狭間の小話 (いつかこう)
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パジャマパーティ

アルベドとシャルティアとアウラがパジャマパーティでキャハハウフフするおバカなネタ……のつもりだったんですが、あれー? どうしてこうなった。


「えっと……これでいいのかしら?」

 アルベドが正座して太ももの上で手持ち無沙汰に両手の指を絡めながら、多少不安げな顔でどちらにともなく尋ねる。

 

「で、これからどうすれば良いんでありんすか?」

 アヒル座りをし右腕で枕を抱え、左手の人差し指をぷっくりとした桃色の下唇に当て小首を傾げるシャルティア。

 

「ん~やった事ないからなあ」

 スピアニードルを背もたれ代わりに、頭の後ろで手を組んで足を投げ出し、天井を見上げて考えるアウラ。

 

 こんな感じかな、っと三人で車座になったのはいいが、さてこれから何を話したものか。

 仕事の話をすると言うのも、望まれている事と違うのではないか、そんな戸惑いが沈黙を生む。

 

『けれどアインズ様の勅命とあらば、どうあってもきっちりと果たさなきゃ』

 アルベドは両拳をギュッと握って愛する主人に誓う。

 すでにその固い決意自体がアインズからしたら『あ~っ、もっと気楽にな、気楽に』と言いたくなるものであるが。

 

◇◆◇

 

 ──それは(あるじ)の一言から始まった。

 三人がいつもの口喧嘩をしている時、それを見つけたアインズが(軽く頭を抱えつつ)提案したのだ。

 

「そうだ、パジャマパーティーをやって女性守護者同士で親睦を深めるというのはどうだ。」

 

 敬愛する(あるじ)の提案なら否応もない。さっそくやってみる事にしたのだ。

 場所は第六階層、アウラの自室である。

 もちろんアルベドやシャルティアは、出来ることならアインズ様と……と希望を述べたが、『パジャマパーティーというのは同性同士でやるものだ』という一言で諦めざるを得なかった。

 

 ちなみに全員、ノーマルなパジャマ姿だ。アルベドは白地に青、シャルティアは赤、アウラは黄色の縦縞が入っている。

 色気は無いが、悩んだ末パジャマパーティーというお題目に沿った姿という事でこれに落ち着いた。

 ただアルベドは腰の羽があるのでパジャマの上下の隙間からお尻に近い部分の素肌が覗いており、ある意味マニアックなチラリズムと言えなくもない。

 この場に愛しい人(アインズ)がいないので、アルベドにとってはどうでも良い事だが。

 

◇◆◇

 

突然、シャルティアの頭にペカッと電球が灯った。……電球は知らないので、多分魔法灯かなにかだろう。

 

「そうでありんす! 皆で、自分を創造してくださった至高の御方がどれほど素晴らしいか語り合うと言うのはどうでありんす?」

「おーいいねえ、シャルティアが珍しく良いこと言った!」

「珍しくとは失礼でありんすね」

 素早い茶々にプクッと頬を膨らませつつも、これも珍しくアウラが自分を褒めたため、ドヤッという表情を隠せない。

 

「……いえ、それは止めておいた方が良いと思うわ」

「……どうしてでありんす?」

「うん、なんでさ? 良い意見だと思うけど」

 

 アルベドが静かに異議を唱え、良い気分に水を差されたシャルティアの機嫌が急降下する。

 しかしいつもの厭味ったらしい口調ではなく、守護者統括然とした冷静なトーンだったので一応耳を傾ける。

 アウラも理由が分からず、訳を知りたがった。

 

「考えてごらんなさい。もし至高の御方々の素晴らしさを語り合ったら、ついエキサイトしてお互い自分を創造してくださった御方の賛美に偏ってしまうでしょう。そしてその気は無くても、それが相対的に他の至高の御方を貶める発言になってしまうかもしれない。それは不敬でしょ?」

「え…? う、うん……そう……かな?」

「ま、まあ確かに……そうでありん……す……の?」

 

 なにしろナザリックで一二を争う智者の言葉である。なるほどそういうものかも……と思いつつも、シャルティアもアウラも釈然としない表情をする。

 二人が納得いってないと見て取ったアルベドは、決して勝ち誇ったような表情ではなく、むしろ少し気遣うような目で交互に視線を合わせる。

 

「これは二人……特にシャルティアのためでもあるのよ」

 

 ん? と、シャルティアだけでなくアウラも首を傾げる。

 アルベドは少しの間目を閉じ、そしてゆっくりと開けながら静かに問う。

 

「あなた達、私に議論で勝てる?」

 

 グッと二人がたじろぐ。

 

「私だって、あなた達にタブラ・スマラグディナ様の……素晴らしさ……を語るにやぶさかでは無いわ。でもそれが高ぶるあまり、不敬を犯してしまうのが嫌なの。だってあなた達を創造された至高の御方々……ぶくぶく茶釜様とペロロンチーノ様は御姉弟じゃない。ニ対一になってしまったら、私だってムキになりかねないもの。……本気を出してしまうかもしれないわ」

 

 最後の言葉にはなんの抑揚も威圧感も無かったが……二人をゾクッとさせるには充分だった。

 

「もちろん、これはあなた達が劣っているからじゃない。私はそういう能力を持って創造されたのだし、あなた方もそう。悔しいけれど、いざ本気の1対1の戦闘になったら私はシャルティアに勝てないわ。同じようにアウラの、魔獣達の多彩な能力を使った総合力には到底太刀打ち出来ない。でもこの場で、単なる口喧嘩ではなく理路整然とした議論なら……」

 

「で、でもニ対一ならなんとか……な、なんでありんす?」

 アウラがポンッと肩を叩いてシャルティアの言葉を遮る。その眼は死んでいた。

 

「ね、だからこの話は止めにしましょ? もっと軽い話題にしない?」

 ポンッと軽く両手を叩いてアルベドが微笑む。それはこの場の絶対強者だけに許された余裕の裁定だった。

 

「う、うん。まあそうだね、止めておいた方がいいかも」

「うっ……わ、分かったでありんす……」

 

 シャルティアはまだ納得していない様子だったが、アウラまで乗り気では無くなったのを見て渋々と諦めた。

 以前より物分りが良くなったのは、色々と経験を積んだおかげかもしれない。

 

 それに……もうひとつアルベドの意見に納得する理由を見つけてしまった。

 自分は覚えていないが、デミウルゴスから説明されたあの戦い。その際に、自分がアインズ様に言い放ったという一言。

 

 『アインズ様よりあの御方の方が優れていたという証明では?』

 

 ──NPCにとって自身の創造主が一番なのはその通りだ。それを責めるNPCもいない。アインズ様もそれを咎め立てたりはしない。

 そうであっても……。

 

 あの苦い記憶……正確には説教の記憶……が蘇り、みるみるションボリしていくシャルティア。

 

『そこまで落ち込まなくっても良いのに』

 出来の悪い、外見年齢は自分より上の妹分が何を思い出したかに気づかず、単に自分の提案が没になった事にガックリしていると思うアウラ。

 何か慰めの言葉でもかけてやろうかと逡巡していると、その前にアルベドが、かって見せた事が無いような笑顔をシャルティアに向けて語りかける。

 

