朝色小夜曲 (芦野)
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chapter1

1

人は変わる。

朝起きたときのわたしと夜眠るときのわたしは今日一日分違うわたしになっている。

変わらないこと、変わらないもの、変わらない人。そんなものはどこにもないのにどうして人はわたしを変わったと責め立てるのだろう。

永遠という言葉は幻想でしかないのに人は変わらないものをなぜ求めるのだろう。

今でもわたしの胸の中にあの言葉が心の底に沈んでいる。

「だってあなたも変わったでしょ?」

 

 

わたし、朝倉百合《あさくらゆり》は決して友達が多いわけではない。まあ、だからといって日々の生活にさほど不便を感じている訳でもないし、人付き合いに気を使うぐらいなら家で寝ていたいというのが偽らざる本心だ。

そんなよく言えば穏やかな、悪く言うなら平々凡々な高校生活を送っていたわたしに突然選択肢が突きつけられたのは、高校3年生の5月末のことだった。

「ふー」

「ひゃあっ!」

ホームルームの時間にまどろんでいたわたしの耳元に息が吹きかけられる。

「まーた寝てたの? もう、今の時間の話って今年の文化祭について説明があったから聞いといた方がよかったんじゃないの?」

いきなりの小言。わたしにわざわざ説教をしにくるのは桜井真央《さくらいまお》、彼女以外にいない。わたしと真央はいわゆる幼なじみで、今も家が隣同士だ。

「去年も一昨年も文化祭はあったし別にいまさら説明なんて」

「今年は私達3年生だから下級生を引っ張らなきゃいけない立場だよ、それに」

「あーもう分かった分かった、分かったからその辺にして」

お説教が始まる流れを察知したわたしは降参だ、というようにひらひらと手をあげた。

そして、お説教が始まりそうになるときは言い訳をするよりもこういうふうにさっさと降参してしまう方が楽だということをよく分かっている。

「もう本当に百合は……うちのクラスは展示制作と劇の発表と2つのグループに分かれることになったから、6月の中頃までにクラスの中で分かれて決めて名簿出すようにって言ってたよ」

「ふーん」

適当な返事をして、わたしは真央から視線を外した。

「ねえ、百合はどうするつもりなの?」

「別にどっちでもいい」

「それもだけど、そうじゃなくて……」

「……?」

わたしにはいつも思ったことを遠慮なく言ってくる真央がこんなふうに口ごもるのは珍しい。

思わず外していた視線を真央に戻した。

「百合、急にどこかに行ったりしない?」

「……」

突然の真央の問に適当な答えでも本当は何か返した方がいいのだろうけど、()()があるわたしにはその適当な答えすら思いつかなかった。

「最近の百合を見てると心配になるの。今度は私に何も言わないでいなくなったりしないでね、ちゃんと約束して」

「……うん」

真央の震えた声を聞いて、わたしはそれ以上何も言えなかった。

「約束だよ。じゃあもう授業始まるから席戻るね」

そう言って真央は自分の席に戻っていった。 わたしはまた、真央をあのときみたいに傷つけてしまうのだろうか。

本当は今すぐにでも、どこかに行ってしまいたいし消えてしまいたい気分だなんて、あんな表情をしている真央に言ってはいけないって分かるのに、つい口にしそうになってしまうのはどうしてだろう。

授業が終わると逃げるようにわたしは教室から出た。駆け足で階段を降りて下駄箱でローファーに履き替えて校門をくぐる。

幸い誰にも捕まることなく家に着くと、制服のままソファーに倒れ込む。

「疲れた……」

思わず今の心境を表す言葉が漏れる。

「うーん」

ソファーに寝転がったまま軽く伸びをしたら、急に眠気に襲われる。制服を床に脱ぎ捨ててからわたしは目を閉じた。

夢の中で今までわたしに起きたことが次から次へとフラッシュバックしてくる。

風の音、今よりもずっとずっと高く感じていた空、花の香り、色鮮やかだった小さいころの思い出。

心の底をマドラーでかき混ぜられたように沈んでいたたくさんの記憶が蘇る中でわたしはプールで溺れかけたときに似た息苦しさを感じていた。

……あの頃のわたしが今のわたしを見たらきっと失望するだろう。だけど過去のことはどう頑張ってもかえることはできない。

走馬灯のように駆け巡る思い出。あの日々は今のわたしにとって遠くなったはずなのに昨日のことよりもはっきりと、そのときの自分の心境まで蘇ってくる。

「……」

目が覚めると薄着で眠っていたとは思えないほど体全体に汗をかいていた。

シャワーを浴びてグラスに冷たい紅茶を注ぐ。

窓を開けると朝の少し冷たい風がリビングに入ってきた。

「ふう……」

しばらく外の風に当たっていると、少し気分が晴れてきた。

「ふわぁ……」

今の顔を鏡で見たらものすごくだらしのない顔をしてるんだろう、と自分でも分かるほど大きなあくびをしていつもよりも一時間ぐらい早く制服に着替えて家を出た。

わたしはいつも朝、学校に行く前に同じコンビニによって買い物をしていく。

だけど今日はつもよりかなり時間があるから、少し離れたコンビニまで歩いて行くことにした。

そのコンビニは個人がしている店で、品揃えも普通のコンビニとは違って面白い。

これまでもわたしは時間があったらこのコンビニにわざわざ行くことがあった。

「いらっしゃいませー」

中に入ると少し眠そうな店員の人の声が聞こえた。わたし以外には客が誰もいないのでゆっくりと商品を見て回る。

色々と迷ってから結局わたしがいつも買う、ココアとメロンパンを選んでレジに持って行く。

「249円です、はいちょうどですね。ありがとうございましたー」

お釣りを受け取るときに店員の人が結構可愛いことに気づいた。モデルでもやってそうなスラッとしたスタイルで、ポニーテールがよく似合っている。

ネームプレート見ておけば良かった。外に出てから軽く後悔しつつもわたしは学校に向かった。

多くの生徒が登校してくる時間よりはかなり早く学校に着いたからか、校内はいつもと違って静かで居心地がいい。

教室に行ってもまだ鍵は開いてないだろうし、わざわざ職員室まで鍵を取りに行くのはめんどくさい。時間を潰すためにわたしは図書室に向かった。

校舎の端にある図書室は日当たりがあまり良くないせいか、結構肌寒く感じる。

それでも、わたし以外誰もいない空間でゆっくりと本を読むのはとても気分がよかった。こうやってまた図書室に来てみるのもいいかもしれない。

……朝にものすごく弱いわたしにはなかなか難しいだろうけど。

ふと時計を見ると朝のホームルームが始まる15分前になっていた。

ちょうどきりがいいところまで読んだし、読書を切り上げて教室に戻ろうと思って椅子から立つ。すると、突然誰かから声をかけられた。

「あ、朝倉さん。図書室に来るなんて珍しいね」

誰だろう、聞き覚えのない声だ。

振り返って顔を見ても、その声の主が誰だか分からなかった。わたしと同じ色のリボンをしているから同学年なんだろうけど。

「えっと、あたし橘。橘綾子《たちばなあやこ》 」

橘……? そういえばそんな名前の生徒がクラスにいたような気がする。

「あ、ああ橘さん」

「去年もその前の年も、3年連続で同じクラスだったのにひどいなぁ、そんなに影薄いかなあたし?」

顔と名前を覚えていないことをごまかそうとしたけれど、ダメだった。

「いや……その、わたしあんまり人の顔とか名前覚えないタイプで」

橘さんは3年連続で同じクラスだったのに、名前を覚えられてないことが不満そうだった。少し怒ったような顔をされるとなんだかわたしが悪いことをしたような気分になる。

「そんな気はしてたけど、朝倉さん、桜井さん以外のことは眼中に無いって感じがしてたし、本当べったりだもんね〜まるで付き合ってるみたい」

「えっ!?」

思わず声が裏返ってしまった。確かに距離感は近いかもないけど、流石に付き合ってる程ではないと思う。

「あれ違った? でもあたし朝倉さんが桜井さん以外の人と喋ってるのを見た記憶あんまりないけどなぁ」

「……確かに」

ぐうの音も出ない。実際に真央以外とほとんど話したことない。

「あっはは、意外と朝倉さんって面白い人なんだね、もっと冷たいかと思ってた」

そう言って明るく橘さんは笑う。

快活そうな表情と高い位置でまとめられた髪が印象的で、どちらかといえば目立ちそうな彼女のことすら全く覚えていないのは、さすがにまずい気がしてきた。

「ね、せっかくだから堅苦しく呼ばないで気軽に呼んでよ。あたし、さん付けとかで呼ぶのも呼ばれるのも苦手だし……ね?」

「そう言われても……急にはちょっと」

「橘でも綾子でも綾ちゃんでもなんでもいいよ〜。あっそうだ、あたしはなんて呼べばいいかな?」

「えっ、別に好きに呼んでもらって……」

「おっけーじゃ、また教室でバイバイ」

そう言うと橘さんは走って行ってしまった。

 

2

わたしが通う私立三間桜(さんげんざくら)高校は、やけにイベント事全般に気合が入っている。何もしたくないわたしにとっては正直煩わしい。

 

「えーというわけで今年の球技大会の種目は、ドッジボール、バスケットボール、ソフトボール、サッカーに決まった。チーム分けをこの時間と次の現国の時間を使って決めるから、とりあえずよく話し合うようにな、いいか絶対優勝目指して、一学期最大の思い出にしよう!」

おー! と、担任の声に合わせて男子達が声をあげて一斉に席を移動し始める。この暑苦しい団結感。クラス替えのときから嫌だったけど、ますます嫌になる。というかこいつらどんだけ行事好きなんだ。

それはそうとして、さっきからこっちをチラチラと見てくる視線を感じる。いったいなんだろう。

辺りを見回していると、真央がこっちに歩いて来た。

「百合、今年はサボらないように見張るからあたしと同じ種目ね」

「あーはいはい」

反射的に嫌だと、言おうとして思い出した。

というのも、去年わたしは真央と違うクラスだった。だけど、真央はわたしがサボっている教室を見つけて押しかけて来て……あのときの怒りっぷりは今でもはっきりと覚えている。

一時間ぐらいこっぴどく叱られたうえに来年の球技大会はちゃんと参加することを約束させられたのだ。

「ところで百合はどの競技がいいの?」

「ドッジボール」

「うーんじゃあ私もドッジボールでいいかなあ」

「そこの二人ちょっといいかな?」

どうするかまとまろうとしていたときに、横から声をかけられた。

「あのさ、もしよかったらバスケちょっと助けてくれないかな?ちょうどあと2人足りなくてさ」

「げっ……」

思わず声が出てしまった。

「その反応は流石にひどいなぁ、ボクをなんだと思ってるのさ」

声の主は晴海詩音《はるみしおん》。一応知り合いではあるんだけど……あまりいい思い出はない。

わたしは中学生2年生の途中までバスケ部に入っていて、晴海も同じバスケ部だった。つまりかつてのチームメイトだ。

わたしが部活をやめてからは特に話す機会はなかったのだけれど、偶然同じ学校にわたしがいると知った晴海は、熱心にわたしをバスケ部に誘ってきた。

例えば放課後に教室に押しかけてくる。勝手に入部届けを出そうとする、それ以外にもあの手この手で猛プッシュをかけられて、正直うっとうしいとかいうレベルじゃなかった。

晴海が本格的に部活に打ち込むようになり、勧誘はやんだのだけど、3年生になって同じクラスになってからはまた勧誘に来るようになった。

「で、引き受けてくれる?」

「嫌」

「えっ即答!?」

目を見開いて驚く晴海。なぜあれだけ嫌がっていたわたしが引き受けると思ったのか。

「今ドッジボールに決めたところ、人が足りないなら他をあたって」

「いやさあ、実はさっき確認したんだけど、女子の人数的に何人かは二種目出ないと行けないみたいでさあ……お願い!」

両手を合わせながら拝むように晴海はわたしに頭を下げる。どうしてここまでするのだろう、相変わらず晴海の熱心さはどこから来るのか理解できない。

「私は別にいいと思うよ、久々に百合がバスケするところ見てみたいし」

にまぁと悪い笑みを真央は浮かべる。

「そもそも人数が足りないなら運動部の誰かを誘えばいいじゃない。なんでわざわざ……」

「百合だからわざわざ誘ってるんだよ。キミ以上にこのクラスにバスケが上手い人ボクは見たことないもの」

恥ずかしげもなく、晴海はこういうことを言うのだ。まっすぐわたしを見てくるまなざしは全く変わっていなかった。

「買いかぶるのはあんたの勝手だけど、嫌なものは嫌。わたしはやらない」

そう言って机に突っ伏す。これ以上話すことはないという意思表示をして、晴海が諦めるのを待つ。

しばらくそうしていると、晴海は誰かに呼ばれていったようだ。

「ねえ、晴海さん行っちゃったけど、良かったの?」

「ただでさえめんどくさいのに種目まで増えたらやってられない」

顔だけを真央に向けて答える。

「またそんなこと言って……晴海さん悲しそうにしてたけど」

「あいつはそんな簡単に傷つくようなタイプじゃないし」

「久々に百合がバスケしてるとこ見てみたいってのは私も晴海さんと変わらないよ。百合かっこよかったし輝いてた」

「……」

バスケの話が出るたびに嫌な思い出が思い出される。

「あーもうそうやってすぐ机に突っ伏して、ほら起きなさい」

「やめて、やめてって」

真央は突然脇腹をつついたあと私の脇をくすぐりだす。

「ほらほら〜体を起こさないとやめないよ〜ふふっ。本当に百合って脇触られると弱いよね。」

「いい加減くすぐるのやめてって!」

「ん〜どうしよかっなあ」

身をよじりながら必死に抵抗しても的確にわたしの弱いところを執拗に刺激してくる。

「はぁ……はぁ……」

「ご、ごめんつい、百合……大丈夫?」

「なにあれ」

「えろーい」

「あの2人やっぱり付き合ってるのかな」

周りのざわつきがこっちにまで聞こえてくる。顔をあげなくてもクラス中の視線がわたし達に注がれていることが分かった。

「保健室行ってくる」

教室の雰囲気に耐えられなくなったわたしは保健室に逃げ込むことにした。

歩いていてもなんだか体が弛緩して力が入らない。真央にここまで本気でくすぐられたのはいつぶりだろう。

「あっ……いた」

気が抜けたところで今度は階段を踏み外して足をくじいてしまった。

「なんなのもう……」

思わず恨み言が口をついて出る。さっきの晴海のことといい何だか今日はあまりよくないことが続けて起きる気がしてきた。

「あら?こんなところで貴女《あなた》は何をしているの?」

上から声がしてカツカツと靴の音がする。長い黒髪をなびかせて颯爽と階段を降りて来たのは整った顔出ちの女子生徒だった。どこかで見たことのある顔……そういえば生徒会長か何かで名前は確か椿原花恋《つばきはらかれん》とかだったっけ。

「気分が悪くなったので保健室に……」

「あらそうなの。もしよかったらわたくしが付き添いましょうか?」

「い、いえ大丈夫です」

気分が悪いのは嘘じゃないけれど、わざわざ誰かに付き添ってもらうほどではない。

「うふふ、そう言わずに」

そう言うと椿原はわたしの肩を抱いてきた。

「ちょっと……大丈夫ですって」

「足首、痛めてるんじゃないかしら?もし、違うなら無理強いはしないけど……階段を降りるのすら辛そうに見えるわ」

「……お願いします」

「うふふ、構わないですわ」

肩を支えられ階段を降り、廊下をゆっくりと歩いて保健室の前に着く。

「ありがとう」

「お礼なんていいわ。ここに用事があるのは一緒だし」

がらりと扉を開けて椿原は保健室に入っていく。わたしもそれに続いた。

「また生徒会長様はサボり……と思ったらあんただけじゃないんだ。そっちの子はどうしたの?」

「ちょっと足をくじいて……」

「分かった、そこ座ってちょっと待ってて」

養護教諭に促され椅子に座る。

「少し押すよ、痛かったら言ってね……どう?」

「大丈夫です」

「了解。ほいほいっと……はいこれで冷やしてしばらく座って安静にしておいてね」

「ありがとうございます」

氷が入ったビニール袋を足首にあてる。ひんやりとした感覚が広がってきて気持ちいい。

「じゃあ先生は少し用事で出て来るから授業終わっても痛みが引かなかったらそこにある電話でかけてきてね、じゃあ」

そういって養護教諭は急いで外に出ていった。

「足、大丈夫?」

「ああ……はい、大丈夫です」

ねえ、といいながら椿原はわたしの隣に座ってきた。

「貴女が噂の朝倉さんよね。一度お話したいと思ってたの」

「は……はあ、噂になった覚えはないんですけど」

なんでこんなに距離が近いんだ。

「うふふ、噂通り……綺麗な顔してるわ」

「ちょ……ちょっと」

鼻が触れそうになるぐらいまで顔が近づく。表情といい、声だったり思わず飲まれそうになるような雰囲気を彼女はまとっている。

「ねえ、いいかしら」

椿原はそういってさらに体を寄せてきた。

「ちょ……ちょっとちか……」

近すぎる距離に耐えられず、手で押しのけてしまった。

「あら残念、結構ガード堅いのね」

「……」

少しムッとしたような顔を作って椿原を見る。

「うふふ、ごめんなさいね。少しからかいたくなってしまいました」

「からかいたくなったって……」

「ええ。ところで朝倉……いえ百合さんって今お付き合いとかしてる人とかいるんですか?」

「……はあ?」

思わず真顔になってしまった。おとなしくなったと思ったら今度は何を聞いてくるんだ。

「例えば……桜井さんとか」

「付き合ってない! いったい誰がそんなこと」

わたしと真央はいったいどんなふうに見られているのだろうか、今更ながら少し心配になってきた。

「あら? いつも2人でいて、ときおりいちゃついているって聞いたら普通はそういう関係なのかって勘繰ってしまうものじゃない?」

「……だから付き合ってない……」

「うふふ、貴女って結構表情豊かなのね。話していて飽きないわ」

「……そうですか」

わたしが呆れながらこう言うと同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

足もどうやら大丈夫みたいだし教室に戻るか、そう考えて座っていたソファーから立ち上がる。

「あら、もう帰るの?」

「生徒会長さんはこんなところで油売ってていいの?」

「生徒会長なんて名前だけ。お父様がここの理事長と仲が良いらしいらしくて気づいたらなってただけよ。それに授業なんて出なくても進路も何もかも決まってるのに今さら何もする気が起きないわ」

「……」

さっきまでとは違う突然の吐き捨てるような言葉に何も言えなかった。

「ごめんなさいね、突然変なこと言ってしまって……よかったらまたお話しましょう、貴女なら歓迎するわ」

「考えておきます」

寂しげな顔をする椿原にわたしは曖昧な返事を返すことしか出来なかった。

そのまま保健室を出る。足首を軽く伸ばしてからわたしは階段を上っていった。

 

3

また、見たくもない夢をみていた。

この世に生まれたからには誰しもなにかしら生きる意味がある。

そんな言葉を耳にしたことは一度や二度じゃない。そのフレーズを聞くたびにわたしは思う。

もし、生きる意味を見失ったらどうすればいいの?

「誰でもそういう気分になることがあるよ」

「あたしなんて3日に1回は死にたいって思ってるよ」

返って来た答えは無責任で軽薄なものばかりだった。

他人に解決を求めることが愚かしいと理解してもなおわたしはこんなことを聞いてしまった。

──そんな自分にますます嫌気がさす。

「疲れてるんじゃない?しばらくゆっくりしたらいいんじゃない」

そうか、疲れているのか。立ち止まって自分を見つめ直せばこの闇の中から抜け出す光が見つかるかもしれない。

だけどわたしは結局立ち止まったままだ。

ただ過ぎる時間はこの気持ちの解決ではなく、より深い闇の中にわたしを迷わせただけだった。

どうすれば、どうすればいい?

そう自分に問いかけるたびに吐き出した言葉がまた私の手足を縛るのだ。

目覚めたくもないのにまた朝は来る。この夢みたいに何もかも消えていってしまえばいいのに。

意識が徐々に鮮明になっていくと同時に扇風機の風が身震いするほど冷たく感じた。

全身がじっとりと汗ばんでいる。嫌な夢を見た後にはいつもこうだ。

「はあ……」

熱めのシャワーを浴びてから服を着替える。

そろそろ学校に行かなければいけない時間になってもわたしはいつも以上に学校に行く気分になれなかった。

財布と携帯と鍵をポケットに入れて家を出る。いつも乗る駅よりも一駅遠くまで歩いて、学校とは逆方向行きの電車に乗る。

電車の中で携帯が鳴る。表示された名前は予想通り真央だった。出るまでバイブレーションが止みそうにないので電源を切った。

 

「さてと」

街の方まで出てきたはいいが、特に何をしようという予定はない。少し迷ってからわたしは駅前のドーナツショップに入ることにした。

まだ時間が早いからか店内はがらんとしている。

ドーナツを3つとパイを1つ、それとアイスミルクを頼んで席についた。

アイスミルクを飲みながらぼんやりとしていると、見覚えのある人から声をかけられる。

「あれ〜どうしたのこんなところで」

「あ、えっと橘さん」

「あ〜今一瞬考えたよね」

わざとらしく頬を膨らませて、私の前に橘さんは座ってきた。

「そういえばゆーちゃんも学校サボり?」

ゆーちゃん? わたしのことなんだろうけどその呼ばれ方は流石に抵抗がある。

「まあ……そんなところ」

「そうなんだ〜あたしも1人で退屈してたの一緒に食べよ?」

「もう座ってるのにわざわざ聞くの?」

「あっははまあね」

そう言って橘さんはチョコレートがかかったドーナツを美味しそうに頬張る。そのままあっという間にたいらげると、今度は私のドーナツを見つめて来る。

「……ちなみに、ゆーちゃんは4つも食べて気にならないの?」

「?」

気にならない? 何がだろう。

「夏服に変わると、色々やっぱり気になるじゃん。体のライン出ちゃうし……」

ああ、なるほどそういうことか。

「わたしは特に気にしてはないけど……」

「えっ!?もしや食べてもお腹がプニらないタイプだったりするの?」

「そういうわけじゃないんだけど、特に意識したことはない……と思う」

「ぐぬぬぬ……許せない」

全女子を敵に回すような発言だよ、とフォークを持ちながら橘さんは熱弁する。

 

「ところで、これから予定とかなかったらちょっと付き合ってくれない?」

「えっ」

手に持っていたドーナツを思わず落としそうになってしまった。

「嫌、だったりする?」

「そういうわけじゃないんだけど」

「じゃあ一緒に行こ?さ、早く食べちゃって時間がもったいないし」

「ええ……」

ためらうわたしに構うことなく、橘さんは両肘をついて頬杖をしながらじっと見つめてくる。

「……分かった。つき合う」

「本当? やったぁ!」

ガッツポーズをして満面の笑みを橘さんは浮かべる。真央のことをいつもお人好しだって言っているけど、わたしもたいがいお人好しかもしれない。そう思いながらわたしは残りのドーナツを口に入れた。

「で、どこに行くの?」

「うーんそうだなあ……ゆーちゃんはいつもはどこで遊んでるの?」

「あのさ……橘さん。いい加減わたしのことゆーちゃんって呼ぶのやめない?」

「え〜どうしよっかなあ」

人差し指を口元に当てて、橘さんはいたずらっぽい表情を作る。

「橘さんじゃなくて下の名前、綾子って呼んでくれたらやめてもいいよ」

「ちょっとそれは……」

「えーじゃああたしのことなんて呼びたいの?」

「それは……えっと、あ、綾子?」

「うんうんやっぱり名字じゃなくてそっちの方がいいよ」

「う、うん」

約束、ずいぶんと重い言葉だ。

何も考えず反射的に答えてしまったけど、下の名前で呼ぶのは流石に抵抗がある。

「じゃ、いこ」

わたしたちは人混みを抜けて滑り込むようにショッピングモールに入った。

店内に入るとまだ体がクーラーに慣れていないせいか、足先がやけに寒く感じる。

「百合ちゃんは、映画とか好き?」

「ジャンルとか内容によるかなあ」

「そーなんだ、今は何がやってるのかなっと」

ショッピングモールの中にある映画館の前でチラシやポスターを眺めていると、視界の端に何人か人が見える。

周りをぐるっと見てみると平日の昼前なのに結構人がいることに少し驚いた。

「あっこれ面白そう」

そう言って橘さんは一枚チラシを手に取ってまじまじと見つめている。横から見るとそれはCMとかで予告が流れていた恋愛映画のチラシだった。

「そういえばこれ、真央が見たいって言ってた映画だったっけ」

何気なく、半分ひとり言を呟くように口にした言葉に橘さんは怒ったような顔をした。

「もー今一緒にいるのは桜井さんじゃなくてあたしだよ?」

「あっ……そのごめんなさい」

「もー百合ちゃんは女の子なのに女心を分かってないよ。誰か女の子と一緒にいるときに他の女の子の話とか絶対ダメだよ。あたしじゃなかったら好感度急降下間違いなしだからね」

「は、はあ……」

どうしてわたしは女の子の取り扱いを同い年の子に説教されているのだろう。

「まあ、百合ちゃんが桜井さんとべったりなことは知ってるし素直に謝ってくれたんだからあたしは全く怒ってないから気にしないで」

「それはどうも」

映画を選ぶまでの間、わたしは橘さんが本気で怒っていたのか考えていたけど、結局よく分からないままだった。

「うーんじゃあせっかくだしこの映画にしようよ」

「うん」

しばらく迷ったけど、結局最初に話題に挙がった恋愛映画を見ることに決まり、橘さんが席を取っている間にわたしはチュロスとポップコーンとコーラを買って待っていた。

「まだ結構いい席あったよ……ってずいぶんといっぱい買ったんだね」

「そう? そんなでもないと思うけど」

「百合ちゃんって結構食べるのにスタイルいいよね、羨ましい……」

「別にそんなことない」

わたしの言葉に橘さんは一瞬だけ眉を寄せた。

「やっぱりみんなそういうんだなあ……あっ、そろそろ映画始まるよ」

「そうだね」

軽く返事をしてわたしは橘さんの後を追った。

「僕にはキミしかいないんだ」

「わたしにも……あなたしかいないの」

映画の内容は一言で言うとものすごくつまらなかった。もし1人で来ていたら間違いなく途中で席を立っていたと思う。

「…………」

わたしは無言でポップコーンを食べながらケータイを開いていた。

「うわ」

予想通り真央から何回か電話がかかって来ている。これは後で間違いなく問い詰められることになりそうだ。

浮かんで来た憂鬱な気分をコーラで流し込んで橘さんの方に視線を向ける。

「う……ん」

寝てた。いや爆睡していた。橘さんは薄暗い中でも分かるほど口を開けて気持ち良さそうに眠っている。

起こした方がいいのだろうか。一瞬迷ったけれど、橘さんの肩を軽く叩いてみる。

「あれ……あたし寝ちゃってた」

「あのさ、わたし正直この映画つまらなくてさ。もしよかったら外、出ない?」

「でも」

「いいから、わたしが出たいの」

「あっ……」

多少強引かな、と思いつつ橘さんを連れて映画館を出た。

「ごめんね、無理やり連れ出して」

「そ……その……」

橘さんがわたしから目をそらして赤面している。何秒間かの沈黙のあとでわたしは彼女の手を握っていることに気づいた。

「あっごめん」

慌てて手を離す。

「……」

糸が切れた操り人形のように橘さんはピクリともしない。

「あの、本当ごめんね。嫌だった?」

「嫌じゃない。嫌じゃないんだけど……」

「顔、真っ赤だけど大丈夫?」

「ちょちょちょちょっとタンマ! 10秒、10秒待って」

橘さんは近づこうとしたわたしを手を出して制した。

「うん、もう大丈夫。あっそうだ、もう少し付き合って欲しいんだけどいい?」

「いいけど」

わたしの答えを聞くと、橘さんは早足で行ってしまった。

橘さんは駅の方へと歩いていく。

「今から、あたしの家にでも……行かない?」

「え?」

電車の中で橘さんはとんでもないことを言ってきた。

「うそうそ冗談、確かにあたしの家の方角だけど」

いたずらっぽい笑みを橘さんは浮かべる。

「で、どこに行くの」

「それはついてからのお楽しみ」

「はぁ」

思わずため息に似た声が出てしまう。もしかしてさっきのことをまだ根に怒ってるのかもしれない。内心そんなことを思いながらわたしは電車に揺られていた。

 

「ここって公園?」

「うん、そう。寂《さび》れてるけどいい場所なんだよここ」

橘さんがわたしを連れてきたのはマンションとマンションに挟まれた道路の脇にある忘れ去られたような公園だった。

初めて来たはずの場所なのにどこか懐かしい雰囲気がこの公園には漂っている。

「あたし、この公園に毎日のように来てたんだ。今もだけどお父さんもお母さんも働いててずっと家にいるのに飽きちゃって」

わたしたちは公園の隅にあるベンチに腰を下ろしていた。

「ここから少し離れたとこにね、大きい公園があるんだ。だけどあたしは恥ずかしくていつもの誰もいないこの公園にいたの」

「そうなんだ」

「ほら、そこにブランコがあるでしょ……今はもう使えないみたいだけど」

小さな滑り台は塗装が剥がれ落ち、ブランコは錆びていて、立ち入り禁止のロープが貼られていた。小学生どころか、それより小さい子供にとってもこの公園は退屈に映るだろう。

「特等席だったんだあそこ、あのマンションがまだ今ほど高くなかったら夕日が沈むのがすごく綺麗に見えて……この夕日を独り占めしてるのはあたしだけだって思ったら少し強くなれるような、そんな気がしてたんだ」

だけど、と橘さんは続けた。

「いくら綺麗でも、ずっと一人で見てたらそのうち寂しくなってきちゃってさ」

情けないよね、と橘さんは力なく笑う。

「そうだ、あたしばっかりこんなこと話してたら悪いよね、百合ちゃんは小さいころどういう子だった?よかったら教えて」

「どういう子だったかあ……別に変わったことは何もしてなかったと思うけど」

急にどういう子だった?と聞かれても自分ではよく分からなかった。

「そう……だよね。ごめん、あたしなんか変なこと聞いちゃって」

それからはなにを話すわけでもなく、ただ二人でベンチに佇んでいた。やがて、空が茜色に染まってゆく。だけど夕日はマンションの陰に隠れて見えなかった。

「今日は無理やり付き合わせちゃってごめんね。でもあたしは百合ちゃんとこうして遊べてすっごく楽しかったよ」

「……わたしも楽しかった」

「もし、社交辞令じゃなかったらその言葉すっごく嬉しい。よかったらはいこれプレゼント、家に帰ってから開けてね」

橘さんはバックから小さな紙の箱を取り出してわたしに差し出してきた。

「これは……折り紙?」

「そうだよ〜あたし折り紙結構得意なんだ」

「へぇ、上手だね。ここまできちっと作れるなんて」

「そう? ありがと。やっぱり百合ちゃんって……優しい人なんだね」

「そんなことない」

「ううん絶対そうだよ。本当は優しい人なんだよ百合ちゃんは……あ!顔赤くなってる〜」

ストレートに褒められて動揺したところを橘さんにすかさず指摘された。

「もしかしてからかってる?」

「ふふっ映画館のときのおかえし。……じゃあまた明日、今度は学校で会おうね。じゃ、ばいば〜い」

「また明日」

軽く手を振って橘さんは小走りで行ってしまった。

わたしも帰るか、軽く伸びをしてから駅の方に向かって歩いていく。

そういえばわたしも小さいころ、この辺りに来たことがあったような……。

ふと記憶が蘇りそうな気がして、立ち止まって少し考えた。だけど、掴みかけた記憶はわたしの手をすり抜けていってしまった。

なんだったんだろう? そう疑問に思ったけれど、駅に着くまでにわたしは考えることをやめてしまっていた。

しばらく電車に揺られて、家の方まで帰ってきた。さっきまでの茜色の空とは違って、空には星がいくつか見える。

「ん?」

家の前に誰か立っている。その人影と距離が縮まっていくと、正体はすぐ分かった。向こうもわたしに気づくとこっちに駆け寄って来る。

「何してたの? こんな時間まで」

「真央こそなんでこんなとこに突っ立って」

「だって学校にも来ないし、電話にも出ないから、もしかしたら何かあったんじゃないかって思って」

大げさだって言おうとして、言葉を飲み込む。真央の手が微かに震えていた。

「ごめん、今日は学校に行けるような気分じゃなかったし……けど明日は学校行くから」

「……分かった」

安心した、といった表情を浮かべて真央は大きく息をついた。

「明日は朝迎えに行くから、ちゃんと起きて来てよね。おやすみ」

「うん」

真央が帰っていったのを見届けて、わたしも家に戻った。

熱めのシャワーを浴びてから、部屋着に着替えてソファに寝転がる。普段とは違う疲労感に誘われてわたしはすぐに眠りに落ちた。

 

4

チャイムの甲高い音に重いまぶたをこじ開けられた。こんな朝から誰だ、と考えていると昨日の真央の言葉を思い出す。

まだ完全に頭が起きないまま体を起こして、ふらふらと玄関まで歩いてドアを押し開ける。

「あっやっと起きてきた。おはよ、早く着替えて来てね」

曖昧な返事を真央にして家の中に戻る。

顔を洗ってから歯を磨く。鏡に映った自分の姿を見て、髪が随分と伸びて来たことに気づいた。

そろそろ切りに行きたいな。

制服に着替えてからカバンを手に持って、再び玄関に戻る。

「……というかまだ早いじゃん」

家に鍵をかけながら、わたしは思わず呟いていた。

「百合がいっつも遅いだけ、毎日遅刻ぎりぎりじゃん。それに今日はいつもより顔色いいよ、目の下にクマもできてないし」

「そんなにいつもひどい顔してない」

「もう、してるって」

なんてたわいないやり取りをしながら学校に向かって歩いていく。

「そういえば、百合朝ごはん食べてないでしょ?そこの公園で食べよ」

「別にいいけど」

犬の散歩をしている人やジョギングをしている人で、朝の公園はそこそこ活気がある。

「レジャーシート持ってきてるし、あそこの芝生に座って食べよ」

やけに準備がいい。多分真央は最初からそのつもりだったのだろう。

「ま、朝ごはんっていっても簡単なものなんだけどね。はいどうぞ」

ラップに包まれたおにぎりを差し出してくる。

「ありがと」

「そういえば」

「?」

「昨日どこいってたの」

おにぎりを食べ終えたわたしに真央は質問してきた。というか、なぜ昨日聞いてこなかったのに急にどうしたのだろう。

「別に、ドーナツ食べてぶらぶらしてただけ」

「それだけ?」

「それだけ。どうかしたの今さらそんなこと」

「ちょっと気になっただけだよ」

「ふうん」

どこか怪訝そうな顔をしながらも、真央はそれ以上何も聞いてこなかった。

「そろそろ行こっか?」

「うん」

公園から出て、最寄りの駅に向かって真央と肩を並べて歩く。わたしがいつも乗る時間よりはまだ早いからか、乗り込んだ電車はそれほど混んではいなかった。

学校の最寄りまであと二駅というところで真央は並んで座っていたわたしの肩をつついた。

「ねえ百合、昨日クラスで文化祭のグループ分けがあったんだけど、百合はどうするの?」

「……グループ分け?」

「前に言ったじゃん、展示製作と劇の発表の2つのグループに分かれるって」

「……ああ」

そういえばそんな話があった気がする。

「どっちにするつもりなの?」

「決めてない、いつまでなのそれ」

「今週中。紙が後ろの黒板に貼ってあった気がするから名前、ちゃんと書いておかないと」

文化祭という言葉自体がすでにめんどくさい、どっちが楽そうか橘さんにでも聞いてみるか。そんなことを考えていると学校の最寄り駅に着いた。

改札を抜けて駅を出ると、わたしは軽く背伸びをした。

学校まではここから歩いて数分の距離。のんびり歩いても始業時間よりかなり早く教室には着けそうだ。

「真央ちゃんおはよ〜」

「桜井先輩今日も早いんですね」

駅を出てからしばらく歩いていると、真央は何人かの知り合いから声をかけられていた。

「みんなおはよう」

朝からそんなに愛想よくできる真央は正直すごいと思う。

ただ少し不思議なのは男女問わず交友関係が広くて結構人気もあるうえに、客観的にみてモテそうなのに彼氏がいないことだ。

何人かに囲まれている真央から離れて少し早歩きで学校に向かう。

校門を抜けて自販機でココアとお茶を買ってから教室に向かう。

後ろのドアを開けて教室に入る。自分の席に座って鞄を机の横にかけたところで橘さんが声をかけてきた。

「百合ちゃんおはよ〜」

「おはよう」

「今日は早いんだね」

「……まあね」

適当な返答をして視線を橘さんから後ろの黒板に移す。黒板の端にマグネットで紙が二枚貼ってあった。

「ねえ、文化祭のやつどっちやるか決めてたりする?」

視線を橘さんに戻してわたしは聞いてみる。

「あたしも昨日休んだからまだ名前書いてないけど、劇の方にするつもり」

「そう」

「あっここにいた。一緒に登校してたのになんで勝手に一人で先に行っちゃうのって……あれ?綾ちゃんどうかしたの」

勢いよく教室のドアを開けて真央はこっちに近づいてきた。

「百合ちゃんと文化祭について話してたの」

「へ〜百合が」

橘さんの言葉を聞いて真央がじっとこっちを見つめてくる。

「桜井さん、まだ劇の発表ってまだ人入れる?」

「いや、どっちも今のところ半々ぐらいに分かれてるからどっちでも大丈夫だよ」

「よかったあ、じゃわたし名前書いとこっと……よし」

「百合は結局どっちにするの?」

「真央はどっちに名前書いたの?」

真央の質問に質問で返す。

「わたしは展示製作にしたよ」

「そう」

答え自体にはさほど興味は無かったけれど、ただ今どっちだと名言しない方がいい気がしたから話題をあえて逸らした。

「桜井さんー!ちょっといい?」

「あ、うん今行く」

真央がクラスの人に肩を叩かれて連れて行かれていく。それを見送ってわたしは机に突っ伏した。

「あのさ……」

しばらく無言の時間が流れたあとで、橘さんはわたしの肩を軽くつついてきた。

無言で視線だけを橘さんに向ける。

「……」

唇をきつく結んだまま、橘さんは何か言いたそうな顔をしていた。

「……どうかした?」

視線に耐えられなくなって、わたしから口を開くが、橘さんは何も言おうとしない。

「ごめん、何でもない」

わたしがどうしたらいいか困っていると、橘さんは逃げるように教室の外に走って行ってしまった。

体を起こして橘さんを追いかけようとして、やめた。追いかけたところでまたああされたらどうしようもない。

「はぁ……」

真央もどうして欲しいか分からないことがあるけれど、橘さんもわたしにどうして欲しいのか同じぐらい分からない。

今さら考えてもしょうがないと分かっていても、突然ああいう態度を取られてあまり気分がいいものではない。わたし、橘さんに何かしたのだろうか。

チャイムが鳴り、わたしは再び机に突っ伏す。だけど、あまりよく眠れなかった。

 

「あ」

昼休みに入ってから昼ごはんを用意していないことに気づく。

さすがになにか食べるものが欲しい。大したものは残ってないだろうけど、購買に行くか、と椅子から立ち上がる。

教室から廊下に出たところで真央とはち合わせた。

「あ、百合どこ行くの?」

「購買」

「あっ、だったら一緒にお昼食べようよ」

「いつもの一緒に食べてるあの人達は?」

「えっと……ああ、今日わたしだけ展示製作の昼当番じゃなくて、一人で食べるのも寂しいから、ね」

「別にいいけど、購買寄ってからでいい?」

「ふっふっふ……いいからいいから」

「ちょ、ちょっと」

真央に手を掴まれて教室の中に引きずられるようにして戻る。

小走りで自分の席に戻ると、真央は竹で出来たバスケットを持ってきた。

「じゃーん! 実は百合の分も作って来たんだ」

「……」

どうしてわたしの分まで作って来ているのだろう。

「何ボサっとしてるの、行くよ」

「はいはい」

階段を降りて空き教室に入る。机を向かい合わせにして、真央と向かい合わせに座った。

「じゃあ、食べよっか……どう?」

バスケットの中身はサンドイッチだった。

「どうって……まだ食べてないけど、何か変わってるのこれ」

「前に私がサンドイッチ作ったときに、今度普通のパンじゃなくてバゲットで作ったのが食べたいって言ったの忘れたの?」

そんなこと言ったっけ? そもそも前に真央が作ったサンドイッチを食べた記憶すら全くない。

「やっぱり忘れてたんだ。もういい……やっぱりあげない」

「ごめんごめん、わたしが悪かった」

真央の表情を見たら、さすがにわたしでも素直に謝った方がいいのが分かった。

「もう、はいどうぞ」

許してくれたのだろうか、真央はわたしに一つサンドイッチを差し出してきた。

受け取って食べる。口に入れた分を咀嚼してもう一口、もう一口とわたしは無心で食べ進めた。

両手で頬杖をつきながら真央はわたしを見ている。

「美味しい?」

無言でわたしが頷くと、真央は満面の笑みを浮かべた。

「よかった、気に入ってもらえて」

百合は味に結構うるさいから、と言いながら真央もサンドイッチに手を伸ばした。

別に自分ではそんなことないと思うけど。

しばらくわたし達は無言でサンドイッチを食べた。

 

「ごちそうさま」

「どういたしまして」

わたしが食後のデザートがわりに朝買ったココアを開けて飲んでいると、真央が物欲しそうな顔でわたしを見てきた。

「いいな〜私もココア飲みたくなって来ちゃった」

「……もう1本買ってこよっか?」

「うーんそんなにいっぱいはいらないかな」

「飲む?まだ半分くらい入ってるけど」

「へ!?」

ココアを差し出すと、真央は何故か顔を真っ赤にした。受け取ろうと伸ばしてきた手もぷるぷる震えている。

「ほ、本当に飲むよ、いいの?」

「別にいいよ」

わたしから言い出したのに悪いはずがない。どうかしたのだろうか?

「じゃ、じゃあ飲むよ、ほんっとうに飲むからね!」

「だからいいって言ってるのに」

中身がこぼれそうなほど手を震わせながら、真央は一気にココアを飲み干した。

「それ、捨てといて」

「え、捨てるの?」

「だって、全部飲んだんじゃないの?」

「そうか……そうよね、あはは」

「……変なの」

教室を出たところで昼休憩の終わりを告げるチャイムが鳴って、わたし達は小走りで教室に戻った。

昼休みが終わってからの授業は異様な眠気に襲われて、何も覚えていない。気がついたら帰りの時間になっていた。

ケータイを開くと、真央から今日は展示製作の話し合いで学校に残るから先に帰っててと、わざわざ連絡が来ていた。普段は連絡なんかしてこないのに珍しい。

下駄箱で靴に履き替えて校舎の外に出ると、朝にはなかった作りかけの看板のようなものがあった。

その周りに十人ぐらいの生徒が集まっている。文化祭の準備だろうか。

ちらっと視線を向けただけで、それ以上気にすることなく校門をくぐる。

夕方なのに蒸し暑くて、ただ歩いているだけでかなり汗をかいてしまうほどだ。

電車から降りたところで制服が少し透けるほど汗をかいていることに気づいて、思わずため息をつく。汗が引くまでしばらくコンビニで涼んでから家に帰ることにした。

「らっしゃーせー」

さほど興味のない週刊誌やマンガ雑誌を一通り流し見してから、バニラアイスを2つとサイダーを1本買ってコンビニを出た。

 

バニラアイスを咥えながら、近道のために朝真央と寄った公園とは別の公園を少し急ぎ足で歩いていると、ドッジボールがわたしの方に向かって転がって来ることに気づいた。

「お姉さーんボール取って!」

膝に絆創膏を貼った小学生ぐらい女の子がこっちに手を振っている。

ボールを拾い上げて投げ返してあげると、女の子はこちらにお辞儀をして一緒に遊んでいる仲間達のところに戻って行った。

今では外で走り回るなんて頼まれてもやりたくないけれど、自分も小学生ぐらいのときまでは公園でよくボール遊びをしていたことを思い出して、少し懐かしい気持ちになる。

「へー、キミもそういう表情するんだね」

ボールで遊んでいる小学生達を何の気なしに眺めていると、後ろから声をかけられた。

「なんだ、あんたか」

声の主は晴海だった。学校が終わってからまだ一時間ぐらいしかたっていないのに、トレーニングウエアに着替えている。

「どうしたのさ、こんなところで」

「別に何も」

「ふーんそうなんだ……あっ、いいもの持ってるじゃん。ボクにもアイスちょうだい」

「なんであんたに……」

「もちろんお金は出すからさあ……お願い」

「……見てて暑苦しいからさっさと食べたら」

「本当?やったぁ!」

アイスの棒を咥えながら晴海はわたしに聞いてきた。

「そういえば、来週スポーツ大会だけどキミは何の種目に出るんだったっけ?」

そういえばそうだった。今から気がめいる。

「ドッチボール」

「だったら体育館か、一緒だね」

「言っとくけど……」

「いやいや、もう誘わないよ。メンバーもう決まってるし。でもせっかくだし試合だけでも見に来てよ」

「嫌」

「ちぇーちょっとぐらい考えてくれたっていいじゃんか。それにボクだってだいぶ上手くなったんだよ」

晴海がねえ……。

「ふーん」

「あー信じてないな? 実はボク、今は4番つけてるんだよ」

「あんたがキャプテン?」

「本当本当。スポーツ大会ではバスケ部のウェア着てでるし、確かめるためにも見に来てよね。じゃ、ボクランニングに戻るよ」

そう言うと晴海は駆け出して行った。

相変わらず見てて羨ましくなる。その元気はいったいどこから来るのだろうか。

遠ざかる晴海の背中を見送ってから、私は家に急いだ。

家に着くとわたしはすぐにシャワーを浴びた。

「ふう……」

ソファーに座ってサイダーを飲む。口の中に爽やかな甘さと炭酸が弾けるこの感覚は何度味わってもたまらない。

最近自分の体の色んなところがぷにぷにし始めたことが気になってきても、甘いものを断つことはわたしにはやっぱりできない。

サイダーを飲み干すと、今度は冷凍庫からさっきのアイスを出した。

何となくテレビをつけても特に面白い番組もやっていないし、することもない。

何かに追われるのは嫌いだけど、何もすることがないというのもただただ退屈だ。

「んっ」

おもむろに立ち上がったところであるものが視界に入った。

紙の箱……こんなの家にあったっけ?

しばらく考えてから思い出した。テーブルの端に置きっぱなしになっていた箱を開く。

その中には名刺ほどの大きさの紙片が入っていた。このように英数字とアットマークで構成された文字列はメールアドレスしか思いつかない。

メールアドレスを伝えたいなら、どうしてこんな回りくどいことをするのだろうか、橘さんだったら直接聞いてきそうな気がするのに。

それはともかく今さらでも一言メールを送るべきだろうか、そう思って携帯を手に取った。

「……やっぱりいいや」

急に面倒になってきたので、机に携帯を戻してソファーに寝転がる。

しばらくぼーっとしているうちに気がついたら眠ってしまっていた。

カーテンを閉め忘れていたのだろう、朝日の眩しさで目が覚める。

いつも家を出る時間にはまだ早いけれど、着替えて家を出ることにした。

この前かわいい店員さんがいたコンビニに向かう。

「いらっしゃいませー」

横目で店員さんの方を見てガッカリしてしまう。前の人は今日はいないみたいだった。

メロンパンとココアを買ってさっさとコンビニを出る。

なんとなく正門ではなく裏門の方に回り、校内に入ろうとしたときに、車が自分のそばに横付けされた。

「あら、奇遇」

降りてきたのは生徒会長様だった。

「今日は車で登校なの?」

「別に今日だけじゃないわ。いつも送り迎えは車よ」

彼女の家が相当なお金持ちらしいとはどこかで聞いたことがあるような気がする。車に全く関心のないわたしでも知ってるような高級車で送り迎えされているということは、実際にお金持ちらしい。

「ところで、貴女これに興味ないかしら?」

椿原と並んで歩く。下駄箱に差し掛かったところで一枚のチラシを渡された。

「文化祭生徒会企画参加者募集中……?」

「クラスの発表等との掛け持ちも可能だし、生徒会の企画だけに参加してもらっても構わないわ。それに貴女がもし参加してくれたら……悪いようにはしないから」

蠱惑的な眼差しに思わず呑まれてしまいそうになる。

「ふふっ……来てくれるの待ってるわ」

わたしの返答を待たずに、椿原は行ってしまった。

 

「おはよー」

「昨日のアレ見た〜?」

階段や廊下を飛び交う声の間を抜けて教室に入る。

「ふわぁ……」

さほど眠いわけでもないのに、教室の空気に耐えられずにあくびをしてしまった。

「百合、おはよう」

「おはよ」

「ほら、体起こして」

「分かったからくっつかないで……」

体を寄せて来た真央を引き剥がす。真央は不満げな顔をしながらこう言ってきた。

「そういえば、文化祭どっちに参加するか名前まだ書いてないの百合だけみたいだよ。とりあえず名前書いておいたら?後で変えてもいいらしいし」

いい加減過ぎる。いったいなんのために名前をわざわざ書かせるのか、そう思いつつ名前を書いた。

「で、百合はどっちにしたの?」

「わたしは──」

 



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chapter2

1

真央は変わらないね、と私は周りの人によく言われる。

その言葉の真意は分からないけれど、そのままの意味で受け取るとしたらあまり嬉しくはない。

私は小さい頃から怖がりなうえに引っ込み思案でいつもママの後ろに隠れているような子だった。

そんな自分を変えたくて、私は色んなことを自分なりに頑張ってきた。

 自分を変えたいという漠然とした願いを持った理由、それは百合がいたからだ。

……本人の前では絶対言えないけど、私はずっと百合の隣にいたい。ただそれだけなんだ。

 

──こうも暑いと外に出るのが余計に嫌になる。セミの鳴き声はどうしてこうも暑さを感じさせるのか。

家から出ないでもいい夏休みが待ち遠しい。

昼まで寝ていてもまだ眠気に押し潰されそうになる。再び眠りに落ちそうになったときに、チャイムが鳴った。

「んぅ……」

 連絡や予定のない来訪者は、だいたい応対するとろくなことにならない。

 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。

 いい加減居留守を使っていることぐらい分かっても良さそうなものなのに、鳴り止む気配はない。

 我慢の限界が訪れて嫌々玄関に向かいドアを開けた。

「あっ、やっと出てきた」

「何の用」

「用がなかったら来ちゃいけない?」

 来訪者の正体は真央だった。

「とりあえず中入れて、外暑くて溶けそう」

 何しに来たんだ。でも入れないと玄関先でごねられることになるだろうなあ……。

「……入れば」

「ありがと、お邪魔しまーす」

「ふー涼しい」

「で、何しに来たの?」

 ソファーに我が物顔で寝転がる真央にわたしは尋ねた。

「ちょっと、ね」

「まあ、別にいいけど」

 言いたくないならわざわざ聞く必要も無い。

「ねえ、百合」

 真央がわたしの隣に座ってきた。

「百合って誰かに告白されたことある?」

「……急に何?」

「実は私ね、昨日後輩の子に告白されちゃって」

「へぇ」

 気のないような返事をしながらも、内心驚いていた。真央が告白されたことではなくて、そのことをわざわざわたしに伝えてきたことが不思議だった。

「百合は、どう思う?」

「どう思うって言われても」

「何とも思わない?」

 どういうつもりで聞いてきてるのか、質問の狙いがいまいち読めない。

「その相手のことわたし知らないし」

「優しくて、かわいくて、それにすっごくいい子だよ。」

「それって、男?女?」

「女の子」

「……へぇ」

 なんとなくそんな感じがしていたけれど、やっぱりそうなのか。

「女の子同士って、ありだと思う?」

「別に好きになった人なら、ありだと思うけど。どうしてわたしにそんなこと聞くの?」

「ただ聞きたくなっただけ、ありがと」

「付き合うの?その子と」

「何?嫉妬してるの?」

 いたずらっぽい笑みを真央は浮かべる。

「どうしてわたしが嫉妬する必要があるの」

「なーんだ残念。嫉妬してくれないんだ」

 本当に残念そうな口調で真央は言う。

「あっそういえば文化祭のグループ、百合は劇の方に入ったんだよね?」

「そうだけど」

 それがどうかしたのだろうか。

「実は私も劇のグループに入ることになったの。劇の方の人手が足りないって相談されて」

「ふーん」

 確かに劇のグループは人数が足りないとか言ってたような気がする。

「まあ、正確には両方のグループを兼任するってことなんだけどね、展示の方は余裕もって出来そうだし。ところで百合って何の担当になったの?」

「大道具」

「えーもったいないよー。どうして出ないの?」

「真央は出るの?」

「驚かないで聞いて……実は私、お姫様役やることになったの」

「ふーん」

 驚くほどのことではない。真央だったら適任だと思う。

「え?それだけ?もっと……こう、すごいなーとか感想はないの?」

 ずいっと、真央がわたしに迫ってくる。

「……前から思ってたんだけどそれ、わざと?」

 わたしとは違う真央のボリューム満点な胸元を見せつけられると、正直悲しくなる。

「何が?」

「何でもない」

 そう言ってわたしはソファーに寝転がった。

「もう、また寝るつもり?」

「眠い……膝貸して」

「ちょっと……もうしょうがないなあ」

 頭を太ももに乗せると、真央は一瞬怒ったような声を出したけれど、それ以上は何も言わなかった。

 やっぱり肉付きのいい太ももは枕として申し分ない。わたしはあっという間に眠りに落ちていた。

 辺り一面に咲きほこっている向日葵。明るい黄色に包まれた世界にわたしは歩いていた。

 太陽の光が照りつけているのに、暑いとは感じない。ここは、きっと夢の中だろう。

 そう思いながらもしばらく歩いていると、遠くに人が立っているのが見えてきた。

 何をしているのだろう?

 麦わら帽子に真っ白なワンピース。顔はよく見えないけれど、きっと若い女性だろう。

 歩みを一歩一歩進めるたびに、少しずつその女性との距離が縮まってゆく。もう少しで顔が見えそう……そう思ったときだった。

 強い風が突然吹いて、わたしは目を反射的に閉じてしまう。

 風が収まり目を開けると、女性が立っていた場所で向日葵の花びらが渦をまいて空に舞い上がっていた。

 女性の姿はもうどこにもない。だけど、まるで花びらは女性を運んでいくようにどこでもどこでも空に舞い上がっていって、最後には完全に見えなくなってしまった。

 一面の向日葵の中、女性が立っていたところだけ花が消えて土が見えている。待っていれば、そこに再び向日葵が咲くような気がして、私は立ったままずっと茶色の地面を見つめていた。

 太陽はやがて沈み、再び太陽が昇る。何度も何度も繰り返し繰り返し朝が来て夜が来る。

 1000回、いや1500回ぐらい朝と夜が訪れても、そこから向日葵の花が咲くことはなかった。

 わたしの頬を涙が伝う。悔しいのだろうか、悲しいのだろうか、その理由は分からないのに涙が止まらない。拭っても、拭ってもすぐに溢れてしまう。

「これ、使って」

 突然横から聞いたことのある声がした。それと同時にハンカチが差し出される。

 受け取って目元を押さえると、嘘みたいに涙が止まった。

「ありがとう」

 お礼をいって、ハンカチを差し出してくれた人の顔を見ようとしたところで突然現実に引き戻された。

「んぅ……」

 見知らぬ天井……ではなくこちらを覗き込んでいた真央と目が合う。

「おはよ。百合結構長い時間寝てたね」

 時計を見ると、どうやら1時間ぐらいわたしは眠っていたようだ。

「そんなに私の膝、気持ちよかった?」

「なんだか居心地が良かった」

「私も百合の寝顔久しぶりに見れて良かった。やっぱり百合の寝顔は、可愛いなあって思ったよ」

「……何それ」

 自分のことを可愛いだなんて思ったことは産まれてから1度もないけれど、まるで普段は可愛くないと言われた気がして、少しムッとしてしまう。

「嘘だって冗談冗談。百合はいっつも可愛いよ」

「はいはい」

 取ってつけたような言葉に思わずため息が出る。

「あれ?雨降ってきた」

 外を見ると確かに雨が降り出してきていた。

「天気予報で雨降るって言ってなかったのに、ママ達大丈夫かなあ」

 雨は弱まるどころか徐々に強さを増していく。

「どうしよ、帰れないよこれじゃ」

「傘持ってけば」

「そうじゃなくて、雷とか鳴りそうで怖いのに一瞬でも外出たくないよぉ……」

 真央は子供の頃から雷とか地震とかが本当に苦手だったのだけれど、まさか今もここまでだとは思ってなかった。

「さっきまであんなに太陽出てたのにどうしてこんな天気になるの……もうやだ」

 小さな子のように駄々をこねる真央を見てると、何度か一緒に雨宿りをしたことを思い出す。

「きゃああああああ!?」

 遠くに雷が落ちて、しばらくしてからゴロゴロと音が鳴る。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないよぉ……」

 真央は目に涙をためて、訴えるような視線をわたしに向けてくる。お化け屋敷とかジェットコースターとかは平気なのに、雷はどうしてそんなに怖がるのか不思議だ。

「ひゃあっ!」

 再び雷が落ちる。さっきよりもかなり近いところに落ちたのだろう、かなり大きな音が響いた。

「うぅ……」

 流石に見てて心配になる。高校生にもなってここまでビクビクしていて大丈夫なのだろうか。

「何よ呆れたみたいな顔してさあ、私が本当に雷ダメなの知ってるくせに……」

「呆れてるっていうか、変わってないなあって」

「……それって呆れてるってことじゃん」

「真央のそういうところ、すごいと思うよ。わたしには出来なかったから」

 わたしの言葉に真央は困ったような表情になった。

「そういうところってどういうところ?」

「何だろ、わたしにもよく分からないけど、真央には変わらない良さがあるよ」

「う、うーん。喜んで……いいの?」

「まあでも」

 おもむろに視線を顔から下に移す。

「変わった部分もあるけどね」

「?」

 真央はもう少し周りの視線に敏感になった方がいいとわたしは思った。

「あ……雨、収まってきたかな?」

「そろそろ帰ったら、また帰れなくなるよ」

「うーん本当はまだ居たいけど……今日は帰るね。ありがと」

 玄関まで、真央を見送りに出る。

「傘、そこのから、適当に持っていけば」

「ありがと、1本借りてくね」

 それじゃあ、と小走りで真央は家に帰っていった。

「ふう」

 ソファーに寝転がるとさっきまで寝てたのに波のような眠気がやってくる。眠りに落ちる前に、なぜか少しだけわたしは人肌が恋しくなった。

 

 2

「だるい……」

 ただでさえ暑いのにこれから1日ずっとスポーツをさせられる。体育大会と球技大会は運動が好きではない人種にとっては嫌がらせ以外の何物でもない。

 体育館の隅で扇風機に当たっていないと熱気で倒れてしまいそうだ。

「百合〜そろそろはじまるから行くよ、ほら」

 真央に連行されて渋々ドッジボールに参加する。

 飛び交うボールは女子のものとは思えないほどの気迫に満ちていて、正直少し怖かった。

「それっ!」

 ボールが真央の手に渡るたびに見ている生徒達が歓声が上げる。その歓声は真央のプレーだけではなく大胆に揺れる胸元に向けられたものであることに間違いはない。これだから男は……と思わず呆れてしまう。まあ、わたしもアレを見てしまう気持ちは分からないでもないけれど。

「百合!ボール!」

 真央の声で我に返る。間一髪でボールをなんとか受け止めた。

「ふう」

 ボールを外野に投げて短く息を吐く。それからもボールを相手にぶつけたり、避けたり、とにかく動き回った。

「すごい活躍だったよ百合!」

「そんなことない。わたし達のクラスの方がメンバーに恵まれただけでしょ」

 試合は連戦連勝だった。特にわたしが頑張ったわけではないのだけれど、真央にやけに褒められて妙な気分になる。

「も〜またそんなこと言って〜百合はもっと自分の成果を誇っていいんだよ。というか誇るべき」

「はいはい」

「あっ、そろそろバスケ始まるみたい。百合も行く?」

「パス」

「そう、分かった。熱中症とかならないように気をつけてね」

 さっきまであれだけ動いていたのに、真央は走って応援に向かった。真央はいったいどこからその元気が湧いてくるのだろうか。

 体育館を出て、外で顔を洗う。水の冷たさがとても気持ちいい。

「お疲れ様、貴女の活躍見てたわ」

 蛇口から水を飲んでいると、生徒会長様から声をかけられた。

「わたしよりも真央の方が活躍してたと思うけど」

「貴女のことしか見てなかったから気づかなかったわ」

「……またわたしのことからかってます?」

「うふふ、さあどうでしょう」

 この暑い中でも椿原は涼しげな顔をしている。

「ところで今、時間あるかしら?」

「?」

「貴女に手伝ってもらいたいことがあるの」

 そう言って椿原はにっこりと笑う。その笑顔で今までも多くの人を手玉に取ってきたことはわたしでも簡単に分かった。

「……で、手伝って欲しいことって何ですか」

 連れて行かれたのは保健室だった。

「奥のベッドに座っていて。準備してきますから」

「はあ」

 準備っていったい何を準備するのだろう。ベッドに座ってしばらく待っていると椿原が戻ってきた。

「お待たせしました。じゃあさっそく始めましょう」

「始めるって何を?」

「うふふ、ちょっとしたアンケートです」

「アンケート?」

 手伝うってアンケートの回答だったのか。

「ええ、学校が公式に回答を集めるものではなく、わたくし個人が選んだ生徒に直接聞いて回ってるものです」

「はあ」

「プライベートなことも質問させてもらうので答えにくいものは無理に回答を求めたりはしないので」

 答えて頂けますか?と言って、椿原はわたしを見つめて来た。

「別にいいですけど……あんまり時間をかけるのはまずくないですか?」

「確かにあまり時間をかけてしまうと、球技大会を抜けていることがバレてしまいますからね。安心してください、質問は3問だけですし、yesかnoで答えて貰えればいいので」

「はあ」

 たった3問のアンケートで何を調べるつもりなのかよく分からないけれど、ここまで来てしまったからにはとりあえず付き合うか。

「あまり考えずに答えて下さいね。では、質問1です。貴女は自分の容姿を他人から見て魅力的だと感じますか?」

 ケータイを取り出しながら椿原は聞いて来た。

「no」

 迷うことなくわたしは答えた。

「……なるほど、では次の質問です。貴女は今片想いをしいる人がいますか?」

「no」

「なるほど」

 椿原はケータイを操作している。yesかnoかのメモでもとっているのだろう。

「あの、この質問ってどういう意図で聞いてるんですか?」

「そうですね……学生生活の調査、といったところでしょうか」

「調査ねえ……」

 それにしては質問の内容がどこかおかしな気がするが。

「では、最後の質問です。貴女の目にはわたくし、椿原花恋は魅力的に映りますか?」

「え?」

「あら?よく聞き取れませんでしたか?」

「いやいやそうじゃなくて……それって本当にアンケートの質問ですか?」

「ええ、そうですよ」

「……」

「さあ、答えて下さい」

「ちょちょちょっと……」

 蠱惑的な笑みを浮かべ、椿原はわたしに迫ってくる。距離を取ろうと後ずさりして気づいた。

 仕切りのカーテンは閉じられ、背後の窓も鍵がかけられている。……もしかしてこれ、逃げられないのでは?

