マイクな俺と武内P (完結) (栗ノ原草介@杏P)
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 プロローグ ― マイクな俺と武内P ―
 第1話


 

 

 

「アイドルとちゅっちゅっしたいです」

 

 只野(ただの)伊華雌(いけめん)は神の前で宣言した。

 もしかすると正気を失っていたのかもしれないし、それは珍しいことではない。いきなり目の前に〝神〟を自称するジジイが現れて――

 

「お前は死んだ。今から転生させてやるから希望をいえ」

 

 とか言われるのだ。正気を失うのは当然のことであり、だから神様は寛大だった。

 

「心を落ち着つかせて、よく考えろ。世界一の金持ちでも、絶世の美女でも、本物のイケメンでも、もっと素敵な来世がいくらでもあるのじゃぞ」

 

 しかし伊華雌は、譲らずに――

 

「アイドルとちゅっちゅっしたいです」

 

 ぴにゃこら太に似ていると評判の不細工フェイスを歪めて神を睨み付けた。

 

 実のところ、彼は正気を保っていた。それなのに、何故、正気を疑う発言を繰り返して神を困らせるのか。それにはちゃんと、理由があった。

 

 彼は、怒っていた。

 

 倍率を聞いただけで応募する気の失せるライブチケットを奇跡的に入手できた。大好きな島村卯月と奇跡的に目があった。彼女の顔に最高の笑顔が出現し、ほとばしる興奮に身を任せて〝卯月ちゅわぁぁああ――ッ!〟と叫んだら――

 

 何故か死んでいた。

 神様に来世の相談をされていた。

 

「これは、大切なことなんじゃぞ。真剣に考えて――」

「俺は、大真面目に言っています。せめてアイドルとちゅっちゅっさせてもらえなければ、ライブの途中で殺された俺の心の傷は癒えません」

 

「別に、わしが殺したわけじゃないんじゃが」

 

「え……、そうなの? 神様の手違いで殺しちゃったから〝ゴメンネ転生〟させてくれるって話じゃないの?」

「そんな古臭いテンプレ、いくらわしがジジイでも使わんよ」

「えぇ……。じゃあ、何で俺に優しくしてくれんの?」

「それは――」

 

 その理由に、消えかけていた伊華雌の怒りが復活した。

 

 伊華雌という名前のくせに不細工で、彼女はおろか友達もおらず、童貞のまま20年の生涯を終えたお主があまりにも不憫で……、と涙ながらに同情された。

 

 ――間違ってはいない。

 

 確かに伊華雌は、ぴにゃこら太に似ているという絶望的な顔面偏差値を誇っていた。男女問わず交流は皆無で、通っている専門学校では〝陽キャと陰キャの狭間に生きる暗黒生物〟というポジションに甘んじていたが――

 

 それを他人に指摘されると、どうしようもなく腹が立った。

 人間、本当のことを言われると頭にくるのだ。

 

「お前は現世で充分苦労した。だから来世では、もっといい思いをさせてやる。ほれ、希望を言うんじゃ」

 

 好好爺(こうこうや)を気取る神様を、しかし伊華雌は睨みつけた。怒りで顔を真っ赤にして――

 

「同情するならアイドルとちゅっちゅっさせろやクソじじいぉぉおお――ッ!」

 

 かわいそうにと同情されることは最大の屈辱である。不細工を同情されるくらいなら、クラスの陽キャに〝お前、ぴにゃ図鑑に載ってんじゃね?〟とバカにされたほうがまだましである。

 

 つまり、伊華雌は意地になっていた。

 

 神様に不細工扱いされたことが悔しくて、駄々っ子のようにちゅっちゅっさせろと連呼した。泣きながらTulip(チューリップ)絶唱(ぜっしょう)した。一人カラオケの自動採点で悲惨な点数をたたき出したTulip(チューリップ)を!

 

「……分かった。分かったからその〝親父の下痢〟みたいな歌をやめろ」

 

 歌が下手なのは自覚していた。一人カラオケに行ったら店員が踏み込んできて「断末魔の悲鳴が聞こえたみたいなんですが……」と真顔で訊かれた時に自分の歌がそうとう酷いのだと自覚したが、排泄物の発射音と一緒にするとか、それはあんまりじゃないか神様……。

 

 伊華雌の頬に新しい涙が流れた。

 神様は、さすがに愛想も尽きたのか、前言を撤回することもなく、神様らしい渋面で――

 

「希望どおり、アイドルとちゅっちゅっ転生させてやる」

 

 泣きながら、しかし勝利の笑みを浮かべる伊華雌は気付かなかった。

 神の顔に、狡猾な詐欺師を思わせるおぞましい笑みがあることに……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そして伊華雌は、マイクになった。

 

 マイクならアイドルとちゅっちゅっできるね良かったね、――ということのだろう。

 つまり、神様は怒っていたのだろう。

 散々駄々をこねられて、目の前で史上最悪のTulip(チューリップ)を披露されて、怒り心頭だったのだろう。

 

 素直にイケメンにしてくださいって、お願いしとけばよかったぁぁああ――――ッ!

 

 猛烈に後悔する伊華雌だが、どうにもならない。神に逆らってはいけないという教訓を、使う機会がやってくるとは思えない。

 

 こうなったら――

 

 もう、マイクとして生きるしかない。346プロ専属のマイクとして、あらゆるアイドルの唇を渡り歩くのだ。

 あれ、何だかマイクも悪くないような気がしてきたぞ!

 

「お疲れ様でーす」

 

 スタッフの挨拶が聞こえてきた。Tシャツ姿のイベントスタッフ達が頭を下げている。誰が来たのかと思って視線を向けて――

 

 伊華雌は恐怖に言葉を失った。

 

 一人だけ、黒いスーツで。とても大柄で。何よりも、顔が怖い。スナイパーライフルがよく似合いそうな鋭い目つきが、彼の壮絶な人生を物語っているような気がした。

 

 あれは、殺し屋(ゴルゴ)だ……。

 

 伊華雌の稚拙な想像力が、幼稚な結論を導きだした。

 けど――

 それも仕方ないと許せるくらいに、その男性は迫力があった。どこかの組織のエージェントですと言われたら、すんなり信じてしまえるくらいに目が怖い。

 

「武内プロデューサー、機材の設営は――」

 

 スタッフが声をかけていた。伊華雌が殺し屋と判断した男性へ向けて――

 

 プロデューサー。

 

 伊華雌は耳を疑った。マイクだから耳なんて無いんだけど、つまりその言葉に対して疑問符を総動員して否定した。

 まさかこんな、闇社会の住人みたいな御仁(ごじん)がプロデューサーだなんて信じられないし信じたくない。プロデューサーといったら、もっともアイドルに近い憧れの職業なのに、それがこんな、どうみてもヤ○ザです本当にありがとうございます、みたいな男性だなんて……。

 

「武内プロデューサー、マイクチェックお願いします」

 

 武内Pが、伊華雌の方を見た。

 鋭い視線に、射抜かれた。

 

 あぁ、凄腕のスナイパーに狙われるのって、きっとこんな感じなんだな。なんていうか、俺がもし人間だったら、恐怖のあまり尿系大放出だろうな……。

 

 震え上がる伊華雌に、武内Pが近づいてくる。本能的に逃げたくなるが、伊華雌はマイクであるから身動きは取れない。革靴の足音に合わせて悲鳴を上げることしかできない。

 

 武内Pが、手を伸ばした。

 伊華雌の隣に置いてあるマイクを掴んで、口に近づけて、スピーカーから声が出ることを確認した。

 

 マイクチェック。

 

 ライブの前にプロデューサーがマイクのチェックをするのは、当然のことだろう。

 そして、伊華雌は震え上がった。

 

 このままだと、俺の〝初めて〟がゴルゴに奪われてしまう……ッ!

 

 猛烈な焦燥感に、しかし反応できる体はない。マイクである伊華雌は、処刑される罪人のように大人しく最期の瞬間を待つことしか許されない。

 

 そして、刑が執行される……

 武内Pの手が、伊華雌を掴んだ。

 

〝ちょっ! 待って! 俺、男だから! そっちの趣味はないし、予定もないし、だから――〟

 

 武内Pに伊華雌の声は届かない。彼は無情にも、唇を近づけて――

 

〝らっ、らめぇぇええええ――――ッ!〟

 

 伊華雌の〝初めて〟は、武内Pに奪われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第2話

 

 

 

 武内Pがマイクのスイッチを入れた瞬間――

 

 伊華雌(いけめん)の意識が武内Pに乗り移った。

 

 何が起こったのか、すぐには理解出来なかった。懐かしい〝人間の感触〟があった。記憶よりも視点が高かった。近くにある鏡を見ると、マイクチェックという名目で伊華雌のファーストキスを奪った男性がこちらをみていた。

 

 そういうことか……。

 

 伊華雌は状況を理解した。どうやら、マイクのスイッチを入れた人間に乗り移りことができるらしい。

 そして、さっきまで自分だったものを見て、絶句した。

 

 てっきり、マイクだと思っていた。

 何の変哲もない普通のマイクだと思っていた。

 

 ――違っていた。

 

 今、武内Pに乗り移った自分が握っているのは――

 

 世にも不細工なぴにゃこら太モデルのマイクだった。

 

「ちっ、ちくしょぉぉおお――ッ!」

 

 瞬間的に込み上げた怒りに突き動かされて、伊華雌はマイクを床に叩きつけた。そのショックでスイッチがオフになって意識がマイクに戻った。

 

〝神様の、クソバカ野郎がぁぁああ――ッ!〟

 

 神を名乗るジジイの悪辣(あくらつ)な笑みが透けて見えるようだった。

 アイドルとちゅっちゅしたいと言ったらマイクにされて、しかも、しかも! 不細工な生涯に同情するとか言っときながら不細工なマイクに転生させるとか!

 

〝どこまで俺を不細工にすれば気がすむんだよこの邪神がぁぁああ――――ッ!〟

 

「何か、問題ありましたか?」

 

 駆けつけたスタッフが、武内Pに声をかけた。

 武内Pは、首の後ろを触りながら――

 

「いえ。ちょっと一瞬、立ちくらみのような状態になりまして……」

 

 武内Pは、何かを探すように左右に首を振って――

 

「誰か、怒鳴ってませんでしたか?」

「怒鳴る? いえ、特には……」

「神様のバカ野郎とか、不細工がどうとか?」

「……いえ、そんな声は、聞こえなかったです」

「そうですか……」

 

 首をかしげて立ち去るスタッフを眺めながら、武内Pも首をかしげる。床に転がる伊華雌だけが、怒りを忘れて興奮していた。

 

 もしかして、俺の声が届くようになったのか……ッ!

 

 何がきっかけなのか分からない。

 禁断のキスなのか、それとも意識が入れ替わったせいなのか。

 理由は分からないが、このチャンスは逃せない。

 

〝あー、えっと、聞こえますかー、なんて〟

 

 武内Pは、首をかいていた手をとめて、目を見開いて――

 

「聞こえて、います……」

 

 幽霊でも見たような顔だった。顔から血の気が引いていた。

 

〝あっ、あのさ。怪しい者じゃないんだ。だからその、そんなに警戒しなくて大丈夫だから……〟

 

 伊華雌は必死だった。武内Pの警戒をといて、信頼関係を築こうとしていた。

 だって――

 この殺し屋みたいな人は、プロデューサーなのだ。プロデューサーは、アイドルにもっとも近い存在なのだ。

 もし、プロデューサーと仲よくなれたら――

 

 アイドルとちゅっちゅするという崇高(すうこう)なる野望を成就させることができるのだ!

 

「……どこに、いるんですか?」

 

 今にも警察を呼びそうな声音(こわね)だった。このプロデューサーは、ゴルゴみたいな強面(こわもて)ながら、案外臆病なのかもしれない。

 

〝下だよ、下。俺、マイクなんだ!〟

 

 武内Pは、視線を落として、伊華雌を睨む。

 

「ぴにゃこら太のマイク、ですか?」

 

〝そうそう! みんなのアイドルぴにゃこら――〟

 

 武内Pは、伊華雌を拾い上げると、強い歩調で歩き始めた。設営中のライブ会場を抜けて、廊下を進み、部屋に入った。工具箱を取り出して、大きな金槌(かなづち)を取り出して――

 そして金槌を握りしめ、大きく振りかぶって――

 

〝ちょっと待って! 何してんのッ!〟

 

「きっと、悪霊か何かが取り憑いているのだと思います。だから、破壊します」

 

 武内Pが、冷酷無比な処刑人にみえた。振りかぶった金槌が、伊華雌を再転生させるべく狙いを定める。

 

〝やっ、やめッ! ちょっ、ほんとに! いやっ、マジでッ!〟

 

 金槌は振り下ろされる。

 それはギロチンの冷酷さをもって伊華雌の命を終わらせる――

 

〝卯月ちゃぁぁああああああ――ッ!〟

 

 断末魔の叫び声だった。

 ママでもパパでもなく、卯月。最期(さいご)の瞬間に伊華雌の脳裏をよぎったのは、大好きな島村卯月の笑顔だった。

 

 降り下ろされた金槌がテーブルを破壊した。

 伊華雌は紙一重(かみひとえ)で死をまぬがれた。

 

「何故、島村さんの名前を……?」

 

 武内Pの顔に動揺の色があった。彼の手元が狂った理由は、つまり――

 

〝あんたもしかして、担当、なのか? 卯月ちゃんの!〟

 

 もしそうなら、神に感謝しようと思った。今までの悪態(あくたい)全てに土下座して、卯月ルート突入フラグに全身全霊を持って感謝と祝福を!

 

「島村さんは、自分がスカウトしたアイドルです」

 

 伊華雌の中に、雷が落ちた。

 まさか、アイドル島村卯月を発掘した偉人に対面できるとは! 神だけじゃなくて、この強面(こわもて)の男性にも最大限の感謝と祝福をしなければ!

 

〝……あんたに、頼みがある。こうして会ったのも何かの縁だ。俺を、卯月ちゃんの担当マイクにしてくれねえか! 俺、卯月ちゃん大好きなんだ! 他のマイクには、絶対負けねえからッ!〟

 

 マイクに力量の差があるのかわからないし、そもそも自分のマイク力(?)が強いのか弱いのか分からない。

 

 ――伊華雌は必死なだけだった。

 

 マイクの特権で島村卯月の唇を確保するために、無様(ぶざま)に必死になっていた。

 

 しかし――

 

「それは、出来ません」

 

〝どっ、どうして! だって俺は、こんなに卯月ちゃんが好きなのにッ!〟

 

 伊華雌は、見当違いな怒りを爆発させて(わめ)いた。

 呪いのアイテムみたいなお前に担当アイドルを任せられるわけがないだろ、みたいな理由かと思ったが――

 

 違っていた。

 

 武内Pは、なげやりに金槌をテーブルに投げて――

 

「自分は、もう島村さんの担当ではないんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第3話

 

 

 

「今年のサマーライブで、事故がありました。島村さんは悪くないのですが、落ち込んでしまいました。自分は、島村さんを励まして復活させることが、出来ませんでした……」

 

 夏のライブと言えば、伊華雌(いけめん)も本会場に参戦していた。ライブが始まって、トロッコに乗って近づいてきた島村卯月に熱狂して――

 

 気がついたら神様と二者面談をしていた。

 その時点では事故なんてなかったのだけど……。

 

「自分は、諦めてしまったんです。どうすれば島村さんの笑顔を取り戻すことが出来るのか、分からなくて……」

 

 伊華雌の中に、予感があった。

 それは、悪い予感だった。

 卯月が落ち込んだ? 笑顔を取り戻せなかった?

 

 じゃあ――

 

〝今、卯月ちゃんはどうなってんだよ? アイドル、やってるよな? 笑顔、なんだよな?〟

 

 声が、震えてしまう。

 もし、今の自分が人間の姿だったら、泣きそうな顔で武内Pの体を揺すっているだろう。

 

「大丈夫です。島村さんは、立ち直りました……」

〝……そっか。良かった〟

 

 恋人の無事を知った彼氏のように、伊華雌は心の底から安堵した。笑顔を失った島村卯月なんて、絶対に見たくなかった。

 

「……あなたは、本当に島村さんが、好きなんですね」

 

 武内Pの口調が、若干ながら柔らかくなっているような気がした。さっきまでは容疑者に訊問(じんもん)する刑事のような口調だったが、今は不審者に職務質問をする警官の口調になっている。

 

〝俺は、卯月ちゃんの笑顔に救われたんだ。あの笑顔がなければ、俺はとっくに……〟

 

 〝高校生活〟という名の地獄から逃げて引きこもり、昼夜(ちゅうや)の感覚を失っていたあのころ。何の気なしに眺めていたTV画面に、島村卯月が現れた。

 

 その笑顔に、魅了された。

 気がつくと、頬が濡れていた。

 嗚咽(おえつ)をもらして、泣いていた。

 

 きっと、対極だったから。

 

 スポットライトを浴びて楽しそうに笑う卯月。

 現実から逃げて薄暗い部屋に引きこもっている自分。

 

 あまりにも対極すぎて、でも――

 だからこそ――

 

 まぶしかった。

 

 チビが高身長に憧れるように。ガリがマッチョに憧れるように。

 暗闇の住人である伊華雌は、明るい世界で笑顔を輝かせる卯月に憧れて、堅く閉ざしていた部屋のドアを蹴破った。バイトを始めて、卯月のグッズを買い漁った。大検をとって、芸能業界に入れると(うた)う専門学校に入った。アイドルのプロデューサーになるという、稚拙(ちせつ)で純粋な夢を(いだ)いて。

 

〝卯月ちゃんがいなかったら、俺の人生、クソなままで終わってた。卯月ちゃんのおかげで、俺のクソな人生が――〟

 

 楽しくなった。

 

 夢中になって卯月を追いかけていたあの頃は本当に楽しかった。バイト先で不細工をバカにされても、専門学校で不細工をバカにされても、もうどうでもよくなった。

 

 だって、自分の一番大切なものは、そこにはないから。

 クソみたいな現実よりも遥かに楽しい世界を、持つことができたから。

 

 ふと見ると、武内Pが首の後ろをさわっている。どうやら、戸惑っているようだった。いきなりマイクの人生語られてポカン顔全開、そんな感じだった。

 

 伊華雌は、自分がマイクであることを思い出し、何だか急に恥ずかしくなった。閑話休題(かんわきゅうだい)とばかりに空咳(からせき)を繰り返してから――

 

〝えっと、じゃあ、今、卯月ちゃんを担当してるのは……?〟

「島村さんは、別のプロデューサーが担当しています。自分よりも、優秀な、プロデューサーです……」

 

 武内Pの口調が固い。表情も固く、こぶしも固く握られている。

 その仕草から本心を探るのに、さして洞察力(どうさつりょく)は必要としなかった。

 

〝あんた、不本意なんだろ? 本当は、自分が卯月ちゃんを担当したいんだろ?

 

 武内Pの反応は分かりやすかった。目を見開いて、半口を開けて。〝本心を射抜かれた人の表情〟という題名で絵画(かいが)を描けそうな表情で伊華雌を見ていた。

 

〝だったらさ、卯月ちゃんの担当を、取り戻そうぜ! そして、俺を担当マイクにしてくれよ!〟

 

「それは、無理です。自分は、失敗しましたし、赤羽根さんのほうが、優秀ですし……」

〝なに弱気なこと言ってんだよ! あんた、なりはデカイのに気は小さいのな!〟

「そんなこと、言われましても……」

 

 人に向かって、こんな強い言葉を投げたのは始めてだった。もし自分が〝人間の伊華雌〟だったら、不細工であるという負い目に卑屈になって、熱い台詞など吐けやしない。

 

 だけど――

 

 今の自分はマイクである。

 だから感情の、(おもむ)くままに――

 

〝あんたの島村卯月に対する気持ちはその程度かよ! 卯月ちゃんをスカウトしたのはあんたなんだろ? 優秀なプロデューサーだかなんだかしらねーけど、横取りされて悔しくねえのかよ! 卯月ちゃんの担当を、取り戻そうぜッ!〟

 

「しかし、赤羽根さんのほうが、島村さんも――」

 

 こんこんと、ノックがあった。白熱する議論に水をかけるように――

 

「武内、入るぞ」

 

 気安い口調と共に男性が入ってきた。スーツ姿であるからプロデューサーの同僚かと思ったが、その顔は若かった。恐らくは二十歳前後だろうか。専門学校の同級生と大差あるように思えなかった。

 

「赤羽根さん、お疲れ様です」

 

 武内Pが頭を下げた。

 伊華雌は耳を疑った。

 

 この、学生に毛の生えたような若造が、武内Pよりも優秀な〝赤羽根〟ってやつなのか? こいつが、卯月ちゃんの担当を奪ったプロデューサーなのか?

 

「相変わらず堅苦しいな。同期で同い年なんだから、もっと気安く話してくれよ」

 

 赤羽根Pが親しげな笑みを浮かべて武内Pの肩をたたいた。

 伊華雌は耳を疑った。

 

 同期で、同い年……だとッ!

 

 信じろというほうが無理だと思った。だって、武内Pは若く見積もっても20後半にしかみえない。赤羽根Pは、老けて見積もっても20前半にしかみえない。この二人が同い年とか、嘘だろッ!

 

「卯月が、武内に挨拶したいって」

 

 赤羽根Pの言葉が合図だった。

 

 ドアの向こうから、島村卯月があらわれた。

 

 それはあまりにも島村卯月だったから、伊華雌は何が起こったのか分からなかった。

 例えば――

 ポスターから実物が出てきたり、TVから本人が出てきたり。そのくらい現実味のない光景だった。

 

 だって――

 

 あの島村卯月が、ライブの衣装で、当たり前のように入ってくるなんて、あり得な――

 

「今日のライブ、島村卯月、がんばりますっ!」

 

 それはもちろん、伊華雌へ向けた言葉ではない。卯月は武内Pに向けてライブの意気込みを表したのだが――

 

 それでも、伊華雌は昇天した。

 

 卯月の笑顔を間近で見れて、もう死んでもいいと思った。

 あ、もう死んでるんだった、と思い直した。

 

「卯月、行くよ」

 

 廊下から聞こえてきた声に、昇天していた伊華雌が再昇天した。

 

〝りっ、凛ちゃんまで! いや待てよ、そうなると、もしかすると――〟

 

 昇天の準備をしておいて正解だった。

 廊下で腰に手を当てる凛の(となり)に、元気な足音が響いて――

 

「早くしないとおいてっちゃうぞ、しまむー!」

 

 集合していた。

 薄暗い廊下に、346プロを代表する人気ユニットが――

 

〝ニュージェネレェェエエ――ショォォオオ――ッ!〟

 

 本日三度目の昇天だった。

 もし自分が人間だったら、度重(たびかさ)なる昇天により死んでいた。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

 

 赤羽根Pが、三人を従えてステージへ向かった。

 残されたのは、担当のいないプロデューサーと不細工なマイク。

 

〝……やっぱり、アイドルって、いいな〟

 

 武内Pは、返事をしない。卯月の去った、薄暗い廊下を眺めている。

 

〝卯月ちゃんの担当、取り戻そうぜ。俺、卯月ちゃんのマイクになりたいよ〟

 

 もしも武内Pが卯月の担当に戻って、自分が担当マイクになれたら最高だと思った。さっきみたいな、見てるだけで昇天するくらい素敵な笑顔を、毎日のように鑑賞できるのだ。

 

 いや、それだけじゃない。

 

 ライブのたびに、マイクの特権であれが出来るのだ。

 島村卯月の、唇に……

 

〝うぉぉおお! 最高だぜ担当マイク! 担当マイクに――、俺はなるッ!〟

 

 一人で勝手に盛り上がる伊華雌とは対照的に、武内Pはため息を落として――

 

「もうしわけ、ありませんが……」

 

 彼は、夢を諦めた人間がするように、泣きそうな顔で自嘲の笑みを浮かべて――

 

「自分はもう、プロデューサーをやめようと思っているんです……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第4話

 

 

 

 武内Pは、高卒で346プロに入社した。新入社員のほとんどを大卒、専門学校卒で固める346プロにとってこれは異例のことである。

 

 ――有能な者は評価する。学歴など、関係ない。

 

 新しく役員になった美城常務の〝改革〟によって、あらたに高卒枠が設けられた。武内Pと赤羽根Pと事務職の女性が346プロ初の高卒入社組となった。

 

「美城常務は、期待してくれていました。社会経験の浅さは情熱でカバーしろと言って、仕事をまわしてくれました。自分も期待に応えるべく、奮闘したのですが……」

 

 武内Pは、ずっと感じていたのだと言う。どんなに努力しても、決して越えられない壁があるのだと。

 

「自分は、赤羽根さんのように、流暢(りゅうちょう)に喋ることが出来ません。はつらつとした笑顔で、その場の空気を変えることが出来ません。落ち込んだアイドルを、励まして、笑顔にすることが……」

 

 強く握られた(こぶし)が、武内Pの独白を締めくくった。

 悔しいのだろう。

 悔しいと思えるくらい、挑戦してきたのだろう。

 きっとこの武内という男性は、才気あふれる同僚の背中を必死に追いかけて、でも、追い付けなくて――

 もう、諦めようと――

 

〝でもさっ! あんただってさ、赤羽根に出来なかったこと、やってんじゃん!〟

 

 武内Pは、ゆっくりと首を左右に振りながら――

「自分は、何も……」

 

〝島村卯月ッ!〟

 

 伊華雌(いけめん)は、まっすぐに武内Pを見上げる。マイクだから、視線なんてないけれど、その熱意だけでも伝えようと、まっすぐ睨んで――

 

〝島村卯月をスカウトした。これが功績でなくてなんなんだ? 俺がノーベルだったらあんたにノーベル賞をくれてやるところだッ!〟

 

 武内Pは、しかし床に落とした視線を上げない。人違いで勲章をもらった兵士が自嘲するように、曖昧な笑みを浮かべて――

 

「いい笑顔、だったんです……」

 

〝そうだ、いい笑顔だ。卯月ちゃんの笑顔は宇宙一だ! そしてそれを発見したのは、あんたなんだろ!〟

 

 武内Pはゆっくりと首をふる。胸につけた勲章を引きちぎって過去を暴露する老将軍のように、ため息を落として――

 

「初めて島村さんに会った時、自分は落ち込んでいました。その時は、街頭スカウトの仕事を始めたばかりでした。赤羽根さんは、どんどん女の子をスカウトできるのに、自分は、さっぱり出来ませんでした。赤羽根さんの助けを借りても、緊張した自分が女性の前に出ると、女性達は恐がってしまい、スカウトは失敗しました。挙げ句の果てに、通報されて、お巡りさんに囲まれました」

 

 伊華雌は、絶句する。あまりにもそのシチュエーションが容易に想像できて、何も言えない。

 

 無愛想な武内Pと、不細工な自分。

 

 一緒にしたら怒られそうだが、親近感は覚えてしまう。

 

「同期の千川さんに助けてもらい、お巡りさんの誤解はとけたのですが、もう、スカウトを続ける気力はありませんでした。どんなに本を読んでも、どんなに笑顔の練習をしても、赤羽根さんの足元にも及ばなくて、プロデューサーとしての自信を、なくしていました」

 

 雨ブランコ、という単語がある。世界三大酷景(こっけい)に登録されているそれが、渋谷の公園に出現した。

 強面(こわもて)で大柄な男性が、失意の表情(かお)で雨ブランコ。

 一体、誰が声をかけられると言うのだ。

 そんなことができるのは、そう――

 

「その時、声をかけてくれたのが、島村さんだったんです。自分が濡れるのも構わずに、傘を差し出してくれました。これあげますからと言って、ハンカチを差し出してくれました。そして、自分を励ますために、言ってくれたんです――」

 

 やまない雨はありません。頑張ってください!

 

「その笑顔に、自分は我を忘れました。この人は、絶対にアイドルになるべきだ。この人を、絶対にアイドルにしなければならない。自分は、回らない口に苛立ちながら、必死に島村さんをスカウトしました。気がついたら、警官に取り押さえられていました。でも――」

 

 卯月に名刺を、渡すことができた。

 最初で最後の、街頭スカウト。その成果は、346プロを根底から揺るがした。

 

 ――島村卯月は、天才だった。

 

 高卒の新米プロデューサーが街頭で拾ってきた無名の少女は、あっという間に346プロのトップアイドルになってしまった。

 

「自分は決して、島村さんの才能を見抜いたとか、可能性を見いだしたとか、そんなんじゃないんです。むしろ、見つけ出してもらったのは自分のほうなんです。そして――」

 

 救われたんです。

 島村さんの、笑顔に。

 

「だから自分には、プロデューサーとして特別な能力なんて、無いんです。島村さんをスカウトできたのは、幸運な偶然に過ぎないんです」

 

 悲しい笑顔を添えて話を終わらせようとする武内Pを、そのままにするつもりはなかった。

 絶対に、プロデューサーをやめさせてはいけないと思った。

 

 だって、伊華雌も、同じだったから。

 失意の底で、卯月の笑顔に――

 

〝一つ、提案がある〟

 

 武内Pの顔にへばりついている自嘲の笑み。それを消し飛ばして仏頂面を取り戻すべく、伊華雌は声を大にして――

 

〝あんた、俺と組まねえかッ!〟

 

 武内Pが、無表情になった。

 首の後ろを、右手で触った。

 

〝きっとあんたは、あらゆる手を尽くしたんだと思う。その上で、もうプロデューサーは出来ないと決断したんだと思う。それについては、何も言えねえ。もっと頑張れって、言いたいけど、頑張れって言われて頑張る程度の努力、きっとあんたはとっくにやってるんだと思う〟

 

 武内Pは、無言。沈黙による、肯定。

 

〝だから俺は、頑張れ、なんて言わねえ。俺があんたに、言いたいのは――〟

 

 固まった無表情で、それでも伊華雌から目をそらさない武内Pへ、思いっきり――

 

〝俺と一緒に、もう一度頑張ってみようぜッ!

 

 時間が、とまった。

 そんな風に思えるくらいの、沈黙が流れた。カチカチと、時計の音が鋭くて、ライブ会場に押し寄せている観客の気配がほのかに感じ取れた。

 

「……あなたと一緒に、プロデューサーとして活動する、ということですか?」

 

 ようやく動き出した時間の中で、武内Pは首をかしげる。

 

〝俺とあんた、良いコンビになると思うんだ〟

 

「どうして、そう思うのですか?」

 

 矢継ぎ早に繰り出される質問。無表情だからぼんやりしていると思いきや、武内Pの頭の回転は速い。やはり武内Pは〝有能〟なのだと確信し、絶対にプロデューサーをやめさせてはいけないと思った。

 

〝あんたと俺には、兄弟の絆に等しい共通点がある〟

「それは、一体……?」

〝それは、それはぁ――ッ!〟

 

 伊華雌は、過去最大の声量でもって――

 

〝二人とも、卯月ちゃんの笑顔が大好きぃぃいい――――ッ!〟

 

 ……やっと、武内Pの表情を崩すことができた。無愛想な無表情でもなく、演技めいた自嘲の笑みでもなく――

 

 渋面(じゅうめん)

 

 なに言ってんだコイツ? と言わんばかりの迷惑顔に、しかし核心をつくことに成功したのだと思った。

 人間、本当のことを言われると不愉快になるのだ。

 

〝俺は、世界で一番卯月ちゃんの笑顔が好きなんだ。そしてあんたも、卯月ちゃんの笑顔が好きなんだろ? だったら、もう理由なんていらないだろ? 笑顔は国境を越えるっていうか、ノースマイルノーライフっていうか、えっと、その……〟

 

 言いたいことが上手く言えない。ボキャブラリーの貧弱さから生じる言語障害によって頭の悪さを露呈(ろてい)する伊華雌だったが、そんな彼を見る武内Pは――

 

 笑っていた。

 

 彼は伊華雌を手に取ると、自分の目線まで持ち上げて――

 

「……自分一人の力では、もうプロデュースは出来ないと思いました。しかし、あなたと一緒であれば、また違った結果になるかもしれません」

 

〝おっ、やる気になってくれたか武ちゃん!

 

「……たけちゃん?」

 

〝あっ、えっと、せっかく相棒になるんだから、あだ名で呼びたいな、って……。勢いでいけるかな、って……。どさくさに紛れて、みたいな……〟

 

 伊華雌が〝いない歴イコール年齢〟なのは彼女に限らない。〝友達〟も、伊華雌にとっては架空の生き物である。

 だから、憧れがあった。

 あだ名で呼べる友達を作ることは、伊華雌にとってDT卒業の次にランクインする〝やりたいこと〟だった。

 

「構いません。好きな呼び方で、呼んでください」

 

 自嘲の笑みとは、また違う笑みを見せる武内P。

 ぼーっとその顔を見ていた伊華雌の中に、雷が落ちた。

 

〝まっ、まっ、まっ、マジで! じゃあ、武ちゃんって、呼んじゃうよ……?〟

 

「ええ、問題ありません」

 

〝ヒィィヤッハァァアア――――ッ!〟

 

 伊華雌の中に星輝子が降臨した。どうやら、存外の喜びは人を星輝子にするらしい。

 

「……自分は、なんと呼べばいいですか?」

 

 首の後ろに手を当てた武内Pが、口元に笑みを見せている。気恥ずかしさにはにかんでいるのかもしれない。生来(せいらい)強面(こわもて)のせいで大人びて見えるが、中味は年相応なのかもしれない。

 なぜだろう。

 伊華雌は、はにかんで笑う武内Pを〝可愛い〟と認識してしまった。

 

「あの、聞いてますか?」

 

〝あっ、えっと、もちろんだぜ。俺の名前は、いけ――〟

 

 言いかけて、やめた。

 伊華雌は〝伊華雌〟というキラキラネームに長年苦しめられてきた。イケメンになりますようにと願いを込めて命名されたと聞いているが、願掛けなど無意味であると伊華雌はそのぴにゃこら太フェイスで証明した。

 

 せめて、普通の顔なら良かった。

 

 伊華雌の名前を持って振り切れた不細工とか、お笑いのコント劇場ぐらいしか居場所がなくなってしまう。

 たとえ普通の名前でも、伊華雌ほどの不細工であれば迫害を受けていたかもしれないが――

 

 伊華雌なんて真逆の名前をぶらさげていたせいで、ベリーハードモードで勘弁してもらえたかもしれない人生がナイトメアモードに設定されてしまった可能性は高い。

 

 だから――

 

〝俺のことは、そのままマイクと呼んでくれ。マイクに名前なんてないからな。我輩はマイクである、名前はまだ無い……。みたいな?〟

 

「そう、ですか。……わかりました」

 

 どこか寂しそうな武内Pの声色に、一株(ひとかぶ)の罪悪感が込み上げた。

 あだ名で呼んでいいかい相棒! と言って距離をつめておきながら、貴様に名乗る名前は無い! と言わんばかりに突き放したのだ。友達に対する態度としては落第点だろう。

 

 しかし、それでも――

 

 我輩は伊華雌であると、名前を語るつもりはなかった。この()まわしい名前は、できることならもう二度と他人の口から聞きたくない。

 

「では、行きましょう……」

 

 武内Pが、伊華雌をスーツのポケットに差した。

 

〝行くって、どこに? これからライブじゃ……?〟

 

 武内Pは、首を横にふる。

 

「自分は担当アイドルがいないので、今日は設営の手伝いだけです。自分は今から、本社に行きます」

 

 廊下に革靴の音が響く。それはやがて、場外の歓声にかきけされる。非常口と思われる鉄扉をあけると――

 

 視界を埋め尽くす、観客。

 

 スタッフが拡声器で列整理をしている。ほのかに流れるBGMに、気の早いファンがコールを入れている。廊下に貼られたポスターが346プロオータムライブを告知している。ポスターの中で笑みを浮かべる島村卯月と目があって、夏のライブを思い出した。

 

 思えば、空気を読まない転生によって、夏のライブを最後まで見ることができなかった。

 その埋め合わせを秋のライブに求めるのは、果たして間違っているだろうか。

 

〝なあ、武ちゃん……〟

 

 伊華雌は、武内Pを言いくるめるつもりだった。後学(こうがく)のために現在のトップアイドルを観察するのは必須であるとかなんとか、それらしいことをいってライブにありつこうと(たくら)んでいたのだが――

 

 できなかった。

 観客の流れに逆らって廊下を歩く武内Pの、横顔をみるなり己の行為を恥じた。

 

 討ち入りをする侍は、もしかしたらこんな顔をするのかもしれないと思った。

 

〝……本社で、誰と対決すんの?〟

 

 特定の相手がいるのだと、にらんでかまをかけてみた。

 武内Pは、臆する心を奮い立たせようとするかのように、歩を強めて――

 

「美城常務です……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第5話

 

 

 

「君は、プロデューサーとしての職務を放棄した。もう、プロデューサーでは無い」

 

 役員室が、まるで冷凍庫になってしまったかのようだった。それくらい、彼女の声音(こわね)は冷えていた。

 もし自分が人間だったら、一目散に逃げているだろうなと思った。それくらい、武内Pを睨む女性――美城常務の目付きは厳しい。

 

 顔立ちの問題ではないのだろうなと、伊華雌(いけめん)は思う。

 

 彼女の体から込み上げる威圧感の正体は、その若さで常務という肩書きを有するに至った経緯にあるのだと思う。いばらの道を踏破したからこその自信と風格が、放つオーラの正体なのだ。

 

「自分勝手な申し出とは、思っています。しかし、あらためて考えて、気付きました。自分は、プロデューサーを諦めたくないのだと……ッ!」

 

 武内Pも負けてはいない。腕を組んで睨み付けてくるキャリアウーマンの見本みたいな美城常務に、頭を下げつつ、上目遣いで応戦する。

 

 これはもう、一種の喧嘩だと思った。

 己の意思を通すために、拳を交えるがごとき迫力で二人は視線を交わしている。

 

「君は、赤羽根と同期だったな」

 

 それはもはや言葉ではない。それはさながら、ボクサーの放つジャブであり、続く本命打へ繋げるための布石だった。

 

「同期なのに同じことが出来ないとは、どういうことだ?」

 

 ダウンを狙った右ストレート。直撃すれば深刻なダメージはまぬがれない一撃を、しかし武内Pはぎりぎりで回避する――

 

「赤羽根さんと自分では、入社時点で能力に違いがあります。同じように職務を遂行するのは、困難です」

 

「そうだな。しかし――」

 

 美城常務は攻勢を緩めない。手数で押して相手をコーナーに追い詰めるインファイターの剣幕で――

 

「それでは困る。確かに君と赤羽根の能力は同じではない。しかし、同じ職種についている。二人ともプロデューサーを名乗っている。個人差を理由に成果を放棄することは許されない」

 

 完全に、追い詰められた。防戦一方でリングのすみに追い込まれた。背中にふれるポールの感触に追い詰められたネズミの気持ちを理解する。

 そして、残酷な猫の微笑と共に、必殺の一撃――

 

「成果を出せないプロデューサーは必要ない。君は、成果を出せるのか?」

 

 その場しのぎの言い逃れは許さないと、美城常務の強い視線が警告する。メデューサのそれを思わせる怒濤(どとう)の視線を受けて、しかし武内Pは――

 

 力強く、頷いた。

 

 意外な反応だったのか、美城常務は言葉の()()を失った。

 その一瞬を、武内Pは逃さない。

 乱打の隙をついて形勢逆転をはかるボクサーのように――

 

「以前とは情況が異なります。同じ結果にはなりません。成果を、期待してください!」

 

 武内Pの手が、無意識だろうか、ポケットに入っている伊華雌をさわっていた。気弱な少女がお守りに触れて勇気を絞り出すように、武内Pは伊華雌に触れて、美城常務に立ち向かっていた。

 

 以前とは情況が違う。

 

 その言葉の意味を、理解するなり伊華雌の中に熱いものが込み上げてきた。

 つまり、伊華雌をパートナーにすることによって成果を出せると、期待してくれているのだ。自分が思っている以上に、武内Pは自分に期待してくれているのだ。口先だけのマイク野郎であるというのに、頼りにしてくれているのだ。

 

 期待に、応えたいな……。

 

 最後にそんな感情を抱いたのはいつだったのか、人間だった頃の記憶を(さかのぼ)っても思い出せない。

 

「……そうだな。以前とは情況が違う。失敗を経験して、失意に沈み、そこから這い上がろうとしている」

 

 かすかな笑み。武内Pの反撃を、認めて喜ぶ気配があって――

 

「もう一度だけ、チャンスをやろう」

 

 武内Pに、一束(ひとたば)の書類が差し出される。それは企画書で、その表紙には――

 

 シンデレラプロジェクト。

 

「346プロには、多数のアイドルが所属している。その全てが、光輝く星となれるわけではない。輝きを失い、地に落ちる星も存在する。アイドルの世界から逸脱しようとする少女に、最後のロープを投げるのがシンデレラプロジェクトだ」

 

 差し出された書類を、武内Pは受け取らない。震える手のひらが、心中(しんちゅう)の動揺を語っている。

 

 もしかしたら、武内Pはその存在を知っているのかもしれない。

 そして、拒絶しているのかもしれない。

 どの会社にも存在する〝行きたくない部署〟として、シンデレラプロジェクトは悪名を(とどろ)かせているのかもしれない。

 

 確かに――

 

 美城常務の言葉から察するだけでも、ろくな部署ではないと分かる。

 つまりは、引退寸前に落ち込んでいるアイドルの世話をしろ、ということであり、そこで〝成果〟を出すのは途方もなく難しいことだと容易に想像できる。好感度がマイナスに振りきれている状態からギャルゲーを始めるようなものである。

 でも――

 

〝やってやろうぜ、武ちゃん……ッ!〟

 

 伊華雌は、武内Pの背中を押した。

 美城常務の要求した部署は、確かに難易度ベリーハードかもしれない。だから武内Pは()()づいているのかもしれない。

 

 しかし――

 

 伊華雌にその手の脅しは通用しない。(ちょう)ぴにゃこら太(きゅう)の不細工としてこの世に生まれ、それからずっとナイトメアモードの人生を歩んで死んだ伊華雌にとって〝劣悪な部署〟なんて怖くもなんともなかった。

 

〝俺と武ちゃんなら大丈夫だ! 絶対に、なんとかなるからッ!〟

 

 これ以上ない〝劣悪〟の体現者として、伊華雌は根拠のない言葉に説得力を乗せることができた。

 武内Pの手から、震えが消えた。

 最悪の部署へ繋がる、書類を握った。

 

「成果を、期待する」

 

 美城常務が、笑みを浮かべる。

 それは、シンデレラをいじめていた継母(ままはは)がどんな顔をしていたのか? と聞かれて想像するような恐ろしい笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第6話

 

 

 

 シンデレラプロジェクト。

 

 346プロの暗部(あんぶ)(ひそ)む深海魚のような部署である。

 

 芸能の道を諦めてプロダクションを去ろうとするアイドルに、素敵な魔法をかけてもう一度アイドルとして輝かせてあげよう。魔女の魔法できらめき輝くシンデレラのように、プロデューサーの魔法でアイドル達をもう一度輝かせよう!

 

 シンデレラプロジェクトに関する書類の中で、悲痛なテンションの文面が部署の趣旨を説明している。恐らくは歴代担当プロデューサーに渡されているであろうこの文章を、書いた人間は果たして正気だったのか?

 真相は闇の中であるが、その不気味なテンションは武内Pと伊華雌(いけめん)を威圧するに充分だった。

 

「いわゆる〝窓際(まどぎわ)部署〟として有名なんです……」

 

 346プロ本社のエレベーターで地下二階に降りて、そこからさらに階段で地下三階へ向かう。配管むき出しの薄暗い非常階段は、まるで現世(げんせ)と地獄の()け橋のようで、二度と戻れない錯覚を覚え振り返るのがシンデレラプロジェクト担当プロデューサーの(つね)だった。

 

「シンデレラプロジェクトから生還したプロデューサーは存在しないと、言われています。そして、プロデューサーの亡霊が、担当アイドルを求めてさ迷い、怪奇現象を引き起こしているという噂が……」

〝おいおい武ちゃん。洒落(しゃれ)にならないからこういう場所でそういう話はやめようぜ。話してると出るっていうし……〟

「まっ、マイクさん。こっ、怖いんですか……」

〝いっ、いやっ、別に! ってか、武ちゃんこそびびってんじゃね! さっきから俺のこと握りすぎなんですけど! 手の震えが半端ないんですけど!〟

「これはっ、その……」

 

 カタンと、音がした。

 

 誰もいないはずの地下室から、音が……。

 

 伊華雌は息を呑む感覚を思い出しながら、しかし出来るだけ明るい口調で――

 

〝きっと、ネズミだよ! でっかいネズミの、巣になってんだよ!〟

「それはそれで、遠慮したい光景なのですが……」

 

 武内Pは伊華雌を握りしめたままドアを睨んだ。

 点滅を繰り返す蛍光灯が、古ぼけた鉄扉(てつとびら)をおぞましくライトアップしている。それはまるで、〝拷問部屋へ通じている恐怖の扉〟を思わせる迫力があって、ここが目的の部屋とは思いたくはなかったが、扉に張り付けられた表札が容赦なくシンデレラプロジェクトを名乗っている。

 

「いきます……」

 

 意を決したのだろう。武内Pの喉が大きな動きを見せた。その一歩は、大きな体躯(たいく)に対してあまりにも小さい。しかしその小さな一歩によって、彼の強張った頬に冷汗(れいかん)が流れた。見ているだけで彼の中にうごめく恐怖の大きさが伝わってきた。

 

 こつ、こつ、こつ……

 

 革靴の音が、反響する。反響が反響を呼んで四方から音が降る。もたらされる恐怖心に(あらが)おうとするかのように、武内Pは浅い呼吸を繰り返し、足をとめずに前進し、ドアの前に辿り着いた。

 

 革靴の音が、反響のこだまを残して消えた。

 武内Pは、ポケットから鍵をだして、鍵穴に差し込もうとして――

 

 落とした。

 

 拾い上げようとして、扉に頭をぶつけた。

 革靴の音よりも、遥かに大きな音がした。

 

「誰か、いるんですか……」

 

 聞こえてきた。

 扉の向こうから。

 女の声が。

 

 言葉など出なかった。

 伊華雌はマイクであることを忘れて、武内Pは人間であることを忘れて、つまり自分が何者であるかすら忘れて純粋な〝恐怖〟に全身を縛られた。

 

 そして――

 

 足音が、近付いてくる。

 ドアノブが、回転する。

 

 ギギィ……

 

 (サビ)を削り殺しながら鉄の扉が開き、その向こうから――

 

 緑色の、亡霊が……ッ!

 

「うぁぁああああああああああああああああ――――――――ッ!」

 

 絶叫。

 伊華雌の悲鳴など、軽くかきけしてお釣りがくるほどの阿鼻叫喚(あびきょうかん)

 

「きゃあ!」

 

 その絶叫に、緑色の亡霊も悲鳴をあげる。赤いリボンのついたポニーテールの残像を残し扉の向こうへ姿を消した。

 

 ……ん? 悲鳴に、ポニーテール?

 

 先に正気を取り戻したのは伊華雌だった。

 確かに武内Pの絶叫は相当なものだった。ヒャッハー状態の星輝子を凌駕(りょうが)する絶叫だった。

 

 しかし――

 

 だからといって亡霊を蹴散らすことは出来ないだろう。亡霊なら、むしろ喜んで調子に乗るだろう。人間の悲鳴を聞いて(えつ)()るのがやつらの習性だ。

 

 それに――

 

 扉に引っ込んでいく間際に見えたあのリボン。

 

 なんで亡霊がオシャレしてんだよおかしいだろ! 可愛くみられたくて努力しちゃうとか亡霊失格だろッ!

 

〝……武ちゃん。大丈夫? 息してる?〟

 

 武内Pは、尻餅をついた体勢で荒い呼吸を繰り返していた。それは時間をかけて穏やかになり、最後に大きな吐息をついて平静を取り戻した。

 

「みっ美城常務に、ほっ報告を……」

 

 武内Pは逃げ腰だった。扉の向こうに亡霊がいると信じて疑わず、一刻も早くここから逃げ出したいと鬼気迫る顔が訴えていた。

 

〝武ちゃん、落ち着け。見間違いだ。あれは亡霊なんかじゃない〟

 

 武内Pは、震える足で立ち上がると、険しい顔でしきりに首を左右に振って――

 

「あれは、人知をこえた、何かです。科学では証明できない、何かです。あぁ、白坂さんに連絡して退治してもらったほうが……。いやでも、悪霊退治なら道明寺さんのほうが……」

〝あの子もどじっ子も必要ない。さっきのは人間だ。武ちゃんと同じ、人間だ〟

「いいえ。自分は、ハッキリ見ました。見てしまいました。心霊現象なんて、大嫌いなのに……」

 

 武内Pはすっかり()()づいていた。地下室に背を向けて、手すりをつかんで、階段をのぼり始めてしまった。

 逃げ腰の相棒を励ますべく伊華雌は言葉を重ねるが、武内Pはまったく耳を貸そうとしない。

 何を言ってもきかないチキンな武内Pに、やがて怒りがこみ上げてきて――

 

〝武ちゃん、それでいいのかよ……〟

 

「……何が、ですか?」

 

 伊華雌は、階段をあがる武内Pの足をとめるべく――

 

〝おばけごときにびびって逃げて、それでいいのかよ! 武ちゃんのプロデューサーをやりたいって気持ちは、その程度なのかよッ!〟

 

 武内Pの、足がとまった。

 

〝卯月ちゃんの担当プロデューサーを目指すんだろ! だったら、おばけぐらいでびびるなよ! おばけだって可愛ければスカウトしてアイドルにしてやる、ぐらい言ってくれよッ!〟

 

 武内Pが、ゆっくりと振り返る。不穏なオーラを放つ地下室の扉を睨み――

 

「……そう、ですね。もう一度、島村さんの担当プロデューサーになるためには、こんな所でつまづいている場合では、ありませんね」

 

 武内Pは、依然として恐怖に震える足で、しかし階段を降り始める。再びシンデレラプロジェクトのドアと対峙して、ポケットから伊華雌を取り出す。

 

「マイクさん、ありがとうございます。おかげで、目が覚めました」

〝うん。それはいいんだけど、何で俺(つか)んでんの?〟

 

「一緒に、戦いましょう!」

 

〝うん? それってつまり、武器ってこと? いざとなったら俺で物理攻撃ってこと?〟

 

「行きます……ッ!」

 

〝ちょっ! 乱暴なのはっ、らめぇぇええええ――――ッ!

 

 伊華雌の悲鳴と供にドアが開け放たれた。武内Pはその大きな体躯をいかして一気に踏み込んだ。

 

「悪霊退散ッ!」

 

 叫んで、伊華雌を振り上げた。

 

 ――彼はつまり、まだ完全に正気に戻ってはいなかったのだ。

 

 何故、施錠されているはずの扉が開いたのか?

 何故、長年放置されているハズの地下室に明かりが灯っているのか?

 

 当然考慮して結論に結び付けるべき疑問を、全て無視して悪霊退治に踏みきった。

 

 ――その結果、悪霊よりも遥かに恐ろしいものを目撃することになる。

 

 地下室の中にいたのは――

 

 千川ちひろ。

 

 彼女は、悪霊扱いされて怒っていた。

 その笑顔の背景に、凶暴な龍のオーラが出現していた。

 

 武内Pは伊華雌を振りかぶったまま固まっていた。

 その顔は、猫の尻尾を踏んだネズミのように青くなっていた。

 

 ――そして、お仕置きの時間が始まる……ッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第7話

 

 

 

「せっかく手伝ってあげようと思ったのに、まさか悪霊(あくりょう)扱いされるなんて思わなかったなぁ……」

 

 千川ちひろは笑っていた。しかし心中(しんちゅう)は穏やかでないと、荒っぽくはねるポニーテイルが語っている。

 

「あの、すみませんでした。この部屋の雰囲気が、その……」

 

 言いよどむ武内Pに、千川ちひろは容赦をしない。半殺しにしたネズミをもてあそぶ猫みたいに八重歯を光らせて――

 

「この部屋が、どうかしたの? ただの、ほこりをかぶった地下室だと思うけど。まあ――」

 

 ちひろが、ゆっくりと近づく。まるで抱きつこうとするかのように体を寄せて、目一杯の背伸びで武内Pの耳に口を近づけて――

 

「幽霊とか、出そうだけど……」

 

 あからさまに、からかっていた。大人をからかって遊ぶのが大好きな子供みたいにクスクス笑っていた。

 

「ゆうれいとか……、いや……、まさか……ッ!」

 

 ホラー映画の一場面でも思い出したのか、武内Pは顔を青くして喉を大きく動かした。

 それを見たちひろは――

 

「……あはっ、あははっ、武内君っ、怖がりすぎっ!」

 

 ぱたぱたとポニーテイルを揺らしながら武内Pの肩を叩いた。

 

「……脅かさないでください」

 

 武内Pは、こみ上げた恐怖を吐き出そうとするかのように大きなため息をついた。

 

「だって、面白いんだもん。武内君、でかいくせに恐がりで」

 

 ちひろは機嫌が直ったのか、アイドルみたいな笑顔を浮かべてポニーテイルを揺らしている。

 

 ――二人のやりとりを傍観していた伊華雌(いけめん)は、まさに今、ダークサイドへ()ちていた。

 

 え? ナニコレ? え? これって、もしかして――

 

 カノジョ的な……?

 

 同志だと思っていた武内Pがまさかのリア充だった。その裏切りに伊華雌は怒りのヒャッハー状態に突入する。キノコ派だと思っていた人間がタケノコ派であることを知った星輝子のように伊華雌は怒りを爆発させる。

 

「あの、千川さんは、どうしてここに?」

 

 武内Pの放った問いに、伊華雌のヒャッハー状態は加速する。

 

 カレシに会いに来たに決まってんだろ! カレシである、あんたになッ!

 

「さっき言ったよね。武内君を、手伝ってあげるって」

「手伝い……ですか?」

「そうっ」

 

 ちひろが、テーブルの上に置いていたブリーフケースを手に取った。その中から書類を取り出して――

 

「シンデレラプロジェクト着任おめでとうございますっ! 私は、事務員として武内君のお手伝いをすることになったから! 同期で一緒に働けるなんて嬉しいねっ、武内君!」

 

 今にも歌いだしそうなちひろに対する感情を、武内Pは首の後ろをさわることで表現した。

 

「……嬉しくないの?」

 

 ちひろの口から、笑みが消えそうになって――

 武内Pは、慌てて首から手を離して――

 

「いっ、いえ! そういうわけではありません。ただ――」

「ただ?」

「シンデレラプロジェクトは、その、窓際(まどぎわ)部署と聞いていたので、千川さんを事務員として配置してもらうことに、抵抗があるというか、申し訳ないというか……」

 

 ため息があって、ポニーテイルが揺れた。

 ちひろは、手に持った書類に目を落としながら――

 

「美城常務、何だかんだいって武内君に期待してるんだよ。だから、シンデレラプロジェクトを任せたんだよ」

 

 期待があるなら花形(はながた)の部署に配属するのが筋ではないか? 最前線で活躍している島村卯月の担当に、戻してくれるべきではないか?

 

 伊華雌が疑問を()いて見つめる先で、ちひろは天井を見上げた。蛍光灯に蜘蛛が小さな巣をはっている。しかしちひろが見るのはもっと上。ビルの最上階でふんぞりかえっているあの人へ視線を向けて――

 

「シンデレラプロジェクトを作ったのは、美城常務なんだって」

 

 ちひろはまるで、昔話を聞かせるように――

 

「先輩から聞いた話なんだけどね。美城常務って、あんな態度だけど、会社の従業員や所属アイドルに愛着を持っていて、脱落者を一人も出したくないと思って――」

 

 346プロから去っていくアイドル・プロデューサーに、手を差し伸べることはできないものか。考えた末に、シンデレラプロジェクトが生まれた。アイドルのために。そして、プロデューサーのために。

 

「でも、評判は悪かった。シンデレラプロジェクトへ送られたアイドルは、それを戦力外通告と受け取った。プロデューサーは、窓際(まどぎわ)部署への左遷(させん)だと受け取った」

 

 そんな状態で、アイドル・プロデューサーの救済なんて出来やしない。シンデレラプロジェクトは、アイドル・プロデューサーの墓場と化した。

 

「私は、武内君がシンデレラプロジェクトの担当になった理由、分かる気がするな」

 

 ちひろは、告白をする学生のように、ためらいの沈黙を挟んでから――

 

「武内君は、人の痛みが分かるから。そういう人じゃないと、誰かの痛みを(やわ)らげることなんて、出来ないから」

 

 ちひろは、武内Pを見上げていた。

 武内Pも、ぼんやりとちひろを見ていた。

 

 蛍光灯が点滅して、止まっていた時間が動き出した。

 

「あっ、えっと、私は上へ行って美城常務に報告しないとっ!」

 

 初めてのキスを経験して、我に返るなり己の行為に羞恥を覚える乙女のように、ちひろは頬を赤くして戸口へ向かった。ドアをあけて、そこで動きをとめて、振り向いて――

 

「武内君、がんばろうねっ」

 

 言葉尻に添えられた笑顔は、ここが不気味な地下室であることを忘れるほどに甘かった。

 甘々だった。

 

 ――そんな甘いやりとりを、許せぬ男がここに一人。

 

 今は訳あってマイクの身だが、人の心は忘れていない。いちゃつく男女に対する怒りは、マイクに転生しても伊華雌を修羅(しゅら)に変える。

 

〝事情聴取を行う。俺の質問に、正直に答えてくれ〟

 

 自分でも驚くくらい冷静な声だった。人間、怒りが限度を越えると逆に冷静になるという話は本当なのかもしれない。

 

「いきなりどうしたんですか?」

〝いいから俺の質問に答えてくれ。武ちゃんの返答によっては、今この場でコンビ解消だ〟

「えっ! どうしてそんなことに!」

 

〝……男には、譲れないものがあるんだよ〟

 

 たとえ武内Pがどんなにいいやつだったとしても、自分と同じくらい島村卯月を好きだとしても、彼と組むことによってアイドルとちゅっちゅっできるとしても――

 

 リア充と組むのだけはゴメンだった。

 

 マイクの身である今、リア充のイチャコラ劇場から逃れる(すべ)はないのである。人間だったころは〝()ぜろ〟とつぶやき背を向けることで心の平穏を保つことができたが果たして今はどうだ? 仮に武内Pとちひろがイチャコラカップルだった場合、どんな試練が待っている?

 

 イチャコラ劇場S席一名さまご案なーい! 途中退場は禁止でーす。

 

 ふざけんな! アイドル並みに可愛い事務員とのイチャコラを至近距離で見せつけられるとか、ありがとうございま――じゃなくて、ふざけんなッ!

 

 だから、事情聴取。

 武内Pを、リア充容疑で取り調べ。

 

Q1、千川ちひろさんとの関係は?

 

「千川さんは、同期なんです。自分と、赤羽根さんと、千川さんは高卒採用の同期なので、よく話したりするんです」

 

Q2、よく話したりするといいますが、一緒に食事に行ったりする、ということですか?

 

「まあ、そういうこともあります。仕事が終わったあとに、偶然会った時なんかは」

 

Q3、……それは、二人きりで、ということですか?

 

「入社直後は、よく赤羽根さんと千川さんと自分の三人で食事に行きましたが、最近はそれぞれの仕事があるので、三人で食事をするのは難しくなってしまいました」

 

Q4、つまり、ちひろさんと、二人きりで食事をしていると?

 

「まあ、たまに、ですけど」

 

Q5、よし、爆発しろ。

 

「いっ、いきなり何を言うんですか! 質問でもなんでもなくなってますよ!」

 

Q6、あー、ごめんごめん、心の声がもれちゃった爆発しろ。せっかく同志だと思ってたのにリア充だった武ちゃんなんて嫌いだ爆発しろ。

 

「……もしかして、千川さんと自分が、その……〝恋人〟ではないかと、疑っているんですか?」

 

Q7、せっかく見つけたパートナーが憎むべきリア充でした。僕はどうしたらよいのでしょうか?

 

「……あの、何か勘違いをしていると思います。千川さんと自分は、ただの同僚です。高卒(わく)の同期が三人しかいないので、話す機会が多いだけです。それに――」

 

Q8、……それに?

 

「千川さんは、赤羽根さんのことが好きなんだと思います。自分は、そういう対象に見られてないから、気安く接してもらえているのだと思います」

 

Q9、……じゃあ、武ちゃんとちひろさんは、付き合ってないの?

 

「はい」

 

Q10、今まで、誰かと付き合った経験は?

 

「恥ずかしながら、誰かと特別な関係をもった経験は、まだ……」

 

〝おぉ! 心の友よぉぉおお――――ッ!〟

 

 伊華雌は、泣いていた。心の中で、泣いていた。心の底から込み上げる親近感に打ち震えていた。武内Pとなら、実在するのかどうかすら定かではない幻の関係――〝親友〟にすらなれるかもしれないと思った。

 

「マイクさんは、真面目ですね」

 

 いきなり、突拍子(とっぴょうし)のないことを言われた。今のリア充爆発面談のどこに感心する要素があったのだろう?

 しかし武内Pは、テーブルの上に伊華雌を置いて、尊敬する先輩を(たた)えるような眼差しで――

 

「恋人にうつつを抜かしているようではプロデューサーは務まらない。もし自分が千川さんとそういう関係であったらプロデューサーとして返り咲くことなんて出来ないからコンビを解消する。つまり、そういうことだったんですね!」

 

 違う、なんて言えなかった。ただの(ひが)(ねた)みでしたなんて、暴露することは出来なかった。

 

 ――だって武内Pが、すっごい尊敬の眼差しをむけてくるから……。

 

「一緒に、がんばりましょう!」

 

 武内Pが、握手とばかりに伊華雌を握った瞬間――

 

 電話が鳴った。

 

 ちひろが設置したのだろうか、古ぼけた地下室の中にきれいな電話があって、呼び出し音を撒き散らしている。

 

「はい、シンデレラプロジェクトです」

 

 電話で話す武内Pの、表情が強張っていく。テーブルの上に置かれた書類を引き寄せて、その裏にペンを走らせる。

 

「……分かりました。全力で、担当します」

 

 受話器を置いた武内Pの、表情から心情を読み取ることは出来なかった。

 

 興奮と、落胆と、緊張。

 

 他にも様々な感情か入り乱れて、どんな気持ちなのか判断できなかった。

 ただ一つ、確実に分かるのは――

 

〝担当アイドルが、できたんだな!〟

 

 シンデレラプロジェクトの所属になるということは、つまり脱落寸前ということである。誰かが輝きを失って、アイドルの世界から去ろうとしている。

 

 それが誰なのか?

 

 確かめるのが、怖くなった。

 346プロのアイドルは、卯月に限らず好きなのだ。みんな笑顔で、輝いていてほしいのだ。

 

「ハッピープリンセス、ご存じですか?」

 

 伊華雌は、武内Pを見上げていた。いや、睨んでいた。そのくらい、強い視線を向けていた。

 

 だって――

 

 ハッピープリンセスとか、大好きだから。あの中から誰か抜けるなんて、考えたくなかった。もうこれ以上聞きたくないとすら思ったが、伊華雌はマイクであるから耳を塞ぐことはできない。

 

 そして武内Pは、悲痛な面持ちで――

 

「佐久間まゆさんが、ハッピープリンセスから抜けることになりました……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 プロローグ編、終了になります。お付き合いいただき、まことにありがとうございますっ!

 次回より〝ままゆ編〟に突入します。シンデレラプロジェクトがヤンデレラプロジェクトになるかもしれません! エヴリデイドリーム!

 なお、副業が始まってしまうので、週1ペースの更新になると思います。
 働きたくない……ッ!(双葉杏感w














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 第1章 ― 佐久間まゆを再プロデュース ―
 第1話


 

 

 

 噂に聞いたことがある。

 

 346プロの本社には、従業員とアイドルしか入れないカフェがあるのだと。アイドル達が無防備にお茶を楽しんでいる、夢のようなカフェが存在しているのだと。

 

 ――噂は、本当だった。

 

 346プロ本社ビルの9階。

 エレベーターを降りた瞬間、このフロアが特別な場所であると伊華雌(いけめん)は理解した。珈琲の匂いと食器のすれる音と楽しげな笑い声とミミミンウーサミン。

 

〝いやっ、何でだよ! 何でウサミン!〟

 

 突っ込まずにはいられなかった。オシャレなカフェの雰囲気が、ウサミンコールで台無しだった。

 

「このカフェの店長が安部菜々さんでして、コールがセットになったメニューがあるんです」

 

 武内Pの説明に、つまりメイドカフェみたいなものかと理解した。そして、客としてアイドルがやってくるメイドカフェとか最強じゃないかと思った。

 

 実際に346プロ社内カフェ〝メルヘンチェンジ〟は最強だった。

 

 何が強いって、客が強い。ステージにあがれば数万人という観客を熱狂させることのできるアイドルが、当たり前のようにお茶をしている。城ヶ崎美嘉が、塩見周子が、速水奏が、テーブルを囲んで談笑している。隣のテーブルでは一ノ瀬志希と宮本フレデリカがじゃれあっている。

 

LiPPS(リップス)が大集合してるんですけど……ッ!〟

 

 視線を動かす度に伊華雌は興奮した。メローイエローがドーナツを囲んでいる。セクシーギルティーがカフェにアルコールを置くのはギルティか否か議論している。インディヴィジュアルズがキノコを囲み、ダークイルミネイトが闇に飲まれている。

 

 俺、来世はこのカフェの椅子に転生したいな……。

 

 伊華雌が将来のことを真剣に考えていると、メイド姿の安部菜々が近付いてきた。

 

「ご注文はお決まりですか? キャハ☆」

 

 至近距離で〝キャハ☆〟された。最高に可愛いかった。ただでさえ可愛いアイドルが愛嬌を振りまいたらどうなるのか、理解して悶絶した。

 

 キャハでこれなら、コールなら……?

 

「アイス珈琲を――」

 

〝武ちゃん! そのオーダー、ちょっと待ったッ!〟

 

 伊華雌は、はやる気持ちをおさえつつ、メニューへ視線を走らせた。

 そして、見つけた。

 

〝武ちゃん、オムライスにしようぜ!〟

 

 武内Pは、無言のまま首をさわった。戸惑いのジェスチャー。

 

〝ミミミンウサミンオムライス(ウサミンコール付き)を頼んでくれ! 俺はどうしても、菜々ちゃんのウサミンコールが聞きたいんじゃぁぁああ――――ッ!〟

 

 もしかしたら、ウサミン星からの電波が届いてしまったのかもしれない。もしくは、ただ単にメイド服のウサミンに心を奪われていたのかもしれない。

 

 とにかく――

 

 伊華雌は見たかった。ウサミンが小さな体を躍動(やくどう)させてミミミンミミミンしてくれるのを見たくて見たくて駄々をこねた。おもちゃ屋さんの前で子供が〝買って買って〟をエンドレスで繰り返すように駄々をこねた。

 

「……しかた、ないですね」

 

 武内Pが、折れてくれた。彼はためらいながらミミミンウサミンオムライス(ウサミンコール付き)を頼んでくれた。

 

〝ありがとう、武ちゃん! この恩は一生忘れないぜ!〟

「そんな、大袈裟(おおげさ)ですよ」

 

 照れながら笑う武内Pは、自分が何をしてしまったのか、分かってなかった。

 

 ――ミミミンウサミンオムライス(ウサミンコール付き)を注文するということが何を意味するのか?

 

 知っていたら笑う余裕なんてなかった。ってか、絶対に注文してなかった。

 

「お待たせしましたっ」

 

 菜々がオムライスを持って現れた。ケチャップが一切無い、ひたすら黄色いオムライス。それをテーブルに置くと、演技めいた仕草でポーズをとった。

 

「ピピっ、ウサミン星からの電波を受信しました。これからオムライスを、菜々にメルヘンチェンジしちゃいます!」

 

〝おぉっ、イベント発生! メイド喫茶の定番、ケチャップでお絵描きで萌え萌えキュン!〟

 

 伊華雌の想像を、しかしミミミンウサミンオムライスは上回る。

 

「それではお客さん、お願いしますっ! せーのっ!」

 

 店内BGMが、メルヘンチェンジの冒頭部分をリピートする。さあ歌え、と言わんばかりにミミミンミミミンウーサミン。さあどうぞっ、と言わんばかりに菜々が手拍子を入れてくる。

 

 まさかの参加形(さんかがた)イベントだった。

 えっ、ウサミンコール入れるの客側なの! みたいな……。

 

 伊華雌はもちろん、武内Pも固まっていた。それでも容赦なく続く手拍子と、BGMと、刺さる視線に、武内Pは強張った表情で冷汗(れいかん)をたらしながら――

 

「みみ……、みみ……、うーさ……」

 

 地獄には、受刑者を苦しめる刑場(けいば)が無数にあると聞くが、そのうちの一つに数えられるだろうなと思った。

 

 衆人環視(しゅうじんかんし)の中でミミミンウーサミン。

 

 赤羽根Pのような陽キャイケメンがやるならまだしも、武内Pのような強面(こわもて)の男性が一人(ひとり)ウサミンさせられるとか、本人の辛さを思うと申し訳なくて伊華雌は死にたくなった。

 

 しかし、地獄は始まったばっかりだった。

 本当の地獄はここからだった。

 

「ちょっと君」

 

 (とが)める声に振り返る。

 片桐早苗が、仁王立(におうだ)ちで腕を組んでいた。カフェなんだから静かにしろと、怒られるのかと思いきや――

 

「どこのプロデューサー君か知らないけど、そんな元気のないコールじゃアイドルをプロデュースなんて出来ないわよ! もっとほら、お腹から声だして!」

 

 セクシーギルティの三人が武内Pを取り囲んだ。

 もっと声だせと叱責(しっせき)してきた。サイキック複式呼吸をしろだの、牛さんのように元気よくだの、好き放題に言ってきた。

 カフェにいるアイドル達に見られながら、ウサミンコールを強要されて、世直しギルティの標的にされる。

 

 ――まさに、地獄ッ!

 

 伊華雌の中で自責の念が爆発するが、どうにもならない。こんなハードなメニューだと知っていたらおねだりなんてしなかったのにと、後悔するもどうにもならない。

 

「ミミミン! ミミミン! ウーサミンッ!」

 

 自棄(やけ)になって開き直った。そんな感じの声だった。ウサミンガチ勢の声援に匹敵する声量(せいりょう)を確認して、ようやくイベントは終了する。

 

「ありがとうございますっ! おかげで、エネルギーがたまりました! メルヘンチェーンジ!」

 

 菜々がポーズをとると同時に――

 

「ちょっと失礼するっす」

 

 メイド姿の荒木比奈が現れて、オムライスのキャンバスにケチャップでウサミンを描いた。その出来栄えに感心すると同時に、菜々がスプーンを差し出して――

 

「菜々のこと、残さず食べてくださいね。キャハ☆」

 

 店内BGMが元に戻った。世直しに満足したセクシーギルティが立ち去って、カフェに平穏がおとずれた。アイドル達はそれぞれの世界に戻り、武内Pは突き刺さるような視線から開放された。

 

〝……武ちゃん、……ごめんッ!〟

 

 伊華雌は、謝ることしか出来なかった。突然の羞恥プレイで武内Pを消耗させてしまって申し訳なかった。

 

「……いえ、気にしないでください。自分も、その――」

 

 ――楽しかったので。

 

 そんな風に言われて、ますます申し訳ない気持ちになった。

 だって――

 

 とても楽しそうには見えなかったから。

 彼の性格を考えても、こういうウェーイ系のイベント、苦手そうだったから。

 

 それなのに、怒るどころか気を遣ってくれる武内Pがいい奴すぎて、伊華雌は目頭が熱くなる感覚を思いだした。

 

「味も、おいしいです」

 

 いつの間にか、武内Pはオムライスを半分ほど食べていた。それもまた彼の気遣いに思えた。羞恥プレイを楽しんでいたことを態度で証明するために、ケチャップで書かれたウサミンを嬉々(きき)として崩しているように。

 

〝あんた、ほんとうにいい奴だな、ちくしょう……〟

 

 伊華雌の感動は、しかし長く続かない。彼のドルオタとしての嗅覚が、見るより速く察知した――

 

 恋に恋する乙女の波動。恋に無縁な伊華雌ですら、誰かを愛しく思いたくなる愛の波動。

 

 そんなオーラを出せるアイドルは、一人しかいない。

 

〝武ちゃん、今すぐそのオムライスを完食するんだ……ッ!〟

「待ってください。せっかくだから、きちんと味わいたいので――」

 

〝まゆちゃんが近くまで来てるんだよ! 萌えキュンオムライス食ってるシーンが初対面とか、格好つかないから!〟

 

「……ッ!」

 

 そもそも、武内Pと伊華雌は、遊びでカフェに来てるわけじゃない。プロデューサーとしての〝仕事〟でカフェを訪れている。

 本来ならばシンデレラプロジェクトの事務所に佐久間まゆをお迎えしたかったのだが、事務所は恐怖の地下室である。アイドルをお迎えするにふさわしい場所とは思えない。話し合いの結果、カフェで初対面の挨拶をするべきであると結論した。

 ミミミンウサミンオムライスにそそのかされていなければ、最高にオシャレな初対面を果たせるはずだったのに……。

 

〝武ちゃん! がんばれ! あと一口だ!〟

 

 武内Pは、フードファイターの剣幕でオムライスを頬張って、完食するなりスプーンを皿に放り投げた。

 

 そして、まゆが入口に現れた。

 武内Pは、ハンカチで口のケチャップをぬぐい、立ち上がった。

 

「あの、初めまし――」

「あれー、まゆちゃーん。どしたのー」

 

 城ヶ崎美嘉の声がまゆの視線を連れ去った。

 まゆは武内Pの前を通過して、LiPPS(リップス)のメンバーと話し始めてしまった。

 

 取り残された武内P。

 行き場を失った名刺。

 

〝武ちゃん、がんばれ! リトライだ!〟

 

 武内Pは小さく頷き、LiPPS(リップス)のテーブルに近づく。その度胸に、伊華雌は心の中で賞賛を送る。

 LiPPS(リップス)はアイドルであると同時に年頃の女子高生である。女子高生は、美しさと攻撃性を兼ね備えた生き物である。例えるなら〝スズメバチ〟のようなもので、群れた女子高生に近づくのは、スズメバチの巣に突撃するようなものである。

 

 少なくとも、伊華雌にとって女子高生はスズメバチだった。

 

 近づいただけでキモイと笑われ、(ののし)られた。ただ不細工であるというだけで攻撃された。

 蜂だって、理由がなければ人を襲うことはないのに……ッ!

 

 だから伊華雌は、条件反射でLiPPS(リップス)を恐れていた。

 しかし武内Pは、着実に歩を進めていた。

 足音に気づいて、一つ、また一つと視線が向けられる。それは、見知らぬ人間に対する警戒心を含んだ視線で、自分だったらこの時点で(ひる)んで撤退しているなと伊華雌は思った。いつも無邪気なフレちゃんや志希にゃんに睨まれるなんて、耐えられない。

 

 しかし武内Pは、美嘉と話すまゆに近づいて、名刺を差し出して――

 

「シンデレラプロジェクトの武内と言います。これから、佐久間さんの担当をさせていただきます。よろしくお願いします」

 

 差し出された名刺を、まゆは包み込むように優しく受け取る。

 そして――

 

 とても綺麗なお辞儀をした。

 こちらこそよろしくお願いしますの挨拶かと思った。

 

 ――違っていた。

 

 まゆは、武内Pへ視線を向けて、しかし別の何かを見るような、遠い目をして――

 

「ごめんなさい。まゆ、もうアイドルはやめようと思っているんです」

 

 え……。

 

 伊華雌の頭の中が、白くなった。

 てっきり、ソロで活動するのかと思っていた。それ以外、考えていなかった。佐久間まゆがアイドルじゃなくなるなんて、そんな――

 

「待ってください!」

 

 武内Pが、声をあげた。ウサミンコールなんて比べ物にならない、大きな声で――

 

「シンデレラプロジェクトは、確かに評判がよくありませんが、やめてしまうのは、その判断は――」

 

 武内Pは、なりふり構わず、懇願(こんがん)するように――

 

「自分が、変えますから。シンデレラプロジェクトを、他の部署に負けない、アイドルが輝ける場所に……ッ!」

 

 気持ちが、こもっていた。聞いているだけで思わず(こぶし)をにぎってしまう、強い気持ちがこもっていた。

 

 それを受けたまゆは、再び、綺麗なお辞儀をして――

 

「ごめんなさい……」

 

 緑色のブレザーをひるがえして、カフェから出ていってしまった。

 

「あーあ、フラれちゃったね」

 

 声をかけてきたのは城ヶ崎美嘉だった。彼女は武内Pの横に立つと、遠ざかるまゆの背中を眺めながら――

 

「あんた、シンデレラプロジェクトのプロデューサーなんだ。まゆちゃんの担当、になる予定の」

 

 カリスマJKモデルの肩書きを持つ彼女を、伊華雌は少し苦手だった。確かに綺麗だとは思うけど、挑発的ともとれる仕草が近所の毒舌(どくぜつ)女子高生とかぶってしまって苦手だった。

 

 けど――

 

 伊華雌が知っているのは、アイドルとしての城ヶ崎美嘉でしかない。素の姿なんて知るよしもないのだと、その時の美嘉の横顔を見て理解した。

 

 美嘉は、とても寂しそうな顔をしていた。

 カリスマの肩書きを背負ったライブステージでは、絶対に見せない顔だった。

 

「城ヶ崎さんは、佐久間さんと同じユニットでしたね」

 

 美嘉は、ため息とともに肩をすくめる。

 

「だった、って言うべきだろうね。まゆちゃんはもう、ハッピープリンセスから抜けちゃったわけだし」

「佐久間さんが抜けた理由を、ご存じでしたら教えていただきたいのですが」

 

 美嘉の目付きが、鋭くなる。武内Pのほうへ向き直り、腰に手をあてる。カリスマJKモデルとしての威厳を、鋭い視線に乗せて聞く――

 

「それは、なんで? 単なる好奇心なら、お断りだよ」

 

 武内Pは、美嘉の視線にひるまずに――

 

「自分は、佐久間さんに、もう一度アイドルとして輝いてもらいたいと思っています」

 

 そこからは視殺戦(しさつせん)だった。

 何かを試そうとする美嘉と、信念を貫こうとする武内P。睨みあう二人は、まるでこれから喧嘩を始めようとする不良のようで、菜々が様子をうかがっていた。

 

「ふうん……」

 

 先に目をそらしたのは美嘉だった。

 彼女は近くの椅子に座ると、向かいの椅子を指差した。

 

「あんた、本気みたいだから教えてあげる。座って」

 

 武内Pは、金縛りがとけたみたいに体勢を崩して、美嘉の向かいの席に座った。

 

「まゆちゃんが調子悪い原因ってさ――」

 

 聞かれたくない話なのだろう。美嘉はテーブルに身を乗り出して、武内Pの耳に口を近づけた。

 

 ――カリスマJKモデル城ヶ崎美嘉の、耳打ち!