「でも驚いたわ。シャルティアが私達より早く、キチンとアイデアを出すなんて」

「なにそれ、嫌味でありんすか?」

 

 上目遣いにアルベドを睨み、拗ねた口調で聞き返すシャルティア。

 しかしアルベドは全く気にせず、いっそ慈愛に満ちてるとさえ言える表情でやんわりと否定する。

 

「違うわ。ほんとに褒めてるの。アインズ様のお見立て通り、シャルティアは成長しているのね。見直したわ。」

「えっ、なっ、なんでありんすアルベド? ちょっと気持ち悪いでありんすよ?」

「あら誤解しないで、私はただ、アインズ様のご慧眼が素晴らしいって言ってるだけよ」

「ふん、そんな事だろうと思ったでありんす」

「でもあなたがそのご期待に沿うようになってきてるのは確かだから、私も認めるしか無いのよねえ。ああ、うらやましいわ。アインズ様に成長を認めて頂けてるなんて」

「……ま、まあアルベドは最初から優秀でありんすから……優秀過ぎるというのも大変でありんすね」

「あらなに、シャルティア、それこそ嫌味? 私なんてアインズ様の深い御心の一端でも理解出来たらって、日々自分の至らなさを思い知らされてばかりなのに」

「そ、それはしょうがないんでありんす! だ、だってアインズ様は別格過ぎでありんす! でも……あ、アルベドの頭の良さは、私だってその……み、認めてるでありんすよ」

「まあシャルティア……ありがとう、励まされるわ」

「な、なんか照れるでありんすね」

「うふふ、そうね」

「くすくす」

 

『……なにこの空気』

 

 一人蚊帳の外なアウラが、少し面食らいながらその様子を眺める。

 普段の二人の間には絶対あり得ない、キャハハウフフな褒め合い。これがパジャマパーティーの効果なのだろうか。

 そうだとしたら……いや、当然そうなのだろうけれど、さすがアインズ様の発想は素晴らしい。しかし……。

 

『うーん、なんかこう、微妙に論点をずらされた気もするんだけど……気のせいだよね?』

 

 それにアルベドが早く話題を逸らすためにシャルティアにおべっかを使ったように見えたのはなぜだろうか。

 もちろん、至高の御方々の話をしたがらないシモベなんて居るはずがないから、さっき説明された通り、誤って不敬になる事を危惧したに違いないのだけれど。

 アルベドの表情が妙に硬かったのは、きっとそのためなのだろうけど。

 

『アルベドの事だから、シャルティアも交えてそんな話をしてたらどういう展開になるか、きっと先が見えたんだろうなあ。アインズ様のご提案で始めたパジャマパーティーだから、出来るだけ穏便に済ませたいって思ったのかな。』

 まだ何かモヤモヤと自分でも分からない、釈然としない気持ちを抱きつつも、アウラはそう思って納得することにした。

 

◇◆◇

 

「……という訳で、なかなか面白い人材なのよ」

「へえ……人間にもそんなのがいるんでありんすねえ」

「アルベドやデミウルゴスと同レベルの頭脳の人間って……ちょっと信じられないね」

「まあある意味、精神の異形種と言うべき突然変異ね。非常に興味深い存在であるのは間違いないし、ナザリックの強化という意味でも価値があるのは確かだわ」

「アルベドが人間にそんな高評価を下すなんて、ビックリでありんす」

「でも領域守護者と同等の地位を与えるなんて……あ、もちろん、アインズ様がご許可をなさった事だから正しいのは分かってるよ」

「そうね、私達だけだったらナザリック外の者に価値なしと一顧だにしなかったでしょう。でもアインズ様がご指示をくださったから、私もデミウルゴスも人間の中にそういった興味深い存在を見つける事が出来て視野が広がったわ。ああほんと、なんというアインズ様のご慧眼! 私達の偉大なる支配者!」

「全くでありんす!」

「うんうん」

 

 結構色々な話をしたが、結局最終的にはすべて「アインズ様最高」という話になる。

 まあアルベドが会話を仕切っている以上そうなるのは当然で、もちろんアウラもシャルティアもそれに異議などあるはずが無い。

 

『ん? これって結局他の至高の御方々を……いやいや、そんな事ある訳無いじゃん。うん』

 自分達と共に残ってくださった、そして至高の御方々のまとめ役だったアインズ様の素晴らしさを語り合う事が、他の至高の方々への不敬にあたるはずがない。そんな事を思う方が不敬だ。そもそもアルベドに言われるまで、考えもしなかった。

 

『ん? あれ? じゃあやっぱり自分の創造主の話をするのも……うーん……』

「どうしたの、アウラ。難しい顔をして?」

「え? あ、いや、あたしそんな顔してた? いやあのさ、蒸し返すようだけどさっきの……」

 

 ハッと我に返り、慌ててそう言いながらアルベドの顔を見たアウラは、またかすかな違和感を覚えグッと声をつまらせた。

 アルベドの目の奥にある、自分を観察するような光り。まるで……。

 ──だがそれは一瞬で消え去り、単にアウラの言葉を待つ興味深げな視線だけがあった。

 

「ん?」

「……あー、なんでもないよ、アルベド」

「なんでありんす、アウラ? 今までの話で言い足りない事でもあったんでありんすか? 雑談でありんすから、どんな他愛ない事でもいいんでありんすよ。むしろそれがアインズ様の御心に叶うんでありんすから。ほれ、遠慮せずに話すでありんす」

 

 さあさあ、とシャルティアが促す。会話の間、自分が何か発言する度にアルベドがさりげなく持ち上げるのですっかり良い気分になり、他者にも寛容になっているようだ。

 

「ええ、シャルティアの言う通りだわ。なんでも話してちょうだい、アウラ」

「あ、いや、だ、だから、なんでもないって。気にしないで」

 シャルティアを手玉に取る気ならいつでも出来たんだなと、改めてアルベドの知性に感心とわずかな(おのの)きを感じつつ、ブンブンと手を振りながら頭の片隅で湧き上がった疑念を否定する。

 

 そう、気のせい。この会話の流れで、どうしてアルベドがそんな気配を発する理由があろうか。

 再びちらっとアルベドを盗み見るが、なんら変わった様子は無い。どう考えても、自分の錯覚だ。

 

『うん、気のせい、気のせい』

 

 そう、あれが……敵意や殺意であるはずがない。

 

「あ、そ、そうそう、そうだ、あ、あのさ、ずいぶん話したけど、それで、パジャマパーティってどうやったらお開きになるのかな?」

「ああ、そうね、思いもかけずすっかり話し込んでしまったわ。そろそろ終わりにしましょうか」

「そうでありんすね。あーっ良い気分でありんす。パジャマパーティってこんなに楽しいものだったんでありんすね。さすがアインズ様!」

「ええほんとだわ。シャルティアの言う通り」

「そ、そうだね……」

 

「そうだわ! 今夜はこのまま三人でかわのじ(・・・・)になって寝るというのはどうでありんす!?」

 シャルティアがまた頭にペカーッと魔法灯を光らせて提案する。

 