「今度は逃がさないから」

「ひゃあっ!?」

 肩を掴まれてなす術もなく、わたしはベッドに押し倒される。

「こういうことされるの嫌?」

 嫌ではないけれど、それどころじゃない。

「いや……その、冗談……ですよね?」

「にぶいのね、本当」

 心底呆れたといったような表情を椿原は浮かべる。

「まあ、いいわ。貴女がにぶいからこそチャンスが巡って来たのだし」

「……っ!?」

 身動きの取れないわたしを熱のこもった視線で椿原は見つめてくる。

 近づく顔と顔、いや唇と唇がこのままだと触れそうな──

 がらりという突然の物音で飛びかかっていた意識が引き戻された。

 入口の方から足音が近づいて来て、閉じられていたカーテンが壊れそうな勢いで開かれる。

「なっ……ななな何してるの!」

 現れたのは真央だった。

「あら、桜井さん。どうされたのですか?」

「はぁ……はぁ……いいから早く離れなさいよ。2人ともそこに正座、今すぐ」

 ベッドの上に並んで座らさせられる。

「……」

「……」

「……」

「で、いったい何をしてたの?」

 気まずい沈黙が流れた後に、尋問するような口調で真央はわたしと椿原に質問して来た。

「いや、その……」

 どう答えればいいかわたしが戸惑っていると、椿原が笑顔を浮かべてこう答えた。

「わたくしが朝倉さんにアンケートの回答をお願いしたんです」

「アンケート?そんなのあったっけ?」

「わたくし個人がお願いしてるものですから、学校のものとは違います」

「ふうん。で、どうして百合にあんなことする必要があるわけ?」

「あら、どうしてそんなことを聞くんです?」

「どうしてって、そんなのベッドに押し倒されてるの見たからにきまってるじゃない」

「説明する必要はないですわ。だって桜井さんの想像通りだろうと思いますから」

「……椿原さん、あなたねえ」

 真央は椿原に今にも掴みかかりそうな顔で、椿原を睨んでいる。

「百合さんではなく桜井さんがどうしてそこまでムキになるんです?」

「……それは」

 真央が口ごもったところで午後3時のチャイムが鳴った。

「あら、もうこんな時間ですか、わたくしはこれで失礼致します。お2人も早く体育館に戻った方がいいですよ」

「ちょっと!まだ話は……」

まだ何か言いたげな真央を振り切るように、椿原は保健室から出ていってしまった。

「……」

 無言で立ちすくむ真央にどう声をかければいいか分からず、わたしはベッドの上に座ったままだった。

「ねえ百合」

「な、何」

 真央はゆっくりと近づいてきてわたしの手を掴んできた。

「ちょ──」

 そのまま引っ張られて保健室を出る。

「……」

「ねえ」

「……」

「ちょっと」

 ……どうしたものか。

「あのさ、どうしてそんなに機嫌悪いの?」

「分かんない。どうしてこんなにモヤモヤしてるんだろ私」

 吐き捨てるように言って、真央は掴んでいたわたしの手をようやく離した。

「早く戻ろ」

「うん」

 どこか違和感を覚えながらもわたしはそれ以上何も聞かずに真央と体育館に戻った。

 まだ熱気の残る中、クラスごとに並ばされて話を聞かされる。それから教室に戻ると、黒板にでかでかと流れ解散と書かれていたので、わたしはそのまま教室を出た。

家の近くまで来たときに、突然ケータイが鳴り出す。どうせ真央だろうと思って画面を見て、思わず足が止まった。

「もしもし」

自分でも声が震えているのが分かる。

「はい……。分かりました」

用を伝えるとなんの躊躇もなく、電話は切られた。

「はあ……」

たった数秒話しただけなのに、さっき運動したときと同じぐらい全身に汗をかいていた。

制服をソファーに脱ぎ捨てて、シャワーを浴びる。

冷たい水で汗を流しても、まだ電話のことが頭から離れなかった。

もう向こうから電話がかかってくることはないと思っていたのに、どうしてなんだろう。

嬉しい気持ちよりも、疑問に思う気持ちの方が強くわたしの心を支配していた。

 

3

私だけではなく、学生にとって期末テストという言葉は聞くだけできっと憂鬱な気分になる。

「ふわあ……」

いつもより30分早く起きて、今日あるテストの復習を軽くする。

「真央ーご飯できたよ〜」

「はーい!」

返事をして下の階に降りる。

テーブルにはトーストとスクランブルエッグとサラダが並べられていた。

「いただきまーす」

トーストにかじりついて、テレビをつける。朝から流れるニュースはどれも見ていて気分の良くなるものではなかった。

「ふう。ごちそうさまー」

朝ごはんを食べ終えて、身支度を整える。

「よし」

スイッチが入るというほど大げさなものではないけれど、髪を二つ結びにすると何だか気分が引き締まる。

「うん」

制服を着てからもう一度鏡の前に立つ。改めて見ると髪を結んだリボンがいつもよりも決まっている気がした。

「気をつけてね」

「うん」

「あっそうだ、今日は午前で学校終わりなんでしょ?帰りに百合ちゃんを誘ってお昼食べてきたら?」

ママにお金を手渡される。

「ありがと。じゃあ行ってきます」

家の外に出てから深呼吸をすると少しだけ勇気が湧いてきた。

百合の家のチャイムを押す。一回、二回、三回目でようやく百合が出て来た。

「おはよ、学校行こ」

「……待ってて」

いつも以上に朝の百合は不機嫌そうで、その表情を見るといつも起こしに来たことを後悔してしまう。

15分ぐらいして百合が制服に着替えて出てきた。

「あれ、どうしたのそれ」

「別に、気が向いたからつけただけ」

百合の前髪に鮮やかなオレンジのヘアピンが飾られていた。ヘアピンの上にガラスで作られた太陽が乗っている、すごく印象に残るデザインだ。

「ふうん……」

最近買ったのかな?もしかしたら誰かから貰ったものなのかな?とか色々想像が膨らむ。結局駅に着くまで、私はずっとそのヘアピンが気になっていた。

「そういえば今日から期末だけど、百合はどう?」

「どうって」

「勉強はした?」

「日本史はやる前に適当に教科書読めばいいし、数学も公式見直して、美術も普通にしてればいいじゃない」

どうせそうだろうなと思いながら聞いたら、予想通りの返答だった。しかもこんな感じでそれなりに勉強している私よりも、百合はテストでいい点数を取るんだ。

「羨ましいな〜百合はいっつもそんなに余裕で」

「ふわぁ……それよりもちょっと肩貸して」

そう言って百合は私の方にもたれかかって来る。

「もう……着くまでだからね」

「うん」

それから学校の最寄り駅に着くまでの間、百合は眠っていた。その寝顔は思わず頭を撫でたくなるほど愛おしくて……でもそんなことをしたら、きっと百合は目を覚ましてしまうだろうから。

「んぅ……」

「あ、起きた?もう着くよ」

学校の最寄り駅に着くと、同じ制服の生徒達が一斉に降りて行く。

「ねえ百合、今日テスト最後の日だけどさ、終わった後何か用事ある?」

「ないけど」

「じゃあさ、終わった後どこか行こうよ」

「……どこに」

「うーん百合はどこか行きたいとこある?」

「帰って寝たい」

「もーまたそんなこと言って」

校門が近づく度にどんどん人が増えて、そのたびに百合の表情が曇ってゆく。

「ああもうやだ……帰りたくなってきた」

「……いっそ帰っちゃう?」

私が一番言わないはずの言葉が外に出た。

「熱でもあるんじゃないの」

怪訝そうな顔で百合は私を見つめる。

「冗談じゃないって言ったら、どうする?」

ああ、ダメだ。私がこんなこと言ったらいけないのに……。

「えいっ」

「え……」

突然百合に体を寄せられたと思ったら額に手が当てられていた。

「なんか、顔も赤いし本当に熱あるんじゃないの」

「な、ないから!もう!」

顔を見られるのが恥ずかしくて、歩くペースを早くする。百合からときどきこんなふうに不意打ちをされるたびに、風に葉が揺らされるように私の中の何かがざわめく。

教室でテストを受ける。あれだけ勉強したのに、私はどこか上の空で、また百合に点数で負けてしまいそうな気がした。

最後の科目の美術が終わり、教室中が安堵や諦めのこもったため息で埋め尽くされる。

「桜井さんテストどうだった〜?」

「うーん、あんまり自信ないかなあ」

「またそんなこと言って〜いっつもいい点数取るじゃん」

そんなことないよ、と愛想笑いを返しつつ私の目は百合がどこにいるか探していた。

「あっ……」

思わず声が漏れる。百合に話しかけているのは生徒会長だった。

嫌だ。やっぱりあの人と百合が話しているのを見てるとどうしてかムカムカしてくる。

「ねえ、百合」

生徒会長が教室から出ていくのを見計らって、百合の肩をつついた。

「何?」

「決まったよ」

「何が?」

百合は怪訝そうな顔をする。

「どこ行きたいか、そういえば百合を連れていきたいなあっていいお店があったの」

言ってからしまった、と思う。そんなお店知らないのについ嘘をついてしまった。

「ふうん」

「だから、行こ?私が奢るからさ」

「いや、そういうことじゃなくて」

百合が珍しく瞬きをして私を見る。

「ね、お願い」

「いいけど」

「じゃ早速行こ」

まさか百合がここまで簡単に折れるとは……ど、どうしよう。

電車の中でママに助けを求めると、お叱りの言葉と一緒にいくつかのお店の名前を写真つきで教えてくれた。

「あ、次の駅で降りよ。ここから歩いて行くのが一番近いみたいだし」

「みたいって、行ったことないの」

いつもはにぶいくせにこういうときだけ妙に鋭い。

「うん、写真で見たことあるってだけだしね」

「はぁ……まあいいんだけど」

駅からしばらく歩いて、大きな通りから中に入る。閑静な住宅街と言うべきだろう場所を地図アプリは示していた。

「あ、あそこだ」

やがて目の前に一軒の喫茶店が見えた。純喫茶サファイア。いかにもって感じの店名で、心が踊る。

「いまどき純喫茶なんて珍しい」

「でしょ?どうかな」

「まさかここまで来てやっぱりやめるとかいうつもり?」

勘弁して、というような百合の視線を受けて扉を開ける。

「そうだよね、入ろっか」

チリーンと軽やかな鈴の音が鳴った。それと同時にコーヒーの香ばしい香り。

「おや、学生さんかな?そこのテーブルにどうぞ」

マスターらしい人が笑顔で迎えてくれた。促されたテーブル席に向かい合って座る。

薄暗い店内にジャズが流れていて、とても落ち着く雰囲気。私達以外にも何人かの常連客らしき人がいた。

ただ一ついわゆる純喫茶のイメージと違うのは、マスターが女性だということ。20代後半ぐらいの、落ち着いた雰囲気の美人なお姉さんだった。

「真央」

「?」

「この店すっごくいいね」

「……それはどうも」

百合はものすごくいい笑顔をしながら店内を見回している。喜んでくれてよかったと思いながら、私もあまりみたことのないような表情にどこか複雑な気分になった。

「うーん」

気を取り直してメニューに目を通す。とりあえずコーヒーは頼むとしてあとはどうしようかな。

「ねえ、百合は何にする?」

「アイスココアとミックスサンド」

「うーんじゃあ私はアイスコーヒーと何にしようかなあ迷っちゃう」

「あっどうぞどうぞゆっくり考えてねー」

お姉さんがお絞りと水を運んで来た。

「何かオススメとかありますか?」

私の質問に少し考えこんでお姉さんはこう答えた。

「うーんそうだなあ、やっぱりナポリタンとかオムライスとかが定番かな」

「あの、お姉さんはどれが一番好きですか?」

「あ、でもあたしはミックスジュースが一番好きかも、あははごめんねー参考にならない答えで」

「へぇーそうなんですか。……じゃあ私はアイスコーヒーとナポリタンで」

「はいはーい。そっちのお客様は注文決まった?」

「わたしはミックスジュースとオムライスでお願いします」

「飲み物はすぐ持って来るか、食事が終わった後かどちらにしますか?」

百合と顔を見合わせる。

「じゃあ後でお願いします」

百合も無言で頷く。

「はいはーい」

にっこり笑ってお姉さんは引っ込んで行った。中に注文を伝えてるからもう一人厨房にいるみたい。……それよりも私は気になったことがあった。

「珍しいね、百合が決めた注文変えるなんて」

「そう?」

そうだ。百合は店員の人に勧められたからといって自分が決めた注文を変えるようなことはなかったはず。

「まあ、気が向いたからかな」

百合は私が感じた疑問に答えるように一口水を飲んでから続けた。もしかしたら、不服そうな顔をしてしまっていたのかもしれない。

「そういえば百合」

微妙な空気を変えようと、話題を変える。

「テストどうだった?」

「んー別に普通」

「ってことはまた私の負けか〜」

わざと少しおどけてみせた。

「そんなことより、結局どうなったのあれ」

「あれって?」

「告白されたって話」

「……うん断ったんだ。きっぱりと」

「そうなんだ」

どうして、とか、なんで?とかの言葉をどこかで期待していた私にとって百合のその言葉は冷たく響いた。

「ほら、変に気がある素振りをして期待させちゃったらきっと辛いだろうしね。ダメならダメだって、はっきりごめんなさいって言わないときっと余計に辛い思いをさせちゃうだろうなって思って」

私は思わずテーブルの下の右手を握りしめていた。

「……」

百合は何も言わずにまた水を一口飲む。グラスの中の氷がからんと音をたてた。

「……前から聞こうと思ってたんだけど百合はさ、誰かに告白されたことある?」

今度は私が百合に質問をする。

「なくはないけど」

予想通りといえば予想通りの答え。だけど私は違う答えを心のどこかで求めていた。

「どんな人?」

「あんまり覚えてない」

「ええっ?」

「あんまり興味ない人だったから記憶に残ってない」

平然と百合は言う。その口ぶりからすると本当に記憶にないようだ。

「お待たせしましたー」

「うわあ美味しそう」

運ばれて来たナポリタンとオムライスはどちらもすごく美味しそうで、私1人で両方食べてしまいたくなってしまうほどだった。

「飲み物が欲しくなったらまた声をかけてくださいね」

「はい」

「……本当美味しそうに食べるね」

「そう?」

頬杖をついて、ナポリタンを食べる私を百合はじっと見つめてくる。

「そんなにまじまじと私を見てないで早く食べたら?」

「うん」

そう返答をしても百合は左手でずっとスプーンをもてあそんで、オムライスには手をつけずにいる。考えごとでもしているのかどこか上の空だ。

「食べないなら貰っちゃうよ?」

「半分食べる?わたしにはこれ少し多いし」

「え?本当に?」

「はい」

百合はスプーンでオムライスを半分に分けて、私の方に皿を渡してきた。

「あ、ありがと」

「何かを食べてるときの真央って本当幸せそうで見てて飽きないし、いっそフードファイターにでもなったら?」

「もう、からかわないでよ」

「いやいや、わたし真央以上に食べる人知らないし」

百合は少し意地の悪い笑みを浮かべて、ようやく食べ始めた。

「……私のことそんなふうに思ってるんだ〜」

「少し」

「もう!」

最近また少し制服がキツくなってきたことを思い出して私は少しブルーな気分になった。

「ふう」

アイスコーヒーを飲みながら少し店内のジャズに耳を傾ける。音楽は全くと言っていいほど詳しくない私でもどこか聞いたことがあるような気がした。

百合はまた頬杖をついてカウンターの奥を眺めている。その横顔は私がいくら背伸びしても届かないほど綺麗で、同じ女の子として羨ましくなってしまう。

「百合は進路どうするの?」

私はミックスジュースを飲む百合に今日一番聞きたかったことを聞いた。

「真央はどうするの」

「私は一応進学しようかなあって」

「そう」

百合は長いため息をつく。

「百合もやっぱり進学するの?」

「どうだろ」

空になったグラスを見つめながら百合はそれ以上何も言おうとしなかった。

「……そろそろ帰ろっか」

「うん、じゃあ私が誘ったんだしここは私が……」

「いいよ、ここ気に入ったしわたしが出す」

そう言って百合は私の返答を待たずに伝票を持っていってしまった。

「あっ待ってわたしも」

「いいから」

「でも……」

「ね?」

結局百合の視線に負けて私は先にお店を出た。

「行こっか」

「うん……」

来た道を戻って再び電車に乗る。あっという間に私達が降りる駅に着いてしまった。

「あっつい……」

そう言って百合は制服のリボンを外して胸元を扇子であおぎだした。

「何?」

私の視線に気づいたのか、百合が私を見てくる。

「別に何もないよ」

「真央の方が立派なもの持ってるのにわたしの見てもしょうがないでしょ」

百合は悪い笑顔で今度は私の胸元をまじまじと見てきた。

「も、もうやめてよ」

「しっかし何食べたらこんなになるの?」

「きゃあっ!?」

揉まれたというか、わしづかみされたという方が正確なほどの強さでかなり痛かった。

「あ、ごめんつい」

「ついって……」

真顔で言われると余計に変な気分になってしまう。

「あれ、2人でデート?」

後ろから晴海さんが走って来た。この暑さなのにランニングしていたみたいで、正直びっくりした。

「暑苦しい、寄るな」

しっしっと、百合は追い払うような仕草をする。

「もう、またそんなこと言って」

百合はなぜかいつも晴海さんに辛辣で、何かあったのだろうかと気になってしまう。

「……どうやらお邪魔みたいだしボクはランニングに戻るね、じゃあ!」

そう言って晴海さんは屈伸をしてから、走り去っていった。

「ちょっとそこのコンビニ寄っていい?」

「別にいいけど」

百合がコンビニに寄るみたいなので、私もとりあえずついていくことにした。

「いらっしゃいませー」

少し眠そうな店員の人の声がする。中には誰もお客さんはいないみたいだった。

「……!」

「どうかしたの?」

「何も」

「?」

百合が一瞬目を見開いた。まるで何か探し物を見つけたようなその反応が気になってしまう。

「どうかしたの?」

「ううん何も」

「そう」

怪しい。絶対に何かある。

「よっと」

「えっ、そんなに……?」

「またいちいち買いに外出るの面倒だし」

「いや……そうじゃなくて」

百合はカゴの中にサイダーやコーラを次々に入れていく。そんなにたくさん買うのだったら大きいペットボトルに入った方を買えばいいのでは?と思ってしまった。

「大きいと飲みきる前に炭酸抜けちゃうし」

なるほど、そういうこと。

「ココアは普通に大きいパックで買うし……真央は何か買わないの?」

「うーんどうしよう」

どうしても割高に感じてしまうからあまりコンビニで買い物をしたくないのだけれど……。

真琴(まこと)さんに何か買って帰れば?そこにあるロールケーキとか」

真琴というのは私のママの名前だ。

「そうだね、ママロールケーキ好きだし」

百合も買い物が済んだみたいなので、一緒にレジに向かう。

「先に払ったら?」

「うん」

百合に促されて会計をする。

「390円になります。……はい、10円のお釣りになります。ありがとうございましたー」

店内の人は、モデルさんみたいにスタイルが良くて、ポニーテールがすごく似合っている女性だった。

先に外に出て百合を待っていると、さっきまで考えていたことの理由に気がついた。

「あっ……」

店内を覗く。ここからでも百合が店内の人をじっと見ていることが分かった。わざわざ家の近くじゃなくてここを選んだのも、もしかして……。

「お待たせ」

「帰ろっか」

動揺を百合に悟られないようにわざとらしいぐらいの笑顔を作った。

「ふぅ……やっぱり買いすぎた、重い……」

「家の近くで買えば良かったんじゃない?」

「そういえば確かに」

私が気づくことに百合が気づいてないはずがない。どうやら私の予想は正しかったみたいだ。

家に着くまでの間、ずっとモヤモヤした気分が晴れなかった。

「やっと着いた……」

頬を汗が伝うほど、百合は汗をかいていた。

「大丈夫?」

「後で湿布貼るから多分大丈夫。……じゃあね」

「あっ……」

家に入ろうとする百合を呼び止めようとして言葉を飲み込んだ。

「ただいま……」

「おかえり〜あれ?何かあったの?」

「何かあったってわけじゃないんだけど……」

ママに今日あったことを簡単に話した。

「……なるほどね」

「今日だけじゃなくて、最近ずっとこんな気持ちになるの……私どうしちゃったんだろうって」

「ねえ、真央」

ママが珍しく真面目な顔をする。

「一番大事なのは自分で考えて選ぶこと。後で後悔だけはしないようにね」

「ママ……」

「大丈夫」

ママに頭を撫でられる。

「真央が考えて決めたことだったらママは何だって応援するから、だから心配しないで自分の気持ちに正直に……ね」

今度は少し痛いぐらいにぎゅっと抱きしめられる。

「ありがと、元気出てきたかも」

「うん、やっぱり女の子は笑顔でいるのが一番」

──夜、ベッドの中で色々なことを考えた。

今までのこと、そしてこれから私がどうしたいのか。

自分の気持ちに向き合うって、言葉で言うことは簡単だけど実際にやってみると難しい。

「え……もうこんな時間?」

ふとケータイを見ると0時を回っていた。

「うーん」

いつもはこんな時間まで起きていたら、眠気に耐えられないはずなのに、むしろ頭が冴えて眠れそうにない。

「はぁ……」

今日何度目かのため息が出る。どうしたいかは心の中で答えは出た。だけど、どうすればいいかはいくら考えても分からない。

「どうしたらいいんだろう……」

結局答えが出ることはなく、私は朝になるまで眠れなかった。

 

4

テストが終わり、夏休みはもう目の前。今から学校にわざわざ行かなくていい日が待ち遠しい。

「ねえ、百合一緒に帰ろ」

「別にいいけど」

帰ろうと教室を出たところで真央に声をかけられた。

生徒達の波をすり抜けて、下駄箱で靴を変える。

「あっ……」

橘さんがわたしに気づいて気まずそうな表情をした。

「行こっ」

「ちょっと……」

黙って立っていると、真央にスカートの裾を引っ張られた。そのまま何も言わずに校舎の外に出る。

「ねーどこか寄って帰ろ」

そう言って真央は腕を組んできた。柔らかい感触と体温を感じて、思わず

「近いし、暑いからとりあえず離れて」

「むー、いいじゃん別に」

「それに……」

「それに?」

「いや、やっぱりいい」

どこからかものすごく視線を感じて気味が悪い。

「ねえ、百合」

顔だけを真央の方に向ける。

「今日さ、どこ行く?」

どこでもいい、と言いかけて思いついた。

「行きたいところあるんだけどいい?」

「うん、もちろん!」

良かった。真央はどこか行きたい場所があったわけではないみたいだ。

電車に乗って、学校と家の途中の駅で降りる。ここはあまり大きくないけれど商店街があって、色々な店があるのだ。

「結構歩くけど、大丈夫?」

「大丈夫。ところでどんなお店に行くの?」

「雑貨屋って感じかな」

「へー」

意外だ、という反応を真央はした。

「ここ」

目当ての店は商店街のメインアーケードから一本外に出た路地にある。

「看板とか店名とか出てないけど、入って大丈夫なの?」

「うん、今日はやってるはずだよ」

不安げな真央を導くように、わたしはドアを押し開けた。同時に、チリンチリンとガラスの音が響く。

「おっ百合久しぶり〜」

奥から店主の女性が出てくる。

「どうも」

「おっそっちの子ははじめましてかな?もしかして彼女さん?」

相変わらずの軽口にわたしは少し安心した。

「違いますよ。えっとこれが例の真央です」

「あー!この子が真央ちゃんか、結構カワイイしおっぱいも噂通りだねぇ」

「あ……あの」

珍しく真央があたふたしている。流石に何の説明もせずに連れてきたのはまずかったかもしれない。

「えーと、この店の店主の和沙(かずさ)さん」

「おっす、百合とは一応5年前ぐらいからの知り合いで、まー常連さんの1人って感じかな」

「えっと、桜井真央です。その……よろしくお願いします」

「あーいいのいいの堅苦しいのはダメダメ、どうぞごゆっくり〜」

そう言うといつも通りに中に引っ込んでしまった。

「すごい人……だね」

「まあ、いつもあんな感じだから、気にしないで。とりあえず商品を見よ」

「う、うん」

相変わらず狭いスペースの中に所狭しと色んなものが置いてある。

壁掛け時計、ガラス細工、クッション、オルゴールと色んな小物や雑貨があって、どれも色使いが綺麗だ。わたしは見ていて飽きないけど、真央はどうだろう。

「どう?何か気に入ったものあった?」

「うん。すごいねここ」

真央はキラキラと目を輝かせてぬいぐるみを手に取っている。どうやら気に入ってくれたみたいだ。

「あ、これ」

ふと、置かれていたリボンが気になった。

色々な色の中から淡いピンクのものがわたしの目を引く。

「それってリボン?」

「そう」

これ、とさっきのリボンを真央に見せる。

「似合うんじゃない」

「本当?」

「つけてみよ」

「えっ、自分でやるからいいよ」

「いいから」

髪を結んでいたリボンを片方外して新しいリボンを結ぶ。うん、やっぱりよく似合ってる。

「少しリボンにしては長めだけど、それが逆に良いかも、自分でも見てみたら」

手鏡を差し出すと真央は少し恥ずかしそうな顔をした。

「わあ……このリボンかわいい」

「でしょ、やっぱり似合うよそれ」

「じゃあ、これ買おうかな。百合は何か買うの?」

「これ買おうかなって」

リボンの隣にあったヘアピンを手に取った。

「じゃあそろそろ行こっか?すみませんー」

奥に声をかける。

「はいはーい。あっありがとね〜」

小さな紙袋に入れて手渡された。

「また来てね〜」

和紗さんは外に出るまで手を振って見送ってくれた。

「ふう、じゃあ帰ろっか」

「そうだね」

アーケードを戻って駅に向かう。

「そういえば、今年はどうなの?」

「?」

電車の中で真央が唐突に聞いてきた。

「その……誕生日だよ百合の」

「……!」

このタイミングで真央が話を切り出して来るとは思っていなくて、胸がズキッと痛む。

「今年も去年みたいに……」

「ごめん」

真央の言葉を遮って声を絞り出した。

「気持ちは素直に嬉しいけど、ごめん。今はそういう気分にはなれない」

出来るだけ強い言葉にならないように、だけどはっきと自分の気持ちを伝えられるように言葉を選ぶ。

「……そっか」

真央の表情に思わず罪悪感がこみ上げてくる。

「気分が変わったら、また教えて」

「うん」

あの電話がなかったら、と呟きそうになってこらえた。

未だに信じられない。

「百合、今年のあなたの誕生日開けておきなさい」

まさか、向こうから電話が直接かかってくるなんて想像もしてなかった。

「迎えをやるから家で待ってなさい」

紛れもなくお母さんの声だった。わたしが聴き間違えるはずがない。

気が向いたから、なんとなく電話をかけてきたのだろうか。

それとも……。

「百合!」

真央の声で我に返る。

「降りるよ」

「あっ……うん」

あえて考えないようにしていた。だけど、1度考え始めると頭の中が支配されたように、聞こえるはずのない電話の声がすぐそこで響いて来る。

改札を抜けて、駅の外に出ると熱気が顔にかかって、汗が止まらない。外の暑さがますますわたしの心の平静を奪ってゆく。

「さっきからぼーっとしてるけど大丈夫?顔も赤いし」

少しでも気を抜いたら意識が飛んでしまいそうで、頷き返すので精一杯だった。

「じゃあね」

「うん」

家の前まで来てようやく少し落ち着いて来た。真央と別れて家に入る。

真っ先にシャワーを浴びたくなって、わたしは制服を玄関に脱ぎ捨ててお風呂場に駆け込んだ。

「はぁ……」

冷たいシャワーを浴びて体を冷やすと少し楽になってきた。水がわたしの不安を流してくれたのだろうか。

冷蔵庫から水を取り出して、エアコンの電源を入れる。

「ふう」

ペットボトルから水を直接飲む。体の中に冷たい感覚が広がると、生き返った心地がした。

テレビの電源をつけたところでケータイが鳴る音が遠くから聞こえてくる。ああ、そういえば制服を玄関に脱ぎ捨てたままだった。

急いで玄関に戻ってケータイを開く。電話をかけてきたのは真央だった。

「もしもし百合?」

さっき別れたばかりなのにどうかしたのだろうか。

「どうかしたの」

制服をもってリビングに戻りながらわたしは尋ねた。

「いや……さっき顔赤かったしもしかしたら倒れたりしてないかなって心配になってきちゃって」

「何それ」

「でも……大丈夫そうで本当に良かった……」

不安そうだった真央の声が、いつものトーンに戻る。

「大げさ、そんなに虚弱じゃないよ」

「ごめん。迷惑……だったよね」

「いや、わざわざそこまで心配してくれてありがと、わたしは大丈夫」

真央と話しながら、制服をハンガーにかけてソファーに再び座る。

「明日も朝一緒に学校行こ?」

「別にいいけど」

「良かった。断られたらどうしようかと思った。じゃあ、おやすみまた明日ね」

「うん」

電話を切って、ソファーに寝転ぶ。

明日は早く起きよう。そう思ってわたしはまぶたを閉じた。



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chapter3

本作はchapter1、2の続きです。未読の方はぜひそちらからお願い致します。


1

朝日が差し込んできて目が覚める。時計を見ると普段よりかなり早い時間だった。二度寝しようとして、昨日の真央の言葉を思い出す。そういえば朝一緒に行こうって言ってたな。

体を起こして、シャワーを浴びにお風呂場に向かう。

「ふう……」

制服に着替えて髪型を整える。伸びてきた前髪を留めるためにヘアピンもつけた。

ソファーに座って水を飲んでいると、チャイムが鳴る。真央が呼びに来たのだろう。

「わっ!?びっくりした」

「何が」

制服姿で外に出て来ただけでどうしてそんなに驚くんだ。

「てっきりまた寝てるかと」

まあ、いつもは確かにそうか。

「今から寝てこようか?」

「もう、そんなこと言って」

「冗談」

朝から真央をからかう余裕が自分にあるなんて、正直驚いている。

「テスト終わったと思ったら今度は文化祭かぁ、イベント盛りだくさんって感じだよね」

「イベントねえ……」

今からめんどくさい。去年はのらりくらりと準備や本番をサボってきたけれど、今年は同じクラスに見張りがいるようなものだし、どうしたものか。

電車に揺られて学校に向かう。頭がいつもより冴えているからか、いつもより長い時間乗っているような気がした。

しかし暑い、まだ朝なのに歩いているだけで汗が止まらない。これよりまだ気温が上がると考えただけで嫌になる。夏はやっぱり嫌いだ。

「桜井さんおはよー」

「ねえ昨日さー」

教室に入ると、真央の周りに何人かのクラスメイトが寄ってくる。相変わらず朝から大変そうだ。

自分の席に座って机に突っ伏す。別に眠くはないのだけれど、いつもそうしているからなのかしていないと落ち着かない。

「テスト死んだしヤバいんだけど〜」

「え〜別に卒業出来ればいいでしょ」

聞くつもりはないし、別に聞きたくもないクラス全体のざわついた雰囲気がいつもより気になって仕方がない。

本当はこのまま始業まで寝ているべきだけれど、今日はそんな気分になれない。体を起こして、椅子から立ち上がって伸びをする。

「ふぅ……」

教室を出て渡り廊下まで歩く。退屈なので外で部活をしている生徒達の様子をぼんやり眺めていた。

「あら、こんなところで何をしてるのですか?」

「別に何も」

話しかけてきたのは椿原だった。

「そうですか」

「生徒会長さんは朝からこんなところで何してるの」

「わたくしも特に何かあってこうしてるわけではないですわ。ただ、貴女を見かけたので声をかけた、それだけです」

「ふうん……」

てっきりこの前の返事を聞いてくるのかと思って身構えていたのに、それ以上椿原は何も言ってこなかった。

「……」

「……」

この前は迫って来たかと思えば、今日は黙って隣に来ているだけで少し気味が悪い。どういうつもりなんだろう。

「貴女は」

椿原はそこで一度言葉を切った。

「……貴女は、何を見つめているんですか?」

わたしに何を聞きたいのだろう。いまいち質問の真意が読めない。

「今は別に何も見てないけど」

「そう……ですか」

椿原はゆっくりと目を閉じて、そして開いた。

「ではわたくしはこれで」

椿原はそう言って教室の方に戻ってゆく。その後ろ姿を見送ってもなお、わたしは教室に戻る気分になれなかった。

「はあ……」

ため息をわたしがついたところでチャイムが鳴る。重い足取りでわたしは教室に戻った。

やっぱり寝ないと全然時間が過ぎない。暇だけどやることもないしどうしたものか。

数学の授業が始まってもわたしはずっと時間を持て余していた。

「よし、じゃあ解説終わったしテスト返すぞ、朝倉〜」

「……はぁ」

のろのろと立ち上がって黒板の前まで歩いて、答案を受け取る。

返却が始まると静かだった教室が急にざわつきだす。

「ねー何点だった?」

「げっ……やべえよこれ〜」

「お前赤点じゃねえの〜?」

テストの結果で盛り上がるクラスメイト達を横目に自分の答案を眺める。予想通りの点数で、驚きも安堵もなかった。

「百合、どうだった?」

「別にいつも通りだけど」

「えーじゃあまたわたしの負け?」

「実際に見てみれば」

真央と答案を交換する。

「今回こそは勝つ気でいたのに」

真央は心底悔しそうな顔でわたしの答案を見つめた。

「次のテストではわたしが負けそう、勉強の成果出てるんじゃない」

「もう、余裕ぶっちゃって、次は絶対勝つからね!」

そう言って真央は自分の席に戻ってゆく。

それにしても真央はここ最近になってから急激にテストの点数が伸びた。勉強に目覚めたのだろうか?

「よし全員に返したな、じゃあ回答と解説をするぞ〜」

間延びした教師の声を聞き流しながら窓の外に視線を移す。

今のわたしの席は窓際の一番後ろで、外を眺めるのにはとても都合がいい。

風に揺れる木々や、空に浮かぶ雲との色合いがこうやって見ると結構絵になる景色ではないだろうか。

「……」

眠気はないけれど、いつもと同じように机に突っ伏す。

授業が終わるまでこれでやり過ごそう、そう思って私は目を閉じた。

「百合〜起きて」

真央に頬をつつかれて目が覚める。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。

「どうかしたの」

「これ見て」

真央にケータイの画面を見せられる。

「……映画のホームページ?」

「そうそう、この映画前に見たいって言ったの覚えてる?」

「あーうん」

思い出した。この映画前に橘さんと見たやつだ。

「今日が上映最終日みたいだからさ、学校終わったら行かない?」

どう断ったものか、わざわざあのつまらない映画をもう一度見たくない。

「映画見るような気分じゃない」

「え〜一人で恋愛モノの映画なんて見に行くの恥ずかしいし」

「別に一人で行けばいいじゃん」

「む〜」

真央は不満げな顔をしてケータイを胸ポケットにしまった。

「……」

なんだろう、最近真央の胸元がやけに気になってしまう。いや、もともと興味があったというか羨望の眼差しを向けていたのは確かではあるのだけど。

「どこ見てるの?」

わたしの視線に気づいたのか、真央は怪訝そうな顔をする。

「ねえ、真央また育ったんじゃない?」

気がついたときにはわたしの手がすでに、真央の豊かなそれを揉んでいた。

「きゃあっ!?」

「あっ、ごめん」

真央の悲鳴じみた声で我に返る。

「いや、そのつい」

「ついって」

呆れた、というような表情を真央は浮かべた。

「もう、そんなに揉みたいなら自分の揉めばいいじゃん」

「……分かってない」

真央の豊かなモノじゃなければ意味が無いのに。わざとらしくやれやれと肩をすくめてみる。

「もう、どうして私がそんな顔されないといけないの……えいっお返し!」

真央が頬を引っ張ってきた。

「いひゃい」

まあ、これで真央の気が済むのなら大人しく引っ張られておこう。抵抗をせずに大人しくしていると、一人の女子生徒がこっちに近づいて来た。

「あ、あの……ちょっといい」

「あっ、椎名(しいな)さん。どうかしたの?」

椎名さん、確か文芸部かなんかの部長をしてるって真央から聞いた記憶がある。

「えっと、文化祭のことで桜井さん。それと朝倉さんに相談したいことが……」

そういうと椎名さんは真央からわたしの方に視線を移した。

「?」

無言で視線を返す。

「あ、あの、その……」

黒縁メガネの奥の目がどうしてだろう、どこか怯えているように感じる。

「その……」

椎名さんは黙ったままその続きを言おうとしなかった。

「文化祭のことって言ってたよね、何かあった?」

真央が横から助けを出したおかげか、椎名さんはおもむろに口を開いた。

「文化祭の劇の脚本をうちのクラスの文芸部員で作ることになって、今作ってるの」

「うん、それで?」

「作ってる途中でね、実は登場人物を増やすことになって」

「ふむふむ」

「その……」

相槌を打つ真央を横目に、椎名さんは窺うようにわたしを見てきた。

「朝倉さんは大道具の担当だけで、劇には出ないって綾子から聞いたんだけど本当?」

「そうだけど、それがどうかしたの」

「え……えっと、朝倉さん!」

今までは聞き取ろうとしなければはっきり聞こえなかったのに、急にびっくりするような大きさの声を出してきた。

「げ、劇にも出てもらえないでしょうか!」

振り絞るようにこう言った椎名さんの顔は、わたしでも分かるぐらいに紅潮していた。

「嫌、面倒だし」

「ご……ごめんなさい」

やっぱりといった顔で椎名さんは俯く。

「別に謝らなくても」

「そ、その……ごめんなさい」

逃げるように椎名さんはわたしの机から離れていった。

「そんなに人足りてないの?」

「実際私もかけ持ちすることになったし、人手が足りてないってのはそうなんだろうね。だけど、わざわざ百合に声をかけたのはそれだけが理由じゃないと思うなあ」

「どういうこと?」

「自分の胸に手を当てて考えてみたらいいんじゃない?本当、百合はにぶいんだから」

なんだか非常にイラッとくる顔で真央はわたしにこう言ってきた。それに自分の胸に手を当てて考えてみろって、これは当てつけなんだろうか。

「また揉まれたい?」

冗談で再び真央の胸に手を伸ばそうとすると、真央はため息をついた。

「……私のこと何だと思ってるの?」

伸びかけていた手を思わず止める。

「えっと」

背筋が凍るような冷たいトーンの声に、言葉が出てこない。

「ちょっと来て」

まずい。

「ごめん、ちょっとやりすぎた」

偽らざる今の気持ちが、口をついて出る。真央がただ怒ってる素振りを見せているわけじゃないことが、わたしにはひしひしと伝わってきていた。

「いいから、ちょっと来て」

以前にも真央を本気で怒らせたときと同じような、有無を言わさない口調。こうなったらわたしにはどうすることも出来ない。素直に()()を受ける以外わたしにはどうすることもできない。

真央に手を引かれて、教室の外へと連れ出される。もうすぐ二時間目が始まるが今の真央に指摘しても無駄だろう。

階段を上っている途中でチャイムが鳴ったが、やはり真央は教室に戻ろうとはしなかった。普段あまり使われることのない最上階の教室の前に着く。どうしてかは分からないが、真央はその教室の鍵を持っていた。

無言で鍵と扉を開けて、真央は教室の中に入った。わたしもそれに続く。

椅子と机が後方に整理されていて、ダンボールやその他色んなものが雑然と置かれている。

「ちょっと空気淀んでるね。よっと」

窓が開けられると、風が一気に教室の中を吹き抜けた。

「うーん、風が気持ちいいね」

真央がわたしに笑顔を向けてくる。さっきまでと明らかに違って、どこか吹っ切れたような雰囲気で正直怖い。

「ごめん。さっきも言ったけど、やり過ぎた」

「……そんな顔しないで」

なぜか、真央の方が申し訳なさそうに目を伏せる。

「私にとって百合はね、一番大事な……友達で、お隣さんだけど、百合にとっての私はどうなのかなって思ったの」

だけどね、と真央はそこで言葉を切った。

「こんなこと聞かれてもどう答えたらいいか困っちゃうよねって、今やっと分かったんだ」

「……」

「だから、さっきのは忘れて」

「うん」

「付き合わせてごめんね、戻ろ」

真央と肩を並べて教室に戻る。何をしていたか尋ねられたのだけど、真央が上手く言い訳をしてくれたおかげで教師から説教されることはなかった。

「はぁ……」

ようやく授業が終わり、思わずため息が漏れる。

帰ろうと席を立ったところで、視界の端に真央が見えた。クラスの女子達と何か話しているようだったしちょうどいい。

そのまま気づかれないようすり抜けるようにして教室を出た。

「じゃあね〜」

「また明日〜」

生徒達の挨拶が飛び交う廊下を歩いて、靴を履き替えて校舎を出た。

駅に向かって一人で歩く。

「……あっつい」

クーラーが効いた教室から外に出たせいか、汗が止まらない。

「はぁ……はぁ……」

学校から駅までの短い距離なのに息があがる。いつもと変わらないペースで歩いているはずのなのにどうしてだろう。

駅についたときにはすでに全身が汗ばんでいた。改札を通っていつもは使わないエレベーターに乗り込む。

「ふう……」

帰ったらシャワーを浴びてソファーに寝転がろう。そう決心して電車に滑り込んだ。

空いている席に座って短く息を吐く。しばらくぼんやりしていると、向かいの席に中学生ぐらいの女子とその母親らしき人が座った。

その二人に特別何かがあったわけではない。だけど、母親と娘というありふれた関係の会話が目の前でされているのを見聞きして、わたしの頭の中の記憶が呼び起こされる。

「好きになさい。ただし──」

もしもわたしがあんなことを言わなければ、今でもお母さんとこんなふうに肩を並べて話が出来ていたのだろうか。

どうすることも出来ないのに、ふとそんなことを考えてしまう。

お母さんがどういうつもりか分からないけど、わたしは選んだことを曲げないようにしないといけない。

気がついたら家の前に着いていた。

「ふう……」

汗が首を伝うのを感じる。自分の体の変調の理由が何となく分かった。

いわゆる嫌な予感。あのお母さんが理由なくわたしを呼ぶなんてことがあるはずない。

あと約一ヶ月、気分を引き締めよう。小さく決意して、わたしは家の中に入った。

 

2

「おはよう」

「あ、おはよう。もうすぐ朝ご飯出来るから」

ある朝ママと言葉を交わした後、制服に着替えてるときに突然ケータイが鳴った。

「え?どうしたんだろ」

ケータイに表示された百合の名前を見て思わず呟いてしまった。

「もしもし」

「今大丈夫?」

百合の声のトーンがどこかいつもと違うような気がしてしまった。

「大丈夫だけど」

「今日学校遅刻して行くから先に行ってて」

「……何かあったの?」

「まあ、特に何かあったわけじゃないんだけど、少し時間かかりそうだし昼ぐらいには学校行くから、じゃあよろしく」

「えっちょっとま……」

一方的に電話を切られる。

「もう、一体どうしたんだろ」

釈然としない気分のままリビングに降りた。

「いただきます」

トーストを食べていてもさっきの百合の電話が気になって仕方がない。

「さっき電話してたみたいだけど誰から?」

「百合から」

「あら、デートのお誘いとか?」

「今日学校に遅刻して行くから、先に行っててっていう電話だった」

そう、とママは少し残念そうな顔になった。

「そうだ、今度の週末にでも百合ちゃんうちに誘ったら?」

「いいの?」

「テストも終わったことだし……ママも百合ちゃんに会いたいからね〜」

ママからの嬉しい提案で気分が一気に晴れる。

「行ってきま〜す」

一人で電車に乗って学校に向かう。

「あっ桜井さんおはよー」

「おはよー」

教室に着くまでに何人かのクラスメイトや後輩の子と挨拶を交わす。

「桜井さん」

教室で自分の席に座って今日ある授業の準備をしていると、橘さんに声をかけられた。

「あっおはよー」

とりあえず、当たりさわりのない挨拶を返す。

「ちょっと相談があるんだけど、いいかな?」

「うん、いいけど……」

ここじゃダメなのかな?という私の視線を受け流して、橘さんは教室から出て行ってしまった。

橘さんの後を追って女子トイレの中に入る。

「相談って?」

橘さんが何も言わないので、私の方から切り出した。

「桜井さんと百合ちゃんってさ、どういう関係なの?」

「どういう関係って……それが相談なの?」

てっきり文化祭のことについての相談だと思っていたから、突然の質問に思わず戸惑ってしまった。

「劇のベースとなる話が『眠り姫』になるって話は桜井さんとかにしたと思うんだけど、実は王子様役をどうしても女性にしたいっていう意見が文芸部の中で出てて」

それでね、と困ったような笑顔を作って橘さんはこう続けた。

「桜井さんって百合ちゃんが相手役ならいいって言ってくれるのかって思ったの。どうかな?」

相談って……そういうこと。

「うーん、私は別にいいんだけど百合が嫌だって言うだろうし」

「……じゃあもしも百合ちゃんが王子様役だったら、桜井さんは女の子同士でいいかな?」

「うん、まあ私は別にいいけど」

「本当?よかった〜」

橘さんに手を握られる。さっきまでと違って明るい表情に変わって私もほっとした。

「わざわざごめんね〜男子の方にはあたしが話しておくから」

そう言って橘さんは小走りでトイレから出ていった。

私もトイレから出て教室に戻る。先に戻ってると思ったけれど、橘さんの姿はない。

もう授業が始まるのにどこに行ったんだろう?

結局橘さんはチャイムが鳴るのと同時に教室に滑り込んで来た。

色々と気になるけれど、授業が始まったので気持ちを切り替えてノートを取らなければ。

一時間目、二時間目、そして三時間目が終わった。

「いつ来るんだろ」

誰にも聞こえないように呟く。昼ぐらいには来るって言ってたのに一向に来る気配が無い。

「ちょっと電話かけてくるね」

「おっカレシ?」

「もう、違うよ」

お昼ご飯を食べてる途中で教室を出て百合に電話をかける。

「はぁ……やっぱり」

何となく分かっていたけれど、出る気配がない。

もう一度電話をかけようとしたとき、後から声がした。

「こんなとこでケータイ持って何してるの?」

「あっ」

振り返ると百合が立っていた。

「もう、遅い!」

怒った顔をしていることが自分でも分かる。

「朝電話したよ」

「そうだけど、そうじゃなくて……」

「じゃあ何?」

「もう、いいよ。教室戻ろ」

百合の顔を見てものすごく安心した。なのにどうしてこんなに強い口調になってしまうのだろう。一人で勝手にイライラしている自分が嫌になる。

「何かあったの?」

私は四時間目の休み時間に百合の席に行って尋ねてみた。

「気分を変えただけ、特に何かあったわけじゃない」

あくまで私個人が勝手に思っているだけなのだけれど、今日の百合はどこか変だ。もともと少し不思議というか、私にも色々読めない部分があるのだけど、今日はそれとは違う何かを感じる。

「ふ〜ん」

いつもは少し着崩している制服を今日はきちっと着ているし、気だるそうな雰囲気を全く感じない。

「そんなじっと見てどうかしたの?」

「何かいつもと雰囲気違うなあって」

「そう?」

何だか少し気味が悪いぐらい、表情も口調もいつもより明るい。何だか中学生のときの百合に似たようなものを感じた。

「授業始まるよ。そろそろ戻ったら?」

「う、うん」

まだチャイムが鳴っていないのに、百合がこんなことを言うなんて……やっぱり変だ。

疑問に思いながら私は自分の席に戻った。

「じゃあまた明日ねー」

「また明日ー」

授業が終わるといつも通りみんなと挨拶を交わしてから帰る。

「あっそうだ百合」

「ん?」

やっと電車の中で座ることが出来たところで、私は百合に話しかけた。

「今週末さ、うちに来ない?」

「どうしたの突然」

「ママも百合に会いたいって言ってたよ」

「えぇ……」

百合は露骨に気が進まないというような顔をする。

「何か用事とかあるの?」

「そういうわけじゃないけど……」

「けど?」

「何かやだ」

「もう、なにそれ」

「気が向いたらじゃダメ?」

「……分かった」

百合がこう言うときはちゃんと考えてくれるから、納得することにした。

「……」

百合は窓の外を無言で眺めている。その物憂げな視線にあるのはきっと外の景色じゃない。

「考え事、してる?」

出来るだけ邪魔にならないように、そっと話しかけた。

微かに百合が頷く。

「そっか」

私も同じように外を眺める。きっとそれが百合の求めていることなんだろう。

「そろそろ着くよ」

「うん」

電車を降りて家まで二人で歩く。私は百合の細かな表情の変化まで気になってしまうのに、百合は私のことなんて最初から視界の中から外してしまっているみたいで、それがとてつもなく悲しかった。

でも、だからといってこういうときに百合の邪魔をしたら、きっとこうして一緒に歩くことも出来なくなってしまう。それは私にもわかった。

「じゃあまた明日」

「うん」

これが今の私に出来る精一杯のこと。そう自分に言い聞かせて百合と別れた。

「ただいま」

「おかえり〜コーヒー入れるから着替えてきたら?」

「うん、そうする」

制服から着替えると、急にどっと疲れが押し寄せて来る。

「はいコーヒー」

「ありがとう」

一口飲んで大きく息を吐いた。

「どうしたの?ため息なんて」

「何だか一人で勝手に心配ばっかりして疲れちゃった」

今日あったことをママに話した。

「なるほどね」

「うん……私絶対百合にめんどくさいって思われちゃってるよね」

「真央に聞きたいんだけど」

ママが私の目を見つめる。

「百合ちゃんのことどう思ってるの?」

「……どう思ってるってそんなの」

「百合ちゃんのこと、好き?」

「……」

思わず言葉を失う。

「もちろん友達として好きなのは間違いないってママも分かってる。だけど、ママが聞きたいのは友達として好きかじゃない」

ママはそこで言葉を切って、確かめるようにゆっくりとその続きを言った。

「真央は恋人にしたいって意味で百合ちゃんのことが好き?」

思わず唇を噛む。今まで答えを出さないでいた自分への問いかけが、まさかこういう形で目の前に示されるなんて思ってもなかった。

「私は……」

胸元をぎゅっと握りしめながら、その続きの言葉を心の中から出そうとする。百合のことをどう思っているのか、私の知っている言葉のなかからこの気持ちに名前をつけるのなら、どれを選べばいいのだろう。

「分からないよ……分かんない」

本当は分かっている。だけど、一度自分の口からこの言葉を出してしまったらもう、秘密にしておくことは出来ない。

「私は百合のこと好きなんだよきっと……そうじゃなかったらこの気持ちを説明出来ない」

私の答えにママは何も言わずに目を閉じた。

短く息を吐いてからママはいつもの笑顔で私の手をさする。

「真央の気持ち伝わってきたよ。ママも応援する。だから、頑張りなさい」

「ママ……」

声が震えた。嬉しいとか、本当に?という気持ちが混ざって、涙が溢れて止まらない。

「泣かないの。ママはいつだって真央の味方だから、何も心配することない」

ママは強く、だけど優しく手を握ってくれた。

いつだって暖かくて少し勇気をくれる言葉が私をいつも助けてくれる。

「ありがとう」

涙はまだ止まらないけれど、ママに笑顔でお礼を言う。

「うん。やっぱり女の子は笑顔でいるのが一番だから」

少し冷めてしまったコーヒーがこんなにも美味しいと感じることはきっとこれからもない。それぐらい涙を拭った後に飲んだコーヒーは格別だった。

 

3

なるべく早く起きるように気をつけていても、やっぱりわたしは絶望的に朝が弱い。

目が覚めて時計を見たわたしはそのことを改めて実感していた。

起きなければ、起きなければいけない。気を引き締めて8月まで過ごそうと決めたはずなのに、その決心が揺らぐほどの倦怠感に襲われる。

もういいか、今日ぐらいはこのまま眠ってしまっても。

突然テーブルの上に置いていたケータイが鳴り始めたのはちょうどそのときだった。

「んぅ……何?」

「何?じゃなくて、さっきからチャイム鳴らしてるんだけど」

「……もう少し寝かせて」

朝から電話をしているのは正直ものすごくしんどい。一刻も早く二度寝をしないと死んでしまいそうだ。

「いいよ。待ってるから」

朝から真央のお説教が始まると思ったら、全く想定していない答えが返ってきた。

「先に行ってればいいのに……真央まで遅刻することないし」

「私が百合と一緒に行きたいから勝手に待ってるだけ。それじゃあまたかけるから」

そう言って電話は一方的に切られてしまった。

真央は基本生真面目なのに、たまにこういうことを平気で言ってくることがある。頑固というかなんというか……小さい頃から変わってない。

「……ああもう」

多分本当に真央はわたしが行くまでずっと待っているだろう。流石に真央を巻き込んでまで寝ているわけにはいかない。

急いでソファーから起き上がり、身支度を整える。

「よし、まだ間に合いそう」

飛び出すように家を出ると、真央がやっぱり待っていた。

「えっ、絶対起きてこないって思ってたのにどうしたの?」

真央は驚いたというような表情をする。

「いいから行くよ」

この時間ならなんとか間に合いそうだ。

急いで電車に滑り込むと、いつもより車内が混んでいた。

「ふわぁ……」

つり革を握りながらあくびをする。

「大丈夫?」

「いつものことだし」

「座れたらよかったんだけどね……」

「この時間は無理でしょ」

今乗っている電車が始業に間に合う最後の電車だろうし。

「肩貸して」

真央に少しだけ体を預ける。

「もう」

子供をあやすような声で真央はわたしをたしなめた。

「落ち着く」

わたしよりも数センチ身長の高い真央の肩はちょうどいい位置にあって本当に落ち着く。

そのまま学校の最寄りの駅に着くまでずっとわたしは真央に体を預けていた。

「ありがと」

「ううん」

真央はどうしてか少し恥ずかしそうに笑う。

「ねえ百合、今日の帰りママが迎えに来てくれるって」

校門をくぐったところで、ケータイを触りながら真央はこう言ってきた。

「?」

わざとらしくわたしが首を傾げると真央はケータイの画面を見せてきた。

「どう?少しは気が向いた?」

「『ママも百合ちゃんに会いたいから今日迎えに行きます』……って完全に連れて帰る気でしょこれ」

「だね」

どうやらわたしに拒否権はなさそうだ。でも恐ろしく気が進まない。面倒なんだよなあの人。

「……行く」

「本当!?ママに連絡しておくね!」

眩しい笑顔を真央は浮かべる。その笑顔は見ていて安心する。と同時にわたしには眩し過ぎると思ってしまった。

「楽しみだな〜」

鼻歌でも歌い始めそうなほど軽い足取りで真央は歩いてゆく。

「はあ……」

何だか元気を真央に吸い取られてしまったような気がする。反対にわたしは重い足を引きずるように真央を追いかけた。

「眠たい……」

昼休みになっても机から離れられないほど、わたしは強い眠気に囚われていた。

「いつまでそうしてるの?」

「このまま一生」

「もう、そんなのダメに決まってるじゃん。そういえばテストの順位発表されたみたいだよ、見に行かないの?」

「わたしの分も見てきて」

うちの学校は風変わりなところがいわゆる普通の学校よりも多いと思うのだけれども、いまだにテストの成績上位者を廊下に掲示するという奇妙なことをしている。

どうせ後で個人に成績個票が返ってくるのに、わざわざそんなことをする理由がわたしには分からない。

「私は載ってないよ、それに百合が見に行かなくてどうするの」

「はいはい」

テストの結果に興味なんてないけど、そろそろ立たないと机と自分がくっついてしまいそうな気がするので立ち上がることにした。

生徒達の群れをかき分けて掲示された紙の前にようやくたどり着く。

「あ」

名前の一覧の中に桜井真央の文字を見つける。

「桜井さん、ここに名前が載るのは確か初めてだったかしら」

横を見ると、生徒会長様がわたしに笑いかけてきていた。

「そういう生徒会長さんは今回もすごい点じゃない?」

「うふふ、貴方もずいぶんと意地の悪い言い方をするのね」

「言われ慣れてると思ったんだけど、違うの?」

「さあ、どうでしょうね」

椿原は笑顔を崩さないままわたしから視線を外した。

「そういえば、貴方とわたくしだけみたいですよ、毎回名前がここに載っているの」

「ふうん」

へえそうなんだ、知らなかった。

「外にこうして貼られるのは上位10名ですから、いくら勉強をしていても毎回この順位にいるのは難しいと思いますわ」

「……それにしてもなんでわざわざこんなの貼るの?」

「わたくしもそう思いますわ」

椿原は心底可笑しそうにくすくすと笑う。

「ところで貴方がこの順位を維持するためにしている秘訣ってありますか?もしあったらわたくしに教えてくださいな」

「わたしの方が生徒会長さんに聞きたいんだけどそれ」

「うふふ」

椿原はわたしの質問に答えようとはしなかった。

「それではわたくしはこれで」

そう言うと椿原は生徒達の群れを足早に抜けて行く。わたしも教室に戻ろうとしたところで今度は晴海に声をかけられた。

「すごいね、また名前あったよ」

「別に」

「いいなーそんなに余裕あって、ボクは今回も赤点回避がやっとだったよ、あはは」

晴海はからからと笑う。

「そういえば進路決まった?」

急に真面目ぶったことを晴海は聞いてきた。

「あんたはどうなの」

「うーん夏の大会で結果が出せたら、そのまま推薦でどこか行こうかなって感じかな。もしダメだったら姉さんみたいにフリーターになろうかなって」

「ふーん」

さほど興味を持って聞いたわけじゃないけど、晴海も大変そうだなと素直に思った。

「そういえばどうするの、進路とか」

「何も決めてない」

「そっかあ……まあ、まだ時間あるからね」

晴海は申し訳なさそうな顔をする。

「詩音ー購買行くよー!」

「今行くー!じゃ、また」

ものすごいスピードで晴海は走って行った。あの元気はいったいどこから来るのだろうか。疑問に思いながら、わたしは教室に戻った。

「はぁー」

今日の授業の終わりを告げるチャイムを聞いて、わたしは長いため息をついた。これから真央の家に連行されるって考えると、今からでも逃げて帰りたい気分になる。

「百合〜ママから校門まで迎えに来るって連絡来たよ」

「えっ!?」

思わず妙な声が漏れてしまった。

「いいでしょ?わざわざ迎えに来てくれるって言ってるんだし」

「別にいいけど……」

そんなふうに詰め寄られると何も言えなくなる。

靴を履き替えて校門まで肩を並べて歩く。真央は今にもスキップをしそうな笑顔を浮かべている。なんでこんなに嬉しそうなのだろうか。

「いつ以来だっけうちに来るのって」

「去年のクリスマスぐらいじゃないの」

「あーそうだったっけ、ケーキ作ったときの」

「そう」

たわいもない会話をしているといよいよ校門に着いてしまった。

「ゆ〜り〜ちゃん」

止まっていた車の窓が開き、中から女性がひらひらと手を振っている。

「お久しぶりです」

「うーん相変わらずカワイイ!連れて帰りたい、いや連れて帰るんだけど」

この女性が桜井真琴。真央のお母さんだ。

「あはは……」

あまりのテンションの高さにぎこちなく笑うことしかできない。

「ねーママ、今日は何作るの?」

車の中で真央がおもむろに口を開く。

「もう材料は買ってあるし、それは家についてからのお楽しみよ」

「えーなにそれー」

この二人は親子というよりも、年の離れた姉妹のような会話をいつもしている印象がある。小さなことで喧嘩をしているときなんて本当は姉妹なんじゃないかと思ってしまう。

お世辞じゃなく真琴さんはいつも元気で、とても若々しい雰囲気を纏っている。

正直テンションが異様に高くて、やたらとボディタッチが多いことを除けば頼れるお姉さんって感じの人だ。

「そういえばママ、今日テストの結果が発表されたんだけどね──」

真央と真琴さんの会話を聞きながら、わたしはぼんやりと窓の外に視線を移した。代わり映えのない景色なのになぜだか眺めずにはいられない。

不思議なこともあるものだ。

「お邪魔します」

久々に自分の家以外に入ると緊張してしまう。

「ただいまじゃなくて?」

「……えっと」

わたしはどう答えればいいのか……ものすごく返答に困る。

「もう、ママ百合に変な絡み方しないでよ」

「うーん?百合ちゃんは別に変って思ってないよね」

そういいながら真琴さんは後ろからぎゅっとわたしを抱きすくめてきた。

「く、苦しいです」

背中にすごい存在感の柔らかいモノを感じる。やはり親子だから似ている部分がわたしから見ても多いのだけれど、この柔らかいものを言葉で表現するのなら、強化版真央といったところだろうか。

「もーママ助けて〜って感じで百合が私を見てるよ」

いや、確かに助けて欲しいのだけれど。

「腕が取れるからそんなに引っ張らないで……」

どうして親子でわたしを引っ張り合うのだろうか。わたしは綱引きのロープじゃないのに。

「……さあて、私は晩ご飯作るから二人は部屋にでも行ってなさい」

「はぁい」

「わかりました」

真琴さんに促されて、真央と二人で上の階に向かう。

「ねえ百合、模様替えしたんだけど、どう?」

部屋に着くなり真央はわたしに聞いてきた。

「前よりわたしは好きだけど」

「よかった〜。ほら、前に百合と買い物にいったときにいいって言ってたものとか置いてみたの」

「でもよかったの?こだわって色々決めてなかったっけ」

「ううん、百合がいいって言ってくれるんだったらわたしはそれで」

自分が普段から使う部屋なのに、どうしてわたしの好みに合わせてわざわざ模様替えしたのだろうか、思わず疑問が頭に浮かんだけど真央に聞くのはやめておいた。

「はいどうぞ、それじゃあごゆっくり〜」

「ありがとうございます」

真琴さんがあたたかいコーヒーと紅茶を運んで来てくれる。季節外れだけれど、わたしはクーラーが効いているから冷たいものよりもこっちの方が飲みたかった。

「美味しい」

そういえばどうしてわたしが一番好きな紅茶の銘柄が分かったのだろう。真琴さんに言った記憶はないのに。

「百合はアッサムティー本当に好きだもんね」

なるほど、真央が真琴さんに伝えたのか。それにしてもわざわざ用意してくれるとは思わなかった。

「それにしてもコーヒーそのままよく飲めるよね。苦くないの?」

「だって、砂糖とかミルクとか入れるんだったらわざわざコーヒーを飲む必要ないし、それに私コーヒーのこの香りが好きなの」

カップから立ちのぼる湯気を眺めながら真央はいたずらっぽくこう言ってきた。

「百合って結構子供っぽいところあるよね、コーヒーだけじゃなくてゴーヤとかも絶対食べようとしないし」

「苦いものは体が受け付けないの」

「ただ嫌いなだけなくせに」

「…………」

そんなにストレートに言われると何も言えない。

「ねえねえ、そういえば百合ってさ」

「?」

真央はカップをテーブルに置いてわざわざ座り直した。

「今、好きな人いるの?」

「いきなり何?」

突然どうしたのだろう。

「いや、その……ちょっと気になっただけだから。深い意味はないから誤解しないで!」

「ふーん誤解ねえ」

わざわざ聞いてくるってことは何か意味があるのだろうけど、あえてわたしは聞かなかった。

「真央ー百合ちゃーん!そろそろ降りてきてー」

下の階から真琴さんの声が響いてくる。

「はーい今行くー!……じゃいこっか」

真央の言葉に頷いて一緒に下の階に降りてゆく。

「わぁ、気合入ってるなあママ」

テーブルの上にはエビチリや麻婆豆腐、生春巻きにシューマイが並んでいる。相変わらずものすごい量だ。

「当たり前でしょ。百合ちゃんとの久々ご飯なんだから」

「いつもすみません」

「なにいってるのよ〜百合ちゃんがうちに来てくれるんだったら毎日だって作っちゃうよ〜」

「あはは」

自分でも引きつった笑顔を浮かべているのが分かってしまう。毎日こんなに食べさせられたら体が持ちそうにない。

「さ、早く食べましょう。料理は出来立てじゃないと、ね」

「いっただきまーす!」

「い、いただきます」

「はいはいどうぞ〜」

こんなふうにテーブルを囲んでご飯を食べるのが久々でなんだか緊張してしまう。箸を持ったまま戸惑っていると、真央が満面の笑みでわたしに皿を差し出してきた。

「はいどうぞ」

「あ……りがと」

いきなりすごい量が盛られた。これだけでもお腹一杯になりそうな気がする。

「うん、美味しいです」

本当にとても美味しい。真琴さんがものすごく料理上手なことは知っていたけれど、想像以上に本格的な味だった。

「本当?もっとどんどん食べて。はい、どうぞ」

「あ……はい」

「ほら百合これも、それからこれも」

「う、うん」

ものすごい勢いで食べろ食べろと皿に盛られあっという間に空腹が満たされてしまった。

「も、もう大丈夫です。お腹いっぱいです……」

「え〜?じゃあ食べさせてあげよっか?はい百合ちゃんあ〜んして」

真琴さんはお酒を飲んで酔っ払っているのだろう。頬が赤く染まっている。

「あっママなにやってんの!だったらあたしも……はい、百合口開けて」

止めるどころか真央も争うようにわたしにレンゲを差し出してくる。さすがに恥ずかしいからやめて欲しい。だけど、目の前に差し出されたモノを食べないとこの食卓からわたしが解放されることはきっとないのだろう。覚悟を決めて口を開ける。

「あーん……むぐぐっ!?んー!んー!」

思っていた以上に麻婆豆腐が熱かった。手を伸ばして真央に水を求める。

「大丈夫?」

「ちょっと思っていたより熱かっただけ」

「ごめんね〜ちゃんと冷まさなかったせいで……やけど、してない?」

「大丈夫です、気にしないでください」

水を飲んだらすぐに落ち着いた。

「ふー!ふー!もういいかな。百合、口開けて?」

「えっ?」

どうして真央まで……まだわたしに食べさせる気なのか。

「私に食べさせられるのは嫌?」

「嫌じゃないけど……」

そこまで露骨に悲しそうな顔をされると断りにくい。

「分かった分かった食べるから……」

──こんな感じでいつもよりも騒がしい食事が終わる。お腹ははちきれそうだし、とにかく疲れた。

「お風呂沸いたから真央先に入っちゃいなさい」

「はーい」

真琴さんはマッサージチェアに座り、真央がお風呂に入っている。

「うっぷ……」

わたしはソファーに座ってお腹を休ませている。あれだけ食べて平気なのはやはり親子か。

「百合ちゃん大丈夫?」

「はい……少しお腹はちきれそうですけど」

「うふふ、百合ちゃん見てるとついついいつも食べさせたくなっちゃうのごめんね〜」

「は、はあ」

ニコニコと明るい表情を浮かべながら、真琴さんはわたしの隣に腰を下ろした。

「よいしょっと。ねえ、百合ちゃんは最近どう?……真央がね、最近少し様子が変だって言ってたから少し心配になっちゃって」

「……」

「そんな顔しないの。百合ちゃんはせっかく可愛いんだから、もっと明るい表情の方が似合うと思うなあ」

「そう……でしょうか」

「うん。ねえ百合ちゃん、髪触っていい?」

「え?」

わたしの答えを待たずにくしゃり、と掴むように髪に触れられた。

「う〜ん本当に、似てるなあ。この柔らかい髪の感触も、その困ったような表情も……そっくりで」

真琴さんは寂しげな表情を浮かべる。だけど、髪を触ることはやめようとしなかった。

「こうやって目の前の幸せに手を伸ばすっていうことは、なかなか素直には出来ないことだからね。だけど、手を伸ばさないと手に入れることはできないものの方が多いの。後から欲しいって思っても手に入らないってことが結構あるからね」

「酔っ払ってます?」

「うふふ、ちょっぴりかな」

だから、と真琴さんは続ける。

「真央や百合ちゃんにはああしておけばよかったって後から後悔して欲しくないの」

笑顔を作ってはいるけれど、真琴さんはつらそうだった。

「……やっぱり、後悔してるんですか?」

「ううん、あのとき手を伸ばしていたら真央やあの人、そして百合ちゃんにも会えてなかった。だから後悔とはちょっと違うかな。でもたまに、もしもってどうしても思っちゃうかな」

真琴さんは髪から手を離すと、今度はわたしの手をぎゅっと握った。

「真央と百合ちゃんが考えて決めたことだったら何だって応援するからね」

真琴さんがいつにもなく真剣な眼差しで、わたしを見つめる。

わたしが頷くと真琴さんは優しく微笑んだ。

「でも真琴さんどうしてそこまで」

「それは他の誰でもない百合ちゃんだから」

わたしには真琴さんの言葉の意味が分かってしまった。

「そんな顔、しないでください」

「……やっぱり大人になっても格好つかないね。百合ちゃんのママに笑われちゃう」

わたしは真琴さんの顔を見てられなくなって自分から胸に飛び込んだ。

「そんなことないですよ。お母さんより真琴さんはわたしにとってお母さんみたいな人だって思ってます」

「もう、反則。でも、そんなふうに言ってくれて本当に嬉しい。しばらくそうしていて、今だけ百合ちゃんのお母さんでいさせて」

真央がお風呂から上がってくるまでの間、わたしはずっと真琴さんの胸に抱かれていた。

「お風呂空いたよ」

「じゃあ次は百合ちゃん入ってらっしゃい」

真琴さんは明るい声で促してくる。

「はい」

真央と入れ替わりでお風呂に入った。シャワーを浴びていると真琴さんの顔が思い浮かぶ。

わたしも詳しくは知らないけれど、わたしのお母さんと真琴さんの間に昔何かがあったらしい。

わたしのお母さんはいったい真琴さんに何をしたのだろう。……あまり想像したくない。

何かハプニングが起きることもなく、体を拭いて髪を乾かしてから用意されたパジャマに着替えてリビングに戻った。

「百合ちゃん、お風呂どうだった?」

「いいお湯でしたよ」

「そう、よかった。真央の部屋に寝る用意してあるから泊まっていってね」

真琴さんはいつもの笑顔に戻っているようでわたしは胸をなでおろした。

「おやすみなさい、真琴さん」

「うん。ゆっくり休んでね」

真琴さんはテレビを見ている。これ以上わたしは何も言わない方がいい。

それはわたしが触れていいことじゃないだろうから。

4

階段を上り、二階にある真央の部屋に向かう。

「開けていい?」

ノックして入っていいか尋ねた。

「いいよ」

真央はベットの上に座って本を読んでいた。私も用意されていた隣のベットの上に座る。

「ねえ百合」

「?」

「前ね、ママが言ってたから気になったんだけど、百合のお母さんってどんな人だったの?」

「……さぁ、覚えてない」

真央に全く悪気はないのだろうけど、その質問は今一番されたくなかった。

「うーんそういえば私って百合のお母さんの顔ってみたことないなぁ……そうだ、写真とかケータイに入ってない?」

「入ってない」

「えー本当はあるんじゃないの?」

「ない、写真なんて一枚も」

「そうなの?」

無言で頷くと、真央は気まずそうな顔をした。

「その、ごめんね」

「事実だし。別に気にしてない」

それからの真央は妙にわたしに気を使っているようで部屋の中の居心地が悪く感じる。

「じゃあそろそろ寝よっか、もう日付けかわっちゃうし」

相変わらず真央は寝るのが早い。だから朝も早いのだろうけど。

「じゃあ電気消すね」

スイッチを切ると白くて人工的な光が消えて、部屋全体が間接照明のぼんやりとした灯りに変わる。

「ねえ百合まだ起きてる?」

しばらくすると背中越しに真央が語りかけてきた。

「どうしてあのとき何も言わずにいなくなったのか……もしよかったら私に教えて」

何となく聞かれそうな気はしていたけれど、まさか本当に聞いてくるとは思わなかった。

「……」

「百合、お願いこっちを向いて。私、ちゃんと顔を合わせて話したいの」

「どうしたの」

短く息を吐いて真央の方に体を向ける。

「私ね、最近百合のこともっと知りたい。百合が他の誰にも話してないようなことでも知りたいって思っちゃうの」

真央はそこで言葉を切ってわたしをじっと見つめてきた。

「迷惑に思うよね。だけど、私もう聞かずにはいられない」

「……」

「……」

重い空気に部屋全体が支配される。だけど、真央に譲る気はないみたいだった。

「……どうして今更そんなこと」

自分が思っている以上に今の心境が冷たい言葉になって外に出てしまった。

「こうやって二人だけでいるときじゃないと聞けないことだから」

どう答えたらいいのだろう。こんなこと誰に言ったって仕方のないことなのに。

「小学生の転校なんて、だいたい親の事情だと思うんだけど」

「……」

真央はわたしの言葉の続きをじっと待っていた。聞きたいのはそれじゃないと、瞳の奥は雄弁に語っている。

「わたしも前日の夜、突然お母さんに言われたから」

「え……」

「電話とか家に無かったし、朝起きたらそのまま車に乗せられて、そのままになっちゃった。それだけだよ」

「そうだったんだ……」

「わたしも急だったし色々考えが及ばなかったから。今思い返せば電話ぐらい後で出来たのに……ごめん」

「ううんもういいの。ごめんね、百合の方が大変だったんだよね」

張りつめていた空気が穏やかなものになる。

「おやすみ」

「うん、おやすみ」

わたしはなぜか寝つけなかったのに、真央はそれからすぐ気持ちよさそうに寝息をたてていた。

目を閉じて、ゆっくりと息を吸って吐く。これを繰り返していると眠ることが出来る気がする。

海の上に浮かんでいるような浮遊感に体が包まれてゆく。このまま目が覚めなければいいと思えるほど、この感覚は心地いい。

それでも次また目を開けるときには、外は朝なのだろう。

ふと病院で聞いた言葉を思い出した。

当たり前のように思うけれど、その保証は実は誰にもない。渡っている橋がいつ崩れ落ちるのか分からないまま、それでも歩き続けなければならないのが生きるということ。

この言葉の主が今も元気でいればこんなふうに思い出すことはなかったのかもしれない。ささいな一瞬の光景が目の前で動き出す。

きっと夢なのだろう。

だって今、わたしは目を閉じているはずだから。

「はぁ……」

自覚してしまうと同時に、泡のように弾けて消えていって、徐々に視界がはっきりしてきた。

ベッドから体を起こして壁の時計を見る。ちょうど朝日が昇りそうな時間だった。

まだ寝ている真央を起こさないように部屋の外に出る。

軽く背伸びをしてから階段を降りて、顔を洗いに行く。

「あ」

顔を洗ってから歯ブラシを持ってきていないことを思い出した。真琴さんも起きているか分からないから自分の家に取りに戻ろう。

サンダルをこっそり借りて外に出る。といっても隣同士だからすぐだけれど。

歯を磨いて寝ぐせを直す。ついでに持ってきたヘアピンもつけた。

「うーん」

そろそろ髪を切りに行きたいけど、来月のことを考えるとやめておいた方がいい気もする。

「百合ちゃんおはよう」

鏡の前で考えていると、真琴さんから声をかけられた。

「おはようございます」

「そのオレンジのヘアピン似合ってるね、自分で選んだの?」

「ああ、これは友達から貰ったんです」

「へぇ」

真琴さんは瞬きをした。

「そろそろ真央、起こしてきましょうか」

「うーんそうだね、お願いします」

「分かりました」

階段を上って真央の部屋に戻る。真央はまだ寝ていた。

いつも起こされてばかりだからなんだか新鮮な気分になる。試しに頬をつついてみることにした。

「えい」

「……」

何も反応がない。

「起きて」

「は、はい!」

耳元で囁くと、真央が突然飛び起きた。

「びっくりした。……心臓に悪いよもう、普通に起こしてよね。だいたい、いつも百合は突然そういうことするんだから」

顔を真っ赤にして真央はまくしたてる。そんなに怒らなくてもいいのに。

「もう、知らない」

そう言うと真央は部屋からさっさと出ていってしまった。

「はあ……いったいわたしが何をしたって言うんだろう」

呟いて、わたしも部屋から出る。

「百合ー何してるのー」

下から呼ぶ声に返事をして、わたしは小走りで階段を降りていった。

 



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chapter4

この作品はchapter1から3の続きです。未読の方はぜひそちらからお願いします。


1

朝早く起きなくてもいい。それだけで夏休みは素晴らしいもののように思える。

「ふわぁ……」

ゆっくりと身支度をしてソファーに座ると、珍しく空腹に襲われた。

この暑い中何か買いに行く気にはならないし、かといってこのまま座っているわけにもいかない。

「よっと」

テーブルの上のケータイを手に取る。

「……ふう」

宅配ピザを頼んですぐ元の場所にケータイを戻す。

冷たい紅茶をグラスに注いでからソファーに戻ると、突然ケータイが鳴り始める。表示されたのは真央の名前だった。

「どうかしたの」

「ねー百合今日暇だよね?」

「今忙しい」

応対が面倒くさくなって電話を切る。しかし、すぐに電話が鳴り出した。

「もう、切ることないじゃん」

「用件は」

真央が毎日のようにわたしに電話をかけてくるのはどうしてだろう、恋人同士でもこんなにしょっちゅう連絡取らないと思うのだけれど。

「今日ちょっと付き合ってよ」

「こんな暑いのに外出たくない」

「えー」

「だいたい真央だったら声かければ誰でも捕まえられるでしょ」

長いため息が電話越しに伝わってきた。

「私は、百合と買い物に行きたいって言ってるの」

「?」

どうしてわたしと?