 

 それだけで特別料金が発生しそうなシチュエーションに、伊華雌は興奮した。

 そしてすぐに反省した。

 武内Pと美嘉の真剣な表情に、不埒(ふらち)なことを考えてしまった己を恥じた。

 

「――分かり、ました」

 

 武内Pが、立ち上がった。美嘉に名刺を渡した。入れ違いに、美嘉もメモを差し出してきた。そこには、美嘉の電話番号が書いてあった。

 

「あたしにできることがあったら協力させてよ。あたしも、まゆちゃんにアイドル、続けてほしいし」

 

 美嘉の笑顔は、どこか寂しそうだった。今の美嘉は〝カリスマJKモデル城ヶ崎美嘉〟ではなく、城ヶ崎美嘉という名前の普通の少女だった。彼女の素の感情が、その表情に現れていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

〝まゆちゃん、何が原因なんだって?〟

 

 会計を済ませてカフェを出た武内Pに聞くと、彼は元から渋い顔を、さらに渋くして――

 

「佐久間さんをスカウトした、プロデューサーが原因のようです……」

 

〝プロデューサーが……?〟

 

 自分の中に生まれた熱い感情が、怒りであると認識するのに時間がかかった。それは、自覚が追い付かないほどの本能的な感情だった。

 プロデューサーのせいで佐久間まゆが調子を落として、アイドルの世界から去ろうとしている。

 

 よし、分かった。

 

 どこのどいつか知らないが、アイドルを傷つけたらどうなるか、分からせてやる必要があるようだ……ッ!

 

〝武ちゃん、今からそいつんとこ行こうぜ。そして、俺でそいつをぶん殴ってくれ! まゆちゃんを傷つけるやつに怒りの鉄拳制裁(てっけんせいさい)だッ!〟

 

 伊華雌の激情に、しかし武内Pは同調しない。

 首の後ろをさわって何かをためらっている。

 

〝そいつ、もしかして武ちゃんの知り合い?〟

 

 武内Pは、頷く。

 

〝もしかして、結構仲がいいとか?〟

 

 再び、頷く。

 

「佐久間さんをスカウトしたプロデューサーは――」

 

 武内Pは、いつも以上に歯切れの悪い口調で――

 

「赤羽根さんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第2話

 

 

 

 佐久間まゆは、赤羽根Pが渋谷でスカウトしたアイドルである。

 

 その時まゆは、読者モデルをやっていたが、スカウトをきっかけにそれをやめて、アイドル活動に専念した。

 

 ――あれは、アイドルに夢中なったんじゃなくて〝プロデューサーに夢中〟だったんだよね。

 

 美嘉の話によると、まゆは赤羽根Pに恋をしていたらしい。そのことを知らないハッピープリンセスのメンバーはいないと、断言できるくらいの溺愛(できあい)だったらしい。プロデューサーさんのために頑張りますと、メンバーの前で堂々と公言していたらしい。

 

 ――様子がおかしくなりはじめたのは、ハッピープリンセスがユニットとして軌道に乗った頃だった。

 

 プロデューサーは、複数のアイドルを同時に担当する。その数は、プロデューサーとしての能力が高ければ高いほど多くなる。

 

 そして、赤羽根Pは非常に優秀なプロデューサーだった。

 

 当然ながら、多数のアイドルを担当するようになり、その比重は駆け出しの新人に重きがおかれるようになる。

 リップス、メローイエロー、インディヴィジュアルズ。

 赤羽根Pは、次々とユニットを立ち上げて、アイドル達を輝かせた。

 

 ――そして、赤羽根Pに見てもらえなくなったまゆは、輝きを失った……。

 

〝つまりさー、釣った魚にエサやれよゴルア! って話なんだよな!〟

 

「……マイクさん、やけに怒ってませんか」

〝俺は、女の子をないがしろにするイケメンが大嫌いなんだよ。釣った魚にエサやらないとか――、じゃあその魚、俺によこせってんだよちっくしょぉぉおお――――ッ!〟

 

 伊華雌(いけめん)はキレていた。

 佐久間まゆほどの美少女から溺愛されておきながら、背を向けて他の女にうつつを抜かす。イケメン特有のハーレミーな行動に、激しい嫉妬を覚えてぶちギレていた。

 

〝武ちゃん、今から赤羽根のところへ行くぞ。もっとまゆちゃんを大事にしろと、説教してやるんだ! 言葉で分からなければ俺でぶん殴れッ!〟

 

「……分かりました。暴力には賛成できませんが、佐久間さんの気持ちを伝えることは、確かに必要かもしれません」

 

 武内Pは、カフェのある9階から、赤羽根Pの担当している部署へ向かった。

 

 プロジェクト クローネ。

 

 ビルの8階を割り当てられていた。窓から差し込む陽光が、廊下に並ぶ観葉植物を喜ばせていた。

 シンデレラプロジェクトのクソ地下室とは大違いだった。

 あそこで育つ植物といったらキノコぐらいしか思い浮かばない。

 

 得意の嫉妬で黒い感情を増幅させる伊華雌だが、ドアが開いて、出てきたアイドルを見るなりその汚い感情が消し飛んだ。

 

 丁度、ドアをノックしようとした武内Pと鉢合わせるタイミングだった。

 長い黒髪をなびかせて出てきた彼女は、ドアの向こうに人がいることに気付いて緑色の目を見開いた。

 

 渋谷凛だった。

 制服姿だった。

 

 そもそも、日本の制服というやつは、世界レベルで評判がいい。

 外人が日本のアニメを絶賛する理由の一つに制服女子の魅力があり、日常的にそれを着用している文化があると知るなり賞賛と羨望の感情が爆発するらしい。女の子が好きなのか制服が好きなのか区別できないくらいに制服は魅力的だと豪語して、それを日常的に鑑賞できる日本は最高デースと絶賛するらしい。

 つまり何を言いたいかというと――

 

 制服を着た渋谷凛とか、鬼に金棒状態です本当にありがとうございますマイクに転生して良かった!

 

 ライブでは見ることのできない制服姿の渋谷凛に生きる喜びをかみ締める伊華雌だったが、その喜びは長く続かない。

 

 渋谷凛が、睨んできた。

 近所の毒舌(どくぜつ)女子高生を思い出してしまうほどの敵意に満ちた視線だった。それはもちろん、伊華雌に対するものではない。

 彼女は、武内Pを睨みつけて――

 

「あんた、卯月の担当に戻りたいって、本当?」

 

 言葉尻が、震えていた。今にも爆発しそうな感情を抑えているのが伝わってきた。

 武内Pが頷くと、抑えていた感情が――

 

「余計なことしないでよ!」

 

 廊下を歩く全ての人が、振り返るほどの声だった。

 

「卯月のこと、諦めたくせに。見捨てたくせに、今更……」

「いえっ、見捨てたわけでは――」

 

 武内Pの弁解を、しかし凛は許さない。大きくかぶりを振って長い髪をゆらし、そして再び睨みつけて――

 

「同じことだよ。自分じゃどうにもならないからって、逃げて、他人に押し付けて……。赤羽根さんがいなかったら、卯月、アイドルやめてたかもしれないんだよ……ッ!」

 

 反論のために開けた口から、言葉が出ることはなかった。

 

 沈黙する武内Pをしばらく睨みつけていた凛は、厳しい表情そのままに武内Pのわきをすり抜け、独り言のように――

 

「余計なこと、しなくていいから……」

 

 彼女の足音が消えるまで、武内Pは硬直していた。

 何があったのかしらないが、凛の剣幕は相当なものだった。近所の毒舌(どくぜつ)女子高生なんて話にならない気迫(きはく)だった。武内Pは完全に打ちのめされていた。ここは一旦、出直したほうがいいかと思ったが――

 

「……大丈夫です」

 

 武内Pは、伊華雌を握り、何かを振り払うかのように大きくかぶりを振って――

 

「今は、佐久間さんです」

 

 ドアをノックした。返事を待ってドアを開け、赤羽根Pと対面した。

 

「凛にずいぶんと怒られてたな。まあ、あまり気にするな」

 

 赤羽根Pは、イケメン特有のさわやかな笑みで迎えてくれた。

 

 イケメンという人種は実に厄介なもので、話してみると〝いい奴〟であることが多いのだ。油断をすると好印象をもってしまいそうになるが、騙されてはいけない。

 

 こいつらは、一人で女子を独占する不届(ふとど)き者なのだ。

 

 特にこの赤羽根というイケメンPは、こともあろうにアイドルを一人ダメにしようとしているのだ。

 強い気持ちをもって討ち入りを果たさなければならない。

 

〝武ちゃん、まどわされるな。斬りかかれッ!〟

 

 武内Pは頷いて、まゆの話を切り出した。担当になるから話を聞きたいという口実で、赤羽根Pがまゆのことをどう思っているか確かめた――

 

「まゆの気持ちに、応えることは出来ない」

 

 赤羽根Pは、あっさりと言った。何の罪悪感もない、無邪気な笑みで――

 

「オレ達プロデューサーは、たくさんのアイドルを担当するだろ? 一人に時間をかけることって、できないからさ」

「……では、担当するアイドルの数を、調整するというのは?」

 

 赤羽根Pは、じっと武内Pの顔を見つめて――

 

 笑った。

 

 それは決して、嫌味な笑い方ではなかった。しかし、どこか呆れるような笑い方で――

 

「お前らしい考え方だな。つまり、アイドルに合わせて、自分を変えていこうってわけだ」

 

 頷く武内Pに、赤羽根Pは、真剣な顔で――

 

「オレは、違う。オレは、プロデュースに合わせて、アイドルに変わってもらいたいと思っている」

「しかしそれでは、適応できなくて脱落するアイドルが出てしまいます」

 

 赤羽根Pは、口元に笑みを浮かべて――

 

「そうだな。それは仕方のないことだ。アイドルには適性がある。脱落するってことは、適性がなかったってことだ」

「それは、そうかもしれませんが……」

 

 二人のプロデュースに対する考え方は、根本的に違っている。アイドルに対する認識が、どうしようもなくズレている。

 

「最近、961プロの社長に会ったんだ」

 

 赤羽根Pは、尊敬の眼差しを窓の外へ向けた。そこにあるのは、遠くからでもよく見える巨大なビル。業界最大手である961プロの本社ビル。

 

「農家と一緒だって、言ったんだ。扱うものが、野菜かアイドルかってだけで、やるべきことは農家と一緒だって。たくさん作って、商品にならないものを除外して、売れるものを売る。そのやり方で、961プロは業界1位の実績を作った」

「……赤羽根さんは、その意見に賛成なんですか? 商品価値の無いアイドルは、切り捨てるという」

 

 赤羽根Pは、立ち上がって、窓に近づいた。陽光をあびてギラギラと輝く961プロの本社ビルを睨んで――

 

「武内。お前、野望はないのか?」

「……野望、ですか?」

 

 首をかしげる武内Pに、赤羽根Pは背を向けて――

 

「オレは、トッププロデューサーになりたい。961プロの社長のように、業界にこの人ありといわれるような、プロデューサーになりたい。そのためには、もっとも成功している人間のやり方を模倣するのが一番の近道だと思うんだ」

 

 振り返って笑う赤羽根Pに、嫌味はない。将来の夢をかたる少年のような、無邪気な笑みがそこにあった。

 

 彼の言うことは、正しいのかもしれない。

 彼のやり方が、正解なのかもしれない。

 

 でも――

 

 賛成する気にはなれなかった。

 赤羽根Pのやり方は、正しいけど、正しくないような気がした。

 アイドルの気持ちをないがしろにするそのやり方が、正解だとは思いたくなかった。

 

「……自分は、賛成できません」

 

 伊華雌の気持ちを、武内Pが代弁してくれた。

 

「誰かを犠牲にしてまで、成果を出したいとは思えません……」

 

 すると赤羽根Pは、やはり嫌味なく笑って――

 

「お前らしい意見だな。まあ、優しいのはいいことだと思うけど――」

 

 そこから先を、赤羽根Pは言わなかった。

 それはきっと、同期に対する優しさであり、そんな気遣いがまたイケメンだなと思うけど、言いたいことは伝わってきた。

 

 ――武内Pのやり方では、成果が出せない。

 

 もう、絶対に負けられないと思った。赤羽根Pに負けるということは、彼のやり方が正しいと証明することになってしまう。

 

 アイドルを野菜のように扱う冷酷なやり方は、間違っていると証明してやりたいと思った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

〝武ちゃんは、どう思う……?〟

 

 シンデレラプロジェクトの地下室へ戻るエレベーターの中。

 武内Pは、B2へ向かって進むランプを見上げて――

 

「赤羽根さんのやり方は、きっと間違ってないのだと思います。実際に、赤羽根さんは成果を出しています」

〝そうだけど……。じゃあ――〟

 

 伊華雌は、ライブステージで輝く彼女のことを思い出しながら――

 

〝まゆちゃんは、もうダメだって、思うのか?〟

 

 武内Pは、すぐに返事をしなかった。エレベータを降りて、地下室へ繋がる扉の前で、足をとめて――

 

「佐久間さんは、まだ、アイドルとして輝けると思います。いや……」

 

 ――輝いて欲しいと、思います。

 

 武内Pの気持ちを確認して、伊華雌は自分がマイクであることを悔やんだ。もし自分が人間であれば、力強く肩を組んで同意していたのに。

 

〝絶対にまゆちゃん、復活させてやろうぜ〟

 

 これは、赤羽根Pに対する宣戦布告であると思った。

 彼の切り捨てたアイドルを再び輝かせることで、彼のやり方が間違っていると証明してやるのだ。

 

「しかし、どうすれば佐久間さんに、アイドル活動に対する意欲をとりもどしてもらえるのでしょうか……」

 

 赤羽根Pを説得してまゆに対する関心を取り戻してもらうのが、いわゆる正攻法(せいこうほう)だった。

 しかしそれは、望めない。赤羽根Pのプロデュース方針からして、脱落したアイドルに関心を持つことはないだろう。

 赤羽根P以外でまゆを復活させる方法を探さなければならない。

 

〝一つ、試してみたいことがある〟

 

 伊華雌は、自信があった。

 アイドルの世界には、アイドルとプロデューサーと、そしてもう一人、重要な登場人物がいるのだ。

 

「何か、思い当たる節があるのですか?」

 

 階段をおりる足をとめた武内Pに、言ってやる――

 

〝まゆちゃんの、ファンの力を借りるんだ〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第3話

 

 

 

 ファンレターがアイドルに届くまでには、長い試練の道のりがある。

 

 まず、メールルームにて危険物の有無を確認する。エックス線検査機で異物の混入に睨みを効かせ、次に手作業で中身を調べる。エックス線探知を突破した刃物や爆弾があったとしても、この段階で処理される。

 もっとも、そんな過激な荷物は滅多に無い、――というかほとんど皆無であるが、検査を(おこた)ることはできない。

 世界は広く、どんな人間がいても不思議ではないのだ。

 

 だから、検査は続く。

 危険物の検査を突破したファンレターは、最後の関門に挑戦する。

 

 プロデューサーによる検閲。

 

 ここでは、手紙の内容について吟味される。

 言葉とは、使い方によってはナイフより鋭い凶器になる。アイドルの心を傷付けるような手紙を捕らえてシュレッダーの餌にするのがプロデューサーの仕事である。

 

 ファンレターをアイドルに渡すまでの労力はそれなりに大きく、多忙を極めるプロデューサーであれば検閲の労力を惜しみファンレターをそのまま資料室へ送ってしまうことも珍しくはない。

 

 そして、赤羽根Pは多忙を極めるプロデューサーである。

 

〝きっとまゆちゃんは、ファンレターを受け取ってないんだよ。だから俺たちで検閲して渡してやれば、またアイドルやりたくなるよ!〟

 

 伊華雌(いけめん)と武内Pは、資料室に来ていた。

 346プロ本社ビルの地下二階が全て資料室だった。ファンレターはもちろん、アイドルのプロフィールやアイドルに関する雑誌やアイドルに関して書かれた新聞記事に至るまで、ありとあらゆるアイドルに関する資料が保管されていた。

 

〝なんだよここは……。宝の山じゃないか……ッ!〟

 

 一般人の目から見れば、それはただの薄汚い資料だが、ドルオタのフィルターを通してみれば、札束に匹敵するお宝だった。

 

〝あの雑誌、もう廃刊のやつじゃん……。あっ、あれは抽選で当たるカレンダー。ほあーッ! あれはまさか、島村卯月等身大スクール水着ポスターじゃないかぁぁああ――――ッ!〟

「マイクさん、落ち着いてください。目的を見失わないでください」

〝お、おう、すまん……。ついドルオタ(だましい)に火がついちまった……〟

 

 ファンレターを保管してある場所へ行き、佐久間まゆの名前を探す。ほどなくして〝佐久間まゆ〟と書かれた段ボール箱を発見した。

 

〝箱、大きいね……〟

「ハッピープリンセスは、346プロの看板ユニットでしたから。そのメンバーである佐久間さんの人気を考えれば当然の結果です」

〝箱の中身、全部ファンレター、なのかな……?〟

「この重さからして、恐らく……」

 

 果たして段ボールの中にはぎっしりファンレターが詰まっていた。軽い気持ちで検閲しようと言った自分を殴りたくなる量だった。

 

 そして――

 

 次の瞬間、伊華雌は目を疑った。マイクだから目なんてないけど、つまり相方の行動が予想の範疇(はんちゅう)を越えていた。

 

 ――武内Pは、段ボールの中身をすべて机の上にぶちまけていた。

 

〝ちょっ、武ちゃん、何を……〟

 

 武内Pは、むしろ伊華雌の反応に首をかしげて――

 

「検閲をします。全てのファンレターを選別します」

 

〝いやでも、最近のファンレターだけでよくね? 箱の上のほうにあるやつだけで……〟

 

 伊華雌はそのつもりだった。箱の上のほうの、最近のファンレターだけを選別するつもりだった。それでもうんざりしていたのに、この箱全部とか、本気で――

 

「自分は、佐久間さんのファンの気持ちを、一つ残らず()み取って、佐久間さんに伝えたいと思っています」

 

 武内Pは、本気だった。

 この人はどこまでも不器用で、要領が悪いのだと思った。赤羽根Pなら、もっと効率のいいやり方をするだろうなと思った。

 それでも――

 

〝……分かったよ。付き合うぜ、相棒〟

 

 気が付くと、同じ気持ちになっていた。武内Pの真剣な横顔は、協力したいと思ってしまう不思議な魅力をもっていた。

 

「それでは、始めましょう」

 

 武内Pが最初のファンレターを手に取るのと、資料室の扉が開くのは同時だった。

 廊下の明るい蛍光灯を背負ってポニーテイルを揺らすのは――

 

 千川ちひろ。

 

「武内君! ファンレターの仕分けだったら私も手伝うのに……。遠慮しないで声をかけてよ!」

 

 ちひろは怒っていることを強調したいのかぷくっと頬を膨らませる。しかしそれが仮染(かりそ)めのジェスチャーであるのは、楽しそうに跳ねるポニーテイルを見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)だった。

 

 ……まずい。このままでは〝ファンレターの仕分けを口実にイチャコラするでござるの巻〟に巻き込まれてしまう!

 

 伊華雌の懸念は、しかし杞憂(きゆう)に終わる。

 

「それでは、千川さんはこちらの手紙をお願いします」

 

 武内Pはちひろに一山(ひとやま)のファンレターを渡すと、背を向けて自分の作業を始めてしまった。

 

 ちひろの頬が、しぼんでいく。

 

 そして、本当に不愉快な時はどんな顔をするのか、頼んでないのに教えてくれた。武内Pの背中を見据(みす)えるその(さま)は、秘孔(ひこう)を狙う拳法の達人を思わせた。

 

 こほん……。

 

 ちひろは空咳と共に感情を吐き出した、――ように見えた。(ほが)らかな笑顔を取り戻し、渡されたファンレターを抱えて武内Pの隣に並ぶ。

 

「こうしてファンレターの仕分けをしていると、入社したばかりのことを思い出すね。よく一緒にやったよね」

 

 ポニーテイルを揺らして武内Pを見上げるちひろ。計算づくなのか、それとも偶然なのか。ポニーテイルを揺らしながら上目遣いへ移行するモーションが神がかっていた。

 

 こんなの、ポニテ属性がなくても惚れてまうやろ!

 

 伊華雌には効果抜群だったが、武内Pは――

 

 そもそもちひろを見ていない。

 彼はただ黙々とファンレターを仕分けしていた。

 

 もしかしたら、とっておきの決めポーズだったのかもしれない。赤いりぼんでコーディネートされたポニテをふりふり、――からの上目遣い!

 必殺技とばかりに繰り出したそれを完璧にスルーされて、ちひろのライフはゼロかもしれない。

 

 はあ……。

 

 ちひろは露骨なためいきを落とし、しおれた表情(かお)で作業を始めた。

 そして、一連のやり取りを傍観していた伊華雌は確信した。

 

 千川ちひろは武内Pを好きである。

 

 ほこりっぽい資料室へポニテを弾ませて入ってきて、渾身(こんしん)の上目遣いをスルーされただけで意気消沈(いきしょうちん)しちゃうとか――

 

 どう見ても恋する乙女だよ! 恋愛フラグがビンビンだよ!

 

 恋に(うと)い伊華雌の目から見ても、ちひろの行動はわかりやすかった。それなのに武内Pは、千川さんは赤羽根さんが好きなんだと思います、――とか見当違いのことを言う。

 

 ひょっとして、武ちゃんって――

 

 フラグクラッシャー?

 

 ハーレム系ラブコメの主人公に実装されてる属性である。簡単にヒロインとくっつかないよう恋愛感情に強い麻酔をかけられている。主人公によっては〝難聴〟のスキルも有しており、難攻不落(なんこうふらく)の鈍感野郎としてヒロインを(いら)つかせる。

 

 恐らくこの強面のプロデューサーは、気付かないだけなのだと思った。

 だって伊華雌と違って、武内Pは決して不細工ではないのだ。真剣にファンレターに向き合っている横顔なんて、渋い魅力をもったイケメンにすら分類できてしまうのだ。

 

 きっと、無自覚に好意をよせられて、無意識のうちにフラグをへし折ってきたのだろう。

 

 もったいないな、と思うものの、しかし他人が指摘するようなことではないと思う。恋愛体質かどうかなんて、言ってしまえば本人の勝手であって、好きにすればいいのである。

 それに、武内Pが恋に鈍感であったところで、プロデューサーの仕事に支障は無いのだから、ハーレムラノベの主人公かよアンタはッ! ―― みたいに(げき)を飛ばす必要はない。下手に(あお)ってリア充になられても困るし……。

 

 その時点では、問題ないと思っていた。

 武内Pが恋に鈍感でもプロデューサー業に支障はないと思っていた。

 

 事実、ほとんどの場合において、恋愛スキルの有無は問題にならない。むしろ、アイドルに過度な好意をもたない人間のほうがプロデューサーとして成果をだしやすいかもしれない。

 

 ――ただし、佐久間まゆを担当する場合を除いて。

 

 まゆをプロデュースしたいのであれば、相応の恋愛スキルをもって彼女の気持ちを動かさなくてはならない。

 

 伊華雌と武内Pがそれに気付いたのは、仕分けしたファンレターをまゆに見せた時だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「たくさんのファンが、佐久間さんのことを応援しています」

 

 ()りすぐりのファンレターを渡しても、まゆの反応は薄かった。焦点の定まらない大きな瞳が、輝きを取り戻すことは無かった。

 まゆは、形だけの笑みを武内Pへ向けて、どこか遠くを見るように――

 

「まゆは、たくさんの人に見てもらいたいわけじゃないんです。まゆはただ、あの人に……」

 

 まゆの〝あの人〟が赤羽根Pであることは明らかだった。

 そして、赤羽根Pがまゆを〝見る〟ことが無いことも……。

 

 そうなると、残された選択肢は一つしかない。

 

 ファンレターを残して立ち去るまゆの背中を呆然と見送る武内Pに、言ってやる――

 

〝武ちゃん。まゆちゃんを復活させる方法は、一つしかない〟

「……何か、考えがあるのですか?」

〝あぁ。まゆちゃんを復活させるには――〟

 

 伊華雌は、成功率の低い手術を提案する医者のような口調で――

 

〝武ちゃんがまゆちゃんを惚れさせて、赤羽根のことを忘れさせるしかない……ッ!〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第4話

 

 

 

「確かに、協力するって言ったけどさぁー」

 

 346プロ本社ビル9階のカフェ。

 武内Pの向かいに座って苦笑してるのは――

 

 カリスマJKモデル城ヶ崎美嘉。

 

「そういうのって、なんつーか、言葉で伝えられるもんじゃないっつーか」

 

 ピンク色の髪をいじる美嘉に、武内Pはテーブルに頭を打つ勢いで頭を下げて――

 

「お願いします! 自分に〝恋愛〟を教えてください!」

 

 伊華雌(いけめん)と武内Pで議論を重ねた結果、俺達じゃむぅーりぃー、という結論に至った。

 そもそも、経験が無いのだ。本やネットの知識しかないのだ。そんな信憑性の低い俗説で佐久間まゆに挑もうなんて、無茶を通りこして無謀である。

 その道の師匠から正しいやり方を教わって初めて武術が機能するように、恋愛もまた実力をもった人間に教えを請うのが成功に繋がる最短ルートだと思った。

 そして〝恋愛の師匠〟というキーワードから城ヶ崎美嘉を連想するまでさして時間はかからなかった。

 

 なにせ〝女子高生〟で〝カリスマ〟で〝モデル〟なのだ。

 これほど恋愛に精通している人間はいないだろう。

 

「城ヶ崎さんは、豊かな経験から、恋愛のなんたるかを知っているのではないかと思いまして……」

「えっ、いやっ、そ、そうだね……。あたしは、まあ、経験豊富だから、色々知って――」

 

「ぜひっ、お願いしますっ!」

 

 武内Pが、立ち上がった。他の客が視線を向けるのにも構わずに、腰を折って綺麗なお辞儀を――

 

「わかった! わかったから頭あげてよ。みんな見てるから!」

 

 武内Pは、真面目である。自分の決めたことをどこまでも真面目に遂行する。それは時として人の心を動かすほどの情熱を伴うのだと、武内Pの提案を受けた美嘉を見て思った。こうと決めた時にみせる武内Pの押しの強さに、伊華雌は感心していた。

 

「まあ、まゆちゃんのためだしね。一肌(ひとはだ)脱いでやりますか!」

 

 美嘉が立ち上がり、学校のカバンについているキーホルダーが音を立てた。カバンはもちろん、制服にも装飾品がちりばめてあってオシャレに隙がない。

 

「さっきも言ったけど、恋愛って、口で説明できるようなもんじゃないんだよね。だから――」

 

 美嘉は、従順な弟子のように真剣な表情の武内Pに、しかし気さくな笑みを向けて――

 

「買い物、付き合って♪」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 原宿。

 

 そこは伊華雌にとって未開の地である。

 存在は知っているし、電車で駅を通過したことはあるが、足を踏み入れたことはなかった。

 

 だって、ファッションの街なのだ。

 オシャレに命をかける若者が切磋琢磨(せっさたくま)する戦場なのだ。

 

 そんな場所だと意識すると、ぴにゃこら太フェイスの伊華雌はどうしても二の足を踏んでしまう。お前は原宿より巣鴨系だよな、とかクラスの陽キャにバカされたし……。

 ムカついたから巣鴨に突撃してみたら、何故かジジババに囲まれて、拝まれて、お(そな)えものをされる始末で――

 

 いや、お地蔵さんじゃねえから!

 

 ――と叫んで逃げて少し泣いた。

 

 何が悔しいって、本当に巣鴨に歓迎されたのが悔しかった。やはり自分は〝ジジババの原宿〟こと巣鴨の住人なのだと落ち込んだ。

 

 だからこそ――

 

 原宿に憧れがあった。一度、行ってみたいと思っていた。

 だって伊華雌も〝若者〟だから。

 致命的に不細工なだけで、中身は若者だったから。

 

「原宿に来たことは?」

 

 美嘉は伊達(だて)メガネと帽子で顔を隠していた。どこに行くにしろ美嘉は変装するべきだが、特にこの街では気をつける必要がある。原宿を行き交う少年少女こそ城ヶ崎美嘉をカリスマと(あが)めるファンなのである。美嘉を発見した時の熱狂は、伊華雌を囲んだジジババの比ではないだろう。

 

「自分は、その、こういう場所は、あまり経験がありません……」

 

 武内Pは、原宿の街から浮いていた。

 この街を行き交う若者は、ほぼ例外なく〝勝負服〟で武装している。落ち着いた服装の中にさりげなく自分のオシャレを光らせる者もいれば、お笑い芸人の仮装になってしまいそうな色使いの服を絶妙なコーディネートでオシャレに着こなす者もいる。ファッション誌から抜け出してきたような人の他には、制服姿の女子高生しか目につかない。

 つまり何が言いたいかというと――

 

 黒いスーツとか、全然いない。

 

 ゼロではないが、ほとんどいない。数が少ないぶん目立ってしまう。生来(せいらい)狙撃手(スナイパー)めいた鋭い目付きも(あい)まって、武内Pは悪目立ちしてしまっている。自転車で巡回していたお巡りさんが、武内Pを見るなり自転車をとめて監視を始めるほどに。

 

「じゃあ、あたしのお気に入りのお店、教えてあげるから」

 

 目立たないように口元だけで笑う美嘉に、武内Pは真剣な表情で――

 

「あの、これが恋愛についての授業、なんでしょうか?」

 

 すると美嘉は、帽子のつばを軽く持ち上げて、上目遣いに――

 

「デートの練習、って言えば納得できるよね?」

 

 デイト……だとぉッ!

 

 伊華雌は、武内Pを見上げる美嘉から目が離せない。

 いや、ガチなやつじゃない。ガチなデートじゃないと分かっているものの、カリスマJKモデル城ヶ崎美嘉とデートとか、何ですかその極上のイベント! その〝お散歩JK〟は豪華すぎるッ!

 

「あっ、そのまえに……」

 

 美嘉がスマホを耳に当てた。電話の向こうにいる誰かに自分の場所を教えて――

 

「見つけたっ、お姉ちゃん!」

 

 元気に駆けてきた少女が美嘉の腕に抱きついた。帽子とメガネで変装してるが、その程度でごまかされるほど伊華雌のドルオタ偏差値は低くない。

 

 城ヶ崎莉嘉。

 

 無邪気に跳ねてメガネを揺らす姿がもはや犯罪的に可愛かった。ほら、お巡りさんも見てるし。いや、お巡りさんが見てるのは武内Pか。

 

「実は今日、莉嘉と買い物の予定だったんだよね」

 

 その会話で、莉嘉は初めて武内Pを見た。お姉ちゃんお姉ちゃんと言って嬉しそうに跳ねていた彼女は、武内Pを見るなり笑顔を硬直させて――

 

 美嘉の後ろに隠れた。

 

 その気持ちは分かる。現に伊華雌も初対面の時はびびって悲鳴をあげた。さっきから様子を見ているお巡りさんも、いつのまにか仲間を呼んで二人になっている。

 

 でも――

 

 悪い人じゃないんだよ。ピュアで傷つきやすいガラスハートの持ち主なんだよ。だからみんな、怖がらないで! 武内Pを、怖がらないで!

 

 伊華雌がどんなに祈ったところで、武内Pは不審者として警戒される。莉嘉は姉の後ろに隠れ、お巡りさんは増殖する。

 

「大丈夫だよ、この人は――」

 

 姉の言葉は劇的な効果をもたらした。いつでも逃げ出せるように腰を引いていた莉嘉が、相づちを打つたびに表情を緩め、最後にはカブトムシを見つけた子供みたいに目を輝かせて――

 

「P君、恋愛について知りたいんだ! だったら、あたしに任せてよ! 恋愛の極意、教えてあげちゃうんだから!」

 

「偉そうに言って、何にもしらないくせに」

 

 笑顔の姉に、妹が噛みつく――

 

「お姉ちゃんこそ、経験()――」

 

 妹の失言を握りつぶすのは、いつの時代も姉のアイアンクローである。

 美嘉は笑顔のまま、ギリギリと莉嘉の頬を締め上げて――

 

「余計なこと、言わなくていいからね……ッ!」

 

 ごめんなひゃい、ゆるひてほねえひゃん! 頬を掴まれた莉嘉が悲鳴をあげる。その悲鳴を彼等は聞き逃さない。日本の警察をなめてはいけない。

 

「あの、ちょっといいですか?」

 

 声をかけてきた警官は、笑顔。アイドルに負けないくらいの笑顔で、しかし武内Pから目を離さない。いつの間にか警官の数は5人に増えており、路上にはパトカーが待機している。

 

「いやっ、あのっ、自分は、何もっ……」

 

 トラウマスイッチが入ったのだと、見て取れるほどの動揺だった。そういえば、街頭スカウトをした時にお巡りさんの世話になったと言っていた。その時の古傷が炸裂してしまったのだろうか……。

 

「こちらの女性とは、どういったご関係で」

 

 警官は容赦なく職務質問を続ける。武内Pは挙動不審を加速させて、逮捕待ったなしの状況に伊華雌は焦る。

 お巡りさんが笑顔を捨てて、強制連行――

 

「この人、パパなんですっ」

 

 美嘉が、武内Pの腕を取った。

 

「今日は、いっぱい欲しいもの買ってもらうんだーっ♪」

 

 姉妹の連携は見事だった。まるであらかじめ打ち合わせていたかのように話を合わせ、お巡りさんの顔に笑顔を取り戻した。

 

「そうですか、失礼しました。では、原宿を楽しんでくださいね」

 

 簡潔な敬礼を残し、お巡りさんは人混みの中に姿を消した。

 

「大成功だね、お姉ちゃんっ!」

 

 莉嘉が跳ねて、美嘉はやれやれと肩をすくめる。

 九死に一生を得た武内Pは――

 

 ゾンビみたいに生気(せいき)がなかった。

 白坂小梅がよろこびそうな、死者のそれとしか思えないかすれ声で――

 

「自分は、パパに、見えてしまいますか……」

 

 伊華雌には、武内Pの気持ちがすごく理解できた。

 コンプレックスってやつは実に厄介なもので、自覚して開き直っていても、それを突きつけられる(たび)にダメージを受けてしまう。伊華雌だって自分が不細工だと自覚し開き直っているが、あらためて〝失敗したジグソーパズルみたいな顔してんな!〟とか言われるとしばらく落ち込む。

 

「あの、ごめんね。気にしてる、よね……」

 

 伊達メガネの奥にある美嘉の瞳が、武内Pのしょげた顔をうつしている。申し訳なさそうに眉をハの字にしてる表情に、嘘があるとは思えなかった。

 

「P君、スーツだからだよ。もっとオシャレな格好すれば、パパじゃなくてお兄ちゃんになれるよっ」

 

 無邪気な笑みを浮かべる莉嘉も、本気で武内Pをはげまそうとしているようにしか見えない。

 

 ……え、何この(かみ)姉妹! 優しさが目にしみるんですけど!

 

 武内Pに感情移入していた伊華雌は、城ヶ崎姉妹の優しさを疑似体験して落涙(らくるい)する感覚を思い出した。

 疑似体験でも泣きそうになる優しさである。

 実際に体験した武内Pは――

 

 笑顔を取り戻していた。

 

「気を遣わせてしまい申し訳ありません。自分は、大丈夫です」

 

 美嘉と莉嘉が視線を交わして、笑みを浮かべた。

 

「じゃっ、行こっか!」

 

 美嘉が帽子をかぶりなおし、莉嘉が武内Pの手を引いた。

 

 ――そして、現役アイドルによる史上最強のお散歩JKが、始まった……ッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第5話

 

 

 

 伊華雌(いけめん)の中に〝デート〟という概念(がいねん)は存在しない。女の子と一緒に買い物をしたり映画をみたり食事をしたり。

 

 ――別に、一人でも出来んじゃん。むしろ一人のほうが自由に行動できんじゃん。

 

 人間だった頃、そんな風に思っていた。無理矢理に思い込んでいた。

 それはデート――っていうか〝女の子〟に縁のないことを鏡を見るたびに思い知らされていた伊華雌の、精一杯の強がりだった。

 

 本当は、女の子とデート、したかった。

 それが自分の本音なのだと、城ヶ崎姉妹との疑似デートによって思い知った。

 

 ――すごい、楽しかった。

 

 デートしてるのは伊華雌じゃなくて武内Pだが、それでもすごい楽しかった。

 

 ――女の子に振り回されるのって、いいな……ッ!

 

 いつの間にか、そんな風に思っていた。そんな風に思えるくらい、城ヶ崎姉妹は気持ちよく武内Pを振り回してくれた。

 

「あたしがP君を〝お兄さん〟にしてあげるよ」

 

 莉嘉が武内Pの手を引いて入ったのは、カラフルな洋服が並ぶ店だった。明らかにローティーンをターゲットにした店だった。店員はスーツ姿の武内Pをみるなり警戒――を通り越して唖然としていたが、莉嘉が話しかけるなり笑顔になった。

 どうやらこの店は莉嘉の行きつけのようで、その店員は莉嘉と仲が良さそうだった。二人であれこれと武内P改造計画を練り上げていたが――

 

 姉が黙っていなかった。

 

 カリスマJKモデルの肩書きをもつ美嘉である。ファションは彼女の聖域であり、口を挟まず他人任せにするという選択肢はどうやら存在しないようで、城ヶ崎姉妹と店員を交えた議論は白熱の一途をたどった。その(かん)武内Pはひたすら首の後ろをさわっていた。

 

 激論の末、武内P改造計画が完成する。

 武内Pは試着室に押し込まれ、放り込まれた洋服の着用を強要された。彼に拒否権は無かった。

 城ヶ崎姉妹は張った胸に自信の(ほど)をうかがわせ、試着室から出てきた武内Pを見るなり――

 

 笑った。

 

「悪くない。悪くないんだけどさー」

 

 美嘉の笑みに悪意はなかった。スーツ姿からの変化がはげしすぎて、笑わずにはいられない様子だった。

 

「いーよP君! これならパパじゃなくてお兄ちゃんって呼んじゃうよ!」

 

 莉嘉のツインテールが嬉しそうに跳ねて、武内Pもまんざらではなさそうに口元を緩める。

 

 武内Pの服装は、確かにこの町に馴染んでいた。カラフルな黄色のシャツ(可愛くデフォルメされたカブトムシが散りばめられている)にハーフパンツ。南国のサーファーを思わせる()で立ちを足元の革靴が引き締めている。

 

 何て言うか、ギリギリのコーディネートだった。アイテム一つ間違えただけでダサくなってしまう紙一重(かみひとえ)のところで、しかしオシャレと賞賛される領域にとどまっている。

 どこまでがオシャレで、どこからがダサいのか。

 それは数値化できないボーダーラインで、そのギリギリを攻めることのできる美嘉と莉嘉はさすがカリスマJK&JCであると感心せざるを得なかった。

 

「これでもう、お巡りさんに睨まれる心配はなさそうだね」

 

 原宿仕様になった武内Pは、思う存分城ヶ崎姉妹に振り回された。

 

 彼女達のお気に入りの店を回り、そこの店員にファションを褒められた。目が大きくなるプリクラをとって、しかし全然目が大きくなってない武内Pの写真を見て笑った。話題になっているパンケーキのお店に並んで、生クリームたっぷりのパンケーキを堪能した。

 

「あたし、ちょっとお花摘んでくるー」

 

 莉嘉が席を立った時だった。二人きりになるのを見計らっていたかのように、美嘉が小声で――

 

「あ、あのさ。今日のこれ、恋愛の参考に、なったかな?」

 

 意外にも自信なさげな上目遣いに、武内Pは迷わず頷く。

 

「自分は、その、俗にいう〝デート〟は経験が無かったので、参考になりました。それに――」

「……それに?」

 

 武内Pは、自分の着ている服を見下ろして――

 

「とても、楽しかった、です」

 

 美嘉は、ステージの上でみせる挑発的な表情とは正反対の、安堵に緩んだ表情をみせて――

 

「そっか。それなら――」

 

「よかったね、お姉ちゃん!」

 

 いつの間にか戻っていた莉嘉が、満面の笑みで――

 

「P君を満足させられるか、本当は心配だったんだよね。だってお姉ちゃんも、デートとか経験()――」

 

 妹の失言を握りつぶすのは、いつの日も姉のアイアンクローである。

 美嘉は妹の頬を締め上げながら、照れ隠しと言わんばかりの空咳(からせき)を入れて――

 

「あのさっ、この後、時間あるよね? 実は、あんたの知りたいこと、教えてくれそうな人に応援を頼んであるんだ」

 

 それが誰なのか、武内Pが鋭い視線で誰何(すいか)する。

 しかし美嘉は、もったいつけるように挑発的な笑みを浮かべ――

 

「あたしよりも大人の女性だよ」

 

 〝大人の女性〟というキーワードにピンときた。

 ハッピープリンセスのメンバーには、一人大人の女性がいるのだ。人生の()いも甘いも知っているであろうあの人ならば、恋愛のなんたるかを知っていてもおかしくはない。

 

 果たして、伊華雌の予想は的中していた。

 

 夕日に染まる原宿駅の改札口。

 その助っ人は、サングラスで顔を隠しているものの、こぼれ見える顔の一部分だけでも〝美人〟であると断言できた。

 

「はあーい」

 

 美嘉を見つけて手をふって、その愛嬌たっぷりな仕草に親近感が込み上げる。

 

 川島瑞樹。

 

 元アナウンサーの経歴をもつ彼女は、確かに大人の女性であるし、相談役として最適だと伊華雌は思った。

 

「君が〝恋愛〟について知りたいプロデューサー君?」

 

 サングラスをずらして生の視線を向けられて、武内Pは飛び上がるくらい背筋を伸ばした。

 見かけこそアラサーだが、武内Pは伊華雌と同年代の若者である。きっと、自分と同じ気持ちなんだろうなと思った。瑞樹のような〝大人のお姉さん〟に見つめられたら、どうしていいのか分からなくて緊張してしまうのだ。

 

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ♪」

 

 瑞樹は、馴れた仕草でタクシーをつかまえて――

 

「お姉さんに、任せなさぁーいっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第6話

 

 

 

「あの、スーツに着替えたほうがいいでしょうか?」

 

 武内Pの視線がタクシーの車窓(しゃそう)を睨む。そこには銀座の街が流れている。

 大人の女性である瑞樹が向かうお店は、きっと大人のお店なのだろう。都会のネオンを見下ろしながらカクテルを飲むようなお店なのだろう。伊華雌(いけめん)はそういうお店に関する知識も経験もないが、そういうお店へ原宿仕様の服装で突撃するのは好ましくないということは理解できる。だから武内Pがスーツに着替えたがる気持ちに同意するのだが――

 しかし瑞樹は、首をかしげて――

 

「あら、そのままでいいわよ。それ、美嘉ちゃん達が選んでくれたんでしょ? よく似合ってるわ」

「しかし……」

 

 武内Pの懸念は正しいと思う。銀座の町を歩く人達は、原宿のそれとは人種がちがう。原宿に馴染んだ服装は、この街では浮いてしまう。ここではスーツを着るのが正解であると伊華雌も思うのだが――

 

「〝当たり前〟に染まるのが正解とは限らないのよ」

 

 独り言のように呟いたその横顔に、不敵(ふてき)な笑みが出現していた。

 

「恋愛の授業、もう始まっているのよ。私の言葉の意味、武内君は理解できるかしら?」

 

 タクシーが目的地に到着した。

 瑞樹はさっそうとタクシーを降りて、後ろを振り返ることなく歩き出す。その堂々とした歩調に、しかし伊華雌は首を傾げる感覚を思い出す。

 だって、彼女の向かう先にあるのは――

 

 大衆居酒屋。

 

 タクシーは銀座を通過して、新橋に到着していた。

 新橋といったらサラリーマンの街である。一般庶民である彼らをターゲットにした酒と料理にステータスを全部振った居酒屋が(のき)(つら)ねている。瑞樹ならもっと雰囲気にステータスを振ったお店を選びそうなのに……。

 

「どうしたの? 鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔して」

 

 その理由を、分かった上で聞いているような笑みがあった。年下の男の子をからかう笑みを浮かべる瑞樹に、武内Pは真面目な顔で――

 

「川島さんなら、その、もっと上品な店を選ぶものかと思っていたので……」

「あら、そんな風に見られていたのね。でも、それは勝手な思い込み。自分の中にあるイメージだけで決めつけてしまうのはNGよ。お店選びも恋愛も、ね?」

「はあ……」

 

 首を後ろをさわって戸惑いのジェスチャーをみせる武内P。そんな彼の反応を楽しんでいるのかのように瑞樹は笑みを深くして、ついて来なさいといわんばかりに歩き出した。

 

「らっしゃっせーッ!」

 

 体育会系の見本みたいな店員が歓迎の雄叫びを上げた。すると他の店員も反応して「らっしゃせーッ!」の連鎖が始まった。日野茜がいたらつられて「ボンバーッ!」とか叫んでしまいそうな熱血空間に伊華雌は圧倒された。武内Pも絶叫系居酒屋は未経験なのか、入り口で足をとめている。

 

「どうしたの? ほら、ついてきて」

 

 瑞樹はこの店の雰囲気に気圧(けお)されるどころか、自分の家に帰ってきたと言わんばかりの馴れた仕草で二階へ上がった。

 この店は一階がカウンターとテーブル席で、二階が個室になっていた。ねじりハチマキをした日野茜(ねっけつ)系のお兄さんが案内してくれた個室に入り、伊華雌は息を呑む感覚を思い出した。

 

「瑞樹ちゃん、遅かったじゃない! 先に始めているわよ!」

 

 片桐早苗が、ビールの入ったジョッキを振った。

 

「おちょこにちょこーっと、いただいてます」

 

 高垣楓が、赤い頬に笑みを浮かべた。

 

「あー、ちょっと待って。いま、いーとこだから……」

 

 姫川友紀が、ポータブルラジオに全神経を傾けている。

 

 〝絵葉書(えはがき)にしたい風景〟という言葉がある。この個室は、それに近いものがあった。言うなら〝ポスターにしたい光景〟で、あまりにも豪華すぎる面子(めんつ)に伊華雌は言葉を失った。

 346プロのナンバー1と言っても過言ではない不動の人気を誇る高垣楓。ファンのハートを逮捕して逃さないバブリーチャーミーな片桐早苗。キャッツを応援する彼女を全力で応援したくなる姫川友紀。それに加えて川島瑞樹という、海鮮で例えるならウニイクラ丼とでもいうべき豪華すぎる面子を前に――

 

 何故だろう、伊華雌の中に生まれていたのは〝恐怖〟の感覚だった。

 

 それは、決して足を踏み入れてはならない禁断の地を目前にして足がすくんでしまう感覚だった。この場所から早く逃げろと、本能が訴える焦燥感に突き動かされて恐怖の感情が加速する。

 きっと、武内Pも似た感情を抱いていたのだと思う。だって彼は、廊下と個室の境目で躊躇(ちゅうちょ)していたから。いざバンジージャンプをする段になって怖じけづいてしまった人のような逃げ腰になっていたから。

 

 そこで逃げていればよかったのかもしれない。

 ぐずぐずしていたばっかりに、瑞樹の手が武内Pの手を引いて――

 

「今日はスペシャルなゲストがいるのよ」

 

 観念したのか、武内Pは酒と(たわむ)れるアイドル達にお辞儀をした。

 

「んー、あなた、どこかで見た顔ね……」

 

 早苗が、拳銃の狙いを定めるように片目で睨んで――

 

「あっ、あなたウサミンコールギルティのプロデューサー君じゃない! プライベートだと随分派手な格好をしてるのね……」

 

 確かに原宿仕様の武内Pは派手な格好と言えるかもしれないが――、しかし早苗に指摘される筋合いは無いと伊華雌は思った。

 

 だって、実物(じつぶつ)見たの初めてですから! バブル世代のボディコンとか、どこに売ってるんですかその洋服!

 

「若々しくて、いいじゃないですか。若さいっぱい、駆けつけ一杯(いっぱい)

 

 テーブルの対面に座った武内Pに、楓がおちょこを差し出してきた。346プロナンバー1アイドルのお酌である。ほんのり頬を赤らめた高垣楓のお酌とか、その酒は億万の価値があると思った。ただの布切れで有るはずのパンツが、アイドルが履いた瞬間黄金(おうごん)と同じ価値に――いや、この例えはやめておこう……。

 

「それが、彼は本当に若いのよー。何と、友紀ちゃんと同世代なのよ」

 

「え!」

「あら」

 

 早苗と楓が目を丸くした。その丸まった目を向けられた友紀は、しかし真剣な顔でポータブルラジオに集中している。呼吸は荒く、落ち着きなく貧乏ゆすりを繰り返している。ちょんと(つつ)いたら爆発してしまいそうなくらい感情を高ぶらせている。

 

『さあ、キャッツ最後のバッターが打席に入ります。ここで一打あればまだ逆転サヨナラの可能性がありますが……』

 

「いけ……、いけ……、いけ……ッ!」

 

 友紀の口からこぼれる言葉は、赤く燃える石炭のように熱を持っている。その強い思いがキャッツのラストバッターに伝わり――

 

『初球――打ったぁぁああ! これは大きい! ぐんぐん伸びて、入るか? 入るか!』

 

「おおぉぉおお――ッ!」

 

 友紀が立ち上がる。満面の笑みに備えて愛らしい八重歯が光を放つ。

 

『あー、わずかに足りない! 打球はフェンス手前で失速、外野手のグローブに収まりました。ゲームセット、キャッツの連敗地獄は続きます』

 

「ああぁぁああ――――ッ!」

 

 立ち上がっていた友紀が崩れ落ちた。テーブルに突っ伏して、悔しそうに地団駄(じだんだ)を踏む。

 

「まあまあ友紀ちゃん、(つら)い時は、お酒に慰めてもらいましょう」

 

 楓におちょこを渡された友紀は、それを一息に飲み干して――

 

「今日で10連敗だよ? 10連敗! いったいどーしちゃったんだよキャッツぅぅうう――ッ! いつも応援してるのにぃぃいい――ッ! ねこっぴぃのばかぁぁああ――ッ!」

 

 友紀は音を立てておちょこをテーブルに叩きつけて、酔った視線を武内Pへ向けて――

 

「ところで、この人だれ?」

 

 武内Pの手がシャツの(ふところ)を探り、行き場を失った。恐らくは名刺を出そうとしたのだが、原宿仕様のシャツのポケットに名刺は無い。

 

「彼は、今日のスペシャルゲストよ」

 

 瑞樹に紹介されて、武内Pは頭をさげた。友紀は興味なさげに「ふーん」と言って、再びキャッツの愚痴を始めた。

 

「――で、どうして彼を連れてきたの? 何か理由があるんでしょ?」

 

 早苗がビールジョッキで瑞樹をつついた。すでに酒癖の悪さがにじみ出ており、伊華雌はこの個室に入った時に感じた恐怖の正体を掴んだ。

 きっと、本能的に悟っていたのだ。お姉さんアイドル達の中に潜む凶悪な怪物の存在を。この人達が酔ったらすごいことになると、酒癖の悪さを感じ取っていたのだ。

 

 だって――

 

 早苗はすでにアウトである。元警官とは思えないアウトローな口調で瑞樹にからんでいる。今の早苗は逮捕する側ではなく〝される側〟の人間である。

 推しの野球チームが負けて荒れている姫川友紀もアウトである。楓が馴れた様子で手綱を握っているから実害は無いが、彼女が抑えていなければどうなっているかわからない。そのくらい、友紀の中で暴れるキャッツの亡霊は狂暴である。

 そして楓。

 ある意味、彼女が一番たちが悪いのかもしれない。悪酔いはしていないが、隙あらば酒をすすめて酔いを深めている。彼女のもたらすアルコールによって、早苗も、友紀も、そして武内Pも酔いを深めて(おのれ)の中に眠る怪物を覚醒させる。

 

〝武ちゃん、大丈夫……?〟

 

 思わず声をかけてしまうくらい、武内Pの目付きがやばい。もしかしてこの人、見かけによらず、酒に弱――

 

「自分は、どうすればいいのでしょうか……」

 

 突然、武内Pの独白が始まった。

 楽しく酔っ払っていた四人の動きがとまった。

 

「どうしたら、赤羽根さんのように、佐久間さんを魅了してプロデュースできるのでしょうか!」

 

 入れちゃいけないスイッチが入ってしまった。

 そんな様子の武内Pに、伊華雌はどうしていいのか分からない。マイクになるまで〝友人〟とか空想上の生き物だと思っていた伊華雌は、友人と酒を飲んだ経験もなければ、酒に飲まれた友人の扱いなんて見当もつかないのだが――

 

 346プロのお姉さんアイドル達は、笑っていた。

 それは、最高の(さかな)を見つけた酔っぱらいの笑顔で――

 

「そもそも、赤羽根君みたいに、とか言ってる時点でダメなのよ。誰かの背中を追いかけている時点で、あなたの魅力は死んでいるのよ!」

 

 早苗が、豪快に中ジョッキを飲み干す。ぷはっと爽快な吐息をついて、店員におかわりを要求する。

 

「どうして、赤羽根さんのようになりたいのですか?」

 

 まるで小料理屋の女将(おかみ)のように上品な笑みを浮かべる楓は、しかしこの中で一番飲んでいる。死屍累々(ししるいるい)と横たわるとっくりが彼女の肝臓の強さを物語っている。

 

「だって、赤羽根さんは、同期なのに、とてもうまくやっています。だから自分も、同じように――」

 

「アウト――ッ!」

 

 姫川友紀が、大きな唐揚げをつきだした。外は香ばしく、中はジューシーに肉汁たっぷりなそれに八重歯を突き立てて、食いちぎり、飲み込んでから――

 

「誰かの真似をしているだけじゃ、一流の選手にはなれないよ! 自分だけのとっておきをもたないと、打席に立っても空振り三振ゲームセットだよっ!」

 

 武内Pの視線の先で、友紀は〝にひっ〟と歯を見せて笑い、キャッツの話を始めてしまった。彼女はキャッツの話を始めるとしばらく帰ってこない。

 

「どう、武内君? あなたの知りたいこと、分かった?」

 

 酔っぱらいの中にあって、瑞樹は唯一平静(へいせい)を保っているように見えた。それなりに飲んでいるはずなのだが……。

 

「赤羽根さんとは違う、自分のやり方を模索するべきなのだと思います……」

「うんうん」

「しかし、それはつまり、具体的にはどうすればいいのか、分かりません……。教えて、もらえませんか!」

「ふふっ、それは――」

「それは……?」

 

 瑞樹は突然、お姉さんを捨てた。キャピっ、という擬音を背負って――

 

「ミズキ、わかんなぁーい!」

 

 ウサミンだったら、語尾にキャハをつけていた。

 つまり、瑞樹も酔っていたのだ。酔っていないように見えるだけで、しっかり酔っぱらっていたのだ。それが瑞樹の酔いかたなのだと、驚く様子も無く笑う早苗が証明していた。

 

 そして――

 

 多少なりとも会話に(みの)りがあったのはここまでだった。

 恐れていた酔っぱらいの暴走に、武内Pはなす(すべ)なく巻き込まれた。

 いやむしろ、先頭に立って暴走した。

 普段はクソがつくほど真面目なぶん、アルコールの誘惑に負けた武内Pは、笑って、叫んで、(のち)に黒歴史となるであろう醜態(しゅうたい)を量産してしまうのだった……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「何があったのか、よく、覚えていないんです……」

 

 店を出た武内Pに、伊華雌は多くを語らなかった。真面目が取り柄の武内Pなのだ。いくら酔っぱらい×4にそそのかされてしまったとはいえ〝毒茸伝説を熱唱して店員に止められた〟とか知りたくはないだろう。これは〝黒歴史〟というフォルダにぶちこんで封印するのが友人の義務であると伊華雌は決意した。

 

「どう、武内君。少しは参考になった?」

 

 瑞樹は、酒に火照(ほて)った頬を夜風にあてて気持ち良さそうに目を細めた。

 本来の真面目さを取り戻した武内Pは、背筋を伸ばして――

 

「あの、今日はありがとうございま――」

 

 頭をさげた武内Pを待っていたのは――

 

 逮捕術。

 

 警官が警察学校で習うそれにより、武内Pは確保された。

 

「夜はまだまだこれからよ! 二次会、いくわよ!」

 

 武内Pを確保した早苗の声に、残り三人が歓声で応える。

 

 ――暴走機関車。

 

 そんな単語を思い浮かべてしまうほど、アルコールという燃料を満載した四人のアイドルは手が付けられなかった。武内Pが何を言っても二次会を辞退することはできず、彼女達の気が済むまで酒宴(しゅえん)に付き合わされた。

 

 結局、武内Pが解放されたのは翌日の早朝だった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第7話

 

 

 

「……武内君、お酒臭い」

 

 シンデレラプロジェクトの地下室に出勤してきた武内Pを見るなりちひろが鼻をつまんだ。

 

「いえ、その、ちょっと……」

 

 武内Pは、いつものように首の後ろをさわろうとして、よろけて壁によりかかった。

 

 ――朝方(あさがた)までお姉様アイドル達に飲まされたこと。必然的に寝不足であること。

 

 これらの要因によって武内Pは立っているのもままならない有り様だったが、それでも出社すると言い張った。仮病を使えばいいじゃないかと薦めたが、嘘はよくないですと真顔で言われて伊華雌(いけめん)は何も言えなくなった。

 

 些細な体調不良を理由に学校を休むニート体質の伊華雌としては、二日酔いなんて病欠待った無しなのに、武内Pは始発の電車で自宅に帰り、身支度を整えて出社した。

 

 どこまでも〝真面目〟なのである。

 

 そしてそれこそが武内Pの誰にも負けない武器であり、佐久間まゆ攻略につながる最後の可能性だと伊華雌は思っている。

 

「ちょっと、大丈夫? ほら、ソファに座って。横になる?」

 

 壁によりかかって脱力していた武内Pを、ちひろが忙しなく介抱する。腕のしたに手を入れてソファに座らせて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、わざわざコップに注ぎ直して――

 

「はい。今はスタミナドリンクより水のほうがいいでしょ?」

 

 武内Pは差し出されたコップを両手で掴み、一気に飲み干した。

 

「もう、ネクタイがずれてるよ。まったく、世話がかかるんだから」

 

 嬉しそうに文句を言いながら、細い指でネクタイを直す。そのネクタイを襟元(えりもと)まで引き上げた瞬間、至近距離で、武内Pと目があって――

 

 きゅっ。

 

 ネクタイを締める音である。

 いや、〝首を締める音〟と言うべきかもしれない。

 ポニーテイルの先で揺れるリボンと同じくらい頬を赤くしたちひろが、ぎりぎりと武内Pのネクタイを締め上げる。

 

「ちょ……千川さ……苦し……」

 

「わぁああっ! 武内君ごめんなさいっ!」

 

 ちひろが慌ててネクタイを緩め、武内Pは失った顔色を取り戻すべく荒い呼吸を繰り返した。

 

「あのっ、二日酔いの薬、とってくるから、ちょっと待っててね!」

 

 ちひろが逃げるように部屋から出ていく。彼女の残り香が消えて、部屋がどうしようもなく色気のない地下室に戻るのを待ってから伊華雌は指摘する――

 

〝……やっぱさ、ちひろさん武ちゃんのこと好きなんだと思うけど〟

 

 しかし武内Pは、一笑(いっしょう)()して退けようとするかのように――

 

「冗談を言っても、今は笑えないです。頭痛が、酷くて……」

 

〝いや、俺は本気で言ってるし、たぶん的中してると思う。だってさっきのやりとり、タイトルつけるなら〝朝のイチャコラ劇場〟だよ? これから毎朝あの調子なの? 朝の連ドラ()わりに二人のイチャコラ劇場見ろってのかよちっくしょぉぉおお――ッ!〟

 

「……マイクさん、あまり大きな声を出さないでください。……頭に響きます」

 

 武内Pは、使い物にならなくなっていた。

 真面目なのは結構だが、これならさすがに休んだほうがいいと思った。

 

 そもそも――

 

 担当アイドルは一人しかいないのだし、そのアイドルは活動休止状態なのだ。無理に出社する必要は無いのだ。

 

 それに――

 

 美嘉と瑞樹の助言をもとにひねりだした〝佐久間まゆ攻略作戦〟を実行するには、武内Pにベストコンディションを整えてもらう必要があるのだ。酒の匂いなんて、させていてはいけないのだ。

 

 こんこん。

 

 ドアのノックに、武内Pは反応しない。伊華雌も注意を払わない。

 ちひろだと思っていたから。

 二日酔いの薬を取りに行ったちひろが戻ってきたのだと思ったから。

 

 しかし――

 

 わざわざノックするだろうか? 武内Pがソファで死にかけていると分かっているのに、わざわざノックするだろうか?

 

 疑問に眉をしかめる感覚を思い出すと同時に、ドアが(ひら)いた――

 

「失礼します」

 

 丁寧な仕草で、入ってきた。

 武内Pの醜態を、もっとも見られたくない少女が。

 

「あのっ、佐久間さん、今日は、学校じゃ……」

 

 慌ててソファから立ち上がり、立ちくらみと頭痛に襲われてたたらを踏む武内Pに、まゆは模範的な笑顔を向けて――

 

「まゆの学校、今日は創立記念日でお休みなんです。だから、皆さんに挨拶をして回るには丁度いいかなって」

 

 挨拶……?

 

 伊華雌の中に込み上げる予感は、その可能性に息を呑むより早く現実のものとなる。

 

「短い間でしたけど、お世話になりました」

 

 まゆが、お辞儀をした。とても綺麗なお辞儀だった。アイドルとしての自分を綺麗に断ち切ろうとするかのような、例えるなら振り下ろされるギロチンの(やいば)が放つ美しさと同じくらい綺麗で容赦の無いお辞儀だった。

 

「失礼します……」

 

 入ってきた時と同じ仕草でまゆは部屋から出ていった。

 

 何がおこったのか、分かってなかった。突然の天変地異を前に呆然と立ち尽くしてしまう人の気持ちが理解できた。

 

〝……武ちゃん。まゆちゃんを追わないと〟

 

 伊華雌のほうが、早かった。

 状況をきちんと理解して、心の底から――

 

 絶望した。

 

 まゆはつまり、最後の判断を下してしまったのだ。手をさしのべて引き上げようとしていたアイドルが、今まさに奈落の底へ落ちて消えようとしている。すぐに彼女は見えなくなって、もう二度と、アイドルに――

 

〝武ちゃん! まゆちゃんを追いかけろッ!〟

 

 マイクであることがもどかしかった。武内Pの背中を押して〝早く行け!〟とどやしつけてやりたかった。

 

「……えっと、佐久間さんは、つまり」

 

 まだ頭が回ってない武内Pに、伊華雌は苛立ちを隠さずに――

 

〝このままじゃ、まゆちゃんアイドルやめちゃうぞ! 引き止めないとッ!〟

 

「アイドル、やめ……」

 

 武内Pの瞳に光が宿った。床を蹴って、走り出した。ドアを勢いよく開けて、危うくちひろを倒しそうになった。

 

「ちょっと武内君! あぶな――」

「すみません、急いでいるのでッ!」

 

 階段をかけ上がり、非常口の扉を抜けて、エレベーターのボタンを押して息を荒げて――

 

「あの……、どこへ行けば……」

 

 まゆは、最後の挨拶と言った。律儀な彼女のことだから、世話になった関係者全員に挨拶するのかもしれない。そうなると、誰のところにいくのか分からない。下手に見当をつけて動くとすれ違いになりかねない。

 

〝玄関で待とう。それが一番確実だ〟

 

 武内Pは頷いて、エレベーターで一階にあがった。広いロビーに、スーツ姿のプロデューサーと変装したアイドル達が行き交っている。ここで見張っていれば、見逃すことはないだろう。

 

「あの、佐久間さんに、何を言えば……」

〝実は、作戦があるんだ。まゆちゃんを、アイドルとして復活させる作戦が〟

「ほんとうですか! それは――」

 

「あら、武内君じゃない」

 

 聞き慣れた声に視線を誘導された。

 

 ――まさか、と思った。

 

 昨日あれだけ飲んだのに、武内Pはそのせいでろくに頭が回らないのに――

 

 その三人は、ガラス張りのロビーに射し込む朝日を背負って笑っていた。

 

「二日酔いで辛そうね。でも、それを顔に出しちゃギルティよ!」

 

 ウインクを決めて笑う片桐早苗は見るからにエネルギッシュだった。

 

「友紀ちゃんはまだ寝ているようです。グロッキーなユッキー、ですね」

 

 高垣楓は平常運転であることを得意の駄洒落(だじゃれ)で証明した。

 

「あの子は〝お酒に飲まれた〟って言うか朝が苦手なだけじゃないかしら。よく寝坊してるし」

 

 川島瑞樹も、そのままアナウンサーとしてニュース番組に出演出来そうなくらい落ち着いていた。

 

 ――格の違いを、見せつけられた。

 

 この三人は、酒を飲むという行為に対する熟練度が、幾多の戦場を潜り抜けた古参兵(こさんへい)の域に達している。新兵である武内Pとは、酒力(しゅりょく)の差が歴然である。

 

「それで、どうしたの? 慌てた顔して」

 

 頼もしいお姉さんの表情で首を傾げる瑞樹に、武内Pは端的な説明をした。まゆが最後の挨拶をしてシンデレラプロジェクトを去ってしまった、と。

 

「……そっか。まゆちゃん、やっぱりやめちゃうのね。残念だけど、仕方ないか……」

 

 瑞樹は、事情を知っていた。

 まゆはファンのためではなくプロデューサーのためにアイドルをやっていた。そのプロデューサーが自分を見てくれなくなったので、モチベーションが無くなってしまった。

 

 そんなまゆを、再びアイドルとして輝かせる方法が、一つだけ存在する。

 

〝武ちゃん。川島さんに頼んで、まゆちゃんと最後にもう一度(はなし)ができるようにセッティングしてもらえないかな? 出来れば、今日じゃなくて、別の日。武ちゃんが最高のコンディションを整えられるように〟

 

 武内Pは、すぐに瑞樹に頼んでくれた。

 

「分かったわ。そういうことなら、協力するわ」

 

 瑞樹の協力により、舞台を整えることが出来た。

 最後にもう一度(はなし)を聞いてくれると、まゆは約束してくれた。

 

 決戦の場所は、渋谷。

 

 そこは、赤羽根Pがまゆをスカウトした場所である。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「……それで、佐久間さんを復活させる作戦とは?」

 

 小綺麗なワンルームマンション。346プロが単身者用に借り上げている社宅で伊華雌と武内Pは向き合っていた。

 

〝まゆちゃんをアイドルとして復活させるには、まゆちゃんに振り向いてもらう必要がある。恋愛的な意味で〟

 

 武内Pは、頷く。机上(きじょう)のマイクスタンドでふんぞりかえる伊華雌を見つめて言葉を待つ。

 

〝そして恋愛に関して、こんな言葉がある。男の恋は、名前をつけて保存。女の恋は、上書き保存〟

 

「……つまり、佐久間さんの中にある赤羽根さんに対する恋心を、自分が上書きする、ということですよね」

 

 そんなことは分かっていると、言わんばかりに武内Pは肩を落とす。まゆを振り向かせてプロデュースするために、城ヶ崎美嘉と川島瑞樹に恋愛の授業をしてもらったのだ。

 そしてその結果――

 

「やっぱり、無理だと思います」

 

 武内Pは、莉嘉&美嘉に選んでもらった派手なシャツを見つめて――

 

「城ヶ崎さんと川島さんに恋愛の授業をしてもらって、それでも自分は、恋愛についてさっぱり分かりません。どうすればいいのか、答えが見つかりません。赤羽根さんのように、佐久間さんを振り向かせることなんて……」

 

 湿っぽいため息をおとす武内Pに、伊華雌は苛立ちを覚える。普段どおりの実力を出せば勝てる相手に、しかし怖気づいて一方的に殴られるボクサーを見るトレーナーの気持ちでため息を落とす。

 

〝落第点だな、武ちゃん。二人の授業で、居眠りでもしてたのか?〟

 

 自分では分からないのかもしれない。

 その人のことを本当に理解できるのは、すぐ近くにいる他人なのかもしれない。

 

〝武ちゃんさあ、居酒屋で言われたじゃん。赤羽根の真似をする必要はないって。自分の個性で勝負しないとダメだって〟

 

「それは、確かに、そんなことを言われたような……」

 

〝じゃあさ、武ちゃんの武器って、何だと思う? 赤羽根に無くて武ちゃんにあるものって、何だと思う?〟

 

「そんなものは、何も……」

 

 武内Pは、眉をハの字にして首の後ろをさわった。

 

 ――この人は、本当に分からないのだろうか?

 

 伊華雌は、もどかしさに苛立ちながら――

 

〝真面目なところだよ。アイドルのプロデュースを、クソ真面目にやってるところだよ!〟

 

「それは、特別なことではありません。真面目に仕事に取り組むことなんて、誰にでも――」

 

〝できるって言うのか? 確かに誰でも真面目になれるかもしれないけど、でも、あんたの真面目は〝普通の真面目〟とはわけが違うんだよ!〟

 

 伊華雌は、部屋の壁に張ってあるニュージェネレーションズのポスターを一瞥(いちべつ)して――

 

〝武ちゃんはさ、卯月ちゃんの笑顔、どう思う?〟

 

 武内Pは、迷わずに――

 

「自分の知る限り、最高の笑顔です」

 

〝じゃあさ、卯月ちゃんがさ、笑顔なんて誰でもできるって、言ったらどう思う?〟

 

 もしかすると、気付けないのかもしれない。自分の持っている特別なものというのは、他人に言われても実感を得ることができなくて否定してしまうのかもしれない。

 

 だから――

 声を大にして――

 

〝武ちゃん。あんたの真面目さは特別な魅力を持っている。島村卯月の笑顔に匹敵するほどの魅力を持っている!〟

 

 武内Pは、愚直なほどに真面目である。

 それはそのまま情熱になる。

 その情熱は、人の心を動かす強さを秘めている。

 

 きっと、佐久間まゆの心だって――

 

「……仮に、自分の真面目さが武器になるとして、具体的には、何をすれば?」

 

 武内Pの目付きが変わっていた。凄腕の狙撃手を思わせる本気の目付きに、伊華雌はニヤリと笑う感覚を思い出しながら――

 

〝プロデューサーがアイドルにする事と言ったら、一つしかないだろ?〟

 

「プロデュース、ですか?」

 

〝しかしまゆちゃんはアイドルを辞めている。もう、プロデュースは必要ない〟

 

 アイドルを辞めて〝普通の女の子〟になった佐久間まゆに対してプロデューサーがするべきこと。

 それは――

 

〝もう一度、まゆちゃんをスカウトするんだ!〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第8話

 

 

 

 穏やかな休日の昼下がり。

 行き交う人々の足が色づいた落ち葉を踏み、その乾いた音に季節を思い出す。

 

 秋の渋谷は、紅葉をむかえた街路樹と、秋の新作ファッションを身につけた人の波で色づいていた。

 

「お待たせしました……」

 

 (せわ)しなく行き交う人の群れから、その少女は現れた。その瞬間、カラフルな洋服を身につけていた通行人は、存在感の乏しいエキストラになりさがった。紅葉の色みを誇っていた街路樹も、ただの背景になりさがった。

 

 ステージを降りてなお、佐久間まゆはアイドルだった。スカウトマンが我を忘れて名刺を差し出すだけの魅力を、曖昧な微笑の奥に秘めていた。

 

「無理を言って呼び出してしまい、申し訳ありません」

 

 武内Pが、礼儀正しく頭をさげる。

 まゆは口元に笑みを浮かべて、店内を見渡して――

 

「……このお店、知っていたんですか?」

 

 そこは、道玄坂にあるオープンカフェだった。その小さなカフェで佐久間まゆはアイドルになった。

 

「ここで赤羽根さんにスカウトされたと、聞きました」

 

 まゆは、ぼんやりと頷いて、どこか遠くを見つめながら――

 

「ここ、まゆのお気に入りのお店なんです。紅茶のいれかたが上手で、ケーキもおいしくて。近くに来ることがあれば必ず寄っていたんです」

 

 あの日は、読者モデルの仕事が予定より早く終わったので、お店を見ながら青山通りを歩いて、足を休めようとお気に入りのカフェに入って、出会った。

 

「混んでいたので、相席いいですかって訊かれたんです。知らない人と相席は嫌だったんで、席を立とうと思ったんですけど――」

 

 出来なかった。

 向けられた笑顔に、心の深い部分が捕まった。言葉で説明することのできない感情が込み上げてきて、知らない男性に対する警戒心を忘れて、相手の目から視線を外せなくなった。

 

「赤羽根さんとまゆは、二人三脚でアイドルをしていたんです。まゆは赤羽根さんを見て、赤羽根さんもまゆを見て。そんな毎日が、ずっと続くと思っていたのに……」

 

 小さなため息が、まゆの話を締めくくった。運ばれてきた紅茶のカップを持ち上げて、上品に匂いをかいで――

 

「……あの時と、同じ匂い」

 

 まゆの視線は、対面に座る武内Pへ向けられている。

 しかしその瞳は、武内Pを見ていない。

 

 彼女の時間は、止まっているのだと思った。

 このカフェで赤羽根Pに声をかけられて、そこから時計の針が動いていないのだ。

 

 ――だから、見えない。

 

 もしかしたらまゆは、一度たりとも、本当の意味で武内Pを〝見て〟いないのかもしれない。

 

 ――だから、動かす。

 

 まゆの時間を、強引に。

 

「佐久間さんのアイドル活動は、このカフェで赤羽根さんにスカウトされて始まりました。ですから――」

 

 武内Pは、自分を見ていないまゆへ、それでも強い視線を向けて――

 

「この場所で、終わりにしましょう」

 

「え……」

 

 ブリーフケースから取り出されたのは契約書だった。

 赤羽根Pと佐久間まゆの契約書を、武内Pの大きな手が掴んで――

 

「最後の意思確認です。佐久間さんは、アイドルをやめて346プロから除籍されることを――」

 

 希望しますか?

 

 焦点のずれていたまゆの瞳に変化があった。契約書を見つめて、自分の筆跡による署名を見つめて、ティーカップを持つ手をかすかに震わせて――

 

「……はい」

 

 まゆの返事を追いかけるように、契約書がやぶかれた。

 赤羽根Pと佐久間まゆの間に結ばれた糸が、切断された。

 

「……、…………」

 

 まゆは、引き裂かれた契約書を見下ろしていた。まるで四肢(しし)を切断された人のように、怯えの混じった瞳でそれを凝視して、大きく喉を動かして生唾を飲み込んだ。

 

「……これで、終わりなんですね」

 

 憑き物が落ちたような表情(かお)だった。カフェに入ってきた時と、同じ人物とは思えなかった。どこか遠くをみるような表情は消えて、霧の晴れた瞳はしかし、輝きを失っていた。

 

「……じゃあ、まゆは、これで」

 

 立ち上がり、背を向けるまゆ。雑踏の中に消えようとする彼女の、その肩をつかんで振り向かせようとするかのように――

 

「あのッ!」

 

 動きをとめて、振り向いたまゆに、差し出す――

 

「アイドルに興味、ありませんか……ッ!」

 

 〝武内〟の名前が刻まれた名刺を差し出して、まゆの瞳を睨み付けて――

 

「自分は、資料室に残されている佐久間さんに関する資料全てに目を通しました。全てのファンレターに目を通しました。その上で、断言させていただきたい」

 

 まゆの視線が、ゆっくりと移動する。

 武内Pとまゆの視線が、初めてきちんと――

 

「あなたは、アイドルになるべき人だ! あなたを、アイドルとしてプロデュースしたいッ!」

 

 空っぽだったまゆの瞳に、真面目だけが取り柄の、でも、真面目さなら誰にも負けない、情熱の固まりのようなプロデューサーが――

 

「自分に、佐久間さんをプロデュースさせてくださいッ!」

 

 止まっていた時間が動き出すように――

 心肺停止状態にあった人間が息を吹き返すように――

 

 佐久間まゆは、その大きな瞳の焦点を――

 

「……はい」

 

 名刺を受け取ったまゆの瞳には、もはや武内Pしかうつっていない。よそよそしい笑顔は消えて、ただひたすらに武内Pを見つめている。

 

〝よぉぉっしゃぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌(いけめん)のそれは、さながら勝利の雄叫びだった。喜びと安堵。二つの感情が入り乱れて、どこまでも膨張して、雄叫びとして放出しないと体が爆発してしまいそうだった。

 

 ――佐久間まゆをアイドルの世界に繋ぎ止めることができた。

 

 それが何よりも嬉しくて、伊華雌はひたすらに叫び続けた。

 

「あらためて、契約書を作りましょう」

 

 武内Pが、ブリーフケースから白紙の契約書を取り出した。

 まゆは、武内Pをじっと見つめて――

 

「武内プロデューサーさんは、とても、真面目な方ですね」

 

 契約書に走らせていたペンの動きをとめて、武内Pはかすかに首をかしげる。

 

「とても、お仕事に熱心なんだなって、思ったんです。とても、情熱的で……。だからきっと、まゆのことも、真面目に、情熱的に……」

 

 武内Pが赤羽根Pに勝てるとしたら〝真面目さ〟しかないと思った。

 そして、彼の〝真面目さから生まれる情熱〟は、人の心を動かすほどの熱量をもっている。カリスマJK城ヶ崎美嘉を説き伏せて協力させてしまうほどの熱意を持っている。野球選手ならホームランを狙える強力な武器である。

 

「では、こちらに署名を」

 

 武内Pが、契約書とペンをまゆの方へ滑らせた。

 まゆは契約書を引き寄せて、しかしペンは武内Pのほうへ戻した。

 

「これは、二人の契約書。絶対に(たが)えることは許されない、運命の契約書……」

 

 まゆは、自分のバッグからペンを取り出した。

 赤いペンで、佐久間まゆの名前を書いた。

 

「これで、まゆはプロデューサーさんのアイドルです。ずっと、まゆのことを見ていてくださいね……。ずっと、ずっと……」

 

 今までの笑顔とは、明らかに質が異なっていた。その瞳から、口元から、指先から、何かがほとばしっていた。それを〝愛情〟の一言で済ませてしまうのは致命的な間違いであるような気がした。これは、もっと別の、扱いを間違えれば死にいたる劇薬のような――

 

「これから、よろしくお願いします」

 

 得体のしれない恐怖に戸惑う伊華雌をよそに、武内Pは嬉しそうに契約書を受け取っていた。その横顔に、何らかの恐怖を感じている様子はなかった。ただひたすら、何かをやり遂げた人の笑みを輝かせている。

 

 そういえば――

 

 武内Pは〝フラグクラッシャー〟だったなと思い出した。ちひろが丁寧に立てたフラグを無造作にヘシ折っていた。

 

 だから、もしかしたら、気付いてないのかもしれない。

 まゆの視線が、その深すぎる愛情によって〝()み〟をはらんでいることに……。

 

 ――これは、黙っておこう。

 

 人間、知らないほうがよいこともある、――という格言を胸に伊華雌は二人の様子を黙して見守ろうと思った。

 

「まゆ、ソロがいいです。誰にも邪魔されずに、プロデューサーさんと二人で活動したいです……」

 

 じいっと、武内Pを見つめるまゆ。

 

「分かりました。では、ハッピープリンセスには復帰せず、当面はソロ活動をする方向で」

 

 武内Pは、真剣な顔で手帳にペンを走らせる。

 

「プロデューサーさんの希望があれば、受け入れますよ。まゆは、プロデューサーさんの望むまゆになってみせますから……」

 

 机に身を乗り出したまゆが、至近距離から武内Pをじっと見つめる。

 

「取りあえずソロで活動してみて、それから一緒に方向性を考えましょう」

 

 武内Pは考えることに集中しているのか、手帳を睨んで沈黙している。

 

 武内Pを見つめるまゆ。手帳を見つめる武内P。

 

「……、…………」

 

 まゆの口から、不満げな吐息がこぼれた。じいっと見つめる視線が少し怖かった。自分を見ないで手帳を見ている武内Pに対する不満が膨らんで、病みに飲まれた愛情が暴走してその赤いペンで武内Pを――

 

〝武ちゃん! まゆちゃんに担当プロデューサーの所信表明(しょしんひょうめい)的なやつ、してやってッ!〟

 

 たまらず伊華雌は声を上げた。黙っていたら武内Pの胸に新しいトラウマが赤いペンの物理攻撃によって刻まれてしまうような気がした。

 

 そんな伊華雌の危機感などつゆしらず、武内Pは首の後ろをさわりながら――

 

「あの、佐久間さん」

 

 まゆが、ほのかに笑みを作る。しかしその視線があまりに強くて、予備動作なしの凶行に及ぶような気がして伊華雌は気を抜くことができない。

 

「自分のスカウトを受けてくれて、ありがとうございます。自分は、正直、赤羽根さんのように優秀ではないのですが、でも――」

 

 武内Pは、向けられるまゆの視線を、真っ直ぐに受け止めて――

 

「必ず、佐久間さんのことを幸せにしてみせます」

 

 ……は?