「えっ、私の部屋(ここ)で?」

「まあ、素晴らしいアイデアだわ。もうシャルティアったら、今日は本当に冴えてるのね。私お株を奪われちゃってるわ」

「た、たまたまでありんすよ。もう、アルベドったら。お世辞言っても何も出ないでありんすよ?」

「あら私は……」

「アインズ様のご慧眼が素晴らしいって言・い・た・い・だ・け!」

「もーっ、シャルティアってば、先回りされちゃった。ほんとに頭の回転が早くなってるのね、くわばらくわばら」

「ふふん、私も日々成長してるでありんす!」

「うふふ」

「くすくす」

 

『なんだかなー』

 いや、二人が仲良くしてるのは悪い事じゃないけど、やっぱりシャルティアが恋敵(ライバル)の手の平の上で転がされてるだけにしか見えない。

『っていうか、寝間着でやるんだからそのまま一緒に寝るのが当たり前なのかな。いや、確かに私は終わったらなんとなく各自解散なイメージだったけどさ』

 

◇◆◇

 

「自分で提案しておいてなんでありんすが……ちょ、ちょっと照れるでありんすね。」

「あはは、そうだね」

「ふふっ、まあたまには良いじゃない」

 

 アルベドを真ん中に、左にシャルティア、右にアウラが同じベッドの上に横になった。

 なんとなく年の離れた姉妹……いや、もう大きいのに母親に一緒に寝てもらうようせがんだ、甘えん坊の娘達に見えなくもない。

 シャルティアはいつものライバル心はどこへやら、ピトッとアルベドに寄り添いその左胸に薄紅色に染まった頬をスリスリと擦りつけている。

 アルベドもまたそれを嫌がる事無く、さりげなく優しくシャルティアの髪を撫でている。

 アウラも大人しく寝転がったが、こちらは(シャルティア)に付き合いはしたがもう自立心が芽生え照れくささが強くなってきた反抗期直前の上の娘のように落ち着かない。

 そんな(アウラ)の心境を察したかのように、母親(アルベド)がアウラの後頭部に手を回し、自分の胸に引き寄せる。

 

「うぷっ」

 豊満で柔らかな乳房に鼻先や頬を押し当てられ、むず痒いような、照れくさいような気持ちが湧き上がった。

 軽く抗議の気持ちを込めてアルベドを上目遣いに見つめる。

 

「ふふっ」

 アルベドが慈母のような笑みを浮かべる。

 アウラは逃れようと軽く藻掻くが、アルベドが後頭部に当てた手の平と上腕で実にうまくその力を逃して離してくれない。

 観念して、されるがままに大人しくなる。恥ずかしいが、アルベドの胸の感触が気持ちいいのは確かだ。

 シャルティアが猫のようにゴロゴロと甘えているのが双丘の向こうに見え隠れしている。

 

『自分はまあいいけどさ、シャルティア、いつもの調子に戻ったら恥ずかしさで絶叫しないかな。』

 恋敵(アルベド)に結構なネタを握られた気がするんだけど。

 

『ふう、それにしても……』

 

 確かに色んな事を話した気がする。パジャマ姿で無防備な感じだからか、この間地下第六階層(ここ)の草原で語らった時よりもさらに親密になったような。

 ──だがそれだからこそ、今まであまり考える事も無かったアルベドの心境に……普段の守護者統括としての凛々しい公的な姿、とことんダメになるアインズ様への愛に溺れシャルティアとやり合う痴態とは違う、もっと心の奥に秘められたものに関心が赴く。

 

『アルベドは……ひょっとしたら辛いのかな。アインズ様への愛の表現があまりにも強いから普段全然そんな感じしないけど。タブラ・スマラグディナ様の事を話題にするのが辛いほど、寂しいのかな。だから一瞬……。』

 

 しばらくしてアウラはアルベドの腕から解放された。他愛ない戯れの時間は終わった。

 シャルティアはあっという間に熟睡したようだ。息をしていない(アンデットの)はずなのにクゴークゴーと小さなイビキをかいている。

 

◇◆◇

 

「どうしたの、アウラ。まだ眠れない?」

 シャルティアがイビキをかきはじめて30分ほどたったろうか。アウラの身動きと視線を感じたのか、アルベドが仰向けで瞼を閉ざしたまま問いかける。

「えっ、あ、うん……」

 あいまいな返事をすると、アウラはアルベドに背中を向け目をつぶった。

 

 しばらく静かな時間が流れる。

 

 クゴー クゴー

 

 シャルティアのイビキだけが沈黙を破っている。

 けれど敏感な聴覚を持つ闇妖精(ダークエルフ)なら叩き起こして文句を言いそうなその音も、今は全く気にならなかった。

 

「──ねえアルベド、まだ起きてる?」

「なに?」

「……いつかさ」

「……」

「いつかきっと、至高の御方々がお戻りになられる日が来るよね」

「……」

 

 不自然なほどの沈黙。やはり触れてはいけなかったんだろうか。

 アルベドの、創造主(タブラ・スマラグディナ様)に対する想い。激情。

 もちろん、自分の創造主(ぶくぶく茶釜さま)に対する想いが劣っているなど露ほども思わない。

 それでも、それぞれのNPCの性格というものがある。アルベドは守護者統括として、辛さを深く心に溜め込んでいるのではないか。

 アウラは、かえって余計なお世話かもしれないと思いつつ、どうしてももう一声かけずにはいられなかった。

 

「だからアルベドもきっと……タブラ・スマラグディナ様にお会い出来る日が来るよ、絶対」

「……」

「……」

 

「……ええ、そうねアウラ、ありがとう」

「……おやすみ、アルベド」

「おやすみ、アウラ」

 

 短い沈黙の後のアルベドの返答は、とても、とても静かで穏やかだった。

 なんの……感情も込められていないような。

 あるいは無限の色彩を持つ感情が凝縮されて、真っ白な一粒の結晶になったような。

 

 真っ白……いや真っ黒……かな? 真っ黒……? どうしてそう思う……んだ……ろ……。

 

 アウラはうつらうつらとした意識の中でボンヤリとそんな事を考えていたが、やがて深い眠りの海に沈んでいった。

 

 

 

 ──安らかな寝息を立てる闇妖精(ダークエルフ)とイビキをかく真祖吸血鬼(トウルーヴァンパイア)に挟まれた淫魔(サキュバス)

 暗闇の中、彼女の金色の双眸がいつまでもいつまでも天井を見つめていた。──

 

 

◇◆◇

 

 翌日、アルベドは毎日の業務報告の後、アインズに昨夜のパジャマパーティの様子をかいつまんで説明した。

 アインズ褒めの部分はいつものように……当人に遮られてしまったため泣く泣く断念したが、しかしそれ以外に実のある話など、全くした覚えがない。

 とにかく雑談、ただの雑談だった。あれで良かったのだろうか。

 だが恐る恐る話したその内容に、アインズはとても穏やかな笑みを浮かべたように見えた。

 

 「ははっ、そうかそうか。実に楽しそうではないか。うんうん、そうやって仲良くしているのが一番だ」

 

 アルベドは首を傾げる。全く生産性が無い、他愛のない会話。ナザリックのためになんら益するとも思えない無駄。しかし(あるじ)は、それがとても良いという。なぜだろう。

 正直、良く理解出来ない。けれど、それで愛しの御方が笑みを浮かべてくださるなら、それは正しい事。きっと御身に比して凡庸な自分には、想像し得ない利益があるのだろう。

 