「一緒にいこ、ね?」

どうやらどうしてもわたしを連行していきたいらしい、家でぼーっとしてたいのに。

「……何買いに行くの?」

「服とか、水着とか」

「水着?」

「どういうのがいいか分からないから誰かの意見聞きたいなーって思って」

なるほどそういうこと。

「別にいいけど、さっきピザ頼んだからちょっと待ってて」

「もう、またそういうのばっかり」

「だって家から出たくないし……あれだったら真央も食べる?」

少し考えるような間があって真央はこう尋ねてきた。

「いいの?」

「いいよ」

「じゃあ、今から行くね」

「はいはい」

電話を切ってからすぐチャイムが鳴る。本当にすぐに真央が外に立っていた。

「ジュースでいい?」

「あ、うん」

グラスとジュースを用意したところで、真央の服装に目が行く。

「珍しいね」

「え?」

「いや、胸元が開いたワンピースなんて着るんだなあって思っただけ」

なんだか普段からじろじろ見てるみたいで、少し気まずい。

「どう?」

「そういう服もいいと思うよ、似合ってる」

「着てきてよかった」

服装を軽く褒めただけなのに、そこまで嬉しそうな顔をされると不思議な気分になる。

「あっ」

ちょうどいいタイミングでチャイムが鳴った。

「ピザの配達に来ました〜」

「はい」

鍵を開けて外に出る。

「底が熱いので気をつけて下さい。はいちょうどですね、ありがとうございます」

ピザを受け取ってリビングに戻ると、真央がものすごくいい笑顔で迎え入れてくれた。

「わー」

「機嫌いいね」

「早く食べよー」

「はいはい」

ピザを頬張る真央はとても幸せそうで羨ましいくなる。

「本当、真央はよく食べるよね」

健啖家という言葉は真央のためにあるのではないか、そう思ってしまう。

「うーんそうかなあ、百合が少食なだけだと思うけどなあ……」

真央は急に沈んだ表情になった。

「いや別にいいんじゃない、わたし真央が食べてるの見るの好きだし」

「本当?」

えへへと笑って真央はピザに手を伸ばす。

「あーでもなあ、最近ちょっと気になってきて……鏡で見るとねやっぱりもう少し絞らなきゃなあって思うの」

それをピザを食べながら言うのか。と思ったけど、言うと間違いなくろくなことになりそうにないし黙っておくことにしよう。

「ねえ百合」

「何?」

「百合ってさ、最近ずっと髪伸ばしてるよね。何かあったりするの?」

ピザを食べ終わったあとで、真央が聞いてきた。

「何も無いよ。今はそういう気分ってだけ」

ふうん、と言いながら真央はわたしの目をじっと見てくる。

「小さいときって私より百合の方が髪長かったよね。覚えてる?」

「そうだったっけ」

「うん。今でも覚えてる。腰ぐらいまで伸ばしてたよね」

「ああ」

そう言われてみると確かにそうだった。今と比べてみると、小さいときはかなり長かったと思う。

「百合がこっちに戻って来て最初に会ったときに、髪短くしたんだって思ったもん」

「わたしも久々に真央を見たときに髪型変わったなあって思った記憶はあるかな」

髪よりも気になった部分もあったけど。

「小さい頃のストレートロングよりも、今ぐらいの長さの方が百合だって感じがするよね。あくまで私個人の印象だけど」

「そう」

グラスに残っていたサイダーを一気に飲む。

「あ、もうこんな時間。そろそろ買い物行こうよ」

「はいはい」

真央に急かされて外に出る。

「あっつ……」

肌を刺すような日差しに思わずため息に似た言葉が漏れてしまう。

「で、どこに行くの?」

「もう決まってるからついて来て」

「……はいはい」

真央の笑顔を見て嫌な予感が胸をよぎった。

……これは相当長くなりそうな気がする。

「じゃ、次行こ」

「まだ行くの?」

家の近くの店で服やカバンを見るだけでなく、学校とは逆方向行きの電車に乗って街の方まで連れてこられた。

「うん、次はあそこ」

「ええ……」

何軒も連れ回されて疲れてきたのに、まだ真央は満足していないらしい。

「ここの店水着の品揃えがすごいんだって」

「ふうん」

確かに、洋服の店というよりも水着の店と言っていいほど中は水着で溢れていた。水着といってもワンピースみたいなものだったり、ビキニだったりと種類は実に様々で驚いてしまった。

「うわすご」

「本当にすごいねここ、ほとんど全部水着みたい」

「これ、着てみたら?」

目についた水着を取って真央に見せる。

「もう、そんなの着れるわけないじゃん。そんなに露出したくないよ」

怒られてしまった。わたしは結構いいと思ったのだけど。

「これとかどうかな?」

「地味じゃないそれ」

「私が着る水着だからって派手なのばっかり選ばないでよ、もう!」

そんなに派手なのを選んでいるわけじゃないのに、真央は頑なにビキニを着たがらない。せっかくグラビアアイドルみたいな立派なスタイルをしているのにどうしてなのか。

「とりあえず自分で選んだの着てみたら?」

「……分かった」

そう言うと真央はいくつか水着を選んで試着室に入っていった。

「覗かないでよ」

「……」

わざわざ真央は釘を刺してくる。まるでわたしが着替えを覗いたことがあるような言い方に少しムッとした。

「開けていいよ」

中から真央の声がしたのを確認してから、わたしが試着室のカーテンを開ける。

「ど、どう?」

「いい」

思わずサムズアップ。分かってはいたけれど、真央にビキニを着せるとものすごく絵になる。

「……喜んでいいのか分かんないんだけど」

「次はこれ着てみて」

「いいけど、何で百合がやる気になってるの」

困惑しながら真央はカーテンを閉めた。

「今度はどう?」

いいのだけれど、何かが足りない。

「うーんやっぱり腰とかのラインが出ないのはあんまり良くないかも」

「えーそうかな?」

「そうだよ」

言いながら次の水着を差し出す。

「これは絶対に着ないから!」

「いいから、絶対似合うって」

「……うぅこんなの絶対ダメだよ」

「ちょっとだけ、着てみるだけお願い!」

手を合わせて真央に頼み込む。

「もう、着るだけだからね」

「うん」

やった、押し切れた。

「やっぱりこれ……本当に恥ずかしい」

「開けていい?」

中からため息混じりの声が聞こえてきたので、わたしは外から話しかけてみる。

「ちょっと待って……うんいいよ」

返事があったのを確認してカーテンを開けると、真央がラッシュガードを羽織って立っていた。

「……おぉ」

オフショルダーのビキニの上にどうして余計なものを羽織ったのか、と思ったけどあえて隠しておいて脱いだら……というのもいい。

「何その反応」

「その上のもかわいいし、真央に似合ってていいと思うよ」

「そ、そうかなあ」

「買うならそれセットでいいんじゃない」

「百合がそこまで言うんだったら、そうする」

結構レジが混んでいたので、会計が終わるまでの間わたしは店の外で待っていた。

何をするでもなくぼーっと立っていると、誰かがこっちに近づいてくることに気がつく。

「あら、奇遇ですわね」

声で誰だか分かって、少し自分でも驚いた。

「生徒会長さんはこんなところで何してるの?」

「わたくしは少し街を歩きたくなって、貴方は?」

改めて見ると椿原は本当に目立つ。美人で背が高いってのも大きいと思う。しかも今日は学校とは違って少し底の高い靴を履いているせいか、ものすごく視線が上からに感じる。

「買い物の付き添い……かな」

「どなたの?」

「真央のだけど」

わたしの答えに椿原はかすかに眉をひそめた。

「本当、桜井さんと仲がいいのね」

「腐れ縁ってところかな、わたしと真央は」

「腐れ縁……やっぱり貴方と桜井さんは何かの鎖で繋がれているんでしょうね」

「鎖って……」

鎖という妙な例えに戸惑ってしまう。

「百合、お待たせ」

そんな会話をしていると、真央が店から出てきてこっちに駆け寄ってきた。

「あら、桜井さん」

「どうしてここに?」

椿原に話しかけられて、真央はようやくわたしと椿原が一緒にいたことに気づいたようだ。

「こうして待ってたらたまたま」

「ええ、本当に偶然わたくしがここを通りがかったときに百合さんに気がついたんです」

そう言って椿原は笑顔を浮かべる。

「そうですか」

前、保健室でああいうやりとりがあったせいか、真央は椿原に鋭い眼差しを送った。どこか敵意を感じるほどで、正直すごく怖い。

「もしよろしかったら、これから3人でどこか行きませんか?」

突然の提案に真央と顔を見合わせる。

「でも、行くってどこに?」

「うふふ、実は行きつけの喫茶店にこれから行きたいと思っていまして」

少し待っていてくださいね、と椿原はケータイを取り出した。

「今から車を出してもらえないかしら。ええ、あの喫茶店までお願い。……お待たせしました、では車が迎えに来るので行きましょうか」

電話を終えた椿原はそう言って勝手に歩きだしてゆく。まだ言っていないのにまるで決まっているみたいな行動に戸惑っていると、わたしの服の袖を真央が掴んできた。

「ど、どうするの」

「どうするって、これ行く以外選択肢なさそうな雰囲気じゃない」

とりあえずわたしは椿原の後をついて歩く、そしてぴったりくっつくようにして真央もついてきている。

少し大きな通りに出ると、前に見たことがある高そうな車がこっちに近づいて来て止まった。

「お待たせしました、どうぞ」

「し、失礼します」

助手席から降りてきた女性はなぜかいわゆるメイド服を着ている。わたしはその女性に促されるままわたしは車に乗り込んだ。

「どうぞ桜井さんも、乗ってください」

「は、はい」

わたしの隣に座った椿原に言われて、最後に真央が車に乗り込む。後部座席にちょうど3人で並ぶ形になった。

「お嬢様、よろしいですか?」

運転席にもメイド服を着たさっきとは別の女性がいてさすがに驚いてしまう。

「ええ」

椿原が返事をすると車が動き出した。ところでいったいどこに連れていかれるのだろうか、乗ってしまったあとから不安になってくる。

「あの、椿原さん。どこに向かってるんですか」

しばらく走っていると、真央がわたしの聞きたいことを質問してくれた。

「わたくしのお気に入りの喫茶店です。車で行けばあと20分ぐらいでしょうか」

「その喫茶店の名前って?」

今度はわたしが椿原に尋ねる。

「ええ、サファイアという名前です」

サファイア……どこかで見たか聞いたような名前だ。

「百合、もしかしてこの前のお店じゃない?」

「この前……ああ、あの喫茶店ってそういえばサファイアって名前だった気がする」

真央に言われてはっきりと思い出した。あのお姉さんがマスターをしている純喫茶だ。

「あら、もしかして行ったことがあるんですか?」

「真央とこの前のテストが終わった日に初めて行ったよね」

「うん、そうそう」

真央が明るくうなずいた。

「そうなんですか、あの店はあまり目立たないところにあるので少し意外です」

椿原は驚いたように瞬きをする。

「そういえば百合、文化祭のことなんだけど」

「何?」

「やっぱり──ひゃっ!?」

真央が続きを言おうとしたちょうどそのとき、急にブレーキがかけられて体が前に投げ出されそうになる。

「失礼しました、野良猫が急に飛び出して来たので。お怪我はないですか?」

運転をしている方のメイドさんがこちらに顔を向けて、確認をしてきた。

「お二人とも大丈夫でしたか?」

「はい」

「大丈夫」

椿原に聞かれたので答えを返す。さほどスピードが出ていなかったし、シートベルトをしていたのでどこか怪我している方がおかしい。「出して」

「はい」

椿原の言葉で車は再び走り出した。

「もうすぐ着きますので、降りる準備をお願いします」

「ええ」

まもなく車が路肩に止まる。

「こちらでよろしいですか」

「ええ、ありがとう。帰りはまた連絡するからここに迎えに来て」

「かしこまりました」

「ありがとうございました」

2人で車を降りてからメイドさん達にお礼を言うと、会釈を返された。

「それでは行きましょうか」

車に乗っているときと同じ並びでわたしたちはサファイアに歩いていった。

2

「……」

「……」

何だろうこの微妙な雰囲気。テーブルを挟んで正面に真央、そして隣に椿原。両手に花といったところなのに全然嬉しいと感じない。

「はい、どうぞ」

「どうも」

椿原からメニューを手渡される。前来たときに頼まなかったアイスココアにしようかな、そう思いながらメニューを眺めていると、椿原が横から覗き込んできた。

「貴方は何を頼みますか?」

「アイスココアにしようと思ってるけど」

「そうですか、ではわたくしも同じものを」

「真央は何に……」

メニューから真央に視線を移す。

「アイスコーヒーとミックスサンドとホットケーキとチョコレートパフェ」

「そんなに?」

ピザを食べてからそこまで時間たってないと思うのだけど。

「何か?」

「いや、別に何も……」

ものすごく怖い笑顔を返される。どうやら相当機嫌が悪いようだ。

「すみません」

椿原が手をあげて店員の人を呼ぶ。

「はーい」

この前と同じ、美人なマスターがやってくる。

「アイスココアを2つ、それと桜井さんは何でしたっけ?」

「アイスコーヒーとミックスサンドとホットケーキ、それとチョコレートパフェをお願いします」

「かしこまりました、飲み物は全部一緒に持ってきますか?」

「はい」

「了解でっす」

真央が頷くと笑顔でマスターのお姉さんは奥に引っ込んでいく。

「そういえば百合さんって趣味とかあるんですか」

飲み物が運ばれてしばらくしてから、椿原はわたしに顔を寄せてこう聞いてきた。

「趣味かあ……」

改めて聞かれると何も思い浮かばない。

「そういえば百合、最近絵とか描いてないの?」

「描いてない、そもそもあれは──」

その続きを言おうとして思いとどまる。ココアを一口飲んで一呼吸を置く。

「あれはただの気まぐれだし」

「へえ」

真央はわたしの目をじっと見てきた。

「桜井さんはどんな絵を見たのですか?」

「向日葵とか、空とかの絵が多かったかなあ」

「それは素敵ですね。わたくしにも今度見せて下さいね」

「……気が向いたら」

真央に余計なことを喋られて恥ずかしくなる。あんな絵、今考えたらとても誰かに見せられるようなものじゃない。

「お待たせしました〜」

真央が頼んだミックスサンドとホットケーキが運ばれてきた。

「パフェも今持ってきますねー」

「はーい」

言いながら真央は早速ミックスサンドに手を伸ばす。

「お待たせしました、チョコレートパフェです。ごゆっくりどうぞ〜」

「ねえ百合、ホットケーキ食べるでしょ?」

「どうしたの急に」

真央はミックスサンドを半分ほど平らげると、急にわたしに聞いてきた。

「はい」

わたしは食べるとは言っていないのに、ホットケーキが刺されたフォークを差し出してくる。

「自分で食べるからいいって」

「あーん」

「さすがにそれは恥ずかしいからやめてよ……」

「もう、何も恥ずかしいことないじゃん」

「うふふ、本当にお2人は仲がいいですね。でも、わたくしがここにいることもお忘れなく」

椿原は笑顔で言うが、目の奥が笑っていなかった。

「ちょっと手洗ってくる」

とりあえずこの空気から逃げようと席を立つ。

「はー」

水で軽く顔を洗って長いため息をつく。

「うふふ、ため息なんてどうされたんですか」

気がつくと椿原が隣に来ていた。

「別に」

「ああ、そうだ。この前のあれ、来月末までに電話でもいいのでお返事くださいね」

相変わらず椿原は距離が近い。

「わたくし、結構嫉妬深いんですよ」

耳もとで囁かれたその言葉はとても重たくて、背筋にぞくりと冷たいものが走る。

「ふう」

「どうしたの」

「いや別に」

あれ、どこに行ったのだろう。テーブルに戻ると椿原はまだ戻ってなかった。

「それにしてもすごいね」

「すごいって?」

最後の一切れのサンドイッチを口に入れる。

「そういえば生徒会長さんどこ行ったの?」

「百合は会ってないの?」

「トイレで会ったけど、先に戻ったと思ってた」

先にトイレから椿原が出たのだから、普通は先に戻ってるだろうと思うのだけれど……どこにいったのだろう。

「ふーん」

パフェを食べる真央は何か考えているようだった。

「すみません、お待たせしました。急にわたくし帰らなければいけなくなってしまって……会計は済ませて置いたので、お先に失礼します」

椿原は明らかに焦っているようで、何かあったのか聞けそうな雰囲気ではなく、一方的にそう言うと店から出ていってしまった。

「どうしたんだろ、あんなに焦って」

「ね、椿原さんっていつも余裕を通り越して風格ある感じなのに」

真央は不思議そうにしていたし、わたしも同感だ。大丈夫だろうか。

「わたし達も帰る?」

「そうだね」

席を立ってマスターのお姉さんに確認してみると、本当に会計を済ませていたらしい。

「どうしよう私が色々頼んじゃったのに」

「今度あったときにでも返せばいいんじゃないの」

話ながら店の外に出ると、さっき椿原に乗せられてきた車が店の前に停まっていた。

「あれ、あの車ってさっき……」

わたし達が疑問に思っていると、中からさっき運転をしていた方のメイドさんが降りてくる。

「お嬢様から送っていくようにとおおせつつかっていますので、どうぞ乗ってください」

「は、はあ」

とりあえず言われるがまま車に乗り込む。

「どちらまで向かえばいいですか?」

「どうする?」

「ここから一番近い駅まででいいんじゃない?」

「うん」

真央の言葉に頷く。

「かしこまりました」

メイドさんがそう言うと、車はゆっくりと走り出した。

「何かあったんですか?」

「お嬢様からは何も聞かされておりませんのでお話できることはありません」

「そう……ですか」

何かあったとしか思えないけれど、わたしがメイドさんから聞き出せることはどうやら何もなさそうだ。

「こちらでよろしいですか」

それからは会話もなく、まもなく駅についた。

「はい」

「ここで大丈夫です」

わたしたちが返事をすると、車は駅前のロータリーに停められた。

「あ、あのこれ椿原さんに渡してもらえないでしょうか。私たちの分のお金です」

「いえ、受け取れません。お嬢様から『こちらからお誘いしたのでお代は結構です』と言いつけられているので」

「でも」

「お気持ちだけで結構ですと」

真央がどうにか渡そうとするも、メイドさんは決して受け取ろうとしなかった。

「だったら椿原さんにありがとうございましたと伝えておいてください。お願いします」

終わりそうにないやり取りを聞いていても、らちが明かないのでお礼だけでも伝えておいてもらうように頼む。

「かしこまりました。お嬢様にお伝えしておきます」

ようやくメイドさんが頷いてくれた。

「降りよ」

「分かった」

まだ納得がいっていない顔の真央を促して車から降りる。

「はあ、納得いかない」

「いいんじゃない別に、向こうがいいって言ってるんだし」

電車に乗り込んでも、真央はまだ不満げな顔をしていた。

「ふわあ……」

電車の揺れはいつもわたしを眠くさせる。その理由はよく分からないけれど。

「ねえ百合」

「ん?」

目を軽くこすってから、真央の方を見る。

「百合に相談したいことがあって」

「相談?」

やけにかしこまった口調にただならぬものを感じた。

「大学どうしようかなあって思ってさ、百合に意見聞きたいなって」

どうしてわたしにそんなことを聞いてくるのだろう。

「真央が自分で考えて決めることじゃないのそれは」

「そうなんだけど、そうじゃなくってさ」

真央は困ったような顔をする。

「なんていうか……その、百合がどうするのかってのを聞いてから私もどうするか決めようかなって」

「どういうこと?」

「前聞いたときは決まってないって言ってたけど、百合もそろそろこういうこと考えてるのかなって思って聞いただけ、どうなの?」

いまいち真央が何を思ってこんなことを聞いてきているのか分からなかった。

「何も考えてない」

これから自分がどうするかなんて考えてない。というよりも考えられる状況にわたしはいないという方が正しいと言える。

「……そっか」

真央はそれ以上深く聞いてはこなかった。だけど、そう言った真央の表情にはわたしへの遠慮のようなものが感じられて、申し訳ない気分になる。

「また今度買い物に付き合ってね、約束。ほら、小指出して」

家の前で別れるとき、真央がわざわざ指切りを求めてきた。

「どうしたの急に」

「いいじゃん、それとも嫌なの?」

「別にいいけど……」

差し出された右の小指にわたしの同じ指を絡める。小さいときはよくこうして色んな約束をしたような気がするけど、今やるとなんだか子供っぽくて気恥ずかしく感じる。

「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った」

絡み合わせた小指から真央の熱がわたしに伝わってきた。同時にわたしの熱も真央に伝わったのだろうか。

「じゃあまたね」

「うん」

指切りを終えると、小走りで真央は家の中に入っていく。その後ろ姿を見送ってからわたしも家に帰った。

「ふう」

すぐにシャワーを浴びて汗を流してから、ソファーに倒れ込む。まだ寝るには早い時間だけど、今日はこのまま眠れそうな気がする。

「……」

ソファーの上で横になって、直接目の前に右手をかざす。

さっきの指切りの感触がまだ残っていることがわたしには不思議だった。

「……なんでだろ」

小さいころやっていたときには意識することがなかった真央の暖かさ。これは真央が暖かくなったのか、それとも小さいときにわたしが感じなかっただけなのか。

「ふわぁ……」

その答えが出る前にわたしは眠りに落ちていた。

 



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chapter5

この作品はchapter1-4の続きとなっています。未読の方はぜひchapter1から読んでいただくことをおすすめします。


1

8月4日。この日はわたしにとって特別な日だ。

起きてすぐシャワーを浴びる。

「ふう」

体を拭いてから髪をしっかりと乾かすと、弛緩していた気持ちがぎゅっと引きしまった。

顔を水で洗うと微かに残っていた眠気もどこかに消えていく。

髪を念入りにとかしたあと、前髪を2本のヘアピンでクロスさせてとめる。そして反対側の耳にかけるようにオレンジのヘアピンをつけた。

「……よし」

化粧ポーチを取り出して教えてもらった化粧を施す。

「うん」

久々にやったにしてはいい仕上がり。これで今のわたしに出来る一番の状態になれた。

時間を確認してから財布とケータイだけを持って家を出る。

家から少し離れたバス停まで歩く。今日は少し遠出する予定だ。

「次は神尾浜病院(かみおはまびょういん)前、神浜尾病院前です。お降りの方はお知らせ下さい」

40分ほど揺られてからバスを降りると、目の前に大きな建物が見える。この辺りでは唯一の総合病院だ。

思い出深いというか、なんというか。ここに来ると色々なことを思い出す。

入口の近くにあるコンビニに入りメロンパンとココアを買った。

ココアを飲みながらバス停の方向に戻る。わたしはそのままバス停を通り過ぎて病院とは反対側に歩いて行った。

堤防沿いを一人でゆっくりと歩く。堤防の向こう側の砂浜には何人かの人がいた。

「よっ……と」

しばらく歩いてから堤防に腰かける。

海を眺めていると色々なことを思い出す。だけど毎年こうやってここに来るたびに、徐々に記憶の光景が霞がかってゆくことが分かる。

それがどうしようもなく悲しい。

もう四年前になるから、100パーセント思い出せないのも当然だろう。

「人間は忘れるように作られてるから、全てを覚えていたらそれに囚われて、きっと生きていけないよ」

「……そうだね」

記憶の中にある声に言葉を返す。だけど、その続きの言葉は聞こえてこなかった。

波打ち際の砂がさらわれていくように、確かな記憶も過ぎゆく時間に流されていってしまう。

「ふう……」

目を閉じると風が心地いい。海が運ぶ潮の香りは、どうしてこんなに癒されるのだろう。

大きく息を吸って吐く。

「うん」

ありきたりな言葉だけど今年もここに来てよかった。色々抱えていた悩みもこの場所にいるときだけは忘れることができる。

 

メロンパンを食べながら佇んでいると、突然ケータイが鳴り始めた。

「もしもし」

「ねえ百合、今どこにいるの?」

電話をかけてきたのは真央だった。それにしてもどうしてわたしが出かけていることを知ってるんだろう。

「海」

「え? どうしたの急に」

「そういう気分になったから」

「……そういえば、去年もそんなこといってたような」

驚いた、意外に鋭い。

「この季節になると海が恋しくなるの」

「もう、だったら誘ってくれたらよかったのに、この前水着選んでくれたじゃん」

「別にわたし泳がないし、それに」

「それに?」

「なんでもない、で用件は何?」

余計なことまで口走りそうになる。慌てて話題を変えた。

「えっと、今日ママ仕事でいないから夜どこかご飯でも食べに行かないかなーって思って」

「ふーん」

なるほど、それで真央は家に尋ねてきてわたしがいないことを知ったのか。

「百合がよかったらだけど」

「別にいいよ、夕方には帰るし」

「よかった。じゃあまた連絡するね」

「うん」

 

真央との電話を終えたわたしは、ゆっくり堤防沿いを歩いていた。

肌を刺すような日差しの中、不思議と不快感よりも心地良さが勝っている。

やがて目的の店が見えてきた。

「いらっしゃいませ〜」

小麦色の肌をした女性が明るい声で向かい入れてくれた。

海沿いの小さな雑貨屋らしく、貝殻とかを使ったアクセサリーが店内に溢れている。

ここに入るのは実は初めてで、なぜかタイミング悪く定休日だったり、臨時休業だったりで中に入れなかったのだ。

どれがいいだろう、誰かへのプレゼントなんてほとんど買ったことないから迷ってしまう。

「何を探してるの? よかったら聞かせて」

「えっと、その」

どうしよう、気さくに話しかけてもらえるのは嬉しいけど、どう説明したものか。

「年上の女性へのプレゼントってどういうのがいいですか?」

おそるおそる聞いてみる。

「うーんそうだなあ、大人の女性にはこの辺りのネックレスとかがいいかも」

案内されて店の奥に入っていく。

「あっこれ」

パールのネックレス。こういうの似合うんじゃないかな。

「いいね、お姉さんお目が高いよ」

ふふん、となぜか自慢げな顔を店員の人はする。

「あ、ありがとうございます」

「それはシェルパールっていって、人口のパールなんだけどすっごく綺麗でしょ。作るのに手間かかってるんだそれ」

そう言われないと気づかないぐらい、本物と同じぐらいすごく綺麗だ。

「これ、お願いします」

他にも貝殻のアクセサリーやガラスのビンに砂が入ったものだったり色々気になるものはあったけど、結局わたしはさっきのパールのネックレスを買うことにした。

「はいはーい、ありがとうございます。1500円ね」

「はい」

「ん〜やっぱり」

レジでお金を払っているときに店員の人がわたしをまじまじと見てくる。

「あの、どうかしましたか」

疑問に思って尋ねてみると、思わぬ答えが返ってきた。

「お姉さんにとって、その人ってとっても大切なんでしょ?」

「そう……ですね」

「やっぱり、こっちまで伝わってきたよその想い。きっと喜んでくれるよ」

眩しい笑顔で紙袋を手渡される。

「ありがとうございました」

「また来てね〜」

店員さんの声に見送られて店の外に出ると、いつの間にか空模様が怪しくなっていた。

もう少しのんびりしていこうと思っていたけれど仕方ない。急いで病院の方まで戻ることにした。

「……あ」

バス停で時間を確認してみると、次のバスまで30分もある。このままだと家に戻る前に先に雨が降りそうだ。

しょうがないので、コンビニで傘を買ってバスの時間まで病院の中で待つことにした。

ときおり呼び出しの声が流れる以外は、かすかな会話の音だけが聞こえてくるだけで病院の待合室は静かで、居心地は思っていたより悪くなかった。

しかし、退屈だ。家ならソファーに横になっていればいいけど、外でそんなことするわけにはいかないし。

「あれ、百合ちゃん?」

聞き覚えのある声、誰だろうと振り返ると橘さんがそこにいた。

「ど、どどどうしたの? まさかどこか悪いとかきっと」

なぜだか、紙の箱を持つ両手が震えている。

「雨宿りしてるだけ」

「そ、そうなんだ。隣いい?」

「別にいいよ」

「……あのさ、よかったら食べる?」

そう言って橘さんはわたしの方に紙箱を差し出してきた。

「フライドポテト?」

「うん、自販機のこれ好きなんだ」

へえ、フライドポテトの自販機なんてあるんだ。せっかくだからひとつもらってみることにした。

「うん、美味しい」

「あはは、病院に来るたびについ買っちゃうんだよね」

ところでさ、と言いながら橘さんはわたしの方に体を向ける。

「そのメイクどうやってるの?」

「どうやってるのっていうほど、変わったことしてないと思うよ」

教えてもらったことをそのまま真似しただけだから、詳しくは分からないけど。

「むーやっぱり素材がいいのかなあ、あたしが同じことしてもそんなにかわいくなれないよ」

「……そんなことない」

面と向かってそんなことを言われると、デートでもないのに気合いを入れてきたのが気恥ずかしくなってきた。

「羨ましいなあ、あたしも百合ちゃんみたいに生まれたかった」

「……そんなにいいもんじゃないよ。それに、わたしは橘さんみたいにパッチリした二重になりたかったな」

一重のわたしからすると、二重の人は本当に羨ましい。

「そんなにじっと見られるとその、恥ずかしいかなって……」

「あっごめん」

つい見つめすぎてしまった。赤面する橘さんを見て申し訳ない気分になる。

「そういえば、橘さんは病院にどうしてきたの?」

どこか悪そうには見えないけど。

「あーえっと、あたしのお母さんここで看護師やってて、忘れもの届けにきたんだよね」

「そうなんだ」

「お母さんおっちょこちょいなとこあってさ、あたしもだけど」

そう言って橘さんは笑う。

「……いいお母さんなんだね」

「うん」

力強く頷くその横顔がわたしには眩しかった。

「じゃあ、そろそろバス来るから行くね」

ケータイを見ながら立ちあがる。橘さんと話していたら、ちょうどいい時間になっていた。

「ねえ、百合ちゃん」

「?」

歩いていこうとしたときに、橘さんに呼び止められる。

「椎名から頼まれたと思うんだけど、あたしからも文芸部員としてお願い。文化祭の劇出てくれない?」

「……考えとく」

背中を向けたまま、そう答えてわたしはバス停に向かっていった。

降りしきる雨の中バスは走り出す。さっきまでの太陽はもうどこにも見えなかった。

 

2

「もしもしママ?」

百合とどこに行こうかなとお店を探していると、突然ママから電話がかかってきた。

「ごめん真央、ママ今日ちょっと帰れそうになくって、悪いんだけど冷蔵庫に残ってるもの使っちゃっておいて」

「あ、うん分かった」

「百合ちゃんによろしく言っといてね」

「はーい」

急に仕事が入ったとは聞いていたけれど、よっぽど忙しいんだろうなあ、ママ。

「うーんどうしよう」

冷蔵庫の中身を見て何を作るか考える。

「ミートソースとかハンバーグとかかなあ」

合挽き肉を使わないといけないみたいだし、ぱっといくつかの献立を考える。

「あっそうだ」

百合にどこか食べにいくんじゃなくて、うちで晩ご飯作ることになったって伝えておかないといけない。

百合に電話をかけてみる。

「もしもし」

「あっ百合、実は……」

私は百合に簡単に事情を説明した。

「でね、私の手料理でよかったら食べにこない?」

「いいの? わたしが行っても」

「もちろん」

よかった。断られるかと思ったけど、来てくれるみたい。

「あと、10分ぐらいでつくと思う。じゃあ」

「待ってるね」

電話を切る。どうしようかな、やっぱり百合が好きなハンバーグにしようかな。

やっぱり、自分以外の誰かに作る料理はいつもよりも気合いが入る。

私はさっそく準備を始めた。

 

さっきの電話から本当に10分くらいしてから、インターホンが鳴らされた。

「はーい」

「ついたよ」

百合の声が受話器越しに聞こえてくる。

「ちょっと待ってて今鍵開けるから」

返事をしてから小走りで玄関に向かう。

「おまたせ……え!?」

百合の顔を見て途中で息が止まるほど驚いた。あの百合がメイクをしているなんて……。

普段もふとした瞬間にドキドキさせられるけれど、メイクをしている今日の百合は本当に綺麗で思わず見とれてしまう。

「わたしの顔をじろじろ見てないで、早く中に入れてよ。雨降ってるんだし」

「あっ、ごめん。ちょっとびっくりして……」

言い訳めいたことを言う私の横をすり抜けて、百合は家の中に入ってくる。

「何か手伝おうか?」

「ううん大丈夫。お茶でも飲んで待ってて」

「そう」

百合がソファーに座ってテレビを見始めたことを確かめてから、私もキッチンに戻る。

「はぁ……」

料理をしていても、百合のことが気になってしょうがない。

ずっとなぜだか分からないうちに湧いてくるような嫉妬心だったり、胸の高鳴りだったり。

その理由を自覚してしまってから、私は百合を今までと同じように見られなくなってしまっている。

「ねえ、百合」

「何?」

「ハンバーグ作ってるんだけど、何かリクエストある?」

「リクエストって?」

「ソースの味つけとか、つけあわせとか」

「何でもいい」

「……分かった」

何でもいいって言われるのが一番困る。意見を求めてるときはせめて何か言って欲しい。

「はぁ……」

いけないと分かっていてもため息をつかずにはいれなかった。

私は百合のことが気になってしょうがないのに、百合は私のことをそこまで気にしていない。

ずっと前からそうだけど、やっぱり改めて感じると思わず落ち込んでしまう。

そんなことを考えているうちに晩ご飯が出来上がった。

「百合、ご飯出来たよ」

「うん」

キッチンから百合を呼んで、手早く配膳をする。やっぱり料理は作りたてじゃないと。

「いただきます」

「ど、どう?」

「うん、美味しいよ。やっぱり真央は料理上手だよね」

「よかった」

「真琴さんと同じぐらいかそれ以上じゃない?」

「普段からできるだけ料理するように心がけてはいるけど、まだまだママにはとてもかなわないよ」

「そう? 謙遜することないと思うよ」

「もう、恥ずかしいから……」

顔が熱くなるのが自分でも分かる。まさかここまで百合が褒めてくれるとは思わなかった。

「そういえば、どうしたの今日はメイクなんてして」

ご飯を食べ終わってから、2人でテレビを見ているときに、気になっていたことを聞いてみた。

「別に、そういう気分だっただけ」

百合はいつものように曖昧な返答をしてくる。

「だって、何でもめんどくさいっていう百合がわざわざそんなバッチリメイクしてるのって珍しいなあって気になっちゃって」

「……人をめんどくさい星人みたいに言わないで」

百合は少しムッとしたような顔をした。

「だっていっつも百合めんどくさいって言うし」

「わたしはめんどくさいって思わなかったら、ちゃんとやるから」

「へぇ……」

確かに、百合はそういうところがある。一度こだわり始めると徹底的にやるような感じ。私も何回か驚いたことがある。

「普段しないメイクを今日はめんどくさいって思わなかったんだ」

私の言葉に百合は目を見開いた。

「……まあね」

「今日って何かあったっけ、百合の誕生日は7日だし」

考え込む私を見て、百合は少し寂しそうな顔をする。

「……もしかして、似合ってないのかな。橘さんも驚いてたし」

「えっ!?」

どうしてその名前がここで出てくるんだろう。

「まさか、綾ちゃんとどこか行ってたの?」

思わず少し問い詰めるような口調になってしまった。

「いや、たまたま病院で会ったの。お母さんに忘れ物を届けにきたって言ってた」

確かに、お母さんが看護師さんをしてるっていう話しを聞いたことがあるような気がする。

「じゃあ、どうして百合は病院なんか行ったの? もしかしてどこか悪いとか……」

百合は体が丈夫な方じゃないし、急に心配になってきた。

「いや、診察とかは受けてないよ。ただ行っただけ」

「だったらどうして?」

「……ちょっとね」

百合はそう言って目を伏せる。明らかに何かあるような反応だ。

「そうなんだ」

すごく気になるけど、百合は露骨に聞いて欲しくないという表情で私をじっと見てくる。

「ごめん、お風呂先に借りていい?」

「あっ、うん」

そう言って百合は逃げるようにリビングから出ていってしまった。

「はぁ……」

シャワーを浴びてため息が漏れる。百合はお風呂から出てきたあとも、私をどこか避けているようだった。

ママから言われていろいろ考えていたこともあったけど、それを実行できるような雰囲気じゃなかったし。

「……どうしよ」

髪を乾かしながら考えてもどうしたらいいか分からない。

悩みながらリビングに戻ると、百合は扇風機の前で佇んでいた。

「ふーあっつい」

少しわざとらしく百合の隣に座ってみる。

「……」

「……」

座ったのはいいのだけど、どう話を切り出したらいいか分からない。

「百合、お茶飲む?」

「うん」

冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出して、氷を入れたグラスに注ぐ。

「はい」

「ありがと」

百合が扇風機の前からソファーに移動したので、私も隣に座る。

「ねえ、百合」

意を決して話を切り出す。

「百合ってさ、中学のときにどうしてバスケ部に入ったの?」

「……どうしたの急に」

「百合ってもともとバスケやってたのかなあって思って」

前から百合に聞こうと思っていたことを思いきって聞いてみる。

「いや、こっちに戻って来てから始めたけど、それがどうしたの」

百合は訝しげな視線を私に向けてきた。

「うーんと、ずっと気になってたんだけどどうしてバスケだったんだろうって」

「……肌焼けるの嫌だったから」

「え?」

思っていたよりずっとくだらない答えに、拍子抜けしてしまう。

「わたし、肌弱いから基本的に日光に当たりたくないの」

「へぇ……」

確かに百合は色白いけど、そこまで日焼けしないように普段から気を使ってるイメージはないから意外だった。

「……ふわぁ」

雰囲気が一気に和んだら急に眠たくなってくる。時間を見ると、23時を過ぎていた。

「百合、そろそろ寝よ。私眠たくなってきちゃった」

「先に部屋行ってて、少し外の風に当たっていきたいから」

そう言って百合は窓を開ける。

「でも……」

「すぐいくから安心して」

「うん」

私は百合の真剣な眼差しに頷くことしか出来なかった。

 

私は百合に聞きたいことがたくさんある。というより、百合の全部を知りたいという方が正しいかもしれない。

だけど、それが私の自分勝手な思いだということもよく分かっている。

 

 

──私たちが中学2年生のときのこと。

9月3日、夕方の学校であったことを私は今でもよく覚えている。

夏休み中にバスケ部を辞めたということを聞いて、私はあれこれ尋ねていた。だけど、百合は全く答えようとしてくれなくて……。

「いったいどうしちゃったの? 百合ってそんなに冷たいこと言う人じゃなかったでしょ!?」

つい感情的になった私は百合の胸元に掴みかかってしまっていた。

「……やめて」

辛そうな、絞り出すような声。その声を聞いて、私はようやく我に返った。

「ごめんなさい」

「……」

百合は何も言わずに私から視線を外す。

「……でも、何かあったんだったら、話してくれない? 私、百合の力になりたいの」

百合の手を握ろうと、私はゆっくりと手を伸ばす。

「どこまでいったって、結局わたしたちは他人だから」

ぞっとするほど冷たい声で、百合が呟くように言ったこの言葉を私は今でもよく覚えている。

 

 

「入っていい?」

ノックの音と百合の声で今の現実に引き戻される。

「うん」

私が返事をすると、百合は隣のベットに一度座ってから横になった。

話しかけようかと思っているうちに、かすかな寝息が聞こえてくる。

どうやら、あっという間に眠ってしまったようだ。

「……もう」

これじゃあ何のために待っていたのか分からない。だけど、わざわざ起こすのも悪いし、私もこのまま眠ることにした。

 

「ん……」

ふと、何かに触れられているような感覚がして、目が覚める。

「あ、起きた」

「え、ちょっ……」

すぐ目の前に百合がいた。

近すぎる体と体との距離に戸惑っている私に構わず、百合はどんどん近づいてくる。

「ひゃあっ……!?」

そのまま正面から百合に抱きしめられた。百合の温かさが、薄いパジャマを通して伝わってくる。

「嫌かもしれないけど、少しだけこうさせて」

甘えるような、少し鼻にかかった声で囁かれると、それだけで心臓が飛び出そうなほどドキドキする。いったいどうしたんだろうとか、何で急にこんなことだとか、色んな考えが頭の中を駆け巡った。

「嫌なわけない……むしろ嬉しいぐらい」

だけど、結局口から出たのは偽らざる本当の気持ちだった。

「ありがと」

胸元に顔を埋められる。普段だったら怒るところなのに、百合の体温や感触に支配されて、あっさりと受け入れてしまった。

「……ふう。ありがと、ごめんね」

1分ぐらいのほんの短い時間。だけど、今までのどんな時間よりも強く、百合の香りが私に残っている。

体が離れるのがここまで名残惜しいなんて思わなかった。

「そ……その、私は……いいよ」

恥ずかしくて閉じていた目をゆっくりと開く。すると百合は、何ごともなかったような気持ちよさそうな顔で眠っていた。

「……もう、期待させておいて寝ちゃうなんて」

思わずため息をつく。私はあんなにドキドキされられたのに、百合は違ったのだろうか。

何だか悲しくなってくる。百合は私のこと、意識してくれてないらしい。

だけど、百合の寝顔を眺めているだけで幸せな気分になってくる。

──やっぱり私は百合に勝てないみたいだ。

 

3

「すぅ……すぅ……」

朝、目が覚めるとすぐ隣で真央が眠っている。

一瞬混乱したけど、すぐに昨日のことを思い出した。

まだ少し寝ぼけている体を無理やり起こして、顔を洗いに下に降りていく。

「ふう……」

冷たい水が気持ちいい。歯を磨いて、寝ぐせを直しているところで、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。

「百合、おはよ」

「おはよう」

なぜか真央は、朝からずいぶんと機嫌が良さそうだ。

「朝ごはん何がいい?」

ソファーに座っていると、紅茶とコーヒーを真央が運んで来てくれた。

「普段食べないからあんまりお腹減ってない」

「もう、朝ご飯食べないのはダメだよ、何か作るから待ってて」

「……はいはい」

どうやら食べないと帰して貰えないらしい。

「ふわぁ……」

ソファーの上で体を伸ばして、真央の料理を待つ。

 

「お待たせ〜」

ほどなくして湯気がたつ器が運ばれてきた。

「これって」

「かきたまうどんだよ、朝ごはんだから軽めの方がいいと思って」

「へぇ……」

朝からうどんを食べるのは人生初かもしれない。

「麺伸びちゃうから早く食べよ。いただきます」

「いただきます」

念入りに麺を冷ましてから1口食べる。

「美味しい」

「朝からうどんも悪くないでしょ? 冷凍のやつ使えば簡単だし、百合も朝ごはん作ったらいいのに」

「……わたしが朝弱いこと知ってるでしょ」

作るのが簡単でも、そんな余裕あるはずない。

「だったら私が毎朝作りにいこうか?」

「遠慮しとく」

毎朝押しかけられるのはさすがに勘弁して欲しい。

「……別に遠慮しなくてもいいのに」

少し残念そうな顔をしてから、真央は一気にうどんをすすった。

 

「百合、そういえばどうだった?」

うどんを食べ終えた後、真央が急に真剣な顔をしてこう聞いてきた。

「どうだったって?」

「百合の誕生日のこと」

「ああ……」

忘れていたふりをしたけれど、忘れているはずがなかった。

「どう? お祝いされる気分になった?」

自分のことのように嬉しそうな真央を見ていると、罪悪感にさいなまれる。

「百合?」

明るかった真央の表情が曇っていく。

「…………」

言葉が出てこない。前と同じ答えを繰り返せば、きっと真央はこれ以上このことについて聞いてこない。わたしはなんとなく分かっていた。

だったら適当に答えておけばいい。それでいいはずなのに、わたしは何も言葉が出てこなかった。

自分だけだと落ち着くはずの沈黙。だけど誰かといるときの沈黙はどうしてこんなに息苦しくなるのだろう。

 

「百合」

真央に優しく手を握られる。

「話したくないことなんでしょ? 前にもそんな顔してたし」

真央は真琴さんがわたしに語りかけてくるような口調でこう続けた。

「実は私ね、ママから少しだけ聞いたことあるんだ。百合のお母さんのこと」

「……そうなんだ」

「詳しいところまでは教えてくれなかったんだけどね。私、知らなかったんだ、ママと百合のお母さんが同級生で、私たちみたいにお隣さんだったんだってこと」

そういう話をわたしのお母さんは一切してくれなかった。

「しかも、誕生日も一緒。出来すぎてるよね」

やけにわたしのことに詳しいことを不思議に思って真琴さんに尋ねたことがある。

そのときにわたしのお母さんと真琴さんの学生時代の話を聞かせてもらったのだ。

「百合のお母さんってとっても綺麗で優しい人なんでしょ? なのに百合から一回も話を聞いたことないの不思議だったんだ」

真琴さんがいうわたしのお母さんはそうだったらしい。だったら、なおさらどうしてと思ってしまう。

「……それは」

突然インターホンが鳴らされたのはちょうどそのときだった。

「誰だろ。ちょっと待ってて」

インターホンの方に真央は歩いていく。

「はい。はい、ええと……」

何やらインターホン越しで話しているようだった。

用件は済んだのだろうか、真央は小走りでこっちに戻ってくる。

「ねえ、百合ちょっときて」

「どうかしたの」

「リンドウさんって知ってる?」

「え?」

想像もしていなかった名前に思わず聞き返してしまった。

「家に誰もいないみたいだから、ここじゃないかって訪ねてきたらしいんだけど」

「ちょっといい?」

ソファーから起きて、インターホンの方に向かう。

「……本当じゃん」

細身のスーツを身にまとった妖艶な雰囲気の女性がモニターに映っている。彼女は紛れもなく、前わたしの家庭教師をしていてくれた林堂恭子(りんどうきょうこ)、その人だった。

「はい百合です。恭子さんどうしたんですか」

「ごめんなさいね、少し伝えておきたいことがあって」

「……何でしょう」

嫌な予感がする。この人が直接ここまで伝えにくるんだからきっとただごとではないはずだ。

「まだ確定じゃないけど、()()()から家庭教師をするように頼まれたの」

「それっていったい……」

「誰にとか、何をって聞きたいだろうけど、今はまだ教えられないわ」

「……そうですか」

「今日はただの挨拶よ。じゃあまた会えることを楽しみにしてるわ」

そういうと、恭子さんはさっさと行ってしまった。

「……はぁ」

恭子さんの指導はとにかくスパルタで、今わたしがほとんど勉強しないでいられるのは、彼女に叩き込まれた貯金があるからだと言える。

「さっきの人って?」

「前、わたしの家庭教師をしてた人。挨拶しに来ただけだって」

「挨拶って?」

「……さあ、よく分からない」

きっと恭子さんはお母さんから言われて来たのだろう。

ということはつまり、これはお母さんからのメッセージに違いない。

「わたしそろそろ帰る」

「えっ?」

「ちょっとやることができたから、じゃあ」

「ちょっ……百合!」

まだ何か言いたげな真央を振り切って、自分の家に戻った。

 

「……はぁ」

気が重くなる。

お母さんと会うというだけで一大事なのに、そのうえ恭子さんもやって来るとは……。

ソファーの上で思い悩んでいるうちに、いつの間にか夜になっていた。

「ああもう……」

全然考えがまとまらない。

こうしてソファーに寝転んでいてもしょうがないから、気分を変えるためにシャワーを浴びることにした。

「はぁ……」

ため息しか出ない。

ここまで何もしてこなかったわたしが悪いのだけど、これまでの日常はお母さんに許されていたから成り立っていたものだということを分かっているようで、分かっていなかった。

選択肢を与えられるのならまだいいけれど、最悪の場合連れ戻されることも考えられる。

いっそこのままどこかへ行ってしまえば、という考えが浮かんでは消えていく。

結局わたしは一人になれた気がしていただけで、お母さんに頼らないとどうすることも出来ない。

当たり前のことを改めて目の前に突きつけられるだけで、こうも自分の無力さを感じるなんて、思っていなかった。

体や髪を乾かしてから、再びソファーに倒れ込んで目を閉じる。

お母さんにわたしの考えをどうやって伝えたらいいだろう。

そもそもわたしの言葉を聞いてくれるのだろうか?

不安な気持ちに押しつぶされそうになる。

 

 

──結局、8月7日の朝までわたしはずっと考え続けた。

 

これだけ考えても、どうすればいいのかは分からなかった。だけど、わたしがどうしたいのかは自分の中で考えをまとめることができた。

どうしても持っておきたいものだけをキャリーバックに詰め込む。

覚悟はまだ出来ていないけど、お母さんと会って話すしかない。

念入りに身支度を整えてからソファーに座ってじっと待つ。

そして午前9時を少し過ぎたときにケータイが鳴り始めた。

「もしもし」

「今、家の前についたと連絡があったわ。乗ってきなさい」

「……分かりました」

お母さんの声から何の感情も感じる取ることができない。それぐらい無機質で、冷たい声だった。

だけど、ただここで怯えているわけにはいかない。

「ふぅ……」

大きく息を吐いてからわたしは外に出た。

停まっていた車にキャリーバックを持って乗り込む。

「奥さまから言いつけられている場所に直接向かってよろしいですか?」

シートベルトをしたところで、どこかで見覚えのある女性の運転手に尋ねられる。

「……はい」

「かしこまりました」

車に乗っている間のことは全くと言っていいほど記憶に残っていない。気がついたときには目的地らしい場所に着いていた。

三階建ての一軒家、今まで来たことはないけれどなんとなく、ここをどういう目的で借りているかは察しがつく。

「到着しました」

「ありがとう」

お礼を言って車から降りる。

「すぅ……はぁ……」

大きく深呼吸をしてから、インターホンのボタンを押した。

「三階で待っているから上がってきなさい」

「は、はい」

ゆっくりと扉の方に歩いていく。

「お、お邪魔します……」

家の中に入ると、独特の匂いがする。どうやらわたしの予想は合っていたようだ。

おずおずと螺旋階段を上がっていく、一歩一歩階段を踏みしめるようにしていった。

「あっ……」

リビングらしき空間に出ると、お母さんと目が合う。

その鋭い眼差しに射すくめられて、言葉が出てこない。

「そこに座りなさい」

「は……はい」

掠れた声で返事をするのがやっとで、考えて来た言葉が全て吹き飛んでしまった。

透明なテーブルを挟んで、お母さんと向き合う。ただそうしているだけなのに汗が止まらない。

「あそこまで言っておいて、あなたをこうして呼びつけるのは本意ではない」

お母さんはゆっくりと目を閉じて、わたしに語りかけてくる。

「──好きにしなさいと、言ったけれど、今になって考えてみるとあれは失言だったわ」

運ばれてきた紅茶を一口飲んでからお母さんはこう続けた。

「親として責任を感じている部分もある。……だから、あなたにもう一度選択の権利を与えようと思うの」

「それって……」

「あなたが想像している通りよ。ここに戻ってくるのか、それとも今度こそ本当にこれと引き換えに親子の縁を切るのか、選びなさい」

アタッシュケースを、さっき紅茶を運んできたお手伝いさんがテーブルの上にそっと置いた。

「……」

つまり、再びお母さんの下に戻るか、手切れ金を受け取って縁を切るのか選べということみたいだ。

前みたいに駄々をこねて折衷案を引き出そうとすることは許さない、というようなお母さんの強い決意が伝わってきた。

頬を汗が伝う。自分の気持ちを伝えようと、必死で言葉を紡ごうとした。

「……お母さんお願いします。あと少しだけ、考えさせてください」

お母さんは無言でわたしをじっと見てくる。

「……わがまま言ってるのは分かってます。だけど今ここでどっちかなんて選べません!」

気がつくと涙で目の前がにじんでいた。

「──いいでしょう。だったら」



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chapter6

このchapterはchapter1から5の続きです。未読の方はぜひそちらからどうぞ


1

9月の中頃までわたしが結論を出すのを待つ代わりにそこまでの期間中、お母さんは家庭教師から土曜、日曜に2時間ずつ授業を受けるように条件を出した。

理由を尋ねると、わたしの様子を見るためだという。

「……分かりました」

当然わたしは頷くしかなく、早速次の土曜日の昼前に恭子さんがやってきたのだ。

「さあ、ビシバシいくわよ」

山のようなテキストが机の上に置かれる。

「ひぃっ……」

これが毎週続くのかと思うとさすがにしんどい。

 

「──今日はここまでにしましょうか」

「……はい」

授業が終わった後も、恭子さんはなかなか帰ろうとしなかった。

「分かっていると思うけど、おね……ごほん。勉強のこと以外も任せられてるから、今までみたいにだらけた生活は許さないわ。分かった?」

「……分かったんでそろそろ帰ってください」

わたしが恭子さんを苦手な理由は授業が厳しいのと、もうひとつある。

それはときおりわたしを見る表情が怖いことだ。

怖いといってもにらみつけられるとかではなく、恍惚とした眼差しでわたしを見ていることがあって、何回か身の危険を感じることがあった。

「あら、そんなこと言っていいのかしら」

「……」

お母さんと恭子さんは連絡を取り合っているだろうから、そうこられると困ってしまう。

「ん?」

急にケータイが鳴り始める。誰からか見てみると真央からだった。

「もしもし」

「ねえ百合、明日の夜花火見に行こうよ」

「花火?」

「うん。神尾浜神社の納涼花火大会、今年は明日みたいだから」

「ふうん」

そういえば一度だけ病院から花火を見たことがある。

「予定空けといてね、じゃあ」

そう言って真央は一方的に電話を切った。

「……行くって言ってないんだけど」

短く息を吐いて、ソファーに座る。

「あら、デートのお誘い? 相手はどんな子なの?」

恭子さんはじっとわたしの方を見てきた。

「……別に誰でもいいじゃないですか」

「変わったわね、百合」

そう言うと恭子さんは、わたしの隣に座ってきて、じりじりと距離を詰めてくる。

「な、何ですか」

「前はもっと従順だったのに自分がこうしたいってはっきり言うようになったし、それに」

「それに?」

「やっぱり親子だからか、本当に似てきたわ。ふとしたときの表情だったり、仕草だったり」

「……」

「うふふ、そんな顔よりも普段の澄ました顔の方が似合うわ。それじゃ」

嫌な言葉を残して恭子さんは帰っていった。

 

ソファーに横たわって、自分のこれからを考える。

がらにもなく感情的になって懇願して、決断の期限を延ばしてもらったところまではいいのだけれど、正直なところ決断できる自信がない。

お母さんの元に戻っても、すぐに限界が来てしまうだろうし、かといって縁を切るっていうのもわたしには受け入れられない。

わがままなんだろうけど、どっちも選びたくない。それがわたしの偽らざる本心なんだ。

──わたしが本当に小さいころ、お母さんはいつもわたしに笑顔を向けてくれていた。確かに優しかったという記憶がかすかにある。

他の人がお母さんを評するときに必ずといっていいほど出てくる優しい人という言葉はきっと昔のお母さんのことなんだろう。

ある日、お母さんはどこかへと出かけて行しまって……戻ってきたと思ったら、突然お母さんに連れられて転校することになった。

 

転校してから中学生になったときまでのことは、正直思い出したくない。

誰一人として知っている人がいない学校で、今までとは比べものにならないような授業を受けさせられ、家に帰ってきたら、やりたくない習い事や家庭教師が待っている。

ただそれが繰り返されるだけの日々が続いた。

あるとき、クラスメイトから誘われたから遊びに行きたいと、お母さんに言ったことがある。

普段頑張っているんだし、きっと許してくれるだろと思っていた。

「あなたはただお母さんの言うことだけをしなさい。それ以外のことは何も必要ないわ」

「でも……」

「私の言うことが聞けないなら、あなたなんていらない」

その言葉を聞いてからわたしは、何かをしたいとお母さんに言うことはなくなった。

それでも、いい結果を出せばお母さんはわたしを褒めてくれて、そのときだけわたしは心が安らいだ。

「よく頑張ったわね百合。次はもっといい結果を期待してるわ」

その言葉に応えたい、いや応えなければいけないとわたしは必死に努力をした。

もっと、もっと頑張ればお母さんは前みたいに笑いかけてくれる。そう信じていた。

だけど、中学受験の前日にわたしは家で突然気を失ってしまった。次に気がついたときには病院のベッドの上にいた。

結局入学試験を受けることはできず、普通の中学校に入ることになったのだけれど……。

今思えば、これがわたしとお母さんの間に決定的な亀裂を産んだのかもしれない。

 

「……どうしよう」

家を出るときに覚悟はしていた。だけど、考え始めるとやっぱり不安になってしまう。

考える期間をもらったのにこうしていたら意味がない。

けど、今日考えるのはここまでにしよう。色々と前のことを思い出していたら、頭が疲れてきたし。

やってきた眠気を逃さないように、わたしはゆっくりと目を閉じた。

わたしは眠りに落ちる直前の浮かんでいるような感覚が何よりも好きだ。

眠っているときは、悩んでいることを忘れられるから。

いっそ眠りが覚めなければいいのに、わたしはいつもそう思ってしまう。

「う……ん」

チャイムの音で目が覚める。

ソファーからのろのろと起き上がって、応対に出ると、恭子さんが立っていた。

「……どうしたんですか」

「どうしたんですかじゃなくて、土曜と日曜は授業日だって言われてると思うんだけど」

呆れた、といった顔をしながら恭子さんは家の中に入ってくる。

「さあ、今日もやるわよ」

どうしてそんなに教える側がやる気なのだろう、ただでさえないやる気がさらになくなる。

「ふわぁ……」

「とりあえず顔を洗って来なさい。授業はそれからでいいから」

「……はい」

冷たい水で顔を洗っても、気だるさが消えることはなかった。

2

「百合、あなた全然身が入ってないわね」

授業が始まっても全然頭が回らない。それを恭子さんにあっさり見抜かれた。

「……すみません」

「いいわ。少し授業は置いておいて、休憩しましょう」

「え?」

思わず耳を疑う。

「休憩といっても、あなたの目を覚ますためのお説教よ」

そう言うと恭子さんはわたしに断りもなく、冷蔵庫から水が入ったペットボトルを2本持ってきた。

「で、あなたは何を悩んでいるのかしら?」

恭子さんはどうやらわたしがお母さんにされた話を知っているらしい。そんな口ぶりでわたしに聞いてきた。

「……お母さんに言われたことについて、どうすればいいのかです」

「あなたが今考えるべきなのは、現実的に考えたときにどうか、それだけよ」

「分かってます。そんなこと」

恭子さんにわざわざ言われなくても、わたしはここ最近ずっとそのことだけを考えている。

「いや、あなたはまだ問題とちゃんと向き合ってないわ。どうしてそんな厳しいことを言われたのか、ちゃんと考えた?」

「……」

「どちらも選べないのだったらどうするべきか、よく考えて自分の口で伝えないと、次はないわよ」

まさか恭子さんがわたしの心配をするなんて何か裏があるような気がする。一体どうしたのだろう。

「だいぶ目が覚めてきたみたいね、じゃあ授業を始めましょう」

「ひっ……」

にやりと笑った恭子さんを見て、わたしは背筋が凍るかと思った。

「じゃあ、今日はここまでにしましょう」

「はぁ……」

恭子さんが帰るのを見送ると、疲れがどっと押し寄せてくる。

昼寝には少し遅い時間。しかし、わたしの体は勝手にソファーへと向かっていた。

「う……ん」

体を伸ばしてから目を閉じる。

ふうっと体が浮き上がるような感覚がしたと思ったら、わたしはいつの間に波打ち際に立っていた。

夢を見ているのだろう。この光景が現実のものでないことにはすぐ気がついた。

一定のリズムで波の音が聞こえる。せっかくだから少し散歩することにした。

歩くたびに足跡が残るけど、波があっという間にかき消してしまう。

まるで最初からわたしが歩いてきた足跡なんてなかったかのような気がした。

「えっ……?」

少し遠くに車いすが見える。だけど、わたしが驚いたのは車いすが波打ち際にあったということではなく、その車いすに見覚えがあったからだ。

近づいてよく見ても間違いなく、わたしの知っているものだった。

小さなオレンジ色のくまのストラップがついている車いすは、かつて毎日のように目にしていたものだ。だけど、もう二度と見るはずがないのにいったいどうしてここに?