 

 ちょっと待って何言ってんのこの人! プロデューサーの所信表明(しょしんひょうめい)としてその台詞はおかしくないか? いや絶対おかしい! なんでプロポーズしてんだよ! あんたがするのはプロデュースだよッ!

 

「まゆを、幸せに……」

 

 まゆちゃんのリアクションもおかしいから! プロポーズやなくてプロデュースせんかい! って突っ込みを入れるところだから! 目をハートにする場面じゃないからぁぁああ――ッ!

 

 伊華雌には、早口で突っ込みを入れることしか出来なかった。

 

 ――ヤンデレな少女と天然なプロデューサー。

 

 まゆと武内Pは、赤いリボンで結ばれて、二人三脚でアイドルの世界に挑戦する。

 

 佐久間まゆのソロ活動が正式に決まったのは翌日のことであり、それは一つの快挙だった。

 まさか、シンデレラプロジェクトに所属するアイドルがステージに上がる日がくるなんて、346プロの誰もが予想してなかった。

 

 ただ一人、シンデレラプロジェクトの発案者である美城常務をのぞいて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第9話

 

 

 

 恋する乙女は美しい、という言葉がある。

 

 詩人の戯言(たわごと)だろうと一笑(いっしょう)()して退けてしまいたいところであるが、しかし科学的根拠があるらしい。誰かを好きになることでホルモンがうんたらかんたら。難しい話は志希にゃんに任せるとして、とにかく、女性は誰かを好きになることによって綺麗になるのだ。

 

 ――そう、佐久間まゆのように。

 

 佐久間まゆの魅力は、恋する乙女の美しさである。彼女は誰かを愛することで、ただの美少女から〝数万のファンを魅了するアイドル〟へ変貌する。

 

 彼女がアイドルでいるためには、誰かを愛する必要がある。

 誰かを愛せなくなってしまうと、魔法を失い灰かぶりに戻ってしまう。

 

 ――赤羽根Pの時が、そうだった。

 

 最初こそ自分を見てくれていた赤羽根Pが、だんだんと離れていく。彼の視線は他のアイドルへ向けられて、まゆの恋心は冷めてしまう。レッスンに熱が入らなくなり、ステージで失敗してしまう。ハッピープリンセスのメンバーがフォローしてくれたが、彼女達ではまゆを励ますことは出来ても、再び魔法をかけることは出来ない。

 まゆに魔法をかけることができるのは――

 

 赤羽根P。

 

 唯一まゆをスカウトしたプロデューサーだけが、彼女を復活させる魔法を持っていた。しかし赤羽根Pはそれに気付かない。佐久間まゆにアイドルの資質は無かったのだと、優しい笑みで切り捨てた。

 

「みなさん。今日は、まゆのために、ありがとうございます」

 

 ステージの上でまゆが手を振った。引退が(あや)ぶまれたまゆのライブである。復活のエブリディドリームである。まゆのファンは、腕を引きちぎらんばかりに赤いサイリウムを振っている。

 

「まゆは、元気ですっ!」

 

 わあっと、歓声が弾ける。それを笑顔で受けとって、手を振りながらステージを降りる。そして、舞台裏でまゆを見守っていた武内Pの元へ――

 

「まゆ、調子を取り戻したみたいだな」

 

 声をかけたのは、武内Pではなかった。

 赤羽根Pが、優しげな笑みを向けていた。

 

「これなら、ハッピープリンセスに戻ってもらいたいくらいだ」

 

 その笑顔が、誘っていた。うちに戻ってこないかと。シンデレラプロジェクトよりも将来有望なプロジェクトクローネへ。

 

〝武ちゃん、いいのかよ! あいつ、まゆちゃんを横取りするつもりだぞッ!〟

 

 騒ぎ立てる伊華雌(いけめん)に、武内Pは反応しない。そんなことをするはずはないと赤羽根Pを信じているのか? それともまゆを信じているのか? 黙して様子を見守っている。

 

「……ごめんなさい」

 

 まゆが、綺麗なお辞儀をした。どこか見覚えのある仕草だった。

 

「まゆ、今は、武内プロデューサーさんのアイドルですから……」

 

 その微笑みに、思い出す。

 初めてまゆと対面したとき。346プロ本社ビルのカフェで、まゆは同じ仕草を武内Pへ向けていた。よそよそしい笑顔と、綺麗なお辞儀。

 

「あぁ、うん、そうだな……」

 

 赤羽根Pは、深追いをしない。まゆの仕草から心変わりをさとったのか、イケメンの見本みたいな笑顔でまゆを見送った。

 しかしまゆは、赤羽根Pを見ていない。

 

 まゆはひたすらに、武内Pを見つめて――

 

「まゆのステージ、どうでしたか? ちゃんと、見てくれましたよね……」

 

 武内Pは、真剣な顔で――

 

「とても、良かったです。最高のライブでした」

 

 するとまゆは、見つめる視線にこれでもかと露骨な愛情を詰め込んで――

 

「うれしいっ! まゆ、プロデューサーさんのために頑張ったんです……」

 

 二人のやりとりは甘かった。甘々だった。過大なまゆの愛情に、しかし武内Pは気付いていないというすれ違いなイチャコラであるが、それでも充分甘かった。

 

 そんな甘いやりとりを、許せぬ女がここに一人。

 

 ――千川ちひろ。

 

 まゆが来てから彼女は機嫌が悪かった。堂々と武内Pに甘えるまゆを目撃しては、ヤフオクで競り負けて悶絶する人のような顔をしていた。自分のやり方がいかに生ぬるかったか反省して後悔している、ように見えた。千川ちひろの中で何かの封印が解かれつつある、ような気がした。

 

 ――それはしかし、伊華雌の気のせいではなかった。

 

 彼女を自制していた封印は、間もなく崩壊することになる……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 それは、ライブ翌日のことだった。

 

「まゆ、ご褒美がほしいです……」

 

 シンデレラプロジェクトの地下室。武内Pと二人っきりの密室でまゆが切り出した。

 

「ご褒美、ですか……?」

「はい」

 

 首の後ろをさわる武内Pへ、まゆは自分の頭を差し出した。

 何をすればいいのか、さすがに分かるだろうと思って何も言わなかったが、武内Pは困った顔で伊華雌を見て助けを求めた。

 

()でるのだ……。心を無にして、撫でるのだ……ッ!〟

 

 武内Pは、恐るおそるといった手つきでまゆの頭に手をのせた。

 

「あっ……」

 

 武内Pのごつい指が、まゆの髪をかきわける。柔らかくさらさらと逃げる髪の毛を優しく撫でられて、まゆはうっとりと――

 

「プロデューサーさんの……、とても太くて……、硬くて……、男らしくて……」

 

 伊華雌だけが、気付いていた。うわー、まゆちゃんの台詞なんかエロいなー。R18に脳内変換余裕だなー。あの人に聞かれたら誤解をとくのが大変だなー。

 

 ――そして、あの人に聞かれていた。

 

 気配を察してドアの前で踏みとどまり、聞き耳を立てていたのだろう。

 事件現場に踏み込む機動隊の剣幕で、バコンとドアを開け放って――

 

「ちょっと! 何をやっやっやッ!」

 

 バサバサと足元に書類を撒き散らしながら踏みこんできた千川ちひろは、〝プロデューサーがアイドルの頭を撫でている〟という健全な光景に絶句した。

 

「えっと、その……」

 

 ちひろの中にどんな想定があったのか、正確なところは分からないが、爆発しそうなくらい頬を赤くして書類を拾うその姿に伊華雌は同情した。

 勘違いするのも仕方ないと思った。

 伊華雌も、まゆの台詞に興奮したから。体の一部が熱くなる感覚を思い出してしまったから!

 

「じゃあ、まゆはグラビアのお仕事に行ってきます」

 

 まゆは何事も無かったかのように戸口へ向かい、プロデューサーを振り返り、頭をさわって――

 

「プロデューサーさんのおかげで、まゆ、もっと頑張れそうですっ」

 

 武内Pは、口元に笑みを作ってまゆを見送る。

 

 それを控え目な笑顔と見る人もいる。

 シャイな笑顔と見る人もいる。

 

 そして――

 

 鼻の下をのばしていると判断して断罪するちひろも――

 

「……武内君。さっき、まゆちゃんと何をしてたの?」

 

 拾い集めた書類を机の上でトントンしながら、しかしちひろは笑顔だった。

 その笑顔は、しかし引きつっていた……。

 

「えっと、その……、ライブで頑張ったご褒美が欲しい、と言われたので」

「うんうん」

「頭を、撫でました」

「そっかー。ライブで頑張ると、武内君に頭を撫でてもらえるんだ」

「いえ、そういうわけでは……」

 

 ばさっ。

 

 書類が、机の上に舞った。

 ポニーテイルが躍動して、その頭が武内Pの前に差し出された。

 

「……私もっ、ライブの手伝い、頑張ったんだけどッ!」

 

 武内Pは、目を見開いて、動かない。

 後にひけない千川ちひろも、頭をさげたまま動かない。

 

 時計の針が淡々と時間の流れを告げる地下室で、一秒を永遠に感じる気まずい沈黙が流れる。その重苦しい空気に耐えられない伊華雌は――

 

〝武ちゃん、撫でておやりなさい……〟

 

 武内Pは、恐るおそる手を伸ばし、ちひろの頭を――

 

「ひゃっ……」

 

 ポニーテイルに結ばれたリボンが跳ねた。荒い呼吸に上下していた緑色の制服が、やがて落ち着きを取り戻し――

 

「武内君の指って、結構ごつごつしてるんだねっ」

 

 顔をあげたちひろは満開スマイルだった。すっかり上機嫌だった。撫でるだけで女の子を笑顔にしてしまうとか、武内Pの右手はどうなっているのか。とりあえず〝ゴッドハンド〟と呼んでおこうと伊華雌は思った。

 

 その時、電話が鳴った。

 

「はぁーい」

 

 ゴッドハンドの効力でご機嫌なちひろが電話をとった。その笑顔は、しかし徐々に曇っていく。

 

「……分かりました。シンデレラプロジェクトでお預かりいたします」

 

 新しい担当が決まったのだと思った。言い換えれば脱落者が出てしまったわけであり、その名前を聞かされることに伊華雌はやはり抵抗を覚える。

 

「第三芸能課の米内(よない)さんからでした」

 

 ちひろは、衝撃を最小限に抑えようとするかのように、たっぷりと間をあけてから――

 

「市原仁奈さんがシンデレラプロジェクトの所属になります」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 〝佐久間まゆ編〟終了になります。お付き合いいただき、まことにありがとうございますっ!

 次回から〝市原仁奈編〟に突入します。市原家の(やみ)(せま)ります。やみのま!

 なお、U149のプロデューサー(チビP)ですが、米内佑希様が担当声優として配役されましたので、アイマスの伝統に従いまして〝米内(よない)P〟とさせていただきます。ご承知のほどよろしくお願いいたします。














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 第2章 ― 市原仁奈を再プロデュース ―
 第1話


 

 

 

 市原仁奈は9歳のキッズアイドルである。〝子供〟といって差し支えのない彼女を迎えるにあたり武内Pは渋い顔をした。

 

 ――子供は、自分が苦手なんです。

 

 わかりづらい言い回しだが、つまり武内Pは〝市原仁奈に怖がられてしまうこと〟を恐れていた。

 たしかに、強面(こわもて)である。

 外見だけで〝恐い人〟と判断されてしまうかもしれない。

 

「自分は子供が好きなのに、手を振ると逃げていくんです。笑いかけると、泣き出してしまうんです……」

〝武ちゃん、涙ふけよ……〝

 

 伊華雌(いけめん)は、もちろん武内Pの気持ちに共感を覚えた。伊華雌も人間だった頃は、自分と子供の間に巨大な溝を感じて途方にくれたものである。

 

 女子の場合、伊華雌が笑いかけると喉の奥から悲鳴をもらし、防犯ブザーに手をかけた。

 

 ――そして迷わず起動した。

 

 おかげで伊華雌は防犯ブザーの種類に詳しくなってしまった。上位機種は警備会社と連動しており、ブザー発動と同時に警備会社の人間がスクーターでやってくる。ゴリラの擬人化に挑戦しました――みたいな感じのガチムチ警備員が鬼の形相(ぎょうそう)でやってくる。鳴り響く防犯ブザーの音をBGMに必死の逃走劇を繰り広げたあの日のことは今も忘れない。

 

 そして男子は、さらに厄介な相手だった。

 

 強面な武内Pと違い伊華雌はただ不細工なだけである。そこに〝恐怖〟という抑止力は存在せず、だから男子は面白がって襲ってきた。勝手に討伐クエストの対象にされて、モンスターハンターを気取るクソガキに追い回された。ガンランス使いを気取るクソガキの放った竜撃砲(りゅうげきほう)(右手に装備した三角コーンによる打突(だとつ))によってア○ル拡張された痛みは今も忘れない。

 

〝武ちゃん、全力を尽くそう。俺達の最高のおもてなしで仁奈ちゃんを笑顔にしてやろう!〝

「そうですね、最善を尽くしましょう!」

 

 かくして伊華雌と武内Pによる〝市原仁奈おもてなし大作戦〟が発動する。地下室特有の不気味な雰囲気を軽減すべくカラフルな壁紙を貼り付けた。保育園の部屋をめざし、動物の絵を随所にちりばめ、可愛らしいヌイグルミを設置した。

 

 そして当日――

 

 武内Pはネクタイの代わりに蝶ネクタイをしめて、最後の仕上げとばかりに佐久間まゆを配置した。武内Pの強面をまゆの可愛さで相殺(そうさい)する狙いである。

 

〝……完璧だぜ、武ちゃん。これならどんな子供だって一発で笑顔になるぜ!〝

「ええ。自分も、いけると思います!」

 

「プロデューサーさん、誰と話してるんですか……?」

 

 迂闊(うかつ)な会話を後悔するも、もう遅い。女の子らしく膝をそろえてソファに座った佐久間まゆが、上目遣いに武内Pを見つめている。かしげた首に、本気の不信感があらわれている。

 

「えっ……と、その……」

〝自分はいけてますか? って言ってごまかせ!〝

 

 武内Pは伊華雌のいう通りにした。

 するとまゆは、立ち上がって――

 

「蝶ネクタイ姿も、素敵ですよ。仁奈ちゃんのために頑張ってる姿も、素敵です。ただ――」

 

 こつ、こつ、こつ。

 

 地下室に乾いた足音が響いた。まゆの細い指が、武内Pの蝶ネクタイをつかんだ。

 

「ちょっとだけ、仁奈ちゃんがうらやましいなって……」

 

 優しく、蝶ネクタイを撫でる。その形を整えると、まゆは武内Pから一瞬も目を離すことなく〝じっ……〟と見つめて、微かな吐息に合わせ口だけで笑みをつくった。

 

 武内Pは呆然と立ち尽くしている。

 伊華雌も何を言っていいのか分からない。

 

「ふふっ、まゆは悪い子ですね。プロデューサーさんが困っているのに、まゆは……」

 

 階段をおりる足音が、まゆの作り出した空気を吹き飛ばした。

 何色? と訊かれたら迷わず〝ピンク!〟と叫びたくなる甘い空気は換気扇に吸い込まれて、一緒に〝()み〟も吸い込まれて、良い子な佐久間まゆが残った。彼女はソファに戻ると、模範的な笑みを浮かべて来客に備えた。

 

「みなさーん、お待たせしましたー! シンデレラプロジェクトの、新しいお友達ですよー」

 

 まるで保母さんのように振舞うちひろが連れてきた。

 袖を引く手に不安をみせて。

 涙ぐむ目に幼さを残し。

 

「よっ、よろしくおねげーするですよ……」

 

 市原仁奈が、ぺこりと頭をさげてウサギパーカーの耳を垂らした。

 

「上手に挨拶できましたね。ぱちぱちぱちー」

 

 保母さんモードのちひろが大袈裟に手を叩き、お前らも拍手しろと言わんばかりの目配せを武内Pとまゆに送る。仁奈のために必死になっているお姉さんなちひろを見て、伊華雌は反射的に思ってしまう。

 

 ――俺も甘やかしてもらいてぇぇええ――ッ!

 

 そして、今にも泣き出しそうな市原仁奈の純粋な瞳に貫かれ、己の薄汚い欲望を反省する。

 

 ――ってか、何で仁奈ちゃん泣きそうなんだ? 保育園のようにファンシーな部屋で、ちひろお姉さんが手を繋いでくれて、ソファーには愛くるしいまゆお姉さんがいて、正面には――

 

 殺し屋みたいな武内P。

 

 彼も、緊張していたのだろう。

 怖がられないだろうか? 泣かれないだろうか?

 そんな不安が緊張になって、ただでさえ恐い顔面が強張って、その結果(すご)みが増して――

 

 殺し屋が誕生した。

 

〝たっ、武ちゃん! すっげえ怖い顔してるよ! もっと笑って!〝 

 

 武内Pは、笑った。

 その笑顔は、ある意味では最高の笑顔だった。

 もし自分が仁侠(にんきょう)映画の監督であれば絶賛していた。

 それはまさに、獲物を見つけた殺し屋の冷笑(れいしょう)だったから……。

 

「ふぇっ……」

 

 涙の軍隊を出動させた仁奈がちひろのお尻に隠れた。ぺったりとちひろのお尻に張りついて泣きはじめた。タイトスカートをむっちりと圧迫する魅力的なお尻に!

 

 ――仁奈ちゃん、ちょっと俺と代わろうか?

 

 一瞬でもそんなことを考えてしまった伊華雌は己の欲望に嫌気がさして一緒に泣きたくなった。

 

「えっと、その、どうしたら……」

 

 首の後ろを触る武内Pも泣きそうだった。

 必死になだめるちひろの声は、しかし仁奈に届かなくて、まゆは困った顔で首をかしげている。

 

 シンデレラプロジェクトは全滅だった。

 誰も仁奈の涙をとめることが出来なかった。

 

 それを成し遂げたのは――

 

「仁奈ちゃん!」

 

 か細く、しかし強い意思を秘めた声。その声色(こわいろ)は仁奈の泣き顔を笑顔にする。

 

 ――佐々木千枝。

 

 リトルマーチングバンドガールズのリーダーが、黒い瞳を光らせて――

 

「仁奈ちゃんに何をしたんですか!」

 

 怒っている。か細い声が怒りに震えている。記憶の中ではいつも優しげな笑みを浮かべているはずの千枝が、震える怒りに唇を引き結んで武内Pを睨んでいる。

 

「そこのロリコンに何かされたに決まってるわ。だって見るからにロリコンだもん!」

 

 後方から強烈な援護射撃をぶちこんできたのは――

 

 ――的場梨沙。

 

 その横には結城晴がいて、龍崎薫がいて、赤城みりあが、古賀小春が――

 

 統率(とうそつ)のとれた軍隊のように隊列を組んだリトルマーチングバンドガールズが、一斉に武内Pを攻撃する。

 

「仁奈ちゃんをいじめるなー!」

「そうだそうだーっ!」

「ロリコンもいい加減にしないと小春のトカゲをけしかけるわよ!」

「ヒョウくんはトカゲじゃなくてイグアナですぅ~」

「どっちも似たようなもんでしょ! ほら、けしかけて!」

 

 小春が、肩に乗せていたイグアナを両手で持って、武内Pのほうへ向けた。

 

 ――効果は絶大だった。

 

 どうやら武内Pは幽霊と同じく爬虫類も苦手なようで、イグアナのヒョウくんに睨まれるなり顔を青くして後ずさった。

 

「いいわよ小春、その調子よ!」

「いけいけーっ!」

「やっつけちゃえーっ!」

 

 LMBGの歓声を背に受けて小春が前進する。両手にヒョウくんを抱き抱えて、眉を強めて武内Pを追い詰める。

 

 武内Pのライフは完全にゼロだった。

 

 仁奈に泣かれて、千枝に睨まれて、梨沙にロリコン扱いされて。その時点でオーバーキルされているのに、死体蹴りとばかりにヒョウくんをけしかけられた。

 

 ――お前ら、やりすぎだから! いい加減にしないと武ちゃん泣いちゃうからッ!

 

 かばいたくてもマイクの伊華雌は何もできない。ヒョウくんの眼圧(がんあつ)に怯む武内Pを見守り励ますことしかできない。

 イグアナの迫力に気圧(けお)されて顔面蒼白(がんめんそうはく)な武内Pを救ったのは――

 

「皆さん、ちょっと待ってください!」

 

 階段からおりてきた声は、知性とあどけなさを含んでいる。

 

「その人は、悪い人じゃありませんの」

 

 続く声は、気品とあどけなさを含んでいる。

 

 ――橘ありすと櫻井桃華。

 

 その後ろにいる人物をみるなり、第三芸能課のキッズアイドル達は口をそろえて――

 

「プロデューサー!」

 

 そのプロデューサーは、まるでスーツが似合っていない。その原因は――

 

 身長。

 

 子供達とあまり目線の変わらないプロデューサ――米内(よない)Pは、キッズアイドルを見回して、勢いよく手のひらを合わせてパチンと音を出した。

 

「ごめんっ! ちょっとごたごたしてて伝達がおくれた! 市原さんは、シンデレラプロジェクトに異動になったんだ!」

 

 つまり、子供達の早とちりだった。

 ちひろに連れ去られる仁奈を目撃した千枝が、他のメンバーに相談した。他の部署に聞き込みをかけてきたみりあが、ちひろはシンデレラプロジェクトの事務員であると報告する。

 

 シンデレラプロジェクトの悪評は、子供達の間にも定着していた。

 それこそ、昔話に出てくる地獄のような恐ろしい場所だと噂されていた。

 

 ――助けに、いきましょう。

 

 震える足を前に出したのは千枝だった。リーダーの勇気がLMBGのメンバーを奮い立たせた。

 

 ちょっと待ってください。まずはプロデューサーに事情を確認して――

 

 ありすの制止は無意味だった。ライブ直前を思わせる緊張と興奮に支配された子供達が、地獄へ向かって行進を始めてしまった。恐怖の地下室へ続く階段を降りていくと、恐ろしい地下室から仁奈の泣き声が聞こえてきた。鬼みたいに巨大な男性が首の後ろを触っていた。

 考えるより先に、声が出た――

 

 ――仁奈ちゃんに何をしたんですか!

 

 つまり、子供達の早とちりだった。

 仁奈が悪者に(さら)われたのだと心配した子供達が、なけなしの勇気を振り絞って武内Pをフルボッコにしたのだった。

 

「……あの、誤解して、ごめんなさい」

 

 千枝が、深く頭をさげた。他のメンバーも、頭を下げた。

 

「あの、お詫びにペロペロしましょうか?」

 

 古賀小春の発言に伊華雌は耳を疑った。

 

 お詫びにペロペロって、いや、だめでしょ! そんな成人向け漫画的発言をロリなあなたがしちゃうとか、ありがとうござ――じゃなくてダメでしょッ!

 イエス、ロリータ! ノー、ペロペロッ!

 

 伊華雌の卑猥な想像を、しかし小春は覆す。

 彼女はイグアナの頭を武内Pの方へ向けて――

 

「ヒョウくんぺろぺろ~」

 

 先の割れた爬虫類の舌が出入りした。

 武内Pは失神寸前の乙女みたいにふらついた。

 じっと見上げてくるヒョウくんの視線を遮ったのは的場梨沙だった。

 

「あんたそれご褒美でも何でもないわよ。いいからそのトカゲひっこめて」

「トカゲじゃなくてイグアナなのに~」

 

 小春が後ろにさがった。ヒョウくんの鋭い視線から解放された武内Pは、乱れていた呼吸を整え、乱れていたスーツも整え、改めて第三芸能課のキッズアイドル達を見据えて――

 

「シンデレラプロジェクトの武内です。市原さんは、自分が責任をもって担当しますので、ご安心くださ――」

 

「えー、なんでーっ!」

 

 龍崎薫が手をあげて主張する――

 

「仁奈ちゃん、かおる達と一緒じゃだめなの? 何で、シンデレラプロジェクトのせんせーのところへいっちゃうの!」

 

 不満顔の薫は、どうやら他のメンバーの気持ちを代弁したようで、武内Pを見上げるキッズアイドル達はみんな同じような顔をしていた。

 

 ただ一人、仁奈だけは力なくうつむいて――

 

「きっと、仁奈のせいでごぜーます。仁奈がライブで、笑顔になれねーから……」

 

「そんなことっ」

 

 千枝がかぶりを振りながら近づく。仁奈の小さな肩を掴んで、ちょっと調子が悪かっただけ、次はきっとうまくいくからと、励ましの言葉で仁奈の笑顔を取り戻そうとする。他のメンバーも仁奈を囲んで励ますが――

 

 実際、仁奈の言葉が正解だった。

 彼女は、LMBGのライブで失敗を繰り返し、美城常務から戦力外通告を突きつけられていた。

 

「あー、みんな、ちょっと聞いてくれ!」

 

 米内Pが咳払いをした。集めた視線を、和らげようとするかのようにわざとらしく笑って――

 

「実のところ、市原さんの言う通りなんだ。ほら、市原さん、最近のライブで調子悪いだろ? だから――」

 

「じゃあ!」

 

 千枝の声は、複雑な感情をはらんでいる。その細い声に、焦燥(しょうそう)と苛立ちと、そして何よりもリーダーとしての責任感を含ませて――

 

「千枝が、もっと頑張りますから! 次のライブでは上手くできるように、千枝が……」

 

 生の感情をぶつけられて、しかし米内Pは表情を変えない。子供の扱いに()けた保父(ほふ)さんのように優しげな笑みを崩さずに――

 

「まあ、最後まで話を聞いてくれ。別に、佐々木さんがどうこうってわけじゃないから」

「でも、千枝は、リーダーだから……」

「それを言うなら俺は担当プロデューサーだぞ? 誰かに責任があるってんなら、俺の責任になるだろ?」

 

「そうですね、その通りです」

 

 研ぎ澄まされたナイフのような言葉が米内Pを貫いた。千枝の後ろから現れたのは、タブレット端末を片手に持った――

 

 橘ありす。

 

「どうして仁奈さんが悪名高いシンデレラプロジェクトにいかなくてはならないのか、納得のいく説明をお願いします」

 

 言葉遣いは丁寧だが、その内容は辛辣だった。シンデレラプロジェクトを当たり前のようにこきおろされて、伊華雌は涙目になる感覚を思い出した。

 見ると、武内Pも悲しそうに目を細めている。

 

 しかし米内Pは笑みを崩さない。橘ありすの無遠慮(ぶえんりょ)な言葉に屈するどころか、好戦的に眉を強めて――

 

「橘さんはシンデレラプロジェクトについて誤解してるな。得意のネットで間違った情報を仕入れちゃったんじゃないかな?」

 

「なっ!」

 

 ありすの無表情が崩れた。彼女は右手に抱えたタブレット端末を握りしめて――

 

「間違ってません! シンデレラプロジェクトは、二度と戻ってこれないアイドルの墓場だって、みんな言ってます!」

「みんなって?」

「み、みんなはみんなです! あの、赤城さんとか……」

 

 ありすが援護射撃を求めた。

 みりあは熱心に頷いて――

 

「あのねー、みんな言ってたんだよ。みくちゃんとか、李衣菜ちゃんとか、杏ちゃんとか。杏ちゃんは、むしろ行きたいっていってたよ。引退に一番近い部署だって」

 

 ありすの口が、双葉杏を彷彿(ほうふつ)とさせるドヤ顔をつくる。裁判で有利な証言を足がかりにまくしたてる弁護士のように――

 

「ほら! 根拠のある情報なんです。シンデレラプロジェクトに対する悪評は!」

 

 フンスと鼻息を荒げるありすに、米内Pが説明する。シンデレラプロジェクトは、調子の悪いアイドルを復活させる病院のような部署であると。

 

「……じゃあ、仁奈ちゃんは、戻ってくるんですよね?」

 

 千枝の視線を受け取った米内Pは、それを武内Pへ渡すように――

 

「――と、聞かれているけど、どうかな?」

 

 子供達の視線が武内Pへ集中する。不審者扱いされた時のそれとは違う、子供特有の〝純粋な期待を込めた視線〟を受け取って、武内Pは決意表明とばかりに――

 

「市原さんは、必ずリトルマーチングバンドガールズに復帰させてみせます!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第2話

 

 

 

 346プロ社内カフェ〝メルヘンチェンジ〟。

 コーヒーの香りとアイドルの笑い声とウサミンコールが混ざりあうカフェで二人のプロデューサーが向かい合っていた。

 

 武内Pと米内(よない)P。

 

 正反対な二人だった。

 長身で老け顔の武内Pに対し、米内Pは低身長で童顔だった。足して2で割れば丁度良いんだろうなと伊華雌(いけめん)は思った。

 

「こうして話すのは久し振りだな、武内君。新入社員研修以来かな?」

「えぇ。ご無沙汰してます」

 

 武内Pが丁寧に頭を下げると、米内Pは変化の無い故郷を懐かしむような笑顔で――

 

「俺は大卒入社で歳上だけど、同期なんだから普通に話してくれればいいのに」

「いえ、あの……、これが自分の〝普通〟なんです」

「そうなのか? まあ、武内君が楽なようにしてくれればいいよ」

 

 振る舞いだけ見れば確かに米内Pが歳上である。大人の余裕というか、落ち着きというか、そんな雰囲気をもっている。

 

 しかし――

 

 その振る舞いが、恐ろしいくらい人物と一致していない。どうにかするとスーツを着た中学生に見えてしまう米内Pが、どうにかするとアラサーに見えてしまう武内Pに先輩風をふかせている光景とか違和感しかない。

 

「それで、市原さんのことなんだけど……」

 

 仕事の話に入ると同時に米内Pは真剣な顔になった。米内Pはよく笑う人なので〝仕事モード〟に切り替わった瞬間がよくわかる。

 

「これは、最近のライブなんだけど……」

 

 取り出したタブレット端末の画面にリトルマーチングバンドガールズが出現する。舞台裏から撮影したであろう映像の中に、映っていた。

 

 ――笑顔どころか、泣きそうな顔の市原仁奈が。

 

「ここまで露骨だと、まあ、ファンも気にしちゃってさ。ネットで勝手に考察されて困ってるんだ。市原さんはいじめられてて、それで笑顔になれないんじゃないか、とか……」

 

 呆れと苛立ち。二つの感情を込めた溜め息に伊華雌も同意する。仁奈を助けるために恐怖のシンデレラプロジェクトに乗り込んで恐怖の武内PをオーバーキルしてしまうLMBGである。いじめなんて、見当違いにもほどがある。

 

「美城常務から市原さんの表情をなんとかしろって言われてさ。でも、原因が分からなくて……。そしたら、武内君のところに預けろって」

 

「……なるほど。事情は分かりました」

 

 武内Pは、証拠品の分析を始める鑑識(かんしき)の目つきでタブレット端末の画面を睨む。伊華雌も一緒に検証する。

 リーダーの千枝を先頭にステージへあがるLMBG。この会場ロリコンしかいない! ――と思わせる大歓声に応えてみんな笑顔になる。

 ただし、市原仁奈をのぞいて。

 

〝なんか、ステージに上がる前はそうでもなくね?〟

 

 伊華雌の指摘に武内Pの指が反応する。動画のシークバーを操作して、先頭から再生する。ステージを前にした舞台裏。LMBGが円陣を組み、千枝の号令に元気一杯な歓声で応える。この時の仁奈は――

 

 笑っていた。

 仲間に囲まれて、楽しそうに。

 

「緊張、でしょうか?」

 

 武内Pの仮定に米内Pは迷わず首を横に振る。

 

「市原さんはそれなりに経歴が長い。それなりの場数を踏んでいる。笑顔を失うほど緊張することはないし、そもそも彼女は緊張しないほうだから」

 

「それでは、レッスン不足で技量に不安があったのでは?」

 

「それもないな。市原さんはLMBGの中でもアイドル活動に熱心で、ほとんど毎日事務所に来てる。もしかしたらメンバーで一番事務所に来ているかもしれない。そのぶんレッスンをたくさん受けてるから、技量に問題はないと思う」

 

「うーん……」

 

 武内Pは沈黙した。伊華雌も沈黙した。

 早くも煮詰まってしまった。

 捜査序盤にして手がかりを失った刑事の気持ちで途方にくれて、そして〝刑事〟というキーワードがあのアイドルを連れてきた。

 

〝……なあ武ちゃん。本職に相談するってのはどうだろう?〟

 

 武内Pはポケットの伊華雌を見て、首の後ろを触った。

 

〝早苗さん、元警察だったよな? もしかしたら、こういうの得意なんじゃね?〟

 

「……なるほど」

 

 武内Pは、携帯を取り出しながら――

 

「あの、この件、得意な人に相談してみるのはどうでしょう?」

「得意な人? それは……、安斎都さんとか?」

「自分は、元婦警の片桐早苗さんを考えて――」

 

「早苗さんッ!」

 

 米内Pが立ち上がった。椅子を後ろに蹴倒していた。カフェにいるアイドル達の視線が突き刺さった。

 

「あ……、すいません」

 

 米内Pは手仕草で謝りながら椅子を直し、テーブルに身を乗り出して――

 

「実は俺、早苗さんのファンでさ。いやあ、大人のアイドルって、やっぱいいよな!」

 

 周りに聞かれたくないのか声を潜めているあたり〝本気〟なんだろうと伊華雌は思った。

 人間、本当の気持ちはあまり知られたくないのだ。

 伊華雌だってクラスの連中には島村卯月のファンであることを隠している。それは伊華雌にとって聖域であって、他人に土足で踏み込まれることを許せない大切な場所なのだ。

 

「では、片桐さんに連絡しても大丈夫でしょうか?」

 

 携帯を操作して早苗の連絡先を出した武内Pに、米内Pは熱心な相づちを打つ。

 

「もっ、もちろん大歓迎だよ! あぁ、どうしよう……、緊張してきたぞ!」

 

 片想いの相手を想って悶絶する乙女のような米内Pとは裏腹に、武内Pはあっさりと通話ボタンを押して――

 

「――、お疲れ様です、武内です。――、実は、相談したいことがありまして。――、いえ、その節はお世話になりました。――、今は、社内カフェにいます。――、ありがとうございます、助かります。――、はい、お待ちしています」

 

 アイドルと話しているとは思えないほど事務的な口調だった。それは武内Pの平常運転であるから伊華雌は何も思わなかったが、米内Pは不安げに武内Pを見つめて――

 

「えっと、今、早苗さんと話してたの?」

「はい」

「そっ、そうなんだ。で、なんだって?」

「今から、ここに来てくれるそうです」

「ほっ、ほんとに! ……ってか、武内君すごいな。早苗さんと、その、仲良いの?」

「いえ、その……、実は最近――」

 

 武内Pは一部始終を淡々と説明した。佐久間まゆをプロデュースするために恋愛の指導を頼んだこと。居酒屋で恋愛の授業――というかお酒の授業を受けたこと。

 

「朝までお酒を……。早苗さんだけじゃなく、川島さんに、高垣さんまで……ッ!」

 

 自分に言い聞かせるように呟くと、米内Pはもはや殺気立っていると言っても過言ではない真剣な顔で――

 

「武内君。一生のお願いがある……」

 

 一生のお願いとか久々に聞いたな、と伊華雌は思った。子供専用のおねだりワードがさらっと出てしまうのはキッズアイドル担当プロデューサーの職業病だろうかと思った、次の瞬間――

 

 ゴチン。

 

 米内Pが頭をテーブルにぶつけた音である。しかし彼は、さらにテーブルに頭をめり込ませようとするかのように(ひたい)をこすりつけて――

 

「その飲み会、次回は俺も誘ってほしい! 俺も、早苗さんと飲みたいッ!」

 

 その情熱はもはや脅迫の域に達していた。オモチャ買ってくれないと泣き喚くぞと脅す幼児の迫力があった。

 

 ――どんだけ早苗さんと飲みたいんだよ!

 

 伊華雌は反射的に突っ込みを入れたくなったが、島村卯月の担当マイクになりたいと駄々をこねた自分を思い出して何も言えなくなった。

 

「……あのっ、顔をあげてください。もしそのような機会がありましたら、声をかけますので」

 

 まあ、要求を飲むしかないよな、と伊華雌も思った。ここまで本気の情熱をぶつけられたら、なんていうか、応援したくなってしまう。

 

「ありがとう武内君! 君はいいやつだ! これで俺も、早苗さんと飲める……ッ!」

 

「あら、私の話?」

 

 その言葉は、もはや物理的な衝撃を伴っていた。

 米内Pは油の切れたロボットのようにぎこちなく振り返り、バブリーな服装の早苗を視認するなり光の速さで名刺を出して――

 

「あのっ、第三芸能課の米内と言います! よろしくお願いします大ファンですッ!」

 

 ――アイドルのファンには、大きく分けて二つのタイプが存在する。

 

 堂々と好きを公言できる陽キャタイプと、照れが邪魔をして気持ちを隠してしまうシャイボーイタイプ。

 

 米内Pはどうやら〝陽キャタイプ〟のようでラブコールに躊躇(ちゅうちょ)がない。あの早苗が困惑して武内Pに視線で助けを求めるほどに情熱的なラブコールを連射している。

 

 そんな米内Pを伊華雌は羨ましく思ってしまう。

 

 伊華雌は〝シャイボーイタイプ〟のドルオタなので、推しのアイドルを前にした瞬間、コミュ(りょく)が消滅する。血の滲むような課金によって参加資格を獲得した〝島村卯月握手会〟で、緊張のあまりさるぐつわを噛まされた人みたいになってしまった悲劇は今もトラウマとして伊華雌の心に刻まれている。

 

「実は、片桐さんを元警察の方と見込んで、協力をお願いしたいのですが……」

 

 武内Pが事情を話した。仁奈がライブの時だけ笑顔になれない理由を捜査してもらいたいと依頼する。

 

「うーん、そうねえ……」

 

 あれ、食い付き悪いな……?

 

 早苗の反応を伊華雌は意外に思った。警察キャラを全面に押し出しているデンジャラスアダルティな早苗である。〝捜査〟という単語にダボハゼのように食いついてくれるかと期待したのだが……。なんなら刑事の仲間とか、知り合いの鑑識(かんしき)とか出てきて踊りながら大捜査線を張ってくれると思ったのだが……。

 

「いや、確かにあたしは警察からアイドルになったけど……」

 

 早苗は、嘘がばれた子供みたいに赤い舌を出して――

 

「交通課だったのよね。えへ……」

 

 バブリーなお姉さんが少女じみた仕草で舌を出している。そのギャップ萌えに悶絶――してる場合じゃなくてッ!

 

 え、交通課! それってつまり、捜査については素人ってことじゃ……ッ!

 

 伊華雌の落胆を、しかし消し飛ばすように早苗はボディコンの胸を張って――

 

「でも、任せて! あたし、刑事ドラマとか大好きだから! どんな事件でもばっちこいよっ!」

 

 そっか、刑事ドラマが大好きなら安心――なわけねぇぇええ――ッ! それ、〝素人〟のカテゴリーからぜんぜん外れてませんからぁぁああ――ッ!

 

「こちらが、そのライブ映像です」

 

 武内Pがタブレット端末を早苗に向ける。

 早苗は思案顔であごをさわりながら画面を見つめる。その早苗を米内Pが至福の表情で見つめる。

 

 伊華雌は、あまり期待をしていなかった。交通課の婦警に捜査を依頼して、果たして成果が望めるだろうか? 元刑事だと思ったから協力を提案したのに……。

 

 ――しかし、である。

 

 果たして早苗が現役の刑事だとしても、恐らく謎は解けなかった。

 謎を解くことができるのは、それなりの洞察力を持った現役のアイドル。

 

 つまり、片桐早苗で正解だった。

 

「ねえ、これ見て」

 

 早苗が、タブレット端末の画面を指差した。リトルマーチングバンドガールズがステージに上がるシーンだった。爆発的な歓声の効果だろうか、キッズアイドル達の笑顔が、さらに輝きを増している。

 ただ一人、市原仁奈をのぞいて。

 

「どう、分かった?」

 

 え、何が?

 

 伊華雌がじっと見つめる片桐早苗は、まるで探偵気取りだった。真相をつかんだ名探偵特有のドヤ顔がそこにあった。

 

「歓声をうけて、士気が高まり笑顔になっています。市原さんをのぞいて」

 

 武内Pの答えに伊華雌も同意する。模範解答だと思った。さっきの映像を正確に言葉で表している。

 

「俺も、同じ意見です……」

 

 米内Pが後頭部をガリガリとかいた。お手上げを示す沈黙が流れ、早苗のドヤ顔が加速する。

 

 そして、回答編――

 

「よく、見ててね……」

 

 リトルマーチングバンドガールズの入場シーン。キッズアイドルの笑顔が輝きを増す瞬間――

 

「みんな、一瞬だけ同じ方向を見てると思わない?」

 

 そう言われると、その通りだった。ステージに上がったアイドル達は、ただ一人の例外もなく、ステージの右前方へ視線を投げている。それを合図に、最高の笑顔が炸裂している。

 

「関係者席、でしょうか……?」

 

 武内Pの回答に、早苗は指鉄砲で応える。大正解! と言わんばかりの仕草をしてから――

 

「あたしもさ、誰かを招待した時って、真っ先に見ちゃうのよね。ちゃんと来てくれたかなって。そんで、笑顔で手とか振ってくれたら、テンションあげあげになっちゃう。そこが空席だったら、まあ、寂しい気持ちになるかな……」

 

 きっと市原仁奈は、期待していたのだ。ステージが始まるその直前まで、招待した誰かが来てくれると、信じて笑みを浮かべていたのだ。

 

 ――しかし、空席。

 

 そのショックに、彼女は笑顔を失ってしまう。

 

「確かに、いつも市原さんは、招待席を一つ欲しいと言っています」

 

 米内Pの言葉が最後の鍵だった。それによって推理を完成させるべく、早苗は指鉄砲を米内Pの額へ向けて――

 

「ひょっとして、仁奈ちゃん片親(かたおや)なんじゃない? お父さんかお母さん、どちらか一人しかいないんじゃない?」

 

 沈黙は一瞬だった。

 米内Pは頷き、早苗は推理完成とばかりに指鉄砲を撃つ仕草をして――

 

「仁奈ちゃんが笑顔になれない理由は、招待した親御さんがそこにいなかったせいね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第3話

 

 

 

「仁奈ちゃん、寝ちゃいました」

 

 シンデレラプロジェクトの地下室へ戻ると、ソファーに座ったまゆが仁奈を膝枕していた。

 

 ――それは、全ての思考が停止してしまうほどに優しい光景だった。

 

 一瞬、自分がまだ幼児で、母親に膝枕してもらっていた時の記憶が蘇った。

 あの頃は純粋だった。

 膝枕に対して暖かみと安堵だけを感じていた。

 

 ――しかし、今はどうだ?

 

 膝枕をしているまゆを見て、一分間一万円でどうでしょうか! とか思ってしまう。あの頃の純粋な気持ちはどこへいってしまったのだろうか……?

 

「市原さんは、何か用があったのでしょうか?」

 

 武内Pが戸惑うのも当然で、時間は夜の9時をまわっている。キッズアイドルはもちろん、高校生のまゆも帰宅すべき時間である。

 

「仁奈ちゃん、プロデューサーさんを待っていたんです」

 

 まゆが、膝の上で寝息を立てる仁奈の髪を優しく撫でる。

 

「プロデューサーさんのことを恐い人だと誤解してしまったことを謝りたいって。これからよろしくお願いしますの挨拶をしたいって。だからずっと、まゆと一緒に待ってたんです」

 

「そう、だったんですね。そうとは知らずに待たせてしまい、申し訳ありません」

 

 神妙(しんみょう)な面持ちで頭を下げる武内Pに、まゆは笑顔で首を振る。

 

「大丈夫です。おかげで、仁奈ちゃんとたくさん話すことが出来ましたから。プロデューサーさんのこと、たくさん話しちゃいました……」

 

「自分について、どんなことを?」

 

 武内Pが、首の後ろを触りながら訊く。

 まゆは悩ましげに眉を曲げて、優しく微笑みながら――

 

「それはもう、色々と話しちゃいました。プロデューサーさんが、仕事熱心なこととか……。プロデューサーさんが、お酒に弱いこととか……。プロデューサーさんが――」

 

 まゆを大好きなこととか、――みたいなデレ発言がくるものだと思っていた。だから伊華雌(いけめん)は慌てる武内Pをなだめる準備をしていたのだが――

 

「マイクとお話ししてることとか……」

 

 息の根が、止まるかと思った。

 もちろんマイクだからそもそも呼吸なんてしてないのだけど、つまりそのくらい動揺して頭が真っ白になった。

 

「まゆ、知ってるんですよ……」

 

 まゆの視線は、武内Pのポケットにおさまっている伊華雌へ固定されている。その視線は、お世辞にも好意的とは言えなくて、大好きなアイドルに睨まれることをご褒美と認知できるほどの紳士レベルを持たぬ伊華雌は半泣きになる感覚と供にまゆの視線を受け止めた。

 

「プロデューサーさん、何か困ったことがあると、そのマイクを見るんです。助言を求めるような目でそのマイクを見るんです。相談なら、まゆがいくらでものってあげるのに……。まゆは、プロデューサーさんの力になりたいって、思っているのに……。それなのに、プロデューサーさんは、そのマイクに……ッ!」

 

 ……これはもしかして、修羅場というやつなのか? マイクな俺が武内Pと仲良くしすぎて嫉妬で修羅場ということなのか?

 いやっ、マイクですから! 無機物ですから! 嫉妬する必要ありませんからッ!

 

 伊華雌は無機物であることを理由に無罪を主張するが、まゆは浮気現場を押さえた本妻(ほんさい)の怒りに燃えている。

 まゆがヤンデレ気質なのは百も承知だったが、まさか無機物にまで攻撃範囲が及ぶとは思わなかった。このままだと、へし折られてしまう気がした。()みに飲まれたまゆの手によって再転生させられてしまう……ッ!

 

 神様……、来世は346プロ社内カフェ〝メルヘンチェンジ〝の椅子でお願いします……。

 

 絶体絶命を悟り観念した伊華雌を救ったのは、聞き馴れた低い声だった。

 

「自分の、友人なんです」

 

 伊華雌へ向けられていたまゆの視線が、上目遣いになって武内Pを見る。

 

「お友達? マイクが、お友達なんですか? 誰かの贈り物だから、大切にしているわけじゃないんですか?」

 

 まゆの口から出た当然の疑問に武内Pは頷く。その真面目な横顔に、まさか、と思った。いくら真面目すぎて融通が効かない武内Pでも、まさか――

 

「このマイクは、意思を持っているんです。自分の、大切な友人なんです」

 

 うおい! さらっと暴露しちゃったよ! それはなんていうか、隠すのが当たり前っていうか、普通隠すことっていうか……ッ!

 

 真面目すぎて嘘を知らない不器用なプロデューサーの行動に慌てる伊華雌だったが――

 

 武内Pを見つめるまゆは、優しげな笑みを取り戻して――

 

「その気持ち、まゆもわかります。まゆも、ずっと使っているリボンには愛着を持っています。生きている、とまでは言いませんが、お友達だと思う気持ちは、理解できます」

 

 まゆが、手を差し伸べる。

 

「まゆにも、見せてもらっていいですか?」

 

 伊華雌が移動する。武内Pの手から、まゆの手へ。彼女の細い指に全身をつかまれた瞬間、伊華雌の中で革命が起こる。

 

 なんだこれ……、全然違うぞ……ッ!

 

 武内Pのそれとまゆの手はまるっきり別物だった。ひんやりと細い指が全身を這う感覚に、それが〝アイドル佐久間まゆ〟の指であるという興奮に、伊華雌は〝あの感覚〝を思い出す。

 

「まゆ、勘違いしちゃいました。てっきり、あの人の贈り物かなって。だって、なんだか色が似てるから……」

 

 伊華雌は〝ぴにゃこら太仕様〟のマイクである。緑のボディに、赤いリボンをつけている。そのカラーリングが似ている人って、誰だろう……。

 

 ――あぁ、ちひろさんか。

 

 思考時間は3秒もあれば十分だった。

 

 ――つまり、勘違いだったのだ。

 

 千川ちひろと色彩感(しきさいかん)が似ているマイクを肌身(はだみ)離さず持ち歩く武内Pを見て、ちひろからのプレゼントだから大切にしているのではないか? と勘違いして嫉妬してしまったのだ。

 

「ごめんなさい、マイクさん」

 

 まゆはマイクな伊華雌に頭を下げた。

 

 ――なんて素直でいい子なんだ……ッ!

 

 伊華雌の感動は、しかしすぐに別のベクトルへ変化する。

 まゆの指に全身を優しく撫で回されて、至近距離からじっと見られて、ふふっと微笑(ほほえ)む彼女の吐息が贈呈(ぞうてい)されて――

 

〝俺っ、マイクで良かったぁぁああああ――ッ!〟

 

 たまらず絶頂(ぜっちょう)をむかえた。

 もちろん、感覚である。その感覚を思い出しただけである。マイクにそんな機能は無い。そんな機能がついていたら、それはマイクではなくて、もっと別の――

 

「もう遅いので、車で送ります」

 

 武内Pは、やはり空気を読まなかった。

 まゆの手に包まれて夢見心地な伊華雌を、無慈悲(むじひ)に回収して賢者にした。まさかマイクになってまで賢者モード突入に(ともな)う喪失感を味わうことになるとは思わなかった……。

 

「市原さんはよく寝ているので、起こさないほうがいいかもしれませんね」

 

 まゆの膝で眠り続ける仁奈を、武内Pがすくいあげた。

 まゆは目を丸くして、駐車場へ向けて歩き出す武内Pへ――

 

「プロデューサーさん、慣れているんですね。その――」

 

 お姫さま抱っこ。

 

 羨望(せんぼう)の眼差しだった。まゆもして欲しいです、という言葉が白い喉に待機しているんだろうなと思った。

 

「新入社員の研修で、応急救護について学びました。その時、抱き抱えて運ぶ訓練を受けました」

 

「ふうん……」

 

 まゆの瞳が焦点を失う。伊華雌は冷や汗が吹き出る感覚と共に警戒する。今のまゆの状態は――

 

 イエス! ヤンデレタイム!

 

 さあ、空気が凍りついてまいりました。迂闊(うかつ)なことを言ったら()みのま! ヤンデレタイム突入です。

 それでは佐久間さん、質問をどうぞ――

 

「その研修の時、プロデューサーさんは誰を抱いたんですか?」

 

 うわおっ、いきなりの直球勝負! ここで〝千川さんです〟とか答えたらまずいんだろうな。病みが加速しちゃうんだろうな。回答はちひろさん以外でお願いしますよ!

 

「その時はたしか、千か――」

〝赤羽根って言えぇぇええ――ッ! 嘘でもいいから赤羽根って言ってくれぇぇええ――ッ!〟

 

 伊華雌はなりふり構わず声をあげた。何食わぬ顔で地雷を踏み抜こうとする友人を必死にとめた。

 

「……えっと、赤羽根さん、です」

 

 まゆの瞳に光が戻る。彼女は仁奈の髪を撫でていた時の優しい笑みを取り戻し――

 

「そうだったんですね。てっきり、先を越されちゃったのかと思いました……」

「はあ……」

 

 武内Pは、何も分かってなさそうな顔で首をかしげた。揺らさないように気を付けているのか、普段よりも真面目な顔をして仁奈を運ぶ武内Pを、守れるのは自分しかないと伊華雌は思った。

 

「先に、女子寮へ向かいます。助手席に、座ってください」

 

 地下駐車場に黒い車が並んでいる。車種はまちまちだが、どれも後部座席にスモークが入っている。

 武内Pは仁奈を後部座席に座らせると、しっかりとシートベルトを締めた。ぐっすり眠っている仁奈は、糸の切れた操り人形のようになすがままだった。

 

「夜のドライブ、ですね……」

 

 助手席のまゆが、シートベルトを締めながら微笑む。それを見た伊華雌は、生まれて初めての感情をかみ締めて――

 

 俺も、まゆちゃんを助手席に乗せてドライブしてぇぇええ――ッ!

 

 女の子を助手席に座らせて車を運転するという行為がどれほど素晴らしいのか、実際に体験して実感した。それは、妙に誇らしい気持ちだった。運転するのは武内Pで、伊華雌はそもそも車の免許すら持ってないのだが……ッ!

 

「それでは出発します」

 

 慎重すぎるくらいゆっくりと車が発進する。武内Pは真剣な顔でハンドルを握り、その横顔をまゆがじっと見つめて、仁奈の寝息が車内のBGMだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第4話

 

 

 

「市原さんの件、どう思いますか?」

 

 まゆを女子寮へ送り届け、仁奈の家へ向かっていた。車の少ない夜の国道で、武内Pは安全運転を徹底する。他の車は追い越し車線を倍以上の速さで追い抜いていくが、それでも武内Pはスピードメーターの針を制限速度から動かさない。

 

〝仁奈ちゃんの件って、つまり、親がライブに来てくれないってこと?〟

 

 市原仁奈が笑顔を失った理由は判明している。仁奈がライブに招待をした人――恐らくは親が、ライブに足を運んでくれないからである。他のキッズアイドル達の親が関係者席に並ぶ中、ポツンと空いた空席が一つ。自分の親だけがいないライブステージで、果たして笑顔になれる子供がいるのだろうか?

 

「市原さんの家庭は、両親が離婚して、今は母親だけと聞きました。複雑な家庭環境にあると聞きました。もしかしたら、家庭の事情があって、ライブに来れないのかもしれません……」

 

 武内Pの言葉が途切れる。赤信号で車がとまる。カッチカッチと、ウィンカーの音が響く。

 

〝……確かに、家庭の事情に首突っ込むのはダメかもだけど、でも、仕方ないんじゃないかな?〟

 

 武内Pは、首をかしげる。信号はまだ赤のままで、周囲に車が増えてきた。

 

〝俺達の仕事、シンデレラプロジェクトの役割ってさ、アイドルを復活させることじゃん? アイドルを、笑顔にすることじゃん? だから、そのためには、家庭の事情に踏み込むのも仕方ないっていうか……〟

 

「アイドルの、笑顔の、ために……」

 

 噛みしめるように(つぶや)く武内P。後続車のクラクションにハッとしてハンドルを握る。

 

 ――信号が青になっていた。

 

 車は発進して、行き先を悩むように鳴り響いていたウィンカーの音が消えた。

 

「……そうですね。マイクさんのいうとおりです。アイドルの笑顔を取り戻すために、出来る限りのことをやるべきです!」

 

 武内Pの目に光が宿った。その表情に覚えがある。まゆに告白めいたスカウトを成功させた時の顔である。ただでさえ真面目な武内Pが本気になった時の顔である。

 

 こうなった時の武内Pは、強い!

 

 城ヶ崎美嘉を説き伏せて協力を取り付けたり、佐久間まゆを振り向かせたり、本気になった武内Pはその情熱で成果をあげている。

 

 だからきっと――

 

 後部座席で寝ている仁奈の笑顔を、取り戻せると思った。まゆに続いて、仁奈も救うことが出来るに違いないと思った。

 自分の行動は間違っていないと、自信をもった。

 

 ――その自信が、果たして〝持つべき自信〟なのかどうか?

 

 伊華雌が現実を思い知ったのは、武内Pと仁奈の母親が対面した時のことだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「仁奈、寝ちまってました……」

 

 車の後部座席で仁奈が伸びをした。シートベルトを外して、両手で目をこすって――

 

「あれ、仁奈のおうちでごぜーます」

 

 今どき珍しい、と言いたくなるような古い団地だった。ひびのはいったコンクリートに、無愛想な鉄の扉。番号の付いた棟が並ぶ光景は刑務所を思わせる殺風景で、子供の遊具やおもちゃが沈黙している様子に夜の学校を支配していた薄気味悪さを思い出す。

 

「仁奈、たしか、まゆお姉さんのおひざで寝てたのに……?」

 

 寝ぼける仁奈に武内Pが説明する。夜も遅いのでまゆと仁奈を車で送ったこと。仁奈はよく寝ていたので起こさなかったこと。

 

「そうだったんでごぜーますね。……そうだ! 仁奈、武内プロデューサーに言いたいことがあるんだった」

 

 車を降りた武内Pが、回り込んで後部座席のドアを開ける。

 仁奈は小さくジャンプして車からおりて、ウサギの着ぐるみパーカーの耳を揺らして――

 

「武内プロデューサー、恐がってごめんなさい。プロデューサーは、仁奈を助けてくれる人なのに、仁奈、恐がっちまいました……」

 

 仁奈はたどたどしい口調で、でも一生懸命に、〝まゆお姉さんが教えてくれたこと〟を話してくれた。武内Pが、仁奈を迎えるために事務所を改装していたこと。怖い顔をしているが、とても真面目で優しいこと。仁奈のアイドル活動を、全力で応援してくれること。まゆのことを、全力で愛していること。

 最後の方に希望的捏造(ねつぞう)を発見したが、伊華雌は何も言わなかった。仁奈に武内Pのことを詳しく説明してくれた手間賃と考えれば高くない。

 

「仁奈、アイドルやめたくねーです! リトルマーチングバンドガールズのみんなと、もっと一緒にいてーです! それにまだ、仁奈がアイドルになってやりたかったこと、できてねーです……」

 

 仁奈は、武内Pの袖を引いて訴えて、くしゅん。冬の接近を知らせる冷たい夜風が仁奈のウサギパーカーの耳を揺らした。

 

「今日はもう、家に帰ってください。風邪を引いてしまいます。話は、また今度」

 

 仁奈はしかし、スーツの袖を離さない。むしろ掴む力を強めて――

 

「あの……。プロデューサー! 仁奈と一緒に、おうちでご飯食べやがりませんか?」

 

 ……誘っている。アイドルが夜の自宅にプロデューサーを誘っているぞぉぉおお――ッ! 九歳児だけどなぁぁああ――ッ!

 

 伊華雌は反射的にテンションをあげていたが、武内Pは困惑した表情で首の後ろをさわっている。そして、助けを求めるかのように伊華雌を見た。

 

〝まあ、いい機会なんじゃないか? 挨拶して、ライブのことを話して、次のライブに来てもらえるようにしようぜ。そしたら仁奈ちゃんの笑顔は復活間違いなしだ!〟

 

 武内Pは頷いて、仁奈にそのことを伝えた。

 

「ほんとでごぜーますか! やったあ! やっぱり武内プロデューサーは、優しいプロデューサーだったんだぁ!」

 

 ――その時点で、気付くべきだった。

 

 家に寄ると言っただけで、どうしてウサギパーカーの耳が引きちぎれんばかりに跳ねて喜んだのか?

 そもそも、何故、夜も遅いのにプロデューサーを家に呼ぼうとしたのか?

 

 仁奈に手を引かれ団地に入る。乱雑にチラシを突っ込まれている集合ポストの脇を抜けて、真っ暗な守衛室の脇に立つ。仁奈がボタンを押すと、これまた古ぼけたエレベーターのドアがガタガタ揺れながら(ひら)いて、〝手洗いうがいをしましょう〟と子供に注意するポスターの中で笑うばい菌と目が合った。

 

 その間、ずっと仁奈は喋っていた。よほど嬉しいのか、薄暗い団地にはふさわしくない笑顔を輝かせていた。

 

 ――せめて、この時点で勘付いておくべきだった。

 

 どうして、夜の学校みたいな団地で仁奈はまったく恐がらないのか? 武内Pは、その雰囲気に恐怖して仁奈のパーカーの裾を強く握っているのに。

 

「ここが、仁奈のおうちでごぜーます」

 

 ようやく、伊華雌は気付いた。

 

 黒い窓が並ぶ部屋。そのドアへ小さな手が伸ばされる。インターフォンには目もくれず、それが世界の常識だと言わんばかりの仕草でランドセルからカギを取り出す。冷凍室を思わせる暗い部屋に、ただいまを言う気配すらみせず足を入れる。

 

「プロデューサー? 入らねーですか?」

 

 玄関で立ち尽くす武内Pを見上げて仁奈が首をかしげる。彼女のあどけない仕草を見て、首をかしげたいのはこちらだと思った。

 

 親は、何してんだよ……ッ!

 

 伊華雌は、自分の中に生まれた感情が怒りであると理解出来なかった。我を失ってしまうほど、寒々しい部屋の中で仁奈がきょとんと首をかしげている光景は許しがたく、それを作り上げた人間を罵倒したくなった。

 

 だって――

 

 仁奈は、気付いてすらいないのだ。こんな遅い時間なのに、部屋が真っ暗で、自分でカギを開けないと家に入れず、ただいまを言う相手もいないこの状況が〝異常〟であると自覚できていないのだ。

 

 つまり――

 

 昨日今日に始まったことではないのだ。

 仁奈が自分でカギを開けて、ただいまを言わずに暗い部屋に帰るのは、それが〝日常〝と呼べるほどの長期間に及んでいるがためであり、その事実に伊華雌(いけめん)は怒りを覚える。

 

 そして、部屋に入ると伊華雌の怒りはさらに強くなった。

 

 ゴミ屋敷とは言わないが、それを連想できるくらいに散らかっていた。ゴミ箱に冷凍食品の空箱が積み重なっていた。その脇にはカップラーメンタワーがそびえ立っている。

 

 なんだこの、育児放棄の見本みたいな部屋は……ッ!

 

 怒りに震える伊華雌(いけめん)に挑戦するかのように、玄関の方で音がした。ドアを開ける音に遠慮が無くて、家主なのだと見当がついた。

 

「仁奈、帰ってるの?」

 

 スーツを着ていた。茶髪で、前髪が横一文字で、疲れた顔をしているがその顔は整っている。彼女は間違いなく美人であり、そしておそらくは――

 

「ママっ」

 

 仁奈が母親に抱きついた。

 伊華雌の中で試合開始のゴングが鳴った。

 このスーツの女性こそ、市原仁奈の母親にして世界のロリコンを敵に回した薄情者だ。さあ、説教の時間だ。ネグレクトギルティを〝反省☆〟させてやるから覚悟しろ!

 

「あなたは……、346プロのかたですか?」

 

 仁奈の母親は、しかし微塵(みじん)も怯えずに武内Pと対峙する。

 その可愛い顔を裏切る肝の据わりように伊華雌は(きょ)をつかれた。だって〝帰宅したら部屋に武内Pがいる光景〟とか、悲鳴をあげて110番待った無しの衝撃映像なのに、この童顔の女性は全く動じていない。こいつは、手ごわいかもしれない……ッ!

 見ると、武内Pも気圧(けお)されているのか、名刺すら出せないでいる。

 

〝武ちゃん、負けるな! ライブのことを言ってやれ!〟

 

 武内Pは頷いて、スーツの懐から名刺を取り出した。

 

「新しく市原仁奈さんの担当になりました、武内と申します。今日は、遅くなりましたので仁奈さんをお送りすると共に、保護者の方にお話ししたいことがありまして」

 

 仁奈の母親は名刺を受けとると、腰に巻き付いて頬擦りを繰り返す仁奈を引き離して――

 

「仁奈、先にお風呂入ってきて」

「えーっ!」

「えー、じゃないの。ほら、アライグマの気持ちになるですよー?」

「アライグマは食べ物を洗うですよ。お風呂が好きなのはおサルさんでごぜーます」

「じゃあおサルさんの気持ちになって、ね? ほら、いっていって」

 

 仁奈とのやり取りを見ていると、彼女は母親にしか見えなかった。仁奈が走り去って一人になると、スーツを着た女子高生にしか見えない。

 

「お話って、なんですか? もしかして、仁奈のアイドル活動のことですか?」

 

 その童顔を裏切るようにテキパキと話す様子に、きっと仕事が出来る人なんだろうなと思った。仁奈のために、夜遅くまで頑張っているのだろうなと思った。

 

 だからと言って――

 

 育児放棄(ネグレクト)ギルティが許されるわけではない。セクシーギルティに参上してもらって説教かましてもらいたいくらいだと伊華雌は思っている。

 

「市原さんが、ライブで不調なことは――?」

「知ってます。前の担当の、子供みたいなプロデューサーさんから聞きました」

 

 子供みたいな母親から〝子供みたいな〟とか言われている米内(よない)Pに伊華雌(いけめん)は同情を覚えた。

 

 彼もあなたには言われたくはないと思いますよ!

 

 米内Pの代わりに心で叫んでおいた。伊華雌は外見にコンプレックスを抱える全ての男の味方である。

 

「市原さんは、招待席に招待した人がいないから、笑顔になれないのだと思います」

「招待した人?」

「はい。……ですから、その」

 

 武内Pは、躊躇(ちゅうちょ)していた。〝家庭の事情〟という名前の地雷が埋まる地雷原に、足を踏み出すべきか悩んでいるかのように視線を泳がせていた。

 

 その背中を、押すべきだと思った。

 

 まゆの時だって上手くいったのだから、きっと自分のやり方は間違っていない。

 だから――

 

〝武ちゃん、言ってやれ。仁奈ちゃんの笑顔を取り戻すために、言ってやれ!〟

 

 きっと、仁奈の母親は分かっていたのだと思う。その上で、出方をうかがっていたのかもしれない。

 果たして、それを言葉にするのかどうか?

 

「次回のライブ、関係者席で観覧していただくことは出来ませんか? 市原さんは、母親であるあなたが招待に応じてくれないから、ライブで笑顔になれないのです」

 

 その要求が、一線を越えてしまったのだと、分かった時には遅かった。

 仁奈の母親は、込み上げる苛立ちを塗りつぶして隠そうとするかのように、強引な笑顔を作ってため息を落とした。

 

 一体、何がいけないのか? 娘の晴れ舞台に足を運んで欲しいという要求の、何が悪いのか?

 

 (おのれ)の正義に盲従(もうじゅう)し、相手を理解しようとしない伊華雌は、つまりまだ青二才だった。

 たまたま上手くいったから次も上手くいくだろうと、過去の成功を根拠に楽観を()いることがいかに愚かな間違いであるか、仁奈の母親の表情にようやくと理解する。

 

「……私は、見ての通り、一人で仁奈を育てています。正直、あまり余裕はありません」

 

 大きな目の下に大きなクマがある。きっと、疲れていたのだろう。突然の武内Pに動じなかったのは、もしかしたら単に余裕がなかっただけかもしれない。

 

 そして、仁奈の母親は、無理矢理に張り付けていた笑顔を捨てて――

 

「仕事があって、家事があって、それでもう、余裕なんてないんです。これ以上、負担を増やさないでください……」

 

 ため息が、震えていた。

 

 どういう事情があるのか、分からない。

 何故、父親がいないのか? 両親に頼ることは出来ないのか?

 アイドルとして晴れ舞台に立つ娘を見てあげて欲しいと言われただけで、どうしてここまで取り乱してしまうのか。

 

 それはきっと、家庭の事情というやつで、決して他人が踏み込んではならない禁断の領域なのだ。

 

 だから、武内Pは躊躇(ちゅうちょ)していた。

 もしかしたら、何かを察していたのかもしれない。

 

 夜遅くになっても明かりがつかない部屋。慣れた仕草でカギを開ける仁奈。ごみ屋敷一歩手前のリビング。積み重なった冷凍食品の残骸。ホコリを被ったキッチン。

 

 今思えば、ヒントは至るところにあった。過去の功績を誇るあまり盲目になっていた。それを悔やんでも、もう遅い。

 

 自分が武内Pをけしかけたせいで、何が起こってしまったのか。

 伊華雌は、目をそらさずに結果を受けとめる義務がある。

 

「分かりました、じゃあ、こうしましょう」

 

 仁奈の母親はくたびれた仕草でスーツの上着を脱ぎ捨てた。浴室で歌っているのだろう、くぐもった仁奈の声がする方へ視線を向けて――

 

「仁奈はアイドル、やめさせます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第5話

 

 

 

「今朝、市原仁奈の母親から電話があった。アイドルをやめさせて欲しいと言っていた。どういうことか、説明してもらおう」

 

 出社するなり美城常務に呼び出された。いつもよりも強張った表情で腕を組む美城常務に嫌な予感がした。

 

 ――そして、伊華雌(いけめん)の予感は的中する。

 

 仁奈の母親は、本気で仁奈のアイドル活動に終止符を打とうとしていた。

 

「実は、昨日――」

 

 美城常務に事情を説明する武内Pを見て、伊華雌はいたたまれない気持ちになった。恐らく、武内Pは叱責(しっせき)されてしまうのだ。

 

 悪いのは、自分なのに。

 

 家庭の事情という一線を越えまいと配慮していた武内Pを、けしかけたのは自分である。アイドル市原仁奈を笑顔にするためにはどうするか。それだけを考えて突っ走った結果である。暴走していたのだと、反省してももう遅い。最悪の結果は、すでに確定してしまった。

 

「なるほど、事情は把握した……」

 

 美城常務の平坦な声に覚悟する。どんな冷たい言葉が来るのか。それとも灼熱の罵声が来るのか。足が震える感覚を抱いて審判の時を待つも、美城常務は口を開かない。彼女の口は、冷たい言葉を吐くでも、熱い罵声を飛ばすでもなく――

 

 笑みをつくった。

 

「今回の件、少し荷が重かったようだな。まあ、いつも成果を出せるほど、アイドルのプロデュースは甘くない。特に、シンデレラプロジェクトに関しては」

 

 怒るどころか、慰めていた。失態を報告した武内Pを、しかし美城常務はねぎらっていた。

 

 そういえば――

 

 前にちひろが言っていた。シンデレラプロジェクトを作ったのは美城常務だと。アイドル・プロデューサーを救済するための部署としてシンデレラプロジェクトを作り、しかし全く機能していなかったのだと。

 

 ――だから、だろうか?

 

 失敗しても当たり前の部署だから、武内Pの失敗にも寛容(かんよう)なのだろうか?

 

「また次の機会に、奮闘すればいい」

 

 これで話は終わりだと、笑みの消えた横顔が語る。叱責も処分も無い。教訓として次回の(かて)とすればいい。

 だから、今回のプロデュースは、これで終わり。市原仁奈のプロデュースは、失敗という結末を――

 

〝いや、待ってくれよ……〟

 

 伊華雌は、声をあげていた。届かないことも忘れて、美城常務へ――

 

〝勝手に終わらせないでくれよ。確かに失敗したけどさ、でも、まだ終わりじゃないんだよ。失敗をどうやって挽回するのか、それをこれから考えるんじゃねーのかよ……ッ!〟

 

 微塵(みじん)の反応も無くパソコンのモニターを見ている美城常務に、伊華雌は思い出す。自分の声を、気持ちを、受け取ることができるのは武内Pだけである。

 

 そして武内Pは、代弁する――

 

「市原さんのプロデュースは、まだ終わっていません」

 

 美城常務は、しかしパソコンのモニターから視線をそらさずに――

 

「保護者がアイドルをやめさせたいと言っている。これ以上のプロデュースは不可能だ」

 

 武内Pは、しかし引かない。一瞬だけポケットにささる伊華雌へ視線を投げて――

 

「自分は、市原仁奈さんの担当です。母親ではなく、仁奈さんの意思を尊重したいと考えています」

 

 美城常務のイヤリングが揺れた。不快感もあらわにかぶりを振って、今度こそ武内Pを睨みつけて――

 

「君は、置かれた状況が分かっていないようだな。君の不適切な対応によって、市原仁奈の母親はアイドル活動の停止を希望した。少しは自分が失態を犯した自覚を持つべきだと思うが」

 

 美城常務に睨まれているのは自分であると伊華雌は思った。あの時、仁奈の母親に説教めいたことを言うのは――

 

「必要なことでした」

 

 武内Pは、美城常務の視線から伊華雌を守ろうとするかのように、弱気に沈む伊華雌を一喝(いっかつ)しようとするかのように――

 

「市原さんの笑顔を取り戻すためには、母親に協力を依頼するのが最善でした。それが可能であるかどうか、直接質問をする工程は必要不可欠です」

 

 美城常務の口元に笑みがのぞく。弟子の思わぬ成長を喜ぶ師範のように、何を見せてくれるのか期待するかのように武内Pを見据えて――

 

「なら、次はどうする? 親の協力を望めない状態でキッズアイドルのプロデュースが出来るのか?」

 

 それがほぼ不可能であることは伊華雌にも分かる。子供にとって親は絶対の存在である。本人がなんと言おうと、絶対的な決定権は親が握っているのだ。

 

「市原さんの意思を確認して、それからプロデュースの思案をしたいと思っています」

 

 あくまでも仁奈の気持ちにこだわる武内Pに、美城常務は死地へ向かう兵隊を引き留める指揮官のように――

 

「徒労に終わるぞ」

 

 しかし武内Pは、強めた眉を緩めることなく――

 

「やってみなくては、分かりません」

 

 きっと、策など無いのだろうなと思った。一時的な延命処置に過ぎないのかもしれないと思った。結局、市原仁奈を救うことが出来なくて落ち込むことになるのかもしれないと――

 

 それでも――

 

 伊華雌は武内Pに感謝していた。プロデュースの可能性を残してくれたことを。汚名返上の機会を与えてくれたことを。

 

 ――絶対に、今度こそ、失敗しないからな……ッ!

 

 頭を下げて退室する武内Pのポケットの中で、伊華雌は闘士を燃やしていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

〝武ちゃん、ごめん。俺がバカなせいで、こんなことに……〟

 

 シンデレラプロジェクトの地下室で二人きりになるなり伊華雌は謝った。

 武内Pは、テーブルの上に小さなマイクスタンドを置いて、そこに伊華雌をさした。自分はソファに座り、伊華雌と向かい合って――

 

「何も、謝ることはありません。マイクさんは、何も間違っていません」

 

〝いや、だって、俺が無責任なこと言わなければ、きっと武ちゃんは仁奈ちゃんのママに言ってなかったんだよ。ライブに来いって言わなければ、こんなことには……〟

 

「それはしかし、時間の問題です」

 

 武内Pは、まるで人間を相手にしているように、伊華雌を見据えて――

 

「市原さんの笑顔を取り戻すためには、母親にライブを観覧してもらう必要がありました。なので、マイクさんの発言に間違いはありません。むしろ、間違っていたのは自分の方です」

 

 何を言い出したのか、分からず伊華雌は武内Pを見つめて言葉を待った。

 

「自分は、ためらってしまいました。市原さんの自宅を見て、疲れた様子の母親を見て、他人が口を挟んではいけない家庭であるのだと思い、何も言えなくなりました」

 

 それが正解なのだと思う。何も言わなければこんなことにはならなかった。伊華雌が、でしゃばったまねをしなければ――

 

「変える必要が、あったんです」

 

 獲物を見つけた狙撃主の目に射抜かれる。それはまるで、世界を変える演説をする革命家のような迫力で――

 

「市原さんを笑顔にしたいと思うのであれば、現状を変える必要がありました。(ともな)う痛みを恐れていては、何も変えることは出来ません。あの時マイクさんは、市原さんの笑顔を取り戻すことだけを考えていたのだと思います。きっとそれが、担当プロデューサーのあるべき姿なのだと、自分は思います……ッ!」

 

 伊華雌はしかし、激しくかぶりを振って否定したかった。

 

 だって――

 

 当たり前なのだ。伊華雌がアイドルの笑顔を何よりも優先するのは――

 

 ファンだから。

 

 プロデューサーではなく、ファンの立場で思考している伊華雌だから、家庭の事情なんて配慮しないで仁奈を笑顔にすることだけを考えていた。

 だから、決して誉められた発言ではないのに、武内Pは狙撃手の眼差しを伊華雌からそらさずに――

 

「自分も、マイクさんのように、常に担当アイドルの笑顔を最優先に考えるプロデューサーを目指したいと思います」

 

 否定するべきだと思った。自分は尊敬に値するような存在ではないと絶叫して、笑顔を第一に考えるのはプロデューサーじゃなくてファンの仕事だと断言する。プロデューサーとしての将来を考えるなら〝成果〝を第一に考えるべきだと激を飛ばすべきだと――

 

 ――でも、言えなかった。

 

 アイドルの笑顔を一番に考える。そんなプロデューサーが、いて欲しいと思ったから。そんなプロデューサーに、なって欲しいと思ったから。

 それは伊華雌のワガママであって、だから義務があると思った。アイドルの笑顔を一番に考えて、それでいて成果を出せるように全力で支援する。

 成果さえ出せれば、どんな信条を掲げていようが文句は言われないだろう。

 

〝アイドルの笑顔を一番に考える、か。武ちゃんらしくて、いいと思うぜ!〟

 

 もう、あとには引けない。言葉にして肯定してしまった以上、半端なことは許されない。くすぐったそうにはにかむ武内Pの笑顔を守りたいのであれば、アイドルの笑顔を最優先に考え、そして成果をだすという無理ゲーに挑戦しなくてはならない。

 

 なに、今に始まったことじゃないさ……。

 

 規格外の不細工懲役20年を経験した伊華雌である。劣悪な環境には慣れている。ブラック企業の社畜に迫るメンタルで苦境を笑う自信がある。

 

 自分のせいで誰かが傷つくのは耐えられないが、自分が辛い思いをするのは大歓迎だぜ!