 「はい、パジャマパーティ、また開きたいですわ」

 

 アルベドはいつも通り、この世で唯一愛する(・・・・・・・・・・)主人に向けて最高の微笑みを浮かべ、ウキウキと弾んだ声で答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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椅子

デミウルゴスならあの事を知ったら普通にちょっと呆れたという反応しそうですが、
こんな彼でもいいじゃないかと妄想してみました。
種族が持つ耐性とか自在に切れるのか分かりませんが、そこはご容赦を


「……なんと!」

 

 デミウルゴスは、普段の冷静沈着な彼には似つかわしくない声を上げた。しかも、静かなバーの片隅で。

 

 バーの主人(マスター)である茸人間(マイコニド)のピッキーは、思わずグラスを拭いている手を止めた。

 しかしいつもなら常に周囲にさりげなく気を配り観察しているデミウルゴスが、そのマスターの反応にすら全く気づいていなかった。

 そしてピッキーもわざわざ非難がましく、わざとらしく咳をして咎めたりはしない。

 

 TPOをわきまえ、マナーも酒の飲み方もまさにこのバーに相応しい客NO.1……もちろんアインズ様はじめ至高の御方々を除いてはだが……の悪魔が思わずそのような声を出すという事は、それだけの大事件が起きたという事だからだ。ならば受け流すのが自分の務め。

 

 そのあたりの、マスターと客との信頼関係はピッキーがバーに最も望む事の一つだ。

 『最後を看取ってくれるのは、家族と主治医とバーのマスターだ』という言葉は、どこで知ったのだろうか。

 マスターとはそれほど客に信頼される存在であるべきであり、できるうるならば客もまた…マスターの敬意を受けるに足る存在である事が望ましい。

 どこぞの酒の味も分からない吸血鬼とは違って、デミウルゴスはまさしくそういう客なのだ。

 

 そして、当のデミウルゴスは最初の衝撃が収まるとすぐに自分の非礼に気づき、ピッキーに対し申し訳なさそうに会釈し「失礼」と詫びた。

 ピッキーは黙ったまま『お気になさらずに』という気持ちを込めて軽く会釈を返した。

 そもそも今、店内にはピッキーの他にはデミウルゴスと、その同僚であり友であるコキュートスの3人しかいないのだ。

 

 デミウルゴスは居住まいを正すと、小さな声で友に確認する。

 

「君が……アインズ様の椅子に……」

「ウム」

「なんと……」

 

 うらやましい。

 

 デミウルゴスはグラスを傾け、《ナザリック》──色合いは美しいが、味はまだ残念ながらまだその名に相応しいとはいえないカクテル──と共に、友への羨望の言葉を流し込んだ。

 

「いかがでしょうか?」

 ピッキーは静かに尋ねる。最も信頼出来る舌を持つ悪魔に、以前から《ナザリック》改良のための意見を聞いているのだ。

 

「ふむ……前よりは良くなったと思うが……そうだね、もう少し辛味が……うん」

 

 彼らしくもなく、どこか散漫で具体性の無い感想。心ここにあらずといった雰囲気に、ピッキーもそれ以上は聞かなかった。

 デミウルゴスもすぐに味の事は忘れ、グラスを弄びながら軽く妄想の世界に浸る。

 

 自分も賜れないだろうか。あの偉大なる至高の御方の椅子になるという栄誉。

 しかし罰を受けるためにあえて失態を犯すなど、主人に忠義を尽くす者として許せる事ではない。

 

 ──では褒美としては?

 

 だがアインズ様がシャルティアを椅子にしたのは罰としてであり、今回もコキュートスの願いであるとは言え、やはり名目としては罰だ。

 それを褒美として賜るような願いはありなのだろうか。

 

 ……無しだ。

 

 慈悲深き魔導王は、矮小なるシモベの浅ましい願いを叶えてくださるかもしれない。

 それでも、その御心には微かな失望が(よぎ)るかもしれない。

 デミウルゴス、お前の願いとは、褒美とは、わざと罰を受ける事なのか……と。

 

 ──恐ろしい。

 

 煉獄の悪魔をして、ブルッと寒気を催す想像。

 主人に微かでも自分への失望が……それも失態ではなく、願いによって生まれるなど。

 

 ──ああ、それにしても羨ましい。

 

 シャルティアが椅子になった時も、羨ましいという感情は確かにあった。

 呆れはしたものの、アルベドの反応も充分に理解出来た。あの場では、その気持ちは全く態度に表さなかったが。

 ……それとも、端倪(たんげい)すべからざる智謀の王たる主人は自分のその気持ちにも気づいておられたのだろうか。

 だが今回は、その時よりも遥かに羨望の気持ちが強い。なぜだろうか。

 自分と同じ、男であるコキュートスが賜ったからなのだろうか。

 

「ダガ、アインズ様ニハ失望サレテシマッタヨウダ。シャルティアノ方ガ座リ心地ガ良イト仰ラレタ」

「……」

 

 デミウルゴスは自己嫌悪を感じた。この実直にして勇壮なる友への嫉妬と、そして不評だったと聞き自分の心によぎった微かな安堵感に。

 

 なんと恥ずかしい。

 

 他人の不幸をあざ笑うのは悪魔として当然であるが、それは外部の者に対しての感情であり、ナザリックの、ましてや自分と同じく至高の御方に直接創造されたNPC(仲間)に対する感情では、断じて無い。

 

「すみませんね、コキュートス」

「?」

 

 小首を傾げるコキュートスには答えず、じっとグラスの中の酒を見つめる。

 デミウルゴスは思う。コキュートスに対する感情は、あの事が関係しているのだと。

 

 ──アインズ様は私の椅子には座ってくださらなかった。──

 

 シャルティアへの罰があったにせよ、やはりお気に召さなかったのだろう。

 信じがたいほど優しい我が(あるじ)は、単なるシモベにすぎない自分の気持を(おもんぱか)ってくださったに違いない。

 得々としてあの稚拙な椅子を披露したのが恥ずかしい。褒めていただこうと考えたのは余りに不遜だった。

 卓越した審美眼を持ち、宝物殿の無数の宝──その中には至高の御方々が座るに相応しい椅子も多く含まれているだろう──をご覧のアインズ様にとって、自分の椅子はどれほどみすぼらしく見えたのだろう。

 そう言えばあの時、私の椅子をご覧になったアインズ様はわずかに後ずさりなされた気がする。

 その後シャルティアに座り「すまんな」と仰られたが、あれは自分が傷つかないように本当の言葉を飲み込まれたのでは無いか。

 

 ──デミウルゴス、お前は本気で、私をこのみっともない椅子に座らせるつもりだったのか……?──と。

 

 ああ、恥ずかしい。私は今の今まで、それに気づいていなかったのか。全く、ナザリック一の知将が聞いて呆れる。

 アインズ様の抱きまくらや空想のお子の産着を作って悦に入るアルベドと、何が違うというのか。

 ……ああもちろん、敬愛ゆえの行為だ。そこに一片のやましさもない。だがそれにしても……恥ずかしい。

 

 この失態を償うすべはあるのだろうか。新たな椅子を作るにせよ……いや……。

 今の自分の技量で、至高の御方にご満足頂ける椅子を創るなど不可能だろう。ならば……。

 

 再び、先程否定したビジョンが浮かぶ。

 

 四つん這いになり、いと気高き御方の椅子となっている自分の姿。

 その偉大なる玉体の重みを全身で受け止める至福の時。

 

 それは抗いがたい誘惑だ。

 

 自分とて、シャルティアやコキュートスと同じ階層守護者なのだ。

 アインズ様の椅子となりうる資格は有していると自負している。

 

 だが……私の背中というのは、果たして椅子として座り心地が良いのだろうか?

