、より硬く扱いの難しい鋼に刻む段階へと。

 吹羽の家系が代々刃物を扱う鍛冶屋だと言う事は、先の説明を受けて知っている慧音であったが、その階層に辿り着く為の努力が如何程のものだったのかは、想像が付かなかった。

 ただの彫り込みならいざ知らず、その溝を使って風を制御するともなれば、その精密さたるや神掛かったものが必要になるだろう。

 それに、きっとそれだけではない。

 鋼を彫刻する為の単純な腕力も必要だし、何より途轍もない集中力を要する筈だ。

 ――なんともまぁ凄まじい。

 文字通り、人間離れした技術である。

 

「そして最後。三つ目の階層は『終階(ついかい)』です。これは……その……」

「……ん? どうした?」

 

 先程までの勢いが綺麗さっぱりと姿を消し、吹羽は困ったように眉を傾けた。

 不意に視線を移せば、霊夢も“語る事はない”とばかりにお茶を啜っている。――否、今の慧音には、霊夢すらもこの『終階』なるものを説明出来ない故に、我関せずを装っているように見えた。

 一体、どうしたというのか――。

 暫し続いた沈黙は、思い切ったように語り出す吹羽の声に打ち破られた。

 

「え、えっと、ですね! 実は、その……『終階』については、ボクもよく分からないんです……」

「よく分からない……? どういう事だ?」

「一族の間では、“終階は風を従えるのを目的とした階層”と言われているんですが……具体的にそれが何なのか、誰も分からないんです」

「……代々、風成家の当主達は独自の方法でその階層に到達してきたらしいわよ。それが本当に終階なのかどうかは、誰にも分からないんだけれど」

「万人が認めれば、嘘も本当になったりしますしね」

「……ふむ?」

 

 考える事に意味がない事は、分かっていた。

 吹羽という存在を知ったのもついさっきである慧音に、彼女の家系に関する事が推測出来るはずもない。

 いや、例え推測は出来たとしても、それが答えに辿り着く可能性など皆無なのだ。

 しかし、何となく考えずにはいられなかった。

 それは慧音が教鞭をとる身だからか、はたまたただ吹羽に関心があったからなのか。

 

「歴代の当主達は――例えば風紋技術を極めて、一振りの刀で何十通りっていう効果を生み出す刀を作り上げた事で当主になったり、風を扱う天狗さんと完璧に心を通わせた事で当主になったり……色々居たそうですよ」

「……前者は分かるが、後者は最早鍛冶に関係無くないか?」

「ボクもそう思います……。最早その人自身の力でもなくなっていますしね」

「それ位、みんな全然分かってなかったってことでしょ。まぁ、“風を従える”なんて突拍子も無いことを、人間のちっさい頭程度で直ぐに理解出来る訳もないと思うけど」

「もしくは、三階義の定義そのものが間違っているのかもしれませんね。全部口頭で伝えられたものですから」

「ふーむ、八方塞がり……いや、そもそも情報が少な過ぎるな」

 

 必死に頭を捻り上げる三人。その努力も虚しく、結局『終階』に関しては結論を得られず、という事で話は纏まった。

 そもそも、何代も掛けて追求されようと出なかった答えが、三人集まって知恵を寄せた程度で出てくる訳もない事を皆十分に分かってはいたのだが、それでもやはり落胆はするものであって。

 日の傾きに気が付き、また軽く昼食も摂れた事で三人が店を出るまで、吹羽はしばしば溜め息を吐いていた。

 

「“三人寄れば文殊の知恵”という諺があります……。でも、上手くいかないこともあるんですね……」

「そう落胆するな、吹羽。辿り着き方が分からないという事はつまり、辿り着き方は君の自由という事だ。君なりの方法を、ゆっくり考え付けば良いさ」

「慧音さん……!」

 

 尊敬の眼差しを向けてくる吹羽の髪を、慧音は微笑みながら優しく撫でた。

 当然の事とは分かっていても、そうする事で彼女の力になれなかった無力感が、少し洗われる気がした。

 暗く落ち込んでいる姿は、この子には似合わない――。

 自分の言葉が、その助けとなっているのならば、慧音としては本望である。

 

「なぁ吹羽、少し良いか?」

「はい、なんですか?」

 

 ふとした思いつきだった。

 吹羽の人柄や才能に関しては、今日一日でかなり把握することが出来た。

 実によく出来た子である。それは疑いようもない。

 だから――もう少し、欲が出た。

 

「君のご両親にも、会ってみたい。いつか、お邪魔しても良いかい?」

 

 吹羽がどのように育ってきたのか、どんな努力をしてきたのか。

 未だ幼いながら、この子をこれ程までに育て上げたご両親とは、どんな人物なのか――。

 慧音の、実に真摯な望みである。

 数瞬の間を置いて、吹羽は慧音に頷き返した。

 

「……あっ、はいっ! 分かりました。お父さんとお母さんに……言っておきます」

「うむ、よろしく頼むよ。霊夢も、それじゃあな」

「……ええ」

 

 名残惜しくはあったが、そろそろ慧音も自分の事をしなくてはならない。

 未だ買い物も終わっていない状況だ、早く終わらせて残りの仕事を片付けてしまわなければ。

 大量に残る仕事を思い浮かべ、また憂鬱な気分を感じそうになった慧音はしかし、一つぱしんと両頬を叩いて気合いを入れ直した。

 

「(ぃよし、明日からも頑張るぞ!)」

 

 色付き始めた太陽を背に、慧音は足早に二人と別れるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 慧音の背中が人集りに消えるのを見送ると、吹羽はゆっくりと振っていた手を下ろした。

 去って行った慧音とは対照的に、吹羽は僅かに俯いている。その表情に、先程までの元気な雰囲気は見て取れなかった。

 俯いた視界に入るのは、薄い橙色に染まる道に落ちた、自分自身の長い影。

 それがどうにもドス黒い深淵にすらに見えて、どうしようもなく寂しく思えた。

 

「……大丈夫?」

「………………はい」

 

 そう答える吹羽の声音も、確かに元気が無くなっていた。普段の溌剌とした口調は鳴りを潜め、まるで花が萎れたように細々とした声音をしている。

 彼女がそうなった理由など、霊夢にとっては問い掛けるまでもなかった。

 何せ、先程の言葉には彼女すらも反応しそうになったから。

 きっぱりと会話を止めて、慧音の“勘違い”を正してやろうとも思ったから。

 

 “君のご両親にも、会ってみたい”――。

 

「……言わなくて良かったの? 慧音、完全に誤解してるわよ」

「……良いんです。不幸自慢するつもりはありません。覚えているのもちょっとだけですし、何よりせっかく慧音さんが楽しそうにしていたのに、水を差すのは悪いですよ……」

「っ! そんなの、あんたが気にする事じゃ――」

「霊夢さん……っ」

 

 吹羽の絞り出すような声に、霊夢は思わず言葉を詰まらせた。

 冷水を掛けられたようだった。

 か弱い光を呈する彼女の笑みは酷く弱々しく、暗に“もうやめて”と、霊夢に訴えかけているようだった。

 

 霊夢だって分かっていたはずなのだ。吹羽とはそれなりに付き合いがある。彼女が今どういう状況にいて、どんな心境をしているか位は想像が付くはずなのだ。

 でも――その自負にかまけて、危うく吹羽を傷付けるところだった。

 

「っ……ごめん」

「いえ……。これはボク達の――いや、ボクの問題です。ボクがちゃんとしてなきゃいけないんです。――きっと三人共、帰ってくるって信じてますから」

 

 そう言った吹羽の表情が、霊夢にはとても儚く、寂しげなものに見えた。

 いや、本当に寂しいのだろう。寂しくないわけがない。

 吹羽が幾ら自立した人間だと言っても、結局その精神は子供のそれと変わりない。

 良い事があれば喜ぶし、痛ければ泣く。

 多少の理性は働いていたとしても、その心には常に沢山の感情が渦巻いて光っているのだ。

 だからこそ、

 

 

 

 ――家族が皆、ある日突然居なくなっ(・・・・・・・・・・)()、孤独を感じない訳がない。

 

 

 

 再び俯いた吹羽を見下ろして、霊夢は確かに胸がきゅっと痛むのを感じた。

 友人として、なんとかしてあげたい。しかし、今自分に出来ることは何もない。

 悔しさにも似た感情が、霊夢の心にも影を落とす。

 そんな空気を孕んで二人並び、無言の時間が続いた。

 道行く人々が不思議そうな視線を向けてきても、それに対して思う事など何もない。ただ二人して、自分の気持ちに整理が着くのをじっと待っている。

 暫くして、霊夢は一つ深呼吸をした。

 

「……吹羽、あたしも今日はもう帰るわ。色々支度しなきゃいけないし」

「あ……はい」

「……ね、吹羽。あんたさっき言ってたわよね。あたしに対して、“ボクはずっと友達ですけど”って」

「……はい」

 

 今は、これしかしてやれない。

 自分はこの子の家族の代わりになることはできない。だから、せめて――。

 霊夢はそっと吹羽の頭に手を乗せて、その翡翠色の美しい瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「……あたしも、ずっとあんたの友達よ。だから、寂しくなったらいつでも来なさい。あたしは、神社にいるから」

「……っ!」

 

 じゃあね、と一つ髪を撫で、霊夢は吹羽に背を向けた。

 彼女の残した言葉を吞み下すのに時間を要したのは、きっとその言葉が吹羽の心に届いたからだ。

 はっと気が付いた時には、もう霊夢の姿は人の波に消え入りそうな程遠くなっていた。

 吹羽は弾かれたように一歩前に出て、未だ僅かに見える霊夢の背中に、叫んだ。

 

「ま、また! また来てください、霊夢さんっ! 待ってますからっ!」

 

 小さく、片手を上げる霊夢の背中が見える。

 相変わらず周囲の人々は不思議そうに吹羽を見ていたが、やっぱり、大して気にはならなかった。

 きっと、さっきとは違う理由で――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 博麗神社までの道は、所謂獣道というやつだ。

 博麗神社という存在は幻想郷全土に知られているが、その参道の整備が杜撰な事もあって参拝客はほぼいない。

 それを見る度に何か急かされているような気がして、普段なら何となく通るのを避けていた霊夢であるが、今回はトボトボとその参道を歩いていた。

 周囲には当然、誰の話し声も気配もない。

 ――いや、気配だけは一つあった。

 

「実に――」

 

 美しい声である。

 霊夢のすぐ隣から、波紋が広がるように響いた声を、霊夢は横目で一瞥する。

 彼女が視線を戻したのを切っ掛けのようにして、その空間が唐突にばくっと開いた。

 ぎょろぎょろと不気味な目玉の覗く、身の毛もよだつような異空間――“スキマ”と呼ばれるものである。

 そこから現れる人物など、一人しかいない。

 直ぐに、その不気味な空間から、一人の女性が姿を現した。

 

「実に、暖かい言葉ね。 “ずっと友達でいる”なんて、これ程信憑性に欠ける言葉も中々無いわ」

「皮肉りに来たのなら帰りなさい。あたしはこれでも、あんたの相手をしてられるほど元気じゃないの」

「あら、私の言葉に大した反応も起こさない辺り、平常運転ではなくて?」

「……煩いわね」

 

 僅かな風に揺れる金色の髪が、夕日に輝いて美しい。そして麗しいその声が、人ならざる美貌に更なる拍車を掛けていた。スキマから上半身を覗かせるのは、誰もが目を奪われるであろう妖艶な美女である。

 しかし、彼女を見る霊夢の表情は、心底嫌そうなものだった。

 それに気を悪くした風も無く――八雲(やくも) (ゆかり)は柔らかく、あるいは愉快そうに微笑んだ。

 まるで、望み通りの反応を得たかのように。

 

「何よ、どうせまた気まぐれに出てきたんでしょ。いつから見てたの」

「あら、私はいつだってこの幻想郷の全てを見ているわよ。いつからと言うなら、最初からね」

「謎掛けしてるんじゃないのよ」

「いいえ、全て真実。霊夢、あなたも“全て”分かっているはずだけれど」

「………………」

 

 紫の言葉に、霊夢は無言で眉を顰めた。

 傍目からでは何の話をしているのか分かり得ないであろう言葉を紡ぐ紫に対して、霊夢だけはそれを、その内容を理解しているようだった。相変わらずその表情は嫌気に歪んではいたが。

 

 その言に返したくないのか、霊夢は頑として無言を貫いている。

 彼女の思い通りに話が進むのは何処となく良く思わないし、わざとこちらの気分を煽るように振る舞うその姿勢も気に入らない。

 意地と言えばそうかも知れないが、しかし、本音である。紫の掌の上で舞踏するのは、どうにも癪に触るのだ。

 ――無言の霊夢に、紫は僅かにその艶かしい唇を緩めた。

 

「まぁ、あなたがどうしようと勝手なのだけどね。仕事さえこなして貰えれば、私はあなたにそれ以上を望まない」

「……相変わらず回りくどい奴ね。気に入らない事があるならはっきり言ってくれる?」

「気に入らないなんて。私は何も文句は言っていないわ」

「じゃあ何よ」

「思うまま、自由にしなさいって事よ、霊夢」

 

 紫に真面目に問答する気が無いのを悟り、霊夢は溜め息ながらに軽く頭を振った。

 この妖怪は相も変わらず、霧のようにつかみ所がない。故に、真面目に取り合うだけ無駄なのだと再度認識を上塗りした。

 真剣な話ならまだしも、今の彼女にはきっと“気まぐれ”以外の行動原理などないのだろう。霊夢をからかう姿勢に始終している点からもそう判断出来る。

 

 とはいえ、それならそれで構わない、と言うのが霊夢の本音だ。

 向こうがその気ならば、自分にはまともに取り合う理由がないのだから。

 もともと好意のある人物ではないだけに、霊夢の感情の推移は実に淡白で、色が明け透けていた。そんな所で紫がただ言葉遊びしているだけなのだと悟ってしまえば、霊夢が後に表すべき態度など語るまでもない。

 摘む程度にはあった紫への興味を遂に失くし、霊夢は頭の片隅で今日の夕飯はどうしようか、などとどうでもいい事を考え始める事にした。勿論、相槌程度は打ってあげるつもりだが。

 

「それで、あんた何しに来たの? 茶番に付き合ってやる程あたしは暇じゃないわよ」

「う・そ。暇じゃないのではなくて、暇でない事を装っているのでしょう? あなた、いつも掃除が終わってからはお茶を啜ってばかりだものね。昼夜問わず」

「そこまで分かってるなら、あたしがこうしてる理由も察しなさい。あんたと話してると疲れんのよ」

「あら、失礼。どうもあなたをからかい始めると止まらなくて」

「………………」

 

 霊夢の無言の怒気を一身に受けながら、紫はそれでも涼しい顔を浮かべたまま。本当に厄介な大妖怪だと、霊夢は心底うんざりした。

 

 全く、用もないなら出てくるな。迷惑するのは此方なのだ。

 言葉にすると逆に手玉に取られる可能性が高いので、敢えて言葉を口の中だけで転がし、露骨に不機嫌な視線を向けてやる。せめてもの反抗のつもりだったが、当の紫は気味悪く笑っているだけ。それすら煽っているように見えるのだから、何処までも救えない。その捻くれた気構えさえなければもう少し周りからも好印象だろうに。

 だがまぁ、今更だ。自身が相手に及ぼす心労を分かっていながら、それでもやめない辺りが“質の悪い妖怪”と言われる所以の一つ。おまけに力技では追い返せない、話すととても疲れる、言動がいちいち胡散臭い……etc。

 はっきり言って、霊夢が意図して関わりたくない人妖の三本指に入る人物である。なんならここで、幻想郷の賢者たるこの大妖怪を“若作りパープルババア”とでも罵ってやろうか。返り討ちにされるだろうが。

 

「ふふふ、まぁそんなに怒りなさんな。可愛いお顔が台無しよ」

「余計なお世話だっつーの」

「冷たいわねぇ。なら、さっさと本題に入りましょうか」

「………………面倒な奴」

 

 心底うんざりした霊夢の呟きは、少しだって紫に拾われる事はなく、

 

「今日来たのは少し忠告――と言うより、気に掛けておいて欲しい事があるからよ」

「…………何かあったの?」

「ええ、まぁ」

 

 パチン。

 扇子の閉じられる音が、妙によく響いた。まるで、思考を一度リセットするかのようなその音は、否応なしに再度霊夢の意識を紫へと向けさせる。

 

「少し、嫌な予感がするのよ。確証はまだ無いし、危険性も確実な目処は立っていないけれどね」

「はぁ? そこが重要でしょうが。しっかりしなさいよ賢者でしょ」

「ええ、そこは反省しましょう」

 

 なんて、反省なんてしない癖に。

 口には出さずに、霊夢は毒突いた。

 

「けれど、結界に何か干渉してくる感覚があるのよね。何か――扉を叩くような(・・・・・・・)、ね」

「…………扉」

「そう、“扉”……よ」

 

 紫の視線が、真っ直ぐに霊夢の双眸を射抜く。

 これまでの中身のない問答が嘘ように真剣な視線が、霊夢に僅かながら危機感を覚えさせた。

 そして、その美しくも鋭い瞳が語っている。覚悟(・・)を決めておけ、と。

 

 何の覚悟なのか。それは傍目からでは理解し得ない。この場で視線を交わす二人の間だけで、ある種のコミュニケーションが成立していた。

 憎たらしい程に綺麗な淡紫色の瞳をじっと見つめ、霊夢も了承したのだろう。ふいと視線を外すと、小さく「分かったわ」と呟いた。

 

「さっきも言ったけれど、あなたの行動は全てあなたが決める事よ。でも、よく考えて行動なさい。人の心なんてガラス細工と同じような物。少し罅が入れば――一瞬で砕けてしまうわよ」

 

 そう言葉を残し、紫は再びスキマの中に消えた。

 まるで何事もなかったかのような沈黙が、もやもやと霧を抱えた霊夢を包み込む。

 気が付けば、空は既に宵を迎えていた。

 

「…………本当、ヤな奴」

 

 太陽が落ち、月と星が登ってくる様をきっと睨んで、霊夢はポツリと呟いた。

 もう数刻で夜だ。こんな獣道で突っ立っていたら、いつ妖怪に襲われるか分からない。勿論もしそうなったならば、襲って来た妖怪を容赦無く徹底的に蹂躙して足蹴にし、侮蔑を伴った絶対零度の視線を叩きつけてその愚行を心底から後悔させてやるつもりだが、生憎今は余り元気がない。万一にも負けはしないが、戦闘は避けた方が精神的に宜しいのだ。

 霊夢は一つ大きく深呼吸すると、心のもやを振り払うように飛び上がった。

 

 彼女の心に掛かった疑問の霧は、未だ、晴れる気配はない。

 

 

 

 




 今話のことわざ
三人(さんにん)()れば文殊(もんじゅ)知恵(ちえ)
 特別に頭の良い者でなくても三人集まって相談すれば何か良い知恵が浮かぶものだ、という意味。


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第五話 魔法使いが来た

 

 

 

 幻想郷は、緑の豊かな自然に溢れている。特に木々の葉が色付くこの季節、その色彩によってこの世界は極彩色へと変化するのだ。

 今日も今日とて僅かに冬を感じさせる秋空には、暖かい光を注ぐ太陽が煌々と輝いていた。

 雲一つの陰りさえ見当たらない、気持ちの良い快晴である。

 

 しかし悲しきかな、妖怪の跋扈するこの幻想の世界には、陰りが必要不可欠である。

 日が差せば、影が出来る。日が向きを変えれば影も変型し、片方の色が濃くなる事は同時にもう一方の濃化を意味する。幻想郷は繊細なバランスの上に成り立つ世界なのだ。

 故に、この世界には、そんな太陽の光さえ差し込まない場所も当然存在する。

 その一つが――魔法の森。

 

 鬱蒼とした森の中は一年中薄暗く、日が差しにくい影響で空気が常にジメッとしている危険な場所である。

 何が危険って、魔法の森には食人植物や幻覚キノコを始め、何と言っても有害な瘴気が満ちているのだ。

 不用心に迷い込みでもすれば、“住民”に助けられない限り行き倒れること必至だ。

 

 ――そう、この森にも少数ながら住んでいる者達がいる。

 こんな環境だからか、はたまた魔力をも含む植物が分布しているからか、この魔法の森には、魔法使いや妖精や、魔法使いになりたい人間(・・・・・・・)が住み着いたりしているのだ。

 ――まぁ後者に限っては、“可哀想な目”にあって早々に諦めた者ばかりなのだが。そこは察して貰いたい。

 並大抵の覚悟で、この森に住み着く事は不可能である。

 

 ともあれ、そんな魔法使い達は当然森の中に居を構えている。

 魔法使いの家と言えば、誰だって想像する物はほぼ同じなのではないだろうか。

 

 崩れ掛けたような、“ドロッ”としたような外観の城っぽい建物。

 中は常に薄暗く、骸骨や不気味なキノコが陳列し、決め手は勿論、中心に鎮座する大釜。

 気色の悪い色をした液体がゴボゴボと泡を立て、それに溶けた不気味な材料や怪しい薬が強烈な臭いを発し。

 夜遅くになれば、家の主たる魔女の不気味で(しわが)れた笑い声が森中に木霊(こだま)する。

 

 ――大方、そんなところだろう。もしかしたら本当に、そんな魔女も居るのかも知れないが。

 

 ところで、霊夢の友人である霧雨 魔理沙は、魔法使いである。

 雰囲気からでは凡そそうとは思えないが、あれでも彼女は一端の魔法使いなのだ。 当然家も森の中にある。

 ――そこで、果たして彼女の家は誰もが抱くようなあの想像と相違無いものなのか。

 答えは、否である。

 

 多少権力のある道具屋の娘として生まれ、そして人間として育った魔理沙には、当然人間の感性が染みついている。 文字通り人間の思考回路ではない妖怪のように、奇怪で突飛で常識外れな考え方など持ち合わせてはいないのだ。

 そんな人間の彼女が建てる家など、住む家など、想像するには何の困難もない。

 しかし、唯の家かと訊かれればそうでもない訳で。

 

 今日も彼女の家では、しばしば爆発音(・・・)が響くのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 轟、轟。 魔法の森の一角では、爆発音と共に黒い煙が立ち上っていた。

 特に珍しい出来事ではない。だからこそ、それで騒ぎ立てる住人も一人として居なかった。

 何処の誰でも、例え妖精ですら“ああまたやってるなぁ”と一瞬の意識を向けるだけである。

 そしてその起因たる少女もその事に――ひいては爆発が起きて部屋が真っ黒になった事でさえ、大した悲しみなどは感じていなかった。

 またやっちまったか、と言う程度の実に軽い悲観である。

 

「ごほっごほっ! げぇーっほっ!」

 

 立ち上る黒煙の根元から、霧雨 魔理沙は煙を払いながら姿を現した。

 金色の髪は僅かに跳ね、身に纏う服にも煤がこびりついている。

 言ってはなんだが、その様は何処か貧しさすら感じられる惨めなものだった。

 舞い上がった煙の柱を見上げ、ふぅと一息つく。それは決して、溜め息などではなかった。

 

「うーむ……また失敗か。やっぱり上手くいかねぇもんだなぁ」

 

 パンパンとスカートを(はた)くと、そこからも煤が煙となって襲い来る。その煙に再度咳き込むと、その苦しさに魔理沙は一つの溜め息を吐いた。

 いや、または深呼吸かも知れない。 しかし、その様子がどうにも何かに辟易しているように見えるのは、きっと見間違いではないだろう。

 魔法の研究は、壁に突き当たってばかりだ。

 

「また材料とか出してこないと……つーか、まだあったか?」

 

 失敗するのは良い。例えそれで爆発を起こし、顔が汚れ、自慢の帽子がボロボロになったとしても、自らの魔法が更に進歩するなら安いものだ。

 ただ一つ魔理沙が心配なのは、実験が失敗し過ぎて材料が底をつき、挙句何の成果も上げられない事だった。

 特に最近は、面白い魔法を思い付いても成功した事例が少ない。偶然成功しても、夢想した魔法とは程遠い矮小な魔法だったり。

 故に、材料もみるみる減っていく訳である。

 

「…………探すの面倒だな、何処に埋もれてるのかも分からんし……。あー、ちょくちょく集めときゃよかったかなぁ」

 

 魔理沙が見つめる先には、ゴタゴタと大量のものが押し込まれた物置状態の建物があった。

 その屋根上に立て掛けられているのは、木のツルなどに絡まれた大きな看板である。そこに書かれた文字は若干掠れてはいるが、『霧雨魔法店』と微かに読み取れた。

 

 中は、散乱している。

 魔理沙の収集癖が現れた結果であるところの、鉄塊やら木片やら紙切れやらキノコやら。魔法の実験が凡そ常識的な材料を必要としない点を鑑みても、物置に無造作極まりない放られ方をした品々は、どう言い繕ったとてガラクタとしか言いようがない。それらが積み重って山となり、幾多の塔を築き、小さな廃材の摩天楼を形作っている。足の踏み場などは室内面積の五十分の一にすら満たないであろうことは、ビル群を縫う通路の荒れ具合から容易に想像できた。

 

 様子を改めて確認し、魔理沙は困ったようにがしがしと後頭部を掻く。

 この中から、また材料を出さなければならない。 まだ沢山あった頃は当然材料も山になっているので見つけやすかったのだが、在庫が少なくなった事もあり、また度重なる崩落という名の散乱によって、現在は探し出すのも一苦労な状態だ。

 さっき使用した実験材料も、数十分掛けてここから探し出したものである。整頓すれば良いという話だが、生憎彼女は大雑把且つある種豪快な性格である。 拾ってきた物やその場では使わない物、趣味で集めたガラクタなどをひたすらに詰め込んだ物置を、整理しようとは思わないのだ。

 

 探すのは時間が掛かったのに、消費するのはほんの一瞬。なんと理不尽な世の中なんだ。

 魔理沙は自分の事を棚に上げ、筋違いにも嘆きたくなった。

 

「はぁ……今日の実験はこれくらいにしておくか。材料を無駄にする位ならアイデアが浮かぶの待ったほうが効率的だぜ」

 

 物置から目を逸らしながら、自分に言い聞かせるように呟く。

 そういう面倒事は後回し。なんなら新しく材料集めて、改めて山を作ればいい。

 大雑把な彼女の性格が伺えるようだった。

 

 しかしそうと決めたならば、今から何をしようか。

 今日はもう実験関係の事をしたくないし、従って今から材料集めと言うのも気が進まない。

 博麗神社に行ってもいいが、何の用事もないのにズカズカと入ったら霊夢は嫌な顔をするだろうか。まぁ今更な話なのだが。

 空を見上げて考える。

 大部分が木々に隠れてしまっているが、そこから見え隠れする空は抜けるように青い。家でゆっくりするにはあまりにも早い時間だ。天空を流れる風が雲をゆっくりと運ぶ様が見える。

 ――何処か、行って面白そうな場所はあるだろうか?

 

「――あ、あるな。 行って見たいところ」

 

 うんうんと唸っていると、ふと魔理沙の頭に()ぎるアイデアがあった。

 少し前に霊夢と話していた事である。そしてその時に“その内行ってみよう”と思い、今の今まで保留にしていた。というか忘れていた。

 全くの暇となってしまった今ならベストタイミングである。研究に行き詰まったならば、好きな事でもして気分転換をするが吉。

 魔理沙は早速魔法で箒を手元に呼ぶと、勢い良く飛び乗った。

 

「へへ、暇潰しにはもってこいかもな」

 

 霊夢に聞いた話を思い出しながら、魔理沙は頰を釣りあげた。

 彼女が向かうは、人間の里である。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 何をするにも、元となる物は存在する。もっと言えば、何が完成するにも必要なものがある。

 そんなの当たり前だ、何を今更――と思うかもしれないが、これも立派な世の理の一つだ。

 例を挙げてみよう。

 この世の全てのものは原子から出来ており、その原子もまた中性子と陽子、そして電子で構成されている。

 同じように、生物が活動するにはATPというエネルギー――正確にはATPがADPとPに分解される際のエネルギー――が必要であり、そのATPを得る為にも、呼吸によって体内で多数の化学反応を経る必要がある。

 元を無くして成り立つものなど、この世には存在しないのだ。

 詰まる所何が言いたいのかと言えば、“何かを作り上げるには元となる物がなければならない”という単純な事である。

 

 この日、吹羽はいつも通り仕事に励んでいた。

 もともと阿求と会う約束をしていた為に、彼女も例の如く吹羽の仕事を眺めている。それが相変わらずくすぐったくもあったが、概ね普段通りだった。

 今回は鍬や鎌などの農具が注文されていた。

 包丁などとは製法が若干違うものの、彼女の腕ならばお手の物。『次階』到達者の鍛治技術は伊達ではない。

 鍬や鎌も広く見れば刃物の一種であり、彼女がそれを作る修行を積んでいない訳がなかった。鋼を火に掛け、昨日からの製作途中である鍬を慣れた手つきで鍛え上げていく。

 ――が、ちょっとした問題が発見されたのはその後だった。

 

「よし、これで大方完成。あとは鎌……って、あれ?」

「どうしたんですか吹羽さん?」

「ここに鋼が置いてあったと思うんですけど、阿求さん知りませんか?」

「……鋼? そこには初めから何もなかったと思いますけど……」

 

 辺りを見回し始めた阿求に続き、念の為吹羽も再度周囲を確認した。

 相変わらず大きく開いた店の玄関。異常はない。

 未だ高熱を放つ炉。残った材料が入っている様子はない。

 奥の工具置き場。整頓されてどの道具が何処に置いてあるのかが非常に分かりやすいが、それ以外にはなかった。

 ――やはり、見つからない。何処にも吹羽が求める鋼の姿はなかった。

 という事は、だ。考えられる事は、たった一つしかない。

 

「うーん、どうやら切らしちゃったみたいですね。また採ってきて製鉄してもらわないと……」

「あら、採石場か何処かに行くって事ですか?」

「まぁ、そうです。ずぅっと昔から使ってるらしい場所があるんですよ。人里からはちょっと離れちゃいますけど」

「そうですか。じゃあさっさと行ってお仕事の続きしましょう!」

「……えっ、ちょちょちょっと待ってくださいよ阿求さんっ! 人里からは離れちゃうんですってば!」

 

 何も考えていないかのように出て行こうとする阿求を、吹羽は慌てて引き止める。振り向いた阿求の表情と言ったら、何故引き止められたのかが何もわかっていないかのようだった。

 

「な、何ですか? 早く行きま――」

「ダメですよっ! 里の外では妖怪に襲われてもおかしくないんですから!」

「むぅ、それは吹羽さんも同じじゃないですか」

「ボクは護身用の武器持ってくから良いんですっ!」

「じゃあ私にも何か貸して下さい」

「逆に怪我しそうだから却下ですよ! 本当、阿求さんに何かあったら大変なんですから!」

「なら、吹羽さんに守ってもらうしかありません。それなら万事解決ですねっ♪」

 

 ――ああもう! なんでこんな無駄に信頼が厚いんだ!

 のらりくらりと追求を逃れる阿求の態度と言葉。信頼されるのは嬉しいと思いつつ、こうして危険な場所へと赴く保険にされると言い返しにくいのが困った所であった。

 自分を信じろ! と胸を張れる程、吹羽は自分の実力に自信は無い。

 かと言って、守りきれないから付いてくるな! と言うのも、信頼を裏切るようで忍びない。

 勿論怪我をさせるよりは遥かに良いわけだが、いやはや……。

 困り果てる吹羽の苦笑いを見ても、阿求は相変わらずにっこりと笑っていた。

 一体何に悩んでいるのだろう――そんな言葉が聞こえてきそうである。

 

「とにかく! 危ないからダメです! ここで待ってて下さいっ!」

「えぇ〜、せっかく来たのに〜!」

「“小事に拘りて大事を忘るな”って諺がありますっ! 興味なんかで怪我されたらボクが嫌な気持ちになるじゃないですか!」

「……それ、使い方ちょっと違いますよ? それは目的を見失うな、って意味で……」

「ッ! う、うううるさいですよぅっ! とにかく、ダメなんですからねっ!」

「連れて行ってくれたら、後で鯛焼き買って上げますよ? 餡子が甘ぁくてとろっとろのお店知ってるんです〜」

「た、鯛焼き…………はっ! そ、それでもダメですぅっ!」

 

 一瞬頭の中を鯛焼きに支配されそうになるも、吹羽はそれでも“阿求の為”と妄想を振り払う。

 不満気に頬を膨らませる阿求の顔をなるべく見ないようにして座らせ、吹羽はやっと一息吐いた。

 全く、普段机仕事をしている割に元気なのは良い事だけれど、その勢いのまま突拍子も無い事を言うのは勘弁願いたい。

 阿求とはそれなりに長い付き合いのある吹羽の、切実な願いだった。

 

 ――ともあれ、そうしたら準備をしなければ。

 阿求を待たせるのは申し訳ないが、仕方がない事ゆえ、と吹羽は無理矢理自分を納得させた。それに、要はすぐ帰って来れば良いのだ。

 

 一度住居の方に戻って着替え、護身用に刀を一振り差して大きな袋とツルハシを持つ。これも勿論風紋付きである。風成家にある道具は大抵風紋付きなのだ。

 

「武器良し道具良し、髪留めも付いてるし、あとペンダントも……うん、ある」

 

 準備は万端。

 羽型の髪留めと勾玉のペンダントも、吹羽にとっては御守りも同然である。出かける時には必須の装備なのだ。

 そうして手早く準備を終え、阿求が暇そうにしているであろう工房へと急ぐ。幾ら共には行かないとは言え、全く気にしない訳にもいかない。

 少し慌てたように住居と工房を繋ぐ扉を開けて入ると――予想外の光景が、そこにはあった。

 

「それじゃ阿求さん、行ってきま――」

「ほーう? これとかどう使うんだろなぁ。ちょっくら借りて研究でも……」

「ああ! 勝手に持っていったら吹羽さんに怒られますよ!」

「良いだろ別に。減るもんじゃなし、借りるだけなんだからさぁ」

「私に言ってもしょうがないですし、あなたのそれは一生返ってこないじゃないですか!」

「……えっ、とぉ……」

 

 はて、この人は一体何をしているのだろう――?

 黒くて大きな三角帽子とその後ろ姿を見た瞬間、吹羽が初めに考えたのはそんな事だった。

 今までだって、自分がいない間にお客さんが来る事は間々あった。大抵そういう時は専用の椅子に腰を掛けて見本の品物を物色している人が多いのだが、帽子の少女が見ていたのは見本ではなく、吹羽の大切にしている道具達だった。まるで有名な絵画の粗を探すかのように、手にとってじっと見つめているのだ。

 ――という事は、お客ではないのだろうか?

 彼女の行動に吹羽が小さく首を傾げていたところ、それにいち早く気が付いたのはやはり阿求だった。

 

「あ、吹羽さん! ごめんなさい、止めようとしたんですけど……」

「なんだよー見てただけなのに。まだわたしは借りてないぜ?」

「今までの所業を思い出してから言ってください……!」

「あのー、別に見るだけなら全然構わないんですけど……えっと……?」

 

 未だ困惑の中にいる吹羽に対して、少女は真っ直ぐ向き直る。被り直した大きな帽子の下には、眩しいばかりの笑顔が覗く。

 金色の瞳が輝いて、吹羽は少しだけどきりとした。

 

「お前が風成 吹羽……で、良いんだよな?」

「は、はい。ボクが吹羽です」

「わたしの事、覚えてるか?? 一度会った事があるんだが」

 

 彼女の眼差しに少しだけドギマギしながらも、吹羽は言われた通り記憶を辿り始めた。

 あの帽子と金の瞳、確かに何処かで見たことがあるような……あ、そうだあの人だ。

 吹羽が彼女の姿を思い出すのに、大した時間は必要無かった。

 忘れていたとは言え、出会った時の事は吹羽としても印象的な出来事だったのだ。

 そう、友人たる霊夢の家へ珍しく遊びに行った時、箒に乗って空から舞い降りて来た快活な少女。会って話したのはそれきりだったが、その可愛らしい容姿と印象的な口調がしっかりと吹羽の記憶には焼きついていた。

 そうだ、この人は霊夢さんのもう一人のお友達。

 霧雨 魔理沙さんだ――と。

 

「魔理沙さん……でしたよね。霊夢さんのお友達の」

「おっ、ちゃんと覚えててくれたのか」

「あぁはい……というか、今思い出しました。すいません忘れてて……」

「いや気にすんな。わたしの方もつい先日までお前の事忘れてたくらいだからな、お互い様だ。 へへっ」

「……あはは、じゃあそういう事にしておきますね」

 

 にかっ、と明るい笑みを浮かべる魔理沙に釣られて、思わず吹羽も軽く微笑む。

 その笑みから、なんだか親しみやすそうな人だなぁ、とぼんやり思った。

 思えば、吹羽も霊夢もあまり活動的な性格では無い。その点活発な性格――をしていそう――な魔理沙は一見正反対に見えつつも、案外自分達との相性は良いのかもしれない。

 親交の印に差し出された手を、吹羽は笑顔で取るのだった。

 

「……それで魔理沙さん、吹羽さんの家に何をしに来たんですか? ここまで来てまさか“盗みに入った”、なんて言いませんよね?」

「ああ、言わない言わない。ここにある物は盗んでもわたしにゃ使えそうにないしな」

「……理由にちょっと納得いかないんですが」

「まぁ、盗まないでくれるなら良いですよ。それで、本当に魔理沙さんは何を? 注文じゃあないんですよね?」

「ああ。ここの品はわたしが買うにはちと高過ぎる。そう言うんじゃなくて――」

 

 言葉から繋ぎ、流れるような動きで吹羽はぐいっと引き寄せられた。

 何を思う間も無く、気が付いた時には、吹羽の目の前には魔理沙の端正な顔があった。

 

「ちょっと、お前自身(・・・・)に興味が出たんだ。ちぃとばかし付き合ってもらうぜ?」

 

「…………へっ?」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 例えば、こんな問題があったとしよう。

 

 ある町に暮らすA君は、極々普通の家庭で育った少年である。与えられるべき物を与えられ、愛情を溢れんばかりに注がれる幸せな環境の中にいる。

 友達も多く、時には恋人が出来たりして、実に充実した人生を送っていた。

 ある日、A君は心から愛する母親に、何時になく険しい表情でこう告げられた。

 “お前は本当は私の子供ではないのだ。本当の両親はもっと遠い所にいて、住所もはっきりしているから、そちらで暮らしたいならば止めはしない”。

 この後、A君はどうするだろうか?

 

 勿論、この答えは人それぞれだ。

 話の通り本当の親へ会いに行くのかもしれないし、ここに留まるのかもしれない。或いは、そんな重要なことを隠していた母親を恨んでここを出て行くことも出来る。また、怒りのままに殴りつけることも出来る筈。選択肢は無限にあるのだ。

 しかし――この問いを、同じように霊夢が受けたならば、彼女はきっとこう即答するだろう。

 はぁ? そんなの、ここに留まるに決まってるじゃない――と。

 

 大切なのは血筋ではなく、自分がどれだけその人に感謝しているか、どれだけ愛情をもらったか、だ。

 それを無くして母親面する“血が繋がっているだけの人”の所へなんて、何が悲しくて行かなければならないのか。

 霊夢の、家族というものへの認識の根底にはそんな考え方があった。

 何せ彼女自身――本当の両親の事を知らないのである。

 

 捨て子……そう自分を形容すると、何処か自分が寂しい人間だと蔑まれているように感じられて嫌だった。

 単に捨て子が存在する、という事実は、決して裕福な家庭が多くなく、加えて危険な妖怪の跋扈するこの世界では仕方ない事とも言える。捨てられてそのまま息絶えてしまった赤子の数など想像するのも億劫だ。

 ただ霊夢という捨て子が運良く拾われた、というだけの話。拾われただけマシな境遇だ、と考えるべきなのだろうが、その事を深く考えるのはやはり、辛い。

 それでもふと考えてしまった時、心を慰めるために思い出すのは、まさに赤ん坊だった自分を拾ってくれた“育ての親”の事だった。

 

「………………はぁ」

 

 こうして見慣れた獣道を歩んで行く度、繰り返し繰り返しそうした同じ事を考えてしまう自分に、霊夢は小さく嘆息した。

 この道を歩いていると、気が付けば同じ事を考えている。それは、自分を寂しく感じてしまう故に、望んで考えたくはない事の筈なのに。

 そしてふと脳裏に浮かんだそれを慌てて振り払っても、後に残るのは、いつまで経っても薄れはしない哀愁だけだった。

 それでも来てしまったのは、先日の吹羽と慧音の出来事を目にしたからか。本当のところは、霊夢自身も分かってはいなかった。

 

「……久し振り、母さん。また来たわよ」

 

 そうした無為な輪廻を繰り返す内、霊夢が辿り着いたのは、森を丸く切り開いた広場だった。

 別に大きな広場ではない。空から見ても、周囲の木々が目一杯枝を伸ばしている影響で見つけるのは困難だろう。

 霊夢はその中心に立てられている石に向け、優しげに語りかけている。

 ――これは、石を立てただけの簡素なお墓だった。

 

「何時かしら、前に来たの。多分半年以上前よね」

 

 見れば、前回来た時に活けておいた草花は枯れ果ててしまっている。当然の事なのだが、亡き者の眠る場所で枯れた花がある事に何となく空虚さを覚えた霊夢は、近くに生えていた数本の花を摘み取り、枯れた花と挿し替えた。

 近くに水は無く、きっとこの花も直ぐに枯れてしまうだろう。しかし、残った命で目一杯に鮮やかな色を放つその花を眺めて、霊夢は何とはなしに微笑みを零した。

 

「……めそめそ悲しむのは柄じゃないって分かってるけど……やっぱり、寂しいものは寂しいわね。幾ら魔理沙や吹羽がいるって言っても、ね……」

 

 魔理沙と吹羽は、友達だ。それは自他共に認めている事であり、彼女らは霊夢の数少ない心の拠り所の一つである。話せば自然と笑えるし、別れる時には少しだけ虚しくなる。その時は確かに一人ではないだろう。

 しかし――“家族”と“友達”では全く意味が異なるのだと、霊夢は知っていた。

 

 どちらも要素の一つであり、その者を取り巻く環境の一部。それは確かだ。しかし、カテゴリが同じと言うだけで、何もかもが同じである訳ではない。

 “友達”が炬燵のような表面的な暖かさならば、“家族”は抱き締められるような内面的な暖かさと言えるだろう。

 家族がその者に向けてくる“愛情”と言う名の暖かさは、根深く心の奥底に根付いているものだ。

 そしてその愛情というものに、血の繋がりはさしたる影響力を持たない。

 

「……母さん。母さんが死んでから、もう何年になるのかしら。もう随分前の事だけど……未だに振り切れないでいるあたしは、やっぱりまだ未熟ってことなのかな」

 

 あるいは、それだけ愛情が深かったのか。己が未熟故と思うよりは、そちらの方が何処か嬉しく感じる。

 育ての親――先代の巫女は、霊夢にとっては正真正銘の母親だった。例えそこに血の繋がりなど無くとも、注がれた愛情に嘘偽りが無かったことを、勘の鋭い彼女は幼心に感付いていた。

 だからこそ、母が討たれたと知った時には――。

 

「…………はぁ。ダメね、やっぱり。母さんに笑われないようにするなら、先ずはこの暗い気持ちに整理をつけなきゃ」

 

 自分に言い聞かせるように、ぱちんと両頬を叩く。じんじんとした痛みが何処か心地良く感じたのは、きっと気の所為ではない。

 母の事を忘れる必要はないのだ。失った悲しみを忘れる必要もないのだ。それを受け入れ、乗り越える事で一回り強くなれる事を霊夢は知っている。そしてその気持ちを知っているからこそ、誰かの役に立つ事も出来るのだ。

 人としては、それで十分である。

 

 霊夢は今暫く母の墓前に座り込み、経験した様々な出来事を語った。

 異変やその首謀者、それに自分が思った事、最近困った事、そして魔理沙や吹羽との事。

 それ程長い時間ではなかったものの、彼女には確かに母が話を聞いてくれているように感じた。

 

「――さて、それじゃあ母さん。あたし、行くわね。こうしてる間に妖怪が暴れたりしてたら、みんなが困るもの」

 

 石の墓標は、応えない。

 しかし、目の前で静かに佇むその墓標が、何処か自分を鼓舞してくれているように感じるのは、ただの思い込みだろうか。

 母の眠る墓に不思議な感覚を抱くも、“幻想郷だから仕方ない”といつもの調子で切り捨てる。

 きっと母は、そこにいる。しかし、例えいなくても良い。巫女は神道の者なれど、仮に“墓には仏が眠る”という偶像崇拝を信じるならば、そこに母が眠っていると思うだけで、その網膜に像を結ぶ事が出来るのだ。

 墓とは本来、そういうものだろう。

 

「またその内来るわ、母さん。今度は、ちゃんと花も持ってね」

 

 墓に背を向けて歩き出せば、その大きな赤いリボンが風に吹かれてゆらゆらと揺れる。

 その様が、不思議なくらい暢気なように見えた。

 

 

 

 




 今話のことわざ
小事(しょうじ)(こだわ)りて大事(だいじ)(わす)るな」
 目先の小事にこだわって肝心な大事を忘れてはならない。枝葉末節のために本来の目的からそれてはいけないという戒め。


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第六話 壊れた理由

 

 

 

 休日や祝日、記念日と言った言葉を耳にした時、何処か浮ついた様な、ある種の開放感とでも呼べるような気持ちを味わった事があるだろう。

 いや、過去完了形で語る必要はない。きっと今現在に生きるどの国のどの人だって、“明日は休みだぁ!”なんて同僚の声を聞けば少なからず気分が高揚する筈である。

 勿論、中には休日を返上してでも働きたいと願う“仕事に生きる人々”も存在はするだろうが、今その者達の事はさて置くとしよう。

 今の話には無縁だ。むしろ邪魔でしかない。

 

 さて、そういう事情は幻想郷でだって同じ事である。

 忘れられた世界と言っても、そこに人間が住まう限りは誰かが仕事をこなさなければならない。助けあわねば生きられないのが人間という生き物である。

 但し、住む世界が違えど同じ人間であることに変わりはない。故に、大半の人間は仕事など進んでやりたくはないだろう。

 仕事をする事で生まれるメリットなど殆どない。給料は貰えるだろうが、より楽して稼ぐ方法を探すのが人の性というもの。

 己の仕事をこなす事で誰かが笑顔になる? 働いて流す汗は至高? はっ、バカバカしいにもほどがある。笑顔が何だ、汗が何だ。そんな物、自分には何も与えてはくれないだろう――?

 

 しかし哀しきかな、そんな愚痴を蹴散らしてでもしなければならないのが、仕事というものだ。

 こなさなければお金は貰えない。

 こなさなければ人に認められない。

 こなさなければ家族の怒号が体と心を穿っていく。

 “働かざる者食うべからず”――いや、もっと悲惨な事態かも知れない。まるで追い詰められたかのように必死をこいて働く。様々な影の鞭に追い立てられながら、必死に働く。

 うむ、“馬車馬の如く”とはかくも的確な言葉だろうか。ここに言葉の真意を得たり――。

 

 とまぁこのように、世の大人達の深層心理の奥底にあるであろう想いを暴いてみた訳であるが、ここで出てくる謎の存在と言うのが、先程掃いて捨てそうになった邪魔者達――“仕事に生きる人々”である。

 果たして彼らは、何を以って休日返上などと言う奇行を平気な面で行おうとしているのか。

 ――答えは案外、簡単な所にある。

 要は、仕事をこなすメリットがあればいいのだ。

 

 これは一般論である。

 何か辛い事を始める前に成し遂げた後にする事を先に決めておくのだ。

 苦行を耐え抜くためには至極当たり前の事であり、誰もがやっている工夫の一つ。但し、その効力は抜群である。

 人はメリットがなければ動いたりしない。良心で何かを為そうとする者だって、その心を優越感に浸す為に動くのだ。――と考えるのは、偏見が過ぎるとしても。

 仕事に精魂を込める性を持つ者達はきっと、こうして辛苦に耐えているのだろう。

 事実、人里に住まうある一人の女性はまさにその典型的な例だった。

 色々な意味で荒々しい仕事の日々を何とか切り抜けて、彼女――上白沢 慧音はズンズンと歩を刻む。

 この日この時、この道を歩む事を望んで彼女は、凄絶な日々を過ごしてきたのだった。

 

「(はぁ……何とかやって来れたな、この日まで……)」

 

 思い返せば、始まりは約一週間前だった。

 買い物に出掛けて、ある少女に目を惹かれて。

 見慣れない彼女の事を知っていくうち、強烈な興味を心に植え付けるに至った。その具合と言えば、その少女に再び会う事を目的に週を乗り切った慧音の気概からも窺える。

 しかし、問題はその後だった。

 

 少女と出逢った日の帰り道、途中だった買い物を済ませようと八百屋へ向かうと、あろう事かそこは既に閉まっていた。普段はまだ空いているのに、と慌てて訳を聞いてみれば、どうやら今年一番とも言える野菜達が店頭に並んだ事であっという間に品切れを起こしてしまったそうな。

 なんと不運か。これでは一週間分の食材をまとめ買いすることができない。

 これから先一週間の生活に気が遠のきそうになるも、今日の分を節約すればいい、と慧音は素早く結論を出した。

 結局その日の夕飯は僅かに残っていた野菜と米で済ませ、八百屋には次の日寺子屋の終わった帰りに寄って行くことに。

 

 そしてまた、仕事が始まる。

 慧音は特に仕事が嫌いな類の人種ではなかった。心底子供好きな彼女が、沢山の子らと必然的に触れ合う事になる“教師”という仕事を嫌う道理はない。普段通りに明るく挨拶を放って教室に入り、教卓に名簿を置く。そして、我が愛しの教え子達を見渡す。

 子供達は慧音へと明るい表情を向け、早く早くと寺子屋の始まりを急かしているようだった。その元気な姿勢にふと、また彼女を思い出す。

 

 思い返せば、あの少女もこの子達と同じ様にとても元気で明るかった。違う事と言えば、少女の様子を見ているとまるで風に洗われたように爽やかな気分になれた事、だろうか。

 彼女の気質がそんな現象を起こしているのだろう、と推察するのは簡単だったが、それが返って余計に慧音の気を少女に向けてしまっていた。

 

 “あー、せんせいなんかにやけてるー!”

“ついにおあいてでもみつかったのかなー?”

“おれがせんせいとつきあってあげてもいいぜー!”

 

 そんな子らの声で、慧音はハッと我に返った。そして慌てて弁明すれば、それすら真実を隠しているのだと誤解され、寺子屋の中はみるみると熱を持っていく。

 無為極まりない――どころか火に油と化してしまっている弁明を続ける内、慧音は気が付いた。

 漸く、気が付いた。

 

 ――あれ、今私の心の中、すっごくヤバい事になってる……!?

 

 ヤバかった。慧音が思っていた以上に、彼女の心は少女の事に染められかけていた。

 そこに興味以上の意味(・・・・・・・)があったかどうかは彼女自身にも分からない。ただ、そうなっていて欲しくはないな、と切に願うのみである。

 確かに彼女は非常に愛らしい美少女そのものだったが、あくまで自分が抱いているのは興味であって、そのほかの何物でもない訳で。

 胸に手を当て、自分に言い聞かせるように必死で弁明してみる。

 ああ、これではまるで恋患い。いやいや自分は正常だ、ノーマルだ。

 そう心の声で呟きながら。

 

 ――その後の日々は、慧音にとって最早拷問に近かった。

 

 朝起き、早くから仕事場に入り、定時になると教室へと入るのだが、そこで開幕のからかい文句が確定で飛んでくる。それに何度弁明しようと、子供達はどんどん可笑しな方向へと話を進めていってしまう。

 無垢故に何よりも残酷、とよく形容されるが、慧音はこの時、その言葉をよく噛み締めていた。

 子供の何気ない一言が、慧音には鋭利な刀の一振りのように感じる。それで斬りつけられる度、彼女は“子供の言葉だ”と湧き上がってくる赤い感情を心のうちに留めるのだ。

 怒ろうにも中々怒れないでいれば、その騒ぎ様に業を煮やした他の教師に叱られる始末。渋々小言混じりの説教を受け、教室に戻ればまた先程の繰り返し。

 無駄な程に強い好奇心を持ってしまった自分を呪うばかりだ。

 

 それを、一週間。

 

 少女にもう一度会い、彼女の話をもっと聞きたい。

 日を重ねる毎に――正確には少女の事を思い出す度に積み重なるそんな思いをどうにか嚙み殺しながら、慧音は辛い斬り拷問と責め苦に耐えてみせたのだ。

 そして、今。

 

「(辛かった……まさか子供達の相手にこれ程疲弊を感じる日が来ようとは……)」

 

 幾ら元は自分の所為と言えど、今週の精神的疲労はかつてない程に溜まっていた。

 まるでヘドロと化学物質に塗れた都市の河川のように、ドロドロとした疲労感と憂鬱が慧音の身体を蝕んでいるのだ。週末を迎え、本当ならば開放感に心を躍らせるべきこの時ですら、慧音には素直に喜ぶほどの元気すらも残っていないのだった。

 

 ――しかし、ふと考えてみる。

 別に、悪い方向へと向かっている訳ではないのでは……?

 

 よく考えてもみろ。

 週は終わった。身を締め付けるような辛い拷問の日々は一先ず終焉を迎えた。ただ、身体には喜ぶ元気が残っていないだけ。

 心は水を得た魚のように飛び跳ねて喜んでいる。ならば後にする事など、一つだけだろう。

 疲労に耐え忍んでここまで来て、それと同時に積もり積もったこの欲求は、今こそ解き放つべきではないのか?

 

 慧音は考えた。

 事の発端を。そして何故あんな日々を乗り切れたのかを。

 欲求云々を抜きにしても、このまま家で家事に勤しむよりは、この休日の内にしっかりと心のケアをしておくべきだ。

 慧音は思った。

 ならば、今の内に行っておこう。そしてあの少女と満足するだけの話をして、すっきりと来週を迎えよう。それが自分の為であり、ひいては自分の所為で迷惑を被るであろう子供達と他の教師陣の為である。

 

 そうして正当化した大義名分を胸に、慧音の足はあらかじめ霊夢に訊いておいた静かな小道へと向かっていた。

 精神的疲労から来る目下の隈を蓄えて、しかし唇だけは僅かに笑っているその様と言えば屍人のそれに近しいが、幸いにもここは人通りが少ない。

 それに、少女とまた会えばきっとそんなものは何処かへ吹っ飛ぶに違いない。

 

 小道の出口が見えて来た。その様が慧音には光が溢れているようにすら見えた。

 疲労に引きつった顔を少しでも正そうと両頬を叩き、慧音は踏み出す。

 抜けた先にあったのはまさに、待ち望んだ風景だった。

 

「風成、利器店……ここか、あの子の家は」

 

 看板を見上げ、呟く。僅かに漂う煤と鉄の匂いはなるほど、確かに鍛冶屋に相応しい香りと言える。

 

 徐々に活力の戻ってきた慧音は、鼻歌でも歌い出しそうなのをグッと堪えて店へと近寄った。

 倉庫のような開けた入り口。きっと少女も普段からここで仕事をしているのだろう。そして、今も。

 慧音は妙に弾んだ気持ちを携えて中を覗き込み、そして――絶句した。

 

「…………あ、あれ……?」

 

 いない。いない。彼女が、少女がいない。

 どこを見てもいない。

 声も聞こえない。

 気配もない。

 影もない。

 ――吹羽が、いない……ッ!?

 

 工房の前に、慧音は呆然と立ち尽くした。まさに心ここに在らずな様子で、彼女は石像のように動かなくなってしまった。

 無理もない。彼女にとってはそれだけショッキングな出来事なのだ。

 この一週間、慧音がどれだけ心労を抱えていたかは最早語るべくもない。それこそ身命を賭したように、その精魂の果つる直前まで耐え抜いたのだ。

 そしてそれを乗り越え、先の事も確かに見据えながらやっとの思いで会いにきた。

 その結果――コレ。

 これが本当の徒労か……なんて、ジョークで心を取り繕う余裕すらなかった。

 

「おや、先生。こんな所で何をしているんです?」

 

 呆然としていた慧音の耳に、野太い男性の声が入ってきた。

 相変わらずの――いや、僅かにより黒くなった隈をそのままに振り向けば、“うわ、何だその隈”とでも言いたげな中年の男性の姿が、そこにはあった。

 

「……ああ、ここに吹羽と言う名の少女が住んでいると聞いたんですが……」

「あぁはい、そうですよ。吹羽ちゃんに用が?」

「まぁ……はい。彼女は、何処に?」

「うーん、詳しくは分かりませんが……あ、そう言えば何処かへ出掛けるところをちらと見たような……」

 

 ああ、やはり出掛けているのか。

 驚きはしなかった。家の場所が間違ってはいないと分かった時点で予測の範囲内である。

 

「確か、稗田の当主様らしき姿と金髪の黒帽子の子がいましたな。里の外れに歩いて行きましたが……」

「……里の外れ?」

「はい。妖怪がよく出ますが……まぁでも心配は要りませんよ。あの子はすごい子ですからね」

 

 何処か誇らしげにそう言い残し、男性は最早用は無しとでも言うように背を向けて去って行った。

 なぜ彼が誇らしげにするのか少し不思議に思ったが、すぐに切り捨てる。慧音にとって、重要な事ではないのだ。

 

 吹羽は、いない。故に、話すことは出来ない。拷問を乗り越えた彼女に、結局休息は訪れなかった。

 それが全ての真実であり、彼女に叩き付けられた現実。

 笑うしか、なかった。

 

「は……はは――ハァ……」

 

 取り敢えず、五本くらい酒買っとくか。

 静かにそう心に決める慧音。溜まりに溜まった鬱憤が自棄酒で開放できたのは、まぁある種の皮肉とも言えよう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 木漏れ日の降り注ぐ森の中を、少女達が歩いていた。

 いずれも大人には程遠い子供達であったが、里の外れであってもその歩みに迷いはない。

 先導する少女――吹羽にとっては何度も通った道だったし、その背後には『異変解決者』たる黒帽子の少女――魔理沙が控えていた。

 “弾幕ごっこ”と呼ばれる決闘方式が広く採用されているこの幻想郷に於いて、異変解決者という肩書きは強者の証。それを様々な人妖に認知されている彼女は、まごう事無き実力者なのだ。

 ――まぁ、単なる殺し合いであれば、人間である魔理沙よりも強い存在などごまんといる訳だが。

 そんな彼女の隣には、ゆったりと歩を進める阿求の姿がある。現在の魔理沙の仕事は、吹羽に付いていくと聞かない阿求の護衛だった。

 

「……なぁ、阿求」

「はい、なんですか魔理沙さん」

「……わたし、なんか変な事言ったか?」

「まぁそうですねぇ、少し変でしたかねぇ」

「あれで変だってんなら、どう言えば良かったんだ……?」

 

 困り果てたような表情の魔理沙の先には、吹羽がいた。

 先導している癖に少し間を開けている――のは気の所為だと割り切るにしても、彼女が何処かそわそわとしているのは背後からでも感じ取れた。

 

 落ち着いていないのは確かだ。時々ちらりとこちらを見遣る彼女の頰は僅かに朱が差しているし、何か話しかけようとする声が中々出せないと言ったように、おずおずとこちらを向いては慌てて向きを戻したり。視線なんかは一度も交わっていない。重なりそうになった瞬間に、吹羽があわあわと目を逸らすから。

 まるで小動物である。いや、確かに吹羽は小動物のような体躯をしているが、そういう意味ではなく。

 先程からずっとこんな調子なのだ。何故彼女がこんな反応をするのか魔理沙には分からないし、彼女が耳まで赤くしている理由も分からない。

 ただ、それでもなんとなく咎められないでいる理由としては一つだけ認識していた。

 

「(おい、なんだこの可愛い生き物は……っ)」

 

 顔を耳まで赤くして、だがそれを見られまいと恥じらう様子はかなりの破壊力があった。

 まるで憧れの先輩を前にして中々声を掛けられないでいる乙女のような雰囲気。里の男共の前でやったらきっと鼻血でも出して卒倒するんじゃなかろうか。

 吹羽という小さくて可愛らしい文句なしの美少女がやっているから余計に暴力的である。だって同性の魔理沙ですらそれをやめさせることを躊躇うのだから。阿求は言わずもがなである。

 

 そう思いつつ、しかしその反応が自分にとって困りモノなのもまた事実。

 彼女の用事について来たのは言わば次いでであって、魔理沙には魔理沙の目的がある。目も合わせられないようではまともに達成出来る訳がないのだ。

 魔理沙は、頭を悩ませていた。

 

「う〜む、どうしたもんか……」

「ふふふ、微笑ましいですねぇ。きっと嬉しいんですよ、吹羽さんは」

「“お前の事を知りたい”って言っただけだぜ? それの何処が嬉しいんだよ」

「まぁ、吹羽さんですからねぇ」

「何だそれ」

 

 吹羽のそんな姿を見ながらホクホクとした何処かだらしない表情を零す阿求に、魔理沙は複雑な表情を返す事しか出来なかった。

 

「吹羽さんはあまり親しい人が多くありませんから、魔理沙さんのようなストレートな言葉が響いたんだと思います。それに魔理沙さんって結構凛々しいですからねぇ〜。幼心にときめいたんじゃないですか?」

「えぇ……そうなのか? ときめく云々は置いておくとして、あいつ人当たりは結構良さそうに見えるけどな」

「確かに、そうですよ。ですが……まぁ事情があるんですよ。彼女が、対人関係に関して受動的過ぎる理由が」

「……?」

 

 そうして暫く歩み、やがて森が開けてきた。

 未だ日は高く明るい為、影の中を歩いてきた魔理沙達の眼には一杯の光が飛び込んでくる。

 一瞬眩しさに目を瞑り、段々と明順応してきた目をゆっくり開けば――そこには、赤み掛かった大地と大きなすり鉢状の窪みが広がっていた。

 

「ほぇ〜、ここが採掘場所かぁ」

「ま、魔理沙さん。採掘とか……近くで見たかったりします、か?」

「え? あー……いや、邪魔になりそうだから遠慮するぜ。ここで待ってるよ」

「そ、そうですか。じゃあお二人とも、ちょっと待っててくださいねっ」

「はーい、お気を付けてー」

 

 阿求の言葉を背中で受け取り、いそいそと採掘ポイントへと降りていく吹羽。

 魔理沙は取り敢えず周囲を見回して妖怪がいないことを確認すると、阿求の隣で一つ息を吐いた。

 

「これ、“露天掘り”って言うんですよ。鉄鉱石採掘の常套手段ですね。規模としてはかなり小さいですが……まぁこれだけ地面が赤ければ問題ないでしょうね。鉱石も沢山眠っているでしょうし」

「赤いと沢山あるのか?」

「地表にある鉄が酸化されている証拠ですからね。これだけ赤い地面は外の世界でも中々無いと思いますよ?」

「へぇ……」

 

 相槌は打てたものの、魔理沙の頭脳は別の事に支配されていた。案外、生返事にならなかったのは奇跡かも知れない。

 元来、気になったら中々納まらない性分である。そうでなければ根気の要る魔法の研究など出来ないだろ、と言う話だが。

 

 ――自分で考えたって仕方ねーか。

 魔理沙は、何処か独り言のようにして阿求に尋ねた。

 

「……益々分からねーな。あんな明るくて人懐っこそうな奴が“自分からは人と関わらない”ってのは、一体どういう事だ?」

 

 魔理沙からして、吹羽の印象は決して悪いものではない。

 勿論、事細かな人柄や性格などは追々追求するとして、彼女の第一印象は“明るくて可愛らしい奴”だった。

 話せば自ずと知れる明るい気性。大人っぽく振る舞おうと努力するも、否応無しに溢れてしまう子供らしい部分。その他の雰囲気諸々。それらは決して人を不快にさせるようなものではなかった。

 

 だからこそ、魔理沙には阿求の言葉が不思議に思えたし、あの含んだような言い方が非常に気になった。

 何か大きくて深いものに余計に踏み込んでいる事は分かっている。阿求が言葉を濁す程だ、何か理由があるのだろう。

 でも、でも――だ。

 それは同時に、吹羽と関わる上で知っておかなければならない気がした。

 彼女との付き合いは、恐らくこれきりではない。霊夢とも繋がっている彼女だ、今までが異常だっただけで、自分とも顔を合わせる可能性は大いにある。その過程で、きっと親しくもなっていくだろう。

 そんな時に、“吹羽に関する大前提”が分かっていないのでは話にならない。

 人との付き合いとは、ある程度の理解の上に生まれるものなのだと魔理沙は知っていた。

 

「……はぁ。まぁ、魔理沙さんなら問題ありませんかね。直ぐ近くに霊夢さんもいる事ですし」

 

 溜め息と共に返ってきたのは、そんな肯定的な言葉。

 ちらと横目で見てみれば、彼女は仕方なさそうに眉を傾けていた。

 そして、幾瞬かの間をおいて、

 

 

 

「吹羽さんには……数年前までの記憶が無いんですよ」

 

 

 

 眩しさに半分閉じていた眼が、ゆっくりと見開かれた。

 

「記憶が無い……だと? あいつ、あの年で記憶喪失だってのか!?」

「ああすいませんっ、少し紛らわしい言い方をしました! 記憶喪失とは少し違うんですっ」

 

 阿求は困った表情でそう弁明すると、少しだけ吹羽の方を見遣った。

 釣られて見てみると、吹羽は未だ採掘を続けているが、先程の魔理沙の声に驚いたのか、不思議そうな表情でこちらを見ている。

 取り敢えず笑顔で手を振ってやると、びっくりしたように手を振り返してきて、直ぐに採掘を再開していた。

 

「――魔理沙さん、脳震盪(のうしんとう)を起こした事、ありますか?」

「脳震盪……ってなんだっけ?」

「顎下や後頭部を強く打ち付ける事で脳が揺れる事です。私も起こした事はありませんが、相当痛いそうですよ」

「へぇ。で、それが?」

「吹羽さんの記憶の状態は、その脳震盪を起こした時の症状と似ているんです。形容するなら――そう、記憶が壊れてい(・・・・・・・)()

「記憶が……壊れてる?」

 

 聞き慣れない単語の組み合わせに、魔理沙は思わず聞き返した。

 それに一つ頷き、吹羽に向けた瞳を心配そうに歪めながら、阿求は小さく言葉を紡ぐ。

 

「大部分である事に違いはありませんが、全ての記憶を失くしたのではなく散逸的に失くしているんです」

「さんいつてき……?」

「鏡が割れたように、と言えば分かりますか?」

「あー、何となくは。破片が飛び散って見つからない、ってとこか?」

「その通りです」

 

 吹羽の記憶は、静まり返った一軒家の布団の中から始まった。

 自らの呼吸の音しか聞こえない程の静寂は耳に痛く、意識は風穴を開けられたように透き通っているのに、思考だけは全くと言っていい程に纏まらず、乱れ切っていて。

 茫然自失として、ともすれば廃人にすらなっていたかも知れない彼女に初めに寄り添ったのが、霊夢と阿求だったのだという。

 

「じゃああいつは……家族の事も覚えてない、って事なのか?」

「……断片的にしか。魔理沙さんは、吹羽さんの家族の事は霊夢さんに?」

「いや、聞いちゃいない。ただ、何か事情がありそうだとは思ってたぜ。吹羽みたいな幼いやつが、家族もいるのに一人暮らしなんてする訳がねぇ」

「……案外、鋭いんですね。その通りです。訳あって、吹羽さんの家族は今いません。いなくなったのは……記憶を失くす前の事です」

 

 そこまで聞いて、魔理沙はやっと理解出来た気がした。

 立場を置き換えてみれば分かりやすい。

 記憶を失くした自分が、一人家で目を覚ます事を夢想してみる。勿論確実な事は言えない。しかし自分の事だ、どんな心境に陥って、どんな恐怖を味わうのかは何処となく理解が出来た。

 即ち――圧倒的な孤独の恐怖。

 

 記憶を失くすという事は、それまでの関係を全て失うという事と同義である。そして幾つの、誰との関係を失くしたのかが本人には分からない。

 ――しかし吹羽の場合は、記憶が僅かに残ってしまったからこそ、悪質だったのだ。

 

 僅かに残った記憶の中で家族の存在を感じてはいるのに、貰った愛情を思い出せない。温もりを思い出せない。居なくなってしまった理由さえ、思い出せないのだ。

 ただ、周囲の“お前の家族は居なくなったのだ”という言葉を無理矢理呑み込むしかなかった。

 

 全て忘れてしまっていたらどんなに良かったか。

 “初めから家族などいなかった”と思い込めたらどれだけ良かったか。

 最愛の家族の事を、思い出を、自分は愚かにも忘れてしまったのだ――と。

 吹羽にとってそれは、“知らない方が良かった事実”だったはずだ。幼心に、彼女はとても苦しんだのだろう。

 

「(恐いって事か。親しくなりすぎるのが)」

 

 吹羽の心はまだ幼い。幾ら自立しているようには見えても、一人で“生活出来る”だけであって、決して一人で“生きられる”訳ではない。本来ならばもっと人に甘えても良い年頃なのだ。だがそこで、“一度記憶を失った”という過去が邪魔をする。

 二度あることは三度ある、とよく言われるように、物事は連鎖して起きる事が少なくない。一度記憶を失くしたならば、また失う可能性は捨て切れないのだ。――もしくは、そんな結論に至ってしまうほど精神が不安定である、とも言い換えられる。

 

 もしたくさんの関係を作ってしまって、もしもう一度記憶を失くしてしまったら、自分は一体どんな思いをするのか――そう思い至って、恐怖に震えて、吹羽はきっと関係を築く事に一歩踏み出し淀んでいるのだ。

 自分からは関係を持とうとしない。しかし、相手が親密になりたいと言うのならば拒まない。

 

 なんともまぁ、流れやすいと言うか。空気が揺れ動くと言う意味で、まさに“風”と言うに相応しい気質である。

 ――魔理沙は、静かに目を伏せた。

 

「……記憶が壊れた理由、訊いてもいいか?」

「……すみません、それは知らないんです。私が駆け付けたのは、“吹羽さんが倒れたらしい”と侍従の方に聞いたからです」

 

 悲しげに細められる阿求の瞳には、僅かに哀愁と後悔の色が滲んでいた。

 

「あの頃の吹羽さんは……見ていてとても痛々しかったです。何をするにも悪戦苦闘して、それでも身体の覚えと僅かな記憶を頼りに生活して……。

 私達が手伝おうと声を掛けると、びっくりして後ずさんでしまうんです。……結構心にきましたね、アレは」

「……よくもまぁ、あんな明るい奴になったもんだな」

「主に霊夢さんの献身のお陰です。彼女の力が無かったら、吹羽さんがあそこまで“戻る”事はなかったでしょう。私は偶に顔を出す程度でしたし……。“引き取る”って言う大人達の要求も悉く蹴っていたそうですよ」

「ふーん。そう言えばあいつ、一時期頻繁に神社を空けてた頃があったようななかったような……。そうか、あの霊夢が……ねぇ」

 

 魔理沙の中にも、霊夢という少女の人柄はある形(・・・)で焼き付いている。それは周囲の認識とやや似通ったものでもあり、しかしそれを肯定的に捉えた形だ。即ち――性格に裏表は無いが、他人には等しく興味がない。

 しかしそれは、言い換えれば“身内同等の間柄であれば、彼女はその身に宿す大きな優しさの片鱗を見せてくれる”という事だ。

 これはただの知人では分かり得ない。異変の首謀者達や、その他諸々の妖怪達はそういう立場だから、彼女の表面的な部分――つまり、他人への興味に乏しい所しか見えていない。

 

 その点で、魔理沙は違うのだ。

 自他共に認めた親友という間柄。幼い頃からよく一緒に遊び、よく喧嘩し、共に育った仲。それは既に“身内同等”と呼ぶに相応しい立場である。そんな彼女だから、霊夢に対して非常に肯定的であった。

 

 ――だからこそ、だろうか。魔理沙は吹羽という少女に強い関心を得た。

 彼女がいつ霊夢と知り合ったのかは分からない。しかし、魔理沙よりは付き合いが短いのは確実だ。そんな彼女が、霊夢に“元に戻るまで献身する”などという他人には絶対にしないであろう行動を取らせた。

 ――霊夢の親友として、気になるじゃあないか。

 

 幼い頃からの積み重ねで親友という立場を得た魔理沙。言い換えれば、彼女はその立場を得るのに――それが狙ってやった事ではないとしても――それ程までに時間が掛かったという事。霊夢の“身内同然”となるのはそれだけ難しいという事だ。

 

 魔理沙よりも短時間に、恐らくはたった数年間でそれを成し遂げた吹羽に、親友たる魔理沙の興味が引かれない訳がない。

 

「風成……吹羽、か……」

 

 面白い奴だ。あの年にして記憶の崩壊を経験をし、その恐怖を乗り越えて見せ、尚且つ霊夢の慈愛の中にいるという稀有な存在。

 採掘を終えて坂を登ってくる吹羽を見る彼女は、愉快そうに口元を歪めていた。

 

「お、お待たせしましたぁ……。ちょっと取り過ぎちゃったかもです」

「いえいえ、私達は好きで待っているので。ね、魔理沙さん?」

「………………」

「……魔理沙さん?」

 

 不思議そうに覗き込んでくる阿求を意識の外に追いやりながら、魔理沙は無言で吹羽を見つめていた。

 その金色の瞳に映るのは果たして、笑顔を絶やさぬ明るい少女か、それとも悲惨な過去を背負う哀しき少女か――。

 

「あの、魔理沙さん……? ボク、もしかして……何か怒らせちゃいましたか?」

 

 魔理沙の強い視線に耐えかねたのか、心配そうな声音でか細く問う吹羽。それに対した魔理沙は、ジッと彼女の翡翠色の瞳を見つめながら、やっと閉ざしていた口を開いた。

 

「なぁ、吹羽」

「は、はい」

「わたしは最初に、お前の事を知りたいって言ったよな」

 

 不安の色を窺わせる吹羽の視線に、魔理沙はゆっくり言葉を紡ぐ。

 吹羽は、小さく頷いた。

 

「考えてたんだ。お前の事を知るなら、どうすれば手っ取り早いかって。 

 話をして、聞くだけじゃ、きっと分かり合えないところもあると思うんだよ。誰しも自分の悪い所を人に見せようとは思わないしな」

「……はい。そう、ですね……?」

「でも結局、思い付かなかった。手っ取り早くお前の底を覗き込む方法が、わたしには分からなかったんだ。だから、少しずつ知っていこうと思う。

 初めは取り敢えず――出来るだけ、お互いの腹を曝け出すことから始めたいな」

 

 吹羽の怪訝そうな視線を背にし、魔理沙は少しだけ吹羽と間を開ける。

 そしてその懐から一つの道具を引き抜いた。

 八角形のフォルムを持つ、手のひら大の物体。魔理沙と言えばコレ、と言われる程、彼女の代名詞として知られる魔道具(マジックアイテム)

 振り向いた魔理沙は、不敵な笑顔でそれ――ミニ八卦炉(はっけろ)を突き出していた。

 

「わたしと、弾幕ごっこしてみないか――?」

 

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第七話 魔法使いの腕試し

 

 

 

 魔理沙にとって、その提案は奇妙でも突飛でもなく、極々普通の事だった。

 

 例え彼女のように勝気な性格ではなくとも、“それ”は誰もが気にするステータスの一つなのだ。

 この幻想郷に於いて――つまり、妖怪や妖怪に関わる者と関係を持つ場合に最も必要とされる技能であり、それ故の一般常識である。

 

 弾幕ごっこ――そして、その実力。

 

 吹羽の事を少しずつ知っていきたい。そう語った魔理沙の初動としては至極真っ当で、当たり前で、隣で話の行方を窺っていた阿求でさえ、途中から察する事の可能な内容だった。

 魔理沙ならば、取り敢えず初めはこうするだろう――と。

 だが同時に、阿求にはその提案が全くの無意味である事も察する事ができた。

 ――と言うより、知っていた。

 

 魔理沙よりもずっとずっと長く吹羽との付き合いを持つ彼女は、当然吹羽に関する多彩な情報を記憶している。まぁ、霊夢には及ばないと阿求本人が結論付けてはいるのだが。

 その記憶に依って話の展開を先読んではいても、しかし阿求は二人の会話に口を出そうとはしない。それは別に話すのが面倒だとか、言っても分からないだとか、そんな理由ではなく。

 

 ただ、吹羽自身の口から聞いた方が効率がいいと思ったのだ。

 説明するにしても、実証(・・)するにしても。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――はぁ!? 弾幕ごっこが出来ないィ!?」

 

 

 

 いっぱいの驚愕を孕んだ魔理沙の叫びは、それなりの振動を伴って森の中に響き渡った。

 驚いた鳥達がバサバサと一斉に飛び立ち、森中に木霊する声の残響を掻き消していく。

 目を見開く彼女の前では、正直に提案を否定した吹羽が申し訳なさそうに微笑んでいた。

 

「お、おいおいそりゃどう言う事だ!? てっきり出来るもんだと思ってたがっ」

「あうぅ、ゴメンなさい魔理沙さんっ。理由があるんですぅ!」

 

 若干弱々しくなった声で弁明を試みる吹羽を前に、魔理沙はハッとして声を詰まらせた。

 横から向けられる阿求のジト目が痛い。どうやら、あまりの拍子抜けを体験して無意識のうちに言葉遣いが荒んでいたらしい。

 ちょっと短気なところが弱点だな、と心の内で短所を認めながら、魔理沙は一つ咳払いをした。

 これで一応、彼女なりに空気を断ち切ったつもりである。

 

「あーえっと……そ、それでどういう事だ? 霊夢と話した感じじゃ、なんかお前が弾幕ごっこ出来る様な口振りだったけどな」

 

 少し前に博麗神社でお茶をした日を思い出す。相変わらずの会話の中でふと吹羽の事が話題に上がり、暫しその事で談笑した記憶がある。

 

 霊夢は裏表のはっきりした性格だ。故に言葉に遠慮がなく、悪く言えば空気の読めない発言をする事が間々ある。

 格上選手の超豪速球を見事に打ち返し、“アウト取られたけど場外近くまでカッ飛ばしてやったぜ!”と一矢報いたり的にわーわー盛り上がりまくるチームメイト一同に向けて、“まぁアウトなんだからどちらかと言えば負けてるけどね”と平気な面で言えてしまう非情な現実主義者こそが霊夢である。

 吹羽に元々弾幕ごっこが出来ないのなら、初めからあんな話などしないだろうし、先の例のように“まぁ吹羽は弾幕ごっこ出来ないけどね”とでも言葉を挟むはずなのだ。

 魔理沙の早とちりは、そこから始まっていた。

 

「で、どうなんだ?」

「えっとですね……正確に言うと、妖怪さん相手なら弾幕ごっこも出来るんです」

「……うん? 妖怪相手と人間相手じゃなんか違うのか?」

「妖怪さんは頑丈だし、素が強いのである程度は大丈夫なんですが、人間相手だとボクの武器は殺傷力が高過ぎて……あー、見せた方が早いですよね」

 

 そう言った吹羽は品定めをする様に周囲を見回すと、ふと二間ほど先にある一本の木に目を止めた。

 黒っぽい幹が“如何にも”な堅牢さを醸し出す大きな木である。直径も二尺程は裕にあり、建物に使われたのならばきっと立派に家を支える柱となる事請け合いだ。

 

 一歩だけ木に寄り、そっと腰に下げた小太刀の柄に手を掛ける。漆塗りの黒い鞘から輝く刀身がゆっくりと姿を見せると――吹羽は、特に構えもせず袈裟に刀を振り抜いた。

 

 間合いは、非常に遠い。

 例えどんな奇跡奇術を用いた所で到底刃の届き得ない場所で、吹羽は刀を振るったのだ。

 刀身約一尺といった具合の小太刀は当然の事として木には触れもせず、ただ一瞬空を裂いただけでその姿を鞘に納める。

 全く無駄過ぎる。どころか、一人芝居でもしている様に見えて滑稽ですらある。

 

 ――しかし魔理沙は、その一太刀を見て思わず息を呑んだ。

 

 剣術としては雑多過ぎる一撃である。構えも無ければ残心もない、ただただ刀を振り抜いてそれで終わりの、お粗末な一振りだ。

 抜刀術と言えば聞こえはいいが、そもそもその為の構えすら取っていない状態からの一太刀であった為に、最早その手による弁明のしようなどない。

 吹羽は確かに刀を振るった。しかしそんな彼女の刃では、確実に竹の一本すらも断ち斬れはしないと断言出来る。況してや堅牢な木なんて。

 

 

 

 ――と、ここまでが世間の一般常識である。

 

 

 

 魔理沙が息を呑み、驚きに見開かれた瞳で凝視するその先。

 それは無駄な行動をとった吹羽ではなく、二人の会話に僅かな微笑みを零す阿求でもなく、かと言って遥か向こうを見透かしている訳でもなく。

 

 その金色の双眸が焦点を合わせる一点は――真っ二つに断たれて斜めにずれ落ちていく、黒い大木だった。

 

「えと……分かって貰えました?」

 

 不安げに頰を掻く吹羽を視界の端に、魔理沙はただ驚くのみである。

 剣術はからっきし――と言うより魔法以外はからっきしな彼女に、吹羽へ直接的な疑問を吐き出す事など出来ないが、今の超常現象染みた光景が驚くべき事であるのは容易に理解が出来た。

 堅牢な木を、ぞんざいな一振りで容易く断ち切るなど、大人でも困難極まりない。そもそも刃自体が木に届いてすらおらず、ただ虚空を切っただけなのだ。不可思議の蔓延する幻想郷と言えど、物理法則くらいは適応されるというのに、それを無い物の如く無視した光景を目にして、魔理沙は堪らず度肝を抜かれた。

 

 なんだ、今の……なんだ今のっ!?

 そんな言葉が顔に浮き上がる魔理沙を見て、吹羽は“ああ、理解して貰えたっぽい”と簡潔に結論付け、一つ、軽く息を吐く。

 

「まぁそう言う訳で、弾幕ごっこが出来ないんです。ボクが使う“弾”も家に置いてきちゃいましたし、だからと言ってコレを人に使ったら、そのぅ……」

「ああ、うん、分かった。分かったから想像させないでくれ……」

 

 異変解決者の肩書きを持つ強者でも、やはり心は少女のそれ。吹羽が言うまいと口を噤んだ言葉の続きは、やはり魔理沙の心にとって不衛生極まりないモノのようだ。

 自らの想像にげんなりした魔理沙は、一つ息を吐いて思考をリセット。

 ズレてしまった論点を戻すべく“つーわけで、だ”と前置きした。

 

「そうなるとどうするべきか。吹羽が弾幕ごっこ出来ないんじゃどうしようもないぞ……?」

「うぅ、すみません。ご期待に応えられなくて……」

「あーいやぁ……責めてる訳じゃ……」

 

 何か必要以上に責任を感じている様子の吹羽に、魔理沙は曖昧ながらもフォローを返す。

 実際彼女に責める意図は全くなく、ただ困ってしまった故に誰かの助けを求めただけだった。それが何故か吹羽を責める様な形になってしまい、挙句しゅんとする彼女に上手い言葉を掛ける事も出来ない始末。散々だなと、魔理沙としては非常に複雑な気持ちである。

 

 なんか、こいつ意外と扱い辛いかも知れない。あでも、からかうと面白いとか霊夢が言ってたなぁ。

 ふと霊夢の言葉を思い出し、切り返した思考に早くも頭を染め、魔理沙は釣り上がりそうになる頬をどうにか保ちながらう〜んう〜んと悩む振りをした。

 尚、堪えた故にぴくぴくと震える魔理沙の頬の所為で、阿求にだけはその若干邪と言えなくもない思考を読まれていた事を、彼女は知らない。

 

「んー、どうするかー」

「……はぁ、そんなに考え込まなくても、方式を少し変えてあげれば済む話じゃないですか」

「……方式?」

 

 話の詰まった二人に手を差し伸べたのは、この場で最も頭の回る歴史家だった。

 阿求は一つだけ溜め息を吐くと、仕方なさそうに笑って人差し指を立てる。そして腰に拳を当て、

 

「撃ち合えないのなら、撃ち合わなければ良いんですっ」

 

 瞑ったその片眼の横に、パチンと星が弾けた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――弾幕ごっこと言えば、オーソドックスなのは当然『撃ち合い』だ。

 勝負と賭け金に同意した二人が互いに弾幕を撃ち合い、一定数被弾するか気絶するかで勝敗を決する方式。異変の際に主に使用されるルールであり、今回吹羽の事情で実現し得なかった方式だ。そこにスペルカードの使用を織り込む事で、戦闘に華やかさと戦略性が生まれる。

 

 その派生系として存在するのが、『決闘』方式。一般的にそう呼ばれている訳ではないが、区別を付ける為にここではそう表記する。

 『撃ち合い』とは違い、あくまで弾幕を攻撃手段の一つとして使用する類の、接近戦方式である。戦闘をお遊びと化した弾幕ごっこの中では、最も実際の戦闘に近い方式とも言える。

 体術、剣術、勿論弾幕による砲撃術も、己の持てる武器全てを駆使し、主には気絶による勝敗を決するのだ。

 

 そして、もう一つ。“派生”と言うよりは“特殊”と表現した方が正確な方式がある。一つの異変の中でも、スペルカードで数えて一、二枚程度でしか使われない方式だ。

 『撃ち合い』に比べて時間は掛かるし、純粋に弾幕ごっこを楽しむには適さない為に、所謂“野良試合”ではあまり適用されない方式だが、一応は皆の認知の中にある代物だ。

 例えば、格上が格下の力を見る時の小手調べに。

 例えば、回避がズバ抜けて得意であるが故に。

 例えば――そう、訳あって一方が弾幕を撃てない時なんかに。

 

 改めて考えて見ると、なるほど阿求の提案はぴったりと状況に適していた訳である。

 相変わらずの頭の回転に、魔理沙は素直な感嘆を抱いた。反面、得意分野の一つである弾幕ごっこに於いてこの発想が浮かんでこなかった事に、少々自分自身に落胆もしていた。

 もう異変だって幾つか関わってきて、経験も豊富だというのに。

 まだまだ未熟らしい――と、その事実をこれから戒めとし、魔理沙は気持ちの切り替え次いでに帽子を被り直す。

 鍔から覗く金色の瞳は、眼下に佇む少女を見据えていた。

 

「分かってるな、吹羽。今からやるのは『耐久スペル』方式だ。わたしのスペルは二枚。五回当てたらわたしの勝ち、二枚とも時間切れでスペルブレイクしたら、お前の勝ちだ」

「はい、了解ですっ」

「……あー、一応言っておくが、弾幕を対処するのにならその刀使っても構わないぜ。使える手段は使うべきだ」

「……気は進みませんが……分かりました。気を付けて使います」

 

 魔理沙の許可を合図に、鯉口の切られた刀身が日を反射して鮮烈に輝く。抜き放たれた小太刀は一尺半といった程度の刃渡りで、その側面にはやはり――美しい彫り物が描かれていた。

 

「……へぇ、それがその刀の風紋か。店先に並んでたのよりも若干複雑か?」

「はい。包丁や農具に使うものよりも、武器に使うものは実戦特化ですからね」

「成る程、実戦特化……ね」

 

 実戦特化の風紋が刻まれた武器を使用する、と言うのなら、彼女が使う“弾”も同様の威力を秘めていると言う事だろうか。

 容易に大木を真っ二つにする様な、或いはそれ以上の凄まじい威力を誇る武器の数々を扱うのだとすれば成る程、彼女に人間相手をさせるのは確かに危険極まりない。

 まぁ、大木をぶった斬るような武器ならば妖怪でも危険とは思うが。そこは“弱肉強食の理”を振りかざせば最悪どうにかなる。

 ――ともあれ。

 

「じゃあ始めるぜ! 準備はいいな!」

「はいっ! どんと来い、です!」

「まずは一枚目――!」

 

 吹羽の威勢の良い返事に頰を釣り上げ、透き通る青空へ飛び上がる。風に靡く金色の髪を振り払いながら、魔理沙は一枚のカードを天に掲げた。

 そして、唄い上げるように、

 

「魔符『アステロイドベルト』!」

 

 宣言と同時、指に挟んだスペルカードが星の如き光を放つ。

 魔理沙の魔力を含んだ光が急速に膨張し、眩ゆい光輝と共に弾き出されたのは――まさしく流星。

 煌めく大量の星が、地上で対峙する吹羽に降り注いだ。

 

「まずは小手調べだぜ! お前の実力、見せてみろよッ!」

「………………っ」

 

 降り注ぐ星々に対して自然体で刀を引き構え、その大きな瞳でジッと魔理沙を見つめる吹羽。それに答えるようにして、見つめ返す魔理沙。

 絡み合う視線を媒介して、二人の間ではまるで走馬灯のように緩やかな時間が流れる。

 

 視線の間で果たしてどんなやり取りが行われるのか。言ってしまえば、それは魔理沙にも吹羽にも言葉にするのは難しい。

 ただ見つめる先の相手を見据え、出来る限りの己を曝け出し、或いは引き出させ、互いを知る為に思考を視線に乗せて交錯させる。言葉は必要ない。

 しかし、相手が僅かに笑っていることは、互いに認知出来た。

 

 やがて鈍い世界が徐々に速度を取り戻し、星々も従って勢いを再起し始める。先頭を駆けていた星は薄く笑う吹羽の眼前を陣取り、そして遂には――。

 

「簡単には、負けてあげませんよっ」

 

 軽く避けられ、少しばかり地面を弾いた甲高い弾の音が二人の耳に妙にクリアな響音を放つ。それを合図にしたかのように、ゆっくりとしていた星々は再び流星となって魔理沙の眼下に殺到し始めた。

 

 迫り来る星の弾幕は容赦なく吹羽に襲い掛かる。星と星の隙間は僅かで、規則性はあるものの密度で言えば小手調べどころではない。

 加えて魔理沙自身も少々弾幕を放つというのだから、その難易度は最早、とても素人の手に負えるレベルではなくなっていた。

 ――それもそのはず。

 魔理沙は敢えて小手調べと言いながら、多少本気混じりのスペルカードを唱えたのだ。

 

「(さぁ、どの程度デキるんだ、お前は――!?)」

 

 吹羽は、霊夢の友達だ。

 それは霊夢自身の公言であり、彼女の性格を考えれば疑いようもない。そして、他人を評価する上で彼女は平等である。

 自分にとってどこがどうだからこいつは良い奴――のような、主観による贔屓目がさっぱり無いのだ。それは彼女の美点であり、恐らくそれこそ彼女が他人を惹きつけやすい要因の一つなのでは、とも思っている。

 そんな部分を知っているからこそ、魔理沙には試したい事があった。

 

「へへっ、結構避けるの上手いじゃんか!」

「ギリギリですけどねっ!」

 

 ひらひらと舞い踊る吹羽。未だ一度も刀を使用していない事からも、彼女がまだ余裕を残している事が分かる。

 彼女の紙一重の回避を目の当たりにする度、魔理沙はつくづく霊夢の言葉が本当だったのだと思い知った。

 

 戦えば魔理沙が負ける――そう聞いた初めは、当然冗談だと思った。そんな馬鹿なことがあるものか、と。

 異変解決者として、弾幕ごっこのプロフェッショナルとして、少なくない自信と実績を持つ魔理沙には、人里に住まうただの人間に負けるなど欠片も考えられなかったのだ。

 だが、こうして実際にやってみればどうだ。

 

 迫る弾丸から目を逸らさず、常に最小の動きで避けてくる。

 僅かでも頭を超えて迫って来れば身体を下げ、肩口に当たりそうならば身体を半身に翻して受け流す。腹ど真ん中に来る弾にはわざと身体を前に出し、射線を頭に合わせた上で首を傾けて避ける。まるで弾の動きが全て見えているようだ。

 

 吹羽の立ち回りは正に期待通り――いや、期待以上である。体捌きは上々で、日々の鍛冶で鍛えられたのであろう体力はまだ到底その底を見せない。

 期待通りの上手さ。心踊る相手。『撃ち合い』出来ないのが残念でならない。

 

「(こいつぁ、仕掛けた甲斐があるってもんだぜ!)」

 

 わざわざ普段なら殆ど言わない嘘を吐いてスペルを放ったのも、吹羽の力を出来るだけ引き出して見極める為。

 小手調べと称してそれなりに強力なスペルを放てば、吹羽の真剣さにもより磨きが掛かると踏んだのだ。

 成る程、霊夢がああ言ったのも頷ける。余裕を残してこれならば、彼女の本気はどれ程なのだろうか――。

 

「――なんて、試せばいい話だよなぁッ!?」

 

 高揚した気分が反映したように、魔理沙から放たれる弾幕はその威力と速度を上げていった。宣言されたモノ故に弾幕のパターンは変化しないが、その難易度は確かに上昇する。

 

 ひらりひらりと舞う吹羽は、僅かに汗を滲ませ始めていた。

 体力はまだ保つようだが、その体捌きがだんだんと弾幕の速度に追い付かなくなっている。

 当然と言えば、当然の話だった。『耐久スペル』方式は、避ける方に求められる技術がべらぼうに高いのだから。

 

 決まり切った弾道を設定したスペルカード。魔理沙はそれを放つだけの単純作業である。それに対して、避ける側である吹羽は己の身体を引っ切り無しに動かし続け、その上細かな動きの節約で体力を制御しなければならない。

 野良試合でこの方式が使われない理由の一つがこれである。要は、フェアじゃないのだ。

 勿論避けるのに自信があるのなら、優先してこの方式を取るのも策の一つだろう。しかし、真っ当に有利不利を考えれば、当然この選択肢は早々に消し去るべきである。

 体捌きが追いつかなくなってきた吹羽は――遂に、その肩に一発の弾丸を受けた。

 その一発が、この拮抗状態にヒビを入れた。

 

「っ! やっちゃった――っ!」

 

 弾に当たれば、体勢は当然崩れる。そして体勢が崩れれば判断が遅れ、判断が遅れれば次弾の対処が出来なくなる。一発の被弾が吹羽を負の連鎖に陥れた。

 密度の高い魔理沙のスペルは、体勢の崩れた吹羽に隙など与えなかった。不安定な足取りながらも殆どの弾を避けている事に関しては見事としか言いようがないが、形勢は一瞬の内に魔理沙に傾いた。

 ――避けた拍子に飛来した腹への一発が、吹羽に対処させる余裕を与えず命中する。これで、二発目の被弾。

 

「くっ……これでっ、小手調べなんですか!?」

「おうとも! つっても、まだお前だって本気じゃないんだ、ろッ!」

「――っ!」

 

 ばら撒かれる星に紛れて、魔理沙も少量ながら弾丸を放つ。量こそ多くないものの、それらは確実に吹羽を狙って飛空する。

 他の弾幕の対処に気を取られていた彼女は、不意に飛来した弾頭群に若干手前で気が付くも、他の弾幕より速度のあるそれらを避け切れずに三発目の弾丸に命中した。

 ――残り残機、二つ。

 

「(このままじゃ終わっちまうぜ、吹羽……!)」

 

 立て続けに三発食らった吹羽に焦燥を感じたのは、むしろ魔理沙の方だった。

 このままでは二枚目のスペルを使うどころか、彼女の本気を見る事なく戦闘が終わってしまう。それではこの戦いに於ける目的が達成されない。だが、だからと言ってもう一度弾幕ごっこを行うと、お互いの体力が保ちそうもない事は火を見るより明らか。それを鑑みれば、ここで何の成果も得られないまま終わる事は即ち、訪れたチャンスを丸々棒に振るのと同じ事なのだ。

 だから――魔理沙が咄嗟に三十発(・・・)近い弾幕を放ってしまったのは、焦ったが故の早計だと言える。

 

「ッ! しまっ――」

 

 掌から弾幕を放った刹那に、魔理沙は自分の失敗を悔いた。

 確かに、このままの流れでは彼女の本気を見る事なく終わってしまう。だから、早い段階で本気を引き出さなければならない。だが――だからと言って処理し切れない程の大量の弾幕を放ってしまうのは、それこそ“戦闘の終わり”という引き金に自ら指を掛けた事に他ならないのだ。

 

 吹羽が大分疲労している事は明白である。それでも刀を使わないのは、恐らくこちらに当たる可能性を危惧しているか、他の要因があるかだろう。そんなタイミングに勝負を決めかねないほど多くの追い打ちをかける事は、魔理沙の望みにとっては悪手でしかないのだ。

 しかし――当然のことながら、無情にも時は決して巻き戻ったりしない。

 

 魔理沙の早計によって放たれた大量の弾幕は、自動で放たれていた星々と共に一束の流星群となって降り注ぐ。

 そこにある隙間はほんの僅かであり、そんな針の穴を通す様な回避をこなすのは至難の技だ。

 僅かに光る尾を引いて殺到した弾幕は、魔理沙の視界から吹羽の姿を覆い隠し、そして遂には、

 

 

 

 ――消失、した。

 

 

 

「な、に……?」

 

 その現象に、前触れなどは無いようなものだった。

 魔理沙の眼前で起こったのは、飛んで行った弾幕がまるで初めからプログラムされていたかのように、突然姿を消したという事だけ。その事実のみである。

 霧散してしまうほど微小な魔力ではなかった。消えてしまうほど構成が甘い訳ではなかった。一つ分かるのは――ほんの寸前、僅かに風切音が聞こえた事のみ。

 

「ふぅ……。勝負に出るのが早過ぎですよ、魔理沙さん……」

 

 茫然と瞳を見開く魔理沙に向けて放たれたのは、何処か呆れたような響きを含んだ吹羽の声である。

 汗の伝う朱の差した頰を人差し指で掻く彼女は、魔理沙を見上げて苦笑を浮かべていた。

 ふと視界の端に捉えた抜き身の刀が、太陽の光を受けてぬらりと輝く。その妖しい光輝に、魔理沙は背筋のひり付く寒気を感じた。

 

「お前……今、何したんだ? 弾幕が、一瞬で……」

 

 少なくとも、魔理沙からはそう見えた。

 不覚にも逸って撃ち出した弾頭群は吹羽を覆い、その小さな身体に殺到した筈だったのだ。しかし魔理沙が目の当たりにした現実は、衝突の直前で弾幕の悉くが掻き消された光景。

 確かにスペルは丁度時間切れ(リミット)でブレイクしている。見方によっては時間切れで弾幕が消えた様にも見えるかもしれない。しかし、当の魔理沙の眼球はしっかりとその瞬間の光景を映していた。スペルがブレイクしたのは、弾頭群が消えた僅かに後の事。加え、風切音を響かせる要因といえば一つしかない。

 つまり――あの三十発近くあった弾幕を一瞬で片付けたのは、紛れもなく吹羽なのだ。

 考えても答えは出ず、ただただ瞳に驚愕の色を浮かばせて、魔理沙は独り言のように吹羽に問う。

 返ってきたのは、困った様な苦笑だった。

 

「えっと……斬っただけですよ……?」

「“斬った”……? あの、量を……一瞬でか……?」

「は、はい。ボク達が狩猟民族だった頃の名残らしくて、前から刃物の扱い方を叩き込まれてたんです。お兄ちゃんの足元にも及びませんけどね……」

「ほ……ほう? す、すげーんだな……」

 

 半分以上心の篭っていない言葉を投げかけながら、魔理沙は頰に一筋汗の流れる感覚を覚えた。

 それが疲れからくる汗でない事は、誰よりも彼女自身が理解している。

 弾幕の相殺――それは、弾幕ごっこをする上では基本技術に類する――但し難度は当然高い――ものだし、かく言う魔理沙だってやろうと思えば出来ないことはない。身もふたもないことを言うなら、吹羽だってそれと同じ事をしただけで、彼女にとっては何も驚く事ではないのだ。

 だが、ここで反論しよう。“状況が違うだろう”――と。

 

 魔理沙が“出来る”と定義したのは、言わば技術の話だ。その他の要因による干渉など微塵も考慮に入れず、ただ出来るか出来ないかで議論した場合の結論に過ぎない。だから事実として、戦い慣れた魔理沙にも当然“出来る”。

 だが、そこにあらゆる要素を交えてみればどうか?

 例えば、その日の体調。

 例えば、その時間帯の天気。

 例えば、その瞬間の心持ち。

 人が可能とする行動の全ては、事実としてあらゆる要素に影響され、動きの質に細かな補正を加えられる。それが結果の良不良に関わるのだ。

 

 ――吹羽はあの瞬間、御世辞にも良い状態とは言えなかった。

 

 魔理沙の激しい弾幕の嵐に晒され、動き続けた身体は鉛の様に重くなり、その上誤って放たれた三十発以上に及ぶ弾頭の圧力を、真正面から受けていたのだ。

 ――それをあろう事か、彼女は一瞬で全てを斬り捨てた。

 それは“相殺した”という事実だけには留まらない。圧力の中で冷静に身体を動かす胆力、弾丸の一つ一つを目で追う視野と動体視力、そして弾幕を確実に斬り捨てる剣の腕。それらやその他諸々を統合した結果に生み出されたのが、あの信じられない一瞬である。

 魔理沙は思う――全く同じ状況で、吹羽と同じ事が自分に出来るだろうか?

 

「いやいや……こいつぁ……!」

 

 ――とんでもない奴が居たものだ。

 頰が釣り上がっていくのを堪えられない。無意識に力の入る身体が、感極まった様に武者震いを始めた。

 今日出会ったといっても過言ではない少女が持つ巨大な才能、実力を目の当たりにして、霊夢が一目置くのも無理はない、とひしと感じる。

 きっと彼女も吹羽とこの様な戦闘を過去にして、魔理沙と同じ事を思ったに違いないのだ。

 

 不幸な境遇にありながら自立した精神を持ち、高度な鍛治技術を使いこなし、戦闘に於いても高水準を誇る。彼女が魔理沙や霊夢と同じくらい戦闘を経験していたのなら、きっと想像を絶する強さを誇る事だろう。

 この幼い少女は、あらゆる才能に恵まれているのだ。

 

 断言、出来る。

 風成 吹羽は――博麗 霊夢に次ぐ天才である、と。

 

「良い……良い感じだぜ、吹羽! そんなら二枚目、続けて行くぜ!」

「――望むところです!」

 

 遂に笑いを堪え切れなくなった魔理沙の、気持ちを吐き出すような宣言が声高に響く。

 心底嬉しそうに頰を歪めると、眼下に二人目の天才を捉えた。その金色の瞳には、確かに期待と闘争心の鮮烈な色が映し出されている。

 

 ――掲げられたカードが、再び、強烈な光を放った。

 

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第八話 必要な応え

今章最終話です。


 

 

 

 ――一度だけ、吹羽と霊夢の弾幕ごっこを見た事がある。

 

 あれは確か、記憶の壊れた吹羽がやっとの事で調子を取り戻してから、しばらく経った頃だった。

 一人で生きて行く上で出来るようになっておいた方がいい――そう語り、彼女に弾幕ごっこを教えたのは霊夢である。基本的な概要と立ち回り、簡単なコツ、なけなしの霊力をうまく扱う術など、少々不慣れながらも真摯に教鞭を振るっていた彼女の姿は実に印象深い。

 聞き及べば、ルールなどの覚えておかなければならない事以外は、殆どを実戦を交えて教えていたそうだ。

 ――阿求が目撃したのは、そんな日々のある一戦だった。

 

 思い起こせば、これもまた印象深い記憶である。

 数多の記憶と知識を保有する阿求の脳内にあって、しかしそれは他に圧倒される事なく強い色を放っていた。

 珍しいな、と思ったのだ。

 

 何が珍しいって、あの霊夢が表情一杯に笑っていたのだ。

 普段なら絶対に見られない、感情の花が満開になった様な美しい――しかし何処か獰猛な笑顔。素の美少女っぷりも相まって、同性である阿求ですら一瞬見惚れたほどである。

 彼女がこれ程楽しげな表情をするのは、珍しい事なのだ。

 

 霊夢の感情が希薄だ、と言うわけではない。むしろ彼女は感情豊かな部類だろう。

 彼女の周囲の人妖は、その様々な個性でもって様々な接し方をする。それが友好的であれ敵対的であれ、何の感情も抱かないで相手をするなど正に不可能だし、何より霊夢は年頃の女の子だ。思春期真っ盛りである。

 ただ、それら全てを、彼女自身の大人びた思考回路が押さえ付けているだけ。冷静且つ、時には非情にすらなれるその考え方が小さい頃から根付いているために、彼女の今日の性格が出来上がっているのだ。

 だからこそ――阿求から見て、感情が思い切り顔に出た霊夢は珍しかった。

 

 そして霊夢のそんな感情を表に引っ張り出したのは間違いなく、その時彼女と弾幕を交わしていた吹羽だった。

 彼女との血湧き肉躍る激しい弾幕ごっこが、霊夢の内に潜む僅かな興味と興奮を強く刺激したのだ。

 

 実は、吹羽の言葉――人間相手には『撃ち合い』が出来ない――には少々語弊がある。正確に言うのなら、“防御手段を持たない相手には撃ち合いが出来ない”のだ。

 吹羽が『撃ち合い』を拒むのは当然ながら、彼女の使用する武器達が死の危険性を孕んでいるからだ。それについては最早語るべくもないだろう。お遊びの決闘で命を落としたなんて事になったら目も当てられないし、“それを考慮すべきである”という事は、先程真っ二つに断ち切られた大木が何よりも明確に物語っている。

 しかし逆に言えば、その危険性さえなければ吹羽でも『撃ち合い』が出来るという事である。

 基本的にその多くが特別な能力を持たない人間は、当然彼女の武器を防ぐ術を持たない。それを一般論として認識している故に、吹羽は人間とは『撃ち合い』をしない(・・・)のだ。

 

 ――しかしここでの例外が、霊夢である。

 

 彼女は人間だ。

 生粋の人間だ。

 しかし、結界を扱える(・・・・・・)人間だ。

 それはつまり、“防御手段を持った人間だ”と言う事である。

 

 吹羽との訓練に於いて、霊夢は結界を用いる事で彼女との『撃ち合い』を実現したのだ。言わば全ての武器を使用解放した、万全状態の吹羽との戦闘を。

 ――その時の霊夢が、とても楽しそうな笑顔をしていたのだ。

 霊夢とも以前から交流のある阿求からして、新たな玩具(おもちゃ)を手に入れた無邪気な子供のような笑顔。今まで見た事のない程の、歓喜の笑顔である。

 霊夢はその高い実力故に“敵”と呼べる者を持たず、弾幕ごっこに仕事以外の意味を見出してはいなかった。魔理沙のように“楽しむ”など思い付きもしなかっただろう。

 しかし、阿求は思う。

 吹羽という才能を目の当たりにして、彼女は計らずも嬉しくなったに違いない。思わず顔が笑ってしまうほど、吹羽との弾幕ごっこが楽しくなったに違いないのだ。

 ――そう確信できる笑顔だったのを、鮮明に覚えている。

 

 ああ、勿体無い。実に勿体無い。

 吹羽と魔理沙の弾幕ごっこを嘱目しながら、心の底からそう思う。

 魔理沙ほど弾幕ごっこが強い存在も多くはいない。魔理沙ほど弾幕ごっこに興味を示す人間もそうはいない。

 だからこそ――勿体無いのだ。

 

 感情を多くは表に出さない霊夢でさえ、楽しくなって笑顔を零すほどの才能と弾幕ごっこをしているというのに、今の魔理沙ではこの一戦を本当の意味では楽しみ切れない。

 今でさえあの時の霊夢と同じ様な歓喜に打ち震えているであろう彼女が、『耐久スペル方式』ではなく『撃ち合い方式』で“本気の”吹羽と戦ったならば、一体どんな表情をするのだろう。一体どんな気持ちになるのだろう。

 

 眼前で続く吹羽と魔理沙の弾幕ごっこを見守りながら、阿求はずっとそんな事を考えていた。

 そしてその根底にある想いとは、なに、底抜けする程に単純極まりない。

 吹羽さんはこんなにすごい子なんですよ――と、強者に類される魔理沙に見てもらいたかったのだ。

 まるで我が子自慢をする母親の様な心境だ。ちょっと恥ずかしくもある。でも、それをちゃんと理解していながらそれでもそう思ってしまうのだから、案外自分は吹羽に魅せられている人間の一人なのかも知れない。

 苦笑して、小さく息を吐く。

 それでもまぁ、いいか――と思った。

 

 “私の友達はすごい人なんだ”と誇らしく思う。それが例え、相手の意思や意見など全く介さない独り善がりな自己解釈だとしても、その何処が悪いというのか。

 決して吹羽を蔑ろにしようなどとは思っていない。ただ阿求は、彼女に自分を過小評価し過ぎる部分があるのを知っていた。

 吹羽が自分自身を下に見る分だけを正当に補正して、自分は彼女に至極真っ当な評価を下しているのだ――そんな阿求の考え方は自己満足に近くもあったが、その根底には確かに、吹羽に対する母性的な優しさが見え隠れしていた。

 

「(だから――魔理沙さん。願わくば、あなたが吹羽さんにとって良い友人でありますように……)」

 

 上空を駆け抜ける巨大な閃光と、その照射源にいる少女を見遣る。

 戦闘の余波に揺れる髪を手で押さえながら、阿求は、僅かに目を細めた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――マズい。

 ――マズいマズいマズいッ!

 視界いっぱいに広がる虹色の星々を視界に捉えながら、吹羽は内心でひたすらに叫んでいた。

 そうでもしていないと――無意識に叫んでいる節も確かにあるが――魔理沙のスペルを前に、足が竦みそうになるから。

 決して魔理沙を侮っていた訳ではない。事実、一枚目のスペルで残機の半分は削られてしまった訳だし、むしろ必死で食らいついているのは吹羽の方だ。驕る道理も余裕もない。

 しかし、それでも吹羽の予想を遥かに超えていたことには変わりないのだ。

 

 吹羽に向けられた二枚目のスペルは、その威力が先程の比ではなかった。

 星弾の大きさもさる事ながら、その量までもが増加してとんでもない物量に達している。比例して弾幕の隙間は更に狭まっているし、極め付けはその中空を駆け抜ける虹色の光――というか、超巨大レーザー。

 魔理沙がスペルを唱えた直後から、吹羽はもうずっと半泣きである。

 

「はぁっ、はぁっ、ちょ、魔理沙さんっ! なんでこんな強いのっ、ボクなんか相手に……唱えたんですかぁっ!?」

「なぁ吹羽、考えてみろよ……自分の本気を相手にぶつければぶつける程、自然と距離も縮まっていく感じがする――それって、いい事だと思わないか?」

「意味分かんないですよぉっ!!」

 

 したり顔で妙な事を語る魔理沙に叫び散らし、余裕がないとばかりに振り向き際で刀を振るう。丁度真後ろに飛来していた弾幕を真っ二つにすると、ほぼ同時にその背後に飛んでいた弾幕も幾つか斬り裂かれた。

 ホッとするのも束の間、一際強い光を視界に捉えたのはその直後である。

 疲労で上手く動かない身体を反射で無理矢理動かして屈んだ刹那、吹羽のすぐ上を虹色の閃光が駆け抜けた。

 

 轟ッ、という、身の震え上がるような裂音が無遠慮に耳に突き刺さる。

 訓練時に見た、霊夢の放つ“大きな光珠”ですら怖かったのに、その何倍もの大きさを誇る超火力レーザーなど正しく戦慄もの。正しくトラウマもの。――というか、今ちょっと掠ったんですけど。

 

「くぅぅ……り、理不尽ですぅ……」

 

 背中に寒気を、目尻に熱いものを感じて、絞り出すようなか細い声が無意識に零れた。

 吹羽だって、魔理沙に悪気も殺意もないのは百も承知である。きっと、その輝くように純粋な闘争心に基いて弾幕を放っているに違いない。自分との弾幕ごっこをあれ程楽しんでくれるのなら、むしろ嬉しいくらいでもあった。

 ――だがしかし、吹羽にも許容限界というものがある訳で。

 

 ただでさえ弾幕ごっこの経験は少なく腕にも大した自信が無いというのに、何故強者たる霧雨 魔理沙の苛烈な攻撃を受けなければならないのか。

 自分でも分かる。きっと泣き出しかけている時点で既に、自分の限界点は突破寸前なのだ。

 ああ、さっきの行動が悔やまれる。堂々と「――望むところです!」とか宣った直後にこんな醜態、恥ずかし過ぎて顔から火が出そうだ。穴があったら絶対飛び込んでる。両腕に(うず)めた顔は自分のものとは思えない程に熱いし、羞恥と後悔にぐるぐるぐるぐると頭の中を掻き回されて考えが全く纏まらない。最悪だ。こんな事なら初めから弾幕勝負なんて――。

 

 そんな、急転直下の悲愴思考を繰り広げている最中である。

 吹羽は不意に、弾幕の流星群がいつの間にか止んでいることに気が付いた。

 弾幕が中途半端に止まった事を少し訝しげに思いながらも恐る恐る振り向くと――僅かに高度を落とした魔理沙が、中空で満足げに笑っていた。

 

「いやいや、予想以上に耐えるもんだからびっくりだぜ。この『ファイナルスパーク』、わたしのスペルの中でも結構強力なヤツなんだけどな」

「ぅぅ……分かってましたよっ。唱える直前、スペルを持ち替えてたの見えましたもんっ!」

「あっはは! バレてたかっ!」

 

 からからと笑う魔理沙をせめてもの抵抗として睨んでみるも、全く効果がない事が彼女の様子から分かる。

 魔理沙は吹羽の抵抗など何処吹く風、上機嫌で懐に手を突っ込むと、一枚のカードを抜き出した。

 そして快活な笑顔で、

 

「初めはこれを使おうと思ってたんだが、お前が期待以上の動きをしてくれるもんだから急遽変更したんだ。

 このスペルじゃ、お前にとって役不足だろうからな」

 

 指に挟まれたカードが光を放つ。魔理沙がそれを明後日の方向へと向けた直後、光は次第に収束して幾本かの細いレーザーとなって放たれた。同時に鞭のしなりのような配列で放たれる星の弾幕は、早さも密度も先に引けを取らず――当然ながら、それが決して薄弱なスペルでない事は見ただけで分かる。

 

 ――ただ、それを見た吹羽の心境は感嘆でも関心でも感動でもなく、ただ小さな“憤慨”だった。

 上空から笑い掛ける魔理沙を、吹羽は未だ涙の浮かぶ瞳でキッと睨み付ける。

 

「ま、魔理沙さんは、ボクを過大評価し過ぎですっ! 幾ら一枚目のスペルにちょっと着いて行けたからって、敷居を上げ過ぎですよっ!」

「あぁん? 何情けない事言ってんだよ、吹羽。わたしはお前の事信じてるぜ!」

「言葉が薄っぺら過ぎますぅっ!」

 

 精一杯の怒声である。

 こんな事言いたくはないが、知り合って精々数時間の間柄の癖してどの口が“わたしは信じてる”と語るのか。

 

 仲良くする事と信じる事は別物である。少なくとも、吹羽にとって魔理沙はまだ信じ切るには早過ぎる相手だった。

 人柄は何となく理解出来ても、彼女の性質――“器”と言い換えてもいい――を把握するには時間が余りにも足りていない。信じ切るに値する要素が欠けているのだ。

 

 今回の事が良い例である。

 信じ合える程お互いの事が分かってはいないから、魔理沙は勝手な想像に影響されて、吹羽を過大評価してしまったのだろう。その結果が、あの『ファイナルスパーク』。

 勿論、本当の勝負ならそこに文句を挟む余地など無いが、これは言わば親善試合の様なもの。譲歩し合うのは当然の事なのだ。

 だと言うのに、魔理沙ときたら――。

 

「薄っぺらくなんか、ないさ」

 

 熱くなった吹羽の頭を、妙な程に落ち着いた声がさっと突き抜けた。

 それは吹羽の言葉に対する弁明でもなく、魔理沙お得意の屁理屈でもなく、ただ相手に何事かを悟らせようと試みるような穏やかな口調だった。

 当てを外れた声音だったばかりに、彼女の声はおかしな程吹羽の頭の中を反響した。

 

「言ったはずだぜ。わたしはこの戦いで、出来るだけ深くお前の底を見てみたい。それだけの価値がお前にはあると思ってる」

「……だから、それが過大評価なんですって――」

「違うな」

 

 ――ばっさりと、身体を真っ二つにされたようだった。

 

「お前はまだ、本気じゃあないだろ。“必死”ではあるんだろうが……まだ“本気”じゃない」

「な、何の根拠で――」

「何となく分かるんだよ、そう言うの。何度も戦いを経験するとな。相手がわたしを認めてるのか見下してるのか。楽しんでるのか面倒臭がってるのか。――全力なのか、手抜きなのか」

 

 玄人の勘、と言うべきなのだろうか。

 魔理沙の言葉は、『何となく分かる』という信憑性に著しく欠けるものでありながら、何処か自信と説得力に満ちていた。

 言い分は、共感出来る。

 吹羽は弾幕ごっこに関しては素人に毛が生えた程度の経験しか積んでいない。だから、魔理沙の感性に理解は得られなかった。しかし、その感覚(・・)には、確かに覚えがあるのだ。

 

 自分が、この手で鋼を打ち付ける瞬間。その高い音色と、散る火花。燃え盛る炎の色に、肌を撫ぜる風の流れ。それらを感じる五感と何処か直接的に繋がった己の思考――。

 吹羽が普段鍛治に勤しむ中で呼吸をするようにこなす工程のそれぞれで、理屈では説明出来ない、所謂第六感的(・・・・)な感覚が確かに発現しているのだ。

 だから、分かる。

 その領域に至る者にとって“理屈がある”事は、あくまで物事を見極める上での十分条件でしかないのだ。

 尚の事、吹羽には彼女の言葉を受けたが上で、押し黙ることしか出来なかった。

 

「本気も出してないお前を見て、過大評価も何もあるかよ。そんな状態の評価なんかに意味はねぇんだ。最終的に評価が過ぎてたかどうかはわたしが見極める事だし、そもそもそう言うのは終わった後に考えるもんだろ。まだ弾幕ごっこは終わっちゃいないんだ。――だから、信じてるぜ。お前の本気が、わたしに着いてくる事に、な」

「魔理沙さん……」

 

 結局は屁理屈なのだろう、と思う。

 多少の筋だけ通して、後は相手の言い分を否定する。もしくは言葉の隙間を縫って主張を通す。魔理沙お得意の屁理屈である。彼女との会話に辟易した霊夢の表情が、目に浮かぶようだ。

 しかし(・・・)――そう、しかし(・・・)だ。

 そんな無茶苦茶な理論であっても、彼女が向けてくる期待に混じり気がない事だけは、嫌という程に伝わる。

 親が我が子に向ける愛情のような、暖かい期待。自らの子の将来を夢見るような、大きな期待。

 透き通ったその感情だけは、水が染み入るように吹羽の心に届いていた。

 

 成る程、確かに薄っぺらくなんかなかった。魔理沙の言葉は本心で、真実で、玄人の勘に基づいた正当な(・・・)期待なのだ。

 ふと思い出す。そう言えば、腹の内を曝け出すために戦ってるんだっけ。

 お互いに曝け出して、その先で理解を得るために戦う。

 友達になる為に――戦っているんだった。

 

「(……そっか。そりゃあ、失礼ですよね)」

 

 こんなにも期待してくれているのに。こんなにも友達になろうとしてくれているのに。

 自分は特に苦労もせず弾幕ごっこを終わらせて、それなりに仲良くなれればそれでいい、などと考えていた。

 ――なんて、愚かな。

 相手の気持ちも考えず、適当に話を合わせて終わらせようなど、人間として恥ずかしくないのか。よくそんな面で彼女の前に立てたものだ。全く腹立たしい。

 

 本気で向かってきてくれるのだから、本気で相手をしなければならない。それが魔理沙に対する礼儀であり、彼女の要求であり――友達になる為に、必要な事だ。

 

「……“親しき仲にも礼儀あり”という諺があります。……ごめんなさい、魔理沙さん。ボク、とっても失礼な事しちゃってました」

 

 言いながら、立ち上がる。目尻に残った熱い露をぐしぐしと擦って払い、緩んでいた指にグッと力を込めて刀を握り直す。

 振り切るように刀を払えば――地面に鋭い斬跡が走った。

 

「必死だったのは確かです。怖かったのも確かです。……大事な戦いじゃあないと思って、躊躇ってた(・・・・・)のも確かです。だけど――今度は、“本気”でいきます」

 

 翡翠の瞳に、光が宿った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 よく、“人が変わったように”という表現を目にするが、実際にその光景(・・)を目撃する者は決して多くはないと思われる。『仮に目撃したとして』、なんて例を挙げるのも困難な程だろう。

 

 何せこの御時世、いくら幻想郷と言えど人出は何時だって足りていないし、雇用など有り余っている。

 飢え困り果てて”人が変わったように”金の亡者と化す者など居なければ、逆に富み過ぎて“人が変わったように”有頂天に陥る(・・)者もまた居ない。勿論金銭問題だけに留まる話ではないが、頭からどうにかこうにか捻り出す簡単な例としては十分に役立つことだろう。人が変わってしまう程に追い詰められる状況、というのが生み出されない点に関しては、幻想郷は実にバランスのとれた世界と言える。人間にとっても、妖怪にとっても。

 

 兎にも角にも、それはモノによっては相手への認識そのものが崩壊しかねない危うい現象である訳だが――偶然にもそれに似通った光景を目にした魔理沙は、むしろ歓喜を感じていた。

 

「……へへっ、その言葉を待ってたんだぜ、わたしは!」

 

 雰囲気が変わった――いや、確かに良い意味で“人が変わった”ように感じる。

 眼下で刀を構えた吹羽の姿は先程とは打って変わり、その美しい瞳が鋭い光を放っていた。

 つい数分前まで半泣きで逃げ回っていた弱腰の少女とは思えない豹変ぶりである。

 この変化は、相対さなければ決して分かり得ないだろう。それ程までの異様な雰囲気が、今の吹羽には纏わり付いているのだ。

 まるで何もかもを見透かされているような、背筋の薄ら寒くなる感覚。ぞわぞわっ、と駆け上がるような気味の悪い感覚だ。

 

 しかし、屈しない。彼女の変化は魔理沙自身が望んだ事であり、先程諭した結果そのものである。不満などあろうはずもない。況してや恐怖なんて。

 頰を走った汗を拭い去り、魔理沙は再度スペルカードを構えた。

 

「なら、ちゃっちゃと続きを始めようか――!」

 

 返事は聞かない。そんな暇など与えるつもりは無い。魔理沙は言葉の端に重ねるようにして、意識して止めていたスペルカード――魔砲『ファイナルスパーク』――を再び解き放った。

 両手で構えたミニ八卦炉から、魔理沙の身長を裕に超える虹色の閃光が噴き出す。その周囲を補うようにして遅れて放たれるのは、同じ色をした大粒の星の弾幕だ。

 これを遠慮無しにやったから吹羽を泣かせちまったんだよな……なんて、ふと心の端がちくりと痛んだが、取り敢えず今は気にしない。あとで様子を見て謝っとくとしよう。それに――今の吹羽ならば、泣きべそどころかむしろ積極的に挑んでくるだろう。その証拠に、彼女は主砲をひらりあっさりと躱してしまった。

 

「やるな、吹羽!」

「本気ですのでっ」

 

 主砲を難なく避けようが、それを補うために放っているのが星の弾幕である。魔理沙の周囲を守るように漂っていた星々は、突然表情を変えて吹羽に襲い掛かった。

 幾波にも及ぶ流星群の波。吹羽はそれに遅れず怯まず、確実に弾丸を斬って落としていく。それは前半の攻防を嘲笑うかの如く安定化された、余裕の動きだった。

 

 やっぱり、さっき迄とは全然違う――。

 彼女の何が変わって此処まで強くなったかは分からない。目で見て分かるのは所詮外見までで、魔理沙には心の内を見透かせるほど観察眼が鋭いつもりもなければ、戦闘の最中にそれが出来るほど余裕のつもりもない。強いて予想するならば“気構えの差”とも考えられるが、果たしてそれくらいの事でこれ程動きが変わるだろうか?

 

「(全く、面白い奴だなっ!)」

 

 星々による追撃の間に主砲の準備が整った。未だ弾丸は撃ち終わっていないが、撃つ順序に拘るつもりもない。

 魔理沙は次々放たれる弾丸を視界に収めながら、金色の瞳を鋭く細めた。

 

 弾丸が飛ぶ。配列に従ったそれは美しい軌道を描いて吹羽へと飛来するも、一太刀の下に斬り捨てられていく。彼女の白い柔肌に到達するモノは中々現れない。

 飛び、斬り払い、返す刃で舞うように斬り捨て、迫る弾丸に身を翻す。回転のままに刀を振り抜いて恐ろしく正確に星を斬り裂くと、眼前に飛来した弾丸を傾首して避ける。追撃を断ち斬るべく横薙ぎに刀を振るった――そこに、魔理沙は完全な死角を見た。

 

「そこだ――ッ!」

 

 掌に込められた魔力が、ミニ八卦炉を通して急激に膨張する。一瞬ではち切れんばかりに拡大、凝縮されたそれは次の瞬間、眩い虹色の光そのものとなって空を駆け抜けた。

 光と熱の暴風と化した魔理沙の魔力は、躊躇遠慮迷いの欠片も見せず空を引き裂き、凄まじい音を掻き鳴らして空間を支配する。

 それは最早、弾幕勝負に用いる控えめな威力のスペルカードとは思えない火力であった。

 

 完全な死角を、銃弾の如き速度で直径十尺にも及ぶ閃光が容赦無く焼き払う。溢れ出る光に彼女自身も目を眩ませながら、魔理沙は大きな手応えを感じてグッと拳を握り締めた。

 スペルはまだ数十秒と発動時間が残っている。しかし気絶させてしまえばそんなものは関係無い上、先程の主砲には威力、速度、タイミングと、勝利を捥ぎ取るだけの要素が詰まっていた。直撃は必至。そして喰らえば気絶も必至の一撃必殺。

 ――確実に、勝った(とった)

 魔理沙は確信して、頰を無意識に釣り上げた。

 

 ――これこそが、常に明るい彼女の日陰所――“短所”とも言えよう。

 短気で大雑把で、相手を見下す事こそ万一にもあり得ないが、各種実験の失敗よろしく至極簡単に油断する。

 吹羽が閃光に呑み込まれた姿も気絶した様子も見ていないのに、主観一つで勝利を妄信(・・)してしまうのも、彼女の典型的と言える悪い癖の現れだった。

 

 徐々に凋んでいく残光を眺めながら、魔理沙は勝利の笑みを浮かべる。そしてスペルカードを解除するべく、徐ろに指打ちを構えた。

 ――その時だった。

 

 ゆらり。

 視界の端で何かが踊る。

 柔らかそうだが鳥というわけでもなく、陽光の反射を感じるが舞い散る照葉樹の葉というわけでもない。

 魔理沙が“肝を潰す”感覚と共に垣間見たのは――場違いながらも見惚れそうになる程の、絹糸の如き純白の髪。

 

 ただひたすら、己の浅慮を呪わずにはいられなかった。

 

「――まだ終わってなんかないですよ、魔理沙さんっ!」

「おまっ、マジかよ! アレを避けたってのかぁッ!?」

 

 思わず喚きながら、慌てて弾幕を放ち直す。突然の発射で形がいまいち不安定に収まった弾幕は、当然ながら一太刀の下に消えていく。

 気絶どころか、吹羽はまだまだ活力に満ちていた。

 

「冗談だろ、あの速度で死角を突いたんだぞ……!? 本当にあれを避けたってんなら、そりゃ覚妖怪の所業だぜ!?」

「避けれてませんよっ。手に当たりました!」

「わたしにとっちゃ大して変わんねぇよ!」

 

 “手には当たった”? 違う、魔理沙にとっての論点はそこではない。

 今までも避けてはいたが、これまでとは明らかに回避のレベルが違ったのだ。

 完全な死角であり、それこそ心を読んででもいない限り回避不可能直撃必至の一撃を、あろうことか吹羽は避けてみせた。

 それは魔理沙に言わせれば、“離れ技”どころの話ではないのである。

 “手だけにしか当てられなかった”。

 彼女の何よりの驚愕は、その一点のみ。

 

 彼女に対して背を向けていたところから、更に言えば斬撃後の不安定な体勢のところから、果たして如何(いか)にして銃弾相当の速度を誇る超規模レーザーを避けるというのか、魔理沙には皆目見当もつかない。

 そしてそれを成し遂げた吹羽の反応速度は、客観的に見ても明らかに人間の領域を越えていた。それこそ、読心や未来予知でもしているのではないかと疑わざるを得ない程に。

 ――戦慄する他、無い。これは最早才能云々で片付くモノなのか?

 頬を伝った汗が、嫌に冷たく感じた。

 

 星の弾幕と光の主砲。微塵も動きが衰えぬ程に僅かな体捌きで避け続ける吹羽に、魔理沙は振り絞るように弾丸を放ち続ける。

 ――しかし、相も変わらず有効打には一歩足りない。弾丸も主砲も、幾ら狙いを澄ませて放とうとも、あと数寸の所で躱されるのだ。

 

「くっ……!」

 

 やがて、再度主砲のチャージが完了する。そして星の間隙で狙いを定めて放てば、いとも容易く避けられる。

 ――それをもう何度繰り返しただろうか。

 気が付けば、スペルの制限時間はあと十数秒の所まで来ていた。このままあと一発当てられなければ、魔理沙の敗北である。

 

「(いや――勝ちてぇッ!!)」

 

 手の内のミニ八卦炉が、魔理沙の手を焦げ付かせようと凄まじい熱を放っている。掌の肉が焼け付くようだ。それはまるで、早く勝って休ませろと、訴え掛けられているよう。

 言われるまでもない。

 魔理沙は小さな仕返しのつもりで、掌の“相棒”を強く握り締めた。

 

 あと十数秒。最後のコンマ以下まで使っても、勝てるかどうかは分からない。今の吹羽はそれだけ強くて、それだけ魔理沙を追い詰めているのだ。

 ――上等じゃないか。元々こちらから持ちかけた話、ここで全てを出し切らずに何とする。

 全力で応え合ってこそ、“腹の内を曝け出す”と言うのだ。己が内に燻る何もかも、取り敢えずは全てかなぐり捨てて吐き出してしまえ。そしてそれを、目の前で舞踏する小さな強者に叩き付けろ――。

 

 当然、それで“全てを”分かり合えるなどとは思っていない。だがそうして得た理解は、一般に成立する“友情”と呼ばれるものよりも強固と成るモノ。それは、事実だ。

 そして魔理沙が吹羽に求めるものもまた、それに限りなく近しいものなのだ。

 

「さぁ――ラストスパートだぜッ!」

 

 ミニ八卦炉を構える。周囲を揺蕩う星々は、最後の力を振り絞るように強く輝き、高速――否、絶速の嵐となって吹き荒ぶ。吹羽はそれを、やはり、事も無げに避けた。

 その光景でさえ並一般の人間では体現し得ない事は分かっていながら、最早魔理沙に驚きはない。

 まぁそうだよな、今更これくらいの弾幕を避けられない訳がない。

 ただそれだけで流すに足る。

 

 あと十秒――。

 星々に紛れて放つ主砲が、烈風を纏いて空を裂く。飛んでいた星の弾幕を錐揉み状に巻き込んで飛ぶも、吹羽は主砲を避けた上で追撃する星をも斬り裂いた。

 汗の滲む額を拭いもせず、その視線は真っ直ぐに魔理沙へと。

 

 あと六秒――。

 錐揉み回転する星を処理されてすぐ、ぞりっ、と削られたような音が耳を撫でた。意識だけは前方に向けながら横目でちらと見遣れば、揺蕩う星の防壁が何故か一部分だけ消えていた。

 ――いいや違う。消されたのだ。

 見てもいなければ根拠も無い。しかし、漠然と確信がある。

 錐揉み回転する弾幕を斬り裂いたのと同時、彼女の不思議な“風紋小太刀”が防壁の一部を斬り払ったのだ。原理など触りすら分かりはしないが、今までの斬撃を見る限り、そうとしか思えない。

 そして、そんな事をする理由など一つだけだ。――次波に隙間を作り、より避けやすくする為。

 

 あと四秒――。

 おいおい、そんな対処の仕方するやつ初めてだぜ!?

 悪態付くも、その機転には素直に賞賛を送る。神掛かった回避を続ける中で、更に次弾の対象すら計ってみせるその思考速度。そして実際にやってのける剣の技量。

 全く――恐ろしい限りだ。

 

 あと二秒――。

 穴を開けられた防壁は、その隙間をそのままに外へと飛び出す。当然吹羽は斬り開いた隙間に身体を滑り込ませようとするが、そんな事が予測出来ない魔理沙ではない。

 出来上がった隙間へ――そこへと滑り込む吹羽目掛けて、今試合最後にして最高速の主砲を打ち出した。

 輝く魔力は圧縮され過ぎて、最早その虹色が強烈な白光そのものと化している。

 文字通り“光速”で駆けた最高の主砲。だがしかし――光の速度でさえ、吹羽を捉える事は叶わなかった。

 

 あと一秒――。

 ただ、吹羽の常軌を逸した実力の片鱗を見てきた魔理沙にとっては、それすら予想の範囲内。万一避けられても、その避けた先は弾幕の積乱雲の中である。

 正真正銘のコンマ一秒以下だが、当てられる可能性は無きにしも非ず。

 故意に放てる主砲を避けられた今、魔理沙に出来るのはプログラミングされた弾道――ただし無意識に込めた魔力によって威力速度は格段に上昇中――が吹羽を撃ち抜く事を信じるのみだった。

 

 走馬灯のように速度を失う世界の中で、魔理沙の意識は全てが吹羽へと注がれる。

 主砲をなんとか避けられた。掠ってもいない。横っ跳びに避けた所為で体勢はあまりにも悪く、そこに紫電の如き流星が迫る。

 行け、そこだ。そこを逃せば終わりだ。わたしの負けだ。それは嫌だ。勝ちたい。こいつに勝ちたい。

 だから、だから、頼むよ――。

 

 そして、魔理沙が目にしたのは。

 一閃の構えを取る事に何とか成功した、吹羽の姿だった。

 

 彼女の小太刀が、不思議な斬撃を纏って振り抜かれようとしている。これまでの例に漏れず恐ろしい正確さを誇る一閃は、間違いなく弾丸を両断し、スペルカードを破るだろう。

 ダメ、だったか――。

 思った、その瞬間。

 

 

 

 吹羽の膝が、弾かれたようにかくんと折れた。

 

 

 

 疲労によるミスか、足を捻ってでもしたか、刀を振り抜こうとする吹羽の姿勢は、

不自然なくらい(・・・・・・・)唐突に崩壊した。

 切っ先の傾いた刀は当然ながら一閃の狙いを明後日の方向へと彷徨わせ、吹羽は回避する機会を完全、且つ率爾と喪失。

 声を上げる間もない。

 お互いに“あっ”、とも“えっ?” とも声を吐き出さぬ内に、

 

 

 

 ――星の弾丸が額を撃ち抜く快音だけが、呆れるくらいに遠く響いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――何が起こった?

 予想外の出来事を目にした阿求は、ただただ茫然としていた。……いや、ここは敢えて“呆然”と表記するのが正しいのかも知れない。

 吹羽と魔理沙の弾幕ごっこが遂に、しかし予想外の形で決着したのだ。

 成る程、あれだけ苛烈で華麗な弾幕ごっこの決着である、観戦者たる阿求が感極まって“茫然”となるのも仕方がないだろう。

 でも、そうではなくて。

 “呆然”としてしまった理由はそんな事じゃなくて。

 

 スペルカードが解除されると、阿求は“はっ”として、額を(さす)りながら地面にへたり込んでいる吹羽に駆け寄った。

 本当はここで魔理沙に対する健闘を労って、賞賛の一つや二つおまけにぎゅーっと抱擁までくれてやりたい所なのだが――生憎、今の阿求は掛けるべき言葉を選ぶのに手一杯である。

 結局、咄嗟に出て来たのは、当たり障りのない“微妙な”言葉だった。

 

「お、お疲れ様です、吹羽さん……」

「あ、あははー……負けちゃいましたぁ、阿求さん……」

 

 何処か“やれやれ”といった雰囲気の弱々しい笑顔に、阿求はただただ苦笑いを返す事しかできなかった。いや、本当は気の利いた言葉とか、励ましの言葉とかを掛けてあげたいのだけど、中々いい言葉が見つからない。

 日々様々な文章表現を用いて書を綴っている彼女でさえ、先程の惨状(・・)について何を言うべきなのか、現状を持て余しているのだ。

 まぁ、吹羽の不注意というか粗忽というか、“詰めが甘い”と片付けてしまえばそれまでなのだけど。

 兎にも角にも、戦闘の内容に不相応な決着だった事は確かだ。

 

「ああの吹羽さんっ! さっきのは、そのぅ……あんまり気には――」

「いやーやっちまったなぁ吹羽! 見事に膝折ってスパーンってさ! わたしもビックリしたぜ!」

「ってちょ、魔理沙さん!?」

 

 わざわざ言うまいとしていた阿求の小さな努力は、爽やかに笑う魔理沙の一言によって砂塵に消えた。

 いや確かに、アレは吹羽が悪いとは思うけれど、それを躊躇いもせず本人の目の前で言うのは人として如何なのか。まさかこの魔法使い、“人の不幸は蜜の味”とでも宣る気ではなかろうな。

 迂闊としか言いようのない言葉を放った魔理沙をジトッと一睨みしてから、阿求は目線が合うように吹羽の隣にしゃがみこみ、そっと背に手を当てた。

 

「ふ、吹羽さん、気にする事はないですよ! 失敗なんて誰だってするんですから! 魔理沙さんはちょっとアレがアレなだけですから!」

「……おろ? 具体的な事何も言われてないのに貶されてる気がするな……?」

 

 小首を傾げる魔理沙を無視し、苦笑にならないよう気を付けながら笑い掛ける。結局いい言葉は思い浮かばなかったが、これが阿求なりに精一杯の励ましの気持ちだった。

 徐にこちらを向いた吹羽は、事も無げに笑っていた。

 

「いやぁ、気になんてしてませんよ? 確かにその……恥ずかしい、ですけど、でも! いい勝負ができて良かったと思いますっ。その分すごーく疲れちゃいましたけど結果オーライですよ! ねっ、魔理沙さんっ!」

「うん? ……ああ、そうだな。わたしも久しぶりに熱い弾幕ごっこが出来て楽しかったぜ! 今回はわたしの勝ちだが、挑戦ならいつでも受けて立つからな!」

「はい、考えておきますね!」

「……本当に大丈夫ですか? 魔理沙さんの愚痴なら後で幾らでも聞いてあげますよ?」

「……おい阿求、お前わたしに恨みでもあんのか? 今のは明らかに貶してるよな?」

 

 知りませんっ、とばかりにそっぽを向くと、魔理沙はそれ以上は何も言わなかった。

 面倒臭く感じたか、イラっとして返答するのが嫌になったか――恐らくは前者だろう――は分からないが、阿求にとってはむしろ好都合。不用意に吹羽を傷付けそうになった仕返しだ、ざまぁみろ。

 勿論、それ以上これ(・・)を引き摺るつもりはないのだけれど。

 

「ともあれ、お疲れさん。これがわたしとお前の第一歩って訳だ。膝大丈夫か? 立てるか?」

「あ、大丈夫です、立てますよ。そもそもアレは別に――」

 

 そう、言い掛けて。

 

 

 

「こぉらあんた達っ!! こんなとこで何やってんのよっ!!」

 

 

 

 ――割り込む様に響いたのは、鐘を打ち鳴らしたような少女の怒号。

 声の聞こえた方へと振り向けば、そこには案の定、少しだけしかめ面した紅白の巫女が立っていた。

 

「お、霊夢じゃんか。どうした?」

「如何したもこうしたもないわよ! こんな所でドンパチやってりゃ嫌でも気が付くし、里の人達が“妖怪が暴れてるんじゃないか”って怖がってるわ! 特に魔理沙! あんたもうちょっと自重しなさい!」

「うぉい、またわたしかよ! 何なんだ今日は! ――って、こればっかりはしゃーないか。撃ってたのわたしだもんな」

「そうよ! あんたの弾幕、雲を撃ち抜いてるのまであったわよ!?」

「ご、ごめんなさい霊夢さん。里の人達にはボクが言っておきますから、あんまりその……魔理沙さんを責めないであげて下さい」

「あー?  ……それ、あんたが言うセリフじゃあないと思うんだけど」

 

 他人に甘いというか何というか、お人好しな吹羽の言葉に片眉を釣り上げた霊夢は、腕組みしながら小さな溜め息を吐いた。それが何となく「仕方ないわね」とでも言っているように見えたのは、きっと見間違いではあるまい。

 

 毒牙を抜かれる、とでも言うのだろうか。吹羽と一緒にいると、自然と何処か心持ちが穏やかになる嫌いが、阿求にはあった。

 そして、きっと霊夢もそうなのだろう、と思う。

 彼女の態度は、吹羽とその他の者達とでは大分違う。それはもう普段の彼女からでは想像出来ないくらいに“ふんわり”としているものだから、偶にその理由について本気で考え込んでしまう事があるくらいだ。

 ――だがその孰れも、“もし霊夢が自分と同じように吹羽に魅せられた者の一人ならば”と考えてみれば、何処となく納得は出来るのだった。

 きっと吹羽にも、人を惹きつける何かがある。それが何かは分からないし、正直なところどうでもいい。

 阿求はただ――家族と記憶を失ってしまった可哀想な吹羽が、自分達の前で笑ってくれる事が、嬉しかった。

 

 自分と、霊夢と、そして魔理沙。

 “友達”である自分達が、吹羽の寂しさを和らげてあげられるのなら、それは実に本望だし――とても素敵な事だと、思う。

 

「――ま、いいわ。取り敢えず、妖怪共が寄って来る前に早く戻るわよ。相手にするのめんどくさいし」

「そうだな。……あー、おい阿求! そいつの荷物は持ってやるから、ちゃんと連れて来いよー」

「あ、はい! 分かりました!」

 

 “どーだ霊夢! 吹羽とやってわたしが勝ったぜ!?” “あーはいはい。『撃ち合い』で勝ってから自慢しなさいねー”

 いつもの軽口を交わし合う二人が、一足先に帰路を辿る。

 相変わらずな二人の様子に思わず顔が綻ぶも、遅れてはいけないと、阿求は早速傍の吹羽に微笑みかけた。

 

「さ、吹羽さん。帰りましょう?」

「――……」

「……吹羽さん?」

 

 阿求の労うような優しい声音はしかし、吹羽には少しだって聞こえていないようだった。彼女は座り込んだままで、ジッと暗い森の中を見つめているのだ。

 

 不思議に思い、釣られるように阿求も見てみるが、昼間とはいえ森は暗くて視界が悪く、彼女が何を見ているのかまでは分からない。

 ――森の中に満ちる暗闇を何処か恐ろしげに感じたのは、流石に人間の(さが)と言えよう。

 まだ正午過ぎの真昼間だが、何処の暗闇も洞窟も、陰る場所は余さず魔の領域である。動物が火を恐れるように、人間は妖怪を恐れるのだ。

 だから、催促が少しだけ強くなってしまったのも、仕方なかったのだと自己弁明しよう。

 

「――吹羽さんっ!」

「……へ? あ、はいっ、そうですね! 帰りましょうか!」

 

 “はっ”としたように顔を上げ、立ち上がろうとしてふらりフラつく。慌てて吹羽を支えると、彼女の顔に浮かんでいたのは溜め息交じりの苦笑だった。

 

「あはは……ちょっと、疲れちゃったみたいです……」

「大丈夫ですか?」

「……はい、もう大丈夫ですっ」

 

 今度はしっかりと立ち上がり、スカートの埃を軽く払って、何事も無かったかのように帰路へと足を踏み出す。

 その後ろ姿には未だちょっとだけ心配もあったが、ともかく、阿求は遅れないように吹羽の後を小走りで付いて行った。

 

 ――ふと、立ち止まって振り向く。

 何か今、かさりと音がしたような。

 

「(……いえ、気の所為……ですね)」

 

 頭を振って、考えを打ち切る。

 こんな昼間から、そんな恐怖小説のような展開があってたまるかという話。素人の自叙伝より出来が悪いじゃないか。それに実際、後ろにだって何処にだって、誰一人の影もないのだ。

 

 一つだけ、息を吐く。

 それがほっとしたから出たものなのか、はたまた何処か呆れてしまったから出たものなのか。

 正直なところでは、阿求自身にも分からなかった。

 

「阿求さーん! 置いてっちゃいますよーっ!」

「うぁあっ、待ってくださいよー!」

 

 我に返って振り向けば、吹羽が身振り手振りで“おいでおいで”をしていた。その子供っぽい仕草に苦笑を漏らしつつ、阿求は無意識に数秒前までの思考を何処か彼方へと放り投げた。

 ああ、吹羽が“おいで”と叫んでいる。ならば私に、それを拒む理由などない。早く行ってあげねば。

 そうして、声に応えながら吹羽の下へと駆けて行く。

 

 後を引くようにひらひらと舞う“羽根”には、結局最後まで気が付きもしないまま――。

 

 

 

 




・そよ風【そよ-かぜ】
 穏やかに吹く風。微風とも呼ばれる。

 今話のことわざ
(した)しき(なか)にも礼儀(れいぎ)あり」
 親密過ぎて節度を超えると不和の元になるから、親しい間柄でも礼節を重んじるべきだということ。


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伊吹の章
第九話 風の番い


 大っ変お待たせいたしました。やっと書き切ったので投稿開始です。
 文量としては、一話分で一章の二倍ほど、合計文字数では一章の三〜四倍ありますので、時間のある時にゆっくりお読みいただけたらと思います(一話目から18000文字あるという……)。

 そ、それと、今更ですがあけましておめでとう御座いますっ!

 では“伊吹の章”、開始です!


 

 

 

 別に、怖いものが無いなんて言うつもりはない。

 

 妖怪は勿論幽霊だって怖いし、何なら怒った時のお父さんだって、吹羽にとっては数日目を合わせられなくなるほど怖かった。

 流石に“犬が怖い”だとか、“夜が怖い”だとか、そんな子供染みた(・・・・・)理由でからかわれるのは嫌だけれど、それでも怖いものがある事自体を恥ずかしいと思ったことはない。そもそも、未だ幼い子供である吹羽が本当の意味で“怖いもの知らず”だったなら、それはそれで変な話だ。

 怖いものが無いのなら出かける際に武装などしないし、魔理沙の「ファイナルスパーク」に涙することもなかっただろう。

 だから吹羽には、怖いものなんて無い、と宣うつもりこれっぽっちもなかった。

 

 ――だって、いけない事じゃないだろう?

 怖いと思って危険を避けるのは、立派な人間の知恵の一つだ。

 大昔から様々な脅威に晒され、それでも生き抜いてきた先人達が紡ぎ鍛え上げたきた、世を生き抜く為の危険信号。

 それを目敏く耳聡く、臆病なまでに拾い集めて何が悪い? 生き足掻く為の臆病さ(慎重さ)、そこから導き出される知恵こそが、脆弱な身体を持って生まれた人間の“牙”というものだろう。

 怖いものがあったって、良いじゃないか。人間だもの。

 

 だから――だから、さ。

 隣を歩む彼女(・・)が、修羅の如き迫力を撒き散らしながら滅茶苦茶に怒り狂っていたら、怖くても……仕方ないよね? 例えそれが、大好きな友達だとしてもさ。

 本当は真摯に話を聞いてあげるべきだし、怒りに震える友達を怖がるなんて以ての外なんだろうけど……コレは、どうしようもないよね?

 心の内で、吹羽は静かに自問する。そうでもしていないと、なんだか罪悪感(・・・)で、胸が苦しくなりそうだった。

 

 隣で歩みながらメラメラと怒り狂う彼女の話。ちゃんと聞いてあげたいし、力にもなってあげたい。だって友達なんだから。

 でも――これは流石に、ちょっとヤバい。

 真冬の風のように冷たく、チリチリと肌を刺激するような。はたまた細い針でチクチクと指先を刺されているような。

 隣を歩いているだけでじくじくと感じる“怒り”の感情が、有無を言わせぬ恐怖の渦で吹羽を揉みくちゃにしていた。

 呪詛の如くドロドロと言葉を紡ぐ彼女の隣で、若干怯えながら生返事を繰り返す。否、それより他に出来ることがなかった。下手な事を言えば、その矛先がこっちにも向いてしまいそうで。

 

 聞き流すこともできたろう。あまりに聞くのが辛いのならば、話を中断したり、適当な相槌で言葉を流したりというのも手の一つ。幾らしっかりと話を聞きたいと思っても、結局こちらが耐えられないのであれば本末転倒だ。

 だが――吹羽にはそれが出来なかった。それすらしてはいけないと思ってしまう程、彼女の怒りは凄まじかったのだ。

 触らぬ神に祟りなし。この場合の“神”とは勿論、

 

「絶対に、ぶち壊してやる……ッ!」

 

 ――怒りに狂う、博麗の巫女である。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 事の発端は、そう――吹羽にとっては何の変哲もない、良く晴れた“仕事日和”の正午過ぎ。

 耳を劈くような、破裂音から始まった。

 

「――んぐっ!? ッけほ、けほっ! ……な、何事ですかっ!?」

 

 午前の仕事も無事終わり、昼休憩として簡単な手料理を昼ごはんに頬張っていた吹羽は当然、びっくり仰天。

 突然の事態に思わず噎せてしまったのはお約束と言うべきか。

 何が起きたのか確かめようと吹羽が立ち上がるその前に、音の奏者は吹羽の前に姿を現した。

 ――扉を開け放つ、爆裂音にも似た音を響かせて。

 

「……れ、霊夢さん……?」

「吹羽……」

 

 扉を隔てて立っていたのは、吹羽のよく知る博麗 霊夢――ではなかった。

 吹羽の前では割合感情が表に出やすい霊夢だが、今の彼女は完全な無表情を顔に貼り付けていた。白く健康的だった肌は、今はむしろ氷のように冷たそうな印象を見る者に与え、その中に浮かぶ黒曜の瞳は、光の代わりにドス黒い熱を滾らせていた。

 あれ、どちら様ですか? メンタルケアなら永遠亭に行ったらよろしいかと。

 現実逃避にも似たそんな茶々は、しかし言葉にする事は出来ない。言ったら最後、何をされるのか全く以って想像出来なかった。

 ……正直に言おう。

 怖過ぎて声も出せない。

 でも、何か言わないと話が進まないので、

 

「あ、あの……どうしたんです、か……?」

「吹羽……頼みが、あんのよ……」

「……ふぇ?」

 

 (つか)えないように、喉を意識して(・・・・)どうにか言葉を繰り出す。対する霊夢の反応は、単純だった。

 闇色をした濃密な気配と共に、幽鬼のように身体が揺らめく。よたよたとバランス悪く吹羽に近寄ると――ガッと、霊夢は彼女の両肩を思い切り掴んだ。

 

「……デカい、刃物が要る」

「えっ……と……」

「今すぐ、作って」

「や、ですけど――」

「作りなさい」

「で、でも霊夢さ――」

「作らないと怒るわよ」

「ひっ……!?」

 

 普段は吸い込まれそうな程綺麗な黒色をしている瞳が、今は見る影もなく濁っている。彼女に何が起こればこんな惨状になるのかは全く以って想像出来ない――想像したくもない――が、ともかく彼女がかつてないほどに怒り狂っているのは否が応でも理解できた。

 怨嗟の闇に濁った瞳。

 覗き込まれて、身体が動かなくて、背筋から底冷えするようで。

 

 ――こんな時には、“釣る”しかない。

 

 今の吹羽には、震える手で弱々しく机の(・・)上を指差す(・・・・・)事くらいしか、出来ることがなかった。

 

「と、取り敢えず……お昼ごはん、食べますか……?」

「………………うん」

 

 ちょっぴりホッとした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――つまり、その東風谷(こちや) 早苗(さなえ)さんという方が霊夢さんに宣戦布告してきた、と?」

「まぁ、簡潔にはそういう事よ。あむっ」

 

 霊夢の怨霊の如き圧力から解放された吹羽は、提案通り彼女にお昼ごはんを振舞っていた。

 どうやら彼女、先に述べた宣戦布告に心底憤慨したらしく、お昼ごはんを作るどころではなかったとの事。

 どうせだったので、食べかけだった自分のごはんも霊夢にあげることにした吹羽である。

 決して、決してさっきの霊夢が怖過ぎて食欲が失せた訳ではない。ないったらない。

 

「うーん、でもそれくらいで怒る霊夢さんじゃないですよね? 霊夢さんが怒るところなんて、ボクほとんど見た事ありませんし」

「――んくっ。……そりゃ確かに、私だって何時もならこんなに怒ったりしないわよ。そんな事でブチ切れるほど器が小さかったら、博麗の巫女なんてやってられないわ。ほら、弾幕ごっこの前にアレやるじゃない?」

「あー、確かにそうですね……」

 

 霊夢の言う“アレ”――それは、弾幕ごっこに於ける一つの暗黙ルール。誰が初めだったか、いつの間にか様式美として確立してしまった“煽り合い”の事――勿論、所詮は“暗黙ルール”なので、やろうがやるまいが本人たちの自由ではある――だ。

 弾幕ごっこを始める直前、お互いがお互いのモチベーションを主に怒りによって上げる為に行う行為で、良くも悪くも弾幕ごっこという決闘に派手さと熱意をもたらす要因の確かな一つとなっている。

 仕事柄、どうしても弾幕ごっこを行う事の多くなる霊夢は、必然的に煽り合いを経験する事も多い。そういう意味では確かに、彼女の言い分は尤もだった。

 事実、吹羽もここまで怒った霊夢を見たことがない。

 

「ボク、あれ苦手なんですよねぇ……。必要な事なのは分かってるんですけど、なんで言いたくもない悪口を言わなきゃならないのか……」

「あんた口喧嘩下手だもんねぇ。偶に、自分で言ってて悪口なのかどうかすら分からなくなる時あるでしょ」

「うぐっ……それはまぁ、なくもなくなくないですけど……」

「あるんじゃない」

「ぅぅ…………」

 

 気不味そうに口籠る吹羽を気にも掛けず、霊夢は黙々と食卓に並んだ料理を掻き込んでいく。複雑に寄った眉根の皺が消えていない辺り、昼食よりも“自棄喰い”の方に意味が寄っているようだ。

 その食べっぷりにか怒りっぷりにか、いまいち判別出来ない溜め息が吹羽の口から小さく漏れる。

 なんだか面倒事に巻き込まれている気がしてきた。断るという選択肢は元より無い――出来ない――ので、これはお店も臨時休業しなければならないかもしれない。

 いつの間にか放り込まれていた状況に“げんなり”しつつ、誠に不本意ながら、取り敢えずは事情聴取続行である。

 誠に、不本意ながら、である。

 

「――それで結局、そんなに怒る理由と言うのは? 宣戦布告なのは分かりましたけど……」

「むぐ……ひょう(そう)! ひょへはほ(それなの)――ッごほ! けほっ、けほっ!」

「ああっ、食べながら話すからですよー。大丈夫ですか? 水飲めます?」

「んく……んく……ぷあ! ――それなのよ吹羽! あの女、言いたい事だけ言ってスタコラと帰りやがってくっそぅっ! ムカつくぅう……!」

「ど、どうどう! 落ち着いてください!」

 

 空になった湯呑みを机に叩きつけると、霊夢の背後には先程の“修羅”が再臨しかけていた。

 慌てて宥めると――不機嫌そうなままではあるが――殺気を納めてくれたが、いやはや、流石の吹羽も嘆息せざるを得ない。

 今日の彼女はなんと扱い辛い事か。いや普段が扱いやすいとは言わないけれど、予想するに今日は一日心労が絶えなさそうである。

 

 ――詰まる所、宣戦布告なんかに霊夢が怒り狂った原因とは、“余りにも上から目線な早苗の態度”にあったという。

 朝の落ち葉掃きも終わり、居間でお茶を飲んでいた所に早苗はやって来た。先述の通り、幻想郷に新しく出来た神社の巫女――正確には風祝(かぜはふり)と言うらしい――として、言わば商売敵である博麗神社に宣戦布告してきたのだが、問題はその内容である。

 

『――どうせ何もしてないのなら、信仰を明け渡すか神社を取り壊すかしなさいっ!』

 

 それを聞いた霊夢は烈火の如く大激怒。妙に得意げ且つ何故か満足げな表情の早苗に対して反射的に大量の弾幕を放つが、意外にも避けるのが上手く、当てることは叶わなかったとのこと。

 

『あんた、勝手な事言ってんじゃないわよッ!? 突然来て何が“取り壊せ”だ!』

『だってその方が良いに決まってます! こんな辺鄙な所でニートみたいに暇を持て余してる巫女さんが管理してる神社よりも、私のようなピチピチの女子高生が毎日甲斐甲斐しく参拝客を迎える我が守矢神社(もりやじんじゃ)の方が、世間的に需要があるに決まってます!

 まさにneatness(清潔)! beautiful(美しい)! modern(現代風)! 略してB・N・Mな神社なのですっ!』

『びゅーてぃ……もだん? なんか分かんないけどコケ降ろされてんのは伝わって来たわ! 上等じゃないのッ!』

 

 その間も言葉の応酬があったそうなのだが、霊夢にはよく理解出来ない単語が大半を占めていた事で苛つきが蓄積。加えて、意味は分からずとも自分を小馬鹿にしているのは確定的に明らかな口調だった為、その怒り具合は遂に有頂天突破。その後も上限知らずに急上昇。

 いよいよ怒りも最高潮という所で早苗が退散を始めた為、結局不完全燃焼の内に軽い戦闘が終了し、ここまで怒りと対抗心ついでに復讐心を引きずってきてしまったそうな。

 

 なんと言うか、言葉が出ない。

 霊夢をここまで振り回す早苗に、少しばかり戦慄する吹羽であった。

 というか、どこか引っかかるこの感じは何なのだろう? 霊夢の理解出来ない言葉を操るらしい事を考えると、早苗が外来人だという可能性は極めて高い。そして新しい神社がどうの、と宣言するという事は――。

 

 思い至った“結論”と、それが明らかになった時に生じるであろう“落胆”を想像して、吹羽はひくひくと苦笑い。

 霊夢は怒りのあまり気が付いていないようなので、吹羽は取り敢えず黙っておくことにした。

 ――何故かって、だって下手に解明して八つ当たりでもされたら、堪ったものではないじゃないか。これから多大な心労を被るであろう直近の未来が見え透いているというのに、それに備えないのは白痴の極みだと吹羽は思う。

 早苗? 残念だが、吹羽には救えない命だ。

 

「で、なんででっかい刃物が要るんです?」

「愚問ね吹羽。あの女(早苗)を刻み殺す為に決まってんじゃないの」

「自分が何言ってるか分かってますっ!?」

 

 ――その後、あれやこれやと事情聴取を続行し、彼女の怒り具合を再確認する度に「ああ、今日はきっと厄日なんだろうなぁ」と頭の隅で嘆いた吹羽であるが、結局霊夢がその守矢神社とやらに特攻する事自体は止められないようなので、いざとなった時のストッパーとして付いて行くことに。

 

 余談だが、“刃物さえ作ってくれればいい”と通る訳のない要求を突き付け続ける霊夢に対して吹羽が“ならば代わりに付いて行く”と宣言し、散々渋った挙句に提示された妥協案というのが、“早苗をシバいたら神社本殿を木片になるまで斬り刻んで解体する事”である。

 この時ほど怒れる霊夢の思考回路に恐怖を抱いた事はない、とは吹羽の後の弁。

 確かに吹羽の風紋武器を用いれば比較的容易にそれを成し遂げる事はできるだろうが、それが人道的に正しいのかと問われれば、首を千切れる事も辞さない勢いで横に振るうしかあるまい。

 だって、早苗を叩きのめした後に家を修復不可能なレベルにまで解体するなんて、ただの鬼畜じゃないか。

 勿論吹羽も、そんな悪逆非道な作戦(復讐)の片棒を担ぎたいとは思わないので、如何にか有耶無耶にするつもりではあるが。

 まぁそれも、吹羽の先程の結論(・・・・・)が外れた場合の話だ。

 

 ともあれ、こうして吹羽は霊夢に同行することになり。

 連鎖的にお店も臨時休業することになり。

 ひいては、自らの怒りの内容を再確認させてしまったことで、再び霊夢が復讐に燃える拍車を掛ける事になり。

 

 仕事日和であったはずの今日が、心労の絶えないであろう厄日に様変わりしてしまったことに、盛大な溜め息を吐いた事を、どうか氏神様、責めないでください。

 そして無事に帰って来られるように、どうか――どうかどうか、見守っていてください。

 

 ……なんて、割と本気で願ったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――と、ここまで思い返し。

 

 無意識にもう一つ、溜め息を吐く。

 それにハッとして慌てて口を噤み、横目で霊夢をちらり見て、胸を撫で下ろした。

 相変わらず怖いくらいに“燃えて”いるが、そのおかげで溜め息は聞かれなかったらしい。

 “協力してくれている”と思われている(はず)手前、溜め息なんか如何にも「めんどくさーい」な心境を気取られるのは非常によろしくない。

 今の霊夢の機嫌を損ねる事は即ち――いや、想像もしたくないからやめようか。

 

 兎にも角にも、吹羽と霊夢は現在、幻想郷の山の代名詞――“妖怪の山”の中腹にいた。

 この時期は秋真っ盛り。桜の名所として有名なのは博麗神社、そして音に聞く白玉楼(はくぎょくろう)と呼ばれるお屋敷だが、紅葉と言えばやはり妖怪の山である。

 時期が時期ならば、山全体が燃え上がる大火のようにすら見える事もある紅葉の名所だ。

 足元には散っていった様々な――しかし暖色で統一された、紅葉の絨毯が広がる。その赤や黄のモザイク柄は、きっと両世界――幻想郷と外の世界――共通認識の秋の風物詩と言えよう。何処からか焼き芋の甘い香りが漂ってきても、おかしいとは何故か思えない。

 

 そんな理由もあり、二人は珍しくも徒歩で守矢神社を目指していた。

 吹羽が空を飛べないから、という理由もある。

 武器の種類上、軽量化を図ったとはいえ、主要の武器はしっかりと金属の塊であり、それなりの重量がある。

 それを吹羽自身が分かっていたから、“抱き上げて空飛べばいいじゃん”という霊夢の提案を敢えて断った結果の現状だった。

 歩けば済む話なのに、わざわざ霊夢を疲れさせる意味はない。

 それに、どうせなら景色を楽しみたかった。普通なら妖怪の山の紅葉を眺めながら登山なんて、出来るはずがない(・・・・・・・・)のだから。

 だから吹羽は単純に、良い機会だな、と思うことにした。

 

「ちっ……それにしても、意外と来ないわね……」

「…………。そう、ですね」

 

 苛立たしげに吐き捨てる霊夢に、吹羽は余計な事は言うまいと曖昧な返事を努めて返した。

 まるで「ストレスの発散も出来やしない」とでも言うかのような重い空気を醸す霊夢。

 この場に魔理沙がいればもう少しマシなのかなぁ、なんて頭の片隅で考えながら、しかし吹羽は、彼女の意見には賛同を示していた。

 

 確かに、来ない(・・・)

 本来なら、山に足を踏み入れた瞬間にでも飛んで来ておかしくない者達が、ここまで一人として出てきていないのだった。

 “普通なら紅葉狩りができない”最たる理由は彼ら(・・)だと言うのに、これではせっかくの“良い機会”が――“意味を失う”という意味で――台無しではないか。

 霊夢とはまた違った意味で、“それ”を少しばかり残念に思う吹羽である。

 

 だが、まぁ。登りやすいという意味では嘗てないほど好都合だ。

 守矢神社とやらは妖怪の山の上に越して来たらしいので、きっとその処理やら扱いやらできっと忙しいのだろう。

 何せ“彼ら”は――規律を何より重んじる、社会に生きる妖怪達だから。

 

「あー、メンドいわね。やっぱり吹羽、飛んでいかない? ちょっと抱えるくらい問題ないからさぁさっさと捻り潰したくてしょうがないのよねあの女」

「ま、まぁまぁ。ちょっと落ち着きましょうよっ。焦ると思わぬ所で足元掬われたり――」

「なに、あんたあたしがあんな女に万一にでも負けるとか思ってんのねぇそうなの?」

「ひっ!? い、いいいえそーいう訳じゃなくて、えっとあのその……」

 

 もうやだこの人怖い。

 

「まぁいいわ。あたしのやる事は変わんない。あんたに刃物作ってもらえなかったのが心底残念だけれど、殴り殺すだけなら大幣でも問題無いわ」

「えぇっと……。そ、そうです、か」

 

 ――と、そんな時だった。

 相変わらずの恐ろしい気迫を滲ませる霊夢が、ピクリと何かに反応するのが見えた。釣られて辺りを見回すも、吹羽には何処に異変があるようにも見えない。

 諦めて、戦々恐々しながらも霊夢に尋ねようとした、その時である。

 

 

 

「そこの二人、止まりなさいっ」

 

 

 

 ――可愛らしい声だった。

 台詞から敵意があるのは分かっていても、その声音を聞いて湧き上がる不快感など絶無。何処か幼くて甲高い声は、吹羽をして一瞬どきりとしてしまう程のものだった。

 声の方へと、惹かれるように向いてみれば――。

 

「……ああ、あんただったか。久しぶりじゃない」

「……霊夢さん、でしたか」

 

 白と赤を基調とした、霊夢とはまた違った形の巫女のような服。頭に乗っけた兜巾からは紐と、それにくっつけられた綿のようなボンボンが揺らめいて。チラリと見えた白くて鋭い犬歯と頭にピョコリと生えた獣耳、そしてゆらりと揺れるふさふさの白い尻尾が、彼女が人間ではない事を明確に表す。

 

 ――天狗。

 それもこの山に棲む天狗達の下っ端、哨戒を担う白狼天狗の少女だった。

 不機嫌そうに眉根を寄せて、小さな口が言葉を紡ぐ。

 

「……お引き取り願います。そも侵入禁止なのを忘れていませんか? 私達は今非常に忙しくて、ただでさえピリピリしているんです。あまりこちらを困らせないで頂きたい」

「そっちの都合なんか知ったこっちゃないわ。あたし達も用があって来てんのよ。大人しく通しなさい、椛」

 

 天狗――(もみじ)と呼ばれた少女は、霊夢の言葉に更に顔を歪めた。

 

「……異変ならば考えますが、生憎今日はそんなもの視て(・・)いません。ならば幾ら博麗の巫女と言えど、決まりは守って然るべきでは?」

 

 それに――と続けると、椛はちらりと吹羽を見遣った。

 本当に忙しいのか、はたまた傲慢な霊夢の言い分にイラついているのか、吹羽を射抜いたその視線にも針のような鋭さがある。

 下っ端と言えど腐っても哨戒。侵入者に最も迅速に対処を試みる役回りとして、その雰囲気はいっそ立派な戦士とも言えた。

 そんな視線を受け、「えっと、その……」と言葉を紡げずにいる吹羽から視線を外すと、椛は溜め息気味に言葉を落とした。

 

「……霊夢さん、私がこうして交渉(・・)しているのは、あなたの立場に最低限の敬意を払っているだけです。あなただから(・・・・・・)、ではないんですよ?」

 

 ――それは暗に、優しさでこうしているのではないのだぞ、と。

 あくまで“博麗の巫女”だから、重役だから、部下が上司を敬うように、お引き取り願っている(・・・・・)だけなのだ、と。

 椛の声に呆れが含まれていたように思えるのは、きっと間違いではあるまい。

 彼女だってお友達ごっこをしている訳ではないのだ。顔見知りだからと言って易々と道を譲る程、彼女は不真面目な天狗ではないし、故に容赦もない。

 非があるのは確かに、霊夢の方だ。

 

「異変ならば何も言いません。あなたも幻想郷の為――ひいては妖怪の山の為に動いているようなものですから。

 ですが、大した大義名分も無しにこの地を侵す事は許されません。況してや何の立場もない人間を連れてくるなど、言語道断」

 

 ――ここを通す訳にはいきません。

 

 言外にそう示し、腰に下げた刀の柄に手を掛ける椛。その刺すような敵意に、吹羽は思わず後ずさった。

 人間の膂力など高が知れている。知能を持たない木っ端妖怪でさえも、見掛けたならば速やかに逃げるのが常識である。

 であれば、吹羽はれっきとした人の子であるからして。

 逃げ出さないのは偏に、一人で逃げるのが申し訳ないからか、それとも霊夢に「やれやれ」と、肩を竦めて溜め息を吐く余裕があるからか。

 

「はぁ……ま、あの女を出来るだけ惨たらしくシバく為にも余力は残しておきたいし、こっち(・・・)のが妥当か……」

「……霊夢さん?」

 

 何事かと問うた吹羽に、しかし霊夢は答えない。代わりに、彼女は少々面倒臭そうな表情で椛を見ていた。

 そうして、口を開けば――。

 

「仕方ないから、あんたの“交渉”とやらにノってあげるわ」

「……というと?」

 

 敵意はむき出しのまま、僅かにより深く眉間の皺を深めた椛に、霊夢は。

 

 

 

「あんたが敵意を向けてるあたし達――その片割れが“風成”だって、分かってる?」

 

 

 

 眼を、大きく見開くのが見えた。

 僅かに横へとズレた視線は間違いなく吹羽を射抜き、明確な熱を持ったそれは、彼女の脚と思考を完全にその場に縫い付けた。

 地に降り立ち、スタスタと遠慮無く近寄ってくる椛にも、吹羽は何の反応を示すこともできない。

 

「………………」

「ぁ、あのぅ……?」

 

 じっと吹羽を見つめ、舐め回すように上から下へと注がれた視線は、遂に一点――彼女の“五振りの刀”の一つに止まる。探るように数秒、それをやはりじっと見つめた椛は、そっと手を伸ばし、

 

「……拝見、させて頂きます」

 

 丁重に帯から引き抜いた刀を、ゆっくりと抜刀。

 ススキのような紋の刻まれた刀身が太陽光を反射し、端正な椛の顔を白く照らす。光を受けたその瞳がその鋭さを一層増したように見えたのは、果たして錯覚だろうか。

 数秒して何か納得したのか、椛は丁寧に刀を納刀すると、何かしらを感じ取るでもするかのように眼を伏せた。

 その口が開いたのは、また数秒後。

 

「……霊力は微弱。人間としてまだあまりにも幼く未熟で、私程度の殺気で怯む程に身体同様精神すらも未発達。はっきり言って、ここにいる事自体が不思議でなりません」

「……ご、ごめんなさ――」

「ですが」

 

 容赦無い批判に少なからず傷付いた吹羽を欠片ほども気にせず、椛は言葉を続けてゆっくり眼を開けた。

 その瞳と口元が、僅かに微笑んだ気がした。

 

「確かに、風成家の方とお見受けします。私はこの山の哨戒を務める白狼天狗、犬走(いぬばしり) (もみじ)といいます。どうぞ、よろしく」

「え、あ……ボ、ボクは風成 吹羽っていいます! えっと、その……よ、よろしく、お願いします……?」

「はいっ」

 

 何がなんだか分からぬまま、吹羽は差し出された手を恐る恐る握り返した。

 だって、椛のこの変わり様はなんだ? さっきまで物凄い殺気を放っていたというのに、今はもう親しい友人を家に招き入れるかのような笑顔をしているのだ。

 突然過ぎる出来事にオロオロしていると、それに見兼ねたのか区切りを見つけたのか、霊夢が言った。

 

「分かった? これでその子は堂々とこの山を登ってよくなった訳だけれど」

「……吹羽さんに関しては確かにそうですが、あなたに許可はまだ――」

「だぁから、“交渉”だっつってんでしょ」

 

 言葉を切られ、少々不機嫌そうな表情をした椛に、霊夢は敢えて、不敵に嗤う。

 

「どうせそっちも困ってんだろうから、あたし達がその“問題”、まるっと解決してあげるわ。ここを通してくれるなら、ね?」

 

 ――その笑顔が嗜虐に満ち満ちていたように見えたのを、吹羽は努めて“見間違いだ”と、そう思うことにした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 燃え盛るような紅葉の葉が散る、妖怪の山の更に奥。天然の“紅葉吹雪”に葉を積もらせた、大きな屋根があった。

 人間の里では絶対に見られない――そも、それ程高い建築技術を持たない故――その出で立ちは、外来人をして老舗の高級旅館と言わしめるだろう、そのお屋敷は。

 山に棲む全天狗の中心。天狗という妖怪が最も尊ぶ、種の総本山。

 天狗の頂点、“天魔”の住まうお屋敷である。

 

 その一室――山を見渡せる大きな窓に、中心に据え置かれた低めの机。その奥にどっしりと構えるは、筆置きやら判子やらが置かれた一人用の大きな机。何処か寺子屋の学長室然としたその場所は、何を隠そう長の部屋――まごう事なき執務室である。

 その大きな机の前で、広げられた書類を厳しい目付きで睨むのは、白髪の目立つ初老の男性――言うまでもなく、天魔である。

 

 突いた頬杖から頭をかくりと落とし、漏れ出たのはまさに苦労人の溜め息。

 手元の冷めたお茶を啜り、若干嗄れた声で呟く。

 

「全く、どうしてこうも血の気が多いのかのう……この天狗社会で生きるからには、必要なのは順応性じゃろうて……」

 

 手元の紙をくしゃりと丸めると、天魔はそれを無造作に横へと放った。紙は導かれるように屑篭へ入ると、小さく乾いた微音をたてる。――中には既に、同じように放られた紙が幾つも入っていた。

 

 呆れ疲れた風に更なる書類を取り出し、さっと目を通せば、書いてある事は大抵同じ。

 ――即刻、土地に見合う報復を行うべき。

 ――監視下に置き、不穏な動きを見せれば即時打ち取ればよい。

 ――大戦力で制圧し、傘下に加えるのが定石。……などなど。

 正直なところ「お前達、よくそんな考え方で今まで生きて来れたな」と、そいつらをわざわざ呼び出してでも小言を投げたい気分だった。

 天狗社会は“縦の社会”。不満があろうとも上司の命令は絶対であり、逆らうならば相応の罰を受けなければならない。勿論助言や新たな案の提案などは、余程性格のキツイ上司でなければ受け取られるのが常であるが、決定権を有するのは間違いなく上司である。

 なのに、こんな。

 こんな過激な考えの天狗が、よくぞ上司に目を付けられずに生きて来れたな、と。

 

「まぁ、こやつらの矯正は追々するとして――……」

 

 さてどうしたものか、と。

 悩める視線を再び書類に落とす。

 たった今天魔が――天狗達がぶち当たっているこの問題は、早急の解決を要するものだ。

 何の前ぶりもなく突然舞い込んできた問題であり、そしてそれに見合わぬ程“妖怪の山”社会に多大な影響を及ぼす。

 故にこそ、より多くの同士の意見を汲むべく案を提出させている訳だが……いかんせん、過激な案が多い。

 皆怒りが先走ってしまって、後先を考えない無鉄砲な案ばかりを提出してくるのだ。

 妖怪らしいと言えばそうなのだが、社会を築いている以上それを易々と許容する事は、天魔には出来ない。

 一向に解決の兆しが見えない現状に、天魔は困り果てていた。

 

 ――と、そんな時。

 

「天魔様、お時間を宜しいでしょうか」

 

 扉を向こうから小突く音。問い掛けてきたのは、この屋敷の門番をしている部下の一匹である。

 入れ、と一言放てば、門番は静かに扉を開けて一礼し、跪いた。

 

「謁見を望む者が来ております」

「……何じゃこんな時に。誰ぞ、その間の悪い者は?」

「哨戒天狗が一匹、犬走 椛。そして人間が二人。うち片方は博麗の巫女にございます」

「……ふむ?」

 

 はて、博麗の巫女とな。かの有名な結界の管理者の一翼が、一体何用か。

 天魔は一瞬首を傾げたが、尋ねた方が早い、とすぐに思考を打ち切った。

 この忙しい時に来た間の悪さは気に入らないが、ここまで来たのなら何かしら急用があるのだろう。幻想郷のパワーバランスの一端を担う天狗、その長としては、彼女をけんもほろろに扱うのは避けたい所である。

 

 それに、まぁ。

 ちょっと休みたいとも、思っていたので。

 

「――よい、通せ」

 

 そうして、入って来た三人は。

 恭しく一礼した、一匹の白狼天狗。

 少しおどおどした様子の、小さな少女。

 そして、不敵な笑みを浮かべる、当代博麗の巫女だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――どうしてこうなった?

 大きなお屋敷の一室にて、吹羽はひたすらに頭の中でハテナを浮かべ続けていた。

 今日は一日、いつも通りに仕事をして寝るつもりが、唐突に瞋恚(しんに)憤激怒髪天な霊夢に連れ出され。

 現れた天狗の少女が放つ殺気に怯えていれば、けろりと態度を切り替えたその少女と友好関係を結ぶことになり。

 挙げ句の果て――自分は今、こんな所にいる。人間がここに入るなど、況してや自分がこんな所に来ることになるなど、夢に見るどころか考えすらしなかった。

 

 もう一度言おう。……一体、どうしてこうなった!?

 

 だって、だって――ここ、“天魔”の部屋なんだよね……? 幻想郷でもトップレベルに強いと言われる、“大妖怪”の部屋なんだよね……っ!?

 

 大妖怪と言えば、幻想郷を創ったと言われる八雲 紫を筆頭に、酒呑童子として名を馳せる伊吹(いぶき) 萃香(すいか)、縄張りを侵せば容赦なく狩られると有名な風見(かざみ) 幽香(ゆうか)など、人間なんか指先一つで消し飛ばせるような化け物ばかり。

 多少弾幕ごっこに興じる機会があるとは言え、人間の里で平和に暮らしてきた吹羽にそれらはまさしく別次元の話であり――そんな大妖怪の一角である“天魔”を前にして、吹羽が表面上平静を保てたのは、果たして奇跡か。

 

「――して、博麗の巫女よ」

 

 目の前にどっしりと座る、初老の男性――天魔。その強面による威圧感は声を発しても微塵も揺るぎなく、紡がれる言葉はやはり荘厳で、風格がある。

 突然会話を振られたのが霊夢で良かったと、吹羽は内心でちょっぴり胸を撫で下ろした。初対面の大妖怪といきなり話せとか言われたら、泡吹いて気絶できる気がする。だって怖いんだもの。

 

「一体何の用か――と訊く前に、そっちの小娘は何か(・・)、訊いても良いかのぅ?」

 

 あっ、今一瞬視界が霞んだ。

 

 上げて落とす不意打ちにくらりとくるも、吹羽は半ば無意識に踏ん張った。天魔の逆鱗に触れないよう、でも一体何が地雷なのかも分からない状況では、無闇に動かない事が一番手っ取り早く、且つ安全である。

 ちらりと向けてきた霊夢の視線は、「ほんと気の小さい子ね」なんて呆れ声が聞こえてきそうだった。霊夢も同じ人間のはずなのに。解せない。

 

「天魔様、この少女については私が」

「……ほう、では聞こう。何故この天魔の御室に人間などを連れる?」

 

 言葉とは裏腹に、天魔の顔は僅かに笑っていた。ここに吹羽が入って来たことを、別段怒っている訳ではないだろう事は容易に想像できる。そもそもここに通したのは天魔自身なのだから、怒ってる訳がない。むしろ、返答を少し楽しんでいるような。

 それを承知してか、告げる椛の声も変わらず平坦で。

 

「この少女は風成家の人間にございます。お耳に入れた方が宜しいかと、判断致しました」

「ほう、風成の……。確かか?」

「誓って」

 

 ――まただ。

 天魔の視線すら、椛の時と同じように一瞬で切り替わった。

 礼儀は最低限弁えていても、何処か見下したような高圧的な物言いだったのに、それが一変。

 懐かしさに浸るような、優しげな眼に、一瞬で。

 

 天魔は両肘を机に突くと、幾らか優しくなった目付きで吹羽を見つめた。

 

「……ふむ、此間の報告(・・・・・)は正しかったようじゃの。娘よ、失礼した。儂は今代の天魔を務めておる、冴々桐(さざきり) 鳳摩(ほうま)という。風成の者よ、名を聞いても宜しいかの?」

「えっ、あ……ボクは……か、風成 吹羽といいます」

「吹羽か。なるほど風成家らしい名じゃの。しかし……かの者からこのような可愛らしい娘が生まれるとはのぅ。まるで孫でも見ているようじゃよ」

 

 ニカッと笑うその顔は、壮年の男性らしく荒々しい笑みだったが、不思議とそれほど怖くはなかった。むしろ、八百屋にいる気の良いおじさんのような……。

 と、そんな天魔改め鳳摩おじさんに、霊夢。

 

 

 

「……ちょっと天魔、吹羽に手ェ出したらタダじゃおかないわよ」

 

 

 

 ――ヤバい、椛が柄を握る音がした。

 いや、いやいや、幾ら鳳摩が気の良いおじさん然としていてもそれはマズイだろう。

 吹羽は少し戒めようと霊夢の服の裾を引っ張るも、彼女は全然反応しない。椛の今にも斬り掛かって来そうな殺気に、吹羽は思わず顔を真っ青にしたが――。

 

「ワッハッハッ! 霊夢よ、儂が戦友(とも)の子孫に手など出す訳がなかろう! そもその子では、儂の怒張(・・)は到底受け止め切れまいて!」

「その発言がアウトだっつってんのよッ!!」

 

 鳳摩の豪快な笑いは、椛の殺気すらも軽々吹き飛ばした。

 会話の内容に関しては吹羽には少しばかり分からなかったが、軽口を叩き合う分元よりそれほど険悪な仲ではないのだろう事は分かる。

 椛が殺気立つのを見越してこんな会話をしたのかもしれないし、緊張していた吹羽の為にこうした軽口を言い合ったのかもしれない。どちらにしろ、吹羽にはこれ以上ない助け舟に他ならなかった。

 “能ある鷹は爪を隠す”という諺がある。

 やはり真の強者とは、力ではなく舌を回すべきだと、吹羽は思う。

 

「――天魔様、本題に入っても」

 

 「おおそうじゃな」と鳳摩は椛に同調し、その瞳に鋭さを取り戻す。

 その視線は、真っ直ぐに霊夢を射抜いていた。

 

「して霊夢よ、何用で参った? よもやその子を紹介する為だけに来たのではあるまい?」

「当ったり前でしょ。人一人紹介する為だけにこんなとこまで来るほどお気楽じゃないわ」

「では?」

「交渉よ。この先進むのに何度も突っかかられてたら面倒でしょうがないから」

「……ふむ?」

 

 若干話の見えていない鳳摩に、霊夢はここへ入って来た時と同じ不敵な笑みを浮かべる。

 やっぱり吹羽はその笑顔が少しばかり怖かったが、今ここで言うことではないとして、じっと黙って話の行方を見守る。

 

「これより奥へと進みたい……と?」

「まぁね」

「……この先にお主が求めるようなものは何もない。無意味じゃ」

「そんな事ないわ。事実、あたし達はこの先に用があって来た」

「……何故?」

「知ってるわよ? この山の頂上付近、最近“新入り”が来たでしょ」

「………………」

 

 訝しげに片眉を上げた鳳摩が、横目でちらりと椛を見遣る。視線を合わせた彼女は、小さく首を横に振った。

 

天狗(あんたら)は縄張り意識が強い上に超社会的、でも比例するように攻撃的でもある。突然山のど真ん中に他所者が湧いて出たら、武力鎮圧にでも出ようとするでしょ。そして易々と荒事を許すほど、あんたは馬鹿でもない」

「……何が言いたいんじゃ?」

「あたし達が代わりに畳んであげるわ。()の奴ら」

 

 ――鳳摩の眉根が、深い谷を刻んだ。

 

「……何を企んでおる?」

「企むも何も……あたしの職業が何か、言ってみなさいよ」

「…………ぬぅ」

 

 鳳摩が訝しむのも無理はない。

 昔自分を虐めていた同級生が、今になって“お前の宿題全部やってやるよ”なんていい笑顔で言ってきたのと同じようなものだ。

 険悪ではないにしろ、お互いに幻想郷の重役という意味では友好とも言い難いのは確か。疑って掛かるのは当然の事である。

 僅かにピリピリとしてきた空気の中で、霊夢だけは未だ飄々と。

 

「あたしは――博麗の巫女はこの幻想郷を管理しなきゃならない。勿論紫と協力してね。だからこそ異変解決なんてメンドイことやってる。……あんたらが武力抗争なんて起こして、大事になったらどうするつもりよ。……相手が誰か(・・・・・)、分かってる?」

「……一理、あるのう」

 

 目を瞑って考え込む鳳摩は、その嗄れた声で苦しげに呟く。

 彼も、突然現れた他所者がどういう者なのか、よく分かっているのだろう。

 勿論、吹羽にも大体は予想が出来ている。霊夢からは早苗への愚痴兼殺害意識ぐらいしか聞いていないが、「信仰を空け渡せ」なんて要求は、実際に神社がないと全く意味を持たない。だから早苗は少なくとも、神社と一緒に幻想郷に来た、という事だ。

 “巫女と共に現れた神社”。という事はまぁ、そういう事(・・・・・)なのだろう。

 

「霊夢よ、お主の言う通りじゃ。儂ら天狗は如何にも血の気が多いようでな。穏便に終わらせたいのじゃが、解決策は模索中。しかも一歩先すら見えない状態ときた。……じゃがだからと言って、形振り構わず武力鎮圧に出るのはそれ以上に宜しくない」

「当たり前よ。規模がデカくなれば紫が出てくるからね」

「さよう。儂ら天狗も力はあるが、かの妖怪の賢者にはとてもじゃないが敵わん。種の根絶は避けねばならんのでな」

 

 種の根絶。

 思っていたよりも大分大きくなってきた内容に、吹羽は内心で笑顔を引攣らせた。

 というか、天狗全軍で挑んでも勝てない八雲 紫って、どれだけ強い妖怪なんだ、と。

 絶対関わりたくない、なんて切に願う、気の小さい吹羽である。

 

「――そこに、お主がこの問題を解決してくれると申し出る。正直に言ってこれ以上ない提案じゃ。お主らを潔く通すだけで、儂ら天狗に掛かる火の粉は限りなく小さなものになる」

「でしょう? じゃあ交渉成立って事で良いかしら?」

「……じゃが、話が上手過ぎるのう」

 

 霊夢に向けた鳳摩の視線は、語る内容とは裏腹に鋭く、疑り深いものだった。

 

「……仕事だって言ってんでしょ? 上手いも何もないじゃない」

「“交渉”じゃろう? 交渉とは、意見を対立させる者同士がその間でうまく折り合いをつけ、納得する為の話し合いのことを言う。儂らの“これ”は論争。しかも、持ちかけてきたお主が何も得しない形のな。……疑うのは当然じゃろうて。だから問うておる。“何を企んでおる”と」

「……あのねぇ、あたしは何も望んでなんかないの。あんたらはあたし達をそのまま奥まで通してくれればそれで良いのよ。如何しても相互利益で終わらせたいなら、あたしじゃなくて吹羽にツケときなさい」

「……へ?」

 

 突然引き合いに出された吹羽からは、思わず間の抜けた声が漏れ出た。

 しかも、話を聞いていた限りでは吹羽が関係するような事柄は何一つとして出てきていないはずである。

 慌てて霊夢を見上げれば、彼女は少しばかり面倒臭そうな表情をしていた。

 

「大体予想出来てると思うけど、吹羽は人里で鍛冶屋をやってるわ。あんまり繁盛してないから、あんたらこの子の稼ぎとして注文しに行きなさい」

「“繁盛してない”は余計ですっ!」

 

 繁盛してないのではなく人が来てないだけである。一品に結構値がはるので稼ぎはあるのだ。量より質というだけ。断じて、断じて繁盛していない訳ではないのだ。断じて!

 そう目で語る吹羽に対して、霊夢は相変わらず何処吹く風。じっと鳳摩の言葉を待っている。

 

「……それはやはり、風紋を扱っているということかの?」

「ええ、そうよ」

「結局お主に益はないが」

「吹羽にはあるから満足って事にしときなさい」

「……うーむ、釈然とせんが……吹羽よ、お主はそれでも良いのか?」

 

 向けられた鳳摩の視線は、真剣味の中に何処か吹羽を案ずる色があった。

 

「この条件を飲めば、お主の所へ天狗が多量に出向く事になる。儂ら天狗は遥か昔にお主ら一族と友好を持った故、最低限の礼節を守る事は掟で定められておる。じゃが……それは人里に住まう者として、平気か?」

「それは……周りの人から避けられるのでは、という事、ですか?」

「――……」

 

 その無言は、肯定を示していた。

 確かに、人間は妖怪を恐れる。それも妖怪の中でも大勢力である天狗ならば、十人中十人が“恐ろしい”と答えるだろう。そしてそれと仲良くする人間が、あまり好ましくない目で見られるのは自明の理。普通に考えれば、ここは断るべきである。

 だが、それは――。

 

「……ボクは、お父さんから鍛冶を教えられて風紋を継ぎました。それは別に、大人になって稼がなきゃいけないからじゃなくて、ただ単純に……風を感じていたかったから、なんです」

 

 昔から、肌を撫ぜる柔らかい風が好きだった。

 色々な香りを運んでくれる風が好きだった。

 身体を吹き抜ける風の爽快さが、好きだった。

 そして“風紋”は――それを叶えてくれる夢のような技術だった。

 

「ボクは、風がとっても好きなんです。とっても好きなものが誰かの役に立って、その人も一緒に好きになってくれるなら、例え人間じゃなくたってボクには関係ありません。それを伝えたいって、思います……!」

 

 人か妖かなんて、吹羽には関係なかった。だって風は、そんなの関係無しに吹いてくれるから。人だろうが妖だろうが平等に、無遠慮に、優しく頰を撫ぜてくれるから。

 吹羽の心からの言葉を受け取った鳳摩は、一つ満足げに頷くと「最後に一つ」と前置き、

 

「吹羽よ。お主は霊夢を、信じておるか?」

「もっちろんですっ!」

「……そうか」

 

 吹羽の即答に大きく頷き、鳳摩はずっと黙していた椛に言う。

 

「椛よ、“博麗の巫女の邪魔をするな”と、全天狗に伝えよ」

「承知しました」

「……では霊夢、吹羽、頼んだぞ」

 

 最後に豪快な笑みを見せた鳳摩を背に、吹羽と霊夢は椛に続いて執務室を退室。

 元来た廊下を歩き、やがて玄関を出ると、椛がくるりと振り返った。

 

「――それではお二人共、お願いします」

「ええ、任せときなさい」

「それと、吹羽さん」

「はい?」

 

 耳をピコピコと揺らす椛は、可愛らしい笑顔で。

 

「吹羽さんのお店、行きますから。吹羽さんも、また来てください」

「ぁ……はいっ」

 

 いつの間にか結んでいた縁だけど。

 彼らはきっと、大昔の先祖様に何か恩を感じているだけだけど。

 椛の言葉が心からのものである事を確かに感じ取った吹羽は、彼女の笑顔に負けないように笑って、返事する。

 

 吹羽に、初めて妖怪の(・・・)友達が出来た瞬間だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 とまぁ、結局そういう事になり。

 天狗達の邪魔は一切入らなくなり、吹羽と霊夢は変わらず山頂目指して歩んでいる。

 しかし吹羽には未だ、少しだけ不思議に思うことがあった。

 

「あの、霊夢さん」

「うん? 何よ」

「ほんとに“ボクの稼ぎ”で良かったんですか? もっと他に頼める事はあったと思うんですけど……」

 

 そう、それが気になっている。霊夢だって裕福な訳ではないのだから、頼み事を聞いてもらえるならば頼めば良かったのだ。それこそ“山の幸寄越せ”とか、“お賽銭入れろ”とか。

 自分に正直な霊夢だ、“何も望んでない”なんていうのは少なくとも嘘だし、だからこそ分からない。

 何故、吹羽の利益で霊夢が満足するのか。

 

「あー、そうねぇ……ふむ」

「……? 何です、この手……?」

 

 少し考え込むそぶりをした霊夢は、ポンと吹羽の肩に手を置いた。

 そしていい笑顔にウインクで、

 

こっから先のお昼ごはん(・・・・・・・・・・・)期待してるわ(・・・・・・)()♪」

「……? ――っ!!」

 

 ま、まさか……いやいや、もう一度言葉を反復しよう。

 こっから先……うん、“これから先”の事だな。で、お昼ごはん。うん、そのままだ。でもって“期待してる”? それってやっぱり……吹羽のお昼ごはんを?

 吹羽の稼ぎが増える→贅沢な買い物ができるようになる→吹羽の食卓が豪華になる→それに集る霊夢も、豪華な食事ができる……?

 

「――れ、れれ、霊夢さんっ!?」

「もう遅いわよ吹羽〜! あたしの豪華な食卓の為に必死こいて働きなさい!」

「ちょっと! 無駄に用意周到過ぎますよぉっ!!」

 

 あの交渉劇の裏にこんな思惑が隠れていたと今更になって思い知った吹羽は、堪らず霊夢に叫んだ。

 食べさせなければいいだろうって?

 いやいや、無理な話である。初めのうちは料理を出さない事も出来るだろうが、もし霊夢が涙目で懇願する演技(・・)でもすれば、吹羽はいとも容易く陥落してしまうだろう。そもそも霊夢は、それすら考えに織り込んでいるに決まっているのだ。

 だって、結局自分が得する事だけを考えていたのなら、吹羽の収入という過程を挟むだけ遠回しだ。ということは……霊夢は、初めから吹羽をからかう気でいたに決まっているのだから。

 

「――って、あれ? そもそもなんで交渉なんかしてたんですっけ?」

「ん、忘れたの? 山頂まで登るのに天狗達が邪魔だったからでしょ」

「いや、確かにそうなんですけど、何か忘れちゃいけない事を忘れてるような気がして……」

「……寝ぼけてんの? さっさと行くわよ」

「あっ、待ってくださいよー」

 

 スタスタと先へ行こうとする霊夢を、吹羽は気持ち急いで追い掛ける。そしてその際、霊夢が指をゴキリと鳴らすのが、見えた。

 ――ああ、そうか。忘れていたのはコレか。

 吹羽はその霊夢の姿を見て、全てを悟った。

 確かに霊夢は何も望んではいなかった。というより、交渉さえ成功すれば叶う望みなのだ。お昼ごはんも完全にオマケである。

 つまり、あれだけややこしく主張を言い合って交渉した結果得たもの。霊夢が始め“嗜虐に満ちた笑顔”をしていた意味。

 それは、

 

 

 

 ――早苗を惨殺する為の大義名分(・・・・)

 

 

 

 そう、あの交渉は、たった一つそれのみを得るための。

 

「(あ、今日一番苦労してるの、多分ボクだ)」

 

 結局霊夢の一人勝ち。

 気が付いてはいけなかった事に気が付き、取り敢えず吹羽は、もう苦笑いするのもやめて無心になろうと決めた。

 

 

 




今話のことわざ
(のう)ある(たか)(つめ)(かく)す」
 才能や実力のある者は、軽々しくそれを見せつけるようなことはしないというたとえ。


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第十話 ウジガミサマ

✳︎この物語は二次創作です。
✳︎この物語は二次創作です。


 

 

 

「ところで……訊きたいことがあるんです、霊夢さん」

「うん?」

 

 未だ出口の見えない美しい紅葉のトンネル。“幻想的”という言葉の意味を否が応にも理解させられるその鮮烈な景色を、一生忘れまいと目に焼き付けながら問い掛ける。

 霊夢は吹羽を見遣る事すらしなかったが、返事はしてくれたので、構わず続けることにする。

 

「さっきの交渉の話なんですけど……」

「なに、まだ引き摺ってんの? いい加減諦めなさいよ」

「いえ、その事ではなくて――っていうかそれ、霊夢さんが言える事じゃないですよね……っ!?」

 

 何処吹く風な霊夢に半眼を向けつつ、

 

「その事じゃなくて! ……なんで霊夢さんは、ボクでも知らなかった天狗さん達との関係を知ってるんですか?」

 

 腑に落ちない事と言えばそれだけ――ではないが。勿論霊夢の暗躍については全面的に腑に落ちないが、それはまぁ一先ず置いておくとして。

 此度の交渉は、初めから最後まで霊夢の意見が通った形である。つまり、全部分かってて話を進めていたという事。であれば、何故当事者である吹羽ですら知らなかった“風成家と天狗の関係”について知っているのか、吹羽が不思議に思うのは論を俟たない。

 霊夢は特に悩んだ風もなく、「あーそれかー」と変わらず脚を進める。

 

「別に訊く程の事でも……調べただけよ、気になったから」

「霊夢さんでも気になるような事だったんですか?」

「……無頓着って言いたいの? 否定しないけどさ」

「あいえ! そういう事ではなくっ!」

 

 不機嫌そうな霊夢の声にそれ程取り乱さなくなった分、肝っ玉が据わってきたのではないかとふと考える吹羽。してきた苦労を思って一瞬気が遠のいた気がしたのは、至上の蛇足。

 

「天狗さん達と交友を持ったのが、恐らくは数代前の当主――天狗と心を通わせたっていう先祖様なのは予想がつきましたけど、それだけで……」

「あーそれ、正解。あたしも知人(・・)に聞いただけだけど、まさにあんたの言った通りよ」

「ほぇ〜、やっぱりそうなんですか」

 

 って、あれ? なんでそんな大昔の事に詳しい人が霊夢さんの知人にいるんだろう?

 ふと思い至った疑問に首を傾げていると、霊夢は「会ってみたい?」と妙にいやらしい笑みを向けてきた。

 会ってみたい――というのは紛れも無い吹羽の本音だが、その霊夢の笑みに底知れない恐怖を覚えたので、やんわりと断っておいた。

 どうせ何かからかおうとしているに決まっている。

 霊夢に既に一度嵌められている此度の吹羽は、アリ一匹も通さぬ思考と疑惑の網を限界まで張っているのである。

 また嵌められてなるものか――ッ!

 

 と、そんな警戒態勢に入っている吹羽の事などつゆ知らず。霊夢は思い出したように本題に戻った。

 

「あぁ、さっきの質問だけどね。そりゃ調べるわよ、天狗連中が目を光らせる“人種選別”の類だもの。あたしは知ってなきゃいけない事なのよ」

「あぁなるほど――って、人種選別?」

「誰の侵入を拒み、誰の侵入を許すか――安心なさい。分かってると思うけど、あんたは“後者”よ」

 

 天狗の縄張りに関してはもはや語るべくもないだろう。そしてその領域を侵す者への対応は、椛の言葉から推して知るべし。恐らく、もしも今回吹羽が一人で山に入っていたら、弁論の余地なく一瞬で首を刎ねられていたに違いない。

 その対応の苛烈さは幻想郷に住む者なら誰もが知るところであり、山の美しい紅葉を遠目でしか楽しめない最大且つ唯一の理由である。

 

 それに“分別”があったとは。

 実際、吹羽が今日これまでで最も仰天したのはこの事だった。

 まぁ、“天狗の領域侵すべからず”を地で行く人里の人間達である、触りもしないで細かな形など分かる訳もあるまい。

 

「河童のことは知ってる?」

「まぁ、はい。阿求さんに聞いたことがあります。摩訶不思議なカラクリを作るのが得意で、人間のことを盟友って呼んでるとか」

「その認識で大体あってるわ。――あーでも、だからって易々と河童についてっちゃダメよ? 殺される(・・・・)から」

「こ、殺されるんですかあっ!?」

「ええ。尻子玉抜かれると人間って死ぬからね。まぁ盟友とは言っても“友人”だと思ったらダメってことよ」

「き、肝に命じておきます……」

 

 盟友と言いながら笑顔で人間(盟友)を殺す河童――サイコパスか何かだろうか?

 妖怪と人間だから一見正当にも見えなくはないが、人間同士だったらと想像すると凄まじい怖気が走る。

 やはり妖怪は怖いな、なんて認識を上塗りする吹羽である。

 

「――簡潔に言えば、天狗にとっての風成家がそれに該当するのよ。だから風成の人間(あんた)は、一度顔が通れば出入り自由ってこと」

「え……じゃあやっぱり、ボク殺されちゃうんですか……?」

 

 今の話の流れだと、近いうちに自分は天狗に殺されるのかもしれない、という事では?

 せっかく友達になったばかりの椛が、「吹羽さん♪」なんて笑顔で刃を突き立ててくるとか、想像したら震えが止まらなくなってきた。

 顔を青ざめさせて苦く笑う吹羽に、しかし霊夢は「違う違う」と笑って言う。

 

「そこは心配しなくていいわ。天狗と風成家は完全に打ち解けてるから、単純に友達として接しても何の問題もないわ」

「……ほっ、良かったですぅ……」

 

 霊夢の笑顔で、だんだんと震えも治まってくる。彼女のお墨付きをもらった事で、吹羽は心底安心したように胸を撫で下ろした。

 初めての妖怪の友達を怖がる羽目にならなくて、一安心だ。

 

 ただ、それはそれとして、である。

 そういう話になってくると、どうしても気になる話題があった。

 天狗と風成家の友好関係――それがどの程度強固なものなのかは、天狗達の対応を見れば分かる。

 ならば、そもそも――。

 

「ボクの家系と天狗さん達……人間と妖怪なのに、こんな友好関係を築けたきっかけって――?」

 

 呟くように尋ねた吹羽に、霊夢は。

 

「……んー、その辺りのことは直接天魔とかに訊いた方が良いと思うわ。詳しいことは何も知らないけど、なんか一悶着(・・・)あったらしいし――あ」

「ん? どうしたんですか?」

「……見えたわ」

 

 唐突に足を止めた霊夢の視線の先。紅葉のトンネルの、約二五間から三十間ほど奥にあるそれ(・・)

 家舞い散る紅葉に彩られながら、それ(・・)は悠然と佇んでいた。まるで昔からそこにあったかのような風景調和を魅せるそれは、博麗神社のそれよりも大分状態が良かった。

 落ちた葉に半ば埋もれた、僅かばかりの石階段。それを上から見下ろす赤く大きな明神鳥居。そしてその中心に据えられた額束の、“守矢”の文字。

 

 ――瞬間、吹羽は全身が急激に粟立つのを感じた。

 

「……れ……霊夢、さん……?」

 

 すぐ隣から、深淵を覗き込んだかのようなドス黒い覇気を感じる。全身を駆け巡るその殺意の冷気は、霊夢が吹羽の家を訪ねた時のそれとも比較にならない程強く冷やく、そして何よりおぞましい。空間自体が軋んでいるように感じるのは、果たして吹羽の気の所為なのか。

 

「――先、行くわよ」

 

 一言。

 空気すらも置き去りに、迸った衝撃が紅葉を火の粉のように舞い上げる。

 前髪を激しく揺さ振る衝撃に何とか目を開いてみれば、静かに告げた霊夢の姿は、既にそこにはなかった。

 見遣り、

 

「ちょ、霊夢さん!?」

 

 既に鳥居も潜ったらしく、ここからでは姿さえ見えない霊夢に、堪らず叫ぶ。

 ヤバい、先に行かせてしまった。あの様子では、早苗を見つけた瞬間に本当に殺しかねない。というか何だ今の速度。物理限界にすら迫ってたんじゃなかろうか。

 

 ――ともかく、今すぐに追わなくては。

 先程血色の戻ったばかりの肌を急激に青ざめさせて、吹羽は弾かれたように走り出した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ところで、吹羽が今日何をする予定だったか、覚えているだろうか。

 今日は平日。人里に点在する八百屋や米屋やはたまた寺子屋、世に言う“仕事”が当たり前に、そして盛んに行われる日である。

 勿論定休日などがお店によって違うのは語るべくもないが、ほぼ全てのお店が開いている日、そして時間帯だと思っていい。

 そう、今日は平日。

 当然吹羽も、午前中は風成利器店の扉を開けていたのだ。だが霊夢に連れ出され、妖怪の山にて絶賛苦労しまくりである現在、お店の看板には“臨時休業”の文字が並んでいる訳で。

 ――そして“臨時”故に、当然来客だって、いる訳で。

 

「あっれー? なんで閉まってんだぁ? 今日平日だよな? サボりか?」

 

 戸の閉められた工房の前に影一つ。

 見間違いでないかジッと文字を嘱目するのは、光に輝く美しい金色の瞳。

 後ろ髪を手で撫でながら、「どうすっかな」と独り言ちるその少女――霧雨 魔理沙は、文字に見間違いがないのを認識すると、一つ溜め息を零した。

 

「せっかくこの魔理沙さんが遊びに来たってのに。さては霊夢辺りとどっか行ってるな?」

 

 この時間に真面目な吹羽を店から連れ出せるのは、魔理沙の知る限り霊夢くらいしかいない。阿求ならばきっと仕事の方を優先させるだろう、というのが魔理沙の予想だ。

 勿論正解なのだが、本当のところはそんなこと、魔理沙にとってはどうでもいい。“霊夢が吹羽を連れて行った事実”より、“吹羽がここにいない事実”の方が大事である。

 

「ふーむ、出来りゃ鍛治に関してももう少し知りたかったんだが……まぁいないんだから仕方ないな、うん」

 

 そう演説(・・)するように身体を横に向けると、態とらしい大股でゆっくりと玄関の前まで歩く。傍から見ればきっと、大きな独り言を呟く変人にしか見えなかった事だろう。

 そうして小脇に掲げた人差し指をちょいちょいと振るうと、魔理沙は満面の嫌らしい(・・・・)笑みで、演説を締め括った。

 

「――しっかたないから、わたしが留守番(・・・)しててやろう♪」

 

 ――秘術・解き開かせるための全能鍵(アンロック・マスター)

 

 魔理沙が玄関の鍵穴の前で鍵を握る仕草をすると、手と穴の間にポワンと小さな魔法陣が現れた。そのまま押し込む仕草、回す仕草へ繋ぐと――ガチャリ。

 あらあら不思議、鍵も無いのにいとも容易く鍵が開いではあーりませんか! 全くここの家主は不用心なのか、こんなに簡単に開く鍵をお使いらしい。これはいっぺん説教してやらねばなるまいな!

 ――なんて花言を今にも吐き出しそうな魔理沙(副業・泥棒)。最近開発した魔法が成功して、傍迷惑にもご満悦のようである。

 ……まぁ、自分が友人と認めた者の家なのだから、幾らなんでも勝手に物を持って行こうなどとは思っていない。更に言えば“代わりに留守番”も冗談だが、別に入って何かしようという訳ではないのだ。

 単純に、吹羽の家自体にも興味が湧いただけであるからして。

 

「(前に来た時、妙なくらい風が吹いてて気になってたんだよな……)」

 

 あの日入った工房には、ゆるゆると優しい風が吹いていた。

 何処から流れているのか特定は出来ず、しかし大きく開いた工房の入り口から入っている訳でもない。ただそこに流れているのが当たり前だと言うように、柔らかな羽毛のような風が吹いていたのだ。

 きっと、あの風紋とやらの効果に違いない。ならばそれはどんなものなのか知りたいと願う。家の中にも、沢山刻まれているに違いないのだ、と。

 生まれ持つ強烈な好奇心に従い、魔理沙は悠々と、鍵の開いた玄関の扉に手を掛けた――その時。

 

「ちょっとそこの人! 何やってるんですかっ!」

 

 さては空き巣ですねっ!? と続ける声に。

 不覚にも肩を震わせて振り向けば、そこにいたのは。

 

「ここは吹羽さんの家ですよ! 空き巣なんて断じて――って、魔理沙さん?」

「……ふおぉぉ、まさかこんな時にお前と出くわすとは……ツイてないぜ」

「そんなに私と会いたくなかったんですかっ!?」

 

 魔理沙の一言に、傷心よりも驚愕を含んだ声で喚く少女――阿求。

 彼女はハッとして顔を引き締めると、扉に手を掛けて苦い顔をしている魔理沙へズンズンと歩み寄り、そして凄味を帯びた半眼で、

 

「――そんな事より、魔理沙さん」

「な、何だ?」

「あなた今、完全に盗みに入ろうとしていましたよね?」

「っ……い、いや違うぞ? わたしはこのままじゃ不用心かと思って、代わりに留守番を――」

「でも今、ガチャリって音が聞こえました。魔法を使って鍵を開けたんですよね?」

「そ、それはほら、わたしも魔法使いの端くれ、開発した魔法は使ってみたくなるとか、で」

「と言うことは、鍵は初めから閉まってて、それを魔理沙さんがこじ開けたという事ですね?」

「いやだから、代わりに留守番を――」

「吹羽さんに頼まれたんですか?」

「……えっ」

「吹羽さんに頼まれたんですか?」

「いや、その」

「吹羽さんに頼まれたんですか?」

「……ち、違う……けど」

 

 ――未だ嘗て、これ程疑り深い視線を向けられたことがあっただろうか。

 阿求の瞳には信頼の“し”の字も映っておらず、魔理沙の言動の何から何までを否定する気概がはち切れんばかりに満ちていた。

 ああ、これは何言ってもダメだ。

 背に扉があって後退りも許されない魔理沙は、別人のような阿求の気迫に呆気なく押し負けたのだった。

 

「全く……本当に油断も隙もありませんね。流石音に聞く泥棒魔法使いですっ」

「あ、あははー……褒めても何も出ないぜ……?」

「褒めてませんよっ」

 

 本当に盗みに来た訳じゃない――なんて弁明(言い訳)、この阿求を前に言い出せるはずもなかった。

 魔理沙は、人里では“異変解決者”よりも“泥棒”として知名度がある。毎日泥棒を働いているわけでは勿論ないのだが、世間の評価とはやはり厳しいものであり。阿求が魔理沙に中々信用を置けないのも、そんな側面があるのだろう。

 ――尤も、“それ以外”の部分についてはある程度高評価なのだが、当然魔理沙本人には与り知らぬことである。

 

「はぁ……立ち話もなんですし、上がらせて貰いましょうか」

「は? 勝手に上がっていいのかよ」

「魔理沙さんに言われたくありませんが……大丈夫ですよ。私はしょっちゅう来てるので、“もし自分がいなかったら勝手に上がってて”、と吹羽さんに言われています」

「……ふ〜ん」

 

 魔理沙と違って許可を得ているらしい阿求は、それに驕らずに小さく「お邪魔します」と呟きながら入って行った。

 その姿にちょっとだけ複雑な気分も味わったが、外で突っ立っているのもまた妙な気分を湧き上がらせるので、魔理沙も少しだけ頭を下げて恐る恐る入って行く。

 勿論、阿求のそれよりもさらに小さく「お邪魔しま〜す……」と言いながら。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 吹羽の家は一つの芸術作品である、というのが阿求の持論だ。

 外観は何処にでもある至極普通の一軒家なのだが、その内側はまるで別世界。壁から天井まで刻まれた流麗な風紋が、木造の家屋――日本家屋としての美しさを引き立てているのだ。

 吹羽自身彫り物に秀でている為、欄間を始めとした装飾としての彫り物の類は全て彼女自身のデザインである。

 幾何学模様からちょっとした動物の彫刻まで。その様はさながら芸術博覧会のようである。

 ほら、入ってきた魔理沙も目をまん丸にして驚いている。阿求も、初めて吹羽に“これ”を見せられた時は驚いたものだったから、今の彼女の心境は手に取るように分かった。

 多分“何だこりゃあっ!?”だと思う。凄過ぎて言葉も出ないようだ。ふふふ、どうだこれが自慢の親友の力だ!

 

「はぁ〜……これ、全部あいつが彫ったのか? とんでもないな、建築士も涙目だ」

「本当に。元々は割と殺風景な建物だったんですが、吹羽さんが上手い事仕上げてくれたんです。……そもあまり使わない建物だったんですが、ここまで綺麗にしてくれるんだから、吹羽さんに譲渡して良かったと思います」

「譲渡……? この家、元から吹羽の家じゃなかったのか?」

「はい。元は私達稗田家の所有物でした。今でも多少の援助はしていますよ」

 

 発端は、吹羽が記憶を壊したすぐ後の事だった。目が覚めてからの吹羽は、事ある毎に倒れてしまうほどの頭痛に見舞われるようになったのだ。それが“多分この家にいるからだ”推測したのは霊夢である。

 彼女と相談し、今の建物に越して来てからはぱったりと症状は無くなったから良かったものの、いつまでもあの症状が続いていたらと思うと――そんな吹羽を見ていなければならなかったかもしれないと思うと、阿求は今でも身体の奥底が冷え切る感覚を覚える。

 見ていて痛々しい程の、苦しみようだったのだ。

 

 ――まぁ、ともかく今は置いておいて。

 

 阿求はパンッと一つ柏手、魔理沙の注意を自分に向けた。

 

「さて、立ったままなのも何ですし、ここは私が持ってきたお菓子でも食べながら――」

「なぁ阿求、ありゃ何だ?」

「……はい?」

 

 魔理沙が不思議そうに眺める先。そこには、ポツンと小さな神棚が備えられていた。

 本当に必要最低限のものしか置かれていない、簡素で小さな神棚である。居間の隅にあるため、その一角に影でも差せばたちまち意識の外へと消えてしまいそうだ。

 

「あぁ、魔理沙さんにとっては珍しいですよね。それは神棚ですよ。神様を祀るためのものです」

「へぇ……わたしは無宗教だからなぁ、こんなもんとは無縁だぜ。元々神様に縋るってのが性に合わないんでな。博麗神社にもあるだろうとは思うが、普段入る居間にはないっぽいし」

 

 語りながら、ジロジロと神棚を観察する魔理沙。

 どうでもいいが、その体勢(四つん這い)でふりふりとナニを揺らしながら観察するのは、子供とはいえ女性としてどうなんだろう、と思わずにはいられない。魔理沙の事だから無意識なんだろうが、恥じらいというものが足りていないのではなかろうか。

 

「――ん? ……なぁ阿求」

 

 眼前のちょっと“アレ”な行動に苦笑いしていると、そのちょっと“アレ”な魔理沙が何かに気が付いたようだ。

 ちらりとこちらを見遣る目に返事をすると、魔理沙は神棚に書かれた“文字”を指差して、

 

「ここ、風神が云々って書かれてるんだが……人里の人間達の信仰対象って“龍神様”じゃないのか?」

 

 ――龍神。

 それは、この世界の創造と破壊を司る最高神の名。古より世界を見守る龍の神である。その力は他のどんな存在とも隔絶し、動けば大地を割り羽ばたけば天を砕くと言われる。

 ただでさえ数が多くはなく、日々妖怪の力に怯えて生きる運命を敷かれた人間達が、そのような強大な神に縋るのは自明の理とも言えよう。

 人間にとって心の支えは欠かしてはいけないモノだ。それを失くせば、忽ち立つ事もできなくなるのが“人”という生き物であり、その文字の表すところである。

 

 阿求は魔理沙の疑問も尤もだと思いながら、しかし「ああそう言えば、その事も言っておかないとなぁ」と一人納得していた。

 魔理沙が吹羽のことを知りたいと願うなら、やはり言っておいた方がいい事。言うなれば、風紋の事を始めとする把握しておいた方が幾らか“付き合い易い”であろう事情だ。

 まぁ、知らないなら知らないでも特に困る話ではない。でもせっかく魔理沙が気付いたのだから、話のタネとして話すのも悪くはない。

 阿求は一つ頷くと、彼女の隣――神棚の前に正座した。

 

「その通りです。人間の里での信仰対象は主に龍神様ですよ。その理由くらいは、分かっていますよね?」

「お、おーよ」

 

 怪しげな魔理沙に半眼を向けつつ、

 

「実は吹羽さんの家系――風成家だけはちょっと特殊なんです。刀匠の家系ですから“天目一箇神”を信仰するのは当然ですが、それとは別に風成一族が代々信仰してきた神が存在します」

「うーん……氏神ってやつか?」

「正解です、よく出来ました。エラいですねー」

「母親かっ! お前ホントにわたしの扱い雑だよなっ」

 

 氏神とは、この国に於いて同じ地域に住まう者達が共同で祀る神のこと。元は一つの民族としてこの地に住んでいた風成一族である、氏神が存在するのは至極当然の事だ。

 むしろ彼らからすれば、龍神信仰こそ後から入ってきた宗教である。長い間技術を継承してきた家系だ、伝統をこそ守るのが筋というもの。

 ――まぁ、龍神様を蔑ろにしているわけでも、勿論ないのだが。

 

「風成家は私達稗田家よりも長い歴史がある正真正銘の“名家”ですからね。もう吹羽さんしか残っていない故に、その事を知る人も多くはいませんが」

「へぇ……吹羽達がずっと信仰してきた氏神――風神か」

 

 小さな神棚。この地で信仰する者が減ってしまった事を表すかのような、至極質素な佇まいだ。影が差してしまえば途端に認識出来なくなってしまいそうなそれは、祀られる風神の哀しみを感じさせるようである。

 しかしそれでも何処か存在感を発して“我ここにあり”と主張するのは、やはり吹羽という敬虔な信仰者が未だ存在するからか。

 

 彼女の信仰心の強さは、神棚を一見すれば忽ちに分かる。

 質素ながらも埃など少しだって被ってはおらず、活けられた小さな花は瑞々しい。お供え物として置かれた小太刀は白鞘で休められており、抜刀せずとも吹羽の最高傑作レベルの仕上がりであることは想像に難くない。恐らくは、吹羽が使用する愛刀の“真打”にあたる一振りだろう。

 頻繁に、そして丁寧に神棚自体の手入れも行なっているはず。でなければ、建てられて何年も経つと言うのに此れほど状態が良い説明がつかないのだ。

 

「――なぁ。この刀、抜いてみても良いか?」

 

 唐突な問い掛けに、阿求は図らずに溜め息を吐いた。

 好奇心旺盛なのはいいが、それくらいの判断も出来ないところはさすが無宗教泥棒魔法使い。勿論褒めてない。

 

「……勝手に持って行こうとしてますよね? ダメに決まってます。そもそも、お供え物に手を出すのは人としてどうかと思いますけど」

「人を墓荒らしみたいに言うなよ。良いじゃんか見るくらい。すぐに戻すからさ」

 

 その“すぐ〜するからいいだろ?”の被害に遭った者はどれだけいるのだろうか。妙に作り慣れた雰囲気のある怪しい微笑に、阿求はふと心配になった。

 まぁ根が悪い訳でないのは知っているので、大問題になるような事はしていないだろうが――してないよね?

 

「――って、だからダメですって!」

「だいじょーぶだよ見るだけだから! それに“嫌よ嫌よも好きのうち”って言うだろ?」

「それ使い方違いますし、私が嫌な訳じゃありませんよ!」

 

 黙り込んだ阿求に痺れを切らしたのか、魔理沙は彼女の制止を聞かずに刀へと手を伸ばした。

 お供え物の小太刀は二人の目の前に置かれている。それは素で置かれているにも関わらず、その丁寧な供え方によって吹羽の真摯な気持ちを阿求に知らしめていた。

 その“信仰の形”に、魔理沙が不用意にも触れようとして――、

 

 

 

「いッ――つ……!」

 

 

 

 バッと手を引いた魔理沙の表情は、打って変わって鋭痛に歪んでいた。刀に触れようとした指先から、赤い雫が滴り落ちる。

 

「あ――指、切れて……」

「うー、結構ざっくり切ったみたいだな……指先って敏感だから痛てーんだよなぁ……」

 

 指先を咥え、血の味に顔を顰める魔理沙。阿求は少しだけ狼狽するも、彼女の指が“落ちた”訳ではない事を確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。

 

「全くもう……葉にでも当たったんですか? 無闇にお供え物に触ろうとするからそうなるんですよ」

「んあ? 葉になんて当たって――」

 

 何か弁明したそうな魔理沙を無視し、神棚の前で阿求は祈るように手を合わせた。

 

「無礼をお詫び申し上げます、風神様。我らは御柱の信奉者たる者の友なりますれば、この御供物を一目拝見したく――……」

 

 祝詞のような口調で告げると、阿求は丁寧な手付きで小太刀を手に取った。

 そして一礼。最大限の礼儀を尽くしたと思われる所作の直後、

 

「はい、魔理沙さん」

「……あ? 何だよ、見るのダメだったんじゃないのか?」

「“見せて”と頼めばいいに決まってるじゃないですか。私は、魔理沙さんが強引に取ろうとするのが分かってたからダメと言ったんです」

 

 小太刀を渡しながら、阿求はふんすと息を吐いた。

 結局、神も人間と同じようなものだ。むしろ神の方が人間より人間臭い、なんて言われるくらいである。強引にすれば怒り、礼儀を弁えれば微笑んでくれるモノ。許しを請えば、お供え物を見る程度の事は許してくれる。

 

「なんか釈然としないんだが……」

「気のせいですよ♪」

 

 渋々――と言うのも変だが何処か納得のいかないように、しかし鑑賞のために受け取った小太刀を抜刀する魔理沙。阿求はその横顔を、彼女に気付かれない程度の横目で見ていた。

 

「(これでまた――吹羽さんの周りが賑やかになりますね)」

 

 お店の客はお年寄りや壮年の方ばかりで、きっと気を許せる相手などほぼいなかったはずだ。だから今まで吹羽の近くにいたのは自分や霊夢のみで、しかも彼女は仕事や修行ばかりであまり外にも出ないと来たものだ。

 彼女の交友関係の狭さに本気で悩んだのは、果たしてもう何度目だったか。

 故に阿求は、吹羽の新しい友達である魔理沙が、彼女にこれだけ興味を持ってくれているということが、不思議と自分の事のように嬉しかった。

 ――魔理沙の評価点。好奇心と明るさに関しては、満点である。

 

「なぁなぁ阿求! これって何処がどういう役割してるんだっ?」

「さ、さぁ? それは私にも分かりませんね……」

 

 取り敢えず、散歩がてらにここを通って良かったと、一人思い耽る阿求であった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 人は、絶体絶命の危機に陥ると“走馬灯”を見るという。

 俗に“走馬灯現象”と呼ばれるそれは、生命が危機に瀕した際、脳がその危機を回避するために側頭葉から過去記憶を一気に引き出す事で生じる現象と言われている。簡単、且つ陳腐に表現するのなら、“思考が超加速する現象”だ。

 一秒が数十秒にも感じる現象――その体験者たちは、その短い(長い)時間の中で様々な事を考えるという。

 ああ、この時は楽しかったなぁ。

 あの時こうしていればなぁ。

 今思えばいい人生だったなぁ。

 ――などなど。

 人が思うことは千差万別。ある程度似通っていることはあっても、そこに含まれる感情まで同じ事は殆ど無い。

 

 ――この時、東風谷(こちや) 早苗(さなえ)が思ったことは、果てしなく巨大な疑問と焦燥だった。

 

「ちょ、まっ! あぶ、ないですよ霊夢さんっ!!」

「うるっさいッ! さっさとくたばれこの傲慢巫女ッ!」

「そんっ、な! 理不尽なぁッ!?」

 

 暴風雨のように襲い来る弾幕と打突。早苗は降り注ぐそれらの一つ一つに生命の危機を感じ、その度にひたすら「ヤバい」と「なんで?」を繰り返しながら、我武者羅必死に避け続けていた。

 何故こんなことになったか? そんなの知らないこっちが聞きたい。

 朝は博麗神社へと出向いて、言われた事(・・・・・)をやって帰ってきた。新天地に胸を膨らませて周囲を散策し、お昼ごはんを食べた後は暇だったので、神社の庭の掃き掃除なんかをして“るんるん”と過ごしていたのだ。

 

 ――そしたら突然コレ。まじ意味分かんない。

 

「まま、待って、下さいってぇ!? なんでそんなにっ、怒ってるんですっ!?」

「此の期に及んでそれを言うかッ! いっぺん死ねってかこの手で殺してやるから今すぐその首寄越せッ!」

「自分がっ、何言ってるか、分かってますっ!?」

 

 眼前で、霊夢が殺気と共に乱舞する。迸る霊力はいっそ熱風のように熱く、触れる事自体を強く拒否させる。

 多分、今彼女の攻撃を一撃でもまともに食らったら、その部分は跡形も無く消し飛ぶ気がする。漠然とそんな予感がした。

 

「(なんでこんな事にっ!? 幻想郷って……意外と怖いところなのっ!?)」

 

 何か悪いことでもしただろうか。していないならば、何故引っ越してきたばかりなのに命を狙われなければならないのか、早苗にはさっぱり全く宇宙の果てくらい分からない。

 だって、幻想郷の常識とやらに則って生活していただけなのだ。怨みを買うようなことなどした覚えはない。

 ――いや、無くはないが仕方ない事だった。霊夢も分かってくれていると思ってい(・・・・・・・・・・・・・・・・・)たのだが(・・・・)

 早苗はちょっと泣き出しそうになりながらも、ガンバレ早苗負けるな早苗と自らを鼓舞して霊夢の動きを凝視する。

 

「くたばれぇぇえッ!!」

「うわわっ、あぶ――」

 

 ばちんっ!

 盛大に響いた柏手――いや、真剣白刃取りならぬ大幣木棍取り。鬼神と化した霊夢が振り下ろした大幣は間一髪、奇跡的に早苗の額数寸前で停止した。

 ……手の皮がズレ落ちるかと思ったんですけど。まじシャレになんない。

 

「こ……ッ、殺す気、ですかあっ!?」

「そう、よっ! よく……分かってんじゃないの……ッ!」

「なん、で、ですか……って、聞いてる、じゃないです、か!」

「あ゛ぁ゛んッ!? まさか“分かんない”なんてふざけた事言うつもりィッ!?」

「ひぃっ!?」

 

 ああダメだ、全く以って聞く耳を持ってくれない。

 霊夢の声音はこれより上は無しとばかりに怒りが滲み出していて、瞳なんて呪われる気がして直視すらできない。正直――というか事実、和解は最早不可能なようである。

 

「(むぅう! こうなったら自棄(ヤケ)だわっ!)」

 

 霊夢が怒る理由が分からない。

 尋ねても答えてくれない。

 本気で殺しにかかって来る。

 ――となればやはり、このままでいるのは危険極まりないので。

 早苗は上空に弾幕を生み出し、雨を降らせるように発射させた。慣れてはいないので形も強度も未熟だが、霊夢を自分から引き離すのが目的とあらば、それは十分に有効だった。

 庭の中心で、距離を空けた霊夢と向き合う。ぐつぐつと煮え滾る怒りの熱を瞳に込め、しかし静かに敵意を鋭くする視線で、霊夢は言う。

 

「……へぇ? やっとやる気になったかしら」

「なってませんよ。今でも何でこんな事になったのかちんぷんかんぷんです。戦いたい訳ないじゃないですか」

「そう。まぁでも、何もせず死ぬよりは抵抗した方が格好も付くってものよ。こっちはあんたを殺す大義名分まで用意してるんだしね。最後くらい悪役を演じ切ってみたら?」

「悪役って……」

 

 やはり、霊夢の中では早苗が悪者と定義付けられているらしい。となればやはり、和解などしようもないのは確定的に明らかである。

 彼女の殺意は本物だ。今まで殺人鬼には会った事がない――あったらあったで問題だが――上、至極平和に暮らしてきた早苗には当然、殺気というものがどんなものなのかは分からないが、それでも“これが殺気か”と嫌が応にも理解させられる凄味が、霊夢からは滲み出ていた。

 ――つまり、ここは正念場。発端が何なのか分からないが、これは幻想郷に引っ越して来て最初の関門……試練なのだ。理不尽過ぎて涙ちょちょぎれそう。

 

「い……いいでしょう、やってやりますよ。ええ、心底不本意ですがノッてあげます」

 

 まぁ、理由の分からない怒りほどムカつく(・・・・)モノも中々無いし。

 

「後悔しないで下さいね……!」

「はっ、後悔なんてする訳がないわ。あんたを殴り殺してハッピーエンドよ。あ、遺言なら聞いてあげないからね。メンドイし」

「――ッ」

 

 何だろう、こう……こっちにも何やら込み上げてくるモノを感じる。片頰が痙攣しているように感じるのだが、これはアレか。漫画とかでよく見かける“引き攣った笑い”というやつか。

 霊夢のあまりの態度に、生涯温厚を志す早苗も流石に怒り心頭である。袖の中からお札を取り出し、霊夢を睨みつけた。

 

「ふ、ふふふ……何やら知りませんが私、久しぶりに怒ってるみたいです。気を付けてくださいね、普段温厚な人ほど怒ると怖いって言うんですから。特に私とか」

「自分で“怒ると怖い”なんて言ってりゃ世話ないわね。っていうか、逆ギレ(・・・)なんてする時点で温厚とは言わないわよ。あたしの知る温厚な人物ってのは、からかわれようが何されようが笑って許しちゃうお人好しのことよ」

「あなたの基準なんて知りませんしどうでも良いです。そもそもそれはお人好しなんじゃなくて、ただ単に“適当に扱えるくらいあなたの事がどうでも良い”っていう暗喩なんですよ。気付かないんですか?」

「はは、人の友人にまで文句付けるとか、とことんクズ(・・)ねあんた……」

「ふふ、理由も語らず殺しにくるあなた程ではありませんよ分からず屋(・・・・・)

「ははははははは」

「ふふふふふふふ」

 

 ――……。

 

 

 

「「――覚悟ォッ!!」」

 

 

 

 取り出した大幣を振りかざし。

 怒りのままに飛び出して。

 

 そうして早苗は――銀鈴のような声を聞いた。

 

 

 

「ちょっとストップですぅーッ!」

 

 

 

 ――その瞬間、何が起こったのか早苗には分からなかった。

 自分と霊夢が衝突する寸前、少女の声と共に暴風が駆け抜けたかと思うと、目の前の石畳には巨大な亀裂が走り、大幣は真っ二つに折れ、自分の前髪が僅かにはらりと舞っていた。

 

 何かが通った? 強烈な風を纏う何かが寸前で通り抜けて、自分と霊夢の衝突に割って入ったというのか。

 突然の事に頭の回らない早苗は、どこか呆然とした様子の中で、しかし如何にか霊夢の声だけは拾うことが出来た。

 

「ぐぅぅっ! 何すんのよ吹羽ッ! 邪魔すんじゃないわよッ!」

 

 ――ふう? “邪魔”って……さっきの風の事か?

 整理のつかない頭で、どこか虚ろに視線を移す。

 怒鳴る霊夢の視線を辿って、見慣れた鳥居が視界に入ると、早苗は不意に雪のような白い髪を目の当たりにした。

 惹かれるように、視線を下ろして――。

 

「“何するの”じゃないですっ! 何しようとしてたか分かってますっ!?」

 

 

 

 ――天使(・・)が、いた。

 

 

 

「ああッ!? あんた今更何言ってんのッ!? この女ブチ殺すのあんたも賛成してたでしょッ!」

「してないですよ!? 間違ってもそんなの賛成しませんからねっ!?」

「――……」

 

 ふわふわとした髪は雪のように白く美しく。

 翡翠色の瞳は陽光に輝いていて。

 

「だいたい、ボクは霊夢さんのストッパーとして来たんですよ! 霊夢さんがあっという間に行っちゃうから走って来たんです! そしたら案の定()ろうとしてるじゃないですか! そりゃ止めますよ!」

「っ……へぇー。あんた、あたしがこいつに何されたかを聞いて尚そういう事言っちゃうの。なるほどなるほど……」

「――…………」

 

 響かせる声は鈴を鳴らすように。

 差した刀からは、何処か強かさを。

 

「吹羽、あんたのそういう優しいところ好きだけれどね、博麗の巫女にはやらなきゃならないことがあるのよ。妖怪――悪は徹底的に叩き潰さなきゃならない。あたしは、こいつを、()さなきゃならないのよッ!」

「魔理沙さんみたいな屁理屈言わないでくださいっ!」

「――………………」

 

 霊夢と言い合うその姿は、彼女の度胸を示すよう。

 幼い見た目に反した丁寧な言葉は、彼女の賢さを表すようで。

 

「あーもういいですっ! 霊夢さんは何もしないで下さいね!?」

「むぅぅぅ……。いやでもね――」

「い い で す ね ッ!?」

「………………」

 

 鳥居の方から、少女がとてとてと駆けてくる。

 絹糸のような白美の髪が揺れて、ふわふわと靡いていた。

 芸術品のように端正な顔立ちは何処か申し訳なさに歪んでいて、今すぐに土下座でもしかねない雰囲気がある。

 小さな少女は早苗の目の前まで駆けて来ると、

 

「えっと、あなたが早苗さんですよね。ほんっとうにゴメンなさいッ! 霊夢さんはちょっと気が動転しているだけなんです! 許してくださいとは言いません……っていうより言えないですけど、ボクがなんでもしますので、どうか多めに見てあげてください……っ!」

 

 本当に申し訳なさそうに、吹羽は頭を下げてそう言う。

 だが残念な事にも、その言葉は早苗の耳には入っても、頭の中では全く理解されていなかった。

 何故かって? そんなの決まってる。だって、だって――、

 

「吹羽……ちゃん(・・・)、ですよね?」

「ち、ちゃん? は、はい。ボクは風成 吹羽です、けど……」

「かざなし、ふう……いい名前ですね。とても爽やかで、優しい響きです」

「あ、ありがとうございます……?」

 

 早苗は優しげに微笑んで、小首を傾げる吹羽に目線を合わせた。

 分かってる。殺されかけたのだから、本当はがっつりと怒るべきなのだ。それが遠回しに霊夢のためにもなるのだから。

 だが、今の早苗にその選択肢は選べない。――というより、選択肢自体が頭の中になかった。早苗の脳内は、たった一つのことでいっぱいなのだ。

 

 いけるか。

 いけたとしても上手くいくか。

 上手くいかなかったらどうしよう。

 でも行動しなければ始まらない。

 早苗は雑念だけを無理矢理払って、吹羽の両肩をそっと掴んだ。

 

「……ねぇ、吹羽ちゃん。お願い聞いて貰ってもいいですか?」

「っ! は、はいっ。ボクが出来ることならなんでもっ!」

 

 ――えぇい、ままよ!

 もはや後には引けないのだ、当たって砕けろ東風谷 早苗っ! 上手くいかなくてもその時はその時だ!

 何を隠そう、これはそう……今までの人生十数年、自称ピチピチ女子高生東風谷 早苗一世一代の――

 

 

 

「――私の妹(・・・)に、なりませんか?」

 

 

 

 ――大・告白なのだっ!

 

「――……はい?」

 

 太陽燦々真っ昼間。

 何処かで「アホー」と烏が鳴いた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第十一話 事案決着

 ちょっと人を選ぶお話。


 

 

 

 “勘違い”というものはやはり厄介なもので、それを切欠にして両者間、あるいは複数人間での溝は時間と共に大きくなっていきがちである――というのは、改めて説明するまでもない常識の一つだと思われる。

 初めは“単なるミスかな”。次は“もしかしてわざと?”。終いには“あいつは邪魔ばっかりする敵に違いない”――と。

 最高の親友が、些細なすれ違いと勘違いで犬猿の仲に堕ちてしまう例も、多からずとも決して無視は出来ない件数が存在するだろう。

 “勘違い”とは、誠に厄介なものである。

 

 ところで、東風谷 早苗という少女がどのような人間なのか、知らぬ人も多いだろう。

 当然だ。彼女が神社と共に幻想郷に現れてから、まだ一週間も経っていないのだ。その人となりを知るにはあまりにも時間が足りない。

 

 だからここで、少しだけ彼女について語ろうか。

 なに、御涙頂戴の暗く湿った過去がある訳ではないので、気楽に聞いて欲しい。そも彼女は、元“ちょっと変わった美少女JK”なだけであるからして。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 東風谷 早苗は少し特殊な家系に生まれた子供だった。

 と言うのも、彼女の家は代々“ある神社”の巫女や神主を務める、所謂管理者的な立場にあったのだ。

 早苗の母は先代の巫女――正確には風祝――をしていたし、祖父は神主をしていた。祖母は祖父に影響されて占いなんかもやっていたが、あまり成功はしなかったらしい。

 信仰が薄れ、妖怪や神への畏怖も薄くなってしまった外の世界。今時そんな仕事を代を跨いでまで務める東風谷家はやはり、ご近所からも少しだけ浮いた存在だった。

 

 ――が、別に浮いていたからといって近所付き合いが悪い訳ではない。

 

 遺伝か何かか、早苗の祖父も母も彼女自身も、根っこから優しく温和な性格であり、表情豊かで愛想が良かったのだ。

 だから周りから少々珍し気に見られていようとも、それだけで話は終わっていたのだ。問題など何もなかった。

 

 さて、そんな家柄だった訳であるが、その不思議な家系の中でもまた一段と不思議な存在だったのが、他でもない早苗である。

 優しく、感情豊かで、何処か天然気味に抜けていて、だけどもなんとなく許せてしまう美しい笑顔を放つ彼女の、果たしてどこが不思議だったのか。

 

 

 

 ――早苗は、神様を見る(・・)事ができた。

 

 

 

 比喩ではない。暗喩でもない。神社へ赴いて、その荘厳さと神々しさに何処か神の存在を感じ取るとか、そんな並一般の次元ではない。

 その瞳で、その視野で、早苗は確かに己の祀る神の姿を見る事が出来たのだ。

 それは祖父にも母にも出来なかった事。神の姿を目で捉えられる人間など、東風谷家の歴史の中でも百年単位で居はしなかった。そういう意味では正真正銘、早苗は“数百年に一人の逸材”というヤツだったのだ。

 だから当然家族内も騒然としたものだったが、そこは温和な東風谷家面々、早苗はすごい子だねぇ〜程度に収まり、早苗の巫女初仕事の予定が早まる程度の影響でしかなかった。

 

 その頃だったろうか、早苗は不思議な力に目覚め始めた。彼女が事柄を強く望むと、ちょっとしたことならば立ち所に叶うようになったのだ。

 同時に、黒かった髪も段々と緑色付き始めた。ただその変化に気が付けたのが、当の早苗自身と彼女の信仰する神様だけだった故に騒がれることはなかったのが救いだろうか。どうやら、“神”を始めとする超常の存在にしかその色は認識出来ないらしい。

 まぁ、早苗自身も大して気にはしなかったので、これはある種余談とも言えよう。むしろ綺麗な緑色で嬉しいな、なんて考えていたほどなのだから、やはり彼女は少し変わっているというか、お気楽というか。

 

 さて、そんな生活――つまりは巫女としての時間が増えた結果、当然ながら早苗は神様と接する機会が増えた。

 優し気な瞳で見守ってくれる凛々しい女神と、楽し気に寄り添ってくれる可愛らしい女神。二人の神の姿はいっそ本当の家族のようで、早苗は彼女らの側が心から安心できた。

 

 荘厳だけれど何処か抜けた凛々しい神は、やはり早苗に優しい言葉をかけることが多かった。

 友人と喧嘩すれば、「素直に謝れば誰だって許してくれるさ」と言う。

 昨晩帰るのが少し遅かったと聞き付けると、「何か危ないことでもあったのかい!?」と言う。

 飄々としているけれど偶に毒を飛ばす小さな神は、親身ながらも少し厳しく言うことも多かった。

 勉強に行き詰れば、「楽しみ方を覚えなきゃ! あとは努力するのみっ」と言う。

 失敗して落ち込めば、「まぁそんなこともあるよね〜。じゃあ次はもっと頑張ろうよ!」と言う。

 

 早苗にとって二人は家族同然。両親に匹敵するレベルの信頼が、二柱に対して築かれていたのだ。

 

 ――さて、ここまで聞いて、きっと“何が問題なのか?”と思った事だろう。

 当然だ。ここまでの早苗は、神を見ることができて髪がちょっと不思議な色で特別な能力が使えるだけの、普通の可愛い女子高生なのだから。

 

 ならば、ここらで語るとしよう。

 早苗のちょっと困ったところを。

 根からの性質故に治すことは出来ず――そも、()質自体が悪質では決してない(・・・・・・・・・・・・・)が故に、“治すべき”と声が上がれば必ず反対意見が待ったをかけるところを。

 

 

 

 ――東風谷 早苗は、異常な程に(・・・・・)純粋な少女なのだ。

 

 

 

 純粋。

 この言葉を甘くみてはいけない。何より、早苗の場合は“邪念や下心を含まない”という意味だけには留まらないのだ。

 底抜けに明るくて、底抜けに優しくて、そして底抜けに素直で正直。

 それは確かに良いところだろう。物事の上に立つ者ですら汚職に塗れているとの声が飛び交う昨今、このような人間がどれだけ稀有なのかは、わざわざ語るべくもない。

 だが、それが“過ぎる”ならば話は少し変わってくる。

 

 “不気味の谷”という言葉をご存知だろうか。

 現代科学の生み出したロボットなどに現れる現象で、“ロボットと人間の類似度”と、それに関係する“人間の感情的反応”を表したグラフの事だ。

 このグラフは、類似度が上がれば上がるほどそれを見た人間の感情は高ぶっていくが、ある一定のところで一気に落ち込み、またある一定のところで急上昇する。その急激に落ち込んだある一定の領域の事を、“不気味の谷”と呼ぶのだ。

 つまり、人間はヒトに似ているロボットに対して感情を高ぶらせるが、“ロボットだと明らかに分かるのにあまりにも(・・・・・)人間に似過ぎているロボット”に対して不気味に感じる、という事である。

 

 早苗の純粋さは、この“不気味の谷現象”と少し似ている。

 

 お世辞を言えば舞い上がるように喜び、冗談を言えばしばらく落ち込み、己の望みにはとことん素直で、けれど拒絶されると自殺すら考える程深く傷付く。

 早苗の純粋さが生んだその行動の一つ一つがあまりにも“過ぎる”為に、周囲の人間は毎度溜め息を吐くほどに色々と振り回されるのだ。

 純粋過ぎるが故に、言葉をその身そのまま受け取って真に受けて、一喜一憂を大袈裟なほど、しかしごく自然に表現する。

 早苗は、そういうちょっと困った子なのである。

 

 そんな彼女と、彼女に寄り添う二柱。

 ――少々厄介な組み合わせであることに、お気付きだろうか。

 

 神は人間に対して言葉(啓示)を授ける。それは本来、人生の中で然るべき時に然るべき方法で役立たせるべき一種の助言(・・)であり、あくまで選択権は人間側にある。だが、早苗はそれをそのままの意味で解釈し、百パーセント吸収してしまうのだ。

 別に彼女の理解力が乏しい訳ではない。色々あれこれなんだかんだと考えた末に、結局“あ、やっぱりこういう事か”と、元の場所に落ち着いてしまうのである。

 “裏の意味”とか、“言葉の綾”とか、まじ意味わかんないのだ。

 

 つまり、早苗は元来の性格的にとんでもなくトラブルを起こしやすい少女という訳で。

 

 だって、そこには悪意も害意も、ほんの一ピコメートルだって含まれてはいないのだから――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「〜♪」

「………………」

「………………」

 

 拝啓。

 何処にいるか分からないお父さん、お母さん、お兄ちゃん――。

 

「……あのさぁ」

「はい♪ なんですか霊夢さんっ♪」

「いや……別に文句言うつもりはないし、ぶっちゃけあたしには関係無いんだけど……」

 

 冷風の吹き始める秋の候、空は晴れ渡り紅葉も非常に美しく、今日は見事な仕事日和です。こんな陽気には日がな一日中鍛治仕事や風紋開発に熱を入れたいところなのですが、まぁなんやかんやと色々あって――、

 

「……あんた、何してんの?」

「何って、見れば分かるじゃないですか。今まさに、吹羽ちゃんを絶賛モフり中で(・・・・・・・・・・・・・)すっ!(・・・) もふぅぅう♪」

 

 ――ものすっごく、面倒臭い人に捕まっちゃってます。助けて欲しいです。

 

「だぁから、なんでそんな事してんのかって訊いてんの! つーかまだあたしの話が終わってないんだけど!?」

「そんな事言われても、こんな天使(・・)を前にしてモフらないなんて出来ませんよ! 山があれば登るって言うでしょう? それと同じですよっ」

「同じなワケあるかあっ!!」

 

 机に両手を叩きつけながら放たれた霊夢の怒声は、外の木に止まっていた鳥達を残らず飛び立たせた。

 しかし、そんな彼女の論を俟たぬ抗議の声をあくまで早苗は受け流す。それはもう、膝に――半ば無理矢理――座らせた吹羽を満面の笑みで抱き締めながら、

 

「もう、霊夢さんは怖いですねぇ吹羽ちゃんっ♪ 何で吹羽ちゃんがこんな人と友達なのか、私には分かりませんよぉ」

「あ、あははは……でも、こう見えて霊夢さんは良い人なので……」

「わぁ! 吹羽ちゃんはやっぱり優しいんですね! こんなの(・・・・)を良い人だなんて、さすが私の天使(マイエンジェル)! やっぱりぃ、私の妹になりませんか? 今なら三食おやつに昼寝付き! お風呂と就寝には漏れなく私が付いてきますよ? 弁論反論審議の余地なく最優良物件だと思うんですが、いかがです?」

「え、えーっとぉ……」

「話をすり替えんなあッ!!」

 

 ひたすらに自由な少女だな、と吹羽は思った。

 出会った当初の「私の妹になりませんか?」という突拍子も無い提案――勿論やんわりと断った――を初めとして、早苗は終始己の主張を正直に言い放ち、行動に移し、思った事は何でも口にしていた。

 素の性格が非常に温厚らしく、喧嘩らしい喧嘩は決してなかったものの、吹羽も霊夢も出会った当初から振り回されっぱなしなのだった。

 何せ怒髪天と化していた霊夢を、なんやかんやで居間の机の前に座らせる(・・・・・・・・・・・)に至った程の自由奔放さである。

 東風谷 早苗は、“天真爛漫”という言葉が生温く感じるほどの素直さを秘めた少女だった。

 

「むぅぅ……吹羽もイヤならイヤって言いなさいよ! そういう手合いははっきり言ってやらないと分からないんだから!」

「えっ……と、イヤっていうより、その……か、絡み方がちょっと面倒臭いと言いますか……」

「そら見なさい! 吹羽もイヤがってるじゃないの! 話が進まないから離れなさいっ!」

「ッ!!? そ、そんな……吹羽ちゃんに嫌われちゃったら私、もう……」

「わ、わーわー! そんなんじゃないですから早苗さん! キライなんかじゃないですから手首見つめないで下さい怖いですっ!?」

 

 まるで百面相だった。

 吹羽を抱き締めては心底幸せそうに顔を綻ばせ、ちょっと嫌われた空気を感じれば瞳から光を消し去り、吹羽の弁明――という名のフォロー――を聞けば忽ち笑顔の花を咲かせる。

 見ている分には面白い――なんて言っている余裕すらもない。その素直過ぎる性格故に、たった今二人はこんなにも振り回されているのだ。

 はぁっ、と重く溜め息を吐くこの顔は、きっとすごい顔をしているのだろうな――なんて徐に思う。

 その事を考えて、吹羽はまた小さな溜め息を吐いてしまうのだった。

 

「……もういいわ。そのままでいいから、さっさと説明してくれる? なんで吹羽はあたしを止めるワケ?」

 

 溜め息ながらに頬杖を突く霊夢は、やはり疲れたような声音で吹羽に問う。

 霊夢に習い、相変わらずにこにこ笑顔な早苗は一先ず置いて、吹羽はその小さな口を開いた。

 

「……簡単な話ですよ。霊夢さんのソレは、ただの勘違い(・・・)です」

「…………は?」

「早苗さんは多分霊夢さんに悪い事をしたなんて思ってませんし、むしろ“当然な事”だと思ってるんじゃないですか?」

「その通りです吹羽ちゃんっ! 私の思ってる事が分かるなんて、やっぱり私たち相性ばっちり――」

「あんたはちょっと黙れ!」

 

 一人しょぼくれる早苗を有意義に無視しつつ、

 

「当然ってどういう事よ!? じゃあ悪いのはあたしの方だってのッ!?」

「ちち、違いますよっ! だから勘違いなんです! お二人とも、お互いに勘違いし(・・・・・・・・)てる(・・)んだと思いますっ!」

「はぁ? お互いに勘違いィ?」

 

 何処までも不機嫌そうなその声音に気圧されながらも、吹羽は小刻みに、だがしっかりと頷いた。

 そう――これは誤解が重なった結果に生まれた、完全なる“徒労”に他ならないのだ。

 

 そも早苗は外来人である。幻想郷のルールにはどうしても疎いし、常識からはかけ離れている――決して早苗の性格が外の世界の常識であるという訳ではない――。

 そんな彼女が、“他の神社に殴り込み”なんていう行動を、自ら選ぶだろうか?

 つまりそれは、こちら側(・・・・)の何者かに誘導された、という事では?

 

「早苗さん、誰かに――というか、この神(・・・)社の神様(・・・・)から、“博麗神社に殴り込んでこい”なんて言われたんじゃないですか?」

「は、はい。私、確かに“神奈子様”に宣戦布告してこいって言われました」

「その時、その方から他に何か言われませんでしたか?」

「他に? いえ、特には言われなかったと思いますけど……」

 

 と、あくまで否定しつつ、早苗は記憶を掘り起こすべく首を傾げる。

 吹羽は彼女が何か思い出す事を半ば確信しながらも、急かす事なく彼女の想起を黙して待った。

 暫くして、早苗は突然顔を上げ――

 

 

 

「そういえば私、“神奈子様の呟き”も参考にして、宣戦布告しました」

 

 

 

 ――それだ、と思った。

 

「それ、どんな呟きですか?」

「んー、ちらりと聞いただけなのであまり覚えていませんが、えっと確か……んん゛!…………“ここでは喧嘩(・・)の前に相手を煽ると聞くが、それも緩い決闘には良い刺激なのかねぇ”……とか言ってたと思います」

「――ッ!! 嘘でしょ……まさか、そういう事なの……?」

「はい……そういう事だと思います……」

 

 早苗の言葉に何か気付いた様子の霊夢に、吹羽は少しだけ苦く笑いながら肯定する。

 額に掌を当て、霊夢は眉を顰めながら早苗を見つめて、

 

「あんた……まさか“煽り合い”が本当の喧嘩の前にするモノだと思ってる?」

「え、違うんですか? だって“喧嘩”ってそういう意味じゃ――」

「違うわよッ! その神奈子ってのが言う喧嘩ってのは、十中八九“弾幕ごっこ”の事よッ!!」

「えっ……えぇぇッ!?」

 

 その時の早苗の表情と言ったら、まさに天変地異を目撃したかような凄まじい形相だった。

 驚愕と絶望を綯い交ぜにしたその表情はいっそ怖いくらいで、吹羽は思わず向けた視線を背けてしまう。

 まぁ、吹羽は今早苗の膝の上に座っているので、前を向いても今度は霊夢の怖い顔が見えてしまうのだが。

 

「ごっ、ごごごゴメンナサイ申し訳ありません許してください霊夢さんっ! わ、わ、私そうとは知らずにものすごい失礼な事を――ッ!」

「そうよやっと分かったかッ! あんた初対面のあたしをどんだけ馬鹿にしたか理解してるッ!?」

「ゴメンナサイぃいっ!!」

 

  “我が意を得たり”とばかりな霊夢の怒声は、純真な早苗には相当に深刻な攻撃――いや、“口撃”に等しかったようで。

 耳元から聞こえてくる彼女の謝罪は、心からのものなのだと自然に理解出来た。

 勘違いと勢いとはいえ早苗は相当に酷い事を言ったようだし、根が優しいだけに自己嫌悪に陥っている部分もあるのだろう。それを考えると少しだけ可哀想な気もする吹羽である。

 ――まぁ当事者である霊夢は、そんな事で容赦などしないのだが。

 

「あんたねぇ、謝って済ませられるならあたしはこんなに怒ってないのよ! 何やらよく分かんない言葉ばっかりあんたは喋ってたけど、相当馬鹿にした内容だったのは雰囲気で分かったわ! 気が付いてる!? あんたは、あたしを、傷付けたの!」

 

 勢いに乗った霊夢は、立ち上がって見下ろすようにして怒鳴り散らす。それを真っ向から受ける早苗は、やはりというか、もう一度謝罪を返すことも出来ずに縮こまっていた。

 霊夢の言い分は確かに正しい。謝られて許せるならそもそも霊夢は大して怒らないし、だからこそ早苗の言葉で彼女は相当に傷付いたという事なのだろう。

 非は確かに早苗にある。

 だが――忘れてはいまいか、と。

 吹羽はちょっとだけ呆れた(・・・)目で、怒鳴る霊夢を見上げた。

 

「霊夢さん」

「何よ吹羽! あたしは今こいつに話を――」

「その前に、ボクの話聞いてました? ボク、“お互いに勘違いした”ってちゃんと言いましたよね?」

「――……え?」

 

 溜め息を吐きつつ、

 

「勘違いっていうか、非は霊夢さんにもあるんですよ? 怒りで何にも頭が回ってなかったんでしょうけど、ボクはすぐに“早苗さんが勘違いしている”って事に気が付きましたもん」

「……えっと……それって――」

「“慌てる乞食は貰いが少ない”という諺があります。冷静さを欠いて、前が見えなくなった霊夢さんも悪いとボクは思いますよ?」

「うっ……」

 

 吹羽がすぐに辿り着いた真実を、普段の冷静沈着な霊夢が見抜けない筈はない。それほどによく頭が回る少女だということを、吹羽はもうずっと前から知っているのだ。

 確かに早苗は酷い事を言ったし、霊夢を傷付けたのだろう。でもそれは規則に疎いが故に生まれた言葉であり、それを掬い取って正しい道へと戻すのは紛れもなく霊夢の仕事。

 “早苗が霊夢の知らない言葉を話す”という時点で、“外来人なのかも”と思わなければならないし、“神社と共に越してきた”という時点で、“早苗は巫女なのかも。そして神に指示されてここに来たのかも”と考えを及ばせなければならない。その上であからさまに煽ってきたのなら、きっと霊夢も“早苗は何か勘違いをしている”という真実に辿り着けたはずなのだ。

 

 お互いが間違った選択をしてしまったのだから、全てを理解した第三者(吹羽)が二人を諌めなくては。

 吹羽が霊夢に付いてきた理由といえば、結局のところそれだけなのだ。

 事実、霊夢は吹羽の説得に何も言い返すことをしない。

 

「ほら、霊夢さん」

「う……わ、分かってるわよ……」

 

 吹羽が促すと、霊夢は若干ばつが悪そうに顔を背けた。耳が少しだけ赤いのは、やはり罪悪感と羞恥に襲われているからだろう。

 そうして、ぽつりと。

 

「…………わ、悪かった、わね。……ちょっと、あたしも……言い過ぎたわ」

「! い、いえ……私も、酷い事言って……ごめんなさい……」

 

 言葉のみでも、しっかりと謝罪し合う二人の姿に吹羽は笑顔で一つ頷いた。

 出会い方は最悪だとしても、仲違いしたままなのはきっとお互いの為にならないし、吹羽も居心地が悪い。

 三者三様理由は違えど、大人数で輪を作れるのならそれに越した事はないのだ、とは吹羽の持論である。

 

 ――と、そうして丸く収まるかと思われたのだが。

 

「で、その神奈子ってのは今何処にいんの?」

「神奈子様、ですか? 詳しくは知りませんが……神社の裏手にでもいるんじゃないですか?」

「……そう」

 

 そう短く応えて、霊夢はすくと立ち上がる。

 先程までの荒々しい雰囲気はとうに消え失せていたが、その手には確かに大幣が握られていて。

 吹羽が慌てて呼び止めたのは、最早条件反射に近かった。

 

「ちょ、霊夢さんっ!? 何する気ですかっ!?」

「何って、話を付けに行くんだけど?」

「えぇっと、その“話”っていうのはあの……所謂、神奈子様にO☆HA☆NA☆SI☆的なアレじゃないですよね……?」

「はぁ? 話は話、他に何があんのよ?」

「いえ、何というか……」

 

 早苗の心配そうな言葉に若干要領が得なかったのか、霊夢は一つ息を吐いて片手拳を腰に当てた。

 そして仕方なさそうに、

 

「あんた達が突然この山に越してきたって件、話を付けてきてあげるって天狗達と約束したのよ」

 

 まぁそれが大義名分だったんだけど。

 目を逸らしてポツリ呟き、

 

「……その神奈子ってのがこの神社で祀ってる神様でしょう? 摩擦がなるべく無くなるように話をしないといけないの。分かった?」

「あ、なるほど……てっきり、私の代わりに神奈子様をサンドバッグにするつもりなのかと……」

「……“さんどばっぐ”ってのがちょっと分かんないけど、なんか失礼なこと言われてる気がするわ」

「き、気の所為です気の所為ですっ」

「…………まぁいいけど」

 

 ――じゃ、大人しく待ってなさいね。

 大人しく、を妙に強調しながらそう言い残し、霊夢はひらひらと掌を振るって居間を出て行った。先程の言葉通り、早苗の言う“神奈子様”のところへ向かったのだろう。

 

「(先の展開が見え透くなぁ……)」

 

 十中八九弾幕ごっこに突入するであろう事を思って、吹羽は見知らぬ神奈子へと労りの気持ちを送るのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――さて、そんな訳で居間に取り残された二人であるが。

 吹羽と早苗、そこに霊夢が加わっていた事で漸く保っていた均衡は、当然の事として崩れ去ってしまう訳で。

 早苗はやっぱり、お茶を入れ直すなりすぐさま吹羽を抱き締めて(捕まえて)、こう言うのである。

 

「さ、吹羽ちゃんっ! 二人っきりですし、もっとお喋りしましょっ?」

 

 お喋りするだけなら抱き着かなくてもいいんじゃ――なんて言葉は、早苗の無垢な笑顔の前には言い出すこと叶わず。

 早苗は面倒臭い人だ、というのは、まごう事なき吹羽の本音である。

 霊夢との会話や今回の一件を思えばそれは疑う余地もなく、そして何より、この状況でそれは最も吹羽の頭を悩ませる要因だった。

 単刀直入に言えば――ボク一人で早苗さんを制御できるのかな――と。

 

「(ま、まぁ、早苗さんはボクに対しては結構肯定的だし、なんとかなる……かな?)」

 

 そう願う他ないな――と、吹羽は無理矢理結論付ける事にした。

 

「そう言えば、吹羽ちゃんに訊きたいことがあったんですよ」

「訊きたいこと? 何ですか?」

「えっとですね、吹羽ちゃんは女の子なのに、なんで一人称が“ボク”なんですか? いえ、“ボクっ娘”というのも私的には全然ストライクなので何の問題もないんですけど……」

 

 ――と、若干分からない単語を交えながら問う早苗に、吹羽は“ああなんだそんな事か”と。

 一口お茶を啜り、吹羽はふと昔を思い出しながら口を開く。

 

「大した理由は無いんですけど……物心付いた頃、お父さんに“男の子らしくしなさい”って教えられまして……」

「お、お父さんに?? え、なんでそんな事を?」

「ボクの家は代々鍛冶屋を営んでいまして、そのぅ……女の子が鍛治職人になるって言ったら、やっぱり相当に厳しい道のりになる訳です。だから、初めは気持ちから入るという事で、男の子っぽくしろと……」

 

 結論から言って、吹羽にそれは出来なかった。

 根からの女の子気質だったのか、本人がどれだけ男の子っぽく振る舞おうと努力しても、非力な女の子の雰囲気が消える事はなかった。彼女の父も出来ない事をやれと言うほど鬼ではなかったので、結局その時に唯一矯正できた一人称だけが後に残ったのである。

 ――ふと、何故この事を魔理沙には問われなかったのか疑問に思う。説明しなくてもいい、という意味ではそれで助かるので、別に構わないのだが。

 

「ふーん……つまり、そのお父さんのおかげで今のボクっ娘天使が誕生したと……感謝しますお父さん、おめがグッジョブ……!」

「さ、早苗さん……?」

 

 言葉は何やら聞き取れなかったが、早苗は辛抱堪らんとばかりのガッツポーズを決めているので、そっとしておく事に。

 そうして一つ息を吐き、吹羽はぼんやりと、今この状況を再確認した。

 そう――そういえば何故自分は、初対面であるはずの早苗に抱きしめられているのだろう、と。

 

「……さ、早苗さん……?」

「はい♪ 何ですか吹羽ちゃん♪」

「えと、その……早苗さんは、なんでボクに、こんなに優しくしてくれるんですか……?」

 

 そもそもだ。吹羽と早苗は正真正銘の初対面であり、強いて言うなら吹羽はむしろ彼女に危害を加えそうになった側である。それなのに何故、早苗はこんなにも吹羽を受け入れているのか甚だ疑問なのだ。

 ――まぁ、少し考えを及ばせれば突き当たる可能性はあるのだが。しかし、吹羽は早苗にソッチの気(・・・・・)があるとはやっぱり思いたくなかった。

 一人内心で疑問を並べる吹羽に、しかし早苗はきっぱりと、

 

 

 

「カワイイからです!」

 

 

 

 ――ああ、この人やっぱりダメかもしれない。

 

「良いですか吹羽ちゃん? 外の世界にはこんな格言があります……そう、“カワイイは正義”と――ッ!」

「せ、セイギ?」

「そう、正義です! カワイイ子は須く正義であり、あらゆる事象の正当化が許されるのです!」

「は、はぁ……」

「例えば、ある曲がり角で男性と不注意な女の子がぶつかるとします。本来なら女の子に非があるのは確定的に明らかですが、仮にその子が超絶カワイイ子でおまけにぶつかった拍子に下着まで見られたとしたら、多くの男性は思わず自分で非を認めてしまい、結局女の子は許されてしまうのです! この法則の事を私はこう呼んでいます……“カワイイから許すの法則”と――ッ!!」

「――……」

 

 支離滅裂ここに極まれり。

 吹羽は早苗の熱のある弁舌にひたすらそう思った。だって、それってつまり“可愛ければ何もしても良い”と言っているようなものではないか。

 まさか、早苗は本気でそんな事を思っているのだろうか。そしてこれが外の世界での格言ということは、まさか外の世界ではこの言葉が皆に受け入れられているのだろうか。

 だとしたら、そんな道徳心の欠片もない世の中なんて怖過ぎである。

 外の世界、コワイです。

 

「という訳なので、吹羽ちゃんも私に遠慮なんてしないで下さいね? 困った時には何でもお姉ちゃんに任せて下さいっ!」

「え、えと……わ、分かりました……」

「はい♪」

 

 ……何というか、何処か慣れない感覚だった。

 早苗は確かにちょっと変な人だが、他人にこんなにも優しくされたことは今までに無い。――いや、ここまでの素直な好意を寄せられたことが、吹羽には無いのだ。

 霊夢も阿求も魔理沙も、吹羽の事を嫌いだとは決して言わないだろう。だが早苗のようにはっきりと好意を口にしたりもしない。そんな小っ恥ずかしい事を言えるのは、強いて言えば記憶に残る吹羽の家族くらいなものである。

 故に、早苗とこうして接するのは何処かこそばゆいというか、ふとした瞬間にこっちまで顔が熱くなってきそうなのだ。

 しかし、本当に“それ”だけでこんなにも好意を抱くものだろうか――

 

「まぁ――」

 

 と、早苗の顔を見上げると。

 本当に女神のような、優しい微笑みを浮かべていて。

 

「早苗さん……?」

「さっきまでのは……全体の三割くらいでして」

「一応本音なんですか……」

「もちろん。私は嘘つけませんので。でも本当の理由は……」

 

 そっと、吹羽の真白な髪を撫でながら、

 

「なんだか、吹羽ちゃんに親近感(・・・)を覚えたからなんです」

「し、親近感……ですか?」

「はい。上手くは、言えないんですけど……」

 

 ――親近感。親近感とな。

 今の早苗が、先程までのような破天荒な話をしている訳でないのは雰囲気から分かる。これは至極真剣な話であり、その親近感とやらも本当に感じた事なのだろう。

 だが――それはそれとして、吹羽は当然小さく首を傾げた。

 だって、吹羽と早苗は似ていることの方が少ないと言わざるを得ないのだ。

 生まれも違うし、きっと境遇だって違うし、髪の色も瞳の色も背の高さも年齢も、ついでに胸の大きさだって天と地の差。逆に何が似ているのか、共通点は何かと問われれば、吹羽はきっと「えっと……同じ女の子ってところ……かな?」と同意を求めるようにして答えるに違いない。それほど根本的(・・・)なところでなければ、吹羽と早苗に共通点など見出せないのだ。

 それなのに、“肉()のように()()じる”とは――。

 

「ま、まぁ、なんとなーくそう思っただけですよ! もしかしたら本当に私が吹羽ちゃんに一目惚れしただけかも知れませんしっていうかその可能性が大なんですけども」

「ひ、一目惚れ……っ!?」

「そうですよー? だから吹羽ちゃん、やっぱり私の妹になりませんか?」

「なりませんよっ!? ボクにはお兄ちゃんがいるんですから!」

「じゃあそのお兄さんと結婚したら、吹羽ちゃんが妹になってくれる訳ですね?」

「そこまでするんですかあっ!?」

 

 この少女、やはりタダ者ではない。薄々勘付いてはいたが、それが吹羽の中で確信に変わった瞬間だった。

 本気なのかどうかは定かでないとしても、そんな小っ恥ずかしい事を平気で言える度胸と後先は考えるけれども結局空回る行動力――“乙女”としては無敵なのではないかと、吹羽は開き直って思い耽る。

 吹羽は霊夢に敵わないが、きっと早苗にも敵わないのだろうなぁと、溜め息ながらに思うのであった。

 

「さ、もっともお〜っとお話ししましょっ! あ、お茶もっと飲みますか? クッション使います? 寝転がって枕にすると気持ちいいですよ? ほぉら!」

「あわわ、ちょ、まっ――あっ、ホントに気持ちいいですぅ……」

「ふふふ、可愛いなぁ……」

 

 相変わらず早苗のペースに呑み込まれてはいるが……まぁ、退屈はしないからいいか。

 霊夢が帰って来るまでは、そう思い込むにしよう、と。

 “現実逃避”なんて言葉は、浮かんだ傍から思考の外へと叩き出す吹羽であった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「〜〜♪♪」

 

 ――少女が、歩いていた。

 外見としては、非常に可愛らしい少女だった。身長は低く体躯は華奢で、金色の艶やかな髪は僅かなスキップに揺れている。陽光に照らされればきっと金糸の如き繊細な輝きを放つだろう事は想像に難くない。

 顔立ちは人形のように整っているが、身長に相応な幼さはやはり顔を覗かせ、美しいというよりは可愛らしいという印象を受ける。

 掌が隠れる程度に大きいその服装は、だらしないと言うよりもむしろ何処か“柔らかさ”のような雰囲気を感じさせた。

 ただ、その可愛らしい頭に被るちょっと不気味な帽子が、彼女の人間に在らざる何よりの証とも言えた。

 そんな、少女が。

 見るからに上機嫌な様子で、自身の神社(・・・・・)の中をとてとてと歩いているのだ。

 

「――けろっけろっけろっ、いざっすすっめ〜! ちきゅっうしんりゃっく、せ〜よ〜♪」

 

 ――と、その浮き上がるような気分を反映するかのように、鼻歌は明確な歌詞を持つ“歌”へと進化して。

 カラフルな音符が飛び散るようなこの声音は、きっとそれを聴くだけの者でさえ陽気な気分にさせるのだろう。

 実に――実に実に気分が良い、と。

 少女はその笑顔と声音の裏で、確かにそう謳い上げていた。

 

 それが何故か――というのは簡単な話であった。要は、引っ越し先(・・・・・)の居心地が期待以上に良かったのだ。

 少女は外の世界で否応無く、そしてどうにも避けられざる死活問題(・・・・)に陥っていた。それはまぁ簡単に言えば“時代の流れ”というもので、人に在らざる強大な力を持っていた少女でさえ回避は不可能。ただ、消え去るのを待つのみだった。

 

 それを根本から覆す――つまりは、“時代の流れ”という逃れようのない影響力からすらすっかり抜け出す事の出来る策というのが“引っ越し”――幻想郷への移住(・・・・・・・)だったのだ。

 

 そうして越してきたら、なんだ。

 枯渇寸前だった生命力が、湧き水の如く溢れてくるではないか。

 消え入りそうで、今にも心慌意乱へ真っ逆さまに飲み込まれそうだった我が身が、頭からつま先まで生命力に満ち溢れているのがよく分かる。

 ただ越してきただけで、少女は避けられざる死の宿命(さだめ)からいとも簡単に抜け出すことに成功したのだ。

 

 これを喜ばずして、一体何に喜ぶというのか――ッ!?

 

 陳腐な表現をすれば、“幸せいっぱい幸福感いっぱい”なのだ。こんなにも生きている事に歓喜するのは、きっとこの先未来永劫ありはしないだろう。鼻歌に自然と歌詞が混ざるのも当然というものである。

 

 故にこそ、現在の少女の機嫌といえば、それが渺茫(びょうぼう)たるものなのは想像に難くない。

 少女はその一々の立ち振る舞いから、今の気分をこれでもかと発していた。

 

 ――と、そんな彼女の耳に。

 小さな歌声が聞こえてきたのは、その時だった。

 

「……けろ? これ、早苗の声……子守唄?」

 

 なんで子守唄なんか? と、少女はぽつり思った。

 だって、この神社には少女を含めて三人しか住んでいない。この通り自分と早苗と、あと一柱の神が住んでいる。

 だがその神も今は取り込み中らしく、湖の方でさっき見かけたし……。

 まさか自分が眠る為に自分で子守唄を歌うなんて、そんな奇ッ怪な行動には流石の早苗も出ないだろうし、一体何故?

 少女は好奇心のまま、声の聞こえる方へと足を運ぶ。その足取りも、無意識のうちに抜き足差し足。

 辿り着いた居間の襖は、幸いな事にも覗き見できる程度には開いていた。

 そっ、と目を寄せると――、

 

『ねんねんころりよ、おころりよ……ぼうやはいい子だ、ねんねしな――……』

 

 覗いた先の居間では、早苗と見知らぬ少女が並んで横になっていた。

 早苗は傍にすぅすぅと眠る少女の頭を優しく撫でながら、透き通るような声音で小さく歌っている。

 少女は少しだけ納得して、音を立てぬようゆっくりと襖を開けた。

 

「――ぁ、諏訪子(すわこ)様。どちらにいらしてたんですか?」

「どこにも行ってないよ、早苗。ちょっと浮かれて散歩してただけ。それよりも――」

 

 音に気が付いた早苗の言葉に、少女――洩矢(もりや) 諏訪子(すわこ)は掻い摘んでそう語る。勿論、“嬉し過ぎて外の世界の某宇宙人のテーマを歌っていた”なんていうちょっと恥ずかしい事実も全て“掻い摘んで”の部分にしまい込んでいる。

 諏訪子は視線を早苗から外すと、言葉の端に重ねるように眠る少女――吹羽を見遣った。

 

「ああ、この子ですか? この子は風成 吹羽ちゃんですっ! ついさっき知り合ったんですけどね? 私ったらもうこの子に一目惚れしちゃいましてっ! だってこんなにふわふわしてるんですもんそりゃあもふもふしたくもなりますよね、さっきまで一緒にお喋りしてたんですけど眠くなったと言うので寝顔を拝見もとい休ませる為に子守唄を歌ってましたっていうか何かしてないと理性が保てなくなる気がしたのでっ!」

「ああ、うん……なんとなく分かったよ……」

「はいっ!」

 

 ああ、早苗の笑顔が眩し過ぎる。相変わらず混じり気の一つも無くて、この吹羽という女の子を本当に気に入ったのだろう事がありありと見て取れた。

 

 ――本当、久しぶりに早苗の発作(・・)が始まってしまった、と。

 

 早苗のちょっと困ったところ。長年彼女の側にいる諏訪子は、当然その事を熟知していた。

 早苗の“歯止めの効かなさ”には度々振り回されてきた――そも、この手(・・・)の発作の初被害者は諏訪子自身だった――し、実際今でも“どうすんのこれ?”とばかりに辟易することは少なくないけれど、最近はまだ鳴りを潜めていたと思ったのに。

 

 ああ……思い出せば、早苗と初めて出会った時もこんな感じだったっけ。初めはなんて失礼な子なんだと思ったものだが、この笑顔の前ではあらゆる怒りが弾け飛んで消えてしまう。

 恐らく、この吹羽という少女も早苗には相当振り回されただろうが、それでも今こうして彼女の腕の中で大人しく寝息を立てているのは、きっと吹羽も彼女の性格――本質をなんとなく感じ取り、無意識に安心したからなのだろう。

 でなければこんな……天使のような可愛らしい表情で、眠ることなど出来るはずがない。

 

「(――?)」

 

 ふと、すぅすぅと眠る吹羽を眺めて、諏訪子はある一点に目を止めた。

 それは彼女の胸の辺り。横を向いて寝ている為“それ”は畳について落ちているような形になるが、確かに吹羽の白い首に掛けられていた。

 ――翡翠色の勾玉が通された、古いペンダント。

 諏訪子は、一見古臭いだけのそのペンダントの、異質な存在感(・・・・・・)に気が付いた。

 

「(これは――いや、でもなんで……)」

 

 そのペンダントから感じる“モノ”に心当たりはありながら、しかし諏訪子は疑問を抱いた。

 確かにその存在感はとても微かなものだ。諏訪子からしてみれば、今にも消えてしまいそうなほど小さなモノ。

 実際、彼女を半ば抱きかかえるような体勢の早苗ですら、ペンダントは気にも止めていないようだった。

 

「………………」

「? どうかしたのですか諏訪子様?」

「……んにゃ、何でもないよ。わたしはまた散歩でもしてくるから、その子の事よろしくね」

「あ、はいっ」

 

 今考えても仕方ない――と頭の中で論を結び、諏訪子は身を翻してそう言った。対する早苗の元気な返事を背中越しに聞いて、諏訪子は廊下へと出てとすん、と襖を閉める。

 一つ、眠っていた吹羽とペンダントを思い浮かべて、

 

「(――まぁ、いいか。重要なことでも無し、それとなく神奈子にでも訊いてみよ)」

 

 改めてそう思い返して、諏訪子はすぐさま吹羽の事を頭の隅へと放り投げた。

 興味は湧くが、今はそんな事重要じゃあない。今自分に必要なのは、この溢れ出る歓喜を飽きるまで謳歌する事なのだと彼女は既に知っていた。

 

 さぁ、また始めようじゃないか――ッ!!

 

 無意識に浮かぶメロディーを、しかし再び鼻歌から始めてスキップする。

 神社に住む二人――そして現在訪れている二人には、終ぞバレることはなかったのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――何だろう、この状況は?

 守矢神社の祭神、八坂(やさか) 神奈子(かなこ)との弾幕ごっこ(話し合い)を終えて居間に戻ってきた霊夢は、まず初めにそう思った。

 

 いや、分かってる。今回に限っては自分が“歯止め役”なのだと自覚していながら、二人を居間に置いて行ったのは自分だし、勝ちはしたが弾幕ごっこに時間をかけてしまった事も原因だとは思われる。その成果あってしっかりと“交渉でも何でもして天狗と仲良くしろ”と要求を呑ませる(命令する)ことは出来たのだが、内心では珍しくも自分の非を全面的に認めている霊夢であった。

 だが……霊夢と吹羽、早苗は知り合ってせいぜい一時間あまり。

 少し歯止め役が居なかったからって――普通、添い寝(・・・)なんかしますか?

 ってか、早苗に至ってはもう八割方吹羽に抱き着いてるんですけど?