「百合はここにいちゃダメだよ」

「……!?」

声がした方に振り返る。だけど、その声の主はどこにもいなかった。

「早く戻らないと、ほら」

見えない何かに背中を強く押されて、急に目の前が真っ暗になる。

 

「いたっ……」

目が覚めると、見慣れた家の天井が視界に入った。

どうやらソファーから落ちて背中を打ったらしい。

体を起こしてソファーに座り直したところでケータイが鳴り始めた。

「もしもし」

「昨日のこと、覚えてる?」

「覚えてるけど」

「じゃあ、一緒に花火大会行こうよ」

電話がかかってきた時点で、なんとなく想像はついていたけどやっぱり花火大会のことか。

「……人凄いだろうし、気が進まない」

「やっぱり……わたしと行くの嫌?」

そんな露骨に落ち込んだ声を聞かされると、なんだか罪悪感を感じる。

「分かったから……」

「本当? じゃあ5時に呼びに行くね、じゃ」

そう言うと真央はわたしの返事を待たずに電話を切った。

「……」

どうやら真央の思惑に乗せられてしまったらしい。

しょうがないから、シャワー浴びてから出かける準備をすることにした。

「ふぅ……」

いつもより熱めのシャワーを浴びて体と髪を乾かしたあと、クローゼットから浴衣を引っ張り出して着替える。

最後に着たのは四年前なのに、サイズがピッタリで悲しくなってきた。

最後にオレンジのヘアピンをつけてちょうど準備が整ったところで、ちょうどチャイムが鳴る。玄関に出ていくと真央も浴衣を着ていた。

「えっ、どうして浴衣着てるの?」

「どうしてって、真央も着てるじゃん。わたしは着ちゃいけないわけ?」

わたしだって浴衣ぐらい着るのに。

「いやいやいやびっくりしただけだから、すっごい似合ってるし……その、本当に可愛いよ」

「はいはい、早く行くよ」

真央らしくない妙な褒め言葉を聞き流して、バス停に向かう。

 

「混んできたね」

「うん」

目的地に近づいて行くたび、浴衣姿の人が次々と乗り込んできて、バスの中が相当混んでくる。

「次は神尾浜神社、神尾浜神社です。お降りの方はお知らせください」

「混んでるし最後に降りよ」

「そうだね」

バスから降りるときに、ふと車内で一人佇む浴衣姿の少女が気になった。

その姿がふと過去の自分と重なる。

「百合、どうかしたの?」

「なんでもない」

その少女を乗せてバスは走りだしてゆく。バスを見送ってからわたしは真央のあとを追った。

 

参道は出店やそれに集まる人達の活気で満ち溢れていた。

「ねえ、どこ並ぶ?」

「真央の行きたいとこでいいよ」

「うーん。じゃありんご飴買いに行こ」

真央に引っ張られるようにして列に並び、りんご飴を買う。

りんご飴を食べながら、ゆっくりと賑わいの中を歩く。

「あっ、射的やりたい」

「いいんじゃない」

ちょうど先の家族連れが終わったので、待たずにやることができた。

「もう、全然当たらない」

ああでもない、こうでもないとはしゃぐ真央を眺めながらりんご飴を食べ進める。

「ちゃんと狙ってる?」

「もう、そこまで言うなら何か取ってよ、ほら」

押しつけてくるように真央はわたしに空気銃を手渡してきた。

「一発しかないし、取れなくても文句言わないでよ」

ゲームセンターによく行っていた頃でも、ガンシューティング系は触ったことがないし、実は自信はあまりない。

「……ふう」

息を短く吐いて、狙いやすそうな近くの箱に狙いを定める。それからゆっくりと引き金を引いた。

「あっ!」

真央が声をあげる。箱の端に弾が当たり、回りながら箱が下に落ちた。

「はいおめでとう」

駄菓子の詰め合わせが入ったビニール袋を手渡される。

「百合すごいね」

「たまたま上手く落ちただけ、それよりこれあげる」

「え、でも」

「だってお金出したの真央だし」

「そうだけど、落としたの百合だよ」

「遠慮しなくていいから、ほら」

真央の手を取ってビニール袋を握らせた。

「ありがと……」

 

「で、次はどうしたいの?」

次はどこにするのか真央に尋ねる。

「じゃあ、あそこのイカ焼きは?」

「いいんじゃない」

イカ焼きの屋台はかなり混んでいて、買うまでに時間がかかった。

「二人で分けよっか?」

「うん」

りんご飴を食べたばっかりで、あまりお腹が減っているわけでもないので真央の提案に頷く。

「どうやって分けよっか」

会計を済ませた後、空いているベンチに移動して座った。

「先に食べて、わたしそんなにたくさんいらないし」

「でも、それだと冷めちゃうから……あっそうだ、百合も一緒に左右から食べればいいんじゃない?」

「えぇ……それはちょっと」

さすがにそれは恥ずかしいし、周りの目が気になる。

「一緒に食べた方が絶対美味しいって」

「はいはい分かったから」

同時にイカ焼きにかじりつく。

「うん、やっぱり美味しい」

満足げに笑う真央を見て、わたしも思わず笑ってしまった。

その後も綿菓子を買ったり、水風船を釣ったりして、真央色々な屋台を回った。

「そろそろ花火打ち上がる時間だし行こっか」

「うん」

人混みをかき分けるようにして、わたし達は花火大会の会場の方に向かった。

「あっ、そろそろかな」

アナウンスでカウントダウンが始まる。ゼロの声と同時に花火が打ち上がった。

「……綺麗だねやっぱり」

「うん」

空に色とりどりの花が咲く。

やっぱり会場で見た方がよりはっきり見える。

だけど、わたしは病院から見たあの花火の方がなぜだか綺麗に感じていた。

きっと、今日と打ち上がっている花火はさほど変わらないはずなのにどうしてだろう。

「うわぁ……すごい」

最後のスターマインに真央が歓声をあげた。

 

「帰ろっか」

「うん……なんだか名残惜しいね」

帰りのバスは特に会話もなく、最寄りのバス停まで戻ってきた。

「ねえ百合、大丈夫?」

「?」

急にどうしたんだろう。さっきまでの浮かれた感じではなく、真面目な顔をして真央は切り出してきた。

「最近何か悩んでるみたいだけど、何かあったの?」

「え?」

「今日だって途中から私のことなんて眼中に無いみたいだし」

拗ねたような顔で真央は言う。

「……真央に話してどうにかなるようなことじゃないから」

「でも」

そんなに不安そうな表情をされると、黙っているのもなんだか良くない気がしてくる。

「少し長くなるけど、それでもいい?」

わたしは思い切って、真央にこれまでのことを話すことにした。

煌々と輝く月の下で、わたし達は肩を並べて歩いていた。

「そもそもわたしがこっちに戻って来たのはね、家出したからなんだよ実は」

「え……?」

真央は心底驚いた、という表情をする。

「真央には分からないかもしれないけど、お母さんと仲が良くない子供だっているってこと」

「そんな……いったいどうして?」

「どうしてだろ、よく分からない」

本当は分かってる。だけど、真琴さんと本当に仲が良い真央に話しても、きっとわたしの気持ちは分からない気がしたから、わたしはあえて嘘をついた。

「それで、まだここに家があるの知ってたし、色々と都合がいいから戻ってきたの」

「……そうだったんだ」

「そう。それで、ずっと連絡を取ってなかったんだけど、この前久々に電話がお母さんからかかってきて、会ってきたんだけど」

「……だけど?」

「お母さんのとこに戻るか、親子の縁を切るか選べって言われちゃったんだよね」

出来るだけ暗いトーンにならないように、笑顔を作ってわたしはこう言った。

「…………」

真央の足がぴたりと止まる。

「どうして真央がそんな顔するの」

わたしは今にも真央の顔を見ることが出来ずに目を思わず逸らしてしまった。

「そう……だよね、ごめん」

「ほら、遅くなるから帰ろ」

真央を促して家の前まで歩く。

「じゃあね」

「……うん」

真央が家に入るのを確認してから、わたしも家に入る。

浴衣を脱いでシャワーを浴びた後、わたしはソファーに倒れ込んだ。

「はぁ……」

やっぱり、真央に話すべきじゃなかった。

今になって後悔が押し寄せてくる。

自分の悩みを誰かに話したって、ろくなことにならないってこと分かっていたはずなのに。

……今日はもう寝よう。とりあえず今度真央と会ったときになんて言うか考えておかないと。

何だか夢を見そうな感じがしたのに、わたしは夢を見ることはなかった。

 

3

「……百合、大丈夫かな」

学校で文化祭に向けた練習をしていても全然身が入らない。

何かあるたびに百合の顔がちらついて、心が乱される。

花火を見に行った次の日、百合から電話がかかってきた。

……昨日帰りに話したことは忘れてって、あんなこと言われて忘れられる訳が無い。

まさか百合が戻ってきたことと、家の事情にそんな理由があったなんて思いもしなかった。

 

確かに百合が言った通り、私には聞いたところでどうしたらいいのか分からない。

それがどうしようもなく情けなくて、もどかしくて自分が嫌になる。

「あ、あの……桜井さん」

教室に入ってすぐ、椎名さんに声をかけられた。

「どうしたの?」

「朝倉さん、劇に出て……くれそうです?」

「一応私からも言ったんだけどね、面倒だって言われちゃったしダメみたい」

「うむむ……桜井さんをもってしても」

椎名さんは俯いて考え込んでしまった。

夏休みが終わったらすぐ文化祭が始まるというのに、まだ脚本が完成していないらしいし大丈夫だろうか。

百合から返事が来てないかチェックする。

「はぁ……」

やっぱり返事は来ていなかった。

百合と最後に話したのは花火を見にいった次の日が最後で、そこからもう10日になる。

ときおりメールの返事は帰ってくるものの、電話をかけても全然出てくれないし不安になるばかりで……。

「ねえシーナ先生脚本は完成した?」

「シーナじゃなくて椎名って、ちゃんと発音しないと外国人みたいじゃん。あと先生呼びはやめろし」

いつに間にか橘さんと椎名さんが話し始めていた。

「っていうか綾子は、王子様役やってくれそうな子見つかったの?」

「いやー実は一人やってもいいって人見つけたんだけど、やっぱりあたしは百合ちゃんがいいなあって思うんだよね」

「うーん……でも桜井さんが頼んでダメだったらもう無理じゃ……」

考え込む二人を見て、私は前から気になっていたことを思い出した。

「ねえ椎名さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいい?」

「な、何でしょう」

「王子様役なのにどうして百合が候補に挙がったのかなーって」

「そ、それはその……」

眼鏡の奥の瞳が不安げに揺れる。

「実はあたしが提案したの」

答えに困っている椎名さんを助けるように、横から橘さんが私の質問に答えた。

「えっそうなの?」

「王子様役ってやっぱり顔立ちが整ってる人にやってもらった方がいいよねって話は前から出てたんだよねー」

それで、と橘さんは椎名さんの頭を軽くぽんぽんと叩いて私に視線を向けてきた。

「シーナ先生がうちのクラスの男子にあんまりいいのいないってぼやいてたから、じゃあ百合ちゃんはどうって聞いてみたら、急に乗り気になってさー。やっぱり趣味だか──」

「それ以上は本当に恥ずかしいからやめて……」

椎名さんは顔を真っ赤にしながらぽかぽかと橘さんを叩く。

「あはは……二人は本当に仲いいね」

お世辞じゃなく、二人の様子を見て本当に私はそう思った。

「そんなことないって〜」

椎名さんが照れながら答えたところで、不意にがらりと、教室の扉が開けられる音がする。

「あっ」

思わず声が出てしまう。その理由はとても簡単で、百合がそこにいたからだった。

「……」

無言で私の方に百合は近づいてくる。

「ど、どうしたの」

「鍵、前に行ったとこの鍵持ってるでしょ、貸して」

「う、うん。いいけど」

どうしたのだろう、百合がわざわざ夏休みに学校に来るなんて何かあったのだろうか。

「どうしたの? わざわざ学校に来るなんて」

鍵を手渡しながら尋ねる。

「自分の担当の分の大道具、作りに来ただけ」

「そっか……」

この前のことを聞こうと思ってたのに、いざ百合を目の前にするとどうやって聞いたらいいのか分からなくなる。

「百合ちゃんちょっと待って!」

そのまま教室を出ようとする百合を橘さんが呼び止めた。

「あのさ、劇のこと考えてくれた?」

「……面倒だし」

顔をこっちに向けることなく、そのまま百合は教室を出ていった。

「うーん、やっぱりダメか〜」

橘さんは少し恥ずかしそうに笑う。

「あ、綾子……予約した時間そろそろだし行かないと」

「あっそうだった! じゃあ桜井さんまたね」

「うん、じゃあね」

二人は何か用事があるようで、慌てて教室から出ていった。

 

「……私もそろそろ帰ろうかな」

今日はみんな続々と帰っているし、一人で出来ることはもうなさそう。

鍵をどうするか聞かなきゃいけないし、やっぱり百合の様子が気になるから、帰る前に見に行くことにした。

階段を上ってうちのクラスが文化祭の準備に借りている教室に向かう。

扉を開けると百合がちらりと私の方を見て、すぐに目線を床の方に戻した。

「ねえ百合、私そろそろ帰ろうと思うけど、鍵どうする?」

「……これで最後だから」

「じゃあここ待ってるね」

百合は手際よくダンボールをカッターナイフで切っていく。床を飛びまわるように移動して、気がつくと、大きなダンボールがお城の形になっていった。

「……百合って小学生のときの図工の時間からこういうの作るの上手だったよね、夏休みの宿題の工作とかも本当によく出来てたよね」

私は小さい子に昔ばなしを読み聞かせるような口調で百合に語りかける。

「そんな前のこと、覚えてない」

「そう? 私は覚えてるけどなあ色んなこと」

「……ふうん」

百合は短く息を吐いて今度は教室においてあった絵の具セットを持ってきた。設計図が頭の中にあるみたいに迷いなく、絵の具を次々とパレットに出して、筆やハケを使って次々と塗っていく。

久々に見る百合の真剣な眼差し。やっぱりぼーっとしてるときよりもこういうときの百合の方が私は好きみたいだ。

 

でも、だからこそ、言わないといけない。せっかくこうやって百合と直接話せるチャンスが来たから。

「あのね、百合。この前私に話してくれたこと、忘れてって言ったけど、やっぱり無理。忘れられない」

「……」

一瞬手が止まる。でも、すぐ何事もなかったみたいに百合は手を動かし始めた。

張り詰めた空気に次の言葉を踏みとどまりそうになる。だけど、直接私の声で伝えられる今ならきっと、百合も受け止めてくれるはず。理由も根拠もないけどそんな気がした。

「私には確かにどうしようもできないけど、ただ一人で全部かんがえたり、悩んだりするんじゃなくて、これからも話して」

「……」

「迷惑なお節介かもしれないけど、私は百合が思っている以上に百合のこと大事だって思ってるよ」

気持ちが溢れて涙が出そうになるのを必死にこらえる。今泣いたらきっと私の気持ちは伝わらない、かえって百合を心配させてしまうだろうから。

色を塗り終えたのだろう。百合がおもむろに筆とパレットを教室の水道で洗い始めた。

「……終わった。帰ろ」

「うん」

百合の言葉に頷く。

「はい鍵」

二人で教室を出る。私が鍵をかけたところで百合は呟くように言った。

「ありがと、心配してくれて」

「……ううん」

百合のふっと気が緩んだような表情に、私も胸をなで下ろす。

 

 

「百合、着いたよ」

「……うん」

電車に乗っている間、百合は私の肩に寄りかかって眠っていた。

まだ目がちゃんと覚めていないのか、百合は電車から降りるときに転びそうになる。

「大丈夫?」

「……平気」

「顔、赤いけど熱でもあるんじゃない?」

「大丈夫だから」

家に近づいていくたびに、百合の息が荒くなっていく。目も潤んでいて、話していてもすっごくだるそうだ。

「とりあえずベットで横になったら?」

「大丈夫……」

家の前に着く。こんなに体調の悪そうな百合を一人にするのは心配だし、私も百合の家にあがらせてもらうことにした。

「ほら、肩貸して、無理しないの。……やっぱり熱あるでしょ、とりあえずベットまで運んであげるから」

「いいって……ちょっと疲れただけだし、そこのソファーで寝るから」

「ダメ、ちゃんとベットに寝ないと。二階にあるんだったよね?」

渋る百合を半分引きずるようにして、階段を上る。

「……ここ一番手前の部屋」

「うん、分かった」

ドアを開けると、広さは六畳ぐらいで、部屋の真ん中にシングルベッドと、隅に棚が置いてあるだけだった。

「よいしょ……っと、体温計持ってくるから熱測って」

百合をベッドに寝かせてからすぐに、下に降りて、体温計を持っていく。

「はい、パジャマとかってそこの棚に入ってる?」

「うん」

「じゃあ、蒸しタオル持ってくるから体拭いて着替えて、あと喉とか乾いてない?」

「……水、冷蔵庫にあるから」

「うん、分かった」

タオルを水で濡らした後、レンジで軽く温めて蒸しタオルを準備する。それからお盆の上にペットボトルとグラス、そして蒸しタオルを載せて急いで階段を上る。

「お待たせ、どうだった?」

「……38.0度」

「大丈夫?」

「……暑いだけ、今クーラーつけたし寝てたら大丈夫」

「分かった。何かして欲しいことがあったら遠慮なく言ってね」

横になって少し落ち着いたみたいで安心する。

「……背中だけ拭いて、手届かないし」

「う……うん分かった」

百合はベッドの上で制服を脱いで、下着姿になる。今までも何回も体育の授業とかで着替えるときに見たことがある光景なのに、変な気分になってしまう。

「後ろ向いてて、上脱ぐから」

「あっ、うんごめんね」

慌てて後ろを向く。どうしてだろう、何かやましいことをするわけじゃないのに、急に緊張してきた。

「いいよ」

百合の声を確認してからゆっくりと振り返る。

華奢で小さい背中。私が触れたら傷つけてしまいそうなほど透き通った肌が同じ女の子として、本当に羨ましい。

「拭くよ」

声をかけてからそっとタオルを背中に当てる。

「……ど、どう? 熱くない?」

「大丈夫」

恐る恐る、百合の背中を吹き進めていく。

ときおりくすぐったそうに百合の体がぴくりと動くのが本当に心臓に悪い。

「……終わったよ」

「ありがと」

「ううん、お礼なんて別にいいよ」

「……なんか眠くなってきた」

「うん早く寝たほうがいいよ。寝るのが一番の薬になるっていうし」

かすかに頷くと百合はまぶたを閉じる。そうするとすぐに寝息を立て始めた。

やっぱり、疲れから体調を崩したんだろう。やっぱりあのことで、あんまり眠れていなかったのかな。

想像すればするほど不安になってしまう。

「……いい夢見てくれてたらいいな」

体調が悪いときは嫌な夢を見やすいらしいって誰から聞いたことがある。

百合の寝顔はとっても安らかで、うなされているとかはひとまずなさそう。

百合が脱いだ制服とかを下の階のハンガーにかけたり、洗濯機で洗って干す。

「あれ?」

ベッドルームの前まで戻ったときに、ふと突き当たりにある部屋のことが気になった。

どうしてかというと、ベッドルームの隣の部屋は開けっぱなしになってるのに、突き当たりの部屋はドアが閉められているからだった。

本人は気づいていないかもしれないけど、百合はドアを開けっぱなしにする癖がある。

もしかしたら、あの部屋に何かあるのかな?

そのドアに吸い寄せられるようなものを感じる。ドアノブにかけようとした手が、寸前のところで止まる。

勝手に開けていいのかな、という自制心が好奇心を押し止める。

本当に見られたくないものがある部屋なら、鍵がかかっているだろうし、それにたまたまこの部屋のドアを閉めただけかもしれない。

ちょっと覗くだけなら、と軽い気持ちでそっとドアノブに手をかけて回してみる。

軽い音がした後、なんの抵抗もなく、すんなりとドアが開いた。

 

中はどうやら物置部屋として使われてるみたいだった。いくつかのダンボール箱や筒状に丸められた紙とかが無造作に床に置かれている。

「……これって」

窓際に置かれた棚の上に綺麗に包装された袋や箱が4つ並べられている。

プレゼントかな、一体誰へのだろう。

プレゼントの一つを手に取ろうとしたときに、横に伏せられた写真立てがあることに気がついた。

「……っ」

自分の心臓の鼓動がはっきりと分かる。

百合は写真に写るのが嫌いなのに、どうして写真立てがあるんだろう。

もしかしたら、百合が写っているわけじゃなくて、好きな人の写真なのかな?

意を決して、ゆっくりと写真立てに飾られた写真を見る。

 

「…………」

この写真を撮ったのは病室みたいだった。今から4年前の8月4日と日付が入っている。

窓際で眩しいぐらいの笑顔の百合。

そしてベットの上で穏やかに微笑む女性。

私達よりも10歳ぐらい年上だろうか、文字通り大人で、とっても綺麗な人だった。

「あっ……」

ずきりと鈍い痛みが胸に走る。

百合が最近するようになったあのオレンジ色のヘアピンがその女性の前髪に飾られていた。

ママがあのヘアピンは友達からもらったって言っていたけど、写真の百合の様子からは友達、というよりもむしろ──

 

私は念入りに元あったように写真を戻してから、逃げ出すように部屋を出た。

 

心のどこかで想像していたことが、いざ目の前に現実として現れることがこんなにも辛いなんて、私は分かっていなかったんだ。

見てはいけないものを見てしまった罪悪感や、後悔や、今までに感じたことのないような嫉妬心でどうにかなってしまいそうだった。

でもこうしてる場合じゃない。早く百合のところに戻らないと。

何度も大きく深呼吸して、無理やり胸の鼓動を落ち着ける。

ドアをゆっくりと閉めて、私はベッドルームに戻った。

4

百合の体調はその日のうちにかなりよくなって、次の日には普段の百合に戻っていた。

「じゃあ、私家に戻るね」

「この恩はいつか返すから。……真央が看病してくれて本当に助かった」

「百合らしくないよ、そんな大げさに言うなんて」

思わず冗談っぽく返してしまったけど、本当はすごく嬉しかった。だけど、それ以上に後ろめたい気持ちで、百合の顔をまともに見れなかった。

 

「はぁ……」

それからの受験勉強と文化祭の準備の忙しさがなければきっと、私は押しつぶされていた。

考えてみれば当たり前のことなのに、どうして不用意なことをしてしまったんだろう。どう謝ったらいいのか分からない。

好奇心でつい見てしまったって、それですまないだろうし、かと言って黙っているのはもっとよくないと思うし。

それ以上に、自分の気持ちを伝えることが迷惑なんじゃないか、と思うと行き場のない感情が湧いてくる。

「真央、今大丈夫?」

「うん」

夏休み最後の土曜の朝、自分の部屋で机に向かっているときに、ドアがノックされた。

ママには百合の家で見たことを隠さず全部話したけど、そっか、と短く言っただけでそれ以上何も言ってはくれなかった。

「今日の夕方にお客さんが来ること、言っておこうと思って」

「お客さん?」

「そう。それで、もしママが帰って来るよりも早くその人が来たら応対をお願いね」

「う、うん」

「話はそれだけ、じゃあ行ってくるね」

そう言うとママは急いで仕事に行ってしまった。

お客さんって誰なんだろう。疑問に思いながらも、私は問題集とにらめっこしていた。

 

「ふう……お腹減った」

気がついたらもう午後3時を回っていたし、遅めの昼ごはんを食べようと下へと降りる。

「これでいっか」

適当なカップラーメンを食べ終わったあと、ぼんやりテレビを見ているとインターホンが鳴らされた。

「お母さんが言ってたお客さんかな?」

テレビを消して、応対に行く。

「はい」

「桜井真琴さんに呼ばれて来ました」

モニターに映った女性は、大きな麦わら帽子に白いワンピースを着ていた。

「あっ、はい分かりました」

急いで玄関に向かって鍵を開ける。

「すみません、まだママは帰ってきてないんで、中で待って貰えますか」

「真琴から聞いてるわ、今仕事が忙しい時期だって。それにあなたと少し話してみたかったの」

お邪魔します、と言ってからゆっくりとその女性は中に入ってきた。

 

「……」

椅子に座ってもらったのはいいけど、どうすればいいんだろう。

「あの、何か飲まれますか?」

「紅茶とか貰えるかしら」

「は、はい」

何だろう、ただ話しているだけですごく緊張してしまうような風格を感じる。

「ど、どうぞ」

おずおずと紅茶を差し出す。

「ありがとう」

今までの無表情からふっと崩れた微笑みに、思わずドキッとしてしまう。

きっとこの人、今まで色んな人を惑わして来たんだろうなあと、私はなんとなく思った。

少し雰囲気が緩んだところで、聞こうとおもっていたことを切り出す。

「あの、もしかして百合……ちゃんのお母さんですか」

「ええ、そうよ」

玄関で顔を見たときに百合に似てるって思ったらやっぱりそうだった。

「前から一度あなたにお礼を言いたかったの。色々と百合を助けてくれてるみたいで」

「いえ……そんなお礼なんて」

「本当はわたしがもっとしっかり見てあげなければいけないんだけど、色々事情があってね」

事情、それはやっぱり百合とのことなんだろう。

「……百合ちゃんから聞いたんですけど、家出してるって本当なんですか」

私の質問に紅茶を一口飲んでから、百合のお母さんは答えた。

「ええ、本当よ。でも、家出といってもわたしの元を離れて一人暮らしをしてるってだけ、生活費もあの家もわたしが持ってるわ」

「……そうなんですか」

「真琴には言ったことがあるけど、わたし百合のことが苦手なの。親がこんなこと言っていいか分からないけどね」

「……」

何て言ったらいいのか言葉が出てこない。

「決してあの子が可愛くないという訳じゃないの。ただわたしが真琴みたいにちゃんとした母親になれなかった、それだけのことよ」

そう言って百合のお母さんはまた紅茶を一口飲んだ。

「わたしからも質問していいかしら」

「は、はい」

「あなたは普段料理とかするの?」

「それなりには……ママが仕事で忙しいときは私がやってます」

「高校を卒業したらどうするつもり?」

「一応大学に進学するつもりです」

こんなこと聞いてどうするんだろう。質問の意図がよく分からない。

「そう。百合は大学に行くってあなたには言ったのかしら?」

「前に聞いたときは、どうだろって言って具体的には教えてくれなかったです」

「分かったわありがとう」

百合のお母さんがそう答えたところで、玄関の鍵が開けられる音がした。

「ごめんねー待たせちゃって」

「ママ、おかえり」

「うん、ただいま。ちょっと待っててね、着替えて来るから」

ママは急いで奥の部屋に入っていった。

「さっきわたしと話したことは百合には言わないでね、秘密よ」

「は、はい」

「そうしてもらえると助かるわ」

百合のお母さんは安心した、といった表情を浮かべる。

「お待たせ、ごめんね。真央、ちょっと」

ママが戻って来るなり、私を手招きして呼んだ。

「どうしたの?」

「ごめんね、二人きりで話したいから、ちょっと席外して」

「う……うん」

きっと私には聞かせたくない話なんだろう。本当はものすごく聞きたかったけど、大人しく部屋に戻ることにした。

 

自分の部屋に戻ってベッドに倒れ込む。

「何の話、してるんだろ」

気になるけど、それを確かめる方法はない。

「もう夕方かあ」

ケータイを開いて、まだ読んでなかったものに返信をしたりしているうちに結構時間が経っていた。

喉乾いたし、下に飲み物を取りに行こうとベッドから起き上がる。

ゆっくりと足音をたてないように下に降りると、ちょうどママと百合のお母さんがリビングから出てきた。

「もう話は済んだの?」

「うん、本当は夕ご飯一緒に食べたかったんだけどね」

「……外に車待たせてるから、ごめんなさいね」

「ううん。いいの、気をつけてね」

「ええ、それじゃあ」

そう言うと、百合のお母さんは帰っていった。

「あ〜久々に話すと何だか緊張しちゃった」

「そうなの?」

「うーん、どうしても高校生のときみたいな距離感じゃ話せないかなあ」

「……そういうものなんだ」

「まあ、年齢も立場も違うからしょうがないんだけど、少し寂しいな」

ママの横顔を見て、私も思わず悲しい気分になる。

「どうしても、ずっと離れていると変わっちゃうものだからね。だから真央は」

「ひゃっ」

ママに横から抱きつかれる。

「頑張って百合ちゃんの隣にいられるようにね」

「……うん」

ママの言葉に私は深く頷いた。

 



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chapter7

このchapterはchapter1~6の続きです。未読の方はぜひそちらを先に読んでいただくよう、お願いします。


1

夏休みが終わり、校内は目前に迫った文化祭に向けて色めき立っている。

わたしのクラスでもそれは例外ではなく、始業式があった日から毎日のように遅くまで、多くの生徒が学校に残って準備に勤しんでいるらしい。まあ、わたしはその多くの生徒の中には入っていないのだけど。

今日は文化祭本番が3日後に迫った金曜日。だけど今日もわたしは、授業が終わるといつも通りさっさと教室を出た。

「疲れた……」

朝起きて授業を受けた。ただそれだけなのに、体が重い。

9月になっても照りつける日差しと、まだ、体が朝起きるリズムになっていないのがきっと原因だろう。

朝の番組気象予報士が言うには、まだ1週間はこの暑さが続くらしい。

「……そうだ」

久々にあのポニーテールのお姉さんがいるコンビニで、アイスとかを買って帰ろう。

少し遠回りになるけど、その価値はあるし。

そんなことを考えながら、わたしは電車に揺られていた。

扇子で顔と胸元を仰ぎながら、わたしは例のコンビニに入っていった。

「あっ」

いた。陳列の作業をしているあの人、間違いない。

「いらっしゃいませー」

思わず会釈を返した。マニュアル通りの言葉なのに、嬉しい気分になる。

クーラーがよく効いた店内で、ゆっくりと買って帰るものを選ぶ。

この前みたいに重いものを買いすぎないように気をつけた結果、カゴの中がアイスばっかりになってしまったけど、まあいいだろう。

「これ、お願いします」

さっきの店員の人がいるレジにカゴを置いた。

「はーい」

この前ネームプレートで名前は確認した。この人松波(まつなみ)さんって言うんだよね、うん覚えた。やっぱり下の名前とか気になるし、直接聞いてみたいけど、どうしたものか。

そんなことを考えながら、わたしの視線が精算する彼女の手元に向かったときだった。

「あ……」

「おっとと、どうかしました?」

思わず声が漏れてしまった。

「ご、ごめんなさい。ちょっと買い忘れを思い出して……」

慌ててレジ前から逃げる。メロンパンとココアを手に取って、急いでレジに戻った。

メロンパンとココアを買い忘れていたことは確かだけど、わたしが思わず声をあげてしまった理由は別にある。

「大丈夫? もう買い忘れない?」

レジ袋を手渡しながら、お姉さんは心配げな顔をした。

「は、はい。すみません大きな声出しちゃって」

「ううん。思い出してよかったね。ありがとうございました」

わたしは再び会釈を返してコンビニを出た。

 

「やっぱりね……」

わたしは公園のベンチでメロンパンを食べながらため息をついた。

さっき大声を出してしまった理由。それは、さっきの店員のお姉さんの左手薬指に、リングが輝いていたことだ。

別に何かを期待していたつもりはないけど、やっぱり少し悲しい気分になる。

「……帰ろ」

メロンパンを食べ終えたわたしは、急いで家に帰った。

エアコンをつけてからシャワーを浴びる。

「ん?」

髪を乾かし終わってリビングに戻ると、携帯がテーブルの上で鳴っていた。

「何?」

「あっ、やっと出た。これから家に行っていい?」

電話をかけてきたのは真央だった。

「何で?」

「実は百合にちょっと手伝ってもらいたいことがあって」

これからアイスを食べてゆっくりしようと思ってたのにめんどくさい。

「それって、わたしじゃなきゃダメなの?」

「うん。百合じゃなきゃ、頼めないこと」

「……ふうん」

真央ならいきなり家に押しかけてきそうなのに、わざわざ電話かけてくるってことは、何かあるのだろう。

「別にいいけど」

「本当? ありがとう、すぐ行くから!」

慌ただしく電話が切られた後、すぐにチャイムが鳴った。

 

「ごめんねー急に押しかけて」

「まあ、とりあえず入ったら」

「お邪魔しまーす」

「というか、そのリュックどうしたの?」

ソファーに座りながら、わたしは真央に尋ねた。

「手伝ってもらいたいことと関係があるの……はいこれ」

真央はリュックの中から取り出したものを差し出してくる。

「……これって脚本?」

表紙には『眠り姫は眠り続けたかった』とタイトルが書かれていた。

「うん。文化祭の劇の脚本だよ、百合は持って無いでしょ?」

「それでこれがどうしたの?」

「さっき電話で言ったお願いってこれのことなの」

「?」

首を傾げるわたしを見て、真央はこう続ける。

「ほら、文化祭の本番月曜日でしょ? だけど、まだセリフとか、演技とか色々不安で百合に練習相手になって欲しいなーって」

「……」

拍子抜けというか、なんというか。真央の生真面目さには驚かされる。

たかが文化祭のクラスの発表にそこまで真剣になれるのは、もはや才能じゃないだろうか。

「……分かった」

嫌だって言っても帰りそうじゃないし、この前看病してもらった恩があるから、今日は付き合うか。

「本当?」

「真央がそこまで言うなら付き合う」

「ふふっ、ありがと」

「いいよ別に」

嬉しそうな真央の顔を見てわたしも頬が緩む。

「それでね、私はここから後のシーンをやることになったの」

「後半担当ってこと?」

「うん、そうだよ」

脚本を読んでみると、前半部分と後半部分がきっちりと分けられていた。真央が言うにはセリフを覚える負担の軽減のためにこういう構成になったらしい。

「で、練習相手ってわたしは何をしたらいいの?」

「百合は私が読むのに合わせて王子様役のセリフを読んで欲しいの」

「はいはい」

「じゃあこのページの最初からいくね」

「……ちょっちょっと待って、本当にわたしが読むのこれ」

王子役をやるってだけで気恥ずかしいのに、相手が真央ということを冷静に考えると、最後まで練習に付き合えるか心配になってきた。

「もう、さっきそこまで言うなら付き合うって言ったじゃん」

「……分かったって」

真央の拗ねたような顔に負けたわたしは、脚本を持ってソファーから立ち上がった。

 

「うーんやっぱり私、演技とかダメだなあ」

一通り最後まで練習した後、真央はため息をついた。

「そう?」

真央はわたしの棒読みと違ってちゃんと演技になっていたと思う。

「椎名さんと橘さんが、お姫様はこんなこと考えてるんだよーとか、こんな気持ちでこんなセリフ言ってるんだよーって言ってたことを上手くできないし……どうしたらいいのかなあ」

「……そういえば、本番王子役って誰がやるの? どうせだったらその人と練習した方がいいんじゃない」

悩んでいる様子の真央にわたしはこう聞いてみた。

「王子様役やるのは晴海さんだよ」

「……へえ」

意外、と思ったけど、晴海なら男装似合いそうだし、一応女子だしちょうどよさそう。

「晴海さんより百合の方が……その気持ちが入るかなっておもったから」

「どうしてわたしの方が気持ちが入るの?」

「もう、本当百合って……はぁ」

疑問に思ったことをそのまま聞いただけなのに、なぜか真央は呆れた顔をする。

「もう、いいから、セリフ読んで」

「はいはい」

 

「……そろそろ疲れた」

「あっ、もうこんな時間」

「そろそろ帰るの?」

もう19時だし、そろそろ真央は家に戻るのだろうか。

「百合がよかったら、今日泊めて?」

「え」

「お願い、まだ練習したりないし……」

「別にいいけどさ」

「やった! ありがと、実は着替えも持ってきてるんだよね〜」

そう言うと真央はリュックの中からパジャマとか身の回りのものを取り出し始めた。

……なるほど、どうやら最初から泊まるつもりだったのか。

真央のこういうしたたかさは正直ちょっと、羨ましい。クラスの中で上手く立ち回れているのも、きっとこういう部分が根底にあるんだろう。

そんなことを思いながら、その後もしばらく、ああでもない、こうでもないと思案する真央に付き合った。

「そろそろ終わりにしよ、もう疲れた」

「ごめんね、付き合ってくれてありがとう」

「この前看病してもらったし、別にお礼なんていいよ」

そう言ってわたしはシャワーを浴びにいった。

「どうしよ」

お湯を止めて短く息を吐く。

「……やっぱり諦めるしかないのかな」

かなりぬるめのお湯に浸かりながら、思わずわたしは呟いた。

お母さんの元に戻らないということはお母さんと縁を切らないといけないということだ。

それはつまり、お母さんとの関係を一生を戻すことができないということになる。

どちらも選べないのだったらどうするべきか、よく考えろって恭子さんに言われたけど、いまだにどうすればいいか分からない。

「……」

沈んだ気持ちのまま、わたしは浴槽から出た。

 

「お待たせ、真央も入ったら」

「うん、じゃあお風呂借りるね」

わたしと入れ替わりで真央はリビングから出ていく。

「あっつ……」

冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、一気に飲む。

「……ふぅ」

ソファーに倒れ込んでぼんやりとテレビを眺める。

「……」

特に面白くもないテレビを消すと、扇風機の音しか聞こえてこなくなった。

いつもだったらこのまま寝てしまうけど、今日は真央がいるからもう少し時間を潰さないといけない。

「あ」

そうだ、アイス買ったんだった。

体を起こして、冷蔵庫からバニラ味の棒アイスを持ってくる。

「ふー」

棒アイスを食べていると、真央がお風呂から出てきた。

「あーいいなー」

「真央も冷蔵庫の中にあるやつ、食べてもいいよ」

「いいの?」

「いいよ別に」

「じゃ、お言葉に甘えて〜」

スキップをするような軽い足取りで真央はアイスを持って戻ってくる。

「よっと」

他に空いてる場所はあるのに、真央はなざかわたしの隣に座ってきた。

「……暑いんだけど」

「もう、いいじゃん。ここがいいの」

真央は少し拗ねたような顔で棒アイスを食べ始める。

「真央は暑くないの?」

「暑いよ。でもアイス貰ったし大丈夫」

「……」

そういうことじゃないんだけど。

「そういえば百合って、進路指導の紙とかってどうするの? まだ出してないの百合だけ先生って愚痴ってたよ」

そういえばそんなこともあった気がする。

「今、進路とか、それどころじゃない」

「……そっか、そうだよね」

真央はしまったといった顔をする。

「まあ、どうしようもないけど、どうにかする。だから真央は心配しなくていいよ」

「あんまり思い詰めちゃダメだよ。いつでも私とママを頼ってね」

「……何かあったらね」

うなずいてみせると、真央は少しほっとした表情になった。

 

2

「なんだか眠たくなってきちゃった」

「そろそろ寝る?」

「うん」

「上のベッド使っていいよ。わたしここで寝るから」

「ソファーで寝るのって体に悪いからダメだよ」

「でも、真央が寝る場所ないし」

他に選択肢なんてないと思うんだけど。

「上のベッドで一緒に寝ればいいじゃん」

「……いやいやそれは」

真央にソファーで寝ろって言ってるわけじゃないのに、どうしてそこまで食い下がるのか。

「そもそも上のベッドシングルだし、2人で寝たら狭いし」

「……嫌なの?」

「狭いのがね」

「……」

ムスッとした顔で真央はわたしを見つめてくる。

「……分かったからその顔やめて」

「ふふっ、やった」

なんか納得いかないけど、結局一緒に寝ることになってしまった。

「そういえば、百合」

「何?」

二階に着いたところで、真央が突き当たりの部屋を指差して聞いてきた。

「あの部屋って使ってないの? ……もしかしたら寝具とか置いてない?」

一応は真央も気を使ってくれているらしい。だけどあの部屋にそういうものは置いてない。

「見てみる? ないと思うけど」

「……いいの?」

「別に見られて困るものないし」

それに、わたしは真央の表情から不安めいたものを感じていた。

どうして不安に思っているかは分からないけど、何か確かめたいことがあるんだろう。

「ただの物置部屋だよ、ここは」

「本当だ、ダンボール箱がいっぱいあるね」

狭い部屋だし、これで十分だろうと思って、真央の方を見る。

「……」

わたしの方を見ずに、真央は窓際の棚にゆっくり近づいていく。

「これって」

「ああ、それはプレゼント」

「……誰への?」

無言でわたしも棚の方に歩いていく。

「気になる?」

「……聞かない方がよかった……よね」

「別にそんなことないけど、真央の知らない人のだし、聞いたってしょうがないと思うよ」

さっきから真央は少し変だ。何かに怯えているのか、ときおり声が少しかすれたり、微かに震えたりしている。

「しょうがないっていうのは、百合がそう思ってるだけだよ」

真央が短く息を吐くのが分かった。

「……」

「百合って写真嫌いじゃなかった?」

真央は伏せてある写真立てに気づいたようで、確かめるように尋ねてくる。

「嫌いだよ。でもこの写真を撮ったときは嫌いじゃなかった、それだけのこと」

この写真を撮っていなければ、わたしは写真嫌いになることもなかっただろう。

それぐらい、この写真を撮った後に起きたことはわたしにとって大きかった。

「……この写真見てもいいの?」

「いいよ。でも、わたしには見せないで」

わたしは目を閉じて深呼吸をする。もしも見てしまったら、わたしはきっと真央の前で平静を保てなくなってしまう。

「綺麗な人だね。それにとっても大人な人」

「その人へのプレゼントだよそこにあるのは。……渡すことはないけど」

わざと明るいトーンで話す。上手くできているかは分からないけど。

「自己満足で買ってるだけ。それ以上でもそれ以下でもないし」

目を開いて真央を見る。どうして真央がそんな顔をするんだろう。

なんだか少しいじわるしたくなって、素早くわたしは真央の頬を引っ張った。

「ひ、ひひゃいよ、どうしたの急に」

「そんな顔よりはこういう顔の方が似合うよ」

頬から手を離して、わたしは笑ってみせる。

「……ねえ」

「いいからほら、行くよ」

まだ何か言いたげな真央を遮って、部屋を出るように促す。

「……うん」

真央にバレないように短く息を吐いて、わたしはゆっくりドアを閉めた。

「……やっぱり一緒に寝るには狭いって」

「大丈夫だよ、詰めればスペースあるって」

「はいはい」

寝れないことはないけど、かなり圧迫感を感じる。真央の家のベッドと比べると、ものすごく狭い。

「じゃあ、電気消すよ」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

電気を消して目を閉じるとすぐ、眠気に体が飲み込まれそうになる。

真央の練習に付き合ったからか、疲れてるんだろう。

 

「……ん」

まどろみの中にいたわたしを何か暖かくて重いものが引き戻した。

「……何してるの」

「さっきのおかえし」

「なんか暑苦しいと思ったら……」

何かと思ったら真央に背後から抱きしめられていた。

「いいじゃん。この前百合だってわたしのを随分楽しんでたし」

「……あれは楽しんでたというか、休憩してただけ」

背中に押しつけられている柔らかいものが、気になって仕方ないし、こんなに密着されると暑苦しい。

「だったら私にだってこうする権利あるでしょ?」

「……もうちょっと他の方法にしてよ」

「……」

無言で真央はわたしのお腹に手を回してきた。

「ちょっと」

「ねえ百合」

真央が耳元で囁いてきた。

「何?」

「ごめんね、さっきは」

「どうして謝るの」

真央は謝るようなことはしていないのに。

「……だって百合怒ったでしょ? 聞かれたくないだろうなってこと、私聞いちゃったし」

「怒ってないよ。聞かれて怒るようなことがあるんだったらそもそも部屋の中に入れないし」

「本当に?」

「うん」

「……そっか」

真央は安心したのかわたしを抱きしめる力が少し強くなった。

 

「私ね、すっごく辛いことがあったんだ」

しばらくたったあとで、真央は呟くようにこう言った。

「ふとしたときに思い出して、こんなんじゃダメだって忘れようと努力してたの」

「……」

「でもね、私思ったんだ。どうしようもなく悲しくて辛いことだったら、乗り越えなくてもいいって」

「いいこと言うね」

「そうかな?」

「うん、本当に」

なんだろう、急に気が抜けたというか力が抜けたというか。急に眠気が襲ってきた。

「ねえ、百合。朝までこうしてていい?」

「……いいよ」

「離れちゃダメだからね」

「うん」

背中に真央を感じる。少し暑苦しいけど、それ以上に落ち着く。

目を閉じるとすぐにわたしは眠りに落ちていた。

 

「ん……」

「あっ、おはよ」

「……なんでニヤニヤしてるの」

「百合の寝顔をずっと眺めてたからかな」

「なにそれ」

笑う真央につられてわたしも思わず笑ってしまった。

「私、やっぱり百合の寝顔が一番好き。毎日見てたいな、これからもずっと」

「はいはい」

冗談めかした真央の言葉に苦笑を返して、わたしは下に降りていった。

 

「ねえ百合、ご飯とかパンってないの?」

「ないよ、自炊しないし。炊飯器とかそもそも買ってない」

「え〜」

真央は信じられないといった顔をする。

「冷蔵庫の中にも材料になるようなものないよ」

「……本当だ」

「言ったでしょ。ふわぁ……」

ソファーの上で背伸びをしていると、真央が隣に座ってきた。

「じゃあ、うちで朝ごはん食べる?」

「……うーん」

そういえば今日は土曜日だし、恭子さんが授業に来るんだった。

「何か予定あるの?」

「まあ、朝食べるぐらいの時間はあると思うし、いいけど」

「そっか、じゃあ早く作らなきゃね、いこ?」

「うん」

身支度を整えてから、わたし達は二人で真央の家に向かった。

 

「パンとご飯どっちがいい?」

「どっちでもいいよ」

「あっ、じゃああれ作ろっかな」

何かを思いついたようで真央は急に上機嫌になった。

することもないので、ソファーの背に顎を乗せて、真央の様子を眺めることにする。

料理をしているときの真央はいつも楽しそうで、正直羨ましい。

わたしは料理にそこまでの楽しみを見出すことは出来ないけど、真央が料理をしているのを眺めるのは結構いいな、と思えた。

「お待たせ、バゲットはなかったけどフレンチトースト作ってみたよ」

「こういうのって、真琴さんから教えてもらってるの?」

フレンチトーストとサラダが並べられた皿を、わたしはまじまじと見る。

「一緒に作ってたら自然と覚えるかなー、あとはレシピを見て作ってみてるだけで結構色々出来るようになるよ」

「そういうものなんだ」

「でも、フレンチトーストは簡単だよ。レシピ知りたい?」

「いや、聞いても自分じゃ作らないだろうし」

自分で作るよりは、外で食べるか誰かに作ってもらう。そっちの方が楽で、失敗もしないだろうし。

 

「ふう……じゃあそろそろ帰ろっかな」

食後の紅茶を飲み終えたところで、ちょうどいい時間になった。

「もう帰っちゃうの?」

「サボると後が大変だし」

そんな寂しげな顔をされても、さすがにこれ以上長居はできない。

「じゃあ」

「う……うん」

わざわざ真央は外まで見送りに来てくれた。別にそこまでしなくていいのに。

家に戻ってすぐ恭子さんがやってきて、授業を受けさせられた。

「……やっと終わった」

冷蔵庫から水を取り出して、体の中に流し込む。

「あら?」

「どうかしたんですか」

リビングで恭子さんが声をあげる。まだ帰ってなかったのか、と思いつつリビングに戻る。

「このシュシュ、誰の?」

「ああ、それは多分真央のです」

シュシュなんてわたしは持ってないから、多分真央が忘れていったのだろう。

「へえ……なるほど」

「なるほどって何がですか」

「いいえ。何でもないわ」

不敵な笑みを浮かべながら、恭子さんは帰っていった。

3

「……どうしよっかな」

文化祭の当日、いつも通り学校に来たのはいいけど、わたしは時間を持て余していた。

校内はどこも人が多くてうんざりする。

どこか涼しくて時間を潰せる場所はないのか、そう思いながら校内を歩いていた。

「おーい!」

「?」

大声に驚いて振り返ると、晴海が手を振りながらこっちに駆け寄ってくる。

「何か用?」

「いやいやちょうどキミを探しててさ」

「わたしを?」

「そうそう、今日ちゃんと学校来てるかなーって」

「?」

どういうことだろうか。

「じゃ、よろしく」

「何が?」

「えへへっ、後で分かるよ」

ぺろっと舌を出して笑うと、晴海は廊下を走って行った。

「……どういうことだったんだろ」

何か企んでそうな晴海の態度が気になりながらも、わたしは再び歩き始めた。

「あっつい……」

自販機で買った水を飲みながら日陰のベンチで佇んでいると、正面から目立つ生徒がこっちに近づいてくる。

「あら、奇遇ですね。文化祭楽しんでますか?」

「……生徒会長ならどこかクーラーが効いた空き教室知りません?」

「どうでしょう、今日はどこも何かしらで使われてると思います」

苦笑しながら椿原はわたしの隣に座ってきた。

「……ちょうどいいし、この前の返事今していいですか」

椿原がこうしてやってきたし、手間が省けた。せっかくだから今返事しておこう。

「ええ」

椿原はかすかに目を伏せて頷く。

「なんか、わたしにはメイドとして働いてみるっていうのはイメージ出来なかったかな、ごめんなさい」

椿原から提示された条件は正直、今まで労働というものと、かかわり合いにならずにきたわたしにでも分かるほど破格なものだった。

だけど、流石に自分が誰かに仕える立場に向いてないことも分かっていたし、それにまだわたしには解決してないことがある。

そんな状況で、飛び込んで行く勇気はない。

「そうですか……」

椿原はそう言ったきり黙ってしまった。

「ふぅ……」

座ったまま軽く体を伸ばす。ちょうどそのとき、椿原がおもむろに立ち上がった。

「百合さん。少し付き合って貰えますか? せっかくの文化祭なので、一緒に見て回ってみたいです」

「わたしと?」

「ええ。貴女と一緒に見て回りたいです。……嫌ですか?」

「嫌じゃないけど……」

「じゃあ、行きましょう?」

椿原は微笑みを浮かべながら、わたしの手を掴んで、腕を組んできた。

「……どうして腕を」

「ふふっ、いいじゃないですか」

困惑しているわたしに構わず、校舎の方に椿原は歩き始めた。

「まずは、一通り見て回りましょう」

「それは別にいいけど……」

さっきから周りの生徒達がジロジロとこっちを見て、何か小声で話している。

「気になりますか?」

「そりゃ……まあ」

これだけ視線を向けられて、気にならない方がどうかと思う。

「まあ、わたくしと貴女がこうやって並んで歩いていると目立つのも仕方ないでしょうね」

そう言って可笑しそうに椿原は笑った。

「……それって生徒会長様が目立ってるからでしょ」

「ふふっ、そうかもしれませんね」

否定も肯定もせず、椿原は視線を前に戻す。

 

「今年は教室を使って店や、アトラクションを作るクラスが多いみたいですよ」

「へえ」

「では一年生の方から見ていきましょう」

「今年の一年生はずいぶんと意欲的でしたね。展示制作、そして喫茶店や迷路などありふれたものでしたが、しっかり準備されていて完成度が高かったです」

椿原に連れ回されて、結局一年生の教室を全部回らされて疲れた。

「……まさかこのまま全部回るんですか?」

「ええ、生徒会長として全体を見ることはとても重要なことですから。といっても、体育館で行われている劇や、外で行われているライブは残念ながら見に行く時間はなさそうですけどね」

「……」

「ふふっ、意外って顔してますね」

「まあ、本当に意外だなーって」

わたしと同じで行事とか面倒くさがりそうだと思ってたけど、どうやら違うらしい。

「……わたくしが生徒会長としてかかわる最後の行事ですから、可能な限り見ておきたいんです」

それに、と椿原はわたしの目を見て、こう続ける。

「貴女と一緒にこうしていると、とても楽しいんです」

「……え?」

「冗談で言ってるのではなく、本心ですよ」

そう言うとふっ、と椿原は笑った。

「……それはどうも」

「ふふっ、そんなに照れなくてもいいんですよ」

「別に照れてないし。で、二年生の方も行くんでしょ?」

「はい、行きましょう」

椿原の後をついてわたしも二年生の教室に向かった。

「……さて、二年生のクラスでやってるものも一通り見ましたね」

「一年生よりもずいぶん数が少なかった気が」

「ええ、今年の二年生はクラス全体で何かをすると言うよりも、個人や少人数のグループでそれぞれ活動しているのが多いそうです」

「詳しいんですね」

「そうでもないですよ」

 

「あっ、生徒会長お疲れ様です」

「キャー! 会長さんだ!」

「皆さん文化祭、楽しんでますか」

「はい! とっても」

「ウチらも楽しんでます」

「それはよかった、皆さん文化祭楽しんで下さいね」

ときおり声をかけてくる生徒達に、笑顔を振りまいていく椿原を正直すごいと思った。わたしはあんなに愛想よく絶対できない。

「次はどうしましょうか」

「うーん」

どうしようか、と言われても正直どこで何が行われているのか全く知らないし困る。

「別にわたしはどこでもいいですよ」

「そうですか……でしたら、百合さんのクラスの劇を観に体育館に行きましょう。確かあと30分ほどで始まると思うので」

「いいんじゃないですか」

正直劇の内容を知っているからさほど興味はなかったけど、せっかくだし真央のお姫様姿でも拝みに行こう。

椿原と体育館に向かっている途中で、廊下の向こうから真央がこっちに走ってきた。

「……はぁ、はぁ……やっと、見つけた」

「どうしたの?」

「百合……ちょっと来て、助けて欲しいの」

真央はただならぬ雰囲気でわたしの手を握ってくる。

「助けるって何を?」

「実はね、さっき急に晴海さんが腹痛で倒れちゃって、誰かに王子様役を頼まなきゃいけなくなっちゃって……」

「それで?」

猛烈に嫌な予感がする。

「お願い! 百合にしか頼めないの」

「えぇ……そんなこと言われても」

「わたくしも王子様を演じる百合さんが観てみたいです」

「えっ」

何を突然言い出したんだこの生徒会長様は。

「桜井さんがそこまで頼んでいらっしゃるんですから、ここは一肌脱ぎましょう」

困惑するわたしが面白いのか、くすくす笑いながら椿原はこう言ってきた。

「そんな他人事だからってそんな簡単に」

「うぅ……他に頼める人いないし」

「ちょっと、やめてよそんな顔」

今にも泣きだしそうな顔をする真央に向かって、わたしは嫌だと言えなくなってしまった。

「…………分かったよもう、やればいいんでしょ」

わたしはしぶしぶ頷く。

「ありがと」

「……はいはい」

真央に手を引っ張られながら、わたしは思わずため息をついた。

 

「あのバスケバカ、絶対許さない……」

体育館の裏に連れてこられてからしばらくして、さっきの晴海の言葉を思い出した。

多分晴海は真央からわたしが練習相手になったことを聞いて、面白半分で仮病を使ってこの役回りをわたしに押しつけたのだろう。

「あの……本当に出てくれるの?」

椅子に座って台本を読みながら文句を言ってると、橘さんが心配そうな顔をして近づいてきた。

「……うん」

「ごめんね、急にこんなこと頼んじゃって」

「別に橘さんが悪いわけじゃないし、謝らなくていい」

「百合、衣装に着替えにいこ」

「あーうん」

真央に呼ばれて一緒に更衣室に向かう。

 

「……」

やっぱり、役とはいえ男装するのは抵抗がある。しかも、白のタキシードを着ることになるなんて……。

「百合、着替えた?」

「うん」

わたしが返事するのと同時に真央が中に入ってくる。

「おー! かっこいいよ百合」

「やめてよ恥ずかしい……」

「私の衣装もよく出来てるけど、百合の衣装もすごいね」

「誰が用意したのそれ」

真央の衣装はまさかのウエディングドレス。いや、脚本の内容からすると、むしろウエディングドレスを着ているのが自然な気がする。

のだけれど、一体誰がどこで調達してきたんだろうか。

「うーん、私も分からないなあ……」

「あ、あのちょっといいですか」

「どうぞ」

ノックと共に外からした声に真央が返事をする。

「あ、あの、その……朝倉さん、衣装のサイズは大丈夫ですか……?」

「ちょっと大きいけど、別に大丈夫」

「あっ……それなら良かったです。あと、ヘアメイクの方も急いでするのでちょっと鏡の前に座っててもらっていいですか?」

「うん」

「桜井さんは外に準備してあるのでそっちにお願いします」

「うん分かった」

 

「ふぅ……なんとかなりそう?」

体育館の外に一度出て、わたしは真央とセリフの見直しをしていた。

「多分」

「ずいぶん余裕だね」

「……そりゃ、あれだけ付き合わされたんだし、でもセリフ飛ばすかもしれないし、助けてよね」

「うーん……私も緊張するとどうなっちゃうか分からないし」

不安げな真央を見て、わたしもなんだか緊張してきた。

「桜井さん、百合ちゃん。ごめんそろそろ本番始まるから、待機しててー」

「あっそろそろ時間みたい、戻ろ」

「うん」

橘さんが呼びに来たので、わたしと真央は体育館の中に戻る。

「はーいじゃあ次のクラス準備してー!」

国語を担当している妙齢の女教師の声で、わたし達は一斉に舞台袖に向かっていく。

「ふぅ……いよいよ始まるね」

舞台上を忙しなくクラスメイト達が移動しながら、舞台上に大道具を運んでいる。

「そうだね」

「ねえ、百合。本番前に一つだけ聞いていい?」

少し緊張した様子で、真央が話しかけてきた。

「何?」

「どうして今日突然だったのに引き受けてくれたの?」

「……別にやりたかった訳じゃないよ。ただ、断ったって他に出来る人いないだろうし」

それに、嫌だって言ったら本気で真央、泣きそうだったし。

真央の泣き顔を見せられるよりは劇に出る方がマシだ。

「そういえば、晴海にわたしと練習したってこと、言ったんでしょ?」

「うん。そうだけど」

「はぁ……やっぱりね」

予想通りの答えに思わずため息が漏れた。

「どうかしたの?」

「ううん、別に」

不思議そうな顔をする真央から視線を外して、わたしは軽く背筋を伸ばす。

「……こんなこと、言ったら晴海さんに悪いと思うんだけど、私、こうやって百合と一緒に高校生最後の文化祭に参加出来て、すっごく今嬉しいよ」

「……」

真央らしくない言葉にわたしは驚いた。

「なんだか緊張してきちゃった、手握っていい?」

恥ずかしそうに微笑んで、真央はわたしの手を握ってくる。

「……まだ何も言ってないけど」

「いいでしょ?」

「はいはい」

今の真央はきっと嫌だって言っても手を離さない、そんな気がするし。

それに、わたしもなんだか真央とこうしていたい気分だった。

 

「そろそろ出番だね」

真央の表情がだんだんと緊張でこわばっていく。

「手、震えてるけど大丈夫?」

「大丈夫じゃない……けど、百合と一緒だから乗り越えられると思う」

「大げさ、それにわたしが出るのはほとんどラストのシーンだけでしょ」

「そうだけど、そうじゃなくて。百合がいてくれるってだけで、心強いってこと」

「はいはい。ちゃんと見てるから頑張って」

握っていた手を離して、真央の肩を軽く叩く。

「大丈夫、真央なら絶対大丈夫だよ」

「うん、頑張って来るから。……ちゃんと迎えに来てよね」

わたしが頷くと、真央の表情がようやくほぐれた。

少しは緊張がとけたのかな、そうだといいけど。

そんなことを思っていると、ちょうど劇の前半が終わったようだ。前半のステージが暗転して、場面転換のために幕が一度下ろされる。

「ふぅ……」

頭の中でもう一度セリフを確認して、わたしは大きく息を吐いた。

「はぁ……」

舞台袖で最後のセリフをもう一度頭に入れ直す。幸い今までのシーンは乗り越えられた。でもここから先のシーンは間違いが許されなさそうだし、気を引き締めないといけない。

「こんな国、私出ていく!」

いよいよ劇も佳境に入ってゆく。眠りから覚めたものの、自分を救った王子ではなく、別の国の王子と政略結婚させられそうになるというシーン。

暗転の後にわたしの出番だ。

「じゃ、そろそろ出番だよね、頑張って!」

小さくガッツポーズをする橘さんに頷き返して、わたしは指定された場所に移動した。

「い、行きましょう」

「うん」

舞台が暗転したのと同時に、わたしは椎名さんに先導されて舞台の上に出た。そのままダンボールでできた棺の中に寝るように言われる。

「よっと」

「これも忘れないで下さいね」

「ありがと」

棺と同じくダンボールでできた短剣を受け取ると、蓋が閉じられる。

「……」

ここにきて流石にわたしも少し緊張してきた。気持ちを落ち着かせるために、胸に手を当てる。

「ああ、私を助けた愛しき王子はもう、この世にはいないのですね……」

真央のセリフが始まった。

腹心の部下に裏切られ、王子は命を落としたと眠り姫には伝えられている。のだが、実は王子は追っ手から逃れるために仮死状態で棺に納められていた、というのがこの劇のストーリーだ。

「どうして……一体どうしてこんなことに……」

それにしても迫力があるというかなんというか。ずいぶん真央は気持ちが入っているなあ。

そんなことを思いながら、わたしは自分のセリフを言うタイミングを待っていた。

棺の蓋が開けられ、眠り姫のセリフが続く。

「せめて私も一緒に……」

眠り姫は棺に本当に王子が納められていることを確認して絶望し、自らも王子が手にしていた短剣で命を絶とうとする。

その直前で仮死状態から目覚め、姫をギリギリのところで止めるという流れだったはず。

「すぐそちらに向かいます」

きた、このタイミングだ。

「……姫!」

起き上がりながら腕を掴む。

「お、王子……どうして」

「……危ないところでした。姫、もう僕は大丈夫です」

「ご無事でよかった……でも、もう……」

「いいえ、姫」

姫の不安を振り払うために精一杯胸を張ってみせる。

「僕はどんなことしても貴方を守ります。そのためなら何をしたって構わない。だから、笑って僕についてきて下さい」

「……はい」

姫をそっと抱きとめ、見つめ合う。

「──これからも二人には様々な困難が降りかかるでしょう。しかし、どんな困難もきっと固く結ばれた愛があれば乗り越えることが出来るでしょう」

ナレーション役のクラスメイトの語りが終わり、。

「……ふぅ」

これであとは幕が降りるのを待てば……。

安堵のため息をついたところで、ふとわたしは距離の近さが気になった。

「……もうちょっと離れたら?」

小声で真央に離れるように言う。しかし真央は離れるどころかどんどん顔を近づけてきた。

まだ役の気持ちが抜けていないのだろう。それぐらい真央の演技はすごかった。だけど、このまま近づいたら本当に観客の目の前でキスをしてしまうことになる。

「ちょっと本当に……近いって」

あと数センチで唇と唇が触れそうになるところで、ようやく舞台の幕が下ろされた。

幕が降りてからすぐに、真央から体を離す。

拍手とざわめきが舞台袖に引っ込んでからも聞こえてくる。どうやらこの劇はそれなりに上手くいったようだ。

「じゃ、着替えてくる」

「あっ……うん、お疲れ様」

一瞬不満げな顔をした真央を置いて、わたしは急いで服を着替えに向かった。

 