 細身ではあるが、こう見えて筋肉質だ。堅くゴリゴリとしていて不快になられるのではないか。

 いや、シャルティアとてあの小さな体ではアインズ様も座りが悪かったのでは無いか。

 そう言えばアインズ様は時おりモゾモゾと姿勢を変えていらしたような。

 そしてコキュートスはシャルティアより座り心地が悪いと明言された。

 なら、シャルティアより体躯が良くコキュートスより背中が平らな私の方が……!

 

 ゴンッ

 

「?」

 

 コキュートスは目を見開……常に見開いているようなものだが、とにかくそういう反応をした。

 ピッキーも同じく目を……どこにあるのか、そもそもあるのか分からないが、やはりそういう反応をした。

 あの、紳士という言葉をそのまま具現化したような友であり客が、バーのカウンターに音を立てて額を打ち付け突っ伏したからだ。

 だが当の本人は自身の行為に気づきすらせず、自己嫌悪と羞恥に(もだえ)ていた。

 

 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい……!

 

 友を、少女を、共にアインズ様を支えるべき同僚を自分と比較し、悦に入るとは!

 ああ、デミウルゴスよ、お前の器とはそれほどちっぽけなのか!

 知性のベールで誤魔化しているその魂は、それほどまでに卑屈卑小なのか……!

 

 ああ、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい……!

 

 ゴンッ ゴンッ ゴンッ

 

 コキュートスは目を丸く……元から硬質の球形状だが、とにかく丸くした。

 ピッキーも……まあとにかく丸くした。

 

 NPC一の知性の持ち主が、その貴重な頭脳を(くる)んだ頭蓋を硬いカウンターの板に細かく連続で打ち付け始めたからだ。

 

 ああ、わが(あるじ)よ、偉大なる魔導王陛下よ、今こそこの哀れなるシモベに罰をお与え下さい。

 罰を! 罰を! 罰を……!

 

 ……そうだ!

 

 ガバアッ!

 

 デミウルゴスは突然起き上がり天井を見据えた。つられてコキュートスとピッキーも見上げた。

 複眼のコキュートスの視野ならわざわざ見上げる必要もなく、ピッキーは体ごと上を向かなくてはならないので一苦労だったが、とにかく見上げた。

 (はた)から見ると渋いバーで悪魔紳士と蟲王と茸人間が何もない天井を見上げてるシュールな絵面(えづら)である。

 デミウルゴスはそのポーズのまま、再び己の思考に没入する。

 ──自分が空気椅子の形を取り、そこに座っていただくというのはどうだ!

 そうすれば私の上半身が背もたれとなり、よりアインズ様はおくつろぎくださるだろう!

 LV100のNPCである私ならば、その形で揺らぐ事無く……敬意ではなく重みにならば……耐えられるはずだ。

 背中に座って頂くよりも、その方が……いやいや待て待て、私の細い二本の太ももの上など不安定この上ないのではないか?

 何よりアインズ様の大柄なお体では気高き腰骨がはみ出してしまうのではないか!?

 ダメだ! これではダメだ!

 考えろデミウルゴス、お前の知性は何のためにある! なにか、もっと何かあるはずだ。素晴らしい解決策が……!

 

 クワッ! ピカーン!

 

 眼鏡の奥のダイヤの瞳が大きく見開かれ、バーの照明に反射し光を放った。

 コキュートスとピッキーはその眩しさに目を細め……ええい、無理。どちらも無理だから。

 

 デミウルゴスの脳裏に天啓が走る。

 

 ──おおおお! そうだ、私が中に入った革椅子に座っていただくというのはどうだ!

 聖王国両脚羊(アベリオンシープ)の革の上質な部分だけを繋ぎ合わせ外皮とし、その中に私が空気椅子のポーズで入る。

 こうすれば、より座り心地も安定性も増すのではないか!?

 

 デミウルゴスは期せずしてデカダンスの巨匠と同じ発想に行き着いた。

 悪魔的発想の帰結としては不思議では無いのかもしれないが。

 

 ベースにはあの骨椅子を使えば良いだろうか。

 だが、至高の御方に座って頂けるに足る心地よい肌触りの聖王国両脚羊(アベリオンシープ)の革を用意出来るだろうか?

 ……農場にそれ専用の聖王国両脚羊(アベリオンシープ)を育てる部署を作るか。一番良いのはやはり若い雌の革だろうか?それとも子供?

 たっぷりと良い飼料を与え、運動をさせ、マッサージし、愛情を込めて育てる。おお、教育も必要かもしれない。愚鈍な雌よりも知性を持った雌の方がよりふさわしいはずだ。愛と知をたっぷりと含んだ革は、きっと張りの素晴らしいものなるに違いない。さっそくプルチネッラに準備をするよう……。

 

「…デミウルゴス」

「……ハッ!?」

 

 呼びかける声に、悪魔はフッと我に返った。

 友とバーテンダーが、いぶかしげな表情を浮かべている。……浮かべているったら浮かべている。

 

 あっ……。

 

 急激に、理性が舞い戻る。

 

『……私は……何を考えていたのだろう。』

 

 何を喜々として、子供のような発想をこねくり回していたのだろう。

 つい今しがたまで最高のアイデアと思っていたものが、急に色褪せる。羞恥に、わずかに頬が赤く染まる。

 

「酔ッタノカ」

「……ええ、少し」

 

 酔い……。そう、酔っていたのか。

 今日は毒耐性を切って酒……アルコールを楽しんでいた。

 そして珍しく深酒をしてしまい理性を失っていたようだ。

 

 なるほど、だからこその醜態、全くみっともない…。

 

『……いや。』

 

 たまには悪くない。

 

 知性という鎧を脱ぎ捨て、自分の心の奥底にある抑え込まれた卑小な、しかし切実なる願いを開放してやるのも。

 愚かしいが、確かに素直な望みだったのだ。それを認識出来た事をあまり自己嫌悪してもしょうがない。

 

 そして、自分でも気づかぬ、内に秘めた馬鹿げた願望を吐き出した今だからこそ、さらにハッキリと認識出来る事がある。

 

 自分が成すべきことは、我が身を椅子とする事ではない。

 アインズ様に、世界の支配者という玉座に座って頂くために粉骨砕身する事だ。

 

 そう、あの御方は、形あるどれほど素晴らしい椅子よりも自身が座るに値する玉座を作れと、私に命じてくださっているではないか。

 それはどんな美酒よりも我が身を酔わす、名誉ある任務。

 

『ああ……そうか……。恥ずかしい。真に……私はなんと愚かな勘違いをしていたのだ。』

 

 あの時、すでにアインズ様はそう示してくださっていたではないか。

 あの逡巡はそうではない。稚拙な椅子への躊躇いでは無かったのだ。

 あれはただ、こう仰りたかったのだ。

 

 ──違うだろう、デミウルゴス。お前が作るべき椅子はこれではない。──と。

 

 シャルティアにお座りになったのも、その暗喩だったのだ。

 お前たち守護者が全身全霊で身を賭して築き上げる魔導帝國こそが、私にふさわしい椅子なのだ、と。

 それはまさしく、お前達自身に座る事なのだと。ならばオモチャのような椅子を作る暇などあるのか……と。

 ああ、なんという事だ。あれほどまでに分かりやすい例えに、私は全く気づいていなかったのか……。

 

 あの場でそれに気付けるのは私とアルベドだけ。

 シャルティアと恋敵にあるアルベドが嫉妬に狂いそれに気づかない事までも計算なされていたのならば、まさに私に直接語りかけて下さっていたのだ……!