 

「ほんと……何やってんの、こいつ……」

 

 早苗の幸せそうな寝顔を見て、霊夢はもう苦笑いしか出なかった。

 別に吹羽が誰と仲良くしようが霊夢の知った事ではない。冷たく聞こえるかもしれないが、それが“何者にも干渉されない”能力を持つ霊夢の性分である。吹羽のことは大切な友達だと思っているが、親ではないのだ、交友関係になんて口は出さない。

 ただ、早苗から変な影響を受けなければいいが――と、それだけが唯一心配だった。

 

 ここに来て初め。居間での会話を見ていた感じ、吹羽は始終早苗の勢いに気圧されていた。しかも済し崩し的に早苗の要求を呑む形で。

 吹羽は大人ぶろうとする割に性格面精神面がまだ子供だ。故にこそ感受性が高く、またあらゆる影響を受けやすい。

 そんな彼女が、あの(・・)早苗に影響されたら――。

 ……想像を続けると砂になりそうだったので、霊夢は大きな溜め息と一緒に心配の全てを吐き出した。

 もう、考えるの()そう――と。

 

 ――取り敢えず、早苗を起こさなくては。

 霊夢は心底幸せそうに寝息を吐く早苗に寄り、肩を強めに揺らした。

 

「……ねぇ、ちょっと。起きなさいよ」

「ぅ〜ん……うぇへへぇ〜、ふうちゃんもふぅ〜もふぅ〜……ぅぅ……」

「どんな夢見てんのよ……っ、いいから起きなさいって――ッ!」

「ぅにゃいっ!? な、なんですかぁ〜……あ、霊夢さん。お帰りなさいですぅ……」

 

 眠そうに見上げてくる早苗に、しかし霊夢は容赦無く再度その脳天に大幣の小突きを落とす。

 一見態とらしいとすら思える痛がり方をする早苗だが、それが“素”なのだと知った今では、もはや霊夢の内に苛つきが燻ることはない。

 我ながら今日は酷い恥をかいた――と思い返しながら、勤めてそれを顔に出さぬよう、霊夢は。

 

「ほらさっさと退きなさい。吹羽を連れてもう帰るから」

「えぇ〜、やっぱり連れて行っちゃうんですか? 私としてはずっとここに住んでくれてもいいんですけど……」

「無茶言うんじゃないわよ。そいつにも仕事があんの。今日だって臨時休業させて無理矢理連れてきたんだから」

「ぅぅ……それじゃあ仕方ありませんね……今、吹羽ちゃんを起こしますから……」

「ああいや――……」

 

 ――と、寸前で引き留める霊夢を、早苗は不思議そうに見上げていた。

 霊夢はその視線から目を逸らすように吹羽へと移すと、その安らかな寝顔を見て、一つ息を吐く。

 

「――起こさなくていいわ。あたしが背負っていくから」

「え……なんでです?」

「なんでもいいでしょ。ほら退いた退いた!」

「うあ!? ちょ、退きますから! 今退きますからちょっと待って――っ!?」

 

 早苗を追い払うように退かせると、霊夢は眠る吹羽をよいしょと背負う。

 少しだけ乱暴に背負ったのだが、吹羽は相変わらず安らかな寝息を霊夢の耳元でたてていた。

 

「(やっぱりよく寝てるわねぇ……まぁ、今日はちょっと苦労かけたし、無理もないか)」

 

 事の顛末を思い返して、霊夢はぽつりと考える。

 お昼休憩している時に、らしくもなく怒り狂った状態で訪ねたことも然り。突然天魔の前に連れ出して、あげく引き合いにすら出したことも然り。

 霊夢自身にも余裕がなかったとはいえ、本来なら部外者である吹羽には少々悪い事をしてしまった。その心労と言えば、発端たる霊夢の想像できるものではなかったろう。面倒事の予感はしていただろうに、それでも付いてきてくれたのだから、やはり吹羽はお人好しである。

 

 でもそれが分かっているからこそ、心に燻った僅かな罪悪感を霊夢は素直に認めることが出来た。今日はさすがにやり過ぎた――と。

 だから、“気持ち良く寝ているのだから起こさないでおこう”というのが、霊夢のささやかな罪滅ぼしなのだった。

 

「あの、霊夢さん……」

「………………」

 

 飛び上がる直前、かけられた早苗の声に霊夢は足を止めた。

 何た言いたげで、でも何も言い出せないでいるかのようなその詰まった(・・・・)声に、霊夢はふと真横の吹羽の顔を見遣る。

 こんな苦労をしてまで、この子は自分と早苗の仲を取り持とうとしたのか――と。

 意を、小さく決して。

 そして霊夢は、振り向かないまま、

 

「今日は……悪かったわ。あたしがもっとしっかりしてれば、こんな面倒なことにはならなかったと思う」

「へっ!? あ、いえそんな……私も酷い事を、その……言ったので……」

 

 今になってみれば、早苗も随分としおらしくなったものだ――なんて思いながら振り返って、

 

「守矢神社一行。博麗の巫女として、あんた達を歓迎するわ。あんた達は、これからはもう立派な幻想郷住民よ。だからまぁ……またウチにも来なさいな。お茶くらいは出すから」

「……は、はいっ! また今度です、霊夢さん!」

「ええ、またね……早苗(・・)

「……ぁ、なまえ……」

 

 それだけを言い残し、霊夢は吹羽を背負って空に飛び上がる。

 背の方からは、早苗の「また今度ー!」という見送りの言葉が聞こえた。

 

 初めこそこれ以上ないほどにギスギスしたが、まぁこれで良かったのかな、と思う。

 “自分に尽くしてくれた友人”に報いるのには、それなりに釣り合う結果なのではないか――と。

 

 そろそろ朱色に輝き始めるであろう太陽が見える。

 照らされた霊夢の表情は意外にも、僅かに――本当に僅かにだが、確かに頰が緩んでいた。

 

 

 




 今話のことわざ
(あわ)てる乞食(こじき)(もら)いが(すく)ない」
 慌てて物事を急ぎ過ぎると、結果的に失敗したり、かえって損をしたりするということ


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第十二話 火種の影

 

 

 

 “人間の里”とは、文字通り幻想郷に住まう人間の為に作られた場所である。

 外の世界の基準で言えば、その様式としては明治時代――普段から着物を身に付けていておかしくない時代だ。

 八百屋に宿屋、飯屋、寺子屋。時代を感じさせるそれらばかりが行く道を彩り、

便利なお店(コンビニエンスストア)超大型百貨店(デパート)なんて、いつになったら建てられる事やら。

 “古き良き日本の風景”と言えば、強ち間違ってはいないのかも知れないが。

 

 ところで、幻想郷と外の世界の違いとは何だろう?

 様式が、遅れているとはいえ“外の世界の明治時代”と言い表わせる程度に進んではいる幻想郷は、外の世界の“本当の明治時代”とは何が違うのか。

 ――焦らすまでもない。当然それは、神や妖怪の有無だ。

 

 そも幻想郷は、妖怪を始めとした幻想の(・・・)存在(・・)を永らえさせる為に創られたと言っても過言ではない。

 かの大妖怪、八雲 紫が夢見たと言われる“人間と妖怪の共存”は、幻想の存在を永らえさせる事で初めて成り立つ。人間は勝手に繁殖して蟻のように増えていくが、当時の妖怪は減少の一途を辿っていたのだから、まぁ当然と言えよう。

 幻想の存在は、人間がそれらを信じ畏れる事で形を成す。

 幻想郷に人間が住んでいるのは“共存”という夢の一環であり、また見方を変えれば、妖怪を永らえさせる為の必要条件だったに過ぎないのだ。

 

 さて、ここで本題である。

 “妖怪が存在する世界の明治時代”である人間の里には、妖怪が出歩いていることも意外と多くある。

 なんとなく立ち寄った者もいれば買い出しに来た者もいる。花の種を買いに来た者もいれば、人間と遊びたくて来る者もいる。

 ただ共通しているのは、その何れもがある程度温厚であり、礼節さえ守れば普通に接せられる相手だということ。

 人間を見つけたからと言ってすぐさま襲い掛かるような、知性の低い妖怪ではないのだ。

 では逆に、人里の人間が恐れる(・・・)妖怪とは何か。

 

 一つは当然、知性の低い妖怪。

 人語を操ることは出来ず、本能でのみ行動して仕留めた獲物の肉を貪り食らう低級な妖怪。

 そしてもう一つは――知性を持ちながら、しかし意図して(・・・・)人間を気嫌う、もしくは突っ撥ねる妖怪である。

 

 ――この日、慧音は見た。見てしまったのだ。

 

「な……な――……」

 

 人間達が恐れる妖怪とは、自らの意思で人を襲う妖怪。

 そして、そこから考えられる最悪の事態とは――、

 

「何が一体……どうなっているッ!!?」

 

 

 

 そんな妖怪達が、大群で以って里を襲う(・・・・・・・・・・)こと(・・)。――これに尽きるのである。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――時は遡って、数刻前。

 風成利器店の工房では、今日も今日とて熱と鋼と風の舞う鍛治作業が繰り広げられていた。

 今日の注文は現時点で三件。一般包丁の研磨と農業用の風紋鎌の注文、後は出刃包丁の作刀である。

 が、先日の臨時休業でやり残した仕事がまだ仕上がっていない為、正確に今日の仕事を連ねるならば、合計で五件である。

 故にこそ、作務衣を来て髪を束ねた、所謂“仕事モード”である吹羽にも、今日は中々熱が入っていた。

 

 ――熱というか、焦りにも近い心象かも知れないが。

 

「ぅぅうっ! 今日は仕事が多過ぎですぅっ!」

 

 カンッ――と大きく金槌を振り下ろして、吹羽は心の内に燻る思いを大きく吐き出す。力強く打ち付けられた鋼が大きく凹み、真っ赤に染まった火花を散らした。

 考えても見よう。

 一日に仕事が五件――一般的に言えばこれは確かに多い数字ではない。何なら半日あれば十分に終わらせられるし、ついでに帰り道に何処かで寄り道してもきっと日が沈まぬ内に帰宅することができる筈だ。

 しかし、風成利器店が扱うのは主に自家製の刃物――鍛治仕事である。

 研磨だけならまぁ、少し時間をかければ終わるだろう。しかし一振り創り終えるとなれば、所要時間の単位は当然“云々時間”である。

 一日に五件――研磨の仕事を含めても、今日の吹羽は大忙しなのだ。

 

「(繁盛するのはいいんだけど、忙し過ぎるのも考えものだよぅ……)」

 

 そもそもは霊夢が悪いのだ。

 お昼の休憩中に突然家に来て、半ば誘導される形でついて行く羽目になった。お陰で早苗に出会うことが出来たというメリットはあったものの、それを差し引いて余りある苦労を吹羽はあの日を体験したのだ。これを霊夢の所為にして何が悪い。

 いや確かに? 最終的について行くことにしたのは吹羽自身ではあるが? それにしたって何故あんな苦労をしなければならなかったのか今でも納得いかない。連鎖的に、今もこうして苦労している訳だし。

 

「――……」

 

 いや、止めよう――と思い直す。

 人の所為にしても救われる訳ではないし、自分が惨めになるだけだ。

 よくよく考えてみれば、霊夢だって帰り道は眠ってしまった自分を負ぶって来てくれたらしいし、きっと労ってくれたのではないだろうかと思う。

 あの霊夢である、当然吹羽を叩き起こして帰るという手も思い付いたはずなのに、しかしそこを敢えてそうせず、面倒にも負ぶって来てくれた。

 これは彼女なりに、吹羽のことを考えてくれた証なのではないだろうか。

 

 ――うん、ちょっと落ち着いてきた。

 

 きっとアレだ、心の負担が少々大きかった所為で荒んできているんだ。

 もっといつも通りに、前向きに。

 吹羽は一つ大きな深呼吸をすると、一先ずは手に握った金槌をそっと側に置いた。

 

「……ちょっと休憩入れようかな」

 

 溜まった仕事を片付ける為に吹羽は朝から働き詰めである。普段はもう少し休み休みに仕事をするが、今日はそれをする時間も惜しかったのだ。気が付けば、もう正午を過ぎようとしている。

 きっと、こんなにも苛々するのは働き詰めで疲れているからだ。少し休めば、またいつも通りの笑顔を取り戻せる。

 吹羽は後ろにまとめてある髪束に手を伸ばすと、髪を引っ張らないようゆっくりとゴムを抜き取る。

 真白な髪が、風に乗ってふわりと広がった。

 

「ふー……」

 

 来客――主に霊夢と阿求――用に置かれた椅子に座って、吹羽は一息吐きながら背を壁に預ける。

 全身の力を抜くように目を瞑ると、吹羽の意識は、敏感になった身体中のあらゆる感覚の渦にすぅと呑み込まれていくようだった。

 

「――懐かしい、かなぁ……」

 

 薄く目を開き、少しだけ煤で黒くなったような工房の中を軽く見回す。

 囁くような小さな声で。

 ぽつりと言葉が漏れたのは、ほぼ無意識に近かった。

 

 ――記憶(・・)を、感じたのだ。

 

 工房の中には、柔らかい風が流れている。それが鉄と煤の匂いを運び、汗の伝う身体を労い、吹羽の心に元気を漲らせる。

 吹羽は風が好きだ。それが“風の一族”たる風成家の末子故にこそなのかは定かでないが、とにかく吹羽には、自分は風が好きなのだと断言することに何の躊躇いもなかった。

 昔から風が好きで、それをいつまでも感じていたくて、人の身で風を操る風紋の技術を修めた。

 厳格な父と優しい母と大好きな兄が常にすぐ側にいて、残念ながらこの(・・)工房ではないけれど、大好きな人達に囲まれていたその頃のことを、“今”ここに流れる風は思い出させてくれるのだ。

 

 そう――まだ心に“孔”のなかった、あの幸せな頃を。

 

「……っ、いけないいけない、しっかりしなくちゃ」

 

 じわりと溢れそうになった感情を振り払い、吹羽は自らを奮い立たせるように腿を叩いて立ち上がる。

 そうだ、今だって十分幸せじゃないか。霊夢がいて、阿求がいて、魔理沙がいて、沢山の人達に自分は生かされている。そんな(てい)の癖して、こんな湿ってぐちゃぐちゃになった気持ちなんて持っていてはいけないし、見せてはいけないのだ。

 たとえ空元気だとしても、いつだって笑顔で、溌剌として! でなければ、客商売なんて出来やしないっ!

 

「――ぃよし、再開しよっ」

 

 小休止を経てある程度の元気を取り戻すと、吹羽は早速置いておいた金槌を手に取った。火をもう一度起こして、温度を見定め、真っ赤に染まった灼熱の炉へと鋼を挿し入れる。炉の赤々とした炎は見つめる瞳と肌に焼き付くようだったが、吹羽はそれに、何処か安心するような感覚を覚えた。

 そうして赤めた鋼に目掛け、金槌を振り上げる。

 ――丁度、その時だった。

 

「御免ください」

 

 大きくはないが、良く通る澄んだその声に吹羽はピタリと手を止めた。

 お客だ。しかも、声音から予想するにそれ程お年を召されていない。

 正直に言って珍しい客だった。風成利器店は刃物とそれを伴う農具を扱う店であり、特別な理由(・・・・・)がない限りお客に武器を所持させる事はない。だから自然と客層は壮年から上が厚いのだ――霊夢や阿求は“店のお客”として来ることが殆ど無いのでノーカウント――。少年少女の来店数など言わずもがな。

 ――しかし、工房の入り口に佇んでいたのはフードを深く被った、吹羽と同じくらいの背丈をした子供だった。

 

「い、いらっしゃいませ……どういったご用件ですか?」

「コレを診て貰いたいのです。最近、あまり調子が良くない」

「は、はい。お預かり――っ!?」

 

 子供が差し出してきたのは、幅の広い太(・・・・・)()

 それはどう考えても子供が持っていていい大きさの刃物ではないし、何ならその重量故に振り回すことすら子供には難しい――つまりは持っている意味がないとさえ思える。

 だが、吹羽が真に何よりも驚いたのは其処ではなかった。

 少々慎重に、鞘から刀身を引き抜く。現れたのは、多少荒いながらも十分に“いい出来だ”と評価されるであろう白銀の刀身だった。そして其処には――紛れも無い、風紋(・・)が刻まれていて。

 

「こ、この刀は何処で……あ」

「ふふ、驚きましたか? 私たち下っ端(・・・)にも、そういう刀は支給されているんですよ」

 

 その、聞き覚えのある声に。

 頭の中で浮かんだ推測が、一瞬で確信へと塗り替わった。

 

 この刀の紋は確かに風紋だ。見間違う筈はない。だが、吹羽はこんな刀を打った覚えも風紋を刻んだ覚えもないし、そも先述の通り風紋武器を所持するには理由がいる。

 だが、この人は持っていた。

 持っているはずがない刀を。あるはずのない風紋武器を。

 ならば、この人は――。

 

「此間ぶりです、吹羽さん」

「も、椛さんっ!?」

 

 フードを取った子供――犬走 椛は、その微笑みの上でピコピコと耳を震わせていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――一つだけ、鳳摩には懸念するべき事(・・・・・・・)があった。

 

 先日、博麗の巫女が連れてきた風成 吹羽という少女。彼女の存在を知る事ができたのは、天狗として非常に大きな意味があったと言えよう。何せ長らく交流のなかった、天狗と唯一寄り添っていた一族の生存報告と同義である。友人の無事を知って喜ばぬ薄情者などこの世にあろうか。

 天狗は、吹羽の一族――風成家と大昔に友好を結んだ。普通なら敵対して然るべきである人間と結んだその友好は、しかし逆に、両者間の繋がりの強さそのものを示している。だから今でも天狗は――少なくとも鳳摩は、風成家を永遠の戦友(とも)と呼ぶのだ。

 だが、友好関係の亀裂(・・・・・・・)というのは、往々にして起こりやすいモノでもあり――。

 

「……ふむ、まぁ――仕方のないこと、なのかも知れぬのう……」

 

 執務室の椅子で、ぼうっと虚空を見つめてぽつりと零す。それは確かに諦観を含んだ声音ではあったが、それ以上に昔を懐古し、そして同時に悲嘆するかのような響きを孕んでいた。

 悲嘆――そう、鳳摩は“ある一人の少女”を想って、嘆いていたのだ。

 

 哀れ、きっと少女は復讐(・・)に燃えている。

 こうなる事が運命だったならば、彼女の戦いは“あの日”から始まってすらいなかったという事なのだろう。

 風成 吹羽という少女が――いや、風成家が未だ潰えていないと分かった今、この先にどんな展開が待ち受けているのかが火を見るより明らかに予測出来る。

 鳳摩は知っていた。

 “この問題”は、己が介入してはならないモノなのだ――と。

 

「……ふむ。それならば、儂はどうするべきなのか……」

 

 “懸念すべきその時”が訪れるその時に、一体自分は何をするべきなのか――と。

 鳳摩は天魔だ。天狗たちの首領。空の体現者。そして同胞を束ね導き、未来を見据える者であらねばならない。

 内側で燻り続ける“負の思想”を、放って置くことなど、彼には出来ない。

 

「さて、では……どうしたものかのう……?」

 

 そう気を抜くように呟いて、再び虚空を見つめ始める鳳摩の瞳は。

 しかし僅かに、思い詰めた色をしていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「なるほどぉ……」

 

 椛の刀を診ていた吹羽は、その刀身に視線を滑らせながら感心の吐息を零した。

 そのすぐ横では、フードだけを取った椛がその手元を覗き見る。吹羽がどこを見て感心したのか、興味があるようだった。

 

「確かに古い型ですね……それも大昔です。ボクが使ってる風紋の前の前の前の……まぁ、すっごく前の型だっていうのは形から分かるんですけど……こんなの初めて見ましたぁ……」

「……直せそうですか?」

「あ、それはご心配なく。紋が少し削れてしまって、上手く風を流せなくなってるだけですので」

 

 ――と、吹羽は刀身をゆっくりと撫でながら答える。

 指先から伝わる感触。この古い風紋は、本来の紋よりも表面が僅かに欠けてざらついていた。これでは風を流すのに効率が悪いし、破損もしやすい。

 ダメ出しを敢えてするならば、風紋自体の形が悪く、御粗末な出来と言わざるを得ないほどだ。

 

 吹羽は早速、様々な工具が並べられた棚をガサゴソと弄り始めた。やがて棚から取り上げたのは、彫刻刀にも似た刃を持つ数本の工具。そして小さめの金槌だった。

 

「前に聞いたことがあるんです。“嘗ての風紋は斬る事のみを志向し過ぎて、もはや刀を消耗品へと劣化させていた”って。その意味が今やっと分かりました」

「……? どういう意味です?」

「この刀の風紋、刃部にしか風を纏えないようになってるんですよ」

 

 とんとん、と指で叩くのは、刀身の“斬る役割”を果たす部分。

 風紋の専門家たる吹羽の眼は、刀を診始めてすぐにその機構を読み解いていたのだ。

 この刀の風紋は、この部分のみに風を収束させて切れ味を格段に上昇させるもの。それだけでも一般に鍛えた刀より何倍もの威力を発揮するは確かだが――吹羽に言わせてみれば、この刀はそれだけ(・・・・)でしかない。

 

「刃部に纏うだけじゃ、切れ味は上がっても刀身自体を保護出来ません。斬れるだけで、斬り飛ばす(・・・・・)事が出来ないんです」

「斬り飛ばす……なるほど、完全に断ち切るまでが風紋の役割なんですね」

「その通りですっ」

 

 流石風紋刀の持ち主なだけはある、と吹羽は思わず声を上げた。

 実を言うと、周囲の人に風紋の事を話しても、専門性が高過ぎる故に話が長続きしなかったり上手くはぐらかされたりしてしまって、ちょっぴり寂しく思っていた吹羽である。

 霊夢には適当に流されるし、阿求には苦笑いで応対されるし、あるいは魔理沙なら興味を持ってくれるかも分からないが、どの道今どうこうと決め付けることはできない。

 わざわざこうして説明しているのも、“使うからには概要くらい知っておいてもらいたい”という思いの他に“これを機に話のできる相手が欲しい”というちょっとした欲望が無きにしも非ず。

 

 そんな吹羽の内心などつゆ知らず、椛は真面目な顔で分析を再開する。

 

「斬るだけでは破片によって紋が傷ついたりして破損しやすい……何なら、血とかが付着して錆びる可能性も……」

「え……血? 血が付くことなんて……あるんですか? いえ、言ってることは正しいんですけどね……?」

 

 ふと蘇る、霊夢との“人間は河童の盟友”談義。

 あの時、天狗と風成家は友人同士だ、と纏められはしたものの、こうして椛の口から血がどうとか聞くと少し怖くなってしまう。

 青ざめた笑いで僅かに後ずさる吹羽に、椛。

 

「? そりゃ、食事の為に獣を狩ったりもしますから。イノシシとか倒す時には重宝してますよ、この刀は」

 

 ああ、イノシシって皮膚硬そうだからねぇ――なんてぼんやりした感想を抱いたのは、果たして椛の言葉にホッとしたからなのかどうか。

 少しばかり引き攣った笑いを零す吹羽に、椛が首を傾げたのは言うまでもなく。

 

「と、兎に角! この刀はちゃちゃっと直しちゃうので、待っていてくださいね!」

「ああいえ、忙しいならば後回しでも――」

「簡単な仕事からさっさと片付けたいんです! ……大仕事には時間たっぷり使いたいので……」

「ああ、はい……お任せします……」

 

 そうして、同情を含んだ椛の視線に背中を押されながら、吹羽は早速預かった刀を分解して刀身を炉に差し込む。

 椛が来てくれたことは嬉しいが、仕事が更に増えたのには素直に喜べないというこの複雑な心境。

 もういいよ、やるよ! ――と半ば自棄になった内心をひた隠しにして、吹羽は柔らかくなった鋼に、刃を添えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 風成家との関係については、哨戒天狗となって始めの頃に教わった。

 曰く、天狗族唯一の人間の友人である――と。

 それはもはや天狗の掟として定められていて、妖怪の山を訪れた人間が仮に風成家の人間だと確認が取れた場合、その者を直ちに客人として扱い、最大限の礼節を払うこと、と教えられた。風紋の刻まれたあの刀を渡されたのもその時である。

 

「(風紋――本物(・・)は、こうして刻むのか)」

 

 赤めた刀身の風紋を、彫刻刀のような道具と小さな金槌で削っていく。吹羽はその大きな瞳を鋭く細めて、言葉を掛けることすらも憚られるほど真剣な空気を放っていた。

 

 ――全く凄まじい、と椛は思う。

 何より、あんな繊細なモノを自らの手で刻んでいるという事実が。

 

 そもそも、吹羽曰く古い型とはいえ何故天狗が風紋武器を所有しているのかといえば、それには河童が関係している。

 風紋は大昔に天狗に伝えられた。その頃は“風成家が作った武器”を天狗が使っていたそうだ。

 しかし、刀がいくら劣化しにくい材質とはいえ、風成家がだんだんと廃れていった故にその生産数にも限りが訪れたのだ。

 天狗の数は増えるか保つか、しかし風成家はだんだんと衰退し、刀の生産量も追いつかない。

 そこで名乗りを上げたのが、同じく妖怪の山に古くから棲む河童たちである。彼女らは、お得意のカラクリを用いて風紋の解析を行い、再現を試みたのだ。

 元々複雑難解な物事を解き明かすのが大好きな河童達である、利害の一致という意味では、彼女らも天狗族、そして風成家との相利共生状態にあった。

 

 結果的に、再現は十分成功したと言えるだろう。だが彼女らが望んだ出来ではなかったのも事実だった。

 一振りの刀に刻まれた風紋を原子レベルで解析・配列の算出を行い、それに基づいて刀身を滑る風の流れをシミュレート、その原理を解き明かした。

 後は専用の機械を組み上げれば、風紋武器を大量に生産することができる。まさに模倣が本物を超越する瞬間。これこそ河童の真髄である。

 

 しかし――河童達には全く同じモノ(・・・・・・)を作る事は出来なかった。

 

 情報量があまりにも膨大だったのだ。それこそ、河童の誇る技術を用いた最高峰のカラクリを使ってさえ、風紋を完全再現するにはスペックが足りなかった。

 風を刀身で操り、収束・拡散などの効果を生み出すには、あまりにも緻密で繊細な造形が必要となる。それを作る技量の洗練具合などもはや語るべくもない。そして、解明した風紋を進歩(・・)させることも出来なかった。

 椛の友人の河童曰く――“あんな事やってたら間違いなく気が狂う”

 “どう考えても唯の人間にできる業じゃない”

 

 ――だからこそ、椛や他の天狗達が所有する風紋武器は、吹羽(本物)から見て出来が悪い。

 ――だからこそ、そんなものを手作業で完成させる吹羽に、椛は畏怖を抱く。

 妖怪が人間に抱く感情としては、あまりにも不相応な畏怖を。

 

「(まぁそれはそれとして、河童達が言っていることも一理はあるんだよね……)」

 

 “人間の業ではない”――その考えには同感だ。実際に見て、椛の中ではそれが確実なものへと変わっていた。

 椛は理解している。赤めたお陰で削りやすいとはいえ、風紋の彫刻作業はコンマ数ミリ単位の作業なのだ。加え、風紋は複雑な溝を使って風を操るものである。実際に流れた風がちゃんと思い通りに動くのかどうかなど、確認しなければならない事は山ほどある。

 気が狂うほどの精密な作業。風の流れを把握するその超感覚。凡そ人に成せる業ではない。

 

 ――と、なれば。

 椛はジッと吹羽を見つめ、ある可能性(・・・・・)に思考を巡らせる。

 人間には凡そ出来ない事を熟すことの出来る理由。複雑怪奇な紋の彫刻を可能たらしめる要因。

 ならば、吹羽は恐らく――。

 

 

 

「おぉ〜う。ここかここか、風成利器店ってのは!」

 

 

 

 突然の野太い声。

 思案していた椛の思考は唐突に打ち切られ、自然と声の主の方へと視線が向かう。

 そこに現れた者の姿に、椛は不覚にも少々驚愕した。

 

「お? 椛じゃねぇか。なんだ先越されちまったなぁ」

「あなたは烏天狗の……こんな時間に何故ここへ?」

「こっちのセリフだぜ? おめぇ哨戒天狗だろうがよ、仕事はどうした?」

「……仕事は一先ず終えました。時間があったので、刀の調整も兼ねてここへ……」

「ほう、そうか。ならやっぱりお前が“一番乗り”か! まぁ今はプライベートだし、気楽に行こうや」

「はい……一番乗り……?」

 

 現れたのは、厳つい身体をした一匹の天狗。

 烏天狗は基本的に白狼天狗(哨戒天狗)の上司である。故に椛とも多少の面識がある天狗だ。特別接点がある訳ではないが、“彼が気の良い親父然とした天狗である”と理解する程度には、幾度か言葉を交わしたことがあった。

 彼は相変わらずのさばさばした雰囲気で、風成利器店の工房を興味有り気に見回している。

 

 ――しかし、椛が気にするべき事はそこではなかった。

 椛の知る限りこの天狗は滅多に人里になど降りてこない上、彼女のように最低限姿を隠すための羽織すら着ていない。

 人間に対して比較的敵対する立場にある天狗が人間の里に降りて来ることは、はっきり言って人間にとって好ましくない事態である。それを理解しているからこそ、天狗の中でもまぁまぁ思慮の深い椛は、風成利器店を訪ねる為に羽織を着てきたのだ。

 そうしなければ、天狗である自分は友人の(・・・)吹羽に迷惑を掛けかねない。

 

 だから、彼に天狗の証たるその黒い翼を隠す気もなく、そして実際に人間の目に晒しているこの状態は、実に看過しがたいことなのだ。

 それに、彼の言う“一番乗り”とは――?

 

「あ、あの……いらっしゃいませ。どういったご用件で――」

「おう、なんだ随分と可愛い女の子が出てきたもんだな! ってこたぁお嬢ちゃんが吹羽か!」

「ふぇっ!? は、はい……ボクが吹羽ですけど……」

「早速だが一振り頼むぜ! 最高に強力なのをなっ!」

「え、あ、はい……? えと、その……風紋刀を御所望ですか?」

「おうよ! こんな機会(・・・・・)は滅多にねぇからな!」

 

 親父然とした彼の覇気に圧されてか、吹羽の受け答えは辿々しい。

 それを抜きにしても、あぁまた仕事が増えるのか――なんて嘆いている内心が表情から明け透けだ。それを隠そうとしている点は商売人目線で評価するが、残念ながら千里を見通す眼――“千里眼”を持つ椛は表情を読み取るのも相応に上手い。彼女からすれば、吹羽の内心は筒抜けもいいところだった。

 

 だが、吹羽が困惑するのも理解はできる。

 若干会話が噛み合っていないというか――天狗側には間違いなく“さも当然”といった雰囲気があるのだ。

 何かしらの前提をした彼の言葉に、その前提を知らない吹羽は受け答えに困惑する。当然の結果だ。

 なら、少し助け舟を出そうか。

 丁度椛も話の展開について行けていないのだ、疑問解消も出来て一石二鳥というやつである。

 

「“こんな機会”、とは? 何かあったんですか?」

「あん? ……おめぇ、噂を聞いて来たんじゃねぇのか?」

「噂……?」

 

 予想外だったのか、椛の言葉に片眉を釣り上げる烏天狗。それに続いて、椛も吹羽も彼の言う“噂”とやらに首を傾げた。

 揃ってハテナを浮かべる二人に、烏天狗は一つ息を吐いて、

 

「そう、噂だ。烏天狗の中じゃかなり広まってるんだが、なんだ本当に知らねぇのか?」

「全く」

「お嬢ちゃんは知ってるよな?」

「し、知る訳ないですよっ。天狗さんの内輪で広まった噂なら、ボクの処になんて流れて来るわけありませんし」

「おや、そりゃ変だな……その噂を聞く限りじゃ――」

 

 す、と目を細めて、

 

 

 

お嬢ちゃんの提案だ(・・・・・・・・・)、って聞いたけどな」

 

 

 

 ――丁度その時。

 工房の外から、地を踏み鳴らすような着地音が聞こえた。いや、それだけではない。椛の敏感な聴覚は、確かにその者らの話し声すらも捉えていた。

 一人二人ではない。十人前後の群衆が同時に工房の外に現れ、真っ直ぐこちらに向かって来ている。

 椛はすぐに悟った。

 

 まさか、この足音全員――天狗なのか!?

 

「お、来た来た。ほらな、みんな噂を聞いてやって来たんだよ」

「やって来たって……ここは人間の里ですよッ!? 本当なら天狗が大勢で来ていい場所ではないんです、何を考えてるんですか!」

「別に良いんじゃねぇか? 人間共がパニックになる程度だろ。誰か殺す訳でもなし、大した影響はないと思うが」

「そんなこと言ってるんじゃ――」

「あ、あのっ!」

 

 彼に反抗する椛の言葉を、焦燥の孕む吹羽の声が切り裂く。

 反射的に向けた視線の先で、吹羽は。

 

「それより、噂の内容を教えてください! 何が起こってるんです!?」

「お、おお……ちょっと落ち着けよ。な?」

「いいから早くしてください」

「お前もだよ椛。そんな睨んでくんなよ」

 

 やれやれといった雰囲気の烏天狗に、椛は内心で沸々と苛つきが募り始めていた。

 この天狗、事の重大さが分かっていないのだ。

 天狗が大量に人里に降りてきたらそりゃあもう人里はパニックになるだろう。人間にとって天狗は恐るべき妖怪だ、如何に天狗側に人間を傷つける意思がなかろうと、そこにいるだけで“恐怖”というものは容易に生まれる。

 そしてそうなれば、最悪の場合――その渦中にあるこの家はきっと、里から忌避さ(・・・・・・)れる(・・)ようになってしまう。吹羽は確かにそれを覚悟していたが、それはどちらにしろ、吹羽の友人として何としても避けねばならぬ事だ。

 

 眉を顰めて天魔様でさえ危惧していた“最悪の場合”を想定する椛に、烏天狗は飄々と語り出す。

 

「なんかな、“風成の御息女が、俺ら天狗との親交再起を記念して風紋刀を作ってくれる事になった”ってな」

「は、はいっ!? ボクそんなこと言ってませんよっ!?」

「だぁからそれがおかしいってんだよ。ならこの噂は何処から出てきたってんだ? まさか火もつけてねぇ薪から出る訳もあるめぇよ」

「ど、どうしましょう……天狗さんたちに贈るような風紋刀なんて、作る時間も材料もまだ全然足りませんよ……」

 

 ……本当に問題なのはそこではないのだが。

 お人好しな彼女はやはり、己の危機にすら疎いらしい。

 

「……とにかく、今来た人達をどうにかしましょう。来てるのは烏天狗だけなんですね?」

「ああ。噂が広まったのは烏天狗の間だけらしいからな」

 

 と、意味有りげな視線を向けてくる烏天狗を一瞥し、椛は急いで工房の外に出た。

 吹羽もついて来てくれたが、正直に言って天狗達と関わらせるつもりはない。“噂の中心”たる彼女が話に加わるとややこしい事になる可能性があるし、何よりも“吹羽が恐怖の対象である天狗達と関わっている”と広く知れれば、それは彼女にとって非常にマズイことになる。最悪の一歩手前だ。

 椛は心の内でそう取り決め、怪訝な視線を向けてくる烏天狗達を睨め付ける。

 烏天狗の群衆は、一匹を先頭にして目前にまで迫っていた。

 

「今すぐに引き返してください、烏天狗の皆さん。ここは人間の里、天狗が大勢で来る場所ではありません」

「……下っ端の白狼天狗が何を言いに来たのかと思えば、随分唐突だな」

 

 単刀直入に過ぎるかとも思える椛の言葉には、烏天狗達も良くは思わなかったのだろう。言葉を返す先頭の烏天狗は、僅かに眉を顰めていた。

 だが椛はそれにも臆せず、落ち着いた口調で淡々と言葉を紡ぐ。

 

「皆さんが集まった理由は聞いています。烏天狗の間で広まったという噂でしょう?」

「それを知ってるなら止める理由はないはずだ。何せ風成の御息女たっての希望と聞いてる。それを断るのはむしろ失礼ってやつさ」

「その風成の御息女が、あなた達とその噂のお陰で困っています。希望だからと言って困らせるのは、失礼なことではないのですか?」

「……何が言いたい?」

 

 訝しげな声で尋ねる烏天狗。

 噂の実態を知らない彼では、まぁ、椛の言い分に首を傾げるのも無理はないだろう。

 ――勿体つける意味はない。一刻も早くこの者たちを里から出さなければ、他の人間達にこの場を見られる可能性がある。

 椛は出来るだけ分かり良く、且つ簡潔な言葉を組み立てながら口を開いた。

 ――が、椛が言葉を放つよりも早く。

 

「ご、ごめんなさい天狗の皆さんっ!」

 

 直ぐ後ろから響いた鈴音の声に、椛は一瞬で青褪めた(・・・・)

 

「その、まだ皆さん全員に刀は作れないんです! 時間もありませんし、資材をまだ調達出来ていないんです……」

「うん? 一体何の……ああそうか、君が風成 吹羽か。お目に掛かれて光栄だ。だがそれはどういう事だ? 君は時間も資材も足りないのが分かっていながら、刀を作ると洞を吹いたのか?」

「あ、いえ……それはその……」

 

 僅かな憤りを感じさせる烏天狗の声音に、吹羽が小さく息を呑む音が聞こえる。

 一応友好関係にあるのだから怖がる必要はないのだが、案外小心者なのか吹羽は次の言葉を紡げないようだった。

 ――ここは話が拗れる前にフォローしなければ。やはり、吹羽に話をさせるべきではなかった。

 椛は吹羽を射抜く烏天狗の視線を遮るように身体を滑り込ませると、やはり少しばかり鋭い視線のまま口を開いた。

 

「……皆さんが聞いたというその噂は、全て出鱈目です。吹羽さんは噂に関して一切関与していません」

「……何だと?」

「誓って本当の事です。私も吹羽さんも、その噂に関してはつい先程知りました。……ですので、早急に山へ引き返して頂きたい」

 

 兎に角、人間達に見られる前に。

 内心では、椛も少々焦っていた。口調こそ冷静なものの、いつこの場面を人里の人間達に見られるか分からない。何よりも先ずは、この天狗の群衆をこの場から離さなければ。その後はやることを終えて自分もここを去った方が良いだろう。

 背中にじわりと嫌な汗が滲む。彼女の内面に潜む焦りと緊張が滲み出ているようだ。

 だが、しかし――天狗の群衆は、騒つくばかりで動こうとはしない。

 

「(……やはり、妖怪は妖怪か)」

 

 心の内で舌打ちを一つ打つ。やはり上手くはいかないなと、椛は妖怪という種そのものに悪態吐く。

 なぜ動かないのかとは、疑問を抱くまでもないのだ。

 妖怪の成り立ちは人間の畏れや欲であり、天狗はまさに人間の「決して人には届き得ない天空への畏れと渇望」が生み出した妖怪。その欲の表出に個体差はあれど、基本的に妖怪は欲深い生き物だ。

 どうせ“このまま帰るのは気に食わない”とでも考えているのだろう。自分も妖怪だから分かる。噂に振り回されて若干不機嫌な事も一因なのかも知れないが。

 

 硬直する場に当てられてふと、椛は背後に控える吹羽の様子が気になった。ちらと横目で見てみれば、彼女は不安そうな光を瞳に宿して、片手で胸を押さえていた。

 中々動き出さない天狗達に不安を覚えているようだ――と、椛の千里眼は刹那に見抜く。

 椛はそっと吹羽に歩み寄り、安心させるように手を握った。

 

「も、椛さん……?」

「ここは私に任せて下さい。きっと上手く収めますから」

 

 ――全く、面倒なことになった。

 劣化風紋武器を持つ天狗に本物を手にする機会を与えたら、我先にと押し寄せるに決まっているのだ。

 何処の誰だか知らないが、こんな噂を流せばこうなることぐらい分かりきっているだろうに。

 こんなのは友人同士のじゃれ合いでも何でもない。ただの嫌がらせに等しい。

 内心で柄にもなく毒突きながら、椛は次なる言葉を放とうと烏天狗を見遣る――その時だった。

 

 

 

「お前達、何をしているッ!?」

 

 

 

 椛には、聞いたことのない声だった。

 いや、椛自身吹羽に出会うまで人里に降りようなど思い付きもしなかったのだから、当たり前とも言える。だが、それでも椛は、その声を聞いてとても溜め息を吐きたくなった。

 だって、この場で知らない者の声が聞こえてきて、明らかにそれはこちらに放たれた言葉なのだから、予想出来ることなど限られてくる。

 ああ、全く――

 

「何故こうも、次から次へと……」

 

 椛が見遣ったその先には、焦燥を滲ませる銀髪の女性が、こちらを睨んでいた。

 

 ああもう、面倒臭い!

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――まぁ、不可抗力と言えばそれまでなのだろう。

 人里に住んでいる者ならば、事の重大さには直ぐさま気が付く筈なのだ。そこで怖がって家に引き篭もる者もいれば、兎に角離れようと里の端まで逃げる者もいる。というより、殆どの人間はそうする。

 

 現実的にそれは正しい。

 襲われればいとも容易く命の危機に陥るという点については、もはや改めて論ずるだけ無駄の極みというものだが、何より“妖怪を恐れる姿勢”というのは、幻想郷の人間として正しい姿である。それを情けないなどと非難する者は、恐らく妖怪の恐ろしさをろくに知らない大馬鹿者か、この世界における人間の立場を理解していない愚か者に限られる。

 

 ――だが、一人。

 人間の里に住みながら、ある程度の力を持った彼女――上白沢 慧音だけが、例外というだけである。

 彼女がその強い正義感故に。

 里の中から天狗が里に降りてくるのを目にすれば。

 そしてその光景によって、“天狗が里を攻めに来た”のだと勝手に思い込んでしまえば。

 

 吹羽達と天狗達が対立するこの空気の中へ、場違いにも殴りこんでしまったのは、まぁ、彼女の性格からして仕方のない事――なのだろう。多分。

 

 まぁそうは言いつつ、この時の彼女にはそれほど“やっちまった”という考えはなかった。

 もともと頑固なところがある上、慧音は思い込んだら中々修正の効かない思考回路をしている部分がある。

 実際は天狗が人里を攻めてくるなど現実的にあり得ない――人がいなくなるのは天狗にとっても致命的ゆえ――のだが、その事すら今の慧音は全く考慮できていなかった。

 そう、例え吹羽の隣にいる白狼天狗が嫌そうな視線で睨んで来ていたとしても、慧音は全く意に介さず己の道を突き進む。

 

 さて、こやつらどう懲らしめてやろうか――と。

 

「け、慧音さんっ!? 何でここに!?」

「天狗達が降りてくるのが見えたからな。方角からして吹羽、君の家の近くだと思って急いで来たんだ。そうしたら案の定……」

 

 驚愕する吹羽の下へ、慧音は説明ながらに歩み寄る。待ち侘びた再会だが、今はそれどころではないと内心で激しく自制する。

 雰囲気とそれぞれの位置取りからして、あまり状況の詳細は理解できないが話が拗れて来ているのは確実なようだ。

 ならば自分は吹羽の味方に付き、万が一のことがあれば彼女を守ろう。

 ものの数秒でそう心に決めたところは流石慧音というか、子供のために命を張るその気概はまさに教師の鏡である。

 そうして険しい視線のまま、吹羽の前へと歩み出て――ふと、気が付く。

 

「君は?」

「……白狼天狗が一匹、犬走 椛です」

「椛か。では君も下がっていなさい。見た所君も天狗だが、他の天狗と対立している以上は――」

「断固拒否します」

「……は?」

 

 呆けた声と共に椛を見ると、

 

「というか、あなたが下がっていてください。話が拗れて面倒なので」

「い、いやちょっと待ってくれ。すでに拗れているんだろう? ここは大人に任せなさい、きっと上手く――」

「イヤです。ムリです。出来もしないことをやろうとしないでください迷惑です。あと私こう見えて二百年くらいは生きてるので多分あなたより年上です」

「(猛毒が飛んで来た……)」

 

 何故だろう、初対面の筈なのに酷く嫌われている気がする。今までそんな事一度もなかっただけに内心では驚愕を隠せない――っていうか、呆けている時点で隠せていない慧音である。

 

 と、とにかくここで引く訳にはいかない。例えこの椛という天狗が拒否したとしても、これはあくまで向こうに並び立つ天狗達と人間の里の問題だ。

 人里の問題を、天狗の少女に任せて後ろに下がっているなど慧音には出来ない。それにまぁ、吹羽が後ろで見ている訳だし……。

 

「と、とにかくだ! そこの天狗達には即刻立ち去ってもらおう!」

「何故だ」

「……なに?」

「何故我々がお前の言う事を聞かねばならんのだ、と聞いている。人間風情が図に乗るな」

 

 ――おぉ、これまた随分と我の強い……。

 話には聞いていたが、天狗の人間に対する侮蔑とはこれほどまで強烈なものなのか。

 天狗の高圧的な態度に、慧音は苦笑いしそうになるのを反射で堪える。厳密には慧音は人間ではなく“半妖”なのだが、まぁ今それは置いておくとしよう。

 

 妖怪が人間に対して高圧的なのは天狗に始まったことではない。事実として妖怪は人間よりも強い存在だし、それが分かっているからこそ人間は妖怪に謙る。無用な争いを生まぬ為の知恵の一つだ。

 だが――この天狗の言い分には、正直に言って納得できないし、引く訳にもいかない理由があった。

 

「“私の言うこと”以前の問題だ。お前たち天狗が大勢で人里に乗り込めば、一体どうなるのかなど火を見るより明らかだろう」

「直接的な害はないはずだが」

「“間接的に害している”と言っているんだ。今だって大勢の人間が怯えて外にも出られないでいる。人里の人間を害するのはルールに反すると知っているはずだ」

 

 勿論、多少は話を盛っている。

 天狗たちを恐れて外に出られない者は確かにいるだろうが、恐らくはそれほど多い数ではない。話を有利に進める為の補強材(デマ)だ。

 だが、それでも彼らが人間たちを襲う気ならば同じこと。手を出せば瞬く間に人間たちは情報を拡散し、各々で逃げ隠れするだろう。

 そうなれば多かれ少なかれ様々な物事に影響が出る。普段人里に降りてくるような温厚な妖怪相手の商売にすら甚大な被害が出るはずだし、何より“人間の里だけは絶対安全”というルールが崩れ去ることになる。

 

 人里の人間を害するのは御法度。天狗たちが大勢で押し寄せてくるのも、こうして見れば立派な違反である。

 もし、それでも手を出し始めるようならば――この命に代えてでも、阻止してみせる。

 慧音の意思は固かった。

 

「さぁ、分かったら出て行ってもらおう。早急にな」

「………………」

 

 慧音の言葉に、天狗たちは押し黙る。正論を語っているのだから当然の事だった。

 さぁ、もう言う事は言い切った。これでゴネるならもう手札はない。後は彼らの反応を待つのみだが――。

 

 ――と、その時慧音の視界に、白くふわふわとした()が映り込んだ。

 

「……と、まぁそういう事です。この人の話は若干食い違っている気もしますが……言いたい事は同じです」

 

 慧音の前に出た椛は、一歩更に踏み出して、

 

「この里の――何より吹羽さんの迷惑になる前に、ここから立ち去ってください」

 

 それは紛れもない“威圧”だった。

 下っ端であるはずの白狼天狗が放てるとは到底思えない程の圧力が、無手の椛から溢れ出しているのが慧音にも分かった。それを真正面から受ける烏天狗たちも、恐らくは内心穏やかでは決してないだろう。

 その威圧に少々目を見開いていた先頭の烏天狗は、やがて“なるほどな”と、僅かに口の端を吊り上げた。

 

「犬走 椛……聞き覚えがあると思えば、あの“千里眼”か。いや、その覇気は見事なものだ」

「……御託はいいので、早く立ち去ってください。何も永久に来るなと言っている訳ではないんです。吹羽さんはまだ準備も何も出来ていないし、大勢で押し寄せてくれば人目につく。……分かるでしょう? これは何より吹羽さんの為です」

「……ふむ、なるほど。考えてみれば確かに、私達は失念していたようだ」

 

 椛の言葉に何を気が付いたか、烏天狗は一つ頷くと、ふわりと上空に飛び上がった。それに続いて、背後の天狗たちはも飛び上がる。

 その光景は、もはや圧倒的ですらあった。

 

「吹羽殿、此度は迷惑を掛けた。噂に振り回されたとは言え、あなたに配慮しなかったことは詫びよう」

「あ、いえ! お気になさらずっ!」

「……ふむ。ではまたいつか伺おう。今度はちゃんと礼節を守って、な」

 

 最後に椛を一瞥し、烏天狗たちは再び空を駆け上がる。彼らを見送った後には、先程のひり付く空気など何処へなりといった静けさだけが、妙に満ち満ちて耳に響いていた。

 

「さて、それじゃあ戻りましょうか」

「……はい」

「……ああ」

 

 ――何だろう、話に置いていかれている気がする。

 密かにそんなことを思いながら、慧音は吹羽と椛の後に着いて、工房へと戻っていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「な――なん、だと……ッ!?」

 

 今にも膝から崩れ落ちそうな声音で驚愕を露わにするのは、椛と吹羽(ついでに工房で待機していた烏天狗)から事の顛末を伺った慧音である。

 椛と目的が同じだったから何とか話を噛み合わせる事に成功したものの、勘違いしたまま口論に突撃してしまっていた事にようやく気が付いた慧音は、その端正な顔をさぁっと赤く染めていた。

 まぁ、勘違いというものは得てして恥ずかしいものである。大勢の前で露呈しなかっただけ今回は慧音の運が良かったのだろう。

 

「わ、私はなんて勘違いを……もう少しで地雷を踏むところだったじゃないか……!」

「はぁ……まぁ初めから何となく分かっていました。あの登場の仕方で、状況を正確に把握できている訳がありませんしね」

「う……だ、だが結果として互いに目的が達成できたのだから、いいじゃないか!」

「む、それは素直に認めますがね。よく勘違いしたまま話を合わせられたな、と」

「く……君、私をバカにしているだろう……!」

 

 バカにしているというより、あまり快く思っていないだけだ。

 今更だがこの椛、先程の慧音の乱入の件を未だに根に持っている。勿論、烏天狗たちを山へ帰すのに一役買ってくれたのだから助かったとは思っている。だが、正直に言ってアレは自分一人でも何とかできる範囲だったし、なるべくなら第三者の介入はして欲しくなかった。

 

 何故かって?

 面倒臭くなる可能性が高くなるからに決まっている。

 

 だから、椛としては“終わったのだから良いではないか”では済ませたくないのだ。

 結果として、椛の慧音に対するファーストインプレッションはあまりよろしいものではない。

 

 ――と、慧音との話に一段落ついた、丁度その時だった。

 

「よし、出来ましたっ!」

 

 椛としては待ち侘びた一声。すぐさま吹羽の方を向くと、彼女は満面の笑みで刀をこちらに差し出していた。

 

「はい、椛さん! 新品みたいな出来になりましたよっ!」

「はぁ〜……すごい、綺麗……」

 

 手渡された刀は、白銀に煌めいて盛んに光を反射していた。その中に刻まれた風紋はいっそ愛おしい(・・・・)程に滑らかで、昨日まで使っていた我が愛刀とは思えぬ程の出来栄えだった。これならきっと、どんな物でも一刀両断である。

 

「おお……それが君の刀なのか」

「はい。これなら何でも斬れる気がします。ありがとうござます吹羽さん!」

「いえいえ〜、これも仕事なので。喜んでもらえて何よりですっ」

 

 吹羽の笑顔を少し眩しく思いながら、椛は新しくなった刀を慣れた手つきで鞘に納める。

 普段はあまり表情の動かない椛ではあるが、その顔は僅かに緩んでいた。

 

「――さて、口惜しさもありますが……私はこれで帰ろうと思います。まだほとぼりは冷め切っていないでしょうし」

「……そうだな。済まないが、吹羽の為にもそうしてやってくれ」

「え、もう帰っちゃうんですか……? ボクは別に迷惑なんて思いませんよ……?」

「……ふふ、吹羽さんは本当に優しいんですね」

 

 キョトンとする吹羽の表情に、椛は思わず笑みが零れた。

 この子は優しい。先程だって、自分が村八分にされるかもしれない状況だったにも関わらず、押し寄せた天狗達に風紋刀を作ってやれない事を本当に悔いているようだった。

 彼女が天魔の屋敷で言った事は本心だったのだと、椛は彼女の明るさに目を細める。

 

「でも、帰りますよ。客は用が終わって代金を渡せば、あとは帰るものでしょう? それに……吹羽さん、まだ仕事が残っているんですよね?」

「あ……そ、そうでしたっ!」

「そちらを優先してください。私はまた別の機会に、遊びに来ますから」

「……“一日の遅れは十日の遅れ”という諺があります。今やってしまわないといけないのは分かってるんですが……うぅぅ、名残惜しいです……」

 

 と、椅子に腰掛ける烏天狗を見遣り、

 

「ほら、行きますよ」

「んお? 俺もか? 俺ァまだ刀作ってもらってないんだが」

「話聞いてました? その件はまた今度にして下さい。“少なくとも今は出来ない”という事で話は付いてるんですから」

「わーかったわかった、冗談だよ。ンなに責めんなよ、相変わらずクソ真面目だなぁ」

「むっ、誰の所為だと――」

「はいはい、先外出てんぞー」

 

 最後に二ッと吹羽に笑いかけてから、烏天狗は言葉通り工房の外へと出て行った。それを若干不機嫌な目で見つめる椛も、軽く溜め息を吐いて向き直る。

 その視線は、慧音の方へと向いていた。

 

「慧音さん、でしたね。改めて、私は白狼天狗の犬走 椛です」

「ああ、私は寺子屋で教師をしている、上白沢 慧音だ。よろしく」

「よろしくお願いします。ところで、あなたはこれから如何するおつもりで?」

「……その言い方、“私もここにはいない方がいい”、とか言おうとしてるな?」

「……流石教師ですね。ご明察です」

 

 言わんとしている事を言い当てられ、冷静沈着な椛も少々驚いた。だが直ぐに表情を戻すと、感心したように口の端を僅かに上げた。

 

 子供というのは言葉がまだ未熟だ。だから子供を纏める教師は、子供達の言葉の端々から何を言おうとしているのかを察せられなければならない。しかしそれも一朝一夕で習得できる能力ではない。

 きっと慧音は良い教師なのだろう。勘違いで突っ走る点は決して評価できないが。

 

 だがまぁ、分かっているならば話は早い――と、椛は少し真面目な顔になって言う。

 

「今日は私たちの天狗が押しかけてしまった為、精神的にも時間的にも吹羽さんに負担をかけてしまいました。慧音さんがもしここに止まるおつもりなら、出来れば今日は吹羽さんに一人の時間を作ってあげて欲しいのです」

「むぅ……正直、やっとこの子に再会できたのだからもっと話したいのだが……仕方あるまい。……何だか、間の悪い時にばかり居合わせている気がするな、くそぅ……」

 

 ブツブツと最近の不遇に吐いて文句を垂れる慧音は、少しだけ考えるそぶりをすると、直ぐに一つ頷いて吹羽の前に屈み込んだ。

 その表情は、優しげに微笑んで。

 

「ならば、吹羽。次の定休日を教えてくれないか?」

「定休日……ですか? えっと、次に閉めるのは……うーん、六日後になっちゃいますね。何でですか?」

「一緒にご飯でもどうだ? なに、お金なら心配要らない。君は私の生徒でもないし、私が全て持つよ」

「い、いいんですか!? 行きますっ!」

 

 即答する吹羽に慧音は大変ご満悦の様子。

 椛の“千里眼”はその笑顔に何処か必死さ(・・・)を捉えていたが、まぁ心配することでもなかろう。慧音が変な気(・・・)を起こすとは思えないし、何よりも先程教師としての彼女を認めた。

 椛は慧音に頭を撫でられてだらしない笑顔を零す吹羽に一つ微笑み、軽く一礼してから外に出た。

 

「……お待たせしました」

「ああ、行くか」

 

 待機していた烏天狗と連れ立って、椛はひっそりと、里の外へと歩き出す。

 勿論、人の目には最大限注意しながら。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――それで、どう思いますか?」

 

 里の出口近くとなり、最早人の気配もほとんど感じなくなった頃、椛は徐にそう呟いた。

 それは主語も何もない未完成な言葉だったが、隣を歩く烏天狗には何の抵抗もなく通じた。

 まるで“分かりきったことを聞くな”と言わんばかりに大きな溜め息を一つ吐くと、烏天狗はその野太く低い声で言う。

 

「……言われてみりゃあ、確かに笑い話にゃあならねぇな。他の人間のことなんざ知ったことじゃねぇが、今回のは間違いなくお嬢ちゃんに害が及ぶスレスレのところだった。現に、あの教師の姉ちゃんは俺ら(天狗)が攻めてきたんだと勘違いしてたしな」

「……ええ。私達は人間にとって恐怖の対象です。それを十分に理解していない方が多過ぎる」

 

 その声に確かな憤りを感じさせる椛を、烏天狗は横目で見下ろす。

 そして「ふん」と軽く息を鳴らすと、

 

「そりゃあ言い掛かりだぜ。お前さんが特別風成家への配慮に対して視野が広いってだけさ。友達なんだろう?」

「……風成家への配慮はそもそも掟の一つでしょう? 私だけが特別な訳ではない――特別であってはいけないはずです」

「はっ、これだからクソ真面目は。素直に心配なんだって言やぁいいのによ」

「…………そう、ですね」

 

 そう返した椛の言葉は珍しく歯切れが悪く、烏天狗は思わず隣を歩く椛を見下ろした。

 椛は歩みの速度こそ落としたりはしていなかったが、その顔には僅かに困惑が見られた。

 

「何故でしょう……私は、天狗という種の掟どうこう以前に、吹羽さんの一友人でいたいと思っています。霊夢さん――博麗の巫女もそうですが、吹羽さんにも何か……他を惹きつける何かがあるように感じます」

「……まぁ、性質的には同じ“風の一族”だからな、俺達は」

 

 と、一見素っ気ないような返答を返す烏天狗は、直ぐに再び溜め息を吐くと「あー」と前置きとも言えない前置きをして、語り出した。

 

「……噂の出所、心当たりならあるんだ」

「! 本当ですかッ!?」

「ああ、だが教えられん」

「早速――え?」

 

 烏天狗の拒否的な言葉に、椛は思わず足を止めた。

 その内心を見透かすように、烏天狗は少しだけ申し訳ないような表情で立ち止まると、

 

「……お前はあの時(・・・)のことを知らない。だから、お前に首を突っ込む資格はねぇんだ。知ったら知ったで、いざという時に真っ先に横槍を入れそうだしな」

「なっ――どういうことですか!?」

「何度も言わせんな。言えねぇんだよ。これはお前が入っていい話じゃない。……いや、俺もか」

 

 ぽつりと、そう呟くのを切欠に、烏天狗は再び歩き始めた。

 彼の言葉に全く容量の得ない椛は、やはり数秒そこで固まっていたが、思い出したように駆け出してその背中を追う。

 

「ま、待って下さい!」

「おら行くぞ。この話は終わりだ」

「そんな勝手に――」

「いいか椛」

 

 その、背中越しに。

 太い釘を刺すような、重い声音で。

 

「万が一、お嬢ちゃんが天狗と(・・・)争いになっても、絶対に手は出すな」

「……そんなこと、ある訳が――」

「答えろ」

「…………分かり、ました……」

「よし、じゃあ行くぞ」

 

 ――彼の言う事は理解出来ない。しかし、それがとても大切な事で、優先されるべきだという事は、その声の重さから伝わってきた。

 椛はぽかりと一つ不安を感じながら、烏天狗の後を追う。

 

 己が里――妖怪の山へと。

 

 

 




 今話のことわざ
一日(いちにち)(おく)れは十日(とおか)(おく)れ」
 たった一日のことだから、というように考えていると、その一日の遅れが最後には十日分もの遅れになってしまうということ。


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第十三話 双面

 

 

 

 “メディア”と言われれば、その意味は現代に生きる人間ならば誰もが知るところだと思われるが、一応ここでも解説しておこうと思う。

 

 この言葉を文明の利器(ケータイやPC)などで調べてみると、こんな解説が出てくる。

 曰く、メディアとは情報の記録や伝達、保管などに用いられる物や装置のことであり、“媒体”と呼ばれることもある――と。

 最もポピュラーなメディアの例としては、真っ先にテレビが挙げられるだろう。今の時代、幻想郷には普及していなくとも外の世界では一家に一台あって当然の代物。

 一人暮らしなら19インチ辺りが妥当だろうが、一軒家なら当然家族単位での使用になるので恐らくは32〜45インチ程度の大きさ、何処かの豪邸ならば100インチなんてあり得ない大きさのテレビだってあるかも知れない。――まぁそれは余談としても、だ。

 他には携帯電話、USBメモリ、ラジオ、書籍、雑誌、etc……。CDなども音楽を保存しているのでメディアに含まれる。

 世の中には実に多様なメディアが存在し、情報を拡散・保存している。これが何故こんなにも普及しているのかといえば、それは――いつの時代だって、“情報”というものが人々にとって大切なものだからだ。

 

 情報があれば、人は自らの行動に自信を持てたりする。

 情報があれば、警察はそれを元に悪人を捜査・逮捕することが出来る。

 情報があれば、あらゆる物事に於いて不利な状況を覆すことが出来る。

 情報があれば、災害時に最善且つ安全の方法を取れたりする。

 

 情報が人に与える影響というのは、人が実感している以上にとても大きく、そういう意味では、情報も火や電気といった“生活必需品”の一つでもあるのだ。

 

 情報を得ることは、物事を有利に進める上でとても重要な事だ。

 そしてその情報が正しいのかどうかを確かめる――もしくは確信を得るには、己の目で確認する他にない。

 

 ――さて、ここまで情報の大切さというものを説いてきた訳であるが、一つ断っておきたいのが、今までの話は全て外の世界(・・・・)の話(・・)だという事だ。

 幻想郷の外の世界。科学技術が発展した為に妖怪や神などの“幻想”を忘却した世界。そちらでは当然、先に話したようなメディアが蔓延している訳だ。

 ところで、幻想郷では?

 

 幻想郷とて人は住んでいる。情報を“知的生命体が活用するものだ”と定義付けるならば、妖怪にだって情報を必要とする者は存在する。

 しかし、幻想郷には電気など殆ど通っていない。大抵の家は火を起こして灯りを取る。そんな場所では携帯電話もラジオもただのガラクタ同然である。

 そんな幻想郷で、最もポピュラーな

情報伝達機器(メディア)と言えば。

 それは言わずもがな――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「えーっと……これくらいあれば十分……ですかね?」

「う、うーん……わたしに訊かれても困るんだがな……」

 

 ――人里を離れて森の奥。

 大きく露天掘りを施された赤い地面のその場所には、石の積まれた山を見て頭を悩ます二人の少女がいた。

 山の大きさを見て首を捻る少女――吹羽に、困ったように頰をぽりぽりと掻いて答えるのは、“普通の魔法使い”こと霧雨 魔理沙だ。

 

「だ、だって、ボクもどれくらい天狗さん達が来るのか分からないんですもん……」

「まーそうだろうがなぁ……」

 

 魔理沙は石を一つひょいと拾い、片眉を上ながらジロジロと見つめると、

 

「この石ころ(・・・)でどれくらいの量を打てるのかがわたしには分からんからな。足りるかどうかなんて見当もつかないぜ」

「い、石ころじゃないですよ! これは立派な鉄鉱石です! ボク達鍛冶屋の生命線ですよ!?」

「いや、そこ重要なとこなのか? ってか、別にお前が製鉄してる訳じゃないだろ。どっちかっつーと製鉄所の生命線だよな」

「うぐ……言われてみれば確かに……」

 

 何をしているのか、と言われれば、“作刀の材料を大量に採りに来た”と答えることになる。

 今日二人は刀の原料になる鋼の原料である鉄、そのまた原料となる“鉄鉱石”を、吹羽の家が代々所持している採掘場に取りに来たのだ。

 魔理沙が聞いたところによると、吹羽はどうやら天狗共と友好を持っていたようで、これから客が増えるかもしれないからたくさん材料を取りに行く、との事だった。魔理沙はそれの付き添いである。

 つまり、荷物持ち。

 異変解決者を荷物持ちにするとか、吹羽は中々いい度胸をしている。

 というか、出会って初めの頃のそわそわした感じはどこに行ったのだろう? 慣れたのだとしたら、やはり子供特有の順応性とは流石である。彼女の前で言ったらきっと必死になって否定するのだろうが。

 

「うーん、取り敢えず掘った分は持って行きましょうか。勿体無いですし」

「……前から思ってたが、里にはちょい高価だが鉄も売ってるよな? 詳しくは知らんがそれを買えばいいじゃんか。なんでわざわざ自分で“刀の原料の原料の原料”なんて採りに来てるんだよ?」

「分かってないですねー魔理沙さん。ボクの作る刃物はこれでも高級品ですよ? 一芸を極めた達人(・・)は素材選びも自分でやるのですっ!」

「お、おう……」

 

 ドヤ顔でその小さな胸を張る吹羽に、魔理沙は「自分で達人言うか……」と苦く笑った。

 吹羽が達人の域に達しているのかどうかは別として、どの道魔理沙にはそこら辺(・・・・)の価値観が全く分からないので、正直にいうと返答に困るのだ。

 でもまぁ、自慢気にドヤる吹羽がなんとなく可愛かったので、魔理沙は許してやることにした。

 

「まぁ、単純にボクが集めた方が良い鉄が作れるってだけなんですけどね」

「おい、達人はどうした」

「達人ですともっ! 達人は目利きなものですよ! ボクも眼が良いですしね!」

 

 それ、“眼が良いからこそ自分は達人なんだ”って言ってるように聞こえるんだが。

 言ったら揚げ足を取られて怒り出しそうなので、敢えて黙っておくことにする。世の中、人の本音ほど相手を傷付けやすいものはないのだ。

 

「は〜……まぁここで悩んでてもしょうがねーし、一先ず全部持ってくか」

「そうですね。ボクも出来るだけ持つので、魔理沙さんは残りをお願いします」

「ああ分かった――ってうおい! お前そんなに(・・・・)持てるのかっ!?」

「え? あ、はい。ボク、こう見えても力持ちなんですよ? ほら」

 

 ――と、身長ほどもあった山の三分の一程を入れた袋をひょいと持ち上げる吹羽。

 流石は鍛冶屋の娘というか、物心ついた時から重い金槌を振るってきただけはある。明らかに幼気な彼女が持ち上げられる重さではない――流石に成人男性なら余裕だとは思う――だろうに。

 魔理沙は呆れたように頬を引攣らせながら、しかし自分は楽をしようと、簡素な浮遊魔法で残りの三分の二を持ち上げて歩き始めた。

 ああ、魔法はやっぱり便利だなぁと、ちょっとばかり吹羽に見せびらかすようにして、スタスタと追い抜いていく。

 

「あー! 魔理沙さん、魔法で運ぶのはズルくありませんかっ!?」

「ズルくなーいズルくなーい。わたしはわたしできることを理解して最大限活用してるだけだぜ」

「ちょっとカッコいいけど屁理屈ですよねっ!? ボクのも運んで下さいよー!」

 

 ――と、歩き始めて少し経った頃だった。

 魔法で楽をする魔理沙は当然吹羽より進む速度が早く、依然として少し前を歩いていた。

 重い荷物を運んで必死に付いてくる吹羽の様子を見てちょっぴり優越感に浸る魔理沙であったが、“ざり”と突然聞こえた着地音に足を止める。

 視線を戻して前を見ると、そこには――。

 

「……うげぇ、なんでお前がここにいるんだよ」

「失礼な! 私の何処に“うげぇ”要素があるんですか! “清く正しく”がモットーの私ですよ!?」

 

 ――黒いスカートに白のシャツ、赤みを帯びた瞳と頭に乗せた小さな兜巾。何より特徴的なのは、背中から生えた黒い翼と片手に構えた“かめら”とかいう機械である。

 魔理沙の第一声に必死に対抗するのは、烏天狗が一翼――射命丸 文(しゃめいまる あや)であった。

 

 出来る限りの弁明を言い放つ文に、しかし魔理沙は嫌そうな顔を直そうとしない。どころか、文のその様子を見て更に不快感を露わにしていた。

 

「なぁにが“清く正しく”だ悪徳パパラッチめ。お前が内心黒いこと考えてんの、わたしは知ってるんだぜ」

「やだなぁ魔理沙さん。私は客観的事実を求めてるだけで、その為にありとあらゆる()を尽くしているだけですって。まぁ私的な感情に基付いた発言も多少ちょっぴり素粒子レベルには入ってるかもしれませんが、それはそれは些細なことです」

「……そういう所だよ。裏側に本性隠してる奴は大体信用ならないんだぜ」

「肝に命じておきます♪」

 

 公言するが、魔理沙には文のことが苦手というか――生理的に受け付けない所がある。何故かと言えば、それは“反りの合わなさ”故と言うべきだろうか。

 魔理沙は多少捻くれているが、それを超えて意思が真っ直ぐしている。“裏表がない”という意味では霊夢と似たところがあるのだ。

 対して文は、猫を被って表面上は良い人を演じているが、内心では相手を見下していたり、騙して何かを得ようと心算を編んでいたりする。だから平気な顔をして嘘を吐くし、それを気にする様子もない。

 

 要するに正反対なのだ。

 いくら人の良い魔理沙でも、本能的に受け付けない者はいる。

 当然異変関連で何度も顔を合わせているが、その度に魔理沙は嫌な顔をしているのだ。

 一体何が“清く正しく”か。その実本人が一番汚れているのだと、魔理沙は口には出さずとも確信している。

 

 ――と、会うなり険悪な雰囲気を醸す魔理沙の後ろから。

 

「あのぅ……どちら様ですか、魔理沙さん?」

 

 純真無垢(・・・・)を絵に描いたような彼女が、ひょこと顔を出した。

 

「あ、おま……っ!」

「おやぁ〜? そちらの可愛らしい女の子はどちら様で? 妹さんですか?」

「ンな訳あるか――ってそうじゃねぇ! 出てくんな吹羽――」

「初めまして〜。私、“文々。新聞(ぶんぶんまるしんぶん)”を発行しております、射命丸 文という者です! モットーは“清く正しく”、お肌ピチピチ永遠の美少女烏天狗です! よろしくお願いしますね♪」

「えっ? あ、はい! 風成 吹羽です! よろしくお願いします!」

 

 魔理沙が制止するその前に、自称幻想郷最速を誇る文は瞬時に吹羽の眼前へ躍り出ると、過剰美化甚だしい自己紹介をかます。吹羽も勢いに押されて自己紹介していた。

 ――ってだから、そうじゃないって!

 

 魔理沙としては、吹羽と文を出来るだけ接触させたくないのだ。

 だって吹羽だぞ? 穢れを知らぬ無垢純白の子供だぞ? そんな奴を嘘と猫被りで汚れた文に接触させて、変な影響を受けたらどうする。

 悪い大人にさせないためにも、吹羽は文から守ってやらねばなるまい。

 

 ――はて、自分はこんなに保護欲が強い人間だっただろうか?

 一瞬疑問に思ったものの、魔理沙は「まぁいいや」とばっさり切り捨て、取り敢えず至近距離で会話する吹羽と文の間に身体を割り込ませた。

 

「む、何ですか魔理沙さん。親睦を深めてるんですから邪魔しないで下さいよ」

「うっせ。こいつの事はいいから要件を言えよ。悪いが新聞(・・)のネタになるようなことは何も知らないぜ」

「……あらぁ? それは魔理沙さん、自意(・・)識過剰(・・・)が過ぎるんじゃありませんかぁ?」

「……あ?」

 

 ニタァ、と擬音が付きそうな嫌らしい笑み。魔理沙は当然、不機嫌そうに声を漏らす。

 文に限らず、烏天狗は新聞を書いている者が多い。まぁどれもこれも欠陥が多いし、度々天狗間で開かれる“新聞評価大会”なるものも、上司の作品は高く評価しなければならないという暗黙の了解がある為、大会とは名ばかりの胡麻擂り合戦に成り下がっている訳だが。

 

 その中でも“文々。新聞”を発行する文には新聞発行に精力的な部分があり、日々ネタを追い求めて幻想郷中を飛び回っている。当然異変関連の記事も度々一面を飾る為、それに関わった霊夢や魔理沙も取材を受けることが多いのだ。

 因みにその“文々。新聞”の代表的な欠陥とは、“盛りに盛った捏造情報がそこかしこにあること”である。深読みすれば事実が書いてある事もなくはないのだが、インパクトに欠けるものや読み流されてしまいそうなほど小さな事件などは、尾ひれ背びれどころか鱗で全身を覆って書くことが多々ある。

 だからそれを受け取る幻想郷住民としても、新聞としてではなく娯楽雑誌(ゴシップ)として楽しむ者の方が圧倒的に多い。

 

 要するに、魔理沙の前に文が出てきたということは取材か何かなのだろう。

 そう思っていたのだが――そんな所に文のこの反応である。

 

「何だよ、どういう意味だそりゃ」

「そのままの意味ですよぉ〜。幾ら異変の事で取材に伺う事が多いからって、いつでもあなたを頼る訳ないじゃないですかぁ〜! 魔理沙さんが幻想郷中の面白い出来事ぜぇんぶを知ってるって言うなら、取材してあげなくもないですけど?」

「……“私は頼られる人間だ”って、私が思ってるって言いてェのか?」

「御理解頂けたようで♪」

 

 ――文と付き合うに当たって必要なのは、真偽を見極める能力だ。

 どこまでが本当でどこからが嘘なのか。そしてその裏で何を考えているのか。さもなければ、いいように情報を引き出された挙句に利用し尽くされ、以後得た情報を元に“永遠の有利”を捥ぎ取られかねない。

 文の言葉、今のは“真”の方だと思われる。取材ではないなら、それはそれでこちらは困らないので騙す意味はない。また、何か情報を引き出された訳でもない。

 魔理沙は不機嫌な表情を隠そうともせず、“ふんす”と息を吐いて腕を組む。

 なら一体、こいつは何をしにここまできたのか――と。

 

「――本当に分かりません?」

 

 まるで内心を見透かすように、文は相変わらずの嫌らしい笑みで魔理沙の瞳を覗き込む。

 まだまだだなぁ、なんて嘲笑が聞こえてきそうな仕草で文は吹羽の後ろに回り込むと、“とん”と彼女の両肩に手を置いた。

 

「勿論、私が幻想郷を飛び回るのは新聞のネタ集めの為。そうじゃなければ家で原稿でも書いてますって。今日は吹羽さんに取材(・・・・・・・)ですよ♪」

「……あ? 吹羽に取材だって? お前さっき初めてそいつの事知って――あ」

「ふふふ、まだまだですねぇ魔理沙さん。

()天狗ですよ(・・・・・)? 天狗がこの子の事を知らない訳ないじゃないですかぁ! 天狗はみんな風成家の現状に興味津々ですから! ね、吹羽さん♪」

「え……あ、そうでした! 文さんは天狗さんですもんね! ボクてっきりお互いに知らない体で自己紹介なんてして……。ふわぁあぁ……は、恥ずかしいですぅ……」

「うはあ……可愛らしいとは思ってましたが、恥ずかしがる吹羽さんもまた格別にかわいいですねぇ〜!」

 

 頰を薄っすらと赤く染める吹羽に、文は遠慮もなしに頬擦りする。吹羽も満更でもないのか為すがままにされていた。

 しかし、そんな和やか(?)な雰囲気を醸す二人を前に魔理沙は――ただただ、眉を顰めていた。

 

 つまり、初めから嘘だった(・・・・・・・・)という事だ。

 文の目的は初めから吹羽であって魔理沙ではなく、吹羽に気が付いたフリをした時点で文の嘘は始まっていたのだ。

 恐らくは初めから嘘を吐くつもりで出てきた訳ではあるまい。嘘を吐けるタイミン(・・・・・・・・・)グだったから嘘を(・・・・・・・・)吐いただけ(・・・・・)なのだ。そしてそれを当然の事とすら思っている。

 

 ――こういう所だ。文のこういう所が魔理沙は気に入らない。

 今の嘘は確かに可愛いものだった。“軽いサプライズだ”とでも言い張られれば反論出来ない。

 しかし、嘘というものは往々にして人を傷付ける。あれでも千年近くの時を生きた妖怪である文も当然、その事は経験則として理解しているだろう。

 ――しかしそれでも嘘を吐く。

 息をするように。

 当たり前だと言い張るように。

 だからこそ質が悪いのだ。

 なぜこんなにも歪んでいるのか、魔理沙は文と顔を合わせる度に疑問に思う。

 生まれつきこんな性格なのだとは、流石に考えたくないが――。

 

「それでは、早速吹羽さんのお家へごーごーれっつごーです! 行きますよっ!」

「お〜!」

「……意気投合してるとこ悪いが、お前マジで着いてくる気なのか? 正直言ってわたしは嫌なんだが」

「す、ストレートに言いますね魔理沙さん……。でも良いんですかぁ? 私にそんな口きいてっ」

「な、なんだよ」

「私知ってるんですよ? この間ここでやってた弾幕勝負……魔理沙さん、吹羽さんのミスに救われて勝ちましたよね? 異変解決者ともあろうお人がただの人間相手にそれはどうなんでしょうねぇ?」

「おま、どこでそれ聞いたッ!?」

「さぁ? “速い”のは専売特許でして」

「てめェ吐けこのやろー!」

「あ、あのぅ、それボクの知名度が低いので意味ないんじゃ……?」

「心配ご無用です吹羽さん! 私の手にかかればこれを面白おかしく広めるくらいどうとでも――」

「させるかってんだよッ!」

「ぅおっとっと!」

 

 魔理沙の猛追も虚しく、結局はやはり幻想郷最速は伊達ではないと認めさせられる決着となった。

 肩で息をする魔理沙に対して文の余裕綽々ぶりと言ったら、睨め付ける魔理沙の周囲をこれ見よがしにスキップで回るくらいである。

 

 ここまで差が歴然では、もはや猛追も体力の無駄使いに等しい。

 魔理沙は心底不本意ながら、鋭く放っていた怒気を収めた。

 

「お、やっと収まりました?」

「誰の所為だと思ってんだ……っ、仕方ねーから、もう行くぞ。ほら吹羽も」

「あ、はい! こっちですよ文さん!」

「おお、これはご丁寧にどうも」

 

 吹羽と文がなんだかんだで仲良くしているのがなんとなく気に食わないというか、得心行かぬ魔理沙である。だが、ここで騒いでいても話は一向に進まない。

 文が付いてくるのは確かに不愉快ではあったが、渋々ながら吹羽の家への帰路を辿った。

 後ろで笑顔の仮面を貼り付けたままに談笑する烏天狗を、ちらりと一瞥して、

 

 ――ああ、やっぱり、嘘吐きは苦手だ。

 

 魔理沙の盛大な溜め息は、誰に聴取られることもなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「へぇ、不思議なペンダントか……」

 

 鮮やかに色付く森に囲まれ、悠然と佇むそれは、先日突如として幻想郷に現れたもう一つの社――守矢神社。

 境内の側面を囲む縁側で、二人の女性が紅葉を眺めていた。

 その内の片方――洩矢 諏訪子は、足をぷらぷらと揺らしながら言葉を返す。

 受け取るのは彼女と同格の凛々しい女神――八坂 神奈子である。

 

「そ。今さっき思い出したんだけどね。その内相談しようと思ってたら忘れてて」

「忘れるなよ……。大事なことなんだろう?」

「んにゃ? ちょっと気になったから話のタネにでもどうかと思ってただけー」

「……相変わらず気まぐれだな、諏訪子は」

「えへ、褒めても何も出ないよ〜」

「じゃあお昼に一品お前から貰うとしようかな」

「あー! そんなのダメー!」

 

 不思議なペンダント。

 その話をこの諏訪子から聞いたのは本当についさっきで、二人でのんびりと紅葉狩りを楽しんでいる最中だった。

 何でも、この間この神社に来た少女が首から下げていたモノで、古い勾玉を通した簡素なペンダントだったらしい。

 近頃来客はなかったので、恐らくはあの日――博麗の巫女と弾幕勝負をし、そしてこっ酷く打ち負かされた日の事だろう。あの日のことを思い出すと頭が痛くなってくる――主に神に対する巫女の態度が原因――が、神奈子は意識して溜め息を堪える事で、表情に出すことを止めることができた。

 

 取り敢えず、話を進めようか。

 神奈子は未だ目の前で騒ぐ諏訪子に視線を向けると、

 

「それで、どこが不思議なんだい? 流石に“古いペンダントを幼い女の子が掛けてることが”、なんて言わないだろう?」

「あ……言われてみれば確かに。別にオシャレでも何でもないし。せっかく可愛い顔してたのに、なんでだろ?」

「……いや、それはいいから。なんで不思議だと思ったんだ?」

「んとね――……」

 

 諏訪子は顳顬に人差し指を当てると、心底分からないとばかりに首を傾げる。そして、語った言葉は――、

 

 

 

「何故かは分かんないけど、僅かに神力が(・・・)宿ってた(・・・・)んだよねー……。しかも、相当に古いのが」

 

 

 

 ――それに思い当たる事は、一つだけだった。

 

「……神器、か?」

「んにゃーそれも考えたんだけど、それを人間の女の子が持ってるのはおかしいと思って。それに至近距離にいた早苗でさえ気が付かないくらい微量だよ? 例外過ぎて訳が分からないよ」

「ふむ、それもそうだな……」

 

 神器とは、主に神力の宿ったあらゆる物質全般のことを指す。

 神力は万物の具現たる神の放つ力ゆえ、宿っているだけでも様々な効果をもたらすもの。それは神奈子が持つ“御柱”の圧倒的破壊力然り、諏訪子の持つ“鉄の輪”の有り得ない斬れ味然りだ。

 その人智の及ばぬ効力を“凄まじい利便性”と捉えて生まれた言葉が、戦後日本に流通した“三種の神器”である。

 

 しかし諏訪子の言う通り、本当の意味で神力の宿った神器をただの人間が持っているのはおかしい。

 しかも純粋な神である諏訪子でないと気が付かないくらい微量となれば、どう考えても数百年単位で古いものという事だ。

 幼い少女が持っているそのおかしさに、更に拍車を掛ける形になる。その娘の家系自体も気になってくるが――、

 

 ――ふむ、全く訳が分からん。

 

 流石の神奈子も、唸りたいくらいに“なんだそれ?”のオンパレードだった。

 

「うーむ分からん。一度見てみないとどうにもならないな」

「見ても分からない可能性大!」

「じゃあ諦めるか?」

「まっさかぁ! わくわくするじゃん? こういう謎解きみたいなの!」

「……お前、外界のゲームに侵され過ぎじゃないのか?」

「神器の原点は“鏡・玉・剣”、戦後は“3C”と来て、今の時代は“ケータイ・パソコン・ゲーム”だよ! だからわたしがやってたっていいじゃない、だって神様だもん!」

「そうしたら、偽物の神器が本物の神器になる日がいつか来るかもな」

「チート初期搭載ゲームかな? ヌル過ぎてつまんなそー!」

「量産機予備軍が何言ってるんだか」

「あっはは、それ言われると弱いよ〜!」

 

 ま、取り敢えず保留だな。

 楽しそうに話す諏訪子に相槌を打ちながら、神奈子は至極適当に結論付けた。

 神なんてみんな気まぐれなものだ。諏訪子は少々マイペースに過ぎるとも思うが、何処の神だって大体暇を持て余している。だからこういう話のタネをいつでも求めているのだ。

 

「(まぁこれも、気が向いたら追求して、飽きたら片付ければいい玩具のようなものだ)」

 

 息を吐いて、寝転がる。隣で諏訪子は騒いでいるが、まぁ放っておいても問題はなかろう。

 神奈子は後ろで組んだ手を枕にして、ゆっくりと目を瞑った。

 私は早苗がお昼を作り終えるまでは昼寝でもして過ごそうか――と。

 

 神奈子もまた神の一柱。

 その気性も諏訪子に負けず劣らず、マイペースなのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「では次の質問ですが、普段はどんな事をして過ごしていますか? あ、仕事以外で」

 

 興味津々といった具合で紙とペン――筆みたいな物らしい――を構える文。吹羽は机を挟んだその向かい側で、大人しく彼女の取材に応じていた。別に困る事は何一つ訊かれていないので、吹羽にも拒否する理由が無いのである。

 因みに魔理沙は、いつもより“ツン”とした雰囲気で壁に背を預けていた。やっぱり、文が付いてきたことをよく思っていないらしい。

 

「んー、お仕事以外ですか? ……定休日以外はいつも働いてるので逆に挙げ辛いですね……」

「でもずっと働き詰めって事もないはずです。何でもいいですよ?」

「うーん……」

 

 そう言われても、仕事以外でやっている事と訊かれたら買い出しくらいしか思い付かないのだが。

 取材なのだからある程度は適当で良いと分かってはいたが、吹羽はいつの間にか至極真面目に考え込んでいた。

 食材なんかは週に一度纏めて買いに行くし、鍛治に必要な材料は先程のように時々鉄鉱石を採掘しに行って、製鉄してもらうようにしている。家の掃除は小まめにしているが、文もきっとそういう事が聞きたい訳ではないはず。

 ――期待されるような事は、どうにも言えそうにない。

 

「“家事をしてる”だけで良いなら、お答え出来るんですけど……」

「か、家事だけ……。あ、じゃあお休みの日は何してます?」

「お休みの日――……」

 

 ――大体風紋開発に勤しんでいる気がする。そうじゃなければ多分阿求や霊夢とぐうたらしてるな。

 あれ? それって……

 

「(……もしかしてボク、女の子として結構ダメな生活してる……?)」

「……どうしました? なんかお顔が真っ青ですよ?」

 

 恐る恐る文に告白してみると、やはり彼女に苦笑いされた。あからさまに憐れまないその優しさに逆に心が痛いです。

 風紋開発だって趣味の一環なのだから別に良いじゃないか――そう、一応弁明してみるものの、文曰くそれでは仕事していることには変わりないとの事。

 もしかしたら自分は、気が付かない内に休日返上なんて馬鹿な事をしていたのかもしれない。

 知りたくなかった事実に、吹羽は思わず頭を抱えたくなった。

 

「ダメですよー吹羽さん? 仕事ばっかりで遊ぶ事も忘れると、将来良い人が見つからず、そのまま結婚(・・)できずに終わっちゃいますよ?」

「けっこ――ッ!? そ、そんなの困りますよぅっ! あ、アレ! 料理とかじゃダメですかっ!? ボクこれでも色々作れるんですよ!?」

「ほうほう……例えば?」

「えと……に、肉じゃがとかお味噌汁は勿論、煮付けとか得意です!」

「うーん、いまいちインパクトに欠けますね」

「じゃあ茄子田楽とかっ!」

「なんですかそれっ!?」

 

 何とか巻き返しを狙った吹羽の弁明をさらさらと紙にメモしていく文。若干論点がズレてきている気がしたが、なんとなく吹羽はそれを気にしていられなかった。

 結婚のことなんてまだ考えられる歳じゃないが、だからこそこんな時期に“このままでは結婚できない”なんて非情な宣告をされれば必死にもなる。

 そりゃあ吹羽だって女の子な訳だし? いつか素敵な殿方と出会う事を夢見るのは不可抗力であるからして。

 “船を沈め釜を破る”という諺がある。

 これは女の戦いなのだ。決して引くことは許されない決死の旗揚げである。何としてでも先の言葉を撤回させてみせる――ッ!

 

「なるほどなるほど〜……このレシピは余白欄に打ち込むとしますかね」

「あとはですねっ! 家事も一通り出来ますし稼ぎもちゃんとありますし――」

「あ、もうそれはいいので次行っていいですか?」

「――えっ、あはい……」

 

 もういいとか言われた。振ってきたの向こうなのに。ちょっぴり解せない吹羽である。

 

「えーっと、それでは最後の質問ですが――……」

 

 文は取材を初めて以降変わらない薄い笑みのままメモしていた小さな紙束を一枚めくると、僅かに視線を鋭くして(・・・・・・・)吹羽を見つめた。

 

「吹羽さんは弾幕勝負も一応出来るそうですが、使用するのは自分で作った武器だとか」

「は、はい。刀とか手裏剣とかを使ってます。まぁそれだけだと投げて終わりになっちゃうので、ちょっと工夫はしてるんですけど」

「やっぱり風紋付きなんですよね?」

「もちろんです」

「そこでなんですが……それ、どういったモノがあるのか教えてくれません?」

 

 文は、満面の笑みでそう言った。

 それは相変わらず綺麗で可愛らしい笑顔ではあったものの、どこか空虚というか、心ここに在らずなように思える表情だった。

 その少しばかり不気味(・・・)な笑顔を前に、しかし吹羽はゆっくりと口を開く。

 断る理由など、吹羽にはなかったから――。

 

 

 

「言うんじゃねぇぞ、吹羽」

 

 

 

 だから、突然の否定的な魔理沙の言葉に、一瞬で声が詰まって。

 

「そいつは答えちゃダメな質問だ。弱点を曝け出すみたいなモンだからな」

「え……? あの――」

「もーなんですか魔理沙さん! 取材の邪魔しないで下さいよー! 静かにしてると思ったら!」

「何が取材だ、自重しろ烏天狗。吹羽の手の内を周(・・・・・・・・)りの奴らにばら撒く(・・・・・・・・・)気か?」

 

 そう、鋒のような鋭い視線を放つ魔理沙の表情は、始終笑顔な文とは対照的に飯事などを決して含まない真剣なものだった。その声音はどこまでも不機嫌そうで、静かな憤慨さえ伺わせる。

 

 魔理沙の言い分はこうだ。

 “吹羽にその質問をする事は、そのスペルカードはどんな弾幕を放つのですかと尋ねているようなものだ”――と。

 言われてみて、吹羽も初めて気が付いた。

 彼女にとって風紋は“夢の形”であると同時に商売武器でもある。その種類が広まってくれれば、自然とその利便性に気付いた多くの人がウチの刃物達を使ってくれるようになるかもしれない。だからこそ吹羽は文の質問に正直に答えようとした。

 

 しかし、弾幕ごっこで使用する武器に風紋が刻まれているのもまた事実なのだ。

 風紋は魔法のように融通の効くものではない。かつてのある当主は一振りの刀で複数の風紋を扱えたそうだが、まだ幼い吹羽にはそこまで化け物染みた技術は扱えない。

 故に、魔理沙の言うように、その武器に関する風紋の情報を与える事は不利でしかないのだ。吹羽が弾幕ごっこを護身術の一つとしている以上、それは考慮しなければならない。

 魔理沙はそれにすぐさま気が付いたのだろう。そして優しい彼女のことだ、吹羽が不利にならないようフォローしてくれたのかもしれない。

 

「(でも……魔理沙さん、ちょっと怖い……)」

 

 しかし、その真剣な眼差しが放つ見えざる覇気は、吹羽にその顔を見ることさえ躊躇わせていた。

 自分の家なのに。普段から過ごしている使い慣れた居間なのに。自分のところにだけぽっかりと空間の穴が空いてしまったかのように、吹羽は底冷えするような緊張感を、今全身で感じている。

 肌がどこかピリピリと痛むのは、きっと気の間違いではないだろう。

 

「ヤですねぇ、そんなつもりありませんよぉ〜。ただ、吹羽さんから頂いた情報を基にすれば、我々の風紋を河童達が上手く進歩させてくれると踏んだだけですよ。種族の発展を望むのは当然じゃありませんか?」

「だがその情報自体はお前のところにも残る。悪辣なお前のことだ、今口約束したってその内平気な顔して悪用するに決まってる。どちらにしろ教える事には賛成しないな」

「それが偏見だって言ってるんですよぉ〜。新聞記者を何だと思ってるんです?」

「初めに言ったぞ“悪徳パパラッチ”。あと新聞記者に言ってんじゃねぇよ、お前に(・・・)言ってんだ」

「別に悪いことなんて考えてないのにぃ……」

 

 人差し指を突きあわせるその様子は何処か作り物めいてはいたが、思い出してみればいつだって文の様子はそうだった気がする。

 これが素なのだろうなぁ、と吹羽は内心で苦笑いしながら、取り敢えずは、眉根を寄せる魔理沙に恐る恐る声を掛けた。

 

「ま、魔理沙さん。文さんもきっと気が付かずに言っちゃっただけなんですよ。だから、そんなに怒らないで下さい」

「あん? お前こんなやつを信じる気か? どうせこれだって演技なんだぜ?」

「う、疑い過ぎですよ……。それに、信じるも何も文さん泣きそうですよ? 反省してなかったら泣いたりしませんよ」

「うぅ、ぐす……魔理沙さんが私を虐めますよぉ吹羽さぁ〜ん」

「ほら……泣かないで下さい文さん」

「うぇ〜ん」

「………………」

 

 泣きながら抱き着いてくる文の頭を優しく撫でる。こんなに反省しているんだから怒ることないのに、と吹羽はちょっぴり呆れた顔で魔理沙を見遣った。

 ――なんか、彼女の方がより呆れた表情をしているんだけど。盛大に溜め息を吐いてゆるゆると頭を振るうその姿は、何故か吹羽にも向けられている気がした。

 なんで呆れられてるのか全然分かんないんですけど……。

 

「兎も角、さっきの質問は御法度だ。吹羽も簡単に答えようとすんなよ」

「は、はいぃ。分かりました……」

「う〜仕方ないですねぇ。今日は引き下がりますかぁ……」

「“今日は”じゃなくて“これからも”だ。分かってんのか?」

「ぶー、分かりましたよう」

 

 渋々と引き下がる文の姿は本当に残念そうで、吹羽にさえ何処となく罪悪感を抱かせる。

 だって、文は吹羽のことを知りたいと思って来たのだろう? それは、一歩だけ相手に歩み寄れない気質の吹羽にとって非常に嬉しいことだったし、きっと仲良くなれると思ってもいた。

 故に、興味津々で取材しに来てくれた文の期待に応えられないのは非常に申し訳なかったし、心苦しかった。

 

 ――と、そこで吹羽は良いことを思い付く。

 

「あ、文さん!」

「はい、なんでしょうか?」

「ちょっと待ってて下さい! まだ帰っちゃダメですよっ」

「……?」

 

 すぐさま駆け出し、工房にある棚へと向かう。ここは数々の道具が収納されているが、基本的に鍛治に関係をするものならばなんでも入っている。

 その内の一つを引き出し、吹羽は中から長さ半尺程度の鋼を取り出した。

 

「えーっと……うん、問題なし」

 

 変わりないことをさっと確認し、吹羽は急ぎ足で文の待つ居間に戻ると、座り込む勢いで持って来たものを文の目の前に突き出した。

 文は少々驚いた顔をすると、吹羽に見せつけられたものをジッと嘱目して、

 

「ふむ……これ、小刀……ですか?」

「はい! これ、文さんに差し上げます!」

「え、私にですか?」

 

 精一杯の笑顔で手渡したのは、吹羽が風紋の開発用に作刀した一振りの小刀だった。

 鞘も鍔も柄すら付いていない抜き身の小刀ではあるが、風紋の開発用であるため刃は大して研磨していない。おそらく素手で刀身を握っても薄皮一枚切れはしないだろう。

 

 しかし、それを受け取った文は困惑の表情で。

 

「えぇと……これを私にどうしろと?」

「ご自由にしちゃってください!」

「……はい?」

「だから、何に使っても構いません! 河童さんに出して解析? するもいいですし、風紋を新聞に載せるなら木版代りにしちゃってもいいですよ。刃物としての機能はほとんど無いので、不要なら捨てちゃっても構いません」

 

 そう、これが吹羽なりの恩返しだ。

 

 知りたいと言ってくれたことが嬉しかった。でも何もかもを曝け出すことは出来ない。

 文の興味を満たせたのかどうかは吹羽には分からないが、だからと言って“何もしない”、“取り敢えず終わったなら帰ってね”ではきっと友達になんてなれやしない。

 

 文に渡した小刀の風紋は、吹羽が思考錯誤してきた証の一品である。河童がみればきっと嬉々として解析してくれるだろうし、その風紋を見て思ったことでも新聞に書き出せば、程よくネタにもなるだろう。使い道は幾らでもある。だがそれで吹羽の手の内がバレてしまう可能性は限りなく低くなる。

 

 吹羽にとっては、友達になれそうだと期待する文への餞別と同義、そしてその証だった。

 

 しかし、文はキョトンとした声で、

 

「えーっと……何故でしょうか? 私には全く分からないんですけど……」

「勿論、風紋に関してお答えできないお詫びですっ! これがあれば、きっと役に立つと思うんです!」

「………………」

 

 文は恐る恐るといった様子で小刀を受け取ると、相変わらず分からないといった表情ではあったけれど、少しだけ笑みを浮かべて言った。

 

「はあ……では、ありがたく貰っておきますね」

「……まぁ、上手く言い付けの網を掻い潜ったというか。霊夢の言う通りお人好しだな、吹羽は」

「そ、そんなぁ、ちょっぴり照れちゃいますねっ」

「いや褒めてるワケじゃねーぞ。ったく……」

 

 やはり少しだけ不満気な魔理沙への相槌の横で、文は「よっこいせ」と立ち上がる。

 最後だと前置きしていた質問が終わった事で、文もそろそろ引き上げる事にしたようだ。

 正直もう少し話していたって吹羽は構わないというかむしろ歓迎するところなのだが、ひょっとしたら彼女も、魔理沙の放つ“負の空気”を多少なりとも居心地悪く感じたのかも知れない。

 無理をしてまでここにいてもらおうとは思えないので、文を見上げながらも黙っていた。

 

 ただ――友人が自分の家を去る直前、である。

 ああ、やっぱりちょっと寂しいな――なんて僅かばかりの空虚感を感じるのは、きっと吹羽に限った話ではないと思われる。

 それを感じ取ったのかどうか、立ち上がった文は吹羽をちらと一瞥すると、

 

「では、またの機会に、吹羽さん」

 

 その綺麗な笑顔を最後に、室内では瞬間的に強風が吹き荒んだ。

 普段部屋の中を満たしているような緩い風ではなく、明らかに異質で、しかし乱暴ではない風。それが文の去り際に残されたものだと気が付くのに、多少の時間も必要なかった。

 吹羽は何とは無しに一つ息を吐くと――ふと、魔理沙を見遣り、

 

「な、なんです? 見つめたりして……」

「いや、まぁ……なんというか……」

 

 言葉が見つからないというように髪ををガシガシと混ぜると、魔理沙は諦めたように溜め息を吐いた。

 横目で見遣り、

 

「……わたしは、お前が心配でならないぜ」

「へ? なんでですか?」

「それを分かってないから、心配だって言ってんだよ、全く……」

 

 何を指して心配しているのか、当然吹羽には分からない。首を傾げてハテナを浮かべるだけである。

 魔理沙も吹羽が理解する事を期待しているわけではないようで、「ま、いいけどさ」と付け足すその声にはどこか諦観が混じっていた。

 

 文に風紋刀を渡したのが気に入らなかったのだろうか。いやでも、それって心配されるほどのことか? そもそも、心配されるような事など一つもないように思うのだが。

 そんな事をぐるぐると考えるも、答えはやはり出てこない。この後暫く悩み続ける事になるのだが、それはまぁ余談も余談である。

 風成 吹羽。己が中々のお人好しなのだとは、欠片も自覚できない少女である。

 

「あっ! そろそろお仕事に戻らないと今日の分終わらなくなっちゃいます!」

「お、鍛治か。折角だからちょっと見ていくかね」

「見ても面白くなんか無いと思いますけど……」

「見ることも大切ってな。何事も経験さ」

「えぇ……鍛治の技術が魔法にどんな影響を……?」

 

 魔理沙の言い分にも若干納得はいかないが、まぁ気にするほどのことでもないので吹羽は直ぐに疑問を払い除けた。

 魔理沙も意外と勤勉(?)な人間だった、ただそれだけの事である。

 ……“折角だから鍛治を見学していこう”なんてどこの歴史家の少女だろう。

 ふと頭の片隅で思い浮かべた少女は、輝く笑みでサムズアップしていた。直後“いやちょっとキャラが違うや”、と急いで想像を掻き消したが。

 

「それじゃ、気を取り直して始めますよっ!」

「頑張れよ〜」

 

 魔理沙の気のない応援の声を聞き流しながら、吹羽は金槌を振り上げる。

 次に文に会えるのは、いつなのだろう――なんて、頭の片隅で夢想しながら。

 

 

 




 今話のことわざ
(ふね)(しず)(かま)(やぶ)る」
 生きて帰ることを考えず、決死の覚悟で戦いに臨むこと。


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第十四話 友と幸

 

 

 

 ――時々こうして、夢を見る。

 

 夢というのは継ぎ接ぎだらけで、例えば怖いもの・事象を無理矢理繋ぎ合わせて投影するだけだったり、嬉しかった事や楽しかった事を脈絡もなく縫い合わせて、迷い込んだ者を甘美な幻想へと溺れさせたり。

 それは良くも悪くも、猛烈な波濤の如く迫ってくる。大抵の場合は気が付くことも不審に思うことも出来ず、ただ身を任せて流されるだけだ。

 ある意味きっとどこまでも甘い世界で、でもときどき怖くて狂いそうになる――そんな不思議(不気味)な世界のことを、吹羽はとにかく、“夢”と呼ぶ。

 

 

 

『ほぉらふーちゃん、ご飯が出来たわよ〜』

 

 

 

 ただ、彼女が見るのは幻想ではない。

 そんなものを見るよりももっと多大な頻度で、吹羽は再び集めた欠片(・・)の夢を見る。

 それはパズルのようでもあり、鏡のようでもあり、だが決して完成はしない噛み合わぬ記憶。未だ多くの孔があり、それを直す術も、今のところは存在しない。

 ――否。本当は……取り戻すのが、怖かった。

 

 

 

『お、筋がいいな吹羽。さすがだなぁ』

 

 

 

 夢に見るのは孔だらけの記憶。継ぎ接ぎばかりでとても寂しい思い出の欠片。でもそれを取り戻してしまうと、何故これを忘れていたのかと責められるようで、やっぱり怖いのだ。

 楽しい記憶。嬉しい記憶。悲しい記憶。悔しい記憶。

 完成されたものは、一つとしてない。何処かがやっぱり空いていて、絶え間なく隙間風が吹き込んでくる。そして夢の中にある吹羽はいつも、その冷たさに、凍えそうになる。

 なんで、こんなことに――と、もう何度思ったことだろう。

 

 

 

『おいで、吹羽。お前の好きな鯛焼きでも買いに行こう』

 

 

 

 ああ、寒い。寒いよ。どうして皆居なくなっちゃったの? どうしてボクはこんなにも忘れているの?

 思い出せない。見つからない。

 きっともっとたくさんの思い出があったはずなのに、たくさんの暖かさを貰ったはずなのに。忘れてはいけないことが、たくさんあったはずなのに。

 

 夢の中で繰り返すのは、いつだって同じ問いだった。答えが出たこともないけれど、どうしたって問わずにはいられない。

 だって、こんな理不尽を受け入れられるほど吹羽は大人じゃない。大人らしくあろうとしてはいるけれど、大人になれた(・・・)訳じゃないことを、誰よりも自分が分かっているから。

 

 残された一人の幼子に出来るのは、ただ帰りを待つことだけ。帰ってくると信じることだけ。

 記憶の欠片を脳裏に映しながら最後に辿り着く妥協点(・・・)は、結局いつも、それだけだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「ぅ……ん――……」

 

 重い瞼を持ち上げると、そこには障子の開け放たれた縁側が広がっていた。

 日の差す木造りの縁側はポカポカと暖かそうで、冬の訪れを僅かに感じさせるこの時期にはとても気持ち良さそうだと、吹羽は微睡む意識の中でぼんやり思った。

 

 ――はて。此処は何処で、何故自分は寝ていたのだろう?

 

 意識の片隅でふと疑問に思うと、あとは自然と眠気が覚めていく気がした。勿論まだ眠いし瞼も多少重いのだが、また眠ってはいつ起きれるかが分からない。

 吹羽は至極ゆっくりと、横になっていた体を起こす――が、直ぐにまたパタンと横に倒れた。

 

「(あうぅ……やっぱりまだ枕が恋しいよう……)」

 

 頭の下に敷かれた枕は、二つ折りにした座布団だった。ついさっきまで頭を乗せていたため人肌程度に温かくなっており、ふかふかとしたその感触との組み合わせもはや暴力的。下は畳なので少し痛いが気にするほどの苦痛でもなく、まるで「もう少し寝ていようよ」と、耳元で甘く優しく囁かれているような感覚だった。

 アレだ、寝起きによくある誘惑だ。

 目が覚めたばかりで寝惚けているためか、今の吹羽にはその誘惑に抵抗するほどの精神力が残っていなかったのだ。瞬間ノックアウトである。

 

 っていうか、こんな明るい時間に寝ているといたということは、どういう訳だか仕事が終わった、もしくは無いということであって、別に今起きなければならない理由などそもそも無いし、故に次に起きるのが何時だろうと別に構わないのである。

 だからこのまま二度寝と洒落込んだところで影響などなく、吹羽はこのまま気持ち良〜く眠りの海に身を沈める事が出来るという訳だ

 今なら言える。二度寝、万歳!

 

「(はふぅ……きもちーですぅ……)」

「ちょっと、また寝る気? 起きたばっかりでしょうが」

「ッひゃんっ!?」

 

 突然上から掛けられた声――と同時に襲い来た脇腹への刺激に、吹羽は可愛らしい声を上げてびくんと跳ねた。

 感触から察するに指先で僅かに脇腹を突かれただけだが、完全に気を抜いていた吹羽には効果絶大であった。

 そして当然、それだけで終わるはずもなく。

 

「あっ、ちょ、あはははっ! ま、待ってくださ――はひっ!?」

「ほらほら、寝てばっかりだと成長しないわよー?」

「ひゃぁあっ!? わ、分かりましたからぁっ! 起きますからっ、まって、くすぐらな――ふあっ、あはは! やぁ、そこ弱いんです、ようっ!」

 

 脇腹から怒涛の勢いで駆け上がる“ぞわぞわ感”に、吹羽は抵抗することも出来ず必死に悶え苦しむばかり。

 コチョコチョの主犯である友人――霊夢へ向けて必死に抗議するも、彼女は全然やめてくれない。どころか、吹羽をくすぐる事に味を占めたのか更に攻めが激しくなっていく。

 

「何これ面白いわね……じゃあ、こことかどうよ?」

「ひっ!? や、やめっ、そこつねっちゃ――は、はわっ……も、らめ、れすぅ……っ」

「……あら?」

 

 霊夢の無慈悲極まる()烈なくすぐり攻撃に、遂に吹羽は陥落した。

 くたりと荒い息遣いで霊夢へ寄り掛かる彼女は、もはや息も絶え絶え、寝起きにも関わらず汗をかいて頰を紅潮させている。必死だった所為か意識も視界もぼんやりと虚ろだった。

 っていうか、あと少しで本当に酸欠になるところだったんですけど。限度を知らないのかこの人は。

 

「……やり過ぎた?」

「はぁ……はぁ……やりすぎっ、です……っ!」

 

 せめてもの抵抗に睨み返してみるも、霊夢はいつものように気にした素振りも無く、無言でわざとらしく笑うだけだった。

 ――仕方ない、起きよう。

 どギツい目覚ましのお陰で眠気は吹き飛んでいる。今すぐ横になれば寝れないこともないが、そこまでして二度寝に拘ったりしないし、くすぐり攻撃が何より怖い。霊夢を再びあの凶行に走らせたら今度こそこちらの身が保たないと既に確信していた。

 吹羽は学習できる子なのだ。

 

「(――って、ここ博麗神社か)」

 

 霊夢の膝上からぼんやり眺めた景色は、古風の中に神聖さを感じる、博麗神社の境内だった。ここはその中の居住スペース――霊夢が普段過ごしている居間である。

 

 そうだ、目が覚めて思い出した。

 吹羽は覚醒し始めた頭の中で思い返す。今日は依頼されていた仕事が急遽破棄され、久しぶりに暇になったため神社に遊びに来たのだ。

 しばらく霊夢と談笑していたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 疲れていたのだろうか? 前に霊夢から“根を詰めすぎるな”みたいなことを言われたが、知らぬ間に無理をしていたのかもしれない。

 話していた相手が寝てしまったら、彼女が機嫌を損ねるのも頷ける。少々悪いことをしてしまったと、吹羽は少しだけ申し訳ない気持ちになって俯いた。

 

「ほら、涙拭きなさいよ」

「……え? ……あ、はい。ありがとうごいます……」

 

 不意に聞こえた“涙”という言葉に、吹羽は内心どきりとした。それは夢のことを思い出したからで、まさか自分は泣いていただろうか、と少し不安になったからである。

 いや、くすぐられた所為で出た涙に決まっている。でも――。

 言いながら簡素な柄の布巾を渡してくる霊夢に他意はなさそうだったが、万一にでも“夢のこと”を知られたくない。特に、霊夢と阿求には。

 吹羽はその不安を吐き出すように、しかし悟られないように気を付けながら、呟き気味に問い掛ける。

 

「あの、霊夢さん……」

「ん?」

「ボク……何か寝言、言ってました?」

「寝言? ……いや、特に言ってなかったと思うけど」

「そ、そうですかっ。ならいいです!」

「?」

 

 良かった、と吹羽は胸を撫で下ろす。

 何せ、霊夢にも阿求にもこれ以上心配を掛ける訳にはいかないから。

 二人には今まで散々と世話をしてもらった。きっとこれからもその時々で助けて貰う事になるだろう。だからこれからの吹羽に出来ることは、「もう大丈夫ですよ」と行動で語り、二人をでき得る限り安心させる事。

 ずっと前から、決めていたことだ。

 それが例え――空元気なのだとしても。

 

「ところで――」

 

 言いながら、机を挟んだ向こう側へと目を向ける。

 話題を変えるのには御誂え向きとも取れるような光景がそこにはあった。

 遠慮なく乗っからせてもらおう、と吹羽はちょっぴり打算的に話を振る。

 

「……そっちで蹲ってるの、文さんですよね? どうしたんです?」

「ああそれね。何してんのあんた」

「うっ、うぅ……お二人のじゃれ合いが思いの外高威力でして……ぼ、暴発(・・)しそうになってるだけですので、お気遣いなく……」

「?? そう、ですか」

「…………?」

 

 何やら鼻を押さえて震えているが、本人が大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろう。

 何に悶えているのか分からない吹羽には、取り敢えずそうして割り切るしかない。

 そんな文を眺める霊夢もどこか訝しげに眉根を寄せていたが、すぐにいつもの澄まし顔に戻っていた。

 

 ――そういえば、最近は本当によく文と顔を合わせている。ひょっとしたらほぼ毎日遭遇しているのではないだろうか。

 無論会いたくない訳ではないし、むしろもっと親睦を深めたいところではある。だがそれにしたって毎日顔を合わせているとなると、何か作為的なものを感じるのは当然のことだろう。まぁ、文は里に来る時には羽などをちゃんと隠しているので、別段問題がある訳ではないのだが。

 とにかく、深く考えても仕方がない。きっと文も吹羽と同じ気持ちで、仲良くなりたいだけなのかも知れないし。

 吹羽はそうして、半ば投げやり気味に結論付けた。

 

「何に堪えてんのか知らないけど、あんたホントに何しに来たのよ? あ、返答次第では叩き出すからね」

「手厳しいですねぇ……遊びに来たではダメなんですか?」

「本当に遊びに来ただけなら何も言わないけれど……。年中ネタを探して飛び回ってるあんたが、わざわざ遊びに来たりするのかねぇ?」

「ふむ……ああ、つまり叩き出す条件と言うのは“取材に来た場合”って事ですねっ! なるほど、じゃあ(・・・)私遊びに来ただけです!」

「――あ? はっ! カマかけられた……っ!?」

「(……あの霊夢さんを、出し抜いた……? 文さん、思ってたより恐ろしい人です……ッ!!)」

 

 流石は新聞記者、その話術の前では霊夢ですら弄ぶことが出来るらしい。

 慎重に答えを選ばなければならない場面で、しかしたった一言二言交わしただけでその答えを、霊夢の口から導き出してしまった。

 文の社交性の高さやコミュニケーション能力の卓逸さは、きっとそういうところに端を発しているのだろう。

 これは確かに、魔理沙が何処かピリピリしていたのも頷ける。かく言う吹羽も、気が付かぬうちに有る事無い事言わされてしまいそうで、少し怖い。

 

 “外面如菩薩内心如夜叉”という諺がある。

 そうではないと願いながらも、文を怒らせることはなるべく避けようと心に誓う吹羽であった。

 

 まぁ、それはさて置き――、

 

「ま、まぁまぁ! そんなに邪険にしないで、折角なので三人で遊びましょうよっ!」

「えー、吹羽あんたねぇ……」

「ふああ……吹羽さん、私なんかに手を差し伸べてくれるなんて、まるで天使のようですよお〜……ありがたやぁ……」

「そ、そんな大袈裟な……」

「…………まぁ、いいけどね」

 

 目の端に涙すら浮かべながら擦り寄ってくる文を、吹羽は困惑ながらに宥める。

 一体、今までどれだけ邪険にされて来たのだろうか。想像すると背中が薄ら寒くなって来たので、吹羽は途中で考えるのを諦めた。

 

 ――という事で、三人で遊べるものを考える事になったのだが、思いの外いい案が出てこない。

 ある時、吹羽が苦し紛れに「しりとりでもしますか?」と呟いたところ、二人に全力で拒否された。曰く、こういう状況でのしりとりは“会話の墓場”に等しいのだそうで。

 三人で机に向かい、笑うでも悲しむでもなく無表情のまま淡々と単語を並べ続ける様を想像して、“ああ、言い得て妙だな”と、吹羽はげんなりしながら妙に納得した。

 

「むー、もう思いつきませんよ私……」

「ボクも……」

「……あ、そう言えば確か……」

「ふぇ?」

 

 霊夢の呟きに、吹羽は不思議そうな声音で反応した。

 それには大した言葉も返さず、霊夢は背後に設けられた箪笥を弄る。

 やがて彼女が持って来たのは――、

 

「かなり前に買ったヤツなんだけど……これとかどう?」

 

 小さな花柄のカードが収納された、掌大の箱だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――“世界を管理する”ということは、決して簡単なことではない。

 

 規模が大き過ぎて、途方もなさ過ぎて、きっと言葉で聞いたところで実感など無いものと思われるが、それだけは大前提として言っておかねばならない。

 

 世界とは、そこに生きる生命がある限り、何処までも移ろいゆくものだ。

 それぞれに命があり、権利があり、知恵を用いるための頭脳と思想がある。それは時に同調したりして一つに纏まることもあるが、大抵の場合は意見を食い違い、対立することがほとんどである。そして“管理”とは別に、世界を運営(・・)していくのは紛れもない“そういう者達”なのだ。

 “そういう者達”がいるからこそ、世界は刻一刻と姿を変える。

 

 こうしている間にも、ほら。

 外の世界では、ある国が引き金を引き、戦争が始まるかもしれない。

 誰かのミスで株が暴落し、経済が崩壊するかもしれない。

 何処かの誰かが革新的な開発をし、世界に革命をもたらすかもしれない。

 ――“姿を変える”とは、つまりそういう事だ。

 

 八雲 紫は常に考察している。

 今現在の問題とは何か。それを解決する術とは何か。これからのこの世界(幻想郷)に、必要なものとは何なのか――。

 その神の領域にすら迫るであろう頭脳を用いて、しかし人心を操ることなど彼女にも出来ないから、常に手を加え続ける。

 今よりも先へ……ここに暮らす忘れ去られた者達が、より安息を得られるようにと、あらゆる事柄の裏で手を引き、導いているのだ。

 

 そして、現在は――。

 

「……怪しい、わよねぇ」

 

 その紫水晶の瞳に映すのは、今起こり得る“問題”――と言うよりは、懸念している事象。

 少し前に霊夢にも忠告したが、やはり何か嫌な気配の感じる、“ソレ”。

 

 目を細め、冷たく鋭い光を放つ瞳のその奥――思い出すのは、遥か昔の約束(・・)だった。

 

「(もし、本当に予想通りなら――)」

 

 少々、面倒なことになる。そう思って、しかし紫はすぐに緩く首を振った。

 違う。例え想定通りになったとして、自分に出来ることなど限られているのだ。

 その事態を収束させられるのは、きっと自分ではなく、霊夢。それが分かっていたから、あの日忠告したのだ。

 “よく考えて行動しろ”――と。

 だから、今は傍観しか出来ない。手を加えることは出来ない。

 

 紫は少し諦めるように溜め息を吐いて、その白く細い指をついと振るった。開かれたスキマには、新たな光景が広がっていて――思わず、微笑みを溢す。

 

「あらあら、呑気なことねぇ……遊んでるじゃない」

 

 眼下に広がるのは、三人の少女の姿。少し珍しい面子と思いながらも、紫はその光景に何処か心のささくれが潤う気がして、優しげに目を細める。

 偶には、ちょっとくらい休憩したっていい。心のケアも大事なことだし。

 

 紫は頬杖を突いて、その和やかな光景をもう少し、眺めてみることにした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――花札。

 それは一組四十八枚、十二ヶ月折々の花々が四枚ずつ描かれた小さな札。

 賭け事に用いられたりもするが、その芸術性なども相まって愛好家すら存在する、かるたの一種である。

 古くは十六世紀後半、葡から伝えられた四十八枚のトランプに端を発し――とまぁ、花札の歴史は横に置いておき。

 

「むむむ……ここは堅実に『松』を出して……あ、やりました! 『芒に月』で『月見で一杯』! “こいこい”です!」

「ほい『赤短・七』で勝負。四倍の二十八文で上がりね」

「んな――ッ!?」

 

 霊夢の手元にある出来役を凝視して、わなわなと震えるのは文である。彼女の強気な――否、苦し紛れの“こいこい”を瞬時にへし折った霊夢は、澄まし顔で言う。

 

「ま、ざっとこんなもんよ」

「うがーッ! 完封負けしたーッ!!」

「よ、容赦ないですね霊夢さん……。半どんの勝負結果が“八十三文対一文(・・・・・・・)”って、何ですかコレ。運勢でも操ってるんですか……?」

 

 文と霊夢の勝負を隣で観戦していた吹羽は、その勝負結果に頰をひくひくと引き攣らせていた。

 三人が始めたのは、花札を用いた遊びの一つ『こいこい』。三人で遊ぶ『花合わせ』があることにも気が付きはしたが、取り敢えず一番ポピュラーなものを、ということでこの遊戯を使っている。

 今回の試合は“半どん”、つまり六回の試合で合計点数を競うルールであり、『花見で一杯』『月見で一杯』――どちらもたった二枚取るだけで五文貰える超お得出来役――も有りとしている。普通なら圧勝しても四十文程度の点数になるはずなのだが――、

 

「そんな訳ないでしょ。“次に捲れる札はアレかなー”なんて思いながらやってるだけ。勘よ勘」

「(なにその万能過ぎる勘……)」

 

 半どんで八十三文。そんな数字、中々出せるものではない。

 そも花札『こいこい』は出来役によって“勝負”した時の点数が変化するが、一つ分の出来役で見れば基本最高点数は『五光』『赤短・青短』の十文である。どちらも七文を超えているので“勝負”した瞬間に得点が倍加するが、そのメリットを差し引いても揃えるのは困難極まりないし、故に狙うのは非常にリスクが伴う。何せどちらも特定の札を五、六枚集めなければならず、一枚でも相手に取られればその月では揃えることができなくなるからだ。

 だが、八十三文なんて点数はそれらを狙わないと叩き出せない。

 現に霊夢は、六回の試合――六ヶ月、と言う――の中で一、二度『五光』を揃えており、後の月でも『赤(青)短』や『雨四光』を揃えている。

 凄腕の賭け事師ならそれも簡単なのかもしれないが、少なくとも吹羽にはとても出来ない。というか、こんな点数自体初めて見た。

 

「あ、あんまり落ち込まないで下さいね、文さん。霊夢さんってよく勘が当たるんです」

「くぅ……それは知ってますよぉ。何というか、追い込まれてそれを逆手に取られて、底なし沼で踠いてるみたいで……」

「……何となく、分かります……」

「ちょっと、なんかあたしが悪者みたいにされてない?」

「そそ、そんな事はっ」

 

 試合内容を鑑みれば、文が落ち込むのもまぁ仕方ないことである。

 彼女が上がれた試合は一度切り、しかも次の月で先攻を取るために集めた雑多な(・・・)出来役『かす』であり、その得点はたったの一文である。

 次の月から勝ち始める土台として捨てた一ヶ月だったが、霊夢の純粋な手練手管と山札から捲り来る次の札を的中させる勘を前に次々と負けを積み重ね、挙句『月見で一杯』をそろえても“こいこい”しなければ勝てない状況にまで追い込まれ――先程の決着である。

 

 正直、同情した。

 吹羽がここまでめためたにされたら、ひょっとしたら泣くかもしれない、と思う程には。

 

「っていうか、能力使うのは反則じゃないですかっ!? 私は純粋に頭脳で戦ったというのに!」

「はぁ? あたしの能力は『空を飛ぶ程度の能力』よ。“勘が当たる”なんてそんなショボいの、能力でも何でもないっつーの」

「もはや能力なんじゃないのか、って意味じゃないですか? 文さんが言いたいのは」

「どっちにしたって無理な要求ね。だって意識して使ってる訳じゃないし」

「むぐぐぐぐ……」

 

 霊夢の言い分は正論である。勘なんてものは誰にだって備わっているものであり、当たるかどうかは本人には分からない。霊夢だって捲る札を操作しているわけではなく、勘に基付き予想しているだけ。文句を言うのは筋違い。

 だが――そんな在り来たりな説明(・・)では納得出来ないが故に。

 文は言葉を紡げずにいながら、睨め付けるのをやめようとはしない。

 

 こうなったら――、

 

「文さん、今度はボクとやりましょ!」

「うぇ?」

「ボクなら霊夢さんみたいな能力は持ってませんし、正々堂々勝負出来ますよっ!」

 

 出来るだけ元気に、吹羽は励ますように言葉を放つ。

 実際、吹羽も見ているだけは物足りないし、かと言ってさっきのを見せられた上で霊夢とやろうとは中々思えないでいる現状である。心の健康のためにも、ここは一つ文と一戦交えるのが最適解だ――とは、少々大袈裟だろうか。

 文は一瞬ポカンとするも、直ぐに笑って頷いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――『こいこい』は手札八枚、場も八枚で開始する。配る前に取り決めたルールに基付き、先攻は文となった。今度も当然“半どん”である。

 

「始めからあんまり悩んでも仕方ないですね。では――」

 

 文は手札から一枚札を抜き取り、場にある“桜に幕”に重ねる。文が使ったのは“桜”のかす札だった。そして山札から一枚捲り見ると、

 

「ああ“柳”ですか。場には……ありませんね」

 

 場の札を確認し、捲った“柳”のかす札を並べる。

 文の手番はこれで終わりだ。彼女が得た札は“桜”と“桜に幕”の二枚である。

 続いて吹羽の手番。彼女は自分の手札を眺めて、試合をどう運ぶかを思案していた。

 

「(これは……あんまり強い役は作れそうにないなぁ……)」

 

 手札には“光札”が一枚、“短冊札”が二枚、“種札”が一枚、残り四枚は“かす札”である。

 光札は三枚集めなければ役を作れない上、全札中五枚ある内の一枚は先程文に取られた。加えて今持っているのは“芒に月”でもなければ“桜に幕”でもない。

 短冊の札は五枚――もしくは赤短か青短を三枚――集めれば役を作れるが、場には無い上に自分も赤・青の短冊は持っていないので望み薄。

 種札は、持っているのが“紅葉に鹿”――『猪鹿蝶』という三枚での出来役の一枚――なのが救いだが、基本的には五枚集めなければ役が作れない。

 となればやはり、次の月を見据えてかす札を集めるのが妥当というところか。

 

 吹羽の戦術としては『守って勝つ』である。

 あくまで手札の内で作れそうな役だけを目指し、無理はしない。ただしチャンスがあれば“こいこい”して点数を伸ばしにかかる。そういうスタイルだ。

 故に――ここは守る月と見た。

 

「では、これを出して、捲って……」

「……お、運がいいわね吹羽」

 

 出した札、捲った札がどちらもかす札に重ねられた様子を見て、隣の霊夢がポツリと呟く。

 一度に四枚取れるのは運がいい。自分の持ち札が多ければ多いほど、出来役の可能性も広がってゆくのだから。

 この手番で取れたのは“かす札”三枚、“短冊札”一枚だった。

 

「はい、文さんの番です」

「よっし私ですね! ほい!」

 

 ぱしっ! と場に重ねられたのは、『菊に盃』。捲られた札も場の“短冊札”に重ねられ、文の手元へ。

 ――出来役『花見で一杯』の完成である。

 吹羽はその様を見てぽかんとすると、直ぐにほうと息を吐いた。

 

「あ〜、“かす札”を集めてさっさと上がろうと思ってたんですけど、駄目でしたか」

 

 展開が早いが、これで文は一つの役が出来た。ここで“勝負”か“こいこい”と宣言し、上がるか続けるかを決定するのだが――まぁ、十中八九“勝負”だ。

 次の月で先攻を取れる上、一月目から五文獲得できる。そんなの吹羽なら見逃さない。

 だからちょっぴり悔しく思っていたのだが、

 

「こいこい」

「……ふぇ?」

「“こいこい”です。まだ終わるには早過ぎですよ」

 

 不敵に笑う文の顔。まるで、「守るだけでは勝てませんよ」とでも言われているかのような錯覚を感じさせる。

 そうか、文は吹羽とは反対に攻めていくスタイルなのだ。リスクは大きい分、上手く回ればぐんぐんと差を付けられる。

 となれば、こちらもより手堅く行かなければ。攻めに対して守る。スタイルの優位性としてはこちらが上だ。

 

「それなら、ボクも行きますよー!」

「望むところ!」

 

 ――それから次々と戦況は反転。

 スタイルとして優位なはずの吹羽も、文の攻めに翻弄されて負ける月が増えていく。

 

 文のようにガンガンと狙う出来役の為の札を取りに行くスタイルは意外と“潰し”が効くので、守りに行く吹羽も当然それを狙って行ったのだが――真に恐ろしいのは年の功、経験と言うべきか、文はそれすらも掻い潜って攻めてきた。

 本当ならば、光札を一枚取れば『五光』は防げるし、“赤短”や“青短”を一枚ずつ取れれば、点数の多い出来役としての(・・・・・・・)『赤短』『青短』は封殺出来る。そしてそれが出来れば、相手がそれまでに取っていた札は殆どが無駄と化し、アドバンテージを取ることができる。吹羽は主に“そういう勝ち方”を少ない回数の中で重ねてきた訳だが――文の攻めは、それでも中々止め難い。

 

 どの出来役が現場で最も作りやすいか、その為には手札をどう用いていくか。その頭の回転と切り替えの速度が尋常ではない。

 “潰し”を以って攻めを翻弄するはずの吹羽が、逆に翻弄されてしまっていた。事実封殺が間に合わず、いつの間にか役を揃えられていた場合がいくつかあった。

 まぁ文が“こいこい”する隙を突いて吹羽が上がった月もあるにはあるのだが、点数がどんどん開いていくことには変わりない。

 

 そして――、

 

「し、“勝負”です! 『三光』で五文っ」

「おお、やりますね。でも次は六月、点数差は二十文以上……逃げ切れば私の勝ちですねぇ♪」

 

 先手を取ることは優位に繋がる。次の月で大量得点しなければならない吹羽は、『三光』を揃えた時点で“こいこい”せずに上がりを選んだ。それ以外に勝ち筋はないのだから。

 しかし、文の言うことは尤もだ。

 二十文以上の差を一気に詰めるのは簡単なことではない。その上文はとにかく一つでも役が作れれば上がることができ、それは文の勝利――吹羽の敗北を意味する。

 

 次の月……手札の良し悪しすらも勝敗を左右する――ッ!

 

 霊夢の手で場の八枚と手札が配られる。吹羽は手札を捲る直前、無意識に唾を飲み込んだ。

 もしあまりにもかす札が多かったりすれば、挽回は最早絶望的。吹羽の手腕ではどうしようもない。

 もやもやと不安を心に薄く掛けながら、吹羽はゆっくりと手札を捲り見て――、

 

「(――っ! こ、これはすごい手札……っ!)」

 

 『桜に幕』を含めた光札が二枚、『芒』のかす札が一枚、種札は『菊に盃』、そして『柳』の短冊札。何より『青短』が三枚全て揃っている。

 逆転への道筋、勝利への催促。それらが既に示されているかのような手札だ。未だ嘗て、此れほどまでに整った手札を引いたことなどあったろうか。

 まず手札で既に『花見で一杯』と『青短・五』が完成している。それに短冊を取れれば『青短・六』となり、合計十一文。七文以上で上がった場合は点数が倍になるので二十二文。そこに“芒に月”が取れれば――。

 

 吹羽は歪みそうになる口元を必死で取り繕って、ポーカーフェイスを試みる。

 ただ一つ問題なのは“場に取れる札が無い場合、逆転に必要な札を手放さなければならなくなる”という事。――だが、ここまで揃っていなければ元より勝ち目はほぼないので、やはり“最高の手札”と言って過言ではない。

 さぁ、大逆転劇を見せてやろうッ!

 

「で、では行きますよ。行っちゃいますよ文さんっ」

「……何ですその顔? いい手札でも来たんでしょうか」

 

 ……ポーカーフェイスはまだ吹羽には早かったらしい。

 

 吹羽は文の一言を有意義に無視しながら、手札の一枚“牡丹に青短”を叩き付ける。本当はここで“牡丹に蝶”が取れれば『猪鹿蝶』の封殺にもなったのだが、まぁ良かろう。こういう勝負で欲を出すべきではない。何より吹羽は欲を出さない(・・・・・・)戦い方をする人間である。

 捲った札は“菊”。場に出すことになったが、これはこれで無問題だ。これを文が取ろうが取るまいが、どの道“菊に盃”と“菊に青短”が吹羽のものになるのは最早確定事項である。各月の札は、どれも四枚しかないのだから。

 

「では私は……これです」

 

 静かに一枚抜き取り、場の札に重ねる。文が“紅葉に鹿”で取った札は“紅葉”のかす札。捲った札は場の札に重ねられ、“菖蒲”のかす札と短冊札の二枚を取った。

 兎に角早く上がりたい筈の文である、恐らくは簡単に揃えられる『かす』か、少ない枚数で作れる『花見で一杯』『月見で一杯』を目指す筈。だが、だからと言って多少の防御すらも捨て去って攻めるのは愚者のすること。恐らくは逆転の目を潰す意味で“紅葉”を取りにきたと思われる。

 実際、吹羽は次の手番で“紅葉に青短”を取るつもりでいた。もう場に紅葉の札はないので、残りの一枚を待つ羽目になってしまった。

 

「(次は……“菊に盃”はまだ出せない。『かす』は揃えるのに専念したらあっという間に揃っちゃうから……)」

 

 ここは無難に、“柳に短冊”を出す。それで取るのは勿論“柳”のかす札だ。兎に角、少しでも多く場からかす札を消し去らねば、文はきっと瞬く間に『かす』を揃えてしまう。

 捲った札は『梅に赤短』。残念ながら今度も場に出した。

 

 ――落ち着いて回答を出していこう。こちらに残った“菊”の二枚がある以上、どの道文は『かす』を揃える以外にないのだから、少しずつ切り崩して行けばいい。

 

「ふふふ、中々考えているみたいですね?」

「一応、勝負事ですから」

「あなたはもう少し気弱だと思ってましたがねぇ。腹をくくれば大胆にも成り得るのでしょうか?」

「さぁ……どうですかね?」

「……ま、いいでしょう。ともあれ私は――これで行きます!」

 

 ぱしっ、と軽い音を奏でて出されたのは『梅』の種札、“梅に鶯”。そして取られたのは当然“梅に赤短”である。捲られたのは――、

 

「えぇっ!? ここで“松に赤短”を引くんですかあっ!?」

「おやおや運がいいですねぇ♪ これであと一枚……“桜に赤短”が揃えば――」

 

 『赤短・五』の出来役。文の勝利。

 ――こういうところだ。花札が賭け事に使われるのは、こういった運による要素がある為だ。

 勿論、吹羽が普段取るような戦法――封殺による防御――などのテクニックによる部分もあるにはあるが、それもこうした運要素相手にはどうしようもない。

 例えばどれだけ強い手札で逆転を狙おうと月を始めても、相手が自分の手番で、“菊に盃”を出して取り、運良く捲った札で“芒に月”を取れてしまえばその瞬間『月見で一杯』の完成だ。

 手札の強弱など関係なく勝利してしまえる。

 

 ――その運が、文にも巡ってきてしまった。

 

 正直、マズい。

 文が『かす』を揃えるのを気にしつつ、手札の“桜に幕”で確実に“桜に赤短”を取らなければならない。

 腹を決めなければ――。

 

 吹羽はゴクリと一つ唾を飲み込み、手札を引き抜いた。

 場に取れる札はない。だからここで出すのは、文に取られる可能性が全くない“菊に青短”だ。後の手番で丁度いい時に、“菊に盃”で取ればいい。

 どの道“桜に幕”は使わなければ勝てないので、あと考えるべきは“紅葉に青短”がいつ取れるようにな(・・・・・・・・・)るのか(・・・)だが……。

 

「(――ッ! きた! 残り一枚の“紅葉”!)」

 

 意外にも、そのタイミングは直後に訪れた。

 紅葉――即ち十月の札の二枚を既に文に取られたこの状況、唯一問題なのは、残りの一枚が出てこない限り『青短』を揃えられないという点だった。それが分かっていたから文は“紅葉に鹿”でかす札を取ったはずだし、現に文は顔を見せた“紅葉”に目を少し見開いている。予想外である証拠だ。

 運が向いてきた。このタイミングで出てきてくれたのは僥倖と言う他ない。場に出た“紅葉”も取られる可能性は皆無だし、次に取る札に即決である。

 

「むう〜……これしかないですね……」

 

 文は“藤”のかす札を用い、場の“藤に短冊”に重ねる。捲った山札の一枚は“松”のかす札だった。取れる札はないので場に残る。

 やはりメインで狙うのは『かす』か。

 吹羽は着々と重ねられていくかす札を見て、乾き始めた唇を一舐め、苦しくなる状況に歯噛みする。

 文の優位は変わらない。一つでも答えを間違えれば瞬く間に出来役を揃えられる。

 でも――出来る手を講じるしかない。

 

 吹羽にできる手とは、“桜に幕”で『赤短』完成を阻止しつつ、『青短』狙いを出来るだけ悟らせないようブラフを含みながら必要なものを揃えていくこと。

 そしてこの手番でできるのは当初の通り――、

 

「(“紅葉に青短”。流石にここまですれば『青短』狙いなのは気付かれただろうけど、もう遅いから別にいい。問題なのは“桜”――)」

 

 勿論、“桜に赤短”より先に“桜”が出てくれば、“桜に幕”で取るつもりだ。“桜に赤短”が山札にあるのか、それとも文の手札にあるのか分からない以上、場に三月()の札が残るのは避けなければならない。

 幸い捲った札は“萩”だった為、今は気にすることではないが……。

 兎も角、あと一、二回の手番を熟せば、まだ勝ち目は――

 

 

 

はい(・・)上がりですね(・・・・・・)

 

 

 

 ――ぱさ、と。

 気が抜けたような、あまりにも軽い音と宣言に、吹羽は一瞬頭が真っ白になった。

 

 あがり? いやだって、文が出したのは“萩に短冊”だ。かす札は取っているが、まだ数は足りていないし、『赤短』は出来ていないし――、

 

「……ぁ、『タン』……!?」

 

 文が取った札は“萩に短冊”。そう、短冊札だ。吹羽は文の手元に並べられた、五枚の短冊札(・・・・・・)を見てポツリと零す。

 

「作戦成功です♪」

 

 『タン』――それは数ある出来役の一つ。

 赤短だろうが青短だろうが唯の短冊だろうが、()の内の五枚を集めれば完成する(・・・・・・・・・・・・・・)たった一文の出来役。

 目の当たりにした瞬間、吹羽は「やられた……っ!」と痛感した。

 

 つまり、『かす』も『赤短』も完全なるフェイクだった訳だ。

 “かす”や“赤短”を集める振りをして、怪しまれない程度のタイミングで短冊札を取っていた。思えば、彼女が初めに取った札の中にも短冊札があった。

 

 初めから最後まで、文の掌の上だったという訳だ。言い訳のしようもない完敗である。

 

「ふふふ、結構頑張ってましたが、最後まで気が付きませんでしたねぇ吹羽さん?」

「あ、『赤短』に引っ掛けられました……。あ、あの、“こいこい”したりしません……?」

「“勝負”で♪」

 

 いい笑顔で無情に告げる文の前に、吹羽はかくんと肩を落とす。

 結構頑張って心理戦をしていたつもりだったのだが、文の方が何枚も上手だったらしい。正直悔しいが、今のままでは何度やっても勝てる気がしないので、今日はもう勘弁してもらおう。

 

 ……これに勝てる霊夢は果たして何者なのだろう。実は凄腕の賭け事師を副業にしているとか?

 チラリと霊夢の顔を覗き見ると、彼女は何か察したのかジト目でこちらを見ていたので、吹羽は慌てて視線を切った。

 博麗の巫女、恐るべし。

 

「いやぁ結構楽しかったですねぇ。思ってたよりも吹羽さんが手強かったですし♪」

「……皮肉ですか?」

 

 心理戦を頑張ってこなしたとは言っても、結局勝負結果はまごう事無き完敗である。終ぞ自由にはさせて貰えず、掌の上で踊っていたに過ぎない。

 文の笑顔はいつも通り綺麗だったけれど、やはりその言葉に皮肉を感じざるを得ない。

 しかし、文は吹羽の呟くような言葉に驚いたのか「滅相もない!」と即座に否定した。

 

「楽しかったのは事実ですよっ! まさか吹羽さんがこんなに花札ができるとは思っても見なかったので。久しぶりに心が躍る気分でした」

「そ、そうですか。それは良かったです。機会があれば、またやりましょうね!」

「勿論ですともっ」

 

 ――“遊べる”ということは、幸せな証だ。

 楽しくなければ遊ぶ意味はなく、笑顔がなければそこ(・・)に充実感は生まれない。

 だって、“遊ぶ”ことは生きる為には必要ではないのだ。

 遊ぶこともできない人は、常に何かに追われて余裕を持たない。不必要なものを削ぎ落として、本当に必要なことのみを追求しなければならないのだ。

 

 ああ――やっぱり。

 ボクが幸せでないなんて、あり得ない。

 そんな事、あってはいけないんだ――と。

 目の前で、頰を薄っすらと赤く染めて、花が咲くように零れる文の笑顔に、そう思う。

 

 夢のことも、家族のことも、思い悩まないといえば嘘になる。

 だが霊夢がいて、阿求がいて、魔理沙がいて、早苗がいて、文がいて。

 こんなに暖かい笑顔を向けてもらえる吹羽はきっと、本当に不幸せな訳はない。これが不幸せだなんて、思ってすらいけないことだ――と。

 

 吹羽はお返しとばかりに文へ笑い掛ける。

 魔理沙はああ言っていたが、きっと文とはいい友達になれる。こんなに楽しく遊べるのだから、もう友達と思っても良いのかもしれない。

 吹羽は何故か“ちくり”と痛む胸を気にしないようにしながら、ただ、笑う。

 

「さぁて、今度は吹羽さんと霊夢さんの番ですねぇ? 正直結果は見えてますが、健気に頑張る吹羽さんを横で眺めてたいのでどうぞ霊夢さん遠慮なく♪」

「ちょ、見えてるなんて言わないでくださいよぅ! 確かに霊夢さんには勝てる気がしませんけど……」

「そうねぇ、あたしも正直負ける気がしないわ。って言うか負ける要素が存在しないわね」

「……霊夢さん、そんなこと言ってると嫌われますよ?」

「あら、吹羽はあたしが嫌いなの?」

「ふぇっ!? あ、そのっ、そんな……ことは……」

 

 にやにやと笑う霊夢と文の視線がこそばゆい。

 霊夢は吹羽以外にはそんなこと絶対に言わないので、からかっているのが明け透けだ。

 この二人、世に言う“どえす”というヤツなのでは? 確か阿求に、虐めるのが大好きな人の事をそう呼ぶのだと吹羽は聞いたことがあった。

 いや別に、だからと言ってどうという訳ではないのだが、視線がくすぐったいので出来ればやめてほしいところだ。

 ――まぁ、言ったところで聞いてはくれないだろうが。

 

「さ、じゃあやりましょうか吹羽。あんたと花札やるのは初めてかしら?」

「……そうですね……機会がなかったですし」

「あ、それならお二人で何か賭けてみては? 元々賭け事にも使われるものですし」

「あ、良いわね。じゃあ何を賭け――」

「その勝負、私が乗りますよ霊夢さんッ!!」

 

 ――と、唐突に割り込んできたのは、聞き覚えのある少女の声。

 何事かと振り返ったその刹那、吹羽は姿を見ることも叶わぬまま抱き寄せられていた。

 背中に当たる大きくて柔らかい二つの感触。吹羽にこんな事をするのは一人だけ。

 予想なんて、するまでもなかった。

 

「此間ぶりですね吹羽ちゃんっ♪ 私もう吹羽ちゃん成分が足りなくて寝ても覚めてもそわそわしっぱなしだったんですよお〜!」

「ひゃうっ!? ちょ、早苗さんっ!? 何ですか急にぃっ!」

 

 現れたのは守矢神社の風祝、東風谷 早苗。

 瞬間的に吹羽をその腕の中に収めた彼女は、既に悦に浸るような恍惚の微笑みを零していた。

 

「はあぁ〜吹羽ちゃんだぁ〜……このふわふわの感触、飽きる事なんてあるんでしょうかいやある訳ないですね〜……! むふぅ〜……」

「あわわ、くすぐったいですよ早苗さんっ」

 

 まるで禁断症状でも起こしていたかのように、吹羽を抱き締めては頬擦りし始める早苗。

 こういう所がちょっと苦手なのだが、それでも一心に抵抗し切れないのは、やはり内心では彼女のことが嫌いではないからだろうか。

 

 いや、まぁね?

 なんだかんだで早苗は痛いことしないし抱き締められれば柔らかくて気持ちいいし、くっ付くといい匂いがしてきてちょっとうっとりするから別に抱き着こうが何しようが別に構わな――って何を考えてるのボクっ!?

 

 早苗の魅力に侵されそうになった吹羽は、はっとして煩悩を振り払う。

 その間も当然抱擁に頬擦りは止まる事を知らずに吹羽をどきどきとさせているが、これはきっと早苗が人一倍に綺麗な人だからだ。うんきっとそうだ。

 決して吹羽がアレ(・・)な訳ではない。ないったらない。

 

「んで? 吹羽を捏ねくり回してないでさっさと要件を言いなさいな。“勝負に乗る”とか聞こえたんだけど、聞き間違いかしら?」

「いえいえ、霊夢さんの耳は実に正常ですとも。是非勝負して貰いたく!」

 

 見下げた含みを持つ霊夢の言葉に、早苗は飛び付くかの如く言葉を放つ。

 勿論吹羽は抱きかかえられたままだ。

 

「えーっと、霊夢さんと勝負すると言うことは、何か賭けるという事ですか? 私が言えた事じゃないかもですが、随分と唐突ですね」

「人生は驚きに満ちていた方が面白いものですよ文さん。私は皆さんに良い人生を送って貰いたい訳ですよ」

「あたしは別に驚いてないけどね」

「驚く余裕もなかったというか、気が付いた時には抱き着かれてたので……」

「あ、私は単純に気が付いてましたよ?」

「ふぐう……っ!? 皆さん手厳しいですね……!」

 

 なんだか言い訳が魔理沙染みている。屁理屈っぽいと言った方が分かり良いか。

 早苗は態とらしく呻き声をあげると、ビシッと霊夢に指を突きつけた。

 

「と、とにかく! 勝負です霊夢さんっ!」

「分かったから、早く言いなさいって。何を賭けんのよ?」

「ふふふ、聞いてから逃げないでくださいよ?」

 

 不敵に笑い始めた早苗の視線が、一瞬こちらを向いた気がした。

 

 

 

「ずばり! “吹羽ちゃんに一回だけお願いを聞いてもらう券”を賭けて勝負です!」

 

 

 

 ――ああ、また訳の分からないことを……。

 吹羽は得意気に笑う早苗の腕の中で、一つ小さく、溜め息を吐いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――元を辿って言えば、始まりは霊夢への嫉妬(・・)である。

 

 これまでの言動の通り、早苗は吹羽に執心中だ。曰く親近感と、早苗のストライクゾーンをド直球で貫いたその可愛らしさから。彼女は嘘を吐けないので、それは本心と見ていいだろう。

 早苗が博麗神社へ来ていの一番に吹羽へ言ったことも、実はあながち、大げさではなかったのだ。

 

 しかし、妖怪の山・山頂と人里では距離がある。幾ら吹羽が自由に山を行き来できる立場とは言え、店を営む以上頻繁に登る訳にはいかないし、早苗にも布教活動という仕事があるため自由に会いには行けないのだ。

 ただ、早苗は吹羽と霊夢が仲の良いことを知っていた。週に一度以上は必ず顔を合わせていることも知っている。

 ならば、純粋が過ぎる早苗に嫉妬を抑える余裕など無いのは明白である。

 

 そんな時に吹羽と霊夢が楽しそうに遊んでいるのを見ることは、その欲望が爆発するのには十分過ぎる火種なのだ。

 

 ――意味が分からない、と思うだろう?

 しかしそれが……常識に囚われないその在り様が、東風谷 早苗という少女なのである。

 

 

 

「同じように半どん、『花見・月見で一杯』は有り、勝った方がその“なんたら券”を貰う……そういうことね?」

 

 

 

 霊夢の確認に満面の笑みで頷く早苗。

 向き合う二人のちょうど中間辺りの畳を開け、山札を切っているのは賞品に仕立て上げられた吹羽である。

 霊夢は特にデメリットを感じなかったらしく、早苗の申し出を二つ返事で了承してしまった結果だった。正直もう抵抗するのを諦めている吹羽である。

 

 吹羽が場の札・手札を渋々と配りながら、二人の会話は続く。

 

「ふふふ、今日は持てる力の全てを以って、全力で行きますよ霊夢さんっ!」

「……随分と強気ねぇ。一応言っておくけど、あたし結構強いわよ?」

「問題ありません! 私、花札で負けたことないので!」

「……はぁ?」

 

 訝し気に眉を傾ける霊夢を前に、早苗はいつになく不敵な笑みで、言い放った。

 

 

 

「宣言しましょう。私は霊夢さんに、先手をあげた上で三十文以上の(・・・・・・)差をつけて完封勝利します(・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

「――へぇ?」

 

 完封勝利。つまり、霊夢には何もさせる気は無い、と。

 その傲岸不遜極まる宣言に、しかし霊夢は口の端を歪める。やれるものならやってみろ、と顔に書いてあるようなものだった。

 

 その頃丁度場の札も手札も配り終わり、吹羽は二人の空気にびくびくしながらも声を出す。

 

「そ、それじゃあ始めますよ。先手は霊夢さんでしたよね」

「ええ。んじゃあ先ずはこれを――」

はい(・・)上がりです(・・・・・)

「……は?」

 

 そう言って早苗は、満面の笑みをたたえて手札を晒す。

 呆気にとられて、促されるままに三人――吹羽の後ろで観戦する文も含めて――が見たのは、

 

 

 

 ――手四・桐 六文。

 

 

 

 各月の札四枚が手札に揃った瞬間に上がりとなる、『手役』の一つ。

 配られた手札に十二月の植物――“桐”が偶然にも(・・・・)揃った早苗の、覆しようのない上がりである。

 

「さっ、次に行きましょ♪」

「……く……!」

 

 余裕綽々な早苗に促されるまま、月を進める二人。

 しかし――、

 

 ◇

 

 ――二月

 手四・藤 六文

 早苗、上がり。

 

 ◇

 

 ――三月

 手四・牡丹 六文

 早苗、上がり。

 

 ◇

 

 ――四月

 手四・菊 六文

 早苗、上がり。

 

 ◇

 

 ――五月

 手四・松 六文

 早苗、上がり。

 

 ◇

 

 ――六月

 手四・柳 六文

 早苗、上がり。

 

 結果、三十六文対零文で早苗の勝――

 

「ちょ、ちょっと待ってくれる……ッ!?」

 

 ひくひくと口の端を震わせる霊夢は、依然として笑みを崩さない早苗に押し殺した声を上げた。

 こればっかりは口を出さずに終われない、とでも思ったのだろう。

 

「あんた、どう考えても能力使ってるでしょッ!?」

「さぁ何のことでしょう♪ 偶々、偶然、奇跡的にも! 六回連続で手四が揃っちゃっただけですよぉ〜」

「アホか! そんなのどんな確率だと――」

「えーっと、手四が7/19458で六回なので……小数にして0.000000000000000000002%ですね」

「なん――ッ」

 

 いけしゃあしゃあととんでもない値を示した早苗に、霊夢は思わず言葉を詰まらせた。

 どんな計算を下にして弾き出したのか彼女には分からなかったが、それが決して的外れな値でないことは何となく理解出来る。初めの手札に特定の四枚が揃うなど滅多にもないことなのを霊夢は経験として知っている。きっと早苗が誇張している訳ではないのだろう。

 だからこそだ。

 納得なんて、出来る訳がない。

 

 そんな極々微細素粒子レベルに存在する確率を引き当てるなんて、早苗の能力「奇跡を起こす程度の能力」でなければほぼほぼ不可能に決まってる。

 霊夢は胸焼けを起こしたように詰まる胸と喉を無理矢理震わせ、抗議の声を張り上げた。

 

「そ、そんなのが偶然出る訳ないでしょうがッ! あんた何言ってるか分かってんのッ!?」

「確率とはそういうものですよ霊夢さん♪ いくら小さい値だろうと零ではない可能性。それが今このタイミングで出てきたってことですよっ!」

「そんなバカな話があるかあッ!!」

 

 怒鳴り散らす霊夢を涼しげに受け流す早苗。普通に考えれば反則スレスレだが、思い返せば早苗は、始める前に「持てる力の全てを以って」と宣言している。ある種、その言葉の根底にある意味を見い出せなかった霊夢にも非はあるのだ。

 加えて――、

 

「まぁでも、理不尽さで言えば霊夢さんの勘だって同じようなものですし、別に良いのでは?」

 

 この天狗が、早苗の味方だった。

 

「はぁ!? あたしの勘とこいつの能力の何が同じような物なのよっ!? そもそもあたしのは能力じゃないって言ってんでしょ!」

「同じですよぉ〜私達からすれば。どちらも相当運が良ければ常人にでも可能な範囲なんですよ。勘はただの予想ですし、確率は運ですし」

 

 予想することも運に頼ることも、どこのどんな人間にだって出来ることだし実現も――果てしなく困難ではあるものの――できる。身もふたもないことを言うが、二人はただそのことに関して他人よりも確実性(・・・)があるというだけなのだ。

 そうして見れば二人とも同じ反則スレスレの事をしている。霊夢の勘を許容した今、早苗の“奇跡”を許容しないのであれば、それはもう嘘だろう。

 そう文に説明された霊夢は、反論の糸口を見つけられずに唸るばかり。

 吹羽はこの現状を眺めて、仕方ないとばかりに気怠く口を開いた。

 

「まぁ言い合ってもしょうがないですし、取り敢えず良いにしましょうよ。次にやる時注意しとけば良いんです」

「お!? と言うことは吹羽ちゃん、私の勝ちということで良いんでしょうかっ!?」

「い、良いんじゃないですか? ねぇ霊夢さん?」

「…………それでいいわよ、もう……」

 

 興奮冷めやらぬとばかりに詰め寄る早苗に、吹羽はぎこちなく、しかししっかりと頷く。

 霊夢はまだ若干納得していない様子だが、良いと言うのだから良いとしよう。掘り返すとまた面倒な事になるのは火を見るよりも明らかである。

 ……そもそも、苦労を要するのは二人ではなく吹羽であるからして。自分が我慢すればそれで済む話なのだ。溜飲は下げられないが。

 

「それで、早苗さんはボクに何をしてほしいんですか? あんまり無茶なことはやめて下さいね?」

「もっちろん! 取り敢えず吹羽ちゃん、守矢神社に行きましょ! お願い事はその後で!」

「……え? それってもうお願い事じゃないんですか?」

 

 早苗の言葉に、吹羽は当然の疑問を呈する。

 ここで遊んでいた吹羽に守矢神社へ着いてきてもらうというのは、それだけでもうお願い事に類されるのでは――と。

 しかし早苗は、もう連れて行く気満々で吹羽のお腹の辺りを抱えると、

 

「違いますよぅ! どの道吹羽ちゃんには着いて来てもらうつもりでした。その為に私はここに来たんですから!」

 

 ――と、ここに来た理由が始終不明だった(・・・・・・・・・・・・・・・)早苗は言う。

 

 

 

「吹羽ちゃん。神奈子様と諏訪子様が、お話をしたいと仰っています」

 

 

 




 今話のことわざ
外面如菩薩内心如夜叉(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)
 外見はやさしく穏やかに見えるが、心の中は邪悪で恐ろしいというたとえ。多く女性にいう。

 因みに私、花札はアプリでしかやったことないので、ルール違ェだろ! と思っても流してもらえると幸です。戦法とかも持論なので、深くは考えずに。
 それと確率の計算ですけど、違ってたらごめんなさい。多分あってると思うんですが、なにぶん現実味のない値なもので少しだけ自信がないです。

 ではでは。


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第十五話 神の凡眼

 

 

 

 静寂を取り戻した神社の居間で、霊夢はぼう、と外を眺めていた。

 秋を迎えて色付いた桜の葉がゆらりゆらゆらと石畳に落ち、風に流されて何処かへと消えていく。心底暇そうに突く頬杖のすぐ側には、使った花札が散らばったままになっていた。それを見下ろしながらに聞く木々の葉掠れ音に、霊夢は何処か物足りなさを感じた。

 

 ――吹羽たちは、ついさっきここを出た。

 早苗は渋々といった具合の吹羽を半ば無理矢理に抱え飛び、文は用も失くなったとばかりにそそくさと帰っていった。結局彼女も何をしに来たのか不明だったが、吹羽に合わせて出て行く辺り、恐らく目的は彼女だったのだろう。

 遊んでいただけだったのだが、それで目的は果たせたのだろうか。ふと考えるが、今更どうでもいいか、と霊夢は鈍く思考を切り返す。

 少々気になったこと(・・・・・・・・・)も、今は考えることがどこか億劫だった。

 

 先程まで柄にもなくはしゃいでいた(・・・・・・・)反動か、今の霊夢は何処か自失染みた雰囲気を纏っていた。

 仏門の徒は、長く険しい修行の果てに悟りと無我の境地を得ると言うが、今なら簡単にその境地へと至れる気がする。

 怠暇も極まれば一つの頂を得る、ということなのだろう。心底どうでもいい頂点な気がしてならないが。

 

 霊夢は“ほう”と一つ息を吐くと、気怠げに瞼を閉じる。

 

 ――吹羽は、大丈夫だろうか。

 

 真っ暗な瞼の奥に、襲い来る苦労に苦く笑う少女が映る。

 霊夢の見る限り、吹羽はあまり早苗が得意ではない。きっと嫌いな訳ではない――そも吹羽が誰かを嫌うところを想像出来ない――だろうが、早苗のあのテンションは正直霊夢でも疲れる。活発とは言い難い吹羽もそれは同じだろう。それに、早苗が吹羽へ向ける好意は少し特殊だ。

 

 ……ヘンなこととか、されなければ良いんだけど。

 

 薄っすらと心に浮かんだ不安に抗するようにして、霊夢は連れていかれた吹羽へと気休め程度の祈りを込めるのだった。

 

「――暇そうにしてるねぇ、霊夢」

 

 聞こえてきた声の主に、霊夢は片目だけ薄く開いて応える。す、と視線を横へと移動させると、見えてきたのは――分銅の吊るされた、太くて大きな角。

 

「もう少し何かする事ないのかい? せめてお茶を啜ってるとかさぁ……今のお前さん、相当人生を無駄にしてるぞ」

「うっさいわね。あのお茶もう味が無いから飲みたくないのよ」

「……いや、お茶を飲めって言ってる訳じゃなくてな?」

「分かってるわよそれくらい。お茶を飲む気も起きないくらい暇で退屈なの」

 

 手首に繋がる鎖をチャリチャリと鳴らしながら現れたのは、側頭部から太い角を二本覗かせる小柄な少女――伊吹 萃香。

 居候として少し前から霊夢と共に暮らすこの“鬼”の少女は、早速対面へと我が物顔で“どかっ”と座り込む。

 その視線は、すぐに霊夢の手元へと注がれていた。

 

「なんだ、一人で花札なんかやってたのかい」

「どうやって一人でやるのよ。さっきまで友達がいたの。もう行っちゃったけど」

「魔理沙か?」

「いいえ」

「ほう、あいつ以外友達なんていたのか」

「いるわよ。一人」

「少ないねぇ」

「うっさい」

 

 軽口を一蹴されると、萃香は気にした風もなくかっかと笑った。

 何が面白いのかは分からない。ただ、その笑い方には何処か安らぐ気がして、霊夢は何も言わずに黙っていた。

 

 ――一頻り笑い、萃香は改めて微笑みを作ると、

 

「なぁ霊夢、わたしと一勝負しないか?」

 

 散らばっていた花札を集め、霊夢の答えを聞く前に配り始める萃香。

 どの道やらされる羽目になると察した霊夢は、仕方なく手札を受け取った。

 特に、強い札は一枚もない。

 

 ――札を一枚、場に重ねる。

 

「なぁ霊夢よう」

「……なに」

「その友達ってのの事、どう思ってんだ?」

「どう……って?」

「そのまんまの意味さ。好きか嫌いか、弱いか強いか、羨ましいか妬ましいか……何だっていい。言ってみろ」

「………………」

 

 なぜそんな事を問うのだろう。

 萃香に取られる札を見ながら、霊夢はぼんやりと考える。

 自由気ままを絵に描いたようなこの鬼が、自分の友達のことを気にするとは思ってもみなかった。暇があれば酒を飲んで酔いに溺れ、その能力で以って風来するのがこの萃香という少女である。気にする要素なんて微塵もないと思うのだが。

 考えが読めず、霊夢は徐に視線を上げる。すると、笑いながらも真剣な目をした萃香の顔が視界に映った。

 ――きっと、ふざけた話ではないのだ、と。萃香は萃香なりに何事かを考えて話しているのだろう、と。

 霊夢はその目になんとなく納得して、ならば答えてやるのも吝かではない、と思い直した。

 

「……あの子の事は、嫌いじゃないわ」

 

 山札を捲り、場に重ねる。

 一枚の光札を、霊夢は手に取った。

 

「とても強い子なのよ。きっと根っこのところでは、あたしよりも強い」

「どうしてそう思うんだい?」

「……あたしがあの子の立場(・・)なら、きっと立ち直れないと思うから」

 

 札を重ねながら、霊夢は呟くように淡々と語る。萃香は相変わらず薄い笑みをたたえながら、しかし真摯に聞いていた。

 

 霊夢には、吹羽の気持ちが少し分かる。

 霊夢はある時、先代巫女である母を亡くした。

 吹羽はある時、大好きな家族三人を失くした。

 程度に差はあれど、二人は似通った境遇を歩んできた。ただ違ったのは、霊夢よりも多くのものを失くしたはずの吹羽が、それでも本当の意味では絶望せず必死に立ち上がり、今を生きているという事。

 大きく深い傷があるはずなのに、それでも立ち直るだけの強さが、吹羽にはあるのだ。

 

 ――でも。

 

「強い子。すごく強い子だけど……やっぱり何処か、脆い(・・)と感じるのよ」

「脆い?」

「不安定、なのかしらね。少しでも綻びが出来ればたちまち崩れてしまう気がして……危うい」

 

 萃香が札を取り、霊夢は狙いの役を揃え損ねた。

 だが霊夢は動揺することもなく手札を抜き取る。――次の役の狙いは、既に定めてあった。

 

「だから、あたしが守らなきゃいけないって思う。あたしよりも辛いはずのあの子を、少しでも分かってあげられるあたしが。だってあの子はまだ……まだ、子供なんだから」

「……なるほど」

 

 これは確かに、似た者同士であるが故の、だが自分よりも酷いモノを抱える少女への同情心でもあったと思う。

 自分よりも()の者を見るときの哀れみにも近いかも知れない。

 だけど、やっぱり。

 例えどんなにこの想いの根幹が醜かったとしても、彼女を放って置けない事に変わりはなくて。

 

 萃香は得心がいったとばかりに笑みを深くすると、迷いなく手札を場に重ねた。捲った札も合わせ、彼女は光札を二枚取る。

 ――幾瞬かの間を置いて、

 

「霊夢、お前さん……寂しいんだろ(・・・・・・)

「……は?」

 

 出しかけていた手を止め、霊夢は思わず顔を上げた。言い切る萃香の視線は、見抜いたとばかりに霊夢の視線を真っ向から射抜いている。

 

「何でそうなるのよ」

「そいつの事を大切に思ってるって事だろ? で、理由は知らないがそいつがここからいなくなって暇を持て余してた。お前さんは隠してたつもりかもしれないが、“寂しい”って顔に出てたぞ?」

「…………っ」

 

 ――寂しい? あたしは、寂しいのか?

 分からない。だが、萃香の言葉を否定し切れないのも確かだった。

 吹羽が守矢神社へと連れていかれて、暇になってしまった。暇になっただけなら、いつも通りに寝るなり掃除するなりすれば良いのに、霊夢は何をする気にもなれずにボーッと景色を眺めていたのだ。……心の片隅で、吹羽を心配しながら。

 ――それって、寂しい、という事なのだろうか。

 守らなきゃいけない相手が自分から離れていくのが……寂、しい?

 

過保護(・・・)なのも良いがな、霊夢。いつまでもお前がそれじゃ、その子は成長しないんじゃないか?」

「……過保護、なのかな……」

 

 吹羽はとても強い子だ。だが、まだまだ年端もいかない子供である。本人は大人として振る舞おうとしているが、振る舞えるだけであって本当に大人な訳ではない。

 その子供としての弱い部分は、守ってあげなければならない。そうしなければきっと、吹羽は忽ちに崩れ落ちて壊れてしまう。

 

 ――過保護。

 そうして守ることは、吹羽にとって良くないこと……そう、萃香は言っているのだ。

 霊夢には分からなかった。壊れてしまいそうなものを守ろうとして何が悪いというのか。

 知らなくてもいいこと(・・・・・・・・・・)を知って壊れてしまうことは、成長とは違う。知りたくもない事実を押し付けるのは、ただの暴力に他ならない。

 ――絶対に出来ないことだと、霊夢は思った。

 

「ま、今はいいさ。お前さんが何を抱えてんのかわたしには分からないが、頭の片隅にでも置いておいてくれ」

「……ええ」

「ただなぁ、霊夢――」

 

 霊夢の手番が終わると、萃香は迷いなく手札を引き抜いた。 重ねた札は“柳に小野道風”、捲った札は“松に鶴”。

 

「考えておけよ? 子離れする方法ってのは、究極的には一つしかねぇんだって事」

 

 ――雨四光・七文。

 

 萃香は見透かすような鋭い瞳で霊夢を見つめると、ふ、と薄く笑った。

 何を考えているのか定かでない、考えの読みにくい表情。ちょっぴり不気味なその笑みに、狙い澄ま(・・・・)したような(・・・・・・)その笑みに、霊夢はふと思い至る。

 何故この少女は、これほどまでに的確な指摘をしてくるのか――と。

 その疑問に対する仮説は、案外すんなりと口から漏れて。

 

「……あんた、本当は吹羽のこと知ってるでしょ」

「さぁて、どうだろな? 気まぐれでこんなことを言ったのかも知れないし、誰かに頼まれたのかも知れない。ただ確実なのは、わたしはお前さんのそのスタンスがちょっと気に入らなかった、という事さね」

 

 やれやれ、といった風にそう言うと、残った手札がパラパラと指の隙間からこぼれ落ちていく。その中に、新たな役を作れる札は一枚として入っていなかった。

 賭けていたのだ。捲った札が光札であることを信じて。

 そして萃香は――見事に勝った。

 

「人間は強くねェ。力は弱いし体は脆い。一匹の毒虫にすら勝てない脆弱な種族さ」

 

 だが――。

 そう続ける萃香の瞳は、確信の強い光を秘めていた。

 

「想いの丈で強くなれる、最っ高の種族だ。わたしが知るあの女(・・・)は、それを教えてくれた。霊夢……あまり人間を、嘗めてんじゃねぇぞ?」

 

 鋭く言い放つ萃香から、霊夢は僅かに怒気を感じた。

 

 遥か昔、鬼は人間を攫って喧嘩を楽しんだという。

 脆弱なはずの人間が窮地に陥った時に溢れさせる力に、心底惚れ込んでいたのだ。

 勿論人間の全てがそうであった訳ではない。だが、その鬼達の筆頭として立っていた萃香は少なくとも、そうした力の発露をその目で見て、経験している。

 

 ある意味、萃香はきっと霊夢よりも人間の可能性というものを知っているのだ。それは鬼という種族が歩んできた歴史が成り立たせているものであり、せいぜい十数年程度しか人間をやっていない(・・・・・・)若輩者(霊夢)には到底覆しようのない真実なのだ。

 威厳すら感じさせる萃香の言ノ葉に、抗する言葉を霊夢は持たない。

 

「…………はぁ」

 

 その視線に耐えかねたように、霊夢はその形のいい眉をハの字に傾けて重い溜め息を吐いた。

 そして萃香を真似て、態と手札をパラパラと落とす。

 

「今日のところは、負けた(・・・)って事にしといてあげるわ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――秋風吹き巻く、大空の下。

 乗せられ流され、宙を揺蕩うのは木の葉だけに非ず。

 日も少しずつ落ち始めるこの時刻に、空に響き渡っていたのは二つの声――。

 

「うっきゃああぁあぁあああッ!? ちょ、やめ……っ!」

「あははははっ! ほぉらここで加速ですよぉ〜! 『絶叫マシーン早苗号』ですぅ!」

「だ れ か と め て え ぇ え ぇ ! ! !」

 

 哀れな少女の絶叫が、青い空の下で拡散する。ただそれは広がっていくだけで、その心からの懇願の声を聞き届ける者は誰一人としていなかった。

 ――いや、聞いている者はいるのだが、彼女は完全に“やる”側であるからして。

 むしろその絶叫こそが、やっている側としては求め望んでいたものなのだ。

 絶叫する少女――吹羽を抱えて飛ぶのは東風谷 早苗。だがその飛行は控えめに言って、超・雑(・・・)であった。

 

「な、なんでこんな飛び方っ、するんですかあっ!!」

「だってだって、吹羽ちゃんがウチに来るんですよっ!? この溢れ来る歓喜を叫ばずして、一体私にどうしろとッ!?」

「知らないですよおおぉぅうああああっ!?」

 

 竜巻のような旋回上昇からの超鋭角急降下、錐揉み回転で滑空しながらの加速に次ぐ加速。

 吹羽に「ぜっきょうましーん」という言葉は分からなかったが、もし外の世界の人々がみんなこんなものを楽しめるような図太い神経をしているのだとしたら、きっと吹羽は外の世界でなんて生きていけないだろう。

 なんだか下腹部が空くような心地で気持ち悪い。正直ちょっと泣きそうだ。

 

 早苗はその素直な性格故、吹羽が神社へまた訪れる事に――早苗自身が連れ出したのだが――本当に舞い上がっているのだろう。それでこんなに振り回されるのは迷惑以外の何者でもないが、彼女の放つ眩しい笑顔を前には強く言い出せないでいる吹羽であった。

 仕方ないから、我慢してあげよう――とは、もう何分前に思った事だろう。いい加減やめてほしいと願うのは、決して間違った事ではないと吹羽は涙ながらに自己弁明する。

 そうして振り回されること、更に数分――。

 

「ふぅぅ〜……満足しました♪」

「(や、やっと終わった……)」

 

 暫く喜びに舞い上がっていた早苗は、何処かで自分に落とし所を見つけたのか、大きく息を吐いて普通の飛行に戻した。

 神社へはもう少しかかるはずなので、それまではこの劣悪な気分を戻す事に専念しよう。

 

「全くもう……もう少し落ち着きというものをですね……」

「不可抗力ですもん! 落ち着かせろというのなら、いっそのこと吹羽ちゃんがウチに移り住んでしまえば、その内に慣れて落ち着くと思いますが?」

「それ得するの早苗さんだけじゃないですかあ!」

「そんな……ッ!? 吹羽ちゃんは、私と一緒にいるの、嫌ですか……? 吹羽ちゃんの半径三十メートル以内に入っちゃダメなんて、そうしたら私、もう何の生きる意味も……」

「そこまで言ってないですよ!? ただお仕事が出来なくなっちゃうから住み込むのは無理ってだけで、別に一緒が嫌な訳じゃ――」

「わあ! ずっと一緒でもいいってことですね! 嬉しいです吹羽ちゃんっ、もう結婚でもなんでもしちゃいましょ? 反対する人はみんな私がぶっ飛ばしちゃいますから♪ あ、養子縁組とかでもいいですよ?」

「それだけはやめて下さいっ!? け、結婚、とかもっ!」

 

 吹羽の抗議の声に、しかし早苗はにこにこと微笑むばかり。そして唐突にピコンと頭上に電球を浮かべると、

 

「あ、それなら吹羽ちゃん、私と一緒に神奈子様を信仰しましょ! きっと御利益がありますよ! (そしたら上手く言いくるめて我が家に……)

「聞こえてますからね……! 改宗なんてしませんよ! ボクが信仰しているのは“氏神様”ですぅ!」

 

 吹羽が信仰するのは、鍛冶屋の娘として“天目一個神”の他に氏神様だけである。

 その旨を早苗に言うと、彼女は不思議そうな顔をして「そういえば」と前置きした。

 

「吹羽ちゃんの家は代々その氏神様と言うのを信仰しているそうですね?」

「は、はい。大昔から、ただ一柱の神だけを信仰してきました。神棚へのお祈りも毎日していますよ」

 

 風成家が名家たる所以として、その継承し続けてきた技術と信仰が挙げられる。

 単純な鍛冶を始めとした風紋などの技術と、氏神様――風神への信仰である。毎日心からのお祈りを捧げる吹羽は、間違いなく敬虔な宗徒と言えよう。彼女は知る由もないが、吹羽ほどの信仰心は風成家の歴史の中でも希に見るものである。

 そんな彼女が、改宗など間違ってもするはずはないのだ。

 

「へぇ……因みに、吹羽ちゃんはその神名を知ってるんですか?」

「勿論ですよ! ボクが信仰しているのは

級長戸辺命(しなとべのみこと)”様。風と盲目の、古い神様です」

「しなうすさま?」

「しなとべさまです! なんですかその入荷が間に合ってない感じの名前……」

 

 全くもう、と吹羽は口をへの字に曲げる。

 氏神様をそんな幸薄そうな名前に間違われた事は誠に遺憾ながら、これ以上話を引っ張るとそれ以上のトンデモアイデアが飛び出そうな気がしたので、吹羽はさっさと話を進める事にした。

 

「ボクの一族がこんなにも風を重んじるのも、そもそもは氏神様への信仰のためなんですよ」

「ふぅん……一族郎党全てで以って、長い間一柱のみを信仰するって、中々すごい事ですね」

「? そうですか?」

「そうですよ。外の世界では、宗教としては大抵どこの家も同じで“仏教”なんですよ。偶に他の宗教を信仰する人がいますが、そういう人は時々腫れ物扱いされる事もあります。まぁ、私はそんなことありませんでしたが」

「……幻想郷で言う、“龍神信仰”と同じってことですか」

「そういうことですね」

 

 早苗の例えで言うところの“仏教”が龍神信仰、“他の宗教”が風成家の風神信仰である。

 宗教に限らず、大多数の中に埋もれた少数というのは圧殺されやすい。人間とは圧力に弱いものであり、こと幻想郷民(日本人)に関しては人種柄からして周囲に流されやすいからだ。

 その圧倒的大多数(龍神信仰)の中で貫徹してきたその信仰心を、早苗は“想像を絶するものだ”と語る。

 

「うーん、実感が湧かないです……。ボクはただ風が好きなだけで、それを司る神様を尊敬しているだけっていうか……」

「それこそが真の信仰心ってものですよ。ただ家教だからと信仰するのではなく、そして心から風が好きだと言うのなら、差し詰め吹羽ちゃんは“風神に魅入られた風の御子”ってことですよ、きっと!」

「風神に魅入られた……風の、御子……」

 

 ――相変わらず、実感はない。

 吹羽は本当にただ風が好きなだけで、意識して風神を信仰している訳ではないのだ。

 だが、吹羽よりも神というものに理解のある早苗がそう言うのなら、頭の片隅に置いておく程度には覚えておこう、と吹羽は思った。

 自分はひょっとしたら、風神様の加護を受けているのかもしれない――と。

 

「あ、見えてきましたよ吹羽ちゃん!」

 

 前方へ視線を向けながら、早苗が声を上げる。

 つられて見ると、木々の中に悠然と佇む神社が視界に映った。

 数日前に訪れたばかりだと言うのに、何処か懐かしさすら感じるその雰囲気。

 ――守矢神社だ。

 

「さ、中でお二人がお待ちです!」

「……はい」

 

 本物の神様が、一体ボクに何の用だろう? 何か怒られたりするのだろうか。

 心内で戦々恐々としながら、吹羽は早苗の後について境内へと足を踏み入れた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 二柱の神は、居住スペースにある居間にて吹羽と早苗の到着を待っていた。

 神奈子は卓袱台を前に胡座をかき、諏訪子はそこから繋がる縁側で脚をぶらつかせている。

 どちらも黙しながら自由にしていたものの、彼女たちの到着を心待ちにしていたことには違いがない。

 

 そもそもはただの暇潰しだった。

 気まぐれに思い出して気まぐれに興味を引き、気まぐれに考え付いただけである。

 早苗に少女を呼びに行かせたものの、大仰な話をする訳では無いのだ。ただ興味に惹かれて、神奈子も諏訪子も内心では少しだけそわそわとしていた。

 

 そうして遂に――、

 

「――来たか」

 

 薄く開いた両の目に、相変わらずの笑顔と不安気な表情が映り込む。

 その小柄な少女は、早苗に促されて目の前にストンと座った。その白く細い首に掛けられたペンダントが、彼女が目的の人物であることを二人に知らしめる。

 早苗はその少女の隣へ。気が付いた諏訪子は神奈子の隣へと腰を下ろした。

 

「(……?)」

 

 ――妙な感覚があった。

 目の前にいるのは、早苗が連れて来た年端もいかない少女……なんなら幼女と言っても過言ではない。幾ら早苗にそう命じたのが自分達だと言っても、神である神奈子と人間の少女では対面する機会など皆無に等しい。明らかに初対面である。

 なのに――何処か見知った者のように感じるのだ。

 既視感という訳ではない。だが、彼女を見たことがあるような小さな違和感を覚える。言うなれば、なんとなく他人の気がしない(・・・・・・・・)のだ。

 

 その僅かな違和感に、神奈子は無意識の内に怪訝な視線を少女へと送る。するとそれに気が付いたのか、少女が少しだけビクついたのが見えたので、神奈子はハッとして視線を緩めた。

 不思議な雰囲気の少女ではあるが、中々どうして可愛らしい反応をする。怖がらせたら可哀想だと、神奈子は密かに気を付ける事にするのだった。

 

 そうして神奈子が心の内で覚悟するのとほぼ同時。

 口火を切ったのは――早苗。

 

「ご紹介します! こちら、風成 吹羽ちゃんです!」

「え、えと……風成 吹羽、です。よろしくお願いします……」

「……私は八坂 神奈子。大和の軍神にしてこの守矢神社の主神だ。よろしく」

「わたしは洩矢 諏訪子だよー。よろしくねー」

「は、はいっ」

 

 吹羽は諏訪子の様子を見て、何処か安堵したように表情を緩めた。

 諏訪子はこれでも馴染みやすい性格をしている。見た目では歳近いこともあって、彼女の存在に安心したのかもしれない。

 普段なら“神の威厳は何処へやったのだ”と咎めるところなのだが、今回ばかりは効果的だったらしい。

 

 ……まぁ人間の前に神が二柱もいるのだから仕方ないことなのかも知れないが、あまりこちらを怖がられていてもいろいろ不便なので。

 

「そんなに緊張しなくて大丈夫さ、風成 吹羽。私達はただ、お前と少し話してみたくなったから呼んだだけなんだ。気を楽にしてくれ」

「は、はぁ……そう、なんですか」

「神というのは気まぐれなものでね、己の興味には素直なのさ」

「へ、へぇ……」

「……ふむ、まぁその内気もほぐれるよ。諏訪子、ちょっと茶菓子でも出してくれないか?」

「へ? なんでわたしが? 早苗にやって貰えばいいじゃん!」

 

 不満気に訴える諏訪子に、そっと耳打ち、

 

「早苗がいなくなったら吹羽が心細くなるだろ。いいから持って来てくれ」

「ぶー……はーい」

 

 とぼとぼと台所へと歩いていく諏訪子を見送り、神奈子は視線を吹羽へと戻した。

 やはりこの場において早苗の存在は大きいらしく、彼女の服の裾を摘んでいるのが机越しでも微かに見える。

 

 諏訪子を待つ必要も特にないので、神奈子は早速話を切り出した。

 

「さて、大した話をするつもりもないが、吹羽。話を聞かせて欲しいんだ」

「えっと……何の話を、ですか?」

「そうだな……取り敢えず、君の家系のことについて、聞かせてもらおうかな」

 

 ペンダントのことも含め、神奈子の興味は吹羽の家系にも及んでいる。

 先ずはその話を聞いてみようと神奈子が促すと、吹羽はゆっくりと話し出した。

 

 自分が――“風成”という一族がどんな家であるのか。受け継いできた鍛治技術のこと。風紋という特別な彫刻のこと――。

 茶菓子を持って戻ってきた諏訪子も加わり、三人は吹羽の話に聞き入っていた。

 特殊な家系なのだろう、簡単に概要を聞いただけでも、話に聞く人里の一般的な家とは成り立ちからして違うのが分かる。

 

 百年……否、千年積み重ねてきた歴史。

 彼女が受け継いできたあらゆるモノは、その長き歴史そのものといって過言ではないだろう。洗練された技術、そして彼女が“氏神様”と呼ぶ古き風神への信仰。

 外の世界にこれ程古い習わしを尊ぶ者がいたならば、きっと神奈子たちはこの世界へと引っ越してくる必要もなかったろう。

 

 ――なればこそ(・・・・・)

 

 その尊き歴史の中で、あの古いペンダント(神器もどき)がどのような立場にあった品なのかを、気にするのは当然のことと言えよう。

 

「では、そのことを踏まえて尋ねよう、吹羽。その首にかけているペンダント……それはなんだ? なぜそんなものを君が持っている?」

「ペンダント……これのことですか?」

 

 首にかけたそれを、吹羽は掌で掬うように持ち上げる。彼女の瞳と同じ翡翠色をしたその勾玉は、縁側から差し込む光に鈍く光っていた。

 ……確かに、あれほど微量な神力では早苗が気が付かないのも無理はない。

 そも神器として機能しているのかどうかすら危うい程だ。せいぜい高位の神にその存在を知らせる――所謂マーキング程度の効果しかなさそうなものだが。

 

「これは、ボク達一族が代々受け継いできた首飾りです。当代の当主が、肌身離さず持ち歩くものですよ」

「当主っ!? え、吹羽ちゃんってお家の当主なんですかっ!?」

「ぁ……いえ。訳あって、ボクは持ってるだけで……現当主は……お父さんです」

 

 そう語る吹羽の瞳に映る、物悲しい光。

 蒸発か、死亡したのか、神奈子には当然知る由も無い。だがその光の中に神奈子が見たものは、冷え切った心の孔のように思えた。

 

 踏み込んではいけないこと、なのだろう。

 神奈子は僅かに視線を上げて早苗を見やると、その目力で以って彼女の言葉を押さえ込む。彼女もそれが分かったのか、開きかけていた口を閉じる瞬間だった。

 この話題を広げる事は、吹羽にとってきっと良くない。

 

 その思考を汲み取ったのか、隣で茶菓子をぱりぱりと咀嚼する諏訪子が、それを飲み込まぬままに言葉を紡ぐ。

 

「ふーん、受け継いできた首飾りか……。まぁ、名家ってんなら不思議なことではないね。受け継ぐからこそ名家っていうんだし。他にも何か、そーゆーものとかはあるの?」

「他には……ああ、一つありますよ。伝承――というと大袈裟ですけど、お伽話みたいなものが」

「えーっと、夜眠る前に話してもらうような物語……って事ですか?」

「まぁそんなものです。ボクも昔お母さんに話してもらいました。……聞きます?」

「ああ、是非頼む」

 

 神奈子の言葉に、吹羽はこくりと頷く。

 その小さな口をゆっくりと開くと、まるで唄い上げるように、こう語り出した。

 

「昔々ある山奥に、とても小さな村がありました――」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 そこは争いごとも少なく、小さいながらも人々の活気に満ち溢れた良い村でした。

 木を使っては家や薪を作ったり、近くの川から水を汲みあげたり、お互いに助けあいながら平和に暮らしていたのです。

 

 人々が安心して暮らせていたのには、理由がありました。

 それは、村長の男が神様のような不思議な力を使えたからです。

 

 雨風が激しければ雲を吹き飛ばし、人々が暑さに苦しめばそよ風を吹かせ、「いぎょう」が現れればその風の力で人々に加護を与えました。

 人々はその御加護を以って、平和に暮らすことができたのです。

 村長を、人々が本物の神様(・・・・・)としてあがめ始めたのも、無理からぬことでした。

 

 ――ある日のこと。

 村に一つの「いぎょう」があらわれました。

 

 姿形こそ人間のようでしたが、その美しさはどこかヒトとはかけ離れていて、何よりも今まで追い払ってきた「いぎょう」とは明らかに格の違う強さでした。

 しかし、それでひるむ村人ではありません。

 人々は加護を受け取って、今まで通りに立ち向かいました。

 

 槍でツきました。剣でキりました。斧でツブしました。果てにはその身を囮にして首をオトしました。

 そして村人は――たくさん、たくさん、タベられました。

 

 ナニをしても斃れないその「いぎょう」は、きょうふに立ち尽くす人々の前で、真っ赤に染まったクチをにたりと歪ませると、こう言い残して去りました。

 

 また来るぞ――と。

 

 二度目に来た時、「いぎょう」は人々にこう言いました。

 

 村で一番美味い者をだせ。さすれば民の命は見逃そう。

 

 人々は大慌てで話し合いを始めました。ですが、“誰がイケニエとなるか”などという話が簡単にまとまるはずもありません。

 飛び交うのは保身のために武器と化した罵詈雑言と、仲間に対する命乞いばかり。

 そうして“そろそろ「いぎょう」が痺れを切らす頃だ”とだれかが言い始めた頃、遂に名乗りを上げたのは村長でした。

 

 「いぎょう」は村長を褒めました。

 勇敢な人間。ただタベるのは勿体無いくらいだ、と。

 そして同時に嘲りました。

 愚かな人間。分際も弁えぬとは余程おつむ(・・・)が弱いらしい、と。

 

 しかし、そんな「いぎょう」に村長は言います。

 誰が喰われてやるものか。民が殺される所を黙って見ている長など、あっていいはずがないだろう、と。

 

 ――ならば、どうする?

 ――勝てたなら、好きにするがいい。

 

 「いぎょう」は声高らかに笑って、嗤って、最後に静かに嘲笑(わら)いました。

 きぃきぃと響くような不気味な笑い声は、それを聞く人々の心を抉り取っていくようでした。

 

 「いぎょう」はつめたい瞳で村長を睨み付けて言います。

 身の程を知れ。人間一人なぞに何ができると言うのか。

 村長は決意に満ちた瞳で、「いぎょう」を睨み返して言います。

 簡単に諦められる命なぞ存在しない。民のために命を尽くすのは自分の使命だ。

 

 そんな村長の姿勢に、「いぎょう」は思い直しました。

 村長を殺してから民を喰らってやろう、と。

 「いぎょう」は村長の折れない意思を、無理矢理にへし折りたくなったのです。

 そうして、「いぎょう」はもう一度だけ来ると言い残して去っていきました。

 

 三度目に来た時、「いぎょう」は村長と戦いました。

 

 「いぎょう」は不気味な力を用い、村長は民に加護を齎した不思議な力を用い、鎬を削ります。

 ――村長と「いぎょう」の力は、ほとんど互角でした。

 傷を付ければ傷を受け、吹き飛ばされれば吹き飛ばす。

 お互いに傷付きすぎた村長と「いぎょう」は何度目かの衝突の後、こんな約束をしました。

 

 ――どちらかがどちらかに殺されるまで、死なないこと。

 ――どちらかがどちらかに殺されるまで、“それ以外”を手に掛けないこと。

 ――決着が着くまで、何度でも戦うこと。

 

 もう、どちらも限界だったのです。限界であったにも関わらず、お互いはお互いの底を見てみたいと願ったのです。

 幾度も言葉を交わし、力を交わすうちに芽生えた、奇妙なキズナだったのでしょう。互いが互いを望み、燃え上がりながら衝突するその様は、まるで互いの身体を貪り合う男女の情事のように苛烈で熾烈で、時に惨くさえありました。

 

 ――そうして二人は、何度も何度も戦いました。

 互いに傷付けば力尽き、傷を癒せばまた戦う。二人の関係は苛烈なものへと変わっていきましたが、村の平穏はそうして守られました。

 そして「いぎょう」も、村の存在を村長と戦う理由にすら挿げ替えてしまっていました。

 

 ――しかし、その時は来るべくして来たのでした。

 

 もう戦った回数は分かりません。

 ただ習慣として(・・・・・)衝突しようとしていた二人の内、ぱたりと倒れたのは村長の方でした。

 

 「いぎょう」は思いの外悲しくなりました。

 それは二人の間に奇妙なキズナが生まれていたからこそだったのでしょう。

 駆け寄った「いぎょう」に、村長は掠れた声でこう言いました。

 

 最後の頼みを、どうか聞いて欲しい。

 私の民たちを、見守ってやって欲しい――と。

 

 それは二人の馴れ初めからは考えられない言葉でしたが、「いぎょう」は決して拒みませんでした。その手を取って、約束したのです。

 そうして村長は「いぎょう」の腕の中で息を引き取り、長かった戦いに決着が着いたのでした。

 

 それからというもの、村長の残した村は「いぎょう」の強大な力に守られて、末永く平和を謳歌し続けました。

 それは、二人の戦いを知るものが潰えた後も絶えることはありませんでした。

 信頼した――してしまった村長の遺したものを、「いぎょう」はその力の及ぶ限り大切に守り続けたのです。

 

 そうして、民達は影から「いぎょう」の力に守られながら、いつまでも平和に暮らしましたとさ。

 

 めでたしめでたし――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「うーん……なんというか――」

 

 と、初めに声を上げたのは諏訪子だった。

 何処か不思議そうに手を顎に当てる彼女は、虚空を見つめながら、

 

「お伽話っぽくないねぇ、ソレ」

「えぇ……第一声で否定されちゃうの……?」

 

 諏訪子の怪訝そうな声に、吹羽は不納得そうな表情で呟く。

 確かに、“お伽話のようなもの”として聞かされてきた物語が否定されればそうなるのも無理はないと思うが、神奈子としては諏訪子の言葉の方にも共感があった。

 なにせ今吹羽が語った物語は、お伽話というにはあまりにも――、

 

生々し過ぎる(・・・・・・)、な。少なくとも、本来のお伽話のような楽しく愉快な雰囲気ではない」

「確かに……“赤ずきん”とか“かちかち山”とか、代表的なお伽話とは少し毛色が違いますよね」

 

 早苗の補足に、神奈子も諏訪子も黙して頷く。やっぱり吹羽は納得出来ないように唇を尖らせているが、今度は何も言わなかった。

 

 お伽話というのは比喩的な現実離れした、所謂人の空想を描いた物語だ。

 例えば動物が人間の言葉を解したり、小人が鬼を倒したり。大人になってから見ればその裏の残酷な描写が浮き彫りになったりもするが、基本的にはそれを表出させずに巧みな表現で面白おかしく描くことが多い。

 

 しかし吹羽が話したお伽話は、「いぎょう」などという空想――“妖怪”だと考えれば幻想郷的には空想ですらない――が登場はするが、それに対抗して人が死んだり、力を持ったものが代表してそれを押さえ込んだり、凡そお伽話にあるような空想とは思えない描写が多々あった。

 そう、それはお伽話や伝承というよりはむしろ――、

 

神話(・・)、かな。少なくともお伽話ではないと思うよ」

「神が作ったお話は大体神話って呼ばれるからねぇ。まぁ、“神側が勝利して大団円!”って結末じゃないのは少し引っかかるけど、まぁその村長? 神? が自分の権威を知らしめるために作った話なのかもね。察しはつくけど、その村ってあんたの一族のことでしょ?」

「恐らくは……そうだと思います」

 

 須佐之男命の八岐大蛇退治然り、伊弉諾と伊弉冊の国産み然り、神話というのは登場する神々の言わば武勇伝を語る。それは、神話というものが神々の信仰の根元に当たるからだ。

 どんな人間も、御利益や権能すら分からない神を信仰しようとは思わないだろう。人望や権威に関せば、それはただの人間にも言えることだ。

 恐らく吹羽の家に伝わる物語は、その村長とやらが己の権威を絶えさせないために創ったものだろう。

 もしくは、かの氏神とやらが何らかの理由で創ったか……。

 

 神奈子は煮え切らない思考にそう結論付けると、一休みとばかりに盆から煎餅を一つ摘んだ。

 甘めの味付けだ。正直に言ってあまり好きでない味。神奈子は僅かに顔を顰めた。

 

「ん〜……なんか、違和感がありませんか?」

 

 ――と、唐突に首を傾げて言ったのは早苗だった。

 

「えっと、何処がですか?」

「言いにくいんですけど……例えば、なんで村長は負けてしまったのでしょう?」

「そりゃ、限界が来てたからって……」

「でも、傷を癒してから戦ってたんですよね? 何度も全快で戦って引き分け続けて……そんな村長が、いくら能力を使えるからって突然ぱたりと死んだりしますか?」

「…………言われてみれば、そうだな」

 

 確かに、よく考えれば物語の決着が少しばかり雑なように思う。間を切り取って無理矢理くっ付けたかのような強引な所があるのだ。

 傷を癒して戦い、それでも幾度となく引き分けて来たというのなら、ある一点において突然片方が力尽きるのは不自然だ。

 確率というものは収束する。回数を重ね、お互いの手の内を知り、無意識のうちに対処法も確立していたであろう二人の間で、“偶然その時に致命傷を受けた”というのも考え難い。

 ……まぁ、所詮は創作物なのだから雑味があっても仕方ない、と言われればそれまでなのだが。

 

「ま、考えても仕方ないよ! 人ン家の言い伝えの粗探しなんて趣味がいいとはいえないからねっ」

「……それもそうだな。ここまでにしようか」

 

 何処か声音に興味の無さが滲む諏訪子の言葉に、しかし神奈子はすんなりと同意した。

 決して興味が失せたわけではない。単純に諏訪子の言い分が正しかったのと、もうそろそろ日も沈む頃合いだからだ。

 早苗には夕飯の仕度をしてもらわなければならないし、何より吹羽を家に帰さなければならない。

 これ以上引き止めたら、帰り道が暗くなってしまう。この幼女にそれはいけない。

 

「さ、というわけで今日はお開きにしようか。今日は楽しかったよ、ありがとう吹羽」

「はぇ!? い、いえいえそんな! ボクの方こそお話できて光栄でしたっ」

 

 ――風成家、か。

 ぱたぱたと慌てる目の前の可愛らしい少女を見て、神奈子はぼんやりと考える。

 風紋といい神話といい、面白そうな人間がいたものだ、と。

 それは諏訪子も同じだったようで、吹羽を見つめる彼女の瞳は、新しいおもちゃを見つけたかのような無邪気な光が宿っていた。

 

「(偶に目を向けてみるのも、いいかもしれないな)」

 

 そんなことを思いながら、神奈子は瞑目ながらにくすりと笑った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――まぁ、そうは言っても、である。

 

 二人の“人生”という名の糸が数日前に交わったその瞬間から、その酷愛ぶりと言えば霊夢をして引くほどのものであるからして。

 ただ己が信奉する神の御言葉だからと自らの家に招くだけ。それでさえジェットコースター顔負けの乱雑飛行で喜びを体現していたくらいなのだから、あの彼女がそう易々と引き下がる訳もなかったのである。

 まぁ何が言いたいのかと言えば。

 

 ――若干一名、吹羽の帰宅を良しとしない者が現れたのだ。

 もうお察しである。

 

「もっとここにいて良いんですよ吹羽ちゃん……! 外は危ないですし、私が守ってあげられますよ……?」

 

 そんな嘆きにも似た声が玄関に響く。

 僅かに濡れた声音でそう訴える早苗は今にも泣き出しそうな表情で、去ろうとする吹羽を非物理的に引き止めていた。

 ここは玄関である。故にあと一歩前に踏み出せればもう外なのだが、足を動かそうとすると早苗がくしゃりと顔を歪めてしまうので中々動き出せない。

 いっそのこと早苗のことが大嫌いだったなら良かったのに――なんて、吹羽は潤んだ瞳で見つめてくる早苗を困った顔で見遣った。

 

「だ、だから今のうちに帰るんですよ? 暗くなっちゃったら山は降りられないですし……」

「でも、でも私まだ吹羽ちゃんとお話し足りないですよ! せっかくウチに来てくれたのに……!」

 

 それは吹羽だって同じだ。

 振り回されるのは苦手なのだが、早苗と会話すること自体に嫌悪感など全くない。むしろ、突拍子も無い言葉が飛び出す早苗との会話には面白みすら感じるのだ――ただし“疲れない”という訳ではない――。

 

 だが、明日も当然仕事がある。今日が偶々暇になっただけであって、そも依頼が破棄されなかったらここに来ることさえもなかったのだ。

 公私混同などしないに越したことはない。何より鍛治業も吹羽が好んでやっていることだ。ここはグッと我慢しなければなるまい。

 ……まぁ、それが理解させられるなら早苗に振り回されることなどないのだろうが。

 欲望に忠実な彼女が納得するとは、到底思えない。

 

 ――さて、どうしよう?

 

 そう思った直後、救いの声は早苗の背後から聞こえてきた。

 

「早苗ぇ、吹羽のことが大好きなのは分かったけど、良い加減にしないと本当に帰れなくなっちゃうよ。それとも、そうやって時間稼ぎでもしてるのかな?」

「じ、時間稼ぎっ!? そんなこと全然っ、ぜんぜん考えてないですよっ!」

「なら勘違いされる前に、引き下がったほうがいいんじゃない? 嫌われちゃうよ?」

「うぐぅっ!? そ、それは……!」

 

 何処か大人びた雰囲気の語りで諭すのは、何を隠そう守矢の一柱、洩矢 諏訪子だった。

 まるで我が子のわがままを華麗な口車で絡め取る母親のようなその諭し方は、吹羽が理想とするところの“大人”そのものである。

 さすがは神様。見た目は幼くとも年季が違う。万一改宗するのならこの神様を信仰するのも良いかもしれない。

 吹羽は無意識のうちに羨望の眼差しを向けるが、当の諏訪子は気にした風もなかった。

 

「さ、という訳でもうお帰り吹羽。またいつでも来て良いからさー♪」

「あ……はい。ありがとう、ございます。諏訪子さん」

「いいっていいってぇ〜♪ それに“さん”なんて硬っ苦しいし、なんなら“すわっち”とかでも良いよ?」

「そ、それは流石に……でも、またおじゃまさせて貰いますね」

「はいよーっ」

 

 ――これでやっと帰れる。

 吹羽は心の内で諏訪子に言葉以上の感謝の念を抱きながら、今度こそ扉の方へと振り返った。

 今度来た時には何かお菓子でも持って来てあげよう。諏訪子がなんの神様なのかを吹羽は知らなかったが故に、お供物(ほんの気持ち)として何が適するのかも見当を付けかねるが、先程食べていた甘めの煎餅でも持って来れば的は外すまい。

 なにせ、“ほんの気持ち”なのだから。

 

「それじゃ、またいつか」

 

 そう言って、一歩踏み出す。

 日はまだ落ちきってはいないが、もう一時間もすれば空は暗闇と星々に包まれて前も見えないだろう。妖怪の時間の始まりである。

 吹羽は一つ深呼吸をして、未だ整備の行き届いていない参道を見る。

 今ならまだ、走れば間に合う筈だ。

 

 そうして脚に力を込めて――、

 

 

 

「やっぱり待ってください吹羽ちゃんッ!」

 

 

 

 ――引き止めた声は、やはり彼女のもの。

 

「そうですよね。吹羽ちゃんにもお仕事がありますし、あまり粘着質なのも鬱陶しいとか気持ち悪いとかまじありえないんですけどコイツ引くわーとか思うかもしれません。しかしですッ!!」

 

 いや、そこまで酷いことは考えてないけれど。

 出かかった声を、喉元で食い止める。

 

「それでも私は言います! 吹羽ちゃん、今日はウチに泊まっていってください!」

「え、えっとぉ……ですからお仕事が……」

「朝私が家まで飛んで送ります! ここに来た時のように!」

「でも迷惑じゃ……」

「そんな滅相も無いです! むしろ私が頼んでいる側なんですから迷惑なんて思うわけありません!」

「う、ん……」

 

 ――ちらりと見やったその先には、やれやれと両手を翻す諏訪子の姿。

 どうやらこうなった早苗は諏訪子でもどうにもならないらしい。

 

 早苗の表情は何処か決意に満ちている気がして、これ以上断るのもなんだか悪い気がしてくる。

 純粋過ぎるのも考えものだ、とは早苗を見てきて幾度となく思ったことだが、ここまでするのは一体どうしてだろう?

 やっぱりその……好き、だからなのだろうか。それとも、何か話したいことでもあるのだろうか。

 

 益々去りにくくなってしまった空気に内心では苦悩していると、

 

「だから吹羽ちゃん。保留しておいた“お願い事権”、私はここで使いますよっ!」

「(ああ――……)」

 

 ――逃げ道、なくなっちゃった……。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第十六話 返礼の誓い

 ちょっと人を選ぶお話Part2


 

 

 

「〜〜っ、出来ましたっ!」

 

 夜の帳が下りた人間の里。

 月明かりが照らす風流なある庭に、歓喜の声が一つ、響き渡る。

 その声の主は、庭を眺められるように開け放たれた屋敷の一室にて巻物を高く掲げて、満面の笑みをたたえていた。

 

 ――阿求。

 彼女はたった今、ある書物を記し終えたのだった。

 

「はぁあぁぁ大変でした……何せ神様ですからね、背景が壮大な分なにから記せばいいのか配分が難しい……」

 

 掲げていた腕を下ろし、墨痕鮮やかに――自分で思うのもアレだが――書き連ねられた文字を見て、阿求は嘆息染みた言葉を零す。

 彼女の手にある書物は、“幻想郷縁起”だ。

 

 そう、彼女がそれを完成させる事を生業とする、幻想郷唯一最古の歴史書である。

 数日前から書き始めていたある人物達の項目が、たった今書き終わったのだ。

 

 苦労した。本当に苦労した。

 二人は本物の神様でヤケに緊張したし、一人は言うことがコロコロと脱線するし、ぶっちゃけ聞きたい事を聞き出すのが相当な苦行だったのだ。

 そして聞き出せたはいいものの、どう書き記していけばいいかが見当もつかずに数日過ごした。お陰でここ最近は吹羽にも会いに行けていない。

 ――それが今、遂に、書き終わったのだ。

 

 ああ、この歓喜をどう表せばいいだろう。

 我が歴史書に神の存在を刻み付けることができたのももちろん嬉しいが、これで少しは休息が取れると言うものだ。なによりも大仕事を終えた達成感が凄まじい。

 

 幻想郷は、外の世界で忘れ去られた者達が集う楽園。妖怪も神様も確実に存在する世界だが、神がその姿を現す事自体は少ない。何せ“八百万の神”と言うように、幻想郷での神々は大抵万物に宿った(・・・)状態だ。顕現するほど力を持たない証明でもあるが、なによりも固定化した姿を取る必要がないのだ。

 故に、名前だけが知られる神々の方が圧倒的に多い。

 故に、今まで明確に神々のことを記すことができないでいた。

 

 幻想郷縁起は唯一の歴史書だ。その存在意義とは言わずもがな、幻想郷で起きたあらゆる事変・出来事・そしてそこに生きる主要な存在を記す事。転生を繰り返してこれを書き重ねて来た阿求(阿礼)ではあるが、常時顕現する程の強大な神の存在を記すことができたのは、字面以上に大きな意味を持つのだ。

 

「(やっと……もう一歩です……)」

 

 神は信仰が無ければ存在し得ない。

 つまりは、“存在を確認されなければ存在できない者達”を、神と呼ぶ。

 神とは“幻想”の最たる存在だ。その神が在わす世界の歴史を記すと銘打った書物に、明確な神の存在を記録出来ていないなんて、本来ならあってはいけない事なのだ。今までが異常だった訳であって、それが解決出来なければ完成なんて程遠い――そう、常々思っていた。

 だから、幻想郷に現れた強大な神――八坂 神奈子と洩矢 諏訪子、そして東風谷 早苗という現人神を、嘆くほど苦労してでも書き記すことができたことが、阿求はえも言われぬ心地だった。

 出来ればあと数日この余韻に浸っていたい。

 

 ――そういえば。

 

「早苗さん、気になることを言ってましたね……」

 

 思い出すのは、コロコロと話の脱線する妙にハイテンションな現人神の少女。

 話を聞くのに最も苦労したのは彼女であり、その脱線した話の中で少し気になることを言っていた。

 確か――、

 

『人里に降りようにも忙しくてちょっと欲求不満気(・・・・・)()なんですよね。あ〜、またあの白くて綺麗な髪をもふもふしたいです……』

 

 ――白くて、綺麗な髪?

 ――……欲求不満?

 

 人間の里で白くて綺麗な髪といったら心当たりしかない訳だが、彼女に対して……欲求不満って?

 墨汁を落としたように広がる不安に、阿求は僅かに眉を顰める。なんだか違和感があるのは、気の所為だろうか。

 

 これまで長い年月を掛けて様々な存在を見てきた阿求は、人を見る目に関しては確固たる自信を持っている。早苗は確かに他に類を見ない扱いにくさをしていたが、決して悪意を持った人物ではなかった。

 その彼女に感じる違和感。

 もし……もし早苗が彼女にまた出会って、その欲求(・・)とやらを爆発させるとしたら――一体、どんな行動に出るのだろう。

 

「ま、まぁ……大丈夫、です……よね?」

 

 そう声に出して、言い聞かせる。

 うん、きっと大丈夫。早苗だって外来人だ、常識くらいは持ってるはず。それに悪人でないのは確かなのだから、何が起こってもそう悲惨なことにはならないはず。

 ……多分。きっと。

 

「(こ、今度……それとなく聞いてみようかな……)」

 

 阿求は自分が歪んだ微笑みをしていることを自覚しながら、しかし“今はどうしようもないか”と、頭の中を切り替える。

 そう、下手な心配は重荷になるだけなのだ。今は信じて、自分は自分に出来ることをするべきだ。

 

「さて――」

 

 ――お茶でも、飲もうかな。

 そう思って、立ち上がった直後のことだった。

 庭の方で、かさりと僅かな音が鳴った。

 風で揺れた草花の掠れ音ではない。それよりも何か物質に当たって鳴ったような、はっきりとした音。

 阿求は反射的に振り返って、その凡その方向を訝しげに凝視する。

 すると――、

 

「あー悪い悪い。警戒させたな、わたしだ」

「……魔理沙さん? と、そっちにいるのは……」

 

 影から姿を現したのは、“普通の魔法使い”こと霧雨 魔理沙。後ろ髪を撫でながら、彼女はどこか申し訳ないといった表情をしていた。

 こんな時間にどうした、まさか泥棒か!? ――となるのが普通のところなのだが、阿求は彼女の更に後ろから出てきた人影に、思わず言葉を詰まらせた。

 魔理沙の後から出てきたのは、銀色の長い髪――。

 

「け、慧音さんっ!?」

「……すまない、こんな夜更けに」

 

 聞きたいことがあるんだ。

 そう言って、慧音は少しだけ微笑んだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 星月の照らす真黒な夜。

 微かに耳を撫でる音は、さわさわと風に揺れる木々の葉擦れと、鈴虫達の爽やかな声音だけ。

 一人の夜はやはりちょっぴり寂しいけれど、それを差し引いても心地良い夜だ。まるでふわふわの綿毛に包まれて、甘美な金木犀の香りを堪能しているかのような。

 暗闇がこんなにも甘く優しいものなのなら、このまま包み込まれて溶けてしまってもいいと思えるほど、今宵はとても気持ちのいい夜である。

 

 気持ちのいい夜、なのだけど――、

 

「(なんで……こんな事になってるんだろう?)」

 

 身体に絡まる優しい温もりに、吹羽はひたすら困惑する。

 いつもと違う布団の感触も、柔らかい毛布の感触も、就寝した時と何も変わってはいない。しかしふとした拍子に目覚めれば、なぜ自分はこんな状態になっているのだろうかと吹羽は心底不思議に思った。

 ゆっくりと首だけを動かして、静かに上を見上げる。するとそこには、

 

 

 

 ――安らかな寝息を立てる、早苗の顔があった。

 

 

 

「(〜〜っ! お、おお落ち着いてボク……! ゆっくり、ゆっくり思い出してみて……っ)」

 

 吹羽はどきどきと拍動する鼓動に急かされながら、なぜ早苗に抱き着かれて寝ているのかを思案する。

 確か、帰る直前に早苗に駄々を捏ねられて、結局は泊まっていくことになった。常に早苗が側にいたことを除けば、特に困るようなことも発生していない。

 せいぜい夕飯を貰った時に“あ〜ん”を誘われたり、お風呂を借りたら早苗も突撃してきたり――……あ結構困ってるかも。

 寝る時まで振り回されてなるものかと、確固たる意志で寝る部屋だけは別々にしてもらった――もちろん早苗を傷つけない程度に抗議した――のも覚えているが……。

 うん、分からない。少なくとも、自分の意思で一緒の布団に入った訳ではない。

 ……あれ? というか、そうなると――、

 

「(こ、これって所謂……よよ、夜這い(・・・)なんじゃ……っ!?)」

 

 いや、女の子の布団に女の子が潜り込むことをそう呼ぶのかは分からないが。

 吹羽はまさかこの年でそんなえっちぃ出来事に出くわすとは全く思っておらず、心臓は更に鼓動を大きくする。

 

 だってまさか、自分なんかにそんな欲情する人なんて吹羽は想像もできない。

 背もちっちゃいし、胸も大きくないし、それにまだ幼女と言って差し支えのない歳だ。そりゃ髪は柔らかい方だと思うが、人里では珍しく真っ白だし、何より自分はそれほど可愛くもないと思う。それこそ霊夢や魔理沙、ここにいる早苗とかの方が全然可愛い。

 阿求には「比べる人達がアレなだけで、吹羽さんには余裕で需要があるので心配いりませんよ!」とかなんとか力強い太鼓判を貰ったこともあるが、それでも自分なんてまだまだのはずなのだ。未来的に“ぼんきゅっぼん”になる予定なのだ。

 

 それなのに――。

 

「んぅ……ふぅ、ちゃん? ねむれないんですかぁ……?」

 

 降ってきた眠そうな声音に、吹羽は少しどきりとして身体を震わせる。

 再び見上げて、

 

「いえ、その……早苗さん、なんでボクのお布団にいるんですかっ。お部屋分けて貰いましたよね?」

「うぅ〜ん……なんだか寝てる時間がもったいない気がしまして……せっかく吹羽ちゃんがウチにとまっているのに……」

「(この人そんな理由で夜這いなんてしたのっ!?)」

 

 いや、もはや驚くまい。早苗がいつでもどこでも突拍子の無いことを仕出かすのは、出会って間もない吹羽でも嫌という程理解させられた。吹羽自身もメンタル的に強固になってきている。

 むしろ、早苗に付き纏われる当人なのだから、その強化具合には他人(ひと)よりも補正が掛かっているくらいである。

 とりあえず、夜這いの理由については今は置いておこう。

 

「で、でもでも、抱きついて寝ることないじゃないですかっ。おお、女の子同士なんですよ!」

「だぁいじょうぶですぅ……私は別に、よこしまな気持ちで潜り込んだわけじゃないので……」

「夜這いしといて邪じゃないですか……」

「ふうちゃんが可愛過ぎるのがわるいんですぅ……」

「……早苗さん、ちょっと寝惚けてます?」

「寝惚けてなんていませんよぉ……?」

 

 既に暗順応し切った目で見てみれば、こちらを見つめる早苗の瞳はどこか虚として、ぼんやりしていたが、目の焦点はしっかりとこちらを捉えているので、意識はちゃんとあるようだ。寝惚け具合もちょっぴりなのだろう。

 ……ちゃんと意識があるのに、抱きしめる手を解かないとは。

 やはり早苗には困りものである。

 

「もう少しこうしてたいです……」

「ひゃっ……ちょ、近いです早苗さんっ」

「良いじゃないですかぁ。吹羽ちゃん、抱き心地がふんわりしてて気持ちいいんです。それに、もう少しお話もしたいですしぃ」

「そ、それならまた明日にしましょ? 起きれなくなっちゃいますよ」

「朝には強いので大丈夫ですぅ。吹羽ちゃんも起こしてあげますから……ね?」

「うぅ〜……と、取り敢えず自分のお布団に戻りましょう? 早苗さんがお布団にいないのを神奈子さんや諏訪子さんが見たら、きっと心配します、か……ら――」

「………………ね?」

 

 その、こちらを見つめる瞳。

 いつかのような、優しい光を灯していたが故に。

 するとふと、抱き締める力が強くなる。まるで、まだ言いたいことを言えていないとでも主張するかのような。

 吹羽はどうすればいいのか分からなくて、逃げるように早苗から視線を逸らした。

 紡がれる言葉は――、

 

「――ご家族の事を……聞きたかったんです」

「え……?」

「あの時吹羽ちゃんが、寂しそうな目をした理由を知りたいんです。……聞かせてくれませんか?」

「………………」

 

 ――あの時。きっと神奈子にペンダントのことを問われた時のことだろう。

 早苗の視線はしっかりとこちらを向いていて、拍子にあげた吹羽の視線とまっすぐ絡まった。

 ……もう、寝惚けたような瞳ではない。その優しげな視線の全てに、早苗の真摯な気持ちが映し出されていた。

 

「……えっと、その……」

 

 言いたいことではない。吹羽にとって家族の記憶は、そう易々と語れる代物ではない。

 誰に見せることもなく自分の中だけで、大切に大切に守り通して温めて、ひっそりと思い描いていたい泡沫の夢。

 声に出してしまうことで、それが例え少しでも人と共有してしまうと、自分の宝物が蹴手繰り奪われたような心地がして、とても怖いのだ。

 だから吹羽は、元々の知古である霊夢と阿求以外に家族の話をしたことはない。

 自分だけの、命より大切な、宝物だから。

 

 でも――。

 

「……寂しそうな目なんて、してませんよ。あれはただ、当主でもないボクがこのペンダントを持っていることに、罪悪感があっただけで――」

「嘘は、自分が苦しくなるだけですよ。誤魔化すのにも限界はあります。それに吹羽ちゃんが悲しそうな顔をすると、私まで悲しく辛くなるんです。友達とかって、そういうものなんですよ。だから、私には分かります。吹羽ちゃんが悲しいときは、きっと私も、みんなも悲しいんです。だから、無理なんてしないで……」

「早苗、さん……」

 

 ああ、ああ、この感じは、霊夢や阿求の時と同じだ。

 心から心配してくれて、寄り添おうとしてくれている温かさ。じわりと心に沁みてくる甘い毒のような、抗い難い気持ちのカケラ。

 我慢なんてしないで吐き出してしまえと、耳元で囁かれるようだ。そうすればきっと、少しは楽になるのだから、と。

 

 ――こんなの、ずるい。

 傷心につけ込んで取り入るみたいに、早苗の気持ちは心に響く。

 こんなに温かい気持ちを拒絶するなんて、吹羽にはできる訳ないのに。

 それを早苗は、きっと本能的に知っているはずなのに。

 

 傷口に染み入る熱さを堪えるように、吹羽はきゅっと唇を強く結ぶ。その拍子に溢れ出たのは、僅かな涙だった。

 そうして一頻り我慢して、振り切って、決心したように閉じていた瞼を開く。

 

 ――そうしてゆっくり、語り出す。

 

「……ボクたちは、四人家族でした」

 

 覚えているのは、家族みんなの笑った表情。

 あまり多くのことはまだ思い出せないけれど、それだけは覚えている。きっと家族と過ごした時間の中では、みんなが笑顔になっている時間が大半だったのだろう。だから記憶が壊れてしまった今でさえ、こんなにも思い描ける。

 

 ――父の、豪快な笑顔。

 

「お父さんは、すごい腕利きの刀匠で……ボクが風紋をうまく刻めるようになると、笑って頭を撫でてくれました」

 

 鍛治の技術も、風紋の技術も、お店を継ぐ為に必要なことはみんな父に教わった。

 確かに厳格な人で、曲がった事は大嫌いで、自分がダメと決めた事は徹底して否定するような人だったけれど、だからこそ認めてくれた時の笑顔と賞賛はとても澄んでいると思えた。

 よく、くしゃくしゃと頭を撫でてくれたゴツゴツの大きな手。

 ……もう、その感触も思い出せないけれど。

 

 ――母の、柔和な笑顔。

 

「お母さんは、いつだって微笑んでいました。優しくて、明るくて、お料理がすごく上手で、ボクも将来はこんな大人になりたいなって、ずっと……思ってました」

 

 困ったことがあればいの一番に助けてくれるのは母だった。

 父に叱られた時はよしよしと慰めてくれたし、転んで怪我をした時は周りの目も気にせず“いたいのいたいの飛んでいけ”を何度もしてくれた。お料理を教えてくれたのも母だった。

 その柔らかな抱擁は、いつだって吹羽を安心させてくれた。

 ……もう、その時の優しい香りだって思い出せないけれど。

 

 ――兄の、穏やかな笑顔。

 

「お兄ちゃんは……本当にボクを大切にしてくれました。いつも遊んでくれたのはお兄ちゃんです。ボクが怪我をしないように、つまらなくならないように、いっぱいいっぱい気に掛けてくれていたんです」

 

 そして、兄。大好きなお兄ちゃん。

 する事がなくてつまらなそうにしていれば、外へと連れ出してくれたのはいつだって暖かい兄の手だった。

 常に身につけている羽の形をした髪留めも、兄が買ってくれたものだ。

 外で遊んだり買い食いをしに行ったり、偶に付き合ってくれる剣の稽古では、結局吹羽は一度だって兄から有効打を取れなかった。ただ、剣はものすごく強いのに不器用なところがあって、精密な彫刻の必要な風紋には四苦八苦していたのが印象深い。

 そしてそれでも決して諦めなかった兄の姿を、本当にかっこいいと思う。

 陽の下に連れ出してくれた兄の大きな背中。

 ……もう、その背中を追いかける事も、出来ないけれど。

 

 厳しい父、優しい母、頼れる兄。

 きっと吹羽は、どんな人にだって自慢できる幸せな家庭に生まれ育った。

 誰になんと言われようと、吹羽は三人のことが大好きで、自慢の家族なのだ。

 

 掛けられる力強い言葉が好きだった。

 柔らかな抱擁が好きだった。

 引っ張ってくれる手の感触が好きだった。

 ――自分を大好きでいてくれる家族みんなが、大好きだった。

 

 ……でも――。

 

「みんな……みんな、いなくなっちゃいました……っ! ボクだけ残して、いつのまにかっ。それなのに、ボクは……その理由も覚えていないんですっ。いえ、理由だけじゃありません。本当はもっと、もっともっとたくさんの思い出があったはずなのに、それすらボクは、思い出せないんです……っ! なんで……なんでっ、こんな……ことにぃ……っ!」

「吹羽、ちゃん……」

 

 壊れてしまった記憶の中に、きっと大切な思い出は沢山あった。

 

 霊夢や阿求のお陰で少しずつ取り戻して、何とか一人で暮らせるまでには戻ったけれど、それでも大半の記憶は失ったままだ。

 もしかしたら父に何か大切なこと伝えられたかもしれない。

 もしかしたら母がその大きな愛情を言葉にしてくれたかもしれない。

 もしかしたら兄が、どうしようもなくなって自分を頼ってくれた事もあったのかもしれない。

 どれだけ足掻いてもそれらを取り戻せないこの悔しさが、きっと他の誰にも分かるはずはないだろう。否、分かって欲しくなんかない。分かった振りをして、慰めて欲しくなんかない。

 同情なんて何の役にも立たないと知っている。背負うだけ無駄な、不必要な重荷でしかないのだ。そんな無価値なものなんて要らない。

 無意味な憐れみで、分かった気になられて、“その程度”とこの想いの価値を決めつけられてしまう事が吹羽には絶対に許せない。

 

 早苗の腕の中で吐露するその想いの欠けらが、再び熱い雫となって頬を伝う。

 家族のことを自分から話したのはこれが初めてだ。今まで考えないようにしていたあらゆるものが、言葉と共に溢れ出て止まらない。自分はもっと我慢強い人間だとどこかで思っていたが、そんな事は決してなかったのだ。

 少しでも漏れ出してしまえば、後は流れ噴き出すのみ。淡く守っていた心の防波堤すら簡単に砕き散らして、他のどんな感情も溺れさせて尚溢れる。

 まるで水の入った桶を逆さにしたように、爆発した想いが止められない。

 

 吹羽は涙に歯止めが掛けられず――いや、掛けようとすることすら放棄して、早苗の胸に顔を埋めて泣いた。

 寝間着が涙でぐしゃぐしゃになってしまっても、何も言わずに抱き締める力だけ強くしてくれる早苗の優しさが、今はとても嬉しかった。

 早苗もきっと、霊夢や阿求と同じだ。

 軽々しく“辛かったね”とか、“苦しかったね”とか、無価値な言葉を吐いたりしない。

 分かってあげられないと知っているから、強く抱き締めるだけでいてくれる。

 

 ああ、ああ、なんて優しい人なんだろう。

 もし本当に姉がいたのなら、早苗のような人だと嬉しいな――なんて、吹羽は涙と想いに霞む思考でぼんやりと思う。

 そうして一頻り泣いて、次第に涙が納まってくると、早苗は抱き締める力を少しだけ弱めて、覗き込むように吹羽を見つめてきた。

 

「ねぇ、吹羽ちゃん。恋人同士がなんでキスをするのかって、考えたことありますか?」

「え……キス、ですか?」

「だって、口と口を触れ合わせるだけなんですよ? わざわざ恋人じゃなくたってできる事じゃないですか。なんでそれを、まるで特別な事みたいに考えてるのかって。思ったことありませんか?」

 

 なんでそんなことを? ――とは、尋ねる気にはなれなかった。何故かは分からない。それを考える前に、早苗は優しい口調のまま言葉を続けた。

 

「私はこう思ってるんです。きっと口と口のキスは、お互いを感じていたいからするんだって。特別な人を一番近くで、どこまでも深く、寂しくないように……って、そう感じていたいからするんじゃないかって、ね」

 

 そう、吹羽の滑らかな唇を白い指で一撫でして、早苗は何処か愛おしそうな瞳で語る。

 月明かりだけが差し込む中でそうして目を細めた彼女は、同性ですら鼓動の波打つ妖艶さを滲ませていた。

 

「人が最も安心する温度は三十六度程度……人肌くらいの温度だって言われてます。知ってますか? 身体の中で一番温度を感じやすいのって……唇、なんですよ」

 

 ――魅せられている。

 その仕草に。その美しさに。なによりその優しさに。

 月明かりの白い光と薄暗い部屋の中、揺らめくように光る早苗の瞳は幻想的なまでに美しく、まるで吸い込まれるような心地になる。

 それは普段なら“ああ、綺麗な瞳だ”と思うだけでありながら、彼女に霊夢や阿求とよく似た安らぎを覚えてしまった吹羽には余計妖艶に映った。

 まるで、誘っているようだ――なんて。

 

 早苗は純粋な人だ。だからこそ、語った言葉が真実だと直感的に分かるし、その気持ちがこんなにも心に響く。そしてそれ故に、早苗が何を考えている(・・・・・・・)のか(・・)すらも、吹羽は直感的に悟っていた。

 

 もしも、あなたが寂しいと言うのなら――と。

 

「――っ。だめ、です……っ」

 

 幾ら寂しくても、縋るようなことだけはしてはいけないと、吹羽は無理矢理視線を断ち切った。

 もしそのまま甘えてしまったら、きっと自分は弱くなる。心配をかけてはいけないと言い聞かせてきた心が、瞬く間に罅割れてしまう。

 

 ずっと前に決めたこと。

 この心からの感謝を表すために、どんな時にも強くあろう。

 支えてくれた霊夢と阿求にそうして伝える事だけが、今の吹羽にとってはとても大切な事なのだ。

 ――だから、早苗の優しさに溺れてはいけない。その温もりに甘えてはいけない。

 

 きっと楽な道だろう。早苗に縋って、悲愴心のままに泣き散らし、寂しくなればその温もりを求める。何を考えることもなく堕落し切ることは、きっとそれはそれは甘美な快楽であることだろう。

 

 ――でも、それでは霊夢や阿求や、帰ってきた家族みんなに顔向けが出来ない。

 

 確かに、みんながいなくなってしまったことは絶望するほどに悲しい。でもそこで立ち止まって、蹲って、泣き噦るだけで何もしない自分を見たら、霊夢はなんて言うだろう。阿求はなんて言うだろう。両親はどう思うだろう。兄はどんな目で見るだろう。

 きっとそれは“理想に縋った虚構”にはならない。みんなが大好きな吹羽にとっては耐えられないくらいに辛い現実であるはず。

 ――そんなのは、絶対に嫌だ。

 

「ぐすっ……早苗、さん。ありがとうございます。でも、ボクは弱くなる訳にはいかないんです。早苗さんはすごくあったかいけれど……ボクにはちょっと、甘過ぎ(・・・)ます」

「そう、ですか……」

 

 何処か気落ちしたと言うか、僅かな諦観を感じさせる言葉が落ちてくる。

 ――いや、気落ちしたのは本当の事なのだろう。あのまま早苗の誘惑に乗っていたら、吹羽はきっとどこまでも依存してしまっていた。吹羽を求めて止まない早苗が、そうならなかった事を残念に思うのは仕方ない事なのかも知れない。

 ……まぁ、これからはもう少し相手をしてあげてもいいかなとは思っている。早苗が本当に想ってくれているという事は、今宵の語らいでよく理解出来たのだから。

 

「――うん。吹羽ちゃんの気持ち、尊重しますよ。私はただ、吹羽ちゃんに笑っていて欲しいだけなんですから。寂しくて凍えるようなら、私がどうにかできればと……そう思っていたんですけど……」

「充分です」

 

 目の端に浮かんだままの涙を拭い、ふるふると緩く頭を振る。

 改め、見上げて、

 

「早苗さんの気持ち、沁みちゃうくらいに伝わりましたから。……ふふ、ちょっと見直したんですよ?」

「えぇ……? 吹羽ちゃん、私のことどう思ってたんですか?」

「それはヒミツですっ」

 

 不満げに唇を尖らせる早苗に、吹羽は屈託のない笑みで応える。

 そう、吹羽は早苗を見直したのだ。

 今まで、出会えばなんとなく気怠い気持ちが湧き上がってきていた彼女の姿に、今はこれっぽっちの悪感情だって生まれる事はなくて。

 こうして腕の中に抱かれていることが、心地良いとすら思えてしまって。

 

「だからその代わりですけど……き、今日くらいは、その……ボクをもふもふしても……いいですよ?」

「ッ! ほ、ホントですかっ!? やったぁ吹羽ちゃんのデレ期遂に到来ですぅ!」

「で、デレ期ってなんですかっ! もうっ」

 

 ――“嫌よ嫌よも好きのうち”という諺がある。

 本当はくすぐったくてあまりして欲しくはないのだが……まぁ、こうして早苗に遊ばれるのも、案外悪いことでもないのかも。

 吹羽はその暖かさに身を任せながら、ふとそんな事に思い至るのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――なるほどね、そういう事だったか」

 

 襖を挟んで、その向こう。

 壁に背を預けてポツリ呟くのは、瞑目ながら僅かに微笑む守矢の神、八坂 神奈子。

 その脳裏では、先程聞こえてきた(盗み聞いた)二人の会話が反芻されていた。

 

「両親も兄も、記憶すらあの歳で失くしているとは……」

 

 全く、数奇な人生を送る少女だ。

 ペンダントのことを聞き、彼女の家族にも興味を擽られた故にこうして襖の向こう側で会話を聞いていた訳だが、やはりあの時踏み込んで尋ねなかったのは正解だったという事だろう。

 家族を失った悲しみなんてものは、勿論理解など出来ないが、人に話すのを躊躇う程度には辛い出来事なのは分かる。

 

 早苗はその純粋さ故に、人の感情の機微というものに比較的聡い。ああして吹羽の心に踏み込んで行ったのは、それだけ彼女が吹羽のことを想っているという事の証明とも言える。……まぁ、それがおか(・・)しな方向(・・・・)へと向かわないことを、心から願ってはいるが。

 

「――盗み聞きとは、感心しないねぇ」

「……諏訪子」

 

 掛けられた言葉には、字面ほど叱責の意は感じ取れない。

 横目で見下ろした先にいつの間にかいた諏訪子は、やはりいつもの飄々とした微笑みを浮かべていた。

 

「お前が言うことかい? 蛇を忍ばせてた(・・・・・・・)ろうに。二人の話はお前も聞いていたんだろう?」

「んーん。わたしは(・・・・)聞いてないよ。教えてもらったけどねっ」

「……物は言いよう、だな」

 

 にっこり笑って宣う諏訪子に、神奈子は小さく嘆息した。

 相変わらず、ちゃっかりしたところのある神である。

 神奈子は、二人の会話中に神力を宿した蛇が部屋に忍び込んだ事に気が付いていた。

 それは神奈子のよく知る生物。諏訪子が操る、ミシャグジ様と呼ばれる祟り神の一部である。

 きっと諏訪子も、神奈子と同じことを気にしたのだろう。でなければ、わざわざ二人が会話しているところに意識の一部を移したミシャグジ様を送ったりしない。

 

「わたしは何も責めてないんだから、神奈子も怒っちゃヤだよ?」

「……まぁ、そうだな。お互い様だ」

「えへへ、さっすがぁ」

 

 二人して気になり、二人して盗み聞いていたのだから、今日のところはお互いに不問として。

 そう言葉の裏で確かめ合って、二人は並んで壁に背を預ける。

 口火を切ったのは、諏訪子の方だった。

 

「……それで、本当に知りたかったこと(・・・・・・・・・・・)は解決したの?」

「……さっすが、諏訪子だな」

 

 諏訪子の言葉を借りてそう返し、神奈子はその返答とばかりに溜め息を吐く。

 本当に、まさか気が付いていたなんて――と。

 

「……あの子の家族のことを聞けば、あの時感じた違和感(・・・)のヒントになると思ったんだが……上手くはいかないな」

 

 勿論、違和感を感じた程度で、吹羽と神奈子に何か接点があるとは決め付けられない。完全に“感覚”の話なのだ。

 だが、しかし――、

 

「確かに、あの子に何かを感じたんだがな……」

「それって、ペンダントの神力とはまた別に?」

「ああ。なんだか、他人のような気がしないんだ。どこかで会ってるわけもないだろうが……」

 

 神奈子は外の世界から来た。そして吹羽は幻想郷で生まれ育った。出会ったことなどある訳がないし、接点だって存在しないはず。

 しかし、初めて彼女を見たときに感じた感覚は、それだけで片付けてはいけないようなことのように感じて――。

 訝しげに目を細める神奈子に、諏訪子はしかし、飄々とおちょくるように言うのだった。

 

「他人のような気がしないって……何から何まで違うじゃない。あんたは吹羽ほど可愛らしくもないしねっ。嫉妬は醜いよ?」

 

 想像もしていなかった話題の転換に、神奈子は反射的に、

 

「なっ……そんなこと言ってないだろう!? 私はただ直感的にそう思っただけで――」

「まぁわたし達くらいの歳になると若い子の愛らしさを羨むのも分かるけどね? だからって無理矢理接点作ろうとしちゃダメでしょー」

 

 やれやれ、と妙に苛つく仕草で揶揄ってくる諏訪子。

 こちらは至極真面目な話をしていたというのに、こういう所が昔から苦手なのだと神奈子は心内で愚痴を放つ。

 

 子供みたいな(なり)をして突然毒を吐く。無邪気さに勢いをつけて話の腰を折る。もう慣れたものだと思っていたが、やはり神奈子の根が真面目な性格はそれを受け付けないらしい。

 本当は怒鳴り散らして訂正したい所なのだが、襖の向こうで二人が安らかに寝ているこの状況、それは絶対にできない。

 その抑圧された怒りが、余計に神奈子の中で熱を滾らせた。

 

 と、そんな思考に冷水を被せるように、

 

「――まっ、何事も考え詰めるなってことだよ、神奈子」

「……はぁ?」

「何でもかんでも気にしてたらその内焼き切れちゃうでしょ。違和感くらいでわざわざ盗み聞きなんて、長い目で見ればあんまりいい傾向じゃあないよ? んじゃ、おやすみー」

「………………」

 

 そう言い残して去っていく諏訪子を前に、神奈子は何も言えずに立ち尽くす。

 

 ――そう、こういう所だ、と思った。

 

 根が真面目で、それ故に無理してあれこれと考えを煮詰めやすい神奈子に対して、飄々とまるで遊んでいるかのように振る舞う諏訪子。

 一見相性の悪そうな二人が、しかしこうして仲良く暮らしていられるのは、お互いの考え方を以ってお互いを支えているからだ。

 真面目過ぎる神奈子に、諏訪子は手を抜く事の大切さを語る。

 飄々とする諏訪子に、神奈子は思慮を深める大切さを語る。

 正反対であるが故に、不足を補い合うのだ。

 神奈子と諏訪子は、例えるならば光と影。相反しながら、しかしお互いがなければ存在し得ない事象。

 

 ふと、神奈子は襖の向こうにいる二人を見透かした。

 

 静かな寝息を立てる二人は、きっと抱き合って寝ているのだろう。

 軋む心を必死で保つ吹羽は恐らく心の本当の拠り所を求めている。そして早苗は、今回のことでその拠り所となろうとしたのだろう。早苗もまた、吹羽への想いに嘘偽りはないはずだ。

 

 ――吹羽と早苗は、神奈子と諏訪子のような“相反する拠り所”にはなれなかったようだけど。

 それでも、いつかどちらもそれを見つけられる日がくれば、それは願ってもないことだと、神奈子はぽつり、そう思うのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――あの日から、ずっと引っかかっていることだった。

 何せそれは、自分が教え叩き込まれた掟からは考えられない言葉だったから。あり得ない、と強く強く思ったことだったから。

 何より、そうなって欲しくはないと、半ば願うように考えていたのだ。

 

 天狗の掟。その一項より抜粋する。

 『妖怪の山への侵入者が発生した場合、哨戒天狗は直ちに急行し当侵入者へと辞去を促すべし。拒まれた場合は即時戦闘へと移行し、侵入者の排除を優先すべし。だだしその侵入者が――』

 

 視線を滑らせながら、ぽつり、

 

「『“風成”と名乗り、確認が取れたならば、即刻当侵入者を客人として迎えいれること』……やはり、何度見たって同じですよね……」

 

 ぱたん、と開いていた本を閉じ、椛は小さく溜め息を吐く。任務が終わってからずっとこうして本を読み漁っているのだが、“あの日言われた言葉”の意味は今だに分からないままだ。

 戦闘を中止してまで客人として受け入れろと掟に記してあるのに、何故天狗が吹羽と戦うことを想定しなければならないのか。

 それに、あの言葉――、

 

 

 

『これはお前が入っていい話じゃねぇ。……いや、俺もか』

 

 

 

「……あなたもどうせ入ってはいけない話なら、私に教えるくらいなんてことないでしょうに……」

 

 “天狗が風成と争っても手を出すな”、“入っていい話ではない”。

 一体何を危惧しているのかすら、椛には分からない。まず天狗が吹羽と争うに足る理由というものが見つからないのだから、分からないのも当然である。

 だからそれを何とかして見つけるために、こうして書庫まで足を運んだのだが……その成果はもうお察しだ。

 

 探しても探しても見えてこない話の核心。

 いい加減にイライラしてきた椛は、無意識のうちに愚痴を零していた。

 

 そも椛が入ってはいけないならば、逆に誰なら入(・・・・)っていい(・・・・)のやら――。

 

「……そういえば、“あの時”がどうのとも言っていましたね」

 

 あの時。

 それがいつのことを指すのかは分からない。だがそれは、椛が再び本を手に取り始めるには十分な理由だった。

 

 今まで探し読み漁っていたのは掟に関する本。それで見つからなかったのならば、視点を変えてみるのも良いことだろう。

 あの時――いつの事かは分からずともそれは確実に過去であるはず。そして掟に反してまで考慮せねばならないような事態の核心ともなれば、記録されている可能性も高い。

 椛はすぐさま、その千里眼を以って目的の本を探し出す。程無くして手に取った数冊の本は――歴史に関するもの。

 

「(……違う……違う、違う……どこかに……)」

 

 パラパラと開き流しながら、それでも一字一句見逃さずに語句を探す。膨大な量である文字の森林も、彼女の千里眼の前では大した問題ではなかった。

 

 だが、それでも探索は困難を極める。

 歴史に関する本だけでも数十冊に及ぶのだ。天狗一族の歴史とは千年を優に超えるモノである為、これでも何百回と添削を繰り返してやっと落ち着いた冊数である。

 その中から、ある特定の単語を探し出すのは並の労力では追い付かない。

 椛がこうして探し続けられるのも、ある意味では千里眼という能力に助けられた故とも言えた。

 そうして暫く、彼女の周囲に読み終わった歴史書の山が傷から始めた頃。

 

「……ふぅ、この本もダメですか。もう残りの冊数も少なく――ん?」

 

 ふと、閉じようとした本の一説に目が止まる。

 それは、天狗一族の歴史の中でも指折りの大事件を綴った、ある項の文章だった。

 

 ――百鬼侵撃の乱(・・・・・・)

 

 大昔、突如として侵攻してきた鬼達に、天狗一族が大敗を喫し傘下に降るその決定打となった戦。

 

 数百年前、突如として現れた鬼達は妖怪の山に堂々と正面から侵入。天狗は総力を以って抵抗したが、最終的には当時の天魔を含めた多大な犠牲を出しながらも敢えなく敗北。

 天魔を筆頭とした天狗社会から、鬼――ひいては“鬼子母神“と“鬼の四天王“を頂点に据えた、新たな妖怪の山社会がこの時形成されたのだ。

 

「その時に新しく着いた天魔が、今の鳳摩様でしたね。いや、そんな事より……」

 

 天狗達の脳裏にその名を刻む、歴史的大事件。

 その存在感の影に隠れて、“それ”はひっそりと綴られていた。

 

 

 

「当時の天狗が、人間と結託していた(・・・・・・・・・)……っ!?」

 

 

 

 そこに記されていたのは、天狗の歴史に深く深く、しかし静かに食い込んだ、人間の――“風成”の小さな痕跡だった。

 

 

 




 今話のことわざ
(いや)(いや)よも()きのうち」
 口先では嫌がっていても、実は好意がないわけではないということ。主には女性が男性から誘いをかけられた時に用いられる。


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第十七話 真誠に非ず

 

 

 

 ――消えることのない感情というものが存在する。

 

 それは例えば、相手への印象が一切変わらなかったが故に。その情念があまりにも強く根深かったが故に。或いは、感情の強さを保ったまま心の奥深くに封じ込めたが故に。

 

 “人は忘れる生き物だ”とはよく聞く表現であるが、それは妖怪にだって当てはまる。意識と記憶がある限りその生物は須らく“忘れる生き物“なのだ。例外と言えば、そういう(・・・・)能力を持った稗田 阿求ら御阿礼の子くらい。

 記憶と感情は生まれながらに結び付いている。記憶は薄れ忘れていくのだから、感情もまた、基本的には(・・・・・)忘れ得るのだ。

 

 しかし、そんな中でも“忘れ得ない例外”は存在する。

 例えば人生の核となった記憶。人生を左右するような選択を迫られた時、その決定に大きく関わった人物のことを、人間は忘れようとはしない。

 例えば強烈な情念に溺れてしまった記憶。情念に溺れ、忘れたくても忘れられなくなってしまったその強烈な記憶は、俗に“トラウマ”と呼ばれ生涯忌まれるものだ。

 

 或いは、こんな特殊な例も存在する。

 情念を強く保ったまま、その存在を封じ込めて忘れようとする場合。

 

 これもある意味ではトラウマと呼ばれるものなのだろう。ただ、その強さに耐え切れず逃避した結果とも言える。

 己を保つために。

 狂ってしまわないために。

 理由は様々だろうが、どれも無意識に行なっている傾向が強い。

 

 ――つまりは、爆発寸前で堰き止められているだけなのだ。

 沸騰した鍋に無理矢理蓋をしているに過ぎない。少しの衝撃でそれは爆発し、或いはドロドロと溢れ出し、当人ではどうしようもない情念の波に飲み込まれる。

 

 そう、ほんの少しのきっかけ。

 

 例えば、“仇が生きていることを知った”、とか。

 

 暴風のようでも、溶岩のようでもあるその溢れ出した感情。どうしようもないほど強烈な感情の波に揉まれ晒され、その指し示す方向にのみ突き進むのが、こういった記憶を背負う者の典型例。

 その視線の先にいる相手に、仮に与り知らぬことなのだとしても、そんな事は躊躇する理由にはならない。

 

 そう、その行為の名は――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――こんな感じでどうでしょうか?」

「ふむ……良い出来だな。これで良しとしよう」

「毎度ありっ、です!」

 

 吹羽が満面の笑みでそう言うと、刀を受け取った男は懐から貨幣を取り出し、彼女の小さな掌に乗せた。

 ここまでが一仕事――と吹羽は受け取った代金を大切に勘定箱へとしまう。

 普段と何も変わらない、仕事の最中の正午である。

 

 これでまたお金に困ることも暫くはなくなるだろう。鍛治というものは肉体労働である故、その一々で得るお金は他の職業よりも明らかに高い。それが風紋まで付いて、しかもしかも職人の腕が達人級ともなれば、今現在設定している代金はむしろ良心的なレベルだった。

 まぁ、多少はお金を貯めないと手を出せない高級品であることに違いはないのだが。

 

 それでも吹羽に仕事の依頼が来ない日は少ない。

 刃物の修理から作刀まで、凡そ“利器”に当てはまるものなら何でも請け負えるのがこの風成利器店の――ひいては吹羽の強みでもある。知名度が低いためやたらめったらと仕事が舞い込む事はないし、鍛治自体に長い時間がかかる。程よい忙しさ、というやつだ。

 なかったらなかったで風紋開発とかしていれば良いし。

 

 今日もまた、一振り刀の修理を終えたところである。

 仕事の終わりは即ち、また一振り分吹羽の手によって“風の良さ”というものを伝えられた、という事だ。この仕事に対する吹羽の誇りとはここにある。

 見れば誰もが恋してしまいそうなその満面の笑みは、それ故ものでもあった。

 

 しかし、まぁ、それはこの人(・・・)には今更なことでもあるのだが――と、笑顔の裏でちょっぴり残念に思う吹羽である。

 何せ、こう見えてもこの男性は烏天狗(・・・)なのだから。

 

「評判通りの腕だな。長年の愛刀がまるで打ち直した新品のようだ」

「そう言ってもらえると嬉しいです。ボクも愛を込めて打ってますからねっ! 愛を!」

「……その言葉が強ち嘘でもなさそうなのが、その実力の裏付けなのかもな」

 

 ふ、と少し微笑み、烏天狗は修理の完了した刀を改めて眺め始めた。

 実はこの天狗、先日大勢の天狗が里に降りてきた時先頭に立っていた一匹である。

 訪れた当初はさすがの吹羽も驚かざるを得なかったが、単なる依頼ともなれば話は別だ。今回はちゃんと翼も隠してきていたし、問題点は何もないのだから。

 こうして寡黙な雰囲気を保ちつつ喜びを露わにしてくれているのを見ると、それが例え誰であっても、職人の端くれと自負する吹羽は嬉しくなるのだ。

 

 ……まぁ、その修理した刀で誰かを傷つけて欲しくはないけれど。

 結局は文化の異なる天狗社会。口を出す事は、やはり叶わない。

 

 ――と、そう言えば。

 

「あの、椛さんは元気ですか?」

「ん? ああ、あいつか。そう言えば仲が良さそうだったな、君達は」

「はい! 友達なんですよ! でも最近は見かけないというか……天狗のお仕事が忙しいのは分かってるんですけど、あんまり会えてないなぁって……」

「ふむ……」

 

 椛は吹羽にとっても少し特別な存在である。何せ初めての妖怪の友達だ、なんなら毎日会っても全然構わないくらいだった。

 だが最近は全くと言っていいほど顔を合わせていない。お人好しな吹羽が彼女の健勝を願わないはずがないのだ。

 

 烏天狗は顎に手を当てて視線を宙に泳がせると、

 

「私もそれほど会ってはいないが……昨日見かけた時は少々元気がないように見えたな」

「えぇっ!? ま、まさか病気とかですかっ!?」

 

 なんと、それはいけない。悪化してしまう前に、早く行って看病してあげなければ。

 今日はもう大半の仕事を終えているし、早めに店終いしてしまっても問題はない。

 先ずは元気を付けるためにご飯と果物、薬などもあれば用意して持って行こう。効くかどうかは後で考えればいい。

 吹羽は大慌てで使っていた道具を棚へと放ると、髪を結んでいたリボンを解いて住居へと駆け出す

 

「おい、何を慌ててる」

「ぐえっ!?」

 

 ――事は出来ずに、服の襟を掴まれて引き戻された。

 むう、ここに留まっている場合ではないというのに、先にこの烏天狗さんをカタヅケないといけないらしい。

 目端に薄っすらと涙を浮かべて、吹羽は当然の抗議の声を上げる。

 友達の危機を前に引き止めるとは何事かッ!

 

「けほっ、えほっ……〜〜っ、何するんですか! 首が抜けちゃうかと思いましたよっ!」

「突然駆け出すのが悪いだろう。そもそも客を放っぽり置いて店主が店を空ける気か? 私はまだここにいるぞ」

「むぅ……」

 

 それを言われると弱いのだが。

 

「でも早く行かないと椛さんが!」

「だから、“元気がないようだった”と言ったろう。“病気だ”などとは一言も言っていない」

「え……あっ」

 

 ……言われてみれば、確かに。

 病気になると元気はなくなるが、元気がないこと自体は病気だという確証にはならない。吹羽の焦燥はまごう事なき早計というものである。

 

「(あわわ、やっちゃった……!)」

 

 は、恥ずかしい……っ!

 自分の慌てぶりを思い返して、吹羽は口をぱくぱくとさせて頬を真っ赤に染めた。

 普段から“自分は大人だ大人だ”と言っているだけに、こういう所を人に見られると恥ずかし過ぎて死にたくなる。

 しかもこの烏天狗はその“普段”すら知る由も無い。

 そんな人に見られたら、見られたら――今のが本来のボクだと思われちゃうじゃないかあっ!

 

「あ、あのっ! 今のはそのっ、椛さんが心配だっただけでですね! けっしてボクがあの、そそっかしいわけじゃなくてぇっ!」

「分かった分かった、そういう事にしておくさ」

「ソレ絶対分かってないですよねっ!?」

 

 何処か投げやりに呟く烏天狗の笑みはやはり微妙に歪んでいて。

 吹羽はその表情に若干納得が出来ないと頬を膨らませるが、これ以上説得(・・)するのもそれはそれで“必死感”が出て逆効果な気がするので、泣く泣く黙る事にした。

 これが世に言う、苦渋の決断というやつなのか。この世は理不尽でいっぱいだ。

 

「っ、もういいですよぅ! ボクがどれだけ大人なのかは霊夢さんとか阿求さんがよく知ってますからね!」

「ああ、博麗の巫女が認めるならそうなのだろうな」

「そうですよ! ボクはもう子供なんかじゃないんですからっ」

 

 そうだそうだ、あの霊夢が認めるのだから子供なんかではないのだ。年齢と見た目が子供なのは認めるが、内面ではそこらの大人と遜色ないはず。

 仕事は出来るし? 料理も出来るし? 極め付けに一人暮らしである。これを大人と呼ばずに何と呼ぶのか吹羽には全然分からない。

 つまり吹羽はまごう事なき大人なのである。異論は認めないし断固却下だ。

 現実逃避? そんなこと吹羽はしてない。ないったらない。

 

 

 

 ――と、そうして背伸び(・・・)する彼女を向けられるのは、当然烏天狗の微笑ましそうな瞳なのだった。

 

 

 

「まぁ君が大人なのは置いておくとしてだ」

「置いておかないでくださいよぅ!」

 

 吹羽の言葉を有意義に無視しながら、烏天狗は眺めていた刀を鞘に納めた。

 キン――……という甲高い音が、どこか興奮していた吹羽の頭をちょうど良い具合に冷却していく。“この話は終わりだ”と言外に示されたようである。

 烏天狗は改めて吹羽を見下ろすと、

 

「それほど会いたいのならば、手助けしてやらないこともないぞ」

「へ?」

「君を椛の下まで案内しよう、と言っているんだ」

「……はい?」

 

 唐突に過ぎたその言葉に、吹羽はすぐには反応できなかった。

 この天狗が決して悪人でない事は成り行きで理解しているが、そんな事をする理由が思い当たらない。

 悪人でない事とお人好しである事は決してイコールではないのだ。

 

 要領の得ない吹羽の心情を察したのか、烏天狗は何処か呆れたように再度言葉を紡ぐ。

 

「この間迷惑をかけた詫び、とでも思ってくれればいい。私は公平主義でね。受けた恩は必ず返すし、与えた非礼は同等の詫びで以って謝罪するのさ」

「あっ、あの時の……。迷惑だなんてそんな……」

「いいさ。誰だかは未だ分からんが、踊らされた我らが悪いのだからな。謙る必要も遠慮する必要もない」

「………………」

 

 ――要は、この間の詫びに望みを叶えよう、とこの天狗は言うのだ。

 別に渋る理由はなかった。椛に会いたいのは本当だし、先述の通り今店を閉めてしまっても問題はないのだから。

 だが同時に、それを受け入れる――つまりは“この間はお前達の所為で迷惑を被った”と認めるつもりもないわけで。

 だって、吹羽としてはそこまで気にしてはいないし、むしろ自分の風紋を認めて押しかけてきてくれた事には――もちろん口には出せないが――歓喜さえ感じていたのだ。

 いくら天狗が非を認めていたとしても、吹羽がそれを受け入れる理由にはならない。

 自分にメリットがあって、それを相手が受け入れるなら後はどうでもいいじゃないか――とはならないのが、吹羽がお人好しと評される所以の一つである。

 

 ただ、一見長所に見えるそれは、見方を変えれば短所でもあり――。

 

「ふむ、君はきっと幸せになるのが下手なのだろうな」

「……え?」

「別に謙虚なのを否定する気はないが、もっと現実を見た方がいい。君は今回、私たち天狗によって迷惑を被った。それを天狗が詫びようと提案している。――謙虚なことを盾に突き放すのは、我々の気持ちを踏み躙るのと同じことだぞ?」

「っ……お、大袈裟ですよ……」

「ああ、大袈裟に言ったのだからな。しかしそうでなければ、君のような手合いは理解し得ないだろう?」

「………………」

 

 ――そう言われると、益々断り辛い。

 少しだけ彼を恨めしく思いながら、しかし吹羽は仕方なく小さく頷いた。

 謙虚である事も一長一短だ、と。時と状況を考えて使うべき、“自ら下手に出ることのできる力”だ、と。

 どんな褒め言葉も、相手の気持ちを鑑みなければ賞賛にも皮肉にもなってしまう。受け取るべきモノは変に断らず受け取るべきなのだ。それが遠回しに、相手の為にもなる。

 

 そうして落とし所を見つけると、吹羽はおずおずと顔を上げて、

 

「じ、じゃあ椛さんの所まで……お願いします」

「心得た。準備してくるといい」

「はいっ」

 

 さて、何を持って行こう? 何を話そう? 元気がないというならば、一体何をすれば元気に笑ってくれるだろうか。

 吹羽はいつものように護身用の刀と“弾”を持つと、何をしようかと早速思考を切り替えるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 妖怪の山へと足を踏み入れると、やはり出迎えてくれたのは鮮烈な赤色をした紅葉の森だった。

 季節は秋、山を覆う木々の殆どが色付くこの季節には、やはり妖怪の山は紅葉狩りの名所なのだと毎年再認識する。

 

 隣に烏天狗が居るからか、哨戒を務める白狼天狗は誰一人として襲ってはこなかった。

 当然か。今や吹羽は天狗にとって客人そのものである。掟にすら記載されている一族の客人に襲いかかるような不埒者は天狗には存在しない――というより、縦社会であるため存在できない。

 結果として、今回は霊夢と来た時よりも余程安心して登山ができるのだった。

 

「いやぁ、やっぱり紅葉がキレイですねぇ……」

「たしかにそうだが、恐らくすぐに見飽きると思うぞ」

「そんなことないですよっ! 実際、毎年毎年遠目からこの紅葉を眺めてて飽きたことなんてないですもん!」

「これからは間近でこれを見れるのだぞ? 数回繰り返したら飽きがくるさ。実際私は飽きている」

「うーん、好きなものも食べ続けたら美味しくなくなるという事ですか……一理あるかもしれません……」

 

 目の前に視界を覆うほどの鯛焼きがある光景を夢想する。もちろん初めは大喜びで齧り付くかもしれないが、さすがの吹羽ももしかしたら途中で甘さに飽きて美味しくなくなるかもしれない。

 甘さとサクサク感が売りの鯛焼きなのに、そこに飽きてしまったら美味しくなくなるのは当たり前である。

 吹羽はそうやって天狗の言い分に一つ納得すると、“まぁそれでも鯛焼きなら三桁の数ぺろりといけそうかな”なんて思い直す。

 頭の中も意外とお花畑な吹羽であった。

 

「(いつかみんなでこの紅葉を見に来れたら、きっと楽しいだろうなぁ……)」

 

 霊夢と、阿求と、早苗と、魔理沙と。

 椛や慧音、文とか、この烏天狗とかも、知り合いをみんな呼んで、落ち葉の絨毯に座って。

 お酒はまだ飲めない吹羽だが、ちょっと高めのお茶とか料理とかを持ち寄って、宴会さながらに紅葉狩りをしたならば、きっと一生忘れられない思い出になるだろう。

 ――それって、どんなに幸せなことだろうか。

 

 大好きな友人に囲まれて、綺麗な景色をみんなで眺めて、頻りに笑い合うのは、単純にして純粋な、幸せの形なのではないかと吹羽は思う。

 いつか実現してみたい夢の一つである。

 

 ――と、そんな事を考えていた時だった。

 

「っ、風が強くなってきましたね」

「……いや、この風は……」

 

 唐突に吹きつけてきた風が、いつかのように赤い落ち葉を火の粉のように舞い上げる。

 次第に強くなっていくその風は、終いには周囲の紅葉すら千切り取って巻き込み、二人の周囲を旋回するように吹き荒ぶ。

 

 普通の風ではない。

 地表の温度差などによって流れ揺れ動く空気である“風”は、自然現象でこんな風に動いたりはしないのだ。つむじ風にも似ているが、あれは春先に多い旋風の一つ。気温も低くなってくるこの季節には考えにくい。

 それこそ、風を操ったり風紋を用いたりしなければ――。

 

「ふむ……文か」

『おお、御名答です!』

 

 呟きに応えるようにして、二人を囲んでいた旋風は眼前へと収束していく。巻き込んだ紅葉が寄り集まり、暗幕のようになっていた。

 そして次の瞬間、ブワッと旋風が放散すると、その中からは――烏天狗の少女、射命丸 文が姿を現した。

 

「こんにちは、お二人共。ちょっと予想外な組み合わせですね?」

「こんにちは文さんっ! ちょっと前に知り合いまして!」

 

 いつもの柔和な笑みで尋ねる文に、吹羽はちょっとだけ嬉しくなって答える。

 なぜ嬉しいかって、そりゃ予想外に友達と出会ったりすれば嬉しくなるものだろう?

 “棚から牡丹餅”という諺がある。

 ……いや、ちょっと使い方が違う気もするが、僥倖という意味では的外れでもあるまい。

 

「えっとですね! 今日は椛さんに会いに来たんですよっ! 元気がないと聞いたので、何かできればと思って!」

「ふぅん……それで連れて来てもらったわけですね」

「言い出したのは私だがな。なに、これでも罪滅ぼし(・・・・)のつもりさ」

「……ああ、此間の」

 

 烏天狗の言葉に、文は苦笑した。

 彼女も同じ烏天狗、此間の出来事(天狗の押し掛け事件)の事は多少なりとも聞いていたのだろう。

 それをきっかけにして距離を置かれても吹羽としては困ってしまうが、まぁ文ならばそんなことはしないだろう。別に無神経だというわけではなく、“遠慮の程度”くらい彼女ならば弁えているだろう、というのだ。

 それくらいの信用は吹羽から得ている文である。

 

「なるほどなるほど、それでお二人で……」

「……文さん?」

 

 隅を見つめるように考え込み始めた文。

 数瞬の間をおいて顔を上げると、文は態とらしくポンッと掌と握り拳を打ち付けた。

 吹羽を覗き込むようにしゃがんで、

 

「じゃあ、ここからは私が案内しましょうか」

「……ふぇ?」

「ここで会ったのも、そも私がお二人を見かけた偶然も、きっと何かの縁でしょう。このまま“じゃあ頑張って下さいね”で通り過ぎるのは些か浪漫が足りないなぁと思いまして」

 

 ――一理ある。

 折角出会ったのだから、そのまま軽く話しただけでサヨナラしてしまうのはちょっぴり寂しい。

 それに文だって椛と同じで、あまり頻繁に会える人物ではない――実は花札の日からあまり訪ねてこなくなった――のだ。折角ならもう少し話していたいのは吹羽の紛れも無い本音である。

 ただ心配なのは――、

 

 顔色を伺うように隣の烏天狗を見上げると、彼は普段の仏頂面のまま黙り込んでいた。

 

「というわけで、ここからは私が案内しますので、それで良いですよね? 吹羽さんも男性の方と一緒に歩くよりは、私と歩いた方が気が楽でしょうし」

「むう、何か強引な心地がするな。任せて大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよぉ〜。あ、もしかしてアレですか? 心配するフリしてもう少し吹羽さんと一緒にいたいだけとか? ヤダなぁ〜もういくら吹羽さんが可愛いからってそんな烏天狗仲間にロリコンがいたなんて私としては胸の奥がじくじく痛くなる気分ですよぉ〜」

「ぐ、う……“ろりこん”というのはよく分からないが、何故か非常に不快な響きだな」

「……??」

 

 吹羽にもその言葉の意味は分からなかったが、それを語る文の表情が吹羽をからかう時の霊夢と良く似ていた為、「ああきっといい意味ではないんだろうな」と敢えて口を出さずにいた。無いとは思うが、文の矛先が吹羽に向いてしまっても困るのである。

 

「……まぁいいだろう。正論ではあるしな」

「はい♪」

 

 若干釈然としなそうな表情ではあったが、烏天狗は文の提案に賛同した。

 吹羽としてはそんなこと気にしないのだが、こういう事は当人達の気持ちの問題である。自分と一緒にいたがることが“ろりこん”とやらに直結し、それを彼が嫌がるというのなら、それに吹羽が口を出すのは筋違いというものである。

 ――はて、そうなると早苗はどうなるのだろうか。彼女ほど自分と一緒にいたがる人は今まで見たことがないのだが。彼女もその“ろりこん”というやつなのだろうか?

 

 ……なんだか考えてはいけないことのような気がしたので、吹羽はそこで思考を打ち切った。

 “見ぬは極楽知らぬは仏”という諺がある。

 世の中には知らなくていいこともあるのである。

 

「では吹羽、文の後に付いていくといい。私はこれで失礼する」

「あ、はい! ここまでありがとうございましたっ!」

「気にするな、私の自己満足さ。むしろ付き合わせて悪かった」

「い、いえ、そんなこと……」

 

 吹羽を見てふっと笑い、烏天狗は文を一瞥してから軽やかに飛び上がった。

 黒い翼の羽搏きと共に巻き上がった強風に一瞬目を瞑ると――開いた時には彼の姿は彼方へと消えていた。

 

「……さて、それでは行きましょうか、吹羽さん♪」

「あ、はいっ! よろしくお願いします文さんっ!」

「お任せあれっ! きっと無事に送り届けてみせますよ!」

 

 眩いほどの笑顔で言う文に、吹羽は少しばかりの安心を覚える。

 自分で気が付いていなかっただけなのか、男性と二人きりで歩くのには無意識に緊張していたのかもしれない。

 前を歩く文の後ろ姿にちょっぴり頼り甲斐を感じて、吹羽はとてとてとその後を追う。

 

 ――文の、僅かに歪んだ口の端には、気がつかないまま。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――時は、数日遡る。

 

 既に日も落ち、鈴虫たちが涼しげな合唱を奏でる妖怪の山の中。

 天魔の執務室ではいつものように鳳摩が溜め息を吐いていた。

 ただ、その内に籠る思いは。

 疲弊に喘ぐ天魔としてのものとは毛色を異にして、鳳摩は僅かに険しい瞳で薄っすらと雲のかかる月を見上げる。

 

 果たして――話しても(・・・・)良かったのだろうか、と。

 

「いや……もう遅いのう。あやつは既に関わっている(・・・・・・)。何も知らずに結末を迎えるのは、むしろ失礼というものか」

 

 先程この部屋を去っていった彼女を思い、鳳摩は諦観から目を逸らすように瞑目する。

 もはや自分がどうこうと口を出せることではなく、関わった者を引き止める資格も必要もない――それを鳳摩はよく分かっているのだ。

 

 ただ――きっと彼女は黙ってはいないだろう。

 例え自分に首を突っ込む資格がないと知っていても、こんな事(・・・・)を黙って見ていられるほどあの子は達観していない。

 それだけを少しだけ、鳳摩は心配していた。だからこそ、話しても良かったのかどうか今更に悩んでいる。

 

「おやおや、良い年した(じじい)が随分気を揉んでいるようだね」

「……おお、これはこれは」

 

 するりと自然に入り込んできたその声は、鳳摩にして久方ぶりに聞くものであった。

 声の方へと視線を向けると――彼女はやはり、執務机に座って足をぶらつかせていた。

 

「お久しぶりでございますな、萃香様。お戻りになったのは噂で聞き及んでいましたが、お元気そうで何より」

「よせやい、わたし達はこの山を捨てたんだ。今更上司面なんて恥ずかしくてできんよ」

「……では、これからは萃香殿とお呼びしますかな」

「おうおう、相変わらず硬ったい野郎だねぇお前は。そんなにわたしが怖いかい?」

「ご承知のことかと存じますが」

「……はぁ。もういいよ」

 

 不満気に唇を尖らせる萃香は、持ち歩いている瓢箪――伊吹瓢の酒を呷る。

 相変わらず酒ばかり飲んでるようだな――と、鬼らしいとも思えるその“癖”を想って鳳摩は僅かに口の端を歪める。

 「――ぷはっ」と気持ちのいい飲みっぷりを披露すると、萃香は一息吐いて、

 

「それで、どんな感じ(・・・・・)になってるのか聞かせてもらおうかね」

「……予想通り、のようでございます。憂慮していたことが、予定調和の如く」

「じゃ、近い内に……ってことか」

 

 それだけ交わして、黙り込む。

 大好物である酒も呷らず、萃香はただジッと遠い目で何かを見据えていた。

 

 鳳摩には、それが過去を懐古しているように見えた。

 遥か昔の記憶。きっと彼女が、人間というものに本当の価値を見出したある遠い日。

 それは鳳摩にとっても印象深い記憶であり、今起ころうとしている事の引き金となった出来事。

 

「全く、皮肉なもんだよねぇ。大嫌いな奴を思ってやる事が、一番そいつらしい(・・・・・・)行為だってんだから。……やっぱり、止められないのかい?」

「……止められはしますまい。今更歯止めを掛けようとしたところで、歯を砕き折ってでも一人回るだけでしょう。彼女がやろうとしていることは、まさにそう言うことでございます」

「“止められないに決まってるから止めない”ってか? 随分と軟弱者になったものだねぇ天狗ってのは。昔はもっと……強かったろうに」

 

 ――その言葉に、字面程の批判が映っているとは思えぬ口調で。

 きっと萃香も、止められると思って問うた訳ではあるまい。むしろ藁にも縋る思いで、悔しさをも呑み込んで絞り出すように発した、願いのようなもの。

 そして萃香が強かった故に(・・・・・・)起こってしまった一人の少女の悲劇を、己で受け止められないが故の果てしない自虐の言葉。

 それは人間の強さに恋した鬼としては、ある意味当然の想いとも言えた。

 

「――それで、なんでさっきの子にはこの事を話したんだい? 知らなかったんなら、別に教える必要なんてなかったはずだけど」

「……あれは己の力で辿り着いただけにございます。どうやら、書庫にきっかけを見出したようで」

「あん? 資料なんてあったのかい? 全部隠滅したって聞いたけどな」

「言い回しの違いで見落としていたようです。たった一文ではあるのですが……まぁあの千里眼ですから、言葉の羅列など物の数ではないのでしょう」

「ふぅん……」

 

 気の抜けた返事を返して、萃香はまた一口酒を呷ぐ。

 

「それに……関わりがない訳でもありません。我が天狗一族の中で、最もかの者と親しいのは彼女……きっとそのままにはしておきますまい」

「それは心配か? それとも希望なのかい?」

「…………さぁ、どちらでございましょうな」

 

 鳳摩自身、それが正しいことなのかどうかは分からない。だからこそ、先程ここを去ったあの娘がその邪魔をしようと傍観しようと、どちらを肯定することもできない。

 

 ――いや、恐らくは間違っているのだろう。世間一般の世論を持ち出すならば、確実にそれは間違っていて、無意味で、その先に何も生み出さず破滅するだけの道なのだろう。

 だが、当人にとってはきっとそうではない。

 例え間違っていようと、例え無意味だろうと、例え何も生み出さずとも例え破滅するだけとしても例え誰にどんな非難を浴びせられようと、成し遂げなければ心がどうにかってしまうと感じたから、その本能のままに行動する。

 ――それを他人が、本当に否定などしていい訳がないだろう。

 況してや鳳摩は、若かりし頃のあいつ(・・・)の――。

 

「……兎も角、我々にできることはありませぬ。少なくとも、我ら当時のことを知る数少ない天狗達は手を出さぬつもりです。ただ一つの不確定要素は――」

「さっきの子、だね。いいさ、そこら辺はわたしが調節するよ」

「……何かなさるつもりで?」

 

 萃香の言葉に僅かな干渉の意を捉えた鳳摩は、訝しげな瞳で尋ねる。

 別に彼女が何をしようと、鳳摩には止める義務はないし止められもしないが、出来れば余計な手出しをして欲しくないのが本音であった。

 萃香は横目で鳳摩を見ると、

 

「何、元はわたしが引き起こしたことだ、わたしが納得のいくようにケジメをつけるだけさ」

「ケジメ、ですか」

「ああ」

 

 そう、心に刺さった杭を撫でたような表情で萃香は言う。

 長い間想っていた楔を、もうすぐで抜き取ることが出来る――鳳摩は萃香の表情に、そんな言葉を聞き取った。

 そうして楔を抜いたあとにその傷が残るのか癒えるのかは、手を出さぬと決めた鳳摩には分からない。

 

 僅かに悲痛なその面持ちをふっと消すと、萃香は再度鳳摩を見遣って、

 

「……それにしても、よくお前は平然としていられるねぇ」

「……何がでございましょう?」

「そうやって澄まし顔しているが、分かっているだろう? もし成し遂げられてしまえば、それは風成の娘の死を意味する(・・・・・・・・・・・)。天魔として振る舞うのは確かに必要なことだが、本音も言ってみたらどうだい? これでもわたしは昔の上司ってやつだからね。聞いてやれることもあると思うよ」

「………………」

 

 分かっていることだ。

 萃香の言っていることは、分かっているからこそ目を背けていた事実であった。

 

 天魔は天狗族の頂点に君臨する長。全ての天狗を纏め、助け、統一し、その道を切り開くのが役目である。それには当然、思想を統一することも含まれる。

 大多数が風成へ抱く感情の中で、たった一人彼女(・・)が抱くそれは、ただ一つの膿と言えた。

 今回のことが成し遂げられれば、風成の子は死ぬことになる。それをきっかけにして、再び巡り会った戦友(とも)とは永遠に道を違えることになるだろう。

 だがそれによってその膿を取り除けるならば。

 天魔としては、それが正しい。

 

 だが一個人として……冴々桐 鳳摩としては――?

 

 萃香の言うように、役目のことなど何も考えずに、ただ思っていることを吐き出すならば。

 

 

 

「……無意味、と。ただそう……思います」

 

 

 

 ――それだけが、今形にできる唯一の言葉。

 

「迷うのでございます。例え天魔の役目を思考から排した所で、己が本当はどう思っているのかが分かりませぬ」

「それは……あの二人(・・・・)を追いかけていたからこそ、なのかい?」

「……そうでございましょうな」

 

 目を瞑れば、脳裏に焼き付いて離れないある二人の背中。

 追いかけ続け、遂に届かず、二人並んで立つ姿に羨望すら見出していた、鳳摩の憧れた背中。

 

「あの二人に憧れた。だが心の何処かで筋違いな“恨み”を感じる自分もいる。どちらが本当なのかが、私にも分からないのです」

「その恨みを“筋違い”だって分かってるなら、それが正しいんだろうさ」

「……そうですな。だからこそ、無意味だと私は思うのです」

 

 顔を上げ、浮かぶ月を見上げて呟く。

 

「成し遂げた所で、何も変わりはしないのです。元に戻るわけでも、悩みが解決するわけでもない。後にも先にも、本当の気持ちすら分からぬ自分が変わらず立ち尽くしているだけ」

「……割り切ってるんだねぇ」

「とうの昔に振り切りました。好敵手とは、得てして相手のことをよく見ているものです。奴が何を望んだのかを、私は理解が出来た」

「……それが、あの子はまだ出来ていないってことだね」

「そうですな」

 

 過去は変えられない。

 何をどんなに頑張ったとしても、過去は不変であり、事実なのだ。

 それを精算しようと努力しても、結局の所自己満足でしかなく、どこかで割り切るより他に道はないのだ。

 鳳摩はそれが出来ていた。

 彼女はそれが出来なかった。

 今はただ、それだけが事実なのである。

 

「無意味、ね。わたしもそう思うよ」

「左様ですか」

「ああ。だからこそ、それがせめて拳一発分くらいの有意味にはなるように頑張ろうかね」

「…………お願い、致します」

 

 鳳摩は萃香の方へと向き直ると、目を瞑って少しだけ頭を下げた。

 決して謙るわけではないが、昔の上司へ礼を尽くす程度に。

 それは、天狗の一統を纏める大妖怪――天魔としての鳳摩へ戻った証でもあった。

 ただ一匹の天狗、冴々桐 鳳摩として本音を零すのはこれまで。ここから先は天狗族の道を先頭に立って切り開く“天魔”である、と。

 格上だからといって急に畏る臆病者を、天狗達は頭領とは認めない。

 

「さて、これで少なくとも(・・・・・)三つの思惑が存在する訳だが」

「………………」

 

 “思惑”と括るべきかどうかも危うい、何も知らずに巻き込まれ、しかし無関係では決してない者。

 燻り続けた想いに終止符を打つべく動き出した者。

 その出来事を引き起こし、深く知り、一つの帰結を齎そうと画策する者。

 そして、或いは、その他に――。

 

「一体どれが正解で、どれがあいつ(・・・)の望むものなのかねぇ……?」

「それを知るものは、もうおりますまい」

「いたのなら、きっとこんな事にはならなかったろうさ」

 

 手に持った瓢箪を月に掲げ、しかしその見据える先は、きっとこの美しい夜空ではない。

 瓢箪の陰から覗く月に、萃香の瞳は揺らめくように輝いた。

 

「なぁ、お前もそう思うだろう?」

 

 

 

 ――先代天魔、射命丸(・・・)よ。

 

 

 




 今話のことわざ
()ぬは極楽(ごくらく)()らぬは(ほとけ)
 実際に見ない方が良いこともあり、また知らないでいれば心配する必要もないようなこともある、という意味。なまじ何も知らなければ、腹を立てたり悩んだりすることもない、というたとえ。

(たな)から牡丹餅(ぼたもち)
 思いがけない幸運が舞い込むことのたとえ。


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第十八話 火男面の空音

 あ、ちょっと閲覧注意――というか、人を選ぶ展開になると思いますので、ご注意を。


 

 

 

 全ての始まりは、あの時の絶望感。

 

 受け入れられなくて、呑み下すことができなくて、足元から崩れ去っていくあらゆる想いの中で何も考えられずに震えて怯える。

 そんな中で唯一受け入れられたのは、目の前にあった一つの事実だった。

 

 なんで。どうして。

 そんな言葉だけが渦を巻く壊れた思考の中で受け入れたその事実は、その時の自分を奮い立たせる柱にするには十分過ぎたのだ。

 

 十分過ぎて――我が身を焼き焦がすように、黒く、熱かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 サクサクと柔らかな音を奏でる枯葉を踏みしめ、吹羽は先を行く文の背中を急いで追う。

 足元から聞こえる軽やかな秋の声音を楽しんでいたからか、ふと気が付けば文と距離が開いてしまっていた。

 元より吹羽と文では身長差がある。故に歩幅にも差が生まれて来るわけであり、吹羽は少しだけ素早く足を回さなければならないのだ。だのに紅葉に気を取られていたら距離が開くのも当然である。

 吹羽はもう何度かこんなことを繰り返していた。

 だって、紅葉がこんなにも綺麗なんだから仕方ないじゃないか。

 

 それでも少しばかり大変に感じた吹羽は、僅かに疲れた声で言う。

 

「あ、文さんっ、ちょっと早いですよぅ!」

「……え、あっ、すいません吹羽さん。気が回っていませんでした」

「……?」

 

 振り向いた文は考え事でもしていたのか、少々驚いたような顔で吹羽を見遣っていた。しかし直ぐに表情がいつもの微笑みに戻る。それはまるで取り繕っているようにも見えて。

 

 ……何か悩みでもあるのだろうか――と吹羽はぽつりと思った。歩いている時まで――そして優しい文が吹羽への気遣いを忘れるほどともなれば、それなりに大きく複雑な悩みを抱えている可能性がある。

 でも感情を読み取るのが比較的得意と自負する吹羽から見ても、文が悩みを抱えているような雰囲気には見えなかった。

 一体何を考えていたんだろう――そんな事をちらと考えていると、文の背中が目の前にまで来ていた。少しだけ歩く速度を落としてくれたようである。

 

「でも吹羽さん、早く椛に会いたいんですよね? 抱えて飛んでもいいんですけど、それはイヤらしいですし」

「それは、そうなんですけど……」

 

 本当は、以前霊夢や早苗がしてくれたように抱えて飛んでもらうのが一番速い。もちろん文に抱き抱えられるのが嫌なわけでもない。

 だが今の吹羽は鉄の塊である刀を数本差している状態だ。勿論この状態でも文ならば容易に空を舞うだろうが、それでも決して軽いわけはないはずなのだ。

 重くて疲れることが分かっているのにそれをわざわざ頼むなんて、そんな図々しいこと吹羽にはできない。

 “人間の里を出るときは帯刀するように”と霊夢に口酸っぱく言われているので、基本的に吹羽は遠出する時には歩くしかないのである。

 

「(まぁ、諦めるしかないって分かってるんだけどね……)」

 

 吹羽は文に気がつかれない程度に苦く笑うと、小さく溜め息を吐いた。

 べ、別に飛んでみたくなんかないし。此間早苗に抱えられて激しく飛んだ所為で高いところ怖いしむしろ飛びたくないしっ!