「はぁ……疲れた」

制服に戻って、体育館の外で風に当たっていると、椎名さんが小走りでやってきた。

「あ、あのその、最後! すっごくよかったです! まるで本物の王子様とお姫様がそこにいるみたいでした!」

「……あ、ありがとう」

というか、どうして椎名さんはそんなに鼻息を荒くしているんだろう。異様なテンションの高さに、どう返したらいいのか分からない。

「百合ちゃんお疲れ様、今日急遽だったのにセリフ完璧だったのすごかったよ」

「真央の練習に付き合わされたし……それにそもそもセリフが少なかったからなんとかなっただけ。じゃ、わたし涼しい場所探してくるから」

体育館の近くは外にいてもどうしてか暑く感じる。ひとまず校舎の方にわたしは戻ることにした。

自動販売機でペットボトルの水と、紙パックのココアを買っていると、ケータイが鳴り始める。

「もしもし」

「あ、百合、今日終わったら二人でどこか晩ご飯食べに行こうよ」

「……真央はいいの? クラス打ち上げとかあるんじゃない」

「ううん。うちのクラス全体でまとまってはないよ。それに、わたしは百合と二人で行きたいなあって」

「ふうん」

まあ、別にいいか。

「家から近いとこだったらいいよ」

「本当? じゃあ終わってから急いで帰らずに待っててね」

「はいはい」

電話を切って、日陰で水を飲む。

「ふぅ……」

吹き抜けた風がわたしの髪を揺らした。

 

4

そのあとわたしは終わりの時間が来るまで、日陰のベンチでぼんやりしていた。

校内放送があってから体育館に集められて、生徒会長からの終わりの挨拶を聞いて解散になった。

片付けは明日の午前中を使ってやることになっているけど、今日中に学校に残って片付けをする生徒も多い。真央も展示制作の方の片付けに行くとメールで連絡があった。

 

「お待たせー」

駅の近くのコンビニで一時間ほど待たされて、ようやく片付けを終えた真央とようやく合流できた。

「遅い」

「ごめんごめん。じゃ、帰ろ」

夕方の混む時間帯より遅くなったからか、電車はかなり空いている。

「それで、どこ行くの?」

「家の近くがいいんだよね」

「……あんまり歩きたくない、疲れたし」

「うーん、じゃあファミレスとかかな、ほらあそこ駅の」

「あーうんいいんじゃない」

家の最寄り駅のファミレスなら近くて都合がいい。

「ねえ、百合」

「ん?」

「さっきの私と今の私の違い、気づかない?」

「違い……?」

急にそんなこと言われても、真央は真央だし。

「もう、これだよこれ」

おさげにしている髪を結んでいるリボンを真央は指さした。

「ああ、この前一緒に買ったリボンか。そういえば劇の前はそれじゃなかった気がする」

「気がするじゃなくて、そうなの。こうやって使うの今日が初めてだし」

「そうなんだ」

「百合と一緒に買ったものだから、何だかもったいなくて使えなかったんだけど、今日は気合い入れようと思って」

「ふーん」

そんな会話をしているうちに最寄り駅に着いた。

 

「はい」

「ありがと」

注文を終えて落ち着いたところで、真央がドリンクバーから戻ってきた。

「そういえば、百合とここのファミレスに来るの久々な気がする」

「そうだっけ」

「前に来たのは多分去年の冬ぐらいかな、テスト前に勉強会したような気がする」

「ああ」

そういえばそんなこともあった気がする。

「なんかそんなに前のことじゃないのに、ずっと前のことみたいな気がしちゃった」

少し寂しそうな顔で真央は続ける。

「中学校を卒業して、もう半年したら高校も卒業かあって思うとあっという間だったよね」

「うん」

ジュースを飲みながら、相槌をうつ。

「お待たせしました、マルゲリータとミートドリアです」

運ばれてきたピザを切っているときに、わたしは気づいた。

「どうかしたの。手、震えてない?」

スプーンを持つ真央の手が、まるで緊張しているみたいに震えている。

「え? いやなんでもないよ」

「ふーん、ならいいけど」

まさかわたしといて緊張してるわけじゃないだろうし、きっと真央も疲れているんだろう。

「ティラミス頼むけど、真央は?」

わたしはメニューを見ながら真央に尋ねる。

「今日はいいかな」

「……熱でもあるんじゃないの?」

思わずわたしはメニューから視線を外して真央を見た。

「もう、ないって。……そういう気分じゃないだけ」

「そう」

頷きながらも、わたしは少し心配になっていた。あの真央がデザートを頼まないとは。

「はぁ……」

それどころか、物憂げな顔でため息をついたりさっきからなぜか落ち着かない様子だ。

「そろそろ帰る?」

ティラミスを食べたあと、しばらくしてからわたしは真央に聞いてみた。

「そうだね」

ファミレスを出て、家に帰っている途中も真央は少し変だった。いつもだったらわたしの方を見て、何か話しかけて来るのに、じっと前を見て黙っている。

何か考えごとでもしてるのだろうか。

「あっ……そうだ百合、ちょっと公園寄ろうよ」

「どうして?」

「えっと、その、ちょっと休憩したいなあって」

「……大丈夫?」

「う、うん」

「まあ、別にいいけど」

公園の入口に近い木陰にあるベンチにわたし達は座った。もう夜だからか、昼間ほどではないけど、やっぱりまだ暑い。

「どうかした?」

「ううん、なんでもない」

制服のリボンを外して扇子で扇いでいると、視線を感じたから聞いてみても、目を逸らしてくる。

「……」

やっぱり変だ。普通、真央だったらもっと肩が触れるぐらいにくっついてくるのに、今日は少し離れたところに座ってるし。

「……んんっ」

しきりに咳払いをしたり、顔を手で扇いだり、本当に熱がありそうに見える。

「そろそろ帰ろ──」

「ねえ、百合。大事な話があるの。聞いてくれる?」

「?」

ベンチから立ち上がったわたしを制するような、強い意志がこもった声で、真央に呼び止められた。

 

「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけど、いい?」

「どうしたの」

わたしが座り直したところで、真央は大きく深呼吸をした。

「何から話せばいいのか分からないくらい、伝えたいことがあるけど、頑張って整理して言うから最後まで聞いてね」

「う、うん」

そんなにかしこまってどうしたんだろう。

「私、小さい頃から憧れてる人がいるの」

真央は目を閉じて、一つ一つ砂浜に流れ着いた貝殻を拾い上げていくようにゆっくりとわたしに語りかけてくる。

「その人はいつもママの後ろに隠れてた私を連れ出してくれて、新しい景色を見せてくれたの。どんな遊びも私より、ううん。一緒に遊んでいたどの人よりも上手で、本当に憧れてたんだ」

わたしは何も言わずに、真央の次の言葉を待っている。

「小学生になって、周りに今まで知らなかった人が増えても、逃げ出さずに済んだのはきっと、その人がすぐそばにいてくれたからだと思う。でも、ある日学校に行ったらその人が急に転校したって聞かされてとってもショックだったの」

真央はゆっくりと、閉じていた目を開いてわたしをじっと見つめてきた。

「小さい頃からずっと一緒で、これからもずっとそうだって勝手に思ってたんだけど、そうじゃなくって、突然こうやっていなくなっちゃうんだって」

瞬きをして、真央は微かに笑う。

「今になってみれば、私が思ってたよりも当たり前で、単純な理由だったって分かったんだけどね。そのときはただただ悲しかったの」

短く息をはいて、真央は自分の胸元を右手で押さえた。

「でも、中学生になってから、その人は戻ってきてくれた。全然変わってなくて驚いたことと、私のことをちゃんと覚えていてくれたことを昨日のことみたいに覚えてる」

「……」

「それから色々あったけど、高校を選ぶってなったとき、迷わず一緒のところにしようって思ったの。学校の先生には無理だろうって言われたけど、何とか同じ高校に入ることが出来てすっごく嬉しかった。私でも頑張れば出来るんだなって」

真央はゆっくりベンチから立ち上がって、わたしの正面に立った。

「……最初はただ本当に憧れてただけだった。だけど、一緒にいるうちに、その人への思いが自分でも気がつかないうちに変わってたことに気づいたの」

風に揺らされて、ざわざわと木が音をたてる。

「もしも、直接その人に伝えてしまったら今までみたいに顔を合わせることが出来ないって、考えるとね、どうしようもなく怖かった。だったら今まで通りでいい。心の底から本当にそう思ってたけど、それじゃダメなの」

「……」

「このまま伝えずにいたらきっとまたその人は、何も言わずに遠くに行っちゃう、そんな気がしてるの」

「……真央」

「その人はとっても鈍感だから……直接言うね」

 

「わがままかもしれないけど、これからもずっと百合の隣にいたい。だから、私を百合の一番大切な人にして下さい」

真央の表情や言葉、全てからその真剣さが伝わってきた。

「……そっか、そうだったんだ」

真央が本気だってことは、わざわざ念を押さなくても分かる。

「返事は今じゃなくていいよ。待ってるから」

わたしの答えを待たずに真央は走り去っていった。

 

「……」

ソファーの上で、わたしは色々なことを考えていた。

これまでのこと、これからのこと。

お母さんにわたしの気持ちをどうやって伝えようか、そして真央の思いにどう答えるか。

どっちも、わたしの答えは決まっている。問題はどういう言葉で伝えたらいいのか、だった。

そんなことを考えていると、いつもは長いはずの夜があっという間だった。

「……よし」

空が白みはじめた頃、わたしはソファーから立ち上がった。

ゆっくりシャワーを浴びて、念入りに身支度を整える。そして、最後にオレンジのヘアピンをつける。そうすると、なぜだか不思議と身が引き締まる感じがした。

「ふぅ……」

ケータイを開いて、決して今まで自分からかけることのなかったお母さんに電話をかける。

「……今、大丈夫ですか」

「ええ」

「今日、私と会って貰えませんか、時間はいつでもいいので」

少し沈黙があってからお母さんはこう答えた。

「……いいでしょう、今から車を迎えに行かせます。乗って来なさい」

「ありがとうございます」

わたしの言葉に返事はなく、そのまま電話は切られる。

「あとは……」

荷物を持って家を出る。そして、そのまま真央の家のインターホンを押した。

「はーい……あれっ百合ちゃんどうしたの?」

「真央を呼んできて貰えますか」

わたしの言葉から何かを察したのだろう。

「分かった、すぐ呼んでくる」

真琴さんの足音が聞こえてすぐ、真央の声が聞こえてきた。

「……どうしたの?」

「急にごめん。一緒に行って欲しい場所があるの、準備してきてくれる?」

真央はそれ以上何も言わずに、しばらくして出てきた。

「一緒に来て、お母さんにちゃんと話してきたいから」

真央は戸惑った顔をする。

「えっ? お母さんって百合のお母さん?」

「そう。真央に話したでしょ、お母さんとわたしのこと。そのことについて、今から話すから」

「……いいけど、私も一緒に行っていいの?」

「真央もいないとダメだから」

「うん、分かった」

「車の中で真琴さんにちゃんと伝えておいて」

ちょうどそのとき、車が家の前に止まった。

「乗るよ」

「……うん」

真央は緊張と不安が混ざった複雑な表情で、わたしのあとに車に乗り込んだ。

「お母さんのところに向かって、直接」

この前と同じ運転手にそう伝える。

「かしこまりました」

運転手の返事と同時に車がゆっくりと走り出す。

「……」

もし、お母さんが許してくれなくてもわたしは真央と……。

改めて決心を固めて、わたしは窓の外を見る。

外には微かに虹が見えた。

 



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ED

このパートはぜひchapter1〜7までを読んでから読んでください。


 

1

張り詰めた中に、色々な種類の感情が込められている行事。それが卒業式だと私は思う。

「ふわぁ……」

だというのに、一つ前の席で百合は緊張感なくあくびをしている。

「……もう」

少し呆れつつも、なんとも百合らしい仕草に頬が緩んだ。

卒業証書の授与と在校生の送辞が終わり、次は卒業生の答辞、校歌斉唱があってようやく卒業式は終わりだ。

「卒業生代表、椿原花恋」

「はい」

椿原さんがゆっくりと壇上に上がる。

「桜の花のつぼみを見ると、春の訪れを感じる季節になりました──」

1年生の秋から生徒会長をしていたからか、こうやって大勢の前で話すのは慣れているのだろう。本当に堂々としていてすごいな、と思った。

「……」

高校生も今日で終わり。この制服を着るのもこれがきっと最後。そう思うと思わず涙が出そうになってしまう。

本当に色んなことがあった高校生活だった。だけど、思い残すようなことは何もない。

卒業式の日にそう胸を張って、自分に言えてよかった。

「──最後になりましたが、学校生活を支えてくださった先生方に心からお礼を申し上げるとともに、これからの三間桜高校の更なる発展を願って答辞とさせていただきます」

答辞を読み上げたあと椿原さんは、深々と頭を下げて壇上から降りていった。

校歌を歌い終わり、卒業生の退場が始まる。花が飾られたアーチをくぐると、自然と涙が溢れてきてしまう。

こらえようと思ったのに、保護者席から手を振るママを見た瞬間我慢の限界が来てしまった。

教室に着いて、友達と話している間も私は涙が止まらなかった。

「さっきまでずいぶん泣いてたけど、大丈夫?」

「もう、感動してない百合の方が変だもん」

「……別に感動してない訳じゃないよ」

「そんな風には見えなかったけど?」

教室を出て、百合と一緒に校庭を歩く。まだ多くの生徒が校内に残っていて写真を撮ったり、下級生が卒業生との別れを惜しんだりしていた。

「ねえ、百合あれ」

「?」

校庭の隅で見つけた桜の木。その枝には花が二輪寄り添うように咲いていた。

「二輪だけ、もう咲いてる桜があるよ」

「ほんとだ」

「満開の桜を見るのもいいけど、こういう風に咲いてる桜も綺麗」

「うん」

頷く百合の横顔と桜の花びらを交互に見る。

「今日で卒業ってなんだか不思議な気分だよね」

「確かに、あんまり実感ない」

百合と並んで桜を見て、話しているだけで幸せな気持ちになる。

百合と一緒にいるときだけ感じられるこの気持ちは、これからもずっと続くと思う。それが、とても幸せだって私は心の底から言える。

でも、こんなに幸せな気持ちになれるなんて、あのときの私は全然想像出来なかったな……。

──百合に私の気持ちを伝えた文化祭の日の夜は全く眠れなかった。

不安で不安で、ネガディブなことしか考えられなくて、朝が来るまでがものすごく長かったことをはっきりと覚えている。

だけど、朝になってから百合に突然連れて行かれて、百合のお母さんと話をすることになったときは本当に驚いた。

どうしたらいいか分からないまま、百合のお母さんと三人で話をした。

「お母さん、わたしこれからどうするか決めました。だから聞いてくれますか」

「ええ、だってそのために来たのでしょうから」

「……わたし、お母さんのところには戻りません。……だけど、お金もいらないです」

「どういうことかしら」

「お母さんにとって、わたしはただ邪魔なだけって分かってます。だからお母さんのところに戻ったとしてもきっと迷惑になるだけだと思います」

隣で座っているだけの私にも百合の決心の強さがはっきり分かった。

「でも、わたしは一生お母さんの娘でいたいんです。だから、そのお金も受け取れないです」

「……」

「わがままを言っているのは分かります。だけど、わたしはどっちも選べません。本当にごめんなさい」

私も百合につられて思わず一緒に頭を下げた。

「あなたが言いたいことは分かりました。もういいです、とりあえず家に帰りなさい」

「……はい」

言われるがまま、百合は部屋の外に出ようとする。私もあとを追って部屋を出ようとしたときだった。

「真央さん、あなたには話があるからここに残って」

「えっ……はい」

百合は驚いた顔で振り返る。だけどそのまま部屋の外に出ていってしまった。

 

「……」

「……」

ど、どうしよう。百合のお母さんと二人きりにされても、どうすればいいのか分からない。

「……ごめんなさいね呼び止めてしまって、百合は先に帰らせるけど、あなたもちゃんと家まで送り届けるから安心して」

重苦しい空気を百合のお母さんが断ち切ってくれた。

「は、はい」

「……あなたはチョコレートは好きかしら? よかったらこれどうぞ」

「ありがとうございます……」

勧められて食べないわけにもいかなかったから、食べたけれど緊張で味がよく分からない。

「ごめんなさいね、百合のことだから急にあなたをここに連れてきたのでしょう」

「いえ……そんな」

「まあ、それはともかく……実はこの前真琴から聞いてたの。あなたが百合のことを好いてくれているってこと」

「えっ!? ……あ、あのその」

誇張ではなく、本当に心臓が飛び出そうになる。同時にものすごく冷や汗が出た。

「それってあの子を選ぶってことよ、あなたはよく考えたかしら?」

厳しい顔つきで投げかけられた言葉に思わずたじろぎそうになる。……だけど、私の想いをちゃんと伝えなきゃいけない。

「……はい」

深く頷いて、じっと百合のお母さんの目を見つめる。

「そう、あなたの気持ちはよく分かったわ」

そう言って百合のお母さんは紅茶を一口飲んだ。

「……真央さん。あなたにこれからの百合のことを任せるわ」

今までの厳しい表情から一転して、慈愛に満ちた微笑みで私の手を握ってきた。

「あの子を、百合を支えてあげてね」

「……はい、頑張ります!」

──まさか百合のお母さんがそう言ってくれるなんて、思ってもいなかったなあ……。

「さっきからぼんやりしてどうかしたの?」

「ううん。なんでもない」

そうやって百合と佇んでいると、晴海さんがこっちに走ってきた。

「ねー写真撮ろ!」

「あ、うんいいよ」

晴海さんに合わせて私もピースをする。

「はい、撮るよー」

シャッター音が鳴る。無事に写真は撮れたみたいだ。

「百合とはいいの?」

「本当は三人で撮りたいけどさー、多分嫌だって言うと思うからいいや。じゃあね!」

残念そうに笑ってから、風のように晴海さんは他の生徒の方に走っていった。

「行った?」

「もう、そんな言い方しちゃダメだよ」

「わたしが写真嫌いなの知ってるでしょ」

「そうだけど……」

校庭を一周して校舎の方に戻る。

「真琴さん待ってるだろうし、そろそろ帰ろ?」

「うん、じゃあ最後に……」

百合に抱きつくようにして、腕を組む。

「……学校では今まで通りにするんじゃなかったの?」

「学校に来るの今日で最後だし、せっかくだからいいじゃん」

呆れたような表情をする百合に、ちょっと拗ねてみせる。

「別にいいけど、人いっぱいいるよ」

「いいの」

今日で最後だし、周りを気にすることなく百合とこうしていたかった。

「ねぇ桜井先輩とあの人って……」

「やっぱりあの噂本当だったんだ」

「すごいね~あの二人」

気にしないようにしようと思っても、周りの下級生の視線や、ひそひそ話が気になってしまう。

「なんでそんなに楽しそうなの?」

「ずっとこうしたかったの、我慢してたから」

「ふぅん」

そうこうしているうちに、あっという間に校門に着いてしまった。

「あ、来た来た、もう腕なんて組んじゃって羨ましいな~」

ママが手を振りながらこっちに歩いてくる。 「じゃ、真央写真撮ろ、せっかくだし」

「うん」

「あっじゃあわたしが撮ります」

百合はママからデジカメを受け取ってシャッターのボタンを押した。

「はい、撮れましたよ」

「ありがとーよく撮れてるよ。じゃあ次は三人で」

「えっと……」

ママも百合が写真嫌いなことを知ってるはず。だけど、あえて三人でと言ったのだろう。

「あっ、ごめんちょっとシャッター押してもらっていい?」

「あ、はい」

ママが近くにたまたまいた橘さんにデジカメを渡す。

「ほら、百合ちゃんも入って入って!」

「は、はい」

百合はママの勢いに押されて渋々頷く。

ママが真ん中に入って右手で百合の肩を、左手でわたしの肩を抱いた。

「これで大丈夫ですか?」

「うんありがとね。……じゃあ写真も撮ったし帰ろっか」

「うん」

「はい」

私と百合は頷いて車に乗った。

 

2

「お邪魔します」

「やだもう、お邪魔しますなんていちいち言わなくてもいいのに」

「はは……」

真琴さんに乾いた笑いを返す。

確かに、わたしが桜井家にこうやって来ることはもはや日常になっている。

「それにしても、何だか感慨深いなあ。もう高校卒業だもんねえ。……年を取るわけだ」

ため息をつきながら真琴さんはキッチンに向かう。

「着替えたよ、百合」

「あ、うん」

真央と入れ替わりで、制服から私服に着替える。

「ふぅ」

ふと部屋を見渡すと、いつの間にかわたしの色々な私物が増えたなあと思った。元々真央の部屋だったのに、気づいたらわたし用のタンスが用意されるようになり、今では共用の部屋みたいになっている。

着替えを終えてリビングに下りると、真央が近寄ってきた。

「ねえ、百合少し外歩こうよ」

「……めんどくさい」

「いいじゃんほら、行くよ」

「はいはい」

ソファーに座る前に、玄関に連れて行かれる。

「行ってらっしゃい」

「うん」

「はい」

真琴さんに返事をして、わたし達は外に出た。

 

「なんだか、百合とこうやって歩いてるだけですごく楽しい」

「どうしたの急に」

恒例の、とまではいかないけど、真央とこうやって近所を歩くことは前に比べてかなり増えたような気がする。

「百合は楽しくないの?」

「ただぶらぶら歩いてるだけでしょ」

「もう、どうしてそんなムードないこと言うかな~」

「ムードって言っても、いい加減この辺りは見飽きたし」

「あっじゃあ、公園久々に行こうよ」

「……いいけど」

公園、文化祭があった日に真央から告白された場所だ。

「うーん、やっぱりこの公園いいよね。落ち着く」

「まあね」

木陰のベンチに並んで座る。

「なんか最近暖かくなってきたよね、やっと春になった感じがする」

「うん」

確かに、先週ぐらいから風が暖かく感じるようになってきた。

「もう私達も大学生かあ」

「実感ないけど」

「そうだよね。……でも、まさか百合と同じ大学に行けるなんて思わなかったよ」

「大げさ」

「ううん。三間桜に入ったのもギリギリだったし、今回の大学入試もきっとそうだったと思う」

「そう?」

三間桜に入ったときは知らないけど、大学入試はそこまで苦戦しそうじゃないと思っていた。

それに恭子さんがみっちり教えていたみたいだったから特に心配してなかったし。

「恭子さんもそう言ってたから」

「へえ、そうだったんだ」

真琴さんは真央に近所の女子大を勧めてたけど、真央はどうしてもわたしと同じ国立大学を受けるって譲らなかったのだ。

お母さんに迷惑かけたくなかったから国立大学を選んだってだけなのに、こんな大事になるなんて思わなかった。

「でも、本当によかった。百合と離れるの絶対に嫌だもん」

「……はいはい」

いまだに面と向かってこういうことを言われると照れる。

「なんか、百合のお母さんに会いに行ってから、すぐ受験勉強をし始めて、その、恋人らしいことあんまり出来てないよね」

「そうかな」

「うん、水族館とクリスマスイヴと、初詣ぐらいしか一緒に出かけられてないし」

「別に一緒にどこか行くだけがらしいことじゃないと思うけど」

「そうだけど、やっぱり私はそういうこともしたいって思うの」

「これからゆっくりでいいんじゃない。そんなに焦らなくても。……そろそろ帰ろ、喉乾いた」

「……そうだね」

そのまま何気ない話をしながら家に帰る。

「ただいまー」

「あっおかえり、もうちょっとでご飯出来るから下で待ってて」

「うん」

「分かりました」

並んでソファーに座ってテレビを見ていると、ほどなくして真琴さんから出来たよと声がかかった。

 

「ふー美味しかったよね」

「うん」

ご飯を食べ終わったあと、上の部屋に戻ってわたし達は部屋でくつろいでいた。

「私カキフライ好きだなー」

「それにしても真琴さんずいぶん飲んでたけど、大丈夫なの」

「うーん、寝ちゃったけど明日仕事休みみたいだしいいんじゃないかな?」

ママはお酒好きだけどすぐ寝ちゃうんだよね、と真央は笑いながら言う。その様子からみると本当に大丈夫そうだ。

「先にお風呂行ってきていい?」

「うん。……あっ、背中でも流そっか?」

「はいはい」

ニヤニヤしながら聞いてくる真央に適当に返して、わたしはお風呂に向かった。

「ふぅ」

そういえばシャンプーも、わたしが普段使ってるのと同じものがいつの間にか置いてあったし、真央が気を使ってくれてるんだろうなあ。

そう思いながらシャンプーを泡立てて髪を洗っているときだった。

「入るよ」

「えっ!? ちょっ……何しに来たの」

いきなり乱入してきた真央から慌てて目を逸らす。一瞬視界に入ったけど、間違いなく一糸まとわぬ姿だった。

「何って背中流しに、嫌だって言わなかったし」

いやいやいや平然と何を言ってるんだ。

「確かに嫌とは言ってないけど、いきなり侵入してこないでも」

「予告したらサプライズの意味無いでしょ、ほら髪も私が洗うから、任せて」

有無をいわさずわしゃわしゃとわたしの髪を、真央は洗い始める。

「……」

……誰かに髪を洗ってもらうのってこんなに気持ちいいものなんだ。

そのあまりの心地よさに、わたしはただされるがままになっていた。

「流すよ」

わたしはお風呂に入れられてる子供かなにかか、半分自分に呆れているうちに流し終わったようだ。

「ふぅ」

「じゃあ次は背中流すね」

「……今日はどうしてそんなに積極的なの?」

「いいじゃん別に」

「もしかして何か企んでる?」

わたしの言葉に、背中をスポンジで洗っている真央の手が一瞬止まった。

「企んでるって言ったら、どうする?」

「別にどうもしないけど」

「なーんだ、残念」

それにしてもやけに念入りに洗うな、わたしの背中ってそんなに広くないと思うけど。

「前から思ってたけど、百合って本当背中綺麗だよね」

「そう?」

自分の背中を見る機会なんてないし、実際どうなのかよく分からない。

「そろそろ流すね」

「はいはい」

背中がシャワーで流される。

「……で、いつまでいるつもり?」

わたしが湯船に浸かっていても真央はまだ外に出ようとしない。

「小さい頃はママと一緒に三人でよくお風呂入ってたじゃん」

「いや確かにそうだけど……」

わたしの抗議を無視して真央は体を洗い始めたる。

「……」

平静を装っているけど、この状況は正直相当心臓に悪い。

「ふぅ……よっと」

「あれ、もう出るの?」

「暑いから」

逃げるようにお風呂から出る。わたしは体と髪を乾かして部屋に戻った。

 

「ふわぁ……」

真央がなかなかお風呂から出てこないし、眠たくなってきた。

電気を消して目を閉じる。

「……」

不思議なものでいざ寝る体勢に入ると、なぜかさっきの真央の姿がちらついて眠れない。

何度も寝返りをしていると、ドアが開く音が聞こえた。

そのまま隣に来るのだろうと思っていたけれど、様子がおかしい。

「……んっ」

何をしてるんだろう。そう思っていると、足に人の重みを感じる。

「ねえ、百合、起きてるでしょ」

「……ん」

恐る恐る目を開けると、目の前に白のベビードールを身にまとった真央がいた。

「……」

「何か言ってよ、勇気出して着てきたんだから」

真央は顔を真っ赤にしながら覆いかぶさるように、わたしに体を寄せてくる。

「いや、その、なんていうか……」

真央の顔を直視出来ずに視線を逸らす。

「似合ってない?」

「いや、似合ってるけど露出がちょっと……ね」

「だって、百合こうでもしないとそのまま寝ちゃいそうだし」

「だからってこんな急に……ひゃっ」

真央に肩を掴まれる。

「私、本気だよ。じゃなきゃこんなことしない」

「わ、分かったから落ち着いて」

「やだ」

真央は恍惚とした目でわたしを見つめた後、顔をじりじりと近づけてきた。

「ちょっ……」

これから起こるであろうことを予想して、心臓が痛いほど高鳴っている。

「んっ」

視界の全てが真央で覆われて、そのままわたしの唇と真央の唇がそっと触れ合った。

きっとほんの数秒のことだったんだろう。

だけど、その数秒は今まで真央と過ごしてきた時間の中にはないような熱をもったものだった。

「ねえ、もう一回してもいい?」

「……いいよ」

さっきよりも深いキスをしながら、真央の指とわたしの指をぎゅっと繋ぐ。

「……っはぁ」

わたしと真央を結んでいた半透明な糸は一瞬で消えてしまう。

それがどうしようもなく切なかった。

 

「真央、本当にいいの?」

体勢を入れ替えて、今度はわたしが真央の上に腰かけるような形になっていた。

「……はぁ、本当百合はなんというか」

真央はため息をつくと、わたしの頬に右手を伸ばしてくる。

「私、百合が思ってるよりも、百合のこと好きだよ」

顔が赤くなるのが自分でも分かった。

「もう、どうして百合が真っ赤になるの。首筋とか耳まで……ふふっ可愛い」

「そんなこと言われて動揺するなって方が無理」

「だって、ストレートに言わないと百合は鈍感だから、分からないだろうし」

「……そんなことない」

「ううん、だって今もそう。私の気持ち分かってないでしょ」

怒ったようなすねたような顔で、真央はわたしの左手首を両手で掴んできた。

「ねえ、これなら分かる? 今、私がどうして欲しいか」

そのままわたしの手を自分の胸元に導く。その柔らかい感触の奥から、真央の鼓動が伝わってくる。

「……百合」

「うん、分かってる」

わたし達にもはや言葉は必要なかった。

 

 

「……ふぅ」

いつもとは違う心が満たされた倦怠感に包まれていた。

「もう朝になっちゃうね」

「……顔がニヤついてるよ」

「ふふっ、だって嬉しいんだもん。……やっと本当に百合の恋人になれたことを実感できてるから」

「……恋人イコールそうじゃないと思うけど」

「もう、そうだけど普通はそういうものでしょ」

「まぁ確かに」

「だって何ヶ月も経つのにそういう気配なかったら不安になるよ。本当に私のこと好きになってくれてるのかなって」

「受験直前にそんなことしてたら、真央は勉強に身が入らなくなるだろうし」

わたしだって我慢してたし。

「……それに真央のこと大事に思ってるから、うかつに手を出せなかったの」

「……もう一回言って」

「やだ」

「もう一回!」

正面から真央に抱きつかれる。柔らかい素肌の感触が伝わってきて、ものすごく心臓に悪い。

「……そこまで言うならもう一回するから覚悟して」

「えっ?」

わたしはそのまま真央を押し倒した。

 

 

「……ん」

「おはよ、百合」

いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。

「何か飲む?」

「……ホットココア」

「おっけー」

真央が戻ってくるまでの間で服を着てカーテンを開ける。

「んー」

軽く背伸びをしながら朝の日差しを浴びる。あまり寝ていないはずなのに不思議と体が軽い。

「はい」

「ありがと」

ベッドの上で座って、ココアを飲みながらぼんやり外を眺めていると真央が横にきた。

「ねえ、百合」

わたしの肩にもたれかかってきながら、真央は聞いてくる。

「どうしたの?」

「今日の空の色いつもより綺麗な気がするの」

「……そう言われてみるとそんな気がする」

雲がほとんどない、まさに快晴といっていい青い空を、それからしばらくわたし達は眺めていた。

 

──これからわたしはどうなるのだろう。

そんなふうに不安になるときもあるけれど、真央がこうやって隣にいてくれれば、大丈夫だろう。

「……ずっとこうしていられたらいいのに」

永遠に続くもの、変わらないものなんてないって分かっている。

「そうだね」

微笑む真央に頷き返す。

わたしも同じようにきっと上手く笑えているはずだ。

だってわたしも同じ気持ちでいるのだから。




最後まで読んで下さりありがとうございました!


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Ex.1

この部分はED後のストーリーです。chapter1〜EDまでを読んだあとにぜひ読んでくださいね〜


「ねえ、百合。明日水族館行こうよ! あっチケットはもう買ったからね」

 

──というわけで、わたしは真央に連れてこられて水族館に来ている。

「前からこの水族館来てみたかったの」

「へえ」

適当に頷きながら館内に入った。

夏休み期間中だからか、平日なのにかなり人が多い。

「いこいこ」

「引っ張らなくてもついてくから」

 

わたしが真央とこういう関係になってからあとひと月で1年ぐらい経つけど、あまり高校生のときと変わってない気がする。

こうして2人で出かけるときも、真央が行きたい場所に一緒に行って、とりとめのない話をするだけだ。

でも、こうして一緒にいる時間が増えた分だけ真央はもっとわたしにとって身近な存在になった気がする。

 

「水槽って、あっちにあった小さなものからこの大きいのまで色々な大きさがあって面白いよね」

「この水槽いくらぐらいするんだろ」

もうすごい数のイワシが泳いでいる様子を眺めながらあまりデート感のない会話をしていると、目の前をサメが横切った。

「わっすごいサメもいるんだこの水槽」

「なんかマグロみたいなのもいるし、あそこにはエイがいるし、イワシだけじゃないんだね」

しかし、あれだけいるのなら、一匹や二匹サメとかが食べたりしないのだろうか。

「ねえ百合ってさ、海好きだよね?」

「どうしたの急に」

「覚えてる? 去年私が電話したとき……確か8月の最初の方だったと思うんだけど」

真央は水槽の中の魚たちを見つめながら続ける。

「なんか、毎年海に行ってるじゃんあのぐらいの時期に」

「……そうだね」

「だから、百合って海好きなのかなって」

「……うん、好きだよ。砂浜歩いたり、波の音聞くの」

わたしは小さいときから海は好きだった。だけど特に神尾浜はわたしにとってとても思い入れのある場所だ。

「海が好きだったら、水族館も好きかなーと思ったの」

「へぇ……」

「もう、何ニヤニヤしてるの」

真央は脇腹を肘で軽くつついてきた。

「わたしの行きたそうなところだからわざわざ選んだんだって思うと、なんか……ね」

「だって、最近私の行きたいところばっかりに付き合わせちゃってるなって思ったから」

「別に真央が行きたい場所でいいのに」

「でも、この水族館に来たかったのは本当だよ。だってここには一度も来たことなかったから」

「だったらいいけど」

 

「あっ今度は向こう見に行こうよ」

「うん」

大きな水槽を離れて別のエリアを見に行く。

「クラゲをライトアップしてるんだって」

「へえ」

クラゲってたまに打ち上げられているあのクラゲか。

「うわぁ……ライトアップされるとこんなに綺麗なんだね」

「うん」

クラゲって聞いてあんまり期待していなかったけれど、結構綺麗だ。

「イルミネーションよりもなんか落ち着く」

「……いいね」

クラゲが人工的な照明で照らされて、ふわふわと水槽を漂っている。

改めて見ると不思議だ。輪郭は確かにあるのに流動的で、空を流れる雲みたいに同じままじゃない。

「なんか、百合に似てるとこあるかもクラゲって」

「え?」

呟くように真央がいった言葉に思わず反応してしまった。

「掴みどころないところ、そっくりじゃん」

「……」

「すぐにどこかに漂って行きそうなところ、百合にはあるし。でもそんなところも私は好きだよ」

「……なにそれ」

「照れてる〜」

「……照れてない、行くよ」

「あっちょっと!」

 

「あー楽しかった!」

「確かに、思ってたより面白かった」

電車から降りたあと、2人で並んで家に帰っていた。

「……あのさ」

「ん?」

「今度は本当に真央の行きたいところにさ、行こうよ」

「……私は百合とだったらどこでも楽しいと思うけどな」

冗談めかした口調で真央は言うけれど、これはきっと真央の本心な気がする。

「ねえ、百合」

少し歩くペースが遅くなった。

「だったら百合がさ、行ってた海に行ってみたいな」

想定してなかった答えに少し考え込んでしまった。

「いいよ。じゃあ来月一緒に行こ」

「……いいの?」

「真央が行きたいって言ったんでしょ」

「そうだけど」

真央の複雑そうな顔を見て、思わず笑ってしまう。

「もう、どうして笑うの」

「わたし、真央のそういう顔好きだよ」

「……バカ」

わたしの肩を軽く叩く真央を見て、またわたしは笑ってしまった。



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Ex.2

EX1より数年後の話です。EX1と同様にこの章はぜひEDまで読んでから読んで頂けると幸いです。


「あれ……寝ちゃってた」

机に突っ伏した状態でどうやら私は眠ってしまっていたみたいだ。起き上がったところで、体にタオルケットがかけられていたことに気づく、百合がかけてくれたんだろう。

机の上を見て、さっきまで二人でお酒を飲んでいたこと思い出した。

「……もう、幸せそうに寝ちゃって」

百合は何も被らず、ソファーの上で寝息をたてている。

「うふふ……やっぱりかわいいなぁ」

最近の百合は中学や高校のときと比べて表情が柔らかくなったと思う。まあ、めんどくさいとか、だるいとか言う頻度はあんまり変わってないんだけど。

「えい」

頬を軽くつついてみると、柔らかい感触が返ってくる。

私は前からこうやって寝顔を見るのが好きだった。百合とこういう関係になって、一緒にいる時間が増えたけれど、一番嬉しかったことはこうやって寝顔を遠慮なく見れるようになったことかもしれない。

「……ねえ」

「ひゃっ! びっくりした。……ごめん起こしちゃった?」

「もし寝てたとしても、ずっとほっぺたをつつかれたら目が覚めるでしょ普通」

「ごめん」

「別にいいよ、正直まだ飲みたい気分だったし」

百合は起き上がると、グラスを二つ持ってきた。

「えーさっき片付けたのに、それに明日大学あるのに……」

「いいからいいから」

「もう、しょうがないなあ」

 

「……百合ってお酒強いよね」

「そんなことないよ」

「私すぐ眠くなっちゃうからちょっと羨ましいなあ」

「まあ、一人で飲むのも嫌いじゃないから別にいいよ」

「むう、なにそれ」

そんなふうに言われるとちょっとムッとしてしまう。

「……ふう」

グラスの中で氷がからんと音をたてる。百合はかなり早いペースでさっきからウイスキーを飲んでいた。

「飲みすぎじゃない?」

「大丈夫大丈夫、もし何かあっても真央が介抱してくれるでしょ」

「もう」

「冗談だよ」

少し赤らんだ顔で、百合は私をじっと見てくる。

「どうしたの急にじろじろ見て」

「なんか不思議だなって思うんだよね」

「何が?」

「……想像できなかっただろうなって思うんだよね、今こうしていると」

ウイスキーをグラスに注ぎ、同じぐらいの量の水を注いで軽くマドラーで混ぜる。私はウイスキーを飲まないからよく分からないけど、百合はこの飲み方が好きらしい。

「一番辛かったときのわたしに、今のわたしのことを言ったら驚くんだろうなって」

「……ふうん」

百合が何を言いたいのか私にはよく分からなかった。

 

「ねえ、どうして真央はわたしと一緒にいてくれるの?」

「もう、どうしたの急に恥ずかしいよ」

百合は何も言わずに立ち上がって、わたしの方にゆっくりと歩いてきた。

「もう、ふらふらしてるよそろそろ……ちょっとどうしたの」

「……真央の体と、心に聞いていい?」

「百合どうしてそんな顔……」

おどけたような口調とはうらはらに、百合は今にも泣きそうな顔で私にキスしてきた。

「ごめん、嫌だったら言って」

私は何も言わなかった。百合らしくない強引さといつもと違う唇の味が本当はちょっと嫌だったけど、何も言えなかった。

 

「……わたし、今でも不安なんだ」

百合はぽつりと呟いて、手を繋いだまま私の胸に顔を埋めた。

「……」

「たまに今みたいな時間が突然終わっちゃうんじゃないかって不安になるの。贅沢だよね、高校生のときよりずっと色々満たされてるはずなのに」

「……私だって」

突然百合がいなくなっちゃうんじゃないかって、今でも不安になってしまう。

「……うん。そうだよね。だからこうやって一緒にいようって決めたんだ」

百合はふっと笑顔になった。

「だから、手を離しちゃダメだよ。わたしが死ぬまで」

「……そんなこと言わないの」

お返しに私も百合の頬にキスをした。

 

「もう、結局寝過ごしちゃったじゃん」

「真央が離してくれなかったからね」

「もう、またそんなこと言う……このままじゃ単位落としちゃうよ」

「大丈夫だって、なんとかなるよ」

「もう」

少し悪い笑みを浮かべる百合の横顔を見て、私は短くため息をついた。

また私は百合にこうやって振り回されるんだろうな。でも、それが嫌だとは少しも思わない。

結局私は百合に勝てないみたいだ。



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Ex.3

ファースト√のアフターストーリーです。未読の方はぜひそちらから読んでください。


「……」

「何見てるの?」

「んー別に」

 晩ごはんとお風呂を済ませて、ようやくゆっくり出来る時間になっても、最近の百合はずっと本を読んでいる。

「小説?」

「そ」

 ブックカバーがかかっているから、タイトルとか著者名とかは分からない。

「どういう内容?」

「うーん」

 明らかな生返事。その証拠に、百合の目は本から一度も離れていない。

「面白いんだ、それ」

 百合の肩によりかかるようにして本を覗き込もうとしてみる。

「……」

 百合は何も言わずに本を自分の顔の方に近づけて、私に見えないようにした。いつもだったら暑いとか重いとか言ってくるのに。

「はぁ」

 邪魔したら悪いって分かってるけど、最近百合は私のことを放って置きすぎだと思う。

「……」

 真剣な、というよりは無表情って表現したほうがいいような顔で百合は本を読んでいる。

 周りが見えなくなるほど面白いんだったら、もっと表情に出ると思うけど、ずっとさっきの調子だし。

 

 

「百合〜そろそろ遅いよ」

「うん」

「……もう!」

 そっと本を取り上げると、百合は驚いたように瞬きをした。

「そろそろ終わりにしたら?」

「……うん」

 

 

「どうしたの?」

 ベッドに並んで横になったときに、不意に百合が聞いてきた。

「何が?」

「さっきから機嫌悪そうだから」

 寝返りをうって、百合の方に身体を向ける。

「機嫌は悪くないよ。ただ……」

「ただ?」

「気になるの、急に本を読みだしたと思ったらずっとそればっかりでしょ」

「……そうかな?」

「そうだよ、何か変だもん」

「何か難しいから、集中して読まないとあれだし」

「ふーん」

 納得できてはないけど、納得したようなふりをしてみると、百合は不思議そうな顔をした。

「……怒ってる?」

「ううん」

「じゃあ、何?」

 相変わらずにぶいくせに、本気で拗ねたくなる前にだいたいは気づいてくるところがずるい。

「じゃあ、もし私が怒ってるって思うんだったら、百合はどうしたらいいと思う?」

 甘えたような声を作って、百合をじっと見つめてみる。

「……」

 百合の言葉を待っている今の私、きっとすごく物欲しそうな顔してる。

 

 

「理由が分からないと謝るにも謝りようがないっていうか……」

「へー、謝ればいいと思ってるんだー」

「……教えてくれないと分からない」

 困ったように眉を寄せる百合を見てたら、なんかいじわるしてるみたいな気分になってきたし、今日は許してあげることにした。

「……ぎゅっとして、今日はそれで許してあげる」

「……ごめん」

「謝らなくていいの……でも、もっと私のこと大事にしてよね」

 私の胸に顔を埋める百合はなんか子供みたいで、とっても愛おしく思える。



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Ex.4

ファースト√のアフターストーリーです。未読の方はぜひそちらから読んでください。


うーむ」

改めて考えてみても不思議なものだ。同い年なのにこうも違うものなのか。

「〜♪」

上機嫌なのか、鼻歌を歌いながら洗いものをしている真央を眺めていて思った。

目線を顔から下に向けてみる。

服の上からでも確かな存在感のあるその一対のもの。

あえて言葉で表現するのならたわわ? たぷんたぷん? いや、ぼい──

「え、なにどうしたの」

「いや、なにも」

「そう」

真央の目線がわたしから手元の食器に戻ったことを確かめて、わたしはもう一度真央の胸元を見た。

「……」

バカなこと考えてるなぁって自分でも思うけど、真央のおっぱいはどうしてあんなに育ったんだろう。

「うーん」

真琴さんのモノのことをやっぱり遺伝というやつ……なのかな。

それとも何か他に秘密でもあるのだろうか。

「で、さっきからどうしたの?」

洗い物を終えると、真央はわたしの隣に座ってきた。

「……別に」

「本当に?」

「うん」

真央のおっぱいのことを考えてた、なんて言ったら怒られそうだし黙っておくことにした。

 

 

「……」

シャワーを浴びて自分の身体を洗っていても、頭の中に思い浮ぶのは真央の裸体だった。

自分の胸を触ってみる。

なんか、あるんだかないんだか分からない程度しかない自分と比べると、やっぱり真央はすごい。

「ふぅ……」

何を考えてるんだ、わたしは。

身体と髪を乾かしたあと、自分の頬をぺちぺちと叩く。

「ねぇ、百合そろそろ寝よ」

「うん」

正直わたしはまだそこまで眠くはないけど、真央と一緒にベッドに行くことにした。

 

 

なんだろう、何か悪いことをしたわけでもないのになんか気まずい。

真央に背中を向けてわたしは壁を見つめていた。

「ふわぁ……電気消していい?」

「うん」

間接照明のぼんやりした灯りに包まれた部屋に、真央とわたしのふたりきり。

もう慣れた、って言いたいところだけど、今日のわたしはなんかおかしい。

「……」

真央はいつものようにわたしの方に身体を寄せてくる。

「ねえ、百合」

「何?」

「こっち向いて?」

「え」

「いいから、ほら」

そう言いながら真央はわたしの腕を引っ張る。

「何か言いたいこと、あるでしょ」

「いや、その」

「もう、隠しごとするぐらいだったら、正直に言ってよ。心配になるじゃん」

「怒らない?」

「……内容による」

そこは怒らないって言うところだと思う。

「真央のおっぱいのこと、考えてた」

一度こうなるともはやこれまで、観念するしかない。

「……え?」

戸惑いと呆れが混じった複雑な顔を真央はする。

「真央の、おっぱいの」

「いや聞こえたよ、そういうことじゃなくてさ……」

真央は考えごとをするように、自分のこめかみを人差し指でつつきながら首をかしげた。

「で? どうして、百合さんは私のおっぱいのことを考えていたんでしょうか?」

……やめて。そんな軽蔑の目で見られるよりは怒られる方がマシだ。

「別に変な意味じゃなくて、純粋に不思議だなって思ったの」

「……どういうこと?」

「ほら、わたしと真央ってそんなに違わないじゃん。生まれた場所も、住んでるところも」

「……」

真央は黙ってわたしの顔を見つめていた。

「なのに、こんなに違うのって不思議だなって話」

「まあ、ひとまず安心したけど……心配して損した」

真央はため息をついた。

「ごめん」

「いいよ」

真央はわたしに背を向けて、本格的に寝る体勢に入ったみたいだ。

「……」

ダメだ、わたしも寝ようと思って目を閉じていたんだけど、どうしてか真央の裸体が頭に浮かんで眠れない。

 

 

ときどき不安になることがある。

私が百合のことを好きな気持ちと、百合が私のことを好きな気持ちが釣り合っていないことに。

わがままだって分かってるけど、もっともっと百合に私のこと好きになって欲しい。

「……はぁ」

なんて言ったらきっと百合は面倒くさがるんだろうなあ。

お風呂から出て、リビングに戻ると百合は本を読んでいた。

「……」

真面目な顔をして、本を見ている眼差しがやっぱりとっても様になるなって思うのと同じぐらい、私にその顔を向けてくれないのがいらだたしかった。

「前も読んでたよね、それ」

「……うん」

隣に座って話しかけても、私のことを全然気にしてくれない。

それに、さっきからページをめくる手が動いていない。

思わず百合の頬に手を伸ばしそうになって、やめた。

もしかして何か考えごとでもしてるんだったら邪魔したら悪いし。

「先にベッド行ってるね」

そう言って私はリビングから出た。

 

 

「……」

このベッドはひとりで寝るのにはちょっと大き過ぎる気がする。

自分で選んでおきながら、私はそんなことを考えていた。

しばらくしてからドアが開く音がして、百合が隣にくる。

「……」

私に背を向けて、壁の方を見ている華奢な背中に触れたくなってしまう。

百合は私のおっぱいが好きなのだとしたら、私は百合の首筋と肩が一番好きだ。

守ってあげたくなるって言うと変かもしれないけど、とにかくぎゅっと抱きしめたくなる。

「……百合、まだ起きてる?」

「どうしたの」

「ぎゅー」

そう言いながら、私は百合の後ろから抱きついた。

「え、なに急にどうしたの」

「百合は好きなんでしょ私のおっぱい。だからサービス」

百合の身体ってあったかい。私よりも体温がきっと高いんじゃないのかなって思う。

「……ねぇいつまでそうしてるの?」

「私が満足するまで?」

みるみる耳が赤くなっていく、百合は本当に色白だからはっきり分かる。かわいいなあ。

「……そろそろ満足した?」

「まだ足りないけど、ま、いっか。ねぇ、こっち向いて」

「なに」

ちょっと困ったような顔をしている百合に手を広げてみせる。

「今度は百合が満足するまでぎゅっとする番だよ」

「わたしはいいよ……」

「もう、遠慮しなくていいから。おいで」

「……」

観念したように百合は私の胸元に顔を埋めて、背中に腕を回した。

大好きな百合に、今抱きしめられている。

ありきたりな表現だけど、とっても幸せで満たされる。

私の体温と百合の体温が重なって、混ざりあって熱をもってゆく。

……このままひとつになれたらいいのに。

そんなことを思いながら、私は百合に抱きしめられていた。



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Ex.5

「……」

なんか今日は真央の機嫌が悪い。

わたしに対してどうこうというわけじゃなくて、表情だとか、ちょっとした仕草とかからなんとなくわたしが感じてるってだけだけど。

 

 

……うーんどうしたものか。

シャワーを浴びながら考えてるけど、いい案が浮かぶことは今のところなさそうだし。

「あっつ……」

髪を乾かしながらリビングに戻る。

 

 

いつもだったらちゃんと服着なよ、とか早く髪乾かしなよ、とか言って来るんだけど、真央はちらりとこっちを見たあと何も言わずに目を逸らした。

「……」

何も言わずに真央の横に座る。

テレビの音が控えめに流れるなかで、わたしも真央もずっと黙っていた。

 

 

きっと、真央もわたしが何か言いたげにしてるって分かっている。

わたしだって、真央が何か言いたいことがあるんだろうって分かってる。

 

 

こういうとき、どうしたらいいんだろう。

わたしがどうしたのって訊ねてしまえば、きっと真央は話してくれるんだろう。だけど、それじゃいけない気がする。

 

 

「ごめん、私が悪いんだ」

「……何もが謝られるようなことないと思うけど」

「ううん、百合は本当に悪くないのになんかイライラしちゃって……」

「何かあったの?」

「聞かないで! ……話したくない」

そう言って真央は泣くのを我慢するような顔のまま、黙り込んでしまった。

「……分かった」

真央を残してわたしはリビングを出た。

 

 

「ふぅ……」

ベッドに倒れ込んで、大きく息を吐いた。

──昨日は別に真央に変わったところはなかったと思うけどなぁ……。

まあわたしが気づいてなかっただけ、ってだけかもしれないけど。

まあでも、ああ言ってる以上余計に詮索されたら嫌だろうし、そっとしておくのが一番いいはず。

 

 

 

 

「……」

ベッドに入ってどれぐらい経ったのかは分からないけど、そろそろ寝落ちしそうになってきた。

今日朝早かったからなぁ……こんなことになるなら昼寝でもしておけばよかった。

まぶたが重い。

重いけどもう少し頑張るか。

 

 

「……ん」

足音が聞こえた気がして目を開けると、ドアが開いて真央がゆっくりとベッドに入ってきた。

「ごめん起こしちゃった?」

「ううん、大丈夫。頑張って起きてた」

「……ごめん」

「なんで謝るの、わたしが好きで起きてただけだし」

「……だって」

真央はポロポロと涙を流し始めていた。

「無理しなくていいよ。真央が話すまでわたし待ってるから」

真央の涙をそっと指で拭く。

「──うえっ」

急に真央に抱きしめられて、思わず変な声が出てしまった。

「……ありがと、でも大したことじゃないから」

真央は感情が豊かというか、たぶん他の人より感情に敏感だと思う。

まあ、そういうところがあるのは前から知ってたけど、付き合ってから、よりそういう一面を見ることが増えた気がする。

「……そ、分かった」

……真央にいつだったか、わたしのことを全部知りたいみたいなこと言われたなあって、ふと思い出した。

知りたい。誰かに対してそう思うってことは、その相手のことが好きだってことなんだろう。

そのときは不思議というかちょっと怖いなって思ったけど、今なら分かる。

真央という存在は時間をかけて、今よりもっとわたしにとって近しくて、大切なものになるはずで。

それは真央にとってのわたしも一緒だと思う。

だからゆっくりでいい。

 

 

それから数日後、真央から不機嫌の理由の理由を聞いたわたしは思わず笑ってしまった。

「……つまりわたしが冷蔵庫のケーキを勝手に食べたと思ったら、そもそも自分で食べていた……と。ぷぷっ」

「だからくだらないことだって言ったじゃん……もう」

「ごめんごめん、でも安心した」

そう言いながらわたしをポカポカ叩きながらも、真央も最後は笑顔になっていた。



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Another chapter1

このAnother chapter1はすでに完結済のルートとは別ルートとなります。

内容は独立しているのでこのルートだけでも、お楽しみ頂けると思いますが、前のルートを読んでから見て頂ければより楽しめると思うのでぜひ前ルートもよろしくお願いします。


「……」

何か夢を見ていた気がする。

それが白昼夢なのか、本当に眠りに落ちて見た夢なのかは分からない。

ただ何か夢を見たという感覚だけが残っている。

その内容は……よく思い出せなかった。

「えー、この状況から──」

間延びした教師の声で、今が授業中だということに気がついた。

別に寝てたって起きてたってたいして変わらないからいいけれど。

「んっ……」

軽く体を伸ばして教室の前方に視線を向ける。

今日最後の授業が終わるまであと少し、早く学校から開放されたい。

そんなことを考えながらぼんやり窓の外を見る。

そういえば最近は雨が多い気がする。まだ梅雨には早いはずなのに。

窓の外に降りしきる雨を眺めているうちに授業は終わった。

 

雨が好きとまでは言わないけど、今のわたしの気分には青空よりも灰色の空の方が落ち着く。

「……」

電車に一人で揺られていると、ときおりもの悲しい気分になる。

どうしてわたしは今、ここにただ一人でいるのだろう。

ふとしたきっかけで、どうしようもないことをこうやって考えてしまう自分がどうしようもなく情けない。

もうさんざん考えてきて、どうしようもないって分かっているはずなのに、ああすれば違ったのかもしれないっていう後悔が襲ってくる。

「……」

電車を降りると、雨がさっきよりも激しくなっていた。

「いいか……もう」

折りたたみ傘を鞄にしまったまま、わたしは駅の外に出る。

雨音の中をただ家に向かって歩く。

本当だったら鼻歌を歌いながらスキップで帰ったほうがらしいだろうけど、わたしはそこまで能天気じゃない。

「さむ……」

家に着いたときには体の芯まで冷えていた。玄関で靴を脱いでから急いでシャワーを浴びる。

いつもより体が温まった気がするし、風邪はひかないだろう。

「ん?」

ソファーの上で横になっているとチャイムが鳴らされた。何か注文した覚えはないけれど、いったい誰だろう。

めんどくさいから居留守をしようと思ったところで、今度はケータイが鳴った。

「もしもし」

「あっ、百合今家にいる?」

「……ひょっとして今チャイム鳴らしたの真央?」

「うん」

「開けるからちょっと待ってて」

ソファーから起きて玄関に向かう。

「どうかしたの」

「うん、ちょっとね」

こんな雨の中隣とはいえ、わざわざ直接来るのだから何か用があるのだろう。

「雨降ってるし入ったら」

「あっ、うん。お邪魔します」

「……それで?」

「ああうん、相談ってほどじゃないんだけど」

どこか歯切れが悪い真央にわたしは違和感を感じた。

「……ねえ百合、急にどこかに行ったりしない?」

予想してなかった言葉に、思わずわたしは真央の目を見つめた。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「どうしてって、そんなの」

言ってはいけないことを言ってしまったことに、真央の声のトーンと表情でようやく気がついた。

「……ごめん、わたしが悪かった」

「うん、いいの。……あっそうだ、明日の午後のホームルームは文化祭についてみんなで話し合うって先生が言ってたから、百合もちゃんと参加しないとダメだよ」

「……分かった」

「じゃあ、また明日ね」

真央は笑顔でわたしに手を振ってくる。

「うん」

ドアが閉じられるのと同時に、思わずため息をついてしまった。

自分の間違いに気づいたときには、どんなこともたいてい取り返しがつかない。

分かっていても、どうして上手く出来なかったんだろう。

いつも以上の自己嫌悪に襲われながらわたしはソファーに倒れ込んだ。

 

2

風の音が聞こえる。

気がついたらわたしは見知らぬ公園のベンチに座っていた。

わたしは元から一人でここにいるはずなのに、隣で佇んでいる人がいるような気がする。

誰だろう、と辺りを見回してもそこには誰もいない。

ただ、いたはずの誰かがいないような感覚が残っている。

きっとその誰かがいたときは、いなくなったらこんなことを考えるなんて想像もしなかっただろう。

「……っ」

突然の寒気で目が覚める。

気持ち悪く感じるぐらいにわたしは汗をかいていた。たぶん寒気の原因はこれだろう。

「はぁ……」

シャワーを浴びて汗を流すと、少しは気分がましになってきた。

髪を乾かしたあとでリビングに戻る。

いつもより一時間以上早いけど、制服に着替えたし学校に行くことにした。

「あ」

どうせいつもより早く家を出たのだから、いつも寄るコンビニじゃなくて、昔からある個人がやってるあのコンビ二に行けばよかった。

まだ時間に余裕はあるけど、引き返すのもめんどくさい。結局いつも行くコンビニに寄ってから学校に向かった。

あと30分もすれば、人が増え始めるであろう校門もわたし以外誰もいない。

「ふう」

校舎の近くの木陰のベンチに座って、さっきコンビニで買ったアイスココアを飲む。

「ふわぁ……」

何をするでもなくぼんやりしていると、突然誰かから声をかけられた。

「隣、よろしいですか?」

声の主は女子生徒だった。誰が見ても目をひかれるくらいの美人で、風になびく黒髪はきっと相当手入れをしているんだろうな。ありきたりだろうけど、わたしはそんな感想を持った。

「……どうぞ」

わたしは急いで脇に置いていたビニール袋を自分の左側に移動して、スペースを開けた。

……別に構わないけれど、どうしてわざわざわたしの隣に座って来たのだろう。ベンチはこれ以外にもいくつもあるのに。

「貴方が朝倉百合さんですよね」

その女子生徒は笑顔でわたしにこう話しかけてきた。

向こうはどうしてわたしの名前を知ってるのだろう。もしかして初対面じゃないのか。

「……そうですけど」

そういえばどこかで見たことのある顔な気がする。生徒会長かなんかをやってて名前は確か椿原花恋とか言ったような……。

「うふふ、はじめましてですよね。わたくし、椿原花恋と言います」

笑いながらすっと、椿原は距離を詰めてくる。

「朝倉……いえ、百合さんは今日、桜井さんと一緒ではないのですか?」

「そうだけど」

「珍しいですね、特に3年生になってからはいつも桜井さんと一緒にいるって噂になっていましたから」

「……別に噂になった覚えはないんですけど」

「では、実際のところはどうなんですか?」

椿原は笑顔を浮かべながら、さらに距離を詰めてくる。

「どうなんですかって何が」

「例えば、桜井さんとお付き合いされてるとか」

「……は? いやいや付き合ってない付き合ってない!」

いったい誰がそんなことを……。

「本当ですか?」

椿原はじっとわたしの目を見つめてくる。

「本当ですって……」

わたしと真央は周りから見たらそういうふうに見られていると思うと、少し心配になってきた。

「でも、いつも一緒にいて、ときおり周りの目の気にせずにいちゃついているって聞いたら。そういう関係なのかって勘繰ってしまいますでしょう?」

「だから付き合ってないですって……」

「うふふ、ごめんなさい。思っていたよりも百合さんの表情が豊かでつい少しからかいたくなってしまいました」

「からかいたくなったって……」

どうして初対面の同級生に弄ばれてるんだ、わたしは。

「それでは、わたくしはこれで。今度はぜひ生徒会室に遊びに来てくださいね」

椿原は立ち去って行く前に、わざわざわたしに向かって微笑みかけてきた。

「……」

なんだろう、きっとああいうのを魔性って言うんだ。

椿原の後ろ姿を見ながら、わたしはそんなことを思っていた。

 

3

「ふわぁ……」

思わずあくびが出てしまうぐらいには午後のホームルームはいつにも増して退屈だ。

黒板には、クラス展示、夏祭りの屋台、お化け屋敷、喫茶店と、今の時点で挙げられた案が書かれている。

それにしてもこれに参加しろって言われても、どうすればいいのだろうか。

「じゃあ、この中から多数決で決めようと思います。自分が一番やりたいと思ったもののところで一人一回手を挙げてください」

「ねむ……」

机に突っ伏してこの時間が終わるのを待つ。

「……」

今日は早く目が覚めたせいか、いつもよりまぶたが重い。

「……ん」

「もう、また寝てたんでしょ」

目が覚めると真央が前の席に座ってわたしの顔を覗き込んでいた。

「途中までは聞いてた」

「それじゃ意味ないじゃん。もう、今年は私達がしっかりしないといけないんだからね。それに……」

「で、結局どうなったの?」

お説教が始まりそうな予感がしたから、さほど興味はないけれど話題を変えるために、話し合いがどうなったのか聞いてみる。

「……あーうん。うちのクラスは喫茶店やることになったよ、服装とかをどうするか具体的にはまだ決まらなかったけど」

「ふうん」

「今年はちゃんと参加しないとダメだからね」

「はいはい」

そのときちょうどチャイムが鳴って、真央は自分の席に戻っていった。

 

「やっと終わった……」

最後の授業が終わり、やっと学校から解放される。わたしは足早に教室を出た。

家に急いで帰って、今日は寝よう。

「……」

しかし、電車に揺られているとどうにも眠たくなる。……どうにも今日はいつもよりも眠たくて仕方ない。

「……あ」

ぼーっとしているうちに、ずいぶん乗り過ごしてしまった。というかもう次が終点じゃないか。

街中まで来てしまったし、買い物でもして帰るか。とりあえず近くのショッピングモールに向かって歩く。

「あっ」

そういえばここ、映画館あったな。今、何がやってるんだろ。

買い物をする前に少し見ていくことにした。

 

「うーん」

改めてチラシやポスターを眺めてみると、想像していたよりも多くの作品がある。

でも、今の時間からすると恋愛映画とかコメディ映画ばっかりであまり興味がないものしかない。

仕方ないし帰るか、そう思って振り返ったときだった。

「ねえ、そこのアナタ」

さっきから金髪ツインテールの目立つ少女が、視界の端に見えて気になってはいたけれど、まさか声をかけてくるとは思わなかった。

「誰かと来てなくて……その、一人だったらさ、あたしと一緒に映画見ない? チケットたまたま二枚あってさ」

わたしよりは年下だろう。着ている制服がこの辺りの有名私立中のものだし。

……なんというか、容姿を含めて普通にその辺にはいないような存在感がある。

「ね、ねえ。黙ってないで何か言いなさいよ」

今までずっと得意げな顔をしていたのに、急に上目遣いでわたしを見てくる。

「……でもどうしてわたしなの?」

「それはほら、その、アタシと釣り合いそうなの今はアナタぐらいしかいないし」

なんというか、おかしな子だ。絵に描いたような天真爛漫お嬢様って感じだ。

「ふうん……まあ別にいいけど」

「本当!? じゃあ早く行こっ!」

なんか、一瞬犬が尻尾を振る姿とこの少女の姿が重なってなんか可愛らしく思えてしまった。

 