 私ならそれで気づけると、信頼してくださったが故の喩えだったのだ。

 そして……曲がりなりにも守護者の間でもっとも知恵がある者として創造された私が恥をかかぬよう、他の守護者達に分からぬように(たしな)めて下さったのだ。

 なんというお優しさ。ただのシモベにすぎない私に、それほどの気遣いをしてくださるとは……!

 

 なのに私はたった今、これほどまでに時間を掛け、アルコールの力を借り、自身の内面の欲望に目を向けた後にようやくそれに気づくとは……!

 

 おお、アインズ様。知恵者として生みだされたはずの私やアルベドの、遙か先を行く智謀の王よ。

 一体貴方様は、どれほどの忍耐をもって愚鈍な我らを見守っていてくださるのか。

 まるで幼子が出来得る限り己の足で歩む事を願う慈父が如くなのでしょうか。

 

 ──ああ、王よ。我らが偉大なる魔導王よ。──

 

 何も見えぬ愚者の群れにただ一人佇み、御自らの光のみを頼らざるを得ない至高至上の叡智の御方よ。

 その落胆、悲嘆、孤独はいかばかりか、私ごときに理解出来るはずもなく。

 

『ですが、それでもなお……』

 

 なお私は自身の愚かさに悶え、至らぬ事に恥じいながらも、あなた様に仕えます。

 私に出来るのは、あなた様の万分の一の知恵を振り絞り粉骨砕身する事だけです。

 王よ、愚かなシモベがお側に仕える事をお許しください。御身の玉座を創り献上する事をお許し下さい。

 

 

 王よ。我が王よ。至高の御方よ……。

 

 

「──デミウルゴス?」

 

 再び沈黙し己の思考に没頭している同僚。

 自身より遥かに優れた知性と洞察力を持つ彼の思索を邪魔してはいけないとジッと待ち続けていた蟲王が、また恐る恐る小さな声で呼びかける。

 デミウルゴスはゆっくりと友の方を振り向くと、コキュートスがもう一度問いかけたいだろうセリフを読み取り、微笑みながら答えた。

 

「ええ、酔いました。……いえ、常に酔い続けています。」

 

 悪魔は僅かに残っていたカクテルを飲み干すと、献杯するかのように空のグラスを掲げ間接照明の光に当てながら、友に言うともなく呟いた。

 

「アインズ様に、ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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蜥蜴娘の恋

かなり以前に書いたけど完成寸前「どこに需要があるんだ、これ」とふと我に返り保留にしていたネタです。アニメ二期でリザードマン編が始まった時にも「載せるなら今しか……!」と思いつつ「でもどうよ、これ」と躊躇ってるうちにw まあまさかの第三期も始まる事ですし枯れ木も山のなんとやらで、気が向いたら読んでいただければ幸いです。
蜥蜴人(リザードマン)の名前については法則が分からないので適当です。ご了承下さい。


 

 その蒼白く輝くお体を、美しいと思う。

 

 仲間達はもちろん、その御方に非常な敬意を払っている。

 だが、私のように恋心を抱いてしまった者はいないだろう。

 

 私は蜥蜴人(リザードマン)のメスとしておかしいのかもしれない。

 若いとはいえ肉体的には充分に子を産めるまで成熟していながら、同族のオスに発情した事も求愛を受け入れた事も無かったのに。

 その自分の特異さは理解している。だから、誰にもその秘めた心を打ち明けない。

 

 あるいは、ザリュース・シャシャ様なら理解してくださるかもしれない。

 ご自身が、私達の世界では忌み嫌われていた白い皮膚の……あの方を娶ったのだから。それも、一目惚れだったという。

 

 だがそれでも、クルシュ・ルールー様は同族だ。

 今となっては……ナザリックの下僕(しもべ)となり、そのあまりに多くそして優れた異形の方々を目にした後では、皮膚の色などなんとささやかな違いだろう。

 世界を旅し様々な種族と触れ合い、狭い村の中で発酵したドロドロの偏見に色濃く染まらなかったザリュース様は、いち早く同族であるメスの、その封じられていた美しさに目を奪われたというだけだ。

 

 だが私が恋した御方…コキュートス様は異形種、それも蟲族だ。

 もちろん蟲族とはいえ、私達蜥蜴人(リザードマン)より遥かに高位種であり、大半が私達より強く優れたナザリック内においても最上位の御方なのだけれど。

 

 私はその御方に、道ならぬ恋をしてしまった。

 

 

◇◆◇

 

 

「名ハ。」

「カリューシャ・ラーラと申します。蜥蜴人(リザードマン)の集落におけるコキュートス様のお世話役をさせて頂きます。」

「ソウカ。ヨロシク頼ム。」

 

 そこには見下すような響きも高圧的な態度も、何もなかった。

 己の巨体にか細い小娘が怯えないよう気遣うような、優しげな返答。

 大役に緊張し震えていた私は、ただその一言で心を鷲掴みにされた。

 

 同族であったなら、優しい言葉をかけてくれたたくましいオスに一目惚れしても、なんら不思議な事ではなかっただろう。

 だが私は巨大な蟲に──無礼な表現だけれども── 一瞬で心を奪われ、呆然と立ち尽くしたのだ。

 ハッと気づくとコキュートス様は族長の小屋に行くために立ち去っており、私は慌てて後を追った。

 

 その広い…とても広い背中を見つめながら、私は自分の動揺が何から来たものか分からず、混乱した頭とそれによって引き起こされる尻尾の動きを必死に抑えようと苦労していた。

 

 それが恋心だと理解するまでには、かなりの時間が掛かった。

 

 

◇◆◇

 

 

 それから時折、村に滞在なさる……ほとんどはそこから男達を連れて訓練のための遠征にいかれるので、極短い間……私はコキュートス様のおそばに仕える事になった。

 とはいえ、その周りにはナザリックのシモベの方々が常にお供としてつき従っており、私がお伝えしたい事は殆どの場合お供の方が私に聞き、それをコキュートス様に取り次ぐ、という形なので、直接お声をかけて頂く事も皆無といってよかった。

 そしてそもそもが、私が伝えるような用事など数日に一度あるかなしかでしか無かった。

 