 ――……はい、ウソです飛んでみたいです。また身体いっぱいに風を感じてみたいです。

 

 もう何度繰り返したか分からない“飛行を嫌いになる脳内体操”が、これまたいつものように成果を実らせない事実に内心で肩を竦める。

 やはり人間というのは、本能的に大空へと羨望を見出すものなのである。だからボクはなにも悪くないのだ。ないったらない。

 

「うーん……あ、それなら手を繋ぎましょうか!」

「え、手を?」

「はい♪」

 

 ああなるほど、それは名案だ。

 こうして言われるまで全く考えもしなかったが、確かに手を繋いでいれば歩幅は合わせざるを得なくなるし、万一にもはぐれることはないだろう。

 吹羽は差し出された手を遠慮なく取ると、歩き出した文に引っ張られる形で足を踏み出した。

 ――触れた瞬間、文の手が僅かに震えた気がしたものの、吹羽は気に留めなかった。

 

「……ねぇ吹羽さん、ちょっとお話ししましょうか」

「お話し? 今もしてますけど……」

「ああうん……えっと、そう! 昔話(・・)です! 新聞記者はいろんな話を知ってるんですよ?」

「わぁ! 妖怪さんたちの昔話ですか! 是非聞かせてください!」

 

 妖怪達の昔話。その響きは吹羽にとって意外なほど魅力的だった。

 風成一族もその受け継ぐものの中に一つの伝承――神奈子曰く“神話”がある。それだって昔話の一つだ。

 であれば、自分達が受け継ぐ昔話とは別に、妖怪達が受け継ぐ昔話とはどんなものなのだろう、と興味を持つのも不自然な事ではない。

 

 文は吹羽の手を引いて歩きながら、しかし彼女を見遣る事もなく言葉を紡ぐ。

 

「そうですねぇ……じゃあ折角妖怪の山(此処)にいるわけですし、此処で起こったことをお話ししましょう」

「ここ……妖怪の山で起こったこと、ですか?」

「はい。昔、この山を支配していたのは天狗じゃあなかったんですよ」

「え……じゃあ、なんの妖怪さんが?」

「鬼、ですよ」

「っ……お、に……?」

 

 予想していなかった衝撃の単語に、吹羽はひゅっと息を詰まらせた。

 

 鬼。

 曰く、“力の権化”と呼ばれる非常に強力な妖怪。

 喧嘩と称した殺し合いと酒がなによりも好きで、昔はその習性故に多くの人間がその“喧嘩”に巻き込まれて命を散らしたと聞く。

 最近ではここ幻想郷でも、鬼の大妖怪、伊吹 萃香が現れたと霊夢に聞いたことがあった。

 非常に好戦的で、強力で、恐ろしい妖怪である。

 

「平和に暮らしていた私たち天狗の元へ、鬼達は突然やってきました――」

 

 ――文の昔話。それは数百年前に遡る。

 

 当時既に縦社会を築き上げていた天狗は、それこそ今の妖怪の山のような規律の下に生活をしていた。

 天魔を筆頭にして大天狗、烏天狗、白狼天狗と続く縦に連なった社会。そこに共存していた河童も加え、妖怪の山は成り立っていた。そして当然、この頃から侵入者には非常に厳しい対応をしていた。

 

『さあ天狗共! その力を見せてくれやッ!』

 

 ある時、何の前触れもなく鬼達が姿を現し、山の真正面から堂々と侵入してきた。

 喧嘩をしよう、拳で語らおうと凄絶なまでの意思と声音で言い放つ鬼達に、天狗は“言われずとも”とばかりに猛々しく斬りかかる。

 しかしその抵抗も虚しく、鬼達は襲い掛かる天狗達の悉くを蹴散らしながら登り行き、気が付けば――天狗族と鬼族の、全面戦争となっていた。

 

「その時、文さんは……」

「ええ、居ましたよ。――小さい頃、あの場に」

 

 拳の下に地面の爆ぜる音、吹き荒ぶ風が皮膚を引き裂く音、轟く怒号、響く悲鳴――鮮やか過ぎる、紅の色彩。

 天狗は刀と風、鬼は己の強靭な身体を用いてぶつかり合い、その衝撃と叫びが地を揺らしていた。

 突風烈風へと結い紡がれた風はあちこちを駆け巡り、それに対する鬼はその拳圧で以って大気を爆ぜさせ、当時の妖怪の山は大気のめちゃくちゃな動きによって異常気象すらも起きていたという。

 そうした鬼と天狗の戦争はあまりに激し過ぎて、しかし確実に鬼を優勢として、三日三晩続いたそうだ。

 

 しかし、山のあちこちで苛烈な殺し合いが続く中で起きた――ある二つの強大な力の衝突が、終わりの秒読みを始めた。

 

「強大な力……」

「はい。鬼の序列の事は知っていますか?」

「え、序列なんてあるんですか?」

「ええ、まぁ。一般的な鬼全てを一番下として、その上に“四天王”、頂点に“鬼子母神”がいました」

「じゃあ戦ったのは鬼子母神さん?」

「いえ……戦ったのは四天王の一人、そして我らが天魔様です」

 

 それはあまりに不利な戦いでもあった。

 鬼子母神率いる四人の四天王は、襲い来る天狗の悉くを片手間に蹴散らしながら登り続け、遂には頂上付近にまで上り詰めた。

 そこで待ち受けていたのは当然、天狗族筆頭、当時の天魔である。

 強者との喧嘩(殺し合い)に何よりの快楽を見出す鬼は、予定調和の如く天魔との戦闘を開始。ただ、複数で襲い掛かるのは公平ではないとして、天魔を相手に四天王が一人ずつ戦った。

 

「そ、そんなの無謀ですよっ。向こうは五人もいるのに、天魔さんは一人でしょう? いくら一人ずつって言っても、身体が保ちませんよ!」

「そうです。だから天魔様にとってはあまりに不利な状況でした」

 

 しかし、だからと言って投げ出せる戦いではなかった。

 天魔が率いるのは妖怪世界の一大勢力、『天狗』である。その風を読み操る力は他のどんな妖怪にも真似はし難く、そして強力な力。加えて縦に連なるその社会の特性である、天狗同士での“連携”にも恐ろしいものがあった。

 ――その頂点に立つ天魔という存在が、どれだけ大きなものなのかは想像に難くないだろう。

 格上を何人相手にすることになっても、天狗の領域を侵す侵入者(邪魔者)に対して平伏するなどあってはならない。そんな事をするくらいなら、裸のまま手足を捥いで吊るし首にされた方がマシだ。

 ――少なくとも、当時の天魔はそういう天狗であった。

 

 しかし、

 

「ですが、それでも天魔様は四天王の一人目を討ち取ることには成功したんです」

「ほ、ほんとですかっ!?」

「天魔様だって大妖怪です。鬼だからと言って、同じ大妖怪相手に明け透けな遅れを取る人じゃなかったんですよ」

 

 苛烈を極めた大妖怪同士の殺し合いは、一先ずは天魔が勝利を納めた。

 鬼子母神を始めとした四天王も驚愕に目を見開いていたが、しかし次の瞬間その空間を満たしたのは、狂気的とすら思える四人の大妖怪の高笑い。

 最早満身創痍に等しい天魔に対して、しかし鬼達は、さも何でもないことのように言う。

 

『四天王を()るたぁ予想以上だね!』

『死んだあいつも満足してるだろうよ!』

『よっしゃ、じゃあ次はわたしだ!』

 

 そう言って、凄絶な笑みで躍り出て来たのは、小鬼にして大妖怪(・・・・・・・・)――。

 

「……その、勝敗は……」

「………………」

 

 呟くように尋ねると、文は唐突に立ち止まって空を仰いだ。

 見上げたその姿に強烈な哀愁を感じ取った吹羽は、反射的にびくりと肩を震わせ、そして無神経にも問うたことを、心の底から後悔した。

 

 そんなこと、問わずとも分かっているはずなのだ。

 先程文が“一人目は”と表したことから。

 妖怪の山が鬼に支配されていたという事実から。

 そして文が、決して武勇伝を語るような口調ではなかったことから。

 

 予測出来なかったはずはない。吹羽は同年代の子供達と比べれば頭も良いし、気遣いのできる少女である。

 だがそれでも、こうして踏み込んではいけないことに踏み込んでしまった。

 それがどれだけ辛いことなのかを、吹羽はよく知っているはずなのに。

 

 天狗が敗れて、鬼に支配されるようになって、一体この社会がどう変わったのかは知れない。

 しかし昔話を語る文の姿に察するならば、決して良い扱いではなかったのだろう。その戦の時、敗れてしまったことを心底から悔いる程度には。

 

「ああ――……」

 

 犯してしまった失敗に吹羽が声を出せずにいると、ぽつりと呻くような声が文の口から漏れ出た。

 変わらず天を仰ぐ文は、微かに、小さく、

 

 

 

(「やっぱ無理だ」)

 

 

 

「……え? 今なんて――あっ」

 

 反射的に尋ねるより早く、文はするりと握っていた手を離すと、歩いていた山道を横に外れて駆け出した。

 身体能力に制限をかけなかったのか、その速度は並外れて速く、瞬きする間に木々の影へと消えていく。

 徐に手を伸ばして、

 

「あ、文さんッ!」

 

 ――いけない。

 今の文を、放っておいたら絶対にいけない。

 

 吹羽は文の手が離れていく感触を思い出して、さぁ――と血の気が引いていく気がした。

 “踏み込んではいけないこと”。それは得てしてその者にとって強烈で、凄惨で、忌み嫌って止まない記憶。氷の張った水面のように、踏み込んでしまえば容易く割れて、押し留めた感情を止めどなく溢れさせる。

 

 知っていたはずなのに。

 それも、ついこの間自分がされたばかりなのに。

 

 星月の美しかった、あの夜のことを思い出す。

 あの時の早苗は、どうしようもないほど優しくて、暖かくて、ひび割れた心に染み入ってくるのに、決してそれを辛いとは思わせなかった。

 そしてそれに、吹羽は確かに安らぎを感じて、心が楽になった。

 

「――追いかけなきゃ……!」

 

 そうして貰った経験が、今活きる時だ。

 あの夜の早苗は故意だったが、今文の心に踏み込んでしまったのは吹羽のミス。しかし、そうしてしまったのなら責任は持たなければならない。

 例え早苗のように上手くはいかなくても、今この瞬間、ひび割れてしまった文の心に安らぎを与えられるのは、友達である吹羽の役目なのだ。

 

 吹羽は意を決して、文の消えていった木々の中へと一歩踏み出す。

 ――何故だか、昼間にも関わらず薄暗い森の中が、酷く不気味に感じた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――まぁ、結局それは、霊夢にとって物事を裏付けるためのダメ押し(・・・・)に過ぎない訳で。

 

 それであらゆる物事を決めてしまうのは加減法よりも簡易明白な愚行であるが、かといって全く無視してしまうのは何処か勿体無いというか。

 誰だってその筈である。誰にでも出来ることで、備えている力で、だけれど信憑性は薄いからアテにはしない。人里に暮らすような一般民は全員がそうだろう。それが“ある道の達人”だというのなら少し話は変わってくるが。

 

 ――ただ、霊夢の場合はそれが信憑性を通り越して現実味すらも帯びるほどに正確なのだ。

 先天性の能力かもしれない。ただ単に毎度当たっているだけかもしれない。そうして誰もが持っている力でありながら、しかし霊夢のそれが突出しているのは確か。

 

 今日も霊夢は、その明晰な頭脳の片隅でその感覚を受信する。

 そう――ふと、嫌な感じ(・・・・)がした。

 

「……今度は何かしらね」

 

 この間月の異変を解決したばかりなのに。

 霊夢はそう心の中で悪態付くと、手にしていた箒をぽいっと放り出して袖の中を弄る。

 常備しているものはあらかた入っていて、改めて準備するものは無い。流石あたし。

 

 霊夢は袖から手を引き抜くと、そのまま流れるように伸びをした。

 コキコキ、と肩甲骨の辺りで快音を響かせ、首を回して調子を確かめ、最後に大きく深呼吸。大体こういう予感がするときは面倒ごとが起こるのだ。準備運動はしておいて損はない。

 

 ――と、そういえばこの方角は妖怪の山だ。

 

 妖怪の山といえば天狗……そう考えて、霊夢は一つ思い出す。

 確かあれは、吹羽と文と早苗とで花札をした日のこと。

 僅かに感じた違和感(・・・)が、今感じている感覚にどこか似ているということ――……。

 

「………………」

 

 あの日の文の目的は、恐らくは吹羽だった。

 しかし、あの日は三人――後から早苗が加わって四人――してただ遊んでいただけで、普段文が嘘と話術を用いてまで行う“取材”は全くと言っていいほど無かった。結局何がしたかったのかは終ぞ分からなかったのだ。

 ただ重要なのは、文が吹羽を目当てに来た(・・・・・・・・・・・)のだと考えたその理由が、吹羽に合わせて神社を後にしたことともう一つ、

 

 

 

 吹羽を見る文の瞳が、普段とは違うものだったということ。

 

 

 

 確かに僅かな変化だった。恐らくは吹羽も早苗も気にさえしていない。

 しかし霊夢は違ったのだ。その文の瞳は普段の飄々とこちらを見下すようなものではなく、むしろ――。

 

「……ま、どんなことであれ、あたしの勘ってほぼ外れないし」

 

 ――もし吹羽が関わっているのなら、尚更行かなきゃならないし。

 霊夢はいつもの能天気な思考回路で情報を割り切り、しかし異変解決に向かう時のような、どこか鋭く冷たい瞳で地を蹴ると、雲の目立つ空へとひらり舞い上がった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――椛は、迷っていた。

 

 あの日の夜、天魔の下へ直談判しに行き、そしてあの話(・・・)を聞かされて。

 示されたその選択肢は、優しい椛にとってこれ以上なく頭を悩ませる。

 

 歩き慣れた森の中の獣道で、椛は僅かに俯いてトボトボと歩いていた。

 普段は頭の上でふわふわと揺れている白い耳も、今はへたりと元気なさげに萎れている。

 そのあまりの集中力の無さに、仕事の邪魔だと言われて追い出されたほどだった。

 普段なら喰らい付いてでも仕事を全うしようとする椛だが、今回ばかりはそんな元気が湧いてくることもなく、むしろ丁度いいとすら思って椛は仕事場を離れたのだった。

 

「私は、どうすれば――……」

 

 阻むのも傍観するのも、それが生み出す結果はきっと、どちらも納得のいかないものになる。それが容易に予想できたから、椛は答えを出せずにいた。

 時間は決して止まらない。椛がどんなに悩んで、答えを出すのを先延ばしにしたとしても、時間はタイムリミットに向けて何者にも阻まれずに迫ってくる。

 焦燥にも似たそれが、ジリジリと身体の内側を炙っているかように感じるのだ。

 

 答えは出さなければならない。だが答えを出す勇気は、椛にはまだ無かった。

 

 ――そんな時。

 

「む、そこにいるのは……まさか椛か?」

 

 背後から聞こえた声に徐に振り返ると、そこにあったのは見覚えのある顔。此間風成利器店へと押し掛けた烏天狗だった。

 心底不思議といった声音に違わず、彼は僅かに眉間に皺を寄せて椛を見つめていた。

 

「……はい、そうですが。何か用ですか?」

 

 口を突いて出た言葉が思っていた以上に棘のあるものだったことに、椛は内心で驚愕する。しかし言い直す意味も必要も感じないので、椛は半身を翻した流し目のまま烏天狗を見つめた。

 ――己のその瞳が、いつも以上に冷たい光を帯びていたことには、彼女自身薄っすらと気が付きながら。

 

「いや、何故お前がこんなところにいる? お前の持ち場は別の場所だし、家もこの辺りではないだろう」

「? ……ああ、そうですね。うっかりしていたようです」

 

 言われて見回すと、烏天狗の言う通り、椛の持ち場とも住居とも離れた場所であることに気が付いた。

 どうやら、頭を悩ませながら歩いていた所為で随分と道を外れてしまったらしい。

 椛は不意に漏れそうになった溜め息を寸出のところで噛み殺し、烏天狗に軽く会釈をしてから身を翻した。

 ――と、一歩踏み出したところで、

 

「待て」

 

 引き止めた声はやはり、烏天狗のもので。

 

「何か用が?」

「いや、用という訳ではないがな。一体どうした? 頭の回るお前が呆けるなど珍しい」

「……少々、考え事をしていまして」

「こんなにも道を外れるほどにか? しかもまだこの時間は哨戒の任務中だろう。まさか怠業ではあるまい」

「…………今日の任務は外されました。集中力がなさ過ぎる、と」

「……愚直で真面目なお前が、か?」

「はい」

「何があった?」

「……答える義理はありません」

 

 「尤もな意見だ」と烏天狗は肩を竦めると、呆れたように溜め息を吐く。

 そう、答える義理なんてこちらにはない。

 いくら彼が天狗族の一翼でも、関係があるのは一握り。そしてその一握りの中に自ら飛び込んだのは椛の意思であり、選択に他の誰を介入させる気もないのだ。

 ……本当のところは、知り合いといえど上司なのであまり突っぱねるのは椛としても良くはないのだが、今の彼女にはそこまで気を回せる余裕がなかった。むしろ、あまりしつこいならば斬り捨ててしまっても構わないとすら思っていた。

 

 その冷淡で容赦ない思考が映ったかのような、変わらず冷やか――というよりは、冷め切った覇気のない瞳を向ける椛に、烏天狗は逃げるように視線を逸らす。

 その様子に会話の終わりを悟った椛は、くるりと踵を返して住処への道を辿り始めた。

 

 ――が、椛はまたしても、烏天狗の言葉に足を止めることになる。

 

「そう言えば、お前がここにいるということは、まだ会っていないということだな」

「……会う? 誰とですか?」

「風成 吹羽だ。お前に元気がないと言ったら、心配して会いに来たんだ」

「……え?」

 

 言葉が鼓膜を震わせ、うずまき管に響き、聴神経から発した電気信号が脳へと到達して理解するよりも早く。

 椛は、腹の底が絶対零度の如く凍え冷えるのを感じた。

 今、なんと? 吹羽が、妖怪の山に来ている、と――?

 それは、本当ならば驚くことではない。何しろ風成 吹羽は天魔が認める戦友(・・)であり、客人なのだ。彼女がいくら山を出入りしようと一介の天狗が口を挟むことではない。

 

 しかし、椛は知っているのだ。

 今妖怪の山を訪れることがどれほど危険なことなのかを。

 ――否、人間の里を出ること自体(・・・・・・・・・・・)が如何に恐ろしいことなのかを。

 

「どういう……こと、ですか?」

「? 言葉通りの意味だが。今、この山に吹羽が来ている。お前がここにいるということは、まだ会っていないのだろう?」

「――ッ!」

 

 もはや条件反射だった。

 椛は加減もせずに地を踏み砕いて加速すると、突き飛ばすような勢いで烏天狗の襟首を掴み引き寄せる。

 彼を睨み上げるその形相は、先程までとはどこまでもかけ離れて――、

 

「なぜ……なぜ連れて来てしまったんですかッ!? こんな危険な場所に、なぜッ!?」

「っ、それも言っただろう? 元気のないお前を心配して――」

「言う必要なんてなかったッ! 彼女が里にいてくれれば、私が悩んでいるだけで良かった! だから……だから私は、吹羽さんに会わないようにしていたのに……っ!」

 

 ――八つ当たりなのは分かっていた。

 この烏天狗は、吹羽と天狗の間にある問題について恐らくは何も知らず、椛の元気がないと伝えたのもきっと悪意あってのことではない。

 吹羽をここに連れて来たことに関して、彼に文句を叩き付けるのは筋違いにもほどがある。

 

 でも、それでも、椛はそんな言い訳(・・・)で納得なんて出来なかった。

 “悪気はなかった”なんて在り来たりな弁明で許せるほど、椛は馬鹿ではないし優しくもない。

 元気がなかったことだって、吹羽が人里にいてくれるならば“それだけ”で済んでいたことなのだ。

 そう――椛が悩み苦しむだけで済んでいたのだ。

 

 それなのに、この天狗は――。

 

「(……ちょっと、待って……)」

 

 ――ふと、そこまで想いを吐き出してから、椛はあることに思い当たった。

 たった今、吹羽はこの山を訪れている。椛が居ると踏んで、恐らくは彼女の家の方へと向かっているのだろう。

 そして、彼女を連れて来たのは、どう考えてもこの烏天狗の筈で――……

 

「……一つだけ、答えて……下さい」

「なんだ」

「あの人は……吹羽さんは、今どこに……?」

「む? だからこの山だと――」

「そんなことを聞いてるんじゃありませんッ!!」

 

 至近距離での激昂に体を震わせる彼を気にもせず、椛は犬牙を剥き出しにして睨み上げた。

 

「吹羽さんを連れて来たのはあなたでしょうッ!? ならなぜここにいないんですか! 今彼女は、一体誰と(・・・・)どこにいるんですか(・・・・・・・・・)ッ!?」

 

 思い過ごしであってほしい――そう願う椛の心は、爆発したかのような憤怒と激昂となって溢れ出る。

 ただ、とてつもなく嫌な予感がしていた。普段は予感などという信憑性に欠けるモノなど信じない椛だが、それでは片付けられないドス黒い霧のようなものが心にかかっていたのだ。

 それが焦燥を掻き立て、溢れ出る不安に歯止めも掛けられずに目の前の天狗へと叩き付ける。

 

 恐々としたその口から放たれる言葉は、果たして“杞憂”か、それとも“絶望”か――、

 

 

 

「吹羽は今、文と一緒にいるぞ」

 

 

 

 ――空気を、爆ぜさせて。

 地を踏み砕き、有らん限りの脚力で駆け出した椛に、周囲の大気は追い付けずに破裂した。

 それでも目で追うことだけはできた烏天狗に声をかけられるも、それは一瞬で過ぎ去る景色とともに掻き消え、椛自身も脇目も振らずに疾駆する。

 

 何か他の事を考えている余裕などなかった。それは例え、遠方から飛来した矢に貫かれようと脚の健をズタズタに引き裂かれようと、止まることは許されないという強迫観念にも似て、椛の華奢な脚をひたすらに回していたのだ。

 

 焦りがあった。迷いがあった。だが一先ずそれは思考の隅の隅の隅へと追いやって、ひたすらに駆けなければならない。

 でなければ――、

 

「(吹羽さんを……文さんに近付けちゃいけないッ!!)」

 

 きっと欠け替えのない物を失うことになる――そう、冷えていく心のどこかで、分かっていたから。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 薄暗い森の中で、吹羽は必死に足を動かしていた。

 聞こえてくるのは虫の声、鳥の羽搏き、搔き分けられた草の擦れる音。そしてどくどくと脈打つ自分の鼓動と、荒い息遣い。

 文を追い掛け森に入って少し経つ。未だ彼女を見つけられないことに吹羽はじくじくとした焦燥を感じていた。

 

 吹羽は文の傷に触れた。それはきっと時間が経つほどに開いていき、血が滲み、最後は裂傷として痕になる。それを絶対にさせまいと、吹羽は暗い森の中をひた走っているのだ。

 だがしかし、見据える先は黒光りする木々の肌ばかりで、文の背中は見えてこない。

 方角は合っている筈なのだ。吹羽の眼は人よりもよく見える、駆け出した瞬間の文の姿と方向はしっかりと見えていた。

 

 一体どれだけ奥に駆けて行ったのか……考え始めると、あらゆる思いが溢れてきてどんどん胸が苦しくなっていく。

 だって、傷付けたのは吹羽自身なのだ。

 気が付かずに傷付けて、文は我慢出来ずに走り出した。その心の内で、元凶たる吹羽に何を思っているのか、想像するのが恐ろしいのだ。

 

 ――友達に拒絶されたくない。

 

 そう願う吹羽だからこそ、(友達)を傷付けたという事実が重くのしかかってくる。

 その重圧が、吹羽の翡翠色の瞳にじわりと僅かな露を滲ませていた。

 

 そうして必死に駆けていると、薄暗かった森が唐突に明るくなり、吹羽はその眩しさに咄嗟に目を瞑った。

 ……否、まるで植生遷移のギャップ空間のような、木々の開けた日の当たる場所に出たのだ。

 次第に目が明順応していくのを感じて、吹羽はゆっくりと目を開ける。変わらず紅葉に埋め尽くされすぎて薄暗い森の中ではあったが、丸く開いたこの空き地には日が差していてそれなりに明るい。それに少しだけ安心感を覚え、吹羽は慌てて周囲を見回した。

 

 すると――向こう側。

 

 ちょうど日の当たらぬ、木々の影になった部分に、蹲る文の背中を見た。

 

「……っ」

 

 名を呼ぶことも忘れ、或いは声を出すことすらも忘却して、吹羽は反射的に駆け出した。

 ――見つけた。見つけたっ。見つけた!

 焼け付くような焦燥に駆られていた心は、まるでその歓喜を表すかのようにただそれだけを思考の中で反響させる。

 

 声をかけるより。

 同情するより。

 側に寄り添って一言謝ることが何より大切だということを、吹羽は直感的に分かっていた。

 あの夜早苗はそうしてくれた。ただ側にいてくれた。だから今度はそれを、吹羽が文にしてあげる番なのだ。

 吹羽が出来る償いとは、それしかないのだから。

 

 ――しかし、飛び込んできた光景は、吹羽には全く理解し難いものだった。

 

 

 

「ぅ……おえ゛え゛え゛……!」

 

 

 

 びちゃびちゃ、ばちゃ。

 

 聞こえてきたのは嗚咽でもなく、すすり泣きでもなく、ただただ不釣り合いな、何か大量の固形物を含んだ液体が濁流のように地面を打ち付ける音。

 目の前で震える文の背中は、悲しみや怒りを感じさせるものではなく、しかし圧倒的な不快感を文字通り吐き出している(・・・・・・・)ように見えた。

 

 ――なんで? いったい何が、どうなっている?

 文は吹羽の言葉に傷付いて、悲しくなったからここにきたんじゃなかったのか?

 

 想像とは全く掛け離れた目の前の光景に、吹羽は完全に思考停止していた。

 背を向けて蹲る文がばちゃりと吐瀉物を吐き出す度、頭の中で疑問がぐるぐると加速して眩暈を覚えた。頭痛がした。お腹の底が冷えていった。

 

 何故だか、嬉しくない。

 吹羽が思っていたように文が傷付いて泣いていた訳ではなかったのに、吹羽の心はそれに全く歓喜を感じていなかったのだ。

 

 ――否。

 

 目の前で不快感を吐き出す文の姿が、全く理解できないが故の、嫌悪感。

 得体が知れないからこその身の竦むような怖気を、文の姿からぞわぞわと感じるから、自分の心はこんなにも冷え切っているのだ――と。

 

「――……ぁ、あや……さん……?」

「ぅ……っ……あぁ、来ちゃったんだ(・・・・・・・)

 

 文の言葉が、どうしてかねっとりと耳に残る。その不快感に怯え、吹羽はびくりと体を震わせて後ずさった。

 さっきまでと雰囲気が全然違う。駆けている途中で別人に入れ替わったと言われる方がまだ納得できる。

 いつも明るく楽しそうに笑っていた文の姿はそこになく、ただただ得体の知れない感情を内に滾らせて佇む知らない“誰か”が、目の前にいた。

 崩れた口調(・・・・・)が、文が全く知らない別人になってしまったことを、吹羽の拒絶とは関係なく思考に叩き込む。

 

「あぁ〜あ、もう少し我慢(・・)できると思ってたんだけどやっぱ無理だったわね。やりたくないことはやるもんじゃないわ」

「あの、文さ――」

「さっきの話、続きを聞かせてあげるわ」

 

 まるで「黙っていろ」とでも言うかのように吹羽の言葉を断ち切った文は、すくと立ち上がるとゆっくり振り返る。

 

 ――その、赤い瞳は。

 濁ったように鈍く光って、身体の芯まで凍えるような、絶対零度の色をしていた。

 

 薄く細め、歪められ、

 

「……負けたわよ、確かにね。でも一つだけ、話の中で言ってないことがある」

 

 吹羽の全てを凍てつかせる視線と、普段とはあまりにも掛け離れた能面のような表情。そして、まるで鞘を払った刀のような、冷ややかで平坦な口調。

 今の文から感じる全ての感覚が、ある一点――“恐怖”となって吹羽に襲い来ていた。

 

 そうして吹羽は、気が付いた。

 気が付いてしまった。

 

 目の前でゆらりと佇む文の、得体の知れない感情と、その内に滾り燻る灼熱。

 吹羽を見つめる瞳の、絶対零度の如き冷たさが一体何故のものなのか。

 暗く光る文の赤い瞳に燻るそれは、言葉にするなら、そう。

 

 

 

 ――暗く静かで、真黒な憎悪。

 

 

 

「あの戦……百鬼侵撃の乱で戦ったのは、鬼と天狗ともう一つ……」

 

 知りたくなかった。

 聴きたくなかった。

 吹羽は文の紡ぐ言葉がまるで呪詛のように身体に纏わりついてくるような気がして、一気に血の気が引いていく。

 相変わらず吐き気のするような疑問が身体の内で渦を巻く中、吹羽は声も出せずに体を震わせた。

 だってこんな暗い感情を、吹羽はぶつけられたことがない。これほどまでに黒く淀んだ深淵のような感情が人に向けられることがあるだなんて、知りさえもしなかったのだ。

 立っているのが精一杯だった。震える脚は後ずさりすることさえ拒んでいた。

 

 それでも文は、何の躊躇いも見せずに言葉を紡ぐ。

 まるで苛烈な非難を浴びせるように。

 

「――人間。あんたの家よ、風成 吹羽」

 

 端正な顔がぐしゃりと歪んで、それが怒っているようにも悲しんでいるようにも見えて。

 

 

 

「天魔様――父様は、あんたたち風成一族に殺され(・・・・・・・・・・・・・)()のよッ!!」

 

 

 

 そう。文は、吹羽のことを、心の底から憎んでいるのだ――と。

 その受け止め切れない事実は、容赦なく吹羽に襲いかかった。

 信じられない。信じたくない。

 だって吹羽の知る文は、いつも笑顔で明るくて、飄々としたところは時に反感を買いもしていたけれど、その軽やかな雰囲気を決して吹羽は嫌いではなかった。なによりそんな彼女を友人だと、信じて疑わなかったのに。

 

 それが、こんな……殺意に満ちた瞳で、射抜かれたら。

 

「な、なんで……文さん、あんなに、笑ってたじゃないですか。ずっと、楽しそうだったじゃないですか……!」

「……笑ってた? 楽しそうだった? ……私が?」

 

 震える唇から溢れた言葉に、文はぱっと能面を被り直すと、心底不思議そうに首を傾げた。

 数瞬の間をおいて、文の口から滴るように漏れ出たのは、

 

「くっ……ふふふふ……っ、あはははははははッ!!」

 

 ――心底愉快といった具合の、喜悦すら感じさせる高笑いだった。

 

「ぁ……あや、さん……」

「あはっ、あははははッ! は、あふっ……っ、それってぇ――コレのことですかぁ?(・・・・・・・・・・)

 

 ――ふわり、と。

 唐突に文の顔に浮き出したそれは、吹羽の知るいつもの笑顔。優しげで楽しげで、吹羽が“これが自分の友達だ”と信じて疑わなかった微笑みだった。

 まるで本当に仮面を付け替えたかのように変異した文の雰囲気に、吹羽はむしろ底冷えするような恐怖を覚えた。

 

 蒼白へと色を変えてゆく吹羽の表情に気を良くしたのか、文は誰もが見惚れるような笑顔で言う。

 

「これは傑作ですね。まさかここまで馬鹿だとは思ってもみませんでしたよ。さぞ……さぞ幸せな人生を歩んできたんでしょうねぇ!?」

「ど、どういう――……」

「だって、あなたは私を疑わなかった(・・・・・・・・・・・・)! 魔理沙さんがあんなに警告していたのにも関わらずっ! あの時は正直ひやりとしたものですが、ここまで疑うことを知らないなんて……ふふふ、あはははっ! ほんと馬ッ鹿みたいですよねえ、あなたって人はッ!?」

「っ、〜〜ッ」

 

 ――いやだ。

 

 いやだいやだいやだいやだ。

 その顔で、その声で、その口調で、そんな言葉なんて聴きたくないッ! そんな視線を向けて欲しくないッ!

 

 さっきまでの別人(・・)に言われた方がまだ幾分かマシだった。全く知りもしない相手に嘲笑されようと、基本的には少し気分が悪くなるだけで収まるのだから。

 たが、今の文は吹羽の知る、友達だと信じて疑わなかった表情。声。口調。雰囲気。

 ――そんな彼女に、明確な言葉で拒絶されるのが、吹羽は胸が張り裂けそうなほどに辛かった。

 だって、それじゃあ、吹羽はあんなに仲の良かった文に裏切られたということで。

 文はずっと、笑顔の奥で嫌悪と殺意を抱いていたということ、で。

 

 頭の中でぐるぐると、思考回路をぐちゃぐちゃに蹂躙しながら渦を巻いて塵を吹く文の声に、吹羽は堪らずに耳を塞いだ。

 いやだ、聞きたくない。こんなの夢だ。現実なんかじゃない。

 だって文は優しくて、陽気な人で、こんなに酷い言葉は口が裂けたって言わないはずなんだ。

 ――ただそれだけが言葉になって浮かび上がる。それ以外は砕け散ったように何も考えられない。

 

 しかし、そんな幻想は存在することも許されず――、

 

「ッ!」

 

 刹那、吹羽はお腹に強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。

 鈍器で腹部を殴られたたような鈍く響く衝撃。塞いでいた手は当然耳を離れ、地面を打って転がる身体と共に投げ出される。

 ――襲い来たのは、重く固められた風の弾丸だった。

 

「ッ、かふ……っ」

 

 鳩尾にまで響く衝撃が強い吐き気を催し、吹羽は外に出ようと溢れる“中身”を必死で堪える。

 浮き出した涙にぼやける視界で見上げると、文は不気味に頬を歪めながら、怨嗟の滴るような瞳で吹羽を見つめていた。

 

「ダメですよぉ吹羽さん。耳を塞いじゃ、目を瞑っちゃ」

 

 ゆっくりとした動きで、文が近付いてくる。もしくは痛みに耐えるのに脳が機能しすぎて、感覚が緩慢になっているのかもしれない。

 その言葉の間隙が、とても長くて焦れったくて、まるで今から振り下ろされる錆びたノコギリの鈍刃を、ゆっくりと見せびらかされているようで。

 

 遂に吹羽の目の前に辿り着いた文は、立ち上がれずにいる吹羽の瞳を覗き込むようにしゃがむと、息のかかりそうなほど近くで――酷く艶やかに、嗤った。

 

「目を逸らすことは許しません。声を拒むことは許しません。思考を止めることも蹲ることも抵抗することも許しません。私があなたに許すのは――……」

 

 嗤って、哂って、嘲笑い溺れて。

 

 

 

「絶望に狂い嬲られ、泣き叫びながら死に果てることだけです」

 

 

 

 ――ぱきり。

 何処かでそんな音がしたのは、果たして気の所為だったのか、どうか。

 

 文に。意味がよく伝わるよう、聞き漏らさないよう、そして深く深く心に刻み付けるためにわざわざ口調を戻したのであろう彼女に、吹羽は何か紡ぐべき言葉を見つけられなかった。

 覗き込んでくる彼女の瞳は表面こそ陽に照らされて輝いているものの、その奥に覗く赤色は血のように暗く淀んで、こちらの心をも侵し入るかのような闇だけがあった。

 

 そこに吹羽は、文の本気を悟る。

 

 本当に今までのことは全て演技で、本当の意味で仮面を被ったまま舞踏していただけだったのだ、と。

 しかし、頭は理解しても心が付いていかない。

 その証拠に、ほら。

 吹羽の口は無意識のうちにゆっくりと開き、もはや思ってもみないことを――頭では分かりきってしまったことを、問いかけていた。

 

「ずっと……ウソ、吐いてたんですか?」

「はい。ぜんぶぜぇ〜ぶウソです」

「ボクとお話をしに来たのは……」

「情報収集ですよ。相手を知らねば嬲ることもできませんからね」

「っ、じゃあ、頻繁に会いに来てたのも……」

「もちろん情報が欲しかったからです。そりゃあ気分の悪いものでしたけどね。顔に出さないようにするのに苦労しました」

「あの日、花札をしたのは……」

「警戒を解くためです。本当はあなたと花札なんて脅されてもしたくありませんでした。ずっと吐き気堪えてたんですよ?」

「……さっき、手を引いてくれたのは」

「道を外れられたら困るでしょう? まぁ私が耐えられなくてここに来たわけですが。蠱毒の壺を触るよりよほど不快でしたよ、あなたの手」

「――……じゃあ、文さんは、ずっとボクのこと……」

「はい、大っ嫌いです♪ 生きてることが許せないくらい」

「っ、……」

「殺したくてウズウズしてたんですよ……気付いてましたか? あなたが魔理沙さんと弾幕ごっこに興じている最中、あなたの膝を弾いたのは私です(・・・・・・・・・・・・・・)。もう少し打ち所が良ければ(・・・・)死んでくれたんでしょうけど、まぁいいです。因みに、“噂”を流したのも私ですよ。孤立させられたらヤりやすくなりますし。こんな風に、ね!」

「ぐぅッ!」

 

 ――全部。

 全部全部全部。

 あの笑顔もあの優しさもあの明るさも、全部全てが何もかも。

 嘘だったと。演技だったと。本当はすぐにでも殺したくて仕方がなかった――と。

 真実を叩きつけられ、そして理解したその吹羽の表情が、どれほど絶望に彩られていたことか。

 その表情に蕩けそうなほど恍惚とした笑みを浮かべた文はふらりと立ち上がると、揺らめくように片手を空へ掲げた。

 

「ああ――……イイですよ、吹羽さん。その表情、すっごくカワイイです」

 

 その言葉が、その呪詛が、刃のような風となって上空に凝縮していくのが見える。

 その風を操る様は、皮肉にも風紋と似ているな――なんて場違いなことを考えて。

 

 吹羽は、ふと思った。

 

 

 

 死にたくない――と。

 

 

 

「それでは吹羽さん、全身で楽しんでくださいね? 自分が死にゆく……その感覚をッ」

 

 打ち下ろされた刃の嵐が、一瞬で吹羽の視界を斬り刻んだ。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第十九話 絶対の覚悟

 

 

 

 ――走れ、疾れ、もっと速く。

 羽が千切れてもいい。心臓が破裂してもいい。吹羽の側へ駆け付けて、彼女を守る刃を振るえる力さえあればそれでいい。

 木々の色が最早線となり果てて後ろに流れていく視界の中、椛はひたすらにそれだけを考えて山を駆けていた。

 

 妖怪としての脚力を惜しみなく炸裂させ、翼を広げて空を切り、なけなしの風を操る力で自らの背中を押す。烏天狗ほど飛翔が得意でない白狼天狗にとってはこれこそが最高速度を叩き出す奥の手。そうして椛は今までにないほどの爆発的速度で地を駆ける。

 

 最早一刻の猶予もなかった。

 先程、山の中間辺りで炸裂音が聞こえて来たのだ。そしてそれと同時に流れ感じたのは、普段よりも幾分か冷ややかに感じる射命丸 文の妖力。

 ――恐らくは、もう既に始まってしまった(・・・・・・・・)のだろう。なれば椛が取るべき行動は、一刻も……一歩でも速くその場所へと駆け付けて、吹羽と文の間に割って入ること。

 例え上司である文と刃を交えることになっても、吹羽を失うのがどうしても嫌なのだと――繰り返し同じことを思考する頭の片隅で、椛は強く自己認識した。

 

 疾れ、更に速く。

 そう念じつつ、椛は視界を絞って脚を回す。景色を視界に映すことすら無駄なことだと椛自身が無意識に断じた現れだった。

 余分な思考をカットし、空いた容量を風の操作と脚の踏ん張りに配分する。

 そうして椛は更なる加速を生み出す。

 

 ――その時だった。

 

 

 

「それがお前さんの答えかい?」

 

 

 

 刹那。

 不思議な程によく聞こえた言葉を脳が認識したその刹那の間隙に、椛は反射的に踏み止まって勢いを上に流した。殺しきれない慣性は巧みな体重移動によって流動し、椛の体をアーチ状に上空へと投げ飛ばして着地させる。

 ちらと見た元の場所では、何かが炸裂したように石片が飛び散り、砂埃を巻き上げていた。

 それに悟り(・・)、咄嗟に振り向いて――、

 

「〜〜ッ!!」

 

 神速で両腕を交差させて防御体勢をとった椛に、凄まじい衝撃が走った。

 それは小さく、しかしその余波で大木すらへし折れてしまいそうなほど、あまりにも強固な剛拳だった。

 その拳圧は、殺しかけだったとはいえ椛の全力疾走が生み出した慣性をいとも容易く上回り、直進していた体を無理矢理に逆方向へと吹き飛ばす。

 

 辛うじて着地に成功した椛は、その拳を放ったかの者を鋭く睥睨した。

 

「おぉっと、流石は“千里眼”だねぇ。今のを防御するのかい」

「あなたは……萃香様ッ!?」

 

 片手首をぷらぷらと揺らしながら“にへら”と宣うのは、音に聞く大妖怪 伊吹 萃香。

 予想外の登場に椛は多少狼狽するも、昔話(・・)を既に伝え聞いた彼女にとって理解は難しいことではなかった。

 つまり、この方も何かしら手を出す(・・・・)つもりなのだ――と。

 

「……おいおい、そんなに睨むなよ。一応わたし、元上司なんだけどな」

「……何故、私を止めるのですか」

 

 射殺さんばかりの眼光で睨め付ける椛に、わざと(・・・)足止めする位置に陣取った(・・・・・・・・・・・・)萃香は飄々と言う。それに返した椛の言葉は、ただただ率直なものだった。

 

 何故この最悪のタイミングでそんな行為に及ぶのか。だって、萃香は分かっているはずなのに。早く吹羽の下へ行かなければならないことは、彼女だって理解しているはずなのに。

 困惑よりも怒りが溢れてくる。椛はそれを抑圧しようとはしなかった。

 いくら上司であろうと、大妖怪であろうと、椛にとって邪魔者には変わりがなかったのだ。

 なれば、今すぐに萃香を斬り捨てるのに何の抵抗もない。

 

「知っているはずです。このままだと吹羽さんは文さんに殺される! 何故止めるんですか!?」

「……ああ? らしくねぇこと言うなぁお前。ほんとに妖怪か?」

「……は?」

 

 萃香は心底不思議といった表情で首を傾げると、一つ大きな溜め息を吐いた。

 

知るかよそんな事(・・・・・・・・)。妖怪は欲の権化だぜ? わたしが止めようと思ったから止める。ただそれだけのことさ」

「――! 〜〜ッ」

 

 無茶苦茶に過ぎる。椛は飄々と宣った萃香に強烈な苛立ちを覚えた。

 多少の理解は出来るのだ。椛も天狗という妖怪の端くれ、欲と畏怖こそが妖怪の成り立ちであるのは本能的に理解している。

 ――だが、それだけだ。

 欲の権化だからといって、人間を見殺しにできるわけではない。又、心が無いわけでもない。

 誰かの命を助けようと奔走する前に立ち塞がる者の理由が“そうしたいから”だなんて、冗談ではない。それは機嫌によって容易に人を殺せるということである。

 覚り妖怪にでも言わせれば、きっと“心が無い”と吐き捨てることだろう。

 そもそも吹羽の生き死にがどうでもいいなら、彼女は一体何を望んで手を加えるつもりなのか――……。

 

 椛は奥歯をギリギリと噛み締めながら、刀の柄を握り込んだ。すると萃香は、徐に口を開くと、

 

「ああ、そうだな……それで納得いかないなら、敢えてこう言おうか――」

 

 刀の柄へ手を掛ける椛を尻目に、萃香は徐に己の掌を眺め始めると、調子を確かめるように数度開閉する。

 そして最後に、グッと握り締めた。

 

「お前がここに来たからさ、ってな」

「――ッ!!?」

 

 瞬間、椛は今までに感じたことのないほどの重圧を感じた。握り締めた拳がその存在感をギシギシと椛の脳内へと叩き込み、それに呑み込まれて地中奥深くへ埋められたような気分になる。冷や汗が止まらなかった。そしてそれが、萃香の放つ膨大な妖力だと気が付くのに、椛は数秒の時間を要した。

 

 ――踏み出そうとする脚から、力が抜ける。一秒でも早く吹羽の下へ辿り着こうとする意思が必死に「萃香を斬り伏せろ」と叫んでいたが、それも彼女の放つ重圧に耐え切れず声を潜めた。身体も震えて、最早抜刀どころではない。

 

「見てたんだよ、お前がどうするつもりなのかをね。さっきの爆発があった場所へ走ってるってことは、止めに入るつもりなんだろう?」

「…………っ、……分かりません(・・・・・・)

「あ? …………おいおい」

 

 先ほどとは違い、酷く呆感の含んだ声音を萃香は零した。

 それに呼応して圧迫してくる妖力もその温度を下げていき、身体の震えは更に激しくなっていく。

 

「……戦いを止めたいとは思います。でも止めようと止めまいと、どちらかは必ず深く傷つく。私はそれを見たくないんです。駆け出さなきゃ始まらない。だから私はあの場所に向かって駆けています」

「………………冗談じゃねぇ」

 

 明確な怒りの篭った声音に、椛はびくりと身体を震わせた。

 

「分からない……って? 止めるかどうかも分からないまま……そんな半端な気持ちを引っさげて、あいつらの所まで行こうって? ……冗談じゃねぇぞ」

 

 零下の視線が突き刺さる。それに含まれた感情は、温度とは裏腹な灼熱の怒りだった。

 ――当然だ、と思う。

 萃香はこの事態を何百年も憂慮して、その上でここにいるのだろう。そこに半端者を介入させるなど絶対に許さないはずだ。

 なれば、今ここで本当に椛の命を握り潰しにかかることも辞さないのだろう。

 

 

 

 現に――萃香は既に、椛の目の前で拳を引き絞っ(・・・・・・・・・・・・)ていた(・・・)

 

 

 

「な――」

「遅せェッ!!」

 

 椛の千里眼はその動きこそ捉えていたものの、身体は全く反応が出来なかった。

 辛うじて出来たのは、体内の妖力を一点に集中させて身体を硬質化することだけ。それも身体が思考を置き去りにして本能的に行った防衛措置である。

 ――咄嗟の防御で間に合わせられるほど、大妖怪の攻撃は甘くない。

 椛が本能的に行った防御は僅かな効力しか発揮せず、威力の九割以上が殺せずに内臓へと炸裂する。

 椛は弾丸のような勢いで吹き飛ばされると、背を大木へと厳かに打ち付けて止まった。

 びちゃっ、と堪えることもできずに血反吐を吐き出し、地面を真っ赤に濡らす。

 意識の飛び駆けた反動で霞む視界に捉えたのは、揺らめくように視覚化した妖力を拳に纏った、萃香の姿だった。

 

「ぐっ……こふ……っ!」

「……わたしがここに来たのは正解だったってワケだな。そんな半端な気持ちで行くつもりなら、わたしは今ここでお前を殺してやる。二人の決着に邪魔になるだけだ」

 

 萃香はパシッと拳と掌を打ち付けると、明確な怒りの篭った無表情で椛を睨め付けた。

 

 その、ある意味二人のことを何処までも想った真摯な瞳に、椛は心の内を見透かされるような気持ちになって。

 その拍子に、椛は思った。

 ――ここが、分水嶺である、と。

 

「決めろ、犬走 椛。選択肢は多くない。何のため(・・・・)()、お前はわたしと戦う?」

 

 何としてでも生き残るために、戦うのか。

 それとも友人の下へと辿り着くために、戦うのか。

 萃香の言葉の裏には、その二択だけがあった。

 

 ……迷いはあった。

 文の気持ち、吹羽の気持ち、そして自分の気持ち。一体どれを取るのが正しくて、一番上手く終わらせられるのか。どれかを取れば必ず何かを失い、必ず後悔するはずである。

 その迷いは今の今まで燻り続けており、だからこそ萃香の問いに「分からない」と答えるしかなかった。

 

 ――だが、ここが決めねばならない時なのだろう。

 

 この先へ突き進むも、この場で立ち止まるも、決定を先送りにしてただ駆けていたところに萃香が立ち塞がったことで、どの気持ちを優先すべきかをはっきりさせなければならなくなった。

 そして数瞬の沈黙の後、椛は――心を決めた。

 

「……いいえ。半端なんかじゃ……ありません――っ!」

 

 確固たる意志で。迷う心を振り切って。椛は否定の言葉を口にする。

 

 自分が何を望んでいるのかを考えた時、椛は案外素直に答えを見つけることができた。

 それは確かに、傍から見れば半端なものなのだろう。どっちつかずな答えで、決めつけるのを放棄しただけで、まるで物語のハッピーエンドしか知らない乙女のような楽観的な思考なのだろう。

 だがそれを――心に決めたことを、外から“半端だ”と決めつけられる筋合いはない。

 

 妖怪は欲の権化だ。それは萃香も肯定した事実。己の望みに素直になって何が悪いのだ、と目の前の大妖怪は高らかに唄う。

 だから椛も、萃香がどれだけ半端だと吐き棄てようと、己の手でソレを掬い取るのみである。

 

「あなたがどうお考えなのかは知りません。文さんの気持ちも多少は分かります。自分が二人を止めたいのかどうか、止められるのかどうかは分かりません」

 

 ですが――と、椛はその瞳を、目の前の強大な“敵”へと向ける。

 

 

 

そんな事私には関係ない(・・・・・・・・・・・)。私は吹羽さんに死んで欲しくない。だから助ける。そこに立ち塞がるなら、私はあなたを斬り捨てます」

 

 

 

 椛の宣言に、萃香は少しだけ驚愕に目を見開いた。

 ああ、そうだ。吹羽に死んで欲しくない。出会って数日にも関わらず、椛は心の底からそう思えた。

 きっと、魅せられているのだろう。いつか烏天狗に話した、吹羽の“人を惹きつける雰囲気”に。だがそれが危険な香りのするものではないから、こんなにも自分は吹羽の危機を救いたがっている。

 

 それに、吹羽は紛れも無い友人なのだ。

 天狗族の任務を愚直にこなしてきた椛にとって、友人と胸を張って言える相手はある河童の少女しかいなかった。そこに吹羽が現れ、しっかりと「友達になろう」と言った訳ではないけれど、お互いがお互いを心配し助けようと思える“友人”となった。

 故にこそ、椛はその数少ない友人を絶対に失いたくない。

 

 椛は改めて自分の心を再確認すると、刀の柄を強く握り締めた。

 震えはもう無い。萃香が放つ圧力は欠けらも弱まってはいないけれど、身体に迸るのは己の鍛え上げて来た技と妖力だけだった。

 

「――……いいね、前言撤回だ」

 

 豪快な笑みが、ビリビリと大気を振動させているかのように椛へと圧力を感じさせる。

 その瞳に映っていたのは、先程までの暗い色の氷ではなく、一人の戦士へと向ける熱い闘争本能。

 

「どうやら、お前はまだ“妖怪”だったらしい。その我に素直な答え、わたしは嫌いじゃあないよ?」

「評価なんて求めていません。駄弁るだけなら退いてもらいたいのですが」

「おっと失礼、そっちは撤回しちゃあいないからね。意地でも退かないよ」

 

 それにな――そう、萃香は続けて、

 

「お前ら、人間を舐め過ぎだぜ? 連中は言うほど柔な種族じゃない。それこそ一天狗の助けなんて、巨大な防波堤の後ろに小石の支えを積むようなものさ」

 

 と、少しばかり非難の色が混ざった声音で言うと、萃香はすぅと構えをとった。

 椛も片足を引き、瞬時に抜刀できる体勢を作る。

 身体は重かった。萃香の重圧も先程の拳も、確実に椛の身体を侵し、破壊している。だが身体が壊れた程度で諦めるのは椛の性分ではなかった。“愚直”とは、悪い言い方をすれば“ひたすらに頑固”であり、“諦めが悪い”ことなのである。

 

 そして、どちらからともなく。

 

「いざ」

「尋常に……」

 

 視線が、交錯して。

 

「「――勝負ッ!!」」

 

 二人は地を、踏み砕いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 もうもうと立ち込める煙の中で、薄っすらと意識が覚醒する。

 意識を吸い取られでもしたかのように靄のかかる思考は、身体中の痛みによって無理矢理に引き戻され、血の滲んだ傷を余計鋭敏に感じて顔を歪めた。

 そうして吹羽は、あれ? と。

 

 

 

 ――死んで……いない?

 

 

 

 刃の塊が打ち下ろされる瞬間を見た。その瞬間の文の喜悦を見た。そしてそこに、吹羽は自らの死を悟った。

 身体を動かそうとすれば傷がじくりと痛み、吹羽にこれが現実なのだと訴えかける。

 傷は沢山ある。切り傷に擦り傷、皮が剥けて血の滲んでいるところもあるだろう。だがどれも今すぐ致命傷になるようなものではなかった。

 

 予想外の事態に思考が定まらない吹羽。

 そこに答えを放って投げたのは――土煙の向こうに立つ、彼女。

 

「あはっ、イイ顔してるわよ吹羽?」

 

 頬を染めて恍惚と微笑む文はとても扇情的で、しかしそれに、吹羽はとてつもない悪意と殺意を感じた。

 彼女の感情が昂ぶっている事は、その口調がシンプルに示している。

 悪寒が走るほどの不気味さを放っているのに、そこに艶麗すら滲ませる彼女の姿は、もはや吹羽に恐怖以外の感情を生ませはしなかった。

 

「痛い? 痛いわよね? 全身がきりきり痛んで呼吸するのも苦しくて、辛くて辛くて仕方ないわよねぇ?」

 

 酷く愉快そうに矢継ぎ早に問う文は、答えなど求めていない――否、分かり切っているとばかりに高嗤う(・・・)

 その声音に震えながらも、吹羽はゆっくりと、血の流れ出る二の腕を抑えながら立ち上がった。

 

「……な、なんで……殺さなかったんですか」

「――さっき言ったじゃない。もう忘れたのかしら」

 

 ぴたりと笑うのを止めた文は、再び能面のような無表情で冷たく言う。

 そして、口を三日月に歪めて、

 

「死んでいく感覚を、全身で楽しんで――ってさ。一瞬で殺してもらえる(・・・・・・・)なんて、本気で思ってたの?」

 

 ――寒気、が。

 その冷酷無情な言ノ葉から、吹羽は暴力的なまでの悪寒を感じた。

 そして、吹羽は悟る。文はきっと――殺してくれ(・・・・・)ない(・・)、と。

 

 吹羽を生かしたまま、嬲り続けるということ。痛いと叫んでもやめてと泣いても、きっと文は嬉しそうに嗤うだけできっと助けてはくれないということ。

 そして、もし吹羽が殺してくれと頼んでも、きっと簡単に殺してはくれないのだ。

 それは精神的に子供である吹羽が直面するには、あまりにも残酷過ぎる未来だった。

 すぐそこまで迫った未来であり、訪れることが確定した未来(悪夢)

 雪崩のように血の気が一瞬で引いてくらりと目眩を感じると、吹羽の酸欠寸前の頭で定まらない思考を爆発(・・)させた。

 

 胸が痛くて苦し寒いよ息ができななんでどうしこわいこわいこ嬲られる刻まれる壊され殺されないでも死ぬこともやだいやだいやだいやんなの夢に決まってに帰りたい死にたくない死にたくない死にたくない。

 

 

 

 ――なら、逃げなきゃ。

 

 

 

 これくらいの傷ならまだ走れる。吹羽は濁流のような思考の中でたった一つ見つけた結論に縋り、文に背を向けて駆け出した。

 脚は重い。血が固まるまで待てないため、動くたびに傷が開いて鋭い痛みが襲い来る。

 それでも脚だけは止めちゃダメだ。止めたが最後、きっと吹羽は拷問の果てに心も体も壊し尽くされて殺されるのだろう。

 それだけは嫌だと恐怖に煽り立てられ、強迫観念にも似た感情が必死に脚を動かす。

 

「あは……鬼ごっこね。ふふ、いいわ付き合ってあげる。精々逃げ回ってみなさいな」

 

 背後で聞こえてきた声に、吹羽は決して振り向かない。そんな余裕はなかったし、今は文の顔を見ること自体がとても恐ろしかった。

 だって、今この瞬間ですら彼女の笑顔が脳裏を過っているのだ。そこには悪意も狂気も殺意だって欠片もなくて、素直に綺麗で可愛らしいと思っていた。

 ……そんな時に、文のあの表情を見てしまったら、足を止めて蹲ってしまいそうだった。

 

 これが現実なのだと理解する心と、それを必死で否定して認めようとしない心が、相反してぶつかり合って、思考がぐちゃぐちゃになっていく。

 そしてそうなれば、吹羽はきっと文に追いつかれて、死ぬよりも残酷な仕打ちを受けるのだろう。

 

 ――それだけは、いやだから。

 

「(とにかく山を下りなくちゃ……)」

 

 ここは天狗のテリトリー、つまり文にとっては庭同然のはずだ。そんな中で逃げ回るのは無理がある。

 僅かな斜面でも、降りていけば必ず平地に出るはずだからと、吹羽は斜面を転げ落ちないよう少し踏ん張りを効かせて降りていく。

 ……と、次の瞬間だった。

 

 ――頭のすぐ側の木から、強烈な炸裂音が響いた。

 

「! きゃあっ!?」

 

 駆けることに必死だった吹羽に、それはあまりな不意打ちが過ぎた。

 吹羽はその唐突な烈音に、思わず驚いて転倒する。

 反射的に音の聞こえた木に振り返ると――その表面が、ズタズタになって抉れていた。

 

「(文さんの……風の弾丸!)」

 

 自分の身体に無数の傷を刻んだ、刃の嵐が脳裏を過る。その傷と酷似した木の傷付き具合は、文が背後から殺傷弾を撃ってきていることを示していた。

 再び、反対側の木に似たような音が響く。

 吹羽は震える心を無理矢理押さえ付けて、必死に駆け出した。

 

「ほらァ、追いついちゃうわよォ!?」

「(速くしないと……もっと速く!)」

 

 身体中の傷は足を動かすたび、体が揺れるたび、息をするたびに悲鳴をあげる。

 絶えず動いた為に血は止まらず、少しずつだが確実に流れ出ていた。自分の身体が徐々に冷たくなっていく気がして、吹羽は意識が遠くなる感覚を覚えた。

 

「うっ……〜〜っ、」

 

 ……なんで、いつ、どこで間違ったんだろう。

 傷が痛い。胸が苦しい。脚が重い。本当は文と仲良く話しながら椛の家を訪ねて、二人で彼女を元気付けるだけのつもりだったのに。

 なんでこんなに苦しいんだろう。なんでこんなに辛いんだろう。一体どこでどうすれば、こんなことにならずに済んだのだろう。

 答えの出ない問いと後悔がぐるぐると頭の中を回る。まともな思考などできる気がしなかった。

 

 今はただ、文が怖い。今まで直面したどんなものよりも彼女が恐ろしくてたまらない。今この時まで遠い先のことだと思い込んでいた“死と狂気”というものが、形を伴って迫ってくるようだった。

 

「(っ、今は……逃げなきゃ――!)」

 

 巨大な津波となって押し寄せる痛み、疲れ、苦しみ、そして恐怖。

 震える身体を押さえつけ、思考を手放そうとする頭を必死に繋ぎ止めて、吹羽は涙の浮かぶ瞳を前へと向ける。

 

 “死”は常に、背後を付け狙っていた――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 少し時を遡り、山の中腹。

 一瞬で姿を消した椛に、烏天狗は呆気にとられて佇んでいた。

 咄嗟に声はかけたものの、まさに脇目も振らずとばかりに姿を消した椛の背中はどこか凄まじい焦燥を感じさせる。一体何が彼女をそこまで追い詰めているのか、烏天狗には全く分からなかった。

 

「……ふむ」

 

 ――吹羽が文といることに、それほど重大な意味があるというのか。

 普段から冷静沈着な椛のことだ、何か大きな勘違いをして二人の関係を危険視している、という事もないだろう。となればやはり、彼女の焦燥は吹羽と文になにかしらの浅からぬ因縁があることを示している。

 

「(追いかけたほうがいい……のか?)」

 

 吹羽をここへ連れて来たのは自分だ。そしてそれを言い出したのも自分であり、文に引き渡したのも自分である。

 これで吹羽に何かあったとなれば、公平主義を謳う彼にとっては非常に寝覚めが悪いし、またそれから先彼女と顔を合わせる事も出来なくなるだろう。彼女程の刀匠と縁が切れるのは実に惜しい。

 

 少々打算的な思考が混ざりはしたが、結論としては既に出ているも同然だった。

 早速黒く大きな翼を広げ、空へと舞い上がろうとした――その刹那。

 

 

 

「まぁ待たんか」

 

 

 

 と、肩を掴まれ地に押し付けられる。その力は暴力的ではないにしろ、言葉とは裏腹に抗し難い圧力を生んでいた。

 振り向けば、

 

「てっ、天魔様ッ!?」

「うむ」

 

 多少強面な雰囲気を醸す天魔 冴々桐 鳳摩を前に、烏天狗は急いで跪く。

 追いかけようとした気など一瞬で消し去り、目の前の主へと最大の敬意を表した。

 

「て、天魔様。何故こちらに?」

「ああ、お主があやつらの下へ飛ぼうとしたのが見えたのでな、それを止めに来た。丁度先程、全天狗に待機命令を出したところじゃ」

「…………なる、ほど」

 

 ――つまり、烏天狗が飛ぼうと羽を広げたその刹那に。

 鳳摩はその瞬間を見て、判断して、翼を広げ、空を駆り、羽音もさせずに着地して、肩を掴んで地に下ろした、と。

 

 天魔がこんなところへ来た理由に驚くより、烏天狗はその途方も無い事実に戦慄した。

 天狗の頂点たる者の、それ(・・)たる理由を見せ付けられた烏天狗は更にふと、こう思う。

 これより強いと言われた先代天魔様は、一体どれほどのものなのか――と。

 

「……そ、それで、何故追ってはならぬと」

「うむ。己の意思(・・・・)を――……」

 

 と、先程炸裂音の響いた方向の、空を見据えて。

 

「嘘偽りない心を、見つけ出さねばならぬからじゃ」

「……心、ですか?」

「うむ」

 

 要領の得ない返答に、烏天狗はその程度の問いしか返すことができなかった。

 しかしそれは承知の上とばかりの天魔は、“烏天狗に返答する”というよりもむしろ独り言を呟くように言葉を落とす。

 

「もうすぐ古くからの()が……良くも悪くも晴れるのじゃよ。その為に、必要のある者(・・・・・・)以外に誰の介入も許すつもりはない」

「……失礼ながら、それは……」

「ああ、お主は察しがいいのう」

 

 声音と共に、ようやく烏天狗を捉えた言葉は、僅かに口角の上がった口から放たれた。

 振り返りながらに言った天魔は再度烏天狗から視線を外すと、過去の記憶を想起するように目を瞑った。

 

「儂はもはや“必要のない者”じゃ。あの日あの時……儂の心は既に決まっていたからのう」

「……意味が、分かりかねますが……」

「ハハハ、良い良い。これは年老いた爺の懐古じゃからの」

「はあ……」

 

 溜め息混じりの相槌を打ちながら、これ程抽象的な天魔様も珍しい――と、烏天狗は心の片隅で思った。

 天魔は物事をはっきりと言うタイプの人物である。遠回しな言葉を使いこそすれ、話し相手に理解の及ばない会話はほとんどしない。

 聞いた話では昔からこういう性格で、面白ければがっつりと食いつき気に入らなければ殴りかかる……そのような、言うなれば非常に“素直”だったらしい。

 そう伝え聞き、何より自分で見聞きした天魔という人物への理解があるからこそ、今の彼が少しばかり不思議な感触だった。

 

 天魔は視線を再び森の方へと戻すと、また呟くように、

 

「あやつは思い知らねばならん。そしてケジメをつけなければならん。あの方が意図したすれ違い(・・・・・・・・・・・・)を、今こそ正さねばならんのじゃ」

「あの方……とは?」

「儂の古き友……そして師のようでもあった方じゃ」

「天魔様の、師……」

 

 ――想像は付かない。そも鳳摩自身が烏天狗の理解の外の存在なのに、その師なんて人物に考えが及ぶはずもないのだ。

 ただ、古き友だと語るその時の。

 何処か哀愁の漂う瞳が、まるで残像のように視界に残って。

 

 烏天狗は思考する。

 吹羽と文にどんな因縁があったのか、一体何を抱えているのか。そして天魔が動き、他の介入を許さないとまで言い切る事柄ならば、恐らくは天狗族全てに関わる事なのだろう――と。

 

「(であれば、後は――)」

 

 椛が、何か良い方向に導いてくれることを願うしかない。

 烏天狗は変わらず跪きながら、椛の走り去った方向の空を見上げる。

 

 快晴だった空は、少しずつ鉛色の雲に覆い隠されようとしていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「はぁっ、はぁっ……う……っ、」

 

 ――どれくらいの時間を、逃げたのだろう。

 朦朧とする思考にそれを考える余力は残っていなかった。たった数分逃げただけの気もするし、もう何年も追われ続けている気もする。時間感覚なんてとっくにない。ただ背後から迫る恐怖から逃れるように、殆ど感覚のない脚を回しているだけ。

 身体は既に枝に引っ掛けた傷や飛び石、そして風の弾丸による切り傷でボロボロになっている。白かった服も、もう殆どが赤黒く染まってしまっていた。

 ――逃げる気力が、底を着き始めていた。

 

「おやぁ? もう終わりなんですかぁ?」

「っ!」

 

 風の弾丸が、言葉と共に頬を掠めた。

 霞んだ視界では着弾点は見えないが、きっと無残にもズタズタに切り裂かれているのだろう。掠めた頬にも切り傷が一つ、浮き出た赤い雫が、すぅと顎まで伝う。

 

「こっちも……だめ……っ!」

 

 振り切るように呟くと、吹羽は抜け落ちてしまいそうな脚でゆらゆらと踏ん張り、なけなしの力で方向を変える。もう何度も繰り返している事である。

 ――そうして逃げていて、一つ思ったことがある。

 それは確かに残虐でありながら、考え方によっては“希望”ともとれる事実だった。

 

 身体を掠めていく弾丸は絶え間がなく――但し弾幕ほどではない――周囲で炸裂を引き起こす。その時の木の破片や石が飛んで身体を傷付けて、次々と血が浮き出してくる。頭だって本当のところは、正しく働いているのかも定かでなかった。

 ただ、そう――掠めるだけ。

 つまり、今のところ文は吹羽を殺す気がない(・・・・・・・・・・・)という事である。

 

 もちろんゆくゆくは殺すつもりだろう。それも彼女が考え得る最も残虐非道残忍無惨な方法で。

 それは確かにとても恐ろしいし、考えるだけで震えが止まらない。それだけ今の文は何もかもが悪魔的且つ暴力的で、何もかもが破綻していた。

 

 だが、まだ殺されないのなら、希望はある。

 

「(殺される前に……殺す気になる前に、里に降りられれば……ッ!)」

 

 人間の里に天狗は入ってこれない。それは結界などの物理的障害があるからではなく、そういう協定(・・)があるからだ。

 人間の里は安全な領域だ、と。

 危険な妖怪は入るべからず、と。

 人間と妖怪の共存を謳ったこの世界の頂点が――何よりも強大な存在が、大昔にそういう掟を創ったのだ。

 何よりも高次の存在が創造した、意識にすら入り込む“見えざる壁”。

 だからこそ天狗達が押しかけてきた時問題になったし、あの烏天狗は吹羽に対して懺悔の姿勢を表した。

 

 そんな人間の里に入れれば、流石の文も暴れたりはしないはずだ――と。

 

「(それなら……無理矢理、にでもっ!)」

 

 入れてしまえばこちらの勝ちだ。傷だらけで駆け込んだ少女を見て見ぬ振りをするほど人間達も白状ではないし、九分九厘命は助かる。あとはどうにでもできるのだ。

 辿り着いた最善の策――強引と言えなくもないそれに、吹羽は躊躇う理由を見出せない。心身共に限界などとうに過ぎ去っているのだ、いつまでも逃げてはいられない。

 

 吹羽は相変わらずふらふらな脚をどうにか斜面の方へと向けると、力を抜く形で一歩を刻み始めた。

 人間は斜面を下る時、脚という支えを出す事で踏ん張りを効かせる。そこに何らの力は必要ない。疲れ切った彼女には最適な歩行方法といえよう。当然、速度も少しずつ上がっていく。

 心なしか、背後から飛来する弾丸の音も遠くなっていくような気がした。

 

「(いける……振り切れるっ!)」

 

 遠ざかっていく恐怖の気配に、吹羽は生存への光を見出した気がした。

 そうだ、初めからこうすれば良かったのだ。弾丸を避け続けることに傾倒するのではなくて、無理矢理にでも斜面を下って里に降りることを目指していれば良かった。そうすればこんなに傷付くこともなかっただろうに。

 

 暗闇で差した光に導かれるように、吹羽は疲労など忘れて力一杯に駆け出した。

 これで助かる。生きられる。死なずに済む。そして文に会うことも、きっとこの先なくなる。

 色々な思いが溢れ出して、そしてそれらは決して不快な色など現さず、吹羽の心のうちに広がり咲いて甘美な香りを振り蒔くかのようだった。

 

 そして、薄暗かった森の先に光が見えた。比喩ではなく、正真正銘陽の光。ずっと下ってきたのだから、きっとあの先が人間の里。

 足が自然と早くなる。背後に迫る恐怖なんて気にしてすらいなかった。

 吹羽は遂に呼吸することすら忘れて走り、その光の先へと手を伸ばした。掻き分けた木々や枝の先、向こう側の日の差す場所へと一心不乱に飛び出して吹羽は、

 

 

 

「え――……?」

 

 

 

 ――眼前の光景に、絶望した(・・・・)

 

「そんな、ここ……さっきの……!?」

 

 見覚えのある木々。光差す葉々の間隙。黄土色と小さな固形物の混合した吐瀉物。そして無数の刃を突き立てられたかのような、抉られた地面。

 

 ――吹羽が文を追いかけて辿り着いた、始めの広場だった。

 

「く、ふっ、ふふふふ……あはははははははっ!!」

「ッ!!」

 

 刹那、立ち尽くす吹羽の鼓膜に狂気染みた嗤い声が突き刺さった。

 頭の中でけたたましい警鐘が鳴り響く。脳内の血を全て出し切ってしまったかのように思考が冷え切り、全身の感覚は一瞬で凍り付いた。

 吹羽はその声音にびくりと体を震わせるも、振り返ることはできない。思考とは裏腹に、身体が――本能が意識から離れてそれを拒否していた。

 

「あはっ、まさかとは思うけどさぁ――」

 

 動け動け動け動け。

 脳内に響き渡る鐘の音に混じって、怒号にも似た焦燥の叫びが聞こえる。

 そして何より、“死”の足音が気持ち悪いほどによく聞こえた。

 手も動かない。足も動かない。頭も働かない。口も乾き切り、喉も震えず、心臓すらも動いていないかのように感じる。

 そして、どうにかこうにか、一瞬の瞬きをした刹那。

 

「――“逃げられる”なんて思ってないわよね?」

 

 

 

 背筋の凍るような文の微笑みが、目の前にあった。

 

 

 

「ひ……っ」

 

 ――全身が恐怖に竦んだ吹羽に、避けられる道理はない。

 文の放った風の一閃は、観えてはいても(・・・・・・・)避けられず、彼女の言葉を体現するようにお腹の薄皮だけを斬り裂いた。――にも関わらず、平和に育ってきた吹羽には見たことも感じたこともない程の血液が吹き出し、切り傷は叫びたくなるほどの激痛を走らせる。

 

「ほらぁ! 蹲るなって言ってるじゃない! 顔見せなさい、よッ!」

「きゃうッ!?」

「加減、してたのよッ! すぐ死んだりしないように、ここに戻ってくるように、ねぇ! 笑い堪えるの大変だったわ! あんた、私が誘導してるのも知らずに必死なんだもの! あはははははっ!」

「ぐっ、ぅうあぁぁあぁあッ!!」

 

 激痛に蹲った吹羽に対し、冷たく見下ろす文は吹羽の腹を痛烈に蹴飛ばすと、狂気的な高笑いを上げながら傷口を蹴り付ける。踏み躙る。

 

 ――痛い。痛い痛い痛い痛いッ!

 痛い熱い苦しい辛いやめてやめてぐりぐりしないでッ!

 踏み付ける脚は万力のような力で内臓を押し潰し、ゆっくりと抉るように蠢く。血がどんどん流れ出吹き出、みちみちぶちっ、と体が千切れていく音が気持ち悪いくらいによく聞こえた。

 地獄でいたぶられるかのようなその責め苦に、吹羽は言葉を紡ぐことも出来ないほど思考を蹂躙されていく。

 自分が、壊されていく感じがした。

 

「どう? 必死に逃げた挙句同じ場所に戻ってきた気分は? もっと泣いてもいいのよ? 叫んでいいのよ? ほら……ほらァッ!」

「っ、はあ゛ッ……ぅぐ……うぅ……っ!」

「なんか、言いなさいよッ、叫びなさいよ! 命乞いの一つでもッ、してみなさいよォッ!!」

「かはっ……あうッ! ゃ、やめ……て……ぇ――!」

「はああっ!? 聞こえない! もっとでかい声でッ、言えェッ!!」

 

 ――もう、何も考えられなくなっていた。

 襲ってくる痛みがあまりに強過ぎて、破滅的で、どんどん思考回路が崩れていく。壊れていく。

 もう逃げることなんてできない。そんな力も気力も気持ちだって一瞬で擦り潰された。抵抗するなんて考えられない。

 ……そもそも、友達だと思っていた文に裏切られた時点で吹羽の心は折れかけも同然だったのに、この拷問のような仕打ち。まだ幼い吹羽にはあまりに厳しく、そして残虐に過ぎる。

 

 投げ出された手足は血に濡れて、押し潰された腹から内臓が飛び出てきそうだ。瞳からは痛みとも悲しみともつかない涙がひたすらに溢れ出て、口からは意識とは全く掛け離れた苦悶の声ばかりが出てくる。

 

 身体は重く、気持ちは薄れて、思考は意識と離れていく。

 濃霧のかかった、限りなく真っ白な思考の中で吹羽はふと思う。そして彼女の小さな口は、その思いをするりと微かに漏らした。

 

「ぼく、が……いっ、たい……なにを、して……」

 

 ――文にこんなにも恨まれる覚えが、吹羽にはない。

 だって彼女とは、出会った当初から仲が良かったのだ。仲良くしてきたつもりだったのだ。いつだって彼女は笑ってたし、楽しそうにしていた。そもそも吹羽は、あの日出会うまで文と面識はなかったのだ。それがどうして、こんな事に?

 

 文は父親を吹羽の祖先に殺されたと言っていた。それは確かに怨嗟を生むには十分過ぎる理由だと思う。吹羽だってきっと家族が殺されたりしたら、殺した相手を生涯恨み続け呪い続け、死んで欲しいと願うかもしれない。

 

 ――でも、文のそれは、祖先であって吹羽ではない。

 

 遠い昔の先祖。直系とはいえ他人と思って差し支えないほど遠く離れた人物である。その他人が犯した罪と、それに端を発する文の凄まじい怨恨を、如何な理由で吹羽が清算しなければならないと言うのか。

 

 どうにもならない現実。取り返しのつかない過去。届かぬ言葉。

 ――これが、真の理不尽だとでも言うのか。

 全く無意識に、そして絞り出すように零した言葉は自分の思考の中で反響する。動かない身体とかけ離れた意識の中で、それはまるで“納得がいかない”と叫び散らすかのような激しい波紋を刻んで。

 ただ、そうして薄れゆく意識の中に入り込んできた言葉は――全く以って、想像だにしないものだった。

 

「――……ああ、そうだったわね」

 

 ――すぅ、と。

 どこか意識の遠くで響いていた笑い声はぱったりと途絶え、ずっと腹にのし掛かっていたモノもいつの間にか無くなっていた。そして何か(・・)が身体の内に流れ込んできたかと思うと、次第に頭から霧が晴れて意識がはっきりしてきたのだ。

 回復した思考で不思議に思い、視界を認識すると――文は少し離れた場所で、背を向けていた。

 

「……楽し過ぎて忘れてたわ。理由も言わずに痛め付けてもつまらないものね」

 

 本気で忘れていたとばかりにやれやれと身振りする文の背中。

 何処か道化染みているな――なんて思ったのは、彼女の表裏を垣間見た故か、それともただの現実逃避なのか。

 

「何も分からないまま死ぬなんて許せない。身体を壊すのは私の手だけど、あんたの心を壊すのは“理由”でなきゃならないわ」

 

 ――“目は口ほどにものを語る”という諺がある。

 そう言いながら振り返った文の瞳を目の当たりにして、吹羽は自分の甘さを痛感した。

 その瞳の奥にあった色は、もはや形容し難いほどに黒く淀んだ呪いの色。

 吹羽が理不尽だと、なぜ自分がと叫んだところで、その上から怒号で砕き散らすかのように。

 どれだけ理不尽であろうと、関係がなかろうと、絶対に晴らしてみせるという真黒な覚悟が、文の中にはあった。

 

「教えてあげる。戦のとき何があったのか……私が何を見たのか。あんたが死ななきゃならない、その理由を」

 

 数瞬の間を置いて、文の唇がゆっくりと開いた。

 

 ――時は、数百年前に遡る。

 

 

 




 今話のことわざ
()(くち)ほどにものを(かた)る」
 情のこもった目つきは、言葉で説明するのと同等に、相手に気持ちが伝わるものだということ。


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第二十話 射命丸 文

 

 

 

 とても――そう、とても平和な時代だった。

 自然は潤沢に生い茂り、仲間は大きな諍いもなく社会を形成し、そして何よりも天狗族に敵という敵は存在しなかった。

 文は、そんな時代に生まれ育った。

 

 当時の天狗は、その戦闘能力と知性、何より統率力を他の種族に恐れられ、妖怪世界の一端を担う一大勢力だった。

 当時から妖怪の山(テリトリー)への侵入者へは“苛烈な歓迎”をしていた故、そしてその強大という他ない背景から、天狗族に反抗する者はほぼ存在しなかったのだ。

 ――というより、その力を恐れるあまり、テリトリーどころか周囲一里ほどには妖怪などほとんど存在しなかったと言っていい。皆、偶然や何かの拍子に境界を踏み越え、天狗の怒りに触れることを恐れたのだ。

 そしてその“怒り”の――恐怖の筆頭としてあげられたのが、天魔。

 

 当時の天魔は、文の父親だった。

 天狗族の首領にして強力無比な大妖怪。その一挙手一投足が、見上げる者の全てを圧倒し、威圧する。戦闘能力も統率力も、人望だって岩盤のように厚い、まさに理想の天魔。そんな彼を、文は当然の如く敬い慕い、憧れさえしていた。

 

 文の中にある最高の天狗とは、正しく父親の姿。

 彼の背中を追いながら天狗としての修行に打ち込む中、きっと文も立派な天狗になれる、天魔様の娘が弱いはずがない――と、文はよく周りの同胞からは言われたが、文はどうしてもそうは思えなかった。

 彼女の中にある立派な天狗とは即ち、父親のような天狗のこと。絶対に超えられはしないと崇拝の念すら抱く相手と、同じようになれるとはどうしても思えなかったのだ。

 そして、同時に――常に彼の隣をいく、あの人(・・・)のようにも、なれるとは思えなかった。

 

 天狗の領域――即ち妖怪の山近辺に、もう殆ど妖怪は残っていない。

 それは前述のように、天狗族の力が――引いては天魔の力が恐ろしく強かった為だ。

 知性のある者は逃げ出した。たとえ偶然でも天狗の怒りを買いたくはなかったから。そんな事で死ぬくらいなら、何処へなりとも逃げ出して力を蓄え、中妖怪程度のお山の大将でいる方がまだ気分が良い、と。

 間違った考えではなかった。命に代えられる誇りなど、持ち合わせている方が珍しいのだ。だから天魔も、わざわざそういう者らに干渉しようとはしなかった。

 

 ただ、そんな中――山の麓には、堂々と住まう種族が一つだけ存在した。

 

 それは、妖怪ですら忌避する領域に存在するにはあまりにも脆弱な種族。体も力も何もかもが妖怪のそれの劣化。おまけに頻繁に栄養を摂取せねば簡単に衰弱し、ほんの少しの傷ですら治癒するのに数日かかる。

 妖怪たちから見れば正しく劣等種。存在する価値すら、妖怪たちには見出せない。

 

 それは――人間。

 

 それも軍隊を率いるような国ではなく、小さな村。たった一つの、民族だった。

 

『文。彼女らは父さんの恩人であり、大切な友なんだよ』

 

 父はまるで口癖のようにそう言っていた。

 まだ彼が未熟だった頃、他の妖怪に殺されかけたところを救ってもらい、友好を結んだ仲なのだと。

 そして、自分が天魔にまでなれたのは間違いなく――彼女(・・)のお陰なのだ、と。

 

『とうさまとあの人間は、仲良しなんだね?』

『……ああ、そうだな。だから文も、“人間”ではなくしっかりと名を覚えなさい』

『うんっ!』

 

 天魔の恩人――彼女の名は、凪紗(なぎさ)。風成という性を持った一族の人間であった。

 凛とした女性だった。薄く白みがかった髪は長く艶やかで、引き締まった表情には若さにそぐわぬ風格を醸し、時折見せる微笑は幼い文が見惚れてしまうほど。

 その後に聞いた話では、彼女は文の父と親しくなった故に一族の長となったそうだ。女性が一族を治めるなど普通なら考えられないと父は言っていたが、彼女ならば容易に熟せてしまいそうだと文は思っていた。それほどの品格が、雰囲気が凪紗にはあったのだ。

 

『なぎさ! わたしにもそれ見せて!』

『ああ、構わないよ文。でも振るってはいけないよ。危ないからね』

『わかってるよ! なんでも切れちゃうもんね!』

『分かってるならいいが』

 

 彼女の一族は所謂刀匠であり、特殊な彫刻師でもあった。

 刀身に刻んだ紋を沿う風は、緩急をつけて収縮・拡散し、ただの刀では成し得ない斬れ味を生み出す。彼女ら風成一族が創造し、そして凪紗が天狗族に伝えた技術だ。それが天魔と凪紗を結び付け、更には天狗と人間を結び付けた。

 そして彼女は、それを用いて瀕死であった文の父を救い、そして彼を天魔にまで押し上げたのだという。

 文の父の、暴風を操る力は風成の紋と非常に相性が良かったのだ。

 

 天魔と凪紗はとても仲が良かった。だから文も凪紗とはよく遊んだ。そして天魔と凪紗に憧れ追いかけていたのが現天魔――冴々桐 鳳摩だった。

 

『さぁ二人共! 今日こそ勝負をつけるぞッ!』

『またか鳳摩。面倒臭い……どうする凪紗?』

『いいんじゃないか。偶には身体を動かさなければ鈍ってしまう』

『懲りないねぇ鳳摩さん。とうさま達に勝てるわけないのにぃ』

『こういうのは勝てる勝てないじゃねぇんだよ文。俺は兎に角二人に力を認めさせたい。ただそれだけの為に戦うんだ!』

『お前十分強いだろうが』

『てめぇに認めさせてこそ意味があるんだよ。お世辞はいらねぇ、心底からの言葉を俺は聞きたい!』

『ま、志を高く持つのは戦士として大切なことだ。いいだろう、私達が相手をしよう』

『ありがとうございます凪紗さんっ!』

 

 二対一では公平でない――なんて野暮を、文は挟まなかった。当時の鳳摩は二人を追いかける事に必死で、故に二人に認められる事に執心していたのだ。

 曰く、二人は共に戦ってこそ真の強さを発揮する。

 勿論どちらも、一人だろうが圧倒的な強さを誇っていた。天魔の操る暴風は凪紗の齎した武器によって強化され、一振りで並の妖怪すら粉微塵にする威力を得た。凪紗の圧倒的な“観察眼”は、天魔の風を操る感覚を教授された事であらゆる事象を観察出来るまでになり、行動の先の先の先を見透かせるようになった。

 だが、鳳摩をして“そうではない”と。彼らの真価とは、経験と信頼――何より二人の人格的な相性により裏付けされた、完璧に息のあった連携にこそある、と。

 

 それぞれと戦って勝ったところで、彼らの強さの底を見ることはできない。二人を同時に相手にしてこそ彼らの本気と相見えることができる。それを前にして己の力を示すことこそを鳳摩が望んでいるのだと、文は薄々と気が付いていたのだ。

 

 三人の勝負は毎度苛烈を極め、しかして天魔と凪紗の勝利に納まっていた。鳳摩は悔しそうに表情を歪めこそすれ、決して言い訳も弱音も吐かなかった。

 簡単に超えられないからこそ目標足り得るのだ、と。彼のそのスタンスは二人をして立派なモノと讃えられ、また文も、そうした彼を見習うようにと父に習った。

 

 文はそんな日々が好きだった。

 立派な父がいて、憧れるに足るその相棒(凪紗)がいて、見習うべき友がいて。

 力がある故に平和を謳歌しつつ、しかし怠惰を貪る訳でなく実力を研鑽し、何よりもそれを認めてくれる人たちが、文の周囲には存在した。

 これを“幸せ”と形容せずに、なんと表そう。

 

 世の中には恵まれない者が存在する。人間に限らず、妖怪にだってそういう者は一定数存在するのだ。

 妖怪は人間の畏怖から生まれ、その畏怖の大きさが個体の力の大きさに比例する。つまり、人間のふとした恐怖から生まれた妖怪は当然力も弱く、またそれ故に研鑽することも難しい。格上の相手と出会ってしまった場合、むざむざと殺されるのを待つ他ないのだ。

 

 文は、研鑽出来る環境に生まれた。

 それは間違いなく、恵まれた誕生(・・・・・・)なのだ。

 それを不幸だと蔑むのは、そういう“本当に恵まれない者達”への――“摂理”への冒涜であると、文は実り切らない思考の中で漠然と思う。

 胸を張って、こう言えた。

 (自分)は、幸福である、と。

 

 ――しかし、そんな幸せな日々を崩壊させる足音は、酒の匂いと拳を打ち付ける音、そして猛々しい雄叫びを引き連れて、やってきたのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 妖怪の山の中腹では、“音”が響いていた。

 それは空を切る、或いは収束したひょうという刃の音。それは撫でた大気を爆ぜさせる豪腕の音。そしてそれは――衝撃に耐えきれず千切れ飛んだ周囲の木々の音。

 決闘というにも、況してや弾幕ごっこというにもあまりに不相応な音が、その地点では絶えずに響いていた。

 

 間断なく振るわれる純粋な力が地面を砕き、大木を穿ち、瞬時に定められた目標へと飛ぶ刃が無数の残跡を刻む。

 たった二匹の妖怪が衝突しているにも関わらず、もはやその惨状は局地的な大嵐が起きたものと同等であった。

 それも当然と言えば当然だろう。片や力を司る大妖怪と、片や天狗族でも名のある“千里眼”。戦闘が苛烈を極めるのは必然であった。

 

 ――そんな中、一際大きな炸裂音が森を揺らし、旋風と形容するにも生温いほど巨大な土煙が吹き上がる。

 土煙の尾を引きながら吹き飛び幾本かの木をへし折って止まったのは、“千里眼”犬走 椛だった。

 

「う……く――っ」

「なんだなんだぁ、もうへばったのかぁ?」

 

 捲き上る土煙を豪腕の一閃で搔き消し、愉快そうな笑みでそう言い放つのは、膨大な妖力と殺気を溢れさせる大妖怪、伊吹 萃香である。

 未だ無傷の彼女に対し、その視線の先で剣を杖に立ち上がる椛は、まさに満身創痍という言葉が相応しい程に傷付いていた。

 

「さっきの宣言はどうしたよ? もうボロボロじゃないか。ギブアップするのかい?」

「ご冗、談……を……っ!」

「いいねぇ、その粋だ」

 

 全身に切り傷擦り傷を作り、萃香の拳によって骨ですら砕けているだろう椛は、しかしその瞳に光を宿したままゆっくりと立ち上がる。萃香はその闘争心溢れる姿に、感嘆の吐息を漏らしていた。

 

 予想できる展開ではあった。

 萃香は大妖怪、そして椛は有名とは言えせいぜい中妖怪である。幾ら強力な武器を持つからと言っても、正面からの真剣勝負に於いて力の差は歴然だった。

 しかし、椛はどれだけ痛烈な拳撃を受けようと立ち上がる。事実、先程萃香の二割ほど本気を出した(・・・・・・・・・・)()を受けて、彼女は今立ち上がっているのだ。

 

 そう――まさにあの日の天狗達のように。

 

「あぁ、思い出すなぁあの時を。あの頃はお前みたいに血気盛んな奴らがわんさと向かってきたもんさ」

「それ、は……百鬼侵撃の乱、のことですか」

「とーぜんっ」

 

 萃香はとんとんと跳躍すると、三度目に地を踏んだ瞬間加速した。踏み込んだ地面は遅れて爆散し、耐え切れなかった大気が衝撃波(ソニックブーム)を生み出す。周囲を薙ぎ払いながら到達した先は当然、よろめく椛の目の前である。

 

「乱れ舞う天狗達の翼ッ」

 

 引き絞った拳を、妖力と共に撃ち放つ。並みの妖怪ならば竦み上がって回避不可なそれを、椛はその鋭い千里眼で以って確実に捉え、倒れ込むように側面へと回避した。

 萃香の獰猛な笑みと共に放たれた拳は、しかし衝撃波のみでさえ背後の木々を圧倒し千切飛ばしていたのだ、確実に――しかし疲労困憊である椛としては、この回避は見事と言えるだろう。

 

「ふッ!」

「地を踏み砕く鬼共の健脚!」

 

 拳を振り抜いた萃香に対し、側面へと倒れ込んだ椛はそのまま懐に潜り込んで鋭く斬り上げた。

 完全な死角からの斬撃。萃香の脇腹を捉えた椛の風紋刀が、鋭利な風の刃を纏って舞い上がるが、それを予期していた萃香は一瞬で体を捻り回し、外に軌跡を描いた彼女の足刀が逆に椛の脇腹を抉った。

 吹き飛ぶ椛の体。情けはないとばかりに、萃香はすぐさま体勢を整えると大きく跳躍し、上空から拳を構えた。

 

「そして人間達の、脆くも鋭い魂と業ッ!」

「ッ!!」

 

 萃香の体重と妖力を乗せた拳が、地にひびを走らせて爆音を響かせる。まるで大規模な土砂崩れでも起こしたかのようなその轟音と衝撃は、飛び散った萃香の妖力と共に木々を掠め、その硬い肌を抉り取っては押し倒す。

 ごうごうと立ち込める煙の中、固く握った拳をずるりと地面から引き抜くと、萃香は横を見遣って徐に口の端を上げた。

 視線の先には――咄嗟に転がり避けた、椛の姿が。

 

「……誰もが戦いに、血に狂い、魂を引き絞って力を振るった。あれ程気持ちのいい大喧嘩は、今も昔もありゃしねぇ」

 

 強者に飢えた肉食獣――言わば鬼族とは、そういう存在だった。

 “理不尽な程の力に抱く恐怖と憧憬”。それが鬼の根本となった感情である。生まれながらに他を逸脱した力を持っていた鬼は、それを存分に振るえる相手を常に求めていた。当然である。彼らの力とは、振るわれた相手が認めてこそ理不尽たり得るのだから。

 そんな彼らが、当時強大な力を持つと知られていた天狗達を見逃すはずはない。

 数と連携で攻めてくる天狗達に対し、鬼達は嬉々として力を振るい、雄叫びをあげ、そして時には嬉しそうに死んでいった。

 そんな血湧き肉躍る大合戦を繰り広げた事が、萃香は堪らなく嬉しかったのだ。

 それはもう、思い出すだけですら恍惚とする程に。

 

「そんな、だから――……」

「あん?」

「あなたがそんなだから、あんな悲劇が起こったんじゃないですかッ!!」

 

 椛の絶叫は、体の傷など感じさせないほどに強く、鋭かった。

 

「喧嘩が楽しい……? 殺し合いが気持ちいいっ!? ふざけないでくださいッ! あなた達の楽しみの為に、文さんは心に傷を負ったんですかッ!? 吹羽さんは今殺されかけているんですかッ!?」

 

 強者を求めた鬼が天狗の話を聞きつけ、領域を侵し、勃発した合戦の果てに天魔は死んだ。

 なれば享楽の為に縄張りを侵した鬼こそが愚かであり、憎むべきである――と。

 椛の言い分は尤もだと、萃香は思った。

 何も間違っていやしない。鬼が鬼である為に、天魔は死んだのだ。その戦いに鬼としての快楽がなかったと言えば、それは全くの嘘である。

 

「ああ、そうさ」

「〜〜ッ!!」

 

 犬牙を覗かせながら椛が踏み出し、爆発的に加速する。その形相はいっそ鬼と言って相応しい程だったが、萃香は涼しい顔でそれを見つめていた。

 

「『狼牙』ァッ!!」

「おっと」

 

 一瞬で距離を詰めた椛は、その勢いを乗せたまま上段に構えた刀を振り下ろした。“狼牙”と名付けられたそれは、加速の勢いと振るう際の風の流れを合わせて爆発的に威力を跳ね上げる技。

 萃香の眼前で完成したその刀は、収束した風が刀身そのものとなり、萃香の身の丈を超える大剣となっていた。

 しかし結局はただの袈裟斬り。勢いと威圧によって怯む事がない萃香にとって避けるのは容易い。

 難なく半身を逸らして避けると、想像以上の強風が萃香の髪を巻き上げ、地面には地割れを思わせる残痕が走っていた。

 

 しかし、椛の猛攻は止まらない。

 

「あなた達が来なければ……っ、あなた達がいなければッ! こんな事にはならなかったんですッ!!」

 

 怒りを乗せた“狼牙”が疾る。真っ赤な憤怒を冷静さで制御された一撃は、怒りの中にあっても刀の鋒をブレさせることはなかった。

 萃香が避けた先で、樹齢何十年にもなる木々が倒れる。長年かけて固まった山肌に亀裂が走る。

 剣戟の応酬が数十にもなった頃、椛は我慢していた何かを吐き出すように、刀を振り上げ――、

 

 

 

凪紗さんが天魔様を殺す事も(・・・・・・・・・・・・・)、なかったはずなのにッ!!」

 

 

 

 ――一筋の血が、宙に飛ぶ。

 刹那の後に山肌を大きく抉ることになる一撃が、萃香の頰を薄く斬り裂いた。

 

「……間違っちゃいねぇ。引き金を引いたのは間違いなくわたしたち鬼だ。わたしたちがいなかったら文は狂わなかったし、風成の子も巻き込まれることはなかったろうよ」

「なんで……なんで平然としてられるんですかッ!?」

 

 非難の言葉を叩きつけながら、椛は再び“狼牙”を交えて猛追する。

 その剣戟はやはり凄まじいものがあったが、萃香は手を出さずに避け続けた。袈裟斬りを半身を逸らして避け、刺突を放つ刀身を拳で弾いて逸らし、斬りあげを傾首して頰に掠める。

 溜まった鬱憤を晴らさせるように、本音を吐き出させるように、剣戟によって砂埃と斬痕が舞うような中を、萃香は無言で避け続けた。

 

「はぁっ、はぁっ、ぅうおおぉぁあああっ!」

「……気は済んだか」

「ッ!? ぐあっ!」

 

 大振りの横薙ぎを屈んで避けた瞬間、萃香はポツリとそう呟いて、がら空きの椛の腹を突いた。

 力はほとんど込められていなかったものの、触れた瞬間に炸裂した妖力が椛の体を小石のように吹き飛ばす。

 弾丸のような速度で飛ばされた椛は、初めと同じように、激しく大木に背を打ち付けて止まった。

 

「ああそうさ。わたしたち鬼がこの山に来なければ何も変わりはしなかった。何事もなくこの地(幻想郷)に辿り着いただろうし、天魔も死ぬことはなかっただろうさ」

「はっ、はっ、分かって、いるなら……! なぜわたしを、止めるのですか……っ!!」

「それは初めに言っただろ。わたしがそうしたいからしてるって」

「罪悪感は、ないんですか……ッ!? 自分の所為で殺される人がいるというのに……殺された人がいるというのにッ! なぜ……っ!?」

「罪悪感、ねぇ……」

 

 弱肉強食の世界で罪悪感を説くとは、まだまだ青い妖怪だな――萃香はふとそう思いながら、一つ溜め息を吐いた。

 

「私は……吹羽さんを、助けたい……ッ! 初めての、人間の友人なんです! そんな人すら守れないなら……私がこの刀を持つ資格は、ありません……ッ!」

「いい心意気だね。武士道とでも言うんだったか。守るべきものがいるから武器を取るってね」

「あなたは快楽主義者じゃない! 加虐趣味でもない! 理性ある大妖怪で、渦中にいた張本人! だから、もう一度だけ願います……ここを通してくださいッ!」

「………………」

 

 ――呆れを通り越した、関心だった。

 たった数回、知り合って一月も経っていないだろうに、ここまでして吹羽を救おうとする椛の姿に、萃香は少し関心を覚えた。

 誰がどう見たって満身創痍である。傷だらけと言うにも生ぬるい程椛の体は萃香の拳によって痛めつけられていた。

 無数にある切り傷からは血が染み出し、特に頭部の傷から流れ出た血液は顔を伝って片目を塞いでいる。骨も数本は折れているだろうし、歩くだけでも激痛が走るはずだ。

 

 それでも、椛の心は折れなかった。

 それは吹羽が大切な友人だからなのだと、彼女は叫ぶ。

 

 この子は本能的に分かっているのだろう。

 萃香が決して気まぐれでここに立ちはだかっている訳でない事を。理由を持ってここにいる事を。だがその理由を知り得ないから、こうして己の心を曝け出してまで請うているのだ。

 

 

 

 全く――どいつもこいつも、と。

 

 

 

「――ッ!? ぅく……っ!」

「ったくよ……踊らされやがって、嫌になる」

 

 刹那、萃香から放たれた強烈な殺気と妖力に、椛は一瞬で意識を失いかけた。

 面倒臭気に呟く萃香は底知れない苛立ちに満ち満ちていて、今にも椛の心臓を握り潰さんとしているかのように錯覚させる。

 

「こんな事なら初めから全部話しとけってんだよ鳳摩の野郎。……いや、こいつに託したってだけかね……」

 

 萃香は吐き捨てるようにそう呟くと、拳を握りなおしてゴキリと音を奏でた。

 瞬間、更にきつく引き締まっていく空気。萃香はやれやれというように――しかし微塵も苛立ちを隠そうとせず、言葉を紡ぐ。

 

「分からせてやらなきゃならねぇんだよ、文の奴にな。今やってる事がどれだけ無意味かを、自分の過ちを以って脳髄に刻み込ませなきゃならねぇ」

「わから、せる……?」

「ああ。その為には……お前はちょっとばかし邪魔なんだ、“千里眼”」

 

 人間も妖怪も、失敗や過ちを犯してこそ真に物事を学ぶ。そしてその必要性は、その“物事”に現実味がない程に高まる。当然だ、現実味がない物事を言葉で語って聞かせたところで、真に理解など出来るはずもないのだから。

 今の文には、学ぶ事が必要なのだ。

 そしてその為に、この志(犬走 椛)は少しばかり邪魔だった。

 

 ただ、椛の志を、理解できるが故に。

 彼女の想いをここに留めて、風成の子へと伝えないままにしてしまうのは勿体ないな――と。

 

 萃香は一つ深呼吸をして目を薄く開くと、息も絶え絶えな椛を、膨大な殺気を以って睨め付けた。

 

「なぁ“千里眼”。お前のその能力は風成の奴ら(・・)によく似ているが、あの女――凪紗は決してその程度じゃなかったぞ」

「なに……を……?」

「同じなのさ。天魔と凪紗も、同胞達を守る(・・)ために武器を取り、わたしたち四天王に立ち向かった。そして見事に一人打ち取ったんだ。……ただの人間がだぞ? わたしはあの二人に人間の――思いの強さを知ったのさ」

「………………」

「……なぁ“千里眼”よぉ――……」

 

 みしり――と、大気が軋む音がして。

 

 

 

「てめぇはその程度なのかって訊いてんだよッ!!」

 

 

 

 萃香の咆哮は音だけに留まらず、無意識に声に混ざった妖力がまるで霊撃を放つかのように拡散した。

 暴風となり、衝撃となり、木々を揺らし時にはへし折り、呼吸が止まったと錯覚するほどに、椛の心臓すらも鷲掴みにする。

 

「風成の子を救いたいんだろ!? 悲劇を断ち切りたいってんだろッ!? 分かるさ! わたしはその始まりを目の前で見たんだっ! 目の前で親友に刺(・・・・・・・・)される父親(・・・・・)を目の当たりにした、文の絶望をッ!」

 

 苛立ちが声となり、妖力を纏って言霊と化す。萃香は無意識にだが、その身の内に燻った思いを椛に叩き付けていた。

 

 そう、萃香が始まりだった。

 立ち向かってきた天魔と凪紗――二人と萃香の闘争とその結末が、全ての引き金だったのだ。

 その悲劇を知り、文の絶望を例え言葉だけだとしても理解し、椛はそれでも吹羽を救いたいと思った。その志は、幾ら立ちはだかる側である萃香であっても手放しに賞賛できる。

 全く以って素晴らしい――と。

 それでこそ友だ――と。

 

 だがだからこそ――それで終わりなのか(・・・・・・・・・)? と。

 

「はぁ……はぁ……っ、なぁ“千里眼”……よく聞けよ」

「………………」

 

 少なからず圧倒された様子の椛へ、萃香は鋭い瞳のまま言葉を紡ぐ。

 それは確かに苛立ちが際立っていたが――その中には、椛に対する関心が根差していた。

 

「わたしはお前の想いを汲んでやれる。その為の力と資格がある! ――気が変わったのさ。その想いは“半端”じゃあない。……確かに本物だ」

「っ! じゃあ――……」

「だが、足りない」

 

 何処か期待に満ちていたような椛の言葉を、萃香は不正解だとばかりに断ち切った。

 

「足りねぇんだよ。想いを糧にした者に感じる、妖怪だとか神だとか全く以って関係ねぇ“畏怖”ってもんが! お前の想いは確かに本物だろうさ。だが……その程度なのかよ!?」

「……っ!」

 

 萃香は言葉の端に被せるように踏み出し、椛の眼前へと躍り出た。

 小細工など必要ない。真っ向から拳を振り上げ、萃香はその膨大な妖力と思いを込めて拳を振るう。

 咄嗟に反応した椛は刀で辛うじていなしかかるも、萃香の圧倒的な圧力に押し負けて側方へ飛ばされた。得意の冷静な頭脳ですぐさま思考を切り替えた椛は、半ば強引に地に足をつけて踏ん張ると、妖力を固めた数発の弾丸を萃香へと放った。

 しかしそれを予期できない萃香ではない。振り向き際に裏拳を放つと、その圧力によって全ての弾丸が散り散りと消えていく。

 

 萃香はその光景を視界の端に捉えながら、ふらふらながらも刀を構えた椛へと突撃する。拳と刃の凄まじい応酬が再び始まった。

 

「足りねぇ足りねぇ足りねぇェッ!!」

「っ、くぅ! ぐっ……!」

 

 かつて凪紗に対して感じた底知れない畏怖を思い、萃香は精一杯の言葉と拳を椛にぶつける。

 彼女にも“先”があるはずなのだ。本物の想いを秘め、そしてそれを振り絞った時、理屈では説明できない底知れぬ力が溢れ出す。

 萃香はそれを目の前で見た。それが己に向けられる様を感じ、畏怖したのだ。

 だってそれを萃香に見せた彼女は、その強い意志の力で以って苦渋の決断(・・・・・)を下し、萃香に一矢報いたのだから。

 

 萃香は確かに椛の思いを汲み取れる。言ってしまえば、“萃香の思惑と椛の思惑は似通ったところがある”のだ。

 だが中途半端な志を汲んでやるほど萃香は甘い妖怪ではない。だからこそ彼女の前に立ち塞がったのだ。「半端な気持ちで行くなら殺してやる」――とはそう言う意味だ。

 

 椛はその思いを示した。

 嘘偽りなく、本心であり、何より覚悟を決めたのだと萃香に認めさせたのだ。

 ――後は、振り絞るだけ。

 その強い気持ちを爆発させ、萃香(自分)という壁を乗り越えろ。そうしてこそお前を認める価値がある。決して……決してその程度であるはずがないのだ――と。

 

 萃香は調子を確かめるように拳をゴキリと鳴らすと、鋭い眼差しで椛を睨め付けた。

 そして口の端を僅かに釣り上げ、彼女の獰猛さを象徴するかのような犬牙を覗かせて、

 

「さぁ来い“千里眼”、仕切り直しだぜ。てめぇの想いを――示してみせろッ!!」

 

 他の何もかもを塗り潰すように、蹂躙するように。

 放たれた萃香の覇気が、強烈な波紋となって妖怪の山に木霊した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――吹羽はただ、呆然としていた。

 

 文の語る戦の真実は、幼い吹羽にはまだ受け止め切れなかったのだ。

 幸せな日々を、よりにもよって近しい人に目の前で壊される――それがどれだけ辛いことなのか、吹羽には想像が出来ない。

 だって吹羽は、そんな凄惨な経験をしたことがない。想像を絶する絶望に呑み込まれたであろう文に対して、軽々しく理解しようとすることの浅はかさを、吹羽はよく知っている。

 他人の絶望を聞かされて、受け止めることなんて出来るはずがないのだ。

 

「(ボクと……一緒……)」

 

 文の大好きだった天魔である父親。彼を追いかけていた若き日の鳳摩。そして親友であった天魔を刺し殺した……風成 凪紗。

 その事実は不覚にも、文が誰かを恨むには十分過ぎる理由だと吹羽にも思えてしまった。

 だって、大好きな人が殺されたら、その犯人を恨んでしまうのは当然のことだ。それを許せてしまうような聖人君子(薄情者)などいるとは思えない。

 

 家族を失う苦しみだけは、吹羽にも分かる。吹羽も家族を失くしているのだ。

 だが、それは“二度と会えない苦しみ”ではない。故に吹羽では、どれだけ頑張っても文を理解することなど出来るはずがない。

 何より、吹羽は霊夢と阿求のお陰で立ち直ることができたのだから。

 

 きっと――苦しみをぶつける相手が必要だったのだ。

 幼い頃に襲い来た絶望をその身の内に溜め込み続けて、悲しみと怒りを燻らせ続けて数百年。溜め込んだ感情を爆発させて、叩き付ける相手が文にはどうしても必要だったのだ。

 そしてそれが、父親の仇(凪紗の子孫)であるならば。

 

 それはどうしようもなく、正当性に満ちている(・・・・・・・・・)――と、思えてしまう。

 

「ねぇ風成 吹羽……あんた、なんで生きてるのよ」

「え……?」

 

 呟くような小さな声で、文はポツリと言葉を漏らした。

 

「父様が死んで、何にも分からなくなってさ……みんな殺して自分も死のうとか思ったけど、その後すぐに人間達も消えちゃったから自棄になることもできなくて……ずっと目の前が真っ暗だった」

「……っ、」

「それである日、あんたを見つけたのよ。すぐに分かったわ。あの女によく似た白い髪と緑がかった瞳。森の中で、魔理沙と楽しそうに弾幕ごっこしてさ……如何にも“幸せです”って顔してさぁ……っ!」

「あ、文さ――……」

「なんでそんな顔出来るのよ。私はこんなに苦しいってのにっ、こんなにしたのはあんた達なのにッ!」

 

 地団駄にも似た足踏みが地を砕く。その拍子に溢れ出した妖力があまりに冷たくて、まるで文の怨念そのものが吹き出しているかのようだった。

 

「知ってるわよ、あんた家族がみんな蒸発したらしいわね。ざまぁないわ。そのまま心も体も焼き切れてしまえば、私も少しはスッとしたでしょうけど……」

 

 殺意と形容するにもまだ足りない、深淵のように真暗でドロドロとした、ただただ悍ましい限りの濁った怨念。

 ゆっくりと振り返った文の赤い瞳は、呪怨と憎悪に狂い切った鈍い光を覗かせて。

 

「ねぇ、なんであんな幸せそうなのよ。なんで普通してられるのよ。なんであんた生きてんのよ。死ねばいいのに死ねばいいのに死ねばいいのに――ッ!!」

「ぅうっ! あうッ!?」

「癪に触るのよっ! あんたの笑顔も仕草も何もかもがァッ! 生きてる価値あるのッ!? 父様の屍の上にいる癖にッ! 返せかえせ私が失くしたもの全部カエセェッ!!」

「……っ、〜〜っ!」

 

 吹羽にはもう、抵抗する理由がなくなってしまっていた。

 確かに文の拷問はとても辛いし気絶してしまいたい程に痛い。妖怪の脚力による蹴りに、徐々に切り口が深くなっていく風の刃。恐らくは骨も何本も折られているし、傷口を抉るように放たれるその何もかもが、吹羽には辛くて仕方がない。

 

 でも――文はきっともっと辛かった。

 

 それは理解など到底できないが、きっと時間の経過ではどうにもならないくらい深い傷が、文の心にはあるはずなのだ。

 八つ当たりなのだと分かっている。拒絶する権利は吹羽にだって確かにある。でも、文の境遇に同情してしまう自分もいる。

 幼い癖に妙に大人びている吹羽の思考は、そんな文の八つ当たりを甘んじて受け入れてしまっているのだ。

 

 ただ――苦痛の中に消えてしまいそうな思考で吹羽は、“文に一つだけ言っておかなければならないことがある”、と。

 

「ぁぁああああッ!!」

 

 怒りを叩き付けるように放たれた刃の嵐が、身体中を傷付けながら吹羽を小石のように吹き飛ばす。

 地面に転がる中で土が傷口に入り込んだり折れた骨が圧迫されたり、泣き喚きたいほどの激痛が走るが、吹羽はむしろ吹き飛ばして(話す隙を)くれた文にちょっぴり感謝した。

 

 このまま嬲られて死ぬなら、もうそれでもいい。

 でも何もせずに息絶えて、家族を失った苦しみから文を救い出せないのは、余りにも遣る瀬無い。

 吹羽はこの短かった人生で最期の役目を果たすつもりでゆっくりと口を開き、喉を震わせ――ようとして。

 

 

 

「――ッ! う、ごほっ……かは……っ!」

 

 

 

 溢れ出したのは、鉄臭くて赤黒い、どろどろの血液だった。

 

「(これ……ボクの、血……? なんで……さっき治ったはずじゃ――ッ!?)」

 

 刹那、吹羽の全身に今までの比にならないほどの激痛が走った。

 まるで体の内側から肉を食い破られているかのような。そして脳内に響く吐き気がするほどの負の感情。体に留まらず意識にすらも侵し入るかのような、あまりにも残忍で凄惨な苦痛だった。

 叫ぶ事ものたうちまわる事も許されない中では、それはもはや破滅的なまでの威力であり、吹羽の意識を一瞬で消えかけにまで追い詰めた。

 

「く、ふふふ……ねぇ知ってた? 妖力って人間にとっては毒そのものなのよ。当然よねぇ? 妖怪は人間の負の感情から産まれるんだからさぁ。だから妖力を使った治療術(・・・・・・・・・)を人間に施すと、死ぬ事もできないまま耐え難い苦痛がいつまでも続くのよねぇ」

 

 言葉が――声が遠い。吹羽の意識はもう既に、身体の内側から襲い来る激痛に耐える事でいっぱいになっていた。

 

「あハッ♪ すごくイイ顔してるわ、吹羽。声も出せず呼吸も出来ず、涙と絶望でぐちゃぐちゃになった顔……とっても素敵♪」

 

 何が起きたのか全く分からなかった。

 だってついさっきまで、傷だらけと言えどここまでの激痛はなかったのだ。こんな唐突に襲いくる痛みなら、もっとじわじわと痛くなるはずなのに。こんな痛み、吹羽は知らない。知りたくもなかった。

 

「あぁ、あぁ、あぁ――っ! そんな、えずくような声、お腹の底がきゅんきゅんするわ! 苦しいのよね? 辛いのよねえ? もっともっと苦しんでよっ! 流れた血が黒く固まって傷口から蛆が湧いて、あんたの体の何もかもが食い尽くされるその果てまでさぁッ!」

 

 聞こえない聞こえない聞こえないっ!

 痛みに耐える事でいっぱいになってしまった脳は、文の言葉を理解することすら放棄してしまっていた。

 ただ視界に映るのは、溢れ出した血の飛び散る様と、恋人に愛を囁かれたように濡れた瞳と蕩けた表情を零す文の姿。

 

「――ああ、でもぉ……ダメだなぁ。おっかしいなぁ……」

 

 だが、不意に見えたその表情が、一瞬だけ。

 

「こんなに楽しいのに、こんなに気持ちいいのに……全然、何にもすっきりしないよぉ……!」

 

 深海色をした想いのかけら――癒えることのない悲しみの色が、見えた。

 

「(ああ――やっぱり、悲しいだけなんだ)」

 

 何をしても、どれだけ時を経ても色褪せることのない悲しみの色。溜め込んだそれが怒りや復讐心と綯い交ぜになって、きっと今の文を動かしている。

 ――文も、他の人と何も変わらないのだ。

 幾ら怒りに焼かれ、復讐心に燃えていて、例えその果てに狂気に呑まれたのだとしても、その根底にある想いはきっと癒えようのない悲しみだけ。

 非力な人間やただの妖怪達と何も変わらない、悲哀を背負った一人の少女。

 

 大切な人が居なくなって、ただどうしようもなく悲しいだけなのだ――と。

 

「(なんだか……もういいや、って気が……してきた――……)」

 

 死ぬのは嫌だ。どうしようもなく怖い。けれどこれだけ苦しんだ後ならば、案外すんなりと死ねるのかもしれない。

 吹羽は相変わらず自分のものとは思えない苦悶の声を聞き流しながら、ふとそんな考えに至った。

 それに何より、こんなにも深い文の悲しみが自分を嬲り殺す事で少しでも和らぐなら、仇の子孫としては“それもいい”と思えてしまう。

 

「そうだ……もう殺しちゃおう。取り敢えず首を刎ねてから手脚を指先から細かく刻んで肉達磨にして……内臓掻き混ぜてぐちゃぐちゃに絞り出したら、頭だけ木に吊るし晒して後は燃やして捨てよう。そうすれば少しはすっきりするはず……」

 

 勿論、言いたいことはある。家族を亡くした絶望に染められた文に対して、吹羽にはどうしても言っておきたいことがあった。

 でも――それはもう、叶わない。

 意識はとっくに霞掛かり、口は意識とは全く関係なしに凄惨な絶叫を放っている。身体は最早自分の意思ではピクリとだって動かないし、もしかしたら既に心臓も止まっているのかもしれない。

 本当に残り僅かな吹羽の寿命(運命)、できることは――死を待つことだけなのだから。

 

「ああ、じゃあ取り敢えず……バイバイ吹羽。あんたとの時間は控えめに言って――」

 

 鋭利な刀と化した文の手刀が、ゆらゆらと振り上げられ――、

 

「死にたいくらい、生き地獄だったわ」

 

 吹羽の細い首を寸断するべく、振り下ろされる。

 

 

 

 ――その、刹那だった。

 

 

 

 遠くなった意識と聴覚が地を砕き割る轟音を、もはや閉じかけていた瞳が眩い虹色の光を捉えた。

 それは吹羽のすぐ目の前で起きていた事だったが、意識が朦朧としていた彼女にそう多くのことが考えられるはずもなく、ただ一つ――、

 

 まだ、生きている、と。

 

「(なに……が……?)」

 

 ぼんやりとそれだけを思い浮かべた吹羽は、その答えを求めるようにゆっくりと視線をあげた。

 鉛のように重い瞼を開き、目の前の光景をようやく脳が認識すると、そこにあった光景は――、

 

「れ……いむ……さん――?」

「……ええ、そうよ吹羽」

 

 吹き飛ばされた文に向かう、博麗 霊夢の背中。

 

「ねぇ文、あたし今から……」

 

 

 

 ――あんたを殺す(退治する)わね。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第二十一話 意思

 

 

 

「は、はは――殺す? 突然現れてなにを言い出すんですか霊夢さん」

 

 文の意思とは関係なく震える身体が、絞り出す声すらも震わせて言葉を紡ぐ。興奮して崩れていた口調も、無意識の内に丁寧語へと戻っていた。

 ――別に、“殺す”と言われたことにではない。そんな言葉はいくらでも言われてきたし、昨今の外界では冗談としても用いられるそうじゃないか。そんな薄っぺらい言葉で震えてしまうほど文は脆弱な心をしていないのだ。

 

 違う。そうじゃない。

 文を本能的に震わせているのは――霊夢のその、表情だった。

 

「なにって、そのままの意味よ。博麗の巫女が悪い妖怪(・・・・)を退治しようとしている――たったそれだけのことじゃない」

 

 見たことのないほど、感情の消え失せた顔。

 感情豊かな霊夢としては有り得ないとまで思えるほど、文を見つめるその表情に感情は写っていなかった。

 たった一つの目的を達成することにのみ思考を傾倒し、他の全ての感情を捨て去ってしまったかのように感じさせるそれは、実力がどうこうと言う以前に本能的な恐怖を煽る。

 

 あくまで淡々と語る霊夢を前に、文はゆっくりと、様子を見るように、言葉を放る。

 

「み、脈絡が無さ過ぎますよ。そもそも何をしにここへ? 私はちょっと吹羽さんと遊んでいただけですよ?」

「遊ぶ……? 吹羽のこの傷が、遊びでついたものだと?」

 

 霊夢は徐に振り返り、呼吸も満足にできないまま横たわっている吹羽に触れると、唄うような声音で祝詞を告げた。

 

「祓い給え、清め給え。この身に入り染む壊毒の、源たるその悉くを我が御力以て打ち払え」

 

 霊夢の掌から淡い緑色の光が溢れる。霊術の一つであろうそれを浴びた吹羽はみるみると顔に赤みを取り戻し、次いで身体中の傷も少しずつ塞がっていった。

 ――よく見れば、文が施した治療術の妖力すらも消え失せている。

 文は内心で舌打ちした。

 

「これで大丈夫よ。血は戻ってないから、暫くは安静にしててね」

「っ、は……はい……ありがとう、ございます……」

「うん。じゃ、ちょっと待ってて」

 

 立ち上がり、再びこちらを向いた顔もまた、無表情。

 しかしその瞳の中に「これでも遊びと宣うか?」という言葉を読み取った文は、こりゃ嘘は無意味と開き直って、溜め息を吐いた。

 

「はぁ……簡単に解いてくれますね。結構強固に掛けた筈なんですけど」

「遺言はある?」

「物騒ですね。何故そんなにも殺気立っているのです?」

 

 少しだけ挑発してみるが、霊夢はぴくりとも表情を変えない。まるで、既に文を殺すことしか考えていないかのように、今の彼女は付け入る隙が全くなかった。

 ただ、何故彼女がこれ程までに殺気立っているのかは本当に分からない。先ほどの問いは文の本心でもあった。

 

 正直に言って、退治される(・・・・・)理由はある。

 それは天狗と人間の里の間にある条約のようなもので、その中で天狗は“里が他の妖怪に襲われないように監視する代わり、妖怪の山への人間の侵入を拒否している”のだ。故に里の人間である吹羽に文が手を出すことは条約において重大な違反にあたり、文自身も退治され罰を受けることはやぶさかでもなかった。だってそれは、どの道吹羽を甚振り虐め嬲り殺した後に起きることだから。

 全て終わった後に自分がどうなろうと問題ではなかったから。

 

 だが――霊夢のこれは、それだけ(条約違反)の理由で現れる表情なのか、と。

 

 彼女は確かに重役だ。博麗の巫女は代々妖怪退治を生業とし、今まで起きた数多くの異変を人の身で納めてきたのだ。今回だって文という妖怪が条約に違反したのだから、罰を下すのは当然当代巫女である霊夢の仕事である。

 だが――彼女はそれほど仕事に乗り気ではない。

 

 異変解決は渋々で、やる気を出すのは自分に被害がある時だけ。

 何事にも興味が薄く、感情は豊かだが決して能動的な性格ではない。

 であれば何故、霊夢はこんなにも殺気を放っている? 何故意識せねばまた身体が震え出してしまいそうなほど冷たい瞳ができる?

 そう、これではまるで――私怨(・・)ではないか。

 

「あんたに、理由なんか言う必要ないわね」

「……何故です?」

「さっき言ったわ」

 

 刹那、霊夢の姿が搔き消え――、

 

 

 

「今から殺すもの」

 

 

 

 声が聞こえるのとほぼ同時、文は反射的にその場を飛び退いた。

 次の瞬間に響いた轟音と地の破片を視界の端に、文は手加減無しに風の弾丸を周囲にばら撒く。すると土煙から飛び出した霊夢は風の弾丸を驚異的な動きで避けながら、無数の退魔符を拡散させた。

 

「(っ、相変わらず出鱈目な人間ね……ッ!)」

 

 霊夢の放った退魔符は文の放った弾丸と衝突し、相殺しながらも確実に文に迫っていた。宙を飛び回りながら弾丸による迎撃も行い、相殺しきれない退魔符は無理矢理にでも避ける。霊夢の放った符には膨大な霊力が込められ、一撃でも受ければ致命的なのは明白だった。

 

「でも、この程度なら……!」

 

 勝算はある。

 出鱈目な戦闘能力を持とうが、所詮人間。そして彼女が得意とするのは弾幕ごっこであり、それはルールとして弾幕に隙間を作らなければならない。

 つまり――霊夢の癖で、避けられる隙間が無意識にできてしまう、と言うことだ。事実文が避け続けているのは、霊夢の苛烈な弾幕にルートのような隙間が続いているからだった。

 そのルートを通って一撃瀕死の符を避け続け、霊夢が疲れたら殺さない程度の威力に設定して適当に弾丸を当ててしまえばいい。博麗の巫女を殺害する事は絶対の御法度であるため少々慎重になる必要はあるが、結局はたったそれだけの、至極簡単な作業(・・)である。

 

 無数の符が飛び荒ぶ中、文はあくまで冷静にルートを駆ける。多少擦りはしたが決して致命傷ではない。

 難なく通り抜け、風を集め、適度に調節した風の弾丸を、しかし目に捉えることすら叶わぬ文の最高速度で打ち出す――……

 

「だから言ってるじゃない。殺す、ってさ」

 

 ぞわり――文の身体が身の竦むような悪寒を感じた時には、もう遅い。

 咄嗟に打ち出すのをキャンセルし、飛び退く隙間を探したときには既に――霊夢の追尾退魔符(ホーミングアミュレット)が、文の周囲を隙間なく囲っていた。

 

 ――これは、一分にも満たない攻防である。

 霊夢がたった一パターンの弾幕を張り、文が瞬時にそれを見極め、回避し切ったところを致死性の弾幕が襲いかかる。たったそれだけの攻防だ。

 しかしその内実、二人の間でどれだけ高度な読み合いがあったかなど傍目にはきっと分からないだろう。互いの挙動、目の動きを追って弾幕を読み切り、秒速何十メートルにもなる弾丸の嵐をあろう事か相殺すらさせ――その上で、文は人間である霊夢に読み負けた。

 霊夢の実力は把握しているつもりの文であったが、その認識がいかに甘かったのかをこの短い攻防の間に思い知る。

 初めからこの退魔符を当てるつもりで弾幕に道を作り、誘導し、致死性の弾幕を問答無用に叩き込む。長々と戦う必要はない。何せ初めから殺す気でいたのだから――と。

 

 文は霊夢の凍り付いたような無表情に改めて戦慄を覚えながら、無意識に、

 

「しまっ――……」

 

 その言葉を紡ぎ切るよりもっと早く。

 一撃瀕死の退魔符は文の身一つに殺到し、視界を、音を、意識を白く染め上げた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 あまりの衝撃に轟々と土煙が舞う中、手応えを確かに感じた霊夢はゆっくりと地に足を付けた。

 手加減などしていない。これは最早弾幕ごっこなんかではなく、ルールに違反した妖怪への罰である。間違っても決闘などという高尚なものではなく、また両者の同意など必要とはしていない。

 そしてそれとは別に――霊夢の私的な、仕返し(・・・)でもあった。

 

「――ふむ、結構頑丈なのね。誘導までしてありったけの退魔符をぶち込んだのに」

「はぁっ、はぁっ、殺す気、満々っ、ですね……!」

 

 独り言のように呟いたその言葉に、返す言葉は土煙の中から響いてきた。

 晴れてきたその中にいたのは、先ほどまでの余裕など欠片もない、傷だらけになった文。

 霊夢は冷めた瞳で、荒い呼吸を零す文を射抜く。

 

「なに言ってんの? 弾幕ごっこでもなんでもない戦闘で、まさか殺されないなんておもってたのかしら」

「分かり、ませんねぇ……! 何故あなたに、殺されなければならないのです? ルールに違反は、していてもっ、その罰が死とは……随分と過激な、巫女だこと――!」

「あら、違反してるのは分かってたのね。じゃあその罰則は今のでチャラにしてあげるわ」

「……ならば、さっさと――……」

「でも、それとこれとは話が別ね」

 

 言葉の端に被せるように、霊夢は両手に構えた退魔針を目にも留まらぬ速度で投げつけた。

 退魔符に負けず劣らずの霊力を含ませた針は空気の壁すら容易に打ち破って襲いかかるが、そこは文も妖怪である、能力で風に体を乗せて咄嗟に回避する。

 それでも数発の針に貫かれた文は、苦悶の声を漏らしながらも反撃の弾幕を放つ。

 霊夢はそれを、涼しい顔で結界を用いて防御した。

 

「あんたを殺す理由が、“罰だ”なんて誰が言った? あたしがあんたを殺すのは、そんな高尚な理由じゃない」

「っ、意味がっ、分かりません! 巫女の役割以上に、優先すべき理由がっ、あるとでも!?」

 

 文の困惑した声が、弾幕の風切り音に混じって聞こえてくる。しかし霊夢は、そんなもの全く意に介さないかのように強烈な弾幕を放ち続けていた。

 まるで苛立ちが弾に力を与えているかのように、文の弾丸を穿ち烈してなお勢い衰えず、文の身体を傷付けていく。

 

 言い分は理解していた。故に文の困惑も当然だとは思っていた。

 だがそれでもなお、霊夢には優先すべき理由がある。霊夢が霊夢である限り、何をおいても、無視出来ないことがあった。

 だというのに、相変わらず非難と困惑の言葉ばかりを叫ぶ文の姿に、霊夢は恐ろしく低い声で、

 

「……うるさい(・・・・)わねぇ」

 

 刹那、ホーミングアミュレットと結界を同時展開して急加速した霊夢は、弾丸を物ともせずに文の眼前へと迫ると、驚愕に目を見開く彼女の眼前で回転し、強烈な踵落としで地面へと叩き付けた。

 ばら撒かれたホーミングアミュレットは空中で急旋回すると、文の墜落した土煙の中へと嵐の如く殺到する。

 そこに数枚の札を投げつけると、霊力を込めた言霊で、宣言。

 

「――『八方龍殺陣』」

 

 土煙を打ち破って、橙色にまで視覚化した霊力がお札を頂点にして炸裂する。

 お札を起点に作られた結界が、内部の爆発を必死に押し留めるように軋みをあげながら天空を穿っていた。

 爆風は結界で留められているものの、その轟音と濃密過ぎる霊力が大気を震撼させ、風が吹いているわけでもないのに地面を、木々を、天空を揺るがす。霊夢がどれだけ本気で文を滅しようとしているのかを如実に表していた。

 

 少しして発動が収まると、霊夢はその光が消えないうちに内部へと飛び込み、当然の如く霊力を纏わせた健脚で、土煙に浮かぶシルエットを蹴り飛ばす。木々に激突し、血反吐を吐き出しながらもたれかかるのは、もはや満身創痍の文だった。

 

 ――劇的。

 文の言葉に苛付いた霊夢の連撃は、目にも留まらぬ早業でありながら容易に妖怪を滅することができるほど強烈なものだった。

 吹羽を相手に、絶妙な力加減で甚振っていた文が手も足も出ず、一撃の反撃すらも許さないその手腕は人々が言うところのまさに“天才”。

 彼女の繰り広げる戦闘は、劇的と称するに相応しいものである。

 

「……まだ死なないの。これだから妖怪の相手ってヤなのよね」

「〜〜っ、」

 

 文の目の前に降り立った霊夢は、酷く無関心な瞳で彼女を見下ろす。

 その瞳には心底悔しげに霊夢を見上げる文の姿が映っていたが、歯軋りする力すら残っていないのか、何処か迫力に欠けていた。

 

「私を、ころして……どうする、つもりですか……?」

「どうもしないわ。あたしの目的が達成されるだけ」

「非情、なんですね……生き物を殺して、平気とは……」

「今更よ。あたしは巫女。巫女は無用な殺生も出来なきゃいけない。今までだってそう。これからもそうよ」

「……薄情な、人間……」

「薄情? ……あんた、何言ってんの?」

 

 え――と掠れた吐息のような声が漏れる。

 霊夢はそんな文を冷めた瞳で――否、絶対零度の(・・・・・)怒りを以って(・・・・・・)、侮蔑するように睨め付けた。

 

 

 

「だって、吹羽を殺そうとしたじゃない」

 

 

 

 ひゅ、と息を詰まらせる音が聞こえた。

 

「痛め付けて、絶望させて、あの子を殺そうとした奴に怒ることの何処が薄情なの? 何がおかしいの? 殺そうとした奴が殺されることの……いったい何がっ、不満なのッ!?」

 

 溢れ出てくるのは、真紅の憤怒。

 己をしてあらゆる物事に無関心だと自覚している故、霊夢は身の内に滾る熱に全くの覚えがない。ただ無意識の内に、本能的に溢れてきては思考を染め上げ、今すぐにでも文を惨殺してしまいたい気持ちに駆られる。それはもはや焦燥の域に達しつつあり、事実――文の言葉によって、完全に霊夢の感情は決壊していた。

 

「あんたが何を考えてるのかなんて知らないわ! 例えどんな理由があってもあたしには関係ない! 吹羽が殺されそうだったから、あの子を守るためにあんたを殺す! あたしはあの時の決意(・・・・・・)を貫き通すだけなのよッ! 文句なんて、絶対言わせないッ!」

 

 文には分からないだろう。理解できないだろう。或いは分かったとしても、霊夢の覚悟の強さに言葉を紡ぐことはできなかったかもしれない。

 傍から見れば、彼女の様子はやはり不可思議なものだった筈だ。感情は豊かであれ、あらゆる物事に興味を示さない霊夢が、友人を嬲られたことにかつてない怒りと憎しみを抱き、鈴の鳴るようなその声で口汚く”殺す”と叫ぶ。例え魔理沙であってもこの状況を見れば首を捻るに違いない。

 

 だが、霊夢の覚悟は本物だった。

 例え“お前らしくない”と言われようと、本物である事に間違いはない。

 それだけ霊夢は、自分の中で吹羽を特別な位置に置いているのだった。

 

「……のよ」

 

 しかし、文の口から漏れ出るのは、決して納得や畏怖などではなく――。

 

「いったい、なんなのよッ!!」

 

 ただただ困惑と理不尽を振り払うような、怒号を放つ。

 

「“友達がなんだ”って、“吹羽がなんだ”ってっ! 私の目の前でさも“当然だ”ってぇっ! いい加減にしてよ……なんで、私にはぁ――っ!」

 

 血を吐くような憎しみと、滲み出す本心が、涙と共に文の口から漏れていく。

 その想いが霊夢に届くことはないと分かっていても、文は霊夢と吹羽を前に吐き出さずにはいられなかった。

 

「なんでっ、なんでなんでなんでなんでぇッ!? 私と……何が……違うのよぉ……っ!」

 

 ――ずっと、辛苦に耐えて生きてきたのだ。

 父を亡くし、仇を見失い、飄々とした自分を作り上げることで悲しみと憎しみを忘れようと必死になって生きてきた。周囲の人々はそうして無理をする文を心配こそすれ、本当の意味で慰めることは出来ずにいたのだ。

 当然のことである。幼い少女が目の前で親を殺され、まるで刻印のように刻み付けられた心の傷が、一体誰に癒すことなど出来よう。

 どんなに想いがこもっていようと、慰めようとする限りその言葉は文の心に届く前に朽ちて腐って途方も無い嫌悪感を撒き散らす。

 所詮は他人事なんだろう? 哀れんでいるだけなんだろう? ――と。

 

 心はずっと一人だった。

 支えてくれる人なんていなかった。

 幸せなんて無縁だった。

 友人なんて信じるに値しなかった。

 

 そして吹羽は――その全てを持っていた。

 

 森の中で吹羽を見つけた時、彼女が凪紗の子孫なのだと文はすぐに確信した。純白に輝く髪と緑がかった大きな瞳はあまりにも特徴的で、何より彼女が風を操る刀を振るっていたから。

 

 確かに憎っくき仇だ。殺さなければならない相手だ。だが、記憶や感情とは薄れていくものである。過去の憎しみを忘れようとして数百年――突如降って湧いた復讐のチャンスに、再び当時のような復讐心を燃やすことは文にも出来なかったのだ。

 だから、“ついでに死んでくれたらラッキーかな”程度に考えて、森の中から吹羽の膝を狙い撃ち、魔理沙の弾丸を衝突させた。

 だが、少し調べてみればどうだ――吹羽も家族を失くしている。

 

 それを知ってこそ、文は吹羽に対して強烈な憎しみを抱くようになった。

 同じように家族を失くしているというのに、なんだあの笑顔は。なんだあの雰囲気は。なんだあの、幸福は。

 私はこんなにも苦しんで生きてきたのに、風成の子孫がなぜ笑っていられる? なぜ私の持っていないものを全て持っている?

 なんで、どうして、なぜ、なぜ、なぜ――……。

 

 挙げ句の果てには強大な存在(博麗の巫女)からの庇護まで受けて、まるで絶望に堕ちた私を嘲笑うかのようじゃないか。堕としたのはあいつらの癖に。

 溢れ出す感情は止まることを知らず、溢れ出しては脳髄に刻み込むように憎悪が膨らんだ。

 吹羽が零す笑顔が憎い。吹羽の作り出す雰囲気に吐き気がする。吹羽の周囲にいる人々を無性に壊したくなる。吹羽の全てを嬲り殺したくて仕方がない。

 文は、そうして狂っていった。

 

 だが――。

 

「そんなもの知らないわ。あたしが知ってるのはあんたが吹羽を殺そうとしたことだけ。そしてそれさえあれば、あたしが行動を起こすには十分な理由よ」

「同じはずなのに……私だけこんなぁ……。いや……もう、いやなのよぉ……っ!」

 

 紡ぎだす言葉はもはや霊夢には向いていない。ただどうにもならない現実と過去を嘆き喚き散らして楽になろうとしているだけ。楽になれない苦しみに悶えているだけ。

 

「………………もういいわ」

 

 霊夢は会話すら成り立たなくなるほど打ちのめされた文にすら何も思わず――否、それが重要とは欠片も思えずに、変わらず絶対零度の瞳で見下ろす。

 そして徐に片手を上げ、大幣を大上段に構えると――膨大な霊力を集約した。

 

 集めた霊力を余すところなく力に変換し、触れた者を情け容赦なく討ち滅ぼす一振りと化す。古の大妖怪ですらこれを喰らえば決して無事では済まないだろうそれは、理不尽極まる暴力的なまでの殺意そのもの。

 もはや満身創痍の相手に行使するには些か以上に威力の高過ぎるそれは、例えどんな事があっても文を殺し切るという霊夢の覚悟の表れのようでもあった。

 

 ――もう、生かす意味はないのだ。

 霊夢にとって、吹羽を殺そうとした文は滅するに値する大罪人である。なにか事情があったらしいが、そんな事霊夢は知らないし興味もない。そしてそれを正確に把握したところで、きっと霊夢は文を殺すことに躊躇いなど見せないだろう。

 他人の事情より、身内の命を取るのは当たり前だ――と。

 例えその相手が、己の人生を心底から呪い、死の間際まで泣いて絶望する悲哀を煽る姿だとしても。

 

「じゃ、そろそろ死んで」

 

 一つ言葉を落とし、一撃必殺の大幣を振り下ろす。濃密過ぎる霊力が蒼く輝き、それは見た目非常に流麗でありながら、しかして巻き込まれた大気すら無惨に爆ぜ散らして。

 

「ぁぁぁあああああああッ!!」

 

 無様に泣き噦り、頭を抱えて叫ぶ文へ。

 

 

 

 ――届く、その直前。視界に映った一つの陰に、霊夢は反射的に手を止めた。

 

 

 

 急停止させられた霊力は爆発するように暴風を撒き散らし、両手を広げて立ちはだかった(・・・・・・・・・・・・・)者の髪を激しく振り乱した。

 身体は震えて、満足に動くこともできないはずで、その背後に加害者の姿を庇って。

 全く理解できないその行動に、霊夢は僅かに、眉を潜めた。

 

「…………何の真似、吹羽(・・)?」

 

 文を守るように霊夢の前へと立ち塞がった吹羽は、凡そ親友に向けるとは思えない強い眼差しで、霊夢を見つめていた。

 

「……だめ、です」

「は?」

 

 予想だにしない吹羽の言葉に、思わず声を上げる。

 

「文さんを殺すのは、だめです」

「……あんたを殺そうとしたのよ?」

「分かってます」

「生かす意味なんてないのよ?」

「それでもです」

「ここで逃したら必ずまた殺しに来るのよ!?」

「それでもです! ダメったらダメなんですっ!」

「……っ、」

 

 頑なな吹羽の言葉に、吐き出しかけた怒号が塞き止まる。ここまで意見を曲げない彼女を初めて見たが故に、霊夢はこれより先に放つ言葉に意味などないのだろうと悟った。

 吹羽の瞳をジッと見つめる。そこにある光は寸分の陰りさえもなく、ただただ希望と覚悟が静かに満ち満ちているだけだった。

 まるで“分かってくれ”と霊夢に訴えかけるような真摯な瞳。傷は治れどまだ血は戻りきらず、立っているのも本当は辛いはずなのに。

 霊夢は大幣を構えたまま、僅かにも視線を逸らさず見つめてくる吹羽を逆に見つめ返して――問う。

 

「…………全部、分かってるのね?」

「分かってます」

「それでもなお、あんたはそれを選ぶのね?」

「はい」

「……文を、憎まないの?」

「っ、……」

 

 ――吹羽がそこで“憎いわけない”と言える偽善者だったなら、きっと友達になることはなかっただろうな、と。

 霊夢は僅かに瞳を揺らめかせた吹羽をジッと見つめて数秒……悟った決意を想い、肩を竦めて大きな溜め息を吐いた。

 

「……分かった。尻拭いはしてあげるから、好きになさい。但し、あんたが死にそうになったら容赦無くあたしはそいつを消す。それは覚えておいてね」

「! はい、ありがとうございます!」

 

 瞳をパァッと輝かせながら、しかし強い意志の輝きを失わせないという器用なことをやってのけた吹羽を見て、霊夢は漸く大上段に構えた大幣を下ろし、“さっさとやれ”と言わんばかりに瞑目して腕を組む。

 

 吹羽はそれに小さく頷くと、振り返ってしゃがみ込む。

 そこにはやはり――頭を抱えて涙を流す、弱々しい文の姿があった。

 

「……文さん」

「………………なに」

「ボクは、文さんの気持ちが分かります。ボクも家族を失って、ずっと暗闇の中もがいてきました」

「うそよ……あんたには、みんながいたじゃない……っ! 支えてもらってたじゃないっ! 同じなんかじゃないのよ……!」

「……そうです。同じじゃありません。ボクはボクで、文さんは文さんです」

 

 考えることも嫌なのか、更に膝を抱えて蹲る文。吹羽はそんな彼女に、決して苛立ちや面倒臭さなど向けず、囁くように語りかける。

 そして――すぅ、と手を差し伸べた。

 

「だから、文さん――ボクと弾幕ごっこ、してください」

「………………は?」

 

 涙を啜る音が一瞬途絶え、弱々しくも困惑を隠し切れていない惚けた声が漏れる。

 その視線は吹羽と差し伸べられた小さな手をゆっくり往復し、終いには弱く吹羽の瞳を睨んだ。

 

「いまさら……何を言ってるの……?」

「突拍子も無いのは分かってます。でもこうでもしないと、文さんには何も響かない」

「響くって何よ……これ以上私に何を見せる気なの……っ!? もう放っておいて! もうどうでもいいのよ! あんたの事も父様の事も、何もかも全部ッ!」

「……全部諦めて、どうするつもりなんですか」

「どうする、って……」

 

 ――分かる。今文が何を考え、何を口に出そうとしているのか、吹羽には手に取るように分かった。

 揺れる瞳。泣き腫らした瞼。小刻みに震える身体。頰を頻りに伝う熱い露。そうしてぐしゃぐしゃになった、文の心。

 ずっと恨み続けて、心の穴に満ちる悲しみを誤魔化し続けて、そうして最後に全てを諦めたのだとしたら、きっとその先には終焉(・・)しかない。

 不安定に保っていた心の柱が折れてしまったのなら、後は全てが崩壊するのみだ。それは心も体も、自分の命ですら。

 

 ――そんな事、させる訳にはいかない。

 

「文さん。ボクは文さんが怖いです。身体中傷だらけにされたし、何度も何度も蹴られたし……あの時霊夢さんが割り込まなかったら死んでいたと思うと……やっぱりボクは、今までみたいに文さんと仲良くは、出来ないかもしれません」

 

 でも――……と言葉を繋ぎ、

 

「文さんが、とっても悲しんでいたから」

 

 吹羽を害する直前の、瞳の奥の深海色を思い出す。

 本当にただ復讐に狂っているだけならあんな瞳を出来るはずがない。だって本当に狂ってしまったのなら、復讐に心の靄を払う効果を求めるのはおかしい。それは偏に、復讐で振り払うことができないほど悲しみが深過ぎるという事。そう感じられる心が残っているという事だ。

 ならば、吹羽の言葉を伝えることはできるはず。

 ただ、口にするだけではきっと伝わらないだろうから。

 

「ボクと文さんは他人です。でもおんなじ悲しみを知っています。傷を舐め合いたい訳じゃありません。だから――ボクと弾幕ごっこをしてください」

 

 真剣に、されど何処か瞳の中に優しさを宿らせて告げる吹羽に、文は暫し逡巡する。

 そして徐に上げた視線に決意を宿すと――文はゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 山中に響く烈音は、更に激しさを増していた。

 

 傷だらけで死力を振り絞る椛は、豪快な笑みで拳を振るう萃香に必死に喰らい付く。それは紛れもなく、どんな手であろうと萃香を打ち倒し吹羽の下へ駆けつけるという強い意志の為せる業だ。

 限界なんてとっくに超えていた。

 動かない身体を動かして、未だ健在の大妖怪を相手にしているのだ、形振りなんて構ってはいられない。

 

「ぅぉおおおあああああッ!!」

「うははははッ! そうさその粋さッ!!」

 

 一振り一振りに“狼牙”を用い、暴風の大剣で以って剣閃の嵐を体現する椛。死力を振り絞る彼女の姿に、萃香は溢れ出る歓喜を抑えることができなかった。

 

 萃香が“仕切り直しだ”と椛を叱責した後から、椛は本当に見境なく力の全てを行使していた。

 自棄糞なのではない。無闇矢鱈に力を振り翳す唯のお遊び(・・・・・)を、萃香は決して喧嘩などとは呼ばない。仮に椛がこれを始めたのなら、萃香は瞬時に、そして全力で彼女を殴り殺すと決めていた。

 理性を失った刃で誰かを救うなど失礼にも程がある、と。

 しかし椛の剣閃には決して無理性の暴力など含まれてはいなかった。ただ必死に吹羽を想った助けたいという意志が乗り、自分(萃香)を殺してでも駆け付けるという覚悟に満ちているのだ。

 そして現に椛は満身創痍ながら、そして萃香も本気ではないながらに、互角の戦闘を繰り広げているのだ。

 

 中妖怪程度の白狼天狗が。

 妖怪の頂点に立つ鬼の四天王に。

 

 その意味を、きっと椛は理解していないだろう。

 否、理解していて振るう力に決して死力など宿りはしない。その程度の集中力で為す力はきっと唯の全力だ。萃香の求めるものはそこにはない。

 そう――椛の今のこの力こそが、萃香が再び見たかったもの!

 

「そら……耐えてみなっ!」

 

 襲い来る“狼牙”の隙間に、萃香は拳を握りこむ。椛の袈裟斬りを脚を引くことで避け、引き絞った弾丸の如き拳をすれ違う椛の腹へと突き込んだ。

 炸裂した拳圧が地面を抉り、数メートル先の大木をも穿ち吹き飛ばすが、それは椛が威力を流した(・・・・・・)からこその結果である。

 千里眼によって萃香の動きを見切っていた椛は、拳が放たれる瞬間に振り抜いた刀を引き抜く形で腹の前に翳し、突き込まれる萃香の拳を斜め後ろへと流したのだ。

 当然、椛は駒のように回転して宙へと放り出されるが、彼女も一端の天狗である。数転して体勢を整えると、勢いを殺さぬまま萃香へと再度“狼牙”を振り下ろす。

 萃香自身の拳圧を遠心力へと変換して放つ強力無比な一撃である。

 

「やぁぁあああッ!!」

「やるねっ」

 

 椛の絶技を横目で捉えて、萃香は思わずに呟く。

 そこへ凄絶な速度で“狼牙”が振り下ろされるが、萃香が能力を用いて己を拡散(・・・・)したことで空振り、その先にあった大木を縦に両断するだけに終わった。

 

 萃香の能力――それは“密と疎を操る程度の能力”である。

 物質だろうが思念だろうが、萃香はそれを萃めたり疎めたりすることで拡散・凝縮を自在に操ることができる。それが例え己の体であっても、だ。

 

 椛の“狼牙”を拡散して回避した萃香は、瞬時に椛の頭上へと凝縮(・・)すると、今度は妖力を拳へと凝縮して躊躇いなく打ち下ろした。

 

「っ! くぅっ!」

 

 空中では流石に流しきれないと判断したのか、椛は翼をはためかせてその場から離脱を図る。しかし萃香の拳は拳圧もさる事ながら打ち出す速度も凄まじい。“怪力”という鬼特有のアドバンテージが、ただそれだけで他の妖怪を圧倒できる理由の一つである。

 回避には成功したものの、刹那の後に地面に触れた萃香の拳は、圧縮した妖力を炸裂させて爆音と共に地面を大きく砕き割った。

 爆風と飛び散った破片を諸に受けた椛は、直撃こそしなかったが体の至る所に切り傷を作りながら容易く吹き飛ばさる――が、それだけで終わるなら椛は萃香と同等に戦えはしない。

 

 吹き飛ばされた直後、体勢を整える序でに椛は妖力弾を無数に放った。

 土煙を穿ちながら無数の弾丸が萃香に迫るが、これくらいなら能力を使うまでもない。単純に腕を凄まじい速度で横に振り切り、土煙諸共弾丸へと固められたはずの妖力を散り散りに引き千切る。

 

「なんだぁ? こんな弱っちぃ豆鉄砲じゃ痛くも痒くも――」

「いいんですよッ!」

「ッ!?」

 

 刹那、聞こえた声に振り向いた萃香は、その視界に背後から(・・・・)突きを構えた椛が突撃して来るのを認識した。そしてその視界の端に写る、表面を砕かれたようにひび割れさせる木々の姿――。

 

「(あの攻防から、木を足場に背後を取るとはねッ!)」

 

 椛は先の一瞬で、弾幕を牽制に萃香の目を眩まし、吹き飛ばされた先で木々を蹴って三次元的な動きで萃香の背後に回り込んだのだろう。

 その体捌きと状況判断は凄まじいの一言に尽きるが、そんなことより――……

 

「そんな戦い、中妖怪が出来るとは思えないけどねぇッ!!」

 

 そも、中妖怪・大妖怪と言った区分けは妖力の大きさだけが基準なのではない。勿論明確な基準があるわけではないし、妖力の大きさも判断する要因の一つではあるが、区分けする際に主に見られるのはその者の“総合的な強さ”である。

 智力体力妖力能力――その者を構成するすべてのステータスを鑑みて、他の有象無象と隔絶した強さであるならば、人々はその者を大妖怪と呼び、畏怖する。

 

 椛が見せた的確な判断能力、即座に対応する思考速度、宙を駆けるかのような凄まじい体捌き、そして刀の力とはいえ強力無比な一撃を放つその技量。

 進退窮まったこの戦闘に於いて、大妖怪たる萃香の背後を瞬時に突いた椛が、彼女のことを知らない者に“実は中妖怪だ”と言って何人が信じるだろう?

 大妖怪に喰らい付くことが出来る(・・・・・・・・・・・)その強さは、決して中妖怪なんてもののはずがない、と口を揃えて叫ぶに違いない。

 

 そう、萃香はこれが見たかったのだ。中妖怪でありながら大妖怪にすら迫り得るこの凄まじい力の発現を。

 人間だとか妖怪だとか、況して神だとか全く関係なく、誰にも備わっておりしかして発現させられるのはこの世に生きるほんの一握りの者たちだけ。途方もない覚悟――想いを貫徹する強い意志が備わった者だけが見せる限界を裕に超越した力。

 

「あはッ! いいぞ“千里眼”! それでこそわたしが見定めただけはあるっ!」

 

 萃香はその喜びに打ち震えながら、また“それでこそ鬼”と言える凄絶な笑みを浮かべながら、椛の“狼牙”による突き――“白爪”にその剛腕を打ち据えた。

 砕き割った風の刃が破片となって腕を薄く切り刻み、鋭い痛みと血液が飛び散るが、萃香は微塵も躊躇わずに上へと振り抜いて刀を弾く。

 椛はその力に逆らわず瞬時に半回転すると、その流れのまますれ違う形で萃香の胴を斬り付けた。追撃とばかりに返す刀で斬りあげるが、萃香は腹の傷など物ともせずに椛の手首を掴んで受け止めると、顔面を狙った椛の拳も掴んで止めた。

 

 ――自然、萃香と椛は至近距離で睨み合う。

 

「へへ……痛ェなぁ。これ(痛み)を味わうのは久方ぶりだ。よう、誇ってもいいんだぜ? わたしに傷を付けられる奴はそういないからね」

「はぁ、はぁ、嬉しく……ないですね……私はそんなことを誇って、ここで立ち止まりたくなんてありません……っ!」

「ツレないねぇ……鬼の首を取るのは歴史に名が残るくらいの偉業なんだし、傷つける事も栄誉ある事なんだが……いや、それでいい(・・・・・)んだよ、“千里眼”……!」

「〜〜ッ! ぐぅ……!」

 

 鬼と天狗。当然腕力は鬼の方が桁違いに強い。

 萃香は椛の返答に満足すると、手首を掴む手にぎしりと力を込めて振り回し始めた。

 

「おらぁァアアッ!!」

 

 数転して遠心力を高め、その勢いのまま椛を地面に叩き付ける。遠心力と鬼の腕力が合わさったその一撃は地面を容易く砕き割ってクレーターを形作った――が、それだけでは終わらない。

 萃香はまだ手首を持ったまま。つまり、宙に放り出されたままの椛は萃香のなすがままになるしかない。情け容赦一切無用とばかりの萃香は、叩きつけた反動を利用して再度数転すると、再び椛を地面に叩き付ける。

 ――地面のかけらに混じって、赤黒い血反吐が舞う。

 

「こんなものかぁッ!?」

「ま……だ――ァッ!」

 

 数回の殴打の後、吐血と共に声を絞り出した椛は、飛び掛ける意識を手繰り寄せながら体勢をできる限り直すと、叩き付けられる瞬間に姿勢を落として衝撃を殺しにかかる。

 “千里眼”によって地面に触れる瞬間やその位置などを割り出した上でいなされたその力は、椛がふわりと地面に着いたのとはあまりにかけ離れた爆音を響かせて、足元の地面を大きく砕く。

 ――瞬間、萃香に向けて掌を向けた。

 

「っ、」

「はあっ!」

 

 掌で瞬時に収縮させた妖力を、椛は制御するでもなく爆散させた。それは人間であれば間違いなく吹き飛ぶレベルの爆風だが、妖怪にとってはまだ“強風”の範囲。当然萃香に何のダメージも無いが、その拍子に掴んでいた手首を離してしまった。

 ――いや、椛もそれが狙いだったのだろう。あのまま掴まれていれば萃香の強烈無比な叩き付けが延々と続いただろう。現に、爆散した妖力の圧にふわりと乗って後方に着地した萃香に対して、椛は手を離させることだけを考えていたのか木々に衝突して受け身も取れていなかった。

 

「苦し紛れか……だがいい手だ。これだけ高度な戦闘をこなしていながら、よく頭が回るね」

 

 刀を杖に、身体中から血を流して肩で息をする椛。しかしその瞳に宿る覚悟には微塵の衰えも見せない。

 

 萃香の言葉は実に素直なものだった。先述の通りもはや中妖怪ができる戦闘の範疇を遥かに超えているが、椛は未だ萃香に喰らい付かんと付いてきている。先程の妖力の爆散も、妖力の消費と状況を考えれば最善の策だったろう。

 限界を超えた戦闘の中でよくもまぁそれ程までに頭が回るものだ、と。

 

「(……さいっ、こう……!)」

 

 ああ――歓喜だ。

 鬼という種族に生まれて幾星霜、今この時訪れた途方もない歓喜に、萃香はひたすらに打ち震えていた。

 大昔、天魔と凪紗を相手にした時に垣間見た力。今まさに、椛が無意識の内に行使しているそれがまさに“意志の力”だ。高々中妖怪が頂点に君臨する大妖怪を相手に互角の戦いを繰り広げる――それが如何に凄まじい事か、そしてそれを成す柱である“意志の力”がどれほど凄まじいものなのか、これでこそ証明されるというものだろう。

 

 酒と喧嘩が何よりの娯楽である鬼としては、いつまでだってこの甘美な時間を貪りたいと願うところだが――「生憎だな」と萃香は徐に背後を振り返る。

 

「……どうやら、ここで楽しむのも終わりみたいだ」

「どう、いう……意味ですか……?」

「そのままさね。タイムオーバーだ。わたしがここでやるべきことは、全てが完了した」

 

 視線の先で怯えるように揺れる妖力を感じながら、萃香は椛へと視線を戻すと掌を突き出した。そしてそれを握り込むのと同時に――身の内に滾る妖力を、完全開(・・・)()した。

 

「〜〜ッ!!」

「だがなぁ、どうしても欲が出ちまうんだ。目的を見失ってる訳じゃない。が、それでもやめられない甘美さを、お前さんは味わわせてくれたんだよ」

 

 溢れ出した妖力は、まるで大気の全てを押しのけて空間に満ちるように吹き荒び、ただそれだけで椛の意識を刈り取ろうと周囲に遊んでいた。

 途方もない密度と殺気がその妖力を“瘴気”と言えるほどにまで変質させ、中てられた木々をどんどんと萎れさせていく。

 すると次の瞬間、それらの妖力は一瞬で消え失せた――否、不動を貫く萃香の背後に、明確な形を持って凝縮していた。

 

「なぁ“千里眼”、もう手加減なんて必要ねぇよな? もう我慢しなくていいよな? これが最後だからさ――もう、殺す気でやってもいいよな?」

「………………っ、」

 

 ギラギラと獰猛に、しかし何よりも果たし合いたいという純粋な欲を見せる萃香の瞳。

 椛はその強過ぎる闘争欲求とそれを感じさせる途方もない殺気に中てられ、ふらりと眩暈を感じてふらつくも、刀を杖にして踏み止まった。

 ここで倒れたら意味がない。もともとこちらは萃香を殺す気でやっていたのだから、今更彼女が本気になったところでやることは変わらない。

 彼女を、どんな手を使ってでも斬り倒して、吹羽の下へ駆け付ける――と。

 

「とっておきを見せてやる。――いくぞォッ!!」

 

 椛の揺るぎない瞳を見て笑い、萃香は初めて能動的に攻撃を仕掛けた。

 背に巨大な妖力を纏い、それでも萃香の身の内に滾る力は地を踏み砕いて一瞬で椛の目の前に躍り出た。歩数にして――三歩。

 

「三歩必殺――改式(・・)ィッ!!」

 

 一歩。地面を踏み砕いた衝撃が地盤をすら揺るがし、椛の体勢を打ち崩す。

 二歩。揺れる地面を物ともせず、ただ二歩目を踏み出し一瞬で宙を駆けて目の前に肉薄する。

 三歩。足を突き刺す勢いで踏み込み、固定して振り被った拳を最速最強の動きで打ち出す、これが鬼の四天王が誇る奥義である。そして――ここからが、(あらため)だ。

 

 萃香は拳を振りかぶったその刹那、背に纏った妖力を拳へと何層にも分けて(・・・・・・・)凝縮した。濃密過ぎる妖力は目に見えるほどだったが固めているわけではないので、まるで萃香の拳に揺らめく炎が纏わり付いているかのようだ。

 そして拳を打ち出し、衝突するその刹那に――全ての層を、思い切り拡散させた。

 

 凝縮した妖力の制御を解くだけでもなく、押し留めたモノの爆発をさらに後押しする。単純な原理である。

 しかしそれを萃香の膨大な妖力で、そして何層にも分けたその全てで行使したのなら、それは想像を絶する威力に達する。

 炸裂した威力を、更に炸裂した威力で以って押し上げ、更に更にと炸裂した威力同士で後押しし合う。それを一瞬で何度も重ねた結果生まれた衝撃は、まさに月すらも一撃で砕き割るほどの威力。

 拡散した妖力は拳を中心に円を描いて炸裂し、その内側を迸る妖力が紫電の如き速度と姿で駆け巡る。それはまるで巨大な満月に致命的なまでの大きなひびを刻むが如く――これを萃香は、こう名付ける。

 

「『崩撃(ほうげき)罅々月天門(かかがってんもん)』――ッ!!」

 

 星を砕き割るその拳は、打ち出し切った所で萃香に手応えなど感じさせない。触れた瞬間に全てのものは粉微塵に消し飛び、或いは血液すら残さずに千切れ吹き飛び爆ぜ散らかされる。

 そして触れなかったものでさえ、その威力に運悪く巻き込まれた森羅万象は見るも無惨な姿へと一瞬で変身するのだ。事実――その拳の先にある山肌は、大噴火でも起こったのかと本気で見間違う程に大きく深く抉れ、空に掛かっていた雲は巨龍に食い千切られたかのように断裂していた。

 

 轟々と、地響きのような音が低く唸り、巻き上がった土煙が舞う中を、萃香は少しだけ冷めた頭を以って見ていた。

 

「(あぁ、ついやっちまった……中妖怪相手に使うもんでもねぇのに……)」

 

 と、流石に腕力も妖力も使い切って疲れた萃香は、ぷらぷらと手を振りながら考える。

 まぁ、事前に予告したししょうがないか、と。

 ――だが、萃香はまだ甘かった(・・・・)

 

「さて、それじゃあとっとと――ッ!!?」

 

 土煙の舞い上がる先。あらゆる物の存在が消え失せたその大地の中に、萃香は生者の気配を感じ取った。

 まさか、あり得ない。あれを喰らって生きられる可能性のある奴なんて、それこそ賢者くらいのものなのに、と。

 

 土煙が晴れていく。確かに地を踏みしめる足、血に塗れて力を感じさせない腕、ボロボロの白い獣耳。

 ――そこには確かに、犬走 椛が立っていた。

 

「な――ッ!?」

「〜〜ッ!!」

 

 ふらりと倒れかけた椛は、あろうことかそのまま萃香に向けて肉薄した。刀を振り上げ、最後の力で以って萃香を斬り伏せようと鋭い犬牙を覗かせる。

 垣間見た瞳には相変わらず強い光が宿っていた。そして不意に見えた足の甲には刺し傷があり、何より今の椛には――片腕の肩から先がなくなっている。

 萃香は今の彼女の全てに、ただただ驚愕していた。

 

「(まさか……片腕を犠牲に威力を殺し切ったのか……ッ!!?)」

 

 椛はその能力による副恩恵で非常に動体視力に優れている。そして相手の力の流れを読み、自分の体を通して外へと流す術にも優れる。

 今の彼女の状態は、恐らく片腕で全力で威力を“いなし”にかかり、最終的には片腕が千切れることに抵抗しなかった事で(・・・・・・・・・)体に衝撃が来るのを最小限に抑えた結果なのだろう。そしてそれでも殺しきれなかった風圧などの要素は、足の甲に刀を突き刺し地面に固定する事でどうにか耐え切った――と。

 

 こんな所行、この世に生きる一体何人ができる事だろう。

 椛の想像を絶する覚悟は――萃香をしてまだ理解しきれていなかったその“意思の力”は、形振り構わぬ狂気的なまでの行動により、大妖怪の正真正銘の究極奥義を中妖怪が耐え切り、最後の最後で致命の反撃を許すに至ったのだ。

 

「――ぁぁあああアアアアッ!!」

 

 絞り出された声が、溢れ出す血反吐と共に宙に舞い、そして振り下ろされる刀身がそれを斬り裂き弾きながら萃香の肩口へと襲い掛かる。

 全力を使い切った萃香に、椛の執念に驚愕していた萃香に、それを避ける術はない。

 間違いなく致命の一撃。食らえば幾ら萃香とて無事では済まない。

 

 そして、刃が触れ、

 

 

 

 ――刀身が砕け散り、空を切った。

 

 

 

「一歩……およ、ばず……か――……」

 

 ポツリと零した椛は、踏ん張ることも出来ずにそのままぐしゃりと倒れ込むと、一瞬で意識を失った。

 手に持っていた刀はその衝撃でひびが広がり、遂には粉々に砕け散る。

 萃香は呆然とその姿を見ていたが、不意に溜め息を吐くと、

 

「…………見事だよ、“椛”」

 

 初めてその名を口にして、血濡れになった白い髪を優しく撫でた。

 もはや言葉は必要ない。萃香が望んだ事に十二分以上の行動を示してくれた椛に対して、労いの言葉や励ましの言葉、況して謝罪の言葉など全く無意味。ただ己の何もかもを曝け出して己の信念を示してみせた一人の戦士に、萃香は心から“承認”の言葉を落とす。

 そして、少しだけ冷たくなったボロボロの手を握って、

 

「確かに、受け取った。……任せておきな」

 

 

 

 ――その想いは、証明された。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第二十二話 素知らぬ心の奥深く

 

 

 

 ――吹羽という少女がどういう人間なのか、霊夢はよく知っている。

 

 中途半端に色々なことができてしまう為に、まだ子供のくせして大人ぶろうとして、逆にそこが子供らしいことに気が付いていない、とか。

 誰もが同情してしまうような過去を背負っているくせに、それを感じさせないくらいに明るくて人に優しい、とか。

 時々霊夢ですら顔が赤くなってしまうくらいに可愛らしい笑顔を零すことがある、とか。

 そして何よりも、人の感情を理解し一緒に背負ってしまう(・・・)ことがある、とか――。

 

 他人は自分以上に自分の事が分かる、なんて話を幾度か聞いた事があったが、まさに霊夢は吹羽自身よりも吹羽の事を理解している自負があった。

 何せ記憶が壊れてしまった吹羽に散々世話を焼いてきたのだ、もはや愛娘の成長を見守る母親の心境を既に垣間見ているようなものである。実際は愛娘どころか恋人の一つもできた事は無いし興味もないのだが。

 

 詰まる所――霊夢は、呆れていた(・・・・・)

 

「(全く……お人好しにもほどがあるわ……)」

 

 視線の先で対峙する二人――特に吹羽を見遣って、霊夢は木に背を預けながら溜め息を吐く。

 別に弾幕ごっこするのは良いのだが、それを始める理由に関して、霊夢は何とも言えない感覚を味わっていた。

 

 理由に大方の見当はついている。文の様子から、そして僅かに伝え聞いた風成と天狗の話から、それを聞かされたであろう吹羽が取る行動は至極容易に読む事ができる。

 ――要するに、文を放って置けないのだろう。

 同じく最愛の家族を失くした親近感かどうかは分からないが、吹羽はどうにかして文の心を救おうとしている。霊夢としては、殺されそうになったのだから殺したって別に構わないだろうに、と思うのだが……。

 

「(ま、それが吹羽だからね……)」

 

 例え自分が殺されそうになった相手でも、その気持ちを理解出来てしまえば躊躇いなく手を差し伸べてしまう。それが霊夢の知る吹羽という少女である。

 些か自分の命や価値というものに無頓着が過ぎるとも思うが、それはずっと前から霊夢が阿求と共に悩んできた問題で、結局解決出来ずにいる。今更矯正など出来ないだろう。

 

『ボクは弾幕ごっこをしますが、文さんはボクを殺す気で来てください』

 

 ――あんな言葉を平気で言えてしまうのだから、もうどうしようもない。

 それに、殺されそうになって怯えていた吹羽が“殺す気で来い”なんて言うならば、それは既に覚悟を決めたということなのだろう。吹羽だって護身術を身に付けている以上、腹を括る(・・・・)ことくらいはできる。それを横から霊夢が阻むのは、吹羽の覚悟を踏み躙るのと同じことだ。

 

 まぁ、そもそも――、

 

「(この場が整った時点で、吹羽が文に負けるなん(・・・・・・・・・・)てあり得ない(・・・・・・)しね)」

 

 文のした事を許すつもりは毛頭ないが、それに対して吹羽が何かするというのならば、大して心配は必要ない。そう考えると身の内に滾っていた熱がだんだんと冷めていく気がして、霊夢は出そうになった欠伸を一つ噛み殺した。

 「殺されそうになったら容赦なく文を消す」なんて言ったことも、恐らくは杞憂だったろう。内心で吹羽はこちらを笑っていたかもしれないと思うと、終わったら拳骨の一つでも落としてやろうかとちょっと悩む。

 まぁ、殺す気で来る相手に自分は殺さないと吹羽はハンデの宣言をしたのだ、これほど強気な吹羽も珍しいと言えば珍しい。拳骨は勘弁しても良いかもしれない。

 

 何はともあれ、

 

「お手並み拝見ね、吹羽」

 

 霊夢は大して緊張する事も手に汗を握る事もなく、二振りの小太刀を抜刀する吹羽を見遣る。その細い腰には、様々な形をした小さな金属がいくつも吊るされていた。

 さて、妖怪を相手にどれほど立ち回れるのか――霊夢はただ戦闘を観戦する気になって、吹羽の小さな背中を見つめていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「……“殺す気で来い”なんて、あんたの言葉とは思えないわね。舐めてるのかしら」

 

 苛立ちを瞳に込めて睨み付ける文に、対峙する吹羽は緩く首を振る。そしてその視線を真っ向から見つめ返すと、

 

「いいえ、舐めてなんかいません。文さんに必要なことなんです」

「……そんなもの(殺意)、初めからずっと持ってるのだけどね……それこそあんたが生まれる前からさ」

「…………はい。でも、扱い方(・・・)を知らなかった」

「…………はぁ?」

 

 吹羽の言葉に、文は腹の底から疑問を吐き出すように首を傾げた。

 

 だが、真実だ。吹羽は知っているのだ。

 そういう感情をどう扱うべきなのか。燻り続けることがどれだけ辛いことなのか。

 かつては吹羽も持っていたもの(感情)。それが、例え文のような淀み濁り切った暗黒の殺意ではなくとも、吹羽のソレは文が持つものと何ら変わりはしない。

 なんで、どうして――と。何故自分がこんな――と。ひたすら悔いて悩んで、それが心の中で燻り続けて。

 それをどうしようもなくなってしまったから、きっとこんなことになってしまったのだ。

 

 だから、吹羽が教えてあげなければいけない。

 大層な理由なんて無い。ただ放っては置けないと思ったから、吹羽がそうしたいから、する。

 自分勝手なのだとは分かっていながら、それでも吹羽は覚悟を決めた。だって……“悲しみを抱いたままが良い”なんて、そんな人いる訳がないのだから。

 

 吹羽は一つ深呼吸をして、文の瞳をしっかりと見つめる。それは吹羽なりに真剣さを伝える為だったが――文は、心底不快そうに眉を歪めた。

 

「嫌い、なのよ……その真っ直ぐな眼」

 

 絞り出すような、低く唸るような声音。

 

「分かりもしない癖に、私の為だって上から物を言う。何が幸せよ……何が友達よッ!? そんなもの糞の役にも立たないのにッ!!」

「……文さん」

「もう、うんざりなのよ……何もかもが……っ!」

 

 文はそう吐き捨てると、荒い息遣いで空を仰いだ。そして緩く喉を震わせて、

 

「あぁ――だからさ、吹羽」

 

 そして、吹羽へと戻した文の瞳には、一筋の光すらも宿ってはおらず。

 

「あんたを殺して、全部終わりにするわね」

 

 刹那、無数の風の弾丸が吹羽を襲った。

 今までのような嬲るために手加減されたものではなく、当たれば間違いなく風穴が開くような殺傷性の弾丸。

 まるで散弾銃のように放たれたそれは、着

弾点から凄まじい爆発音と土煙を舞い上げ、一瞬で空間に満ち満ちる。

 

「――そうです。殺す気で来てください」

 

 しかし、晴れた土煙から出て来たのは、全く無傷(・・・・)の吹羽の姿。

 その翡翠の瞳は、まるで希望を象徴するかのように光り輝いていた。

 

「この程度じゃ、ボクは死にませんから」

「〜〜っ、!!」

 

 不敵な吹羽の様子に、文は堪らず口を三日月に割いて地を蹴った。

 溢れ出す殺意を込めて、それを少しも隠そうとせずに放つ弾丸は、やはり凄まじいまでの物量で弾幕の壁を形作り致死の暴風となって吹き荒ぶ。

 対する吹羽は、腰に吊るされた金属の一つに指を滑らせると、呟くように一言、

 

「『風車(かざぐるま)』」

 

 吹羽のほんの僅かな霊力を喰らって、金属から溢れ出した光は手元で数枚の手裏剣を形作る。そのどれもが薄っすらと青みを帯びており、非物理的に背景を透過している。

 吹羽はそれを、ばら撒くように前方へ投げつけた。

 

「はっ、そんなもの弾幕の前じゃ――ッ!?」

 

 紡ぎかけた言葉を、文は驚愕によって詰まらせた。

 無数の弾丸からなる弾幕に、たった数枚の小さな手裏剣。物量的にどう考えても手数の足りないそれは、本来ならば文の弾幕に穿ち砕かれて終わるはずだった――が。

 

 文は駆けていた足を急激に踏ん張り、弾幕を超え(・・・・・)て来た手裏剣を大袈裟に避けてみせた(・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 驚愕と困惑に思考を止めた――止めざるを得なかった文の下に、“風車”で弾幕を掻い潜った吹羽が駆け込む。

 下段に構えた二振りの小太刀が、陽の光を受けて銀色に閃いた。

 

「『太刀風(たちかぜ)』――!」

 

 飛び退いた文は未だ中空。そして吹羽が振るうのは刃渡り一尺程度の小太刀。どう考えても届かないその斬撃に、しかし文は底知れない危機感を覚えた。

 絶対にこれをまともに受けてはいけない、と文の生存本能がけたたましい警鐘を掻き鳴らす。

 身を翻して避けることは叶わないと悟った文は、風の塊を吹羽へと叩き付けるべく反射的に両手を突き出した。

 

 結果的に――その判断は正しかった。

 

 咄嗟に生み出した風塊と吹羽の小太刀が衝突した瞬間、風塊は亀裂でも入ったかのように綻ぶと圧縮された大気が吹き出して爆発した。

 吹羽は足を地面に付けていた為に踏ん張ることができたが、中空の文はそうもいかず吹き飛ばされる。

 受け身を取って流れるように立ち上がるが――その表情は、両腕に走る切り傷(・・・・・・・・)の痛みに歪んでいた。

 

「……なるほど。それが、あんたの風紋って訳……っ」

「御名答です。風車も太刀風も、同じ風紋が刻んであります」

「どうりで……触れてもいない弾丸が、真っ二つになる訳だわ……!」

 

 吹羽の回答に、文は憎々しげな表情で呟く。

 その脳裏には、先程目の当たりにしたあり得ない現象が映し出されていた。

 弾幕の壁が、たった数枚の手裏剣に貫通される――否、手裏剣に触れるより前に切断されていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のだ。

 

「この“太刀風”は、振るう瞬間に風を刀身で収束して斬撃範囲を拡張できます。風車も同じです。そしてその最高距離は――約二間半(約五メートル)

 

 同じ紋が刻まれた“風車”も、回転によって十分な風を受け実質的に何倍にも巨大化することが出来る。当然“太刀風”程の拡張ができる訳ではないが、それは弾幕を切り抜けるには数枚で事足りる程の大きさと斬れ味である。

 そして文にとって何より厄介な性質が――、

 

「そして、防ぐことが出来ない(・・・・・・・・・)……かしら」

「……その通りです」

 

 風塊を衝突させて避けたはずの文に付いた、両腕の傷。これは爆風によるものでは断じてない。そも至近距離の爆風によっては切り傷ではなく、裂傷が残るはずなのだ。

 これは爆風ではなく――避けたはずの、刀による傷である。

 

「収束した風の刃というのは、例え中間部分を消し飛ばされても先端部分は一瞬だけ残ります。文さんが受けたのは、その先端部分の斬撃です」

「………………そう」

 

 つまり、接触する瞬間に大質量によって約二間半に及ぶ刀身を全て消し飛ばさなければ、一方的に斬撃を喰らう……という事。もう少し動くのが遅ければ、更に深い傷を負わされた事だろう。

 厄介だな――と文は、苦痛とはまた違った形で表情を歪めた。

 

 小太刀の重さで大太刀以上の反則的な斬撃範囲(リーチ)を持ち、半端な受けは許されないというハンデを強制的に負わせ、例え風の刀身を消し飛ばせても次の一瞬には回復し、挙げ句の果てに風紋武器による遠距離攻撃まで持ち合わせる。そしてそれらが比較的軽い小太刀二振りによって凄まじい速度で襲い来るのだ。吹羽のスタイルを言い表すならば、“受け太刀不可の大太刀二刀流”というのが相応しい。

 

 それに――文は見抜いていた。

 

 あの翡翠色の瞳。戦闘の最中忙しなく動いていたあの眼。凪紗の――圧倒的なまでの観察眼に、よく似た瞳。

 

「……気が付きました?」

「……ええ。……あんた、人間の癖に能力持ち(・・・・)だったのね」

 

 “能力”――主に中級妖怪以上が持つことの多い特殊な力。

 椛であれば『千里先を見通す程度の能力』、文であれば『風を操る程度の能力』、かの妖怪の賢者は『境界を操る程度の能力』を有すると言われる。

 人間にもごく稀にそれを持って産まれる者がおり、その例としては霊夢の『空を飛ぶ程度の能力』、後天的に発現した例であれば魔理沙の『魔法を使う程度の能力』である。

 吹羽のそれは――前者。先天的に持って生まれた能力。その名を、

 

「『ありとあらゆるものを観測する程度の能力』――鈴結眼(すずゆみのめ)と、呼ばれるものです」

 

 鈴結眼――それは風成家の歴史上に現れる、常軌の逸したレベルの観察眼の別名。

 当然個人差はあるが、吹羽のそれはこの世のあらゆる事象や、本来は見えないものすらも視界に捉え、測る事が出来る。飛び交う弾幕は勿論、筋肉の機微から雲の流れによる天候の予測まで、全力で用いれば未来予知に匹敵する洞察力を誇る代物。無理をすれば赤外線などの不可視光線まで観測することが可能である。吹羽の動体視力が異常に高いのもこの能力の恩恵であり、風紋の彫刻に長けるのはこの能力に依る部分もある。

 そしてこの能力を行使する際は、瞳が光を帯びた(・・・・・・・)ように輝く(・・・・・)

 

 吹羽を相手には、どれほど複雑な弾幕も密度の濃さも意味を成さないのだ。何故なら、全てを観て測っているが故にその行動自体を読まれているから。瞬時に弱点を見極められるから。

 ただ、長時間の全力使用は脳に負担が掛かり過ぎて吹羽が耐えられないので、今の吹羽が観測できるのはせいぜい“弾丸の一つ一つ”程度であり、未来予知染みた洞察力はない。

 それでもただの人間――それも幼い少女が持つには大き過ぎる力である。

 

「…………そう」

 

 ぽつりと呟く文の脳裏に、浮かび上がるものは一つだけだった。それは吹羽の能力への驚嘆などでは決してなく――膨れ上がった嫌悪感(・・・)

 だって、凪紗によく似た眼を持つ風成一族だというのなら、辿り着く答えは一つだけ。

 

 吹羽は、凪紗の“先祖返り(隔世遺伝)”なのだ――と。

 

 文の中に、再び憎悪が膨れ上がる。先程まで感じていた怒りや嫌悪など比較にならないくらいの憎悪が、文の身の内で荒れ狂う竜巻の如く渦巻いていた。

 吹羽と文の間にある関係は、正しく因縁だったのだ。

 恐らく彼女はこのことを知らないのだろう。自分が誰の先祖返りかなんて普通は知っている訳がないのだから。しかし、これが数百年前に生まれた因縁。その終止符が、今ここで打たれるべくして打たれようとしているのだ。

 憎悪の中に、ぽつりと底無しに暗い歓喜が浮き上がる。自然と、赤い唇が僅かに歪んだ。

 

「ここからです、文さん。文さんの“殺す気”はこんなものじゃないはずです。さっきまでの方が……よっぽど怖かったです」

「……言ってなさいよ……クソガキがッ!!」

 

 会話中に腕の治癒を済ませた文は、鋭い犬牙を覗かせて吐き散らした。再び悠然と佇む吹羽目掛けて無数の弾幕を放つ。しかし今度は先ほどのような単純なものではない。彼女を甚振る時に使ったような、風の刃を多量に封じ込めた――言わば“風刃の砲弾”。

 食らえば当然ズタズタに切り裂かれるそれは、例え“太刀風”を用いて相殺しても刃が飛び散る。

 

 尋常ではない殺気の込められたそれらが壁の如く迫る中、吹羽は滑らかに吊るされた棒状の細い金属を撫でた。

 

「……『疾風(はやて)』」

 

 宣言と共に現れた大量の釘を掴むと、吹羽はそれを無造作に放り投げた。

 投げられた釘それぞれは僅かずつに風を受け、それが刻まれた風紋を撫でていくと――釘は落ちることなく、加速した(・・・・)

 ひゅうと飛んだ釘たちは加速によって更に強く風を受け、その等加速度運動によって際限なく速度と貫通力を上昇させ続ける。まるで重力を真横から受けたように掛け算式に加速する釘たちは、吹羽の手元から離れた瞬間に散弾銃の如く鋭く撒き散り、襲い来る砲弾すらも正確に芯を穿ち炸裂させて尚飛び荒ぶ。

 

 いち早くその威力を察知し、そして確実に自分自身も狙っているだろうと確信した文は、瞬時に自分の周囲に風を渦巻かせて地を蹴った。

 風紋は風を受けてこそ力を発揮する。それは吹羽の情報を精査する前から知っていたことだ。ならば触れるより前に風を乱してしまえば威力は抑えられる。これでもあの“太刀風”を受ける事は出来ないだろうが、吹羽の弾の威力を削るくらいはできるはずだ。

 

 文はなるべく弾に当たらないよう注意を払いながら、しかし実に大胆に、懐から羽団扇を取り出して吹羽の下へと駆ける。勿論、風を使っての超低空飛行である。

 

「もう見切ったわッ!」

「そう、ですかっ!」

 

 潜り込もうとする文を前に、吹羽は多少驚きを露わにしながらも斬撃による迎撃を始めた。

 文が潜り込むより前に“太刀風”の反則的な斬撃範囲による中距離戦を仕掛けるが、文の華麗な身のこなしは双刀の連撃でも捉え難く、二、三度の斬撃の後に懐へと侵入を許してしまう。

 

 そうして文が振るうのは、羽団扇。

 下から跳ね上げるように振るわれるそれは、天狗族が風を操る際に扱うれっきとした武器である。

 羽団扇は風紋武器のように振るう瞬間に風を圧縮すると、その強烈な衝撃波を至近距離で打ち出す――が、

 

「――来ましたね」

 

 呟くような一言が、文の耳を撫でていく。それに不信を覚えた時にはもう遅かった。

 どういう原理か、吹羽が文の目の前から一瞬で姿を消すと、次いで、いつの間に放られていたのか上空から雨のように“疾風”が降り注いだ。

 

 してやられた、と思う暇もなく、羽団扇による迎撃と纏った風による防御を行うも、相当な加速度がついていたのか幾本もの“疾風”が文の防御を貫き、その華奢な身体に衝撃を齎す。

 血は出ない。そも吹羽の僅かな霊力によって生成されるこれは、霊夢直伝の簡素な結界術の一つであり、小さな霊力の塊である。まさしく“弾”。とてつもない衝撃を伴いはするが妖怪の肌を貫けるものではないのだ。

 しかし、それによって動揺した文は、致命的な隙を晒すことになる。

 

「背中が――」

 

 耳を撫ぜる声に咄嗟に振り向けば、そこには薄っすらと青みがかった刀を構えた、吹羽の姿が。

 

「お留守ですッ!!」

「ッ!!」

 

 刹那、吹羽の斬り上げと文の羽団扇が衝突する。

 互いに強力な風を纏った一撃であるそれらは、ただ競り合うだけとは思えない程の暴風を周囲に撒き散らして鎬を削る。

 木々をへし折る勢いで吹き荒び、ともすれば竜巻にさえ匹敵しそうな威力の暴風は、恐らく周囲の木々の隙間で鎌鼬をいくつも生み出し多くの木々を切り刻んでいる事だろう。

 

 ――しかし、流れる風を須らく力に変えるのが風紋の能力。曰くこの歳で“次階”に到達した吹羽(天才)の風紋は、その暴風でさえ力に変えて更に文を押し込んでいく。

 吹羽が振るう太刀――“韋駄天(いだてん)”はそういう風紋武器だ。

 これは風紋に流れた風を推進力に変える力を持つ。それは吹羽の体重ならば容易に体を浮かせてしまえる程で、一度振るえば凄まじい速度で体ごと宙を駆けることができ、非力な者でも木々を切断するくらいのことはできてしまえる威力を持つ。勿論これは実物(・・)であった場合だが。

 

 咄嗟の防御で耐え切れるほど吹羽の風紋武器は甘くない。そして非常に力の入れにくい部分を狙って吹羽の斬撃は放たれている。一瞬の拮抗の後、文は遂に羽団扇を弾かれて“韋駄天”の刀身を脇腹に食い込ませた。

 

「やぁぁああッ!」

「ぐっ、ぅう――っ!」

 

 爆発的な推進力によって振り抜かれた“韋駄天”は、文の身体をくの字に折って吹き飛ばす。受け太刀からしてあまり良い体勢を取れなかった文は成す術なく木に打ち付けられ、僅かに血を吐き出した。

 ――が、そこで止まっている暇はない。

 何故なら、警戒して上げた視線の先で、吹羽が既に腕を振り被っていたから。

 

「『飛天(ひてん)』ッ!」

 

 投げ放たれた杭は、その周囲に暴風を巻き起こして飛ぶ。一本の杭が巻き起こせるとは簡単には思えないほど巨大且つ強力な横殴りの暴風が、まるで竜巻を横倒しにしたようにして迫り来る。

 地を抉り、大気を引き千切って飛ぶそれは、たった一本の杭が巻き起こしているにも関わらず最早“砲撃”と言って差し支えない程の破壊と圧力を放っていた。

 

 文は再び咄嗟の回避を余儀なくされる。予想外の奇襲によって吹き飛ばされた挙句に追撃がこれ程強力であれば、僅かにも思考する暇はなかった。自然、体は使い慣れた動き――風を纏っての加速を反射的に行使する。

 しかし、それでも迫り来るのは砲撃だ。故に反応が遅過ぎた。

 纏った風によって大した力を入れることなくその場から飛び退くが、完全には避けられず、文の右足が砲撃に巻き込まれた。揉みくちゃにされた大気が足の皮膚を千切り飛ばし、容赦なくあらぬ方向へと折り曲げようと万力のような力を加える。みしり、という嫌な音が妙にクリアに聞こえた。

 

 一瞬の事だったとはいえ、圧倒的な力に巻き込まれた文の脚は瞬時に血に塗れ、骨すらも複雑に折れ曲がった。

 激痛と“飛天”の威力に体勢を保てなくなった文は、受け身すら取ることができずに無様に地面を転がる。

 その表情は、怒りや焦燥、苛つきなど加えて脂汗が吹き出し、凄絶に歪んでいた。

 

「ぐっ、ぅうぅうううう……ッ!」

「………………」

 

 苦悶の声を押し殺し、それでもなお漏れ出る唸声。完全に無防備となった文に対して、しかし吹羽は追撃するでもなく――ただジッと、真剣な瞳で見つめていた。

 

「っ、なに、惚けてんのよ……! 絶好の、チャンスでしょ……っ!」

 

 怒りでもなく、哀れみでもなく、ただ強く真摯な瞳を向ける吹羽に、文は堪らず悪態付いた。

 足を負傷し、未だ動けない敵を前に見つめるだけなんて、戦闘中であれば普通あり得ないことだ。

 まるで見下されているようで。いつでも殺せるのだと言外に示されているようで。

 吹羽に対して深淵のような殺意と憎悪を煮え滾らせる文にとっては、その行動はあまりにも不愉快だった。

 

 しかし、見つめる瞳は揺らがない。

 

「いいえ、初めに言いました。ボクがするのは弾幕ごっこです。文さんを殺す気も、況して殺される気もありません」

「意味が、分かんないわよ……っ! 一体何がしたいのっ!? 私に! 何をさせたいのッ!」

「………………」

 

 ――無言。

 そして荒んだ文の心は、それを吹羽の本心とは全く異なって、醜く捻くれた解釈を始める。

 

「……あぁ、分かったわ。今度は逆に私を痛め付けたかったってわけ。そりゃそうよね、あんだけ嬲ればやり返したくもなるわ。だから私には殺す気で戦わせるくせに、自分は弾幕ごっこなんてしようとしてるんだ? 幾ら当てても傷にはならないから……死にはしないから……ッ!」

 

 当然の報いだと。少なくともその権利は確かにあるんだろうと。

 全てを諦めようとして、それでも今戦わされている文は、その理由に無理矢理に――そして最も合理的な回答へと辿り着く。

 最早自分などもうどうなってもいい気がして、ならば嬲った分だけ仕返しされるのも仕方がない。どうせもう終わる(・・・)んだから、それまでに何されたって構やしない。

 

「どうせ最後には殺すんでしょう? 弾は霊力で出来ていても風はちゃあんと私を切り刻めるものねぇ? どう? 自慢の風紋で私の足をぐちゃぐちゃにした気分は? きっと最高に気持ちいいのでしょうねぇッ!?」

 

 まるで意識と体が離れてしまったかのように、一人でに唇が動いて罵声を放つ。心の内に溢れ出て燻り絡まり合うそれらを、一つずつ紐解き吐き出すように。

 

 文は、最早何も考えることが出来なくなっていた。――否、考えることをを放棄してすらいた。

 あらゆる負の感情を押し留めて幾星霜、遂に始めた復讐を他の介入によって粉砕され、同じ境遇のはずの吹羽と自分の違いを見せつけられ、遂に心が折れてしまっていたのだ。

 

 ああ強いとも。

 数えられる程度の年数しか生きていない癖して。

 支えてくれる人に恵まれている癖して。

 風成の憎っくき仇の癖して。

 それよりも確実に辛く険しい道を孤高に歩んできた文を今、吹羽は圧倒している。強力な能力に恵まれ、その才能を遺憾なく発揮し、己の刻んだ紋で文を追い詰めている。

 精神的にも戦闘力的にも、きっと吹羽は文よりずっと強い。

 

 ――もう十分だろう?

 

 足の怪我以上に心が崩折れてしまった文は、罵詈雑言を吐き出す口とは別に、内心で懇願するように泣き喚いていた。

 

 ――これ以上苦しみたくない。

 

 それは子供が駄々をこねるようでもあって。

 

 ――一思いに殺してよ。

 

 感情に圧殺され、何もかもから目を逸らして、全て終わりにしたいと願う様は奇しくも彼女の忌避する人間の、一部の者の行動に、よく似ていた。

 

 だが、そこで吹羽の言葉が想いを阻む。

 自分は弾幕ごっこをする――と、それは疲弊して死を望み始めた文にとっては、正しく絶望の一言。

 痛みを以って嬲り続けるという宣言に等しいそれに、文は奥歯を噛み砕いた。

 

 そんな文に、かけられた言葉は。

 

 

 

「……それで全部ですか」

 

 

 

 ――たったそれだけの、無関心。

 

「………………は……?」

「言いたいことは、それで全部なんですか」

「な、に……言って――……?」

 

 まるで響いていない、若しくはその言葉に何の価値も見出していないかのようなその言葉に、文は一瞬で表情が抜け落ちた。

 向けられる翡翠の瞳。そこにあるのは文に対する真剣な眼差し。されど言葉には抗議反論棘すらもなく、ただ凪いだ水面を体現するかのような静観とした無関心が篭っている。

 怒りを通り越して、文の脳内には困惑が満ち満ちていた。だって、人の絶望を目の当たりにして何も感じないなんて。

 何をしたいのか分からない。何をさせたいのか分からない。吹羽の全てが、何もかもが分からない。

 

 そうして溢れ過ぎた困惑は、今度は荒れ狂う殺意となって噴火した。

 今、吹羽は文を見てすらいないのだと沸騰する脳が不気味なほど自然に理解する。自分たちが堕とした、絶望に打ちひしがれ心で涙する者を前にしても、そこに無関心以外の何も感じることなくただ平然と児戯のように軽くあしらう。

 吹羽の態度にそう理解を示した文が、酷く冷たくあらゆるものを否定するかのような殺意を漲らせるのも当然のことだろう。

 

 果てしない疑念、絶望、困惑は、吹羽を前にして絶対否定の殺意へと昇華したのだ。

 

 その身の内に燻る何もかもを混ぜて煮詰めて、吐き出すように。

 

「――……ころしてやる」

 

 ぽつりと一つ呪詛を零し、文はゆらりと幽鬼のように立ち上がった。会話の内に治療した足は、治しきれなかったのか未だに血が滴っているが、今の文はその程度の些事を気にはしない。

 身の内で暴れ回る殺意が徐々に溢れ出し、文の周囲で濃密な妖力となって燻る。文が言葉を一つ一つ、譫言のように呟くたび、それはまるで鼓動のようにどくんどくんと震えていた。

 

「ころしてやる……ころしてやる……ころしてやる……ころしてやる――……」

「…………それでいいんです。そうやって、全部吐き出すんです。……全部、ボクに向けて」

「――……ぅぅうあああアアアッ!!」

 

 天に轟く程の咆哮。それを切っ掛けとして再び始まった風の応酬は苛烈を極め、互いに一歩も引かない闘争へと進化していった。

 文の風が、大気を巻き込み空間を駆けて、周囲の木々すら穿ち倒して暴虐の限りを尽くす。まるで文を中心に大竜巻が起こったかのように暴れまわる様は、傍から見れば、最早凄惨(・・)ですらあった。

 吹羽の風は冷静さの極みにあり、文とは対照的にどこまでも正確に、無駄なく行使されている。

 時に“太刀風”で鋭利に切断し、時に“疾風”で穿ち貫き“韋駄天”で宙を駆け、光の灯ったその瞳は静かな中に確かな強かさを秘めて冷静に戦況を見通す。どこまでも(わざ)を極めた動きで風を操る様は、やはり“風の一族”と呼ばれるに相応しい。

 暴力的な力と清透な業。対称的な二つはまさに、二人の心の有り様をそのまま示していた。

 溢れ出るままに、本能に従って、身体は己の風を操る。

 

「なんで……なんでよっ!」

 

 圧縮した風を無数に創造し、流星のようにして地を駆る吹羽へと放つ。一撃一撃が大木を消し飛ばし岩盤を捲る威力を持つそれは、文の殺意が十二分に込められた致死性の砲弾だ。

 

「なんで、ころせないのよ!」

「――っ!」

 

 向かい来る砲弾を的確に捉え、“太刀風”で切り裂いては“韋駄天”で回避する。“風車”で砲弾に傷を付ければたちまち圧縮した風が暴発し、周囲の砲弾ごと巻き込んで消滅する。

 吹羽は腰に差した小刀を三振りとも指の間に掴むと、抜刀と同時に振り抜いた。

 “鎌鼬(かまいたち)”――その名の通り、風の刃を飛ばす風紋武器である。

 

「私の方が、ずっと苦しんできたのにッ! ずっと憎しみで生きてきたのにッ!!」

 

 飛来した刃を無理矢理裏拳で打ち払うと、腕に切り傷が走った。ピッと血が飛び散るも、文は寸分だって気には留めずに羽団扇を振り上げた。

 込められた妖力に応答して膨大な風が収束し、嵐を丸く押し固めたかのような砲弾を形作る。最早目に見えて荒れ狂う暴威の弾頭を、文はなんの躊躇いもなく打ち下ろした。

 全ては憎っくき風成を――否、吹羽を(・・・)抹殺するため。

 

「あんたが憎かった! 殺してやりたいってずっと思ってたッ! 私にないもの全部持ってるあんたが、私は憎くてたまらないッ!!」

 

 迫り来る大質量の嵐に、渾身の力で放たれた“飛天”が突き刺さる。

 互いに強力な推進力を誇る二つの風は、周囲の何もかもを千切り飛ばす勢いで暴風と轟音を天に響かせ、大気をすら振動させて拮抗した。

 

「私と何が違うのッ!? どうしてあんたは幸福なのッ!! なんであんな笑顔が、できるのよォッ!!」

 

 全てを圧殺せんとする嵐の塊の背後から、文は駄目押しとばかりに風の砲弾を放つ。

 全ての力を、言葉を、想いを、身の内に渦巻く何もかもを爆発させてなお止まらない。己の全てを絞り出すかのように叩き付けられる風は果たして――吹羽の“飛天”を、遂に打ち砕いた。

 

「ぁぁああああアアアアアアッ!!!」

 

 凄絶な雄叫びを上げながら、文は烈風を纏って吹羽に肉薄する。

 上空から嵐の塊が迫る中、文が駆け込めば吹羽に逃げ道は無いに等しい。

 羽団扇を引き構えて、ありったけの怨嗟と鋭利な風の刃を込めて、文は吹羽を一閃で亡き者にするべく地を疾駆した。

 

 そして、全てを斬り伏せる一撃を振り上げたその刹那――低く構えた吹羽の手にあったのは、刃の潰された青い大太刀。

 

「――『大嵐(おおあらし)』ッ!!」

 

 瞬間、あらゆるものを吹き砕く(・・・・)衝撃波が文を襲った。

 たった一振りの大太刀を振り抜いただけにも関わらず、その名に納得してしまう程無慈悲な瞬間的風の衝撃波が、吹羽の前方にあった全てのものを蹂躙する。

 木々はへし折れ、地を抉り取り、圧倒的質量で迫り来る巨大な嵐の塊さえも真っ向から粉砕し、肉薄した文を容赦なく吹き飛ばした。

 まさか真正面から挑んでくるとは思わず、文は無防備に晒した体に、鉄壁に叩きつけられたような衝撃を諸に受ける。そのまま圧倒的な風圧に抵抗出来ず、背中を後方の木に厳かに打ち付けた。

 

「が――ッ!?」

 

 衝突した反動で体が前へと跳ね返る。全身を侵食する痛みにどうにか耐えながら姿勢を戻そうとすると――視界に映ったのは、“韋駄天”で懐へと潜り込んできた吹羽の姿。

 

「『(ぜっ)――」

 

 そのまま勢いに乗せて“韋駄天”で切り上げられ、文は強烈なカチ上げによって宙へと放り出された。

 度重なる衝撃で、身体は上手く動かせない。

 

(くう)――」

 

 宙に舞った文の体に、次々と衝撃が走る。

 “疾風”が凄まじい速度で飛来し、ただの一つだって外さずに体の節々へと強烈なダメージを与えていく。合間に放たれた“風車”は、同じく合間に放たれる“鎌鼬”と共に文の柔肌を薄く、しかし無数に切り刻んでいき、最後には“飛天”の生み出す暴風の砲撃によってさらに高く打ち上げられた。

 

(らん)――」

 

 嵐のような連撃の最後、朧げに捉えた視界には“韋駄天”で駆け上がって来た吹羽の姿が。

 一瞬で持ち替えた“大嵐”を振り被った吹羽は、すぐさま刀身自体を叩き付けるようにして風の衝撃波を振り下ろした。文字通り、文は糸切れのように地面の方へと吹き飛ばさる。

 

「――()』ッ!」

 

 吹き飛ぶ文を、吹羽は再度“韋駄天”によって追撃する。片手にそれを、もう片手には指の間に咥えた二振りの“太刀風”を。

 “韋駄天”の推進力を使って肉薄した吹羽は、高速で回転しながら文を斬り抜く。“太刀風”で浅く斬り、“韋駄天”で地面に叩き落としながら、吹羽は膝を着くようにして着地した。

 

 “絶空乱舞(ぜっくうらんぶ)”――吹羽の用いる全ての風紋武器で怒涛の連撃を放つ彼女唯一の剣技。

 本当ならば“風車”は直に当てるべきだし“太刀風”は叩ッ斬るつもりで振るうべきなのだが、弾幕ごっこ故に吹羽は鈴結眼で正確に浅く斬った(・・・・・・・・)のだった。

 

 吹羽は肩で息をしながら全ての武器を納刀する。

 そして先程までの輝きを消した瞳で振り返ると――土煙の中、仰向けに倒れ臥す文の姿を捉え、

 

「……分かりますか、文さん」

「……何が、よ……!」

 

 身体中を傷付けて倒れ臥す文の姿は、やはり痛ましい。しかし内面にはそれほどダメージが響いていないからか、その声には見た目に見合うような苦痛は含まれていなかった。

 

「分かんないわよ……何がしたいの……っ!? 何にも、変わんないじゃない……!」

 

 その代わりに含まれていたのは――疑念と困惑。

 吹羽の行動の意図が、文には始終分からないままなのだ。殺意を向けても“殺さない”の一点張り、嬲りたいだけなのかと言えば違うという。そう言いながらも結局はこうして文を下し、勝者として立っている。

 全く訳が分からない。憎いという以上に理解が出来ないその振る舞いに、文の中には恐怖すら芽生えてきていた。

 

「……っ、じゃあ、文さん――……」

 

 そうして目の端に涙を浮かべる文の側へと、吹羽はゆっくり歩み寄ってきて、

 

 

 

ボクを(・・・)刺してみてください(・・・・・・・・・)

 

 

 

 文の手に、優しく“太刀風”を握らせた。

 

「………………は?」

 

 純粋な困惑に満ちた声がぽつりと溢れる。あまりに突拍子のない言葉に、文は一瞬息をすることさえ忘れていた。

 そして彼女の視界の外からも、困惑と焦燥の混じった声が響いてくる。

 

「ちょ、吹羽っ!? あんた何言って――」

「…………………」

 

 思わず声を荒げる霊夢に、吹羽は「手を出すな」とばかりの視線を向けた。その真剣さと覚悟を悟ったからか、霊夢は心底不満そうながらも押し黙った。

 それを確認した吹羽は、文の手をきゅっと少しだけ強く握って、その瞳を覗き込む。

 

「ほら、文さん。ボクのここに向けて、突き出すだけでいいんです」

「なに……言ってるの? なんで自分から、こんな……」

 

 頂点に達した困惑は、絞り出す文の声を無意識の内に震わせていた。

 その瞳に映っているのは最早怒りや憎しみすら超越した不理解への恐怖のみである。

 人間は生に縋るものだ。例え醜くとも手放すまいと、必死に足掻くものだ。それを自ら手放すなど、自然の摂理に反してすらいる。

 自分の事を棚上げしているのは分かっていた。だが、それを気にできない程の困惑が文の中には満ち溢れていた。

 二の句を継げない文に対して、吹羽はほうと一つ息を吐くと、

 

「――文さん。ボク、文さんを追いかけてる時決めたことがあるんです」

 

 追いかけている時――文の本性を知るより前。しかしそこで決めた事は、こうして文と苛烈な触れ合いをする中でも生き続けていた。

 ――否、揺らぎはしたものの、“そんな事関係ないじゃないか”と結論付けた事だった。

 

「文さんの手がボクから離れた時、実はものすごく焦ってたんです。無遠慮なことを訊いちゃった、酷いことを言っちゃった、って」

 

 文の口調から、あの時の話が決して英雄譚などではないのは何処かで分かっていたはずだった。故に自ずと、結末がどうなっているのかも自然と悟れていた筈だった。

 

「だから、“文さんを一人にしたらいけない”って、思ったんです」

「なんでよ……。たったそれだけの理由なら、ここまでする必要ないでしょう……?」

「……確かに、それだけの理由で“自分を刺せ”なんて言えません。そんな度胸、ボクにはありませんから」

「じゃあ……なんで……」

「ボクが傷付けたことに変わりはないから、です」

 

 言い聞かせるように、強い声音で。

 

「ボクが生きてる事が……許せなかったんですよね。自分はずっと辛い思いをしてきたのに、なんで風成が幸せそうに生きてるんだ、って。知らず知らずのうちに……ボクはそうして、文さんを傷付けてた」

「………………」

「“それだけの理由”じゃないんです。虐められて、確かに文さんが怖くなりました。でもそれはボクが気が付かない内に傷付けてたからで……だから、改めて考えたんです。ボクが文さんを傷付けちゃったのは事実で、文さんが悲しんでるのもまた事実で……それなら、決めたことを変える必要なんて、ないじゃないか、って」

 

 一つ一つ確かめるように言葉にして、吹羽は最後に、決意を口にする。

 

「ボクの所為で傷付いて、悲しんでるなら、ボクが助けてあげなきゃいけないって思ったんです。だから全部……全部全部、思ってる事悩んでる事、吐き出して欲しかったんです」

 

 ――言葉にすると、自分の心に整理がつく。苦悩や苛つきは、溜め込んでしまうからこそ身体に悪いのだ。思考が気付かぬ間にマイナスな方へと流されていき、それが積み重なると人は歪んでいく。

 ――まさに、文がそうだ。幾百年と積み重ねた憎悪や怨念が、吐き出されないまま心の中で渦巻いていた為に、思考がどんどんと歪み壊れて、破綻していったのだ。

 

 自分が思っていること。望んでいること。悩んでいること――兎に角、心の中に燻っているもの。

 例え言葉として出てこなくとも、思ったことを口にするだけでも本人には己の心のありようは見えてくるのだ。

 文の場合は……吹羽が憎い。同じ境遇の筈なのに、何故自分はこんなにも辛いのか。――要は、吹羽へ抱いた苛烈なまでの嫉妬なのだ。それが、憎悪に繋がったのだ。

 

「文さん。ボクは、文さんに伝えたい事(・・・・・)があります。でもそれは、言葉で言ったってきっと伝わらない……だから、こうするんです」

 

 そう言って、文に握らせた“太刀風”の鋒を自分の腹へと向ける吹羽。その瞳にあるのは決意と覚悟と優しさと、自分が望むこととは言え、刺されることへの恐怖だった。

 

「……わけ、わかんない……」

 

 凡そ少女が出来るとは思えない考え方を語る吹羽に、文はぽつりと言葉を零す。

 文は迷っていた。きっと少し前の自分なら迷わず刺していただろうが、こうして吹羽に負け、心折れて全てを諦めようとしていた今の文にはそこまでの殺意は最早ない。

 無論憎悪はある。心の底に深く根付いたそこからふつふつと黒い思考が脳裏を過ぎりはするが、しかしやはり殺意と呼ぶにはどこか足りないのだ。

 

「(……でも、やってみれば、変わるかも……)」

 

 ふと握られた刀に目を落とす。

 光を反射して白銀に輝き、風に靡く(すすき)の如き流麗な紋が一際目立って見えた。その刃は刀匠の腕を物語るように滑らかで、きっとこれで一突きせば致命傷になることは確実だろう。

 

 ――これで、吹羽を刺せば、もしかしたら、彼女は死ぬかもしれない。

 

 それは殺意を剥き出しにしていた、心折れる前の文の望み。今は最早別人のように感じるそれでも、自分自身なのは確かだ。例え今は望んでいなくとも、刺してみれば、殺してみれば、吹羽が死んでみれば、何かこの心に変化があるかも知れないと、文はぼんやりと考える。

 

 数瞬の間を置いて――文は己の力で、刀を握り締める。

 そしてそのまま、吹羽の腹へと導かれるようにして突き出した。

 

「……ッ、く……ふ、ぅ……っ!」

 

 ずぶりと柔肌を裂いて進み、肉、内臓を深く抉り傷付け、血管の一つ一つがぷつぷつと切れていく感触が手に伝わってくる。

 溢れてきた鮮やかな紅色が服の白地に滲み出し、遂には刃を伝って文の手を濡らし始めた。

 ぬるりとして、生暖かくて、鉄臭い。それは紛うことなき命の香り。今まさに身体の中から溢れては消えていく、吹羽の命そのものだ。

 

「は、はは――……」

 

 吹羽の命が消えていく。目の前で、文の手で、苦悶の表情を浮かべながら涙を浮かべながら、吹羽の命の灯火が、今ゆっくりと消えていく。

 それは文が望み焦がれたことだった。被害者を差し置いて幸せに暮らす加害者が羨ましくて妬ましくて、ひたすらに憎かった。そして本気で挑んでも殺せなかった加害者が、今こんなにも呆気なく、そして自分の手で、ゆっくりと死に絶えようとしているのだ。

 あれ程まで望んだ結末が、今目の前にある。

 

 ――だというのに(・・・・・・)

 

「は、は……なん、で……」

 

 その様を呆然と見つめる文が零したのは、歓喜でも愉悦でもなかった。

 その表情には自分自身への(・・・・・・)困惑が満ちており、不用意に触れてしまえば途端に崩れ去ってしまうような儚さがあった。

 かたかたと震える手が、怯えるように柄を手放す。

 

「なんで、わたしは、なにも……なにもかんじない(・・・・・・・・)の……?」

 

 仇を傷付ける事の快楽も、憎悪を晴らす清々しさも、自らの手で人を殺める哀しさも――成し遂げればきっと押し寄せてくるだろうと思っていたあらゆる感情が、しかし細波程にも溢れてこない。

 鉄塊のように冷たく固くなった心は微動だにせず、感じるのは途方もない空虚感と本当に僅かな達成感だけだった。

 

 もっと嬉しいものだと思っていた。打ち取った仇の死体を足蹴にして狂気的に高笑いを上げられる程度には気持ち良くて、身体の内側を歓喜で満たされるように幸福な心地になれるものだと。

 しかし、そんな事はなかった。むしろ想像の真反対。考え得る限りの最悪な気分。

 数百年掛けて成し遂げた復讐に何も感じないなんて……それじゃあ、今までの苦悩はなんだったんだ? と。

 

「わかり、ますか……文さん……?」

「――ッ!?」

 

 不意に感じた頰の熱に、文はびくりと身体を震わせる。

 それは、吹羽の小さな手。痛みに耐え小刻みに震えるその暖かな手が、文の頰を包んでいた。

 

「自分が空っぽになったみたいに……すごく、寒くて、寂しい……ですよね」

 

 心の内を見透かすように放たれる言葉。

 “知っている”とばかりの確信に溢れた言葉に、しかし文は何一つ反論できない。

 今あるのは、果てしない空虚感。それはまさに自分が空っぽになってしまったように錯覚するほどで、そこに吹く隙間風は酷く冷たくて、どんどん心が冷えていくようで。故に、ふと自分を抱き締めて縮こまりたくなるこの気持ちは、確かに寂寞感なのだろう。

 

 震える文の瞳を見つめ返して、吹羽は悲痛そうな微笑みで言う。

 

「それは、文さんが……本当はちゃんと、分かって(・・・・)いる(・・)から、なんですよ」

「え……?」

「だって、ボクを殺そうと、する直前……すごく、悲しそうな顔……してました。……分かってる、筈なんです……それが、認められない、だけなんです……っ」

 

 辛い事なのだと分かっている。でもそれは、どうしたって向き合わなければならない――一生背負っていかなくてはならないこと。

 吹羽は途切れ途切れに、しかし必死になって言葉を紡ぐ。

 その言葉に――文の瞳が、動揺に揺れた。

 

 

 

「ボク達の大切なものは……もう、どうしたって帰ってこないんです……っ! 家族も、思い出も、ボク達じゃあもう……どうしようもないんですよ……っ!」

 

 

 

「――ッ!!」

 

 文の家族は、吹羽が築いてきた思い出は、例え二人がどんなに想いを募らせようとも、足掻こうとも、もう手に触れることすらできない程遠くにある。

 “過去”とは、“不変の事実”の別名である。“未来”でどんなに思い焦がれても変えることはできない、過ぎ去ってしまった出来事なのだ。

 そうした“未来”に生きる吹羽と文は、例えそれがどんなに非情でも過去を受け入れるしか生きる道はない――否、受け入れられた(生きられた)のが吹羽であり、受け入れられなかった(生きられなかった)のが文なのだ。

 

 それを文はどこかで分かっている筈だ。

 どれだけ足掻いても取り戻せない苦しみが、悲しみが、受け入れられなかったからこそ思考の奥深くに沈め封じて、気が付かないふりをしているだけ。

 でなければ吹羽を虐めて爽快感を味わわない(・・・・・)訳がないし、あれほど純粋な悲哀の瞳などできるはずがないのだから。

 

 吹羽は、それを伝えたかった。

 氷牢の如く強固に封印したそれを解き放って、受け入れなければならないのだと文に分かって欲しかった。

 

 そして同じ境遇の存在として、手を取り合うことができれば――と。

 

「“同病相憐れむ”、という諺が……あります。ボクたちには、分かってくれるひとが……ひつようなんです……っ! ボクには、れいむさんとあきゅうさんが、いて……だか、ら、あやさんには……ぼく、が――……っ」

「ッ!! 吹羽ッ!?」

 

 言いかけて、吹羽は遂に耐え切れなくなりどさりと倒れ込んだ。すぐさま霊夢が駆け寄って抱き起すが、その背に触れた霊夢の手は止めどなく溢れる吹羽の血液で真っ赤に染まっていた。

 ぞわりと寒気を感じて腕の中の吹羽を見るも、焦点の合わない彼女の眼は、しかしぼんやりと文の方に向いていた。

 

「あ、や……さん……」

「っ、黙ってなさい吹羽ッ! 今治すから!」

 

 譫言のように文の名を呟く吹羽。青白くなった顔で、意識も朦朧としているだろうに、無意識に溢れる言葉が文の名であることは、やはり彼女のことを心から想っているからこそなのだろう。

 霊夢はその様子に少しだけ心をざわつかせながらも傷口に手を翳す。溢れ出た霊力は淡く光り、傷口を優しく包み込んだ。

 ――しかし。

 

「(っ、傷が……深過ぎる……ッ!)」

 

 刀は吹羽の腹から入り、背中側に突き抜けている。文字通り風穴が開いた状態だ。当然出血は非常に多く、刀を抜かずに蓋をしている今の状態でさえ止めどなく溢れ、霊夢の手と膝を真っ赤に染めている。

 霊夢の術は治療術でこそあれ、応急手当程の効力しかない。当然だ、霊夢は妖怪退治を生業とする巫女故に、治療に関しては素人に毛が生えた程度でしかない。間違っても貫通した刀傷を完全治癒できる訳がないのだ。

 出来るのは、せいぜい血の流出を少しでも止めて薄皮を繋ぐくらいだ。

 

「本当に……無茶するわね吹羽ッ! 全部終わったら覚悟しときなさいよ……!」

 

 悪態吐きながらも、霊夢は今できる最大限の治療を施していく。薄皮は繋げても内側の傷は治らない。故に内側での出血は止まらないのだ。無闇に動かすことはできず、かと言ってこのままでは確実に吹羽は死んでしまう。

 どうするどうするどうする――歯を食いしばって焦燥に駆られながら思考を超速回転させる霊夢は、横目でこの事態の原因となる文を憎々し気に睨んだ。

 

 ――文は、呆然として怯えるように震えていた。

 

「とりもど、せない……かえって、こない……っ、やだ……やだやだやだぁ――ッ!」

 

 受け入れられない事実だった。封印してまで目を逸らしていた事実が、今文に重くのしかかっているのだ。

 最早吹羽の事など頭にはない。まるで目を背け続けてきた過去を清算するかのように、押し寄せてきては何の容赦もなく思考を侵して、文の心をぎしり、みしりと押し潰す。

 

 そうだ、自分は吹羽を嬲って気持ちよくなりはしても、決してすっきりはしなかった。心にかかる靄が消えて無くなることはなかった。それはきっと、吹羽に復讐したところで何も解決しないのだと分かっていたからなんだ。

 吹羽の事が憎かった。自分とは違って幸せに暮らすあの子が、酷く羨ましくて、妬ましくて、憎たらしかった。でもそれ(幸福)は吹羽を殺したところで手に入るものではない。幾ら焦がれても、求めて手を伸ばしても、それ(・・)では指の間を抜け落ちるどころか触ることもできなくて、下から眺めていつまでも想い続けるしか文には出来ない。

 

 ただ、そうしているのも辛いから。

 劣等感で心を壊されそうだったから。

 ――文はそれからも目を背けようとして、“届かないなら壊してしまえ”と、吹羽への復讐に狂っていったのだ。

 それも、全て無意識の内に。

 

 事実から目を背け、乗り越える努力すらせずに、心に触れる邪魔なものを目障りだからと壊して喚く。

 それがどれほど無駄なことで、無意味なことなのか、気が付かないふりをして――。

 

 

 

「これで分かったろう、文」

 

 

 

 不意に響いたその声は、何処か諭すような声音で文の耳にするりと入ってきた。

 この場の誰のものでもない声。しかし文には、そして霊夢には、嫌でも聞き覚えのある声だった。

 その声の主へ――突如滲み出すように現れた伊吹 萃香へ、霊夢は平坦な声で言う。

 

「……何しに来たの、萃香」

「お前さんには関係ないさ。……ああ、だけどコレ使え」

 

 と、萃香の投げ渡した包みには丸薬が入っていた。訝し気に睨み返す霊夢に、

 

「わたしの妖力を極限まで絞って作った万能薬だ。疎めてあるから害はない」

「……あんた、なんでそんな事……? もう殆ど妖力残ってないじゃない――!」

 

 妖力も、霊力などと同じ生命エネルギーの一種である。それを枯渇する程に酷使するのは文字通り命を危機に晒す事に等しい。

 驚きと困惑を綯交ぜに、しかし表面上は訝しげな顔の霊夢に、萃香は少しだけ青白くなった顔で微笑む。

 

「風成の子を死なせないって、汲んだ(・・・)からさ。鬼が約束のために力を振り絞るのは当然のこと。……随分無茶をしたようだしな、お前の治療術だけじゃ死ぬだろ?」

「………………助かるわ」

 

 霊夢は簡潔に礼を述べて、しかし視線だけは少しだって吹羽から逸らさずに受け取った薬を飲ませた。

 すると吹羽の傷はみるみると塞がっていき、顔にも赤みが差してきた。苦し気だった表情も、まだ脂汗が残るものの少しだけ楽になっていた。

 その様子に峠を越えた事を察した霊夢は大きく息を吐いて胸を撫で下ろした。萃香には後で、改めて礼を言わねばなるまい。

 

「……椛はどうしたの」

「今鳳摩の奴に診させてる。ちょっとやりすぎたんだ。あいつの為に、それを風成の子に使ってやってくれ」

「………………」

 

 萃香の言葉に何となく事情を察した霊夢は、先程の強力な妖力を思い出しながら彼女に問う。

 戦闘の最中に感じた妖力から萃香と椛がぶつかっているのを知っていた霊夢である。暗に彼女の安否を尋ねるが、萃香は実に簡潔な説明を放るとすぐに霊夢から視線を外して文を見遣った。

 その視線に、文はびくりと身体を震わせる。

 

「……す、萃香、さま……」

「文、単刀直入にいこう。なんでわたしがここに来たのか……それは、約束(・・)を果たすためさ」

「約束……? だれの……」

「凪紗だよ」

「ッ!?」

 

 端に涙を浮かべたまま、その赤みがかった瞳を大きく見開く。

 そんな文にふと微笑みかけ、萃香は朗々と歓喜を語る。

 

「大昔にしたあいつとの約束を、今やっと果たせる時が来たんだ。……待ったよ、数百年。凪紗の奴も酷い女さ、わたしが生粋の鬼(嘘嫌い)だってわかっててお前(・・)に嘘を吐き続けさせるんだから(・・・・・・・・・・・・・・)な」

「う、そ……?」

 

 “凪紗と萃香の約束”。“文に嘘を吐いていた”。

 思いも寄らない言葉の連続に、文は困惑と狼狽を綯い交ぜにして鸚鵡返しする。

 

「だがまぁ、そこの風成の子に免じて許してやるさ。ホントはわたしが分からせてやらなきゃならなかった事を、体張って命張って、やり遂げてくれたみたいだしな。全く、どいつもこいつもお人好しなんだね、風成ってのはさ」

「一体、なんの話を……してるの……っ!?」

 

 全く理解が追い付かず、思わず文は萃香へと叫び散らした。

 文の気など欠片も慮らずに語る萃香は、悲痛にすら聞こえる叫びを上げる文を見てさも、「まぁ、そう思うよな」とでも言うように、

 

「文。わたしはね、凪紗の奴に“文が受け止められる心を得たと思った時に話して欲しい”と言われたんだ。あいつはお前が自分を知っている以上に、お前のことを分かってたんだよ」

「な、なに……を……」

 

 にやりと、萃香は悪戯に成功した子供のような――しかしその奥底に果てしない優しさを感じさせる笑みを、文に向けた。

 

 

 

「凪紗は、お前を裏切ってなんかいなかった(・・・・・・・・・・・・・・・)――ってことさ」

 

 

 




 今話のことわざ
同病相憐(どうびょうあいあわ)れむ」
 同じ病気や悩み苦しみを持つ者は、互いの辛さがわかるので助け合い同情するものだということ。


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第二十三話 “心”淵に望む

 

 

 

 萃香は今でも、あの日の闘争を鮮明に思い描くことが出来る。

 

 それは他の何者の介入も許さぬほど苛烈であり、熾烈であり、しかしだからこそ闘争に生きる悦びを萃香の脳髄に刻み込むに至った、最高の大喧嘩。

 互いの極めた業で舞い、剣撃と拳の織り成す嵐の中で互いに絡み合う。骨が砕けようと血飛沫を散らせようと、三人は己の信念の為に究極の闘争の中に身を投げていた。

 萃香には、それが最高に心地良かった。そも己と渡り合えるような強者を求めて山を訪れた鬼である、例え天狗や人間達がどのような心境で立ち向かい、どのような志を持って刃を振り下ろしているのかなど今更気にもしていなかったのだ。

 

 ただひたすらに――この二人との喧嘩が楽しくて仕方がない、と。

 

『あははははっ! さいっこうだよお前らァッ!』

『はっ、はっ、――ッ、ぅうおおああッ!』

 

 互いの命を削り合う、魂を曝け出したかのような凄絶な闘争。まるで最高の玩具(おもちゃ)を見つけた子供のような笑顔で拳を振るう萃香に対して、相対する天魔と凪紗は既に満身創痍の様相を呈していた。

 とうに、消耗していたのだ。

 

 萃香と戦うよりも前、二人は彼女と同列の大妖怪(四天王)と衝突し、辛くも討ち取ったものの、その戦いで二人は殆どの力を使い尽くしていたのだ。

 そんな状態で四天王・伊吹 萃香との連戦――いや、天狗と人間の勝利を捥ぎ取るならば四天王と鬼子母神、五人の大妖怪を下さなければならないなど、無理無体にも程がある。

 

 だが、諦めはしなかった。諦められる訳がなかったのだ。

 天魔と凪紗は、互いに一族の長となって相利共生の道を拓き、そして見事に他の妖怪を寄せ付けぬ力と安穏とした平和を築き上げた。魑魅魍魎の跋扈するこの時代、そうした平和な領域を創り出すことがどれだけ重要なことなのか、きっと今を生きる誰も想像はできないだろう。

 それを鬼たちの気まぐれ(・・・・)などで、壊される訳にはいかなかった。そんなことで壊されていいモノ(平和)では断じてないと二人は信じていたのだ。

 死力を賭して戦い、互いの守りたいものを守り合う為に刃を振るう。二人が築き上げた絆とは、それ程までに強固鉄壁であった。

 

 しかし、現実とはやはり無情か。萃香との明らかな力の差が、次第に二人を追い詰めていく。

 

 鬼は力の権化。人間が恐怖するほどの力――真の意味で“想像を絶する力”というものが、鬼の存在意義そのものである。

 文字通り二人の想像を絶した力を放つ萃香を前に、喰らい付くので必死だった――否、天魔と凪紗だからこそ、喰らい付いていられたのだ。

 

 ――しかし、限界は何れやってくる。

 

『……もう、終わりなのかい?』

 

 そう言葉を零した時の虚しさを、萃香は今でも覚えている。

 当然だ。強者を求めてやってきて、それに答えてくれる者らを見つけて、そしてその限界がたった数刻の内に見えてしまったその失意を、萃香は忘れることができないのだ。

 たった数刻でも自分に付いてこられた二人の限界がもう見えてしまったというその失意は、歓喜と期待に比例して深く重いもの。

 

 だが、そうして失望を口にする萃香へと二人が向ける視線には、まだ力強さが残っていた。

 

『まだ……終われない……ッ!』

『我らの、民の平和を……壊されてなるものかッ!』

 

 刀を杖に、そしてふらつきながらも二人は決意を口にして立ち上がる。

 その言葉に、その姿に、萃香はこの時初めて“意思の力”というものを見たのだった。

 決して手加減していた訳ではない。むしろ加減など忘れて快楽のままに力を振るっていた自覚さえある。それは己が絶対の自信を持つ破壊の拳であり、事実あらゆるものを粉砕する究極の(かいな)である。これを受け続けられたものなど、同族の鬼を除けば片手で指折り数えて十分に足りるほどしかいない。

 

 それに天狗が――況してや人間が、強固な意思を持って立ち向かい、圧倒されようとも、手にした刀を手放そうとはしない。

 未だ油断ならない相手なのだと、萃香の本能は叫び続けていた。

 

 

 

 そうして三人は、遂に――運命の瞬間を迎える。

 

 

 

 幾度目とも知れぬ衝突の末、先に力尽きようとしていたのはやはり天魔と凪紗だった。

 まさに予定調和。迎えるべくして迎えた限界である。それでもやはり、二人の瞳から光は失われていない。むしろ次が最後だと悟ったが故の凄まじい覇気のようなものすら放っていたのを萃香は覚えている。

 肌を刺すような鋭い殺気。それは強大な敵を前に心折れた者が発するモノでは決してなかった。

 

 刃の嵐と鋭利な剣閃。もはや一撃必死と成った最強の拳。無数のそれらが打ち合わされたその末に、その瞬間はやって来た。

 

 天魔の放った微細な刃の嵐を、萃香はその豪腕で以って一薙ぎに打ち払う。それによって腕は破裂したように血が噴き出すが、そんなもの今更気にはしない。

 攻撃直後のこの隙にトドメを刺そうと地を踏み砕いて飛び、天魔へと打ち出された萃香の砲弾の如き拳は――しかし罅の走った刀を盾に、受け止められた。

 

 この瞬間、萃香は既に意識を天魔から外していた。

 天魔と凪紗が何を以って萃香に抗していたのかといえば、それは阿吽の呼吸というのも生温い程に完成された連携だったからだ。

 さして相談する様子はない――というよりそんな余裕などお互いに存在しない戦いの中だというのに、まるで示し合わせたかのような回避に次ぐ攻撃、受け身に次ぐ反撃、挙句お互いの刃を紙一重で避け合いながら正確無比な神速の連撃を繰り出す。萃香をして心を読み合っていなければ不可能とすら思わせるほどの完璧な連携である。

 だからこそ萃香は天魔から意識を外した。

 必ず凪紗は、ここで攻撃を仕掛けて来る、と。事実天魔は、萃香がこの場から動けないよう腕に風を絡めて拘束していたのだ。

 

 果たしてその読みは、実に明答であった。確かに凪紗は攻撃を仕掛けて来た。

 ただしそれは――萃香が考えもしなかった方法で。

 

 初めに感じた感覚は、胸に現れた違和感だった。とん、と軽く突かれたようなその感覚に、初めの萃香は気を向けない。

 しかしその違和感は時間とともに強くなり、遂には叫びたくなるほどの激痛へと進化した。喉の奥から鉄を溶かしたように熱いものがこみ上げ、鉄の味が色がる口の端からそれが零れ落ちた時――萃香は遂に天魔から外していた意識を戻した。

 そこに見たのは、自分の胸を貫く、

 

 

 

 ――天魔の胸から伸びた血濡れの刀(・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

『これで……良いんだね、(あきら)……』

『ごふ……っ! ああ……上出来だ、凪紗……』

 

 互いの名を呼ぶ天魔と凪紗の悲痛な声に、これが二人の殺気の正体なのだと――しかし決して二人が望んだ事ではなかったのだと、萃香は悟った。

 “無意識の油断”――二人の信頼関係から考えて無意識の内に思考から除いていた死角……天魔の背後という死角(油断)を、凪紗は突いたのだ。

 ――天魔を、犠牲にする形で。

 

『なぁ、酒呑童子(伊吹 萃香)……! お前は、ここで終わらせてやる……っ!』

『ぅ……かふっ……っ、無意味、だって、分かんないのかい……? こんな勝ち方は……!』

『いい、のさ……我ら天狗、風成の力が……調子に乗った喧嘩屋(鬼一族)共の、命には届き得ると……わかっ、た、ろう……っ!?』

 

 今にして思えば、この時天魔は既に先の事を見据えていたのだろうと萃香は思う。

 自分達の力では、四天王と鬼子母神を倒して鬼達を退けることは出来ない。そう悟ったから、“古い平和を守る”のではなく“新しい平和を作る”事を考えた。即ち――鬼に支配されようとも、天狗・風成一族が虐げられることのない平和を。

 

 この最後の戦いに於いて鬼の四天王の一人を道連れにして、天狗と人間の力を認めさせようとしたのだ。そうすれば例え天狗と風成が鬼の支配下になっても、鬼達は決して二族を理不尽に扱いはしない。何故なら二族は自らの命に届き得る存在だから。蔑ろにして黙っている種族ではないから。

 

 彼らの民を守ろうとする意思が――長としての覚悟が、己を犠牲にして民を救う道を選ばせたのだ。

 

 だが、その光景は――必死で駆け付けた幼い文が、目の当たりにしてしまっていた。

 

『……とう、さま……?』

 

 ――ああ、可哀想に、と。

 “敵である萃香”ではなく、“凪紗に刺された天魔”を呆然と見つめるその姿に、萃香は同情にも似た哀れみを覚えた。

 赤みがかった瞳は徐々に光を失い、後退りすることも出来ない程にその小さな身体は震えている。それは幼い少女が現す感情にしては、あまりにも凄惨過ぎた。

 きっと、天魔が心の拠り所だったのだろう。この戦いが一つの山の中で起こっていることとはいえ、幼い少女が放り出されるには危険が過ぎる。寂しさ、恐ろしさ、心細さ――そう言った“恐怖”に類される感情を払拭する為に、きっと彼女は此処へ来た。そしてそこで彼女が見たのは、“父が命を犠牲にして倒した敵”ではなく、“信頼する親友に背後から刺された父”だったのだ。

 ……少女が、心を狂わせるに足る現実である。

 

 この戦いに於いて唯一救いだったのは、萃香との決戦を最後に全体的な戦争が終結したことか。

 天魔の望み通り、鬼達は天狗達を強者として認め、支配下にありつつもある程度対等な存在として見るようになった。その決起となったのは他ならぬ萃香である。

 天魔と凪紗の民を守るという強い意思。その力の発現を真っ向から受け、終いには敗北を受け入れざるを得ないほどの傷を負った。死ぬことはなかったとはいえ、これで認められないなら萃香は鬼ではない。

 天魔と凪紗の意思は、拳で語らった萃香が汲み取るには十分なことであり――そしてその戦闘を見ていた他の四天王と鬼子母神も、全く無感という訳ではなかった。

 少なくとも、これ以上の犠牲が出る前にこの戦いを終わらせよう、と踏み切る程度には。

 

 天魔と凪紗の戦いは、こうして幕を閉じた。こうして望みが叶った。

 ただ一つ――文の絶望だけを残して。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――そして、凪紗に言われたのさ」

 

 百鬼侵撃の乱に於ける最終決戦の真実。全員が静まり返った中で語り終えた萃香は、一呼吸してそう前置いた。

 周囲の木々が風に攫われてはらはらと舞う。言葉を待つように静かなこの空間には、虫の羽音も、鳥の鳴き声もない。たださわさわと掠れる葉々の音だけが、優しく満ち満ちている。

 じ、と文を見つめて、

 

「“どうか、章の意思を文に伝えないでほしい”……ってね」

 

 赤い瞳が、揺れる。

 

「……な、なん……で……」

「それは、少し考えてみれば分かるんじゃないかい? 凪紗は本当にお前の事を案じていた。それを考えれば、答えなんか一つしかないじゃないか」

「………………っ!」

 

 まさか、と何かを察した様子の文に、萃香はすぅと目を細めて仕方なさ気に拳を腰に当てる。

 文の揺れる瞳を、弓矢の如き視線で射抜きながら、

 

 

 

「お前を、死なせない為さ」

 

 

 

 ――凪紗に頼まれた時、彼女は萃香にこう言った。

 

『文にとって、章の存在はなくてはならないものだった。それが無くなってしまった今、文は非常に不安定なんだ。……もしもの時(・・・・・)に、備えておきたいんだよ……!』

 

 天魔の存在が文の中でどれだけ大きかったのかを、凪紗は恐らく誰よりも知っていた。そんな彼女が、父を亡くした文がどんな精神状態でいるかを悟れたのは自明の理というものだ。そも観察眼が異常に鋭い――吹羽と同じ鈴結眼を持つ凪紗である、親しかった文の心境が分からない道理がない。

 分かったからこそ、凪紗はこう考えたのだ。

 

 最悪の場合、文は自尽を選ぶかもしれない――と。

 

「だからあいつは、お前の生きる理由を作ろうとしたのさ。知的生物が生きる理由ってのは愛だとか友情だとか様々あるが……あの時凪紗が選んだのは、一番単純にして強力な“感情”だった」

「ッ! まさ、か……」

「そう、“憎悪”だよ」

 

 強烈な感情は、良し悪しに関係なくその宿主へと強い影響を与えるものである。幼い憧れは人生の夢を形作るし、過ぎた恐怖はトラウマとなって半永久的に付き纏う。あらゆる感情は恒久的な影響となって心に宿るのだ。

 

 その中で、憎悪は単純にして強力な感情の一つである。“嫌い”、“むかつく”、“殺したい”――そう言った悪感情が何故単純で強力で、心に残りやすいのかといえば、それは理由を探すのが簡単だから(・・・・・・・・・・・・)だ。

 人を好きになるのに理由などない、なんて名言がある。それは確かだ。尤もだ。この言葉はきっと人の好意というものの真理を突いているだろう。だが逆に、人を嫌いになるのには必ず何か理由があり、それが自覚出来る――つまりは基盤を作れる(・・・・・・)それは、好意よりもよっぽど心に定着しやすい。

 汚いだとか、面倒くさいだとか、何か嫌なことをされただとか。好きになるのはなんとなくでも、嫌いになるには理由がある。理由がなければ、“他人を嫌いになる”なんて生物の生に於いて“無意味”だからだ。

 そしてそう言った単純で強力な感情が、心に残りやすいということを知っていたが故に、凪紗はそれを利用することにした。

 

 自分(凪紗)を殺したいほど憎ませて、“復讐してやる”という生きる理由を、文に与える為に。

 

「憎んだろう? 恨んだろう? 怨嗟に苛まれて眠れない夜もあったはずだ。だがそうでなきゃお前はどうしてた? 父親を殺されて、分かってくれる奴もいなくて、お前は生きていられたか? 耐えていられたか?」

「それ、は……」

「分かるはずさ、自分の事なんだ。凪紗の残した復讐心がお前を生かした。あいつはお前が自分のことを恨み続けることを望んで、一族諸共山を去ったのさ。……まぁ、申し訳ない気持ちも少なからずあったんだろうがな。不思議には思わなかったのか? 当代天魔ですら戦友(とも)と呼ぶ一族と、何故数百年間も交友関係が切れていたのか。……それはお前のためなのさ。お前に生きていてほしいと願った凪紗の、心の跡なんだ。……あいつは裏切ったんじゃない。章の意思を――お前自身を、生かそうとしただけなのさ」

 

 萃香に文のことを頼んだ後、凪紗は――風成一族はひっそりと妖怪の山を去った。

 文に対しての負い目も、頭領を殺した天狗一族そのものへの負い目も確かにあったのだろうが、一番の理由は“文に行動を起こさせないこと”だった。

 復讐というものは晴らしてしまえば消えてしまう。それが成功するにせよ失敗するにせよ、近くに仇がいたのではきっと文は行動に移し、その結果を得てしまう。文を生かすのに大切なのは、復讐心を燻らせ続けること。“結果”なんてものは、決して与えてはいけなかったのだ。

 そして、凪紗のその心遣いを、文だけが理解出来なかった。

 その為に、間違った歴史だけが後世に残った――否、彼女の心を知る者達によって、改竄された(・・・・・)のだ。

 そして数百年の月日を経て、何の因果か、風成家と妖怪の山は奇しくも同じ世界に移住し集まった。

 

「そして、ここからはわたしの持論だ。文、お前が受け止められるようになったら話してほしいと言われた、とさっきわたしは話したな」

「………………」

 

 文は答えない。しかし萃香はそれをなんら気にせずに言葉を紡ぐ。

 

「“受け止められるようになったら”……なんて曖昧な言葉かね。復讐心を煽っておいて、こんな真実を後で打ち明けろなんて……嗚呼、本当に酷い女だ。あんなのに気を許した章の気が知れない。……だからね、文。わたしはわたしのやり方で、お前に思い知らせてやることにしたのさ。自分のやろうとしてることが、本当はどんなもんなのか、ってね」

 

 萃香は決して、全ての復讐が無意味なものであるとは思っていない。無意味な復讐というものはその悉くが“本人の望む結果”の得られないものなのであって、例えば殺された親友が死ぬ直前に自分を殺したやつを殺してほしいと願った上での復讐ならば、それはきっと意味のある復讐である。望んだ結果が得られることだろう。

 ただ、最も無意味なものとは――望みが何なのか(・・・・・・・)も分からずにする復讐(・・・・・・・・・・)だ。

 

「わたしはお前を否定しない。復讐したいならすればいい。だがな……何も分からないままでするのは許さない。章や凪紗があらゆるものを捨てて紡いだお前の命を、無意味な復讐に費やさせるなんて、そんなのわたしは認めない」

 

 少なからず認め、その意思の強さに感動さえした萃香に、今までの文を許せる訳がない。だって、文は自分が何を欲していたのかも分からないまま、与えられた復讐心を吹羽へとぶちまけていただけなのだから。自分の意思すら認識できないまま、復讐を遂げようとしていたのだから。

 そんなものに意味なんてない。意思の宿らぬあらゆる物事はただの無駄でしかなく――それを文に分からせようと、己の望みがどこにあるのかを理解させようと、然々(しかじか)と画策するのが、萃香のやり方(・・・・・・)であった。

 

「やるからには望みを持て。半端な気持ちで無駄にするな。自分を理解してから復讐に狂え。そしてそれが今でも揺らがないなら、わたしに証明してみせろ。わたしはそれを、肯定してやる。だが……もう分かったはずだな、文?」

「……………………っ、〜〜っ!」

 

 へたり込む文の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れる。それは溢れ出した心の粒のようで、濁り気なんて少しもなくて、仮面を被り続けてきた彼女の叫びのようでもあって。

 

 ――そこへ、ふらふらと覚束ない足取りで、吹羽が歩み寄っていった。

 

「あや、さん……大丈夫、です……。そばに、いますから……っ、」

 

 傷はある程度治癒されても、傷付けられた感覚と多量の失血が、吹羽の意識を朦朧とさせていた。どうにか歩み寄るも、あと数歩のところで躓いてそのまま文の膝上へと倒れ込む。

 息遣いは荒く、瞳は絶えず揺れていたが、その視線は確かに文へと向いていた。

 

 その時、こつん、と硬いものに触れる感触があった。

 それはスカートに付けられた小さなポケットに入った――入ったままで忘れていた(・・・・・・・・・・・)、ある貰い物。

 

「(私、は…………)」

 

 一体、どうしたい? ――そう自らに問う心の声に、文はまだ、迷う。

 文の中に燻った復讐心(憎悪)は、最早凪紗が煽ったものだけではない。父を失った事は事実であり、吹羽を羨み妬んだ事も事実……つまり、文が本当に思って(・・・・・・・・)いる事(・・・)だ。そこに他人の思惑が介入する余地なんてない。

 ならば、自分は一体何を望んでいるんだ――と。

 

 選択肢があった。

 一つは、突き付けられた全てを受け入れて、吹羽への羨望を胸に努力すること。

 一つは、今ここで全てを壊して、劣等感と狂気に身を沈めて楽になること。

 どちらを選んでも、きっと萃香は否定しない。だってこれは、文自身が考えて、選び取った結果になるから。

 ただ――分からない。自分にとってどちらが良いのか、文には全く分からなかった。

 

 受け入れる? そう決めたなら、きっとこの先辛い事は多いだろう。だが、恐らく吹羽はその度に助けてくれる。霊夢も渋々と手を貸してくれるかもしれないし、鳳摩だってきっと支えてくれる。“肯定してやる”と宣言した萃香も、影ながら応援してくれるだろう。

 凪紗もきっと、それを願っていたのだと、今なら理解できる。

 

 全て壊す? それをしたら、きっとこの心は楽になるだろう。苦悩も思考も劣等感も、苛まれるだけとても疲れる。そも数百年それを続けてきて、文はもう疲れ切っていた。ならば羨望とか復讐とか、燻っているものを全部吐き出してぶちまけて、差し出される手すらも“邪魔だ”と弾き飛ばして、何もかもを諦めた方がきっと楽だ。それでもきっと、萃香は否定しない。吹羽も多分……否定しない。

 

 悩み悩み悩み、どれだけ時間が経ったのかは最早認識できない。膝の上で苦しそうに呼吸する吹羽の荒い息遣いと、風でさわさわと掠れる葉々の優しい音だけが耳を撫でる。いやに静かだ。それだけ皆が、文の答えを心待ちにしているという事なのだろう。

 

 しかし――やはり文には、答えを出せない。

 己の望みがどこにあるのか、理解ができない。

 

「(それなら――……)」

 

 自分に訊いてみればいい(・・・・・・・・・・・)――と。

 

 文は徐に手を動かすと、スカートのポケットから“それ”を引き抜いた。そして霊夢と萃香に動く暇を与えない(邪魔をさせない)ように、一瞬も止まらずに、躊躇わずに振り下ろす。手にしたのは――刃の研磨すらされていない風紋付きの小刀。

 

 あの日――吹羽に、“好きに使え”と渡された、心遣いの一つ。

 

 切れる事はない。しかし刺すことは容易にできるその凶器の、その先にあるのは――無防備な吹羽の白い首筋。

 

「――……ッ、」

 

 だが――ぴたり、と。

 

 吹羽の首筋に触れるほんの数寸で、それは止まった。

 否――それが、文の答えだった。

 

「……あや、さん……?」

「〜〜っ」

 

 かたかたと震えながら首筋数寸前で止められた刃。握り締めるその手に滲んだ血が、ぽとりと一滴吹羽の首筋へと落ちる。

 小刀と文の顔を交互に見る吹羽の瞳に――しかし恐怖や、侮蔑や、あらゆる悪感情は一欠片だって含まれてはいなかった。

 文の瞳を――涙が溢れ、悔しさとも悲しさともつかない感情を零すその瞳を見つめる吹羽の翡翠色の眼は、ただひたすらに、何も変わらず、文を理解しようとする“同類”の、優しい眼だった。

 

 故にこそ――できない(・・・・)、と。

 

 吹羽に貰った心遣い――優しさの証を、吹羽に突き立て引き千切る。自分では何も分からなかったからこそ出たその全てをぶち壊す(・・・・・・・)行為に、文の体は正直な答えを出したのだ。

 即ち――吹羽(理解者)を殺すことなんて、自分は望んでいないのだ、と。

 

 震える手から、かしゃりと小刀が零れ落ちる。血の滲むその手は力なく地に落ち、後には文の啜り泣く声だけが切なく響いていた。

 

「……ごめ……ん、なさ……っ、」

 

 何も見えていなかった。何も認めようとしていなかった。その上で生まれた憎悪が、今こうして唯一理解を示してくれた者を殺そうとしていた。

 今更ながらに、その罪悪感が津波のように押し寄せてくる。

 もはや、紡ぎ出せる言葉など一つしかない。

 

「ごめん、なさい……っ!」

 

 羨ましかった。ただただそれだけが心を塗り潰していた。しかし今や、そこに妬みや憎悪は少しだって滲んではいなかった。

 だって、吹羽はきっと諦めなかった(受け入れた)自分の姿そのもので。

 語る言葉は人事でもなんでもなくて、他人事な哀れみなんて、目障りなものは何もなくて。

 そして――彼女も同じ道を通ってきたのだ、と。

 

「ごめん、なさい……ごめんっ、なさ、い――ッ!」

 

 理解してあげられる、と言った。手を繋いでいてあげる、と。立って歩く支えになる、と。

 喉の奥が焼けるように熱くなり、流れる血が火を噴くかのように身体の内側が焼けていく。ばくばくと鼓動が激しくなり、それに呼応するように溢れる涙は止まることを知らず、口からひたすらに“ごめんなさい”、と今更許されることではないと知りながら、それでも言葉を紡ぐ。

 でないと、どうにかなってしまいそうだった。例え痛烈に責められたっていい。それだけのことをした自覚が、今ならある。ただ、それを言う他に、この気持ちを表す術がなかった。

 

「わた……わた、し……ひどい、っこと……っ! ふう、に……ぃっ!」

「文さん……大丈夫ですよ」

 

 涙でぐしゃぐしゃになった顔。ぼろぼろと大粒の雫が伝うその頰に、吹羽の小さな手が触れる。涙を拭うように撫でたその掌に、嗚呼、“泣かないで”、と。しかし“許してあげる”なんて、無責任な事は決して語らずに。

 

「辛いのも、苦しいのも、理解して(分かち合って)くれる人がいるだけでずっと楽になります。手を繋げばあったかくて、笑い合えば嬉しくなって……そうやって立ち直ればいいんです。……歩いていけば、いいんですよ」

 

 どんなに些細な事も、一人で背負うのはあまりに酷である、と。

 人は――心を持つ者は一人では完成できない。両親から愛を学び、ライバルから友情を学び――そうしてあらゆる人からあらゆる物事を学ぶ。一人では孤独に耐えられなくても、隣を歩く誰かと手を繋げば、笑い合えば、心を通わせれば、きっと“孤独”は“ただの寂しさ”に成り下がるのだ。

 そうして歩いて――目指せばいい。

 

「簡単に“許す”なんて言いません。文さんが謝ろうと思う限り、いっぱい悔やんで、いっぱい悩めばいいと思います。そうやって、文さんが文さんを許した時に、ボクは文さんを許してあげます。それまで、いつまでだって待ってますから」

 

 吹羽は、文が自分自身を許すまで彼女を許す事はできない。何故なら悔いや罪悪感を感じるのは文であって、吹羽ではないから。そうして罰を与え続けるのは文自身であって、吹羽ではないからだ。

 それは戒めとなって文を縛り、そして吹羽への対応に表れる。なれば、文が自分のした事を悔い、

吹羽へと返せた(自分を許せた)と思った時にこそ、吹羽は文を許してあげることができるのだ。

 “君の気持ちはよく分かったよ、もう怒ってないよ”と。

 

「“武士は相身互い”という諺があります。……大丈夫、立つお手伝いはボクがします。転んだら引っ張り上げてあげます。疲れたなら肩を貸します。もう嫌だと立ち止まったら……そうですね……どうして欲しいですか?」

「ぐすっ……そこ、は……“優しく手を引く”、とかって言うところ、じゃない、の……?」

「それだと、自分の足では歩けなくなったりしませんか?」

「……ふふ……そう、ね……。じゃあ、その時はまた……弾幕ごっこ、してくれる?」

「はいっ、よろこんで!」

 

 あれだけ憎んでいた相手に、こうして素直に笑える日が来るなんて。

 まだ失血で青白いにも関わらず、それでも花が咲いたような笑顔を見せる吹羽に、文は内心で自嘲する。

 

 心の傷は、簡単には癒えたりしない。父を失った喪失感は、狂ってしまうほどには深く心を抉り取り、傷付けていったのだから。

 だが、同類の少女曰く“寄り添えばきっと寂しくない”、と。

 傷を受け入れて、その上で立ち直る事はきっと出来る。何故ならば自分(吹羽)にできたのだから、と。同類()にできない道理はない、と。

 

 文は無意識の内に吹羽の髪を一撫でして、その視線を傍の小刀に移した。

 ――もう、仮面()はいらないのかもしれないな、なんてぽつりと考えて。

 まぁ、それもまた、ゆっくり治していけばいいか――なんて。

 そうして文は、はて。まだ言っていないことがあったな、と思い出す。

 

「……ねぇ、吹羽」

「なんですか?」

 

 それはきっと誰もが考える以上に暖かい言葉で、けれどとても簡単な言葉。否、だからこそ、その一文字一単語一文章に籠る心を、想いを如実に語る。

 そう――とても簡単で、一番初めに言う言葉(・・・・・・・・・)

 

 

 

「私と、友達になって下さい」

 

 

 

 ぽつりと――一滴の雫を落とすような、一言に。

 それはまさしく、陽だまりで手を握り合うような、包み込むような……そんな暖かさだった。

 

「――……よろこんでっ!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――……ぅ、ん……」

「おお、目が覚めたか、椛」

 

 僅かに浮き上がった意識が、野太く少し嗄れた声に引き上げられる。

 未だに重い瞼をゆっくり開けると、木々の隙間に快晴の空が見えた。

 ゆらりと視線を彷徨わせると、椛は声の主が視界に入ったところで視線を止めた。

 

「天魔、様……?」

「ああ、儂じゃ。随分と無茶をしたようじゃのう、椛?」

「……? ――ッ!!」

 

 天魔がついと顎で示したのは、何もない地面――否、本当は腕が横たわっているはずの、地面だ。

 自分の左腕が二の腕から消失している事実に、椛の記憶は急激に蘇る。そう、自分は吹羽を助けに行こうとして、萃香に阻まれて追い込まれ、あと少しのところで敗北したのだ。

 ――で、あれば。

 

「ッ、天魔様! 吹羽さんは……吹羽さんは今どこに――っ、くぅ……っ!」

「無理をするでない。治療したとはいえまだぼろぼろじゃ、下手に動くと死ぬぞ?」

「吹羽さんは、今まさに死ぬかもしれない状況なんです……っ! 私が……行かなければ――きゃんッ!?」

「動くな言うておるじゃろうが頑固者め。命令じゃ、ここで動かず安静にしておれ」

 

 吹羽の身を案じ、すぐにでも飛び出そうとする椛の脳天へ天魔の手刀が飛ぶ。俗に言う脳天チョップである。怪我人にこの仕打ちは流石にどうなのだろう、と内心愚痴る椛だが、天魔を睨み上げる勇気はないので自然と縮こまってしまった。

 

 改めて確認してみれば確かに生きているのが不思議なほどの大怪我である。身体中の傷は塞がってはいるものの傷跡はまだ生々しく、骨に至ってはまだ数本ヒビが入ったままで治癒できていない。外界であれば半年以上入院してもおかしくない大怪我でありながら、それでもやっぱり吹羽が心配な椛に、天魔は重く嘆息すると、

 

「……心配いらんよ。萃香殿が向かったからのう。万一にも吹羽が死ぬような事は無かろうて」

「……ですが、間に合わなかったら……思い上がりに過ぎるとは思いますが、萃香様とも、それなりの時間戦闘していましたし……」

「それこそいらぬ心配じゃよ。彼女の能力は知っておろう? それより自分の心配をしたらどうじゃ。左腕など、消し飛んでるもんじゃから治すこともできなんだ、もう少し悲観してもいいと思うがのう?」

「………………」

 

 消失した左腕に視線を落とし、自責の念に顔を歪ませる椛。責任感が強過ぎるのも考えものだと、天魔は再度溜め息を吐いた。

 

「椛」

「は」

「儂ものう、文に対して負い目があったんじゃ。真実を知っていてなお、打ち明けずに苦しむあの娘を数百年見守ってきた……親友の、大切な娘をのぅ……」

 

 未だ文へと不信感を抱いている様子の椛に、天魔は百鬼侵撃の乱の真実を語った。

 二人の守りたかったもの、凪紗の想い、それを継いだ鳳摩――それは確かに納得したことではあった。父を失った文の脆弱さを鳳摩は見抜いていたのだから。しかし、だからといって感情を押し殺せるわけではない。申し訳なさを身の内に抱えながら、鳳摩は遂にこの時を迎えたのだ。

 

「文に、復讐が無意味なことなのだと分からせたかった。その為に吹羽を利用(・・)したんじゃよ。……儂は天魔じゃ。天狗の頭領じゃ。同胞のことをいの一番に考えるのは当然のことじゃて……最悪の場合、吹羽が死ぬことで文に理解させるのも一つの手と考えておった」

「そんな……戦友(とも)と仰ったのは天魔様ではないですか! それを……」

「ああ。じゃからの椛、儂はお主に賭けたんじゃ」

「……え?」

 

 ぽつぽつと語り、批難しようとする椛の瞳を覗き込む。それは、想いの板挟みに喘いだ結果生まれた、鳳摩の願いだった。

 

「お主は吹羽の友人じゃ。種族としてではなく、吹羽という一個人、お主という一個人として。……知っておったよ、あの直談判しにきた日、お主が心底悩んでいたことをの。あれは吹羽のことを思っての事じゃろう?」

「う……はい……」

「儂は天狗の頭領として文を、戦友(とも)として吹羽を守りたかった……傲慢な考えじゃよ。どっち付かずで、下手を打てばどちらも守れはしない……じゃからの、吹羽の友として最も信頼できるお主に、儂の(・・)願いの半分(・・・・・)を託した」

 

 それは確かに、鳳摩の一方的な願いだった。椛に告げることもせず、誘導するだけで、願いの一端の鍵を握らせたのだから。

 でも、今ならそれが正しかったのだと思える。椛の失くなった腕を見て、じくりとした罪悪感は残るものの、自責の念にかられる椛に“そんな事はない”と、言ってやりたいほどには。

 

「椛、確かにお主は駆けつける事は出来なかった。お主自身も、吹羽の下へ駆け付けたかったのじゃろう。……じゃがの、お主のその想いだけは確かに伝わったのじゃ。そしてそれを受け取った萃香殿が、吹羽を死なせはしないと向かった……なれば、自分を責めるのは御門違いというものじゃ。それでは想いを継いだ萃香殿や……お主に感謝の念を感じる、この儂までも否定することになる。どうか、儂らの気持ちを無駄にせんでおくれ」

「天魔様……」

 

 物事に影響を及ぼすのは“行動”だとしても、その内側で原動力となるのは“想い”だ。

 ならば、どうしようもない状況を覆す(現状を変える)為に必要なのもまた“想い”である。

 確かに椛は萃香に敗れ、吹羽を助け出す事はできなかった。しかし、彼女が抱いた強い想いは萃香へと継承され、命を繋ぎ、結果的には文を思い留まらせる一因となった、

 で、あれば。

 

「お主は、吹羽を救ったのじゃよ。それ以上に、お主は何を求めるのじゃ」

「……っ、いいえ……これ以上に……求めるもの、なんて……ありません――っ!」

 

 そう、溢れ来る感情を押し殺すように、椛ははっきりと告げる。

 吹羽のために駆け出した。吹羽のために戦った。吹羽のために、覚悟を決めた。その結果にちゃんと吹羽を助けられたのであれば、きっと片腕を代償にしてもお釣りが来るくらいだ、と。

 鳳摩はその言葉に一つ頷くと、埃っぽく薄汚れたその白い髪を、愛おし気にポンポンと撫で付けた。

 

 ――椛たちが迎えにきた吹羽たちと合流し、その惨状と気持ちに号泣されるのは、また別のお話……そして、もう少しだけ後のことである。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 博麗神社と人間の里を繋ぐ獣道。

 相も変わらず杜撰な整備でデコボコとした地面を踏み締め、霊夢と萃香はとぼとぼと帰路に着いていた。

 流れる沈黙は少しばかりぴりぴりとしている。脇の草陰で木の実を齧っていた小動物は、二人を見るなりそれを放り投げて逃げていった。道に転がってきたその木の実を、霊夢はぐしゃりと踏み潰して歩を進める。

 

「……なんでそんなに不機嫌なんだい?」

 

 と、静寂を破ったのは萃香の言葉だった。純粋な疑問の念を呈して放たれたそれにしかし、当の霊夢は眉を顰めたまま――依然としてひりつくような空気を放ったまま、「別に……」と素っ気なく返した。

 萃香は一つ嘆息し、

 

「……風成の子は無事だった。だぁれも死んでない。お前さんにはどうでもいいかもしれないが、文は立ち直り私も鳳摩も願いが叶った。お前さんだってあの子が無事ならそれで良かったはずだ。……何が不満なのか全くこれっぽっちも分からないがねぇ?」

 

 霊夢はちらとも萃香を見遣ることもせず、小さく「……そうね」と呟く。軟化しないその態度に萃香はやれやれと大仰に嘆く素振りを見せると、両手を後頭部で組んでまた黙り込んだ。

 

 ――吹羽を送り届けた、帰り道だ。

 萃香の言う通り、誰も死なず、皆の願いが叶った。文句なしのハッピーエンド。これ以上の結末など望むこと自体が無駄な程だ。強いて言えば椛が片腕を失くした事が唯一辛いところだが、萃香がそれを“誇れ”と言うと、彼女はそれなりに満足した顔をしていたので、殊更に悲観することもない。文も吹羽も多少療養すれば傷は治る。霊夢は何の怪我もしていない。

 だが――霊夢は少しだけ、納得していなかった。

 

「(“同病相憐れむ”、か……)」

 

 それは吹羽が文に諭した言葉。二人は同じ立場であるということを示す言葉。そして、ならば理解し合うべきだ、という言葉。

 ――皮肉だな(・・・・)、と思った。

 

「(それを吹羽が言うなんてね……。あの子の事を本当に理解するなんて、誰にも出来るはずがないの(・・・・・・・・・・・・)()……)」

 

 そう思って、霊夢は自嘲するように薄く笑う。だって、そう思っているのに、霊夢は心の何処かで誰より吹羽を分かっている気になっているのだ。自分でその矛盾を肯定したなら、もう笑う他ない。

 寄り添うと決めたのに、いくら頑張っても誰にも――霊夢にも吹羽を分かってあげることはできないのだから。それを知っているから、霊夢は己を嗤う。自嘲気味に、皮肉気に。

 

「……どうした、突然笑い出して。気持ち悪いぞ?」

「……そうね。あたしって気持ち悪くて、面倒臭い奴ね……」

「ッ!? ホントにどうした霊夢っ!? 熱でもあるのか!? お前が自分を蔑むなんて隕石でも振るんじゃ痛ェッ!!」

「うっさいわよ呑んだくれ! あたしが暗くなるのがそんなに可笑しいッ!?」

「だってお前、異変時でも呑気にお茶啜ってられるような能天気な奴だろっ!? っていうか本気で打つなよ! わたしだって痛いもんは痛いんだ!」

「う……も、もういいから、さっさと帰るわよ!」

 

 予想以上に反論が思い浮かばなかった霊夢は、無理矢理会話を断ち切って早足に歩き出した。背後からは萃香が追いかけて来る。

 変わらず靄のかかる心に知らぬふりをして、霊夢は兎も角、一息吐いた。

 

 ふと見上げた空には、沈もうとしている太陽に薄く雲が覆い被さっていた。

 

 

 




 今話のことわざ
武士(ぶし)相身互(あいみたが)い」
 同じ立場にある者は、互いに思いやり助け合わなければいけないということ。また、そのような間柄のこと。


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第二十四話 我見の張り子

 

 

 

 ――ちゅんちゅん。小鳥の囀りが朝の到来を知らせる。夜の間少しだけ開いたままにしておいた窓の隙間から日が細く入り込み、寝室を淡く照らしていた。

 此間よりも更に冷たくなった空気が隙間風のように入り込み、程よく暖かくなった肌へ撫でるように吹き付ける。それに少しだけ覚醒して、しかしまだ眠た気に、吹羽はゆっくりと起き上がった。

 

「…………あさ」

 

 何時もならばすっきりと眼が覚めるはずなのだけど――と、吹羽は何故か非常に重いたい身体にぼんやりと首を傾げる。瞼も鉛のようになっており、気を抜けば一瞬で意識を失ってまた布団に倒れ込んでしまいそうなほどに気怠い状態だった。

 吹羽は気の抜けた頭をどうにかこうにか回して、倒れ込んだらまた寝てしまう、と至極簡潔な結論を導き出し、

 

「おきない、と…………痛ッ!?」

 

 と、倒れこんでしまう前に起き上がろうとしたその刹那、吹羽は激痛を感じて腹のあたりを強く押さえた。あまりに唐突な痛みに脂汗が噴き、指の一本を動かすのも躊躇われる。溢れそうになった絶叫も、咄嗟に喉の奥で堰き止めなければ外に響くほどだったと思う。

 何かで刺されたかのような痛み。しかも針などの小さなものではなく、もっと長く分厚く、硬く、ともすれば背中から突き出てしまいそうな――。しかし、恐る恐る見た掌には一滴の血だってついてはいなかった。

 ふと、ぼんやりとしていた頭が、強烈な刺激によって急激に記憶を取り戻す。そして、

 

 ――ああ、幻肢痛ならぬ……幻覚痛かな、と。

 

 そう、身体が重いのも仕方がないのだ。何せ今日は、文の過去を巡ったあの凄絶な一日の、翌日である。

 傷を負った身体で山中を走り回り、人間の身で妖怪と弾幕ごっこし、挙句腹に穴が空いたのだ。おまけに能力までも使用しておいて、身体が疲労しないはずはない。

 “ありとあらゆるものを観測する程度の能力”は、視覚から入ってくる情報量が多過ぎる為に脳への負担が大きいのである。こうして後が辛くなるという事が、この能力の行使を吹羽に躊躇わせる理由なのだ。加え、いくら萃香の万能薬と霊夢の治療術があったとて、精神的なダメージも決して少なくはない。

 吹羽は傷があった場所をぺたぺたと触って確認し、ぽつり。

 

「傷は治ってるけど……これじゃあお仕事出来ないなぁ……。定休日でよかった……」

 

 幸か不幸か今日は定休日である。傷があろうがなかろうがどの道仕事はお休みの日。疲労困憊の身体も目一杯休めて本望だろう。不意の幻覚痛に気を取られて金槌を指にでも落とした日には、きっと吹羽は泡を吹いて失神してしまうだろうし。

 ――まぁ、普段の定休日には趣味で(・・・)風紋開発に勤しんでいる訳で、それすら出来ない今日は、身体的に“幸運な日”でも気持ち的には“不幸な日”である。吹羽は少しだけ肩を落として溜め息を吐く――が、何かにはっとし慌てて首をぶんぶんと振るった。

 

「(ってダメダメ、仕事ばっかりじゃ女の子としてダメって前に文さん言ってたし……っ!)」

 

 いくら仕事は休んでいると言い張っても、趣味で開発なんてしていたらそれは仕事しているのと変わりない――とはいつかの文の弁。

 実は女の子として相当ダメな生活をしているのかもしれないと、その時内心では相当なショックを受けていた吹羽である、文の言葉を思い出して「そう、これが普通……これが普通の女の子……」と自分に必死で言い聞かせる。

 ――すると、不意に思考の中で、その日の文の笑顔がチラついた。

 

「…………文さん」

 

 ……あの笑顔も、嘘……だったのか。

 全てを知った今、その事を考えるととても寂しい気持ちになる。

 絶望して、狂ってしまって、きっと笑顔なんて忘れてしまっていただろうに、無理矢理笑顔の仮面を被り偽って。

 なんて悲しい生き方をしてきたんだろう、と吹羽は、昨日の――ぼろぼろと涙を零す文の表情を、思い出す。

 

「(……ううん、だからこそ)」

 

 吹羽は目を瞑り、心の中で“断じて否!”と叫んだ。

 今まで悲しい生き方をしてきた。ならこれから、楽しい生き方をすればいい。そうやって立ち直る手伝いをするのだと、決めたばかりじゃないか。

 吹羽は暗くなった気持ちを深呼吸で追い出して、「よしっ」と一つ心を決める。

 

 そうだ、その為に友達がいるのだ。辛いことを分かち合えるなら、楽しいことも分かち合えるはず。文の手を引いて、楽しいこと、暖かいことを経験すればいいのだ。

 

 そうと決まれば――。

 

「先ずは、ちゃんと起きないとっ」

 

 決意を新たに、吹羽はちゃちゃっと布団を畳んで手早く着替える。そしていつも通り風を感じに、居間への扉を開く。

 

 

 

 ただ――未だチラつく文の虚空な笑顔に、ちくちくと胸の奥を刺される気がした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「はぁ……無茶をしたものだな、全く」

 

 さわさわと優しい葉擦れ音が満ちる中、多分に呆れを含んだ声が向けられる。それに同調するように「クソ真面目もここまでくりゃ病気だな!」と茶化すように言葉が重なると、「それはまた皮肉な病気ですね」と微笑む少女の声が。

 彼らの中心で布団に横たわる椛は、半眼のジト目と不機嫌を言葉に乗せて放った。

 

「あの、うるさいです。もう少し静かにしてくださいあと余計なお世話です」

「おお、二重の意味で“五月蝿い(煩い)”ってことですね! 大怪我人にも関わらずなんと余裕な……」

「だからうるさいですって、えっと……早苗さん。見舞い人が怪我人の言葉にそんなどうでもいいところで納得しないでください」

 

 拳を頭に当て“てへっ”と、幻想郷民には若干分からない可能性の高い仕草をする見舞い人――東風谷 早苗に、椛は一つ嘆息する。

 ――ここは、天狗の集落に存在する療養所、その一室である。昨日、応急処置を施されたとはいえ片腕を失った上に大怪我を負った椛は、吹羽たちと別れた後この場所へと搬送されてきた。

 身体中あちこちにある打撲痕、内出血の酷いところはもはや“黒”と形容した方が適切な色にまで変色しており、骨折と骨のひびは数知れず。

 妖怪の治癒力と治療術を駆使しても数日はこのまま絶対安静と告げられたのだ。失った片腕はもうどうにもならないと諦めている。

 三人とも、椛の負傷を早くも聞き付けて見舞いに来てくれた――何故か面識のないはずの早苗も来た――のだ。

 

「だがよう、よく片腕で済んだもんだと思うぜ? 萃香様と本気でやり合って生きてるたぁな。あの破壊跡――いや破滅跡(・・・)見たか? あんなの真正面から喰らりゃァ大妖怪でさえ文字通り消し飛んじまうぜ」

「……必死だっただけですよ。仮に両腕があっても、もう一度戦ったら確実に殺されます」

「……それが底力というものなのだろうな。中妖怪が大妖怪を追い詰めるとは……常識を打ち破ったと言っても過言ではなかろう」

「…………買い被りすぎですよ」

 

 それぞれ関心の言葉を零す二人の烏天狗に、椛はふいと視線を逸らして呟く。因みに、前者は以前“噂”の件で真っ先に風成利器店を訪れた烏天狗――朱座(あかざ)、後者は吹羽を妖怪の山まで送り届けた烏天狗――九楼(くろう)という。

 白狼天狗としては烏天狗全てが上司である。流石に全員の名前を覚え切る事は出来ない為関わりのある者だけを覚えるようにしていた椛だが、最近になって顔を多く合わせるようになったこの二人の名を、椛は改めて覚えようと決めていた。

 そうしてちらと、呑気に欠伸する朱座を見遣り、

 

「……朱座さんは、知ってたんですね」

「んあ? 何がだ?」

「件の……先代天魔様と凪紗さんの事です」

 

 ああそれのことか、と呟くと、朱座は後頭部で手を組んで天井を見上げた。椛にはそれが、何処か昔の思い出を懐古するかのようにも見えた。

 

「……俺も一応、あの戦乱に参じていたからな。天魔様――いや、章様と凪紗様のことは当然知ってたさ。……その最後もな」

 

 朱座は“百鬼侵撃の乱”の時代から存在する数少ない烏天狗の一匹だ――とはつい先日知った事である。それも当時の二人を実際に見て、声を聞いて、その指示のもと妖怪の山を形作った中の一匹。そして真実を知りながら、文のために歴史を改竄した天狗の一匹だ。――それを知り、椛はようやく、あの日に言われた言葉の意味を理解したのだ。

 

「“私も、朱座さん自身も入っていい話ではない”……今ならその理由が分かります。何を今更、という話ですが……」

「全くだぜ。俺の忠告をガン無視しやがってよ、剰え当事者である萃香様と喧嘩をおッ始めるたぁ、全くもっていい度胸だぜ。なァ?」

「う……す、すみませんでした……」

 

 普段のつんけんとした態度などおくびにも見せずしおらしく謝罪する椛の姿に、朱座は初め面食らったように片眉を釣り上げた。

 そして一つ嘆息し、「あ゛ぁー」と声を荒げると後頭部をガシガシと掻き毟ってそっぽを向いた。

 

「……いや、いいんだよ。元々俺は一介の烏天狗に過ぎねぇ。偶々その場に居合わせて、偶々二人の事情を知って、偶々長生きして来ただけだ。……あの忠告も、文が自分で片付けなきゃならねぇ問題だと思って言ったんだが……むしろ天魔様は、お前に介入して欲しかったらしいしな」

「………………」

「ま、気にすんなや。そもそも誰も不幸にはなってねぇ。誰かが損をしたってなら話は別だが、事実そうじゃねぇ。お前が正しかったと思ったのならそれは正しかったのさ。今更、俺の忠告を聞かなかった程度のことで落ち込んでもらっちゃこっちが困らァ」

「…………その原因は朱座さんの言葉なんですが」

「ははっ、そりゃそうだな! お前はそうやってつんけんしてる方が“らしい”ってもんよ!」

 

 しんみりした空気を吹き飛ばすように笑う朱座の豪快な笑顔に、椛は少し心が休まる気がして淡く微笑んだ。

 そして僅かな沈黙を挟み、会話の断絶を悟ったのか今度は早苗がおずおずと言葉を放る。それは、ずっと聞きたかったけど聞けなかった、とでも暗に語るかのような声音をしていた。

 

「それにしても……全然悲観しないんですね、椛さん」

「何がですか?」

「何がって……腕のことに決まってるじゃないですかっ! 無くなっちゃったんですよ!? なんか、こう……うまく言えないですけど、不安にならないんですか!?」

 

 と、呆れとも驚きとも取れるヒステリックな叫びを上げる早苗に、しかし椛は“ああそんな事か”と、大した反応もなく小さく嘆息する。

 昨日、萃香に言われた事を思い出しながら、

 

「しませんよ、悲観なんて。……する訳、ないじゃないですか」

「ど、どうしてです?」

「私が萃香様に想いを示した証……吹羽さんを、救えたという証……ですから」

 

 鳳摩は言った。己の行いを責めるなと、否定するなと。そして萃香は言った。たった一言、しかし清々しい程の笑みで“誇れ”と。

 それは己の行動が、想いが正しかったのだと肯定する言葉。苦悩を超えて萃香に立ち向かった椛が、何よりも欲していた言葉だった。

 ならば、腕の一本くらい安いものだ。だって、吹羽も死なず、自分も死んではいないのだから。

 

「うーん、“名誉の負傷”……という事でしょうか」

「そんなに大層なものでもありません。結局私は、自分のわがままを通したかっただけなんですから」

 

 そう言って椛は、どこか自嘲気味な笑みを浮かべて遠くを見つめた。

 誰がどんなに褒めようと、椛の行動はその全てが彼女の意思に基づいた物。鳳摩が願いの半分を託したとしてもそれは一方的な委託でしかなく、故にこの傷は、椛が何を顧みることもなく吹羽を助けたいと思って行動した、そのわがままの結果なのだ。

 天狗としての役目に忠実で、朱座曰く“クソ真面目”と評される椛には、この傷を“名誉の負傷”だなんて格好の良い捉え方をされるのがなんとなく嫌なのだった。

 

「……だが、萃香様には“誇れ”と言われたのだろう? あの方は根からの喧嘩好きらしいからな、そんな捉え方をしていればいずれ怒りに触れるとも考えられるが……」

「それはありませんよ」

 

 ぽつりと悩める表情を浮かべた九楼に、椛は即答で返した。

 

「あの方は確かに喧嘩を大事にしていますが……それよりも意思を重要視していました。戦いの最中、私の想いを――その強さをきっと萃香様は感じられた。だから私の想いを汲んでくれたんです。……ならば、“今更あれはわがままだった”と言ったところでどうなるとも思えませんし、多分それもお見通しだと思います。……萃香様は、そういう方ですよ」

 

 私が感じた限りでは、と最後に付け加え、椛はやんわりと失った左腕の肩に触れた。

 この傷は、自分のわがままが生んだもの。だから“名誉の負傷”なんて言いたくはない。だが、別の意味(・・・・)でなら――自分の想いを、萃香に示したその印としてなら、椛は素直にこの傷を誇らしく思えると感じた。

 己の想いを通した証――差し詰め“貫徹の証跡”かな、と。

 

「ま、何にせよ無理するのはこれ切りにするこったな。知り合いが死ぬのは寝覚めが悪りィしよ。だぁれも得しねぇのさ」

「……損もする訳ではないと思いますが」

「はっ、ほざけ頑固者。お嬢ちゃん(・・・・・)もきっと大泣きじゃ済まねぇだろうって話だよ」

「っ、それは……そう、かも知れません」

「“かも”じゃなくて、事実そうだろうが」

「…………はい」

 

 朱座の呆れた言葉に反論できず、椛は口をもごもごとさせながら押し黙った。

 確かに今回は吹羽が無事だったから良かったものの、仮に吹羽を救うために椛が無理をして、剰え命を落としたとしたら、きっと吹羽は心を病んで悲しむだろう。椛が見た限り、彼女はこと“友達”というものに並々ならぬモノを抱いているようだし、何より傷付いた自分を見た時の彼女の号泣っぷりは目に焼き付いている。まるで吹き出す涙でアーチでも作ってしまうかと思えるほどだった。

 朱座の言葉に瞑目して頷く九楼の姿もあり、椛はばつが悪そうに視線を逸らして窓の外を見遣った。

 

 ――快晴の空だ。燦々と降り注ぐ陽の光は目に眩しく、しかし空気の冷たさも相まって程よい気温に落ち着いている。妖怪の山特有の燃えるような紅葉は鮮烈で、はらはらと舞い散る火の粉のような葉々は光を受けてちかちかと輝いていた。それは山の景色を見慣れた椛でさえ、見惚れるほどに美しかった。

 

 ふと、その木々の隙間から荒々しい岩肌が見えた。山肌を大きく抉り取ったような跡。萃香のたった一発の拳が作り出した、朱座曰く“破滅の跡”である。

 火山の大噴火を経たかのように消し飛んだその岩肌は、しかし現在進行形で、此間やってきた神の手でもこもこと修復されている最中のようだった。

 きっとぶつくさと文句を垂れながら、その“坤を操る程度の能力”で以って奮闘しているのだろう。あの小さな身体で広大な大地を操る様は、どこかシュールな光景だと椛はぽつりと思う。

 

 ――はて、そう言えば、と。

 

「……忘れていましたが、早苗さんは何故ここへ?」

 

 自然に会話してくるものだからすっかり忘れていたが、そもそも早苗は何故椛の見舞いなどしにきたのか甚だ疑問である。

 椛と早苗は今日この時顔を合わせるまで面識はなかったし、現在は彼女の祀る神の一柱が山を相手に孤軍奮闘している最中である、共に暮らす彼女が何故一人こんな所へ来たのか、椛にはその理由に全く想像が付かなかった。

 一体何を企んでいるのやら――と心の片隅で考えた椛は、知らぬ間に目をすぅと細めて早苗へと問い掛ける。

 その信用も無ければ容赦も無い視線に晒されて、早苗はちょっぴりおどおどしていた。

 

「え、なんで私睨まれてるんですか……? 見舞いに来ただけでこんな目されたの初めてですよ……!?」

「……まぁ、過ぎた事とは言え、先日突然やってきた部外者ではあるからな。何をせずとも疑われるのは止むを得ないだろう。哨戒を担う白狼天狗は、まず疑う(・・)のが仕事だからな」

「がっはっはっ! 怪我をしてても哨戒天狗か! 見境いねェなクソ真面目ってのはよ! 友達無くすぜ!?」

「……癖になってるのは否定しませんけど、これくらいで切れる友人ならそもそも私は欲しくありませんよ。無条件に信じ合うのを友人関係とは呼びません、ただの相互依存です」

「結構ドライ、ですね……? いや、正論なのかな……」

「ふむ……それで、結局君は何をしに? 椛の疑問は尤もなんだ、さっさと話してくれるとこちらも張り詰めずに済むのだが」

「う……!? さ、三人してそんな目で見ないでくださいよ怖いですっ! い、今から本題に入りますからっ」

 

 今更ながらとんだアウェー空間へと一人のこのことやって来てしまった事に気が付いたらしい早苗は、もごもごと口の中で何か呟きながら姿勢を正した。その視線は朱座でも九楼でも、況して三人共ではなく――椛へと。

 

「実は、その……吹羽ちゃんに会いに行く前に、御礼をと……思いまして」

「……御礼?」

 

 ――はて、何故早苗がそんな事を? と思わずにはいられない椛。

 側で聞いていた朱座ら二人も合わせ、三人して首を傾げるその様子に、早苗は「まぁそうですよね……」と人差し指で頰を掻いた。

 

「事の顛末は……昨日天魔さんから伺いました。山が抉れちゃいましたからね、神奈子様たちも大慌てでしたよ」

 

 俯き気味に視線を彷徨わせながら、ぽつぽつと早苗は語る。

 

「それで、吹羽ちゃんは大丈夫なんですか、って天魔さんに訊いたら、犬走 椛という白狼天狗が吹羽ちゃんを守ってくれた、と聞きまして」

「………………」

 

 ――仮にも天辺に住んでるんだから、もう少し他に気にすることはないのか。

 喉元まで出かかったその苦言を、ギリギリで椛は堪える。

 それに気が付いたのかどうか、早苗は俯いていた視線を上げて椛をジッと見つめた。

 

「椛さん、“吹羽ちゃんが大切だ”って、助けてくれたんですよね」

「……友達、ですから」

「それに先ず、御礼を言わせてください。吹羽ちゃんを助けてくれて、本当に有難うございました、椛さん」

 

 誠意の伺える姿勢で恭しく頭を下げる早苗の姿に、椛は少しだけ恥ずかしくなって、薄っすらと頰を紅潮させた。

 仕事柄、御礼を言われることに椛は慣れていない。むしろ偶に発生する侵入者から敵愾心を向けられる事の方が多いため、剣呑な空気の方がまだ触れ慣れているくらいだ。

 それなのに、こんなにも真摯な礼を真っ直ぐな瞳でされたら、照れ臭くて戸惑うのは必然だ。

 何とも言えない鼓動の高まりを感じて、椛はうろうろと視線を何処へとも彷徨わせた。

 

「照れてるな」

「照れてやがる」

「う、うるさいですね。慣れないだけですっ! 早苗さんも頭をあげて下さい。さっきも言いましたけど、私のわがままでしかないんですから!」

「あ、はい。……それでその、私が本当に御礼を言いたいのはそれ(・・)なんです」

「……え?」

 

 早苗はそう言って、改めるように姿勢を正す。

 

わがままで(・・・・・)、吹羽ちゃんを助けてくれたんですよね……?」

 

 その様子を伺うような言葉に、ああそういうことか、と。

 椛は一つ納得して、怪訝に寄せていた眉を柔らかく緩めた。

 

「その腕、わがままで付いた傷だって言ってましたね」

「ええ。事実、そうですから」

「でも、吹羽ちゃんの為に付いた傷だってことも確かですよね。それって……そういうのって、本当にその人の事を想っていないと出来ない事だと思うんです」

 

 誰かの為に自分が傷付く――否、傷付いてでも誰かの為に尽くそうとするのは、その人を本当に想っていなければ到底出来ない事である、と。

 椛はそれを否定しない。

 この傷が吹羽を想った所為で付いた、と責める(・・・)つもりは毛頭無いが、尽くそうとした結果である事に違いはないのだ。椛が吹羽を想って付いた傷であり、それは椛がしたくてした事。つまりは、椛が我がまま(・・・・)を貫いた結果なのだ。

 

「……椛さんから見て、吹羽ちゃんってどんな子ですか?」

「どう、って……そうですね……」

 

 一番初めに思い浮かぶのは、満面の笑みを浮かべる吹羽の姿。次に浮かぶのは、霊夢に振り回されたりして、困って苦笑いを浮かべる吹羽。いつも楽しそうにしていて、背伸びして大人ぶろうとするところが可愛らしい。

 それらを、そう――一言に表すならば。

 

「“元気で明るい女の子”……そんなところでしょうか。実にありがちな表現ですが」

「……そうですね、私もそう思います。ええ勿論、心の底から」

 

 心底の共感を表すようにうんうんと頷く早苗は、しかし不意に表情を暗くすると、少しだけ俯いて、呟くように口を開いた。

 

「でも……むしろ(・・・)、なんだか悲しそう、寂しそうって……思うんです」

 

 そう言って、早苗は膝の上に置いた両の手をきつく握り締める。早苗から見た彼女は、それ程までに悲しさ寂しさを抱えているように見えたのだという事だろう。

 その理由を、椛は知らない。しかし早苗はきっと知っている。吹羽自身に聞かされたのか、それとも存外に鋭く察しただけか、それは分からないしどうでも良いが、きっとそれを知っている早苗には吹羽の笑顔が寂しさなどの裏返しのように見えたのだろう。

 

「……余計な事とは思うんです。私は吹羽ちゃんに会ってまだ間もないし、人が背負ってる物を一緒に背負えるほど私は丈夫には出来てません。――事実、背負わせてもらえませんでしたし」

 

 一度試した事があるような口調で語る早苗は、拳に落とした視線をついと上げて、真摯に耳を傾ける椛の視線を真っ向から見つめ返した。

 

「でも、側にいる事は出来ると思っています。そりゃ、吹羽ちゃんには霊夢さんが側にいて、きっと私の何十倍――何百倍だって信頼してるんでしょうけど……誰かが側にいてあげるのに上限なんて必要ありません。例え一緒に背負えなくても、少しだけ手を添えて軽くしてあげる事はできます。助けてあげる事はできます。事実今回は……友達として側にいる椛さんが、吹羽ちゃんを救ってくれました」

 

 早苗の言葉に、昨日の吹羽と文を思い出す。

 事の顛末は聞いた。文が真実を受け入れ立ち直る手助けを、友達となった吹羽がすると、そう誓い合ったのだと。

 きっと吹羽も助け合う大切さは知っている。信頼度に格差はあれど、きっと早苗が言ったことと同じようなことを考えているのだろう。だからこそ似た境遇にある文を理解しようと己の腹を刺しまでしたのだから。

 

「だから、御礼を言おうと思ったんです。吹羽ちゃんの代わりに。きっと吹羽ちゃんも、そう思ってるだろうから」

 

 早苗はそう言うと、改めて姿勢を正した。ジッと椛を見つめる瞳に誠実さを、そしてそこに、優しさの滲み出るような微笑みをたたえて、

 

「吹羽ちゃんの友達になってくれて、ありがとうございます」

「………………はい」

 

 頭を下げる早苗に、椛は今度は頭を上げろなんて無粋な事は言わなかった。それはきっと、早苗の気持ちを踏み躙るのと同じ事だと思ったから。

 余計な事だ、と。会って間もない人に尽くそうとするのは要らぬ世話だ、と。早苗はそう言った。しかし椛はこうも思う――例え浅い縁でも心から尽くそうとしたその気持ちは、きっととても尊いものなのだ、と。

 

 幼馴染を想うのは当然の事だろう。親が子を守り育てるのも当然だ。兄弟が姿を消して悲しむのも当然である。それは互いに縁があって、理由があるからだ。

 ならば縁がない場合は? 早苗と吹羽のように出会って間もなく、細いと言ってなお足りぬか細い繋がりなら?