 

 ドMの世界に両足突っ込んでる変態を思わせる覚悟を胸に伊華雌は決意する。

 

 ――絶対に、市原仁奈をアイドルとして復活させる。彼女の笑顔を取り戻し、そして成果もあげてみせる!

 

〝武ちゃん、作戦会議といこうぜ。絶対に、アイドル市原仁奈を復活させてやるぞ!〟

 

 その言葉を待っていた。言わんばかりの笑みを浮かべる武内Pに、伊華雌の気持ちも盛り上がる。最高の相棒と共に戦場を駆ける兵士の高揚感を胸に激論を繰り広げる。同じ(てつ)を踏まないように、あらゆる事態を想定する。

 

 仁奈の母親に負担をかけず、しかしライブで輝く仁奈をみてもらう。

 

 まるで矛盾している意地悪なナゾナゾのような問題に答えが出たのは、学校を終えた仁奈がシンデレラプロジェクトの地下室にやってきた頃だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第6話

 

 

 

「仁奈、アイドルやめたくねーです!」

 

 仁奈の甲高い声がシンデレラプロジェクトの地下室に響いた。仁奈の泣きそうな顔を見て、伊華雌(いけめん)はもらい泣きをする感覚を思い出しながら仮説が正しかったことに安堵する。

 

 ――アイドルをやめるというのは、仁奈の母親の独断であって、仁奈の同意は得ていない。

 

「だって、仁奈、やめられねーです! だってまだ、仁奈のやりてーこと、出来てねーです!」

 

 仁奈の反発は伊華雌の予想を越えていた。小さな体におさまりきらない感情に翻弄(ほんろう)されて地団駄(じたんだ)を踏んでいた。

 何か、理由があるのだと思った。

 

〝武ちゃん、仁奈ちゃんがアイドルになった理由、訊いてみようぜ〟

 

 武内Pは頷いた。しゃがんで仁奈と目線をあわせ、質問する。

 

 ――どうして、市原さんはアイドルになったんですか?

 

 仁奈は、たどたどしい子供の言葉で、身振り手振りを加えて必死に、アイドルの世界にとびこんだ経緯を説明した。

 

 それが、答えだった。

 ライブで笑顔になれないのも、当然の結果だった。

 

「市原さんは、お母さんをライブに招待したいのだと思います。しかし、お母さんをライブに呼ぶのは難しいようです」

 

 ――ライブに来てくれない母親をライブ会場に呼ぶにはどうするか?

 

 伊華雌と武内Pが議論を交わしてたどり着いた結論は――

 

「ライブが、お母さんのところへ行くのはどうでしょう?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

「LMBGでパレードに参加?」

 

 武内Pは仁奈の手を引いて第三芸能課のドアを開け、米内(よない)Pに企画の相談を持ちかけた。

 

「仁奈さんのライブをお母さんに見てもらうにはこれしかないんです。こちらから、仁奈さんのお母さんの元へ向かうしかないんです。なので――」

 

 よろしくお願いします……ッ!

 

 武内Pが頭を下げて、仁奈も「おねげーします」と言って頭を下げる。伊華雌も頭を下げる感覚を思い出しながら、米内Pの顔に少年みたいな笑みが浮かんでくれることを祈る。

 

「うーん、どうだろうなあ……。今からだと、あまり時間が無いからなあ……」

 

 仁奈の住んでる団地の近くをハロウィンパレードが通過する。このパレードに参加する形でLMBGのライブをねじ込む。パレードは仁奈の団地のすぐ近くを通るので、ベランダからでも見ることができる。〝負担になる〟という言い訳は通用しない。ベランダに出ることすら拒絶するのであれば今度こそネグレクトギルティの容疑でセクシーギルティがドアをノックする。

 

 起死回生(きしかいせい)の名案だと思ったが、その時期に問題があった。

 

 ハロウィンパレードの開催は二週間後に迫っており、時間がなかった。当然ながら一般応募は締め切っており、市の担当者に頭を下げて参加させてもらえるように交渉した。人気アイドルが無償でパレードに参加すると聞くなり市の担当は笑顔で了承してくれたが、第三芸能課のアイドル達の協力を望めなければ企画は失敗である。

 

「あの……」

 

 渋面(じゅうめん)合戦(がっせん)を繰り広げるプロデューサーの間に甲高い声が割って入った。

 

「ハロウィンパレード、千枝は、賛成ですっ!」

 

 佐々木千枝が、米内Pと武内Pを交互に見上げて首を縦に振って見せる。

 

 ――それが、合図だった。

 

 もしかしたら、リーダーの意思表示を待っていたのかもしれない。第三芸能課のアイドル達が、一斉に――

 

「かおるも賛成でーっ!」

「パレード、みりあもやるーっ!」

「ひょう君も、一緒にパレードできますか~」

「ねえ、パパも仮装すれば一緒にパレードできるんじゃない!」

「さすがにそれはダメだろ。でも、サッカーボールを仮装に組み込むのはできそうだな」

「じゃあ、結城さんはデュラハンなんていいんじゃないんですか? 私は魔導師がいいです。以前やったことがあるので」

「あら、ありすさん乗り気ですのね。仮装なんて子供っぽい、とか言いそうですのに」

「ハロウィンは歴史のある行事ですから。あと、ありすじゃなくて――」

 

 子供達は噴火した火山の勢いで盛り上がり、次から次へと話題が爆発してとまらない様子はさながら火のついた火薬庫のようで、小さな体にみちあふれるエネルギーに伊華雌は圧倒された。

 

「みんな落ち着け! 今、大事な話をしてるんだから静かにしてくれ!」

 

 学校の先生を思わせる小さなプロデューサーに、しかし子供達は怯まない。

 

「あんたがグズグズしてるからアタシ達が背中を押してあげてるんじゃない!」

 

 的場梨沙が勝ち気な仕草で長いツインテールを振って米内Pを睨む。

 

 この子、子供とは思えないな……。

 

 気の強さを強調するような目付きと威圧的な豹柄(ひょうがら)のファッションに伊華雌は萎縮(いしゅく)してしまう。例え相手が小学生女児であろうともギャルを思わせる強気な態度は怖かった。

 

 だから――

 

 伊華雌は千枝を絶賛していた。千枝ちゃんは素晴らしい。仁奈ちゃんのために毅然(きぜん)とした横顔を見せる優しさは〝リーダーだから〟という理由だけではないだろう。まだ小学生であるはずなのに、何故だろう、その優しさに母親を思い出してしまう。

 

 これが、バブ()ってやつか……ッ! 千枝ちゃんママにオギャリたいだけの人生だった……。

 

 優しい気持ちで千枝を眺めて紳士の階段を駆け上がる伊華雌だったが、視界の端でツインテールがクルンと揺れて――

 

「何見てんのよロリコン!」

 

〝ひぃっ! ごめんなさいっ!〟

 

 反射的に謝ってしまったのは人間だった頃の習性である。自分がマイクであることを思い出した伊華雌は、恐る恐る武内Pを見上げた。

 

 大丈夫かな? 泣いてないかな?

 

 武内Pは、熊のような巨躯(きょく)と対照的に繊細な心を胸に秘めている。些細(ささい)な言葉で傷ついてしまう砂糖細工のような心を持っている。だからその、ロリコン呼ばわりされると泣いちゃうかもしれないからやめてさしあげて……ッ!

 

「千枝、気を付けなさい。コイツ、あんたのことじっと見てたのよ。きっとロリコンよ!」

 

「……そうなん、ですか?」

 

 武内Pを見上げる千枝が、一歩引いた。

 

 ――怯えた表情で後退り。

 

 きっと、武内Pのライフは既にゼロだろう。〝子供はお前のこと嫌いだけどな!〟が答えの連想クイズを彷彿(ほうふつ)とさせる光景に伊華雌は心が痛くなった。

 

 何だよこの子供たちは……。いつもいつも武ちゃんのライフをゼロにしやがって。外見が恐いからって勝手に怯えて……、人を外見で判断してはいけませんって学校で習わなかったのか! 〝泣いた赤鬼〟を100回朗読して教訓を胸に刻みつけろ!

 

 伊華雌は心で泣いて、武内Pは実際に泣きそうで、そんな二人を救ったのは――

 

「武内プロデューサーは、悪い人じゃねーです!」

 

 市原仁奈が、武内Pをかばって梨沙と対峙する。

 

「武内プロデューサーは、仁奈を助けてくれやがるんです。だから、イジメないでくだせーッ!」

 

 小さな体を振り絞るように声を張り上げて、それはきっと梨沙の心に届いたのだろう。鋭い目付きが、若干緩み――

 

「別にイジメてるわけじゃないわよ。警戒してるだけよ。だってこんなにデカイから――」

 

「でっかくても武内プロデューサーはやさしーです! 森の熊さんみてーなもんですッ!」

 

「もう、分かったわよ……」

 

 梨沙が降参の手しぐさをして、他のアイドル達が笑った。武内Pとキッズアイドル達の間にある壁が、少しだけ薄くなったような気がした。

 

「それで、ハロウィンパレードはやるんですか? やらないんですか?」

 

 橘ありすがもどかしげに口を挟む。興奮の朱色を滲ませる白い頬に彼女の気持ちが透けて見える。

 

「いやだから、日程的に……」

 

 ガリガリと後頭部をかく米内Pに、キッズアイドル達が集中砲火を――

 

「かおる、やりたい! やりたいやりたいやりたいッ!」

「みーりーあーもーやーるーッ!」

「ひょう君、ハロウィンぺろぺろ~」

「さっさと決めなさいよ! だからあんたはダメなのよ! パパだったら――」

「サッカーボールを首にして、デュラハンの格好でリフティングをしながら……」

「プロデューサーが決められないなら多数決で決めましょう。民主主義です」

「ありすさん、すっかりその気になってまして」

「プロデューサーの決断力の無さに失望しているだけです。あと、ありすじゃなくて――」

 

「だーもー、分かった、分かったからッ!」

 

 もはやごり押し以外の何でもなかった。子供たちに囲まれて要求と罵倒の波状攻撃をくらった米内Pはたまらずパレードの参加を認めた。

 

 歓声が、爆発した。

 

 あれがやりたいこれがやりたいと口々に盛り上がる子供達の声で第三芸能課の事務所は今にも破裂してしまいそうだった。

 

 子供のエネルギーって、すげえ……。

 

 伊華雌は、すっかりげっそりしていた。そもそも、持っているエネルギーの量が全然違うのだと思った。子供に合わせたいのであれば、手こぎボートでモーターボートと競争して勝利するくらいの気合いとエネルギーが必要なのだと思った。

 

「……と言うことで、第三芸能課はハロウィンパレードに賛成、というかすっかりその気になってるんだけど」

 

 米内Pの視線を受け取った武内Pは、その気持ちを大きな手に作った拳に表現して――

 

「よろしくお願いします。企画の実現に向けて、全力で――」

 

「ねえ、アンタ」

 

 武内Pと米内Pが同時に振り向く。

 

「デカイほう。小さいほうじゃなくて」

 

 的場梨沙はわなわなと震える米内Pに〝してやったり〟な笑みを投げて、そしてじっと、武内Pを見上げて――

 

「うちのプロデューサー、あんまし頼りにならないから、アンタがなんとかしてちょうだいね。アンタは、まあ、少しは頼れそうだから。パパには遠く及ばないけど」

 

 的場梨沙の勝ち気な笑みに、武内Pは真剣な眼差しでこたえる。

 

 根回しは完了した。

 しかし、まだ企画を実現させることはできない。

 まだ、突破すべき関門が残っている。

 それは――

 

 プロデューサー会議。

 

 346プロの全プロデューサーが一堂(いちどう)(かい)し意見をかわす会議という名の戦場である。全てのプロデューサーからの砲火をかいくぐり企画を通さなければハロウィンパレードは実現しない。

 

 しかし――

 

 プロデューサー会議の議長は美城常務である。すでに事情を知っている彼女は、きっとシンデレラプロジェクトの味方をしてくれると思った。彼女が援護してくれるなら、企画を通すのは容易だと思った。

 

 伊華雌は、美城常務に逆らうプロデューサーなど、存在しないと思っていた。

 

 実際に、その瞬間を目撃するまでは……。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 プロデューサー会議は週に一回のペースで行われる。

 

 ――有能な者は評価する。学歴も職歴も関係ない。

 

 美城常務の信条を証明するかのように、この会議では全てのプロデューサーに発言権が与えらる。入社したばかりの新人であっても企画の立案に挑戦できる。先輩プロデューサーからの指摘に屈することなくプレゼンをやり遂げ、美城常務の笑みを勝ち取ることが出来れば企画が現実のものとなる。それを成功させて有能であると判断されれば、プロデューサーとしての評価を大幅に飛躍させることができる。

 

 ただひたすらに〝実力主義〟なのである。必要な企画であると評価されれば、採用してもらえるのである。

 

 だから、大丈夫だと思っていた。

 だってこの企画は、市原仁奈を笑顔にするためには絶対に必要な企画だから。

 

「会議を始める。立案者は挙手(きょしゅ)を」

 

 着席するなり美城常務はプロデューサー達へ横なぎの視線を送った。

 いつも、この調子である。

 無駄を嫌う美城常務は、挨拶も抜きに会議を始め、意見がなければ席を立つ。会議時間の最短記録は三分である。

 

「シンデレラプロジェクトから、企画を提案します」

 

 武内Pが挙手をした。意外な展開に眉をひそめるプロデューサー達を尻目に美城常務は笑みを浮かべる。

 

 ――待っていた、聞かせてみろ。

 

 そんな声が、聞こえるような表情だった。やはり、シンデレラプロジェクトの発案者である美城常務は味方なのだと思った。

 

 ――勝ったと、思った。

 

 議長である美城常務を味方につけているのである。それはもう、審査員を買収したオーディションのようなものである。どうしようもない失態でもおかさないかぎり、勝利は約束されたようなものである。伊華雌はあぐらをかく感覚を思い出しながら、企画のプレゼンをすすめる武内Pを見守っていた。

 

 このまま、企画が通ると思っていた。

 障害は何もないと思っていた。

 

「ちょっと、いいですか?」

 

 武内Pのプレゼンが中断された。

 茂みに潜むスナイパーに銃撃された歩兵のように、武内Pは唖然(あぜん)とする。それは伊華雌も同じ気持ちで、まさかの光景に目を疑う。

 

「この企画、私は反対です」

 

 武内Pに宣戦布告を入れてきたのは――

 

 赤羽根Pだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第7話

 

 

 

「一般市民が参加するパレードに、どうしてアイドルを出さなければならないのか? 依頼されたならともかく、どうして自主的に参加しなければならないのか? 理由を説明してもらいたい」

 

 プロデューサー会議の場で淡々と発言する赤羽根Pが冷酷な殺し屋に見えた。企画の説明を受けてすぐその急所を攻撃して、しかし涼しい顔をしている(さま)が非情な殺し屋に見えた。

 

 その一撃に、顔つきだけは殺し屋な武内Pは硬直する。

 反論は想定していた。

 反撃の言葉も用意し備えは万全であるのに、しかし武内Pは口を開かない。

 

 もしかしたら、ショックだったのかもしれない。同僚として仲間意識を持っている赤羽根Pからの一撃は、彼の繊細なガラスハートを粉砕するに充分だったのかもしれない。

 

 だから――

 

 伊華雌(いけめん)は声を荒げる。弱気になった相棒の、頬を叩いて気合いを入れてやるように――

 

〝武ちゃん! やりかえせ! 仁奈ちゃんの笑顔のためにッ!〟

 

 武内Pの、目がすわった。頼もしい殺し屋の視線を赤羽根Pへ照射して――

 

「今回の企画は、シンデレラプロジェクトの発案になります。皆さんもご存じの通り、シンデレラプロジェクトはアイドルを救済するための部署です。この企画の目的は、アイドル市原仁奈の救済であり、金銭的な利益は度外視しています」

 

 ざわざわ、という擬音をあてるべき喧騒が会議室に広がっていく。美城常務をのぞく全てのプロデューサーが、首をかしげたりうなったり、それぞれのやり方で理解不能を主張する。

 

「話に、なっていないな」

 

 赤羽根Pは、戦う必要は無いと呆れる半笑いで――

 

「武内、ここは学校じゃないんだぞ? 調子の悪いキッズアイドルのためにボランティアでパレードに出場する。それは結構な話だが他所でやってくれ。芸能プロダクションが会社の経費を使ってやることじゃない」

 

 その反論は、想定内。まだ、戦える。

 

「このパレードは、市内最大の規模を誇ります。そこにLMBGを参加させることにより、その存在を宣伝出来ます。宣伝効果で、将来の収益が期待できます」

 

 何人かは、頷いてくれた。

 しかし、大多数のプロデューサーは渋面のままで、その気持ちを代弁するかのように赤羽根Pが――

 

「LMBGは346プロでも屈指の人気ユニットだ。単独でアリーナを埋められる程の人気がある。それだけの知名度がある。今さら市民パレードに参加したところで、収益増加につながる知名度上昇を期待できるとは思えない。パレードをやりたいのであれば、アリーナを用意して、ライブとしてやるべきだ」

 

 結局のところ、この企画の穴を埋めることは出来なかった。

 赤羽根Pの指摘通り、LMBGに今さら宣伝は必要ないし、アリーナでパレードをやれば相応の収益が期待できる。

 

 ――はっきり言って、もったいないのだ。

 

 単独でアリーナを埋められる人気ユニットを参加無料の市民パレードに参加させるのは、学生の演劇にハリウッド女優を起用するに等しい愚行なのだ。この企画の意義は〝市原仁奈を復活させること〟であって、それが唯一の報酬であって、あとはデメリットしかないのだ。なので、徹底的に反論されると、論破される。援護を期待した美城常務も、黙して傍観に徹している。

 

「しかし……、その……」

 

 もう、論理的な反撃は不可能だった。武内Pは、追い詰められたネズミが断末魔の叫び声をあげて猫に歯を立てるように――

 

「市原さんの笑顔を取り戻すには、必要な企画なんです……ッ!」

 

 その悲痛な言霊は、しかし赤羽根Pの表情を崩すに至らない。

 

「芸能の世界で脱落者が出るのは仕方の無いことだ。むしろ、メンバーが脱落したことによってLMBGの士気がさがらないように気を配るほうが有益だとオレは思う」

 

 ――完全勝利。

 

 そんな言葉がふさわしい光景だった。武内Pの最後の言葉にまできっちりと反論し、ぐうの音が出ないことを確認して会議を終わらせる。

 

 これで会議が終わっていたら、赤羽根Pは完全勝利を収めていた。

 しかしプロデューサー会議はある種の戦場であって、敵は一人とは限らない。

 

「意見、いいですか」

 

 赤羽根Pと武内Pの間に割って入ったのは――

 

「第三芸能課の米内(よない)です。武内君の企画について、補足させていただきたい」

 

 伊華雌の筋書きに無い展開だった。武内Pも、予想外の援護射撃に呆然とする兵隊みたいな顔をしている。

 

「武内君の企画は346プロに利益をもたらさないと指摘されていますが、果たして本当にそうでしょうか? 他の皆さんも、赤羽根君の意見に同意しているのでしょうか?」

 

 米内Pは、無言による肯定を、まとめて捻り潰そうとするかのように――

 

「この企画は、346プロに多大な利益をもたらします」

 

 米内Pが立ち上がる。威圧感は、まるで無い。彼は背が低いので、立ち上がると子供っぽさが強調されてしまうのだが、だからこそ妙な説得力を持っていた。キッズアイドルの気持ちを理解するにかけては彼の右に出るものはいないのだと、視覚的に強調する効果があった。

 

「現状、市原さんはアイドル活動の継続が難しい状態です。武内君の企画は、市原さんをアイドルとして生き残らせることの出来る最後の可能性だと思います」

 

「それは――」

 

 口を挟もうとした赤羽根Pの、しかし機先を制するように米内Pは言葉を被せて――

 

「先ほど、赤羽根君は市原さんのアイドル活動を諦めて、彼女が脱退することを前提に、他のメンバーのフォローに力を入れたほうがいいと言いましたが、その発想はLMBGが〝子供〟のユニットであることを考慮できていないと思います」

 

「……どういうことですか?」

 

 意見を否定されて不愉快なのか、赤羽根Pの口調に露骨なトゲがあった。微かな笑みを口元に残してはいるが、忙しなく机を叩く人差し指に隠しきれない苛立ちが表れていた。

 

「子供たちは、とても共感力が強いんです。一人が泣いたらつられて泣いてしまったり、一人が騒ぎだしたらつられて騒いだり。大人と違って感情のコントロールが上手く出来ないんです」

 

 そんな、子供たちだけで構成されたユニットから脱落者が出てしまったらどうなるか?

 

 ――芸能の世界はそういうものだから仕方がない。

 

 果たして、赤羽根Pの冷たい言葉が役に立つのだろうか? 仁奈の抜けたLMBGを、それでも笑顔で行進させられるだろうか?

 

「俺は、自信ないですよ?」

 

 米内Pは、ナイフを喉元へ突きつけて脅迫するかのような目付きで赤羽根Pを見据えて――

 

「市原さんの窮地を知りながら見捨てるようなことをして、それでもLMBGを今まで通りに活動させる自信はありません。最悪――」

 

 ――ユニットの解散もありえます。

 

 会議室が、静まりかえった。

 

 誰もが、軽く考えていた。アイドルが一人脱落することを、額面通りに受け取っていた。

 失うのは、一人だけだと思っていた。

 

 しかし――

 

 失うのは一人のアイドルではなく、一つのユニットであるかもしれないと強い口調で言い切られて、もはや顔面蒼白だった。胃潰瘍かと思ったらガンだった、そんな告知をうけた患者のように、ショックを飲み込む時間を必要とした。

 

「これは、市原さん個人ではなく、LMBG全体を救うための企画だと考えてください。それなら、やるだけの価値はあるのではないでしょうか?」

 

 もはや、反対意見は出なかった。

 プロデューサー達は沈黙をもって武内Pの企画を認めた。

 赤羽根Pも、それ以上反対意見をあげることはしなかった。小さなため息をもって不本意を主張して、早くこの場から立ち去りたいと言わんばかりに腕時計へ視線を落とした。

 

 ――どうだ赤羽根! 武ちゃんと俺、そして米内さんの逆転勝利だ!

 

 伊華雌は逆転満塁ホームランを打つ感覚を思い出そうとして失敗した。そんな感覚、伊華雌の記憶に存在しなかった。運動音痴な伊華雌はデッドボールでしか出塁した経験がなく、ボールが腹に刺さる感覚を思い出して悶絶した。

 

「他に反対意見がなければ武内の企画を採用する」

 

 美城常務の視線に応じて反対の意を示すプロデューサーはいなかった。全てのプロデューサーの意思を確認した美城常務は、武内Pへ視線を向けて――

 

「成果を、期待する」

 

 社交辞令、というわけでもなさそうだった。美城常務の口元を飾る微笑が、以前のそれから変化しているような気がした。武内Pにシンデレラプロジェクトを任せた時は、戦力外通告をうけた野球選手を仕方なく励ます監督のような生ぬるい笑みを向けていたが、今は急激に成長してスタメン入りが見えてきた高校球児の背中を叩く監督のような笑みを向けている。

 

 佐久間まゆの再プロデュースに成功して、多少なりとも信頼を勝ち取れたのかもしれない。

 だとしたら、案外に近いのかもしれない。

 

 武内Pが、島村卯月の担当に復帰するのも。

 そして伊華雌が、島村卯月の担当マイクに――

 

〝うぉぉおお――、絶対に成功させてやるぞぉぉおお――ッ!〟

 

 伊華雌は、自分が卯月のマイクになった光景を妄想し、ほとばしる下心を絶叫という形で放出した。それはつまり、高まった欲望に興奮した結果であって、誉められる要素など何処にもありはしないのだが、武内Pはスーツのポケットに収まる伊華雌へ視線を投げて、勇ましい笑みと共に頷いてくれた。

 

 ――きっと、勘違いしたのだ。

 

 伊華雌の欲望にまみれた薄汚い咆哮(ほうこう)を、企画の成功に向けて気合いを入れる掛け声だと勘違いしてしまったからこそ、戦友に向けるべき笑みを向けてしまったのだと思った。

 

 伊華雌は欲望に支配されてしまった自分を罵倒し、ハロウィンパレードの成功を武内Pの勇ましい笑みに誓うのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「市原仁奈の母親についてはこちらで話をつける。パレードまではアイドル活動を続けられるようにする」

 

 美城常務は協力的だった。考えるだけで胃が痛む感覚を思い出してしまう仁奈の母親との交渉を自ら買って出てくれた。もしくは、前回怒らせたばかりの武内Pを再びマッチングするのはさすがに無謀と思ったのかもしれない。

 その無表情から本心を読み取るのは無理ゲー過ぎるので真相はヤミノマであるが、とにかく立ちふさがる障壁が一つ無くなって伊華雌は安堵の吐息をつく感覚を思い出した。

 

 ――そもそも、この企画には障壁となる懸念事項が多いのだ。

 

 シンデレラプロジェクトが難易度ナイトメアの無理ゲー部署だと、覚悟はしていた。しかし実際に立ち向かってみると、次から次へと困難が立ちふさがって嫌気がさしてくる。人間だった頃の自分ならとっくに尻尾を巻いて逃げていた。

 

 ――何で、こんなに頑張れてんだろ……。

 

 ふと自問する伊華雌に、俺が答えだと言わんばかりのタイミングで――

 

「あと、少しですね」

 

 地下へ向かうエレベーター。人目をはばからずに嬉しそうな笑みを浮かべる武内Pに、伊華雌は思う。

 

 ――この笑顔の、ためかもしれない。

 

 もちろん、担当アイドルの笑顔が最大の報酬であるが、前世から通算して初めて出来た〝友達〟の笑顔もまた大きな報酬なのだと伊華雌は思う。

 

 ――だから、頑張れる。

 

 自分のためじゃなくて、誰かのためだから頑張れる。使い古された薄っぺらいテーマだと生前はバカにしていたが、武内Pのプロデュースを本気で応援してしまうのは、つまりそういうことだろうか?

 

 ――いや、俺は、卯月ちゃんの担当マイクになるために頑張ってるだけだしっ!

 

 自分の中にあるかもしれない気恥ずかしい感情を否定するために、伊華雌は初心を思い出してそれを口にする――

 

〝まゆちゃんに続いて仁奈ちゃんのプロデュースも成功させたら、いよいよ卯月ちゃんの担当に戻れるかもな!〟

 

 エレベーターが地下二階に到着した。

 扉が開き、しばらく開放し、そしてまた扉が閉ま――

 

〝武ちゃん! 降りないと!〟

 

 武内Pは慌ててエレベーターをおりて、首の後ろに手を伸ばした。

 

〝どったの? 急にぼーっとしちゃって?”

 

「いえ、その――」

 

 言われるまで、島村卯月の担当を目指していることを忘れていた。

 

 武内Pは、どうしてそんな大事なことを忘れていたのかと自問するように首の後ろをさわっていた。

 伊華雌は、しかし不思議に思わなかった。

 

 武内Pは、真面目だから。目の前のことに全力だから。

 だから今は、市原仁奈のプロデュースしか頭にないのかもしれない。

 

〝武ちゃんは、それでいいと思う〟

 

「……えっと、それはどういう?」

 

 首をかしげる武内Pに、説明する必要はないと思った。

 今のまま、ひたすら真面目にプロデュースを重ねていけば、いつか必ず島村卯月のプロデューサーに戻れる日が来ると思ったから。

 

 成果を出すのに時間がかかるかもしれない。

 けど、いつか必ず成果が出せる。

 

 武内Pのプロデュースは、歩み遅くとも確実に成果をだせるプロデュースであり、関わったアイドルがみんな笑顔になれるプロデュースである。

 

 だから――

 

 成果はまだ、先でいい。

 島村卯月の担当に返り咲くまで、目の前のことをゆっくりと、しかし確実にこなしていればいいと思った。

 

 ――そんな風に思っていた伊華雌だが、しかし事態は急変する。

 

 地下室への階段を降りた武内Pの、表情が変わる。ただでさえ強面な彼が表情を強張らせて、その横顔はもはやターミネーターのようで、しかし伊華雌も同じ表情を作りたかった。

 だって、シンデレラプロジェクトの扉に背を預けて武内Pを待っていたのは――

 

 赤羽根P。

 

 ついさっき会議の場で真っ向から意見を戦わせたばかりの、言わば戦争中の敵司令官のような存在が、友好的にしか見えない笑みを浮かべている。仮にも舌戦に敗れたばかりで、心中は穏やかでないはずなのに。

 

「ちょっと、話したいことがあるんだ」

 

 やはり、友好的である。会議室であったことは夢か幻なのではないかと思ってしまうくらいの笑みで、しかし正確に武内Pの急所を狙って――

 

「武内、島村卯月の担当に戻る気はないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第8話

 

 

 

 うまい話には裏がある。

 

 その教訓を教えてくれようとしているのかと思った。もはや裏があることに疑いの余地はないほどに、赤羽根Pの話は出来すぎていた。

 

「島村さんの担当になるかどうか、決めるのは美城常務ではないのでしょうか?」

 

 さすがの武内Pも表情を緩めない。同期入社の同僚であるから露骨な態度は取りたくないのかもしれないが、しかし彼は不器用だから、全て表情にあらわれている。

 今の武内Pの表情は、まるで容疑者を睨む刑事のように剣呑(けんのん)だった。

 

「美城常務が全ての裁量を握っているわけじゃない。少なくとも、島村卯月に関しては担当のオレが多少の裁量を任されている」

 

 だからと言って別の部署のプロデューサーを担当にすることはさすがに不可能だと思う。うまい話のメッキがすでに剥がれはじめているんですが……ッ!

 

 伊華雌は、もはやはったりだと思っていた。優秀すぎるあまりに己を過信して、出来ないことを出来ると言ってしまったのだと思ったが――

 

「プロジェクトクローネに来ないか、武内。お前にその気があるのなら、美城常務はオレが説得してみせる」

 

 赤羽根Pは、やはり優秀だった。

 武内Pを島村卯月の担当に戻すことが出来るのだと、一言で証明してみせた。

 

 確かに、武内Pが赤羽根Pの部署に入れば、そこのリーダーである赤羽根Pの一存で担当アイドルを決めることが出来るだろう。優秀な武内Pを、第一線で活躍するプロジェクトクローネへ移籍させるのは会社としても有益なことであるから、美城常務は文句を言わずに認めてくれるかもしれない。

 赤羽根Pの差し伸べた手を掴むだけで、どん底のシンデレラプロジェクトから、1軍でエースのプロジェクトクローネへ移籍できる。しかも、島村卯月の担当を約束されて!

 

 実に、うまい話である。

 これは絶対に、裏がある。

 

 思うも、伊華雌は何も言えない。これは武内Pにとって大きなチャンスである。それを握り潰す権利なんて、自分には無いと思った。武内Pが、自分の判断で決めるべきだと思った。

 

「……自分は、プロデュースの方針を、変えるつもりはありません」

 

 武内Pの回答に伊華雌は思い出す。彼は対人コミュニケーションスキルに難があるだけで、基本的には優秀な人であるのだと。例えるなら感度の悪いクソマウスを接続された高性能パソコンのようなものであり、物事を理解する速度は伊華雌を遥かに(しの)いで余りある。

 

「オレは、トッププロデューサーになりたいと思っている。そのためには、346プロにトッププロダクションになってもらう必要がある」

 

 赤羽根Pの回答もまた伊華雌の理解速度を遥かにこえていた。高性能な頭脳をもったプロデューサー二人のやりとりは、例えるなら廃人ゲーマー同士の対戦格闘のようなもので、凡人たる伊華雌には状況を把握することすら困難だった。アホ(づら)を作る感覚をもて遊ぶことしか出来なかった。

 

「自分は、シンデレラプロジェクトの担当になって、自分がしたいプロデュースの形を、発見することができたんです。〝信念〟と呼べるものを、持つことができたんです」

 

 とっておきの伏せカードを発動させるデュエリストの表情で声を大にする武内Pを見て、ようやくと伊華雌は理解する。

 

 ――つまり、赤羽根Pは武内Pを懐柔しようとしたのだ。

 

 美城常務に口を利いて島村卯月の担当に戻す代償として、プロジェクトクローネの一員になってもらう。当然、プロデュースの方針は赤羽根Pのそれに従うことになる。アイドルの笑顔よりも利益を優先するプロデュースを強要される。

 

 ――だから、拒絶した。

 

 武内Pは、あくまでもアイドルの笑顔を優先したいがために、島村卯月の担当という目のくらむようなご馳走を前に席を立ったのだ。

 

「……そうか、分かった」

 

 赤羽根Pは、笑顔の仮面は剥がさずに、武内Pの脇を抜けて階段へ向かう。

 

「正直、お前とはあまりやり合いたくないんだけどな……」

 

 笑顔の仮面に隠されたその本心を見抜くことは難しい。同期の同僚に対する人情なのか、それとも厄介な邪魔者に対する嫌悪なのか。赤羽根Pの本心は分からないが、舌を出す感覚でもってスーツの背中を見送った。

 彼は間違いなく優秀で、とても要領が良いプロデューサーなのだろうけど、意見を戦わせた相手をすぐに懐柔しようとする根性が気にくわなかった。

 

 しかも、その餌に、島村卯月を使うとか……ッ!

 

 島村卯月の担当になれると聞いただけで思考停止して(うれ)ション余裕のマイクだっているんだぞ! 一瞬でも担当マイクになれると思って溢れた妄想をどうしてくれるッ!

 

 伊華雌の中で燃える見当違いな怒りは、しかし武内Pの謝罪によって鎮火する――

 

「島村さんの担当になれるチャンスだったのに、勝手に断ってしまって申し訳ありません……」

 

 腰を折って頭をさげる武内Pに、伊華雌は慌てて――

 

〝何あやまってんだよ武ちゃん! 謝ることなんて何もないだろ!〟

 

「いえ、あります。突然のことで、反射的に対応してしまいましたが、マイクさんに相談するべきでした。だって、マイクさんと自分は、共に島村さんの担当を目指す――」

 

 相棒ですから。

 

 照れ臭くてとても口に出せないような台詞を武内Pは真面目な顔で言ってくれる。

 

 ――それだけで、充分だった。

 

 少なくとも今は、こうして武内Pとアイドルのプロデュースをしているだけで伊華雌は満足だった。島村卯月の担当は、そりゃもちろんなりたいけど、でも、もっと先でいいと思った。

 

 だから――

 

〝武ちゃん、安心しろ。俺も同じ気持ちだから。アイドルの笑顔を一番に考えるプロデュースで頑張りたいって、思ってるから! だから、謝る必要なんてない。そんなことより、今は仁奈ちゃんのプロデュースだ! そろそろ学校終わる時間なんじゃね〟

 

 武内Pは腕時計を見て、頷いた。

 シンデレラプロジェクトの地下室に入り、ハロウィンパレードの準備に取りかかる。

 

 ――今は、これでいい。

 

 忙しなく働く武内Pを見て思う。ふってわいたチャンスを逃したことについて、惜しいと思っていないと言えば嘘になるが、目の前の仕事を地道にこなしていくのが正しい道のりであるような気がした。たくさんアイドルを笑顔にして、最終的に島村卯月の笑顔にたどりつけるのが正解であるような気がした。

 だから、今、笑顔にするべきなのは――

 

「プロデューサー! パレード、どうなりやがりましたか!」

 

 弾けるようにドアが()いて、赤いランドセルを背負った仁奈が部屋に飛び込んできた。仔犬のように息を弾ませて、じっと武内Pを見つめる。

 

「美城常務の、許可を頂くことが出来ました。パレードは、実現できます」

 

 武内Pが頷いてみせると、仁奈はその場で跳ねてウサギパーカーの耳をぱたつかせて――

 

「これで、ママにアイドルの仁奈、見てもらえますね! そしたら――」

 

 そう、今は目の前のアイドルを笑顔にすることだけを考えていればいい。そうすれば、きっと、いつか――

 

 伊華雌は島村卯月に対する未練を打ち払い、ハロウィンパレードの成功に向けて意識を集中させた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「本番まであまり時間がない。容赦なくしごいていくから覚悟しろ!」

 

 腕を組んで激を飛ばすベテラントレーナーに子供達はひるまない。有り余る活力を返事に込めてトレーナーを満足させる。

 

「いい気合いだ。よし、じゃあ早速――」

 

 ハロウィンパレードに向けて第三芸能課とシンデレラプロジェクトの合同レッスンが始まった。もっとも、シンデレラプロジェクトから参加するのは仁奈と佐久間まゆだけなので、実質はLMBGにまゆが参加する形である。

 

 ダンスシューズを走らせてレッスンルームの床を鳴らすアイドル達を伊華雌と武内Pは呆然と眺めていた。

 ハロウィンパレードに向けての準備が終わり、やることが無くなってしまった。プロデューサーの仕事量は所属アイドルに比例するから、二人しか所属していない時点で隙あらば暇になってしまうのは仕方ないのだが――。

 縁側(えんがわ)(ほう)けているじいさんみたいにアイドルを眺めて時間を浪費するのはいかがなものかと思った。もちろん、ご褒美である。トレーナーの号令に尻を叩かれたアイドル達がシューズをすり減らし、激しい動きをするたびに宝石のような汗が散り、それが着床するたびに〝床に転生してぇ……〟とか思って悦に入るのは至上の喜びであるが、それとは別の感情が伊華雌の中に焦燥感を(つの)らせる。

 

 こんなにぼーっとしてていいのか? 何か、やれることはないのか?

 

 結局、振りきれてなかったのだと思う。〝島村卯月の担当〟が目の前を通過して消えて、それはまさに大物を逃した釣り師の心境で、彼女に近づくために何かをしていなくては落ち着かない状態だった。

 

「かおる、お腹すいたーっ!」

 

 龍崎薫がクルクルと回りながらその場に転がる。それをきっかけに他のキッズアイドルたちも空腹を訴えて騒ぎ始めた。時間は夜の八時を回っている。確かに、空腹を感じる時間である。

 

 そして、伊華雌はひらめいた。

 ボケたジジイみたいに呆けて時間を持て余してる自分にも出来ることがある。

 

 伊華雌は、お腹すいたを繰り返す子供たちを眺めて首の後ろをさわる武内Pに訊ねる――

 

〝武ちゃんって、料理得意?〟

 

 

 

 * * *

 

 

 

 346プロ社内カフェ〝メルヘンチェンジ〟は夜の七時に営業を終了する。

 理由は〝ウサミン星が遠いから〟である。

 店長である安部菜々の通勤時間を考慮して、夜の営業は控えている。また、夜に営業するとアルコールを要求するギルティなお姉さんが集まってしまうので店を閉めている、という説もある。

 試しに夜間営業したところ、勝手に酒を持ち込んだ片桐早な――某アイドルがいて、それを注意しようとした安部菜々17歳が飲まされて酔わされて終電ブレイクしてウサミン星へ帰れなくなってしまったという悲劇があったとかなんとか。

 

 ともかく――

 

 夜間営業していないならキッチンを使わせて欲しいという武内Pの申し出は問題なく許可されて、〝子供たちに差し入れ大作戦〟の舞台が整ったわけである。

 

〝最初は基本的なとこで、おにぎりを作ろうぜ! おにぎりなら、レッスンの合間にも食べやすいし!〟

 

 その時点で、兆候はあった。

 何故、おにぎりを作ろうと言っただけで、武内Pの表情が強張ったのか。

 何故、ハンドルを握ったペーパードライバーみたいに冷や汗をかきはじめたのか。

 

「では、いきます……」

 

 武内Pは、炊きたてのアツアツご飯を睨み付け、その見るからに熱い熱湯風呂みたいなご飯の海に、両手をダイレクトアタック!

 

「あっつぅぅ……ッ!」

 

〝そりゃそうだよ! 炊きたてご飯に手え突っ込んだら熱いよ! バラエティの罰ゲームかよッ!〟

 

 声を荒げずにはいられなかった伊華雌に、武内Pは蛇口から流れる水で手を冷やしながら――

 

「実は、自分は、料理の経験が、まったく……」

 

 そう言われれば、武内Pが料理をしているところを見た覚えがなかった。いつも外食をしている。

 朝はたいていメルヘンチェンジの〝モーニングウサミンセット〟で、昼はたいていメルヘンチェンジの〝ウサミンランチセット〟である。

 ミミミンウサミンオムライスの一件以来、武内Pはメルヘンチェンジに通いつめており、〝いつものやつ〟でオーダーが成立するほどの常連になっていた。

 

 そして、伊華雌もまた、料理という概念を持たない人種だった。

 

 そもそも、実家暮らしである。血縁を疑う余地のない不細工な母親が、しかし栄養満点なご飯を用意してくれた。伊華雌に出来る調理など、インスタント焼そばの湯ぎりぐらいなものである。

 

 つまり、伊華雌と武内Pは〝料理とかむーりぃー〟な二人組みだった。

 

〝……誰かに、教えてもらおっか?〟

 

 自分と武内Pで試行錯誤したところで、完成するのは見るもおぞましい暗黒物質であるのは目に見えている。そんなものを差し入れとして提供したら――

 無邪気なハズの薫と仁奈が本気の嫌悪顔を作って、優しいはずの佐々木千枝から侮蔑(ぶべつ)の眼差しを向けられて、ありすと梨沙がタッグを組んで言葉のナイフで滅多刺し、ヒョウくんに噛みつかれて晴の蹴ったボールが顔面にゴールして櫻井家の私設軍隊に襲われてみりあも()るーッ!

 

 そのくらいの憎悪を発生させる物質を、きっと作り上げてしまう。

 だからここは、素直に助けを求めよう。

 

 五十嵐響子が理想だが、この際贅沢は言わない。料理と認識出来るものが作れる人なら誰でもいい。そもそも、おにぎり作るだけだし。

 

「千川さんに、頼んでみます」

 

 それが妥当だと、伊華雌も思った。きっと乙女な彼女なら、いつか武内君に作るため、という名目でお弁当の特訓を完了していてもおかしくない。

 

 しかし、千川ちひろに頼ると後が恐ろしいという問題が……。

 

 だって、絶対加速するもんまゆちゃんの()みが! 誰と作ったんですか……? とか言いながら至近距離で見つめてくるもん! それを必死にフォローする未来がすでに確定してますもん!

 

 それでも、伊華雌はちひろに助けを求めることに賛成した。キッズアイドルに差し入れ大作戦を成功させてパレードの成功に貢献出来るのであれば、()みに飲まれたまゆと恐怖の二者面談をすることぐらいどんと来いである!

 

〝よし武ちゃん。内線電話で千川ちひろを特殊召喚だ!〟

 

 武内Pがキッチンから出ようと振り返った瞬間――

 

「うわぁっ」

 

 キッチンの入り口で悲鳴があって、誰かが転ぶ音がした。

 

「あの、大丈夫、ですか?」

 

 キッチンから出た武内Pの、表情が固まった。それは伊華雌も同様だった。

 だって、キッチンの出入口で尻餅をついて転んでいたのは――

 

 制服姿の島村卯月だったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第9話

 

 

 

「自分に、おにぎりの作り方を教えてもらえませんか!」

 

 武内Pのリアクションは、光よりも速かったのではないかと伊華雌(いけめん)は思った。尻餅をついて見上げる島村卯月に対して差し出すべき言葉を、信じられない処理速度で弾き出していた。

 

 ……あんた、最高の相棒だよ!

 

 伊華雌は武内Pのファインプレーに感動の涙を流す感覚を思い出していた。伊華雌と武内Pは、島村卯月の笑顔に惚れた同志である。尻餅をついた島村卯月に遭遇したら、考えることは一つである。

 

 ――どうしたら、彼女と一緒にいられるか?

 

 そんな、片想い中の乙女みたいな思考回路を、少なくとも伊華雌はもっている。だから武内Pの言動を、スタンディングオベーションで絶賛したい気持ちだった。

 

 島村卯月と一緒にお料理出来るとか最高に最高だぜ! これって初めての共同作業じゃないですかやだぁぁああ――ッ!

 

 興奮する伊華雌はさておき、島村卯月は立ち上がり、ぱんぱんとお尻を叩き、最高の笑顔で――

 

「わたしで良ければ、お手伝いさせてくださいっ!」

 

〝いい笑顔なんじゃぁぁああああ――ッ!〟

 

 もう、叫ぶしかなかった。雑誌で、TVで、ポスターで、ずっと見ていた島村卯月の〝いい笑顔〟が至近距離で炸裂したのである。そんなの、至近距離でショットガンをぶっ放されたようなものである。そんなの死ねる。

 

「では、あの、お願いします」

 

 武内Pも嬉しそうである。一見、いつもの仏頂面と区別がつかないが、その口元の緩みを伊華雌は見逃さない。彼とずっと一緒にいる伊華雌は、些細な表情の変化から感情を読み取るスキルを身につけていた。

 

「よく、ママと一緒にお料理するんです」

 

 制服の袖をまくりながら話す卯月に伊華雌は新しい興奮を覚える。

 

 ママ……だとッ! 17歳にもなって母親のことをママ呼びとか――

 

〝可愛いんじゃぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌は、卯月に関する森羅万象が全て可愛く思えてしまって、その激情はとどまるところをしらなかった。

 

「わたし、ドジなんです。さっきも転んじゃって……」

〝ドジっ子可愛いぃぃいい――ッ!〟

 

「わたし、生ハムメロンが好きなんです」

〝生ハムメロン可愛いぃぃいい――ッ!〟

 

「生ハムおにぎりとかどうでしょう?」

〝生ハムおにぎり可愛いぃぃいい――ッ!〟

 

 もう、何でも良かった。狂信的な猫好きがウンコしてる猫見て可愛いとか言っちゃうように、それが島村卯月の言動であれば問答無用で可愛い認定されていた。

 

「……プロデューサーさん、元気そうで良かったです」

 

 手はおにぎりを握りながら、視線は手元を見たままで、その口元に、はにかむような笑みを作って――

 

「わたし、心配してたんです。武内プロデューサーさん、落ち込んで元気がなかったから……」

 

 武内Pの、おにぎりを握る手がとまる。

 

 ――ライブで事故があって、落ち込んだ卯月を励ますことが出来なくなって、担当から外れることになった。

 

 それ以上のことを、伊華雌は知らない。それはきっと、武内Pにとって完治していない傷であって、だから訊くことができなかった。武内Pのことを大切な相棒であり友人と思うからこそ、傷口をあけてしまうのが恐くて訊けなかった。

 

「……島村さんは、もう、大丈夫なのですか?」

 

 武内Pの大きな手が、おにぎりを強く握りかためる。

 卯月はしかし、おにぎりを転がす手をとめずに――

 

「はいっ。わたしはもう、大丈夫です。笑顔で、がんばれますっ。……だから、その、プロデューサーさんも笑顔で安心しましたっ」

 

「……笑顔、ですか?」

 

「えっと、そのっ、わったったっ」

 

 卯月のおにぎりが宙を舞った。しかし彼女はトップアイドルたる反射神経をもっておにぎりの危機を救う。床に落とさず、形も崩さずにおにぎりをキャッチして大皿に置くと、卯月は武内Pの方に向き直り――

 

「わたし、ずっと見てたんです」

 

 武内Pが卯月を気にするように、卯月も武内Pを気にしていた。佐久間まゆがそうであるように、自分をスカウトしてくれたプロデューサーというのは特別な存在であり、担当を外れても気になっていた。

 

「シンデレラプロジェクトへ異動になったって聞いた時は、びっくりして、すごく心配になって……」

 

 泣く子も黙る恐怖のシンデレラプロジェクトである。地獄への片道切符である。そんな場所へ自分をスカウトしてくれたプロデューサーが送られてしまった。いてもたってもいられなくなって、いっそのこと自分もシンデレラプロジェクトへ行こうかと思ったが――

 

「凛ちゃんにとめられました。――というか、怒られちゃいました。プロデューサーのことより自分のことを考えなよって」

 

 そういえばと、伊華雌は思い出す。まゆをプロデュースしていた時、赤羽根Pの部屋の前で凛と鉢合わせたことがあった。武内Pを睨んで、怒った声で――

 

 ――余計なこと、しないでよ!

 

「凛ちゃん、口で言うほど怒ってないですから……」

 

 卯月は、ご飯粒のついた手を見つめながら――

 

「ほら、凛ちゃん、意地っ張りなところあるじゃないですか? それに、すごく仲間想いだから、だからその、あの時のこと――」

 

 キッチンに着うたが流れる。トライアドプリムスの、トランシングパルス。

 

「わっ、凛ちゃんからっ」

 

 慌ててスカートのポケットからスマホを取り出そうとする卯月を見て、武内Pは目の色を変えて――

 

「島村さんッ!」

 

「はひっ!」

 

 武内Pは、卯月の手を見据えて――

 

「手を洗わないと、ご飯粒が……」

 

「……え? わああっ、ほんとですねっ」

 

 卯月はドタバタという擬音がぴったりな仕草で手を洗い、武内Pが差し出したハンカチで手を拭いて、間もなく二番の歌詞に突入するトランシングパルスに急かされてスマホを耳に当てた。

 

「ごめんなさいっ、ちょっとばたばたしちゃってて。――、今は、メルヘンチェンジのキッチンです。――、実は、プロデューサーさんとおにぎりを作ってたんですっ。――、いいえ、武内プロデューサーさんです。よかったら凛ちゃんも一緒に、――、そうですか、分かりました。――、はい、すぐ行きますっ」

 

 スマホを制服のスカートに戻した卯月は、手のひらを合わせてごめんなさいの仕草をして――

 

「すみません、ちょっと呼ばれちゃいましたっ」

 

 武内Pは口元に優しげな笑みつくり、行動を促そうとするかのように大きく頷いた。

 

「じゃあ、失礼しますっ」

 

 いい笑顔を残して卯月はキッチンから消えた。足音が遠ざかって消えて、島村卯月担当になりたいマイクとプロデューサーだけが残った。

 

〝やっぱりいいな、卯月ちゃん〟

「……はい」

〝絶対担当になりたいな〟

「……はい」

 

 自分の中に力がみなぎってくる感覚があった。僅かな時間であったが卯月と一緒にいて、何かが補充された感覚があった。それは武内Pも同じようで、動画を倍速再生したかのような手際のよさでおにぎりを量産している。

 

 出来ることなら伊華雌も手を貸したかったが、マイクな伊華雌が出せるのは口だけである。どうせなら自動おにぎり生産機とかに転生していれば役に立つことが出来たのに……ッ!

 

「市原さんのお母さんは、パレードを見に来てくれるでしょうか?」

 

 武内Pが最後のおにぎりを大皿に乗せた。この人は基本的に優秀なのだろう、卯月から教わるとすぐに要領をつかみ、その技術を正確に会得した。並ぶおにぎりを見比べて、武内Pのそれと卯月のそれを区別するのは難しい。

 

〝家からすぐ近くなんだし、さすがに来てくれるんじゃないかな?〟

 

 伊華雌は言葉にしてから、あの感覚を思い出す。

 

 頼めばライブに来てくれると思っていた。しかし仁奈の母親はそれを拒絶した。それどころか最悪の結果を招いてしまった。足下から全てが崩壊するような絶望に飲み込まれた。

 

 自分の感覚を基準にしては、ダメなのだ。

 伊華雌はアイドルのライブを最優先事項に設定しているが、その常識が万人に共通しているわけじゃない。仁奈の母親が持つ常識では、アイドルライブの優先順位はとても低い可能性がある。もしかすると家事よりも低いかもしれない。炊事・洗濯を優先し、間近でパレードをやっても足を運んでくれないかもしれない。

 

 ――しかし、それでは困る。

 

 ライブに足を運んでもらわないと意味が無い。仁奈がアイドルになった理由を考えると、母親がライブに来てくれない限り彼女は笑顔になれない。

 

 ――だから、考える。

 

 おにぎりも作れないし、車も運転出来ないしお姫さまだっこも出来ないマイクだからこそ、せめて無い脳みそをひねって突破口をさがす。

 

〝……武ちゃん、一つ、提案がある〟

 

 乾いた雑巾を絞るようにして考え出した提案は、もちろん伊華雌の凡庸な頭で考えたものであるから大したことはないのだが、それでも武内Pは賛成してくれた。

 

「それならきっと、市原さんのお母さんも足を運んでくれると思います」

 

 武内Pはおにぎりの乗った皿を持ちあげ、LMBGの子供達が汗を流しているレッスンルームへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第10話

 

 

「おにぎりだーっ!」

 

 龍崎薫の歓声を合図に子供達が集まってきた。夜までレッスンをしていた子供達の食欲は旺盛で、たくさん作ったはずのおにぎりはみるみる数が減っていく。

 

〝差し入れ大作戦、大成功だな武ちゃん!〟

「はいっ」

 

 伊華雌(いけめん)はハイタッチをする感覚を思い出そうとして、しかしハイタッチの経験なんて無いことに気付き途方にくれた瞬間――

 

 見るより先に、気配があった。

 

 それは美しくも恐ろしい愛のオーラ。深すぎる愛は劇薬にもなりうるのだとご理解いただけてしまう不穏な視線。

 

「プロデューサーさん。差し入れ、ありがとうございます」

 

 シンデレラプロジェクトのメンバーとして子供達とパレードに参加する佐久間まゆはレッスンに参加していた。武内Pがおにぎりを作っている間、ベテラントレーナーに激を飛ばされながら技量を磨いていた。

 

 だから、大丈夫だと思っていた。決してバレることはないと確信して油断していたのだが――

 

 伊華雌は、佐久間まゆを(あなど)っていた。

 まゆは手にもったおにぎりを見つめて、いつものように微笑んで――

 

「誰と、作ったんですか……?」

 

 武内Pは優秀で、すぐに卯月の作り方を完全にコピーした。卯月のおにぎりと武内Pのおにぎりを見分けるのは困難で、しかもばらまいたパンくずに群がる鳩の剣幕で子供達の小さな手がおにぎりを争奪したので見比べる時間なんて無かったのに、それでもまゆは微塵の疑いもなく問い詰めてくる。その強すぎる視線が武内Pを(つらぬ)き訊ねる――

 

 誰と、作ったんですか……?

 

「あの、えっと……」

 

 視線を泳がせる武内Pに、何を言っていいのか分からなかった。ヤンデレモードの佐久間まゆは、咄嗟(とっさ)の嘘で誤魔化せるような相手じゃない。しかし正直に〝島村卯月と楽しいイチャコラクッキング!〟が開催されていたことを白状するのもまずい気がする……。

 

 伊華雌が無い脳みそを振り絞っている間にも、まゆは武内Pに近づき、それはもう近づき、大きな瞳一杯に武内Pの顔を映して――

 

「次は、まゆにもお手伝いさせてくださいね。まゆ、お料理は得意ですから……」

 

 おにぎりを口に含んで笑みを浮かべるまゆはいつものまゆだった。

 自然に()みが去ってくれたことに伊華雌は大きく息を吐き出す感覚を思い出し、想う相手に対する佐久間まゆの洞察力は探偵の域に達しているのだと思い知った。

 

「みんなっ、衣装ができたぞッ!」

 

 ばあんと開かれたドアの向こうに米内Pがいて、両手に衣装を抱えていた。

 

「ちょっと、みんな同じ衣装じゃない!」

 

 噛みついてきた的場梨沙に、米内Pは憎めない笑顔で――

 

「予算の都合だ!」

 

 その衣装は小悪魔をモチーフにしたもので、去年のハロウィンライブでバックダンサーが身につけていたものだった。その事実に気付いたのは、しきりにタブレット端末に指を走らせていた橘ありすで――

 

「これ、去年のライブで使われた衣装です。ほらっ」

 

 タブレット端末の画面を見た子供達が、一斉に口を開けて――

 

「かおる、新しい衣装がいいなーっ!」

「みりあも、去年と同じのはいやかなー」

「ヒョウくんの衣装はないんですか~?」

「うげっ、これスカートじゃん。オレ、スカートはちょっと……」

「あんた、いい加減に慣れなさいよ。なんならアタシが可愛くしてあげるから」

「私は魔導師の衣装を希望しました」

「あら、こだわりますのね」

「当然です。どんな仕事でも自分の――」

 

 ――第三芸能課名物、ずっと子供達のターン!

 

 機関銃掃射の剣幕で言葉の弾幕を張って大人を圧倒する。武内Pや伊華雌はもちろん、米内Pも参ったなと言わんばかり後頭部をかいて苦笑していたが――

 

「みんなお揃いで、うれしーです!」

 

 その無邪気な言葉が、満面の笑みが、子供達のターンを終わらせた。

 

「みんなでハロウィンモンスターの気持ちになるですよーっ!」

 

 らんらんと瞳を輝かせる仁奈の誘いを、誰が断れるだろうか?

 

 第三芸能課のキッズアイドル達はそれぞれに自分を納得させる理由を呟きながら衣装合わせを始めた。

 

〝武ちゃん、今のうちに……〟

 

 伊華雌が促して、武内Pは頷いた。米内Pの元へ行き、仁奈の母親をパレードに呼ぶための提案を相談する。

 

「それはいいな。俺も賛成だ!」

 

 米内Pは力強く頷き、レッスンルームから出て行った。そして戻ってきた時には両手にお絵かきセットを持っていた。

 

「みんな、一つ提案がある!」

 

 今回は関係者席とか無いから、パレードに来て欲しい人に招待状を書かないか?

 

 反応は真っ二つに分かれた。仁奈や薫は面白そうだと歓声をあげて、ありすや梨沙は子供っぽいと一蹴(いっしゅう)した。

 

「まあ、書きたい人だけ書いてくれっ」

 

 仁奈と薫が白紙の手紙に飛び付いて、二人に付き合うお姉さんの雰囲気でみりあと千枝がクレヨンに手を伸ばした。他のメンバーは手作りの招待状に対する興味を失っていたが、それは別に構わない。仁奈が招待状を書いてくれれば、それで良かった。

 

 武内Pの口から伝えても駄目なのだ。

 仁奈の母親の心を動かしたいのであれば、彼女の気持ちになって何が一番効果的なのか考える必要があるのだ。

 

 仁奈の母親は、確かにシングルマザーで余裕がないのかもしれない。だから、仁奈が関係者席を用意しても、ライブ会場まで足を運んでくれないのかもしれない。

 

 しかし――

 

 家のすぐ近くで、しかも愛娘が手作りの招待状まで作ってくれれば、きっと心を動かしてくれるだろうと伊華雌は祈る気持ちで信じている。

 

「できたっ!」

 

 仁奈が完成した招待状を持ち上げて喜ぶ。

 へたくそな字で、へたくそな絵で。

 それでも、仁奈の母親の気持ちになれば見えてくる。それを受け取った時に彼女がどんな気持ちになってくれるか。

 

 ――仁奈ママの気持ちになるですよ。

 

 きっとこの企画は成功する。それでも、仁奈はアイドルをやめることになるかもしれない。母親の反対を簡単に覆せるとは伊華雌も思っていない。

 

 しかし――

 

 この企画は、市原仁奈がアイドルになってやりたかったことを実現させるためのものである。それさえ叶えば、例えアイドルの世界から去ることになったとしても、彼女は笑顔になってくれるはずである。

 

 市原仁奈がアイドルになった理由。

 

 それは――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第11話

 

 

 

「トリック・オア・スマイルッ!」

 

 それは抜けるような晴天で、しかし吹き抜ける風は秋の終わりを告げるように冷たくて、それでもパレードは湯気が出るほどの熱気に包まれていた。

 

 そもそも、リトルマーチングバンドガールズは346プロでも屈指の人気ユニットである。それが市民によるハロウィンパレードに参加するとなれば、当然、ファンは殺到する。気の遠くなるような倍率を誇るチケット争奪戦を潜り抜けることなく現地でLMBGのパレードを拝むことができるとか――

 

 こんなの、行くしかない!

 

 そう思ったファンの数が、運営の予想を上回っていた。パレード周辺の交通網は完全に麻痺、緊急措置として警備会社に応援を要請したが、今更(いまさら)警備員を増やしたところで焼け石に水の状態であった。

 

 それでも、伊華雌(いけめん)は楽観していた。パレードは仁奈の住む団地の近くを通る。ベランダからパレードを見ることができる。例え交通網が死滅しようが、家から出なければ問題ない。

 

「トリック・オア・スマイル!」

 

 そろいの小悪魔衣装を着たLMBGと佐久間まゆが、今回のパレードにおける合言葉を口にしながら行進する。

 

 トリック・オア・スマイル。

 

 考えたのは武内Pである。それはつまり、仁奈の母親に向けたメッセージでもあるのだが、しかし団地のベランダに仁奈の母親は現れない。風に吹かれた洗濯物がはたはたと揺れるばかりである。

 

〝大丈夫かな。そろそろパレード来ちまうぞ……〟

 

 焦る伊華雌に同調するかのように武内Pは腕時計を見る。予想以上の観客が押し寄せた影響でパレードの出発が遅れている。本来なら、すでにパレードが通過している時間である。

 

 しかし、仁奈の母親はその姿を見せていない。

 

 散発的に爆発的な歓声があがり、それが徐々に近付いてくる。歩道は観客でごったがえし、朝の満員電車状態で身動きをとることすらままならない。団地の敷地内は普段通りの平穏を保っているが、一歩外へ出るとコミケ待機列に匹敵する人混み地獄が待っている。

 

「トリック・オア・スマイル!」

 

 アイドルの声が、すぐ近くに迫っている。追って弾ける歓声に、パレードの代価として笑顔が支払われたのだと分かる。もうパレードはすぐ近くで、歩道につめている人たちが一斉に背伸びをする。最前列の観客が、最初に敵を発見した監視兵のように「来たぞ!」と叫び、ついに歓声の爆弾が至近距離で爆発した。

 

 しかし、それでも――

 

 ベランダに仁奈の母親は現れない。

 

「トリック・オア・スマイルッ!」

 

 その言葉を一番聞かせたい相手は、しかし姿を見せてくれない。あれだけ、準備をしたのに。たくさん相談して、パレードの企画をひねり出して、プロデューサー会議で反対されながらも企画を通して、夜遅くまでレッスンに励むアイドルのためにおにぎりを作り、手作りの招待状だって――

 

 武内Pが、走り出した。

 

 団地に入ると、エレベーターのボタンを叩き、しかしのろのろと降りてくるエレベーターに舌を打ち、猛然と階段を駆けあがる。市原の表札を掲げるドアの前に駆けつけて、荒い呼吸を繰り返し息を整える。

 

 とめるべき、なのかもしれない。

 しかし伊華雌は何も言わなかった。インターホンを押す武内Pをとめなかった。

 

 仁奈の母親を、信じていたから。

 誰も出てこないことを、祈っていたから。

 

 ――そして、ドアは(ひら)かなかった。

 

 家の中に人の気配はなく、留守であることに伊華雌はひとまず安堵した。

 

〝……きっと、別の場所で見てるんだよ。ベランダからじゃ遠いからさ〟

 

「……そうでしょうか」

 

 首の後ろを触りながら階段を降りる武内Pは、仁奈の母親に落胆するかのように力なくかぶりを振った。

 

〝……仁奈ちゃんママ、仁奈ちゃんのことをないがしろにしているわけじゃないと思うんだ〟

 

 武内Pは、足をとめてパレードの通りすぎた大通りを眺める。一般参加の市民ダンサーにささやかな歓声が送られている。歩道に詰めかけていた人の波は穏やかになり、トリック・オア・スマイルの声はもう聞こえない。

 

〝仁奈ちゃんのランドセルについてる防犯ブザーさ、一番いい機種なんだよ〟

 

 金をかけることを愛情の指標とするのは間違っているかもしれないが、GPSと連動して警備会社による手厚い警護を約束する防犯ブザーは高級品であり、他の防犯ブザーとは一線を画している。それを団地住まいでシングルマザーの母親が子供に持たせるということが何を意味するのか?

 

 少なくとも、それなりの愛情はあるのではないか?

 

「マイクさんの言うとおり、どこかで見てくれていればいいのですが……」

 

 どこか投げやりな言葉を抱いて団地を出た武内Pが、息を飲んだ。迷い猫を探して見つからなくて、諦めて帰宅したら家の前で発見した。そんな表情で、見つめる先に――

 

 ――スーツ姿の、仁奈の母親が。

 

 未だに人がごったがえしている歩道から抜け出した彼女は、右手にヒールの折れた靴を持ち、死力を尽くした駅伝選手みたいに息を絶やして――

 

「急な仕事で……、間に合わせるつもり……、人が多くて……、仁奈は……」

 

 まだ、終わっていない。

 

 ――市原仁奈を笑顔にするための企画は、まだ成功の可能性を残している!

 

 武内Pと伊華雌は、同時に失意の底から息を吹き返す。何をするべきか? 何をしなくてはならないのか? それぞれの頭で考えて、相談抜きに行動する。

 

 ――時間との戦いだった。

 

 パレードが終点についた時点でゲームは終わる。それまでに、アイドルとしての市原仁奈を母親に見せなければならない。それはしかし容易なことではない。警備員を緊急手配する必要のある膨大な観客が文字通り壁となって立ちはだかる。

 

 終点は論外である。一番人が密集している場所であるから、関係者であると叫んだところで割り込むことは物理的に不可能である。

 

 出来るだけ観客が少なくて、まだパレードが通過していない場所。それさえ把握できれば、あるいは――

 

「武内です! パレードの位置と観客の状況を教えてください!」

 

 武内Pが小型無線機に救いを求める。関係者用の無線機は、しかし反応が悪い。予想以上の観客に対応せんとするスタッフのやりとりは、さながら銃弾飛び交う塹壕で怒鳴りあう兵士のそれに匹敵しており、もはや通信機としての役割を満足に果たせる状態じゃない。

 

 こうしてる(あいだ)にもパレードは終点へ向かっている。

 

 何か、自分にできることはないのか。口先だけのマイク野郎である自分に……。

 いや、マイクだからこそ――

 

 伊華雌は熟慮(じゅくりょ)する間も惜しんで提案する。

 

〝武ちゃん、俺を投げろ! 思いっきり、空高く俺を投げろッ!〟

 

 武内Pはポケットの伊華雌を見つめ、すぐに頷く。伊華雌をつかみ、砲丸投げの選手さながら――

 

 空へ向かってぶん投げた!

 

 それはまるで逆バンジージャンプで、強烈なGを引きちぎりながら大気を切り裂きグングン上昇すると同時に視界が広がっていく様子はまさに――

 

〝ドローンの気持ちになるですよぉぉおお――ッ!〟

 

 気持ちはドローンだが伊華雌はマイクである。その上昇はやがて重力に負け、しばらく滞空したのちに落下を開始する。頂点での滞空時間は数秒だったが、それでも伊華雌は使命を果たした。必要な情報を収集し、地上で待つ武内Pの元へ――

 

 ――絶望的な落下が始まった。

 

 団地の屋上を見下ろす高さからの落下である。それはつまり、団地の屋上から飛び降りたようなものであり――

 

〝鳥のクソの気持ちになるですよぉぉおお――ッ!〟

 

 失神、するかと思った。きっとマイクだから大丈夫だった。もし自分が人間だったら失神していた。

 

 そして、地獄のフリーフォールから武内Pの手に生還できて、その安堵に失禁するかと思った。きっとマイクだから大丈夫だった。もし自分が人間だったら……。

 

〝武ちゃん。団地の一番奥にある公園へ向かえ! そこなら観客も少ないし、まだパレードもきてない。走ればギリギリ間に合う!〟

 

 武内Pは伊華雌をポケットに戻し、仁奈の母親をみて息をつまらせる。

 

 ヒールの折れた靴を持ち、足首を捻ってしまったのか、その場で痛そうに動かしている。とても走れる状態に見えない。

 

「団地の公園へ走れば、パレードを見ることができます」

 

 武内Pの言葉に、仁奈の母親はため息を落とす。何かを諦めた人のように固く目を閉じる。負傷した兵士が俺を置いていけと諦めるように。

 

 けど、諦めない。

 

 武内Pは仁奈の母親に近づき――

 

「失礼します……ッ!」

 

 お姫さま抱っこ。

 

「えっ、わっ!」

 

 少女のような悲鳴をあげる仁奈の母親を、武内Pはサラブレッドのような力強い走りで運ぶ。団地の一番端にある公園に到着すると、それこそお姫様でも扱うような慎重さで仁奈の母親をおろした。

 

「トリック・オア・スマイル!」

 

 すぐ近くからアイドルの声が聞こえた。それに歓声が続いた。どうにか間に合わせることができたと喜びたいのだが――

 アイドル達を一目見ようと、観客が列を作っている。人の壁を作っている。日光をもとめて高さを競う雑草のように背を伸ばしあう観客達が、仁奈と母親の間に立ちふさがっている。

 

 パレードは、まさに観客の向こう側を通過している。

 なりふりかまっている余裕はなかった。

 

〝武ちゃん! 肩車だッ!〟

 

 伊華雌は叫んだ。

 武内Pは迷わずに、地面に膝をついて――

 

「肩に、乗ってください……ッ!」

 

 仁奈の母親は、ためらいをみせていたが、彼女の背中をLMBGのアイドル達が――

 

「トリック・オア・スマイル!」

 

 肩に乗った仁奈の母親を、武内Pが持ち上げる。高身長を誇る武内Pの肩車である。どれだけの観客が壁を作ろうとも、二人の邪魔をすることはできない。

 

 仁奈の母親は、アイドルとして輝く娘を目撃して、劇的――という表現を必要とするくらい表情を変えて――

 

「仁奈ぁっ!」

 

 武内Pの頭をつかんで、もう一方の手を振った。髪をつかまれている武内Pは、しかし嬉しそうだった。伊華雌も同じ気持ちだった。

 

 ――だって、パレードの目的を、達成することができたのだから。

 

「トリック・オア・スマイル!」

 

 パレードが過ぎ去っていく。仁奈の母親は、ずっと手を振っていた。その顔には、仁奈によく似たあどけない笑顔が輝いていた。

 

 その笑顔こそが、この企画の報酬だった。

 

 仁奈の母親を笑顔にして、そして――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第12話

 

 

 

 なぜ、アイドルになろうと思ったのか?

 

 その質問に対して明白な回答を持っているアイドルは意外にも少ない。そもそも〝アイドルになる〟という行為自体が理由を必要としない強い魅力を持っているので、特別な理由など無かったりするのだが――

 

 市原仁奈は、アイドル活動に対して明確な理由をもっていた。

 

 ――仁奈、ママを笑顔にしてーんです!

 

 仁奈はずっと気になっていたのだと言う。いつも忙しそうな母親が、笑顔を忘れていることを。

 そして、悩んでいた。

 笑顔になってもらうには、どうすればいいか?

 

 そんな時、出会った。

 

 学校から帰宅して一人で食べる夕御飯。寂しい食卓の話し相手であるTV画面の中に346プロのアイドルがいた。彼女は他の人を笑顔にして、自分も笑顔になって、いつの間にか仁奈も笑顔になっていた。

 

 これだ、と思った。

 

 一人で夕御飯を食べる自分を笑顔にしてしまうのだ。

 いつも忙しそうな母親だって、きっと――

 

 そして仁奈はアイドルになった。

 全ては、母親を笑顔にするために。

 

 その話を聞いた時、伊華雌(いけめん)は決意した。

 アイドルをやめることになっても、せめてその願いを叶えてあげたいと。小さな女の子の健気な願いを成就させて、笑顔で346プロを去ってほしいと思った。

 

 この企画はつまり、市原仁奈が笑顔でアイドルを辞められるように支援する企画であって、建設的で無いと言われれば反論の余地は無いのだが、第三芸能課の米内(よない)Pは賛成してくれた。

 

 同じ〝辞める〟にしても最後に笑顔なのかどうかで他の子に対する影響も変わるし、それよりなにより――

 

 俺も市原さんに笑顔になって欲しい!

 

 そして、仁奈の願いは叶えられた。

 パレードを見た仁奈の母親は、最高の笑顔になってくれた。

 

 そして――

 

 

 

 * * *

 

 

 

「今、市原さんのお母様が来てるって。ロビーの応接スペースで待ってもらってるって」

 

 パレードの翌日、内線電話をうけたちひろに言われて武内Pは顔を強張らせた。伊華雌も顔を強張らせる感覚を思い出した。

 そのまま、うやむやにならないかなと期待していた。なし崩し的にアイドル活動を継続できないかと期待したのだが、どうやら現実も仁奈の母親も甘くはないらしい。

 

「待って」

 

 沈痛な面持ちでドアに手をかける武内Pに、ちひろが近付いて――

 

「怖い顔してるよ武内君。きっと大丈夫だから、ね?」

 

 武内Pを心配したちひろの笑みはまるでエナジードリンクで、武内Pの表情が少しだけ穏やかになった。それは伊華雌も同様で、ネトゲのヒーラーよろしく気力を回復してくれたちひろに感謝した。

 

 そして、向かう。

 

 地下室の階段を上がり、エレベーターでロビーへ向かい、受付嬢に案内されて応接スペースへ。

 時間はまだ夕方だが、ガラス張りのロビーから見える外の景色はすっかり暗くなっている。道行く人はコートやダウンを羽織っており、仁奈の母親もコート姿で武内Pを待っていた。

 

「先日は、お世話になりました」

 

 仁奈の母親に頭を下げられ、武内Pも直立不動の姿勢を作って頭を下げた。応接スペースの椅子をすすめて、テーブルを挟み向かい合うように座った。

 

「仁奈の、アイドル活動についてなのですが……」

 

 いきなり、切り込まれた。本日はお日柄もよく、みたいな社交辞令を抜きにして本題が始まった。

 

「パレードの件、仁奈はとても喜んでくれました。仁奈を見た私が笑顔になって、それが嬉しいって……」

 

 仁奈の母親は、過去を振り返り反省するかのように、苦笑しながら吐息をついて――

 

「アイドルとして舞台に立つ姿を見て欲しいというのは、てっきり、子供のワガママだと思っていました。だから、そんなワガママを言うならアイドルを辞めさせようと思いました。けど――」

 

 子供なのは、私のほうでした。

 

 仁奈の母親は、(ふく)れる感情で破裂してしまわないようにするかのように大きな吐息をついて――

 

「仁奈は、私の気持ちになってくれていました。私が、笑顔じゃないから、だから、アイドルをやって、私を笑顔にしようと……。私は、自分のことしか考えていませんでした。だから、仕事や家事の(さまた)げになるなら、アイドルを辞めさせようと……」

 

 仁奈の母親は、白くなるほど握りしめた手に決意を見せて――

 

「仁奈の気持ちになって、考えました。あの子にとって、何が必要なのか……」

 

 そして向けられた笑顔を、伊華雌はきっと忘れない。

 最初に会った時は(わずら)わしい厄介者に辟易(へきえき)するかのような(とげ)があったのに、今はまるで信頼できる肉親に微笑みかけるように――

 

「あの子に必要なのは、あの子の気持ちになってくれる大人です」

 

 仁奈の母親は、立ち上がり、頭を下げて――

 

「これからも、仁奈のことをよろしくお願いします」

 

 それがどういうことなのか、すぐに理解できなかった。つまり、アイドル市原仁奈は、これからもアイドル市原仁奈のままで――

 

〝うぉぉおおっ、まじかぁぁああああ――ッ!〟

 

 ほとんど諦めていただけに、その喜びは噴火する火山の爆発力を持って伊華雌の中を駆け回った。

 

「あの、よろしいの、ですか……?」

 

 今にも首の後ろを触りそうな武内Pに、仁奈の母親が近づいた。その大きな瞳に、戸惑う武内Pの顔を映して――

 

「仁奈の気持ちになって考えた結論です。もちろん、346プロダクションさんに受け入れてもらえればの話ですが……」

 

 仁奈の母親はやはり優秀な人で、だから覚えているのだろう。

 

 ――そもそも、仁奈はアイドルを続けられる状態になかったことを。

 

 ライブで笑顔になれない彼女は、アイドル活動の継続が困難であると判断されてシンデレラプロジェクトの所属となった。母親がアイドル活動を許したところで、そのままの状態であればプロダクションに受け入れてもらえないのである。

 

「提案が、あります……」

 

 ――もしも、仁奈の母親がアイドル活動を許可してくれたら?