「……」

何の映画か聞かなかったわたしが悪いけど、まさかサメ映画だとは思わなかった。

脚本はめちゃくちゃで、正直B級感がすごかったけれど、意外と面白い。

巨大なサメがビル群をなぎ倒しながら人間達に襲いかかり、人間達はサメから車で逃げたりチェーンソーで立ち向かったりと、絵面がとにかく派手で、退屈しなかった。

「あー面白かった!」

「まさかサメ映画を見せられるとは思わなかったけど」

「あっ……やっぱり嫌だった?」

「別に、意外と面白かったし」

「じゃあさ、またアタシと遊んでよ。なかなか今日みたいに時間はないけど」

そう言いながら、その少女はメモを差し出してきた。

「はいこれ、よかったら登録しといて、電話番号とメルアド」

「あ、うん」

「アタシ、車待たせてるから。じゃね」

そう言うとツインテールを揺らしながら、走って行ってしまった。

「あっ」

渡されたメモに書いてあった名前をみて思わず声が出る。

椿原明日葉(つばきはらあすは)って言うんだあの子。

同じ名字だし、姉妹だって言われたら、あの生徒会長と似てるかも、そんな感想をわたしは持った。



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Another chapter2

このchapterはAnother chapter1の続きとなっております、未読の方はぜひそちらからお願いします。


1

いつもソファーの上で寝ているせいか、ベッドの寝心地の良さが分かる気がする。

「……っと」

体が軽いとまではいかないけど、体調はだいぶ良くなった。

一時間目の途中で急に頭が痛くなってきたので、休み時間に真央に言って保健室で寝ていたわけだけど、気がついたらもう12時を過ぎている。

「?」

あれ、誰か隣のベッドにいる。別に珍しいことでもないのだろうけど、どうしてかそのことが気になってしまった。

四時間目が終わるまで時間を潰して戻るか、そんなふうに考えていたそのとき、電話が急に電話が鳴り始めた。

わたしのケータイの着信音じゃない、どうやら隣のベッドの人のケータイのようだ。

「はい花恋です。ええ、聞いていますわ」

聞き覚えがある声、それに花恋というつい最近聞いた名前。隣のベッドにいるのはどうやらあの生徒会長様らしい。

「ええ、そのことはすでにお父様に話してありますから。ええ、よろしくお願いします」

どうやら電話は終わったようだ。

「すみませんうるさくしてしまって……あら?」

仕切りのカーテンを少し開けてこっちを見る椿原と目が合う。

「……どうも」

「隣に誰かいらっしゃると思ったら百合さんだったんですね。体調の方は大丈夫ですか?」

「寝てたらだいぶ良くなった」

というか、この生徒会長さんは体調が悪いようには見えないけど何してるんだろ。

「そうですか、それはよかったです」

椿原はふっと笑う。

「突然ですが実はわたくし、この前少しお話させてもらったときに確信したんです」

「は、はぁ」

椿原はわたしの目をじっと見つめてくる。

「誰かから聞くのではなく、貴方がどういう人なのか、自分で確かめてみたいんです」

「……どういうこと?」

言葉の真意が分からない。いったい何が言いたいんだろう。

「ふふっ、要するにわたくしとお友達になってもらえませんか、ということです」

「え」

予想してなかった答えだ。

「嫌……ですか?」

「別に嫌じゃないけど、その、予想してなかった答えでちょっとびっくりしたってだけ」

「自分からこういうこと言うのが初めてで緊張してしまって」

まあ確かに椿原は誰かに声をかけるというよりも、かけられる側だろう。

「あっ、もうそろそろ授業が終わりそうですね。では……これを」

おもむろに椿原は制服の胸ポケットからメモ帳を取り出す。そのままさらさらっと何かを書いて、破った1ページをわたしに差し出してきた。

「わたくしの連絡先です」

受け取った紙片にはメモ携帯の番号とメールアドレスが書かれていた。

「あ、どうも」

「よろしければ、百合さんの連絡先も教えて貰えませんか?」

「あっ、うん。……これがアドレスで、こっちが電話番号」

携帯を取り出して椿原に画面を見せる。

「ふふっ、ありがとうございます。ではまた」

椿原が保健室を出るのとほぼ同時にチャイムが鳴った。

 

「大丈夫?」

教室に戻ったら、真央が心配そうな顔をしながらわたしに聞いてきた。

「寝てたらよくなった」

「朝よりは体調良さそうに見えるし、ちょっと安心した。でも、無理しちゃダメだよ」

「うん」

真央は少し大げさだ、保健室に行ってただけでそこまで心配することない。そもそもそんなに体調が悪いならわたしはさっさと帰る。

いつもサボっちゃダメだとか小言を言うくせにこういうときはやけに過保護なところが、真央らしいと言えばそうかもしれない。

「……やっと終わった」

結局、午後の授業もいつもと同じように起きてるのか寝てるのか分からない感じで、ほとんど座ってるだけだった。

授業が終わるとわたしは、いつもと同じように足早に教室を出た。

「……」

喉がかわいたので、ソファーから体を起こして冷蔵庫から水を取り出して飲む。

「……ふう」

もう空が明るくなってきている。今から寝るのは諦めた方が良さそうだ。

幸いにも今日は土曜日だから、眠気が来るまで起きていても大丈夫だろう。

しかし、こんな朝早くからやることもないしどうしたものか。こういうときに何かやることがあったらいいなと思う。

真央から前に百合は何か趣味(そういうもの)を作るべきだよ、と言われたことがあったけど、本当にそうかもしれない。

少し風に当たろうとわたしは外に出た。

何の目的もなく、ぶらぶらと家の近くを歩く。

この時間の空気はなぜか澄んでいるように感じるのが不思議だ。

公園のベンチでさっき買ったアイスココアを飲んでいると、小さな女の子とそのお母さんらしき人がわたしの前を通っていった。

「……」

わたしもこんなふうに手を引かれていた頃があったのかと思うと、つい過去の自分の行動を後悔してしまう。

自分でこうすることを決めたのに、どうしてこんなことを考えているのだろうか。

その気持ちを振り払うようにココアを飲み干してわたしは家に戻った。

2

「ん……」

睡眠時間は十分足りているはずなのに、ソファーから起き上がれないまま、わたしは日曜日の夕方を迎えていた。

さすがに何かしたい、何かしないといけないという危機感めいたものはあるけれど、その何かを思いつけない。

こういうときに限ってテレビ番組はろくなものがないし。

リモコンを左手で弄んでいても時間はなかなか過ぎない。昨日みたいにぶらぶらと外に出てもなあ。

リモコンをテーブルに戻したちょうどそのときにケータイが鳴る。どうせ真央だろうと思って画面を見ると、椿原明日葉と表示されていた。

「もしもし」

「あっ、えっと今大丈夫だったりする?」

「大丈夫だけど」

「……えっと、もし良かったら息抜きにちょっと付き合ってもらえない? 具体的には映画とかゲームセンターとか」

「……その二つだったらゲーセンの方がいいかな」

B級映画は別に嫌いじゃないけど、今日は映画って気分じゃない。

「て、ことは付き合ってくれる?」

「まあ、いいけど」

そんなに露骨に嬉しそうにされると、なんか照れる。別にたいしたことじゃないのに。

「じゃあ、この前映画見たショッピングモールの最寄り駅にあるゲームセンター分かる? 駅のすぐ近くのとこ」

「うん」

最近は行ってなかったけど、前はよく行っていた場所だし説明されるまでもない。

「入ってすぐのクレーンゲームのとこで待ち合わせでいい?」

「分かった」

「じゃあまた後で〜」

そういうと明日葉は電話を切った。

 

「……」

クレーンゲームコーナーをぐるっと回って来たけれど、明日葉の姿はなかった。どうやらわたしの方が先に着いたらしい。

ただ突っ立ってるのもあれだし、目についたお菓子が景品のものをやって待つことにした。

「うーん」

久々にやると思ったよりも上手くいかない。結局1つ取るのに手持ちの100円玉を使い切ってしまった。

ちょうど千円札を崩しているときに明日葉が小走りで中に入って来るのが見えた。

「ごめんごめん待った?」

「そんなにかな」

「急に誘ったのにずいぶんと早かったよね、もしかしてアタシにそんなに早く会いたかった?」

得意げな顔で明日葉は胸を張る。

「いや、単純に暇だっただけ、それにわたしここよく来てたし」

「そういうときは冗談でもそうだって言うべき、絶対!」

「はいはい……で、何やるの?」

「あれ欲しいなーあのぬいぐるみ」

明日葉は隣の筐体にいるブサイクな猫のぬいぐるみを指差す。

「え、あれ?」

思わず聞き返してしまった。どうやらこういうのが好きなタイプみたいだ。

「そうそうかわいいじゃん」

そう言いながら明日葉は硬貨を筐体に入れる。

「この辺かな、えいっ」

「いいんじゃない」

二人して中を覗き込むようにしてじっと見る。

「あー! もう!」

アームで掴んだところまではよかったけれど、運ぶ途中で落ちてしまった。

「終わったのにボタンを叩いても出てこないでしょ」

「あったまきた! 絶対取るから」

「……」

そんなに熱くならなくても良さそうだけど、見てて面白いので黙っておくことにした。

 

「おめでとう、取れてよかったじゃん」

「まあね、アタシにかかればチョロいよこれぐらい」

使った金額からすればどう考えてもチョロくはなかったけれど、本人が満足してるみたいだし別にいいだろう。

「そういえばさ、学校でのアイツはどんな感じなの?」

「アイツ?」

いきなりアイツって言われても誰のことか分からない。

「椿原花恋、生徒会長してるあの女。三間桜に通ってるなら知ってるでしょ?」

一瞬どうしてわたしが三間桜に通ってることを知ってるんだろうと思ったけど、そういえばこの前わたし制服着てたからか。

「同じ苗字だから多分そうだろうと思ってたけど、やっぱり姉妹だったんだ」

「そう。全くもって嬉しくないけど」

明日葉は心底嫌そうな顔をする。……あの生徒会長さんと彼女は仲悪いんだろうか。

「で、どうなのアイツは。やっぱり外面はいい感じなの?」

「……いいんじゃないかな」

正直わたしがちゃんとした答えを返せるわけがない、ので適当に濁した。

「あーやっぱりねー」

「家にいるときは違うの?」

「家にいるときも基本はそうだけど、真面目ぶってお父様やお母様に媚びてるのがムカつく」

「……」

「あーなんかイライラしたら甘いもの食べたくなってきた」

「クレープでも食べる?」

「そうしよ」

一度外に出て、入り口のそばにあるクレープ屋に向かう。

「抹茶味のクレープは初めて……あっ思ってたよりも美味しい」

「へえ」

冒険、とまでは言わないけどチョコバナナ以外のクレープを食べたことのないわたしには変わったチョイスに思えた。

「椿原さんのお母さんってどんな人なの」

ふと気になったことを聞いてみる。

「どんな人って言われると、よく分かんないなあ」

「優しい人?」

明日葉はわたしの質問の意図をはかりかねているのか、困った顔をしながら考え込んでしまった。

「多分それなりには優しいんじゃないのかな、最近はそうじゃないけど」

「……そっか」

「あっそろそろ帰らなきゃ、最後にプリクラ撮ろうよ」

「えっちょっ」

手を引っ張られてプリクラの筐体に連れ込まれる。

「今日の記念に撮りたいの、いいでしょ?」

「……まあ」

気が進まないけれどごねるのもあれだし、さっと終わらせることにした。まあ、色々書き込めば大丈夫だろう。

「今日はありがと、また誘ってもいい?」

「うん」

「やった! 今度はもっと長い時間遊べるといいなー」

ゲーセンを出たところに黒い高そうな車が横付けされていた。

「お嬢様、お急ぎください」

なぜかメイド服を着た運転手に急かされて明日葉は車に乗り込んだ。

「じゃね」

「うん」

走り去っていく車を見送ってからわたしは駅に向かった。



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Another chapter3

この作品はanotherchapter1-2の続きです。未読の方はぜひそちらからどうぞ


1

高校三年生になってからわたくしは日々の雑務に忙殺されてしまっていました。

でもそれは、わたくしが椿原花恋(わたくし)であるために仕方のないことだと、納得して受け入れたはずなのに、どこかでこれが最善の道でないことをわたくしはきっと分かっているのでしょう。

わたくしにとって最善の選択。それはどういうものなのでしょうか。わたくしは何かしていないときは、いつもこのことを考えていました。

 

──その答えになりそうな出来事は、何の前触れもなく、突然起こったのです。

 

溜まってしまっている生徒会の雑務を少しでも片付けてしまおうと、いつもより早めに登校した日のことでした。

「……!」

わたくしは木陰のベンチに座っている百合さんに気づいたとき、思わず瞬きをしていました。

この時間に他に生徒がいると思っていなかったので驚いた、というのもあるでしょう。でも、それだけではありません。

例えるなら、美術館の絵画に見とれてしまうような感覚でした。

ありふれたもので満たされたはずの光景に彼女が座っている。ただそれだけがいつもと違うで、本当にわたくしはそう思ったのです。

「隣、よろしいですか?」

「……どうぞ」

実際に顔を合わせて話してみると、聞いていた噂と実際の百合さんが違うことに容易に気づくことが出来ました。

彼女はただ色々と無自覚なだけで、むしろいわゆるいい人の方に分類されるべき人なのでしょう。

でも、だとしたら普段はどうしてああいう態度を取っているのでしょう。

それ以外にもいくつかの疑問を持ちながら、わたくしは生徒会室に向かいました。

それからしばらくした日曜日のことでした。

「失礼します。花恋様、今よろしいでしょうか」

自室のベッドでくつろいでいると、ノックとともにメイドの声がしました。

「ええ」

体を起こしてからそう返答するとすぐにドアが開かれました。

「明日葉様のことで少しお伝えしておいた方がよろしいかと思うことがありまして」

「何かあったの?」

本来わざわざ明日葉のことでわたくしに伝えに来ることはないのですが、お父様とお母様が今家を空けているので仕方なくといったところでしょうか。

「どうやら学校帰りに塾に行かずにゲームセンターに行っていらっしゃったみたいです」

「……そう、だから今日帰って来るのがいつもより早かったのね」

困ったような顔をして俯いている彼女は、どうやら明日葉にわたくしが注意することを求めているのでしょう。

「分かりました。わたくしが直接話をするので、明日葉をここに呼んで」

「かしこまりました」

頭を下げてメイドは明日葉を呼びに行きました。

「……ふぅ」

自分の時間を使ってまで明日葉と話をする価値はないのですが、引き受けてしまったので仕方ありません。

 

「で、何の用?」

明日葉は部屋には入ろうとせず、ドアの前で不満げな顔をしていました。

「今日塾に行っていないみたいだけど、どうしたのかしら?」

「アンタには関係ないでしょ」

「ええ、関係ないしどうでもいいわ。でも、最近お母様から随分とお説教されていたのに、懲りていないのかって思っただけよ」

「……っ」

明日葉は下唇を噛みながらわたくしを睨みつけてきました。今お説教をしてもただ時間の無駄になるだけでしょう。

「……はぁ。今日のことはお父様とお母様には黙っておいてあげますから、端的に誰と何をしていたかだけ言いなさい」

「……ちょっとゲームセンターに行ってただけよ。別に何も悪いことしてないし」

別に悪いことをしていたと、わたくしは言っていないのに、自分から言うあたり多少罪悪感は感じているのでしょう。

だったら最初から大人しくしておけば面倒なことにならないのに。

「一人で行ったの?」

「違うけど」

「じゃあ、学校の友達?」

「……別に誰だっていいでしょ」

わたくしも別に知りたいわけではないのに、そういう態度を取られると癪に障ります。

「言えないようなろくでもない人でしょ、どうせ」

「はぁ!? そんなことないし!」

予想通り明日葉はムキになって言い返してきました。

「じゃあどんな人なの?」

「……この人、アンタなんかよりよっぽど美人よ」

明日葉は得意げに携帯電話のカバーを外して、裏面に貼っていたプリクラをわたくしに見せてきました。

「……まさか」

予想外の人がそこには写っていたのです。

「あら~? どうしたのぐうの音も出ない?」

「へぇ、あなたは……何というかダメ人間そうな年上の方が趣味なのね」

「ふ~んだ! アンタとは違ってこういう友達もいるのよアタシは」

そう言うと乱暴にドアを閉めて明日葉は去って行きました。

「……」

──どうやら、明日葉と話したことは結果として正解だったみたいです。

 



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Another chapter4

この章はAnother chapter1から3までの続きになっています。未読の方はぜひそちらからよろしくお願いします。


1

今日もまた外では雨が降っている。

そういう季節だからしょうがないとはいえ、天気予報が一週間雨で埋まっていると、流石に面倒だな、と思う。

今日は日曜日。当然学校はないはずなのに、いつも平日に起きる時間に目が覚めてしまった。

「……ふう」

何となくシャワーを浴びて、眠気が飛んだのはいいけれど、やることが無い。

いや、本当はあるはずなんだろうけど、何をどうしたらいいのかわたしには思いつかなかった。

「あっ……」

冷蔵庫を開けようとして、昨日中身が空っぽになったことを思い出した。

面倒だけど、いい加減買い物に行かないといけない。

雨の中、わたしは外に出た。

 

ぱらぱらと傘を叩く雨の音を聞きながら、最寄りの駅に向かっている途中、突然ケータイが鳴る。

「もしもし」

「あっ百合、起きてたんだ珍しい」

「……どうかしたの」

電話は真央からだった。

「今日、雨降ってるけど一緒にどこか行かない?」

「どこかって?」

「うーん、映画とか見て甘いものとか食べたいなーって思ってるんだけど」

「まあ、買い物行くつもりだったから別にいいけど」

「本当? じゃあ今から百合の家行くから、準備出来たら出てきて」

「……あーえっといいや、いつも乗る駅で待ち合わせでいい?」

話しながら歩いていたので、もう駅が目の前だ。

「え、うんいいけど」

「わたしもう着いたから出来るだけ急いで来て」

そう言ってわたしは電話を切った。

「どうして駅に先に着いてたの?」

電車に並んで座ったところで、真央が聞いてきた。

「ああ、ちょうど買い物行こうと思ってたとこだったの」

「そうなんだ。……誘ってくれればよかったのに」

呟くように真央は言うけど、別に一人で行くのも二人で行くのも変わらないと思う。

「で、映画見に行くとか言ってたけど、見たいのは決まってるの」

「百合は何か見たいのある?」

「別に、今日映画見る予定じゃなかったし」

「うーん」

「行ってから決めればいいじゃん」

わたしの言葉に真央は何か言いたげな顔をする。だけど、結局その言葉が出る前に目的の駅に着いてしまった。

「あっ、これ今テレビでCMやってるやつだ」

そう言いながら真央は、恋愛映画のポスターを指さす。

「ああ、そういえば見たような」

この前見たサメ映画はもうやっていないみたいだ。あれ、もう一回見ても良かったけど。

「百合は何か見たいのあった?」

「うーん、特になかった。真央は?」

「さっきのあれぐらいかなあ」

さっきのあれ、ということはあの恋愛映画か。

「……やっぱり映画やめとかない?」

正直に言うとあの映画は気が進まない。

「えーせっかく来たのに」

「そんなに見たいなら一人で見てきたらいいじゃん」

「もう、すぐそういうこと言うんだから」

真央は小さくため息をつく。

「あれ、桜井さんと朝倉さんだー」

後ろから投げかけられた声に、わたしと真央はほとんど同時に振り返った。

「やっぱりデート?」

「遊びに来ただけだよー」

どうやら真央とは知り合いみたいだけど、誰だろうこの人。

「……ねえ、真央この人知り合い?」

わたしの言葉に真央は一瞬フリーズした。

「知り合いも何も、橘さんだよ、同じクラスの」

真央は信じられない、といった顔をする。

「橘……さん」

そう言われるとそういう苗字の人がいたような気がする。

「あっはは、しょうがないよ。あたし朝倉さんとこうやって話したことないし」

橘さんはわたしの方に向き直った。

「えっと、あたし橘綾子。実は3年間ずっと朝倉さんとクラス一緒なんだよ」

快活そうに笑う橘さんを見て、どうして名前を覚えていなかったのか、少し不思議に思った。どちらかというと、印象に残りそうな感じがするのに。

「えっと、朝倉百合……です」

「あはは、知ってるよ。というか朝倉さんのこと知らない人の方が少ないと思うよ」

「?」

別に有名になった覚えはないけど、そうなのだろうか。

「あれ、そういえば橘さんはどうしてここに?」

「あっ」

真央の問いかけに橘さんは声をあげた。

「もうそろそろ始まる時間なんだよ。桜井さんと朝倉さんは時間大丈夫?」

「まだ見る映画決まってなくて」

真央の答えに橘さんはにやりと笑う。

「じゃあ一緒に見る? ホラー映画だけど」

「……私は怖いの苦手だから遠慮しとく」

「そっかあ残念。じゃあ、また今度一緒に映画見に行こうよ」

「また誘って」

頷きながら真央は答える。

「じゃあたしはこれで、また明日学校で」

「うん。また明日」

手を振る橘さんに真央も手を振る。

「朝倉さんも、だよ」

「あ……うん。また明日」

わたしもぎこちなく手を振り返すと、橘さんは明るく笑って、受付の方に走っていった。

 

「で、わたし達はどうするの」

「でも、百合はあれ嫌なんでしょ」

「嫌」

「うーん近い時間の映画で良さそうなの他にないしどうしよう」

「……ねえ、真央」

考え込む真央の横顔を見て、いいことを思いついた。

「んー?」

「ちょっとお腹空かない?」

わたしの言葉に真央はぱちぱちと瞬きをした。

「……そう言われたらちょっと空いたかも」

「わたしはドーナツとか食べたい気分だけど真央は?」

「うん。何だかそんな気分になってきちゃった」

真央なら興味を示すだろうと思ったけど、ここまであっさりいくとは思ってなかった。

まあ、でもずっとここで映画を選ぶのに付き合っててもしょうがないし。

映画はとりあえず置いておいて、駅の出口のところにあるドーナツショップにわたし達は向かうことにした。

2

「百合っていつも同じの選んでるよね。そのドーナツとパイ」

注文と会計を終えて席についたときに、真央は少し可笑しそうな顔をしてこう言ってきた。

「そうかな?」

「そうだよ。いつも飲んでる水も、ココアもずっと同じ商品を選んでる」

自分では特に意識して選んでるつもりは無かったんだけど、そうかもしれない。

「……もしかしてわたしのファン?」

「ふふっ、そうかもね」

なぜかちょっと誇らしそうに真央は笑う。

「否定しないんだ」

「しないよ」

真央は笑ったまま即答してきた。冗談で言ったつもりなのに、真面目な顔をして返されると反応に困る。

 

「……そういえば、百合って進路どうするか決めた?」

しばらく無言の時間があった後、真央はおもむろにこう聞いてきた。

「どうしたの急に」

「ママと昨日そういう話をしたんだよね」

「真琴さんは何て言ったの?」

「ママが卒業した女子大とかどうなのって」

「ふうん」

真琴さんが通ってたのって、確かわたし達の家から結構近いところにあった大学だったような気がする。

「家から近いし、ママの出身校だしいいんじゃないって」

そう言いながらも、真央はどこか浮かない顔をしている。その理由がわたしにはわからなかった。

「ねえ、百合はどう思う?」

「どうって、それは真央次第じゃないの」

「そうじゃなくって……百合はどう思う? あそこの女子大にわたしが行きたいって言ったら」

「……どういうこと?」

アイスミルクを一口飲んで、わたしは真央の目をじっと見る。

「百合はどう思うのかって、単純に意見を聞きたいなあってだけ」

「……わたしがどうこう言うことじゃないと思うけど、別にいいと思うよ」

「そっか」

真央はそれ以上何も言わなかった。

 

結局ドーナツを食べた後、駅前のスーパーでそれぞれ買い物をして、わたし達は家に帰ることにした。

「今度はちゃんと映画見に行こうね」

「……別にいいけど」

電車の窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら答える。

「百合ってどういう映画が好きなの?」

「どういう映画って?」

「例えば……ジャンルとか」

「うーん。別にそこまで映画見てるわけじゃないしどうだろ」

少し考えてみても、はっきりと思いつくものは無かった。

「割と何でも見るけど、今日のあれみたいなのは好きじゃないかな」

「どうして?」

「感情移入しにくそうじゃんああいうの」

「ふーん」

真央は納得したのか、してないのか分からない微妙な反応をした。

 

「そういえば、百合に聞くの忘れてた」

最寄り駅から歩いて帰る途中で、真央は突然聞いてきた。

「何を?」

「百合はどうするの? 進路。やっぱり進学?」

「さあ、わたしにも分からない」

「……分からないって大丈夫なの?」

「だって、今日こうしたいってのがあったとしても、何かあったら明日には変わってるかもしれないじゃん?」

「……それはそうだけど」

「だから、本当に何も決まってない」

「そうなんだ」

それから家に着くまでずっと、真央は心配そうな顔でわたしを見ていた。

「じゃあまた明日」

「うん」

「寝坊しちゃダメだよ」

「はいはい」

わたしは真央と別れて家に入った。

 

「ん?」

そろそろ寝ようかと思って、ソファーで横になっていたときだった。

電話だ、誰からだろう。そう思って携帯を開いてみると、椿原花恋と表示されていた。

「もしもし」

「夜遅くにすみません。今大丈夫ですか?」

「……大丈夫だけど」

どうしたんだろう、わざわざ電話かけてくるような用があるんだろうか。

「ごめんなさい、大した用事はないんです。本当だったら、明日にでもすれば良かったんですけど、つい貴女の声が聞きたくなってしまって……迷惑でしたか?」

椿原はどこか冗談っぽい口調でこんなことを言ってきた。

「別に迷惑じゃないけど……何かあったの?」

「うふふ、()()()冗談ですよ」

電話越しなのに、なぜか直接話しかけられているみたいに、耳元がくすぐったい感じがする口調で椿原は話しかけてくる。

「そうだ、もしよろしければ明日のお昼二人きりで一緒に食べませんか?」

「……いいけど」

「では、四時間目が終わったら生徒会室の前に来てくださいね。……それじゃあ楽しみにしてますね」

そう言うと、わたしの返事を待たずに電話は切れてしまった。

「……」

妹さんの方はそんなことないんだけど、生徒会長さんと話すと、いつもペースを握られているような気がする。

なんだろうこの感じ、誰かと似ている気がする。

そんなことを考えているうちに、いつの間にかわたしは眠りに落ちていた。



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Another chapter5

この章はAnotherchapter1〜4の続きとなっています。未読の方はぜひそちらからどうぞ


1

「……」

珍しく授業中、わたしはノートを開いていた。

雨音がうるさくて寝れそうな気がしないというのもあるけれど、不思議と今日はだるさというか、体の不調を感じない。

珍しくいい夢を見たからだろうか。

いい夢と言っても、具体的にどんな内容だったのかはっきりとは覚えていない。ただ、眠りから覚めるのが嫌だ、と思ってしまうぐらいにはいい夢だったということぐらいしか記憶が残っていなかった。

……どうせだったらいつか見た悪夢を忘れて、今日みたいないい夢を覚えておけたらいいのに。

夢にかかわらず嫌なことばかり覚えている自分がますます嫌いになる。

「文明開化はこうして──」

そういえば、昨日あの生徒会長さんと一緒に昼ご飯を食べる約束してたんだった。生徒会室の前に来いって言ってたような。

「……ふわぁ」

あくびをしたところでちょうどチャイムが鳴る。いつもだったらこのまま一眠りするんだけど、今日はそうするわけにはいかない。

鞄からメロンパンを取り出して、わたしは教室を出た。

 

「百合さん」

生徒会室の近くまで来たところで後ろから声をかけられた。

振り返ると、椿原が笑顔を浮かべていた。

「来てくれたんですね、約束通り」

「まあ」

約束、というほど大げさなものかと一瞬思ったけど、約束には違いない。

「あ、そういえば」

「?」

「桜井さんには見つかりませんでしたか?」

生徒会室の前に着いたところで、椿原はこう聞いてきた。

「真央に見つかったら何かまずいの?」

「ふふっ、もしかしたらまずいことがあるのかもしれないですね」

椿原は鍵を開けながら、いたずらっぽく笑う。

「そういえば、どうして生徒会室なの?」

椿原の後について中に入ったところで、思わず気になったことが口に出た。

「本当でしたら屋上とかの方がいいのでしょうけど、あいにく今日は雨ですし」

そこで椿原は一度言葉を切ってわたしに向き直った。

「そもそも屋上は立ち入り禁止ですから、生徒手帳にも書いてありますよ」

「へえ」

流石は生徒会長様。生徒手帳なんて入学して以来開いた記憶がないわたしとは違う。

「質問の答えをするのならば、実は一緒にお昼を食べようと思っているのは生徒会室ではないんです」

「??」

今のわたしの頭上には、クエスチョンマークが浮かんでいるに違いない。だって、生徒会室に入っておいて生徒会室で食べるつもりはないってどういうことだろうか。

「生徒会室を使ったことのない生徒はたぶん知らないであろう場所があるんです。この部屋の奥に」

そう言って椿原は再びわたしに背を向けて歩き始める。

部屋の中央に置かれた長机と椅子の横を抜けて奥に進むと、もう一つ扉があることに気づいた。

「生徒会準備室?」

扉にはそう表札が掲げられている。

「ええ、理科室などと同じように、生徒会にも準備室があるんです」

椿原はそう言いながら、ポケットからさっきとは違う鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。

「と言っても、ただの備品や資料置き場なんですけどね」

中は教室で使われているのと同じ机が一つと椅子が二人分、あとは両脇に本棚が置かれているだけで、通り抜けた生徒会室と違ってどこか整然としている印象をわたしは受けた。

「結構広いんだ」

「実は昨日掃除と片付けをしたんです。今日のために」

「……わざわざ?」

「大したことではありませんよ。それにここはわたくしの学校でのプライベートルームのような場所ですから」

そう言いながら椿原は椅子に座る。わたしも同じようにもう一つの椅子に座った。

 

2

「百合さんはやっぱりココアが好きなんですか?」

ココアを飲むわたしに椿原は尋ねてくる。

「うん、まあそうだけど。どうしてそう思ったの?」

「百合さんと初めて二人で話したときも、飲んでましたから」

「……そうだったっけ」

そういえば真央にも昨日似たようなことを言われたような気がする。

「ええ、わたくしの記憶が正しければ、ですけどね」

そう言って椿原は笑う。

「椿原さんはいつもお弁当なの?」

「そうですね、何か特別なことがなければ」

勝手な想像だけど、わたしと同じようにパンとかを買ってるのかと思ってた。

「毎朝作ってるの?」

「本当はそうしたいんですけど、なかなか難しくて……家の人に頼んでしまっています」

椿原はなぜか申し訳なさそうな顔をする。

「そうなんだ」

「でも、献立は自分で決めるようにしてるんです。やっぱり食べるものは健康の基本だと思うんです」

「……へえ」

わたしには真似できそうにないことを、さも当然のことのように言う椿原は、素直にすごいと思う。きっと、彼女はこれ以外にも色々気を使っていることがあるんだろう。

「そういえば、百合さんって今日学校終わった後、何かご予定ありますか」

「特にないと思うけど」

「でしたら、わたくしのお気に入りの場所に付き合ってもらえませんか?」

「お気に入りの場所って?」

「それは行ってからのお楽しみです」

「……まあ、いいけど」

本当はそこまで乗り気ではなかったけど、思わず頷いてしまった。

「……よかったです。断られてしまったらどうしようかと」

椿原は胸に右手を当てて、ほっとしたといった顔をする。

そのリアクションが少し大げさに見えたけど、突っ込むのはやめといた。

「そろそろ教室戻る?」

わたしの言葉に椿原は左手につけている腕時計を見た。

「そうですね、もうそろそろ次の授業が始まる時間ですし」

「では、授業が終わったら東門の前で待っていてくださいね」

「……ああうん」

一瞬なんのことかと思ったけど、ついさっき椿原のお気に入りの場所とやらに付き合うって言ったんだった。

「約束ですよ」

椿原は笑っているが、目の奥笑ってない気がするのが若干怖い。

「ちゃんと行くから安心して」

どうやら椿原にはバレていたらしい。思わずわたしは苦笑いをしていた。

「それでは、また後で」

「うん」

椿原の後ろ姿を見送らずに、わたしは急いで教室に戻った。

3

「あっ、百合ちょっと待ってよ」

授業が終わった後、教室を出てすぐに真央に呼び止められた。

「ねえ、一緒に帰ろうよ」

「今日はパス、予定あるし」

わたしの言葉が予想外だったのだろう、真央は驚いた顔をする。

「……そうなんだ」

「うん」

わたしが頷くと、真央は笑顔を作った。

「じゃあ、また明日ね」

「また明日」

下駄箱で靴を履き替えて、椿原に指定された東門へと向かう。

一秒でも早く学校から抜け出したい生徒達で溢れかえる正門と違って、東門はまさに裏門って感じであまり人がいない。

しばらくぼーっとしていると、椿原がこっちに小走りでやってきた。

「すみませんお待たせしました。もうすぐ迎えが来るので、一緒に乗ってください」

「うん」

それから本当にすぐに、高そうな車が横付けされる。

「お待たせしました、どうぞ乗ってください」

「……あ、はい」

助手席から降りてきた女性はなぜかメイド服を着ていた。その女性の指示に従って車に乗り込む。

「お嬢様、よろしいですか?」

「ええ」

椿原が頷くと、車はゆっくりと走り出した。

「そういえば椿原さん、そろそろどこに行くか教えてもらっても?」

「『サファイア』という喫茶店です。今どき純喫茶を名乗っている少し変わったお店なんです」

椿原は微笑みながらわたしの質問に答える。

「へえ」

サファイアという名前がいかにもって感じでなんか好きだ。ちょっと楽しみになってきた。

「そういえば来週球技大会がありますね。百合さんは何に出るんですか?」

球技大会、言われてみればそういえばそんな行事があった気がする。

「そもそも決めたのかすら分からない」

「そうですか……ではバスケットボールに参加されたらどうでしょう?」

わたしの答えに苦笑した後で、椿原はこう聞いてきた。

「遠慮しとく」

「でも、中学生のときはバスケットボール部に所属されていたのでしょう?」

「……どうして知ってるの」

思わず問いただすような口調になってしまった。

「この前、部費の申請に晴海さんが来たときに言っていましたよ。『ボクが知っている中で一番上手い選手だった』と」

「……」

「わたくしから聞いたわけじゃないんですけどね、夏の大会に向けてどうですか? と質問したらなぜか百合さんのことを話し始めたんです」

……あのバスケバカ、どうしてそう余計なことを関係ない椿原にべらべら喋るのか。

「あれだけ話を聞かされたら、実際に百合さんの勇姿を見てみたいなあと思ってしまいました」

椿原はそう言ってふっと笑った。その表情は悪意のない純粋な好奇心のあらわれなのだろう。

もしもそう思えなかったら、わたしはきっと不機嫌になっていたに違いない。

それぐらい、わたしはバスケにいい思い出がないのだ。

 

「もうすぐ着きますので、降りる準備をお願いします」

そんな話をしているうちに、目的地に着いたみたいだ。ほどなくして車は路肩に止められた。

「帰りはまた連絡するわ」

「かしこまりました」

「では、行きましょうか」

「うん。ありがとうございました」

一応メイドさんに向かって軽くお礼を言ってから、椿原の後に続いてわたしは車を降りた。

少し大きな道から一本中に入った路地。辺りは家が立ち並んでる住宅街といった所に、サファイアは佇んでいる。

外観からとても雰囲気があって、きっとこういう店には固定客がついているんだろうとわたしは思った。

「いらっしゃいませー」

テーブル席に座ったところで若い女性の店員が、水とおしぼりを持ってきた。

「注文が決まったらまた呼んでねー」

「あ、はい」

なんだろう、もっと硬派というかかしこまった感じの店員さんが来ると思ったけど、ずいぶんとフランクな人だったのがちょっと意外だった。

「彼女、今はこのお店のマスターなんですよ」

「そうなんだ」

今は、ということは前は別の人がマスターをしていたのだろうか。

「百合さんはどうしますか? わたくしはいつもここで何を頼むのかは決めてしまっているので」

「えっ、そうなの」

改めてメニューを見ると結構種類が多くて困ってしまう。

「ゆっくり考えてくださいね、百合さんと少しでも長くこうしてお話ししていたいので」

「ごほっ……」

水を飲んでいる途中に、そんなことを言われたから思わずむせてしまった。多分冗談だと思うけど、ちょっと照れてしまった自分が恥ずかしい。

「大丈夫ですか?」

椿原はわたしを見てにっこりと笑う。

「……大丈夫」

わたしと話しているときの彼女は笑顔を浮かべていることが多いような気がする。

まあ彼女のような美人に笑顔を向けられるのは正直悪い気はしないけど、同時にすごく怖い。

どうしてわたしなんだろうか。今その理由を聞いても、きっとはぐらかされるような気がする。

「椿原さんはちなみに何頼むの?」

気を取り直してメニューを決める作業に戻

「わたくしはいつも本日のコーヒーです。今日もこれにしようかなと」

「……うーん」

じゃあわたしも同じものを、と言いたいところだったんだけど、わたしはコーヒーに砂糖とミルクを入れてもなお、苦く感じるから苦手だ。

「ミックスオレにしようかな」

コーヒー系のもの以外ならどれでも良さそうだし、ぱっと目についたミックスオレにすることにした。

 

「そういえば妹さんにも聞いたんだけど、椿原さんのお母さんってどんな人?」

注文が済んで少ししたところで、今度は姉の方に同じことを聞いてみた。

「……そうですね、とても厳しい人でしたよ」

椿原は懐かしむような口調でこう答えた。

「厳しいってどんなふうに?」

「子どもだから、で普通なら済まされてしまうようなことでも見逃して貰えませんでしたし、やりたくないって駄々をこねても途中で何かを投げ出すことも許して貰えませんでした」

「……辛くなかったの?」

椿原に初めて親近感が湧いた。自分も同じような経験があったからだ。

「そのときは本当に嫌いになったこともありましたよ。……でも、今ならわかるんです、お母さんはわたくしを世界で一番大切に思ってくれたいた人だと」

「……」

「結果として何かしら役になっていることがほとんどですから。とても感謝しています」

わたしは言葉を失っていた。それと同時に、椿原に嫉妬と憧れが混ざったような複雑な心情を抱いていた。

……もし、わたしも我慢していれば彼女のように胸を張ってこう言えたのかもしれない。

そう思うと、どうしようもなく自分が嫌になる。

「お待たせしましたー」

ちょうどそこで、さっき頼んだ飲み物が運ばれてきた。

気分を変えようとミックスオレを一口飲む。その甘さで少し冷静になれた気がした。

 

「そろそろ帰りますか」

「そうだね」

それから椿原ととりとめのない話をしていたらいつの間にか結構いい時間になっていた。

「お家までお送りしますよ」

「あーえっと、帰りにコンビニに寄りたいから最寄り駅までで大丈夫、ありがとう」

「分かりました。……じゃあ、出発して」

椿原がそう言うと車はゆっくりと走り始めた。

当たり前だけど、車から見る景色はいつもの電車からのものとは違って見える。

「わざわざ送ってくれてありがとう」

家の前まで送ってくれると言われたけど、コンビニに寄りたかったので、最寄り駅で降ろしてもらった。

「いえ、わたくしの方から誘ったのですからこれぐらいはさせてください」

「じゃあまた」

「ええ、また誘わせてくださいね」

椿原と別れてコンビニで適当に食べ物と飲み物を買って家に帰る。

「ん?」

わたしの家の前に見慣れないバイクらしきものと、目立つ外見の女性が立っていた。

向こうもわたしに気づいたみたいでこちらに手を振ってくる。

「あっ、待ってたよー」

「……どちら様ですか」

「あーまあそうだよね、じゃあはい」

からからと笑いながら、わたしに名刺を差し出してきた。

「えっ?」

受け取った名刺に書かれていた名前を見て、思わず声が出てしまった。

「驚いた?」

椿原蓮佳(れんか)、その名前を頭に入れてから改めてその女性の顔を見ると、特に目元がさっきまで会っていた生徒会長様にそっくりなことに気づいた。

「ちょーっとこれからお姉さんに付き合ってくれない?」



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Another chapter6

この章はAnotherchapter1〜5の続きとなっています。未読の方はぜひそちらからどうぞ


1

「まあ、いきなり本題に入るのも味気ないし、何か頼みなよ。もちろんお姉さんの奢りだから……といってもここファミレスだけどね」

どこに連れて行かれるかと身構えたけど、連れてこられたのは近所のファミレスだった。

「本当だったら、もっとちゃんとした所に連れて行きたかったんだけど、高校生と一緒に行けるお店が思いつかなかったんだーごめんね」

「……はあ」

どうしてそんなに楽しそうなのか分からないけど、それよりもこの人の目的が何なのかが気になる。

改めてよく見てみても、あの生徒会長様とは対照的な雰囲気をしてると思った。

あの生徒会長が清楚系ならこの人は悪女系とでも例えた方がいいような、同じ姉妹でも服とかメイクでこんなに違って見えるものなんだと、少し感心してしまった。

「でも、久々に来るとこういう雰囲気も悪くないなあって思うんだよねー」

「そうなんですか」

「だってお姉さんにも高校時代があったからねえ」

蓮佳さんはそう言って笑う。

「花恋が今は生徒会長してるみたいだけど、実はお姉さんも三間桜の生徒会長してたんだよ」

「へえ」

「もう10年ぐらい前のことだけどねー」

蓮佳さんは目を細めて短く息を吐く。

「そうだったんですか」

なるほど大人っぽいと思ってたけど、本当に大人だったのか。

「今年の文化祭こっそり見に行こうかなあ」

「OGだったら普通に入れるじゃないんですか」

「あっそれもそうだねー。朝倉ちゃん賢い賢い」

「……」

もしかしたら誰に対してもこういう感じの人なのかな、そんなふうにわたしはふと感じていた。

 

「飲み物取ってくるね〜」

それからしばらくいわゆる世間話をした後で、蓮佳さんはいったん席を立った。

「……はぁ」

一人になった瞬間、思わずため息が出る。自分よりテンションが高い人と話すだけで疲れるのに、ましてや初対面だし。

「久々にこういうの飲むとけっこう美味しく感じるんだよねー」

そう言って蓮佳さんはメロンソーダを一口飲んでから、わたしの目をちらりと見てきた。

「もうそろそろいい時間だし、そろそろ本題に入ろっか」

唐突に発せられた言葉に、緩みかけていた気が一気に引き締まる。

「あーでもそんなかしこまらなくて大丈夫だよ。今日はあくまでも朝倉ちゃんがどういう子なのかなーって知りたかったのがメインだし」

「……はぁ」

「でも、ひとつだけ言っておかないといけないことがあるんだ」

今までの軽い感じとは違って、重々しい口調でこう続けた。

「花恋と二人きりで会うのはこれからはやめといた方がいいと思うよ」

「……?」

わたしの反応を確かめるように間を置いてから、蓮佳さんは口を開いた。

「他の人から見たらどう見えるか分からないから。ほら、君子危うきに近寄らずって言うじゃん? ……面倒なことに巻き込まれたくなかったら少し考えた方がいいかもねー」

「面倒なことって」

聞いても答えてくれなそうとなんとなく思ったけど、聞かずにはいられなかった。

「まあ、朝倉ちゃんはたぶんよく知らないだろうから説明しづらいんだけど、椿原(うち)の家は普通の家とはちょっと違うところがあるからねー」

どこか自嘲的な笑顔を浮かべて、蓮佳さんは残りのメロンソーダを一気に飲み干した。

「天気予報だと、もうそろそろ雨が降るって言ってたから今のうちに帰っとこうか?」

「えっそうなんですか」

一度腕時計に目を落としてから、蓮佳さんはわたしに目線を戻した。

「うん。降水確率70%って言ってたかな、この辺りは」

それなら降り始める前に帰らなければいけない。

わたし達は少し急いでファミレスを後にした。

 

「あの、ありがとうございました」

「ううん。むしろお姉さんに付き合ってくれてありがとうねー」

それに、と蓮佳さんはわたしに向き直った。

「花恋に釘を刺される前に朝倉ちゃんに会えてよかったよ」

じゃあまたね、と手を振ちながら蓮佳さんはバイクに再びまたがった。

「……あ」

走り去っていった蓮佳さんを見送って、家の中に入ろうとした時にちょうど雨が降り始める。もう少し遅かったら濡れることになっていただろう。

まあでも、どのみちシャワーを浴びようと思ってたから対して変わらないような気もするけど。

「……」

疲れたし今日はもう寝よう、そう思ってわたしはソファーの上で目を閉じた。

2

「どうして今日に限ってこんな暑いの?」

「本当だよね……」

よりによって球技大会の日に、今年一番暑くなるとかどうかしてる。

それにしてもただでさえ暑い体育館で、これから一日スポーツをさせられると思うとそれだけで体調が悪くなりそうだ。

「あっ、次だよ。ほらいこ」

「分かったから引っ張らないで」

密着されると余計に暑いからやめて欲しい。

「で、わたし達は何やるの」

「もう、何言ってるのドッジボールだよ」

お互いのチームに男子が混ざっているからなのか、飛び交うボールは思っていたよりも気迫に満ちていて正直少し怖い。

「いたっ」

わたしは試合が始まってすぐに足にボールを当てられた。内心ラッキーだと思いながら、そのまま外野に移動する。

「えいっ!」

真央にボールが渡るたびに、見ている男子たちが歓声を上げる。最初は純粋な応援なのかと思っていたけど、どうやら違うようだ。

まあ、あんなに迫力があるから見たくなる気持ちは分からなくはない。

「あー負けちゃった」

「まあ頑張ったんじゃないの」

とりあえずどこか涼しいところで休憩することにした。真央と一緒に体育館の隅に移動する。

「あー涼しい」

「もう、独り占めしたらダメだよ」

扇風機に当たっていると、誰かがこっちに走って来る。

「あっいたいた、探したよ」

「どうしたの?」

真央に話しかけているのは同じクラスの女子だった。

「いやーついさっきの試合で足くじいちゃった奴がいてさー」

「えっ大丈夫なの?」 

「うん多分ねー。で、相談なんだけど人数が一人足りなくなっちゃってさ、桜井さんバスケにも出てもらえない?」

「でも、私バスケあんまり得意じゃないし足引っ張っちゃうよ」

「そんなこと言わずにさー」

「私よりも百合の方がいいと思うよ、元バスケ部だから。ね?」

どうして急にわたしに話を振るのか。

「やだよめんどくさいし」

「私、久々に百合がバスケやってるとこ見たいなー」 

 真央は悪い顔をしてわたしを見る。いつもだったらこういう頼まれごとは自分で率先してやるのに、今日はどうやら違うみたいだ。

「……」

「……」

「じゃ、じゃあジャンケンで決めたらどう?」

沈黙に耐えかねたのか、わたしと真央を交互に見ながら謎の提案をしてきた。

「じゃーんけん」

わたしはやるとは言ってないんだけど、なぜかやる流れになっている。

「ポン」

思わず出してしまったが、ここで拒否しとけばよかったのに、と後でわたしは思うことになった。

 

「はぁ……はぁ……」

よくこんなしんどいことしてたな、と改めて思う。

やっぱり攻守が切り替わるたびに、コートを走らされるのがとにかくしんどい。中学二年の夏以来やってないから当然だろうけど、あっという間に息が上がる。 

「ほら、行くよっ!」

それにこの晴海(バスケバカ)がやたらとボールを回して来るせいで、休む暇がない。

「……はぁ……はぁ……わたしにボール回さなくていいって」

わたしの訴えにもかかわらず、晴海は容赦なくわたしにパスを出してくる。

そのせいで、途中からもう足が動かなくなりそうだった。

試合は相手にもバスケ部やら経験者が半分ぐらいいるらしく、点差があまりつかないまま進んでいった。

一瞬視線をタイマーに向ける。残り時間はラスト15秒、点差はわたしが2点負けている状況だ。

ようやく終わると、安堵のため息をついたときに晴海が大声でわたしを呼んできた。

「百合っ! 決めて!」

「えっ」

自分で撃てばいいのに、スリーポイントラインの少し後ろにいたわたしにパスを出してきた。 

慌ててシュートの体勢に入る。ブザーが鳴る中、わたしが放ったボールはゴールのリングに直接当たってから外に落ちた。

「……ごめん」

「いいよいいよ、久しぶりに一緒にバスケ出来て楽しかったし」

晴海は屈託のない笑顔でわたしの肩を軽く叩いてきた。

「……」

試合中は何か文句でも言ってやろうと思ってたけど、なんだかその気が無くなってしまった。

 

3

「お疲れ様、最後のシュート惜しかったね」

「あそこで入れなきゃ意味ない」

「そんなことないよ、百合じゃなくて私がやってたらここまでいい勝負にならなかったよ」

体育館を出て外で顔を洗う。本当だったら今すぐシャワー浴びたいぐらいだけど、そうはいかない。

「はい、タオル」

「ありがと」

真央から借りたタオルで顔を拭く。

「やっぱり百合がバスケしてる姿ってかっこいいよ」

「そんなことない」

「ううん。かっこよかったって」

「やめてよ恥ずかしい」

「ふふっ別に照れることないのに」

「……飲み物買ってくる」

体育館を出て校舎の近くにある自販機に向かう。

「うーん」

少し考えた後で、いつも買う水を結局選んだ。

「百合さん」

「?」

声に振り返ると、椿原がすぐ後ろに立っていた。

「びっくりした」

「うふふ、ごめんなさい」

いたずらっぽく椿原は笑う。

 

「そういえば、バスケットボール見ましたよ」

並んで木陰のベンチに座っていると、椿原がわたしの方を見てこう言ってきた。

「晴海さんの話は本当だったんですね。わたくしはバスケットボールについては詳しくないんですけど、素人目に見てもかなり上手な方だと思いましたよ」

「褒めすぎ、正直晴海(あいつ)の方が今じゃ上手いよ」

ここまで話したところで、この前の蓮佳さんの言葉を思い出した。

──花恋と二人きりで会わない方がいいよ。

「じゃあ、わたしそろそろ戻るね」

その言葉の真意は分からないけど、ちょうどいいし体育館に戻ろうとしたときだった。

「そういえば、百合さんに聞きたいことがあるんですけど、いいですか」

わたしの言葉を遮るように、椿原はこう聞いてきた。

「……何?」

椿原の声のトーンが今までとは違うのが、わたしにも分かる。

端的に言うと嫌な予感がした。椿原を振り切ってでもこの場から離れた方がよかったのではと思ってしまうような何かを感じてしまったのだ。

「……最近わたくしの姉が、わたくしの周りの人に会って余計なことを言って回っているそうです」

椿原はわたしの顔をじっと見ながらこう続けた。

「百合さん、もしかしたら椿原蓮佳と名乗った、派手な女に会いませんでしたか?」

「……」

椿原はいつもと同じような笑みを浮かべている。でも、それが余計に怖いと思ってしまった。

どうしよう、蓮佳さんと会ったことを正直に答えた方がいいのだろうか。

頬を今までとは違った種類の汗が伝う。

答えを誤ったら文字通り()()()()()()()()()()()になる。そんな気がした。

「えっと──」



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Another chapter7

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1

「えっと──会ったよ」

少し返答に迷ったけど、正直に答えることにした。

まあたぶん、会ってないと言えばそれで済むんだろうけど、わざわざ嘘をついてまで隠す気にはなれなかった。

「そうですか」

椿原は今までの笑顔から変わって真顔でわたしを見つめてきている。

「……具体的にどんなことを言われたのですか?」

「『花恋と二人きりで会うのはやめておいた方がいいと思うよ』って」

ここまできて、今さら隠しても仕方ないし言われたことをそのまま話す。

「そうですか……」

あの人は本当にろくなことをしないですね、とため息混じりで椿原は呟いた。

「気になったんだけど、椿原さんのお姉さんってどんな人なの?」

わたしの質問に椿原は眉をひそめる。

「……あの人は本当に身勝手で、いつも自分だけが分かったような顔で周りの人を振り回すんです、そのせいで……いえ、椿原の家に関わる人間がどれだけ大変だったか」

「……」

わたしが何も言えずにいると、椿原は一瞬はっとしたような顔をしてこう続けた。

「わたくしは百合さんを責めたいわけではないんです。でも、あの人には何を言われてもまともに取り合ってはいけないということを、覚えておいて欲しいんです」

さっきまでと違って椿原はいつもと同じような微笑を浮かべているけど、その言葉には姉への明確な敵意が込められているようだった。

「……分かった」

「今、わたくしが話したことは、ここだけの()()にしておいて下さいね」

()()と言いながら椿原は人差し指を自らの唇に押し当てて、その指でわたしの唇にそっと触れてきた。

「口封じ、しましたからね」

ふっと微笑んでそう言うと椿原はゆっくりと歩いて去っていく。

「……」

自分は今どんな顔をしているんだろう。

そう思った瞬間に自分の顔が熱をもっているのを感じた。

……もしかしたらあの生徒会長様は、こういうことやりなれているのかもしれない。

本当にわたしと同じ年なんだろうか?

確かに、彼女の家は普通の家じゃないんだろう。

そんなちょっと抜けたようなことを考えながら、しばらくわたしはこの場から動くことが出来なかった。

 

2

学校帰りの電車は多かれ少なかれ疲れを感じるけど、今日はいつも以上に気だるい。

もちろん久々にバスケをやらされたからっていうのも大きいけど、それだけじゃないことも確かだ。

……それにしても蓮佳さんはどうして、わたしにわざわざあんなことを言いにきたんだろう。

その理由を考えようとして、やめた。今のぼんやりした頭で思いつく気がしないし。

「ねえ、百合聞いてる?」

「え?」

「もう、やっぱり聞いてなかったでしょ」

真央は呆れた、という顔をする。

「ちょっと考えごとしてた」

「ふーん」

「で、何の話?」

「ああそうそう、クラスの友達から聞いたんだけど、来週の土日限定でこういうお店がオープンするんだって」

真央はそう言いながら携帯の画面を見せてくる。

「抹茶スイーツ専門店……ねえ」

わたしはよく知らなかったけど、どうやら海外の有名な本に掲載されたりしているすごく有名な店らしい。

「ここすっごく有名なお店なんだよ、いっつも 行列が出来て中々買えないんだよ。私、前からここ一度行ってみたかったんだ〜」

目を輝かせながら真央は早口で語る。

「そうなんだ」

「……百合は興味ないの?」

「うーん」

全く興味がないわけではないけど、絶対すごく並ぶことになるだろうし、正直面倒そうだと思ってしまった。

そんな会話をしているうちに、電車がわたし達の降りる駅に着く。

 

「あっつ……」

電車の中と外の温度差に思わず声が漏れてしまう。

「もうちょっとしたら、夏休みだしねー。でもその前にテストがあるけど」

自分で言っておきながら、真央は嫌だなーという顔をする。

「テストねえ」

「百合はいっつも余裕だよね」

「余裕というか、そもそもあんまり気にしてないだけ」

わたしの言葉に真央はため息をつく。

「……ねえ、大丈夫なの? 本当にそれで」

「今まで大丈夫だったから大丈夫でしょ」

「……」

わたしの言葉に真央はまだ何か言いたげな顔をしていたけど、それ以上何も言わなかった。

 

 

ふと時計を見ると、もうすぐ日付けが変わる頃だ。そろそろ寝ようかなと思ったちょうどそのときだった。

「……電話?」

こんな時間に誰だろう。そう思いながら携帯を開くと、椿原明日葉と画面に表示されていた。

「もしもし」

「ねえねえ、聞いてよ〜」

「どうしたの」

「実はね、今日まで携帯没収されててさーやっと戻ってきたんだー」

「大変だったんだね」

「そうそう、別に成績が落ちてる訳でもないのに、遊んでる遊んでるって頭ごなしに言ってきてさー。アイツが余計なことお母様に言ったせいでどれだけ不便だったか、ほーんとムカつく」

「まあ確かに、急に無くなったら確かに困るよね」

わたしは言葉ではそう言いつつも、無くても正直さほど困らないだろうと思っていた。

まあ、彼女の場合は違うんだろうけど。

「あっ、そうだもっと早く言いたかったんだけどさ」

「なに?」

「今度、アタシ以外みんな出かけそうな日があって、その日にウチに遊びに来ない?」

どんな家なのか見てみたい気持ちが無いわけじゃないけど、それ以上に大丈夫なのかなという気持ちの方が上回ってしまっていた。

「いいの?」

「いいよいいよ、だってアタシがいいって言ってるんだから」

「分かった、考えとく」

「うん、決まったらまた連絡するから……あっごめん切るね!」

何かを察したのか、物音がした後で一方的に電話は切られた。

「……ふう」

息を吐きながら、ソファーに倒れ混むように横になる。

そのまま目を閉じると、いつの間にかわたしは眠りに落ちていた。

 

3

──光を反射してキラキラ光る波を眺めながら、わたしは車椅子を押しながら歩いていた。

砂浜のすぐそば、アスファルトで舗装された道路の上じゃなくて、本当は砂浜に降りたいところだけど、そうはいかない。

この数メートルの段差を超えられないのが、もどかしいけど、彼女だってそうだろう。

「海の近くってさ、風を感じれて気持ちがいいよね」

わたしがそう話しかけると、そうだね、と返してくれた。

ときおりたわいもない会話を交わしながら、ただ歩いているだけなのに、不思議と穏やかな気持ちになれる。

こんな時間がずっと続いてくれたらいいのに、心からわたしはそう思っていた。

「ねえ、百合」

「?」

「もう、ここでいいよ。ここまでで」

「どういうこと」

「百合はいつまでもここにいちゃダメだから」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

今まで感じていた人の重みがふっと消えた。まるで最初から車椅子(そこ)に誰もいなかったようにあとかもなく消えた。

「い……や、やだよ(あおい)!」

 

 

──夢の中で叫んだと同時に目が覚めた。

「……げほっ……げほっ」

嫌な予感がする。こういう夢をみたあとはだいたいろくなことが起きない。

喉が痛いのと寒気がする。もしかしたらエアコンを消し忘れていたせいで、風邪を引いたかもしれない。

冷蔵庫から水を取り出して一気に飲むと、気分が少し落ち着いた。

「……はぁ」

まだ、頭がぼんやりしていてうまく頭が回っていない。

わたしはだいたい寝起きはこんな感じだけど、今日のこれは普段の眠気とか倦怠感に支配されたものとは違う気がする。

なんだろう、目は覚めているのに頭が働いていないというか。起きているはずなのに、まだ眠っているみたいな感じがする。

それからしばらくわたしは何をするわけでもなく、ぼんやりしていた。

「あ」

チャイムが鳴らされる音で、もう学校に行く時間になっていることに気づいた。

……今から準備しても間に合わないだろうし、それに今日はなんだか体調が良くない気がする。

休むにしても真央に先に行くように言わないといけない。体をソファーから起こして玄関に向かう。

「えっ、もしかして今起きたの?」

わたしが学校に行く準備をしていないことに気づいた真央は目を丸くした。

「ごめん、今日は先に行ってて」

「え?」

「なんか、体調悪くて。風邪引いたかもしれないし今日は家で寝てる」

「……」

真央はじっとわたしの方を見る。それから短く息を吐いた。

「ちゃんと薬飲んで、安静にしてないとダメだからね」

「うん」

わたしが頷くと、真央はそのまま駅に向かっていった。

 

風邪薬とかあったっけ、そう思いながら家の中を探していると思いもしなかったものを見つけた。

「……」

ここにあったんだ、と思わず声に出そうになる。

鮮やかなオレンジに、ガラスで作られた太陽が乗ってるちょっと変わったヘアピン。

今になって考えてみると、どうしてわたしにこれをくれたんだろう。

鏡の前に立ってつけてみると、やっぱりわたしのイメージとはちょっと違う気がするけど、前髪が邪魔だしそのままつけておくことにした。

 

「……ん」

いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。電話の音で目が覚めた。

誰だろう、と思って携帯を開く。

「……!?」

画面に表示された文字を見て、思わず携帯を落としそうになった。

「……もしもし」

落とさないように両手で携帯を持ちながら、恐る恐る電話を取る。

「百合?」

……この声はお母さんじゃない。どうしてこの人がこの番号から電話をかけて──

「今すぐ神尾浜病院に来なさい。まだ授業があるだろうけど、それどころじゃないわ」

わたしの思考を遮るように発せられた言葉の意味を理解するのに、いつもの何倍もかかっただろう。

「え?」

どうしてこの番号で? どうして病院に?

頭の中をいろんなことが駆け巡って、そう返すのが精一杯だった。

「……あなたのお母さんが運ばれたのよ」

「…………ぇ」

さっきは出た声が、今度ははっきり出なかった。

今まで考えていたこと全てが、吹き飛ばされてしまった。

息を吸っているはずなのに、吸っても、吸っても苦しさが収まらない。

普段だったらあんまり感じることのない、自分の胸の拍動を痛いほどに感じるのと同時に、わたしは気づいてしまった。

 

 

──四年前のあの日にも同じようなことがあったことに。



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Another chapter8

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1

わたくしは何のために椿()()()()として生きているのでしょう。

 

ここ最近、ベッドの中ではこんなことばかりを考えてしまうのです。

「……」

あの人のせいでいつもより疲れてしまっているからでしょうか。

──それだけじゃないでしょう?