 ――椛なら、こう断言する。

 

 無論、“当然”ではない。でも本来、想うのに理由なんて不必要だろう、と。

 

「……でも、早苗さん」

「はい」

「あなたのそれを、“余計な事”だなんて……言わないでください」

「……え?」

 

 理由のない気持ちなんて幾らでもある。それはきっと本能的に感じるもので、理由なんて挙げられないのではなく、存在しない(・・・・・)だけなのだ。

 “理由”は、当然である事の必要条件でしかない。なら当然でなくても良い気持ちや想いに、理由はいらない。そして理由がいらない気持ちほど本能的なものは存在しない故に――そういう想いは、きっと尊く貴いもの。そこに打算的な考えがない限り、それが起こした行動を否定していい者など、あってはならない。

 それに、きっと……椛は、早苗と同じ立場なのだから。

 

「立派だと思いますよ。親でも恋人でもないのに、誰かの代わりに心から御礼を言える事は。でもそれを余計な事だなんて否定したら……此間友達になっ(・・・・・・・)たばかり(・・・・)の私は、立つ瀬がありません」

「……あ」

 

 そう――椛も早苗と同じく、吹羽と過ごした時間はまだ短い。それこそ早苗と同じかそれ以下の時間しか共有していないのだ。

 でも、椛はこうして、腕を失ってでも吹羽を助けようとした。それも間違いなく――“浅い縁でも尽くそうとした証”である。

 友達も結局は他人だ。そも友達になろうと思った事でさえ、椛には特に理由がない。

 なりたいとなんとなく思ったから、なった。ならばそれを理由に吹羽を助けた椛は、早苗と同じと言って何の間違いもないのだ。

 

「私と早苗さんは同じです。繋がったばかりでか細いばかりの、吹羽さんの友人です。だから、遠慮なんて無しで行きましょう。友の友は、同じく友なんですよ」

「……はいっ」

 

 ようやく顔を上げた早苗は、元気よく返事をして微笑んだ。

 友の友は友――それは椛の一見解でしかなかったが、少なくとも早苗は、その申し出(・・・)を受け入れたように見えた。

 互いに想い合うのを友達というのなら、他の誰か一人を想い合う二人だって、友達でいいじゃないか、と。

 

「あ、でも私、吹羽ちゃんの友達じゃあないですよ?」

「……はい?」

 

 ――と、突然すっ惚けるように言った早苗は、むんと胸を張って、

 

「私は、吹羽ちゃんのお姉さん(・・・・)ですからっ! 例え“いずれはそうなる”的なアレでも、確定事項なら今から断言したって同じなのですっ! だから椛さん、改めてよろしくお願いしますねっ!」

「……は、はい……」

 

 ――ああ、この人元気過ぎて空回りするタイプか……。

 早苗の満足気な笑顔に気圧される椛は、ふとそうして、早苗の人となりを知るのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 こぽこぽ、とぷん。

 柔らかくそよ風が吹いて回る室内に、落ち着いた水音が響く。日が燦々と輝いて程よい気温にあるこんな日には、日向ぼっこでもしながらお茶を啜るのが至福であろう。

 吹羽は傾けていた急須をかちゃりと置いて、鮮やかな黄緑色をしたお茶の茶碗をお盆に移した。

 ついでにみかんもいくつか用意して、と。

 実はこのお茶、吹羽が飲むものではなかった。

 

「えっと……粗茶、ですが、どうぞ」

「お、ありがとうよ。まぁ、年中酒ばっか飲んでるから茶の味なんて分かる舌はしてないがね。……んー、香りはいい感じだ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 と、窓際の日に当たる位置に座して笑うのは、仕様のない休日を過ごす吹羽を突然訪ねてきた小鬼、伊吹 萃香だった。

 ――いや、訪ねてきたと言うと語弊がある。何せ彼女、玄関など触りもせずに(・・・・・・・・・・)侵入してきたのだから。

 

「にしても良く出来た子だねぇ。直接里に入れないからとはいえ、能力使って前触れ無く現れたわたしを追い出すどころかお茶とみかんまで出すとは。こんな事霊夢にやったら拳骨じゃ済まないのに」

「うぅ……霊夢さん、ちょっと短気ですから……」

「ははっ、そりゃまさに!」

 

 からからと笑う萃香に、吹羽は少し気圧されながら愛想笑いを浮かべる。というのも、いくら能力持ちとて吹羽は結局ただの人間であるからして。

 考えても見よう。怪我の影響により仕事ができない所為で止むを得ず過ごす休日、誰もいないはずの家の中で突然声をかけられれて仰天し、慌てて振り返ってみればその声の主は世に名を轟かせる大妖怪ときた。まるで平々凡々な日々を過ごす子供の家に突然裏世界のトップ(ヤーさん)が上がり込んできたようなものである。吹羽でなくとも心中穏やかであれる訳がない。

 驚愕のダブルパンチ、連続クリーンヒット。気絶しなかっただけ自分を褒め讃えてもいいと思う吹羽である。

 

「……ふむ、大丈夫かい? ちょっとカタいようだけど。わたしとは昨日会ったばかりじゃないか」

「む、ムリ言わないでくださいよぅ……。椛さん相手にも初めは怖かったんですから……」

「んーまぁ、あいつの剣気は頭抜けて強かったから比べてもアレだとは思うが……意外とちっちぇェんだなお前」

 

 何が、と敢えて直接言わずに笑う萃香を恨めし気に睨んでみるも、視線が合った途端に吹羽は反射的に視線を落とした。

 目の前にいるのは圧倒的強者なのだ。もちろん戦う意思なんてこれっぽっちもない吹羽ではあるが、やはり人間は“どうしようもない力の差”には意図せず恐怖してしまうものである。昨日顔を合わせただけの大妖怪と真っ向から視線を合わせられるほど、吹羽の肝っ玉は据わっていないのだ。

 

 すると不意に、「……よし」という呟きが聞こえた。言わずもがな萃香のものだ。

 何事かと吹羽が恐る恐る視線を上げようとすると、

 

「ちょっと来な風成の」

「ふぇ、あ――っ」

 

 ――それよりも早く、片手を引っ張られて前に倒れ込んだ。

 

 前方には当然萃香がいる。そのまま倒れ込めば衝突し、打ち所が悪ければお互いに痛い思いをするだろう。それでもしも萃香の機嫌を損ねたりすれば――と、吹羽はまるで走馬灯でも見たかのように思考を高速で回転させると、咄嗟に目を瞑り、震えることも忘れて衝撃に備えた。

 

 ――が、ぽすっ、と。

 

 衝撃などは欠片もなく、むしろ気の抜けるような柔らかな感触に、吹羽の頭は受け止められた。

 

「……ん、ぅ……?」

「おいおい、そんなに怖がるなよ。いくら鬼でも傷付くもんは傷付くんだぞ?」

 

 恐る恐ると目を開くと、そこには困ったように笑う萃香の顔があった。

 それはすぐ上。いつの間にか仰向けに調整されて倒れ込んだ吹羽の、ほんの数寸先の位置。

 吹羽は状況を理解するのに、数秒の時間を要した。

 

「どうだい? わたしゃこんなの誰にもした事ないんだ、自慢にしてくれたっていいぜ? ……鬼に膝枕(・・)してもらった、ってさ」

「〜〜ッ!!」

 

 尋常でない状況に急いで起き上がろうとすると、つんと額に素早く指が添えられた。それは萃香の細く小さな指。しかしそれだけで吹羽は全く起き上がることができなくなり、半ば無理矢理に萃香の健康的な太ももへと頭を乗せることとなった。

 予想外の妨害に焦燥の極みへと陥った吹羽は、あわあわと視線を右往左往させて、

 

「あっ、その、萃香さっ、ごご、ご、ごめんなさ――」

「いいからこうしてろ。わたしがしたくてやってるんだから、謝る必要なんてない。それとも、わたしの膝枕なんて嫌かい?」

「い、いいいえそういうっ、訳ではっ!」

「あっはは! やっぱ愉快な反応するねぇ! 霊夢がからかいたくなる気持ちも、ちっとは分からァ」

 

 慌てふためく吹羽の姿にからから笑うと、萃香はそう言って改めてに、と微笑んだ。

 その笑顔が何処かで見たことがあるような気がして、吹羽は少しだけ心を落ち着けて、ゆっくり起き上がろうと込めていた力を抜いた。不思議と、緊張していた心がほっと弛緩した気がした。

 萃香は満足気に頷いて、吹羽の白く柔らかい髪を撫で付ける。

 

「……改めて聞くが、どうだい? 鬼の膝枕ってのは」

「……思ってたより、柔らかくて……あったかくて……気持ちいい、です……」

「はは、まぁわたし達はゴツい奴らばかりだからね。そう思って当然さ。それで……まだ、怖いか(・・・)()?」

「…………いえ。怖く……ないです……」

 

 ――優しい、感触だった。

 怪力で知られる鬼の肌は、思っていたよりもずっと柔らかくて、張りがあって、妖怪なのにとても女の子らしい体つきだと素直に思える。

 風に乗って流れてくる香りはやっぱりお酒くさいけれど、どこか嫌とは思えない甘さを含んでいて。

 何よりも瞼を開ければ見える萃香の笑みは、何処にでもあるような――そう、吹羽がよく見慣れた、里の人たちの笑顔と同じだった。

 

 変わらないのだな、と思った。少なくとも萃香は、力があるだけで、妖怪であるというだけで、吹羽が普段接するような人たちと何ら変わりない存在なのだと。

 話ができて、感情があるなら、怖がるのはむしろ彼女を傷付けているのかもしれない。文の一件で“人は無意識に人を傷つける事がある”と学んだ吹羽は、少しだけ申し訳なく思って、謝る代わりに、遠慮なく萃香に身体を預けた。

 

「――実はな……わたしは初め、お前を犠牲にするつもりでいたんだ」

「…………え?」

 

 どこか虚空を見つめて、萃香はぽつりとそう独白した。

 

「凪紗の願いは文が自らの力で生きる事。あの戦乱で間違いなく一番の絶望を味わったあいつを、凪紗は放っておけずに自分を恨ませる事にした。……わたしはその仕上げ(・・・)を、託された」

 

 慕っていた人に裏切られ、父を殺され、あらゆる目的を見失って一人になった。そこから救い出してやる事が、数百年前から続く萃香と凪紗の約束だった、と。

 

「風成の。わたしが文に思い知らせてやりたかったことは、お前さんのと全く同じだ。復讐したって何も戻っては来ない。誰も笑ってはくれない。後に残るのは、支柱を無くして脆くなった空っぽの自分だけ。……それを思い知らせるには、経験(・・)させるしかないって思ってた。無くした支柱には、後で何かを据えるとして、な」

 

 ちらと萃香が見遣る先は、快晴の青空。燦々と照る太陽は、薄っすらとした雲に隠れ始め、彼女の目元に陰を落とす。

 

「……ボクを、文さんに殺させよう――と?」

「………………」

 

 それを茫然と見つめながら呟いた言葉に、萃香は少しだけ目を細めた。それが何かを睨みつけているようにも見えてびくりと吹羽は身体を震わせるも、萃香はそんな彼女の髪を、実に優しい手つきで撫でていた。

 

「……もちろん、今更“お前が死んだ方が良かった”なんて言うつもりはないよ。何せあの女の子孫だ、出来れば元気でいて欲しいとは思うし、多分霊夢も悲しむ。……何より、みすみす死なせたら今度こそわたしは椛に殺されちまうよ」

「……そんな、こと……椛さんはしないと思いますけど……」

「はは、どうだかね。あいつの“意思”はわたし達が推し量れるほど弱くなかったからねぇ……。よっぽど、お前という友達が大事なんだろうさ」

「っ……」

 

 呆れたような、感心したような。

 そんな萃香の口調に、吹羽は椛の怪我を想った。

 大怪我だったのだ。打撲や切り傷は塞がるとしても、片腕が無くなってしまった。それは吹羽が考え得る最悪の怪我であり、今後一生彼女に付いて回る傷だ。

 それを見て、萃香を説得する代償だったと聞かされて、吹羽はあの時恥じらいもなく号泣した。感謝と、罪悪感と、様々な感情が止めどなく溢れてきて、どうしたって止められなかったのだ。

 あれはきっと、椛が吹羽のことを想って付いた傷だ。その想いの丈が、あの傷を負わせたのだ。

 それを考えると、萃香の言葉も否定はし切れないな、と。

 そして、あんな無茶はこれ以上して欲しくないな、と。

 吹羽はまた溢れてきそうになる涙をぐっと堪えて、思う。

 

 ボクが、しっかりしなくちゃ――と。

 

「まぁ色々言い訳したが、何が言いたいかってェとな……その事を、謝りたかったんだ。わたしはお前を見捨てようとしてた。幾ら最終的には誰も死んではいないとはいえ、そう考えてたわたしは確実にいた。その罪悪感はまだ残ってて、わたしの中で燻ってる。……だから、謝らせてくれ。……ごめんな、すまなかった。そして文のために命を張ってくれたこと……心から感謝するよ、吹羽(・・)

「萃香さん……」

 

 そう言って吹羽を見下ろした萃香は、申し訳なさそうな微笑みを浮かべていた。

 少しだけ儚さすら感じさせる彼女の笑みに、しかし吹羽はなんと返せばいいのか分からずただ見つめ返す。逸らしてはいけないことだけは、なんとなく理解できた。

 

 そんな吹羽の不安げな表情に、萃香は一つ息を吐くと、

 

「ま、それを抜きにしてもお前さんは実に面白い。凪紗と同じ鈴結眼を持つこと然り、文を圧倒できるほどの風紋技術然り……強い奴とは知り合っておきたいのが鬼の性ってモノでね」

「…………戦いませんよ? 能力使うとすごく疲れますし、痛いのは嫌ですし」

「はははっ、自殺紛いの事をした奴の言葉とは思えないね! じゃあ仕方ない、お前さんが戦う気になるまでゆっくり待つさ」

「だから戦いませんってば!」

 

 誰が山を抉り取るような拳撃なんて受けてやるもんか、と吹羽は妖怪の山の惨状を思い出して内心叫ぶ。

 元々戦うのは好きではない。そりゃどうしようもなくなれば今回のように頑張って戦いはするものの、吹羽はそもインドアな性格であり、要は活発な方ではない。まぁ、純粋に萃香(四天王)の拳を受けられる気が全くしなかったことも多分にあるのだが。

 

 そうしてだらだらと平和に過ごし、吹羽の中にも萃香への恐怖が殆どなくなってきた頃、萃香は「さて」と前置きして、吹羽に退くよう促した。

 ――そろそろお別れらしい、と吹羽は思いのほか残念に感じる自分に、少し驚く。

 

「……そんなに残念そうな顔されるとは思ってなかったなぁ。なんだ、寂しいかい? なんなら今日はここに泊まっていこうか?」

「っ! け、結構です! ボク寂しくなんかないですからっ! 一人でなんでもできますもん!」

「慌て過ぎて日本語おかしくなってるぞ……」

「〜〜っ、“細工は流々仕上げを御覧じろ”という諺がありますっ! 心配なんて、ボクのことをもっとよく見てからしてくださいっ!」

「お、おう……? なんか使い方が違うような気がするが……まぁ頑張って強がってるし、いいか」

「強がってないですぅ!」

 

 自分をからかって遊ぶ萃香をジトっと睨むと、彼女は気にした風もなくよっこいせと立ち上がった。釣られて吹羽も立ち上がる。お見送りは当然しなければ、と。

 ――しかし、当の萃香は歩き出すでもなく不意に振り向くと、とん、と吹羽の胸に拳を当てた。

 

「っ、萃香さん?」

「……最後に、一つ言っておこうと思ってな」

 

 呟いて、吹羽を射抜くその視線には、萃香が文に対した時のような鋭さが籠っていた。

 

「人間ってのは、支え合って生きるもんだ。妖怪みてェに強くないし、一人じゃ完結できないからね」

「…………はい」

 

 昨日文に向けられていた強い瞳が、今自分に向けられている。その事実に少し圧倒されながら、吹羽は曖昧に返事をした。

 萃香はそれを何ら気にせず、続けて言葉を紡ぐ。

 そしてそれは――予想外にも、胸を貫くような鋭さを秘めていて。

 

 

 

「お前、いつまで余裕ブッこいてる気だ?(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 その衝撃に――胸の奥に感じた理解不能な(・・・・・)激痛に、吹羽は思わず後退りした。

 

「……な、なに、を……」

「今まで拳で語らうことを続けてきたからか、わたしは本質ってのに聡いみたいでね。……お前と話してて、ずっと感じてた事だ。それ(・・)は多分、自己満足でしかないぞ、吹羽」

 

 萃香の言葉が理解できず、しかし確実に心に響いてくるそれに、吹羽の体は意識とは関係なく反応していた。

 分からない。何を言っているのか、萃香が何を言いたいのかが、吹羽には全く理解できない。しかし彼女の体は、まるで“早く気付け!”と叫び散らすかのように、思考がさぁと冷え切り、鼓動が胸をばくばくと叩き、冷たい嫌な汗が背筋を伝う。

 

「……別に責めてる訳じゃない。だが、わたしは嘘が嫌いだ。偽りが嫌いだ。仮面が嫌いだ。だから喧嘩する。拳は本音しか語らないからな」

 

 「その点霊夢の奴は素直過ぎて扱い辛いがな」と戯けたように言うと、未だ混乱の坩堝にある吹羽に、ふわりと微笑みかけた。

 

「ま、ただの忠告さ。人間ってのは、自身が思ってるより脆いものらしいからね。……無理(・・)は、するんじゃないよ」

 

 そう言って、落ち着かせるように吹羽の頭をぽんぽんと撫でる。それに少しだけ冷静さを取り戻した吹羽は、うるさい鼓動を黙らせるようにぎゅっと胸を拳で押さえた。

 

「あ、あの、それはどういう――」

「おっと、お客みたいだぞ」

「……え」

『ごめんくださーい』

 

 萃香の言葉に理解を得るよりも先に、玄関から響く声という形で答えは降ってきた。

 萃香はくいと顎で指し、早く行くように促す。

 吹羽はそれに従って玄関へ駆け出そうとして――しかし萃香に問いただしたい気持ちに、足を止めて振り返った。

 

「あの、萃香さ――え?」

 

 しかし、さっきまでそこにいたはずの萃香は既に影も形もなく、少しだけ陰った居間にはお茶とみかんを乗せたお盆が机に乗るのみだった。

 いっそさっきまでの出来事が全て夢であったかのように露と消えた萃香。しかし向けられた言葉の数々に篭った気持ち、そしてさっきの言葉(衝撃)を思い出して、吹羽は不安げに、ぽつりと呟く。

 

「自分で考えろ、ってこと……ですか……?」

 

 それに答える声は無い。でも、不意に頬を撫でた冷たい風に肯定されたような気がして、吹羽は小さく頷き、気持ちを入れ替えるように一つ深呼吸をした。

 萃香は大妖怪だ。見た目がいくら若々しくとも、何百年という月日を生きてきた妖怪である。そんな彼女がわざわざ“最後に一つ”と前置いて放った言葉に、意味がない訳はないのだ。

 

 でも、とにかく今はお客さんを迎え出ねば。

 

 吹羽は気持ちを切り替えて、改めて玄関の方へと向かった。

 すると、そこには――。

 

「……具合はどうよ、吹羽?」

「霊夢さん! ――と、慧音さん! お久しぶりですっ!」

「やあ吹羽、久しぶりだね。と言っても一週間ぶり程度な気もするが……まぁいいか」

 

 なかなか出てこない吹羽に痺れを切らしていたのか、腕を組んで若干不機嫌そうな霊夢。そして、最近は濃い内容の日々を過ごしてきた為とても久しぶりに顔を見る気がする女性――上白沢 慧音の姿があった。

 

 慧音は少し困ったように頬を人差し指で掻くと、改めて笑みを浮かべ、言った。

 

「さ、迎え(・・)に来たぞ」

 

 

 




 今話のことわざ
細工(さいく)流々仕上(りゅうりゅうしあ)げを御覧(ごらん)じろ」
 仕事のやり方は色々なのだから、途中でとやかく言わないで出来あがりを見てから批判して欲しいということ。


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第二十五話 一人舞の幕切

 今章最終話です。


 

 

 

「え……っと、お迎え、ですか?」

「ああ。準備は出来ているか?」

「あ、その……えっと……?」

 

 と、実に優しい微笑みで尋ねてくる慧音に、しかし吹羽は返答できなかった。

 何せ吹羽には慧音に迎えられるような事をした覚えが全くないのである。物覚えが殊更悪い訳ではないが、何分ここ一週間ほどは非常に濃密な日々であったからして、心当たりが見つからない――というより、多分埋もれて(・・・・)いる。

 とは言え眼前の慧音はとても嬉しそうな表情をしているし、そんな彼女に面と向かって「何の話ですか?」と切り込むのは非常に勇気の要る事である。

 どうしようかと心の内で困っていると、流石に違和感を覚えたのか、慧音は困惑顔の吹羽の前で笑顔のまま小首を傾げた。二人見つめ合って首を傾げ合うという不思議な状況の完成である。

 一向に進展しない二人の空気に、霊夢は心底訝しげに片眉を釣り上げて、

 

「……なに慧音、まさか吹羽に確認も取らずに約束した気でいたの? そこまで思い込みが激しくなったってんなら永遠亭行った方がいいわよ」

「んなっ!? 人を老人扱いするな! 体はいたって健康だし、そもそも私が簡単には老いない事くらい知ってるだろうっ!?」

「知ってるけど、元々勢いのまま思い込む所あるからねぇ」

「うぐっ……ぬぅぅ……」

 

 霊夢の弁に反論の余地が無いのか、慧音は悔しそうに口を噤む。

 吹羽は与り知らぬことだが、慧音は半分が“白沢(はくたく)”と呼ばれる妖怪である。故に老いにはそれなりに強く、いつぞやの“長い夜の異変”にて彼女の妖怪の姿と対峙した事のある霊夢は、慧音のその秘密を知っていた。

 と言ってもそれは吹羽には関係ないことであり、やはり伝えても無意味である為、霊夢はそのことを吹羽に言っていない。

 当然二人の会話に付いてはいけず、一人放ったらかされた吹羽は更に眉をハの字に傾けて、困惑の瞳で二人を見上げていた。

 

「な、なぁ吹羽、本当に覚えていないか? 一週間ほど前ここに来た時、一緒にご飯でも食べに行こうと約束したはずなんだが……」

「一緒に、ご飯……」

 

 本当に覚えていなさそうな様子に割と本気で泣き出しそうになる慧音。目の前でそんな悲痛な表情をされた吹羽は、たまらず罪悪感を感じて必死に記憶の引き出しを引っ掻き回す。

 すると、最近の濃ゆい出来事の中に一つだけ、湖に浮かぶ砂粒のような記憶を見つけた。

 それは確かに、約一週間ほど前のこと――。

 

「――あっ、思い出しましたっ! 初めて椛さんがウチに来た時ですね!」

「そう、それだ! やはり覚えていてくれたか良い子だなあ吹羽〜っ!」

「うわっぷ!? く、苦しいですぅ……っ!」

 

 泣きそうになるほどがっかりした反動か、慧音は頭上に白熱灯の幻影を浮かべた吹羽に咄嗟に抱き付いて凄まじい勢いでいい子いい子し始めた。

 当然吹羽は慧音の腕の中。顔に至っては彼女のたわわに実った胸に埋もれている始末である。

 約束を覚えていた程度でこんなに喜ぶとは、彼女も中々に感情豊かな女性だ。……まぁ、決して早苗に並びはしないと思うが。

 

 一頻り堪能したのか、慧音は一息吐いて吹羽から離れた。

 

「ふぅ〜。じゃあ、行こうか吹羽。何が食べたい? 無理がなければなんでも良いぞっ!」

「えっと、んー……」

「ああ待って。吹羽、ちょっとこっち来なさい」

「霊夢さん? はい――っひぇ!?」

 

 なんだろうと思いつつ、吹羽は目線を合わせるようにしゃがんだ霊夢に近付くと次の瞬間――何故か、霊夢にまで抱き締められていた。

 

「あ、ああの霊夢さんっ!?」

「もう、いいからジッとしてなさい」

「はひっ」

 

 まさか霊夢にまで抱き締められると思わなかった吹羽は、あわあわと萃香に膝枕された時のような言葉にならない“文字”を羅列するが――それすら気にしないかの如く、霊夢はするすると吹羽の背中や腕などを撫でるように触っていた。

 うなじ、首筋、背中、肩から指先まで――霊夢の手は柔らかく滑らかで、確かにくすぐったくはあったものの、決して嫌な気持ちにはならない。

 そしてそれがどうにもただ抱き締められただけのようには思えず、昇った血がさあと下るように、吹羽は少しずつだが焦燥を落ち着けていった。

 少しして、小声で霊夢。

 

「ん……傷は塞がってる。痕もちゃんと消えてるみたいね。お腹の傷も癒えてるし、血流も問題ない。……心音がちょっと大きくて早いけど、傷が痛い訳じゃないのよね?」

「あ……はい。痛くはないです。少し怠いだけで……」

「……そう。なら良いわ」

 

 耳元で聞こえるほっとしたような声音に、吹羽は“ああ、触診するために来てくれたんだ”、と気が付いた。思えばここへ訪れた時の第一声も具合を尋ねるものだったし、きっと霊夢も心配して来てくれたのだろう。

 吹羽はその事実に少し心が温かくなる気がして、思わず頰が緩んだ。

 

 触診を終えた霊夢は最後とばかりに吹羽の頭を一撫ですると、更に耳元に口を寄せて囁く。

 

「昨日の事、慧音には言ってないからね。人に心配かけるの、苦手でしょ」

「あ……分かりました。ありがとうございます……」

「ん。じゃあ行ってらっしゃい。でも無理な運動はしないようにね」

「はいっ」

 

 そう言って体を離した霊夢は見惚れるほどに綺麗な微笑みを浮かべていて、吹羽はぽーっとそれを見つめながら、改めて優しい人だなあと感慨に耽った。

 こんな人に守られてなんて幸せなんだろう、と思うとまた頰が緩みそうになるが、当の霊夢が目の前にいる手前、そんな恥ずかしいことはできない小心者な吹羽は咄嗟に視線を逸らした。

 ――すると、隣で二人を見ていた慧音の、如何にも複雑そうな視線にぶち当たり、

 

「……なんだろう、すごくイケナイ(・・・・)事をしているように見えるんだが。身体中触って、何やら耳元で囁いて……教師としてこれは注意すべきなんだろうか……」

「? 何の話?」

「?? ボク、何か悪いことしたでしょうか……?」

「いや……なんでもないよ……」

 

 そうして霊夢から許可も得た吹羽は、慧音と連れ立って家を出ることにした。

 霊夢も来れば良いのにと思ったものの、どうやら本当に吹羽の様子を見に来ただけのようで、その場で道を違えることになった。

 

「じゃあ、行ってきます」

「ええ、行ってらっしゃい」

 

 薄く微笑み小さく手を振る霊夢に、吹羽は笑顔で手を振り返す。

 その表情を見て、何故かふと思い浮かんだ萃香のあの言葉は――何処か、自分を責め立てられるような心地だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 日は直上にあった。里を貫く大通りに並ぶ店々は活気に溢れ、人間はもちろん温厚な妖怪も道を闊歩している。秋も本番、ひんやりとしてきた空気を吹き飛ばそうとするかのように里は賑わい、畑で採れた旬の食材を加工する香ばしい匂いがあちこちから溢れて満ちていた。それはまさに、里全体で“食欲の秋”を謳歌するかのようである。丁度良い気温に快晴なのも相まって、どこもかしこも笑顔で一杯だった。

 

 そんな中を慧音と吹羽は二人並んで進む。

 この時間帯は昼食を摂る者が多い。二人も例に漏れず食事処へと向かう道中だった。

 初めは吹羽のリクエストを受けて店を選ぼうと考えていた慧音であったが、当の吹羽はどこでもいいと欲のない申し出をしてきたので、仕方なく慧音行きつけの食事処へと案内することになっていた。

 まぁ、慧音としても場所はどこでも良かった。目的は“吹羽を知る事”なのだから。その第一歩が食事であるというだけなのだ。

 

『お、先生。今日も綺麗だねぇ。今日は可愛い女の子も連れかい』

『あ、ちょっと寄ってきな先生! 新鮮なのが揃ってるよ!』

『あー先生! こんにちはーっ!』

『な、なぁ……あの女の子どこの子か知ってるか? めちゃくちゃ可愛いぞ!?』

『知らないよっ。全然見慣れないし……もしかしたら今度寺子屋に来るのかもっ!?』

『………………かわいい』

『ちょっとあんた達何見惚れてんのーっ!』

『『『いだだだだッ!』』』

 

 その道中、道行くあらゆる人々は慧音を見つけては元気に声をかけてきた。

 慧音はそれに一々顔を向け、笑顔を向け、言葉を交わして過ぎていく。声をかけた人々も、その表情は満足げである。

 偶にすれ違う子供達などは、白髪の見慣れぬ愛らしい女の子――吹羽にぽーっと見惚れていたりするのだが、当然吹羽は気が付かない。そしてその隣にいた女の子にギューッと引きちぎる勢いで頰を抓られていた事も、当然吹羽は知る由もないのだった。

 

 慧音と人々の和気藹々とした関係。

 その光景を間近で見ていた吹羽は、話していた人が過ぎていくのを見計らい、呟くように問い掛けた。

 

「人気者……なんですね」

「はは、顔見知りが多いだけだよ。まぁそれを証拠に人気者だというなら、嬉しいものは嬉しいけれどね」

 

 今から行く食事処も、実は似たような経緯で誘われて常連になったのだと慧音に聞かされると、吹羽はどこもかしこも慧音の知り合いであるような気がして、きょろきょろと忙しなく周囲を見渡していた。

 きっと里の人々にすれば、慧音は頼れる人物なのだろう。でなければ歩くだけで声をかけられなんてしないし、明らかに慧音よりも屈強な男の人に笑いかけられる事もない筈だ。

 そう考えると今のこの笑顔で一杯の里の様子が、そんな訳はないのに、慧音の人望が形作ったもののような気がしてくる。意外と凄い人と知り合ったのかもしれないと、吹羽はひっそりと慧音へと関心の吐息を漏らした。

 

「さて、着いたよ。ここだ」

「……賑わってますね」

 

 そうして辿り着いたお店は、他の店や家などと大して違いのない佇まいにも関わらず、店内に並べられた席には所狭しと客が座って食事をしていた。

 雑多で、しかし少しだって嫌味な物を含まない食欲を唆る香りが満ち満ちていて、中で忙しなく注文取りや運搬に追われる店員さん達の必死で元気な姿は、自然と客足をこの店へと向けさせる。

 いいお店――その言葉はこの為にあるのだと思えるほど理想的に、“いいお店”である。

 

「お、慧音先生。久しぶりだねぇ!」

「ああ、久しぶり店長。賑わっているようで何よりだよ」

「お陰様でね。最近来ないから寂しかったよ。先生みたいな別嬪さんが来ると釣られてお客は増えるからねぇ――っと、今日は随分と可愛らしい子も連れてるみたいで。こりゃ今から更に忙しくなるかな?」

「はは、世辞はいいよ店長。席は空いてるかい?」

「世辞じゃあねェんだがなぁ……まぁいいや、丁度二つ空いたところさ。ゆっくりしていってくれ」

「ああ、そうさせて貰うよ」

 

 小走りで駆けてきた店員に促され、二人は空いた席に向き合うように座った。

 品は壁に掛けられた木版に刻まれており、どの品目も名前からして美味しそうなものばかりだ。

 吹羽は無難に並盛りの親子丼を、慧音は常連だけあって“いつものものを”と注文する。

 程無くして運ばれてきたのは、香ばしく焼き上げた鶏肉の刻みと黄金に輝く卵が絡み合う、見るだけ嗅ぐだけでも極上の親子丼。そして慧音の前には“赤黄緑”とバランスのとれた定食が。

 二本の親指で横向きに箸を掴んで手を合わせ、二人は煽られる食欲のままに箸を進め始めた。

 

「どうだ、ここの飯は美味いだろう?」

「ふあ……ふぁい、おいひいれ――んうっ!? は、はふっ!」

「ふふふっ、掻き込みたい気持ちはよぉく分かるが、火傷しないようにな……」

「ふぁ〜い」

 

 過去同じ経験をして苦しんだのか、少し遠い目をして言う慧音に、吹羽はまだ熱々の親子丼を舌の上で転がしながら返事をした。

 

 しばらく雑談しながら、知らなかったのが損と思えるほどの料理に舌鼓を打っていると、ふと思い出したように慧音が言った。

 

「そういえば、君は阿求とも知り合いだそうだね」

「あ……はい。阿求さんはお友達ですよ」

「……その割には敬語なんだな。霊夢にも“さん”付けだろう?」

「それは……そうですね。気が付いた時にはこの話し方が癖になってて」

 

 あはは……と、前々から少し気にしていたのか、吹羽は困ったように苦く笑った。

 実際、この口調も記憶が壊れてしまっても体が覚えていてくれた事の一つであり、吹羽も意識しないままこの口調で話してきた。

 まぁ風成利器店は作刀と販売を主とする接客業の一種でもある、普段から敬語で何も問題はなかったため、今更直そうとも思っていなかった。

 友人に対してもコレというのは、件の阿求にも以前指摘はされたのだが。

 

「全く、博麗の巫女に魔法使い、おまけに稗田家とも縁があるとは……君はなにか? 人里を裏で牛耳ろうとでもしてるのかな?」

「ふぇ!? ななな、なんでそうなるんですっ! ボクがそんな大それた事できるわけないじゃないですか!」

「冗談だよ。そもそも人間の里なんて牛耳ったって仕方がない。この世界では人間は等しく弱い立場だ、その中で誰が上だの誰が下だの、差別するのは無駄だって誰もが分かってる」

「……そ、そこはボクの人間性的な理由で冗談だって言って欲しかったです……」

 

 若干望んだモノとズレた言葉を返す慧音に、吹羽はしょぼんと肩を落とす。

 いや、慧音の言うことは尤もなのだが、どうせなら“君がそんなことをするとは思っていない”みたいな感じで笑い飛ばして欲しかったところである。

 こんな些細なことで浮かない顔をする吹羽が何処か可笑しくて可愛らしくて、慧音は堪らずころころと笑った。吹羽はむぅと頬を膨らませて、出来得る限りの抗議を視線で以って試みるも、その効果の程はお察しである。

 

「まぁでも、実際驚くべきことだよ。霊夢はあんな場所に住んでるから里の人間とは交流が薄いし、阿求も言わばお偉いさんだからそう会えるものでもない。きっと君自身にも人を惹きつける何かがあるんだろうな」

「っ、……そんな事ありませんよ。ボクはただ、鍛冶屋に生まれただけの女の子です」

「そうか? 少なくとも、君の元気ある明るい笑顔は十二分に魅力的だと思うが……。阿求もそのことをとても……うん、とても嬉しそうに話していたしな」

「嬉しそうに……ですか……」

 

 身体があまり強くないにも関わらず、素っ頓狂なテンションで吹羽を語る阿求を思い出し、慧音は少し視線を逸らして困惑気味に言う。今思えばあれも吹羽を友人として大切に思っている証なのかもしれないと、慧音は鼻息荒く――しかし満面の笑みを浮かべた阿求を思い出す。

 しかし――対面の吹羽はと言えば、思い浮かぶ阿求とは対照的とも思えるほどに、何処か憔悴したような弱々しい表情をしていた。幼い故の儚さとも違い――そう、何かを抱えているかのような。

 

「(……?)」

 

 その理由を慧音は察しかねていたが、すぐに切り替えてまた箸を進め始めた。それに釣られて、吹羽も思い出したように箸を持ち直す。

 今そのことを追求するより、その曇った表情を今日一日でどうにか晴れやかにしてやれればいいな、と思いながら、慧音は少しだけ冷めて緩くなってしまった白米を一口、口へと運んだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――それから、二人は実にホクホクとした表情の店長に代金を払い、このまま帰るのも味気ないのでと里の中を改めて見て回ることにした。

 吹羽も普段からあまり外には出ない方なので、頼りになる慧音と連れ立って行けるのは僥倖という他なかった。

 

 お昼時を過ぎてから一時間ほどしか経っていないからか、大通りを少し横に逸れただけでもまだ路は賑やかだった。

 里は全体的に見ても裕福ではない。外の世界のように溢れかえるような通貨がある訳ではなく、場合によっては物々交換で商売をする。それ故に服などの装飾品を売っているような店――見て回って楽しい店は、食事処よりも数が少ない。服を作る苦労に利益が釣り合わないのだ。

 それでも里の中をほぼ知り尽くしている慧音に連れられ訪れた装飾店で、二人は少しだけ買い物をした。

 慧音は最近飾り気のあるものを買っていない、と青い紐で括られた小さな腕輪のようなモノを買い、吹羽はこれから寒くなるという事でふわふわと暖かそうな上着を一着。

 是非着てみてくれと慧音にせがまれたが、なんだか面倒なことになりそうな気が――慧音の表情から――した吹羽はやんわりと、しかし断固として断ったのだった。

 

 道中、二人の目立つ容姿が災いして頻りに投げかけられるちらちらとした視線に、吹羽は少し落ち着かなそうにそわそわとしていたが、見兼ねた慧音が差し出した手をきゅっと握ってからは少し安心したようにぽてぽてと歩いていた。その様子に、慧音が堪らずぽわぽわとした表情を零していたのは至上の蛇足。

 

 そうして時は過ぎ、傾いた日が僅かに赤みを帯びて着た頃。少し歩き疲れた二人は、空き地に設置してある木製の長椅子に並んで座り、休憩していた。

 一つ息を吐いて、慧音は薄い微笑みを浮かべて吹羽に問い掛けた。

 

「今日はどうだったかな、吹羽」

「……とても楽しかったです。初めて見るものも多くて……人間の里がこんなに広いなんて、考えたこともありませんでした」

 

 今日一日のことを思い浮かべてか、吹羽は少し頬を緩めてながらにそう言った。

 

「君はあまり外に出ないそうだからね」

「はい。だからすごく新鮮で……でも、だから、なんとなく――」

「……ん?」

「…………いえ、なんでもないです。とても楽しい一日でした」

 

 ――でも、だから、なんとなく……怖い(・・)、と。

 そう言いかけて、吹羽はその言葉があまりに無粋なことに気が付いて、咄嗟に言葉を濁した。

 吹羽があまり外に出ないのには、勿論そういう性根だからというのもあるが、それなりの理由がある。……聡い者なら察するであろう、それは当然――“知ること”の恐怖。きっかけを作ることの恐怖だ。

 かつて阿求が紐解いた吹羽の心理に潜む怖れ、友人関係に一歩踏み出し淀むのと、本質は同じである。一度記憶を壊し、それが如何に恐ろしく精神を傷付けるのかを知っている吹羽は、無意識の内に、新しい誰かと知り合うこと、新しい何かを知ることを恐怖している。もう一度失ってしまったら、どれだけ辛いのかを身体が覚えているから。

 だから、与えられない限りは求めない。与えられるものを拒絶して、一人になるのもまた――わがままにも、怖いのだ。

 

 ただ、それを今慧音に言ったところで無意味である。せっかく楽しい一日を過ごしたのに、その最後をこんな言葉で台無しにするのならば、むしろ言うべきではない。

 それに吹羽自身、楽しかったのは本当のことだった。

 ただ――ある時(・・・)から、ある事(・・・)がずっと頭の中に反響しているだけで。

 

「……思っていたんだが」

「はい?」

「少し、元気が無いな。何処からだったか……昼食の時、阿求の話を出してから、かな」

「っ!」

 

 そして、そうして紡がれた言葉は奇妙にも――狙い澄ましたかの如く、核心を突いていた。

 

 吹羽は僅かに肩を揺らして、コクリと唾を飲み込んだ。膝の上で固めた拳に僅かな汗が滲む。そうして初めて吹羽は、自分がこの事を……この心境を慧音に悟られたくなかったのだと気が付いた。

 唇をきゅっと引き締めて、返答を拒む。

 

「……何か、悩みがあるなら聞くよ。これでも教師でね、子供の悩みの聞き方はそれなりに心得ている」

「………………」

 

 殊今に至っては、これまでのように“子供扱いするな”と怒鳴ることもできない。何か少しでも口にしたら、そのまま全てを曝け出してしまいそうで、どうしても踏ん切りが付かなかった。

 吹羽は会話を頑なに拒み、慧音はそれでも言葉を待っているのか、それきり口は開かない。そうして生まれた静寂は、風に揺られる木々の音と何処からか聞こえる人々の僅かな喧騒に彩られて、二人の間に揺蕩っていた。

 

 暫くして、二人の前を親子が通りかかった。子は母の周りを笑顔で走り回り、母はそんな子の言葉に相槌を打ちながら慈愛に満ちた表情を向けている。そろそろ夕焼けと言って過言でない日の光に引き伸ばされた二つの影は、重なったり離れたりして賑やかに過ぎて行った。

 

 それを横目で見送って、一つ溜め息を吐いた慧音は、やれやれといった風に言葉を紡いだ。

 

「……すまない、さっきのは忘れてくれ。少し酷なことを言った」

「……え?」

「実はな……君が今何を抱えているのか、検討はついてるんだ」

 

 慧音の告白に、吹羽は言葉を失った。

 

「出来れば君の口から聞かせてもらいたいと思ってね……だが、言いたくないなら仕方ないよ」

「ど、どういう――」

「君の事を、阿求から聞いた」

 

 その言葉は、吹羽の追求を引き千切るようにして放たれた。

 “君の事”――それが何を表すのかは、もはや考えるまでもない事だった。

 今まで吹羽が慧音に隠してきた事。それはもちろん悪意あっての事ではないが、同時に善意でも全くなかった。

 全ては吹羽が望んだ事。知られて、そして――同情など、されたくなかったから。

 

「気になっていたんだ。君に今日の約束を取り付けた日、住居の方が妙に静まり返っていて。一族で鍛冶屋を営んでいるのなら、君の両親も働いているはずだろう? ――いや、工房で作業しているのが、君だけだったということがそもそもおかしい。……そう思って、何かあると、考えていたんだ」

 

 事実のみを淡々と語る慧音は、不意に表情を歪めて、

 

「随分と凄絶な経験をしたらしい。初めて会った日、浅慮な希望をした事……出来る事なら、許してほしい」

「っ、……それ、は……その……」

 

 何を言えばいいのかが予想以上に思い付かず、吹羽はそこで言葉を切ってしまった。

 しかし慧音は、それを何ら気にした風も無く、

 

「初めは魔理沙に聞きに行って、でも阿求の方が詳しいからって、聞きに行ったんだよ。夜中だったが、散々渋った末に話してくれた。……ああ、それはもう……如何に君が辛い経験をしたのかという事を、彼女が知る言葉の全てを用いて、伝えようとしてくれた」

 

 当然、語った阿求も聞いた慧音も、それでは到底語り尽くせてはいないのだと理解はしている。しかし、記憶として、吹羽の経験を客観的には、感じる事ができていた。

 父、母、兄、そして彼らと過ごした多くの記憶。そんな欠け替えのないものを一度に失い、取り戻す事なく今を生きる。それがどれだけ理不尽で恐ろしい事なのか、想像すらできないほどに慧音は畏怖していた。

 そしてそれを知ってしまった後に思い描く吹羽の笑顔は――どうしようもなく、空虚なものに思えてしまった。

 

 だから慧音は、覚悟を持って心に踏み込む。辿り着いた推測が正しいのならば、吹羽はきっとこれから無理をする、と。ならばそれは気が付かせてあげなければ、この幼い少女はきっと精神をすり減らし、壊れていくに違いない。

 だから――、

 

「吹羽、君は――」

 

 小さく深呼吸をして、慧音は語り聞かせるように……しかし敢えて吹羽を視界に入れようとはせず、

 

 

 

「自分を、取り繕ってはいないかい?」

 

 

 

 ――吹羽の心を、その表面を覆う薄い殻を、砕き引き剥がすかのように、慧音は遠慮なく鋭い言葉を突き入れた。

 

「君に起きた悲劇は……そう、簡単に立ち直れるものじゃない。きっと私でも……大人でも極めて困難なことだと思う」

「やめて、ください……」

「況して君は幼い。熟した心なんてあるはずがないのに、割り切ったように何でもないことのように、いつも笑顔で明るいんだ。……それは、立ち直った自分を演じてるだけじゃないのか?」

「やめてくださいっ!!」

 

 大人しい吹羽とは思えないほどに強い語調は、きっと拒絶反応にも近かったのだろう。

 簡単に心同士の間にある境界を踏み越えて、吹羽の心を覗き込んだ慧音に対する自己防衛反応。しかしそれは裏を返せば、慧音の言葉が核心を突いていることの、何よりの証左でもあった。

 

 だから吹羽は、湧き水のように溢れてくる黒い泥のような言葉を、押し留めることもできない。

 

「慧音さんに何が分かるっていうんですか……! 熟した心とか、自分を演じるとか……何でもかんでも知った風な口利かないでください……ッ!!」

「何も分からないさ。私は嘘を吐く事はあっても自分を偽った事はないから。でも君の笑顔は明る過ぎる。いっそ夢幻の光なんじゃないかと思うほどにね」

「ボクは偽ってなんかいませんッ! 霊夢さんにも阿求さんにも、本当の本当に感謝してるんですっ! 何も分からない慧音さんにとやかく言われる筋合いなんてありませんッ! もう、決めたことなんですっ。霊夢さんと、阿求さんに……だから、だから……」

 

 怒鳴り散らすようには放たれた言葉は、弱々しく尻窄んでいく。漸く吹羽へと向けられた慧音の視界には――目尻にいっぱいの涙を溜めて、気丈に慧音を見上げる吹羽の姿があった。

 

 慧音は無言でそんな吹羽の後ろに手を回すと、彼女の頭を抱きかかえるように引き寄せる。手は力なく放り出され、少しの遠慮もなく、吹羽は身体を慧音に預けた。

 それは何処か、何かに疲れ果てたような印象を見る者に与えた。

 

「だか、ら……ボクは、幸せでないと……いけないんです……。じゃないと、二人に……顔向けができません……」

「その為に、君は幸せな自分を演じるのかい? 本当は心から笑えなんてしないのに」

「だって、他に思い付かないんです……。ボクは二人から貰うばっかりで、何にも返せない。だからせめて、二人がしてくれたことに、ボクは報いないといけないって……決めたんです……」

「……そうか。優しい子だな、君は……」

 

 感慨深い様子で呟いた慧音は、胸元に寄せた吹羽の頭を優しい手つきで撫でた。

 誰かの為に自分を偽る――そんなことが出来る優しい子は、きっと探したって見つからない。幸せなんて分からないのに、他人のために幸せを演じるそれはきっと、精神的にとても負担のかかることのはずだ。それをこの子は、こんなにも幼いにも関わらず、ずっと一人でこなしてきた。それを想うと、慧音は不覚にも泣いてしまいそうになる。

 

 暫くその手つきに感じ入っていたのか、次第に泣き止んだ吹羽は、徐に言葉を紡いだ。

 

「……痛いん、です」

「ん?」

「最近、霊夢さんや阿求さんの笑った顔を思い出すと、胸の奥がちくちくして……すごく、痛い。こんなこと、ほんの少し前まで、なかったのに……」

「何か、きっかけがあったんじゃないのか?」

「多分……そうです。つい、この間……自分を偽って、苦しんでいる人を見ました」

「……そうか」

 

 当然、これは慧音が知るところではない。吹羽が口にしたのは間違いなく文のことで、慧音はその事の顛末を少しだって聞き及んではいないのだ。

 多分、きっかけというならば、それだと。

 自分を偽って吹羽に近付き、完璧に空虚な笑顔を演じ切った文の姿が、どうにも自分と重なってしまったのかも知れない。

 吹羽は慧音に抱かれながら、遠い目をして、ぽつぽつと語る。

 

「……ある人に、言われました。“いつまで余裕ブッこいている気だ”、って」

「それは……辛辣だね」

「ずっと……慧音さんに阿求さんの話を聞いてから、ずっと考えてたんです。どういう意味だろう、って……何が言いたいんだろう、って。ボクは……自分を演じてた、の……でしょうか……」

「……その気持ちに嘘があるとは思っていないよ。報いないといけない、という覚悟も立派だと思う。でもね、私は……頼られないのも辛いことだと思うんだ」

「頼られない、こと……」

 

 ゆっくり咀嚼するように鸚鵡返しした吹羽は、よく分からないのか小さく唸っていた。

 慧音はそれに少し微笑んで、言葉を続ける。

 

「信じて頼ること。文字通り“信頼”というものの話さ。頼られないということは、言外に信頼がないと、言っているようなものなんだよ」

「そんな……ボク、そんなつもりじゃ――」

「分かっているよ。これは極論だ。それに霊夢や阿求がこれに気が付いているかを私は知らない。あくまで、受け取る側はそういう気持ちになる事もあるということさ」

「………………」

 

 決して、吹羽が霊夢と阿求を信頼していないとは思っていない。そして彼女の演技が、二人のことを考えた末の行動だという事も重々承知している。

 ただ、そうして本心を隠してしまう事は、場合によっては二人を傷付ける事実になり得る。そしてその過程で、吹羽の精神もきっと磨耗してしまう。誰も得をしないだろうと慧音は考えていた。

 

「じゃあ……じゃあ、ボクはどうすればいいんですか? ボクは、二人に恩返しできる何かなんて持ってません……! 何もないから、報いなきゃって、思ってたのに……」

「一つ訊くが、君にはもう報いる義務(・・・・・)があるのかい?」

「…………え?」

 

 慧音の不思議な言葉に、吹羽は徐に顔を上げて慧音を見上げた。

 

「言い方を変えよう。君は二人に報いることができるほど、既に救われているのかい? 立ち直れているのかい?」

「……あっ」

「……分かるね、吹羽。そうして悩んで、本当でもない幸せを演じている時点で、君はまだ立ち直れてなんていないはずだ。まだ家族のことを割り切れてなんていなくて、今でも苦しんでるはずさ。そんな君が、二人に報いるなんて……まだ考えちゃいけない」

 

 救われてすらいない者に、救ってくれた者に報いる義務は発生しない。当然のことだ、その義務は達成してから発生するもので、まだ経過途中にある者は、大人しく自分が救われることだけを考えているべきだから。人に報いようなんて考えは、救われてから持てばいい物なのだ。

 

 勘違いしていた。吹羽は自分が一人で生活できるようになって、誰の助けも必要としなくなって、すっかり自分は立ち直れているものだと思い込んでいた。

 だから、本当は心は救われてすらいないのに、報いなきゃなんて思い上がった考えが浮かんだのだ。救われた演技をしなきゃいけなくなった時点で、既にその考えは破綻していたのにも関わらず。

 

「“いつまで余裕ブッこいているんだ”、か。粗野な言葉だが、実にいい台詞だな。本当はまだ辛いのに、もう大丈夫だと二人を拒絶する……確かに、余裕ブッこき過ぎだよ、吹羽」

「……なら、どうすればいいんですか?」

「ははっ、簡単な話さ」

 

 未だ答えに辿り着かない吹羽が少し可笑しくて、慧音はそう前置いてころころと笑った。

 こんなに簡単な話なのに、先のことを見過ぎて、この子は足元が見えていないのだと、子供特有の愚かさを微笑ましく思いながら。

 

「また、二人を頼ればいいんだよ。本当に立ち直れるその日まで、ね」

 

 二人を思って抱え込むのではなく、せっかく助けてくれるのだから、思っていること、悩んでいること全て言葉にして、遠慮なく二人の手を取ればいい。

 そうして救われて、初めて吹羽は報いる義務を得るのだ。――否、吹羽が己の無事を二人に見せつけて報いるとするならば、救われた時点でその義務は達成されるのだろう。その後は、感謝の念をいつまでも忘れずに、得た幸せを噛み締めればいいのである。

 三人で手を取って、そして笑い合って。

 きっと霊夢も阿求も、本心を隠されるよりは、頼って欲しいと思っているはずだから。

 

「助けて……くれるでしょうか……?」

「君が信じた二人は、助けてくれない人たちなのか?」

「…………いいえ。お二人はいつも……笑って手を差し伸べてくれます」

 

 それが答えだ、と言わんばかりに慧音は吹羽の頭をぽんぽんと撫でた。

 つづけていると、それがあんまりにも心地良かったのか、吹羽は慧音の腕の中でうとうとと眠りに誘われ始める。

 

 無理もない、と慧音は思った。

 体は疲れていなくても、きっと今日の話は精神的に負荷をかけただろう。そういう意味では荒療治と言えなくもない。

 心を乱したならば、眠って休んだ方がいい。そして目が覚めて一息吐いたならば、心はきっと晴れやかになっているはずだから。

 慧音は、徐々に寝息を立て始めた吹羽を起こそうともしなかった。

 

「なぁ、吹羽……君はきっと色々なものに恵まれている。だから、安心しなさい」

 

 聞こえる事はないと分かっていながら、しかししっかりと語り聞かせるつもりで呟く。

 不意に腕の中の吹羽から声が漏れた。

 「んみゅ……」と寝言かどうかも分からないそれは、何処か慧音の呟きに返事したようで、彼女は一人くすくすと笑い、空を仰ぐ。

 

 見上げた空の茜色は輝く雲に彩られ、昼間よりも余程美しい空だと思えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夜の帳もすっかり落ち、虫の声が漣の如く寒々しく響く中、それはゆっくりと口を開けた。

 音もなく、また不思議なことに周囲の空気すら揺らすことなく、まるで湿った闇が気配なくして忍び寄るかのように開いたそこからは、不釣り合いにも二人の何か(・・)が姿を現した。

 暗がりで細かな姿は見えない。しかし大人というには少しばかり、背格好の足りない者達だったのは確かである。

 

「……ああ、神社の裏山か」

 

 先に出てきた一人が、さして興味も無さげに呟く。

 その声に反応するように、後から現れた一人が横に並んだ。

 

「懐かしいかしら。めそめそ泣きついてきても私が広ーい心で受け止めてあげなくもないわよ?」

「馬鹿言え。誰がお前みたいなのに泣きつくか」

「あら失礼。そういえば泣き付きたい相手は決まってるんだったわね?」

「……ふん」

 

 軽口の応酬の中にあって、しかしそこに和やかな雰囲気は決してなかった。

 ただ、煮詰めてドロドロになるまで濃縮したかのような強い意志を秘めた瞳と、それが放つ圧力を何でもないことのように受け流すおちゃらけたその態度。

 二人が放つのは、視界に入れただけで吐き気を催すような殺伐とした空気だった。

 

 後から来た一人は、もう一人の強い瞳を見て一つ「ふむ」と頷くと、何の前触れもなく片手を凄まじい速度で薙いだ。

 残像すら残らない速度。もっと大きな物体だったならば確実にソニックブームで周囲がズタズタに破砕されるであろう超音速の一薙。それはいつのまにか一振りの剣を持って、隣に佇む一人へと瞬時に襲い掛かった。

 

 しかし次の瞬間、弾け飛んだのは千切れた腕でも首でも、況して切断された上半身でもなく――薙がれた、剣の方。

 そして腕を振るった一人の方は、いつのまにか肩から腰までをバッサリと袈裟に斬られていた。

 しかし、そこには一滴の血も付いてはいない。どころか切り傷すらも見つからず、斬り裂かれたのは着ていた赤いドレスと下着のみ。傷やシミひとつない真っ白な肌が、惜しげも無く晒されていた。

 

「あらぁ? こんな強引に脱がせるなんて、別れに際して欲情しちゃった?」

 

 何の恥じらいもなく今にも零れ落ちそうな豊満な胸をぷるんと揺らす一人に、もう一人は心底不機嫌そうに横目で睨んだ。

 

「……何のつもりだ?」

「最後にちょっと腕試し♪ あと訛ってないかの確認ね。開けるのに時間かかっちゃったしぃ」

「……紛らわしいんだよ。危うく殺すところだった」

 

 うんざりとした表情で吐き捨てる一人に、もう一人は“へぇ?”と不敵な笑みを浮かべる。

 

「あなたが私を殺せるなんて、本気で思ってるのかしら?」

「殺せるさ。胸零れそうになって堂々としてられる痴女だったって言いふらせばな」

「あそういう意味っ!? ちょ、やめてやめてホントに死んじゃうからぁ!」

「だったら早く隠せ。その格好で出歩くつもりか?」

「斬ったのあなたの癖にぃ……」

 

 渋々と胸元の服を神速で縫い直した一人に、もう一人は冷めた瞳で眺めて思う。

 

 ――化け物め、本気で斬りつけて無傷とはな、と。

 

 暴力的なまでの速度で振るわれた剣、反撃を無意味と化す強固な肌。

 しかし実際にその攻撃を防ぎ、瞬時に斬り返した一人の技量もやはり、化け物染みていると評されよう。

 それが今は味方であることが、なんとなく心強い、と。

 

 ――こうして二つの化け物が、深淵より這いずり出た。

 真暗で静かな夜のようにぬるりと湧き出したその存在に、誰一人として気が付くことはない。或いは、その登場を予見すらしていなかった。

 

 一人は一歩前に出て、闇に包まれた幻想郷を俯瞰し――にやりと、口の端を歪める。

 そしてその後ろから、服を直した一人が言った。

 

「さ、じゃあそろそろ行きましょ。効果(・・)が切れる前に」

「あァ、そうだな。やっと迎えたこの機会……絶対に無駄にはしねェ……ッ!」

 

 決然とそう語るその姿に、背後の一人は実に楽しそうに愉しそうに、赤い唇を弓に歪めて妖艶な笑みを浮かべた。

 

 悠然と浮かぶ月が、風に乗せられた薄い雲に覆われる。その影が二人の姿を包み込むのと同時に、二人は忽然と姿を消した。まるで夜の闇にその身を溶け込ませたように。

 

 月はまだ高い。闇を照らす月光は、その中にも更に濃い影をあちこちに作っている。風は冷たく、虫の声は未だ止まない。

 

 ――夜明けは、まだ遠かった。

 

 

 




・伊吹【い-ぶき】
 何日も吹き続ける風、居吹きの意。

 今話のことわざ

 なし

 余談ですが、閑話を書こうかちょっと悩んでます。次章の投稿も多分半年とか掛かるので、その間の誤魔化げふんげふん繋ぎとしてあった方がいいのかなぁと。
 まぁこちらは書けたら投稿ということになると思うので、投稿されてたらぜひ読んでみてください。
 それではまた、次回の投稿まで。ではでは。


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盆東風の章
第二十六話 惑い、それでも


 ちょっと時間がかかりましたが、お待たせしました! 盆東風の章開始です!

 あ、あと……メ、メリークリスマス……そして誤投稿ごめんなさい。年変わっちゃう所為で設定間違えたんだ……。


 妖怪の山での出来事から数日。

 精神的な疲労と気怠さをどうにかこうにかと乗り越え、身体の復調を確認した吹羽は、既に風成利器店の営業を再開していた。

 定休日を挟めば治るだろうと高を括っていた疲労と“幻覚痛”は、結局翌日も休業することにより漸く取れ、今はその間に溜まった依頼に追われている最中である。

 

 幸いなのは、溜まった仕事の殆どが風紋包丁などの研磨であり、作刀の依頼が一つもなかったことか。

 何事も一日修練しなければ三日の遅れを齎すと言う。訛っているであろう感覚を取り戻す意味でも、斬れ味の見極めを必要とする刃物の研磨から仕事を始められるのは吹羽としても僥倖であった。

 久方振りに見た気がする作務衣を感慨深く着込み、吹羽は工房で一人、砥石と包丁で以って涼やかな金属音を奏でる。

 

 風紋包丁は繊細である。風紋が削れてしまえば上手く空気は流れないし、故に軽微な損傷でもその性能を大きく損なう。

 管理に気を使う為、風紋包丁を買っていく人々はそれなりに刃物の扱いに慣れた者達であるが、それでも研磨だけは吹羽にしかできない。まあ風紋包丁は吹羽自らが選りすぐった鉱物を使って鍛えた頑丈な作りである為、簡単なことでは刃毀れ一つ起こさないのが事実であるが、やはり研磨に関する依頼が途絶える事は一月に数回程度であった。

 

 一本の絹糸をぴんと張り詰めたように、吹羽は包丁をまるで花を愛でるように繊細な手つきで持ち、いっそ真摯とすら思えるほど真剣に砥石と向き合う。その瞳には陽の光による反照だけでない、軽微な能力の行使による仄かな光も灯っていた。

 

 刃物の研磨にもコツがある。第一に力を掛け過ぎてはいけない事と、刃と砥石を垂直に構え、また正確に鋒を合わせる事。風紋包丁の場合は風紋の機構部が削れてしまわないように、どの部分が刃部のどこまで伸びているのかを漠然とでも把握しておかなければならない。

 刃を削り過ぎてもいけないし、削った末に鋒を歪ませてもいけない。正確に砥石の面と刃の面を当て続けなければならず、またそれに用いる力を掛け過ぎれば意図しない部分まで削り取ってしまい、包丁としての性能を大きく損なうことになる。それらを完璧にこなす為には、やはり刃の鋭さを見極められるという至極基本的な力が必要だった。

 

 鍛冶の基本であるが故に、これ程まで神経を張り詰めさせる作業も他にはないと吹羽は考える。吹羽は鈴結眼の能力行使対象――“視野”を、極細部を見ることにのみ集中させることで比較的長時間の補助を得ることができるが、やはり最後に物を言うのは自身の腕だと思っていた。

 削り取ってしまえば戻すことは容易でなく、また性能を落とさない丁度良い具合を見極めなければ悪戯に刃物の寿命を縮めることになる。

 吹羽は至極真摯に向き合いながらも、何処かじわじわと感じるやり甲斐に胸を弾ませていた。

 

「(一回……一回……丁寧、にっ!)」

 

 力み方を確かめるように、シュイ、シュイと秒針が時を刻むようなリズムで刃を削る。その度に己の神経が研ぎ澄まされていく気がして、吹羽は夢中になって刃を見つめた。

 

 外は晴れている。青春の一頁を思わせるように、大なり小なりの綿飴にも似た白い雲が散り散りになって青空を飾っていた。

 ひんやりと心地良い秋の空気と共に差し込む陽の光を視界の端に捉えて、吹羽は頭の隅でいい一日だと、胸の中に暖かな火が灯ったように感じる。

 堪らず頰を緩め、控えめに言っても最高のこの気分を指先に込めるように力を入れる。この最後の一削りを以って、完璧なる仕上げを――、

 

 

 

「ふーうーちゃんっ、あ〜そび〜ましょっ!」

 

 

 

 突然の大音量に思わず背が震え――がりっ、と鳴っちゃいけない音が鳴った。

 

「ぁ――あああああッ!?」

「ひゃいっ!? な、なななんですかどうしたんですか!?」

「せっかく……せっかく完璧に研磨できてたのにぃっ!! 早苗さん――ッ!!」

 

 ヒステリックな悲鳴に驚き返した少女――東風谷 早苗を、吹羽は無残にも風紋諸共削ってしまった包丁を胸に掻き抱いて、恨めしげに睨め付ける。

 清々しい程の陽気を嘲笑うかのような、なんとも幸先の悪い訪問であった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「それでこの状況ですか……」

 

 相変わらず火の粉のように紅葉の葉が舞い散る山林の中、椛は目の前の光景を漠然と視界に入れて納得する。

 その視線の先には、いつになく不機嫌な様子でつんと唇を引き結ぶ吹羽と、この世の終わりを見たかのように目元に影を落としてげっそりとする早苗の姿があった。

 

「吹羽さん、許してあげられないんですか? 何というか……今の早苗さん、直視するだけでも呪われそうなんですが……」

「“重き馬荷に上荷打つ”という諺がありますっ! 早苗さんなんて知りませんっ! お仕事が苦労とは思ってませんけど、元の風紋を刻み直すのにボクがどれだけ苦労したのか、早苗さんは身体の芯まで思い知るべきですっ!」

「ひうっ! ……もう私、生きてけないです…………………………死のうかな」

「死ぬって……相変わらず両極端な人ですね。寝覚めが悪いのでやめて下さい」

「だってぇ……もみじさぁ〜ん……っ!」

「はいはい分かりましたから。それで、吹羽さんは何故ここへ?」

「あ、えーとですね――」

 

 さめざめと滝のような涙を流しながら慰めの言葉を求めて屍人の如く詰め寄る早苗を、椛はぐいぐいと押し留めて吹羽へと疑問を放る。

 咎人に慈悲無しとばかりに早苗を有意義に無視した吹羽は、肩に背負った袋の中をごそごそと弄ると、可愛らしい花柄の布に包まれた棒状の物を一本取り出した。

 

「お仕事は一通り終わらせたので、これを渡そうと思って」

「これは?」

 

 言いつつ受け取り、片腕の代わりに唇で布の端を咥えて転がすように中身を掌に収める。

 取り出したそれは棒などではなく――白木に休められた、一振りの小太刀だった。

 

「……もしや、風紋刀ですか?」

「はいっ。椛さんの刀、壊れちゃったんですよね? それならこの際、片手で使えるような刀を作り直してプレゼントしようと思いまして!」

「! ……確かに、前の刀があっても片手じゃあ多分扱えないのでありがたいんですけど……お金、払えないですよ?」

「お金なんて要らないですよう! ボクの特技を活かしただけの、友達としてのただプレゼントですっ」

 

 吹羽の笑顔に真摯な気持ちを読み取った椛は、彼女に頼んで抜刀してもらい、その刀身を撫でるように眺めた。

 刀身は以前よりも短い。故に相応に軽く、妖怪の膂力ならば楽に振り回せる重量であるが、以前の刀と似た柳葉刀で刀身が幅広かった。元々抜刀術に関しては考えて設計されていないのか反りは浅く、刻まれた特有の薄のような彫刻は相も変わらず流麗で美しい。

 

 吹羽曰く、これは彼女自身が用いる“太刀風”という風紋の派生にあたるらしく、刀身を撫ぜた風は刀身そのものとして斬撃範囲を拡張――“太刀風”には及ばないものの――でき、更に風による刀身の防護壁が分厚くなるようにできているとのこと。

 白銀に煌めくその刀身に、椛は目にして何度目かも分からない感嘆の溜め息を零した。

 

「ふふ、気に入ってもらえました?」

「はい。むしろ隻腕になった私なんかには勿体無いくらいで……ありがとうございます吹羽さん」

「勿体無いなんて。仕事の合間を縫って椛さんの為に打ったんですから、遠慮なく使ってあげて下さいっ」

 

 軽く素振り、その手に馴染む感覚に椛は、本当に自分のためだけに打たれたのだと感じて少し感動する。白木の柄なので多少振るい辛くはあったが、刀の重心や重さはバランスが良く片手で振るうのにも負担は少ない上、刃筋が全く乱れない。“業物”と呼ぶに相応しい一振りであろう。

 

 椛は改めて吹羽から納刀した風紋刀を受け取り、以前の刀の代わりとして佩いていた一振りと共に腰に差した。

 普段からあまり表情の動かない椛であるが、その端正な表情は僅かに緩んでいた。

 

「ところで、椛さんはもう動いても大丈夫なんですか? 少しでも痛いなら安静にしてたほうがいい――というか、していて欲しいんですけど……」

 

 椛の失った肩口を見つめながら心配そうに言葉を零す吹羽に、椛は努めて優しい口調で返す。

 

「大丈夫ですよ。萃香様の薬のおかげで殆どの傷はあの場で治っていましたしね。打撲痕は少し残っていますが、骨ももう元通りです」

「で、でもでも、打撲痕が残ってるってことはまだ痛いですよねっ!? 何ならボクがお仕事代わりますから、治るまで休んでください!」

 

 大丈夫だと言ったら余計に心配そうな表情で詰め寄って来る吹羽に、思わずくすりと笑いが漏れる。吹羽はそれに少し気を悪くしたのか、「ふざけてるんじゃないんですよ!?」とぷっくり頰を膨らませた。

 だが、椛とて天狗の端くれ。組織に属する社会人である。況して荒事が主な仕事になる哨戒天狗が打撲程度の痛みで音を上げてはいられないし、吹羽に代わりをさせて自分は休むなど論外――そも天狗の仕事を吹羽に熟せるとも思っていない――である。

 食い下がる吹羽を宥めながら、椛はしっかりと、しかしやんわり断った。

 

「それに、休んではいられないんです。吹羽さん達は気が付かなかったでしょうけど、今の妖怪の山は厳重警戒態勢ですよ」

「えっ!? ……何かあったんですか?」

「その“何か”が起こらないように、警戒態勢を敷いてるんです。どうやら最近、血の気の多い妖怪が調子に乗ってるようでして」

 

 妖怪も十人十色である。それぞれに考えがあって、それぞれに“自分”というものがある。それ故に、幻想郷という“ある一妖怪”の考えの中に押し込められた妖怪の中にも、理解を示す者とそうでない者が存在するのだ。

 幻想郷に於いて、乱暴に力を振るい暴れ回るような妖怪は大抵後者だ。

 力が弱いならば簡単に鎮圧されるだろうが、下手に強力な妖怪が暴れ出すと歯止めが効かなくなり、調子付いてしまう。そしてそれが妖怪の山に侵入したとなれば――。

 そうした“問題の因子”に天狗一派が敏感なのも当然の事なのだった。

 

「話ではそれなりに強い妖怪の一団らしくて、天魔様直々に御達しがあったんです。休暇だろうが療養中だろうが関係なく、厳重警戒に当たれと」

「ぶ、物騒ですね……無理はしないでくださいね椛さん」

「他人事じゃないですよ? 人里を襲う可能性もない訳じゃありませんから」

「……ふぇ?」

 

 幻想郷のルールに不満を持つ者が、幻想郷のルールを守る訳はない。つまり“人間の里を侵してはならない”という規則が破られる可能性もあるのだ。

 当然考えなしに破ればかの妖怪の賢者が出張ってきて直に制裁を与えることになるだろうから、人間の里が比較的(・・・)安全なのは変わらない事実である。しかし問題なのは里の安全性が揺らぐこと自体にあり、それは幻想郷に理解を持つ妖怪としては看過出来ないことなのだ。

 だからこそ天狗は総力を以て警戒に当たっている。それは当然、人里への監視態勢も含めてだ。

 

「幻想郷そのものに不満があって暴れているそうです。とは言え、人里が比較的安全であることには変わりありません。吹羽さんもあまり外出はしないように」

「うぅ……分かりました。弾幕ごっこで乱暴するというなら、多少身を守ることはできるんですけど……」

「敵にそんなことを望んでも仕方ないでしょう。そもそも人を自由に喰らいたいからこそ幻想郷のルールに不満を持っているんでしょうし。最悪巫女が襲われることもあるでしょうね」

「あ、そっちは心配してません。誰が霊夢さんを襲ったって返り討ちにあうだけでしょうし」

「そ、そうですか……」

 

 あっけらかんとした吹羽の言葉を受けて、なんとなく納得してしまう自分が不思議だった。――いや、この場合は負ける姿を想像さえもさせない圧倒的な強者である霊夢を畏れるべきか。

 幻想郷に不満を持ち、故にこの世界を壊そうと画策するのなら、最も手っ取り早いのは“博麗大結界”の管理を行う一翼、博麗の巫女を殺すことである。

 しかし最短が最良とは限らない。むしろこの場合は最短こそ最悪の道であると断言できる。それ程までに霊夢は強いし、仮に彼女を追い詰めたとしても妖怪の賢者が彼女の殺害を許さない。

 よくよく考えてみれば確かに、例え頭の回らない妖怪でも巫女を襲うことがどれだけ愚策か瞬時に理解できるだろう。

 知能の低い者ほど、本能に従って無意識的に命の危険は避けるはずだから。

 

 と、そうして吹羽たちと雑談しながら、しかしクソ真面目な椛は周囲の警戒は怠っていない。彼女の“千里を見通す目”は確かに、何者の侵入も確認してはいなかった。

 そんな折、その視界の端に一つの影が映る。次の瞬間には自分たちの上空にまで距離を詰めていたそれを、椛は少し眉を顰めて(・・・・・)見上げた。

 

 

 

「……あんまり睨まないで欲しいんだけど」

 

 

 

 そうばつが悪そうに呟きながら降りてきたのは、黒髪赤目の天狗の少女――射命丸 文。

 

「……何の用ですか」

「ただの連絡。休憩に入っていいそうよ」

「……そうですか。ありがとうございます」

 

 自分でも、思っていたよりずっと暗く冷たい声が出る。明らかな警戒心を言葉から表す椛に、文は少しだけ俯いて言葉を返した。

 始終げっそりとした表情で死ぬか生きるかを真剣に悩んでいた早苗でさえも、いつのまにか表情を引き締めて吹羽を己の背後へと導いている。

 あの件は、ほんの数日前の事だ。関わった者たちにとっては未だ記憶に新しく、故に椛には文に対してどうしても警戒心が生まれてしまう。

 朗らかな空気から一転、三人を包んでいた空気は文の登場をきっかけにして、何処か鋭く張り詰めたような雰囲気が揺蕩っていた。

 

「(……やはり、信用し切れない……ですよね)」

 

 ――別に、怒っている訳ではなかった。全ては既に過ぎ去った事。文も反省の色を示し、吹羽もそれを尊重している。ここで椛が怒ったとて無為なことである。

 ただ椛の、吹羽の友達としての心が、未だに文を許せていなかった。

 こういうものは理屈ではない。文の事情も心境も聞き及び、理解はしていても心はついてこない。だって、文が吹羽を死ぬ寸前まで傷付けたのは事実なのだ。それすら何事もなかったかのように忘れられるなら、椛は吹羽の友人を名乗れはしない。きっとそれは、早苗も同じことだろう。

 

 しかしその敵対心は、思いも寄らず――否、解かれるべくして、解かれることになる。

 

「……文さん」

「あッ、吹羽ちゃん!?」

 

 早苗の背後からするりと抜け出した吹羽が、居心地悪そうに佇む文に歩み寄る。

 そして彼女へと向けられた笑顔は、それはもう花が咲いたような――小動物のじゃれ合いを垣間見るような心地にさせた。

 

「こんにちはっ!」

「……ええ、こんにちは。吹羽」

 

 仲のいい友人同士がするような、極々普通の昼の挨拶。

 躊躇い気味に返し、ぎこちなく笑う文の姿は、まるでちょっとした喧嘩をして気後れしているだけのような柔らかい雰囲気を醸していた。

 毒気を抜かれるというか、少々呆気に取られた椛は、二人の姿に「馬鹿馬鹿しいか」と、心に生えた棘のような気持ちを吐き出すように溜め息を吐く。

 そう、今更椛が怒っても詮無きこと。

 文が吹羽を傷つけたのは変わらない事実だ。そして文が己を省みて、吹羽がそれを助けようと決めた事もまた事実。ならば外野から怒りを撒き散らすのは野暮な事だし、ただ迷惑だ。

 ふと早苗を見遣れば、予想外の二人の姿に何処かおろおろとしていたが――椛は、放っておくことにした。これくらいの事、彼女ならすぐに気が付くだろうし。決して落ち着かせるのが面倒だった訳ではない。

 

 椛は早苗から視線を外し、何やら世間話でもしている様子の二人についと寄って、

 

「文さんも休憩ですか?」

「え? ……ええ」

「ではせっかくなので、お茶でもしませんか。仕事場で休憩するのは気が休まりませんから」

「賛成です椛さんっ! そうしましょ文さん!」

「う、ん……吹羽がそういうなら……分かった」

「では、近いので私の住処へ向かいましょうか」

 

 文も随分と丸くなったものだと思いながら、椛は己住居へと一足分早く前に出る。吹羽も文も、次いで早苗も、和やかではないながらに四人で作る輪を認めつつ、椛に続いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――何が問題なのかといえば、それはどうしようもないくらい利己的な理由で。

 

 いつだって自分の心が望むままに振舞って来たし、その為に養われたのが無駄によく回るこの軽い口。

 屁理屈言うな、とは何度言われたか数える気も起きないというか、積み重ねれば月にまで届いてしまうんじゃないかとすら思えるほど言われに言われて来て、しかしそれを、改める気にはならなかった。

 何故かって? 黙っているよりは楽しいからだ。

 

 正論を積み重ねたって、成り立つ会話は限られる。お巫山戯に対しては突っ込むのが世の常ならば、常に巫山戯ていれば会話は成り立つ筈だろう。沈黙の中でお互いを感じるという落ち着いた感覚の存在を認めはするが、少なくともそれを理解できるほど控えめな性格はしていない。静かなのよりも賑やかな方が好みだったのだ。

 

 故にその表情は、世界の存亡に関わったかのように真ッ事深刻に顰蹙し――魔理沙は一言で、全てを語る。

 

 

 

 ――最近出番が少ねェ、と。

 

 

 

「あっそ。頑張って」

「あーお前他人事だと思ってなげやりになってやがるなッ!?」

「他人事でしょ、どう考えても」

 

 片手をバンと卓袱台に叩き付け、力強く指を指す。それを霊夢は柳に風な澄まし顔でのらりくらりと受け流す。ああ、今日のお茶も味が薄いな、と全く関係ない事さえ考える余裕があった。

 

「大体何でそんなこと気にしてるワケ? 冬眠中の熊の如く一人森に篭って魔法の研究でもしてればいいじゃない。魔法使いってそういうもんでしょ」

「ああそうだなッ! 研究してた結果がコレなんだけどなッ!?」

「なら良かったじゃないの。研究してたお陰で事件に巻き込まれずに済んだんだから」

「だぁああ〜ッ!! お前は正論しか言えねェのか!」

「なにが悪いっての?」

「もうちょっとこう……あるだろ!? なんか気の利いたことの一つや二つ! そういうことは言えねーのかって言ってンだよこのポンコツ巫女がァッ!」

「あぁんッ!? だれがポンコツですってこの泥棒魔法使いッ!」

 

 てんやわんやと始まった幼稚な取っ組み合いは、しばらくの間静閑な神社を賑やかしてから治まる事になる。

 二人にとってはこれが日常茶飯事であり、所謂“喧嘩するほどなんとやら”という奴なのだ。

 

 だが、ひっくり返した卓袱台を元に戻し己も元の位置に戻った魔理沙は、それでも何処か不満げな表情で唇を尖らせていた。

 少しだけ埃を被った愛用の黒帽子をバンバンと乱暴に叩きながら、

 

「ったく、幻想郷で起きた事件・異変は解決者の仕事だってのに、これじゃわたしがサボってるみたいじゃないか」

「サボるも何も、そもそもあんたは“自称”でしょ。結果が伴ってるから認知もされてるだけで。別にあんたが出張ろうが大人しくしてようがあたしが解決することには変わりないし」

「……分かり切ったこと言うなよ。そんなモン建前だって分かってるだろ? わたしが何より気に食わないのは、わたしの知らないところで何か出来事があって、それを知らないまま全部終わっちまうことだよ。面白くないだろ? 自分抜きで盛り上がってたことを終わった後に知ったらさ」

「……快楽主義者なのね」

「心に素直なだけだよ」

 

 何処か素っ気ない魔理沙の言葉を最後に、二人の間には何処か棘のあるような沈黙が訪れた。

 

 外では小鳥が鳴いている。ぴよぴよと唄う名前も種類も分からない小さな鳥が、地面から一匹の蚯蚓を啄ばみ上げて、何事も無かったかのように大空へと羽ばたいていった。

 後に残ったのは、僅かに掘り返された地面の跡。平和を象徴する青空は変わらず直上に居座っている。

 ぼんやりとそれを眺めていた二人の間に、不意にひゅるりと秋らしく冷やい風が通り抜けた。

 少しだけ身震いするも、魔理沙はその風の音の中に僅かな溜め息が混じっていた事を耳聡く聞き取っていた。

 

 頬杖を突き、変わらず外をぼんやりと眺めながら、魔理沙はぽつりと呟く。

 

「……分かってるよ、楽しいことばかりじゃなかったのは」

「え?」

「山の神社の異変に加えてさ、何か良くない事件が起きたんだろ。珍しくお前がマジギレしたって話を聞いたぞ」

「……そう」

 

 魔法の研究が一段落し、久方振りに外へ出て、魔理沙が何故事件が起きた事を認知しているのか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)と問うならば、それは至極単純な理由――妖怪の山が大きく抉られた光景を目にしたからだ。

 今まで幾度となく妖怪と相対してきた魔理沙だからこそ分かる。あの噴火跡のように抉れた山肌は、並大抵のことでは到底創り得ない光景だと。そして故にこそ、その並大抵でない光景を生み出すに至った事件が起こったと推測した。

 

 後は流れる川の水の如くだ。山へと向かった魔理沙はそこでぶーたれながらもこもこと山肌を元に戻す諏訪子に出会い、痕跡が妖怪によるものと知った。ここまでのことが出来る者は限られる、アタリを付けるのは酷く簡単だった。

 そして道行く天狗に訊けば、詳しいことはなにも訊けなかったものの、博麗の巫女が怒ったと断片的な情報から見えてきた。

 

 普段から何処かスカした雰囲気を持つ霊夢が本気でキレた。ならばそれ相応に、少なくとも霊夢にとって良くないことが起きたのだ。

 そしてそれは恐らく――。

 

「どうせ吹羽のことだろ。あいつの話をすると割りかしお前は感情的になる嫌いがあるからな」

「……そうかしら」

「そうだぜ。何年お前の親友やってると思ってんだ」

「……そう、かもね」

 

 こうして言葉にしてやっても釈然としなそうな表情を浮かべる霊夢を横目で見て、魔理沙はふんと鼻を鳴らした。

 全く、他人(ひと)は己以上に己を見ているとはよく聞く言葉だが、こうして実感するとなんとも呆れた気持ちになる。霊夢はやればなんでも出来てしまう果てしなく完璧に近い人間だが、だからこそ本当は自分がどんな人間なのかも分かっていないのかもしれない。

 まぁ、それを頭の何処かで知っていたからこそ、彼女の親友たる魔理沙はちょっとした尻拭い(・・・・・・・・・)をしてやった訳だが。

 

「里にもちょっくら訊きに行ったが、連中の慌てぶりったら凄かったぜ? “龍神様がお怒りだ”、“この世の終わりだ”ってよ。感謝して欲しいモンだ、お前が説明しないからわたしの魔法の失敗でああなったことにしておいてやったんだからな」

「ああそういえば……完全に忘れてたわ、里に説明しに行くの」

 

 ほれ見ろ。ちょっと感情的になっただけでコレだ。

 

「やれやれ。ポンコツ巫女ってのもあながち間違いじゃなかったのかもな?」

「あら、喧嘩売ってる?」

「生憎さっきので品切れだ」

 

 今更この程度のことで争う気もない魔理沙は、その旨を表すように片手をぷらぷらと揺らして霊夢に向ける。

 すると彼女も一瞬で興味が失せたのか、頬杖をついて面倒臭そうに息を吐いた。

 

 再び訪れる沈黙。幾秒か続いたそれは、魔理沙のふとした疑問によって打ち破られる。

 ――否、ふとした(・・・・)というよりは、前から思っていたことを、尋ねる糸口を見つけて思い出した(・・・・・)、というべきものだった。

 魔理沙はもののついでのように、外を眺めながら言葉を紡ぐ。

 

「なぁ霊夢」

「ん〜?」

「お前にとって、吹羽ってなんなんだ?」

「……はぁ?」

 

 予想だにしなかったのか、霊夢は眠気が覚めたように目を見開いて掌から顔を上げた。

 

「何って、そんなの――」

「友達だ、なんて答えを聞きたいわけじゃないぜ? そんなの分かってるしな。今更そんなこと聞くだけ無駄だ」

「…………じゃあ何よ」

「なんでそんなに入れ込むんだ、ってことさ」

 

 僅かに、微かに、霊夢の息を呑む音が聞こえた。

 

「薄情とは言わないが、お前は結構淡白な奴だよ。それはわたしが保証する。でもだからこそわたしには不思議だったんだ。淡白なお前が、なんで吹羽が関わるときにはこんなに情味なんだろうってな」

 

 霊夢が、吹羽と対する時にだけ見せる表情。それは親が子を見守るような暖かい笑顔だったり、儚い花弁に触れようとする気遣うような視線だったり、はたまたちょっぴり嗜虐的ないやらしい瞳だったり。

 魔理沙にはそれが不思議だった。 霊夢は決して薄情な人間ではない。しかし他人にはあまり感情を見せはしない。つまり吹羽を他人とは思っていない(・・・・・・・・・・・・・)という事だ。

 

 いつか吹羽と対峙した時に浮かんだ疑問が脳裏を掠める。

 自分は長年かけて霊夢の親友を――身内を名乗れるまでになった。ならば魔理沙よりも短い時間で身内同然とまでなった吹羽は一体なんだ? 霊夢は何を感じて吹羽のことをそう思うようになった?

 そしてそういう時に時折見せる――霊夢の思いつめた表情の、その真意は?

 

 ふつふつと大きくなる疑問が徐々に焦燥へと変わっていき、魔理沙は頬杖を突いたまま何処か攻め立てるように鋭い視線を霊夢に向ける。すると彼女は、少しばつが悪そうに視線を逸らした。

 

 似たような話は前にした。しかしその時は友達だとしか答えなかった。わたしのように捻くれてないから、なんてオマケも付けて。

 だがそれだけでないのは分かっている。だって魔理沙は霊夢の親友だ。恐らくはこの世界で一番霊夢のことを分かっている、唯一の人間なのだから。

 

 しばらくそうした視線のみの戦争が続いて、霊夢はやっと降参したのか一つ溜め息を吐くと、徐に口を開いて、

 

 

 

「…………絶対に護るって、決めた人よ」

 

 

 

 そう、言った。

 

 その言葉に――いや、その言葉を放った霊夢の雰囲気全てに、魔理沙は不覚にも愕然とした。

 薄っすらと紅く頰を染めて、恥ずかしがるように潤んだ瞳を端に逸らすその仕草が、魔理沙の中の霊夢像から余りにも逸脱し過ぎていて。

 まるで嫁入りした女が更に色気を増して周囲を魅了するかのように、霊夢のそれは――恋い焦がれる乙女の愛らしさが匂い立つようだった。

 

「お、おまっ……まさか――」

「………………」

 

 中てられた魔理沙は堪らず後退りし、悩ましく溜め息を吐く霊夢を嘆く。

 

「まさか吹羽に惚れて(・・・・・・)んじゃねェだろーなッ!? 女だぞッ!? しかも子供だぞッ!?!?」

「あんた突然何言い出してんのッ!?」

 

 頬杖からずるりと頭を落とし、薄かった頰に更に朱を指して霊夢は叫んだ。

 

「だってお前その顔……ッ! 恋にゃ初心そうなお前がソレってもうそういう事(・・・・・)だろッ!?」

「ちっがうわよッ! ど、堂々言うのが小っ恥ずかしかっただけじゃない! なんであたしが同性愛者みたい言われなきゃならないのよッ!」

「知るかそんなこと! お前がそういう顔してるのがいけないんだろ!?」

「あ、あんたねぇ……ッ!」

 

 プルプルと肩を怒らす霊夢に、しかし魔理沙は今更気後れなどしなかった。

 そも幾度となく喧嘩を繰り返してきた二人である、話題が真実だろうと虚偽だろうと、魔理沙のスタンスは変わったりしない。

 魔理沙は苦笑いを隠そうともせず霊夢に寄ると、ぽんと肩に手を乗せて、

 

「いや……いやいや霊夢、わたしはお前の親友だ。長い付き合いだ。今更そんなこと知ったくらいでわたし達の絆は切れたりしないぜっ」

「……もう既にあたしから切りたい気分なんだけど」

「そもそもだぞ? 世の中にはいろんな人がいて、一人一人に個性があるってのは“烏は黒い”並みの常識だが、当然その中にもお前と似たような趣味の奴はごまんといる訳だ。オマケに吹羽のあの作りモンみたいな容姿、恋したって何ら不思議じゃあない。……大丈夫、わたしはお前を理解してやれるぜっ!」

「なるほど、あんた煽ってるの。ないモノ(喧嘩)売ってあたしからせびろうとしてる訳ね? 上等じゃない覚悟しなさいよ」

 

 怒りの臨界を超えて暗い笑顔を浮かべ始めた霊夢。背後にドス黒いオーラ纏った般若面が見えたのはきっと気の間違いではなかろう。

 流石の魔理沙も一瞬ひやりとするも、霊夢はすぐに諦めたのか大きな溜め息を吐いて怒気を薄めた。

 言っても無駄だと悟ったのか、はたまた怒りが過ぎて馬鹿らしくなったのか、途端に元の興味の失せた澄まし顔に戻った霊夢は「もういいわ」と無理矢理に括ると、続けて「そんな事より」と前置いた。

 

「さっさと本題に入りなさいよ。まさかあんな下らない相談をしにきた訳じゃないでしょ」

 

 もしそうなら今すぐ叩き出すけど。

 そう不穏な表情で付け加えるも、魔理沙は臆せず()、と笑ってみせた。

 

「さすが話が早い。となればお前も、そろそろ気になり始めた(・・・・・・・)ってことだな?」

「……そうね。まさにその通り」

 

 魔理沙は、霊夢の点頭に続くようにして言葉を繋ぐ。

 

「最近騒がしい奴らが、いよいよ“近所迷惑”のレベルにまで来たって訳だ」

「そんな規模の小さい例え方しないでよ。幻想郷にとっては膿そのものなの、規律に反する妖怪ってのはね」

「その割に今まで放っておいたじゃないか」

「他の妖怪に潰されると思ったのよ。存外強かったようだけどね。面倒臭いったらありゃしない」

 

 唇を尖らせてうんざりしたように霊夢は吐き捨てる。魔理沙はその言葉に尤もだと頷いた。実際魔理沙も他の妖怪に潰されるとは思っていたし、そうでなくても霊夢が早々に片付けると思っていたのだ。

 しかし――。

 

「人妖共存に不満爆発、かぁ……力があるからこそ自由に人を喰らいたい――妖怪らしくありたい、ってか」

 

 この頃はある妖怪達が暴れている。曰く規律に反する者――幻想郷の在り方に不満を持つ者達。今までもその手の類は間々現れ、その度に鎮められてきた訳だが、今回は存外粘り強かったらしい。

 幻想郷への不平不満を謳い文句に、賛同しない者達を叩きのめして回っているようなのだ。中には死亡した者も存在する――というより、遂に死亡者が出てきたからこそ霊夢もその重い腰をあげようとしている。

 

 全く、そういう不満は“妖怪の賢者”に直接言えばいいものを。

 魔理沙は溜め息混じりにそう零し、頭痛を堪えるように額に指先を当てた。

 堪えられない不満なら、周囲に当たり散らす事さず基を叩けばいい。喚くだけでは改善しないし何より迷惑だ。

 

「で、どうするんだ?」

「ま、退治することになるでしょうね。妖怪の賢者――紫も何も言ってこないし、あたしに全部任せたってことでしょ」

「ふぅん…………一人でやれんのか?」

「誰に物を訊いてるの」

 

 ――と心底から心外そうに眉を顰めるも、霊夢はすぐに「とは言え……」と小さく息を吐く。

 

「暴れてるの、三人組らしいのよね……。面倒臭いのは間違いないわ」

「まあ、一人だけで暴れてるならこんな大事にはならないだろうしな。猫の手も借りたいってか?」

「そーねぇ………………ん? 何その顔」

「へへへ」

 

 と不意に訝しげな表情をした霊夢に、魔理沙は如何にも“待ってました!”とばかりに不敵な笑みを浮かべていた。

 

 猫の手も借りたい。その言葉に対する首肯をしかと見た。ならばいいだろう――ちゃんと人の手を借りようではないか! と。

 魔理沙達には存在する。妖怪を相手にできる友人が。頼めば断れないお人好しが。何より先日、魔理沙がその本気の本気を見損ねた人間が!(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「手が足りないんだろ? なら借りればいいじゃん。丁度適役がいるだろうが」

「あんたまさか……吹羽を連れてく気?」

 

 霊夢の問いに、御名答とばかりに目を細める魔理沙。

 

「友達だろーが。困ってんなら助けてもらって何が悪い」

「……いや、だからね? あたしはなるべくなら吹羽を危険な目に合わせたくない訳で――」

「いやいやお前、いつから嘘吐きになったんだよ」

「……嘘吐き?」

 

 この期に及んで(・・・・・・・)、あまりに情けない事を言う霊夢に魔理沙は吐き捨てるように言った。

 

 魔理沙は覚えているのだ。かつて霊夢が魔理沙に言った言葉――否、“信頼の意”を。

 他人には興味がなく、故にこそ人を認める事をしない霊夢が放つとは甚だ思えない言葉。それは数多の妖怪を圧倒する、魔理沙をして最強とさえ考える霊夢が口にした――強い、という一言。

 

「吹羽は強い。お前はそう言ったし、実際に戦ってわたしもそう思った。その信頼は、まさか嘘だってのか?」

「そ、それは――」

「なぁ霊夢、この際だから言うぞ? 吹羽がなんとなく守りたくなるような可愛い奴なのはよく分かるが……ちょっとお前、お節介過ぎやしないか?」

「っ!」

 

 何処か責めるように視線を向けると、霊夢は思いの外胸を刺されたように目を見開いて動揺した。

 魔理沙自身そこまでの反応を予想してはいなかった故、その反応の過敏さには少しだけ首を傾げるが、すぐにまあいいと切り捨てる。

 その事自体はどうでもいいのだ。今この話は、吹羽を連れて行くという魔理沙の提案に霊夢が乗るか反るか――ただそれだけの単純な問答なのだから。

 

「………………っ、」

 

 霊夢は悩んでいるようだった。或いは気にしていた事を指摘されて凄まじく動揺しているようにも見えた。

 だが、苦悩というものは長引かせるほど答えを出すのが難しくなるものである。魔理沙は有耶無耶になってしまわぬよう急かすように視線を鋭くすると、霊夢はこくりと喉を鳴らして、躊躇い気味に口を開く。

 

「…………やっぱり、だめ」

 

 そして、ぎりりと軋む音がして。

 

「吹羽が望んでもない事を強いたり出来ない。あの子は優しいから……妖怪の退治なんて、まだ出来ないわよ」

「あー? お前、話聴いてたか? わたしが認めたような奴がそんじょそこらの妖怪に負けるもんかよ」

「例えそうでも、だめ。もう戦わせられない。あの子にはちゃんと……里で大人しくしててもらわないと。紫のあの件(・・・)もあるし……」

「あの件?」

「っ、なんでもないわ」

 

 やはりお節介が過ぎる――そう改めて思い、しかし魔理沙は否と考え直した。

 これは最早世話や保護ではなく、支配欲(・・・)の領域。霊夢が語るその言葉の端々には、吹羽の行動を抑制し、制御し、思い通りに動かそうとする思惑が見え隠れしていた。しかも、質の悪いことに恐らくは――霊夢の善意による、純粋な思慮。

 魔理沙は堪らず眉を顰めて、疑問を口にする。

 

「……お前、一体何を隠してる?(・・・・・・・・・)

 

 その言葉をきっかけに、霊夢はすくと立ち上がって背を向けた。

 そしてその様子に魔理沙が声をかけるより早く、

 

「とにかく、吹羽は連れていけない。どうしてもそうしたいってんなら、あんたは大人しくしてて」

「……手が足りないって自分で言ってただろうが」

「多人数相手が面倒なだけ。出来ないなんて言ってない。吹羽の手を借りるくらいなら……一人で全部やるわ」

「あッ、おい!」

 

 霊夢は放り投げるようにそう言うと、素早く靴を履いて縁側から空へと舞い上がった。

 何処かいつもと違う彼女の様子に益々首を捻る魔理沙。しかし今考えても答えは出ないと切り捨てると、彼女も立ち上がって外へと出た。

 

 ああそうとも。霊夢の言動は不可解だが、今はそんな事より考えることがある。

 そもそも――、

 

「あいつ、わたしが“大人しくしろ”って言われて大人しくしてる奴じゃないって忘れてねーか?」

 

 魔理沙が吹羽を連れて行きたい根本的理由は“戦力になるから”ではなく――彼女の本気の本気を見てみたいからであるからして。

 魔理沙はどうやって吹羽を連れ出そうか考えながら、愛用の箒に豪快に飛び乗った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――過保護。

 ――お節介。

 

 言葉がぐるぐる頭を回る。思考を侵す。

 二度も突き付けられた畳針のような言葉に、思いの外動揺する自分がいた。

 

 否――そんなはず、ない。これは吹羽の為なのだから。あの子が幸せに暮らす為なのだから。心も体も――もう傷付く必要なんて、ないのだから。

 

「大丈夫……あたしは、間違ってない。間違ってるはず……ない」

 

 熱い額を撫でる風も、何故か心地良くは思えず――ただひたすらに、茜色の空を駆った。

 

 

 




 今話のことわざ
(おも)馬荷(うまに)上荷打(うわにう)つ」
 大きな負担に、さらに負担を重ねることのたとえ。


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第二十七話 未知なる系譜

 

 

 

 葉掠れ音だけが、耳を撫でる――。

 

 天辺から足の指先まで微動だにせず、心は丸い月を写した水面の如く――明鏡止水のように静謐で、何処か緊張感を漂わせる。

 互いに向き合った吹羽と椛は、お互いの持つ恐るべき動体視力で以って互いの動きを読み合い、ジッと均衡の崩れる瞬間を待っていた。

 

 そして、はらりと。

 

 風の勢いに負けて母なる枝から引き離された紅葉の葉が舞い落ちて、丁度二人の交錯する視線上を通り、互いの顔が一瞬隠れたその刹那――凄まじい、木々が打ち合う柔らかくも高い打撃音が響き渡った。

 

 押し負けたのは吹羽だった。

 椛は一刀、吹羽は二刀を構え互いに片手持ちで木刀を振るうが、妖怪である椛の膂力に、幼い人間の少女である吹羽が拮抗出来るはずもない。

 互いの木刀に挟まれて無残にも散り散りとなった紅葉の葉を視界の端に、吹羽は椛の力に無理には逆らわず、空いたもう一刀を椛の木刀の上から重ねるように打ち付けて流した。

 そのまま、返す刀と自由になった刀で横に薙ぐ。完全に直撃コースだった。

 

 が、そのどちらも椛の体を打ち付けることはなく、吹羽は勢いそのままに突進してきた椛に突き飛ばされ、後方へとふらついた。

 その隙を椛は逃がさない。素早く駆け寄り下段に構えた木刀を鋭く斬りあげると、咄嗟に防ごうとした吹羽の木刀は天高く弾き飛ばされた。

 

「っ、くぅ……!」

「まだです――ッ」

 

 続くは連撃。隻腕であることなど忘れてしまいそうなほど華麗な太刀筋で繰り出される攻撃に、初めのふらつきを引き摺ったままに刀を受ける吹羽はあっという間に追い詰められ――終わりの合図は、かんっ、という乾いた強打音。

 くるくると宙を舞う木刀が、陽に照らされて影を作った。

 

「あたたた……負けちゃいましたぁ」

「中々いい勝負でしたね、吹羽さん。……はい」

 

 そう言って差し出された椛の手を、吹羽は照れ臭そうにはにかみながら取って立ち上がる。その背後には、弾き飛ばされた木刀が二本無造作に地面に突き立っていた。

 そこへ手に布巾を持った文、水を入れた器を持った早苗が駆けてくる――吹羽めがけて。

 

「ほら吹羽、布巾持ってきたから汗拭きなさいな」

「吹羽ちゃんっ、水ですよ! 汗かいた時には塩水がよく沁みるんですっ!」

「……あなた達、私には何もないんですか」

 

 花に蝶が集り舞うように甲斐甲斐しい世話を始めた二人に椛のジト目が突き刺さる。

 文は全く気にせずと言ったように汗を拭う吹羽を眺めていたが、早苗は慌てて椛にも水を差し出す。

 

「わ、忘れてたわけじゃないですよ? ただ吹羽ちゃん汗かいてましたし脱水症状で倒れたら一大事だと思って気が急いたといいますか」

「これくらいの運動で脱水症状なんて出るわけないじゃないですか。大体汗なら私もかいてますけど」

「でもでも万一と言うこともありますし椛さんは妖怪なので水がないくらい大したことないかなって」

「ああもう、分かりましたから矢継ぎ早に言わないでください。面倒臭い人ですね」

「がーん……っ! 面と向かってめんどくさいって言われました……!」

 

 吹羽の知らぬ間に仲良くなっていた椛と早苗の、これまたいつの間にか出来上がっていた“構図”が展開される。文に貰った布巾で汗を拭いながらその様子にくすくすと笑っていると、その視界の端では文も軽い笑みを零していた。

 文は未だにあまり二人と打ち解けた様子はなかったが、こんな表情を見ると時間の問題なのかなと安心できる。

 吹羽は、今度は早苗から貰った水を一口こくりと飲み下して、きゃいきゃいと問答を繰り返す二人に歩み寄る。文は静かにその後ろをついてきた。

 

「それにしても、さすがは椛さんですね! 片腕とは思えない剣捌きでしたよ! まあ、語れるほどボクも剣術得意じゃないんですけど……」

「それほど重い得物でもありませんから。でもまだ不自由ではありましたし、それを調整する為の打ち合いだったじゃないですか」

「……そうは言うけど、私から見ても椛の剣捌きは並みじゃあないと思うわよ」

「わ、私もそう思いますっ! お二人ともすっごく……す、凄かったですよっ」

 

 口々に放たれる賛辞の言葉にうっすらと頬を染める椛。頭の上でふわふわの白い耳がぴこぴこと揺れるのは、彼女が照れている証拠なのだと最近気が付いた吹羽である。

 無愛想な椛であるが、褒められれば人並みに照れはするらしい。

 なんだろう、とても和む。

 

 こそばゆくなったのか、椛は三人の視線から逃げるようにそっぽを向いた。

 

「べ、別に、私が褒められるほどのことじゃありません。それを言うなら、私をここまで強くした剣術を――この剣術を磨き上げた先達達をこそ褒めるべきです」

「先達達を……もしかして、椛さんは剣を誰かに習っていたんですか?」

「……はい。独学で強くなれるほど、私は器用じゃないので」

「じゃあ先達さんたちも合わせて、みんなを褒めてあげないとですねっ!」

「……早苗さん、あなたやはり馬鹿ですね? いや、あなたは馬鹿です。阿呆の子です」

「がががーんっ! ば、馬鹿に、阿呆……流石の私も、大ダメージです……」

 

 いよいよ膝をついて絶望し始めた早苗を有意義に無視して、吹羽は一人考え事に耽る。椛の言葉に、少し思うところがあったのだ。

 

 先達たちの磨き上げた剣術、それが椛の強さなのだと言う。きっとそれを身に付ける為に相当な努力はしたはずなので、やはりこの言葉は何処か照れ隠しのようなものでもあるとは思うが、あながち間違った見解でもないのかなぁと吹羽は思っていた。

 先人たちの紡いできたものは、必ず何処かで今を生きる人たちに繋がる。時にはその知識が大災害を乗り越えさせ、時にはその技術が他のあらゆる人々を助ける力に変わる。風成家の風紋技術然り、椛の剣術然りだ。

 

 吹羽はそこまで考えて、ふと思う。

 

「(ボク……自分の家のこと、あんまり知らないなぁ……)」

 

 受け継いだ風紋、風神への飽くなき信仰、御伽噺のような神話。それらは確実に、先達達――吹羽の祖先達が紡いできたものに他ならない。

 両親がいて兄がいて、それに満足してしまっていて、また彼らがいなくなってからは単純に余裕がなくて。今まで自分の家のことに興味を持ったことなど、今思えばほとんどなかったことに今更ながら気が付いた。

 

 吹羽は小さく低く唸って、ちらりと横目で文を見遣った。

 今でこそ吹羽の隣で和やかに笑っているものの、ふとすればあの時の――狂気に飲み込まれた残酷なほどの笑みがフラッシュバックする。

 

 ――そう。あの一件も、吹羽が無知だった故に起こったことだ。

 吹羽がもっと自分の家の歴史に知識深く、天狗との関係を理解していたのなら、もしかしたら文を苦しませずに済んだかもしれない。もっと単純で、楽に、丸く収める方法が見つかったかもしれないのだ。

 未だあの時の文の姿が心に深く突き刺さっている。二度とあんなこと起こしてたまるかと、自分の短所を無くそうとするのは当然のことだ。

 

 吹羽は一つ頷いてから、顔を上げた。

 

「椛さん!」

「はい、なんですか?」

「ちょっと用事ができたので、里に帰ろうと思います! いい稽古、ありがとうございましたっ!」

「え、は、はい……えと、どうしたんです? 急に用事って……」

 

 思いの外弱々しい問いを投げかけてくる椛に、吹羽は慌てて思い直す。

 言い方が悪かった。これでは早く家に帰りたくて嘘をついているように聞こえてしまう。

 吹羽は「えと、えと……」と辿々しく言葉を繋ぎながら言う。

 

「家の歴史を調べてみようかなって思いまして。ほら! 椛さんも剣術は磨き上げられてきたものって言ってたじゃないですか! だからボクも家のことをもっとよく知れば、何か役に立つかなぁ……って」

「…………なるほど」

 

 椛は少しだけ見せた不安そうな表情を再び元に戻して、頷いて見せた。

 

「じゃあ、今日はここでお別れですね。姿を隠してまでついていく理由はありませんし、文さんもそれでいいですよね?」

「……仕方ないわね。吹羽、また遊びに来なさいよ?」

「もちろんです!」

 

 本当に、文は随分と丸くなったと少し感慨深くなりながら元気よく返事をする。

 すると視界の端から、低く唸るような声が割り込んできた。

 言わずもがな、椛に手酷く言い負かされた早苗である。

 

「ふ、吹羽ちゃん……私、付いてっていいですよね……?」

「え……えと、別に構いませんけど――」

「やったー! 許可もらったあ! 私、里まで行ったらいっぱい吹羽ちゃんに甘やかしてもらうんですうっ!」

 

 椛の口撃が余程効いていたのか飛び跳ねるように立ち上がって、満面の笑みと意味不明な言葉を放つ早苗に若干の引きつつ、吹羽は椛と文に見送られながら、早苗と連れ立って山を降り始めるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 阿求の家に着く頃には、既に日が茜色を呈し始めていた。子供が迎えにきた親と連れ立って帰路に着く姿が疎らに見え始め、空には烏達が黒い点々となってかぁかぁと歌声を披露する。

 二人は稗田邸の門戸を叩き、日暮れも近いのに遠慮なく声をかけた。今更阿求に気後れする必要などないのだとこの間慧音に教わった。吹羽は親友たる阿求を頼ることに引け目を感じることはなくなっているのだ。

 

「それにしても、吹羽ちゃんは家に帰らなくても大丈夫なんですか? 秋ですし、日はすぐに落ちますよ?」

「ここからの道なら覚えてるので暗くても大丈夫です。大して遠くもありませんしね。最悪泊まらせてもらえないか訊いてみます」

「……こんな大きな家、泊まらせてもらえるか怪しくないですか?」

「そうですけど……多分、阿求さんなら嫌な顔はしないと思います。……あの阿求さんですから」

 

 暫くして門が開き、侍従と思われる女性が姿を現した。

 薄く金色がかったふわふわの茶髪が特徴的な少女で、眼を見張るのはやはりとても大きなその胸。常人を凌ぐ早苗のよりも大きく、それはもはや服の上からでもちょっと卑猥に感じるくらいで、吹羽は少し唖然とした。

 そんな彼女は始め早苗を見て少し表情を険しくしていたが、隣の吹羽を見るなり少し微笑んで柔らかく導いてくれた。きっと阿求も吹羽が訪れて迷惑とは思わないだろうが、邸内の侍従達も吹羽の来訪を歓迎してくれているらしい。

 あまりここには訪れない吹羽だが、受け入れられているという事実に少しだけ心が暖かくなった。

 

 阿求の家――稗田邸は、名家だけあって巨大だ。庭には紅白斑の鯛が泳ぐ池があり、植えられた木々は専属の庭師によって整えられてすっきりしている。玉砂利が敷かれて静謐とした区画もあり、所々に大小様々な石が埋められたり、苔を植えられたり。早苗曰く、枯山水の庭の様相だという。

 この手のことには疎いはずの吹羽でさえ、これこそが風流なのだと理解させられる美しさに、稗田邸は満ち溢れているのだ。

 そんな庭を感嘆と眺めながら進むと、侍従の女性はある部屋の前で立ち止まって障子の向こうを見る。「阿求様、お連れしました」、と。

 

『どうぞ』

「……では、お入り下さい」

「お邪魔します」

「お、お邪魔しまぁす……」

 

 中から聞こえた声に従って入ると、室内も外と同様に和の優雅さの際立った落ち着いた様相をしていた。敷かれた畳には一つの粗もなく、かけられた掛け軸には達筆で文字――流れ文字で吹羽には読めないが――が描かれており、壁に埋め込まれる形の棚にはいくつもの巻物が整然と積まれている。

 その中心の机に、阿求はちょこんと座って微笑んでいた。

 

「ようこそ、お二人とも。随分と唐突でしたね? 私ちょっとびっくりしました」

「ご、ごめんなさい。急な思い付きで、いてもたってもいられなくなりまして……」

「いえいえ、頼ってくれて嬉しいです。取り敢えず座って下さい」

 

 勧められるまま、侍従の女性に出された座布団に腰を落ち着ける二人。それを見届けると、侍従の女性は阿求に一礼してから何処かへと去って行った。

 なんとなくそれを眺めていると、徐に阿求が「ああ――」と前置いた。

 

「彼女は、何か失礼なことはしませんでしたか?」

「へ?」

「この間侍従として雇ったばかりの子で、夢架(ゆめか)と言います。手際は凄まじく良いので私の世話係として雇っているのですが、あまり愛想の良い子ではなくて」

「え? でもボク――」

「ああっ、私会ってすぐに嫌そうな目をされました……! 私やっぱり迷惑なんでしょうか……」

「え、ちょっと、そんな事ないですから泣かないで下さい早苗さん! 夢架にもあとで言っておきますからっ」

「ぐすん。ありがとうございますぅ……」

 

 年近いであろう少女に冷たい目をされただけで涙を浮かべる早苗に苦笑いを呈しつつ、しかし吹羽は何処か納得がいかずに首を傾げる。

 阿求が無愛想と評した彼女は早苗を見た時こそ眉を顰めたものの、吹羽を見遣ったときには確かに頰を緩めていた。常人を遥かに凌ぐ動体視力を誇る吹羽の鈴結眼が、確かに捉えた事実である。それを思うと、彼女が言うほど無愛想とはどうしても思えない。それとも、吹羽に何か思うところがあったのだろうか――。

 

「それで、今日は何の用で? お茶をしていくならそれでもいいですけど……」

「あ、えっとですね。ボクの家のことを少し調べてみようかなって思いまして。確か元の家にあった本類は阿求さんが保管してくれているんでしたよね?」

「ええ、書斎の一区画に纏めて保存してありますが……今からですか? もう日が暮れますよ?」

「“思い立ったが吉日”という諺がありますっ。大丈夫、真っ暗になるまでには帰るつもりですから!」

 

 吹羽達家族が元々住んでいた家。吹羽が頻繁に壊滅的な威力の頭痛を起こしてしまう為に、一時的に捨てた家。そこにあった本類だけは、現在は阿求が書斎の一区画を使って保管していた。

 本は需要がある。ただの紙ですら幻想郷ではそれなりの価値があり、それが束となっている本類はまごう事無き貴重品だ。さすが名家だけあって本の類もそれなりの数があった風成家だが、家と一緒に本まで捨てるわけにもいかず、阿求が申し出て保管してくれていたのだ。

 歴史を調べるなら、ここより都合の良い場所もない。

 

 そんな会話をしていると、何処かへと消えた夢架がお盆にお茶を乗せて現れた。

 静かに目の前へと置かれるお茶は透き通って黄緑色に光り、立ち上る湯気に連れられた独特の香りが鼻腔をくすぐる。

 霊夢なら瞳を星にして飛び付きそうなそれに少し気後れして手を出せないでいると、阿求は何とでもないようにお茶を啜りながら視線で宙をなぞり、

 

「ふぅむ……元々吹羽さんの物でもありますし、自由に読んでもらって何も問題はないのですが、ちょっと心配なんですよね」

「? 何がです?」

「そりゃ勿論――」

 

 と、お茶を必死にふーふーする早苗を見遣ると、彼女は湯呑みを唇に近づけたままギョッと眼を見開いた。

 

「え、私ですかっ!? そりゃ私はおっちょこちょいでそそっかしくて大人しくしてる方がみんなの為だって思われてるでしょうけどっ」

「そこまで言ってないですよ!?」

「私だって元高校生です! 況して本なんて日常的に触ってたんですから扱いなんてバッチぅあッちちちっ!?」

 

 言いながら胸を張ると、その拍子に手に持ったお茶が僅かに溢れて指に落ちた。突然の強烈な刺激に当然早苗は悲鳴を上げるがどうにか体制を維持し、急いで湯呑みを置いて涙目でお茶のかかった指を口に咥えた。

 

 ジトッとした二人の視線が、早苗に突き刺さる。

 

「……そういうところが心配です」

「…………ですね」

「ふぁあい……おふぉなひぃふひへまふ(おとなしくしてます)……」

 

 そうして、出された高級そうなお茶をろくに分かりもしないのにゆっくりと味わって飲み、吹羽は阿求と早苗を部屋に残して早速書斎へと向かった。夢架は早苗の指の治療をしていた為、阿求が新たに呼んでくれた侍従の後をついていく。現れたその人も、笑顔がよく似合う好々爺であった。

 

「では、ごゆっくり……」

「ありがとうございますっ」

 

 書斎に入ると、強い木と紙の匂いが鼻腔を駆け抜けた。本を置く場所だけに空気は少し乾燥していて、窓から差す茜色の光は絶えず舞う埃をきらきらと照らしている。

 

「本当にいっぱい……こんな量、本当に全部読んじゃったのかな……」

 

 背の高い棚に、所狭しと詰め込まれた本の数々。版木を用いて刷られたのであろう背表紙の無い本を始めとして、比較的新しそうな白い紙の本、触るだけで崩れてしまいそうなほど脆く見える古本、果ては何処から仕入れたのか外界由来と思われる毛々しいデザインの雑誌まで。半端な年月では到底読みきれないであろう量の本が摩天楼のように立ち並んでおり、吹羽も流石に呆気に取られた。

 阿求も年齢としては吹羽と大差はない。それでもきっとここにある本は殆ど網羅しているのだろうから、彼女が博識でしっかりしている理由も自ずと納得がいく気がした。全く、本当に尊敬すべき少女である。

 

「確か、この辺りって言ってたよね……」

 

 そんな本達の背に指をなぞらせつつ奥へと進むと、ようやく目印となる本を見つけた。部屋を出る前に阿求が教えてくれた“目立つ本”で、それが入った棚はぎっしりと古い本達が詰め込まれている。

 僅かに見覚えがあった。……くぐもってろくに見えない鏡の破片の中で、僅かに。

 

「……家にあった、本だ」

 

 質感に覚えのある気がする背表紙を撫で、その拍子に、吹羽は少しだけ心の重くなるような寂しさを覚えた。

 覚えのある本。それは大して難しくもない御伽噺の絵本だった。中身をぱらぱらと流し見ても少しだって思い出せないが、もしかしたら自分は、この本を家族の誰かに読んでもらっていたのかもしれない――そう思うと、まるで闇色の影が這い寄ってくるかのように不安な心地になった。

 

 ――だが、今はそんな時じゃない。

 

 吹羽はぷるぷると頭を振るって不安を斬り裂き、新たに阿求や霊夢やついでに早苗など、近頃よく顔を合わせる人たちの笑顔を思い浮かべた。

 寂しいは寂しいが、そんな時は彼女らに甘えればいい。縋るんじゃなくて、やせ我慢するんじゃなくて、少し話を聞いてもらって最後に手を繋いでくれれば今は大丈夫。

 吹羽はパタンと絵本を閉じて棚に戻すと、一つふんすと気合を入れた。

 

「よし……やるぞっ」

 

 全ての本を読みきることは到底出来ない。吹羽は取り敢えず、近くにある本を取って山のように積み、親切にも備え付けてあった机へと乗せる。ぎしりと音がして、壊れやしないかと少し不安になった。

 

 しばらく読み進めるが、あるのはどれも小説や絵本、古いものでも鍛治の技術に関するものなどで、歴史については一向に出てこない。

 当然と言えば当然だった。風成家は名家と言えども既に廃れた一族。昔からの伝統を細々と受け継いできただけであって、それを除けば一般家庭と何ら変わらない四人家族だ。一般家庭に、その家の歴史を綴った本などある方が珍しいと言えるだろう。

 

 手に取り、徐にページを開く。分厚い本同士に挟まれる形で見つけたその妙に薄い本を吹羽は何の気なしに視界に入れた。

 広がっていたのは――いっぱいの肌色と甘ったるいハート形の描写。

 裸の男女が寝床で体を寄せ合い、撫で合い、舐め合い、終いに啄ばみあって乳繰り合う。吸い付きあった唇の間からはぬめった舌が覗き、頻りに透明な雫が顎を伝い落ちて――、

 

 ――バンッ! と吹羽は勢い良く本を閉じた。

 

 ばくばくとうるさい鼓動と火が出そうなほどに火照った顔を勤めて意識の端へと追いやって、ほれこのざまだ! と。やっぱり歴史の本なんて殆どないやい! と内心で喚き散らす。

 そもそも何故こんな本がここにあるんだ。分厚い本に挟まれてしまわれていたということはつまりそういう事(・・・・・)なのだろうが、まさか阿求のものではあるまい。

 とするとまさか……お父さんか、お兄ちゃん……?

 

「〜〜ッ!!」

 

 まるで猫のようにムキになって、吹羽はその薄い本をびりびりに破いて残骸を放り投げた。散り散りに飛んだ肌色と桃色の残骸が花弁のように儚く舞い散る。吹羽はなんの躊躇いもなく地に落ちたその花弁をむんずと踏み付けて有意義に無視をした。三人が帰ってきたらもちろんお母さんに言い付ける所存である。

 

 ともあれ――そう、普通こんなものだ。

 一般家庭にある本類なんて、小説とか雑誌とか絵本とか、時々えっちな本とかである。家の歴史を綴った本なんて置いてはいないし、そも記しているのかすら怪しいところだ。

 吹羽は一つ溜息を吐いて、とさと椅子に座り込んだ。机の上には開きっぱなしの本ばかりが積んである。読む都度に“この本ではない”と判断して読むのをやめ、それから放置したままの状態だった。

 

「まぁ、そう簡単には見つからないよね…………ん、なにか落ちた……?」

 

 頬杖をついて指先で遊ぶようにページを捲ると、その拍子に何かの落ちる様子が視界の端に映った。

 流石に目聡く見つけた吹羽は、如何にも古くてボロそうなその紙を慎重に摘み上げ、机に広げた。

 

 落ちたのは本ではなく、また千切れたページの一つなどでもなかった。木の根のようにして樹形図が広がり、その分かれ目の度に墨痕鮮やかな流れ文字が描かれている。所々墨が滲んだり擦れたりして読めなくなっているが、少なくとも今までのような小説や絵本や、況してえっちな本とかでは決してない事は確かだった。

 

「うぅん、読めないなぁ……阿求さんの文字より読めないよぉ……」

 

 阿求の文字が下手という訳でなく、単純に吹羽には流れ文字への耐性がないという意味で。筆で文字を書きはするものの、流れ文字なんて読みにくいもの、幻想郷でだって使うのは阿求くらい――阿求も幻想郷縁起を記すときは普通の字体を使う――である。

 ということは、だ。この紙はそれ程までに古いものという事になる。歴史を知る手掛かりに違いなかった。

 

 吹羽はなんとか読み解こうとその翡翠の瞳を凝らして柳のような文字を眺めた。読めないと言っても、幻想郷では外の世界のように全く違う形式の言語が存在する訳ではない。微かにでも読み方が分かれば、うまく流れ文字を読めない吹羽にでもどうにかなるはずだ。

 

 すると、吹羽は一つの違和感に気がついた。

 

「これ……一つだけ違う(・・)……?」

 

 それは樹形図の最先端、最も天辺にある柳の文字達。否――消えてしまった文字達だった。

 他の文字は墨の滲みや長年の摩擦で読めなくなってしまっているが、これだけはどうやら違うようだった。

 掠れて墨ごと消えたのではなく、むしろ上から重ねて塗った故に見えなくなった――人為的に消された跡、のように見える。数ある読めない文字の中で、ただそれだけが。

 

「なんで消されて――」

 

 と、呟いた瞬間だった。

 

 

 

『古くは景行紀、日本武尊が自らに与えた御名――』

 

 

 

「ひッ!?」

 

 突然響いてきた声に、吹羽はがたんと椅子を揺らして驚いた。

 空気自体が震えているかのような、高くて美しく、ブラーが掛かったように響き、空間そのものに満ち溢れるかのようなその声音は、やはり耳を澄ましてもその発生源が特定できない。そも人間の里でこのような現象に出くわすこと自体が異常である。

 吹羽は風紋刀を持ってこなかった事を惜しく思いながら、せめて警戒に勤めて立ち上がる。得体の知れない恐怖は、無理矢理感じないふりをした。

 声は続き、

 

『聖徳太子はその能力を畏れられ、道真はその怒りを恐れられた――神は信仰そのもの。畏怖であろうと憧憬であろうと、信心は人に宿り、故にこそ人が神を生み出す』

 

 声は次第に重なっていき、一つに収束していく。声が完全に“一人の女性の声”となったとき、それは丁度吹羽の背後から聞こえてきていた。

 

「現御神――またの名を現人神。その塗り潰された名は、まさに神が生み出された(・・・・・・・・)という証左そのものですわ。捨てられたからこそ、消されているのです」

 

 振り返った吹羽は、その光景に思わず息を飲んだ。

 現れたのは、金糸の髪をなびかせた絶世の美女だった。瞳は桔梗色に輝き、真白な肌は光を集めたかのように艶があって、そこには欠片のシミだって存在しない。整った目鼻立ちはその無表情と合わせてまるで作り物のようだったが、それがむしろ、茜色の日の光と交わって神秘的ですらある。瞳の色と合わせたような紫色のドレスは柔らかに揺れていて、何処か甘い匂いすら感じる気がした。

 

「あ、あなた、は……?」

「………………」

 

 ほぼ無意識に言葉を紡ぐと、女性はその無表情のままゆっくりと歩み寄ってきた。瞬間、吹羽はハッとして高速で頭を回転させる。

 そうだ、さっきの声の正体が彼女なら、彼女はきっと妖怪だ。普通稗田邸などに妖怪は入ってこないし、況してこんな薄暗い場所にピンポイントで現れたのならば、きっと良からぬことを考えているに違いないのだ。

 吹羽は女性の美貌に呑まれて愚かにも呆けていた自分を内心で悪態吐きながら、必死で辺りを見回した。

 

「(な、何か武器になるもの……! 逃げ道とかでも良いから……!)」

 

 なんて考えている間に、女性は吹羽の目の前まで近付いてきていた。吹羽は今何も持っていない。風紋刀どころか碌な武器もなく、ただ目がいいだけの人間の少女。どんな妖怪にだって抵抗はできない。

 女性は無表情で見下ろしてくる。吹羽は怯えた瞳で彼女の顔を見つめていた。すると不意に、女性は体を屈めて手を伸ばした。遂に何かされるのだと吹羽は咄嗟に目をきゅっと固く瞑って――しかし、いつまで経っても、痛みは襲ってこない。

 

 恐る恐る目を開けば、そこには変わらず美しい女性の姿があった。ただし――その手に何か黒い物体を掴んで。

 

「――セアカゴケグモ」

「……へ?」

「薄暗く乾燥した場所を好む毒蜘蛛です。咬まれれば患部が赤く腫れ、次第に全身へ痛みが広がり、酷い場合には死に至ることもある」

「え、死……っ!?」

 

 まさか、この蜘蛛が足元に這い寄っていたということっ!?

 女性の手の中でわきわきと蠢く赤黒い模様の毒蜘蛛。ごく身近に危険が迫っていたことを理解し、吹羽は柔く握った拳を胸元に当てて顔を青褪めさせた。

 

「気を付ける事です、あらゆる物事に。稗田の書斎にこの蜘蛛がいるとは思っていませんでしたが、考えてみれば潜んでいても不思議でない環境ですわ。どんなことにも例外は付きもの……それは得てして、危険な方向へと導かれるきっかけになり得るものです。まあ、死にたいなら止めませんけれど、やることはやってもらいます」

「は、はあ……」

 

 女性は吐き捨てるようにそう言うと、手の中で炎を噴かせて容赦なく毒蜘蛛を焼き殺し、ぐしゃりと握り潰して無造作に灰を散らした。

 欠けらの情けもかけないその姿はやはり妖怪染みて、しかし吹羽は――じくじくと疼く胸の奥底の感覚に、戸惑いを隠せないでいた。

 

 何故だか懐かしいというか、ほっとするような心地なのに、吹羽(ボク)はこの人が、絶対に好きになれない――と。

 初対面の相手に抱くとは凡そ思えない複雑な気持ちが、確かに吹羽の中に存在しているのだ。

 違和感でしかなかった。まるで自分の中に知らない誰かがいるかのように。その心境が顔に現れていたのか、女性は吹羽の表情を見て僅かに眉を顰めると、吹羽の瞳をジッと覗き込んだ。

 

「……やはり、あなたなのね(・・・・・・)……」

「え……」

 

 それだけ呟くと、吹羽が問い返すよりも早く女性は身を翻してしまった。

 何となくその背中に声をかけるのが憚られて、吹羽は何も言えずにその背を見つめた。

 

「ときに……“探し物”は、見つかりましたか?」

「え……探し、物……?」

「あら、その様子では見つかっていないのですね」

 

 「いや――」と続けて、女性は口元を開いた扇子で覆い隠す。その瞳は、鋭く細められて吹羽の瞳を射抜いた。

 

「単に怖い(・・)だけ……探すことを、何処かで諦めてすらいる。……とんだ愚か者ですわね、あなたは」

「な、何を言ってるんです……? そもそも、あなたは一体誰なんですか……っ!?」

「私はただ一匹の妖怪に過ぎませんわ。ただ個人的な約束で、少しお節介をと思ったのですよ」

 

 のらりくらりと要領の得ないことばかり口走る女性を焦れったく感じて、吹羽は見つめてくるその瞳をジッと強い視線で射抜き返した。

 ただ疑問をぶつけたところで答えなんて帰ってはこない。吹羽はなぜか、何となくそのことを理解していた。

 

「前に進むことを怖れる愚か者。慎重になることも大切だけれど……決して、それだけで生きていけるなんて思わないことですわ。努力は何事にも必要なこと……例え得られないものでも、心構えは出来ますわ。“叩き付けられる”のと“受け止める”のでは、重さも威力も、桁違いですから」

「だから、何を言って――」

「あら、時間ですわね。あなたも人里だからといって夜中に出歩かないように……風成 吹羽」

「っ!? 待ってください! なんでボクの名前――ッ!」

 

 パチン――女性のたおやかな指先による指打ちの音が響いた瞬間、伸ばした手は空を掴み、彼女は忽然と吹羽の前から姿を消した。

 日はだんだんと陰って既に書斎は薄暗い。ついさっきまで妖怪がいたなどとはとても思えないほどに静まり返って、ただ聞こえてくるのは、自分の体内に響く強い鼓動の音だけだった。

 

「……なんで……」

 

 頭の中では先程のやりとりが絶えず反芻されていた。

 要領の得ない言葉。意味の分からない遠回しな表現。しかしそれを問い正したところで答えは得られないと何故か知っている、自分。

 一刻にも満たない時間のやり取りだったと言うのに、吹羽の脳髄には極めて強く彼女のことが刻み込まれていた。

 違和感ばかりである。恐らくは家系図と思われる流れ文字の紙も、女性の言葉の意味も、彼女がここにきた目的も。そして、何より――、

 

「ボク……あの人を、知ってる……?」

 

 誰も答えないその問いの言葉が、寒々しく書斎に響いていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 もやもやとしたものを抱えながらも阿求の部屋に戻り、見つけた紙のことを少し相談してから、吹羽と早苗は名残惜しそうな阿求に見送られながら早々と稗田邸を後にした。

 泊まっていけばいいのに、とある意味予想通りの提案を阿求にされたものの、やんわりと断って、外が真っ暗になる前に帰路につくことが出来たのはやはり彼女の気配りの賜物なのだろう。これが早苗だったらこうはいかない。というかいかなかった。

 

 秋もだんだんと過ぎていき、もう冬が近い。空気はやはり冷たくなってきて、近頃は吐息の白くなる夜も増えてきた。

 そういえば、“終わらない冬の異変”はもう三年も前になるのか、なんて少し無理矢理に思考を繋ぎとめながら、吹羽はとぼとぼと早苗を連れ立って歩いている。でないと、あの女性のことや古い紙のことが気になって身悶えしそうだったのだ。自然と俯き、言葉の数も少なくなってしまったことに彼女自身は気が付いていない。

 

 因みに早苗はといえば、書斎から帰ってくるなり何処か口数の少なくなった気がする吹羽を流石に聡く感じ取り、自分の所為なのかと無駄にそわそわと視線を泳がせていた。感情の機微に聡い少女早苗、才能の無駄遣いとはまさにこのこと。

 

「(……やっぱり、気になる)」

 

 三年前の冬に味わった凍えそうな日々を脳内に展開しながら、しかし疑問を振り払うことはできずに、吹羽はほうと息を吐いた。

 

 見つけた古い紙のことを阿求に尋ねてみたが、結局詳細は分からず終い。突然現れた女性については、邸内に妖怪が現れたと騒がせても返って迷惑と思って言いはしなかった。

 ただ、阿求は紙を見てこうとだけ言っていた。

 

『これは確実に家系図ですね。それも相当に古い……恐らくは数百年以上前のもの。保存環境が良かったんでしょうね、腐食がだいぶ遅れているようです。ただ……これは風成家のものではないようですね。記してある性が違いますから』

 

 なぜ、風成でない家の家系図が吹羽の家に存在したのか。最も祖先に当たるはずの人物の名が消されているのか。女性が言っていた言葉の意味――分からないことだらけ。自分がどれだけ家のことを知らなかったのか、今更ながらに突き付けられて叱責されているような心地だった。

 

「あ、あああの吹羽ちゃんっ? だ、大丈夫ですか? というか何か怒ってます……?」

「……へ? あ、いえ、そんな事ないですけど」

「で、でもなんだか口数少ないですし、私何かしちゃったんじゃないかと……」

「ちょっと、考え事してまして……。というか、なんで早苗さんがびくびくしてるんです?」

「だって……吹羽ちゃんに嫌われたくないですし、側にいるのにお話できないのは、寂しい、ですし……。そういうのって、他人よりも自分に原因があるんじゃないかって、普段から思うようにしてるんです。人を疑うのが苦手なだけなんですけどね……」

 

 他人を疑う前に自分を疑う。早苗のそれは確かに彼女の美徳であり優しいところなのだろうが、それで一々びくびくするのは少し“五月蝿い”というか、少なくとも今の吹羽には少し煩わしかった。

 思わず少しだけ眉を顰めると、早苗は目敏くそれを見つけてあわあわとして、

 

「ああの、何か困ってるなら遠慮なく言ってくださいね! 私、吹羽ちゃんのためならどんな事だってお手伝いしますからねっ!!」

「え、ちょ――」

「そ、それじゃお家も近いですし私はこれでっ! また今度ですぅ〜!」

「…………行っちゃった」

 

 慌てて薄暗い空に飛び立った早苗の背を見上げて、吹羽は呆然と呟く。

 少し強引な別れ方だっただけに、これをきっかけに疎遠になりやしないかと少し心配になる――が、こんな事でへこたれる彼女ならば、自分はあの夜、きっと早苗に心を許しはしなかっただろうなと思い直してほっと息を吐く。

 そんな心配は無用だろう、と断定し、吹羽は視線を元に戻して歩みを再開した。早苗の言った通り、我が家へはもうすぐそこだった。

 

「まあ、今考え込んでも仕方ないかな……」

 

 分からないことだらけではあるものの、それらは決して今答えを出さなければならないことではない。瑣末なことを深く考え込んでも時間の無駄である。

 吹羽はぽつりと呟いて、いつのまにか辿り着いていた我が家の扉の前に立った。

 

 鍵を取り出し、鍵穴に差し込み、くるりと一捻り。カチャリと音がする――筈がしかし、いくら回してもスカスカと手応えがない。

 

 ――これは、まさか。

 

 吹羽はこくりと一つ唾を飲み込み、既に鍵の開けられていた扉を、音を立てぬようゆっくりと開けて中に入った。

 

「(……物が荒らされた感じはしない)」

 

 いつも通りに置かれた花瓶を横目で見て、恐る恐ると足を踏み入れる。居間の方が明るく、明らかに人の気配があった。

 ――一つ、意を決して手頃な棒を手にする。そして昔霊夢に教えられた掛け声(・・・・・・・・・・・)を頭の中で反芻し、大きく息を吸い込んだ。

 一歩、踏み出して、

 

「ど、泥棒ーっ! ウチのもの(お賽銭)盗んだこと後悔してくたばりやがれですぅぅうッ!!」

「うおわあっ!? なななんだあ!?」

 

 戸の桟に躓くなんてお決まりを踏まずに無事やり過ごし、吹羽は普段使いもしない言葉を羅列しながら大上段から棒を振り下ろした。

 剣術の基礎があり、日々金槌を振り下ろすという動作を繰り返し行ってきた吹羽のその一撃は、真剣ならば岩すら断てると思えるほど美しい姿勢で完璧なる斬り下ろしを実現させた。

 空を切る音。ひょう、とおよそ木の棒が生み出せるとは思えない鋭利なその音は――しかし、バッチーンッ! という炸裂音にも似た爆音に掻き消された。

 

「ぐぎぎぎ……あ、あぶねェ……っ! 失敗してたら痛いじゃすまなかったぜ……!?」

「むううう……う? あれ、魔理沙さん……?」

 

 聞き覚えのある声を受けてゆっくりと視線を上げると、そこには棒を震える両手の平で受け止めて冷や汗を垂らす少女――霧雨 魔理沙の姿があった。

 魔理沙は吹羽の言葉に苦く笑うと、

 

「おうよ、みんな大好き魔理沙ちゃんだぜ……。少し見ない間に、辻斬りにでもなったのか吹羽……?」

「あっ、いえその……ど、泥棒が入ったのかと思ってつい……」

「うっ……そ、それより、わたしはいつまでこの棒を受け止めてなきゃいけないんだ……?」

「! ご、ごめんなさいっ」

 

 魔理沙の苦言で弾かれたように棒を退けると、吹羽は急いでそれを片付けて魔理沙の対面に座った。

 あらぬ疑いをかけた上に殴りかかり、吹羽としては申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだが、当の魔理沙も何故かばつが悪そうに後頭部を掻いている。

 それを問おうとするより早く、魔理沙は切り返すように、吹羽にある話を持ちかけるのだった。

 

 

 

 ――というかこの人、どうやって家に入ったのだろう……? 魔法使い、恐るべし。

 

 

 




 今話のことわざ
(おも)()ったが吉日(きちじつ)
 何かをしようと決意したら、そう思った日を吉日としてすぐに取りかかるのが良いということ。


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第二十八話 垂れ墨音無し

 新年あけましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします!(と書いてる時点ではクリスマス) まぁこの章が投稿し終わったらまた半年ほどさよならなんですけどね……


 

 

 

「妖怪退治……ですか?」

「ああ。偶には外出て思いっきり体動かそうぜ!」

「ボク、家に篭ってるわけじゃないんですけど……」

「細けぇことは気にすんな! 寝る子が育つなら遊ぶ子も育つんだぜ!」

「えぇ……? そうなんですか……?」

 

 魔理沙の釈然としない説得に、吹羽は訝しげな視線で言葉を返す。ジトッとした目で見る吹羽に対して、魔理沙は何故か得意気にサムズアップしていた。

 

 彼女の提案とは要するに、妖怪退治のお誘いだった。

 曰く、近頃幻想郷への不平不満を謳って暴れ回る妖怪の組がおり、それがあまり目に余るようになってきたのでそろそろ退治しようということに。しかし相手は三人組で、一人で相手をするのは少々面倒――決して一人で退治できないわけではないと妙に念を押された――なので、一応弾幕ごっこができる吹羽に白羽の矢が立ったというのだ。まぁ弾幕ごっこで済むのかどうかは甚だ疑問ではあるものの、この世界の決闘方式が弾幕勝負なのは変わりない。それができるのかどうかは確かに重要なファクターだろう。

 だがやはり、もう少し適役はいるだろうに、なんて思わずにはいられない吹羽である。

 

「ボクじゃなくて霊夢さんに頼んだらいいんじゃないですか?」

「なんやかんやあってあいつとは別々に動くことになった!」

「一体何があったんですかぁ……」

 

 ――とはいえ、せっかくの魔理沙の頼みである。彼女は吹羽の数少ない友人だ、当然聞いてあげたいとは思うし、自分の都合で断ってしまうのはやっぱり気が引ける。

 例え多少強引で怪し気でなんとなく何事かを企んでいそうな雰囲気が見て取れたとしても! そこは大切な友人の頼みとして! 折れてやるのが情けであろう――吹羽はそうして過大に解釈することで、承諾を渋る自分をどうにか叩き伏せるのだった。

 

「はぁ……分かりました。役に立てるかは分かりませんけど、魔理沙さんの為になるならお手伝いします……」

「おーさすが吹羽! 実にちょろ物分かりがいいなうんっ!」

「何か言いかけませんでした……?」

「気の所為だぜ! じゃあ早速明日から開始するってことで、おやすみぃ!」

「あッ、誤魔化さないでください魔理沙さん! 今実にちょろいって言おうとしましたよね!? そうですよねっ!?」

 

 吹羽の怒声に脇目も振らず、魔理沙は颯爽と部屋を出ては空へと去っていってしまう。

 なんだか煮え切らない気持ちで取り残され、吹羽は魔理沙の背を見上げながら低く唸ることしかできなかった。チョロいだなんてまさに遺憾の意だ。

 

 ともあれ、翌日迎えにきた魔理沙に連れられ、吹羽はこうして妖怪退治に踏み出すことになる――ここまでが、事のあらましである。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 薄暗い林の中は妙なほどに静まり返っていた。薄雲の下でさえぴよぴよと囀る小鳥たちはぱったりと声を潜め、小さな虫の一匹すら見当たらない。木の幹に触れてつつと手を滑らせれば、ひんやりとした感触に木々すらも怯えているように思えた。

 

 手には大幣を握りしめ、霊夢はそんな林の中をゆっくりと歩いていた。雲はかかっているものの日は十分に高く、故に時間には余裕がある。急いでも何も良いことはないと頭の中で無意識に反芻しながら、鋭く周囲に視線を配る。

 

「……この辺りだったはずだけれど」

 

 ぽつり呟き、立ち止まって感覚を研ぎ澄ます。全身の神経という神経に意識を張り巡らせ、己という“個”を空間に広げ満たすような感覚であらゆる情報を感じ取る。

 そして――ぬるりとした風が頰を掠めた。

 

「あっちか」

 

 周囲に配っていた視線を一方向に集め、少し小走り気味に凛とした足取りで林を掻き分け進む。だんだんと奥へ進んでいる所為か少しずつ日が通らなくなり、視界が暗くなっていった。

 そうして分け入り辿り着いたのは、少し開けた林の広場。

 ――否、木々が薙ぎ倒されて無理矢理に開かれた、林中の戦闘跡(・・・)だった。

 

「……中々、無惨なものね」

 

 へし折られた木々が、ではない。むしろその幹や葉々、根本、果ては地面にまで飛び散った――赤黒い血糊。そしてその中に浮かぶように横たわった、妖怪らしきモノ。

 そこには、惨たらしく殺された妖怪の死体があった。

 

 霊夢がここを訪れたのは、調査の最中に戦闘音が聞こえたからである。

 妖怪同士の決闘など珍しくもなんともないが、此度の件に限っては無視できるものでもない。警戒に警戒を重ねて進んだ結果、辿り着いたのがこの惨状である。

 

 飛び散った血は振り払われたかのようにぴしゃりと付着しており、実際に死体には複数の切り傷がある。相当深くまで切り込まれており、恐らくはなんの抵抗もできぬまま殺されたのだろう。

 そして何より――頭から被ったように付着した血の下。皮膚にあたる部分が、異常な程に削られてい(・・・・・)()

 

「(……まるで鑢にでもかけたみたいね。柔い肌を削ったりすれば、そりゃ血もたくさん出るわ)」

 

 鉄と生臭さの入り混じった激臭と目に痛いほどの赤黒い光景に深く眉を顰めながら、霊夢はその惨状から的確に情報を読み取っていった。

 生き絶えたのは少し前、本当についさっき。爪か何かで深く切り刻まれたのか妖力の残滓もなく、犯人の追跡は不可能だ。念のため周囲を探るも、それらしい物音も人影も見当たらない。

 

 ――相当不満があるらしい、と霊夢は無意識的に溜め息を吐いた。

 以前魔理沙とも話したように、妖怪が幻想郷に対して不満を持って暴れる例は先にいくらでもある。しかし今回、周囲の妖怪すら無惨に虐め殺すほどともなると、今までに類を見ないほど幻想郷に不満を募らせている可能性が高い。それもそれなりに強い妖怪が、である。

 ――霊夢としては、溜め息を吐かずにはいられなかった。

 

「とはいえ、放っておく訳にはいかないしねぇ。他の妖怪に潰されてくれるなら楽だったんだけど、これじゃ低く見積もっても中妖怪レベルよね……」

 

 ああもう面倒臭い、と喉元まで出かかった愚痴を噛み殺し、霊夢は一つ鬱憤を吐き出すように深呼吸をした。なんで巫女ってこんなに面倒なんだろう、なんて割と真剣に考えながら、一先ずは人避けの結界だけを周囲に張る。この死体が他の妖怪たちに喰われてなくなるまでの予防線である。

 最後に周囲を見回して何も得られる情報がないことを確認すると、霊夢は死体を一瞥してからその場を後にした。

 

「(――ともあれ、方針は立ったわね)」

 

 第一に、犯人の一団は暗殺を目的としているわけではない。音が立っても気にせず戦闘を続けるつもりでいるのだろう。

 第二に、恐らくは固まって動いている。各々が同じ思想を持って、そして賛同しないものを痛めつけて回っているのだ。その証拠に、複数の場所で同時に事件は起こっていない。

 ただ問題なのは、霊夢が思っていたよりも逃げ足が速いらしい、ということ。

 

 ならば、である。

 

「次の戦闘があるまで待って、始まり次第諸共退治する――!」

 

 博麗の巫女として、平和を乱す者には等しく罰を――そんな意思の伺える冷たい瞳で、霊夢は再び空へと舞った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 さて、そんな訳で事件解決へと踏み出す吹羽だったが、所詮は鍛冶屋の娘である。特別頭が切れる訳でもないし、況して探偵の類の真似事なんて小説を読んで空想したときくらいしか経験がない。なんと言っても相方は魔理沙である。これが阿求や霊夢ならまだ良かったろうが、彼女は客観的に大雑把な性格で、推理や予測なんて高尚なものは「は? なにそれおいしいの?」だ。これで効率的な捜索なんてできるわけもなく――、

 

「魔理沙さーん。こんなので本当に見つかるんですかぁ?」

「見つけるのさ。じゃなきゃこんなとこまで上がってきた意味がない」

「うぅ〜……」

 

 眼下に広がる景色に、吹羽は感嘆とも恐怖ともはたまた納得のいっていないような唸り声を上げる。

 最早ふさふさの芝生にすら見える森や竃の炎にしか見えない紅葉の山を見て、思わずきゅっと魔理沙の背を抱き締めた。

 

「なんだ怖いのか? まぁ里で暮らしてりゃこんな空の高いところ(・・・・・・・)まで来るこたァないだろうけどな」

「あ、当たり前ですっ。落ちたら間違いなくし、死んじゃうじゃないですかっ!」

「そんなヘマするわけないだろこのわたしが! 伊達に何年も箒に乗ってないからな!」

 

 ボクが落ちるかもって話だよ! と喉元まで出かかった怒号を呑み込み、吹羽は大人しく眼下に広がる世界を見つめるべく視線を落とした。

 

 そう、結局魔理沙の言う犯人を見つける方法とは、“めちゃくちゃ高いところから見下ろして怪しいやつを片っ端から当たっていく”というなんとも頭の悪い捜索方法だったのだ。

 ろくに説明もないまま箒に乗せられ、どこまで上がるのかと思えば人が米粒に見えるほどの空の上。挙句「こっから怪しいやつ見つけるぞ!」なんて言われれば、流石の吹羽も呆れて閉口せざるを得ない。文句を言ってもどうせおろしてくれないのは分かりきっているので、仕方なく従っているのである。

 

「“骨折り損の草臥れ儲け”という諺があります……。これ、すっごく無駄だと思うんですけど……」

「ああ? なんか言ったか吹羽?」

「なな、なんでもないですッ!」

 

 というかコレ――大丈夫だろうか? 

 吹羽は魔理沙の言葉に当たり障りなく返しながら、頭の隅ではずっとそう考えていた。

 何がって、魔理沙の場合、チラと見えたスカートの中はドロワーズだったので問題ないのだろうが、吹羽はというとスカートの下は普通に下着――つまり、ぱんつ。

 まごうこと無き、穢れを知らない乙女のぱんつなのである。

 

「(これ、大丈夫だよね? この高さなら流石に見えたりしないよね……?)」

 

 吹羽は現在細い箒の上。手を離せばバランスを崩して本当に落ちかねない為、スカートの裾を持って隠すこともできない。顔を赤くして羞恥に耐えながら、吹羽は必死に時間が過ぎることを乞い願っていた。なるべく別のこと――魔理沙の言う怪しいやつを探す作業を必死にこなしながら。

 

「変なやついそうか?」

「と、特には見つかってないですっ」

「そうかあ。じゃあ取り敢えず昼過ぎくらいまで続けるか」

「ふぇっ!? 昼過ぎ!?」

「お? なんだ、なんかあんのか?」

「い、いえ……別に……っ」

 

 ちくしょう、いつか仕返しするっ! らしくもなく密かに魔理沙への復讐を誓う吹羽は、込み上げてくる涙をぐっと堪えて作業に戻るのだった。

 ――因みに、昼まではまだ一時間以上は残っている。こんな調子じゃ耐えられる気がしないんですけど。

 

 と、しかし――僥倖かな。

 古今東西、どんな世界でも不運不幸な幼子には神の恵みというべきものが降ってくるものだ。吹羽が泣く泣く眼下を見つめていると、それ(・・)は不意に視界に入った。

 

「(あ……守矢神社だ)」

 

 暖色の衣に包まれた妖怪の山の天辺。そこにのっそりと構える守矢神社は、上空からではよく目立って見えた。場所が場所だけに参拝客の姿はなかったが、やはり博麗神社と比べるといくらか清潔で新しく見える。霊夢と違って、早苗はしっかりと神社そのものの世話をしているらしい。

 

 ――そうだ、困った時は神頼みだ! と。

 

 吹羽は羞恥に急かされる心のままに声を上げた。

 

「ま、魔理沙さんっ! 守矢神社にいきましょ! ほら、あそこですっ」

「うん? 守矢神社ってーと……ああ、最近きたっていう霊夢の商売敵か。なんでだ? 別に必要性を感じないんだが」

「え!? えーっとその……ほ、ほら! 神様に直接会って話せるんですよ!? 何かいい助言をくれるかも知れませんし!? ボク顔見知りなのでっ!」

「ほー、ふむふむなるほど…………悪くないかもな」

 

 このまま飛び続けるのは恥ずかしくて耐えられない、なんて本音は心のうちに固くしまって、吹羽は口の中でよし! と呟いた。もちろん叫びたいのは山々だが、その代償として魔理沙の生温かい視線を買うことになるだろうから、そこはぐっと堪えて。

 いくら大人っぽく見られたいとは言っても、平気で下着を晒せるようなイケナイ大人にはなりたくない。そうなったらもう……いろいろと、ダメになる気がする。

 

「よし、んじゃ行ってみるか」

「はいっ。早く行きましょう! さあさあほらっ」

「……なんでそんなに必死なんだ……」

 

 箒を下に傾けて、妖怪の山の天辺を目指して加速する。やっぱり吹羽の顔はまだ赤かったが、目的地が迫る様を見るとほっと息を吐いた。かくして二人の犯人捜索はセカンドステップへと進み――吹羽の真白な純潔も、守られたのである。

 

 

 

 階段近くに降り立ち、鳥居をくぐって神社に入ると、吹羽は改めてその荘厳さに吐息を漏らした。

 上からではのっぺりとした印象を受ける境内も、前から眺めればただただ圧倒的であり、神秘的な空気が満ちている。すぐ上に揺蕩う蒼天の空もその一因だろうか。雄大な大空を背負って威風堂々に構えるその様相は、いっそ後光を放つ一柱の神そのものにすら思えた。

 前回来た時は外観を眺める余裕が――主に早苗の所為で――なかったのだが、こうして落ち着いて眺めてみればなんと悠然とした佇まいだろうか。流石に現役の神が二柱もおわすだけはある、と敬虔な神の信徒である吹羽はすっと背筋を伸ばす。

 

「ほぇ〜、ここが新しい神社か。前はここまで来なかったからな、入るのは初めてだぜ。んじゃ早速……」

「魔理沙さん、あんまりものをいじっちゃダメですよ――って言ってるそばからですかっ! 狛犬もいじっちゃダメですぅ!」

「おっと失礼」

 

 何やら筆を持って狛犬にいたずらしようとしていた魔理沙を吹羽は咄嗟に止め、その常識の無さに溜め息を吐いた。

 彼女、実はここへ降りる時も庭にそのまま降りようとして吹羽に止められたのである。神社は既に神の領域であって、鳥居を門としてこちらの領域と繋がっていると考えられている。神社を訪れる時はしっかりと鳥居をくぐらなければならないというのはマナーの一つなのだ。同じように、狛犬は神社の守護者であり、いたずらするなんて以ての外。罰当たりなことなのである。

 ――因みに、魔理沙は博麗神社を訪れる時は殆ど鳥居などくぐらずそのまま着地する、なんてことを吹羽は知る由もない。

 

「おーおー、なにやら騒がしいのがきたようだねー」

 

 今にも他のいたずらを始めそうな魔理沙を促し、境内に体を向けた瞬間、その声は唐突に聞こえてきた。しかし見回しても姿は見えない。僅かに首を傾げるも、「ここだよー」という気の抜けた声に従って見上げると、声の主――洩矢 諏訪子が屋根の上で足をぷらぷらさせながら小脇で手を振っていた。

 

「諏訪子さんっ!」

「やあやあ吹羽、此間ぶりだねえ」

 

 諏訪子はぴょんと軽く飛び降りて音もなく着地すると、にへらとした微笑みを吹羽に向けた。

 吹羽が駆け寄ると、

 

「何の用かな。参拝なら、手水舎はあっちだよ」

「あっ、そうでした……まずはお清めをしないとですよね。ごめんなさい、すぐに――」

「あーいいよいいよ、じょーだんだよじょーだん真面目すぎだよ吹羽。他宗教の信徒に無宗教者、そんな子たちに参拝してもらっても得るものないし、ね?」

 

 そう言いながら諏訪子が視線を彷徨わせた先には、不思議そうに片眉をあげる魔理沙と先程いたずらされそうになった守護者の姿が。

 諏訪子が何を訴えているのかを瞬時に察した吹羽は、急激に申し訳なくなって思わず頭を下げようとするが、その拍子に見えた諏訪子の笑顔がいかにも「ほんと真面目なんだからぁ〜」的な悪戯っ気に満ちていたので、つい言葉を詰まらせてしまった。

 全く、彼女は神様なのに飄々としすぎだと思う。それとも神様ってみんなこんな感じにマイペース?

 

 一人悶々とした心うちに苦い顔をしていると、魔理沙が背後からやってきて、

 

「よお、此間ぶりだな諏訪子。相変わらずちみっこい」

「ちょ、魔理沙さん!? それは幾ら何でも失礼――」

「っ、……ほほーう? 随分と肝が据わってるねぇ魔理沙。お前こそ相変わらず我が強い。その歯に衣着せない物言い、そのうちバチが当たるよ」

 

 さすがは泥棒兼魔法使い兼異変解決者、霧雨 魔理沙。いつだって強気で明るくて、思ったことを思ったままに発言するトラブルメイカー――だが早苗ほどではない――だ。

 どんな世界でも発育のよろしくない存在が等しく抱いているであろう悩みをド直球でぶち抜き、諏訪子が微笑みをいい笑顔(・・・・)に塗り替えるのを見て吹羽はさぁっと顔を蒼褪めさせる。

 というより、二人はいつの間に知り合ったのか。会話を聞くに幾らか話したことがあるようだったが。

 

「いやあ、別に喧嘩を売ってるつもりはないんだがな。これが性分なんだよ」

「神を正面から罵れる、って?」

「そんなつもりじゃないが、気にし過ぎだろ? 事実は事実だし」

「口は災いの元って言うよ。例え相手がわたしじゃなくても言葉には気を付けた方がいいと思うなあ」

「その時はその時さ。話し合いなり喧嘩なりすればいい。知らないのか? この世界じゃ神も人間も対等なんだぜ」

 

 それは弾幕勝負での話ですっ! と突っ込もうとした吹羽だが、なんとなくそうしたが先の展開が見え透いてしまって再度言葉を詰まらせた。すなわち――ほぼ常に「おうそういうことだ! つーわけで弾幕勝負といこうぜ!」な魔理沙が意気揚々とスペルカードを構える未来が。

 冗談じゃない。こんな神聖な場所で魔理沙のバ火力な弾幕など撃ってみろ、きっと境内は以前吹羽が必死こいて惨状を防いだことを嘲笑うかのように木っ端微塵となるのだろう。そんな事されたら流石に吹羽は砂になってしまうし、諏訪子はブチ切れて幻想郷の大地をひっくり返すかもしれない。

 

「…………」

「…………」

「あわわ……あ、あのぅ、お二人とも……えっとぉ……」

 

 これこそ近代の幻想郷の縮図である。特に腕に自信のある者は基本的に容赦がなく、揉め事は弾幕勝負で白黒つけるという、ある種強者の思い通りになるルール(・・・・・・・・・・・・・)に則って常に喧嘩腰の者すら存在する。魔理沙のように、我の強い人間ならいざ知らずである。

 

 無言で見つめ合う魔法使いと神。二人の間であわあわおろおろとする吹羽の姿がなければ、或いはその異様な空気に天狗たちが介入しにきたかもしれない。実際、実は何匹かは既に訪れていて、二人の間で涙目になる吹羽を見つけては「ああ、あの子がいるなら大丈夫だろう」と謎の安心感を得てさっさと任務に戻っていっているのだ。

 吹羽がそれを知ったらぷんすかと怒るに違いない。ここまで来ておいてなんで助けてくれないの! と。

 

 しかし、そんな険悪な空気は突如破られることになる。

 それは吹羽でも魔理沙でも況して天狗でもなく――意外なことに、諏訪子の吹き出すような忍笑いによってだった。

 

「す、諏訪子さん……?」

「ぷふっ、くすくす……いやいや、なんでもないよ。ただ、愉快だなあって思っただけさ」

「んあ? どういう意味だそりゃ?」

「こんな(なり)でも神様なものでね。わたしとこんな口喧嘩できる相手が人間だなんて、ってちょっと可笑しかったんだ。売り言葉に買い言葉、ついつい遊んじゃったよ。ごめんね?」

「………………」

 

 そう言って軽く舌を出してウィンクする諏訪子には、先程垣間見たような怒りの色は少しだってなくて、彼女が本当に状況を楽しんでいただけなのだと吹羽は容易に悟った。

 安堵の溜め息が漏れる。異変解決者と現役の神様……そんな二人が実力行使に出たとして吹羽には止められる気がしなかったのである。諏訪子もそれを分かってくれていた……の、だと思いたい。

 

「さ、じゃあとりあえず中へどうぞ? 神様とお話をするのは、いつだって神社の中だからね」

「はいっ! ほら行きますよ魔理沙さん!」

「んおっ、おおう。……なんかわたし、弄ばれた……のか?」

 

 恐らく素であんなことを言っていたのであろう魔理沙はちょっと複雑な顔で片眉を傾けているが、吹羽は構わず彼女の手を引いて神社へと入る。

 どこかから聞こえる「ちょ、いたいいたい手首いたいって!?」という戯言に、吹羽は有意義に無視を決め込んだ。

 

 通されたのは以前神奈子らとお話をした居間の一室だった。住居なのでこういった部屋があるのは当然なのだが、今思うと神社に設置するには少し似つかわしくないというか、似合わない室内である。おじいちゃんおばあちゃんが娘家族に家を明け渡して隠居するための離れの家のような……良く言えば落ち着いた雰囲気だが、悪く言えば神聖な空気が台無しである。

 

「ごめんねぇ、早苗は布教活動に出かけたばっかりで今いないんだよ。神奈子もなにやら別のことしてるみたいだし。わたししか相手してやれないんだ」

「あ、いえ、お気になさらず。諏訪子さんにお話を聞けるだけでも十分ですので」

「もともと神様に話聞くつもりだったしな」

「ふむ……話、ね。まぁとりあえずてきとーに座って」

「はい」

 

 余談だが、人里へ布教活動に向かった早苗はついでに吹羽に会いに行けると意気揚々としていたりする。しかし行ってみたら店も開いておらず吹羽も当然家にいなかったので、道で四つん這いになって人生に(・・・)絶望し、それを哀れんだ近所のおじさんおばさんに「よしよしきっといいこともあるよ」と慰められたりしている。吹羽の言動一つで自殺もできるし奇跡も起こせる。それが東風谷 早苗という少女であった。

 

 諏訪子に促され、卓袱台の前に並んで座る吹羽と魔理沙。諏訪子はだぼだぼな両袖に両手を突っ込んで、腕を組むような姿勢で対面に座った。

 大まかに経緯を伝えると、諏訪子は心当たりがある風に頷いて瞑目した。

 

「なるほどね……たしかに最近は天狗連中もぴりぴりしてるから少し気になってはいたんだ。幻想郷に不満、かぁ……どこの世界でも意思の統一ってのは一筋縄じゃ行かないんだねぇ。妖怪の賢者も大変だ」

「神様ってことは、あんたも外の世界じゃ崇められてたわけだろ? 意思の統一……というか、やっぱ宗教間での衝突とかあったのか?」

「……そうだね。わたしが治めてたのは大昔だけど、その頃から争いは絶えなくてねぇ……うちの宗教で統一ぅとか考えてたこともあるけど、神奈子に負けて夢潰え、流れ流れてこの通りさ」

「……ほとんどの人が龍神様を信仰している幻想郷では、あんまり考えられないですね」

「風神信仰してるやつが何言ってるんだよ」

「うぐっ」

「狛犬に悪戯書きしようとするような無宗教家が何を揶揄してるんだい」

「うぐぐっ」

 

 やれやれと特に悲観した様子もなく戯ける諏訪子。一度は“意思の統一”という大義を目指したことのある身として、その様子はいっそ感慨深そうですらあった。“神奈子に負けた”という部分が少し気になったものの、苦い記憶のようだし、わざわざ掘り下げるような話題でもない。吹羽はそれらを軽くスルーして、早速本題へと移った。

 

「それで、何かいい案とかありませんか? ボクたちだけじゃどうにも上手くいかないんです」

「うん? 別にさっきまでので問題はなかったとおも――」

「ぜひっ、ぜひ諏訪子さんに助けて欲しいと思いましてっ! ね? ね?」

「…………おう」

「……まあいいけど、大した案はでないと思うよ? 今聞くまでわたしは知らぬ存ぜぬだったんだから。そこら辺のことは天狗に任せてたからね」

 

 魔理沙の余計な一言をぶった斬って頼み込むと、諏訪子は仕方なさげに眉を傾けてそう言った。

 

 既に周知の事実だが、守谷神社は妖怪の山の天辺に鎮座している。ここを襲おうとするなら当然妖怪の山に侵入する必要があり、それはつまりぴりぴりと張り詰めた雰囲気で厳重警戒態勢を敷いている天狗達を突破しなければならないということだ。

 並みの妖怪では当然不可能であろうし、何よりその警戒任務には萃香との一戦以来めっきり強くなった気概を窺わせる椛も就いている。現実として突破はほぼ不可能だ。

 ならば、普段神社から出たりしない諏訪子らからすれば、此度の件はたしかに蚊帳の外のお話だったはずである。彼女がそんなスタンスだったことも納得のいく話だ。だって考える必要がないんだから。

 

 だが、そんなことは初めから承知している吹羽である。そも神というのは祈りや願いによって人に手を差し伸べてくれるものであるからして、助言を乞えば応えてくれるだろうとほぼほぼ確信していた。実際諏訪子は渋々ながらも頭を捻ってくれている。

 ――そうしてしばらく経ち、諏訪子は「う〜ん」と唸りながら口を開くと、

 

 

 

「ごめんやっぱわかんないやっ」

 

 

 

 にへら、と笑っての見事な平謝りをかましてきた。ごちんっ、と隣で魔理沙が額を机にぶつけた。

 

「お、おいおい、今の流れは最高にいい案を出すところだろ。ネタになんて走らなくていいからさっさとしてくれ?」

「ネタだなんて失礼な。真剣に考えて出た結果なんだから受け止めなよ。ほら心を広く広くぅっ」

「開き直られても困るんだが……」

 

 相変わらずのにへら顔であしらってくる諏訪子に、魔理沙は複雑そうに苦笑いをしている。それにつられて吹羽も口の端ぴくぴく。たしかに、開き直られても困ってしまう。

 

「だから言ったでしょ、いい案なんて出ないって。そもそも忘れてないかい? わたしは神様だけど探偵じゃないし、況して全知全能でもない。全くの専門外さ。それで落胆されてもわたし困っちゃうよ」

 

 要は平社員が突然別の部署の部長職を任されたようなものだ、と。

 “やってみる”ことはできても結果なんか出るわけがない、と。

 言われてみればそうだ。神様は神様でも全能ではない。全ての神が全能なら、八百万の神々なんて言葉は生まれないはずなのだ。だってそんなの、全知全能の神が一柱いれば事足りるのだから。

 今更ながら諏訪子に対して申し訳ない気持ちが湧き上がらせる吹羽。勝手に専門外なことを期待して勝手に落胆しているのだから当然である。魔理沙は普通にがっかりしているが、責めるつもりにはなれなかった。だってそういう人だし。

 

 しかし、諏訪子の方はそれで終わらせるつもりは毛頭ないようで――。

 

「うーん、犯人探しねぇ……別にいい案じゃあないけど、方法がないこともない」

「ほ、ほんとですかっ!?」

「わわ、近い近いっ」

 

 諦めかけていた折の言葉に、吹羽は瞳をキラキラさせて諏訪子に詰め寄った。

 諏訪子は少し仰け反って引き気味に笑うと、吹羽の額に人差し指を添えて押し戻した。それでも変わらず希望の眼差しを向けてくる吹羽に、諏訪子は「今言ったけど……」と前置いて、

 

「これは全然いい案じゃあないよ。いや、ある意味最悪かも」

「なんだよ歯切れが悪いな。勿体ぶらずに言ってくれよ」

「お、お願いしますっ」

「……しょうがないなあ。後悔しないでよ?」

 

 困ったように一つ微笑みをこぼして、諏訪子は小さく息を吸い込み、言った。

 

「簡単なことだよ。見つからないなら――出てきて貰えばいいのさ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――曰く、“いつまでも続く不幸はなく、じっと我慢するか勇気を持って追い払うかである”と。

 

 筆を操り墨を走らせながらふと用いた“風”という文字に、己が親友のことが脳裏を過ぎる。次いで思い浮かんだ言葉はなるほど、すんなりと納得出来るほどに彼女のことを言い表していると、阿求はぼんやり思った。

 

 開け放たれた障子からは庭が一望でき、敷き詰められた砂利は太陽の光を反射してキラキラと光っている。流れてくるよそ風は程よく頭を冷やしてくれて、仕事をするには絶好の日和である。

 阿求はこの“幻想郷縁起”の連なる文章の最後の文字を完璧に描き切ると、筆を置いて一つ息を吐いた。

 

「いつまでも続く不幸はない、か……」

 

 それは明らかに絶望した者を救うため言葉で、ともすれば綺麗事にしか聞こえないかもしれない。本当に絶望を理解している人は、そんな他人行儀(・・・・)な言葉を簡単に受け入れたりしないのだから。結局は同情でしかないんだろ、と。

 しかし阿求は思う。そう考えてしまう人はきっと、救われることを諦めているのではないか、と。

 

 ――“じっと我慢するか、勇気を持って追い払うかである”。

 

 絶望とは、その須らくが待つだけで過ぎ去りはしない。じっと我慢するとは、絶望から抜け出す隙を伺うということだ。決して諦めずに、救われることを絶えず望み抜くということだ。

 勇気を持って追い払うというのはもっと分かりやすい。言葉通りの意味である。絶望に立ち向かい、自分が救われるために立ち上がる。それは諦観とは無縁の行動だろう。

 

 ――まさしく、吹羽のようだ、と。

 

「ふふ……昨日の吹羽さんは、なにやら吹っ切れた顔をしてましたね」

 

 家の歴史を知ろう――自分のことを知ろうと夕暮れ近くに訪ねてきた吹羽を思う。

 ここ最近は忙しくて会えない日が続いていたのだが、久方ぶりに見た彼女は心からの笑顔を浮かべていた。

 そう――心から。何処か空虚だった、つい数日前までの笑顔とは違って。

 

 阿求は聡明な少女である。その小さく儚い容貌とは打って変わり、その記憶は何代も前の先祖から受け継いできたものである。豊富な経験、人の営み、あらゆる人のあらゆる表情。そういったものを熟知している彼女が、凄絶な経験をしたとはいえたった数年しか生きていない少女の空虚な笑顔を、見抜けない道理はなかったのだ。

 

 何処かで自分に引け目を感じているのは知っていた。あるいは不安がらせないように気を使っているのだと考えていた。だからこそ阿求は、風成利器店へ頻繁に顔を出しては彼女の気をほぐそうとしていたのだ。遠慮なんて、親友たる自分に対してはしてほしくなかったから。

 

 だが――そういった小さな悩みも、昨日の吹羽の笑顔の前にすっかりと消え失せてしまった。

 

「(ここ数日の間に、なにがあったんでしょう……?)」

 

 きっと何かきっかけがあったはずだ。あの吹羽が、夕暮れ時などという普通は訪ねてこない時間に(・・・・・・・・・・・・)遠慮なく稗田邸に訪れることができたきっかけが。

 ここ最近あった事件といえば、突然妖怪の山の一部分が消し飛んだことが思い浮かぶが、結局そのあとは全く音沙汰がないし、なによりそんな大事件に吹羽が関係しているなんて思いたくない。もし本当に首を突っ込んでいたというのなら、さしもの阿求も「一体なにを考えてるんだ!」とゲンコツの一発くらいは落とさなければならない。

 

 だが――例えそうした何かがあったとして、阿求には吹羽を問い詰める気はさらさらなかった。何故かって? それは勿論、そのきっかけがどんなことであったとて、吹羽が今本物の笑顔を浮かべていることに変わりはないからだ。

 吹羽に言わせれば、「結果良ければ全て良しという諺がある」と。今の吹羽が、阿求が望んでいたような笑顔を得たというのならそれに越したことはない。その過程でどんなことがあったとしても、吹羽が笑っていられるのはきっとそれを乗り越えたからだ。ならば、後になって何も知らない阿求が口を出すのは間違ったことなのだ。

 

 だがまぁ、興味本位に尋ねるくらいはしてもいいかもしれない。親友が明らかにいい方向へ変わったのだ、そのきっかけを知りたいと思うのは当然のことだろう。

 阿求は背もたれに体重を預けながら、どんな話が聞けるだろうかと微笑んだ。口の端が緩んで若干にまにました感じに見えるのは、楽しそうに話す吹羽の笑顔が心底可愛くて悶えそうになっているからだろうか。

 

 そうしてゆるゆるになっていく口元から、遂に「えへへぇ……」とだらしない笑い声が漏れ始めた頃――それは唐突に。

 

「阿求様、お茶をお持ちしました」

「ぇへあッ!? ゆ、ゆゆ夢架ッ!?」

 

 老舗旅館の女将の如く、音もなく開いた襖からお盆を持った夢架が姿を現す。

 完全に油断していた阿求はたまらず飛び上がって驚き、直前まで陥っていた自分の痴態にボフンと湯気を吹き出した。あわあわと身振り手振りして、しかし。

 

「大丈夫です阿求様。夢架は何も見ておりません。己が主のヨダレ顔など一体どこの従者が見れましょう。目も当てられません」

「フォローみたいだけどフォローじゃない!」

「そんなことより阿求様、お疲れかと存じますので一服いかがですか?」

「何事もなかったかのように流さないでぇっ! いやっ、忘れて欲しいんですけどねっ! わす、忘れてください夢架ぁ〜!」

 

 縋り付くような声音で叫ぶ阿求に、しかしそこは優秀な侍従夢架。雇われて間もなく屋敷の主人への奉公を許された彼女は、その卓越したスルースキルで守られた澄まし顔を崩さない。鉄壁、絶対防御。どこぞのメイド長もかくやという有様である。

 

 何を言っても特に感情を表さない夢架の様子にやっぱりこの子は無愛想だと思いながら、阿求は渋々……本当に渋々説得を諦める。未だ頰がぷっくり膨らんでいるあたり相当の我慢をしていそうだが。

 そうして夢架から目を逸らすついでに、阿求は縁側から日の高さを見た。しかしそこで、はてと首を傾げる。膨らませていた頰風船もぷすりと萎んで、阿求はお茶と菓子を乗せたお盆を机に置く夢架をぼんやり見遣った。

 

「……少し予想外ですね。夢架がお茶を出す時間に遅れるなんて」

「……申し訳ございません。少し野暮用を片付けていまして」

「いえ、謝ることではありませんけど……」

 

 稗田邸では、侍従が主人たる阿求にお茶を出す時間というものが大体決まっている。それは阿求が決めたわけではなかったが、侍従連中が率先して、幻想郷縁起の編纂作業に勤しむ阿求を労って休憩を入れてくれるのだ。そこはさすが、人望厚い稗田家当主様というところだろう。

 

 夢架もその例に漏れず、今まで所定の時間にお茶と菓子を運んできてくれていた。毎度「本当に雇ったばかり?」と尋ねたくなるような熟練した所作で少々阿求を驚かせながら。

 しかし、今日は珍しくいつもよりも遅い時間だった。当然阿求が定めたルールではないので咎めることなどないが、今までの夢架の完璧従者っぷりから、彼女が時間に遅れるとは予想していなかったのだ。

 まあ、阿求のお付きとは言ってもそれほど忙しいわけではない。普段から夢架にはある程度の自由時間は許されていて、その時間で何をしようが阿求は何の口出しも――それが間違ったことでない限りは――するつもりはないのだ。

 阿求は程よく冷まされたお茶を静かに啜り一服。夢架は、それを見計らったように声をかけてきた。

 

「ところで、阿求様。お尋ねしたいことが」

「はい。なんですか?」

「昨日いらっしゃったあのうるさ――賑やかな少女と、白い髪の子とはどんなご関係で?」

「………………えっとですね」

 

 早苗の明るさは夢架には煩わしかったのだろう、と比較的ポジティブに解釈の努力をして。

 

「早苗さんとは幻想郷縁起の編纂の際にお話をした程度ですが、吹羽さんとは親友です」

「親友?」

「はい。……なんです?」

「いえ、部屋にこもってばかりの阿求様なので、友人などいらしたのかと少々驚きまして」

「失敬なっ、友人くらいいますよっ!」

 

 というか主人の前でよくそんなことを言えたなっ!

 阿求はぷりぷり怒りだすが、相も変わらず夢架はすーんと澄まし顔。もはやわざと棘のある言葉を吐いているのではないかと疑い始める阿求である。

 しかしそろそろ何を言っても無駄なのだと学び始めた阿求である、ぐるぐると溢れ出すあらゆる罵詈雑言をグッと呑み込み、代わりにツンとした視線を夢架に向けた。

 

「というより、なんでそんなこと気にするんですか? あなたが知りたがるようなことではないと思うんですが」

「主人の交友関係を知りたがる従者は不思議でしょうか?」

「少なくとも、普段のあなたのような付け入る隙のない侍従には珍しいと思います。こう、“交友関係とかどうでもいいけど仕事は完璧にこなします”、みたいに」

「……偏見ではないですか? 私はただの女の子ですよ」

「……ただの女の子はそこまで熟練した侍従の動きはできませんよ……」

 

 あと目上に面と向かって失礼なことも言えないと思う、とは敢えて口に出さず。

 

 実際、夢架の侍従としての腕は超一流といって過言ではないほどだった。

 里の重鎮といって差し支えない立場にある稗田家当主様に、雇われて間もなく側近のような扱いを受けている点からもそれは伺える。

 何事もごく最小限の動きで、“そこにいる”ことを主人に分からせる程度の小さな音だけを意図的に出している。定時の仕事は何事も完璧にこなし、阿求の僅かな表情の変化を読み取って的確なフォローを入れてくれる。彼女一人がいるだけで、阿求は何十人もの侍従を側に付き従えているような錯覚にすら陥るのだ。その凄まじさは筆舌に尽くしがたい。

 

 おまけに夢架は掛け値無しの美少女であった。作り物のように整った目鼻立ちに、常に光を灯すようなキメの細かい真白な肌。金色がかった茶髪はふわふわとして、川のせせらぎのように艶やかだ。時折見かける耳に髪をかける仕草には、同性の阿求ですら思わず生唾を飲むほどの色気があった。大きく形の整った服の上からでも美しい双丘には、誰もが一度は目を奪われるであろう。

 今でも時折思い出す。彼女がここに仕えることになった日の、胸を貫かれたかのような衝撃を。いや本当に、同じく誰もが見惚れるような美少女である吹羽を見慣れている阿求ですら、「これほど綺麗な女の子が里にいたのか!?」と目を見張ったほどであった。

 

「……阿求様? 私の顔に何か付いていますでしょうか?」

「……へっ? ああいえ、なんでもありませんよ」

「そうですか」

 

 不思議そうな表情すら作らずに、()と納得した様子の夢架。表情筋に乏しいのか元から感情の起伏が少ないのか、相変わらずの鉄面皮な彼女に阿求はふと尋ねたくなった(・・・・・・・)

 ちょうど、彼女も自分の交友関係とやらに興味があるようだし、次いでとして、と。

 

「夢架、私の友人たちはどうでしたか?」

「“たち”……? 早苗さんは友人ではなかったのでは?」

「ああえーと、別に友人じゃないというわけでは……というかそういう細かいことは置いておいてですね」

「……ふむ。承知しました。そうですね……」

 

 阿求の問いに、夢架は緩く曲げた人差し指を唇に当てて記憶を探るように瞑目した。そして数秒も経たぬうちにゆっくりと瞼を開けると、抑揚のない声で、

 

「――特に、なにも」

 

 それだけ口にして、夢架は思い出すのをやめた。

 

「……え、なにも思わなかったんですか?」

「はい、特には。お二人とも普通の人間の女の子でした。早苗さんは少し賑やか過ぎるかなくらいには思いましたが。吹羽さんについてはなにも感じませんでした」

「…………そう、ですか」

 

 予想外にも、阿求は心のどこかでもやもやとしたものが湧き上がってくるのを感じていた。

 夢架が非常に無愛想で冷徹なところのある少女なのは理解している。だが、己が親友とその友を見て――あれほど特徴的な二人を見てなにも思わなかったと言われて、阿求は無意識のうちに不快な心地になっていた。

 

 人間、誰しも初対面の相手に対しては第一印象というものを感じ取る。

 まず外見から認知し、その言動によって己の中で性格を決定する。それは何かしらの思考がなければ出来ないことである。つまり、人間は誰でも初対面の相手に対してはなんらかの感情を抱くはずなのだ。

 それを――特にない、なんて。

 

「ただ――強いて言うなら」

 

 ポツリとこぼしたその言葉に、阿求は視線を上げて耳を傾ける。そして僅かに、動揺(・・)した。

 

「吹羽さんの……あの瞳には、興味がありますね」

 

 冷たい仮面に覆われたような夢架の口の端が、僅かに釣り上がる。それは感情の変化に乏し過ぎる彼女が初めて見せた、雫のような感情の発露。

 その感情が、見た目通りの歓喜には思えなかった自分自身に、阿求は小首を傾げて困惑する。

 自分は一体、この笑みに何を感じたのだろう――と。

 

「さて、それでは新しいお茶をお持ちしますね」

「――へ、あっ、はい。お願いします」

「では、失礼いたします」

 

 完璧な座礼をして、音もなく襖を閉じた夢架の静かな足音が遠ざかっていく。

 その音だけを頼りに襖の向こうを見透かして、阿求は思った。

 

「(…………やはり、不思議な子です)」

 

 筆箱に立てかけた筆の先から、真黒な墨が一滴滲んで、机にぽたりと滴った。

 

 

 




 今話のことわざ
骨折(ほねお)(ぞん)草臥(くたび)(もう)け」
 苦労するばかりで利益はさっぱりあがらず、疲れだけが残ること。

 余談なんですが、たった数話で評価ゲージ赤色とか取ってる作品ってよく見ますよね。あれって何をどうやって評価もらってるんでしょう? やっぱりTwitterとかで宣伝して見てくれる人を増やす努力をしてるんでしょうか。
 ……やっぱり告知って大事なんだろーなー(小並感


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第二十九話 英雄達の妖怪退治

 反省はしている。しかし後悔はしていない。

 あ、それと活動報告にお知らせがありますので、ぜひ目を通しておいてください。それそのものは2019年1月2日に上げてあるので、もう目を通したよって方は気にせず本編へどうぞ。


 

 

 

 流れる風の爽やかな、森の中だった。

 耳を澄ませば小鳥の囀りが聞こえてきて、大きく息を吸い込めば頭の中まで清々しくなるような、静謐とした雰囲気が満ちていた。この場所を形作る森羅万象が和やかで、穏やかで、鼻歌を歌いだせば小鳥の合唱すらはじまりそうだ。

 実に平和なひと時である。しかしだからこそ、その中に一人佇む吹羽は心配でならなかった。

 

 本当に、こんなこと(・・・・・)していて大丈夫のだろうか――と。

 

『ま、魔理沙さぁ〜ん……コレほんとに大丈夫なんですかぁ……?』

『大丈夫だって。心配すんなよ吹羽。こっちからもちゃんと見てるからさ』

 

 堪らず思い呟いた自分の声が頭の中で反響する。それに応じて同じように頭の中に響いてきたのは、どこか呆れたような声音の魔理沙の言葉――念話(魔法)だった。

 吹羽はそれにどうも納得ができず、耐えかねたように言い募る。

 

『うぅ〜……じゃあボクからも見える位置にいて下さいよぅ。視線さえ通れば見えますからぁ……っ』

『ばっかお前、そんなことしたらバレるかもしれないだろ。いいから大人しく従っとけって。諏訪子の知恵を借りようって言ったのお前だぜ?』

『そう、ですけど……そうですけどおっ!』

『諏訪子も言ってたろ? “後悔すんな”って。もう手遅れだから諦めろ。な?』

『ぅぅ〜……ぅう〜っ!』

 

 魔理沙の諭すような言葉は取りつく島もない。何より、言い分に限っては彼女には珍しく正論であった。

 魔理沙は間違いなく強者であり、見守ってくれているのだから心配はいらない。諏訪子の助力を提案したのも吹羽であり、既に行動に移しているが故に手遅れなのもまた事実。

 こんなことなら下着が見えることを覚悟してでも箒での捜索を続ければよかった、と吹羽はどうにもならない後悔で頭がいっぱいであった。

 何より気に食わないのは、頭に響く言葉の裏で魔理沙がこの状況を心底面白がっているらしいことである。

 

 いや、そりゃあね? 諏訪子の忠告を流して話をせがんだのは吹羽だし、魔理沙の“その時楽しければ何でもいい”性格を見誤ったのも吹羽の落ち度ではあるのだが、だからって“念話”越しにすら分かるほど面白がるのは失礼ってもんじゃないだろうか。言葉を交わす時こそ呆れた風を装ってはいるが、時折くつくつといった忍び笑いが念話越しに聞こえてくる。バレバレだ。

 そしていい加減プッツリと何かが切れる感覚を覚えた吹羽は、遂にはやけくそ気味に、

 

 

 

「あーもう人妖共存に不満で八つ当たりとかバカだなあアホだなあーッ! なら何で幻想郷にいるんですかって感じだなあーッ!!」

 

 

 

 ――と、手メガホンを使って腹の底から声を張った。それも超シンプルでストレートな煽り文句を、森の中で。

 だなーだなーだなー――……と木霊して、不意にざわざわと騒がしくなってくる(気がする)森の様子に、吹羽は再び泣き出しそうになった。

 

 諏訪子の提案とはすなわち、“囮作戦”である。

 方法はいたって簡単。声の響きそうな、且つ犯人達がいる可能性の比較的高い場所で、彼らの神経を逆撫でするような言葉を大声で叫び、激情して現れたところを叩き伏せて捕まえる、というものだ。

 これを聞いた途端、吹羽は一瞬で思考を切り替えて「やっぱり箒でいこう」と言おうとしたのだが、そこを魔理沙の「よっしゃそれで行こうぜっ!」という悪魔のような言葉にブッた斬られたのだ。その時の彼女の表情は忘れもしない。新しいおもちゃを見つけた子供のような瞳でこちらを見つめてくるものだから、吹羽はたまらずぶるりと身震いしたほどである。

 

 結局魔理沙の勢いに勝てず決行することになり、その上“見た目が弱っちくて襲いやすそう”という理由で囮役も吹羽になり、今に至る。

 ちなみに元凶(?)である魔理沙は、犯人たちが感知に優れている可能性を鑑みてかなり遠い場所に待機している。ただ連絡が迅速に行えないと危険なので、念話の魔法は全開だ。

 

 しかし、そうは言っても、である。万一の時は魔理沙が助けてくれると分かっていても、突然襲われるかもしれないという恐怖は幼い吹羽にとって看過できないことである。触られることはないと分かっていてもアトラクションのお化け屋敷が怖いのと同じ道理だ。

 そんな役回りを幼女に押し付けるなんて、魔理沙には後で何らかの形で仕返しせねばなるまい。吹羽はそう心に固く誓いを立てた。

 

 そして、今しばらく吹羽の必死な叫びが森の中で木霊する――。

 

「ルールが不満とか今更じゃないですかあー! 一体何年生きてるんですかー生後数週間なんですか赤ちゃんなんですかーっ!?」

『おぉう……まさか吹羽の口からこんな煽り文句が聞けるとは……』

「そもそも不満言ったってしょうがないじゃないですかあ! 人間がいるから妖怪が生きられるって子供でも知ってますよおっ! もしかしてオツムが弱いんですかね子供以下なんですかねーっ!!」

『お、お……うん……』

「幼稚な怒りで大暴れしてるところ悪いんですけど無意味なのでやめてくれませんかー! 迷惑なだけでどうせすぐに捕まるんですから今のうちにやめておいた方が身のためですよー! 捕まったらきっと親御さんも、ご近所さんもっ、多分おてんとさんも、悲しみますよーっ」

『……いや吹羽? お前言ってることおかしくなってきてるぞ!』

「……ば、ばかあ〜! あほぉーこのやろ〜うっ!」

『あ、あれ? なんかただの罵倒になってんだけど……?』

 

 なってた。

 口から飛び出すのは幼稚で可愛げすらある文句だった。幼稚園児でももう少しマシな言葉が出てくるだろう。

 

 実際、吹羽は既にぐるぐると目を回して錯乱中である。

 いつ襲われるかも知れない恐怖の中で、普段思いもしないし使いもしない言葉をひたすら羅列し続けていればそうなるのも無理からぬこと。精神的負荷もそれなりなものになる。

 つまり、吹羽はある種のトランス状態に陥っているのである。頭の中は割とヤバめにぐちゃぐちゃなのだ。

 

 魔理沙のドン引き気味なツッコミも右耳から左耳へ受け流して、もはや微笑ましいレベルの可愛らしい煽り文句を一心不乱に叫び続ける吹羽。

 言われなければ思いつきもしないような汚い言葉を叫び続けたせいで襲われる恐怖も薄れて忘れ去り、煽り文句を叫ぶのもだんだんと作業的になり、遂に吹羽の瞳から意識という名の光が消え去って単一色と化し、終いに「あれ、ボクってどんな子だっけ? こんなことする子だったっけ?」とある意味致命的に自分を見失いかけたその時――事態は、動いた。

 

『っ、おい吹羽! なんかきてるぞ!』

「ばーかあーほドジまぬけぇ〜♪ よーかいさんは赤んぼ〜♪ おーやんのかこらぁ〜――ふえあッ!? な、なんかきてるっ!?」

『妙な歌歌ってねーで目ェ覚ませ吹羽! わたしもすぐ行くから構えろ。……すげえスピードだ、出てくるぞ――目の前!』

「は、はい!」

 

 いつのまにか弛緩していた空気から一転。騒つく森の木々から怖気よりもぴりぴりとした緊張感を感じ、吹羽はぷるぷると頭を振るって気を取り直す。その小さな手は既に、腰に佩いた“太刀風”の柄に触れていた。

 

 ざわざわ、ごうごう。

 不意に強くなった風が木々の隙間に鳴き、葉々を、あるいは木そのものを揺らしている。それは迫り来るものを森が察知し、体内を駆けずり回られて悶えているようにも思えた。

 

 そして――バスッ、と。

 

 木々の隙間を飛び越え、吹羽の目の前に躍り出たのは――黒い狼だった。

 

「(狼さん……? でも、明らかに妖怪だよね……)」

 

 柴犬などよりひとまわりほど大きい体躯。それを一部の隙間もなく埋めている漆黒の毛は、風の流れとは関係なくゆらゆらと揺らめいている。恐らく頭だと思われる部分には、取って付けたように爛々とした赤い瞳が埋まっていた。一見すれば悪魔にも見える。

 本能的に恐怖を煽る姿。

 だが吹羽は、自分でも驚くほど冷静に状況を俯瞰していた。

 

 だって、いざこんな状況に陥ってみれば――こんなにも。

 

「(……あの時の文さんや、椛さんと勝負する時の方が……何倍も怖かった)」

 

 それは慢心にも見えて、しかしどこまでも肩透かし(・・・・)だった。

 こんな(なり)でも、吹羽はなんだかんだで中級以上の妖怪たちと渡り合ってきたのだ。文の件に至っては、本能的な殺意よりももっと恐ろしいものを向けられた。その経験が、目の前の妖怪への恐怖を圧殺している。

 今更話せもしない小妖怪――文字通りの“獣”を恐れてなんていられないのだ、と。

 

 それに、何より。

 

「こんなのに梃子摺ったら、霊夢さんに怒られますッ!」

 

 そう、かの博麗の巫女は大妖怪ですら涼しい顔で制圧する。

 時に話して丸め込み、時に力で叩き伏せ、時に退治することを超えて捕縛さえしてみせる最強の人間。

 そんな彼女に教えを受けた吹羽が――弟子がこんな妖怪に梃子摺っては、敬愛する霊夢に申し訳ない! あと怒られたくない!

 

 改めて愛刀“太刀風”の柄を握る。力み過ぎず脱力し過ぎず、光を灯した(能力を発動した)翡翠の瞳で狼を凝視する。

 刹那、動き出したのは狼だった。

 さすが妖怪と言うべきか、予備動作もなく地を蹴った狼は吹羽の予想を大きく上回る速度で肉薄すると、その口をがぱりと開いて襲いかかってきた。

 流石の速さだ。きっとこの速度を以って獲物を瞬殺して糧としてきたのだろう、そんな生き方を思わせる一撃。

 

 しかし、吹羽の瞳(鈴結眼)は全てを捉える。

 

 吹羽は瞬時に鞘を反転させて刃部を下に持ち変えると、飛びかかる狼の下を狙って前進した。

 きゅっと上半身を回し、同時に“太刀風”を抜刀して吹羽は体に沿うように狼の腹を華麗に斬り抜く。

 果たして手応えは――なかった(・・・・)

 

「ッ! 体は妖力ですか――ッ!?」

「「「ガウアアッ!!」」」

 

 切り抜いた狼の腹の様子を見る間もなく、どこに潜んでいたのか複数の狼が、体勢のままならない吹羽へと同時に襲いかかった。

 それぞれ別の方向から三箇所、吹羽を囲い込むように飛びかかってくる狼達は、鋭い殺気を持って牙を剥く。

 

 しかし、今更それを恐れる吹羽ではない。

 体勢はそのままに、吹羽は腰に吊るした金属をさらりと撫でて“韋駄天”を顕現。その風紋の力を使って更に飛びかかるように前進すると、前方から襲ってきた狼を横殴りに弾き飛ばしながら離脱した。

 

 そして振り返り、残心。

 吹羽に斬られた狼たちはよろりと起き上がり、他の狼達は黒い毛をざわざわと逆立てながら、吹羽を最大限警戒するようにグルルルと唸っていた。

 

「(……回復してる。でも二回目は手応えがあったから……骨はある?)」

 

 視線の先には、よろけながらも立ち上がる二匹の狼。吹羽の“太刀風”と“韋駄天”によって抉られた部位は、ざわざわと蠢く黒い毛――妖力に覆われていき、遂には傷などなかったもののように消え去ってしまった。

 恐らく身体――肉は妖力でできていて、内側に骨だけの実体があるのだろう。でなければ二撃目の際に弾き飛ばすことなどできなかったはずだから。

 

「(それにしても……これはやっちゃいましたね)」

 

 警戒して飛びかかってこない狼達をしっかりと視界に収めながら、吹羽は頭の片隅で「あちゃー」と唸った。

 恐らくこの狼達は吹羽の大声に釣られてやってきただけなのだろう。どう考えても中妖怪以上ではないし、そも話せもしない獣がどうやって不満を唄うというのか。

 つまり、要らぬ戦闘を招いた。長引かせると作戦に悪影響もあるはずである。そしてこれは、この事態を予測して対策しなかった吹羽と魔理沙の失敗だ。

 

 速攻で終わらせないと――……。

 

 “韋駄天”を手から消し、二振り目の“太刀風”を抜いて構えた。そして気持ち能力の“視野”を広くし、目を細めて狼達を凝視する。

 あらゆるものを観測できる鈴結眼は、世界が――自らの掌に乗ったように思わせた。

 

「――……いきますよっ」

 

 吹羽は駆け出すと同時に片手の“太刀風”を上空に放った。くるくると回って放物線を描く最も警戒する部分(・・・・・・・・)に、狼達の視線が自然とそちらへ泳ぐ。

 そこに吹羽は、顕現させた“疾風”を放った。

 

 狙うは身体だ。骨を狙うこともできるが、それをすればもしかしたら死んでしまうかもしれない。妖怪でも同じ生き物である以上、吹羽にはその命を奪うことに抵抗があった。

 己の体を瞬時に、大量に、深く抉られれば本能的に脅威を感じて逃げてくれるかもしれない――そう願っての作戦だ。

 

 掛け算式に加速する鋭い釘を、咄嗟に視線を戻した狼達は対処できない。

 今まで遭遇したことのないほどの速度で飛来する物体に狼達は次々と貫かれ、その黒い身体に文字通りの風穴を開けていった。

 しかしかの者らから滲み出る雰囲気は、怯んだというよりも驚愕に類するもの。痛みを感じた様子は、やはりなかった。

 

「そうこなくちゃ、です!」

 

 再び“韋駄天”を発現し、狼狽える狼達の中心へと飛び込むと同時、吹羽はもう片手に持った“太刀風”で円形に周囲を薙ぎ払う。“韋駄天”の超加速により十全に風を撫でた“太刀風”の風紋は、その性能を最大限に発揮した。

 斬撃の最大拡張範囲・二間半にまで狂いなく収束した風の刃が、容赦なく狼達の体を抉り抜く。

 

 首元に深い傷を刻み、或いは背の肉を大きく削ぎ落とし、しかし本体であろう骨の部分には毛ほども傷を入れない。

 吹羽には全てが観えていた。視野全開ではないため未来予知染みた洞察力はなくとも、どの個体がどこにいて、どんな体勢でどんな速度でどんな軌道で襲いかかってくるのか。まるで上空から見下ろしているかのようにこの空間全てを理解できた。ただそれでも、お互いに高速で動き回る中でそれを狙って行うその技量は軽く神がかっていると言えよう。

 

 この時点で、背中の妖力を大きく削ぎ落とされた一匹は本能的に危機を察知して逃げた。一匹逃げれば他もつられて逃げるかと思っていたが、案外仲間意識は薄いらしく後に続くものは無し。残り――三匹。

 

 傷が浅く、すぐに体勢を整えた残りの三匹は、同時に飛びかかることを諦めて不規則に動き始めた。狙いを定めて吹羽の足が止まったところに波状攻撃でも仕掛けるつもりなのだろう。獣にしては頭が回る。

 

 ――が、まさか人間(ヒト)様に本気で勝てるなんて思っているわけではあるまい?

 吹羽は少し得意げに心の中でドヤ顔をしながら、空いている手を腰に滑らせる。そうして込められた青い霊力が形作るのは――暴風を呼び起こすたった一本の杭。

 

 作戦? 波状攻撃? そんなの知らんはよ散ってしまえっ!

 

 吹羽はゆらゆらと動いてタイミングを見計らう狼達に、容赦なくそれを投げつけた。

 

「『飛天』っ! 蹴散らしてェッ!」

 

 三匹の間をちょうどよく駆け抜けるように投げられた“飛天”は、まさしく竜巻を横倒しにしたような暴風の砲撃を形作り、決して若くはない木々をすら容赦なく蹂躙した。

 それに巻き込まれたものは悉く引き摺られ、千切られ、吹き飛ばされては叩き付けられる。三匹――否、二匹(・・)の狼もまた同じ。

 後方にいた一匹以外は暴風に巻き込まれ、硬い木の幹に叩き付けられて妖力を散らしていた。

 

 唯一避けた一匹は――刀を持った手の方向から攻め込んできた。

 

 避けた流れか、それとも狙ってか。

 狼が攻めてきた方向は吹羽にとって反撃しにくい場所であり、それが分かっているゆえに吹羽は少しだけ恨めしげに唸った。

 この位置関係では、どうしても反応が遅延してしまうのだ。勢いを使って斬り抜くのにも一度振りかぶらなくてはならず、避けるのにも体勢が悪い。攻撃を逸らすために刀を狼との間に滑り込ませることはできるが、妖怪の膂力の前でそれは無謀。

 もしも狙ってこれをやっているのなら、彼らを獣と呼ぶのはあまりに失礼だった――と、吹羽は対して焦りもせず(・・・・・)ぼんやり思う。

 

 なぜかって? もちろん、まだ手札が残っているからだ。

 

 吹羽はその広がった視野でちらと全体を俯瞰すると、飛び込んできた狼に視線を合わせた。

 刀は振れない。回避もできない。受け流すなど以ての外。だが万事休すかといえば、断じて否。

 だって自分(ボク)はもともと――二刀流(・・・)なんだからっ!

 

「来て『太刀風』――やぁあああッ!」

 

 一度手を離れ、空を舞ってから帰ってきたもう一振りの“太刀風”を、空いた手を振るいながら掴み取る。

 刀の落ちてくる場所も、掴むべき柄の位置も、狼が襲いくる軌道も、全てを観て測り計算された上で振るわれた吹羽の腕・刀は、美しい曲線を描いて狼を一閃した。

 

 二つに分かれる肉と体。飛び散るのは妖力のかけら。

 

 空中で寸断されて着地もできない狼は、その勢いのまま地面に投げ出されて転がっていく。

 だが、逃げてくれるかどうかを確認している暇はない。

 なぜなら既に――“飛天”によって吹き飛ばされた狼たちが、吹羽を頭上から狙っていたから。

 

 咄嗟に上を見る。狼たちは相変わらず鋭い牙を覗かせ、涎を飛ばしながら迫って来ていた。

 きっと真正面から攻めるのが得策ではないのだと本能的に悟ったのだろう。今まで捕食してきた者たちとは違う、真正面からかかっても勝ち目のない格上の相手だと。

 吹き飛ばされていた狼たちは、仲間の一匹が吹羽の注意を逸らしているうちに三角跳びの要領で木を蹴って上に跳んだのだ。

 

 迫り来る犬牙。感情が高ぶったのか、先ほどよりもざわざわと逆立った黒い毛。殺意剥き出しの赤い瞳。

 あ、これ加減して斬るの難しいなぁ、と吹羽がぼんやりと思った――その瞬間だった。

 

 閃光が、視界を縦に切り裂く――……。

 

「ノンディレクショナルレーザーっ!」

 

 どこからともなく飛来した四条の熱線が、吹羽の眼前まで迫り来ていた狼たちを一瞬で吹き飛ばす。

 弾幕用ではなかったのか、当たった部分の妖力は無残に散り、どちらの狼にも風穴が開いていた。

 ――ただし、吹羽の額にもジュッと掠って。

 

 その犯人は、すぐ後に吹羽の隣へ降り立った。

 

「おうおう危なかったな吹羽! もう少し遅けりゃ犬の餌になるとこだったぜっ!?」

「危ないじゃないですよむしろ手遅れです! おでこに掠ったじゃないですかあっ!! 直撃したらどうするつもりだったんですっ!?」

「そんなヘマするわけないだろ。大体、助けてやったんだからお礼されるべきだと思うんだが?」

「素直にお礼が言えない助け方なんだってんですよおっ!」

 

 だいたい離脱自体は普通にできたしっ、別に危なくなんてなかったし! と心の中で悪態付くも、魔理沙の機嫌を損ねるのが怖くて面と向かって文句を言えない小心者な自分。

 そして少し赤くなったおでこをさすると蘇るトラウマ――そう、以前魔理沙と戦った時にも同じようなことがあった気がする。なんというデジャヴ。まさかわざとやっているわけではあるまい……?

 

 ジト目で魔理沙を見上げるも、彼女はそっぽを向いたまま目を合わせようともしない。

 吹羽は足元の小石をコツンと蹴った。

 

「ともあれ、さっきの二匹は逃げちまったな。仕留めたかったが、まーしゃあない。あと一匹か」

「早く終わらせないとですね」

 

 囮作戦で目標以外が釣れてしまった場合は一度引くのが定石、それくらいは分かっている吹羽である。

 ここで長居をしていては他の下級妖怪も集まってきてしまう可能性がある為、早々に一陣を突破して出直す必要があるのだ。

 

 黒い狼はようやく体を再生したようだった。妖力が尽き始めているのか始めよりも随分と時間がかかっているが、未だに逃げようとはしてくれない。

 意地か。それとも単に状況が分かっていないだけか。どちらにしろ窮地に陥った獣ほど予想の付かないものはないと、吹羽は肝に命じて刀を握り直す。

 

「行きますよ魔理沙さん。油断はしないでくださいね」

「誰に言ってやがる。お前こそ変に加減して斬り損なうなよ」

「誰に言ってるんですか。これでも刀匠、刀の扱いには一家言持ちですよ」

 

 そりゃそうだ、と続ける魔理沙。

 軽口を叩き合いながらも視線は狼から外さない。出方を伺っているのか狼の方も唸るだけで動かない。

 張り詰める空気の中、果たして示し合わせたように二人と一匹が同時に駆け出し――、

 

 ――怒号(・・)

 

 

 

「邪魔だクソがァァアアアッ!!」

 

 

 

 空気が爆ぜるような、固いものが折れるような。そんな音と共に、その巨体は現れた。

 

 赤みを帯びた筋肉質の体。その手に持った棍棒には鋭い棘が突き出ており、たった今薙ぎ払った黒い狼の骨をぶら下げている。

 髪もなく、角もない。ただゴツゴツと岩肌のように固そうな頭皮が陽の光を浴びて鈍く光っている。見方によっては鬼にも見えるが、萃香という本物の鬼を知っている吹羽からすれば、それとは比べるべくもなく感じる圧力が弱い。

 そして、人間のように流暢な言葉。憤怒を隠そうともしない険しい表情。二人は、すぐに理解した。

 

 ――こいつが、件の妖怪だ、と。

 

「はは……なぁ吹羽。作戦ってなんだっけ? 失敗しても成果が得られるもんだったか?」

「……“例外のない規則はない”という諺があります。例え失敗したとしても、成果が得られたならそれは成功と大差ないんですよ、魔理沙さん」

「……ん? なんか違う気もするが……それもそうだな」

 

 まさか本命まで釣れるとは。

 そんな驚きとも呆れとも取れる会話に、しかし妖怪は気が付かない。

 何処かそわそわとして落ち着きがなく、その怒りも怯えの裏返しのように思えた。

 そしてその後ろから、同じように飛び出す影が二つ。

 

「何やってんスか! 早く行かないと来る(・・)ッスよ!」

「待て、距離が離れた今こそ打開策を考える時だ。このまま逃げても意味が――」

「走りながら考えろよそんなこと!」

 

 後から現れた二人も似たり寄ったりな姿をしていたが、棍棒ではなく短剣を持っていたり、黒い肌をしていたりと少しだけ差異が見られた。同じく鬼にも見えるが、本物にはやはり見劣りする。

 三人は突然何か口論を始め、その度に地団駄を踏む。ずんずんとした揺れが吹羽と魔理沙の方にも伝わってきて、そのお腹の底に響くような振動に吹羽は気持ち悪そうな顔で鳩尾を抑えた。

 

 どうやら三人は何かに追われているらしく、打開策を模索しているようだった。

 あの焦りようから考えるとかなり危機的状況のようだが、あんなたくましい体格の巨体が三人集まって怯えている様子は、吹羽をして少し微笑ましく思えた。シュールとも言う。

 

 現れた三人の対応に困って吹羽と魔理沙は呆然と佇んでいる。流石の魔理沙も大人しくずんずんとした振動に身を任せていた。

 というか、なんで話す度にずんずんするんだろう。お腹に響いて普通に迷惑なんですが。

 

「ちょっと! もうそろそろ来るッスよ! 早くしてくださいッスよ!」

「あと少しだっ、もう少しで……」

「いい加減にしろ! もうそこまで来てるんだぞッ!」

 

 ずんずん。ずんずん。

 

「何かないか……決定打になるものは……」

「とにかく抵抗できなきゃ意味ないッスよ! ……そうだ石ころ投げればどうにか――」

「そんなのが効くわけないだろ! 相手を誰だと思ってるんだ!」

 

 ずんずん。ずんずん。

 

「だいたいお前がちょろちょろしてるから見つかったんだろうが! お前がなんとかしろ!」

「無茶言うッスね!? オイラにそんな力ないッスよっ!」

「だぁぁあっうるせえお前ら黙ってろこのポンコツどもがッ!」

 

 ずんずん。ずんずん。ずずんずんずずん。

 

「……なぁ吹羽。わたしそろそろ気持ち悪くなってきたんだが、あいつらぶっ飛ばしてもいいか?」

「奇遇ですね、ボクもそろそろ我慢の限界です。お腹の中がぐるぐるして吐きそうです」

「だよな。じゃあ失敬して――」

 

 何処ぞの人型金属兵器が歩いてきそうなリズムすら刻み始めた地団駄に、いい加減に我慢ならなくなった魔理沙が帽子の中を弄り始める。中がどうなっているのか一瞬気になった吹羽だが、襲い来る気持ち悪さが考える気力を彼女から奪う。

 そして取り出されたのは――ミニ八卦炉。

 

 魔理沙の十八番、恋符「マスタースパーク」を含め、あらゆる技を行使する際に使用する彼女のメインウェポン。そのコンパクトな見た目とは裏腹に、最高火力では山一つ吹き飛ばすことも可能なのだという。

 一体全体どこが「失敬して」なのか。敬を失うどころかその相手自体を消し飛ばしかねないじゃないか。

 

 魔理沙の魔力を吸って淡く光を灯し始めたミニ八卦炉が、未だに口論を続けている三人の妖怪たちへと向けられる。魔理沙も集中しているのか、普段のおちゃらけた雰囲気とはかけ離れた鋭い瞳をしていた。

 

 すると、その気迫にようやく感づいたのか。

 

「――ん? 人間……?」

 

 あ、やっと気付いた。

 

「ちょ、魔理沙さん気付かれましたよ。やるなら早くやってくださいっ。消し飛ばすのだけはダメですよ!」

「わーってるからちと待てって。加減が難しいんだよ」

 

 もともと犯人たちを釣ったら戦うつもりではあったが、せずに済むならそれに越したことはない。魔理沙が三人を不意打ちで――殺さない程度に――吹っ飛ばしてくれれば戦う面倒も被らなくて済むはずなのだが、タメが長い所為で気が付かれてしまった。

 吹羽は急かすように魔理沙を促すが、彼女にもペースがあるのか反応がおざなりだ。

 本当に早くしてほしい。別に三人が強そうでちょっと怖いとか、外見が生理的に受け付けないとか、そんなことは決してない。ないったらない。

 

 気が付いた一人に釣られ、その両隣で文句を垂れていた二人も吹羽たちを見遣る。その視線からは「なぜこんなところに人間が?」という言葉がありありと伝わってきたが――はじめの一人だけは、違っていた。

 

「その声……お前か……お前だなァアアッ!」

「ふぇっ!? な、何がです!? ボク何かしましたかっ!?」

「お前の所為で……お前の所為でこんな事になってんだぞ!! 分かってんのかッ!?」

 

 いや全然分かってないですけど?

 反射的に言葉が出かけるも、向けられる怒りの視線に喉を詰まらせる。

 妖怪は現れるその怒りのまま、血走った目で唐突に殴りかかってきた。

 

 棍棒が振り上げられる。その拍子にぶら下がっていた黒い狼の残骸は粉々に吹き飛ばされた。

 血走った目は狂気的で、その巨大な姿形も相まってかなりの迫力があった。並の人間では卒倒待った無しであろう。

 吹羽も突然過ぎて身体が固まってしまっていた。いくら中妖怪たちと渡り合った経験のある彼女でも、理由の分からない怒りを向けられて突然殴りかかられれば、数瞬とはいえ硬直するのも無理からぬことである。

 魔理沙は普通に面倒臭そうな顔をしていたが、何事にも動じないその精神は流石というところだろう。

 

 怒りの絶叫が、響き渡る。

 

「お前の所為で……お前が俺らの悪口を大声で叫んでた所為でェ! 全員見つかる羽目になったんだぞクソがァッ!!」

 

 あ、そのことでしたかー。

 必死だったのでほとんど記憶はないが、結構汚い言葉を延々と叫んでいた気がする吹羽は、あれにも一応意味はあってくれたのかあははー、と現実逃避気味に自分を慰める。そしてその犠牲となったらしい妖怪さんたちには一応心の中でごめんなさいしておいた。うん、黒歴史まっしぐらである。

 

 とはいえ、それをきっかけに何か不遇を被りこちらを恨んでいるのだとしたら、それは酷い言いがかりである。

 そもそも幻想郷にいる時点で人間との共存は嫌でも受け入れなければいけないことであり、それに反抗するなら非難されるのは当然のことだ。また、それを理由に暴れれば罰されて然るべきである。吹羽も基本的にはそれに関する罵声しか叫んでいない。

 加えて言うのなら、吹羽のあの幼稚な罵声で怒っているのだとしてもそれはそれで沸点低過ぎね? という話だ。どちらにしろ妖怪の言い分は穴だらけである。

 

 まあ、何はともあれそんな反論を口にする余裕は残されていない。彼は既にその凶悪な形状の得物を振り被って襲いきているのだ、今更手を前に出してわたわたしながら「おお落ち着いて! 話し合いをっ!」とか流石の吹羽でもあり得ない。そもこういう類の手合いは正論を叩き付けたところで納得などしないだろう。

 吹羽は無防備に慌てるくらいならとしっかり刀の柄を握る。魔理沙も散りかけた魔力を再収束し始めていた。

 

 そして、直後。

 

「お前の声に釣られてなけりゃ、俺たちが襲われることもなかったんだッ! あの博麗の(・・・)――」

 

 

 

 ――ドパパパンッ! と。

 

 

 

 響き渡ったのは棍棒の振り抜かれる音ではなく、小刻みな炸裂音。一発一発の音が心臓にまで響き、嫌が応にも圧倒されるような――そんな強烈な、弾丸(・・)の音だった。

 直撃を受けたらしい妖怪はその巨体を軽々と宙に浮かせ、緩やかな海老反りで以って放物線を描いて吹き飛んだ。

 

「お、おい!」

「ちょ、うそッスよね!?」

 

 吹羽と魔理沙はもちろん唖然としていた。しかし妖怪たちは驚愕というより怯え、呆然というより焦燥を孕んだ表情をしていた。

 全員がそれぞれの理由で硬直する中、妙なほど響き渡ったのは、鈴を転がしたような聞き覚えのある声。

 

「ったく逃げ足だけは早いわね」

 

 と、どこか高圧的な物言いで舞い降りたのは言わずもがな――博麗の巫女、博麗 霊夢。

 彼女はその漆黒の瞳で三人を睥睨すると、心底気怠そうに言った。

 

「どうせあたしに潰されるんだから時間とらせないでよ。ちょっと疲れたじゃない」

 

 言葉通りほんの少しだけ息を上げる様子の霊夢。どうやら妖怪たちを追いかけていたのは彼女だったらしい。

 状況から考えるに、吹羽の罵声で出てきた三人を霊夢が見つけて襲撃し、驚くべきことに仕留め損ねてそのまま逃走劇を繰り広げていた、ということだろう。

 飛行に関してもかなりの速度を出せる彼女から一時とはいえ逃げおおせるとは、妖怪たちは本当に逃げ足が早いらしい。

 まあ、結局はこうして追いつかれたわけだが。

 

「もうその厄介な能力(・・・・・)じゃ逃げられないわよ。ここら一体は結界で包んだから、否が応でも退治されてもらうわ」

 

 紅と白の特殊な巫女服、艶やかな純黒の髪をふわりと靡かせ、凛とした佇まいを見せるその頼もしい背中に、吹羽たちは思い思いに言葉をかける。

 

「霊夢さん!」

「なんだ、霊夢も来たのかよ。久しぶりにわたしが解決できると思ったのによー」

「く、くそっ! 広範囲に結界なんてどんな技量だよッ」

「やべぇッスよ! ここで退治されんのはゴメンッスよ!」

 

 四者四様、強烈な登場を果たした霊夢に様々な反応を見せる中、当の彼女は実に静かに――怒っていた。

 その視線はつい先ほどまで追跡していたらしい三人の妖怪ではなく、自然と魔理沙(・・・)へ。

 

「……それはそうと――」

 

 溢れ出る声音は、意識とは関係なしに低く重いものとなって言葉を造る。

 

「……この際あんたがここにいることには何も言わないわ。けどね魔理沙、あたしの言ったこと忘れたのかしら。なんで吹羽と一緒にいるの」

「あー、別に忘れちゃいないぜ? 忘れちゃいないが、それに従うかはわたしの自由だ。そして誘いに乗ったのは、こいつの意思だ」

「断れない子だって知ってるでしょ……っ」

「さあ? わたしは付き合い長くないから、そこまでは知らんな」

 

 取り逃がす心配がない為か、追跡していた妖怪たちすら無視をして魔理沙を問い詰める霊夢。しかし対する魔理沙のおざなりともふざけているとも取れる返答に、霊夢は更に肩を震わせた。

 形のいい柳眉は眉間に寄せられ、その真っ直ぐな瞳で以って魔理沙を射抜く。しかしそんなものにはとうに慣れきっている魔理沙は、さして気にもせずに知らぬふりを決め込んだ。

 

「それに、お前が思ってるほどこいつは弱くねェぞ。さっきもそこそこ強い妖怪の群れを一人で捌いてたしな。……いい加減にしといたらどうなんだ」

「……っ、この――」

「あ、あのっ……霊夢さん?」

「っ!」

 

 飛び出しかけた手が、びくりと止まる。魔理沙の胸ぐらを掴みあげようとしていた霊夢は、不安そうな吹羽の声に過剰なほど反応していた。

 そして悔しそうにぎりりと歯軋りをして、握り拳を震わせながら魔理沙をひと睨みした後、そっぽを向くように前に向き直った。

 そんな彼女の態度に、魔理沙は腕を組んで軽く鼻を鳴らす。それはやっぱり、二人が喧嘩をしているようにしか見えなくて。

 

 吹羽には全く分からない。

 普段から仲がいいと思っていたはずの二人が、出会うなり妖怪たちをすら放っておいて喧嘩を始めたのだ、それも自分を引き合いに出した上で。困惑するのは当然である。

 話の意図が全く掴めず心配そうに二人を交互に見遣ると、不意に魔理沙の手がぽふんと頭に置かれた。

 見上げれば、魔理沙は優しげな微笑みで吹羽を見つめていた。まるで「こっちの話だから気にすんな」とでも言っているかのように。

 

 本当にただの喧嘩なら、吹羽はここできっと「仲直りのお手伝いをします!」と言って喰い下ったろう。

 だが感情に聡い彼女は、二人の表情からこの喧嘩がそういった単純なものではないのだろうと何となく察していた。きっと自分が首を突っ込んだところで解決などせず、むしろややこしいことになるかもしれない、と。

 だから吹羽は何も言わない。

 魔理沙の手と微笑みを受け入れ、霊夢の背に言葉はかけず、傍観者であることに決めた。

 

 あたふたと仲間を起こし、その瞳からようやく戦う意思を見せ始めた三人の妖怪を見遣って、魔理沙はす、と霊夢の隣に並んだ。

 

「よっし、ンじゃあやるか霊夢。丁度三人同士だしな」

「引っ込んでて魔理沙。助けはいらないわ。一人でやれる」

「一度取り逃がした奴が何言ってる。いろいろ思うところはあるんだろうが、無理すんな。わたしもいるし吹羽もいる。わざわざしんどい方を選ぼうとすんじゃねェよ面倒くさい。なぁ吹羽?」

「へ? あ、えと、そうですよ霊夢さん! 大変なら手伝いますから、頼ってください!」

「………………」

 

 言いながら、魔理沙とは反対方向に霊夢と並ぶ。

 そこで霊夢は、始めて吹羽に視線を向けた。

 視線が重なって、その美しい黒い瞳に見えたのは怒りでも呆れでもなく、ただひたすらに心配そうな優しい色だった。

 数秒見つめあって、霊夢は疲れたようにため息を吐くと、先ほどの魔理沙と同じように吹羽の頭に手を置いて、ゆるりと髪を撫でた。

 

「……無茶だけはしないでね。辛かったらすぐに呼びなさい。一瞬で叩き潰して助けに行くから」

「ぁ、はいっ」

「ほれ、そーゆーところだぜ」

「黙りなさい」

 

 魔理沙の一言を超低温の言葉で切り捨て、霊夢はようやくその視界に妖怪たちを認めた。吹羽も魔理沙も、それに釣られて気を引き締める。

 分かっている。決して油断していい相手ではないのだ。対人戦闘に未熟な吹羽なら尚のこと。

 いくらやり取りが馬鹿っぽくても、相手は霊夢が一度取り逃がすほどの手練れ、もしくはそれ程の手札を持つ相手なのだ。

 刀を握る手に自然と力が入る。でも隣に霊夢と魔理沙がいる所為か、汗が滲んで滑るようなことはなかった。

 

 すーっと吸って、はーっと吐く。

 椛と勝負するときのように。文と勝負したときのような。

 少ない経験を生かし切って、ただ、そうすればきっと自分は打ち勝てる――そう信じる。すると、なんだかすぐ後ろで椛と文が背を押してくれているような、そんな気分になれた。

 なにより、魔理沙と霊夢という二人の圧倒的強者が、自分がここにいることを許してくれたのだ。その期待に応えなくて何が友人か。二人が信じてくれるのだから、自分も自分を信じるのだ。そんな姿の自分を、きっと阿求も望んでいるだろう。

 そしてそうできたなら、きっと無敵だ。誰にでも素直な思いを口にして、例えどれだけ滑稽でもひたすらに自分を貫く早苗のように。

 きっと自分は、無敵の乙女になれるのだ。

 

「吹羽はあたしが吹っ飛ばした赤黒いのをお願い。手傷があるから幾分か有利なはずよ。あたしと魔理沙は左右のやつ。なになにッスとかふざけたこと言ってるあいつには厄介な能力があるから、気は抜かないようにね」

「わ、分かりましたっ!」

「おーおー、お前をして“厄介な”か。これは俄然燃えてきたぜッ!」

 

 不敵に口の端を釣り上げながらパシッと拳と手のひらを打ち合わせる魔理沙。

 静かながらも陽炎のように濃密な霊力を揺らめかせて、しかし冷たく鋭いその中に僅かな暖かさを内包して佇む霊夢。

 小太刀を二刀構え、瞳に宿った翡翠の光を残像のように残しながら、幼い少女とは思えぬ鋭利な雰囲気を醸す吹羽。

 

 三人の姿に、相対する妖怪たちは一歩後ずさる。人間を相手にしているとは思えないその迫力に、本能が警鐘を鳴らしていた。

 

 こいつらは、ヤバイ――……。

 

 

 

「「「さぁ、妖怪退治です()(だぜ)ッ!」」」

 

 

 

 覇気のある宣言が、木霊した。

 

 

 




 今話のことわざ
例外(れいがい)のない規則(きそく)はない」
 どんな規則や法律にも、必ず律しきれないものがあり、例外はつきものだということ。

 え、ネタがつまんない? わかる(天下無双)


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第三十話 胎動

 

 

 

 刹那、動いたのは霊夢と魔理沙だった。

 霊夢はまるで瞬間移動かのような速度で宙を駆け、魔理沙はいつのまにか手にしていた箒に飛び乗って、これまた霊夢と同程度の速度で妖怪達に肉薄する。標的はそれぞれ、左右の二人。

 

「テメェの相手はわたしだ!」

「ちっくしょー! やってやぐべぇッ!?」

 

 短剣を持った特徴的な語尾の妖怪は、急接近してきた魔理沙に横っ腹を勢いよく蹴り飛ばされ、

 

「あんたはこっちよ」

「ぶへっ!?」

 

 黒い肌をした妖怪は霊夢の速度に全く反応できず、彼女の大幣を顔面に受けて吹き飛ばされた。

 二人はその後に素早く追従し、それぞれの相手と面向かう。吹羽の下に残ったのは、初めに現れて初めに吹羽たちに感付き、そして初めに吹き飛ばされた赤黒い肌に棍棒を持った妖怪。

 彼は吹き飛ばされた仲間には目もくれず――あるいはそんなことを気にする余裕もないほど怒りと焦燥に支配されて、吹羽を血走った目で睨みつけていた。

 

「……おい、てめぇはこねェのか?」

「行きませんよ。近付いたら危なそうですから」

「あ?」

「眉の端っこが震えてます。ボクが作戦に引っかからなくてイラついてる証拠です」

「っ!」

「だからボクは――こうするんですッ!」

 

 流れで飛び込んできた瞬間に能力(・・)で串刺しにするつもりでいた妖怪は、図星を突かれてギクリとした表情をこぼした。そこに吹羽は手に“飛天”を顕現させて発射した。

 吹羽の風紋武器の中でも最高位レベルの威力を誇る暴風が、呆けた表情へ瞬時に塗り変わった妖怪へ襲いかかる。

 

「なんっだそりゃアッ!?」

 

 反射かどうか、妖怪は一瞬で棍棒を振りかぶると力のままに暴風に叩き付けた。

 力は拮抗している。たった一本の杭が生んだ竜巻の如き風の砲撃と何匹もの同族を屠った力ある中妖怪の得物が、衝突して鎬を削って、互いに部位を弾け飛ばしながらも一歩も引かずに拮抗している。その事実はきっと、妖怪からすれば理解しがたいことだったろう。か弱いはずの少女(吹羽)が放った一撃を前にして、思わず驚きの声が出てしまう程度には。

 

 そしてその状態は、吹羽が自ら狙って引き起こしたことだった。

 

 油断できる相手ではない。自分は弱いのだ。あの棍棒は言わずもがな、きっと指先で一撫でされただけで簡単に死んでしまうほど。

 だからこそ全力で挑む。後のことは後で考える。今この瞬間、信じてくれた二人に応えるためにも、自分の全てを以ってこの妖怪を超えてみせるのだ。

 だからそのためには――ほんの少しだけ、時間(・・)が必要だった。そのための“飛天”である。

 

 吹羽はゆっくりと目を閉じた。視界は暗く、呼吸は静か。だんだんと浅くなっていく息遣いはまるで、“それすら不必要”だと、身体がその機能を意識から切り離したようにすら感じられた。

 声は遠く、鼓動の音すら聞こえない。音も感覚も、あるいは意識すらもない真っ暗な空間に一人佇んでいるように、吹羽は今あらゆる事象から隔絶されていた。

 全身に叩きつけるように吹いてくる暴風すら無視をして、吹羽はひたすら意識の深く深くへと潜り込む。

 そんな――常軌を逸したとてつもない集中を経て、吹羽は果てに辿り着く。

 

 それはある種、人に許された力を超えた能力。あらゆる物事を、事象を、森羅万象を瞳に映し測っては理解する力。全てを観測するゆえに未来予知染みた予測すら可能にし、あらゆる物事を上から俯瞰することを許してしまう究極の洞察眼。

 

 瞼を開けば、ほら。

 そこに広がっているのは、手のひらにさえ乗ってしまいそうな、小さき世界(・・・・・)――……。

 

 

 

「“視野”――全開ッ!」

 

 

 

 燦然と輝く瞳を以って、遂に吹羽は人外の領域に到達した。

 

「なっ……めんなァアアアッ!!」

 

 妖怪の咆哮が轟き響く。たった一本の杭に足止めされている事実に業を煮やしたのか、妖怪は遠慮なく内包する妖力を解放して雄叫びをあげていた。

 可視化した妖力が炎のように纏わりつき、妖怪のステータスを大幅に強化する。棍棒はその後追い強化によって勢いを増し、途端に“飛天”の砲撃の威力を上回り始めた。

 そして遂に砲撃を砕き散らそうかというその瞬間。

 

 ――ヒュパッと軽い音が鳴ると同時、練り上げられた妖力は鎧を剥がされたかのように一部分が飛び散った。

 

「ンな、にィッ!?」

 

 後追い強化が途切れたことでガクンと力が抜ける。威力の勝る風の砲撃が、再び棍棒を圧倒し始めた。

 続いて同じように軽い音を鳴らしながら次々と妖力が吹き飛んでいく。驚愕に見開く妖怪の目がかすかに捉えたその原因たるものは――濃い霊力でできた小さな釘たち。

 吹羽の放った、“疾風”である。

 

「まさか、凝ったとこ(・・・・・)を狙い撃ちしてんのかッ!?」

「最後! そこですッ!」

 

 言葉とほぼ同時に発射・妖怪の胸に着弾した“疾風”は、妖力の鎧の核たる“凝った点”をズレなく撃ち抜き、完全に強化が途切れた妖怪は遂に体勢を崩して風の砲撃に直撃した。

 

 ――霊力や妖力の流れは、川と同じだ。

 流動的であり、波の性質を持ち、流れる場所の凹凸によって容易に流れを変える。つまり複数の波が重なった部分は自然と振れ幅が大きくなり、エネルギーが凝るのだ。

 可視化した力は言わば激流である。

 濃密過ぎて誰の目にも見えるようになった力はエネルギーの塊であり、激しく流れうねって使用者の力になる。だがそのお陰で、エネルギーが特異的に集まった多数の波が重なる部分――凝った点が発生するのだ。

 

 霊力や妖力は生命エネルギー。“命が交わる”ことがないように、二つは基本的に水と油の関係である。多量の妖力の中に濃い霊力を打ち込めば、当然周囲の妖力を弾き飛ばして貫通する。

 つまり――濃い霊力の塊で妖力の核を砕けば、溜め込まれたエネルギーが周囲の妖力をも吹き飛ばして四散するのだ。

 

 とはいえ、激流なのだから核の位置は刹那のうち何十回何百回と変化するし、妖怪も止まったままではない。そのうえ核なんて肉眼で見えるものではないのだ、現実的に砕くのは不可能である。例え霊夢でも苦い顔で首を横に振るだろう。

 

 だが、吹羽にはそれが見えるのだ。

 

 刹那のうちに位置が変化する?

 ――吹羽には止まっているように見える。

 

 妖怪は常に動く?

 ――吹羽には妖怪の動きの、先の先の先が常に予見できる。

 

 核は肉眼で見えない?

 ――吹羽には妖力の濃淡なんて赤色と青色くらいはっきり分かる。

 

 見える。視える。全てが観える。

 観えて捉えて、手のひらで弄ぶことさえ容易にできる。できてしまう。

 それが吹羽の有する能力、“ありとあらゆるものを観測する程度の能力”の真価。

 鈴結眼の――その力である。

 

「くッ……そがァアアッ!!」

 

 暴風に巻き込まれた妖怪は、身体中に小さな傷を作りながらも力づくで地に足を突き込み、強引に踏み止まった。同時に棍棒を振り抜き、その圧で以って残った風を引き千切る。

 

 ――が、ちょうどその開いた胸元に。

 

「『韋駄天』っ!」

「ぐがあっ!?」

 

 風紋で瞬時に飛び込んだ吹羽は、胸元が開いてがら空きのその顎下へ、厳かに“韋駄天”を打ち込んだ。

 少女とはいえ人ひとりを持ち上げるほどの推進力を生み出す“韋駄天”は、妖怪の重い頭をかち上げてなお吹羽の体を浮かせたままに一瞬維持する。

 吹羽は片手を腰の金属に滑らせながら、“韋駄天”を横に振るってくるりと回転する。

 

 そして、良い的となった妖怪のその体へ。

 

「『大嵐』ッ!」

 

 “韋駄天”による遠心力を補助に、片手で持った大太刀(大嵐)を容赦なく叩き付けた。

 

 かつて文が放った風の砲弾すら正面から粉砕した超威力の暴風が、ゼロ距離で炸裂する。

 それはもはや“吹き付ける”などという生易しいものではなく、まさに巨大な壁がダンプカーの如き力で衝突するに等しいか、それ以上か。

 妖怪は苦悶の声を上げることさえも出来ずにカッ飛ばされた。大型車両の如き圧力を受けてなお五体満足でいられたのは、腐っても中妖怪というところか。

 ――尤も、彼の体格などから分析して「これくらいなら壊さずにダメージを与えられるだろう」と計算された攻撃だったわけだが。

 

 吹羽はふわりと着地すると、手から“韋駄天”と“大嵐”を消滅させ、今度は両手に“風車”をいくつも顕現させた。

 自らの愛刀と同じ、斬撃範囲の拡張ができる小さな手裏剣。吹羽は目標までの距離を瞬時に、正確に目算、軌道と角度の確認を終えると、躊躇いなく投げ放った。

 

 使い慣れた武器だ。投げる練習などいくらでもした。“風車”は吹羽が視界の中で描いた通りの軌道で宙を飛翔すると、その鋭利な刃で以って寸分違わず目標を切り裂いた。

 

 命中したのは――木。

 吹き飛んだ妖怪の周囲の木々だ。

 幹の一部分を抉るように切り取られた木々は、重力に従ってミシミシと音を立て、導かれるように妖怪の方へと倒れ込んだ。

 巨木である。少なくとも数十年は生きているであろう立派な堅木。当然重量は相当なものだ。それが複数本、狙い定められて妖怪という一点にのしかかる。

 

 地響きを轟かせ、煙幕のように大量の砂埃が巻き上がって視界を塞ぐ。周囲はいっそ濃霧の中に迷い込んだような有様だった。

 

 吹羽はその様をじっと見ていた。より正確には、木々に押し潰されたであろう妖怪を見透かしていた。

 決して慢心ではない。油断でもない。足を止めたのは偏に、今飛び込むべきではないから。じっと見ているのは偏に、これから現れるものが観測すべき対象であると判断したから。

 吹羽の瞳は確かに捉えていたのだ。

 押し潰される瞬間の妖怪の表情――赤黒い肌に血管を浮かせて、歯を噛み砕いてしまいそうなほど軋らせて、苛つきか、怒りか、兎も角あらゆる負の感情を煮詰めた激情に全てを支配されている様を。

 故に、推測する。

 彼はおそらく――ここでなんらかの能力(・・・・・・・)を解放するだろう、と。

 

「――ぁぁァアアアアァアッ!!」

 

 刹那、無数の風切り音と共に、砂埃の煙幕が散り散りに吹き飛んだ。

 同時に細切れ(・・・)にされた木々の断片が雨のように降り注ぐ。埃っぽい風や鋭利な木の断片がぱちぱちと肌にぶつかるも、集中し切って意識も希薄な吹羽は気にせず妖怪を凝視していた。

 

 そこにあったのは、火山の如き怒り。

 己の身すら焼き焦がして灰と化さんばかりの、抑えの効かない憤怒が血走った眼から噴き上がっていた。もはやそれだけで呪い殺せそうとすら思えるその鋭く強烈な視線を、妖怪はただ吹羽にのみ注いでいる。

 その周囲には、ゆらゆらと妖力でないもの(・・・・・)が咆哮と共に激しく揺らめいて、彼を守るように囲っていた。

 

「ぉおおあああッ!! 殺すっ、殺す! 殺してやるぞクソッタレがァァアアアッ!!」

「……そうですか」

 

 妖怪の殺意漲る咆哮とは対象的に、吹羽の言葉は酷く静かで冷たかった。

 それは確かに、意識が希薄で感情の篭った言葉を返せない状態にあるという理由もあったが、最も大きな理由は――文字通り、その殺意が薄っぺらく感じられたから。

 

 あの時の文の殺意と比べれば、彼の怒りと苛立ちのみからくる怒りは激しく燃え盛りこそすれ、そこにある想いがやはり軽々しく感じられるのだ。

 ただ、己を強者と考えて憚らない者が、弱者だと見下していた者に蹂躙されることへの拒絶反応。そんなことあるわけがない! と現実を受け入れず、駄々をこねるだけの子供の様相。

 

 そんなもの恐るるに足りない。いくら慢心しない油断しないと心に決めていても、ただ怒りに任せて暴れまわるだけの悪鬼に負けるわけはない。負けるわけにはいかない。

 だから吹羽は、どこまでも不敵に構える。

 受け止めてやる、と言わんばかりに。

 遊んでやる、と宣うように。

 

「なら、殺してみてください。ちょっとやそっとじゃ、ボクは死にませんよ」

「ガキがァ……生意気なんだよォッ!!」

 

 刹那、妖怪の左目が紫色に染まったかと思うと、彼を中心にブワッと突風が広がった。

 ――否、吹羽の瞳はしっかりと捉えていた。広がったのは突風ではなく……()だ。

 

「(……なに、これ?)」

 

 飛来する見えざる刃を、しかし吹羽はしっかりと見つめて隙間を見いだし避けていく。そうして片手間に捌きながら、ぽつりと不思議に思った。

 だって、さっき木々を粉々に切り飛ばしたのは――()のようだったのだ。

 

「(でも、今のこれは……風圧? ボクの“鎌鼬”みたいな……)」

 

 一際大きくまっすぐ飛んできた斬撃を翻って交わしながら、吹羽は横目でそれを観察する。

 まるで陽炎のように景色が歪んでおり、よく見ると“鎌鼬”とは構造が違うようだった。あれは風紋の力で風を収束・同方向に急激に流動させることで刃を生み出している。だがこれは、まさに大気を押し固めて刃にしているようだ。だから空気成分のモル濃度が特異的に上がり、光の屈折率が変わって、景色が歪んで見えるのだ。

 

 初めに見えたのは明らかに影だった。例え砂埃の中だろうと、“視野”を完全開放した鈴結眼に観えないものはない。確かに、黒くてゆらゆらしていて、地面から噴出したそれが瞬く間に木々を微塵切りにしていたのだ。

 

 影を操る能力じゃない? 刃を生み出す能力? 否、攻撃するのに刃物を真似るのは良くあること。何かを操って刃状にしていると考えるのが無難なところか。それに、例え刃を生み出す能力なのだとしても――大気を扱っている限り、わざわざ避けずとも“太刀風”で断ち切れる。

 

 どちらも大気の力だ。固めているか流しているかの違いでしかない。

 吹羽は理解していた。恐らくはどこの誰よりも風や大気に造詣の深い刀匠である吹羽が作り出す風の激流は――ただ集めただけの塊なんて、いとも容易く引き千切る!

 

「ひとまず、対処ですっ」

 

 能力に謎は残るが、対処しなければ道はどのみち開けない。

 吹羽は再び“太刀風”を二振り抜刀すると、無理に避けるのをやめて不可視の刃を断ち切り始めた。

 

 刃と化した大気の塊と、秩序に則って収束した風の刃が、それとは思えない衝突音を響かせる。吹羽の風は少しの抵抗もなく妖怪の刃を断ち切り、その破片は散弾銃のように周囲の木々の肌を傷つけていった。

 

「クソがッ、これでもダメかよッ!」

 

 粛々と舞うように刃を断ち切る吹羽の姿に、妖怪は思わず悪態付いて更に能力に力を込めた。

 より一層激しく撒き散らされる不可視の刃。もちろん威力は凄まじく、まともに食らえば小さな吹羽の体などいとも容易く真っ二つになるだろう。それが無数に暴れまわり、最早一種の弾幕のようにすら思えた。

 ――だが、それがどうした、と。

 全部見えるし、全部視える。視えるなら分析ができ、分析ができるなら対処のしようなどいくらでもある。そう、先ほどのような、お互いの得物に対する相性とか。

 確かに威力は上がって巨大化すらしているが、結局構造は同じ。つまり――、

 

「何度やっても……同じことですっ」

 

 風紋が最大限の性能を発揮するよう“太刀風”を振るえば、刀身を撫ぜた風は秩序的に収束。本来の刀身の長さすら超えてすらりと伸び、瞬く間に烈風の大太刀が顕現する。

 そして、吹羽の身の丈を優に超える妖怪の刃をも、変わらず断ち切って破壊した。

 

 苦虫を噛み潰したような表情の妖怪は、追加で攻撃をするつもりなのか妖力を練り始めた。

 が、それを許すほど吹羽は慢心しない。“太刀風”を振り回す合間に“疾風”を放り、練り上げられる端から核を撃ち抜いて四散させる。能力の正体は分からないが、妖力を用いているなら核を潰せば行使できない。それが分かれば、もうこの妖怪は吹羽の敵ではないのだ。

 

 体力的にももう少し保つ。攻撃しようとすれば核を撃ち抜いて寸前に全て潰す。例えどんな変則的な動きをしようと吹羽の刃は間違いなく届き、妖怪の攻撃は掠りもしない。

 これは蹂躙劇だ。吹羽はもはや、妖怪に一切の抵抗を許すつもりもなかった。

 

「“渇して井を穿つ”という諺があります。もう何をしても遅いですよ。全部……見切りましたっ」

 

 “疾風”による妨害で攻撃もままならない妖怪は、遂に妖力を体に巡らせての防御を始めた。

 だが、そんなもの薄っぺらな紙に等しい。吹羽は多数ある妖力の核を寸分違わず、一斉に撃ち抜いてその防御を一瞬で砕き割る。そして驚愕を通り越して戦慄に目を見開く妖怪の元へ、透き通った柳葉刀のような風紋刀を腰に構えて飛び込み、

 

「『天狗風(てんぐかぜ)』――!」

 

 はち切れんばかりに風圧を溜め込んだその刀を、もはや何も守るものがない妖怪の腹に叩き付けた。

 瞬間、刀身を中心に爆発といって過言でないほどの衝撃が発生し、ゼロ距離でそれを受けた妖怪は腹をズタズタに傷付けながら弾丸のように吹き飛んだ。

 土煙となぎ倒された木々が爆裂音と共に周囲に飛び散り、砲弾もかくやという威力で森を抉り吹き飛ばす。

 

 “天狗風”――振り回したりして風紋を機能させることで風を周囲に溜め込む機能を持った、吹羽の新しい風紋刀である。

 溜め込んだ風は風紋による緻密な制御の下にあるため、叩きつけたりして風の流れを乱すと溜め込まれた風が強烈な圧となって炸裂するのだ。

 かつて文が放った風の砲弾に着想を得た武器。“韋駄天”との併用で素早く、そして限界まで溜め込んだ風圧は、“大嵐”と同等かそれ以上か。

 その性能を活かし切った一撃により、吹羽は妖怪に致命的とも言えるダメージを与えることに成功したのだ。

 

 妖怪は吹き飛んだ先の巨木に衝突して、力なく座り込んでいた。身体中から血を流し、歯を食いしばっているものの立ち上がらないところを見るに、もうほとんど戦う力は残っていないのだろう。

 

 見るも無残なその姿は、未だ意識が希薄な吹羽にも少しだけ胸を刺すような痛みをもたらしたが、彼女の心は揺らがない。

 この妖怪は既にいくつもの命に手をかけた。ならば報いは受けなければならないのだ。それに躊躇するのは任せてくれた霊夢と魔理沙に失礼である。

 

 罪には罰を、報いを、後悔を。

 お人好しな吹羽ではあるが、明らかな悪人を正当化して庇うほど愚かではない。

 ただ、命だけは奪わないであげようと思えるあたり、やはり吹羽はどこか甘く、優しい人間だった。

 

「く、そ……なんで俺が……この猪哭(いなき)様が……っ、こんなガキに……ィッ!」

「………………」

 

 心底恨めしげに睨んでくる妖怪――猪哭に対して、吹羽は相変わらずの冷めた視線を真っ向から返していた。

 否――能力を継続して発動している故表情に現れないだけで、内心では困り顔を浮かべていた。

 とりあえず戦えなくなるまで蹂躙はしたが、反省の色は全く以って見えない。命は奪わないと心に決めた以上、どうにかして改心させるしかない訳だが、いまいちピンとこないのだ。こういうとき一番確実であろうことは恐らく……“ご”から始まって“ん”で終わる四文字のアレなのだが、そんなもの吹羽はできないしできたくもない。ついでに見たくもないものだ。ちょっとトラウマだから。

 

 はてさて、どうしたものか。いっそ泣いて謝るまでボコボコにするか? いやでもそれって“ご”から始まって(以下略)と大して変わらないんじゃ? ――と、変わらない無表情の内側でボーッと(・・・・)考える吹羽。

 しばらく考えて、吹羽は仕方なく“鎌鼬”を抜いた。良い案が思いつかない以上、悪い案でもやらないよりマシだ。

 仕方ないのだ。これも世のため人のためひいては霊夢と魔理沙のため。やりたくなんて毛頭ないが、きっと霊夢ならそんなこと(私情)で躊躇ったりしないだろうから。

 

 そうして貼り付けたような無表情を少しだけ歪めながら、小刀を振り上げて――その瞬間だった。

 

 

 

 木々が、弾けた。

 

 

 

 側面の木々の壁を突き破り、凄まじい勢いで何か巨大なものが飛んできて猪哭同様に衝突して止まった。

 

「ッ! なにごと、です……っ!?」

 

 少しして砂埃が晴れてくると、それが何だったのかも自然と見えてくる。飛来したのは――奇妙な語尾を使っていた、猪哭の仲間の妖怪だった。

 

「な、んで……通じない、ッス……?」

「悪いなぁ。なんか潜り込む系の能力(・・・・・・・・)なんだろうが、まとめて吹っ飛ばすのは得意なんだよ、わたしは」

 

 得意げにそう返しながら、その惨状を生み出した人物――魔理沙がふわりと降りてくる。その手には小さく煙を上げるミニ八卦炉の姿があった。

 彼女は薄く笑いながらふっ、と煙を吹き散らすと、ちらと吹羽を見遣って、

 

「おお、こっちは吹羽の方だったか。悪い、分断した意味がなくなっちまったな」

「いえ、こっちも終わったところですから」

 

 戦闘の終わりを悟り、解放していた“視野”を狭めながら――完全に解くと恐らく疲労で倒れるので――言葉を返す。

 それを受けて、視線を座り込む猪哭に向けた魔理沙は、心底感心したように「ほう……」と呟いた。

 

「やるじゃんか吹羽。正直キツそうなら助けに入ろうかと思ってたんだが、杞憂だったな」

「魔理沙さんの方はどうだったんですか? 霊夢さんが厄介だって言ってましたけど」

「見ての通りさ。あのヤロウ影とか空気とかに溶け込むみたいな能力を使いやがるから、影も空気もまとめて吹き飛ばしたんだ。あの能力なら霊夢が取り逃すのも納得がいくが、わたしが相手だったのが運の尽きだなっ」

「霊夢さんが聞いたら心外な顔しそうですね……」

「事実だしな。適材適所っていうだろ?」

「まぁ、それもそうですね」

 

 どうやら魔理沙はあの妖怪を相手に圧倒してきたらしい。彼女の言う通り相性というのもあるのだろうが、それだけで中妖怪を一方的に制圧することなどできない。そこはやはり異変解決者、幻想郷屈指の実力者というところだろう。

 不敵な笑顔でぱちんとウインクを送ってくる魔理沙に、吹羽は改めて“すごい人だ”と感心の眼差しを送った。

 

「く……あぁ……っ!? 猪哭の兄貴まで、やられたんスか……!?」

「うる、せぇぞ揶八(やはち)……だが、丁度いい……さっさと、回復(・・)しやがれ……ッ!」

「う、ういッス……!」

 

 魔理沙と軽い会話をしていると、そんな言葉と共に薄い妖力が二人を包み込むのを感知する。

 咄嗟に向けあっていた視線を外して妖怪たちを見遣れば、既にそこにはある程度の傷が回復して、ゆらりと立ち上がる二人の姿があった。

 

「あ? あいつ回復術なんて持ってたのかよ。さっきまで使う素振りもなかったくせに」

「使う暇がなかったんじゃないですか? 吹き飛ばしまくったんですよね?」

「ンあぁ、そういうことか。納得だぜ」

「もう好きにはさせないッスよ解決者……オレたちの連携を見せてやるッス!」

 

 再び構えを取る二人の瞳には、やはり煮え滾る憤怒の炎が黒く燃え盛っていた。

 まだ戦いは終わっていない――魔理沙が来たことで緩みかけていた気を引き締め直し、吹羽は再度視野を全開にまで解放した。

 

「おい吹羽、まだいけるよな?」

「……保ってあと数刻です。それ以上は」

「上等ォ……連携だなんだとほざいてるが、わたしと吹羽だって伊達に友達やってねー」

 

 魔理沙は強気な笑みで手を前に出すと、妖怪に向かって三本指を立てた。

 

「数刻、なんて甘っちょろいこと言わねェよ。三……三ッ刻で仕留めてやる。お前たちみてェな調子乗った妖怪には、拳骨と言わずマスタースパークを見舞ってやるから、覚悟しとけよ?」

 

 その挑発的な文句が頭にカチンと来たのか、妖怪たちは凄まじい形相で吹羽と魔理沙を睨めつけ、武器を振りかぶって走り出した。

 それに合わせるように、吹羽と魔理沙も各々の武器を手に構え、迎撃の姿勢を表す。

 

「さぁ、第二ラウンド開始だぜっ」

 

 閃光と風が、迸った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――風圧で吹き飛ばしたり、魔法で消し飛ばそうとしたり。

 吹羽や魔理沙が、少女たちの手による戦闘とは思えない爆音を伴って派手に戦っているのに対して、霊夢の方は酷く静かだった。

 腹の底に響くような雄叫びなどなければ、得物同士のぶつかる音もない。爆音など気配すらなく、たださわさわとした葉々の擦れる音だけが爽やかに鳴っている。

 

 当然のことだ。

 何せ霊夢は――既に戦闘を完全に終えているのだから。

 

「ぐ、ぐぞぅ……なに゛を、ずるぎだぁ……ッ!」

「別に。確認を取りたいだけよ」

 

 喉を潰されたのか嗄れた声で恨めしげな言葉を放つのは、苦しそうに地に這い蹲る三人目の妖怪である。必死に頭をあげて、血に涙によだれにでぐしゃぐしゃになった顔を霊夢に向けている。そこにはもはや睨み付けようという気概さえも消え失せていた。

 身体中が無数の打撲痕に侵され、一部には焼けただれた痕、皮膚が弾け飛んだ痕、あらぬ方向に折れ曲がった痕――……原型を失いかけた無残な姿が、そこにあった。

 大して霊夢は、普段と変わらぬ澄まし顔で妖怪を見下ろしていた。その息に欠けらの乱れもなく、真白な肌には汗すらもない。髪も瞳も服装さえ乱れはなく、そのまま卓袱台についてお茶を啜っていても何ら不思議はない様相である。

 

 ――一方的、且つ圧倒的な蹂躙劇だったのだ。

 息も乱れず、汗もかかず、髪も瞳も服装さえ乱れず、一方的に中妖怪を無残な姿に変えられるほどに。たった今も、霊夢はただ霊力による圧だけでこの妖怪を地に這いつくばらせていた。それだけの差が、霊夢とこの妖怪の間にはあったのだ。

 わざわざ両手両足を折るまでもない。霊力を解放して、それを一気に上から押し付けてやればいとも簡単に制圧できる。ではなぜ無残に傷付けたのかといえば――それはある種の八つ当たり(・・・・・)のようなものだった。故に彼女は、今非常に不機嫌なのだ。

 とはいえ、やはり目的を忘れているわけでもなくて。

 

「あんた……霍麻(かくま)だっけ? 幻想郷への不平不満を謳い文句に暴れ回ってたのはあんた達で間違いないわよね。なんで今更こんなこと始めたのかしら」

「ぞ、ぞんな゛ごど……ぎいでどうすグギャアァアアッ!?」

「答えなさい。そこまで力があるならそれなりの年月をこの世界で過ごして来たはず。不満があったのなら、なぜその時に動かなかったの? なぜ今になって始めたの?」

 

 問いに問いを返してきた妖怪の手の甲に、霊夢は退魔針を容赦なく突き立てて問い詰める。

 躊躇いはなかった。例え拷問染みていようと、これは必要な情報だから。仮に霊夢の仮説(・・)通りなら今回はこの件だけでは終わらない可能性があったからだ。

 

 今回の件、事例自体は過去にいくつもあり霊夢自身が解決したものも少なくはないのだが、そのどれとも違う点が一つある。

 それは犯人達が中妖怪以上の力を持っていたこと(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)だ。

 どんな妖怪も、いきなり強大な力を持ったりはしない。初めは人間達の負の感情が降り積もっただけの小さく矮小な妖怪である。その姿で活動し、人間を脅かし、長い時間を生きて人々の負の感情をさらに溜め込むことで妖怪としての格を上げていく。

 幻想郷に賛同できない者は必然的に小妖怪なのだ。幻想郷に賛同していたからこそ中妖怪になるまで生き永らえることができると言い換えてもいい。不満だなんだと暴れまわる小妖怪など、幻想郷の仕組みを理解している他の妖怪に潰されて終わるだけだから。

 

 だからこそ今回は奇妙なのだ。

 中妖怪が幻想郷への不満で暴れまわる? そんなもの前例がないし、意味が分からない。なぜ今になって暴れ始める? 常識的に考えて、暴れまわるほど今の幻想郷が我慢ならないなら、もっと早い段階で行動は起こすだろう。

 

 だから霊夢は、推測した。

 起きたことは起きたことだ。それが普通でないならば、きっとなんらかの理由がある。その理由如何で、今後の対応が変わっていく。

 鋭く目を細めて、

 

あんた達を焚きつけた奴がいるんじゃないの(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)? 今まで“お利口さん”してたあんた達を、こんな馬鹿なことをするまで誘導した奴が」

「………………っ、」

 

 ――そう。つまり、まだ黒幕(・・)がいる可能性。

 

「あんた達の行動ははっきり言って奇妙の塊なのよ。突然暴れ出したことも然り、見せつけるみたいに殺して回ったことも然り」

 

 そもそも殺す必要性などどこにもなかった。幻想郷への不平不満とは即ち、妖怪が自由に人間を喰らえないことに対するものだ。自分達のみならず他の妖怪達のためにもなることで、例え彼らの意見に反対なのだとしても殺す理由はないし、況してあんな酷い殺し方をする必要もない。この妖怪達の得物で、どうやってあんな殺し方をしたのかは皆目(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)見当もつかない(・・・・・・・)が、それでは本末転倒にも程がある。

 この矛盾。この食い違い。霊夢は霍麻の肩口を強く踏みつけた。そして酷く冷めた視線で彼を見下ろして言う。

 

「……あんた達、本当は不平とか不満とか、どうでもいいんじゃないの?」

 

 ――そして、根本から間違っていたという可能性。

 

「何か他の目的があって……いえ、目的すらなかったのかもしれないわね。ただ殺したかったから、御誂え向きな理由をでっち上げて殺していた……そんなところかしら。……とんだ快楽殺害犯ね」

「………………」

 

 そもそも、幻想郷への不平不満というのがただの建前でしかなく、殺すこと自体を目的としていた――当然他の目的があった可能性は否定できないが、霊夢の神がかり的な直感は前者を肯定していた。

 何より計画性がなさ過ぎる。例え暴力で意見を押し通そうとしても、結局この妖怪達は外野で騒いでいただけに過ぎない。ちょっとうるさくなってきたな、と思ったから霊夢が成敗に来たというだけだ。

 いくら他の妖怪から意見の賛同を得たとしても、結界の維持を担う巫女と賢者に声が届かなければ全くの無意味。そも本当に幻想郷の改革を望んでいるなら、今日霊夢に見つかった時点で逃げずに戦うなり話し合おうと努めるなりすればよかったのだ。

 だが実際は。

 幻想郷屈指の実力者。大妖怪すら軽く圧倒する最強の巫女。そんな天上の存在を前にして、彼らは遂に()を出したのだ。

 

 彼らを見る霊夢の瞳は酷く冷たかった。汚物を見るよりも感情の籠らない、呆れ果てた先に関心すら無くしたような絶対零度の瞳。

 霊夢は妖怪をきつく踏み付けながら、八つ当たりしたことが正しかったのだとぼんやり思った。

 結局、なぜ彼女がこんなにも不機嫌なのかといえば、まぁ一割くらいはこの妖怪達への侮蔑だったが、残りの九割九分は吹羽を連れてきてしまった魔理沙への(・・・・・)怒りだ。

 あれだけ言い含めたのに、結局魔理沙は吹羽を巻き込んでしまった。吹羽が望んだことだと聞かされ、また魔理沙を――自他共に認める親友を半殺しにするのは流石に気が引けたため見逃したが、この妖怪は八つ当たりするにいい的だった。怒りに駆られてそこら辺にある石ころを川にぶん投げても、誰も文句は言わないだろう?

 

 八つ当たり――そう、八つ当たりなのだ。怒りなのだ。それは吹羽が心配で仕方ないが故の、魔理沙に言わせれば実に“霊夢らしくない”怒りだった。

 

 文の一件で自分が過敏になってしまっている自覚はあったが、それは意識して抑え込めるほどヤワな感情ではなかった。

 吹羽は自分が守ると決めた相手だ。魔理沙の言うようなアレでは決してないが、守ると決めたのは紛れもない本心である。だからもう吹羽を戦いに巻き込みたくなかった。巻き込む必要性も感じなかった。例えそれがどんな些細なモノでも、吹羽が傷付く――心身のどちらだろうが――可能性があるなら、と。

 

 過保護だ、と最近はよく言われるが、霊夢はそんなはずない、と頑として考えを変えない。だって、誰も吹羽のことを理解してはいないのだ。その中で一番彼女に近いのは間違いなく霊夢(自分)なのだから、周りの言葉なんてあてにならない。そう、間違っているはずはない……自分がしていることは正しい――……。

 

 

 

 ――だが、霊夢はすぐ後悔することになる。

 無理矢理にでも魔理沙を止めなかったことを。

 力尽くでも吹羽を里に閉じ込めて置かなかったことを。

 

 

 

「――……それで、言う気になったかしら」

 

 踏みつける足には力を、手に持った大幣には鋭利な霊力を纏わせながら、霊夢は無表情無感動な声音で問う。尤も、そこには「言うまで甚振るけれど」という暗黙の言葉が滲み出していたが。

 霍麻は答えず、必死の形相で持ち上げていた顔も俯かせて黙っていた。ただふるふると小刻みに震えている。

 遂にやせ我慢もできなくなったか? と思い、あと少しで聞き出せるかもと理不尽に意気込んだ霊夢は更に霊力の圧と足に力を込める。生半可な妖怪ならミンチになっているであろう圧力だ。そうでなくても骨の数十本は折れていておかしくない力だった。

 

 ――が、そうして僅かに苦悶を漏らした霍麻は。

 

「く、はは……ありがとよ、時間をくれて」

 

 口角を釣り上げ、笑いを堪えて(・・・・・・)震えていた。

 

 刹那、霊夢は瞬時に霍麻の首を刎ねにかかった。濃密な霊力を纏った大幣は一撃必殺の剣に等しい。天性の才覚を余すことなく発揮する霊夢の一太刀は、吸い込まれるように霍麻の首を美しく薙いだ。

 薙いだ――のだが。

 霊夢は大きく目を見開いて、霍麻と相対して始めて感情を表す。

 即ち、驚愕。

 

 首のみが陥没して消え、霊夢の一撃を避けていた。

 

「くっ……」

 

 霊夢は驚愕もそこそこに思考を切り替え、今度は残っていた頭と胴体を消し飛ばすべく、自身の身の丈程もある巨大な霊力弾を叩き付けた。

 加減もなにもなく放ったそれは、容赦なく周囲を巻き込んで炸裂し、霊力の燐光を迸らせながら森の中にクレーターを形作った。当たれば確実に消し飛ぶ威力。否、例え直撃ではなくとも、爆発に巻き込まれれば五体満足では済まされない超絶威力の一撃だ。

 しかし、霊夢は期待しなかった。すぐさま霊力の瞬間解放による衝撃波――霊撃で以って砂埃を払うと、少し離れた場所に立つ霍麻を視界に捉えた。その身体には、霊夢がさんざ刻み付けたはずの傷が、何一つとして残っていなかった。

 

「あんた、回復術を……!?」

「ああ。お前が俺を殺さずにおいてくれたおかげで、施す時間ができた。あまり俺を舐めないことだ」

 

 どの口が、と吐きかけて寸前で押し止まる。そんな事よりも意識を割くべきことが、他にあった。

 

 先ほどの術――首が唐突に消え失せた現象。あれには見覚えがあった。忘れるはずはない。だってそれは、ついさっき(・・・・・)見たものだったから。

 

「(さっきの、影に潜り込む能力!? あれはあの語尾が変な妖怪の能力じゃなかったの!?)」

 

 それは霍麻を含む三人組のうち、妙な語尾を使う妖怪が行使していた能力だった。

 影の中に入り込み、或いは溶け込ませ、別の影から姿を現わすという瞬間移動にも似た力。天狗ほどとはいかないもののかなりの飛行速度を出せる霊夢ですら、三人を仕留め損ねた最たる理由。

 先程見たときは、能力が範囲的に作用するのか三人とも影に入り込んで逃げていたが、ここに来てどういうわけか同じような能力を霍麻が行使しているのだ。

 霊夢といえど、多少混乱するのは無理からぬことだった。

 

「さっきの質問だが、あいにく全てを答えるわけにはいかないのでな。だが敢えて一つ答えるなら――確かに俺たちは、幻想郷のルールなんてどうでもいいと思っている」

 

 今までで最大級の警戒を敷く霊夢を他所に、霍麻は朗々と語る。

 

「俺たちは弱い妖怪でな。大した力もなくて、ただ同胞の死体を漁る獣のような生活しかできなくて……そのくせこの世界に生かされ続け、存在意義を見失っていた。だから俺たちは決めたのさ。俺たちだって妖怪だ。負の感情から生まれた恐怖の象徴だ。だから俺たちが妖怪らしくあるために、他人を害する必要がある、とな」

 

 全く身勝手な主張だった。それは頭で分かっていた。

 が、内と外を隔てる博麗大結界の管理者である霊夢は、幻想郷に生きる現在の妖怪たちの中にそういった想いを秘めた者がいることも知っていた。

 恐怖の象徴。人を襲い、人を食う。仲間同士での殺し合いなんて当たり前。それが妖怪である、と。

 だから霊夢は声高に反論することができないのだ。ルールを破れば成敗する。がしかし、各々が持つ思想すらも強制させられはしないし、それを統一することの難しさも、その権利が自分に無いことも、霊夢は理解しているから。

 

 ただ、放っておけない事案なのは確かだ。幻想郷において妖怪が自由に人間を喰らえないのは、人と妖怪とのバランスを崩さないため。それが崩れれば、たちまちこの世界は意味をなくし崩壊してしまう危険性があるからだ。それ故に、妖怪を殺し過ぎるのも決して良いことではない。

 妖怪も、人間も、等しくこの世界の住人なのだから。

 

「博麗の巫女よ。俺たちはこの世界に不満などないのさ。ただ、管理されようが何だろうが、俺たちが俺たちであればそれでいい」

「ふざけないで。そんな身勝手な理由で大量殺戮なんてされちゃ堪ったもんじゃないわ」

「言ったぞ。俺たちには幻想郷のルールなんて知ったことじゃない。俺たちが俺たちであるために行動した結果この世界が壊れるというなら、それもまた定めだったということだろう。受け入れろ」

 

 他人を害すること。その衝動こそが自分を自分たらしめる。その為に他がどうなろうと知ったことではない。霍麻はどこか恍惚とした表情でそう語った。そしてそのためなら、どんな者にも邪魔はさせない、と。

 人間である霊夢には理解不能なことを、演説でもするかのように語って聞かせる霍麻は、クレーターの中心で見上げる霊夢をぎろりと睨んだ。

 

「邪魔をするな。お前は大人しくしていればそれでいい。妖怪が妖怪らしくあることの何が悪いのだ。俺たちが俺たちであることの何が悪いのだっ! 管理者なら管理者らしく、管理することだけを考えていろ。お前の掌で転がる俺たちをいつまでも静かに観賞していろ。俺たちは、勝手気儘にやらせてもらう」

 

 そうしてぴしと霊夢に指を向けた霍麻は、次いで手首を回すとくいっと人差し指を跳ね上げた。

 まるで、何かに「起きろ」とでも告げるように。

 

「そら……“影”ができているぞ?」

「っ!」

 

 瞬間、霊夢に襲い掛かったのは自分自身の影だった。

 一瞬のうねりを見せ、ぺろりと地から離れた影は鞭のように体をしならせて襲い掛かってきた。

 地から離れても影は影。人型であるそれは両手と頭部、合わせて三本の鞭で乱舞する。ドパパパッと空気を破る音を響かせながら、影は竜巻のような様相を呈して周囲を蹂躙した。

 

「なっ、めんなッ!」

 

 霊夢はそれに対し、周囲を爆破することで応じた。それそのものも霊夢の霊力を炸裂させたに過ぎないため、彼女にはダメージなく周囲を一時的に激しい光で照らすだけに止まる。しかし、影に光は効果覿面だ。

 霊夢の影は光に晒されたことで一瞬で消え失せる。炸裂による砂埃が晴れてくると、霍麻の支配から解き放たれた影は大人しく自分の足元に収まっているのが見えた。

 ただ――その間に、霍麻は霊夢の前から姿を消していた。

 

「ちっ……逃すかっ!」

 

 行き先に検討はつく。というより一つしかない。霊夢は一筋頰に汗を流しながら飛び上がり、予測される方向へと空を駆った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 四人の戦闘は苛烈を極めていた。

 影に、棍棒に、魔法に、刀。各々が己の誇る最大最強の武器で以って空を裂き、振るい舞う。四人が入り乱れるその地点は、森の中でもはや空き地のようにぽっかりとした穴を開けてしまっていた。

 が、圧倒しているのは間違いなく吹羽と魔理沙である。

 

「ちくしょー! なんでこいつらこんなに強いッスか!? 人間ッスよね!?」

「泣き言言ってんなっ! 隙を突いて――ッうお!」

 

 怒鳴り散らす猪哭の眼前を暴風が通り抜ける。引き千切られた大気が鋭く飛んで、ピッと彼の頰を薄く切った。

 

「人間、舐めんじゃねーよっ」

「う、げっ!」

 

 体勢を崩された二人に勝気な言葉が降りかかる。見上げたそこには、無数の星の弾幕を侍らせた魔理沙が“発射準備”とばかりに手を振り上げていた。

 蒼天の空に、星が降る。

 

「星夜『星の踊り狂う夜(ステラ・ナイト・パーティ)』!」

 

 夜じゃねえだろ! なんて文句は一瞬で喉奥に引っ込んだ。上空から流星群の如く降りかかる星々に、中妖怪としてのなけなしの本能が警鐘を搔き鳴らしていた。

 “流星群”とは、一般的にイメージされるほど密な流れ星ではない。確かに間断なく且つ短時間で多くの星が空を疾る現象だが、それを弾幕に用いたならば、きっと隙間だらけの欠陥弾幕になる。

 そんなこと、魔理沙は重々承知していた。

 だから彼女は、星の一つ一つを強く大きくし、躍らせることにした。

 

 流れる方向は同じだ。だがそれぞれの星が時に直進し、時に湾曲し、時に旋回して、極めて無秩序な予測の難しい弾幕として落ちてくる。そして着弾すれば小さな星のかけらがぱちんと弾け飛ぶ。カラフルな星々が無邪気に跳ねて回って空を疾ってくる光景はまさに宴。狂った星々の祭宴そのものだ。

 しかし、一発で地面を抉り抜くほどの威力を持ったその流星群――否、星の形をした砲弾の群れは、二人の背筋を氷塊が滑り落ちるが如く震え上がらせた。

 

 しかもそこへ、追い討ちをかけるように飛来する釘、手裏剣、風の刃。

 それらは的確に二人の死角から飛んできて、まるで導かれるように二人の防御が薄い部分へとヒットする。妖力を飛散させるというオマケが付き、駄目押しに衝撃で体勢を崩しやすい関節などを寸分の狂いなく打ち抜いていく。

 

 この劣勢――猪哭と揶八には覆しようがなかった。

 

 影を操れば核を撃ち抜かれて出鼻をくじかれ。

 潜り込んだり溶け込んだりすればそれそのものと共に消し飛ばされ。

 棍棒を振るえば同等以上の力で以って打ち砕かれ。

 間断なく迫り来る攻撃は回復術を施す猶予を与えてはくれない。背中を見せるなどむしろ危険な有様だった。

 徐に、何度目かも分からない悪態が口をつく。

 

「く、そ……ッ!」

 

 星が乱れ舞い落ち、地面を弾けては破片が体を傷つける。避けよう足に力を入れた瞬間には、膝裏に釘の当たった衝撃を受けてカクンと体勢を崩し、殺到した星々に吹き飛ばされる。妖力の防護をも四散させられた生身では、あまりにも凄絶な威力だ。

 ――なんでこんなこんな目に、と猪哭は嘆くように憤っていた。

 

「クソがクソがクソがクソがぁあぁあ……ふざけるなよ、なんで邪魔されなけりゃならねェ……! なんで俺が負けなきゃならねェッ!」

 

 目的なんてなかった。或いは、それ(・・)そのものが目的とも言えた。

 自分が自分を妖怪たらしめるために。猪哭は非常に我の強い性格をしていた。どれだけ他から怒られようと、謗られようと、己が己を認められれば猪哭はそれでよかった。

 だからあの時――力を得た(・・・・)その時に、猪哭とその仲間二人は同胞を屠って回ることを決めた。

 

 非人道的? 知らねえ。妖怪が人らしくあっちゃダメだろうが。

 同胞殺し? 知らねえ。妖怪は妖怪と殺しあうもんだろうが。

 知らねえ。知らねえ。他人の意見なんて知るわけがねえ。他人に定められた自分なんて自分じゃねえ。自分で形作った心こそが自分というんだ。

 

 猪哭は善人ではない。力を得るより前――揶八と霍麻と共に死した同胞の肉や持ち物を奪って生きる文字通りの獣だった頃から、きっと“善”という言葉とはかけ離れた存在だったろう。

 だがそれがなんだ? 知性があり、力があり、命を持ってこの世に生まれたならば、己を追求することの何が悪い。他を殺してその屍の上に立ち、己を示せるのなら何も不満はない。他人の見解など聞き入れる価値はないのだ。

 

 ――だというのに。

 

「あ、あに、き……もう保たない、ッスよ……ッ! 逃げ、ましょうっ!」

「なに言ってやがる……あいつらに見せつけてやるんだろうが……! 俺たちの意思を……魂をッ!」

「死んだら元も子も、ないッス! 這い蹲って生きてきた今までが、無駄になるッスよ!?」

「諦めねェ……諦められるわけがねェんだ! そうしたら、自分を諦めるのとなにが違う!? 自失して彷徨うことを、生きるとは言わねェだろ!?」

 

 自身の能力で以って猪哭もろとも防御する揶八に、猪哭は半ば独り言と化した怒声をぶつけた。

 揶八の言い分など、言われるまでもなく分かっている。誰がどう見てもこちらが圧倒的な劣勢。押し潰される秒読みはとっくに始まっていた。魔法使いが余裕綽々と放つ弾丸の威力はそのどれもが絶倫壮絶。見知らぬ人間の少女は体力的に限界がきているものの、その技の数々には未だ精彩が欠けておらず、正確無比に大木すら一太刀に断つ刃を振るう。これで勝ち目を夢想するなら、もはや頭のどこかが狂ってしまったとしか思えない。

 

 だが、だが――そうして猪哭が理性と激情の間で揺れ動くその最中だった。

 

「いい加減にしろ、猪哭」

 

 二人の影が、乱舞した。

 

 唐突に主の支配から解き放たれた人型の影がぺろりと地からめくれ上がり、しなる四本の腕と二つの頭が迫り来る弾幕に抵抗を始めた。

 威力は遠く及ばないものの、圧倒的手数で乱打しては軌道を逸らす。破壊は不可能だったが、それは確かに揶八の負担を激減させていた。

 揶八は汗の流れる頰をにやりと歪ませると、虚空に向かって言った。

 

「さ、さすが霍麻ッス! だいぶ楽ンなったッスよ!」

「その調子だ。もう少し耐えろ」

「ういッス!」

 

 木々の影からぬるりと這い出してきたのは、片目を紫色に染めた霍麻。彼は何処から憤った様子で猪哭に詰め寄り、

 

「逃げるぞ」

「ああッ!? ふざけんな、まだ――」

「ごちゃごちゃ言うな。俺たちでは勝てん。解決者どころかあの白髪の少女にもな。無駄死に、する気か?」

「っ、」

 

 強調された“無駄死に”という単語に、猪哭は揶八にかけられた言葉を頭に過ぎらせて押し黙る。

 

「分かったら行くぞ」

「…………ったく、分かったよ」

「もういいッスか!? じゃあ逃げるッス!」

 

 二人の会話が終わったと見るや、揶八は耐えかねたように防護を解いた。そしてわずかな集中を経た能力を解放する。当然魔理沙の弾幕や吹羽の風紋武器が飛来する――が、今度こそは当たらない。

 なぜなら、彼らは今空気に溶け込んでいるから。

 

 そのまま結界の方へと全速力で向かい、ぶつかるようにして飛び込む。本来なら霊夢の結界は妖怪たちを弾き飛ばすはずだったが、彼らは今、空気だ。

 結界が非物理的なものである以上、そして密封しているわけではない以上、霊夢の結界は空気を透過している。溶け込むのには集中を要するため戦闘中には使えるものではなかったが、揶八が時間を稼いだお陰で、三人はその空気に乗ってまんまと脱出を成功させたのだ。

 

 今頃人間共は驚愕していることだろう。逃すまいと思って戦っていた格下にまんまと逃げられたのだ、当然陶酔感が湧き水のように湧いてくる。

 しかし、猪哭の心は晴れなかった。結局これは、諦めたということだ。自分のしてきたことを否定するあの二人に背を向けて、向き合うことを諦めた。その事実は猪哭の心に厚い暗雲を立ち込めさせた。

 

 ――死んでは元も子もない。

 その言葉を反復して言い聞かせ、猪哭は今だけは逃げることに専念しようと前を見た。

 見慣れたはずの森。木々が生い茂るそこには日があまり差し込んでおらず、薄暗くなっていた。

 まずは逃げ切って、考えるのはそれからだ。それからでも遅くない。

 三人は空気に溶け込んだまま全速力で森の中を駆け、

 

 

 

 ぬるりとした悪寒を最後に、ぷつんと意識を失った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 妖怪たちが姿を消した直後、霊夢と合流を果たした吹羽たちは、妖怪たちを追いかけて森の中を駆けていた。

 足跡は特にないが、妖力の残り香がある。それは何よりの道標だ。途切れ途切れの妖力を伝って、三人は決して逃すまいと追い縋る。

 

「結局逃げられてんじゃねーか。逃すまいと張った結界も結局わたし達を遮りやがったしな。お陰で追いかける羽目になった」

「うるさいわね。あたしが結界張ってなきゃとっくに逃げられてたわよ。逃げられたのはあんた達の責任だっつーの」

「ああん? お前んとこの妖怪がこっち来なけりゃ余裕だったっつーのっ! わたしと吹羽の連携すごかったんだからな? 邪魔さえ入らなけりゃあっという間に仕留めてたぜ」

「そりゃ吹羽があんたに合わせてくれてただけよ。無鉄砲に高威力の弾幕散らしてばっかりのあんたに連携も何もあるもんか」

「ンだと?」

「なによ」

「はぁっ、はぁっ、お二人、ともっ……喧嘩しない、で、くださいっ」

 

 因みに、霊夢は持ち前の能力で、魔理沙は箒で空を飛んでいるのに比べて吹羽は普通に走っている。吹羽もそこまで足が速いわけではないので、霊夢と魔理沙が吹羽に合わせてくれているのだ。

 “韋駄天”を使えばいいって? それは無理な話だ。確かにアレは風を推進力に変えて一時的に体を浮かせることができるが、継続的な飛行能力はない。一瞬加速して、その結果体が浮くというだけなのだ。そもそも負担が大きいので、体力的に限界がきている今の吹羽には一振りもできない。

 足を引っ張っていることを気に病んで、先に行ってくれればいいのにと進言したのだが、

 

『置いて行ったらあんた迷子になるでしょ』

『他の妖怪に見つかって食われちまいそうだしな』

 

 とのことで、吹羽が心外だと疲れた体でぷんすかしたのは想像に難くない。

 どの道相手方は瀕死一歩手前なので、たとえ追い付けなくても追い詰めてしまえば良いだけなのだという。

 

 妖力は変わらず続いている。日がだんだんと落ちてきて気持ち日差しが弱くなってきたからか、進む先の森は薄暗く感じられる。お陰で吹羽にも先の様子が見えない状態だった。

 そうして少しだけ胸に不安を抱きながら、いつのまにか口数の減った二人と共に森を駆ける吹羽。

 

 しばらくすると、一気に森が開けた。

 

 相変わらず薄暗くはあったが、空き地のように広々とした空間が森の中に広がっている。

 吹羽は目を見張った。

 このような空間があることに、ではない。

 況してや、追いかけていた妖怪達が中央付近で(・・・・・・・・・・・・・・・・)倒れていることに(・・・・・・・・)、でもない。

 吹羽が目の当たりに、ただ見つめていたのはただ一点――。

 

 そこには、男が一人佇んでいた。

 

「力に溺れて、か……嫌になるな、こういう奴らを見ると」

 

 ぴっ、と振り払った太刀には見覚えのある紋が刻まれていた。払った瞬間、その先にあった落ち葉をはらりと吹き飛ばしたそれは、紛れもなく――風紋。

 風成家の人間しか持ち得ない、風紋刀。

 

「……おい、お前何もんだ? その妖怪達……お前がやったのか?」

「ん? ああ、襲ってきたから。なんかマズかった?」

「いや、マズいってわけじゃねーけど……」

 

 その声。その口調。その背中。

 その手に撫でてもらうのが好きだった。その声に励ましてもらうのが好きだった。その背中に甘えるのが好きだった。例え記憶が壊れても、“好き”でいっぱいだった記憶が溢れている。

 なんで。なんで。なんで。なんで。

 突然の自体に思考が追いつかず、継ぎ接ぎの言葉がなんの脈絡もなく溢れてくるけれど、一つだって声にはならない。疑問はあるけど今はどうでもいいと切り捨てられる。

 だって、だって、これは夢じゃない。

 鈴結眼はどんな事象も捉える。この光景は夢なんかじゃなくて、信じられないけど、真実で。信じたいけど、あまりに現実味がなさ過ぎた。

 

 未だ隣で警戒を解かない魔理沙を無視して――否、考慮に入れることもできなくて、吹羽はぽつりと、その名を呼ぶ。この光景を、現実だと受け入れるために。

 

 

 

「おにい、ちゃん……?」

 

 

 

 その囀るような声に、男は聡く気付いて振り返る。

 その顔を見て、もう信じられないわけはなかった。

 

「……よう。ただいま吹羽。俺の……愛しい妹」

 

 男――風成 鶖飛(しゅうと)は、そう言って微笑んだ。

 

 

 




 今話のことわざ
(かっ)して()穿(うが)つ」
 必要に迫られてから慌てて準備をしても、間に合わないことのたとえ。また、時機を失することのたとえ。


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第三十一話 歪み始めた憧憬

 

 

 

「吹羽の……兄貴、だと?」

「ああ。吹羽が世話になったみたいだね。礼を言うよ」

 

 魔理沙の呟きに、吹羽の兄――鶖飛はちらりと視線を寄越して言った。

 吹羽とは対照的な黒い髪。燻んだ深緑色の瞳が吹羽と似ていて、物腰は柔らかそうだが決して弱々しい雰囲気ではない。手負いとはいえ中妖怪三人を制圧したところから彼の腕が窺い知れる。

 ただ、疑問は尽きなかった。

 

「お兄ちゃん……おにいちゃん……っ」

「ん、おいで吹羽。……寂しい思いをさせた」

「おにいちゃん、おにいちゃん……おにーちゃんっ、これ……ゆめ? ゆめ、なのかな……?」

「いいや、夢じゃないよ。ほら、あったかいだろ?」

「ぁ……手、あったかい……じゃあ、夢じゃないんだ……ほんとうのほんとうに、おにいちゃんなんだぁ……ボク、ずっと……ずっとぉ……っ」

「ごめんな、一人にして。辛かったよな」

「っ、ほんと、だよぅ……っ! ぐすっ、ぅうえぇぇえぇええっ!」

 

 彼がなぜこんな所にいるのか。今まで何をしていたのか。姿を消した理由は? 吹羽を置いて行った理由は?