 

 その想定に対する結論を、伊華雌と武内Pは用意していた。美城常務から仁奈のプロデュースを終了するように言われたあの日に、考えた。

 

 仁奈の母親の気持ちになって――

 

「次回より、市原さんの出演するライブの映像を送付させていただきます。ライブ会場へ足を運んでいただかなくとも、市原さんのアイドル活動を見ていただけるようにします」

 

 そして、仁奈の気持ちになって――

 

「その映像を見ていただき、笑顔になっていただければ、市原さんはアイドルとして問題なく活動できると思います」

 

 だって仁奈は、母親の笑顔のためにアイドルをやっているのだから。

 その目的が果たせなくて、笑顔を失っていたのだから。

 

「……どうして、そこまで」

 

 多すぎる報酬に戸惑う貧民のような視線に、武内Pは一瞬のためらいもなく――

 

「笑顔です」

 

「……笑顔?」

 

 武内Pは、その発明で世界を変えられると信じている発明家のように誇らしく――

 

「自分の、プロデュース方針なんです。アイドルの笑顔を一番に考えるプロデュースをしたいと自分は考えています」

 

「笑顔を……、一番に……」

 

 仁奈の母親は、受け止めた言葉をゆっくりと飲み込んで、素直な気持ちを吐露(とろ)しようとするかのように表情を緩め――

 

「貴方になら、安心して仁奈を預けることが出来ます。仁奈のこと、よろしくお願いします……」

 

 仁奈の母親は、小さく頭を下げて、武内Pをじっと見上げた。あまりにもたくさんの操作をされてフリーズしてしまったパソコンのようにぼーっとしながら、小さな声で――

 

「貴方みたいな人が、パパだったらよかったのに……」

 

 それはもしかしたら、伊華雌にしか聞こえていなかったのかもしれない。ロビーを行き交う人々の話し声と足音にかき消されてしまうくらいの小さな声で、だから武内Pは無遠慮に――

 

「何か、言いましたか?」

 

 仁奈の母親は急に顔を赤くして、最高速度で動く車のワイパーみたいに手を振って――

 

「あっ、いやっ、何でもないです! 何でもないからっ、そのっ、忘れてくださいっ!」

 

 彼女は露骨にうろたえて、仕事があるからと言って逃げるようにロビーを駆け抜けた。出入り口に到着するまで人にぶつかりそうになっては頭を下げていた。その初恋乙女(はつこいおとめ)を思わせる初心(うぶ)な仕草と〝一児の母〟というギャップが途方も無いギャップ萌えを発生させて――

 

〝ママぁぁああああ――ッ!〟

 

 伊華雌は叫んだ。それは伊華雌の中に誕生した新しい性癖の産声であって、また一つ彼は〝紳士〟として成長したのだった。

 

「……自分は、また怒らせてしまったのでしょうか?」

 

 仁奈の母親が立ち去ったロビーを呆然と眺め首の後ろを触っている相棒に、伊華雌はもはや感動すら覚えてしまう。

 

 このままでいてほしい……。

 

 都会の毒に染まっていない純真無垢な田舎娘を大事に思う父の心境で伊華雌は真実を語らない。仁奈ちゃんママからの好感度がMAXでワンチャン狙える状態であると、言っても信じないだろうし下手に教えてリア充になられても困るし……。

 

「あっ、いやがりました!」

 

 仁奈の母親の好感度について考えていた伊華雌は、仁奈の声を聞くなり罪悪感で死にそうになった。

 お母さんの好感度とか、どうしようもないこと考えてごめんよ仁奈ちゃん!

 号泣する感覚と共に振り返った先には――

 

 リトルマーチングバンドガールズ。

 

 楽器こそ持ってないが、マーチングバンドの制服を着たキッズアイドル達がリーダーの佐々木千枝を先頭に行進する。ロビーを行き交うプロデューサーやアイドル達の足をその場に固定して、全ての視線を張った胸で受け止める。まるで一つの生き物のように息を合わせて行進する子供達はロビーの視線を独占し、行進の終着点へ向けて真っ直ぐ突き進む。

 

「ぜんたーい、とまれっ!」

 

 ザッザ、という最後の二踏(ふたふ)みを合図にピタリと足音が消える。

 

「まわれー、みぎっ!」

 

 完璧なタイミングで、子供達が転回する。

 

 横一列に並んでいた。

 武内Pの前に、子供達が。

 

「仁奈、武内プロデューサーにお礼が言いてーんです」

 

 仁奈が、一歩前に出る。

 他のキッズアイドル達が視線で応援する。

 

「ママ、笑顔になってくれました。アイドル続けていいって、言ってくれました。全部、武内プロデューサーのおかげでごぜーます! だから――」

 

 千枝が小さな声で「せーのっ」と合図を入れて、第三芸能課のキッズアイドル達が、声をそろえて――

 

「ありがとうございましたっ!」

 

 子供達の声が、それに含まれた感謝の気持ちが、伊華雌の全身を貫いた。

 

 ――これが報酬、だと思った。

 

 感謝の気持ちと共に送られた笑顔こそ、今回のプロデュースに対して支払われた報酬であり、子供達に全力で感謝されてたまらず微笑む武内Pの笑顔こそ、伊華雌にとって最高の報酬だった。

 

「みんな! 許可とるまで待ってくれって言ったのに!」

 

 エレベーターから転がり落ちるように駆けてきた米内Pに、リトルマーチングバンドガールズが襲いかかる――

 

「だってせんせぇー、遅いんだもん!」

「そーだよプロデューサー! みりあ達、ずっと待ってたんだよ!」

「会社の中でやるんだから別にいいじゃない。パパだったらすぐにOKしてくれるのに」

「そうそう、ホームグラウンドなんだから別にいいじゃん」

「待ちくたびれてヒョウくん寝ちゃいました~」

「仕事が遅すぎます。子供だからといってバカにしないでください」

「ローズヒップティーもすっかり冷めてしまいましてよ」

「すみません、千枝、これ以上みんなを待たせておけませんでした」

 

 総攻撃の締めくくりとばかりに、仁奈が米内Pを見上げて――

 

「仁奈、どーしても言いたかったんです。武内プロデューサーに、ありがとーごぜーますって!」

 

 米内Pは、怒った顔を維持できなかった。苦笑して、頭の後ろをガリガリとかきながら――

 

「……そっか、分かった。分かったから、取りあえずみんな第三の事務室へ戻れ。ほら、人の邪魔になってるから」

 

 キッズアイドル達は口々に文句を言いながらもエレベーターへ向かい歩きだした。

 

「まったく、あの子達は……」

 

 武内Pの脇に立った米内Pは、嬉しそうに苦笑しながら――

 

「さっき、市原さんから聞いたよ。アイドル続けられるって」

 

 米内Pの小さな手が、差し出された。

 

「武内君のおかげだ。俺からも礼を言わせて欲しい。武内君に、そして、シンデレラプロジェクトに!」

 

 二人のプロデューサーが握手を交わした。第三芸能課の代表として、シンデレラプロジェクトの代表として、互いの健闘を讃えあった。

 

「シンデレラプロジェクト?」

 

 男二人の世界に割って入ってきたのは、しかし男よりも〝男前〟なアイドルだった。

 彼女はトレードマークであるリーゼントヘアをかき上げながら、西部劇のガンマンを思わせるワイルドな歩き方で近付いてくる。ホルスターから銃を抜くかわりに指鉄砲を作りその銃口を迷わせる。どっちがシンデレラプロジェクトのプロデューサーなんだい? とでも言いたげに。

 

「シンデレラプロジェクト担当の、武内です」

 

「へぇー、あんたが……」

 

 そのアイドルが何者であるか、伊華雌はもちろん知っている。知っているからこそ意味が分からない。だって彼女は、人気絶頂のロックアイドルで、シンデレラプロジェクトには縁のなさそうな存在だから。

 

「菜々さん! この人、シンデレラプロジェクトのプロデューサーだって!」

 

 ロックなアイドル――木村夏樹が振り返って呼んだのは小柄なアイドルで、伊華雌は不覚ながらすぐに人物特定できなかった。

 

 だって、ウサミミじゃないから。

 だって、メイド服じゃないから。

 

 黄色のジャケットを着た小柄な女性とウサミン星からやって来たメイドヒロインが同一人物であると確信を持つのに時間がかかり、確信を持ったら持ったで意味が分からない。

 安部菜々だって、電波系アイドルとして確固たる地位を築いている。シンデレラプロジェクトに所属するには人気アイドル過ぎると思う。

 

「美城常務から話、聞いてるかい?」

 

 木村夏樹が首を傾げてピアスを揺らした。

 

「いえ、何も……」

 

 首の後ろを触る武内Pを見て、夏樹は菜々へ視線を送る。

 

「実は、シンデレラプロジェクトさんのお世話になることが決まったんです」

 

 普段の〝キャハ☆〟を封印したウサミンは妙に大人びてみえた。その真剣な横顔にシンデレラプロジェクトへの移籍はどうやら本決まりの案件なのだと思った。

 

 まさかこの二人が……。

 

 思う伊華雌に同調するかのように武内Pも戸惑いを隠さずに――

 

「木村さんと安部さんがシンデレラプロジェクトの所属になる、ということでしょうか?」

 

 二人同時に首を振った。

 

 そして、二人同時に――

 

「うちのだりーを、よろしく頼む」

「みくちゃんを、よろしくお願いします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 〝市原仁奈編〟終了になります。お付き合いいただき、まことにありがとうございますっ!

 次回から〝前川みく・多田李衣菜編〟に突入します。ニャンとロックなお話になる予定です。猫岩石ッ!

 なお、次回より〝ぷちますP〟こと間島Pが登場します。営業用のイケメンフェイスをかぶった状態の間島Pです。Pヘッドではないのでご安心くださいw














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 第3章 ― 前川みく・多田李衣菜を再プロデュース ―
 第1話


 

 

 

 アイドルにとって週刊誌とは、どんなに振り払っても付きまとってくる煩わしい存在である。

 

 美しい猫に寄生するノミを完全に排除するのが難しいように、アイドルにたかる悪質な週刊誌を完全に追い払うのは難しい。アイドルとして世間に名前を轟かせたその瞬間から、パパラッチのカメラに狙われるという有名税を払わなければならなくなる。

 アイドルのスキャンダルを狙う週刊誌はどこも同じくらい厄介な存在であるが、特に関係者から嫌われているのが――

 

 芸能セブン。

 

 961プロの息がかかっていると噂されるこの週刊誌は、その噂に信憑性を持たせようとするかのように961プロのアイドルを狙わない。961プロ以外のアイドルを狙い悪意に満ちた記事を書く。まさにペンの暴力といえる攻撃に、346プロのアイドルも被害にあっている。

 

 例えば、高垣楓の場合――

 

〝高垣楓、白昼堂々(はくちゅうどうどう)はしご酒! お前の肝臓は既に死んでいる!〟

 

 昼間から居酒屋の暖簾(のれん)をくぐる楓の写真があって、どのくらいの頻度で出没しているか丁寧に調査してあって、その結果をグラフにまとめ一般女性に比べてどれだけ楓が酒を飲んでいるかを強調して、その頻度はもはやアルコール中毒であると結んでいる。

 

 もちろん楓はアル中ではない。ただお酒が好きなだけで、自分のお金で、自分の時間で、自分の好きなお酒を飲んでいるだけであって、他人に非難をされる理由はどこにもない。

 

 ――しかし、事実である。

 

 楓が昼間から居酒屋に出現するのは確固たる事実であって、だから346プロは出版社を叩くことが出来ない。

 

〝俺のターン! 名誉毀損で損害賠償!〟

 

 と叫び訴えたところで――

 

〝伏せカード発動、報道の自由!〟

 

 によってターンエンドしてしまう。その筆の使い方に悪意があるだけで〝事実を報道している〟という点に関して出版社側に正義があり、叩き潰すことが出来ない。

 

 だからと言って――

 

 何もしないわけにはいかない。衆目(しゅうもく)を集めるために面白おかしく書かれた記事によってアイドルが落ち込んでしまうこともある。

 

 例えば、渋谷凛の場合――

 

〝渋谷凛、びっくり塩対応! その握手会、まるでライン作業のごとし!〟

 

 別に、凛に悪気があるわけじゃない。ただ、その時は初めての握手会で、クールプリンセスと呼ばれる彼女にも緊張があって、その強張った顔が無愛想に見えてしまっただけであって、決してファンをおざなりにしたつもりはないのだが――

 

 ――事実、なのである。

 

 凛が握手会で怒ったように見える顔をしていたのは事実であり、週刊誌はそれを報道しただけであり、だからプロダクションは何も出来ない。アイドルが落ち込まないように全力でフォローするだけである。

 

 そして、今回のケース――

 

 〝徹底検証! 多田李衣菜エアギター疑惑!〟

 〝前川みく、古すぎるキャラ付けに猫チャンもびっくり!〟

 

 多田李衣菜と前川みくが、週刊誌のターゲットにされていた。

 

「この記事自体は、騒ぐほどのことじゃない。〝よくある話〟で一蹴できる問題だ」

 

 美城常務は週刊誌を机の上に投げ捨てると、それきり興味をなくしたかのように視線を外し、正面に立つ武内Pを見据えて問う――

 

「君は、どう思う?」

 

 その質問は、しばらく美城常務の執務室を浮遊していた。どうにも曖昧な質問である。何かを試しているのだろうかと伊華雌(いけめん)は勘ぐったが、塩対応の見本みたいな美城常務の顔から何かを掴むことは出来ず沈黙を強いられた。

 

「特別なフォローが必要とは思いません。多田さんも前川さんも、この程度のゴシップで調子を落とすことはないかと……」

 

 武内Pの回答が合格点に届かなかったと、美城常務の耳元で揺れるイヤリングに教えられた。彼女はため息と共にかぶりを振って、未熟な弟子をたしなめる師匠のような笑みを浮かべて――

 

「木を見て森を見ていない。目に見える落とし穴を気にするあまり、崖に向かい行進していることに気付かない」

 

 美城常務の〝ポエム〟が炸裂した!

 伊華雌は混乱した!

 

 きっとこの人にはダークイルミネイトな過去があるのではないかと、彼女の詩的な発言を聞くたびに伊華雌の疑念は深まっていく。

 

 いやっ、全然いみわかんないっす!

 いやっ、全然いみわかんないっす!

 

 大事なことでもないのに二回言いたくなってしまうほど、美城常務のポエムは理解難解だった。そのヤミノマ具合は熊本弁といい勝負だと思った。この人も禁断のグリモワール(意味深)とか机の引き出しに隠してんじゃないかと伊華雌は疑う。

 

 伊華雌が美城常務の暗黒面(ダークイルミネイト)について考察している間に、武内Pは明晰な頭脳で美城常務のポエムを解析し――

 

「つまり、今のままのプロデュースだと、多田さんと前川さんのアイドル活動に未来が無い、ということでしょうか?」

 

 ……え? そんなこと言ってたの?

 

 伊華雌は無理ゲー難易度のクイズに挑戦するパネラーを傍観する観客の気持ちで二人を交互に見た。

 さあー、厨二病ポエム解読問題! この難問を、果たして挑戦者は正解できたのでしょうか? 美城常務さん、どうっすか!

 

 美城常務は、笑みを崩さずに頷いた。

 

〝たっ、武ちゃんすげぇぇええ――ッ!〟

 

 思わず声をあげてしまった。だって、さっぱり意味が分からないから。日本語にして日本語ではない〝ポエム〟を正確に翻訳するとか、どんだけ高性能な頭してんだよ! あんたならいつでもダークイルミネイトの担当プロデューサーになれるよ! 外国人アイドルも大歓迎だよ! アーニャちゃんもニッコリ!

 

 相棒の快挙に興奮する伊華雌をよそに、美城常務と武内Pのポエムバトルは終わらない――

 

「火のないところに煙はたたない。いずれ焼けて灰になる」

「二人のアイドル活動には問題があって、しかし今ならまだ修正が可能であると……」

 

「巣立ちの時は近い。しかしそのタイミングは親鳥にしか分からない」

「ユニット活動を卒業して、ソロ活動を視野に入れるべきであると……」

 

「君には二人の親鳥になってもらいたい。巣立ちのタイミングを間違えれば、雛の翼は空を掴めず、幼き体は地に堕ちるだろう」

「自分に、二人のソロデビューの指揮を?」

 

 どうやら、全てのポエムを武内Pは正確に翻訳できたようで美城は満足げに頷いている。

 

 ――いやっ、普通に話してくれよ! 日本語でおKッ?

 

 常務の肩書きを持つポエマーに憤りをぶつける伊華雌だが、武内Pはまるで美城常務が日本語を話しているかのように平然と――

 

「しかし多田さんと前川さんは間島(まじま)プロデューサーが担当しているのでは?」

 

「間島は現在新規ユニットを立ち上げている。二人に寄り添ってタイミングを図る余裕がない。ソロデビューは、言わば自転車の補助輪を外すようなものだ。時期を誤ると怪我をする。多忙なプロデューサーが片手間にやるべきではない」

 

「確かに、自分は、手に余裕がありますが……」

 

 復帰した市原仁奈がシンデレラプロジェクトから第三芸能課へ戻ったので、武内Pの担当は佐久間まゆだけである。確かに余裕はあるようで、地下室で時間をもてあましていることも少なくないが――

 武内Pは、美城常務から目をそらし床を見つめている。蛍光灯を反射して光る床を眺めて躊躇(ためら)っている。

 

 難しいの、だろうか?

 ユニットデビューしたアイドルをソロでデビューさせるのは、口を引き結び黙考してしまうほどの難易度なのだろうか。

 

 ここは俺が、いやでも……。

 

 伊華雌は武内Pの背中を押そうとして、しかし躊躇(ちゅうちょ)した。仁奈の母親の時のことを思い出し、本当に背中を押していいのかどうか不安になった。あの時は自分が無責任に背中を押したばかりに最悪の状況を招いてしまった。

 

「アイドルという雛鳥を羽ばたかせるという責務は君に重すぎるか?」

 

 美城常務の口元から笑みが消える。かけた期待を裏切られて不愉快であると、温度の無いため息に教えられる。

 

〝武ちゃんがやるなら、俺は全力で応援するから!〟

 

 伊華雌に言えるのは、それだけだった。アイドルをソロデビューさせるのがどれほど難しいか、伊華雌は知らない。絶対うまくいくからと、勢いで背中を叩くわけにはいかない。

 

 ただ――

 

 これだけは確実に断言できる。どんなに高い壁であっても、どうしようもない苦境であっても、武内Pの応援を諦めることだけは無い。敗色濃厚になったとしても、最後の瞬間まで全力で応援する。

 だから――

 

〝俺は何があっても武ちゃんの味方だ。だからあとは、武ちゃんが決めてくれ……ッ!〟

 

 武内Pは床に落としていた視線を伊華雌の入っているポケットへ向けた。自分を鼓舞(こぶ)するかのように力強く頷き、そして顔をあげて美城常務の視線を受け止め――

 

「自分に、やらせてください」

 

 すると美城常務は、凍り付いていた口元を緩めた。

 そして、いつものように――

 

「成果を、期待する」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第2話

 

 

 

 第一芸能課は346プロの主力部隊であり、そこの課長である間島(まじま)Pは実質的に346プロのトッププロデューサーである。数々のアイドルを発掘して育て上げてステージへ送り出してきた実積を持つベテランである。

 

〝トッププロデューサーってことは、恐い人だったり……?〟

 

 伊華雌(いけめん)の中には〝できる人間=厳しくて恐い人〟というイメージがある。例えるなら美城常務のような滅多に歯を見せない冷徹な人間こそ〝できる人間〟のイメージだった。

 しかし武内Pは、思いだし笑いでもするかのように表情を緩めながら――

 

「恐い人、ではないですね。むしろその逆でしょうか。赤羽根さんを、もっと明るくしたような」

 

 伊華雌からすれば赤羽根Pの時点で直視出来ないほどに明るい性格をした陽キャである。その明るさを上回るとか、もはや視力を失うレベルなんですが……ッ!

 

 果たして、武内Pの比喩表現は適切だった。

 第一芸能課のドアを開けて間島Pを目の当たりにした伊華雌は確信する。

 

 ――この人は、自分とは人種が違う!

 

 まず、イケメンである。入室してきた武内Pを見るなり浮かべたその笑顔は、ドルオタの選美眼をもってしても〝いい笑顔〟であると評価することができた。

 

「武内君、よくきた! さあ、座って座って!」

 

 346プロのトッププロデューサーであるというのにその言動は〝気さく〟の一語に尽きており、途方もないコミュ力の片鱗(へんりん)を感じ取ることができたのはきっと錯覚ではないだろう。

 

 これが、トッププロデューサーか……ッ!

 

 イケメンでコミュ力お化けで、きっとその(ほか)の能力も振りきっているであろう間島Pを見上げた伊華雌の中に〝恐怖〟に似た感覚があった。これが〝畏怖(いふ)〟という感情なのだろうかと思った。

 

「美城常務から聞いてると思うけど、みくと李衣菜のことを武内君に任せたい。いや、任せたっ!」

 

 油断するとつられて口元が緩んでしまう間島Pの笑顔に対抗するように、武内Pは目を細くして目力(めぢから)を強め――

 

「その件ですが、いくつか確認したいことが……」

 

「おうっ。どんとこい!」

 

 間島Pは笑みを崩さず胸を叩いた。相当に鍛えているのだろうか、スーツの向こう側に確かな筋肉の動きを確認することができた。

 

「では、お言葉に甘えて――」

 

Q1、前川さんと多田さんは、間島さんがスカウトしたのですか?

「オーディションを受けに来た二人を採用したんだ。いやぁー、二人とも輝いていたよ!」

 

Q2、前川さんを安部菜々さんと、多田さんを木村夏樹さんとユニットを組ませた理由は?

「二人の希望を訊いた結果だ。最初はほら、無名の新人なんて見てもらえないから、先輩アイドルと組んで知名度をあげようと思ってさ。――で、みくは猫アイドル、李衣菜はロックなアイドルを目指したいっていうから、ウサミン星人とロックアイドルを組ませたわけだ」

 

Q3、美城常務から二人をソロデビューさせるように言われましたが、このままユニット活動をするわけにはいかないのですか?

「うーん、それが難しいんだよなあ。正直言って、二人とも食われちゃってるんだよ。みくの猫キャラは菜々のウサミンキャラにかなわないし、李衣菜のロックも夏樹には遠く及ばない。このまま活動を続けても相方の引き立て役になるだけで、肩を並べることはできない」

 

Q4、つまり、二人を成長させるためにソロデビューを?

「まあ、それもあるけど、そろそろ時期的にまずいんだ。二人は346プロに所属して半年になる。そろそろ自分のアイドル像を確立して固定ファンを獲得しないと居場所がなくなる。いつまでも〝新人〟じゃいられないからな」

 

Q5、もし、ソロデビューに失敗したら?

「アイドルは知名度が命だ。下品な週刊誌に狙われているうちが華だ。ファンが期待の新人として注目しているうちに〝アイドル〟として認知してもらえなければ未来は無い。鳴かず飛ばずで一年もすればファンの注目は次の新人アイドルへ向かう。旬の過ぎたアイドルが再び這い上がるのは難しい」

 

 ――だから、シンデレラプロジェクトの君に頼みたい。

 

 間島Pは、いつの間にか真剣な表情(かお)になっていた。

 

「今は好調だから気付かないが、みくと李衣菜はアイドルとしてやっていけるかどうかの瀬戸際に立っている。ユニットの相方である先輩アイドルから独立して、誰もが認める〝アイドル〟になれなければ――」

 

 ――来年には消えている。

 

 それはまるで予言だった。壁に並ぶアイドルのポスターが、それだけのアイドルを育ててきた実積が、間島Pの言葉に重みを持たせていた。

 

「お言葉ですが、それならばやはり間島さんが担当されたほうがよいのではないでしょうか? 自分よりも間島さんが担当したほうが、成果を期待できるかと……」

 

 間島Pは、怒ったような顔をして――

 

「武内君。君はもっと、自分に自信を持ったほうがいい」

 

 右手をピクリと反応させて、しかし武内Pが戸惑いのジェスチャーを作ることはなかった。向けられる真剣な眼差しに、首の後ろを触ることすら封じられて――

 

「俺は〝手が空いているから〟という理由で君に頼んでいるわけじゃない。みくと李衣菜は、俺が見つけて、俺が育てたアイドルだ。それを任せることが出来ると、君なら最良の結果を出せると、充分に検討したうえで君に頼んでいる」

 

 武内Pは、しかし間島Pから視線を外す。そして眉間にシワを刻んだまま、壁のポスターへ視線を走らせて――

 

「……本当に、自分でいいのでしょうか? 自分よりも優秀なプロデューサーはいくらでもいます。例えば――」

 

 赤羽根さんとか。

 

 武内Pは、やはり同期入社でありながら数々の成果をあげている赤羽根Pに引け目を感じているようで、伊華雌はもう怒鳴り付けてやろうかと思った。もっと自分に自信を持てと、間島Pの言葉を繰り返してやろうかと思ったが、その必要はなかった。

 

「赤羽根君に俺のアイドルを託すことは出来ない」

 

〝へ……?〟

 

 伊華雌は、無意識に声をもらしてしまった。赤羽根Pは自身のプロデュースで忙しいからとか、そんな理由が待っているのだと思っていた。成果をあげている赤羽根Pに頼めるものなら頼んでいると、そんな答えが返ってくるのだと思っていたのに――

 

「彼のプロデュースは、アイドルをアイドルにすることはできても、普通の女の子をアイドルにすることは出来ない。美城常務風に言えば、有能な指揮官であって、魔法使いではない。普通の女の子をアイドルに変える魔法を持っているのは――」

 

 間島Pは視線で教えてくれた。

 武内Pこそ、普通の女の子をアイドルに変える魔法を持っているのだと。

 

 ――その通りですよ間島さんッ!

 

 伊華雌は腕を組んで頷く感覚を思いだしながら間島Pの慧眼(けいがん)に感激して感動した。見ている人はちゃんと見てくれている!

 

「俺が見る限り、普通の女の子をアイドルとして輝かせる能力に関して武内君は抜きん出ている。そうでなければ、佐久間まゆと市原仁奈をアイドルとして復活させることなんて出来ない。だから――」

 

 ――もっと自分に、自信を持て!

 

「そして、その力を俺に貸して欲しい。俺の育てたみくと李衣菜を、君の魔法でアイドルにしてやってほしい!」

 

 称賛の言葉だけでなく会心の笑みを向けられて、武内Pは口元を緩めて首の後ろに手を伸ばした。それはいわゆる〝照れ笑い〟であり、レアリティの高い表情を記憶するために伊華雌は心のシャッターを切りまくった。

 

「本当は俺が最後まできっちり面倒見たかったんだけど、みく・李衣菜よりもやばい連中をユニットデビューさせることになってな……」

 

 間島Pの視線で伊華雌は気付いた。事務所のすみにあるソファの放つ違和感を。クッションが山積みになっていて、長い金髪らしきものがちょろりとはみ出している。

 

「デビューして半年を過ぎてもまだブレイクしていない背の低いアイドルを集めて〝ぷちドル〟というユニットを作るんだ。こいつらもみく・李衣菜と同じで今が正念場なんだ。この機会にブレイク出来ないと後が無いから必死にレッスンしてるんだ」

 

 間島Pは、この世の全ての空気を吸い上げようとするかのように胸を膨らませて――

 

「なっ、杏!」

 

 クッションの山が、動いた。

 枯れ葉に隠れるコオロギのように身をひそめていた双葉杏が、日光を嫌う吸血鬼のように蛍光灯を睨んで目を細めながら――

 

「……別に、さぼってたわけじゃないよ。ほら、あれだよ。イメージトレーニングってやつだよ」

 

 ここまで白々しいと責める気になれなかった。よれよれのシャツが、まくら代わりに使われていたウサギのぬいぐるみが、双葉杏の熟睡を証明するが、当の彼女は小学生並みの言い訳をぶん投げてドヤっている。ここまで堂々とさぼられたら何故か愛嬌を覚えてしまう。

 いや、単に杏が可愛いからかもしれない。

 伊華雌が同じことをしたら殺処分マッタナシな気もするが、とにかく伊華雌はレッスンをさぼってドヤる杏に悪い印象を持てなかった。

 

「見ての通り、手がかかるんだ」

 

 間島Pが立ち上がる。まるで立ち会いに望む格闘士(グラップラー)のように歩を進めながら闘志をみなぎらせ――

 

「ぷ、プロデューサー? い、いやだなあ、目が恐いよ? きっとあれだよ、仕事のしすぎだよ! 杏と一緒に休憩したほうが――」

 

 一瞬の出来事だった。

 

 その場に倒れこむようにして極端な前傾姿勢をとった間島Pが床を蹴った。開けた口から悲鳴が放出されるより早く杏を確保して、米俵(こめだわら)を担ぐように肩に乗せた。

 

「さあ、レッスンの時間だ!」

 

 杏は必死に抵抗する。レッスンスタジオという名の地獄に対する恐怖心を振り回すウサギのヌイグルミに込めるが、ウサギの腹からこぼれたワタが宙を舞うだけで間島Pはビクともしない。

 

「じゃあ武内君、みくと李衣菜をよろしく頼む!」

 

 間島Pは鍛えぬかれた上半身で暴れるニートを固定して、戦場へ向かう兵士のように勇ましくレッスンスタジオへ向かう。

 

「鬼っ、悪魔っ、プロデューサーぁぁああ――ッ!」

 

 杏の悲鳴が尾を引いて消える。

 事務所に残された武内Pは、しかし入室した時とは目の色が違っていた。間島Pからプロデューサーとしての手腕を褒められて、それが〝自信〟として彼の心の栄養になったのだと思った。

 

〝やってやろうぜ、武ちゃん! 今回も、俺と武ちゃんで!〟

 

「はいっ。絶対に成功させましょう!」

 

 二人の士気は高かった。これまでの成果が、美城常務と間島Pの期待が、シンデレラプロジェクトの存在を肯定してくれて嬉しかった。

 

 実際に、シンデレラプロジェクトの評価は上がっていた。誰しも復活を諦めていた佐久間まゆと市原仁奈を復活させて、その潜在能力を評価されていた。

 

 ――ただし、それはプロデューサーに限る。

 

 ほとんどのアイドルは、依然として〝シンデレラプロジェクト〟という単語に対して〝ゴキブリ〟と同様の嫌悪感を抱いており、そこに配属されることすなわちアイドル終了のお知らせだと思っていた。

 

 それはもちろん、みくと李衣菜も例外ではなかった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第3話

 

 

 

 間島(まじま)Pと話をした翌日、武内Pはみくと李衣菜を社内カフェ〝メルヘンチェンジ〟に呼び出した。理由は佐久間まゆの時と同じである。いきなり恐怖の地下室にご案内するのは控えるべきであるという懸命な判断である。

 

「シンデレラプロジェクト担当プロデューサーの武内です」

 

 武内Pが名刺をテーブルの上に置く。対面に座るみくと李衣菜の前に一枚づつ。

 

「……みくは、納得してないから」

 

 制服姿でメガネをかけているみくが、大嫌いな教師を睨む女子高生のように武内Pを睨む。長い八重歯が下唇を噛んでおり、その唇をわなわなと震わせて――

 

「なんで、第一芸能課からシンデレラプロジェクトへいかなきゃなんないの? 菜々ちゃんとのユニット、調子いいのに、何で!」

 

 尻尾を踏まれた猫の剣幕で声を荒げるみくに李衣菜も同調して――

 

「わたしも、なつきちとのユニット、最高にロックで絶好調なのに、よりによってシンデレラプロジェクトへ異動なんて、わけわかんないっ!」

 

 李衣菜は意思表示とばかりにそっぽを向いてセーラー服のスカーフを揺らす。

 みくもそっぽを向いて李衣菜と武内Pにピンと張った背中を見せる。

 

 ――これが、シンデレラプロジェクトの現状だった。

 

 状況はまるで改善していない。はびこる悪評によってプロデュース対象のアイドルから仲良くそっぽを向かれる状態からのプロデュースを要求される。

 

 またこの展開か……。

 

 伊華雌(いけめん)は今やシンデレラプロジェクトのベテランマイクである。異動してきたアイドルが露骨な拒絶反応を見せるのは毎度お馴染みの光景であり、ことさら驚くことはない。ヒゲをぶち抜かれた猫のように不機嫌なみくも、ギターの弦を輪ゴムにすり替えられたミュージシャンのように不機嫌な李衣菜も、今にも泣きそうな武内Pも――

 

 いや、何で泣きそうなんだよ! そろそろ慣れようぜこの展開!

 

 武内Pは、伊華雌しか分からないぐらいの表情の変化で、……いや、伊華雌と佐久間まゆにしか分からないぐらいの表情の変化で最大限の哀しさを表現していた。

 つまり一般人からすれば普段と変わらぬ仏頂面であり、だからみくと李衣菜は容赦しない――

 

「みく、第一芸能課に戻してほしい。これからもみく&ナナで活動したい!」

 

「なつきちとロック・ザ・ビートで最高にロックなアイドルしてるのに、何で……」

 

 どうやら、間島Pは話をしていないようだった。そのユニット活動は二人の未来を保証してくれないのだと、説明するタイミングも含めて武内Pに任されているようだった。

 

 きちんと説明をするべきかどうか、その判断は難しいと伊華雌は思う。

 

 それはまるで〝大病(たいびょう)の告知〟であり、今のままユニット活動をしていたら余命一年であると宣告された二人はショックを受けてしまうだろう。そのショックがソロ活動に向けて奮起する起爆剤になればいいが、失意のあまりアイドル活動に対する意欲を失ってしまう可能性もある。

 

「みくちゃん、プロデューサーさんを困らせちゃダメですよっ」

 

 ずっと下唇を噛んでいたみくの八重歯が、すっと抜けて笑顔を彩るチャームポイントになって光る。テーブルに立ち込めていた不穏な空気を吹き晴らしたのは、ウサミミをつけた小さなメイドで――

 

「メイドアイドル安部菜々、怪人プンスカーデスの気配を感じて参上しましたっ!」

 

 馴れた仕草で〝キャハ☆〟を決めたウサミンは、聞き分けのない子供を叱る母親の顔で――

 

「みくちゃん、そのことは話し合ったじゃないですか。プロデューサーさんの話を聞いて、それでも納得できなかったら菜々に相談してくださいって」

 

 みくは耳をたたむ猫のように弱気な顔で菜々から視線をそらして――

 

「……そうだけど、いざとなったらやっぱり納得できないっていうか。だって、やっぱり――ッ!」

 

 勢いをつけて菜々の方を向いたみくの頭に――

 

 猫耳。

 

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。間島プロデューサーも武内プロデューサーも、ちゃんとみくちゃんと李衣菜ちゃんのことを考えているんですから、ね?」

 

 みくは菜々につけられた猫耳をさわり、猫口に笑みを浮かべて――

 

「……分かったにゃ。菜々ちゃんの言うとおりにするにゃ。……にゃっ! くすぐったいにゃ!」

 

 ウサミンからよしよしいい子だねと頭を撫でられるみくにゃんを見て尊いとか思う俺はもうダメかもしれない。

 

 突如ラノベの長文タイトルみたいな思考が頭をよぎってしまうほどに微笑ましい光景だった。伊華雌はたまらず尊みを感じていた。みく&ナナの展開する二人だけの世界に李衣菜がじと目をつくっていた。

 

 おーい、誰かなつきちを呼んできてくれーい。そしたらだりーも尊くなって世界に平和がおとずれるぞーい。

 

 伊華雌がみく&ナナの尊さにあてられてIQを低下させている間にみくは吹っ切れた。魚を見つけた猫のように、ハンバーグを見つけたみくにゃんのように、目を光らせて――

 

「とりあえず、詳しい話を聞かせてもらうにゃ。話はそれからにゃ」

 

 武内Pはみくに頷き、李衣菜の方へ向き直って――

 

「多田さんも、話を聞いてもらえますか?」

 

 李衣菜はミュージシャンめいた仕草で肩をすくませて――

 

「別にわたしは最初から話を聞くつもりでしたよ。みくちゃんみたいに駄々をこねるつもりはありませんから」

 

「だーれーがー駄々をこねてたにゃ!」

 

 みくが立ち上がり机を叩いた。

 李衣菜は明後日の方向を向いて――

 

「第一芸能課に戻してほしいーって騒いでたじゃん」

「それは李衣菜ちゃんも同じだと思うけど!」

「わたしは納得がいかないから理由を知りたいってだけで、戻してくれなんて言ってないし」

「言ってないだけで思ってるにゃ」

「はあ! 何でそんなことみくちゃんに分かるの!」

「顔に書いてあるにゃ」

「書いてないし!」

「書いてあるにゃ!」

「書いて――」

 

「ふーたーりーとーも!」

 

 睨み合うみくと李衣菜の間に菜々が割って入った。

 

「もうっ、喧嘩しないでください。ほらっ、武内プロデューサーさん困ってますからっ」

 

 二人に取り残された武内Pはやり場のない右手で首の後ろを触っていた。

 

「二人はいつもこんな感じなんですよ。仲良く喧嘩してるんです」

 

 菜々の弁解に、しかしみくは納得しない。爪を立てて引き裂くような鋭い語気で――

 

「菜々ちゃん! みくと李衣菜ちゃんは、仲が悪くて喧嘩してるの! ネコチャンとペットボトルみたいにどうしようもない関係にゃ!」

 

 負けじと李衣菜も過激なヘビィメタルのMCみたいに――

 

「そうだよ菜々さん! わたしとみくちゃんは激しいロックと退屈なクラシックぐらい相性が悪いんだからっ!」

 

 菜々へ向けられていた二人の視線が、ゆっくりとお互いの方へ向けられて、その交点でバチリと火花を散らしてすぐにそらされた。

 

 みくと李衣菜がお互いに背中を向けて、その中心にいる武内Pが石像のように硬直している。どうしていいのか分からない様子の武内Pに、無理もないと伊華雌は思う。だって伊華雌も、何を言っていいのか分からなかったから。

 

 こんなにあからさまにアイドルが喧嘩をしているのを見るのは初めてだった。

 

 伊華雌が見てきたアイドルは、ステージの上で活躍している姿がほとんどである。仮に仲が悪くとも、ステージでは親しげに振る舞って見せるから喧嘩する姿なんて見られない。仮に喧嘩をしたとしても、それは台本のあるプロレスであってきちんとオチがつく。

 マイクになって舞台裏のアイドルを見る機会に恵まれたが、本気で喧嘩してるところなんて見たことがない。シンデレラプロジェクトで担当した佐久間まゆと市原仁奈は、どちらも温厚なタイプで他人と喧嘩するようなタイプではなかった。

 みくと李衣菜は、どちらも気が強くて、気性が荒くて、例えるなら扱いの難しい暴れ馬のような印象だった。

 

 ――あれ、もしかして今回のプロデュース、今までより難易度高いような……。

 

 それは一つの直感だった。あらゆるゲームをやりこんでいるゲーマーが序盤で最終面の難易度を感じとって姿勢を正すように、シンデレラプロジェクトのベテランマイクである伊華雌は、腕を組んで背を向けるみくと李衣菜から過去最高難易度のプロデュースがスタートしてしまったのではないかという予感に戦慄(せんりつ)を覚えていた。

 その感覚が杞憂(きゆう)であること、仮に最高難易度であっても自分と武内Pであれば突破できると信じて、伊華雌は武内Pに声をかける――

 

〝武ちゃん、とりあえず顔合わせはすんだことだし、二人を事務室へ案内しようぜ。今日はまゆちゃんがいると思うから、菜々さんの代わりに二人をなだめてくれるだろうし〟

 

 武内Pは頷いて、二人に声をかけた。菜々に手を振られてメルヘンチェンジを後にした。

 

 ――事務所、佐久間まゆ。

 

 伊華雌の中で何かが引っ掛かった。このキーワードを見逃してはいけないと思うのだが、はて、何だろう……?

 それは遠くで聞こえるサイレンのような危機感で、その音色(ねいろ)の正体が分かった時には――

 

 ――すでに手遅れであることが多い。

 

「ここが、シンデレラプロジェクトの事務室になります」

 

 二人を地下室に案内した武内Pが、ドアノブに手をかける。

 

「すごい、不気味にゃあ……」

 

「ある意味、ロックだね……」

 

 シンデレラプロジェクトを信頼してもらうには、武内Pの真面目なところを見てもらわなくてはならない。アイドルのプロデュースに関して誰よりも真面目に取り組んでいる部署であると、担当プロデューサーの真剣な横顔から感じ取ってもらわなければならない。だから最初は、ふざけて遊んでいるところとか絶対に――

 

 ――まゆ、仁奈、ままごと、パパ。

 

 伊華雌の中で曖昧なキーワードとして浮遊していた記憶が結合された。パズルのピースが正しい場所に収まって意味のある光景を形成するように、遠くで聞こえていたサイレンが、その音色の正体が――

 

〝武ちゃん! ドアを開けちゃダメだッ!〟

 

 ――気付いた時には、手遅れだった。

 

 事務所のドアを開けた武内Pを、見上げた仁奈が目を輝かせて――

 

「パパ!」

 

 そしてエプロン姿のまゆが――

 

「おかえりなさい、あなた」

 

 みくは全身の毛をぶち抜かれた猫の驚愕(きょうがく)をガクンと()けた猫口に表現し、李衣菜はステージにあがった途端に歌詞と曲を同時に忘れたミュージシャンの狼狽(ろうばい)を引きつった片頬に強調した。

 

 そして伊華雌は、大切な人の猫とギターを同時に踏んづけて途方に暮れる感覚を発見していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第4話

 

 

 

 まゆに〝計算〟はなかったと思う。

 

 シンデレラプロジェクトに仁奈が配属されて、歳の離れた二人の間で成立する遊びの一つに〝おままごと〟があった。まゆがママになって、仁奈が子供になって、シンデレラプロジェクトに男性は一人しかいないから、必然的に武内Pがパパになる。

 

 子供の遊びとはいえプロデューサーと結ばれてしまった。

 

 彼女はこの遊びをいたく気に入って、天真爛漫な仁奈が少し引いてしまう程に入れ込んだ。武内Pを〝あなた〟と自然に呼べるようになって、手作りの肉じゃがを持参するようになって、対面でネクタイを結べるようになって。

 

 もしかすると、まゆは計算していたのかもしれない。

 

 仁奈がシンデレラプロジェクトにやって来たその瞬間から、隙あらば〝おままごと〟という免罪符(めんざいふ)を片手に武内Pと夫婦になるべく虎視眈々(こしたんたん)と機会をうかがっていたのかもしれない。

 

 パレードが成功して復活した仁奈は第三芸能課へ戻ったが、シンデレラプロジェクトの地下室は彼女の〝遊び場〟に登録されたようで頻繁に遊びにくるようになった。そして仁奈が来るたびにまゆは仁奈のママになって武内Pはパパになった。

 

 その光景は数ある〝第一印象〟の中でもわりと最悪の部類に入ると伊華雌(いけめん)は思う。

 

 アイドルとままごと遊びを楽しむプロデューサーとか! アイドルを嫁にして(えつ)()るプロデューサーとか!

 

 想像力の数だけ誤解がとまらない。ほら、すでにみくにゃんはタマネギ食わされた猫みたいな顔してるし、李衣菜ちゃんはライブ会場がクソショボい公民館だったことを現地で知ったミュージシャンみたいな顔してるし――

 

 シンデレラプロジェクトの信頼度が大暴落マッタナシなんですけどぉぉおお――ッ!

 

 頭を抱える感覚に支配される伊華雌をよそに、まゆは近所のママ友を見つけた新妻みたいな笑みを浮かべて――

 

「あ、誰かと思ったらみくちゃんと李衣菜ちゃん。……そっか、二人もシンデレラプロジェクトに配属されたんですね」

 

 どうやらまゆは二人と面識があるらしく、エプロンをさわりながら気安い口調で――

 

「どうですか? 二人も一緒に――」

 

「やらないにゃ!」

「やらないよ!」

 

 異口同音に拒絶されて、しかしまゆは幸せそうな笑みを絶やさずに――

 

「そうですね、役が足りないですね。まゆがお嫁さんで、仁奈ちゃんが子供で――」

 

「じゃあ、二人は仁奈のおねーさんになればいーです! 家族が増えて嬉しーです!」

 

 まゆの足元からにゅっと現れた仁奈に対してみくはきっちりと突っ込みを入れる――

 

「謎の家族に組み込まれるのはノーセンキューにゃ。これは何のプレイなのか、あんまり知りたくないけど説明を要求するにゃ」

 

 ようやく誤解が解けると思った。ただのままごと遊びであると分かればマイナスに振りきれている信頼がゼロに戻ってくれる。

 

「これは、予行練習です……」

 

 そうそう、予行れんし――

 

 えッ! 何言ってんのまゆちゃん! いつからそんなことにッ!

 

「プロデューサーさんが、いつまゆと結ばれてもいいように練習してるんです……」

 

 違うから! 子供の遊びだから! 健全なおままごとだから! 結婚の練習とか、題材にしたエロゲーがありそうな不謹慎な遊びじゃないからぁぁああ――ッ!

 

 伊華雌だけでなくさすがの武内Pも焦りを覚えたようで、あらぬ誤解を解消すべく身振り手振りで説明する。そんな武内Pを見つめてまゆは小さく舌を出していた。

 

 小悪魔まゆちゃん……だとッ! こんな小悪魔にならいくらでも振り回されたい! むしろイエスッ! ――とか言ってる場合じゃなくてッ!

 

 伊華雌は小悪魔なまゆに誘惑される自分を必死に振り払い、何とか正気を取り戻し――

 

〝武ちゃん、とりあえず部屋に入ってもらって話を始めよう。油断してると既婚者にされてしまいそうだ〟

 

 武内Pはみくと李衣菜を部屋に入れてソファをすすめた。二人は顔を引きつらせたままソファに座った。武内Pが対面に座るなり、まゆがお茶をいれてくれた。武内Pに、みくに、李衣菜にお茶を配り、そして当たり前のように武内Pの隣に腰をおろした。

 何か言いたげなみくの猫口に応えるように――

 

「ここは、まゆの指定席なんです……」

 

 そんなことないんですと、否定することは出来なかった。

 

 ――だって本当に、武内Pの隣はまゆの指定席だったから!

 

 いつからなのかは覚えていない。シンデレラプロジェクトに来たばかりの頃は武内Pの向かいに座っていたのだけど、少しづつソファを移動して、気がついたら武内Pの隣にいるのが当たり前になっていた。

 大陸が移動するようにゆっくりと。田舎の人が少しづつバス停を自分の家に近づけるようにこっそりと。

 

 だから、いつからなのか思いだせない。

 

 気がついたら武内Pの隣はまゆの指定席で、並んで座る二人を見るたびに千川ちひろが電車の席を取られてしまった人の顔でため息を落とす。

 

「この部署、大丈夫なの……? なんか、真面目に仕事してるようにみえないんだけど」

 

 猫語を捨てたみくにゃんの目付きは鋭い。

 

「ロックな魂を預けられるような情熱、感じないなあ……」

 

 セーラー服姿の李衣菜が、関心の無さを強調するかのように黄色いスカーフを指でもてあそぶ。

 

 それはまるで好感度の下がりきったギャルゲーだった。愛の反対語が無関心であると伊華雌はギャルゲーに教わった。

 

「えっと……」

 

 武内Pは言葉を詰まらせていた。伊華雌も頭を悩ませていた。ギャルゲーのように選択肢が出現してくれればいいのだが、現実世界にそんなものは存在しない。二人の信頼度を回復させたいのであれば自分の頭を絞って素敵な言葉を用意しなければならないのだが――

 

 そんな魔法の言葉がスラスラ出るなら彼女いない歴と年齢がリンクしたりしねえんだよちっくしょぉぉおお――ッ!

 

 伊華雌のギャルゲーによって(はぐく)まれた思考回路は役に立たない。役立たずのマイク野郎にかわって武内Pをフォローしたのは――

 

「大丈夫ですよ。武内プロデューサーさんは、真面目に、情熱的に、まゆをプロデュースしてくれたんです。だからきっと――」

 

 二人のことも助けてくれます。

 

 まゆの言葉が、仕草が、行動が、その全てが説得力だった。

 信頼のおけるプロデューサーであるからこそ、まゆはその隣に座っている。仁奈も武内Pのそばから離れようとしない。

 それはまるで猫に好かれている人が公園で野良猫に囲まれている光景のようなもので、その人がアイドルから信頼されるに足りる人物なのだと、千の言葉をもちいて説明するよりも強い説得力を持っていた。

 

「……まあ、まゆちゃんがそこまで言うなら、とりあえず武内さんのこと信頼するにゃ」

 

 みくが肩をすくませると、李衣菜もミュージシャンめいた仕草で足を組んで――

 

「そうだね。とりあえず、武内さんにわたしのロックな魂を預けるよ」

 

 首の皮一枚繋がった。

 そんな表現が適切になってしまうギリギリの信頼関係を何とか確保できて、ようやく話を始めることができると思ったのも束の間――

 

「ソロデビューの話をする前に、ソロデビューしなきゃいけない理由、教えてほしいにゃ。間島Pチャンも菜々チャンもはっきり教えてくれないから……」

 

 走り出したランナーに大足払いをかけるような質問だった。さらに李衣菜が、転んだランナーの足に縄をかけて引っ張るように――

 

「なつきちも教えてくれなくて……。理由があるなら教えてほしい!」

 

 もう、きちんと話すしかないと思った。優しさからためらいをみせる武内Pの背中を押して、これは二人のためだからと念を押して告知するしかないと思った。

 週刊誌に狙われているうちにソロデビューを果たしアイドルとして確固たる地位を築かなければ未来が無い。残された時間は二人が思っているほどに多くない。

 

「……もしかして、週刊誌のこと?」

 

 傷が痛むのを覚悟して海に飛び込んだ。そんな感じの怯えを含んだ口調だった。そしてみくは、傷口に入り込んだ塩水がもたらす激痛を覚悟するかのように身構える。

 

「……そりぁ、ギターはまだ練習中で、難しいところはエアギターだけど、でも――」

 

 李衣菜もみくと同じように、傷口のもたらす痛みをこらえようとするかのように眉をしかめる。

 

 未熟な新人アイドルを狙う陰湿な記事が原因ならばまだ話は簡単だった。

 二人がユニットを卒業してソロデビューしなければならない理由は――

 

「あっ、みんな来たでごぜーますっ!」

 

 仁奈が何を言い出したのか、伊華雌は分からなかった。もしかして〝あの子〟的なやつが降臨したのかと思った。子供と動物は〝見える〟っていうし……。

 

 しかしそれはすぐチキン野郎の思い過ごしであると分かった。単に仁奈の耳が良かっただけだった。

 無数の足音が階段を駆けおりてきて、かん高い声と笑い声がドアの向こうで膨らんで――

 

 弾けるようにドアが開き、第三芸能課のキッズアイドル達がなだれこんできた!

 

「仁奈ちゃん、いたーっ!」

「みんなで迎えにきたよーっ!」

「みんなで来る必要はなかったような気がしますが……」

「そういうありすだって一緒に来てんじゃん」

「わっ、私は自分の予想が正しかったことを確かめるために! あと、橘だって何回言えば――」

「喧嘩してる時間はありませんわ。早くレッスンスタジオへいかないと、あら……」

 

 櫻井桃華の視線がみくと李衣菜の間を往復して――

 

「見慣れないお客さんがいらっしゃいますのね」

 

 一斉に、子供達の視線がみくと李衣菜に突き刺さる。

 

「あっ、かおる、知ってる!」

 

 龍崎薫がみくの近くに駆け寄って、両手でウサミミのジェスチャーを作って――

 

「ミミミンミミミンウーサミン! ――のお姉さんっ!」

 

 するとみりあも目を輝かせ、ウサミンコールの大合唱が始まった。

 

「いや、みくは、その相方のお姉さんなんだけど……」

 

 泣き顔を無理矢理に笑顔で上書きしたような顔でみくは子供達のウサミンコールに手拍子を入れた。

 

「あんた、どこかで見たような……」

 

 結城晴が、PKに挑むサッカー選手の目付きで李衣菜をじっと見る。

 

「今は制服だから、印象違うかな」

 

 李衣菜は有名人がサングラスを外して正体を明かす時のように誇らしく――

 

 エアギター。

 

 経験によって(つちか)われたエアギターによって結城晴の記憶を覆っていた霧が晴れた。

 

「思い出した! あんた、ロックアイドルの――」

 

「そう! わたしはロックなアイドル――」

 

 李衣菜はエアギターを激しくかき鳴らしてロックな自己紹介に備えるが――

 

「木村夏樹の横の人だ!」

 

 それはまるで、演奏中に銃撃されたギタリストのようだった。弾丸となった晴の言葉にエア銃撃された李衣菜はソファを棺桶(かんおけ)にして沈黙する。

 

「みなさん! 早く行かないとトレーナーさんに怒られますよ!」

 

 橘ありすが黒髪をなびかせながら凛々しく(きびす)をかえし、他のキッズアイドル達が慌てて後を追う。

 

「仁奈、またきやがりますっ!」

 

 仁奈が笑顔で手を振って、地下室のドアが閉ざされた。子供達の元気な足音が遠ざかり、重い空気が残された。

 

「……いつも、こうにゃ」

 

 みくはため息まじりに頭から外したネコミミを見つめ――

 

「ウサミンは知ってるのにみくのことは知らないって、そんなのばっかり……。みくも一緒にステージに立ってるのに……」

 

 ソファで死体になっている李衣菜は、一瞬だけみくを見て、また死体に戻った。

 

 現実は時として残酷で、その人の夢も、希望も、理想も、憧れも、全て無視して真実の姿を見せつける。純粋な子供達の言葉を通して突き付けられた現実に、みくと李衣菜は打ちのめされて言葉を失う。

 

 ――出番だと思った。

 

 落ち込んだアイドルを励まし復活させるのは、そう、シンデレラプロジェクトの仕事である。

 

〝武ちゃん、二人に言ってやれ! まだ終わりじゃないって。これからが始まりだって!〟

 

 武内Pは伊華雌を見て、目の奥に光を宿し、その光をみくと李衣菜へ向けて――

 

「現状を変えるために、出来ることがあります」

 

 みくと李衣菜は動かない。(うつ)ろな視線だけを武内Pへ向ける。

 

「二人とも輝く魅力をもっています。しかしそれを認識されていません。何故かというと――」

 

 すぐ近くに、あまりにも眩しい存在がいるから。

 

「どんなに強いライトであっても、日光にはかないません。今の二人は、太陽の横で必死に光を出しているホタルのようなものです」

 

 李衣菜は、眉をしかめた。

 みくは、少しだけ八重歯を見せた。

 

「今は日光にかき消されてその光を見ることはできませんが、しかし、光っています。気付かれていないだけで、前川さんと多田さんは、アイドルとしての輝きを放っています!」

 

 息をのむ気配があった。

 向けられる視線は、しかし虚ろなものではなくなっていた。

 

「その話、信じていいの?」

 

 みくの目は、まるで獲物を見つけたライオンのように鋭く、生半可な回答を許さない。

 

「それが本当なら、ロックだね……」

 

 李衣菜は大きな仕事を依頼された大物ミュージシャンのように腕を組んだ。

 

 二人はアイドルの原石である。研鑽(けんさん)を重ねているものの、その輝きはまだ小さい。偉大な先輩の近くにいては、彼女達の〝可能性〟という名前の輝きを視認することは難しい。

 

「自分の足で踏み出して、初めて見える景色があると思います」

 

 二人はきっと、分かっていた。

 

 ――このままではまずいのだと。

 

 そして、思っていた。

 

 ――憧れる先輩のようになりたいと。

 

「ソロデビュー、してみませんか?」

 

 みくは縄張りの外へ踏み出す猫の顔で――

 李衣菜は初めてライブハウスの舞台にあがるバンドマンの顔で――

 

 二人同時に頷いた。

 

 前川みくと多田李衣菜のソロプロジェクトが始動した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第5話

 

 

 

 346プロは〝346プロライブ劇場(シアター)〟という専用劇場をもっている。

 

 ライブハウスに毛のはえた程度の大きさで、美少女に毛のはえた程度のアイドルがステージにあがる。もちろん、テレビをつけるたびに目が合うようなベテランアイドルが登壇(とうだん)することもあるが、まだ知名度の低い新人アイドルのステージが圧倒的に多い。

 

 それもそのはずで、この劇場は新人育成施設として作られている。

 

 アイドルにとってライブとはすなわち〝実戦〟であって、どんなにレッスンを重ねたところでライブの〝勘〟を養うことは出来ない。訓練に明け暮れた新兵が実戦の部隊ではまるで役に立たないように、レッスン中毒の新人アイドルはしかし観客を前にした舞台では産まれたばかりの仔馬よろしく足を震わせるばかりである。

 

 一人前のアイドルになるには実戦経験が必要なのだ。

 そのための346プロライブ劇場である。

 

「前川さんと多田さんからソロデビューの意思表示をいただきました。劇場でのソロデビューに向けて準備を――」

 

 第一芸能課の事務室に乾いた音が響いた。それは間島(まじま)Pが机を叩いた音であり、予期せぬ感動を受けて頭より先に体が反応した結果であって――

 

「すごいじゃないか武内君! もっと時間がかかるものだと思っていたよ! だってあの二人、臆病なくせに強情だから!」

 

 スーツ越しにはっきりと存在を確認できる立派な大胸筋が笑みに合わせて躍動している。

 先輩に褒められた武内Pは、口元を緩め首の後ろへ手を伸ばす。それはとても控えめな仕草で、嬉しくて照れているのだと見て取ることができるのは伊華雌(いけめん)と佐久間まゆに限られるのかもしれないが、武内Pは表情に出してしまうくらい先輩からの賞賛を喜んでいた。

 

「それで、何か相談があるんだろ? 何でも聞いてくれ!」

 

 〝体操のお兄さん〟という形容詞がぴったりな間島Pだが、彼は346のトッププロデューサーである。決して脳筋(のうきん)なわけじゃない。武内Pの顔を見ただけで何か悩みがあるのだと見抜き、頼れる先輩の笑みで助け船を出す。

 

「実は、二人のソロ曲のことでご相談が……」

 

 346プロではデビューする新人に必ずソロ曲を用意する決まりになっている。先輩の曲や有名な曲のカバーではない。そのアイドルのために書き下ろされた新曲を武器として用意してもらえる。使いこなせば先輩アイドルと互角以上に渡り合える最高の武器を装備させてもらえる。

 

「自分は、前川さんと多田さんについて、間島さんほど深く理解できていません。なので、どんな曲を用意したらよいのか、アドバイスをいただきたく……」

 

 ソロデビューが成功するかどうかはソロ曲の良し悪しにかかっている。ここで言う〝良し悪し〟とは曲の出来栄えのことではない。プロに制作を依頼するわけだから曲の完成度についてそれほど心配する必要はない。じゃあ何が心配なのかと言うと――

 

 その曲が、果たしてアイドルの〝イメージ〟に合っているのかどうか?

 

 ソロ曲はアイドルの自己紹介を兼ねている。どんなアイドルになりたいのか、どんなキャラクターなのか、歌に乗せて伝えるという大役を担っている。

 

 ――だから、慎重にならざるをえない。

 

 イメージに合わない曲をアイドルに渡すのは、凄腕のスナイパーに輪ゴムの鉄砲を渡すようなものであり、それで成果を期待できるわけがない。

 ソロ曲制作はアイドル生命に関わる重要な仕事であり、それを指揮するプロデューサーの責任は重大なのである。

 

 だから、間島Pに助言を求めた。

 二人を育てた彼の協力があれば最高の曲を用意することができると思った。

 

 しかし――

 

「みくと李衣菜のソロ曲について、武内君に言うべきことは何もない」

 

 伊華雌は耳を疑った。いつもの笑顔で協力してくれると思っていた。まさか断られるとは思ってなかった。

 

「それは、どうして、ですか……?」

 

 普段以上の仏頂面が武内Pの心情を訴えていた。伊華雌も同じ気持ちだった。急に冷たく突き放されて納得できなかった。

 

 間島Pはしばらく武内Pの無愛想な視線を受けとめていた。

 そして、急に笑みを浮かべた。

 それはまるで、ドッキリをばらす仕掛人の笑みで――

 

「だって、二人の曲は、もう準備してあるから!」

 

〝……へ?〟

 

 その間抜けな声が自分のものだと理解するのに少し時間が必要だった。

 何を言われてもすぐに状況を理解して意見を述べる武内Pもさすがに混乱したようで、しばらく呆然としていた。

 

「……つまり、すでに楽曲制作は完了している、ということでしょうか?」

 

 白い歯を見せて笑う間島Pが机の引き出しから二枚のCDを取り出した。

 

「まあ、聞いてみてくれ。仮歌(かりうた)も入ってる」

 

 伊華雌は曲を聞きながら混乱する頭を整理する。

 ソロデビューが決まったアイドルは、そのアイドルのイメージに合ったソロ曲を武器に芸能界へ殴りこみをかける。つまり、アイドルをソロデビューさせるプロデューサーが真っ先に着手すべきはソロ曲の作成であると、武内Pから教えられたばかりなのだが――

 

 曲はすでに完成している。

 

 しかも聞いてみると相当に出来の良い曲だった。伊華雌は音楽について素人であるから、専門知識抜きの純粋な〝ファンの視点〟でしか曲を聴けないから、だからこそこれは良い曲なのだと断言できた。これを聞いたファンは今の自分と同じ気持ちになってくれるだろうと確信できた。

 

「これが、俺のやり方なんだ」

 

 曲が終わるなり間島Pが語り出した。気恥ずかしいのか、いつもより控え目な笑みを浮かべ――

 

「俺は、担当を引き受けた時点でソロ曲の制作に着手する。みくと李衣菜の曲はとっくに完成していた」

 

 それが何を意味するのか、伊華雌にはピンとこない。それが〝常識から外れた行為〟であると察することができたのは、武内Pが目を見開いて半口を開けていたからである。その表情を伊華雌は〝相手の正気を疑っている表情(かお)〟であると判断し、どうやらその予想は的中しているようであり――

 

「……お言葉ですが、あまりにもリスクが大きいプロデュースだと思います。確かに、早いうちに着手した方が時間をかけて楽曲を制作できるのでクオリティの向上が期待できますが、担当したアイドルが必ずソロデビューできるかどうか分かりません。もし、ソロデビューに至らず挫折してしまったら、その経費は完全に無駄になります」

 

 武内Pの言葉を聞いて伊華雌はようやく理解する。

 担当になったばかりでソロデビューできるかどうか分からない新人アイドルのソロ曲を制作してしまうのは、結婚するかどうか分からない娘のためにウェディングドレスを作ってしまう父親のようなものである。娘が結婚しなかったら〝何故ドレスなんか作ったんだ!〟と嫁に殴られても文句が言えないように、担当アイドルがソロデビューに至らなかった場合それなりの〝処分〟を覚悟しなくてはならない。

 

「武内君の言うとおりだ。多額の経費で楽曲を作り、しかしデビューに至らなければその経費は無駄になる。責任を追求されてプロデューサーという職務から外されるかもしれない」

 

 伊華雌は武内Pの指摘した〝リスク〟の意味を理解して、そして理解できなかった。

 つまり間島Pは346プロのトッププロデューサーという地位にありながら、新人アイドルを担当するたびに己のプロデューサー生命をかけてソロ曲の制作に着手しているということになる。

 何故、そんな危険を――

 

「これが俺のやり方なんだ」

 

 間島Pの視線が壁を飾るポスターへ向けられる。これまでプロデュースしてきたアイドル達と視線を交わし――

 

「アイドル達は、俺にその魂を預けてくれる。そのアイドル生命を俺のプロデュースに託してくれる。だから俺も――」

 

 自分のプロデューサー生命をかけて本気でプロデュースをする!

 

「彼女達の本気に応えたいと思ったら、こっちも本気にならなきゃ駄目だ。俺がリスクをかぶることでアイドルに最高の曲を用意できるなら、俺は迷わない……ッ!」

 

 右手に〝自信〟を、左手に〝覚悟〟を握る間島Pを格好いいと思うと同時に、とても真似できないと思う。

 

 ――いや、真似してはいけないと思う。

 

 アイドルと同じリスクを背負うプロデュースは、間島Pだからできるのであって、彼以外の人間がやろうと思って出来る代物ではないのだ。

 

「――というわけで、みくと李衣菜にはすでにソロ曲の用意がある。これで二人を一人前のアイドルにしてやってくれ!」

 

 差し出されたCDを、武内Pは国宝でも貰い受けるかのような慎重な手つきで受け取った。受け取ったのはCDだけではないと思った。そこに込められた間島Pの〝本気〟も一緒に受け取ったのだ。

 

「必ず、二人のソロデビューを成功させてみせます!」

 

 真剣な表情で宣言する武内Pに、何故だろう、伊華雌は違和感を覚える。何が違うのか、説明することは出来ないのだけど、その真剣な横顔に得体の知れぬ危機感を覚えた。

 

 ――いや、こんなにやる気になってるんだから、何も気にすることはないはずだ……。

 

 伊華雌は自分に言い聞かせ、正体の分からない不安を振り払った。

 

「さて、みくと李衣菜のことは武内君に任せて、俺は自分の仕事に取りかかろう……」

 

 おもむろに立ち上がった間島Pが首に手をかける。相手を威嚇する喧嘩師のようにグキリゴキリと間接を鳴らし、洗練された足の運びで音を立てずに部屋のすみにあるロッカーに近づいて――

 

「俺は、担当を引き受けた時点で絶対にソロデビューさせてやると決めている。全員の曲を用意している。だから――」

 

 ロッカーの前で足をとめ、立てこもる犯人を怒鳴り付ける刑事のように――

 

「安心してレッスンに励んでいいんだぞっ、杏!」

 

 ガタンと、音がした。

 

 犯した失態は致命的で、再び息を殺して気配を消したところで間島Pはすでに獲物を狙う猛禽(もうきん)の目を光らせて――

 

 バコンという音と共にロッカーのドアが開かれた。

 おびただしい数のクッションが床に転がって、その中に双葉杏の姿があった。

 

 ロッカーに潜んでまでレッスンをさぼろうとする杏に、伊華雌はもはや呆れるを通り越して感動を覚えた。そして木の中に潜む芋虫をピンポイントで察知して補食するキツツキのように杏の居場所を見抜いて引きずり出した間島Pはやはりただ者ではないと思った。

 

「……えっと、これは、その」

 

 きっと杏は、小学生並の言い訳をぶっ放してドヤ顔を披露するつもりだったのだろう。

 しかし彼女の(たくら)みは成就しない。

 次の瞬間には間島Pの肩に担がれ、レッスンスタジオへ向けて出発進行していた。

 

「さあ、楽しいレッスンの時間だ!」

 

 問答無用の筋肉魔人に、杏は捕獲された野生動物が断末魔の悲鳴をあげるかのように――

 

「鬼っ! 悪魔っ! プロデューサーぁぁああ――ッ!」

 

 杏を担いで事務室から出ていくたくましい背中を見つめる武内Pの視線に熱があった。どこかで見たような視線だった。それはとても尊い光景で――

 

 あっ、みく&ナナだ!

 

 メルヘンチェンジで菜々を見つめるみくが同じ目をしていた。この熱い眼差しは――

 

 尊敬する先輩に対する憧れ。

 

 こんな風になりたいと思う憧れの人を見つめる時、その視線には熱がこもる。きっと木村夏樹を見つめる李衣菜も同じような視線を作るのではないかと伊華雌は思った。

 

〝先輩の期待に応えてやろうぜ、武ちゃん!〟

 

「ええ、もちろんですッ!」

 

 いつも以上に気合いの入った返事だった。気合い充分――なのはもちろん素晴らしいことであるはずなのだが、またしても得体の知れない不安な気持ちがこみ上げた。それは妙な違和感を伴っていた。行き先の違う電車に乗ってしまった時に生じる〝焦り〟が伊華雌の胸を焦がすが、しかしその正体が何なのか見当がつかない。

 

 それはたちの悪いガン細胞のようなものだった。生活に支障のない程度の違和感で悪しき存在を隠匿(いんとく)していた。早期に発見できれば駆除も容易だが、末期的に育ってしまうと取り返しのつかないことになる。

 

 ――武内Pを密かに蝕んでいるものが何なのか?

 

 それは決して放置してはいけない悪性腫瘍であるのだが、伊華雌はそれについて考えることをやめてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第6話

 

 

 

 シンデレラプロジェクトの地下室でみくと李衣菜にソロ曲が完成していることを伝えた。当然ながら二人は驚き、事情を話すと間島Pを絶賛した。

 

「間島Pチャンはすごいにゃあ!」

「間島プロデューサーはロックだね」

 

 そんな台詞を聞いている武内Pは少し寂しそうだった。

 まだ、みくと李衣菜は武内Pを〝担当〟として認めてくれていないように思えた。その証拠に二人は武内Pのことを〝武内さん〟と呼ぶ。その様子はまるで再婚相手の連れ子から〝パパ〟と呼んでもらえない父親のようだった。

 

 そんな状態だからこそ、絶対にプロデュースを成功させたいと伊華雌(いけめん)は思う。

 

 ソロプロデュースを成功させれば、きっと二人は武内Pを認めてくれる。そしたらきっと、武内Pは笑顔になってくれる。その笑顔のために頑張りたいと、武内Pの寂しそうな顔を見て思う。

 

「ソロデビューは346プロライブシアターで行います。いきなりソロでステージに立つのは厳しいと思いますので、最初は他のユニットのライブにゲスト出演する形を考えています」

 

 それはまさに教科書通りのプロデュースだった。

 ユニットとソロでは勝手が違う。ユニット活動の経験があっても、いきなり単独のステージを任せるのは危険であるから、まずはゲスト出演で様子を見る。子供の自転車の補助輪を外しても大丈夫かどうか見極めるように、頼れる先輩が隣にいなくても大丈夫かどうか、ゲスト出演ライブによって見極める。

 

「ゲストで出るのはいいんだけど、どこのユニットと組むの?」

 

 制服姿でメガネ顔のみくは猫語を使わない。どうやらみくは心を許した相手でないと猫になってくれないようで、マジメネコチャンな横顔からも武内Pに対する好感度の低さを読み取ることができた。

 

「わたしはどこでもいいけど、ロックなイメージが崩れる相手は遠慮したいな」

 

 セーラー服姿の李衣菜も武内Pに対して友好的とは言いがたく、向ける視線に熱が無い。木村夏樹に向けるような視線を貰うには、まだまだ好感度が足りない。

 

「二人の希望は、ありますか?」

 

 みくと李衣菜は、二人同時に目を閉じて腕を組んだ。まゆがテーブルにお茶を配り、武内Pの隣に座ってふふっと笑った。

 

「みく、可愛いユニットがいいな。猫チャンみたいにキュートなユニットがいい!」

 

「わたしはクールでロックなユニットかな。その方がほら、ロックなわたしと相性いいと思うし」

 

 武内Pは手帳を開いてペンを動かした。

 

「まゆは、プロデューサーさんと二人のユニットがいいです。お役所でライブをやって、愛の誓いを立てるんです」

 

「まゆちゃんそれただの入籍にゃ。ユニットじゃなくて夫婦にゃ……」

「まゆちゃんって、何て言うか積極的だよね。そんなところ、ちょっとロックかも」

「だってまゆは――」

 

 アイドル三人によるガールズトークが始まった。女三つで(かしま)しいという言葉の由来を理解するに十分な光景だった。三人の会話は膨張する宇宙のように無限の広がりをみせて、それを聞く伊華雌はアイドルのガールズトークを拝聴できる幸運を神に感謝した。

 

「では、前川さんは可愛いユニット、多田さんはクールなユニットを希望する、ということでよろしいでしょうか?」

 

 それはある種の〝覚悟〟を必要とされる仕事だと思った。例えるなら、膨大な量の宿題を出された瞬間とか、見るからに重そうな荷物の運搬を任された瞬間とか、内容を聞いた瞬間に気を引き締めてしまうタイプの仕事だと思った。

 

 みくと李衣菜のゲストユニット探し。

 

 これはもう、絶対に一筋縄ではいかないと思った。

 今夜は長い夜になると思った。

 

 何故なら――

 

 

 

 * * *

 

 

 

 武内Pは伊華雌を寮に持ち帰っている。わざわざ机の上に伊華雌用のマイクスタンドを設置して、ベッドに座ると視線が合うように高さを調節してある。

 

 伊華雌と武内Pは、毎晩のように熱い夜を過ごしている。

 

 そして今日も――

 

「さて、始めましょうか……」

 

 パジャマ姿でベッドに座った武内Pの視線は熱を帯びている。いつにも増して〝本気〟なのだと伝わってくる。しかし本気さで言えば伊華雌も負けていない。

 何たって今日は――

 

〝第一回、みく李衣菜ゲストユニット選別会議ーッ!〟

 

 寝る前に武内Pとアイドルについて語るのは、もはや日課になっていた。アイドルを(さかな)に夜な夜な議論を戦わせていた。喧嘩寸前まで白熱してしまうこともあるが、しかし最高に楽しいトークバトルだった。好きなことを遠慮なく話せる幸せを伊華雌はマイクになって初めて知った。

 

「多田さんはクールでロックなユニット。前川さんは可愛いユニットを希望しています」

 

 手帳を読み上げた武内Pの表情は、ポーカーで最高のカードを引いた人。そんな自信に満ちた表情を向けてきた。

 

〝ゲスト出演ユニットの候補、もう決まってるみたいだな……〟

 

 武内Pの表情はもはやドヤ顔の域に突入している。相当に自信があるらしい。

 

〝じゃあ、まずは李衣菜ちゃんの希望する〝クールでロックなユニット〟からいこうか……?〟

 

 伊華雌の口調は、これから決闘を始める西部劇のガンマンを思わせるほどに挑発的だった。そう、これは決闘なのだ。アイドルという、絶対に譲れない意見を言葉の弾丸にして撃ち合う銃撃戦なのだ!

 

「いつでも、いいですよ……」

 

〝じゃあ、せーので言おうか?〟

 

 ホルスターを叩き、抜かれた拳銃が同時に火を噴くように――

 

〝トライアドプリムス!〟

 

「ダークイルミネイト!」

 

 意見の相違は、すなわち戦争の始まりを意味する。

 遥か太古の時代より、人類は主張がぶつかる度に武力を衝突させて、己が意見を押し通してきた。それはドルオタの世界でも同じである。アイドルに対する意見が衝突した瞬間、そこから先のやり取りは〝世界大戦〟という言葉を髣髴(ほうふつ)とさせるほどの苛酷さをみせる。

 

〝ダークイルミネイトは違うんじゃないかな? クールはクールだけど一部の人にしか響かないっていうか……。中二病の人専門っていうか……〟

 

「ダークイルミネイトくらい尖った個性がなければクールであってもロックとは言い難い。トライアドはクールですがロックが足りません」

 

〝武ちゃんはロックを勘違いしてる。ロックってのは、生き様なんだよ。例えばさ、マイクに向かう木村夏樹の横顔を見るとさ、それだけで彼女のクールな生き様が伝わってくるじゃん? それがロックだよ! その格好良さに通じるものをしぶりんの横顔から感じないか!〟

 

「確かに渋谷さんの真剣な横顔はクールです。木村さんのそれに通じるものがあります。しかし、共鳴世界の存在論を語るのであれば二宮さんのクールな横顔はもはや木村さんのそれを越えていると言っても過言ではないッ!」

 

〝確かに飛鳥君はクールだけどランランはどうよ? あの子、たまに油断して素になる時あるよね? 美穂ちゃんみたいに恥ずかしがったりするよね? その時のランラン、ちょーっと可愛いすぎやしませんかねー? あの子、クールに見せかけたキュートだと思うんですよねー〟

 

「それを言うなら神谷さんだって隠れキュートだと――」

 

 この調子で一時間。

 そのやり取りはまるで〝砲撃戦〟だった。惜しまず怯まず言葉の砲弾を撃ち合って、しかし二人は疲労の色をみせるどころかさらに戦意を高揚させる。

 

〝――とりあえず、李衣菜ちゃんの話は一旦保留して、みくにゃんの話しようか? このままだとクールナンバー1決定戦で終わっちゃうからさ〟

 

「……そうですね。前川さんは、可愛いユニットを希望しています」

 

 再び決闘が始まる。鞘走りの音を響かせて刀を抜く侍のごとき緊張感を張り詰めて、二人同時に――

 

〝メローイエロー!〟

 

「ピンクチェックスクール!」

 

 第二次アイドル戦争が始まった。

 武内Pの不意をつかれた表情はしかし想定内。島村卯月を溺愛している二人である。可愛いユニットはどこかと聞かれてPCSをあげるのはもはや暗黙の了解であったが、伊華雌はそれを承知の上でメローイエローを推した。

 

「……どういう、つもりですか?」

 

 裏切り者を抹殺する任務を帯びた侍めいた口調で問われても伊華雌は動じない。島村卯月を裏切ったのにはわけがある。

 

〝俺、趣味と仕事はキッチリ分けるタイプなんだ。確かに〝可愛い〟は卯月ちゃんだけど、ここはあえて〝Kawaii〟を選択させてもらう〟

 

「……その理由は?」

 

 里を抜けた裏切り忍者を斬り捨てるために刀を構える侍のごとき厳しい視線を向ける武内Pに対して、伊華雌は言葉のクナイを投げつけるように早口で――

 

〝みくにゃんは可愛いだけのユニットじゃダメなんだ。あの子のアイデンティティである〝猫キャラ〟を引き立ててくれる個性を持ったユニットじゃないとダメなんだ! 空手、ドーナツ、フルート、猫! どうだ! 自然に溶け込んでいると思わないか猫キャラがッ!〟

 

 フンスと橘ありすめいた鼻息でドヤる伊華雌だが、武内Pも負けじと――

 

「生ハムメロン、ハンバーグ、アホ毛、猫! ピンクチェックスクールにだって前川さんの猫キャラは溶け込みます!」

 

〝強引だな武ちゃん! それは個性でもなんでもない気がするけど! 好きな食べ物と得意な食べ物とアホ毛を並べただけじゃんか! 猫キャラが溶け込んでないんですがそれはッ!〟

 

「じゃあ溶け込ませればいいだけのことです。ライブ当日はPCSの三人に猫耳をつけてもらいます。それなら前川さんも喜ぶ!」

 

〝それならメローイエローだって猫耳つけるし!〟

 

「それだと個性が喧嘩して胃もたれを起こしてしまいます! その点ピンクチェックスクールなら――」

 

 この調子で二時間やり合った。

 すでに時計は午前二時をさしていた。どんなに議論が白熱しても午前二時にはひとまずの決着をつけて寝るのが伊華雌と武内Pの間で結ばれた南極条約であった。

 だから伊華雌はベッドから立ち上がった武内Pを見て今日の議論は終了だと思った。みくと李衣菜のゲスト出演ユニットをめぐる舌戦は、決着するどころか戦線を拡大させる一方であったが時間切れである。

 

 しかし――

 

 戻ってきた武内Pを見て、伊華雌は再び臨戦態勢を整える。

 彼は缶コーヒーを持っていた。ブラック無糖だった。

 

 ……いいだろう。そっちがその気なら、とことん付き合ってやるぜッ!