 コキュートス様の眼…そのキラキラと煌く美しい複眼には、私はほとんど入っていなかったろう。

 いえ正確には、視野に入っていても存在自体が意識に上らなかったと思う。それは仕方がない。

 コキュートス様はお忙しい方だし、なにより蜥蜴人(リザードマン)の小娘など、下等種の群れの一匹でしか無いのだから。

 お世話役というのもほとんど有名無実化し、私はただコキュートス様の回りをチョロチョロとうろつく事を許された小娘でしかなかった。

 

 

◇◆◇

 

 

 私達蜥蜴人(リザードマン)は、ナザリックとの戦に敗れその配下となった。

 

 強者が弱者を踏みにじるのは世の常。家族を失った者達に哀しみはあるが、怨みはない。

 正々堂々、真正面から戦い敗れ、そして敗北の後も全く辱めを受けていないのだから。

 コキュートス様は死んだ戦士達に深い敬意と弔意を示してくださった。

 その勇気を讃え、妻に子に、夫や父を誇りに思うよう伝えた。

 敗れた部族が徹底的に陵辱される事も稀ではない蜥蜴人(リザードマン)同士の闘いや蛙人(トードマン)達との争いの後に比べれば、なんと清々しい敗北だろう。

 

 そして降伏した私達蜥蜴人(リザードマン)に与えられたのは、信じられないほどの高待遇。

 部族間で愚かな争いを繰り返してきた私達は、その戦いの大半の原因だった飢えから解放された。

 

 私達はいずれ、ナザリックの軍勢に殺された者達を遥かに超える数に増えるだろう。

 オス達は死の危険すらある厳しい訓練の日々に明け暮れているが、誰もがそれに誇りを持ち生きがいを感じている。

 その強大さの一片にでも触れれば、あの方々にとって私達は…それこそ生け簀の魚ほどの価値もないはずだと分かる。

 にも関わらず、我らの誇りを奪わず、そればかりか食と新たな誇りを与えてもらった。

 どこに恨みの感情を引きずる理由があろうか。

 

「スベテハ、アインズ様ノ恩寵ダ。」

 

 その待遇に感謝と敬意を払う私達に、コキュートス様はそう仰る。

 

 ──アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下。──

 

 村にはその恐ろしくも神々しい御姿を(かたど)った立像が祀られ、日々お清めされ様々な供物が捧げられている。

 ナザリックを統べる御方であらせられ、湖を凍らせ、死者を蘇らせる事すら容易な死の支配者(オーバーロード)

 この世に顕現した神の存在はあまりにも遠く、現実味の無い畏怖しか感じない。

 そしてコキュートス様と同格だという守護者の方々にも。

 

 その中で時折村を訪れになる闇妖精(ダークエルフ)のお二方は、私達から見てもとても可愛らしい──子供というものは種族を超えてそう感じるものではあるけれど──外見をなさっているが、時折、内に秘めた底知れない力と闇が見え隠れし、背すじを凍らせる。

 ──特に、マーレ様の方に。

 アウラ様は気楽な口調で話しかけてくださるが、その言葉の端々に私達の存在など歯牙にもかけないという上位者としての尊大さを露わになさるので、まだ分かりやすい。

 

 だが、私達にすらつっかえつっかえ、とても丁寧な口調で話しかけて下さるマーレ様の方は……その瞳を見る事すら恐ろしい。

 他の蜥蜴人(リザードマン)が、もちろん充分な敬意を払いながらだけれど……平気で会話出来るのが不思議なくらいだ。

 

 ただ一度たまたま会話をする機会があった時、恐れからマーレ様以上につかえながら言葉を返す自分に見せた、あの底知れない……なんだろう? 

 殺意? 怒り? 憤り? ──そんな言葉では表しきれない、ドロドロと渦巻くどす黒いなにか。

 

 なぜか頭に浮かんだのは『僕の真似をするな……!!』という、物凄くハッキリした口調の恫喝だった。

 決して口にも態度にもお出しになっていない。心に直接伝わる魔法を使われたような感じもしない。

 しかし、そう脅された事には疑いようのない確信があった。おぞましい、巨大な悪夢に包みこまれるような恐怖。

 私はただ硬直し、顔を伏せ尻尾を丸め恭順の意を示すのが精一杯だった。

 

 そんな私にマーレ様は『ど、どうかしましたか……?』と、きょとんとした顔でお尋ねになった。

 その、道端に落ちている石ころを見るような無感動な眼で。

 

 ──私はあの御方が恐ろしい。心底から恐ろしい。

 

◇◆◇

 

 けれどコキュートス様からは強大な力を感じても、そういった心の闇が見受けられない。

 誇り高く猛々しい武人、その一言で言い表せる。その信じられない強さを別にすれば、私達でも理解出来るお心の持ち主だ。

 村で散々見てきた雄の戦士達と、そう変わらない。

 種族として最も遠く離れていそうなその御姿とお声の主が最も自分達に近く、親しみを持てるというのは何か不思議な感じがする。

 

 まことしやかな噂では、本来皆殺しにされるはずだった私達を、魔導王陛下への命をかけた進言で救ってくださったのがコキュートス様だという。

 また、ご自身が戦い命を奪ったザリュース様達の復活を懇願したのも。

 自分より遥かに弱い戦士の、その勇敢なる魂に感銘を受けたのがその理由だと。

 他のナザリックの方々が、そのような理由で私達を庇ってくださるとは……不敬ながら思えない。

 ひょっとするとコキュートス様は、ナザリックの中でもかなり特異な方なのではないだろうか。

 

『私がそうであるように……。』

 

 勝手に共通点を見つけ、愉悦に浸る。はたから見れば何と滑稽なのだろう。

 けれど、私は幸せだった。心の中で何度も何度も愛しい方に告白する。

 決して現実に口にする事の出来ない、甘い語らいかけをする。

 

『貴方様にとっては、下位種族のメスなど物の数でも無いでしょう。ですがお慕い申し上げております。お慕い申し上げております。私の全身全霊を賭けて、お慕い申し上げております。』

 

 祖霊に誓って、と言えないのが悲しいところだ。

 私のこの歪んだ、分を超えた恋心は、決して祖霊に認めてはもらえないのだろうから。

 

 

◇◆◇

 

 

 夢を見た。

 

 私はコキュートス様に組み敷かれ、そしてそういう行為に及ぶ…のではなく、生きたまま食われている。

 あの巨大な上顎が私の首筋に突き刺さり、激しい痛みが全身を貫く。ショックで尻尾がビクンビクンと痙攣する。

 コキュートス様は煩わしげに、四本の腕のうちの一つで尻尾を掴むと根本から引きちぎった。

 名状しがたい激痛に絶叫する。だが同時に心は激しい歓喜に満ち溢れ、例えようのない快楽の絶頂に達する。

 己の血で真っ赤に染まっていく視界の先にある、愛しい御方の顔を見つめながら私は懇願する。

 

 ──食べて下さいませ! 私をコキュートス様の血肉にして下さいませ……!──

 

「……!!」

 

 私はかすれた悲鳴を上げて飛び起きた。

 ブルブルと震える我が身を抱きしめながら、その夢……悪夢と言うべきか、淫夢と言うべきか……を振り払おうと頭を振る。

 愛する御方に生きながら食われるという夢想に、まごうことない性的な愉悦を感じてしまった自分が恐ろしい。

 