 だがそうした疑問も、吹羽のあの泣き声を聞けば、浮かび上がってくるだけで大して重要とは思えなくなった。

 

 鶖飛の胸で泣き噦る吹羽を見ながら、魔理沙は今の今まで忘れていた吹羽の“事情”のことを思い出す。

 曰く、ある日突然肉親を全て無くした。

 曰く、記憶が散逸的に壊れてしまった。

 いつか阿求に告げられた凄絶な過去。人としてあまりにも幼過ぎる吹羽を容赦なく襲った悲劇。今でこそ明るい彼女も、今のようになるまでに大変な思いをして、今もなお苦しんでいる、と。

 その無くした相手が、焦がれ続けた兄が、目の前に現れたのだ。吹羽の胸の内を考えれば、どんな疑問だって大した性質は持ち得ない。再び会えたという感動以上に考えるべきことなんて、きっと今は何もないのだから。

 

 とは言え、こちらの目的も忘れてはならない。背後に倒れた妖怪たちの処理を決めてしまわなければ、仕事が半端に終わってしまう。裏のない性格の魔理沙としては、それはどうにも受け入れがたいのだ。

 

「あーあー、感動の再会のところ悪いが、いいか? 後ろの妖怪たちは結局どうしたんだ? その……やっちまったのか?」

「……ああ、不可抗力でね。加減できるほど俺は強くないから」

「……そうか」

 

 言外に“殺したのか?”と問う魔理沙に、鶖飛は僅かに顔を歪めて控えめに応答する。

 まぁ、覚悟はしていた。霊夢を追いかけて解決者になると決めたその時に、時には妖怪を殺すこともある、と。

 幻想郷を脅かす妖怪は退治し、改心しないのなら滅することになる。霊夢は、妖怪退治を生業とする彼女は、きっとずっと昔からそのことを理解していた。だからその背を追いかける魔理沙も、心に決めていなくてはならないことだったのだ。

 猪哭たちは改心する気など毛頭ないようだった。自分の行動に芯を持っていて、それは決して折れない鋼鉄の柱として突き立っていた。それを悟った時から、魔理沙は「ああ、こいつらは滅することになるのか」と薄々勘付いてはいたのだ。

 だから魔理沙は、それを見ず知らずの彼に押し付けてしまったことを申し訳なく感じた。

 

 死んだ妖怪は、自然と土に還るか他の妖怪に喰われるか。元はそうして同士を食い散らかして生きていた彼らが、強くなった今、逆の立場に落とされるというのは、なんとも皮肉な結果だ。

 魔理沙は目を瞑って一つ息を吐くと、改めて事件の収束を己が頭に決定付けた。

 

「(まあでも、苦労した甲斐はあったのかもな)」

 

 約三年を隔てて、その空白を埋めるように強く抱き合う兄妹を見て、魔理沙はふと微笑みを零す。

 家族愛溢れる光景。人里から一人飛び出して魔法使いとなった魔理沙にとっては、やはり朝日のように眩しいものだ。それこそ、薄暗いこの森の深奥にあって思わず目を細めるほどに。

 吹羽の友人を名乗って少し。そんな魔理沙ですら、兄と再会した吹羽のぐしゃぐしゃな嬉し涙に心が熱くなる。きっと霊夢ならこれ以上に焼けるような思いを感じて、ともすれば涙を流すのかもしれない。魔理沙はそう思って、少し引いた位置にいる霊夢へと振り返った。

 ただ――、

 

「なぁ霊夢……霊夢?」

「………………っ」

 

 そこには、魔理沙には想像だにもしなかったほど鬼気迫る表情(・・・・・・)をした霊夢が、幽鬼のように佇んでいた。

 あまりにも場違いなその表情に、魔理沙は思わず息を詰まらせる。

 だってそんな顔、霊夢(一番の親友)がしちゃあいけない。人が心より望んでいたことが叶ったとあらば、一緒に喜んでやるのが親友というもの。少なくとも魔理沙の中ではそう定義付けられているのが親友だ。

 それを、今の霊夢は真っ向から破っていた。

 

 そこからの彼女は目まぐるしかった。

 愕然とした顔はすぐに鬼の形相に移り変わり、一歩前に出たかと思えば、ハッとしてキツく歯を噛み締めて何事かを堪えていた。握り込んだ拳から、血が滲んでぽたりと一滴地に落ちるほどに。

 

 霊夢の中でどんな葛藤が起こっているのか想像だにできない魔理沙は呆然と様子のおかしい彼女を見つめていたが、少しすると霊夢は振り払うように魔理沙たちに背を向けた。

 

「帰る」

「うぇ!? ちょ、おいどうしたんだよ!」

 

 咄嗟に引き止める声に脇目も振らず、或いは聞こえてすらいないかのように霊夢は空に飛び上がる。

 一瞬追いかけようかと逡巡したものの、吹羽たちをここに置いて行くわけにはいかないと思い直して、魔理沙は困ったように片眉を釣り上げて箒を地に突き立てた。

 

「あいつ、ほんとにどうしたんだ?」

 

 最近の霊夢は様子がおかしい。より正確には、魔理沙ですら理解できないような言動が増えてきているのだ。

 呆けているとは言わない。狂ったとも言わない。だが、おかしな行動が多いのは事実だった。しかもそれは、吹羽に関することに限って、である。

 霊夢に限ってそんなことはないと思いたいが、万一彼女が間違ったことをし始めた場合は、自分が止めてやらねばなるまい。魔理沙が真剣にそんなことを考えるほど、今の霊夢は不安定に思えたし、余裕がないように見えた。

 

 ま、ともかく今は。

 魔理沙は短く息を吐いて、ようやく涙が収まりつつあるらしい吹羽たちに歩み寄った。

 

「よし、じゃあそろそろ帰るとしよう。里までは送ってやるから、取り敢えず吹羽の家で落ち着こうぜ」

「ぐすっ……はい。……はれ、れいむさん、は……?」

「知らん。なんか先に帰った」

「ん、そうか……霊夢にも久しぶりに会ったんだし、挨拶の一つでもしたかったが」

「お前霊夢とも面識あんのか……ま、積もる話は後で崩していこうぜ。とにかくここからは移動しないと、他の妖怪が寄ってくる。さっさと行くぜ」

「そう、ですね。はや、く……いきま――……」

「っておい、吹羽!?」

 

 言葉を言い切ることなく、吹羽はふら〜と揺らめいたかと思うと、糸が切れたかのように鶖飛の方へ倒れ込んだ。

 一体なんだと焦る魔理沙だが、次いで聞こえてきた寝息にホッと胸を撫で下ろす。

 

「そういや“保って数刻”とか言ってたな。ありゃこういう意味か」

「……能力を使ってたのか。吹羽の力は脳への負担が大きいから、一度解くと反動が一気にきて意識を失うんだ。とはいえ、今回は相当酷使したみたいだが」

「……それだけが理由とは思えないけどな」

「……そうだな」

 

 能力の完全開放による反動で眠ったはずの吹羽の、なんと幸せそうな寝顔なことか。

 魔理沙と鶖飛はなんとはなしに顔を見合わせると、微笑ましい彼女の姿にくすりと笑いを零した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――ふざけるな。

 ――どの面下げて。

 

 身の内に滾る、理性をすら焼き切ってしまいそうな緋色の炎は、そんな言葉だけでできていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 道中妖怪に襲われることもなく、三人は無事に人里へと辿り着いた。陽が傾き始めてしばらく経つため人通りもどこか疎らで、店終いしている場所もちらほらと見受けられた。

 吹羽の家までは魔理沙が先導する。阿求曰く今の家は鶖飛たちがいなくなってから貸し与えられたものなので、彼は吹羽の現在の居住地を知らなかったのだ。

 当然扉の鍵もなく、眠っている吹羽を弄って鍵を取り出すのもなんとなく気が咎めた魔理沙は、持ち前の魔法――解き開かせるための全能鍵(アンロック・マスター)でもって解錠したわけだが、背後に立つ鶖飛の微妙な顔には始終気付かず中へ。

 

 取り敢えず布団を探し出して吹羽を寝かせ、その側の卓袱台にこれまた探し回って見つけたお茶を二人分乗せる。一杯茶? そんなの知らん後で飲み直せ。

 

「改めて……風成 鶖飛だ」

「霧雨 魔理沙だぜ。一応吹羽の友達やってる」

「そうか、妹が世話になってるよ」

「わたしがやりたくてやってるだけさ」

 

 魔理沙をして、鶖飛は酷く落ち着いているように思えた。

 静かな挙動、優しげな瞳、柔らかい物腰。彼が何を理由に姿を消していたのかは皆目見当もつかないことだが、約三年ぶりに肉親と顔を合わせたのであれば、もう少し気の昂ぶった表情をしてもいいと思うのだが。それこそ、吹羽のように呆然とするなり泣き噦るなり――はちょっと気持ち悪いから遠慮願おうか。

 兎角、そんなもんなのかな、と魔理沙はちょっと唇を尖らせて頬杖を突いた。吹羽があんなに泣き喜んでいたのにこいつだけが澄まし顔というのはちょっと気に食わない……なんて、流石にお節介だろうか。

 

「魔理沙はどうやって吹羽と知り合ったんだ?」

「んあ? なんでそんなこと?」

「ほら、吹羽は結構大人しいから。俺がいない間もきっと家に篭ってばかりだったんじゃないかって。それに比べ、君はどうも快活そうだからさ」

「ああ……そりゃ確かにそうだな……」

 

 きっかけは……なんだったか。

 確かに魔理沙は快活で豪快な性格だ。時には魔法の研究のため家に篭ることもあるが、それ以外では出かけることの方が圧倒的に多い。対して、吹羽は仕事柄家に――というか工房に篭ってばかりで、たしか趣味も“風紋開発”だとかなんとか。要するにインドア派である。魔理沙も用事がない限り人里には来ない。

 そんな二人の、友人となるきっかけ。

 ――ああそうだ、と。

 

「霊夢の奴からな、ちらっと話を聞いて興味を持ったんだ。一度会ったことはあったんだが忘れててな。その時思い出して、ここに来て……って感じかな」

「……霊夢に聞いたって?」

「ああ。あいつちょくちょくここに来てたみたいでな、今でもそうだが、吹羽の一番の友達っつったら霊夢か阿求なんじゃないか? わたしはまだまだ新参者さ、こいつの中じゃ、きっとな」

 

 別に、自分が吹羽の中で特別だなどとは間違っても思っていないが、まぁ気のいい友達程度の認識であれば嬉しいと思う魔理沙。

 あまりベタベタとするのは好きではない。きっとそれは魔法の研究にも支障が出るし、個人的に“よっ友”くらいが丁度いい。

 そう考えると、霊夢とは本当に理想的な付き合い方をしているなぁと思い至った。お互いにお互いの領域を弁えている。魔理沙は改めて親友の偉大さにしみじみした。

 

「(……それにしても)」

 

 頬杖を突いたまま、吹羽の髪を優しげに撫でる鶖飛を横目で見遣る。

 突然消え、また突然姿を現したというこの男を、魔理沙は凡庸なやつだ、と思った。

 

「(吹羽の兄貴だっていうから、もっとこう……雰囲気が違うもんだと思ってたがな……)」

 

 日本人らしい黒い髪。風成に連なる者らしい深緑の瞳。護身用か、佩ていた一振りの風紋刀は、今は部屋の隅に立てかけられている。霊力らしい霊力も見当たらず、人里を一人で歩いていれば目に入れることすらないような男だ。

 何もかもが普通に見えた。普段の言動からして才気溢るる吹羽とは似ても似つかないくらいに。瞳の色が同系統でなければ兄妹だなんて思い付きもしないだろう。

 兄妹と言いつつあまり似ていないこの二人。それでもお互いを心から愛しているのは、先程のやり取りから容易に見て取れる。一人っ子の魔理沙には少し眩しく、大いに不思議だった。

 

 そもそも同じ両親から、これほどの違いを持った二人が生まれてくるものだろうか。

 子というものは両親の遺伝子を半分ずつ受け継いで生まれてくる。発現する遺伝子に個体差はあるものの、家族間で似通った点が見受けられるのにはそういう理由があるのだ。

 

 不思議な点といえば、吹羽の髪色もそう。色が抜けたというにはあまりに綺麗で、ふわふわしていて、細く柔らかな純白の髪。両親がどんな髪色をしていたかは魔理沙の与り知らぬことだが、普通ただの人間が真っ白な髪で生まれてくることなどない。瞳も赤くはなっていないためアルビノという線もない。

 そう考えると、鶖飛が普通過ぎるというよりも吹羽が特殊過ぎるのかも知れない。魔理沙はふと発想を逆転させて、しかし、まぁ手負いとはいえ中妖怪三人を屠る人間が果たして普通と言えるのかは分からないが、と考えを落ち着けた。世の中、魔理沙の知らないことはまだまだ多いのだ。

 

 考えが行き詰まった気がして、魔理沙は一口お茶を啜った。淹れてまだ間もないため少し熱いが、猫舌ではないので容易に舌を滑って広がった。

 ただ、いつも博麗神社で飲むようなお茶とはやはり何か違う。温度だろうか? 茶葉の量だろうか? それとも淹れ方? 茶を嗜むなんて高尚な趣味を持ち合わせていない魔理沙が淹れたお茶は、霊夢や吹羽が淹れたそれとは違ったどこか苦々しい味わいだった。二人のそれも趣味ではないが、やはり普段からお茶を淹れる彼女らの腕は魔理沙よりはマシだったらしい。魔理沙のお茶は、正直に言って違和感しかない。

 魔理沙は口に広がった違和感の塊をころころと口内で転がすと、舌で投げ入れるように喉奥に放り込んだ。苦味だけが舌に残る。後味は最悪だ。

 

「ところで……そろそろ訊いておきたいんだが」

「ふむ……それは興味(・・)で?」

「いいや。新参者でも吹羽の友達として、だ」

「そうか」

 

 主語のない崩れたその問いに、鶖飛はやはり予想通りというように返答する。

 つまり――何故吹羽の前から姿を消していた? と。吹羽の両親はどこにいる? と。

 吹羽が待ち望んでいた家族が、兄が帰ってきた。ならば両親もきっと何処かにいて、帰ってくる気でいるはずだ。だが吹羽は今疲労で寝てしまっている。いつ眼を覚ますのか予測出来ないのだから、聞けることは聞けるやつが聞いておくべきだ。

 魔理沙はちょっと友人らしいことをしていると調子に乗って、しかし真っ直ぐに、真摯に鶖飛の瞳を見つめた。

 

「……あー、それは――……」

 

 と、言いかけたその時。

 

 

 

 ――バンッ、といつかのような破裂音を響かせて、扉が開け放たれた。

 

 

 

 二人のいる居間の扉を勢いよく開けたのは、見覚えのある小柄な少女。

 華奢な身体に花柄の着物を着込み、大きな花の髪飾りで飾った桔梗色の髪。見慣れず息を乱して頰を紅潮させ、汗の滴る頰にその細い髪がはりつく姿はどこか色気があったが、その可憐な容貌から劣情だけは煽られない。

 それは吹羽のもう一人の親友――稗田 阿求であった。

 

 阿求は滴る汗を拭いもせずに、どこか呆然とした様子で鶖飛を見つめていた。

 

「ほ、本当に……本当に帰ってきたんですね……鶖飛さん……!」

 

 阿求は乱れた呼吸をそのままにそう呟くと、存外しっかりとした足取りで鶖飛に歩み寄る。

 そんな彼女を、私には何もなしかよー、と少しふてくされ気味に横目で見て――魔理沙はギョッとして、阿求の振り上げられた(・・・・・・・)手を咄嗟に掴んで止めた。

 

「ちょっ、何しようとしてんだよ阿求っ!? 平手打ちでもする気か!?」

「そうですッ! だから離してください魔理沙さん! この人は一回――いえ万回殴らないと気が済みませんッ!」

「どうしたってんだよ! お前らしくねーぞ!」

「うるさいですッ! 吹羽さんがどれだけ……どれだけ悲しい思いをしたのか分かってるんですか!? どれだけ絶望したのか分かってるんですかッ!! いっぺん私がボコボコにして吹羽さんに泣いて謝らせてやりますッ! かくごふぅうッ!?」

「いいから、落ち着けっつの!」

 

 いつになく暴力的に暴走を始めた阿求に魔理沙のチョークスリーパーが炸裂。気管を抑えられながら暴れられるほど頑丈ではないはずなのに、阿求は無理矢理指を差し入れて隙間を作ってはわーぎゃーと怒りを撒き散らす。

 

「落ち着いてなんていられますかっ! この人は吹羽さんの苦悩を知らないんですよ!? なら親友たる私が知らしめるのが筋でしょう!!」

「だとしても平手打ちでどうやって知らしめるってんだよ! しかも一万回とか!」

「一万回じゃありません。万回(・・)と言いました! つまり二万回でも四万回でも六十万回でも! 分かるまでいくらだって殴ってやりますっ! 例え私の手が壊れてしまってもッ!」

「鶖飛を殺す気かっ!」

「そこまでやって分からないなら死んでしまえばいいんです」

「急にガチトーンで言うなよ。怖ェだろ……っ」

 

 どうやらこの阿求、吹羽のためなら殺人も厭わないらしい。なんと素晴らしき友情なのだ――と素直に思えないのは、きっと魔理沙だけではあるまい。流石にドン引きである。

 と、そこで締めが緩んだ隙を見て阿求はするりと魔理沙の拘束を抜け出ると、そのまま襟を掴んで彼女の背後へ回った。勢いつけたもう片手は反対側から魔理沙の脇を通ってうなじへと回し、両手で前方向へ押し出す。

 ――流れるように、片羽締めが極まった。

 

「ぐぇえっ!? ぢょ、な゛んでお゛前がごんな゛ッ!?」

「伊達に何度も転生してないですッ! これくらいの護身術は修めてますよっ!」

「ぎ、ぎまっでるっ、ぎまっでるっで!?」

 

 魔法使いである魔理沙は体術なんてからっきしである。チョークスリーパーは簡単に極められるが、自分が極められてから抜け出す方法など埒外なのだ。一瞬で形勢逆転された魔理沙は、青白い顔でぺちぺちと阿求の細腕を叩く。

 鶖飛はその様子を、微笑ましそうに見るだけだった。

 

「……君たち、仲良いんだね」

「ンなごどいっでな゛いで……だず、げろよッ!」

「スキンシップを邪魔しても悪いしなぁ」

「お゛ま、ぐ……そぉ――ッ!」

「うみゃっ、うわわわっ!?」

 

 鶖飛の助けを得られないと分かると、魔理沙はがむしゃらにジタバタと暴れ始めた。阿求の暴走を止めるつもりが何故か自分と彼女の取っ組み合いになっているなんて不思議には今更考えが及ばない。とにかく抜け出さねばと使命感か生存本能かによって魔理沙は暴れていた。

 

「うわ、わわっ、暴れないで、ください!」

「そりゃ暴れるだろッ、いつまでも絞め技なんて、食らってたまるかっ!」

「ちょ、私っ、体力ない、んですからぁっ!」

 

 しばらく暴れると、遂に魔理沙の抵抗に耐えられなくなったのかするりと阿求の締めは緩んで抜けた。

 流石に普段から部屋に篭って仕事しているだけあり体力は底辺な阿求。あのまま魔理沙に勝てる道理は初めからなかったのだ。

 とはいえ、一瞬で制圧されそうになったのも事実。今度絞め技の練習とかしてみようかな、なんてちょっと真剣に考えてみる魔理沙であった。

 

「はぁっ……はぁっ……や、やっぱり私には、運動とか無理です……っ!」

「体術を修めててもそれじゃ宝の持ち腐れだな。何事も体が資本っていうぜ?」

「ぐぅ……これじゃ鶖飛さんをボコボコにできないです……」

「まだ諦めてなかったのか……」

 

 ふらふらぺたんと座り込み、無事に制圧された阿求は心底悔しげに魔理沙を睨み上げた。ぶっちゃけ可愛いだけだ。

 ともあれ阿求が疲れて動けなくなったのなら結果オーライというやつである。相変わらず鶖飛は口も挟まず微笑ましそうに魔理沙たちを見ていたが、その視線がなんとなくむず痒くて、魔理沙はどかっと元の位置に座った。もちろん阿求は隣で牽制。

 

「ったく……お前身体強くないんだから無理するなよ。まさか締めてくるなんて流石にびっくりしたぜ」

「そんなことはどうでもいいんですよ。吹羽さんは私の親友です。どれだけ辛い思いをしていたのか、多少なりとも知っているつもりですっ! 幼い妹だけを残して蒸発した身勝手な兄や両親をどうして許せますか。いーえ許せません。やっぱりあと百回殴らせてください。限界も超えて殴ってみせますっ」

「いい加減にしとけって、もう……」

 

 話を聞けば、どうやら魔理沙たちはここに来る途中で、買い出しに出ていた稗田邸の侍従に姿を見られたらしく、阿求は「黒髪碧眼の少年が吹羽を背負って風成利器店の方角へ向かっていった」と報告を受けたらしい。

 家の付き合いで当然鶖飛とも面識のあった阿求は、その少年が彼なのだと即断定。仕事も放り出して全力疾走してきたのだという。

 何というか、阿求も吹羽のこととなると中々にアグレッシブである。普段はまさに名家のお嬢様といった雰囲気で、可憐な容姿も相まって非常に清楚な空気を醸しているのだが……今の彼女はギャップが酷いというか、なんというか。

 

 だが、流石に体力が限界のようで、しょうもない限界突破もすることなく阿求は渋々と引き下がった。

 

「……心底不満ですが、説教はまた今度にします」

「初めからそうしてくれ……」

「ですが」

 

 そう言って前置いた阿求に、魔理沙はこいつまだやる気かと呆れた視線を送ろうと見遣るが――しかし予想外にも、阿求は先ほどとは比べ物にならないほど真剣な瞳で鶖飛を見ていた。

 自然と魔理沙の背筋も伸びる。いっそ整い過ぎとも思える阿求の正座は、見る者にさえ気を引き締めさせるほどの雰囲気を醸す。もはや一つの芸術作品を見ているかのようだった。

 阿求はそんな美の極致を保ったまま、物静かに言葉を紡ぐ。

 

「一つだけ答えてもらいます、鶖飛さん」

「……なんだ?」

「あなたは……吹羽さんのことをどう思っていますか?」

 

 意図の分からない質問だった。人の兄にする必要のない問い。そうした指摘を、しかし魔理沙は阿求の真剣な雰囲気の前にすることができなかった。

 鶖飛は暫く阿求の大きな瞳を見つめると、不意に瞼を閉じた。

 

 

 

「決まってる……この世で誰よりも愛おしい妹さ」

 

 

 

 薄く目を開き、睨むかのような鋭い視線を阿求に向けて。

 

「素直で優しくて甘えん坊、頭は良いくせに小心者で自信がない。それでも他人のために頑張ることができるお人好し。……自慢の妹なんだよ。血が繋がってさえいなけりゃ嫁に貰いたいくらいに」

「それは……いわゆるシスターコンプレックス、というやつでは?」

「ん……かもな。でもそれを恥とは思ってない。俺が異常というよりは、俺にそう思わせるくらいに吹羽ができた子なんだよ。……阿求ならわかるだろ?」

「…………否定はしません」

 

 阿求は僅かに目を細めて、口元を緩ませた。

 

「できた人……そうですね、私が見てきた人々の中にも、他人に“素晴らしい人だ”と胸を張れる人はそれこそ何百人だっていましたが……吹羽さんほど幼く、そして悲しみを知っている人はそういませんでした。……いえ、凄絶な悲しみを経験してまで人格者でいられる人が少なかったんです。自分の身というのは、やはり誰しも可愛がるものですから」

「けど、吹羽は――」

「はい。小心者で自信がなくて、そのくせ人に優しい。吹羽さんには自分がどうなろうと他人を優先するきらいがあります。……普通の人とは逆なんですよ。悲しみを背負っているからと自分のことで手一杯になるのではなくて、吹羽さんは悲しみを知っているからこそ、人に優しくしようとするんです」

「………………」

 

 それはともすれば異常とさえ思える行動。いくら優しい人間でも、自分の命を危険に晒してまで大して知りもしない他人を救おうとは思わないだろう。物語なんかに出てくる勇者などは当たり前のように自分を犠牲にして世界を救おうとするが、彼らはやはり勇者であるべくして勇者であり、決して常人などではないのだ。

 しかし阿求も鶖飛も、吹羽がそういう特殊な人格に目覚めた人間なのだと割と昔から知っている。吹羽が勇者なんて常軌を逸した存在とは言わない。しかしそれに近しい気質の持ち主であることは、疑いようのない事実だった。

 そして、そうした人に尽くせる性格だからこそ、吹羽はきっと人を惹きつけるのだろう。阿求が魅せられたように。霊夢が慈愛を向けるように。そして鶖飛が愛するように。

 

「分かりますよ。吹羽さんは放っておけないくらいに優しくて、危なっかしい。だから大切にしたくなる……そうですよね」

「……ああ」

「吹羽さんが大切……その言葉を、あなたの口から聞けて良かった」

 

 そう言葉を零した阿求は、初めの真剣な表情を一変。慈愛に満ち溢れた聖母のような微笑みを浮かべた。

 事実を言うと、阿求は鶖飛のことをあまり信用していなかった。なにせ自分の妹を一人置いて姿を消し、今更になってひょっこりと現れたのだ、これでほいほいと信用してもらえるなんて都合が良過ぎる。吹羽を真に想っている阿求にとっては言わずもがなだ。

 

 だから、問うことにした。

 何故いなくなったのか、なんてことは阿求が聞く必要のないことだ。だから、彼にとって吹羽がどんな存在なのかをはっきりさせ、見極める必要があった。

 どうでもいいというならもちろんどんな手を使っても吹羽には近付けさせないし、大切なのだというなら多少は信用できるとして吹羽を任せる。姿を消したのが自発的なのか偶発的なのかも、返答によってはもしかしたら見極められるだろう。

 吹羽が鶖飛にとってどうでもいい存在なのか、そうでないのか。それが分かれば、阿求は満足だった。

 

「とはいえ、お説教の話はまた別です。また今度にしますけどね」

「ああ、それは甘んじて受けるさ。吹羽には悪いことしたって、俺も思ってはいるからね」

「はい。だからそれは置いておいて……改めて、お久しぶりです、鶖飛さん」

「ああ、久しぶりだね阿求。ちょっと背が伸びたか?」

「いーえ、さほど伸びてません。そういう鶖飛さんも以前とさほど変化はないように見えますが」

「そんなことない。前より逞しくなったろう」

「どうでしょう。あなたは元々ガタイのいい方ではなかったので」

「……ま、それもそうだね」

 

 矛を収めた阿求と鶖飛の会話は、まぁ阿求の方に少しだけ棘があったものの、世間話と言ってもいいほどに穏やかなものだった。ただ、それにはやはり、何処か阿求の気遣いというか、遠慮する気持ちが見え隠れしていた。

 鶖飛が間違いなく吹羽を大切に思っていると分かった今、姿を消した理由を訊くのはむしろ野暮というものである。吹羽が大切ならば、彼女が悲しむと分かっていて何の理由もなく姿を消すわけがないし、あり得ない。ならば何か重大な理由があって、それは阿求が首を突っ込むべきではない事柄だ。そしてこうしてのんびりしているということは、決して火急ではないということ。それが“今だけ”なのかどうかは阿求の与り知らぬところである。

 彼女の慮った思慮に鶖飛も気が付いているのか、自分から話を掘り下げようとはしないまま、他愛ない会話と相槌が繰り返された。

 

 ――まぁ、時間はこれからいくらでもある。魔理沙的にはそういう見えない部分(・・・・・・)は早々にはっきりさせたかったのだが、頭のいい阿求が決めたことである、口出しするのも悪かろう。鶖飛が話そうと思ったとき、或いはほとぼりが冷めて何の気なしに尋ねられるようになったときにまた聞けばいい。最悪魔理沙や阿求が聞けなくても、吹羽がちゃんとその事情とやらを認知できればそれでいいのだから。

 

「(ともあれ、なーんか起こりそうな予感がするなぁ……)」

 

 失踪していた兄の帰還。

 それは広い人里の、小さな鍛冶屋の、幼い少女に起きた転機……実に些細な変化だ。だがそれでも、その事実がどうにも無視できないと魔理沙の勘が囁く。それが吉兆なのか凶兆なのかは知れずとも、ともかく魔理沙は「こりゃあ見ものかもな」と、すやすやと幸せそうに眠る吹羽の頰をむにっと摘んでみた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――見覚えのない風景だ。

 傾斜の浅い茅葺屋根、少しだけ柔らかく感じる地面、人々の話し声。見上げれば変わらずそこにある青い空さえも、何処か清く古く懐かしく、しかし自分の知るものとは決定的に違うように感じられた。

 人間の里に似ている――朦朧とする中にしっかりと存在する意識は、ぼんやりとそんなことを思う。

 だが、違うのは明らかであった。己の知る人間の里はもっと活気があり、そこかしこに笑顔があって、こんなにも小さくない。視界に映るこの光景には、小さな集落程度に密集した木造りの家と、すぐ外には深い深い森が見えた。

 

 その森の薄暗さが、何故か心をざわつかせる。そわそわするような、びくびくするような、はたまた決意に満ちるような。

 判然としないその心地に、やはり戸惑う。だって、森を見るだけでこんな複雑な心地になることなんて、今までなかった。

 薄暗い森――闇の蔓延る場所。たしかにそれは“危険”の象徴であり、人を無条件にやんわりと拒む場所ではあるものの、何故こんなにも心がざわつくのか。

 

 知らない――いや、知らないはず(・・)

 じくじくと疼くような、確実にこの風景に何かを感じている心の様相に、思わず曖昧に言葉を濁す。

 確証が持てないのだ。自分のことなのに、知らないと言い切ることに抵抗がある。心がざわざわと波立つこの心地を……知らない、気がする。知っている、気がする。

 この光景には……言い知れない懐かしさがあった。

 

 不意に周囲が騒がしくなった。

 視界の端に映る人々は、皆焦燥に駆られて慌ただしく女子供を家の中へと押し入れている。中には刀や槍、農具までもを持ち出す若い男衆もいた。

 彼らは皆同じ方向を見て、何事かを叫び、駆け出していく。その刀を振り上げ、その槍を引きしぼり、およそ武器には使えないであろう農具ですらも鈍器のように担いで、構えて。

 

 咄嗟に、手を伸ばした。

 

「(行っちゃダメッ!)」

 

 頭の中で声が反響する。しかし反響するだけで、実際に口から放たれることはなかった。

 なんで。これじゃあ届かないのに。そう困惑するうちにも人々は森の方へと向かっていく。足の震えていない者などいなかった。それでも恐怖に抗い、悠然と立ち向かっていく。

 

 今度こそと喉に力を込めて、ハッとした。

 何故自分は、何も知らないはずなのに行ってはいけないのだと思った? あの薄暗い森にいこうとするだけの人々を、何故自分は今こんなにも必死に止めようとした?

 

 数人の村人が話しかけてくる。皆必死の形相で自分の手を掴んで、懇願するように、或いは崇めるかのように。

 進もうとすれば止められる。言葉は分からない。だが彼らが、自分を守ろうとして止めているのはなんとなく伝わってきた。

 そのまま波に呑まれて、後ろへ、後ろへ。

 だが視線だけは薄暗い森の方へと向いていた。そこへ向かう村人たちの背中に注がれていた。その姿に、胸が苦しくなる。涙が溢れる。

 この感情はとても鮮烈で、懐かしく――知らない感情だった。

 

「(ボクは……)」

 

 知らないようで知っている光景。知っているようで知らない感情。心は反応するのに、頭は全くこの光景についていかない。内側から語りかけてくるかのように、心が叫んでいた。

 自分の中に――何かが、ある。

 

 

 

「(ボクは……だぁれ?)」

 

 

 

 その言葉が反響するように、意識は静かに暗転した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――……っ!」

 

 弾かれるように眠りから覚めて、吹羽はぱちぱちと目を瞬かせた。

 既に外は真夜中。昼間から晴れていたこともあって、微妙に欠けたアンバランスな月の光だけが隙間から差し込んで、部屋の中を淡く照らしている。

 

 ――はて、なぜ布団の中に?

 吹羽は不思議に思って首を傾げた。確か今日は魔理沙に連れられて事件解決に乗り出し、守矢神社へ行ってから森で犯人たちと戦闘になって……。

 

「(っ、そうだ、お兄ちゃんっ!)」

 

 その先で再会した愛しい兄を思い出して、吹羽は咄嗟に周囲を見回した。

 ずっと待ちわびた兄が帰ってきたなんて、未だに夢なのではと思う。あまりに焦がれ過ぎておかしくなって、幻覚でも見たのかと。

 だが、その心配は杞憂だった。

 その夢かと疑った兄の息遣いが、すぐ隣に聞こえる。吹羽が寝ていた布団のすぐ隣に敷いた布団に、愛しい兄は――鶖飛は静かな呼吸で穏やかに眠っていた。

 

 その姿を見て、吹羽は心底にほっとする。

 次いでその手に触れて、握って、その暖かさに思わず頰が緩んだ。

 夢じゃない。本当の本当に、お兄ちゃんが帰ってきた。

 彼らがいなくなって数年、片時だって忘れたことはない。願わなかったことはない。早く帰ってきて欲しい、声を聞かせて欲しい、その手で迎え入れて強く強く抱き締めて欲しい、と。

 

 涙なんて枯れるほどに流した。記憶の片隅にある家族との僅かな思い出を想いながら、家に一人きりで暮らすようになって、まだ親に甘えていてもいい年頃の少女が、そんな孤独を涙も流さずにどうして耐えられよう。

 また家族との暖かい毎日に浸れるなら、醒めない夢でもいい、狂ってしまってもいいとすら思った。ただ、吹羽がひたすら待つという選択をしたのは、霊夢と阿求が支えてくれたからというだけのこと。

 一人で抱え込んでいたら……きっと吹羽はおかしくなっていた。或いは、目覚めることを拒絶していつまでだって眠っていたかもしれない。それこそ童話に出てくるお姫様のように。目覚めない代わりにどこまでも優しい世界を見せてくれる、夢という甘い毒に喜んで溺れていただろう。

 

 でも、帰ってきてくれた。今はもうそれでいい。それだけでいい。

 

 吹羽はどこかふわふわと定まらない思考のまま、自分の布団から抜け出して鶖飛の布団に潜り込んだ。

 繋いだ手はそのままに。なんなら、もう絶対に放してしまわないように指を絡めて。温もりを全身で感じられるように、彼の腕にきゅっと抱き着いて。

 

「(ああ――お兄ちゃんが、ここにいる……)」

 

 その事実が、たまらなく嬉しい。

 焦がれた温度が、香りが、声音がかけらも余さず心にすぅっと染み込んできて全身に満ち満ちていく。その感覚が、今まで感じてきたどんな刺激よりも強くて心地いい。きっとどんな危険な薬品であっても、この感覚の心地良さには遠く及ばないだろう。

 

 今はただ、大好きなお兄ちゃんが側にいてくれさえすれば、あとはどうでもいい。

 何故いなくなったのか。お父さんやお母さんはいつ帰ってくるのか。聞きたいことは山ほどあって、話したいことは天を衝くほどに積もっているけれど、今はとにかく、どうでもいいのだ。もちろんその内に尋ねるつもりではあるものの、そんな雑念(・・)を含んだままでこの幸せな気分を享受するなんて、吹羽には考えられなかった。

 

 幸せなら、それだけを純粋に抽出して、味わっていたい。だからお兄ちゃんに対して疑念を抱くなんてあまりに無為なことなのだ。

 いつでも吹羽の隣にいて、声を聞かせてくれて、温かみが伝わるように何処かが触れ合ってさえいれば、他のどんなことも瑣末に感じられた。

 

 そう感じられる程度には――今の吹羽は、鶖飛の帰還という事実に酔って、溺れていた。

 

「おにいちゃん……もう、ボクの側をはなれちゃ…………や、だよ……」

 

 そうして吹羽は、堪らない夢見心地のまま、再び深い深い眠りについた。

 

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第三十二話 帰ってきた日常①

そろそろこの作品の好き嫌いが分かれてくる頃かなぁ(ボソ


 

 

 

 とても懐かしい匂いが、ゆらゆらと鼻腔をくすぐっていた。

 否応無しに胸の奥が暖かくなるような、それでいて懐かしさを感じさせる穏やかな香り。何度も嗅いだことはあるはずなのに、今までとは違って何故かもう少し眠っていたくるような、はたまた起きなきゃと焦りに駆られるような。

 甘やかだけれど、やっぱりどこか優しい酸味の発酵食品。そう、これは――お味噌汁の匂いだ。

 

「ん、にぁ……?」

 

 眠気に抗うように喉を震わせて、重い瞼を薄く開く。するとぼやけた視界は明るくなって、冷やい空気が目にじわりと染みた。浮かんだ涙が目の端に溜まっていくが、拭うことも億劫だった。

 しばらく判然としない意識で微睡んでいると、すぐ側に誰かが歩み寄る気配がした。これもまた懐かしい匂い。吹羽にとってこれ以上ないと思えるほどに安心できる匂いだ。

 それが、お味噌汁の匂いに混じって、すぐ側に屈み込む。

 

「やっと起きたね吹羽。相変わらず、能力を使った後は寝込んじゃうみたいだね」

「ぅ、ん……おにぃ、ちゃん……?」

「ああ」

 

 頭を傾けるのも億劫で、吹羽はころんと仰向けになって声の主を見遣る。

 吹羽の顔を覗き込む兄――鶖飛は仕方なさそうな顔で微笑んでいた。

 

「おはよう、吹羽。一昨々日ぶり(・・・・・・)だね」

「ふぇ……さきおととい……?」

 

 微睡む思考の中で鶖飛の言葉が木霊する。そしてようやっと頭が理解し始めると、吹羽はゆっくりと瞳を散大させた。

 

「――……一昨々日ッ!?」

 

 自称“一人で暮らせる大人な幼女”風成 吹羽。

 大人とは名ばかりに三日も寝過ごした衝撃の事実によって、久しぶりに兄との朝を迎えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「うー……仕方ないこととはいえ、三日も寝込んじゃうなんて……不覚ですぅ……」

「落ち込まない落ち込まない。昔からそうだったんだから、今更気に病んでもしょうがないよ」

 

 衝撃の事実に飛び起きてから数刻。体は鶖飛が拭いておいてくれたらしいが、一応湯浴みをしてからの朝食だ。卓袱台に並んでいるのはご飯と味噌汁と、なんと魚の塩焼きである。山奥に存在する幻想郷では塩も魚も非常に貴重なはずなのだが、朝のショックが強過ぎて目に留まらない吹羽。魚の身をほぐしほぐし――というかいじいじとほぐしてばかりで少しも食を進められずに、朝食の時間を過ごしていた。

 

「そうなんだけど、そうじゃなくて……」

「?」

 

 能力の使用で寝込むの仕方ないことだ。鶖飛が言っているように、吹羽が能力を酷使した後に寝込んでしまうのは、能力と脳の容量の関係上どうしようもないことである。

 

 “視野”を全開にした場合に脳が処理する情報量は膨大だ。普段気にも留めないようなことすら思考のうちに無理矢理組み込み、体を頭の天辺から爪先まで全てを意識して動かし、その上で相手の筋繊維の微細な動き、目線の僅かな細動、飛び道具の軌道予測、挙句相手の次の次の次まで行動を見透かす。その他到底挙げきれない例の数々を含めその情報量は、普段人間が処理する情報量を水溜り程度の水量とするなら、まさに対面の湖畔が見えない湖の如しである。

 本来なら人間に処理できる情報量を裕に超えているのだ。それを能力の補正でどうにかこうにか行使しているだけ。

 だからこそ制限時間がある上に一度使えば数日寝込む。これは吹羽にはどうしようもないことだ。そもあの時は霊夢と魔理沙を想って正真正銘の全力全開だった。何日か寝込むだろうなぁなんてことは言われるまでもなく覚悟していたのだ。

 

 そうではなくて。

 吹羽が落ち込んでいるのは、そんなどうでもよろしい(・・・・・・・・)ことではなくて。

 

「(せっかくお兄ちゃんがいるのに三日も寝たままなんて……勿体なさすぎるよぅ……)」

 

 心の中で言葉にして、吹羽はさらにどよーんと頭上に青黒い空気を浮かべた。それに目聡く気付いた鶖飛がよしよしと頭を撫でてくる。

 手付きが優しい。理由は分かっていないくせに、大切にしてくれているという暖かい気持ちが胸に直接染み込んでくるよう。鶖飛のそういうところが吹羽は大好きだった。

 

 ――うん、元気貰った。

 

 吹羽は徐に顔を上げると、一つ大きく深呼吸をした。そうして目に入ってきたのは、ほぐされ過ぎて原型を留めていない魚の塩焼き。

 そうだ! と吹羽は笑顔を輝かせた。

 

「お兄ちゃんっ、久しぶりにアレやってあげるよっ」

「ん? お、おおう」

 

 若干視線が泳いだ気がしたが、ちゃんと了承は取れた。吹羽はほぐされた魚の身をご飯に乗せて箸で救うと、鶖飛の口元に持っていって、

 

「はいお兄ちゃんっ! あ〜ん♪」

 

 在りし日の習慣――満面の笑みで“あ〜ん”を敢行した。

 

 輝く笑顔に花が咲く。吹羽の控えめに言っても整った顔で笑顔のあ〜んに、鶖飛はちょっと赤くなって頰を引き攣らせていた。

 昔はよくこれをやってじゃれていたものだ。普通の子供よりも少しばかり早くませ始めていた吹羽がこれに憧れて、大好きなお兄ちゃんを相手に真似するようになったのだ。当然鶖飛も当時は幼く、妹の可愛らしい要求に文句なく付き合っていたのだが――時は非情かな、鶖飛も青年に近しい年。いくら愛する妹の魅惑的なあ〜んであっても流石に――

 

「……あむ」

「おいしい?」

「ん、おいしいよ。吹羽はきっといいお嫁さんになるな」

「えへへぇ……♪」

 

 ……応じてしまうのが、鶖飛の妹至上主義(シスコン)とも言うべき性質である。吹羽の元を離れていた数年間を経てさえ、妹への愛情は変わりないらしかった。

 因みに、当時こうして食し食させる“お遊び”を母は微笑ましそうに、父は複雑そうな表情で見守っていた。ふーちゃんは将来何になりたいのかなぁ? と母が尋ねれば元気に「おにいちゃんのおよめさんになる!」とか小っ恥ずかしいことを平気で親の前で言っていたのだが、生憎とそこは都合よく忘れてしまっている吹羽。鶖飛は流石に覚えていたので、若干視線を泳がせていたのだ。

 まぁ、それでも吹羽のあ〜んに逆らえないあたりが、鶖飛のシスコンと呼ばれる所以とも言える。

 

「……あの、ご飯を作ったのは私なんですが」

 

 と、突然形作られた二人だけの空間に浴びせられた冷や水の如き言葉。

 吹羽はぎくりとして居住まいを正すと、おずおずと声の主を見上げて

 

「そ、そうでしたね! お魚を持ってきてくれたのも夢架さんでしたよねっ! も、もちろん分かっていますとも!」

「……もしかしなくても、私のことを忘れていませんでしたか? 鶖飛さんなんて、私の目を気にしてすらいましたよね? 忘れてるフリですか?」

「いや、そうじゃないけど……不可抗力で――」

「なるほど、阿求様がシスコンと言っていた意味がよく分かりました。人は見掛けに依らないとはこういうことなのですね」

「くっ、言葉の端々が鋭い……」

 

 冷静な無表情でぐさぐさと言葉の刃を刺していくのは、阿求から遣わされた侍従、夢架であった。

 彼女は、吹羽が寝込んでいる間に、環境に慣れていないであろう鶖飛を慮って阿求から派遣されて来たのだという。本当は本業優先しなければならないのが“お付き”というある種重要な役回りなのだが、「どうせ鶖飛とも長く付き合うことになるだろうから、この際に親睦を深めてくると良い」と阿求に言われたそう。いくら夢架が優秀でも、他の侍従たちだって阿求の世話に年月を重ねている。彼女がいない程度で家の運営が傾くほど稗田邸は落ちぶれていないのだ。

 

 いつのまに鶖飛の帰還を知ったんだと思った吹羽だが、まぁ三日もあれば知人数人と顔を合わせるには十分だろう。阿求なんか自分が気を失った当日に全力疾走で駆け付けてきそうだ――なんて思うと、ちょっと苦笑いしそうになる。

 

 とはいえ、若干夢架の存在を忘れていたことも事実。ごめんなさいをしようにも、夢架が鶖飛に向けているような冷やい視線が自分に向くかもしれないと思うと、吹羽は怖くて言い出せなかった。ただでさえ小心者な吹羽にとって、普段から無表情鉄面皮な夢架の冷たい視線は殊更に高威力なのだ。

 

 気を紛らわすように、吹羽はほぐした魚の身をご飯と一緒に口に含む。

 脂の乗った魚の身が、塩の塩辛さと混ざってご飯に溶けていく。以前食べたのが数週間も前で、久しぶりの魚ということもあったが、それを抜きにしても非常に美味な一品であった。親友とはいえ他人の世話をする侍従に高級な魚と塩を持たせるとは、彼女はやはりお嬢様なんだなぁと吹羽は思い耽る。何から何まで阿求様々だ。あと、持ってきて調理までしてくれた夢架にも“様々”である。ごめんなさいの代わりにありがとうを伝えよう。その方が幾分か気も楽だし。

 

「それにしても、昔からこんなことをしていたのですか? 仲が良すぎてもはや新婚夫婦です。あ〜んとか今時は幻想の産物でしかないことをご存じないのでしょうか」

「え、そうなんですか? まぁ夫婦とかならしないかもしれませんが、こんなの兄妹なら当たり前ですよね?」

「……は?」

 

 吹羽の迷言に、流石の夢架も首を傾げた。

 

「いえ、兄妹ならあ〜んってするくらいは普通のことじゃないんですか?」

「…………それはどなたかに教えられたのでしょうか」

「いえ、そんなことはないですけど……。“色は思案の外”という諺があります。理屈とかじゃなくて、お兄ちゃんにはなんとなくそうしてあげたいなーって思うんです。ボクがそうなんだから、兄妹ならどこでも普通のことなのかなって……」

「……ああ、分かりました。少し使い方が違う気もしますが、そういうことですね。理解しました」

「え、え? な、何を理解したんですか? 何か変なこと考えてません!?」

「いえ、お気になさらず。他言はしませんので」

「何をですかっ!?」

 

 夢架の鉄面皮に若干の呆れや哀れみの色が映る。何か重大な勘違いをされているような気がした吹羽が抗議するも柳に風。敬愛すべき主のツッコミすら受け流す完璧侍従スキルは、吹羽相手ではやはり役不足なのだった。

 

 果たして勘違いは――実は勘違いに非ず。厳然たる事実であった。即ち、結局吹羽も昔から兄至上主義(ブラコン)だということだ。そもそもあ〜んを兄相手にし始めた時点で吹羽の“お兄ちゃん大好き”は上限を迎えており、数年の隔絶を経て再会した今ではある意味勢い付いて遂に天元突破してすらいる。今更その愛情に歯止めなどあるはずもなく、故に今更あ〜んをする程度この兄妹には当たり前のことなのだ。

 というか、他の兄妹というものをあまり知らないので、これくらい兄妹なら常識的にするものと思っているところすらある。

 

 妹至上主義(シスコン)の兄に、兄至上主義(ブラコン)の妹。

 常識外れなくせに均整が取れてしまっている奇妙な兄妹を、夢架はどこか呆れた瞳で見つめていた。

 

「――さて……それじゃあお兄ちゃん」

「ん? ……ああ、そういえばそうだったね」

 

 朝食を食べ終えると、吹羽は早速鶖飛に声をかけた。彼もすぐに何事かを理解したようで、部屋の一角に目を向ける。

 

「お祈り……この神棚だけは昔と変わらないな」

「こまめにお手入れしてるもん。お父さんお母さんが帰ってきたときに汚かったら、きっと怒られるし、氏神様もきっと悲しむよ」

 

 懐かしそうに神棚を見る鶖飛を隣に、吹羽はいそいそと神棚の前に正座して手を合わせる。できれば夢架にもしてもらいたいところだが、彼女は恐らく龍神様の信徒であるはずなので、無理強いはするべきでないだろう。

 隣で鶖飛も正座に手を合わせる気配を感じながら、吹羽は今日も一日のご加護を願った。

 

「氏神さま氏神さま、御前に拝してお頼み申す。今日も御風の導きと加護がありますよう、ボクたち風の眷属に、貴方さまの御力をお貸しくださいますよう――」

 

 祝詞としては不十分な言葉。神に対するものとしては不敬にすら思える言葉。しかし吹羽は心の奥底からこの言葉を紡いでいる。形式というのは大切だが、もっと大切なのは伝わる言葉で心から願うこと。それを吹羽はなんとなく知っているのだ。

 このお祈りは、彼女がもっともっと小さい時から続けてきたことであり、彼女が敬虔な神の信徒である何よりの証拠。

 だが、いつもよりも少しだけ、願い事を多く重ねて。

 

「(どうか……どうかお兄ちゃんがもう、絶対にいなくならないように、ご加護をください、氏神さま……)」

 

 決して言葉には出さず、しかし他の願い事に勝るとも劣らない想いを込めて、切に願う。

 吹羽の信じる神は確かに風の神様だ。恵みの風、癒しの風、荒ぶる風、その他あらゆる風を司る偉大な神様である。だがやはり、誰かと誰かを繋ぎ続けるような権能を持った神様ではない。きっと兄と離れ離れにならないように願うのは御門違いというところだ。

 しかし、願わずにはいられないだろう?

 やっと再会できた愛する家族。それがいつまでも側にいて欲しいと願うことに無理はない。権能が違うからといって、自分の最も信じるその神様に願わない訳はないのだ。吹羽には未だ、縋る相手が必要なのだから。

 

 吹羽はキュッと瞼を瞑って殊更強く想いを込めると、ゆっくり手を膝の上に戻した。

 隣にいた鶖飛も、丁度お祈りを済ませたところだった。

 

「……そうだ、お兄ちゃん」

「ん、どうした吹羽?」

「これ……お兄ちゃんに渡しておくね。いつまでもボクが持ってるわけにも……いかないから」

「! これは……親父の」

 

 そう言って鶖飛に差し出したのは、吹羽が常に身に付けている勾玉のペンダント――風成家現当主の証だった。

 元々は二人の父親が持っていたものだったが、何故かこれだけが残されて吹羽の手元に入ってきていたのだ。当主の証とはいえ、どこかに置いて保管するのは流石に危険に感じたので吹羽が肌身離さず持ち歩いていたのだが、兄が帰ってきたのならもう吹羽が持っている意味はない。資格的にも実力的にも、きっと鶖飛の方が適任だと吹羽は判断している。

 

 しかし、鶖飛は手を伸ばそうともせず、ゆるく首を横に振るだけだった。

 

「どうして?」

「俺よりも、きっと吹羽の方が持っているべきだからさ。お前が寝ている間工房を見てきたけど、俺のよりもずっと優れた作品ばかりだった。きっと当主としては吹羽の方が適任だよ」

「でも……どの道お父さんが帰ってくるまでの繋ぎだし……」

「……そうだったな。でもきっと親父もこう言うよ。やむを得ない状況じゃなければ、適格者が持っているべきだってね」

「……そっか」

 

 鶖飛の言葉に納得はできなかったものの、強要などもっとできない吹羽は渋々ペンダントを自分の首にかけ直す。

 鶖飛もそれを見て一つ笑顔で頷くと、くしゃくしゃと吹羽の頭を撫でた。

 さて、と前置いて立ち上がり、

 

「それじゃあ、取り敢えず吹羽の仕事を手伝おうか。どれだけ役立てるかは未知数だけど」

 

 しかし、それを聞いた吹羽はきょとんと一言。

 

「お兄ちゃん、今日はお店は定休日だよ?」

「え、そうなのか?」

「風成利器店は週に一度定休日があると聞いています。吹羽さんは鍛治仕事をかなりのハイペースでこなすので定期的な休養が必要なのだと阿求様が仰っていました」

「はい、まぁ。休みは取りなさいって阿求さんにも霊夢さんにも口酸っぱく言われてるので」

「ですが、最近は臨時休業の札がよく店先にかけられているとのことです。ここ三日間も休まざるを得ない状況でしたし」

「うぐっ……言い返せないです……。でもでも、最近休業が多いのはその……大体魔理沙さんとか早苗さんとかの所為ですから! 別に仕事が嫌になったとか、そういうんじゃないですからね!」

 

 勘違いしないでね! とばかりに言い募る吹羽に、夢架はしかしすーんと澄まし顔。彼女としては事実を言ったまでで、その理由などは心底どうでもいいのだろう。知り合いに変な勘違いをされたくない――というか兄に呆れられたくない吹羽が騒いでいるだけである。

 まぁ、シスコンたる鶖飛はそんなことで呆れたりしないのだが、やはり吹羽としては良いところだけを見ていてもらいたい訳だ。

 

「じゃあ……どうする? 念の為吹羽の休養をもう少し多めに摂ろうってことで、日がな一日ごろごろするか?」

「うーん、お兄ちゃんとならそれもすっごく魅力的だけど――」

「そんな自堕落極まりない時間の使い方は感心しませんね。私がいながらあなた達にそんな生活をさせたとあっては阿求様に叱られてしまいます。吹羽さんの休養は十分でしょうし、もうちょっと人間らしい生活を心掛けてください。ブタになりますよ? それともブタと呼んでほしいんですか?」

「い、いや、断じてそんなことはないけど……。ぶ、ブタって、なんでそんなに言葉が鋭いんだよ……」

「(…………ゆ、夢架さんにブタって言われる……蔑まれる……)」

 

 美しい澄まし顔で情け容赦ない言葉を突き立てる夢架の姿は、ふと吹羽に“どえす”なるモノを思い起こさせた。

 阿求から聞いた話では、“どえす”というのは好きな相手を鞭でイジメてその痛がる姿に興奮してしまう人のことを言うらしい。夢架のそれは鞭ではなかったが、イジメること自体は言葉でも十分にできるし、実際に近いことを今やっている。

 あの澄まし顔が、その言葉によって針の筵にされた自分たちを見て艶やかに笑むとするなら。

 夢架という掛け値のない美少女が、普段は見せない満面の笑みを浮かべて自分たちを言葉責めにし、そしてそれに屈してしまう自分、もしくは鶖飛の姿を見て恍惚の表情を零す――。

 

 ……………………。

 

 ぶるりと吹羽は身震いして、しかしそれが恐怖だけによる純粋な震えでなかった(・・・・)ことに、吹羽は愕然として青褪めた。

 

 ……夢架さんみたいな美少女にうっとりした顔でイジメられるなら……ちょっと、いいかもしれない……気が、しな、くも…なくも、なく、ない……?

 

 なんて思ってしまった自分はもしや、“どえす”の対となるらしい“どえむ”とやら予備軍なのだろうか。いやいやそんなイケナイ子になった覚えはない。きっと気のせいだろう。

 吹羽はちょっぴり赤く染まった頰を隠すように鶖飛たちに背を向けると、話題転換を目論んで「そうだ!」と声を上げた。

 再度鶖飛たちに向けた顔は、もういつもの明るい吹羽である。

 

「それならお兄ちゃん、ちょっとお出かけしようよ!」

「お出かけ? 必要なものは揃ってるでしょ。少なくとも今買い物は行かなくていいと思うけど」

「違うよ。買い物じゃなくて、お・出・か・けっ」

「……??」

 

 首を傾げて不理解を示す鶖飛に、吹羽は今日一番の可愛らしい笑顔を見せて、

 

「ボクの新しい友達、紹介するよっ!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――とこのように、先代博麗の巫女は恐ろしい妖怪を退ける代償に命を落としたと言われている。そしてその跡を継いだ現在の巫女が彼女の娘、博麗 霊夢なんだ。まぁ娘と言っても血は繋がってはいないがね」

 

 そう言葉を括って、手元の資料をそっと机に置く。そして掛けていた眼鏡を取ると、何を言ったわけでもないのにどことなく室内に弛緩した空気が流れ出した。

 もぞもぞと蠢きながら筋を伸ばそうとする者、あくびを嚙み殺そうとして浮かんだ涙を拭う者、大胆にも万歳で伸びをする者。行動は十人十色なものの、そこにあるのは同一の思考。シンクロニシティな思いの動きだ。

 

 “あ〜やっと終わった。退屈だったなー”。

 

「(やはり子供は素直でわかりやすい……)」

 

 どんな言葉も性格も、その性質は見方次第で百八十度変わるもの。素直で愚か、可愛げがあり醜くもあり、本能的でおつむが足りない。それが子供というモノであり、そのどんな要素も究極的にはやはり“良くも悪くも”だと断じている。

 素直な気持ちを愚かにも発露させた子供たちに向けて、上白沢 慧音はパンパンと柏手を向ける。

 

「なぁに終わった気になってるんだ、まだ授業中だぞ」

 

 弛緩した空気が一気にひりつく。

 だがそんなものにはとうの昔に慣れきった慧音は、欠けらだって怯まずに、

 

「はじめに配った紙があったろう? 今話した歴史について、一人一つ質問を書いて提出すること。それが終わったら休んでよし」

「えー! しつもんなんてべつにないよー」

「それを考えるのが勉強なんだ。よーく話したことを思い出して、疑問点を見つけ出しなさい」

「せんせー! そもそも習った歴史に疑問点があったらせんせーの説明不足ってことじゃないですかー?」

 

 くっ、微妙に鋭いことを。

 

「そ、それはアレだ。君たちが質問を見つけられるようにわざと残した考察の余地というやつだ。だから諦めずに探すこと。いいね?」

「「「はーい」」」

 

 暗記だろうが計算だろうが、自分で考えて答えを出すことが勉強である――それが慧音の持論だ。

 やらされるのではなく、やる。教育者は、それが中々難しいであろう幼い子供達を誘導するのが役目なのだ。……まぁさっきのは正直、咄嗟に誤魔化した部分もなくはないが。なまじ教え子が優秀だと教師は心休まらないものなのだ。

 言った通りに近くの子たちときゃっきゃと話し合いを始めた子供たちを満足気に眺めて、慧音は軽く一息吐いた。

 

「(ああ、今日も良く晴れているな)」

 

 ふと開け放たれた障子の外を見遣ると、木造りの家々の上に青空がふんわり乗っかっているのがよく見えた。

 秋真っ盛りだからか最近は雨もなく、実に良い天気が続いている。ただでさえ冷やい空気は朝方だと少し肌寒くすらあったが、不快な冷たさでは決してない。雨に濡れるよりはよっぽどマシだ。

 子供達への課題ももう少し時間がかかるだろう。慧音は己の発言を棚上げして一休みする気持ちになり、頬杖を突いてぼんやりと青空を眺めていた。

 

 青い空。チリチリになった綿飴のような雲。ひょこっと現れるのは白く揺れる中に混ざった羽の形。黒くサラサラな束。金色がかった茶色の川模様。

 

 ――……んん?

 

「(…………まさか)」

 

 浅く植えられた生け垣の上部にひょっこりと覗く不思議な三色。そのうち二つには見覚えがある。慧音は改めてじーっと、それはもうじーっとジト目のように眺めてやると、その内の白色がもこっと膨らみ、少しだけ焦りの伺える翡翠色の瞳が見えた。

 

 っていうか、やっぱり吹羽だった。

 

「(何をやってるんだ、あの子たちは……)」

 

 生け垣に隠れた吹羽は、隣の二色――片方はどうせ稗田邸の夢架だろう――とこそこそ相談を始めている。

 子供達が勉強している手前、あまり気を散らすようなことができない慧音は、手元の資料を一切れ千切り、さらさらと一言書いてこっそり吹羽たちの方へと向けた。

 

『ちゃんと入り口から入ってきなさい』

 

 吹羽は人並み外れて視力がいいと聞いた。慧音の書いた言葉を見て予想正しくぱぁっと笑顔を閃かせた吹羽は、残りの二色と共に寺子屋の入口方面へと進んで行った。

 生け垣の上部から目立つ頭だけが顔を出してひょこひょこと進んでいく光景。なんというか、シュールだった。

 

 というか、まさか吹羽が寺子屋を訪れるとは思っていなかった。生け垣から見ていたのは間違いなくこの教室だった訳だし、十中八九慧音に用があるのだろう。

 “何の用だろう”と不思議に思う反面、会いに来てくれた喜びに頰が緩まずにいられない慧音。ふふふ、と声が出てしまいそうになるのを割と真剣に抑え込む。

 

「せんせー、何にやけてるの?」

「ぅおわっ!? べべ別ににやけてなんかないぞ!? 私が何を見てにやけるっていうんだ!」

「そんなのしらないよぉ。それこっちが訊いてることだもん」

「どうせアレだよ、やっと見つかった恋人のことおもいだしてたんでしょー!」

「せんせーえっちだー!」

「えっちえっちー!」

「ちょ、その話は誤解だと何回言ったら分かる!? そもそも恋人のこと思い出すだけでなんでえっちなんだ! お前たち何か変なモノ読んだんじゃないだろうな!」

「変なものって?」

「どんなもののこと〜?」

「せんせーなにを想像したのー??」

「〜〜っ、もううるさぁぁあい! いいからさっさと質問を提出して休憩にしなさいっ! 今から一刻以内に提出できない者には頭突きするぞ!」

「わわ、はやくしないと!」

「頭突きはやだー!」

 

 さっきまで“質問なんてあるわけない”と嘆いていたとは思えない速度でさらさらと質問用紙を提出していく子供たち。驚くべきことに全員が予告通り一刻以内に提出をし終わり、蜘蛛の子を散らすように庭へと駆けて行った。

 慧音以外誰もいなくなった教室で、なんだやればできるじゃないかと質問用紙に目を落とすと、その半数以上が拙い文字で――、

 

 

 

『慧音先生は何を見てにやけていたんですか。やっぱり恋人ですか』

 

 

 

「………………はぁ」

 

 もうこの授業形式はやめよう。

 寺子屋の苦労人教師 上白沢 慧音。天井を仰ぎながら、彼女はそう固く心に誓った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「いやぁ、ごめんなさい。寺子屋って初めて来たので、慧音さんに会うにはどうすれば良いのかよく分からなくて」

「だからって、なんで生け垣に隠れてたんだ?」

「入り口から入っても授業中ならお邪魔できないじゃないですか。無関係の人が自由に入っていいとも思えませんし。だけど休み時間を見計らって直接会いに行けば他の人に見つかりませんから、何も問題ないかなって思いまして。それで見張るのに丁度良かったのが生け垣だったんです」

「な、なるほど……」

 

 授業をひと段落つけて吹羽たちを探しに行くと、彼女たちは既に応接間に通されて待機していた。

 お茶を啜って待っていたのは吹羽と、やはり稗田邸で阿求の世話を務める侍従 夢架。それと黒髪碧眼の見慣れない少年。

 少年のことを慧音は少しだけ訝しむも、吹羽による説明に期待して三人の対面に座り、取り敢えず初めに訊いておきたかった疑問をぶつける。

 なるほど。分からなくはないが、絶対に自分では辿り着けない結論だなと慧音は呆れ気味に結論付けた。

 

「というか、なんで夢架がいながら生け垣に隠れるなんて奇行を行うことになるんだ。君、一応阿求の御付きだろう? 止めなかったのか?」

「私が提言しなかったのは至極単純、それが阿求様から承った命に外れていたからです。訊かれもしなかったもので」

 

 鉄面皮でそう語る夢架を前に、慧音は口をへの字に曲げた。

 

「それは屁理屈だろう。人の奇行に言するのは思いやりの範囲内じゃないか。阿求だってまさか命意外なことを何もするなとは言っていないんだろう?」

「お世話をしろ、親睦を深めてこい。そう仰っていました。手助けをしろとは仰せつかっておりません。ですが……そうですね、人間として恥ずかしくない生活をさせろ、という意味では提言すべきだったかもしれません。今後気を付けます」

「そうしてやってくれ」

「……なんか、奇行とか人間として恥ずかしいとか、ちょくちょく傷付くんですけど……」

「…………まぁ、そういうこともあるさ」

「否定してくださいよぉっ」

 

 溜め息を吐き、組んでいた腕を膝の上に戻す。前座はこれくらいにしてそろそろ本題に入ろう、と慧音は淡い笑みを浮かべて吹羽を見遣った。

 

「それで、どんな用件なのかな。見たところこちらの少年に関係があるようだが」

「はいっ! お兄ちゃんにボクのお友達を紹介しようと思って! 慧音さんはその第一号です!」

「ほう、なるほど………………お兄ちゃん?」

 

 ふと聞こえてきた単語に、慧音は眉をハの字に曲げて首を傾げた。吹羽は満面の笑みでもう一度「はいっ!」と返事をすると、

 

「こちら、風成 鶖飛お兄ちゃんです! ついこの間、帰ってきたんですっ!」

「な、なにぃ!?」

 

 お兄ちゃん。つまり、家族。吹羽が帰ってくると信じてやまなかった、愛しい家族の一人。

 あまりに唐突過ぎていきなりは呑み込めないその事実を、しかし慧音は吹羽の心底嬉しそうな笑顔から理解だけは完結する。

 目を丸くしたまま件の少年へと目を向けると、彼は軽く会釈しながらおずおずと言った。

 

「えっと……風成 鶖飛です。吹羽がお世話になりました……」

「………………」

 

 吹羽のハイテンションな紹介に対して、しかし慧音は自分でも驚くほど静かに目を見開いていた。それはもう吹羽が“あれ、もしかしてそんなに驚くことでもない?”と心配するくらいに。そして鶖飛が“あれ、挨拶間違えたかな?”と心配するほどに。

 だがそうではない。事実慧音は非常に驚いていた。ただ――驚愕よりも安堵(・・)の方が大きかったというだけ。予想を超えた安堵が、慧音の驚愕を圧殺しきっていたのだ。

 

「……ふふ、そうか」

 

 たった一言。笑いを零しながら納得の意を示した慧音は、見るもの全てを安心させるような優しい微笑みをたたえていた。

 

 慧音はただ、嬉しかった。

 口伝ではあっても、慧音は吹羽に起きた悲劇と苦悩を知っている。分かり合うことはできないが、半妖として長い時を生き人生経験の豊富な彼女は、知識としてそれを理解していた。

 幼い吹羽が背負うことになってしまった大きな重荷。そしてそれを支えてくれた霊夢と阿求への感謝のために無理をして、押しつぶされそうになっていたあの時の涙。

 成熟した大人である慧音が、そんな不安定(・・・)だった子供への救いに喜ばないわけはないのだ。

 

「え、えっと! 慧音さんは見ての通り寺子屋の先生でね! 霊夢さんと大通りに来た時に出会ったんだよ!」

「へぇ……慧音先生はそのとき何をしに?」

「え、ああ……あのときは買い出しに行っていたんだ。ふと吹羽を見かけて、見ない子だなと思って声をかけた」

「ボク、あんまり大通りには行きませんからね……でも、慧音さんに声をかけてもらって内心嬉しかったですよ!」

 

 だって、ほら。

 吹羽は今、きっと心の底から笑っている。帰ってくると信じ続けた家族が、遂に帰ってきた。押しつぶされそうだった心の救済が、今成されたのだから。

 

「俺がいない間、本当にお世話になったようで……感謝します、慧音先生」

「そう思うなら、もう吹羽を寂しがらせないことだね、鶖飛君。家族を悲しませて憚らない者は、人の風上にも置けないということを知るといい。ま、君はそんなことなさそうだが」

「……はい」

「大丈夫ですよ慧音さん! お兄ちゃんがボクを置いていこうとしても、ボクが絶対に離れたりしませんから!」

「全開ですね吹羽さん……」

 

 三人との会話に、慧音はふわりと笑いながら目の端に浮かんだ一粒の涙をそっと拭う。鶖飛の帰還に心底から驚きつつも、彼と吹羽が紡ぐ言葉の数々が、安堵感が、慧音自身にすら底知れないもので、その感動が目の端から溢れ出すのだ。

 

「慧音さん? どうしたんですか?」

「仕事疲れでしょうか。寺子屋の教師というものは相当気を揉むものと記憶しています」

「ん、ああ、いや……眠くなったわけではなくてね……」

 

 だから、余計な言葉はいらない。

 ただ兄の帰還を知らされただけの今でさえ、他のどんな問いや祝福よりも、慧音が吹羽にあげられる言葉は一つしかない。

 優しげに細めた瞳で、ふわりと綿雲のように微笑んで、

 

「本当に……良かったな、吹羽」

「――……はいっ!」

 

 慧音の心からの言葉を敏感に感じ取った吹羽のその笑顔は、やはり命の輝きのように眩しくて。

 慧音は少し見つめるのが恥ずかしくなって視線を逸らした。すると、吹羽の代わりに視界に入ったのは、件の兄 鶖飛。

 

 ――あまり、似ている兄妹ではないな。

 彼と吹羽を見比べて、初めに思うのはそれだった。性別が違うということもあるだろうが、吹羽のまん丸で大きな瞳とは違って鶖飛のそれは少し切れ長に細められていたり、髪の色が対照的に違っていたり。どちらも目が醒めるほどの美男子美少女ではあるものの、言われなければ兄妹だなんて思い付きもしないだろう。

 だが、感情表現の豊かな子供を多く見て来た慧音には分かる。鶖飛は確かに吹羽とは似ても似つかないし、一見冷たそうな雰囲気のある少年ではあるが、吹羽を見つめるその奥にある感情は、ひたすら“優愛”だ。

 里で“兄妹”を探したとしてもきっと到底及びもつかないような優愛が鶖飛の瞳には宿っている。それは家族として間違いなく正しい感情で、慧音が兄妹という間柄の二人に是非持っていてほしいと思うモノ。

 兄妹という切っても切れない縁に結ばれたからこそ、同族嫌悪することが多々あるのは事実だが、是非助け合って生きてほしい。そしてお互いをしっかりと愛し合っていてほしい。

 例え年長者のエゴイズムと誹られようと、慧音はそれを願ってやまない。そして吹羽と鶖飛は、間違いなくそれを満たしていた。

 

「……鶖飛君」

「はい、なんですか?」

 

 慧音の口は自然と動いていた。願ってやまないからこそ、彼女は鶖飛に一言だけ念押しをしなくてはならない。思うよりも先に、体が動いていたのだ。

 

「もう吹羽を、悲しませてはいけないよ」

「……はい。……善処します」

 

 ま、一先ずはそれでもいいか。

 鶖飛の若干物足りない返事に軽く苦笑いしつつ、慧音は鶖飛という存在を今、確かに認めた。

 

 

 

 




 今話のことわざ
(いろ)思案(しあん)(そと)
 愛情や恋情は常識で説明できるものではなく、割り切れもしないということ。


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第三十三話 帰ってきた日常②

 

 

 

 静謐とした水面(みなも)に、青空の移りゆく様が映し出される。

 日は登り降り、月は降り登り、消え得ぬ天の燦光に照らされながら雲は絶えず青色を柔らかな白で彩る。時の流れを感じさせるようにゆっくりと流れていくあの雲は、果たしてどこへ向かうのだろう。どこで消えてしまうのだろう。

 雄大な姿で全てを見下ろし、包み、時に暖かく微笑んでは灰色に怒り荒ぶる。気まぐれで強大で、いつでもそこにいる――そんな蒼天の空は、何処か今の自分の在りようを表しているように思えた。

 

 雄大で偉大な青空を、心の水面に写し取る。静かに、微動だにせず、一滴の雫さえ落としてはならない。息のひと吹きさえ触れさせてはならない。己を平坦に引き伸ばして、己という“個”の情動をひたすらに鎮圧する。そうして写し取られた青空こそが、今の自分を表す――或いは、自分を保つために常に心の中になくてはならないものである。

 

 ――八坂 神奈子は、己をそう定義する。

 

 眼下の湖はどこまでも静かだった。風もなく、音もなく、虫も小鳥も木の葉さえその空気に中てられたかのように近付こうとはしない。近付いてはならないものなのだと定義されたかのように、この湖――守矢神社の裏手にある湖は全てを拒み、その中心で瞑想する神奈子だけを受け入れていた。

 

 ときどき神奈子は、こうして湖の中心に御柱を立て、その上に座って瞑想を行う。それは日課というほど忙しないものではなかったが、彼女には確実に必要なことだった。

 大昔から――それこそ生まれた(・・・・)その時から、神奈子はこの行為の重要性を理解していた。己に欠けてはいけないモノ。己が何者かを定義するために必要不可欠な思考。この行為を行う理由は、もはや生存本能的(・・・・・)ですらあった。

 

 神奈子は理解している。

 “乾を創造する程度の能力”という天を統べるかのような能力を生まれ持った自分は、ゆえにこそ神であると。ゆえにこそ神として存在できると。

 この大空のように雄大で偉大な己であらねば、きっと自分は大昔の矮小な存在に成り果ててしまうのだ。

 だから、自分が神であるために――自分が自分であるために、神奈子は蒼天の空を夢想し写し取る。この行為が、絶対に必要なのだ。

 

 ――ゆえに。

 

「……邪魔を、しないでもらいたいんだが」

 

 虚空に放たれた言葉は、空間が裂ける現象によって応じられた。

 そこからぬるりと姿を現したのは絶世の美女。金糸の髪を靡かせ、淡い桔梗色のドレスをふわりと揺らめかせて妖艶な笑みを浮かべるのは、妖怪の賢者 八雲 紫だった。

 

「よく分かりましたわね。正直、隠密には自信がありましたのに」

「分かるさ。水面が揺れた、風が吹いた、木の葉が舞った――私の裏を掻きたいなら“個”を滅することさ。まあ、それだけで私の意識から外れられるとは、思って欲しくないが」

「…………瞑想によって、自意識を空間に満たしているのですね。力を失ってもそれとは、末恐ろしいですわね、風神(・・)

「……それは昔の話だ」

 

 風神として力を振るっていたのは今は昔。大和の軍神となり、風神としての正しい信仰を失くしてからはもう久しい。その際路頭に迷った者はきっと多かったろうが、最早それも昔の話である。そして信仰も敬愛も、何もかもが薄れてこの地に逃げ延びてきた今の神奈子には、思い出として語るにも遠過ぎる過去だ。

 紫の皮肉染みた呼び方に、神奈子は遣る瀬無さを感じて溜め息を吐く。神に対して皮肉を放り、神の意識が満たされた場所――いわば神域を平気で侵す妖怪の方がよっぽど末恐ろしい。

 神奈子は整っていた姿勢を崩し、御柱の上で片膝を立てた。

 

「あら、瞑想は終わりですの?」

「神敵がいる場で隙を晒せと?」

「敵だなんて。私は等しく、幻想郷住民の味方ですわ。それが例え、対極の位置にいる神であっても」

「……ふん、まあいいさ。私も本気で神敵だなんて思っちゃいないからね」

「この世界では、皆が等しく対等ですわ」

「そうだったな」

 

 賢者のその確固たるスタンスを好ましく思いながら、神奈子は軽く目配せをした。

 世間話をしにきたわけではあるまい。要件があるならさっさと言え、と。

 紫は間違いなくその意図を察し、口元を扇子で覆った。

 

「……風成 吹羽、という少女をご存知で?」

「吹羽? 知っているが……それがなんだ?」

「彼女に関して、少し」

「………………」

 

 ――何か企んでいるのは明らかだった。

 口元を隠すのは表情を悟られたくない証である。或いはただの癖という可能性もあるが、それを抜きに考えても、妖怪の賢者の口から一人の人間の少女の名が出てくるなど普通ではない。

 神奈子は警戒心を剥き出しにして問い返す。紫は、目だけは変わらず澄まし顔だった。

 

「人間というのは酷く脆い種族ですわ。私たち人外が指先で小突けば簡単に吹き飛ぶような。ごく一部の者だけは心身ともに強固であることもありますけれど、そんなのはほんの一握り……少し辛い現実があれば、簡単に壊れてしまう」

 

 異論はない。神奈子は静かに聞いていた。

 

「でもそれは独りの話。人という字は支え合って成り立っている。――そう、人が人である限り、支えがあれば生きていけるのです」

「……何が言いたい?」

「“子”を想い、慮るのは親の仕事……そういうことですわ」

「子? 何の話だ」

「あら、忘れてしまったのですか? 神というのも薄情ですわね。……ああ、いえ、信奉者を路頭に迷わせる神など、薄情で独り善がりなのは当然でしたわね」

 

 こちらを煙に巻くような物言いに、さしもの神奈子も眉根を深く寄せて片眉を釣り上げた。

 会話が噛み合わない。しかし、当の賢者が話の辻褄を全て合わせた上で言葉を紡いでいるのは確かだ。彼女は他のどんな存在よりも頭が切れる。神奈子が彼女の超論理的思考を把握しきれていないだけなのだ。

 それはつまり、神奈子自身が何か見落としをしている、ということ。

 

 神奈子のそんな様子に、紫は愉快そうに目細めた。

 

「――なるほど、悠久の時というのは神の記憶さえ忘却の彼方へと誘なうものなのですね。人の精神(信仰心)そのものである神の記憶にすら影響するとは……興味深いですわ。まあ、瞑想しなくては自分を保てない成り上がり(・・・・・)には、当然なのかもしれませんが」

「……なんだと?」

「知っていますわ、八坂 神奈子。あなたの……成り立ちについて」

「!?」

 

 馬鹿な、そんなことあるはずがない。

 神奈子の世界がひっくり返ったかのような驚愕の表情は、複雑な推測など必要ともしないほどにその言葉を表していた。

 当然だ、神奈子という神が生まれたのは何千年も前の話。せいぜい千と数百程度しか年を数えていないはずの紫が知る訳はない。完全な神として存在が確立されている今、神奈子が“成り上がり”であることを知る者などいないはずなのだ。

 

 別に、その事実自体は問題視するべきものではない。過去など過ぎ去ったことであり、今自分が神としてある程度の力を持っている事実が全てだ。例え“成り上がり”だと広まり誹られても、ならば再度力を見せつけてやればいい。些細なことだ。

 だが――何故か知り得るはずのないそれを知っている八雲 紫。この構図が神奈子には度し難い。

 不気味な存在が、得体の知れない方法で自分の核たる事実を掌握している。その事象自体が、神奈子には油断ならないことのように思える。

 

 神奈子は驚愕に見開いた目を剣呑に細めた。

 

「……お前、一体何を考えている?」

「お答えする必要のない質問ですわね。直接的な関係はあなたにはないのだから。ただ私は、伝えたいことがあっただけです。……まあ、あなたは保険(・・)に過ぎないので、最悪分からずとも良いことですよ」

「ならなぜ――」

「言ったでしょう、“保険”です。失敗して失敗して、その最後の手札として残しておこうと思った、効果も効能も未知数の、保険ですよ」

「………………」

 

 繰り返し降ってくる“保険”という言葉。初めの“風成 吹羽を知っているか?”という質問。人が支え合わねばならない生き物だという真実。そして親は子を慮るものだという言葉。

 ――何かが引っかかる。遠い昔に忘れてしまった何かが、因果律が収束するように、今に繋がっている気がする。ただそれがなんなのかを思い出せない。

 

「そういえば、洩矢 諏訪子と東風谷 早苗は血が繋がっているそうですね。洩矢 諏訪子の遠い子孫が東風谷 早苗なのだとか……実に仲の良さそうな二人ですわ」

「……そうだが、それがなんだ」

「いえ、ね――……」

 

 もやもやとした心地に眉を顰める神奈子を尻目に、紫は実に挑発的な笑みを向けた。

 

「果たしてあなたは、仲良くできるのかなと……心配になっただけですわ」

 

 では、御機嫌よう――紫はそう言い残して、神奈子の前から姿を消した。

 己の領域に妖怪がいるという違和感も同時に消え失せ、再び湖は神奈子だけを受け入れる神域と化す。その中で、神奈子は堪らなくなって溜め息を吐いた。

 

「あいつ……もう少し素直でまっすぐなら、人に嫌われることもなかったろうに……」

 

 ふと御柱から飛び降りて湖の水を掬い上げる。ポツリとこぼした言葉と共に、神奈子は紫のいた空間にパシャリと水を放り投げた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 さて、慧音に会いに寺子屋へと足を運んだ後、次なる目的地は当然妖怪の山だ。

 普段から外に出ない引きこもり気質の吹羽には悲しいことに、本当の意味で数える程度の友人しかいない。その中で彼女が、改めて鶖飛に紹介しなければならない友達といえば、自然とごく最近に知り合った妖怪たちに限られる。

 

「え、妖怪の友達がいるのかい?」

「うん! 椛さんと文さんっていってね! 椛さんはもふもふで、文さんはなんだかふんわりするようになったの!」

「ん、んん? まあよく分からないけど、妖怪の友達って大丈夫なのか? その……安全面、とか」

「大丈夫だよぉ〜! 椛さんは気遣ってくれるし、文さんも優しく……なったし、お兄ちゃんは過保護過ぎだよっ。えへへ……♪」

「……それでも満更でもなさそうなのが吹羽さんですね……」

 

 鶖飛に反意を示しつつ、それでも過保護に心配してくれることが嬉しいのかちょっと気味の悪い笑いが漏れ出ている吹羽。今日だけでどれだけこの兄妹の甘々な雰囲気に放り込まれるのだろうと思うと、夢架は憂鬱で溜め息を吐かずにいられなかった。

 

 三人は今、妖怪の山の麓を登っていた。燃えるような紅葉が絨毯のようだった此間に比べて山肌は腐葉によって少し茶けてきており、三人の頭上で屋根の如く広がっていた葉々も所々隙間が目立つようになってきた。

 まだ標高も低いため寒くはないが、きっと山頂付近は冷え込んできているだろう。雨で霧がかからないことを祈るばかりだ。

 

「それにしても、夢架さんって体力あるんですね。この山って割と急勾配で歩きにくいと思うんですけど」

「侍従たる者、体は資本です。体力不足で倒れては主人に迷惑がかかりますから。まあ、胸が大き過ぎて歩き難くはありますが」

「むぅ……そんなセリフ、いつか言ってみたいです」

「吹羽さんは発育が割といいので近いうちに大きくなりますよ」

「ほんとですかっ!?」

「……なんだか、男には聞きにくい会話してるなぁ」

 

 合間合間にそんな雑談を挟みながら、三人は比較的和気藹々として登っていく。鶖飛は言わずもがな、夢架もこうして話してみると、棘のある物言いの中でも意外と話しやすい。鉄面皮に覆われた鉄壁の侍従にもやはり感情はあるらしい、吹羽は三人での弾む会話の中でそれを実感して、少し嬉しくなっていた。

 

「それで、どれくらいで着くんだ?」

「んー……道は覚えてるけど、もしかするとお仕事中かも――ぁあッ!!」

「……? どうしたんですか?」

 

 が、言葉の途中でヒステリックに叫んだ吹羽に、鶖飛と夢架は訝しげな視線を向ける。だが吹羽はそれを尻目に“これはヤバイかも”と焦りに焦っていた。

 だって、それは椛の仕事そのものであり、生真面目な彼女が妥協なんてするはずもなくて――。

 

 前回、霊夢と共にここを訪れた際のことを――言葉がフラッシュバックする。

 吹羽は辿り着いた推測にあわわわと震えながら、恐る恐る鶖飛を見遣った。

 

「お、お兄ちゃん。風紋刀……持って来てないよね……?」

「え? ああ、うん。まさか里の外に出るとは思ってなかったから」

「それがどうかしたんですか?」

「ま、マズイかも……椛さんは哨戒天狗なんです! ボクが来たときは、なにやら霊夢さんに免じてお話をしてくれたみたいで……ボクだけじゃ、もしかしたら――」

「御推察。さすがですね吹羽さん」

「ふぇ――……」

 

 刹那、銀色の剣閃が視界の端を掠めた。

 風の音さえも置き去りにして放たれた神速の斬撃は、吹羽の動体視力を以ってしても捉えること叶わず、彼女の隣にいた鶖飛を襲った。

 辛うじて見えたのは、振り抜いた後。放たれた斬撃が峰打ちだったということだけ。刀身は勿論、振るったはずの腕も、残像すらも見えない一撃。それは、瞬きの間に目の前に現れた少女から放たれていた。

 

「私の仕事をよく理解してくれているようで非常に嬉しいのですが、そうである以上体裁は保たせて貰います。見るべきもの(・・・・・・)も、持っていないようですし」

 

 凛々しくも可愛らしい鈴転の声音。頭の上で揺れるふさふさの獣耳。武勲を誇るかのように形を失ったままの左腕。そしてその傷口を人目から逸らすように肩から羽織られた、白地に赤の装飾を施された肩掛け。

 ――哨戒天狗が一、犬走 椛がそこにいた。

 

 衝撃的且つ突然過ぎる登場に呆然とするも、吹羽はハッとして土煙の方へと目を向ける。

 

「お、お兄ちゃんッ!」

「峰打ちだから大丈夫ですよ。吹羽さんの知人の首を不意に刎ねるのは気が引けたので」

「椛さん! 突然斬りかからなくてもいいじゃないですか!」

「ですから、仕事なので体裁だけは取り繕っておかないと。いくら吹羽さんの知人でも、一見して証拠がないなら侵入者です。初撃で立場を分からせるのが、侵入者に対する私たちの歓待なんです」

「ぅ……で、でも怪我したらどうするつもりですかッ! お兄ちゃんは普通の人間ですよッ!?」

 

 例え峰打ちでも刀は金属の塊。それなりの重量があるそれを先ほどのような速度で振るえば、人間など簡単にへし折れてしまう。

 そんなことも分からないのか、と吹羽は椛に初めて怒りの表情を向けるが、椛はむしろ優しげな――納得するような表情で。

 

「ああ、それは問題ありません。何せ、威力は完全に殺されていました(・・・・・・・・・・・・・・)から」

「……え?」

 

 不意に、土煙の方から軽い呻き声が聞こえてきた。

 それは激痛に咽び泣くようなものでは決してなく、況して“やられた”と嘆きながら痛みに耐えるようなものでもない。ひたすら軽く、まるで児戯をあしらった大人のような声だった。

 

「いてて、いきなり斬りかかってくるとは……峰じゃなかったら腕が飛んでたぞ?」

「……両手のバネで威力を殺し、木への激突にすら受け身を取りましたか。人間でそこまでのことができるとは驚きです」

「やった本人が何をいけしゃあしゃあと」

「素直な褒め言葉ですよ。あなた……相当な達人ですね」

 

 姿を現した鶖飛は見た目には何の傷もなく、道端で転んだ後のように服についた埃をはたいて落としていた。

 その様子にホッとする反面、吹羽は椛にすら達人と言わしめる兄に、改めて敬愛の念を抱いた。相変わらず剣術体術に関しては追いつける気がしない。昔から吹羽は、鶖飛とのその手の稽古や勝負で勝ったことはないのだ。

 

「ああ……こちとらそこの天才な妹と毎日のように打ち合ってたんでね。いやでも技術は身についたよ」

「なるほど、納得です」

 

 短くそう返すと、椛は静かに刀を構え直した。

 今度は刃を返し、正真正銘の真剣勝負に意気込むように。対して鶖飛は、愛刀も木刀も持っていないゆえ足元にあった丈夫そうな木の枝をひょいと持ち上げ、具合を確かめるように軽く振り回した後、逆手に持って構えた。

 

 椛はそれに少しだけ眉根を寄せるも特に言及せず、吹羽をちらと見遣って、

 

「吹羽さん、何か弁明はありますか?」

「うぅ……証明、できるものですよね……残念ながらないです……」

「そうですか。やはり仕方ありませんね」

 

 仮にそれらしき刀があれば、吹羽の時と同じように、椛はそれが風紋刀である可能性を考慮していきなり攻撃には出なかったろう。それを本物と断定し、鶖飛を正真正銘風成家に連なる者として迎え入れたはずだ。

 だが、それが今はない。そして吹羽の言葉だけで風成家の人間だと受け入れてしまえるなら、椛は警戒・選別・迎撃を担う哨戒天狗など勤めてはいない。水溶成分を全て通すセロハンなど、もはや半透膜ではないのだ。

 

 ゆえに椛は、その目で体で確かめるしか術がない。

 鶖飛が椛を恐れて引くならそれで良し。打ち合って椛に打ち勝つならそれでも良し。打ち合った結果椛が鶖飛を風成家の人間だと断定できたならば、それもまた良しなのだ。

 侵入者に対する哨戒天狗の歓待とは、むしろこれが常である。霊夢とここに訪れたゆえに椛との衝突を回避できた、あの時の吹羽たちが異例だったのだ。

 

 こうなってしまっては、吹羽にはどうすることもできない。椛が仕事に熱心であること、生真面目であることを知っていて、なおかつ同じ仕事人としてその邪魔をしたくないと思う吹羽は、この唐突に始まった鶖飛と椛の勝負に横槍を入れられないのだ。夢架などは言わずもがな。ちらと後ろの彼女を見遣ると、その視線に気が付いたのか、軽く両手を上げて「お手上げですね」と示してきた。

 

「一応お尋ねしますが、スペルカードルールは?」

「ん? なにそれ」

「……ご存知ないと。分かりました」

 

 椛は短く息を吐き出すと、キッと前方の鶖飛を見据える。改めて視界に収めた彼は、凡そ里の人間とは思えないほどの手慣れた姿勢で構えていた。

 極端な右自然体に体を据え、緩く逆手に持った木の棒を構える。対して椛は、腰を低く構え、刃を地面と平行にして顎のすぐ下に構える。それは剣士というよりいっそ獲物を狙う射手のように――向けた鋒を鶖飛に照準した。

 

 油断はしない。

 冷静に、冷酷に、獲物を定めた狼の如き鋭い眼光で、椛は短く呼気を吐く。

 宣言に次ぐ――開戦を。

 

「私があなたを斬るのが先か、あなたが私を認めさせるのが先か……勝負ですッ!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――正直に言って、椛にはこの状況を楽しんでいる節があった。

 

 仕事仕事と生来の性格ゆえ真面目に取り組んではいるものの、それが楽しいかと言われれば断じて否だ。

 哨戒は陳腐にいえば延々と山中を飛び回る仕事である。目を凝らし耳を澄ませて空を駆り、侵入者を見つければ対処する――とは言っても、そんなもの滅多に現れない。だって、ここがそういう場所(・・・・・・)なのだと誰もが知っているから。

 ほとんど遭遇しない敵などもはや気苦労の種でしかない。いつ来るかも分からない相手に延々と気を付けるだけで精神的には酷く疲れるし、実際椛は何人かサボっている同僚を知っている。その気苦労を知っているから彼女もその同僚らに口出しはしない。

 

 娯楽というのは大切だ。生きるためだけには不必要とはいえ、何故そう言ったものに需要があるのかといえば当然心に余裕を持たせるためである。それは例えば将棋であったり、川遊びであったり、紅葉狩りであったり、はたまた風紋の開発なんてとんちんかんな趣味を娯楽とする者もいる。

 ――椛の娯楽はなんなのか、という話だ。

 

 椛は武人であった。その剣技は天魔ですら一目を置くほどで、気概や意志の強さに関しては大妖怪 伊吹 萃香のお墨付き。その技量だけでも中妖怪を逸脱している。それは椛が研鑽を積むことを誉れとする、生真面目過ぎて少々アノマリーな努力家だったからこその評価であり、結果なのだ。

 

 剣は命。剣は心。これを失くせば己は完成しない。

 椛の武人としての心は、鶖飛を見つけた瞬間にじくじくと疼いていた。此度の侵入者がどれほどの腕前なのかは知れない、しかし強者であることは間違いない。歩き方、呼吸の仕方、目の配り方、仕草の一つ一つ――無意識に読み取ったそれらが、鶖飛を強者なのだと判断させた。

 ゆえに椛は襲いかかった。剣を合わせてみたいと思った。

 “侵入者にはまず辞去を命ずべし”と掟に記されてはいるものの、それをしたらきっと吹羽たちは都合だけ付けて今日は帰ってしまう。それくらい彼女は相手を思いやれる子だ。だから椛は、吹羽と掟にちょっとばかり嘘をついて、鶖飛との勝負に臨む。

 

 果たして椛の期待は――間違いなく、凌駕された。

 

「ふっ……!」

「く――っ」

 

 横薙ぎに振るわれる棒の一撃を剣の腹で受け止める。樹皮であるため比較的柔らかいはずが、鶖飛の放ったそれは思いもよらないほどに重く、鍔迫り合いに持ち込むことさえ容易ではなかった。

 それを二度、三度、四度と打ち合い、時には腹を滑らせて受け流す。木の棒を相手にしているとは思えないほど苛烈で鋭い。椛は予想を大きく超えて攻めあぐね、苦戦していた。

 

「ぐ、重い……!」

「そっちは存外に軽いな」

「戯言を――!」

 

 数合打ち合い鶖飛の得物を下に弾いた瞬間、椛はすとんと姿勢を落とし、まるで鯉が滝を登り龍となるような勢いで刺突――“白爪”を放った。

 至近距離での風紋による刺突。風で形成される刃により見た目以上に鋒が長くなり、間合いを見測るのが極めて困難なそれは、容赦無く鶖飛の顔面を穿ち貫くべく天を衝く。

 ――が、鶖飛は僅かに目を見開いただけで、実に簡単な様子で対処してきた。

 

「――あぶねっ!?」

 

 下側に弾かれた得物を肘関節を支点に回し、椛の刃の腹を、刀で言うところの柄頭で打ち付けて強引に軌道を逸らした。

 棒の刀身部で刀を受けられないゆえに、柄頭で軌道を逸らして守りとする。予想外の防御法に咄嗟に目を見開く椛に構わず、鶖飛の動きは止まらなかった。

 そのまま自分の腕と得物の刀身部で椛の手首を搦めとるように手首を回して力を誘導すると、鶖飛は力の抜けた椛の足を強引に払って打ち上げた。

 

 絡め取られた手首を支点に、椛の体がふわりと宙に浮く。その絶大な隙を、鶖飛は逃さない。

 地につけたままの足で回転をかけるように跳び、棒の持ち手を順手に持ち替えた。竜巻を思わせるような美しく力強い螺旋を描いて、鶖飛の得物は狂いなく、宙に投げ出されて無防備な椛の腹へと炸裂する。

 

 ――が。

 

「ちっ、防がれたか」

「〜〜ッ、甘い、ですッ!」

 

 寸出のところで滑り込ませた刀がぎしりと軋む。椛はその力に逆らわず吹き飛ばされるも翼をはためかせて調節し、木の幹に着地してそのまま鶖飛に斬りかかる。

 爆速の勢いを乗せて“狼牙”による唐竹割りを放つが、ひらりと躱され、その背後の巨木が縦に割れて破片が散った。

 

「なぁ、妖力は使わないのかい?」

「ええ、あなたとは是非……剣で勝負してみたかったので……!」

「そっか。まあ、こっちは使ってくれて一向に構わないよ。勝つために使える手は全て使う……それが勝負だろう?」

「……油断は死を招きますよ」

「ははっ、違いないが――残念ながら油断でも驕りでもない」

「っ、その余裕、すぐにでも――ッ!」

 

 鶖飛の薙ぎに刀を合わせた刹那、椛は体を下にくぐらせる形で棒を受け流すと、背負い投げの要領で刀を振るって棒を地面に叩きつけた。寸前で鶖飛が棒を引いたために刃がずれ、折ることは叶わなかったものの、これは大きな隙である。間髪入れずに一歩震脚するように踏み出し、ごうと斬り上げた。

 

 が、鶖飛はそれを読んでいたのか、切り上げられる椛の刀にすら峰から棒を沿わせて振り上げ、軌道を逸らして回避してみせた。

 そして、間髪入れずに椛の顔面に向けて豪速の刺突が放たれる。

 

「――ッ!」

 

 それは完全に椛の隙を突いた反撃だった。軌道を逸らされてあらぬ方へと降り抜かれた刀は無様に宙を切っており、引き戻すにはあまりに時間が足りない。椛は迫り来る壁のような刺突に脂汗を吹き出しながら、しかし本能的に、反射的に首を傾けて奇跡的に回避する。先の尖った部分が、僅かに頰を掠めた。

 刺突を外された鶖飛はそのまま横に薙ぐが、それを側方空中回転の要領で回避して距離を取る。

 再び構え直し、椛はふー、と短い呼気を吐き出した。

 

「中々強いね。腕一本でよくやるよ」

「っ、……あなたも、齢十(よわいとお)といくつかでその領域とは……凄まじい天賦をお持ちと見えます」

「いいや、俺はなんてそれなり(・・・・)さ。剣を振るしか能がない。今も昔も……」

「……?」

 

 その時、椛は僅かに暗がりが射した鶖飛の表情に僅かな虚ろを見た。虚空であり遣る瀬無さであり、後悔のようにも見える。

 だがそれも一瞬。鶖飛はすぐに表情を元に戻すと、棒を左逆手に持ち替えて低く構えた。

 

「だからさ、様子見はこれくらいにしておくよ。君が強いのは分かった……だからここから、真剣に(・・・)いこう」

 

 何の構えかはすぐに分かった。刀を逆手に腰を低く構えるのは抜刀術の構え。例え剣の素人であろうと一目で分かるだろう。

 風紋刀を扱うゆえに、隻腕になる以前から椛が捨てていた型だ。腰に構える為に軌道が読まれやすく、受け太刀に向かない風紋刀で用いるには難があるのだ。もちろん、片手しかない現在では使うことすらできないのだが。

 

 ただ、当然それがどんなものかは知っていた。

 抜刀術は帯刀したまま座した状態からの一撃を想定して考案されたものであり、実践技法としては少々扱いにくいこと。初速はあるが片手での運用になるので威力があまり出ないこと。そして、相手の初撃をどんな形からでも受け流し二撃目で確実に斬り捨てるという、“受け”の技法であること。

 下手に用いれば隙を与えるだけ。剣の世界ではそれが致命的。扱いが難しいからこそ、実践でこれを効果的に使えるものは達人と称される。

 

「(……確かに、どう読んでも受け流されるのが目に見える……これが達人の居合ですか)」

 

 鶖飛の抜刀術の構えに対し、椛がシミュレートする一撃はどうあっても鶖飛に届かない。逸らされ流され、次の瞬間には一撃を見舞われる未来があまりにも見え透いていた。それは剣士にとっては――否、己の死ぬ未来しか見えないというのは、どこの誰にも恐ろしいことで、混じり気の一切ない絶望そのものだ。だからこそ、この構えを前に人は躊躇し、己の剣を納める。

 抜刀術が殺人剣ではなく、活人剣と呼ばれる所以はそこにあるのだ。

 

 ――だが。

 

「(選択を……間違えたようですね)」

 

 やはり人か、この状況で鶖飛は選択肢を間違えた。

 彼の得物が真剣だったなら、それはきっと最適解だったろう。椛が鶖飛に抜刀術を構える時間を与えてしまった時点で詰みに近い。なにせ先程の数合で、椛の剣術は事実として鶖飛に及ばないことを悟ってしまった。だからその構えに飛び込めば、十中八九真っ二つ。本当に剣を納める他になくなってしまう。

 

 だが、彼の得物は木の棒だ。それは彼の抜刀術から“一撃必殺の構え”という最強の事実を根元から消し去る致命的なファクター。

 木の棒なんかで、人間は斬れない。妖怪は斬れない。この世のあらゆるものは、鈍器では斬れないのだ。

 椛は足に力を込めて構えた。あの抜刀術が致死の一撃でない以上、椛が飛び込むのに躊躇する理由はない。例え受け流されて一撃もらったとしても、それで死ぬことは決してない。或いは吹き飛ばされるかもしれないが、その時は力をいなして反撃に転じるだけだ。一撃が重いと言っても、あの時の萃香ほどでは決してないのだから。

 

 これで、決める。

 単純な技量で圧倒される相手の犯した致命的なミス。それを突かずにどうやって達人など打倒できよう。

 椛は己を驕らない。少なくとも鶖飛がどの程度自分を超えているのかは理解しているはず。そしてかつての萃香との戦闘を経て、自分がどの程度のことができるのかを分かっている。

 長続きすれば、剣術で鶖飛には勝てないだろう。或いは妖力を行使すれば勝てるだろうが、剣のみで勝負をしたい椛にその選択肢はないのだ。

 

 ゆえに、次の一撃で決めるしかない。全身全霊の一振りで以って。

 そう覚悟を決めたからこそ――椛は、気が付かぬ間に、驕っていた(・・・・・)

 

「――……行きますッ」

 

 爪先に力を込め、足先の地面が僅かに陥没する。一太刀目がどうあっても防がれる以上、どんな太刀筋だろうと関係はない。振り抜きやすいように椛も左下からの斬り上げを想定し、呼吸と共に踏み出すべく一瞬の瞬きをした。

 

 その、瞬間。

 

 

 

 数間先にいた鶖飛は、椛の眼前にまで距離を詰めていた。

 

 

 

「――ッ!!?」

 

 眼前に迫る覇気。腰を一層低く落として椛の懐に入り込んだ鶖飛は、鋭い瞳で以って踏み出しかけた椛を見上げながら、川のせせらぎのように滑らかな動きで木の棒を抜刀する。

 

 そう、抜刀――椛にはそれが、ただ腰に構えた木の棒を振り上げるだけの動作には見えなかった。

 そこにあるのは一振りの刀。触れればあらゆるものを両断せしめる絶対必殺の業。なにもかも、一切合切、森羅万象、その一刀の前には抵抗が許されず、縦に割れて倒れるか袈裟に断たれてずれ落ちるか、或いは横に薙がれて宙を舞うか。その三択しか選択肢はなく、またそのどれにも生き残る術はない。

 

 

 

 鶖飛の覇気が、気迫が、剣圧が、剣気が。

 椛の脳に、ただの木の棒に究極の一太刀を幻視させた。

 

 

 

「〜〜ッ!!」

 

 このまま動作を続ければ確実に死ぬ(・・)。しかし既に、椛の覚悟を決めた一太刀は中断できるところにない。

 皮肉かな、一太刀で決めると意気込んで振るった太刀筋は、まさしく鶖飛に一太刀で決められる(・・・・・・・・・)結果に繋がった。

 

 氷が背中を滑り落ちるような中、互いに踏み込んだ二人は姿を交差させてすれ違う。

 しかし勝敗は明白だった。

 椛の手は力なく得物を持ち上げ、僅かに震えてさえいる。

 刹那の後に津波のように押し寄せてくるであろう痛みを予感して何もかもがさぁっと凍え切り――椛は、鶖飛の声にハッとした。

 

 

 

「あれっ? 手応えないと思ったら、折れてるじゃん……」

 

 

 

 思わず振り向いた先には、刀身部が丸々となくなった木の棒をあららと見つめる鶖飛の姿。そして肝心の刀身部は、二人のすれ違った地点で転がっていた。その断面は折れたと言うよりも、鈍い刃物で断たれたようになっている。

 

「(……振るう力に耐えられず……木が、鶖飛さんの手に置いていかれた、のですか……?)」

 

 でなければ、消えた刀身部がそんなところに転がっているはずはない。振るう瞬間――それこそ抜刀した瞬間に、その速度に耐えられず刀身部がその場に置いていかれて、手と柄部だけが振り抜かれたのだ。

 そしてその結果として――椛は、斬られなかった。

 

「まいいや。次は……ああ、これでいいかな」

 

 折れた棒を投げ捨て、次なる得物を手にとって軽く振り回す鶖飛の姿に、椛は戦慄を禁じ得なかった。

 木の棒を獲物にするなど、初めは訝しく思ったし、舐めるなよとらしくもなく少し憤りもした。だがそれで実力が測れるわけではないからと、己を落ち着かせて戦いに臨んだのだ。事実鶖飛は、木の棒を折ることもなく重い一撃を見舞い、また受け流して反撃してさえ見せた。

 この時点で椛は、ある程度鶖飛の態度の意味を理解し、見直していた。

 

 だが、それでもまだ、椛は鶖飛を測り切れていなかったのだ。

 

 彼にとってこの戦いは恐れるほどのものではなく、また本気になるほどのものでもなく、例え脆弱な木の棒を用いてさえ相手を制圧し得るただの児戯――もしくはチャンバラに過ぎない。

 その剣術、体術、戦闘における直感、反応速度――どれをとっても今の椛を、仰ぎ見ることすらできないほどに凌駕している。

 彼の力を理解できてなど、これっぽっちもいなかったのだ。

 

「“抜き足差し足”って聞いたことあるかな」

「っ!」

 

 声は真横から。

 前方で悠々と新たな木の棒を振り回していたはずの鶖飛は、いつのまにか椛の真横で木の棒を振り被っていた。

 咄嗟に避けた椛はバック宙で距離を取るも、一息吐いた次の瞬間には、彼は再び椛の懐に潜り込んで木の棒を振るってきた。

 

「音をさせず気付かれず、沼からそっと足を引き抜くようにっていう言葉なんだけど、これはそれの応用さ。相手の呼吸を読めるようになると、こんなことができるようになる」

 

 突然の事態だが、それでいつまでも慌てふためく椛ではない。また瞬時に潜り込まれることが分かっているならば、それに合わせて剣を振るえばいい。

 避けては現れ、受け流しては現れを繰り返す鶖飛に対し、椛はタイミングを合わせて剣を振り抜く。果たしてその一撃は――確かに鶖飛に襲いかかり、彼はそれを木の棒で受けた。

 

「呼吸が読めれば意識が読める。意識の向かない無意識を見つけて潜り込めば、行動を阻害されずに一方的に動けるって寸法だよ。――こんな風に」

 

 直後、剣が突然軽くなったかと思うと、鶖飛は全く違う体勢で棒を構え直していた。

 椛の目の前で。

 気が付けば構えを直して、別方向から攻撃を見舞ってくる。それが椛に対応を許すような甘い角度であるはずがなく、遂に椛は腹部に痛烈な一撃を受けて吹き飛ばされた。

 

「ぐ、ぅ……っ!」

「もう一つ講義と行こう」

 

 宙を翻って体勢を直すと、更に上空で棒を振り被る鶖飛が見えた。

 彼の兜割りを避けることはできず咄嗟に刀を滑り込ませてそれを防ぐと、重力が増したかのような衝撃が椛の体を地へと叩き落とす。

 次いで、土煙を穿って鶖飛の追撃が飛来した。投擲された棒を椛は横に回って回避する。

 背後でズドンと腹に響く音がした。

 

「さっき俺の構えを見て攻めようとしていたけど、読みが甘い。抜刀術は確かに受けの技巧だが、工夫さえすれば最高の攻めの型になる。その真髄は抜き打ちの速度、体を開く故の斬撃範囲の伸び、そして――全身に渡る脱力からの、爆発的威力」

 

 二合、四合、八合――鶖飛の“抜き足差し足”による苛烈且つ回避不能の連撃と打ち合い、僅かな隙に再度腹に一撃が打ち込まれて吹き飛んだその刹那――鶖飛は、再度椛の懐に現れた。そしてその構えは致命の一撃、抜刀術。

 

「ほら……目の前が(・・・・)、がら空きだよ」

 

 迫り来る絶対両断、必殺の太刀。今度こそは威力を制御され、棒を折ることなく降り抜かれるであろう最高最速の一撃だ。

 先ほどよりも体勢は安定しているものの、無意識を突かれたその一撃は既に不可避の領域。

 ――椛を襲ったのは、亜音速で飛ぶ石飛礫を腹に受けたかのような衝撃だった。

 

「っ、か――……は――ッ!!」

 

 まともな声すら出せず、椛は弾丸のように吹き飛ばされて巨木に厳かに衝突した。幹には大きなヒビが入り、あまりの衝撃に葉が全て弾け飛び散った。ぐしゃりと地に落ちても倒れ込まずに膝で立っていたのは、さすが大妖怪に認められた中妖怪というところか。

 しかし、そのダメージは甚大だ。

 

「なんで抜刀術に威力がないのかって、それはみんな脱力が上手くできてないからさ。全身の力を零から一気に百にすれば、それはもう大層な威力になるに決まってる。これを“受け”に使うなんて、俺から言わせれば勿体なさ過ぎるね。せっかく懐に潜り込む術があるんだから、もっと攻撃的に使うべきだ」

 

 朗々と持論を語る鶖飛に対して、椛はフラフラと震える足で立ち上がる。彼を睨め付けるその目は、驚愕と不可解に染まり切っていた。

 

「(なんなん、ですか……この人間は……!)」

 

 強過ぎる。

 あまりにも、理不尽なほどに。

 まるで大妖怪に相対したかのような絶対的な力の差、それも妖力や霊力に依らない個人の身体的力量差を、椛は突きつけられたように感じ取る。彼女程度の力では到底敵わないような実力をこの男は持っていたのだ。

 

 得物が木の棒でよかったと心底に思う。刀なら間違いなく両断されていたし、彼に愛刀というべき一振りがあるなら、もしかすれば消し飛ばされていたのかもしれない。

 ――否、彼が本当に本気で、これを真剣に殺し合いだと認識した一撃だったなら、きっと今の状況でも自分は塵も残さず斬り刻まれていた。例え木の棒でも彼ならそれを成し遂げるだろう。そんな不可能すら可能にしてしまうかもしれないという底知れなさが、彼にはある。

 不気味な予感が椛を青ざめさせ、また否応無く戦慄に凍えさせる。

 

 

 

 この強さは――異常(・・)だ。

 

 

 

「さて。驕りは消えたかな……椛、だっけ?」

 

 鶖飛の言葉に、椛はびくりと震えた。

 

「武人として剣での戦闘を楽しみたい気持ちはよく分かる。でもそれは、勝つか負けるか分からない拮抗した相手とのみするもんだ。……妖怪のくせに妖力も使わない驕った剣で、よくもまあ俺の相手が務まると思ったもんだよ」

 

 鶖飛の声音は優しく、しかし僅かな怒りがたしかに滲んでいて。

 

「君が強いのはよく分かった。でも上には上がいることをよく理解しな。相手の力量はちゃあんと測れよ。そして格上と戦うなら全力を振り絞れ。……武人なんだろう? 君のその刀は子供の玩具か?」

 

 鶖飛の言葉は、椛の胸を厳かに撃ち抜いた。

 剣での戦闘を楽しむ気持ちは武人として正しい。それが己を高めることにも繋がる。しかしそれを優先し切っていた椛は、いつの間にか鶖飛に対して礼を欠いていたのだ。

 格上と戦うならば、それをよく見て剣を合わせ、技を盗むくらいの気持ちで挑まねばならない。もちろん殺し合いならばそれよりももっと別の覚悟が必要となるが、今はそうではない。

 武道において大切なのは相手を敬う心。相手の実力を認めた上で相手をしてもらう(・・・・・)心意気。全力で挑むのは当たり前のことだ。

 

 ただのチャンバラで終わるならこの刀は玩具でいい。武人である必要はない。だがこの刀には椛の誇りがあって、その白銀の刀身には研鑽してきた己が写っている。それを振るってチャンバラを演じてしまえば、きっと椛は誇りを失ったという証左を示すことになる。

 それは――決して許されないことだ。

 

「(まさか、初対面の人間に思い出させられるなんて……)」

 

 吹羽ならきっと「“初心忘るべからず”という諺があります」と言うだろう。

 修練を積んで、強くなって、大きな戦いを乗り越えて。いつの間にか自分はそれなりの強者になったと調子に乗っていた。けど自分はまだ取るに足らない中妖怪で、当たり前のように上がいる。

 天才も努力家も、実力に胡座をかけば必ず追い抜かれ落ちぶれる。剣を始めた頃の強くなりたい気持ち、この剣で守りたいものを守ろうという気持ち、それを忘れて自分は強くなれない。

 強くなったと思ったこの自分は、そもそも吹羽を守りたいと思って戦ったあの時に完成したのだから。

 

「ふうぅ――……」

 

 椛は一つ息を吐き出した。こびりついていた煤を拭き剥がすように、積もった灰を散らすかのように。

 全力、全力、全力――口の中で反芻すると、何をするべきなのかが自然と分かる。

 椛は抑えていた妖力を解放して、真摯な瞳で鶖飛を見つめた。

 

「お……いいねぇ。それ(・・)なら俺も諭した甲斐があるってもんだよ」

 

 にやりと上機嫌に口角を上げる鶖飛に対し、椛は静かに刀を構えた。

 刃を上向きに、鋒を相手に向けて顔の横に据える。本来はあまり褒められた構えではないが、これは隻腕になった椛が最も刀に力を乗せやすい振り方の予備動作として、改めて剣術を研究した答えの一つだ。

 

 隻腕になったあの日から、何度も何度も夢想した。最後のあの一撃をどうしたら受け止められるだろう、どうしたら斬り裂けるだろう、と。

 結果として、今の自分では不可能という結論に至った。山を抉り取る威力の一撃など、自分では受け止めることなど到底できない、と。だがいつかアレを吹き飛ばせるくらいの一撃を身につけるためには、その“今”の研鑽が必要である。

 あの一撃を目標として。当然今すぐにはできないけれど、その第一歩として椛は一つの技を完成させた。

 それはまるで、屈強な狼が己の武器を極限まで研ぎ澄まし、力強く地を蹴って天空を飛ぶ鷹に襲いかかるような――。

 

「来い、椛」

「――“白爪(はくそう)昇腕薙(のぼりかいな)”」

 

 踏み出し、体を回す。円を描くように背中側へと回った刀は、風を巻き込んで風の大剣を形成する――が、それだけには終わらなかった。

 解放した妖力でなけなしの風を操る力を振り絞りありったけを刀身に撫で付けると、激しく風紋を揉み合い押し合い流れ流れ、風の激流が、あらゆるものを引きちぎり裁断する暴風の絶剣へと昇華する。

 樹齢千年を超える大木すら何本も消し飛ばせると思われるほどに強大になったその剣は、触れた地面を容易く斬り裂きながら鶖飛に迫った。

 

 “昇腕薙”は斬るだけの技ではない。鋒を先行させて下から振り上げる突いて斬る(・・・・・)技だ。

 刀は斬るにも突くにも適した刃物である。しかし力というものは引っ張るよりも押す方がより力を物体に伝えやすい。だから椛は、より力を伝えやすい刺突の形で斬り上げる術を見つけ出した。

 大狼が天を目掛けて豪腕を振り上げ空を断つように、暴風の絶剣は椛の爪となって、相手を突き上げ断ち割り終いに斬り捨てる。

 

 かつての戦いから想いを乗せた、椛の紛れもない“研鑽の成した一撃”だ。

 

「(もはや加減は、必要ないッ!)」

 

 歯止めは壊れた。鶖飛が紛れもない格上の相手であると認めた今、全力を彼にぶつけなければ武人として死んだも同然だ。

 椛の研鑽の証が、とてつもない威力となって格上に牙を剥く。山を抉り取ることも雲を喰い千切ることもないけれど、間違いなくその夢に一歩近づいた――そのために編み出した最高の技。

 

 不敵に口の端を歪めて待ち受ける鶖飛に向けて、椛は刀に全てを乗せて――遂に斬り上げた。

 

 

 

「はい、すとっぷ」

 

 

 

 ――バチッ。

 電気の迸るような、鋭い炸裂音が響いた。

 

 それに次いで、木々を薙ぎ倒そうかという威力の暴風が炸裂して暫し周囲に吹き荒れた。凄まじい風が木々をすり抜け、どこか遠くで発生した鎌鼬が木の幹を傷付ける快音が断続的に響いてくる。爆発と見間違うような暴風の後には、木々から千切られた葉々がはらはらと雪のように舞い落ちていた。

 

 今日何度目か、呆然と受け止められた刀を見つめて、徐に視線を上げると、

 

「自分を見つめ直すのも大いに結構。だが目的を見失っちゃ困るぜ、哨戒天狗(・・・・)。取捨選択するのが仕事だろ? マジで戦い始めてどうするよ」

「――……萃香、様……?」

 

 椛の刀、そして同時に鶖飛の木の棒すらも平然と受け止め遮った大妖怪――伊吹 萃香。

 彼女は感心したような呆れたような、ともかくどこか優しい声音をして、唐突に現れたのだった。

 

「剣を納めな、椛。鳳摩の奴が“通せ”だとよ」

 

 

 




 今話のことわざ
初心忘(しょしんわす)るべからず」
 何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならないという戒め。


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第三十四話 帰ってきた日常③

後悔は……していないのだ……。


 

 

 

 妖怪の山には“お屋敷”がある。

 山を覆う木々に隠れるようにして建てられた、古さはあれどぼろさは皆無な立派な建物だ。

 外の世界でいう高級老舗旅館然としたそれは、紅葉が疎らに散った木々の中でもやはりどこか荘厳でいて威圧的。しかしてとても静かで謙虚。ここに訪れた者には近寄りがたく、通い慣れた者とっては気持ちが安らぐような、ちょっぴり“つっけんどん”な雰囲気を醸している。

 

 ここは天魔 冴々桐 鳳摩の住まうお屋敷。

 萃香に戦闘を止められ、椛に案内された吹羽一行は、いつかのように執務室へと通されていた。

 

「さて、どこか既視感がある光景じゃが一先ず……久方ぶりじゃな、吹羽よ」

「は、はぃ……お久し、ぶりです……」

「ははは、相変わらず気が小さいようじゃの! 既に一度会っておるというのに」

「あ、あはは……」

 

 からから笑う鳳摩の顔に「余計なお世話ですよ!」とぶん投げたい吹羽だったが、喉が「早まるな!」とばかりに堰き止めてくれた。代わりに変な笑顔で苦笑いする羽目になったが、誰も触れないで置いてくれて密かに喜ぶあたりやっぱり吹羽は小心者である。反論の余地はない。

 

「まーアレだ、別にどうこうしたいわけじゃない。それにこんなジジイを怖がってちゃ、“天下に名だたる博麗の巫女の友人”が聞いて呆れるぜ?」

「ご心配なく、吹羽さん。私もここに居ますから」

「萃香さん、椛さん……」

 

 天狗である椛は頭を垂れて脇にかしずいていたが、鳳摩の“楽にせよ”との言葉に頷くと吹羽の隣に並び立ち、萃香は豪快にも執務机の前方にある大型椅子(ソファ)に足を組んで腰を沈めていた。どちらもやはり慣れた様子だったが、初めて来た鶖飛と夢架はもちろん、気の小さい吹羽は下手に物に触れたくなくて立ったままであった。

 まあ、そもそも長居するつもりはないのだし、座り込んでしまったらきっと鳳摩と長々お話をすることになる。大妖怪が怖い吹羽としては、やはりそれはご遠慮願いたいわけで。

 ここはさっさと本題に移るべきだろう。天魔に相手にとっとと話を進めろと促すのは勇気のいることだが、このままでは吹羽の精神が際限なく擦り減る羽目になる。背に腹は変えられないのだ。

 

「えと、それで天魔さん。ボクたちは、その……なんで呼ばれたんでしょう? あいえ、無断で入ったのはボクたちなんですけど……」

「ん、おお……そうじゃったな。いや大した理由ではないが……観て(・・)おったのでな」

 

 鳳摩は瞑った片目をとんとんと指先で示し、手短に用件を語った。

 

 曰く、吹羽の家族ともあれば顔を見ておかなければ天狗として恥だとのこと。

 吹羽の時もそうだったが、天狗たちは戦友(とも)たる風成家の面々には顔を合わせておかないと気が済まないらしい。風成家との交友が復活した今、どんな些細なことでも共有していくべきだと考えているのだろう。

 天狗一族の持つ“神通力”で以って吹羽たちを観察していたのも、そういった理由からだ。

 

 吹羽としてもありがたいことではあった。知り合いが増えるのは単純に嬉しいことだし、打算的なことを敢えて言うならば、これはお得意様が一気に増えたことと同義である。天狗との一件以来、人間に扮した天狗たちからの刀の注文は殆ど絶えずに来ており、ぶっちゃけ昔以上に稼ぎが出ていて吹羽もホクホクなのだ。

 ただまぁ、お父さんとお母さんが帰ってきたときにも同じことをするのか……と密かにげんなりしてしまったのは秘密である。

 

 とはいえ、天魔や萃香も吹羽の知り合い。果たして彼らを友達と言って良いのかは吹羽には限りなく分からないことだったが、鶖飛に紹介する分には良い機会だ。

 二人もその気だったらしく、吹羽が促すまでもなく自己紹介し合っていたので彼女の出番というのも無く、楽なものであった。大妖怪二人を前にしても気後れしない鶖飛はさすがお兄ちゃんと言ったところである。愛する妹の手前、格好悪い姿は意地でも見せない。

 因みに、夢架は相変わらず吹羽と鶖飛の少し後ろで静かにしていた。阿求邸に仕える侍従ならこんな場所には二度と来ないと判断したのだろう、軽い会釈だけはしたようだが、自己紹介までする気は無いようだった。多分これから先も静かにしているつもりでいるのだろう。寺子屋の場合は、同じ“人間の里”内であるが故に関係を持つ可能性が単純に高いからだ。顔が広くて困りはしない。

 それはそれで肝が座っているなぁ、と少し羨ましく思ったのは至上の蛇足。

 

「それにしても、ただの木の棒で椛を圧倒するたぁ驚きだね。風成家の人間ってのはどいつもこいつも天才揃いかい?」

「椛の能力は、大妖怪には及ばずとも中妖怪を軽く超えた領域にあると認識しておる。それを木の棒なんぞであしらう実力……たしかに、気にはなるのう」

 

 口々に興味を示す二人に、鶖飛は軽く肩を竦めて小さく息を吐いた。

 

「できることを突き詰めただけですよ。それがたまたま自分に合っていて、さらにそれを磨き上げる場が整っていた……偶然の産物ってやつです」

「全て含めて、人はそれを天賦というのじゃよ。世にはそれを活かしきれずに潰れていく者がごまんとおる。胡座をかかなかったお主はまさに天賦を正しく用いたと言うことじゃ。椛にも良い刺激となったろう。なぁ?」

「っ、はい、お陰様で……」

 

 何処か皮肉げに放られた言葉に椛はへにょりと獣耳をしぼませて答えた。

 実際、椛も無意識のうちに研鑽をやめてしまう直前だったのだ、それを見抜いていた鳳摩の言葉は生真面目を地でいく彼女にはぐさりとくるものらしい。

 少し恥ずかしそうにスカートを握る椛の手を優しく握ってあげると、椛はふさふさの尻尾をゆらゆらと揺らしていた。

 非常にもふりたい。可愛い過ぎるんじゃないだろうか。

 

「ふむふむ……若者たちの友愛というのは微笑ましいものじゃのう。見ているだけでささくれた心が潤うようじゃ」

「若返った気分ってか? 本当にジジイ臭くなったもんだな鳳摩」

「若返るも何も、まだまだ身体は元気ですぞ萃香殿。妻も毎度疲れ果てて(・・・・・)しまうほどでしてな、自分でも抑えが効かなくなるほどで困っております」

「……そういうこと訊いてんじゃねェんだけど……ジジイ臭いっていうか、エロジジイだなこりゃ」

「……椛さん、なんで身体が元気だと奥さんが疲れ果てるんです? 関係ないですよね?」

「……吹羽さんにはまだ早いので、大人しく耳塞いでましょうね……」

 

 そう言って耳を塞いでくる椛はちょっぴり頰が赤い。不意だったので吹羽は大人しく耳を塞がれたが――それで終わらない。というより、これは終われない話題だと思った。

 

 聞き捨てならない言葉だったのだ。

 吹羽にはまだ早い――早い、というのはアレか。「大人になったら分かるよ」とかいう子供騙しのアレか。

 短い人生の中でもちょくちょくその言葉を耳にしてきた吹羽は、少しばかりそれに敏感になっていた。

 

 というのも自称大人な幼女 風成 吹羽、そう唄うからにはここで引き下がっていてはいけないと思うわけで。

 普段から大人な暮らしをしているはずなのだが、阿求からも霊夢からも果ては魔理沙にまで未だ子供扱いを受けることに細々と不満を抱いていたところである。こう言ったところで妥協するのが成長停止のきっかけになるのだと妙なほど意気込んで、そしてそれによって鳳摩への怯えさえ押し殺して、椛の手を取って外した。

 

「椛さん……ボク、大人になるためにここは引き下がれないと思うんです」

「……え、はい?」

 

 ちょっぴり不安そうな眉根を寄せた椛から視線を外しつつ、反対側に立つ鶖飛の裾を引っ張る。いつものように「どうした?」と優しい表情で視線を向けてくるが――それも一瞬。吹羽の次の言葉によって、ぴしりとヒビが入ったように笑顔が苦笑いに変わった。

 

「お兄ちゃん。ボク、早く大人になりたい。天魔さんの言葉の意味、教えて?」

 

 ――否、ぴしりとヒビが走ったのは、この空間そのもののようだった。

 

「え……え? 言葉ってその……最初の友愛がどうのっていうの? あれは単純に吹羽と椛の仲を見て――」

「違うよ。天魔さんが元気で奥さんが疲れ果てるっていうの」

「……な、なんでそれが気になるんだ? 別に吹羽は知らなくてもいいことだよ? ……まだ」

「それだよ! 椛さんもボクにはまだ早いって言うの! だからボクはそういうの全部知らなきゃダメなんだよぅ!」

「だからなんでっ!?」

「大人になるため!」

「まだ子供だろ!」

 

 因みに、鶖飛の知る吹羽はちょっとばかりませていただけの子供な(・・・)彼女であり、一人暮らしをするようになって本格的に大人ぶり始めた吹羽の“それ”に対する執着を彼はあまり知らない。

 当然そういった吹羽の行動が霊夢や阿求からどのような目で見られているかも知らない訳で、ゆえに“みんなボクを大人として見てくれない”という吹羽の悩みを知る由もない。

 

「いいからぁ! 教えてよう!」

「ダメだって! 早いっていうかその……教育上よろしくないの! もうちょっと大きくなってからな? な?」

「十分大きくなったよ! 背と年齢はともかく、知識は精神は!」

「その年齢が重要なんだよ……特に外の世界じゃ厳しいらしいし……」

「外の世界は関係ないじゃん! ボクの問題だよ!」

 

 もはや説明するまでもないだろうが、吹羽の知りたいこととは当然夜のあれこれ(・・・・・・)である。“月のもの”すら来ていない吹羽には全くもって早過ぎる知識であり、教育上よろしくなく、またエロジジイと化した鳳摩の完全なる失言である。

 ジジイは年取るとやたら女子の尻やら胸やら触りたがるらしいが、全く以って迷惑千万。これが世に言う老害か――と鶖飛は鳳摩への印象をどん底まで悪く突き落とした。

 ウチの可愛い妹になに吹き込んでやがるこのやろう。

 

 因みに鳳摩の妻は美人である。それでも満たし足りないとは、歳を重ねるにつれ求める“ピチピチ具合”が際限なく上がって遂に幼女を求め出したということだろうか。

 霊夢が知ったら修羅を降臨させそうな事実である。

 

「……おい鳳摩ァ、どうすんだいこれ。霊夢が知ったらマジで殺されるぞ?」

「ああ……前回ここを訪れたときに忠告されましたな。じゃが本人が知りたいというなら教えても良いのでは? たしかに、あまり褒められたことではありませんがの」

「孫のように思ってる子に言うことじゃねェな」

「何事も早いうちから知っておくのは悪いこととは思いませんがのう」

「さよか」

 

 萃香の冷ややかで嫌悪感丸出しなジト目が鳳摩に炸裂する。

 言っていることは一見まともだが、言いかえれば子供が麻薬の味を知りたいと言ったら経験と称して親が進んで吸わせてしまうようなものだ。そんなの悪いことに決まっている。

 吹羽に関しても似たようなもので、あまり早いうちからそれに興味を持ち始めたり、万一自らで経験(・・)して癖になってしまったら将来真っ暗である。性病とかになったらどうすんだ。悪い男に引っかかったらどうすんだ!

 

 そういう意味では、現在質問責めにされている鶖飛(お兄ちゃん)はとてもいたたまれない状況にあるわけで。

 

「だからな? 俺は吹羽のために言ってんの。いらん知識を早いうちから溜め込むとロクなことにならないんだよ」

「例えば?」

「た、例えば? えっと……賢すぎて周りから気味悪がられたり?」

「賢いのはいけないことなの? じゃあボクがもっと賢かったら、お兄ちゃんはボクを気味悪がる?」

「い、いやそんなことは絶対にないけど……むしろ褒めまくるしなんでも言うこと聞いてやるけど」

「じゃあ教えてよう! 知識は人間の唯一の武器なんだよ! 研鑽しなきゃ生きていけないんだよ!」

「くっ、妙に含蓄のある言葉覚えやがって……」

 

 妹至上主義の兄としては妹のそうした知識欲や向上心は最大限に尊重したいところだが、その知識自体が吹羽に悪影響を及ぼしかねないこの状況。

 基本的に吹羽に甘々な鶖飛は彼女の要求を強く断り切れず、しかし決してこちらが折れるわけにもいかず、まさに板挟み状態だった。そしてこんな状況に陥れた鳳摩への印象も際限なく下降を続けていた。

 

 遂には、煮え切らない返答ばかりで埒のあかない鶖飛に痺れを切らし、

 

「もうお兄ちゃんはいいよ役立たずっ! 萃香さんに訊くもんっ!」

「ッ!!? や、やく、たた……ず……」

「うぇええっ!? わたしか!?」

 

 言葉の大剣で無残に両断され崩れ落ちた鶖飛を尻目に、吹羽は大型椅子(ソファ)に腰かけた萃香に詰め寄る。

 先日の一件以来、幾らか接しやすい大妖怪として吹羽に認識されている萃香は、現状において彼女の頼れる姉貴分のようなものだ。

 兄が役に立たなければ姉に頼る。至極当たり前だ。

 

「だってお兄ちゃんが教えてくれないんです! 萃香さんは教えてくれますよね!?」

「ええ? わ、わたしも正直知らない方がいいかなーって思うんだけど……」

「なんでダメなんですか! みんな意地悪ですっ!」

「意地悪とかじゃなくてな? どう足掻いたってお前さんにはまだはや分かった分かった、分かったから泣きそうな顔すんなよっ!?」

 

 幼女が目の前でぐずり始めたらさすがの萃香も気が咎める。なんとか話題を逸らすかはぐらかそうと思考を巡らせるも、なまじ賢い頭を持った吹羽を欺ける気が全く以ってしなかった。

 大妖怪が人間の少女相手に頭を悩ませる図。実にシュールだ。

 

 遂には、

 

「〜〜ッ、天魔さんッ!」

「んお、なんじゃ?」

「もうボクが勝手に解釈するので、ここで実演してもらえませんかッ!?」

「「「それは絶対だめ(です)ッ!!」」」

「お、では誰が相手してくれるのかのう?」

「「誰が相手するかエロジジイッ!!」」

 

 思わず使った不敬な言葉遣いにさっと青褪める椛だが、そこは暗黙の了解で皆がスルー。そして萃香は遠慮なく鳳摩にゲンコツを一発落とした。ガゴンッ、と妙に生々しい音がしたが、それも皆が触れたくないのでスルーされた。

 

「もうっ! 言葉もだめ実演もだめならどうやって教えてもらえばいいんですかっ! っていうか、そんなんじゃ大きくなっても教えてもらえないですよねっ!?」

「あのな吹羽? そういうのは多分寺子屋とかで習うことで、しかももっと大きくなってからじゃないと習わない内容なんだよ」

「じゃあ慧音さんに頼んだら教えてもらえるってことだね!」

「いや、多分あの人が一番拒否すると思うよ……」

 

 情操教育を一番気にするであろう寺子屋の教師。恐らくここにいる誰よりも頑なに教えることを拒否するだろうことは火を見るより明らかだ。

 

 一人空回る吹羽の肩に、椛はポンと手を置いた。

 

「吹羽さん、もう諦めましょう。別に悪いことじゃないですよ? 物事には順序があります。その順序的に、吹羽さんはまだ早すぎるんですよ」

「椛さん……でもぉ……」

「……仕方ないですね」

 

 と、その時。

 暴走する吹羽を見兼ねて前に出たのは、今の今まで影のように静かにしていた夢架だった。

 彼女はちょいちょいと吹羽においでをすると、連れ立って廊下に出ていった。

 

「……どうするつもりだろ?」

「なんか策があんのか……?」

 

 一体どうやって諭すつもりだ――と全員が扉を見つめる中、廊下の方からは「へ?」とか「ひゃうっ!?」とか「ふみゃっ!?」とか実に可愛らしい悲鳴が響いてきて、一同で一体何をしているんだと首を傾げた。

 そして一刻ほどしてゆっくり扉が開くと、そこには。

 

「………………えと……あの、その……」

 

 いつも通り澄ました顔の夢架と、顔を真っ赤に染めてそわそわもじもじとスカートの裾をいじる吹羽の姿が。

 

 この瞬間、全員がむしろ、諭される結果となった。

 

「ぼ、ボクそんなつもりじゃ、なくて……そういう類の話だと、思ってなくて、あの、早く大人として見られたかっただけで……ってあの別にそういう意味じゃ! お、大人の階段(・・・・・)を早く登りたいとかそういうことじゃなくて、あのその……」

 

 ああ、乙女とはなんと強かなのだろう。大妖怪二人と中妖怪、人間の大人二人を以ってしても、人間の幼女一人の要求一つすら満たすことはできず――またその勢いと力に抗うことすらままならない。

 そして、こうした質問をほぼ必ず受け、そして何事もなく受け流してしまう“親”という存在は嗚呼、なんと偉大なのだろう、と。

 

「あの……お、お騒がせしました……」

 

 そしてこの、真っ赤な顔に涙を溜めた上目遣いでごめんなさいしてくる姿に、想いは欠けらの相違もなく一致する。

 すなわち。

 

「「「「(なんだこの可愛い生き物は……)」」」」

 

 鶖飛と椛はさっと鼻を抑えて視線を逸らし、萃香と鳳摩は苦笑い。

 結局吹羽に言葉の意味が知られてしまう結果となったものの、奮戦の甲斐あって、彼女も拒まれた理由を理解したようだった。

 教えてしまったが懸念したようにはなっていない――良かったのやら悪かったのやら、鶖飛たちにはいまいち判然としない結果である。

 

 そうして天狗と新たな風成の邂逅は、一人の少女に振り回されはしたものの、実に和やかな御開きとなるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 鳳摩の屋敷を出た三人は、そこに他の天狗への目印――この方々はすでに許されている、という――として同行を命じられた椛を加えて、再び疎らな紅葉が彩る坂道を登り始めていた。

 先ほどのやりとりで多少精神的に疲れたものの、体力面ではむしろ回復している。みな足取りが軽快で、空が茜色に染まる前には頂上へと辿り着く目算である。

 風は少なく、秋らしく山らしく空気が澄んだように冷たい。晴れ渡っているので懸念した急な悪天候も杞憂に終わりそうだ。

 

「はぁ、マジ迷惑な人だったな……俺あの人嫌いだな」

「えと……ま、前に来た時もあんな感じに陽気だったよ、天魔さんは。やっぱりまだ怖いけど……」

「その割には、先程は思いの他物怖じしませんでしたね。まるで阿求様とお話しされるときのような雰囲気でしたよ」

「そ、それはその……なんと言いますか、勢い、でですね……」

「ふふ、たしかにさっきの吹羽さんは怖いもの知らずな感じでしたね。あんな答えにくい質問、いくら友人でも遠慮願いたいところです。恥ずかしいですし」

「うぅ……ごめんなさい、椛さん……」

 

 さっきは本当に恥ずかしかった。きっと聞いていたみんなが恥ずかしい思いをしていただろう。黒歴史まっしぐらな事案である。思わず俯いて、羞恥を堪えるような呻き声が漏れてしまう。

 それにどうにか耐えようとしてなのか、縋るように鶖飛と手を繋いで歩く吹羽は、そういえばと前を歩く椛に声をかけた。話題転換? 現実逃避? そんなこと考えてない。ないったらない。

 

「椛さん、文さんは見てないですか? ボクたちまだ見かけてないんですけど」

「そうでしたか。あの人は常日頃から幻想郷中を飛び回っていますし、もしかしたら今日は会えないかもしれませんね」

「えぇ……それじゃあお兄ちゃんに紹介できないなぁ……」

 

 余程鶖飛に紹介したかったのか目に見えて落ち込む吹羽に、ふむと考える。椛の千里眼も幻想郷全土を見渡せるほどではなく文を探し出すことはできないが、最近少し親しくなったので居場所に目処はつけられる。

 何とも都合がいい、とは思わなくもないが――、

 

「……もしかしたら守矢神社にいるかも知れません。文さん、早苗さんとも親しくなったそうなので」

「え、そうなんですか? あ、そういえば以前みんなでお話ししましたね。もしかしてその時から?」

「さぁ? それは分かりませんが、どの道神社にいることを願う他にありませんね。いれば僥倖、いなければまた今度です」

「……そうですね」

 

 椛が先行するお陰で他の天狗からの襲撃もなく、他愛のない会話をしながら四人は登っていく。

 相変わらず吹羽は鶖飛の手を取ったままで、なんとも仲のいいことだと椛は影でこっそり微笑んだ。

 今時あれほど仲のいい兄妹など稀であろう。椛は一人っ子なので経験はないが、兄妹間で喧嘩したというのはよく聞く話である。それを想起すらさせない二人の姿は、いっそ兄妹でなく恋人同士と言われた方が納得のいくほどだ。まぁもし仮にそう(・・)だったなら、鶖飛はきっと“年端もいかない実の妹に恋をした変態”というとんでもない悪評を付けられることになるだろうし、彼もそれを分かっているはずなので、やっぱり予想の範疇を超えないわけだが。

 

「(……やはり、長い間離れていた反動、なのでしょうか)」

 

 椛も吹羽の境遇についてはある程度聞き及んでいる。それを鑑みれば、吹羽のあの様子にもまあ納得のできる話だ。失踪していた家族が突然目の前に現れれば、溜め込んでいた寂しさと愛情が爆発するのも無理からぬこと。

 もう絶対に離れないとばかりに絡んだ腕と、何をおいても視界から兄を外すまいと揺れる瞳。そうしてぴっとりくっついて、底が抜けたようににこにこと微笑む吹羽の姿はどことなく狂気(・・)を感じなくもないが――、

 

「(……まぁ、大事に至ることはないでしょうし、心配は無用ですね)」

 

 失踪した家族と再会して更なる事変が起こるなんて、そんな悲劇があってたまるものか。

 吹羽の友人たる椛はそんなことを望まない――否、赦さない。

 もしそれが吹羽の身に降りかかるならば、一度は彼女を守り抜いたこの刀を再び取って、黒幕ごと斬り刻んでしまえばいい。領域を、種を守るために剣を取るべきである天狗としての在り方――例えその枠組みから外れた考えだろうと、それが信頼を寄せてくれる吹羽の期待に応えるということなのだと椛は思う。

 

 吹羽のことは大切だ。なにせ吹羽にとって椛がそうであるように、吹羽も椛にとって初めての人間(異種)の友達なのだから。

 

「――っと、そろそろ見えてきましたよ。あの鳥居をくぐった先が目的地です」

「守矢神社……って書いてあるか? いつの間にこんな場所に……」

「現れてまだひと月も経っていません。外界から逃げ延びてきた二柱の神とその巫女――風祝の少女が住んでいます」

「東風谷 早苗さんっていってね! とっても優しくて綺麗な人なんだよっ!」

「東風谷 早苗……へえ」

 

 遠目に見える神社の鳥居が、どこか威圧するような佇まいで四人を迎えた。これより先は神の領域、それを心せよと語りかけてくるような心地を覚えて、自然と背筋を伸ばしてそれをくぐり抜ける。

 姿を現わす荘厳な境内。管理の行き届いた清潔で凛々しく、雄々しくすらあるその姿は、日の光を天から浴びて神秘的に映った。いつ来ても立派な神社だ、と椛も吹羽もしみじみと感じる。博麗神社とは大違いだ。

 

 ――が、見上げるように外観を眺めていた視線を少し下ろすと、一同はそろって「えぇ……」となんだかがっかりしたような残念なような、そんな心地になった。

 まぁ、それもそのはず。

 なにせ神聖で神秘的で神々しい立派な神社の境内で今行われていたのは――なんともまぁ。

 

 

 

「おぉ……おお――! いい! いい感じですよ早苗さんっ! そこでポーズです!」

「こ、こうですか?」

「そうそう! はいそこでくるっとターン!」

「ターン!」

「腰に手を当てはいこっち! ウインクです!」

「ウイぃーンクっ!」

「もいっちょ視線ください! そこは上目遣いにぃ〜……キラッ!」

「キラッ!」

「いいですねいいですねぇ〜! あざといっ、あざと過ぎるっ! 一周回って感心するくらいあざといです!」

「そ、それ褒めてます?」

「モチのロンですよッ! はいじゃあ次はちょっと服をはだけさせてぇ〜?」

「えっと、こうですねッ!」

「百二十点ッ!」

 

 

 

 パシャ! パシャパシャ! シュバパシャ! シュパパパパパパパッ!

 

 嵐のようにシャッターを切る音と、シュパシュパ角度を変える風切り音が境内に響く。荘厳であるべき神社にあって、それをバックに行われているこれはなんとも世俗的というかなんというか、とにかく神社にあるべき雰囲気を台無しにしていた。

 

 守矢神社の風祝 東風谷 早苗と烏天狗 射命丸 文。

 吹羽が今日中に会っておきたいと願った二人は奇跡的に一緒にいたものの、その空間はどことなく異様であり、どこまでも残念な感じ。

 文はカメラを構えたまま様々な方向からシャッターを切り、その度に嘘みたいな――あくまで椛たちにはそう聞こえる――褒め言葉をまくし立てては早苗がポーズを変えてキメ顔を作る。

 無駄に熱のある二人の空間に、苦笑う四人は完全な置いてけぼりだった。

 

「……なぁ吹羽。アレは最近流行ってる遊びか何か?」

「え、知らないよ……夢架さんは知ってます?」

「知り合いに変人はいないと記憶しています。そういう人たちなのでは?」

「それは………………否定できないかもです……」

 

 同感だ、と椛も頷く。

 早苗は突拍子も無いことを突然やり始める素直な(・・・)人で、文は素はともかくああいった記者モードのときはとにかく煽る人だ。それが組み合わさったらこうもなるのかもしれない。

 とにもかくにも。

 

「……行きましょう。放っておいたら日暮れまでやってそうです」

「そ、そうですね……」

 

 椛の結論に吹羽が頷く。この調子ではこの先どうなるやら見当もつかない、と小さく溜め息を吐いて、吹羽たちはぽつぽつと脚を進めた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――鬼というのは、刹那の快楽を貪る化け物の名だと思っている。

 

 その存在理由は根本的に“争い”から派生していて、それを己の力として顕現した鬼は戦闘にこそ無上の喜びと生を感じ取るのだ。

 些細な対立から、戦争と呼べるほどの殺し合いにまで。兎角闘争というものに目がなく、己が相手より圧倒的に(・・・・)上であるということを証明したがる。相手が強ければ強いほど、己が死の淵に追い詰められれば追い詰められるほど、“闘争の化け物”は歓喜に打ち震え己の存在を轟き叫ぶ。

 それがどれほど強烈な欲求かと問うたなら、「相手がいなくなったと知りゃ世界にすら見切りをつけて地下に隠居するくらいだ」と呆れたような表情で答えることになるだろう。

 

 伊吹 萃香は、己の手を眺めてニヒルに笑った。

 

「ちぇっ、まだ感触が残ってやがる。まったく、人間ってのは飽きさせないねェ」

 

 じわりじわりと骨に響くような感覚の残る手をプラプラと振るうような気になりながら(・・・・・・・・・・)、萃香は森の中をゆらゆらと揺蕩っていた。

 密と疎を操る程度の能力――それによって己を疎めた彼女は一種の霧のような状態で“散歩中”である。吹羽たちと別れ、天魔の屋敷を後にしたところだ。

 

「……んでそれに喜んじまうわたしも、やっぱり鬼なんだねェ。仲間はみぃんな隠居したってのに一人地上に残ったわたしだが、別に異端ってわけじゃなかったらしい……」

 

 その手に衝撃を受けた時のことを思い返し、萃香は今度は嬉しそうに笑う。

 事実、彼女はまた全力でやりあう(・・・・)に値する人間を見つけて歓喜した。

 椛の時にも僅かながら感じた、この“敵になり得る”という予感……否、確信。

 

「風成 鶖飛……霊夢に次いで二人目だね、わたしをこんなに悦ばせてくれた人間は」

 

 博麗 霊夢――名実共に最強と謳われる博麗の巫女。生粋の人間。

 今でこそ彼女と共に暮らす間柄だが、かつて萃香は霊夢と戦い、そして負けている。敵のいない日々にあくびを堪え、しかし人間の可能性をしつこく信じ続けた果てにあったあの戦いは、まるで堪えていた何もかもを無遠慮に吐き出すかのような快感があった。

 

 今日出会った風成 鶖飛には、あの時の霊夢のような雰囲気が感じられたのだ。

 

「(……ただの、本当にただの木の棒だぞ。妖怪の手なら二本の指先だけで握り折れるくらいに脆弱な……)」

 

 しかし、鶖飛はそれを用いてさえこんなにも強烈な衝撃を放っていた。

 大妖怪たる――鬼たる自分の、鋼鉄さえ嘲笑うほどに強固な肌を、得物を折ることもない絶妙な剣捌きで衝撃を伝え貫いた。受け止めさえしたものの、それがどれだけ“あり得ない”ことなのか理解できる者はきっと一握りもいないだろう。

 

 他のあらゆるものと隔絶し超越した、理解することすら困難な強さ。

 それは人間の身で数多の妖怪を屠り続け、ただの一度も敗北はなく、大妖怪すらあしらってみせる博麗 霊夢のそれと同質のもの。

 

 彼が本当に殺す気で――殺すための真の得物を持って向かってきたなら、果たして自分は生き残れるか?

 

 ――分からない。

 

「ああそうさ……やってみなきゃ(・・・・・・・)分からない。勝てるかも負けるかも分からない、そういう戦いをわたしたち(闘争の化け物)はしたいのさ」

 

 いつか、そんな日があればいい。そんな日を夢見て生きてきたのだから、たった一度の快楽(霊夢との一戦)で終わりになんてしたくはない。

 戦いに生きる鬼なのだから、化け物なのだから、何度だって闘争の旨味を貪りたいのだ。

 萃香は己を異端と評しながらも、果てしなく、誰よりも“鬼”だった。

 

「……さてさて、それはまあ頭の片隅で願い続けるとして……ああ、そういや――」

 

 と、しかし、続けようとした言葉は無残に寸断される。

 

 無理矢理押し込められて強引に引き込まれたような、萃香であっても抗い難い引力に喉が詰まり、声は言葉を作らない。

 その刹那の間に、萃香の目の前には見慣れぬ光景が広がった。見慣れぬものではあるが――決して、知らない空間ではない場所。

 明々白々だった。萃香の能力を無理矢理解除してこんな空間に引き摺り込むなんて芸当ができるのは、彼女の知る限りでは一人しかいない。

 その光景と確信に一つの結論を得て、萃香は寸断された言葉を再度形作る。

 “噂をすれば”ならぬ――“思っていれば”、と。

 

「――……そろそろ近況報告するかね、っと。随分と狙い澄ましたようなタイミングじゃないかい、紫?」

 

 絵の具を落としたように暗く濃い紫色と、ぎょろぎょろと眼球を蠢かせる無数の目。

 スキマと呼ばれるその場所の、萃香の視線の先で悠然と立っていたのは、彼女と同格の大妖怪 八雲 紫だった。

 

 いつものように澄ました仮面のような微笑みを顔に貼り付け、紫はすぅと新たに開いたスキマの淵に腰を下ろした。

 そしてその薄く艶やかな唇を小さく開く。

 

「ええ、もうそろそろ聞いておこうと思ったのよ。以前霊夢への伝言を頼んでから随分経ったしね」

「あんま答えになってないぞ、それ」

「あら、答える必要はある?」

「……いんや、正直ない」

「そうでしょう?」

「はぁ……相変わらずだなお前」

 

 本当にこいつは底が知れんな――何もかもを計算尽くで行動し、まるで手玉にとるような言動をする紫に萃香は小さく溜め息を吐いた。

 紫自身も分かっている。萃香の問いに対して律儀に答えたところで、その神の領域に至ると言われる頭脳で導いた計算など理解されるわけがないから、始めから答えないのだ。そういう解釈を全て頭の中で処理してしまう故、彼女はよく胡散臭いと罵られる。事実萃香も、彼女のそういうところは若干苦手だった。

 

「それで、その後どうかしら」

「ん、あーそうだな……」

 

 紫の催促に気を取り直し、萃香はぼんやりと少女の姿を思い浮かべる。

 紫の頼みごと。それは以前彼女から霊夢への忠告を頼まれた時に、同時に受けたもう一つの依頼。

 それは博麗神社に居候する身として、霊夢の様子を観察して定期的に報告してほしい、という内容だった。

 

 なんでそんなことをさせるのか、とは思わなくもないが……まぁ友人の頼みだし、自分はそれを受け付けた。約束を違えるのは、嘘が大嫌いと宣言する彼女のポリシーが許さない故に。

 

「……なんかぴりぴりしてるというか、いつからかは記憶しちゃいないが、近寄り難い感じはするな」

「それは……怒っている、という感じかしら」

「そう言われればそうかもな。でもそれだけじゃないような……」

「はっきりしないのはあなたらしくないわ。本能的に物事を感じ取れるからこそあなたに頼んだのに」

「複雑な雰囲気なんだよ。そういやわたしに対する扱いもなんか酷くなったような?」

「それは呑み寝を繰り返す怠惰な居候に苛ついているだけではないかしら」

「うっせーやい」

 

 まあ確かに年がら年中酒飲んで酔っ払っては寝起きを繰り返す生活をしているが、そもそも霊夢はなんでも一人で出来てしまうし、手伝うことがないだけだ。それに下手に手を加えると感謝されるどころか「いいから邪魔すんな」と怒鳴られるかも知れない――少なくとも萃香は霊夢のことをそういうやつだと思っている――し、適度に距離を保っているだけなのだ。

 

 ……いや、だとすると気のせいなのか? 居候してもうすぐひと月経つ。慣れという名の親睦が深まり、霊夢からなけなしの遠慮が消え去っただけだろうか。

 

 がしかし、まあいっか、と萃香は思考を放り出した。

 細々(こまごま)と考えるのは面倒臭い。拳で語り合った方が何百倍だって楽だし正確だと萃香は思う。

 萃香の思考に区切りついたのを察したのか、紫は少し考えるようなそぶりで口を開いた。

 

「……ふむ、ともかく報告は了解したわ。出口は開くから、もう行っても大丈夫よ」

「……あ?」

「私はやることがあるから、これで失礼するわね。御機嫌よう」

「………………」

 

 紫が視線で示した先に新たなスキマが開く。そこから覗く光景は深い木々――恐らくは森の中だった。

 紫はそれだけ言うと、翻って出口とは反対方向に歩き始める。対して萃香は――立ち止まったままその背中を見つめていた。

 

「…………なぁ、紫」

「何かしら」

 

 萃香が呟くように呼び止めると、紫は振り返らないまま足を止めた。

 無理矢理呼び出しておいて厄介払いのような扱いをしたことについて――ではない。

 確かに失礼なことではあるが、萃香はそんなことを気にしない。ただ訊きたいことがあったのだ。

 ……というより、今できた。

 

「お前、なんでそんなに霊夢を気に掛けてるんだ?」

「………………」

 

 萃香の問いに、紫は答えなかった。

 だって、萃香は霊夢の強さを文字通り身を以って知っている。大妖怪である自分をして“あり得ない”と思わせるほどの強さを持った人間の少女。いくら彼女が、紫と共に博麗大結界の両翼を担う存在なのだとしても、紫の庇護を必要とするほど脆弱な人間ではない。

 

 動向を監視させて、その報告をさせるためにわざわざ呼び出して――そこまでして霊夢を気遣う必要性を萃香は感じない。彼女はなんでもできるし、なんでもやり遂げる。もしかしたら赤ん坊のまま野に放られても生き延びていたかも知れない。それくらいのあり得ない少女なのだ。

 

 萃香の心底からの問いに、紫はしばし黙り込んで動かなかった。気の長くない萃香だが、今ばかりは黙ってその背中を見つめ続ける。

 しばらくして――紫は一言、こう言った。

 

「いつ……いつ私が、霊夢を気にかけているなんて言ったかしら」

「……あ?」

 

 片眉を釣り上げて、萃香は不理解を言葉にする。

 

「言われなくてもわかるだろ。わたしにこうして監視させて報告させて、わざわざ霊夢を見守ってんじゃないか」

「だから、それが霊夢の為だなんてわたしは言ったかしら」

「……なんだと?」

 

 紫はようやく振り返って萃香を視界に収めると、扇子を広げて口元を覆う。

 目を僅かに細め、

 

「霊夢に私の庇護は必要ないわ。分かっているでしょう? あの子は恐ろしく強い。きっと先代にも負けないくらいにね」

「じゃあ何のためにこんな――! ……まさか」

「あら、やはり思考速度は早いわね。流石刹那の時間に生きてきた鬼というべきかしら」

 

 笑う紫の顔が扇子の裏に透けて見える。

 萃香は辿り着いた結論に、しかしそれでも「何故?」と疑問符を並べていた。

 見守るのは霊夢の為ではない。なら何のために監視させる? 何を見守っている? 

 萃香は思い出した。紫が始めに彼女に頼んだことの内容を。それは霊夢への忠告――しかし想っていたのは、確かに霊夢ではなかった。

 

「吹羽、なのか? お前が見守っているのは……里の鍛冶屋の、風成 吹羽なのか?」

 

 だが結局、その答えが導き出すのもまた「どうして?」という問い。

 吹羽は確かに珍しくも能力を持っているし、あの才能には目を見張るものがあるが、高名な八雲 紫が――世界の管理を担う者が気にかけるほどでは決してない。能力のことを除けばどこまでいってもただの少女なのだ。

 それを何故あの八雲 紫が? 見守る必要などない――路傍の石の如き取るに足りない存在を、何故?

 

 困惑する萃香を前に、紫は面白そうに――否、どこか嘲笑うように目を細めていた。

 

「……何笑ってやがる」

「ふふ、いえ。強者にとことん鼻が効くあなたが、まさかそんな顔をするとは思わなくって」

「なに?」

「“なんであんな矮小な人間を?”と思ったんでしょう?」

「!」

 

 どこまでも筒抜けかよ。

 心を見透かしたような一言に、萃香は躊躇いなく眉を顰めてみせた。

 

「……それがなにさ」

「あの子はまだ自分を知らない。没落した名家に生まれ、そのまま何事もなく死んでいくという極々普通の生を歩むと思っている」

「違うのか?」

「ええ、違うわ」

 

 パチン、と扇子を勢いよく閉じ、目を瞑る。

 その声音は、確信に満ちていた。

 

「あの子はね、小さな神話を紡ぐ者(・・・・・・・・・)。繰り返される歴史の中で、彼女はそういう星の下に生まれた。だからそれを成し得る力そのものが、必ず彼女を放っておかない。私は、その時を迎えるために備えているだけよ」

「…………お前、一体何を知ってるんだよ」

「あら、それを問うの?」

 

 要領の得ない言葉ばかりを紡ぐ紫に辛うじて投げかけた疑問は、誇らしげな笑みによって返される。

 

「この楽園、幻想郷の全てを」

 

 己の作った世界を、子を、理解していないわけはないだろう?

 そんな言葉が聞こえてきそうな尊大な笑顔で言い放ち、紫は再度振り返って歩き始めた。

 立ち止まる様子はない。そのまま目的の場所まで突き抜けていきそうな雰囲気を、萃香は彼女の背中から感じ取った。

 

「期待しておくといいわよ、萃香。あなたはきっと見るでしょう。脆弱な人間の――理解不能(あり得ない)を」

 

 刹那、萃香の意識は一瞬気が遠退いた。呼び出された時と同じような抗い難い力だったが、萃香は今度は何も驚かない。

 次の瞬間萃香の前に広がったのは深い森の中だった。確認するまでもなかったが解除された能力はそのままで、萃香は一人森の中でポツンと佇んでいる。

 スキマから解放された――というより、もう問答はお終いだと追い出されたような気分だった。

 

「………………」

 

 小さな神話を紡ぐ者――紫は吹羽をそう評した。

 ただの人間が神話を紡ぐとは、なんて大それた運命を抱えさせられたものか。

 細かいことを考えるのがあまり得意でない萃香は、ただ吹羽というちっぽけな少女を想って哀れんでいた。

 

 そう――ただの少女。運命を乗り越える力も、世界を改変する力も持たない人間の少女が、偉大なる神話を紡ぐ。

 何をどう考えても、何かとてつもない存在の介入を感じずにはいられない。

 

「はぁ……あいつは一体、何に目をつけられてるんだ……?」

 

 溜め息がてらに仰いだ空は、少し曇って陰っていた。

  

  

 




 今話のことわざ

 なし


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第三十五話 帰ってきた日常④

 すいません、ちょっと用事があって投稿遅れました。


 

 

 

「改めて初めまして。吹羽さんのお友達をさせてもらっています、守矢神社の風祝、東風谷 早苗と申します」

「あ、ああうん。俺は風成 鶖飛。よろしく」

「私は烏天狗の射命丸 文ですぅ! よろしくお願いします♪」

「よろしく」

 

 実に簡潔な挨拶の声が部屋に響く。

 突然押しかけた四人を欠けらも苦にせず、早苗は文諸共に住居区の居間に通して六人で卓袱台を囲んで腰を下ろしていた。

 吹羽と鶖飛が並んで座り、その少し後ろに椛と夢架が正座で控える。対面に早苗がいて、その隣で文がにっこにっこと営業スマイルを浮かべていた。

 因みに彼女は相変わらず記者モードを貫いている。今日は早苗の取材に来たらしく、どうやら常にそれを維持していくつもりでいるらしい。

 まあ素の文は落ち着いていてやたらめったらに笑顔を振りまくタイプではないので、にこにこと笑っているのはそういうことなのだろう。やっぱり先ほど早苗は、“煽る人”文に乗せられていたらしい。

 

「いつも妹がお世話になってるよ。迷惑でなければ、これからもよろしくお願いしたい」

「迷惑だなんてそんな。吹羽さんはいつも明るくて、むしろ元気をもらっているのはこちらの方です」

「ああ、こいつは元気に大人ぶろうとして面倒臭いだろう? そう言ってもらえると兄としては気が楽ってものだよ」

「いえいえ、とても可愛らしいと思いますっ。妹さんはとても魅力に溢れた女の子ですよ」

「ああ、それは実に同感……自慢の妹だと思ってる」

「ぅ、ぁぅぁぅ……そんな、手放しに褒めないでください……っ」

 

 二人が定型文的な挨拶がてらに褒めまくってくるものだから隣で聞いていた吹羽には堪らない。相変わらず鶖飛は吹羽への愛情や感情を隠そうとはしないし、その点では早苗も同じだ。ある意味吹羽の前ではあまり組んで欲しくない組み合わせである。

 なんだかもう、にっこにっこと柔らかすぎる笑顔で見つめてくる文にさえ気恥ずかしくなってくる。

 もしかしてここに鶖飛を連れて来たのは失敗だったろうかとふと後悔する吹羽である。

 

「そっちの……文、だっけ」

「あはい。射命丸 文ですぅ」

「君もありがとう。それだけ友好的な雰囲気から察するに、君も吹羽に良くしてくれてるんだろう? 俺がいない間、吹羽の相手してくれてありがとう」

「ぁ……い、いえいえそんな滅相も無いですよっ。私の都合で吹羽さんと共にいただけですので! 全くこれっぽっちも感謝されるようなことはありませんて!」

「はは、そうか」

 

 鶖飛の朗らかな笑顔に対して、文の笑顔は僅かばかりに引き攣っていた。彼女の笑顔が瞳に焼き付いている吹羽だから分かる程度の差異なので誰も気付いてはいないだろうが、その理由になんとなく察し付いて、吹羽は少しだけ俯いた。

 

 多分、未だに負い目を感じている。それが吹羽の兄である鶖飛を前にしたことで滲み出てきてしまったのだろう。

 自惚れかも知れないが、行方不明となっていた彼が帰って来たというのに、記者モードの文が根掘り葉掘りと事情を聞き出そうとしない事実がそれを物語っている。

 かつて妹を拷問し、嬲り、殺しかけたというのにその兄に対して遠慮もなく取材などできるわけがないだろう。

 

 文がしっかり立ち直るまで手を繋いでいると、そう決めた。だが実際は平和な日々が続くばかりで、今のところどこにでもいる友人程度の付き合いでしかない。それは、裏を返せば停滞してしまっているということだ。

 負い目は癒えていないのだ。それが少しだけ吹羽には悲しく思えたが、鶖飛と出会って少しでも刺激があればまだ分からない。今はただ、文の心が少しでも救われる未来を願うばかりだ。

 

「――ところで」

 

 と、自己紹介も終わってしばしの雑談を経た頃。少し後ろで控えていた椛が不意に言葉を滑り込ませた。

 自然と視線は椛に集まる。彼女は相変わらずの澄まし顔を吹羽たちに向けていたが、その瞳の中にはどこか呆れの混じった疑問が見て取れた。

 一呼吸置いて、椛の小さな口が緩やかに開く。

 

「誰も訊かないので私が訊きますが、早苗さんと文さん、お二人は外で一体なにをしていたのですか?」

「え゛っ」

「あー訊いちゃいます? それ訊いちゃいますかぁ?? ふふふー♪」

「相変わらず言い方が芝居染みて耳に優しくないですね文さん。何かの取材だったことは分かっていますから、勿体ぶらないでください」

「勿体ぶってなどいませんて。気が早いですね椛は! ね、早苗さんっ」

「へ、えっとその……」

「というわけで何をしていたのかと申しますと……」

「え、あちょ、ま――っ!?」

 

 早苗の悲鳴をぶった切りながら、文が「これですっ!」と机に何かを叩き付ける。

 その拍子に机に広がる、数十枚に及ぶ長方形の紙。早苗がわたわたと覆い被さろうとするのを文が笑顔で抑え込む中覗き込んだそれには、表面に何やらたくさんの早苗が描かれていた。

 しかも――、

 

「……なに、これ」

「普通に可愛らしいのもありますけど……なんか、いやらしいポーズのも結構ありますね。……巫女さんがこんなことしてて良いんですか?」

「ってかおい、なんで俺は初対面の女の子のこんな破廉恥な姿を目の当たりにしなきゃならないのさ。……嫌がらせ?」

「わぁあああそうだよそうだったそうでしたっ! これはお兄ちゃんは見ちゃダメなヤツですぅう!」

「うおっ、前が見えないって吹羽!」

 

 肌色比率は少ないものの、笑顔でウインクを飛ばす姿やキリッとした瞳を流し目で決める姿から始まり、風で広がるスカートを必死で抑える姿、大きく伸びをして綺麗な腋を見せびらかす姿、果ては火照ったような表情で胸元をはだけさせる姿――etc。彼女が特殊な形の巫女服を着ている為、なんというか、マニアックな色気が滲み出ていた。

 さすがに“見せられないよ!”的なものは何一つないが、なんとなく目のやり場に困るものは数知れず。文が机に勢いよく広げたのは、早苗のそんな姿を写した紙だった。

 

「ああ、河童に作らせた“かめら”で撮ってたのはこれですか。この短時間で現像できるとは、さすが河童です」

「でしょでしょ! 速射現像型? だかなんだかで、撮った写真がその場で現像されて出てくるんです! 日々大量の写真を撮る私には欠かせない一品っ! もうこれ無しには生きていけないくらい癖になっちゃったんですよぉ〜♪」

「取り敢えずからくりに頬ずりするのはやめてください気持ち悪いです」

「辛辣ッ!」

 

 平然と二人で話しているが、その手はじたばた暴れる早苗をしっかりと抑え込んでいる。

 さては文さん、早苗さんが困るのを知っててこれを見せたな……と吹羽は相変わらずの悪戯っ気を醸す文に苦く笑う。

 そうしているうち、僅かに出来た隙間を逃さず早苗が拘束から抜け出した。顔は真っ赤で、手はどこをどうするともなくわたわたと暴れている。

 

「ち、違うんですよッ!? これは興が乗ってしまったというか魔が差したというか、ああ文さんがどうしてもというので仕方なく撮っただけでですね!? 決して私がそういうの好きというわけではなくてぇっ!」

「えー? 責任転嫁は感心しませんねぇ。『最近布教が上手くいかないので、ここはもう色仕掛けで人を募るほかありませんっ! さぁ文さん、私のこのちょっとえっちな姿を存分に撮って里にばら撒くのですっ!』とかなんとか言ってたのはどこの誰でしょうねぇー??」

「何がちょっとえっちな姿ですか!? 私そんないやらしい子じゃないですし言ってないですよぉっ! ふ、布教が上手くいってないのは確かですけど、写真集的なアレで一発当てようとか考えたのも事実ですけど!」

 

 弁明するようでし切れていない早苗の猛抗議に、椛は目を伏せてやれやれと呆れた吐息をこぼす。

 

「根本的な理由は変わってないじゃないですか。えっちだろうがなんだろうがやってることは同じですし、そもネタなど盛って然るべしな文さんの“文々。新聞”を頼った時点で破綻が目に見えていたというか……やはり早苗さん、あなた馬鹿ですね。オツムが足りなすぎです」

「辛辣ぅッ!!」

 

 まあ椛の言い分には一理あるというか全くの正論なのだが、毒が強烈過ぎて早苗はがくりとうなだれてしまった。相変わらず感情表現が一々大きい少女である。

 とはいえ、早苗が守矢神社の布教に熱心なのは伝わってくる。霊夢のように日々お茶を啜ってぐうたらしてるだけよりは随分とマシだし、空回りしてはいるがもしかしたらこの作戦でも人が集まりはする――目当てが神社でなく早苗である可能性は大いにあるが――かも知れない。そう考えれば全く的外れでもないはずだ。

 贔屓してもらうにはまず知って貰わねばならない。その為には、どんな方法であろうと人を募るのは非常に大切なことだ。

 幼いながらにその真理を心得ている吹羽は、ずーんと影を纏って項垂れる早苗の肩をぽんぽんと叩いた。

 大丈夫、ボクはちゃんと分かってますよー。

 

「うぅ……吹羽ちゃんは優しいですね……やっぱり私の妹になりませんか……?」

「い、妹になるとかはさておいて……客商売も似たようなものですからね。大丈夫です、これでもきっと人は集まりますよ! 本領発揮はその後ですっ!」

「ふぇ……人が集まる? えと、あの……そうじゃなくて、ですね……」

 

 ぽつりと溢れた早苗の言葉に、吹羽はきょとんとした。

 

「え、違うんですか?」

「ひうっ……そ、その………………なんでもないです……」

「??」

 

 おや、早苗の様子が思ったよりもおかしい……。もしや鼓舞の仕方を間違えたか?

 なんだか妙にぷるぷると震える早苗の顔は、残念ながら影になって見えていない。しかし、何やら齟齬が起きている感覚は確実にあった。

 布教のために写真を撮り、その行為を馬鹿にされたから落ち込んでいる……はずなのに、そうじゃない、とは?

 項垂れる早苗の背中をすりすりしながら首傾げていると、その会話を訊いていたのか、椛が獣耳をぴくぴくさせながら言った。

 

「……やはり、なんだか今日の早苗さんは様子がおかしいですね。というより、私たちが来てからというのが正確でしょうか」

 

 言外に、“写真集で布教なんて破天荒はいつもの早苗なら全然あり得る”と馬鹿にしながら。

 

「ん、そうなのか?」

「はい。いくら早苗さんが阿呆でも会話が成り立たないことはありませんでしたし、普段はもっと、こう……その場のノリで生きている感じがするんですが」

「……椛さん、そろそろ勘弁してあげてください……早苗さん、落雷が落とされたみたいにピクピクしてますから……」

 

 椛による言葉の落雷にやられまくっている早苗は有意義に無視しつつ、二人の会話に思い出すような声音の文が入った。

 

「そーいえば、早苗さん妙に言葉遣いが恭しくなったというか……」

「……ッ!」

「ああ、自己紹介もらしくないほど丁寧でしたね。一体どういう風の吹き回しですか」

「……ッ!!」

「いつもと違うことといえば鶖飛さんがいることですが…………ぁあ〜、な・る・ほ・ど♪」

「……っ、……ッ! ッ!!」

 

 二人の会話にいちいち身体を震わせる項垂れたままの早苗。まるで皮を無理やりひん剥かれたり鋭い棘をぶっ刺されたかのような反応っぷりに、側で見ていた吹羽は苦笑いをこぼすことしかできない。

 しまいに文がにやにやぁ〜っと唇を歪ませた瞬間には、早苗は項垂れるどころかミノムシみたいに縮こまっていた。

 一体何がしたいんだこの人は……などと思っていると、吹羽的には聞き捨てならないことを、文は口走った。

 

「早苗さんさては……取り入ろう(・・・・・)としてますね?」

「……ッ!!?」

 

 びくんっ! ミノムシ早苗が一際に身体を跳ねさせる。

 

「と、取り入るって、誰にです?」

「そりゃもちろん……鶖飛さんにですよぉ♪」

「お、お兄ちゃんに!?」

「え、俺? なんで?」

 

 各々に驚愕する二人を見遣り、文はまたにやぁ〜っと笑う。相変わらずいやらしい笑みで人によっては嫌悪するだろうが、吹羽にはなんとなくそれが楽しそうにしているように見えた。

 

「何故ってそりゃ、早苗さんは吹羽さんのこと大好きですからねぇ? 鶖飛さんに一目惚れしたようにも見えませんでしたし、ならば十中八九鶖飛さんに取り入って吹羽さんにもっと近づこうとしたに決まってますよ」

「え……マジで?」

「マジマジ。伊達に記者やってねーです。観察推察には自信有りでっすよ!」

 

 つまり、吹羽ともっと親密になるため兄である鶖飛と仲を深め、外堀を埋めていく形で吹羽と距離を詰めていこう――と?

 今でも十分仲良くしていると思うのだが、どうやら早苗はもっと先に進んで行きたいらしい。欲に忠実行動力抜群な早苗に、吹羽は相変わらずだな、とほうと溜め息を吐いた。

 

 それにしても、いつもド直球な早苗にしては計算高く行動したのだろうが、なんというか――やり方がせこいし回りくどい。親密になりたいなら直接そう言えばいいのに、彼女は何を躊躇ったのだろう。

 

「うわ……最初は清楚で品のある綺麗な女の子なのかと思ってたんだけど……猫被ってたのか」

 

 ――その一言が、起爆剤だったのか。

 ミノムシだった早苗はぶるぶると震えだし――爆発。

 

「〜〜ッ! っそうですよ合ってますよ御明察ですよぉ〜ッ! 鶖飛さんが吹羽ちゃんのお兄さんだって聞いた瞬間からずっっっと気に入られることだけ考えてましたけどそれが何かッ!?」

 

 ずだん! と立ち上がった早苗は被っていた猫を盛大に破り、羞恥に染まった顔で自棄っぱちに泣き叫んだ。

 

「え、じゃああんなに落ち込んでたのは……?」

「ぅうだってだって、あんな恥ずかしい写真見せられたら、いくら初対面だからって『あーこの子まじありえねえんだけど生理的に無理さっさと消えて?』とか思うじゃないですかぁっ!」

「そんなこと思ってねーよっ!?」

「そりゃ最初は布教のためだって考えてましたよ!? でも吹羽ちゃんのお兄さんが現れたとあってはそんなことしてる場合じゃないじゃないですか! 幻滅されでもしたらお終いです、ゲームセットですっ、ジ・エンドですッ! だから椛さんっ、これ以上私の悪いところ言うのは勘弁してくださいお願いしますぅぅ〜……っ」

 

 縋り付くような声音とアーチ状の涙で椛に懇願している時点でかなり手遅れな気がするのは、きっと黙っておくべきだろう。吹羽は純粋過ぎることに定評のある早苗を慮って止む無く言葉を飲み込んだ。実際鶖飛も口の端をぴくぴくさせているので、やはり彼としても早苗の言動はドン引きしているらしい。

 

 ――つまり、椛に作戦を悉く酷評されたから落ち込んでいたのではなく、そうやってお馬鹿な部分を野晒しにされて目的を達成できなくなりつつあることに悲しんでいた、ということだ。

 曰く、早苗は吹羽に一目惚れ(?)していて、その酷愛っぷりは周囲を置いてけぼりにするほど。当人達以外に知る者はいないが、神社に泊まった吹羽に夜這いをかけるレベルである。そんな“異常なほどのもの”を原動力とした行動が、“異常なほどのもの”にならないわけがなかった。

 

「……そもそも早苗さん、そうまでして何がしたかったんです? 仲良くなる以上に、ボクをどうしたかったんですか?」

 

 吹羽は小首を傾げる。

 結局、早苗の目的というのは一体なんぞ? と。仲良くなるよりも更に次の段階ってなに? と。

 そもそも鶖飛に幻滅されたからといって何がお終いなのだろうか。ここまでくれば躊躇う必要はない。全貌が明らかになるまで徹底的に取り調べさせてもらおうではないか。

 ――とか思って訊いてみたのだが。

 もう既にオーバーリミット状態の早苗には何の躊躇いもないようで、あっさりとソレを口にした。

 

「そんなの……そんなの! 吹羽ちゃんを私の妹にすることに決まってるじゃないですかぁああッ!!」

 

 ――あっ、そういえばそんなことに言ってましたねー。

 早苗の叫びを聞いた瞬間吹羽は、椛は、文は鶖飛は、呆れを通り越してしらーっと真っ白になった。夢架に至っては心底興味ないのか欠伸を漏らしてすらいた。

 

 蘇るある日の早苗は、確かに吹羽に対して妹にならないかと持ちかけてはいた。が、まさか諦めていなかったとは意外である。いやむしろ、諦めかけていたのだが鶖飛の登場によってその時の欲が鎌首をもたげてきた、ということかもしれない。欲望に忠実な早苗はきっと抗おうともしなかったろう。

 

 ……ということは、あれ、もしかして?

 

 吹羽は思い当たった推測に、愕然として青褪めた。

 鶖飛に取り入って、吹羽を妹にする……それって、つまり――。

 

「さ、早苗さん……」

「ひゃうっ!? な、なんですか吹羽ちゃん?」

 

 喚き散らす早苗の肩を掴んで無理矢理にこちらに向かせると、彼女は吹羽の雰囲気に中てられたのか少し怖がるような静かな声音で問い返した。

 だが、今の吹羽に早苗を思いやる余裕はない。普段は優しく眩しく翡翠色に輝く大きな瞳を剣呑に細め、

 

「まさか取り入るって……お兄ちゃんのお嫁さんになるつもりですか……?」

 

 そう、つまり、鶖飛の家族として吹羽を妹――義妹(いもうと)にするということ。

 その問いを受けた早苗は、始めいつになく覇気を纏った吹羽の姿を恐れてはいたものの、決意を秘めた瞳で吹羽を見返すと――良い笑みで大きく頷いた。

 

 早苗はぽ〜いっ。

 鶖飛の腕をぎゅ〜っ。

 

「ダメですっ! ぜったい絶対ダメですよッ! お兄ちゃんは取らせません渡しませ〜んッ!」

「なんでですか吹羽ちゃんっ!? そんなに私の義妹になるのイヤなんですかっ!?」

「そんなのはどうでも良いですよっ! “秋の鹿は笛に寄る”という諺がありますッ! 早苗さんがお嫁さんになったらお兄ちゃんがだめになっちゃいますっ! だからダメなんですぅっ!」

「がーんっ! わ、私は人をダメにする人間、だったんですか……ッ!?」

「あのー、俺の気持ちとかは無視なの?」

「「それは一先ず後回しですッ!」」

「あはい」

 

 もちろん早苗が人をダメにするというのは言葉の綾で、早苗みたいに綺麗で献身的な人が妻になったら溺れ過ぎてきっとダメ人間になるということで、決して悪い意味ではない。

 が、それを今伝えるのは得策ではないだろう。これを言ってしまえばきっと早苗は調子付く。ここは多少精神的に傷付けてでも歯止めをかけて、お兄ちゃんを――ひいては妹の尊厳を守らなければ。

 早苗の“甘さ”を知っている身としては、絶対に鶖飛を彼女に渡してはならないのだ。だってお兄ちゃんが早苗に溺れてしまったら――ボクが構ってもらえなくなるじゃないかーッ!!

 

「とにかく、ダメなんですからね早苗さんッ! お兄ちゃんは渡しませんッ!」

「……いえ、吹羽ちゃん。今回ばかりは私も引けません」

 

 しかし、早苗はいつになく決意を秘めた瞳で吹羽の瞳を見つめ返す。いつだって吹羽に対しては全肯定を示していた彼女とは思えず、吹羽は僅かに目を見開いた。

 

 欲望は人の原動力だ。恋愛や愛情に素直で忠実な早苗は、もはや吹羽の想像を超えた“無敵の乙女”であった。

 吹羽を義妹として可愛がる未来のためなら、例え吹羽自身が立ちはだかったとしても止まるわけにはいかない。止まれるわけがない。

 絶対に鶖飛をモノにして、吹羽を義妹として迎えるのだっ!

 

「もうこの際、猫被りで様子を伺うまでもありませんっ! さあ鶖飛さん、私になんなりと好みのタイプと性癖を大暴露するのですっ! 例えどんな要求でもこの早苗、吹羽ちゃんを妹にする夢のために応えてみせますよッ!」

「えっ、性癖もかよ……っ!?」

「もちろんです! 脚ですか? 太ももですか? それともやっぱりおっぱいですか? 脚が好きなら見せてあげますし太もも好きならニーハイでもガーターでも履いて差し上げますっ! メイド服がご所望でしたらネコミミ付きで毎日『お帰りなさいませご主人様♡』で迎えて上げますよ!」

「ちょ、は? にーは……めいどふく? 分かんない単語が――」

「流石におっぱいは直接見せられませんがそこは水着で悩殺! ちょっとだけならお触りも許して上げます!」

「いやそういう話じゃ――」

「どうです? 完璧でしょっ!? こりゃもう私を妻に迎えるしかないですねッ!!」

「………………」

 

 なんと至れり尽くせりか。きっとここまで夫を肯定する妻など滅多にいないだろうと思えるほど献身的というか、ある意味真っ直ぐである。

 まるで「男なんて大抵こんなもんよ!」とばかりに傾倒し果てた早苗の全肯定は、きっとその手の人(・・・・・)たち(・・)には悪魔の甘言の如き誘引力を持っていたはすだ。

 当然鶖飛も男である。性欲くらい普通にあるし、単語の意味は分からずとも早苗が“そっち方面”の要求すら受け入れる気満々でいることは伝わっていた。

 

 惜しむらくは、その想いの先が鶖飛でなく吹羽であることか。

 自分への想いが爆発した結果であればまだ考えたものの、妹への欲望丸出しなアプローチでは鶖飛は微塵もときめかないのが現実であった。

 こぼすのは当然苦笑い。吹羽共々若干頰を朱に染めながら、眼前でドヤる早苗を見上げる。

 というかこの人、今更だが恥じらいというものはないのだろうか。

 

「さあ、さあさあさあッ! どうしますか鶖飛さんッ!? もう男の人的にはたまらない超優良物件だと自負しておりますがッ!」

「だっ、だだっダメだよお兄ちゃんっ!? こんな悪魔の囁きを受け入れたら、きっと後悔するんだよ! 一時の感情に身を任せたらダメなんだからね!」

「一時の感情も何も、君たち俺の気持ち無視してるじゃん」

「それでもダメなのーっ!」

 

 是が非でも鶖飛をオとしたい早苗と、是が非でも鶖飛を渡したくない吹羽。

 両者の言い分は心情もろともに自分勝手で、間に挟まれている鶖飛にもほぼ回答権はないようなもの……収集がつかなくなるのも当然だった。

 会話に置いてけぼりを食らった文は写真をどう新聞に載せるかを考え始め、夢架は意外にもうつらうつらと半分夢を見ている。唯一話の行方を見守っていたのは椛だったが、彼女の限界も達しつつある。

 

 ――その呟きは、それゆえの独り言のようなものだった。

 

 

 

「もう……話がつかないなら弾幕勝負すればいいじゃないですか……」

 

 

 

 ぴたりと会話が止まる。

 あまりの変り身に、流石の椛もギョッとした。

 

「そうだ、その手がありました……」

「吹羽ちゃんが相手だからと失念していましたね……」

 

 ゆらり。二人は幽鬼のように立ち上がる。その手にはいつの間にやら大幣と刀を持ち、まるで親の仇を前にしたかのようなゆっくりと重い足取りで外へと向かっていった。

 数秒後、轟音が響き渡る。

 決まらない話し合いならば、実力で白黒はっきりつけるのが最近の幻想郷流なのだ。

 

『今日ばっかりは、負けられませんッ!!』

『ぜぇ〜ったいッ! お兄ちゃんは渡しませんからねッ!!』

 

 怒号と炸裂音。掛け声と衝撃。

 少女たちの熾烈な争いの音を聞き流す。もう、鶖飛が止められるところに、事はないのだ。

 

「……なぁ、椛」

「なんですか、鶖飛さん」

 

 神社には似つかわしくない戦闘音が響いてくる中、鶖飛はおもむろに椛へ声を掛ける。

 それは今この場にまともに話ができる相手が彼女だけだったからか、それとも彼女が唯一の常識人であると無意識に認めていたからなのか。

 鶖飛は今日一日で感じたことを、しみじみと呟いて椛に伝える。

 

「吹羽の友達って、変わり者が多いんだな」

「常識など捨て去ったのが、ここ幻想郷ですから」

「楽しそうで何よりだよ」

「全くです」

 

 因みに、勝負は吹羽の圧勝で幕を閉じた。

 未だ不慣れな早苗には吹羽の相手はまだ早かったというのもあるが……それだけではないように感じたのは、鶖飛も椛も同じなのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 里の門をくぐる頃にはもう辺りは暗くなり始めていた。

 夜の闇が妖怪の領域であることを知る人間たちは既に家に篭りきり、時折見かける障子などからは淡い橙色の灯りが漏れている。道行く人間は本当に疎らで、里に降りてくる温厚な妖怪ばかりが目についた。秋の夜空は澄んで冷たく、僅かばかりの雲が月の一部を覆い隠している。

 

 神社を出た時間はちょうど良かったように思われた。

 結局諏訪子や神奈子を紹介することは向こうの都合で出来なかったが、今日はむしろそれで良かったとも思える。仮にそうしていたらきっと山を降りる時間は残らなかっただろう。

 結局早苗と騒いでいたばかりで他四人を放っておくことになってしまったものの、鶖飛がいない間も元気に過ごしていたということを見せられた吹羽はまぁ満足であった。

 

「よし、じゃああとは帰るだけだねお兄ちゃん」

「ん、行こうか」

「うんっ」

 

 早苗とは神社で別れ、文と椛とは山を出る際に別れた。夢架を稗田邸に送り届けるついでに阿求に挨拶をし、もう家に帰るだけ。

 大通りから脇道に逸れ、もはや灯りもほとんどない小道を手を繋いで歩く。暗い中に光る、頭上を彩る疎らな紅葉は少し物寂しさもあったが、恐ろしくはなかった。

 鶖飛の手は相変わらず吹羽よりも大きく、包み込むような握り方は安心感を溢れさせる。心まで暖かくなるようだった。

 

「ねぇお兄ちゃん」

「うん?」

「本当に霊夢さんに会いに行かなくていいの?」

「……んー、今から行ったら迷惑でしょ」

「大丈夫だよ。霊夢さん、なんだかんだ言って優しいし、多分頼めば泊めてくれると思うよ」

「…………うーん」

 

 鶖飛の喉から漏れる音は、困ったような唸り声だった。やはり気持ちは変わらないらしいな、と吹羽は一人合点して鶖飛を見上げる。

 

 実は椛と文の二人と別れた後、吹羽は鶖飛に“博麗神社に行かないか”と提案を持ちかけていた。

 阿求には会った。慧音も紹介した。椛、文、早苗らとは歓談しながら騒いで親睦すら深めた。ならあとは、霊夢との再会をやり直すだけだ。

 鶖飛と再会したあの時。気が付いた時には既に霊夢の姿はそこになく、吹羽自身も能力の反動で寝込んでしまっていた。その間に会っているのならば鶖飛は何かしら吹羽に言うだろうから、きっとあれ以来顔を見てすらいないのだろう。

 せっかくの再会があれだけなんて寂しすぎる――吹羽はそう思って、今日の締めくくりを博麗神社にしようと画策していたのだ。

 

 だが肝心の鶖飛は見ての通り乗り気でない。昔は結構仲が良かったはずなのに、と吹羽は唇を尖らせた。

 

「会いたくないの?」

「…………そうだね」

 

 苦々しく、しかし吹羽の問いにすとんと溜飲を下げられたような声音で鶖飛は答えた。

 

「吹羽が目覚めるまでの間、霊夢にも挨拶くらいしておこうか、なんて何度か考えたけど……行かなかった。行けなかったよ」

「どうして……」

「どの面下げて談笑するんだ、って話さ」

 

 少しだけ鼻を鳴らしながら言う鶖飛の表情は暗がりで見えなかったものの、その言葉には自嘲が含まれているように感ぜられた。

 

「勝手にいなくなって、ひょっこりと戻ってきたような奴と何を話す? “よく帰ってきたな、取り敢えず腹減ってるだろうし飯食うか”――なんてことにはなりっこない」

「……怒られるかも……って?」

「さぁね……怒ったとしても、果たしてそれは俺のことを思ってなのかどうか……」

 

 不意に鶖飛と目が合う。突然過ぎて少し胸の跳ねる吹羽を他所に、鶖飛は吹羽の頭をくしゃくしゃと撫で回してきた。

 なんだなんだ!? と目を剥く吹羽だが、見上げた鶖飛の表情は微笑んでいて、疑問も次第に溶けて消えてしまった。

 

「とにかく、霊夢に会うつもりはないよ。吹羽がどうしてもって言うなら考えるけど」

「ぅ、ん……」

 

 その言い方はずるい、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。吹羽は鶖飛が嫌がることを強要できず、またその自覚がある。そんな言い方をされては、「そんなのいいから霊夢と会って!」なんて吹羽は口が裂けても言えない。

 何か言葉を作る代わりに、吹羽はゆるゆると首を横に振った。

 

「よしよし、ごめんな」

「いい……どうせそのうち会うよ。……その代わり、訊きたいことがあるの」

「…………何かな」

 

 吹羽は少し俯いて自分の足元を見つめた。影はうっすらと道に浮き、鶖飛の影と隣り合って揺れている。影でも現実でも、手だけでしか繋がっていられないことが妙に悲しく感じられた。

 重い口をゆっくり開く。吹羽にはその問いに――言葉を発するのに、多大なる勇気が必要だった。

 それは、今まで訊こうとして訊けなかったこと。訊かなければならないけれど、どうしても怖くて踏み出せなかった問い。

 ――すなわち。

 

「お兄ちゃん……今まで、どこで何をしていたの……?」

 

 ようやく紡げた声は、自分が想像していたよりもずっとか細く、儚げだった。

 きっと怖いのだ。その答え如何によってはまた鶖飛がどこか遠くへ行ってしまうかもしれない――その証左を得てしまう気がして、吹羽は怖かったのだ。

 もう絶対に鶖飛と離れたくない。大好きな家族と離れたくない。その想いが溢れ出たかのように、吹羽は鶖飛の手を握る力を無意識に強める。

 

 一刻か、数刻か、焦れる気持ちを押さえ込みながら待つ時間は長く感じられた。その間二人の間に満ちるのは僅かに張り詰めた冷やい空気と、ぽてぽてと歩く二人の足音のみ。

 隣で、鶖飛が短く息を吐き出した。

 

「少し遠い場所でね……修行してたんだよ」

「……修行……?」

「うん。強くなるために」

 

 吹羽は徐に鶖飛を見上げた。

 

「……どうして?」

「どうしてもやらなきゃいけないことができた。その為には強さが必要だったんだよ」

「どうしても、やらなきゃいけないこと……」

 

 見上げた鶖飛の瞳は夜の闇の中でも輝いて見えて、その決意の固さを物語っている。なにをしようとしているのかは見当もつかないけれど、そこにはどんな言葉だって入り込む余地がないように思われた。

 きっと追求しても無駄だろう。敢えて言わないのは、吹羽に対して何の意見も、感想すらも求めていないからだ。

 助言だろうが非難だろうが、誰が何を言おうと曲げるつもりはない。成し遂げるまで止まりはしない。

 今の鶖飛はきっとそうやって成り立ち、ここに存在しているのだ。

 

 吹羽は不意に、立ち止まった。

 

「……どうした?」

「………………っ」

 

 不思議そうな顔で振り向いた鶖飛に、吹羽はたまらず抱き着いた。

 優しく受け止められる。が、徐に背へと回された手からは、まるで壊れ物をどう扱うのか悩むかのような困惑ばかりが伝わってきた。

 それでいい、と思う。

 そのまま壊れ物として、自分を大切にしてくれたらいい。

 放って置いたら壊れてしまう、儚い宝物として。

 

「もう……どこにもいかないよね……? 置いていったりしないよね……? お父さんもお母さんもお兄ちゃんも……ずっとずっと、傍にいてくれるよね……?」

「……吹羽」

 

 吹羽の意図を察して、困惑のまま彷徨っていた鶖飛の手がふわりと吹羽の頭を撫でる。

 先ほどの乱暴なものではなく、それこそ陶器を扱うかのようなくすぐったいほどに優しい手付き。

 でも、それだけじゃやっぱり足りなくて。

 行動で示すよりも言葉で、その声で、肯定して欲しかった。

 

「さみしいよ……みんながいないと、ダメなのぉ……!」

 

 自分は鶖飛が思うほど完成していない。確かに風成の人間としては天才なのかもしれないが、人間としてはぼろぼろも良いところだ。

 記憶は飛び散り、心はでこぼこ。誰かが側にいてくれないと何もかもが不安になってしまうから、日々好きなことに打ち込んで気を紛らわしているだけ。常に大人ぶろうとしているのは、いつまで経っても大人という“成熟した人間”になれないことを無意識に分かっているからだ。

 慧音が、魔理沙が、文が、椛が、早苗が、阿求が、霊夢が――そして両親と兄が。

 みんながいてくれないと立ち上がれない、頼っていないと自分を保っていられない。記憶の欠落から始まるこの心の隙間は、そうやって誰かに寄りかからないと埋めることはできないのだ。

 それが、吹羽というか弱い女の子なのだ。

 だから――……。

 

「……子供だな、吹羽は」

 

 そんなことを呟きながら、鶖飛は吹羽の背をぽんぽんと叩く。それはまさに幼子をあやすような雰囲気だったが、普段のように反発心は湧き上がらず、むしろ不思議と安らかな気持ちになった。

 きゅ、と抱き着く腕に力を込めて、

 

「……子供じゃ、ないもん……」

「“もう大人だ”、とは言わないんだね」

「お兄ちゃんがいてくれるなら……大人じゃなくてもいいの……」

「そっか」

 

 子供でいられなくなったのは、そうせざるを得なかったから。

 大人になりたかったのは、埋められない自分の孔を埋めようと躍起になっていたから。

 だがその孔をお兄ちゃんが補ってくれるなら、大人になんてならなくても良い。子供に戻りたくはないけれど、大人になる必要も、もはや吹羽には感じられなかった。

 

「大丈夫。もう一人にはしない」

「ほんと?」

「ほんと。約束だ」

「んぅ……じゃあ、もし破ったら――」

「針千本?」

「指先全部に畳針打ち込んじゃうから」

「……妙に現実的なのやめてくれない?」

「やめない……約束、破らなければいい……」

「……それもそうだね」

「ん……っ」

 

 涙が浮きそうになる笑顔で見上げれば、優しげに頰を緩める兄の顔。

 空気は冷たく暗闇は恐ろしいけれど、その瞬間に吹羽が感じたのは紛れもなく――心の芯から暖まるような心地よさと、全てを投げ出してしまいたくなるような安心感だった。

 

 もう、いなくなったりはしない。

 お父さんもお母さんも帰ってきてくれる。

 そうしたら、また四人で暮らせる。

 

 吹羽はそれを、信じて疑わなかった。

 

 

 

 




 今話のことわざ
(あき)鹿(しか)(ふえ)()る」
 恋に溺れて身を滅ぼすことのたとえ。また、弱みにつけこまれて危険な目にあうことのたとえ。

 はっちゃけ過ぎたよろしいか?


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第三十六話 裏。裏。裏。

 

 

 

 道側に大きく開けた工房の入り口からは、しとしとと降りしきる雨空が見えた。

 灰色の雲は空を隙間なく覆って見下ろしてくるが重苦しくはなく、陰々鬱々というよりはむしろ眠気を誘ってくるように気持ちを落ち着けてくれていた。

 雨音が耳に優しい。撫でるようにするりと入ってきては、ふわふわと頭を包み込むような音色で非常に心地良い。気圧が下がって眠くなっているだけということもあるだろうが、それを除いてもこの穏やかな気候が眠りへと誘ってくるようだ。

 

 幻想郷は雨が少ない。というのも、ここは外の世界と陸続きではあるものの、大きな山々に囲まれた僻地に存在するため雨雲があまり流れてこないのだ。

 だから今日の雨は珍しい。山を越えてくるような大きな雲なら大雨になることも予想できるのに、滴るような穏やかな雨だった。ひょっとしたら秋雨なのかもしれない。

 あまり雨が続くとお客さんが減るからちょっと嬉しくないなぁ、なんて思いながら、吹羽は金槌をかちんかちんと赤めた鋼に打ち付ける。

 その隣では、椅子に座って鶖飛が刃物の研磨をしていた。

 

 リズムよく、鋼を擦り削る爽やかな音を響かせながら鶖飛はポツリと呟く。

 

「……お客さん、来ないね」

「仕方ないよ、雨だもん。包丁や農具の修理なんて、わざわざ雨の日に行こうとは思わないよ」

 

 鶖飛は小さく肩を竦めた。

 

「折れた、ってことなら急いで来るんだろうけどね」

「包丁なんて滅多に折れないしねぇ……。刃毀れ程度なら使えないこともないし、きっと優先度が低いんだよ。大人しくしてよう?」

「そうだね」

 

 道行く人はやはり少ない。雨足が激しくないとはいえ、望んで濡れるリスクを背負う人は少ないということだ。そんな日にわざわざ鍛冶屋を訪ねる人はよほど急な用事があるのか、他にすることがない人だろう。

 

 鶖飛が帰ってきて数日が経過した。

 彼がいない間にできた友人の紹介も終え、いよいよ本格的に仕事を始めたところである。

 鶖飛の腕は少しばかり鈍っていたようで、金槌を振るう度に軸がブレるものだから、吹羽は見ていられず勘を取り戻すところから始めるよう提案した。

 吹羽の仕事を見て思い出すもよし、より刃物に触れて思い出すもよし、本音を言えば鶖飛と一緒に仕事ができるだけで嬉しくて仕方ない吹羽は、その提案にも若干適当なところがあったが、鶖飛はそれは杞憂だとばかりに勘を取り戻し、研磨に至っては以前のように戻りつつあった。

 

 だがそれでも、刀匠としての腕に関しては以前から吹羽に及ばない。だから現在は、吹羽が打ち上げ鶖飛が仕上げるという形を取って店を回している。

 まあお客さんが少ないので、今日は書筒で頂いた依頼の消化に励んでいるわけだ。

 

「――よし出来た。お兄ちゃん、仕上げはよろしくね」

「わかった。これもあと数回で研ぎ終わる。次のは……風紋付きだったか」

「うん。硬い薪割り用の斧らしいから、“韋駄天”の紋を彫るよ」

「ん。じゃあえっと……刃は太くなくていいんだっけ。荒く仕上げるよ」

「お願いね」

 

 打ち上がった鋼の塊を鶖飛の傍に置き、吹羽は結んでいた髪を解いて一息吐いた。

 白いセミロングの髪がふわりと舞って落ちる。少し汗をかいていたのか、首筋に張り付いた幾本かがくすぐったい。吹羽はせめて前髪だけでもと、いつも身につけている羽型の髪留めを付け直した。

 椅子に座り、ふと雨の降る外を見ていると、なんだか手に違和感があった。自分の手を眺めると、なんだか、熱を帯びて熱くなっている。

 

「(……力が入り過ぎちゃったかな)」

 

 手のひらをにぎにぎすると、痺れるような疲労感があった。

 恐らく気づかぬ間に金槌をいつも以上に強く握り締めていたのだろう。仕上げに影響はなかったようだが、張り切り過ぎはやはり良くない。特に力の僅かな入れ具合が品質の良し悪しを分ける刀匠は、いつだって冷静に鉄を打たねばならないのだ。自分の仕事に誇りを持っているなら尚更である。

 

 だけど……正直これは、仕方ないかなぁ。

 

 吹羽は諦めたように薄く笑って、ちらと鶖飛の背中を見遣った。

 するとその視線に鋭く感付いたのか、鶖飛もちらと吹羽の方を振り返った。

 

「……どうかした?」

「んーん、なんでもないよっ♪」

「? そっか」

「うん!」

 

 不思議そうな顔ながらも作業に戻る兄の背中を見て、吹羽はより一層笑みを深めた。

 大好きな兄と一緒に仕事できるだけでこんなにも嬉しい。数年離ればなれになっていた反動なのか、ともかくこの気持ちには歯止めなんて効きようがないんだから、無意識に力が篭ってしまうのも仕方のないこと――吹羽はそうやって納得していた。

 無理矢理に歓喜を抑える努力より、どうにかしてそれを制御する努力をした方が余程建設的だ。下手に気持ちを高ぶらせて失敗しては笑い話。何より兄の足を引っ張りたくはない。

 

「よーし、やるぞっ」

 

 吹羽はぱちんと自分の両頬を叩き、ふんすと可愛らしく気合を入れる。

 

 ――と、その時だった。

 聞き慣れた鈴の音の声。聞こえてきたのは、工房入り口の方角。

 

「随分と張り切ってるのね、吹羽」

 

 凛とした声音に導かれるように振り向くと、傘をたたんで水滴を払う少女の姿が見えた。

 立っていたのは、博麗 霊夢。いつもの澄まし顔を浮かべて柱に背を預けていた。

 久方ぶりに見た親友の顔に感極まり、吹羽は大輪の花を咲かせたような笑顔を浮かべる。

 

「霊夢さん!」

「ええ。久しぶり」

「ほんとですよ。今日は何をしに? 雨の日に来るなんて、急用ですか?」

「いえ、そうじゃないわ」

「そうですか……じゃあどうしたんです?」

「ん、ちょっとね」

「え、えっと……そう、ですか」

 

 しかし、喜び溢るる吹羽の仕草はだんだんと勢いを失っていく。霊夢の来訪に喜びを露わにする吹羽に対し、今日の彼女はどことなく冷たい対応だった。無意識に尻すぼんでいく自分の声が、なんだか礼を失っているようで少し申し訳ない。

 よく見れば顔も笑っておらず、いつものような柔らかい雰囲気ではない。吹羽の言葉に最低限の返答はしてくれるものの、その意識は全く別のことに注がれているように感ぜられた。

 

「あんたも……久しぶりね。鶖飛」

「……そうだね。久しぶり、霊夢」

 

 つと視線をやって簡素な挨拶を放る霊夢。鶖飛もその剣呑な空気を感じてか、どこか冷ややかな声音で返した。

 

 しばらく張り詰めた空気で見つめ合う二人だったが、不意に目を伏せた霊夢は鶖飛から視線を外し、持っていた傘を柱に立てかけた。

 おろおろと心配そうにしていた吹羽に視線をやって、僅かに微笑む。

 

「少し、見ていっていいかしら」

「ふぇ? 構いませんけど……ど、どうしたんです? ボクたちの仕事なんて面白くないですよ?」

「それは知ってる」

 

 ばっさりと言い切った霊夢に、えぇ……と微妙な顔をこぼす。

 いや自分で言ったことだけれども、そこは遠慮というか気遣いというか、もうちょっと柔らかく包んだように言うべきじゃないだろうか。相変わらず容赦がなくて平常運転、親友たる吹羽としては何よりである。もちろん皮肉だが。

 霊夢は、複雑な表情の吹羽の頭をポンポンと撫でた。

 

「面白くはないけど、見ていく価値はあるってことよ。気にせず働きなさい」

「ぅぁ……阿求さんもですけど、なんでそんなに見て行きたがるのかボクには分かりません……」

「分からなくていーの。椅子、借りるわね」

「ぅぅ……どうぞ……」

 

 吹羽の了解もしっかりと聞かず、霊夢は先程吹羽が腰かけていた椅子に座った。

 相変わらず姿勢が綺麗だ。背筋を凛と伸ばして足を揃えまるで正座しているかのように膝の上に手をちょこんと乗せている。そこには気張ったような余裕のなさはかけらもなく、非常識なほどに美しい。その楚々とした雰囲気は大人びた美貌を持つ霊夢に実に合っていて、吹羽は思わず見惚れて息を呑んだ。

 

 ああ、巫女なんだなぁ――親友としてどこか遠慮がなくなっていたことを自覚する。それが悪いこととは思わないけれど、やはり霊夢は吹羽の親友である前に、巫女なのだ。

 神に仕え、魔を滅し、どこまでも清廉潔白であり決して侵されざる心身であるべき、博麗の巫女。

 改めて、よくもまぁ自分なんかがこの人を親友を名乗れるまでになったものだ。

 神のいたずらなのだろうか。それともこれこそ運命というやつなのだろうか。吹羽はぽーっと霊夢を見つめながら、そんなどうでもいいことに思い耽っていた。

 

 すると、霊夢の瞳がちらりと吹羽を射抜く。

 

「……仕事しないの?」

「ふあっ!? し、しますします! ちょっと休んでただけですっ!」

「そ」

 

 見惚れてたとは流石に言えない。

 吹羽は霊夢の流しジト目に耐えかねていそいそと髪を結び直す。

 そうしてまた、しかし今度は霊夢の見学というオマケをつけて、吹羽は次の鋼を炉にくべた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――暗い部屋だった。

 聖堂のように広々とした空間には何本もの柱が立ち並び、天井には硝子をふんだんに使った豪勢なシャンデリアが吊るされている。床に一本線を引く真っ赤なカーペットは皺一つシミひとつなく、踏みしめる者には少しの負担も感じさせないだろう。

 その中央奥。一段高い場所にある一つの大きな椅子。その後ろに覗く巨大なステンドグラスは外の僅かな光で妖しく光り、神秘的な雰囲気で以って向かい、しかし空気をすら圧倒していた。

 

 不可思議な部屋だ。

 それだけの装飾が施された広間であるにも関わらず、そこは闇が閉じたように薄暗く、不気味で妖しく、そして美しくもある。

 この薄暗い広間を“そう”感じさせる所以は明白だった。

 

 最奥の椅子。まるで玉座を思わせる荘厳なその椅子に、優雅に腰掛ける女がいた。

 滑らかですらりとした脚を組み、華奢な腕で手摺に肘をつきながら、白銀の髪に彩られた顔を微笑みに歪ませるその姿は、まさに絶世の美女。その紫紺の瞳で見つめられれば思わず傅いてしまいたくなるような雰囲気を纏っていた。

 ただそこに在るだけで空間そのものすら美しく彩るようなその美貌は、訪れる者全てに人ならざる“何か”を感じさせるだろう。

 

 女はどこか遠くを見透かすように目を細めると、そのたおやかな指先に小さな光を灯して、緩く振るった。

 暗い空間に浮かび上がる細い光は、陽炎のように揺らめきながら宙を漂うと、女の目の前に円を作り出す。

 ――紡がれた言葉は、まさしく“権能”だった。

 

人形よ、義眼を差し出せ(ねぇ、あなたはなにを見ているの?)

 

 声が力となって響き、作り出された円の中に水面のような窓を現出させた。しかし、その向こう側に見えるのは薄暗い広間ではない。

 円内の水面は、まるで明鏡止水の如く静謐に、ここではないどこかを映し出す。

 そこに見えた光景に、女はうっとりと吐息を漏らした。

 

「ああ……もうすぐ、なのね……」

 

 長かった。しかしそれ以上に楽しみだった。

 時を積み重ねる度に期待が膨れ上がり、それが解放された時の心地良さを想像しては熱い溜め息を漏らす――そんなことを幾星霜。

 それがもうすぐ、結実しようとしている。そう確信させる光景が、作り出した窓には映し出されていた。

 

 女は気まぐれな性格だった。そしてどこまでも楽観的で、快楽主義者であった。

 その時良ければ後はどうでもいい。自分が気持ち良ければその他はどうでもいい。

 あらゆる存在が“個”では完成できないこの世にあって、その圧倒的な独裁思想はただただ異質と言えよう。その思想が行き着く先は破滅。不完全な存在は最後には消えゆくものだ。

 

 ――しかし、女はそんなことを認めなかった。そしてそれを否定し、成し遂げられるほどの力が、彼女にはあった。

 

 その時良ければどうでもいい――どうとでもする力があった。

 その時気持ち良ければ後はどうでもいい――どんな事柄も捩じ伏せる力があった。

 あらゆる存在は“個”で完成できない――女は唯一、完成していた。

 

 故にこそ、望んだものは手に入れる。飽きたら捨てる。歯向かってきたら壊す。死で呪おうとするなら魂をすら侵し蝕む。

 どんな抵抗も許しはしない。私が望んだのだから、この世のあらゆるものは“そう”在るべきなのだ。

 

 今回もそうだった。

 あらゆるものに飽き飽きしていて、そんな時に見つけた実に面白そうな悲劇(・・)。その結末を見てみたい、自分で作ってみたいと、そう思ったから、この時まで待っていたのだ。

 

 物語は、悲しみで出来ている。

 英雄譚などありきたりなものばかりだ。主人公が誰より強い? だからなんだ。勝って当たり前の人間の勝利を描いたところでなんの感慨もありはしないのに。

 主人公は、絶望しなければならない。挫折しなければならない。いっそのこと狂いに狂って、どうにもならないところまで堕ちてしまえばいい。そうしてこそ物語は語る価値があるのだから。

 

「うふふ……そうね、その後は……」

 

 そうして完成したならば、さてどうしようか。

 当事者たちを手中に――コレクションしてみても面白いかもしれない。家族のように接しても当分は飽きないだろうし、愛でに愛でて堕落させるのもきっと楽しい。或いはその辺に敢えて捨て去り、泣き喚いて縋り付く様を眺めても気持ちいいかも。

 それともいっそ……殺してみる? 手塩に掛けて手に入れたその子らを敢えて己の手に掛けたのなら、その虚脱感と爽快感は如何程のものだろうか。

 

 女はくすくすと妖しく笑う。

 楽しいことは歯止めが効かない。そして女には我慢する必要もない。その一瞬を貪り感じるためにここまでしたのだ、物語が完成した暁には、きっと想像を絶する興奮が待ち受けていることだろう。

 

 今から期待に胸が膨らむ。作り出した窓の向こう側をいつまでだって眺めていたい衝動に駆られる。だがそれをしてしまったら、きっと余計なことを考えて余計な手を加えてしまうだろうことを女は自覚していた。

 あくまで様子見。念願にどれだけ距離があるのかを測るだけの覗き見だ。楽しみを自分で潰すのはあまりにも勿体ない。

 

 さあ、さあ、さあ――ッ!

 

 急く気持ちは笑みになって零れ落ちる。今から膨らむ期待で、胸がはち切れそうな気さえした。

 

「ほら、早く……早く、早く早く早くぅ……」

 

 暗い部屋に、不気味なほど無邪気な催促が響き渡る。

 子供が駄々をこねるように無邪気で、しかし恋人が愛を囁くように甘いそれは、暗い部屋に染み込んでは、余韻を残すように空間に溶けていった。

 

「うふ、ふふ……あはははははっ!」

 

 堪え切れない期待は、堪え切れない笑いとなって漏れ出ていく。

 女は目の前の水面をつと優しく撫で――そして、搔き切るように握り潰した。

 

「さあ、とびきりの悲劇を見せてちょうだい……人形たち……?」

 

 暗い部屋は、そうして再び絶対の闇に呑み込まれていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 涼やかな虫の声が鳴っていた。

 雨上がりの空は雲が千々に浮かび、その隙間には淡く光る星々が夜空を彩る。僅かに欠けた月がどこかに隠れた日の光を浴びて輝き、夜の帳が下りた人里を照らしていた。

 

 縁側からは真暗で静かな里が感じられた。風成利器店の周囲には柵や生垣があるわけではないので外の様子が眺められるが、入り組んだ道の先にあるため里を見渡すことは出来ない。ただ虫の鳴き声と葉々の掠れる音のみを伝えるこの空気が、寝静まった人間の里を感じさせる。

 

 人間の里の一日と同時に仕事も終わり、霊夢の撤収と吹羽の就寝も見届けて何もかもが寝静まったこの時間――鶖飛はぼんやりと縁側に座っていた。

 隣にはお茶と湯のみがおぼんに乗せて置いてあり、一つには僅かに湯気が上がっている。屋内をいつでも巡っている緩やかな風が、上がった湯気を攫ってはふわふわと散らしていた。星月が見守る穏やかな夜だ。

 

「ふぅ……疲れたな……」

 

 一息吐き、程よい疲労感と共に一日を振り返る。

 今日は――というよりここ数日は工房で刃物を研磨してばかりいる。吹羽の提案によるものだが、お陰で鶖飛はだいぶ勘を取り戻していた。今なら研磨以外の仕事も問題なくこなせるだろう。

 

 だが、その必要が大してないことは鶖飛が一番よく分かっていた。

 

「(天才(吹羽)がいるからね……本当なら俺の出る幕なんてどこにもないんだけど……)」

 

 程よく熱いお茶を一口啜って、溜め息にも聞こえる呼気を漏らす。白くなった息は、風に乗って一瞬で散り散りと消えた。

 

 ――“三階義”とは、風成の人間が生涯をかけて目標とする三つの技術段階だ。

 一、始階。風を知り、触れ、それと共に生活を営むこと。大半の者が子供の頃に到達する階層。

 二、次階。風紋を学び、刀に刻むことである程度風を操ること。既に吹羽が到達した階層。風成の人間として壁となる領域だ。

 三、終階。風を従え、使役すること。これに到達した者は風成の人間として完成したことを認められる。しかしその方法は明確に示されておらず、代々これに到達した当主たちは試行錯誤の末に己だけの方法を見つけ出してきた。故に必然、当主が空席のままの時代もあったという。

 尤も、周囲の人間が認めたからこそ“終階”に辿り着いたと言われているだけであり、本当に言葉通りに“風を従え使役する”にはどうすれば良いのかは未だ判明していない。正体不明であるゆえにいつの代も事実無根。至難であるからこそ、基準が最も曖昧な階層だ。

 

 鶖飛は、始階に至ったまま停滞していた。

 

 努力を怠っていたわけではない。始階には小さな頃に至っていたし、鍛治の手伝いがてらの勉強も一度だって欠かしたことはなかった。紋の形は全て覚えているし、彫刻の仕方も頭に入っている。助言だって聞き逃したことはない。

 ただ、それでも満足のいく風紋を彫れたことはなかった。

 

 どれだけ注意深く彫っても削り過ぎの失敗は絶えず、風が予想外の動きをした時の対処もままならない。少し工夫をしようとすればたちまち全体の仕組みが崩れてしまい、何度父に叱られたかは最早知れない。

 それは正しく“才能の欠如”という取り返しのつかないものであり、理不尽であり――風成の人間としては致命的だった。

 

 そしてそんな彼を追い越して、(吹羽)は幼いうちに“次階”へ到達した。

 

 紛れもない天才だった。

 長い歴史を見ても半数以上の者が次階の一歩手前で生涯を終える中、吹羽は誰よりも幼くしてその領域へと至った。当然ながらあの歳でそこに到達した者は他に存在しない。加えて歴史上数人しか発現していない“鈴結眼”を持っていたこともあり、吹羽は鶖飛とは対照的に、風成の人間としてこれ以上ないというほどの天賦を持っていた。

 彼女が彫った紋は彼女の想像通りに風を束ね導き効果を発揮し、どうすれば風を思い通りに動かせるのかを吹羽は感覚的に知っている。彫刻の技術はその補佐に過ぎない。両親をして“氏神様に愛されている”と言わしめるほどの凄絶な才能である。

 当然、鶖飛にはその才能に強烈な劣等感を抱いていたこともあった。事実、今だってそれなりの劣等感はあるし、嫉妬もないといえば嘘になる。

 

 だが、それを当たり散らさず卑屈にもならなかったのは、それもまた吹羽のお陰だった。

 

『あの、おにいちゃん』

『……なに?』

『ここ、どうすればいいのかわからなくて……』

『父さんに訊けばいいだろ。なんでオレなんだよ』

『い、忙しそうだったの……おにいちゃんなら、わかると思ったから……』

『…………一回しか言わないぞ』

『! うん!』

 

 鶖飛は知っている。吹羽が才能に溺れた怠惰な人間なら、自分を追い越して“次階”に到達なんてするわけがなかった、と。

 いくら才能があっても知識がなければ活かすことはできない。吹羽はその知識に対して貪欲で、分からないことがあればなんでも鶖飛に尋ねてきた。それはきっと、吹羽が鶖飛の努力を知っていたから。

 おにいちゃんならきっとわかる。だから教えてほしい、と。

 それは、鶖飛の吹羽に対する強烈な劣等感を慰めるには十分な――“信頼”の証だった。

 

 優越感にも等しかったかも知れない。

 鶖飛よりも圧倒的に優れた才能を持つ吹羽が、それでも先達として自分に教えを請いにくるという状況は、情けない大人気ないと分かっていても鶖飛の心を喜ばせた。そしてそれを少しだって無駄にせず吸収し今日の仕事に活かしている姿は、兄として妹を誇らしく、また愛おしく感じさせた。

 

 ああ、愛しているとも。

 これほど健気な妹を愛せない兄などいるはずがない。例え自分とは才能で雲泥の差があっても、素直に頼ってくれる妹を大切に思えないなら、鶖飛は自ら吹羽と絶縁していただろう。そんな情けない自分はあり得ない。むしろ死んだ方がいい。

 

 今の自分があるのは吹羽のお陰だ。

 吹羽がいなかったら――否、吹羽がああした素直な性格でなかったら、ロクでもないことになっていたのは想像に難くない。

 

 ここ数日で吹羽の存在を改めて思い知ったのだ。なんだかとてもほっとするような心地である。

 ――だからこそ。

 

「(吹羽だけは……絶対に失くせない、な)」

 

 一瞬瞳に決意(・・)が宿り、しかし鶖飛はすぐにそれを霧散させた。

 今ここで滾っても仕方ない。吹羽は敏感だから、そんなことをすれば起こしてしまう。ぐっすり眠っているんだからそれはよろしくない。

 短く息を吐いて、鶖飛は再びのんびりとした月見に戻る。

 

 ――だけでは、なかった。

 

「それで……いつまでそうしてるつもりかな」

 

 独り言のようでそうでない呟きは、薄暗い縁側の先へと放られていた。

 しかしそこには何もなく、当然反応もない。ただ奥へと続く暗闇が鎮座するばかりだ。

 だが、鶖飛は確信を持ってその空間に、伏せられた湯のみを返しつつ言葉を続ける。

 

「せっかく二人分(・・・)の湯のみも用意しておいたんだ、隠れてないで座りなよ。話したいことがあるんだろ――霊夢」

 

 確信に満ちたその言葉から数瞬の後、まるで観念したかのように、視線の先でぐにゃりと空間が揺らぐ。そして大して驚きもない鶖飛の前に、数時間も前に帰宅したはずの霊夢が姿を現した。

 その表情は、余裕を感じさせる鶖飛の微笑みとは対照的に無表情で固まっていた。

 真一文字に引き結んでいた口が、静かに問う。

 

「…………いつから気付いてたの」

「始めっからかな。君が帰った直後からきつい視線を感じてた。お陰で集中しきれなくてちょっと吹羽に怒られたよ。霊夢の所為だぞ?」

「……認識阻害に気配遮断まで掛けた結界だったんだけど」

「知らないのか? 武人っていうのは気配に鋭いものだよ。ついでに俺の周りに展開してる符術も解いてくれると嬉しいな。目には見えないけどちびちび漏れてる霊力が鬱陶しいんだ」

「っ……」

 

 さも当然といった鶖飛の口調に、霊夢は思わずぴくりと眉の端を揺らして口籠る。

 筒抜けだった。鶖飛の周囲に展開した符術にも認識阻害と気配遮断が付与されていたのだが、同じ術で隠れていた霊夢に初めから気が付いていたとなると早々に見破られていたと考えるべきだろう。当然、その符術が鶖飛を攻撃するためのもの(・・・・・・・・・・・・)だったことも。

 心底不満そうな表情を容赦なく鶖飛にぶつけつつ、霊夢は徐に手を横に薙いで展開していた符術を解除した。

 やれやれ、といった鶖飛の呼気に眉根を寄せる。

 

「別に争うつもりはない。夜中だし吹羽も寝てる。言ったろ、話があるなら座りなよってさ」

「………………」

 

 無言の霊夢に、お茶を注いだ湯のみを差し出す。

 

「お茶、飲むだろ?」

「………………っ」

 

 鶖飛の手からお茶をひったくり、霊夢は横目で鶖飛を睨みつけながら彼の隣に腰を下ろす。

 お茶は、既に冷めて緩くなっていた。殺気の篭った符術の霊力残滓なのか、流れてくる緩い風もどことなく生温く感ぜられる。

 異常な差異があった。おぼんを挟んで座る二人の間には、まるで文化の異なる国々を隔てるかのような雰囲気の壁があった。

 片や噴火寸前の火山のように奥底で莫大な熱を溜め込む霊夢。

 片やそんな霊夢を横にしてすら呑気にお茶を啜る和やかな雰囲気の鶖飛。

 

 果たしてそれは、何をもって和やかであり、余裕なのか――。

 

「“なんで監視してたのか”、なんて愚問はするんじゃないわよ。分かってるでしょ」

「何のことか分からないな。もうちょっと穏やかに会話したいんだが」

「この期に及んでしらばっくれるんじゃないわよ。ふざけてんの?」

 

 嫌悪感剥き出しの視線が、鶖飛に突き刺さる。

 

「穏やかに会話したい? 自分が何をしたのか理解した上でそう言ってるなら、あたしは今すぐあんたを殺してやるわ」

「君にそれができるのか?」

「できないと思ってるの? 舐められたものね。あんたくらい簡単に捻り潰して――」

「いいや、強弱の話じゃない」

 

 向けられた鶖飛の瞳に、霊夢は思わず言葉を詰まらせた。

 確信に満ちた声音――否、事実を語っているに過ぎないと宣言する声だった。

 

「君は俺を殺せない。君が吹羽を想っている限り、俺の傍に吹羽がいる限り、君は俺に手を出せない」

「な、なに言って……」

「俺がまたいなくなったら、今度こそ吹羽は壊れるぞ?」

「ッ!!」

 

 霊夢の無表情が、初めて崩れた。

 

「吹羽を想って……俺を危険視して監視してたのは分かってる。再会から日が空いたのは準備とか心構えとか必要だったんだろ。……分かってたはずだ。俺を殺したら十中八九最悪の状況になる。だから今日ウチに見学に来たふりして、監視用の札を貼って(・・・・・・・・・)いった(・・・)んだろ?」

「…………それも、バレてたの」

「ああ。プライベートまで人に晒す趣味はないからね。君に気付かれないよう既に全部はがしておいた。吹羽にも多分バレてないよ」

 

 隠しもせずに舌打ちする。本当に何もかもが筒抜けだったことに――何より鶖飛の言うことがいちいち事実であることに、霊夢の怒りがふつふつと沸騰し始める。

 その通りだ。ここ数日、鶖飛にどう対応するかで霊夢は散々悩んでいた。鶖飛が帰ってきたことは霊夢にとっても衝撃的で、故に何の考慮もしていなかったのだ。

 

 吹羽の下に鶖飛が戻ってくれば、必ず彼女は依存する。またいなくなったりしないよういつでもついて回るようになるだろう。そもそもが危うい均衡の上、そこから鶖飛を取り上げれば今度こそ吹羽が壊れてしまうのは簡単に想像がついた。

 だが、霊夢は鶖飛がなにをしたのか知っている。だから彼をこのまま放置はできない。一番良いのは鶖飛を吹羽から遠ざけることだが、彼女の精神状態を鑑みればそれに踏み出すのは容易ではない――そうして数日悩んだ結果が、今回の行動だった。

 姿を隠したのも符術を展開していたのも、二人きりになった場合に鶖飛がなにをするのか油断できなかったが故の措置だ。

 だが、それらは全てが見透かされていた。これを舌打ちせずにいられようか。

 

 長々と問答を続けても揚げ足を取られるだけだ――。

 霊夢はぐだぐだと敵意だけをぶつけるのを諦め、本題に入る。

 

「…………あんた、何をしに帰ってきたの?」

「随分な言い方だね。自分の居場所に戻ることが、そんなに責められることかな」

 

 鶖飛は目を瞑って、お茶を一口啜った。

 

「どのツラ下げて戻ってきたのかって訊いてんのよ……っ! 自分の居場所ですって? よくそんなことが言えたものね!? どれだけ吹羽が苦しんだか分からないの!?」

「どのツラ、ね。それはもちろん、吹羽の兄としてここに戻ってきた。それ以上でもそれ以下でもないよ」

「兄ッ!? 言うに事欠いて兄ですってッ!? 今更あんたが吹羽の家族面出来るとでも!? ふざけんなッ!!」

 

 溢れ出す怒りのまま怒鳴り散らす声が夜に響く。その気迫に中てられたのか、虫の鳴き声もいつのまにか鳴りを潜めていた。

 中身がこぼれることも厭わず湯のみを乱暴に置くと、霊夢は立ち上がって射殺すような瞳で鶖飛を睨め付けた。

 

「あんたは吹羽の家族なんかじゃないッ!! 悪虐で冷酷なただの外道よッ!! 何が居場所だ! 何が兄だッ! ほざくのも大概にしなさいよッ!?」

 

 認めるわけにはいかなかった。霊夢にとってもきっと吹羽にとっても、彼は絶対に認めてはならないことをしたのだ。

 そしてそのまま居なくなって、突然帰ってきて、兄? 家族? そんな寝言は死んでから言え。その死体すら塵に変えてやる。

 

「そんなもの誰が認めてもあたしが認めない……! あたしだけは絶対にあんたを許さないッ!」

 

 霊夢の怒りは真紅に燃えるマグマのようで、濁流の如きその勢いを容赦なく鶖飛に叩きつけていた。

 きっと魔理沙がこの場にいれば、彼女がここまで怒り狂っていることに首を傾げていただろう。

 霊夢は淡白で薄情者と言われていて、何をされても本当に怒ることは滅多にない。それだけ他に興味がないだけということでもあるが、それは彼女生来の優しさに起因することでもある。

 

 そんな彼女の本気の怒り。

 きっとほとんどの者は圧倒されるなり気圧されるなりして、少なくとも平静は保てない。

 

 しかし――それを向けられた鶖飛は、暢気にもお茶を湯のみに注ぎ直していた。

 そのあまりにも場違いな行為は、霊夢に“馬鹿にされている”と判断させるに十分な材料だった。

 新たに青筋を浮かべ、顔を真っ赤にして怒鳴り散らそうとした霊夢に――しかし鶖飛の、冷や水のような言葉が放たれる。

 

「なぁ霊夢。俺と君は似た者同士だよね」

 

 突然の告白に、霊夢の思考は停止した。

 

「お互いにさ、自分のことより吹羽のことを考えて、そのためにこうして口論してる。ともすれば殺し合いすら始めてしまいそうなこの空気感を作ってる。……吹羽のためにって思って、本当に正しいの(・・・・・・・)かどうかも分からないこと(・・・・・・・・・・・・)をしてるんだ」

「っ……な、なにを――」

「“記憶”のことだよ」

 

 びくん、と肩を震わせた霊夢に、鶖飛はにやりと笑って視線を向けた。

 

「俺がいなくなった日から、吹羽の記憶は壊れてしまっているそうだね。見ている限りじゃそんなそぶりは見せないもんだから、本当にあの子は大したものだよ」

「……それが、なに、よ」

「いや、ね……どうもキナ臭いと思って。だって記憶ってのは、そう簡単に壊れるものじゃないからね」

 

 見透かしたような鶖飛の視線が霊夢を射抜く。血の気がさぁっと引いていた。

 

「例え脳震盪で記憶が飛んだとしても数時間あればだいたいは戻るし、記憶喪失でもきっかけがあれば思い出す。人間の脳は良くできてて、外傷でなければ自己修復だってする。なんたって、本来なら人間の演算領域をはるかに超えた情報量すら扱い切ることができる性能があるんだぞ。事実それができる吹羽なら言わずもがな……記憶が壊れたまま何年も戻らないなんて考えにくい」

 

 鶖飛は確信を持った声音で以ってそう言い切ると、霊夢の湯のみにも溢れた分のお茶を注ぎ直した。

 最初の威勢はどこへやらと顔を蒼白に染める霊夢を見遣って、薄く笑う。

 

「じゃあ、吹羽の記憶はなぜ壊れてる? 一体どこへ行ったんだ?」

「違うッ!!」

 

 鶖飛の言わんとしていることを理解し、霊夢は咄嗟に怒鳴った。

 その拳はきつく握りしめられ、しかし目だけはぎゅっと瞑って、鶖飛の言葉を拒否しているようにも見えた。

 そんな霊夢に、鶖飛は躊躇いなく言葉を紡ぐ。

 

「何も違わない」

「違う違う違うッ!」

「吹羽が失くした記憶のことで苦しんでいるのは知ってるだろ」

「ちが、う! ちがうのよ……っ!」

「何度でも言うぞ」

「ち、ちが――」

「君は、俺とよく似てる」

「………………〜〜っ」

 

 言葉が出なかった霊夢は、狼狽したように頭を抱えて激しく振り乱した。

 それはまさしく拒絶反応。受け入れがたいものを聞かされて、取り入れて、間違っても吸収しまいと吐き出そうとする仕草だった。

 

「君は、俺と、よく似てる。考えてることも、やっていることも、想っている子のことも……」

「………………ち、がう……わ……っ!」

 

 しかし次第に狼狽が治まってくると、霊夢は独り言のように先ほどの言葉を繰り返した。

 言い含めるように。言い聞かせるように。或いは自分への、暗示として。

 

「あたし、は……あんたとは違う……! これだけは絶対、何があっても揺るがないわ……ッ!!」

 

 かつての光景がフラッシュバックする。

 雨の夜。冷め切った心を覆うように張り付く服と、生温かくも冷たい手の感触。握りしめた大幣。そして無惨にも“谿コされたtgjだim蠱onおkcび”。

 それは霊夢が、巫女としての覚悟を決めた日。忘れることのない、忌まわしき日(・・・・・・)

 

「あたしは間違ってない……! 間違ってるはずがない! あんたなんかよりずっと吹羽のことを知ってるのよっ! 分かったような口を利くな……ッ!」

「実の兄に言うことじゃないね」

「何度も言わせんな……あんたは吹羽の家族じゃない! あんたみたいな外道があの子の家族だなんて、あたしが許さないわッ!」

「じゃあ訊くけど、君は吹羽の何なのかな」

「っ、なに、って……それは――っ!」

「答えられるなら、君の言い分は認めるよ。どうかな?」

「……っ、…………」

 

 “友達に決まってる”、と言おうとして。

 何故か声が出せなかったことに、霊夢はなによりも愕然として、困惑した。

 

「ほら、それが全てさ」

 

 嘲笑するように漏らしたその言葉に、霊夢は何の反論もできなかった。

 

「本当の君は分かってる。心の底では理解してる。本当に吹羽を想っているから(・・・・・・・・・・・・・)、君はそこで胸を張って“友達だ”と言えない。それでよく俺を兄じゃないなんて罵れたもんだ」

 

 鶖飛の言葉が胸を貫く。抉り抜く。心臓が鷲掴みにされたように痛む。霊夢は思わず顔を歪めて、胸元を強く握り締めた。

 

 なぜ何も言えない? 自分は間違っているはずがないのに。全ては外道の宣う戯言のはずなのに。

 頭の中は困惑を極めていた。自分の考えこそが正論だと分かり切っているのに、それを揺るがすほどに鶖飛の言葉は霊夢の芯に響いていたのだ。

 それに、そもそも――、

 

「なんで……」

「ん?」

「それなら、なんであんたは……兄だって、言えるのよ……!?」

 

 そう――“似ている”というなら、なぜ。

 

「正しいかは分からないんでしょ!? ならなんで、あんたは堂々と兄だなんて言えるの……!? あんたは何をしに、戻ってきたのッ!?」

「………………」

 

 鶖飛はまた、茶を濁すように湯のみを口につけて黙り込んだ。今度は適当に茶化したりもせず、言葉を選ぶような沈黙で以って間を作る。

 しかし、不意に鶖飛の口から呼気が漏れた。それは面倒になったようにも諦めたようにも見えて。

 

「…………答える気、ないの……っ!?」

「答えたところで、君は納得なんてしないだろ」

「……っ、……そうね。きっと理解はしても否定するわ」

「それは、何故かな」

「あんたがどうしようもない鬼畜外道だからよ……っ。そんな奴の言い分なんて、理解こそすれ納得するわけないじゃないッ!」

「ほら、それがあるから、君は絶対に納得しない。言うだけ無駄さ」

「………………ちっ」

 

 舌打ちを一つ落とし、霊夢は身を翻した。

 これ以上問答しても期待した答えは得られないだろう。

 むしろ、言葉を重ねれば重ねるほど自分の芯が揺るがされるようで、おかしくなってしまう気さえした。

 

 またこれから、考えを巡らせなければならない。監視で妥協するのか、それとも強引にでも――。

 

「霊夢」

 

 鶖飛の声に、足を止める。

 

「お互い、複雑な立場で苦労するね」

「……複雑? 何を言ってるのかしら」

 

 霊夢は振り返り、嫌悪感に染まった鋭い視線を鶖飛に叩き付けた。

 

「むしろ単純よ。あたしは吹羽の味方で、あんたの敵。あんたこそ何が複雑なの? あんたはただの孤独な咎人。死んでも許されない鬼畜外道よ」

 

 そう吐き捨て、霊夢は今度こそ空に飛び上がって去って行った。

 

「…………目的、ね」

 

 周囲に視線も霊力も感じないことを確認すると、鶖飛はポツリと先ほどの問いを思い返して呟いた。

 

 目的。最終的に目指すべきもの。自らの望み。自分のそれは――決して難しいことではないはずなのに、こんなにも面倒なことに、なってしまった。

 

「……俺はただ、吹羽と静かに暮らしたいだけだよ。……それだけなんだよ」

 

 だから、俺は、何をしてでも――……。

 

 続く言葉を呑み込んで、鶖飛は湯のみに残った苦い茶葉を足元に捨てた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 ……うん、まあ……ね?


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第三十七話 想起の導に

 すまぬ、焼き肉に夢中になってたのだ……。


 

 

 

「――というわけで」

 

 風成利器店。その住居区画の居間にて、吹羽はどこか嬉しそうに言葉を前置いた。

 それを聞くのは、遊びに来るのは意外に久しぶりな阿求、そして“文々。新聞”に風成利器店の“かたろぐ”とやらを載せる為に尋ねてきた文である。二人とも面識はあったようで、適当に挨拶をしていた。

 鶖飛は買い出しで出かけていて家におらず、そんな折に二人が訪ねてきたのだった。

 きょとんとした表情を向けてくる二人に対し、吹羽は胸に抱いた一冊の本を突き出すように見せて言葉を続ける。

 

「ボク、日記を書き始めたんですっ!」

 

 そう言って、吹羽は手に持つ稲の刺繍が施された本をさらに突き出した。

 しかし、対する二人は若干の困惑顔。なんなら首を傾げてすらいた。そんな二人の様子が気に食わないのか、吹羽は花の笑顔を一転して唇を尖らせた。

 

「むぅっ、なんですかその微妙な顔! 何か言って欲しいです!」

「いえ、何かと言われても……」

「日記書き始めました! って報告されてもですね……? こっちとしてはふぅんそうなのとしか返せないです……」

「それでも困り顔は傷つきますよぅ!」

 

 二人の苦言に吹羽は悲痛な叫びをあげた。しかし文は「そもそもねぇ……」と前置いて、溜め息気味に、ある種最もありがちな質問(・・・・・・・)を返す。

 

「何が“というわけ”なのか分からないですよ? 吹羽さん、私たちが来て早々“ちょっと待ってて”って言って待たせて、その本持ってきたと思ったらすぐにこれだったじゃないですかぁ」

「ぅ……そ、それはそうですけど」

「まあ脈絡がなかったのは確かですけど、なぜ日記なんか? 今までは書いてませんでしたよね」

「! よ、よくぞ訊いてくれました阿求さん!」

 

 追求されてぐうの音も出ない吹羽を見かねて阿求が助け舟――という名の話題転換――を出すと、吹羽はそれこそ救われたように表情を明るくして食いついた。

 思い出すように目を瞑ると、吹羽はうっとりした表情で本を胸に抱いた。

 

「最近ボク、すごく幸せです。もうホントに幸せ過ぎていつか溶けるんじゃないかと思ってます」

「え、ええ……」

「“光陰矢の如し”という諺があります。あまりにあっという間過ぎて勿体無いので、読み思い出していつでも浸れるようにしようと思いましてですね」

「…………その為にその本をウチに貰いに来たんですか?」

「はいっ! ありがとうございます阿求さんっ! やっぱり持つべきは親友ですね!」

 

 ああ、大輪の花咲く笑顔が眩しい。阿求は呆れ気味に(・・・・・)そう思いながら目を細めた。

 数日前、吹羽が白紙の本がないかと尋ねてきた時には何をする気だと不思議に思ったものだが、蓋を開けてみればこの通りである。要は、いつまでもお兄ちゃんとの日々に浸っていたいから記録しておく、ということなのだろう。

 親友たる阿求は吹羽がどれだけ鶖飛に心酔しているのかを知ってはいたが、まさかこれほどとは、と認識の甘さを痛感する。

 

 そりゃ吹羽が幸せなのは喜ばしいことだが、これだけ“振り撒いて”いてはいつか毒にならないか心配だ。

 甘味も摂り過ぎれば胸焼けを起こす。褒め言葉も重ね過ぎれば皮肉に聞こえる。何事も過多すれば一転して良くないものになるのが世の常というものだ。

 いつかこれが吹羽にとっての(あだ)にならないか心配どころではあるが――。

 

「それにしても、相っ変わらず吹羽さんは鶖飛さんが好きですねぇ。本音を言うと本当に兄妹かってところですよ」

「どういう意味です?」

「自覚してないのがまた……」

 

 文はそれこそ魂を吐き出すように大きく溜め息を吐くと、ピンと人差し指を立てた。

 

「そもそもですね、吹羽さんは兄妹ってどんなものか分かってます?」

「そ、それくらい分かってますよ!」

 

 心外だ! とばかりに叫び、吹羽はわずかな膨らみのある胸を張る。

 

「兄妹っていうのは、家族間でも最も近く親しい間柄です。時には両親より頼りになることもあって、分からないこととか困ったことがあればお互いにいつでも助け合うような相手のことですっ」

「そこ!」

「ふぇ?」

「そこが色々ズレてますッ! そう思ってるの多分吹羽さんと鶖飛さんだけですよッ!」

「ええッ!?」

 

 文の指摘に、吹羽は天地がひっくり返ったような表情をした。

 吹羽的には今語ったものがまさに兄妹の定義なのだろう。今まで信じてきたものが完全否定されたその表情は穿った見方をすれば絶望しているようにすら見えた。

 そんな彼女に、文は遠慮なく危機感の伺える強い視線を向ける。

 

「吹羽さん、大人になりたいならばやはり世間の常識というものを知らねばなりません。私はこれでも新聞記者なので一般常識には自信ありますよ?」

「お、教えてください文さんっ! 世間知らずな子だなんてお兄ちゃんに思われたくないですっ!」

「いいでしょう吹羽さん……私はあなたの気持ちは全肯定しますよっ!」

「(嫌な予感しかしないです……)」

 

 森羅万象を見下すような文のドヤ顔にあろうことか目を輝かせる吹羽。側で見ていた阿求はなんだか妙なことになっている気がして、しかし口を出せずに視線だけオロオロしていた。

 そんな彼女の心配などつゆ知らず、文はキメ顔で指打ちしつつ吹羽を指差した。

 

「ズバリ! 兄妹とは互いに馬鹿にし合い口では嫌いと言いながらも内心では頼りに思いまくっているという、乙女心そのもののような間柄のことですっ!」

「そうなんですかっ!?」

「そんな訳ないじゃないですか! それのどこが一般常識なんです!?」

 

 瞬間、阿求のツッコミが炸裂した。

 

 やっぱり変なこと言いだした! とばかりの声音に、文が狐につままれたような顔を阿求に向けた。

 

「どこって、それが兄妹ってものですよ? 朝会えば一言目にどギツく“こっち見んな”! 道ですれ違えば当然無視! 部屋に入ろうものなら包丁で刺し殺されそうになる! でも内心では気になって仕方なく、汚い言葉は愛情の裏返し! なんと複雑な心情でしょう……ああ、でもそれが兄妹というもの! 逆らえぬ運命に結ばれた二人なのです!」

「単語一つにどれだけ深読みしてるんですか、まったく……。しかもお話を盛り過ぎでしょう。何処の恋愛小説ですかそれは……」

 

 兄妹の形なんて人それぞれだ。吹羽ほど兄に執着はしていなくても単純に仲のいい兄妹はいるはずだし、もしかしたら文の言うようなまさに字に起こしたような(・・・・・・・・・)兄妹もいるかもしれない。兄妹というものも結局人間関係の一種なのだから、定義なんてできるはずもないのだ。

 それにしても、なんて極端な例しか挙げないものだろうか。もう少し普通の――一般的な兄妹形なんてちょっと考えれば思いつくだろうに。

 

「ぶー。じゃあ阿求さんは分かってるってことですね、兄妹の定義ってものが。是非私と吹羽さんにご教授願いたいところなんですが」

「定義なんてありませんよ。人それぞれってやつです。言葉にするのも難しい」

「うー、言葉の専門家(幻想郷縁起の編纂者)が言うんじゃお手上げですね」

「でも、吹羽さんが普通の兄妹とどこかズレているのは確実です」

「えー!?」

 

 ――三人での会話に花が咲く。そこには陽気で楽しげな姦しさが満ちていた。

 

 阿求はふと思う。鶖飛が帰還してから、本当に吹羽は笑顔が増えた、と。帰還直後は彼の無責任さなどに怒りを感じて宣言通りに説教もしてやったが、実のところは感謝しているのだ。

 今までの吹羽は、ちょっと無理をしている雰囲気があった。恐らく意識してはいないのだろうが、時々会話に間が空いたり、ちょっと強めの口論になったりした時、慌てたように言葉を重ねようとする姿に阿求は気が付いていた。

 それがいつからか少し柔らかくなって、僅かに感じていた遠慮のようなものが消え去り、終いに鶖飛の帰還によって本当に笑顔を見せてくれるようになった。

 これは、喜ぶべきことだ。

 ずっと吹羽を見てきた阿求は当然、きっと霊夢だって――。

 

 そうして次第に話は盛り上がっていった。吹羽がちょっとズレてるという話から文の悪戯っ子が顔を出し、吹羽の揚げ足をとってはからかい笑う。吹羽は終始むくれていたが、阿求にはそれがどこか楽しそうに見えた。

 

「もう! ボクがズレてるって話はいいですからぁ! そんなことより、文さんの取材とかはいいんですかっ!? 確か“かたろぐ”っていうのを作るんですよね!」

「あー、もう楽しくなっちゃったので後日に回しますよ。急ぎでもないですしぃ?」

 

 そう言って文は意味ありげな笑みを吹羽に向ける。まるで“逃げ道はありませんよぉ〜?”とでも言うかのように。

 吹羽はちょっと怯えたように体を竦めると、呟くようになんだと問う。

 

「いえね、そんなどうでもよろしいことは置いておいてですね……私、吹羽の日記読んでみたいなぁ〜(・・・・・・・・・・・・・・)……?」

「え゛」

 

 あ、口調が戻った。

 文が遂に記者モードでいることを諦めた証拠だ。そしてそれは同時に、文が仮面を外して本性を現したこと――吹羽が更に追い立てられることを暗示していて。

 

「吹羽、先に訊いておくけど、なんで私たちにそれ紹介したの?」

「へ、え、っと……」

「察するに、自分が始めたことを知ってもらいたくてウズウズしてたんじゃないの?」

「うっ」

「あー、新しく始めたことって理由もなく知ってもらいたくなる時ありますよね」

「えうっ!?」

「そうそう。別にいう必要も意味もないのに“あーこれから帰ってから習い事だー”とか大声で言ってみたりね。いやそんなこと知らんしって感じよね、あれ」

「ふぐうっ!?」

 

 怒涛の三連撃。見事に会心撃を浴びた吹羽の苦悶の声がしっかりと二人には届いている。

 しかし、意地の悪い文は止まらない。

 

「――で、それを私たちに報告した理由は?」

「……え、えっとぉ…………ちょっと勢い余ったと言いますか、大した理由はないと言いますか……」

 

 あからさまに視線を逸らしながら萎れた声を出す吹羽。文はふぅん? とニヤニヤした顔を吹羽に向けて、

 

「大した理由はない……そうかそうか、そりゃあ確かに日記を始めた報告に大した理由も何もないでしょうね」

「は、はい……」

「でもさぁ――」

 

 瞬間、文の姿が消えた。

 

「吹羽、分かっててやってるわよね?」

 

 次に声が聞こえたのは、吹羽の背後。細かな風の操作で巧みに室内で旋回し吹羽の背後に回り込んだ文は、彼女が胸に抱いていた日記をするっと抜き取った。

 

「あッ! ボクの日記!? 返してくださいぃい!」

「だぁめ、読み終わってからねー♪」

「ああ、ズルイです! そんな高いところ届かないですぅっ!」

「いいじゃないちょっと読むくらい! そもそも誘ってきたの吹羽でしょう?」

「さ、誘ってなんかないですよぅ!」

「ホントぉ〜?」

 

 実際のところ、吹羽としては日記の中身を見られるのは非常に恥ずかしく思っていた。そりゃ日記なんて人に見せなきゃいけないものでもなし、吹羽に至っては後で読み返して思い出に浸るため――つまりは後で自分で読むためだけに書いているのだ。

 つまり、その本の中には最近の吹羽の心情が赤裸々というか真っ裸というか、むしろ恥じらいなんて何処へでも消えてしまえとばかりに思ったこと感じたこと想像したことをつらつらと語っているわけだ。

 それがもし人に読まれることになったら、当然吹羽の黒歴史まっしぐらなわけで。

 

 本を吹羽の手の届かない高さで広げ始める文と、必死に跳躍して取り返そうとする吹羽。じゃれ合う中でちらと向けられた文の視線に、阿求は言いたいことの全てを悟った。

 

 要は、分かってて報告したんだよね? と。

 こうなることは予想できた癖に、それでも報告したんだね? と。

 そしてその“無意識の望み”を文に看破されて墓穴を掘った吹羽の慌てる姿に、阿求のごく僅かな悪戯心さえも刺激された。

 

 良心のかけらで少しばかり吹羽に申し訳ないと思いながらも、しかし阿求の悪戯心は好奇心を優先させた。

 だって自業自得だし? 困り顔の吹羽も格別に可愛いんだし、仕方ないのだ。それを見ていたいと思うこの気持ちも、親友としては仕方ない。

 今回ばかりは文の味方だ――そう、全ては吹羽が可愛いのがいけないのだから!

 

「吹羽さん吹羽さん」

「なんですか阿求さんっ、今忙しいんで――」

「見せてくれたら、たい焼きいっぱい買ってあげますよ?」

「っ!!」

 

 吹羽の耳元に口を寄せて、悪魔の甘言を阿求は囁く。

 ぴたりと止まった吹羽の動きに、文はニタァっと笑みを浮かべていた。

 

「そ、そんな誘惑にはの、乗ったりしませんよっ」

「吹羽さん、最近たい焼きあんまり食べてないんじゃないですか? 久しぶりに食べる大好物はきっとすっご〜く甘くて美味しいですよぉ?」

「うっ、それ、は、確かに美味しそうです……けど、」

「とろとろの餡、サクサクの衣……肌寒いこの時期に食べるあつあつのたい焼き、一体どれだけ美味しいんでしょう……ああ、想像するだけでよだれが出てしまいますね……?」

「…………じゅる、ゴクっ……」

 

 吹羽の白い喉が鳴る。きっと彼女の脳内では、日記を取るかたい焼きを取るか必死の葛藤が繰り広げられていることだろう。

 吹羽の大好物といえばたい焼きである。以前から阿求も、あんまりにも吹羽が言うことを聞かない時にはたい焼きで釣ったりしていた。釣られてしまうくらい吹羽はたい焼きが好きなのだ。

 特に――鶖飛と一緒に食べるたい焼きなんかは。

 

「好きなだけ食べていいんですよ? 日記をたった二人、私たちに見せるだけで山のようなたい焼きをプレゼントしてあげます」

「にっき、見せるだけで……やま……?」

「そうだ、今度鶖飛さんも誘って買いに行きましょう。兄妹水入らずをお邪魔するのは気が引けますが、吹羽さんに買ってあげるなら鶖飛さんにも差し上げないとですもんね? そうしたら家で、ゆっくり、鶖飛さんと、一緒に食べてください。きっと最高ですよ……?」

「お兄ちゃんと……一緒に、たい焼き……」

 

 肩に手を置き、一層近くに口を寄せて「ね?」と囁けば、それはもはやトドメと等しかった。

 吹羽はす、と阿求の手を肩から下ろすと、両手で包み込んで満面の笑み(・・・・・)を浮かべた。

 

「阿求さん、ボク、日記見せちゃいますっ! いっぱいいっぱい見て、いっぱいいっぱいたい焼き買ってくださいっ!」

 

 ――堕ちた。

 阿求は笑顔の裏でしたり顔を浮かべた。

 

「よーしじゃあボクの日記鑑賞会ですねっ! お茶とお菓子用意しますぅ♪」

 

 そう言って、吹羽は小躍りするようにスキップして台所へと向かう。

 阿求はその背中を見て満足げな笑みを浮かべていたが、そんな彼女に文はだんだんと引き攣ってきてしまった笑みを向けていた。

 

「ねぇ阿求……いえ阿求さん、あなた人心掌握の術でも修めてたんですか……?」

「いえ? そんなもの私はできませんよ。私ができるのはせいぜい見聞きしたものを忘れない程度です」

「いやでも、今の吹羽さん、目から光が消え失せてた気がするんですけど……」

「ふふふ、私のお話をちゃんと聞いてもらえたようで良かったです♪」

「………………」

 

 ヤバイな、この娘見かけによらずくそ怖ェ……。

 本能的恐怖から思わず引っ込んだ文の本性は、人の思考を簡単に捻じ曲げて見せた阿求を心底畏怖した。

 外の世界には“メンタリスト”という人の思考をある程度読んで誘導できる人間もいると聞くが、それはあくまで誘導する程度。考え方を正反対に向けることはできない。しかもそれすら何十年と修練した結果に得られる技術だ。

 しかし、阿求のそれは思考の改竄と言ってもいい。確固たる意志を打ち崩し、まったく新しいものへと生まれ変わらせる。それを囁き一つで成してしまった阿求は、まさに人を魔へと誘う小悪魔のよう――というのは流石に大袈裟に過ぎるのだが、この時文が阿求に対して心底恐怖したのは確固たる事実だった。

 

 だが阿求、術なんてそんな大げさなものじゃない、と内心では思っていたりする。ただ吹羽がチョロ過ぎるだけなのだ。

 吹羽を操るコツというのは二つあって、まず吹羽の大好きなもので釣る、次にそれを鶖飛と共に楽しむ想像をさせる――これだけだ。

 ただ単純に吹羽がチョロ過ぎる子供で、ただ単純に阿求が吹羽の扱い方を知っているというだけの簡単な図式。阿求が吹羽の友達として接してこの方法を見つけたのならば、文がこれを見つけ出すのははてさて、いつのことになるやら。

 

 二人そうして雑談を挟みながら大人しく机について、ちょっとおかしくなったっぽい吹羽がお茶を持ってくるのを待つのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ◯月△日

 

 今日は一日お仕事でした。普段からお仕事なのだけど、お兄ちゃんと一緒のお仕事は一層すぐに時間が過ぎてしまいます。楽しいことも大変なことも気が付けば一瞬で過ぎ去ってしまう気がしたので、今日からこうして日記を書きます。

 明日はどんなことがあるだろう?

 

 

 

 ◯月▽日

 

 今日は仕事中に霊夢さんが訪ねてきてくれました。阿求さんもそうだけど、ボクのお仕事なんて見ていて何が面白いんだろう? 時々お兄ちゃんの方も見ていたようだし、やっぱりお兄ちゃんの様子も見にきたのかもしれないなと思います。

 

 そういえば、お兄ちゃんと霊夢さんって昔はそれなりに仲が良かったように思います。二人ともボクよりずっとずっと強くて、万一妖怪さんと出会っても圧倒できてしまう二人なので、時々一緒に稽古していた気がします。

 

 ……やっぱり、お兄ちゃんが心配だったのかな? 霊夢さんは優しい人なので、きっと帰ってきたばかりで慣れないお兄ちゃんを想ってくれてたのかも。

 心配ないですよ霊夢さん! お兄ちゃんの側にはいつでもボクがいますからねっ! 千人力なのですっ!

 

 それと、今日は雨が降ってました。お客さんが減っちゃうので、明日は晴れてるといいなぁ。

 

 

 

 ◯月◇日

 

 まったく、今日は大変でした。

 少し離れた場所に住むお爺ちゃんに農業用の鎌の修繕を依頼され、受け取りに行ったのですが、その帰りに早苗さんに捕まって里中を連れ回されました。

 本当、あの人は神出鬼没過ぎて油断できません。布教ために降りてきたならそっちに集中すればいいのに。

 別に一緒に里を回るくらい別にいいんだけど、毎度毎度人前で抱きついてくるのをやめて欲しい。とにかく恥ずかしいんです。

 まあそうでなければ全然構わないし、なんなら人前でなければ別に抱きつ縺?※繧よキサ縺?ッ昴@縺ヲ繧(乱雑に消され)ゆク?蜷代(ている)

 ほんとう、どうにかならないかな?

 

 帰ったのは夕方頃で、お兄ちゃんにも謝り倒したけれど、わけを話したら笑って許してくれました。やっぱりお兄ちゃんは優しい。頭を撫でられた時は思わず足から力が抜けそうになった。

 今日はお兄ちゃん成分が足りてないので、一緒の布団で寝ようと思ってます。

 

 そういえば、明日は定休日です。せっかくだからお兄ちゃんと何処かに行こうかな。

 

 

 

 ◯月◯日

 

 今日は定休日なので、お兄ちゃんと買い物に行きました。

 以前夢架さんに戴いたお魚が忘れられなくて見回ったけれど、やっぱり入荷は僅かみたいです。

 途中で慧音さんに会ったので、一緒に買い物をしながらお魚のことを話したら、ちょっと雑学を教えてくれました。

 幻想郷は山に囲まれているし、魚のいる川は妖怪の山の近く。だからみんなあまり魚を獲りたがらなくて、魚も珍品になってしまったらしいです。

 昔はもっとたくさん獲れたのかな。食の豊かさよりも命の危険を顧みるのは当然かなとは思うけれど、またあのお魚を味わえる日がくればいいなと思います。

 

 そういえば、あの時のお魚を捌いたのはお兄ちゃんだとか。料理は夢架さんの方が美味しいけど、捌くのだけはお兄ちゃんの方が上手かったらしいです。

 お兄ちゃん、刃物の扱いだけは凄まじく上手いからなぁ……。他の事は意外と失敗もしてて、そこがちょっとカワイイなって思ったりもするんだけれど。

 

 だから今日のお料理も頑張りました。お兄ちゃんができないことはボクが頑張らなきゃ。

 ちょっと時間をかけていっぱい作ったら、お兄ちゃんは呆れていたけど全部美味しいって平らげてくれました。

 お兄ちゃんはどれだけボクを喜ばせたら気が済むんだろう。明日も頑張ろっ!

 

 

 

 ◇

 

 

 

 日記は未だ数枚しか書かれてはいなかった。

 日記というのは本来毎日綴るものだが、また思い出したいと思ったものを書いているに過ぎない吹羽の日記は、書き始めて間もないことも加えて、まだ厚みのあるものとは言えない状態であった。

 だがそれでも、一枚一枚読み込むと流石に時間がかかる。阿求と文は吹羽の持ってきたお茶を啜りながら文面を流し読みしていた。

 

 なお、当の吹羽は部屋の隅でいじけている。二人が日記を読み始めたあたりで我に帰り、後に引けない状況にまで陥っていたことが悔しいらしい。

 文は苦笑い。阿求はそんな吹羽が可愛い可愛いとだらしない笑顔であった。

 

 だが、日記を読むうち阿求の笑顔すらもだんだんと引き攣ったものに。

 その心象を察したか、文は実に言いにくそうに重い口を開いた。

 

「なんか……凄まじい、わね」

「は、はい……」

 

 文の言葉に阿求も頷く。

 

「二言目にはお兄ちゃん、三言目にもお兄ちゃん……なにこれ、新婚夫婦の惚気話を聞かされてる気分だわ」

「これは……かなり重症ですね……」

「うぅぅうぅ〜っ、だから見せたくなかったのにぃ〜……っ!」

 

 部屋の隅で顔を覆う吹羽の声はもちろん羞恥に震えていた。真っ白な髪に覗くあの朱色は彼女の耳か。

 そんな様子も可愛いけれど、この日記を見た後だとあんまり素直に笑えない。なんだか悪いことをしている気がしてきた阿求である。

 

 この日記から伝わってくるのは、ひたすらに吹羽の“お兄ちゃん大好き”ばかりだ。文の言った表現はまさしくその通りで、きっと新婚熱々の若妻が日記を書いたらこんな風になるのだろう。夫への愛がダダ漏れである。甘さがダダ漏れ過ぎて胸焼けしてくる。

 吹羽がどれだけ肉親に飢えていたのかを考えればまあ納得できなくもなくなくないのかも知れないが、吹羽は元々鶖飛に懐きまくっている。そう考えると、これはむしろ新婚というより、浮気相手から自分の元に戻ってきた夫に、嬉しさから尽くしたくて仕方ない人妻の様相だった。

 

 幼女の癖して、中々生々しい感情を内にお持ちのようだ。吹羽の将来がちょっぴり不安である。

 

「ちょくちょく鶖飛さん以外の人も出てきてますけど、中心はやっぱり彼ですね」

「もーどんだけ彼のこと好きなのよ吹羽。兄妹でしょ、もうちょっとこう……距離があるもんじゃないの?」

「いや、文さんの言い分は当てになりませんからね?」

「し、仕方ないじゃないですかぁ。だって……お兄ちゃんなんですもん……」

 

 ……そこで吹羽が“女の顔”になっていたのなら、流石に阿求も止めるところなのだが。

 どうやらまだ健全であるらしく、単純に憧れているだけのように見える。まぁ、些細なきっかけでその一線を飛び越えてしまいそうな危うさはあるが、そこら辺は鶖飛が自分で止めるだろう。

 流石に阿求も、親友に人間としての禁忌に触れて欲しくはない。

 

「他のもこんなんなの?」

 

 呆れた声を隠しもせずに言いながら、文はぱらぱらと日記をめくる。阿求には早過ぎて読めなかったが文はそうでもないらしく、軽い溜め息を吐くと元の頁にぱたんと戻した。

 まあ、同じような内容だったのだろう。ここまで赤裸々なら二人に見られるのを拒むのも納得できる。

 人が覚妖怪に心を読まれるのを嫌がるように、日記を人に読まれるのはやはり同種の嫌悪感があるのかも知れない。或いはむず痒いのか。

 

「うぅ……溜め息ばっかり吐かないでくださいよぅ……なんだか残念な子に見られてるみたいでヤですぅっ」

「いやそんなの今更じゃない――ああごめんね本気で思ってないから泣かないで!?」

 

 泣き顔の吹羽をあわあわと宥める文を横目に、阿求は改めて日記を流し読む。

 相変わらず鶖飛のことばかりで代わり映えはしないが、吹羽がどれだけ彼を待ち望んでいたのかがひしひしと伝わってくる。

 この日記を彩る文字の内容が自分のことでないのは少しばかり寂しいものの、やはり“親友の情”が“肉親の情”に勝る道理はないのだろう。そうやって仕方のないことと思えば、この日記も案外普通のもののように思えてくる――いや、普通ではないかもしれないが、常識外れではないように思えた。

 

「ともあれ、有効に使ってくれているようですし、私から言うことは何もありませんね」

 

 いくら偏った内容しか書かれていなくても、吹羽にとってはそれに意味がある。そうして意味のあることをするのに力を貸せたと思えば、親友としては上出来なのではなかろうか。

 

 阿求はぱたんと日記を閉じた。

 まだ真新しい表紙だ。汚れもなく、曲がった様子もない。その内の真白な頁はまだまだ九割以上残っている。これらも、これから少しずつ吹羽の思い出で埋められていくのだろう。

 あの吹羽があれだけ楽しそうに見せてきたものだ、いつか彼女が許してくれた時に、一緒に読み返すのもいいかも知れない。吹羽をからかって遊ぶのは、またその時でもいいだろう。

 

「さて、じゃあこの日記のことはそろそろ――」

 

 多少の収穫もあったし、と阿求が話題を水に流そうと声を向ける。いい加減吹羽にも泣き止んでもらいたいし、この話は打ち切るのが一番の得策だろう。

 しかし、阿求に目を向けた吹羽は泣き止むどころか――絶望を顔に覗かせた。

 

「? どうしたんですか吹羽さ――」

 

 と、言い切るよりも早く。

 

 

 

「一体なんの話をしてるんだ、三人共?」

 

 

 

 音もなく、気配もなく、いつの間にか背後に現れた鶖飛が、興味深そうな顔で三人を見回していた。

 

 一体いつの間に帰ってきたのか、鶖飛は麻の買い物袋を手に下げており、その端からは青々とした立派な長ネギが身を乗り出している。男性の癖に一見主婦のようでちょっぴり笑いを誘う姿なのだが、しかし今この場でのそれは、くすりとも笑えない瑣末なことだった。

 

「……お、お帰りなさい鶖飛さん」

「ん、ただいま帰ったよ。二人もいらっしゃい」

「お邪魔してます……」

「し、してます、ですぅ……」

 

 生返事ながらに挨拶し直して、そうすると鶖飛は、目の前で笑顔を引きつらせる阿求に目を落とした。

 

「で、阿求のその本はなんだ? 随分大事そうに抱えているじゃないか」

「――……ふぇっ!? あ、ああいえなんでも……大したものでは、ない、ですよ――?」

 

 抱えていた本を瞬時に背に隠す阿求。咄嗟の行動だったそれは、しかし火に油を注ぐ行為だったことにハッと気が付く。

 如何にも“見せたくない”行動をとれば、見たくなるのが人間の性というものだ。

 事実鶖飛は片目を釣り上げ――完全に阿求を標的として視線に捉えていた。

 

「……大したものじゃないならなんで隠すんだい?」

「い、いえその……これは見ない方がいいと言いますか、むしろ見ないであげて欲しいといいますか……」

「うん? ますます気になるな。三人で見てたなら俺にも見せてくれないかい?」

「え、えーとですね鶖飛さん! 世の中には知らなくてもいいことがありましてですね、私と阿求さんは既にその禁忌に触れてしまったのでもう後に引けないというか、鶖飛さんを巻き込めないわけですよ! ねっ、阿求さん!?」

「ふぇ、は、はい!」

「禁忌……だと!?」

 

 いやどこまで話を盛ってるんだ、とは思いつつ、文の言葉に全力で阿求は頷いた。

 そう、知らなくてもいいことは世の中に沢山ある。妹の日記の内容なんて筆頭候補だ。こんなもの鶖飛当人に見られでもしたら、きっと吹羽はこの歳にして人生最大の恥をかく羽目になるだろう。半年くらい部屋から出てこなくなるんじゃなかろうか。流石にそれは阻止しなければならない。

 阿求は心の内でグッと拳を握りしめる。ここで死力を尽くさずに何が友達か、何が親友か!? 吹羽の秘密は私が守るのだ!

 

「そ、そういうわけですので、これを読むのはご遠慮――」

「それは、吹羽も巻き込まれてるってことだよな……?」

「…………へ?」

 

 予想外の言葉に、困惑の吐息が漏れた。

 

「い、今なんと?」

「それは吹羽も禁忌とやらに触れたってこと、だよな」

「え、あの」

「なら今すぐそれをブッた斬らないといけないだろ! 今すぐそれを見せろ!」

「いやいやっ、これをブッた斬るのはダメですけど!」

 

 刀掛台から風紋刀をぶん取り、今にも抜刀しそうな表情で叫ぶ鶖飛に、阿求は思わず叫び返した。

 この妹至上主義者(シスコンやろう)、どこまで吹羽のことが好きなんだ。普通の兄は例えこんなこと言われたとしてもそんな発想には至らないぞ。

 

「というか、もしかして吹羽は泣いてるのか? 誰だ泣かせた奴は……文か。文だろ」

「ひえっ、なぜ断言するんですか!? 阿求さんだっているじゃないですかぁ!」

「阿求が吹羽を泣かすわけないだろうが!」

「なんですかその偏見っ!」

 

 いやまあ確かに私なんですけど……と口をしょぼしょぼさせながら文が付け足す。

 それを決起に鶖飛の手元がカチリと鳴る。鯉口の切られた刀を手にする鶖飛は、控えめに言って修羅だった。というかあれは人ですらない。きっと悪鬼羅刹の類に違いない。

 

「吹羽を泣かせる奴には刀の錆になってもらう」

「人が変わり過ぎでしょっ!? あの時の優しそうな鶖飛さんは一体どこへ!?」

「お前が吹羽を泣かせた時点で俺が殺した」

「なんと、人格制御まで体得なされているとは!」

「感心するところそこじゃないですよね文さん!? はひゃっ!?」

 

 現実逃避なのか見当違いな言葉を返す文に近寄ると、背筋がぞわぞわっと逆立つ感覚に襲われた。

 きっとこれが殺気というやつなのだろう。文に向いていたものが、彼女に近寄ったことで阿求をも呑み込んでいるのだ。

 争いとは比較的離れた場所に住む阿求にすら感じ取れるそれは、きっとそれだけ濃密なものだということだろう。場数を踏んでいる文が現実逃避するのもなんとなく分かる気がする。

 妹を泣かせただけでこんなことになる兄なんて、世界中探してもきっといない。

 

「さあ、潔くそれを俺に見せろ。そうすれば峰での兜割りで助けてやる」

「助けるとは一体……?」

「理不尽の塊……霊夢さんみたいですよぅ……!」

 

 刀身を光らせてにじり寄ってくる鶖飛に、文と阿求はもう抱き合って震えるしかなかった。

 当然だ。文ですら震え上がる悪鬼羅刹を前にして、非力な阿求が何をできるわけもない。腰が抜けたように立ち上がることすらまともにできる気がしなかった。失神しないだけ褒めて欲しいくらいである。

 

 鶖飛が一寸進むごとに冷や汗が吹き出てくる。もはや一貫の終わりか――そう思われた時。

 

 横合いから飛び出た吹羽が、鶖飛の腰に抱き着いた。

 

「っ……吹羽?」

「ぐすっ……ぇう、ぅうぅ……」

 

 まだ泣いているのだろう、抱き着いた吹羽から聞こえる声は未だえずいている。鶖飛はそれに驚き、足を止めて吹羽を見下ろしていた。

 

「ど、どうした吹羽……」

「ぅ……おにい、ちゃん……」

 

 吹羽が顔を上げた。

 涙の溜まった潤んだ瞳で、鶖飛を上目遣いに見上げる。か細い声は震えていて、えずく度に抱きつく力が強くなる。

 

「ごしょう、ですから……みないで……でも、きらないで、ください……おねがいしますぅ〜……っ!」

 

 がしゃん!

 鶖飛の手から刀が零れ落ちる。

 

 普段鶖飛に対しては使わないはずの敬語が必死さを伝えたのだろう、一瞬で殺気を霧散させたかと思うと、鶖飛は瞬時に吹羽を抱き締めて頭を撫で始めた。阿求たちが息を吐く間もない。

 

「わ、分かった見ない! 吹羽が言うなら俺は見ないから!」

「ぐすん……ありがとう、ございます……」

「そそそうだ! 買い物ついでにたい焼きをいっぱい買ってきたんだ、それこそ山のようにな! 一緒に食べよう吹羽! 二人もっ、食べて元気を出そう!」

「「…………………」」

 

 想像もできないほどだった。

 普段は物腰柔らかにいつでも微笑みを浮かべているような典型的とも言える美男子の鶖飛が、見るからに狼狽しながら妹を抱き締めて滑舌の悪い言葉を紡いでいる。これが父親ならまだ分かる光景なのだろうが、いかんせん兄妹だと微妙に違和感がある。

 

 ジト目だった。これ以上ないほどねっとりとした二人のジト目が、変わり身の早過ぎる鶖飛を貫いていた。

 さっきまでの悪鬼羅刹は一体どこへ? お答えしよう。きっと吹羽が殺したのだ。

 妹のために殺気を振りまき、妹のためにその矛をしまうその姿は、二人の目には非常に残念な人に映る。

 あれだけの怒りが一瞬で消え失せるのは、違和感を感じる以上に困惑と失笑が大きく――短い時間ではあるものの散々と振り回された二人の心は、冬の雪山の如くごうごうと吹雪いていた。

 

「さあ二人も、まだ暖かいたい焼きだ、冷めないうちに食べるといい!」

「「………………」」

 

 ――……まじで、なんなのこの人。

 

 この妹にしてこの兄あり。

 吹羽の友達は変わり者が多いと評した彼は、その実彼自身も負けず劣らずの変わり者なのだと、二人はこの時思い知ったのだった。

 

 ――因みに、たい焼きは大変に美味しかった。吹雪いていた心もほっこりであったそうな。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ぱちゃぱちゃ、ぴちゃん。軽い水音が鳴っていた。

 

 日がまだ高く、木漏れ日が天使の梯子となって降り注ぐ森の中。小鳥の囀りは耳に優しく、葉擦れが日の光を揺らめかせる。ハンモックでもあれば、それらをBGMに苦もなく眠れることだろう。

 

 そんな中、紅いエプロンドレスがふわりと舞う。

 

 くるりと回ればそれに合わせて柔らかに弧を描き、ちゃぷんと水音と共に着地すれば、スカートの裾が揺れて健康的な太ももが日に晒される。

 鼻歌のリズムに乗せて揺れ回る髪、滑らかな白い手足、鮮やかな赤と白の服。それらはきらきらと燦めくように、甘い花の香りが風に乗って舞うように、そら恐ろしいほどに美しかった。仮に他に人がいて偶然踊る彼女を見かけたならば、きっとその場で立ち尽くして呆然と見惚れていたことだろう。その甘美な舞踏は、可憐な彼女の上機嫌ぶりを天よご覧あれとばかりに表していた。

 

 まさに幻想的な光景。緑色に支配された森の中にあってふわりふわりと舞う美しい彼女はまさに一輪の花の様相。

 くるりと回り、軽く跳んでは着地する。その度に鳴る軽やかな水音。ぴちゃんと跳ねる水滴――しかしそれは、どろりとして赤黒かった(・・・・・・・・・・・)

 

「ふんふ〜ん……あー、気持ちいいー♪」

 

 手を横に伸ばしてくるりと回る。

 風に吹かれた一枚の葉から、赤い雫がポタリと落ちた。

 

「薄暗い森、この独特な鉄の匂い、手に残る柔い肉を斬る感覚……気持ち良すぎて踊りたくなっちゃうわぁ」

 

 ちょっとここは明る過ぎるけどー♪

 鼻歌に乗せて言葉を続けると、少女は不意に剣を取り出した。

 一体どこから取り出したのかもわからない早業――そもそもそれが懐に忍ばせていたものなのかどうかも定かではないが、少女は変わらず満面の笑みを浮かべたままくるりくるりと剣を手に舞うと、唐突にそれを投げた。

 

 一本や二本ではない。一本しか持っていなかったはずの剣は、投げられたのに続いて四本、八本、十六本と数を増やし――赤黒い池に浮かんでいたなにかの塊に、次々と突き刺さった。

 その内数本が大きな管を傷つけたのか、刺さった瞬間に塊からブシッと赤い液体が吹き出る。

 

 舞踏の締めに美しい直立で立ち止まると、少女は木の幹に背を付けて、こくりと可愛らしく首を傾げた。

 

「うーん、あんまり派手に出ない……死んでるから仕方ないかぁ」

 

 吹き出た液体を見てそう吐き捨てると、少女は興味を無くしたように目を瞑り――徐に腕を振るった。

 

 瞬間、ビシュッと空気を引きちぎるかのような音が響き、剣の刺さっていた塊が赤黒い液体を撒き散らしながら細切れに裂かれた。

 赤い飛沫は周囲の木々の幹をべっとりと汚し、塊の浮かんでいた水溜りを一際大きく広げる。細切れになった欠けらは木々にへばりついたものが多かったが、水溜りにぷかぷかと浮いているものもある。

 噴き出した赤黒い液体は、少女の白い頬にも飛び散って汚していた。

 

 ――赤黒い、まだ新しい、温かい血液が、この森の一角全てを赤黒く染めている。

 可憐な少女はその光景を視界に収めて――うっとりと頰を緩めた。

 

「ああ、それとも彼の力が戻ってきたから、あんまり血が出なかったのかも? こっちの魔力が薄過ぎるとはいえ、流石だわ。……うふふ、ますます良い男になるわねぇ、か・れ……♪」

 

 少女はこの光景を作り出した者の背中を想起して、その艶やかな唇に舌舐めずりした。頰をうっすら染めて、後ろに手を組む姿は恋する可憐な乙女そのもの――しかし、この血みどろな光景の中にあるそれは、ただただおぞましいものでしかなかった。

 

 指先で頰の血を拭う。指についたそれをじっと見つめると、少女は徐に指を口に含んで舐めとった。

 指先と唇を繋ぐ銀の糸。その官能的な光景とは対照的に少女は僅かに眉を顰めたが、すぐに笑顔を浮かべた。

 

「〜〜っ、まっずぅ……でもお・い・し♪」

 

 強い者が好きだ。

 生きていくためには力がなければならない。情け容赦はなく、慈悲はなく、生きるために何もかもを切り捨てられる者が彼女は好きだった。

 半端な心と実力では生きていくことすら困難な世界を彼女は知っている。そんな世界で創まれ(・・・)生きてきた。

 だからここに来て、勝手の違う状況に足踏みせず、着実に本来の力を発揮できるよう調整(・・・・・・・・・・・・・・)していく彼が、彼女は好きで好きでたまらなかった。邪魔なものを全て斬り伏せるために力を磨く彼の姿が、彼女の目に、心に痛いほど焼き付いて離れない。その痛みすら心地よく感じられた。

 

 彼が作り上げたこの光景は、この匂いは、この気持ちは――彼がこの世界でも着実に強くなっていっている証。そんなものには頬を緩ませずにはいられない。そんなものなら例えまずいものでも、美味しく感じられる。

 

「ふふふ……まあでも、そろそろ潮時かしら。流石に日が経ち過ぎて“加護”は弱くなってる。一度戻るわけにもいかないし……そろそろ気付かれるわね」

 

 それに、準備は大方整っただろう。彼の力がこれだけ戻ったのなら、もう動き出しても問題はない。後は見ていれば良いのだ――彼が目的を成し遂げる、その時を。

 

 それにしても……嗚呼、なんとも――……。

 

「全部終わって、全部捨て去って……そうしたら彼、どうなっちゃうのかしら……ああ、想像しただけで濡れちゃいそう……♪」

 

 さあ、見届けよう。もう、間もなくだ。

 

 

 




 今話のことわざ
光陰矢(こういんや)(ごと)し」
 月日の経つのがとても早いこと。


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第三十八話 雪中の決意

 

 

 

「――御力を、お貸しくださいますよう」

 

 いつものように神棚の前で手を合わせてお祈りを済ませると、吹羽は少し張っていた気を解いて息を吐いた。

 隣では鶖飛が同じように合わせていた手を膝の上に戻し、重そうな瞼をゆっくりと開けている。その様子がどこか物珍しくて、吹羽は鶖飛を見上げながら小首を傾げた。

 

「お兄ちゃん、あんまり眠れなかったの?」

 

 しっかり者が珍しい、と不思議そうに吹羽が尋ねると、鶖飛は人差し指で瞼を軽く擦りながら気の無い返事を返してきた。

 

「ちょっとね……たしかに、最近あんまり眠れてないかも。取り敢えずもう一回顔を洗ってくるよ。吹羽は先に仕事を始めててくれ」

「ん、分かった! ちゃんと目を覚ますんだよお兄ちゃん! そういう何気ないことが怪我に繋がったりするんだからねっ。夜更かしはダメだよ!」

「はいはい、肝に銘じとく」

 

 ひらひらと手を振りながらお手洗いへと歩いていく鶖飛の背中を見送る。真面目な話なんだけどなぁ、と唇を尖らせる吹羽だったが、すぐにまあいっかと楽観的に考えを切り捨てた。

 

 今日の天気は曇りである。

 家の中を巡る風もどこか湿っぽく気怠さを運んでいる。どんよりとした雲は隙間もなく灰色で空を覆い隠して、今にも雨が降ってきそうな雰囲気だった。

 この間は夜のうちに降り止んだようだったが、ここ最近は曇り空が増えている。本格的に秋雨が始まったのかもしれない。

 嫌いじゃないけど長いのは困るなぁ、なんて頭の片隅で思いながら着替えを済ませ、吹羽は髪紐と髪留めで仕事モードに切り替えてから工房に入った。

 

 外は曇りでも仕事は仕事。いくら気分がどんよりしていようとお店は開かなければならない。休んでいいのは定休日だけだ。

 最近の臨時休業? いやいや、やむを得ない時にしかしてないから大丈夫。そもそも魔理沙や早苗に半ば無理やり連れ出されたからそうしていたのであって、サボりたかったわけではない。ないったらない。

 

 吹羽は手早く道具棚から金槌なら砥石やらを取り出すと、一纏めに置いて一つ、ぐぐっと背伸びをした。

 

 と、丁度背後の扉が開く。

 

「お、やる気まんまんだね」

「元気出していかなくちゃ。空は雨模様でも炉の火はちっとも冷めたりしないからね!」

「それもそうだ。雨なんて、刀匠がだらだらと惰性で刃物を打つ理由にはならない」

「そういうことっ♪」

 

 雨は休む理由にならない。至極当たり前のことだが、それを口に出して宣言してみると改めて気持ちが昂る気がした。

 嫌な仕事なら、きっとここで気分が沈む。でも自分は沈むどころか昂ぶっているのだから、本当に鍛治が好きなんだなあとしみじみ感じられる。

 

 ――いや、鍛治というよりは、これを通じて感じられる風が好きなのだ、とすぐに思い直す。何せ“これだけは”と吹羽が自信を持って言えることの一つである。自分はもちろん、霊夢も阿求も早苗だって知っていること。

 吹羽は今でも当然、風が好きだった。

 

「……あ、そういえば……」

「どうかした?」

「あ、ううん。大したことじゃないんだけど、ちょっと面白いこと言われたのを思い出してね」

「面白いこと?」

 

 手に持っていた道具を置き、鶖飛が関心を引いたような視線を向けてくる。吹羽は小さく頷くと、ある日早苗に言われたことを鶖飛に語った。

 

「あのね、少し前に早苗さんと“風が好きなんだ”って話したことがあったんだけど、その時にね、言われたの。『心から風が好きなら、きっと吹羽ちゃんは風神様に魅入られた風の御子なんだね』って」

「……随分過大解釈してるね」

「ふふ、そうでしょ? あとで思い出してみたら大袈裟だなあって。早苗さんってなんでもすることが大仰で面白いよね!」

「…………そうだね」

 

 当時こそそう言われても実感がなく、言われたことをそのまま頭の中に入れるだけだったが、改めて考えてみるとやはり早苗の言うことは大袈裟だし、吹羽に対しては虚妄が過ぎる。大体風が好きだってだけで御子呼ばわりなら、きっと世界中御子だらけだ。本当にそう呼ぶなら吹羽よりも適任がいるだろう。

 

 ただまあ、そう言われて気が悪くなる訳もなくて。

 あの夜以来、早苗の純粋な気持ちを受け入れられるようになった今の吹羽には、ただただあの時の彼女が面白おかしいだけなのだった。

 

「そうだ、お兄ちゃん。今日のお仕事のことなんだけど」

「ん? 何かあった?」

「あ、大したことじゃないんだけどね」

 

 言いながら炉に火を灯す。ぱちぱちと弾け始める火は、しかし空気が湿っているからかあまり勢いがなかった。

 むうと頬を少し膨らまし、吹羽は火が固まっているところに火箸をがしゃりと突っ込む。

 ぱちん、とまた火が飛沫いた。

 

「今日はちょっと出かけなきゃならなくて。午後からはお店任せるね」

「依頼かい? ――って、ああ、アレか」

「うん。まあ、そんなところかな」

 

 よし、と火の勢いに納得して立ち上がる。

 つられて鶖飛も吹羽を見た。

 

「じゃあ今日もがんばろ、お兄ちゃん♪」

「ああ。風成利器店、今日も開店だ」

 

 お互いに持った道具を前に突き出し、二人は笑顔で頷きあった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 正午過ぎ。鶖飛に店を任せた吹羽は、肩に包みを引っ掛けて歩いていた。

 曇り空は相変わらず重苦しい色で空にのさばっており、日の光は少しだって差していない。冬間近の秋にはそれが厳しく空気を冷えさせるので、吹羽は普段着の上に一枚服を羽織っていた。以前慧音と出かけた際に買ったふわふわの羽織である。

 

 小柄な体躯に柔らかそうな羽織を着る今の吹羽には思わず抱き締めたくなるような愛玩人形的可愛らしさがあった。

 実際人里の往来を通った時にはぽつぽつと多くの視線を感じていた吹羽だが、人のそういった自分への感情に慣れていない吹羽は当然そわそわと困惑するだけだ。

 隣に鶖飛がいなかったことは僥倖と呼ぶべきだろう。彼がいたなら、きっと吹羽をそういう目(・・・・・)で見ていた者らなど物理的に細切れにされていただろうから。

 閑話休題。

 

 吹羽が向かうのは博麗神社である。手紙による依頼だったのだが、鋸を打って欲しいとのこと。そして届ける場所も博麗神社に頼む旨が(したた)められていた。

 なぜ霊夢が鋸など? そもそも普通に取りに来ればいいのに。

 そういった当然の疑問が浮かんだ吹羽だが、今回の霊夢はあくまでお客様。友人として接するわけにはいかないというのが吹羽の考えだ。お届け奉仕というのも、ウチに歩いてこれないお年寄り相手にはしばしばしていたことである。だから文句は言わないし、そも注文に文句をつけるなど商売人の風上にも置けない。

 取り敢えず鶖飛の手も借りながら自分にできる最高の鋸を完成させ、吹羽はさほど整備されていない道を一人歩く。腰にはいつもの如く、かちゃりかちゃりと五振りの刀が音を奏でていた。

 

「そういえば、博麗神社に行くのは久しぶりな気がする……」

 

 居住区の居間でお茶を啜る霊夢の姿を思い浮かべて、思いのほか懐かしく感じたことに驚く。

 それを肯定するように、木の上の小鳥がちゅんちゅんと可愛らしく鳴く声が聞こえた。

 

 それもそうか、と思い直す。なにせ以前訪れたのはみんなで花札をした日であり、それから今日まではあまりにも濃い日々だったのだから。

 文の一件、鶖飛の帰還。言葉にすればたったこれだけなものの、それがあまりに鮮烈で、きっと一生忘れ得ないであろう記憶であることは間違いない。慧音との約束すら忘れてしまうくらいだったのだから、なるほど博麗神社への訪問を懐かしく感じるのは当然のことだ。

 

 いや、もしくは、短期間で多くの人に出会い過ぎたのかも知れない。

 

 慧音に始まり、魔理沙、椛、文、萃香。早苗に神奈子、諏訪子、天魔、烏天狗に至っては、あの男性二人をはじめとして多くの者と顔を合わせている。

 ほんの一、二ヶ月前までは霊夢と阿求くらいしか友達がいなかったというのに、なんの縁か多くの者と吹羽は知り合った。

 これは大きな進歩かも知れない、と吹羽は神妙な顔つきになって、ふむと頷く。仕事の虫といっていいほど家に篭りきりだった自分が、よくもまあ短期間でこんなにたくさんの知人や友達を作れたものだ。

 

「慧音さんは優しいお姉さんで、魔理沙さんは元気な人、椛さんは初めての妖怪さんの友達で、天魔さんは……」

 

 助平なおじいさん?