 

 長い夜になりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第7話

 

 

 

 一夜を徹して行われた議論を持ってしても、みくと李衣菜のゲスト出演ユニットを決定することは出来なかった。

 もっとも、それは当然の結果といえるかもしれない。

 

 アイドルオタクとアイドルのプロデューサー。

 

 どちらもアイドルに対して譲れない信念を持っている。意見が食いちがい、そして議論を戦わせる場合には〝どうやったら相手をねじ伏せられるか?〟という攻撃的な思考の元に言葉を投げる。相手の投げる言葉は異教徒の世迷言(よまいごと)であり、自分の言葉こそ世界を正しい方向へ導く福音(ふくいん)であって、それを相手に分からせるためだけに言葉を重ねるのである。

 

 そんな状態で、共通の結論を導き出せるわけがない。

 

 結局のところ、伊華雌(いけめん)も武内Pも主張を譲らなかった。アイドル本人に最終決定を任せることにしてとりあえずの休戦協定を結んだ。

 

 廃墟となった戦場で戦車の残骸に腰掛けて空をあおぐ兵士のように〝激戦を潜り抜けた疲労感〟をかみ締めていると、猛烈な勢いで鳥が鳴き始めた。早朝に鳴くのは鶏だけじゃない。雀だのカラスだのといった鳥達もまた夜の終わりを告げる太陽を喜びクチバシを開くのだ。

 

 その時点で開き直ればよかった。今日は徹夜の倦怠感と共に一日をやり過ごす。帰宅してからの爆睡を夢見て睡魔と殴りあう。

 

 徹夜のまま出社する覚悟を決めるべきだったのだが――

 

 武内Pは、最終ラウンド終了のゴングを聞いたボクサーが脱力するように、ベッドに崩れ落ちてしまう。

 そして伊華雌も、つられるように寝てしまった。

 伊華雌はマイクの身でありながら意識の消失をともなう休息――すなわち睡眠のようなものを必要とする。

 

 二人の眠りは深海のように深く、海上の騒ぎが深海に届かないように、目覚まし時計の音はまるで聞こえなかった。

 

 その時、伊華雌はとても幸せな夢を見ていた。

 自分一人のために島村卯月がスマイリングを歌ってくれる。彼女は最高の笑顔でスマイリングを歌いきり、伊華雌は拍手喝采をする。

「じゃあ次は、スマイリングを歌います」

 卯月は再び、スマイリングを歌った。その次も、スマイリング。いつまでも、スマイリング。それしか曲をもらっていないアイドルみたいにスマイリングを繰返す卯月に違和感を覚え、この世界そのものに疑問を抱いた瞬間――

 

 これって、もしかしてスマホの着うたじゃ……ッ?

 

 覚醒は一瞬だった。

 

 意識を取り戻した伊華雌は、窓からさしこむ強い日差しに血の気が引く感覚を思い出した。部屋の中が妙に静かだった。それは、風邪で学校を休んでいる時の静寂。

 

 もしかして、とりかえしのつかない遅刻を――

 

 突然、スマイリングが大音量で流れ出した。伊華雌のすぐ横にあるスマホからだった。誰の呼び出しか分からないが、本能が恐怖していた。大好きなスマイリングが地獄の前奏曲(プレリュード)に思えた。

 

〝武ちゃん! 起きろッ! 寝過ごしたッ!〟

 

 体を揺すって起こせないのをもどかしく思いながら伊華雌は声を張り上げる。しかし武内Pの眠りは深く、スマホから流れるスマイリングを聞いては「いい笑顔です」と言って微笑む。

 

〝いい笑顔、とか言ってる場合じゃねえから! このスマイリングは、なんかやべえヤツだからッ!〟

 

 伊華雌の時と同様、武内Pは突然に覚醒した。

 窓から射し込む午後の太陽に戦慄し、スマホから流れるスマイリングに息を呑む。

 

 本当の恐怖を前にすると何も出来なくなってしまう。それは人も動物も同じである。道路に飛び出した野生動物が迫りくるトラックを見上げて硬直するように、武内Pはスマホを見つめて何も出来ない。

 

 やがて、スマホが沈黙した。

 

 武内Pはショック状態から立ち直り、青い顔でスマホをつかむ。画面を見るなり、拳銃を突きつけられた人のように顔を強張らせる。

 

〝……誰から?〟

 

 武内Pは答えず画面を見せてきた。

 

 着信履歴が、千川ちひろで埋まっていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 346プロに出社した時、時計の針は午後の3時を指していた。重役出勤とすらいえない時間だった。アフタヌーンティータイムに出社した人間と一緒にされたらさすがに重役も怒るだろう。

 

「うまく、誤魔化しておいたから」

 

 シンデレラプロジェクトの地下室にやってきた武内Pをちひろは共犯者の笑みで迎えてくれた。聞けば、着信履歴を埋めたのは別に怒っていたわけでもヤンデレとして覚醒したわけでもなくて――

 

「心配したんだから。ほら、武内君、寮で一人でしょ? 何かあったら誰も気付かないだろうし」

 

 ギャルゲーの幼馴染みヒロインが見せる笑みだった。本気で武内Pを心配していたのだと分かるちひろの笑みを前に、伊華雌の中で罪悪感が膨れ上がる。

 

「どこか具合悪いの? 目の下にクマが出来てるよ?」

 

 武内Pの顔をのぞきこむちひろに何て言い訳をするべきなのか? 明け方までアイドルのことを話してました、とか白状するのは論外として、何か適当な言い訳を――

 

「実は、明け方までアイドルについて討論を……」

 

 そうだね、やっぱり正直に話したほうが――

 

 ――いいわけないからッ! 何でこの人は何でもかんでも正直に話しちゃうかな! 自白剤要らずでスパイ大喜びですよ! マキノンもにっこり!

 

 伊華雌は思考を混乱させつつ、何かフォローしなくてはと思った。

 討論していた、という言い方が実に不味い。それはつまり、相手がいることを暗に示しているわけで、ちゃんと釘を刺しておかないとまゆの時みたいに〝このマイクは意思を持っているんです〟とか言いかねない……。

 

「……えっと、とりあえず、ソファに座って。まだ眠そうだし」

 

 武内Pはちひろにうながされてソファに座った。変な時間に寝たせいかまだ眠そうで、()いているのか閉じているのか分からないくらい目が細い。

 

「コーヒーのむ? それとも、こっちのほうがいいかな?」

 

 事務室に備え付けられている冷蔵庫からちひろが持ってきたのは――

 

 スタミナドリンク。

 

 滋養きょうそう、虚弱改善。夜のお伴に効果抜群――というのは下品なインターネット掲示板の戯言(ざれごと)であるが、とにかく元気になるドリンクであるのは間違いない。〝元気になる〟の後ろに(意味深)をつけるかどうかは個人の裁量に任される。

 

「ほら、これ飲んで頑張ろっ」

 

 ちひろの台詞のあとに(意味深)をつけるかどうかも個人の裁量に任される。紳士として成長期の伊華雌はもちろんピンク色の妄想を膨らませてしまうが、すぐに自分を殴る感覚をもって己を処刑した。

 

「えっ、わっ、ちょっと……っ!」

 

 伊華雌が桃色の葛藤と戦っている間に事態は急変する。

 睡魔に負けた武内Pが、その体を爆破されたビルのように傾かせて――

 

 隣に座るちひろに武内Pの重みが加わった。

 

 ちひろはスタミナドリンクを握りしめたまま動かない。メデューサに睨まれて石化した戦士のように全身を硬直させて、赤く燃える頬にその心境を暴露する。

 

 その感覚を、伊華雌は奇跡的に共有することができた。

 

 あれはいつぞやの満員電車。隣に座る川島瑞樹似の美人OLが睡魔に負けて意識喪失、揺れる電車の慣性に身を任せ伊華雌に寄りかかってきた。

 

 その瞬間、伊華雌は枕になった。

 

 美人OLからもたらされる素敵な感触とか香りとか、幸せの意味を教えてくれる全てを逃したくなくて枕になった。

 

 そう、俺は枕。この美人OLの全てを受け止めるために生まれてきた!

 

 伊華雌が生まれた理由を誤解するころ、瑞樹が起きた。

 彼女は寝ぼけ眼ですみませんと言って、伊華雌のイケメン(意味深)なフェイスを見るなり絶句した。

 その反応に伊華雌も絶句した。

 彼女は次の駅でそそくさと電車をおりた。伊華雌はそのまま終点まで行って少し泣いた。

 

「武内……君? 寝ちゃった……の?」

 

 武内Pは小さな寝息で熟睡を肯定する。

 ちひろは小さな体を石化させたまま動かない。

 二人と一本のマイクしかいない地下室に冷蔵庫の駆動音がやたらと大きく聞こえる。やがて一際大きな音を立てると、冷蔵庫も空気を読んで沈黙した。

 武内Pの寝息だけが残る地下室で、ちひろの小さな喉が動いた。息を呑んで何かを決意して――

 

 スタミナドリンクを、開けた!

 

 大きな星のついた蓋を床に捨て、武内Pを起こさないように最小の動作でドリンクを飲み干した。

 

 ……一体、何が始まるというんだッ!

 

 伊華雌の中でR18な妄想が暴風雨の剣幕をもって吹き荒れる。スタミナを補給して一段と顔を赤くしたちひろが何をするのか? 卑猥(ひわい)な妄想がとまらない! ちひろには声が届かないのも忘れて伊華雌は息を潜める。定点カメラの気持ちになって無言で観測する。

 

 ちひろが、動いた。

 

 武内Pを起こさないように、首だけを動かして武内Pの顔を見て、狙いを定めて、速水奏のように大胆に――

 

 それは少女漫画の〝定番〟だった。眠りに落ちた気になる男子のほっぺにチューして〝やだ私ったら大胆☆〟とか言いながら自分の頭をコツンと叩く。

 

 そんな少女漫画的光景が、現実のものになるまで――

 

 5センチ――

 

 3センチ――

 

 1センチ――

 

 震えるちっひの唇が、武内Pの頬にドッキングしてしま――

 

 カン。

 

 金属を叩くような音がした。それは、シンデレラプロジェクトの地下室に続く階段の音だった。非常階段を思わせる金属性の無骨な階段は、誰かに踏まれると耳やかましい喜びの声を上げるのだ。

 

 この足音、まゆちゃんか……ッ!

 

 飼い猫が足音だけで主人の帰宅を聞き分けるように、伊華雌も足音だけで誰が降りてくるのか分かるようになっていた。この階段を撫でるような足音の調(しら)べは佐久間まゆの革靴によって奏でられているのだと、仮にこれが1000万円をかけたクイズ番組だとしてもファイナルアンサーする自信があった。

 

 ちひろの耳がそれを〝まゆの足音〟であると聞き分けたのかどうかは分からない。単に足音にびびっただけなのかもしれない。

 足音が大きくなるにつれてちひろは武内Pから顔を離して、何事もなかったかのように武内Pの肩を揺らした。

 

「武内君、起きて。仕事中だよ」

 

 武内Pは、電車で居眠りをしてしまった人が飛び起きて窓の外に流れる駅名を確認しようとするかのように首を振って、状況を把握するなりちひろに詫びた。それをちひろは笑顔で受け取り、ソファーから立ち上がるとスタミナドリンクの空き瓶を捨てた。

 

 ちひろのターンは終了した。

 そしてドアが開き――

 

「お疲れさまです……」

 

 まゆのターンが始まった!

 

 まゆは武内Pとちひろに挨拶をして、指定席である武内Pの隣に座って、じっと武内Pを見つめて――

 

「プロデューサーさん、寝不足ですか? 目にくまが……」

 

 まゆはソファに深く座りなおして、制服のスカートを伸ばしてしわを無くして――

 

「プロデューサーさん、どうぞ……」

 

 何が〝どうぞ〟なのか煩悩の数だけ妄想がとまらない。恐らくは〝膝枕どうぞ〟ということなのだろうが、膝枕以外の何かも〝どうぞ〟してくれそうなまゆの微笑みに伊華雌の妄想は天元突破(てんげんとっぱ)! ちひろは呆然と半口を開ける。

 紳士な伊華雌と淑女なちひろが混乱する中で、しかし武内Pはさすがと言うべきか――

 

「気持ちだけ頂いておきます。ありがとうございます」

 

 辞退とか! アイドル佐久間まゆの膝枕(オプション付き)を辞退とか! 立ったフラグを破壊することに容赦がねえ! フラグに親でも殺されたのかこの人はッ!

 

 武内Pがいかにフラグクラッシャーとして優秀であるか、あらためて思い知った。武内Pならどんなハーレムラブコメラノベの世界へ転生しても見事に主人公をやってのけると確信した。

 

「遠慮しなくてもいいのに……」

 

 不満げに頬を膨らませるまゆは楽しそうで、本当に不機嫌なわけではなさそうだった。その大きな瞳はらんらんと輝いている。

 

「そういえば、昨日みくちゃんが喜んでましたよ。曲をもらえて、ゲストとして劇場で歌えるって」

 

 その言葉に、みくもまゆも女子寮に住んでいるのだと思い出した。アイドルの女子寮とか、言葉の響きだけで伊華雌は幸せな気持ちになってしまう。

 

「前川さんはゲスト参加するユニットについて何か言ってませんでしたか? ピンクチェックスクールがいいにゃあ、とか言いそうな気がするのですが」

 

〝あっ、武ちゃん汚えぞっ!〟

 

 みくと李衣菜のゲスト参加ユニットについては本人達に決めてもらうことで話が落ち着いている。一夜を費やしてそれでもケリがつかなかったアイドル戦争の結末に関して伊華雌は一歩たりとも引く気は無い。

 

〝武ちゃん、フェアにいこうぜ。まゆちゃんを味方につけてみくにゃんの意見を誘導するのはフェアじゃない!〟

 

 武内Pは伊華雌の唯一の友達だが、だからこそ遠慮するつもりはなかった。仲良く手を取り合うばかりが友人ではない。必要とあらば一歩も引かずに矛を交えるべきなのだ。

 っていうか――

 

 譲れない。

 

 いくら武内Pが相手でも、アイドルに関する議論で妥協するつもりはない。これはドルオタの誇りとプライドをかけた聖戦なのだ。

 

「「おつかれさまです」」

 

 ドアが開き、二人分の挨拶が見事なハーモニーを奏でた。

 

「みくちゃんと李衣菜ちゃん、一緒に来たんですか……?」

 

 仲良しですね、と言わんばかりの微笑みを浮かべるまゆに対し、みくと李衣菜は同時に口を開いて――

 

「たまたま入口で会っただけにゃ!」

「ロビーで会っただけだから!」

 

 みくと李衣菜は視線をバチリと戦わせ、フンという決別の鼻息を残しそっぽを向いた。

 

「二人とも、素直じゃないですね……」

 

 まゆが何を言っているのか伊華雌には分からない。二人とも素直に喧嘩をしているようにしかみえない。まゆには違うものが見えているのだろうか?

 

「それより武内さん! みくがゲスト参加するユニット、決まった?」

「そうそうっ! わたしがゲスト参加するロックなユニットを――」

「ちょっと! みくが先にゃ!」

「わたしが!」

 

 バーゲンセールで目当ての商品を奪い合う主婦の剣幕だった。武内Pは二人をなだめ、説明した。候補を二つに絞ったので、最終的な結論は二人に出して欲しい。

 

 伊華雌は、息を飲む感覚でみくと李衣菜の審判を待った。女の子に告白して結果を待つのはこんな気分だろうかと思った。人間だった頃は告白以前の問題だったので伊華雌に告白の経験は無い。

 

「その二つなら、トライアドかな? 正当派クールユニットって感じで、ロックなわたしと相性よさそうだしね」

 

〝よぉぉぁぁーっ、しゃぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌は勝利の雄叫びをあげた。しかし武内Pは表情を崩さない。9回裏の最後のバッターによる逆転劇を本気で信じている監督の眼差しをみくへ向ける。

 

「みくはピンクチェックスクールがいいかな。メローイエローは、ちょっと個性が強すぎるっていうか……」

 

〝どの猫口がそれを言うんじゃぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌はデブにデブって言われた人の憤りを胸に抗議するが、学校の制服姿で猫キャラを封印しているみくはツンとすましてメローイエローを遠慮する。

 

「前川さんの、言う通りだと思います」

 

 それは、みくに向けた言葉ではなかった。ポケットにささる伊華雌へ、さっきのお返しとばかりに勝利宣言が押し付けられたのだ。

 

 くっそ、いい笑顔しやがって……ッ!

 

 武内Pもまた伊華雌に遠慮をしない。毎日を一緒に過ごす二人の仲は友人のそれを越えて兄弟の域に突入しようとしていた。

 

「それでは、担当プロデューサーに話を通してきます」

 

 シンデレラプロジェクトの地下室を出て、そして――

 

 武内Pは足をとめた。

 

 さっきまで勝利の喜びを浮かべていた口元が引き締まる。その心情を、伊華雌はこの場所であった出来事と共に理解する。甘い誘惑を断って決別の言葉を投げてからちゃんと会っていない。ろくに言葉を交わしていない。その気まずさは、経験がなくとも容易に想像出来る。

 

〝トライアドとPCSの担当って……〟

 

 武内Pは、あの日の口論を思い出そうとするかのように目を閉じて――

 

「赤羽根さんです……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第8話

 

 

 

 どんな顔をすればいいのか分からない。

 

 武内Pは強張った横顔に心情を公開しながらプロジェクトクローネのドアを何度も通り過ぎた。立ち止まり、ノックをしようとするも勇気が無くて立ち去る。壊れたロボットのように同じ動作を繰り返すものだから、最初は同情していた伊華雌(いけめん)もやがて苛立ちを覚えてしまう。ここは一発気合いを入れてやろうと決めて台詞を考え始めた頃――

 

「あれ、武内プロデューサーじゃん! どうしたの?」

 

 元気な声が武内Pの背中を叩いた。聞くだけで癒される音楽があるように、聞くだけで元気をもらえる声がある。その声色(こわいろ)が持つ印象を、もちろん彼女は裏切らない。跳ねたくせ毛。弾けんばかりの笑顔。足元を飾る運動靴。その全てから彼女のあふれるパッションが伝わってきて――

 

〝未央ちゃぁぁああ――ッ!〟

 

 とりあえず叫んでおいた。マイクになって良かったと実感できる特権の一つである。声が聞こえるのは武内Pだけなのだから、周囲の目とかお巡りさんとか気にせず激情のままに叫ぶことができる。武内Pにとってはいい迷惑かもしれないが……。

 

「本田さん! ……あの、お疲れさまです」

 

 不意をつかれた武内Pは露骨に取り乱した。

 元気に開いていた未央の目が、容疑者を疑う刑事のようなジト目になって――

 

「んー、怪しいなあ……。はっ、そうか、さてはクローネを偵察に来たな!」

 

 未央にびしりと人差し指を向けられて、武内Pはそれが図星であるかのように後ずさる。なるほど、こうやって冤罪(えんざい)が生まれるのか……、と感心している場合じゃない。

 伊華雌は未央の疑惑が確信に変わらないうちに――

 

〝武ちゃん、事情を話して未央ちゃんに協力してもらおうぜ!〟

 

 武内Pと赤羽根P。二人は今、アイドルのプロデュースに対する意見を(たが)えて衝突してしまっている。二人きりで話をするのは正直気まずい。当事者でない伊華雌でさえ胃の痛む感覚を思い出してしまう。

 

 しかしそこに、本田未央というアイドルを投入したらどうでしょうっ?

 

 彼女の太陽みたいな明るさによってギスった空気は一網打尽! 息苦しさが解消されて、楽しくお話できてしまうじゃありませんか! 今ならオマケにもう一人つけてお値段びっくり346万円!

 

 伊華雌が深夜通販番組の司会者めいた口調で未央に値段をつけている間に、武内Pは未央に事情を説明していた。346万じゃ安すぎるよな、電話殺到して回線パンクしちゃうよな……。とか考えている間に未央のジト目は解消されて、カブトムシを見つけた城ヶ崎莉嘉みたいな笑顔になって――

 

「事情は分かったよプロデューサー! この本田未央ちゃんにお任せあれ! 赤羽根プロデューサー!」

 

 止める間もなくドアを開け、武内Pをプロジェクトクローネの事務室へ引きずりこんだ。

 

 赤羽根Pはパソコンに向かっていた。その視線が、未央を見て、そして武内Pを見た。一瞬、本当に一瞬だったが、彼の顔が強張ったような気がした。

 

「……武内か。どうした?」

 

 赤羽根Pは、とりあえず笑顔だった。伊華雌はその笑顔に違和感とぎこちなさを覚えてしまう。二人の事情を知っているからそう見えてしまうのか、それとも――

 

「武内プロデューサーさ、赤羽根プロデューサーにお願いがあるんだって。ね!」

 

 未央がいてくれて良かったと思った。伊華雌でさえ違和感を覚えてしまうのである。武内Pはきっともっと正確に赤羽根Pの変化を洞察したのだと思う。その結果、砂時計を出して硬直するパソコンのように機能を停止してしまっている。もしも未央がいなければ、無言で見つめあう二人の間に重い空気が無限増殖していた可能性が高い。

 

〝武ちゃん、みくにゃんと李衣菜ちゃんのゲスト出演を――〟

 

 伊華雌はアイドルの名前を出して武内Pを再起動させる。彼は繊細な乙女のようなメンタルの持ち主であるが、〝アイドルのため〟という大義名分を得た瞬間に豪胆な戦国武将の顔になる。

 

「赤羽根さんに、お願いがあります」

 

 さっきまでの躊躇(ちゅうちょ)はどこへやら、武内Pは雑兵(ぞうひょう)を凪ぎ払い歩を進める武将の剣幕で話を進める。赤羽根Pもまた頭の切れる司令官の顔になり、言葉の応酬を始めた二人のプロデューサーに挟まれている未央は「ほー」とか言いながら目を丸くする。

 

「ゲスト出演してくれるのはこちらとしてもありがたい話だ。そのほうがライブも盛り上がる。断る理由は無い」

 

 話がまとまり、武内Pの口元が安堵に緩みかけたその瞬間――。

 ゴールテープを切る直前のマラソンランナーを狙撃するようなタイミングで――

 

「ただ、ユニットのリーダーには許可をとってくれよ。ピンクチェックスクールは卯月。トライアドプリムスは、凛」

 

 その言い方に若干のトゲを感じたのは気のせいだろうか? 気のせいであって欲しいと伊華雌は思った。武内Pと渋谷凛があまりうまくいってないと、知ったうえで言葉にトゲを含ませたとか……。そこまで武内Pと赤羽根Pの関係が悪化していると思いたくはなかった。

 

「二人には、それぞれ事情を説明して許可をもらいます」

 

 武内Pは一礼して戸口へ向かった。

 赤羽根Pはとりあえずの笑顔で武内Pを見送り、窓の外へ視線を向けた。

 

 今日も961プロの本社ビルが輝いていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ちょっと待ってよ!」

 

 プロジェクトクローネの事務室を出るなり未央が追いかけてきた。

 武内Pは振り返らずに足をとめた。

 

「……もしかして、武内プロデューサーと赤羽根プロデューサーって喧嘩中? 私、余計なことしちゃった?」

 

 眉をハの字にして顔をのぞきこんでくる未央に、しかし武内Pは顔を強張らせたまま――

 

「いえ、そういうわけでは、ないと、思います……」

 

 そういうわけではないと思いたい。それが武内Pの本音だろうなと伊華雌は思った。

 だって伊華雌も、未央と同じ印象を受けていたから。

 あからさまに喧嘩しているわけじゃないけど決して友好的ではない。今の二人は〝冷戦〟という言葉がふさわしい状態だった。本田未央という空気清浄機がなければ重い空気で窒息していたかもしれない。

 

「まー、喧嘩しちゃうことってあるよね。でも、それは悪いことじゃないと思うよ」

 

 未央は頭の後ろで手を組んで、笑みを浮かべながらもキュッと眉を強めて――

 

「喧嘩するってことは、それだけ相手に対して〝本気〟ってことだからね」

 

 武内Pも伊華雌も、しばし言葉を失った。停止した時間の中でただ一人動くことのできる魔術師のように未央はくるくると表情を変えた。双葉杏を思わせるドヤ顔に始まり、小日向美穂のような照れ顔になり、恥じらいを振り払うかのように橘ありすの不満顔で――

 

「……そっ、そんなにじっと見られると、未央ちゃんも照れるんだけど!」

 

 止まっていた時間が動く。武内Pは慌てて視線をそらし、首の後ろへ手をやって――

 

「……あの、お気遣いありがとうございます」

 

 武内Pと一緒に伊華雌も感謝していた。未央のお陰で、武内Pの口元が緩んでいる。それはつまり、彼の繊細な心に入った亀裂が修復されたことを意味している。

 

「べっ、別にそんな、お礼なんて。……そっ、それより、しまむーとしぶりんに話するんでしょ? 呼んであげるよ!」

 

「いえっ、その……」

 

 首にかけていた手を未央へ向けた。武内Pが見せる戸惑いのジェスチャーを、しかし無視して未央はパーカーのポケットからスマホをとりだしていじり出す。

 

 その遠慮のない行動力を、伊華雌は親指を立てて賞賛する感覚を持ってグッジョブする。

 

 武内Pは慎重になりすぎるというかチキンハートすぎるというか、行動を起こすまでに時間がかかるきらいがある。例えるなら、始動までに呆れるほど時間のかかる大型客船のエンジンみたいな人なので、誰か引っ張ってくれる人がいると助かるのだ。もういっそ未央がプロデューサーになって武内Pを引っ張ってくれればいいと思うが、プロデューサーのプロデューサーとか意味が分からないし、佐久間まゆが黙っていないような気がしたので本田未央プロデューサーアイドル計画は机上(きじょう)の空論に終わった。

 

「しまむーはメルヘンチェンジでお茶してて、しぶりんはこれから新曲のレッスンだって。じゃあ、しまむーから行こっか!」

 

「あの! 本田さんは、お時間、よろしいのですか?」

 

 たまらず聞いた武内Pに、未央は頼れるお姉さんめいた笑みを浮かべて――

 

「乗りかかった船だしね、付き合うよプロデューサー! それとも……」

 

 未央は急に、どうみても演技です、としか思えない泣き顔を作って――

 

「私が一緒じゃ嫌なの? プロデューサー……?」

 

 武内Pは、ふっと息をもらして笑った。

 

「ちょっとプロデューサー! その反応はどうなのさ! せっかく未央ちゃんが泣き落としを披露したっていうのに!」

 

 武内Pは何とか真顔を作ろうとして、しかしどうしても口元を引き締めることが出来なくて――

 

「素晴らしい、泣き落としでした」

 

「じゃあ何で笑ってるのさ!」

 

 未央は組んだ腕に威厳をみせて、そっぽをむいて膨らませた頬に不機嫌を強調するが、込み上げるものをこらえきれなくて――

 

 ぷっ。

 

 あーダメだー、とか言いながら楽しそうに笑いはじめて、つられるように武内Pも笑みを重ねた。

 

 ――守りたい、この笑顔。

 

 そんな風に思ってしまういい笑顔だった。赤羽根Pとのやり取りでヘコんでいたはずなのに、今は自然に笑っている。武内Pの笑顔を引き出してくれた未央はやはり〝アイドル〟なのだと伊華雌は改めて実感し、シンデレラプロジェクトに欲しいと思った。きっと未央は落ち込む暇なんてなくなるくらい武内Pを励ましてくれると思うのだけど、やっぱり佐久間まゆが黙っていないような気がして本田未央スカウト計画は机上の空論に終わった。

 

「さあいこ! プロデューサー!」

 

 まるでこれからデートに出発するかのような笑顔だった。元気一杯にパーカーをひるがえす未央の姿に、伊華雌はギャルゲーのデートルート突入に伴い顔の筋肉が緩む感覚を思い出していた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ピンクチェックスクールのライブにみくちゃんを、ですか? わたしは構いませんけど……」

 

 制服姿の卯月が同席している少女達へ視線を送る。

 小日向美穂は頷きアホ毛を揺らし、五十嵐響子は弟のわがままを許すお姉さんの笑みを向けてくれた。

 

 そこは346プロ社内カフェ〝メルヘンチェンジ〟で、その一角に集結していた。

 

〝ピンクチェックスクールぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌は最初、卯月だけに注目していた。しかしユニットの活動を追いかけるうちに美穂と響子も好きになって、気がついたらユニットを全力で推していた。

 

「プロデューサーさん、また一緒にお仕事できて嬉しいですっ♪」

 

 卯月が〝いい笑顔〟のスキルを発動させた。伊華雌に〝めまい〟のステータス異常が発生した。

 

「武内プロデューサーさんって、卯月ちゃんをスカウトしたプロデューサーさんなんだよね?」

 

 首をかしげてアホ毛を揺らす美穂の仕草が反則的に可愛かった。伊華雌に〝動悸・息切れ〟のステータス異常が発生した。

 

「じゃあ、運命の人、なんだね」

 

 茶化すように微笑む響子と慌てる卯月のやりとりが連携スキル〝尊み〟を発動させる。伊華雌は〝成仏〟のステータス異常を発生させて天に召された。

 

 もう、ずっと見ていたかった。三人が出演するラジオから感じることのできる仲良しガールズトークが目の前で! 音声だけじゃなくて映像つきで! しかも三人とも制服とか!

 

 ――この時間よ、永遠なれ!

 

 伊華雌の切なる願いはある種のフラグを発生させる。

 俺、この戦争が終わったら結婚するんだ。俺たちの勝利だ! ……やったか?

 そう、死亡フラグというやつである。うっかり立ててしまったが最後、悲劇を約束してしまう恐怖のフラグである。

 そして彼は、決してフラグを見逃さない。

 

「――では、自分は渋谷さんに話をしますので」

 

 武内Pは容赦無く離席すると、開けた半口におしゃべりの意欲を見せるPCSの三人と未央に決別のお辞儀をする。

 

 恋愛フラグは破壊して、死亡フラグは回収する。それが武内Pという男の特性であると伊華雌は理解している。

 しかし、理解と納得は別の感情である。

 

〝た、武ちゃん。もうちょっとお話ししてもいいんじゃないかな? っていうか、お話ししようぜ卯月ちゃんと!〟

 

 武内Pは首を横にふって伝票を手に取った。死亡フラグの回収に関し武内Pは容赦が無い。

 

「プロデューサー、私も一緒に行こうか? しぶりんとこ」

 

 未央の申し出もやんわりと断って、武内Pはレジへ向かう。ピンクチェックスクールの三人と未央の集まるテーブルが遠ざかっていく。出航する船から遠ざかる恋人を見つめるのはこんな気持ちだろうかと思い、船に乗ったこともなければ恋人とか二次元に限る俺が知るわけねえだろ! と伊華雌は自分にキレた。

 

「会計、お願いします」

 

 当たり前のようにPCS分の伝票と未央分の追加伝票を持ち出して支払いをする武内Pは何気にイケメンだよなと思った。そうやって無自覚にフラグを立てて、そして無意識に破壊する。破壊されるために立てられるフラグさんが不憫に思えてくる。一度〝フラグの尊さ〟について説教してやらなくてはならない。

 

「ありがとうございました! キャハ☆」

 

 会計はウサミンだった。きっと決められたパターンなのだろう。ツンデレカフェでメイドが暴言と甘言(かんげん)の波状攻撃を仕掛けてくるように、ウサミンな菜々は隙あらば〝キャハ☆〟をねじ込んでくる。それを聞く度に伊華雌は在りし日のミミミンウサミンオムライス事件を思い出して武内Pに謝りたくなる。

 

「ごちそうさまでした」

 

 店を出ようとした武内Pの、スーツの袖をぎゅっと掴む。

 

 ――小柄な安部菜々17歳が袖をつかんで上目遣い。

 

 一枚絵の破壊力が半端じゃなかった。衝動的にウサミンコールしたくなった。

 伊華雌はしかし突発的な萌えに流され欲望の敗北者となってしまったことを恥じることになる。

 

「……あの、みくちゃんの調子はどうですか?」

 

 彼女はウサミンではなかった。今は前川みくの先輩――安部菜々の顔をしていた。

 

「今のところ順調です。間島さんの狙い通り、ソロデビューできると思います」

 

 菜々は武内Pの袖から手を放し、ウサミンに戻った。

 伊華雌は〝あの違和感〟を思い出していた。

 菜々の反応からしても、武内Pのプロデュースはおかしくないはずである。それなのに嫌な胸騒ぎがする。得体のしれない焦りがくる。

 

 ――その正体が、掴めそうで掴めない。

 

 どうしても名前の思い出せないアイドルの写真と格闘している感覚に苦しんでいるうちに、武内Pは菜々と別れてレッスンルームへ向かっていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「杏殿がいませんぞ!」

「ボクがカワイ過ぎて肩を並べるのが怖くなってしまったんでしょうか?」

「レッスンから逃げただけだと思うっちゃ。まったく、往生際の悪い人っちゃ。まな板の上の鯉を見習ってほしいっちゃ」

 

 最初にのぞいたレッスンルームでは間島Pの立ち上げたユニット――ぷちドルが消えた杏を探していた。

 

 次にのぞいたレッスンルームが当たりだった。神谷奈緒、北条加蓮、そして渋谷凛の三人がベテラントレーナーにしごかれていた。

 

「プロデューサー殿、何か御用ですか?」

 

 ベテラントレーナーが声をかけてきた。武内Pはレッスンが終わってからで構わないと言ってレッスンルームのすみに立った。

 

 トライアドの三人が視線を向けてきた。

 

 神谷奈緒と北条加蓮の向けた視線に色はない。自分達には関係のない作業をしにきたスタッフを見るかのように、存在を確認するなり視線を外した。

 

 凛の視線には、トゲがあった。

 

 些細なことで喧嘩になって絶交を宣言した父親が部屋をノックしてきた。そんな場面にふさわしい表情だった。存在を確認するなり不機嫌な眉を見せ付けて、無視を宣言するかのように黒髪をひるがえした。

 

「よしじゃあ、最初からもう一回行くぞ!」

 

 ベテラントレーナーが手を叩き、トライアドの三人が表情を引き締める。新曲だろうか、伊華雌の知らない曲が流れ出す。

 

〝……凛ちゃんさ、何で武ちゃんに厳しいの?〟

 

 ずっと、気になっていた。最初に会った時から武内Pを視界に収める凛の目付きは厳しかった。

 武内Pは、流れる曲に声を紛れ込ませるように――

 

「自分は、約束を守れなかったんです……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第9話

 

 

 

 そもそも、渋谷凛はアイドルとは無縁の少女だった。

 

 街頭スカウトで卯月に名刺を渡した翌日、卯月から電話があった。詳しく話を聞きたいと言ってくれた。346プロの住所を伝えて、電話を切ろうとした時に――

 

 あの、友達も一緒に行っていいですか?

 

 翌日、卯月の付き添いで346プロにやって来たのが凛だった。最初、アイドルに興味があるのかと思った。そうではなかった。彼女は卯月の幼馴染みで、アイドルに興味があるどころか――

 

 武内Pのスカウトに不信感を抱いていた。

 

 アイドルのスカウトと言えば聞こえは良いが、一握りの成功者だけがスポットライトをあびることのできる厳しい世界へ引き込もうとしているのである。スカウトされたことを喜ぶ幼馴染みの親友へ、凛は忠告したという。

 

 大丈夫なの? それ、何か騙されたりしてない?

 

 卯月はそれでも、アイドルのステージに続く階段をのぼろうとした。それを黙って見送るほど、凛は薄情者ではなかった。

 

 じゃあ、あたしも一緒に行くから。

 

 果たして、卯月をスカウトした人間は何者であるか? 卯月を任せるに値する人間なのか? 凛はまるで、父親が娘の連れてきた婚約者を値踏みするような気持ちで武内Pと対面した。

 そして、凛と対面した武内Pの第一声は――

 

 アイドルに興味、ありませんか?

 

 プロデューサーの行動として間違ってはいない。渋谷凛を見てスカウトしないプロデューサーがいたら、眼科で精密検査を受けるべきだろう。ダイヤの原石。金のタマゴ。途方も無い可能性を秘めた人物を形容する言葉の全てがあてはまるほど、渋谷凛という少女はアイドルの資質を持っていた。

 だから武内Pの行動は、むしろ模範的であると言えるが――

 

 タイミングが悪かった。

 

 凛は疑っていたのである。果たしてアイドルの世界とはまっとうな世界なのか? プロデューサーはまともな人間なのか?

 それがいきなり、付き添いでやってきた自分をスカウトしてきたのである。

 

 こいつは、まともじゃない。

 

 凛は武内Pを〝ろくでもないヤツ〟と判断し、卯月の手を引き346プロから出て行った。

 

 しかし、武内Pは諦めなかった。

 

 卯月の笑顔と、凛の凛々しさと。どちらもアイドルとして破格の潜在能力を秘めている。絶対にこの好機を逃してはならない。

 武内Pは、うっかり大物を逃してしまった漁師のように、どうしたら今度こそスカウトを成功させられるのか必死に考えた。

 卯月をスカウトするためには、彼女を護るナイトの役目を果たしている凛を篭絡(ろうらく)するべきである。

 武内Pは、凛のスカウトに着手するのだが――

 

 もちろん、難航した。

 

 凛は、アイドルに対して良からぬ先入観を持っている。話すら聞いてもらえない。無視されて、邪険にされた。

 それでも、武内Pは不屈のプロデューサー魂をもってスカウトを継続した。

 通学路に出没する不審者として認知され、いよいよお巡りさんが出動する段になってようやく、凛は名刺を受け取ってくれた。

 武内Pは回らない口を懸命に動かして説得を(こころ)みた。卯月と一緒にアイドルをやってみないかと。そこにはきっと、夢中になれる何かがあるから。

 

 凛は、武内Pの言葉に半信半疑だったが、卯月と一緒なら、という条件でスカウトを受けてくれた。

 その時に、約束した――

 

 何があっても、卯月の笑顔は守ってほしい。

 

「――ですが、自分は島村さんの笑顔を守ることが出来ませんでした。ライブの事故で落ち込んだ島村さんを、どうやって励ましていいのか分からなくて、逃げてしまいました」

 

 レッスンルームに流れていた曲が終わった。静寂を取り戻したレッスンルームに、トライアドプリムスの弾んだ呼吸が大きく響く。

 

「まあ、悪くなかった。ただ、現状に満足するのはまだ早い。お前らならもっと上を目指せるからな!」

 

 ベテラントレーナーの熱い台詞がレッスンを締めくくった。

 

 トライアドの三人は、レッスンの緊張から解放されて笑みを浮かべた。武内Pを横目に見た北条加蓮が何かを言って、奈緒もそれに便乗する。どうやら、二人して凛をからかっているようで、王子さまのお迎え、という単語が聞こえてきた。

 

「そんなんじゃないから」

 

 凛は、自分をおもちゃにして遊ぼうとしてくる二人を手しぐさでたしなめ、武内Pの方を見た。感情を決めかねているのか半端な形に眉を曲げ、黒髪を振ってこちらへ歩いてくる。

 

「何の用?」

 

 それは、鋭いナイフで両断するような口調だった。言葉に物理的な〝切れ味〟が存在したら、武内Pは今ごろ武内P(上半身)と武内P(下半身)に分裂していた。

 辛辣という表現では足りないくらい凛の態度は厳しくて、その緑色の瞳から穏やかでない内心を見透かすのは容易だった。

 

「実は、トライアドの三人に、お願いしたいことがありまして……」

 

「トライアドに? 私にじゃなくて?」

 

 武内Pが頷くと、凛は期待していたものと違う荷物が届いて失望するようなため息を落とした。振り返って加蓮と奈緒を呼んだ。

 

「いいの? 告白の邪魔しちゃって?」

「何ならあたしたちは空気を読んで退散するぞ。あとで話は聞かせてもらうけどな!」

 

 隙あらば凛をおもちゃにしようとするこの二人は、何気に凄いなと伊華雌(いけめん)は思う。どれだけの好感度があれば、凛をおもちゃにできるのか? 仮に自分が凛に軽口を叩いたら、どうなるのか? クロスカウンターでぶちこまれる辛辣な態度と言葉を、想像しただけで伊華雌は嬉しくな――もとい、震え上がる。伊華雌の中にあるドMの扉は、まだ半開き状態である。

 

「トライアドに話があるんだって」

 

 凛に視線を振られた武内Pが説明する。劇場のライブに、李衣菜をゲスト出演させてほしい。

 

「へー、李衣菜ソロデビューするんだ。まあ、いつまでも先輩に頼ってちゃまずいもんね」

「李衣菜なら大歓迎だ。知らない仲じゃないしな!」

 

 凛も、控えめな笑みを浮かべて――

 

「あたしも、構わないよ」

 

 武内Pが丁寧に頭をさげて、再び顔をあげた時には発動していた。いたずらを仕掛ける麗奈様のように、笑みを変化させた加蓮が――

 

「じゃあ、あとは若い二人でー」

 

 その(たくら)みを受信するかのように、奈緒の眉毛がぴくぴく動く。

 

「凛が話しやすいように、あたしたちは席をはずしてやろう!」

 

 アリスのチェシャ猫みたいな笑みを浮かべる奈緒を、ありす呼ばわりされた橘ありすみたいな顔をした凛が視線で抗議する。奈緒は気にせず背を向けて、凛の視線をもじゃもじゃした髪の毛に絡めとる。

 

 ――モフりたい、この髪の毛!

 

 ふわふわ揺れながら遠ざかる奈緒の髪の毛は、さながら長毛種の猫の背中で、伊華雌は棟方愛海の構えをとる感覚を思い出していた。

 

 そして、ポテトドクターストップガールとモフモフ物陳列罪現行犯がレッスンルームから出ていった。

 

「杏殿、発見しましたぞっ!」

 

 廊下に響く脇山珠美の声を最後に、閉まるドアがレッスンルームを密室にした。

 その密室を圧迫する空気に、伊華雌は覚えがあった。

 あれは、専門学校のエレベーターで、うっかり女の子と二人きりになってしまった時の気まずさ。それは、ただひたすらにエレベーターの昇降音が耳を支配する牢獄。

 もちろん、武内Pと自分では置かれた状況に違いがあるが、しかしこのキーンという耳鳴りが聞こえてきそうな静寂は、まさにあの時のエレベーターに似ていた。

 

「あの、さ……」

 

 凛が、口を開く。直接に武内Pを見ようとせず、鏡を通して向ける視線に今の二人の距離を示して――

 

「夏のライブのこと。あたしが何で怒ったのか、理由、分かってる?」

 

 武内Pは、鏡ごしにあてられる視線すら避けて、磨きぬかれて光る床を見つめて――

 

「自分が、渋谷さんとの約束を、守れなかったから。島村さんの、笑顔を守るという」

 

 伊華雌は、事情を聞いたばかりであるから、それが正解だと思った。

 

 ――だから、驚いた。

 

 凛の黒髪が、左右に揺れるとは思わなかった。

 

「……違う、そうじゃない」

 

 凛の視線は、もはや鏡を見ていない。直接に、かつて担当プロデューサーだった男を見て――

 

「あたしが許せないのは、あんたが逃げたから」

 

 凛は、武内Pを見つめたまま、口を閉じた。その白い喉に待機しているであろう言葉の軍隊を、出動させずに待ちうける。その瞳に映す相手が、自分の方へ向き直るまで。その視線が、自分のそれと重なって、気持ちの架け橋が繋がった瞬間――

 

「一緒に、いて欲しかった。卯月も、未央も、あたしも、どうしていいのか分からなくて。……だから、誰かに手を引いて欲しかったッ!」

 

 言葉じゃ足りない、それ以上の気持ちが視線に込められる。

 武内Pは、凛の視線に息をのみ、そしてその視線から――

 

「逃げないでッ!」

 

 凛は、武内Pの首根っこを引っ掴み、強引に自分の気持ちを飲み込ませようとするかのように――

 

「あんた、自分もどうすればいいのか分からないって、言ってたけど、別にそれで構わないんだって! あんたも正解が分からないなら、一緒に正解を探せば良かったんだよ。少なくとも、あたしはそうして欲しかった……ッ!」

 

 凛は、一瞬だけ泣きそうな顔をした。その一瞬だけ、アイドルでも何でもない、どこにでもいる普通の女の子に見えた。

 

 ――喧嘩するってことは、それだけ相手に対して〝本気〟ってことだからね。

 

 記憶の海に沈む未央の言葉が熱を持った。もしかすると、凛は卯月よりも未央よりも、武内Pを信頼していた。だからこんなに、怒っている。

 だから本当は――

 

〝……武ちゃん、言ってやれ〟

 

 凛は、すんと鼻を鳴らすと、いつもの凛々しい顔になって、言葉を待つかのように武内Pを見つめた。

 

〝今の武ちゃんならどうするのか、凛ちゃんに教えてやれ!〟

 

 凛は、待ち合わせをすっぽかされた恋人がするようなため息を落とし、黒髪をひるがえして――

 

「自分は!」

 

 凛のダンスシューズが音を出した。床をこすって、動きをとめて――

 

「自分は、もう、逃げません!」

 

 きっと、凛は許していたのだと思う。

 だけど、その言葉を、その人からもらわないと、気持ちの整理がつかなかったのだと思う。

 見開いた目のふちからこぼれた、一筋の涙が。こらえきれずにこぼしてしまった、素の笑顔が。彼女の感情にかけられていた鍵が開いて、閉じ込めていた感情が解放されたことを――

 

「……約束、できる?」

 

 返事なんて、求めてないような聞き方だった。聞かなくても分かっていると、渋谷凛のものとは思えないくらいあどけない表情が語っている。

 

 だから彼女は、武内Pが頷いても、それが当然と言わんばかりに――

 

「うん……っ!」

 

 決してファンの前では見せない仕草を、目撃して伊華雌は混乱する。

 あっれおかしいな。トライアドのキュート担当は奈緒ちゃんだと思ってたけど、デレた凛ちゃん可愛すぎ問題! これはつまり、トライアドのクール担当が奈緒ちゃんで、パッション担当が加蓮ちゃんで、ポジティブパッションのポジティブパッション担当が茜ちん――って今はポジパ関係ないからぁぁああ――ッ!

 

 混乱のあまり思考を破綻させている伊華雌はさておき――

 

 武内Pと凛の関係は修復された。李衣菜のソロデビューに向けてトライアドの協力を取り付けることに成功した。

 

 ――順調だった。

 

 みくと李衣菜のプロデュースを鉄道に例えるならば、レールはきちんと敷設(ふせつ)され、車両の整備は万端だった。もうプロデュースは、成功したようなものである。あとは鉄道を走らせて、目的地に到着すればよいのだから。

 

 ――結局、伊華雌は気付くことが出来なかった。

 

 みくと李衣菜のプロデュースが、いかに危険な状態であるか……。

 

 やり方は、間違っていない。

 もっと根本的な所に問題がある。

 

 鉄道に例えるならば、奈落の底に繋がるレールを敷いてしまったようなものである。どんなにレールを強化しても、どんなに車両を整備しても、もはや関係ないのである。

 

 ――そのプロデュースには〝失敗〟が約束されていた。

 

 みくと李衣菜は、PCSの、トライアドのゲストとして、346プロライブ劇場(シアター)のステージに立ち――

 

 ――そして失敗してしまう。

 

 間違ったプロデュースの代償として笑顔を失いながら……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第10話

 

 

 

 完成させたはずの飛行機が離陸に失敗した。

 

 例えるならそんな光景だった。みくも李衣菜も、充分にレッスンを重ねてきた。練度が充分であることはベテラントレーナーも認めるところである。

 経験だって積んでいる。みくは菜々と。李衣菜は夏樹と。ユニットで劇場デビューを果たし、ユニットで多くのステージを経験し、両手に抱えきれないほどの歓声を獲得してきた。

 二人にとって、劇場のステージは踏みなれた床であるはずなのに――

 

 足が、震えていた。

 

 初めてステージに上がる新人のように、ガタガタ足を震わせて。飛び下り自殺をするかのように、鬼気迫る表情でステージを睨む。

 

 そんな状態で、ライブを成功させることなんて出来ない。

 

 レッスンでは、あんなに上手く踊れていたのに。聞き惚れてしまうくらいの、歌声だったのに――。

 

 ゲスト出演なのが不幸中の幸いだった。メインユニットのアイドル達が上手くフォローしてくれたから。

 

 ――これがソロのステージだったら……?

 

 きっとそこには、うっかり上級者部屋に入ってしまったネトゲ初心者の絶望が広がっている。チャットに連なる心ない言葉にパソコンの電源をそっと切るように、みくと李衣菜は、アイドルの世界から――

 

「君の意見を聞きたい」

 

 美城常務の銃口を向けて脅すような言葉が伊華雌(いけめん)の思考を現実に戻した。

 

 みくと李衣菜のライブ翌日。出社するなり美城常務に呼び出された。どうして満足のいくステージが出来なかったのか、説明を要求された。

 

「……二人は、ずっとユニットで活動していました。ソロでステージに上がったのは、今回が初めてです。不慣れなせいで、実力を出せなかっただけであって、きっと次回は――」

 

 美城常務は、武内Pの弁解を叩き潰そうとするかのように――

 

「原因は前川みくと多田李衣菜にあると、そう言いたいのか?」

 

 その鋭く尖ったアイスピックのような言葉に、伊華雌は思い出す。

 

 それは、ずっと伊華雌の心の奥に居座って謎の不快感をもたらしている、あの違和感。喉に刺さった魚の骨のような違和感の正体が、ぼんやりとした輪郭だけど、見えてくる。

 

 ――最初に違和感を覚えたのは、武内Pが間島Pのプロデュースを引き継いだ時だった。

 

 伊華雌はそこに〝もしかして……〟のメスを入れる。

 

 それはしかし、恐ろしい自問である。

 例えるなら、待ち合わせ時間になっても相手が来ない時に〝もしかして待つ場所を間違えているのでは……〟と自問するような。予約していたはずのレストランに行ったら予約が入ってなくて〝もしかして日にちを間違えて予約してしまったのでは……〟と確認するような。

 取り返しのつかない失敗と向き合って、もしかして自分に原因があるのではと、考えて確認するのは恐ろしい。人間誰しも自分を弁護したいから、自分自身を疑って、記憶の紐を手繰り寄せるには勇気がいる。

 

 ――だけど、それが最善なのだ。

 

 もしかして……、と思った時に腹を切る覚悟を決めて自分自身を疑うのが最善なのだ。被害を拡大させないためには、過去の自分を疑う勇気が必要なのだ。

 

 ――だから伊華雌は、自問する。

 

 みくと李衣菜が失敗したのは、もしかして、武内Pのプロデュースに原因があるのでは……。

 

「今回のプロデュースは、間島プロデューサーと連携してます。必ず、成果が出せると思います」

 

 武内Pの真剣な横顔に、伊華雌は途方もない危機感を覚える。間違った地図を信じ込んでいるトラックのドライバーを見ている気分だった。

 

「最終的に成果が出せれば、それでいい。重要なのは、過程ではなく結果だからな」

 

 そっけない口調に不満を滲ませながら、美城常務はそれ以上の追求をしなかった。いつもの美城常務であれば、ここからポエムバトルを始めて何らかの道筋を示してくれるはずなのに、あっさりと引き下がってしまった。

 

 果たして、武内Pを試しているのか? それとも、美城常務もプロデュース状況を正確に把握できていないのか?

 

 もし後者なら、一刻を争う事態だと思った。

 それはつまり、みくと李衣菜のプロデュースが完全に失敗するまで誰も危機的状況に気付けないということであり――

 

 みくと李衣菜のアイドル生命が、終わってしまうことを意味しているのだから。

 

 

 

 * * *

 

 

 

〝武ちゃん、これからどうする?〟

 

 美城常務の部屋を出た武内Pに訊ねると、彼は迷わずに――

 

「間島プロデューサーに相談します。きっと、現状を打開する方法を知っていると思います」

 

 早足で第一芸能課に向かう武内Pへ、伊華雌は何も言えなかった。

 まだ、言葉が足りない。間島Pを信頼するあまり何も見えなくなっている武内Pを正気に戻すには、それだけの説得力を生み出す言葉が必要になる。今のところ、革命に備える反乱分子の忍耐を胸に様子を見守ることしかできない。

 

「失礼します!」

 

 勢いよくドアを開けた先に、間島Pの姿は無かった。

 武内Pは、砂漠のオアシスが蜃気楼だったことを知って途方にくれる人のように立ち尽くす。

 

「間島プロデューサーならいないよ。なんか、ライブの下見で大阪へ出張だって」

 

 ソファーが喋った! ――と思ってのぞきこむと、双葉杏が実にのびのびとだらけていた。ウサギのぬいぐるみを枕にして。スナック菓子をちらかして。携帯ゲームを楽しみながら得意のドヤ顔をまき散らして――

 

「だから今日はだらけ放題なのだー! はーっはっはっはっは!」

 

 まるで天下をとった武将のような高笑いだった。しかし、天下をとった武将がすぐに入れ替わるように、杏の天下も続かない。

 彼女の天下を終わらせたのは、勢いよく(ひら)いたドアの向こうに現れた――

 

「にょっわぁぁああ――っ☆」

 

 最終兵器の風格をもって現れた諸星きらりに、杏は何かを感じたのだろう。携帯ゲーム機を捨ててソファーから転げ落ちる。ホラー映画のヒロインさながら四つん這いで無様に逃げる。部屋のすみに追い詰められて、振り返る。

 

「アンズチャン! ハピハピレッスンの時間だにぃ……」

 

 その足音に、巨大ロボットの威厳を見せて。一歩、二歩と間合いを詰める。

 

「きっ、きらりは関係ないよね! 同じユニットじゃないよね!」

 

 ウサギのぬいぐるみを抱きしめる杏に、大きな影が落ちてきて――

 

「きらり、Pチャンにお願いされたんだよぉ! アンズチャンが、ちゃーんとレッスンできるように輸送してほしいって☆」

 

 中腰で、狙いをさだめて、諸手をつきだす。後は飛びかかるだけの体勢をとるきらりへ――

 

「きらり、取引しよう。とっておきの飴をあげるから、それで手を――」

 

「アンズチャン、確保――ッ☆」

 

 ふわっと、きらりのスカートが膨らんだ。お山にダイブする棟方愛海の勢いをもって杏は捕獲された。

 

「あぁ、杏のぐうたら王国が……」

 

 ソファーの上に散らかるお菓子と、まだ電源の入っているゲーム機を、見つめて杏は涙を流す。それはさながら、自国の崩壊を見届ける国王のようで。伊華雌はしなくてもいい同情をしそうになった。

 

「アンズチャン。レッスンしないと、みんなでハピハピライブできないにぃ☆」

「……ってか、杏はソロ向きだと思うんだよね。ほら、ユニットじゃなくてソロのほうがサボれ――、じゃなくて、自由にできるじゃん?」

「じゃーあ、Pチャン帰ってきたら、相談してみゆ?」

「いいよ、そこまでしなくて。間島プロデューサーのことだから、とりあえずやってみろガハハ! みたいな反応されるだろうし。結構強引なんだよな、あの人。ゲームとか、絶対ゴリ押しでクリアするタイプだよ……」

 

 杏ときらりが部屋から出て行き、静けさが押し寄せてきた。その沈黙の中で武内Pは、じっと間島Pの椅子を見ていた。まるで、監督が消えてしまって何をしていいのか分からない運動部のキャプテンのように。

 

 一体、いつからこんなことになってしまったのだろうか? 

 いつの間に武内Pは、間島Pに寄りかかり、依存していたのだろうか?

 

 ――ずっと感じていた違和感の正体が、今、はっきりと分かった。

 

〝……なあ武ちゃん。みくにゃんと李衣菜ちゃん、ソロデビューさせるのが正解なのかな?〟

 

 武内Pは、そこに間島Pがいるかのように椅子を見つめて――

 

「ユニット活動をしていては将来性が無い。間島さんの話を、マイクさんも聞いていましたよね?」

 

〝それは、そうだけど……〟

 

「なら、ソロデビューが正解です」

 

 きっと、信頼しているのだと思う。李衣菜にとっての木村夏樹のように。みくにとっての安部菜々のように。武内Pは間島Pを信頼して、信頼がいつの間にか依存になって、誰もいない机の前で途方に暮れている。

 

〝……武ちゃんはどう思うんだ? 今のやり方で正解だと思うのか?〟

 

 表情を変えずに頷く武内Pに、途方もない苛立ちが込み上げる。伊華雌は、新興宗教を盲信(もうしん)するあまり何も聞かなくなってしまった家族を怒鳴り付けるかのように――

 

〝昨日のライブであんだけ失敗して、それでも大丈夫だって思うのかよ……ッ!〟

 

 パートナーであり唯一の友人である武内Pに声を荒げるのは辛かった。

 しかし、言わなければならない。

 武内Pの友達であると胸を張りたいのであれば。相手を傷つけ、それ以上に自分が傷つくと分かっていても――

 

〝俺、間島さんのプロデュース、間違ってると思う。だから昨日のライブ、失敗したんだよ〟

 

 確かに、実積はある。346のトッププロデューサーである肩書きは伊達じゃない。

 だからと言って――

 

 絶対に間違いを犯さないとは限らない。

 

 もしかすると、みくと李衣菜のソロプロデュースは、どんな天才プロデューサーが取り組んだとしても成功させることの出来ない敗北確定ルートなのかもしれない。だとしたら、一刻も速い軌道修正が必要である。

 

「……マイクさんの気持ちも分かりますが、間島Pのプロデュースは間違ってないと思います」

 

 まだ、言葉が足りない。間島Pに対する危険な信仰を崩すためには言葉の弾丸が足りない。もっと弾があれば戦況を好転させられるのに弾切れで何も出来ないガンナーの悔しさを胸に伊華雌は沈黙せざるをえない。

 

 ――バカは死んでも治らないとか、誰が決めたんだよちくしょう!

 

 転生してもなお性能の悪い頭に苛立ちながら、伊華雌は諦めずに言葉の弾丸を探し続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第11話

 

 

 

 シンデレラプロジェクトの地下室にみくと李衣菜の姿は無かった。ライブの反省会を兼ねたミーティングを行う予定なのだが、予定の時間を過ぎているのに二人の姿はどこにもなかった。

 そして、二人の代わりに――

 

「悪いね、勝手に邪魔してるぜ」

 

 木村夏樹が口元に気さくな笑みを浮かべている。しかしそれが形だけのものであると、刺し貫くような鋭い視線が語っている。

 彼女は、喧嘩を始める番長のようにゆっくりとソファーから立ち上がり、口元に残っていた笑みを消して――

 

「李衣菜のことで、話がある」

 

 夏樹は、昨日のライブを見ていたという。ずっと面倒をみていた後輩がソロでやっていけるのか気になって、一般客席から李衣菜のステージを見守っていた。

 

 そして、見てしまった。

 後輩が、目を覆いたくなるような失敗をするところを。

 

「今日は事務所に行きたくないってさ。昨日の今日だからしょうがねえけど、すっかり落ち込んじまってさ……」

 

 木村夏樹は目を閉じて、まぶたの裏に李衣菜のステージを見るように――

 

「まあ、ひどかったな。初めてのソロであがっちまうのは分かるけど、ちょっとな……」

 

 そして夏樹は、次の一手で勝負が決まる難しい局面に挑む棋士のように鋭い目付きで――

 

「――で、これからどうする? だりーとみくがアイドル続けられるかどうか、あんたのプロデュースにかかってるんだぜ?」

 

 殴りあう前に勝負がついている喧嘩。そんな感じの光景だった。どんな言葉の(こぶし)でも受けてやるよと言わんばかりの挑戦的な笑みを浮かべる夏樹に対し、武内Pは気弱な政治家のように視線を泳がせて――

 

「間島プロデューサーに相談をしようと思ったのですが、あいにく出張中で……」

 

 夏樹の中に眠る何かが目を覚ました。表情こそ崩さないが、仕草の端々に苛立ちの予兆を見せて――

 

「あんたさ、何言ってんだよ?」

 

 泳いでいた武内Pの視線を捕らえて、胸ぐらを掴むように荒々しく――

 

「間島さんは関係ないだろ……。今はあんたがだりーの担当だろッ!」

 

 少ない言葉に詰め込めるだけの感情を詰め込んだ。そんな感じの声だった。星輝子の絶叫(ヒャッハー)を思わせる魂の叫びを至近距離から放たれて、武内Pの中に居座る厄介なものに亀裂が入る。

 

「……しっかりしてくれよ。担当のあんたがそんな調子じゃ、上手くいくもんも上手くいかねーよ」

 

 夏樹はしばらく武内Pをにらみつけていた。何か言えよ、と言わんばかりの好戦的な目付きだった。

 武内Pは何も言わなかった。

 すると夏樹は、気の抜けた演奏を繰り返すバンドメンバーに愛想を尽かすバンドリーダーのように肩をすくませながら部屋を出て行った。

 

 シンデレラプロジェクトの地下室に、呆然と立ち尽くす武内Pと伊華雌(いけめん)が残された。

 

 夏樹の叱責によって武内Pは弱気になっている。いつもなら励まして回復させる伊華雌だが、今は違う。この機を逃さずとどめを刺すのが自分の使命とすら思う。

 

〝……ずっと、違和感があったんだ〟

 

 ここで仕留める。暴走列車に照準を向ける狙撃手の緊張を胸に――

 

〝今回のプロデュース、何かおかしいなって、思ってたんだよ……〟

 

 ターゲットを照準におさめ、震える指で引き金を絞るように――

 

〝そろそろ、俺達のプロデュースを始めようぜッ!〟

 

 武内Pは、知らない言語で話しかけられた人のように眉をしかめる。その反応に伊華雌は確信する。

 武内Pには、自覚がないのだ。

 自分では、今まで通りのプロデュースをしているつもりなのだ。

 しかし、実際には――

 

〝武ちゃんは今、間島さんのプロデュースをしてるんだよ。間島さんの代わりに間島さんのプロデュースをしてるんだよ。でも、それじゃダメなんだよ!〟

 

 だって武内Pは間島Pじゃないから。

 

〝間島さんのプロデュースができるのは間島さんだけなんだよ。武ちゃんがどんなにがんばっても、間島さんにはなれないんだよ!〟

 

 先輩に憧れて、こんな風になりたいと思うのは自然なことだと思う。みくが菜々に憧れるように、李衣菜が夏樹に憧れるように、武内Pも間島Pに憧れて、そのプロデュースをやろうとした。そのままの形で引き継いでしまった。

 

 でも――

 

 それじゃダメなのだ。偉大な先輩だろうがなんだろうが、真似をして成果を出せるほどアイドルのプロデュースは甘くない。担当を引き継いだその瞬間から、先輩なんてクソくらえ、自分自身が担当プロデューサーとしてアイドルと向き合わなければならないのだ。

 

「……しかし、じゃあ、自分はどうすれば」

 

 信じていた地図が全くのデタラメであることに気付いて途方に暮れる冒険家のような顔をする武内Pに、言ってやる――

 

〝武ちゃんは間島さんにはなれない。でもな、間島さんだって武ちゃんにはなれないんだよッ!〟

 

 間島Pは言っていた。武内Pはもっと自信を持つべきだと。

 それはつまり、認めているのだ。

 346プロのトッププロデューサーが、プロデュースを認めてくれているのだ。

 

 ――信じるべき地図は、すでに自分の手の中にある。

 

〝武ちゃんはもっと自分のプロデュースに自信を持つべきだ。だってあんたは、赤羽根が諦めた佐久間まゆのプロデュースに成功したんだ! 美城常務が諦めた市原仁奈のプロデュースにも成功したんだ! この二人のプロデュース、間島さんにだってやれたかどうか分かんないぜ! だから――〟

 

 ――もっと自信を持てよッ!

 

 夏樹に怒鳴られて呆然としていた武内Pの瞳に光が戻った。強烈な一撃に意識を飛ばされたボクサーが、しかし復活してファイティングポーズをとるように、待ち焦がれていたあの表情が戻ってきた。

 

 そう、これは、伊華雌を震え上がらせて市原仁奈を泣かした――

 

 殺し屋の顔!

 

「……自分は、大事なことを忘れていたのかもしれません」

 

 敵に洗脳されていた仲間が正気を取り戻してくれた喜びを胸に、伊華雌は吠える――

 

〝もう一度やり直そうぜ、俺達のプロデュースをッ!〟

 

「……そうですね。我々の――」

 

 ――アイドルを笑顔にするプロデュースを!

 

 喉に刺さった魚の骨が抜けるように、伊華雌の心に居座っていた違和感が解消された。今、線路は正しい方向へ向けて伸ばされた。その先にアイドルとしての成功が待っているのは間違いないが、だいぶ時間を浪費してしまった。

 

〝武ちゃん、一から考え直そうぜ。どうしたらみくにゃんと李衣菜ちゃんが笑顔になれるか!〟

 

「ええ、望むところです!」

 

 伊華雌と武内Pは事務室で議論を重ねた。夜もふけて守衛に追いだされるまで話し合った。寮に帰ってからも寝落ちするまで言葉を交わして――

 

 そしてたどり着いた結論は、間島Pのプロデュースからの脱却を象徴するようなものだった。

 

 みくと李衣菜のソロデビューは中止する。

 そしてその代案として――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第12話

 

 

 

「武内くーん! こっちこっち!」

 

 川島瑞樹が手招きするのは、明日の栄光のために汗を流すレッスンスタジオではなく、観客の歓声を一身にあびるステージでもなく、明日の活力のために酒を浴びる――

 

 居酒屋。

 

 以前、瑞樹に連れてこられた居酒屋とは別の店だった。しかし雰囲気は似ていた。体育会系の接客と、食欲をそそる匂いをたっぷりと含んだ白煙。

 そして、奥の個室にお忍びで集結している――

 

 346プロのお姉様アイドル!

 

「ちょっと! ご無沙汰じゃないの! 元気してた?」

 

 片桐早苗がビールジョッキを振り回す。その豪快な笑顔が、武内Pの隣に立つ小柄なプロデューサーを見るなり容疑者を睨む刑事の思案顔になって――

 

「あなた、どこかで……」

 

 アルコールで不鮮明になっている記憶の回復を待つのはもどかしい。もう一人のプロデューサーは、先生に挙手をして発言をする生徒のように溌剌(はつらつ)と――

 

「だっ、第三芸能課の米内(よない)です! きょっ、今日は武内君に声をかけてもらって、そのっ、よろしくお願いしますっ!」

 

 米内Pの〝一生のお願い〟が成就した瞬間だった。見ていて嬉しくなるくらいの〝いい笑顔〟だった。

 

「思い出したわ! チビちゃん達のプロデューサー君ね!」

「そうです!」

「わたしのファンの!」

「そうです!」

「よし、こっちいらっしゃい!」

「失礼します!」

 

 米内Pは酔った早苗に誘われるままテーブルへ向かう。その卓で待ち受けるのは――

 

 片桐早苗、高垣楓、川島瑞樹。

 

 米内Pの肝臓はおそらく助からないだろう。伊華雌(いけめん)は合掌する感覚をもって米内Pを見送った。

 

「あっ、武内プロデューサーさん、お疲れ様ですっ! あのっ、これはっ、烏龍茶ですからっ!」

 

 安部菜々17歳が空のグラスを掲げて見せる。そこに何色の液体が入っていたのか? 真相は菜々のみぞ知るであるが、赤く上気する頬が全力で烏龍茶を否定している。

 

「さっすがパイセン! キャラ造りに隙がねえな☆ はぁとも見習うぞ!」

 

 隣に座る佐藤心はだいぶ出来上がっているようで、いつもよりキャラがキマっている。諸星きらりに迫るテンションで騒ぎまくって、対面に座る三船美憂に絡んでいる。

 酒癖の悪さをあますところなく披露している佐藤心の支配するテーブルに着くのはもはや自殺行為に等しいが、武内Pは断りを入れて菜々の向かいに着席する。

 

 ――実のところ、武内Pにとってこれは仕事だった。

 

 みくをプロデュースするためには、どうしても菜々と話す必要があった。だから346プロ社内カフェ――〝メルヘンチェンジ〟へ向かったのだが、荒木比奈しかいなかった。

 

 今日は菜々さん休みっす。アイドル仲間と飲み会っす。

 

 彼女の証言から菜々の居場所に見当をつけた武内Pは、川島瑞樹に連絡をとった。飲み会に合流する許可をもらった。ふと、小さな同僚が頭をさげている場面を思い出して、彼の〝一生のお願い〟を成就させた。

 

「どこのプロデューサーか知らないけど、とにかく飲めよ☆ 話はそれからっ!」

 

 案の定、佐藤心が絡んできた。

 武内Pは差し出されたジョッキを一気に飲み干した。空のジョッキを見せ付けるように、ジョッキの底でテーブルを叩いた。

 

「へぇー、なかなかやるじゃん。気に入ったぞ☆ でも、もっと飲めるよな?」

 

 心が個室から顔を出してスタッフぅーと声をあげた。その隙をついて武内Pは話を切り出す――

 

「実は、安部さんにお願いしたいことがありまして……」

 

 菜々は、なんでしょう? と言わんばかりに小首をかしげた。実は、と前置きを入れて本題に――

 

「ほらほらっ、乾杯しようぜ☆ かんぱーい!」

 

 両手に大ジョッキを持った佐藤心が戻ってきた。テーブルに並べた戦利品を前に会心の笑みを浮かべている。乾杯しないと次の行動がとれない伏せカードを発動されたような状態になってしまった。

 

「かんぱーい☆」

 

 ジョッキのぶつかる音がした。

 ぐっぐっぐっと喉が鳴って、ジョッキの底がテーブルを叩く。

 

 武内Pと佐藤心のジョッキが空になった。

 

 呆気にとられた三船美憂の口元から泡がこぼれた。菜々は両手を突き出してジョッキを遠ざけながら「17歳ですからっ」を繰り返している。

 

「はぁとに張り合おうとはいい度胸だな☆ 望むところだっつーの!」

 

 手応えのありそうな相手を見つけて戦意を高揚させる中野有香みたいな笑みは、しかし武内Pにとってはいい迷惑だった。

 お姉様アイドルが酒盛りをしている居酒屋――という名前の魔境に足を踏み入れたのは、菜々と話をするためである。スウィーティーな飲み比べをするためじゃない。

 

「ほらほら、ジョッキが空いてるぞ! しょうがないから、はぁとがついでやろう。感激しろよ☆」

 

 瓶ビールの栓を抜くと、心は完璧な動作でビールをついだ。泡の立ち方が絶妙だった。そのままビールのCMに使えそうだった。

 

「……それで、菜々に話って何ですか?」

 

 武内Pは、答えなかった。バンジージャンプの直前に怖じ気づいてしまった人のように顔を強ばらせて、ビールを飲んだ。

 

 酒の力を借りる必要があるかもしれない。

 そのくらい、口に出すには勇気がいる。

 

「……実は、前川さんが、先日のライブ以来、体調不良を理由に事務所に来てないんです」

 

「えっ……」

 

 菜々の顔が、先輩の威厳を持って引き締まる。騒いでいた佐藤心も、空気の変化を察してビールをつぐ手をとめる。

 

「分かりました。じゃあ、菜々が励ましに――」

 

「いいえ、そうじゃないんです」

 

 武内Pはきっぱりと断って、今度こそバンジージャンプを跳ぶぞと決意した人の顔で――

 

「自分を、安部菜々さんにしてください!」

 

 時間停止能力を発動した能力者の気持ちになるですよー。伊華雌の中に響いた市原仁奈の声は、しかし的確に状況を説明している。

 菜々は瞬きを忘れて武内Pを見つめている。完璧なビールのつぎかたをマスターしているはずの佐藤心がグラスからビールをこぼした。こぼれたビールがテーブルをつたい、三船美憂が悲鳴を――

 

「あっ、ごめん美憂ちゃん! はぁと、らしくない失敗しちゃった……」

 

「い、いえ。少しこぼれただけなので、おしぼりでふけば――」

 

 あたふたとこぼれたビールの後処理に追われる二人の横で、菜々は実年齢を疑われた時の顔で――

 

「えっと、菜々になりたいって聞こえた気がしたんですけど、聞き違い、ですよね……?」

 

 酒の力か、それとも一度告白して開き直ったのか。武内Pはゴジラのようにどっしりと構え、熱線を発射するかのように口を開き――

 

「自分を、安部菜々さんにしてくださいッ!」

 

 ある意味ではゴジラの熱線よりも強烈な一撃だった。その電波的な発言は、ウサミン星人をもってしても受信は不可能で、佐藤心が真顔になって、三船美憂の笑顔が凍りついた。

 

「……もしかしてぇ、お酒苦手? はぁとの乾杯で、酔っ払っちゃった?」

 

 気を取り直してフォローする心に、武内Pは鋭い横目を向けて――

 

「自分は、素面(しらふ)です」

 

「いやあんた酔ってるって! でなきゃあんなこと言わねーだろ? 自分を菜々パイセンにしてくださいとか、意味不明にも程があるっつーの!」

 

 何故、武内Pがウサミン星人になりたいと願うのか?

 その理由を、あえて一言にまとめるならば――

 

「前川さんをプロデュースするためには、安部菜々さんになる必要があるんです!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第13話

 

 

 

 346プロ女子寮。

 

 もう字面(じづら)からしていい匂いがしてきそうな建物は、当然ながら男子禁制である。(かぐわ)しき乙女の(その)へ突撃したいのであれば、モロッコへ行って性転換手術を受ける必要がある。

 つまり男子が男子であるかぎり女子寮の敷居は跨げないのだが、何事にも例外は存在する。

 

 ――寮生の家族、もしくは担当プロデューサーに限り訪問を許可する。

 

 それが規則に記された抜け道であり、だから武内Pは女子寮に向かっている。

 

「なんだか、変な気分です。プロデューサーさんと一緒に帰るって……」

 

 規則に許されているとはいえ、男一人で女子寮に突撃するのはさすがに気が引ける。誤解されて〝お巡りさんこの人です!〟とか言われてしまう可能性を否定できない。

 

 だから、まゆに同行を頼んだ。

 

 まゆは武内Pの申し出を快く引き受けてくれた。肩を並べて帰宅するうちに盛り上がり、一緒に玄関で靴を脱ぐ頃には――

 

「何だか、夫婦みたいですね……」

 

 とか言っちゃうくらいに出来上がっていた。しかし武内Pは素っ気無い仕草でフラグをスルーする。

 

 まゆちゃんのフラグに対してのリアクションが〝首を触る〟だけとか、もっと他にあるだろうがぁぁああ――ッ!

 

 伊華雌(いけめん)の心の叫びは、しかし武内Pには届かない。

 

「ちょっと、待っていてください。みくちゃん、呼んできますから……」

 

 広々とした談話室に武内Pを残そうとして、しかしまゆは足をとめて――

 

「それとも、まゆの部屋に来ますか……?」

 

 当然ながら武内Pはまゆの申し出を辞退してフラグの虐殺を続けるのだが――

 

 ――仮にここで〝YES〟を選択したらどうなってしまうのか?

 

 考え出したらもう煩悩が止まらない。伊華雌の中に蓄積されているギャルゲーの記憶が次から次へと再生されて止まらない。徐々に対象年齢が上がり、R18の境界線を越えた瞬間、頭を石に叩きつける感覚をもって伊華雌は冷静になった。

 

 桃色の妄想を振り払うべく現実世界へ目を向けるが、そこにあるのはアイドルの女子寮という桃源郷(とうげんきょう)で、新しい妄想が竹の子のようにニョキニョキと生えてくる。このソファーには誰が座ったんだ? このカーペットは誰に踏んでもらえたんだ? この空気は、一体だれの――

 

〝吸引力が変わらないただ一つの掃除機になりてぇぇええ――ッ!

 

 伊華雌は衝動的な欲望を吐き叫ぶことによって膨らみ続ける妄想を落ち着かせる。

 ひとまずは賢者になった伊華雌だが、そんなものは一瞬で終わる。

 何せここは、アイドルの女子寮なのだ。

 

「闇に飲まれよ!」

 

 神崎蘭子の帰還である。

 彼女は武内Pを見るなり目を丸くして、日傘を構えて後ずさる。

 

「おっ、男の人が、何で……ッ!」

 

〝びっくりして素に戻っちゃうランランまじキュートなんですけどぉぉおお――ッ!〟

 

 一瞬前の賢者タイムはどこへやら。〝煩悩〟という闇に飲まれた伊華雌は使い物にならない。今にも日傘を捨てて逃げ出しそうな蘭子を前に武内Pも動きがとれない。二人はまるで睨みあう野良猫のように目を合わせたまま動かない。

 

「大丈夫だよ、蘭子ちゃん。この人は、卯月ちゃんのプロデューサーさんだから」

 

 小日向美穂が、穏やかな空気を取り戻してくれた。

 心の平穏を取り戻した蘭子は、通常語モードから熊本弁モードへ移行して――

 

「……なるほど、瞳を持つものであったか。それならば真結界の中に存在することも可能であろう!」

 

 蘭子の高笑いをBGMに小日向美穂が頭を下げる。両手を揃えて礼儀正しく頭を下げる仕草が正統派キュートすぎて伊華雌は煩悩の奴隷となる。

 

「お疲れさーん、――って、見慣れない人がいるねー」

「誰かのプロデューサーさんやろかー?」

 

 塩見周子と小早川紗枝の京娘コンビがはんなりと微笑む。着物姿でステージに立つことの多い二人の制服姿に伊華雌は心のシャッターを連射する感覚を捧げる。

 

「お、お客さん、かな?」

「昨日観た映画の、殺人鬼に似てるかも……」

 

 星輝子と白坂小梅が降臨した。近くでみるとブナシメジのように小柄な二人に伊華雌は、可愛いぞーッ! と絶叫(ヒャッハー)する感覚を贈呈する。

 

 どうやら帰宅ラッシュの時間に突入したらしく、次から次へとアイドル達がやってくる。いつの間にか、ソファーに座る武内Pはアイドルに取り囲まれていた。

 

 そのハーレミーな光景に、伊華雌は古傷が疼く感覚を思い出す。

 

 そう、あれは女児向けアイドルゲームにはまっていた頃の思い出。デパートのゲームコーナーで幼女先輩に混ざってゲームをしていたらレアカードをドロップした。幼女先輩は純粋なのか恐いもの知らずなのか伊華雌のイケメン(意味深)なフェイスに臆することなく集ってきて「すごいすごい!」を繰り返した。生まれて初めてのハーレム体験に〝すごいすごい!〟と感激する伊華雌だったが、その感動の寿命はとても短かった。

 

 何も悪いことはしていない。

 幼女先輩に囲まれていただけなのに保護者から通報されて、警備員に追い払われてデパートからアカウントBANされてしまった……。

 

 伊華雌が切ない思い出に落涙(らくるい)する感覚を思い出している間にもアイドルは増え続け、プロデューサーの訪問が珍しいのかそのほとんどは談話室に滞在した。

 

「お待たせしました……」

 

 談話室に戻って来たまゆは、砂糖に群がる蟻のように集合しているアイドルを見るなり一瞬だけ驚いて、すぐに笑みを浮かべると武内Pの隣にするりと腰かけた。

 

「プロデューサーさん、大人気ですね……」

 

 耳元でささやかれて、それでも武内Pは平然としている。伊華雌は自分の耳にささやかれたものと錯覚してゾクゾクしたというのに。

 

 武内Pは、四方をアイドルに囲まれても目的を見失っていない。

 女子寮にを足を踏み入れた目的は、煩悩に溺れたいからでも疑似ハーレムを体験したいからでもなく――

 

「前川さん、お疲れ様ですっ!」

 

 武内Pが立ち上がった。

 部屋着のネコミミパーカーを着ているみくは、サボりがばれた杏のようにバツが悪そうに――

 

「明日には、事務所にいくつもりだから……」

 

 それだけ行って立ち去ろうとするみくへ――

 

「待ってください!」

 

 伝えなければならない。

 みくを苦しめているであろう、ゲストライブについて――

 

「先日のライブは、すみませんでした……ッ!」

 

 直立不動の姿勢から頭を下げた武内Pだが、みくはそれすらも受けとりたくないと言わんばかりに背を向けたままー―

 

「別に、武内さんが謝ることじゃない。みくが未熟だったから、上手くいかなかっただけだから……」

 

 大勢のアイドル達の前で、弱気な言葉を吐き出して、パーカーのポケットに突っ込んだ手を硬直させる。

 

 ――それだけで充分だった。

 

 ライブで失敗したあの日から、どれだけみくが自分を責めたか、痛いほどに伝わってきた。

 

「前川さんは、悪くありません。ライブの失敗は、自分のプロデュースが原因です!」

 

 あの日、ステージの上でみくは笑顔を失った。

 間違ったプロデュースでアイドルの背中を押した結果、アイドルは翼を開くことなく地に落ちた。

 

 だけど――

 

 アイドルはまだ、生きている。

 地に落ち泥にまみれてもまだ、翼を抱いて空を見上げる。

 

 だから――

 

「もう一度、自分に前川さんをプロデュースをさせてくださいッ!」

 

 今度こそ、羽ばたかせる。

 誰のプロデュースでもない、自分自身のプロデュースでアイドルを大空へ羽ばたかせる。

 

 そして、失われた笑顔を――

 

「でも、みく……」

 

 いつも強気で負けず嫌いなみくの背中が、何だかとても小さくみえる。

 そんな姿を、あの人が見たらどうするか?