 ザリュース様ですらそれを知ったなら戦慄し、穢れを祓うため私を追放なり処刑なりするかもしれない。

 いや何より、村の直接の支配者であるコキュートス様に懸想(けそう)し、悍ましい肉欲を感じたなどと、もしご本人やナザリックの方々に知られてしまっては蜥蜴人(リザードマン)全体にとって多大な不利益となるという事を恐れるという、現実的な理由でそうするかも知れない。

 それは正しい判断だ。

 

 一体これはどんな呪いなのだろうか。私はどんな呪いかけられてしまったのか。恋の呪いと言うにはあまりに悍ましい欲望。

 

 ……いや呪いなどと、なにか外側に原因を求めるのは間違いだ。これが私なのだ。蜥蜴人(リザードマン)の異端児。

 呪いというなら、私の存在そのものが呪いなのだろう。クルシュ・ルールー様の外見などとは違う、心底呪われた魂。

 

 いっそ自分で命を絶とうかとも思ったが、それも断念した。

 自ら死を選んだ者の魂は呪われ祖霊との繋がりを断たれ、永久に血と汚泥の沼の中で腐った魚の汁を啜り彷徨う地獄に落とされる……という部族の言い伝えを信じたから……では無い。

 自身が呪いそのものであるのに、何を今更そんなものを恐れるのか。

 

 私はただ、どれほど心が苦しくとも、少しでも長くコキュートス様のお姿を見ていたいという自分自身の浅ましい欲望に忠実だっただけだ。

 

 

◇◆◇

 

 

 私はまた、そのような悍ましいものではなく、自分でも子供っぽいと恥ずかしく思う妄想もしてしまう。

 強大な戦士であるコキュートス様が危機に陥り、私が盾となって守り傷つき、その4本の腕で優しく抱かれながら死ぬのだ。

 

 だがコキュートス様のお体は、蜥蜴人(リザードマン)最強の戦士であるザリュース様の伝説の武器、フロストペインでも引っかき傷すら作れないという。

 またその隙の無さは蜥蜴人(リザードマン)で考えうる限りの最強のチームがあらん限りの知恵と力を絞り命を投げ打ち、ようやく一太刀当てる事が出来た事が奇跡だったと、当のザリュース様ご自身が敬意を込めた嘆息と共に子供達に語って聞かせるほどだった。

 つまり、御身が傷つかないと分かっていてもあえて身を投げ出す物悲しく愚かな女…というシチュエーションすら望めないのだ。

 

 それでも私はそういった事実を無視した都合の良い妄想に身を委ねると、頬を火照らせ少女のようにため息をつくのだった。

 その後に来るとてつもない羞恥に身悶えブンブンと尾を振り回す事になると分かっていながら。

 

 「コ……ュ…トス様……」

 

 我に返り自己嫌悪でひとしきりのたうち回った後の徒労感に浸りながら、愛しい御方の名をそっと呟く。

 

 私にとってはナザリックも、アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下も、どうでもいい。

 もし私がこんな不敬を考えていると知ったら……当のコキュートス様ご自身が激怒し、命を奪うだろう。

 

 ……いっそ、そうしようか。

 

 しかし群れの中にそんな不心得者がいたと知れたらアインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下の蜥蜴人(リザードマン)自体を見る目が変わってしまい、大変な事になりかねない。

 変わり者とはいえ私も部族への愛着はあるし、自分の死では済まされない事態はさすがに望みはしない。

 

 だからせめて、秘する愛に殉じるという滑稽な自己陶酔に溺れたまま日々を生きよう。

 

 

◇◆◇

 

 

 ──終わりは唐突にやってきた。

 

 私の死という形で。

 

 それはとうとう私の罪深い懸想がバレてしまい、糾弾され仲間達に断罪を受けたとか、そういう劇的なものではない。

 ただ一人で薬草を取りに行った森でまた妄想にかられ、そんな勇気など無いと分かっているのについフラフラとあの御方に捧げる珍しい花を求め不用意に奥深くに入りすぎ、そして飢えた獣に襲われただけだ。

 私は私なりに抵抗したが、生きるために必死なその獣は、首筋に突き立てた牙を決して離そうとはしない。

 

 激痛が全身を駆け巡り脳髄を掻き回す。

 ひとしきり藻掻いた後、諦めが脳裏によぎり次に浮かんだのは──この牙があの方のものだったら──というなんとも…そう、滑稽な感情だった。

 あの悍ましい夢のように。

 

 意識が遠のき、全身からスーッと力が抜けていくのが分かる。これが死。私はどこか他人事のようにそれを受け入れる。

 死を見てきた。短い生の中でも、無数の死を見てきた。そしてその順番が、私に巡ってきただけの事。

 

 

 

 ──何かを感じ、そして肌に当たるひんやりと心地よい感触に、わずかに残る命の灯火を使い薄っすらと目を開けた時、私は信じられないものを見た。あのキラキラと光る美しい複眼に映る、無数の自分の姿。

 

 私はコキュートス様の腕に抱かれていた。あの少女のような夢想のままに。

 

 なぜこの御方がたまたま森に入られ、たまたま私が襲われる現場に出くわしたのかは分からない。

 神の采配であるはずもない。祖霊の哀れみであるはずもない。

 けれど、理由などどうでもいい。この事実だけでいい。もし死の間際の幻想であるなら、覚めないままにして欲しい。

 

「治癒魔法ガ使エル下僕(シモベ)ヲ呼ンデコイ。」

 

 遠くから、愛しい方の声が聴こえる。

 

「間ニ合ワヌ………カ。」

 

 かすかな憐憫がこもっている。

 

「スマヌナ、カリューシャ・ラーラ。私ニ復活魔法ハ使エヌ。アインズ様ニオ願イシテモ叶ワヌ事ダロウ。オ前ニソレダケノ価値ヲ認メテ下サルトハ思エヌ。」

 

 名前を覚えていてくださった。

 

 ただ一度だけ、お伝えした名を。

 

 クルシュ・ルールー様やゼンベル様のような特徴も無く、この御方からして見れば誰もが同じに見えるはずの平凡な外見の蜥蜴人(リザードマン)の一人である、私の姿と名を。

 

 ああ、それだけで他に何を望むだろう。

 もう、感謝の言葉も、愛を告白する言葉も発する事は出来ない。

 すでに命を失った私は、ただ愛しい方のお顔を目に焼き付ける。

 私の生気の無い瞳に愛が宿っている事に、コキュートス様はお気づきにならないだろう。

 

 大きな手が、まぶたを優しく閉じてくれた。私は愛しい方の腕に抱かれ、永遠の眠りにつく。

 

 コキュートス様は私の事などすぐにお忘れになる。

 その御心のほんの片隅にも、置いてはもらえないだろう。でもそれでもいい。

 この瞬間のためだけに、私の生の価値はあった。

 

 例え生涯 秘密を分かち合える存在を得られなかった 呪われた 孤独な魂であれ

 

 無数の悲惨な死が渦巻く この残酷な世界で これほど幸せな心持ちで 死ねる者など

 

 きっとそうは    いないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 



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