 天魔の言動の破廉恥さを思い出してポンッと湯気を噴く。今更になって話が理解できてきた吹羽である、今思えばあの人は会うたびに破廉恥なことしか言っていない気がする。

 

 ともあれ、こうやって羅列していくと本当に知り合いが増えたと実感できる。自分の世界がどれだけ狭かったのかをつらつら目の前で愚痴られている気分だ。

 嫌ではない。そしてこれだけ知り合いが増えても変わらず霊夢と阿求を親友だと認識できることが、思いのほか吹羽は嬉しかった。

 だってそれは、それだけ二人の存在が自分の中では大きいということなのだ。

 

 勿論他のみんなも友達や知人程度には大切に思っている。だがそれでも、霊夢と阿求だけは吹羽の中では別格の扱いだ。

 今の吹羽を形作った二人であり、現在でさえ吹羽の心の拠り所になっているのは二人である。今は家に鶖飛がいるので困った時などは彼に甘えるが、結局それは近くにいるからに過ぎない。

 霊夢や阿求が近くにいたなら何も遠慮せずに頼る。それが彼女らへの信頼の証にもなると慧音に教わった。今の吹羽は、二人と鶖飛の二本柱によってできている。

 

 二人もボクのことをそんな風に思ってくれていたら嬉しいなぁ。

 そんなことを思っていると、いつの間にか自分が鼻歌を歌っていたことに気が付いた。吹羽は咄嗟に周囲を見回して誰か見ていなかったを確認するが、幸いにも誰もいなかったらしい。

 

 ちゅんちゅんぴより、木の上から声が聞こえる。さっきの小鳥が着いてきて、吹羽の鼻歌に乗せて唄ってくれていたようだった。

 無意識で歌っていたために上手いか下手かも判断の付かない鼻歌は、聞かれるとさすがに恥ずかしい。吹羽は小鳥相手にも照れ臭くなって、少しだけ歩みを早くする。

 幸いにも、博麗神社への入り口は目と鼻の先にあった。

 

 博麗神社は里の外れ――どころかこの世界、幻想郷の端に存在する。この世界を包み込む“博麗大結界”の要であり、そこ以外には作り得なかったのだ。おまけにそこは小高い丘の上であり、長い長い石階段と整備のされていない杜撰な道によって人里と繋がっている。参拝客はお察しだ。

 霊夢はそういう場所に住んでいる。親友たる吹羽は何度かこの道を歩いて博麗神社を訪れているが、家に篭ってばかりの幼女の足腰にはやはり辛いものがあり、慣れとは未だに程遠い。「足腰が弱いな吹羽は」とは、鶖飛との剣の稽古で耳にタコができるほど聞いた台詞だ。剣を振るっているのだし、それなりには頑丈だと思っているのだけど。

 

 小刻みに息を切らせながら階段を登り切ると、正面に朱色の大きな鳥居が見えてきた。元は綺麗な紅色だったのだろうが、長い年月を経て色がぼやけている。これを見る度に「霊夢さんって掃除とかしてるのかなあ」と心配になるが、言ったが最後きっと拳骨が飛んでくるに決まっているので喉元に留めていた。

 “触らぬ神に祟りなし”という諺がある。わざわざ危険を冒す必要はない。吹羽は賢い子なのだ。

 

 鳥居をくぐって、草が僅かにはみ出た参道を歩む。正面に聳える境内を通り過ぎて居住区の前に立つと、

 

「霊夢さーん。いますかー? 品物のお届けに来ましたよー」

 

 ――声が響いて、一拍。

 静まり返った神社から応答はなく、代わりにからりとした風がさあっと吹き抜けた。枯れ始めた葉々がかさかさと乾いた擦れ音を奏でている。神社を旋回するようなゆるい風が、枝から引きちぎった枯葉を参道に撒き散らしていた。

 

「待たせたね」

「――っ!?」

 

 唐突に、背後から声がした。

 

「――と言いたいところだが、あいにく霊夢はいなくてね。わたしが応対しよう」

 

 突然の声にどきりとして吹羽は慌てて振り返る。一体なんだ! と心の中で身構えて視線をやると、そこにいたのは――ちょっと不満そうな顔をした小鬼、伊吹 萃香だった。

 吹羽の様子に、萃香は片眉を釣り上げて言う。

 

「なんだい、そんなに驚かれるとちょっと遺憾だねぇ。鬼だって傷付くもんは傷付くんだよ?」

「あっいえ、そのっ……何か悪いものが寄ってきたのかと思って……! まさか萃香さんだとは……っ」

「悪いものぉ?」

 

 あわあわと咄嗟の弁明する吹羽の言葉に萃香は目を丸くすると、次いでかっかと笑い声をあげた。

 

「はっはっはっ! 神社で声をかけられて咄嗟に思ったのが“悪いもの”か! こりゃなんと皮肉! 霊夢だったら膨れっ面しそうだっ!」

 

 目の前で大笑いする大妖怪の姿に呆然とする。が、次第に言葉の意味がわかってくると、ちょっと失言だったことに気が付いた。

 神社は一般的に神聖な場所とされており、妖怪など寄り付かないのが基本である。そんな中で悪いものが寄ってきたと咄嗟に思ってしまったのだから、吹羽の博麗神社に対する印象(本心)が伺えるというもの。霊夢の前で言ったら、普通に怒られそうな事実である。

 

 ――萃香とは、文の一件で家に訪ねてきて以来の付き合いだ。なのでそれほど長くない付き合いのはずなのだが、萃香にとっては凪紗の子孫だということに感じるものがあるのか、ごくごく偶に――未だに数えられる程度の回数――だが吹羽の家を訪ねてはお茶を飲んでいったりおしゃべりしたりする。吹羽としては、強大な大妖怪が自分の家でお茶を飲んでいくという異常な事態にはようやく慣れを感じ始めてきた、というところであった。

 加えて、鶖飛が帰ってきてからは天魔の屋敷で会ったきり。何故だか吹羽には分からなかったが、なんだかとても久しぶりなように感じられた。

 

「す、萃香さん! 今の霊夢さんに言ったらダメですよっ!?」

「はははっ、分かってるよ! 言わないと約束しよう」

「ほんとですね!? 信じますよ!?」

「ああ信じてくれ。大丈夫、わたしは嘘が大嫌いだからね。ちょっとしか嘘はつかない」

「その“ちょっと”は心配ですっ!?」

 

 まあ“ちょっとしか嘘はつかない”と正直に(・・・)言った、という見方もできるため、多少心配ではあるものの、告げ口する萃香がどうにも想像できない吹羽は、訝しい視線を向けながらも彼女を信じることにした。

 

「まあ、実際のところこの神社には悪いものは入ってこれないから安心していい。そういう結界を霊夢が張ってるんだよ」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。だからほら、わたしなんかここに居候してる。何よりの保証だろ?」

「そう、ですね……」

 

 ……霊夢は入ってきた悪い妖怪が即死するような結界でも張っているのだろうか。

 自分の生存を理由に説明する萃香に、吹羽は霊夢の情け容赦なさ幻視して戦慄する。

 

 萃香は薄く笑って肩を竦めた。

 

「ともあれ、警戒するのはいいことさ。ここは里の外――神社は安全だが、ここに来るまではいつ襲われるか分かったもんじゃない。その点、風紋刀もちゃんと持ってるね」

「あ、はい。里を出るときは帯刀しろって霊夢さんに言われてますから」

「言いつけをちゃんと守ってるんだね。えらいえらい」

「あ、頭を撫でないでください……ボク子供じゃないんですよっ」

「はいはい」

 

 わしわしと髪をかき混ぜる手に抗議すると、萃香は気の無い返事をして手を離す。次いでにかっと眩しく笑った。

 

「ま、取り敢えず本題を済ますかね。はいよ、これ」

「へ? これ……お金?」

 

 差し出された手には、人里で使うようなお金――それもかなりの大金が乗せられていた。風紋刀一振り程度に匹敵する大金である。萃香は上機嫌そうな薄い笑みを浮かべているが、吹羽は困惑の只中にいた。

 だって、突然お金を差し出されたら誰でも驚くだろう? それもこんな気軽に大金を出されたんじゃ、驚愕を通り越して声も出ない。一体なんて言葉を返せばいい?

 

 そんな吹羽の心情を読み取ったのか、萃香は一変、不思議そうな顔をして小首を傾げた。

 

「どうした? 受け取っておくれよ」

「え? いや、あの……なんのお金です?」

「なにって、代金(・・)さ。後払いだろう? お前の店は」

「へ? そう、ですけど……代金?」

 

 たしかに風成利器店は依頼品と交換する形で代金や代品を受け取る方式をとっているが、そもそも萃香には刃物など作っていないので交換できない状態だ。それでこんな大金を差し出すとは、一体なんの冗談だろう?

 

 いまいち状況が掴めていない吹羽に対し、萃香は少し視線を宙に彷徨わせると、すぐに得心がいったように小さく声を漏らした。

 

「お前さん、今日は依頼の品を届けに来たんだよね」

「はい……」

「その以来の品ってのはなんだい?」

「えと、鋸……ですけど」

「それ、わたしが依頼したもんだ」

「……え?」

 

 一拍おいて、短く疑問の声が漏れる。萃香は気にせず、

 

「霊夢が日曜大工なんてすると思ったかい? 鬼は建築が割と得意でね、わたしなんかは偶の趣味にしてるんだが、この間鋸が壊れちまってることに気がついてねぇ。だからお前さんところに依頼したってわけさ」

「え、でも名義が……」

「博麗神社とだけ書いたはずだよ?」

「……そういえば、そうですね……」

 

 家に置いてきた依頼書を思い出す。受け取り場所が博麗神社と書いてあっただけで、吹羽はてっきり霊夢が欲しがっているものと思い込んでいた。

 そうだ、あの面倒臭がりの霊夢が日曜大工なんてするわけがない。いくら彼女がなんでも十分以上にできてしまう天才でも、結局は非力な女の子だ。腕力が必要になる大工なんて彼女にはできないだろうし、そもそも建材なんて結界を使って切断してしまうだろう。

 

 再度突き出してくる萃香のお金を、吹羽はやっと得心いって受け取った。お礼を言ってから荷物を降ろし、中から布に包まれた品を取り出す。萃香に渡すと、彼女は包みをとって依頼の品をまじまじと見つめた。

 

「ほー……予想以上の出来だね……こりゃ鍛治技術も昔よりよっぽど進化したらしい」

 

 ひゅっひゅっと軽く振るう。重さを確かめているのだろう、萃香は刀を振るうように鋸を振るっては握りを直し、再度振るうのを繰り返していた。ほんとはそんな使い方じゃないはずなんだけどなーとぼんやり思いながら眺めていると――萃香はトンと地を蹴って、軽く跳び上がった。

 

 緩い回転を経て萃香の手に持つ鋸が――否、腕のそのものがヒュッと搔き消える。同時にボッっと空気を消し飛ばす音がして目を向けると、なんと神社の脇に立つ木が、断ち切られて斜めにずれ落ちていった。

 

 ポカンと吹羽。萃香は呑気に。

 

「おお……前使ってたのより切れる。こりゃいい買い物したな」

「…………ボクの知ってる鋸じゃないです……それ、刀でもよかったんじゃないですか? もしくは斧とか」

 

 それこそ風紋刀ならもっと容易に斬れるのに。相変わらず妖怪というのは人間にできないことを平然とやってのけるなぁ。

 そろそろ妖怪というものの人外っぷりに慣れ始めてきた吹羽は、萃香の所業に驚きを通り越して呆れていた。

 そもそも鋸の使い方違うし。一振りしたところで断ち切れるようなものではないはずなのに。ていうかそこまでできるなら手刀とかでスパッと行けそうな気もするんですけど。

 色々と文句染みた感想が浮いて出てくるが、それらは全て吹羽の大きなため息に含有されていた。

 しかし、当の萃香は何を心外なとばかりの表情。

 

「必要なのは鋸さ。建材だよ? わたしらの手刀じゃこんな綺麗な断面は作れないからね」

 

 と、倒れた木を片手でひょいと掴んで断面を見せつけてくる。そこには綺麗な年輪が描かれており、何十年もそこに根を張っていた立派な木だったことを物語っていた。

 触らなくてもわかる。断面は刀で竹を袈裟に斬ったような滑らかさがあり、摩擦で表面が薄く焼けたのか日の光を反射して薄っすらと光っている。鉋を引いた後のそれよりも美しい断面である。たしかに、手刀などでは作れなさそうだ。

 

「それに、お前さんのことだから鋸の使い方が違うーとか思ってそうだけど、一応分かって振るってるんだよ? 鋸は引いて削り切るための刃物。人間が何度も引いて切るところを、わたしは一度だけ引いて切ってるだけの話さ。刀なんて高尚なもんはわたしには使えんし、合わん。だから頑丈な鋸がいいのさ」

 

 そう言われるとなんだか納得してしまいそうになる。妖怪など人間の常識を軽く凌駕する存在なのだから、吹羽の極々一般並み平凡の常識を振りかざしたところで通用するはずもないのだ。

 人間が何度も繰り返して為すことを、妖怪はたった一度で成し遂げる。たったそれだけのこと。人外なんてみんなそんなものなのだろう。

 

 ……うーん、いや、だが、しかし……人外が人間の理解できなことを成すというなら、手刀で美しい断面を作ることもできるかもしれないということでは? うーん……。

 

「……“燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや”という諺があります。ボクにはまだ、萃香さんの考え方は早いみたいです……」

「そんなに卑下することないと思うが……まあ妖怪の文化を人間に教えたって、納得する方が難しいか。ともかく、わたし達ゃそういう妖怪なのさ」

 

 頭をひねりながら吹羽はふむと頷き、妖怪のことが分かったような分からないような、不思議な感覚を味わいながら曖昧に笑顔を浮かべた。

 

 ――ともあれ、萃香()が品物に満足したのだからもうお役御免である。さてと前置いて、下ろしていた荷物を再び背負う。

 

「じゃあ、そろそろ行きますね。これからも風成利器店をご贔屓に、萃香さんっ!」

 

 商人の決め台詞――と吹羽は思っている――を笑顔で萃香に送ると、身を翻して歩き出した。

 帰ったらまだ仕事だ。次階に到達していない鶖飛の技術は、非常に言いにくいが大した風紋は刻めない。加え彼がいない間に吹羽が開発したモノも取り扱っているので、きっと困っていることもあるだろう。

 早く戻って一緒に仕事しよう――そう思って、駆け出そうとして。

 

「まあ待ちなって」

「ふぇ?」

 

 肩を掴まれ、振り向こうとする前にふわりと浮遊感が吹羽を襲った。

 上がる視界。慣れない感覚に身体が竦んで抵抗もできない吹羽を軽々と肩に担いで、萃香は実に機嫌が良さそうな足取りで参道を戻る。

 

「ちょ、萃香さん!? ボクまだお仕事が――!」

「そんなの兄貴にやらせとけって。せっかく来たんだ、お茶くらい飲んでいくだろ?」

「ぇう……そうしたいのは山々ですけど! お兄ちゃんに何も言わずにゆっくりはしていけないです!」

「連絡か?」

 

 問うた萃香の足取りは変わらず軽く、吹羽の抗議も柳に風といった風だ。

 萃香は短く笑って、

 

「今確認してるとこだ……お、“ゆっくりしておいで”だとよ」

「か、確認? どういうことです?」

「わたしは霧みたいになれる能力があってね。今お前の兄貴のところに分身送ってワケ話したら、そう伝えてくれだと。良かったな吹羽」

「それ本当なんですか? 丸め込もうとしてませんかっ!?」

 

 なんだかめちゃくちゃ胡散臭い。こう自分勝手で人間を振り回すところは本当に妖怪らしいと思うが、振り回される方はたまったものではない。

 ――とは思いつつ、萃香の肩の上で暴れて万が一にでも殴ったりはしたくない吹羽は、渋々ながら彼女のなすがままに居住区の中へと連れ込まれていく。

 

「大丈夫さ。そもそもなんでわたしが博麗神社を受け取り場所に選んだと思ってるんだい?」

「え? そりゃ……その方が楽だからじゃないんですか?」

「うんにゃ、そこまで図々しくはないと自負してる。まあ、いいからいいから」

 

 実は、依頼そのものが吹羽と話をする口実だったとはつゆ知らず。

 吹羽は萃香の肩に担がれたまま神社の居住区、霊夢の家に上がり込んだ。

 

「――わたしを信じろ。鬼は、ちょっとしか嘘は吐かないからさ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――もし、生まれたてのひよこが、親鶏を殺した狼を母親だと思って愛するならば、それはなによりも残酷な刷り込み現象だと思う。

 

 運命の悪戯か、或いは神の試練なのか。いくら何も分からないひよこを導くための習性だとしても、これではあまりにも悲惨で、報われない。

 ひよこがある日その真実を知ったなら、一体どうなるのだろうか。どうなってしまうのだろうか。少なくとも、幸福に満ちた明るい未来でないのは確実であろう。

 それなら、と。

 それが目の前で起こるのならば、ひよこの目を潰してでも阻止してやりたい――そう霊夢は思う。

 

 歩んでいた足を止める。鼻を突く臭いは乾いていて、長居をすれば体の奥底にまで染み込んでしまいそうな不愉快さがあった。

 次いで、共にここへ来た魔理沙が足を止めた。目の前にある光景を目の当たりにして、魔理沙は顔を蒼褪めさせつつ驚愕をあらわにする。

 

「うわ……なんだこれっ!?」

「…………全部、血でしょうね、妖怪の」

 

 二人の前に広がっていたのは一面の黒だった。葉の緑と木々の茶色に満たされた森の中にあって、ここだけはほぼ真っ黒――爆発でも起こしたように激しく飛び散った血液が地面を浸し、幹を汚し、葉々を染め、その状態で乾いてしまって固まっている。

 

 二人は今、調査に出向いていた。出向いた、と言っても、不穏な力を霊夢が感じ取り、向かう道中で魔理沙と出会って共に飛んできたというだけだ。

 まるで強烈な匂いが風に乗せられて鼻をかすめるように、霊夢と魔理沙は感覚のままに森を進み、この場所を見つけたのだ。

 

 嫌そうな顔を隠しもしない魔理沙に比べ、霊夢は神妙な顔付きでそれを見つめて、ぽつりと零す。

 

「……僅かに力を感じて来てみれば……そう――そういうこと」

 

 冷たい風が頰を撫ぜた。しかしそれ以上に、薄く開かれた霊夢の目に潜む灼熱は、絶対零度の如き鋭い光を放っている。並みの妖怪なら睨まれただけで卒倒――椛ほどであれば過呼吸で立つこともできないやもしれないほどの怒気。

 

 その空気に中てられたのか、はたまた漏れ出した霊力が衝撃を伴って舞ったのか、周囲の木々からたくさんの葉が千切れて落ちる。

 はらはらと、ではない。

 もうほとんど黒く染まって固まった血液の重さに従い、ぽとぽとと落ちていく。霊夢の足元では、同じく固まった草花がぱきぱきと音を立てる。

 その背後では、顔を蒼褪めさせた魔理沙が思わず一歩後ずさった。

 

「…………これで、はっきりしたわ」

 

 呟き、周囲を睥睨する。この乾いた血で真っ黒く染まった一面を見て、霊夢は強烈な殺意(・・・・・)を胸に宿していた。

 

「……ねぇ、魔理沙」

「っ、……な、なんだ……?」

 

 振り向かないまま、霊夢は魔理沙に問いかける。意識を向けられただけで声が詰まってしまった事実に内心驚愕しながら、魔理沙は弱々しく返す。

 

 問うのは、最後の確認。霊夢の中で半ば確信に変わりつつある事実に、確証を得るための。

 

「魔力って、完全に隠せたりするかしら」

「魔力……? いや……どれだけ巧妙に抑えても、完全に隠すなんてできないはずだぜ」

「それは……人間なら?」

「……人間でも妖怪でも、だ。……まあ、妖怪はそもそも妖力だがな」

 

 霊力も妖力も生命エネルギー。身の内から絶えず湧き出してくるものであり、それを元に形作られる術や法では完全に抑え込むのはほぼ不可能だ。魔力だけは後天的に得ることができる――つまり生命エネルギーとは別枠だが、同じ原理で、身体に宿った魔力は押さえ込めない。

 何を今更? と小首を傾げる魔理沙に、霊夢は僅かに視線を向けた。

 

「じゃあ……別の何かが外から抑え込むなら可能かしら。例えば……神、とか」

「神だと……? うーむ……難しいが、できなくはないかもしれないな」

 

 ふと考えて、強大な力を持った一柱なら或いは、と思う。

 力が完全に隠せないのは、無限に沸き続ける力を押さえ込んでもすぐさま限界がきてしまうという理由と、抑える術そのものが力を用いて発動しているからという二つの理由がある。だから外部から押さえ込もうとしたところで、大した抑制はできない。

 だが逆に言えば、限界が来ないと思えるほど膨大な力での外部からの抑制なら完全に消すこともできるということだ。

 しかし、妖怪でそれほどの力を持つものを魔理沙は知らない。人間は言わずもがな。神にしても力を失った状態の神しか見たことがなく、また顕現できないほど小さな神では当然抑え込むなんて土台不可。

 

 ならば、それができるような強大な神(・・・・・・・・・・・・・)はどこにいる?

 

 その考えは霊夢の脳裏にも巡っていた。だが魔理沙と違ったのは、その問いに対する答えが粗方出ていたこと。そしてこの空間を作り上げた犯人を、今の問いから導けたことだった。

 

 そもそも、こうした惨状を生み出していたと推測される奴らは誰だったのか。

 なぜ再びこれが起こったのか。

 なぜ今になってこの場所で力を感じられたのか。

 自分は何を勘違いしていたのか――否、勘違いさせられていた(・・・・・・・)のか――……。

 

「やってくれたわね……あいつッ!!」

 

 怒気が衝撃を伴って噴き上がるように、無意識に放った霊夢の霊撃が周囲の血を一斉に砕き割った。

 くぐもった破砕音が無数に重なり、ガラスの割れるような甲高い音となって響かせる。雪のように舞って降るのは、粉々に砕かれて黒い埃と成り果てた血糊だ。

 

 ぱらぱら、はらはら。

 黒い雪が降り止むのを待たず、霊夢は身を翻して魔理沙の横を通り過ぎた。

 それにハッとし、驚きから立ち直った魔理沙は去り行く霊夢の背に声を投げる。

 

「お、おい霊夢!? どこ行く気だよ!?」

「……準備よ」

 

 はぁ? と首を傾げる魔理沙を背に、霊夢は立ち止まると、どこか躊躇うようなそぶりで振り返り、魔理沙の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「……魔理沙。もしあたしが、あたしの命すら危機に晒すような危険なものを側に置いて生活してたら、どうする?」

「あん? あー、そりゃお前……捨てさせるか、壊させるかのどっちかだろ」

「それは嫌だ、って言ったら?」

「……どうしてもか?」

「どうしてもよ」

 

 要領を得ず、しかし真剣に自分の目を見つめ返す霊夢を前に、はぐらかすのは良くないと魔理沙は思った。

 直情的な性格の魔理沙である。対面した物事に真っ向から挑むのが彼女の性分だが、だからこそ一度答えが出るとそれをそのままにしてしまうことがよくある。それをよく分かっていた魔理沙は、簡単に答えが出てしまわないよう、慎重に頭を捻る。

 

 難しい質問だった。霊夢の身に危険が及ぶものを彼女自身が側に置きたいと訴え、それを捨てさせようとしても拒否を貫くという。それを前に、自分はどうするのか。

 “馬には乗ってみよ人には添うてみよ”とも言う。実際にそうならないと分からないものは現実的にあるのだ。これに関しても想像ができず、魔理沙は仕方なくそう返事をしようとして――しかし、霊夢がそういう答えを求めているのではないのだとなんとなく察する。或いは霊夢の向けてくる瞳の力強さがそう訴えているのかもしれない。

 

 ふむ、と腕を組んで目を瞑り――他にどうしようもないな、と小さく息を吐いた。

 

「……お前にバレないように持ち出して、わたしがこの手でそれを壊す……かな」

「……そう…………そうよね」

 

 危険なものを手放そうとしないなら、気付かれないように壊すか捨てるしかない。例えその後に凄まじい非難をされたとしても、きっと魔理沙は霊夢の命には代え難いと胸を張るだろう。

 親友の命と比べられるものなんて、せいぜい自分の命か家族の命くらいだと魔理沙は思う。

 

 霊夢の望む答えを贈れたかは分からなかったが、魔理沙の目には、少なくとも多少の賛同は得られたように映った。

 霊夢は再び魔理沙に背を向けると、徐に天を仰いだ。

 

「……幼馴染って、考え方まで似るのかしら」

「さぁな。兄弟なら或いはあるかもしれないが、わたしはそう思わないな。あくまで幼馴染だろ。血のつながりも何もないし」

「あたしは……ちょっと、そう思う(・・・・)わ」

「は?」

 

 予想外の答えに魔理沙は目を丸くするが、そうしているうちに霊夢はふわりと飛び上がり、何も言わずに飛んで行ってしまった。

 突然の別れ。何も言っていかないのもらしくない。霊夢の不可思議な様子に魔理沙は一人首をひねるが、まぁそんなこともあるだろうとすぐに思考を放棄した。

 そして後ろを振り返り、

 

「…………まぁ、あの様子ならこの血溜まりの件もあいつが片付けるか」

 

 手元の箒に飛び乗り、魔理沙もまた曇り空を駆け出した。

 

 

 

 ――魔理沙は、後悔することになる。

 この時、霊夢の考えを察せなかった己の短絡さを。

 霊夢にああした答えを与えてしまったことを。

 ……この時に霊夢を、止められなかったことを。

 今はまだ、知る由もない。

 

 

 

 




 今話のことわざ
燕雀安(えんじゃくいずく)んぞ鴻鵠(こうこく)(こころざし)()らんや」
 小人物には、大人物の考えや大きな志などがわからないこと。


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第三十九話 嘘の代償

 

 

 

 ――まあ、初めは興味本位だったと言うほかないが、存外に楽しめていることを萃香は嬉しく思っていた。

 

 目の前の風成 吹羽という少女は、見た目こそか弱く儚い人間の女の子だが、萃香をして計り知れない可能性を秘めていると思わせる。特殊な鍛治の業然り、それを自ら扱う剣の技量然り。そもそもかの賢者 八雲 紫に目をつけられた風成の一族であり、己に人間の強さを刻み付けた風成 凪紗の子孫だというだけで、萃香にとっては興味の対象となり得た。

 だから風成利器店へと偶に訪れては話をしていく。鶖飛にも興味があったし、欲を言えば吹羽とちょっとだけ喧嘩(・・)してみる機会を伺ってもいるのだ。どこまでいっても、萃香はやはり鬼なのである。

 

「(それにしても、まあ“人間”だねェ……)」

 

 話せば話すほど、触れ合えば触れ合うほど、吹羽がどれだけ普通の女の子なのかを思い知らされている。しかしそれは当然のことで、いくら天狗に打ち勝つ力があっても偉大な人間の子孫であっても結局吹羽はか弱い人間であるからして、むしろそれだけ特別な環境に身を置いておいてどうしてそこまで普通でいられるかの方が萃香は疑問だった。

 人間が普通なのは当然のこと。しかし、吹羽が普通なのはなぜか当然と思えない。そのギャップに間々頭を捻ることもあるが、まぁ、それも個性か気質というやつだろう。

 

 ――なんて、本人の前で思うのはいささか失礼だろうか。

 

「? どうしたんです、萃香さん?」

「いんや、なんでも。……茶、美味いか?」

「はい! ……って本当は言いたいんですけど、ちょっとこれ……」

「ああ。薄い、よな。薄過ぎる。酒ばっか呑んでて舌がバカになってるわたしからしたら、もうお湯と変わんねーぞこれ」

「お湯って、大して味ないですよね?」

「無いさ。喉を通るあったかいだけの液体だよこんなもん。草木を噛み潰した方がまだ味はあるだろうよ」

「あ、あははー……一理ありますぅ……」

「これ飲んで“お前好き者だな”って言うと、あいつ“じゃあ金寄越せ”って顔で殴ってくるんだ。信じらんないだろ? 鬼だって痛いもんは痛いのによっ」

「霊夢さん、ちょっと短気ですからね……毎日こんなの啜ってるのかぁ……」

 

 吹羽は呆れるような哀れむような表情でお茶の水面を見つめる。

 全くその通り。寂れた神社の貧乏巫女は質素過ぎる生活を好むらしい。当然娯楽もないこの神社では、居候の萃香はよく屋根に登って昼寝している。それしかすることがないのだ。

 お茶くらい新しいの買えよなー、と思いながらお湯みたいなお茶を飲み干して、お盆に置く。再び注ぐ気は全く起きない。

 

 吹羽を中へと担ぎ入れてからしばらく話し、もうそろそろ日が橙色を帯び始めてくるころか。分厚い雲が空を覆う今日では茜色の天使の梯子すらかかりそうにないが、体感的にそれくらいの時刻である。

 もう冬間近の晩秋は日がとても短い。夜の時間が長引くのは妖怪としては嬉しいところだが、吹羽を引き留めるのはマズイかもしれない。

 夜道を帰らせるのが、とかではなくて、真っ暗になって霊夢が帰ってきたときにまだ吹羽がいたら、引き止めていた自分が怒鳴られるかもしれないという話である。ただの人間が怒り散らしたところで怖くもなんともないが、家主である霊夢に怒られるのは少々避けたいところ。なんだかんだ言ってここは居心地がいいのである。

 

 ――と、思ったところで玄関の開く音がした。

 

「あっ、霊夢さんですかね!?」

「うぇっ? あ、ああ、そうかもな……」

「お迎えに行きますねっ! 霊夢さ〜ん!」

 

 萃香の返事も待たずにとてとてと駆け出した吹羽の背中。どんだけ霊夢が好きなんだと声を大にして言いたいくらいの喜びようだが、そりゃまあわたしよりは懐いてるに決まってるか、と軽く流す。

 「お帰りなさい霊夢さん! お邪魔してますっ!」という吹羽の声が響いて、霊夢は彼女に手を引かれて居間にやってきた。

 

「よ。帰ったか霊夢」

「……萃香、なんでこの子がここにいんの」

「あー、ちょっと届け物をな。なに、代金はわたしが払ったから心配すんな」

「…………そう」

「(……?)」

 

 短く返し、袖に隠した荷物を片付ける為にか箪笥に向かう霊夢。その姿を――雰囲気を感じ取り、萃香は内心で首を傾げた。

 何か……ピリピリしている。

 ふと吹羽を見ると、相変わらずにこにこと上機嫌そうに可愛らしい笑顔を零していた。

 人よりは感情の機微に聡い吹羽が気が付かないなら、何百年と本能で生きてきた萃香だからこそ気が付けた雰囲気の変化なのだろう。

 

 一体何があった――そう思っていると、吹羽が卓袱台に手をついて霊夢に言った。

 

「霊夢さんっ、今日はどこに行ってたんですか?」

「ん…………ちょっと野暮用よ」

「野暮用? 妖怪さんのお仕置き、ですか?」

「いいえ。とにかく、野暮用よ」

「そうですか……」

 

 霊夢の声音に勢いを削がれたのか、吹羽は少し落ち着いた様子で乗り出した身を元に戻す。

 野暮用――今回は確か、何かの調査だったか。出かけるときは普段と対して差はなかったように思うが、やはり何か出来事があったのだろう。妖怪退治ではなかったとは言え、仕事が終わって帰還した彼女が、ここでも気を張ったままなのは珍しい。

 

 霊夢は物品を片付け終わると、湯呑みを持ってきて机のお茶を注ぎ、机ではなく縁側の方に座った。丁度吹羽に背を向ける位置である。

 気が付けば、外ではぱらぱらと雨が降り始めていた。参道の石畳をぱたりぱたりと雨粒が叩き、少しずつ黒く染めていく。遠くで僅かに光ったのは稲光か。近いうちに大雨が来るのかもしれない。

 霊夢は、そんな空をジッと動かず見つめていた。

 

 霊夢の様子のおかしさに吹羽も気が付いたのだろう。少しおどおどした様子で立ち上がると、吹羽も同じようにして霊夢の隣に腰かけた。

 話題作りのためか、その際萃香の鋸を持って行って“おお?”と思ったが、追求はしない。

 

「れ、霊夢さん、見てくださいコレ! 今日萃香さんのために持ってきた鋸なんですけどっ」

「ん?」

 

 小さく喉を鳴らして瞳だけで見下ろす霊夢。

 

「ボク鋸はあんまり得意じゃないんですけど、すごくないですか!? 刃がとっても上手くできたんです! ほら、輝き方が違いますよ!」

「……そうね。綺麗な銀色」

「はいっ! 大変でしたよ……鋸って時間を掛けて木を切るものでしょう? だから刀なんかよりも柔軟性を持たせなくちゃならなくて……なんで刃物が柔らかくなくちゃいけないんだって感じですよねっ」

「……うん」

「あっ、でもこれはそれが両立させられたんです! だからボクの最高傑作なんですよ鋸の中では!」

「……よかったわね」

「はい! お兄ちゃんに手伝ってもらわなかったらこんなに上手くはできませんでしたよ!」

 

 ぴくり、と霊夢の肩が揺れた。

 

「お兄ちゃんすごいんですよ! 刀身の柔軟性を高めるのにボクの知らなかった方法を教えてくれて、手伝ってくれたんです!」

「………………」

「刃の角度とかもどれくらいなら一番削り切りやすいかなんてことを教えてくれて……そこの制作なんて全部お兄ちゃんにやって貰ったんです! あ、でもこれだとボクとお兄ちゃんの最高傑作ってことになりますね……危ない危ない、このまま言いふらしたらお兄ちゃんに怒られちゃいますね」

「…………」

「そういえば、この間お兄ちゃんと久し振りに剣の稽古をしたんです! 相変わらず歯が立ちませんでしたけど、なんだか前よりも気迫があって、強くなってたんですよ! ほんとう、あれ以上強くなってどうするつもりなんだろうってすごく思うんですけど、妖怪さんたちが暴れたときとかはお兄ちゃんが里を守ってくれますよね! そうしたら里も安泰ですっ! あ、あとお兄ちゃんたらこの間――」

「ねぇ、吹羽」

 

 ことり、と霊夢の湯呑みが板の間に置かれる。突然の言葉に少々呆けるも、吹羽は笑顔を崩さなかった。

 しかし、萃香は見逃さない。

 吹羽には見えない位置に置かれた湯呑み。それを持つ霊夢の手は――震えるほどに強く、ぎりぎりと握り締められていたのだ。

 ――なんだか、嫌な予感がした。

 

「お、おい霊夢――」

「あたしはね、あんたのこと大切な親友だと思ってる」

 

 普段口にすることのない告白に、不安げだった吹羽の表情が和らいだ。

 

「ぼ、ボクもそう思ってますっ!」

「そう。だから、言わせてもらうわ」

 

 そう言って、霊夢は今度こそ吹羽と真っ向から視線を絡める。

 真剣な視線に微笑みながらも背を伸ばす吹羽であったが――次の言葉に、その表情は凍り付いた。

 

 

 

「鶖飛とは、会うのをやめなさい」

 

 

 

「――……」

 

 ――親友だ、と前置いたのはさて、何のためだったのか。

 単純にその想いを伝えるためではなかったことは、誰の目にも明白である。むしろその言葉は、二の句に対する衝撃の緩衝材的な役割のつもりだったのか、次に言うことにおいて勘違いを生ませないための“これだけは覚えておいて”という前提条件づけのように聞こえた。

 真剣な霊夢の横顔は、萃香にそうした意図を察せさせるものだった。

 だが、しかし、それは冷静な思考ができる者だけが至る結論に過ぎない。

 霊夢の言葉は吹羽にとって――冷静さなど無残に切り裂く、絶望の宣告だった。

 

「…………どういう、意味……ですか」

「言った通りよ。あいつとは会わないようにしなさい。ウチで匿ってあげてもいい。ともかくあいつには――」

「そんなこと聞きたいんじゃありませんッ!!」

 

 吹羽の怒号にさしもの霊夢も言葉を詰まらせる。彼女を見上げる吹羽は、怒るような悲しむような、そんな表情で霊夢を睨みつけていた。

 

「霊夢さんは、ボクを親友だって言ってくれました……ボクもそう思ってるし、これからもそうであってほしいって、思いますよ……でも」

 

 睨みつける視線がだんだんと影って、前髪に隠れる。萃香からは、吹羽の目元に一粒の光が見えた。

 

「なんで……なんで霊夢さんが、そんなこと、言うんですか……?」

 

 弱々しく、しかし心の底からの叫び。

 

「霊夢さんはボクを支えてくれました。ボクを助けてくれました。元気がないときはぶっきら棒な言葉で励ましてくれて、嬉しいときは頭を撫でてくれました……なのに、なのに……なのにっ」

 

 弱々しい言葉が、少しずつ強くなって、終いに苛烈な非難の声音へと変わる。

 まるで霊夢に対する認識が、“信頼する親友”から“兄を離そうとする邪魔者”へと移り変わっていくように。

 否――まさにそうなのだろう。吹羽にとって如何に兄が、家族が大切なものなのかを鑑みれば、大して事情を知らない萃香にだって予想できる。やっと帰ってきた兄。戻ってきた平穏。それを再び壊そうとする邪魔者(霊夢)。いくら親友といっても、肉親の情には到底及ばないだろう。

 吹羽は浮かんだ涙を散らしながら霊夢を見上げて、言う。

 

「親友なら、なんで喜んでくれないんですか……なんでまた、ボクとお兄ちゃんを引き裂こうとするんですか……っ!?」

「っ、あいつはあんたにとって――!」

「いやですッ! そんなの聞きたくないッ!!」

 

 吹羽は耳を塞いでいやいやと頭を振り乱す。そんな彼女を見下ろす霊夢は、苦々しい顔で歯を食いしばっていた。

 

「やっと帰ってきてくれたんです! お兄ちゃんが、家族が……みんなでまたあったかく暮らせるんですっ! この日をずっと、何年も、一人で……待ってたんです……ッ!!」

 

 返す言葉がないのか、それとも吹羽の言葉が突き刺さって声が出ないのか、歯を食いしばってなにも言わない霊夢と、それを見上げて睨む吹羽。

 見ていられない――どちらに声をかけるべきか悩むも、萃香はとにかく吹羽の背に手を置こうとして、

 

 ――パチン。

 

 手を、振り払われた。

 

「っ、なぁ吹羽……」

「萃香さんも、同じなんですか……?」

「は?」

「霊夢さんみたいに、お兄ちゃんをまるで敵みたいに思ってるんですか……ッ!?」

「いやわたしは――」

 

 拒絶するように背を向けて、走り際に荷物を掴む。

 

「待ちなさい吹羽っ!」

「……うるさいです!」

 

 呼び止める霊夢の声に、しかし吹羽はそう吐き捨てて止まらない。普段は大人しい彼女の刃のような言葉が刺さるのか、霊夢は胸元の服を苦しそうに握り締めたまま、外へ飛び出す吹羽に再度言葉を投げる――が。

 

「いいから話を――」

「うるさいって言ってるんですッ!!」

 

 明確な拒絶の意思が、霊夢の声を押しとめる。萃香の労りを突っ撥ねる。

 人の依存心とは恐ろしいもので、それを否定されると、まるで歯車が狂ったように錯乱する。それを知っているはずなのに――霊夢は、選択を間違えたのだ。

 

 

 

「霊夢さんなんか……大っ嫌いですッ!!」

 

 

 

 降り出した雨の中走り去る吹羽の背を、霊夢と萃香は、呆然と見つめることしかできなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 走り、走り、走り――どこまで進んだかも分からないまま走り疲れて、吹羽の足は次第にとぼとぼとした力無い歩みに変わっていった。

 鋭い氷雨が体を打つ。ぱらぱらとしていた雨はいつのまにか激しくなり、もう五月雨と遜色ないほどに降りしきっていた。

 凍えるような寒さだ。冬間近の雨は凄まじい勢いで温度を奪う。張り付いた服から襲いくるあまりの冷たさに次第に自分の体温すら感じなくなり、やがて氷雨を冷たいとすら思わなくなる。或いは同じくらいに心まで冷え切って、冷たさを感じなくなってしまったのか。

 何もかもがぐちゃぐちゃになってしまった今の吹羽には、傘を差すなんてことに気を回す余裕すら、少しだってなかった。

 

 嗚呼――この感覚には、覚えがある。

 

「(……あの頃と、似てるんだ……)」

 

 記憶を壊し、なにに対しても怯えて過ごしていたあの頃の記憶が脳裏に過ぎる。

 なにも分からなくて、周囲の言うことが理解できなくて、なにも信用できなくて、ある種の疑心暗鬼に陥っていたあの頃。誰にも頼れなかったあの頃の自分は、きっと暗い気持ちばかりを積み重ねて、ものすごく冷たい心をしていたと思う。

 今の状態は、あの頃によく似ていた。

 

 あれから数年が経った。

 あらゆる物事に四苦八苦しながら、それでも支えてもらって今の生活ができている。体の覚えだけを頼りにしていたあの頃と比べれば、目を見張る進歩であったと自負している。

 ただただ、家族が戻ってくることをひたむきに信じて暮らしていた。誰がなんと言おうと、きっとみんなは帰ってくる。きっと戻ってくるはず――そうした吹羽の態度は、或いは、人には狂気的にすら見えていたのかも知れない。広いようで狭い幻想郷、それでも何年も戻ってこない者たちの辿る道など決まっているのだから。

 

 しかし、そうして待ち続けて、やっと兄が戻ってきた。

 

 報われたのだと、そう思った。嬉しくて嬉しくてたまらなくて、思わず溢れた涙は止まらず、浮かび上がる言葉は形にならなかった。

 ああ、氏神様は見ていてくれたのだ。ずっとずっと続けてきた祈りがやっと届いたのだ。これほど幸福を噛み締めたことは今までにない。兄と過ごす日々は毎日が暖かくて、優しくて、布団に入ればいつだって明日が待ち遠しい。

 吹羽はとても幸せだったのだ。

 

 

 

 しかし、それを否定したのはあろうことか、ずっと支えてくれた親友だった。

 

 

 

「っ、……〜〜っ、ぅぅ……」

 

 空を仰ぐ。苦しげな嗚咽が漏れ出た。

 鉛色の重苦しい雲は、冷たい雨粒を吹羽の頰に打ち付けては赤く腫れた目元をぴりぴりと刺激する。頻りに溢れる涙を拭うこともなく打っては弾け、小さな痛みばかりが吹羽を襲った。

 心が、ズキズキと痛かった。

 

「……なんで、なん、でぇ……れいむ、さん……っ、ぐすっ……」

 

 一番に喜んでくれると、そう信じて疑わなかった。

 だって、誰より吹羽のことを想ってくれていたのは間違いない。怯えてばかりでなにもできなかった自分を、それでも根気強く支えてくれたのは霊夢である。今の自分があるのは彼女のお陰といっても過言ではないほど吹羽は助けられたし、それくらい彼女も吹羽のことを想ってくれている。当然、吹羽がどれだけ家族に焦がれていたのかも、よく知っていたはずなのに。

 

 ――裏切られた。

 

 そんな言葉が、心の中で浮かんでは消え、浮かんでは消える。

 そんなはずない! と切なく叫ぶ自分とこれが現実じゃないかと冷たく呟く自分がぶつかって、ぎしぎしと心を軋ませていた。燻んだ白色と泥のような黒色が混じりあいうねりあい、なにがなんだか分からないままに頭の中でぐるぐると回っている。酷く不快で、もう気が触れそうだった。

 

「れいむ、さん……れいむさん……っ」

 

 自分の知っている霊夢がいなくなってしまったようで、とても悲しかった。譫言の如く名前を呼ぶ度、呆れている霊夢や怒っている霊夢、笑っている霊夢がフラッシュバックしては泡沫のように儚く消えていく。

 吹羽はついに立ち止まり、ぱちゃりと落ちるように座り込んで、幼子のように泣き続けた。

 

 

 

 ――そこに、声が。

 

 

 

「吹羽、さん……?」

 

 ゆっくりと顔を上げると、ぼやけた視界の中に見知った友人が立っていた。

 雨の中傘を差し、鮮やかな着物に身を包んだ小柄で可愛らしい少女――稗田 阿求である。

 

 とぼとぼと歩いているうちいつの間にか人里に帰ってきていたらしい。しかし雨が若干強いためか人通りはなく、ここには吹羽と阿求しかいない。

 阿求は驚いた表情で吹羽を見つめ、泣いているのだとわかると途端に血相を変えて歩み寄ってきた。

 

「どっ、どうしたんですか吹羽さんっ!? どうして泣いてるんですか……!? こんな雨に傘も差さず……何か、あったんですか……?」

 

 いつになく心配そうな表情で尋ねてくる阿求だが、あいにく受け答えするだけの余力すら吹羽には残っていなかった。

 阿求の表情を見た途端更に涙が溢れてきて、耐えられなくなった吹羽はわんわん泣きながら阿求に抱き着く。雨の当たらない彼女の腕の中はとても暖かく、無意識に涙を抑えていたなけなしの防波堤を、いとも容易く破壊した。

 

「ぐずっ、あきゅう、さん……っ、ぇぐ……ぅぁ、あぁああぁぁあああんっ!」

「ああ、ああ、よしよし……大丈夫ですよ。だから泣かないで、吹羽さん……」

「ぁあぁっ、ぐす……うぅぅうぅっ!」

「……とにかく、私の屋敷へ行きましょう。ここは寒いですから。ね?」

 

 阿求の優しい声音に、吹羽はこくりと頷いた。

 ここは稗田邸からほど近い場所のようで、吹羽の家に戻るよりも都合がいいらしい。

 それに、今鶖飛と顔を合わせるのは、正直に言って辛かった。今ですらこんなに辛く悲しいのに、鶖飛が傍にいては何度も思い出してしまうだろう。そんなの、生き地獄に等しい。

 

 阿求が吹羽の手を取る。今は彼女の存在が――その暖かさが、なによりも有り難かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「はぁ……ったく」

 

 一方、博麗神社。

 雨の中に霧の混じる湿った空気が満ちた居住区にて、萃香は大きく溜め息を吐いた。

 喉を不味いお茶で潤して湯呑みを置くと、視線をついと部屋の隅へ向ける。

 そこでは、霊夢が膝を抱いて座っていた。

 

「なぁ霊夢、いつまでいじけてるつもりだい?」

「……いじけてない」

「いじけてんだろ。そういうなら屍みたいなその顔やめろ気味悪い」

「…………うるさい」

 

 独り言のように小さく呟いて、霊夢は萃香から顔を背けた。その視線はどこを彷徨うわけでもなく、ただじーっと襖の桟に付いた小さな埃に向いて固定されている。

 この虚ろな姿を見せておいて、“いじけてない”は無理があるだろう。誰がどう見たって今の霊夢は落ち込んでいるし、どんよりと暗い粘性の雰囲気を纏っていた。霊媒師が見たなら死相でも浮かんでいるだろうか。

 

 理由なんて明白だった。芯の強い霊夢がこうして虚ろな状態になってしまったのは、吹羽のあの一言が原因である。

 

 

 

『霊夢さんなんか……大っ嫌いですッ!!』

 

 

 

 去り際に放ったこの一言が、霊夢を一撃で追い詰めた。直前までの言い合いでも苦い顔をするだけで感情を殺し切っていた霊夢が、その一言を聞いた瞬間に崩れ落ちたのだ。

 別に責める気など萃香にはなかった。

 博麗神社に居候する身である、霊夢が吹羽を慮っていた実情は知っているため、吹羽の一言の威力がどれだけのものであったかは想像に難くない。

 今まで拳で語らうことを常としてきた萃香だが、それくらいのことは理解できるのだ。

 

 だがまああれ(・・)は正直……どうだったのだろう、と思いはする。

 

「なぁ霊夢。このままだとお前が腐っちまいそうだからいっそ言うが、あれはお前が悪いぞ?」

「…………」

 

 ちらと灰色の瞳が萃香に向く。少しは聞く気があるらしい、とポジティブに捉えて、萃香は思ったことをそのままに言い放つ。

 

「お前だって吹羽が鶖飛にでれでれなのは知ってるだろ? 嬉しそうに語ってるあいつの話をぶった切って“会うのやめろ”なんて、反発するに決まってるじゃないか」

 

 人の心の強さは知っている。それが底知れない力を生むことを、萃香は誰より知っているのだ。

 心というのは複雑怪奇。力の方向性だって千差万別である。数年かけてやっと戻ってきた鶖飛に依存する吹羽の心も、きっと計り知れないほどに強かったはずだ。それを真っ向から否定などすれば、強烈な反撃をもらうのは必然である。況してそれが、親友の口からでは。

 

「お前が何を思ってああ言ったのかは皆目見当もつかないが、少なくともあれは正解じゃあない。いやむしろ、ありゃ間違いだ」

 

 確信を持って言える。

 

「お前は、選択を間違えたんだよ」

「…………そうね」

 

 萃香の断言に、霊夢は相変わらずの小さな声で呟く。

 これを受け止めて開き直ってくれりゃ儲けもんだが、と思いながら、しかし霊夢の言葉は続く。

 

「あたしは間違えた…………我慢しなきゃ、いけなかった。言うべきじゃなかったのは分かってる。でも…………耐えられなかったのよ……っ! あの子が、あんな嬉しそうな顔で鶖飛を語るのが……っ!」

 

 見れば、霊夢の手は固く握り締められて震えている。

 一体何がそこまでの激情を誘うのか気にはなるが、萃香にはそこまでのことに首を突っ込む資格がない。

 ただ黙って、霊夢の紡ぐ言葉を受け取る。

 

「何も知らないのよ……あの子は何も知らない! 知るべきじゃない、知ってはならない! だけど、だけど……っ、あの子の傍に鶖飛がいて、それがあの子の笑顔を作ってるなんて……そんなの……そんなの――っ!」

 

 がんっ、と拳をぶつける。冷静な霊夢にしては珍しく、燻る激情を抑えられないようだった。

 ひたすらに強く感じる霊夢の怒り。それは間違いなく鶖飛に向いているもので――しかしどこか、自分にも向けたもののようにも見えた。

 

「葛藤、してんのか」

「っ、…………」

 

 何に対する葛藤なのか……そんなことを萃香は気にしない。それは霊夢が自分で考えなければならないことで、他人が口を出すべきではないことだ。

 ならば、萃香が霊夢にしてやれることはなんなのか?

 

「なぁ霊夢。わたしは別に優しい奴じゃあない。人助けなんて面倒だと思ってるし、ムカつく奴は思いっきり殴っちまう。難しいことをうじうじ考えんのは性に合わないのさ。だが……」

 

 鬼はいつだって拳で語る。拳をぶつければ、相手が自分をどう思っているのか伝わってくるものなのだ。

 篭った力、狙う位置、拳の硬さ、拳の受け方――あらゆる要素に相手の想いは浮き上がる。考えるのが不得手の代わりに肉体が強靭な鬼だからこその、苛烈なボディトークとも言えよう。

 しかし、そうした単純な生き物だからこそ、恩を感じる相手には最低限尽くそうとするのだ。

 

「義理は返す。わたしはお前がいたからここにいるんだ。そしてかつての約束を果たすこともできた」

「……手伝う、ってこと?」

「いいや、手伝うつもりはない。その代わり――」

 

 にかっ、と犬牙を見せて笑う。

 

「キツいときは助けてやる。だからお前は、答えを出せばいいんだ」

「………………」

 

 霊夢はしばし萃香の瞳を見つめると、不意に顔を背けて立ち上がった。

 言葉を待つ。霊夢は萃香の視線に応えるように、小さく息を吐いて前置いた。

 

「……背を押してるつもりかもしれないけど、あたしは他人に押してもらわないと進めないほど弱くないわ」

「知ってるよ。わたしを倒した人間がそんなひ弱なもんか」

「答えなんてとっくに出てる。ただ情けなかっただけ。自分を抑えられなかったのは、初めてだったのよ」

「そうかい」

「………………」

 

 傍目には強がりにも見えるそれは、しかし萃香には好意的に映った。

 言葉に出せば己の気持ちも定まってくる。霊夢が口に出して言ったのは、情けない姿を見せた自分を受け止め、目的のため前に踏み出す決意とするため。

 

「…………ありがと、萃香。気が楽になったかも」

「おうよ。それでどうするつもりだ?」

「準備を始めるわ」

「吹羽には?」

「伝えない。全て終わってから全部話す。あの子の心からあいつを引き剥がすのは、その時でいい」

 

 ――決着を、つけなくちゃ。

 

 こんな嘘だらけの悲劇(・・・・・・・)は、もう終わりにしよう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 夜の帳が下り、吐息の白む澄んだ月夜だ。

 昼間の雨は次第に弱くなり、今では空から滴るような大人しい雨が降っていた。

 軒先からぽたりぽたりと雫が落ちる。川のせせらぎのようにも聞こえる雨音は静謐として、穏やか過ぎて、空も泣いているのかと阿求は部屋から空を見上げた。

 

 昼間、雨の中で見つけた吹羽は別室で休ませている。この屋敷に着く頃には涙も啜り泣き程度に治まっていたが、足元がふらついていたあたり相当な心労があったのだろう。そのまま帰らせるのはあまりに薄情と思い、今日は阿求が彼女を預かることになっていた。鶖飛には既に使いを送っている。吹羽の手前事情は話せないが、彼なら快く任せてくれるだろう。

 

 ――それにしても。

 

「(霊夢さんがそんなことを……まさかとは思うけれど、それなら吹羽さんがあんなことになるわけがないし……)」

 

 おおよその事情は吹羽から伝え聞いている。どうやら、霊夢は吹羽にとても酷いことを言ってしまったらしい。

 彼女はあれで優しい精根の持ち主である。いくら情味の薄い人間だといわれていても、吹羽の気持ちが分からないわけはないはずなのに。

 

 ……なんだか、気味が悪いな。

 いつだって正しいことを為す姿を見せてきた霊夢の不可解さに、阿求は言い知れない不安を感じた。

 この雨がもたらす陰気な雰囲気も手伝っているのだろうか。そわそわと気持ちが落ち着かず、いつのまにか巻物を広げる手も止まってしまっていた。

 溜め息。

 頬杖を突いて、ぼーっと外を眺める。

 

 不意に、声がかかった。

 

『阿求様、夢架はただいま戻りました』

「っ、入りなさい」

「失礼します」

 

 襖をきっちりと二回に分けて開き、流れるような動作で入室する侍従、夢架。相変わらず鉄面皮な彼女に、阿求は軽く微笑む。

 

「お帰りなさい夢架。頼んだものは買ってきてくれましたか?」

「こちらに」

「わあ! ありがとうございますっ」

 

 両手を合わせて笑顔の花を咲かせる阿求の前に、夢架は傍に置いておいた包みから箱を取り出す。その表面には、大きく羊羹(・・)の文字が。

 嬉々として箱を開け始める主人の姿に、夢架は澄まし顔に少しだけ呆れを込めて視線を送る。それでも食事用の器を即座に用意して差し出すあたり、やはり彼女は極めて優秀な侍従だと言わざるを得ない。

 

「お言葉ですが阿求様、お食事の買い出しであれば丁稚にやらせればよろしいかと」

「あなただから任せたんですよ。こんな時間にお菓子が食べたいなんて言ったら、あの子達を伝って他の侍従にも広まってしまうでしょう? 怒られたくないですから」

 

 それに、夢架に頼んでおいて正解だったと今は思っている。ちょうど不安が膨らんできて頭が回らなくなっていたところだ、こういう時には甘いものを摂るのが一番である。

 

「はむっ……んん〜! 美味しいっ! 夢架も食べますか?」

「……………………いただきます」

 

 大分溜めがあったが、夢架も静かに近寄って羊羹を一切れ拝借。楚々と口に運ぶ姿も絵になっていて、僅かに綻ばせた表情は誰もが見惚れる可愛らしさがあった。

 阿求が眺めているのに気がつくと、夢架は一つ咳払いをする。次の瞬間には元の鉄面皮に戻っていた。

 

「ところで、どうやら吹羽さんがいらしているそうですね。廊下で他の侍従が話しているのを聞きました」

「ええ。今は別の部屋で休んでもらっています」

「お世話はどうされますか?」

「………………」

 

 世話、か。

 果たして今の吹羽が、ほとんど知りもしない人に世話されるのを受け入れるだろうか。

 人は心が傷付いたりしたとき、よく一人になりたいと感じるものだ。知人ですら拒絶するそのときに、大して知りもしないウチの侍従なんかに世話をさせては返って負担をかけないだろうか。

 

 ふと夢架に世話をさせるか、とも考えたが、それは夢架に対して失礼にあたると思い直す。

 夢架は自分のお付き。数多くいる侍従の中から選ばれて自分の付き人になっている。そんな人間に“自分のことはいいから客の世話をしろ”なんてあまりに申し訳ない。付き人の主は、暇を与えない限り大人しく付き人に世話をされるのが一番の礼儀なのだ。

 

 となると、だ。

 

「……私が見るしかありませんね」

「よろしいのですか? 他の侍従たちが聞いたら猛反対しそうなお考えですが」

「今の吹羽さんにはあまり他人を近付けたくありません。それこそ我が屋敷の侍従の方たちでさえ。それくらいに不安定なんです。……吹羽さんも、きっと私と話した方が気が楽でしょうから」

 

 正直なところ、今の吹羽がどれ程までに傷付いているのか阿求には測ることができなかった。ひびの走ったガラス細工のように、不用意に触れたらたちまち砕け散ってしまいそうな気さえする。そんな彼女に他人は近付けさせられない。

 その点、阿求にはある程度吹羽に近寄れる確証があった。心を許していなければ、きっと吹羽は阿求の腕の中でわんわんと泣いたりしなかっただろうから。

 

 ほう、と一つ溜め息。

 阿求はまた一切れ羊羹を咀嚼すると、気怠そうに頬杖を突いて口を開く。

 

「ね、夢架。人は何をどう支えにして生きるのが正解なんでしょうね」

「……というと?」

「何度も転生を繰り返してきて、全ての記憶を引き継いでいるわけではないけれど、その時々に生きてきた人々を私は知っています。……彼らを見るたびに思うんです。立派な人も粗末な人も、賢い人も粗忽な人も、皆芯と呼べるものを心に持っている。そしてそれが砕けて立てなくなることを、絶望すると言う……なら、砕かれない心の芯とは何でできていて、どうやって立てるのだろう、と」

 

 誰しもが何かを支えに生きている。それはきっと人それぞれに材質が違って、どう支えにしているのかも違うはず。その心の芯と呼べるものは、耐えられないほどの強い衝撃を受けた場合にはしばしば折れてしまう。だからこそ、どんな時にも折れない芯を持つ人のことを“強い人間”と呼ぶのだ。強い芯は壁に立ち向かう勇気を与え、時に力を与えて鬼すらも凌駕する。

 ――ならば、そうした強い芯はどうしたら作り立てられるのだろう、と阿求は疑問だった。

 

 今まさに、吹羽は心の芯が折れてしまっている。彼女は決して“強い人間”ではない。今までだって軽く折れることはあっただろうが、今回は粉々に砕けてしまっているような有様だ。それをどうにかしてあげたいと、阿求は心から思っていた。

 

「答えは存在しない、なんて分かりきっています。人それぞれに個性があるように、支えとなりうるものはそれぞれに違う……吹羽さんに最も相応しい強い支えとは……一体なんなんでしょうね」

「それは、阿求様がお考えになることではないように思います」

「そうですね……こういうものは本人が見つけるしかない。でも……それでも助けてあげたくなっちゃうんですよ。私、吹羽さんの親友なので」

 

 無力感、遣る瀬無さ、それらが含まれた切ない笑みを阿求は浮かべた。

 自分では吹羽の支えになってやれないことは百も承知。それでも助けようと思わずにいられないこの気持ちの、なんと遣る瀬無いことか。

 

 阿求は持っていた黒文字で羊羹を新たに二切れ取り分けると、広げていた巻物を懐に差し、まだ使用していない黒文字を器に添えて立ち上がった。

 

「さて……少し空けますね」

「吹羽さんの部屋へ?」

「ええ。そろそろ小腹が空く頃でしょう。あなたのようにはできませんが、せいぜい頑張ってお客さまをもてなしますよ」

「……私の仕事は些事に過ぎません」

「あら、誇ってもいいのに。これでも私は、随分と助けられていますよ」

「恐縮にございます」

 

 そんな会話を最後に、廊下へ。

 部屋の中で火鉢を焚いていたわけではないが、やはり室内と屋外では気温に差があり、阿求は軽く身震いをして吹羽のいる部屋へと向かう。

 彼女の部屋は阿求の部屋からもほど近い場所に設置している。本当ならば家主の部屋とは距離を開けて設置するのが客室だが、今回はその家主(阿求)の要望でこんな形を取っている。今の不安定な吹羽を、あまり遠くに置いておきたくなかったのだ。

 

 程なくして、吹羽の部屋の前に着いた。

 中は非常に静かだった。もともと吹羽は夜中に騒ぐような非常識な人間ではないが、今この部屋には、中に人がいるのかどうかも分からなくなりそうな静かさで満ちているようで少々恐怖を感じるほどである。

 

 開ける前に、声をかける。

 

「吹羽さん、少しお話をしませんか? 美味しい羊羹も持ってきたんです。……入りますよ」

 

 吹羽の答えを待たず、阿求は少し強気に構えて襖をゆっくり開く。すると、部屋に広がっていたのは暗闇だった。戸も開けず、灯りもつけず、ただ欄間から差し込む弱々しい外の光が差し込んで、部屋の中央に広げられた布団を照らしている。しかし、そこに吹羽の姿はない。

 暗順応してきた目で部屋を見回すと、吹羽は部屋の隅で膝に顔を埋めて蹲っていた。

 

 部屋に入り、灯りに火を灯そうと手を伸ばすと、

 

「……つけないでください」

「え?」

 

 まだ震えるような弱々しい声。

 

「何も……目に入れたくないんです……」

「……そう、ですか」

 

 要望に従って手を引っ込めると、阿求は吹羽から少し距離を開けて座った。

 畳が磨き立てのように艶やかだ。それには人が部屋にいる痕跡がなく、恐らく吹羽はここにきてからずっとあそこに蹲っているのだろうと予想された。

 羊羹の器を置いて、吹羽を見る。年齢相応の小柄な彼女だが、今はより一層小さく見えた。

 

「阿求さん、も……お兄ちゃんが悪い人だ、って……思ってますか……?」

「………………」

 

 ――何の前置きもない、抜き身の刀のような答えにくい質問。容易に返せなくて黙る阿求に、吹羽は言葉を続ける。

 

「霊夢さんが、なんでボクからお兄ちゃんを取ろうとするのか、ずっと考えてました……。でも、ダメでした。そんな理由思いつかないんです。霊夢さんがお兄ちゃんのことを悪い人だと思ってるって、ことくらいしか……」

 

 それはきっと、消去法で導き出されただけの理由。妥当な答えが見つからないから、前提として考えついたものでしかない。しかしそれにすら賛同も否定もしにくいのが辛いところか。

 だから阿求は、思っていることを素直に言うことにした。

 

「私は…….鶖飛さんのこと、とても酷い人だと思っています」

「……ぇ」

「当然でしょう。突然消えてはふらっとまた現れて、平然と前の暮らしに戻ろうとしているんです。残された可愛い妹のことなんて頭の片隅にもない――兄の風上にも置けない人だと思っていますよ」

「…………まだ怒ってるんです?」

「もちろん。言葉では許しましたけど、私は彼のしたことを一生忘れるつもりはありません」

 

 彼が吹羽を大切に想っている事実は認めている。年の功を積んできた阿求をしてそこに嘘はなかった。だが、それとこれとは話が別である。

 妹のことはちゃんと想っていた。だがそれでも残して自分は消えた。それが厳然たる事実。ならば彼が吹羽のことを蔑ろにしたのも事実である。当事者の気持ちと事実は必ずしも一致しない。彼の所業だけは、忘れ去るつもりなど毛頭ない阿求であった。

 

「じゃあ……阿求さんも、お兄ちゃんとは会わないほうがいいって、言うんですか?」

「いいえ。私は言いませんよ」

 

 その言葉に、吹羽はようやく顔を上げた。

 

「ほ、ほんとう、ですか……?」

「ええ。そもそも私は、鶖飛さんに吹羽さんのことを任せた張本人ですから。簡単に言葉を撤回したりはしません。ですが、吹羽さん……」

 

 吹羽の表情にわずかな光が灯る。本来ならこうして元気付けて終わりにしたいところではあったが、そうもいかない。

 吹羽の話を聞く限り、これはただの喧嘩ではない。もっとなにか重大なことが背景にあって、きっと吹羽はそれを深く考えなければいけない立場にある。答えをあげることは出来ないが、吹羽の親友として、助言くらいはしてあげられる自負が阿求にはあった。

 

「しっかりと、考えなくてはいけませんよ」

「え……?」

「霊夢さんに辛いことを言われた、でも吹羽さんの意見と同調する私がいた――吹羽さんは、たったこれだけの言葉だけで全て決めつけてしまう(・・・・・・・・・・)つもりですか?」

「っ、」

 

 認めたくない現実に共に反抗してくれる人がいる。それは確かに心強いことだろう。だが、たった一人が自分の思いに賛成したところでそれが真実である・正しいことであるかどうかは保障されない。人は時に数千人単位でも間違えることのある生き物だ、たった一人の賛同程度で真実を見通せるわけもないだろう。

 吹羽は今、“信じたいもの”を信じているだけなのだ。

 当然阿求にも霊夢の意図やこの場で言う真実というものは何一つ分からないが、吹羽が偏った思考を辿っていることだけは理解できた。

 

 そうして形作られた認識は、危うい。

 特に、吹羽のような何事にも信心深い無垢な少女には。

 

「吹羽さん、大事なのは対話です。人は会話する生き物でしょう? 言葉は気持ちを伝えるために編み出された概念なんですよ」

「……もう一度、霊夢さんと話をしろって……ことですか……?」

「……ただ言葉をぶつけ合うだけの会話で伝わる気持ちなど高が知れています。霊夢さんが正しいとは言いません。でも今の吹羽さんは、話し合うことからすら逃げています。これでは取っ組み合いの喧嘩と同じですよ」

「…………喧嘩なんかじゃ、ありません……霊夢さんが分からず屋なだけなんです……」

 

 そう言って、吹羽は再び顔を膝に埋める。阿求に賛同が得られないと分かって、また塞ぎ込んでしまったのだろうか。

 まあ、無理もない。阿求もたったこれだけの対話で説得できるとはハナから思っていない。落ち込んだときなんかは、誰しも他人の言葉を受け入れがたいものだ。霊夢の言葉に打ちのめされた今の吹羽には、きっと考える時間と冷静になる時間が必要だろう。

 

 ――これは、今伝えるべきではないな(・・・・・・・・・・・)

 

 懐に忍ばせた巻物をぐっと奥へ押しやり、代わりに持ってきた羊羹を差し出す。

 

「吹羽さん、お腹空いたでしょう? 本格的なものは出せませんが、美味しい羊羹を持ってきたんです。……食べませんか?」

 

 努めて優しい阿求の声音に、吹羽の体がピクリと揺れた。

 お腹は空いているだろう。どうやら食事もまともに摂らなかったと侍従に聞いていた阿求にとっては、少しでも食べて元気をつけて欲しいところではあるが――吹羽は僅かに反応しただけで、食べ始める様子はなかった。

 

 吹羽に気付かれない程度に小さな息を吐き、阿求は静かに立ち上がった。

 

「じゃあ……私はそろそろ行きますね。また明日来ますから」

「……っ、あ、あの……っ」

「! は、はい。なんですか?」

「えと……その……」

 

 襖に手を掛けたその刹那、吹羽の切羽詰まった声が阿求を引き留めた。

 驚いて振り返ると、不安そうに揺れる瞳が阿求を見ていた。

 

「し、しばらく……ここに置いて貰っても…….いい、ですか……?」

「……家には帰らなくて大丈夫ですか?」

「……はい。今は、お兄ちゃんに会うのも……辛いんです……」

「そうですか」

 

 襖から手を離し、阿求は微笑みながら吹羽の側にしゃがみ込む。始めよりもずっと近い距離だ。吹羽は拒絶することもせず、縋るような弱々しい瞳で阿求を見つめる。その頭に、阿求は優しく手を添えた。

 

「もちろん、好きなだけ泊まってください。心が落ち着くまでいつまでも。私はどんな時にもあなたの味方なんですから」

 

 そんな阿求の微笑みに、吹羽はぽろぽろと涙を零し始めた。嗚咽こそなく静かな涙だったけれども、阿求は吹羽の見せたその涙がとても嬉しいことのように思えた。

 吹羽が、頼ってくれているのだ。何処か抱え込みやすい気質の彼女が、辛いから側にいてくれと、そう言っている。心の拠り所にさせてほしいと、そう願っている。

 ――嬉しくないわけがなかった。

 

「もう、吹羽さんは泣き虫ですね? 可愛らしい顔が台無しですよ」

「ぅぁ、あきゅう、さんが……なかせるからですぅ……!」

「まあ、人聞きの悪い。じゃあ私が慰めてあげないとですね。羊羹食べます?」

「ぐすっ……たべ、ますぅ……」

 

 涙を拭いながら羊羹を囓る吹羽。止まらずはぐはぐと咀嚼するその姿に、やっと食べてくれた、と阿求は少し安心した。

 

 しとしとと滴る雨が、鎮魂歌のように穏やかな音を奏でる夜。

 それに紛れる涙の音が寝息に変わるまで、阿求はずっと彼女の頭を撫でていた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第四十話 切れかけの火蓋

 書き忘れてました。今章最終話です。


 

 

 

 ――そろそろだ、とは思っていた。

 

 敵対していたのは明白だったし、それを覆そうとも思っていなかった。目的のためには否が応でもぶつかる壁であり、自分は彼女とは絶対に相容れないことなんて分かりきっていたことだ。

 

 自分には芯がある。彼女にも芯がある。

 そしてそれらはある一点で交わっていながら、決して混ざることはない水と油。液体と固体。或いは善と悪。悪と善。ならばぶつかり合うのは必至である。

 そして口火を切るのは必ず彼女の方であると、確信していた。

 

 手元の紙に目を落とす。そこに書かれた簡潔な内容に、僅かに頬を緩ませる。

 

「……うん。じゃあこっちも最終準備をしようか」

 

 一人呟き――鶖飛は紙を散り散りに切り飛ばした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 吹羽を保護して数日。長く穏やかに降り続いた秋雨も止み、白い雲から青色の覗く晴れた朝だ。阿求は、ようやく部屋から出るようになってきた吹羽と共に自室で朝食を食べていた。

 

 稗田邸の料理は主に阿求の好物を中心に組まれる。もちろん栄養面は厳重すぎるほどに考えられていて、好物ばかりといえどそこらの家庭料理とは比にならないくらいに栄養満点な朝食だった。

 初めはその豪華さに目を剥いて恐る恐る食べていた吹羽も、慣れと元気の回復が助けたのか、普段通りの速度で箸を動かしている。

 僅かに緩んだ唇が横から見えた。例え僅かでも、笑顔の友人と食べる朝食はこんなにも暖かいものか、と阿求はしみじみと感じた。

 

「美味しいですか吹羽さん?」

「はい……美味しいです。ボクが作るよりずっと」

「自分でお料理ができるだけすごいと思いますけどね。私はできませんから」

「やらざるを得なかっただけ、ですよ」

 

 こうして和やかに会話ができるほどに回復したのだから、やはり時間というのは万能薬なのだと思う。

 このまま塞ぎ込んだままだったらどうしようと思っていた阿求だが、この分ならどうにかなりそうで気も楽というものである。

 

 ――まぁ、吹羽がこんなにも早く回復した理由の大部分が、阿求自身の健気なお世話のためだとは本人は気が付いていない。あの雨の日吹羽を見つけたのが阿求でなかったら、今頃どうなっていたのかは誰にも分からないことである。

 

 柔らかな雰囲気の中箸を進めていると、阿求の側で控えていた夢架が吹羽の横合いから声をかけた。

 

「お茶のおかわりは要りますか?」

「へ、あ、お願い、します……」

 

 空いていた吹羽の湯のみにお茶が注がれる。香り立つ湯気がのほほんと阿求の方にも広がってくるようだ。

 空いた湯のみが冷たくなる前におかわりを差し出す――相変わらず仕事が早い夢架に何度目かもわからない関心を抱きながら、阿求も空いた湯のみを夢架に頼む。楚々とした動きで丁寧に注がれるお茶を眺めていると、ふと吹羽が夢架を眺めていることに気がついた。

 夢架も気が付いているのだろうが、侍従如きがお客様に話しかけるなど言語道断とか思っていそうだ。

 阿求は彼女に代わる気持ちで、吹羽にどうしたのかと問いかけた。

 

「あっ、いえ、その……ボクはお邪魔してるだけなのに、夢架さんにお世話してもらって……ご飯を食べる時間もないんですよね……ちょっと、申し訳なくて……」

「ああ、そんなことですか」

 

 なにを妙なことで悩んでいるのか、と阿求はくすくす笑う。呆気にとられた吹羽は少し頰を膨らましたが、怒るほどの元気はまだないらしい、そのまま小さく俯いてしまった。

 

「大丈夫ですよ、夢架がこの時間に朝食を食べないのはいつものことですから。ね、夢架?」

「主人と席を共にするなどお付きにあるまじき行為です」

「私は気にしないと言っているんですけどね、この子は見ての通り真面目でして」

「………そう、ですか」

 

 フォローしたつもりだったが、吹羽はそう答えたきり俯いたまま箸を置いてしまった。吹羽の机の上にはまだ半分ほどの料理が残っている。急に食欲が失せてしまったかのように、吹羽は再び食べ始める様子を見せなかった。

 数瞬の間をおいて、押し殺すような声が漏れた。

 

「……そろそろ、決めなきゃ……ですよね」

「…………そうですね」

 

 吹羽同様に箸を置き、阿求は手で夢架に下がるよう指示しながら答える。吹羽の言葉は、阿求が待っていた言葉でもあった。

 

「悩むこと考えることは大切です。でも、そこで二の足を踏み続けては進めませんから」

「……ほ、ほんとう、は……もっとここで蹲っていたい、んですけど……こうしているのもなんだか、辛くなってきてて」

 

 阿求に諭された日から、きっと吹羽は考え続けていたのだろう。

 霊夢の言葉を受け入れるのか。鶖飛のことを信じ続けるのか。一体なにが正しいのか。それが分かったとして、自分はその一歩を踏み出せるのか。――あるいは、その全てを知って答えを知るのが怖くて、進めない。

 吹羽のような幼い子供には少々辛過ぎる事態であるとは阿求も思っているが、こればかりは吹羽自身が答えを出さなければ解決しない。それくらいに今回の件は大きく、吹羽の過去も今後も左右する事態なのだ。

 

「ボクは……阿求さんに迷惑かけてばっかりです……記憶が壊れちゃったときも、今までのことも、今回のことも……」

「迷惑なんて。親友の悩みに寄り添うのは当然のことですよ。迷惑なんて思ってません。むしろそんな迷惑ならいっぱいかけてください。その方が私としては嬉しいんです」

 

 抱え込むより頼ってほしい。阿求の、吹羽に対するいつまでだって変わらない想いの一つである。

 多分吹羽のことだから、稗田邸のあらゆる人に世話をかけていることを気に病み始めたからこんなことを言うのだろう。そういう優しいところは本当に吹羽の美点だが、今回はそれが裏目に出ているな、と阿求は思った。

 

 大切なことはいつだって自分で見つけるしかない。そのためならいくらでも手を貸すつもりなのだから、遠慮なんてせずに頼ってくれればいい。

 ――まあ、しかし、この様子だと難しそうである。で、あれば。

 

「じゃあ吹羽さん、一緒なら怖くありませんか?」

「ふぇ?」

「霊夢さんとお話をするとき、私も一緒に行って手を繋いでいてあげます。一人が怖いなら、二人で行きましょう?」

 

 阿求の提案に、吹羽は少し呆けた表情で見つめてきた。それをまっすぐに見つめ返すと、吹羽の瞳は戸惑いと期待を浮かべて大きく揺れる。

 怖いのはきっと心細いからである。身も竦むような恐怖に立ち向かうとき、一人で進めるのはごく一部。大多数は何かに頼れない孤独の中で襲ってくる恐怖というものには抗えない。

 だからこういうときは、誰かと一緒にいればいいのだ。心細いなら手をつなげばいいし、不安なら目を見て会話すればいい。寂しいなら抱き合えばいい。今、吹羽の怖がる心に寄り添えるのは、阿求しかいないのだ。

 

 そうして間をおいて、吹羽の口から小さく漏れ出た言葉は。

 

「……心の準備、させてください」

 

 その返答に、阿求は自然に笑顔を浮かべて満足げに頷いた。

 再び箸を取る。それを横目で見たのか、吹羽もおずおずと箸を取って再び朝食を食べ始める。それはなんとなく遠慮するようなゆっくりとした箸運びだったが、迷いだけは見て取れなかった。

 

 あとはその準備が整うのをしばし待つだけだ。吹羽のことだから、こうやってきっかけを作ってやればそんなに時間はかからないだろう。

 霊夢の言い分を聴きながら、吹羽の気持ちを慮って場をまとめる。中々難しい仕事だが、いいだろうやってやろうじゃないか。

 

 一口米を運ぶ。少し固めに炊かれた米はむぎゅむぎゅと噛みごたえがあって、身体に活力が漲ってくるようだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 濃い緑の生い茂る森の中に影が浮かんでいた。箒の房になびく髪。その上で揺れるとんがり帽子は人里にはないシルエットである。

 雲の浮かぶ青空を背に飛ぶ影――魔理沙は今日も当てなく大空を飛翔していた。

 

 いつもなら家に篭って魔法の研究でもしている彼女だが、なんだか妙に捗らず外に出てきた次第である。外の空気は家の中と違ってひんやりと冷たく、遥かに澄んでいるように感じられる。ただ魔法の森特有の湿った感覚は、慣れたものとはいえ少し不快。空を飛んでみても、あまり違いがないように感ぜられた。

 

「空は晴れてんのに……なんか落ち着かないなぁ……」

 

 原因はまったく不明。こんな天気の日はいつもなら諸手を挙げて空を滑空するところなのだが、なぜかそんな気分になれなかった。霊夢曰く快楽主義者な自分がこんな暗い雰囲気になるのは珍しいことなのだ。

 多分、家の中でも無意識にこの感覚を感じていたのだろう。実験が捗らないわけである。

 

「(最近は事件もないし、平和は平和なんだが……)」

 

 嗚呼、これが嵐の前の静けさというものなのだろうか。

 平和が続くこの頃に感じた今の不愉快な気分。或いはこれが勘というものなのかもしれないが、魔理沙には今の平穏がどこか紙一重なものに感じられるのだ。何か些細なことで大きく事が変わってしまう予感――なんともそわそわして嫌な感じだ。こんな感覚をいつも感じているのなら、霊夢の当たりすぎる勘というのも便利なばかりでないと魔理沙は思う。少なくとも、彼女には常に何かを心配していられるような豪胆な肝は備わっていないのである。

 

 まあ、心当たりくらいならある。むしろそれの所為でこんなにもそわそわするのかもしれないとすら思う。

 脳裏によぎるのは、ほんの数日前に霊夢とともに訪れた、森の中の光景だった。

 

「……けっ、思い出すだけでも気が滅入るぜ。胸糞悪りぃ……」

 

 黒く固まった血の空間。一体なにをすればあれ程の血が噴き出るのかすら魔理沙には想像できない。魔理沙の頭では到底及びもつかない理解不能の領域――あの空間にいて吐き気がするほどに感じたのは、ただひたすらにおぞましい狂気であった。

 

 そう、あの事件に関しては解決していない。少なくとも魔理沙の中では。

 

 魔理沙は言わば“なんちゃって解決者”である。異変に挑む理由など大したものは持ち合わせていないし、霊夢のように妖怪退治を生業にしているわけでもない。

 挑みたいから挑み、その結果解決できてしまうから解決者と呼ばれるだけだ。そこに霊夢のような使命的な意味などない。

 しかし、そこに実力が伴わないのかと言われれば断じて否だ。

 確かに彼女は使命を帯びて異変解決に挑んでいるわけではない。だがそれに幾度と挑み無事に帰ってこれているのは偏に彼女が強いからである。霊夢ほどとは言わずとも、魔理沙はその努力で手に入れた超火力の魔法を以って大妖怪すら相手取る。霊夢の次に強い人間は間違いなく彼女なのだ。

 

 そんな魔理沙の経験的な勘(・・・・・)が、悪い予感を感じ取っていた。

 あの光景を見逃してはいけなかった。その場で熟考し行動に移すべきだった。何より……あの件を霊夢に任せてはいけなかった、と。

 

「(あー……ミスったのかなぁわたし……まあ今更悩んでも仕方ねーけど)」

 

 時空魔法でも使えりゃタイムリープしてやるんだが、と諦めた笑いを零して、魔理沙は自慢のとんがり帽子を被り直す。熱がこもり過ぎていたのか、被り直すと帽子が少し熱く感じられた。

 何とはなしに己の相棒――ミニ八卦炉を取り出して調子を確かめる。魔理沙の扱うあらゆる魔法の重要なファクターであり生活必需品でもあるこの道具は、彼女自身の日々の手入れによっていつでも絶好調だが、何か胸騒ぎがして、魔理沙は昨日の手入れ忘れたかのようにじっくりとミニ八卦炉を眺め回す。

 

 そして、満足げに頷いた――その刹那だった。

 

「うむ、今日も絶好――ッ!!?」

 

 

 

 首を刈り取る、鋭利な刃の気配だった。

 

 

 

 咄嗟に身を屈めて刃を避ける。風切り音すら聞こえないのは、きっとそれほどまでに鋭い神速の一太刀だったことを窺わせる。

 咄嗟のこと過ぎて取り落としそうになったミニ八卦炉をおろろと掴み、即座に気配の感じた方向へと向けて目を細める。が、そこには誰もいなかった。

 

 冷や汗が噴き出ている。背筋を伝う汗は氷塊の如き冷たさだ。

 今の一撃、あと一瞬でも気が付くのに遅れていれば間違いなく首が飛んでいた。自分の実力に自信のある魔理沙だからこそ、首を狩られるその刹那まで気配に気が付けなかったことに愕然とすると同時に、戦慄していた。

 

 周囲を見渡す。誰もいない。或いは一旦身を隠して隙を伺っているのか。どちらにしても次は逃さない――そう思っていた魔理沙はしかし、

 

 先ほどと同等の刃の気配を無数に――目の前に(・・・・)感じ取る。

 

「な――ッ!!?」

 

 不可視の刃――その一言が脳裏をよぎる。突如現れた刃は魔理沙の真正面から飛来したにも関わらず、先ほど同様に直前まで気配が悟れなかった。

 能力か、そうでなくても無数の刃を同時に飛ばすなどその道の達人にしかできないこと。相手は相当強力な相手で――自分はこの攻撃に対処する術を持たない。

 魔理沙は激痛を覚悟して頭部を両腕で守るように構えた。

 

 ……が、魔理沙の身体に触れたのは、刃ではなく。

 

「〜〜っ、……? こりゃあ……魔力?」

 

 体に衝撃はなく――否、感覚的には強烈な魔力の衝撃を感じとり、魔理沙は困惑を露わに腹や手を触ってみる。

 傷はない。痛みもなければ血も出ておらず、相変わらず張りのある柔らかい肌だった。

 

「(一体なんなんだ……ただの魔力を攻撃だと錯覚したってのか……!?)」

 

 ただ漂ってきただけの魔力を必死の一太刀と錯覚した――その事実にさぁと顔を青褪め、どくどくと苦しいほどに心臓が鼓動を刻む。干上がる喉に思わず手を添えると、粘度の高い唾液が口の中に溢れてきて、ごくりと飲み込んでもまだ苦しい。

 あり得ない、と思った。

 

 魔力は純粋な生命エネルギーではない――後天的に身につけることができるため――が、身体に宿る異形の力という意味ではそれらと同義である。それはあらゆる術を行使するのに使用されこそすれ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。術の発動に消費されるからだ。

 なのに、漂ってきた魔力を攻撃なのだと錯覚してしまった。

 これは魔理沙の常識を超えた事象であり、理解不能の現象。この魔力を放った者は、恐らく魔理沙の常識を悉く覆すレベルで魔力を変質させてしまうほどの力を持つ者なのだ。

 

 それこそいくつもの異変に挑み、そして確実に功績を残してきた彼女の肌にほんの少し触れただけで死を覚悟させるほど。

 

 だが、疑問も残る。なぜこれほどまでに強大な力が、むしろほんの少ししか漂っていないのか? 強烈な衝撃波として襲ってきていても何ら不思議ではないほどなのに。

 ――その答えを、魔理沙はすぐに知ることになる。

 

「っ、これは……」

 

 不意に、ちらりと微かな力が頰を掠める。先ほどの魔力が巨大な滝ならば、それは流される小枝ほどの小さなものだったが、魔理沙には分かった。

 だってこの力は……何年も共に時を過ごした親友の霊力だ。

 

「まさか……霊夢、か? 霊夢が、この化け物みたいなヤツとやってるのか……!?」

 

 今にも飲み込まれてしまいそうな微かな霊力。それは普段の彼女には全く似つかわしくないものだが、確実に彼女のものだった。加え、もしそうなら先ほどの疑問に説明もつく。恐らくこんな異質な魔力が外に漏れないよう結界の中で戦闘しているのだろう。或いは他に何か思惑があるのかもしれないが、それは魔理沙には与り知らぬことである。

 

 一体だれと戦ってる? そもそも何が理由で? いや、十中八九例の件だろうが、あの光景を生み出した奴がこの化け物だってのか? ならなぜあんな小さな事件を起こす?

 様々な思考が一瞬のうちに魔理沙の脳裏をよぎっていくが、結局辿り着いた答えは一つだった。

 

「……ああ、霊夢は殺せない。殺しちゃいけないんだ、この世界では。だから心配ない。最後に勝つのはいつだってあいつなんだから」

 

 そう、いくら相手が化け物染みていても、凶悪な存在でも、この世界にいる限り霊夢を殺すことは自身の破滅を招くことと同義である。霊夢は紫と共に幻想郷を見守る存在だが、その幻想郷を包む博麗大結界の要となっているのは霊夢自身である。故に彼女を殺めることはこの世界の破滅に等しい意味を持つ。だから今までの異変の首謀者たちも彼女の命だけは取ろうとしない。この世界で最も忌まれる禁忌なのだ。

 

 だから今回のやつも、霊夢の命は取れない。そして霊夢は消し飛ばしでもしないと死にそうにないと思えるほど強い人間だ。

 心配は不必要なのだ。杞憂なのだ。……そのはずなのだが、魔理沙はどうしても不安が拭えなかった。今日の不愉快な空気が理由なのか、それとも感じ取れる力の差があまりにも大きい為なのかは分からないが、どうしても魔理沙には霊夢にすべて任せて知らんふりをするのに抵抗があった。

 

「…………仕方ねえ、ちょっくら助けてやるか。親友、だもんな」

 

 魔理沙は帽子を深く被り直すと、あの魔力から確かに感じた恐怖を心の内に閉じ込める。

 戦闘に恐怖は必要不可欠だが、過度なものは毒にしかならない。その毒はきっと体の動きを鈍らせ、最後には死を招く。特に今回の戦闘は弾幕ルールを使っていないようだし、気を抜いてはいられないはずだ。

 

「今行くぜ……霊夢!」

 

 胸に燻る不安と不愉快な空気。それらを振り払うように、魔理沙は箒に魔力を込めて空を駆け出した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 秋らしい、夕焼けの空が広がっていた。

 橙色の光が山の向こうから空を覆い、その中で転々とした黒い鳥がかぁかぁと声音を上げている。それがどうにも必死に見えて、まるでもうすぐやってくる夜の時間を恐れているようだな、なんて阿求は思った。

 

 空を眺めて、視線を落とす。縁側で広げた本の文字は、赤く照らされて非常に読みにくい。読むこと自体を億劫にさせる気怠さが感じられた。つと屋敷の奥に目をやって、一つ軽い溜め息を吐く。

 

「どうかされたのですか阿求様。溜め息など珍しい」

「ぁ、夢架。ありがとうございます」

 

 声と同時に小さな毛布のような布が肩にかけられる。もう夕方でも肌寒い時期、何も掛けずに縁側で座っていては風邪を引いてしまう。考え過ぎて自分の体が強くないことを忘れていた阿求は、はにかみながら傍に控えた夢架に礼を言う。彼女は変わらず、無表情だった。

 

「いえね……少し悩んでいまして」

「悩み事ですか。恋煩いでしょうか」

「そうですね……っていや、違いますよ!? こらっ、そんな目で私を見ないっ!」

 

 口元を隠して胡乱な視線を向けてくる夢架に抗議の阿求。この侍従、完璧かと思っていれば意外とボケてくる。全身作り物のように整った姿形をしているくせに意外とお茶目なところのある侍従なのだ。今までのお付きだったら絶対にこんなことはない。

 

 ……まあ、夢架なりの気遣いなのだと思えば苦ではないのだ。思い詰めた雰囲気の阿求の頭に新しい風を運んでくれたのだろう。夢架を叱るのもそこそこにして、阿求はもう一度茜色の空を見上げた。

 

「なんのお悩みかは存じ上げませんが、私にできることはあるでしょうか」

「ふふ、あなたがやるべきことを尋ねてくるのは初めてですね?」

「……私は完璧ではありません。やることが分からないときもあります」

「そうですね、完璧な人間なんていません。じゃあ、そうだなぁ……ただ、聞いていてください」

「畏まりました」

 

 話せば気が楽になることもある。阿求はそう自分に結論付けて、手元の巻物の文面に目を落とした。

 今更言葉を遠回す必要もない、当然これは吹羽に関することだ。いつだったか、吹羽が書斎から見つけてきた謎の家系図――あの存在を疑問に思って、少し調べた結果分かったことである。この巻物には、その手がかりが記されていた。

 

「いつ言うべきか、悩んでいるんです」

 

 本当に独り言のように、阿求はポツリと言葉を落とす。

 

「吹羽さんは自分のことを知りたいと言っていました。だから私はその力になってあげたい……でもこの事実は、吹羽さんの認識を大きく変えることになるかもしれないんです」

 

 況して、今の吹羽は霊夢とのことでとても疲弊している。そこに大きな事実を告げてしまえば、きっと彼女は抱えきれないだろう。

 それは阿求の望むところではない。自分が望むのは吹羽の平穏であって、間違っても“驚愕の事実とやらを知って自分の運命に立ち向かう”などという英雄的なものではない。

 いつものように店を開け、訪れる人たちと笑顔を交わし、時折自分を始めとした友人たちと遊んで、なんの事件にも巻き込まれずに平穏な生を過ごして欲しい――阿求が吹羽に望む人生とはそういうものだ。

 

「今告げるべきではないんです。でも、今告げなかったら、永遠に告げる機会を失ってしまう気がして、なにか怖くて……」

「……それは――!」

 

 言いかけて、言葉を止める。

 訝しげに思って夢架を見ると、廊下の方を見つめて固まっていた。引き結んだ唇は、意図的に口を噤んだようにも見える。つられて視線を向けると、そこには。

 

「吹羽、さん……」

「………………」

 

 未だ沈痛な面持ちの吹羽が、立っていた。

 しかし、その瞳は僅かに強い決意を窺わせる光が宿っている。しっかりと心の準備を済ませてきたということだろう。

 だが、しかし――阿求を見やるその瞳は、やはり別のことを訴えているように見えた。

 

「聞かせてください、阿求さん。ボクの家の……ううん、ボクのことを」

 

 言い逃れは、出来ないか。阿求は素直に観念して、しかしやはり今言うことを拒んで押し黙る。終いには向けられる強い視線に耐えられずに吹羽から視線を逸らした。

 そんな阿求に、吹羽は言い募る。

 

「心の準備はしてきました。どんな言葉も受け止めて、ちゃんと頭で理解しようっていう準備です。お兄ちゃんのことも、霊夢さんのこともボクには大切なことで、ちゃんと考えなきゃいけないことです……でも、その前にボクは、ボクのことをよく知らない……自分のことを知らないのに、友達のことを理解なんて出来ないって思うんです」

 

 よく考えて、感じたことに素直な気持ちを言葉にして、そうして整理した先にある結論のように。

 吹羽の言葉には確固たる意志があって、どんなに言葉を募っても意見を変えないであろうことがよく分かった。

 

 それでも逡巡する阿求に、夢架の鈴転の声がかかる。

 

「……阿求様、僭越ながら意見させていただきます。吹羽さんが望むのであれば……受け止める準備ができているというのなら、良いのでは? なにを聞いても、吹羽さんは吹羽さんでしょう?」

「…………そう、ですね」

 

 なにを聞いても、なにを成しても、それは変わらず吹羽であり、なにも変わりはしない、と。

 阿求が明らかにした事実は確かに、人里である程度平穏に過ごしてきた幼子には大きな事実だが、それを聞いて吹羽が変わってしまうかどうかと問われたなら――阿求は、緩く頭を横に振る。ただ、心の内が混乱している今告げることは得策でないと思って告げることを渋っているのだ。

 だが――吹羽が受け止めてみせる、と言うのなら。

 信じてやるのが、親友というものだろうか。

 

「――“名前”というのは、存外に重要な意味を持っているんです」

「……え?」

 

 巻物の文面に目を落としたまま、阿求は呟くように語り始める。

 

「人が生まれて、初めに与えられる“意味のある言葉”……そういうものは、与えられたものに意味を与え、存在を定義するんです」

「……親が子供に名を与えるのが、自分の子だと定義するということ……そういうことですか?」

「そう、その通り。名前は呼ばれることで他人に認識され、認識されることで自分を意識するんです。“ああ、そう呼ばれるのが自分なんだ”、と」

 

 一見なんの脈絡もないように見える阿求の話に、吹羽は彼女の傍に腰を下ろして聞き入る。

 名前を呼び合うことで存在を定義し合う――名前とは、人や妖怪といった“個”を世界から区分する膜に等しいのだ。名を持たなければ、定義されることもなく存在しないに等しい状態に陥ってしまう。

 

 阿求は、あの家系図の塗り潰された名前を特に不思議に思っていた。

 あの名前は樹形図の一番初め、つまり最も先祖にあたる部分だ。一族の中で追放などされた場合は塗り潰されたりもするが、始祖にあたる存在を追放するわけはない。

 

「吹羽さん。あの家系図は確かに風成家のものではありませんが……恐らくあなたの前の家(・・・・・・・)のものです。相当大切にされていたようですが、それも含めて風化具合を見ると何百年も前……恐らくは、風成家の初代にあたる頃のものと思われます」

「何百年も前……? じ、じゃああれは、初代様の持ち物……!?」

「ええ。恐らく初代当主が風成家を起こす前のものでしょう」

 

 初代が出家したのか単純に滅びたのか、初代が家を出た際に持ち出した、或いは書き写したもの――それがあの家系図だ。恐らく吹羽の両親はその存在を知っていたのだろう、だから名字が違っていたし、風化が進まないよう本に挟まれていた。

 

 では、なぜ初代はそれを大切にしようとしたか。名前が塗り潰されていたか。

 それを阿求は、常々思っていた疑問と共に語る。

 

「もう一つ、ずっと疑問に思っていたことがありました。吹羽さん、あなたの家は幻想郷の創世記から存在する家です。つまり、この世界ができた時にはもうこの世界にあった……ならばなぜ、あなたの家だけ龍神様ではなく、風神様を信仰しているのでしょう?」

「え? それは、だって……ずっとずっと昔から風神様を信仰していたから……」

「そうです。この世界全体が龍神様の御力の及ぶ領域であるにも関わらず、あなたの家だけは元の信仰(・・・・)を忘れなかった(・・・・・・・)。それはなぜです?」

「……??」

 

 未だに理解の及ばない表情で小首を傾げる吹羽に、阿求は仕方なさそうな笑みを向ける。それも当然、この話はちょっと複雑だ。

 阿求は手がかりを並べるのをやめ、重要なことだけを述べることにした。

 

「吹羽さん、名前は存在を定義します。だから、“名前を捨てる”ことは即ち……その存在を逸脱する(・・・・・・・・・)――ということに他ならないんです。だから家系図に名前を書いておけなくなった」

「存在を、逸脱する……?」

「はい。そして初代が家系図を大切にしていたのは恐らく、己の信仰心を……一族の信仰心を忘れさせないため。“風神”という神を忘れないためです」

「神様を忘れない……え、待って、下さい」

 

 そう、人を逸脱した故に家系図から名前を消された。自分たちが信仰するべき存在となった(・・・・・・・・・・・・)先祖を、自分たちと同格とはしておけなかった。そして初代はその信仰を、“風神”の信仰を忘れないようにするため家系図を受け継ごうとしたのだ。

 人から“信仰するべき存在”になった例など、数える程度しかいない。

 

「人という存在を逸脱して、それを初代様が大切にしようとした……って、ことは」

「……はい。あなたは恐らく、あの一柱(・・・・)の――」

 

 

 

 ――と、その時だった。

 

 

 

 阿求が座る縁側、そこから見える庭に何かが勢いよく着地する音が聞こえた。相当勢いがあったのかザリザリッと庭の地面を抉りながら止まったのは――腕や頰から血を流す、霧雨 魔理沙だった。

 

 一瞬呆ける三人だったが、ふらふらとした足取りの魔理沙がガクンと崩れ落ちたのを境に我を取り戻す。

 

「ま、魔理沙さん!? どうしたんですかその傷っ!?」

「夢架っ、今すぐに治療具を! 応急処置をします!」

「すぐに」

「いやいいっ、私のことは後でいい!」

 

 魔理沙の状態に慌ただしく動き出す三人を強い口調で引き止め、彼女は駆け寄った吹羽の肩を勢いよく掴んだ。

 怪我をしているとは思えないほど力強く、そして焦燥に駆られた表情で、魔理沙は告げる。

 

 

 

「霊夢が――死にかけてんだッ!」

 

 

 

 その、絶望すべき事実を。

 

 

 




・盆東風【ぼん-ごち】
 夏の終わりに吹く東風。暴風雨の前兆と言われる。

 今話のことわざ

 なし

 今章はコメディっぽさがでるように頑張ってみたのですが、どうだったでしょうか? こういうのって自分で面白いと思っていても読んでみると寒い、つまらないなんてことがよくあるので、このすば!とか万人を笑わせられるようなネタを思いつくラノベ作家さんには素直に脱帽です。その才能を分けて欲しい(切実

 ともあれ、ここから物語が動き出します。今までのお話でいくつか謎が残ってると思いますが、それらの伏線もようやく回収のターンですね。し切れるか不安ですけど。
 活動報告でお知らせした通り、ここからは一話ずつ書きあがったら投稿……完全な不定期更新になります。納得できるものが書きあがったらすぐ投稿するつもりですので、それまで少々お待ちください。

 それでは次回の投稿まで、ではでは〜。


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科戸風の章
第四十一話 本当の気持ち


 お待たせしました。科戸風の章、開幕です。


 

 

 

 魔理沙の手当てもそこそこに、吹羽は魔理沙、阿求とともに箒に飛び乗って先を急いだ。

 生温かいような風が全身を包んでいる。冬の温かい風は有り難いはずなのに、今だけはそれが不安を煽る気味の悪いモノのように思えて仕方がない。会話も憚られるような逼迫した空気の中で、三人は博麗神社に辿り着いた。

 

 辿り着くなり箒から飛び降りて、吹羽は勢いよく居住区の扉を開け放った。

 

「霊夢さんッ!」

 

 答える声はない。代わりに奥の方から微かな声が聞こえてくる。自分の声に反応しない薄暗い建物の中は、見慣れているはずなのにとても恐ろしいモノのように思えた。

 吹羽は阿求と魔理沙が来るのも待たず、靴を放り出して声の方へと向かう。

 

 ばくばくと跳ねて急かす心臓の鼓動を押さえつけながら、いくつかある部屋の中で唯一明かりの漏れる場所、霊夢の寝室の襖を開いた。

 

 そこにあったのは――医師と思われる女性二人と、意識のない霊夢の姿。

 

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 

「えっと、二番の薬は……って、ん? なにこの子。今治療中だから外に――」

「霊夢、さん……霊夢さんッ!」

「あっ、ちょっと!?」

 

 頭にウサギ耳のついた少女が駆け寄ってくるが、吹羽はその手をすり抜けて霊夢に詰め寄る。

 今の吹羽には、静止の言葉など全く聞こえていなかった。

 

「やだっ、霊夢さん! 死なないでください、霊夢さんッ!」

「ああの治療中だからっ! 近づいちゃダメだってば!」

 

 何が何だか分からない想いが溢れてきて、頭の中が真っ白に染まっている。考えがまとまらなくて、霊夢が目を瞑って倒れているこの状態がたまらなく嫌で、吹羽はなにも考えることができずに悲痛な声をあげた。

 言葉がまとまらない。自分の声に、霊夢が反応してくれない。

 

 激しく狼狽する吹羽の声に、しかしぴしゃりとした声が響いた。

 

「静かに」

 

 それが目の前の――霊夢に向かう銀髪の女性の言葉だとはすぐに分かった。吹羽に放たれたその声は鋭く真剣で、僅かに向けられた瞳は冷たい光を帯びていたのだ。

 その雰囲気に吹羽は声を詰まらせ、形の定まらない言葉は霧散した。

 

「鈴仙、その子を外に。治療の邪魔よ」

「は、はい師匠。……ちょっとゴメンね」

「ふぇ……っ!?」

 

 女性の声に応え、ウサギ耳の少女――鈴仙は吹羽の目を見つめた。

 美しい真紅の瞳。吹羽の瞳を覗き込んだそれが妖しい光を放つと、突然視界がぐにゃりと歪んだ。耳に入ってくる音もひしゃげて遠くなり、平衡感覚が狂ったようで立つことすらままならない。

 抵抗できずその場に倒れこむと、先ほどの女性の声だけがやけに透き通って聞こえてきた。

 

「安心なさい、博麗の巫女は絶対に死なせないわ。死んでもらっては私たちも困るもの」

 

 鈴仙に抱えられ、部屋の外へと連れて行かれる。心地悪い浮遊感が襲ってくるが、それでも吹羽は必死で手を伸ばしていた。

 

「(れい、む……さん……!)」

 

 歪んだ視界がボヤけて暗くなる。伸ばした手は虚しく空を切って――吹羽はふつと気を失った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――おや、目が覚めましたか?」

 

 ふと意識が水面に浮かび上がるような心地がして目を開けると、そこには微笑む阿求の顔があった。背には畳独特の柔らかいような硬いような感触があり、後頭部には人肌の暖かさと柔らかみが。

 吹羽は阿求に膝枕をされているらしかった。

 

「あきゅう、さん……ッ! れ、霊夢さんはっ――うきゅっ!」

「落ち着いてください吹羽さん。あなたが慌てても何も変わりはしません」

 

 暴れ出す吹羽の頭をぐいと抑え、阿求は諭すように言葉を落とす。落ち着いた様子の阿求の笑みに、強張っていた身体から力が抜けていくようだった。

 吹羽は大人しく頭を阿求の柔らかな太ももに戻すと、不安を拭いきれない瞳で彼女を見つめ返した。

 

「あ、阿求さん、霊夢さんは……」

「先ほど、一先ず山は越えたと永遠亭のお医者様から知らせが来ました。今は引き続き様子を見ているところです」

 

 そういうと、阿求は優しい手つきで吹羽の髪を撫でた。その手つきがまるで母親のような包容力に満ち満ちていたものだから、氷山のようだった不安が、しとしとと溶かされていくようである。

 

 そうやって心を落ち着けていると、暗い気持ちを吹き飛ばすような声が聞こえてきた。

 

「いて、いててて痛いって! もうちょっと労ってくれよ怪我人だぞっ!?」

「だから労って治療してあげてるんじゃないの。薄い切り傷ばっかりなんだから多少痛いのは我慢しなさい」

「お前ほんとに医者かよっ!」

「残念ながら“薬師の弟子”なんですよねこれがぁ〜」

 

 はい終わり! ――そう言って、ウサギ耳の少女が布を当てた魔理沙の腕をぺちんと軽く叩く。すると魔理沙は声にならない叫びをあげて畳をのたうち回った。多少の知り合いではあるのだろう、ウサギ耳の少女は魔理沙の様子を呆れたように見下ろしてはふんすと息を吐いている。

 

「さて、じゃあ片付け――あ、さっきの子気が付いた? さっきはごめんねー、師匠って怒らせると怖いからさ? 真剣な時は逆らいたくなくって」

 

 まあ弟子なんだから当たり前なんだけど、と付け足しながら、ウサギ耳の少女は吹羽に向けてぎこちない笑顔を浮かべた。

 吹羽はゆっくりと起き上がると、小さく首を振るって気にするなと示す。慌てて声を上げられるほど、今の吹羽には元気が残っていなかった。

 

「あたし、鈴仙(れいせん)優曇華院(うどんげいん)・イナバ。さっき霊夢を治療してた八意(やごころ) 永琳(えいりん)先生の弟子をしてるわ」

「風成 吹羽です……。人間の里で鍛冶屋を営んでます」

「よろしくっ。まあ怪我しなけりゃ会うことなんてないとは思うけど。なんか怪我したら、ぜひ永遠亭まで来てね、吹羽」

 

 そう言って笑顔を浮かべる鈴仙はとても可愛らしく魅力的だったが、やはり霊夢のことでいっぱいいっぱいの吹羽は軽い会釈を返すのみで俯いてしまう。

 鈴仙は少し不満気に唇を尖らせるが、吹羽の心境のことは分かっているのかそれ以上に言葉はなく、再び微笑んで吹羽の頭をポンポンと撫でた。

 

「随分霊夢と仲が良いのね? あんなに必死な人の顔は久方ぶりに見たわ」

「それ、は……」

 

 ――霊夢と仲が良い。

 その一言が胸に突き刺さる気がした。

 拍子に溢れ出してきた涙は堪えられないほどで、目の端からぽろりぽろりと涙がこぼれる。

 真っ黒な後悔が、心の内に渦巻いて暴れていた。

 

「え、ええ!? ど、どうして泣くのっ!? 撫でられるの嫌だった!?」

「ああいえ、そうじゃないですよ鈴仙さん。……ほら吹羽さん、涙を拭いてください」

 

 見兼ねた阿求が近寄ってきてハンカチを差し出す。吹羽は大人しくそれを受け取ってぐしぐしと涙を拭いた。慌てていた鈴仙も、その様子にほうと息を吐いていた。

 

 しかし、そうして落ち着くと、先ほどの言葉が再び頭の中で反響し始める。

 阿求が傍にいるからか涙が溢れることはなかったものの、心の中は嵐のように荒れ狂っていた。

 今までの思い出、喧嘩した日の言葉、想い、倒れ伏した霊夢の姿。それらが激しくフラッシュバックを繰り返し、更に焦燥と後悔を煽っている。

 どうしよう、なぜこんなことに。

 そんな取り留めのない言葉ばかりが、吹羽の心の中を蹂躙していた。

 

「……大丈夫ですよ吹羽さん。霊夢さんは強いですから、きっと平気です」

「でも、でも、阿求さん……霊夢さん、気を失ってました……っ! 目、閉じてて……肌も青白くって……これじゃあまるで――っ!」

「吹羽さんっ!」

 

 吹羽の言いかけた言葉を阿求が遮る。しかし、一度溢れ出したら、言葉は止められなかった。

 

「ボク、霊夢さんに酷いこと言っちゃいました……っ、大っ嫌いだって、そんなこと、思ってもないのに、勢いで言っちゃったんです……っ! ボク、謝れてないです……霊夢さんと、仲直りできてないんです……っ!」

 

 あの日、確かに吹羽は霊夢の言葉に激怒した。そりゃあそうだ、彼女は親友なのに吹羽の幸せを否定したのだから。

 だがその程度で霊夢への気持ちが覆るなんて、そんなことはない。ある訳がない。だって彼女が吹羽のためにしてくれたことは紛れも無い事実で、それに感謝する気持ちも間違いなく事実だから。ただ、霊夢のものとは思えない言葉に激昂してしまっただけなのだ。

 

 大っ嫌いだなんて……本当は思ってもいなかったのに。

 

「いやですよ……こんなの、あんまりですぅ……っ! 霊夢さんと、仲直りしに来たのに……会いに行こうって、決めたのにぃ……っ!」

「吹羽さん……」

「れいむさん……れいむさんが、しんじゃったら! っ、どうしよぉ――っ!!」

 

 胸を締め付けるような、悲痛な慟哭だった。

 大好きな親友と喧嘩別れしたまま置いて逝かれるなど吹羽には耐えられないことで、認めることなど絶対にできないのだ。

 

 いつだって霊夢が心の支えだった。神社からここまではかなり距離があるのに、ぶっきらぼうに理由を付けてはよく会いに来てくれて、困ったことがあればなんだかんだ言っていの一番に助けてくれた。あの笑顔に救われた回数など数知れず、叱られた時にさえ胸が暖かくなるような心地になった。文との一件では自分のために怒ってくれて、しかしそれでも吹羽の意思を尊重してくれた。

 

 計り知れない感謝があった。

 伝えきれない想いがあった。

 

 それが、たった一度の喧嘩なんかで無為になるなんて……あまりにも酷過ぎる。

 

 縋るように阿求を見つめる瞳からは大粒の涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちて吹羽の手の甲に落ちる。スカートを握り締める彼女の手は、小刻みに震えていた。

 あまりにも切ないその姿に三人は呆然として、言葉のひとつも――指先すらも動かせない。

 大切な友人が死の淵を彷徨っている状態を嘆く彼女に、一体どんな言葉をかければいいというのか。簡単に“きっと大丈夫だ”と励ますことはできない。かといって“彼女は恐らく助からないだろう”だなんて口が裂けたって言えない。こういう時、励ますことが大切なのは事実……だがどうやって励ませばいい?

 

 絶望した心は酷く脆い。不用意に触れれば砕け散って、ともすれば元に戻らないかも分からないものだ。吹羽の慟哭は彼女の悲しみ、後悔、絶望を空間に響かせ、三人の心に浸透させていた。

 

 親友たる阿求も、いつだって元気な魔理沙すらかける言葉を見つけられない今――ふと吹羽の前に歩み寄ったのは、薬師の弟子たる鈴仙だった。

 

 ――それは、流れるような動きで。

 

 

 

「こらっ」

 

 

 

 こつん。少しだけ頰を膨らませた鈴仙の、軽いデコピンが弾けた。

 

「医者の前で“もし死んじゃったら”なんて失礼だと思わない? こっちだって必死に命を繋ぎとめようとしてるんだから」

「で、でも……でも……っ!」

「でももへったくれもないの。医者が信用出来ないなら一体誰に治療させるのよ」

「……〜〜っ、」

 

 視線を落とす吹羽の頭に手を乗せ、そしてふと真剣な表情になると、鈴仙は彼女の瞳を覗き込むように見つめて言った。

 

「あのね吹羽、気休めは何の薬にもならないから先に言っておくわ。あなたを気絶させてから数刻経ってひと山は越えたけど……霊夢は今、結構ヤバい状況なの」

「――ッ!!」

 

 明らかに動揺した吹羽を見て咄嗟に魔理沙が声を上げようとするが、阿求の視線がそれを制した。

 鈴仙の言う通り、事実をひた隠して気休めを伝えても何も意味がない。むしろいざ最悪の場合に陥った時、その絶望に拍車をかけてしまうだろう。

 阿求も鈴仙の言葉に同感だった。下手に嘘を吐くより、事実を包み隠さず話して心を決めさせた方がまだ吹羽のためになる。例え吹羽には受け入れられない事実でも、実情を知らないでいるよりはよっぽど健全だ。

 そういう点が初対面の相手にも分かる鈴仙は、やはりさすが薬師の弟子というところである。

 

 鈴仙はビクついた吹羽の頭に手を置いたまま、躊躇いなく言葉を放つ。

 

「骨は何本も折れてた。切り傷は数え切れなくて、いくつかは内臓にも届いてた。破裂してるのもあったし、失血が酷くて、即死してもおかしくない状況だったの」

「っ! そん、な……」

 

 想像を遥かに超えた惨状に、吹羽の表情が再び絶望に染まる。しかし、鈴仙はなんの躊躇いもなく言葉を続けた。

 

「あんまりにも酷い怪我だったもんだから、流石の師匠も焦っていたわ。あいつに死なれちゃこっちも困るから。よくもまあそんな怪我で……あたし達を呼び出せたもんよね」

「…………ぇ? 呼び出せた……?」

「……ふふ、そう。呼び出されたの、あたし達」

 

 そう言って鈴仙は悪戯っぽく、しかし優しげに目元を緩ませた。

 

「あんな怪我をしていて、虫の息にも等しい状態で、簡単な式神を使って声だけ届けてきたの。……なんて言ったと思う?」

「なんて、って……助けてください、とか」

「あはははっ、あいつがそんな謙ったこと言うわけないじゃない!」

 

 軽く笑って、立てられた人差し指が吹羽の目の前で揺られる。違うわ、と前置いて、鈴仙は笑顔(・・)で言った。

 

 

 

「“ヤバい死にそう。今すぐウチ来て治しなさい”って」

 

 

 

 ――それはなんとも状況にそぐわない粗野な言葉で、なんの必死さもなくて、そして何より――いつもの霊夢らしい理不尽な言い方だった。

 

「これでも人外なあたし達を信用してたわけでもないでしょ。あいつはね、自分が死ぬなんてこれっぽっちも思ってないのよ。例え本当に死の淵にあったとしても、死ぬなんてありえない……或いは死ねないって、思ってるのかもね」

 

 そんな言葉を、鈴仙はさして気を悪くしてもいないように笑顔で語る。そこには何があっても死のう(・・・)としない(・・・・)霊夢への好感が見て取れた。

 例え死の間際にいても、死を受け入れず生に縋り付くのは、ともすれば醜くみっともない姿と言われるかもしれない。しかしそれは、医者から見れば非常に好ましい姿勢なのだろう。生きようとしない者を救う理由はない。生きようとする者に手を差し伸べるからこそ、医者は医者たり得る。その価値があるのだ。

 

「人ってのはね、気の持ちようで幾らでも変われる。だから、死の間際にいても普段通りの自分を貫き通せるあいつが死ぬわけなんてないし、あたし達が死なせない」

「鈴仙、さん……」

「あいつが死んだ時のことを泣きながら考えるくらいなら、あたし達をもっと信用しなさいよ。人として信頼するのは無理だろうけど……医者ってのはね、患者に対しては誰よりも誠実な者のことを言うんだから」

 

 鈴仙の言葉は、吹羽の心に染み入るようだった。

 決して楽観視はしないけれども、自分たち医者という存在を信じろ、と。霊夢が死んだ時のことなんて思い浮かべるより、霊夢が生き残ることだけを祈っていろ、と。

 ぱっと靄が晴れるようだった。覗き込んでくる鈴仙の瞳は強く輝いて、真っ直ぐに見つめ返してくるその姿勢に計り知れない頼り甲斐が感じられた。

 

 ――霊夢は死なない。死ぬわけがない。

 

 この世界で誰よりも強いのは霊夢だ。人間の“有り得ない”を体現したような存在が霊夢だ。どんな相手に対しても負ける姿を想像すらさせないのが、霊夢という博麗の巫女なのだ。そんな彼女のちょっとし(・・・・・)た怪我(・・・)を、目の前の医者は治してみせると吹羽に示した。ならばもう、吹羽が心配するなど杞憂に等しいのだろう。

 阿求のいうとおり、今ここで吹羽が泣き喚いたって何も変わらない。霊夢の命綱を握っているのは吹羽でなく、鈴仙たち。吹羽にできるのは泣くことではなく――どうか霊夢が助かるようにと、神に願うのみなのだ。

 

「は、い……はい……っ! 霊夢さんを、お願いします……っ!」

「ええ、任せときなさいって!」

 

 むんと胸を張る鈴仙に、吹羽は涙を溜めながらも笑顔を浮かべる。傍で事の成り行きを見守っていた二人も、吹羽の様子に少し頰を緩ませていた。

 さて、と前置き、鈴仙が立ち上がる。その手には救急箱を持って、彼女は再び霊夢の寝室の方へと去っていった。どうやら魔理沙の治療が目的で部屋から出てきていたらしい。

 

「吹羽さん、お茶を飲んで一つ落ち着いたらどうでしょう」

「ん……はい、いただきます」

 

 いつの間にやら机に出されていたお茶を湯のみに注ぎ、阿求が差し出してくる。それを一口啜ると、無意識に震えていた身体が弛緩して落ち着いていくようだった。

 

 霊夢はまだ眠っているのだろう。それを考えるとやっぱりそわそわしてしまうが、鈴仙のおかげか取り乱すほどの心配は襲ってこなかった。

 信じていれば、想いは届く。そのことを吹羽は、恐らく誰よりも知っている。

 

「……ところで、魔理沙さん」

 

 と、話が落ち着いたのを見計らってか、阿求がおもむろに口を開いた。

 

「なんだ阿求」

「一体全体、何があったんですか? 博麗の巫女が倒されるなんて……ただの妖怪、というわけではないのでしょう?」

 

 当然とも言える阿求の問いに、魔理沙は薄く微笑んでいた表情を引き締めて視線を逸らす。

 ――それだけで、ただ強力な妖怪が現れただけではないということを、聡明な阿求は悟れてしまった。

 

「霊夢さんは……何に、やられたんですか?」

「……それは――」

『妖怪じゃねェんだよ』

 

 突然響いた声に、三人はギョッとして周りを見回す。すると開いた障子の桟に背を預ける形で、もやもやとした霧が少女の形を形成し始めていた。

 その現象をそろそろ見慣れてきていた吹羽が、真っ先に声を上げる。

 

「萃香さん……? ってどうしたんですかその傷! もしかして、萃香さんも……!?」

「よぉ吹羽……こないだぶり――っ、いつつ……」

 

 姿を現した小鬼、伊吹 萃香は力なく微笑んで息を吐くと、無数にある傷の一つを抑えた苦しげに呻いた。

 慌てて立ち上がって駆け寄ろうとするが、萃香はそれを静かに手で制す。心配はいらない、ということだろうか。

 

「なんだ萃香、どこにいったのかと思ってたら霧になってたのかよ」

「ああ、多少は治りが良くなるかと思ってね。だが……どうやらただの切り傷じゃないらしい。わたしの回復力を以ってしてもまだ血が止まる程度さ」

 

 そう言って再度呻くと、指の隙間から傷口が見えた。まるで肉を鑢で削り取られたかのような(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)生々しい赤い肉が指の隙間から覗き、吹羽はびくりと体を震わせる。

 その様子に、萃香は汗の浮かぶ顔で微笑んだ。

 

「はは、この程度で驚くなんて、やっぱお前さんは小心者だな」

「で、でも萃香さんっ、その傷……!」

「なに、大したことないよ。ただ痛いだけさ。血も止まってるしね。そんなことより、もっと気にしなきゃなんねェことがあるだろ……っ」

 

 萃香の痛ましい姿に吹羽はおろおろと慌てるが、鬼の生命力を知っている阿求が傍に寄って落ち着かせる。

 自分の今の状態が分からない愚者ではない、萃香本人が大丈夫だというならば心配は無用ということだ。

 阿求は吹羽をその場に座らせ、萃香に目を向ける。吹羽の代わりに――というには己の興味が先行している気がしたが、阿求は萃香に問いかけた。

 

「妖怪ではない……とは、どういうことですか?」

「……そのまんまの意味さね。わたしらが戦ったのは妖怪じゃあないんだよ。妖怪の中でこんなにもわたしらを打ち負かせられる奴をわたしは知らない」

「っ、じゃあ、なにが……」

「……よう魔理沙、だから吹羽をここに連れてきたんだろ?」

「……ああ、そうだな。ちょっと……浅はかだったかなって思ってるけどな」

 

 そう言って魔理沙がちらりと吹羽の方へと目を向けたことを、阿求は見逃さなかった。その視線はすぐに外され、魔理沙の前髪の影へと隠れる。

 まるで言うのを憚かるような仕草である。勢いで吹羽を呼び寄せてしまったことを今更ながらに後悔しているかのような様相。

 ――二人が言わんとしていることを、阿求が悟るには十分過ぎた。

 

 萃香を圧倒できるほどの強者。

 妖怪ではないなにか。

 そして吹羽に向けられた魔理沙の――哀れむような視線。

 

 それはあまりにも……酷薄な事実。思わず拳を握りしめ、絞り出すような声音で言い募る。

 

「そんな……うそ、ですよね……? そんなことって……!」

「わたしだって驚いたさ……今まで魔力なんてこれっぽっちも感じなかったのに」

「だとしても、なぜこんな!」

 

 阿求の必死な声音に、魔理沙が押し黙る。話の行方に不穏な空気を感じ取り、吹羽が無意識に阿求の服の裾をきゅっと握ると、彼女はハッとしたように振り返って吹羽を見た。その表情があまりにも悔し気(・・・)で、吹羽の不安は更に大きくなって心を襲う。

 阿求がすがるような瞳で萃香を見ると、彼女は一つ大きな溜め息を吐いて、目を細めた。

 

 そして重そうな口を開いた――その時だった。

 

「全員、居るわね」

 

 湧き水のように澄んだ声音が響き渡る。萃香の言葉を遮ったその声に振り返ると、奥へと続く廊下には銀髪の美しい医者――鈴仙の師匠 八意 永琳が佇んでいた。

 

 神妙な面持ちで、先程のように真剣で冷たい印象だけれども、どこか一安心したような声音で、彼女は告げる。

 

「待たせたわ、霊夢の容態が安定した。……もう、部屋に入っても大丈夫よ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 もうそろそろ、宵の時刻だ。

 日が傾き、空が茜色を呈し始めて数刻。窓から差し込む光が目に入り、椛は僅かに目を細める。

 夕日は実に美しい光景だけれども、直に見ると目を潰されてしまう。素晴らしい景色が目の前にあるのに、ちゃんと見ようとすると見えなくなってしまうのだ。それはなんとも悲しく虚しいことで、世の理とはどうしてこうも上手くいかないものなのかなんて幾度か考えたことがある。

 しかし自分は、それに逆らうすべがないこの世界の住人。理の内。手のひらの上。

 椛は細めた瞳を、諦めたように閉じて息を吐く。

 

 そうして待つのは――背を向けて佇む天魔の言葉だった。

 

「……呼び出された訳は、分かっているかの?」

「…………は」

 

 短い問いに、短く返す。天魔は椛のそれに少しの疑いも見せず神妙に頷くと、ゆっくりと振り返った。

 その視線は、脱いで置かれた椛の風紋刀へ。

 

「原因は不明、しかし並みの相手でないのは確実じゃろう。儂も僅かに感じた程度じゃが……あんな魔力には覚えがない」

「……未知の魔法使い」

「ふむ……肯定はし難いのう」

 

 果たしてあの魔力の持ち主を魔法使いと称して良いものか――椛が窺う天魔の表情には、そんな言葉が見て取れた。

 明らかに異質な魔力。椛が哨戒中に感じ取り、また天魔が彼女を呼び寄せた理由たるそれは、二人をしてあまりにも馴染みのない異様なものだった。

 だが、彼が肯定し難いと言ったのがそれだけの理由でないことは、椛には分かっていた。

 

「天魔様も……思われましたか、あの魔力に」

「…………うむ」

 

 椛を横目で見て、天魔は首肯する。

 

「我ながら、天狗の持つ神通力とは便利なものよなぁ。“神に通ずる力”……あれだけ異質で覚えがない魔力の中にも、何か会ったことがある気がする(・・・・・・・・・・・・)とは」

「万能な力です、天魔様のものともなればそういうこともありましょう」

「うむ、そうじゃな。会った気がするからこそ、お主を呼んだのじゃからな」

 

 天魔はそう言って椅子に腰掛けると、机に両肘を突いて俯いた。

 

「天狗が魔力を得たならば儂に分からないわけがない。一度感じた力を忘れてしまうほど落ちぶれたつもりもない。ならば会ったことがあると感じるのは、ごく最近に顔を合わせているからじゃ。……当たりなど、簡単につけられるのう」

「………………はい」

 

 選択肢など限られていた。そして天魔が感じ、思い、考えたことには椛も同感だった。

 

 異質な魔力に何処か違和感を感じ取り、超高速で仕事を片付けてそれを確かめに行こうとしたところで呼び出しがかかった。

 強大な侵入者に相対するというなら、椛なんて中妖怪よりも大天狗を招集するだろう。となれば、椛でなければならない理由が必ずあるはず。

 ――思い当たった結論は、あまり信じたくはないものだった……が。

 

「さて、椛よ。お主はどうする? 儂ら天狗はある一つのものに過干渉出来ない……それは分かっておるな」

「はい」

 

 この世界の勢力図の一つを担う天狗は、ある一つの物事にのめり込むことができない――それは他の勢力に隙を与え、呑み込まんとして戦乱が起きかねないからだ。平和であり続けるためにはバランスを保たなくてはならない。それは天狗の頭領たる天魔が殊更に重要視する規則だ。

 椛は天魔の問いに即答で返し、瞑っていた瞳を開く。

 

「しかし、儂らは二度と戦友(とも)を失うわけにはいかない。……のう、椛。お主は今(・・・・)……天狗か?(・・・・)

 

 その不可思議な問いに、しかし椛は逡巡しない。それは今この場において分かりきったことだったから。

 萃香と相対した時に決めたことである。自分の刀は何のためにあるのか。何のために振るうのか。

 一度はブレて叩き直されたりもしたけれど、今の椛には答えを出すのに何の迷いもない。

 

「……私の刀は、自分の大切なものを守るためにあります。この山の秩序、自分の命……そして、決して欠かせない大切な友人」

 

 大切なものを、失くさない為に。

 

「私は、友人として……友のために剣を振るいます」

「うむ……それで良い」

 

 望む答えだったのか、天魔はにやりと口の端を歪めた。

 置いた刀を手に持ち、椛はすと立ち上がる。天魔の満足気な、しかし普段のような柔和な雰囲気などかけらもない視線を背に、椛は執務室を後にした。

 

「(この戦い……きっと彼女の分水嶺になる)」

 

 廊下を歩きながら、椛は大切な友人のことを思い浮かべる。

 平凡に暮らそうとしていながらこんな厄介ごとに巻き込まれた彼女の運命とは、きっとここが分かれ道になっている。来るべくして来た試練なのだろう。

 彼女がどんな道を辿るのか、自分は見届けなければならない。そして友人として助けられることなら、助けなければならない。

 椛は決意を瞳に宿して、風紋刀の鞘を強く握った。

 

「……文さん、は――」

 

 例のあの事件を経て友人を名乗るようになった烏天狗の少女を思い起こす。話が出なかったということは、呼び出されなかったということだろうか。

 あの時から文は“素の顔”で話すことが多くなり、雰囲気も丸くなった。友人の前ではそれが特に顕著である。一見、呼び出されない理由などないように思えるが――しかし、と椛は緩く首を横に振る。

 

 戦友を失くせない――それは決して利用するためではなく、共存しようとしての言葉である。それは互いの領域を守り、干渉しすぎず、必要なときには助け合うということ。

 ――文はきっと、干渉し過ぎる。自分で選択させなければならない場面で、きっと文は無意識に、自分の都合のいい方へと導こうとするだろう。

 悪いこととは言わない。しかし共存を考えるならば、それは褒められたことではないのだ。きっと天魔はそれを見抜いて、椛だけを呼び出したのだ。

 同時に、ただ友の剣にのみなれる椛は、自分の踏み入れる領域を弁えられる自信があった。

 

「(…………でも、もし、間違えそうになっているなら――……)」

 

 友人としての自分。天狗としての自分。剣としての自分。

 様々な自分を胸の内に感じながら、自分はせめて間違えまい、と。友人であり導でもあれれば、きっとそれが理想なのだと椛は思う。

 

 妖怪の山から見える夕日は最後とばかりに輝いて、向こうの山へと消えて行く。

 ――夜の、訪れだった。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 不定期投稿に変えたので、これからはこれくらいの文字数になります。一万文字くらいって読み応えあると思いません?


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第四十二話 真実へ

 ちょっと短めかもです。


 

 

 

 いの一番に居間を飛び出して部屋の襖を開くと、そこには幾らか安らかな寝息を立てる霊夢の姿があった。

 彼女自身のものと思われる布団の周囲には、見たこともないからくりがいくつか置かれて、霊夢の腕へと管を伸ばしている。

 “からくりに頼って生きている”、なんて不安を煽る印象が浮かび上がるが、霊夢の寝顔があまりにも普段通り過ぎて、吹羽は無意識に頰を緩ませた。

 こっちの気も知らないで。いつだってこの人は理不尽にマイペースで、周りのことなんて気にもしないのだ。

 

 近寄って、手を握る。柔らかくて温かい、吹羽の知る霊夢の手だ。

 力が抜けるようにその場にへたり込んで、吹羽は安堵の吐息を漏らした。

 

「よ、よかったぁ……っ!」

「ふふ、まるで昼寝でもしているみたいな顔ですね」

「ほら、言ったでしょ? あたし達が死なせやしないって」

 

 吹羽に続いて部屋に入り、阿求と鈴仙が口々に笑って言う。本当にその通りだったと涙ながらの笑顔を鈴仙に向けると、彼女は更に笑みを深くしてやや乱暴に吹羽をいい子いい子し始めた。

 

「ああもうっ、カワイイなあこの子ぉ〜! 持ち帰りたくなってきちゃったっ」

「ダメよ鈴仙。ただでさえ手に負えない駄々っ子がウチにいるのに子供の世話なんかできないわ」

「吹羽さんを持ち帰るなんて許しませんよ鈴仙さん。そうしたら私が吹羽さんと会えなくなっちゃうじゃないですか」

「二人して手厳しいなぁ〜。ま、仕方ないか」

「あの、あの……ボクの気持ちは無視なんです?」

 

 当人抜きで始まった会話がそのまま完結する様を見て、吹羽は少し苦い顔をした。

 鈴仙の希望は何事もなく却下されたようなので問題はないのだが、万一にも許諾された場合どうなっていたのだろうか。

 未だ頭を撫でながら笑顔を向けてくる鈴仙がちょっと怖く感じて、吹羽は空いた手で阿求の服の裾を掴む。

 

 後から入ってきた萃香と魔理沙も、心なしか安堵したように笑って永琳先生の治療を受けている。どうやら彼女らの怪我も、霊夢ほどではないにしろ大分酷いものだったらしく、よくこれで死なないものだと永琳先生も呆れた声を零していた。萃香もそれに便乗して、最近の人間は殺しても死なないのかなどと軽口を叩く。

 

 どの声にも、霊夢という欠かせない存在の生還に安堵して明るさが混じっていた。もしこれが劇場なんかでやるような演劇ならば、このまま幕が降りてハッピーエンドとなるのだろう。

 

 ――が、現実はそう優しいものではない。

 

 

 

『さて、ひと段落したところで次の話へ進みましょうか』

 

 

 

 和気藹々とし始めた空気を叩ッ斬る、氷のように冷静な声が部屋に響いた。

 それは空間に直接響くような不思議な声だったが、この場にいる誰もがその瞬間、ある一点に目を向けた。

 ただの人間である吹羽にすら感じ取れるような、神秘的とも不気味とも取れる奇妙な気配が、その場所から滲み出ていたのだ。

 

 それは皆の対面――霊夢の横たわる布団を隔てた向こう側。

 全員の視線が集まった瞬間そこにすぅと線が引かれ、ばくりと口を開くように空間が裂ける。

 そこから姿を見せたのは、いつか稗田邸で出会った絶世の美女。

 

「巫女のためにこれほど人外が集まるとは皮肉なものですわね。ご機嫌はいかがでしょうか」

「――……ああ、たった今すげェ不愉快になったぜ……今まで何してやがった、八雲 紫ッ!」

 

 音に聞く妖怪の賢者――現れた八雲 紫に対して始めに声をあげたのは、ついさっきまで朗らかに笑っていた魔理沙だった。

 喰いかからん勢いで言葉を放つ彼女の表情は、まるで信用を裏切られたかのような悲痛なものだった。

 

「霊夢が死にかけたんだぞッ!? お前にとってもこいつは大切な存在なんじゃねェのかッ!?」

「ええ、ええ、大切ですとも。この子は幻想郷の要、私の夢の核ですわ」

「だったらなんで――っ」

 

 言い募る魔理沙を、永琳の手が遮った。

 

「落ち着きなさい霧雨 魔理沙、責めても話が進まないわ。それに巫女の命は私達の手で繋いだ。今はそれで良いわ」

「っ、そりゃ、そうだけど……っ!」

 

 自覚があるのか、魔理沙は反論せずに引き下がる。その手はキツく握り込まれて、悔しさに震えているようだった。

 魔理沙が落ち着いたのを見届けた永琳は、次いで紫へとその冷やい視線を向ける。そこには明らかな、疑問の意思が窺えた。

 

「でも、彼女のいうことも一理あるわ。巫女は私たちにとっても重要な存在。個人的な事情だけれど、彼女への庇護を疎かにしてもらっては困るわね」

「………………」

 

 手に持つ扇子を開き、紫は徐に口元を隠した。彼女と顔を合わせたことのある者なら大抵が見たことのある、かの賢者の癖である。

 言葉を選ぶとき、及び意思を悟られたくないとき。兎角紫が表情を読み取られるのを嫌うときにする仕草だ。

 それはこの問いが、彼女にとって答えにくいモノであるということ、そしてだからこそ答える気がないのだということを示していた。

 

 数瞬続いた沈黙。

 それを破ったのは、吹羽の隣で何事かを考えていた阿求だった。

 

「何か……手を出せない理由があった、のですか?」

 

 全員の視線が、阿求に向く。

 

「あなたがこの幻想郷に対して誰よりも真摯なのは知っています。だからこそ霊夢さんが危機に瀕したときに――幻想郷に崩壊の危機が迫るときに、助けに入らないわけがない。 ……で、あれば」

 

 ――幻想郷最強の妖怪とまで謳われるかの妖怪の賢者ですら、手を出せないほどの何かがある。

 

 阿求の推測から結論に至った皆の瞳が散大した。

 そうだ、八雲 紫とは幻想郷の創造主。誰よりもこの世界を愛する存在だ。その崩壊の危機が迫って焦らないわけはない。母親が愛する子の死に様を黙って見ているわけがないのだ。

 

 つまり、妖怪の賢者が死力を振り絞っても霊夢の助けにすら入れなかった、ということ。

 それは彼女に対する憤り――あなたがいればどうにかなっていたかもしれないのに、というある種楽観的な皆の考えを悉く崩壊させ得る事実だった。

 

 それは本当なのか? そう祈るように集まる視線。そして、何も答えず目を瞑るだけの紫。

 それだけで、ことの真偽は容易に推察できた。

 

「深入りは不要ですわ。もはや、あなたたちの踏み入れる問題ではなくなった」

「ああ? どういうこった」

 

 萃香の問いにも答えず、紫は視線を吹羽へと向ける。

 いつかと同じ、無表情の視線。対して吹羽は若干の嫌悪が混ざる瞳で見つめ返す。

 やはり、なぜか自分はこの人を好きになれないと改めて思っていた。誰とでも仲良くしていたい吹羽は、できることなら誰も嫌いになんてなりたくはないのだが、紫だけは違ったのだ。まるで吹羽の意思ではないように、ふと気がつけば“嫌い”という気持ちが前に出ている。こうして顔を合わせるだけでも拳を強く握りたくなるし、気を付けなければ眉間に皺をも寄せてしまいそうになるのだ。

 

 紫はしばし吹羽を見つめると、徐に目を瞑って言う。

 

「もう、事は私の手をも離れました。ここから先を紡ぐのは――風成 吹羽、あなたですわ」

 

 ――妖力の気配。

 椛との邂逅で妖力をある程度感じられるようになった吹羽は、背後でその気配を感じ取って咄嗟に振り向く。

 しかし、もう遅かった。

 小さなスキマを介して伸びた紫の手のひらは、既に吹羽の目と鼻の先にまで迫っていた。

 何をされるのか分からない恐怖が、吹羽体を硬直させる。そして、紫の手が額に触れる――その瞬間。

 

 

 

「待ち、なさい……!」

 

 

 

 吹羽の横合いから伸びた手が、紫の手首を掴んで止める。

 突然のことに驚く吹羽だが、その手の主が誰なのかはすぐに分かった。

 ずっと聞きたかったその声――紫を止めたのは、未だ寝ているはずの霊夢である。

 

「れ、霊夢さん!」

「そんな、ウソ!? 特殊調合した全身麻酔よ!? まだ数日は眼が覚めないはず……!」

「ンなもん……気合いがあれば、解けるわよ……っ」

「そんな滅茶苦茶な……」

 

 驚愕する一同を小馬鹿にするように笑ってみせると、霊夢は次いで鋭い視線を紫に向けた。

 その瞳には、確かな憤りを乗せて。

 

「紫……あんた今、吹羽になにしようとしたの……!?」

「……言うまでもないわ。もう隠しておくべきでない、それだけのこと」

「それはあんたが決めることじゃないッ」

「あなたが決めることでもないわ、霊夢。もうそういう状況になってしまった、ということよ」

「く……ッ!」

 

 揺るがない紫の姿勢に、霊夢が短く歯軋りする。吹羽には何の話なのか見当もつかなかったが、霊夢が今、とても葛藤していることだけは理解できた。

 無意識に、握っていた霊夢の手をさらに強く握る。霊夢は悲しげな瞳で吹羽を見ると、悔しそうな表情で俯いてしまった。

 

「いつか忠告したはずよ、人の心なんてガラス細工のようなものだと。何の支えもなしに叩けば容易く砕けて散る。備えておけと、言ったつもりだったのだけど?」

「……分かってるわよ、そんなことは……!」

「霊夢さん……」

 

 吹羽には、二人がなぜ言い争っているのかよく分からなかった。紫が何をしようとしたのかも分からないし、それをなぜ霊夢が必死になって止めているのかも分からない。

 ただ一つ会話から何となく分かったのは――二人が吹羽に対して、何らかの隠し事をしているということ。

 

 親友である霊夢が自分に隠し事をしているというのは確かに悲しいことだ。人によってはそれで裏切られたと思い込んでしまうこともあるだろう。

 だが、重要なのは自分が相手のどんなところを信じているかだと吹羽は思っている。

 

 それまで見てきた相手がどんな人だったのか。自分はその相手のどんなところを信じて親友を名乗るようになったのか。

 たとえ隠し事をしていたとしても親友の“今まで”が信じられるなら、きっと関係は揺らがないのだ。

 だから、吹羽には霊夢に伝えなければならないことがある。ここに来る目的だったそれを、しかし当初とはまた違った思いも込めて。

 

「霊夢さん……ボク、謝りたくてここに来ました」

「……え?」

 

 俯いていた霊夢と視線が重なる。普段とは違った弱々しい光の指す瞳を、吹羽は強い瞳で見つめ返した。

 

「あの日……喧嘩した日に言ったこと、すっごく後悔したんです。そりゃ、確かにボクも怒りましたけど……ずっとずっと、今日になるまで、必死で考えてました。なんで霊夢さんはあんなこと言うんだろう、って」

 

 吹羽がどれだけ家族というものに焦がれていたかを霊夢は知っている。それなのに兄と自分を引き裂くようなことを言うわけがない――否、例え言っても理由があるはずなのだ。

 だが吹羽にはそれを知る術がない。ならば、どうする?

 

「信じるしかなかったんです。霊夢さんを」

 

 吹羽の知っている優しい霊夢を。

 いつだって想ってくれていた最高の親友を。

 

「今まで数え切れないくらい助けてもらいました。ずっとずっと感謝してました。そうやって助けてくれた霊夢さんは嘘なんかじゃないんだって、信じるしかなかったんです。……だから、大っ嫌いだなんて、嘘なんです。そんなこと、少しだって思ってなかったんです……」

 

 嫌いなんかではない。なぜなら、今まで自分を支えてくれた霊夢が大好きだから。寄り添ってくれる彼女を信頼しているから。

 

「霊夢さん……自分ばっかりなボクで、ごめんなさい。でも、ボク……霊夢さんのこと、大好きです」

「…………っ、」

 

 霊夢は再び俯いた。しかし、それが先ほどのような悔しさからくるモノでないことは確かだった。

 吹羽の握る手は小刻みに震えていて、僅かな嗚咽すらも聞こえてくる。

 

 隠し事というのは辛いことだ。隠される側も、本当に相手を思っているなら隠す側にだって辛いことだ。かつて自分を取り繕っていた吹羽は、その気持ちを理解することができた。

 霊夢が何を隠しているのかは知らない。だが例えそれがどんな事実だろうと、吹羽は変わらず霊夢を親友だと胸を張って言うことができる自信があった。関係は変わらない――それを隠される側から伝えられることは、きっと隠す側にとって嬉しいことで、救われるような心地になるもの。

 

 吹羽は葛藤して苦しむ霊夢に、それだけは伝えなければならなかったのだ。

 

「……っ、ふぅ……分かったわ」

 

 息を落ち着ける音がして、霊夢は一言そう言った。

 

「もう……隠しておけないってことね」

「分かってもらえたようで何より。では――」

「でも、待って」

 

 再び吹羽の額に触れようとした紫の手を、再び霊夢が遮る。しかし、先ほどのような苛烈なものではなく、手のひらで静止をかけるような弱いものだった。

 訝しげな紫を見上げて、霊夢は言う。

 

「あたしも一緒に行くわ」

 

 予想はしていたのか、紫は驚きもなく目を伏せる。そしてその宣言にいち早く反応したのは、治療を施した永琳と鈴仙だった。

 

「ちょ、バカなこと言わないでよ霊夢! あんた臓器が潰れてんのよ!? 本当は喋るだけでもキツいはずなのに!」

「さっき言ったでしょ。ンなもの気合でどうにかなるわ」

「そんな無茶苦茶なことあるわけ――」

「いいわ鈴仙、外出を許可しましょう」

「ちょ、師匠っ!?」

 

 抗議の声を上げる鈴仙とは対照的に、師匠である永琳は実に冷静だった。

 懐から一枚の紙を取り出すと、指先でなにやら術をかけて霊夢に手渡してきた。

 訝しげな表情をする霊夢だが、その効果を読み取ったのか僅かに目を見開いた。

 

「体内器官機能の補助霊符? 今日はずいぶん優しいのね永琳」

「患者のわがままに付き合うのも医者の勤めってだけよ。無茶言いだすんじゃないかと思って準備していたの。霊夢……あなたの命があなた一人だけのものだなんて、くれぐれも思わないでちょうだい」

「……ま、助かるわ」

 

 それだけ言って受け取った霊符を懐にしまうと、霊夢は催促するように紫を見遣った。

 

「準備は整いましたわね」

 

 紫が目を開くのと同時、吹羽と霊夢を囲うように太極紋が浮かび上がる。紫の瞳と同じ桔梗色の燐光を放ちながら、空間内に紫の妖力が満ちていった。

 

「風成 吹羽」

 

 突然の名指しに少し肩を跳ねさせ、吹羽は相変わらず僅かな嫌悪の混じる瞳で彼女を見る。

 

「……なんですか」

「時間は残されていません。失った最後のピースはあの場所(・・・・)と共にある。霊夢が施した決死の封印が破られる前に、あなたは取り戻さなくてはなりません」

「……? どういう――っ!」

 

 紋の光が強くなる。それは明らかに術の発動する前兆で、同時に吹羽の問いに答える気がないことの証明でもあった。

 遮るように結界が発動する。燐光は太極紋と結界の中で溢れんばかりに輝いて、外からも内からも、互いの姿を確認することは難しくなっていた。

 

 しかし、一言。

 

「全てを取り戻しなさい。この世界のために、ね」

 

 それだけが朧げに聞こえたのを最後に、二人は光の中に姿を溶かした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 光が止んで目を開くと、そこは林の中だった。

 人の手が殆ど入っていないのか雑草は好き勝手に伸び散らかし、空に見えるはずの星は木々の枝が覆い隠してしまっていた。一年中日が差さないのか空気が異常に冷たく、吹羽は思わず自らの肩を描き抱いて体を震わせる。

 

「ふん……寒いわね、流石に」

 

 声と同時、体に何かの覆い被さる感覚があった。見てみるとそれは霊力の膜らしく、吹雪のような寒さが一瞬で和らぐ。

 

「あ……ありがとうございます、霊夢さん。って、体は大丈夫なんですか?」

「あぁ、平気よ。永琳の霊符がよく効いてるみたい。他人の霊力が体の中にあるのなんか変な感じだけど、これなら中妖怪くらいは瞬殺できるわね」

「そ、そうですか。それは良かったです……?」

「ええ。それじゃ……行きましょうか」

 

 つまり、今の軽い運動しかできないはずの状態でも椛程度の実力であれば即制圧できる、と。

 相変わらず無茶苦茶な実力と考え方をしているが、吹羽はそれによって逆に安心することができた。

 差し出された手を握り、はぐれないように着いていく。

 

 人の手が入っていない、というのは間違いだったようで、歩いていくにつれて目が慣れると元々あったらしき道の跡が見えてきた。長らく放置されたために草木が隠してしまっていたらしい。

 そんな道を迷わず進んでいく霊夢に、吹羽はふと疑問を感じた。

 

「霊夢さん……ここのこと、知ってるんですか?」

 

 何気ない問いに、霊夢は足を止めずに答える。

 

「……ええ、知ってるわ。何度も来たもの、ここにはね」

 

 そこで言葉を区切り、僅かにひらけた場所で霊夢は横を見遣った。

 木の天井が途絶えたため、月明かりに照らされて周囲が見える。吹羽もつられてその方向を見ると――俯瞰したその先に、吹羽のよく知る人里が見えた。

 

「え……人里? もしかして、ここは人里の近くなんですか?」

「幻想郷を囲む山の一つ、里にほど近い丘の上の林よ。目的地はもう少し先」

 

 そう言って、霊夢はまた歩き出した。見えていた里の光景は再び木々に隠れ、月明かりが届かなくなるのと同時に草木の葉擦ればかりが周囲の空間を満たした。

 

 人里にほど近い丘の上――ここから里が見えたのだから、里からもここは見えるだろう。

 林には担子菌類などの食材も生育する。これだけ人の手が入っていなければまさに宝庫のはずなのが、吹羽はその類の話を聞いたこともなかった。

 里の誰もがこの場所を見ているはずなのに、見逃している――それを不思議に思わずにはいられない。

 

「……ここに来ようって思う人はいないのよ。だからこんなに荒れてしまっている」

「思う人が……いない? どういうことです?」

「ここはね……強力な人除けの結界が張ってあるの。何年も前、あたしと紫が張った結界。だから里の人たちはこの場所のことを知っていても、来ようとは思わないようになってる」

「なんで、そんなこと――」

 

 言おうとして、しかし霊夢が立ち止まったので言葉が止まる。

 そこは今までの道となんら変わらない林の中で、吹羽は眉をハの字にして霊夢を見上げた。

 彼女は、ジッと正面を見つめていた。

 

「霊夢さん……?」

「……そんなの、決まってるわ。誰にもこの場所に踏み入って欲しくなかったの。……ここのことは、私たちが覚えていればそれでよかったから」

 

 徐に伸ばされた霊夢の手。指先に青い光が灯り、円を描いては軽快に指を振るう。

 魔理沙から聞いたことのある手付きだった。曰く、それは――

 

 

 

「他ならない、吹羽。あんたのためにね」

 

 

 

 どんな封印術(・・・)も解いてしまう、霊夢のインチキ技だと。

 

 ぱきん、とヒビの入る音がして、吹羽の目の前に薄青い結界の壁が姿を現した。霊夢の指先の触れる点を中心に文字通り巨大なヒビが入っており、霊夢が指を押し込むのと同時にそれは甲高い音を奏でて砕け散った。

 

 はらはらと結界の破片が羽根のように舞い散る。その向こうに見えるのは、一つの建物だった。

 樹齢何十年にもなる大木を削ったのであろう太い柱。玄関の上部には風に靡く芒を模した彫刻が施され、そこに続く道には玉砂利と飛び石が敷かれていた。側方に見える建物には石の煙突が建てられ、見覚えのある火炉がずっしりと鎮座している。

 

 呆気にとられる吹羽の手を、霊夢はするりと離すと、少しばかり進んで振り返った。

 

「敢えてこう言わせてもらうわね。……おかえりなさい、吹羽」

 

 

 

 ――旧風成邸へ。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 最近吹羽にことわざを言わせる機会がない……。悔しみがマッハ。


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第四十三話 解錠

 文字数前話より少ないってマ? 
 私「マ」


 

 

 

 旧風成邸の中は流石に薄暗く、今の家にあるような白熱灯すら存在しなかった。だがこの場所だけは木々が開けていたので月明かりが差し込み、周囲の確認くらいはできる光量である。

 封印してそのままだったのか、所々に蜘蛛が巣を張っている以外は特に汚れてもいない。まるでこの場所だけ時間が止まってしまっているかのように、寒く不気味で、何故か底なしに恐ろしい。

 

「れ、霊夢さん……」

「……こっちよ、吹羽」

 

 霊夢が吹羽の手を引いて歩き出す。吹羽もそれを強く握って着いていく。

 封印して数年経っているというが、霊夢の歩みには迷いがなかった。それはまるで、吹羽よりも吹羽のことを知っているかのように感ぜられた。

 

 導かれるままに着いていき、霊夢が足を止めたのは畳張りの少々広めな部屋。

 

「ここ、居間よ。いつもご飯はここで食べてた。あたしも何度か戴いたことがあるわ」

「ボクの家族と……一緒にですか?」

「ええ。当然……あんたもね」

 

 居間の中心には卓袱台がぽつんと置いてある。埃を被っており、ひと撫ですれば指の軌跡がくっきりと残った。酸化して茶けた襖は新品のものより何倍も柔らかく、畳には少々粗が目立っていた。

 ――ここに、四人で茶碗を並べて食事したのだろう。たまに霊夢も混ざって五人、肩を寄せ合い向き合って、和気藹々とご飯を口に運んだに違いない。

 

「次……こっち」

「ぁ……はい」

 

 次に訪れたのは庭だった。

 もう草が生え始めてしまっていたが、玄関先にあったような飛び石や玉砂利、申し訳程度の小さな池は当時もそれなりの風流を保っていたのだろうと思える。阿求の家には及ばないかもしれないが、風成家も一応名家ではあったのだと吹羽はちょっぴり寂しい気持ちになった。

 

「この家はね、もうずぅっと前からここに建ってるのよ。空き部屋が多かったでしょう? まだ人が多かった時代からこの家を使ってるってこと」

「それって……百年じゃ済まないですよね?」

「そうね。外の世界なら文句なしに一番古い家でしょうね」

 

 広い庭だ。寺子屋の子供達が駆けっこをしても十分な程に広く立派な庭である。

 幼き日の鶖飛や父、母ともきっとここで幾度となく遊んだのだろう。それこそ駆けっこや、かくれんぼや、鶖飛とは剣の稽古をした記憶が朧げに残っている。家を眺めて時折思い出すそうした記憶の欠片は、吹羽の一番の宝物である。

 そう――二度と失くせない、宝物。

 

「行くわよ」

「はい」

 

 そうして二人はしばし旧風成邸の中を歩き回った。居間、庭と続いていくつかの空き部屋や台所、木造りの風呂や工房、火炉、残っていた僅かな工具。そうして見て回るのは状況が状況だけに楽しいものではなかったが、なんだか懐かしいやら悲しいやら、複雑な気持ちが吹羽の中で渦を巻いていた。時折見上げる霊夢の表情もどこか懐かしそうに緩んではいるが、やはり悲しげに細める目が特に目立って見える。

 

 吹羽は、以前から取り戻していた僅かな記憶の欠片が本当に欠片でしかなかったことに少々ショックを受けていた。こうして見て回っていると、本当に自分は記憶が壊れてしまっているのだと実感させられるのだ。

 この家は広い。もちろん当時も全ての部屋を使っていたわけはないだろうけど、こうして見回ってもほとんど見覚えのないものばかりなのだ。

 台所に立つ母の姿、工房で鋼を鍛える父の姿、庭で剣の稽古をする兄の姿、どれも少しだけなら覚えていたが、残りは全部曇り硝子の向こう側。残った記憶が百分のうち三にも満たないほどに、吹羽の記憶は彼女が思っていた以上に酷く壊れてしまっていたのだ。

 その事実が、どうしようもなく不安を煽る。

 

「れ、霊夢さん……ボク――」

「分かってる」

 

 繋いだ手を、強く握る。

 

「次が……最後よ」

「…………」

 

 そうして最後に二人がたどり着いたのは、広間のようだった。

 “ようだった”というのは、扉となる襖を開けるのを霊夢が躊躇って、中の様子が分からなかったからだ。

 

 その部屋は広い屋敷の丁度真ん中ほどにある部屋だった。外周は廊下が巡り、何枚もの襖が部屋の中を覆い隠している。風成の住む家は、風紋を機能させる為風通しを良くせねばならない特徴があるが、その中で完全に締め切っているこの部屋はなんだか浮いて見え、雰囲気が非常に不気味に感ぜられた。

 

 その部屋の正面の襖。掛けた指を迷いがちに離して、霊夢は呟くように言葉をこぼす。

 

「ねぇ、吹羽。本当に……本当に記憶、取り戻したい?」

「……え?」

 

 唐突な霊夢の問いに、吹羽は疑問符で返した。

 

「なんでここに来たのか、もう薄々察してるだろうから言うけど……あたしは――あたし達は、ここであんたの記憶を取り戻させようとしてる」

「……はい」

 

 霊夢の言葉通り、なんとなくそれは察していた。

 この場所は最早吹羽にしか関係がない場所である。こんな切羽詰まった状況で吹羽をここに連れてきたならば、記憶をなんとかして取り戻させようとしている他に目的が思いつかなかった。

 

 部屋を見て回ったのは果たして霊夢の気遣いなのか、それとも打算的な行動だったのか。

 前者であって欲しいと少し思いながら、吹羽は霊夢の言葉に耳を傾ける。

 

「正直ね、あんたをここに連れてきたのは、あたしと紫の勝手な都合だと思ってる。紫はそれでいいって考えてるだろうけど、あたしは……やっぱりこの襖を、あんたの前で開けたくない」

「霊夢さん……」

「辛い記憶なの。きっと知らない方が良かったってくらいに。それでもあんたは……思い出したいって、思う……?」

「………………」

 

 辛い記憶――それを自分勝手に吹羽に思い出させようとする二人は、ひょっとしたらとても酷いことを考えているのかもしれない。記憶を取り戻すことが悲願であるということに違いはないが、辛い記憶なんて誰しも忘れ去りたいと思うものだから。

 だが、こうして直前になって吹羽に選択させようとするのは、偏に霊夢の優しさ故なのだろう。

 

 恐らく、ここで拒んでも霊夢は阻まない。それによって起こる問題も、きっと全力で以って自ら解決に当たるのだろう。そんな優しさが霊夢にはあるし、その力もある。

 

 だが――それをして一体何になる?

 

「……思いますよ、思い出したいって」

 

 だって、一生後悔することになるだろうから。

 

「ボク、霊夢さんに恩返しがしたいんです。今まで支えてくれたお礼です。この前まではちょっと溜め込んで、無理しちゃってましたけど……そのことを慧音さんに見抜かれて、叱られたんです」

 

 文との一件が落ち着き、慧音と話したあの空き地でのこと。

 あの時から吹羽は二人に――霊夢と阿求に遠慮しないと決めた。自分の失ったものを全部取り戻して、その上で立ち直ることができるまで。

 この襖の先には、きっと吹羽の失ったものが全てある。そして二人に恩返しするためには、絶対にそれが必要なのだ。ならば、吹羽が迷うことなどなにもない。

 

「“落花枝に返らず、破鏡再び照らさず”という諺があります。ここで逃げたら、きっともう二度と元には戻れません。……この先にあるものがボクには必要なんです」

「……そう」

 

 霊夢は目を伏せてそれだけ呟くと、改めて襖に指をかけた。

 今度は躊躇うこともなく――襖に隠された真実が、吹羽の前に明かされる。

 そして、息を呑んだ。

 

「……ひっ!?」

 

 

 

 ――襖の先には、真っ黒な空間が広がっていた。

 

 

 

 薄暗いだけではない。部屋全体が黒く変色し、殆ど換気もされていないらしく形容し難い臭いが充満していた。

 一つ唾を飲み込み、吹羽が思い切って一歩踏み出すと、黒い部分はパキンと音を立てて砕けた。

 

「――な、なんですか……これ……」

 

 呟いた言葉は、最早無意識的だった。今まで見てきた家の風景とは二転も三転もした光景に、思考がまるで追いついていない。

 だが唯一、吹羽は知っていた……時間が経つと、何が(・・)こうなるのかを。

 

「れ、霊夢さん……これ、これは……一体、誰の(・・)血なんですかっ!?」

 

 そう――血。

 外気に晒されたままの血は、酸化されて黒くなる。何年も放って置いたまま換気もされなければ、それは風にさらわれることもなくその場で黒く固まって、部屋の中にこびりつく。

 ちょうど――この部屋が黒く染まっているように。

 

 吹羽は錯乱していた。

 今まで綺麗なまま残っていた我が家の一部屋にあった惨劇の跡。尋常でない量の血が部屋の中にこびりついていたなど、幼い吹羽の頭ではすんなり納得できようもなかったのだ。

 

「ねぇ霊夢さん! どういうことなんですか! なんでこんなに血がついてるんですか! ボクの家にっ、なんで?! まさか――」

「吹羽、落ち着いて……とは言わないわ。あたしの話を聞いて」

 

 しゃがんで目線を合わせると、霊夢は吹羽の額に人差し指を置いた。

 だがその純黒の瞳はまっすぐ吹羽を見ていて、吹羽の困惑した言葉は否応なしに留められる。

 

 霊夢は力なく目の端を垂れさせると、意を決したように口を開いた。

 

「……あのね、吹羽。あたしは今から、あんたに酷いことをする。とても辛いと思うけど、我慢して、乗り越えてほしい」

「どういう……ことですか?」

「…………あんたの記憶は……あたしが封印してる(・・・・・・・・・)の」

「……ぇ」

 

 吹羽の瞳に動揺が浮かぶ。だが霊夢は有無を言わせない強い瞳で目を離さず、躊躇うこともなく、真実を告げる。

 

「記憶の一部……この家に関することを、あたしが封印したの。でもそれがあまりに膨大で、あんたの記憶の大部分だったから、他の記憶もろとも壊れてしまった……」

 

 例えば、複雑な立体パズルの芯のみを抜き取った所為で、パズル全体が崩れてしまうように。

 霊夢が封印し、記憶から消し去ったものは吹羽にとってあまりに大きく、記憶そのものを容易く崩壊させた。だから吹羽の記憶はこわれてしまっていたのだ。割れた鏡の破片のように、無理矢理記憶の芯を抜き取られてしまったために、繋がっていた記憶がばらばらに砕けてしまった。

 

「今から、その封印を解く。でも忘れないでね。あんたの傍には、あたしがいること」

 

 額に触れた指が僅かに押し込まれる。すると、指先から伝わる熱が急速に高まり、吹羽の脳内に染み渡るように広がった。

 異常な変化に体が震える。全身にまで広がった熱は、重い気怠さとなって吹羽の足を崩し、その場にへたり込ませた。

 

 頭が、熱い。痛い。意識が朦朧とする。

 

「あぅ……う――っ」

 

 靄のかかる思考の中で、いくつかの情景が浮かび上がってきた。

 父の顔、母の顔、兄の顔、この家で過ごした思い出。

 

 

 

「っ、ぁ」

 

 

 

 じゃれ合い。部屋。食事。稽古。触れられる感触。

 

 

 

「あ……」

 

 

 

 夜。風。銀色。血。血。血――。

 

 

 

「あ、ぁ、あっ、ぁああぁああああッ!?」

 

 急激に流れ込んできた情景に、吹羽は耐え切れず悲痛な叫び声をあげた。

 煮え滾るような頭の中はがんがんと痛くて、今にも爆発してしまうのではというほど。ぼやける視界がぐらぐらと揺れて、まともに座るっていることもできそうにない。ただ熱くなった手や膝に触れる大粒の涙が、氷のように冷たく感じられた。

 

「ぁぁあぁあぁぁあ……いや、やだ、やだやだやだぁあぁあっ!」

「っ、吹羽っ!」

「あぁあぁあ、なんで、なんでおにいちゃんっ! うそ、うそうそ違うこんなの違うよっ、おとうさ、おかあさんっ! やめっ、だめだめだめぇッ、いやぁぁあぁああッ!」

「気をしっかり持ちなさいっ! 吹羽!」

 

 ぐちゃぐちゃな思考がそのまま言葉となって勝手に出ていく。浮かび上がる凄惨な記憶はただでさえ纏まらない思考を侵し、吹羽の正気すらもがりごりと削っていた。

 こんなにも錯乱する自分は、霊夢には発狂しているようにも見えるのだろうか。不意に温もりが体を包みこむと、優しく強い声が耳元から聞こえてきた。

 

「しっかりして、吹羽」

「おとうさん、が……おかあさんがっ、れ、れいむさん……お、おとうさ……おかあ、さっ……!」

「分かってる。分かってるから、落ち着いて」

「ち、ちが……たお、れて、おにいちゃんがぁ……っ」

「吹羽ッ!」

 

 ぴしゃりと声を張り上げて、吹羽の揺れる瞳を霊夢が見つめる。両肩を掴む彼女の手は、いつよりも力強かった。

 

「あたしの目を見なさい。いい? 目を離さないで」

「れいむ、さん……」

「気をしっかり持って。辛いことだけど耐えるのよ」

「――……」

 

 次第に視界が暗くなる。熱かった体から血が抜け出ていくかのように熱が消えて冷えていき、過呼吸気味だった呼吸はより深く浅いものへと変わっていく。

 

 頭の中で目まぐるしく浮かび上がる情景が、少しずつ繋がっていく感覚があった。自分が失ったと思っていた記憶は本当に霊夢が封印していたのだろう、長らく失っていたはずなのに、そこに懐かしさは感じられない。ずっと自分の中にあって、見失っていただけなのだ。

 

 霊夢の呼びかける声が僅かに聞こえた。ぼやける視界は一心に見つめる霊夢の顔をぼんやりと写している。

 

 そうして吹羽は、糸の切れた人形のように気を失った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 気を失った吹羽を抱えながら、霊夢は空っぽな表情で座り込んでいた。

 腕の中にある吹羽は寝息を立てている。大量の記憶が急激に蘇ったのだ、脳が休息を求めて休眠するのも仕方がない。――或いは、辛過ぎる記憶に歯止めをかける為意識がシャットダウンしただけなのか。

 

 時折耳元で聞こえる呻き声が鼓膜を揺らすたび、霊夢の中でぎしぎしと音を立てるものがあった。

 吹羽に対するあらゆる感情が詰まったそれは、きっと心だ。

 

「……ごめん……ごめんね、吹羽……っ」

 

 頰を静かに伝うのは、雫の形をした後悔だった。

 なぜ吹羽の記憶を封印していたのか――そう訊かれれば、当然吹羽が辛そうだったからと霊夢は答える。だが今思えば、それは家族のことで苦しむ彼女を霊夢が見ていられなかっただけなのではないか。結局自分のことしか考えていなくて、守ろうと決めたはずの吹羽のことなんて本当は何にも考えていなかったのではないか、と。

 そうでなければ――いや、そうだったから、吹羽は今こんなにも苦しむ羽目になってしまっている。

 

「結局、あたしがしたことは苦しみを先延ばしにしただけ……本当はどうすればよかったかなんて、今でもあたしは分からない……っ!」

 

 なぜ、吹羽に対して面と向かって友達だと言えないのか。その問いの答えがようやく分かった気がした。

 家族を失う苦しみを霊夢は知っている。だから同じ苦しみを霊夢よりもずっと幼くして突きつけられた吹羽を助けてあげようと思った。そして記憶を封印して笑顔ができるようになった吹羽を見て、自分は正しかったのだと思いたかっただけだったのだ。

 

 自分がしたことは正しかった。自分と似た苦しみを持つ者を救うことで、懺悔(・・)したかっただけなのだ、と。

 

 でも、それは結局霊夢が自分を慰めるためにしたようなもの。吹羽のことなんて考えちゃいない、自分勝手な恩人気取りに過ぎない。事実、こうして吹羽に辛いことを強要してしまっている。それに無意識ながら大きな引け目を感じていたから――結局自分のためだったのだと気が付いていたから、霊夢は吹羽を友達だと言い切ることができないのだ。

 そんな人間が、友達だなんておこがましいにもほどがあるだろう、と。

 

「後悔しているのね、霊夢」

 

 不意に、真っ黒な部屋の奥から声が聞こえてきた。

 嗚咽を物ともせず通った声に、霊夢は徐に顔を上げて向ける。そこには案の定、顔を無表情で固めた八雲 紫が歩み寄ってきていた。

 

「嘆いても意味などないわ。後悔は所詮、それを忘れてはいけない記憶として脳に繋げておく留め具でしかないのだから。囚われるべきではないわ」

「……責めてるのか、慰めてるのか……分からないわね」

「いいえ、諭しているのよ。過ちに嘆き、停滞するのは愚者のすること。後悔を以って記憶に留め、学ぶことが大切。果たしてあなたは、学べているのかしら」

「どう、だか……」

 

 そんなことを考える余裕もない、と霊夢は緩く首を振る。

 今彼女の頭にあるのは後悔と、引け目と、自己嫌悪と、疑問のみだった。

 

「あたしは……やっぱり間違っていたのかなぁ……」

 

 口を突いて出る疑問に、紫は容易には答えなかった。

 

「あたしは結局、自分が助かりたいだけだった。吹羽を助けて、あたしが慰められたかっただけだった……っ! この子のことなんてなんにも考えてない……薄情で自分勝手で独り善がりな、最低な奴よ……っ」

「……物事の正否は、その時を生きる者につけられるものではないわ」

 

 物音も立てずに霊夢の隣へと歩み出て、

 

「いつの時代の戦争も、そのどちらにも正義があった。国を発展させること、物資や資源を奪うこと、労働力を得ること……目的は違えど、それは自分たちを始めとした国の民を豊かにするために行われるものよ。当時の人間たちにとってはいつだって自分が正しくて、敵が間違っているのよ」

 

 長い時を生きた大妖怪だからこその言葉だった。

 いつの時代の人間たちも、争うには必ず理由があった。戦争と言えるほど大きなものであれば、その理由にはほぼ確実に“国の繁栄”が含まれていたのだ。

 生物が生きる根本的な理由とは、子孫を残し繁栄させること。その基盤となる生活環境が裕福になるならば、それは間違いなく正しいことだ。その為に起こった争いに、どちらが正しくてどちらが間違っているかなど愚問でしかない。

 

「間違っていたかどうか……それを決めるのはいつだって“後の人”。そしてそれが分かる頃には、きっと当人ではもうどうしようもない事態になっている。間違わないように行動することは大切だけれど、それでも間違ってしまったなら間違ってしまっ(・・・・・・・)()、よ。その時に生きる人は、自分が正しいと思ったように行動するしかない」

「……ふふ、呆れてるみたいね」

「いいえ。これは……慰めているの」

 

 霊夢のしたことが間違っていたのかどうか――それを決めるのは、未来の誰か。

 少なくとも、それが正しいと思っての行動ならば正否を決められるまで間違ってはいないはずだ。

 そこにあった想いは本物。結果だけを見ていては本質を測れない。霊夢の行動の可否を問う未来の誰か――“吹羽”はきっと、分かってくれる。

 

 霊夢は一つ深呼吸をして、ぐしぐしと涙を拭い、いつもの凛とした表情を浮かべた。

 

「急ぎなさい、霊夢。時間がないわ」

「あたしがかけた封印が、もうそろそろ破られる……ってことかしら。……決死の時間稼ぎが、せいぜい数刻しか保たないなんて、なんか虚しいわね」

「ええ。残念だけれど、今回は私は手出しができないわ。……どうやら、私のみに対策した術を持っているようね」

「そんな術、一体どうやって……」

「不明よ。そして私とあなた両方が欠損する事態だけは避けなければならない」

「……分かってるわ。今回は……あたしたちだけでなんとかする」

「ならば上等」

 

 萃香と魔理沙が隙を作り、それでも決死の覚悟を持って行った封印(時間稼ぎ)。それをたった数刻で破ろうとしている化け物の相手を、まさか守りたかった人に押し付ける羽目になるなんて。

 

 だが、もう事は霊夢の手すらも離れた。体はある程度治癒したものの、大妖怪以上の実力を持つ相手との戦闘はとてもじゃないができない。そしてこの事態を収められるのは――きっと、紫が見込んだ吹羽しかいないのだ。

 

 でも、どうか、無理だけは。

 そう願いながら、霊夢は力無く垂れた吹羽の手を強く握った。

 

 

 




 今話のことわざ
落花枝(らっかえだ)(かえ)らず、破鏡再(はきょうふたた)()らさず」
 一度離婚した夫婦は、再び元に戻ることはないというたとえ。また、一度損なわれたものや、死んでしまったものは二度と元に戻らないというたとえ。


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第四十四話 追憶・久遠の幸せ

 大変お待たせしました。
 一ヶ月空きはヤバイですね……反省します。


 

 

 

 そう――疑ってさえいなかった。

 森に、風に、家族に囲まれて、穏やかな日々がいつまでも続いていくのだ、と。

 

 平穏の裏で何が起こっていたかなど、無知な自分は何も考えていなくて。

 ただ降って湧くような幸せを享受するだけで――いつの間にか走っていた小さな罅のことなんて、気が付いてもいなかったのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 家にもほど近い森の中で、吹羽は必死に走っていた。大木の横を通り過ぎ、横たわる倒木の下をくぐり、小川を軽く飛び越えて、時折後ろを振り返りながら先へ先へと入っていく。

 呼吸は苦しいが、止まる訳にはいかなかった。時間切れは目の前なのだ。

 

「(早く、隠れなきゃ!)」

 

 見つかる訳にはいかない、絶対に。

 激しい鼓動を刻む胸に拳を当てて、走りながらも周囲を見遣る。早く隠れなければならないが、見つかりやすい場所を選んでは返って悪い。

 慎重に、かつ迅速に。

 吹羽は目を凝らして睥睨するように周囲を見回し――ようやく納得のいく隠れ場所を見つけた。早速駆け寄り、自らの体を滑り込ませる。

 

「(ここなら、見つからないよね……?)」

 

 中身が枯れ落ち空洞になった倒木の中に潜り込み、吹羽は深くゆっくり深呼吸して息をひそめた。

 どくどくと激しい鼓動が嫌に大きく聞こえる。あまりにも大きすぎて、この木の外にまで響いてしまっているのではと心配になるくらいだ。

 吹羽はさらに体を小さく縮こめ、外の音に耳を澄ます。

 

 ――すると、しばらくして落ち葉を踏みしめる音が聞こえてきた。

 

 サク、サクと一歩ずつ確かめるようなゆっくりとした歩みだ。

 思わず息が詰まった。見つかると思うと体が震えて、今すぐにでも逃げ出したくなる。もっといい隠れ場所があったのではないかと若干の後悔すら湧き上がってきた。

 

 だが、もう遅い。

 

 足音はだんだんと大きくなり、不意にすぐ近くでピタリと止まった。丁度、目の前――木の壁を隔てたそのすぐ先に、いる。

 両肩を抱き寄せ、きゅっと目を瞑って吹羽は願った。

 

「(お願い……見つからないで……っ!)」

 

 ――その想いが通じたのか。

 敏感になった吹羽の聴覚は、少しずつ小さくなっていく足音を聞き取った。そのまま小さくなって、遠くなって、終いには聞こえなくなる。足音の主が、吹羽の隠れた倒木から離れていった証だ。

 

 徐に安堵の吐息が漏れた。絶対に見つかってはならない状況下、まさに極限と言って差し支えない状況だ。心臓は未だにどくどくと激しく鼓動を刻んでいて、掻き抱く肩は少し震えている。中々緊張が冷めやらない。

 でも、と吹羽はポツリ呟く。

 

「あとは時間が過ぎるのを待つだけ――」

 

 

 

「みぃつけた」

 

 

 

 ――声にならない悲鳴が、全身を駆け抜けた。

 一瞬呼吸が止まり、体が跳ねて倒木をもぐらりと揺らす。そのくせ血の気がさぁと引いていってうまく体が動かないため、声の方向へと向ける頭はギギギといった風にゆっくりだった。

 

 そして、その先には。

 

「やっぱりここだったか。吹羽はすぐ狭いところに潜りたがるからなぁ、こういう時」

 

 倒木を覗き込んでくる兄――鶖飛のしたり顔があった。

 呆れたようなその声音に応える吹羽の言葉は、驚愕が響いているのか若干震えていた。

 

「ふぇ……でも、さっき向こうに行って……」

「そりゃあお前……せっかくだから驚かせないとと思って。ほら、抜き足差し足ってね」

「せ、せっかくだからじゃないよう! びっくりしすぎて死んじゃうところだったよーっ!」

 

 いそいそと倒木から出てくると、吹羽は怒りを露わに鶖飛のお腹をポカポカと叩く。だが、当の鶖飛は嫌がるよりもむしろ楽しそうにからからと笑っていた。

 作戦に見事にはまり、そして可愛らしく憤る吹羽の姿が大変に可笑しいらしい。

 

「さぁて吹羽、約束は覚えてるよな?」

「……………………もう一回戦、だよね?」

「とぼけるなって。かくれんぼで三回勝った方がおやつのたい焼きを一つ、負けた方から貰うって約束だろ?」

「……ぅぅうう〜っ!」

 

 激しく唸る吹羽を尻目に、鶖飛はスタスタと歩き出してしまう。兄の背中と森の奥に視線が何度も往復して、吹羽は終いに空を見上げた。

 日の傾き方からして、まさにお母さんがおやつを出してくれる時間帯である。もう一度かくれんぼをする時間が無いのは明白だ。

 大好物のたい焼きがかかっている以上すんなりと負けを認めるわけにもいかず、かといってこのままここで駄々をこねて本来食べられるはずのたい焼きさえ食べられないのは苦痛以外の何者でもなく――吹羽は仕方なく、鶖飛の後を追いかけることにした。

 

「ずるいよぅお兄ちゃん……お兄ちゃんだけたい焼き三つも食べられるなんて」

「ずるくねぇよ。仕掛けてきたのは吹羽だろ? 全部取るわけじゃないんだからグズるなって」

「でもぉ〜!」

「でもじゃない。今度母さんに買ってもらえ」

「ぶー」

 

 正論過ぎてぐうの音も出ない。真綿で首を絞められるとはこういうことかと吹羽は見当違いな遣る瀬無さを感じた。

 

 相変わらずお兄ちゃんには勝てないなぁ。鶖飛の袖の先を摘んで歩きながら、吹羽はほうと小さく息を吐いた。

 護身と刃物への理解を深めるために剣の稽古もしているが鶖飛には一太刀入れることもできないし、こういう遊びでも数えるくらいしか勝ったことがない。今日もいつもの如くじゃれついて(・・・・・・)みたわけだが、結果はまぁこの通りである。

 

 鶖飛は剣術の腕が特に頭抜けて高いが、その他のことも――鍛治を除いて――一通り平均以上にこなすことができる。そんな彼が吹羽には眩しく、また超えたいと幼心に思うのだ。

 今日のかくれんぼでも、鶖飛は稽古の疲れを感じさせないほどに元気で優秀で、悔しいと共に誇らしくも感じるのである。

 

「「ただいまー」」

 

 玄関の戸を開いて示し合わせたように声を重ねる。すると、奥の方からひょこりと美しい女性が顔をのぞかせた。

 薄っすらと萌葱色が浮かぶ瞳を優しげに細めて、彼女――母、暮葉は二人を笑顔で迎えた。

 

「お帰りなさい二人共。おやつはもう出してあるからね」

「やったぁ! ありがとお母さん!」

「はいはい。でもちゃんと手を洗ってからね。鶖飛!」

「分かってる。行くよ吹羽」

「はーい!」

「ああそれと……ふーちゃん(・・・・・)!」

 

 手を洗うべく水道へ向かおうとして、暮葉の、吹羽をからかう時の呼び方を聞いて足を止める。

 少し恐々とゆっくり振り返ると、そこには暮葉のにやりとした笑みがあった。

 

 

 

「巫女様、来てるわよ!」

 

 

 

 

 

 

 手洗いうがいを終えて居間に向かうと、吹羽はそこに優雅にお茶を啜る少女の背中を見た。

 相変わらず綺麗に座るなぁと思いながら、吹羽は満面の笑みに歓喜を浮かべて彼女に駆け寄った。

 彼女が家に来て、吹羽が喜ばないわけがない。なにせ彼女は吹羽の一番の友人であり――初めてのお客様(・・・・・・・)だったのだから。

 

「霊夢さん、いらっしゃい!」

「ああ、吹羽。お邪魔してるわ」

 

 簡素にそう答える少女――博麗 霊夢の隣に座ると、彼女は湯飲みにお茶を注いで吹羽の前に置いた。礼と共に受け取り、ずずずと温かいお茶を啜る。

 全身に染み渡る心地良い熱。自分の身体が限界近くまでリラックスしているのが自覚できる。

 霊夢の隣は、吹羽にとって非常に居心地が良い場所だった。

 

「霊夢さん、ボクの打った包丁の具合はどうですか?」

「んー? ああ、いい感じよ。どんなに硬い野菜もスパッと切れちゃうからね」

「刃毀れとかは?」

「ないわ」

「んふふ〜!」

 

 というのも、霊夢は吹羽が初めてお客様として作刀を承った相手であり、ゆえに一生忘れ得ぬ思い入れのある相手なのだ。それも霊夢が吹羽を指名しての依頼である、当時の吹羽が舞い上がるほどに歓喜したのは想像に難くないだろう。

 それ以来、吹羽は霊夢に懐きっぱなしである。霊夢自身も面倒見が悪いわけではなく、吹羽のことを気に入っているようだったので度々風成邸に訪れるのだ。

 

 因みに、包丁の具合に関しては彼女が訪れるたびに尋ねる決まり文句みたいなもの――作刀してから数ヶ月経っているにもかかわらず――である。

 嬉しさゆえ懲りずに尋ねてくる吹羽に対して、面倒がらずに答えるあたり、やはり霊夢は吹羽を気に入っているのだと言える。

 

「阿求さんは来てないんですか?」

「あたしだけじゃ不満?」

「あいえっ、そういうことじゃないですけど!」

 

 予期せぬ返答に慌てて弁明すると、霊夢はにやりと可笑しそうに笑った。

 

「冗談よ。あの子は忙しいから、あたしからは誘わないようにしてるわ。重なった時はまぁ運が良かったってことね」

「そ、そうなんですか。じゃあ阿求さんはまた今度ですね……あっ、たい焼き! はむっ♪」

 

 霊夢の言葉に納得する。次いで視線を動かすと、吹羽は自分の皿に盛られた二枚のたい焼きに目を輝かせ辛抱堪らん! とばかりにかぶりついた。

 生地はサクサクで軽く、中はねっとりとした甘い粒餡だ。これは里でも安くて美味しいと有名なお店のたい焼きだろう。咀嚼するたびに甘みが舌に絡みついてきて、吹羽は本当に頰が落ちてしまうかのような錯覚に陥った。

 ――もちろん、その様子は霊夢がバッチリと見ているわけで。

 

「……相変わらずほんっとうに美味しそうに食べるわね。そんなに美味しいかしら、たい焼き」

「おいひいでふよぉ〜♪ 〜〜っんく。ボク、きっとたい焼きを食べるために生まれてきたんだと思うんですぅ〜♪」

 

 たい焼きなんぞに存在意義を見出す幼女の姿に、霊夢は大きな溜め息を吐いた。

 

「まぁ好みは人それぞれだけれど。取り敢えずそのだらしない顔を直しなさい。一応あたし客なのよ?」

「はひっ!? そうでした! 見なかったことにしてください!」

「だから直しなさいよ」

「これは不可抗力ってやつなのでどうにもできないんです!」

 

 実際、何度かたい焼きを食べても表情が蕩けないように意識してみたことはあるが、いつも惨敗に終わっている吹羽だった。そうして検証の結果彼女が辿り着いた結論とは、“たい焼きを食べてだらしない顔になってしまうのは神の神秘なので直せない”ということである。

 

 神秘ならば仕方ない。人の身で神の力を超えられるなんて傲慢なことを、敬虔な信徒である吹羽は考えない。なので見なかったことにしてもらうしかないのだ。

 霊夢がたい焼きを食べても普通にしているのはアレだ、巫女だから神の力に慣れというか耐性というか、そういうのがきっと付いているのだ。内心ではもうとろっとろになっているに違いない。

 

 と、霊夢とたい焼き談義に花を咲かせていたところに新たな声が。

 

「またしょうもないこと言ってるなぁ吹羽。たい焼きなんぞでそうなるのはお前だけだぞ。よっ」

「あぁっ!? ボクのたい焼きぃ!」

 

 一つ目を堪能し、早速二つ目(最後)に手を出そうとしたところで、それは頭の上から伸びてきた腕に掻っ攫われてしまった。その腕の主たる鶖飛は、当然と言った表情でたい焼きを口に咥え、吹羽の隣に座る。

 もちろん、吹羽は食いかかった。

 

「最後の一つ! 取らないでよぉ〜!」

「いや、約束なんだからこれは俺の分だろ?」

「それは! そう、だけどぉ……」

 

 だとしても、上から無理矢理取るのは違うだろ!

 ――そう言いたいのは山々だったが、性格上約束を破るような言葉を鶖飛に投げるのも憚られ、吹羽は頰をぷっくりと膨らませて押し黙る。

 当然と言った顔で妹のものを取る兄と、それに何も言い返せない気弱な妹。傍目からは兄妹にありがち(?)な理不尽染みた光景に、眺めていた霊夢が苦言を呈した。

 

「ちょっと鶖飛、妹におやつを集るなんて随分と恥知らずなことするじゃない」

「誰が恥知らずだ。戦利品だコレは」

「なんの勝負か知らないけど、勝ったからって妹のものを本当に取っていく兄がいるかって話。嫌われるわよ? 誰にとは言わないけど」

「うっせ。お前こそ人の家に我が物顔で上がり込むなんて、いつかぬらりひょんと間違われるぞ。妖怪に間違われる博麗の巫女とか、いい笑い物だな?」

「は?」

「ンだよ」

「や、やめてよ二人ともぉ……」

 

 きつい視線をぶつけ合う二人に挟まれ、吹羽はオロオロと視線を彷徨わせる。

 幾らいつものこと(・・・・・・)とはいえ、それを自分を挟んでやってもらっては敵わない。国同士の戦争で最も被害が出るのは、いつだって両国ではなくその間にある国(戦場)なのだ。

 剣呑な雰囲気で視線を交わす二人。そしてその間で体を縮こまらせる吹羽。だがそれを中断させたのは、やはりこれもいつも通りに――。

 

「あらあら、巫女様と随分仲がいいのね鶖飛?」

 

 そう言ってにこにこしながら、暮葉が自らの湯呑みを持って居間にやってきた。

 二人は即座に視線を切ると、鶖飛は不機嫌そうに眉根を寄せ、霊夢は澄まし顔でお茶を啜る。

 

「別に仲良くない」

「喧嘩するほどなんとやらと言うけどね。あなた達会うたび会うたび口喧嘩するじゃない」

「それはこいつが文句つけてくるから」

「文句はつけてないわ。恥知らずに常識を教えてあげてるだけよ」

「非常識の塊みたいなヤツが何言ってるんだ」

「あんたに言われたくないわ。なんなら此間つかなかった決着を今からつけてもいいのよ? この剣術バカ」

「あ?」

「なによ」

「仲が良いってそう言うことよ?」

 

 言葉を交わして二、三言目には火花を散らし始める二人の姿に、暮葉は初々しいものを見たような柔らかい笑顔をこぼした。

 

 基本的に二人は喧嘩が多い。暮葉の言葉通り会うたびに口喧嘩しては火花を散らし、吹羽や暮葉が仲裁するというのが日常茶飯事である。

 正直に言えば吹羽も二人は仲が良いと思うのだが、これを言ったらなにをされるか分かったものではないのでいつも喉奥に留めているのだ。

 二人共“天才”と言って差し支えないほどになんでもできる似た者同士なのに。同族嫌悪というやつなのだろうかと吹羽はいつも思う。

 

「……話がズレたわ。ともかく、兄が妹のものを取るなんて恥を知れってことよ」

「なに、鶖飛。まさか吹羽のもの取ったの?」

「違うって。いや違くないけど、勝負に勝ったからもらったんだって」

「ほんと、吹羽?」

 

 覗き込んでくる暮葉に、吹羽は渋々ながら頷く。結局のところ鶖飛の言い分は正しくて、ただ吹羽が敗北を認められないだけなのだ。

 だが、どうやら暮葉は霊夢の味方のようで、霊夢と共に意味ありげな視線を鶖飛に向ける。すると、鶖飛は居心地が悪くなったのか「しょうがないな……」と呟き、

 

「……ほら、吹羽」

「ふぇ?」

 

 鶖飛が差し出してきたのは、半分に割られたたい焼き。

 

「もらっていいの……?」

「バカ言え。俺が勝負に勝ったから、お前の分を半分もらう(・・・・・)んだよ」

「! お兄ちゃん、ありがとっ!」

 

 よく見れば、鶖飛が差し出してきたのは餡がたっぷりと入ったたい焼きの胴部、対して鶖飛の方はヒレ部である。あくまで貰う側だから小さい方でいい、なんて言葉が聞こえてきそうな気遣い方だ。

 例えそれが責められた故の行動だとしても、なんだかんだでこうして優しくしてくれる兄が吹羽は大好きなのだ。

 満面の笑みで礼を言い、それをありがたく受け取って吹羽は迷わずかぶりつく。舌に広がる餡がますます甘く、暖かく感じられた。

 

「えへへ……もう、霊夢さんがお姉ちゃんになってくれたら良いのになぁ〜」

「あら、いいこと言うわね吹羽。じゃあ巫女様、うちの鶖飛をお願いしますね」

「「それだけは絶対にない」」

「遠慮しなくていいんですよ霊夢さん?」

「「こんなやつこっちから願い下げだから」」

「やっぱり仲良いじゃない」

 

 これだけ言葉を重ねられる二人が、仲が悪いなんてありえない。

 鶖飛に貰ったたい焼きをもぐもぐしながら、吹羽は幼心にそう確信していた。霊夢が姉で、鶖飛が兄。二人がずっと傍にいて、いつでも遊んでくれる生活……嗚呼、なんと素晴らしい。そこになんらかの形で阿求がウチに住んでくれれば最高なのだが、流石に望みすぎだろうか。

 

 大好物のたい焼きを噛み締めながら、吹羽はそんな甘々な妄想に浸って、実に幸せそうな笑顔をこぼす。彼女は気が付いていなかったが、それを見ていた霊夢、暮葉、鶖飛までもが優しげな笑みを浮かべていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 真っ青だった空は既に茜色に染まっている。小鳥の鳴き声は烏のかぁかぁという声音に変わり、宵の時刻を伝えていた。おやつと団欒の時間も終わり、三人――霊夢は客人なので省略――は皿や湯呑みなどを片付けていた。

 

 そんな折、ふとしたように鶖飛が口を開いた。

 

「そういや、父さんは?」

 

 数時間前の指南の後、一度も見ていない父の姿を思い出す。

 台所で皿の水洗いをしていた暮葉は、特に振り返ることもなく答えた。

 

「まだ鋼を打っているわ。あの人は本当に、鍛治に対しては誰よりも“風成”なのよね」

「お父さん、また研究をしてるの?」

「そうみたい。今日は依頼も早く終わったみたいだったんだけどね。全くもう……」

 

 吹羽と鶖飛の父――名を秋水(しゅうすい)

 その名の通りに、誰よりも曇りなく生真面目な刀鍛冶だった。一に鍛治二に鍛治三にやっと家族が入ってくるほどストイックな鍛治師であり、食事と就寝以外はほとんどの時間を工房で過ごしている。

 当然ながら吹羽と鶖飛の師匠でもあり、一日数時間に及ぶ鍛治の指導はとても厳しい。

 

 因みに、暮葉も風成の分家の出であり、ある程度鍛治や信仰についての理解があるので座学などは彼女が担当である。

 両親はすでに他界しているので、実質吹羽の家族(風成本家)こそが風成一族最後の家ということだ。

 

「そうだ。二人とも、お父さんにおにぎり持っていってもらえる?」

「おにぎり? なんで」

「あの人、放って置いたらいつまでも金槌振るっていそうだからね。様子を見るついでに、持って行ってちょうだい」

「はーい!」

 

 炊き出してあった釜からご飯を取り、手早くおにぎりを仕上げた暮葉。それを小さな皿に盛ると鶖飛に手渡し、吹羽の方には緩めに冷めたお茶が手渡された。

 

「ついでに、夕飯時には切り上げるように言っておいて」

「分かった」

「うん!」

 

 工房へは通路で繋がっている。庭を挟んで少し離れた場所に建てられている古い工房だが、代々受け継いできたものということもあって近くに新しく建てるというわけにもいかず、代わりに家から直接行き来できるように渡り廊下を建てたのだ。

 

 持たされたおにぎりとお茶を落とさぬよう気持ち慎重に渡り、辿り着いた工房の扉に指をかける。

 暮葉の言葉通り、稽古の終了から大分時間が経っているにも関わらず、中からは力強い鋼を打つ音が響いていた。

 

「お父さん、おにぎり持ってきたよっ!」

 

 工房の引き戸を開いて、元気よく吹羽が声をかける。返事はなかったが、鋼を打つ音は絶えず聞こえてくるので、炉の向こう側にいるのだろう。

 二人は多数の道具や作品が並べられた中を慎重に進み、高熱を放つ炉の横から顔を出した。

 そこには案の定、鋭い目つきをした父、秋水の姿があった。

 

「父さん、軽食を持ってきた」

「おにぎりと、お茶もあるよ」

「…………」

 

 返事はない。力強く鋼を打っては位置をずらし、鋭い視線は一瞬たりとも鋼から離れない。

 

「お父さーん?」

「……集中すると音が聞こえなくなる癖、いい加減直したほうがいいんじゃないか、これ」

 

 鶖飛の苦言に吹羽も苦笑いしながら頷く。

 秋水のこの状態は珍しいことでもなんでもなく、むしろ頻繁に起こる彼の癖ともいうべき習性だった。

 

 筋肉質の体は年に似合わず、炎の僅かな色の違いすら見逃さない鋭い眼光は、射抜かれれば熊ですら逃げ出すだろう。まさに“鍛治師となるために生まれた”ような体を持った彼は、いざ鍛治に向かう際にはとんでもない集中力を発揮するのだ。それこそ至近距離での他人の会話にすら気がつかないほど。

 暮葉の言葉通り、彼は今代の誰よりも“風成”の人間であり――故に現当主なのである。

 

 とは言ってもこのままではらちがあかない。短いながら彼を見続けてきた息子娘の二人は、こういう時にどうすべきかも既に心得ていた。

 鋼を打つ金槌が傍に置かれ、秋水が鋼の表面の出来を観察するその短い隙に、鶖飛は彼の肩をトントンと叩いた。

 

「んっ? おお、鶖飛と吹羽。どうした?」

「飯。母さんから」

「おにぎりだよ!」

 

 向けられた視線は相変わらず鋭いが、声音は穏やかだ。二人が持ったお茶とおにぎりを見て、次いで工房の外を見遣った秋水は、小さく「またやっちまったか……」と呟いて頭を掻いた。

 

「悪いな。どうにも鋼に触れてると時間感覚が飛んじまうんだ」

「いい加減直したほうがいいんじゃ?」

「つってもなあ……」

 

 仕方なさそうに眉をハの字にして、秋水はほんのりと赤められた鋼を見下ろす。何度も熱せられ、叩かれ、不銹鋼(ふしゅうこう)硼砂(ほうしゃ)と共に鍛えられたそれは、既に刀剣程の薄さと僅かな反りが見受けられた。

 持ち上げて、ジッと睥睨するように眺める。太い首にかけられた勾玉のペンダントがからりと鳴った。

 

「風と共に生きる……そのためにご先祖様が編み出したのがこの技術だ。それを持って鋼と向き合うと、夢中にならずにいられねぇ」

「……子供みたいだよ、お父さん」

「ははっ、吹羽に言われちゃ世話ねぇな!」

 

 カッカと笑いながら、秋水は乱暴に吹羽の頭を撫でた。

 年頃の子供には嫌がられるであろう激しいスキンシップだが、“家族大好き”を地で行く吹羽にはただただ嬉しいだけで、頭を撫でるゴツゴツとした感触を笑顔で受け入れていた。

 その様子に“俺は嫌だなぁ”とばかりの渋い顔をして、鶖飛は一つ溜め息をこぼした。

 

「はぁ……まぁとにかく、飯は渡したから。母さんも夕飯には切り上げろって言ってたよ」

「ああ、分かった」

「んじゃ――」

「あー少し待て、鶖飛」

 

 工房の引き戸に手をかけたところで、鶖飛は父の声に振り返った。

 まだ何かあるのか、といった表情。吹羽も何事かと振り返る。

 

「技術ってのァ積み上げてくもんだよな。風紋だって、数え切れない数のご先祖様方が日々精進してきたから成り立ってる。理解してるか?」

 

 真剣な表情でそう語る秋水は、真っ直ぐに鶖飛を見つめていた。そこには何か底知れない想いのようなものが微かに感じ取れるが、幼い吹羽にはそれがなんなのか全く以って分からない。

 しかし、鶖飛はどこか呆れたように溜め息を吐いて、

 

「またその話か……もう耳にタコができるくらい聞いたよ」

「ああ、そうだな」

「“どんな技術も一人の天才と九十九人の凡人が研鑽して作り上げたものだ”、でしょ? 分かってるよ、なんの話か全然分かんないけど」

「今はそれでもいいんだ」

 

 緩く首を振るい、鶖飛の言葉を肯定する。この問答ももう何度か繰り返されてきたことで、鶖飛は渋い顔で息を吐いた。

 

 なんでこんな話をするんだろう、とは吹羽も思っていた。鶖飛が言うように、父のこの言葉は聞き飽きたほどで、決まって鶖飛がいるときに話をするのだ。吹羽ですら聞き飽きているのだから、鶖飛などはもううんざりするほどだろう。

 まるで鶖飛にだけ言っているような感じ。それはまさに、鶖飛に“決して忘れるな”と念を押しているようにも見えた。

 

「……毎回そう言うけど、ならいつ分かるようになればいいのさ」

「……さぁな。それは俺にもわからねぇよ」

「はぁ?」

「だが、否が応でも分かる時がくるさ。なんでこんな話をするのかってこともな」

「はあ……」

 

 要領の得ない秋水の言葉に、今度は二人して首を傾げた。

 普段は豪快かつストイックな人が、こんなにも曖昧な問答をするのは珍しく思われる。きっと鶖飛に――二人に臨む何事かがあるのだろうが、それを理解できない。もしくは、秋水に伝える気自体がないのか。

 

「ま、とにかく伝言は聞いた。引き止めて悪かったな」

 

 釈然としない二人を見かねてか、秋水はそう言って話を打ち切った。

 いつもの豪快な笑みを向ける秋水に、今考えても分からないだろうと二人は諦めて思考を脳の隅の方に放り投げる。

 取り敢えず覚えておけば、きっとそのうち分かることだろう。

 

「ん……じゃ」

「ちゃんと戻ってきてねお父さん!」

「おうよ。後でな」

 

 頼まれごとも果たし、二人は連れ立って工房から立ち去る。

 

 

 

「ああ……大切なウチの子宝なんだ。繰り返させやしねぇさ……賢者様(・・・)よぉ」

 

 

 

 秋水の小さな呟きには、決して気が付かぬまま。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 そういえば、吹羽が大人ぶりたくなる前なので今回と次回は自然とことわざ無しですね。
 ご理解を。


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第四十五話 追憶・沁みゆく影

 前回よりは早く仕上がりました。
 そろそろ佳境ですし、勢いのまま進みたいところ……!


 

 

 

 座学というのも、吹羽はそれほど嫌ってはいなかった。

 もちろん実際にやって試して、実験や試行錯誤した末に身につける方が何倍も効果的だと思ってはいるが、何も不必要なこととは思っていない。座学というのは、要は試行錯誤するための事前準備のようなものである。

 

 実験や試行錯誤をするにも知識が要る。土台がなければ応用は成り立たないし、危険も伴う。刃物の使い方も知らない者に包丁を握らせても、何も生産的なことは起こらないだろう。

 だから吹羽は座学にも真摯だ。

 そも風紋を学ぶのは“風を感じる術”を増やすためであるからして、吹羽がそのための勉強を疎かにするわけもなかったのだ。

 

「いい吹羽? いつも言ってるけど、風紋は繊細な刻印よ。だから――」

「寸分の手元の狂いが流れを乱す、だよね? 分かってるよ!」

「……上出来!」

 

 吹羽の自信有り気な言葉を聞き、暮葉も満足そうな笑顔をした。

 

「風って簡単なことで動きが変わってしまうわ。それこそ私たちが息をするだけで流れは乱れ、終いには千々に散ってしまう」

 

 「さてそこで問題です」と、暮葉は人差し指を立てて前置いた。

 

「そんな風を使って安定した効果を発揮させるには、まず何が大切でしょう?」

「はーい!」

「はいふーちゃん!」

「勢いですっ!」

「正解!」

 

 即答してみせた吹羽を暮葉はよしよしと撫で回す。吹羽はくすぐったそうにしていたが、父親同様、母親のこうしたスキンシップは気持ちがいいので始終笑顔だ。

 

「まぁ、この間教えたばっかりだものね。でもちゃんと覚えていたのは偉いわ」

「えへへ」

 

 ――つまるところ、風紋に関する座学とはこういうものだ。

 先祖代々受け継いできた風紋はその過程で研究され、進歩し、より法則的な概念に纏められていった。そうした中で、風紋を扱う上で知っておいた方がいい知識は座学として今日に残っているのだ。ここで学んだことを実践で試し、経験と知識を蓄えて一流の刀匠へと至る――それが風成家における教育である。

 

 因みに、今二人が話していた内容も長い歴史の中で研究されてきた内容の一つであり、風紋を安定して行使する方法である。

 緩い風は儚く、細い風は容易に他の風に飲み込まれる。ではどうすれば良いのかといえば、それは単純な話。太く強い風を生み出せば良いのだ。

 風紋によって流れる風に緩急をつけてまとめる事で強い風を生み出し、次の紋へと流し込む。そうすることで風は他の風に邪魔されることもなく効果を発揮し、安定性が増すのである。

 

 可愛い愛娘を撫で回して満足した暮葉は、吹羽の頭からそっと手を離すと、今度は打って変わって寂しそうな笑みを浮かべた。

 

「でも、本当に偉いわね吹羽。ちゃんと勉強ができて」

「ふぇ? ど、どういうこと?」

「いや、ね? だって吹羽、もうある程度の風紋は使えるでしょう? 秋水さんに言われたからこうしてやっているけど……この勉強も、なんだか今更なような気がしてね」

 

 頰を掻きながら苦笑いをこぼす暮葉の姿に、吹羽は彼女の言いたいことを察した。

 つまり、無駄なこと(・・・・・)をしているのではないか、と暗い内心を吐露しているのだ。

 

 暮葉の言葉通り、吹羽は既にある程度の風紋を扱うことができる。基礎的なものは当然のことながら、複合したもの、応用したもの、なんなら暮葉が考案しようとしてどうしてもうまくいかなかった風紋を完成させたことすらあった。

 この歳にしてそこまで風紋を扱える者など類を見ない。そして暮葉の風紋を完成させたことで、吹羽は歴代最年少で次階到達を認められたのだ。因みにその風紋は基礎にもなり得るものであり、つまり吹羽は風紋という技術の基本概念に当たるものを完成させたのだ。

 

 疑う余地のない、稀代の天才である。

 少なくとも、風成の人間としては最高の才覚を持っていた。

 

 だからこそ、暮葉はこうして座学をすることに少々疑問や虚しさを感じるのである。次階到達者に風紋の勉強など、今更以外の何者でもない、と。

 だが当の吹羽は、そんなことこれっぽっちも思っていなかった。

 

「今更なんかじゃないよ、お母さん」

「え?」

 

 予想外の言葉に、暮葉がキョトンと目を丸くする。

 

「あのね、ボクは確かに風紋を使えるけど、お父さんやお母さんみたいに理解してるわけじゃないんだぁ」

「ああ……“見える”んだっけ?」

「うん」

 

 小さく頷いて、少しだけ能力を解放する。吹羽の翡翠色の瞳が光を灯し、宙に僅かな線が揺れた。

 

「こうしていれば、いろんなものが見えるんだよ。すばしっこい虫さんの羽とか、遠くで鳴いた鳥さんのくちばしの動きとか……風紋を通った風の流れとか」

 

 “ありとあらゆるものを観測する程度の能力”。

 吹羽が生まれ持ったその能力は、奇しくも風成の人間のためだけにあるような能力であった。

 

 こうして人間が風紋を研究し法則的に纏めようとするのは、端的にいえば風の流れを掌握したいからだ。

 風とは儚く気まぐれで、中々思ったように動かない。そして目で見えないゆえに、制御するのがとても困難だ。大昔の風成家の先祖たちは、その目で見えない風を操るために風紋を創造した。

 

 だが吹羽の能力――鈴結眼はそれを真っ向から覆す力だ。

 

 先祖たちが掌握したがった風の動きを、吹羽はその眼によって見ることができる。見ることができたならば、あとは効果を発揮できるように少しずつ調節すれば良いだけだ。知識も最低限のものだけで済み、基礎などなくても応用ができてしまう。

 

 つまり吹羽は、次階に到達した時点でほとんど風紋のことを理解できていなかったのだ。

 

「見えたから、思った通りに動くように風紋を刻んだだけ。理論とか理由とか、そういうのじゃないの。お母さんの風紋を完成できたのも、風がお母さんが言っている通りの動きをするように見ながら刻んだだけ……。だからボクは、風紋のことをちょっとしか知らないんだよ」

 

 応用ができるなら基礎なんてどうでもいい――そんなことを言えるような、ズルい性格など吹羽はしていない。

 そりゃあ確かに吹羽は天才なのだろう。それは疑う余地がない。だが、そうして才覚に溺れたらきっと人は堕落する。そのことを吹羽は幼心に理解していた。

 母は新たな風紋を生み出そうと頭を悩ませていた。父は絶えず進歩しようとひたすらに金槌を振るっている。兄はいくら才能がなくても諦めずに前を見ていた。――そうした環境が、あるいは吹羽の“楽な方を追求してはいけない”という性分を形作ったのかもしれない。

 

 ゆえにこそ。

 

「ボク、みんなみたいになりたい。努力して、身につけて、一流の刀匠になりたい。だから……いくらボク自身の力でも、ズル(・・)はしたくないの」

「吹羽……」

 

 決意に満ちた吹羽の言葉に、暮葉は感動とも感心とも取れる吐息をこぼす。

 彼女の優しい眼差しに少しだけ小っ恥ずかしくなる吹羽だったが、自分の気持ちが全肯定されたようで、嫌な気分ではなかった。

 

 やはり、気持ちや夢を認められるのは嬉しいことだ。ましてそれが親であれば、まるで人として一人前だと認められたように感じてこそばゆい。

 そうしてむず痒さにも似た慣れない感覚に“てれてれ”としていると、

 

「も、も〜ふーちゃんったら一丁前なこと言うようになったわねっ! うりうり〜」

「うひゃっ!? ふあ、ほっぺがっ、つふれひゃうよおかあひゃん!」

 

 両手に挟まれてタコ口になる吹羽を、暮葉はにこにこと笑いながらからかう。だがそうしていながら、暮葉の頰も薄っすらと赤く染まっているのを吹羽は見逃さなかった。

 やはり彼女も、照れているらしい。そりゃ自分みたいになりたいだなんて娘に言われれば、照れてしまうのは無理からぬことだろう。そういう意味では、きっとこうして吹羽を弄り倒すのは暮葉なりの照れ隠しなのだ。

 

「ふふ……その気持ち、忘れないようにね」

「! うん!」

 

 大きく頷き、それに応えて暮葉も笑顔で頷く。

 さてそれじゃあ、と前置いて、暮葉が勉学の話に戻ろうと口を開いた。

 

 ――その時だった。

 

 

 

『何度も言わせるなッ!!』

 

 

 

 身体が芯から震え上がるような怒号が、家中に響いて聞こえてきた。

 それが誰のものなのかなど考えるまでもなかった。思わず肩を震わせてしまうような怒声など、滅多にないとは言え、一人しかいない。

 尋常ではない怒りように吹羽と暮葉は顔を見合わせると、連れ立って声の下へ――工房へ向かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

『どうして同じ失敗をする!? お前は以前教えたことを覚えていないってのかッ!』

 

 工房の扉前までくると、怒号はより一層強く激しく聞こえてくる。扉を隔ててもこれなのだから、きっと中では凄まじい迫力だろう。想像するだけで足が竦む。

 中々手を出せない吹羽に代わり、暮葉が戸を開いた。

 

 するとそこには、歯をむき出しに目の端を釣り上げる秋水と、彼の前で小さく俯く鶖飛の姿があった。

 

「やる気がないのか!? どうなんだ!!」

「……やる気はあるよ」

「ではなぜ何度も何度も同じ失敗をする!? やる気があるのなら、一度とは言わずとも二度三度言われればわかるはずだろう!」

「……分かってるけど、苦手なんだ」

「“苦手”で済むならこれほどは言わない!」

 

 握り込んだ拳がガンッと机を叩く。見慣れないほどの剣幕で怒り続ける秋水の姿に、吹羽はすっかり怯えて小さくなってしまっていた。暮葉が両肩を手で包んでくれていなければ、一目散に逃げ出していたところだ。

 秋水は駆けつけてきた二人には気が付きもせず、怒りのままに言葉を鶖飛へ叩きつける。

 

「何度言った! 何度失敗した! なぜ工夫をしない!? これで“やる気がないから”以外の理由があるのか!?」

「………………」

 

 ――秋水は厳しい性格の人間だ。

 己のやることにストイックなのは当然のことながら、納得のいかない物事に対してはキツくあたる傾向がある、言わば頑固親父なのだ。

 今回のことも、言葉から察するに鶖飛がいつまで経っても風紋を彫れないことに痺れを切らし、怒りが爆発してしまったのだろうことが察せられた。

 

 だが、鬼というわけではない。彼の中にはしっかりと常識があり、それに基づいて判断された“仕方ない”事象に対しては温情も見せる。ゆえにこそ、彼がここまで怒る――否、鶖飛に(・・・)怒り散らすことは珍しいことだった。

 暮葉も流石に戸惑っている。そして止めに入る隙を見つけ出すことさえ、二人にはできなかった。

 

「お前は風成の人間だろう!! 為さねばならない目標(三階義)があり、一生を賭して励まなければならない! なぜお前はそれがわからないんだッ!」

 

 失敗したことを責めてはいない。失敗したことを反省せず、成功を目指さない姿勢をこそ彼は責めていた。

 

 秋水にとって――“生粋の風成”にとって最も大きな目標とは、つまり三階義の習得である。秋水自身終階に至ったと――承認の絶対数が少ないとはいえ――認められ、現当主として勾玉を受け継いではいるが、そこで止まることを彼の性分は許さなかったのだ。

 そして当主をはじめとした年長者が負う義務とは、後継の育成に他ならない。

 失敗ばかりを重ね、進歩の見られない鶖飛にキツく当たるのはある意味当然と言えた。

 

 だが――鶖飛の努力を、吹羽は知っている。

 

「(違う……違うよ、お父さん……!)」

 

 恐怖に身体が竦んで声こそ出ないが、吹羽は心の中でそう叫んだ。

 鶖飛にやる気がないなんて、そんなことは決してない。むしろ、誰より真摯に学ぼうとしているのは鶖飛なのだ。

 彫刻は確かに下手かもしれない。だがそれを補って余りあるほどに鶖飛は風紋への理解があり、それに関しては吹羽など足元にも及ばない。彼が本気を出して新たな風紋を開発したとするなら、きっと吹羽には全く解読できないほどの複雑さを誇っていることだろう。

 

 だが、秋水はそれを考慮しない。自身が己に厳しく生きてきたゆえに、上手くならないのは偏に努力の不足が原因だという凝り固まった考えが根底にあるのだ。

 得手不得手も努力すれば克服できる。努力は万能の薬だと信じて疑わない。そうした彼にとっての常識(・・)が、鶖飛に対する怒りを生み出しているのだ。

 

 “やる気がないのか”――それは二人のすれ違いが生んだ、とても酷い言葉だった。

 

「苦手など理由にならん……。それは己の怠惰が生んだ言い訳に過ぎない。お前がそんなことを言う奴だとは思ってもいなかったが……」

 

 ――その言葉を聞いた瞬間、嫌な雰囲気がした。

 それは血の気が失せるようで、心臓の鼓動すら遠くなるようで、何か取り返しのつかないことがすぐ目の前まで迫っているような冷たい焦燥感だった。

 

 咄嗟に足を踏み出す。手を伸ばす。しかし父を止めようとした言葉は間に合わず――。

 

 

 

「吹羽とは大違いだ……失望したぞ、鶖飛」

 

 

 

 何か大切なものが、ぷつりと切れた気がした。

 

「………………」

 

 黙って俯いたままの鶖飛の姿。

 彼の瞳すら陰って見えないその姿は、何か決定的なものが切れてズレて、そのまま落ちていってしまうかのような得体の知れない恐怖を吹羽に感じさせた。

 その雰囲気に、秋水は気が付かない。ただすれ違いが生んだ失望に頭を抱え、低く唸るのみだ。或いは、(吹羽)の才能に感激して兄にも期待し過ぎたことを後悔するかのようでもあった。

 

 ――そんな、鶖飛を認めない(・・・・・・・)父に。

 

「……知っていたさ、父さん」

 

 向けられた瞳は――酷薄なほどに透明で、空っぽだった。

 

「……何がだ?」

 

 片眉を上げて訝しむ秋水に、鶖飛は色の無い瞳のまま顔を背ける。

 

「望まれてたのは俺じゃなくて、吹羽だけだってこと」

「……なんだと?」

「とぼけなくていい。今聞いて確信した。風成の人間として吹羽は完璧で、俺は欠陥品だってことだろ」

「ッ!」

 

 諦観に満ちた声音だった。吹羽と知る鶖飛からは考え付かないような弱気な言葉で――秋水が鶖飛に失望した以上に、彼が彼自身に失望したようにも見えた。

 

「吹羽は間違いなく天才だよ。それでも頼ってくれるから頑張ってみたけどさ……もう無理だ。俺じゃ吹羽には追い付けない。父さんの期待には応えられない」

「違う……そんなことが言いたいわけじゃない!」

「何を今更……吹羽みたいにできなくて失望したんでしょ」

「だからそうではないと――」

「なら他に何があるってんだよッ!!」

 

 聞いたこともないような怒りの声が工房に響いた。秋水を睥睨する鶖飛の瞳はやはり憤怒に染まり、刀のような鋭利さで秋水を真っ向から射抜いている。

 そんな兄を、吹羽は知らない。あまりにも普段とかけ離れた彼の姿は、まるで自分が叱られているかのように吹羽の思考を真っ白に染めていた。

 

 何か、とても良くないことが目の前で起きている。でもどうすればいいのかが全くわからない。

 

「俺は父さんたちみたいにはできない……そんなことはずっと前からわかってた! だから俺なりに頑張ったんだ! それでもダメなんだろ!? 父さんの期待通りじゃあないんだろ!! この他に何かあるなら言ってくれよ!!」

「っ、……」

 

 痛いところを突かれたと言ったように秋水は顔を歪ませ、しかし決して口は開かない。吹羽にはそれが何かを秘めているようにも見えたが、激昂した鶖飛にそんなことを気をかける余裕などある訳がなく。

 

「……もういいよ」

 

 そう言い残して、鶖飛は工房から飛び出していってしまった。

 咄嗟に暮葉が名を呼ぶが、一瞬も足を止めることなく林の方に走り去ってしまう。

 秋水は依然苦々しい表情で、小さく舌を鳴らした。

 

「秋水さん……」

「ああ……言葉を間違ったな。そんなつもりで言ったんじゃないんだが……」

 

 暮葉が小さく声をかける。応える秋水の声音は明らかに落ち込んでいた。

 吹羽は混乱と焦燥の真っ只中にいたが、鶖飛を放っておいてはいけない気がして、堪らずに駆け出した。

 

「ぼ、ボク追いかけてくるよ!」

「あっ、吹羽……!」

 

 呼ばれるが、振り返らない。今は両親よりも兄の方が心配だった。

 嫌な予感というのは往々にして当たるもの。鶖飛に何か起こるのが吹羽にはどうしようもなく嫌で、駆ける足を止めることすら恐ろしいほどだった。

 

 日はまだ高い。だが天気が悪く、分厚い雲が日の光を完全に遮っている。今にも雨が降り出しそうなほどに空気は冷たく、隙間風のように寒く感ぜられた。

 嫌な予感を助長するようで、吹羽は無意識にこくりと唾を飲み込む。固く粘つき、喉に絡みつくそれは非常に不快だった。

 

 そうして、“お兄ちゃん、お兄ちゃん”と心の中で呼びながら走り回ること数刻。

 

 

 

 林の中でも一際暗い場所に、鶖飛の背中が見えた。

 

 

 

「っ、お兄ちゃ――」

『なん、だって……?』

 

 咄嗟に声をかけようとするが、それは他ならぬ鶖飛の声によって遮られた。そしてそのまま、何故か不気味に感じて吹羽は言葉を飲み込んだ。

 吹羽の声には気が付いていないのか、鶖飛は背を向けたままひたすら森の奥の方を見つめていた。

 

 吹羽は咄嗟に木陰に身体を隠した。何故こんなことをしているのか自分でも分からなかったが、とにかく今出ていくのがなんとなく不気味に感じて、吹羽は木の陰から鶖飛の様子を覗き込む。

 深い深い闇の方に向けて、鶖飛は何事かを話していた。

 

『なんで……』

 

 話す、というと相手がいるようだが、決してそんなことはない。鶖飛が言葉を放っている方向は暗闇の中で、吹羽の眼で見ても人影らしきものも全く見えないし、声だって聞こえない。誰もいない暗闇の方に、鶖飛が一方的に話し言葉を放っているような状態だ。

 

 恐ろしい――というよりは、心配だった。ひょっとすれば鶖飛の不安定な精神につけ込んで悪霊の類が取り付いたのではないか、と。

 幻想郷では幽霊の類は珍しい存在ではない。害のない幽霊もいれば当然悪霊もいる。精神的な存在である幽霊の類は、やはり弱った精神につけ込んでくるものなのだ。

 

 だが、それだけでこんなにも不気味なものか――幽霊を見たときのそれと釣り合わぬ本能的な怖気に、疑問が浮かび上がる。そしてその疑問が、更に不気味さを煽る。

 

『どういう意味だ』

「(お兄ちゃん……誰と話してるの……?)」

 

 声音に不安定さはない。ゆえに、鶖飛は確かに何者かをその目に認めて会話していると思われる。だが試しに能力を解放して“視野”を広げてみるも、やはり暗闇の中には何もいないし幽霊の類も見受けられない。

 認識できない何かと、鶖飛は会話していた。

 

『……まさか……それが俺、だってのか』

 

 出て行って止めるべきか。いやしかし、危険なものなら鶖飛が抵抗しないはずはないし――。

 木陰から覗きながら逡巡するも、やはり弱気な吹羽は怖気に抗えない。見えないナニカと、鶖飛の不可思議な会話が続く。

 

『………………』

「(お兄ちゃん……)」

 

 そうして様子を見ていると、鶖飛は突然何かに気が付いたようにして振り返った。咄嗟に覗き込んでいた顔も木陰に隠すが、あまりに突然だったので、反応が遅れたことは明らかだった。

 

 暗闇の方へと向かっていた鶖飛の意識が、ようやく吹羽に向けられる。それを感じ取って、吹羽は小さく体を震わせた。

 自分は覗き見をしていたのだ。それに今の鶖飛はきっと父とのことでイラついてもいる。であれば、覗き見なんぞをしていた不埒者に容赦など使用はずもない――と、妙に激しい鼓動を心臓が刻む。

 数瞬か、数秒か、やけに長く感じる静寂を間において、

 

 

 

「なんだ、吹羽。迎えに来てくれたのか?」

 

 

 

 掛けられた言葉は、しかし思っていたよりも何倍も優しいものだった。

 

 思わずひょこりと顔を出すと、相変わらず森の奥は真っ暗だったが、鶖飛は微笑ましげに――それこそいつも以上に(・・・・・・)優しげな表情で吹羽を見つめていた。

 

 少しだけ、違和感があった。

 

「……お兄、ちゃん……?」

「ああ。……どうした? そんなところに隠れてないで、出てきなよ」

「う、うん……」

 

 違和感に困惑しながら木陰から出る。吹羽は鶖飛が完全にこちらを認識していることを確認すると、意を決して一番の疑問をぶつけた。

 

「お兄ちゃん……誰と、話してたの?」

「話? いや、独り言だよ。気にしないでいい」

「え……でも、さっき――」

「吹羽は何も気にしなくていいよ。心配することない」

「………………」

 

 鶖飛はそう言いながら近づいて来ると、わざわざ吹羽に目線を合わせて頭を撫でた。労わるような柔らかい手つきで、もちろん気持ち良くはあったが、なぜか素直に喜べない。

 

 はぐらかされた――そう思った。少なくとも独り言だなんていうのは嘘。明らかに吹羽の眼にも見えない何かと話していたのだ。

 あの時感じた不気味さは今でこそ感じないものの、吹羽は目の前の鶖飛に付きまとう違和感をどうしても拭えないでいた。

 何かが、なんとなく、おかしい気がしたのだ。

 

 判然としない気持ちのまま、しかし拒否することも当然できず、吹羽は鶖飛の手を受け入れる。

 少し経ってようやく満足したのか、鶖飛は吹羽の頭から手を離すなり立ち上がった。

 そして、片手を差し出し、

 

「ほら、家に戻ろう」

 

 そう言って笑った。

 

「え、あの……お兄ちゃん?」

「うん?」

「えと、その……お父さんのことは……いいの……?」

「ああそのことか。大丈夫、何の問題もない。あんなのいつものことさ」

「で、でも……っ、」

 

 “あんなに辛そうだったのに”。

 そう言いかけて、吹羽は咄嗟に言葉を呑み込んだ。それを言ってしまえば、藪蛇をつついてしまう気がしたのだ。

 

「……そっか」

 

 父との問答に於いて、鶖飛が深く傷ついたのは確かだ。だからこそ吹羽は放って置けなくてここまで追いかけてきた。

 だが当の鶖飛は、喧嘩した後にも関わらずこうして笑顔ができている。そこに多少の不気味さや不理解は確かにあっても、鶖飛が傷付いたままよりはずっといいと吹羽は思ったのだ。

 きっとここに来るまでに気持ちの踏ん切りがついたということなのだろう。であれば、わざわざ話を掘り返してしまうのは悪手である、と。

 

 

 

 “鶖飛が笑っていてくれさえすればそれでいい”。

 

 

 

 この頃の吹羽は願望に忠実で、それが叶ってさえいれば、その裏側(・・)を覗き込もうなんて考えもしない――賢く、そして実に愚かな少女であった。

 

「ほら、帰ろう」

「うん……」

 

 ゆえにこそ、吹羽は気が付かなかったのだ。

 この時鶖飛の心に燻っていたものがなんなのか。

 握る手こそ柔らかなものだったが、その表情に於いては――

 

 

 

 疑惑と敵意に満ちた、暗いものだったことに。

 

 

 

 

 




 今話のことわざ

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第四十六話 運命にあらがう者たち

 追憶はこれでおしまい。


 

 

 

 秋水との一件以来、鶖飛は工房に顔を出さなくなった。

 

 食事こそ家族全員で食べるものの、両親とは会話の一つもなく、代わりとばかりによく吹羽に節介を焼くようになったのだ。当然稽古は滞り、その時間帯には森林の方へと歩いていく鶖飛の姿がよく見受けられる。

 

 きっと以前何者かと話していた場所に行っているのだろう。得体の知れない何かと接触している以上行くのはやめて欲しいと思う吹羽だが、帰ってきた鶖飛はいつも優しく笑って接してくれるため踏ん切りがつかず、言い出せずにいた。また、これ以上仲が悪くなってほしくないとも思い、両親にもこのことは打ち明けられずにいる。

 そのことが重りにも焦りにもなり、集中を欠かして秋水に叱られたのはつい昨日のことだ。

 

 きっと両親も鶖飛の変化には気が付いているだろう。特に秋水なんかは努めて鶖飛と吹羽の掛け合いを視界の端に追いやっている挙動が見て取れるので、吹羽にとっては分かりやすかった。

 だが、その頑固な性格が邪魔をしているのか尋ねてくることもない。彼には自分の中で正しいことの基準がはっきり決められている為、きっと“尋ねてしまえば自分が折れた(・・・)ことになってしまう”なんて意地を張っているのだ。

 子供みたいな人だなぁ、なんてここ最近では思うことが増えたのは言うまでもない。

 

 

 

 そうしてどこか軋んだ関係のまま数日が過ぎ――その日(・・・)がやってきた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その夜、吹羽は夜中にふと目を覚ました。

 換気のために開けておいた障子の隙間から見える外は意外なことにも明るい。隙間を通った月光が目にかかり、白い月の姿がよく見えた。満月の日だったのか夜空に浮かぶ月は大きく丸く、まるで本当に白玉が空に浮いているかのように思わせる。空いっぱいの大きな月が、深夜にも関わらず光量に困らないほど幻想郷を照らしていた。

 

「(…………風がある)」

 

 部屋には緩い風が入ってきていた。外で林の葉々をさわさわと揺らしては障子の隙間に入り込み、布団に暖められた吹羽の肌を撫ぜていく。夜は冷え込む季節だからか非常に冷たく、僅かに触れただけなのに針で刺すような痛みを感じて、吹羽は少しだけ顔を蹙めた。

 

 風に触れて嫌な気持ちになることがあるなんて、と少し残念に思いながら、吹羽は布団から出て障子をぴっちりと閉めた。

 しかし、風が冷たい所為で綺麗に眠気は覚めてしまっている。再度布団に入っても眠りに落ちるには数刻かかるだろう。

 どうしようかな、なんて布団の上に座り込んでぼーっと緩く頭を回転させていると、

 

「っ! ……な、なんの音?」

 

 何処かで物音が聞こえてくる。何かを落としたような、踏みつけるような、兎角深い闇夜に鳴るはずのない音が、僅かに家に響いていたのだ。

 吹羽は恐る恐る部屋を仕切る襖を開き、顔だけ出して周囲を見回した。

 

「(……あっち?)」

 

 やはり先程よりも鮮明に聞こえてくる。森林の方からではなく家の中からの音である証左だ。

 吹羽は冷え切った廊下をゆっくりとした足取りで進み始める。物音の発生源は、この家にただ一つある広間の方角だった。

 

 なんの音だろう――そう思い盗っ人の可能性を考えるが、すぐに切り捨てた。盗みに入るならきっと人里でやるだろうし、手早く荒らせるようにもう少し小さな家を狙うだろう。何か物が落ちただけの可能性もなくはないが、これほど断続的に物が落ちることなどそうそうない。

 であれば、なんの騒ぎなのだろう。

 深夜に一人、広い屋敷の廊下を歩む心持ちは、自分の家なのに妙に寂しく心細い。まるで一人この家に取り残されてしまったかのような気持ちになって、吹羽は少し足早に物音のする方へ向かった。

 

 

 

 ――広間の近くに着く頃には物音は鳴り止んで、冷たい闇夜が周囲に揺蕩っていた。

 聞こえるのは虫の甲高い鳴き声と自身の鼓動だけ。一歩踏み出すたびにぎしりとなる歩き慣れた床が、なぜか今はとても頼りなく感じる。

 

「ぉ、おにぃちゃん……おかあさ――ッ!?」

 

 心細さを補うように呟いた名は、不意に鼻腔を掠めた臭いによって遮られた。

 それはもはや(・・・)嗅いだことのない臭い。見ることが少なくて、臭いがあるなんて知りもしなかったようなモノだが、いざと嗅いでみればそれだとすぐにわかる不快な臭いだ。

 

 吹羽は込み上げてきた吐き気を必死に堪えて、しかしその異常事態に、半ば急くようにして広間の障子に手をかけた。

 一段と臭いが強くなる気がして、ゆっくりと覗き込む。果たして、そこに広がっていたのは、

 

 

 

 月明かりの下でも見えるほどの――どす黒い血の色だった。

 

 

 

「ぁ……ぇ……?」

 

 見たことも、想像したこともないその光景を前にして、思考の全てが吹き飛んだ。

 周囲を囲う襖には隙間が見えないほどの血が飛び散り、わずかに見えた畳は切り傷や引っかき傷で漏れなく荒らされている。そしてその全てに赤黒い血がべっとりと付着しているのだ。

 掛け軸や襖から見られた風情は見る影もなく、ただただ不快な臭いの立ち込める赤黒い部屋と化していた。

 

 この光景の意味が理解できず、処理しきれず、言葉にもならないか細い声が喉から漏れ出る。

 見慣れたはずの広間の赤黒く染まった姿。鼻腔を突き抜ける、吐き気の催すような粘っこい臭い。そしてその中に薄っすらと見える、赤に染まった横たわる何か。

 

「ああ……来たのか、吹羽」

 

 その中に、不意に銀色の線が閃いた。何かが動いて、反射した月明かりが目に映ったのだ。

 線。銀色。それにこびりついて同様に反射する紅色は艶があって、線に沿って滴っている。

 ――血濡れの刀。

 真っ白な頭の中に、ぼんやりとその一言が浮かび上がっていた。

 

「心配ないよ。吹羽は何も、気にしなくていいんだ……」

 

 銀色の線がゆらゆらと揺れて、ポタリポタリと液体の落ちる音がして。そうして暗闇の中から現れたのは、無機質な笑みを顔に貼り付けた――鶖飛の姿だった。

 その手にはやはり、血の滴る刀が握られていた。

 

 何が起こっているのか、吹羽には全く理解が――否、考えることそのもの(・・・・・・・・・)ができていなかった。まるで高度なからくりが機能停止してしまったかのように、頭脳が目の前の光景を処理できていない。しようとしていない。

 

 語りかけてくる鶖飛の異様な雰囲気にも気が付くことができず、吹羽は一歩後ずさって声を絞り出す。やっとのことで出した声も、さざ波のように儚くか細かった。

 

「ぁ、ぅ……おにい、ちゃん……? おとうさんは……おかあさんは……どこ?」

「ん? 二人なら、そこにいるじゃないか」

「ぇ……? で、でも、血がでて……たお、れて……ぇ、え?」

「ああ……暗くて分からない? それとも、刻みすぎて分からなくなっちゃったかな」

 

 ぐらぐらと揺れるような視界の中で、微笑む鶖飛が首を傾げた。そして一瞬暗闇の中に消えると、吹羽がわずかに認識できていた“赤いなにかの塊”を、ぐちゃりと蹴る音がして……その正体が、月明かりの下に晒される。

 

 赤く光る血に紛れて見えるゴツゴツした肌色。濡れて纏まり固まってしまった黒い髪。刺さったままの折れてしまった風紋刀。血を流して光を失った萌葱色の瞳。

 

 ――鶖飛の声が。

 

「ほら、見えたろ。父さんと母さんは……邪魔者(・・・)はちゃんと消えたから、安心して」

 

 

 

 秋水と暮葉の“豁サ菴”だった。

 

 

 

「……ぁ…………」

 

 言葉が出ない。声が出ない。視線が動かない。視界が定まらない。呼吸が荒れて思考が荒れて、身体中に力が入らずぺたんとその場にへたり込んむ。

 

 思考ができなかった。

 理解ができなかった。

 考えたくなかった。

 気が付きたくなかった。

 目の前の光景を拒否する吹羽の思考は、ただひたすらに、理解不能を理解不能のままで溢れさせた。

 

 分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からないからない分からない分からない分からない分からない分からない分かりたくない――。

 

 溢れる言葉。そうして何もかもを拒絶して思考停止した吹羽は、終いに、ぷつりと糸が切れたように意識を失った。

 

 そこから先は、記憶が蘇った今でもよく覚えていない。

 鶖飛が何か言っていたが、聞こえなかった。ふと視界が暗くなったかと思えば、ぼやけた視界の中に黒々とした木が見え、次に見えたのは霊夢の張り詰めた横顔。降り出した雨が顔に当たって冷たく、しかし身体は包まれるように温かい。

 

 覚えていないのも仕方がなかった。だって、その時にはもう吹羽は何も考えられなくなっていたのだから。何も考えられなくなるほどに、吹羽の精神はズタズタに引き裂かれていたのだから。

 

 悲劇を嗤うような氷雨。

 安寧を許さない硬い地面。

 労わるような人肌の暖かさ。

 意識の無い間に様々感じたけれど、吹羽にはもはやそれらを拒否することも、受け入れることすらできない。そのための意思も気力も何もかもが失われていたのだ。

 

 

 

 ――そうして取り戻した記憶は、吹羽にとっての絶望そのもので。

 

 生きる糧としていたはずのものが、逆に今まで生きて来た意味を完全否定するに等しい真実で。

 

 まさしく――吹羽の全てが壊されたその瞬間の記憶だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――薄っすらと目を開くと、見覚えのある天井が視界に映った。記憶を全て取り戻した今となっては忘れようのない、木造の天井。暗くて木目こそ見えはしないが、そこに感じるのは確かに懐かしさ。

 肌を撫ぜる冷たい風は、(記憶)から覚めたことを悟らせた。ここは霊夢に連れられて来た旧風成邸で、自分が横たわっているのはあの広間の正面の廊下。すぐ横に広がる林からは虫の鳴き声が聞こえるが、今はなんともうるさく感ぜられる。

 

 時間はそれほど経っていないように思われた。広間を照らす月は未だ空の天辺には差し掛かっておらず、雲の漂い始めた空に堂々と浮いて煌々と輝いている。それがどうにも“美しい”と思えないのは、果たして今の心境ゆえか。

 

 ゆっくり、起き上がる。

 

「……起きたのね」

「霊夢さん……」

 

 かけられた声は背後から。声の方に振り返ると、霊夢が月を見上げながら座っていた。

 

「……ボク、どのくらい寝てましたか」

「ほんの数刻よ。大丈夫……もう少しだけ時間はある」

「………………」

 

 そうやって刻限を教えてくれるのは、きっと今の心境を慮ってのことなのだろう――吹羽はそう思った。

 事実、こうして蘇った記憶を夢で見ても未だに心が憔悴しているのがなんとなく分かる。ざわざわするというか、ちりちりするというか、まるで鋭い棘の生えた重い荷物を背負って歩かされているかのような。

 

 もうどうにもならないことは分かっていても……今の吹羽には、整理が必要だった。

 

「あの日のあと……どうなったんですか?」

 

 ぼやけた記憶の中に映り込んだ霊夢の横顔。妙なほどに張り詰めたそれが思い浮かぶ。

 霊夢は横目でちらりと吹羽を見遣ると、重々しい様子で口を開いた。

 

「…………鶖飛がね、あんたを連れて行こうとしたのよ。だからあたしは抵抗した。あの時だけは、あたしの“嫌な予感”も捨てたもんじゃないって思ったわ。勘を頼りに駆けつけてみれば……まさかあんなことになっていたなんてね……」

「……どこに……連れて行こうと?」

「……おそらくは――いえ、ほぼ間違いなく別の世界(・・・・)よ」

 

 目を伏せると、霊夢は膝の上に置いた手をきつく握った。

 小刻みに震えるそれが、彼女の静かな――しかし激しい怒りを感じさせる。

 

「あいつはあの日、とても危険な場所へと消えていった……てっきり野垂れ死んだものと思ってたんだけどね……」

「じゃあ……霊夢さんを殺そうとしたのは、やっぱり……」

「ええ………………鶖飛よ」

 

 きゅ、と唇を噛む。

 

「あの日はあいつも弱ってたからなんとかなったけど、今度のはダメだった。萃香と魔理沙が決死の覚悟で隙を使って、あたしが封印するので精一杯。その封印も……もう破られる。……情けない話よね。博麗の巫女ともあろうものが、小さな女の子一人さえ守れないなんて……」

 

 霊夢の遣る瀬無い声が耳に残る。似つかわしくないほどにそれは儚くて、自分の無力を心底から呪うようでもあった。

 

 吹羽はゆっくり向き直って、黒く染まった広間の方を見た。

 あの時の光景そのままだった。ただ赤かった血が変色して黒くなっただけ。それは消せない過去をずっと引きずったままここまで来てしまった吹羽を責めるような光景にも思えた。

 責め、そして――全部無駄だったと嘲笑うかのような。

 

「……くふ、ふふふっ……」

「……吹羽?」

 

 徐に立ち上がって広間の方へ。ゆらゆらと歩く姿は幽鬼のよう。

 やがて立ち止まる。そこは丁度、両親の息絶えた場所。

 力が抜けて、すとんと座り込んだ。

 

「あは、ははっ…………全部、ボクの想いもなにもかも……無駄、だったんだね……」

 

 二人の体があった場所を撫でる。

 手の甲に、雫が一つポタリと落ちた。

 

「お父さんも、お母さんも……とっくに死んじゃってたのに、戻ってくるだなんて盲信して……馬鹿みたい。笑っちゃうよ……」

 

 視界が、崩れて。

 

「笑ってないと、おかしくなっちゃいそうだよぉ……!」

 

 吐き出した想いが、遣る瀬無さが、ぎゅうぎゅうと胸を締め付ける。

 涙がぽろぽろと溢れ出し、浮かび上がる言葉は声にならない。ただただ切ない嗚咽が広間に響いている。

 

 家族は生きている、と。

 いつか必ず戻ってくる、と。

 そう信じて疑わなかった。それが生きる支柱になっていて、それを思えばどんな苦難も我慢できた。そしてそれが報われたかのように鶖飛が戻ってきて、いつ全員が揃うのか、元の幸せな暮らしに戻れるのかを筆舌に尽くしがたい思いで心待ちにしていたのだ。

 

 それが、まさか――こんなことになるなんて。

 

 こんなの、笑うしかない。そうして自分を嘲笑って(・・・・)いないと、忽ちに潰れてしまいそうだった。

 

「おとうさん、おかあさん……ボク、分かんないよ……これから、これからっ、どうすればいいのか……ぐすっ、分かんないよぉ……っ!」

「……吹羽」

 

 嗚咽を漏らす吹羽の肩に柔らかく手が置かれる。霊夢の手だ。慰めの言葉も何もないそれはしかし、だからこそその暖かさに僅かな安らぎがあった。

 手に導かれるまま、吹羽は頭を霊夢の胸元に寄せた。

 

「ぅ、ひぐっ……ぅぁ……ぁぁああぁっ!」

「(……なんて言えば、いいんだろう)」

 

 手の中で泣き喚く吹羽に何か声をかけようとして、しかし霊夢は何も言えずに口を噤む。どんな言葉も、安っぽい慰めにしかならない気がしたのだ。

 

「(どんな言葉をかけるのが……正解、なんだろう……?)」

 

 気の利いた言葉が思いつかない。或いは、こういう時にかける言葉というものに正しいものなど存在しないのかもしれないが、こんなにも可哀想な親友を放っておけるわけもなかった。

 霊夢は自分の無力さに唇を噛み締めながら、努めて優しい手つきで吹羽の頭を撫で続ける。

 

 手の中にある今の吹羽は、まさに道導を失って路頭に迷った幼子のようだ。

 信じていたものが全て虚構だったことに気が付かされて、何をすればいいのか、何を信じればいいのか分からなくなっているのだ。

 

 ――仕方のないことだろう、とは思う。

 

 そも吹羽ほどの年頃であれば、家族の愛情に飢えているのが当然というものだ。自立した生活ができていた吹羽こそが異常だったと言わざるを得ない。

 だがそれも、どこかで家族が生きているのだと信じることでできていたこと。待っていればいつか戻ってくるのだと信じていたからこそ、立っていられただけだ。

 支えがなくなれば崩れ落ちる。自明の理である。

 

 だが、そんなことは理由(・・)にならない。それが吹羽を諦める理由にはならないことを、霊夢は分かっていた。

 

「……吹羽、聞いて」

 

 そもそも、こうなるのは予想していたことじゃないか。記憶の封印を解き、その凄惨な真実を吹羽が思い出せばこうして絶望するのは分かっていたことだ。

 吹羽の優しさを知っている。吹羽の臆病さを知っている。吹羽の賢さを知っている。そして吹羽の、家族への愛を知っている。

 自他共に理解を得て親友を名乗り、こうして辛い時に側にいるならば、手を差し伸べられるのは霊夢だけだ。手を差し伸べなければならないと思っていたから――二人でここに来たのだ。

 

「あいつはきっと、あの日のことを諦めてない。あんたを連れて消えようとしてる。そのために障害となるものはすべて斬り捨てるつもりでね」

 

 両親のみを殺して吹羽を連れて行こうとした時点で、鶖飛が吹羽の存在に依存していることは明らかであり、それを守るためなら手段も選ばないだろうことも想像に難くない。

 吹羽を守るため戦った霊夢に向ける目も、ただただ殺意だけが篭った暗い瞳だった。きっと鶖飛は、吹羽を連れていくためならこの世界すら壊そうとするだろう。抵抗する全ての者を刻み殺し、世界の崩壊に巻き込まれる者たちに何らの悼みを抱くこともなく。そしてそれだけの力が、今の鶖飛にはある。

 ――だが、大切なのは鶖飛の意思や行動ではない。

 

「……吹羽は、どうしたい?」

 

 その問いに、吹羽はおずおずと顔を上げた。瞳には未だ涙が浮かび、悲壮と困惑にぐらぐらと揺れている。

 分かっていた。この状況でこの問いをする残酷さは、霊夢自身がよく分かっているのだ。だが――これだけは吹羽が決めなくてはならないこと。

 

「どう……って」

「両親を殺したことを水に流して、鶖飛と共に行くのか。それとも鶖飛を拒否してこの世界で暮らすのか。……この二択に絞れなんて言わないわ。でも……これだけは決めなきゃならない」

「――……」

 

 俯いた表情に逡巡が見えた。

 真実を知る前なら或いは、吹羽は鶖飛についていくと即答していた――それはそれで親友として寂しいが――かもしれないが、今はきっと、そうではない。

 吹羽は無垢で心優しい少女だが、盲信的な、或いは常識外れな思考をしているわけではない。

 文の時のように恨むべきは恨み、しかし手を差し伸べられるならば差し伸べる。そういう少女だ。今回はその対象が、文でなく鶖飛だという話である。

 

 両親を殺した鶖飛を、吹羽はきっと恨むだろう。だが彼が愛すべき兄であることにも変わりはない。仲が良かった頃の関係がなくなるわけではないのだ。

 

 昔の優しかった兄を信じるのか。

 両親を殺した裏切り者として見るのか。

 

 ――きっとここが、吹羽の人生における分水嶺だ。

 

「情けない話だけど、あたしは今のあんたにかける言葉が分からない。だから、吹羽が納得できる方法を、吹羽自信が見つけるのよ。私たちのこととか、この世界とか、紫の思惑とかそんなものは考えなくていい。あんたの答えを尊重する。……でも、自分に嘘を吐くのだけはやめなさい」

 

 これだけが霊夢にできること。

 他人に与えてもらった答えなど、所詮は他人の思惑でしかない。その人の不幸を色眼鏡にかけて、良かろうと思ったことでしかないのだ。それが必ずしもその人の正解になるわけではないし、納得のいくものである確証はもっとない。

 

 本当の正解はその人自身にしか出すことはできない。

 

 (しがらみ)を取っ払い、望むことのみを追求した時に出せたその答えが――きっとその人にとって唯一無二の正解なのだ。

 

 沈黙は長かった。それだけ吹羽の中で激しい葛藤があるように思われた。

 霊夢には吹羽に対して辛い選択を迫っている自覚はあったが、彼女のためにもこれだけは譲れない。霊夢は踏ん切りがつかないように揺れる吹羽の瞳を見下ろしながら、しかし決して口を開かず黙して待った。

 

 やがて、月が角度を変えて広間の中にも光が差し込んでくる。

 広間の入り口、廊下、畳、こびり付いた黒く固まった血。そしてようやく、座り込む吹羽の顔が照らされた。一陣の風が吹く。背中を押すようにも思われる緩く、しかし弱くはない風に撫でられ――吹羽はゆっくり、顔を上げた。

 

「……ボク、には……決められないです……」

 

 漏れ出した言葉は弱々しく、震えていた。

 

「お兄ちゃんのこと、どう考えればいいのか、分からないんです……。お父さんもお母さんも殺されて、でもそれがボクのためだとか言われて、よく分かんなくなっちゃって……」

「…………」

 

 ぽつりぽつりと語り出す。

 こんがらがった思考を、声に出して整理する時間が必要だった。

 

「ずっとみんなが帰ってくるのを夢に見てて……お兄ちゃんが帰ってきてくれた時、ボク、すっごく嬉しかったんです。それこそ、もう死んじゃってもいいってくらいに嬉しくて……でも、そのお兄ちゃんが二人を……今更、思い出して……」

 

 吹羽にとって鶖飛の存在は、光のようなものだった。

 家族三人が蒸発し、戻ってくると信じてはいても、現実には安否すらわからない。そんな時に現れた鶖飛はまさに、両親もどこかで生きているのだという希望の光だったのだ。

 まるで真っ暗な道に光が差し込むようだった。今まで頑張ってきたことが報われたのだと本気で思った。

 

 だが現実は――当の鶖飛が、壊してしまっていて。

 

 ただ……古く暖かい記憶ばかりが脳裏を過る。

 

「でも、ボク……お兄ちゃんを恨み切れない(・・・・・・)んです……っ!」

 

 ズキズキと鋭い痛みの走る胸を押さえて、吹羽は葛藤を吐き出した。

 

「怒らなきゃって、恨まなきゃって……思ってはみても、優しかったお兄ちゃんの姿がチラつくんです……。例えお父さんを殺しても、お母さんを殺しても、ボクの友達を傷つけていてもっ、大好きなお兄ちゃんに変わりないだろうって……心が――着いてこないんです……っ」

 

 鶖飛に依存していた故、とも言えるだろう。

 思考と心は必ずしも直結しない。頭が分かっていても心が戸惑いみせることはあるし、逆もまた然りである。

 ずっと信じてきた鶖飛の裏切りに、吹羽の心は着いてこなかった。怒るべきなのに、恨むべきなのに、心の中では優しい鶖飛が忘れられず、大好きなまま。

 それが、吹羽に答えを出すことを躊躇わせていた。

 

 ――だから(・・・)

 

「……霊夢さん」

「……なに?」

 

 割り切れない想いに瞳を揺らしながら、吹羽は霊夢の純黒の瞳を見つめる。

 

「ボク、お兄ちゃんに会ってみたいって思います。会って、それで……お話がしたいんです」

「話して、どうする気?」

「お兄ちゃんが何を考えてるのか、訊こうと思います。それを聞いてから……ボクは、答えを出したいです」

 

 涙が浮かんではいたものの、吹羽の双眸は真っ直ぐに霊夢の瞳を射抜き、その考えに対する真剣さを彼女に示していた。

 

 木の葉が吹かれて地に落ちるほどの時間、二人はジッと見つめ合って、その奥に映る決意の炎を覗き見た。

 霊夢から見えたそれは静かで弱々しかったけれど、その熱を表す赤色が確かに輝いて衰えることはなかった。

 やがて、霊夢は目を伏せて一つ息を吐いた。

 

「……分かった。どんな結末でも、吹羽が納得できるなら私は何も言わない」

「……はい」

 

 立ち上がり、霊夢は吹羽に手を差し出した。ショックに腰が抜けていた吹羽は苦笑しながら霊夢の手を取り、立ち上がる。

 するとその瞬間を狙い澄ましたかのように、美しい声が背後から聞こえてきた、

 

「準備はできましたか?」

「……紫」

 

 暗闇からゆっくりと姿を現した八雲 紫は、その作り物のように美しい顔に微笑みを張り付けていた。

 長年の付き合いである霊夢には分かる。きっと今までの自分たちの行動は全て彼女の掌の上だったであろうことを。彼女が微笑んでいるのは、きっと予定通りに事が進んで上機嫌だからだ。

 霊夢は睨めつけるように眉根を寄せた。なんだか苦悩や葛藤が弄ばれていたような気がしたのだ。

 

 だが霊夢と同じようなことを感じたであろう吹羽は、その表情に嫌悪感を滲ませながらも、微笑む紫へ真っ向から真剣な視線を返す。

 

「……“世界のために、自分を取り戻せ”……そう言ってましたね」

「ええ、その通りです。そしてあなたは望み通り全てを思い出してくれた。これで彼に立ち向かう(・・・・・)理由は十分でしょう?」

「立ち向かうかどうかは、まだ分かりません。ボクはお兄ちゃんとお話をしに行くんです」

「あらあら……この期に及んでなんて甘いことを……」

 

 そう言った紫の声音に嫌悪感が滲んだことを、吹羽は見逃さなかった。あまりに僅かな変化だったものの――吹羽はその感覚を、なぜか知っているように思えた故に。

 

「……自分のことは自分で決めます。ボクはボクの意思で前に進むんです」

「土壇場で覚悟も決められない者は全てを失うだけですわ」

「っ、……」

 

 ぴしゃりとした紫の言葉に吹羽は押し黙った。

 

「彼は私の――私の夢の敵。どちらの意味(・・・・・・)でもね。だから彼は私の世界には必要ない。この世界は誰でも受け入れるけれど、自らを破壊しようとする者にわざわざ手を差し伸べることもないでしょう?」

「吹羽に……鶖飛を殺させる気?」

「“殺させる”……ふふ、まぁその通りといえばその通り。ただ、私が仕組むまでもないことですわ」

「……どういう意味ですか」

「あなたはどうあがいても、彼と戦わざるを得なくなるという意味ですわ」

 

 そういうと、紫はぱちんと指打ちを一つ鳴らした。すると二人の背後からスキマが口を開き、ぱくりと飲み込んだ。

 スキマはそのまま口を閉じるとすぅと消えてなくなり、旧風成邸には元の静寂が満ちる。

 

 ただ――

 

「……そう、あなたも私も彼とは相容れない。私の夢も、あの人の願いも……壊させるものですか」

 

 凛とした決意に満ちた声だけを、最後にして。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 書いていて思ったこと――これ伏線回収しきれんのかなぁ?