……そうです。

朝倉百合、彼女のこともわたくしの心配事のひとつです。

元々、優等生タイプの人ではないでしょうから数日学校に来なかった。というだけはさほど驚かないのですが……さすがに週を跨いで七日続けて学校を休んでいるのですから、ただ事ではないでしょう。

わたくしも何度か電話やメールをしてみたのですが、彼女からはなにも返答がなかったのです。

それとなく、桜井さんに探りを入れてみたところ、どうやら百合さんの家庭の方で何かがあった。ということだけは情報を得ることが出来ました。

彼女自身の生き死にに関わるようなことではなさそうですが、尋常ならざることがあったのは確かでしょう。

……もしかしたら、このこともあの人が何か余計なことをしたのでしょうか。

こんな飛躍しすぎたような想像も、ありえないことだと断言しきれないのがあの人の恐ろしいところなのです。

 

 

「会長、おはようございます」

わたくしが生徒会室に入ると、副会長以下の生徒会役員が一斉に立ち上がって挨拶をしてきました。

「……おはようございます」

この光景はもう慣れてしまった、言うならば毎週月曜日の恒例行事みたいなものですが、たかだか高校の生徒会なのにここまでしなくてもいいのにと少し可笑しく思えてしまいます。

「……それでは各クラスの文化祭実行委員に文化祭についての計画書を提出するように、副会長から連絡をお願いします」

「はい、かしこまりました」

「では、今日はここまでにしましょう」

夏休み明けの文化祭が現生徒会最後の行事になるのですが、正直に言ってしまうとわたくしの中でこのことはさほど重要ではありません。

その他にもまだやらなければいけないことがあるのですから。

 

生徒会の会議が終わったあとも、残っていた雑務をこなすためにわたくしは生徒会室に残っていました。

「……あ、あの、今いいですか」

声をかけられて、初めて自分の目の前に女子生徒が立っていることに気づきました。

「どうされました?」

「えっと……あのあたし、3-Aの橘です」

「ええ、橘さん覚えてますよ。文化祭のことについてですか?」

確か文化祭で行う喫茶店の衣装について許可を取りたいと、前にも生徒会室に来ていたような気がします。

「はい。文化祭の計画書についてです」

「分かりました」

それならわざわざ生徒会室まで来なくても、と一瞬思ってしまいましたが、笑顔を作りながら渡された書類を一応見てみることにしました。

「どうでしょうか……」

「概ね問題ないと思います。ですが、この衣装の案が少し気になりました」

出された計画書は、ある一点を除いたらいわゆる一般的な模擬店の範疇を出るものではありませんでした。

「前回副会長さんにもそこをダメだしされまして……でも、メイド喫茶としてやるのがダメならせめて衣装だけでもと思って……」

「なるほど」

「実はあたしのお母さん三間桜のOGで、三年生のときにメイド喫茶をやったって聞いて、どうしてもあたし達もやりたいと思ったんです」

「……分かりました。もう一度検討してみますので」

よろしくお願いします、とわざわざ頭を下げて橘さんは生徒会室を出て行きました。

「そういえば」

わたくしは橘さんの話を聞いて、実際に文化祭でメイド喫茶を行った年があるのを調べてみようと思いました。

おそらく無いとは思いますが、彼女が適当な理由付けをしたかったための嘘かもしれないので……それとあとひとつやりたいことが出来たのです。

確か生徒会準備室の本棚に歴代の卒業アルバムがあったはずなので少し探してみることにしました。

 

「……」

最初に手に取ったのはわたくしのお母さんが卒業した年度のアルバムでした。

実は三代にわたって、椿原家の女性は全員三間桜の卒業生なのです。

アルバムをめくっていくと、椿原(けい)と下に名前が書かれた写真を見つけました。

お母さんのこの写真を見るのは、どれくらいぶりでしょうか。

家にも同じアルバムがあるのですが、普段は物置部屋にしまいこまれてしまっていて、なかなか見ることができないのです。

「……」

写真のお母さんの年齢に追いついたという実感は、正直今でもまだ湧いてきません。

それなりの立場や権限を与えられて、椿原の家の仕事にも関わっているのに、この写真のときのお母さんに今のわたくしではどうしても勝てる気がしないのです。

……わたくしはこのまま努力を続けていたら、いつかはお母さんの背中に追いつけるのでしょうか。

そんなことを考えながら、そっとアルバムを元に戻しました。

 

それからしばらくは、様々な年度のアルバムをぼんやりと眺めていました。

「……これは」

そろそろ最後にしようと手に取ったアルバムで、わたくしは思わぬ人の姿を見つけたのです。

クラスの生徒達が集まって映っている集合写真のページに、百合さんによく似た女子生徒が満面の笑みを浮かべてピースをしていました。

いえ、よく似たというよりもほとんど生き写しと言っていいほどです。

この女子生徒は、わたくしの見立てが間違っていなければ、百合さんと深いかかわりがある人に違いないでしょう。年度的に、母親にあたる人なのでしょうか。

「……でもこの人は違う」

ここまで似ているのに、決定的に百合さんとは違う何かをわたくしは感じていました。

百合さんには強く惹かれるようなものを感じるのに、この人からはそこまでのものは感じられなかったのです。

──自分の左胸に手を当てて考えてみましたが、その理由がわたくしには分かりませんでした。

 

2

「……」

久々にちゃんと家に帰ってきたけど、なんだかまだ自分の中で色々と整理がつかないままだった。

どうやらお母さんはわたしのことを、本当に見捨てしまおうと考えているみたいだ。

そういう結論を出したくはないけれど、現実的に考えてみると、そうとしか思えない。

 

「あなたには会わないそうよ」

「どうしてですか」

わたしを病院で待っていたのはお母さんではなく、林堂恭子という女性だった。

彼女は、わたしの家庭教師をしていた人で、正直頼まれたって会いたくないぐらい苦手だ。

でも、そのことがどうでも良くなるぐらいにわたしは感情的になっていた。

「さっきの話では面会謝絶になるような病態じゃないですよね。……だったらどうしてなんですか」

「理由は言えない。いいえ、言わないということよ」

「……」

「あなたの気持ちは分かるけれど、今何を言っても無駄だってこと、分かるでしょ。」

諭すようにそう言われると、わたしはこれ以上なんて言っていいのか分からなくなった。

次の日も、そしてその次の日も、わたしはお母さんに会いたい、と食い下がった。

大丈夫、心配しなくていいからね、とたった一言言ってくれればそれだけで良かったのに。

わたしは拒絶されたんだ。

そう自覚した途端に涙が止まらなくなった。

 

それからは毎日面会に言っては拒否されての繰り返しだった。

わたしは家に帰って通うつもりだったけど、恭子さんがなぜか病院のすぐ近くのマンションの部屋を貸してくれることになり、そこから病院に通っていた。

毎日通ったところで何も変わらないって分かっていたけど、わたしにはこうすることしか出来なかった。

「……ふう」

仮とはいえ、部屋に帰ってくると途端に気が抜けた感じになる。

何か時間を潰せるようなものがなかったか、鞄の中を漁っていると、入れっぱなしになっていた本を見つけた。

「……」

ブックカバーとかをつけてなかったにしては、綺麗な表紙をそっと撫でてみる。

『蝉と蛍』というタイトルを見て、この本を自分で買ったことを思い出した。

葵から勧められて読もうと思ったんだけど、途中まで読んだところで止まっていたはずだ。

おもむろに本を開いてみると、中に明るい青色の花が描かれた栞が挟まっていた。

「……」

わたしは結局この本を読まずに、元の場所にしまい込んでしまった。

 

──恭子さんに「そろそろ家に戻って学校に行きなさい」と呆れながら言われたのをきっかけに一旦家に戻ることになって、今に至るわけだ。

……本当だったら、今日から学校に行くように言われていたのだけど、今はまだそんな気になれそうになかった。

「……電話しとこうかな」

そう思い立ったところで、この前電話で喧嘩したことを思い出す。

「──わたしがどうしようと真央には関係ない。もう、放っておいて」

口に出した瞬間に言ってはいけないと気づいた。でも、もう遅かった。

「もういいよ……ごめん。私がバカだった」

そう言って電話を切られてしまったら、わたしもどうしていいのか分からない。

昼前までどうしようか悩んで結局、わたしの足は学校とは反対側に向かって進み始めていた。

 

この前も来た駅前のゲームセンターに着いたところで、昨日からなにも食べてないことを思い出した。

別にお腹が空いたってわけでもないけど、適当に何か食べることにしよう。そう思ってわたしは近くのドーナツショップに向かった。

「ふう……」

適当に選んだドーナツとパイを詰め込むように食べて、水を一気に飲む。

急いでいるって訳じゃないけど、なんとなくここに長居する気になれなかった。

「……何しよ」

クレーンゲームって気分でもないし、とりあえずゲームセンターの奥に進んでいく。

しばらく来てなかったけど、ここの雰囲気はあんまり変わらないな。

様々な筐体が発する音が、他の場所にはない雑然とした雰囲気を作り上げている気がする。

この雑然さの中にいると不思議と落ち着く。

 

──思えばこうやって高校をサボって、こんなふうにゲームセンターに入り浸っていた時期があった。真央が朝起こしにくるようになってから、ここに来ることはほとんど無くなっていったけど。

一人で家に居づらかったときや、学校に行きたくないときに、こうやってよく時間を潰していた。

 

どこか懐かしい気分で、シューティングゲームや、リズムに合わせてボタンを叩くゲームとか、ダンスをするゲー厶とかを一通り触って、最後にわたしが行き着いたのはメダルゲームだった。

メダルを入れて、入れたメダルのうちのいくらか払い戻される、ただそれの繰り返し。

冷静に考えてみればなんでこんなことをしているのか分からない。だけど、時間をひたすらに無為にすごさせてくれるこの筐体はわたしを癒してくれているようだった。

ルーレットが回り、機械が今までにないぐらいに大量のメダルをわたしのもとに払い出す。

その様子をただ眺めていたそのときだった。

「百合さん!」

突然声をかけてきたのは椿原だった。

 

3

「それにしても、どうしてわたしがゲームセンターに居るかもって思ったの?」

「それは……なんとなくです。学校に来ていないみたいですし、メールの返事もなかったのでとにかく心配で……」

なかば連行されるような流れで車に乗せられて、わたし達はサファイアにきていた。

「ごめん」

「いいんです、そんな」

申し訳なさそうな顔をされても、わたしの方が困ってしまう。

「……桜井さんから少しだけ聞いたのですが、大丈夫だったんですか」

「大丈夫だったっていえば大丈夫なのかな、わたしは」

椿原は心配そうな表情のまま、わたしをじっと見つめてくる。

「お母さんが、仕事中に倒れたって電話があってね」

「……!」

椿原は大きく目を見開いた。

「まあでも、一応は落ち着いたから。……まだ入院してるから正直心配だけどね」

そこでわたしは話すのをやめてしまった。こういうことをあまり他人にするべきじゃないと思ったからだ。

「大変だったんですね」

予想とは違って椿原はそれ以上詮索してはこなかった。

「ねえ、どうして椿原さんはそこまでわたしのことを心配してくれるの?」

わたしの質問に椿原はふっと笑う。

「本当、にぶいんですね」

「……え?」

「でも、百合さんはそこがいいんですよ」

答えをはぐらかして、なぜか満足気に椿原はコーヒーを一口飲んだ。

「そういえばそのオレンジ色のヘアピン、とても素敵ですよ、どこかで買われたものなんですか?」

「え、ああこれは……友達から貰ったの」

「そう、なんですか」

「あんまり似合わないかもなーって思ったりもするんだけど、せっかくもらったものだから」

「そんなことないですよ。そのヘアピンをプレゼントした方は、百合さんのこときっとよく分かっていると思います」

確信を持っているように言われると、どうして椿原がそんなこと言えるんだろうかとトゲトゲしい感情が湧き上がってきた。

「ちょっと手洗ってくるね」

そう言ってわたしは一旦席から立った。

 

「ふう……」

手を洗った後で、鏡に映った自分と目が合う。

やっぱり改めて見てもわたしにはこのヘアピンは明るすぎて、似合ってないような気がした。

「わたしのことをよく分かってる、か」

さっきの言葉を反芻するようにして、呟いてみる。

葵はどうだったんだろう、わたしのことどれくらい分かっていたのかな。

そんなことを考えながら、わたしは席に戻った。

「百合さん、このあとお時間ありますか?」

そろそろ帰ろうと思ったところで、椿原の方から切り出してきた。

「時間はあるけど」

「それなら、わたくしの家に来ませんか?」

「え、どうしたの」

「百合さんにどうしても見てもらいたいものがあるんです」

 



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Another chapter9

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1

「……」

想像通りというか、なんというか。

家というよりも邸宅って言った方が良さそうな建物が目の前に現れてから、わたしは車の中からただぼんやりと眺めていた。

「立派な家だね」

「それほどでもないですよ」

正直な感想を言ったつもりだったけど、椿原はこの手の言葉は言われ慣れているんだろう。

「お嬢様、ここでよろしいですか」

「ええ」

椿原が車から降りようとするのを見て、わたしも降りようとしたら、それよりも先に、助手席に乗っていたメイド服を着た人にドアを開けられた。

「あっ、ありがとうございます」

こくり、とその人は無表情のまま小さく頷いて再び車に乗り込んだ。

 

「前にも思ったんだけど、あの人たちはどうしてメイド服着てるの?」

学校の階段と同じぐらい横に広い階段を上りながら椿原に尋ねると、椿原は笑ってこう答えた。

「あれは、わたくし付きのメイドの制服なんです。出来るだけ可愛らしいものがいいかと思って選んだんです」

「そ、そうなんだ」

確かに可愛いデザインだとは思うんだけど、まさか指定しているとは思わなかった。

「百合さんも試しに着てみますか?」

「わたしは別に……」

「うふふ、いいんですよ遠慮されなくても。百合さんは絶対似合いますから」

椿原の後をついて歩いているだけで、この家がやっぱり相当な資産家らしいということがわたしにも分かった。

いわゆる普通の家にはなさそうな絵画や、置かれているものがなんというか、きっとそれなりに価値がありそうなものばかりで、ちょっとした美術館に入ったみたいな気分になっていた。

三階まで階段を上ったところで、階段から部屋が並ぶ廊下へと、向かう方向が変わった。

「ここがわたくしの部屋です。どうぞ入ってください」

「お邪魔します……」

椿原に促されて中に入ってみると、中は思っていたより意外に普通の部屋だった。

テーブルやパソコンが置かれたデスク。クローゼットや本棚と、観葉植物といった感じで、特に珍しいものがあるわけではなさそうだった。

全体的にシックな雰囲気で、大人っぽい感じだなあと、わたしは思った。

もうひとつ奥に部屋があるみたいで、そっちは寝室なのかな、となんとなくわたしは想像しながらもう一度部屋を見渡す。

「どうぞ座ってください」

「あ、うん」

小さなテーブルを挟んで椿原と向かいあって座った。

 

「早速ですが、百合さんに見て貰いたかったものはこれなんです」

そう言いながら椿原がテーブルの下から、桜の花が描かれた装丁が印象的なアルバムを取り出して上に置いた。

「この卒業アルバムの中に、百合さんによく似た人を見つけたので確かめてみてもらいたいんです」

そう言いながら椿原はアルバムをわたしに見えやすいように向きを変えた。

「これ、どこで?」

「生徒会準備室に歴代の卒業アルバムがあるんです。実は最近たまたま見る機会があって……確かこのページだったはずです」

そう言いながら開かれたアルバムのページに、見間違えるはずのない人の姿があった。

「もしかしたら、この方百合さんのお母さんじゃないかと思ったんです」

「……そうだよ」

三間桜の卒業生なのは知っていたけど、アルバムどころか、学生のときの写真を見せてもらったこともなかったはずだ。

周りを多くの生徒に囲まれて、笑顔を浮かべているお母さんの姿が今の自分とはあまりにもかけ離れていて、わたしはどうしようもなく情けない気持ちになってしまった。

「百合さんはお母さん似なんですね」

「……どうだろうね」

お母さんに似てるって言われて、もちろん悪い気はしないけど自分ではあまり似てるとは思えない。

「この前百合さんが、わたくしにお母さんはどんな人かと質問されたこと、覚えていますか?」

椿原はメイドさんが運んできた紅茶を一口、ゆっくりと味わってから尋ねてきた。

「覚えてるけど」

それがどうしたんだろう。

「不思議に思ったんです、どうしてそんなことを聞くんだろうと。それに、明日葉にも同じことを聞いたって言っていましたよね」

椿原はそこで言葉を切って、わたしの方をじっと見つめてくる。

「百合さんにとって、お母様というのはどういう存在なんですか?」

「……」

わたしの反応を伺うように間を置いてから、椿原はこう言葉を続けた。

「質問を変えましょう。……百合さんはお母様のこと好きですか?」

「お母様って……わたしの?」

「はい、そうです」

「どういう意味で聞いてるの? それ」

意図をはかりかねる質問に、ついきつい口調になってしまった。

「言葉通りの意味ですよ」

顔色を変えることなく答えてくる椿原の真意が、わたしには分からなかった。

「好きだよ。だってわたしのお母さんだから」

それでも、ためらうことなくわたしはこう答えていた。

「良かったです、わたくしと同じで」

椿原はもう一口紅茶を飲んで、ふっと表情を崩した。

 

2

「百合さんは本当に、肌が透き通るような感じで憧れてしまいます。お手入れとか、どうされているんですか」

憧れるはどう考えても褒めすぎだ。正直わたしより何倍も椿原の方が、女性として綺麗だと思う。

「わたしは特には何もしてないよ、すぐ日焼けするから日焼け止めくらい」

「本当ですか?」

椿原は怪訝そうな顔をする。

「本当だよ、真央に前同じようなこと言われたときもそうやって答えたし」

「……羨ましいです」

ため息を吐くように椿原はそう呟いた。

「でも、わたし椿原さんみたいに身長高くてスタイル良くないし、羨ましいと思うけど」

まじまじと見てみると、椿原は本当に容姿端麗という表現がしっくりくる。もちろん、素材がいいのは間違いないないだろうけど、それ以上に、自分自身をちゃんと律して管理してそうなところが、わたしはすごいと思った。

正直彼女に言い寄られたら、だいたいの人が簡単にその気になってしまうだろう。それぐらい椿原は同性のわたしでも正直魅力的に感じる。

 

「百合さんは、自分が魅力的だということをもっと自覚されるべきですよ」

そう言いながら椿原はわたしの横に来る。

「……大げさだって」

「大げさではなく、本心からそう思うんです。そう思ってなければわたくしは、わざわざ家まで招いたりしないですよ」

そう言いながら椿原は、わたしの方に顔を寄せてきた。

「今、百合さん誰かお付き合いされている方とかいるんですか?」

「い、いないけど」

どうしてそんなこと聞いてくるんだろう。

「百合さんは、今まで誰かのこと好きになったことありますか?」

言いながら椿原はどんどん体をわたしの方に寄せてくる。

「……それは……あるけど」

眉の少し下で真っ直ぐ切りそろえられた前髪が揺れて、わたしに覆い被さるように顔が近づいてきた。

「……今までなかったんです。生身の人にそういう感情を持つことは。もしかしたら、自分には誰かを好きになるような感情がないのかもしれないって、思い始めてしまうぐらいには」

椿原に見つめられるだけで、まるで金縛りにあったみたいにわたしは動くことも、重なってあっている視線をそらすことも出来なくなってしまった。

「もし、百合さんが受け入れてくれるのなら……この思いを遂げてもいいですか?」

獲物を捉えたような椿原の眼差しで、今ようやくこれまでの質問の意味が分かった。

「……ちょ、ちょっと待って! そういう気持ちをわたしに持ってくれてることは別に、その……嫌な訳じゃないけど……わたし、椿原さんのことまだそこまでよく分かってないから」

「──そうですね、ごめんなさい。いきなりこんなことしてしまって」

ふっと気が抜けたように椿原が体を離す。吐息がかかりそうなほどの距離から、ようやく開放された。

「……百合さんにとってはきっと迷惑でしょうけど、もっと貴女のことを知りたいし、近づきたい。わたくしがこう思っているということは覚えていてもらえますか?」

一瞬躊躇するような表情をしてからこう言って、椿原はいつものようにふっと微笑んだ。

「……分からないよ。どうしてわたしなんかをそんな……」

大きく息を吸って、吐いてもまだわたしの心臓は強く脈を打ち続けていた。

「どうしてかということは些末なことで、今、こう思っているという事実が、一番大事だと思うんです」

椿原はわたしの右腕を握って、優しく自分の左胸まで導いた。

「これが、嘘偽りのないわたくしの気持ちですから」

一定のリズムで、鼓動がわたしに伝わってくる。今まで自分以外の誰かのものを、こうやって直接感じたことはなかった。

さっきまでと違って、なんだか落ち着くような感覚が不思議だった。

「わたし、そろそろ……」

そろそろ夜になるし、帰らないといけない。

「最後にこんなことをお願いするのは、わがままなんですが……これからはわたくしのこと、苗字ではなくて名前で呼んでもらえませんか?」

「……いきなりは難しいけど」

「ありがとうございます。それでは名残惜しいですが行きましょうか」

 

送ってもらっている時間のほとんどで、椿原はかかってきた電話の応対に追われていた。

「ふぅ……」

電話を終えた椿原は短く息を吐いて、それからしばらく目を閉じていた。

聞き耳をたてていた訳じゃなかったから詳しくは分からなかったけど、どうやら彼女は相当忙しいみたいだ。

そうこうしているうちに家の近所まで車はたどり着いていた。

「……本当は百合さんともっとお話をしたかったのに、上手くいかないですね」

「わたしには詳しく分からないけど、なんだか大変そうだね」

「大丈夫ですよ。もう慣れましたから」

「……あ、このあたりでもう大丈夫です。ありがとうございました」

運転席に声をかけるとすぐに、車が路肩へと停められた。

「わざわざ送って来てくれてありがとう」

「いいんですよ。わたくしが無理にお誘いしたんですから、これぐらいさせてください。それではまた」

「うん」

手を振ってくる椿原にぎこちなくそう返して、わたしは車から降りた。

「……疲れた」

着替えてシャワーを浴びてから、ソファーに倒れ込んだ。

そのまま目を閉じるとすぐに、わたしは眠りに落ちていった。

 

3

「……やっと着いた」

教室に着くまでの間に、何回太陽に殺意を持ったのか分からない。

まあ、時期が時期だから暑いのは当たり前なんだけど、さすがにやりすぎだと思う。

「今日も本当暑いよね」

真央はそう言って、水筒を取り出して中身をゴクゴクと飲み始めた。

「……忘れてた、飲み物買ってくる」

そう言ってわたしは教室を出た。

「ふぅ」

自販機で買った水を飲むと、なんだか体温が下がったような気がする。そのまま、わたしは急いで校舎の中に戻った。

「……」

あれから真央としばらくケンカしたままだったけど、ようやく昨日仲直りすることができてよかった。

なかなかどう謝っていいか分からなくて、時間がかかってしまったけど、一安心といったところだ。

「おはようございます。百合さん」

教室に戻ろうと階段を上っている途中で、椿原から声をかけられる。

椿原とはなんだか、最近距離が縮まったような気がする。あれ以来メールや電話で話すことが増えて、彼女から受ける印象が変わったのは確かもしれない。話してみると思っていたより堅苦しい人じゃなかったし。

得体のしれない変わった人から、割と身近な部類の人に変わったといった感じだろうか。

 

「あ、おはよう」

椿原と会話をしながら、わたしは渡り廊下の方にきていた。

「今日学校が終わった後、お時間ありますか?」

「まあ、あるけど」

「どうぞ」

そう言いながら椿原は、ブレザーの胸ポケットからチケットを取り出して、わたしに差し出してきた。

「へえ、こんなのやってたんだ」

このチケットは世紀末ウイーンがテーマの美術展のものらしい。そういえば最近美術館とかにも行ってないこと思い出したら、ちょっと興味が湧いてきた。

「期末テストも近いですし、本当はテスト勉強しなければいけないところなんですが……実はわたくしが終わるまでに行けそうな日が今日ぐらいしかないんです」

チケットを見てみると、確かにもうすぐ期間が終わるみたいだ。

「ちょうどチケットがもう一枚あるので、百合さんに余裕があるならせっかくですので一緒に行きませんか?」

「……いいの?」

「もちろんです。それにこれは貰い物なので気にされることはないですよ」

「じゃあ、遠慮なく」

「よかったです。では授業が終わったら裏門の方に来てくださいね」

「うん」

「それでは、また後で」

わたしが頷くと椿原はにっこりと笑って、自分の教室へと戻っていった。

それからチャイムが鳴るまで、ぼんやりとわたしは校庭を眺めていた。

 

わたしが裏門についてすぐ、この前の高級車が横付けされた。と、思ったら中からこの前は多分いなかったメイドさんが降りてきて、こっちに近づいてきた。

「貴女が朝倉百合さんですか?」

「あ、はい」

「お嬢様から伺っております。もしよろしければ、車の中でお待ちください」

「分かりました」

なんだか、他のメイドさんと比べてなんだか風格がある印象を受けた。もしかしたら、この人がメイドさん達のボスなのかもしれない。

「すみません、お待たせしました。……それでは行きましょうか」

それから少し経ってから椿原が車に乗り込んできた。それを合図にしたように、車はゆっくりと走り始める。

「百合さんは美術館にはよく行くんですか?」

「前はたまに行ってたかな、最近はなかなかそういう機会もなかったし」

「美術品を見るのはお好きなんですか」

「まあ、好きかな。別にそこまで詳しいわけじゃないんだけどね」

そんな話をしているうちに、車は目的地の近くに着いた。

「ここでよろしいですか?」

「ええ」

駅前のロータリーに車が停められる。ここからだと美術館はすぐ近くだ。

「どうぞ」

先に降りた椿原が笑顔で手を差し伸べてきた。

「あ、えっとありがとう」

こういうことを顔色ひとつ変えずに、さらっとやってくるところがすごい。誰かに教わったんだろうか、と思ってしまう。

 

「どうでしたか?」

美術館を出たところで、椿原がわたしに質問してきた。

「なんだろう、久々に色々見たけどすごくよかった」

美術館独特の雰囲気はやっぱり好きだ。

「そう言ってもらえると嬉しいです」

椿原はにっこりと笑ってこう続けてきた。

「誤解されてしまいがちですが、あれらの絵は官能的な表現が全てではないと、わたくしは思うんです」

ロータリーの方に戻りながらも、椿原はわたしに語りかけてくる。

「百合さんは自分が何才まで生きられると思いますか?」

真剣な口調で聞いてきたわりには、漠然とした質問だ。

「……どうなんだろ。分からないけど、わたしあんまり丈夫な方じゃないから、多分長生きは出来ないんじゃないかな」

「……怖くないですか? いつか自分が死んでしまうと思ったら」

「怖くないってわけじゃないけど、どうしようもないことないんじゃない?」

椿原はわたしに何が言いたいんだろう。そう思いながらわたしは答えた。

「百合さんは」

椿原はそこで足を止めて、わたしの方に向き直った。

「……強いんですね。わたくしはふとそういうことを考えてしまって、どうしようもなく怖くなることがあるんです」

「強くなんかない。……ただ、諦めてるだけ」

そう、諦めるしかない。

人間である限りはどんな人にだって、最期の瞬間は必ずやってくる。

それは当たり前のことなんだ。

たとえ前の日に元気そうにしていても、その次の日に突然いなくなってしまう人だっているんだから。

「ごめんなさい。急にこんな暗い話をしてしまって」

「ううん。別に大丈夫」

それにしても、ちょっと意外だった。てっきり椿原は達観している感じだと思っていたけど、もしかしたらそうじゃない部分もあるかもしれない。

「百合さんはお時間まだ大丈夫ですか?」

「大丈夫だけど」

「もしよろしければまた、わたくしの家に来ませんか?」

「……うーん。でも何度も行くのも悪いし」

「大丈夫ですよ、百合さんは何も心配する必要はありませんから」

ちょっと迷ったけど、せっかく誘ってくれたしまあいいか。

「……じゃあ、行こうかな」

わたしがそう言うと、椿原はにっこりと笑った。

 

4

この前と同じようにわたしは椿原の部屋に通されて、テーブルを挟んで向かいあっていた。

「百合さんは時間があるときはどういうことをされているんですか?」

「うーん。別に何かしてるってわけじゃないかな。椿原さんは……」

「椿原さんではなくて、名前で」

そこまで言ったところで、たしなめるように椿原は言葉を挟んできた。そういえば、名前で呼んでくださいと頼まれたんだった。

「……えっと、花恋さんはどうなの?」

今まで椿原さんと呼んでいたわけだし、口に出して呼んでみるとどうもしっくりこないというかなんというか。

「わたくしは最近ではよく、百合さんのことを考えていますよ」

そう言って椿原は目を細める。

「そ、そうなの」

「はい」

笑顔で頷かれても、それにどう返したらいいか分からない。

「特に夜空が綺麗な日は、百合さんもこうして空を眺めていたりしたらいいのに……なんてことをふと思ってしまったりします」

椿原は紅茶を一口飲んで、わたしの目を真っ直ぐ見てきた。

「もっと多くの時間を貴女(あなた)と過ごせたらいいのに。なんて心から思うんです」

「……なんていうか、ありがとう」

誰かにこんなふうに明確な好意を向けられたときって、どうしたらいいんだろう。

砂糖をスプーンひとさじ入れてから、わたしは出された紅茶を一口飲んだ。

「失礼します。よろしければこちらもどうぞ」

そう言いながら、この前のボスっぽいメイドさんがショートケーキを運んできた。

「あ、ありがとうございます」

「どうぞごゆっくり」

そう言って丁寧にお辞儀をしてから、メイドさんは部屋を出ていった。

「百合さん、クリームが口についてますよ」

「えっどこ?」

「ふふっ、ここですよ」

あまりにも自然に指で唇に触れられて、わたしは一瞬何が起こったのか分からなかった。

「え……あ」

そのままクリームのついた指を、椿原はぺろりと舌で舐め取ってふっと微笑んだ。

「……どうかされました?」

椿原に視線を返されて、わたしはようやく我に帰った。

「百合さんは本当に可愛いですね」

ニコニコしながら椿原はケーキを一口食べた。

「や、やめてよ……本当に恥ずかしいから」

「どうして恥ずかしがる必要があるんです?」

「……面と向かって誰かにそういうこと言われたこと、ほとんどないから」

椿原はきっと今まで浴びるほど、人から褒められたり羨ましがられたりしてきただろうから、こうやってなんでもないようなことみたいに平気で言えるんだ。

「桜井さんにはこういうこと、言われたことないんですか?」

どうして突然真央がそこで出て来るんだろう。

「答えてください」

黙っていたわたしを急かすように、冷たい口調で椿原は聞いてくる。

「真央とわたしは……別に普通の友だちだし」

「そう、ですか」

「そうだよ。うん」

真央はわたしに色々世話を焼いてくれるけど、それは優しいからだと思う。

彼女はわたしみたいにダメな人間をみると、放っておけないタイプなんだろうから、きっとわたしがわたしじゃない誰かに変わっても、同じようにするだろうし。

「なんだか、ほっとしてしまいました」

そう言って微笑みながら、椿原は残っていた紅茶を飲み干した。

 

「百合さんは、三間桜を卒業したあとはどうされるつもりなんですか?」

「……どうなんだろう、そもそも卒業出来ないかもしれないし」

冗談めかして言ったけど、そもそも3年生になるまで、学校にあんまりちゃんと行ってない時期があったうえに、ここ最近も学校を長く休んだから、もしかしたら危ないのかもしれない。

「先生から呼び出しとかされなかったんですか」

「なんか色々言われたけど、忘れちゃった。正直それどころじゃなかったし。椿原さんは目指す大学決まったの?」

「はい、推薦でN大を受ける予定です」

「そうなんだ」

「わたくしのことはいいんです。それより百合さんは進学されるんですか?」

「どうなんだろ、何も考えてないから分からない」

自分の進路とか、正直それどころじゃなかったし。わたしは本当に何も考えていなかった。

「まだ時間はありますから、ちゃんとお母様とも話し合われてくださいね」

「……うん」

頷いたけど、わたしがお母さんとちゃんと話すことができるのはいつになるのだろうか。思わずため息をつきそうになる。

「開けるわよ」

わたしが紅茶が入ったカップに手を伸ばしたとき、ドアがノックされて女性の声がした。

「どうぞ」

「あら、お客さん? なら後でまた来るわ」

入ってきた女性は、ハリウッドの女優のような見事なブロンドヘアをしていた。

「ええ、そうしてください」

わたしの方をちらりと見てから、その女性は去っていった。

「……今の人って?」

「お母様ですよ」

椿原は微笑みながらそう答えた。

「そうなんだ」

なんか、目の前の椿原から想像してたイメージとは違っていたような気もしたけど、蓮佳(おねえ)さんもそうだったし、そういうもんなんだろう。

 

「そろそろ、わたし帰ろうかな。もう夜になっちゃうし」

「そう、ですか。分かりました、お家までお送りします」

少し残念そうな顔をした後、椿原は立ち上がった。

「申し訳ないですが、わたくしはここで」

「うん。じゃあ、またね」

この前とは違って、椿原は車に乗り込まずにわたしを見送った。

「……ふぅ」

帰りの車の中はずっと無言で、なんだか疲れた。シャワーも浴びたし、そろそろ寝よう。

そう思いながらグラスを取り出そうとしたときだった。

「あっ」

それは一瞬のことだったはずなのに、いつもの何十倍もゆっくりの時間に感じた。

手にとったグラスではない、普段は使わない青い切子のグラスが、床に向かって滑り落ちていった。

危ない、このままだと確実に割れる。

とっさにそう感じて手を伸ばした。

──けど。

「……」

目の前に広がったのは、割れたガラスの塊だった。

 

悲しいとか、めんどくさいという感情すら湧かずに、わたしはただただ後始末をしていた。

破片を集めて紙で包んで、掃除機をかけようと電源を入れる。

その音と同時に携帯電話が鳴り始めた。



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Another chapter10

この章はAnotherchapter1〜9の続きとなっています。未読の方はぜひそちらから読んでいただくことをオススメします。


1

「──ねえねえおかあさん! かれんね、大きくなったら、おかあさんのお仕事を手伝うの!」

小学校に入学するかしないかぐらいのときに、ふとこんなことを言った記憶があります。

「そう。おかあさんも楽しみにしてるね」

今でも、そのときのお母さんの笑顔を忘れることが出来ません。

子供心にも、その笑顔が本心からのものではないことを感じ取ることができたのです。

 

「……」

今、お母さんはわたくしがしていることを喜んでくれるのでしょうか。

ただ一言、貴女(あなた)は間違ってない。

だから頑張りなさいと、背中を押してくれればどれだけ気持ちが楽になるでしょうか。

でも、その答えが返ってくることはおそらくないでしょう。

──わたくしが()()()()と会えることはもう、ないのですから。

「こんな時間にすみません。今からお時間ありますか? 百合さんの声が聞きたくなったので少し付き合って貰えませんか」

ここしばらく百合さんの声を聞けていなかったので、夜遅いのにもかかわらずわたくしはつい電話をかけてしまいました。

「……いいけど」

「疲れてるんじゃないですか? でしたら──」

いつも以上に沈んだトーンの声を聞いて、あえてわたくしは明るい声を作ります。

「いいよ、別に。わたしもちょうど誰かの声が聞きたいなって気分だったし」

誰か、ではなくて貴女の声とは流石に言ってくれませんでした。

「無理、されていないですか?」

「大丈夫。それでどうしたの?」

もしかしたら気を使われたのでしょうか、内心不安になりながらも、わたくしはそれを表にださないように気をつけていました。

「特にこれといった用事は本当にないんです。ただもうすぐ夏休みに入ってしまうので百合さんに学校で会えなくなると思うと、なんだか急に恋しい気持ちになってしまって」

「大げさ」

「大げさじゃないですよ。好きな人とは少しでも多くの時間を一緒に過ごしたいですから」

彼女がにぶい人ならば、はっきりと自分の気持ちを伝えるしかない。この前のことをきっかけに、わたくしは改めてそう決めたのです。

「……はっきり言うんだね、そういうこと」

照れたような声に、思わずわたくしも顔がほころびました。

「うふふ、だって、百合さんは鈍感ですから」

百合さんの反応を確かめてみようと思って、わざとからかうようにこう続けてみました。

「同じようなこと真央にも言われたことあるけど、自分じゃよく分からない」

百合さんの口からその名前を聞いた瞬間、思わず携帯電話を握る手に力が入ります。

「……そういうところが鈍感なんですよ」

「え?」

「でも、百合さんが鈍感な人でよかったです」

彼女がもし鈍感でなかったら、わたくしにチャンスが回ってくることはきっとなかったでしょうから。

「……わたしにも分かるように教えて」

「いいんですよ。百合さんはそのままで」

百合さんはそれ以上尋ねてはきませんでした。

 

「そういえば、百合さんはどんな人を好きになったんですか?」

「どうしたの急に」

「この前、わたくしが今までに誰かのことを好きになったことありますか? と聞いたときに、あるって言っていたじゃないですか」

「……そんなこと聞いてどうするの」

「純粋に気になっただけですよ。それで、百合さんの心を射止めたのはどんな人だったんですか?」

露骨に聞かれたくない。といった感じでしたが、わたくしはより深く聞かずにいられませんでした。

もちろん百合さんのことを知るため、という理由でもあるのですが、それ以上に強い嫉妬心がわたくしを駆り立てていたのです。

「……結構年が離れてたんだけど、とにかく話しやすくて、まるで太陽みたいに明るくてあったかい人だった」

子供に絵本を読み聞かせるように、ゆっくりと百合さんはこう言いました。

「小説を読むのと絵を描くことが趣味で、いちごやマーマレードのジャムをそのまま食べるぐらい好きで、いつも笑ってるのに、たまにすごく悲しそうな顔をしたり……大人のくせに子どもっぽくて、でもやっぱり大人で……それにね」

「……」

「……ごめん、こんなことが聞きたいわけじゃなかったでしょ」

わたくしが今感じている気持ちが、もしかしたら電話越しに伝わったのかもしれません。何かに気づいたように、百合さんはそこで話すのをやめました。

「そんなことないですよ」

目を閉じて、わたくしは落ち着いたようにそう答えましたが、内心は穏やかではありませんでした。

──彼女に自分のことをこんなに優しい声で語らせる人はいったいどんな人なんだろう?

そう自分の中から声が漏れてきそうになります。

「今の、忘れて」

そんなこと言われても、忘れられるわけないじゃないですか、と思わず言ってしまいそうになりましたが、笑顔を作ってわたくしは言いました。

「分かりました。百合さんが望むのなら、何も聞かなかったことにしますね」

「……うん。そうして」

「それではまた」

「じゃあ」

さっき電話に出たときのような声に、百合さんは戻っていました。

でも、わたくしはそのときと同じ声でいられたのでしょうか。

電話切った後、そんなことをずっとわたくしは考えていました。

 

2

「ん……」

七月最後の日。わたしは学校もないのに、目覚まし時計の音で目が覚めた。

しばらくぼーっとしてからようやく、休みの日に目覚ましをかけていた理由を思い出した。椿原に誘われて出かける予定があったんだ。

「ふわぁ……」

昨日は久々に寝付きが良かった気がする。ソファーに横になってからの記憶がないし。

軽く背伸びをしてから身支度を整えて、わたしは家を出た。

「ふぅ」

よろしければお迎えに行きますよ、と言われたんだけど、なんとなくで断ったことを少し後悔しながらわたしは駅に向かった。

 

「……」

学校に向かう方向の電車は、今が夏休み期間中の土曜日ということもあって混んでるかもしれないと思ってたけど、別にそんなことはなかった。

「ふう」

両隣に人がいないだけで、電車はこんなにも快適な乗り物なるんだ。そんなことを思いながら、わたしは窓の外をぼんやりと眺めていた。

「──いつまでこんな生活をするつもりなのかしら?」

電車がカーブを曲がって大きく揺れるのと同時に、この前のお母さんの言葉が頭の中で響いてくる。

──八月七日、貴女の誕生日の日に、これから自分がどうするつもりなのか、わたしが納得できるような話をしにきなさい。

心底呆れ果てたような口調でそう切り出されたとき、誇張ではなく本当に心臓が縮んだような気がした。

「──納得ってそんなのどうしたら」

「これからどうするつもりなのかってことよ。この時期にもなって自分の進路すら考えていないようではこのままにはしておけない。当たり前でしょう」

「……」

「いずれにせよ、あのとき自由にさせるって判断をしたのは間違いだったわ」

「待ってくださ……」

すがりつくようにわたしが発した言葉がお母さんに届く前に、電話は切られてしまった。

 

……本当はこんなことしている場合じゃないんだけど、自分のこれからを考えようとすると、途端に体も頭も全く働かなくなってしまう。

やりたいこともないし、これからどうしたいのか、どうするべきなのかも考えつかない。

家にいても仕方ないしと、なかばむりやり自分を納得させて椿原の誘いを受けたのだった。

まぁ、誰かに連れ出して貰わないと外に出なかっただろうし今考えてみると断らなくて正解だったかもしれない。

「あ」

ふと携帯で時間を確認したら、自分が思っていたほど、指定された待ち合わせの時間まで余裕がない。

歩くペースを少し早めて、わたしは目的地に向かった。

「ごめん、待った?」

「いいえ。わたくしもついさっき着いたばかりですから」

どう考えてもしばらく待っていたみたいだけど、椿原は微笑んでこう答えてきた。

「では、行きましょうか」

「うん」

「今日の百合さんとのデート、とても楽しみにしていたんです」

「そうなんだ」

デート、か。そういえば真央と一緒に出かけたとき、二人で出かけるんだからデートだよ。とか言ってたような気がする。

「……百合さんは今どこか行きたい場所とかありますか?」

「うーん特にはないけど。そういえばどうしてここで待ち合わせなの?」

遊びに出かけるのなら、普通は街の方だと思うんだけど、ここはわたしの家と学校の中間ぐらいの駅から少し歩いたところにある商店街だ。

「こういう場所に久しぶりに来てみたくなったんです。ここなら街に出るよりも、ゆっくりとした時間を感じられるような気がしたので」

「なるほど」

まあ、特にどこか行きたい場所があった訳じゃないし、別にいいんだけど。

「百合さんはこの辺りにはよく来るんですか?」

「小さい頃は結構来てたかも。でも最近はあんまりかな」

お母さんの都合でこの辺りを離れることになってからは当然来ることもなかったし、戻ってきてからもそう頻繁には来ていない。

「わたくしも同じようなものですよ」

なんだか前に来たときよりも、シャッターが閉まったままの店が増えたような気がする。

ノスタルジックとまではいかないけど、少し寂しいような気分でわたしは椿原と並んで歩いていた。

「何か雑貨を買いたいと思っているのですが、百合さんはどうですか?」

「いいんじゃない」

目的もなくうろつくのもあれだし椿原に任せるか。そう思ってからふと思い出した。

「……そういえば、今日はやってるか分からない店があるんだけど、行ってみる?」

「ぜひ」

椿原はにっこりと笑って頷いた。

 

3

「看板とかも出てないから、中々分かりにくいんだけど、ここだよ」

百合さんに案内されてきたのは、商店街のメインアーケードから一本外に出た路地にあるお店でした。

「よっと」

百合さんがドアを押し開けるのと同時に、軽やかな音がわたくし達を迎え入れてくれました。

「おっ、百合久しぶり〜」

「お久しぶりです」

奥から出てきた女性は朗らかな笑顔で、百合さんと言葉を交わした。

「あっ、もしかしてそっちの子、彼女ちゃん? スタイルもいいし〜それにすっごく美人さん! 百合も中々やるじゃない」

「えっと、和紗(かずさ)さん。彼女は……」

「はじめまして、わたくしは椿原花恋と言います」

「……あーご丁寧にどうも、あたしは中秋(なかあき)和紗。字は中秋の名月の中秋に和風の和に糸へんに少ないで和紗ね。良かったら覚えておいてね〜」

「よろしくお願いします」

一瞬間が会ってから、その女性は自己紹介をこうしてくれました。中秋和紗さん。と頭の中で字を思い浮かべてわたくしは笑顔を作りました。

「百合とは五年前ぐらいからの知り合いで、まぁ簡単に言うと常連さんの一人って感じかな。まあ、そんなにかしこまらないでゆっくり見ていってね〜」

「ありがとうございます」

そう言うと彼女は軽く手をあげて、店の奥の方に戻っていってしまいました。

「素敵なお店ですね」

「気に入ってくれたならよかった」

小規模な店内のスペースには溢れそうなほど様々なものがあって、目移りしてしまいそうでした。その中でも、とりわけわたくしが心惹かれたのはガラスを使った小物が並んだコーナーでした。

切子のグラスや、置物、ブローチ、様々な色が並んでいて見ているだけで心が踊ります。

「百合さんは、何か欲しいものはありませんか?」

「んーどうだろ」

「ではせっかくですから、お互いに選んでプレゼントするのはどうですか?」

少し甘えるような声を出して、百合さんに視線を送ってみます。

「え、わたしが選ぶの?」

「はい。お願いします」

「……うーん」

腕を組みながら悩む素振りをする横顔を、わたくしはじっと眺めていました。

百合さんのこの表情(かお)を見られただけで、今日ここに来た価値がある。そう心から思えました。

わたくしも百合さんにプレゼントするものを考えてながら、店内をゆっくり見て歩きます。

「……!」

それを見つけたとき、思わず声が漏れてしまいそうになりました。

ヘアアクセサリーはどうだろうかと、ふと目をやった場所に百合さんの髪に飾られているヘアピンと似たものが並んでいたのです。

「……」

少し探してみたところでは、百合さんがつけていたものと同じものはありませんでしたが、同じオレンジ色のものはいくつか見つけることが出来ました。

友達から貰ったの、という言葉を思い出しながらその中の一つを手に取ってみます。

その()()さんはどういう思いを込めて、オレンジ色のヘアピンを贈ったのでしょう?

わたくしはヘアピンをあった場所に戻しました。

 

「どうですか?」

「一応決まったけど……」

「ふふっ、いいんですよ。百合さんが選んだものなら何でもわたくしは嬉しいです」

「本当?」

「はい」

微笑みながら頷き返すと、不安げにしていた百合さんの瞳から、安堵の色がようやく見えました。

「じゃあ、わたし先に会計するね。すみませーん」

百合さんが奥に向かって呼びかけると、小走りで和紗さんが戻って来ました。

「はいはーい。あっありがとうねー」

「外で待ってるね」

「はい」

一足先に会計を済ませた百合さんが、外に出たところでわたくしも選んだ商品の会計をしました。

「お願いします」

「ありがとねー」

「……あの、少し聞いてもいいですか」

買ったものが入った紙袋を受け取りながら、わたくしは気になったことを尋ねることにしました。

「うん? なにかなー」

「百合さんが今日つけていたヘアピンは、ここの商品なんですか?」

「そうだよーよく気づいたね、あれはうちの商品」

和紗さんは目を見開いてから、わたくしをじっと見つめてきます。

「同じものはもうないんですか?」

「あー……あれは頼まれてオーダーされて作ったやつだから、一点物なんだよね」

和紗さんの返答に困ったような間と表情が、頭にはっきりと残っています。

彼女には、また機会を見て聞かなければいけないことがありそうです。

「……そうだったんですね」

でもそれを今、直接尋ねることはきっと得策ではない。そう考えてそれ以上質問するのはやめました。

「ごめんねー」

「いえ、そんな謝らないでください」

「良かったらまた来てねー」

軽く会釈をしてから、わたくしは店の外に出ました。

「お待たせしました。では行きましょうか」

「うん」

 

その後は、商店街をのんびりと探索しました。シャッターが閉まっているお店が思っていたよりも多かったのが少し残念でしたが、ここから活気が完全に失われたわけでなさそうでした。

「そろそろどこか涼しいところで休憩しましょうか」

「……そうだね、流石にちょっと疲れた」

「百合さんはどこか行きたい場所はありますか?」

「……任せる」

「分かりました、車を呼びますので少しここで待ちましょう」

彼女はあくまでもついてきてくれているだけで、わたくしと同じぐらいこの時間を楽しんでいるわけではない。

うちわで顔をあおぐ表情を見て、なんとなくわたくしはそう感じてしまったのです。

「やっぱり外は暑いね、当たり前だけど」

「そうですね」

車の中で会話を交わしながら、頭の中では様々な考えが巡っていました。これからどういう話をしよう、わたくしが選んだプレゼントは喜んで貰えるのかどうかとか、考え始めるとキリがないようなことでも、心配になってしまいました。

 

……それにさっき百合さんに連れて行ってもらったお店でのこともあります。

印象的なオレンジ色のヘアピン。以前から友達から貰ったもの、という言葉に少し引っかかりのようなものを感じていましたが、その疑念は間違っていなかったのかもしれません。

これは完全に想像ですが、その()()というのはもしかしたら、この前百合さんが電話で話していた()()()()()()()のことなのではないでしょうか。

「そういえば今どこに向かってるの?」

百合さんの声で、わたくしはふと我に返りました。

「サファイアです。この前一緒に行ったところです」

「あー覚えてる、あの喫茶店だよね」

「はい」

微笑みながら頷き返すと、百合さんの表情が緩みました。

「お嬢様、まもなく到着します」

「ええ、ありがとう。帰りはまた連絡するわ」

先に車から降りて、百合さんに手を差し伸べます。

「え、あ、ありがとう」

一瞬ためらった後に、百合さんはわたくしの手を握ってくれました。

握った手のひらの感触と体温に、自分の胸の鼓動が高まります。

「あ……えっと」

いつまで手を握ってるつもりなの? と百合さんは視線で訴えかけてきますが、このチャンスを逃すわけにはいきません。気づかないふりをして、手を握ったままサファイアに向かいました。



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Another chapter11

この章はAnotherchapter1〜10の続きとなっています。未読の方はぜひそちらから読んでいただくことをオススメします。


1

「そういえば、さっき買ったプレゼントまだ交換してなかったですね」

運ばれてきたコーヒーを一口味わってから、思い出したように椿原はこう言って包装された袋を差し出してきた。

「気に入ってもらえれば嬉しいです」

「ありがと、じゃあわたしも渡しておくね」

わたしはガラスで出来た小物入れを選んだんだけど、椿原はどんなものを選んだんだろう。ちょっと気になる。

「開けるのは、家に帰ってからのお楽しみにしましょう」

「分かった」

そう言われなかったらこの場で開けてしまうつもりだったけど、別にどっちでもかまわないし、わたしは椿原の提案を抵抗無く受け入れた。

「……」

「百合さん」

「ん?」

何をするでもなく店内の装飾を眺めていると、椿原が話しかけてきた。

「先ほどから何を考えられているのですか?」

「いや、別に何も」

「ずいぶんと物憂げな表情をされていたので」

「……そんなに?」

ぼーっとしていただけなのに、椿原の目にはそう映ったらしい。

「はい、とっても」

コーヒーをまた一口飲んで、椿原はふっと笑う。

「今は何も考えてなかったよ、本当に」

「そうですか」

なんだろう、何か気になったことでもあったのかな。そう思ったけど、椿原は何も言ってこなかった。

「そうでした、百合さんにこのことを聞いておかないといけないんでした」

「?」

「百合さんがもしよろしければ、メイドとしてわたくしの家で働きませんか?」

「……あの話本気だったんだ」

この前電話で話したときにも、同じようなことを言われたことがある。そのときは冗談半分だろうと聞き流していたのだけど……どうやらそうじゃなかったらしい。

「でも、メイドと言っても普通のアルバイトとなんら変わりないですよ」

椿原はそう言って微笑みながら、封筒を差し出してきた。

「中は雇用契約書と、そのほか必要なものが入ってます。一度目を通してくださいね」

それに、と言葉を切ってから椿原はこう続けた。

「わたくしは、百合さんのこと()()()()したいと考えていますから」

「……そ、そうなんだ」

なんか、さらっととんでも無いことを言われた気がするけど、とりあえず曖昧に頷いておく。

「嘘とか冗談ではないですよ。本気で思っていないのにこんなこと言わないです」

「……」

「わたくしは嘘はつくこともつかれることも嫌いですから」

そう言って椿原は浮かべていた笑顔を消した。

 

「……いつも何というか、忙しそうにしてるけど、疲れないの?」

 同じようなことを真央にも思ったことがある。

「もちろん疲れたって思うこともありますよ。でも、わたくしの肩に乗っているのは自分のことだけじゃなくて、椿原の家で働く人のことも背負っています。そんなことばかり言っていられないですよ」

 椿原は真面目な顔をする。

「やめたいって思わないの?」

「思いませんよ。椿原の家を継ぐこと、それがわたくしに課せられた運命だと信じていますから」

「……」

 運命、そのたった二文字の言葉で片付けるのには重過ぎるものを背負っているように見えるのに、どうしてそんなふうに笑えるんだろう。

 ……わたしには出来ないな。

 声になって出そうになったこの言葉を、わたしは飲み込んだ。

 

2

「すみません、ちょっと電話に出てきますね」

「あ、うん」

少し不機嫌そうな顔で携帯を見つめてから、椿原は席を立った。

「……ふう」

それにしてもここは本当に雰囲気がいい。なんだろう、流れる時間が他の場所よりも少しゆったりしているような気がする。

店内の装飾だったり、かけられている音楽だったりがこの落ち着く空間を作り出しているのかもしれない。

「──すみません! 本当に急で申し訳無いのですが、わたくし帰らなくてはいけなくなってしまって……後のことはメイドの一人に頼んでおいたので百合さんはここで待っていてくださいね」

一方的にこう告げると、椿原は行ってしまった。

「……どうしたんだろ」

普段椿原は微笑みを浮かべながら落ち着き払っている印象があるけど、そんな彼女があそこまで慌てるんだからし、何か大変なことがあったんだろう。

そんな漠然とした想像をしながら、言われた通りに待っていると、この前のボスっぽいメイドさんがやってきた。

「このままお待ちください。すぐに迎えが来ますので」

「は、はい」

 

「……」

とりあえず言われた通りに待っているのだけど、じっとそばに立っていられるとものすごく居心地が悪いというか、なんというか落ち着かない。

普段は大して見ることのないケータイを開いてみたり閉じてみたり、グラスに残った水をわざとゆっくり飲んで時間を潰そうとしていた。

「おっ待たせー! 朝倉ちゃんごめんねー待ったでしょ」

やってきたのは蓮佳さんだった。

「いや、そこまででもないですよ」

確かに思っていたよりは待ったけど、とりあえずそう返しておいた。

注文を済ませると、蓮佳さんはメイドさんを手招きして呼んで、二言三言耳打ちをする。

「かしこまりました」

そう言ってメイドさんは行ってしまった。

 

「──さてと、二人きりになれたことだしまずは何から話そっかな」

コーラフロートをかき混ぜながら、いたずらっぽく蓮佳さんは笑う。

「あーそうだ、朝倉ちゃんこの前お姉さんがせっかく忠告したのに無視したでしょ、まずそのことからだね」

「忠告?」

そんなことされてたっけ、と一瞬考えて思い出した。

「花恋と二人きりで会わない方がいいよって、お姉さん言ったと思うんだけどなあ」

「その、ごめんなさい」

「ううん。別に謝って欲しい訳じゃないよ。でも、お姉さんの忠告を無視したってことはさ」

スプーンでアイスをすくって食べてから蓮佳さんは、じっとわたしを見た。

「面倒なことに巻き込まれる覚悟があるってことだよね?」

冗談めかした口調なのに、全然目が笑っていないのがものすごく怖い。

「……面倒なことってなんですか」

「うーん、花恋から何をどれぐらい聞いてるか分からないから難しいんだけど、まず話さないといけないのは……」

蓮佳さんは短く息を吐いた。

「お姉さんがものすごーく花恋に嫌われてるってとこからした方がいいのかな? なんとなく分かってるかもしれないけどね」

「……それはまあ」

わたしが蓮佳さんと会ったんじゃないか、と問い詰めてきたときのことを思い返すと冷や汗が出そうになる。

 まあ、そのあとの口ぶりからして流石に蓮佳さんのことを嫌っているってのは分かる。

「色々あってお姉さん、ちょっとふらふらしてたんだよねー。結果としてそれが原因で花恋には相当大変な思いをさせちゃったから嫌われてもしょうがないんだけど」

 蓮佳さんはグラスについた水滴を指でなぞってから、肩をすくめた。

「それに、これからもっと嫌われるだろうことをしないといけないっていうのが辛いところなんだよね」

「……」

 

「で、ここからが本題ね。朝倉ちゃんに頼みたいことがあるの」

「……なんですか」

「これから先、力を貸して欲しい場面があると思うんだ。そのときに私を助けてくれないかな」

 蓮佳さんはわざわざ立ち上がって、頭を下げてきた。

「そ、そんな助けるってどうすれば」

「それは必要になったときに教えるよ。そのときにお姉さんの頼みを聞いて欲しいんだ。もちろん朝倉ちゃんにも……ううん朝倉ちゃんにしかできないことを頼むから」

「……」

 わたしにしか出来ないこと、そんなことなんてあるのだろうか。

「あるよ。そうじゃなきゃこんなこと言わない」

「……分かりました」

 蓮佳さんの力強い眼差しに半ば押された感じだけど、わたしは頷いた。

「ありがとう。このことはお姉さん忘れないから」

 そう言う蓮佳さんの笑顔は、今までのものとは違うとわたしは感じた。

 

 

 3

 突然の電話で百合さんとの時間を奪われたことに、わたくしはいらだちを覚えていました。

 それにその電話の内容が本当ならば、あの姉が家に帰ってくるということですから……こちらもどういう対応をとるか考えないといけません。

「……そう、分かった」

 再びかかってきた電話で、姉がやって来る時間のおおよそのめどがつきました。

あち一時間ぐらいで来ると言ってきたのなら、一時間半といったところでしょうか。

「シャワーを浴びてくる、携帯はもっていくから何かあったら電話をかけて」

そうメイドの一人に告げてわたくしは部屋を出ました。

 

「……」

いつも使う入浴剤とは違うものを入れた浴槽に身体を沈めて、わたくしは目を閉じました。

今さら戻って来るなんて一体どういうつもりなんでしょう。

──何にも考えてないんじゃない?

確かにそうかもしれません。ただ、最近わたくしの周りの人に余計なことを触れ回っていることから考えると……何かあると考える方が確実でしょう。

──あ、じゃあお金の無心とかかな?

その可能性もあるでしょう。でも、それだけならここまで目立つ動きをするでしょうか。

「……」

 百合さんのことも気になります。……ひとまず後でお詫びの電話かメールをしないといけません。

「……ふう」

 お風呂からあがって身支度を整えたところで、メイドの一人から姉がもうすぐ家につくという連絡がありました。

 

 姉と顔を合わせるのは本当に久々です。彼女が家を出ていってからは、これが初めてになります。

 ……でも、だからといって嬉しさや喜びといった感情はわたくしの中に全くありませんでした。

「……遅い」

 あの人はもうすぐ、という言葉の意味を知らないのでしょうか。

「花恋様、蓮佳様が到着されました」

「分かりました」

 本当なら出迎えに行くべきなのでしょうが、わたくしは椅子に座ったまま動く気になれませんでした。

「んー久々の実家は落ち着くね〜」

 能天気に笑いながらこっちに歩み寄ってくるのが自分の姉だと思うと、なんだか頭が痛くなりそうです。

「……お久しぶりです」

「えーどうしたのそんなキャラじゃないじゃん」

 テーブルを挟んで向かい合ってもなお、笑っている姉の顔が憎らしく映りました。

「それで、何のご用ですか?」

 湧き上がってくるイライラを抑え込みながら、わたくしはこう質問をしました。

「まあそう焦らないで、久々の姉妹の時間なんだし」

「……貴女はそんなことのためにわたくしを呼び出したんですか」

「そんな怖い顔しないでよ。大事な話があるから呼んだに決まってるじゃない」

「……だったら」

「朝倉百合ちゃん、あの子」

「え?」

 唐突に出てきた名前に戸惑うと同時に、嫌な考えが頭をよぎりました。

「さっきも会ってたんだけどさ、やっぱりあの子本当に可愛いよね、私も好きだなー。……ただ、かなり難しい子だと思う。気づいてないかもしれないけど」

「余計なお世話です」

「でも可愛い妹が入れ込む子なんだから、リサーチしとかないとでしょ。あ、資料ここにあるけど見る?」

 差し出された紙の中身は正直少し気になりましたが、わたくしはそれを受け取りませんでした。

「……結構です」

「何にせよ、簡単に思い通りに出来るようなタイプの子じゃないよ。……特にお母さんが厄介そう。やめとくなら今のうちだよ」

「貴女にそんなこと指図される筋合いはないですし、百合さんにこれ以上余計なことをしないで下さい」

 怒りで震えそうになる右手を握りしめながら、わたくしは姉を睨みつけました。

「そう言うと思った。だからさ、もう花恋は自由にやりなよ」

「どういうことですか」

「言葉通りの意味だよ。私が戻ってきたんだから花恋がもう無理する必要はないってこと」

「……ふざけないでください」

「ふざけてないよ」

「あのとき全部投げ捨てて家を出たくせに、何をいまさら言ってるの?」

「……」

「黙ってないで何か言ったらどうなんですか?」

「……花恋の言う通りだよ。あのとき私は家を出た、それが事実。ただ、今の椿原(うち)の家の状況でそんなこと言ってられないのも事実でしょ?」

「……」

 やはり、姉も知っているのでしょう。

「このまま行ってしまえば私達は何もかも、手放さざるを得なくなる。それは花恋も分かってるはずだよね」

 実は今椿原の家は主に金銭面で、危機的な状況にあるのです。

「それはもちろん分かってます。けど」

「だからといって私がいまさら何をするつもりだって言いたいんでしょ? 答えは簡単」

 得意げな顔で姉はこう続けました。

「私がパパに変わって当主になる。それだけのこと──痛っ」

 自分が姉の左頬を平手打ちした、ということに数秒たってから気がつきました。

「気が済んだ?」

 姉がそう呟くように言うのと同時に、メイド長に腕を掴まれました。

「花恋様それ以上はいけません」

 そう諭されても、冷静になれるわけがありません。

「いいから離しなさい。貴女なら分かるでしょう、この程度で収まらないってことぐらい」

「当主が危険に晒されている以上、それを見過ごすわけにはいきません」

「……貴女までそんなこと言って」

「花恋様、落ち着いて聞いて下さい。蓮佳様が当主になられるのはすでに決まったことなのです」

「そんな」

 一番信頼を置いている彼女のその言葉で、自分の腕から力が抜けるのが分かりました。

「カオリの言うとおりパパと、今のママはもちろん椿原(うち)の家にかかわる人全員。花恋と明日葉ちゃん以外にはもう通知済み。今、この家にいる人はみんな納得してくれてるよ」

 無言で周りに視線を向けても、誰一人わたくしと目を合わせようとしませんでした。

「……みんな知っていて黙っていたんですか」

「私がそう指示したからね。正式に決まる前に花恋がこのことを知ったら何するか分からないから」

「聞きましたよね、姉が何か良からぬことをしようといないか。でも、何も知らないってそう答えましたよね」

「……やめなよ。私がそう頼んだんだし」

 姉の言葉はもはや耳に届いていなかった。

「貴女も、あなたもアナタもアナタもアナタもアナタも

アナタも、嘘ついて……どうして? 今までわたくしがしてきたことは全部無駄だったと言いたいんですか?」

「花恋それは──」

「……もう、いいです」

 椅子から立ち上がると、視界が反転するぐらいの立ちくらみに襲われた。

「花恋様、大丈夫ですか」

「……放っておいて」

 

 それ以上の言葉を口にする気力もなく、階段を上ったことだけは覚えている。

 意識が飛んだわけじゃないけど、自分の部屋に戻るまでの時間の記憶が抜け落ちていた。

「……バカみたい」

 私は何のためにこれまで無理していたんだろう。

 何のために演じて、繕って、過ごしてきたのだろう。

 自分やりたいことも我慢して、この家の将来のことばかり考えて毎日働いてきたはずなのに。

 誰も私の味方になってくれないんだ。

 こんな状況になって帰ってきた(アイツ)の方が、今まで頑張ってきたはずの私よりもいいんだ。

 

 もし姉と私の年齢が逆だったら、今頃一人で部屋にこもってはめになるのも逆になったのかな?

 ふと浮かんだ疑問に答えてくれる人すら、きっと私の周りにはもう、いないんだ。

 

 泣きたいはずなのに。

 怒りに狂いたいはずなのに。

 それすら今の私は出来ない。

 ずっと入っていた電源が切れてしまった電化製品みたいに、何をすることなくただそこに存在することしか出来ない。

 いっそ私という存在がこのまま消えてしまえれば、いいのに。

 

 そしたらきっと、お母さんが迎えに来てくれる──



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Another chapter12

この章はAnotherchapter1〜11の続きとなっています。未読の方はぜひそちらから読んでいただくことをオススメします。



1

 不思議なもので、身体のしんどさが落ち着いてくると、自分が普通の人より死に近い場所にまだいるという自覚がなくなってくる。

 病院というのは一週間もおおよそ元気な状態でいると、本当に退屈な場所に思えて仕方がない。

 点滴台を転がしながら、病院の中を散歩するのにもいい加減飽きてきたし、ちょっと外に出てみるか。

 そう思ったわたしはそっと病院を抜け出して、近くにある海を眺めに行くことにした。

「よっ……と」

 砂浜に降りたい気持ちもあったけど、バレると後が面倒くさいし、ガードレールの上からで我慢しておこう。

「……」

 目を閉じるとより鮮明に感じる潮の香りと波の音。

 やっぱり病院の中からただ海を眺めるのとは違って、すごくいい気分になる。

「ねえねえ、そこで何してるの」

 声のした方向に顔を向けると、見知らぬ若い女性が穏やかに笑いかけてきていた。

「……なんか海を見たくなって」

 その女性の声に、そして笑顔にわたしは心惹かれていた。

「そっかそっか、あたしもそうなんだ〜」

 何でこの人は、こんな楽しげにわたしに話しかけてくるんだろう。

「入院、長くなりそうなの?」

「……まだ分かんないです」

 たわいのない会話のはずなのに、なぜかわたしはものすごく緊張していた。

「息が詰まるよね、どうしても長いこといると。看護師さんや先生はすっごくいい人なんだけど、病院ってどうしてもつまらないじゃん?」

 彼女は茜色に染まった空を眺めながら、ふっと笑った。

「ねえ、よかったらあたしの話し相手になってよ」

 

 ──そう、この言葉に頷いたときからわたしと彼女、小日向葵(こひなたあおい)の交流が始まったのだった。

 

 

「……」

 天気予報通りに台風が襲来したせいで、外は強い雨と風に支配されていた。

 よりによって今日来なくてもいいのに、と思ってしまうけど、だからといってわたしにはどうすることも出来ない。

 まあ、朝方になるまで雨音で寝つけなかったから、分かってはいたんだけど。

 一応先にプレゼントを用意しておいてよかった。

 本当だったら海を見に行きたいけど、こんな天気だし行くのは明日にするしかないか。

 そう決めてわたしは再び目を閉じた。

 

「……ん」

 突然の電話の音で目が覚める。

 一体誰だろう、そう思って携帯を開くと知らない電話番号が表示されていた。

 そのまま放置していると、また同じ番号から電話がかかってくる。

「……」

 ああもう鬱陶しい。

「……はい」

「ああ、やっと出た。私よ、林堂恭子」

 いらだちながら電話に出ると、聞き覚えのある、そしてあまり聞きたくない声が聞こえてきた。

「もしかして、お母さんに何かあったんですか?」

「いいえ違うわ。まず、貴女(あなた)が気にするべきことは他にあるでしょ」

「……」

 黙り込むわたしに恭子さんはこう続けた。

「どうしてあんなに厳しいことを言われてるのか、貴女まだ分かってないみたいね。……まあ、仕方がない部分もあるのも事実だけど」

 電話の向こうからため息が聞こえてくる。

「とにかく、自分のことは自分自身で決めなさい。伝えたいことはそれだけよ」

 そう言うと恭子さんは電話を切ってしまった。

「……はぁ」

 恭子さんがただわたしの心配をしているとは思えないから何か裏があるんだろう。

 けど、だったらなおさらわたしにどうすればいいのか具体的に教えて欲しい。

 

 わたしはそれからしばらく何をするでもなくテレビを眺めていた。

 考えて、考えて、ひたすらに考えた。でも、どれだけ働かない頭で考えてもどうすることが正解なのかわたしには分からない。

 お母さんはどうすれば許してくれるのだろう。

 お母さんは何をわたしに求めているんだろう。

 ……分からない。

 本当は誰よりも近い存在であるはずのお母さんなのに、今は何よりも遠いものに感じられてしまう。

 お母さんに良い子だって褒められたい。

 その気持ちは今も変わっていないのに、わたしはお母さんの下に戻ろうとは思えなかった。

 もし戻ったとしても、わたしはきっとまた逃げ出してしまうだろうから。

 

「……」

 まとまらない考えをどうにかまとめようとしても、ただ時間が過ぎていくだけで、何かが変わることも変わりそうな気配もない。

 結局、わたしはそこから何もできないままソファーの上で寝転がっていた。

「ん?」

 今、何か鳴ったような気がする。そう思ってたらもう一回、今度ははっきりとチャイムの音が聞こえた。

 なんか頼んでたっけ? と考えながら応対に出ると、予想外の人がそこに立っていた。

 

 

 2

「いやーごめんね急に押しかけちゃって」

「いったいどうしたんですか?」

 こんな天気の中、外に立っていたのは蓮佳さんだった。

「とりあえず中入って下さい」

「じゃ、お邪魔しまーす」

 蓮佳さんがなぜかちょっと嬉しそうにしているのも気になったけど、それよりも今日はこの前会ったときまでの派手な感じと比べて、ずいぶん雰囲気が違う。

 スーツ姿で髪色も黒になっているし、メイクもナチュラルで落ち着いた印象をわたしは受けた。

「タオル、使います?」

「ありがとー、でもたいして濡れてないから大丈夫。それよりも、大事な話があるんだ。聞いてもらえる?」

「……はい」

 こんな雨の中わざわざ来たんだから、何かあるんだろうと想像はついてたけど、蓮佳さんのこわばった表情や、緊張を含んだトーンの声から、その何かがただごとじゃないことが分かった。

「ここ何日かで、花恋から連絡あったりした?」

「いや、何も」

 言われてみて、ちょっと前までは毎日メールか電話があったことを思い出した。

「まあ、そうだろうね」

「?」

 わたしの返答はどうやら予想通りだったらしい。だったらどうしてわざわざ聞いてきたんだろう。

「百合ちゃんは、この前私と話したこと覚えてる?」

「……それはまあ」

「実はね、今花恋は自分の部屋に閉じこもっちゃってるの。なんていうか籠城みたいな感じで」

「……籠城、ですか?」

 イメージにない籠城という表現に、彼女が尋常ならざる状況にあるだろうことがわたしにも分かった。

「うん。……まあでも、そうなった原因は私にあるんだよね。もう少し上手くやれればよかったんだけど、今までみたいに花恋に無理させるわけにはいかないからね」

 蓮佳さんは短く息を吐いた。

「このままにしておくわけにはいかない。でも、ただ出てきてって言っても出てきてくれるわけがないんだよね」

「……」

「姉として小さい頃から見てるから分かるんだけど、あの子本当はお淑やかなお嬢様ってよりも、どっちかっていうとワガママなお姫様って言う方が近いんだよね」

「そう、なんですか」

「うん。ちょっと意外だった?」

「……どうなんでしょう」

 そう言われて考えてみると、そんな部分が彼女には確かにあるとわたしも思う。例えばちょっと強引なところとか。

「でもね、素の自分のキャラクターと違う自分でずっとい続けるのってとってもしんどいと思うんだ、心も体も」

「……」

「百合ちゃんなら分かるよね、一度壊れちゃうと、人は元には戻れないって」

蓮佳さんの口ぶりは会話の流れの中でよくある安易な同意を求めてくるようなものとは違って、念を押してくるようなものだった。

「……それは、そうだと思います」

「うん。だから花恋がそうなる前に、なんとか次の手を打たなきゃいけない。……そのために」

 蓮佳さんはそこで言葉を切ると、真っすぐわたしの目を見つめながらこう言ってきた。

「貴女の力を、私に貸して貰えない?」

「わたし、ですか?」

「そう。この前にもお願いしたよね、朝倉ちゃんにしか出来ないことを頼むって」

「それは覚えてますけど……」

「まあ、お願いって言っても何をさせられるか分からないと余計に不安だろうから、先に内容だけでも聞いて貰えないかな?」

「……分かりました」

「この封筒を花恋に渡して、読むように説得してもらいたいんだ、それとこのボイスレコーダーも一緒に。これは手紙を読んだ後に聞いて欲しい」

 そう言うと蓮佳さんは、赤い印ろうで封がされた茶封筒と、黒いボイスレコーダーをテーブルの上に置いた。

「ボイスレコーダーには私から花恋への伝言が録音されてる。どうしてこういうことをしたのかっていう説明……というよりも釈明かな」

「……この封筒の中身って何が入ってるんですか?」

 聞かずにおこうかとも思ったけど、中身が分からないものを渡すなんて怖いことわたしには出来ない。

「私達のお母さんが書いた手紙……かな、中は見てないから詳しい内容は私にも分からない」

「……」

 正直に言うと断りたかった。いや、断るべきなんだろうと思った。

 よく分からないけど、そんな重要そうなものを、部外者のわたしが渡すべきじゃないだろうし。

「まだ高校生の子に頼むなんて、大人として間違ってるって分かってる。それでも、今の状態の花恋にまず話を聞いてもらうには、貴女に頼むことが一番確実だと判断したの」

 蓮佳さんは一度目を伏せてからわたしを再び見つめてきた。

「もちろん、お礼はちゃんとさせてもらうわ。私に出来ることだったらなんでもね」

「……」

「お願いします」 

 蓮佳さんは頭を再び深々と下げた。

「……分かりました」

 安請け合いしてしまったのかもしれない。ただ、わたしが頷かなければ、蓮佳さんはこのまま頭を下げ続けただろう。それが嫌だった。

 それにいままでの彼女とは違う、真剣さというか誠実さは痛いほどに感じたのが決め手になった。

「ありがとう。この恩は必ず返します」

 そう言って握ってきた蓮佳さんの手は、ほのかに暖かかった。

 

「朝倉様、お待ちしておりました、どうぞ乗ってください」

「あ、ありがとうございます」

 傘を差してくれたメイドさんに会釈をすると、微笑みを返された。

 そのままエスコートされて、後部座席に乗り込むと、蓮佳さんが隣に座ってきた。

 いや、別に不思議なわけじゃないんだけど、さっきまでの緊張感が一気に戻ってくる。

「出してよろしいですか」

「ええ、こんな天気だけどできるだけ急いでね」

「かしこまりました」

 てっきりさっき傘をさしてくれたメイドさんが運転手なのかと思ったら、違うみたいだ。

「ぁ」

 ルームミラー越しに目があって思い出した。この人、この前のボスっぽいメイドさんだ。

「何か気になる?」

「いや……何も」

 どうやら声に出てたみたいだ。

「本当? 何か気になることがあるんだったら遠慮なく聞いてね」

「……はい」

「そんなに緊張しなくてもいいんだよ。貴女ならきっと大丈夫」

 そう言って蓮佳さんはふっと表情を緩めた。

 

 この前も思ったけど、この家やっぱり大きい。

 この前と全くことを思いながら、裏口らしい場所から椿原邸の中に入る。

「花恋は今ちょっと精神的に不安定だから、要領を得ないことがあるかもしれないけど、出来るだけ優しくしてあげて欲しい。これはさっきとは違って私個人のお願い」

「……分かりました」

「ありがとう。……それじゃこれ、よろしくお願いします」

 階段を上ったところで、蓮佳さんからさっきの封筒とボイスレコーダーを手渡された。

「ここからお部屋の前までは私がご案内します、付いてきてください」

「あ、はい」

 ボスっぽいメイドさんについていくと、前から明日葉がやってきた。

「これ、アイツの部屋のベッドルームの鍵、あげる」

 ぶっきらぼうな口調で、押しつけるように鍵を渡してきた。

「あ、ありがと」

「別に、アタシはアイツのことどうでもいいし」

 そう言ってなぜかわたしを睨みつけると、それ以上何も言わずに早足で向こうに行ってしまった。

「……」

 そういえば、どうして明日葉がベットルームの鍵なんて持ってるんだろう?