 

 今こそみくの大好きな先輩になって、彼女の強気を取り戻す!

 

「自分は、プロデュースを改めようと思います。これから、自分のことはプロデューサーではなく、安部菜々さんだと思ってください!」

 

 さすがに、振り向いた。

 

 怪訝な顔をしているみくの、目が腫れている。涙の残骸を消し飛ばして、ネコチャンスマイルを取り戻すために――

 

 武内Pは鞄の中から、菜々から借りたウサミミを取り出す。それを頭に装着して、声高らかに――

 

「ミミミンミミミンウーサミン!」

 

 それは、エールだった。応援団が声を張り上げ、体を限界まで酷使して気持ちを選手に伝えようとするかのように――

 

「ミミミンミミミンウーサミンっ!」

 

 アイドル達は、ぽかんとしていた。いきなりウサミミをつけてウサミンコールを談話室に響かせて。この人は危険な電波でも受信してしまったのではないかと心配するかのような顔で眉をしかめている。

 

「ミミミンミミミンウーサミンッ!」

 

 しかしそれは、構わない。談話室のアイドルにどう思われようが構わない。それこそ、世界中の人間にバカにされようが、構わない!

 

 ただ一人、前川みくの笑顔を取り出すことが出来れば――

 

「……全然、菜々ちゃんじゃないにゃ」

 

 みくはつぶやき、武内Pに背を向けると談話室から出ていってしまった。

 

「ミミミン、ミミミン……」

 

 ウサミミ武内Pと顔をひきつらせているアイドル達が残った。まゆだけは懐かしいものを見るような目で武内Pを見つめている。

 

〝武ちゃん、大丈夫だ! みくにゃんに気持ち、届いてるから!〟

 

 伊華雌のそれは、しかし気休めではなかった。みくの中で武内Pに対する気持ちに変化があったのは間違いないと確信していた。

 

 だってみくは、言ったのだ。部屋を出る直前に、小さな声で――

 

 ……全然、菜々ちゃんじゃないにゃ。

 

 みくが武内Pに対して猫語を使ったのは、伊華雌の記憶する限り初めてのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第14話

 

 

 

「それが、あんたの答えか……」

 

 そこは346プロライブ劇場(シアター)の控え室で、木村夏樹はライブを終えたばかりだった。その興奮の余韻を赤い頬に残している。

 

「何て言うか、普通じゃないな。プロデューサーからそんなことを頼まれたのは初めてだ……」

 

 しかし言葉とは裏腹に、夏樹は歯を見せて笑った。

 

「まあ、嫌いじゃないけどな。常識にとらわれてるうちは三流って、ロックの世界じゃ言われてるしな」

 

 夏樹が武内Pに近づく。その目をじっと睨みつける。

 武内Pは逃げずに視線を受け止める。それどころか押し返すように目を細める。

 

「あんた、いい目をしてるな。前に会った時は、何を演奏していいのか分からないロッカーみたいに頼りない目付きだったのに、今のあんたからは――」

 

 視線を外して、ふっと笑う。自慢のリーゼントヘアを揺らして、バンド仲間へ向けるような笑みを作って――

 

「一緒にステージに立ちたいって思えるくらいの、熱い魂を感じる!」

 

 夏樹のギターが武内Pへ差し出された。

 

「あんたの頼み、聞いてやる。〝ロック〟について、教えてやるよ!」

 

 劇場のリハーサル室でロックの授業が始まった。それはしかし、教えられて理解できる(たぐ)いのものではない。言葉に出来ない情熱を理解するために、とにかく体当たりで、とにかく必死に、熱い情熱を原動力に武内Pはギターをかきならした。

 

 全ては、李衣菜の笑顔を取り戻すために……ッ!

 

 

 

 * * *

 

 

 

 冬の川原を照らす夕日は赤が強い。夏のそれよりも赤い夕日に、スーツ姿の武内Pが目を細める。ギターを持って長い影を伸ばすその姿に、行き交う人が首を傾げる。

 

 通報されなかったのはギターのおかげだと思う。

 

 実際に、ミュージシャンのPVにはよくある光景だったりする。スーツ姿でアマゾンの奥地みたいなところでギターをかき鳴らしちゃうとか、スーツ姿で山に登ってそのまま演奏しちゃうとか。

 有り得ない光景に面白さを見いだしてそれをCDのジャケットにするのはアーティストの(つね)であり、だからギター片手に夕日を背負う武内Pは、不審者として通報されることなく彼女を待つことができた。

 

 やがて、バイクの排気音が近付いてきた。それは夏樹のバイクで、その後ろに乗った少女は〝ROCK OF MIND〟と主張するTシャツを着ている。

 

「ちょっとなつきち! 説明してよ!」

 

 強引に連れてこられたのか、李衣菜はバイクを降りるなり夏樹に食って掛かった。

 

「だりーにどうしても会いたいって人がいるんだよ」

 

 夏樹は脱いだヘルメットをバイクのハンドルにひっかけると、ガードレールを乗り越えて土手を歩き出した。

 

「ちょっと、待ってよ!」

 

 李衣菜もヘルメットをバイクのハンドルに引っ掛けてガードレールを乗り越えた。土手を降りて川原にさしかかり、武内Pを見るなり散歩を嫌がる犬みたいに足を踏ん張った。

 

 李衣菜の反応はみくと似ていた。言い訳のように「明日には事務所にいきますから」と言って背中を見せようと――

 

 ギターを鳴らした。

 携帯用のアンプから飛び出した音が李衣菜をつかまえる。

 

「先日のゲストライブ、失敗したのは自分の責任です。自分のプロデュースが、間違っていました!」

 

 李衣菜はしかし、みくと同じようにかぶりを振って――

 

「……武内さんのせいじゃないですよ。あれは、わたしが――」

 

 ギターが吠えた。

 武内Pは、李衣菜の弱気を吹き晴らすべくギターをかき鳴らした。

 呆気にとられた李衣菜に、その無防備な心に――

 

「自分に、もう一度チャンスをください! 多田さんがロックなアイドルを目指すなら、自分は――」

 

 ――ロックなプロデューサーになってみせますッ!

 

 そして、演奏を開始する。昨日夏樹に教わったばかりの、まるで下手くそな〝Twilight Sky〟を。

 

 夏樹いわく、上手いとか下手とかではないらしい。

 言葉に出来ない熱い気持ちを、ぶつけて相手の心を揺さぶる。それがロックの真髄であり、だからロックは〝ハート〟が大切なのであると。

 

 武内Pの酷い演奏が終了した。

 最後の音が夕日に飲み込まれて消えて、武内Pの荒い呼吸が演奏の感想を求める。

 

「……下手くそ、ですね」

 

 李衣菜は呆れ果てたような、怒ったような顔をして――

 

 でも、笑ってくれた。

 

「ロックでは、ありませんでしたか?」

 

 不満げに首の後ろをさわる武内Pに対して、李衣菜は大袈裟にかぶりを振って――

 

「気持ちは伝わってきたけどロックとは違うかな。ロックってのは、もっと、こう……」

 

 身ぶり手振りでロックを語る李衣菜を夏樹がじっと見つめる。その顔に、スランプを乗り越えた野球選手を見守る監督のような笑みをみせながら。

 

「……なに、なつきち? わたしのことじっと見て」

 

 ロック論の演説に水をさされた李衣菜は不満げに口を尖らせて、しかし夏樹は笑みを崩さず――

 

「だりーが笑ったの、何だか久しぶりに見た気がしてさ……」

 

「だって! 武内さんが、その、あんまり酷い演奏するから……。だから、その、黙ってらんなかったって言うか!」

 

 怒る李衣菜となだめる夏樹を夕日が優しく見守っている。

 

 ああ、尊いなあ……。

 

 伊華雌がため息をもらす感覚を思い出してしまう光景の片隅で、武内Pは遠い目をして黄昏(たそがれ)る。夕日に照らされるその横顔は、のど自慢の番組で鐘一つしかもらえなかった人のように切ない。

 

 ――自信が、あったのだ。

 

 武内Pは、夏樹直伝のロックな演奏、そして魂の叫びにそれなりの自信をもっていた。その演奏を聞いた李衣菜に、わたしも負けていられない! ――って思わせる予定だったのだ。

 決して――

 

 演奏が酷すぎて黙ってらんなかったとか、マイナスに突き抜けた評価を目指していたわけではないのだ。

 

〝……武ちゃん、元気だせよ。とにかく、李衣菜ちゃんに気持ちは伝わったみたいだしさ!〟

 

 武内Pの演奏は評価されなかったが、李衣菜は笑顔を取り戻してくれた。

 

 これでようやく、スタートラインに立てた。

 ここから、武内Pによる、武内Pにしかできないプロデュースが始まる。

 

 そのためには、越えなくてはならない関門がある。

 

 ――二人に笑顔でアイドル活動してもらうためには、二人に認めてもらわなくてはならないのだ。

 

 最悪で最高の相手とのユニット活動を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第15話

 

 

 

 シンデレラプロジェクトにみくと李衣菜が戻ってきた。

 二人は武内Pと向かい合って座り、武内Pの隣に佐久間まゆが座る。

 

「前川さんと多田さんのプロデュースに関して、方針を改めようと思います」

 

 心の準備をしてもらうべく、()を開けてから――

 

「まず、ソロデビューに関しては、一旦白紙に戻します」

 

 みくと李衣菜の表情が完全にリンクした。二人とも見開いた目に驚きの大きさを表して、ソファーから立ち上がらんと浮かした腰に焦燥(しょうそう)の色を強く見せる。

 

「白紙って、やめちゃうってことッ? ……あんなに準備したのに」

 

 みくは、噛みつこうする猫みたいに八重歯を光らせた。

 

「それって、わたし達が失敗したから? ゲストライブで……」

 

 声に出すことでゲストライブが失敗であることを認め、しかし李衣菜はその痛みに臆することなく武内Pを見つめる。

 

「二人がゲストライブで成果を出せなかったのは、理由があります。それに気付かず、二人をステージにあげてしまったのは自分の失態です」

 

 あの時は見えていなかった。いや、見ようとしていなかった。間島Pから引き継いだプロデュースなのだから大丈夫だと、信じるあまり考えることをやめていた。

 

 しかし――

 

 改めて考えれば見えてくる。

 みくと李衣菜をソロデビューさせようとすることがいかに間違ったプロデュースであるか。二人をユニットの先輩から独立させて、一人前のアイドルとして輝かせようとするならば――

 

「前川さんと多田さんは、ソロではなくユニットで活動するべきです」

 

 みくと李衣菜は、二人同時に首をかしげる。当然の反応だった。二人は、先輩とのユニットから卒業するためにソロデビューしようとしたのだから。

 

「二人は、それぞれ安部菜々さん、木村夏樹さんとユニットを組んでデビューしました。今日までずっと、ユニットでステージに上がってきました」

 

 例えるなら二人は漫才師なのである。二人組でステージに上がり漫談の技術と経験を積み重ねてきた漫才師のように、みくと李衣菜は先輩との二人組ユニットで経験を積み重ねてきた。

 

 ――だから、ソロじゃダメなのだ。

 

 漫才師がいきなりピン芸人として活躍するのが難しいように、二人組ユニットで活躍してきたアイドルにソロ活躍を要求するのは無理がある。プロデュースの方向性に疑問を投げて当然の、いや、投げかけるべき無謀なプロデュースだったのだ。

 

「二人は、ソロ活動の経験が不足しています。ソロ活動に関しては、初めてステージに上がる新人と差がありません」

 

 二人の視線に複雑な感情が入り乱れて、最後に残った〝憤り〟という感情を口にするより早く――

 

「しかし、ユニット活躍に関しては豊富な経験を積んでいます。これは、とても強力な武器になります」

 

 武内Pは、感情の置き所を探している二人に〝誇らしさ〟を差し出すように――

 

「ユニットであれば、二人はアリーナの舞台でも足を震わせることはないでしょう」

 

 断言をもって可能性を自覚させる。

 みくと李衣菜は、自分が灰かぶりではないと知ったシンデレラのように、疑いの表情を浮かべつつも目の奥に光を宿す。

 

「……でも、仮に武内さんの言う通りだとして、誰と組むの?」

 

 みくの言葉を、あらかじめ打合せでもしたかのように李衣菜が引き継ぐ――

 

「なつきちとのユニットじゃダメなんですよね。今から相手を探す感じですか?」

 

 伊華雌(いけめん)の目には、みくと李衣菜が、武内Pと重なって見えた。恋愛フラグを無自覚にへし折る武内Pを見て〝何故気づかない!〟と真顔で首をかしげるように、ソファーに仲良く並んで座ってユニットの相方を求める二人を見て〝何故気づかない!〟と叫びたくなってくる。

 

「いい組み合わせだと思います……」

 

 まゆが先に気付いてしまう始末だった。それでも、みくは鏡に映る自分と戦う猫の顔で、李衣菜はヘッドホンのコードが抜けていることに気付かなくて音量をあげ続けている人の顔で首をかしげる。

 

「自分の提案する、ユニットデビュー企画です」

 

 武内Pが机の上に書類を置いた。それを見た時の二人の反応はまるでコントだった。書類を見て、眉根をよせて、隣に座る相方候補に視線を投げて二人同時に――

 

「ちょっと待つにゃぁぁああ――ッ!」

「ちょっと待ってくださいよッ!」

 

 はたから見ると二人は息ぴったりのベストカップル以外の何者でもないのだが、みくはネズミと仲良くしろと言われた猫みたいに――

 

「ぜっったい相性悪いにゃ! 方向性が違いすぎるにゃッ!」

 

 李衣菜も負けじと、ドラムの代わりに和太鼓を加入させろと言われたロックバンドのリーダーみたいに――

 

「全然ロックじゃないですよ! 猫耳アイドルとか、もはやロックの反対語ですよ!」

 

 カチン、という音がみくの頭から聞こえたような気がした。

 

「……みくだって、ロックならまだしも〝にわかロック〟な李衣菜ちゃんはノーセンキューにゃ!」

 

 その喧嘩買ってやる。言わんばかりに緑色の瞳がみくを映して――

 

「こっちこそ猫になりきれてない中途半端な猫キャラの人はお断りだっての!」

「誰が中途半端な猫キャラにゃ! みくはどこからみてもキュートで完璧なネコチャンアイドルにゃ!」

「お魚食べられないくせに」

「うぐっ、それは……。でも、それを言うなら李衣菜ちゃんだってギター下手くそにゃ!」

 

 お互いに組み合ってひたすらボディーブローを打ち合うような消耗戦がしばらく続いた。そして二人は、裁判長に判決を求める弁護士みたいに――

 

「みての通りにゃ! 李衣菜ちゃんとのユニットは結成前に解散すべきにゃ!」

「猫とロックは、食い合わせが悪すぎますよ!」

 

 みくと李衣菜は、確かに目指すものが違うかもしれない。そのせいで喧嘩をしてしまうかもしれない。

 けど――

 

「二人には、共通点があります」

 

 興奮状態のみくと李衣菜は、武内Pの差し出した言葉に対して露骨な拒絶反応を示す。溢れんばかりの不満を視線に込めてにらむ。人間が目からビームを出せる種族であれば武内Pはきっと灰になっていた。

 武内Pはそんな視線を、しかし受け止め言葉を差し出す――

 

「二人とも、アイドルとして未完成です。しかし、それは同時に、どんなアイドルにだってなり得る可能性を秘めているということです」

 

 例えるなら熱い鉄のように、叩き方次第では歴史に名を残す名刀にもなるかもしれない。こんにゃくも切れないなまくらになるかもしれない。

 

 ――未完成だからこそ、可能性に満ちている。

 

「このユニットは、通過点であると考えてください。前川さんと多田さんが、なりたいと思い描くアイドルに近付くための足掛かりであると考えてください」

 

 武内Pはテーブルの上の書類に指を向ける。ユニット名は*。

 

「アスタリスク、と読みます。書類上の未決定事項を、暫定的に埋めるために使われます。このユニットの主旨をそのまま示しています。このユニットは――」

 

 アイドルとして未熟な二人が、一人前のアイドルを目指すためのユニット。

 二人で協力して、喧嘩して、それでも笑顔でアイドル活躍をしてもらうためのユニット。

 

「アスタリスクの活躍を通じて、アイドルとしてあるべき姿を探してみるのはいかがでしょうか?」

 

 間島Pは、ソロデビューを提案した。そのために曲から衣裳から舞台から全てを用意した。さながら、子供の手を引いて正しい道を歩かせるように。

 そのやり方は、しかしみくと李衣菜の可能性を潰してしまうと思った。

 この二人に関しては、手を引いて歩くより、手を繋いで一緒に道を探すべきだと思った。

 

 ――鉄はまだ熱い。

 

 焦ってソロデビューという鋳型(いがた)に流し込んでしまうより、手応えを確かめながら何度も叩いて理想の形を模索(もさく)すべきだと武内Pは結論した。

 

「……まあ、そういうことなら、みくは構わないけど」

 

 毛を逆立てていた猫が落ち着きを取り戻して毛繕いを始めるように、みくの表情が穏やかになった。

 

「……まあ、有名なミュージシャンも色んなバンドやったりするし、わたし的にもアリかな」

 

 ようやくやりたい曲の演奏を許された新人バンドマンのように、李衣菜は歯を見せて笑った。

 

「それでは、劇場で行われるクリスマスライブでのデビューを目指し、ユニット活動を始めたいと思います」

 

 きっと二人は、ユニット企画を認めてくれると思っていた。いや、二人をアイドルとして輝かせるためには、絶対にユニット活動をしてもらわなければならないと思っていた。

 だから――

 

「すでにユニット曲の製作に着手しています。クリスマスライブも枠を確保しています」

 

 みくと李衣菜は何も言わない。これは偽物じゃないかと疑う骨董商のような目付きで武内Pをじっと見る。

 

「……あの、どうかしましたか?」

 

 武内Pはたまらず首へ手を伸ばす。

 みくは貧相なキャットフードばかり食べていた猫がいきなり大トロの刺身を出されたみたいに――

 

「……いや、武内さんの印象が、思ってるのと違ってて」

 

 李衣菜も、会場まで電車で移動するつもりだったのにタクシーを手配してもらえたミュージシャンみたいに――

 

「何か、出来る人って感じで、ちょっとロックかも……」

 

 武内Pを評価する言葉を聞いて、隣に座るまゆが嬉しそうに微笑む。彼女は、ずっと大好きで追いかけていたマイナーな漫画がアニメ化されて絶賛されて嬉しい原作ファンみたいな、誇らしくも得意気な笑みで――

 

「ずっと言ってたじゃないですか。武内プロデューサーさんはとても情熱的なプロデュースをしてくれる人だって」

 

 まゆはずっと武内Pを信じて支えてくれている。

 今はみくと李衣菜のプロデュースに力点を置かざるを得ないが、しかしまゆをおざなりにするつもりはない。

 

「実は、佐久間さんにもお話ししたいことがあるんです」

 

 まゆは、武内Pの言葉を、視線を、その全てを受け入れますと言わんばかりの笑みを浮かべて言葉を待つ。

 そんなまゆへ、武内Pは告白まがいのスカウトをした時のように、真剣な顔で――

 

「佐久間さんもクリスマスライブで新曲を出してみませんか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第16話

 

 

 

 新曲を出しませんかと言われたまゆは、珍しく戸惑いの表情を見せた。案外、武内Pから愛の告白をされたらこんな反応をするんじゃないかと伊華雌(いけめん)は思った。積極的なヤンデレと見せかけて初心(うぶ)な一面もあったりしたらギャップ萌えで死ぬな。俺が。――とか思った。

 

「……いいんでしょうか? だってまゆには、エブリディドリームが――」

 

「構いません」

 

 武内Pは、ためらうまゆの背中を優しく押すように――

 

「佐久間さんにはそれだけの人気があるということです。新曲を待ち望む声がそれだけ大きいのです」

 

 ――その中でも一際大きい声を出しているのはこの俺なんですけどね!

 

 伊華雌はドヤ顔の感覚をもって佐久間まゆを見つめた。彼女には新曲が必要だと、隙あらば武内Pに吹き込んできた。まゆファンの気持ちを代弁すべく新曲の必要性を訴えかけてきた。

 

 しかし、まゆにとって大切なのは、ファンの熱望でも事務所の期待でもなくて――

 

「プロデューサーさんは、まゆの新曲、聞きたいですか……?」

 

 どこまでも佐久間まゆという少女はブレない。

 

 自分がやりたいかどうかよりも、プロデューサーが望むかどうかで物事を決めようとするまゆの姿勢に伊華雌は尊敬のようなものを覚える。ここまで一途になれるのは、もはやある種の才能であるとすら思う。

 

「自分も、次の一歩を踏み出した佐久間さんを見てみたいと思います」

 

 武内Pが真面目な顔で答えた瞬間、まゆの新曲が決まった。どんな曲にしたいかと聞くと、まゆは大きな目を閉じて、まぶたの裏に彼女の望む世界を(えが)いて――

 

「エブリディドリームは愛する二人が結ばれる曲でした。だから次は、愛の続きを曲にしたいです。結ばれた二人がすることと言ったら、一つしかありませんよね?」

 

 ……えッ!

 

 まゆの発言に伊華雌は息を呑む。愛する二人が結ばれた後にすることって……っ! いやっ、それっ、曲に出来ないんじゃないかなぁ! 歌詞の大半が放送禁止用語で埋まって、もはや音声モザイクのピー音が伴奏みたいになって、TVで流そうもんなら放送倫理委員会がアップを始めて――

 

「ハネムーン、でしょうか?」

 

 武内Pの推測にまゆはうなずく。その目に愛する二人を思い描くように――

 

「固い絆で結ばれた二人は、手を取り合って幸せなハネムーンに出発するんです。そして二人は――」

 

 語られる新曲のイメージを、武内Pは一言ももらすまいと手帳に書き残す。

 健全なハネムーンの話を聞きながら、紳士な伊華雌は好意と行為を直結させてしまったことをひたすらに恥じる。

 

「……だいたいのイメージはつかめました。他に、挑戦してみたいことはありませんか?」

 

 武内Pの問いかけに答えたのはまゆではなかった。みくが、自分だけが知っている知識を披露する子供のような得意顔で――

 

「まゆちゃん、ピアノ弾いてみたら? ピアノ弾き語りで新曲を発表したら、きっとみんな驚くにゃ!」

 

 まゆは子供の頃に本格的なピアノ教室に通っていたそうで、ときおり女子寮で披露するそれはもはやプロレベルだとみくは腕を組んでうなずく。

 

「クリスマスライブでピアノ弾き語りとか、最高にロックだね!」

 

 李衣菜の言葉が引き金となって情景が広がる。クリスマス仕様のステージにピアノがあって、赤いドレスのまゆが座る。アイドルによるピアノ弾き語りだけでもサプライズなのに譜面は新曲なのである。まゆのファンは演奏を静聴した(のち)に歓声を核爆発させることだろう。

 

 ――しかし、である。

 

 佐久間まゆという少女にとって、ファンが驚くかどうか? とか、最高にロックかどうか? とか、そんなことはどうでも良かった。

 

 彼女にとって重要なのは――

 

「プロデューサーさんは、ピアノを弾くまゆを見たいですか……?」

 

 どこまでも佐久間まゆという少女はブレない。

 

 みくと李衣菜は人前で抱擁(ほうよう)を繰り返すカップルに呆れる仕草でまゆを冷やかし、武内Pは生真面目な表情を崩さずに――

 

「自分も、新しい挑戦をする佐久間さんを見てみたいと思います」

 

 やはり武内Pはまゆの担当プロデューサーに適任であると伊華雌は思った。だって、ここまであからさまな好意を向けられたら、普通の人は冷静じゃいられなくなっちゃうから! もしも自分が武内Pの立場にあったら、こちらも好意を抱いてしまうか、行為にまつわる下心を抱いてしまって仕事どころじゃなくなっちゃうから!

 抜群のフラグ耐性を持った武内Pだからこそ、まゆを冷静にプロデュース出来るのだと思った。

 

「ねーねー。みくたちも何か特別なことした方がよくない?」

「特別なことって、例えば?」

 

 みくと李衣菜が向き合って、うーんとうなって――

 

「例えば、李衣菜ちゃんが猫耳を付けるとか!」

 

 有言実行! と言わんばかりにカバンから猫耳を取り出すみく。しかし李衣菜は素早くその手首をつかんで――

 

「却下! 猫耳なんて全然ロックじゃない」

 

「えー……。じゃあ、まゆちゃん、はい!」

 

 行き場を失った猫耳がまゆに渡された。とばっちりで猫耳になったまゆは、どうですかプロデューサーさん……? と言わんばかりに猫っぽいポーズを見せる。伊華雌は心の中で〝まゆにゃん最高だぜぇぇええ――!〟と叫んだ。

 

「それじゃあさ、みくちゃんもギター持ってみるとかは? クールでロックなデュオバンドとか、いいんじゃない?」

 

 李衣菜がケースから取り出したギターをみくへ向けるが、みくは猫避けペットボトルをにらむ猫みたいな顔で――

 

「ノーセンキューにゃ。そういうの、みくのイメージに合わないにゃ」

 

「えー……。じゃあ、まゆちゃん、はい!」

 

 またしても猫ロック戦争のとばっちりを受けるまゆだったが、猫耳ギター少女なまゆに伊華雌は無限の可能性を見いだした。この調子で獣耳ガールズバンドユニットとか作ったら最高にキュートで爆発的に人気が出るんじゃないかと思った。

 

 伊華雌が猫耳まゆの将来性について考えている間にも猫ロック戦争は激化する――

 

「李衣菜ちゃんが〝りーにゃ〟に改名して語尾に〝にゃ〟を付ける!」

「みくちゃんが関西弁を披露する!」

「李衣菜ちゃんが歯ギター!」

「みくちゃんがマグロ解体ショー!」

 

 ――感情は論理を凌駕(りょうが)する。

 

 二人のやり取りは、いつの間にか〝相手に負けたくない〟という感情に支配されて論理性を失っていた。橘ありすが聞いて呆れるやり取りが建設的な意見を生むことはなく、特別なことを探すつもりがいつの間にか相手のアラを探していた。

 

「武内さんはどう思うにゃ!」

「担当の意見、聞かせてよ!」

 

 武内Pに迷走する議論の主導権が投げつけられた。それは導火線に火のついた爆弾を渡されるがごとき迷惑行為であったが、武内Pは冷静さを失わずに――

 

「特別なことをしたいのであれば、そうですね……。新曲の歌詞を考えてみる、とかはどうでしょう?」

 

 もしかすると、まともな意見が返ってくるとは思ってなかったのかもしれない。みくと李衣菜は、失敗して当然のムチャ振りを完璧にこなされた司会者のように呆然として、燃え盛っていた感情の炎が小さくなって――

 

「新曲の作詞を、みく達で……。確かに特別なことだけど、ちゃんと出来るかな……」

 

 曲げた眉に弱気をみせるみくに対し、李衣菜は強気な笑みを浮かべて――

 

「わたし的にはアリかな。最高にロックな歌詞、考えちゃうよ!」

 

 負けるものかとみくも強気を取り戻し、光る八重歯に吠える虎の剣幕を見せて――

 

「じゃあ、みくもやるにゃ! 李衣菜ちゃんに任せたらロックという名の怪文書が歌詞になっちゃうにゃ!」

「はあ! そっちことまともな歌詞書けるのッ? にゃーにゃー言ってるだけの歌詞とかお断りだからね!」

 

 隙あらば喧嘩を始めるみくと李衣菜だが、この二人にユニットを組ませたのは正解だと伊華雌は思った。遠慮なく本音をぶつけ合える相手は、パートナーとして悪くないと思うのだ。

 

 ――だって、自分と武内Pがそうだから。

 

 アイドルに関する議論で衝突した時のやり取りは、みくと李衣菜に負けず劣らず感情的で論理性を欠いている。

 

 ――でも、その衝突があればこそ今までの成功がある。

 

 まゆの時も、仁奈の時も、たくさん衝突して、お互いに心を削って、満身創痍になりながらも成果をあげられた。

 最後には二人で笑顔になることが出来た。

 

 だから――

 

 みくと李衣菜は、このままでいいと思う。たくさん喧嘩して、たくさん衝突して。それでも最後に二人で笑顔になってくればそれでいい。自分と武内Pみたいな関係のユニットになってくれればいいと伊華雌は考えている。

 

「みく、最高にキュートな歌詞、考えるから!」

「新曲は最高にロックな歌詞! それ以外ありえない!」

 

 シンデレラプロジェクトの地下室が、何だかとても騒がしい。

 活気という名の燃料が注入されて、部署全体がエンジンとなって動き出す。前に進んでいるんだという実感があって、どこからともなくやってやるぞという気持ちが込み上げてくる。

 

「クリスマスライブ、楽しみですね……♪」

 

 猫耳ロックなまゆが微笑んで、伊華雌の中に激情がほとばしった――

 

〝クリスマスが楽しみとか、生まれて初めてなんですけどぉぉおお――ッ!〟

 

 シンデレラプロジェクトはクリスマスライブへ向けて、346プロのどの部署よりも本気で始動していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第17話

 

 

 街が浮かれているように見える。

 

 そんな表現をされる理由は、クリスマスが近付くにつれて増えるイルミネーションにあるのかもしれない。商業施設はもちろんのこと、最近は本格的なイルミネーションに挑戦する一般家庭も増えてきて、住宅街でも浮かれた光が踊っている。

 

 そんなクリスマスにまつわる街の変化に対する伊華雌(いけめん)の感想は〝爆発せよ!〟の一語に集約されていた。

 

 街がカップルフェスティバル状態なのが気に食わなかったのかもしれない。台頭してくるリア充軍団が気に触ったのかもしれない。

 

 とにかく、人間だった頃の伊華雌はクリスマスという単語を忌み嫌っていた。自分が非リアであることを思い知らされるクソイベントだと思っていた。

 それが伊華雌にとってのクリスマスであったハズなのに――

 

 何故だろう、今年はイルミネーションに色づく街を見ても()ぜろと思わない。カップルを見ても呪いの言葉を詠唱(えいしょう)しない。

 

 クリスマスというイベント自体に変化はない。相変わらず街中が飾りつけられてカップルが闊歩(かっぽ)してサンタ衣裳の店員が子供に商品を売りつけるべく必死な笑みをうかべている。

 

 ――変わったのは自分なのだろうなと思った。

 

 マイクになって、友達が出来て、周りにはアイドル達がいて。それだけ環境が変化すれば、良かれ悪しかれ今までの自分ではいられない。クリスマスライブに向けて真剣に頑張るアイドル達を見ていると、くたばれクリスマス! とか思えなくなってしまうのだ。

 

「お疲れさまです」

 

 武内Pがレッスンルームに入っても、佐久間まゆは気付かなかった。

 それがどれだけ異常なことか、もはや説明の必要はないだろう。だって、あのまゆがプロデューサーの接近に気付かないのである。そんなの、電車の接近に気付かない踏み切りぐらい異常な状態である。

 

 まゆはピアノと向き合っている。トレーナーの指摘にうなずき、汗をふくのも忘れて鍵盤を叩いている。

 

 ピアノ弾き語りの新曲をもってクリスマスライブに参戦することになったまゆだが、それは口で言うほど簡単な話ではなかった。

 確かにまゆは子供の頃にピアノを習い、気が向いた時に女子寮の電子ピアノを弾いていた。

 

 ――しかし、本気のレッスンを受けていた訳ではない。

 

 放置された車が錆びて使い物にならなくなってしまうように、専門家の目から見るとまゆの技術はすっかり錆びてしまっていた。

 

 ――だから、気付かない。

 

 プロデューサーの接近に気付かなくなってしまうほど、まゆは真剣にピアノと向き合っていた。ピアノを弾くだけでなく、歌もうたって、しかも新曲なのだから、まゆの負担は計り知れない。

 さすがに心配になった武内Pが、ライブの内容を改めたほうがいいかもしれないと提案したが、まゆは気丈にも笑みを作って――

 

 見ててください。まゆは、プロデューサーさんの望むまゆになってみせますから……。

 

 確かにオーバーワーク気味かもしれないが、ここでやめさせたらきっとまゆは笑顔になれない。

 伊華雌と武内Pは結論し、定期的にスタドリを差し入れてまゆを応援することに決めた。

 

「そうじゃないにゃ! そこのポーズは、もっとこう、可愛くするにゃ!」

「えー、こっちの方がロックで格好いいじゃん」

 

 隣のレッスンルームでは、みくと李衣菜が喧嘩しながら最後の調整をしていた。

 二人は、相当喧嘩したんだろうなと容易に想像できてしまうほどに猫とロックを融合させた歌詞を完成させている。それはきっと、形の違う歯車を無理矢理噛み合わせるような、痛みを伴う作業であったと思うのだが、完成した歌詞を提出してきた二人は壮絶な戦争を生き残った兵士のような顔をしていた。やりきった顔というのはあんな顔のことをいうのだろうと伊華雌は思った。

 

 シンデレラプロジェクトのアイドル達は、クリスマスライブに向けて着実にレッスンを重ねていた。

 そしてシンデレラプロジェクト担当である武内Pは――

 

 やることがなかった。

 

 仁奈の時もそうだったが、ライブに向けて必要な準備を終えてしまうと、後は頑張れを連呼しながらスタドリを差し入れるぐらいしかやることがないのだ。

 本来ならばプロデューサーはもっと多くのアイドルを同時に担当するので、ライブの準備を終えたら別のアイドルの世話に追われたりするのだが、三人しか所属していないシンデレラプロジェクトではすぐに手が空いてしまうのだ。

 

 とはいえ、何もしないでいるのはもどかしい。必死にレッスンを頑張っているアイドル達を見ていると、何か役に立ちたいと思う。仁奈の時のように伊華雌は無い知恵を絞り考えた。

 

〝……なあ武ちゃん。アイドルのみんなにクリスマスプレゼントとか用意したほうがいいんじゃね?〟

 

 もちろん、アイドル達のモチベーションを上げるのが目的である。

 でも、本音を言うと、一度やってみたかったのだ。前世では一度も出来なかった〝誰かにクリスマスプレゼントフォー・ユー〟ってやつを、どうしてもやってみたかった……ッ!

 人間だった頃のクリスマスとか、翌日に叩き売られているケーキとチキンを回収してデブるだけのイベントだったし……。

 

「そうですね。何か用意したほうがいいかもしれません」

 

 武内Pのノリ気な発言に伊華雌は遊園地に連れて行ってもらえる子供の気持ちではしゃいでしまう。

 

 一度でいいからクリスマスをリア充イベントとして楽しんでみたかったんじゃーッ!

 

 ――という私欲を忍び込ませた提案に罪悪感が無いといったら嘘になるが、アイドルのみんなは武内Pのプレゼントを喜んでくれると思うし、つまりはWin-Winなんですよ!

 

 伊華雌は武内Pと二人で仲良くクリスマスショッピングを楽しむつもりだった。まゆちゃんにはこれかなー、李衣菜ちゃんにはこれかなー、みくにゃんにはー。とか言いながらクリスマス色に染まるショッピングモールでプレゼントを選ぶ。それで充分幸せだった。お釣りがくるほど幸せだった。

 

 しかし――

 

 神様ってやつは、時に幸せのオーバーキルをするらしい。

 

「あっ、プロデューサーさん! お疲れさまですっ!」

 

 ロビーで声をかけられた。クリスマスを明日に控えた忙しい時期である。346プロの玄関ロビーは業界人とプロデューサーとアイドルのバトルロイヤル状態で、その喧騒はもはや地鳴りと肩を並べるレベルなのだが――

 

 伊華雌はその声を正確にとらえていた。

 

 もしかすると自分の耳にはノイズキャンセル機能がついているのかもしれないと思った。工事現場の中にあっても、鉄道が走る鉄橋の下でもあっても、離陸するジェット旅客機の中にあっても、その声を正確に聞き取ってやる自信があった。

 

「お疲れさまです、島村さん」

 

 武内Pが律儀に頭をさげた。島村卯月がいい笑顔になった。冬コート制服バージョンの卯月だった。初めて見る服装だった。心の金庫に保管してある島村卯月アルバムに保存しておいた。

 

「プロデューサーさんはこれからお仕事ですか?」

 

 首をかしげながら訊ねてくる卯月に〝期待しなかった〟と言えば嘘になってしまう。

 でも、伊華雌は弾む心を押さえつけた。

 そんな都合のいい展開はギャルゲーの世界に封じ込められている。現実世界はもっとシビアで淡白なのだ。絶対にぬか喜びで終わるから、だから期待してはいけない。

 だってそれ、実現したらデートだよ? そしたら今日はデート記念日に認定か? いやいやまさか……。そんな記念日、俺のカレンダーには一生追加されないでしょうが……。でしょうよ……。

 

「実は今から、担当アイドルのクリスマスプレゼントを買いにいこうかと」

「うわぁっ、それは素敵ですねっ♪ ……実はわたし、今日は今からオフなんです」

 

 ……いやいやまさか。ありえないでしょうが……。でしょうよ……。

 

「だから、もしよかったら……」

 

 まだだ! まだ喜んではいけないでしょうが……。でしょう――

 

「わたしもご一緒したいなー、なんて……っ♪」

 

〝今日はデート記念日でしたぁぁああ――ッ!〟

 

 このフラグだけは絶対に死守してやると決意した。島村卯月によって生成された聖なるフラグに手をかけようというなら上等、例え相手が無二の親友であっても刺し違える覚悟を――

 

「ありがとうございます。自分はプレゼントについて詳しくないので、アドバイスをしていただけると助かります」

 

 ……あれ、武ちゃんがフラグを破壊しない……だとッ?

 

 どういうつもりなのかと思い武内Pを見上げると、なるほど伊華雌とまゆにしか分からないくらいの小さな表情の変化であるが、嬉しそうに口元を緩めていた。

 

「島村卯月、アドバイスがんばりますっ♪」

 

 がんばりますコールという名の福音(ふくいん)を耳に受けて伊華雌は気合いをいれる。息を大きく吸い込む感覚と、興奮した猛獣がふしゅうと息を吐き出す感覚を繰り返して意識を集中させる。

 

 武内Pと卯月が並んで346プロの外へ出た。

 

 道行く人がコートの前を閉めて前のめりに歩いている。見るからに寒々しい空気の中で、卯月の吐く息が白く輝きイルミネーションに溶けて消える。

 

「では、行きましょう」

 

 武内Pが、はにかむような笑みを浮かべて、卯月がいい笑顔でこたえる。

 

 ――さあ、クリスマスデートの始まりだッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第18話

 

 

 

 伊華雌(いけめん)は一度だけコミケに参加したことがある。

 

 限定販売のCDが欲しくて朝一番の電車に乗った。山手線は通学の友であったから特に不安は覚えなかった。そこから先の東京臨海という電車は未経験なので多少の不安はあったが乗り換えなんていくらでも経験している、問題無いとなめてかかった。

 

 ――甘かった。

 

 コミケ開催日の東京臨海鉄道が乗車率の限界を体験できる〝すし詰めアトラクション〟になっているとは思わなかった。

 通勤時間帯を遥か上回る乗客は、そのほとんどがコミケという戦場に足を向ける戦士達で、それを輸送する東京臨海鉄道はさながら決死の上陸作戦に従事する強襲揚陸艇のごとしで、国際展示場駅に着くなりゲートの()いた瞬間の競走馬さながら駆け出す戦士達の足音が地鳴りの剣幕をもって駅舎を占拠した。

 詰めかけた人で混雑すると聞いていたが、現実は予想を遥かに越えていた。

 

 そして――

 

 クリスマスのショッピングモールを前にして、伊華雌は()りし日のコミケを思い出していた。

 噂には聞いていた。クリスマスのショッピングモールは猛烈に混雑するとニュースで聞いて、自宅警備員の俺には通用しないな、ふはは! ――と謎の優越感にひたっていた。

 つまり伊華雌にクリスマスの実戦経験は皆無であって、だから予想以上の人ごみを前に呆然とするのも当然だった。

 

「クリスマス前ですからねー」

 

 圧倒的不快指数を誇る人の波に飲まれても苦笑するだけで許してしまう卯月はやはり天使であると確信した。コミケ待機列に飲まれた時の自分はこの世界の全てを呪う呪文の開発に着手してしまったというのに。

 

「はぐれないように、気をつけてください」

 

 武内Pが卯月を気遣った瞬間、人の波にうねりが生じて――

 

「うわぁっ」

 

 とっさの行動、だったと思う。体勢を崩して、つかんでしまったのだと思う。

 

「あのっ、ごめんなさ――」

 

「構いません」

 

 そのやりとりは、まるで少女漫画だった。うっかり腕をつかんでしまって、慌てて離そうとする少女へ――

 

「混雑してますから」

 

 クリスマスだからだろうか? それとも相手が卯月だからだろうか?

 

 武内Pは伊華雌が白目になるほど模範的なイケメン行為を実践していた。

 卯月はえへへとか言いながら武内Pの腕をつかんだ。

 

 爆発せよ! 大至急爆発せよッ! 

 

 ――とは、思わなかった。島村卯月に腕をつかまれてクリスマスに色めく街を歩くとか、世界中の爆薬を集めて爆破すべき重罪なのに、しかし伊華雌の中にあるのは警官隊と戦う暴徒の狂乱でも、声をあげて斬りかかる侍の気迫でもなくて――

 

 祝福のラッパを吹きならす天使の微笑みであった。

 

 不細工で世界を狙える自分が天使を名乗るとか、キレた天使から内臓吐くまで腹パンされても文句は言えない。そんなリスクを背負ってでも、伊華雌は祝福のイメージを浮かべたいと思っていた。

 

 武内Pだから、だろうか? 卯月だから、だろうか?

 

 理由は定かではないが、目の前で成長する恋愛フラグを穏やかな気持ちで見守ることができたのは、前世を通して初めての経験だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 伊華雌はかつて、欲しいものを全てネット通販で買う系男子であった。ネットの方が安いし、家まで届けてくれて楽だし、何よりも店員と顔を合わせるという苦行を回避出来るし。

 

 ――そもそも、店に足を運ぶメリットが分からない。

 

 ネットに比べて、在庫は少ないし、値段は高いし、歩いて疲れるし店員と顔を合わせるという苦行が待ち受けているし。ネットの口コミを活用すれば現物を見るより詳しく商品について理解できるし、ゆっくり品定めをしていても誰も文句を言わないし、品定めの最中に店員が声をかけてくるという悪夢におびえる心配もない。

 

 ネット通販と来店販売の間には途方も無い格差があって、もはや来店販売など懐古主義者を接待するためだけに存在している愚行だと思っていたのだが――

 

 伊華雌は考えを改めた。

 

 革命が起きて王が倒されて国が新しくなるように、伊華雌の中に君臨していたネット通販至上主義派が勢力を落とし、来店ショッピングも悪くない派が市民権を獲得した。

 

 ――ただし、島村卯月を同伴している場合に限る!

 

 極端に限定された条件を必要とするが、来店販売が市民権を得たのは〝革命〟であって、卯月は革命の母となった。

 もちろん彼女はそんなこと知らない。知ったこっちゃない。彼女は武内Pとのウィンドウショッピングを楽しみ、それを見た伊華雌が勝手に革命しただけである。

 

「みくちゃんは、やっぱり猫耳でしょうか?」

 

 そんなことを言いながら卯月が案内したのはコスプレ雑貨のお店だった。100の専門店を唄うショッピングモールにあってその店は異彩を放っていた。普通の人生を送っていたら一生縁が無いと断言できるファンタジーな衣装がズラリと並んでいる。

 商品にも驚いたが、客の数にも驚いた。

 コスプレショップという選ばれし人間だけが足を踏み入れることの出来るお店は、しかし多くの人で賑わっていた。

 

 まあ、レイヤーさんの数を考えれば当然か……。

 

 伊華雌はコミケ後に出現する〝可愛すぎるコスプレイヤー〟とか〝エロ過ぎるコスプレイヤー〟とかのタイトルを掲げたまとめスレを思い出しながら客を眺める。わざわざ人前に、――っていうかカメラの前に進み出るような人種である。予想通り美男美女が多くて伊華雌はため息がとまらない。

 

 いや、俺だって本気出せば負けないんだぜ? 試しにぴにゃこら太のコスプレとかさせてみろよ! その再現度の高さにカメラ小僧大集合間違いなしだぜ! ネットにアップされる時には〝閲覧注意〟か〝グロ注意〟のタグがつけられるんだろうけどなッ!

 

 伊華雌が勝手に妄想して勝手にキレてる間には現実世界は大変なことになっていた。

 

 みくのプレゼントであるクリスマスカラーの猫耳を持った武内Pが、見つめていた。未開の部族に混じって踊る知人を目撃したかのような目付きでじっと見つめていた。

 

 その視線をたどってみた。

 伊華雌も同じ気持ちになった。

 

 見てはいけないものを視界におさめてしまった焦りを胸に、見なかったことにするのが礼儀であると武内Pをたしなめようとするのだが――

 

 ――間に合わなかった。

 

 武内Pは、純粋に真実を求める探偵みたいな口調で――

 

「あの、千川さん、ですよね……?」

 

 武内Pの存在に気付いたちひろが凍りつく。彼女は両手にコスプレグッズを持っていた。それはつまり盗品を握りしめた泥棒のようなものであって――

 

 言い逃れは不可能であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第19話

 

 

 

 趣味は個人の自由であると伊華雌(いけめん)は考えている。

 

 他人に迷惑をかけないという線引きのもと、何を愛し、何に生き甲斐を求めようが自由であると思っている。

 

 ――もちろん、例外はある。

 

 趣味や趣向や性癖は自由であるが、小学校教師が〝小学生は最高だぜ!〟とか言い出したらPTAが武装してしまう。

 

 何事にも例外的な禁忌(きんき)は存在するのだが、コスプレが趣味な事務員とか、特に問題ないと許容するどころか〝むしろイエス!〟と伊華雌は思う。是非、その成果を事務所で披露してほしい。露出度が高ければなお良しである!

 

 伊華雌が勝手に盛り上がる横で、ちひろは今にもあわを吹きそうな口をしていた。顔色を青くしたり赤くしたり。イルミネーションかよ! と突っ込みたくなってしまうが本人は本気で動揺しているので伊華雌は言葉を控える。

 

「えと……、これは……、そのっ!」

 

 恐らくは空前の回転数をもって頭を働かせているのだろう。しかしながらそのせいで普段の聡明さが失なわれている。

 

 ――5000回転しか回らないエンジンを10000回転させたらどうなるか?

 

 2倍の速度で走る車を目撃――することは出来ないだろう。目に焼き付けることができるのはボンネットから煙を吹いて爆発する車の衝撃映像だろう。

 

 そして伊華雌は目撃する。

 秘密の趣味を見られたちひろが混乱して――

 

「ただの趣味だから! コスプレが好きなだけだから!」

 

 訊いてもないのに全てを暴露してしまった。

 

 彼女は自分の口を経由した言葉に驚き、燃えるように顔を赤くした。

 言い訳なんて、いくらでも出来た。

 アイドルの衣裳であるとか、友達に頼まれたとか。いくらでも嘘で誤魔化せたのに、ちひろはそれをしなかった。冷静さを失っていた、という理由だけではないと思う。

 

 ――武内Pに嘘をつきたくない。

 

 そんな気持ちが根底にあって、だから本音をゲロってしまったのだと伊華雌は思う。どこまでも恋する乙女なのだこの人は。

 

「……少し、驚きました」

 

 武内Pが首の後ろに手をあてる。その仕草が意味するのは〝戸惑い〟の感情である。ちひろはまるで、死刑判決におびえて裁判官を見上げる被告みたいな顔で最後の審判に備える。

 

「いいと、思います。千川さんでしたら、色々な衣装が似合うと思います」

 

 無罪判決を獲得したのに理解が追いつかなくて恐怖の放心状態に支配され続けている。

 そんな感じでしばらく呆然としていたちひろだが、やがて感情が追い付くと、火薬庫に放火されて内部から爆炎を吹き上げる戦艦のように赤くなった。

 

 クリスマス特別セール開催中でーす。真っ赤なお鼻のー。これなんかいいかも。あっちにサンタさんいたーっ! でも予算が……。にせものーっ! ありがとうございます! メリークリスマス!

 

 砂漠を吹き抜ける砂嵐のようにショッピングモールを吹き荒れる喧騒が通過する。呆然と突っ立っていた人が砂つぶてに正気を取り戻すように、ちひろはゆっくりと頬の赤みを薄くして、武内Pの持っている猫耳(クリスマスバージョン)を視認するなり同業者の笑みを浮かべて――

 

「それ、武内君が使うの?」

 

 武内P(猫耳Ver)の想像が容易だったことに伊華雌は驚いた。そういえば最近武内P(ウサミンVer)を見たのだと思い出して納得した。

 

「これは、その、前川さんへのクリスマスプレゼントで……」

 

 なーんだ。そんな声が聞こえてきそうな仕草でちひろは苦笑する。いや待て、よくみるとわざとらしい仕草だぞこれは。バレンタインの日にチョコの話題をされた男子みたいな顔をしているぞ!

 

 果たして、武内Pは気付いているのだろうか?

 そっけない仕草で誤魔化しながらも瞳を光らせるちひろの期待を。喧騒に心音を消されていることに安堵しているであろう彼女の乙女心を。

 

「では、自分はこれで」

 

「あ、うん……」

 

 名残惜しそうな視線を向けてくるちひろに武内Pは容赦なく背を向ける。

 言ってやらなくてはならないと伊華雌は思う。担当アイドルだけじゃなくて、担当事務員にもプレゼントが必要であると!

 

〝あのさあ武ちゃ――〟

 

「ちひろさんにはプレゼントあげないんですか?」

 

 伊華雌の仕事を卯月が奪った。彼女は行き交う人の波に翻弄(ほんろう)されながら、しかし懸命に武内Pを見上げて――

 

「あげたほうがいいと思いますよっ。絶対、喜んでくれますからっ♪」

 

 てっきり卯月は〝にぶい〟のだと思っていた。ウィキペディアに列挙されている過去の天然行為から、卯月の恋愛センサーは武内Pのそれと並ぶ粗悪品だと思っていた。

 しかし実際にはあのわずかなやり取りからちひろの胸に鎮座する恋心を見抜いてしまったようであり、天然という属性に分類されているものの卯月は〝女子高生〟であるのだと改めて思い知らされた。女子高生ほど鋭敏な恋愛レーダーを搭載した生き物は存在しないのである。

 

 伊華雌が改めてJKという人種について考察している間に武内Pはちひろにメリークリスマスする決意を固め、そのプレゼントに関する助言を卯月に頼んだ。

 

「島村卯月、がんばりますっ!」

 

 ――人の波が、一緒だけ動きをとめた。

 

 あれ、今の、卯月ちゃん? 声の主を探そうと振り回される視線は、警報の鳴った夜の基地で振り回されるサーチライトのごとしであり、その視線から逃れるべく人混みに紛れ込んだ武内Pと卯月は〝まるでスパイのようであった〟と表現してやりたいのだが、住人にばれて無様に逃げる下着泥棒と比喩(ひゆ)してあげるが精一杯の下手くそな逃走劇だった。

 

「はあ、はあ……。うっかりしちゃいましたっ♪」

 

 えへっと笑う卯月がいて、武内Pもつられて笑って。お忍びデートがバレそうになって逃げ回るというスリルが二人を盛り上げて――

 

「今度はバレないようにお願いします」

 

 少年の笑みを浮かべる武内P。卯月は笑顔で舌を出す。

 

 街が浮かれているように見えるのは、街を歩く連中が浮かれているせいかもしれない。クリスマスに浮かれた連中が、街をピカピカのキラキラにかえて、それを見た人間の瞳に星を作るのだ。

 

 メリークリスマスが尽きるまで、二人と一本はクリスマスと踊り続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第20話

 

 

 

 李衣菜にはクリスマス柄のヘッドフォン。まゆにはハート形のネックレス。ちひろにはクリスマス柄のシュシュを買った。

 高すぎず、安すぎず。適度な値段のプレゼントであると受け取りやすいというのは卯月のアドバイスで、受け取ってもらえない可能性について考えていなかった伊華雌(いけめん)は目からうろこを落とすと同時に戦慄した。

 メリークリスマス! でプレゼントを差し出して、ノーセンキューにゃ! とか言われたら切なすぎる。クリスマスに宣戦を布告して最終戦争に突入してしまうかもしれない。

 

「今日は、ありがとうございます」

 

 武内Pが卯月に礼を言う。そこはショッピングモールの一角にある喫茶店で、卯月お勧めのお店だった。ママと買い物をした時は必ず寄るんです、と言って紹介されたお店は〝大人の喫茶店〟といった雰囲気で、メニューに並ぶ紅茶の値段が伊華雌の価値観を否定する。

 伊華雌にとって紅茶とは〝午後ティー〟一択で、すなわち1・5リットルで300円前後が相場であるというのに、この店の紅茶はお上品なティーカップ一杯につき1000円とか要求してきやがるのだ。

 

 ――お前ら、櫻井桃華にでもなったつもりかッ!

 

 未知の世界に混乱する伊華雌を尻目にお客は優雅なティータイムを楽しんでいる。

 

「ここはケーキも美味しいんですよっ♪」

 

 卯月が得意気にあれこれと説明している。彼女のドヤ顔は、珍しく、美しく、ありがたい。滅多に見ることのできない秘仏(ひぶつ)を拝む仏教徒の感激をもって伊華雌は卯月のドヤ顔を堪能する。

 

「確かに、おいしいです」

 

 武内Pの頼んだチョコレートケーキは複数のチョコレートを重ねて形成された芸術品のようなケーキで、フォークによって切り取られた断面から柔らかいチョコレートがとけだしている。見ているだけで唾液の垂れる感覚を思い出してしまう。

 その誘惑に負けたのは、しかし伊華雌だけではなかった。

 フォークの動きをとめていた卯月が、恥ずかしい性癖をカミングアウトするような恥じらい顔をして――

 

「……実はわたし、チョコレートって、頼んだことなくて、その――」

 

 卯月の喉がごくりと鳴った。それは抑えきれぬ欲望に負けた理性の悲鳴であって――

 

「あのっ、一口もらえませんか……?」

 

 核攻撃によって街が壊滅してしまった。立ち上るキノコ雲を見上げて呆然とする。

 そのくらいの衝撃をうけていた。うけて当然だと思った。だってその一口ちょうだいって、フォークが卯月でケーキが卯月でつまり――

 

〝間接フォークじゃないですかぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌の絶叫を肯定するかのように武内Pがうなずいた。

 卯月は抑えていた食欲を解放し、武内Pのチョコレートケーキへフォークをさしこんだ。

 

「んーっ! 色んなチョコが、口の中で!」

 

 チョコレートケーキに悶える卯月を見つめて伊華雌は黙考する――

 

 ……なんてことだ、間接フォークが成立してしまったよ。アイドルと間接フォークとか、すごいシチュエーション過ぎてもはや羨ましいのかどうかすらも分からんよ。

 

 混乱のあまり逆に冷静になっていた。もしかしたら自分は危機的状況を前に冷静さを保つことのできるホラー映画の主人公に必要な適性を備えているのかもしれないと、冷静に自己分析をしてみせる伊華雌であったが、それも長く続かない。強烈な第二派が、すぐそこまで――

 

「じゃあ、お返しに――」

 

 卯月のフォークがショートケーキを切り分ける。小さくまとめたそれにフォークを突き刺して、宙に浮かべて――

 

「あーん、してくださいっ」

 

 ……は? ……え? これって、もしかして、うっ……、嘘だろッ!

 

 地面から富士山サイズのゴジラが出てきて世界を火の海に沈めた。

 そのくらい、非現実的な衝撃をうけた。

 島村卯月がはにかみながらアーンを自分のフォークでケーキがマウストゥ――

 

「……いえ、自分は」

 

〝断るな! 受け止めろ! 男じゃろうが!〟

 

 伊華雌の中に村上巴が出現した。卯月のアーンをないがしろにするのはさすがに許せない。今まで踏みにじられてきたフラグ達の無念を晴らすべく、伊華雌は今、修羅になる……ッ!

 

〝女の子に恥じをかかせたら、いかんばい……〟

 

 続いて降臨したのは上田鈴帆で、まだまだ346プロのアイドル達が控えていた。意気地無しの武内Pが奮い立つまでいくらでも罵声を飛ばしてやろうと思っていたが、最初の二発で武内Pは目つきを変えて――

 

「では、失礼します……」

 

 何事にも技術があって未熟者は醜態(しゅうたい)をさらしてしまうのだと、卯月のアーンにこたえる武内Pを見て思った。

 

 ――まるでパン食い競争だった。

 

 フォークに刺さるケーキが口に入らない。卯月と息が合わなくて、口に入ると見せかけて頬を滑ったり、フォークを下げたら今度はアゴに激突したり。武内Pがやっとケーキを口におさめた時には口の周りがクリームでベタベタになっていた。

 

「あの、ごめんなさ……、ふっ、ふふっ」

 

 下手くそなアーンによってこれから髭を剃ろうとしている人みたいにしておきながら笑いだすとか、怒ってもいい場面だと思う。

 しかし武内Pは、一緒になって笑っていた。

 

 なんだよ、これ……。こんなのまるで、パラダイスじゃないか。

 そう、ここは二人の――

 

〝いちゃこらパラダイスじゃないかぁぁぉぉ――ん!〟

 

 自分でけしかけておきながらキレる伊華雌はさておき――

 

 イチャコラティータイムを堪能した二人は、空になったティーカップをもてあそびながら心地よい沈黙を楽しんでいた。

 そしてふと、武内Pがカップを置いた。大切なことを思い出した、――とでも言わんばかりの慌ただしい置き方だった。

 彼は、クラスの女子に片っ端から声をかけておきながら本命の女の子に何のアプローチもしてなかったことに気付いて愕然(がくぜん)とするような表情で――

 

「あの、島村さんにも、何かプレゼントを用意したいのですが……」

 

 いやそれ、本人に訊いちゃアカンやつやろがぁぁーいっ!

 

 伊華雌の中にハリセンを振り回す難破笑美が出現した。

 卯月にメリークリスマス! というのは名案である。珍しく自分からフラグを立てていく武内Pを評価してあげたいところではあるが、その立て方が下手すぎる。壊すのは得意なのに育てるのは下手とか、子育てに苦戦する特殊部隊の精鋭みたいな人だと思った。

 

「ありがとうございますっ。でも、お気持ちだけで充分です。だって――」

 

 卯月は、クリスマスの中心にいるかのような、どんなイルミネーションよりもまぶしい笑顔を輝かせて――

 

「プロデューサーさんには、たくさんもらっちゃってますからっ♪」

 

 身に覚えのない感謝をされて戸惑う人。

 そんなお題のVTRだとしたら完璧だなと思わせる仕草で武内Pは卯月を見つめる。実はこっそり卯月にプレゼントを贈っていた、――というイケメン的な行為は有り得ないと伊華雌は知っている。だって、一日中一緒にいるのである。おはようからおやすみまで密着しているのである。だから武内Pは卯月に何も――

 

「わたしを、アイドルにしてくれてありがとうございますっ!」

 

 一口に笑顔といってもその種類は千差万別で、正確に分類するのは難しい。

 でも、分かった。

 今の卯月がどんな笑顔を浮かべているのか、すぐに分かって、胸の奥から暖かい気持ちがこみ上げてきた。

 

 ――嬉しいだろうなと、伊華雌は思う。

 

 スカウトしたアイドルが、こんな風に、心の底から自然とこぼれてしまったみたいな笑顔で喜んでくれたら胸が一杯になって泣きだしてしまうかもしれない。

 武内Pの表情に劇的な変化はなかったが――

 

 でも、伊華雌には分かった。

 

 いつもより深い微笑で、いつもより強く首をさわって、ほのかに目の湿度を高めている。その表情を一般人の尺度に合わせて翻訳すると、嬉しくて、感激して、感情をコントロールできなくなってボロボロ泣いている。

 

 つまりは猛烈に嬉しそうな顔であって、だから伊華雌も嬉しくなる。

 卯月の笑顔はその可愛らしさにこちらまで笑顔になってしまうが、武内Pの笑顔は何だか胸が温かくなってくる。

 同じ〝笑顔〟なのにどうしてこみ上げる感情に違いがあるのか、伊華雌にはよく分からない。

 

「クリスマスは大阪でライブをするんですっ。関西は初めてなんで、もう楽しみでっ! 未央ちゃんはいろんなお店を調べて食い倒れするぞーって張り切ってて、凛ちゃんは――」

 

 あらためて口にするには恥ずかしい言葉を吐いた反動か、卯月は猛烈な勢いで喋り始めた。

 ラジオで彼女の長電話の武勇伝を知っている伊華雌は、いつもこんな感じで電話しているのかなと妄想して幸せな気持ちになる。

 

 ――そして卯月の受話器に猛烈な嫉妬を覚える。

 

 長い時には一夜を明かすこともあるという島村卯月の長電話を担当している受話器に自分みたいな転生野郎がいたらどうしよう? ……よろしい、ならば戦争だ。どちらかが灰になるまでなッ!

 

 伊華雌がいるかどうかも分からない転生野郎を威嚇している間にも卯月は笑顔で話しまくる。どうやら彼女は一度スイッチが入ると止まらなくなるタイプのようで、自分の話を自分で広げて、それをまた広げていくという、無限に膨張する宇宙のようなトークを展開していた。

 それを聞いている武内Pは、彼氏――というより父親のような優しい顔で相づちを打っている。仲の良い親子みたいな二人を眺めているだけで伊華雌も幸せな気持ちになる。

 こんな時間が永遠に続けばいいのにと思うのだが――

 

 幸せな時間は長く続かない。

 皮肉にもスマイリングの着歌が二人の時間を終わらせる。

 

「すみません、ちょっと、事務所から……」

 

 武内Pが断りを入れてスマホを耳にあてる。

 思わず息をのむ感覚を思い出してしまうほどの嫌な予感があった。それは寝坊して遅刻した時よりもさらに恐ろしい予感であって、心臓を悪魔に掴まれると表現するにふさわしい恐怖に伊華雌はガタガタと足を震わせる感覚を思い出す。

 

 だって――

 

 夜の8時なのである。クリスマスライブを明日に控えた夜の8時に事務所からの電話とか、〝最悪の事態〟という名前のパレードが脳裏を通過してしまう。

 

 ――何でもない業務連絡であってくれ……ッ!

 

 伊華雌の切なる願いを、しかし現実は裏切る。

 さっきまで暖炉の前に置かれたゆり椅子に座っているお爺さんみたいに穏やかな顔をしていた武内Pが、今はもう塹壕で機関銃をぶっ放している兵士みたいな顔をしている。

 そして彼は、口にして復唱することによって真偽を確かめ、できれば相手に否定してほしいと願うような口調で――

 

「前川さんが、レッスン中に怪我を……ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第21話

 

 

 

「ごめんなさい……」

 

 駆けつけた武内Pが最初に聞いたのは、か細いみくの声だった。彼女はレッスンルームの床に座って右足を伸ばしている。その足首が簡易ギプスで固定されている。

 

「捻挫です。全治一週間というところでしょうか」

 

 トレーナーの言葉は死刑宣告だった。だって、明日までに治る怪我でなければ、クリスマスライブには――

 

「大丈夫にゃ! 明日までにはきっと治るにゃ! ほらっ!」

「あっ、ちょっとっ! ダメだってッ!」

 

 立ち上がろうとしたみくの肩を李衣菜がつかむ。

 

「無理だって。怪我なんだし、しょうがないよ。今回は見送って、また別の機会に――」

 

「嫌にゃッ!」

 

 噛み付くような語気で、聞き分けのない子供みたいに。

 さすがに李衣菜も頭にきたのか、みくの肩にかけていた手に力をいれて、強引に座らせて――

 

「そんなこと言ったって、その足じゃ無理じゃん!」

「できるにゃッ!」

「できないって。だって、歩くのがやっとなんだよ? そんな状態でステージなんてできるわけないじゃん!」

「ギプス付ければ、踊れるからっ!」

「そうかもしれないけど、それじゃステージに出らんないじゃん。足にそんなの付けて、衣装とかどうすんの?」

「それは……」

 

 みくの瞳が湿り気を帯びる。力いっぱい、レッスン用のズボンをつかんで、自分の中で荒れ狂う感情と戦いながら――

 

「だって、みくのせいでライブできないなんて、嫌だよ……。ずっと、明日のために頑張ってきたのに……。歌詞も作って、振り付けも考えて。それで、今度こそ、今度こそ成功させられるって! 一人じゃダメだったけど、二人なら大丈夫だって! それなのに……ッ!」

 

 みくは、大きく息を吸い込んで、力いっぱいに閉じた目のふちから涙を散らしながら――

 

「だから、絶対にライブはやりたい……ッ!」

 

「……みくちゃん」

 

 李衣菜は、それ以上何も言わなかった。言えなかった、――のかもしれない。そのくらいにはみくの気持ちが分かるようになっていたのかもしれない。

 

 武内Pも、李衣菜と似た表情をしていた。

 

 間島Pのプロデュースを引き継いでいた時には見えていなかったものが今は見えている。あの時の彼だったら、絶対に言わないことを――

 

「前川さんをクリスマスライブに出演させる方法は、ありませんか?」

 

 その場にいる全員の視線が武内Pを貫いた。それは一様に驚きと疑いを含んでいた。プロデューサーの台詞とは思えない。そんな気持ちが込められていた。だって、全治一週間と宣言されたばかりなのに……。そんなアイドルは、本人がなんと言おうとステージにあげてはいけないのに……。

 

 否定的な視線が飛び交う中で、しかし伊華雌(いけめん)は〝いいぞ!〟と背中を叩く感覚をもって武内Pを応援する。

 

 ――武内Pがどうして怪我をしたみくをステージにあげようとするのか? 

 

 一見無茶な行動にもちゃんと理由があって、覚悟があって。だから伊華雌は武内Pを応援する。

 きっと彼は――

 

「……まあ、捻挫といってもそこまで重症ではないので、ギプスをして振りつけを簡略化すればステージに上がることは可能かもしれませんが」

 

 トレーナーの曖昧な表情が語る。それはあくまで〝可能性〟にすぎないと。それはもしかしたら、残り時間の少ないサッカーの試合で〝今から1分おきにゴールを決めれば勝てるぞ〟とアドバイスするような、現実味に乏しい可能性なのかもしれない。

 

 でも――

 

 可能性があるのなら諦めたくはないと伊華雌は思った。きっと武内Pも同じ気持ちであると思った。言葉を交わす必要はない。その横顔を見れば分かる。

 

 ――彼が、何を守ろうとしているのか?

 

「それでは、振り付けの簡略化をお願いします。自分は衣装を何とかします」

 

 まさかの返事だったのだろう。トレーナーは曖昧な表情を捨てて、売り言葉に買い言葉で喧嘩をはじめるように語気を荒くして――

 

「無茶です! ライブは明日なんですよ? それまでに振り付けを考えて、それを覚えるなんて! しかも一人は怪我をしてるのに……ッ!」

 

 正論である。

 常識で考えれば今回のライブは見送るのが正解だ。

 

 しかし――

 

 武内Pはその〝常識〟をあえて破る。伊華雌も同じ気持ちを持っている。アイドルのプロデューサーたるもの常識よりも優先すべきことがあるのだ。いつか夏樹が言っていた〝常識にとらわれていては三流〟という言葉はプロデューサーの世界においても通用する金言(きんげん)なのかもしれない。

 

 そして――

 

「……つまり、明日までに振りつけ、考えればいいんでしょ?」

 

 ここにも一人、常識という枠からはみ出そうとしているロックな少女が。

 まさかの援護射撃にトレーナーはうろたえながらも、しかし体育の先生を思わせる威厳を持って――

 

「李衣菜ちゃんまで、そんな無茶を言わないで――」

 

「嫌なんです」

 

 その時の李衣菜を、きっと伊華雌は忘れない。本人には悪いが、初めて李衣菜のことを〝ロック〟だと――

 

「みくちゃんのこんな顔を見るくらいなら、少しくらい無茶をしたほうがましですから」

 

 歯を見せて笑う李衣菜が、一瞬だけど木村夏樹に見えた。そのくらい男前でロックだった。もし自分が女だったら惚れていた。まあ、今のスペックで女になったら後世に語り継がれるほどのブスだろうから、好かれたところで李衣菜にとってはいい迷惑で悪夢の始まりなのだけど……ッ!

 

「……仮に出演を目指すとしても、衣装が無いと思います。ギプスを隠せる衣装なんて……」

 

 それに関しては伊華雌に心当たりがあった。去年のクリスマスライブ。BDレコーダーに意思があったらもう食べたくないと拒絶されるくらいにリピートした映像に答えがあった。

 あの時のバックダンサーの衣装。クリスマスのプレゼントが詰まった靴下を模したもので、よくあんな〝ガンダムの足〟みたいな衣装で踊れるものだと感心したのを覚えている。

 

 ――あれならきっと、足首のギプスくらいなら隠せる。

 

 武内Pに伝えると、彼はうなずいて――

 

「衣装には心当たりがあります。現物を確認してきます」

 

 足早にレッスンルームを出て、衣装室へ向かった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 夜も遅い時間である。廊下に人影はなくて、だから伊華雌は訊くことができた。だいたいの見当はつくのだけど、でも、聞いて確かめておきたかった。

 

〝あのさ、武ちゃん。怪我をしたみくにゃんをライブに出す理由って……〟

 

 武内Pは、足を止めずに――

 

「今、ライブ出演を中止してしまうと、前川さんは笑顔を失ってしまいます。それは多田さんも同様です」

 

 一度失われた笑顔を取り戻すのがどれだけ大変なことであるか。そして、必ずしも取り戻せるわけではないと、知っているから――

 

「二人の笑顔を守るためには、ライブに出演させるべきだと判断しました」

 

 武内Pは衣装部屋の前で足をとめて、ドアを見つめて――

 

「強引、すぎたでしょうか?」

 

 心のどこかに不安があったのだろう。アイドルやトレーナーの前では決して見せない弱気を、しかし自分には見せてくれたことが伊華雌には嬉しい。

 

〝武ちゃん、あんた、最高にロックだぜッ! 木村夏樹の霊が乗り移ったのかと思ったくらいだ!〟

 

 伊華雌の笑い声に、武内Pも笑みを重ねて――

 

「木村さんはまだ生きてます。勝手に霊にしたら怒られます」

 

 衣装室のドアを開けた。明かりがついていた。先客がいるのかと思いきや、彼女は武内Pを待ちかねていた。

 

「お疲れ様ですっ。あの、さっき姉から連絡を受けて。衣装を探す手伝いをするようにって」

 

 ルーキートレーナーが礼儀正しく頭を下げた。伊華雌はトレーナーに心の中でグッジョブした。あんなに反対してたのに、急に優しくなりやがって……ッ!

 

 伊華雌がトレーナーに対する好感度を上昇させている間に、武内Pは去年のバックダンサーの衣装をルーキートレーナーに依頼した。

 衣装を管理している彼女は、しかし探そうとしなかった。彼女は、それが徒労に終わることを知っていた。

 

「その衣装なら、今は名古屋に行ってます。名古屋で行われるクリスマスライブで使用される予定なんです」

 

 船が暗礁に乗り上げた時の船長はこんな気持ちだろうかと思った。航路は狭いが、しかし航行は可能であって、栄光の新天地へ出発する決心を固めた矢先に船が揺れて動かなくなる。

 

「現地にいる同僚に連絡をとってみます」

 

 武内Pは手帳を取り出して、何人かに電話をかけた。その顔がしかし、失意に沈むことはなかった。その鋭い目付きが、切実な口調が、諦める気配すら感じさせない。

 

「話をつけることが出来ました。今から、取りにいってきます」

 

 今からですか! と悲鳴をあげるルーキートレーナーに一礼して、武内Pは衣装部屋を後にする。

 

 伊華雌は驚かなかった。そのくらいはやるだろうと思っていた。わずかでも可能性があるのなら諦めない。それが〝本気〟の武内Pである。

 

 武内Pはレッスンルームに戻ると事情を説明した。これから車で名古屋へ行き、衣装と一緒に戻ってくる。

 

「朝まで待って、新幹線で行ったほうがいいんじゃないですか?」

 

 トレーナーの指摘に武内Pは首を横に振る。

 

「それでは遅すぎます。衣装を前川さんのサイズに直して、実際にそれを身につけて動きを慣らしてもらう必要があるので、明日の朝には衣装が必要です。今から車で向かうのが最善策です」

 

 武内Pはそれだけ言うと、みくと李衣菜に近づいて――

 

「自分は、出来る限りのことをします。ですから二人も、出来る限りのことをしてください」

 

 みくと李衣菜は、何か言いたげに口を開き、しかし何も言わなかった。銃の弾倉を入れ替えるように言葉に差し替えて――

 

「よろしく頼むにゃっ!」

「よろしくね!」

 

 武内Pは戸口へ向かって歩き出し、伊華雌はそのポケットから遠ざかるみくと李衣菜を見つめていた。

 

 ――二人の表情に、違和感があった。

 

 ずっと武内Pへ向けていたそれとは違う。過去に因縁があって嫌っていた相手を、許したいけど顔を合わせると悪態をついてしまうツンデレみたいな……。

 いや、もしかしたらそう思いたいだけかもしれない。武内Pに対する好感度が上がって欲しいという願望が、都合のいい勘違いをさせているのかもしれない。

 

 だから真相は分からないが、〝都合のいい勘違い〟が現実のものになればいいなと伊華雌は思った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「何か、話をしてもらえませんか?」

 

 車に乗るなり、武内Pが要求してきた。誰かと話をするのが一番の眠気覚ましになるからと。それならば口先だけのマイク野郎な自分でも役に立てると伊華雌は張り切って――

 

〝じゃあ、一昔前のアイドルで誰が好きだった? ――とかどうよ?〟

 

「いい、話題です」

 

 車がゆっくりと動き出す。スタッドレスタイヤを履いた社用車がスロープを上がり外に出る。グオオンと暖房がうなり窓ガラスがくもる。どうやら外は相当に冷えているらしい。

 

〝俺はやっぱり小鳥さんかな。音無小鳥。口元のほくろが可愛いんだよなーっ!〟

「同感です。しかし彼女については色々な噂がありますね……」

〝突然やめちゃったもんなー。所属が961プロだから怪しいんだよなー。そこらへんの裏事情とか、知ってたりしないの?〟

「他の事務所のことですから正確には……。ただ、よく聞く話だと――」

 

 その時、二人は知らなかった。夜間にかけて強い寒気が日本列島を飲み込もうとしていることを。12月にしては珍しい真冬の寒気で、同時に前線を伴った低気圧が通過することを。

 

 ――0時発表の天気予報で、気象庁は宣言する。

 

 今年はホワイトクリスマスになると。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第22話

 

 

 

 迫りくる雪雲から逃げてきた。

 

 それが、東京~名古屋間の深夜ドライブから生還した伊華雌(いけめん)の感想である。

 東名高速を走り始めてしばらくすると気象庁が警報を出した。関西の平野部でも雪が降り、やがて関東平野部でも初雪が観測されるでしょう。積もる可能性もあるのでお出掛けの際はご注意ください。

 

 淡々と語るニュースキャスターの言葉に伊華雌(いけめん)は頭を抱える感覚を思い出した。これはもしや、アイドル達がレッスンに励んでいるというのに島村卯月といちゃこらデートを楽しんでしまったことに対する神罰(しんばつ)だろうかと思った。

 

「スタッドレスタイヤを履いているので問題ありません」

 

 武内Pの言葉にすがるしかなかった。

 浜松を越えた辺りから雪が降り始め、名古屋はすでに白かった。大粒の雪が降り積もり、道路まで白く染まっていた。とはいえそれほどの積雪ではなかったので、スタッドレスタイヤで走破することができた。

 

 名古屋公演が行われるライブ会場の守衛所で衣装を受けとると、熱いお茶を勧める守衛に頭を下げてすぐに出発した。

 

 高速に乗って名古屋から離れても雪が追いかけてきた。

 

 積もるほどではなかったが、電光掲示板の〝ユキ注意〟という警告を見るたびに伊華雌は不安になった。不安をふきはらすために武内Pとアイドルの話をした。やがてそれは歌の話にシフトして、車に接続された武内Pの私物i‐podから流れるアイドルの曲を大音量で流して二人で合唱した。

 

 深夜のドライブで、徹夜で、雪で。しかも明日――いや、今日の夕方は決戦のクリスマスライブで。

 

 あらゆる〝非日常〟がミルフィーユのように重なりあって猛烈なハイテンションが発生していた。それは俗に言う〝ランナーズハイ〟の感覚で、伊華雌と武内Pは夕日に向かって爆走する日野茜めいたテンションで東京に帰ってきた。

 

 東京でも雪が降り始めていた。うっすらと路面に積もるそれはまだ序の口で、積雪を覚悟しろとニュース番組のL時画面が警告していた。

 

 ともあれ、通勤時間帯よりも早く346プロに戻ることが出来た。二人は達成感と誇らしさを胸にレッスンルームへ急いだ。

 

 ――まだビルが寝ている。

 

 そんな感じの光景だった。廊下の暖房は眠ったままで、外気と変わらぬ寒々しい空気が廊下に居座っている。明かりのついた事務室はまばらで、レッスンルームに到着するまで誰ともすれ違わなかった。

 並ぶレッスンルームは冷凍庫を思わせる静寂に包まれていたが、一つだけ、暖炉のように暖かい光を膨らませている部屋があった。

 

「失礼、します……」

 

 武内Pは、寝起きドッキリの仕掛け人めいた小声の挨拶と共にレッスンルームのドアを開けた。本当に暖炉でもあるかのような暖かさが、コートの肩にしがみついている雪をじわりと溶かし始めた。

 

 みくと李衣菜が、寄り添って眠っている。同じ毛布にくるまって、身を寄せ合って寝息を立てて。

 

〝なっ、なんだよこれ……。〝尊い〟なんてもんじゃねえぞ……。これはもはや、尊みを越えた新次元の何かだぁぁああ――ッ!〟

 

 猫のように身を寄せあって眠るみくと李衣菜の尊さに伊華雌の眠気が吹き飛んだ。

 武内Pも、熟睡する娘のかけ布団を直して微笑む父親みたいな笑みを浮かべて(きびす)をかえす。

 

 レッスンルームの床が、キュッと鳴いた。

 

「んー……」

 

 みくが声をあげて、モゾモゾ動く。うっすらと開けた目に武内Pを認めて――

 

「P……チャン? ……Pチャン!」

 

 まるで幽霊でも見たような反応だった。いるはずのない人物に驚いて目をこすり続ける。

 

「すみません。起こすつもりはなかったのですが……」

 

 武内Pが首をさわった。溶けた雪が水滴となって床に落ちた。

 

「……名古屋から、戻ってきたのッ?」

 

 みくは時計と武内Pを交互に見て眠そうな目を覚醒させた。

 武内Pは、照れくさそうな笑みを浮かべた。伊華雌も心の中で同じ笑みを浮かべた。称賛の輝きを放つ瞳を向けられるのは、嬉しいけれど照れくさい。

 

「すごいにゃあ! さっすがPチャンにゃあ!」

 

 みくが毛布から抜けて立ち上がる。捻挫のことを忘れていたのか、右足を踏ん張った瞬間に小さな悲鳴をあげた。

 

「あのっ、休んでいてくださいッ!」

 

 たまらず声をあげる武内Pに、しかしみくは笑顔でこたえる。大丈夫だから! と宣言して、おぼつかない足取りで近付いてくる。

 

「……Pチャン。ちょっと、お話していい?」

 

 武内Pは、突然女子に呼び出された男子のようにぎこちなくうなずいた。

 伊華雌は異変に気付いて、頭の中でみくの言葉を繰り返し再生して、検証して、そして――

 

 ――全身を鳥肌に支配される感覚を思い出す。

 

 だって今――

 

 Pチャンって……ッ!