 頑張れ俺……前作を書き切った自分を信じるのだっ!(顔面蒼白


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第四十七話 想いを乗せて

 佳境だから筆が進むぅ〜。
 それでも二週間以上かかるという現実。三日一投稿してた頃の俺は割と化け物だったんだな……。


 

 

 見開かれた瞳がぎょろぎょろと蠢く不気味な空間――スキマが開けると、そこは薄暗い森の中だった。

 陽は落ち月が登り、二人が解放された場所は明るくはあれど不気味な闇が立ち込めるような場所だ。風はなく、虫の鳴き声もなく、代わりにあるのはぴりぴりと肌を刺すような何者かの殺気。――否、本能を刺激されて興奮している獣のような気配だった。

 周囲の空気を察して、霊夢は納得の息を吐いた。

 

「なるほど、こういう状況か」

「え? どういうことですか?」

「周囲にあいつの魔力が満ちてる。その所為か妖怪やら獣やらが異常に殺気立ってるわ。つまり――」

『対策された私の能力では、ここまで送るのが限界、ということですわ』

 

 声に次いで、二人の前にスキマが開く。中から現れたのは言わすもがな八雲 紫だった。

 

「この先に彼がいます。ただ時間の猶予もない」

「ここら一体に魔力を満たしたのが果たして封印を破る時間稼ぎのためか、それとも単に紫の参戦を恐れてか……どちらにしても面倒ね。こうして――」

 

 刹那、霊夢の背後から赤い眼光を迸らせて大熊型の妖怪が襲いかかり――血飛沫をあげて四散した。

 

「向かってくるもんだから、一々処理しなきゃいけないじゃない」

 

 そう言って霊夢はちゃっかり結界で血雨を防ぐと、いつの間にか持っていた大幣を振り払った。そこに妖怪の血糊は一滴も付いておらず、代わりに込められた霊力の燐光が闇夜に舞う。

 意識が向く刹那に行われた瞬殺劇に呆然とする吹羽だったが、ハッと我に返って周囲を見回した。

 

 ぼーっとしている場合ではない。よく目を凝らせば闇夜の中にいくつもの妖怪やら獣やらの姿が確かに見えた。誰も彼もが人肉など容易く引き裂くであろう犬牙を剥き出し、本能に支配された鋭い瞳をぎらつかせている。

 少しでも隙を見せれば忽ちに襲いかかってくるだろう。

 

 周囲を警戒し始めた吹羽を尻目に、紫は大幣を肩に担ぐ霊夢を見遣った。

 

「……霊夢」

「なんと言われたってあたしは行くわよ。この子を一人でなんて行かせられないわ」

「私事を優先する気? 自分が博麗の巫女であることを忘れていないかしら」

「忘れてないわ、何もね」

 

 毅然とした言葉と同時、霊夢は今度は吹羽の背後から襲ってきた妖怪を一針の元に消し飛ばした。

 決して紫からは目を逸らさず、その純黒の瞳には信念が宿っているように思われた。

 

「あたしは博麗の巫女である前に、親友を大切にしたいただの人間よ。この子を利用したいだけのあんたに文句は言わせないわ」

「…………そんな身体で行けば、下手をすれば命を失うかもしれないのよ」

 

 心配するかのような似合わない台詞に一瞬片眉を釣り上げるが、霊夢はすぐに得心がいって不敵に笑う。

 そう、そんなこと言われるまでもない。そんな悩みは、“博麗の巫女になると決めたあの日”に済ませてきたのだ。

 

「死ぬ覚悟なんてとうの昔にしているわ」

 

 その言葉は、隣で聞いていた吹羽にはある意味辛い言葉だったかもしれない。僅かに息を呑む音も聞こえた。

 だが事実だ。自分がかつてなく弱っているのは自覚しているし、大妖怪となんてとても戦えない。それを超える鶖飛の下に行くというのだから、当然命の危険はあるだろう。紫の問い掛けは厳然たる事実で、霊夢の返答だってそれ以外にはあり得ない。

 

 しかし、そんなもの霊夢にとっては今更だ。

 今までだって修羅場は幾度と超えてきた。死にかけたこともあった。いくら弾幕ごっこが主と言えど、なんの変哲も無い人間の身で妖怪を退治するのが博麗の巫女という存在なのだ。それを今まで立派に努めてきた霊夢に、今更死ぬ覚悟がないわけがなかった。

 

 瞑目する紫の姿に、霊夢は渋い了承を垣間見る。それは諦観にも見えるものではあったが、そんなもの些事でしかない。

 霊夢は“話は終わり”とばかりに視線を外すと、改めて周囲を睥睨した。

 

「で、どうすんのよ。とてもじゃないけど全部は相手し切れないわよ」

「…………尤も。本命の前に力を浪費するのは宜しくない」

「対策はあるんでしょうね」

「単純な話ですわ」

「?」

 

 簡潔に問答すると、紫は不意に腕を振るってスキマを開いた。もう何度目かになるので驚きはないが、相変わらず不気味で気持ち悪いと思ってしまう。そも紫の作り出した空間というだけで何故か嫌悪感が湧いてくる。

 ――だがそんな感情も、その中から聞こえきた声に霧散した。

 

「ぃ〜〜よっとォ! いやーやっぱこの中気持ち悪いな! ちと吐きそうになったよ!」

「それはあなたが年中酒ばかり飲んでいるからでしょう、萃香」

 

 スキマから放り出されて尚軽快に着地した小さな影――萃香は紫の軽口ににやりと口の端を歪めた。

 

 予想もしなかった登場に吹羽は目を丸くする。だって彼女は傷を負っていて、とてもではないがここには来ないと思っていたのだ。

 だがその予想はいい方向に裏切られ、萃香は数刻前の病人然とした姿とは打って変わる元気な姿を見せてくれた。大妖怪の持つ治癒力とはそんなものなのかも知れないが、彼女にも少なからず世話になった吹羽としてはそれは間違いなく嬉しいことで、悲しいことばかりで滅入っていた心に、驚愕と負けず劣らずの歓喜が湧き上がる。

 

「バカ言うな。年中酒飲んでるからこそ酒で気分悪くしたりしない体になってンのさ」

「屁理屈は後で幾らでも。最後の仕事よ萃香」

「分かってらィ。……全く、妖怪の賢者は鬼使いか荒くていけねぇ。――だが」

 

 萃香はバチン、と拳と手のひらを厳かに打ち付けた。

 

「約束は約束だ。お前の目的の助けになるって話、違えちゃ酒呑童子の名が廃らァ!」

 

 その瞬間、衝撃波が迸った。猛々しい宣言と共に一瞬の暴威が駆け抜ける。

 否――それは萃香の放った妖力だ。殺意を更に煮詰めて抽出したかのような濃密な妖力が、その小さな身体から解き放たれて大気を振動させたのだ。それが明確な衝撃波となって周囲の闇夜をぶっ叩き、木々をひしゃげさせて尚止まらず――周囲に燻っていた獣どもを一瞬で吹き飛ばす。

 

 その様子を見て、吹羽は彼女が何のために呼ばれたのかをなんとなく察した。

 方法こそ荒々しく、側にいるだけで背筋が泡立つような感覚に襲われるけれど、それだけ(・・・・)だ。本当に萃香が目の前でこの妖力を放ったなら、きっと吹羽など簡単に中てられて気を失う――もしくは消し飛ぶだろう。彼女は狙って周囲の獣のみを討ち払ったのだ。

 

 最後の仕事……それはつまり、吹羽を鶖飛の下まで送り届けること。

 

 萃香は威嚇程度に妖力を抑えると、吹羽の方に向き直った。

 

「萃香さん……」

「……こんな時が、来る予感はしてたよ」

「え?」

「お前はなにかどデカい壁にぶつかる時が来るだろう、ってね」

 

 吹羽は気弱で、小心者で、弾幕勝負こそ強くても争いなど望まない心優しい少女だ。その在り方は人間としてこそ正しいものの、霊夢や魔理沙などの言わば“戦う側”に於いては脆く儚いだけである。

 

 だが、萃香は彼女の周囲で起きつつある出来事に薄々感付いていた。

 本来なら出会うはずのなかった文との因果、妖怪の賢者からの監視等々――。人里で暮らすただの女の子ならあり得ないようなことが彼女の周囲で起きていた。

 一度起きた出来事は必ず未来へと繋がっていく。異常な出来事は同じく異常な出来事を呼び連なっていくのだ。

 そう思った時――きっと吹羽はかつてない壁にぶつかる事になる、そんな確信が生まれた。

 

「この頃起こったあらゆる物事……その中心にお前がいた。きっとお前は特異点なのさ」

「特異、点……」

「おうとも。……わたしはな吹羽、これでもお前のこと評価してるんだ。それこそ凪紗の子孫だってこと以上に、お前自身に価値があると思ってる」

 

 幼くして人として最も過酷であろう悲劇を受けて尚立ち上がり、過去の遺恨とも言うべき謂れのない非難を受けても手を差し伸べることができ、そして今のように自身のトラウマとこんなにも真摯に向かい合うことができる。

 例えそれがどれだけ人の助けを得て成したことでも、いったい誰がそれを否定できよう。無価値だと吐き捨てられよう。

 いつからだったか、初めは凪紗の子孫としか見ていなかったその人間を“風成 吹羽”として見るようになっていた。

 その意味を、萃香は不敵な笑顔に乗せて朗々と示す。

 

「人間ってものの素晴らしさをわたしは知っている。そしてその素晴らしさを教えてくれた者の中には、お前もいるんだ。そんな奴が自分の辛い過去と向き合おうとしているってンなら……助けたくなるのは当然だろう?」

 

 あるいは、妖怪らしくはないのかもしれない。

 妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退ける。それは不変のルールであり不文律だ。萃香のように人間を助けようと思うのは、ともすれば妖怪という枠組みから逸脱した行為なのかもしれない。

 妖怪は利己的に動くもの。文はかつて己の復讐心のためにだけに謀を巡らせ、今の紫ですら己の目的のために吹羽を利用しようとしているに過ぎない。かくいう萃香ですら、昔は己の快楽のためだけに人間や他の妖怪に喧嘩をふっかけて回っていたのだ。

 

 だが、己に正直になって何が悪い――そう萃香は主張する。

 

「わたしはわたしの望みでお前を助ける。ついさっきこそ霊夢との約束を力不足で破り掛けたわたしだが……お前が例え拒絶しようと、送り届けるくらいのことはしてやる。……見せておくれよ、お前が過去を乗り越えるところを」

「……はいっ」

 

 萃香の心強い宣言に対し、吹羽は思いの外嬉しく思っている自分に驚きながら返事を返す。

 きっと不安があるのだ。いくら霊夢が側にいてくれたとしても、結局ことを成すのは吹羽自身。小心者な吹羽がこんな舞台に出てきたこと自体が本来はあり得ないことである以上、吹羽は自分の思っている以上に心細い思いをしていたのも事実。

 萃香の発破は頼もしく、心地よい。頑張ろう、という気持ちにさせてくれるのだ。

 

「……あら? この感覚……」

 

 ――と、吹羽と萃香の語らいに耳を傾けていた霊夢は、ふと奇妙な感覚を覚えた。まるで本気の吹羽と相対した時のような、全てを見透かされているような薄ら寒い感覚だ。だがそこまで思い至って、ああ、と短い呼気を漏らす。

 

 そうか……あんたも吹羽を助けたいのか、と。

 

 

 

『ああ――間に合った』

 

 

 

 思ったその刹那、ふわりと背後に降り立つ気配があった。

 三人が振り向けば、視界に映ったのはふわふわと揺れる尻尾にピョコリと生えた耳。鈴を転がすような声音はもう聞き慣れたけれど、こんな状況では心強い。無くした片腕は今でも痛々しいものの、その立ち振る舞いにはもはや不自由は感じられなくなっていた。

 

 ――白狼天狗が一、犬走 椛。

 

 愛すべき友人の推参に、吹羽は喜色を色濃く表情に表した。

 

「椛さん……! 来てくれたんですね!」

「……ええ。あなたが大変な時に側にいられないのは、もう懲り懲りですから。ずいぶん探しましたが……見つかってよかった」

 

 吹羽の声にも冷静な言葉を返す椛は、刀の柄を撫でてしみじみとした表情を零した。

 ちらりと萃香の方を見遣る。その意味を正しく理解しているだろう彼女は、その視線を受けると再び()と笑った。

 

 萃香にとっては、己という艱難辛苦を乗り越えて覚悟を見せつけられた相手。そんな椛がこの場に駆けつけたことは、萃香としても非常に喜ばしいことだったのだ。

 

「今度こそは……きっと力になりますよ、吹羽さん」

 

 その言葉に宿る決意の所以を吹羽が知ることはないだろう。

 決意などという崇高なものは他人に知られて意味はなく、ただ内に秘めることに価値がある。そも椛は自分語りを好む性格でもない。生真面目で情に厚い彼女が、わざわざ吹羽に気負わせるかもしれない台詞など吐くわけもなかった。

 だが唯一、その決意を目の前で証明された萃香だけは納得、あるいは祝福でもするように頷いていた。

 

 一頻り吹羽と言葉を交わすと、椛は強張るようかのに笑顔をきゅっと引き締めた。

 そして向き直り、姿勢を正す。

 椛が見つめた先は――扇子で口元を隠した八雲 紫だった。

 

「……白狼天狗。あなたがここへ来たのは天魔の差し金ですか?」

 

 紫もそれを待っていたのか、単刀直入に椛へ問う。

 薄氷の如き冷たい声音だった。椛を見る目はまさしく貴族に紛れた薄汚い平民を見るようで、「場に合わぬ者は去ね」との厳しい言葉を声音だけで叩き付けていた。

 それに気が付いた椛の目も、ついでに友人をそんな目で見られた吹羽の目も鋭く細められる。誰だって大好きな友人が見下されれば不機嫌にもなるというものだ。

 

 しかし椛はそんな紫の視線にも臆さず、憮然とした態度で言葉を返す。

 

「……ええ。天魔様の命を受け馳せ参じました」

「天狗はこの世界における勢力図を担う存在。入れ込むのは御法度とご存知かしら?」

「天魔様の命は“友として風成の子を助けよ”。私は今天狗ではなく、吹羽さんの一友人としてここにいます。その手の誹りを受ける謂れはございません」

「童の言葉遊びですわね」

「なんとでも。貴女としても戦力が増えるのは喜ばしいことなのではないのですか?」

「………………」

 

 椛の主張に対して紫はしばし考えるそぶりを見せ――

 

 

 

 椛に目掛けて、四方八方から妖力弾が殺到した。

 

 

 

「ッ!? 椛さんっ!」

 

 吹羽の咄嗟の叫びが聞こえてくる。が、椛は至って冷静に周囲を俯瞰していた。

 込められているのは身も凍るような強力極まりない妖力。ただの一発でも食らえば所詮中妖怪でしかない椛は文字通り消し飛ぶ威力だ。弾速も並みの妖怪なら視界に映すことすら困難であろう速度であり、なにより周囲を囲むように放たれるこれは単純に物量が凄まじい。

 

 ――だが、椛には視えていた。

 

 千里眼――千里先すらも見通す特別なこの眼は、鈴結眼に勝らずとも劣らない洞察力を兼ね備えているのだ。

 

 視えているなら、斬ればいい。

 妖力の呈する紫色の中に、煌めく銀色が閃いた。

 

「も、椛さん……!」

 

 地を叩く凄まじい音が吹羽の耳を襲う。大太鼓を間近で聞くよりずっと重く鈍いその音は、それが想像もできないほどにとてつもない威力であることを実に分かりやすく示していた。少なくともスペルカードルールにおいて用いて良い威力では決してないだろう。

 捲き上る土煙。僅かに見える地面のクレーター。それが椛の華奢な身体に打ち据えられたと思うと、吹羽は居ても立っても居られなかった。

 思わず駆け出し――しかしチラと視えた真白な獣耳に、足を止める。

 

「……如何でしょう、賢者様」

 

 晴れていく土煙の中に立っていたのは、先程となんら変わらない姿の椛だった。傷などなければ服が破けた様子もなく、表情に至っては普段通りの澄まし顔。とても致死の弾幕に晒されたとは思えぬ風貌である。

 困惑する吹羽だったが、言葉と共に納められた刀を見て得心した。どうやったのかは分からないが、兎角彼女は襲いくる妖力弾を全て斬り落とし、紫の攻撃を捌ききったのだ。

 

 安心の吐息を一つ。吹羽は取り敢えず椛の無事に胸を撫で下ろした。

 

「……なるほど。吼えるだけはありますわね」

「力も無いのに吼えるのはただの犬畜生です」

「然り。あなたはあくまで狼でしたわね」

 

 パチンと扇子を畳んだ紫の口元は緩やかに微笑んでいた。椛はそれに笑みを浮かべるでもなく目を伏せる。

 当然のことをしたまでだ。吹羽が大きな問題に立ち向かおうとし、それを助けようとするならば自分の価値は示さなければならない。吹羽がこの問題を解決することが紫の望みでもある以上、彼女にも試されることになるのはある程度予想していたことなのだ。

 

 ――かくして面子は整った。

 価値を見出した人間を手伝おうと語る小鬼 伊吹 萃香に、大切な友人を守ろうと剣を取った白狼天狗 犬走 椛。そして親友を裏切った兄に怒りの炎を燃やす博麗の巫女 博麗 霊夢と、己の過去に決着をつけようと苦心しながらも決めた吹羽。

 しかし、吹羽に気負いはなかった。不安はあるものの、それは変わってしまった兄に挑むことに対する当然ともいうべきものである。

 

 世界のことなんて考えていない。霊夢たちの想いも考えてはいない。どうでもいいということではなく、殊兄のことに於いては自分の気持ちを最も尊重すべきだと吹羽は諭され、そして理解した。みんなの気持ちも思惑も、自分の想いの上に成り立っているなら一緒に連れていく。ただそれだけ。

 そも吹羽は鶖飛に――話をしに行きたいだけなのだから。

 

「行きましょう、霊夢さん。お兄ちゃんのところに」

「ええ……過去の悲劇に、決着をつけましょう」

 

 薄暗い森を超え、先で待ち受ける鶖飛の姿を幻視する。

 駆け出す四人の頭上を、大きな月が照らしていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 一方、博麗神社。

 紫によって吹羽と霊夢――次いでに萃香――が何処かへと連れていかれ、残った四人の間にはちぐはぐ(・・・・)な空気が揺蕩っていた。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………っ、」

「……いい加減落ち着きなさいよ魔理沙。あんたがそんなそわそわしてたって何にもならないんだから」

「ああ!? ……あぁ、そうだな……」

 

 そわそわというより最早気が立っているのでは。

 部屋の中を行ったり来たりと落ち着きのない魔理沙を鈴仙が咎めるが、その反発具合を見てぼんやりと阿求は思った。

 気が立つのも分からないではない。事件が起きていてると知っていて自分で手を出せない歯痒さは、異変解決者と呼ばれる彼女に取っては辛いところだろう。一度挑んで負けたこともあって、きっと負けん気の強い魔理沙の悔しさは一入だ。

 

 かくいう阿求も、何もできない無力さを噛み締めていた。

 親友なのに、吹羽が大変な時に力を貸せない。戦う力どころか、これから否応なく辛い目に会うであろう吹羽に一声すらかけられないのは、まるでどこまでも続く薄暗い原始林に一人佇んでいるような暗い気持ちにさせる。

 阿求は静かに座りながらも、固く唇を噛み締めた。

 

「ねぇ御阿礼の子……稗田 阿求だったかしら」

「はい……永琳さん」

 

 そこに労わるような控えた声がかけられる。ゆっくりと顔を上げた阿求の前には、先程まで治療具の整理をしていた八意先生――八意 永琳がいた。

 

 彼女と顔を合わせるのは、幻想郷縁起に記すために取材をした時以来である。腕の良い医者で、かつて“終わらない夜の異変”を起こした黒幕である――実際は本物の月を偽物の月に入れ替えていただけで、夜が終わらないようにしていたのは紫だが――と阿求は伝え聞いている。現在は彼女の作成した薬が人里で売られていたり、急患がいた場合は彼女の住む永遠亭で受け入れてもらうこともできるようになっており、人里とも比較的友好的な関係を築いている人物だ。

 

 永琳は一言断って阿求の横に座ると、治療時とは比較にならないほど優しげな声で問いかけてきた。

 

「大丈夫? 顔色が良くないし、良かったら診ましょうか?」

「いえ、平気です……。それより、霊夢さんを治療してくださってありがとうございました」

「……礼には及ばないわ。よっぽどの理由がない限り、治療しろと言われて拒否する医者はいないわよ。手を抜いたり嫌な顔をするなら、それはもう医者とは呼べない」

 

 そういえば、鈴仙が“医者とは誰よりも患者に誠実な者である”と言っていた。

 弟子がそうであるように、やはり師も同じ信念を掲げているらしい。

 阿求は霊夢を診てくれたのが彼女で良かったと今更ながらに安堵した。

 

「ねえ、訊いてもいいかしら。私たちは霊夢からの要請を受けて来ただけであまり状況が掴めていないの。私の患者(霊夢)が行ってしまった以上、知らん振りもできないわ」

 

 一度受け持った患者を放って置けない、ということだろうと阿求は解釈する。

 彼女ら曰く、数日は目覚めないはずの麻酔を使っていたはずなのに、霊夢は気合で目覚めてみせたのだという。その際の彼女らの驚く顔を見れば、それがどれだけあり得ないことだったのかは明白というものだ。

 だが、それは逆に言えばほとんど傷が塞がっていない状態だということ。満足には動けない状態で、それでも吹羽のために着いていったということだ。彼女の傷の深さを誰よりも知っている永琳はまさに状況を知る権利があるといえよう。

 

 阿求は小さく俯いて、頭の中を整理する。永琳はその様子を黙って待っていた。

 

「霊夢さんを傷付けたのは……吹羽さんのお兄さんです」

 

 そして、永琳たちが最も知りたいであろう情報から口にする。

 

「名は風成 鶖飛さん。数年前に吹羽さんの前から姿を消し、ここ最近になって戻ってきたばかりの方です」

「行方不明だった? そんな人間が霊夢をあそこまで追い詰めたっていうの?」

 

 無言で頷く。永琳は信じられないといった表情で一つ唾を飲み込んだ。

 永琳たちも霊夢の強さは知っている。何を隠そう、先述の“終わらない夜の異変”に於いて永遠亭の面々は一人残らず霊夢と戦い、そして敗北しているのだから。それがいくらお遊びである弾幕ごっこでの敗北であっても、霊夢の天才的戦闘センスは人外である彼女らをして戦慄させるものだったはずだ。

 

 その彼女を相手に相打ちさえさせず、剰え瀕死まで追い詰めたなど。

 

「鶖飛さんは剣の天才です。一部を除いて他のことも一通りできる万能――いえ千能(・・)の天才でしたが、剣の腕だけは突出していました。剣だけで限るなら、恐らく幻想郷の誰よりも強いでしょう」

「あなたにそこまで言わせるとは……」

 

 幻想郷の歴史。それを記憶として引き継いできた阿求ら御阿礼の子にそこまで言わしめる鶖飛の実力に、永琳は顔を引き攣らせた。

 

 記憶の引き出しをとっ散らかしてみても、鶖飛ほど剣に秀でる存在を阿求は知らない。吹羽たちはあずかり知らぬことだが、幻想郷に於いて“剣豪”に類する冥界の庭師でも恐らく鶖飛には手も足も出ないだろう。

 その様はまさに“剣鬼”。数年前の時点でそこまでの強さだったのだから、成長した彼がどれだけ強くなっているのかは阿求には計れない。

 

「同類なんですよ、霊夢さんと。あの人たちは私たちの想像を容易く超える存在なんです。……そして、そんな二人を繋ぎ合わせているのが、妹である吹羽さんなんです」

「吹羽って、あの小さい子ね。……待って、ということはあの子……あの年で実の兄と殺しあう気でいるの……!?」

 

 霊夢の負傷、紫の言葉。それらを思い出して辿り着いたその結論に、流石の永琳も顔を青褪めさせた。

 当然だ、兄弟喧嘩ならまだしも、実の家族同士で殺しあうなど率直に言って狂っている。或いはその表情は、そんな状況を否応なしに押し付けられた哀れな吹羽への憐憫のようでもあった。

 人外でもない。不老不死なわけでもない。消し飛ばしても立ち所に再生するような回復力なんて持ち合わせておらず、腹を一刺しでもすれば死ぬかもしれない儚き人間。普通の兄妹。

 そんな二人が殺し合う――そんな凄惨な事実があっていいのか。

 

 想像以上に惨い状況を聞かされて血の気が失せる永琳に阿求は――しかし、緩く首を振るって否定を示す。

 

「――殺しあう気は、きっとないと思います」

 

 そう――吹羽はきっと迷うはずだ。

 あの子は小心者で、物事を自分で決めることに踏み出し淀む。自分の決定で何かを失うのが怖いからだ。

 だから誰かに殺しあえと言われても必ず立ち止まる。失いたくないから慎重になる。そして自分が納得できるような何かを見つけるまでは先延ばしにするのだ。

 優柔不断、とも言うだろう。だが阿求は吹羽のそれを、敢えて熟慮断行であると考える。事実そうなった吹羽はかなり頑固だと阿求は知っていた。

 迷うには迷うし、答えを出すのも人より遅い。ただし一度決めるともう動かないのだ。文の一件――阿求は与り知らぬが――が良い例である。

 

「吹羽さんはきっと迷います。霊夢さんも紫さんも、何かしら彼女に言葉をかけるでしょう。でも……私は吹羽さんの出した答えが一番正しいのだと思います。必死に考えて、迷って、それでも出した答えはもしかしたらどうしようもないものかも知れません。でも――」

 

 吹羽がいいと決めたなら、自分はそれを肯定する。

 否――否定していいわけがないのだ。

 

 阿求は先程までの沈痛な面持ちに、僅かな笑みを含めて言った。その考え方が霊夢と全く同じだったことを知ったら、きっと阿求は驚きこそするだろうが、すぐに“当然だ”と胸を張るだろう。親友とは相手のことをより深く理解できる者のことであり、それが二人いるならば同じ見解になるのも当然というものだ。

 

 ただ――初めから阿求が心配しているのは。

 

「(その答えが……吹羽さんにはどうしようもなかったとき(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)……)」

 

 迷って決定を先延ばしにした挙句、吹羽に選択の余地がなくなってしまった場合。そうなれば当然、必ずしも吹羽の望んだ結果になるわけではない。

 優柔不断、熟慮断行。どうしても受け身になってしまうその考え方の弊害とも言えるその状況になってしまうことを、阿求は危惧していた。

 

 もし仮に、吹羽の望まない方向に鶖飛が意思を固めてしまっていたら。

 吹羽が言葉をかけたところで、全く揺るがない意思の元に鶖飛が行動しているのなら――それはきっと、吹羽にとって何よりの悲劇になる

 

「(どうか……そんな悲しい結末にはならないで……)」

 

 脳裏に過ぎった最悪の結末を予想して、阿求はきゅっと目を瞑る。

 せっかく元の笑顔が戻り始めたのに。ようやく立ち直ってくれるかもしれないと淡い希望を抱いていたのに。そんな終わり方はあまりにあまりだ。

 だから。

 

 無力な自分はこれしかできない、と。阿求は両手を胸元で組んで、強く願う。

 

 ――どうか、皆が笑って帰ってこられますように。

 

 雲のない夜空と輝く満月。阿求は縋るような心地で、ただひたすらそう祈った。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 最近は執筆速度も上がってきてポンポンと投稿できてますね(他人事)。この調子で行きたいけどこれからインターンシップがなぁ〜。

 ではでは。


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第四十八話 訣別

 

 

 

 襲い来る妖怪の鋭爪を掻い潜り、噛み千切らんと飛びかかってくる獣の尖牙をかち割り、萃香と椛による露払いを前に駆けた先には、大きな広場があった。

 

 自然にできたものでないことは一目瞭然であった。地面に草花はほとんど無く、周囲を囲う木々は全て薙ぎ倒されている。爆風か何かを受けて無理矢理折られた様相で、その中心に不自然に空間の歪む箇所が見えた。月の光すら歪んで屈折しているのか若干薄暗く、見つめれば深い水の底を覗き込んでいるような錯覚に陥りそうである。

 すぐに分かった。

 ここが霊夢達が戦った場所であり――鶖飛の封印されている場所だ、と。

 

『ああ……思ったより早かったな』

 

 思ったその刹那、歪んだ空間に無数の線が走り、次いで硝子を叩き割るような乾いた音が響き渡った。歪んで見えていた景色はぴったりと周囲に調和し、その中心を丸く大きな月が照らし出す。美しいはずのその光景と共に、隣から霊夢の舌打ちが聞こえてきた。

 ざあ、と風が吹く。

 斬り裂かれ散々となった結界のかけらがきらきらと光を反射して風に運ばれ――その中心にいた人物の姿を吹羽達の前に現した。

 

「ちょうど飽いてきたところだったんだ。待ってたよ」

「…………お兄ちゃん」

 

 見慣れない黒衣を纏い、風紋刀を鞘に収めた兄――鶖飛。

 数日前に見たきりの彼とは全く以って違う雰囲気に、吹羽は一つ唾を飲み込む。

 

「その様子だと……全部思い出したみたいだね、吹羽」

「っ、……本当に……本当にお父さんとお母さんを殺したの、お兄ちゃんッ!?」

 

 どこか縋るような声音だったことを吹羽は自覚していた。未だに認めたくない自分が心の何処かにいて、それが鶖飛を前にして顔を出したのだと。

 本当は違う、そう言って欲しかったのだ。全て自分の見間違いで、霊夢の勘違いで、彼女を傷つけたのもなんらかの喧嘩の延長線上だった、と。認めたくない現実の前に立ち、吹羽の今だに迷っている一部分が請い願うような心地で叫ぶ。

 鶖飛はその悲痛な声に笑顔(・・)を向け、

 

 

 

「ああ、そうだ」

 

 

 

 実に簡潔に、簡単に首肯した。

 

「親父もお袋も、俺がこの手で斬った。なんだ、思い出したんじゃないのか?」

 

 何を当然なことを、と言外に表す鶖飛に吹羽は悲しげに目を細める。両親を殺したと何の悔悟もなく認めてしまう彼の姿は、決定的な倫理破綻を起こした狂人のそれを想起させた。

 鶖飛は、両親を殺したことに何の感情も抱いていない。

 その事実が、吹羽に兄が変わってしまったことを真に理解させた。理解せざるを、得なかった。

 

「…………」

 

 嗚呼、なぜこんなことになったのだろう。家族や友人たちと穏やかに暮らしていたかっただけなのに。

 

 自分があれだけ望んだ平穏は、皮肉にも悲劇の上に成り立っていたのだ。それを知った今ならば、霊夢がなぜこれを隠そうとしたのかもなんとなく分かるような気がした。

 何かを犠牲にして掴んだ平穏なんて吹羽は喜べない。その犠牲にしたものが自分の一番大切なものならば尚のこと。いっそ犠牲にしていること自体を忘れてしまった方が何倍も楽で、限りなく健全である。霊夢はそれをよく分かっていて、吹羽が苦しまないようにするため記憶を封印したのだ。

 

 何を間違ったのだろう。どこで何をすればこんなことにならずに済んだのか。

 家族を失ってから幾度となく脳裏を過ぎったその問いをしかし、吹羽は今度こそ振り払う。

 もうどうしようもないところまで来てしまっているのだ。過去を悔やんだところで今は変わらない。或いは考えたところで自分にはどうしようもなかったかもしれない。ならば、吹羽にできることは初めから一つだけだ。

 

「なんで……何でこんなことするの、お兄ちゃん……?」

 

 元の目的に帰結して、吹羽はか細い声でそう問いかける。そこには既に縋り付くような弱々しさは無く、ただ人としてあまりに非道な行いをした鶖飛への非難にも似た響きを含んでいた。

 それに対し、鶖飛は。

 

「何でこんなこと、か。勘違いしてもらいたくないんだが、挑んできたのは霊夢だぞ? 俺から始めたわけじゃない」

「お父さんとお母さんのことも……霊夢さんだって……殺そうとしたんだよね。昔のお兄ちゃんなら、殺し合いになんてならなかったはずだよ」

「…………ああ、そうだな」

 

 昔の鶖飛――それが両親を手にかける前の彼のことを言っているのだと、きっと鶖飛も理解したのだろう。

 自分の変化を認めたその返答は、暗に“霊夢を殺そうとしたのは間違いではない”と言っているようなものだった。

 昔の穏やかな鶖飛なら、霊夢に挑まれた時点で何とか穏便にことを済まそうと言葉を重ねるだろう。それがいつもの喧嘩だったなら違うだろうが、殺し合いとなれば話は別だ。

 

 鶖飛は、霊夢を殺そうとした。

 霊夢が鶖飛を処理(・・)しようとしたのも確かだが、吹羽にとってはそのことの方が重い意味合いを持っていた。

 

 鶖飛は悲しそうな瞳で見つめる吹羽をしばし見つめ返していたが、しばらくしておもむろに後頭部をがりがりと掻きむしった。

 

「……参ったな、嫌われないよう正直に問答したつもりだったんだが、ダメだったみたいだ」

「はんっ、嫌われないようにだなんて笑わせるわね。まるであんたのしたことが“理解されないだけで正しいことだった”って言ってるみたいじゃない。正当化も甚だしいわ」

「正当化も何も、俺は間違ったことはしていない」

「っ、……あんた、本気で言ってんの――ッ!?」

 

 小馬鹿にするような、しかし明確な敵意を持って放たれた霊夢の言葉に対する飄々とした肯定。

 それは胸に巨大な杭を突き刺すかのような痛みをもたらしたが、吹羽は歯を食いしばって耐えた。

 怒り散らすのは簡単だ。思ったことを大きな声で叩きつければ、それがいくら馬鹿げた言い分でも怒号にはなる。だがその代わりに失うのは冷静さ。心の中で吹き上げた激しい炎は、きっと誰の言葉も受け入れようとはしないだろう。それでは本末転倒なのだ。

 

 鶖飛の言葉を聞き、彼が何を考えているのかを理解した上で答えを出す――それが霊夢との約束だ。

 

「俺の願いはな、霊夢。吹羽といつまでも穏やかに暮らすことなんだ。朝一緒に起きて朝飯を食べ、適当にやりたいことを消化して家に帰り、夕飯を共にして静かに眠る……それだけさ。たったそれだけのことさえ邪魔するなら、俺はそれを全て斬り捨てる。親だろうと何だろうと」

「はっ、それで吹羽を悲しませてちゃ世話ないねェ。わたしも家族のことなんか分かっちゃいないが、お前のそれがエゴでしかないのは分かるぜ鶖飛よぅ」

「今はそうかもな。でもいずれ吹羽も分かってくれる……いや、分からざるを得なくなる。俺たちが平和に暮らすためにどれだけのものを捨てなくちゃならないのかを、な」

「だから無理矢理に押し付けるってか。……狂ってるな、お前の愛情は」

 

 肩をすくめてみせる鶖飛は、それを否定しなかった。

 狂うほどの愛情を抱かれている――それは本来なら妹として最高に幸せなことなのだろう。それがどれだけ(いびつ)でも、家族愛に飢えすぎた吹羽にとっては嬉しいことに変わりはない。

 

 ただ、その狂気が他の人に向くならば話は別だ、と吹羽は思った。

 

「守りたいもののために剣を振るう……鶖飛さんの言い分も、分からないとは言いません」

「ああ、お前は俺と同じ守る側の存在だろうな、椛」

「はい。私だって大切な人を守りたい。そのために剣を取り、ここに立っています」

 

 一歩前に出て、椛は胸に手を当ててそう語る。鶖飛の考えに理解を示す彼女だが、それが彼の考えに同意している訳ではないことはこの場の誰もが分かっていた。

 椛の瞳は強い眼差しで鶖飛を見つめ、訴えかけていた。

 

「……ですが、だからといってなぜ全てを捨てる必要がありますか。あなたの言う素朴な幸せは、全てを捨てなければ叶えられないようなものなのですか」

「大きな目的のために全てを捨てるのは、英雄譚でもおとぎ話でもよくあることだろう。俺たちの素朴な幸せが小さな目的だなんて思うなよ」

「っ、全てを捨ててしまう前に、捨てずに済む方法を考えろと言っているんですッ!」

「考えたさ。考えて考えて考えて考えて、辿り着いたのがこの結論だ。ああ、だが、そうだな……」

 

 一瞬ゆらりと揺れ、片手で顔面を覆う。手と前髪の隙間から見えた彼の瞳は――不気味に歪んで見えた。

 

私怨(・・)があるのは否定しない。……俺は、八雲 紫の夢を壊したいんだ」

 

 飄々としていた彼の放つ歪な空気に、四人は各々息を呑んだ。封印が破られてから彼が初めて見せた感情のように思えたのだ。

 

 私怨――八雲 紫を恨んでいると。彼女の夢であるこの幻想郷を壊し、全てなくなった世界で吹羽と共に暮らしたいのだ、と鶖飛は言う。

 彼が掲げる二つの目的を同時に達成できる合理的な話だ。幻想郷を壊せば紫の夢を潰すことができ、その直前に吹羽を連れ出せば幻想郷ごと邪魔者をまとめて消し去ることができるのだから。

 

 きっと彼が初めて感情を露わにして語った言葉だからだろう、どこか道化のような口調で話していた鶖飛の、それが本音のように思えた。

 

 だがその本音によって――ようやく吹羽は自分がどうすべきかを理解してしまった(・・・・・・・・)のだった。

 

 

 

「……もう、いいよ」

 

 

 

 小さな言葉が、鶖飛に呑まれつつあった空気を断ち切った。

 さらに言葉を重ねようとしていた椛も声を詰まらせ、誰もが吹羽を注視する。小さく俯いた吹羽の表情は陰って見えない。

 

「お兄ちゃんは……例えボクがお兄ちゃんに着いて行くって言っても、この世界を壊すつもりなんだね」

「ああ、それも目的の一つだ。だが吹羽がどうしてもって言うなら、霊夢と紫を斬る程度で済ませてもいい」

「っ、それじゃあどの道みんな死んじゃうよ……!」

「そうとは限らない。二人を殺せばこの世界は潰れるが、死んでいなければ抜け出す手立てはあるかもしれない。俺が直に殺すよりよっぽど可能性があると思うが」

 

 それでは大して変わらない。この世界には強い妖怪はたくさんいるが、それでも弱い妖怪、非力な人間が大半を占める。力を持たない彼・彼女らが、博麗大結界の崩れるその刹那に世界を抜け出すなど不可能だ。

 鶖飛のそれは脅しのようで脅しでない。そも愛する妹相手にそんな選択をさせようとする時点で、吹羽の知る鶖飛とはかけ離れた存在のように思える。

 

 否――もう在りし日の鶖飛は、この世にいないのだろう。

 

「……ボクの知ってるお兄ちゃんは……あの日、お父さんたちと一緒に死んじゃったんだね……」

 

 鶖飛が父と母を斬り殺した日。あの日あの時あの瞬間に――吹羽の知る優しい鶖飛は、殺された。

 

「何言ってるんだ。俺はここにいるじゃないか。ちゃんと生きてるぞ」

「ううん、もういない。もうお兄ちゃんじゃない。ただ……ボクの大切な人たちを傷付ける酷い人……」

 

 父が死に、母が死に、そして兄も死んだ。それをしたのは目の前にいる人物で、自分の大切な人たちをも傷つけて殺そうとした。

 それが事実として受け入れられるようになってくると、吹羽の中でぷつんと何かが吹っ切れる音がした。

 それは堪忍袋の緒だったかもしれないし、あるいは理性だったかもしれない。正体は分からないものの、しかし吹っ切れたことで吹羽の中で変わったものがあった。

 

 目の前にいる人は兄ではなく、みんなを傷付ける敵である、と。

 

 ――覚悟は、決まった。

 

 

 

「“天網恢恢疎にして漏らさず”という諺があります。お兄ちゃん――いえ、鶖飛さん(・・・・)。あなたはボクが斬ります。大切な人たちのために、あなたの罪はボクが濯いでみせますッ!」

 

 

 

 溢れそうになる涙をぐっと堪え、“太刀風”を抜刀。同時に成った風の刀身が大気を巻き込み一瞬の突風を巻き起こす。

 吹羽に明確な拒絶の言葉を突き付けられた鶖飛はやや眦を決すると、ふと表情を消し去った。

 

「……そうか。残念だ、吹羽」

 

 抜刀――衝撃。

 刀を抜いた瞬間に溢れ出した膨大な魔力が暴風となって激震を走らせ、周囲の空間を軋ませる。重過ぎる魔力は体を押しつぶしてしまいそうなほどなのに、常に首元に刃を突きつけられているかのような鋭い殺気をも感じさせた。

 

 恐怖はある。今にも足は崩折れそうだし、心臓はばくばくと激しい鼓動を放っている。これだけで大気をも揺らしてしまいそうなほどだ。

 だが鶖飛を止めるという使命感が吹羽を留まらせていた。両親が死に、霊夢が殺されかけ、萃香も魔理沙も傷付けられた。それが自分を理由に行われたというなら、彼を止めるのは自分じゃなければいけない。たとえ助けは借りたとしても、人任せにはできないのだ。

 

「もう、誰も殺させません。ボクの心に誓って!」

「全てを殺すよ。ただ、君のために」

 

 陰り始めた月光の下、吹き抜ける風は鋭く、冷たかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 四人の立ち去った森の中、紫は一人静かに佇んでいた。

 どういう理屈か、八雲 紫というスキマ妖怪に対して徹底的に対策された魔力が彼女の進行を妨げているのは事実だったが、実際には彼女にこれ以上進む気自体がなかった。

 

 諦めている、というわけではない。

 ただ紫は、見届けるべきものを見届けようとしている――それだけである。

 

「あの日から幾星霜……どれだけ待ちわびたのか知れませんわね」

 

 太古の昔、紫が交わした最も古い約束。交わすことに何故だか抵抗を感じなかった、この世で最も嫌いな男との約束。

 それを思い出し、紫は徐に目を伏せた。

 

 何故あんな約束をあんな男としたのか、今でもはっきりとは分からない。ただ浅くない付き合い方をしたその男からの最後の願いだった故に、断れなかっただけのような気もする。

 大嫌いな相手の願いを理屈もなしに引き受けてしまう自分は、ひょっとしたら案外ダメな女なのかも知れないと紫は思った。

 

 安請け合いは身を滅ぼす。使命感だけで振るう刃は何も守れはしないし、何に届くこともない。

 そんな当たり前のことを人間は理解できず、ただひたすら大きなものに立ち向かう力を勇気と唱う。紫に言わせればそんなもの、ただの蛮勇でしかないのに。

 

 だが、しかし。その蛮勇で“あり得ない”ことを成し遂げてしまう――そんな人間がいることも、紫は確かに知っていた。

 

 と、そんなことを考えているうち、紫は何かが己の感覚に引っかかったことに気が付いた。

 気配と言い換えてもいいが、紫が日常的に周囲に張り巡らせている知覚に入り込んだ者がいる。こんな状況下で乱入なぞしてくる不特定因子など邪魔以外の何者でもなかったが、紫に焦りはなかった。

 なにせ隠しもしていないその魔力には覚えがあるし、彼女が突っ込んでくるのはその性質上自明の理とも言えた。

 

「……まったく、大人しくしていられないのかしら」

 

 指打ち一つ。能力発動を示すその仕草によって開かれたスキマは、しかし彼女の周囲に開かれたわけではなかった。狙い澄ましたのは上空。入り込んだ乱入者が進むであろう、そして避け切れないであろう位置だ。

 乱入者が無事にスキマに突っ込んだのを感知すると、すぐさまスキマを閉じ、かき混ぜるようなイメージでくるくると指先を回す。そしてもう一度スキマを開くと、中から黒と白の塊がどしんと吐き出された。

 

 予想の通り――それは霧雨 魔理沙だった。

 

「く、そ……急いでんのに……! 何すんだよ紫!」

「こちらの台詞ですわ。何をする気――というのは愚問ですわね。もう一度彼に挑む気でしょう」

 

 紫の中では、魔理沙は凡才だが努力を欠かさず、故にこそ極度の負けず嫌いであるという評価で一貫している。

 一度負けたくらいではへこたれない精神の持ち主なのだ。彼女がいくら努力を続けても越えられない霊夢という壁があり、しかしその彼女といつまでも親友であり続けられる魔理沙であれば、再び鶖飛と戦うために神社を飛び出すであろうことは予想の範囲内だった。

 

 故に広げていた知覚範囲には気を配っていたのだ。事実魔理沙は紫の妨害にまんまとはまり、こうして放り出されて動けないでいる。

 因みに魔理沙が動けないのは、スキマの中で彼女を至極雑に撹拌して平衡感覚を壊し、ついでに放り出す時に軽く地面に叩き付けたからだ。

 人間の持つ半規管は軸回転するだけで狂ってしまう。体ごとぐるぐると撹拌されれば機能がめちゃくちゃになるのは自明の理である。おまけに体自体に衝撃を与えてあるのだから、魔理沙が立ち上がることすらできないのは当然のことだった。

 

「行かせませんわ。邪魔者は大人しくしていなさい」

「邪魔者、だと……!? 霊夢達が、戦ってんだぞ! わたしが行かなくて、どうすんだよ……!」

「あなたが行ったところで何一つ変わりはしませんわ。死体が一つ増えるだけです」

「ッ、てめェ……!」

 

 暗に足手纏いだと言われて癪に触ったのだろう、魔理沙は親の仇でも見るような目で紫を睨め付けた。

 

 だが事実だ。紫は感情の籠らない表情で魔理沙を睨め返す。

 今あの場はただの人間が介入していい状況ではない。そも世に名を轟かす酒呑童子こと伊吹 萃香が暴れているというだけで本来なら人間が足を踏み入れていい場所ではないのだ。そこに本調子ではないとはいえ博麗の巫女、そして正面から戦えば恐らくは紫の命にさえ届きかねない強さを持った――萃香との戦闘と彼の目的などから観て紫はそう推察している――風成 鶖飛がいる。異変解決者とはいえただの人間であり、かつ傷も治っていない魔理沙が行っては足手纏いにしかなり得ないのだ。

 

 もちろん、萃香と椛が参戦したことを魔理沙は知らない。故に彼女が傷付いた体に鞭打って神社を飛び出したのは、霊夢と吹羽を心配してのことと思われる。

 根底にあるのは二人への心配、そして負けたことに対する悔しさ。だがもっと分かりやすく表面上にある思いはきっと、

 

「あの吹羽が戦ってて、わたしが戦わないなんて……そんなのは、ねぇだろ――ッ!」

 

 弱者に任せて強者が退く、そんな無様を魔理沙は認められないのだ。

 力に自信があるのだろう。いくつもの苦難を乗り越えた経験が彼女の根底にはあるのだろう。努力家であるが故に、自信があるが故に、魔理沙は一度己の手をつけた物事を投げ出したがらない。自分の力では無理だと決めつけてしまうことを嫌っているのだ。

 

 だが、自分の限界さえ見極められないのはただの愚か者である。

 

「分際を弁えなさい、人間。感情論で動くほど私は落ちぶれていませんし、浅慮なつもりもありません。あなたがあの場に行くのはただの無駄。それだけですわ」

「鶖飛がどれだけ強いのかはっ、知ってるだろ! このままじゃ……霊夢も、吹羽も……負けるぞッ!?」

そうですわね(・・・・・・)

 

 は? と呆けた表情をする魔理沙に、紫は開いた扇子を口元に瞑目する。

 当然だ。眼が良いだけの小娘が、大妖怪をも退ける化け物に勝てるわけがない(・・・・・・・・)

 

「霊夢は普段の半分以下の力しか出せない。萃香は単純に実力が劣る。犬走 椛など考えるまでもない。ただの人間である風成 吹羽が、彼に勝てる道理なんてありませんわ」

 

 きっと、皆勘違いしているのだ。紫は吹羽に期待などしていない。そも大妖怪たる自分が、手を出せないからとか弱い人間の少女を頼るなど恥晒しもいいところだ。

 紫にも矜持はある。それは目的のためにならば犬の餌にできるものではあるが、守るべきことであるにも変わりがない。

 

 己の夢の行く末を託したからと言ってなんだ。それが彼女の勝利を期待してのことかの理由になどなりはしない。時間稼ぎのために当て馬として選んだだけかもしれないし、単なる囮という場合もあるだろう。そしてそれは紫だから考え付く戦略という訳でもないのだ。

 

 紫には考えが――否、勝ち筋(・・・)が見えている。だが、それが吹羽の手で成し遂げられるものとはかけらも思っていないのだ。

 

「私は風成 吹羽が嫌いですわ。そして故にこそ彼女の実力は把握しています。彼女が風成 鶖飛に勝つことは、那由多の果てにもあり得ませんわ」

「っ、じゃあ、お前……何のためにあいつらを向かわせたんだ……ッ!」

 

 不快と不理解の込められた強い視線で魔理沙は睨む。紫はそれを涼しい顔で受け流していた。

 もともと人間の理解など求めていないのだ。紫は至極淡々と、己の敵になった相手の処理を進めているだけ。そういう意味ではなるほど、霊夢に言われた“吹羽を利用しているだけ”という評価はまさしく正しいだろう。だがそれを改める気はない。

 利用できるものは利用する。守るべきものは守る。要らないものは排除する。そうやって紫はこの世界を作り上げたのだから。

 

「愚問ですわね、霧雨 魔理沙。私はいつだって私の目的のために動きます」

 

 吹羽を気遣うよう霊夢に言い含めたのも、萃香に霊夢の様子を見るよう頼んだのも、稗田の書斎で吹羽の前に現れたのも、そして鶖飛の下に吹羽たちを向かわせたのも。

 全ては一つの目的に帰結する。だって、

 

 

 

「風成家を見守ると……そうあの男と約束したのですから」

 

 

 

 紫が古の約束を――風成家初代当主(・・・・・・・)との約束を忘れたことなど、一度だってないのだから。

 

 

 

 




 今話のことわざ
天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして()らさず」
 天罰を逃れることは決してできないということのたとえ。


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第四十九話 それは高潔が故に

 ようやっと鶖飛戦


 

 

 

「――四面楚歌、って熟語があるけど」

 

 月明かりのみが照らす戦場に、ただ鶖飛の穏やかな声のみが響き渡る。

 

 余波によって虫の鳴き声も葉々の擦れる音も消え去り、月明かりに照らされる地面には大小様々に抉れた跡があった。木々は切断されたものあればへし折られたものもある。葉などは一枚も付いていない。僅かに上空を漂っていた雲さえ吹き飛ばす余波に、全て引き千切られたのだ。風に混じる微かな血の匂いは、決して気のせいなどではないだろう。

 

 激しい戦闘の跡。鶖飛はそんな中で悠々と月を見上げると、独り言のように言葉を紡ぐ。

 

「まさに、今俺のいる状況を表すのに相応しい言葉だよな。この世界では四方八方敵だらけだ。……けど、さ」

 

 言いながら振り返る。淡く照らされた鶖飛の表情には、呆れと期待外れが浮かんでいた。

 

「そんな俺一人に劣るお前たちは、一体なんなんだ?」

 

 鶖飛が言葉を向けた先。抉れた地面と飛沫(しぶ)いた血糊を挟んだ向こう側には――

 

 

 

 傷付き、倒れ伏す四人の姿があった。

 

 

 

 誰も彼もに無数の斬り傷が刻まれている。滲んだ血液は小さな血溜まりをいくつも作り、月に照らされ赤黒く光っていた。

 

 まさに蹂躙劇。しかもそれは鶖飛一人に対して四人が手も足も出ないという、にわかには信じがたいような有様だった。

 椛は何度も臓腑を貫かれながらも、妖怪として生来の治癒力で辛うじて命を保っている。萃香は数え切れないほど身体を切断された。時には胴を一文字に薙がれ、首を掻っ切られ、頭からかち割られることもあった。寸出の霧化によってなんとか完全切断には至っていないが、咄嗟過ぎて半端な霧化だったためダメージ自体は深刻だ。霊夢は傷こそ少ないものの、先刻の戦闘に続き霊力の過剰消費によって体は動かず、また臓腑の傷が開いて口の端から血が滴っている。

 

 そして吹羽は――既に死ぬ半歩手前の深過ぎる斬り傷を負っていた。

 

 意識などはもうほとんどない。失血過多もさることながら、痛みに耐性のない吹羽の身体は臓腑にまで深く入り込んだ傷の痛みに耐えかね意識を放棄させようとしていた。

 文の時のように叫ぶことができたらどれだけ楽だったろうか。喉を震わせることにすら失神しかねないほどの激痛を伴うため、痛みにただ耐えながらか細く息をすることしか吹羽にはできない。

 それが地獄のように苦かった。もっと意識がはっきりしていたなら、確実に発狂していると確信できるほどに。

 

 だがそれでも耐えていられたのは、僅かな霊力で霊夢が治癒をしてくれているおかげだった。

 

「しぬ、んじゃ……ないわよ、吹羽……!」

 

 絞り出す声と共に、霊夢の暖かい霊力がじわじわと傷に染み込んでいく感覚があった。それはまるで切れた血管の一本一本が繋ぎ直されていくような僅かな感覚だったが、吹羽が意識を繋ぎ止めるには十分過ぎた。

 霊夢が死ぬなと言って力を振り絞ってくれている。巻き込んでしまった彼女がそこまでしてくれるならばせめて、ちゃんと目を開けていなければ。

 

 眉間に力を込めて目を向けると、椛が剣を杖にしながらふらふらと立ち上がっていた。

 

「なん、で……どうして吹羽さんを、斬ったんですか……ッ!?」

 

 血を吐き出すような逼迫した問いに、鶖飛が小首を傾げて飄々と答える。

 

「うん? 一対多数だ、斬りやすい奴から斬るのは当然だろ」

「それでも……っ、大切な妹を!」

「ああ、殺しちゃいないから問題ない。万一殺してしまってもどうにかなるがな」

「っ、この……人で無し――ッ!」

 

 あまり冷酷な返答に椛は激昂する。例え本当にどうにかなる(・・・・・・)のだとしても、大切な人に刃を向けるなど椛には全く以って理解できないし、認められないことだった。

 

「なんとでも言うがいいよ。理解されないのは知っている」

「そうさ、椛……お前もたった今言ったろ、“人で無し”って。わたしたち人外は、我儘を押し付けあってぶつかるもんなのさ。勝った方が己を通せる……それだけさね」

 

 椛同様ふらつきながらも、しっかりと地を踏みしめて萃香が立ち上がる。その表情には未だ獰猛な笑みが浮かんでいた。

 たしかにその通りだと思うと同時に、相変わらずどこまでも妖怪を体現したようなお人だ、と椛は彼女を横目で見遣り、次いで鶖飛を睨め付ける。

 

 戦力の差は歴然だ。人は一人では何もできないとよく聞くけれど、大妖怪を含めた四人を相手にして傷一つ負わない彼は最早なんなのだというところである。

 吹羽は最早戦えず、霊夢はその治療に追われている。鶖飛が彼女らを狙わないのはありがたいことだが、実質霊夢も戦力として数えるには無理があるだろう。

 今動けるのは、萃香と椛のみ。

 

「(……やるしかないッ!)」

 

 実力差ははっきりしていた。しかしだからといって引く椛ではない。そもそも守るために格上と刃を交えることになるのはこれが初めてではないのだ、今更気後れするほど脆弱な精神はしていない。

 

 刀を握りしめる。

 今この手に、この刀に乗っているのは、あの時萃香に証明してみせた“守る”という強い意思そのものだ。

 

「疾――ッ」

 

 地を踏み砕く音も置き去りに椛は鶖飛に肉薄した。振り被られた刀には規則的に風が纏わりつき、刀身をより大きく鋭い形へと昇華させる。

 吹羽から譲り受けた風紋刀の力をただ振り下ろすことにのみ注いだ一撃――“狼牙”である。

 大木すら唐竹割りにするそれを前に、しかし鶖飛は微笑みを崩さなかった。

 

「それは見飽きた」

 

 言うと同時、鶖飛は振り下ろされる刀身に合わせて拳を刀の腹にぶつけた。普通なら側面からの衝撃などものともしないはずの“狼牙”はしかし、跳ね飛ばされるかのように弾かれて無理矢理に体勢が崩れた。

 その隙を鶖飛が見逃すわけもない。彼が得意とする、脱力状態からの強力無比な斬撃が視界の端から襲い来る。

 

 瞬発的に力の込められた彼の一太刀は威力もさることながら、その速度が異常なまでに速い。加えて“抜き足差し足”を応用した無意識に入り込む術さえ織り込んでくるため初見はほぼ必中、例え見えるようになっても回避は難中之難である。

 そしてそれは、椛でさえも例外ではない。

 

 避けられないと判断した椛は、多少の風を操ることができる神通力で身体を翻し、鶖飛から僅かに距離をとった。

 直撃だけは絶対にできない。したが最後下半身とはおさらばすることになるのだから。

 神速で迫った刀身は避け切ることこそできなかったものの、椛の太ももを僅かに斬るのみに留まった。

 

 ――そう、刀身は(・・・)

 

「そら、刻んでやるよ」

「ッ、」

 

 刹那、椛の体を強風が包み込む。だがそれだけには止まらず、吹き荒れた風は細かい刃となって椛に襲い掛かった。咄嗟に目を庇って体を小さく丸めるが、襲い来る刃は物ともせずに椛の柔肌を無数に切り裂いた。

 非常に細かな風の刃だ。それは決して一撃で致命傷になるほどのものではないが、一瞬にして風に吹かれたもの全てを千々に刻んでいく。これが鶖飛の不可避の刃を真に不可避足らしめていた。

 

 刀身を避けようが避けまいが、確実に相手を斬り刻んでいく。これが鶖飛の風紋刀――“鬼一”である。

 

 椛は刃と自らの血に吹き巻かれながら飛ばされた。

 だが、これも先ほどまでの戦闘で幾度も受けた攻撃だ。傷も多くパフォーマンスは確実に落ちてはいるが、分かっていれば耐えられる。

 椛は血風に逆らわず体をくるりと回し木の幹に着地する。痛みに呻いている時間はない。なにせ鶖飛の頭上からは既に――萃香が追撃を始めていたのだから。

 

「シャァオラぁぁあああッ!」

 

 咆哮一発、小さくとも隕石のような破壊力を秘めた豪腕が鶖飛の頭上から飛来する。握り締められた拳は小さな流星の如く、空気の壁を容易く打ち砕いて尚衰えずに鶖飛の顔面に打ち出された。

 

 鶖飛は軽く腰を落とした。刀を縦に構え、片手を峰に添えて流星を迎える。

 両者が触れた瞬間――刀の軌道に添い、流星は地面に向かって逸れた。

 

「ちぃッ!」

「直線の力は曲げやすい」

 

 言葉を交わしたその刹那、空間を揺るがす激震が走った。鶖飛によって地面の方へ流された拳が地面に炸裂し、まさに隕石もかくやという爆発を巻き起こす。

 

 間も無く土煙の中に銀光が閃く。煙の幕を断ち割って襲い来たのはやはり鶖飛の兜割りだ。

 “見える”ものに対して吹羽と椛ほど万能ではないが、萃香もやはり歴戦の猛者。視界に入った攻撃への対処にはとっくの昔に垢抜けている。

 そして何より萃香は生粋の鬼だ。能力によって芸に富んではいるものの、やはり思考は直線的、短絡的。瞬時に出した判断は正面から迎え撃つことだった。

 萃香は拳を固く握りしめ、“鬼一”を叩き折るつもりで拳を振り抜く。

 ――そう、振り抜けてしまった。

 

「ッ、抜き足……!」

「遅い」

 

 力を込める一瞬の無意識に潜り込み、鶖飛は瞬時に横薙ぎに切り替えて萃香の懐に滑り込んでいた。そのまま萃香の胴を薙ぐべく“鬼一”が振るわれる。

 が、鶖飛はその直前で咄嗟に刀身を引いた。

 

「“白爪――」

 

 なぜなら、その横合いから。

 

「昇腕薙”ァッ!」

 

 必殺を目論んで迫る椛がいた故に。

 

 木の幹を足場に勢い付いた椛の風紋刀は大量の風を巻き込んで暴風の絶剣へと昇華していた。ただ、土煙をも巻き込んで成った剣は今回ばかりは砂塵の刃を従えて、萃香と鶖飛の間に豪速で突き込まれた。

 

 萃香への斬撃に割込めれば上々、運良く鶖飛自身が当たってくれれば万々歳。

 少しの楽観もなく振るわれた絶剣はやはり鶖飛自身を捉えることはなかったが、無秩序に飛散する砂塵の刃が鶖飛に反撃を躊躇わせる。

 

 そしてそれは、鶖飛が見せた数少ない隙に他ならなかった。

 

「“神霊――」

 

 鈴の声が響き渡る。先程まで捉えていたはずの気配が忽然と頭上に現れた、ひいてはそれに気が付けなかったことに、鶖飛は初めて驚愕を表情に浮かべた。

 

「夢想封印”ッ!!」

 

 突如上空に現れた霊夢が、七色に燦然と輝く珠を打ち出した。

 込められた霊力はまさにあらゆる魔に類する者共を打ち滅ぼす暴威そのもの。その神秘的な美しさとは裏腹に、それが人の身に許された領域を遥かに超えた破壊力を秘めているのだと一目で理解できた。

 

 瞬時に思い至る。霊夢の得意とする術の一つ――空間に穴を開けて渡る“刹那亜空穴”だ。

 霊夢は鶖飛の予想を大きく上回る速度で吹羽の治療をやり遂げ、彼のみせた千載一遇のチャンスを逃さず攻めに転じてきたのだ。

 

 彼女の挙動を“観て”知っていた椛は、振り抜いた昇腕薙を回転しながら軌道修正し、砂塵と風をさらに巻き込んで横合いから斬りかかる。

 椛に間一髪救われた萃香は既に態勢を整え終え、いつか妖怪の山を大きく抉り取った拳をもう一度振るうべく妖力を背に纏っていた。

 

 上空から“夢想封印”が。

 横合いから砂塵を纏う“白爪”が。

 真正面から“崩撃”が。

 

 これで終わらせる、という強い覚悟を持って放たれる三人の必殺が、きっと紫ですらも対処に焦るであろう威力を以って鶖飛一人に殺到する。

 

 

 

 果たして――鶖飛は呆気なく(・・・・)暴威に呑み込まれた。

 

 

 

 吹き荒れる三つの暴威は互いにぶつかり、木々を、雲を、全てを薙ぎ倒す凄まじい旋風を巻き起こす。星をも叩き落としそうな旋風は、それを放った三人も軽く飛ばし、吹羽はその後ろで必死に顔を覆って耐えた。

 

 ふわりと着地した三人は、ぜいぜいと息を荒げて膝を突く。肩で息をするその様子に、少しの余裕も見えなかった。

 当然か。この短い攻防の中でさえ、傍目には分からないであろう命を賭けたやりとりが幾重にもあったのだ。体力は言わずもがな、精神力もがりごりと削り続けられている彼女らに余裕などあろうはずもなかった。

 

「はっ、はっ、……っ、これで、終わったか……?」

「そう思いたい……ですけど、ね……」

「………………」

 

 二人が言葉を交わす中、霊夢はジッと鶖飛が立っていた位置を睨み付けていた。三人が放った最大火力を同時に受けたその地面は大きく抉れ、今もなお濃過ぎる土煙が舞っている。

 

「あ、あの、霊夢さ――!」

 

 側に行こうとした吹羽に静止の手が上がる。そうしている間も土煙の向こうを睨み付けていた霊夢は、見れば更に目を細めて眉根に皺を寄せていた。

 

 吹羽はハッとする。

 鶖飛と交戦経験のある霊夢が警戒を解いていないのだ。とすれば、導かれることは一つだけ。

 警戒を解かない霊夢に代わり、吹羽は萃香と椛に一声を掛けようと口を開く――その刹那だった。

 

 

 

 矢が空を切るような鋭く甲高い音と共に、萃香と椛が弾丸のような速度で吹き飛ばされた。

 

 

 

 霊夢は辛うじて凌いだが、彼女の目の前には燐光を纏うガラス片のようなものが舞っていた。

 結界だ。そう思って、次いで咄嗟に、吹羽はそれを一気に砕かれて体勢を大きく崩す霊夢の前に出る。

 

 “韋駄天”顕現――。視野全開――。こんな大きな隙を、鶖飛が逃すはずはないのだから。

 

「っ、きゃあっ!?」

 

 予想通り凄まじい速度で追撃してきた何かを鈴結眼の目が捉え、それに向けて吹羽は“韋駄天”を振るう。しかし衝突したそれは吹羽が想像していたより何倍も重く、呆気なく“韋駄天”は砕かれて体勢を崩す。

 

 そこに再度飛来する攻撃。間も無く飛来したそれを避けられるはずもなく、吹羽はそれを腹に受け霊夢もろとも後方に吹き飛ばされた。彼女が咄嗟に張ってくれた結界のお陰で多少威力は緩和されていたが、華奢な少女二人をまとめて吹き飛ばすその威力に吹羽は堪らず顔を歪める。

 

「くっ……吹羽、大丈夫!?」

「う、こふっ……大丈夫、です……」

 

 咳き込みながら笑いかけるが、実際にはあまり余裕がない。鳩尾に入りなかっただけマシとも思えるが、霊夢の結界がなければおそらく吹羽の柔らかな体など容易く貫いていただろう。それほどの威力を受けても強がっていられた自分を、吹羽は内心で褒め称えたいくらいだ。

 

 霊夢に支えられながらも立ち上がる。見れば、萃香と椛は防御が間に合わなかったのか、ぐったりとして起き上がる気配がなかった。意識はあるだろうが、戦闘はできないだろう。

 それを横目で確認して前方を見遣ると――立ち込めていた土煙は既に大部分が晴れ、その中心に影が見えた。

 

「ふむ、やはりダメだな」

 

 土煙を斬り払って、無傷の(・・・)鶖飛が姿を現わす。

 霊夢が舌を打った。

 

「……今のを受けて無傷か……嫌ンなるわね」

 

 畏怖を含んだ霊夢の愚痴が耳を掠める。鶖飛は悠然とクレーターの中心から歩み出てきた。

 激しい戦闘の中にあって未だに綺麗な姿を保つ彼は、いっそ別の次元に生きている存在のように思える。どれだけ手を伸ばしても、物理的にも心理的にも触れることは叶わない――そんな風に感じられた。

 絶望しそうになる心を押さえつけて、吹羽は強く拳を握り締める。

 

「やっと張合いのある一撃がきたから受けてみたが……この程度じゃ、やっぱり吹羽は任せられないな」

「なによ、任せる気があったの。ならもう少し穏便な方法を取って欲しかったものね。相手するあたし達には迷惑千万よ」

「そう言うな。協力して戦うお前達を見ていたら少し認識が変わったんだ。やっぱり吹羽も、友達がいないよりはいた方が寂しくないだろう。俺が認められるだけの力があるなら少し考えたんだが……ダメだな、不合格だ」

「余計なお世話ね……吹羽の友達は、吹羽が選ぶものよ」

「そう。吹羽が選んで、俺が決めるんだ。所詮邪魔になれば殺す輩だしな、いれば使うがいなくても問題はない」

 

 鶖飛の周囲に禍々しい気が溢れ出した。濃度が高過ぎて視覚化されたそれは、彼が持つ膨大な魔力だろう。空気が歪む感覚がある。呼吸するのも苦しくなって、鳥肌も冷や汗も止まらない。

 

 これが、本物の殺気か。

 吹羽は狂気に溺れた時の文を思い出し、どれだけ自分の経験が浅いものだったのかを思い知った。

 

 あの時の文は、吹羽を嬲る目的で簡単に殺そうとはしなかった。その分殺気は薄かったと言える。

 けれど今の鶖飛は違う。今の彼には殺す気しかない。邪魔なものをすべて殺して、或いは吹羽をも一度殺して、全てのしがらみを排除するつもりだ。

 

「鶖飛、さん……」

「…………もう、“お兄ちゃん”とは呼んでくれないのか」

「っ、……みんなを傷付ける人を、お兄ちゃんだなんて、思いませんっ」

 

 震える喉で絞り出した声は、吹羽自身が思っていたよりもずっと弱々しいもの。だが、狂ってしまった兄への拒絶を示すにはそれでも十分だった。

 鶖飛は一瞬悲しげに目を伏せると、強く刀を振り払った。

 

「ならば仕方ない。いくら拒絶されようとも俺はお前を連れて行く。たとえこの刃を突き付けることになろうとも」

 

 瞬間、急激に風の流れが変わった。魔力と共に鶖飛から放たれるように流れていた僅かな風が、今度は彼の方へと吸い込まれている。

 ――否。吸い込んでいるのは鶖飛ではなく彼の刀、“鬼一”だった。

 

 吸い込んだ風は鍔を通り刀身を撫で、その風紋の通りに細かい風の刃を刀身の先に生成する――だけには留まらない。

 刃を含んだ風が地面にあたり、砂塵を巻き込み、視覚化された魔力をも吸い込んで膨らんだ“鬼一”は、やがて大木を包み込むほどの強い風を纏うようになった。そしてその風に巻き込まれたことごとくが、一瞬で削れ刻まれ塵へと変貌していく。

 

 明らかに先ほどまでの“鬼一”とは比べ物にならないほどの威力だ。巨大な渦を作り上げた紫紺の風は、まるで手綱を握られた怒り狂う龍のような低いうなり声を鳴らし、その凶暴性を表すかのように激しくうねっていた。

 

「……なるほど。合点がいったわ」

 

 硬い唾を飲み込んで臨戦態勢に入る吹羽の隣で、霊夢は小さく呟く。

 

「たった数年でどうやってここまでの魔力を身につけたのか、ずっと疑問だった。魔法は学ぶもの……熟達するには数年なんて短過ぎる」

 

 魔法とは、学問である。七曜の魔女も七色の人形遣いも、長い研究の果てに今の力を手にした。それを知っているからこそ、魔法使いを志す魔理沙は研究を怠らないのだ。

 だが、そうして一途に研究を続ける彼女ですら、今のような超火力を出すためには道具(ミニ八卦炉)を頼る。そこまでしないと納得のできる魔法が行使できないのだ。

 故に魔法とは、とても片手間に熟達できる甘い領域ではない。

 

 それを鶖飛は、ここまで精巧に操っている。

 

「あんたが姿を消してたった数年……そんな短期間で、どうして剣の道を行くあんたがこれだけの魔力を使えるのか……まさかとは思っていたけれど」

 

 

 

 ――あんた、人間をやめたわね。

 

 

 

 霊夢の言葉に、吹羽は凍り付いた。

 

「…………ふっ、さすがは巫女か。人外への造詣は俺が思っていた以上に深いらしい」

 

 頷かず否定もせず、含んだ笑いを見せた鶖飛は徐に左手を前に差し出すと――自らの刀で、手首を切断して見せた。

 勢いよく血が吹き出し、切り離された手は宙を舞ってからボトリと落ちる。そこに血糊のシャワーが降り注いだ。

 

「っ!!」

「………………」

 

 顔を青褪めさせる吹羽を他所に、鶖飛は未だに笑みを絶やさずに。

 

「ああ、痛ェ……“再縫合(リスーチェ)”」

 

 紡がれた聞き慣れない文言に従い、鶖飛の魔力が微動する。すると驚くべきことに、切り離された手が時間が巻き戻るかのように動き出し、切断面にぴったりと張り付いた。

 切り口から滲み出す血も徐々に減り、最終的には切り口さえも分からないほど精巧に接着する。

 既に噴き出してしまった血溜まりだけを残して元通りに戻った鶖飛を睨め付け、霊夢は隠しもせずに舌打ちした。

 

「その魔法……」

「ああ、この類(・・・)の魔法をお前は知っているよな。何せ一度行った(・・・)ことがあるんだから」

 

 鶖飛は一頻り接着した手の調子を確かめると、改めて二人を真っ直ぐに見た。

 霊夢には諦めろと諭すかのように。

 吹羽には現実を無理矢理呑み込ませるかのように。

 

 

 

「そう、俺はもう人間じゃない。生まれ変わったんだ――“魔人”として」

 

 

 

 己が人外と相成った事実を、朗々と叩き付けた。

 

「……なるほど、強いのも道理というわけ。魔界の魔人どもは嫌になるくらい強いからね」

「な、なんで……なんでそんなことしたんですか!? 人間をやめちゃってまで、なんで……!」

 

 人間をやめる――それがどれだけ悲しいことなのかは、幼い吹羽にもなんとなく理解できた。

 人間は人間として生を受けて人間になる。当たり前のことだ、妖怪だって妖怪としての生を受けたから妖怪として在るのだから。それをやめるということは、人間として死を迎えるのと同じことだ。人間として死に、新たに他の生を受け、まさしく生まれ変わってしまうということ。

 

 自分の死にも他人の死にも恐れを抱く心優しい吹羽には、到底理解できない行動だった。

 人間をやめてまで――人として死んでまで、一体何が彼を動かしているのか。

 

「そんなもの決まってるだろ」

 

 その声にハッとする。確固たる意志の伺えるその声音は、彼の目的が始めから最後まで何一つ変わっていないことを示していた。

 

「吹羽……お前をこの世界から連れ出すためさ」

 

 そして邪魔なものが何もいない、真に平和な世界で二人きりで暮らす。それが初めから変わらない、たった一つの鶖飛の願い。

 

「俺は、俺たちは八雲 紫の思惑通りにはならない。俺の持ち得るすべてを以って運命に抗ってみせると――そう決めたんだ」

 

 その瞳に宿る覚悟を目の当たりに、吹羽はキツく奥歯を噛み締める。悔しさや悲しさ、遣る瀬無さがこみ上げてきて、刀を握る手にも血が滲むようだ。

 大切な人が取り返しのつかないことになってしまったその原因が自分だなんて、これ以上悔しいことなど他にない。どうにかできなかったのかと無力な自分が恨めしくなる。

 大好きだった兄の力になってあげられなかったことが、吹羽は頭の中を掻きむしりたいほどに悔しかった。

 

「さぁ、続きを始めよう。お前の覚悟は、俺の覚悟に通じるか、吹羽?」

 

 刃を差し向けてくる彼の瞳には、覚悟と殺意と少しの悲しみが映っているようだった。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 これからの投稿ですが、諸事情でちょっと遅れることになりそうです。
 ではでは。


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第五十話 神話の嚆矢

 

 

 

 刃を伴った紫紺の風が頬を掠めると、鋭い痛みと共に鮮血が舞った。

 

 深くはないが、皮膚の表面を削られたような慣れない痛みが走る。まるで肌を直接鑢にでもかけられたかのような、人を精神的に追い詰める痛みである。

 この風に呑み込まれるのだけは回避せねばなるまい、と吹羽は肝に命じて身を翻す。全身をこんな痛みに襲われたら、いくら身構えていたとしても自分程度では耐え切れないと思った。

 

「“疾風”……っ!」

 

 苦し紛れに放った数発の釘は呆気なく鶖飛に回避され、反撃とばかりに再度紫紺の風が広範囲に襲い来る。今度は回避が間に合わないと悟りドクンと一つ心臓が跳ねるが、吹羽は冷静に、腰に下げられた小さな鉄に指を滑らせる。

 

 僅かな霊力を食らって顕現したのは、一本の杭。吹羽はそれ――“飛天”を鶖飛に向けて投げつけた。

 

 “飛天”は横殴りの竜巻を生み、風の砲撃を纏って飛ぶ杭だ。いくら魔力を含んだ風と言っても、突風が竜巻に敵う道理はない。

 風の砲撃は広範囲に撒き散らされた紫紺の風を強引に食い破り、鶖飛の下へと一直線に飛翔した。

 それに対し、鶖飛は刀を両手に大上段に構える。

 

「集え、禍風(まがかぜ)――“(せん)”」

 

 呟き、神速で振り下ろされる。その瞬間、風の砲撃がぱくりと縦に割れた。目を見開く吹羽のすぐ横を、鋭い紫紺の風――禍風が音すら置き去りにして駆け抜けた。

 後方には縦真っ二つに喰い裂かれた無数の木々。地面には地割れというには綺麗過ぎる深い切り傷。この大地に意識があったのなら、きっと泣き叫びのたうち回って大地震を起こしているだろう。

 吹羽は恐怖に竦みそうになる身体を、唇を噛んで叱咤した。

 

 動かなければ、次の瞬間には真っ二つ。吹羽は次々襲い来る風を、翻り、食い破り、爆散させ、あらゆる手を尽くして必死に凌ぐ。激しい運動で開いた傷がとてつもなく痛かったが、吹羽は死に物狂いで刀を振るった。

 死ぬのが怖いか傷付くのが怖いかといえば、当然死ぬのが怖いに決まっている。それに鶖飛がこうして吹羽を攻撃していてくれれば――それは隙を晒すも同然である。

 

「ッ!」

 

 吹羽へと禍風による斬撃を飛ばす中、ハッと鶖飛の瞳が見開かれた。即座に視線を走らせた彼の周囲には、いつの間にか光り輝く八角形が描かれていた。

 鶖飛は咄嗟に攻撃の手を止める。だが、もう遅い。

 

「『八方龍殺陣』ッ!」

 

 投げ付けられた符は追い縋る禍風をすり抜けて地面に刺さる。その瞬間、描かれた線が更に黄金に光を発し――その内側が、大爆裂を起こした。

 轟々と凄まじい衝撃音が響いているが、不思議と外側にはほとんど衝撃が来ない。描かれた線が黄金色の結界で衝撃を内側に圧縮しているのか、霊力の爆発は美しい八角柱を形作り、まるで闇夜の空を巨大な御柱が衝いているかのようだった。

 

 疲弊にがくりと膝を突いた吹羽の下に、ふわりと霊夢が着地する。

 

「はぁ……傷は大丈夫かしら」

「ぅ、くっ……大丈夫、です……」

 

 嘘。大丈夫なわけがない。

 以前の治療である程度コツをつかんだ霊夢によって必死の切り傷も段違いの速度で、より効率的に治療できたものの、やはり完治できたわけではない。そこに攻撃など喰らえば傷が開き、無視できないほどの痛みが生じるのは当たり前だ。

 腹部の服に滲んだ血が見られないよう、吹羽は僅かに屈みこんでから息を整える。

 吹羽も霊夢も命を賭けた戦いだ。彼女の集中を妨げるわけにはいかないと思った。

 

「っ! 来ます!」

「ええ!」

 

 炸裂する霊力の中に僅かな魔力の動きが見えた。

 次の瞬間、夜闇に突き立った霊力の柱に無数の剣閃が奔り、衝撃を留めておけなくなった結界が砕けて爆散した。

 間髪入れずに禍風が――“閃”が飛んでくる。それを予測していた霊夢が数枚重ねた結界で防ぐが瞬時に砕かれ、二人とも衝撃に吹き飛ばされた。

 吹羽は不安定な体勢を“韋駄天”の推進力でどうにか正して着地すると、牽制として“風車”と“疾風”を放つ――が、鶖飛の周囲を旋回する禍風にぶつかると一瞬で削り刻まれてしまった。

 

「っ、」

 

 青い燐光へと散る“疾風”を視界の端に、吹羽はすぐさま駆け出した。数瞬前までいたそこには強烈な禍風が津波のように押し寄せ、次々と空間を削り取る。時折隙間を見つけて牽制するが、全てが禍風に防がれてしまっていた。恐らく霊夢の方も似たような戦況だろう。

 

 いくら鈴結眼が人外の洞察力を誇ると言っても、予測材料が少ない風などを相手には当然精度が落ちる。隙間を見つけて弾を放っても、後から禍風に呑み込まれてしまったら鶖飛に届くわけもない。近接戦ならまだしも遠距離で、まして圧倒的物量で押しつぶしてくる攻撃を前に予測も何もないのだ。

 

 全範囲をカバーする殲滅力の化け物。それが鶖飛の操る禍風である。あらゆるものを飲み込んで塵へと返すその風があれば、一人でも幻想郷全土を相手にできるだろうとさえ思えた。

 一対一、あるいは個々に実力を備えた多数の敵を相手にすると絶大な効力を発揮する鈴結眼は、しかし殲滅力に物を言わせる相手には最悪の相性だった。

 

「(〜〜っ、埒があかないっ!)」

 

 避け、避け、反撃しては掻き消され、逆に斬られかけて離脱する。もうそれを何度繰り返したか分からないが、これ以外の戦法も思いつかない。

 吹羽は刀を用いた近接戦の方が得意だ。離れていても僅かな隙を突いて距離を一気に詰め、無理矢理に接近戦に持ち込む方がやりやすい。しかし、いざ完全な近接戦に持ち込んでも数秒後にはきっと細切れにされているだろう。それだけ鶖飛とは実力がかけ離れているし、今吹羽が生きていられるのは偏に遠距離戦が主だからだ。

 

 遠距離戦では埒があかない。しかし近接戦に持ち込めば死ぬ。ならばと遠距離で道を開こうにも、吹羽より弾幕や霊術によるそれに長ける霊夢が攻めあぐねるのに、吹羽がこの陣を崩せるわけもなかった。

 

 そして、そう思っていたのは鶖飛も同じだったらしい。

 

 禍風で吹羽を追いかけ回しながら、鶖飛は地を蹴って飛び出す。向かう先は――霊夢だ。

 

「ッ!」

 

 今までと同様、“抜き足差し足”によって突然目の前に現れた――ように見えた――鶖飛に、さしもの霊夢も冷たい汗を流す。

 襲いくる禍風を結界で受け止めながら、霊夢は大幣で斬撃を弾いた。

 硬質な音が響く。霊力の燐光が眩く散った。

 

「よく反応したな」

「じゃなきゃ……死ぬでしょうがッ!」

 

 弾かれた勢いをそのままに使って横に薙ごうとすると、それを鶖飛は、あろうことか素手で掴み取った。妖怪であれば触れただけで蒸発するそれを鷲掴みにしたまま、鶖飛は至近距離で禍風を纏った刀を振り抜いた。

 咄嗟に上へ跳ぶ。一瞬足が巻き込まれて血が繁吹くが、霊夢は鶖飛の頭上を取った。

 

「『結界殺・重畳』!」

 

 苦悶に顔を歪めながらも、霊夢は上空から鶖飛に向けて印を切る。すると彼女の目の前に畳ほどの大きさを持った黄金色の結界が発動し、鶖飛を押し潰さんと放たれた。それは一枚だけではなく、何枚もの結界が一列に連なっていた。

 ドドドドド、と地面を強く叩く音が響く。妖怪相手であれば呆気なく圧殺されるところだろうが――刹那、キン、と剣閃が一筋奔った。

 重ねられた結界がいとも容易く砕かれる。放たれた剣閃は吹羽の方にまで飛んできたが、観えていた彼女は間一髪で回避した。

 

 続けざまに衝撃が走って土煙が晴れると、禍風が渦を巻いて暴れ狂っていた。

 複雑にうねる禍風は、まるで紫紺の鱗を持った龍のようである。鶖飛の周囲でとぐろを巻き、目などないのに睨まれている気がした。

 

「喰い荒らせ――『禍蛇神土(マガツカガツチ)』」

 

 空を切る音が咆哮にも聞こえた。

 動き出した紫紺の龍は、その巨体からは想像もできない速度で舞い上がり、その長い尾を振り下ろす。それが厳かに打ち据えたのは、辛うじて斬撃を避けた霊夢だった。

 

「霊夢さんっ!」

 

 あまりに予測を超えた速度に反応しきれなかったのか、霊夢は結界を張る間もなく地面に叩きつけられた。

 身体中から血が噴き出たのが遠目にも見える。その光景にさっと青褪め、吹羽はすぐさま駆け出そうとするが、文字通り風の如き速度で暴れ狂う龍に遮られる。

 

 そして立ち止まった吹羽の目の前に、ついに鶖飛が肉薄した。

 

「そんなに心配か?」

 

 咄嗟に振り下ろした“太刀風”を鶖飛は難なく弾き返す。そして一瞬で納刀すると、鞘に納めたまま吹羽の腹を打ち据えた。

 一瞬意識が白く染まった。開いた傷の痛みと内臓の押し潰される苦しさに、なにがなんだか分からないまま吹羽は大きく吹き飛ぶ。

 

 何度も地面にぶつかって止まると、霞む視界の中に大口を開いた紫紺の龍が見えた。五体投地した吹羽の体を食い破らんと、上空から猛スピードで落ちてくる。

 

「(ま、ずい――……ッ!)」

 

 そうは思っても、自由に体は動かない。疲労と痛みと、既に朦朧とした意識では自分の体が鉛のように重かった。

 だがそれでも、“韋駄天”を一振りできたのは意地ゆえか、それとも生き足掻いただけだったのか。

 “韋駄天”に引きずられる形で間一髪龍の顎撃を回避した吹羽は命こそ助かったものの、突如肩に焼けるような痛みが走った。

 

 横目で見やれば、そこには自分の肩に突き立った刀身の銀光が見えた。

 

「ッ! ぁ、あぁあああッ!?」

「お前をずっと騙していたあいつが……」

 

 ぐり、ぐりと緩やかに傷口が抉られる。その度に痛みが頭を支配して、全身が無意識に暴れ回る。

 

「そんなに、大切なのか?」

 

 どこか悲しみを帯びた言葉を落とした刹那、大量の弾丸が飛来した。鶖飛はそれをことも無げに禍風で防ぐと、空間を裂いて現れた霊夢の振り下ろしを引き抜いた刀で受ける。

 

「『夢想封印』――ッ!」

「『禍蛇神土』」

 

 至近距離で衝突した二人の技は青と紫紺の火花を散らしながら一瞬拮抗したが、数秒の後に互いに弾け飛び、その衝撃で三人は距離を取った。

 片や傷一つない姿の鶖飛。

 片や血塗れで息を荒げる吹羽と霊夢。

 ――実力の差は、明々白々だった。

 

「吹羽、に……余計なこと、吹き込んでんじゃないわよ……!」

 

 傷だらけとは思えない強い言葉だが、霊夢がもう既に限界近くなのは吹羽にも分かった。

 先ほどの龍の一撃で身体中に赤い皮膚が覗き、絶えず血が滴っている。僅かに霊力を感じることから、それで咄嗟に魔力を相殺させながら受けたのだろう。

 だが、時折口の端から血が滴り落ちている。きっと内臓がいくつも潰れているのだ。

 吹羽は歯を食いしばって立ち上がると、傷口を抑えながら鶖飛を見やった。

 

「余計なこと? 事実を言ったまでだ。お前は吹羽の記憶を隠していただろうが」

「ええ、あたしは、っ、事実を……隠蔽したわ。吹羽にとっても大切なことをね」

 

 吹羽の両親がどうなったのか。兄と慕っていた鶖飛の非道。吹羽が霊夢に隠されていた事実は、確かに吹羽の根底を覆し得るものだった。

 だが、と霊夢は鶖飛を睨む。

 

「親友が壊れていくのを、黙って見ていられるわけがないでしょうが……ッ! その原因を作ったあんたに……口を挟む権利なんてないわッ!」

 

 いくら霊夢が吹羽に隠し事をしていたとしても、その隠せざるを得ない非道(・・・・・・・・・・)を働いたのは間違いなく鶖飛である。

 そんな奴に騙していただとか大切だとか、偉そうに問う資格はない。説く資格もない。愛していると口にしながら傷付けるより、隠してでも笑顔を守りたいと思う方がよほど正常だと霊夢は考える。

 

 もちろん、霊夢とて罪悪感はある。後悔もあれば遣る瀬無さもあるし、なにより強烈な無力感があった。

 きっと選択を間違ったのだ、と霊夢は思っていた。もっと模索すればより良い選択肢はあったのだろうと。間違った選択を盲信したまま突き進んでしまった故に霊夢は吹羽を辛い目に合わせたのだ。それは霊夢のこれからの人生で背負っていかなければならない厳然たる事実である。

 

 だが、吹羽を守りたかった気持ちに嘘偽りはない。その気持ちを“騙していた”と踏み躙られることだけは、許せなかった。

 なにより、自分の希望を通したいだけの愚か者には。

 

「あんたには、分からないわ……友人を想う気持ちなんて!」

「そうだな。俺が欲しいのは友人じゃない……たった一人の妹という家族だ」

 

 周囲の禍風が渦を巻く。しばし鶖飛の周りを揺蕩ったそれは、気が付けば先ほどの龍――“禍蛇神土”を形作っていた。

 

「友? そんな他人を思う気持ちなんて、とうの昔に切り捨てた!」

 

 鶖飛の叫びに合わせたように、紫紺の龍が砲撃の如き勢いで迫ってきた。

 一度散ったにも関わらずその巨体はさらに風を巻き込み、視界を覆い尽くすほどの大きさにまで発達している。本来であればすぐさま逃げ出すのが最善であろう圧倒的暴威を前に、しかし霊夢は動かない。

 その両肩は、怒りに震えているようにも見えた。

 

「その小細工も――」

 

 符を構える。それを徐に放ると、ひらひらと花びらのように霊夢の周囲を舞った。

 それは最早桜の如く。本来青白いはずの霊力が符という小さな形に押し込められ、飽和し、濃縮され過ぎて色を変え、そして溢れ出る。一つの花のようになったそれらは、薄紅色を呈していた。

 

「いい加減にしなさいよ、この大馬鹿野郎ッ!!」

 

 ――『霊符「夢想桜花封印」』

 

 桜の如き霊力の弾頭が、巨大な龍の顎門に突き刺さった。

 

「あんたのそれは……押し付け(・・・・)でしかないのよッ!」

 

 龍と桜は大地を鳴らして拮抗するが、それもわずかな時間だった。

 桜の弾頭は少しずつ龍を圧倒し、霊夢がひときわ力を込めるのと同時に突き破る。周囲の禍風をも消し飛ばしながら、ただ少しも衰えずに鶖飛の身一つに殺到した。

 

 薄紅色に炸裂する“夢想封印”。しかしこんなもので討てる甘い相手でもない。霊夢はすぐさま飛び出し、お得意のホーミングアミュレットと掃射する。満足な体術はできないが、霊術でならば彼女の右に出るものはいない。

 

「(防がれるのも予想のうち!)」

 

 その心の声が具現化したように、煙を晴らした鶖飛には傷一つない。どころか片手で印を結んですらいた。

 なんらかの術だろう。それも、これだけ魔力を扱える鶖飛がわざわざ印を結ぶということは、それなりに強力なものであることが予想される。

 

 備えて耐えるべきか、“刹那亜空穴”を用いて全力で回避するか――断じて否。

 わざわざ術の準備をしているならば、それそのものをぶち壊して優位を取ればいいのだ。

 霊夢は“刹那亜空穴”に飛び込み、瞬時に鶖飛の背後を取った。すぐ目の前に見えるそれは人間にとっての急所の一つ。太い神経系の通った――うなじ。

 

「させるか、っての!」

 

 底冷えするほどの霊力を込められた大幣で首を薙ぎにかかった。

 淡い光を纏う大幣はもはや鋭利な脇差の如き鋭さを誇る。だがしかし、刃物というのは往々にして、当たらなければ意味がない。

 

「その体で――」

 

 鶖飛は僅かに身体を後方にずらすと、印を結んでいた手で霊夢の腕を掴んで止めた。

 

「ッ!」

「よく俺に近接戦を挑んだもんだな!」

 

 魔人となった鶖飛の膂力は人間の比ではない。掴んだ腕を強引に引っ張り、鶖飛は背負い投げの要領で地面に叩きつけた。

 壊れた内臓から血が逆流する。溢れ出した血痰が、喉から勢いよく吹き出た。

 

「死ね」

 

 一言吐き捨て、鶖飛は霊夢の命を刈り取るべく“鬼一”を振り下ろした。壊れた内臓をさらに押しつぶされて動けない霊夢に避ける術はない。

 だが、為す術がないかと言われればそうでもなかった。

 

「!」

「だれ、が……死んでやるか、ってのよ……!」

 

 霊夢の首を狙った“鬼一”は、柔肌を搔き切る直前で青白い結界によって止められていた。それは小さい代わりに今までより何百倍も厚く作られており、いくら鶖飛でも斬り裂くことができないほどの強度を持っていた。

 

 一瞬、隙ができる。霊夢はそれを逃さなかった。

 

「はぁッ!!」

「ぐ……っ!」

 

 放たれたのは青白い衝撃波――霊撃である。内に秘めた力を瞬間的に解放して衝撃を生む霊夢のそれは、中妖怪程度なら瞬時に昏倒させられるほどのものだ。

 体術よりも霊術に長ける博麗の巫女の霊撃は凄まじい。それが至近距離で炸裂したとなれば、いくら魔人の体でもダメージは多少なりともあろうというもの。

 初めて聞いた気さえする苦悶の声と共に、鶖飛は霊夢から強引に離れる。

 

 しかしその先には、吹羽が待ち構えていた。

 

 鶖飛の吹き飛ぶであろう方向へと回り込んでいた吹羽は“太刀風”を正眼に構える。鋒は鶖飛を正確に捉え、鈴結眼がその挙動を正確無比に観測する。

 どこに、どう振るえば、どう当たるのか。

 それら全ての要素を完全に把握した吹羽は、諸手に持った“太刀風”を緩慢に振りかぶった。

 

 霊夢が決死で作った、恐らくは最初で最後であろう大きな隙。ここで仕留められなければきっと勝ち目はないだろう。

 吹羽はカッと目を見開き、飛来する鶖飛目掛けて刀を振り下ろす。

 

 ――その時だった。

 

「太刀か――ッ!?」

 

 

 

 刀が、止まった。

 

 

 

「(なっ、なに!? なにが――!?)」

 

 握る手も、一歩踏み出した足も、首を回すことすらできない。突如起こった不可思議に全ての思考が真っ白に染まる。

 

 動かなくなったというよりは止められたような感覚だった。それも込めていた力などないもののように、慣性の法則を裏切って体がピタリと止まっていた。さながら空間そのものに固定されたかのよう。

 なぜ。どうする。動け動け。まずい。斬られる。鶖飛は既に、目の前にいるのに――!

 

 あまりに唐突な現象に吹羽は少なからず狼狽する。そしてそこに飛来する鶖飛はひらりと体勢を整えると空中を蹴り、意識散漫な吹羽の目の前に瞬時に現れた。

 

 腰には鯉口の切られた刀。低く屈み込むような姿勢はまさに鶖飛の得意技――抜刀術の構え。

 

「裂け……『帰塵(きじん)』」

 

 胴が、消える。直感的にそう思った。

 鶖飛の抜刀は神速だが、鈴結眼にはやはり緩慢に映る。故にそこに込められた魔力や禍風も同様に見えるものだ。

 

 性質としては“閃”と似たようなものだろう。禍風を束ねて飛ばし、素の剣圧と合わせて長距離を切断する。だが今のこれは抜刀術。鶖飛が最も得意とする攻め(・・)の型。似たように用いればどのような威力になるのかは想像に難くない。

 

「――ッ、」

 

 数瞬後に迫った死の気配にゾッと顔を強張らせる吹羽だったが、咄嗟に赤い衣が視界に入り込んできた。

 赤い衣――霊夢が半ば地に落ちるような体勢で現れて結界を張ると、次いで凄まじい金切り音が響き渡った。

 結界と“鬼一”、引いては濃縮された禍風がぶつかっているのだ。触れたものを削り刻んでいく風が強固な結界を絶えず引っ掻き、火花の如き燐光を散らして受け止められている。

 ぼろぼろの霊夢は、震える足で立ちながら苦しい声を漏らした。

 

「ぐっ、――ぅぅうううッ!!」

「れいむ、さんっ!」

 

 徐々に結界にヒビが入る。それを確認したのか、鶖飛は禍風をぶつけたまま一歩下がると構えを変えた。

 鋒を前に据えたそれは、素人目にも分かる突きの構え。獲物を仕留める射手の如き瞳は、霊夢の心臓を狙っているように見えた。

 

 後ろには動けない吹羽がいる。吹き荒ぶ禍風を防ぐには結界が必要だ。だがひびの入った脆い結界に鶖飛の刺突が耐えられるわけはない。

 回避もできず、防御も貫く。心臓を狙い澄ました矢の如き刀は確実に霊夢を射止めるだろう。まごうことなき絶体絶命の危機――

 

 

 

 だから霊夢は、それを受け入れる(・・・・・)ことにした。

 

 

 

 刹那、放たれた刺突が結界を容易く砕き、霊夢の胸をも貫いた。

 身体の中に鉄の塊が入り込んでいる感覚に吐き気を覚え、霊夢は込み上げる血の塊を我慢もできずに吐き出した。刺突に続くように禍風が霊夢の肉を容赦なく削り取っていくが、もはや霊夢は痛みなどほとんど感じていなかった。それすら感じられないほどに脳内麻薬が分泌されているのだろう、霊夢の意識は白濁として、酩酊しているような感覚だった。

 ただ一つ感じるのは、肌寒さ。体温の元である血が抜けていくためか、それともそれが死の足音というものだったのか、今の霊夢には判断が付かない。

 

「ぁ、あぁああぁ……れいむ、さん……れいむさん!」

 

 微かに吹羽の声が聞こえた。それに少しだけ意識を引っ張り上げられ、霊夢は霞む視界で鶖飛を睨む。

 彼はなんの感情も読み取れない無表情で霊夢を見ていた。

 

「ようやく終わったか。お前の粘り強さには脱帽だよ」

「だったら……ずっと脱いで、なさい……まだ、終わってないわ……ッ!」

「? ……!」

 

 そこで鶖飛はようやく気が付く。霊夢を貫いている刀の、その始点と終点。そこにごく小さな結界があり、刀が抜けるのを強固に阻止していることに。

 そしてその刀そのものが、霊夢の傷に蓋をして流血をある程度抑えていることに。

 

「刀が、なけりゃ……あんたはただの、魔法使い……!」

「なに――」

「ぶっ飛べッ!」

 

 刹那、虹色の光が炸裂した。至近距離で霊夢が放った『夢想封印・瞬』が見事に命中し、鶖飛は声も上げぬままに吹き飛んだ。

 

「ぅ、く……」

「ぁ、あ、やだっ、れいむさん……!」

 

 がくりと膝を突く。術が解けた吹羽はすぐさま霊夢に駆け寄った。

 

「や、いやっ、れいむさん、死んじゃいやですっ!」

「落ち、つきなさい……まだ、大丈夫だから」

 

 目に涙を溜めて狼狽する吹羽の頭に手を置く。それでも潤んだ瞳で見つめてくる彼女に、霊夢は仕方なさそうに笑いかけた。

 

「そうやっ、て……心配しすぎる、のは……悪い癖よ」

「で、でも……刺さって……胸に……!」

「はは……あたしを、誰だと思ってるの。天下無敵、の……博麗の巫女、よ?」

 

 そう言うと、霊夢は血塗れの手に淡い光を宿らせる。それを胸に当てると、少しずつだが呼吸が楽になってきた。

 博麗の巫女も治療術くらいは心得ている。自分の傷も直せないのに妖怪退治などやっていられないからだ。

 霊力を身体に流し、浸透させて傷を繋いでいく。本来ならば応急処置程度であるはずのそれは、霊夢が行使することで十分に治療術として成立するようになっていた。

 

 刀は抜かず、切れた血管に蓋をしたまま他の傷を直していく。今抜いたら、流石の霊夢でも治す前に死ぬだろう。

 ゆっくりと流して、身体の調子を確かめて――そして霊夢は、戦慄した(・・・・)

 

「なに、これ……なんであたしの、中に――」

『そりゃ、仕込んだからな』

「ッ!?」

 

 声が聞こえた瞬間、霊夢は急いで身体に霊力を流し込み、入り込んだ“異質物”を排除しようと力を込めた。

 しかし抵抗止む無く、それが自分の体の中に染みていくのが感じられた。それと同時に、身体の主導権が手を離れていく感覚があった。

 まだ少しだけ動く瞳で、声の方向を睨む。案の定、そこには未だ健在な鶖飛の姿があった。

 

「効くまでここまで時間がかかるのは初めてだったが、まぁ良しとしよう」

「あん、た……なにを……!」

「『刺繍(エンブリム)』、糸の魔法。残念だが、あの時既に詠唱は終わっていた」

「っ!」

 

 あの時。それが、霊夢が鶖飛のうなじを薙ぎにかかった際のことだとはすぐに分かった。あの時印を結んでいた手で霊夢を投げたのはそうせざるを得なかったからではなく、既に詠唱が終わっていたからだったのだ。

 

 軋む首をなんとか動かして吹羽を見遣ると、先ほどの姿勢のまま動きが止まっている。よく目を凝らせば、僅かな魔力光が無数の糸となって吹羽の周囲に張り巡らされているのが見えた。

 先ほどの刀を振りかぶる彼女を止めたのも、同じ魔法だったのだろう。

 

 苦虫を噛み潰したように奥歯を噛みしめる霊夢。しかしその気持ちとは裏腹に、霊夢の足はゆっくりと鶖飛の方へと歩き出していた。

 

「もう一つ種明かしといこう。俺の能力は禍風を操ることじゃない。その真価は……俺の力を浸透させることにある」

「浸透……!?」

「ああ。内側に媒体が入り込めば浸透させ、操ったり力を与えたりすることができる。お前には糸を刺していた。細過ぎて気付かなかっただろうがな」

「……ちっ、そういうこと、だったのね……!」

 

 禍風は魔力を風に浸透させたもの。霊夢には糸を媒体にして魔力を浸透させて体を操っている。そこまで結論を出して、霊夢の中で全てが繋がった。

 

 初めの違和感は、あの中妖怪三匹だった。

 中妖怪になるまでこの世界で育ったくせに、ルールに不満を唱えて暴れ出した。普通に考えて“なぜ今更?”と疑問が出るところだ。

 答えは一つ。あの三匹は、鶖飛に力を与えられた。そしてそれがなぜなのかといえば、恐らくは鶖飛が体を慣らすための隠れ蓑にするためだ。

 

「魔人ってのは……大変ね。こんな魔力の薄い世界じゃ、満足に力をっ、振るえなかったでしょ。……その時に見つけていれば、ぶっ飛ばせたのに」

「ああ、苦労した。あの妖怪たち、気まぐれにしか襲わないもんだから全然満足に慣らせなんだ。まぁ、見つかる心配はしていなかったからな、ゆっくりさせてもらったさ」

 

 魔界はその名の通り魔に満ちた世界だ。その濃度はただの人間には毒にしかならず、また魔法使いにとっては至高の住処となる。そんな世界に生きていた者が突然幻想郷に来たりすれば、当然著しく身体能力が低下する。低地に住んでいた人間が急遽標高の高い山に移り住むようなものなのだ。

 

 故に、慣らす必要があった。しかし無差別に力を振るって他人を傷付ければ勘付かれる。だから中妖怪三匹に騒ぎを起こさせた。その影に隠れて体を慣らすために。

 魔界にいた頃と遜色ないほどに力を振るえなければ、到底目的など果たせないだろう。

 あの鑢にかけられたような死体は、禍風の跡。そうでないものは中妖怪たちの跡。

 

「まぁ、吹羽と再会する口実にもなったからな。無駄ではなかったよ」

「っ、……全部、仕組んでたってわけ」

「そうだ。そしてその仕上げを、今から行う」

 

 意思に反して進む足は、鶖飛の目の前で歩みを止めた。瞳が薄く紫色に染まりかけていた。それでも侮蔑を込めた視線で睨む霊夢を悠々と受け流しながら、鶖飛は刺さったままの刀を握る。その僅かな動きにさえ、霊夢の額には脂汗が浮かんだ。

 

「博麗の巫女も所詮は人間。これを抜けば、お前はまもなく死ぬな」

「っ、」

 

 分かりきったことを問うのは、霊夢にそれを自覚させるためなのか。

 鶖飛は霊夢から視線を外すと、吹羽の方へと向き直った。

 

「や、やめてっ! やめて下さい! 霊夢さんを……殺さないで……!」

「…………なぁ吹羽、最後にもう一度訊いてやる。……次はない」

 

 鶖飛は吹羽の縋るような瞳と声に目を細めると、少しだけ語調を強くして前置いた。

 

「俺と一緒に暮らそう。潔く来てくれるなら、霊夢と紫を――いや、紫を斬るだけで済ませてもいい」

 

 続く声音は、言っていることは非道そのものなのに、“余計に悲しんで欲しくない”という心遣いのようなものが感ぜられた。

 

「幻想郷は壊す。紫も殺す。その他の奴らは知らない。その上で、吹羽。君は霊夢をどうしたい? 生かしたいのか、死なせたいのか」

「ぁ、う……ぼ、ボク、は……そんな……」

「十、やる。決めろ」

「っ!」

 

 カウントダウンは無情に始まる。どちらを選んでも誰かが死んでしまうその事実に、吹羽の心は押し潰されそうなほどに軋みをあげていた。

 呼吸が早くなる。鼓動が激しくなる。悲しみ、焦り、責任感、様々なものが頭の中で入り混じり、ぶつかって、なんにも頭が回らなかった。

 ただただ涙が溢れていく。その間にも、鶖飛は静かに時を刻む。

 

「七」

 

 吹羽は未だ倒れ伏す椛と萃香を見遣り、そして霊夢を見た。

 誰も彼もが傷付いていた。皮膚は裂け、真っ赤な血を溜まりができるほどに流し、か細い呼吸は命の繋がりがごく短いことを実感させる。

 霊夢に至っては今まさに命が握られているのだ。鶖飛がその刀を引き抜けば、辛うじて生きている霊夢でさえも死んでしまうだろう。

 大好きな親友が、目の前で、死んでしまう。

 

「五」

 

 そんなのは絶対に嫌だと思った。嫌だと思ったけれど、他のみんなが死ぬのにも耐えられないと思った。

 潔く付いていくなら霊夢は助かり、その他も直接手は下されない。拒否すれば霊夢を含め全てが殺される。そこに生存の可能性は皆無だ。

 みんな、死んでしまう。

 自分の所為で、と思ったら、気を失ってしまいそうなほどに胸が苦しくなった。

 

「三」

 

 なんて酷いことを、と怒る気にもなれない。鶖飛がこんなことになってしまったのは、きっと自分の所為なのだ。

 あの日、鶖飛に寄り添ってあげられなかった自分の所為。兄が歪んでしまうほどに思い詰めていたことを察することができなかった、愚かな妹の所為。なんと声をかければ良かったのかは今でも分からない。でも、きっと、何も言わずに側にいるだけで、結果は違ったはずだ。

 

「二」

 

 後悔してももう遅い。取り返しなど付きはしない。いくら願ったところで時間は戻らないし、失った命は蘇らない。

 どうすればいい? そう問いかけても、答える声など一つもない。ただ空虚な自分の中で反響して、ずっとずっと同じ問いが聞こえてくるだけ。

 何もできず、何も為せない現実が覆い被さってきて喉元を締め付ける。所詮自分は非力な人間で、そんな自分が分不相応に手を伸ばした結果がこれだ。

 何も得ることなく、全てを失いそうになっている。自業自得だ、なんて嘲笑が内側から聞こえてきた。

 

「一」

 

 分からない。分かるわけない。

 何が正しい? 初めから間違ってたんだ。

 どうしたら良かった? 考えるだけきっと無駄。

 無力感、寂寞感、遣る瀬無さ、自分への怒り、呆れ、侮蔑――そんな暗い色をした感情が頭の中を支配する。

 だって、こんなに迫られているのに……未だに答えを出せない自分がいる。

 何を選んでも、大切な誰かが犠牲になる。全て自分の所為なのだ。自分の過失を片付けることもできない愚か者の所為。

 

 吹羽は、遂に答えを出すことができなかった。

 

「……残念だ、吹羽」

 

 鶖飛は視線を吹羽から外し、刺さったままの刀を持ち直した。

 霊夢が死んでしまう。自分の所為なのに、それを見ていられなくて、吹羽はきつく目を瞑った。

 

 ああ、また全てを失うのか。全て失って、自分はのうのうと生きることになるのか。二度と失わないように暮らしてきたのに、結局また、失うのか。

 

 からり、と首元で音がする。当主の証たる勾玉は、こんな中にあっても月明かりを反射して光っていた。

 

「(……ボクは、どうなってもいいんだよ……)」

 

 絶望に見舞われ、どうしようもなくなった時、人は縋る先を求める。もし、こんなにも無様で愚かな自分にも祈る権利があるのなら。

 

「……じゃあな、霊夢」

 

 ――どうか……どうか助けてください、氏神様。

 

 

 

『当然だとも。我が依り代よ』

 

 

 

 懐かしい風が、吹いた気がした。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第五十一話 終階

 

 

 

 ――あの時感じたのは、ぶつかり合う技の衝撃ではなく、身体を貫いた硬く冷たい感触だった。

 

 血に濡れた赤い刃が胸から生えている。満身創痍の体は立っていることもできず、その場にぐしゃりと崩れ落ちた。

 すると、上から声が降ってくる。

 

『これで……これで俺が一番だ……ぁは、あはっ、あははははははッ!』

 

 それがよく聞き知った声であったことに、ひどく後悔したのを覚えている。

 

 何故こうなったのか。何故気付いてやれなかったのか。

 歪んだ笑い声を浮かべる“弟”を見上げて、“兄”は近付いてくる死の足音を聞いていた。

 

『許さないわよ……約束したでしょう! どちらかがどちらかに殺されるまで、死なないと!』

 

 見えたのは大嫌いな奴の顔。本当は悲しくなんかない癖に、やけに悲しそうな顔でこちらを見ていた。

 自分が何を言ったのかはあまり覚えがない。きっと心残りを伝えたと思う。我ながら馬鹿なことをしたとは思ったが、それを後悔する余裕もなかった。

 

 意識が薄れる。足音は耳元で聞こえた。自分を刺した弟の背中は、ひどく虚ろに見えた。

 

 そう――神話は、これで終わったはずだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「っ、なんだ!?」

 

 突然巻き起こった暴風に、鶖飛は驚愕を露わに顔を覆った。

 竜巻である。

 外の世界ならば街一つ滅ぼすだろうという巨大な竜巻が、彼らのすぐ側で天を衝いていた。

 凄まじい風圧が全身を強烈に打ち付け、十数年間育った程度の木であれば根ごと持ち上げて吹き飛ばしてしまいそうなほどの衝撃が周囲に分け隔てなく撒き散らされている。

 

「(一体なんだこの竜巻は! それにこの風……ただの風じゃ、ない……!?)」

 

 魔力を含んだ禍風にも似るが、性質は全く違うように感ぜられた。

 鶖飛の魔力を含み、触れるものを悉く削り喰らう禍風とは違って、この風自体には触れても何も問題はない。なんならただの風と同じようなもの。

 だが、それに含まれる力に鶖飛は底知れない何かを感じた。まるで温厚で愛らしい生き物が、無骨で巨大で、なんでも切り裂く鋭利な牙を隠し持っているかのような。

 

 そう考えたその刹那、竜巻は爆散した。

 

 “壁”と形容しても何ら違和感がないほどの衝撃波が闇夜を駆け抜ける。周囲に揺蕩っていた禍風をも吹き飛ばしたそれは、鶖飛ですら踏ん張らなければ地面から離れてしまいそうになるほどのものだった。

 

 そして、次いで気が付く。

 側にいた霊夢が、いなくなっていることに。

 

「どこに……ッ!!」

 

 ――探すまでもない、とはまさにこういうことだろう。

 いなくなった霊夢を探そうと周囲に意識を向けたその瞬間、背後から放たれる圧倒的な存在感に鶖飛は咄嗟に振り向いた。

 

 

 

 そこには、白く神々しい巫女の姿があった。

 

 

 

 雲のように白い衣には金の装飾が散りばめられ、若葉色の袴には滑らかな模様が描かれている。羽の形をした髪留めは変わらず前髪を留めており、白い髪に新たに差された簪からはちりんちりんと涼やかな鈴の音が鳴っていた。首にかけられたペンダントには淡い光が灯っているようだ。

 

 次いでかしゃん、と硬質な音。それが霊夢の胸から抜かれた“鬼一”であることに、鶖飛はすぐさま気が付き目を見開く。

 

 その音を聞いてようやく我に帰った霊夢は、困惑しながら自分の胸元に触れた。しかしそこにあったはずの刺し傷は、綺麗さっぱりと消え失せていた。

 否、その傷だけではない。身体中にあった切り傷、擦り傷、打撲痕など、凡そ怪我と呼べるもの全てが痕もなく無くなっていたのだ。

 気が付けば、しゅるしゅると緩やかな風が体を包み込んでいる。どこか暖かく、心安らぐような風だった。

 

「……吹羽?」

 

 ほとんど無意識に呟くと、目の前に立つ白い巫女はゆっくりと振り返る。ちりんと鈴を鳴らし、真っ白な袖を揺らして霊夢を見たその顔は。

 

 

 

「はい、霊夢さん」

 

 

 

 誰もが見惚れるような、よく知る親友の優しい微笑みだった。

 

「待っていてください。すぐに全部、終わりますから」

 

 それだけ告げると、豪奢な巫女服を纏った吹羽は徐に手を鶖飛に向けた。

 相も変わらず小さな手。石ころ一つを持てば何もつかむことができなくなりそうな華奢で非力な手。

 しかしその手のひらに集まる力を目の当たりにして、鶖飛は初めて戦慄した。

 

「――『野分(のわき)』」

 

 “轟”、とはまごうことなき風の音。瞬時に収束した大気が吹羽の手のひらで渦を巻き、打ち出された瞬間に“飛天”をも凌駕する暴風の砲撃となる。地を抉り大気を引き裂き、凄まじい衝撃波を伴って軌道上のすべてのものを蹂躙する。

 

 それが――無数に襲いかかってきた。

 

「ッ!!」

 

 いくらなんでも無事では済まない。

 瞬時にそう判断した鶖飛は、すぐさまその場を飛び退いた。次の瞬間に砲撃が空間を食い破るがそれだけには終わらず、砲撃は弾幕掃射の如き速度で鶖飛に襲いかかった。

 風圧、衝撃波。絶え間なく地を抉り揺らす砲撃は今までには考えられないほどの破壊力だ。

 

 鶖飛は刹那の隙になんとか“刺繍(エンブリム)”で刀を引き寄せて掴み取る。そして一気に踏み込むと、最大限の力を込めて飛び出した。

 砲撃の嵐が吹き荒ぶ中、残像すら残らない速度で飛び込んだ鶖飛は、砲撃の間の糸を通すような小さな隙間に巧みに入り込む。

 そして巫女服を纏う吹羽の目の前に着地すると、

 

「『八相閃(はっそうせん)』ッ!」

「来て、“韋駄天”」

 

 同時に八つの“閃”が至近距離で放たれる。が、それを受け止めたのは吹羽の言葉通りに“韋駄天”である――ただ、それは複数本(・・・)が重なって顕現していた。

 

「ッ!?」

 

 重なった“韋駄天”は、鶖飛の禍風をも推進力に変えて完全に鶖飛の斬撃を堰き止めていた。防御を突破できない鶖飛の目の前で、吹羽は言葉と共に片手を振り下ろす。

 

「『(おろし)』」

 

 ――直感だった。両断される、という直感。

 鶖飛が咄嗟に刀を頭上で構えると、次の瞬間凄まじい圧が降ってきた。その想像以上の圧にがくりと膝を折ると、慌てて刀を滑らしてその場を離れる。

 ズドンッ、と地を揺らす轟音。視界の端に映ったその場所には、地割れを思わせる深い溝が出来ていた。

 

 乱れた体勢と視線を戻すが、既にそこに吹羽の姿はない。

 しかし、鶖飛がどこだと探すまでもなく、

 

「こっちですよ」

 

 吹羽の声は背後から聞こえてきた。

 

「っ、く――!」

「“大嵐”」

 

 振り向く間も無く、背後から振り下ろされたそれが嵐の如き突風を叩き付ける。

 先ほどの“韋駄天”と同様今までとは桁違いの威力で、そして複数本によって放たれたそれは到底防御し切れるものではなく、鶖飛は身を翻すこともできずに流星の如き速度で叩き落とされた。

 地面が爆ぜる。巻き起こった土煙は天にも登り、まさに隕石落下による煙と見間違えてしまいそうな様相を呈していた。

 

 ふわりと吹羽は霊夢の前に着地する。常軌を逸した力で鶖飛を圧倒する彼女の豹変ぶりに、霊夢は呆然とその背を見つめていた。

 

「吹羽……? なにが、起こっているの? その姿は? その、力は?」

 

 霊夢の問いかけは独り言のようで、何より己の目で見たものが信じられないというような声音をしていた。

 

 姿が一変し、よくよく感知すれば雰囲気すらも何処か凛としたように感じる。戦いぶりは壮大で、しかし服装も相まってか優雅にすら見えるのに、それがもたらす破壊はあまりにも凄まじい。

 

 何より霊夢は、吹羽が素手で風を操って見せたことに驚いていた。

 風紋を用いず、天狗の神通力や風を操る能力を持った文など及びもつかないような精密さと力強さで風を操るなど、能力なしには考えられない。

 しかし吹羽の能力とは、間違いなく“ありとあらゆるものを観測する程度の能力”である。

 ()が二つの能力を持つなんてことは――あり得ない。

 

「……思い出したんです。この瞳の本当の使い方を」

 

 霊夢の考えていることを察して、吹羽は小さく語りかけた。

 懐かしい風に巻かれ、響いてくる声に耳を傾けると、封が解かれたように古い記憶が溢れ出してきた。それはこの特別な眼の本来の使い方であり、自分の中に眠っていた強大な力の可能性だった。

 その古い古い感覚を吹羽の体は、遺伝子は、“声”をきっかけに思い出したのだ。

 

 吹羽は内側に語りかけてくる声に同じく内側で応えながら、霊夢をちらと見下ろす。

 呆然としながらもどこか心配するような瞳に、まさか霊夢にそんな目をされるとはな、なんて思ってくすりと笑う。

 

「とはいえ、霊夢さん。先に鶖飛さんをどうにかしないといけません」

「え? ぁ、ええ、そうね……」

「だから少しの間待っていてください。心配はいりませんよ。この程度じゃ……ボクは死にませんから!」

 

 そう言って前に向き直った瞬間、土煙を食い破って“禍蛇神土”が放たれた。それに吹羽が“飛天”を叩き付けると、一瞬の拮抗を見せた後にもろともを切り払って鶖飛が飛び込んできた。

 魔力を完全に解放したのか、“鬼一”の刀身には形容し難い色の風が纏わり付いている。触れた木の葉は一瞬で灰のようになって消えるのが見えた。

 

「吹羽ッ!」

「鶖飛さん!」

 

 大気の爆ぜる音と共に、“太刀風”と“鬼一”が激しく衝突した。

 ぎりぎりと鍔迫り合う二人の周囲では、濃度の増した禍風と僅かに輝くような風がぶつかり合い、喰らい合い、竜巻のような局所的豪風を巻き起こしていた。

 

 しかし拮抗したのも僅かな間。

 周囲に渦巻く禍風を吹羽の風が呑み込み、強烈な圧となって鶖飛の体を打ち据えた。

 弾丸のように吹き飛ぶ鶖飛に、吹羽は次々と追撃を放つ。吹羽にとって使い慣れた風紋武器たちがその威力を更に増し、容赦なく鶖飛の体を斬り、穿ち、叩き、吹き飛ばした。

 並みの妖怪ではとっくに塵と化しているであろう凄まじい攻撃を受けて、しかしそれでも鶖飛は動く。

 

 意地ゆえか、執念ゆえか。恐らくは魔法による治療を行なっているのだろうが、どちらにしても末恐ろしいほどの強靭さで吹羽の圧倒的な攻撃を耐え凌ぎ、鶖飛は時折斬撃を仕掛けてきた。

 が、そのどれもが今の吹羽には届かない。

 吹羽の周囲に渦巻く風はあらゆる害意を弾き、散らし、主人たる吹羽を一部の隙間もなく守護しているのだ。

 そう、まるで――付き従っているかのように。

 

「縫い止めろ、『刺繍(エンブリム)』ッ!」

「乗せて、『時津風(ときつかぜ)』」

 

 言霊が成した暴風は、吹羽の体をも巻き込んだ。そうして風速となった吹羽に幾本もの糸が襲いかかるが、前のようには捕まらない。

 当然だ。どれだけの糸を束ね張り巡らせたところで、風の流れを止めることはできないのだから。

 

 鶖飛は地を蹴った。そして空中に巡らせた糸を足場にした立体機動で風となった吹羽を追いかける。絶え間なく降り注ぐ釘や手裏剣、果ては針のように小さな刃を必死に、しかし正確に弾きながら、鶖飛は空中で凄まじい機動を繰り返した。吹羽を捉えようと繰り出す剣閃は禍風を纏い、軌道上の空間そのものを僅かに揺らがせている。

 

 しかしその速度の差は歴然であった。

 時折刀で打ち合うものの、魔人となっても“膂力”の概念から抜け出せない鶖飛と、風そのものとなって宙を駆ける吹羽とでは比べるまでもない。

 人より風が速いのは当然のことだ。

 

 そして風とは、時に人に対して牙を剥くものである。

 

「『下降気流(ダウンバースト)』」

 

 神速の攻防を繰り返す中、吹羽は実にあっさりと鶖飛の背後を取ると、宣言と共に手を振り下ろした。

 それから成されるのは、“災害”と呼び恐れられるほどに強烈な下降気流――それが吹羽の力で更に強化されたもの。

 落雷と聞き違えるような轟音を鳴らして天から落ちた風の鉄槌は、巻き込んだ鶖飛の姿を搔き消して地に落ち、爆散した。巻き起こるはずの土煙さえも吹き飛ばし、ビル群でもあればなぎ倒しているであろう強烈な爆風が四方に撒き散らされる。

 それはまさに、外界において災害と呼ばれるそれを大きく凌駕する破壊力であった。

 

 吹羽はふわりと地面に着地すると、“下降気流(ダウンバースト)”によって抉れた地面の中心を見つめた。

 そしてそこで刀を杖に立ち上がろうとする鶖飛の姿を認めて、軽く息を吐く。

 

「……まだ、続けるつもりなんですね」

「はッ……はッ……っ、愚問、だろう……それは……!」

「そう……でしたね」

 

 声音に少しの悲愴を含めて、吹羽は静かに瞑目した。

 今更鶖飛が降参などする訳がない。そんなことは誰より知っているはずなのに、不意に言葉が出てしまったのは未だに心の何処かで諦めがついていないからなのか。

 

 緩くかぶりを振って、吹羽はゆっくりと片手を持ち上げた。

 諦めがどうとかは自分の問題だ。全てが終わった後に振り切るべきことである。

 鶖飛の言動を許容すれば、殺されるのは自分の大切な人たち。それだけは許せないと心に決めたのだから、今はそのために力を振り絞るだけだ。

 

 吹羽の周囲に風が渦巻く。それは彼女を優しく包み込むような緩い風ではあったが、そこに含まれる力の密度は今までの比ではなかった。

 例えるならば、そう――人が大空を仰いだ際に感じる偉大さや、広大さや、劣等感にもなりはしない惨めさ。ちっぽけさ。

 そういった見る者すべてに“敵わない”と思わせる偉大で壮大な圧倒的、力。

 

「“嗚呼、我が溢るる(じゃう)の御し難き様よ。最早溜むことをさえ奇しく思ひなれば――”」

 

 星月の浮かぶ夜に黒雲が立ち込める。月光は差さなくなり、ちらちらと隙間に覗くのは雷の光。ぽつぽつと降り始める雨は氷の如き冷たさで、しゅるりと柔く巻いたつむじ風がそれら氷雨を攫っていく。

 

「“唄えや、踊れや、意のままに。我が(うら)(だれ)(たれ)もやむに能わず”」

 

 人を超えた鶖飛にすら否応無しにそう思い抱かせるその力を以って、吹羽はその権能(・・)を言霊に乗せた。

 

 

 

「――……『(そら)宴霆(えんてい)』」

 

 

 

 現れたのは、まさしく天変地異。

 触れるもの全てを焼き焦がす雷鳴が絶えず地に落ち、鉄砲水を嘲笑うような速度で大粒の雨が降り頻る。そこに混じる雹は砲弾の如き威力を併せ持ち、それらを包み込むように激しい乱気流が入り乱れた。

 

 空に表情があるのなら、それを好き勝手に撒き散らすこの天変地異はまさに“空の宴”と言えよう。

 雷の如く怒り、雨の如く悲しみ、雹の如く冷静で、そして風の如く痛快に。溢れ出ずる感情をそのままに、唄い踊るようにして留めもしない。それはちっぽけな人間の常識からすれば全く埒外の、この世の終わりを思わせる天変地異以外の何者でもなかった。

 

 この瞬間、鶖飛は遂に悟った。

 

「そうか……それが――」

 

 天狗など及びもつかない精度で風を操り、風そのものとなって空を駆け、果てには空の全てを支配し天変地異すら起こして見せた吹羽。

 その突然の変貌と、人を大きく超えたこの力の正体とは。

 

「神降ろし……それが“終階”か……ッ!」

 

 風成家の歴史上、当主たちによって様々な“終階”が見出されてきたが、吹羽の力を目の当たりにした鶖飛には確信ができた。

 “風を従える”とは、きっとこういうこと。風とはそれそのものではなく、この大空全てを指した言葉だったのだ。そしてそれができる今の吹羽の力以上に相応しく強大な“終階”は存在しないだろう。

 

 人を超えたこの力は、吹羽がその身に降ろした風神の神力――信者の願いを叶える力(・・・・)

 風が操れるのは、吹羽がそう願ったから。

 傷が治ったのは、吹羽がそう願ったから。

 天変地異が起きたのは――吹羽が、そう願ったからなのだ。

 

「そうです、これは神降ろし。風神様の御力が、ボクの眼を通して(・・・・・)宿っています」

 

 風成家の信仰する氏神は、風と盲目の神。

 なぜ盲目なのか――それは、今はかの神の手に無いから。依り代と成り得る人間に、かつて渡してしまったから。

 

 風神から授かった瞳に淡い光を灯し、吹羽は別人のような神々しい空気を纏って鶖飛を見下ろす。

 その矮小な身に神を宿し、強大極まるその力を行使することを許された者。それは最早、ある種の――“超越者”と言うべきものだった。

 

真の終階(風神降ろし)。これが……原点にして頂点ですッ!」

 

 雷鳴、豪雨、嵐に降雹。

 吹羽の願いを聞き入れた大空そのものが、たった一人の鶖飛(ヒト)に牙を剥いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ぱちぱちと頰に当たる雨粒によって、萃香の意識はゆっくりと覚醒した。

 酩酊したような意識のまま緩慢に瞼を開くと、見えたのは降り頻る雨と大粒の雹。当たれば相当痛いだろうが、不思議と萃香の体に直接当たるようなことはないようだった。

 ゆっくりと体を起こすと激痛に思わず顔が歪み、そして思い出す。

 そうだ――鶖飛の一撃に、あろうことか気を失っていた。

 

「く、そ……わたしとしたことが……! けど、この嵐は一体……!?」

 

 目の前に広がっていた光景に、萃香が絶句したのは言わずもがなだろう。

 この世の終わりを思わせる天変地異――“天ノ宴霆”。それは天候を統べる風神の力を最大限に生かした天災そのものだ。その中に悠然と佇む白い巫女が吹羽であることに、萃香は驚愕を隠し切れなかった。

 

 それに、この場所に満ちているのは濃密な神力。萃香にも神力を感じた経験はあるが、ここまで強大なものは初めてだった。

 相当に高位の神。その力が吹羽一人に宿り、行使されている。それがいわゆる“神降ろし”と呼ばれる術であることを、萃香は当然知っていた。

 

「(神降ろし……本来は長く神事に通じた神主や巫女がやるもんだが……吹羽はただの鍛冶屋の娘。そんなのに神が宿るってこたぁ……)」

 

 神とは万物に宿る人の願いや希望が意思を持ったものである。この世のあらゆるものには望まれる機能や役割があり、それはまさしく人の期待――願いや希望である。故に八百万の神が存在するのだ。ただしそれらは、強い力を持たない故に顕在化はできない。

 

 そしてこの世の理を司る神というのは、強大ゆえに明確な意思を持つ。

 太陽の神、月の神、海の神、山の神、国の神、そして風の神。神主や巫女が修行の果てに会得する“神降ろし”は、そうした偉大な神を宿す術だ。

 それは逆に言えば、修行もしない人間が神を降ろすことなどあり得ないということ。

 

 であれば、ただの人間にして神を降ろした――否、神が降りた(・・・・・)吹羽は、きっと。

 

「神に護られている、ってか……?」

「その通りよ、萃香」

「!」

 

 思わず漏れた萃香の言葉に、答えたのは聞き慣れた声だった。

 声の方向を見遣れば、いつの間にか紫が佇んで嵐を一心に見つめていた。その目は何処か憎々しげでもあり、懐かしげでもあるように見える。

 

 なぜここに、と問いかけて、萃香は問うまでもないことだと口を噤んだ。

 萃香たちにはほとんど風雨は襲ってこないが、この嵐は文明一つがが容易に滅ぶと思えるほどの破壊力だ。それに神力が篭っているのだから、鶖飛の魔力などとうに消し飛んでいるだろう。

 紫がここへ来たのは、単純な話。邪魔な魔力が無くなったからだ。

 

「言ったでしょう。風成 吹羽は“小さな神話を紡ぐ者”だと。あの子は決してただの人間などではないのよ」

「神話……風成家の、氏神か」

 

 紫は瞑目し、僅かに頷いた。

 

「あの子は……あの一族は、風神に愛されている。確固たる信心を持って願いさえすれば立ち所に叶うほどにね」

「……それだけじゃあ、これは片付かないだろ。“神降ろし”には素質が要る。それくらい知ってるだろ」

「ええ。だから、彼女ら風成一族には素質がある。――起こり(・・・)が、特別だもの」

 

 わざわざ遠回りな言い方をするのは、きっとそのことを萃香に明かす理由がないからだろう。

 一族の起こりなど当人が知っていればいいことだ。それを外側から聞き出すことは無粋に他ならないし、萃香はその辺りを大切にする性格である。

 

 相変わらず面倒くさい友人の思惑をなんとなく察した萃香は、何も追求せず目の前の天変地異に視線を戻した。

 相変わらず落雷はあり得ない速度で地面を爆散させ、雨粒はまるで弾丸のよう。あの巨大な雹に万一でも当たれば、最悪五体満足ではいられないかもしれない。荒れ狂う大空そのものを敵に回した鶖飛は、もはや見る影もないほどに死に体だった。

 

 そんな天変地異の中に、豪奢な巫女服を纏う吹羽は優雅に佇んでいる。白い髪は暴風に靡き、袖はばたばたと揺れていた。しかしそれがこの世のものとは思えないほど美しく見えるのは、その身に宿した神格の神々しさ故なのか。

 

 いつか、紫の言っていた言葉を思い出す。その時は“何を言ってるんだか”と呆れや哀れみを覚えたものだったが――。

 

『期待しておくといいわよ、萃香。あなたはきっと見るでしょう。脆弱な人間の――理解不能(あり得ない)を』

 

 何の修行もなしに高位神をその身に宿し、ただの人の身で大空を支配する。それがどれだけ異常なことなのか、吹羽はきっと気が付いていない。きっと“自分は風が好きなだけだ”とか、的外れなことを言うのだろう。彼女はどこまで行ってもただの少女で、どうしようもなく人間なのだ。

 

 だが、嗚呼、だからこそ。

 

「はは……ほんっと……あり得ねぇ(・・・・・)

 

 乾いた笑いと言葉の先で、一際強い雷鳴が鳴り響いた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 ちなみに級長戸辺命は、実際には盲目の神なんかではありません。ある種、吹羽の鈴結眼が風神の眼そのものであることの伏線でもありました。
 級長戸辺命のことを知っている人からすれば“は?”と思うところだったかも知れませんが、まぁそういうことだったということで。


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第五十二話 兄妹

遅くなりました……いや、色々用事があったんです。サボってたわけじゃないんですっ。

9/4 最後の部分を少しだけ修正しました。


 

 

 

 強烈な破壊をもたらす大災害は、神敵と定められた鶖飛に容赦なく降りかかっていた。

 絶え間なく降り注ぐ落雷は槍の如く、雨や雹はあらゆるものを穿つ銃器のよう。風はどんな業物をも凌ぐ至高の刃となって、主たる吹羽に付き従う。その圧倒的な力は確実に鶖飛を追い詰めている。

 

 ――決着がもう間近であることは、誰の目にも明らかだった。

 

「〜〜ッ、吹羽ッ!!」

 

 雷の槍が無数に鶖飛へと降りかかる。雷速に対応できない彼はその身に穴を開けながらも飛び込み、吹羽へと鋭い剣戟を放つ。

 が、吹羽は事も無げに受け止め、次いで“太刀風”で薙ぎ払った。風が成したその刃には雨が混じり、雷が宿っていた。

 

「俺はッ、諦めねぇぞ!」

 

 雨の弾丸と雹の砲弾が鶖飛の身を打ち据えた。当然、目に捉えられないほどの速度で天から無数に降ってくるそれらは、避ける事さえ至難の極みである。

 苦悶の声と血反吐を吐く音が嵐に混じって聞こえてくると、吹羽の胸の中になにかじくじくとしたものが広がっていく気がした。

 

 どんな物をも切り裂く風の刃が風雨に混じって群を成し、鶖飛の五体を切り刻んでいく。腕、足、時には首。しかし鶖飛はその都度“再縫合(リスーチェ)”を発動し、まるで糸で縫い合わせるように即座に再生して、激しい血飛沫のみが嵐の中に舞っていた。

 想像を絶する苦痛であろうに決して諦めないその姿は、そういう性分だと知っていても、僅かな苛つきが心に積もっていく。

 もうやめて欲しい――そう思った。

 

「どれだけ傷付いても……どれだけ死んでもッ! 俺は俺たちを(・・・・)、救ってみせるッ!」

「〜〜ッ、うるさいですッ!」

 

 その怒号を表したように一際巨大な雷鳴が轟いた。空間を白く染め上げながら、閃光は瞬時に鶖飛の頭上に降りかかり、轟音と共に地面を爆散させた。

 だが、そこには刀を大上段に構えた鶖飛の姿が変わらずあった。全身血塗れではあるものの、その五体は巨大な落雷を受けてなお未だに繋がっている。そして掲げた刀には――神力の雷がバチバチと弾けていた。

 

「『返縛刺縫(へんばくしほう)』――“雷切”ぃッ!!」

「宴だよっ、“天狗風”ッ!!」

 

 “刺繍(エンブリム)”によって縛られ、鶖飛の刃となった落雷による巨大な斬撃。幾本も展開され、舞うように旋回して膨大な風を溜め込んだ“天狗風”の群れ。

 二つは二人のちょうど間で衝突し、瞬時に相殺して爆風を巻き起こした。辺りには電気の混じった風雨が吹き荒れ、吹羽の肌をもぴりぴりと刺激する。

 吹羽はその爆風にも負けず、雹と雨を引き連れて鶖飛に肉薄した。

 

「救ってもらわなくて結構ですっ! ボクはみんながいてくれれば、それで幸せなんですッ!」

「運命に縛られて! 掌の上で弄ばれて――っ!」

 

 銃撃の如き雹雨を叩き付けながら、吹羽は諸手で斬りかかった。風雨と雷を宿した“太刀風”の刃は容易に大地を引き裂き、瞬く間に鶖飛を防戦一方へと追い詰める。

 だがそんな怒涛の攻防の中、風雨による傷を顧みない鶖飛の一太刀が遂に吹羽の刀を受け止めた。

 刀の接触だけで衝撃が迸る。がちがちと火花を散らす両刀を挟んで、二人は互いに睨み合う。

 

「それで幸せな訳がない……! 自由であることがっ、唯一の……俺たちの幸せだ!」

「もう……もうそれはっ、聞き飽きました!!」

 

 空を覆う黒雲の至る所が光ったと思うと、その刹那無数の落雷が全方位から鶖飛に降りかかった。

 傍目には空間が白く染まった程度にしか見えないだろうそれは、一瞬で鶖飛の体一つに重ねられ、形容しがたい爆音を奏でた。

 

 しかし吹羽は見逃さない。吹き飛んだ鶖飛はそれでも刀を手放さず、高速で吹羽の周囲を旋回していた。

 吹羽は手を大きく掲げ、権能を行使する。天空から次々と鶖飛を狙って『下降気流(ダウンバースト)』が飛来し、空間を引き裂く轟音を響かせた。

 それは彼女の怒りを表すような、極めて荒々しい権能だった。

 

「自由がなんだとか、運命がどうだとか! 勝手な尺度でボクを測らないでくださいッ!」

 

 吹羽の願いに導かれ、雨粒を乗せた暴風が駆け抜けた。鶖飛はそれに禍風で抵抗する。

 互いの風はうねり合い、絡まるようにして喰らい合う。

 

 ――結局のところ、鶖飛の何が気に食わないのかというとそういうところ(・・・・・・・)だった。

 自分は吹羽のことを最もよく理解している。だから必要なことも不必要なことも、何が幸せで何が不幸せかも、全てわかるのだと本気で思っているのだ。

 

 なにが自由だ。なにが運命だ。何事かに縛られるのは吹羽も嫌だと思えるし共感できるが、そんな彼女を縛ろうとしているのはむしろ鶖飛ではないか。

 鶖飛の掲げる幸せという“縄”。それは必ずしも吹羽の幸せには成り得ないし、それこそ霊夢が語った“押し付け”でしかない。

 

 鶖飛の決めた勝手な物差し――否、他人が勝手に定めたありとあらゆる物差し。吹羽にとってそれらは、自らの想いの程度を勝手に定めて価値を貶める、嫌悪するべきものなのだ。

 

 ――……そうだ。思えば昔から、鶖飛はこういう人だった。

 

「だいたい、鶖飛さんはいつもそうです! 厳しくするのがボクのためだって、稽古なのにろくな一本も取らせてくれないっ! 実践が全てじゃないって分からないんですかっ!」

「っ!? それはっ、加減したってためにならないだろうが! お前がいうのはただの馴れ合い――」

「ボクは! そんなものやるくらいなら約束稽古の方が良かったですッ!」

 

 何でもかんでも自分の中で完結させる。なまじなんでもできてしまうからって、鶖飛は自分の中で出した答えを無意識に“全て正しい”と思っているのだ。

 考えを改める時なんて、対立した相手が泣くなどして弱った時ばかり。優しく、そして自己中心的な鶖飛は、そこまでされないと“答え”を変えない。

 

「いつだったか、粒餡のたい焼きを頼んだのに全部こし餡で買ってきたこともありましたね! あの時は本気でぷっつんしそうになったんですよ!?」

「粒餡を食べたらっ、豆が歯にくっついたままになるかもしれないんだぞ! 可愛いお前にそんな恥をかかせるわけには――」

「余計なお世話です! 粒餡を頼んだんだから粒餡を買ってきてくれれば良かったんですよッ!」

 

 優しいのは分かっている。優秀なのは百も承知。吹羽に対してはきっと、周りが引くくらいに優しいのだろう。

 だがそれで変に気を回して周りを困惑させたことは何度もあった。直近では文を相手に刀を抜こうとして咄嗟の吹羽に止められている。

 あの時、阿求や吹羽がどれだけ慌てたのかを彼はきっと理解していない。吹羽が泣いていたからその元を断とうとした、なんて平気な顔で言うに決まっているのだ。

 

「お父さんと喧嘩した時もそうですッ! 心配になって、泣いてるんじゃないかと思って、必死に追いかけたのにっ! なんですか“気にしなくていい”って! 馬鹿にしてるんですかッ!?」

「なっ、そんなわけ――」

「馬鹿にしてるでしょう! 心配したボクの気持ちを……その程度(・・・・)だって、切り捨てたんでしょうッ!!」

「っ!」

 

 何でもかんでも背負いこんで、人の気持ちも知らないで。

 だいたい、そうやって自分で解決しようとするからこうなったんじゃないのか。一人で抱え込んだからこうなったんじゃないのか。

 霊夢もそうだが、どうして天才という人種はなんでも一人でやろうとするのか。それに振り回されるこっちの身にもなって欲しい。

 

 本当に仕方がなくて、どうしようもなくて、自分勝手で――優し過ぎる。

 

「稽古のこともっ、たい焼きのこともっ、他にもいっぱいありますけどっ!」

「っ、」

 

 雹雨を耐えきった鶖飛が、鋭い刺突と共に竜巻のような禍風を撃ち出した。地を抉って迫る巨大なそれに対し、吹羽は周囲に無数の“疾風”を顕現させる。

 神の雷を宿し、爆音と共に撃ち出されると、それは光条の嵐と呼ぶべき様相で容易に禍風を食い破り、次々に鶖飛へ殺到した。

 

「鶖飛さんは無理をしすぎなんです! 一人でやらなくていいことを一人で抱え込んで、勝手に決めて、行動してッ、もっと周りを見てくださいよッ! ボクたちはそんなにっ……そんなに頼りないですかっ!?」

 

 相談するということを鶖飛が知っていたら、もっと違う結末になったかもしれない。何を抱えているのか打ち明けてくれれば、二人で考えることができた。こうやって対立して、争うこともなかったのだ。

 

 吹羽はぱちんと両手を胸元で合わせた。その瞬間凄まじいつむじ風が吹羽の体を包み込み、鈴結眼が爛々とした光を宿した。

 風神の瞳が光り輝く。これは権能を行使する予兆に他ならない。

 周囲に放たれていた神力は風に導かれて渦を巻き、熱を感じるほどの密度で手のひらに収束していく。

 

 吹羽は輝く瞳で真っ直ぐに鶖飛を見つめた。

 

「みんなは絶対に殺させません。もう罪を犯さないように……ボクが鶖飛さんを止めてみせます。それがボク()にできる、唯一のお役目ですッ!!」

 

 収束した神力を引き延ばすように勢いよく両手を開くと、暴風と共に眩い光が炸裂する。それは徐々に細く薄くなり、僅かに反り返って形を成した。

 

 握り、引き抜く。

 神力の光という名の鞘を払って現れたのは――鍔も柄すら存在しない、奇妙で小さな脇差。

 

「神器『鈴支御剣(すずつかのみつるぎ)』……!」

 

 しかし、そこに秘められた神力は今までの比ではなかった。

 吹羽の支配する風に含まれる神力が単なる水溜りだと思えるほどに、その脇差には湖の如き膨大な神力が込められているのだ。

 もしも“天ノ宴霆”が広範囲に撒き散らされる天災でなく、本当の意味でただ一個人に向けられる圧倒的“攻める力”だったなら、きっとこんな形をしているのだろう。故に守るための鍔は無く、握りやすくするための柄すら無い。刀身が長い必要は無く、納めるための鞘もいらない。

 刃と茎のみの、小さく、しかし途方もなく強大な天変地異。

 

 顕現したそれは――まさしく神器と呼ぶに相応しかった。

 

「……そうか」

 

 ヒトに向けるにはあまりにも強大過ぎるそれを前に、しかし鶖飛は呟くようにそう零した。

 そこにはやはり諦観はなく、どころかありとあらゆる感情が廃されたような無機質な声音だった。

 そうしてゆっくりと刀を持ち変え――己の心臓めがけて突き刺す。

 

「!」

「ごぶ……っ、そこまで拒むなら……俺も、腹を括ろう……『我縛刺縫(がばくしほう)』!」

 

 鶖飛の血に塗れた“鬼一”は、引き抜かれた瞬間凄まじい爆風を巻き上げた。鶖飛の身体から溢れ出した魔力が、濃密な神力が満ち満ちる中でなおそれを押しのけて渦を巻く。その色は赤黒くも紫紺にも見える極めて形容し難い色。あらゆる光を飲み込んでしまいそうな底なしの闇色だった。

 

 鈴結眼を完全に開放している吹羽には見えていた。

 鶖飛の内に押し止められていた禍々しい魔力が、心臓を穿って開放したことで吹き荒れているのだ。

 傷はみるみる内に細い糸に縫いとめられて塞がっていく。また同時に、それらはしゅるりと体外にまで吹き出して魔力を巻き取り、縛り、徐々に収束して刀に納めていく。

 

「禍天『鬼一法眼(きいちほうげん)』――!」

 

 空恐ろしいほどの魔力濃度だった。鶖飛の内に留まっていた全魔力が成したそれは、最早“妖刀”と言って差支えがない。

 触れてしまえば最後、刻まれ削られ消し飛ばされる、禍風と風紋の力が完全に合わさった究極の形。風神の濃密な神力をすら押しのけられるそれは、単純に密度という面ではまさに吹羽の神器に対抗する最後の手段と言えた。

 

「いくぞ、吹羽」

「はい……鶖飛さん!」

 

 同時に地を踏み砕き、風を切った一瞬後には互いの刀は衝突していた。

 相容れない魔力と神力。火花こそ散らさないものの、強大な二つの力が喰らい合い周囲に強烈な衝撃を齎す。それが刹那の内に数合交わされれば、もはや災害となんら変わりはなかった。

 

 しかし二人は手を、剣を止めない。止めれば負けるのは、己の想いに他ならなかったから。

 どれだけ傷付いてでも貫き通したい想いが二人にはある。それを全力でぶつけ合っているのだ、周りを気にしている余裕などある訳がなく、互いの視界には互いの剣しか映っていなかった。

 

 氷に雷、雨に風。天候を支配する刀である“鈴支御剣”と、禍風と風紋の力で触れたものを瞬時に斬り裂き消し飛ばす“鬼一法眼”。

 二つがぶつかり合う様子は、まるで語り継がれる神話大戦のよう。或いは、悪逆非道の限りを尽くした大妖怪と、それを退治せんとする神の遣いか。

 見る者すべての全く埒外を行く強大な力のぶつかり合いは果たして――長くは、続かなかった。

 

「――ッ、」

 

 風の剣閃が迸り、軌道上の気温が急激に下降することで起こった超々局所的な“氷河期”が抉った地面を瞬時に凍らせる。次いで雷霆が四散するも、鶖飛は魔力の暴風で以って薙ぎ払い、上空から巨大な禍風を打ち下ろす。吹羽はそれを、旋風と無数の雹を含んだ刺突で迎えた。

 

 風に巻かれた雹は禍風を突き破って鶖飛を撃ち抜く。しかし彼はそれを物ともせずに兜割りを放った。吹羽は目を見開いたが、すぐさま身を翻して避けると、“鈴支御剣”を腰に引き、極限の神力を込めた。

 対する鶖飛も、“鬼一法眼”に最後の魔力を宿らせて地に引きずる。

 

 最後の一合。最後の一撃。二人は息を合わせるでもなくそれを悟って、己の想いを瞳に乗せて、視線を交わす。

 そして、

 

「「ぁぁあああアアアアッ!!」」

 

 ――空間が、弾け飛んだ。

 あまねく空と大地を塗り潰す閃光と生物の耳には聞き取れないほどの音の大爆裂。それらを伴った凄絶な衝撃波が闇夜を駆け抜けると、それは空間を含めたあらゆるものが弾け飛んでしまったかのようだった。

 

 巻き上がるはずの土煙も、空に立ち込めていた黒雲も吹き飛ばし、耳の痛くなるほどの静寂の中――

 

 

 

「っ、……ごぶ……やっぱ……勝てない、か」

 

 

 

 水音混じりの呟きは、鶖飛のものだった。

 

「さすが……自慢の、妹だ……」

「っ、……」

 

 鶖飛は、刀を突き刺したままの吹羽に崩れ落ちるようにもたれかかった。既に体に力は篭っておらず、文字通りすべての魔力を使い果たしたようだった。

 当然だ。全魔力を込めた一撃を他ならぬ吹羽が吹き飛ばしたのだから。風神の強力な神力を極限まで込めた一撃は“鬼一法眼”のみならず、突き刺した鶖飛の体に残っていた僅かな魔力すらも消し飛ばしていた。最早傷を縫う力も、腕を持ち上げる力すら残ってはいないだろう。

 

 不意に、ぬるりと熱い感覚が手に伝わってくる。

 そして、かしゃんと硬質な音が聞こえた。

 

「こっ、これで……終わり、です……鶖飛さん……っ」

「ああ……終わりだ。やっと……終わった」

 

 先ほどよりも明らかにか細い声。手に伝わる熱い感覚も手伝って、それは鶖飛の命が残り僅かであることを示していた。

 じわり、と心の何処かに真っ黒な染みが浮かび上がる。

 間違ってない。間違ってない。これでみんなが死なずに済むんだから――そうして気が付けば吹羽は、心の中でひたすらに弁明(・・)を繰り返していた。

 

「なぁ、吹羽……俺たちは結局……こうして殺し合(・・・)う運命だった(・・・・・・)んだってさ」

「………………」

 

 そんな言葉と共に、柔らかく頭を撫でる感触が降ってくる。

 知っている感触だった。吹羽がもっともっと小さい頃、何度もしてもらったスキンシップ。最も好きな触れ合いの一つ。

 鶖飛は絶え絶えの呼吸を繰り返しながら、その心内を吐露した。

 

「俺は……そんな運命なんか、受け入れたくなくて……吹羽と、静かに暮らしたくて……その為だけに、すべて捨てた、のに……」

 

 ――結局こうして、殺し合うことになってしまった。

 きっと凄まじい諦観を含んでいたであろうその言葉は、鶖飛の口から吐き出されることはなく。

 代わりにか細い溜め息が吹羽の耳を掠めた。遣る瀬無さや、嘲笑などを孕んだ空っぽな音だった。

 

「(だめ……だめ……悲しんじゃ、だめ……っ)」

 

 下瞼が熱くなるのを、吹羽は目をきゅっと閉じて堪えた。

 この人は自分の大切な人達を殺そうとした敵。何も間違っていない。これで霊夢も、阿求も、椛も、みんな助かるのだから。

 ――そうして言い訳をしてみても、感情が抑えきれない。あろうことか、敵を(・・)斬ったことに対して悲しみや後悔が浮かんでくるのだ。

 それが心にぽたりと落ちて、どんどん瞼が熱くなる。

 

 吹羽はそれを必死で抑え込む。そんな感情を抱くことは、助けてくれた霊夢や椛達に対してあまりにも失礼だと思ったのだ。

 だが、しかし、だけれども……。

 

「どんな理由でもっ、鶖飛さんのしたことは……間違ってます……っ!」

「は……そうかもな。お前を、こんなに泣かせてるんじゃ……正しいはず、ないよな……」

「っ、泣いてなんか、ないです! 悲しんでなんか……さびしく、なんかぁ……!」

「はは、強がるなよ……相変わらずだな……」

 

 鶖飛は、軽く笑ってみせた。

 

「俺が、こんなに寂しいのに……お前が寂しくないわけ……ないのにな……」

 

 その言葉を聞いて、吹羽は堪らず唇を噛み締めた。歯が食い込み血が滲むのも構わず、こみ上げる感情を押し殺すようにきつく噛み締める。

 だって、許せなかった。

 負けたくせに、鶖飛は未だに考えが変わっていない。これだけ叩いてもその性根が曲がっているのだ。

 わかった気で決めつけて、吹羽の心を見透かして、そして――それが間違いなく正しい事実がなによりも憎たらしく、許せなかった。

 

「うるさいです……うるさいですっ。勝手にっ、決めないでください……っ!」

 

 血を吐き出すような、震えた声音。

 

「なんでいつもそうなんですか……分かってるじゃないですか……! こんなことしてボクが喜ばないことも、こうなったら寂しいってこともぉ……!」

「………………」

「ばか、ばかっ、ばかです、鶖飛さんはばかですっ! なんで言ってくれないんですか……! 一人で考えなくても、ボクに言ってくれれば……それで良かったじゃないですか……! 殺し合う必要なんて、なかったじゃないですかぁ……!」

 

 一言。たった一言で良かった。

 悩んでいると、困っていると言ってくれれば吹羽はどれだけだって助けになろうとしたし、一緒に考えただろう。

 殺し合う運命とやらを知っていたなら、ただ吹羽と約束すれば良かった。いつまでも仲良く家族でいよう、と小指を交わせば良かっただけなのだ。

 それが分からなかった鶖飛は、きっと馬鹿だ。寺子屋の子供にも劣る、どうしようもない馬鹿なのだ。

 

 鶖飛の服をぎゅっと掴みながら、吹羽はぺたりと座り込んだ。

 立っていることすらままならないほどに、その感情の波濤は凄まじかった。

 

「“馬鹿と天才は紙一重”って諺が、ありますっ! 鶖飛さんはばかです! ばかですよぉ……っ!」

「ああ……馬鹿だな。だけどな、吹羽。これだけは……覚えておいてほしい」

 

 こふ、と一つ血の塊を吐き出す。掠れたその声は、しかし語りかけることに躊躇いがなかった。

 正真正銘最後の力を振り絞って、鶖飛は己が最も守りたかった者へと言葉を紡ぐ。

 

 

 

「愛しているよ、吹羽。俺は……お兄ちゃんは、いつまでだってお前を想っているからな……」

 

 

 

 “別れの言葉”。

 それを最後に鶖飛の心臓の鼓動は動きを弱め――やがて、止まった。

 

 耳に突き刺さるような静寂の中で、吹羽は冷たくなっていく鶖飛の肩口に顔を埋めた。

 もはや嗚咽を止めるものは何もなくなっていた。呼吸をすることにも喉が支え、胸のうちから溢れ出る感情が涙となってこぼれ落ちていく。

 

「…………っ、ずるい、ですよ……そんなの……!」

 

 顕現していた“鈴支御剣”が光の粒となって消滅する。

 

「散々……散々好き勝手、して……勝手なことばっかり、言って……それで、そんなことを遺すなんて……ずるいですよぉ……!」

 

 それではまるで、今までの全てが吹羽のためだった、と言わんばかりじゃないか。

 絞り出すようなその言葉は、巨大な悔しさと悲しみが滲んでいた。

 

 いや、きっとまさにそうだったのだろう。今まで彼がその口で力強く語ってきた全ては、気狂いゆえの戯言でもなんでもなくただただ真実――鶖飛が兄として吹羽のことを想っていたがゆえの言葉だったのだ。

 

 今際の際に残したその言葉は、きっと彼の嘘偽りのない正真正銘の本心。最後の言葉がそれでは、頭が拒否しても心が揺らいでしまう。

 鶖飛を斬ってでも止めると覚悟を決めた心。間違ったことなどしていないと自らを説き伏せる心が、ひび割れてしまう気がしたのだ。

 

「ボク、だって……一人は寂しいよぉ……お兄ちゃぁん……っ!」

 

 この世界の敵だ。友人たちに非道を働いた下手人だ。親の仇だ――紛れもなく鶖飛は悪人である。

 だがそれでも血の繋がりは決して切れないし、彼と過ごした幸せな記憶は色褪せこそすれ思い出として残っている。全てを思い出した今では、ふと目を瞑れば走馬灯のように瞼の裏に映るのだ。

 

 紛れもない、実の兄。風成 鶖飛との思い出。

 こうして冷たくなってしまった鶖飛の体を抱くと、否が応でも思い知ってしまう。

 

 どんな理由があったとしても……自分は、愛する実の兄を、この手で殺したのだ。

 

 

 

「あら。鶖飛クン、死んじゃったのぉ?」

 

 

 

 唐突に降ってきた無邪気な声に、吹羽は咄嗟に頭をあげた。

 

「随分幸せそうな顔で死んでるわね。死に際くらい悔しそうな顔が見たかったんだけどなぁ、私」

 

 不謹慎なその言葉に、しかし吹羽は反応を返すことができなかった。

 あまりにも唐突過ぎて言葉が見つからなかったというのも一つ。場に不釣り合いすぎて状況が呑み込めなかったのも一つ。しかし最も大きなその要因とは――その声に、聞き覚えがあったこと(・・・・・・・・・・)

 

「あら、すごい顔してるわよ? せっかく可愛いのに勿体無い」

「な、なんで……なんであなたがここに……いるんですか……?」

 

 震えた吹羽の声音に、少女は貼り付けた笑みを深くする。

 可憐に、艶やかに。そして何より、酷薄に。

 

 

 

「夢架、さん……」

 

 

 

 薄く金色がかったふわふわの茶髪、服の上からでもよくわかる大きな胸、淡い色の清楚な着物。しかし、その表情にはいつもの鉄面皮など影も見えなかった。

 全く別人のようなその雰囲気に、吹羽は背筋が凍るような感覚に陥った。

 

「あはっ♪ こんばんは、吹羽ちゃん。とっても気持ちいい夜ね?」

 

 そう言って、月を背にして吹羽を見下ろす夢架――否、夢架と名乗る何者かは、まるで小悪魔のような笑みを浮かべた。

 

 

 




 今話のことわざ
馬鹿(ばか)天才(てんさい)紙一重(かみひとえ)
 常識に囚われず常人には理解できないことをするという点で、ある意味馬鹿も天才も同じようなものということ。
 馬鹿と天才が近しいということ。

 うん……やっと夢架?のターン。


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第五十三話 陰の蜘蛛糸

 お待たせしました! これから先は時間いっぱい取れるので、頑張って完結まで書いていきます!


 

 

 

 

 雨上がりの湿った空気が頬を掠めていく。木の葉に乗っていた虫や雫を弾き飛ばしながら、魔理沙は全速力で箒を飛ばしていた。

 真夜中の森を照らす月にはもはや一つの雲もかかってはいない。煌めく金色の髪を靡かせながら、月光の照らす森の中を一条の星が駆けていく。

 

「ちっ、紫のやろーめ。去り際さえ抜け目ねぇとは……おかげで出遅れちまった……!」

 

 時折当たりそうになる雫を手で払いながら、魔理沙は誰に言うでもなく悪態付いた。

 それもそのはず。彼女はつい先刻まで紫の置き土産(スキマの回廊)によって足止めを食らっていたのだ。どういう訳だか、凄まじい衝撃が迸ったのと同時にスキマが解除されたので、魔理沙はこれは好都合とばかりに箒を飛ばしたのだ。

 なぜ、とは問うまい。魔理沙が閉じ込められていたのはまさに紫の言葉通りの理由――あの場に居合わせるには、不相応だから。

 

 萃香は強い。霊夢も強い。椛は紫に認められた。そして吹羽には、行かなければならない理由があった。

 魔理沙だって分かっているのだ。自分が行っても役には立たないこと、況して手負いでは本当に死体が増えるだけだろうことも。紫の言葉は全て的確で、無情なまでに真実だ。

 

 しかし、そんな理屈で片付けられる性根を持っていたなら、はなから魔理沙はここにいない。

 

「急げ……霊夢が、吹羽が戦ってんだ……ッ!」

 

 魔理沙は情に厚い少女である。

 泥棒こそ働くし、都合が悪くなるといくらでも屁理屈を並べる捻くれ者ではあるものの、基本的に友人思いの“いい奴”である。友人が困っていれば――できるかどうかは別として――助けようとは思うし、適度なライバル心を秘めて切磋琢磨し合うこともできるのだ。

 

 今、魔理沙が友人と認める二人が、死と隣り合わせの戦闘の中にいる。そのような状況で魔理沙が黙っているはずはなかった。そしてそれを阻む紫に容赦ない悪態が出てしまうのもまた、自明の理と言えよう。

 それに――

 

「(デカい魔力が消えた……だが、すぐ後に現れた()かデカい魔力(・・・・・・)……こんなのは普通じゃない……!)」

 

 見据えた森の先からビリビリと感じる強大な魔力。その存在に、魔理沙は何よりも焦りを感じていた。

 始めに消えた魔力は言わずもがな、鶖飛のものだ。恐らく吹羽たちは鶖飛との戦闘にはなんとか勝利したのだろう。あとは誰も欠けて(・・・)いないことを祈るしかない。

 問題なのは、後から現れた魔力。

 

「鶖飛よりも強い……あいつらに相手できる訳がねぇ……!」

 

 あろうことか、現れた魔力は鶖飛を凌駕するものだった。

 鶖飛にさえ一度負けているのにそんな化け物など相手にすれば、待っている結末は想像に難くない。

 そもそもこれほど強大な魔力の持ち主が、今までどうやって隠れ仰せていたのか(・・・・・・・・・・・・・・)が疑問である。未知の術、あるいは能力を持っている可能性は限りなく高いだろう。

 

 自分が行っても足手纏いかも知れない。鶖飛にさえ歯が立たなかった魔理沙が更に強大な相手に挑んだとて、焼け石に水にしかならないかも知れない。

 一縷の希望は幻想郷最強の妖怪、八雲 紫があの場にいることだが、何を考えているのかも分からない彼女を信頼する道理は魔理沙にはなかった。

 

 十中八九、無駄。徒労。不必要な犠牲。

 だが、魔理沙は行くのだ。何故なら友が戦っているから。

 

「わたし抜きで……盛り上がってんじゃねぇぞ――!」

 

 字面に似合わぬ険しい表情。頬を伝った冷たい汗を置き去りにして、魔理沙は更に速くと箒を駆った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 端的に言って、今の吹羽にまともな思考能力などなかった。

 みんなのためと自分を説き伏せ、割り切れない想いを押さえつけて迎えた実の兄との決着。勝利に対する歓喜などほんの一欠片すらないそれに続いた、全くのイレギュラー。そんなものを受け入れる余裕などあるはずもなく、吹羽は涙を浮かべたまま夢架を見上げていた。

 

 なぜ夢架が現れたのか。なぜ別人のような振る舞いをするのか――なぜこれほど強大な魔力を持っているのか。

 目の前に現れた明確な“危険因子”にも関わらず、心の弱った吹羽はその危機を感じ取ることすらできなくなっていた。

 

 呆けた表情をこぼす吹羽に、夢架は艶やかな笑みを浮かべたままふわりと近付く。そしてそのたおやかな指が吹羽の頰に触れる――その瞬間だった。

 

「その子に――」

「触るなッ!!」

 

 瞬時に発動した二種類の弾幕が、構えもしていない夢架に殺到する。それは弾幕勝負用に調整されたものでもなんでもなく、それこそ鶖飛に向けたもの以上の凄まじい威力を秘めた弾丸の嵐だった。

 しかし夢架は微笑みを崩さずに後退して避ける。そして弾幕の主である霊夢と紫が、吹羽を守るように前に出た。

 

「ふふっ、随分なご挨拶ね。私まだなぁんにもしてないのに〜」

「そんだけ魔力ダダ漏れにしてよく言うわ! 今更何しに来たの……!?」

 

 変わらずふわふわとした物言いの夢架に、霊夢は警戒を露わに睨み付ける。

 吹羽の願いによって全快した霊夢の気迫に空気がぴりぴりとひりついていくが、対する夢架はどこ吹く風だった。これだけの実力者を前にして崩さないその態度は、そのまま夢架の余裕の表れのよう。それが彼女に対する違和感に更なる拍車をかけるのだ。

 真っ白な頭の中に浮かぶのは、一体なにがどうなっている? と、ただその一言のみだった。

 

「だって魔力を抑えるのなんてやったことないんだもの。仕方ないじゃない? それに“今更”って、私これでもちゃぁんとタイミングを計って――」

「何しに来たんだって訊いてんのよ! 夢子(・・)ッ!」

「ぇ……ゆめ、こ……?」

 

 鬼気迫る霊夢の怒号に、夢架――否、夢子と呼ばれた少女はその笑みを深くした。

 

 彼女はおもむろに人差し指をぴっとあげると、くるりと一つ回した。するとその軌跡がキラキラとした光を帯びてふわりと広がり、彼女の体全体を包み込むと――姿が、一変する。

 

 茶髪は完全なる金髪へ。清楚な着物は空気に溶け込むように色を薄くし、代わりに現れたのは赤と白のエプロンドレス。

 可憐さはそのままに色気と艶やかさを一雫落としたような、着物とは違う給仕(メイド)服。呆然とする吹羽の視線に、少女は寒気のするほど鮮やかな微笑みを返した。

 

「うふふ、魔力が漏れるとやっぱり分かっちゃうのね。まぁ、もういいんだけど♪」

「夢架、さん……? なんで……え? どういう――」

「ノンノン、吹羽ちゃん♪ さっき霊夢が言ったでしょ? 私は夢子。ほんとは夢架なんて子は存在しないのでしたぁ〜♪」

 

 おぞましい魔力さえなければ誰もが見惚れるであろう笑顔を前にして、しかし吹羽は背筋が薄ら寒くなる気配を感じた。

 目の前にいるのは夢子で、向けられているのも間違いなく彼女の笑顔なのに、その姿の向こう側に悍ましくて強大な何かが幻視出来てしまうのだ。

 会ったことも見たこともない何か。夢子の姿を誰かに重ねているわけでもないのに感ぜられる。それは、それぞれが持つ雰囲気や空気感――“個”が必ずある人間としては、明らかに破綻しているように思えた。

 

 と、そこに氷のような紫の声。

 

「なるほど、風成 鶖飛を導いたのはあなた……いえ、あの一柱(・・・・)ですわね。魔力が分からなかったのは、彼女が分からないようにしていたから……さしずめ“神の加護”というところかしら」

「御名答♪ 流石に世界の創造主。私が現れただけでそこまで分かっちゃうかぁ」

 

 ふんふわと浮くような問答の仕方に、僅かに紫の眉が動いた。夢子はそれを見てくすくすと笑う。まるでこちらの反応を弄んでいるかのようだ。

 そしてまた何事か言葉を紡ごうとしたその刹那――豪速の弾丸が夢子の頰を掠めた。

 

「――おっとっと、危ない危ない。せっかちだねぇ霊夢」

「さっきからだらだらと! あたしの質問に答えなさいッ!」

 

 まるで緊張感のない夢子の問答に痺れを切らしたのか、霊夢は神速で距離を詰めて大幣を振りかぶった。

 全快し、彼女自身の力を最大限に発揮したその一連の動作はまさに直撃必至。滅魔の霊力が夢子の脳天に振り下ろされる。

 

 しかし、弾けた蒼き霊力の衝撃は、夢子の髪をさらりと揺らすのみだった。

 霊夢の視界に魔力の糸がきらりと映る。夢子の正面に蜘蛛の巣のように張り巡らされたそれ――“刺繍(エンブリム)”は、霊夢の絶技をいとも容易く受け止めていた。

 

「ッ!」

「バカだなぁ。真っ正面からの攻撃なんて喰らうわけないじゃない」

 

 嘲りを含んだ夢子の言葉を聞き流し、霊夢は即座に距離を取るべく後退する。夢子はそれに何の対応も見せないと思いきや――彼女の魔力は、既に蠢いていた。

 

「“縫合(スーチェ)”」

 

 いつのまにか繋がれていた強靭な魔力の糸。霊夢と夢子の体を繋いだそれは、霊夢の即座の後退を許さなかった。

 くん、と霊夢の体が止まると、収縮するようにして急速に引っ張られる。夢子が瞬時に抜刀した剣の冷ややかな銀光に、霊夢は珍しくも戦慄した。

 

「っ、――ッ!」

「危ない、って言った意味わかってる?」

 

 剣が銀線を描き――霊夢の細首を薙ぐ。

 

「危うく、反撃して殺しそうになったってこと♪」

 

 ボッ、と炸裂を思わせる音が響いて夢子の腕は振り抜かれた。音すら切り裂いて放たれた鋭過ぎる斬撃は、吹羽の目にすら捉えることは難しく、霊夢の首を無慈悲に切り飛ばした――と、思いきや。

 

「……あら?」

 

 夢子が振り抜いた腕から伸びた剣に、刀身はなく。その視界の端には、大口を開けたように開いた“スキマ”が見えていた。

 妖怪の賢者 八雲 紫の能力。

 彼女の介入によって九死に一生を得た霊夢は瞬時に結界を展開。霊術に長ける彼女の結界は夢子の糸を断ち切り、それを足場にすることで夢子の間合いから離脱する。

 吹羽たちの元に戻った霊夢の額には、冷たい汗が流れていた。

 

「仕留め損ねちゃった。今のが見えてたなんて、さすがは賢者ね♪」

「御託は結構。飛び出した霊夢も霊夢だけれど……言い分には賛同しますわ」

 

 落ち着いた口調の裏に、身も凍りつくような絶対零度の感情を秘めて、

 

「彼が現れた時点で予測はできていましたわ……魔界の民が、今更何の用でしょうか?」

 

 刃のような光を宿した桔梗色の瞳が夢子を射抜く。“幻想郷最強”を冠する大妖怪の眼光はありとあらゆるものを萎縮させ、畏怖させ、矮小な妖怪であればそれだけで失神してしまうだろう。

 それを真っ向から向けられた夢子は、しかし――妖艶に微笑(わら)っていた。

 

「くふっ、くすくす……あぁ、可笑しい」

「なに……笑ってんのよ!」

「だって、そうじゃない? なぁにんも関係ないあなた達がこんなにも殺気立ってるのに、当人(・・)はまだぽけーっとしてるんだもの」

「……当人」

 

 口の端から漏れるように呟いて、紫の視線が、背後で座り込む吹羽に向けられる。それを受けて、自失していた吹羽はようやく夢子の目的が自分であることに気が付いた。

 そして、状況を飲み込めていないのが自分だけであることも。

 

 縋るような瞳で霊夢を見上げるが、頼りの彼女もいつになく険しい表情で夢子を睨むばかり。まるで吹羽のことなど頭の片隅にも置いていないかのよう。

 友人たちの力を借りて、ようやく過去の因縁に決着をつけられたはずなのに、どこか一人だけ取り残されてしまったような気がして――拳をきゅっと握りしめる。

 

 腕の中には、変わらず鶖飛の遺体があった。

 冷たく、もう熱を取り戻すことは決してない、大好きな兄の空っぽの体が。

 

「ねぇ、吹羽ちゃん」

 

 隙間風が吹くような心を瞳に映しながら、吹羽は虚ろに夢子を見た。

 可憐であり、妖艶でもあり、どこか邪悪にいやらしくもある彼女の笑顔はしかし――今の吹羽の目には、優しく包み込むようにも見えた。

 そしてその優しげな雰囲気を引き連れて、夢子は驚くべき提案――否、目的(・・)を口にする。

 

 

 

「私と一緒に、魔界へ行かない?」

 

 

 

「ぁ、ぅ……え……?」

 

 思いもよらない言葉に、吹羽は喉を詰まらせた。

 当然だ。だって脈絡がない上に、今の吹羽には大して考える気力がない。或いはそれを狙って問いかけたのかも分からないが、どちらにしろ夢子のそれは吹羽を混乱させるに足りるものだった。

 それを見越していたのか、夢子は微笑みを崩さぬままにぴっと人差し指を立てた。

 

「一つ、いいことを教えてあげる。吹羽ちゃんもきっと喜んでくれると思うんだぁ〜」

 

 次いで夢子は手を前に差し出すと、もう片方の手に剣を顕現させた。相変わらず目に見えぬほどの早業だったが、今度はゆっくりと見せつけるように刀身を手首に当て(・・・・・・・・)――斬り飛ばした。

 

「ッ!」

「“再縫合(リスーチェ)”♪」

 

 しかし、飛んだはずの夢子の手首は導かれるように元の場所に張り付くと、瞬時に傷口は無くなってしまった。

 わざわざ確認するまでもない。文言から効果まで、全てが鶖飛の用いた魔法と同一である。

 夢子は一頻り手の感覚を確認すると、後ろ手に組んで、吹羽へと甘い笑顔を向けた。その、血に彩られた頰を緩めて。

 

「私たちはね、人形(・・)なのよ」

「にん、ぎょう……?」

「そ。魔人という名の創られた生命(いのち)、人形なの。同じ魔法からできているんだから、同じ魔法が使えるってこと。……意味、分かるかな?」

 

 意味。それの指すものが“同じ魔法が使えること”でないのは明らかだった。

 創られた命、魔人。夢子と鶖飛は全く同じ魔法が使えた。そして彼女の語る“いいこと”――。

 

 荒唐無稽すぎて言葉に出せない吹羽に代わって、夢子は答えを口にする。その、世が世である限り絶対にあり得ないはずの奇跡(・・)を。

 

「生き返らせることができるよ、鶖飛クン」

 

 ひゅ、と息が止まった。

 

「正確には……そうね、クローンとでもいうのかな。記憶はある程度しか引き継いでいないけれど、正真正銘の鶖飛クンだよ」

「お兄ちゃんが……生き、かえる……?」

「そう。鶖飛クンは死んじゃったけど、私と同じ魔人だったから、また創れるの。たとえ壊れちゃっても、記憶という糸で縫い直せば、人形は元どおりって訳ね♪」

「ふざけたこと言うんじゃないわよッ!」

 

 そう叫んだのは、憤怒に染まった霊夢だった。

 

「鶖飛が生き返る? 仮にそれが本当だとして、じゃあ吹羽の気持ちはどうなるのよ! 苦しんで、覚悟してっ、決着を付けても涙を流すこの子の気持ちは、どうなんのよッ!」

「本当に馬鹿だねぇ霊夢。やっぱり寂しいから泣いてるんでしょ。私はそれを助けようとしてるだけじゃない」

「覚悟を蔑ろにすることが助けるですって? ふざけるのも大概にしなさいよ――ッ!」

 

 目の前で繰り広げられる口論は、しかし吹羽の頭には全く以って入ってこない。ただひたすらに夢子の言葉――鶖飛が生き返るという言葉のみが繰り返し頭の中を回っていた。

 それはまるで地獄に一本の蜘蛛の糸が垂らされたようで、だがそれを容易に掴むにはどこか心が痛くなる……そんな形容しがたい心地にさせた。

 

 どっちの言うことも、きっと吹羽にとっては正しいことだ。

 霊夢の言うように、吹羽は覚悟をして鶖飛と対峙し、相入れないと理解したから討ち倒した。そこに偽りはなければ霊夢の勝手な解釈もなく、ただただ真実である。吹羽が想いや覚悟を踏みにじられることを嫌うという霊夢の理解も、至極正しい。

 

 だが同時に、夢子の言葉にも惹かれてしまっている自分がいる。

 自らの兄を手にかけることがこんなにも辛く寂しいことだなんて、吹羽は想像だにしていなかった――否、想像を遥かに凌駕していたのだ。

 仮にも覚悟を決められたのは、皆を守らなければならない、という責任感に感覚が麻痺していたからなのかもしれない。それが完遂できたことで麻痺から解き放たれ、自分のしたことがどれだけ重く辛いことなのかが正常に感じられたのだろう。

 

 大好きだった兄を自らの手で殺してしまった。

 その事実は重苦しい壁となって吹羽を追い詰め、感情の波濤は容赦なく彼女を波に沈めて呼吸を奪う。そこに手が差し伸べられたのなら、きっと誰でもそれを取ろうと思うだろう。

 

 寂しい。辛い。苦しい。誰か助けて。でも差し伸べられたその手を取ると、きっと壊れてしまう気がする。

 

 ――……けど、こんなに辛い思いをするくらいなら。

 

 ゆっくりと握り締めていた拳を解き、糸に釣られるように手を伸ばそうとして。

 

 

 

 ふにっ、と柔らかな感触に抑えられた。

 

 

 

「ぇ……?」

 

 感じたことのない触り心地に一瞬呆けていると、視界の端に真っ白な毛並みが映り込んできた。

 風もないのにゆらゆらと揺れ、逆立ち、月光に照らされるそれは白金のように輝いている。その存在感は一度目にすれば視線を外せないと思うほどで、吹羽は見遣った目を大きく見開いた。

 

 目の前にいたのは、見たこともない聞いたこともないほどに美しい、白い狼。

 

 次いで、もふっと頭に何かがひっつく。首の部分をひしと掴み、頭頂部に足らしきものが乗せられて吹羽の後頭部を包み込んでいる。

 かすかに聞こえるハッハッという息遣いは、まさに子犬のそれだった。

 

 狼は子犬をちらりと見やると手から前足を離し、夢子の方へと向き直る。グルルル、と低く唸って、次の瞬間。

 

 

 

 音にもならぬ咆哮が、大気をズタズタに引き裂いた。

 

 

 

 威嚇するようでも、全てを打ち払うかのようでもあったそれは、しかし“その”為にはあまりに苛烈。咆哮と共に放たれたその力は霊夢や紫のものを遥かに越え、狼自身の声をも呑み込んで強烈な衝撃を周囲にもたらした。

 

 大気が震える。大地が揺れる。空は鳴動し、森は沈黙した。

 森羅万象あらゆるものを強引に黙らせてしまう超量・超密度の神力(・・)に、初めて夢子の表情から微笑みが消えた。

 

「あらあらあら……そこまでして吹羽ちゃんを渡したくないんだね――風神さま(・・・・)

「グルルルル……」

 

 威嚇するように喉を鳴らす白狼は、濃密な神力を漂わせて夢子を睥睨する。それは、少しでも妙なことをすれば即座に喰い千切るという殺意の表れのようにも感ぜられた。白狼から感じられる力を鑑みれば事実そうだろうし、躊躇などもするわけがない。

 

 ピアノ線のように張り詰めた空気の中、新たに二つの足音が加わる。

 

「渡すわけがないでしょう……! 心の弱ったところにつけ込むような輩に……吹羽さんは任せられません!」

「わたしから興味の対象を取ろうってのが傲慢ってもんさ。それに、血に濡れたお前の手は、吹羽が取るには汚過ぎらァな」

 

 椛、萃香。ようやく治癒した二人が紫と霊夢の隣に居並ぶ。剣を握り、拳を握り、狼や霊夢たち同様に最大限の警戒を表すと、もはやその様相は弱った姫に甘言を囁く悪魔に対峙する五人の騎士だった。

 

 夢子は無表情でそれをしばし見つめると、ふと笑みをこぼして肩を竦めた。

 

「……ま、この面子を相手にするのは流石に分が悪いかしら。特に神さまなんて、加護もないのにやってられないわ」

 

 夢子はそう呟いて、指を一振り。軌跡を描いた魔力の発光が体を包み込んだ。なんの術かは当然分からないが、この場から離脱を図るための魔法であろうことは誰にでも理解できた。

 それに即座に反応したのは霊夢と白狼。霊夢はお得意の刹那亜空穴(空間跳躍)で夢子の背後を取り、白狼は神力で発現した大顎と牙を夢子に放つ。

 

「逃すと思うの!?」

「捕まえられると思ってるの?」

 

 神速一閃、破魔の霊力を宿した大幣が大木を断ち切るかの如き威力で振るわれる。が、答えた夢子の声音は余裕綽々と背後から。

 夢子は、今度は紫でさえも捉えられぬ早業で抜剣して薙ぎ払った。霊夢の一撃をも超える威力であるそれを神懸かり的な反射神経で辛うじて避けた霊夢は、しかしソニックブームによって吹き飛ばされ、その刀身に宿った魔力によって白狼の神力も相殺された。

 一瞬の攻防に続き、萃香や椛が上空から追撃を仕掛け、紫は封印術を行使する。

 

 ――しかし、そこには既に夢子の姿はなく。

 

 

 

「それじゃあね、吹羽ちゃん。私、ずっと待ってるからね♪」

 

 

 

 ふわりと両肩にかかった手の重みと、耳元で囁かれた甘い言葉。

 吹羽が咄嗟に振り向いた時には――既に夢子は影も形もなく消えていた。

 

「夢子、さん……」

 

 敵なのだろう。悪なのだろう。その身から放つ濃密な魔力からは邪な気が見て取れた。それこそ霊夢が言うように吹羽の覚悟を踏みにじろうとするならば、吹羽自身にとっても敵対すべき存在だ。

 だがぽつりと呟いた彼女の名に、その自分の声音に、少しの嫌悪感も混じっていなかったことに気が付いて、吹羽はそっと自らの唇に指を当てる。

 

「――……」

 

 鶖飛と会って、相入れないことを理解して、殺すことで終止符を打つことができた。

 だがそれで得たものとはなんだろう? どれだけのものを失ったろう? その失ったものは――どれだけの価値があったろう?

 夢子の手を取ろうとした手を見つめる。泥と血に汚れたその小さな手には、もう何もない。

 

「(お兄ちゃん……ボクは、どうすれば良かったの……?)」

 

 晩秋の冷たい風が吹くある夜。

 過去に決着をつけることのできた吹羽の心に残ったのは、しかし勝利の歓喜でも鶖飛への尽きぬ怒りでもなく――背筋に這い寄るような不安感と、涙も枯れる暗い悲哀。そして、

 

 

 

 ぽっかりと胸を穿たれたような、重苦しいほどの寂寥感だった。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 うーんこの夢子のキャラね。


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第五十四話 正史の傷跡

たいっへんお待たせしました。ちょっとリアルがゴタゴタしてたので……。

ではどうぞ


 

 

 

 木漏れ日の中でさわさわと草木が揺れていた。

 木々の隙間を抜けてきた緩い風が、手前勝手に伸びたそれらを弄ぶように撫で、枝を掴む力を失った葉をちらちらと攫っていく。為すがまま為されるがまま、そうやって何も考えずにただ生きている植物たちはきっと、人間から見ても理想の生き方をしていると言えるのだろう。

 そこは小高い丘の上。冬も近付き、元気のなくなった木々が囲む林の中に佇む屋敷の隅で。

 

 吹羽は三つ並んだ石碑を前に、ぽつりと座り込んでいた。

 

「お父さん、お母さん……お兄ちゃん。ゆっくり……休んでね」

 

 石碑に名は書かれていない。それぞれ大きさの違う石をこんもりと持った土に立てているだけだ。

 だが、吹羽はそれらを見て――否、それらの下に埋まっている者達を想って静かに言葉を落とした。

 

 側では毛並みの美しい白狼と、その背に同じく白い毛色の子犬が座っている。その瞳は獣のものとは思えないほど物静かだ。

 慮ってくれているのか、心配してくれているのか。犬は飼い主に似ると言われるところを考えると、彼らは――実際には“飼い主”でないとしても――吹羽の今の気持ちを鋭く察してくれているのかもしれない。

 吹羽は側に座る二匹にふと笑いかけると、再び視線を戻して目を細めた。

 

 あの夜から数日。

 “真の終階”を発動したことによる疲労はほとんど抜けきり、吹羽の身体的な健康は元に戻った。あの時共に戦った者達も、吹羽の願いによって傷はあらかた治っていたため復活に時間はかからず、実質無傷であの苛烈な戦闘を切り抜けたことになる。そのあと駆け付けた魔理沙の傷もその場で完治させ、歩く気力さえなかった吹羽は彼女に神社まで運んでもらったのだった。

 

 戦闘の最中、天候を派手に操ったことで事情を知らない幻想郷住民はかなりの数が恐慌状態に陥っていたそうだが、そのアフターケアについて霊夢たちに抜かりはなく、今は落ち着いている。

 ただ、吹羽の精神的な傷についてはそうやすやすとは行かず、未だに彼女は仕事に復帰できていなかった。

 “どこかで生きているかもしれない家族の帰還”という支えがなくなった今、吹羽の心は中身のくり抜かれた砂の城のようなものだ。それもくり抜いたのが自分自身ともなれば、後悔は無くとも虚しさや寂しさが残るのは自明の理というものだ。

 

 未だに残っている手の感触。最後の言葉。愛する兄をこの手で殺したという重過ぎる事実。

 三人の墓を簡素ながら建ててからは、吹羽はほぼ毎日この場所に訪れていた。何を話すわけでもなかったが、こうしている方が心が休まる気がしたのだ。

 

「……情けない、ね。覚悟したはずだったのに、いざやり遂げたら、こんなに寂しくなるんだもん……」

『それが心というものだ。何が情けないものか、依り代よ』

 

 独り言のつもりだった言葉は、しかし頭の中に響くような不思議な声に返された。

 ここ数日で慣れてしまった――否、思い出した(・・・・・)その感覚を受けて、吹羽は側に座る白狼を再び見遣る。その瞳は相変わらず、獣とは思えないほどに澄んで真っ直ぐだ。

 それもそのはずか、と吹羽は思い直す。なにせこの二匹は、風成家が何百年も前から信仰してきた風神 級長戸辺命、その化身である。知能などという概念に当てはまる存在ではないのだ。

 

「情けないですよ。自分で決めたことさえ貫けなかったんですから……」

『寂しさとか悲しさとか、そういう感情は正常な人間全てが持つ偉大なものだよ。脆いものではあるけど、それは無限大に力を生み出す半永久機関。君は覚悟を決めて不可能に挑み、打ち勝った。恥じることなんて何もないんだ』

 

 女の子のような可愛らしいこの声は、狼でなく子犬の方から。

 

「でも、ボクの力じゃない……氏神様の力です。ボクの力じゃ、勝てませんでした」

『『関係ない』』

 

 声が重なる。その結論に迷いも間違いもないとでも言うように、反論を許さないそれはまさに託宣だった。

 

『我は依り代だからこそ力を貸した。今やこの世界に於いて誰も祈ることのない我に強く願う依り代だからこそ、こうして我の声を聴き、我を受け入れられる』

古き器(・・・)の頃から、君は全然変わってない。自分の無力を知っていて、だからこそ神を信じ頼った。全て、そんな君だからできたことだよ。それを君の力と言って何が違うの?』

「それ、は……」

 

 自分自身にできずとも、それができる他人の力を借りて正しく振るったのは紛れもない吹羽自身である、そう氏神は言いたいのだろう。そしてそれを間違いだと断定できる材料を吹羽は持っていなかった。

 白狼は言葉を詰まらせる彼女から視線を外すと、返って静かな声音で呟く。

 

『それに……今依り代が斯様な心持ちでいるのは、そんな理由(・・・・・)が為ではないだろう?』

「っ、」

 

 ズブリと、巨大な杭が胸に打ち込まれたような心地がした。

 

『仏の教えなど知らぬだろうに、墓なぞ建てて毎日訪れるのが良い証拠。まぁ、外の世では至極当たり前のことだがな』

「…………霊夢さんの、真似をしてるだけです……」

『巫女だね。あの子も定期的に母親の墓へ足を運んでいるのを知っているよ』

 

 霊夢の母親の墓へは、彼女に連れられて一度だけ行ったことがあった。その時の彼女の表情は今でも忘れない。悔しいような悲しいような、穿った見方をしたならば底無しに空虚なようにも見える複雑な表情だった。

 彼女はその理由を教えてはくれなかったが、なんとなく吹羽は察している。家族がもう戻ってこないと理解した今の吹羽には、あの時の霊夢の気持ちがよく分かるような気がするのだ。

 

 崩れそうになる顔を膝に埋めて、吹羽は胸の痛みにジッと耐える。霊夢の真似をして墓を建て毎日のように訪れているならば、吹羽はきっとあの時の彼女と全く同じ気持ちだということ。

 氏神の言うことは、無情なほどに的を射ていた。

 

『人間は脆いね。神然り仏然り、何かに縋らないと自分を保てない。子供は肉親に縋り、大人は偶像に縋り、それすらできない者は自分自身に縋る。……依り代は、まだ子供だね』

「子供、じゃ……ないです……」

 

 返した言葉に、もはや字面ほどの気持ちは篭っていなかった。

 ここまで見透かされてしまっては取り繕うのも無駄なだけ。そこまで思って、吹羽は悲しんでいる自分を認めざるを得なくなった。

 

 戦いが終わって数日経っても、あの夜の感触が忘れられないのだ。

 覚悟を決めて握った柄の感覚も、強大な力で鶖飛を傷付けた感覚も、硬く握った拳が生暖かい液体に包まれる感覚も、冷たくなった体を抱く感覚も。

 全てが今ここで起きていることのように思い出せる。思い出せてしまう。

 

 そう、なにもかも氏神の言う通りだ。吹羽は目を背けたいだけなのだ。

 自分の力ではできなかった、他人の力を借りただけだと言い訳をして、自分がしたことをあたかも他人のやったことだと思い込もうとしているだけ。

 少し直視すれば簡単に見えてくることである。吹羽は自分に成し得ないことを成す力を借り、振るい――しかし間違いなく、自分の意思(・・・・・)で兄を殺めたのだと。

 

 と、その時。

 唐突に空気が変わったような気がして、吹羽はゆっくりと顔を持ち上げた。見遣れば、すぐ側では氏神がある方向に向けて毛を逆立てている。

 何事だ――とは今更思うまい。この感覚の正体を、吹羽は既に知っていた。

 

「……隠れてても無駄ですよ。もう分かります」

「……やはり、覚醒は一時的なものではなかったということですね」

 

 欠片の驚愕もないその声は、一見何もない空間から聞こえてきた。だが白狼が一吠えすると、そこから空間を割って、観念したように金糸の髪が覗く。

 スキマ妖怪 八雲 紫。

 吹羽の心の中に、じわりと黒い染みが広がる。

 

「なにをしに来たんですか。もうボクに用はないでしょう……!」

「一つ重荷を片付けたくらいで投げ出していたら、はなから幻想郷など存在しませんわ」

「なにが重荷ですか……全部知っててやったくせに(・・・・・・・・・・・・)ッ!」

 

 怒鳴りつけて、閃いた銀光と風の刃が紫に襲いかかる。しかし彼女はこともな気にスキマを展開すると刃をばくりと噛み砕いて相殺してしまった。

 いっそ哀れなほどに粗雑極まる一太刀。紫は扇子で口元を隠しながらも、目ははっきりと吹羽を蔑んでいた。

 

「だったらなんでしょうか。一族を見守れと、あなたが望んだことでしょう(・・・・・・・・・・・・・)? それに……風成 鶖飛が死のうが生きようが私としてはどちらでも良かった」

「っ、」

 

 きつく握る刀の柄に、じわりと赤い雫が浮かぶ。

 

 そう――風神がこの身に降りたのと同時、吹羽は己が内から込み上げるこの紫への感情の正体に気が付いた。そしてそれによって、なぜ紫がこうも吹羽に構うのかということにも辿り着いたのだ。

 それは吹羽にとって度し難い真実。この時、紫に向ける嫌悪感は正真正銘吹羽のものとなったのだ。

 

「その眼が何よりの証拠ですわ。今更約束を違えるなど、あなたらしくもない」

「ボクの……ボクの何を知ってるって言うんですか……!」

「知っていますとも。一度殺されかけた相手のことを忘れるほど、私は耄碌していませんわ。……そうでしょう?」

 

 

 

 ――風成家初代当主 風成(かざなし) 辰真(たつま)

 

 

 

「――……」

 

 はっきり言って、心当たりはあった。

 良し悪しこそあれど風を感じとる感覚に優れた風成一族の中で、なぜ吹羽と凪紗にのみこれほど飛び抜けた都合の良い(・・・・・)能力が発現したのか。

 いつか見た、知らないようで知っている不思議な夢もそう。自分が自分でなくなっていくようなあの感覚に、吹羽は自分の中に知らない誰かの存在を感じた。

 そして何より決定的なのは――氏神がこの身に降りた際に蘇った記憶。懐かしくもあり、なぜ今まで忘れていたんだろうと思えるほどに鮮明なそれは、遠い遠い過去の自分だった。

 

 鈴結眼。

 それは風成家の人間にのみ現れる特殊な能力。その正体は大昔に初代当主が神から授かった神眼である。ならば、それが現れた吹羽と凪紗は――まごうことなき。

 

「先祖、返り……」

 

 暴かれた己の正体を、吹羽は口に出して嚥下した。

 

 先祖返り――別名、隔世遺伝。祖父や祖母、あるいはそれよりも前の祖先の形質が孫に現れる現象である。

 形質というのは多種多様であり、“人間の設計図”である遺伝子によって受け継がれ、子に発現する。そしてなにが発現するかは幾つかの法則によって縛られている。

 初代当主 辰真が授かった鈴結眼は、彼自身の形質として受け継がれた。だからこそ風成一族は総じて風を感じ取る感覚に優れるのだ。

 そしてそれが辰真と並んで強力に発現したものが鈴結眼と呼ばれる。初めに発現したのは――風成 凪紗。次いで吹羽。吹羽が凪紗の先祖返りなのではなく、両者が共に初代当主の隔世遺伝だったのだ。

 

『……懐かしい。“天睦の器(凪紗)”は十全な眼こそあれど、その心は我でなく妖に向き、また己の力の可能性を見ていた』

『だからこうして語りかけても聞き取れない。君のように信仰心が強くなかった。そういう意味では、本当に“古き器(辰真)”の生まれ変わりと言えるのは君だけなのかもしれないね』

 

 依り代となれたかもしれない過去の器を想って零すその言葉は、高位神に似つかわしくない残念そうな声音である。

 そしてその言葉通り、風神の敬虔な信徒である吹羽には鮮明に言葉が聞こえ、信仰心のない紫には全く以て聞こえていないようだった。

 

 眼を授かり、声を聞いたであろう辰真。眼を受け継ぎ、会話を成立させる吹羽。

 二人は確かに似て、性別や性格こそ違えど、まさに生まれ変わりと称してなんら過言ではない。

 

「自覚していただけたようで何よりですわ」

 

 ぱちん、と扇子の閉じる音が響いた。紫は吹羽から視線を外すと、徐に旧風成邸を見遣ってゆっくりと歩き出す。

 そして徐に言葉を紡ぐ。その声音は、まるで過去を懐古し噛み締めるような響きだった。

 

「ええ、ええ。確かにその通り。私は全て知っていましたわ。風成 鶖飛を見て可能性を悟り、あなたを見て神話の再開(・・・・・)を確信しました。そしてそれは……あなたの両親にも伝えたこと」

「……運命、って」

「その通り」

 

 立ち止まり、石墓の一つを見遣る。

 

「この世に偶然などあり得ません。私たちが殺し殺され損ねたあの日に、きっと全てが決まった」

 

 遠い過去を見通すように、紫の視線は空を見上げる。つられて吹羽も見上げると、青い空に薄雲が掛かっていた。その先で太陽が鈍い光を注いでいる。隣で威嚇していた氏神は喉をきゅるると鳴らした。それが、妙に物悲しげに聞こえた。

 

「……あの日に狂った歯車が、ようやく噛み合った。故に、彼はそれに抗おうとしたのでしょう。風成 鶖飛――いえ」

 

 

 

 二代目当主、風成(かざなし) 嵐志(あらし)は。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――民族、というのは受け継がれていくものである。

 民、技術、生活環、名前などもその一つ。そして一つのコミュニティを纏めるにあたっては往々にして中心となるものが必要であり、故に必ず“当主”も受け継がれていく。ただ、それがどんな条件の元で継がれるかは十色だ。

 それが時を経て少しずつ大きくなって一族から村になり、村が大きくなって里になる。町になる。国になる。そしてその果てに世界になる。人が集まれば統率するのは難しくなっていき――避けようのない軋轢を生むのだ。

 

 今は昔、大昔。幻想郷の創世が百年ほど前ならばその何倍も遡って、遙か過去。

 始まって間もない風成一族は、深い山々に囲まれた土地でひっそりと暮らしていた。

 踏み慣らされていない地面は柔らかく、村は頑丈な石を土台にする事で住処を作り、水はすぐ側の山から流れ出る川から汲み上げて田畑を育み、時折訪れる妖怪――異形に対しては勇敢に戦った。

 

 ただの村人が妖怪に挑んだとて束になっても勝てはしない。当然だ、人ならざる力を持つからこそ人はそれを異端と呼ぶのだから。だが、風成一族には“神“がいた。

 その名を、風成 辰真。初代当主にして神の寵愛を受けた者。その加護を受けた村人たちは、心得などなくともある程度異形も渡り合うことができていたのだ。

 

 彼は体があまり強くなかった。だがその影響か、自らの族を起こす以前より強い信心を持っていた。祖先に現人神を持つ一族の末子(・・・・・・・・・・・・・・)であった彼は、元の一族が滅びた後も信仰を絶やさなかったのだ。その信仰心が、ある日彼を風神 級長戸辺命と巡り合わせた。

 

『人の子よ。その心に偽りはないか』

「はい……偉大なる風神よ。我が魂は御柱と共に」

 

 古き時代だ。人の数そのものが決して多くない当時、かの神にとって彼の強烈な信心は稀有な力の源であり、また真摯なその姿は風神の心をすら打ち抜いた。

 故に風神は、彼がより風を感じられるよう眼を授けた。そして彼が起こした一族にも、長く続くよう加護を与える傍ら、氏神として見守るようになったのだ。

 

 そんな彼には、一人の弟がいた。

 名を嵐志。兄である辰真に比べ体も強く、多分な自尊心を持つ男であった。

 二人は兄弟仲こそ悪くはなかったが、自信過剰なきらいのある嵐志を辰真が諫めることは多かった。何せこの嵐志、一族が束になっても勝てないほどの剣技の持ち主だったのだ。調子づく弟を兄が制すのは当然のことである。しかしそれも村の日常茶飯事として認識されていたし、兄弟もそれを理解していた。

 平和な一族。平和な時間。辰真の体も単なる衰弱という形で弱っていく中、次期当主は当然嵐志だろう――そう村内でささやかれ始めた頃。

 

 人の姿をした強大な異形――八雲 紫が現れた。

 

「異形だー! 異形がやってきたぞ!者共、であえーッ!」

「あらあら……随分と美味しそうな人間達が集まっているのね」

「異形め……氏神様の加護を食らえぇぇい!」

 

 ある者は妖力の弾丸に蜂の巣にされた。ある者はその強烈な存在感と恐怖に気が狂い、自らのはらわたを抉り出して死んだ。ある者は目玉の覗く不気味な空間に落とされ二度と戻ってこなかった。

 加護を受けた一族の者達が、瞬く間に数多殺されていく。体の弱い辰真は、加護を授けることでしか力を貸せないことに嘆き苦しんだ。復讐と怒りに染め上げられて果敢に武器を振り上げる者達の背中に、無力感と悲壮感しか浮かんではこなかった。

 

 次々と民が殺されていく中、その時は来るべくしてきたのだった。

 村で最も強い剣豪 嵐志が紫と立ち合い、しかし力及ばず――まさに殺されようとしたその時。

 

 辰真の、“皆を助けてください”という祈りを、級長戸辺命が聞き入れた。

 風神降ろし、その初めての発現である。

 

「兄さん、か……?」

「ああ……少しだけ待っていなさい。……もう誰も、殺させはしないッ!」

 

 血と風と妖力と。辰真の操る空の暴威と紫の妖術の衝突は、まさに天変地異を思わせた。その凄まじい力のぶつかり合いは三日三晩続き――しかし、ついに勝負はつかなかった。

 互いに満身創痍の中交わした約束は奇妙で苛烈で、あまりに負の感情に満ちていた。

 

 一つ、どちらかがどちらかに殺されるまで死なないこと。

 一つ、どちらかがどちらかに殺されるまでその他を手にかけないこと。

 一つ、決着がつくまで何度でも殺し合うこと。

 

 傷が癒える度、紫が村を訪れる度に二人は衝突した。

 それは意地のぶつかり合いとも言えただろう。紫にとって人間に負けるなんてことがあれは誇りに傷がつくし、辰真にしてみれば民を守るために必死だった。

 互いに負けることは許されず――何より己が認められず、何度も何度も立ち会った。その度に互いに死にかけ、引き分け、死にかけ、引き分け死にかけ引き分け死にかけ引き分け――……。

 

 そうして辰真のみが傷付くことで民の平穏は保たれた。弱い身体に無理を強いて村を守る彼を民達はより一層崇めるようになり、彼に少しでも近づけるようにと“紋を使った風の操作”まで追い求めるようになったのだ。

 

 ただ一人――嵐志の心に差した影に気がつかぬまま。

 

「(なぜ……なぜ俺を差し置いて、弱い兄さんが戦ってる……?)」

 

 嵐志は自信家である。その剣技に敵う者はおらず、事実彼は強力な異形が現れた際の切り札として一族内での地位を確立していた。そしてその自負と、周囲からの期待が彼の自尊心を満たしていたのだ。

 しかし紫と交戦して惨敗し、しかも脆弱であると思っていた兄に想像を絶する力を見せつけられ、彼の自信は粉砕した。更に悪かったのは――辰真への信仰心が強まるにつれ、二代目となる嵐志への期待が著しく薄くなったこと。

 

「辰真様のお身体も限界だろう。この先どうなるのやら……」

「恐ろしや……辰真様がお亡くなりになれば誰があの異形の相手をすることに……」

「剣鬼 嵐志様も大変にお強いが、果たしてあの辰真様に類うほどか……」

「馬鹿者! そんなこと嵐志様に聞かれたらどうする気だっ」

「! す、すまん」

「(……分かってんだよ、そんなことは)」

 

 徐々に己への期待が薄れていく。それは嵐志にとって耐えがたい苦痛であった。自尊心を糧に生きる者にとっては、失望されること以上の辛苦は存在しなかったのだ。

 

 特に彼が何をしたわけではない。信用を失うようなことをしたわけでもなければ、むしろ命を張って勇敢に民を守ってきた側だ。だが、それに“期待”という形で見返りを求めてしまっていたが故に、彼の心は徐々に磨耗していった。

 

 負けじと振るう刃は、辰真のように木々を薙ぎ倒さない。

 凝らした目には、辰真のように風の流れなど映らない。

 天に向けた掌は、辰真のように大空を掴めない。

 辰真に対する強烈な劣等感は確かに嵐志の実力を大いに高めたが、同時に彼が幾ら足掻いても届かない遥か高みというものを浮き彫りにした。力をつける度に、嵐志は辰真への劣等感を徐々に憎悪へと塗り替えていったのだ。

 

 そうして憎悪に心を狂わせた者がどんな思考を辿るのか――想像に難くはないだろう。それがいかに理解の及ばぬ物であったとしても。

 

 それは、紫と辰真の長き戦いについに決着が着こうとしていた時だった。

 もう何度目かも分からぬ程殺し合った二人に訪れた、“限界”という終局。何度も引き分け何度も殺し損なった二人であったが、ここに来てようやく本当の決着が着こうとしていたのだ。

 

「(最後の……一撃……)」

 

 一振りのみ。

 それを終えれば確実に死んでしまうであろうことを、辰真はよく分かっていた。長年付き合ってきた呆れるほどに弱々しい己の体は、風神により強化はされても脆弱なままである。

 どの道朽ちるのであれば、絞り出したとて遅いか早いかの違いでしかない。命を燃やして紫への殺意を高め始めると、それは巨大な竜巻と化して辰真の周囲を包み込んだ。対する紫もまた、僅かな妖力を絞り出して最後の一合に備えた。

 

 神と大妖怪。後に受け継がれていく神話の最後の場面。二人は互いに全ての力を振り絞って地を踏み砕き――その、瞬間だった。

 

 

 

 歪んだ悪意の刃が、辰真の背を貫いた――……。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「今にして思えば……あの時から既に、彼は傀儡と成り果てていたのでしょう。その思いにつけ込まれ、暴走の果てに兄を襲った……」

 

 快晴の空を見上げる紫の瞳には最早怒りなど映っておらず、ただただ哀れな運命を辿った者への哀れみばかりが感じられた。

 

 風成 嵐志。辰真の弟にして、彼を殺めた真の犯人。

 辰真の生まれ変わりであると分かった今でも吹羽には二人の気持ちがなんとなくでしか分からなかったが、この結末がとても悲しいことだというのは痛いほどによく理解できた。

 どんな理由であれ、家族を殺めるなど本来ならあってはならない。殺す方も殺される方も、それは本人たちが思うより遥かに悲しく恐ろしいことだ。

 事実――兄を殺めた吹羽だって、こんなにも思い詰めているのだから。

 

「……そのあと、どうなったんですか」

「彼は二代目として家を治め、私は影から見守る側へ」

「神話の通り、ですか」

「……まぁ尤も、あなたのいう神話も間違った形で伝わっていたようですが」

 

 ぱちんと扇子を閉じると、紫の柳眉は不満げに歪んでいた。

 

「あの男が、限界などで死ぬはずがないというのに……」

 

 神話では、人間と妖怪の限界の差によって決着がついた事になっている。プライドの高い紫は、故にこそ自分を追い込んだ人間がそんな情けない死に方をしたことになっている事実が許せないのだろう。

 ならばなぜ訂正しようとしなかったのか――そう問おうとして、吹羽は口を噤んだ。そんなのは少し考えれば分かることである。

 

『内輪揉めを恐れたのだろうな。二代目が初代を殺していたなど知れれば、矮小な一部族など簡単に分裂するだろう』

『古き器との約束の手前、それだけは避けたかったんだろうね。だから二代目を手にかけることすら諦めた。まぁ、聞き入れた動機が不純だったかも知れないけれど』

 

 “見返そうと思ったとか”。そう氏神が付け加えたのを聞いて、吹羽は確かにありそうだと思った。

 きっと紫は負けず嫌いだ。見た目に似合わず、また表にも出さないが、内側では激しい炎が燃え盛っているに違いない。優秀な存在にはよくある心理状況である。

 

 だが、そんな紫だからこそ風成家を見守り続けてくれたのだろう。山奥に暮らすただと一部族が、他の干渉を受けずに何百年と存在できるはずはない。凪紗の時代、風成家が天狗と友好関係を築けたのもきっと裏では紫が動いていてくれたのだろう。鬼に目をつけられる遠因になりはしたが、結果的に天狗も風成も永らえている。

 

 ただ、そう。

 そんな紫だからこそ――鶖飛と吹羽の誕生が、きっかけ(・・・・)となった。

 

「紫さんは……ボク達をどうしたかったんですか?」

「………………」

「ボク達が辿るかもしれない運命をお父さん達に伝えたり、殺し合わせようとしたり……なにがしたかったんですか?」

「……どちらも(・・・・)、とでも言っておきましょう」

 

 曖昧な返事――とは不思議と思えなかった。自らの影に視線を落とした彼女からは今でも迷っているような、はたまた哀愁のようなものすら感じ取れてしまったからだ。

 本当にこれで良かったのか、そう思いながらも自分の答えを信じようとする姿。吹羽には紫が、そう見えた。

 

「健全な兄妹でいるのであれば上等。殺し合ってもあなたさえ生き残ればそれもまた良し……そう思っていましたわ。あくまで目的は一つ、辰真との約束を守ることだけですから」

「っ、……」

 

 ――初めは、自分たちを弄んでいるだけだと……そう思っていた。

 紫は世にも恐ろしい大妖怪で、この世界の創造主とも言える存在で、何を考えているのかまるで分からなくて……何より吹羽は、紫という存在そのものに不思議な嫌悪感を抱いていた。そんな相手に自分が好き勝手されているなんて、例え吹羽でなくとも良い気はしないだろう。

 

 だが、彼女はきっと必死だったのだと今なら思える。表にこそ出さないが、大昔に交わした約束を守ろうとこれほど策を巡らせ、掌握し、万一も起こらないよう予防線となるものを遥か昔から張り続けていた。それだけ一途に約束を想い、守ろうと必死だったのだ。

 それ故に、吹羽は弄ばれているように感じてしまったのだろう。主となるものを徹底すればその他が雑になる。自明の理なのだ。

 

 紫は風成家に伝わる神話を“偽り”だと言った。

 確かに改竄されていた間違った神話であったが――きっと、何もかも間違っていたわけではなかった。

 

「(“それは……二人の間に奇妙なキズナが生まれていたからこそだったのでしょう”……)」

 

 小さい頃に覚えた神話の一節。それを吹羽は心の中で諳んじる。

 嘘で固められた神話の中で、きっとそれだけは……嘘ではなかったのだ。

 

「さて……問答はお終いですわ。腑抜けて(・・・・)いるようなら殺してやろうかと思っていましたが、どうやら……そうではないようですわね」

「……はい。ボクのしたことが間違っていたとは、思っていません」

「そうですか」

 

 一言を感慨なさげに放り投げると、紫は手に持つ扇子ですぅと空を薙いだ。その軌跡には薄らと線が残り、次いでばくりと口を開く。いつ見ても気色の悪いそれは、心のどこかが懐かしむ、紫のスキマ。

 その中へと消えようとする紫の背に――吹羽は咄嗟に、引き留める声を上げた。

 

「っ、待ってください!」

「……まだ何か」

「まだ……訊きたいことがあります……!」

 

 紫は振り返らなかった。しかし歩みを止めた足を肯定と捉えて、吹羽は一つ唾を飲み込む。

 そう、一番訊かなければならなかったことが訊けていない。今の吹羽にとって唯一理解の及ばないこと。そもそもの原因は――なんだったのか。

 

「夢架……ううん。夢子さんは、何者なんですか。お兄ちゃんは、一体誰に操られていたんですか!?」

「……夢子。アレ(・・)はある一柱が創った最強の魔人ですわ。準備無しでは私たちですら歯が立たないほどの、ね」

 

 紫ですら歯が立たない。その言葉に、あの日夢子が見せた妖艶な笑みがチラつく。客観的に絶望的な状況で見せたあの笑顔は強がりでもなんでもなく、ただ単純に霊夢達全員を相手にしても制圧しきる自信があったからなのだろう。氏神がいたからこそ、あの場では引いてくれた。そうでなければ強引にでも吹羽を連れていくつもりだったに違いない。

 

 紫は徐に空を仰いだ。背を向けていた吹羽には見えなかったが、なんとなく……大空を睨んでいるようにも思えた。

 

「そして、それを創った張本人――鶖飛を唆したのは恐らく、その主」

 

 

 

 ――魔界の創造神、神綺(しんき)

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 多分次回が今章最終話です。もしかしたら今回が最終話になるかもですけど……。
 あ、おまけはやってみたかっただけなので読まなくても結構ですよ(圧

おまけ〜風神と会話しようとするとこうなります 紫ver〜

狼「グルルル、ガウアッ!(妖怪め、よくも古
  き器をッ!)」
子犬「きゃんきゃん! きゃお〜ん!(今度は
  殺させないよ! ぜぇ〜ったいに!)」
紫「………………」


紫「(……かまって欲しいのかしら。懐かれる筋合いはないはずだけれど……)」


 結果……どう言っていても懐いたように見
     える。


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第五十五話 友の在り方

大変遅くなりました。リアルが忙し過ぎてひーひー言っておりますぎんがぁ!でございますが。

……はい、もっとがんばります。


 

 

 

 阿求にとって、家族に置いていかれるというのは未知のことだ。

 ”なぜ私だけ遺して”、“なぜ僕を置いていくんだ”――そういったセリフは読み物で何度も見た言い回しだし、感動的な場面であることはよく分かる。登場人物が泣き喚くその描写に心を痛めたことなどはもはや数知れない。

 しかし……常に置いていく側(・・・・・・)だった阿求にはあまりにも未知過ぎて、理解できないと言わざるを得ないのだ。

 

 阿求たち阿礼乙女は全員が初代 阿礼の生まれ変わりであり、代々その能力といくつかの記憶・経験を受け継いできた。だがその反動なのか、彼女らは総じて寿命が極めて短い。三十路を過ぎて息があれば長生きだと言われるほどである。

 百年前後を節目として幻想郷に生まれ落ちる求聞持の御子。誕生したとて、その度に前世の知人全てを失くす彼女らは別れにこそ慣れてはいるものの、それはいつだって彼女らからの離別。何度も死に別れを経験していながら、阿求は誰よりも置いていかれる側の悲しみが分からないのだ。

 況して――家族を己の手で殺めなければならなかった者の気持ちなどは、空想することもできない。

 

 しかし、そうして苦しんでいる者がいる。そして阿求はその友である。彼女がもっと小さな時から親しくしてきた親友なのだ。

 そんな彼女が苦しんでいるのならば、解決方法など思いつかなくてもいい、手を差し伸べて少しでも支えられるよう努力するべきである。その為にこの知識が役立つならば、阿求はいくらでも頭を捻り出し絞り出し、自分にできる限りの手を尽くすのだ。今までもそうしてきたように。

 

 吐いた息のたちまち白む今日、阿求は吹羽を連れて妖怪の山へと足を運んでいた。当然二人だけでは多少の身の危険が否めないので、椛に同伴を頼んでいる。二人手を繋いで――というよりは阿求が吹羽の手を引いて歩むその後ろで、椛は言葉を挟むこともなく無表情に後をついて来ている。

 

 握る小さな手の感触を確かめて、阿求は意を決するように手を引いた。その合図に、引かれる吹羽はゆっくりと俯いていた顔を上げる。

 いつも明るく笑っている彼女の顔は、しかし夜のように暗く陰っていた。

 

「見てください吹羽さん。巣で小鳥たちが鳴いてます。親鳥を待っているんでしょうか」

 

 指差した先には、葉のほとんど散った枝の付け根に作られた小さな鳥の巣。その中で、数羽の小鳥がぴよぴよと親鳥を呼んでいた。

 まだ毛が柔らかいのか見るからにふわふわで、それが数羽寄り添ってまりものようになっている。甲高い鳴き声も相まってなんとも言えない可愛らしさが溢れていた。

 

 どうにか吹羽を元気付けようと声をかけた阿求だったが、しかし当の吹羽は――。

 

「あはは……可愛いですね……」

 

 透けるような愛想笑いと、消え入るような儚い言葉が返ってくる。以前までの様子は見る影もない彼女の姿に、阿求は返す言葉も思いつかず、きゅっと胸が締め付けられる思いがした。

 

 ――あの日から、吹羽はずっとこの調子だった。

 輝くようだった笑顔は暗く陰り、風を感じようと空を仰いでいた視線はよく地面を向くようになってしまった。聞く限りでは、近頃はお店も開いておらず鋼を鍛える音も聞こえてこないという。偶に訪ねてみれば、迎える吹羽の目蓋の下には隈ができていることが多くなった。

 誰が見ても明らかなほどに吹羽は心も体も弱り切っている。きっと魔理沙でさえ今の吹羽を見るのには勇気を要することだろう。そんな彼女の姿を――親友の姿を見るのが、阿求はどうしようもなく辛かった。

 

 あの日、吹羽は鶖飛の凶行を食い止めた。

 霊夢よりも強く、また紫に対してアドバンテージを持っていた鶖飛はまさに幻想郷そのものにとっての脅威だったとも言えよう。この世界を壊そうとしていた彼を食い止めた吹羽はまさに霊夢や魔理沙と並ぶ“英雄”と称されてもなんら偽りない。

 

 しかし、吹羽が背負うことになった傷はそんなもので代われる物ではなかったのだ。

 

「(この世界を守った……そんな功績なんて、実の兄を斬った苦しみには比べるべくもない……)」

 

 否。そうして理解した気になるのは吹羽が最も嫌う行為で、愚かなことだと阿求は知っている。阿求に分かるのはそれが酷く悲しく虚しいことで、吹羽がいつまでもそれを背負うことになってしまったということだけ。きっとそれを解消できるのは同じように家族を己の手で捨てた者だけなのだろう。だが、そんな人間はそうそうにいない。

 それに、知らず知らずの内に夢架――否、夢子の隠れ蓑になってしまっていた自分がそれをできるだなんて、思うことすら烏滸がましい。

 

 ただ、だからといって傍観するだけの知人を親友とは到底呼べない。阿求は、強くそう思ったのだ。

 

『一体どうするつもりなんですか、阿求さん』

 

 すると、突然耳元に椛の問いかける声が聞こえた。流石に驚いてちらりと彼女を見ると、相変わらず無表情で後ろを着いてきている。話しかけたようには到底見えないが――その視線は真っ直ぐに阿求を指し、返答を待っているようにも思えた。

 

 恐らく、風を使って小さな音を阿求の耳元に届けたのだろう。

 音は空気の振動であり、風は空気の流れである。その特有の神通力で風を操れる天狗族、椛もその例には漏れてはいなかったということだ。

 一瞬どう返答したものかと考える阿求だったが、椛が阿求に返答する術がないのを承知していないはずはない。彼女の目の良さを信じるならば、読唇術を修めていると見てもいいのかもしれない。

 阿求は声を出さないように、唇だけを僅かに動かした。

 

『どう、とは?』

『吹羽さんをこの山に連れ出して、何をするつもりなんですか。状況は分かっているのでしょう?』

『……勿論。だからこそ、ですよ』

 

 なるほど。椛が微妙に不機嫌に見えるのは、吹羽を連れ出した阿求の行動に納得がいっていないかららしい。

 阿求は吹羽が鶖飛を斬った瞬間を見ていない。その点、椛はあの天変地異の最中にいて、決着を見届けた一人である。

 吹羽のことだ、幾ら覚悟を決めたといっても、斬った直後は恐らく少なからずの弱音を吐いたはずだ。それを直に聞いた椛は、彼女の傷を想ってそっとしておくのが一番だと考えているのだろう。

 

 確かにそれも一つの手である。傷心に不用意に触れるのはただの愚策だと阿求も思う。しかし今の吹羽には、きっとそれこそが悪手だと阿求は考えていた。

 

『そっとしておいていいのは、自分で整理がつけられる人です。悩んで、考え込んで、自分で全て背負おうとする人を放って置いてはいけません。……特に、吹羽さんのような子は』

 

 無理をして、抱え込もうとして、吹羽はあるとき阿求や霊夢にすら弱音を吐かなくなった。泣く姿どころか、二人の前ではいつだって虚なほどの(・・・・・)明るい笑顔をしていた。今でこそ遠慮せずに接してくれるようになったものの、その優し過ぎる性根が変わったわけではない。

 吹羽という少女は、手を差し伸べられない限り自分から人の手を取ろうとはしないし、全ての物事を自分でなんとかしようとする。彼女は元々そういう性格である。そんな人間を傷心のまま放っておいては、きっと近い内に壊れてしまうだろう。

 

 だから阿求はここにきた。少しでも吹羽の心を癒すために、軽くするために。仮に治すことはできなくとも、傷口を優しく撫でてあげることくらいはできる。その為の要素が、ここにはあるのだ。

 

『心配は無用ですよ。私もあなたと同じ、吹羽さんを大切に思う友人の一人です。この機会を無碍にはしません』

『……分かり、ました』

 

 不安感の拭えない椛の返答に、阿求は小さく頷いた。

 吹羽のことをこんなにも心配してくれる椛の気持ちは阿求にも嬉しいものだったが、ここは任せて欲しいと心の中で彼女に告げる。するとそれが届いたのかどうか、椛は阿求を見返して同じように頷いた。

 

「(手立てはある……今の吹羽さんに必要なのは、人との触れ合いだから)」

 

 罪は消えない。幾ら世界の危機を救ったからと言って、兄を殺めた事実はいつまでも厳然として吹羽の前に立ち塞がり、あるいはその小さな体を押しつぶすだろう。それはこれから先の未来で、吹羽が永遠に背負わなければならないものだ。

 吹羽はその全てを一人で背負おうとするだろう。誰の手も借りず、自分でなんとかしなければと。

 もちろん最終的に落とし所を見つけるのは吹羽自身だ。しかし阿求は、その過程(・・)でまで一人で背負い、無理をする必要はないと思うのだ。

 

 そしてその為には、きっとあの人たち(・・・・・)が力になってくれる。

 

「さぁ、着きましたよ吹羽さん」

「……も、守谷神社?」

 

 そう吹羽が呟いたその瞬間、一陣の風が吹き抜けた。

 緑色のか細い線を空に残し、真白い袖がはらりと舞う。視界の端に一瞬だけ映ったその光景に、阿求は“予想通り”と頰を緩めた。

 

「いらっしゃいませ吹羽ちゃんっ! ご注文はお茶ですか? 御参りですか? それとも……わ・た・し?」

 

 瞬時に背後から吹羽に抱き付いた少女――東風谷 早苗は、満面の笑みでそう言った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 初めてできた人間の友人――それが椛にとっての吹羽である。

 妖怪の山社会の下っ端も下っ端、哨戒を担う白狼天狗として椛は長年侵入者の前に立ち塞がってきた。この山を侵す者は須らく悪であり、故意に侵入してきた者には首を跳ねて歓迎し――当然ながら、人間に対する評価など語るべくもない。

 それが覆ったのは、初めて霊夢と出会った時だった。

 

 逆立ちしたって敵わない――生粋の人間を相手に初めてそう思った。

 高め続けた力も、磨き続けた剣術も、洗練し続けた体術も。その長い寿命を費やして積み重ねてきた椛の全てが、たった十数年しか生きていない人間の少女になす術なく打ち砕かれたのだ。それは椛にとって凄まじく衝撃的であり、また溢れ出すかのような理解不能(あり得ない)そのものだった。

 そしてその時の、容易に椛を圧倒した霊夢の顔はいつまでも忘れられなくなった。それは驚愕であり、恐怖であり――どうしようもなく、羨望だった。

 

 それからである。椛が風成一族に興味を持ったのは。

 椛は霊夢に真っ向から価値観を覆された。人間は決して下等生物などではなく、少なくとも自分程度の妖怪ならば簡単に超えられる能力を秘めているのだと。そんな彼女に、かつて共に平和な時代を築いていたと伝わる人間の一族がいたなどと伝われば、格好の興味の的になるに決まっていた。

 

 身体的能力も、積み重ねた経験も、何もかもが文字通り人間のそれを遥かに凌駕する天狗族。況して当時で言えば、領域を侵すことを同族にさえ恐れられた天下の妖怪。そんな存在と対等に肩を並べ、言葉を交わし、剰え生活を共にしてみせた人間たち――それは一体どんな者らで、彼らの何がそうさせたのか。

 人柄だったのか。能力だったのか。智恵だったのか。はたまた媚び諂っていただけで内心では恐怖していたのか。

 可能性は数多あり、想像に天井などなかった。そもそもが遥か昔に断裂した一族、再び二族が繋がることなどまさに夢物語

 しかし、その夢物語には想像などいくらでも詰め込める。期待なんて幾らでも重ねられる。

 

 そうして椛は――吹羽に出会った。

 

 

 

 吹羽に対する早苗の反応具合といったら、それはもう一度目にすれば焼き付いてしまうというほどのもので、事実椛は、二人が一緒に行動しているのを見たときのことを今でもよく思い出せる。

 あの時は椛と合流する前に何やら二人で揉めていたらしく、吹羽は珍しく眉を釣り上げて今にも死に果ててしまいそうな早苗に非常に刺々しい態度で接していた。

 今思えば珍しい吹羽を見せてくれたと一抹の感謝を捧げてもいい気がしなくもないが、それをしたらなんだか負けた(・・・)気になってしまうような予感がしたので、心の中の隅の隅に置いておくとする。

 なんだかんだ言って椛も早苗とは友達だと言えなくはない仲であり、しかし前提として、吹羽を間に繋がった縁なのだ。

 

 ――と、当時のことを思い出してみるが、あの時の早苗がどれだけセーブされていた状態だったのかを今更ながらに痛感する。

 

 三人が通されたのは、吹羽がかつて二柱の神に己が家の神話を語って聞かせた居間だった。簡素なちゃぶ台を炬燵もどきに改造したそれを中心にやや広めに畳が敷かれており、そのちゃぶ台の下には多少毛の長い敷布団のようなものが広げられていた。

 それを四人で囲う。案内役でしかない椛は部屋の隅で待機していようとしたが、悲しそうな吹羽の視線を向けられ、渋々と炬燵もどきに足を突っ込んだのだった。

 そして、件の早苗と言えば。

 

「ほら吹羽ちゃん、遠慮なく召し上がってください! 吹羽ちゃんの好きな鯛焼きですよ!」

 

 机の上には大皿山盛りに鯛焼きを積み上げ――

 

「喉は乾いていませんか? お茶ならいくらでもお出ししますからねっ!」

 

 お茶がなくなれば間髪入れずに注ぎ直し――

 

「そうだ吹羽ちゃん、また花札をしましょう! この間里に降りて買ってきたんですぅ!」

 

 吹羽が一息つけば共に楽しもうとどこからか玩具を引っ張り出しては大はしゃぎしていた。

 

 吹羽のお腹をたぷたぷにする気かとかわざわざこのために買ってきたのかとか、あるいは一体どうやって吹羽の好物など知り得たんだとか様々な疑問点が思い浮かんだが、この勢いの中に口を挟むのも至難だと投げ捨てておく。

 椛は無表情のまま僅かに目蓋を落として一息溢すと、隣に座る阿求に水を向けた。

 

「本当にこんなもので、吹羽さんが元気になるのでしょうか」

「ぁ、と……わ、私もここまでとは思いもよらずと言いますか、早苗さんを幾分か甘く見過ぎていたと言いますか……」

 

 口の端のひくついた不格好な笑顔で阿求が答える。彼女を疑うわけではないが、予測も出来なかったのにこの人(早苗)に頼るというのもどうなのだろう、と思わずにはいられない。

 ――否、阿求がそのような行尸走肉な人間でないことは椛も知っている。この場合は、その阿求の予想すらも超えてきた早苗にこそ驚愕を示すべきだろう。限りなく呆れに近いそれではあるが。

 

 とはいえそれで吹羽が嫌がっているのならば話は早かったのだが、案外彼女も満更ではなさそうで。

 やはり心からの笑顔とはいえないものの、早苗の過剰過ぎる接し方およびスキンシップに若干頬が緩んでいるのを千里眼はばっちりと捉えていた。

 椛は自分にできることを自覚している。自分は吹羽を武力で守ることができるが、友人として元気付けてあげることは中々難しい。その点、それを素でやってのける早苗には多少の嫉妬と羨望を感じてしまう。

 僅かに込み上げてくる悔しさを受け入れて、しかし椛は二人に割り込もうとはしなかった。今吹羽に必要なのは、自分ではなく早苗の方だろうから。

 

「“手四・牡丹”! 上がりですぅ!」

「さ、早苗さん、また能力使ってますね? ボクさっきから一枚も札出してないんですけど……」

「そういうこともありますよ吹羽ちゃん! 私、勝負事に手を抜かない性格なので!」

「早苗さんがそれを言うと本気度が違いますね……」

 

 相変わらずきらきらな眼の早苗に苦く笑う吹羽。語調に覇気は感じられないが、その儚い笑顔にはどこか以前の、そそっかしい早苗を仕方なさそうに見守るような雰囲気が僅かに垣間見えた。

 それを見て、椛はほっと息を吐く。阿求の考えには不安ばかりが頭の中で主張を強めていたが、案外無駄ではないらしい。

 

 人は人から元気をもらうこともある。早苗の底なしに明るい性格が、絶望の淵にいる吹羽に活力を注いでいるのだ。それが例え僅かな量なのだとしても、それは椛にはできないことである。

 ここは下手に出しゃばらず、見守ることに徹しよう。早苗に頼るのは微妙に遺憾だけれども。

 椛はちょっぴり片付かない気持ちを仕舞い込んで、流し込むように冷めたお茶を啜った。

 

 ――とはいえ、だ。

 

「あ、お茶が終わってしまいましたね。新しいものを淹れてきます。ちょっと待っていてくださいね!」

「ぁ、それならボクもお手伝いに――」

「いえ、私が行きますよ吹羽さん。阿求さんと一緒にくつろいでいてください」

 

 そう制して、椛は四人分の湯飲みをさっさとお盆に乗せて早苗の後を追う。その途中、ふとに視線を彷徨わせると、所々に埃だまり――と言っても本当に小さな――が見えた。守谷神社は全体的に管理の行き届いている場所だと椛は認識しているし事実そうだが、どうやら今日は若干清掃が甘いようだった。

 台所に着くと、ちょうど茶葉を取り出している早苗の姿が。椛は無言で近寄り、彼女の近くにお盆を置く。

 

「あ、わざわざありがとうございます。お客様なのに」

「いえ、これくらいはしますよ。私はただの安泰役ですし」

「あはは! その言い草、実に椛さんらしいですね!」

 

 早く持っていってあげないと。

 そう言ってお盆を持って振り返ると――早苗は足を縺れさせてよろめいた。

 

 あ、と声を出すより、手が出る方が早かった。椛はお盆に乗せた湯飲みが傾く前に早苗の背後から腕を回し、腹部を抱え込む形でよろめく彼女を支える。そしてお盆も早苗の代わりに持ち上げて、お茶が飛び散るのもついでに防いだ。

 腕にも早苗の激しい鼓動が伝わってくる。彼女も相当に焦ったらしい。

 

「――ッ、あ、ありがとうございます椛さん……」

「気を付けてください。熱いお茶を持っているんですから」

 

 と、腹部に回した手を解く椛。危うく熱湯をかぶってしまうところを救われ、早苗は冷や汗と恥ずかしさに頬を赤くした。

 軽い礼を言って早苗はお盆を受け取ると、そそくさと再び歩き出そうとするが――椛はその背を、敢えて呼び止めた。

 

「早苗さん」

「は、はい?」

「………………」

「な、なんですか? あまり見つめられると恥ずかしいんですけど……」

 

 吹羽にも似た若葉色の瞳に困惑が浮かぶ。それが本当に見つめられた羞恥を原因とするものだったのなら椛は何も言わなかったのだが……残念ながら、そうではないらしい。

 早苗の感情を読み取るべく発動していた千里眼を解いて、椛は小さく息を吐いた。

 

「な、なんですかそのため息!? 転びそうになったのそんなに哀れだったでしょうか!?」

「……早苗さん」

「それとも椛さんの中では私はそこまでの残念キャラだったんですか!? 哀れというか呆れというか、まさか私……諦められてる……ッ!?」

「早苗さん」

「流石にそれは心外ですよっ。ええ心外ですとも! これでも半分神様な現人神JK! もふもふ狼天狗さんに諦められてはモフリストの名が――」

「早苗さん!」

「っ、……」

 

 矢継ぎ早な早苗の言葉を断ち切って、椛は早苗にずいと近寄る。相変わらずの素っ頓狂なテンションだったにも関わらず、早苗の困惑した瞳の中には明らかに狼狽が見て取れた。

 何に狼狽しているのか――大方の予想が付いている椛は、故にこそ言わねばならない。共に吹羽を案じる、友として。

 

「……あなたが無理をしても、吹羽さんはきっと喜びませんよ」

「――ッ!」

 

 びくりと体を震わせて、早苗は一歩後ずさった。その拍子にお盆が揺れてお茶が僅かに溢れるが、二人ともそれを大して気にはしなかった。

 早苗の口の端が、不格好に上がる。

 

「あ、あはは、何言ってるんですか椛さん? 私が無理なんてする人間に見えますか? 自分で言ってはなんですが、こう見えて私、自分の欲望には結構素直なんですよ?」

「見えませんし、知ってますよ。あなたは無理して自分を押さえ込もうとはしない……悪くいえば非常に厚かましい性格をしています」

「なんでわざわざ悪い方を言うんです!?」

 

 早苗の嘆きは聞き流して、

 

「訳が分からないくらいに天然で、湧き水よりも純粋で、そのくせ嵐のように他人を巻き込んでは場をかき乱す。何度面倒な人だと思ったかはもう数えていませんよ、ええ」

「も、椛さんの中でどれだけ私が酷い印象なのかはひしひし伝わってきますよ、はい……」

 

 いよいよ暗い影を背負い始めた早苗を見る椛の瞳は、しかしさしたる悪感情は宿っていない。事実、椛の中では彼女の印象こそ“めちゃくちゃに面倒くさいことをする人”でコンクリートのように固まってしまっているが、それが悪感情に繋がるかと言えばまた別の話だからだ。

 なにせ椛は知っている。彼女がそういう性格で、しかしだからこそ人を思いやる気持ちにも際限がない。それこそ、吹羽を“我が儘”で救った椛に、吹羽のために感謝をするほど。

 故に。

 

「焦っているんでしょう? 自分が吹羽さんにしてあげられることが、とても少ないことに気が付いて」

 

 ――友人というのは、とても中途半端な関係だと椛は思っている。

 他人よりは遥かに近くて、家族よりは遥かに遠い。当人にとってどうでも良くはないが、比較的容易に切り捨てられる……それが友人という関係性の距離感(・・・)である。その中である程度の“唯一性”を持たせられた二人が、互いを親友と呼び合うようになるのだ。

 

 友人が友人にしてあげられることは少なくはない。だが、親友がしてあげられることに比べれば天と地の差であり、言葉の重みも変わってくる。

 早苗は今まさに、自分が吹羽の友人であること(・・・・・・・)に焦っているのだ。

 

「吹羽さんに起こったこと、どのように知ったんですか?」

「…………諏訪子さまから、ことの仔細を伺いました。あの日、強大な神力の発現に気が付いて、ミシャグジ様を放っていたんです。……それを通して」

「なるほど」

 

 風成家の氏神――級長戸辺命は国産みの二柱から生まれた高位の神格。その強大な神力は、吹羽が真の終階を発動した際に幻想郷中に響いていたはずだ。同じく神である洩矢 諏訪子が反応しない訳はない。

 激しい戦闘の中で気がつかれない程度の小さなミシャグジ様を通して、彼女はことの経緯を見ていたのだろう。そしてそれが、そのまま早苗に伝わった。

 

「椛さんは……あの時あの場に、いたんですよね……どう、だったんですか……?」

 

 曖昧過ぎるその問いに、椛はしばし黙り込む。

 きっと早苗自身にも、自分が何を問いたいのかは分かっていないだろう。問いたいことが多過ぎて何から問えばいいのか分からないが、とにかく問わずにはいられない――行動せずにはいられない。

 そうした、焦燥感を動力とした行動に椛自身も心当たりがあるのだ。

 

 だから――今度は自分の番だ。あの時の萃香のように。

 

「必死でしたよ。私も霊夢さんも、萃香様だって。少しでも吹羽さんの力になりたくて、助けてあげたくて……その一心で、私は刀を振るっていました」

「っ……吹羽ちゃんを……守るために……」

 

 吹羽のために力を振り絞った。

 その言葉に、早苗が胸を針で刺されたようにたじろいだのを椛は見逃さなかった。

 眉は垂れ、唇は震えるのを我慢するように引き結ばれている。前髪に陰った瞳からは、いつ涙が溢れ出すのかも分からなかった。

 堪えるようなその表情の内にあるのは、きっと……無力感だ。

 

「……私は、吹羽さんを大切に思っています」

 

 唐突な切り出しに、早苗はゆっくりと視線をあげる。椛はその視線を敢えて切って、目を閉じて、心の内をありのまま曝け出すようにして言葉を紡ぐ。

 

「昔から、風成という姓の人間に興味を持っていました。天狗は妖怪社会を担う一翼、誰もが恐れ慄く我々のその隣に……肩を並べていた人間たちがいた――」

 

 霊夢によって覆された人間に対する評価。それを真っ直ぐに刺激したのが、風成という人間の存在だった。

 

「わくわくしました。霊夢さんのように種を超越したような人間が、大昔は自分たちの近くにいただなんて。それも共存していたんですよ? 天狗と人間が。それがどんな人たちで、どんな力を持っていて、どうしてそうなるに至ったのか……興味が尽きませんでした」

 

 そして、そうした下地と年月を積み重ねて遂に風成の末子、吹羽と出会った。

 あの時の言いようのない歓喜を椛は忘れられない。それは生き別れになった姉妹と再会するようでもあって、あるいは恋焦がれた恋人とようやく会えたかのような感動にも近くて。

 

 風紋刀を見せられて、それが間違いなく本物だと確信したときの、溢れ出すあの気持ちの抑えようのなさといったら。

 きっと尻尾は無意識にぶんぶんと振るえていて、鉄面皮並みに動かないこの顔もふにゃりと笑っていただろう。心変わりが早過ぎて若干吹羽にも不思議に思われていたかも分からない。それらを思うと、今では少し小っ恥ずかしくもあるが。

 

「吹羽さんと接して、その時間こそとても少なくはありましたが……その内に私の興味は“風成”から吹羽さん自身へと移って行きました。あんなに健気で、優しくて、儚くて……心の強い人間は、そうはいません」

 

 きっと吹羽にも、霊夢と同じような人を惹きつける力がある。それが何かは分からないし理解する必要もないが、それよりも重要なのは椛も彼女に魅せられた者の一人だということ。

 友として、吹羽を好ましく思っているということ。

 

「友人でありたいと……そう思ったんです。ようやく繋がったこの不思議な縁を、簡単に切りたくはないと。切れない努力をしたいと。そうして何かしていないと……どこか遠くに行ってしまうような気がしたんです」

「どこか、とおく……」

 

 虚に響いたその声に、椛はようやく早苗へと目を戻した。

 彼女の視線は再び地に沈み、もはや目元は影で見えなくなっている。その震える双肩が、彼女の心の内を如実に表していた。

 

「(そう……まさに今回のことは、吹羽さんが私たちの前からいなくなってしまう、その瀬戸際だった)」

 

 吹羽が鶖飛について行ったとしても、自分たちが殺されていたとしても、吹羽が鶖飛に打ち勝たない限り待ち受けている未来は決まっていた。そしてそれは、早苗が自分の無力を痛感するのに十分過ぎる出来事だったはずだ。

 事件そのものにも蚊帳の外で、吹羽を助けに参上することもできず、それを知ったのさえ全てが終わったあと。友を自称する者としては、これ以上に耐えがたいものはないだろう。

 だからきっと、焦っていたのだ。自分にできることが思っていたよりもずっとずっと少なくて、それでも友として一緒にいたいから、早苗はいつもよりもハイテンションに接しようとしている。その内側にある無力感や劣等感をひた隠しにして、無理矢理に笑顔を作って、せめて吹羽を元気付けようと躍起になっているのだ。

 

 それを否定したいわけではない。努力のできる者を椛は敬うし、貴いとも思う。早苗がやろうとしていることは紛れもなく、現状を打破しようという努力に類するものだ。

 だが……それらは目的を持たなければただの独り善がりでしかなく、ともすれば迷惑にさえなってしまう。それを椛は、萃香にぶん殴られて教えられた。

 

「早苗さん、あなたの気持ちが真なるものなのは百も承知です。あなたは純粋で無鉄砲で愚かしく、だからこそ嘘を吐けない。あなたがやろうとしていることは間違い無く善意でしょう。ですが――それは、本当に吹羽さんのためですか?」

 

 善意とは他人には判断できない。普通の人間は心の内など見透かせないからだ。

 早苗のそれは、本当に吹羽のためにやっていることなのか? そう言葉で塗り固めているだけで、それをたった一枚剥がせば“とりあえずためになりそうなことをやっているだけの自己満足”ではないのか?

 

 あの時の自分の姿がフラッシュバックする。

 何ができるかも分からずに森を駆けていたあの時の自分は、ひょっとしたら文の、吹羽の、霊夢の――あるいはそれ以外の誰かの想いや心を踏みにじっていたかも分からない。

 意思というものの大切さをよく知っている萃香に叩き直されなければ、今の自分はないのだ。

 

 早苗の無理矢理な吹羽との接し方には違和感があり過ぎた。ただでさえ過剰な彼女の調子がことさらに外れているように見えたのだ。あれはきっと、何もできない自分を行動で否定しようと必死になっているだけだ。そんな自分勝手な考え方で、自分の大切な友人と関わらせるなんて言語道断――椛は、そう思った。

 

「私は吹羽さんの友であり、剣です。吹羽さんが苦難に向かうというならその隣で力になる。脅威があるなら打ち払う。吹羽さんが平和に暮らせるように……私たちが平和に友でいられるように」

 

 そのために刀を振るう――と。それが椛が自分に定めた友としての在り方。

 奇妙で数奇な星のもとに生まれた吹羽。そんな彼女と友でありたいと願うなら、自分にできるのはきっとこういうことしかない。

 そして早苗も、そうありたいと願う同士であるなら。

 

 

 

「早苗さん。あなたは友のために何ができますか? 何をしたいですか?」

 

 

 

 ゆらりと揺れる早苗の瞳を椛は真っ直ぐに視線で射抜く。この問いから逃げさせはしないと縫いとめるように。

 

「私に、できること……したい、こと」

 

 これは早苗のためでもあり、何より吹羽のためである。誰だってなぁなぁで済ませられる友人関係になど望んで留まりたいわけがないし、その程度の想いなら吹羽にとっては必要ないとすら椛は思うのだ。

 ここが争いのない真に平和な世界ならそれでもいい。でも現実はそうではない。“幻想郷はすべてを受け入れる”とはかの賢者の口癖のようなものだが、その実この世界は、適当を許すほど優しくはないのだ。

 

「――まぁ、それをこの場で見つけろとは言いませんよ。考えて見つかるものでもないでしょうし」

「そ、それなら、どうやって見つけるんです……?」

「見つかるべくして見つかる……と、私は思います。探し続ける限りは、ですが」

 

 椛は萃香との戦闘の最中に見つけた。だが当然のこととして、必ずしもその中に見つけられる訳ではないだろう。ただ経験(・・)として、椛の場合は戦闘の中にそれを見つけたというだけ。早苗には早苗のできることがあり、それが椛と決定的に違う以上、戦闘以外の場面で見つかる可能性は大いにある。

 だがそれは探し続けていなければ見つけられない。答えを答えとして認識できない。いつ見つかるかも分からないそれには、きっと早苗が吹羽と友でありたいと願う気持ちの強さが、大きく影響してくるはずだ。

 

 吹羽を縁に繋がった仲――しかし確実に早苗の友(・・・・)でもある椛としては、ぜひに答えを見つけて欲しい。

 椛が早苗に願うのは、それだけだ。

 

「さて、無駄話をしてしまいました。二人が待っています、早く戻りましょう」

「……はい」

 

 椛が話は終わったとばかりに背を向けて歩き出すと、早苗は僅かに俯きながらその後に続く。途中は物静かなものだったが、居間が近くなると早苗はいつの間にか笑顔を取り戻していた。

 ――否、今はきっと仮面だろう。答え云々はこちらの問題で、苦悩に悶えた表情で吹羽を不安がらせることの方がよろしくない。それが分からない彼女ではなかったらしい。

 

 居間に戻ると、縁側の方に腰掛けて空を仰ぐ阿求の後ろ姿があった。吹羽はその膝の上に頭を乗せて、ゆっくりと胸を上下させている。

 入ってきた二人に気が付いて、阿求はちらりとこちらに振り向いた。

 

「あ、おかえりなさいお二人とも。少し長かったですね?」

「すみません、早苗さんが急にお花を摘みたいと言い出したもので、待っていました。本当に間の悪い人です」

「ぇ、あっ、間の悪さは私のせいじゃなくないですか!?」

「しっ、吹羽さんが起きてしまいます。お静かに」

「解せないです……っ!」

 

 椛の咄嗟の誤魔化しと平常を感じる早苗の返しに、阿求はころころと小さな笑い声をこぼした。それが“理解して”のことなのかは椛には分からなかったが。

 

「二人の仲がよろしいようで、少し安心しました。吹羽さんが起きていたら、きっと笑ってくれたと思います」

 

 目尻に溜まった涙を指で掬い、阿求はそっと膝で眠る吹羽の髪を撫でた。

 細く柔らかい白髪が頬の上で揺れる。そうして覗いた横顔は安心しきっていて、いっそ無防備すぎるとさえ思えた。

 ただ、始終暗い影を落としていた彼女の表情に一時でも安らぎが見られることに多少の安堵が溢れる。同時にそれが儚すぎるようにも思えて、椛は僅かに目を細めた。

 

 安らかなこの表情が、今にも苦痛に歪んでしまいそうにも思えて、静かに拳を固く握る。

 椛は、この少女の剣である。

 

「さて、ひと段落したところで」

「?」

 

 阿求はそう溢すと、吹羽の頭を座布団に置き直して正座のまま二人の方に向き直った。

 いや、二人のというよりは、早苗の方へと視線をも向けて――ここに訪れた、その目的そのものを口にする。

 そう、此度の二人は椛に会うためでも、況して早苗に元気をもらうためでもなく、

 

「早苗さん」

 

 

 

 ――八坂 神奈子様に、御目通り願います。

 

 

 

 かの軍神――否、風神(・・)に会いに来たのだ。

 

 

 




 今回のことわざ

 なし

 最近吹羽ちゃんが元気ないのでことわざ言ってもらうタイミングが……。天丼ネタにしたくてこうしてたのに、もしかしてもはや意味無し……?


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第五十六話 風の始祖

 お待たせしました。
 ようやっと最終話。次回から新章です。
 ご質問があれば遠慮なく。


 

 

 

 凪いだ水面に一滴の滴が落ちる。

 たった一つ――不思議なことにも、広い湖の中でその一つのみが葉からこぼれ落ち、時の止まった空間を乱すように波紋を広げ、やがて消えていく。

 風も音も、何一つ動かぬ凍結した空間。

 己という個を極限まで薄く広くし、空間そのものと同調する瞑想の極地。拡大した感覚は空間と重なり合い、その果てに自然そのものと調和する。単なる瞑想を遥か極みにまで昇華させたそれは、まさに空間そのものを主――八坂 神奈子の心を映す鏡へと転換させたものと言って過言ではない。

 そこに、雫一滴。

 その変化は、静謐であるべき心に乱れが生じたのと同等の意味を持っていた。

 

 神奈子には、考えていることがあった。

 

 いつかこうして瞑想している最中に賢者が残した、いくつかの言葉たち。

 遠回りで要領を得ないそれらはまさしく彼女の言葉としてふさわしいものだったが、あれから日を幾日か跨いで未だにそれらが神奈子の頭を悩ませていた。

 

 神として成り上がって(・・・・・・)幾星霜、神奈子が積み上げ蓄えてきた知識と記憶は膨大である。崇め奉られる神格の一柱として多くの人間たちを見守り、時にはその権能で障害を退けた。それを当時の人間たちは“神の御加護”だとかなんだかとやたらもてはやしたものだったが――

 

「(……いや、それを私はこうして覚えている)」

 

 一陣のそよ風が葉々を揺らし、無数の水滴が湖面に落ちる。その波紋は無造作に水鏡を崩し、水面に写る彼女の顔を悩ましげに歪めた。

 覚えているものは問題ではないのだ。神奈子の頭を悩ませているのはそうではなく、むしろ覚えていないもの(・・・・・・・・)の方である。

 

 何か――何かを忘れている。あの時賢者が向けてきたのは、何事かを忘れてしまった神奈子への失望と諦観だった。或いはそこから派生する別の物事への興味だったかも知れないが、それは今の思考には些末なことだ。

 

 記憶とは厄介なもので、積み上げれば積み上げるほど己を成長させ高めてくれるが、反面で色付いた過去を薄めていく。その時は大切と思ったことも、知らず知らずの内に糧となったことも、時の流れと積み上げた記憶は分け隔てなく押し流していくのだ。時に自分の都合のいいように改竄してしまっていたりもするのだから、これほど己に甘く当てにならないものはそうないだろう。

 

 神奈子は神である。

 大昔、世を治めた大和国仕えた軍神の一柱。元はと言えば、それより以前に能力を持って生まれ落ちた一人の人間(・・・・・)である。その”乾を操る程度の能力“があまりにも人を逸脱し、崇められ奉られ多大な信仰心を集めてしまったが故に、現人神を経て本物の神格へと昇華した。

 故にこそ彼女は成り上がりであり、存在してきた時間はもはや数えることなどできはしない。

 況して、人間だった頃の記憶なんて――

 

 と、その時、草花が揺れた。

 

 まるで己の存在を誰かに示すかのように、感覚の端に揺れて彩る小さな花弁。この感覚には覚えがあった。

 胡座を崩し、湖面に真っ直ぐ突き立った御柱の上に立ち上がる。そしてゆっくりと振り返り、この湖の入り口――守谷神社の方角を見遣る。

 四人の、少女の姿。

 

「さて、我が神域に何用かな稗田の当主。そして……」

 

 向こうからは見えていないであろうこちらに向けて、恭しく頭を下げる少女。そしてそのすぐ後ろに、白髪を揺らす憂き顔の少女が見えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 早苗の案内によって、椛、阿求、吹羽の三人は神奈子がいるという湖へと足を運んでいた。

 守谷神社の裏手にある湖は、早苗らが幻想入りした際に神社と共に転移したものだ。その大きさは向こう岸が視界に入らないほどのもので、岸辺に立つとそこが山の頂上であるということを忘れてしまいそうになる。

 早苗曰く、神奈子は定期的にこの湖の中心で瞑想を行うのだという。今回はちょうどその時間に当たったらしく、裏手へ出ると、早苗を除く三人はその不思議な光景に少しの驚愕をこぼしていた。

 その感嘆を言葉にしようとして――頭上から声。

 

「随分と表情が変わったものだね。以前とは見る影もないよ」

 

 見上げると、そこには美しい女神の姿があった。

 紫紺の髪には艶が乗り、成熟した豊満な肢体は凛とした様相により純粋な感動を見る者に与える。その背に背負う巨大な注連縄はその姿に威容と神々しさを加え、まるで大空を見上げているような気持ちにさせられる。

 八坂 神奈子――かの軍神が、四人を見下ろしていた。

 

「お取り込み中のところ申し訳ありません、神奈子様。お叱りは早苗さんではなく、どうかこの私に」

「この程度のことで怒りはしないさ。君も相変わらず態度が硬いね、稗田 阿求。まぁ、本来はそれが正しい姿勢……といえばそうなんだがね」

 

 神に対する阿求の態度は至極正しいものだ。強いて言うのであれば祝詞に乗せるのが神との対話におけるセオリーだが、実際に顔を合わせて相対しているために敢えて硬い敬語を使ったのだろう。

 成り上がりであることをよく自覚している神奈子が、対話における礼儀をそこまで重要視していないから、というのもあるだろうが。

 

「何の用か……なんて、問うまでもないことかな」

「こちらの事情をご存知なのですか?」

「知っている、というほどのことでもない。此間の強大な神力の出現、天変地異、そして君の後ろで俯いているその子は、きっと君が連れてきた(・・・・・)のだろう? 大まかな察しはつくというものさ。……何か、あったんだね」

 

 凛として、しかし柔らかい微笑みを讃えたままに言う神奈子に、阿求は話が早いとばかりに小さく頷く。

 吹羽のことであると分かっているのであれば、恐らくは鶖飛の件に関しても察しはついているだろう。彼自身のことに考えが及んでいるかは定かでないが、あの日現れた神力が吹羽を依り代としたものであり、降りたのが風の神であるということは当然分かっているはすだ。そして、そうなるに至る何事かがあったということも。

 

 それを追求するつもりはない。当事者でない者がどこまで事を理解しているかなど探ったところで益はないし、やたらに確認して知らなかったことまで聞かせる訳にはいかないからだ。況して、そうして嫌な思いをするのは阿求でなく、吹羽なのだから。

 

「ふむ……そのように落ち込んだその子をなぜ私の元に連れてきたのかが分からないね。面識こそあれ、お互いに知人程度の認識だったはずだが」

「分からないのは承知の上……いえ、そうかも知れない(・・・・・・・・)とは思っていました。しかし、どうか聞いて頂きたく存じます」

「?」

 

 阿求の行動に無理解を示す神奈子の言葉を、当の阿求は否定しなかった。そして、それを承知で来たという彼女に、椛や早苗、吹羽すらも困惑を宿して目を向けた。

 視線を背に感じながら、阿求は毅然とした瞳で神奈子を見上げる。拳を自らの胸に押し当て、吹羽の手を強く握り返して、

 

 

 

「吹羽さんをこちらに――守谷神社に、預かっていただきたいのです」

 

 

 

 誰も予想だにしなかった提案を、口にした。

 

 反応は十人十色。阿求は言葉を待つようにジッと神奈子を見つめ続け、その神奈子は表情を消して阿求を見つめ返す。一柱の神として、目の前の人間の品定めをしているような眼差しだ。椛は阿求の横顔に向けた目を大きく見開き、早苗は話の拗れを予想したのか眉を八の字に傾けている。その瞳の中に僅かばかりの喜色が見えるのは、やはり嘘を吐けない彼女の性というところか。

 そして吹羽は――困惑、不安、驚愕。様々な感情が渦巻く複雑な瞳を、阿求に向けていた。

 

「ち、ちょっと待ってください!」

 

 いち早く声をあげたのは椛だった。見開いていた目を険に細めると、鋭い犬歯を覗かせて食いかかる。

 

「吹羽さんを守谷神社に預けるって……何を言い出すんですか!? 理解不能です!」

 

 それでは、適当に問題の解決を待つと言っているようなものではないか――椛の口調には、そうした非難の念が感じられた。

 しかし、阿求はそれに取り合わない。横目でちらりと椛を見遣るだけで、真正面から受け止めようとはしなかった。――否、椛の言葉は、至極当然であると理解している故に(・・・・・・・・・・・・・・・・)、言葉を重ねず切り捨てる。

 

 だがそんな阿求の態度が椛にはふざけているように見えたらしい。胸ぐらを掴みかからん勢いで詰め寄り、神奈子へと向かう視線を遮るように立ち塞がる。

 

「百歩譲って、あなたが預かると言うなら分かります! 吹羽さんもその方が安心できるでしょう。ですが、今回の件に何の関わりもない相手に預けて経過を待つなんて……一体何のために吹羽さんをここに連れてきたんですか!?」

 

 今の不安定な吹羽は整理がつくまでそっとしておくべきであり、それがダメならば心休まる相手との触れ合いによって回復を待つ他ない――それが椛の考えである。後者はどちらかというと阿求の言葉を汲んだ故の考え方ではあるが、兎角吹羽に負担をかけさせないのが最善であるというのが彼女の言い分だ。

 阿求にもそれは分かっている。“吹羽の友であり剣“を自称する彼女らしい考え方だ。幾ら主が傷付いても、剣が主を癒すことはできないのだから。

 

 阿求は逃げずに彼女の視線と圧を真正面から受け止める。椛の意見は至極正しく、それが理解できるが故に阿求はその目線に真っ向から向かい合わなければならない。自分にも考えと信念がある限り、そうした意見から逃げてはいけないのだ。

 椛からの怒りを一身に受ける阿求に、今度は背後から。

 

「あ、あの、預かることに関しては構わないというか、個人的にはむしろ望むところなのですが……預かって、どうしろというんです?」

 

 椛と違い、早苗の言葉には大きく困惑と不安が滲み出ていた。手前勝手に大役を押しつけられたとあればそれも無理からぬことだろうが、そこで“ふざけるな!”と罵声が飛び出ない辺りが実に早苗らしい。

 そして素直に己の欲望が口の端から漏れ出ていることに、改めて早苗が信頼に足る人物であると阿求は認識できた。

 きっと早苗は、どうあっても吹羽を裏切ったりしないだろう。

 

「別に何をしろというわけではありませんが……」

「っ、あなたは……吹羽さんを放置するに飽き足らず、その責任をも早苗さん達に押し付けるつもりですかッ!」

「少し落ち着いでください椛さん。私は何もそう言っているわけではありません」

「落ち着け!? 落ち着かなくさせているのはあなたでしょう!」

「ああの、喧嘩は……!」

 

 

 

 ――刹那、背筋も凍るプレッシャー。

 

 

 

 早苗の言葉は断ち切られ、牙を剥いていた椛さえも大量の脂汗を噴き出させた。阿求などは言わずもがな意識を保つのもやっとだが、なんとか吹羽の風除け(・・・)程度の役割は果たしていた。

 何者からの圧力かは考えるまでもない。少しでも気を抜けばあっという間に暗転してしまいそうな瞳を圧に逆らって持ち上げ、目の前の――眉根を寄せた神奈子を見上げる。

 

「……喧嘩は良くない。君たち人間は手を取り合うことこそを力とするのだからね。私をあまり失望させないでくれ」

「っ、お……お見苦しい、ところを……」

「ああ、そうだね」

 

 瞬間、解かれる神奈子のプレッシャー。水底深くに沈められたような感覚が一気に解かれると、阿求は無意識に息を止めていたことを思い出して盛大に咳き込んだ。

 ――否、強大な神格の力を正面から受けて、呼吸すらままならないほどに中てられていたのだ。神奈子の言葉は優しく穏やかではあったが、その裏に秘められていたのは”()の前で言い争いとは、随分人間は偉くなったものだな“という怒りに他ならない。古くから人々は神を前にしたとき、その面前に傅き敬い崇め奉り、その言葉を拝聴できることに至上の喜びを得なくてはならないのだ。それを欠いた者共(阿求たち)に、あるいはこれは神奈子からの怒りと罰である。

 

 神とは誰も彼もが利己的で、自分の価値を誰よりも分かっている。柔和な印象の神奈子ですらそれは変わりないこと――それだけの話。失望させるな、とはそういうことだ。

 

 神奈子はそんな阿求たちを気にも止めず、腕組みに一つ息を吐くと、

 

「だが、誰の言い分も理解はできる。私たちがその子を預かって何になるのか……まずは君の考えを訊きたいと思うよ。まさか何の説明もなしに預かれというわけではあるまい?」

 

 神奈子の問いに、ようやく息を整えた阿求は神妙に頷く。

 彼女の言う通り、何の考えもなしに吹羽を他人に預けようなどとは思っていない。それは信頼を寄せてくれる吹羽を裏切るのと同然の行為であり、そんなことは死んでもしたくないと思っている自分を認識しているからだ。

 椛の言い分は尤も。先程彼女に伝えた通り、吹羽が自分で心の整理をつけられるならば阿求もそっとしておいただろう。だが事実として吹羽は兄を殺めたことに深過ぎる傷を負い、今もそれを雨風に晒しているような状態だ。

 ならば阿求が手を差し伸べなくてなにが友情か。なにが絆か。なにが親友か!

 背後で力無さげに手を握るこの少女の、この不安に押し潰されそうな顔を、阿求はどうしても許容できないのだから――。

 

「……始まりは、吹羽さんが私の家の書庫で見つけた、一枚の家系図です」

 

 頭の中で組み上げていた理論を阿求は順序よく語っていく。時に想像も混じえつつ、阿求はいつか吹羽に語った結論を神奈子にも披露した。

 その家系図がおそらくは初代風成家当主の持ち物であろうということ。風成家の尽き果てぬ風神信仰。そして、塗り潰された名前。

 それを神奈子は感情の読み取れない、しかし真っ直ぐな瞳で聞いていた。語っている阿求ですら本当に伝わっているのか確信が持てず、口を動かしながらも内心で困惑を積もらせるほど。

 

 だが同時に、止めようともしていない。それに阿求は、なんだか結論を急かされているような気持ちになって。

 舌で唇を湿らせると一つ指立たせ――神奈子へ見せつけるように、提起する。

 

「疑問は一つ……なぜ、元の一族が消えてしまったのか」

「ふむ……一族が滅びる理由など幾らでもあるだろうね。大飢饉、お上の勅命、戦争なんかもよく聞いた話だ」

「ええ。ですが、それでは辰真さんが生き残っている理由がない」

 

 神奈子の挙げた例は確かに代表的だ。どれも一つの族が消滅するには十分に足る理由だし、事実それが大昔からあちこちの村や集落で繰り返されてきたことであるのは歴史が証明している。

 だが、そのどれも一族全てが息絶える形である。飢饉では全員が飢死に、勅命であれば一族郎党皆殺しにあうこともあったろう。戦争などは語るべくもない。――これでは辰真は、生き残っているはずがないのだ。

 で、あれば。

 

「私はこう考えています。元の一族が消えてしまったのは……いわば内乱。それも、縋る先を失って分裂した(・・・・・・・・・・・)形の」

「分裂……縋る先?」

「はい」

 

 無理解を示すように反芻する早苗の言葉を、阿求は短く肯定した。

 いつの時代の人間もなにかしらに縋って生きている。親を信じる、友人を信じる――神を信じる。言わば心の寄りかかる先であるところの“信じるなにがしか”を持たなければ、人は芯を失くして立つことすらできないからだ。

 

「それが突然消え去ってしまえば、崩れ去るのは自明の理。神奈子様や早苗さんは、そのことをよくご存知かと」

「――……」

 

 “信じるなにがしか”。その際たる例が神であろう――阿求の言葉は、その裏にそうした意味を秘めていた。

 向けられた問いになにも答えないのは、彼女ら――この場合は主に神奈子――がその“信じるなにがしか”に成りきれずこの地に逃げ延びてきたことを自覚しているからだろうか。

 彼女らのことを幻想郷縁起に書き記した阿求は二人の心境をそうして推し量りつつ、しかし躊躇わない。

 神奈子は軍神としての信仰を失い、この地に逃げ延びてきた。何をどう取り繕っても忘れ去られた存在(・・・・・・・・)であることに違いはない――れっきとした、幻想郷住民なのだから。

 

「……それで、消え去った縋る先とはなんなのですか。重要なのはそこでしょう」

「――そうですね。極論、それこそが最重要です。それそのものが内乱のきっかけと言って過言ではないでしょうから」

 

 焦れる椛の声を肯定して、しかしその問いの無意味さに軽く吐息を漏らす。それを目敏く感じ取ったのか椛は再び目に険を宿すが、突っかかろうとはしなかった。

 きっと彼女も半ば答えを確信しているのだろう。ただ、それを自らの口で暴くことがどれだけ不敬(・・)であるかを理解しているだけであって。

 故に、阿求は。

 

「そうですよね……風神(・・)、八坂 神奈子様」

 

 瞑目して、阿求の推論に耳を傾ける彼女へと水を向ける。

 

「……私をそう呼ぶのは、この世界に来て二人目だよ、稗田 阿求」

 

 神奈子は疲れたように小さく息を吐くと、組んでいた腕を下ろして気怠げに座り込んだ。

 その場に足場など存在しない。まるで空気が彼女を支えているかのように、神奈子は文字通り空中に座り込んだ。本来ならば御柱を出現させてから座るところだが、ようやく目を開けた彼女の瞳にはひたすらに呆れと諦観、そして身を重くするほどの億劫さが浮かんでいた。

 

 そう、阿求は神奈子が元は人間であることを看破している。より正確には、彼女が瞑想をしていると聞いたことで予測が確信に変わったのだ。

 瞑想とは己を見つめ直すために行うもの。その存在そのものが人間の願いや希望によって定義付けられる神格にとって、本来は不必要なもののはずなのだ。己を見つめ直したところで、その存在の維持にも意味にも影響はないのだから。

 となれば、聡明な阿求は結論付けるのになんの躊躇いもなかった。瞑想が必要となる神など聞いたことがないが、人間から神になったのであれば可能性としてはあり得る話である。そしてそれはまさに――神奈子がかつて、人間を逸脱した(・・・・・・・)何よりの証左でもあり。

 

「なにがどうして、私はこうも見透かされるのかね。なぁ、歴史家」

「……あなたが未だ、人間味に溢れ過ぎる――そう言ったら、お怒りになられますか?」

「いや……あながち間違いではないのかも知れないよ、それは。疲れもすれば泣きもする。こうして自分にさえ呆れられるんだから……やっぱり私は成り上がりということさ」

 

 はぁ、とため息を吐く神奈子。その様子に阿求は、やはり彼女は人間らし過ぎると思い直して苦笑する。

 神というのは自分本意で、常にマイペースだ。それは己の存在理由と価値をよく理解しているからであり、それを思えば当然のことでもあるが――神奈子は、どうだろうか。

 

 彼女自身が言うように、何事かを厭わしく思えば疲れるし悲劇があれば当然のように悲しむ。自分の価値を誰より知っているはずなのに、自分自身に呆れることすらできてしまう。それらは全て――神奈子の根本的な部分が未だ、人間だった頃の心を忘れていないからだ。

 

 洩矢 諏訪子などが良い対比だろう。彼女はいつでものほほんとしていて、誰と相対してもそのスタンスを崩さない。何処かへふらりと出掛けてはいつのまにか帰ってくるし、はたまた出掛けたと思っていれば屋根の上でくつろいでいるだけだったりする。早苗にいたずらしようと隠れているだけだったりもする。

 自分本意ここに極まれり。それでも早苗だけにはある程度の温情や愛を感じさせるのは、恐らく彼女が遠い子孫に当たるからだろう。そこだけは例外ではあるものの。

 

「ま、まさか……」

「……そう、そういうことです、椛さん」

 

 ここまで解いて、ようやく同じ結論に至ったと見える椛が驚きに目を見開く。それを横目で確認して、その瞳の中に同時に納得の色も窺えることを阿求は見逃さなかった。

 そうだろう。そうだろうとも。

 なにせ椛はあの決戦に参じていたのだから。吹羽が――巫女でもなんでもないただの少女が、強大極まりない高位神をその身に降ろす瞬間を目にしているのだから。

 

 

 

「“神に連なる子”。風成家――吹羽さんは、神奈子様の遠い子孫です」

 

 

 

「「――……」」

 

 あるいは、早苗のような現人神にも近い存在。正真正銘に人間ではあるが、正真正銘に神の血も流れる一族。それが阿求の辿り着いた風成家の正体である。

 

 阿求が描いた風成家の成り立ちとはこうだ。

 大昔、ある一族の中に神奈子は生まれた。彼女は人間ではあったものの、生まれ持った能力の強大さ故に信仰を集めてしまい、期せずして現人神となり遂には風神となった。

 しかし良いことばかりではない。一族の中から神が生まれたことは喜ばしいことではあったが、彼女は最終的に大和へと下り、軍神としての信仰を集めるようになってしまった。恐らく彼女が洩矢 諏訪子と出会い、そして争ったのはそのころだ。

 

 風神としての彼女が失われたことで、元の一族は信じる先を見失った。ある者は別の神を信奉しようと危機感に声を荒げ、ある者はきっと彼女が戻ってくると頑なに変化を望まず――そうして対立する内に内乱のような形になり、崩壊。辰真は一族を失ってなお生き延びた。

 彼はきっと誰よりも信心深かった者の一人だったのだろう。故に神奈子の名前すら消された家系図を持ち出し、一族が崩壊しても風神信仰を閉ざそうとはしなかった。そうして彼が作り上げた新たな一族が“風成“であり、その最後の継承者が吹羽なのだ。

 

 その信心深さゆえに高位の風神を氏神として得、その特別な血ゆえに吹羽はなんの準備も代償もなしに神降しを発動できる。

 時と世代を超え、こうしてこの地で再び二人が出会ったのは偶然か必然か――ただ、信奉される神と敬虔な信徒、二人がそれぞれの運命の中で幻想郷へと招かれたのを、阿求はどうしても偶然とは思えないでいた。

 

 だってそうでなければ――一人ぼっちの吹羽が、あまりにも可哀想だったから。

 

「風神信仰の始祖。そして今は唯一の血縁――吹羽さんをあなたにお願いしたいのは、それが理由です」

 

 友を預ける信頼と、それを神に願う祈りの光。その二つを瞳に乗せて、阿求はそう言葉を締めくくった。

 

 吹羽に必要なのは人との触れ合いだ。それは間違いない。しかし他人との触れ合いで得られる熱など高が知れているし、どこの馬の骨とも知れない人物にそれを頼むなど恐ろしくてとても出来ない。仮に阿求がそれをやろうとしたとしても、椛が決して許さないはずだ。

 

 その点で、神奈子の存在は最適解とも言えた。

 例え家族とは程遠くても、血の繋がりというのはどんな手段を用いても途切れない強固な縁の一つだ。そして彼女がかつて信仰していた神その人であるなら、吹羽も比較的容易に心を預けられるだろう。

 神奈子の側に関しても、己の子孫であると発覚すれば多少なりとも情は湧くはず。人の心を忘れきれない神奈子は、それを感じずにはいられないはずだ。

 

「……なるほど、ね」

 

 それだけをか細く呟くと、神奈子は吹羽から視線を落として小さく息を吐いた。

 それが理解の証でこそあれ、了承の意思であるかは実にあやふやなところであると阿求は判断する。彼女の色悪い思考部分を塗り替えるべく言葉を重ねようと口を開き――一太刀。

 

「先に言っておこうか――君の願いは、聞き入れら(・・・・・)れない(・・・)

 

 希望の増長を堰き止めるかの如く、神奈子は断固たる意志を感じさせる声音で阿求の懇願を叩き斬った。

 当然、提案を真っ向から否定された阿求は心中穏やかでは在れない。冷静沈着な彼女には珍しく驚愕と焦燥に目を見開き、唇を小さく震わせて、

 

「な、なぜですか……!?」

「第一に、始祖であり血縁だからと言って必ずしも心の傷は癒せない。関わりの薄い他人がいくら言葉をかけたところで人の傷心など治らないからね」

「ですから――いえ、だからこそ! 血縁であるあなたにのみかけられる言葉が――」

「血の繋がりなど……私にとっては己の出自を説明するための一要素でしかないよ、稗田 阿求」

「っ、」

 

 ほんの僅かな揺らぎすらも感じさせない言葉に、阿求は二の句を告げずに押し黙る。

 そんな彼女に対して、神奈子は振り抜いた刃を更に返し、

 

「第二に、信仰とは君が思っている以上に繊細なものだ。当然だね、私たち神格の力と存在意義に影響を及ぼすものなのだから。今その心を傾けている氏神に頼らず私に頼るということは、その信仰心をかけらでも私に向けることに等しい。そんなもの、誰のためにもなりはしない」

 

 信仰とは本来、人の心の支柱となるべき概念だ。人々が望み願いそう在れかしと夢見た形が神という存在である。

 級長戸辺命を信奉する吹羽が、血縁とは言え神奈子に心の拠り所を求める――それは神にとっては何より大切な、信仰心を揺るがす行為に他ならない。

 知恵を求める程度のことならば何も問題はなかった。だが阿求は、神奈子に吹羽の心の傷を癒して欲しいと求めているのだから彼女が許容できるはずもない。神奈子にとってそんな半端な信仰心など必要なく、氏神にとって大切な信徒を失うことに等しく、吹羽にとっては縋る相手への優柔不断さによって、己の信じるものを揺らがせてしまうだけだ。

 

「最後に――」

 

 淡々と続く神奈子の言葉は、三太刀目をそうして前置かれ、

 

 

 

「その優しさは自己満足(・・・・)ではないのかい、稗田 阿求?」

 

 

 

 阿求の思考回路を、真っ二つに断ち切った。

 

「――……」

 

 ざぁ、と吹いた一陣の風が、心の隙間に抜けていくような冷たさがあった。

 息を呑んで思わず止まった胸がきゅうと締まる。最後の言葉が思いの外突き刺さったことに、阿求は焦りを含んだ驚愕を覚えていた。

 自己満足? いや、そんなはずない。自分は一番に吹羽のことを考えて、だから、きっと、けど、それを。

 

 ――否定する言葉が、出てこない。

 

「あ、阿求、さん……?」

「っ!」

 

 恐る恐るといった様子の吹羽の言葉で我に帰ると、阿求はここにきて初めて神奈子へと怒りの視線を向けた。

 当然の感情だ。阿求が心から吹羽を想ってしたことを、無残に切り捨てられた挙句踏み躙られたのだから。

 阿求は吹羽の手を強く握り返し、目尻を吊り上げて神奈子を見上げた。

 

「どういう意味か、お答えいただけますね……!?」

「……怒りに支配されても、ある程度礼儀のある言葉遣いを忘れない。常に相手を見据えて動くその姿勢には素直に感心するところだが、なぜそれを他人にしか向けないのか……」

「なにを――」

「気が付かないのかい? 今君が示した全ての願いは、君の口からしか語られていない(・・・・・・・・・・・・・・)ということに」

「――ッ!」

 

 ――誰かのために何かをする、というのは字面ほど簡単なことではない。

 “親しき仲にも礼儀あり”というように、例え親しい間柄であっても礼節は尽くすべきだし、分際は弁えなければならない。当人のして欲しいことを勝手に決め付け、意見も聞かずに引っ張っていくことは果たして、礼があっただろうか。

 断じて否。神奈子は、そう言っている。

 

「(自分の気持ちに嘘はない……それは間違いない、のに……)」

 

 それは、本当に吹羽が望むことなのか? 脳内で反響したその問いに、阿求は少なくとも肯定的な思考をすることはできなかった。

 例えその通りに望んでいたとしても、阿求のやり方はその想いに則したものなのかどうか。思えば自分は吹羽の意見など一度だって聞かずに手を引き、半ば無理矢理にしてここまで連れてきた。それに吹羽は、一度でも心からの笑顔を向けてくれたか? 常に不安げな表情で、自分はそれに勝手な使命感を抱いて、空回っているだけではなかったか?

 

 そんなのは最早――独り善がりでしかないということに、気が付かないまま。

 

 阿求の空回った思考回路を、或いは神奈子は初めから読み取っていたのかもしれない。不安げな吹羽の表情に。そんな彼女の手を引く阿求の決意に満ちた表情に。訝しげな椛の雰囲気に。

 全て察した上で阿求の言葉を聞き、否定し、諭そうとするその姿はまごうことなき神格だった。縋ることを拒絶しながらも、神奈子は領分を超えて道を示してくれたのだ。

 

「さぁ、答え合わせだ」

 

 神奈子の言葉が降ってくる。湖に響き渡るようなその声音が、阿求の耳には直接脳に染み渡るような感覚がした。

 

「私の庇護を受けるかい? それとも、友人の側で養生するかい? 決めるのは君だよ、風成 吹羽」

「――……」

 

 そう告げる神奈子の瞳に阿求の姿は映っていない。阿求もまた、目を向けるべきが神奈子ではなく吹羽であると気付いて、恐々といった様子で振り返る。

 吹羽は相変わらず不安げな顔をしていた。この表情が鶖飛の件のみならず、自分の行動によってのものだったと思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになるようだった。そして、兄と決別するという重大な決断を彼女に迫ったすぐ後にまたこうして吹羽に意思を委ねている――委ねざるを得なくなった自分に、嫌気が差してくる。

 胸の内にあるこれを形容するならば、阿求は墨汁を一滴たらしたような黒く濁った泥とそれに混ざった小さな針、と表現する。

 ただ、そう――

 

「ボク、は……」

 

 彼女を想ってくれる人達が何人もいる。その中で、親友たる自分が力になれないことが――阿求にとっては、なによりも悔しかったのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 静寂の戻った湖に、神奈子は未だ同じ中空で座り込んでいた。

 動くのも面倒くさい――だなんて怠慢を口にするつもりはない。そもそも何事に対してもマイペースを貫く神格にとって怠惰などという概念はないのかも知れないし、確証が持てない。

 まぁ、成り上がりにはその程度のことしか分からないが……“怠惰を司る神”ならばあるいは。

 そんなことをふと考えて、一つ溜息。これもまた、呆れだとか疲れだとかによるものではなかった。話は戻って――ただ、再び瞑想に入れる状況ではなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・)のだ。

 

「――それで、何用か。風神殿」

『なに、間を見極めていただけだとも、軍神殿』

 

 そう言って目を向けた水面に、ゆらりと真っ白な毛並みが映り込んだ。風がなくとも宙に靡く毛は雄々しく、猛々しく、そして何より神々しい。切れ長な瞳には強い意思と光が宿って、その目に見つめられるだけで圧倒されるような心地にされそうだが、その背に乗る毛玉のような白い子犬がいくらか雰囲気を柔らかくしていた。

 

 白狼と白犬――級長戸辺命。

 

 ……の、化身である。

 

「化身であってもその力。相変わらずのようですな」

『君の方こそ、この世界へ逃げてきた割にはそれなりの力を保っているようだね。勇ましいことだよ』

「腐っても軍神さ。戦いを望む者は未だに多くいる、ということでしょうな」

 

 ある程度の平和が保たれたこの世界に来てまで、永遠に戦いとの縁を切れない我が身を嗤う。結局、神として崇められ始めたその時から神奈子の運命は定まっていたのだ。

 先程遠い血縁との運命的な出会い――発覚した、という意味で――をしたばかりである。本物の神格ですらこうして弄ばれる(・・・・)のだから、きっと神格の位というものには際限がないのだろうと常々思う。

 果たして自分は、どこまで神に成り切れているのだろうか――。

 

『我が依り代は、お主の目から見てはどうだった?』

「……不幸な子、といえばそれまでだが、決して恵まれない子ではない。……そう思いますな」

 

 風神の問いに、神奈子は一瞬の思考を経てそう応えた。

 客観的に見ても、吹羽は明らかに数奇な人生を送っていると言えるだろう。詳しいことは当然分からないし、漠然とした情報の断片を無理くり繋ぎ合わせた程度の認識ではあるが、言ってしまえば高位の風神がその身に降りたというだけでも何事にも代えがたい経験である。しかし、厳然たる事実として、あの歳でそうならざるを得ない状況に追い込まれた彼女はきっとこの世界では誰よりも不幸だ。

 

 ただ同時に、吹羽は周りの人間に恵まれているとも神奈子は思う。

 傷付いた自分のために空回ってくれる友人とは、当人が思っている以上にありがたい存在である。外の世界にはそんな存在に誰一人と出会えず孤独に生を全うする者すらいる、それを思えば吹羽はきっと、外の世界を含めて見ても人に恵まれた環境にいると言えるだろう。

 

 早苗に連れられてきた時の吹羽を思い出す。そして次いで、先程己の意思を告げて山を降りていった彼女を再度思い起こす。きっとこれからも大きな不幸に合い、それに友人に支えられながら立ち向かうであろう彼女。

 神奈子はそんなあの子を、愛おしい己の子孫だとようやく認められた気がした。

 

 だが、そんな時。

 

『……そんな事を訊いた訳ではないと、分かっておろうに』

 

 低く唸るような、白狼の小さな吐息が鼓膜を揺らした。

 

『君にそんな事を言われなくても、我らは依代のことよく知ってる。ずっと見守り続けてきたんだから』

『はぐらかさずとも良い。そしてお主の捉えた感覚(・・・・・・・・)は正しい。成り上がりとて、己の格を下げるような真似はするでない』

「……失礼を」

 

 僅かな叱責を含む風神の言葉に、神奈子は迂闊だったと小さく俯いた。

 そして風神の問いの意味を正しく解釈し直して、薄く目を開く。山の麓へと消えた吹羽の背を――その内側を見透かして、

 

「……違和感」

 

 ぽつりと、滴のような言葉を零す。

 

「不思議な感覚でしてな、自分では確証が持てなんだ。飛んだ非礼を」

『よい。我らもそう感じて問うたのだから』

 

 狼が低く喉を鳴らし、子犬がきゅうんと小さく声を漏らす。化身とはいえ高位の風神が、或いは不甲斐なさに落ち込むような声音にも聞こえた。

 

 違和感、といってもさして大きなものではない。というより、大きなものでないからこそ神奈子は確証が持てなかったといってもいい。

 それこそ、気が付けば服に埃が一つ乗っていた程度の違和。本当に言葉に表しようがないほど小さな、しこりのような何か。

 ただ――それが吹羽の奥深くに根付いてしまっているような気がして。

 

『君の判断は正しかったと思うよ。あんなよく分からないもの、下手に触れてなにが起こるか分からない。なにも起こらない可能性もあるとは思うけど……』

「らしくないですな。そんなことをしようとすれば真先に止めるでしょうに」

『……そうだな。依り代を失う可能性を孕む選択だけは、この身を捨ててもさせはせん』

『大切な我らの巫女だからね』

 

 風神はそう言うと、聞くべきことは聞いたとばかりに姿を空間に滲ませ、その毛並みを空気に溶かして消え去った。

 ふらりと現れてはふらりと消える。どこか諏訪子を彷彿とさせるが、真性の神とは須くそういうものなのだろう。神奈子も、人間の頃に比べれば格段に自分本位になった自覚はあった。

 

 自覚はあった、が、やはりどうにも――

 

「吹羽。我が子よ。君の内に宿る違和を……私が取り除いてやれないのは、素直に悔しく思うよ」

 

 だが、それを運命が許さないというのであれば、きっとあれは、吹羽自身が乗り越えなければならないものなのだろう、と。

 

 凪いだ青い湖面に映ったたった一つの小さな雲を、神奈子は静かに見つめていた。

 

 

 




・科戸風【しなと-かぜ】
 風の美称。罪や穢れを吹き払う風。「し」は「風」、「な」は「の」、「と(ど)」は「処」の意。

 今日のことわざ

 なし

 長かった今章もこれで終わりです。伏線回収が少し難しくて結が長引いたのが心残り……テンポ悪すぎ。まだまだ勉強が足りませんね。

 さて、この物語もようやく最終章に突入です。ここまで読んでくださった読者様方、更新は鈍亀ですが、あと少しお付き合いくださいませ。

 では、次章で。


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暁風の章
第五十七話 悲劇を終えて


 お待たせしました。長々ゆるゆると書いてきましたが、ようやく最終章、暁風の章突入です!