「行きましょう」

「は、はい」

 そんなことを思いながら後ろ姿を眺めていると、ボスっぽいメイドさんに促された。

「ふぅ」

 この前きたときには感じなかった、なんだか重い空気がこのドアの向こうから漂ってくる。

「朝倉様、メイド一同を代表して、私からも改めてお願い申し上げます。花恋様のことよろしくお願いします」

「……やってみます」

 ノックをしてから中に入ると、そこには誰もいなかった。

「……?」

 部屋の中をぐるりと見回してから気づいた。どうやらもう一つの部屋の方にいるらしい。

「……」

 正直言って怖いけど、ここまで来て今更帰るわけにもいかない。

「花恋さん、朝倉です。入ってもいいですか?」

 そうドア越しに呼びかけてみたけど反応はない。

 しばらく待った後で、意を決して鍵を開けて中に入った。

 

 ──部屋の中は意外にも明るかった。まず目についたのは、机の上に置かれた書類とパソコン、それから、座り心地の良さそうな椅子だった。

「あ」

 どこにいるのだろうと、探そうと思ったらすぐに気がついた。

 天蓋に覆われた、一人で寝るのには大きめなベッド。その真ん中に彼女がいる。

 毛布を被った姿で、虚ろな視線を窓の方に向けて佇んでいる彼女はおよそ、わたしが持っていたイメージとは違う。

 でも、その理由は蓮佳さんが言ってたことと、泣きはらしたまぶたから想像がついた。

「あ、あの大丈夫?」

 近づいて声をかけたところで、ようやくわたしに気がついたみたいだ。

 目があった瞬間は、敵意を持った眼差しで睨みつけられたけど、みるみるうちに椿原の顔は驚きに染まっていった。

「……どうして……ここに?」

 絞り出すようにして、発せられた声のトーンは明らかに疲れきっていた。

「ごめんね、急に来ちゃって」

「いいんです……そんなこと」

 少し恥ずかしそうに笑う椿原に、わたしは蓮佳さんから渡された封筒を差し出した。

「それでね、わたしはこれを渡しに来たんだ」

「……何ですか、これ」

「椿原さんのお母さんが書いた手紙だって、それとこれは蓮佳さんから……」

 蓮佳、という名前がわたしの口から出た途端、椿原の表情は一気に曇った。

「……何であの人の名前が出てくるんです?」

「頼まれたから、これを椿原さんに渡すようにって」

「わたくしは理由を尋ねているんです。どうして、百合さんはあの人の頼みを聞いたんですか?」

「それは……」

 詰め寄ってくる剣幕にわたしが口ごもっていると、椿原の態度が急に変わった。

「あの人には何を言われても、まともに取り合ってはいけないって言ったこと、忘れたとは言わせないわ」

 ぞっとするような眼差しに、身体が縛り付けられたように動かない。そのままなす術もなくベットに引きずり込まれて、上に多い被さられた。

「答えて」

「……忘れてはないけど」

「だったら! どうして」

 これまで彼女からぶつけられたことのない、激しい怒りに怯みそうになる。この前じゃどう考えても話しを聞いてくれそうにない。

 ……どうしたらいい? どうやったら彼女が落ち着いて話を聞いてくれるんだろう。

 ベットの脇に投げ捨てられた封筒に、視線を移してみても、思いつかなかった。

「……どうして……どうしてみんなそうなるの」

 涙がわたしの頬に落ちて、伝った。でも、これはわたしの涙じゃない。

「……ねえ、なんのためにこれまで頑張ってきたの?」

 これまで見たことのない、彼女の痛々しい表情にわたしは言葉を失っていた。

「周りに認められるように、必死で誰よりも一生懸命やってきたはずなのに、急に気まぐれで戻ってきたあの人を選ぶの? ねえ、教えてよ」

 わたしよりもかなり身長が高い上に、想像以上に力が強い彼女に敵いそうにはなかった。

「まだ子供だからっていうの? そんなの関係ない。私には出来るって示し続けてきたはずなのに」

「……」

「もういい。そんなこともうどうでもいいの、私に嘘をつく人達のことなんてもうどうでもいい」

 わたしの腕を押さえている椿原の手にますます力が込められていく。

「たった一人、いつか自分が選んだ人が現れたときに、その人に可愛いって、綺麗だって思ってもらえるように努力もしてきたはずなのに」

「……」

「たとえそれ以外の100人に褒められなくてもいい、それ以外の1000人に憧れられなくたっていい。そう思っていたのに……」

 正直、押さえつけられている腕や、覆い被さられている身体は痛かった。

 けど、目の前の彼女のことを思うと、痛さを訴える気にはなれなかった。

「でも、貴女も私じゃなくて、他の人を選ぶんでしょ? 誰も私のこといらないんでしょ?」

 わたしの腕を押さえていた彼女の右手が、胸元に伸びてきて、服のボタンを外し始めた。

「──せめて最後ぐらい……」

 このまま無抵抗でいたら、自分の身に何が起きるのか、にぶいにぶいって言われるわたしにも容易に察しがつく。

 ──それで彼女の気が済むのなら好きにすればいい。

 本当に心の底からそう思った。

 きっと彼女はそれぐらいの努力をしてきて、わたしには分からないぐらいの犠牲を払って来たんだろうから。

 ずっと押さえつけられてきたものが、たまたまわたしに向かって爆発してしまった、それだけのことだ。

 

「別に、どうしても嫌だってわけじゃないからいいんだけど」

 ──でも、このまま黙っていることがいいことだとは思えなかった。まずはうやむやにしていたこの前のことについて、返事をしておかないといけない。

「でも、その前に聞いて欲しい」

 わたしの言葉に彼女の指が止まった。

「この前、迷惑かもしれないけどわたしのこと知りたいし、近づきたいって言ってくれたよね」

 わたしが語りかけると、椿原は怯えたような表情に変わった。

「その……なんていうか、わたしは別に迷惑だって思ってないよ、そう思ってくれていることむしろ嬉しいって思った。こんなダメなわたしを、そんな風に思ってくれるなんて」

 一度は止まっていたはずの椿原の涙が、また零れ落ちそうになっていた。

「……」

「最初は、どうしてそんなにわたしのこと気にかけるんだろうって、正直ちょっと怖いなって思ったけど。でも今は違う」

一度目を閉じて、ゆっくり呼吸を落ち着ける。

「今すぐとかは無理だと思うし、ゆっくりでいいんだったら、わたしは貴女の気持ちに応えたいって思ってるよ」

わたしがそう言うと、椿原は唇を震わせながらしばらく黙っていた。

「……これ以上期待させるようなこと、言わないで! 分かってるんだから、この前電話で言ってた人のこと、まだ好きなんでしょ?」

 ……やっぱりバレてたというか、なんというか。怒るのも無理はない。わたしが全面的に悪いから。

「……それは、そう」

「だったら!」

──もし、自分が彼女の立場だったらって考えてみると、嘘をつかれてるって分かった上でも否定して欲しかったのかもしれない。だけど、それでもわたしは嘘をつく気にはなれなかった。

「でも今、わたしの目の前にいるのは貴女」

そっと椿原の髪に手を伸ばして、撫でるように触れてみた。

こんな精神的に辛そうな状況でも、相変わらず綺麗な黒髪で、思わずうっとりしてしまうような触り心地だった。

「大切に思ってた人が、もしも突然自分の前からいなくなっちゃったとしても、急にその人のこと嫌いになったりしないでしょ」

 椿原は色んな感情が入り混じったような、何だかちょっとバツの悪そうな顔で固まっていた。

「……」

「椿原さんは違う?」

「……それは」

「自分でも分かってるよ。きっと今持ってる気持ちは、()()()()ないんだってことぐらい。でも、わたしは……わたしはね」

 こんな言葉、自分の心の底にずっと沈めていて、それこそ最期まで外に出すことなんてないと思っていた。

「誰に何と言われても、この気持ちをなかったことには出来ないよ」

 椿原は途中から涙をこらえようと、自分の口元を両手で押さえていた。

「……うっ……ぐすっ……」

 力が抜けたようにして、椿原はわたしの胸元に顔を埋めてきた。

「……」

 一瞬迷ってから、お母さんが子供をあやすみたいに、しばらくわたしは彼女の頭を撫でていた。

 

4

「……はぁ」

 しばらくしてから落ちついた椿原と、わたしは少し話をした。

 主な内容は蓮佳さんに頼まれた手紙とボイスレコーダーのこと。

 彼女にはもう少しここにいて欲しいって言われたけど、手紙はわたしが見なければいいとして、ボイスレコーダーの内容を部外者のわたしが聞くわけにはいかない。

 まだ家には帰らない、また呼んでくれたら行くから。そう説得してようやく離してくれたのだった。

「……百合ちゃん!」

 部屋を出て、階段を降り始めたところで下の階から蓮佳さんと、ボスっぽいメイドさんがやってきた。

「大丈夫?」

「えっと、とりあえず花恋さんは多少は落ち着いてくれたみたいです」

「うん、それもだけど百合ちゃんは大丈夫?」

「わたしは別に……あ」

 言われてから服、特に胸元が乱れていることにようやく気がついた。

「よかったらお風呂入ってきて、代わりの服も用意するから、ね?」

「は、はい」

 そう促されるまま、わたしはお風呂を借りることになってしまった。

 

「ふぅ」

 入浴剤だろうか、花みたいなすごく良い香りに包まれて湯船に浸かりながら、しばらくぼんやりとしていた。

「……」

 それにしても、どうしたものか。

 乳白色のお湯をすくいながらぼんやり考えを巡らす。

 いまさら何か結論が出るわけでもないのに、そうすることしかわたしに出来ることはない。

 そんな状況が嫌になるけど……悪いのはわたしだ。

「……」

 こんなにゆっくり湯船に浸かったのはいつぶりだろう。のぼせてきた気もするしそろそろ出るか。

 

「おっ、百合ちゃんこっちこっち」

 ボスっぽいメイドさんに連れて来られたのは、リビングらしき広い部屋だった。

「ま、とりあえず座ってよ」 

「はい」

「……花恋の様子はどうだった?」

「だいぶ落ち着いたと思います。手紙の方は読んでいましたし」

「そっか、本当にありがとうね」

 安堵したような笑みを蓮佳さんは浮かべる。

「あとは……花恋次第。私のこと信じてくれたらいいのだけれど」

 呟くようにそう言って蓮佳さんは目を伏せた。

「あ、そういえば百合ちゃんに話しておいたほうがいいことがあったんだよね」

「……何ですか」

「そんなにかしこまることなんてないよ。ただ、百合ちゃんには知っておいてほしいことだからさ」

「分かりました」

 わたしが頷くと、昔話をするように蓮佳さんは語り始めた。

椿原(うち)の家ってね、不思議なことに代々女系みたいなんだよね。だからか分からないんだけど、私の祖母の代からは女性が家を取り仕切ってたの」

「そうなんですか」

「うん。それで私の4代前からは女性が当主を努めてきていたんだ。だから、私達のお母さんもそうだったの」

「……」

「お母さんが当主になったときから、椿原(うち)の家の経済状況はかなり悪くなってて、ずっとその始末に追われてたみたいなんだよね」

 蓮佳さんはそこで一度言葉を切った。

「お姉さんの記憶の中のお母さんはずっと忙しそうにしてた。でもその中でもちゃんと遊びに連れていってくれたりはちゃんとしてくれてたよ。だから寂しいとかはなかったけどね」

「……」

「花恋が小学生になったときぐらいかな、お母さんが病気になっちゃってね、そのときから私にも色々プレッシャーがかかってきてさ。正直嫌だったんだよね、この家を継ぐのって」

 蓮佳さんは笑って話しているけど、わたしは正直笑えなかった。

「お母さんは私に自由にしていいよ、って言ってくれてたんだけど、お父さんを含めて周りの人はそうじゃなかった。私もまだ子供だったから、我慢できなくて家出しちゃったんだよね。カオリは覚えてるよね? あのときのこと」

「ええ、もちろんです。大変な騒ぎになりましたから」

 へえ、ボスっぽいメイドさんの名前ってカオリっていうんだ。

「それから結局お母さんが亡くなるまで、お姉さん家に帰らなかったんだよね。それでお葬式のときに帰ってきたら花恋がえらく怒ってさー。ま、無理もないけどね」

「笑いごとじゃないですよ、本当」

 笑っている蓮佳さんにカオリさんが釘を刺した。

「……で、まあ今に至るって感じかな。……花恋には正直謝っても許されなくても仕方ないんだよね」

「……」

「ま、そういうことがあったんだけど。お姉さんは正直この家を一度出たこと、後悔はしてないんだ。ちょっと申し訳無かったとは思ってるけど」

「そう、なんですか」

「……これは朝倉ちゃんへのアドバイスなんだけど、一度外に出てみないと分からないことってたくさんあるよ。本当の意味での一人の楽しさや大変さも、初めてそこで分かると思うんだ」

「……」

「ま、まずはなんでもいいから何かやってみなよ。百合ちゃんなら絶対大丈夫だから。お姉さんが保証する」

「……はい」

 一度外に出てみる、そんなこと考えたことすらなかった。

「はい、かしこまりました」

 ちょうど話が終わったタイミングでかかってきた電話に、カオリさんが出ると、そのまま蓮佳さんに耳打ちをする。

「……うん分かった。すぐに行く。……ちょっと花恋と話をしてくるからもう少し待っててね」

「あ、はい」

 そういうと足早に蓮佳さんは出て行ってしまった。

 

 それからしばらく待ったけど、蓮佳さんが戻ってくる気配は無さそうだ。

「……ふわぁ」

 流石に眠たくなってきた。いつもだったらもうとっくに寝てる時間だし無理もない。

「少しお休みになりますか?」

「……そうします」

 カオリさんに連れて行かれたのは、ゲストルームだった。

「ふぅ」

 ベッドに倒れ込むと、あっという間にわたしは眠りに落ちていった。

「……んぅ」

 なんか暖かい。

 背中……というか身体全体が何かに包まれているような感覚がする。

「……え」

「ごめんなさい。起こしてしまって」

 耳元で囁くような声に思わずゾクッとする。

「あ……えと、蓮佳さんとの話は終わったの?」

 どうやらわたしは今、椿原に抱き枕みたいにされているみたいだ。

「……ええ、ひとまずは。……そんなことよりも本当に、ごめんなさい。さっきはあんなことをしてしまって」

「いいよ、そんなこと」

「……百合さんは本当に優しいんですね。でも、少し優しすぎます」

「そんなことないよ」

「そんなことありますよ。今ここにいてくださってるのが何よりの証拠です」

「……」

 それ以上、照れくさくてわたしは何も言えなかった。

 

 



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Another chapterED 前編

この章はAnotherchapter1〜12の続きとなっています。未読の方はぜひそちらから読んでいただくことをオススメします。


1

8月5日は何もする気になれなかった。

あの日は色んなことがあった、ありすぎた。

朝になって家に戻ってきてから、わたしはずっと考え続けていた。

携帯すら開く気になれずに、結局その日はほとんどソファーから起き上がれずに、考えこんでいるうちに一日が終わってしまった。

 

8月6日の朝は頭痛から始まった。

「……」

睡眠時間が足りなかったわけではない。多分、精神的な部分の影響が大きいと思う。

 顔を洗ったところで、鏡に映った自分と目が合った。

──ひどい顔だ。

腫れぼったいまぶたに、情けない表情。

でもこれが今のわたし、どうしようもない自分自身だ。

今日も外は雨が降っている。まだ台風は去っていないのだろうか。

 

気がつくとわたしは傘をさして外に出ていた。

「……」

傘を叩く雨音がどうしてだか心地良い。

水たまりに足を踏み入れると、スニーカーの足先から水が沁み込んでくる。

バカなことしてるなって分かっていても、なぜだか足を止める気にはなれなかった。

「……はぁ……はぁ」

ただ歩き続ける。

全部、全部、頭の中に渦巻いているもの全部。

空っぽになるまで、無心になれるまで、歩きたい。

……ううん。歩かなくちゃいけない気がした。

「……ねぇ」

どこかから声が聞こえた気がした。でも、それでもわたしは足を止めなかった。

「百合! ……百合ってば!」

突然後ろから肩を掴まれた。

「……なんだ真央か、どうしたの?」

そっちこそなにしてるのって聞きかけて気づいた、右手に下げられたビニール袋。どうやら買い物帰りみたいだ。

「もう、どうしたの? じゃないよ。どうしたのこんな天気なのに」

「うーん。強いて言うなら散歩、かな」

「本当?」

「本当。そういう気分だったってだけ」

「ふーん」

明らかに怪しんでるし、どう言い訳したものか。

「ちょうどそろそろ帰ろうと思ってたとこ」

「じゃあ私も一緒に帰る」

 

「もしかして、何か悩み事? 私でよかったら相談乗るよ」

「悩み事ってほどでもないよ。ただ色々決めないといけない時期だから」

「……それを悩み事って言うんじゃないの?」

「そうかもね」

そっけなくそう返すしかなかった。これはわたしの問題だから、真央に話してどうこうなるようなことじゃない。

「……ねえ百合」

「ん?」

足を止めて真央は神妙な顔をする。

「私、確かに頼りないけど、話を聞くことぐらいなら出来ると思う……だから、変に気をつかわれたくないし、遠慮して欲しくない」

「……」

「私、百合が思ってるより百合のこと心配してるんだからね」

「……ありがと、でも大丈夫」

「それならいいけど……」

まだ不安そうな顔をしながらも、真央はそれ以上何も言ってこなかった。

「じゃ、またね」

「……うん」

ちょっと大げさに腕を振ってみせる、真央も腕を振り返してきた。

 

真央の優しさが、正直ちょっと危なかった。

……今、あの胸に飛び込んで泣いたら、きっと楽になれる。

でも、わたしはそれをしなかった。いや、したかったけど出来なかった。

ここで真央に頼るのは違う、そう思ったから。

 

「はぁ……」

気持ちを切り替えようとシャワーを浴びて、いつものようにソファーに倒れ込む。

わたしはいつしか考えることをやめていた。

……もしかしたらちょっと、ヤケになってしまっているのかもしれない。

でも、お母さんの前に立ったら、どれだけ言葉を考えても伝えられる気がしなかった。

どれだけ取り繕った言い訳を用意したって、きっと無駄だから、自分の気持ちを正直に伝えて後はもう委ねるしかない。

そんな、諦観に似た考えが最後にわたしの導き出した答えだった。

 

──波の音が聞こえる。

一定の感覚のようで、ちょっと違うような独特なリズムがなんだか心地良くもあり、ちょっと不思議でもある。

視線を波打ち際から移してみる。

小さなオレンジ色のくまのストラップがついている車いすが、そこにはあって。

「……」

でも、そこにいるはずの人はいない。

いるはずがないのに、そこにその人がいないことをわたしはまだ、受け入れられていない。

(あおい)……」

そうだ、葵はもういない。あの声がもう聴こえてくることも、もうないんだ。

……ダメだ、いつまでもここにいちゃ。

目を開けると、見慣れた天井がそこにはあった。

なんだかちょっと眩しいし、輪郭がにじんだ丸がいくつも目の前に見える。

左腕で両目を覆うように隠して、わたしは涙をこらえていた。

 

2 

嘘をついてはいけない。そんなこと、きっと誰もが分かっているはずなのに。

──どうして人は嘘をつくのでしょう?

「花恋、お母さんのことはいいから、貴女は自分のために時間を使いなさい。人生の時間は有限よ」

お見舞いに行くたびに、わたくしにいつもお母さんはそう言ったのです。

「お母さんの病気はすぐに治るわ」

今になって。……いいえ、きっとそう言われたときから心のどこかでわたくしは、それが()()()()だと気づいていたのでしょう。

でも、それでも子供だなんて思わずに本当のことをお母さんには話して欲しかったのです。

 

「家のことはお姉ちゃんがどうにかするから、花恋は自由に自分のやりたいことを探していいよ」

──あの姉はそう言っておきながら、何もかもを投げ捨てて家を出ていきました。

自由に自分のやりたいことを見つけなさい。口にする人にとってはとてもいい言葉に聞こえるでしょう。

でも、そう言われた方は違います。

全部が全部、押しつけられたとは思ってはいません。ある程度は自分で納得して受け入れた部分もあります。

それでも、わたくしは心のどこかでずっと葛藤し続けていたのでしょう。

これが、本当に自分のやりたいことだったのかと。

 

「……」

百合さんに電話しよう。そう決めたはずなのに、なかなか実行に移すことが出来ませんでした。

「あれ〜どしたの浮かない顔して」

「ノックぐらいしてください」

姉とは一応は和解という形をとりました。といってもまだ許したわけではないですが。

「百合ちゃんとはどう? あれから」

「余計な詮索しないでください」

「ごめんごめん。でも、このままってわけにはいかないでしょ」

茶化すつもりで来ていたら部屋から追い出すつもりでしたが、様子からするとどうやら違うようです。

「……いちいち姉さんに言われなくても、分かってます」

百合さんがはっきりと拒絶をしないのをいいことに、わたくしは色々とやりすぎてしまいましたから。

「……! もしもし百合さんですか?」

「うん。今、電話大丈夫?」

「はい、もちろんです」

あんなことをしてしまった後ですから、百合さんの方から電話をかけてくれるとは、思ってもみなかったです。

「そんな大したことじゃないけど、一応相談というか報告があって」

「……どうされたんですか」

いつもの百合さんとは違う声色に、電話を握る手に思わず力が入っていました。

「もしかしたら、学校やめることになるかもしれなくてさ」

「え?」

「まだ分からないんだけど、そういうことになるかもしれないってだけ、でもそうなったとしても心配しないで。わたしは大丈夫だから」

「そう……なんですか」

突然のことにとまどいと、ほんの少しの安堵の気持ちで心が乱れていました。

「話はそれだけ、じゃあね」

「……あの!」

電話を切られてしまう前に、どうしても言わなければいけない。

「何?」

「もし許してもらえるのなら、もう一度会ってちゃんとお話させてもらえないですか?」

「あーうん、分かった」

「ありがとうございます」

「……じゃあ、またね」

「はい、また」

電話を終えると、身体から力が抜けていきました。

「ふう」

「どうだった?」

「……まだいたんですか」

姉がいることをすっかり忘れていました。気をつかって出ていってくれていたら良かったのに。

「ま、気負い過ぎないようにね」

軽く肩をぽんっと叩いて、姉は部屋を出ていきました。

「……百合さん」

わたくしはもう一度、携帯電話をぎゅっと握りしめました。

 

3

「……」

「百合、あなた何か変わったわね」

「そうですか?」

お母さんの家に向かう車の中で、恭子さんは独り言のようにそう呟いた。

「ええ、とっても。何だか憑き物が落ちたみたいね」

「……」

憑き物って、もうちょっと他の言い方はないんだろうか。

「到着しました」

「ありがとうございます」

運転手の人にお礼を言って、わたしは車から降りた。

「……ふぅ」

短く息を吐いてから、インターホンのボタンを押した。

「3階で待っているから上がってきなさい」

「はい」

もうどこにも逃げ場はない、覚悟を決めないと。そう自分に言い聞かせてから扉を開けて中に入った。

「……」

画材独特の鼻につく匂い。ここに来るのは初めてだけど、お母さんがこの家で何をしているのかなんとなく察しがついた。

螺旋階段を一歩、また一歩と上がっていくたびに、自分の脈動が激しくなっていくのが分かる。

「あ……」

リビングらしき部屋に出たところで、お母さんと目が合った。

その鋭い眼差しに足がすくみそうになる。

それでもわたしは目を逸らさずにお母さんの前に立った。

「そこに座りなさい」

「は……はい!」

自分でも声が上ずっているのが分かる。まだ何もしてないのに冷や汗が早くも出始めていた。

「──百合、わざわざ呼びつけたりして悪かったわね」

透明なテーブルを挟んでお母さんと向き合った。

「いえ、そんな……身体はもう大丈夫なんですか」

何だかお母さんの顔色が前にあったときよりも、良くない気がする。この前のこともあるし、正直とても不安になった。

「貴女が心配することじゃないわ」

「……ごめんなさい」

「まぁそんなことはいいの。それより貴女がこれからどうするつもりなのか、聞かせてちょうだい」

「……わたしは……」

いけない、落ち着かないと。そう何度も自分に言い聞かせても声が出てこない。

「戻って来る気になった?」

何も言葉を発せずにいるわたしに業を煮やしたのか、お母さんはそう語りかけてきた。

「……それは違います」

お母さんの言葉を否定することは怖かった。

でも……それでもわたしは、自分の気持ちをお母さんに伝えなきゃいけない。

「わたしは、お母さんのもとに戻るつもりはありません」

「……そう、だったら貴女どうするつもり?」

お母さんは表情を変えないまま、じっとわたしを見つめてくる。

「何も決まってません。でも、このままじゃダメだってことは分かってるんです」

震える左腕を右腕で押さえてから、大きく息を吸った。

「これがわたしの覚悟です」

学校に行ってわざわざ貰ってきた退学届。それと家の鍵をお母さんに差し出した。

「わがままを言ったのに、今まで自由にさせてくれてありがとうございました」

深々と頭を下げる。わたしに出来ることは、もうこれ以上何もない。

「百合の気持ちはよく分かったわ。……いつまでもそうしてないで顔を見せて」

どうしてかは分からないけど、お母さんは微笑んでいた。怒っていたり、真顔じゃないお母さんの表情を見たのはいつ以来だろう。

「そのトランクケースひとつだけで、本当にこれから生きていくつもりなの?」

お母さんの言葉は優しい口調の裏に、とても重いものがこもっていた。

「……はい」

自信なんて、あるわけがない。それでもわたしは大きく頷いた。

「たとえ嘘だとしても、そう言えるだけ進歩したわね」

お母さんはそう言うと一度目を閉じてから、ふっと息をはいた。

「……三間桜は卒業しなさい、そこから先はわたしは何も言わないわ」

「え」

「家もそれまでは好きに使っていいわ」

「……いいんですか」

「ええ。ただそこから先は貴女一人で生きるのよ。これからはちゃんとその自覚を持ちなさい。どういうふうに生きて、死ぬのか選ぶのは自分自身なのだから。 ……話はこれで最後よ」

「……はい」

本当はもっと言いたいこと、伝えたい気持ちがあったのに、それ以上言葉が出てこなかった。

 

「進路とか決めたらまた連絡しなさい」

「はい」

「もっと胸を張りなさい、いつまでもそんな顔してないで」

車から降りるとき、恭子さんはわたしの背中を軽く叩いてこう言った。

「……頑張ります」

わたしがそう返すと、車は走り去って行った。

 

シャワーを浴びてからソファーに倒れ込む。

疲れは当然あったけど、それよりもほっとしたという安堵感の方が大きい。

「……頑張る、か」

そうだ、頑張らきゃいけない。

ちゃんと頑張れるのかは正直自分でも不安だけど、少しずつやってみるしかない。

「ん?」

急に携帯が鳴り出す。誰だろうと思って画面を見ると、椿原花恋と表示されていた。

「もしもし」

「ごめんなさい、今電話大丈夫ですか?」

「うん」

わざわざ電話をかけてくるなんてどうしたんだろう。

「この前のことで、百合さんの都合がいい日を教えてもらえないですか」

ああ、そういえば直接会って話したいって言ってたな。

「明日以降だったらだいたい大丈夫だと思うけど」

「でしたら、明日の夕方5時頃お迎えに行ってもいいですか」

「うん」

要件はそれだけだろうか、そう思って口を開きかけたときだった。

「……あの、百合さん」

「どうしたの?」

「この前のこと、本当にごめんなさい」

急に謝られたので言葉に詰まってしまった。

「……あーえっと、気にしなくていいよ」

「……百合さんはちょっと優しすぎます」

電話越しでも、椿原がホッとした様子が伝わってきた。

「何か困った事があったら、力にならせてくださいね」

「ありがと」

「それではまた明日」

「うん」

そのままソファーに寝転んでいるうちに、わたしは眠ってしまっていた。

 

4

「ふわぁ……」

久々によく眠れた気がする。何だか身体がいつもより軽い。

軽く身体を伸ばしてから、身支度を整える。

「……そうだ」

椿原が来るのは5時だったはず、今はまだ昼ぐらいだしかなり時間がある。

改めて家の色々なものを整理することにした。

どうしても持っておきたいものはスーツケースに詰め込んだけど、それ以外の残しておいたものを改めてどうするか決めておかないといけない。

「これも……いらないか」

残っていた雑貨や、捨てられずに取っておいたものを分別しながらゴミ袋のなかに放り込んでいく。

そんな作業をしているうちに、気づけばもう夕方になっていた。

「……やば」

急いでもう一度シャワーを浴びて、髪を乾かし終わったところでチャイムが鳴った。

「おはよう、って時間でもないか」

「……ふふっそうかもしれませんね」

一瞬、椿原はぼーっとわたしの顔を眺めたあと、恥ずかしそうに笑った。

「どうぞ、乗ってください」

「あ、うんありがとう」

椿原にエスコートされて車に乗り込む。

「……そういえば、どこ行くの?」

「秘密です」

微笑まれてごまかされてしまった。

 

「ここって」

見覚えのある場所に車が停められる。

「はい、わたくしの家ですよ」

もったいぶってるからどこに連れて行かれるんだろうって思ってたけど、椿原の家だった。

「でも、今日は一味違うんですよ」

「そうなの?」

「ええ、ついて来て下さい」

椿原に連れられて、家の中を改めて案内された。

今まで通り抜けるだけだった場所や、今まで入ったことのない部屋まで、普通他人には見せないようなかなりプライベートな空間まで、わざわざわたしに見せてきた。

「では、次はわたくしのお気に入りの場所にいきましょう」

「それって?」

「すぐ隣の部屋ですよ。ここです」

「へぇ」

今までの部屋よりもかなり広い。それにここはまるで小さな図書室みたいな雰囲気がある。

「小さい頃はよくこの部屋で絵本だったり、小説やマンガだったり。とにかく色んなものを読んでいたんです」

「すごいね、ここ」

背の高い本棚がたくさんあって、ジャンルを問わず様々な本が綺麗に整頓されて並べられていた。

「奥に行きましょうか」

椿原についてさらに奥に進むと、大きくて平らなソファーがあることに気づいた。

「横になりましょうか」

「え、ここに?」

普段ソファーで寝ているわたしが言うのもなんだけど、椿原がそんなこと提案してくるとは思わなかった。

何というか、ちゃんとしたベッド以外には横にならないイメージを勝手に持っていたから、ちょっと意外だったというか。

「よっと……」

横になってから気づいた。天井が丸い形の天窓になっていて、

「本を読んで、ときおりこの天窓から空を眺めることが好きだったんです」

「いいね、なんか落ち着く気がする」

「ええ、とても」

そう言って椿原はまた微笑む。

しばらくしてから、椿原はおもむろに立ち上がった。

「そろそろ行きましょうか」

「うん」

 

椿原の部屋で、しばらくくつろいだ後のことだった。

「……あの、百合さん」

「?」

「運命って信じますか?」

真面目な顔をしてそんなことを聞かれると、こっちもちょっと真剣に考えてしまった。

「まあ、どっちかっていうなら信じるかな」

「……わたくしは今でも信じているんです。運命の赤い糸というものを」

そう言って椿原は自分の左手の小指を立てた。

「笑ってもいいんですよ。バカバカしいって」

椿原はふっと微笑んでこう続けた。

「でも、もしそんなものが本当にあるのだったら、ちょっと素敵だなあってわたくしは思うんです」

「ロマンチストなんだね」

「ふふっ、そうかもしれません。……それで、自分の赤い糸が誰に繫がってるんだろう。ふと、そんなことを考えていたんです」

椿原は一度目を伏せてから、わたしの方に向き直った。

「運命の赤い糸、わたくしの小指からは、百合さんに繫がってるじゃないかって思ってるんです」

椿原はそっと立てた小指を撫でて、元に戻した。

「百合さんの小指には、もうすでに別の赤い糸があるかもしれません。でも、それでもわたくしはそう信じたいんです。……わたくしにとっての運命の人はきっと、百合さんただ一人なのですから」

そう言うと、椿原はわたしの手をそっと握ってきた。

「わたくしの手を取って、一緒に歩いてもらえませんか」

「……」

握られた手から熱が伝播してきたように、自分の顔が火照っていくのが分かる。

「いいんです。今すぐ答えを求めているわけじゃないですから。……ゆっくり考えてみてもらえないですか」

椿原はそう言うけど、すでにわたしの中で答えは決まっていた。

「──わたしは」



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Another chapterED 後編

この章はAnotherchapterの最終話となっています。未読の方はぜひ、これまでの部分を読んでからこのパートを読んでいただくことをオススメします。


1

久々に、そして今日で袖を通すこともなくなるであろう制服を身にまとって、わたくしは姿見の前に立ちました。

「……」

いつもと同じように鏡に向かって笑顔を作ると、なんだか少し寂しい気分になってしまいます。

 

卒業式を終えて、記念撮影を求めてくる生徒達の対応や、生徒会の役員達と挨拶を交わした後でした。

「あ、あの! 会長! これ受け取って下さい」

わたくしの後を継いで生徒会長になった女子生徒から、寄せ書きと花束を渡されました。

「ありがとうございます。でも、わたくしはもう生徒会長ではないですよ」

「そ、そうでした。えへへ」

「頑張ってくださいね。この学校を少しでもよりよく導いて下さい」

「が、頑張ります! あの……良かったら制服のリボンアタシにもらえませんか?」

「……わたくしも何か差し上げたい気持ちはあるのですが、貴女だけに渡すのは不公平ですから、ごめんなさい」

「そ、そうですね」

寂しげな顔をする彼女を納得させるために、わたくしは言葉を送ることにしました。

「貴女はわたくしとは違った形で、この学校をよりよくして下さい。期待してますよ」

「は、はい!」

頷く彼女に微笑みを返して、わたくしは校舎を後にしました。

百合さんを探して学校内を歩いていると、校舎近くのベンチにその姿を見つけました。

「百合さん、卒業おめでとうございます」

「ああうん、ありがとう」

「……そういえば初めて百合さんとお話したのもここでしたね」

ふたりで並んでベンチに腰かけると、あのときのことを思い出します。

「そうだったっけ」

「はい」

頷いてみせると、百合さんも思い出したようです。

「ところで百合さんはここで何を?」

「あーうん、真央を待ってる。今日ぐらいは一緒に帰りたいっていうから」

「……そうですか」

卒業式の日なのに、桜井さんの姿が見えないと思ったら、そういうことでしたか。

「ねえ、椿原さんは」

「ちゃんと名前で呼んで下さい」

未だに百合さんはわたくしのことを名字で呼ぶことがあります。やっぱりまだ、その部分では距離を感じてしまいます。

「……花恋さんは、どうしてこんなところに?」

「わたくしは百合さんを探してここに」

「そうなんだ」

相変わらず、百合さんはそっけない返事を返してきます。

「今日このあと、もしよかったら百合さんの家に行ってもいいですか?」

「……いいけど、今日も車でしょ? わたしたちは電車だから」

「いえ、そこは先約を優先して下さい。わたくしは少し寄りたいところがあるので」

正直、心配というか嫉妬してしまう気持ちはありました。でも、桜井さんと百合さんの間には間違いなく、立ち入っていけない空間というか空気感がありますから、ひとまず我慢することにしました。

「……では、わたくしはこれで。百合さんの方の準備が出来たら連絡して下さいね」

「うん、また後で」

「はい」

微笑んでから、足早にその場を去りました。

桜井さんと鉢合わせたらお互い気まずいでしょうし。

それに、わたくしも準備したいことが色々とあるので一度家に帰らないといけません。

後ろを振り返ることなく、わたくしは学校を後にしました。

 

2

「ふわぁ……」

卒業式というものは分かっていたけど、正直とても退屈だ。

それに授業とかと違って独特な緊張感があるから、余計に長く感じる。

「──これからの三間桜高校の更なる発展を願って答辞とさせていただきます」

椿原が答辞を読み終わると、校歌斉唱があって、ようやく式が終わりだ。

「……」

今までの行事もそうだったから、別に寂しいという気持ちはないけど、お母さんの姿は保護者席にはなかった。

もしかしたら恭子さんはいるかもしれないけど、姿を見つけることは出来なかった。

 

いわゆる最後のHRも終わり、やっと開放される。名残惜しい気分が全くないわけじゃないんだけど、それよりも早く帰りたいという気持ちの方が大きかった。

「あ、ちょっと待って百合!」

足早に教室を出ようとしたところで、真央に呼び止められた。

「ね、今日で最後なんだし一緒に帰ろ」

「……別にいいけど」

「先に帰らないで待っててね、絶対だよ!」

わたしに念を押すと、真央は教室に戻っていった。

「……はぁ」

真央と違って、クラスメイトとの交流を怠ってきたわたしにやることもなく、校舎近くのベンチに佇んでいた。

風が吹くたびにざわざわと木から音がする。本当だったら桜でも咲いていて欲しいところだけど、あいにく今年はまだつぼみのままだった。

 

「百合さん、卒業おめでとうございます」

一瞬誰かと思ったけど声で気づいた。

「ああうん、ありがとう」

「……そういえば初めて百合さんとお話したのもここでしたね」

椿原はわたしの隣に座ると、そう語りかけてきた。

「そうだったっけ」

「はい」

言われてみると確かに、そんな感じだったような気がする。

「ところで百合さんはここで何を?」

「あーうん、真央を待ってる。今日ぐらいは一緒に帰りたいっていうから」

「……そうですか」

椿原は少し複雑そうな顔をする。

「ねえ、椿原さんは」

「ちゃんと名前で呼んで下さい」

ちょっと演技っぽくムスッとした顔をするけど、声のトーンはちょっと本気で怒ってる気がした。

「……花恋さんは、どうしてこんなところに?」

言い直したけど、やっぱりまだちょっと照れる。

「わたくしは百合さんを探してここに」

「そうなんだ」

「今日このあと、もしよかったら百合さんの家に行ってもいいですか?」

「……いいけど、今日も車でしょ? わたしたちは電車だから」

3人で帰るのはちょっと気まずい気がする。

「いえ、そこは先約を優先して下さい。わたくしは少し寄りたいところがあるので」

あ、だったらいいか。

「……では、わたくしはこれで。百合さんの方の準備が出来たら連絡して下さいね」

「うん、また後で」

「はい」

椿原はいつものように微笑んでから去っていった。

 

「ごめんお待たせ」

本当に結構待たされたけど、真央の目もとが腫れてるのを見て、しょうがないかって気になった。

「別にいいよ。じゃ、いこ」

「ごめんね」

「いいってば、今日で会うの最後の人もいたんでしょ?」

「……うん」

学校の最寄り駅から電車に揺られて、家の方に戻って行く。

「……」

一緒に帰りたいっていうから、何か話したいことでもあるのかなって思ってたけど、真央は何も言わずにずっと佇んでいる。

「……次だね」

次で真央が降りる駅、わたしはもうあの家に今は住んでないから、ここで別れることになる。

「──百合も一緒に降りてくれない?」

「え?」

わたしが戸惑っているうちに、電車が駅についてドアが開いた。

「……」

真央は何も言わずに、わたしの制服の袖をくいっと引っ張った。

「……分かったよ」

結局、わたしも一緒に降りることにした。

 

見知った道でも、久々に通るとなんだかちょっと新鮮な感じがした。

それよりも真央の様子が気になる。

「……」

もうすぐ家につく、そこまでの間も真央はずっと黙っていた。

「……じゃあ、ここで」

真央に背中を向けて、駅に戻ろうとしたその瞬間だった。

「──百合!」

突然真央に後ろからぎゅっと抱きしめられた。

「どうしたの急に」

「……もうちょっとだけ、このままでいさせて」

「いいけど」

背中越しに真央の存在感のあるモノを強く感じる。

なんてちょっと思いかけたけど、そんなことよりもちょっとキツく抱きつきすぎな気がする。ちょっと痛いくらいだ。

「ねえ百合、本当にここに帰って来てないんだね」

「今さらじゃない、それ」

引っ越すって伝えたときの、真央の寂しそうな顔をわたしは思い出していた。

……もしかしたら、今も同じような顔をしてるかもしれない。

「いつでも戻って来てよ。私待ってるから」

「……別にもう一生会えないってわけじゃないし」

「そうだけど! もう、百合には風情ってないのかな」

そう言って真央は背中を軽くつついてきた。

「いや、あるよ」

「だったらちゃんと約束して。……またここに帰ってくるって」

「分かった。約束する」

「……うん。じゃ、行ってらっしゃい。ちゃんと元気でいなきゃダメだよ」

「……努力する。じゃあ」

「うん、またね」

どうしてかは分からないけど、なんとなく真央の顔を見たらいけない気がして、わたしは振り返ることなく歩き始めた。

 

3

「お邪魔します」

「何もないけど、とりあえず座りなよ」

「はい」

わたくしが百合さんの新しい家にお邪魔するのは、これが初めてです。

「……」

生活感があまりないという印象を受けるのは、家具やその他のものがほとんど見当たらないからでしょうか。

少し大きめのベッドとテーブル、クッションと冷蔵庫以外に大きい家具や家電が見当たりませんでした。

「何か飲む? 大したものないけど」

「ありがとうございます。お任せしますよ」

前住んでいた一軒家とは違って、今彼女が住んでいるのはマンションの一室です。

「じゃあこれ」

すっと、ペットボトルに入った水とグラスを手渡されました。

「ありがとうございます」

「それで、今日はどうしたの。急に家に来たいなんて」

「……最近なかなか会えていませんでしたから。お家デートでもしたいな、と思ったんです」

「なるほど」

百合さんはそう言いながら、ビーズクッションにもたれかかるように座りました。

 

「で、そろそろ聞いていい?」

百合さんがさっきからちらちらと視線を送っていることに気づいていましたが、わたくしはあえて気づいていないふりをしました。

「はい、なんでしょう」

「そのスーツケースは?」

「必要なものはあらかたここに入ってますよ」

わざとはぐらかすように笑顔を作ります。

「えっと……必要なものとは?」

「同棲に必要なものですよ」

「……ど、ドウセイデスカー」

「ええ、といっても明後日のお昼頃までですけどね」

「急じゃない?」

「……嫌ですか?」

断わられないと分かって、こういうことを言う自分は少しずるいのかもしれません。

「まぁ、いいけどさ」

「ふふっ、ありがとうございます」

「……でも、どうして急に?」

ペットボトルに残っていた水を飲み干して、百合さんはこう尋ねてきました。

「卒業式の日ということで、一区切りだと思って」

本当は別の理由があるのですが、とりあえずそう言ってはぐらかしました。

「ふーん」

 

お風呂などを済ませて、いよいよ夜が深まってきました。

「わたし、そろそろ寝るけど」

「そうですね」

「そういえば、うち布団とかないなぁ。わたしそのへんで寝るからベッド使って」

「それは出来ないです。ちゃんとしたところで寝ないとダメですよ」

「でも」

「一緒にベッドに寝ればいいじゃないですか」

「ふたりで並んで寝るには狭いよ」

「いいじゃないですか、なんかカップルっぽくて」

正直に言うと、最初からわたくしはそのつもりでした。

「うーん……しょうがないなぁ」

「うふふ、嬉しいです」

百合さんに続いて同じベッドに潜り込むと、自分の胸が高鳴るのが分かります。

──ずっと、このときを待っていましたから。

「やっぱり、ちょっと狭くない?」

貴女(あなた)を近くに感じられて、わたくしはとっても嬉しいですよ」

「……」

百合さんは顔を赤らめると、寝返りをうってわたくしから顔をそらしました。

その初心な仕草がたまらなく愛おしくて、自分の中でずっと抑えてきたものが崩れ去ります。

「……百合さん」

 

4

──なんとなくそんな気はしてたけど、一緒のベッドに寝たいってそういうことなのかな。

「ずっと、寂しかったんですから」

耳元で囁かれると、いつも以上に彼女の声は蠱惑的に感じる。

「……それと同じぐらい怖かったんです。自分の想いが貴女にとって、重荷になってしまっているじゃないかと」

「それは違う。言ったでしょ」

──これから一緒に、ゆっくり歩いていこう。

わたしは椿原の告白にこう答えた。

「だったら、ちゃんと示してください」

椿原の指がわたしの腰をゆっくりと撫でてきた。

「ふぅ……」

深呼吸をしてから、椿原の方に身体を向ける。

「キス、してください」

目が合うなりそんなことを言われると、流石に心の準備がまだっていうか。

「へ……いや、その」

「……」

なんかわたしを見つめる椿原の眼差しが、すっごく怖いんだけど。

「してくれないなら、こっちからするから」

「えちょ」

一瞬のことだった。視界を彼女に支配されると同時に、キスをされてしまった。

「ぁ……」

呆然とするわたしを見つめたまま、椿原は唇をぺろりと舐めた。

「こんなに気持ちいいというか、満たされるんだ……ただ()()が触れ合っただけなのに」

椿原は満足げに笑う。

「ねえ、貴女はどうだった?」

「……どうだったって言われても」

「嫌だった?」

「そうは言ってない」

嫌ではない、それは確かだけど不意打ちは不公平だと思う。

「ねえ、いい加減ちゃんと好きって言ってくれてもいいんじゃない?」

この女、こんなキャラだったっけ? って思ったけど、あのときもこんな感じだったような気がする。

「……」

どうやら、どうしても言わないと許してもらえないらしい。湧き上がってくる恥ずかしさを押さえつけて、わたしはじっと彼女を見据えた。

「好きじゃない人とこんなこと、わたしは出来ないよ」

今度はわたしの方からキスをした。

ただ軽く触れあっただけの軽いものでも、答えにはきっと十分なはずだ。

「ありがとう」

わたしの耳元でそう囁くと、椿原は首筋にキスをしてきた。

執拗にというか、強弱をつけて何かを探るような感じのキス……しばらくしてからその意図に気づいた。

「えっと、もしかして痕的なのつけてる?」

「いけない?」

別にいけないという訳じゃないけどさ。

「外から見えたりしたら、ものすごく恥ずかしいんだけど」

「……じゃあ見えないようなところだったらいい?」

「そういう訳でもないんだけど」

どうしても椿原は、そういう痕をわたしの肌につけたいらしい。

 

「……」

椿原の裸体はすごく綺麗だった。

無駄なものが全くないのに、すごく女性らしいというか。

詳しくはないけど、きっとグラビアアイドル顔負けというか、それ以上のスタイルというか。

「どう?」

少し恥ずかしそうに、だけどちょっと自信ありげな口調で感想を尋ねてくる。

「……羨ましい」

「あの子ほどじゃないかもだけど、胸には自信あるの。ねぇ、触って」

わたしの右手をとって、椿原は自分の胸に導いた。

「……」

うわ、すごい。

それ以上の言葉というか感想が出てこない。

自分のものとは明らかに違いすぎる感触に、嫉妬をもはや通り越して崇拝してしまいそうだ。

「じゃあ今度は、こっちの番」

わたしのお腹だったり、首筋だったり、胸だったり。ほとんど全身をくまなく、舌や指で撫でられた。

「わたしの身体なんてつまんないでしょ」

「そんなことない、すっごく綺麗」

そう言って、椿原はまたわたしにキスをしてきた。

 

この前みたいに、わたしは椿原に覆いかぶさられるような体勢になっていた。

「好き。好きよ。貴女のことが心から」

椿原の熱を帯びた眼差しは、わたしをとらえて話さなかった。

「もっともっと貴女のこと深く知りたい。他の誰も知らないことも知りたいの。それに、もっと自分のことも知って欲しい」

「……」

「自分が想っているのと同じぐらいの気持ちを、貴女には返して欲しいの。わがままだって言われたってその気持ちは変えられないわ」

椿原は、ふっと笑ってわたしの髪を撫でた。

「私のこと、もっともっと好きになってもらうから、覚悟してね」

「……期待してる」

 

「んぅ……ん?」

頭を撫でられる感覚で、まどろみの中から現実に引き戻された。

「おはようございます」

「あぁおはよ……」

まだ眠い。というか、なんで椿原はそんなに嬉しそうなんだろう。

「百合さんの寝顔、とってもかわいいかったですよ」

自分の寝顔、想像しただけでだらしなそうで嫌になる。

「……恥ずかしいんだけど」

「どうしてですか? 恥ずかしがる必要なんてありませんよ」

「いやいや」

恥ずかしがるなって方が無理だと思う。

「……そういえば百合さん」

「ん?」

淹れてもらった温かい紅茶を飲みながら佇んでいると、椿原が隣に座ってきた。

「愛ってどういうものだと思いますか?」

「え?」

「ごめんなさい、急に変なことを聞いてしまって。でも、少し考えてみてもらえないですか」

愛、良く聞く言葉だけど、どういうものって聞かれると考えたことなかった。

「……うーん」

椿原はわたしの答えを何も言わずにじっと待っている。

「……その人のためだったら、どんなことでも出来るっていうか、してあげたいって思うことかなぁ」

自分の中に愛というものが芽生えていたことが、果たしてあるのかは分からないけど、もしあるとするなら……そういうことを考えてみて思いついた答えがこれだった。

「答えてくれてありがとうございます」

椿原は満足げに微笑むと、目を閉じてまた開いた。

「……いや、お礼なんていいけど」

自分で言って恥ずかしくなってる。もうちょっとふざけた感じで答えれば良かったかもしれない。

「百合さんの愛とわたくしの愛。一緒に、大きくしていきましょうね」

「え、うん」

思わず頷いてしまったけど、椿原の考える愛ってどういうものなんだろう。

「……で、花恋さんの思う愛ってなんなんでしょうか?」

「それはこれから、一緒にいてもらえたら分かると思いますよ」

「え、教えてくれないのは不公平じゃない?」

「今はまだ、内緒です」

わたしの抗議は、椿原に届かなかったらしい。いたずらっぽく笑われてごまかされてしまった。

 

──彼女の顔を眺めながら、わたしはふと思っていた。

椿原花恋という人間は、わたしをきっと自分ひとりでは絶対たどり着けないところへ導いてくれる。

それがどういうところか、今はまだ分からなくてもいい。

ただ今は手を引かれるままついて行ってみたい。

そうわたしは思った。

窓の外から見える小さな空には、いくつかの雲がある。

青い空の中に浮ぶ白が、どうしてかいつもより鮮やかに見えていた。

 



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Another Ex

1

待ち合わせ場所に指定されたのは、閑静な住宅街の外れにあるバーだった。

本日貸し切りと書かれた看板にちょっと気が引けるけど、送られてきた店名と目の前の店が同じであることを確かめてから扉を開ける。

「やっほー久し振り」

奥の方のカウンター席から手を振るのは蓮佳さんだ。その隣の席にわたしは腰かけた。

「お久しぶりです」

「半年ぶりかな?」

「そうですね」

「やっとしばらくゆっくり出来そうだからねぇ、まずは百合ちゃんと二人で話したかったんだ」

「そうなんですか」

「もちろん。お姉さんは、そのために仕事を片づけてきたからねー」

そう言いながら蓮佳さんはグラスを傾けた。

 

「百合ちゃんと最初に会ってからもう3年ぐらいかあ」

「そうなりますね」

3年という時間は3という数字から受ける印象よりも、ずっと長い時間だと思う。

まあ、中学生が高校生になってしまうほどの時間って考えたら、短いはずがないんだけど。

「最近花恋とはどうなの?」

「……どうって言われましても」

蓮佳さんはニヤニヤ笑いながら、グラスに残っていたカクテルを飲み干した。

「そりゃあ、ね」

「……教えません」

「ぶー」

蓮佳さんはさっきから飲むペースが早い。まあ、彼女がかなりの酒豪なのは知ってるから、わざわざたしなめはしないけど。

「百合ちゃんそろそろウチにくればいいのに」

ウチにくる、その言葉が持つ意味はあのときとは全然違う。

「……考えてなくはないです」

「まーじっくり考えてね、花恋に急かされても焦らないように」

「はい」

「あ、そういえば明日葉はどう?」

「……うーん。今のままだと、正直難しいと思います」

わたしは今、アルバイトで明日葉の家庭教師をしている。……まぁ、わたし以外にも何人か家庭教師がいるんだけど。

「やっぱりそうかぁ」

「わたしが言うのもなんですけど、やる気というか、やらされていることへの拒絶反応が強いんで、そのへんがやっぱり問題だと思います」

まぁ、その気持ちは痛いほどよく分かるから、わたしはわりと優しくしているつもりなんだけど。

「うーん、まあ百合ちゃんはモチベーターとして引き続き上手く転がしてやってよ」

「分かりました」

 

「そういえば、百合ちゃんってこの前誕生日だったでしょ?」

「まあ、はい」

「と、いうわけで百合ちゃん目閉じて、そう。はい両手、出して」

言われるまま、目を閉じて両手を差し出す。

「はい。もういいよ」

オレンジ色がぱっと目に飛び込んでくる。財布……にしては小さいこれはきっと……。

「これって、キーケースですか?」

「そうそう、確か使ってなかったでしょ? よかったら使ってね〜」

「ありがとうございます」

わたしにはちょっとかわい過ぎる気がするけど、ありがたく使わせて貰おう。

「いいのいいのそんなにかしこまらないで、百合ちゃんはもう、妹同然みたいなもんだし」

そう言って蓮佳さんはグラスの中身を一気にあおった。

 

 

「ねぇ、百合ちゃんってお姉さんのこと嫌いなの?」

「別にそんなことないですけど……」

量が量だからか、流石に蓮佳さんはだいぶ酔いが回ってきたらしい。さっきから距離感がちょっとおかしいぐらい近い。

「だったらぁ、そんなにつれない態度とらなくてもいいじゃん」

上目遣いで蓮佳さんはそう言ってくるけど、本気で取り合うとロクなことにならない。

「ま、実際になびかれちゃっても困るんだけどね」

蓮佳さんは楽しそうに笑う。

「……まあでも百合ちゃんがもし本気で言いよってくれるんだったら花恋と徹底抗戦する覚悟はあるよ?」

「え?」

「つまり、百合ちゃんが思ってる以上に好きだってってことだよ」

蓮佳さんは真剣な顔で、じっとわたしを見つめてきた。

「優しいし、可愛いし、最近ぐっと綺麗になってきたし。……それにね、何よりちゃんと花恋に向き合ってくれてるってお姉さん知ってるから」

「……蓮佳さん」

「まあぶっちゃけちゃうと、最初は百合ちゃんのこと全然信用してなかったんだけどねー不良だって聞いてたし。でも、それは誤解だってこうやって会って話をするうちに分かったし」

「……」

いや不良……うーん。確かに優等生では絶対になかったけど、そこまでだったんだろうか。

「花恋のことちゃんと幸せにしてあげてよね」

「……努力します」

「そこは、はいって言い切ってよね、まあ百合ちゃんらしいけどさ」

蓮佳さんはニコニコ笑いながらわたしの肩を軽く叩いた。

 

2

「せんせー今日疲れたんで授業やめましょー」

「それ、この前も言ってたでしょ」

不満げにシャーペンをカチカチ鳴らす生徒こと、椿原明日葉さんは今日もやる気がないらしい。

「まあ、気持ちは分かるけど、わたしも仕事だしやめるってわけにはいかないかなー」

花恋から聞いた話だと、他の家庭教師のときはちゃんと授業を受けているらしい。

……まあ、わたしの役割的にはそれでいいんだろうけど、やる気のない生徒を相手するのは大変だ。

「あーもう疲れた!」

いつもはなんだかんだやり始めたら大人しく取り組むんだけど、今日はどうやら違うらしい。

「今日はいつもより機嫌悪いようだけど、どうかしたの」

「……せんせーには関係ないし」

なんか明日葉はわたしとこうやって会うと、いっつも拗ねてる気がする。

「関係ないんだったら、サボってないで次の問題やって」

このまま不毛なやりとりをしててもしょうがないし、あえて突き放してリアクションをみてみることにした。

「だって、つまんないんだもん」

「つまんないって?」

「勉強も、学校もこの家も何もかも全部」

「なるほどね」

「せんせーはそういうふうに思ったりしなかったわけ?」

つまんない、という言葉がぴったり当てはまるわけではないけど、そういうどこか鬱屈した気持ちは分からなくもない。

「何もかも嫌になったりはしてたかな、退屈っていうのとはちょっと違うと思うけど」

明日葉は頬杖をつくと、わたしの顔をじっと見てきた。

「じゃあせんせーはどうしてたのそういうとき」

「……うーん遊んだり寝たり、かな。どうにかして気分転換しようとしてた。ほらわたしの顔見てないで次の問題やってみて」

明日葉は嫌そうな顔をしたけど、問題集に向かい始めた。

「まあ、何か自分のやりたいこととか目標とか作れればいいんじゃないの、まあわたしは無理だったけど」

「……ふーん」

それから後は明日葉は黙々と問題に取り組んでいた。

「お疲れ様。今日は泊まっていくでしょ?」

「うーんどうしようかな」

明日葉への授業を終えたわたしは、花恋とリビングで話していた。

「明日、何か予定あるの?」

すぐに肯かなかったことが不満だったらしい。トゲが少しある口調でなんとなく分かった。

「別にないけど」

いれてもらった紅茶を一口飲んでから、わたしはこう答えた。

「だったら、今日は泊まっていって」

「分かった」

 

3

この世界の自分以外の人間のほとんどは他人だ。

他の人もそうかは分からないけど、わたしは他人がただの他人じゃなくなるのには、どうしたってある程度時間が必要じゃないか、と思う。

「……」

花恋の自室に初めて足を踏み入れたときにほのかに感じていた緊張は、今のわたしにはもうなかった。

「……」

花恋はパソコンで何か作業をしている。多分なんか仕事関係のことだろう。

わたしはわたしで、何をするでもなくスマホで動画をぼーっと見ている。

ただ同じ空間にいるだけ。そう言ってしまえばそれまでだけど、この時間はわたし達にとって大事な時間な気がする。

「仕事?」

そう聞いてみると花恋は軽く頷いた。

「お風呂、借りるね」

そう告げて、わたしは部屋を出た。

 

「ふぅ……」

足が伸ばせる湯船っていいな、なんて改めて思いながらわたしは大きく息を吐いた。

目を閉じると思わず眠りに落ちてしまいそうなほど、湯船の中は心地いい。

──思えばわたしと花恋の関係は、ずいぶんと近しいものになった。

精神的な距離、というのはもちろんだし、花恋のスキンシップにもだいぶ慣れた気がする。

とはいえ、わたしはいまだに花恋に振りまわされてばかりな気がする。

 

「わたし、先にベッド行ってるね」

花恋に声をかけてから、わたしはベッドルームのドアを開けた。

そのまま一直線にベッドに倒れ込むと、身体をゆっくり伸ばした。

「……」

それにしても、このベッドにはいまだに天蓋がついているのがちょっと面白い。

きっと多くの人が花恋から受けるイメージとは違う子供っぽい装飾。わたしはこれが悪いとは全く思わないんだけど、他の人にこのことを話したら絶対怒りそう。

でも、そういう子供っぽかったりする部分が、彼女を彼女たらしめているのだと、わたしは最近になって分かってきた。

「ふわぁ……」

目を閉じると、一気に眠気が押し寄せてくる。ほんとは花恋が来るまで起きてようと思ってたけど、どうやら無理そうだ。

 

「……ん……んぅ……?」

まどろみの中にいたわたしを、誰かが引き戻した。

「……あー花恋か。……え?」

顔と顔が触れあいそうになるぐらいの距離に、笑顔を浮かべた花恋がいた。

それは分かるんだけど、わたしが疑問に思ったのは花恋がいることじゃない。

「ふふっ、どうかした?」

「……いや、なんで裸なの?」

花恋が一糸纏わぬ姿でいたことだ。

「何か問題でも?」

「いや、問題っていうか」

確かに問題があるのかって言われたらないのかもしれないけど、それはそうとして、だ。

「ここは自分の家で、しかも自分の部屋で目の前にいるのは恋人」

そこで言葉を切って、花恋はすっと立ち上がった。

「それに、この身体に恥ずべき部分はないわ」

花恋はわたしに見せつけるように、胸を張ってみせてきた。

「……おっしゃる通りで」

確かに、改めて見てもその通りだと言うほかないぐらいの見事な裸体だ。

豊かなバストにすらっと伸びた肢体。並のモデルやグラビアアイドルなど足元にも及ばない、とわたしは思ってしまう。

「うふふ、貴女にそうやって思って貰うために重ねた努力の結晶なんだから。だから遠慮しないでもっと見て、触れていいのよ」

そう言うと花恋は顔をずいっと寄せてくる。

「……え、いやそのわたしいま起きたばっかりだしさ」

その意図を察したわたしは慌ててこう言った。

「へぇ、散々放っておいてこれ以上待てって言うの?」

「別に放っておいたわけじゃないし。忙しかっただけ……ひゃっ!?」

花恋はわたしをじっと見つめると、そのまま何も言わずに覆いかぶさってきた。

まずい、とってもお怒りでいらっしゃる。

宥めるにしても、言い訳するにしても、もう遅い気がしてきたけど、どうしたものか。

「……分かったよ」

「分かればいいの。それと、先に言っておくけど今日はやめてって言われてもやめないから」

そう言いながら彼女が浮かべた微笑みは、色んな意味でぞっとしてしまうほど蠱惑的なものだった。

 

 

「……ん」

外からの光で目が覚める。

「よく眠れた?」

すぐ横からした声の方に顔を向けると、花恋が穏やかな眼差しをわたしに向けていた。

「うん」

「何か夢でも見てた?」

「どうだろ」

何か夢を見ていた、ということだけがおぼろげに残っているだけで、はっきりとは思い出せない。

「ねえ百合」

「?」

「好きよ。この世界の誰より貴女が」

「……へ?」

自分でも分かるぐらい間抜けな声が出てしまった。

「あら、聞こえなかった?」

意地の悪い笑顔を浮かべながら、花恋はわたしの髪を触った。

「いやいやいや聞こえたけど」

恥ずかしげもなくそんなことを言えるのは、きっと本当にわたしのことが好きなんだろう。

「ふふっ、可愛い」

「分かった、分かったからそんなに言わなくていいよもう……」

頬が熱くなるのを感じながら、わたしは寝返りをうった。

 



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