 

 

 

 透き通るような青空に、もうそろそろ木枯らしが吹き始める季節だ。

 開け放った襖からは、緩くも少しだけ冷たく鋭くなった風がそよいでくる。部屋から見える池は静かで、普段は元気に水面を揺らしている鯉たちも幾分か大人しいように思えた。

 風にあたるのは嫌いではないが、肌寒くなってくると体にも悪い。特に、大して身体の強くない人間には注意が必要になってくる。

 

「もうすぐ冬、ですか……」

 

 走らせていた筆を止め、厳しい冬の到来を予感して、阿求は空を見上げては僅かに眉を顰めた。

 冬といえばあの異変――雪の白さにも似た白雲を見つめて、阿求はふと”長い冬の異変“を思い起こす。春が奪われ、冬が中々終わらなかったあの異変の時は本当に大変だった。

 

 本来ならば作物の育っていなければならない時期にも厳しい寒さが続いていた所為で里の食料が底を突きかけ、里の人間全員で以って最低限以下の生活を強いられたのだ。幻想郷を代表する名家、その当主である阿求ですら常にお腹を空かせていたくらいには節制していたというのだから、あの異変がどれだけ人間に優しくなかったのかは推して知るべしというところ。

 次いでに恨み節を込めるとするなら、あれが終わった後も作物が育つのに時間がかかったため節制が続き、更に苦しかったということも忘れずに述べておこう。

 

 ともあれ、それがもう三年も前――そう、三年前だ。

 

「……吹羽さん」

 

 三年前。それは阿求や霊夢にとっては忘れられない単語であり、吹羽にとっては全てが壊れた忌まわしき年。

 あの時の、何もかもが真っさらになって怯える吹羽を思い出すと今でも胸が締め付けられるような心地になるが――。

 

 ――コンコン、と。

 

 思考の海に沈みかけた阿求の意識を、木を軽く叩く音が引き上げた。驚いて目を向けると、そこには。

 

「なーぁにを黄昏てるのよ。まだお昼よ? あんたはそんな陰気な奴じゃないでしょ」

「霊夢さん……どうしたんですか?」

「どうしたも何も、声かけたのに反応がないから」

 

 そう言って小さく肩を竦めるのは博麗の巫女、霊夢だ。その後ろにはいつもの侍従の姿がある。彼女は阿求に仕方なさそうな淡い笑みを向けると、仕事は終えたとばかりに楚々と頭を下げ、去っていった。

 どうやら本当に黄昏てしまっていたらしい。陰気になっているつもりはなかったのだが、よく考えれば気が付かぬ間に思考が暗い方へと流れていっていた気がする。どうにも、今の吹羽のことを考えるとあまり良くない考えが浮かんでしまって本当に宜しくない。

 

 霊夢は仕方なさそうに一つ息を吐くと、すぐ近くの柱に背を預けて腰を下ろした。

 

「すみません、少し考え事をしていました」

「悩みごと?」

「そういうわけではありませんが……」

「そ」

 

 興味なさげな声をこぼし、霊夢はぼんやりと天井を見上げる。流れてきた風が彼女の前髪を揺らすと、阿求からは霊夢の美しい純黒の瞳が見えた。陰った目元からは、天井ではない何処か遠くを見ているような印象を感じる。

 

「霊夢さんは……」

「ん?」

 

 そんな彼女の姿に、ふと先程の思考が思い起こされて。

 

「霊夢さんは、三年前のこと……覚えていますか?」

「……忘れるわけないでしょ」

 

 視線を変えないまま、呟くように霊夢は答えた。

 

「考え事ってそれのこと?」

「……はい。あの頃を思い出していたんです。吹羽さんが記憶を失って、全てを怖がるようになって……あれから、もう三年が経ちました」

「“光陰矢の如し”とはよく言ったものよね。吹羽は幾らか元気になって、弾幕勝負もできるようになって、異変を一つ二つ解決した頃には笑えるようにもなった」

「そして……ようやく決着を付けることができた」

「――……」

 

 何と言えばいいのだろう――阿求はもうずっと、胸の内に燻るこの気持ちを形容できずにいた。

 吹羽の過去に決着がついたのは確かに喜ばしいことである。ずっと悩みの種だった失った記憶も取り戻し、真実を暴くことができたのだ、結果を字面のまま受け止めればハッピーエンドに違いない。

 だがそれを吹羽の友人としての目で考えると、決して手放しでは喜べない。親友が兄を手にかけて、喜んで良いわけがない。

 

 霊夢はそのことをどのように考えているのだろうか。同じ吹羽の親友として、しかし阿求と違って彼女と共に決戦に挑んだ霊夢は、当然吹羽が鶖飛を斬り捨てた場面すら目にしている。

 きっと、阿求と霊夢の立場は同じであって同じでない。こうして自分は気持ちが片付かないままだが、霊夢は、落とし所を見つけられたのだろうか。

 もし霊夢ですらそれが見つけられていないと言うなら、もしかすると、自分たちは――

 

「間違ったことをしたかも、なんて口が裂けても言うんじゃないわよ」

 

 何処か陰った阿求の言葉を――否、心に浮かび上がった不安を、霊夢は凛とした口調で断ち切った。

 ハッとして霊夢を見れば、彼女の僅かな怒気すら宿した視線が阿求を射抜いている。

 言葉が、詰まってしまった。

 

「それをしたら、失礼(・・)でしょうが」

「そう……ですね。そうですよね……」

 

 誰に対して失礼か。それを敢えて言わないあたり霊夢もよく分かっている。

 結局、阿求が今さらに悩むことになんて意味はない。全てが終わった後だし、取り返しのつくものでもないのだ。

 事実は変わらない。それを自分の中でどう処理するかは文字通り自分の問題である。阿求も霊夢も、そして吹羽も、この事実を乗り越えられるかどうかは自分自身にかかっている。それでも仮に力になれるとするなら、それは同じ境遇に見舞われた同類だけだろう。

 

 自分の悩みがどれだけ不毛かを思い知ると、思わず溜め息が漏れてしまう。ふと気が付けば、持っていた筆が乾き切ってしまっていた。続きをする気にもなれない阿求は、そのまま静かに筆を置いた。

 

「それはそうと、あたしこんな話をするために来たんじゃないんだけど」

「あぁ、そうでした。何の用向き――なんて、問うまでもないですよね」

「話が早くて大変結構。んで?」

「ええ――」

 

 片目で見つめて促す霊夢に、阿求は視線を横へとずらして襖を見透かす。

 霊夢は目的もなく動いたりしない。というより、目的がない時は大体神社で薄味の茶を啜っている。素の面倒臭がりも相まって、故に彼女は“ぐうたら“だの”自堕落”だの言われるのだ。

 であれば、霊夢がここへ訪れた理由はある程度推し量れるというもの。霊夢が阿求を訪ねてくるのであれば、それは十中八九、

 

「吹羽さんは、書斎に」

 

 ――お互いの親友を想って。

 それ以外には、阿求には考えられなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 稗田家の書斎に入ると、紙と木と墨の匂いが鼻腔に飛び込んでくる。墨の独特過ぎる匂いは若干刺激臭染みたところがあるが、意外なことにも強くない。まぁ阿求のことだ、乾いてもいない書をこんなじめっとした場所に保管するわけもない、ということだろう。

 紙が多少高価なものであるこの世界ではどうしても里の人間が嗅ぎ慣れる匂いではないし、良くも悪くも強烈なので苦手な人はとことん苦手だ。だが、霊夢はそこまで嫌いではなかった。

 

 なにせ霊夢も、本当に暇な時は本を読む。妖怪神社と呼ばれるほど頻繁に“招かれざる客”が訪れるため機会が多くないのは事実だが、一人でいる時にただお茶を啜っているだけの寂しい人間性は流石に持っていない。この書斎でなくとも、本が借りられる場所は他にあるのだ。

 

「さて、と」

 

 立ち並ぶ本棚の森を見渡すと、所々抜け落ちた部分が見て取れた。広い範囲で様々な本が抜き取られているが、少し進むと、穴だらけにされた本棚が目に入ってきた。

 背表紙を指でなぞる。横に滑らせ目で追えば、次々と視界を過ぎていく“神”の文字。この本棚は、そういった類の書物を保管する区画らしい。

 

 神、か――心でそう呟いた霊夢の耳に、かすかに紙擦れの音が聞こえてくる。それにつられるように本棚の森を進んでいくと、初めに見えたのは白い髪。次いで真剣味に細められた翡翠の瞳が視界に入った。

 

「――……」

 

 十数冊に及ぶ本に囲まれて、吹羽は酷く静かに文面に指を走らせていた。

 この目で彼女を見るのは少しばかり久々だったが、外見的には何も問題ないようで小さく安堵の息をつく。まぁあの戦いでの傷は吹羽自身の願いによって全員完治していたようなものだったのだが、やはり“知っている”のと“実際に見た”のでは実感が違うのだ。

 

 だが、そうは言ってもあんなことがあったばかりである。むしろ“吹羽の様子を見る”という目的で来た以上は彼女の精神面をこそよく見ておくべきだろう。傷も怪我も治すことはできるが、そんなものよりも心にかかった負担の方がはるかに大きく、治し難い――そんなこと、霊夢はずっと昔から知っているから。

 

 霊夢は本棚に体を預けて少しばかり吹羽を眺めると、

 

「吹羽」

「っひゃぁああ――ッ!?」

 

 どたん、ばさばさばさ。

 氷を背中に入れられた時のような、耳を劈く少女の悲鳴。

 椅子もろとも転がり落ちた吹羽の上には積み重なった本が降り、追撃とばかりに二回三回と本の塔が崩れて落ちると、舞い上がった埃が落ち着く頃には立派な本の山ができてしまっていた。

 まさかここまで驚かれるとは思っていなかった――当の霊夢も吹羽の悲鳴に肩を跳ねさせていた――霊夢は数秒の間呆然と本の山を見ていたが、ハッと我に帰ると慌てて駆け寄った。

 最早何処から探せばいいかも分からない。下手に退けても山が崩れて余計危ないし、吹羽の小さな体に対して、この山は見た目の体積が大き過ぎたのだ。

 

「ちょっと吹羽! 大丈夫!?」

 

 取り敢えず崩れる心配の少ない頭頂部から退かし始めるが、二冊三冊と退ける前に山頂が盛り上がるともこりと白い髪が見えてきた。

 いたたた……との呟きが聞こえて、

 

「もう霊夢さん! 驚かさないでくださいよ! 心臓が飛び出るかと思いましたっ!」

「ああ、無事ね。良かった」

「良くないですっ! ほっぺ噛んじゃってちょっと痛いんですよ!?」

「噛み千切らなくてラッキーじゃない」

「どの口が言うんですか、どの口が……!」

 

 目の端に涙を溜めて睨む吹羽は、これみよがしに頬を撫でながら声を荒げる。

 彼女の視線は実に恨めしげなものだったが、正直なところ、霊夢にはそれが嬉しくもあった。

 

 この頃――と言っても鶖飛を中心とした一連の事件の間だが、その間の吹羽はお世辞にも普段通りとは言えない状態だった。そうなって当然の状況ではあったものの、こうしていつもの、今まで通りの吹羽の反応を見るとやはり安心するのだ。

 

 全て終わったことに対して、ではない。

 無事元の吹羽に戻ってくれたことに、である。

 

「で、何を調べてたの?」

「………………はぁ。神様についてです」

 

 諦観を感じさせる溜め息を残して、吹羽は落ちていた本の一冊を再び広げて机に乗せる。そして霊夢に見えるよう向きを変えると、椅子を起こしてすとんと座った。

 差し込んだ天使の梯子が文面を照らす。神についてとは言いつつ、それは論文や分析というよりは神話の類に近いもののようだった。

 

「でも、どの本にも知りたいことは書いてありませんでした。どれもこれも神様たちのいいところとか、英雄譚とか……そういうのしか書いてないんです」

「神話なんてそんなものよ。その神様のいいところとか、そういうのじゃないと意味がないのよ、こういうのはね。神様を調べるのに神話を頼るのがそもそも間違ってるわ」

 

 ぱたんと音を立てて本を閉じてやると、吹羽は唇を尖らせてふいっと顔を背けた。

 そんなの分かってるやい、なんて言葉が顔に書いてあるようだ。霊夢はそんな彼女の様子がおかしくて、思わず吐息を漏らして目を細めた。

 

 神話なんて所詮は自慢話だ。神が信仰を得るための道具であり、権能を誇示するための布教装置。そんなものから得られる情報など、せいぜいその神格の司る概念や権能、あるいは構成する願いや希望だ。もしかすると弱点や天敵なども判明するかもしれないが、そんなことを調べる酔狂な人間などごく僅かだろう。

 

 ――でも、賢い吹羽がそんなことすら分かっていないわけはなくて。

 そして霊夢にも、彼女がそうしている理由はなんとなく分かっていて。

 

「……神綺」

「っ」

 

 顔を背けた吹羽の肩が、ぴくりと揺れた。

 

アレ(・・)について、知りたいんでしょ」

「……霊夢さんは行ったことが――会ったことがあるんですよね、神綺さんに」

「そうね……随分と前だけど」

 

 机に手をついて、見下ろす視界には机も本も映ってはいない。かつて訪れたあの人外魔境を思い起こして、霊夢は神妙に目を細めた。

 

「――前にね、魔界から魔物が溢れ出したことがあったのよ。どいつもこいつも知性がないから大した脅威ではなかったけれど、この世界の妖怪と比べたら天と地の差。表に出てこようものならとてつもない被害が出る……だからあたしは、秘密裏にそいつらを押し留めてた」

 

 何年も前の話だ。博麗神社の裏にある魔界の門――普段は閉じられており、開く術も全く分からないそれが突如として開き、魔界に住まう魔物たちが出てきてしまったのだ。

 初めこそ数は多くなかったが、その代わりに高頻度で、徐々に数を増やしていくそれらを見て霊夢は“元を断つ必要がある“と判断した。

 そうして、霊夢は初めて魔界に足を踏み入れたのだ。

 

「魔界にはね、知性がない魔物の他に魔人ってのがいて、そいつらが主に”魔界の住人”と呼ばれてる」

「! 夢子さんと同じ……もしかして、戦ったんですか?」

「――……ええ。戦わざるを得なかった。魔物たちがあたし達にとって侵略者であったように、魔人たちにとってもあたしは侵略者のようなものだったから」

「話し合ったりは――」

「そんな余地ないわよ。異物は異物、自分たちの今まで通りを守るためには、要らない変化は拒絶しなきゃいけない」

 

 世界同士が交錯すれば争いになるのは自明の理というものだ。

 思想の違いは争いを起こす。紫の言葉を借りるならば、争いにおいてはいつだって自分が正しくて相手が間違っているのだ。

 自分たちの生息域に、いてはいけないものがいる。ならば排除しようという思考が働くのは、その対象であった霊夢ですら納得のいく話だった。

 

「夢子はその中の頂点よ。最強の魔人。あいつとの戦いは……思い出すと、今でも背筋に寒気が走る」

 

 夢子はいつだって艶美に笑っていた。全ての命を見下して、自分の玩具と思って嘲笑っているのだ。だから彼女はいつだって笑顔で剣を振るう。笑顔のまま命を奪おうとする。死体を切り刻んでは楽しそうに声をあげ、血を浴びる快楽に熱い吐息を漏らすのだ。

 そんな彼女と凌ぎを削ったあの日の霊夢は、かつてない死の恐怖に強張り、表情すらろくに動かなかったというのに。

 

 強い者が好きだと――そう言って首を撥ねようとしてくる彼女の姿を、霊夢はいつだって己の血飛沫と共に思い出す。

 あそこまで狂った価値観を持つ存在を、霊夢は他に知らない。

 

「なんとか夢子を退けたその先にいたのよ。魔界の果て……世界の果てに、アレはいたの……」

「……? どうかしたんですか?」

「いえ……なんというか、ね」

 

 正直に言って、神綺という神をどう言い表すべきかは難しいところだった。

 夢子などは簡単だ。人格の破綻した殺人人形と言えばほぼ間違っていない。魔理沙や阿求や吹羽にだって、人にはその人格を表す一言はある程度浮かんでくるものなのだが――神綺は、違った。

 

 神が須く自分本意であるのは分かっている。だからこそ誰も彼もが気分屋であり、マイペースであり、人のことなど“飼育している虫”程度にしか思っていない。神は人の願いや希望の体現であるために、人に対しての絶対優位を疑わないからだ。

 だが、霊夢が出会った神綺という神は分からなかった(・・・・・・・)

 

「何を考えているのかも、どんな権能を持っているのかも、何もかも分からなかった。理解できなかったのよ。ただ一つわかるのは、アレがあたし達の想像を消し飛ばすほどに強い力を持っているってこと」

「――……っ、」

 

 霊夢をして理解不能の強さ。その言葉に吹羽が顔を強張らせたのを霊夢は見逃さなかった。

 無意識にか胸元で拳を握り締める吹羽に、霊夢は力無く笑いかける。こうも神綺について持ち上げたところで悪いが、実のところ心配するようなことは何もないのだ。

 

「大丈夫よ、吹羽。そんなに怖がらなくても、アレは魔界からは出てこない。幻想郷に住まうような八百万の神々と違ってアレは唯一神だから、魔界を離れることはできないのよ」

 

 翻せば、唯一神だからこそあそこまでの強大な力を持っていると言ってもいいのだが、それは余計に吹羽を怖がらせるだけだろうから。

 

 霊夢はそっと吹羽の頭に手を置いて、安心させるようにぽんぽんと撫でる。強張った彼女の身体が徐々に解れていくのが、文字通り手に取るように伝わってきた。

 

「……“触らぬ神に祟りなし”という諺があります――」

「そう、触らなければ何もないわ。きっと鶖飛も、あんたが神綺に関わることは望んじゃいないはずよ。アレは……それくらい恐ろしい一柱だから」

「――……」

 

 今となっては、霊夢は鶖飛に対して以前ほどの憎悪は抱いていなかった。

 否、胸の内に燻るこの黒き思いは決して消えてなくなりはしないものの、鶖飛の想いにもほんの僅かに理解が及んでいた、と言った方が正しいか。

 彼はきっと、本当に吹羽と静かに暮らしたいだけだったのだ。風成家においては落ちこぼれという他なかった彼を、唯一認めて頼ってくれていたのが吹羽だ。そんな妹に対する愛情は、きっと霊夢が形容するのもおこがましい程に強いものだったに違いない。それが神綺のなんらかの策によって歪められてしまった故にあんな結末を迎えてしまっただけで。

 

 だから、鶖飛のしたことを許すつもりなどないけれど、その想いに敬意は持てる。

 彼が最後に遺した言葉は、霊夢の考え方にそれほどまでの多大な影響を与えていたのだ。

 

「……それはそうと、ね」

「ふぇ?」

 

 手を離しながらいうと、吹羽は突然の話題転換に呆けた声を出した。

 まさかここから新たな話題に移行するとは思っていなかったのだろう、先程の心配そうな表情はぽかんとした間抜けな表情に塗り変わっていた。

 気が付けば、窓から差し込む天使の梯子にも僅かばかりの茜色が混じっている。日が短くなってくるこの時期だ、赤い太陽は早々に山の向こうへ隠れ、丸いお月様が顔を覗かせ始めることだろう。

 

 ならば、と思って。

 

 霊夢は未だ崩れた落ちたままだった本を取り、机の上にとんと置く。

 

「知識はあって困ることじゃないわ。阿求然り紫然り、知識は蓄えた分だけ力になるし思わぬところで助けになる。あたしが語れるのはここまでだけど、もしかしたらもう少し調べ物が進むかもしれない場所を知ってるわ」

「!」

 

 調べ物をするならばやはり本である。そういう意味では稗田の書斎を訪ねるという吹羽の判断はあながち間違いではないのだが、ここで限界があったならば簡単な話。

 

 本を調べて足りないなら、更に多くの本を当たればいい。別の分野も含められるようになるなら尚良いだろう。

 幸いにも霊夢は、きっとそれに応えられるであろう場所を一つだけ知っていた。

 

「さ、早く片付けて行くわよ」

「ぁ、え? 行くって、どこにですか?」

「決まってるじゃない」

 

 本を手に取り、棚に戻す。一冊を胸に抱いて疑問を露わにする吹羽に向けて、霊夢は得意げに笑った。

 そう、人里において本と言えばもう一か所しかない。

 

「よく言うでしょ? “餅は餅屋”、ってね」

 

 ――向かう先は貸本屋、鈴奈庵(すずなあん)である。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 八雲 紫の住処は何処か――そう問えば誰しもが知りたくもない(・・・・・・・)と答えるが、概ねは彼女の能力であるスキマの中にあると言われており、皮肉なことにもそれを幻想郷住民は誰しもが知っている。

 

 まごうことなき嫌われ者である彼女も、立場的にはこの世界で二番目に偉いと言っていい。有名人というのは難儀なもので、例え好かれようが嫌われようが勝手に噂は立つし広がるし、果てには住所まで特定されるというのだから楽ではない。

 まぁ先述の通り、スキマの中に住むと言われる紫にはそこまで関係ないのかもしれないが。

 閑話休題。

 

 住処はスキマの中かもしれないが、立ち寄る場所――というよりは出没場所と言った方が分かり良いかもしれないが――であれば幾つかが挙げられる。

 博麗神社、冥界は白玉楼(はくぎょくろう)、そして最後にここ――マヨヒガである。

 今日の紫は、友人である伊吹 萃香を招いて茶を嗜んでいた。

 

「で、何の用なのさ?」

「友人とお茶をするのに理由が要るのかしら」

「要るというか、有る(・・)だろ。お前の場合は。伊達に年月重ねてねーんだぞわたし達は」

「それもそうね。あなたは茶の席でもお酒ばかりで風流のかけらもない茶会もどきばかり重ねてきたわね」

「ンだから()化すなっての!」

 

 と叫んで、今の言葉を狙われた事実に若干頬を染める萃香。紫は瞑目してお茶を啜っていたが、口元がほんの僅かに歪んでいたのは湯飲み越しでも分かった。

 だが怒る気にはなれず、相変わらず他人を転がすのが好きなやつだと決して良い意味でない溜め息を溢す。

 悪い癖だ、と思った。だから紫は嫌われるのだ。

 

「で、今度はわたしに何をさせたいんだよ」

 

 少し拗ねた口調でそういうと、紫はそっと湯飲みを置いた。

 

「理解が早くて助かるわね」

「わたしはお前の丁稚じゃねーぞ」

「当然よ。数少ない友人にそんな失礼なこと思いませんわ」

「はっ、こっぱで鼻をかむようだね」

「萃香? 何か言ったかしら?」

「いーやなんでもー」

 

 まぁ、萃香も紫がそこまで酷いことを考えているとは思っていないが、彼女は使えるものは神でも使う性格だ。そう考えていないわけではないだろう。

 だが今更そんなことを気にしていたら彼女とは付き合っていけない。それをよく知っている萃香は、ひとまずこのことは考えないようにすることにした。

 鬼の頭能は強くない。気にしなければすぐ忘れられるだろうし、忘れてしまえばもう関係ないのだから。

 

「何をさせたい、というほどのことでもないわ。一応、念のため、再度頼んでおこうと思ったのよ」

「再度? ……ああ、霊夢の――いや、吹羽の子守か?」

「ええ」

 

 一応、以前に頼まれた件に関して萃香は完遂したつもりでいる。吹羽も霊夢も無事なまま大事を片付けることができた時点で、萃香が紫に頼まれていた“霊夢を見守り、逐一様子を報告してほしい“という依頼は意味を失った。

 それでも引き続き様子見を続けるように言うということは、

 

「……まだ何かあるってか?」

「一応、念のためと言ったわ萃香。一難去って一息吐くようでは、私は世界創造なんて成し遂げてはいないわ」

「そりゃそうだが……」

 

 正直、これ以上面倒ごとが起きて欲しくないというのが萃香の本音である。

 個人的には強者との戦いを楽しめるならなんでもいいのだが、そこに別の存在の想いやら何やらが絡んでくると素直に喧嘩を楽しめないのである。そういう意味では、今回の件は“一枚噛まずにはいられない極大の面倒ごと”だった。

 

 次いでに言うなら、萃香もこれ以上吹羽に苦しんで欲しくないと思ってはいるから。

 

「全く、吹羽もかわいそうな奴だね。こんな胡散臭い創造主と喧嘩しか脳がない妖怪に四六時中目をつけられる羽目になるなんてな」

「必要なことよ。あの子は何をするか分からない」

「あ? ほっときゃずっと刀を打ってるだろ」

 

 少なくとも萃香の中にある吹羽という少女は、鍛冶屋に生まれただけの風好きな少女でしかない。紫が危惧するような突拍子もない行動をするなんて思えないが。

 

 紫はいつの間にか持っていた扇子を広げると、いつものように口元を覆った。

 

「さて、だからこそ(・・・・・)と言っておきましょうか」

「なに?」

「誰も彼も、きっと過大評価し過ぎなのよ、あの子を」

 

 相変わらず訳の分からないことを言う紫に、萃香は今度こそ疲労の溜め息を吐いた。

 会話に思考が必要ないとは思わないが、わざわざ遠回しに会話を繰り広げる者との会話は人が思う以上に考えさせられるし、体力を使う。紫はその際たるものである。

 

 言うこと為すこと、全てが一見迂遠で関係ないのに、蓋を開けてみればそれが最短で最善だったりする。しかしその為には多少の犠牲は厭わないところもあり、“全のために個を捨てる”が形を成したのが八雲 紫という存在だ。

 “個のために全てを捨てる”――とまではいかないものの、後のことより目先の大切なものに焦点のいく萃香とは凡そ正反対。これだけ思想の違いがあってよく同じ茶の席につくようになったと思う。

 

 だがやはり、気に入らないことは気に入らない。

 そして萃香は、自分の考えを素直に口にする性格で。

 

「なぁ紫」

「なにかしら」

「お前は一体、あいつをどうしたいんだよ」

「どう、とは?」

 

 茶を啜りつつはぐらかそうとする紫に、萃香は不機嫌そうに眉を釣り上げて睨み付ける。

 その胸元では、組んだ腕の指先がとんとんと二の腕を叩いていた。

 

「お前は風成家を守りたいと言いながら吹羽を危険に晒すような真似をするし、平気で利用するじゃないか。納得がいかねぇんだよ。どっちなんだよ。お前はあいつを死なせたいのか? 生かしたいのか? そこら辺はっきりしやがれ」

「どちらかと言えば生かしておきたいわね。殺したいのは山々だけれど」

「お前のそれは、体はって意味か?」

「なんですって?」

「息をしてるだけの人形を、お前は“生きてる“って言いたいのか?」

 

 ふと目を開けた紫の視線と、萃香の険の篭った視線がぶつかる。ぴりりと、冷えた空気が肌を刺激した。

 

「お前が風成家を守りたいって思ってんのは分かった。確かにお前の庇護があれば吹羽は簡単には死なねーだろうよ。だがな、体さえあれば吹羽の心はどうでもいいとか思ってんだったら、わたしはお前にこの拳を振り上げるぞ」

 

 風成家を守る為に吹羽を利用する――それが萃香には気に入らなかった。

 今や風成家は吹羽ただ一人。紫が本当に風成家を守ろうとするなら、なるほど確かに吹羽を死なないように庇護するのが当然だ。

 

 だが、紫の行動は果たしてどうだろうか。

 今回の件にしても、紫は手が出せなかったとはいえ吹羽や霊夢に任せきりだった。鶖飛に対して実力が圧倒的に劣ると分かっていてだ。

 幾ら風神の助けがあるだろうと予測していたいってもそれは結局予測でしかない(・・・・・)。外れれば二人は殺されていたし、打ち勝った今ですら吹羽は兄殺しという重い傷を負った。このまま紫の掌の上でことが進めば何処かで死ぬか、遠くない未来で心を壊わす。

 

 不安定すぎるのだ。世界創造を成し遂げた偉大なる賢者ならば、もっと、幾らでも手はあったはずなのに。

 

「人は心があってこその人、と。如何にもあなたが言いそうなこと」

「わたしは人間を信じてるんでな。その可能性を否定するようなやつには拳骨をくれてやらないと気が済まねェ」

「短気ねぇ」

「今更だろうが。……お前もわたしのことを分かってるんだったら、気を付けるこったな」

 

 萃香は冷め切ったお茶をぐいっと煽ると、机に叩き付けるようにして置いた。

 そして霧となって消えようとしたその直前、

 

「萃香」

「あん?」

「ともあれ、頼んだわよ」

「――……」

 

 やはりこいつに釘を刺すのは難し過ぎる――紫の思想の強さに呆れの溜め息を零してから、萃香は返事もせずに景色へと姿を溶かした。

 

「心ね……まぁ確かに、心がなければ、この約束に意味はなかったかもしれないわね……」

 

 そんな紫の呟きを、聞き遂げることもないままに。

 

 

 




 今話のことわざ
(さわ)らぬ(かみ)(たた)りなし」
 かかわり合いさえしなければ、余計な災いを受けることもないということ。

 意見・質問などはご気軽にどうぞ。


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第五十八話 心の行方

 
 お待たせしました。少し長いので、時間のある時に。
 


 

 

 

 鈴奈庵とは、人里の隅でひっそりと営まれている貸本屋の名である。

 その名の通り、取り揃えてある本は代金さえ払えば貸してもらうことができ、木版を持ち込めば印刷すらも請け負ってくれる便利な場所だ。

 勿論この世界の技術レベルでは紙が比較的高価なものなので、それを大量に使用する本類を貸し出すとなればそれなりの代金になる。が、その場で読んでいくのであれば代金は発生しない規則なので、まぁそういう意味では“印刷もしてくれる図書館”と形容した方が幾分か近しいイメージが持てるだろう。

 と言っても自営業なので大した貯蔵量ではないし、実は霊夢がこの場所を認知しているのにも理由があるのだが――。

 

 兎にも角にも日が今にも落ちてしまいそうな晩秋の今日、稗田邸を急いで後にした霊夢と吹羽は、そんな便利で残念な図書館もとい鈴奈庵に足を運んでいた。

 

「里に貸本屋さんなんてあったんですね」

「まぁ細々やってるお店だしね、知らないのも無理ないわ。ただでさえあんたは中々家から出ないし」

「あ、あはは……耳が痛いです……」

 

 痛いところを突かれて頬を掻く吹羽を尻目に、霊夢はさっさと暖簾をくぐって店内に入った。

 チリンと涼やかな鈴の音が鳴る。中は夕刻だからか若干暗く、墨の匂いに混じって何か別の不思議な匂いが鼻腔を抜けた。左右に並ぶ本棚には所狭しと本が詰められ、その上にまで幾つもの書物が積まれている。それでも入り口からの眺めは考えられているのだろうと思えるが、少し奥へ行けば入りきらない書物が床にまで積まれていて少々小汚い――ように見える――のを霊夢は知っている。

 ここの住民とは、その程度の仲ではあった。

 

「おや……珍しいお客様」

 

 正面からの声は、店の古めかしい外観から想像しうるであろう店主(お年寄り)のものよりも随分と幼く高い。それには当然驚くことなく、霊夢は正面の机にきょとんと肘を突く声の主に言葉を返す。

 

「ええ、久しぶりね小鈴(こすず)ちゃん」

「いつぶりですか? 以前は確か小説か何かを貸し出した気がしますけど」

「さぁ? もう覚えてないわ。最近は忙しかったから暇潰しなんて必要なかったし」

「わたしとしては、もっと積極的に本を読んで欲しいところですけどね」

 

 尤もらしいことを言って笑う彼女に、霊夢は片目を瞑って、

 

「その為にここで本をどんどん借りていってお金を落としていけ……ってことでしょ、どうせ」

「勿論ですよっ! 知識を提供するんです、これこそ正統な対価ってもんでしょう!?」

「相変わらずね……」

 

 したり顔で薄い胸を張る彼女の姿に、霊夢は溜め息ながらに小さく笑いをこぼした。

 

 少女の名は本居(もとおり) 小鈴(こすず)。この貸本屋、鈴奈庵を営む本居一家の娘で、赤朽葉の髪を纏めた大きな鈴の髪飾りが特徴的な少女だ。

 霊夢とは以前からの知り合いで、彼女が暇潰しに本を借りにくるといつも笑顔で迎えてくれる。といっても霊夢の来訪はそれほど高頻度ではないし、前回もだいぶ前の話になるので顔を合わせるのは久方ぶりだ。

 小鈴は霊夢の疲れた笑いを認めると、心外だとばかりに唇を尖らせた。

 

「なんですか相変わらずって! いい意味には聞こえないですよ!」

「いい意味で言ってないからね」

「なんですか、も〜!」

 

 図々しいというか打算的というか。別に思惑があるのはいいのだが、それにしても小鈴はたくましすぎるというのが霊夢の持つ印象だった。ちゃっかりしていると言い換えてもいい。

 あと、守銭奴。これだけは譲れない。

 

「まぁいいです。それで、今日は何の本をお探しですか?」

「ん、あたしが探してるわけじゃないのよ。今日はこっちの――」

 

 言いながら振り返ると、霊夢の背に隠れていた吹羽は弾かれたように横に出ておずおずと頭を下げた。

 

「こ、こんにちは……風成 吹羽っていいます。今日は、その、ボクの用事でして……」

 

 と、妙なほど普段の覇気が欠けた挨拶を聞いて、霊夢は不思議そうに片眉を釣り上げた――が、そういえばこの子小心者だったな、とすぐに思い返して納得する。

 

 最近は色々なことがあり過ぎて、また、その“色々なこと”に吹羽が関わり過ぎて忘れていたが、この子は普通の感性を持った普通の人間なのだ。

 その出自や持ち得る技術などにかなりの特殊性は見られるものの、それ以前に吹羽は悲しくなれば泣くし楽しければ笑う、ごく普通の幼い女の子。年上ばかりを相手にする生活をしてきた吹羽が、同年代の女の子をおよそ初めて――阿求は一種の例外として――前にして多少きょどきょどするのは不思議なことではなかった。

 

 何か気の利いた一言でも、と思っていると、意外なことにも食い付いたのは小鈴の方だった。

 

「わあ、初めてのお客様! こんにちは、本居 小鈴です! 気軽に小鈴って呼んでね!」

「ふぇ!? ぁ、えっと、よろしくお願いします、小鈴さん」

「も〜、さん付けなんてしなくていいのにぃ。わたしも吹羽って呼ぶし! ところで今日は!? 何の本を探しに来たの? 読んでく? 借りてく? せっかくだし借りてくよね!?」

「あああの、えーっと、そのぅ……」

 

 こんな勢いで話しかけられるとは思っていなかったのだろう、小鈴の圧に若干仰反る吹羽はちらちらと霊夢に助けを求めてくる。

 小鈴の考えが見え透いて溜め息を吐いた霊夢は、目をキラキラさせながら鼻息を荒くする彼女の後ろ襟を無遠慮に引っ掴んだ。

 

「はいはい、落ち着いて小鈴ちゃん。同年代の新規客が増えたのは嬉しいだろうけど、吹羽がちょっと困ってるから自重して」

「おっと、それはごめんなさいでした。なに分ここで本を借りて行ってくれる人はご年配が多いもので」

「そ、そうなんですか」

 

 その気持ちは分かるようで、それを聞いた吹羽は頬を掻きながら緩く微笑んだ。

 

「えっと、それじゃあ改めてお客様、今日は何をお探しで? 木版があれば刷ることもできますよ!」

「あ、はい。実は神様について調べてまして、何か参考になる本はありませんか?」

 

 神綺についてはやはり伏せて問うと、小鈴は小さく首を傾げた。

 

「神様について? 随分と珍しい調べ物ねぇ……」

「あ、無いなら別に――」

「あーありますあります! 調べ物に向くかどうかは分からないけど、一応あの辺に!」

「あの辺……分かりました。ちょっと見させてもらいますね」

 

 そう言い残すと、吹羽は小鈴の指差した方向へ向かっていった。いくつかの本棚の向こう側で、霊夢たちからは死角になる場所である。

 吹羽の姿が本棚の向こうに消えるのを見届けると、霊夢は肘で小鈴を小突いた。

 

「一応聞いておくけど、あの辺りに妖魔本(・・・)なんて置いてないわよね?」

 

 小鈴は少し頬を膨らませると、

 

「置いてませんよっ。お客様には売れないですし!」

「分かってるならいいわ。万一漏れると面倒臭いことになりそうだし――」

「というか絶対に売りません(・・・・・)から! 折角の稀覯本ですよ!? 読書家ならみんな手元に置きますって!」

「(そういう意味か……)」

 

 霊夢が腰に拳を当てながら溜め息を吐くと、小鈴は芝居がかった様子で自分の肩を掻き抱いて体を揺らす。今まで目にしてきた妖魔本に想いを馳せているのだろう彼女の表情は、まるで恋する乙女のような朱色にほんのり染まっていた。

 

 これだ。霊夢がこの店を特別に覚えているのはこの妖魔本の存在があるからである。

 妖魔本とは、大まかに“妖怪が記した本”である。稀覯本中の稀覯本であり、本来は里にはない――ある理由がない――ものだ。いくつか種類があるが、多くは妖怪の存在を記した本――つまりは“目覚めを待つ妖怪を封印した本”である。

 これだけは吸血鬼の館の大図書館にも揃っていないものであり、霊夢がこの店に対して監視紛いのことをしている理由だ。要は人里における火薬庫に等しいのだ。

 

 しかし、だからこそ望みが持てる。普通にない知識を得るには、普通にないものを見るのが一番だから。

 

「それにしても、神様について調べ物なんて本当に珍しいですね。ここは神の使いたる巫女さまが知識を披露する場面じゃないんですか?」

「できるならそうしてるわ」

「霊夢さんでも知らない神様ですか」

「知らないっていうか……」

 

 分からない、という言葉は不意に喉元で留まった。そして思い直す。そもそも小鈴にこのことを詳しく話したところで益体のないことだと。

 霊夢が言葉を続ける気がないのを悟ったのか、小鈴は視線を外すとすとんと下の椅子に座り込み、頬杖を突いた。

 

「まぁ確かにここなら外来本もたくさんありますし、分からないことを調べるにはもってこいかもしれないですね」

「……そういうこと」

 

 外の世界から流れ着いてきた本――外来本も多く取り揃える鈴奈庵は、未知を探究する上では都合がいい。最悪の場合は、小鈴に頼んで溜め込んでいる妖魔本の一部も見せてもらうつもりだ。勿論妖怪を封印した本ではなく、また別の安全なものをだ。

 小鈴も相当渋るだろうが、まぁ何かしら食いつきそうなものをちらつかせればころっと堕ちるだろう。彼女がそういう、ちゃっかりした(ちょろい)性格であることを、霊夢は知っているのだった。

 

「霊夢さんも何か見ていってはどうですか? そしてあわよくばお金落とし――借りていってくださいよ。是非に!」

「小鈴ちゃんはもう少し下心を隠す努力をしなさい」

「えへ、人を選んでるので平気ですってぇ〜」

「全くもう……お茶出してくれたら考えるわ」

「今すぐにっ!」

 

 店の奥へと駆けていく小鈴の背中を見届けて、霊夢は置いてある客様の椅子に腰かけた。

 不意にお茶を出すよう母に催促する小鈴の声が聞こえてくる。同年代でも落ち着きのなさは吹羽と全然違うなぁなんて思いながら、霊夢は小さく欠伸をこぼした。

 

 夜の訪れは、まだもう少し後である。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「あっ、聞こえてますぅ〜? 私ですけど〜」

 

 夜の帳のおり切る直前。薄暗い森の中で、間延びした女の声が響き渡った。

 まだ比較的明るいとはいえ人間であればもう自宅へ籠る時間。妖怪の時間が幕を開けるその寸前に、それはあまりにも場違いと言えた。

 が、彼女のことを知るものであれば、そんな疑念よりも警戒心が先に出るだろう。“人がこの場この時間にいること”よりも、“彼女がここに存在する事実”の方が何十倍と危険だからだ。

 

 金糸の髪。赤いドレスに白いエプロン。手元にゆらゆらと蠢くのは細身の剣――魔人、夢子。

 

 その危険性を、きっと彼女をここに連れてきた者たちはたった今思い知った。

 

「え、何してたのかですか? ごめんなさ〜い。なんか強姦されそうになったんですけどぉ、そのヒトたちとちょっと遊んでたんですぅ〜」

 

 揺れる鋒を伝う血が、ぽたりと血溜まりに落ちて鈍い水音を立てる。可憐で美しいはずのその姿は、今は鮮やかな血化粧で彩られていた。

 白いエプロンに飛び散った赤黒い斑点。元から赤いそのドレスに付着した血は、それでもなお黒を際立たせていた。艶のある笑顔にも血がしぶいている。虚空に話しかける最中に、ちろりと覗いた小さな舌が艶かしく口元のそれを拭い去った。

 

どっち(・・・)? どっちでもいいじゃないですかぁ。気持ち良ければなんでもいいですって♪ ねぇ?」

「ひっ!?」

 

 同意を求める夢子の視線に、向けられた妖怪は震えた声を漏らして腰を抜かした。

 無理もない。彼は目の前で仲間が断末魔をあげながら細切れにされる光景を、その吹き出す血を浴びて陶然と高笑いする狂気を目にしたのだから。

 

 それに耐えた――思考を放棄したのかもしれないが――残りの妖怪二人は、しかし反抗心を露わに牙を剥き出す。怒りと恐怖と、何がなんだか分からない感情の渦に任せて、血溜まりの中に悠然と佇む夢子に唾を飛ばした。

 

「お、お前ぇ! だだ、誰と話してやがる!? こんな事し、して! ただじゃすまさねぇッ!」

「よくも、よくもォォオオぉびゃっ」

 

 ――刹那、殴りかかった妖怪の首から血飛沫を上がる。泡の音に混じって響き渡る絶叫は、音圧も高音もないのに耳を劈くような感覚を聞くものに与えた。

 噴水の如く噴き出す血霧の向こう側で、いつのまにか剣を振り抜いていた夢子は無邪気に唇を尖らせる。

 

「も〜、今話してるんだから邪魔しないでよ。待てない男は嫌われるわよ?」

「っ、ばっ、ぐぼばば――ッ!?」

「だからぁ――うっさい」

 

 ぱちゅん。

 軽い音がして、首が飛ぶ。血の孤を描いて飛んだそれは鈍い音を立てて落ちると、腰を抜かした妖怪の目の前に転がってきた。

 開いた瞳孔から血がどろりと流れ出る。痛みにもがき苦しんだその表情は、今まで見たどんな死に顔よりも凄惨だった。

 

 次いで首のない体を一瞬で切り刻むと、夢子はその血煙を浴びてうっとりと声を漏らす。それが血塗れでなければ、きっと世の誰もの目を釘付けにするだろう。

 だが細切れの死体が浮かぶ血溜まりを見下ろした時には、その目は冷え切った侮蔑の色をしていた。

 

「もっと静かに、もっと美しく死ねないの? 無価値な雑魚なんだから、死に際くらい私を愉しませてよ」

 

 ――狂気。破綻。

 

 生き物を斬り刻む感覚に震え、血を浴びることに快感を覚える夢子の姿はただただ膨大に、圧倒的にその二言を想起させた。

 「あ、ちょっと切りまぁ〜す」などという場違いすぎる彼女の発言も、今は何枚も壁を隔てた向こう側のように聞こえる。

 

 初めにあった劣情などとうに吹き飛んでいた。

 薄暗い森の中に無防備にも一人でいる女など、妖怪にとっては性欲と食欲の捌け口でしかない。そのはずなのに、あろうことか彼女は襲ってきた妖怪を無惨に返り討ちにし、その理解不能な思考回路と在り方をまざまざと見せつけたのだ。

 今はただ、彼女が恐ろしかった。悔しさすら湧き上がらないこの感情の波濤は、今まで見たなによりも――それこそ、あの三人(・・・・)に対した時よりも、よっぽど――。

 

「ちくしょうッ! これでも――ッ!?」

「思ったより冷静だったあなたには、これをプレゼント♪」

 

 やけくそ気味に殴りかかった大柄な妖怪の四肢がピタリと止まる。微かな陽光に照らされて見えたのは、彼の体をキツく止めた極々細い無数の糸だった。

 細過ぎる糸は刃と相違ない。きりきりとか細い音が聞こえたかと思うと、糸の接触部からは徐々に血が滴り始めていた。

 

 堪えるような苦悶の声が漏れる。夢子はその様子に一層笑みを深くすると、

 

「うふっ、あなたは静かでイイわね♪ あ、だけどせっかくの気分を悪くされちゃ敵わないし――喉は潰しておこ♪」

「かひゅッ!?」

 

 刹那、夢子が放った一振りの剣は吸い込まれるように妖怪の首元に飛ぶと、すとんと刃の根本まで突き刺さった。

 当然、絶叫――とはならず、妖怪の喉は声でなく空気の抜ける音とごぽごぽという血の泡を吹く音のみをひたすらに吐き出す。声帯が完全に断たれていた。

 

 凄まじい技量だ。単純な戦闘能力に於いて、夢子はこの場の誰よりも遥かに秀でていた。

 仲間を嬲られ、弄ばれ、殺された今になってそれを知る。理解する。そしてそれが分かった時には、彼の思考は怒りと後悔と悲嘆に染まって真っ黒になっていた。或いはこれを、絶望と呼ぶのかもしれない。

 

 しかし幸か不幸か今の彼には、そんなことを理解する余裕などかけらもなかった。

 それこそ――内臓をかき混ぜられて大量の血を身体中から溢す仲間の姿を、認識もできないほどに。

 

「あはぁぁあ♪ 降って湧いたラッキーイベントだったけど、愉しませてもらっちゃった♪ ――あ、もう死んでいいよ?」

 

 糸が一気に引き絞られ、ほぼ絶命状態だった妖怪の体を無残に引き裂く。炸裂した血塊を背にして、夢子はほとんど自失した妖怪の元へと歩み寄った。

 血の滴る口元が弧を描く。歩く所作は恐ろしく洗練されていたが、その豊満な肢体に纏うのは絶望的なまでの死の気配。狂気を貼り付けたその笑顔に妖怪は逃げることもせず――それを考えることすらできず、呆然と“死”を見上げる。

 

「さぁてさて、それじゃあデザートはどうやって頂こうかな……あら?」

 

 しかし妖怪を見つめた彼女の反応は、壊して遊ぶ(・・・・・)玩具を前にした酷薄なそれではなく。

 

「あなたは確か……ああ、そう言えばさっきのも見た顔だったなぁ……」

 

 ぽつりと呟き、たおやかな指先を唇にそっと当てる。だがそれも数瞬、不思議そうだったその表情を心底面白そうに歪めると、ぺろりと舌舐めずりをした。

 

「あぁ――イイこと思いついちゃった♪」

 

 その表情の、なんと幸せそうなことだったか。だが崩壊寸前の自我ではそれを認知することも妖怪にはできない。仮にそれができたなら――きっとその笑顔の裏に燻る残虐な思考回路を、察することもできただろうに。

 

「待っててね吹羽ちゃん。さいっこうのプレゼント、してあげるからね――……」

 

 蕩ける情愛を口にするような。

 甘やかな声音と共に、妖怪の意識はノイズの海に消え去った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 日も沈んで少し経ち、机に頬杖を突いてうたた寝をしていた霊夢はふと目を覚ました。

 入り口にかけられた暖簾がふわふわと揺れている。日が沈んで冷えた秋の風が、程よく暖まっていた肌を撫でて余計に冷たい。

 「さぶ……」と口の中で呟きながら立ち上がると、ちょうど吹羽も調べ物を終えたのか本棚の森から抜け出てくるところだった。

 

「あ、霊夢さん」

「吹羽。成果はあった?」

「残念ながら……」

 

 やっぱりか、と。

 吹羽のちょっと困った顔は予想の範囲内で、だからこそ霊夢がこの場所を選んだ甲斐があったというものだ。

 頬杖の赤い跡が残っていそうな頬を片手間に撫でながら向き直ると、小鈴は椅子にどっぷりと座って寝息を立てていた。客がいるのに堂々と居眠りとは一体どんな神経をしているんだろうと思わなくはないが、まぁ小鈴ならやりかねないとかそれだけ信用されているだとか、考えても仕方のないことばかりがぽつぽつと出てくるので、霊夢は思考をぽいと投げ捨てた。

 

 ともあれ、霊夢は嘆息ながらに歩み寄る。徐に伸ばした手は、小鈴の額の真正面で中指を引き絞り――ぱちんっ! と一発。

 

「ぁ痛あッ!?」

「起きて小鈴ちゃん。ていうか店番が寝てちゃダメじゃない。盗まれたらどうするのよ」

「ぅあー、だって暇だったんですもん。それに霊夢さんなら大丈夫かなって」

 

 両手で額を抑える小鈴の人懐こい笑みに、吹羽は少し複雑そうな表情を向けて、

 

「あの、ボクもいるんですけど……」

「吹羽は気ぃ弱そうだから論ずるまでもなかったね!」

「その判断の仕方は流石に危ないと思うわ」

 

 百歩譲って自分のような勘があるなら別なのだが、まぁこの考え方も商人的には致命的だろうな、と思い返す。

 危ないは危ないが、今回はその判断があながち間違っていなかったので本たちは救われた。運がいいというべきか、サボり方を心得ているというべきか。

 

「ところで、探し物は見つかった?」

「いえ……残念ながら、今持っている情報以上のことは何もわかりませんでした」

「あれま、それは力になれなくてごめんね」

「というわけで小鈴ちゃん、妖魔本を出してきて」

「あ、はーい了解で――って何をどさくさに紛れてとんでもない要求してるんです!?」

 

 変わり身の早さに驚く吹羽を無視しつつ、霊夢はさも当然というように腕を組んだ。

 視線は語る――“どうせ分かっていたくせに”と。

 

「ここにある本で見つからないなら妖魔本しかないでしょう? さっさと出してきて。もちろん安全なやつをね」

「ヤですよぉ! なんで宝物を人に見せなきゃならないんですか!」

「貸本屋が本を見せることの何がおかしいのよ。大丈夫、いざとなったらあたしがいるから。たとえ家が燃えても二人は守ってみせるわ」

「それはそれで嫌だぁ!!」

 

 悲痛に叫んで頭を抱える小鈴の姿に吹羽が心配そうな表情をするが、霊夢は敢えて笑いかける。なんだか吹羽の頬が引きつったように見えたが、きっと小鈴の哀れな姿にドン引きしているだけに違いない。

 

 さておき、そもそもさっき妖魔本の話を出した時点で賢い小鈴はこの要求を多少なりとも予想していた筈だ。でなければ小鈴はきっとここで知らないフリをしただろう。間違っても“とんでもない要求”と、本の存在を仄めかす発言などしない。

 それが素直に見せる気の表れなのか、ある種の余裕(・・)なのかは分からないが――

 

「そもそも、妖魔本を吹羽に見せて大丈夫なんです……? 正直霊夢さんが一般人の前でこの話を出したこと自体が驚きなんですけど」

「そこは心配しなくて大丈夫。この子一般人かっていうと微妙に違うから」

「その評価はボク的にちょっと頂けないんですけど……」

 

 吹羽の戯言を有意義に無視つつ小鈴を見つめると、彼女は一つ大きく溜め息を溢した。

 そしてようよう席を立つ――かと思いきや、しかし彼女は気怠そうに頬杖を突いて、

 

「――ないですよ、そんなの」

 

 は? と霊夢の声が響いた。

 

「どういうことよ、それ」

「ないというか、十中八九載ってないです」

 

 小鈴の言葉には躊躇いがなく、その場凌ぎの出任せでないのは確かだった。返す言葉の見つからない霊夢が声をつまらせると、小鈴はついと吹羽を見やった。

 

「吹羽、あそこの棚にはたくさん神話があったでしょ」

「え、あっ、はい。たくさんありました」

読めないの(・・・・・)ばっかりだったんじゃない?」

「…………はい。正確には、知らない言葉遣いがあってよく分からないものもいっぱいありました」

「だろうね。神話の類って、外来本に多いから」

 

 訳知り顔の小鈴に対して、吹羽は不思議そうに首を傾げた。霊夢は彼女の言いたいことを理解してふむと頷くが、敢えて黙っておくことにした。

 店のことは店の人が説明するべきだし、人のことは本人が一番よく分かっていることが多いからだ。

 

「ウチはね、外来本もたくさん扱ってるんだ。実は神話の類って外の世界の方がより詳しく知られてて、それの一部が、さっき吹羽が見てた棚に入ってたの」

「じゃあ、ボクが分からなかったのって」

「そう、外の世界特有の言い回しだったり言葉だったり。あと本当に読めないのもあったと思うけど、それはわたしたちとは違う言語系統の本だったから。まぁわたしは読めるけどね」

 

 お茶目にウィンクする小鈴。吹羽は成る程といった様子で頷く。

 余談だが、小鈴が全く違う言語系統の文字を読めるのはその能力(・・)に依る。彼女は、たとえ初めて見た文字でも瞬時に読み取ることができるという能力を持っているのだ。それこそ外の世界における外国語全般に始まり、古代の天狗が用いていた文字ですら初見で読書可能。当然、件の妖魔本の文字だってお手の物だ。

 

「外の世界ってすっごく進んでて、それこそ生物がまだいないような大昔のことも本に記してるんだ。神話も同じように、何千年何万年何億年も前のことが、まるで見てきたかのように書かれてる」

「そ、そんな昔のことまで……? どうやって――もしかして、時間を巻き戻ったりできるんでしょうか」

「流石にそれは……って言い切れないかなぁ……それくらい、外の世界ってわたしたちの常識外なんだってさ」

「へえ……」

 

 正確にはこちらの世界が“非常識”なのだが――なんて野暮は入れないでおく。

 

「そこで妖魔本よ。これ、簡単にいうと妖怪が書いた本……っていうか文書なんだけど」

 

 どこから取り出したのか、小鈴は一枚の紙切れを机の上に広げた。書かれていたのは落書きと言った方が分かり良いくらいにぐちゃぐちゃな殴り書きである。

 小鈴はこれを簡単に出したが、一応妖魔本の一種である。霊夢には微かに妖力の香りが感じられたし、この文字と思えない文字にも多少の規則性が見られた。

 妖魔()と言いつつ、ただの紙切れ。要は妖怪が書いたものは、本だろうか手紙だろうが落書きだろうが漏れなく妖魔本なのだ。小鈴が言い直したのにはそういう意味が込められている。

 

「これ、調べてもらったら多分何百年か前のやつって言われた」

「何百年!?」

「そう。内容はただの手紙だったんだけど、妖魔本ってのは大体こんなもんなの。わたしたちにとっては大昔のことが書かれてる」

 

 ――霊夢が吹羽を鈴奈庵に連れてきたのも、これが理由である。

 妖魔本は普通にない知識が載っているのと同時に、今では知りようのない昔のことも書かれている可能性が高いのだ。稗田の書斎で見つからないならば更に過去へ遡るほかない。霊夢は、それに妖魔本がうってつけだと判断したのだ。

 しかし、この小鈴の弁論だと――

 

「じ、じゃあボクの調べ物も妖魔本なら――」

「とは、ならないんだよね。残念ながら」

 

 浮かべた喜色が一瞬で陰る。残念そうに表情を消す吹羽を横目で見ながら、霊夢は小鈴の言葉に要約を付け足す。

 

「……外来本に載ってないなら、妖魔本にもおそらくは載ってない。……そういうことね」

「その通りです、霊夢さん」

 

 幾ら妖魔本を書いた妖怪が何百年と生きる存在でも、さすがに何億年も前のことは分からない。仮に書いてあるなら、きっと吹羽はここの書架で調べ物を終えている筈だろう。

 期待した分、余計残念そうに肩を落とす吹羽。連れてきた手前、少々申し訳ない気持ちも湧き上がってくる霊夢だったが、ないものは仕方がない。せめてもの慰めに、霊夢は吹羽の肩をぽんぽんと叩いた。

 

「“大は小を兼ねる”という諺があります。外の世界の知識にもないなら、もうボクには調べようがないですね……」

「そうね。唯一わかったのは、アレがとんでもない古神だということ、か」

 

 まぁそれも納得だな、と。

 相対した時の強大な力を思い出して、霊夢は口の中でそう呟いた。

 神が長い時間存在するということは、それだけ信仰が厚く強大であるということだ。しかも神綺のような唯一神であれば、その世界の信仰は文字通り独り占め。幻想郷でいうところの、龍神様と同等の力すら持っていてもおかしくはないのだ。

 

 やはり、下手に関わるべき相手じゃない――内心で戦慄すらしながら、霊夢は徐に手を胸に当てて小さく深呼吸した。あんなのはきっと、人が相手にしていい存在ではないのだ。

 

「な、なんか深刻そうな顔してますけど、何かあったんですか?」

「っ、いえ……なんでもない。助かったわ、小鈴ちゃん」

「いえいえ〜、こちらこそお力になれず〜」

 

 はっ、と表情を引き戻し、霊夢は当たり障りのない謝辞を小鈴に向ける。気にした様子もない彼女は、朗らかな笑顔でそれを受け取ってくれた。

 

 ふと気がつけば、もう外は暗くなっている。月こそ顔は出していないが、太陽の隠れた宵の刻はもう妖怪の時間だ。

 ここからは妖怪の相手も兼ねるお店以外は軒並み閉店する。ここ鈴奈庵もその例には漏れず、本当であれば数刻前に閉まっているはずである。いつの間にか小鈴の厚意に甘えて、営業時間を延ばしてしまっていたらしい。

 

「……長居したわ。帰りましょ、吹羽」

「あ、はい! えと、お世話になりました小鈴さん」

「あっ、気にしないで! そもそもお客さんが残っていたらいつも閉店時間は延長してるし!」

 

 律儀に頭を下げる吹羽に、小鈴は慌てた様子で説明した。

 その優しさに気が付いてか、僅かな影の残る吹羽の表情に微笑みが咲く。それを横目で見て、小鈴の何気ない優しさに思わず感謝する霊夢だった。

 

 暖簾を潜って店を出ると、見送りのつもりの小鈴が丁寧に礼をした。

 

「これからもご贔屓にっ! 最近物騒らしいですし、二人とも気をつけて帰って下さいね! ウチに寄った帰りに何かあったんじゃ変な噂が立っちゃいますから!」

「? そんなに物騒だったかしら」

 

 最近は異変もなければ妖怪が暴れたこともない。霊夢がこんなにも暇しているのは極端に言えば平和だからだ。そんな認識でいる彼女にとっては、小鈴の言葉は不自然の塊である。

 後半の戯言を有意義に無視しつつ首を傾げる霊夢に、小鈴は更に疑問を重ねた。

 

「だったかしらって……此間の(・・・)は霊夢さんが解決したんでしょ? ほら、なんかものすごい地震があったり、秋なのに天気が大荒れしたりした日!」

「(地震に天気……あの時のことか)」

 

 あの時――というのは言わずもがな、鶖飛と決戦のあった日のことだ。

 地震はおそらく衝突の余波、天気に関しては間違いなく吹羽の終階によるものだろう。落雷や雹などは超局所的だったが、さすがに雨風は幻想郷全土に広がっていたことを霊夢は事後に知っている。そしてあの一件を説明するために、紫は霊夢が早急に解決したという噂を広めて処理をしていたのだ。

 

「里では結構噂になってるんですよ? 災いの前触れなんじゃないかとか、すっごい怖い妖怪が現れたんじゃないかとか」

「…………眉唾にも程があるわ。大体、このあたしが解決したじゃないの」

「それはそうなんですけど、何せ久しぶりに目に見える異変――というか、異常でしたからね。みんな不安なんですよ」

 

 わたしもですけど、と付け足すような曖昧な笑みに、霊夢は思わず溜め息を吐いた。

 こうしてみると、紫の情報統制も案外甘いんじゃないかと疑いたくなる。或いは小鈴の言ったように、最近目に見える異常がなかったばかりに緩んだ妖怪への畏怖を取り戻そうとしたのかもしれないが、それで本当に“すっごく強い妖怪”とやらが生まれてしまったらどうするつもりなんだろうか。本末転倒とはよく言ったものである。

 

 ひとり考え込む霊夢を尻目に、小鈴はそう言えばと手を叩いた。

 

「件の異常、吹羽のところは大丈夫だった? ウチなんか本がどたばた倒れて大変だったんだよぉ〜」

「ぇ、あ……はい。戸棚の中身が出てしまったくらいでした」

「もーほんとにやめてほしいよねー。何か起こすならさ、もっとこう……人様に迷惑をかけないようにやって欲しいよね!」

「そ、そうですね……あはは……」

 

 同年代の存在が嬉しいらしい小鈴の本音に、吹羽は曖昧な笑みを返して応える。彼女の強かなところは美点でもあるが、こうして遠慮がなさ過ぎるのは玉に瑕だなあと思って――

 

 

 

「ほんとだよ! まったくもう……早めに退治されてほんとに良かったぁ……」

 

 

 

 能天気な自分を、後悔した。

 

「ここって山奥でしょ? 土砂崩れとかあったら洒落にならないからね〜。きっと特に意味もなく暴れてたんだろうけど、もっと人のことを考えてほしいよ」

「――……」

 

 迂闊な発言、空気が読めない、もっと人の気持ちを考えろ――もしも小鈴が吹羽の置かれている状況を知っていたなら、霊夢はそうした言葉で咄嗟に怒鳴りつけることもできた。

 だが、そうではないと知る自分が、放つ言葉を喉奥に押し込める。そうして拮抗した結果、霊夢は小鈴の発言を何気なく誅することも、吹羽を気遣うこともできず――

 

「……ボク、もう行きますね」

「え? あ、うん。またのご来店をお待ちしてまーす!」

「ぁ、ちょっと、吹羽!」

 

 目元に影を作ったまま、吹羽は小鈴に背を向けて歩き出す。吹羽の急な様子の変化を小鈴も不思議に思ったようだったが、それにかまっている場合ではないと霊夢は思った。

 小鈴に軽く礼を言って、霊夢は急いで吹羽を追う。

 

 ――しばらく歩いた暗い小道で、吹羽は足を止めていた。

 

「ぁ……吹羽――」

「霊夢さん」

 

 呟くような声音なのに、吹羽のそれは霊夢の言葉を鋭く断ち切った。

 背を向けたまま、静かな声が闇夜に響く。風に揺れる葉々の擦れ音が、それを寂寞感で彩るようだった。

 

「ボクは……良いことを、したんでしょうか」

「……え?」

 

 ざあ、と一際強い風が吹いた。

 

「お兄ちゃんが幻想郷を壊そうとして、霊夢さんやみんなを殺そうとして……それをボクは、なんとか止めることができました。それには何も、後悔なんてしてないんです」

 

 あの日の吹羽の選択は、間違いなくこの世界を救った。それが例えほとんどの人間の記憶に残らないのだとしても、あの場にいた者たちは誰もがそれを理解している。

 覚悟していたことも、当然それを悔いてはいないということも、そして――心の奥では、決して望んだ結末ではなかったことも。

 

「里の人たちは、みんな口を揃えてああ言いうんです。あの日の出来事があの日だけで終わって良かったって。お兄ちゃんがあの日に死んで、良かったって……」

 

 兄の亡骸を抱いて、大粒の涙を溢す吹羽の姿が脳裏を過ぎる。

 

「みんな、本当のことを知らないのは分かってます。でも、でもボクはっ、あの時本当は……どっち(・・・)もイヤだったんです……!」

 

 泣き出すような、悲痛な告白。

 

「どっちもイヤだったけれど、マシだと思った方を選んだだけで、里のことなんて考えてなくて……っ! それなのに、みんなお兄ちゃんが死んで、それで良かったって……みんな笑顔で、いうんです……っ!」

「吹羽……」

 

 血を吐くような吹羽の言葉は、霊夢に安易な言葉を選ばせなかった。どれだけ頭を絞ったところで、吹羽を本当に慰められる言葉など作れないだろうと霊夢はなんとなく分かってしまっていたのだ。

 霊夢の言葉は薬になどならない。傷口に塗るのが塩だろうが砂糖だろうが、きっと痛いだけで治らない。

 

「霊夢さん……ボク、ボクはっ、これで良かったんですか……? ボクがしたことは、良いこと……だったんですか?」

 

 或いはそれを、吹羽もきっと分かっていた。

 こんなどうにもならない問いを投げかけたところで、満足のいく返答はきっと霊夢には返せない、と。

 

 だから振り向いた吹羽は、縋り付くようなか弱い瞳で霊夢を見上げているのだ。

 

 何が良かったのか、本当にこれで良かったのか、何もかも分からなくなってしまった吹羽のその涙は、後悔しているからではない。答えを、導を、助けをこうして求めても、きっと救い出してはもらえないと悟っている故の、諦めの証。それでも手を伸ばさずにいられない苦しさへの、最後の抵抗。

 真っ直ぐに霊夢を見つめる吹羽は、安心して呼吸の出来ないこの生き地獄から救ってほしいと手を伸ばす、幼く可哀想な、弱々しい少女の目をしていた。

 

「っ、ぁ、あたしは……」

「………………」

「………………」

 

 数瞬にも数時間にも感じられる、長い時間を間に置いて、二人はじっと見つめ合う。

 そうして――遂に。

 

「……え、えへへ、冗談ですよ霊夢さんっ」

 

 長い沈黙を挟んで紡がれた声は、素っ頓狂な調子で己の問いを笑い飛ばした。

 俯きかけていた視線を戻せば、吹羽は頬に朱を差してにっこりと笑っている。涙はもう、擦れた赤色に隠れて見えない。

 

「ごめんなさい! さっきの小鈴さんの言葉、霊夢さんは気にするかなと思って茶化そうとしたんですが、失敗しちゃいました。さっきのはその、忘れてください」

「で、でも」

「ボクはもう大丈夫ですよ。霊夢さんが気にすることなんてありません! ほらもうこの通り! 明日からはお店も再開しますし、元気いっぱいですから!」

 

 細い腕をむんっと上げて強がり、手を後ろに組んで可憐に笑う。

 

「お仕事が溜まってますから、ちょっと無理しないとですね。此間投函箱をみたら両手にいっぱいになるくらい依頼が来てて、びっくりしちゃいました」

 

 ――やめろ。

 

「あ、でも休憩はちゃんと取りますから、心配しないでくださいね? 霊夢さんにさんざっぱら言われましたから、今度からは気をつけようって決めてるんです。今更ですけどね……あははー」

 

 ――やめてくれ。

 

「そうなると、手元の鋼じゃ足りないかな……また取りに行かないとですね。前みたいに魔理沙さんに頼んでみようと思います。ものが浮くあの魔法、ずるいですよねぇ……」

 

 そんな空っぽな言葉で、空っぽな元気で、空っぽに笑うのは――もう、やめて。

 

「……吹羽、あたしは――あたしは、ね」

「もう、いきますね! 明日も早いですから! お見送りはここまでで大丈夫ですっ」

 

 霊夢の言葉を拒否するような切り出し――否、本当に拒絶しているのだろう。吹羽は霊夢から顔を背けるように背を向けると、そのままゆっくりと歩き出した。

 

 その小さな背が、果てしなく遠い。

 踏み出そうとする足が地面と癒着しているかのように重く、引き留めようとしても喉がうまく振るえない。唯一伸ばせた手は、何も掴めずに空を切る。

 

 

 

「じゃあ、霊夢さん……おやすみなさい。――さようなら」

 

 

 

 そうして吹羽の姿は、暗い夜道に消えていった。

 

「……っ、〜〜ッ!」

 

 ばきんッ! と分厚い木の板を砕き割る音。硬く握りしめられた霊夢のその拳からは、ポタポタと血が滴っていた。

 何も掴めない手なんて、砕けてしまえば良いと思った。闘う力だけ強くて、どうにもならない現実に迷う親友一人抱きしめてあげられない無意味な手など、切り落として刻んでしまいたいくらいだ。

 

「(また、吹羽に……あの顔をさせた……ッ!)」

 

 空っぽの言葉。空っぽの元気。空っぽの笑顔。

 霊夢はそれを知っている。あれは以前――吹羽がすべてを背負い込んで、心配をかけまいと、阿求や霊夢に向けていた虚空な笑顔そのものだ。

 やっと心から笑えるようになった吹羽に――あろうことか霊夢が、それをさせてしまったのだ。

 

 間違ったことをした、だなんて思わないようにしていた。それをすれば吹羽の決断を汚すことになるから。覚悟を踏みにじることになるから。

 だがいつか、紫は言っていたのを思い出す。

 物事の成否は、その時を生きる者に付けられるものではない、と。

 間違っていたかどうかを決めるのはいつだって“後の人”で、そしてそれが分かる頃にはきっと当人ではもうどうしようもない事態になっている、と。

 

 そうだ、その通りだった。

 あの時した選択は、こうした結果にたどり着いた。良かれと思ってやった事は、こうした結果に繋がった。

 きっとあの時の選択の成否を決めるのは霊夢ではなく今の吹羽で、その答えはもうきっと出ていて。

 

「なんでよ……なんで、あたしは……ッ!」

 

 

 

 霊夢はまた――選択を、間違ったのだと。

 

 

 




 今話のことわざ
(だい)(しょう)()ねる」
 大きいものは小さいものの代用として使える。小さいものより大きいもののほうが使い道が広く役に立つということ。





 ――ある日の日記

 今日は少し悲しいことがあった。
 詳しいことは書きたくもないけれど……ボクと里の人たちとの間に大きな壁があるような気がした。
 ……したくもなかったことをして、その結果里の人たちは助かって。絶対にしてはいけないことをしたボクを、みんなは知らないし、責めたりもしない。

 分からない。それがどうして、こんなに辛いんだろう……。
 
 
 


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第五十九話 夢、変わらず

 なんか早めに書き上がりました。
 このペースを守りたい……。
 


 

 

 

 ――爽やかな滝の音が耳を満たしている。

 水の落ちる音、水が霧となる音、水が岩肌に当たって弾ける音。冬も間近なこの時期には少し肌寒くもあるが、暑過ぎて集中を欠くよりはずっといい。

 水の音は人の心を鎮めてくれる。それがなぜかと言われれば“分からない”としか答えられないが、椛はその効力だけはよく知っていた。

 

 水の音に満たされながらこうして深く集中すれば――ほら、分かる。

 

 髪を揺らす風の流れが、葉々が枝を離れる僅かな断裂音が、そうして落ちゆく葉っぱが地に触れる、その瞬間が。

 

「――!」

 

 そうした感覚を繋ぎ合わせるように、椛は宙に剣閃を描く。一つ、二つ、四つ、八つ――鋭さを落とさずに振るわれる剣は、気がつけば数えきれない程の銀光を瞬かせて舞い踊っていた。雨でも降っていればその雨粒全てを切り落としているのではと思えるほど、椛の剣は鋭く、なにより疾い。

 

 最後に一際強く剣を振るうと、椛はすたっと元の位置に舞い戻った。ゆっくり呼吸し、残心をとる。――その周囲では、斬られた落ち葉が桜吹雪のように舞っていた。

 

「精が出るなァ、椛」

 

 見計ったかのようなその声に視線を向けると、そこには腕組みに不敵な笑みを浮かべた烏天狗の姿があった。

 

「……朱座さん」

「おうよ。ちぃっとばかし久しぶりだな」

 

 気の良い親父然とした烏天狗――朱座。

 彼の言葉通り顔を合わせるのは久方ぶりで、椛は彼の相変わらずな態度に小さく吐息を溢した。

 額の汗を拭い、椛はもう一度剣を正眼に構える。稽古のついでに、会話はできる。

 

「何か用ですか」

「いや、特に用はないが――って訳でもねぇな」

 

 朱座は虚空を見つめて首を傾げると、言葉を改めて近くの木に背を預けた。

 

「風成のお嬢ちゃんの様子はどうかと思ってな。息災か?」

「……ええ、まぁ」

「……それだけかよ。素っ気ねぇなァ」

 

 素振りをしながら、椛は曖昧に答えた。その態度が若干朱座には不満だったようだが、彼と椛の間では慣れたもの。一つ鼻を鳴らして居住まいを正す。

 

 ――吹羽の一件のことは、実は天魔から他言無用を言い渡されている。というのも、以前彼が言ったように天狗族が一つの物事に傾倒しすぎることができないためだ。

 大きな勢力を持つものは行動を弁えなくてはならない。誰にも隙を見せず、いつだってどっしりとその場を動かない強い姿勢を示さなければならない。だからこそ、いつの時代の権力者も自分が自由に動かせる影の人材(・・・・)を用意するのだ。

 今回においては、それが椛だった。だから椛は、あの日のことは全て心の内にしまっておくことにしている。朱座も例外ではない。

 

 だが、当の朱座はもっと簡単な(・・・)部分が気に入らないようで。

 

「お嬢ちゃんとは友達なんだろ? 若ぇんだからもっと遊べよ」

「遊ぶ時間なんて私にはありません。仕事のこともそうですし、空いている時間はこうして剣を振るっていたいんです」

「さよか。生真面目過ぎるのも考えもんだ」

 

 って、今更か――そう小さく零した朱座に若干の苛つきを覚えながら、椛は深く呼吸して刀を構え直した。

 どうやらこの烏天狗は、椛のことを見た目どおりの子供と思って疑わないらしい。

 

「私は、剣です。私は私の大切なものを守るために、刃を砥がねばなりません。何も斬れない剣に、剣を名乗る資格はありませんから」

 

 自分に言い聞かせるように言って、椛は大上段から刀を振り下ろした。

 大気が刀身を撫で、収束して風となる。激流となった風は鋭く大きく、刀身の動きに合わせて宙を駆け――衝撃。

 腹の底に響く轟音と土煙を上げて、椛の剣は数間の地面と木々を、唐竹割りにしていた。

 

 ほう、と感心する声を無視して、椛は再度構えて稽古を再開する。今度は剣舞だ。

 

「剣、ね。研鑽するのは大いに結構だが、ちと苛烈すぎやしないかね?」

「力がなければ、失うだけの世界ですよここは。妖怪の賢者も言っているでしょう。“幻想郷は全てを受け入れる。それはそれは残酷な話だ”と。全くその通りだと、私は思います」

 

 この世界は全てを受け入れるが故に、さまざまな存在がひしめき合っている。人間がいれば神がいて、妖怪がいれば妖精もいる。本来は交わることがなかったはずの、実に多種多様な存在がこの小さな世界に押し込められているのだ。

 絵に描いたような弱肉強食。全てを受け入れるが故に全てが自由で、だからこそ生き残るのは難しい。

 この世界は誰にでも優しいが、油断をすればたちまちに食い散らかされてしまう残酷な世界なのだ。

 

「だから、力のないものを生かしたいなら自分が力をつけるしかない。大切なものを命を捨ててでも守りたいという心意気に、苛烈も何もないでしょう」

「お嬢ちゃんのことをそこまで言うか」

「……吹羽さんのことだけではありません。誰にだって、守りたいものなんて数えきれないくらいあります。それを守るには力をつけるのが一番早いと思っただけです」

 

 まぁ吹羽のことは特にだが、とは口の中だけで呟いて、椛は舞いを続けた。

 今回のことで椛は痛感した――否、痛感させられ続けていた。

 友を守る剣であれと誓ったのに、鶖飛を相手に手も足も出なかった。もちろん、自分でなければあそこまで善戦できなかったとも自負しているが、上には上がいるもの。そして吹羽は不幸にも、そう言った手合いをことごとく引き当てて敵対してしまう星の下にいるらしい。

 

 足りないのだ、力が。圧倒的に。それが椛には、悔しくて仕方がない。

 

「“強くなりたい”、か。まぁ至極単純で分かりやすい気持ちだわな」

「む……」

 

 そういう言い方をされると、どうも子供扱いをされているような気分になってよろしくないのだが。いや、実際朱座は数百年生き続けている古参の烏天狗で、せいぜい百か二百程度しか生きていない自分はまさしく子供のわけだが、それでも椛にだって誇りはあるのだ。

 つらつらと説いたこの誓いが、そのたった一言で表されてしまう事実がなんとも歯痒いというか、虚しいというか。

 

 気が付かぬ間にむっとしかめ面になる椛だったが、朱座はそれに気付くこともなく木の根本にどかっと座り込んで瞑目した。

 

「ま、お前ならそのつけた力を間違って振るうこともないだろうが……案外、次の天魔はお前だったりしてな?」

 

 真っ白い耳がピンと震えた。

 

「っ! そ、それはないでしょう。私は天魔様のように思慮深くはありませんし、だいたい私は白狼天狗ですよ? 例え他より斬れるものが多かったとしてもそれでは示しが――」

「分かった分かった! そんなに照れんなって、冗談だからよ」

「てっ、照れてませんが!」

 

 反射的に叫ぶが、それを見て更に豪快に笑う朱座の姿にはっとする。椛はまたやられたか、と慌てて素振りに戻った。頬は若干熱を持っている。

 この烏天狗、以前病室で話したのに味を占めたのか事あるごとに椛をからかうようになったのだ。老齢らしく話の上手い彼は、今のように真面目な話の中で突然放り込んでくるから質が悪い。隙あらば斬ってやろうかなんて何度考えたことか。

 

 朱座の笑い声が止むと、後に残ったのは剣の風切り音と葉擦れ、そしてしゃわしゃわとした滝の飛沫だけだった。

 集中さえしてしまえば羞恥などないも同然だ。そしてその気恥ずかしささえなくなれば椛の剣舞はひたすらに鋭く美しく、ちらと視線をやれば朱座も微かに微笑みながら椛の舞を見つめている。

 最後に一振り、横薙ぎにふるって残心しゆっくりと納刀する。左の肩掛けが、ふわりと風に乗って揺れた。

 

「ところでよ、椛。あの話聞いたか?」

 

 ――ようやく本題か、と思いながら。

 

「ええ、聞きました。相当惨い死体だったそうですね」

「……ああ」

 

 その現場に行って見たのを思い出したのか、朱座の表情が気分悪そうに歪む。話に聞いた惨状は椛でも想像するのを躊躇うほどである、実際目にした朱座の後悔は一入だろう。

 

 というのは、此間発見された惨殺死体の話である。妖怪の山のほど近くで、偶然飛んでいた哨戒天狗が見つけたそうだ。

 それはそれは酷い有り様で、その惨状を口にするのも憚られるほど。それでも形容するのであれば、“拷問の跡”というのが最も合う。

 

「ありゃまともじゃねェ。殺し方を見ただけでそいつのネジの飛び方が分かるなんて異常だぜ」

「…………それほどですか」

「――……」

 

 朱座は気持ち悪そうに口元を押さえた。

 

「みんな混ざっちまってた(・・・・・・・・)よ。血も肉も何もかもドロドロの細切れで、もともと何人だったのかすらも分からねぇ。刻まれてたよ、文字通りなァ……」

「……となると」

「ああ……どう考えても楽しんで殺してやがる」

 

 動物や妖怪を斬った経験のある二人には分かる。ただの斬撃で噴き出す血では、朱座の言うような惨状を作り出すことはできない。再現するならば、流れの早い動脈を優先して断ち切るか内部から体の部位を爆散させるか。どちらにしろただ殺害するだけであれば要らない工程だし、想像を絶する苦痛を味わうことになる。況して体をそこまで刻む理由などもっと無い。

 と、なれば――

 

「(まるで、苦しませて殺そうとしているような……)」

 

 そう思って、脳裏を掠めた姿が一つ。可憐でありながらどこまでも酷薄な笑顔で剣を振るう、エプロンドレスの少女――夢子だ。

 彼女がまだどこかに潜んでいるとするなら、今回の件も彼女が引き起こした可能性は十分にある。異常性という一点において、朱座のいうものと一致するのは夢子以外に考えられなかった。

 

 ああいう手合いは何をしでかすか分からない。彼女が吹羽にかけた勧誘だって真意が不明瞭なままだ。これらの要素は、椛の胸の奥にもやもやとはっきりしないしこりのようなものを色濃く残していた。

 

「どう思うよ、今回のは」

「…………何ともいえません。この世界に存在する妖怪は、あまりにも多すぎます」

「……まぁ、そりゃそうだわな。頭のネジの数本飛んだ奴なんか、探せば意外といるもんだよな」

 

 椛の応えに、朱座は渋々と諦めたような声を漏らした。

 どう思う、と訊かれれば先に述べたようなことが思い当たるが、これは朱座に明かしていい話でもない。知り合いに嘘を吐くことには若干の罪悪感を感じずにはいられないが、しかし椛は毅然とした態度を貫いた。

 なにも関係がないかも知れない(・・・・・・)彼を、あの危険な少女に巻き込みたいとはどうしても思えなかったのだ。

 

「(杞憂ならそれでもいい……でも、この気持ち悪さは――)」

 

 勘、というのを椛は大して信じていないが、同時に偶にはそれが役立つこともあるのを知っている。なんなら戦闘においては勘や直感に何度救われたか分からない。

 ――留意と備えは、しておくべきだろう。

 

 椛は再び抜刀した。

 

「お? なんだ、終わりじゃなかったのか?」

「気が変わりました。もう少し続けます」

「そこまで力に拘るこたぁないと思うがね」

「拘りますよ。当たり前でしょう」

 

 構え――息を鎮める。

 

「何が襲ってきても、私が斬ればそれで済むなら――研鑽を止める理由などありませんから」

 

 

 

 そう言い、椛は滝に向かって地を蹴った。

 

 

 

 旋回に次ぐ加速。円を描く銀光を地に引き摺りながら形成された絶剣は、瞬時に膨張しながら宙を奔り。目の前の滝を縦に駆け抜けた。

 

 一瞬の無音が空間を支配する。だがその刹那の後――静寂の帳を、滝の弾ける(・・・・・)爆音が木っ端に吹き飛ばした。

 

「んなぁっ!?」

「――……ッ」

 

 弾け飛んだ瀑布がスコールのように頭上を覆い、周囲の木の葉を無理矢理叩き落とす勢いで降り注ぐ。だが、そうして体が濡れるのも構わず朱座は驚愕に目を見開いていた。

 

 刃を引き摺った地面には巨大な亀裂が走り、露出した滝裏の岩肌には鋭利な断面が覗く。そして――大きかった滝は、見事に二又に分かれて細々と落ちている。

 椛の放った一撃は、落ちる激流を縦に断ち、岩肌を削って隆起すらさせ、巨大な滝を真っ二つに断ち斬っていた。

 

「お、おいおい……マジかよ」

 

 自然と溢れた言葉に、しかし彼自身は気が付きもしなかった。ただただ目の前の光景が信じられず、その目を大きく広げて驚愕を顔に表す。

 

 滝を割る――それは規模が大きくないとはいえ、間違いなく地形を変える所業。そんなもの普通は大妖怪が為すことだ。その膨大な妖力を地に叩き付けるだけで地面は凹むし、雲は消し飛んでしまう。我らが頭領、天魔を始めとした幾人か数えられる大妖怪とは、その他有象無象の全く埒外をいく怪物そのものなのだ。

 それに手をかける所業を、それも剣技のみで、まさか――一介の白狼天狗がやってのけるなど。

 

 朱座の戦慄すら浮かぶ視線を気にもせず、椛は澄ました顔で水滴を振り払う。

 それもそのはず。こんなこと椛は当然であると――否、当然でなければならないとすら思っていた。

 

 中妖怪だとか大妖怪だとか、そういう括りに拘りなどない。

 それを言い始めたら、人の身で大妖怪を下す博麗の巫女は一体なんだと言う話になる。

 それを認めてしまったら、椛は自分の夢すら放棄したことになってしまう。

 

「お、お前……いつの間にこんな……ッ!?」

「……私が目指しているのは、萃香様の“崩撃”に届く一撃ですよ?」

 

 天地を龍の顎撃の如く抉り取った萃香の拳。椛が夢見てきたのは、常にそれに立ち向かい拮抗する自分の姿。

 世に御名轟く大妖怪 酒呑童子を目指すと言うならば。

 その一撃に応える技を身につけると言うならば。

 地の一つや二つ、斬ってみせなければ話にならないだろう?

 

「あの方が天地を抉るなら……私はいつか、大空を斬ってみせます。そうすれば、きっと――」

 

 きっと、なりたかった自分になれると――そう信じているから。

 

 想いを胸に、椛は再び剣を振り抜く。陽に乱反射する剣の銀光は、彼女の瞳の輝きにも重なって弾けていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 “霧雨魔法店”と言われて、ちゃんと実物を思い浮かべられる人物はかなり少ない。

 なにせ人間には有毒な瘴気が満ちる魔法の森の奥に建っている上、店とは名ばかりの物置小屋で、本当に商売をする気があるのかと疑われるレベルの名前だけ(・・・・)だからだ。

 これが人里における大商人の娘が営む店だというのだから、その事実を知る人間は皆そろって頭を抱えてしまう。

 そして最後にこう思うのだ――まぁ、魔理沙が満足してるなら別にいいか、と。

 

 実際、魔理沙は暇さえあれば家に篭って魔法の実験をしまくっている熱心な努力家なので、まぁ、その研究資材を置く場所があるという意味では彼女にとってそこそこ利益になるか、というところだ。

 商売をする気の有無については、取り付けたまま一度も手入れされていない看板の無残な姿に推して知るべし。

 

 かくして、今日も魔理沙の家からは――黒煙(・・)が噴き上がる。

 

「どわぁぁあああッ!?」

 

 ぼふん!

 魔理沙の叫び声に次いで、煙突と窓の隙間から大量の煙が飛び出した。幸いにも壁や硝子が壊れることはなかったが、その音と衝撃で周囲にいた小鳥たちがばたばたと一斉に飛び去っていった。

 

 直後、勢いよく窓が開け放たれる。中からは大量の煙と、若干煤のこびり付いた魔理沙が飛び出すように身を乗り出した。

 外の空気が心底美味い。相変わらず黒い煙は体に悪過ぎる。

 

「げほっ、ごほっ……ぅあ゛、のど痛ェ……」

 

 まるで物干し竿にかけられた布団のように項垂れて、魔理沙はいがいがする喉を軽く撫でる。

 こうした爆発はもう何度も経験したが、いつまで経ってもこの刺激には慣れそうにない。腕とかならまだ鍛えようもあったが、なにぶん魔理沙はのどの筋肉を鍛えるなんてどマイナーな趣味は持ち合わせていない。

 とはいえ、やっぱりいがいがするのは嫌なので後でよくうがいしておくことにしよう。

 

「くそー、やっぱ上手くいかないもんだなぁ……こんなに失敗続きなのはいつぶりだぁ?」

 

 外に広がる木々を何気なく見つめながら、まぁそれも仕方ねーのかなーと若干開き直る。

 魔法の実験に失敗が付き物だというものあるし――なにより。

 

「(やろうとしてることがこと(・・)だしな。魔人の魔法(・・・・・)なんて、そう簡単に再現できるわけないか)」

 

 両手を差し出して、あやとりするようなイメージを頭に浮かべる。あの魔法が再現できたなら、きっと魔理沙の魔法は更に一段階進んだものになるだろう。こんな遊びならいざ知らずだ。

 仮にそれそのものが役に立たなくても、その過程で得られた何がしかはこの先の研究にも役立つ。

 魔法は学問であり、無駄なことなど一つもないのだ。

 

「糸、か……まぁ手っ取り早い方法ならあるんだが、どうもなぁ」

 

 気が乗らない、と魔理沙は再度布団のように窓の桟に干された。

 なんでかって、それをしたら最後魔理沙のプライドが著しく貶められる気がするからだ。

 

 彼らと同じく糸の魔法を使う人形師――“七色の魔法使い”と呼ばれる少女。

 彼女も魔理沙と同じく魔法の森に居を構えており、且つ魔理沙とは違う生粋の魔法使い。本来なら先達である彼女に教えを乞うのは当然の成り行きなのだが――

 

「あいつ、捻くれてるからなぁ……んなことしようもんなら徹底的に煽ってくるだろ……」

 

 それなりに長い付き合いではある。近所というのもあって何度も顔を合わせたことがあり、なんなら軽く茶をいただいたことさえある間柄だ。

 しかし、それでも魔理沙の抱く彼女のイメージは“クールで器用な捻くれ者”。いつも一人で人形を作っては部屋に飾り、偶に里に降りたかと思えば笑顔で人形劇を披露して、森に着く頃にはまた無表情に戻っている。

 

 なんというか、良い意味でも悪い意味でも人形的なのだ。だから素の彼女――周囲に興味がなく、自分の領域に踏み入る者には悪態を返すクールな捻くれ者――を知る人物はそう多くない。

 それでも彼女と付き合ってこれたのは、おそらく魔理沙も似たような捻くれ者だからだろう――ということには本人、気が付いていない。

 

「糸の魔法……そもそもあいつが使う糸と鶖飛が使ってたっていう糸は同じもんなのか?」

 

 空に浮かぶか細い雲を見つめて、魔理沙はふと思い浮かんだ疑問を口にした。

 糸の魔法、と一括りにしていたが、その二つは用途も効力も全く別物のようにも感じる。

 まぁそもそも魔理沙は直接鶖飛の魔法を見たわけではないし、霊夢から聞いた話を元に想像しているにすぎないのだが、それにしても疑問だ。

 

 片方は文字通り人形を操るための糸で、もう片方は戦闘にも応用できる強靭な糸。細くしなやかな糸は切断にも使えるし、伸縮性に富んでいれば物体を引き寄せたりすることもできる。魔力で形作っているのなら人に魔法をかける媒体にもなるだろう。

 教えを乞うたところで、人形師にそんなものを教えることなどできるものだろうか――

 

「って、なんでわたしは教えてもらう前提で考えてんだぁっ!?」

 

 そもそも言ったところで人形作りの方が大事とか言って断るに決まっている。そして必死こいて説得しようとする自分を見て、心底見下した笑みを浮かべるに決まっているのだ。おーほっほっほと高笑いする彼女の姿が頭の中を過りまくっている。

 そんで結局教えてくれない、と。

 なんという捻くれ者。わたしの聖人君子っぷりを見習えよ。

 

 まぁ戦闘の際に人形を操る時は、それこそ糸を媒体に魔法をかけて操っているようなので、似たような用途のことを考えると彼女の煽りなど唇を噛んででも耐える価値はありそうだが――いや、やっぱり無理だな。

 

「たはー! 自分のプライドの高さが恨めしいぜ! やっぱ自力で編み出すしかねーかぁ……」

 

 そもそも、生粋の魔法使いというのはある種魔理沙の夢であり憧れだ。そんな人に教えを乞うのも当然一つの道ではあるが――自分で勝ち取りたい魔理沙の性には合わないのだ。

 どうせ超えるなら、全て自分の力がいい。

 

 よっこいせと起き上がると、部屋の中の煙はもうだいぶ外に逃げて、多少癖のある匂いが鼻先をかすめる程度にまで収まっていた。

 机の上を確認すると、大量の本と薬品、金属の指輪など、実験に必要なものが散乱している。爆発で散らばったらしく、軽い防護の魔法をかけているので破損は見られないものの、どれも少し薄汚れてしまっていた。

 こりゃ前途多難だな、と魔理沙は苦い笑みを浮かべながら後頭部をがりがりと掻いた。

 

「はぁ……続けたいのは山々だが、こうも大失敗した後はやっぱ少しきちーなぁ……。息抜き……した方がいいな」

 

 こんな時は弾幕勝負でスカッとするのが魔理沙的には最高に心地良いのだが、あいにくと事件性のあるものは魔理沙の耳に入っていないし、だからと言って誰彼構わず吹っかけるのも気が引ける。霊夢とやるのもまぁ悪くはないが、お互いに手の内を知り過ぎてマンネリ化している感は拭えない。

 

 と、なると――選択肢は自ずと限られてくる。

 

「弾幕勝負は難しいかもしれないが……色々と都合が良さそうだ」

 

 にやりと歯を見せた魔理沙は、トレードマークのとんがり帽子をとって目深に被った。

 ミニ八卦炉を忘れずに持って、箒に向けて魔法を発動するとたちまちに魔理沙の手の中に飛んでくる。

 

「さぁて、行きますか!」

 

 散らかった家を放ったらかしに、魔理沙は勢いよく空へと駆け出した。

 青い空、白い雲、風は程よく冷たくて、お日様は南中してまだまだ間もない。こんな日は外に出なくてはきっと損だろう。特に――日がな一日家に篭っているような奴には。

 

「待ってろ吹羽……みんな大好き魔理沙さんが、遊びに行ってやるぜ!」

 

 薄雲に隠れていた太陽が、僅かに顔を出した。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第六十話 友として

 

 

 

 吹羽の家――風成利器店へと訪れるのは、実はまだ数えられる程度の回数でしかない。

 吹羽と初めて弾幕勝負をした時、本人不在の折に阿求と共に訪れた時、鶖飛が帰ってきた時――その他にはちょろっと暇潰しに行ったこともあったが、その回数も片手で数えれば足りるほどだ。

 もともと魔理沙は人間の里には用のある時以外近寄らないので、幾ら友人とはいえ彼女の家を訪れる回数が多くないのも、まぁ当然といえば当然だった。

 

 箒から降りて、門から入る。

 人里は相変わらずだ。この大通りを見ていると幻想郷における人間の立場なんて忘れてしまいそうなほど、ここの人間たちは活気があるし、精神的にも健康だ。

 

 生活が豊かなわけではないだろうに、それでも助け合って生きている人里の人間たち。

 情けない話だが、この景色の中にいると、自分が生まれた場所を抜け出して一人魔法の森に篭ってしまった自分が少し責められているというか、ハズれているような気がして、魔理沙はこの雰囲気があまり得意ではなかった。ここを通る時は、気が付かないうちに早足になってしまう。

 

 そうして少し歩いてから、魔理沙はその大通りから離れるように、小道へと体を滑り込ませた。

 二人並べばもう歩きにくいこの小道の左右には、数枚しか葉の付いていない並木が整然と並んでいる。風にゆらゆらと揺れている葉っぱは、どうやら必死に風に抗っているようだった。

 

「もう冬、だなぁ」

 

 ここを通るのも幾度目かだが、あの頃はまだ真っ赤な葉がたくさん付いていたなぁと思い出して、魔理沙は何の気無しに冬の到来を感じた。

 ここを初めて通った時はまだ多少は暖かかったが、もう半袖の服では外を出歩けない気温である。寒空はいつもよりも白く見えて、太陽の光もあまり眩しく感じられない。

 

 こうして季節を感じて、空を見上げて、ふと視線を下ろすと――そろそろ見えてくるはずなのだが。

 

 その通りに視線を動かして魔理沙の視界に入ってきたのは、予想通りの、黒い煙。

 その根元へ向かって足を早めると、数刻もしないうちに見えてくるのは看板の――“風成利器店”の文字だ。

 やってるやってる、と思いながらひょこりと煙を上げる工房を覗くと、吹羽は熱心に刀を砥石に滑らせている最中だった。

 

「よ――」

 

 いや待て、と。

 

「(っと、ずいぶん集中してるな……)」

 

 刃を研ぐ吹羽の表情は真剣そのものだ。普段の朗らかな感じとは打って変わって、いっそ砕けた薄氷のような鋭利さが雰囲気に宿っている。

 瞳の輝き具合から察するに、僅かに能力も発動しているのだろう。

 

 どこまでも本気だな、と思って――しかしこの少女、それだけで終わらなかった。

 

「(そうだ! 集中してんなら、声かけんのは悪い……よな!)」

 

 ニヤリと頬を歪めて思い直す。

 誰しも集中しているところに声をかけられたら嫌なものだ。魔理沙だって実験中に話しかけられたら全力で無視するし、しつこいようなら思わず手が出る。

 吹羽ほど仕事熱心ならば、この気持ちも一入なはず――そう心の中で大義名分(・・・・)を並べ立てて、魔理沙はそっと家の戸口へ回った。

 

 そう、声をかけられないなら仕方がない。非常に(・・・)気は進まないが(・・・・・・・)、勝手に上がって仕事の終わりを待つことにしよう。その間暇なので、お茶菓子も多少は引っ張り出して食べてしまえば待たされる分を含めてプラマイゼロなはず。どうせ吹羽が来たら出してくれるし、早いか遅いかの違いだ。

 え? 鍵? 残念……そんな問題は、とっくのとうに解決している!

 

「(わたしに開けられない鍵は、ないんだぜ!)」

 

 “解き開かせるための全能鍵(アンロック・マスター)”で楽々鍵を開けると、魔理沙は堂々と中へ入った。

 次いでだから靴も魔法で隠しておこう。色々と隠蔽しておかないと、吹羽が入ってきたらバレちゃうし。

 イタズラ――もといサプライズは、バレないからこそ意味がある!

 

 

 

 ――絶叫混じりの吹羽の声が木霊したのは、それから暫くしてのことだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 八雲 紫に出会うにはどうすればいいか、ということを、霊夢は間々訊かれることがある。

 

 その要件は様々だが、好意的な話はとんとない。彼女は誰よりも偉大な存在であると同時に、誰よりも嫌われ者だ。

 まぁその点には納得というか、むしろ否定材料が少な過ぎるというか。あの何もかもを見透かしたような態度はひたすらムカつくし、その癖真意や真実を他人に語らない。言うこと為すことが一々迂遠で胡散臭い。真正面から話すと手のひらで弄ばれているような感覚に陥る……etc。

 こんなのが誰に好かれるというのか。仮にいたとしても、そいつはきっと彼女と同等の嫌な奴か、あるいは頭がおかしいか。きっとそうに決まってる。

 

 話は戻って。

 そう訊かれた際、霊夢は決まって“そんな方法ない”と答える。

 能力の性質上紫はどこにでも行けるし、どこにでも居る。だがそれ故に神出鬼没で、耳を傾ける相手を選んでいるのだ。

 

 腹立たしい話だが、あんなのでも幻想郷の創造主。彼女が日々やるべきことはたくさんある。仕事が山積みなのにどうでもいい話に付き合うわけがない。

 強いて言えばマヨヒガか冥界の白玉楼にでも行けば会えるかもしれないが、尋ねてくる彼・彼女らが望んでいるのはそういう答えではないだろう。

 だから、彼女と能動的に会う方法などないのだ。

 

 嘘ではない。本当だ。

 ()彼女らが取り得る方法のうち(・・・・・・・・・・・・・)で、八雲 紫と会う方法など――存在しない。

 

「――……」

 

 博麗神社、居住区画。

 その居間にて、霊夢は静かに座して瞑想していた。

 ぴんと背筋を伸ばし、揃えられた膝の上に乗せた手指はシンメトリーかと思うほど整っている。まるで芸術品の一つかと勘違いするほどの凛とした美しさだが、浅く上下する胸が唯一、彼女の生命を感じさせる。

 

 正確に言えば、これは瞑想ではなかった。ただより深く集中するために、視界という巨大な情報源を絶ったというだけだ。

 霊術の天才、博麗 霊夢。霊力の扱いに誰よりも長けた彼女をして、今行なっていることはかなりの集中力が必要な所業だった。

 

「(保っていた均衡を――少し、傾けて、崩す)」

 

 天秤を傾けるように、しかしその上に注がれた水が一滴でも落ちはしないように。

 傾けて、傾けて、少しずつ傾けて――周囲の空間が揺らぎ始める感覚を頼りに、霊夢は本当に僅かずつ、均衡を崩していく。もしも失敗すれば、それは想像も付かないような大惨事を引き起こす。そんなまさに命がけの綱渡りは、さすがの霊夢でさえ緊張感を拭えなかった。

 だが、やれる。集中して、手指の先の先の先にまで神経を集中させていけば、自分に操れない霊術などない。

 

 小鳥の鳴き声と、葉擦れと、風、時計の針。自然な静寂の中に身を任せて、霊夢は意識を深く鋭く研いでいく。それを幾刻か続けて、どれだけの時間が経ったのか判別のつかなくなった頃。

 極限の集中の果て、遂に一滴の滴が器からはみ出そうになった――その刹那だった。

 

 

 

「何をしているのかしら、霊夢」

 

 

 

 予測通りの不機嫌な声に、霊夢はようやく手を止めた。

 

「……見ればわかるでしょ、って言ったら、流石に怒るわよね」

「当たり前でしょう。その呼び出し方(・・・・・・・)はやめなさいと何度も言ったはず」

 

 どうせ失敗しないのに? ――そう言おうとして、さすがにそれは逆鱗に触れるなと思って霊夢は口を噤む。

 やっていいことといけないことの分別は付いているつもりだし、果てしなくグレーゾーンなことをやった自覚はあったのだ。

 

 だが、訊かなければならないことがあったのだから、仕方ない。

 霊夢は心の中でそう弁明して、現れた声の主――八雲 紫の険悪な視線から目を逸らす。

 

「……手っ取り早いのよ。博麗大結界を少し緩めれ(・・・・・・・・・・・)()、あんたはすぐに気が付くでしょ」

「危険過ぎると、これも何度も言いました。結界の管理をあなたに任せている意味を理解してちょうだい」

「ンなこと分かってるわ」

「霊夢」

「………………」

 

 ――博麗大結界は、大昔に初代博麗の巫女と紫が協力して発動した結界だ。

 その効力は、幻想郷と外の世界との隔絶。そして幻と実体の境界線である。以前は別々の術だったらしいが、今では統合して霊夢が管理している。

 論理的な結界で、且つ途方もなく強力な極大霊術だ。これがあるから幻想郷は幻想郷足らしめられていると言っても過言ではなく、故にその管理を行う博麗の巫女を手にかけることは絶対の禁忌とされている。

 そしてこれこそが――あの時、鶖飛が霊夢を殺そうとした最たる理由。

 

 紫が怒るのは当然だった。なにせ霊夢は、その管理者権限ともいうべき力を使って結界の維持を崩そうとしたのだから。目的は違うが、少なくとも他人の目にはそう映る。世界の崩壊一歩手前だったと言えば、誰もが今の霊夢を非難するだろう。

 ただ、紫も伊達に霊夢を見てきたわけではない。口酸っぱく注意してきたのも事実だが――この手段で紫を呼び付ける時は、いつだって一大事であるということもよく知っていた。

 

「はぁ……もういいわ。それで何の用かしら」

「……少し、意見を聞きたくて」

「意見?」

 

 居住まいを正して、頷く。それだけで察したのか、紫は目を細めると何処からか取り出した扇子をぱしりと開いた。

 そうして口元を覆うと、鋭い紫の視線だけが残る。真剣な話し合いの時は、彼女はいつもこうだ。

 

「……前置きは不要ね」

 

 

 

 ――吹羽の件、これで終わったと思う?

 

 

 

 霊夢の問いに、紫はすぐには答えなかった。

 

「中途半端だと思わない? 鶖飛がおかしくなったのは三年も前……その頃から仕組んでいたことを、こんなにあっさり諦めるかしら」

 

 核となる要素(鶖飛)が討たれたのだから中途半端も何もない――そう言われればそうなのだが、それが霊夢には逆に不気味に感じられた。

 そもそも、そうして長い時間かけて計画していたことなら次善策くらい用意するだろう。何が目的なのかは見えないが、たった一つの要素が欠けた程度で頓挫するような目論見など、彼女らが企むとは思えない。

 

「夢子のこともそう。あれから鳴りを潜めてるけど、一体どこに消えた? まだ幻想郷のどこかにいるの? だとしたらなんでまだ留まってるのかしら……分からないことが多すぎる」

「――……」

 

 半ば捲し立てるように疑問を並べた霊夢に対して、紫は静かに瞑目する。

 そうして紫が間を作るのにも慣れている霊夢は、その純黒の瞳を()と細めて、より強い意志を視線に乗せる。

 しばらくして思考を終えたのか、紫はゆっくり目を開いた。

 

「……今のところ――」

 

 立ち上がり、参道のある表を眺める。その視線は石畳でも鳥居でもなく空へ――幻想郷を包む結界へと。

 

「博麗大結界に何かが触れた形跡はなければ、大きな事変も起こっていないわ。まさにあなたの言う通り、何もかもが鳴りを潜めている――そんな印象ね」

「……平和なのは良いことだけど……楽観はしてられないわよ」

 

 嵐の前の静けさ、そんな慣用句が頭を過ぎる。

 今が平和だからと呆けていれば、突然の事態には対応できない。それを霊夢を始めとした歴戦の猛者たちは経験則で知っているし、残念なことに、それは全て正しい。

 

 改めて表情を引き締める霊夢を横目に、紫は言葉を続けた。

 

「備えておかなければ――そんな顔をしているわね」

「! ……分かってるなら、勿体ぶらないでよ。あんたなら何かしらの対策は立てているんでしょう?」

「さて……」

 

 この後に及んではぐらかそうとする紫に、霊夢は躊躇いもなく眉を顰めた。

 ここで答えを渋る理由がわからない。幻想郷を破壊しかけた事件が終わりを見ないというなら、紫こそ躍起になるべきのはずなのに。

 だが、ここで熱くなっては元も子もない。霊夢は気分を整えるべく一つ息を吐いた。

 

「……一つ確証が欲しい。鶖飛が魔人になってた時点で予測はしていたけど……今回の件はアレが――神綺が関わってる……そう思って良いのよね?」

「………………」

 

 その名を聞いて、紫の形の良い眉が僅かに歪んだのを霊夢は見逃さなかった。

 夢子と対峙した時、彼女がポツリとこぼした言葉を思い起こして、霊夢は更に追求する。

 

「夢子は“加護”がどうとかって言ってたわ。あたしたちと風神様を前にして、加護もないのにやってられない、って。それって裏を返せば、加護さえあればなんとかなるってことよね。そんな強大なもの、同じ神の力だと考えるのが普通じゃない」

「だとして、どうする気かしら」

「…………邪魔するなら、潰すだけ」

 

 その低くドスの効いた声は、まるで空間そのものを圧迫するような重い威圧感を持っていた。

 

 邪魔――そう、邪魔なのだ。夢子も神綺も。

 昔のままだったならどれだけ良かったろう、とはもう数え切れないほど思ったことである。吹羽たち家族が揃っていて、偶に行っては鶖飛と喧嘩して、吹羽と遊んで。あの幸せだった日々の風景に、一滴悪いものが入ってしまったから、全部壊れてしまった。それが――吹羽に消えない心の傷を刻み付ける結果になっしまった。

 

 自分たちが、ひいては吹羽が穏やかに暮らすためには、きっと彼女らが関与していてはいけないのだ。

 ……だから。

 

 真っ直ぐに紫を見つめると、彼女はため息混じりに――それこそ、息の抜けるような微かな声で言葉をこぼした。

 

「……そう。もう決めているのね」

 

 それだけ言うと、紫は霊夢に背を向けた。それがまるで話は終わりと言われているようで、霊夢は目の端を吊り上げて引き留めようと口を開いた――が、それよりも紫の方が早く。

 

「兎角、現状できることなど何もないわ。下手に騒ぎ立てても波紋を生むだけ。その気持ちは内にしまっておいて、いざと言う時に燃やしなさいな」

「……先手を取らせろって? あんたらしくないわね」

「そも私は、初めの問いに“終わっていない”とは答えていないわ」

「! それは、そうだけど……でも――」

「くどい」

 

 ぴしゃりと響いた冷たい声が、諦めの悪い霊夢の言葉を容赦なく断つ。

 その冷や水のような言葉が、紫に問いの答えを明かすつもりがないことを霊夢にまざまざと突きつけていた。

 

 初めの問いには答えない。神綺に関する問いにも答えない。これでは呼んだ意味も現状を打ち破る術も得られないじゃないかと霊夢は拳を握りしめるが、生憎、霊夢が紫を言葉で負かしたり丸め込んだりできた記憶など、一つたりともなかった。

 

 口を開いたまま声を詰まらせた霊夢を前に、紫は「それとも」と続ける。

 振り向き際に横目で見下ろす紫の瞳は、言うことを聞かない子供を見るそれよりもよっぽど冷え切った色をして――

 

 

 

「そうやって独り善がりに動いて……また失敗したいのかしら」

 

 

 

 ――心臓が、どくんと大きく跳ねた。

 

「……あなたは感情的になると冷静でいられないのが玉に瑕ね」

 

 大人しくしていなさい――そう言い残して、紫はスキマの中に姿を消した。

 

「――……」

 

 閑散とした神社に再び静寂が戻る。いつのまにか風は止み、虫の足音さえしなくなると、この静寂は耳に痛いほどだった。

 唯一、胸を内側から叩く心臓の鼓動だけが感じられる。霊夢はそれを押さえ込むように、握った拳を胸に押し当てた。

 

 お見通し、と言うことなのだろう。

 幻想郷という楽園を創造した偉大なる妖怪の賢者。言動や性格に問題はあっても、やはりその頭脳は果てしなく優秀で――霊夢の考えていることなど容易に本質を捉えて、上回る。

 事実、紫のあの言葉は的確で、霊夢への牽制として完璧だった。

 

 でも――

 

「だからって……どうしろってのよ」

 

 行動しなければならないのに行動してはいけない――この歯痒さは何ものにも耐えがたい苦痛である。そしてなにより、紫の言い分が正しいと冷静に理解できてしまっている自分自身が、どこか恨めしくすらあった。

 

 何もせず、ただ待って、吹羽の傷が勝手に治るのを待っていろと? 新しい傷が生まれるかも知れないことが、分かっていて?

 

 ――断じて否。それを見過ごしたら、きっと霊夢は一生吹羽と向き合えなくなる。

 ならばよろしい……考え方を変えろ。

 

 動いてはいけないなら、動かずに備えればいい(・・・・・・・・・・)のだ。

 

「(……上等よ紫。動くなって言うなら動かない。だけどその代わり――その範囲内では好き勝手やらせてもらうわ!)」

 

 見られているのは百も承知、読まれているのは千も承知だ。

 いいだろう。上等だ。そっちがそういう手に出るならば、こちらにも考えがある。

 

 再び強い決意を瞳に宿すと、霊夢は神社の奥へと向かう。

 手には古びた鍵。普段は決して開かないし、開く用事がない最奥の部屋へ。そこにあるのは所謂――博麗 霊夢という巫女における切り札。

 長い準備は必要なものの、その存在こそ霊夢が“最強の人間”と言われる最たる理由だった。

 

「(……失敗しないわ、今度こそ!)」

 

 その誓いを心に刻みつけながら、霊夢は古びた扉をゆっくりと開いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「まったく、本当に仕方ない人ですね魔理沙さんはっ」

「あっはは! まぁそんな怒るなって。悪かったよ!」

「……ここまで心が篭ってないといっそ清々しいですよ、もう……」

 

 不貞腐れたような声音の吹羽を見て、魔理沙はしかし一層上機嫌に笑った。御盆に盛られた煎餅を一つひょいと取ると、豪快にバリッと齧って見せる。吹羽はぷいっと顔を逸らした。

 彼女が不機嫌なのは火を見るより明らかだが、魔理沙に言わせればあれほど気持ち良い驚きっぷりを見せられては上機嫌にもなろうというものだ。

 にやけてしまうのは不可抗力というやつである。いやむしろ、百点満点の驚きを提供してくれた吹羽が悪いまである。

 

「……なんか理不尽なこと考えられてる気がします」

「なにぃ!? お前わたしの考えてる事分かるのか!?」

「能力を使わなくてもわかりますよその顔じゃっ! ていうかほんとにそんなこと考えてたんですか!?」

 

 身を乗り出して叫ぶ吹羽を前に、魔理沙はキリッとキメ顔を作って、

 

「驚いたお前が悪い!」

「なんなんですかもぉーッ!」

 

 そよ風の巡る家内に響いた柔らかい怒声に、周囲の鳥たちは一斉に飛び去った。

 

 ――魔理沙が風成利器店へ訪れて、もうそろそろ一刻(約二時間)が経とうとしていた。

 日はまだ高いが南中はとっくに過ぎており、部屋の中を巡る風にも肌寒さが目立ち始めている。まさか冬の間も絶えずこんな冷風を取り入れているのだろうかと徐に思った魔理沙だったが、部屋の隅に準備してある布団はどうやら炬燵用らしく、冬に向けて準備くらいはしているようだ。

 

 暖かい空気が今のように家中を巡ってくれるなら、もしかすると下手に暖炉のある家よりも暖かく感じられるかも知れない。

 もしそうなら、いつかの霊夢の言葉ではないが、それこそ冬眠中の熊の如くこの家に泊まり込んで魔法の研究に打ち込むのもいい。

 少し強引にでも頼めば、吹羽はそれくらい許してくれる気がした。

 

「それで、なにかボクに用事ですか? もし作刀がお望みなら、残念ながら明日になりますけど」

「んにゃ? 遊びに来ただけだ」

「……………………そ、そう、ですか」

 

 あまりにあっけらかんとした切り返しに吹羽がたじろぐ。

 別に用がなくちゃ来ちゃいけないわけでもあるまい、と魔理沙は勝手に思っているのだが、どうやら吹羽は何某かの用事があってきたのだと思っていたらしい。

 吹羽は釈然としなさそうに頰を掻いた。

 

「てっきり何かあったのかと」

「何かあったとして、わざわざお前を呼びに来るような事件なんてもう起こるまいよ」

「……異変解決、とか」

「ふむ……まぁ行きたいなら連れていってやるけど、多分霊夢が恐いぜ?」

「……ですよね」

 

 以前に比べれば幾分かはマシになったようだが、相変わらず霊夢の過保護ぶりは落ち着かない。以前吹羽を連れていった時もこのことで霊夢の怒りを買ったわけだが、もし戦闘中でなかったら、きっと彼女は魔理沙に拳骨を飛ばしても許さなかっただろう。

 想像だけでも寒気がする。だが、吹羽が望むのであればできるだけ叶えてやるのが友人の務めだと魔理沙は思うのだった。

 

 仕方なさそうに煎餅を摘み始める吹羽から視線を外し、徐に部屋を見回すと、いつかの神棚が視界に入った。

 

 相変わらず非常に綺麗にされていて、吹羽の強い信仰心を感じさせる。

 こうして改めて神棚を見ると、以前阿求とここに訪れた際に起きた不思議な現象を思い出す。今考えると、あれは不躾に触れようとした魔理沙に対する風神の小さな怒りだったのだろう。

 吹羽の持つ本当の能力――真の終階については魔理沙も聞いている。ここには本当に風神が宿っているのだ。

 

「……ん?」

「どうかしました?」

「いや……アレ」

「アレ? あぁ――」

 

 視線で示すと、吹羽は納得したように“それ”を手に取った。

 魔理沙にも見覚えのあるそれは神棚には似つかわしくないほど生地が荒れており、裾は所々破れている。畳まれているのにそれが分かるなら、実際はかなり痛んでいるのだろう。

 だが、吹羽はそれを優しく胸に抱くと、愛おしそうに口元を埋めた。

 

「吹羽……」

「……お兄ちゃんが羽織っていたものです。せめて安らかに眠れるようにと、思って……」

 

 上着が置かれていた側には黒塗りの太刀が置かれている。察するに鶖飛の持っていた風紋刀――“鬼一”だろう。

 奉納している太刀風の真打と並べて置かれたそれは、見違えたように綺麗に磨かれている。鶖飛の安寧を願う心が窺えるようだ。

 

「(形見、ってことなんだろうな)」

 

 ――元気が戻ってきたようにも思えたが、きっとまだ踏ん切りが付いてはいないのだろう。

 どれだけ罪を重ねたとしても、鶖飛は吹羽にとってはかけがえのない兄だ。それを手にかけて何も思わないような奴は、きっと人間として破綻している。

 そんな中で、傍目にでも元気を見せている吹羽は、もしかするとかなり無理をしているのかもしれない。

 友人の気持ちを思いやるくらいの気配りは、魔理沙もできる気でいた。

 

「なぁ吹羽、ちょっといいか?」

「? なんですか……?」

 

 よっこらせと立ち上がって、魔理沙はきょとんとする吹羽に視線を向ける。

 そしてもう一度“鬼一”を見遣って、不思議そうな吹羽に視線を戻す。

 

「……わたしはさ、結構不器用なもんでな。霊夢や阿求みたいに気の利いたことは言ってやれない。もしかしたら、それも余計なお節介なのかもしれないけど」

「! そんな、ことは……」

 

 二人ならこういう時、なんと言って吹羽を慰めるのだろう。身の上が身の上の為、人との触れ合いを多く経験したとはいえない魔理沙はこうした際に遣る瀬無さを感じる。

 だが人は人、自分は自分。霊夢や阿求のようにできないなら、魔理沙は魔理沙のようにやるしかない。

 

 魔理沙は知っている。気分が滅入ったり落ち込んだりした時には気分転換すればいい、ということを。

 

「あの、魔理沙さん? 箒を持って……どこか行かれるんですか?」

「ばか。お前もいつもの道具持って外に出るんだよ。ちょっと森に入るぞ」

「ぇ……はい?」

 

 帽子を被り直して、魔理沙は吹羽を催促する。渋々と準備を始める吹羽に言う。

 自分にできるのはこれくらいだ、と表情で示して、

 

「身体を動かして、溜まったもんは吐き出そうぜ!」

 

 そう言って、魔理沙はにっ(・・)と快活な笑みを浮かべた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第六十一話 探しモノ

 

 

 

「お前と弾幕勝負するのは二回目か」

「はい。随分と……久しぶりのような気がします」

 

 里外れの森の中にぽっかりと開いたギャップ地形。魔理沙と吹羽は、そこに向かい合うように対していた。

 地面は平ら。踏み馴らされていないため多少柔らかくはあるが、動き回るのに不便はない。傾きかけの太陽はまだ明るく、多少この場で時間を使っても十分明るい時間に帰ることができるだろう。

 

 以前吹羽と弾幕勝負をした時のことを思い描きながら、魔理沙はミニ八卦路をぽんと投げて掴み取る。

 

 以前の勝負。魔理沙と吹羽の馴れ初めも言える一劇。惜しいことをした、と魔理沙は常々思っていたのだ。

 

「あの時は、あんましフェアな勝負じゃあなかったが……今はそんなこともないんだろ?」

「! 終階を使えってことですか?」

 

 吹羽の不安そうな表情を、しかし魔理沙は笑い飛ばした。

 

「そうじゃなきゃ、お前は身体いっぱい動かせないだろうからなっ!」

 

 腕を横薙ぎ、開放された魔力が形を持ち、魔理沙の背後で無数に展開する。いつか見た彼女特有の星の弾丸――日の光にも負けない爛々とした光は相も変わらず美しく、昼間なのに本当に星空を見上げているような気分になる。

 吹羽はそれを見て一つ深呼吸をすると、胸元のペンダントをきゅっと握った。

 

 ――魔理沙の考えていることは、吹羽にもなんとなく理解できる。

 きっと彼女は、以前できなかった本気同士の勝負がしたいのだ。

 

「(相変わらず真っ直ぐで……眩しい人です、魔理沙さんは)」

 

 言葉通り、身体をいっぱい動かして吹羽のガス抜きをさせようとしているのは本当のことだろう。だが、それだけなら以前と同じように“耐久スペル方式”で十分である。

 魔理沙は優しい人間だが、お人好しとは言い難い性格だ。何か人のためになることをしたとしても、案外根本的なところでは自分のためだったりする。付き合いはまだ短いが、吹羽がそれを理解するのは出会ってすぐだった。それくらいに彼女の個性は強烈だ。

 

 しかし彼女はそれを隠そうともしないし、躊躇ったりもしない。堂々と前に出て意思を告げ、その上で手を無理矢理とって引っ張っていく。

 まったく、闇夜の星のように明るくて、目立ちたがりで――その輝きは真っ直ぐ過ぎて。

 

「――……」

 

 そうして想ってしてくれるなら、魔理沙の望みにもでき得る限りは応えるのが道理であると、吹羽は思う。

 本気で向かってくる相手には本気で対する。それが礼儀であるとは、まさに魔理沙から気付かされたことなのだから。

 

「怪我しても知りませんよ、魔理沙さん?」

 

 普段はしないような挑発じみた調子で言うと、魔理沙は一層笑みを深くした。

 

「させてみろよ。それくらいじゃなきゃ、わたし達は本気たァ言えないだろ!?」

 

 刹那、停滞していた星々が一斉に打ち出された。

 煌く尾を引く流星群は、ただ吹羽という一点に向かって殺到し――だが突如吹き荒れた旋風に、呆気なく薙ぎ払われる。

 

 腹に響くような重い音は、その威力の証左。だが現れた旋風はそれをものともせず、砕けた星をすら巻き込んで立ち上る。

 徐々に風が吹き止んでいく。そうして砕かれて舞い散る星の光の中からは――豪奢な巫女服に身を包んだ吹羽と二匹の真白い獣が姿を現した。

 

「へへ、それが終階かァ――!」

 

 いったいどれだけの者が、これほどの力を人里の女の子が持つと思えただろう。

 緩く渦巻く風はきらきらと輝くほど濃密な神力を纏い、涼やかに鳴る鈴の音は小さなものなのに、すと意識の隙間に入り込んでは吹羽という存在を脳裏に刻み付ける。果てしない大空を見上げるように、ふとすれば圧倒されてしまいそうな存在感が今の彼女からは感じられた。

 

 極上至極。こんなすごい奴と、わたしはヤってみたかった!

 

「いくぜ吹羽。手加減なしの弾幕ごっこだっ!」

 

 互いに放った弾丸が、中心で衝突して弾け飛ぶ。

 それが、二人の開戦の合図となった。

 

 箒に飛び乗り、魔理沙は大きく旋回しながら星の弾幕を展開する。大きく広範囲に生成された弾丸は、さながら流星群のように宙を駆けた。

 霊夢のように体術が得意でない魔理沙は、常にこうして距離を取り、絶対優位を譲らない立ち回りをしながら高火力の弾幕を張るのが得意だ。

 吹羽を中心に旋回しながら上空から弾幕を打ち落とすそれは、まさにそのスタンスにおける最高のシチュエーションと言えた。

 

 開幕早々に自らの“勝ちパターン“を完成させた魔理沙。

 逃げ場のない流星群に見舞われた吹羽は、すと周囲を見回してから、ゆったりと腕を横に薙いだ。逼迫した状況にはあまりにも似つかわしくない、自滅行為にも等しいそれは、しかし。

 

「『引佐(いなさ)』」

 

 ――瞬間、魔理沙は弾丸がほろりと崩れ去るのを見た。

 弾け飛ぶでもなく、消滅したのでもなく、まるで砂の城が風にさらわれるように崩壊した弾丸。それは一瞬で吹羽の周囲を侵食し、取り囲んでいた星々を跡形もなく風化させていく。

 そんな光景を刹那に捉えて、魔理沙は大慌てで更に上空へと吹っ飛ぶように退避した。

 

 その様子を、吹羽は微笑みを浮かべて見ていた。

 

「流石ですね。今のだけで分っちゃうんですか」

「っ、じゃなきゃ解決者なんてやってられねぇよ!」

 

 ――なるほど、以前とはまるで別物の強さだ。

 再び飛翔を開始しながらも、魔理沙は背に氷塊のような冷たい汗が伝うのを感じていた。吹羽の新たな――否、本当の力の片鱗を体感して、珍しくも戦慄していたのだ。

 

 今のは恐らく、神力の籠もった極々微細な刃の風だ。

 その斬撃があまりにも細か過ぎて、魔理沙の弾丸は超高速で削られて消滅したのだ。鶖飛の禍風にも似た特性だが、こちらは籠もっている力の量が桁違いである。

 吹き飛ばそうにもそれ相応の威力が必要であり、少なくとも魔理沙の通常弾幕では消滅させられて終わり――これが初手で使える牽制に等しい攻撃だというのだから、今の吹羽の力は計り知れない。

 

「(ンなら……物は試しだ!)」

 

 吹羽の風に自らの弾幕が消され続けるのを見ながら、魔理沙は一枚目のスペルカードを輝かせる。

 

「恋符『マスタースパーク』ッ!」

 

 突き出したミニ八卦路から、煌々と輝く魔力砲が放たれた。

 光と熱の魔法に指向生を持たせただけのこのスペルは、魔理沙の十八番であり代名詞。しかしその威力は、最大出力であれば山一つ吹き飛ばせるほどのものである。

 鮮烈な光と熱波を撒き散らすマスタースパークは、その強大な威力で以って容易に“引佐”を食い破ると、勢い衰えぬまま吹羽に襲いかかる。

 

 が、吹羽の様子は穏やかなものだった。

 

「行って、『野分』」

 

 差し出された掌でしゅるりと風が渦巻くと、その刹那、地を揺らすほどの爆音が轟いた。

 マスタースパークの着弾音――ではない。

 吹羽の放った風の砲撃がマスタースパークを相殺し、豪快に炸裂したのだ。

 次いで、土煙の収まらぬうちに鋭い音を纏った風の弾丸が無数に飛来する。常に加速するそれは吹羽がよく用いる小さな釘――“疾風”だ。

 一瞬でも目を離せばたちまちに見失ってしまうそれを辛うじて避けながら土煙から飛び出し、お返しとばかりにレーザーを放つ。

 

 触れ続ける限り恒久的に威力を保つレーザー系統は、削り切るということができない。またもや“引佐“を食い破って飛来した攻撃を、吹羽は刀で受け止めていた。

 

 好機だ――瞬間的にそう判断した魔理沙は、レーザーをそのままに弾幕をばらまいた。柔らかい弧を描きながら、耐え続ける吹羽に向かって殺到する。

 ――が、それを見切っていない吹羽ではなかった。

 

「〜〜っ!」

 

 受け止めていた刀を更に一本、二本、四本――次々と顕現させて重ねていく。

 そんなことをしたって()が厚くなるだけ――そう思っていた魔理沙はしかし、一気にレーザーを押し返して迫ってきた吹羽の姿に驚愕を隠せなかった。飛来した弾幕の対消滅を背後に、遂に照射源である魔法陣をも切り裂いた吹羽は、魔理沙の眼前へと躍り出る。

 

「『韋駄天』かッ!」

「御名答ですっ!」

 

 そして吹羽が振り上げた、大量に風を溜め込んだ“天狗風”を見て、魔理沙は咄嗟に魔法陣を展開する。

 その刹那――衝撃、爆音。右も左も分からなくなるような凄まじい衝撃が魔理沙の身体を襲った。

 一瞬、風が轟ッと耳元で吠える。風圧で腕すら動かず、あわや頭から地面に墜落するかというところで、魔理沙は咄嗟の魔力放出で体勢を正して着地する――が、威力を殺しきれず、地面が爆ぜた。

 

「(ぐ、う――ッ! なんっ、つー威力だよ……っ!)」

 

 追撃の気配はない。様子を見ているのか、それとも余裕なのかは判断しかねるが、ともかく魔理沙はこの隙に一つ大きく呼吸して息を整える。

 ふと鉄の味を感じて、魔理沙はプッとそれを唾液に混ぜて吐き出す。どうやら、気が付かないうちに内頬を噛み切っていたようだ。

 

「へっ、ずいぶん強くなったなぁ吹羽。わたしの“ファイナルスパーク”にビビり散らしてたあの時が遠い昔のようだぜ」

「……奇遇ですね。ボクもそんな気がします」

 

 土煙が晴れてくると、上空から静かに魔理沙を見下ろす吹羽の姿が見えた。

 その落ち着いた表情に、成長とはまた違った”達観“めいたものを感じて目を細める。

 

「こうやってこの力を使っていると、何もかもが遠い昔のように感じます」

「あぁ、生まれ変わりなんだったか。……羨ましい限りだぜ。そんな強い力を持った奴が遠い先祖で、自分がその生まれ変わりだなんてな」

 

 皮肉気な言葉にはなってしまったが、魔理沙には決してその気がある訳ではなかった。ただ純粋に、そういった先天的な才能に恵まれた者に対して彼女が抱く、言葉通りただの羨望である。

 霊夢を始めとして、鶖飛もそう。ベクトルは違うが阿求も先天的に普通の人間とは違う。そして、それは吹羽も同じ。

 

 その他の凡百として生を受けた魔理沙の力は、偏に彼女の努力の賜物である。凄絶な苦労を知っているからこそ、魔理沙ほど“才能”というものの価値を知っているものはいない。

 自分に魔法の才能があったら、もっと早くもっと強くなれたかもしれない。もっと画期的な、理を覆すような魔法を開発できたかもしれない。

 或いは、もしかしたら、ひょっとして――そうは思うけれど、やっぱり、持っていないものは仕方ないのだ。

 

 だから魔理沙は努力をやめない。やめさえしなければ、いつか高みに上り詰められる。やる前に諦めるなんて性に合わないと魔理沙は思った。

 彼女にとって“才能”とは、本当の意味で羨ましいだけ(・・・・・・)の代物なのだ。

 

「強い、力……」

 

 負の感情など感じさせない朗らかな笑みを向ける魔理沙に対して、しかし吹羽の表情に僅かな影が落ちる。彼女の予想外の反応に魔理沙がきょとんとすると、

 

「強くなって……何になるんでしょうか」

 

 どこか遠くを見透かすような瞳をしながら、吹羽はぽつりと魔理沙に疑問を投げかけた。

 

「何に……って」

「“蛇を画きて足を添う”という諺があります。暮らしていくのに強さなんていりません。友達と笑い合うのにも強さなんていりません。……ボク達の人生には、本当なら強さなんて必要ないはずなんです」

「――……」

 

 そう言われてみると、確かに吹羽の考え方は至極正しいように思われた。

 極論であるのは否定できないが、事実なんの力もない人間などいくらでもいる。魔理沙達のように力を持っている方が一握りなのだ。

 

 強さとは、暴力の値だ。

 個人がどれだけ他人を傷つけることができるかの指標であり、恐らくはこの世で最も野蛮なステータスである。

 そんなものが、一体何の役に立つ? ――吹羽はそう問うているのだ。

 

「魔理沙さんは……何のために力をつけたんですか?」

「……ふむ、難しい質問だが――」

 

 まぁ、答えてやってもいいか。

 なんだか弾幕勝負を続ける雰囲気でもなくなってきたが、そもそもお互いの気晴らしの為にやっているだけである。多少吹羽と語らうのも悪くはあるまい。

 魔理沙は少しだけ考え込むように顎に手を添えた。

 

「敢えて言うなら……自分のため(・・・・・)だよ」

「自分の、ため?」

 

 ふと吹羽の瞳に僅かな険が宿る。それを目聡く見つけた魔理沙は、肩を竦めて小さく笑ってみせた。

 自分勝手に人を傷付けたいのか――なんて失礼極まる勘違いをされては、さすがにたまったものではない。

 

「霊夢と肩を並べたかったんだ。守られるばっかじゃなくて、な。幼馴染に守られるなんてヤだろ?」

 

 女々しい話だが、と付け足すと、吹羽は意外そうに目を丸くした。

 無理もない。自分でもそう思うのだから。

 幼い頃から一緒に育った親友。本来は対等であるはずの霊夢に、一方的に守られるという状況が魔理沙は許せなかったのだ。

 それを感じたのはもっと幼い頃――今思うと文字通り幼稚な負けん気が発端だったのかもしれないが、魔理沙の根本にある思いであることに変わりはなかった。

 

 故に、自分のため。

 霊夢と対等でありたい、という自己満足である。

 

「強さなんてのは……力なんてのは、使うやつによって善にも悪にもなるもんだ。ベタな台詞だがな。お前の力がなんのためにあるかなんてわたしに分かるもんかよ」

 

 吹羽がなぜそんな質問をしてきたのかは分からない。その瞳の奥にある、疑問の根源たる思いがなんなのかも当然魔理沙には分からない。

 だが、彼女が得た強大な力がなんのためにあるのかを彼女自身が分からないというなら――魔理沙に言えることは一つしかなかった。

 

「その力に意味を持たせるのも、何を為すのかもお前次第だろ。その力で出来ることを、お前が探せばいいんじゃないか?」

 

 ざぁ、と吹いた風が、未だ僅かに舞っていた土埃を綺麗に攫っていった。出ていた日が雲に隠れて暗くなり、また顔を出して明るくなる。

 しばらく見つめ合って、ふと目を伏せた吹羽の様子に、どうやら落とし込む時間が必要らしいな、と思った魔理沙は、とりあえず、と帽子をかぶり直す。

 

「――さて、休憩はもういいだろ? 続きを始めようぜ!」

「……はぁ、そうですね」

 

 ぽつりとした肯定の言葉には、渋々といった雰囲気が含まれていた。だがそれに否定の気持ちはほとんど感じられない。

 魔理沙は手元に箒を呼び戻し、ミニ八卦路を握り直す。それに応えるように、吹羽はゆっくりと“太刀風”を抜刀した。

 

 感覚的に、吹羽はまだ全力とは程遠いだろう。底知れなさという観点では、まるで異変の黒幕と対する時のような恐ろしさがあるが、余力を残しているのは魔理沙も同じことだ。

 

 切っ先と、幻視する砲身と。

 互いの得物の、狙い定めたその先が微かに触れ重なった瞬間――

 

「「――ッ!」」

 

 二度目の火蓋が、切って落とされた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 しゃわしゃわと葉々が鳴いている。風に揺られた枝々の隙間を通って抜けてきた日の光は若干弱々しかったが、それでも参道の石階段をぽつぽつと照らしていた。

 

 葉擦れは泡の音にも似て耳に優しい。本来ならば相応のリラックス効果をもたらしてくれるはずなのだが、視線を落として歩いているとどうにもそんな気分にはなれなかった。木漏れ日よりも木々の影の方が目立って意識してしまうくらいなのだから、今の早苗の心象といえばきっと“夜中の小雨”のようだろう。これでは心がざわついてリラックスどころではない。

 

 とぼとぼと石階段を登って、早苗はらしくもない鎮痛な面持ちで帰路についていた。

 ふと溜め息が溢れる。ハッとして誰にも聞かれていないことを確認すると、次第に、先程までいた人里でのことが思い浮かんでくる。

 思わず、また溜め息が溢れてしまった。

 

「……なんだか、最近身が入ってないですね……」

 

 あまり知られたことではないが、風祝としての早苗の仕事は幾つかある。境内や本殿の清掃、お祈り、神奈子と諏訪子の世話――そして人里での布教活動。

 既に幻想郷には龍神信仰が根付いているが、それでもこの世界に神として越してきた以上神奈子や諏訪子にも信仰は必要不可欠である。その御利益を人里で説き、信徒を増やすことが早苗の仕事なのだ。まぁひょっとしたら吹羽と会えるかも知れないからという打算も多少――いや多分に含まれてはいたが。

 

 だが、その活動も最近はあまり上手くいっていなかった。当の早苗がどこか上の空で、集まってきた人々の質問に対して的確な受け答えができない状態なのだ。

 説法には曖昧さが許されない。信じる先がしっかりしていなければ縋る意味がないからだ。

 そんな状態で布教したって成果が上がるわけがない。今日なんてちょっぴり頑固なお爺さんに怒鳴られかけたくらいだった。

 

「(まぁ、最近の私がいけないんですけど……)」

 

 空を見上げると、青色にででんと大きな白雲がのしかかっていた。風にゆっくりゆっくり流されながら、その大きな体で早苗の真上を通過しようとしていた。こんなにも明るいのに真っ黒く陰っている雲の下部が、なんとなく不思議に感ぜられた。

 

「――……」

 

 理由なんて明らかだった。枯れ葉を掃いていても、お祈りをしていても、御利益を説いていても、椛と話したあの時以来常に頭のどこかでそれを考えている。

 

 ――あなたは友のために何ができますか? 何をしたいですか?

 

 その答えが、未だどこにも見つからないのだ。

 

「吹羽ちゃん……」

 

 椛は、見つかるべくして見つかると優しい言葉をかけてくれた。探し続ける限りはいつか見つけられる、と。

 だが、早苗は怖かった。今までのように吹羽と接して、自分が気が付かないうちに彼女を傷付けてしまわないか。或いは――自分では吹羽を慰めてあげられない事実を、目の当たりにするのが。

 

 以前であればそんなことはかけらも気にせず吹羽に会いに行けた。偶然会った際には里を連れまわしたりもした。そこに遠慮などは少しもなく、ひたすら自分の欲に従っていただけだった。

 だが、あんな事件があった以上、いくら早苗でも意識せざるを得なくなったのだ。

 

 相手の思いを顧みない行いというものが、どれだけ人を追い詰めるのかを。

 

「考えて見つかるものでもない、か……無理ですよ椛さん……こんなの、考えるなって言われても……」

 

 恐ろしくて動くこともできず、かといって何もしないでいるのが堪らなく嫌だ。

 そうなってしまえば自然と思考は加速する。加速して、回りに回って答えは出ず、行動にも移せない。

 今の早苗はまさにそういう状態で、それを彼女自身は自覚していた。

 

 ――らしくない。

 いつになく沈んだ今の自分を昔の知人が見たなら、なんて言うだろうか。

 ふと思って、それも今更意味ないかと頭を振る。それは確かめようがないし、確かめたところでどうにもならないことだ。

 

「はぁ……私にもっと勇気があれば、違ったのかな……」

 

 帰路であるのをすっかり忘れて足を止めてしまっていた。早苗は言い訳っぽい言葉で思考を振り切ってから、再び参道を登り始める。

 そうして数歩だけ進んだところで――早苗はふと感じ取った。

 

「(! これは……あの時の神力?)」

 

 どこか遠くで、覚えのある神力と魔力が衝突している。その余波が、極々微細ながら早苗のいる妖怪の山にまで響いてきていた。

 それほど刺々しい――つまり殺伐としたものではなかったが、その余波を感じ取れるほどとなるとかなり激しい戦闘をしているのではないだろうか。

 

「……この神力、あの時のものということは……吹羽ちゃんの?」

 

 鶖飛との一件があった日。あの時に出現した神力と同じものとなれば、今戦っているのは十中八九、終階を発動した吹羽だろう。魔力の方は、あの霧雨 魔理沙という魔法使いだろうか。ほとんど面識はないが、一度異変のことを尋ねにきた際の印象は強く残っている。

 

「……っ、」

 

 ――行くべきか、留まるべきか。

 殺伐としたものでない以上、本来であれば絶対的に後者を選ぶべきであるが、それでも早苗は逡巡した。

 

 今まで里に降りては偶然(・・)吹羽に会えるかも知れない可能性を望みながら、しかし会えないことにどこか安堵してもいた。見かけることがなかったからと言い訳を重ねて、自分から会いに行くということができなかったのだ。

 

 だが、そんな言い訳も今なら通用しない。

 そして、今のまま一人で考えていたって、自分が吹羽のために何ができるかなど分かるはずもなく。

 

「……探し続ける限りは、ですよね。椛さん」

 

 むやみやたらに行動してはいけない。自己満足で終わってはいけない、とも椛は言っていた。だが今自分に必要なことを挙げるとするなら、それはやはり自分を知ることだから。

 吹羽と会って、吹羽と接して、自分の心をもっと知らなければ。

 でなければ、きっと自分の中の彼女への好意に嘘を吐くことになる。

 

 一つ大きく頷いて、たんと軽やかに地を蹴る。そうして早苗は神力の感じる方向へ――吹羽のいる方へと飛んだのだった。

 

 

 




 今話のことわざ
(へび)(えが)きて(あし)()う」
 余計なつけ足し、なくてもよい無駄なもののたとえ。蛇足とは同じ由来。


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第六十二話 悪風流転

 投稿時間、一時間勘違いしてました笑

 では、どうぞ。


 

 

 

 ――風を集めて、鋭く放つ。

 ――風を纏わせ、刃を振るう。

 ――指先を揺らして空に舞い、全身で風を受け止めて一体となる。

 

 そうして力を行使しているうちに、吹羽は自分の中で硬く閉ざされていた力が徐々に(ほど)けていくのを感じ取っていた。

 不自然な感覚ではない。むしろ、長らく忘れていたモノを体が思い出していくかのような、爽快感にも似た何かすら感じられた。

 

 鶖飛に対して行使した時とは違う。あの時は、どちらかと言えば怒りに任せて力を暴走させていたようなものだった。自分の意思でこの力を操るのは、実はこれが初めてだ。

 

 風神降ろしは初代当主が用いた業。そして吹羽はその生まれ変わり。

 であれば、使い方を思い出していくようなこの不可思議な感覚にも一応の説明がつくが――同時に、何処か急かされるような心地も味わっていた。

 

 もっと、もっと。

 もっともっともっともっともっと――……

 

「……ちぃッ!」

 

 “疾風”の絶え間ない弾幕に対して、魔理沙は星の弾丸を纏うようにして防いでいた。時折できてしまう“疾風”の隙間を逃さずレーザーで反撃してくるあたりさすがとしか言いようがないが、吹羽は余裕を持って避け、更に肉薄する。

 

 まずは防御を剥がす。“鎌鼬”で一点を集中的に攻撃してから勢いを乗せて“天狗風”を叩きつけると、強烈な爆風と共に星の衣が粉々に砕けた。その衝撃によって――否、衝撃にわざと流されるようにして、魔理沙はその場から離脱した。

 すかさず“鎌鼬”で追撃する。だが魔理沙は魔力を纏った箒で上手いこと掻き消してしまった。

 

「やるなぁ、畜生!」

「魔理沙さんこそ!」

 

 箒に跨り、再び飛翔を始めた魔理沙も弾幕をばら撒く。それを“太刀風”で次々切り裂いて凌ぎながら、吹羽は僅かな隙に“疾風”を放っていく。吹羽の弾はいずれも魔理沙の弾幕をものともせずに彼女の元へ辿り着くが、さすがに異変解決者というところか、軽々と避られてしまって当たらない。

 流星群のような弾幕と鋭い風の剣舞。ド派手で激しい戦闘だったが、その実、戦況は膠着していた。

 

 吹羽と魔理沙では戦い方が全く違う。言うなれば魔理沙が真に弾幕勝負が得意であるなら、吹羽はもっと実践的な――決闘のような戦闘が得意だ。

 常に無数の弾幕を認識してその中から活路を見出す魔理沙の戦い方は、高威力の単発を次々に放つだけの吹羽にとって相性が悪過ぎるのだ。

 

 なら、もっと多く、もっと速く――風のような(・・・・・)弾を!

 

 瞬間、吹羽の神力は腰に吊るされた金属に流れ込むのを止めて周囲の大気に干渉を始めた。小さく強く渦を巻き、瞬く間に無数の弾を形作ると、吹羽が駆け出すのと同時に斉射される。

 

 戦況が吹羽に傾いたのはこの時だった。

 風の音――否、大気を穿つ音。真に風の弾丸と呼べるにまで展開された弾幕は、風であるが故にある程度の遠隔操作が効く。数え切れないほどの弾丸は互いにうねり合いながらも衝突せず、一心に箒で駆ける魔理沙に追いすがる。

 吹羽は“時津風”を発動して、弾幕の流れに乗るように追撃する。風そのものとなった吹羽の遊撃は、まさしく嵐のような苛烈さを誇っていた。

 

「っ! ンにゃろうッ!」

 

 初め面食らった様子の魔理沙だったが、すぐさま順応して右へ左へ縦横無尽に弾幕を通り抜けていく。無作為なタイミングで行われる吹羽自身の斬撃には若干対応できていなかったが、身を守る魔法陣がしっかりとダメージを防いでいた。

 うねる弾丸の嵐を掻い潜りながら、斬撃を魔法陣で防いではレーザーで反撃。吹羽もそれを避け、受け止め、斬り裂いては魔理沙に肉薄する。無数の弾丸は常に二人を取り巻き、時折小爆発を起こしながらも空中で絡み合う。

 

「ちっ、恋符『ノンディレクショナルレーザー』ッ!」

 

 そんな中、魔理沙が次に唱えたスペルカードはまたしてもレーザー系統だった。

 これは見たことがある。彼女の“マスタースパーク”に次ぐ使用頻度を誇る内の一枚であり、四本の太めのレーザーを放つというものだ。

 だがレーザーの本数を増やしたところでどうなるというのか。こちらは四方八方から風の弾丸を無数に放て、且つ文字通り風のような速度で飛翔できる。申し訳程度に星の弾丸もばら撒いているようだが、その密度はお世辞にも高くはない。

 こんなの全然脅威じゃない――そう思ったのが、間違いだった。

 

「“韋駄て――」

「遅ェぜ!」

 

 “韋駄天”を振りかぶり魔理沙に急速接近をしようとした矢先、ブォンと鈍い羽音のようなものが頭上を駆け抜けた。

 突如手に残った不思議な喪失感に目をやると――なんと“韋駄天”の刀身が、半ばから折られていた。

 

 状況を理解する間もなく、中途半端に起動した風紋は中途半端に効果を発揮する。本来真っ直ぐに推進力を生むはずの韋駄天はてんでばらばらに力を生み出してしまい、吹羽は飛翔の制御を失ってぐるんぐるんと空中で乱れ舞う。

 

 そこに、四本のレーザーが振り下ろされた(・・・・・・・)

 吹羽は咄嗟の判断で神力を使った武器の召喚を中断し、乱回転するその一瞬に掌をレーザーへ向ける。

 

「っ、『野分』ぃッ!」

 

 暴風の砲撃が、僅かな拮抗の後にレーザーを消し飛ばす。だが、どうやらそれは一瞬のことのようで、“野分”の攻撃範囲を超えるとレーザーは何事もなく照射され続けていた。

 辛うじて避けられたが、その脅威に冷たい汗が頬を伝う。

 

 要は、鍔迫り合いのできない特大剣のようなものなのだ。よくよく考えてみれば、弾丸と違って常に照射し続けるものを半ばで消し飛ばしたところで止まるはずもない。しかも質量がそれより低ければ、先程の“韋駄天”のようにあっさりと競り負ける。真正面からなら抵抗できるだろうが、基本的には避けるしかないということだ。

 それが四本、凄まじい速度で振り回されることになる。

 ……普通に凶悪だ。

 

「くぅ……速いし、厄介……!」

 

 四色の特大剣は回転するようにして周囲を薙ぎ払う。その過程で風の弾丸も掻き消していくためろくに攻撃も出来ていない。

 吹羽は小さく悪態付きながら、ひゅるりひゅるりと避けていく。だがレーザーの速度が速度、だんだんと服の裾に擦りが目立ってくる。

 受け太刀不可の大太刀――まるで“太刀風”の魔法版と言ったところだ。避けに徹しなければならないとは、かつての文が舌を巻いたのも頷ける厄介さである。

 

 ――うん? “太刀風”……?

 

「ほらほらどうした!? 避けてばっかりじゃ勝てないぜ!」

「っ、だったら――」

 

 不意に空中で止まり、片方の“太刀風”を納刀する。それに魔理沙は訝しみながらも、だがやはり四方からレーザーで襲いかかる。

 そんな中で吹羽は、()と手を振り下ろした。神力が大気に干渉し、風を生む。天空から降り注ぐ鉄槌の如き爆風の名は――“下降気流(ダウンバースト)”。四方から襲いくる特大剣をいとも容易く消し飛ばし、一瞬の隙ができる。

 吹羽は手元の大気に神力を込めた。

 

「“斬剣――太刀風”ッ!」

 

 神力で操られた大気が、吸い込まれるようにして“太刀風”の刀身を撫で付ける。通常の風量を遥かに上回る風が一振りの小さな刀に襲い掛かるが、吹羽は刀自身にも神力を流し込むことでなんとか支えていた。

 結果、形成されるのは限界を遥かに超えた長大極まる風の大太刀。十間(約20m)強にまで肥大化した“斬剣”は魔理沙の側を勢いよく掠め――レーザーの照射源を、見事に消し飛ばした。

 

「いッ!? なんだそれっ!?」

 

 その隙を逃さず、都合四度“斬剣”を振り回す。長大なものの脇差一振り分の重さしかない“太刀風”の斬撃は魔理沙には到底見切れない。

 武器の負担が大きいので乱発はできない技だが、そのおかげで恋符は遂に突破(ブレイク)。そこで立ち止まらず、吹羽と魔理沙は再び空中での弾幕併用の接近戦に移行した。

 

 “時津風”で高速の空中戦闘を実現しているが、弾幕と風の吹き荒ぶ嵐の中で二合、四合、八合と重ねるうち、いい加減魔理沙の目も慣れてきたのか吹羽の動きを目で追うようになってきていた。

 さすがに、この戦法はもう保たない。ならばいっそ斬り込んで、この状況を自ら変えるべきか。

 そう判断して、弾幕を掻い潜った魔理沙の一瞬の隙に肉薄した――その瞬間だった。

 

 ――目の前に現れた、青く輝く小さな瓶。

 

「かかったな」

 

 眼前で臨界寸前にまで押し込められた魔力の塊に、吹羽は自分の失策を悟った。

 ――これは、誘導された!?

 

「魔廃『ディープエコロジカルボム』」

 

 「存分に味わえよ」なんて台詞の伺える不敵な笑みが、全ての視界と共に青白い光に塗りつぶされる。既に攻勢に移った吹羽には避ける術などなく、凄まじい魔力の衝撃波が華奢な身体を吹き飛ばした。

 

「ぐッ、ぅう!」

「まだまだァ!」

「ッ!」

 

 これほど明確な隙を魔理沙は逃がさない。星形の弾幕が流星群のように襲い来るのを薄目で見て、吹羽は咄嗟に体を反転。無理矢理に着地し、不安定ながら真正面に飛んでくる星を“太刀風”で斬り裂いていく――が、遂に数発の弾丸を捌き切れずに被弾してしまう。

 

 身体がふらつく。太刀筋が乱れる。統率の取れていた風が、僅かに揺らぐ。

 

 それでも斬撃と弾幕の応酬は止まらない。

 

「(だめ……こんなのじゃ、足りない……!)」

 

 魔理沙との苛烈な戦闘を繰り広げながら、しかし吹羽の中には緊迫感でも高揚感でもなく、むしろ無力感や焦燥感が渦巻いていた。

 

 かつて辰真が遣っていたこの力は決してこんなものではないはずなのだ。それを知っている吹羽の記憶が、きっと、早く取り戻せと急かしている。

 取り戻さなければ、また失うぞ(・・・・・)、と。

 

 力に意味を持たせるのは自分次第だと魔理沙は言った。吹羽もそれはその通りだと思った。力そのものに意思はなく、振るうのはそれを持った人だから。

 同様にして、吹羽もこの力を得た理由を考え、探し、これからの未来で何かを成して意味を持たせなければならないのだろう。

 

 ただ、できれば――吹羽は自分の大切なものを壊さないために遣いたい、と思った。

 

 きっと辰真だって、望んで手に入れた力ではなかったはずだ。

 生まれ変わりである吹羽には分かる。信仰を一心に捧げた結果というだけであって、これほど過剰な力なんて、必要ないとさえ思っていたはずなのだ。

 ただ得てしまったが為に紫と死闘を繰り広げることになり、その果てに村を守って討ち死んだ。だがきっと、自分の大切な者達を守ることができた辰真は満たされていた。弟・嵐志のことは心残りだったろうが、それでも満たされていたはずなのだ。

 

 そう。だから――だから吹羽は、思ってしまった。

 

 

 

 あの時、自分がもっとこの力を引き出して、うまく扱えていれば、鶖飛を殺さずに済む道もあったのではないか、と。

 

 

 

 壊さない為に使いたい。使えたはずだ。

 未来でなどと楽観するのではなくて、もっと早くに使いこなせてさえいれば、鶖飛をあしらうくらいに強くなれていれば、殺さずに収めることもできたはずなのだ。

 

 自分が、弱かったばっかりに――。

 

 渦巻く感情が、振るう手に力を込めさせる。そして次第に、心の内側から後悔にも似た怒りが込み上げてくる。

 吹羽にはそれを、抑えることができなかった。

 

「〜〜ッ、『飛天』!」

 

 斬撃の合間の隙を見て、吹羽は“飛天”を目の前に顕現させる。そして中空で飛び回る魔理沙に目掛けて、“野分(・・)を遣って(・・・・)打ち出した。

 ぎゅ、ごう、と大気の軋む音がして、“野分”の強烈な烈風を巻き込んだ“飛天”はかつてないほど巨大な竜巻を形成する。魔理沙の弾幕など埃のように吹き散らしながら、殺人的な威力で宙を撃ち抜いた。

 

 落ちてくる魔理沙の姿が、視界の端に映っている。

 箒を犠牲に上手く衝撃を逃したらしい。飛翔の要を奪えたのは大きいが、直撃させられなかったのは(・・・・・・・・・・・・)痛い(・・)

 

「(こんなのじゃ……まだ、弱いっ)」

 

 落下に身を任せながらも魔理沙は幾本ものレーザーを照射する。吹羽はそれに“野分”で対抗しつつ、“時津風”で彼女の目の前へと潜り込んだ。と同時に、風を溜めていた“天狗風”で魔理沙の横腹を薙いだ。

 

 一瞬の爆風。衝撃波と何ら変わらないそれが、魔理沙の呻き声すらも掻き消した。

 吹羽は吹き飛ぶ彼女に向けて、無数の“疾風”を“野分”で撃ち出す。音すらも置き去りにした“疾風”は見事に魔理沙を幾度も打ち抜き、ばら撒いていた弾幕は途切れて消えた。

 

 ――まだ。

 

 踏み出し、大きく跳躍。両手で“大嵐”を構えた吹羽は、魔理沙の動きを封じるべく、落下の間に“風車”と“疾風”と風の弾丸を同時に展開する。魔理沙も再度展開した弾幕で対抗してくるが、物量がそもそも圧倒的に違う。魔理沙の防御は呆気なく崩れ、足や肩を斬り裂かれて体勢が大きく崩れた。

 

 ――もっと。

 

 そこに容赦なく“大嵐”を叩き込む。吹羽の持つ武器のうち最大威力を誇るそれが辛うじて張られた魔法陣の防御をいとも容易く砕き割り、魔理沙の華奢な体を打ち据えた。

 

 ――足りない。

 

 吹き飛ぶ魔理沙に“鎌鼬”と“風車”で追撃。

 風の弾丸で牽制して“韋駄天”と“天狗風”を打ち込んで防御を砕き、“野分”でかち上げ反撃を“引佐”で相殺。

 

 “時津風”で懐に潜り込んで“颪”を放ち墜落した魔理沙に“疾風”を乗せた“下降気流(ダウンバースト)”を撃ち下ろして“野分”と“風車”を幾度も放ちながら“天狗風”と“大嵐”で“疾風”を“鎌鼬”に“韋駄天”で“野分”“時津風”“大嵐”“下降気流“飛天“”引佐“野分”颪韋“”駄“天疾風“”時津”風“引佐飛““”天下“”降気流”大嵐“風車“”鎌”鼬時津“”風引“佐飛天““”野分“”“”“““”””“”““””“””““””“”――

 

 ――“太刀風”。

 

 

 

『依り代ッ!』

 

 

 

「っ!」

 

 ――……気が付くと、顔を真っ青にした魔理沙がこちらを見上げていた。

 

 華奢な体には無数の切り傷を負い、大量の血が服に滲んでほとんど血塗れになっている。尻餅をついた形で吹羽を見上げる目の端には、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっていた。

 そんな彼女を守るように、氏神――級長戸辺命の化身である白狼が吹羽の前に立ちはだかっている。

 振り上げた“太刀風”は、子犬の方が腕に噛み付いて止めていた。きゅるるるる、という鳴き声が、どこか吹羽に対して怒っているようにも聞こえる。

 

 浅く、冷たい呼気が漏れた。

 

「ぁ、ぇ……ボ、ボク、なにを……」

 

 がしゃん、と“太刀風”を取り落とす。若干血の滲んだ手を震わせながら、吹羽は一歩、二歩と後ずさった。

 

 今氏神に止められなければ、吹羽はそのまま“太刀風”を振り抜いて確実に魔理沙の首を撥ねていた。記憶が曖昧だが、あと少しで友人を惨殺していたかもしれないという事実に、全身の血の気が氷のように冷めていく。口の中がからからに乾いて、吹羽は満足に呼吸もできなくなっていた。

 なにが、なんで、自分はこんなことを――?

 

『……様子がおかしいから咄嗟に止めたけど、間一髪だったね』

『もう少しで惨事を招いていたところだ。いったいどうしたというのだ、依り代よ』

「ぅ……ボ、ボク、そんな、つもりじゃ……なん、で……」

 

 何をしようとしていたのか分からない。何を考えていたのかも分からない。まるで自分じゃない誰かがいつの間にか意識を乗っ取って、魔理沙の息の根を止めようとしていたかのような。その様を目の前で見せつけられて「お前のせいだ」と告げられたような、酷い絶望感が頭の中を支配していた。

 

 唯一覚えているのは、後悔のような怒りのような、よく分からない真っ黒な感情が溢れ出してきたこと。

 それを止めることもできなくて、むしろ当然のように受け入れてしまったような――

 

「ふ、吹羽……?」

「ッ! ご、ごめんなさ……ボク、ゎ、わかっ……ぁ……こ、こんな……!」

 

 魔理沙の視線に耐えられず、吹羽はかくんと膝を崩して座り込んだ。

 不理解と、不安と、罪悪感と、なにがなんだか分からない巨大な恐怖がぐるぐると心の中を回って、波濤のような怖気が身体を震わせる。

 滲んだ視界では魔理沙がどんな目を向けているのかも分からなかったが、それを知ることすらも怖くて、吹羽は力の入らない腰を引きずって後ずさる。

 

『……ともかく落ち着いて、依り代。大丈夫、誰も死んじゃいないよ』

「で、でも、氏神様……」

『取り乱すな。何かがおかしい』

 

 そう言って喉を鳴らす白狼と子犬。慰めてくれているような声音ではあったが、その程度で心は休まらなかった。

 

 だって、どんな理由であれ大切な友人を殺しかけたのだ。

 鶖飛と剣を交えたあの時、彼の肉を斬り、骨を断ち、生暖かい血に手が包まれる感覚は今でも手に残っていて、それを魔理沙に対してやりそうになった――それを思うと、吹羽は今にも首を掻き切りたい衝動に駆られるのだ。

 

 

 

 ――そんな資格ない癖に。

 

 

 

 心の何処かで責める声が聞こえてくる。吐き捨てるかようなその声に、吹羽は心臓が掴まれるような心地がした。

 分かっている。事実を直視したくないだけなのだ。

 弾幕勝負というある種の“遊び”の中であろうことか友人を殺めそうになり、そのくせ自分でそれを嫌悪するなんて――なんて自分勝手で、傲慢で、酷薄だろうか。

 友人の命を自分の手で脅かすなんて人としてありえないことだ。友としてありえないことだ。どんな理由があったとしても、決して許されることではない。

 

『――……!』

『――……』

 

 一度そう思い始めると悪い想像はどんどん加速して、歯止めはまるで効かなくなった。

 次々と浮かぶ自己嫌悪の言葉が頭を支配し、視線は地面に縫い付けられ、疑心暗鬼に陥った心は周囲の何もかもを恐れてただ震えることしかできない。直接脳内に響くはずの氏神の声でさえ、今の吹羽には届いていなかった。

 

 湧き出て、あふれて、溢れて――今にも器が壊れてしまいそうな感覚。

 感情と思考が止まらなくて、全てが苦して、何もかもが辛い。止まらない圧迫感は吹羽から呼吸すらも奪い始め、どくんどくんという心臓の鼓動だけが嫌に大きく聞こえた。

 

「(ああ――ほんとに、変だな……)」

 

 まずい。危険だ。どこかがおかしい。

 自分の状態をぼんやりとそう認識しながらも、思考の加速は止まらないし、悪循環は転換しない。発想が急激に危ない方向へと向かっている自覚があるにも関わらず、それを覆すだけの意思が既に、吹羽からは削り取られてしまっていた。

 

 そうして、やがて呼吸すら忘れ始めたころ――虚ろな意識の中にある言葉が浮かんできた。

 

「(こんなに……苦しいなら……)」

 

 それは心の何処かで予想していた帰結の言葉であり――こうなる前の彼女なら、決して考えはしないはずの言葉で。

 

 もういっそ、死ん(・・)――

 

 

 

『危ない、依り代!』

 

 

 

 ――勢いよく体がはじき飛ばされる感覚に、吹羽の意識は急激に覚醒した。

 ハッとした時にはすでに遅く、どうやら子犬に体当たりされてその場を強引に退かされたようだった。

 

 飛ばされて、その一瞬の後。

 吹羽達のいた場所には猛烈な速度で何かが墜落し、地面を大きく炸裂させた。爆音が大気を揺らし、揺らした衝撃が周囲の木々をも無理矢理に薙ぎ倒す。もうもうと立ち込める土煙はもはや遙か天空まで上っていた。

 

 突然のことで受け身も取れなかった吹羽は、ごろごろと地面を転がって止まると、急いで土煙の中身を凝視した。

 すると見えてきたのは、何やら人型をした巨大な影。吹羽の身長など一回りも二回りも超えた、恐ろしい何かのシルエットだった。

 

『もう! 次から次へと一体何なのさ!』

『どうやらただの墜落物ではないようだが――』

 

 口に咥えた魔理沙を吹羽の近くに下ろして、氏神は苛立ちを露わに分析する。

 そして短く息を吹き出すと、それに応えるように突風が駆け抜けた。土煙が攫われて、シルエットの正体が露わになる。その巨大な姿を目の当たりにして、吹羽は――否、吹羽と魔理沙は驚愕に目を見開いた。

 

「あ、あれは……」

「あん時の……!」

 

 現れた肌は赤黒く、隆々とした筋肉質の体には血管が浮いている。頭髪はなく角もなくゴツゴツとした岩肌のような皮膚は鉛のように鈍く光っていた。一見鬼のようにも見えるが、萃香に感じるような威圧感は感じられない。

 

 見覚えがあった。

 ただ、手に持っている棍棒は砕けて先端が鋭くなっているし、もともと赤かった肌は墨汁を混ぜたように血色になっている。なにより体格そのものが一回りほど大きくなり、その目には流暢に言葉を話していた頃の理性を感じられない。

 記憶にある姿とは所々の相違があるものの、だがその特徴的な姿を忘れようはずもなかった。

 

 二人の前に現れたそれは、あの三匹の妖怪のうち(・・・・・・・・・・)の一匹(・・・)

 

 

 

 かつて吹羽が対峙した――猪哭(いなき)と呼ばれた妖怪だった。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし
 
 
 
 
 
 
 ――ある日の日記

 魔理沙さんに酷いことをしちゃった。
 友達に刀を向けるなんて、人としていけないこと……分かってるはずなのに、体が勝手に動いてた気がする。

 魔理沙さん……きっと、怒ってるよね。
 どこか、ボクはおかしいのかもしれない。おかしいボクは、魔理沙さんと友達でいられるのかな。自信がない。

 友達……友達って、むずかしい。ボクは誰かの友達でいられてるのかな。
 
 
 


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第六十三話 ヒトガタの凶兆

 お待たせしました。いろいろあって長引いてしまいました……。
 ではどうぞ。


 

 

 

 いつになく、空気がひりつく感覚がした。

 その瞳の狂気とも呼べそうな無理性さは底知れない恐怖心を煽り、いつ暴発するかもわからない火炉のような危うさがあった。 

 荒い呼吸で急速に血が巡っているのに、全身の熱が体の内側に篭ってしまったかのような不可思議な感覚。得体の知れない恐怖と対面すると、人の体はこうにも異常をきたすらしい。

 体が硬直してうまく動かない。疲労だけが原因でないことなど火を見るより明らかで、少しでも気を抜けば途端に震えだしてしまいそうだった。

 

「どういう、ことだ……あいつ、てっきり死んだと……!」

「……そういえば、そうだ――」

 

 まるで屍人を見たような声音で魔理沙が言うが、吹羽には若干の理解が追い付きつつあった。

 

 思い出してみれば、鶖飛の能力の真髄とは“力を浸透させること”だった。この力で彼は猪哭たち三人に魔力を流し込み、能力を与えていたのだ。

 そう、もともと鶖飛の力。

 与えていたものを抜き取ったところで元に戻るだけである。

 あの時はおおかた力を抜き取った反動で気絶か、または仮死状態にでもなっていたというところだろう。そう考えなければ、この状況はあまりにも不自然である。

 

 しかし、それとあの豹変ぶりとは話が別だ。少なくとも、あの時にはこれほどの脅威を彼に感じることなどなかったのだから。

 他にも気になることはあるが――。

 

 と、そこで猪哭が動き出したのを見て吹羽は思考を打ち切る。

 彼は何か堪えるようぶるりと震えた後、感情を爆発させるように雄叫びを上げた。堪らず耳を塞ぐが、それでも頭をがんがんと揺さぶられているような痛みが走る。音圧だけで小妖怪なら泡を吹きそうな威力だ。

 

「オ゛――ッ!」

 

 間も無く地を踏み砕き、以前からは想像も付かない速度で接近してきた猪哭の棍棒が、目の前で唸りを上げた。

 折れた先端は剣山のような鋭さ。きっと掠っただけでも吹羽の腕などぽとりと落ちてしまうだろう。是が非でも避けなければならないそれを前にして――しかし、吹羽の体は動かない。

 

 先ほどの一件がショックで力が入らないというのもある。だがそれ以上に、吹羽は魔理沙との戦闘で能力を酷使し過ぎていた。

 鈴結眼の副次的な恩恵――“ありとあらゆるものを観測する程度の能力”の行使でさえ負担を強いるのに、真の能力である風神降ろしをした状態であれほどめちゃくちゃに力を使えば、体にガタが来るのは当然のことだった。

 

「(マズい――ッ!)」

 

 だが、そう思ったその刹那、突如として猪哭の巨体が地に叩き付けられた。

 陥没した地面で五体投地する彼の背には、犬牙を剥き出しに猪哭を踏み付ける白狼の姿があった。

 

『我らを差し置き依り代を狙うとは、小生意気な童よな』

『我ら風神の化身。妖怪如きになめて貰っちゃ困るってものさ!』

 

 ずん、と空気が一気に重くなる。まるで重力が増したかのように、氏神の放った膨大な神力が周囲の全てを押し潰さんとのし掛かっているのだ。

 その中心地は、地面に大の字で這いつくばった猪哭。きっと今吹羽が感じている重みの何百倍何千倍という神力が、あの体一つに集中しているのだ。

 

 一体どれだけの存在がこの圧力に耐えられることだろう。これで化身だというのだから文字通り計り知れない。

 終階に目覚めた影響で神力を濃密に感じられるようになった吹羽には、級長戸辺命という己が氏神の桁外れな力をひしひしと感じられた。

 

『依り代たちと何かあったようだけど、どうやら正気じゃないみたいだから』

『このまま圧し潰してくれようぞ、猪哭とやら』

 

 圧力がより一層重くなる。既に巻き込まれた木々などはひしゃげて潰れ、猪哭のすぐ周囲では石すらもパラパラと微塵に砕かれ始めていた。

 ぎしりぎしりと軋む音が聞こえる。猪哭のあらゆる骨と筋肉が絶叫を上げている証拠だ。あの大海原のような神力にのしかかられてそれでも形を保っている強靭さは驚愕の一言だが、このまま続けば遠からず意識を奪うことはできるだろう。或いは本当にぺしゃんと潰してしまう気なのかもしれないが、理性もなく命を脅かされた手前、甘いことは流石に言えない。況して氏神は、吹羽の代わりに猪哭を押さえ付けてくれているのだから。

 

 風の音も鳥の声も消え去り、吹羽たちもひたすら重みに耐えること暫し――この状況に訪れた変化は、しかし白狼の足元から。

 押し潰された猪哭の、地の底から響くような呻き声だった。

 

「ヴ、ゥゥゥヴヴォオオ゛オ゛オ゛ッ!!」

『!』

 

 刹那、爆発的な妖力の膨張によって一瞬だけ神力が持ち上がる。猪哭はその一瞬で体を回し、棍棒で背後を薙ぎ払った。

 低い空気の鳴く音がして、振り抜いた棍棒はついた地面を豪快に砕き割るが、それは標的に当たっていないが為だ。

 

 軽々と避けた白狼が着地すると同時、弾かれたように子犬が飛び出す。その小さな身に濃密な神力を纏って放った体当たりは猪哭を弾丸のように軽々と吹き飛ばした。

 

「す、すごい……」

 

 思わず漏れた吹羽の呟きにちらと視線を寄越す白狼だが、すぐに前へ戻すと、震えるように毛を逆立てた。

 白く煌めく毛がふわりと揺らめく。日の光に透けるようなきめ細かさも相まって、まるで真白な陽炎のようだ。

 

 次の瞬間、白狼の姿が掻き消える。一拍遅れで超音速波が巻き起こり、それによって、白狼が凄まじい速度で前方へ突撃したのだと分かった。

 入道雲のような砂埃の向こう側で、激しく打ち合う音がする。時折こちらに届く衝撃波はずしんと重く、その戦闘の苛烈さを物語っていた。

 

「お、おい……なんだよっ、くそ……!」

 

 と、呆然とその様を見つめる吹羽の耳に魔理沙の声が聞こえてきた。振り返ると、動けない彼女を子犬が木陰まで引っ張っている。

 大して重い様子もなく運び切った子犬は、吹羽の元まで駆けてきて、同様に引きずり始めた。

 

「だ、大丈夫、です……ボクは、動けますから」

『無理しない。君の負担は我らが一番分かってる。本当は話すのも苦しいはずだよ』

「ッ、」

『心配しないで、依り代。奴はここで潰すから。あんな危険なものを放ってはおかないよ』

 

 魔理沙の隣まで運んでくると、子犬はぽすんと吹羽の胸の上に乗って僅かに毛を逆立てた。

 ふわふわの毛が突然伸びたように宙に揺らめく。それが濃密な神力であるということに、吹羽は目の前で見てようやく気がついた。

 緩やかで暖かい風が体を包み込む。思わずうっとりと寝入ってしまいそうなその心地良さは、消えると共に、身体中の痛みを少しばかり攫っていった。

 

『――これで少しは楽になるはず。動けるようになったら、すぐに逃げるんだよ』

「でも、氏神様……」

『我らは大丈夫さ。それに――』

 

 不自然に言葉を切った子犬。疑問に思って吹羽が言葉を紡ごうとしたその瞬間――背後に現れた猪哭の棍棒が、神力の障壁と激しく衝突した。

 神力の光が飛び散る中で、その無理性な瞳は子犬ではなく、吹羽の方を睨んでいる気がした。

 

「う、氏神様!」

『ここにいた方が危ない。どうやら奴は君を狙ってるみたいだ。我らは、守りながら戦うのは得意じゃないんだ』

 

 びきりと障壁にひびが走る。それを好機と見たのか猪哭はがんがんと力任せに棍棒を叩きつけてきた。子供のチャンバラのように幼稚な動きだが、それがあの巨体と膂力で繰り出されれば単純に脅威である。

 そうしてあと一撃で壊れるかと思ったところで、横あいから飛び出してきた白狼が猪哭を突き飛ばす。地面を引きずり抉る音と共に、猪哭は土埃の向こうに姿を消した。

 

 すた、と着地すると、白狼は猪哭の吹き飛んだ方に目を止めたまま口を開く。

 

『神力が少ないとはいえ、ここまで抵抗できる相手だ。確実に潰さなければなるまい』

『分かったら、そこでじっとしててね依り代』

「……ごめんなさい」

『詫びなど要らぬ。大人しくしていろ』

 

 それだけ言い捨てて、白狼と子犬は同時に走り去っていった。

 あんな姿でも高位の風神の化身だ。幾ら神力に限りがあると言っても、あの様子なら心配など無用――というか、失礼なだけだろう。

 

 本来は吹羽が戦わなければいけない。だのに氏神は、その慈悲深さで吹羽を守ろうと戦いに身を置いている。

 迷惑ばかりかけて――申し訳ない気持ちと、それを上回る無力感が胸にのしかかるようだ。そしてそれを吹羽が気にすること自体を氏神が望まないということも分かっていて。詫びなど要らない、とはつまり、そういうことで。

 

 ――今はともかく安静にして、ただ終階を切らさないことだけを考えなくては。

 一度でも切らせば、また以前のように反動で動けなくなる。そうなれば逃げることなど到底出来ない。

 

 戦闘の行方を見守りながら、吹羽はひたすら自分の内側に意識を集中させる。小さな穴の開いた器から少しずつ落ちる滴を、少しも逃さないように小匙で受けて、また器に戻すような繊細な作業だ。

 とても集中力がいる難しい作業。でもそれを、吹羽は躊躇うことなく始めた。

 

 ――すぐ隣で聞こえる息遣いを、意識しないようにしながら。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 化身、とは文字通り、神格が現世に顕界するために(化け)る仮初の姿()だ。

 神力を極端に抑えて人の身にもよく認識できる姿となり、啓示を与えたり、或いは天罰を下したりする。この世に伝わるあらゆる神々が書物ではよく動物の姿で描かれるのはこのためである。そのままで顕界などすれば、自分の力が意図せず世界を崩壊させ得ると理解しているのだ。

 

 人を大きく超越した存在を、まさか人がそのままの視界で認識できるはずがない。言うなればそれは、時間や空間や、星、暗闇、夜、昼――風や空といった概念(・・)を目で捉えようとしているのと同じだからだ。もっと言えば己の“希望”を見ていることになる。そんなことを世の理は許さない。

 

 現世の空を統べる神格――級長戸辺命の化身は白狼と白い子犬だ。それぞれが雄々しさと親しみやすさを備え、しかし同一の思考を共有している。そして備える神力は、本体の半分を遥かに下回る。

 だがそれでも、この世界で化身した神格に対抗できるものなどいないも同然だ。概念の力を一部でも備えた存在が、そうでない者に遅れを取るなどあり得ないのだから。

 

 

 

 あり得ない――そう、そのはずだった。

 

 

 

「ヴウゥゥォオオオオ゛オ゛ッ!!」

 

 四散する礫の散弾の隙間に、悠々と体を滑り込ませて捌いていく。そのどれもが力任せに棍棒を叩きつけた副産物でしかないのに、着弾点には荒々しい破砕跡が残って、ひたすらに周囲の環境を抉り続けていた。

 細かい礫が毛を掠める。僅かに真白い毛が散って、それがちりりと消えたその瞬間に子犬が神力を纏って突撃した。

 

 丸い体の子犬が亜音速で飛び出すと、その様は白い弾丸のようだ。並大抵では目に捉えることも難しいそれに対して、猪哭は見事に反応して棍棒を横薙ぎに振るった。

 直前で棍棒を蹴って、上空へ逃げる。

 がら空きになったその胸元に、今度は白狼が飛びかかった。

 

 神力で形作った巨大な顎門(あぎと)だ。あらゆる魔を消滅せしめる風神の大顎が猪哭の身体を飲み込み、噛み砕かんと力強く顎門を閉じる。

 

 ――閃光、爆音。

 人が巻き込まれたなら一瞬で四散してしまいそうなほどの爆発が起こり、二匹はくるくると宙で回って後方に着地する。

 土煙が晴れると、身体中をぼろぼろにした猪哭が、それでも立って二匹を睨め付けていた。

 

 喉をぐるると唸らせる。それは狼にとっては敵対者に対する威嚇の意味がある行為だが、今の二匹のそれにはまた別の意味も込められていた。

 

 ――傷の治りが早過ぎる。

 

 時間を遡るようにして消えていく猪哭の傷に、子犬はぱすんと地面を打った。

 攻撃も速度も、決して二匹を悩ませる要因ではない。問題はもっと別のところにあって、その一つがあり得ない速度の再生力。

 

 白狼は短く息を吐き出した。

 先程も使った風を操る仕草で、今度は無数の風の斬撃を猪哭に浴びせる。身体中から血がしぶき、血霧が猪哭の周囲を覆った。だがそれを受けても少しの動揺すら見せない。切り傷自体も先程同様に急速に回復して塞がる。

 ……明らかに異常だ。少なくともただの妖怪でないことは確かである。

 

 ガウッ、と一吠え。吹羽にはきっと『なんと厄介な』という悪態が聞こえただろう。

 神力をありったけ使えば跡形もなく消し飛ばすことはできるが、そうなると吹羽に宿している神力を使わねばならなくなる。その場合神降しは強制的に解除され、吹羽は反動で意識を失い何日も目を覚まさなくなるだろう。それを風神は望まなかった。

 

 そして何より問題なのは――。

 

「ゥ、ヴァァアア゛ッ!」

 

 鼓膜をぶっ叩くような雄叫びを上げ、猪哭は猛スピードで二匹に肉薄した。

 そして、振り回す。妖力を宿した棍棒の威力は凄まじく、振るうたびに鳴く風の音はまるで悲鳴のようにも聞こえた。

 

 するすると避ける。打ち合う。防御する――砕かれる。

 一匹で張った障壁では棍棒の攻撃を幾度もは防げず、遂に棍棒は二匹を障壁越しに捉えた。

 二匹で張った障壁は砕かれない。しかし、踏ん張りきれずに吹き飛ばされる。そこに猪哭は地面を踏みしめ追撃――には行かず(・・・)

 

 反転して、その視線が吹羽に照準を定める。

 ――厄介なのは、ここだった。

 

「キャンッ!」

 

 『全くもう!』と鳴いて、白狼が子犬を尻尾で打ち出す。弾丸のようになった子犬は猪哭を追い抜いて側方に着地すると、鋭角に地を蹴り抜いて突撃。

 爆走する猪哭の横腹に強烈な頭突きを浴びせ、その進行を強引に妨げた。

 

 そう――猪哭が二匹の相手をしているのは、恐らく本能(・・)に過ぎない。

 自らの命を脅かし得る存在を排除しなければならない、という生存本能だ。

 

 今の猪哭はまさしく理性を失くした獣そのもの。自らの目的である吹羽の前に級長戸辺命という排除しなければならない壁が立ち塞がったため、破壊しようとしているだけなのだ。

 逃げるだけの理性がない。

 策を講じるという頭がない。

 結果、少しでも二匹を退かせた(・・・・)と判断した瞬間、その意識は吹羽の方へと向かってしまう。

 隙あらば吹羽を害そうとする猪哭を相手に、風神はどうしても微妙に攻めあぐねるのである。

 

 ――そうして、この攻防をどれだけ繰り返したろうか。

 

 辺りは既に地面の捲れ上がった更地と化していた。猪哭の強烈な棍棒が地を砕き割り、風神の風がありとあらゆるものを刻んで攫う。それらが衝突すれば当然矮小な生き物などはひとたまりもなく、この一帯は命の息吹を感じられない荒野になり掛けていた。

 互いの攻撃は決定打には至らず、或いは制限があるゆえに攻め切れず、その半端な攻撃ではどちらの耐久力をも超えることができない。お互いの命を奪うこともできず、その癖周囲の生命ばかりを枯らしてしまっている。或いは、猪哭の撒き散らす淀んだ妖力が悪影響を及ぼしているのかも知れなかったが、そこまで気にしている風神ではなかった。

 

 風神はただ、自らの依り代たる吹羽を守れればそれでよいのだ。その他がどうなろうと気にはしないし、恩寵を与えるつもりもない。

 周囲のことなど歯牙にもかけず、ただ吹羽を害そうとする敵に対して牙を向く。

 

 だが白狼と子犬にも疲労が見え始めていた。

 化身として格を落とし受肉した結果、肉体という概念を得てしまった弊害である。

 鉛のような疲労感が体の動きを阻害していた。傷口からはわずかな血と神力が漏れ出て、呼気は普段以上に荒く熱い。煌々と輝いていた毛は少しだけ光を失い、僅かに粗が目立っていた。

 

 ――全く情けない。一妖怪を相手にここまで手子摺るとは。

 

 言葉の代わりに唾をびっと吐き出す。

 例え様々な制約のかかった状態だとしても、ここまで妖怪に抵抗されるのは予想外だし、不愉快ですらある。どれだけ格が落ちようとも白狼と子犬は遥かな空を統べる神格の、その欠片。偉大なる風の具現なのだ。

 

 僅かな怒りを込めて殺気を放つ。すると再び風神を脅威と認めたのだろう、棍棒をぎしりと握って地面を蹴り、猪哭は瞬く間に風神の目の前へ躍り出た。

 二匹は例によって障壁で棍棒を防いだ。奴には疲労の概念がないのかほとんど威力が衰えていなかった。防御だけを続けていれば、この障壁とていつかは砕かれるだろう。

 

 だが、それを許す怠惰を風神は持ち合わせていない。

 短く呼気を吐き出して発現したのは風の鉄槌。天から激流の如く降り注ぐ“下降気流(ダウンバースト)”だ。吹羽のそれには及ばないものの、振り下ろされた風槌は強靭な猪哭の体を容赦なく地面に叩きつけた。

 重力の超過にも似たそれに、しかし猪哭は徐々に体を持ち上げ始める。予測通りだ。今度は子犬が猪哭の背に飛び乗り、“引佐”を吹き下ろして全身を切りつけ始めると、再生力がそちらに割かれて再び五体投地した。

 

 ――このままっ

 ――消えるがいいッ!

 

 白狼と子犬の咆哮が重なり合い、共鳴するにつれて加速度的に神力が膨張していく。一番初めと似た状況だが、込められた力はそれを遥かに超えていた。

 次々と重ねられていく風の力。強過ぎる神力の波に周囲の大気が(たわ)んで、光さえも僅かにねじ曲げてしまっている。破滅的な圧迫力だ。ともすれば大地でさえ凹んでしまうのではないかと思うほど二匹の力は強大であり――文字通り、最後の力を振り絞った最大級の攻撃だった。

 

 これを超えられると、後がない。

 

 だがこうでもしなければ決着も付かない。

 

 力強い二匹の咆哮は、剛風の音の中でも一際森に轟いていた。

 

「ォ゛、ウ゛……オオ……!」

 

 呻きなのかすら判断の付かないくぐもった声が、猪哭の口の端から漏れ出ていた。もはや言葉の形を為していないそれは、しかし抵抗できないが故の苦しみの吐露にも聞こえた。

 ぎしりみしりと鳴る猪哭の体は、未だ形を保っている。だが初めの時と違い、筋肉の僅かな隆起すら出来ず地に押しつけられるのみだ。むしろ地面の方がその形に陥没し始めているくらいである。

 

 ただの妖怪ではないな――改めてその事実を認識して、白狼と子犬はぐうと小さく喉を鳴らす。

 

 吹羽と魔理沙の様子を見る限り、以前二人が対峙した時とは様子が違うらしい。倒された後に何があったのかは突き止めなければならない事項だろうが……やはり抑えきれない以上、猪哭を生かしておく選択肢はないだろう。

 

 とどめの一息――未だ五体満足な猪哭の体を完全に粉砕しようと、二匹は同時に息を吸い込む。そしてそれがか細く吐き出されると、発現したのは渦巻く風の巨大な杭だった。

 巨杭は“下降気流(ダウンバースト)”を貫いて落下する。実際は“先端が尖っているだけの柱”と呼んだ方が分かり良いそれは、一度刺し貫けば一切の抵抗なく猪哭の命を砕くだろう。

 

 頭上に現れた“死”の具現。

 渦巻く風は鋭くも美しい螺旋を描き、無様に五体を晒す猪哭へ風神の裁きを宣告する。

 

「オ゛――オォゥウ゛オ゛――ッ!」

 

 果たしてその叫び声は怒りだったのか、恐怖だったのか。

 理性を失くした獣の言葉は理解し得なかったが、僅かな憐憫を目に宿して、子犬は猪哭の背から飛び退く。

 入れ違って巨杭の先端が飛来する。飛び上がった子犬をふわりと浮かして、その切っ先が、遂に猪哭の大きな背中を捉え――

 

 

 

 ――瞬間、全てが、消し飛んだ。

 

 

 

「ガッ!?」

「キャウっ!?」

 

 大地も、雲も――風の巨杭さえ(・・・・・・)

 猪哭の周囲にあったおよそ何もかもが、突如発生した衝撃波に耐えられず、四散した。

 大地は抉れて巨大な跡を残し、穿たれた雲は上空で巨大な円を形作っている。白狼と子犬でさえ急な事態に反応できず、抉れた地面の淵にどうにか着地して、低く喉を唸らせた。

 

 ――何が起きたっていうんだ。

 

 一瞬で何もかもを吹き飛ばしたそれが、辛うじて“霊撃”に近しいものだったことは確認できた。だがしかしその威力は全く以って想定外。化身とはいえ風神の最大火力をあろうことか一撃で消し飛ばす攻撃など、今の猪哭には放つことなどできないはずなのに。

 

 かくしてその答えは――猪哭のその体に突き立っていた。

 

 むくりと立ち上がった猪哭の脹脛(ふくらはぎ)に、柄の赤い短剣が刺さっている。先程までなかったのは明らかだったし、そこから滲み出すおぞましい力が傷口を通って猪哭の体に染み込んでいるのが感知できた。

 隆起した筋肉は更に黒みを帯び、あふれ出した妖力が陽炎のように身体中から漏れ出ている。その幽鬼のような佇まいは、まるで彼から完全に意識を消し去ってしまったかのような、尋常ならざる空気を生み出していた。

 

 ゆらりと瞳が揺らぐ。

 猪哭を睥睨する風神にはそれすらよく見えた。

 そしてその視線が二匹から僅かに外れた瞬間――風神は、彼の姿が見えた瞬間に攻勢に移らなかった失策を悟った。

 

 ――奴は今、我らを脅威と認めていない(・・・・・・・・・)

 

「ォ――ッ!!」

 

 声を上げる判断さえ取れなくなった猪哭は、しかしこれまでとは段違いの力強さで地を蹴ると、真っ直ぐに吹羽の方へと飛び出した。

 破裂した大気の衝撃が二匹を襲う。それにも負けず眼をかっ開いて猪哭を追おうとするが、既に限界を迎えた肉体は全く言うことを聞かなくなっていた。

 

 猪哭の背を睨め付ける。――動かない。

 弱々しい神力は弾かれた。――動かない。

 荒々しい棍棒が振り上げられる。――動かない!

 

 猪哭に僅かでも意識があったならどれだけ救われたか。

 怒りに充血した瞳は射殺すような殺気を秘めて猪哭を突き刺すが、それを気にすることもできない猪哭には僅かな躊躇いもなかった。

 

 呆然とした吹羽の顔。

 その隣で悔しげに歪められる魔法使いの顔。

 風を切る堅木の鳴き声。

 ――僅かな、霊力の蠢き(・・・・・)

 

 それを認識した瞬間、二匹はぶわりと濁った白色の毛を逆立てた。

 

(「――ちゃんに……」)

 

 上空から迫る清廉な霊力。まるで春風のように暖かく、しかしどこか強かなそれが陣を構築しながら急降下してくる。

 その矢先は――。

 

 

 

「なにしてるんですかっ、不埒者ぉおッ!!」

 

 

 

 光が、弾けた。

 緻密な霊力操作で組まれた陣が、強力な障壁となって猪哭の棍棒を受け止めた。

 眼を焼くような光が棍棒の進行を阻み、ただでさえ破滅的な衝撃をそれでも周囲へと流し、しかし吹羽たちだけは守り切っている。

 

 激しい風に、若葉色の線がはためいていた。感じる霊力には包み込むような柔らかさがあって、燐光のようにきらきらと髪を彩っている。

 現れたその背中に、吹羽は呟くような驚きの声を上げた。

 

「さ、早苗さん……!?」

 

 風のように現れた風祝――東風谷 早苗が、奇跡的にも(・・・・・)、そこにいた。

 

「負、け……ません、よぉぉおッ!!」

「――ッ!!!」

 

 声にならない雄叫びが大気を揺らす。押し込まれる殺意の塊に応じて、早苗の張った障壁は火花のように激しい光を散らした。ガラスを削るように徐々にヒビが広がっていき、遂にはばきんと端が砕けた。

 

「くっ……おも、い……ッ!」

「! だ、ダメです早苗さん! 逃げてください! ボクのことなんていいですからッ!」

「それはっ、聞けないお願いですねぇっ!」

 

 言葉の端に被せるように大幣を押し込む。巻き起こる光の嵐が一層強まるが、すぐにぱきんと音がして、障壁の一部が崩れ落ちた。

 

 圧倒的に耐久力の足りていないそれは、もう既にぼろぼろと崩壊を始めている。例え一瞬奇跡的に止められても、さすがに止め切る(・・)ほどの頑強さが足りていないのだ。

 当然である。本来なら起こらない事象を、早苗は能力で無理矢理に起こしているのだから。

 

「守らなきゃいけない時に逃げたりなんかしたら……私はもう、吹羽ちゃんの友達じゃなくなっちゃいますッ!」

 

 “奇跡”とは、零コンマ幾億分の一に及ぶ可能性の別名であり、早苗の“奇跡を起こす程度の能力”はそれを無理矢理に掴み取る能力である。

 故に、必然(・・)を覆すことができない。

 白狼と子犬の最大級の攻撃を消し飛ばすほどの力を持つ化け物を相手に、早苗が対抗できる可能性など那由多の果てにも存在しないということの証左に違いなかった。

 

 だがそれでも、未熟な早苗が吹羽の生命の危機に間に合ったという事実は、まごうことなき奇跡と言えよう。

 偶然早苗が吹羽の神力に気が付き、偶然今のままはいけないと思い立ち、偶然向かったその先で――偶然(奇跡的に)、早苗は間に合ったのだ。

 

 しかし、奇跡は終わった。

 早苗の表情には苦悶が溢れてくる。ずりずりと後退していく両足は震えていて、今にも(くずお)れてしまいそうだった。

 再び訪れる危機に、だがしかし、それを二つの咆哮が消し飛ばす。

 

 ――よくぞ参じた、軍神の巫女よッ!

 

 喉を潰すほどの咆哮を上げ、白狼と子犬は猪哭に飛びかかりながら自らの神力に呼びかけた。

 周囲に散った僅かな残滓。身の内に残った小さな灯火。そして……貸し与えた莫大な力。

 早苗という援軍が来た以上、躊躇う必要もなくなった。

 周囲に散った全ての力をもう一度かき集め、還元し――戻ってきた力は、今までのそれを遥かに凌駕していた。

 

 ――野分之風。

 

 大気を引き裂く轟音を纏って、本物の(・・・)暴風が指向性を持って放たれる。

 硬い岩盤をも穿つような破滅的威力の砲撃は、今度こそ猪哭の巨体を紙切れのように巻き込んで吹き飛ばした。

 

「ッ!? ――ッ!!?!?」

 

 抉れた地面の凄惨な跡がその威力を物語る。埋まっていた巨石などはその部分だけが綺麗に食い破られて内側を大気に晒し、通り抜けた木々は跡形もなく消し飛んでぱらぱらと残骸を舞い散らせていた。

 

 少しは時間が稼げただろう。

 二匹はがくりと膝を突いて荒い息を吐く早苗のもとに降り立つと、ちらりと横目で三人の方を見遣った。

 破片が掠ったらしく多少の切り傷が目立っていたが、大きな外傷はなく――しかし吹羽だけは、力なさげに両手を地に突いている。その姿は終階を発動する前のものに戻っていた。

 

「うじ、がみ……さま……」

『案ずるな、神力を戻しただけに過ぎぬ。それはただの反動だ』

『軍神の巫女が来てくれたからね、その子の手を借りて、今すぐ逃げるんだよ』

「……っ、」

 

 そう言って、風神は()と早苗を見た。

 一声鳴く。すると早苗ははっ(・・)と顔をあげて小さく頷き、すぐに立ちあがって吹羽を背負う。素早く印を切って「風よっ!」と唱えると、渦巻き始めた小規模な旋風が横たわる魔理沙の体をふわりと浮かせた。

 

「行きますよ! 全力離脱です!」

「お、お前……あの二匹の声が、分かるのか……?」

「断片的には! なんとなく言わんとしていることは伝わってくるんです!」

 

 魔理沙の疑問の声と、早苗の覇気のある応答。吹羽はもう気を保つ力すら残っていないのだろう、後方から聞こえる声に彼女のものは存在しない。

 

 離れていく声音にようやく安堵を覚えながら、しかし二匹は警戒を解かず、土煙の向こうに消えた“化け物”を睨め付けた。

 ――気が付かぬとでも思ったか、と嘲りながら。

 

『……此度は“加護”を、受けているな。聞こえているだろう――』

 

 

 

 “神の人形(ヒトガタ)”よ。

 

 

 

 刹那――きん、と空間に線が奔る。

 

 否、それはただの斬撃だった。

 ただそれがあまりにも速く、そして視界を真っ二つにするほどの異常な範囲(リーチ)で宙を駆け抜けた故に、空間そのものが断裂したように感じられただけだ。

 だがその亜音速の閃きは、絶えず揺らめく土煙をさえ切り払い、舞い落ちる木屑を吹き飛ばし、煙たい空間を真二つに切り開いた。

 

「はぁい聞こえますよー。うるさいくらいにね……風神さま」

 

 響く鈴のような声。しかしそこに煮詰めたようなおぞましさを滲ませるそれは、開かれた()の向こう側から。

 

 ヒトガタ――夢子。

 窓を隔てたような土煙の対面で、かの魔人が、艶然と微笑んでいた。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第六十四話 この心のままに

 お待たせしました。
 でもちょっと雑な出来かも……

 とりま、どうぞ。


 

 

 

 薄っすらと広がる視界に、流れる木々が映っていた。

 水面に浮かぶ葉のような儚い意識を取り戻すと、吹羽はやけに早く過ぎていく景色をぼんやりと認めて、次いで体に触れる暖かさに気が付いた。

 耳を撫でるのは風を切る音と、少女たちの言い合う声である。

 

「それで……どこに、向かってるんだよ!?」

「分かりません!!」

「はぁ!?」

「分からないですけど、とにかく遠くへ! 風神さまにそう言われた気がします!」

「気がする、って……お前……!」

 

 自分で治癒する余裕ができたのか、魔理沙の声には若干の元気が戻っていた。それでも早苗の風に乗せて運ばれる様子を見るに、吹羽が彼女につけた傷の深さが窺える。

 ぼんやりと向けていた視線を切ると、汗まみれで全力疾走する早苗の横顔が見えた。

 

「(早苗さん……助けに、来て……?)」

 

 そう考えて、いや、と思い直す。

 悪い意味ではないが、吹羽は早苗のことをそこまで頭の回る人間だとは思っていない。良くも悪くも純粋無垢で、素直で、本能的な少女。それが東風谷 早苗という人間である。

 

 きっと偶然だったに違いない。何のようで近くを飛んでいたのかは知れないが、そんな彼女があのタイミングで現れたのはまさに偶然――いや、あれは確かに、早苗が起こした奇跡だったのだろう。

 それに二人は、救われたのだ。

 

「早苗、さん……」

「っ! 吹羽ちゃん! 気が付いたんですね!」

 

 か細い息で喉を震わせると、早苗はぱぁっと太陽のような笑顔を見せた。吹羽が小さく頷くと、早苗は真剣な表情に戻って視線を前方へと向けた。

 

「今、全速力であの場所から離れているところです。すぐ休める場所に下ろしますから、それまでもう少し我慢してくださいね」

「あの、あの後、なにが……」

「分かりません。風神さまが、急いで逃げろと」

「――……」

 

 あの時の(・・・・)氏神様が、逃げろ――と?

 この言葉に、吹羽は少しだけ疑問を覚えた。

 確かに風神はあの時、猪哭の性質に若干の苦戦を敷いているようではあった。だが早苗が来たことで吹羽たちを気にする必要もなくなり、故に吹羽に貸していた神力を戻したのだろう。

 

 守りに徹せられる早苗の存在と、化身として本来の力を取り戻した風神。いくら猪哭が得体の知れない存在でも、その圧倒的戦力差でわざわざ“逃げろ”?

 

「(なにかが……あったんだ……)」

 

 過ぎ去っていく景色を追いかけて、氏神のいる方を遠く見透かす。

 冷い空気は湿り始め、空は曇って重苦しい灰色の顔を晒していた。氏神の暖かな神力を遠くに感じはするけれど、何故かどうしても、心にかかった霧のような不安を拭うことができない。

 あの向こうに――どうしようもなく相容れない何かが、いる気がする。

 

「夢子……さん……?」

 

 二人に聞こえることもなく、吹羽の小さな小さな呟きは、風の音に掻き消えていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 風神と夢子の間には、岩すら押し潰されそうなほどの濃密な殺気が漂っていた。

 逆立つ毛は神力の燐光を散らしながら絶えず揺らめき、喉は無意識の内に低い唸り声を上げていた。鋭い犬牙は剥き出しで、今すぐにでも夢子の細首を食い千切ろうとしているかのようだった。

 

 だが、対する夢子はどこ吹く風。殺気など軽く受け流して、変わらない人形のような微笑みを顔に貼り付けていた。

 それが余裕なのか、諦観なのか――恐らくは前者であろうと、風神は一層に鋭い歯を噛みしめる。

 

『防いだか』

「目の前の光景が答えだね♪」

 

 “加護”が効き過ぎて辛いわぁ。

 そんな戯言を呟くその背後で、夢子に守られた猪哭は膝を突いて放心するように空を見上げていた。しかし感知してみれば、彼の体には無数の魔力糸が絡み付き、肉体を削ぎ落とすような力で縛り上げている。

 

 ふと疑問が浮かび上がり――納得して、消えた。

 

『御し切れていないようだね、ソレ(・・)を』

『わざわざ縛り上げているのが良い証拠』

「うん、そうだね」

『……此度は何を、企てている』

「言うと思う?」

 

 端正な顔を愉快そうに歪めて、しかし夢子は絶対の拒絶を示した。

 

「私がなにを言ったところでロクに信じないし、信じたところでどうにもならない。私、面倒臭がりだから無駄なことしたくないんだぁ」

『人形のくせして随分と人のようなことを言うね』

「これでも魔()ですから♪ 人はよくどうでもいいことを口にするでしょう?」

『――……』

 

 ――言っていることがめちゃくちゃだ。

 この問答だけで、夢子がまともに会話する気がないということが透けて見えるようだった。

 なにを企てているのかは見当もつかない。しかし、このような形で姿を現したことである程度の推察も効く。問答する気がないのは、こちらを煙に巻くためだろう。

 

 恐らく彼女は、風神を削りにきた(・・・・・)のだ。

 御し切れない猪哭という“力”を暴走させてそれでも放って置いたのは、風神と衝突することが予想できたからに違いない。ただ初めこそ拮抗していた両者だが、早苗の登場によって形勢が逆転し、猪哭を失いそうになったために夢子が出てきた、と。

 

 今猪哭を失えない理由がある。

 風神の力を削って何かを画策している。

 そして全ての事柄の背後には夢子がいて、その奥に神綺がいる。

 どこまで依り代の邪魔をするのだ――煮え滾るような怒りが、目の前の明確な敵へと向けられていた。

 

「ま、今この子を殺されるとちょっと困るんだよね。だから風神さま、見逃してくれない?」

『戯言を』

『ここで君を見逃すよりも、ここで君を噛み殺した方が依り代のためになる』

「お〜、怖い怖い。化身が狼だと考え方まで凶暴になるのかしらね。今度神綺さまに訊いてみようかなぁ」

 

 ――挑発には、乗らない。

 初めて相対した時、風神の咆哮に表情を消した夢子が今こうして余裕でいられるのには、それなりの理由があるからだ。

 

 曰く、“加護”。神が己の眷属と認めたモノに授ける恩寵である。

 吹羽の終階や一般的な神降ろしも加護の一種であり、神託や天罰もある意味では加護である。夢子が神綺から授かったというものもまた加護であり、その効力で神格に少し近づいたために今の彼女は風神の言葉を聞き取れるのだ。

 神の力の一端を授かっている以上、迂闊に手を出すことは憚られた。なにせ今の風神は所詮化身。勝る者は数少なかれど、決して存在しないわけではないのだから。

 

 

 

 ――だが、わざわざ目の前に現れた獲物を逃す手もあるまい。

 

 

 

『神の人形(ヒトガタ)よ。神綺の駒よ。我らの前に姿を現したのが運の尽きと思え』

『依り代を誑かすなら、君にはここで消えてもらう。……逃げられるなんて思わないでね』

 

 濃密な神力が、真白い炎のように二匹を取り巻く。或いは風のように周囲を包み込んだそれは、日の光の中にあってなお白く空間を染め上げて、しかしその美しさとは裏腹に極めて重大な殺意として夢子に向けられていた。

 迂闊に手を出せないならば、慎重に手を出せばいい。それをする力量が、今ならばある。

 

 そんな風神に対して夢子は――しかし。

 

「あっはは! 犬っころ二匹で私を捕まえるって? 神さまって冗談も上手いのね♪」

 

 くすくすと唇に指を添える彼女は、しかしその身からは全く別種の、憤りや苛立ちにも似た気配を漂わせている。

 そのちぐはぐな様はまさに彼女の異常性を示すようで。

 

 殺意に笑顔。

 嫌悪に執着。

 蹂躙に快楽。

 そして生に、無関心。

 彼女はあらゆるものがどこまでも噛み合わない。風神の殺意に返したその小さな微笑みは、彼女とそれ以外では生きている時間が違うのではと思えるほど、周囲との関係性や常識というものに破綻をきたした受け答えだった。

 

「神綺さまの加護を受けた私が、風神の化身如きに負けるわけないじゃない♪」

『試してみるか?』

「試すまでもない……って言いたいところだけど、どうせ逃す気ないでしょ」

『くどい』

 

 ぴしゃりとした肯定が殺気となって、ひりついた空気をなおも鋭く凍らせた。

 

『君の目的は知らないけれど、壊してしまえば事もなし』

『お主はここで噛み殺す。心せよ、神の傀儡よ』

 

 立ち上る神力が遂に大気に干渉を始める。陽炎のように景色を歪ませてなお神々しさを失わない真性の神威は、並の妖怪であれば目にするだけで蒸発しかねない密度を誇る。それが大気のあらゆる物質に干渉し、ただ一人に向けられる圧倒的な異常現象として顕現した。

 強力に圧縮されて作られた風の弾丸に、分子運動を停止させたことで生じた氷の礫、逆に活発化させたことで炎のような熱を持った熱波の塊――今の風神がその気になれば、ありとあらゆる自然現象に指向性と殺傷性を持たせて夢子一人に殺到させることもできる。それらが無数に連なり、上空を隙間なく覆い、しかしその全ての矛先がただ一人に向けられていた。

 加護を受けたとはいえただの殺人人形でしかない夢子にとっては、死刑宣告をされたも同然であろうその光景を前にして。

 

 ――それでも夢子は、笑顔を崩さなかった。

 

「くふっ、くすくす……お盛んだねぇ。なにをそんなに怒るのやら」

『……知らぬとは言わせぬ。我らは忘れておらぬ。貴様らが古き器の弟にしたことを(・・・・・・・・・・・)

「!」

 

 鋭い眼光を、刃のように細めて。

 

『今度こそはさせぬ。何の企てであろうと、再びその手を触れさせるというなら、我らはそれを全ての力で叩き潰すぞ』

「……なるほど、根に持ってるんだ。意外と神さまってみみっちぃのね」

『戯言を!』

 

 咆哮一響、氷柱と熱波を巻き込んだ嵐が夢子に目掛けて放たれた。

 自然現象を無視した無茶苦茶な暴威は空気すら焼き凍らせて(・・・・・・)、一瞬にして空間を塗りつぶす――が、

 

「うーん、涼しいようなあったかいような? 気持ち悪い風ね」

 

 猪哭を引っ掴んでひらりと舞った夢子は、追撃の弾丸を事もなげに切り払いながら着地する。あり得ない異常現象により、一瞬にして命の芽吹かぬ荒れ果てた大地と化したその一帯に降り立って、しかし傷一つ乱れ一つもない夢子の姿はあまりにも浮世離れしているように思われた。

 だが、それが今、彼女がその身に受けている“加護”の力。魔界の唯一神たる神綺が授けた、神にも迫る力の一部である。

 

 今の夢子は恐らく――白狼と子犬に比肩する力を有している。

 

「それに……ふふ、可笑しい」

 

 夢子は指を口元に当ててくすりと可憐に笑う。

 

『……何がだい』

「だって、今更すぎるんだもの。気にしてることがさ」

 

 警戒を解かぬまま、だが夢子の言葉に疑問を覚えると、それを見透かしたように彼女の唇は三日月のような弧を描いた。

 

 

 

「今度こそ、なんて……もう手遅れ(・・・・・)だっていうのにね♪」

 

 

 

 ――なんだと?

 そう風神が不理解を示すよりも早く、夢子は思考を阻害するように顕現させた剣をぎゃりんと打ち合わせた。

 口元には変わらぬ笑みを、しかしその瞳には確かな戦意を窺わせる光を宿して、全身から淀んだ魔力を迸らせる。

 

「神さまなんでしょ? なら、ちょっと考えれば分かるんじゃない?」

『……どういう――』

「分からないなら、そうだなぁ」

 

 頬に人差し指を当てて、やがて思考を切った夢子はにやりと不敵に目を細める。

 

「一回死んだら、分かるようになるかもね♪」

『――ッ!』

 

 刹那、無数の剣閃が宙を駆け抜けた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 力と力のぶつかり合う音が山彦のように遠くなった頃、早苗たちは未だ森の中を疾駆していた。

 先程目を覚ました吹羽はいつのまにか再度気を失い、魔理沙は己の治療をしながら大人しく風に運ばれている。飛翔して逃げられれば良かったのだが、彼女にその分の力を使ってしまっているために難しい。立つのさえ厳しそうなこの状態ではとても自身で逃げられるとは思えないので、まぁ背に腹は変えられないと言うところか。

 

 日は既に傾き、山々の向こうに姿を消そうとしていた。幻想郷は日の光が届かなくなる時刻が早いが、今はまさにその時刻。早苗たちの立つその場所が、なんだか昼と夜を分ける境界線になっているような気さえする。

 宵の刻を迎える前に森を抜けなければ更に面倒な事態になるため、早苗は汗だくになりながらも懸命に足を動かしていた。こんな時だけは、日々の活動で培った体力に感謝である。

 

「取り敢えず、森を出たら一直線に人里へ向かいますっ! 流石に里にまであの妖怪は入ってこないでしょう!?」

「……確かにそうだけど……どうだかな。あんだけ理性を失った状態で、それでも吹羽を狙い続けるようなバケモンだ。最悪里の中でヤる可能性もあるが――」

 

 いや、と続けて、しかし早苗も魔理沙と同じ考えに辿り着く。

 魔理沙の言う通り、何も考えず吹羽を狙うような輩なら幻想郷の掟など無視して里に入ってくるかもしれないが、そうなると今度は賢者が――八雲 紫が現れるはず。そして誰の目にも触れないよう一瞬で彼を八ツ裂きにして何処へとも知れない空間に廃棄するのだろう。

 彼の脅威を消し去るという意味では彼女の手を借りるのが最も確実かつ早いが、里の人間を危険に晒す可能性があるためそれを狙う(・・)ことはできない。

 かと言って他に逃げおおせる場所がない以上、最も近い里へ入る他に方法がない。結局のところ、賭けにはなるが風神様がどうにか撃退してくれるのを信じるしかないだろう。

 

「(くぅ……っ! こんな時、力不足な自分が恨めしいッ!)」

 

 背を包む吹羽の温もりをしっかりと感じながら、しかし早苗は己の無力に奥歯を噛み締める。自分にもっと力があれば、あの時吹羽を守り切ることも、魔理沙を浮かせながら飛んで逃げることも、今足止めしてくれている風神の加勢に入ることさえできたかも知れない。

 今更悔いたところで栓のないことだとは分かっていても、どうすれば吹羽の力になれるのかを悩む彼女としては到底享受できない事実だ。

 

 自分には、足りていない。

 人を守る力が。

 人の支えになる力が。

 霊夢と阿求が――心底羨ましい。

 

「……っ、」

 

 ともあれ、そうやって自分を省みるのも後にやるべきことである。今できることは今の自分にしかできないのだから、今は全力を以て二人と共に逃げるのだ。何事にも前向きに、元気ハツラツ! なことだけが取り柄なのだから、それを無くしてウジウジしていてはいよいよ早苗には何も残らない。

 

「さぁ、急ぎますよ魔理沙さん! ――魔理沙さん?」

「っ! あ、あぁいや……そうだな」

 

 己を鼓舞するように上げた掛け声に、しかし返されたのはまるで気の篭っていない生返事だった。不思議に思って横目で見遣ると、いつのまにか魔理沙に見つめられていたらしく早苗は翻って心配そうに彼女の名を呼んだ。

 どうにも違和感が思考の端を掠める。面識自体は少ないが、彼女はこんなにもしおらしい少女だっただろうか?

 

 いや――そういえば、心当たりがあった。

 

「……もしかして、吹羽ちゃんのことを気にしてるんですか?」

「!」

 

 僅かに狼狽した魔理沙の瞳。それから眼をそらし、倒木を飛び越えて、一拍。

 

「やっぱり……さっき何かあったんですね」

「お前、まさか何か知って――」

「い、いえ! ただここへ飛んでいる時、一時的に吹羽ちゃんの神力が大きく(たわ)んだのを感じまして……それで急いで飛んで来てみたら、あのタイミングだったんです」

 

 一縷の希望を見出したようだった魔理沙の瞳が惜しげに細められる。

 もっと早くに来ていれば魔理沙にもこんな顔をさせずに済んだのか、なんて考えそうになって、早苗は流石に余計なお世話だなとかぶりを振った。

 あらゆる力に乏しい自分が剰え異変解決者を気遣うなんて、むしろ彼女のプライドを傷つけかねない。

 

「何があったか、尋ねても?」

「……何があったか、か。……一体何があったんだろうな。わたしにはさっぱり分からんよ」

「え?」

 

 思わず疑問が声に出る。次いで見遣れば、魔理沙は複雑な――しかし確実に悲壮な表情で早苗から顔を逸らしていた。

 その横顔を目の当たりに、雲のような不安が心にかかる。

 

「あのとき吹羽に……吹羽の中で何が起こっていたのかなんて、想像もつかん」

「…………なに、を」

 

 魔理沙の印象からは想像も付かない、あまりにも迂遠な言葉。それが、本来の告げるべき言葉を躊躇ってのことだと早苗が想像するのにはなんの難しさもなかった。

 だから、魔理沙が重そうに口を開くその刹那の間に早苗は少し心構えをして、そして。

 

「吹羽に……首を撥ねられかけた」

「――……ぇ」

 

 ――思いもよらない告白に、思わず呼吸が止まった。

 

 そんな。どうして。嘘だ。あり得ない。だって自分の知る吹羽という少女はあんなにも優しくて儚くて、純真無垢が意思を持って動いているような娘なのに。

 瞬きさえ忘れたその一瞬に、様々な吹羽の表情が津波のように脳裏を過った。そのどれもが優しさや暖かさに、或いは悲しみや儚さに包まれたモノばかりで、“嘘だ”という否定の言葉が早苗の頭の中を真っ黒に染めていた。

 

「信じられない……って顔だ」

 

 絶句する早苗に目線も遣らず、魔理沙は静かに事の顛末を語った。

 魔理沙が風成利器店を訪れたこと。吹羽を弾幕勝負に誘ったこと。そして――風神に止められなければ、確実に自分は死んでいたということを。

 だがそんなことをつらつらと説明されたところで納得などできるはずもない。だって早苗の中にあるのは優しく儚い一人の小さな女の子で――友人を手にかけるような残虐な人間なんかじゃ、決して、なくて。

 早苗の中ではある意味絶対的ですらある“か弱く幼い女の子”という印象が、魔理沙の語った顛末を頑なに否定していた。

 

「そ、そんな訳ありませんッ! 吹羽ちゃんがそんな……あり得ないでしょうッ!?」

 

 吹羽が人を殺そうとするなんて、絶対にあり得ない――早苗の中に理屈など存在しなかった。

 吹羽だから、そんなはずがない。早苗が彼女に対して抱く印象には、その純粋さゆえに、かけらの疑いも介在する余地がなかった。

 例え幻想郷を守るために兄を手にかけたとしても、その心には清廉さが満ち溢れているのだ、と。

 

「…………」

 

 だが口をついて出たその否定の言葉も、魔理沙の無言の前には何の意味も持たなかった。

 否定できるならしたいさ――そんな諦めが感じられる空虚な無言。それはどんな言葉にも勝る、何よりの肯定に他ならなくて。

 か細い息と共に、滴のような言葉が溢れる。

 

「ほんとう……なんですか……?」

「……ああ」

 

 次第に歩みが遅くなって、やがて力が抜けるように立ち止まる。魔理沙を包んでいた風も勢いをなくして散っていき、しかし彼女は音もなくしっかりと着地した。

 遠くで響いた衝突音と、それに伴う風が二人の間を駆け抜けた。その強風に周囲の木々から鳥たちが飛び立ち、はためいた金髪は魔理沙の横顔を影に隠す。その大き過ぎる、しかし拒絶すべき事実を前に、無力な早苗は立ち尽くす他になかった。

 

「なんで……なんで、どうしてっ……そんなことに」

「……言わなくても、なんとなく分かってるんだろ」

「――ぁ」

 

 “一時的に吹羽ちゃんの神力が大きく(たわ)んだのを感じまして……それで急いで飛んで来てみたら、あのタイミングだったんです”

 

 自分で発した言葉が、違和感を伴って脳裏を掠める。

 そうだ、そもそもなぜ神力が撓むなんて異常な事態が起こった? いくら風神から借りたものと言っても、神降しを発動している最中は術者と神格は繋がっている。つまり術者の生命エネルギーそのものでもあるのだ。意識が薄れて小さくなったりはしても、本来であれば変化するようなものではない。

 

 それが、撓んでいた?

 

「なにが起こってるのかはわたしにも分からん。情けない話だが、わたしにも余裕がなかった……死にかけたことなんざ一度や二度じゃないはずなんだけどな」

 

 ぼろぼろと傷の目立つとんがり帽子を目深く被りなおす。

 その隙間から見えた口元は小さく笑っていたが、早苗にはどうにも、その笑いが自らへの嘲笑のように思えてならなかった。

 

「自分が憎からず思ってる奴に殺されかける、って……こんなにキツいんだな」

「魔理沙さん……」

 

 何か原因がある――それは魔理沙にも分かっているのだろう。ただ、それが分かっていたところで心に襲い掛かった衝撃が和らいだりしない故の言葉。

 戦闘経験が豊富な彼女もきっと仲間同士で命のやり取りをしたことはなかったのだ。況して、己が庇護するべき対象と気晴らし程度の“お遊び”をして、まさか命を取られかけるなんて想像もしていなかったはずである。想定すらしていなかった事象が突然降ってくれば、幾ら前提があってもその衝撃を緩和するのは容易ではないのだ。

 その不意打ちにも似た驚愕とショックは、早苗が推し量るにはあまりある。

 解決者でもなければ戦闘経験もなく、喧嘩すらしたことがない早苗では、魔理沙の痛嘆は想像し得ないものだった。

 

「…………お前は、どんな時にもこいつの味方でいてやってくれよ」

「……え?」

 

 かける言葉の見つからない早苗に、魔理沙は唐突にそう言った。

 それはまるで、遠回しに“自分はそうできないかもしれない”とでも告げるような言葉。

 いつまでも吹羽の味方ではいられないかもしれないと――そう仄めかす言葉。

 帽子の影に隠れて表情は見えなかったが、それがあまり良い意味で受け取れるものでないのは雰囲気が物語っていた。

 

 ならばどういう意味か。

 それを深く考えようとするよりも早く、魔理沙は魔力で擬似的な箒を作り出し、飛び乗った。

 あらかたの傷はすでに治癒したようで、もう早苗が風で運ぶ必要は何処にもないほど体調が良くなっている。

 

「もしもの話さ。だが……わたしの役目はわたしが果たさなきゃならないだろ? だからお前の役目はお前が果たしてくれ。きっと吹羽も、それを望んでるよ」

「ど、どういう――」

「ここまでありがとな」

 

 そう言って、魔理沙はふわりと上空に上がっていった。方向を変えたその先は、風神の闘う場所とは反対の方向だ。

 そして「もう大丈夫だから」と一言残し、彼女は風のような速度で夕暮れの空へと姿を消してしまった。

 

「――……」

 

 記憶に焼き付いたような魔理沙の背中を脳裏に描き、背に感じる温もりと後方から響く神力を感じながら、早苗は暗くなりかけた森の中を再び歩き始める。

 走り出さねばならない。飛翔してこの場を離れなければならない。それは今最も優先すべきことで、それを早苗の頭は分かっているはずだった。

 だがそのとぼとぼとしたその足取りには普通の歩み以上の速度はなかった。先を急ごうとする意思がなんとなく感じられる歩みではあったものの、その足取りにはなんの活力も宿っていない。

 ――結局のところ、今の早苗にはまだ駆け出す(・・・・)元気が備わっていなかったのだ。

 

「私の、役目……」

 

 息が抜けるようなか細い一言が森のざわめきにかき消される。頭の中では「そして友達のためにしてあげたいこと……」と言葉が続いた。

 両親を亡くし、兄を殺め、それでも未だ得体の知れない何かに侵されそうになっている吹羽のために。

 

 早苗が、してあげられること――。

 

「…………」

 

 今更、早苗が吹羽を想う気持ちの中に“可愛かったから”などという安直な理由は存在しない。否、存在しないわけではないが、それよりももっと大きく堅固なモノが出来上がっていた。

 吹羽と過ごす中で。

 吹羽と友人たちを見る中で。

 そして吹羽の過去を知る中で。

 早苗がその素直な心で、純粋無垢に、友人として彼女のために何かをしてあげたいと思える程度には早苗の中で大きくなっていたし、強く心に根付いている。

 きっとその心に従うことこそが、早苗の求める答えなのだろう。

 

 従い、そして為したことが、きっと吹羽のためになる――そう信じるべきだ。

 

「分かりました、魔理沙さん。椛さん」

 

 琥珀に輝く太陽に向け、ひらりと舞って宙を蹴る。

 背負う腕に力を込めると、背に感じる優しい温もりを、強く胸の奥に刻み付けられる気がした。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし


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第六十五話 氷雨とよすがとその終わり

 

 

 

 ――声が、聞こえてくる。

 

 

 

 聞き覚えのない、美しい声。

 とても微かで儚いけれど、そこには優しさのような、あるいは包み込むような安心感が感じられた。

 思わず手を伸ばして胸の内に抱えたくなるような、抗い難い綿飴のような声音。甘やかで、鼻腔をくすぐるようで、それでいてこちらを誘惑するような――これほど形容し難い声音は聞いたことがない。

 

 困惑はあった。だがそれよりも、抗うことをさえ馬鹿馬鹿しく思わせるほどのその安心感が、その不安を打ち消していた。

 まるで“そんな心配をしなくても大丈夫”

と、母親の腕の中で囁かれるような心地に似ている。

 

 ――安堵。そして、今すぐにでもその腕の中に飛び込みたくなるような欲求と、声が聞こえることへの歓喜。

 

 それらが混ざり合いながら湧き上がる感覚はどこか不自然で、本当に受け入れていいものかと不安にもなったが、ふとした瞬間には霧散していた。

 安堵と歓喜。人の心を鎮めてくれるそれらの感情を、いったい誰がどんな理由で拒絶しようというのか。

 

 それを思えば馴染むのは一瞬。受け入れられた後にあったのは、なんの不安も疑問もない天国のような心地。

 

「おかあ、さん……?」

 

 言葉を発せられたのかどうかは分からない。だが少なくとも頭の中では思い浮かべられたその言葉に、応える声だけは、はっきり聞こえて。

 

 

 

『ほら、早くおいで――吹羽』

 

 

 

 聞き覚えのある、美しい声だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 稗田邸に入るのはこれで三度目だ。

 一度目は幻想郷縁起に記すために阿求からの要請で、二度目は吹羽に無理矢理ついていく形で。

 訪れた回数も、阿求と顔を合わせた回数も片手で足りるくらいなのに、これだけ安心してここに駆け込めたのはきっと、吹羽がどれだけ彼女を信頼しているのか朧げながらも知っていたからなのだろう。

 

 日が沈んだ稗田邸は、水面を打つ鯉の音さえ聞こえそうなほど閑静だった。

 普段は賑わっているはずの大通りの方からさえ、この時間は喧騒とは程遠い僅かな音しか響いてこない。妖怪の相手も担うお店だけが今の時間も営業しているのだ。

 見上げれば、曇り始めた紺と灰色の空。降り出しそうな雨が、その境界線を超えないギリギリのところで焦らしているような、どこか薄気味悪い雰囲気を醸している。

 

 ――否。そう思えてしまうのは自分だけなのかもな、と早苗は緩やかに首を振った。

 ここは稗田邸の縁側。庭に面した廊下の一部。寒々しく肌を撫ぜる風の感触は、どうやら本人の思考以上に早苗の心情を表しているらしかった。

 

「……ありがとうございました、阿求さん。こんな時間に」

「お礼なんて。当然のことをしたまでです。吹羽さんにお部屋を貸すのも初めてではありませんし」

 

 縁側を進み、光の漏れる障子を開けて中へと戻ると、穏やかな表情で阿求が早苗を出迎えた。

 綴っていた書をたたむと、手で目の前の座布団を進めてくる。その正面に視線を落とせば、侍従が持ってきたらしい湯呑みとお茶請けが用意してあった。

 

 言葉に甘えて座り、湯気を上げる湯飲みを両手で手に取ると、ツルツルとした陶器は柔らかな熱を肌に伝えてくる。透き通った若葉色の向こう側には、急須から漏れ出た茶葉たちが少しだけ溜まっていた。その色濃さの印象に違わない苦味が詰まっていそうな深緑色だ。

 

「…………」

 

 ふと阿求を見遣れば、ひとまわり小さな湯呑みを傾けて楚々とお茶を啜っている。視線を戻して揺すると、少しだけ茶葉がお茶に溶けていくような気がした。

 

「――落ち着かないですか?」

「! ……はい」

 

 内心を見透かしたような阿求の言葉に、ほんの小さく首肯する。

 

「落ち着くわけがないですよ……あんな妖怪が出てきて、吹羽ちゃんは気を失って……」

「風神様を置いて逃げた、と?」

「…………はい」

 

 もともと早苗は、神格に対して良くも悪くも躊躇いがない。それは彼女自身が半分神格であるというのも理由だし、普段から神奈子や諏訪子といった純粋な神格と過ごしているからということも要因である。要は畏敬や崇拝と同じくらいに、親近感や仲間意識すら持っているのだ。

 仲間を置いて自分は逃げた。

 それが心の中で刺として刺さっている。吹羽のことを優先すると決めたのを後悔はしていないけれども、それでも心のどこかに罪悪感があるのだ。

 

 ことの顛末を既に早苗から聞き及んでいる阿求には、それがきっと筒抜けなのだろう。彼女の声には決して責めるような色は含まれていなくて、早苗は傷付いた患部を優しく撫でられているような心地になった。

 

「風神様は確かにお強いです。逃げろって言われて、従ったのも私です。でも……危険を分かっていてその場に置いていくなんて、本当ならしちゃいけなかったんじゃないかって……」

「……早苗さんの気持ちは理解できますよ。私も同じ立場なら、仲間を置いていくのは賛同しかねますから」

 

 ただ、と続けて。

 

「早苗さんのそれは少し杞憂に過ぎるというか……分不相応、というと怒りますか?」

「いえ、怒ったりなんて……」

「残ったのが神奈子さんか諏訪子さんだったなら、きっとあなたは罪悪感など抱かなかったと思いますよ」

「うぅん……?」

 

 どういうことだろう、と問おうとして、ふと阿求の言わんとしていることになんとなく理解が及ぶ。

 もし残ったのが神奈子か諏訪子だったなら、と想像すれば案外簡単な話だ。

 

 あの場を神奈子か諏訪子に任せた場合、どうやら確かに、自分は罪悪感など抱きそうもないのだ。

 それどころか不安なども全くなくて――ひょっとすれば気にも留めないほど自然に、早苗は吹羽の世話を優先するだろうと思えた。

 

 どうでもいい、ということではない。

 これは偏に、気にする必要も心配する必要も無いと断じられるくらいに早苗が二柱のことを絶対的な存在として信じているからだ。

 崇拝する相手が自分を頼れと言う。その場合早苗ならなんの躊躇いもなく任せるし、心配などしない。必要ない。

 もっと言うならば、仲間(・・)とは考えていないのだ。

 

 阿求が用いた分不相応という言葉は的を射ている。

 本来であれば敬い崇め奉るべき相手を仲間だなんて生意気だろう。傲慢にも罪悪感など抱いて、力になれる気でいる。それはか弱い早苗には分不相応であり、風神に対して失礼極まりない――阿求が言いたいのは、きっとそう言うことだ。

 

「私たちにできることと言えば、せいぜい吹羽さんを安静に寝かせて祈ることくらいです。風神様を信じましょう。信じれば信じるほど、きっと風神様の力になりますよ」

「そう……ですね」

 

 神を信じることの大切さは早苗が一番よく知っている。阿求のいうことはまさにその通りで、神格は信じる心こそを力とするのだ。

 あの場から離れて数刻。人間だったなら互いに疲れ果てて否が応でも決着の付いている頃だが、それが強大な神と妖怪ではどうか分からない。

 今の早苗たちにできることは、まさしく吹羽の世話をすることしか残されていないようだった。

 

「吹羽さんの様子はどうでしたか?」

「ぐっすり寝ています。心配になるくらいに」

「能力を使った後は毎度あんな様子です。終階を使ったともなれば、こうなるのも頷けましょう」

「そうですけど……」

「……やはり、気になりますよね。魔理沙さんの言った吹羽さんの変化が」

「…………はい」

 

 吹羽の変化については、魔理沙が殺されかけたという事実をぼかしながら伝えてある。これからに困って阿求を頼るくらいだ、早苗には彼女に判断を委ねる以外に最善が見つけられなかった。

 

 普通、精神的な変化というのは非常に分かりにくいし、それを形容して指摘するのも難しい。外因を特定するのも困難極まる。

 だが吹羽の場合は話が別だ。その程度に収まる変化では断じてない。

 少なくとも、兄を手にかけたことに傷を負った少女が友を手にかけようとするなど、異常でなければ一体何だというのか。

 

「これから何か……何か良くないことが、起こるんでしょうか」

 

 ただ漠然と、そんな予感がする。自分の知らないところで何かが蠢き這い回っているような、薄気味悪い感覚がずっと脹脛の辺りを掠めている気がした。

 

 ひゅるりと吹いた風が外から障子を叩く。それに混じってぱたたたという軽い音が聞こえてきた。風に運ばれやってきた雨雲が雨を降らせ始めたらしい。

 晩秋の日の落ちた時刻に降るそれは、触らずとも分かるほどに冷たい氷雨だ。

 こんな時に通り雨なんて、どうしてこうも間が悪いのか――そんなことを思って、無為だなと思考を打ち切る。

 

「――とても無力だな、と最近はよく考えます」

 

 唐突な阿求の告白に、早苗は徐に視線を向ける。

 

「早苗さんもご存知の通り、私には見聞きしたものを忘れない程度のことしかできません。あとは準備さえすれば転生できることでしょうか」

 

 湯気の薫る湯呑みを揺らして、阿求はぼんやりと水面の小さな渦を眺めていた。早苗もまたその様子を見つめて次の言葉を黙して待っている。

 続く言葉は数泊おいた後、どこか悔やむような響きがあった。

 

「……結局、私の力なんてその程度(・・)でしかないんです。何か特別なことができても、少し用途を外れると途端に役立たず。何をいくつ覚えたところで、本当に親友を助けることなんてできないんです」

「そんな、こと……」

 

 ない、と言い切ることは、きっと酷く無責任なのだろう。

 他人の放つ慰めの言葉が人を傷つける程に薄っぺらいということ以上に、早苗自身が阿求の無力感を理解できてしまっていたからだ。

 

 見聞きしたものを忘れない程度(・・)の能力。

 奇跡を起こせる程度(・・)の能力。

 見聞きしたものを忘れなくても、奇跡を起こせても、結局はその程度。それ以外には何の役にも立たないのだ。

 奇跡を起こせたところでどうして友人を救えるだろうか。さっきだって奇跡的に吹羽と魔理沙の危機に間に合ったものの、結局守りきれずに逃げてきた。そうして吹羽を安全なところに寝かせて、こうして悩むことしかできていないのだ。

 

 奇跡を起こせても必然は覆らない。吹羽がこうして苦しむのがもしも運命という決定事項なら、まさしく早苗は無力で役立たずでしかない。

 なんてひどい現実だろう。

 握りしめる拳は、もはや何も感じないほどに白くなっていた。

 

 お互いに言葉の見つからない、重く冷ややかな沈黙が揺蕩う。ぱたぱたと響く雨音は強くなかったが、どうにも止む気配は感じられなかった。障子の隙間から冷たい風が差し込む。頬を撫ぜ、お茶から立ち上る湯気を攫っていくと、暫くして湯気は上がらなくなった。

 

 ――でも。それでも、と思った。

 

「何もできなくても、そばにいるのが友達なんじゃないかなって、今は思います」

 

 早苗の言葉に、俯き気味だった阿求の顔が上がった。

 

「椛さんに言われました。あなたは友のために何がしたいのかって」

「……なんと答えたんですか?」

「答えられませんでしたよ、なんにも」

 

 あはは、と感情の抜けた笑いが溢れる。今思い出しても情けないと思うが、あの時はなんだか椛に圧倒的な差をつけられている気がして滅入ったものだ。

 勿論それを顔には出さないようにしていたつもりだが、きっとそれも椛には筒抜けだっただろう。

 

「ここ最近はずっとそのことを考えてました。他のことに身が入らないくらいに悩んで悩んで、それでやっと……やっと、自分が何にもできない(・・・・・・・)んだなって分かりました」

 

 自分には何にもできない――それも一つの答えなのだと早苗は思う。

 人間が人にしてあげられることなど――人に何かしてあげられる人間などほんの一握りだ。そういう人は自分が充実していて、誰かにそれを分けてあげられる余裕のある人である。外の世界ならいざ知らず、この幻想郷に生きる人々も、どこの誰だってきっと自分のことで精一杯。自分のためにできることでさえあやふやなのに、人のためにできることなんて分かるはずがないのだ。

 

「奇跡なんか起こしても、それで友達にしてあげられることなんてたかが知れてる……結局、私は能力っていう後付け(・・・)があるだけのただの人間なんだって」

「――……」

 

 とても否定的な言葉だ。なのにどこかすっきりしたような表情で語る早苗に、阿求は不思議そうな表情を向けていた。

 それがなんとなくおかしくて、早苗はくすりと小さく笑う。驚いたように阿求がきょとんとした。

 

「諦めたって訳じゃないですよ? ただ、自分を見つめ直せたっていうだけの話です。見つめ直した上で現実が見えてきて――じゃあ、何をしようか(・・・・・・)、ってことです」

 

 理想を語るのは簡単だ。幼い子供が将来ヒーローになると声高に語るのと同じように、夢を見るのに制限や困難など存在しない。だが大抵の場合は徐々に現実が見えてきて、それから自分にできるのかできないのかが問題として浮かび上がってくるのだ。

 

 運命なんて言葉は、免罪符である。

 降りかかってきた現実に挑戦するのか受け入れるのか、その結果を、良し悪しに関わらず肯定するための。

 早苗はただ、現実を理解していた。

 さぁ、だからどうしよう? と。

 

「私は自分から何かしてあげることはできません。だから吹羽ちゃんの後ろに立って、倒れそうな時に支えてあげられたらいいなって思うんです。だって――」

 

 自然と、満面の笑みが溢れる。

 

「それ、すごくお姉ちゃんっぽいって思いませんか?」

 

 数舜の間を置いて、一層不思議そうにきょとんとした表情が咳を切ったように吹き出した。

 至って真剣に今の考え方を語ったつもりだった分、早苗はぷくりと頬を膨らますが、ころころと笑う阿求を咎める気にはなれず、笑われるままに笑われる。

 おかしなことに、悪い気分ではなかった。

 

「もう、台無しじゃないですか」

「台無しって……私は真剣に言ってるんですよ?」

「わかってますよ。だから笑っちゃうんじゃないですか」

 

 それはもっとタチが悪くないだろうか。

 口の中で不満を転がす早苗など気にもせず、阿求はもう一つおまけでぷくくと笑うと胸を張るように大きく深呼吸をした。少しだけ紅潮した頬が、彼女が元気を取り戻した証のように思えた。

 

「早苗さんらしいです。その能天気さが」

「褒めて……ないですよね?」

「もちろんです」

 

 阿求のきっぱりとした言葉で微妙な表情になる早苗。だが阿求は、そんな彼女にしかし笑顔を向ける。

 褒めているわけではない。この気持ちを表すなら、相応しい言葉はきっと、こうだ。

 

「これは、尊敬(・・)ですよ」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 さぁさぁと、雨粒が玉砂利を叩く音。

 耳朶を掠める優しい雨音は微睡んでいた意識を柔らかく刺激して、目を覚せと囁いてくるようだった。

 うっすら目を開く。暗く高い木の天井が見えた。暫くぼんやりとそれを眺めて、ふと身体を包み込む僅かな重みと温かさ、そして波打つように肌を刺す湿った寒風に気が付く。

 導かれるように顔を横に倒すと、障子の隙間には雨が降っていた。本当に僅かな月灯りのみが雲を抜けて注ぐ中、鈍く光る雨粒たちは普段以上に冷たそうな色をしていた。

 

 真夜中だ。大通りから聞こえるはずの喧騒はなに一つとして聞こえない。周囲に広がる闇の深さは、まさに吹羽の見知る深い夜のそれである。

 見覚えのある天井。古い木と僅かばかり生けてある花の匂い。墨の香り。

 ここは、稗田邸だ。

 

「――……」

 

 どのくらい寝ていたのだろう。魔理沙との戦闘の後、乱入してきた猪哭を前にして逃げたところまでは覚えている。その直前まで能力を無茶して使っていたことを鑑みると、記憶が飛ぶようなことにはなっていないらしい。恐らく気を失ってそのまま、今に至るのだろう。

 ゆっくりと身体を起こすと、厚めの掛け布団がずるりと落ちる。汗の感触は全くなく、柔らかな寝巻きとひんやりとした空気が身体を包んでいる。まるで日常での寝起きと同じような感覚で――ふと、気がつく。

 

 ――割に、あまり体に負担がない。

 

 本来あるべき体の違和。その消失に、吹羽は小さく首を傾げる。

 

「(能力を使ってこんなに辛くないことなんか、今まで一度も……)」

 

 両手を開いて見下ろすと、そこには今までとなにも変わらない小さな手があった。握ってみても問題なく力が入るし、倦怠感も全くない。いつもなら腕を上げることすら億劫になるはずなのに。

 

 と、未だぼんやりしたままの頭で考えていると、すぐ隣から静かな息遣いが聞こえてきた。

 見遣るとそこには、布団をぴったりとくっつけて早苗が眠っていた。以前のように吹羽の布団に潜り込むようなことこそなかったけれど、彼女は心配そうに眉尻を下げたまま寝息を立てている。

 その枕元には彼女の服が折り畳まれて置いてあった。同様に吹羽の枕元にも服とペンダント、刀などの所持品がまとめてある。すぐ横には羽型の髪留め。阿求か、その侍従さんが置いておいてくれたのだろう。身体を拭いて着替えさせてくれたのも彼女らだろうか。

 

 なんとなく状況が掴めてくると、吹羽は徐に雨模様の空を見た。

 暗くて重くて、先の見えない不明瞭な空である。

 

「……これから、どうなるんだろう」

 

 雨音にかき消されそうなほど弱々しい声で、吹羽は誰にでもなく問いかける。それに応える者はなく、ただ自分の中で反響していくだけだった。

 

 “魔理沙と弾幕ごっこをしている最中に乱入者がいて、それから逃げてきた”。

 言葉にしてしまえばたったそれだけの、単なるハプニング。猪哭は尋常ではなく危険だったが、今こうして吹羽が寝ていられた――吹羽を狙って里に侵入してきていない――以上、決して人の日常を覆すような出来事とは言えない。例えるなら、人里の女の子が外で妖怪に襲われて命からがら逃げてきた、というありがちな出来事でしかないのだ。本来であればこのまま阿求に目覚めを告げて、家に帰り、何事もなかったかのように生活していくのだろう。

 

 だがどうしてか、何かしなければならないことがあるような――焦燥感にも似た何かを感じる。それが、このまま元の日常には戻れないような気にさせているのだ。

 

「…………風、浴びたいな……」

 

 吹羽にとって安らぎの象徴、それが風だ。不安や重圧、悲しみに押し潰されそうな時はいつも全身でそれを浴びて気持ちを落ち着ける。日光浴みたいなものである。

 今になって考えると、この性質もひょっとすると先祖返りゆえなのかもしれない。辰真と凪紗もこうして風に安らぎを覚えていたのだろうか。

 風神を崇め、そして見初められた自分たちには、ある意味当然の感覚なのかも知れない。

 

 布団から立ち上がり、障子の隙間を広げて吹羽は外に出た。

 縁側はしっとりとして冷たく、暖まり過ぎた足裏には気持ちがいい。降り注ぐ雨は吹き込むほど強くはなかったが、小雨というほど弱くもない。ちょうど人が嫌だなと思う程度の秋雨だった。

 

 そう――嫌だなと感じる雨。

 鶖飛を殺めたあの日も、こんな調子の雨だった。

 

 ――かしゃり。

 

「ッ!? だれ!?」

 

 心ここに在らずといった様子で冷たい空気を受け止めていると、不意に玉砂利を踏み締める音が聞こえた。

 辺りは暗く、極めて視界が悪い。反射的に身構えた吹羽にも、視線を向けた先にはあまりはっきりと景色が見えていなかった。だがこの時間帯なら魔の差した妖怪が人間の匂いを嗅ぎつけて襲ってくることも考えられないことではない。

 だから警戒を全面に出して暗闇を見つめる。何が飛び出してきてもいいように。すぐに刀を取りに戻れるように。

 

 だが、その姿が月灯りに晒された瞬間――吹羽の思考は、体もろとも凍り付いた。

 

 

 

「うじがみ……さま……?」

 

 

 

 雨粒の光る月明かりの下。

 白い子犬が――血塗れの身体を雨の中に横たえていた。

 

 

 

 言葉などなかった。

 出す余裕すらもなかった。

 吹羽は雨に濡れるのも構わずに庭に飛び出し、子犬の側に駆け寄った。手はわなわなと震えるばかりで、触れていいのかさえ判断が付けられなかった。

 白い毛並みは大量の血に濡れて赤くなり、固まって鋭くなっている部分すらある。切り傷だろうか。それとも裂傷? 真っ赤に染まったその小さな体では、もはや傷口がどこなのかも分からなくなっている。少しでも動かせば途端に息絶えてしまいそうなほどその呼吸は小さくか細い。それすらなければまだ生きているだなんてとても考えられないほどに目の前の神は――子犬(・・)は、弱っていた。

 

 そこに吹羽の縋る神格の姿はどこにもなく――寄り掛かるべき柱が、今まさに目の前で折れかけていた。

 

『はは、ぬかったよ。肉体の制限っていうのはこんなにも厳しいんだね』

 

 吹羽の心境を他所に、普段通りの口調で氏神はそう言った。

 体の損傷具合に比べて声だけはいつもと変わりない――概念的な存在である氏神であれば、体の具合などほぼ関係ないのでそれは当然のことだったが、それが返って、吹羽に不安を煽る。

 吹羽が正常な判断をできていないのは事実だ。だがその氏神の様子は、まるで体と精神が繋がっていないように思わせる。今すぐにでも氏神が消え失せてしまうような予感にさせるのだ。

 

「う、氏神様……どうすれば……ボク、なにを……!」

 

 捲し立て、はっと思い付いたのはとにかく人を呼んでくることだった。すぐさま立ち上がって部屋の方へと駆け出そうとした吹羽だったが、引き止めたのは他でもない、氏神だった。

 

『必要ないよ。なによりもう遅い(・・・・)

「もう、遅い……って……」

 

 それが意味することを、察せないほど吹羽は白痴ではない。瞳に涙を浮かべ始めた吹羽に、氏神の言葉はいっそ冷徹だと感じるほどにいつも通りだった。

 

『この体はもう息絶える。無駄だよ、血を流し過ぎたんだ』

「……息絶えたら……氏神様は、どこへ……?」

『本体に戻る。簡単に器は見つからないから、暫く顕界できないだろうね』

「いやですッ!!」

 

 叫んで、吹羽は子犬の体を覆い被さるように抱えた。生暖かな紅が染みていくのを気にもせず、まるでどこにも行かせはしないと縋り付くように。

 

「いやですっ……いやですぅっ! いなくならないでくださいっ! もう、たよれるのはうじがみさまだけなんです……っ!」

『はは、嬉しいことを言ってくれるね。そう思ってくれている限り、我らはいくらでも君に力を貸してあげるよ』

「! そういう、いみじゃ――」

『君には、信頼できる友人が何人もいるじゃないか』

 

 吹羽の言葉を断ち切って、子犬はか細い息のまま吹羽の涙を舐めとった。ざらりとした感触はとてもゆっくりと、しかし壊れ物を扱うような優しさで頬を拭う。だが雨に濡れたからか、その舌はひんやりと冷たかった。

 

『心配はいらないさ。我らはいつでも君を見守っている。君が心から信仰してくれる限り、我らに終わりはないんだから』

「うじ、がみ、さまぁ……っ」

 

 小さく名を呼ぶその声には、こぼれ落ちそうなほどの諦めが滲んでいた。

 いなくなって欲しくない。でも氏神自身が、もうこの世に留まる気を持っていない。そして吹羽には、それを覆すことができない。

 子犬の命を――諦めるしか、ないのだ。

 

『気を付けて、依り代。あの人形(ヒトガタ)に。アレは――アレの主は、君を狙ってる。とても危険だ』

「! いや……やだぁ……なんで、うじがみさままでぇ……っ!」

『最後まで護れなくて、ごめんね。でも君の心は、いつでも感じているよ』

「ぐすっ……や、ぁ……ぅううぅ……やだよぉ――っ!」

 

 ――嗚呼、なんて非情なんだろう、この世界は。

 どれだけ奪えば気が済むんだろう、この現実は。

 吹羽がどれだけ気丈に立ち上がっても、この世界は吹羽からどんどん大切なものを奪っていくばかりで、ちっとも与えてはくれない。心の縋る先さえ攫っていってしまう。寄り掛かる柱を悉く折っていってしまう。

 

 大切な思い出を失った。

 待ち続ける理由を失った。

 たった一人の家族を失った。

 そして親友にすら頼れないと知り、本当に頼りたかった神様さえ、失おうとしている。

 

「…………」

 

 冷たい雨が沁みるようだった。まるでひび割れに水が入り込むように、体も心も、凄まじい勢いで熱を奪われていく感覚がした。このまま奪われ続けたら自分の中には何もなくなって、空っぽなニンゲンになってしまうような気さえした。

 

 冷たい。

 冷たい。

 雨の中に一人。

 風もない。

 月は陰って、全てが真っ黒。

 手の中の温もりは、もう、息絶えていた。

 

「――……そっか」

 

 ざー、ざー。

 雨の音だけが響いている。まるでノイズのようだ。肌の感触も遂になくなって、心と魂が剥き出しで雨に打たれているような心地になった。

 心の、魂の熱が奪われていく。

 自分が何を望んでいるのかさえ分からない。

 大嫌いな雨だった。

 ただ――ノイズの隙間から聞こえる声だけが、確かな熱を持っていた。

 

「――ボクが、いなくなればいいんだ」

 

 暗い氷雨の中に、空っぽな言葉が落ちていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「んにゅ……うぅ、さむ……!」

 

 翌日、早苗は頬を刺す冷風に目を覚ました。

 外の世界のように暖房器具のないこの世界での目覚めは未だに慣れない。ぼんやりとその方向を見やると、どうやら障子が空いたままになっていた。

 そりゃ寒いわけだ、と思って体を起こすと、薄青い外の光が見えた。まだかなり早い時間のようで、屋敷の中にも人の動いている気配がない。恐らく阿求ですらまだ寝ている時間なのだろう。

 

 眠い。

 寒いけどまだ眠い。

 こんなに早い時間に起きる意味も理由もないのだから、もう一度寝てしまおう。

 そうやってもう一度寝転ぼうとして、視線が下がって――早苗は、気が付いた。そしてその瞬間身体を包み込んだとんでもない寒気に、早苗はさぁと全身が熱を失ったように感じた。

 

「……ぁ、あきゅうさん……阿求さんッ!! 吹羽ちゃんが――」

 

 途端に駆け出して、阿求の部屋へと飛び出していく。早苗が去ったあとの部屋には、

 

 

 

 冷たくなった布団だけが、寂しく広げられていた。

 

 

 




 ある日の日記
 
    もう
          げんかい
 
        だよ


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第六十六話 先見の明

 

 

 

「早苗さん、早くッ!」

「は、はい! 今行きますっ!」

 

 雨上がりの冷たい空気が満ちる早朝だ。

 早苗に叩き起こされた後、阿求は出来うる限りの侍従を里内での捜索に駆り出し、大急ぎで支度を済ませて門を出た。普段ならゆったりと木々を眺めながら歩む小道も、今ばかりは何も視界に入らなかった。

 どくどくと激しく波打つ胸。今にもほつれてしまいそうな脚。それら全てをなおも無理矢理引きずって、小道を息を切らせながら走り抜けると、目的地に着く頃には二人ともすっかりと肩で息をしていた。

 だがそんなことは気にしない。気にならない。気にする余裕が二人にはなかった。

 

 日が完全に顔を出し、里の大通りにも活気が出てきた頃である。阿求と早苗は風成邸へと訪れていた。

 理由は語るべくもない。二人はいなくなってしまった吹羽の行方を追って、この場所へとやって来たのだ。

 

 正直なところ、二人には吹羽の居場所には全く見当がついていなかった。

 そもそもこのタイミングでなぜ吹羽が姿を消したのかさえ理解が及んでいない。だからこの二人の行動は、もしかしたら一人で家に帰ったのかもしれないという一縷の可能性に賭けたに過ぎなかった。

 ――否。それしか掴むべき糸がなかったのだ。吹羽の性格を考えれば、今にも切れてしまいそうなその細い糸を。

 

 辿り着いた風成邸は、変わらない様子でひっそりと佇んでいた。

 大通りから外れたこの辺鄙な場所は活気とは程遠く、葉擦れの音がなくなると途端に静かになる。それがむしろ心をざわつかせるようで、青白く晴れたこの空にさえ苛つきが募るようだった。こんな時に快晴だとか、なんて皮肉な空なんだ、と。

 その見当違いな苛つきを押さえつけることもできないまま、合鍵で戸を開いて玄関を(くぐ)る。工房はもちろんのこと、住居の中もしんと静まり返り、普段は絶えず体を包み込んでくれる優しい風の流れもぴたりと途絶えていた。

 

「吹羽、ちゃん……」

「っ……行きましょう」

 

 覚悟を決めたような阿求の声に小さく頷き、二人は風成邸に足を踏み入れた。

 家の軋む音さえ聞き逃さないように廊下を歩き、どこかに吹羽の痕跡がないかと目を凝らし――しかし何一つと見つからずに、居間に辿り着く。何も置かれていない机と、金属の嵌められていない壁の穴が見えた。

 風が途絶えていることから予想はしていたが、あの穴が空いたままということは、つまり――

 

「……やはり、帰っていませんか」

「吹羽ちゃん、いったいどこに……」

 

 居間の中央付近へ寄って、阿求はぐるりと中を見回した。工房を除けば最も長い時間吹羽が過ごしている部屋である、何か手がかりがあれば幸いなのだが。

 

「……ん?」

 

 すると、阿求はある一点に違和感を感じた。

 居間も他と同様、ほとんど普段と変わりはない。そもそもここは置いてあるもの自体が少なく、女の子の住む部屋としてはあまりにも殺風景なくらいである。

 丸い机、隅に置かれた箪笥、二枚の座布団、彫り巡らされた大量の風紋と――風神を祀った神棚。

 目を凝らして以前の光景と思い比べると、明らかにそこだけが違っていた。

 

「(服と刀が……失くなっている?)」

 

 鶖飛の一件以来、この神棚には鶖飛が羽織っていたという黒い衣と“鬼一”が置かれていた。曰く、鶖飛がせめて安らかに眠れるようにという話だったはずだ。見るたび常に手入れが行き届いていて、吹羽がそれをどれだけ大切にしているかがありありと見て取れた。

 ――だが、それが今は置かれていない。加えて、奉納していた太刀風の“真打”すらも失くなっている。これは明らかな相違点である。

 

 広い見方ができた。

 鍵が閉まっていたとはいえ別の場所から入った空き巣に盗まれた可能性や、何か思い立って吹羽が別の場所にそれらを移した可能性など。明らかな相違点と言っても、ものが二つ三つ失くなっている程度ではあまりにも可能性の幅が大き過ぎる。流石の阿求にも絞り切ることは不可能だ。

 ただそれは――一つの可能性を浮かび上がらせる要因でもあって。

 

「……一度帰ってきて、これらを持って行った――と、したら」

 

 言って、振るわせた喉の奥が急激に乾いていくような心地がした。体の奥底からは凄まじい悪寒が湧き上がり、瞬く間に体の芯が凍りつく。何か取り返しのつかないことが目の前で発覚しているような、耐え難い焦燥感が押し寄せてきた。

 

 いったい何が、どうなっている?

 この圧倒的な不快感の正体は、きっと今起こっていることのほぼ全てが未知であるが故だろう。未知が未知のまま色々な出来事が続け様に起こって、挙げ句の果てに大切な存在が自分の目の前から姿を消した。唯一手掛かりになるかも知れないと思っていた吹羽の日記も、見渡す限りでは消失している。吹羽の行方など見当もつかない。

 ――手詰まり。何かを知ろうとする前に、阿求は行き止まったのだ。

 

「〜〜ッ、なんで……ッ!?」

 

 理解不能だ。

 理解不能なのだ。

 何が起こっているのか分からないのに、ここに来て阿求は、自分の親友のことさえ分からなくなってしまったのだ。それが如何に致命的で、如何に情けないことなのかを、残念ながら阿求は理解していた。

 

 いったい何が起きている? 何が起ころうとしている? 吹羽を追い詰めているモノはなんだ? 吹羽はなぜ自分たちの前からいなくなった? いったい吹羽は何を考えている? なぜ大切にしていたものを持ち出した? 

 それではまるで、もう二度とここには――

 

「阿求さん!」

「っ!」

 

 思考の海へと沈みそうになっていた意識を、早苗の声が強引に引き上げた。どうやら早苗も阿求と同じような結論に至ったらしく、どこか物寂しげな瞳の色をしていたが、阿求とは違ってその声には毅然とした意思が宿っているように感じられた。

 

「探しましょう、吹羽ちゃんを。色んなことを訊くのはその時です」

「……そう、ですね」

 

 ――早苗の純粋さには、こういう時に助けられる。その真っ直ぐさにはやはり無鉄砲なところがあるけれど、人を惹きつけ引っ張り上げる力強さがあると阿求は思った。

 冷静さは時に人を停滞させる。そういう時には、感情的な人間の前進する意志が必要になる。今の阿求はまさにそれだ。

 今は考えるよりも、動かなければならない時なのだ。

 

「里の中は家の者が探してくれています。私たちは里の外を探してみるべきでしょう」

「外……吹羽ちゃんが一人で出歩くとは考えにくくありませんか?」

「いえ、今の吹羽さんに並の妖怪は敵わないでしょう。外に出るのに障害はありません」

 

 もともと里の外に出てはいけない人間というのは、戦う力を持たない人間だけである。それでさえ護衛がいれば少しくらい出ても構わないと言われているのだ、本来の戦う力を得た吹羽が外に出ようと思ったところで何も難しい問題はない。

 

「それに吹羽さんは、ただでさえ弾幕勝負においてはそこそこの実力を持っているんです、本気で姿を消そうと思うなら里の外も考えるでしょう」

「じゃあ……どうしますか?」

 

 少し考え込んでから、阿求はふと窓から外を見やった。

 当然のことながら、里の外は人里の何倍もの面積がある。二人だけで虱潰しに探していては日どころか年が明けてしまう。やはり、どうしても人手がいる。

 

「……手を、借りたいところですね」

「! 分かりました。じゃあ私はそちらに」

「お願いします。私は……博麗神社に向かいます」

 

 阿求の言わんとしていることを了解して、続いた言葉に早苗はぎょっとした。

 当然である。先程阿求自身が述べたように、戦う力を持たない人間は原則として里の外に出てはいけない。そして阿求は、その戦う力を持たない側の人間である。

 だがそうした早苗の反応はやはり予想の内だったのか、阿求は心配いらないというように首を横に振った。

 

「心配は要りませんよ。私も人を頼ります」

「えっと……誰を?」

「決まってるじゃないですか」

 

 そう言って、しかし“ああそう言えば”と思い返す。

 早苗が妖怪の山から里に降りてくる頻度はかなり高いが、里の人間たちと友好があるかどうかと言えば微妙なところだ。だから阿求が誰を頼ろうとしているのかを「そんなの決まってる」と言って見せたところで、分からない可能性の方が高い。

 阿求は早苗にも分かり良いように数瞬の間言葉を選んで、それからにこりと笑った。

 

歴史を食べちゃう(・・・・・・・・)、頑固な守護者さんですよ」

 

 ……余計分かりにくくなった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 “過去”と“歴史”は似て非なるものである。

 

 “過去”というのは過ぎ去った現実の総称で、決して元には戻れず、戻らず、その時にあった物事と全く同じものを感じることは絶対に出来ない。

 “過去”は、事実なのだ。

 大昔、村を消し飛ばすような大災害があった。昔、恐ろしい妖怪が英雄に退治された。この間、大きな異変が起こった。

 誰の目にも明らかに全容の見える事実が過去足り得る。これは不変の事実と言い換えてもいい。決して覆すことはできないし、もう一度それを体験することも不可能な過ぎ去った(・・・・・)事象なのだ。

 

 ただ、“過去”という言葉にも例外がある。それは個人が別々に持つ記憶だ。

 個々人が持つ記憶は間違いなくその人物だけの“過去”である。そういった過去というのは絶対的に一様でなく、その場合はどうしてもその人物の主観が軸になる。要は、例え同じ事象を観測している二人がいても、感じ取り方によってはお互いに全く違う解釈が行われるということだ。

 

 “歴史”とは、その個々人の持つ過去を伝え、残し、後世に書き記したものである。

 例え過ぎ去った現実を正確に残そうとしても、それを残そうとする個々人の印象や考え方、解釈の仕方によって残り方が変わり、伝わり方が変わり、そうして書き記されていったものが“歴史”となる。それが事実かどうかなどはあまり肝要ではないのだ。

 

 ――では、“歴史を食べる”とはどういうことか。

 阿求が彼女(・・)を頼る理由は偏にこれだ。

 

「確かに私ほど適任はいないと自負しているが……大丈夫なのか?」

 

 と、何処か心配するような言葉を零したのは、阿求が頼った人物――上白沢 慧音である。

 そう、彼女こそがまさしく“歴史を食べる”ことができる人間――否、半妖である。

 幻想郷縁起に記されているためある程度知られたことではあるが、慧音は半分が白沢(ハクタク)と呼ばれる妖怪なのだ。“歴史”に関する能力を持ち、人間状態では食べ(・・)、妖怪状態では創る(・・)ことができる。阿求が護衛として頼りにしたのは、妖怪としての戦闘能力よりもこの食べる能力だ。

 

「私の能力は現実を見えなくするだけで抹消するわけじゃないんだ、強い妖怪には通用しない。阿礼乙女が博麗神社に赴くのには適さない気がするんだが」

「あそこを訪れるのは温和な妖怪ばかりですよ。下手に刺激しない限りはですが」

「そうは言ってもな……」

 

 慧音の“食べる”能力は、人が歴史を認識するために必要な“現実”を見えなくする能力だ。

 阿求という阿礼乙女の存在を多くの人妖は認識している。それは彼女が存在するという事実を誰かが伝え、見聞きしたからだ。それはまさに歴史と言って相違ない。

 端的に言えば、現在阿求の姿は慧音以外の人物には見えていない。阿求が存在するという歴史を認識するための明確かつ強力な現実(・・)である、阿求の姿を慧音が消しているのだ。

 小難しい理屈だが、里の外を出歩くのにこれほど有利な能力はない。当然強い妖怪には効かないし、人物の歴史を食べるのには多少の嫌悪があるのか若干渋られたが、噛み砕いて事情を伝えると慧音は比較的容易に引き受けてくれた。もちろん寺子屋の授業はあったのだが、それでもいなくなった里の子供を放っておけないのはさすが慧音というところである。或いは阿求の切迫した雰囲気を鋭く察してくれたのか。

 阿求も慧音も、吹羽の安否を確かめたいという思いは共通していた。

 

「……まぁ、泣き言ばかりは言っていられないな。こうしている間にも吹羽はひとり、何処かで泣いているかも知れない」

「そうですね。急ぎましょう」

 

 一刻も早く博麗神社へ赴き、霊夢へと事の次第を伝えて助力を請わねばならない。

 泣いているだけで済むなら良いのだけど、とは心の内でのみ呟いて、阿求と慧音は歩みを早めた。

 

 博麗神社へは半刻と少しで辿り着いた。

 通常、里の門から神社までは歩いて一刻ほどかかるが小走りで向かうとそれくらいで済む。体力のない阿求には苦行に違いなかったが、使命感めいた感情が彼女の足を動かし続けた。

 息を荒げて、二人は最後に長い石階段を登る。冬間近のこの季節、博麗神社周辺の木々はすっかりと葉を落として素肌を晒していた。如何にも寒々しくて、見ていると体は火照っているのに心だけが冷えているような心地になる。意識して眺めるのはなんとなく精神衛生上あまり良くないように感じられて、阿求は殊更に眉を顰めて登り続けた。その後ろを、慧音は静かに付いてきた。

 

 神社は相変わらず閑散としていて、慧音の心配が杞憂だったことはすぐに明らかになった。石階段同様、周囲はぐるりと枯れ木のようになった桜に囲まれて、落ちてくる葉の一枚もない。掃き掃除が終わっているようなので、霊夢は在宅中だろうと思われた。

 取り敢えず居住区へ。

 そう思って、鳥居と境内を繋ぐ参道を外れようとした二人は、しかし意外な光景を目にして足を止めた。

 

「あれ……霊夢さんですか?」

「珍しいな。境内にいるとは」

 

 正面に構える古い建物。博麗神社本堂の、その境内。

 薄暗くて見え辛くはあったが、そこには確かに霊夢の凛とした背中が見えた。正座での座り姿は相も変わらず美しく、古めかしい建物の中では一見浮いたように見えるのに、不思議と雰囲気には馴染んでいる。或いはしゃんと巫女らしく(・・・)振舞う彼女のその姿が、神社という神秘的で静謐な空気を秘めた場所と調和した結果なのかも知れない。

 

 近付いて、そのどこか荘厳な雰囲気を侵して良いものかと一瞬躊躇う。だがこれは霊夢自身にも関係することで、何より急を要する事態である。

 ごくりと固い唾を飲み込んで阿求が口を開くと――予想外にも、それは前方からの声が断ち切った。

 

「珍しいわね。何か用事かしら、慧音――と、阿求(・・)?」

「ッ!?」

 

 霊夢の言葉にぎょっとしたのは、阿求ではなく慧音の方だ。

 繰り返しになるが、現在慧音の能力によって阿求の姿は見えていない。強い妖怪には効かないと言っても、彼女の能力は有事の際に人里の守りを任せられるくらいには強力なものだ。

 それがこうもあっさりと、しかも生粋の人間に破られるなど慧音は夢にも見ていない。

 

 驚愕を全面に現した慧音の横で、しかし阿求の思考は乱れなかった。今までに見てきた霊夢の埒外さを思えば、まぁこれくらいはやるかと思えてしまう。今更だ。

 

 慧音に能力を解いてもらい、阿求は改めて霊夢の方を見遣った。彼女は初めに見た姿から微動だにせず、ただ言葉を待っている。或いは、何か別のことに集中しているようにも見えた。

 だから、伝えるべきことを、ごく簡潔に。

 

「……吹羽さんが、いなくなりました。昨日の夜のことです」

 

 短くそう告げると、霊夢が少しだけ体を揺らした。

 

「霊夢さんの霊力と感知能力を使えば広範囲を的確に捜索できるはずです。戦闘指南もしていたくらいですし、吹羽さんの霊力には覚えがあるはず。……手を、貸してください」

「…………」

 

 すぐに返ってくると思った答えは、予想に反して沈黙だった。

 阿求も霊夢も全く動かず、ただ慧音の、話の行く末を見守る視線だけが静かに二人の間を行き来している。

 耳の痛くなるような冷たい風が吹いていた。ざぁと駆け抜けた風は木々の幹を撫で、しかし揺らせる葉もなく素通りする。触覚がなければ吹いたことも分からないだろう。音はない。風が吹いても音がなければ、そこにあるのは結局ただ閑静な神社でしかなかった。

 だが――静寂は唐突に破られる。

 

 

 

断るわ(・・・)

 

 

 

 その、予想だにもしない答えによって。

 

 ぇ、と息の抜けるような声が漏れて驚愕をあらわにする。霊夢の凛とした背が、話は終わりだという拒絶の証にも見えた。その意味も理由も語る気はなく、阿求たちに納得すらも求めていないと示す態度。

 真っ白になりかけた頭を再度回し、阿求は問う。

 

「な、何を、言ってるんですか……?」

「言葉通りよ。手は貸さない。干渉もしない。そっちで勝手にやりなさい」

「吹羽さんが……私たちの親友がっ! 何も言わずにいなくなったんですよッ!?」

「そうね」

「そうね、って……もっと、もっと他にあるでしょう!? 自分が何を言ってるのか分かっているんですかッ!?」

 

 霊夢のものとは思えないその言葉に思わず阿求は声を荒げた。心の内から湧き上がる焼き切れそうなほどの怒りが、今にも体から噴き出してしまいそうな剣幕である。

 だって、当然だ。

 霊夢のそれにはまるで熱がない。人にあって然るべき――否、なくてはならない感情の温度(・・・・・)というものが全くと言っていいほど宿っていないのだ。

 手を貸せないことに声を荒げているのではない。吹羽の失踪に霊夢が何も感じていないことが何よりも度し難いのだ。

 友人が姿を消したと聞いて「そうね」だと? そんなの意味が分からないし理解もできない。もしもそれが霊夢の本性だというなら、阿求は今後一生彼女を軽蔑し続けるだろう。

 冷たいのと薄情なのは違う。

 冷静と冷酷は別物だ。

 そんなこと、今更言うまでもないことのはずなのに。

 

「せめて理由を! それを聞かずに引き下がるなんてできませんッ!」

「…………」

「霊夢さんッ!」

 

 その時、前屈みに怒鳴る阿求の眼前を華奢な腕が遮った。

 

「熱くなり過ぎだよ阿求。少し落ち着くんだ」

「でも、慧音先生……っ、」

 

 阿求を見つめる慧音の瞳には有無を言わせぬ圧がある。咄嗟に押し黙って引くと、その代わりに慧音が一歩前に出た。

 

「霊夢、君の判断を否定するつもりはない。博麗の巫女が幻想郷に尽くしてくれているのを私は知っているからな。手を貸せない理由があるならそれでも良い。それが私たちに語れないものであるなら、まぁそれもいい」

 

 半妖である慧音は人よりも寿命が長く、博麗の巫女という存在がこの世界にとってどれだけ重要な存在であるかをよく知っている。口を閉ざしたままの彼女へと語りかけるその言葉にも、そうした理解がよく滲み出ていた。

 しかし、慧音の言葉は「だが」と続いた。

 

「君は吹羽の親友だろう? あの子も君を最も頼りにしていた。……同じくあの子を思う阿求が、吹羽のためにと助けを求めているんだ、どうにか手を貸してやれないか?」

「――……」

 

 乞うような、或いは諭すような声音。内容は阿求のものとほぼ変わらないはずが、霊夢の反応には大きな差があるように感じられた。

 僅かに霊夢の頭が動いて、横顔が覗く。しかしそこには、絶対的な拒絶の色しか浮かんではいなかった。

 

「あんたには関係ないわ」

 

 部外者は首を突っ込むな――そう言外に怒鳴り散らすような言葉。

 その言葉の真意を読み取るべく慧音はジッと霊夢を見つめた。交わされる視線は冷たくて、触れた先から凍ってしまいそうなほどに何の感情も宿っていない。今にも逸らしてしまいそうになる目をそれでも向けて、二人は数秒の間無言の対話を続けていた。

 だが、やがて。

 

「…………分かった。意思は硬いようだな」

 

 慧音が、諦めたように目を伏せた。

 

「慧音先生!?」

「無駄だよ阿求。こういう目をする人間はもう動かせない。諦めよう」

「そ、そんな……!」

 

 ぽんと阿求の肩に手を置いて、慧音は元の参道を戻っていく。阿求の悲壮な声に振り向くことはなかった。

 

「――……ッ、」

 

 阿求は歯を食いしばった。ぎりぎりと聞いたこともない音が頭の中に響いて、握り締めた拳は小刻みに震えている。ふざけるなという文句だけが身体の中を満たしていた。

 

 分かってはいるのだ。

 霊夢の豹変自体はやはり不自然ではあり、彼女が望んでそうしているとは思えない――以上に、思いたくない(・・・・・・)。慧音の言う通り何か理由があるのかもしれない。

 だが、そんな理不尽ですら叩きのめして自分を貫徹できるのが博麗 霊夢だと阿求は思っている。いつだって彼女はそうして異変を解決してきたし、どんな環境の中にいてもそれを続けてきたということを阿求は知っている。それに相応しい力を持っているのだ。

 

 その力を持っていて――なお霊夢は、断ると言ったのだ。

 

 なるほど。

 霊夢に協力は仰げない。

 自分と早苗で行動を始めるしかない。

 それをようやく自分の中に落とし込み、阿求は。

 

「霊夢さん」

「……なに」

 

 感情の読み取れない黒色の瞳が阿求を射抜く。それを真っ向から睨め返して、

 

「失望しました」

 

 ただそれだけを、阿求は言い残した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 蒼い糸が、繋がっている。

 

 自分の内側――魂からゆるりと出てきて、今は目の前の箱に繋がっていた。これを切らさないようにするには極限の集中と、己の魂を理解する必要がある。

 見つめ直し、理解して、溢れ出すそれが糸を伝って流れていく。

 

 今はこれが、必要なこと。

 今はこれが、一番大切なこと。

 目先に囚われていては未来は掴めないと、自分は知っているから。

 

「――失望、か」

 

 気にするな。

 言い聞かせるようにそう思って、予想以上に胸が痛む事実から目を背ける。

 

 気にするな。

 今まで通り自分は自分を貫けば良い。間違ったことをしないために、間違った未来を選ばないように、今できることをやっておく。それの何が悪いというのか。

 

 気にするな。

 いくらでも失望すれば良いさ。幾らでも軽蔑すれば良いさ。本当に守りたいものを守れるならそれで構わない。それが例え自己満足染みていたとしても――あの子はかけがえのない、親友なのだから。

 

「待ってて――吹羽」

 

 必ず、あたしが。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 慧音先生、久しぶりのご登場でした。登場キャラを無駄なく使うって、難しいですね……。


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第六十七話 零れ毀れた抜身の刃は、

 
 大変お待たせしました。
 後書きに少しお知らせがあるので、読んでいってもらえると嬉しいです。
 


 

 

 

 一方その頃、早苗はちょうど目的地に到着したところだった。

 ふわりと着地すると、木から離れた落葉がわずかに足元で舞った。周囲の木々はもう殆ど葉が落ちてしまって、つい此間までの鮮やかな暖色は一様に燻んで茶色くなっている。あまり心に感じ入るような光景ではないけれど、本格的に冬が到来して雪が降れば、処女雪を纏ったこの山は一変してまた美しく映えるのだろう。

 

 そう、山。早苗は今、妖怪の山の中腹に訪れていた。

 普段通る道とは外れた山中である。周囲には木々ばかりが立ち並び、耳を澄ませば若干川のせせらぎが聞こえてくる。恐らく河童の棲む川だ。

 

「ふぅ……さて、何処にいるかな」

 

 この辺りには天狗達の住処がある。山頂の若干下辺りに天魔の屋敷があり、その下へ広がるように住居が広がっているのだ。パッと見では分からないよう上手いこと風景に溶け込んでいるので、建物を見つけるには少しコツが要る。

 

 早苗が探しているのは当然、椛である。

 以前彼女のお見舞いでこの近くを訪れた際に天狗の住処の構造を知り、この近くならば椛の住居も見つかると考えたのだ。

 

 吹羽の捜索に椛の協力は欠かせない。彼女の能力は勿論、ことの仔細を伝える必要もある。きっと一も二もなく力を貸してくれる筈だ。

 

「(けど、どうやって探そう? あまり天狗さんに声をかけない方がいいだろうし、表札なんて……かかってないよね)」

 

 周囲を見渡して、ぽつぽつと点在する木造家屋の表を見て嘆息する。

 天狗族は一つの家族のようなものなので、いちいち家に表札などかけないのだ。

 加えて早苗は外来人である。つい最近来たばかりの新参者であり、突然妖怪の山・山頂にででんと居を構えた無法者でもある。霊夢の働きかけでなんとかいざこざは起きずに済んでいるものの、事実として、天狗の中には彼女たちを快く思わないものもいるのだ。

 

 ぴりぴりしているのが肌に伝わってくる。早苗が天狗の領域に足を踏み入れているからだ。刺すような緊張感の中には“人間風情が”と侮蔑する感情が含まれていた。

 

 だが立ち止まっているわけにはいかないのだ。今の早苗は自分のために動いているのではなく、吹羽のために動いているのだから。

 

 あぁ、でも怖いしなあ――とグズっていると、突然頭に声が降ってきた。

 

「なにを慌ててるんですか。きょときょどして気持ち悪いですよ」

「ひと言余計っ!」

 

 反射で叫ぶと、冷めた瞳が早苗を見下ろしている。驚き半分怒り半分の早苗に小さく溜め息を吐いて、声の主――犬走 椛は目の前に降り立った。

 

「……余計ではありません。早苗さんのように思考がひとりでに突っ走る人にはしっかり言わないと伝わりませんから。でないと何をしでかすか分からなすぎて側にいるのが怖いです」

「私はおばけかなんかですか!」

「幽霊など怖いわけがないでしょう。そこら辺にたくさんいるんですから。早苗さんの方が恐ろしいです」

「お、おばけより怖いなんて言われる日が来るとは思ってませんでしたよ私……っ!」

 

 愕然とする早苗を前に椛はいつものすまし顔である。まぁこれはもはや様式美となりつつあるやりとりなので、二人の間では挨拶がわりという側面があるのも事実だった。

 

 しばし頬を膨らませて椛を睨んでいた早苗だったが、改めて彼女の顔を見てはっと目的を思い出す。

 こんなことをしている場合ではないのだ。椛を連れて一刻も早く吹羽を見つけなければならない。

 

「そ、そんなことより椛さん! 大変なんですッ!」

「ええ、知ってます」

「それがですね、昨日の――へ?」

 

 呆ける早苗に、無表情の椛。

 

「あなたがここへ降りてきたのを観て(・・)いました。尋常ではなさそうだったので私から来たんです。だから初めに言ったでしょう? “なにを慌てているんですか”と」

「――……」

 

 ――ああ、きっと椛は、察しているのだ。

 早苗が慌てて天狗の集落に来る理由など少し考えれば導ける答えである。

 早苗と椛は吹羽によって繋がっていて、その早苗が椛を探しに天狗の集落にまで来たというなら、椛にとってその理由は深く考えるまでもないことだ。

 

 二人で焦燥に呑まれれば何も始まらない。

 椛にはそれが理解できていて、だから早苗が慌てる分彼女は冷静に努めている。椛には自分に何ができて、何をするべきなのかが見えているのだ。

 目が覚めるような心地になって、早苗はさすがは椛さんだ、と口の中で呟いた。一つ大きく深呼吸。そうして目の色を変えた早苗は、椛にことの仔細を語った。

 

「――なるほど、分かりました。気になる点はありますが、吹羽さんを見つけるのが先決ですね」

「ど、どうやって探しますか?」

「虱潰しという訳にもいきません。まずは私の能力でここから出来る限り広範囲を見渡します。それから人を当たりましょう」

「私は、何を……」

「ふむ……」

 

 椛は顎に手を当てて少しだけ考え込むと、

 

「とりあえず、大人しくしていてください」

「………………」

 

 微妙な顔で頬を引きつらせる早苗に、しかし椛は至って真剣な表情を向けた。

 

「大切なことです。慌てた時は一旦頭を冷やして、落ち着くことが肝要です」

「あ、そういう……でも冷静になる役は椛さんがやってくれるので大丈夫かなって……」

「役? なんの話です? 冷静になるのは一人より二人の方がいいに決まってるじゃないですか」

「そ、そうですね……」

 

 勘違いで若干頬を染める早苗を有意義に無視しながら、椛はさっさと上空へと上がっていく。周囲を見渡したいのだろう。

 “千里眼”は神通力の一種で、彼女の妖力が及ぶ範囲かつ視界に映る範囲のみ、その光景を角度に関係なく極々細部に至るまで視界に映す力である。以前そう教えてもらった。椛は上空から可能な限り広範囲を視界に収めるつもりなのだ。

 

 椛を追って上空に上がりながら、早苗は考えた。

 大人しくするにしても、何もするなという訳では決してない。椛が椛にできることをやっているのだから、早苗は早苗にできることをする義務がある。

 自分には何ができる?

 吹羽の側にいると決めたにしても、今するべきことはまた別だろう。そう考えて、早苗は「願うことだ」と思った。

 早苗が願ったことは、奇跡を以て現実になる。確率的な可能不可能はその時点では当然分からないため、早苗の“奇跡を起こす程度の能力”はどうしてもランダム性が付き纏うが、それでも砂粒ほどの偶然を問答無用で引き起こすことができる。

 

 少しでも可能性があるなら、見つけたい。あの時吹羽の危機に間に合ったように、早く見つけ出して、優しく抱き締めてあげたい。

 その為に、早苗は願うのだ。

 奇跡はこうやって、人が人を想うという素敵な行為にこそ起こるべきだと、早苗は思った。

 

「(どうか――吹羽ちゃんが無事に、見つかりますように)」

 

 両手を握って空に願う早苗。そんな彼女の姿を、椛は横目にちらりと見遣る。

 その口の端が僅かに緩んで上がっていることに、早苗はもちろん、気が付かなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――好き勝手させていいのかい?」

 

 字面ほど心配などしていなさそうな声色だった。

 相変わらず大型椅子(ソファ)にどかりと腰を沈めながら言うのだからそこに深刻さなど見えるはずもないが、実際どうにでもなるとは自分も思っているので挟む口はない。

 嘘は大嫌いなのに虚言は吐くのか、と若干の呆れを脳内にちらつかせながら、冴々桐 鳳摩は窓から視線を外す。

 対面の大型椅子では、萃香が瓢箪に口を付けていた。

 

「それで良いのですよ、あの娘は。彼女が“友”として動くときは必ず風成 吹羽のため。儂はあの娘にそれ以上を求めておらなんだ」

「求めるも何も、椛の気持ちを利用してるだけだろうに。お前も見方によっちゃ外道だな」

「護るためなら外道でも鬼畜でもなりましょうぞ。美しい外面ではそれに限りがあっていけませんからなあ」

 

 さよか、と返して萃香はまた瓢箪の酒を喉に流し込んでいく。鳳摩はその様子を横目に流しながら己の椅子に腰を下ろした。

 溜め息が漏れる。椛たちの話を盗み聞く(・・・・)限り、天狗としては少し面倒な状況になっているらしい。

 だが、と萃香が前置いた。

 

「結構まずいんじゃないのか、この状況?」

 

 ことん、と瓢箪を机に置く。悩ましげに腕を組んで、萃香は僅かに眉根を寄せた。

 

「吹羽の失踪――正直悪い予感しかしねぇ。追い詰められて自棄になったか、或いはもっと馬鹿なことを考えてるか……いずれにせよ急いだ方がいいだろ」

「現状、椛たちに任せるしかありませぬ。我らはおいそれと動けませんからな」

「まぁ――なあ。紫のやつもなに考えてんのか分からんしなー」

 

 ふぅ、と萃香の溜め息。どいつもこいつも何がしたいのか分かりゃしない、と顔に書いてあるようだった。

 八雲 紫も、博麗 霊夢も、風成 吹羽も。思考を巡らせることをあまり得意としない萃香は、頭蓋を砕いて中身を覗けたらどんなに楽か、なんて物騒なことを考えていそうである。

 とは思いつつ、まぁ一理ある。

 みな好き勝手に動いているものだから何もかもが共有できていない。一人の人間を中心に回っているにも関わらずだ。事態が迷走するのも結末が見えないのも至極当然のことである。

 

「お前は、結構余裕そうな顔してんな」

 

 見ると、萃香が横目に睨んできていた。

 

「わたしとお前の仲だ、お前の考えくらい聞かせてくれてもいいんだぜ?」

「余裕ではありませぬ。どうにかなると思っているだけですぞ、儂は」

「……無鉄砲すぎやしないかい? 流石に」

「いやいや、楽観しているわけでは。単に打開策は考えてあるというだけの話。これでどうにもならなければ、どのみち儂は“戦友”との関係を維持していくことなどできますまい」

 

 にこやか――というにはどうも不敵な色が強い笑み。萃香はよく分からないとでも言うような表情で小首を傾げる。

 それが良い、と鳳摩は思った。良くも悪くも真っ直ぐに力をぶつけることでしか物事を解決できない鬼にとって、これは少々面白くない打開策だろうから。

 

 ――と、鳳摩はふと疑問に思う。まずいと思うような状況なら、萃香は手を貸さないのかと。

 だが返ってきた答えは、

 

「残念だがわたしも好き勝手には動けなくてねぇ。特に吹羽に関することには。ほらあいつ、慎重だろ? わたしも失敗すんのはヤだし、勝手に動かれた上になんかやらかしたら怒られるじゃ済まないからなあ。小難しいことは全部紫に任せてんのさ」

 

 なるほど、どうやら八雲 紫を気にしているようだった。

 曰く、彼女は萃香に協力を要請して吹羽を陰ながら見守っているらしい。あの賢者も大概何を考えているのか分からないが、吹羽の味方と見て良いのだろうか。

 風成 鶖飛の背後にいたという魔人のこともある。あまり敵や不確定要素が多くなるとやはりよろしくないのだが。

 

 ――と気を揉みつつ、結局は椛に全てがかかっている事実を直視する。こうなると立場というものが己を縛り上げる鎖のように見えてならない。

 動こうとすればするほど肉に食い込み、度が過ぎれば己の肉体を引き裂く羽目になる。そしてそれを癒すのにかなりの時間を要するのだ。

 だからこそその隙間から指示を出し、できる手助けだけはするのだが、それをどう活用してくれるかも椛次第だ。

 

 あの子はこれを上手く扱うことができるだろうか。正しい相手に用いることができるだろうか。

 いや、それに悩む意味すらもない。鳳摩はいざ椛にこれが必要になったときに備えて、環境を整えておくことのみを考えればそれでいい。

 鳳摩は吹羽という“戦友”のことを椛に託しているのだ。

 それは全く以って言葉通りの字面通り。申し開きのないほど、椛一人に背負わせてしまっている。

 なんとも情けないな、とは何度思った言葉だろうか。

 

「――さて、では行きますかな」

「んお? どこに行くってんだい?」

「少し、頼み事をしに」

 

 天魔が人に頼み事ぉ? とあり得ないものを見たような声を出す萃香。鳳摩は彼女には反応せず、「留守を頼みますぞ」とだけ言い残して執務室を出た。

 後で怒られそうな対応だが仕方ない。これから鳳摩が行うことを知れば、生粋の妖怪である萃香はよく思わないだろう。これは、天狗族やそれに連なる者共のためなら外道にすらなれる鳳摩だからこそ取れる選択肢。

 

「やっと儂も一肌脱ぐ時が来たようです――凪紗さん」

 

 鳳摩の小さな呟きは、風音の中に掻き消えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 視界の端に夕暮れが迫っていた。

 周囲は既に光り輝く橙色に染まり始め、煌めく太陽はあと少しで山の向こうへ隠れそうになっている。

 頬を舐める風がぴりりと冷たい。幻想郷はただでさえ日が短いのに、冬間近は太陽も一段と駆け足で、ふと気がついたときには暗闇の中にいたりする。人間にはちょっぴり優しくない時期である。

 晴れていたからむしろ感謝だ、と椛は思ってみた。自分でもびっくりするほど冷ややかな皮肉だった。

 

 動き始めてからはあっという間に数刻が過ぎ去った。椛と早苗は人里と博麗神社を除いた知りうる限りの顔見知りを尋ねたが、白い髪の小さな女の子を見たという情報は絶無に終わってしまった。

 みな気を利かせて、見かけたら連絡すると言ってはくれたものの、基本的に外出などしない連中である。全く当てにならない。他の妖怪をこれほど使えないと思ったのは人生でも初めての体験だった。

 

 成果が上がらず早苗もすっかりと落ち込んでしまっている。彼女がこんな調子ではこちらも気が滅入ってしまうのだが、無理もないだろう。

 吹羽が見つかる、という奇跡が起こらなかったのだ。得意分野ですら上手くいかなかったのだから、早苗の気が沈むのも仕方のないことである。彼女に辛く当たるのはお門違いというものだ。

 

 はあ、と溜め息。いったい吹羽はどこに行ったのだ。

 

「全く、使えない人たちばかりですね……」

「ひうっ……ご、ごめんなさい椛さん……私がちゃんと能力を使えていれば……」

「あああいえ早苗さんに言ったのではありませんよ! 他の妖怪たちのことですっ!」

「ぐす……ほんとうですか……?」

 

 失言だった。少なくとも今の早苗に聞かせてはいけない言葉である。

 こんなことにも気が回らないとは、どうやら自分も多少苛々しているらしい。

 

「本当です。早苗さんの能力は必然を覆せない。そもそも上手くいかない可能性のある能力じゃないですか」

「そ、そうですけど……そうなると本当に吹羽ちゃんが見つからないってことに……!」

 

 悲痛な声に、少しだけ言葉を詰まらせる。

 

「……まだ分かりませんよ。奇跡というのは継続するものではありません。もちろん偶然も。今日私たちが向かった場所が吹羽さんの見つかるわけがない(・・・・・)場所だった場合、当然早苗さんの能力は効かないはずです」

「っ! それは……そうかも、です」

 

 と言いつつ、これは苦し紛れの慰めでしかない。偶然早苗にも心当たりがあるようだったので救われたが。

 頬に伝った汗が風にさらわれる。椛は下唇を小さく噛み締めた。後先考えずに失言するなど自分らしくないし、それで人の心を傷付けているのでは救いようのない馬鹿である。私の馬鹿。阿呆め。頭を冷やすのは自分の方なんじゃないのか。

 

「っ、……とにかく、これだけ訪ねて見つからなかった以上やれることは多くありません。ですが多くない以上は、全てやって然るべきです」

「……というと」

「…………あんまり頼りたくはないのですが」

 

 早苗がきょとんと目を瞬かせる。何も思い至っていなさそうな顔だった。だが目の前に見えてきた光景を認識すると、あ、と小さく口を開けた。

 

 「もしかして」。そんな早苗の声に小さく頷く。見えてきたのは妖怪の山――しかし、椛たち白狼天狗の住居よりも標高が高い。そこにも同じように住居が木々に隠れるように建てられており、椛は真っ直ぐにその建物の一つを目指していた。

 

「こんなときに頼れる人といえば、幻想郷中を日々飛び回ってる文さんくらいですよ。……頼りたくないですけど」

「そんなに嫌なんですか?」

「ああ、いえ……こちらの話です」

 

 ある時(・・・)のことを思い出して、少しだけ心がざわつく。心配のようでもあって、大丈夫という楽観のようでもあって、嫌な予感のようにも感じられる。それらがごちゃ混ぜになってしまうと、もはや椛自身にもなぜ心がざわつくのか分からなくなってしまう。

 視線を感じて見遣れば、早苗が少し心配そうな瞳で椛を見つめていた。椛は小さく深呼吸して、ざわつきを振り払うように前を見据えた。

 こちらの話と言った以上は人の心に余計な細波を立ててはいけない。ただでさえ早苗は吹羽のことが心配で、気が気でないのだから。

 

 そうこうとしているうちに、二人は文の自宅の前に辿り着いた。

 枯れ葉を踏み締めて降り立つと、目の前の薄暗くなり始めた木々の隙間にそれは立っていた。やはり表札はないが天狗はみなお互いの家の位置を知っている。陰に潜み虎視眈々とスクープを狙っている彼女らしい上手く陰に溶け込んだ家だった。

 

「帰ってるでしょうか」

「帰ってるでしょう。煮込み料理の匂いがします」

 

 と言ってもほんの僅かだが、と思いつつ、すんすんと鼻を鳴らしては首を傾げる早苗を置いて玄関の前に立った。

 こんこん、と門戸を叩く。――反応はない。

 

「……?」

 

 再度門戸を叩く。

 反応がない。

 もう一度叩く。

 ……反応がない。

 

 イラッとした椛がノックの代わりに戸を強く殴り付けると、今度はどたんがしゃんと音がした。

 

「いるのは分かってるんですよ。居留守を使わずさっさと出てきてください」

「怖い方の警察の人みたいですよ……」

 

 知らん。出てこないのが悪い。

 少しするとようやく戸が開き、中からそろりと黒髪赤目が出てきた。目当ての人物、射命丸 文である。

 椛も久方ぶりに顔を見たが、特に変わった様子はないようだった。

 

「誰? 椛? びっくりさせないでよもう……」

「三回ノックしました。出てこないのが悪いです」

「そ、それは悪かったけど、だからって殴り付けないでよ。お陰で部屋の中ぐしゃぐしゃだし……」

 

 げんなりした表情の文は戸の隙間から顔だけを覗かせている。驚いた拍子に何かを散らかして人様に見せられない状況のようだ。

 ぶっちゃけ失礼な態度なのだが、まぁ文だし、原因は自分らしいのでと椛は溜飲を下げることにした。

 

「それで、何の用? 珍し過ぎて見当も付かないんだけど」

「頼み事があってきました。幻想郷中を飛び回っている文さんなら、知っているかもしれないと思いまして」

 

 訝しげに片眉を上げる文に、椛は例の如く要件を伝えた。

 目を丸くした文は、しかしすぐに真剣な目になって話を聞いていた。やはりこの人は吹羽のことになると良い方に素がでてくる。あの一件を経て吹羽を特別視しているのだろうが、それをもっと多くの人に出してはくれないだろうかと切に思う。

 ――と、話がずれた。

 

 話し終わると、文はしばらく考え込むように手を顎に当てていた。

 指先がとんとんとリズムを刻む。次の言葉を心待ちにしていた二人に、やがて文は申し訳なさそうに瞳を伏せた。

 

「……ごめんなさい、心当たりがないわね。私の速度で椛みたいな目の良さがあれば違ったんだろうけど」

「……そうですか。ありがとうございます」

 

 だめだったか、とは極力顔に出さないよう、椛は簡潔に告げて一礼する。それに倣って、落胆を隠し切れていない早苗も小さく頭を下げていた。

 

「もし何かあればすぐに連絡を下さい、文さん。あまり長く吹羽さんを一人にはしておけません」

「それは勿論だけど……なんで吹羽がいなくなったのか、見当はついてるの?」

「――……いえ」

 

 ……痛いところを突く。それが分かっていればこんな強引な探し方をせずに済んだのだろうが、いなくなる直前まで一緒にいたと言う早苗と阿求が分からないのであれば椛に分かるはずはない。

 椛は小さく唇を噛んだ。

 歯痒い想いというのは、いつだって心に重く圧しかかる。

 情けない話だが、ただの剣では持ち主の心を窺い知ることはできないのである。

 

「――ともあれ、よろしくお願いします」

「……ん。分かった」

 

 ――そうして心にしこりを残したまま、二人は文の家を後にするのだった。

 赤い太陽が山頂から頭を覗かせ、木々の合間にも宵の影が忍び寄る中、早苗は心配そうな声音で尋ねてきた。

 

「こ、これからどうしましょう……こんな時間に吹羽ちゃんが一人でいるなんて、考えるだけで……」

 

 目を向けると、弱音を叱られると思ったのか彼女は少し身体をびくつかせた。椛はそんな早苗をしばし見つめると、確かにな、と目を伏せた。

 吹羽は人間だ。いくら終階を遣えると言っても、妖怪の時間である夜に出歩くのは危険極まりない。早苗の心配は尤もなことである。

 

 だけど、と薄く目を開く。

 人間なのは早苗も同じこと。彼女をこのまま付き合わせるのは、吹羽に及ぶかも知れない危険を早苗に肩代わりさせるということだ。一応友人としてそれはよろしくないだろう、と。

 椛は小さく息を吐いた。

 

「時間切れです、早苗さん。あなたはもう帰ってください。あとは私が引き受けます」

「引き受けるって……でも」

「危険なのはあなたも同じです。半分は人間だということを忘れないでください」

「でも半分は神様ですっ! ちょっとの無理くらい!」

「屁理屈を捏ねないで下さい。心配なのは分かりますが、それで早苗さんが危険に晒されては本末転倒です。本当は分かっているでしょう?」

「――……っ、」

 

 張り切っていた早苗の肩が力なく落ちていく。その無力感も慈愛の心も尊重するが、今は大人しくしてくれと椛は背を向けた。

 冷たい木枯らしが枯れ葉を攫っていく。人間には厳しくなってきた寒空だが、椛の手には変わりない力が込められた。ただ、心が凍てつくような焦燥と心配だけを握り締めて。

 

 ――太陽の光が、ふつと途切れた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 一体何がどうしたのだろう、と文は思っていた。

 それは日常の裏で何かが蠢いているような不気味さが、目の前で突然顔を出してきたような、驚きや困惑に満ちた想いだった。

 別に、椛と早苗が訪ねてきたことになど驚いていない。珍しいことではあるものの、あり得ないことではない。そういうこともあるだろう。況してあの内容だ、情報通である文を頼りに来たという思考回路には納得しかない。

 

 そうじゃない。

 その不気味さが顔を出した瞬間は、決して椛たちの来訪などではなかった。

 

 彼女らが去った後、文は扉を閉めると徐に寄りかかった。

 そして、かちん、と後ろ手に鍵を閉める。得体の知れない、しかし明確に目の前に姿を表したこの事態に、向き合うための覚悟のようなものだった。

 

 短く息を吐いて、廊下を戻る。居間に入り、薄暗くなった室内を見渡して、しかし灯りはつけないままある一点に目を向ける。

 二人が来る前から何も変わらない光景が、そこにあった。

 

「言われた通り、二人とも帰したわよ――吹羽」

 

 ぼろぼろの黒い衣に包まって、部屋の端に蹲る吹羽。

 文の言葉に、彼女はちらりと瞳を動かすだけだった。

 

「何があったのか、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない? 突然押しかけてきてずっとだんまりじゃ、私だって困るわよ」

「……ボクのために、困らなくていいです」

「それなら答えなさいよ」

「…………答える必要が、ないです」

 

 ふつと視線が途切れる。素っ気ないというにもまだ足りないその応対に、文は呆れたような息を洩らした。

 

「じゃあ答えなくていいから、私に何をして欲しいのかだけでも答えて。何かして欲しくて来たんで――」

「いいです」

「……は?」

「何にもしてくれなくて、いいです」

 

 熱のない、無感情な声音だった。

 

「何かして欲しくて来たわけじゃないです。寝る場所と休む場所を少しだけ借りたかっただけです。ボクのことなんて気にしないでください。勝手に来て、勝手に休んで、勝手に出て行きますから」

「……あのね」

 

 そんなめちゃくちゃが通ると思っているのか、と文は頭を抱えたくなった。

 そりゃあ吹羽は友達だ。そう名乗って良いのだと彼女自身が認めてくれた。最近は自分でも分かるくらいに性格が丸くなった気がするし、そのきっかけをくれた吹羽には、なんでも言うことを聞いてあげたいくらいには感謝している。

 けど、今のこれは、何か違う。

 

「私の家は休憩所じゃないのよ? そりゃ頼まれれば泊めるくらいいいけど、その言い方じゃまるで――」

「ボクに構わないでください」

 

 赤の他人みたいじゃない、と。

 そう言う前に、先手を叩きつけられたみたいに文は固まった。

 吹羽はそんな彼女のことを尻目に、本当に関わるなと告げるみたいに顔を埋める。それは明確に文を拒絶する態度だった。勝手に使うから、迷惑はかけないから、何も気にせず何もするな、と。

 そういう、言外な拒絶だった。

 

 文は言葉を失った。

 驚愕で思考が吹き飛んだのではなく、吹羽の言葉を理解しつつも、何を言えばいいのか分からなくなってしまっていた。

 開かれていた心の扉が、固く閉ざされている気がする。

 誰にでも明るく、健気で、優しく、でも誰よりも辛いことを知っている儚い少女の姿は、目の前にはなかった。況して事情も語らず、徹底的に拒絶しながらそれでもここにいさせろ、という彼女の要求は、百歩譲っても友人にする頼み事ではない。

 

 ――いや、ひょっとすると頼んだつもりすらないのかも知れない。ただ風雨を凌げる場所があって、立ち寄ったら家主という先客がいて、でも自分が退く理由にはなり得ない。

 今の吹羽は、まるでそんな感覚だった。鞘を失くして、刃毀れして、表面に傷の絶えない刀のように思えた。

 

(……それでも、と思っちゃうのは、)

 

 拒み切れないのは、一体果たして、なぜだろうか。

 文は諦めた気持ちになって、ようやく居間の灯りを付けた。煮込んでいた夕飯は二人分――さて、無駄に終わりそうなもう一人分は、どう処理したものだろうか。

 

 今の文には、そうやって受け入れることしか、できそうにもなかった。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

 大変お待たせしました。お久しぶりです、ぎんがぁ!です。
 前回の投稿から三ヶ月……気がつけば年を越してました。今更ながら皆さんハッピーハロウィン。あとメリークリスマス。良いお年を。そして明けましておめでとうございます。今年の私の抱負はなんとかして吹羽ちゃんを救ってあげることです、はい。

 さて、突然で申し訳ないのですが、これから先の投稿頻度が大幅に落ちることになりそうです。
 というのも少し挑戦していることがありまして、そちらに大幅に時間を取られてしまうのです。そちらでもしも成果が出たら、改めてご報告したいと思っています。読者皆々様はきっと喜んでくれるご報告になると思うので(いつになるか分かんないけど)。

 ということで、更新は気長にお待ちください。大丈夫、昔のように半年もかかったりしないので!

 ではでは。


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