 

「あのね、みく、武内さんに謝りたいなって、思ってて……」

 

 みくは、落ち着きのない幼児のように体をもぞもぞさせる。

 武内Pは、まるで心当たりのない告白をされるみたいに首をかしげる。

 

「みく、いじわるだったから……。武内さんは悪くないのに、シンデレラプロジェクトへ行くのが嫌で、菜々チャンとのユニットができなくなるのが嫌で、だから――」

 

 武内さんのこと、見ないようにしてた。

 

「……でもね、ソロのステージで失敗して、落ち込んで、もうアイドル無理なのかなって思って……。だけど、武内さんが寮にきて、励ましてくれて――」

 

 ほんとはすっごく、嬉しかった。

 

「みくはずっと、背中を向けてたのに……。それでも武内さんは、みくのことを見てくれて。みくのこと、真剣に考えてくれて……。だからみくも、このままじゃいけないって、思って!」

 

 みくは真っ直ぐに、武内Pを見つめて――

 

「今まで、ごめんなさいっ! みくの担当は、間島さんじゃなくて武内さんにゃ! だから――」

 

 ――これからもよろしくね、Pチャン!

 

 武内Pは動かない。ギリシャの石像みたいに沈黙する武内Pの中で何が起こっているのか、伊華雌には分かった。その表情には、覚えがあった。

 

 ショッピングモールの喫茶店。笑顔の島村卯月に言われた。

 

 ――わたしを、アイドルにしてくれてありがとうございますっ!

 

 武内Pは、あの時と同じ顔をしている。その目が湿り気を帯びているのは、まつ毛についた雪のせいではないだろう。

 

 ――パチ、パチ、パチ。

 

 武内Pとみくの間に拍手の音が割って入る。

 

「李衣菜ちゃん、起きてたの……ッ!」

 

 李衣菜は、ライブハウスで練習していた新人の演奏を物陰でこっそり聞いていた大物ロックシンガーのように――

 

「いやあー、朝から熱いやり取りだねー。まるで青春ドラマみたいだねー」

 

 李衣菜は立ち上がり、毛布を投げ捨て、告白をのぞかれた女子高生のように赤面するみくに向けてグーにした手を突き出した。そして親指をぴっと立てて――

 

「ロックだね!」

 

「やかましいにゃッ!」

 

 毛を逆立てる猫みたいに不機嫌なみくに手の平を向けて、もう一方の手はまるで武内Pのように首をさわって照れくさそうに――

 

「……まあ、そういうわけだからこれからもよろしくね、プロデューサー♪」

 

 歯を見せて笑う李衣菜を、しかし彼女は許さない。苦労して化石を掘り出した教授が、最後の作業だけ手を貸して我が物顔の同僚をにらむように――

 

「やり直しにゃ! そんなんじゃ李衣菜ちゃんがPチャンをどう思っているのか全然伝わらないにゃ! リテイクを要求するにゃッ!」

「えー……。だからそれは、みくちゃんと一緒だから――」

 

「それが気に食わないにゃ! みくだけ恥ずかしい告白をして終わりなんて不公平にゃ! 李衣菜ちゃんも恥ずかしくなるにゃッ!」

 

「えー……。言ってることがメチャクチャだよ、もう……」

 

 行動を強要される〝空気〟というものが存在する。並べたビールジョッキの前で笑う佐藤心と目が合ったら最後、スウィーティーな乾杯から逃れることが出来ないように、映画監督みたいに腕を組んで渋い顔をしたみくに睨まれているかぎり、李衣菜は〝恥ずかしい告白〟から逃げることを許されない。

 

「もぅ、仕方ないなぁ……」

 

 李衣菜はたっぷり視線を泳がせて躊躇(ためら)ってから、父親に向けた感謝の手紙を公衆の面前で朗読するはめになったロックシンガーのように顔を赤くして――

 

「えっと、その……。わたしも、武内さんに対して、あんまり協力的じゃなかったっていうか、否定的だったから……、その……、ごめんなさい……」

 

「え! よく聞こえないにゃ!」

 

「うっ、うるさいな! ちょっと黙っててよ!」

 

 笑顔で横槍を入れてきたみくを黙らせて、武内Pのほうへ向き直り、手をもじもじさせながら――

 

「あの……、わたしもソロで失敗した時に、武内さんの演奏を聞いて、あれはすごく下手くそだったけど、でも、わたしの〝ロックなアイドルになりたい〟って気持ちに、真剣に向き合ってくれてるんだって分かって――」

 

 ――嬉しかった。

 

「だから……、だからっ――」

 

 李衣菜は、立てた親指で自分の胸を叩いて――

 

「わたしのロックな魂、プロデューサーに預けるからっ!」

 

 李衣菜はしばらく、胸に親指を刺したままだった。時代劇で人を斬った侍がしばらく動かないように、言葉の余韻を響かせようとするかのように動かない。

 

「いやあー、朝から熱いやり取りにゃー。まるで青春ドラマみたいにゃー」

 

 ぼっと、李衣菜の顔が赤くなった。

 みくと李衣菜の視線が交わり、その交点でバチリと火花が散った。そのにらみ合いは取り組み直前の相撲取りを思わせるほどに一触即発で、猫ロック戦争の開戦は時間の問題であった。

 

〝武ちゃん! 二人にプレゼントを渡そうぜ! 買ってきたやつ!〟

 

 武内Pは、不良同士の喧嘩をとめるべく二人の間に割って入る美少女のように――

 

「あのっ、二人にっ、渡したいものが……」

 

 武内Pはレッスンルームのすみに置きっぱなしにしていた袋を手にとって、中からそれぞれへ向けたプレゼントを取り出して――

 

「あの、その……。メリー、クリスマス?」

 

 訊いてどうする! この人プレゼントするの下手だな! 人のことは言えないけれど!

 

 伊華雌は武内Pのサンタクロース適正の低さに慌てたが、みくと李衣菜は相手をにらむことを忘れて――

 

「……プレゼント? みく達にっ!?」

「……予想外のサプライズ、ってやつだね」

 

 みくと李衣菜はプレゼントを受け取って、リボンをほどいてクリスマス柄の包装紙を破って――

 

「猫耳にゃ! クリスマスカラーにゃ! 可愛いにゃ!」

「へー、クリスマス柄のヘッドフォンか。悪くないねっ♪」

 

 ちゃんと喜んでくれた。子供みたいに目を輝かせてくれた。それが何だか泣けてくるほど嬉しかった。世の中の人間が〝プレゼント〟という文化を大切にしている理由が分かった。

 

 誰かにプレゼントをするということは、同時に相手からプレゼントしてもらえるのだ。

 何物にも変えがたい、最高の――

 

「ありがとっ、Pチャン!」

「ありがとね、プロデューサーっ♪」

 

〝こちらこそいい笑顔をありがとうございまぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌がサンタクロースの快感に興奮して、武内Pがどんな表情で二人の笑顔を受けとめていいのかわからなくて首をさわった瞬間――

 

 レッスンルームのドアが()いた。

 

「おはようございまーす。あっ!」

 

 ルーキートレーナーが、やはり亡霊でも見るかのような目付きで武内Pを見つめて――

 

「本当に朝までに戻ってくるなんて……」

 

 武内Pは、究極の食材を確保した冒険家みたいに――

 

「これを、お願いします。前川さんのサイズに」

 

 ルーキートレーナーは衣装ケースに入ったそれを国宝でも受け取るような手つきで受け取り、早足でレッスンルームから出ていった。

 そして入れ違いに――

 

「おはようございます!」

 

 トレーナーが入室した。彼女に続いて――

 

「おはよう!」

 

 ベテラントレーナーが、そしてマスタートレーナーまでもが続いて顔を見せた。

 

「トレーナー姉妹全員集合にゃ……」

「……もしかして、有名グループがリハーサルでもやるのかな?」

 

 李衣菜の反応はもっともだった。ベテラントレーナーは第一芸能課の主力アイドル、すなわち346のトップアイドルのレッスンを主に担当しているし、マスタートレーナーは同じくトップアイドルの振り付けを担当している。

 新人アイドル達はみな、いつかはマスタートレーナーの振り付けで、ベテラントレーナーにレッスンしてもらえることを夢みて基礎練に励んでいる。

 

 ――それはすなわち、346のトップアイドルになれたということを意味するのだから。

 

「あの、ここはこれから使用する予定なのですが……」

 

 武内Pは抗議していた。その態度から伊華雌は事態を察した。今から別のユニット、恐らくはトップアイドルクラスのユニットが使うからどいてくれと言うのだろう。そう考えると並ぶトレーナー達が暖かい部屋を奪おうと狙う卑劣なハイエナに見えてきた。

 

「あなたが、怪我をしたアイドルを舞台にあげようというプロデューサーですね。それがどういうことなのか、ちゃんと理解しているんですか?」

 

 マスタートレーナーの口調は、そして視線は、何かを試そうとするかのように鋭い。

 

「全ての責任は、自分が負います」

 

 武内Pの回答に、しかしマスタートレーナーは満足しなかった。彼女はレッスンで生徒をしかりつけるように厳しく――

 

「そこまでする理由は何ですか? もしもアイドルがステージで失敗したら、出演を許可したあなたはただじゃすまない。どうしてそんな――」

 

「笑顔です」

 

 武内Pは、マスタートレーナーの言葉をさえぎって――

 

「アイドルが笑顔になれるプロデュースをする。それが自分の信条です。担当アイドルを笑顔にできるのであれば、どんなリスクがあろうとも引き下がるつもりはありません」

 

 346プロのトップトレーナーを前に、武内Pは一歩もひかない。

 

「みく、失敗しないから!」

「わたしもフォローしますから!」

 

 立ちふさがる武内Pに、みくと李衣菜の援護射撃に、マスタートレーナーは――

 

 笑った。

 

「……妹から聞いたとおりですね。シンデレラプロジェクトは、プロデューサーもアイドルも普通じゃない。放っておいたら気持ちだけで突っ走って取り返しのつかない失敗をしてしまう。346プロの担当トレーナーとして、そんなリスクを黙って見過ごすわけにはいきません。だから――」

 

 武内Pは、即座に反撃できるように沈黙する。それはさながら、激しい銃撃戦のあとにおとずれた沈黙に似ていた。銃を構えて、息を殺して、相手の出方を――

 

「私が担当します」

 

 銃撃戦は起こらない。白旗を振って近付いてくる敵兵を見て、しかし半信半疑で銃をおろすことの出来ない兵士のように様子をうかがい続ける。

 

「……それって、みく達に協力してくれるってこと?」

 

 そうであってほしい。そんな気持ちが、上がる語尾に込められる。

 

「私達じゃ不満か?」

 

 腰に手をあてて勝ち気な笑みを浮かべるベテラントレーナーの言葉が戦争を終わらせる。

 みくと李衣菜は撤退命令を喜ぶ兵士のような歓声をあげて、武内Pは安堵に銃を取り落とす兵士のように脱力した。

 

「先ほどの言葉は、346プロの担当トレーナーとしての意見です」

 

 マスタートレーナーが、武内Pにしか聞こえないように――

 

「個人的には、あなたのやり方――」

 

 ――嫌いではありません。

 

 反射的に何か言おうとした武内Pに、差し出された。

 

 特製ドリンク。

 

「寝不足と過労がみられます。ドリンクを飲んで、すこし休んでください。アイドルのことは私達に任せてください」

 

 その横顔に威厳があった。どの分野であってもトップに君臨する人間にはオーラがあって、この人に任せておけば大丈夫だと、心の底から信頼できて、安心できて、やがて眠くなってきて――

 

「お前らもドリンクを飲め! 話はそれからだ!」

 

「これ、変な匂いがするにゃぁぁああ――ッ!」

「うへぇ……。この味は、ある意味でロックかも……」

 

 ベテラントレーナーにドリンクを飲まされて悶絶(もんぜつ)するみくと李衣菜の声を聞きながら、伊華雌はゆっくりと夢の世界に引き込まれていった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第23話

 

 

 

「道路――、考えると――」

「そうですね、早めに――」

 

 話し声に伊華雌(いけめん)は意識を取り戻した。そこがレッスンルームで、今日はクリスマスライブなのだと思い出す。焦って、時計を見た――

 

 14時。

 

 武内Pはすでに出発の準備を始めている。

 

「よし、行ってこい!」

 

 ベテラントレーナーの見送りは、修行を終えた弟子を追い出す師匠のように勇ましい。どうやら特別レッスンは、腕を組んでうなずける程度には成功したようで――

 

「行ってくるにゃ!」

「行ってきます!」

 

 その成果だろうか、みくと李衣菜の声に強い覇気がある。万全とは言いがたいコンディションであるのに笑みを浮かべている。その横顔は、山籠(やまごも)りをおえた空手家のように頼もしい。

 

「では、行きましょう」

 

 武内Pはトレーナー達に頭を下げて、レッスンルームのドアを開けた。

 

「廊下、寒いにゃあ!」

 

 悲鳴をあげたみくはサボっているバイトを叱る店長の目付きで天井の空調をにらんだ。うなり声を上げて全力稼動している。しかしその成果は実感できない。誰もコートを脱ごうとしない。その理由は、窓の外に――

 

「うわぁ、すごい雪……」

「まっしろにゃあ……」

 

 街全体がスノードームになっていた。幻想的な雪景色にみくと李衣菜は目を輝かせて息をのむ。伊華雌は別の理由で息をのむ感覚を思い出した。

 

 これ、大丈夫なのか? ライブ開始までまだ時間はあるけど、ちゃんと劇場までたどり着けるのか? 東京は雪に弱いんだぞ……ッ!

 

「行きましょう。この分だと、移動に時間がかかってしまうかもしれません」

 

 武内Pはみくと李衣菜を窓から引きはがして地下の駐車場へ急いだ。

 

「ちょっとプロデューサー! みくちゃん足怪我してるんだから、もっとゆっくり!」

 

 李衣菜に言われて、歩を緩めた。もしかしたら武内Pは自分以上に焦っているのかもしれない。窓から見えた雪景色は、彼の予想を越えていたのかもしれない。

 

〝武ちゃん、大丈夫だ! まだ時間はあるし、車はスタッドレスだし、落ち着いていこうぜ!〟

 

 武内Pはうなずいて、みくの歩調に合わせて歩き始めた。

 

 コンクリート打ちっぱなしの駐車場に出た。風と一緒に入り込んできた粉雪が舞って、みくと李衣菜が寒い寒いと騒ぎ始めた。伊華雌はマイクだから熱い寒いの感覚は無いが、白い息を吹き上げながら震えあがる二人を見ればどれだけ寒いか見当がついた。

 

「すぐに暖房をきかせますので」

 

 車の中はさらに寒そうだった。もし自分が人間だったら、冷凍庫にぶちこまれる冷凍肉の気持ちになるですよー、とか言ってやけくそになっていたかもしれない。

 

「出発します。シートベルトを」

 

 車がゆっくりと発進する。スロープを上がり、外に出た瞬間――

 

 視界一面が、白!

 

 見慣れているはずの景色はどこにもなかった。駐車場の出入り口がワープゲートになっていて、346プロを出発したと思いきや地球を出発、雪国の異世界に転移してしまったのだと言われたらうっかり信じてしまいそうな光景だった。

 

 しかし――

 

 変わり果ててはいるものの、雪に征服されて樹氷になっている街路樹の配置は記憶にあるとおりだし、後ろを振り返れば雪化粧をほどこされた346プロの本社ビルがこちらを見下ろしている。

 

「こんなに雪がすごいの、初めてにゃあ……。東京っていつもこうなの?」

「ここまで降るのは滅多にないよ。降っても積もらないのが普通だし……」

 

 みくと李衣菜の話にラジオが割って入る。

 

『――引き続き気象情報をお知らせいたします。現在、関東地方は強い寒気の影響により広い範囲で雪が降っています。すでに平地でも積雪が確認されており、交通機関に大きな乱れが――』

 

 キャスターの言葉にかつてない説得力があった。東京は街も人も雪に弱い。車はどれも足こぎ式かと疑うほどに低速で、歩行者は初めてスケートに挑戦する人の動きで慎重に歩く。

 

 ――さすがに、心配になってきた。

 

 346プロから劇場まで、普段なら車で30分もかからない。まるで流れる気配を見せない路上ですでに一時間が経過していた。

 

〝みくにゃんには悪いけど、電車で行ったほうがいいかな?〟

 

 伊華雌の提案は武内Pの視線によって一蹴される。この雪の中、歩道に行列が出来ている。その先頭は地下鉄の入り口に吸い込まれている。

 少し考えれば分かることだった。バスやタクシーを利用している人が鉄道に最後の望みを託したらどうなるか?

 なんてことでしょう! 鉄道の駅がコミケの大手サークルに大変身!

 

 ――とか言ってる場合じゃねえ!

 

 伊華雌は気を取り直して考える。ただでさえ流れの悪い道路は、前の方で事故があったようでほとんど動かない。時間は16時になろうとしている。開演は18時だが、諸々の準備を考えると時間の猶予はほとんど無い。

 

〝……武ちゃん、車じゃ無理だと思う〟

 

 きっと、武内Pも迷っていたのだと思う。伊華雌の言葉に決心したのだと思う。

 三人を乗せた車は車列を外れて路肩のコインパーキングに停車した。エンジンの音が消えて、その静寂が三人に〝覚悟〟を要求した。

 

「わたしはいいですけど、みくちゃんの足じゃ……」

 

 李衣菜は歩道に積もる雪をにらんだ。そんな彼女をあざ笑うように降る雪の勢いが強まる。

 

「多田さんは、衣装をお願いします」

 

 武内Pは助手席に置いていた衣装ケースを持って車からおりた。続いて車からおりてきた李衣菜に衣装を渡した。

 

「大丈夫! 劇場まであと少しだし、歩けるにゃ!」

 

 武内Pは、みくに背中を向けながらしゃがみ込んで――

 

「自分が、前川さんの足になります。背中につかまってください」

 

 みくと李衣菜は、頭にうっすら雪が積もるまで武内Pを見つめていた。

 伊華雌は驚かなかった。だって、初めてじゃないから。この人には人妻をお姫様抱っこで運んだ前科があるのだ。それに比べたら女子高生を背負って運ぶくらいなんてことはない。

 

「何か、恥ずかしいにゃ……」

 

 武内Pの背中に乗ったみくが赤面する。

 

「ロックだね!」

 

 ――カシャ!

 

 スマホに搭載されたカメラがみくの恥ずかしい姿を激写した。

 

「ちょっ! 李衣菜ちゃっ! 何撮ってるにゃッ!」

 

 口は出せるが手は出せない。李衣菜は檻の中で暴れる動物に余裕の笑みを向けるように――

 

「いやー、レアな光景だからなつきちと菜々ちゃんにも見てもらおうかなーって。みくちゃん輸送中。送信っと♪」

 

「にゃぁぁああ――ッ!」

 

 みくの悲鳴が降りしきる雪を切り裂いた。ほんのわずかだが雪の勢いが弱まった。このタイミングを逃してはなるものかと武内Pの足が新雪に最初の足跡をつける。

 立ちふさがる雪を蹴散らしながら歩くのは思いのほか重労働のようで、武内Pのこめかみに大粒の汗が流れた。極寒の大気にあって全身を発熱させて、全身から湯気が立ちのぼり始めた頃に見えてきた。

 

 舞い散る雪の向こう側に、346プロライブ劇場が――。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「武内君!」

 

 劇場の裏口にちひろがいた。スマホを握りしめていた。

 

「全然来ないから、事故にでもあったんじゃないかって心配したんだから!」

 

 武内Pが怒るちひろに頭を下げる。背中にみくを付けたまま。

 

「Pチャン! もう大丈夫にゃ! 下ろしてほしいにゃ!」

 

 赤いカーペットを踏みしめたみくは、冷えて白くなっていた頬を赤くしながら――

 

「恥ずかしかったにゃ……。すれ違う人がみんな見てたにゃ……」

 

「いやー、ロックな光景だったよ」

 

 じろり。そんな擬音がぴったりの視線が李衣菜を貫く。

 

「李衣菜ちゃん、スマホ出すにゃ」

「えぇ……、何で」

 

「いいから出すにゃ!」

 

 問答無用の剣幕でスマホをぶんどった。例の画像を探し出して消去した。

 

「はい。盗撮はノーセンキューにゃ」

 

 悪を成敗した仕事人みたいにドヤるみくも、不満げに口を尖らせる李衣菜も、まさかそんなことになるとは思っていなかった。夏樹と菜々に送信された画像が、まわりまわって佐久間まゆの元に届いて大惨事を引き起こすなんて……。

 

「二人は準備をしてください。メイクさん、待ってますから」

 

 ちひろに急かされたみくと李衣菜が足早に控え室へ向かう。遠ざかる背中を見送る伊華雌は、無事にタスキを渡すことができた駅伝選手の安堵に特大のため息を落とした。

 

「あの、佐久間さんは?」

 

 武内Pが訊いて、ちひろが答える――

 

「予定通り午前中に劇場入りして、バックバンドとリハーサルを。午前中は、まだそんなに積もってなかったからね」

 

 アイドルを送り出した二人は、まるで子供を社会に送り出した夫婦のようだった。廊下の天井に設置されたスピーカーが〝Snow Wings〟を流している。そのクリスマス過ぎる雰囲気に思い付く。

 

〝武ちゃん、ちひろさんに、例のものを……〟

 

 まるで麻薬の取引みたいに言い方になってしまったが、武内Pはうなずいてくれた。

 

「あの、これ……、よかったら」

 

 カバンからクリスマスの包装紙に包まれた小さな箱をとりだして――

 

「め、メリー、クリスマス?」

 

 いやだから何で疑問形になるのかな! いや別にいいんだけどさ!

 

 渡す武内Pが不馴れなら、受けとるちひろも相当なもので――

 

「……えっ、わたしにッ?」

 

 声を裏返らせて、ビックリ箱でもくらったみたいに目を丸くした。

 

「はい。よろしければ、ぜひ……」

 

 武内Pが恐る恐る差し出すプレゼントを、ちひろも震える手で受けとる。爆弾のやり取りでもしているかのようなぎこちなさは、まるで処女と童貞の――、と考えかけたところで伊華雌は自分をギロチンにかける感覚をもって処刑した。聖夜から性夜を連想してはいけないと、あれほど――ッ!

 

「……クリスマス柄のシュシュ」

 

 ちひろは武内Pのプレゼントをじっと見つめた。付けていた赤いシュシュを外して、もらったばかりのそれを付けて――

 

「じゃん!」

 

 コスプレをした時はこんな感じでポーズをとっているのかもしれない。そしてカメラ小僧を魅了しているのかもしれない。

 しかし武内Pは――

 

 銅像のように沈黙していた。

 

 戸惑っているだけなのだ。真面目なちひろが「じゃん!」とかするから、どうしていいのかわからなくて硬直しているだけなのだ。しかしそれは〝ドン引き〟か〝絶句〟にしか見えなくて、もらったプレゼント付けて見せたら絶句されるとかちっひがあまりに可愛そうで――

 

〝似合ってますって褒めてさしあげろぉぉおお――ッ!〟

 

 伊華雌の絶叫に武内Pのフリーズが解除された。彼は伊華雌の台詞をそのまま復唱した。

 

「そう? ……よかった」

 

 それでもちひろは喜んでくれたようで、赤いカーペットをすすむ足がスキップを踏んでいた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 時計の針が17時30分をさして、観客の入場が許された。記録的な大雪にも関わらず客席に穴を開ける者はいなかった。もっとも、伊華雌はもちろん346プロの関係者も悪天候による客足の減少は心配していなかった。

 

 プラチナチケット、なのである。欲しいと言っておいそれと手に入るものではない。雨が降ろうが雪が降ろうが槍が降ろうが、それこそ這ってでも行くのがドルオタという人種であって、増えることはあっても減ることはないのである。

 

 特に、劇場のクリスマスライブは人気が高く、その倍率はアリーナ公演のそれを上回る。それもそのはずで、出演アイドルが豪華なのである。新人に毛のはえたアイドルじゃない。誰もが知っている人気アイドルが出演する。

 その証拠に、トップバッターは――

 

「いよいよでごぜーますね!」

 

 出演者控え室が、まるで小学校の教室みたいになっていた。子供達が、それぞれの場所で、それぞれの相手と、それぞれのお喋りをして、ドアの外までにぎやかな声が聞こえてきた。

 

「いよいよ、ですね……」

「あら、ありすさん緊張してますの?」

「今日の衣装は半ズボンか。スカートよりはましだけど、尻尾がな……」

「あんたいつになったら慣れるのよ。やっぱ普段からスカートはいて慣らさないとダメね」

「尻尾もふもふ、可愛いね!」

「でも、ちょっと露出が多いような……」

「たくさん食べたらおなかぽんぽんで、何だか眠く……」

「ひょうくんクリスマスペロペロ~」

「ひゃあ!」

 

 出演者控え室の入り口で武内Pは圧倒されていた。伊華雌も同様だった。相変わらず子供達のエネルギーは圧倒的で、小学校教師がどれほど過酷な重労働であるか思い知らされる。

 

「あっ、武内プロデューサー!」

 

 駆け寄ってきた仁奈の笑顔に、伊華雌は久々に親戚の子供に再開したような気持ちになる。あの頃は毎日のようにシンデレラプロジェクトの地下室に来て、まゆお姉さんとままごとをして……。疑似体験とはいえ家族だったから、仁奈が親戚の子供に見えたのかなと思った瞬間、仁奈の瞳が爆発しそうなくらい輝いて――

 

「今日は、ママが見にきてくれやがるんですよ!」

 

 やっぱりママには叶わない。そんな言葉がよぎるほどにいい笑顔だった。

 

「よーしみんな! 最後の確認するぞっ」

 

 米内(よない)Pが手を叩き、鵜飼(うか)いが鵜を集めるように子供達を集めた。

 

「武内プロデューサーも、仁奈たちのこと見ててくだせーっ!」

 

 笑顔の仁奈に小さく手を振り、出演者控え室を出る。

 パーティータイムゴールドの衣装に身を包んだリトル・マーチングバンド・ガールズによる〝Yes! Party Time!!〟から始まるライブか……。俺が観客だったらUOヘシ折るな……ッ!

 伊華雌はまもなく始まるライブに胸を踊らせていた。

 

 ――だから、気付くのが遅れた。

 

 仁奈を見たばかりなのに、関係者通路から一般通路に出たところでまた仁奈に会った。

 もちろん、本人ではない。似ているだけである。

 遺伝によって似るべくして似ている彼女は――

 

〝まっ、ママぁぁああ――ッ!〟

 

 スーツ姿の仁奈ママが、出待ちをするファンのように関係者出入り口の前に立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第24話

 

 

 

 久しぶりに見る仁奈の母親は、どこか雰囲気が違っていた。服装は相変わらずのスーツだし、髪型も仁奈のそれをそのままショートにしたような感じで見た目に変化はないのだけど……。

 

「今日はお休みをもらえたんです。せっかくのクリスマスだから、仁奈と過ごすようにって♪」

 

 ――あぁ、そうか……。

 

 唐突に、分かった。見たことのない表情だから、まるで別人のように思ってしまった。心の底から嬉しそうに笑っている。そんな表情を見るのは初めてだった。

 

「先ほど、控え室で仁奈さんに会いました。今日はお母さんに見てもらえると、喜んでいました」

「そうなんですっ。仁奈、すっごく喜んでくれて――」

 

 まるで保護者と先生の会話だが、色気の無い話題に反して仁奈の母親は武内Pへ熱っぽい視線を送っている。昼ドラだったら教師と不倫しちゃって視聴者である主婦をわーきゃー言わせるんだろうなと思ったところで、そもそも仁奈ママはシングルだから不倫にならないと――

 

 そこまで考えて伊華雌(いけめん)は失態を自覚した。軍事基地のレーダー担当がうっかり敵影を見落として警報が遅れた時はこんな気持ちで焦るのだろうと思った。

 

 ――仁奈ママはシングルだから、つまり遠慮はいらないのだ。

 

 そして彼女は遠慮しない。

 スーツの懐に手を入れて取り出す。

 

 ――緑と赤に彩られたプレゼント。

 

「……あの、今日はクリスマスなので、良かったら、これ」

 

 差し出されたプレゼントを前に、武内Pは首をさわる。

 

「すみません、何も用意していないので、お返し出来ないのですが……」

 

「構いませんっ」

 

 仁奈の母親は、武内Pの胸に押し付けるようにしてプレゼントを渡した。

 

「武内さんには、いっぱいもらっちゃってますから。だからこれは、お返しなんですっ」

 

 身に覚えのない表彰式に呼び出された生徒のように戸惑う武内Pに、仁奈の母親はもはやアイドルみたいな笑みを浮かべて――

 

「武内さんのおかげで仁奈とわたしはたくさん笑顔になれました。だからそのお返しなんです。もちろん、それだけじゃ足りないくらい感謝してます。もっと、お返しできたらいいんですけど……」

 

 上目使いのタイミングが絶妙だった。経験の差、なのだろうか? 〝少女〟の肩書きをもつアイドル達では再現できない色っぽさが感じられて、この人俺のこと好きなんじゃね? と勘違いさせる仕草に伊華雌は惚れそうになった。

 そして武内Pは――

 

「あの、市原さん……ッ!」

 

 強張った表情で一歩踏み出す武内Pに〝おや……?〟と思う。まさか武内Pは〝大人の女性〟が好みであって、だから少女達の立てるフラグに厳しかったのか? もしやこのまま仁奈ママルートでゴールインなのかッ!?

 

 一人盛り上がる伊華雌を、しかし武内Pはバッサリと裏切る。彼は、仁奈の母親から視線をそらし、自分の腕時計を確認して――

 

「そろそろ開演時間ですので、会場に入ったほうがよろしいかと……」

 

 言ってることは間違ってないんだけどすげえなこの人! もはや〝色仕掛け〟と言っても過言ではない上目使いを見事にスルーしちゃうとか! もはやフラグを破壊するために開発されたターミネーターレベルだよ!

 

 伊華雌は砕け散った仁奈ママのフラグに黙祷(もくとう)を捧げる。あなたのフラグが悪いわけではありません。相手が悪かったのです。現に私はビンビン(意味深)でしたから……。

 

「はい、では、失礼します……」

 

 家に帰ったら誰もいなくて落ち込む仁奈みたいな顔でため息をおとす仁奈の母親に、武内Pは忘れ物を渡そうとするかのように「あのっ」と声をかけて――

 

「プレゼント、ありがとうございます。その、とても、嬉しいです」

 

 不器用でぎこちない笑顔だった。それなのに仁奈の母親は――

 

 満天の星を瞳の中に輝かせて、満開の桜めいた笑みをぶわっと咲かせて――

 

「ネクタイ、なんです。わたし、アパレル関係の仕事をしているので、海外の珍しいものが手に入るんです。これ、見た瞬間に、武内さんにきっと似合うと――」

 

 そんなに嬉しかったのかよ! 笑顔で突っ込みを入れたくなってしまうほどに仁奈の母親は喋りまくる。どうやらこの人はテンションと口数が比例するタイプのようで、母親でありながら子供っぽい一面を見せる彼女にもはや伊華雌は〝俺、惚れました!〟と宣言したい気持ちになるが、武内Pは会場から聞こえてくる歓声に笑みを消して――

 

「行きましょう。案内します」

 

「えっ、あのっ……ッ!」

 

 間に合わせようとしただけである。いつトップバッターのリトル・マーチングバンド・ガールズがステージに飛び出してもおかしくない状況に焦っていただけなのだろうけど――

 

 手を握られてエスコートされる仁奈の母親は〝はわわっ〟とか言いながら顔を真っ赤にしている。母親なのに少女みたいな仕草をみせる仁奈ママに伊華雌は〝結婚してください!〟とか言いながら新しい性癖を覚醒させる。

 

「足元、気を付けてください」

 

 会場に続くドアを開けた。司会進行の十時愛梨と川島瑞樹がマイクパフォーマンスで観客を盛り上げている。

 

「外は寒いけど、会場の中は何だか、ふう……」

 

 十時愛梨が、はちきれんばかりの胸を揺らして――

 

「熱くなっちゃいましたぁ♪」

 

 歓声が爆発した。その熱気は凄まじく、雪のことなんて一発で忘れた。

 

「ライブが楽しみで熱くなっているのね? わかるわー」

 

 川島瑞樹がウインクをした、またも歓声が爆発する。いつ自然発火をはじめても不思議ではない石炭のように観客の心は熱くなっている。

 

「それではー、トップバッター、いってみましょうっ♪」

「元気な子供達に負けないように、元気な歓声で盛り上げてねー!」

 

 愛梨と瑞樹が、声を合わせて――

 

「リトル・マーチングバンド・ガールズです!」

 

 パーティータイムゴールドの衣装をまとった子供達がステージに並ぶ。バックバンドの演奏に合わせ、みんな一斉に――

 

「イエスパーティータイムッ!」

 

 最初からクライマックス。

 そんな表現をすべき怒濤(どとう)の歓声だった。

 

 控え目に言って最高な歓声と共にクリスマスライブが始まった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第25話

 

 

 

 劇場には〝控え室〟と〝出演者控え室〟がある。

 

 控え室は、それぞれのアイドルがそれぞれのやり方で出演時間まで気持ちを落ち着ける場所である。お菓子を囲んで雑談したり、読みかけていた本を読んだり、TVを見て笑ったり。

 出演者控え室は、ステージに直結した部屋であり、張り詰めた緊張感に支配されている。格納庫でエンジンを暖める戦闘機のように、アイドル達は〝ライブステージ〟という戦場に向けてメイクを施し、士気を高めて、観客の視線を一身に浴びる覚悟をきめる。

 

「お疲れ様です」

 

 出演者控え室に入った武内Pの視線の先。その少女を見て伊華雌(いけめん)は、ウエディングドレスを着た愛娘を前にした父親のように一言――

 

〝綺麗だ……〟

 

 赤いドレスに身を包み、抜けるほど白い肩を見せる。

 

「プロデューサーさん、お疲れ様です……」

 

 武内Pを見上げる佐久間まゆは、しかし普段と様子が違っている。もっとも、それが当たり前かもしれない。いかに実戦経験豊富な兵士であっても、休日の住宅街を歩くように戦場を歩くことは出来ない。

 特にまゆは、新曲でピアノ弾き語りで、つまりは踏んだことのない大地に足をおろそうとしている。いくらレッスンを重ねたところで、これが〝初めての実戦〟であることに変わりはない。

 

「震えが、とまらなくて……」

 

 まゆが細い指を伸ばす。小さく、しかし根強い震えが居座っている。

 

「普段は、こんなこと、ないんですけど……」

 

 このタイミング、だと思った。まゆの緊張をほぐすためにも、今しかないと思って武内Pに伝える。

 武内Pはうなずいて、スーツの懐に手を入れて――

 

「実は、クリスマスプレゼントを用意しました。ですので、その……、メリークリスマス?」

 

 もう伊華雌はツッコまなかった。メリークリスマス? と訊いてしまうのは、プレゼントに不慣れであるために仕方のないことであって、言われて直せるものではない。

 

 それに――

 

 ぎこちないメリークリスマスだからこそ伝わるものがあるかもしれない。慣れないことを頑張っている姿はプレゼントに一層の価値を追加してくれるかもしれない。

 

「まゆにクリスマスプレゼント、ですか? 嬉しい……」

 

 まゆはプレゼントを受けとると、包装紙を丁寧に開いて、中の箱からネックレスを取り出した。

 

「可愛いネックレス……」

 

 まゆは武内Pを見上げると、椅子の上を動いて背中を向けて――

 

「まゆに付けてください、プロデューサーさん……」

 

 武内Pにネックレスを渡すと、後ろ髪を横にずらした。裸の肩が、首が、透き通るほどに白かった。これほどに美しい〝うなじ〟を見たのは初めてだった。〝うなじフェチ〟と書かれた性癖の扉がゆっくりと開いていく……。

 

「失礼、します」

 

 触れただけで崩れてしまう雪細工のようなうなじに武内Pの手が触れる。彼女の白い首にピンク色のネックレスはよく似合った。

 

「ありがとうございます、プロデューサーさん。まゆも、お返ししないといけませんね……」

 

 立ち上がったまゆは、いつものまゆだった。愛情の深すぎる笑みに伊華雌は背筋が冷える感覚を思い出してしまう。

 

「まゆのこと、見ていてくださいね……。ずっと、見ていてくださいね……」

 

 ()みに飲まれたまゆの視線を、武内Pは真っ直ぐに受け止める。そして、不器用に小指を立てて――

 

「佐久間さんから目を離しません。約束、します」

 

 まゆも、ゆっくりとうなずいて小指を立てた。その小指は、武内Pの約束を力強く受け止める。さっきまで震えていたのが嘘のように。

 

「佐久間さん! スタンバイお願いしまーす!」

 

 スタッフの声にまゆはうなずく。赤いドレスをひるがえし、ステージへ続く暗い廊下に歩を進める。

 ステージに続く最後の通路である。

 数え切れないほどのアイドルが、震える足で通過した。みんな自分に言い聞かせた。絶対大丈夫……。絶対大丈夫……。

 

 姫を守る騎士のようにまゆの横を歩いていた武内Pが、足をとめた。

 

 ここまで、である。プロデューサーの仕事は、ステージの明かりがかすかに届く最後の廊下の切れ目までアイドルを連れてくることである。

 あとは、何も出来ない。

 交戦直前の戦闘機乗りが仲間に向かって〝グッドラック〟の一言を捧げるように、最後の言葉をもってアイドルの背中を押すことでプロデューサーはその使命を(まっと)うする。

 

「ここで、見ています」

 

 光と闇の境界で、まゆはサナギからかえった蝶が誇らしく羽を広げるように微笑んで――

 

「行ってきます……」

 

 佐久間まゆがステージにあがる。ペンライトの色がドレスと同じ赤で統一されてまゆに熱狂する準備が整う。

 

「今日は皆さんに、新曲をきいてもらいたいと思います……」

 

 会場が破裂してしまいそうな歓声。それはしかし、すぐに戸惑いのざわめきに代わる。

 

 きっと誰もが思っていた。別の人が座るのだと。クリスマスライブは生演奏のバックバンドが(つね)だから、まゆの新曲にはピアノが必要だから、だから舞台の中央にピアノが用意されているのだと。その小さな椅子は、晩餐会のピアニストのような、確かな技術を持ちながら存在を主張しない音楽家のための席だと思っていた。

 

 ――その席に、アイドル佐久間まゆが座った。

 

 人の頭はパソコンと同じで、同時に多すぎる情報を入力されると固まってしまう。

 

 赤いドレスで、新曲で、そしてピアノを……ッ?

 

 さっきまで歓声をあげていた口を半開きにしたまま、ペンライトを振るのも忘れて固唾をのむ。もしかしたら、すごいことが始まるのではないかという期待に心臓が強い音を出した瞬間――

 

「聞いてください。マイスイートハネムーン……」

 

 魂を抜かれてしまったように呆然とまゆを見つめる観客たち。その視線を横顔に受けて、まゆは見つめる――

 

 武内Pが、うなずいた。

 

 ピアノがステージに出現してから。まゆが椅子に座ってから。無意識のうちに待ち焦がれていた音が観客の耳に届く。一音も聞き逃すまいと、観客は耳を澄ませる。どんな歌にもコールとペンライトをかかさない観客が、まゆの奏でるピアノの音にねじ伏せられる。

 

 嫌でも、思い出す。レッスンルームで鍵盤に向かっていた横顔。プロデューサーが来ても気付かないほどに、真剣に、必死に――。

 

 それが今、実を結んでいる。今日のために積み重ねてきたレッスンが、熱意が、今この瞬間の静寂を作りあげている。

 歓声をあげることすらためらわれる演奏が、歌声が、心の深いところまで染み込んできて、耳だけでなく、その全身に佐久間まゆの奏でる愛情を感じて――

 

 今、泣いて――?

 

 伊華雌は自分がマイクであることを忘れた。完全に人間の感覚で不意にこぼれた涙に動揺するが、もちろん涙はこぼれていない。あまりにもたくさんの感情が込み上げてきて、それをこらえることが出来なくて、あふれてしまう。

 

 ――人はそれを〝感動〟と呼ぶ。

 

 泣けると話題の映画をみても退屈なあくびでしか泣けない伊華雌が、まゆの演奏が続く限り落涙(らくるい)する感覚に支配されて、いつまでもピアノとまゆの歌声に溺れていたいと願った。

 

 それでも、曲は終わる。

 

 あっという間だったような、永遠の長きに渡っていたような。

 幸せな夢が終わるように、まゆの指が最後の鍵盤に触れてその余韻がゆっくりと頭から爪先を抜けると、恍惚(こうこつ)としていた意識が現実に引き戻された。

 

「ありがとうッ!」

 

 誰かが、叫んだ。涙声だった。

 続いて何人も何人も、それこそ全員分かもしれない「ありがとうッ!」がまゆへ送られた。

 

 ――そして、椅子から立ち上がって頭を下げる彼女へ、壮絶な拍手が送られた。

 

 水しぶきを上げる巨大な滝。爆発する活火山。それは、想像しうる巨大な音を遥かに上回る拍手であって、鳴り止む気配を見せないどころかまゆが微笑むとさらに勢いを増す始末で、引くに引けないまゆは視線でプロデューサーに助けを求めた。

 

「そろそろ進行をお願いします」

 

 武内Pは無線で川島瑞樹と十時愛梨に助けを求めた。

 

「はぁーい! 素晴らしい演奏でしたねー!」

「みんなが興奮するのもわかるわー! だけどちょっと落ち着いてねー! 次のアイドルが出番を待ってるのー!」

 

 それでも歓声はとまらない。手を振りながら退場するまゆに再び「ありがとうッ!」の声が重なり、まゆコールがそれに続いた。

 

「まゆちゃん、す、すごいな……」

 

 次の出演者――星輝子がフヒっと笑う。彼女は完全武装していた。普段からパンクな衣装でステージに上がる彼女だが、今日はいつにも増して気合いが入っている。そのまま世紀末の世界でモヒカンのならず者と一緒にヒャッハーできそうだった。

 

「き、今日はクリスマスだからな。ほ、本気でやらないと、やられる……ッ!」

 

 わかるわー! 伊華雌の心の中に川島瑞樹が降臨する。そう、クリスマスは完全武装で挑まなければならないのだ。本気で闘わなければならないのだ!

 

「次のアイドルはー」

「この人よ!」

 

 ステージに向かう星輝子は、まるでリングにあがるプロレスラーのように勇ましい。彼女と入れ替わりに、まゆが戻ってきた。武内Pの前で足をとめると、口元に笑みを残したまま、じっと見つめて――

 

「まゆ、プロデューサーさんの望むまゆになれましたか……?」

 

 武内Pは、愛の告白でもするかのように真剣な顔で――

 

「夢中になって、しまいました」

 

 するとまゆは、ぶわっと愛情を膨らませて――

 

「まゆに、夢中に……ッ!」

 

 ――こ、こいつら、いちゃいちゃしやがって!

 

 伊華雌の中に流れる非リアの血が覚醒する。込み上げて渦を巻くどす黒い気持ちを、ステージで叫ぶ彼女が代弁してくれる――

 

「クリスマスなんてぶっ潰してやるぜぇぇええ――ッ!」

 

 やっぱり輝子ちゃんは最高だぜ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第26話

 

 

 

 手のかかる子ほど可愛い、という言葉がある。

 

 伊華雌(いけめん)はもちろん子供なんていないから〝そんなもんかねー?〟と思っていたが、やはり格言にはそれなりの根拠と実感があるのだと、今回のプロデュースで納得していた。

 

 だって可愛いもん! みくにゃんと李衣菜ちゃん!

 

 もちろん、他のアイドルが可愛くないわけではない。まゆも仁奈も武内Pも可愛いと思う伊華雌であるが、みくと李衣菜に関しては気持ちの入りかたが大きい。

 ソロで失敗したからかもしれない。それでも立ち直ってくれたからかもしれない。好感度の初期値があまりに低かったから、武内Pを見ると無条件に笑みを見せてくれる今が嬉しいのかもしれない。

 

 そんな二人を、送り出す時がきた。

 手塩にかけた子供を社会に送り出すように、アイドルとして舞台に送り出す時がきた。

 

「足の具合は、どうですか?」

 

 出演者控え室にやってきたみくに武内Pが訊ねた。サンタクロースを模した衣装。名古屋まで取りに行った、みくをステージにあげてくれる衣装。

 

「大丈夫にゃ。さすがに普段通りってわけにはいかないけど、問題ないにゃ。トレーナーさん達が足に負担のかからない振り付けを考えてくれたしっ♪」

 

 みくの足はプレゼントの入ったブーツを模した衣装に突っ込まれている。近くで見てもギプスの存在は分からない。

 

「ま、大丈夫だと思いますよ。みくちゃん、けっこう頑丈だから。猫っていうより、野良猫って感じですから」

 

 相方をからかって笑う李衣菜はソロデビューの時に作った衣装を着ている。ただ、彼女のアイデンティティーたるヘッドフォンが――

 

 クリスマス柄だった。

 

「……まあ、相性いいかなって。みくちゃんがクリスマス衣装だから、わたしもクリスマス感あったほうが、ね?」

 

「Pチャン! みくもだよ! ほらっ!」

 

 お姉さんの相手ばかりする親にしびれをきらした妹のようにみくが割り込んできた。彼女の頭には、武内Pがプレゼントしたクリスマスカラーの猫耳が装着されていた。

 

「よく、似合っています」

 

 控えめな称賛に、二人は満面の笑みでこたえてくれる。

 

『クリスマスなのにぼっちなお前らが大好きだぜぇぇええ――ッ! ヒィィィィヤッハァアアアア――――ッ!!』

 

 会場の様子を中継するモニターの中で星輝子が絶好調だった。まゆの時とは対照的に、声よ枯れろと言わんばかりの歓声が轟いている。

 

 ここに、立つのである。このグラグラと煮えたぎる鍋のように観客の熱狂が沸騰しているステージに立って、燃え盛る焚き火にダイナマイトをぶちこむ気持ちでさらに盛り上げるのが二人の仕事である。

 

 ――大丈夫だ。二人なら大丈夫だ!

 

 伊華雌は弱気の花が邪悪なつぼみをつけようとするたびに今までのプロデュースを思い出して強気を取り戻し悪夢のようなゲストライブの記憶を振り払った。

 あの時とはわけが違う。

 今は、武内Pのプロデュースなのだ。

 武内Pの武内Pによる武内Pにしかできない、アイドルを笑顔にするためのプロデュースなのだ。

 だからきっと――

 

「スタンバイお願いしまーす」

 

 次のかたどうぞー、と看護婦が待合室に呼び掛けるような声に、みくと李衣菜は表情を強ばらせる。それはむしろ、順番に処刑されている罪人が名前を呼ばれた時の反応に似ている。

 覚悟をきめる時がきた。武内Pは戦場に兵士を送り出す教官の表情で――

 

「では、行きましょう」

 

 二人に先んじて最後の廊下を歩く。アイドル達の緊張を吸ってきた薄暗い空間である。アイドルを緊張させる怨霊が手招きをしているような気がして、伊華雌は道明寺歌鈴を思い浮かべながら、かしこみーかしこみー、と繰り返した。

 

「李衣菜ちゃん、緊張してるにゃ。手が震えてるにゃ」

「みくちゃんだって、表情かたいよ!」

 

 伊華雌のかしこみ程度では緊張という名の悪霊は払えないようで、みくと李衣菜は足元から底無し沼に沈んでいくように青ざめていく。どうすればいいのか、伊華雌にはわからない。担当アイドルを最後の最後で緊張から解きほぐす方法を、しかし武内Pは知っていた。

 

「ステージに出る時の、掛け声を決めましょう」

 

 みくと李衣菜は言い争いをやめてキョトンとする。

 

「自分が以前担当していたニュージェネレーションズでは、ステージに上がる際に好きな食べ物を口に出して緊張を吹き飛ばしていました。効果は、あると思います」

 

 半信半疑、といった顔だった。絶対に緊張しないお札とか売り付けられたら同じ顔をしそうだなと思った。

 でも――

 

「みくは、ハンバーグ!」

「じゃあわたしは、カレイの煮付けっ!」

「うえー、お魚は嫌いにゃあ……」

「そっちこそ、ハンバーグって、子供っぽくない?」

 

 で、これからどうすんの? 言わんばかりの視線に武内Pはジャンケンを提案する。

 そしてふと、気がついた。好きな食べ物に関するやり取りをしているうちに、みくと李衣菜は緊張を忘れている。二人がユニット活動に慣れているように、武内Pもユニットをプロデュースすることに慣れているのだ。

 

「みくの勝ちー! 掛け声はハンバーグね!」

「えー……、ロックじゃないなぁ……」

 

 ふふんと得意気なみくと不満げに口を尖らせる李衣菜。

 二人の間に、歓声が割って入る。

 

「ベニテングダケぇぇええ――――ッ!」

 

 星輝子の小さな拳が天を貫く。同様に赤いペンライトが無数に伸びるベニテングダケのように突き出されて、それを凪ぎ払うかのような激しい演奏が彼女のステージを完成させる。

 

 ――果たして、クリスマスに勝利できたのかどうかはわからない。

 

 ただ、ステージが大成功をおさめているのは明らかだった。ヒャッハー状態の輝子がファンサービスとばかりに獰猛(どうもう)な笑みを客席へ投げる。そのたびに爆発的な歓声が巻き起こる。

 

「……手、つないであげようか?」

 

 暗闇の中、みくの声。輝子を讃える歓声の中に、そっと紛れ込ませるように。

 

「……急にどうしたの。キャラじゃなくない?」

 

 李衣菜の言葉と伊華雌の感想が一致した。みくと李衣菜が仲良く手を繋いでいる姿とか想像できない。プロレスラーみたいに向かい合って力比べをしているシーンならすぐに想像できるのだけど。

 

「アーニャちゃんが言ってたの! ラブライカでデビューする時、美波ちゃんと手を繋いだって。そしたら、不安な気持ちを半分こできたって! だから――」

 

 繋いであげても、いいにゃ。

 

 みくはどこまでも素直じゃなくて、そんなところがみくらしいと伊華雌は思った。猫はいつだって素直じゃないのだ。

 

「つまり、手を繋いでほしいんでしょ? それならそう言えばいいのに」

 

 歯を見せて笑う李衣菜はやはりイケメンであった。もうそっち路線で売り出したほうがいいんじゃないかと思えるぐらい男前な仕草で手を差し伸べる。

 

「みっ、みくは、李衣菜ちゃんが緊張してるだろうから、気を遣って……」

「はいはい。そういうことにしといてあげるから」

 

 みくと李衣菜が手を繋いだ。ステージに司会進行の愛梨と瑞樹が現れて、赤いペンライトを振り回す観客をなだめて――

 

「Pチャン、行ってくるにゃ!」

「行ってきます、プロデューサー!」

 

 武内Pは、真剣な表情でうなずく。伊華雌は、両手をすり合わせて祈る感覚。

 

「次のアイドルはー」

「この人です!」

 

 はん――

 ば――

 ぐッ!

 

 みくと李衣菜が、ステージに続く階段をかけあがる。入れ違いで戻ってきた星輝子が首をかしげて――

 

「は、ハンバーグ……?」

 

 ステージに飛び出したみくと李衣菜に、観客は口をあけて、しかし歓声を送らない。曖昧な歓声が観客の戸惑いを伝える。

 

「みんな、びっくりした?」

 

 李衣菜の言葉に、観客はうなずく。なぜこの二人が、という疑問の首根っこをつかまえて――

 

「実は、みんなには内緒にしてたけどぉ――」

 

 みくの言葉が観客の期待を引っ張って――

 

「わたしたち、ユニットを組むことにしました!」

 

 二人の声が重なって、ステージ後方の大型スクリーンに洒落た字体の*が。

 

「アスタリスクって読むにゃ!」

「雪の結晶みたいでクールだよね!」

 

 事態を飲み込んだ観客の胸に興奮の種火が燃え始める。新ユニットが、サプライズ発表で、――ってことは新曲かっ!?

 

「今日この場所にいるみんなはすっごくラッキーだよ!」

「だってみく達アスタリスクのデビュー曲を、誰よりもはやく聞けちゃうんだから!」

 

 おぉーっ! 一部から迷いのない歓声があがり、それが会場全体へと広がっていく。

 

「でも、みく達、ユニットで初めてのお仕事だから、まだ緊張しているにゃ」

「そこでみんなにお願いなんだけど、駆け出しユニットでガタガタに緊張してるわたしたちを、みんなの掛け声で勇気づけてくれないかなっ?」

 

 会場のあちこちから「いいよー!」という声があがる。みくと李衣菜の目配せをうけて、バックバンドが始動する。新曲のイントロを繰り返し演奏する。それに合わせて――

 

「にゃ! にゃっ! にゃ! にゃっ!」

 

 みくと李衣菜が掛け声をあげて、手仕草で観客をあおる。自分が何をするべきなのか? 理解した観客は、指揮官から命令をうけた兵隊のように――

 

「にゃッ! にゃッ! にゃッ! にゃッ!」

 

 アスタリスクの声と観客のそれが混ざりあって、それはまるで風船に空気を入れるように膨らんで、パンパンになったそれが炸裂するように――

 

「うーっ、にゃぁぁああ――――ッ!」

 

 アスタリスクの二人が跳ねた。観客はペンライトを振った。圧倒的な一体感と共に曲が始まった!

 

 伊華雌は、圧倒されていた。みくと李衣菜を、あなどっていた。ソロで失敗した時と、同じ二人とは思えなかった。

 

 ――二人は、ユニット活動であればアリーナの舞台でも通用する。

 

 武内Pの言っていたことはその場しのぎの甘言(かんげん)ではなかった。本当に、この二人は、たとえ相手が何万人であろうとも言葉巧みに自分達のペースに引きずりこんでその口から歓声を引き出してしまうに違いないと思った。

 

 しかし――

 

 まだ油断は出来ない。絶好のスタートを切ることができたが、最後まで走りきってはじめて評価されるのは陸上もアイドルも一緒である。絶好のスタートを切ったマラソン選手が注目されるように、みくと李衣菜も〝すごいユニットが出てきた!〟と期待されている。

 

 ここで失敗したら最悪だ。

 

 ゴール直前で転倒したマラソン選手が罵倒されるように、期待させておきながら……、とため息をつかれて名前すら覚えてもらえないかもしれない。

 

 だから――

 

 絶対に失敗できない。

 このステージにアスタリスクの、みくと李衣菜のアイドル生命がかかっている……ッ!

 

「今っ、走りーだすゆーめと――」

 

 曲は半ばをすぎて盛り上がりは最高潮で。しかしこの先の間奏はダンスが激しくなる。失敗するならそこだと伊華雌はにらんでいる。

 

「ギターソロ、カモンっ!」

 

 李衣菜がバックバンドをあおり、ギターソロにあわせて二人のダンスが激しくなる。負担のかかる軸足を変えたのだろう。左足を軸にして回るみくのバランスが崩れる。回転力を失ったこまのようにふらついて――

 

 転んだッ!

 

 伊華雌は、両手で両目を押さえる感覚で絶望するが、しかし歓声はなりやまない。それどころか、大技をきめたスケート選手を絶賛するような歓声が爆発する。

 

 みくは、転んでいなかった。

 

 バランスを崩した彼女を、まるで社交ダンスの男役のように李衣菜が支えていた。

 よく見ると、みくがバランスを崩しそうな場面では必ず李衣菜がそばにいた。みくがふらついた時には即座に手を差しのべて、それが社交ダンス的な演出に見えるという最高のフォローが可能な振り付けだった。

 

 ――アイドルのことは私達に任せてください。

 

 ふと、マスタートレーナーの真剣な横顔を思い出した。任せて正解だった。失敗してもそれが失敗にならない振り付けとか、それをこの短時間で二人に叩き込むとか、トレーナー一家に感謝がとまらない。

 だって、そのおかげで、二人は――

 

「にゃ! にゃっ! にゃ! にゃっ!」

 

 最後の掛け声である。それはさながらウイニングラン。最高のスタートを切ったマラソン選手が、そのままトップを独走し、観客の待つアリーナに戻ってきて、その歓声を一身に浴びて、両手をあげて――

 

「センキューにゃ!」

「センキュー!」

 

 走りきった。

 二人に向けられる歓声は、まゆや輝子のそれと比べても劣らない。

 

 ――やった。やった……ッ!

 

 伊華雌は、ゴールを決めたチームメイトに抱きつく感覚を武内Pへ向ける。

 

 武内Pは、ガッツポーズをとっていた。小声で「よしッ!」と言っていた。感情を面に出さない彼にしては異例の仕草である。

 

 でも、仕方ない。

 だって、こんなに――

 

〝やったな、武ちゃんッ!〟

 

「はい! 大成功ですッ!」

 

 みくと李衣菜は、クリスマスライブを成功させた。

 華々しくユニットデビューすることができた。

 

 ――それはもちろん嬉しいんだけど、でも、それ以上に伊華雌は嬉しい。

 

 ステージの上で歓声を浴びるみくと李衣菜。

 二人の顔に、これ以上ないってくらい最高の笑顔が輝いていたから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第27話

 

 

 

 ベテランの刑事は語る。どんなに技術が発達しても刑事の〝勘〟ってやつをあなどってはいけないと。

 それはしかし、プロデューサーの世界でも同じであると伊華雌(いけめん)は思う。

 みくと李衣菜をシンデレラプロジェクトのソファーに座らせた時、伊華雌は思った。

 

 ――もしかして、この二人のプロデュースは過去最高に難しいのでは……。

 

 それはすなわち、まゆと仁奈のプロデュースを経て(つちか)ったプロデューサーとしての〝勘〟であり、それをあなどってはいけなかった。

 

 結論から言うと、みくと李衣菜のプロデュースは攻略サイトをみてもコントローラーをぶん投げたくなるようなクソゲーに匹敵する難易度だった。

 

 そもそも、今回のプロデュースは、武内Pが自分のプロデュースをしないで間島Pのプロデュースを引き継いでしまったせいで迷走してしまったのだが、じゃあ――

 

 何故武内Pは、間島Pのプロデュースをそのまま引き継いでしまったのか?

 

 最初伊華雌は、尊敬する先輩のプロデュースだから、間島Pのプロデュースを信じてしまったのだと思った。その結果、自分のプロデュースを見失って、ソロステージに失敗したみくと李衣菜を前に途方に暮れてしまったのだと思った。

 

 ――違っていた。

 

 そもそも、いくら尊敬するプロデューサーのプロデュースであっても、何も考えずに引き継いでしまうほど武内Pは空っぽではない。彼は、アイドルを笑顔にするという、確固たる自分の信条を胸に秘めたプロデューサーである。先輩から引き継いだアイドルだろうが自分でスカウトしたアイドルだろうが、担当になった時点で己の信条に従ったプロデュースを優先する。

 じゃあ何故、最初からそれをしなかったのか?

 

 ――やらなかったのではない。出来なかったのだ。

 

 みくと李衣菜は、シンデレラプロジェクトを嫌っていた。担当は間島Pのままがいいと、先輩とのユニット活動を継続したいと、武内Pの前で堂々と口にしていた。

 

 そんな状態で果して〝自分のプロデュース〟が出来るだろうか? 大嫌いなシンデレラプロジェクトで、好感度ゼロのプロデューサーが提示するプロデュースが、信頼する間島Pのそれと違っていたらアイドルは何と言うだろう?

 

 きっと、言われていた。

 間島Pのプロデュースをして欲しいと。

 

 つまり、不可能だったのだ。みくと李衣菜がシンデレラプロジェクトに配属されたばかりの時点では、好感度が低すぎて武内Pによる〝アイドルを笑顔にするプロデュース〟は、仮にそれが正解であっても実行することが出来なかった。

 

 ――だから安部菜々になる必要があった。木村夏樹になる必要があった。

 

 アイドルとプロデューサーがきちんと向き合っていなければ、どんな素晴らしいプロデュースでも猫に小判、ロッカーに公務員試験であって、つまりは少女をアイドルにすることなんて出来ないのだ。

 

「武内君、お疲れッ!」

 

 間島Pが豪快に笑う。そこは346プロ社内カフェ――メルヘンチェンジなのだが、間島Pは酔っていた。アルコール厳禁であるはずのメルヘンチェンジで、しかし集合しているプロデューサーとアイドル達はアルコールに顔を赤くしていた。

 

「みんな、今年はよくやってくれた。今日は無礼講だ。はめをはずして楽しんでくれ」

 

 美城常務の挨拶を合図に、それぞれのテーブルからグラスのぶつかる音がした。

 

 ――346プロ忘年会。

 

 毎年、クリスマスを過ぎた頃に行われる社内行事である。プロデューサーだけが招待されているはずなのだが、酒の匂いを嗅ぎ付けたお姉様アイドル達がちゃっかり着席しているのは毎年のことである。酒の席に高垣楓がやって来て嫌な顔をするプロデューサーなど存在しない。彼女に酌をしてもらうだけで酒が100倍美味くなると口を揃えて称賛するばかりである。

 そんな忘年会に武内Pも参加していた。テーブルの向かいには〝尊敬する先輩〟が座っていた。

 

「おかげで〝ぷちドル〟も無事にユニットデビューできたよ!」

 

 間島Pは上機嫌でガハハと笑う。アスタリスクがデビューしたのと同じ日に、ぷちドルは大阪でデビューしていた。無事に歓声を勝ち取ることに成功していた。しかしそれなりの苦労があったようで、一生分働いた……、とは双葉杏の弁である。

 

「これも武内君がみくと李衣菜の面倒をみてくれたお陰だ。あらためて礼を言わせてほしい!」

 

 頭を下げる間島Pに、武内Pは恐縮して――

 

「顔をあげてください。自分は、それほど上手くプロデュースできていません。間島さんの提示したソロデビューには失敗してしまいましたし……」

 

 間島Pは急に顔から酔いを消して、説教を始める先輩特有の顔になる。条件反射だろうか、武内Pは椅子の背もたれから背中を離して姿勢をただし、伊華雌は雷に怯えて丸まる子供のイメージを作った。

 しかし――

 

「武内君、ごめんっ!」

 

 参拝をする時のように、パンと手の平を合わせて――

 

「あの二人のソロデビュー、実はオレも半信半疑だったんだ。実力は十分なんだけど、あいつらメンタルが弱いっていうか、虚勢張ってる子猫ちゃんっていうか……」

 

 間島Pも同じ人間なんだと思った。346のトッププロデューサーで、自信にあふれた態度と肉体で超人のようにみえるけど、時に悩むこともある生身の人間なんだと思って親近感を(いだ)くと同時に――

 やっぱり、怒りがあった。

 ソロデビューが半信半疑なら、どうして最初から――

 

「あいつら、絶対に嫌だって言ったんだ」

 

 間島Pは〝先輩〟を捨てた。純粋に同じ〝プロデューサー〟として武内Pと同じ目線で――

 

「オレだって、みくと李衣菜でユニット組むのが最高だって分かってた。分かってたけど、あいつらウンって言わないんだよ! 二人で組めば絶対に上手くいくのにロックじゃないだのノーセンキューだの拒絶してきてどれだけ押してもダメだったんだ!」

 

 ふと、北風と太陽の話を思い出した。強引に言うことを聞かせようとした北風。自分からコートを脱ぐように相手の気持ちになった太陽。

 どちらが正しいと言い切れるものではないが、今回に限っていえば――

 

「あー、悔しいっ!」

 

 間島Pは、しかし全然悔しくなさそうな、豪快な笑みを浮かべて――

 

「オレに出来なかったことをやりやがって、悔しいぞ武内君ッ!」

 

 ステージの上で白い歯をみせるボディービルダーみたいな笑みで、まあ飲め! とか言いながらジョッキをカチンと当ててくる。

 

「おっ、菜々パイセンになりたいプロデューサー発見! 乾杯しようぜ☆」

 

 ご機嫌な佐藤心がジョッキ両手にやってきた。固有スキル〝スウィーティーな乾杯〟を発動させる。乾杯するまで行動不能になってしまう。

 

「かんぱーい☆」

 

 アイドルに乾杯を要求されたら黙って一気に飲み干してみせるがプロデューサー。――とでも言わんばかりの飲みっぷりに、ぱちぱちと控えめな拍手がおこる。

 

「いい、飲みっぷりだ」

 

 美城常務だった。間島Pは笑みを崩さないが、武内Pは立ち上がり、佐藤心は背筋を伸ばし――

 

「お疲れ様ですっ」

 

 すると美城常務は微笑した。レアリティの高い表情だった。石像がいきなり動きだして笑ったのを目撃してしまった人の衝撃に伊華雌は美城常務から目が離せない。

 

「シンデレラプロジェクトは着実に成果をあげているようだな。この調子で、来年も頼む」

 

 まさか、美城常務まで笑顔にしてしまうとは……。金運の上がるネックレスを買ったら彼女まで出来ましたみたいな、予想外の成果に伊華雌は喜びよりも戸惑いが大きい。

 

「佐藤心も活躍は耳に届いている。来年はもっと忙しくなるぞ」

 

 運動部の目立たない部員がコーチに褒められたみたいな。まさかの称賛にシュガーハートはキャラを忘れて――

 

「あっ、ありがとうございますっ!」

 

 しかしきっと、許せなかったのだろう。うっかりビビってしまった不良気取りが、威厳を取り戻すべく無謀な喧嘩をしてしまうように――

 

「美城常務! 乾杯しようぜっ☆」

 

 美城常務相手に〝スウィーティーな乾杯〟を発動とか……ッ! ど、どうなっても知らんぞ……ッ!

 伊華雌は無謀な突撃をする味方の背中に「行くな!」と叫ぶ兵士の気持ちで成り行きを見守る。

 

「いいだろう。今日は無礼講だ」

 

 まさかの優しい笑顔だった。よく見ると美城常務の頬が赤い。

 

「やーん、美城常務とお近づきとか、予想外のスウィーティーが起こる予感☆」

 

 すっかり調子付いた佐藤心が美城常務と乾杯をする。ここら辺で止めておかないとスウィーティーじゃなくなってしまう気がして伊華雌は三船美優を探した。暴走した佐藤心をとめられるのは彼女しかいない。

 三船美優は、別のテーブルでプロデューサーに囲まれていた。その場の空気に流されて飲み比べ対決をしている。そんな感じの雰囲気だった。そして飲み比べの相手は酒が飲める年齢にはとても見えないプロデューサーだった。

 

「おい! 美優ちゃんいじめるとはいい度胸だ! シュガーハートが代理戦争引き受けちゃうぞ☆」

 

 真っ赤な顔で椅子にもたれる三船美優の仇とばかりに佐藤心が参戦する。しかし米内(よない)Pはストリートファイトのチャンピオンを思わせる不敵な笑み。どうやら、あの人は見かけによらず〝ザル〟らしい。

 

「ところで、赤羽根さんの姿が見えないようですが……」

 

 武内Pの言葉に伊華雌は視線を振って……、確かにいない。イケメンなメガネ顔がどこにもない。

 

「武内君は、知らないのか……」

 

 間島Pはわずかにためらってから――

 

「赤羽根君は、でかい仕事をやってるんだ。彼は――」

 

 伊華雌は耳を疑った。ドルヲタならば誰しも同じ反応をすると思った。

 

「紅白に出場、ですか……ッ? しかし、あの番組は――」

 

 年末に放送される紅白歌合戦は言わずとしれた人気番組で、言わずとしれた人気者しか出場出来ない。その年に耳馴染みになった新進気鋭のアーティストと、老いてなお現役のベテラン歌手が入り乱れる歌番組なのだが、アイドルに関しては事情が違う。

 

 アイドルに関しては、その年に活躍した〝961プロのアイドル〟が出演することになっている。

 

 もちろん、表立って宣言されているわけではない。番組は厳正な審議の上で選出しているという建前をかかげているが――

 

 ――バレバレである。

 

 961プロがアイドルの世界でトップに君臨してから、ずっと961のアイドルが出場しているのだ。明らかにもっと活躍したアイドルがいる年にあっても961プロのアイドルが出場するのだ。もはや言い訳の余地はない。

 それを面白く思っていないドルオタは多く、紅白の時間を待ち受けてネットのアイドルの掲示板に〝ずっと961のターン!〟という書き込みを当て付けとばかりに連投するのはもはや毎年の恒例行事となっている。

 

 そんな、難攻不落の要塞と化した紅白歌合戦のアイドル枠を勝ち取ったとなればこれは革命である。いくら伊華雌がイケメン嫌いであっても、そのプロデュース方針が気に食わなくとも、ドルオタとして称賛しなくてはならない。

 

 ――961の野郎に一泡ふかせてくれてありがとう!

 

 共通の敵は、確執を乗り越えた団結を生むのだ。

 

 しかし――

 

 赤羽根Pは961プロを殴り倒して紅白出場に繋がる道を切り開いたわけではなかった。

 それどころか――

 

「961のアイドルとコラボレーションという形で346のアイドルを出演させる。具体的にはLiPPSがプロジェクト・フェアリーと共演する」

 

 間島Pの説明を飲み込んで理解して、しかし伊華雌は感情の置き所が分からない。

 346のアイドルが紅白出場できるのは嬉しいのだけど、961プロと仲良く、というのが引っ掛かる。これから殴り込みをかけるぞ野郎共! と気合いを入れていたら親分の間で話がついて〝今日からあいつらは兄弟だ〟と言われた極道の下っ端のように、腑に落ちないものを腹のそこに抱えて曖昧な笑みを浮かべる感覚を繰り返している自分がいた。

 

「……一体、どうやって話をまとめたのでしょうか? 961プロは、他の事務所とは仕事をやらないことで有名です」

 

 じっと空のジョッキを見つめる武内Pは、さっきまで間島Pが武内Pへ向けていたのと同じ顔をしている。同じ〝プロデューサー〟として、どうしてそんな成果をあげられたのか、疑問と悔しさを同じ比重でもてあそんでいる。

 

「正攻法で話をまとめたらしい。961プロに通って、門前払いされてもめげずに食い下がって、黒井社長と話をして、袖の下も接待も無しに仕事を取ってきた。赤羽根君のコミュニケーションスキルはたいしたもんだ、――と言いたいところだが」

 

 間島Pの目付きが鋭くなる。秘密のやり取りをするスパイみたいに声をひそめて――

 

「袖の下も接待も無しに、――ってのが逆に怖いんだよな。いっそのこと裏で100万積みましたとか、そっちのほうがまだ安心出来るんだよな。ただより怖いものはないって言うだろ? それはつまり――」

 

 〝支払い〟がまだ終わってないんじゃないかって……。

 

 二人のプロデューサーが口を閉じて考える。

 何気なく向けた視線の先で米内P対お姉さまアイドルの飲み比べが続行している。三船美優に続いて佐藤心も潰した米内Pに片桐早苗が挑戦する。しかし敗色濃厚で、メイド服でビールを運んでいる安部菜々17歳に助けを求める。ちょって菜々ちゃん加勢して! このままじゃお姉さんアイドルの面子が立たないの! しかし菜々はパタパタと手を振って繰り返す。菜々は17歳ですから。菜々は17歳ですから! それを聞いた佐藤心が机に突っ伏したまま呟いた。菜々パイセン、ぶれねえな……。

 

「まっ、赤羽根君のことだから大丈夫とは思うけどな!」

 

 間島Pはガハハと笑って不穏な空気をふきとばした。立ち上がり、飲み比べの輪に加わって米内Pを応援する。アイドルチームは最後の切り札――高垣楓を投入していた。決戦兵器の迫力をもって微笑む彼女に米内Pの笑みがひきつる。

 

〝赤羽根のことだ、きっと憎たらしいくらいに上手くやるだろうから心配はいらねえって! あいつの心配する暇があったら、担当アイドルの心配をしようぜ!〟

 

 武内Pは、笑ってくれた。そこに伊華雌がいて、乾杯をするかのようにジョッキを掲げて――

 

「来年もよろしくお願いします、マイクさん」

 

 伊華雌の胸に、込み上げるものがあった。期待と信頼を込めて来年もよろしくとか言われたのは、生まれて初めての経験だった。

 

〝こちらこそよろしくな、武ちゃん! 来年こそは卯月ちゃんの担当に返り咲こうぜ!〟

 

 すると武内Pは、まるで島村卯月みたいに――

 

「がんばります!」

 

 それはしかし、間違っていない。目標を達するためには、目の前のことをコツコツとがんばるしかないのだ。登山家が小さな一歩を積み重ねてそびえたつ巨峰を征服するように、目の前のことに全力で立ち向かえる者こそが笑顔になれるのだ。

 

 だから武内Pが今やるべきことは――

 

「武内君! 加勢してくれ! このままじゃ全滅だ!」

 

 いつの間にか形勢が逆転していた。勇猛果敢な米内Pも三人を飲み負かしたあとに楓の相手はきつかった。

 

 ――そして米内Pは最強の戦士であると同時に最後の戦士だった。

 

 他のプロデューサー達は特撮の世界で「いーっ!」とか言いながら何となく蹴散らされる雑魚にすぎず、敵の幹部たる威厳をもって現れた高垣楓の前に無力で、筋肉魔神の間島Pが見かけほど酒豪でなかった時点で万策尽きた。

 

 戦争末期に学徒兵が動員されるように、武内Pが戦場へ向かう。

 

 高垣楓は、左右で微妙に色の違う瞳を輝かせてほのかに笑う。とるにたらない相手とはいえ、屍の山を築く過程でそれなりに飲んでいるはずである。にもかかわらず微かに頬を朱に染めるのみで、一体どれほどの酒豪であるのか底が知れない。

 

「いいわよ楓ちゃん! その調子よ!」

 

 床にへたり込んでいる片桐早苗が声援をとばす。

 無秩序な飲み比べにあって唯一にして絶対のルールは――

 

 座ったら負け。

 

 そして、二本足で立ち上がり人間を気取っているのはどうやら高垣楓と武内Pだけである。

 

「いけっ! 武内君! 俺たちの無念を晴らしてくれ!」

 

 先輩の声援を背にうけて、大の字になってくたばる小さな同僚の仇を討つべく、武内Pは高垣楓と向かい合う。

 

「おてやわらかに……」

 

 楓が、日本酒の入ったグラスをかかげる。

 

「よろしく、お願いします!」

 

 武内Pが〝本気〟の目になる。

 

 両陣営からやんやの喝采が飛んで、もう後にはひけない。古代ローマのコロッセオで闘技場に放り込まれた拳闘奴隷のように、生き残るためにはもはや勝利するしかないのだと容赦ない歓声に覚悟させられる。

 

〝武ちゃん、やってやれ! 水だと思って飲みまくれ!〟

 

 プロデューサーとアイドル。

 互いの面子とプライドをかけた、負けられない戦いが始まった……ッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第28話

 

 

 

 年末の休暇を武内Pは重度の二日酔いを回復させるために使った。

 

 あれは反則だと伊華雌(いけめん)は思う。

 

 武内Pは、高垣楓に勝ったのだ。

 さすがの楓も連戦による疲労は隠せず、それでも倒れそうで倒れない彼女との戦いは壮絶を極め、最後には床に吸い寄せられるようにへたりこんだ楓が「まいりました」と苦笑して長い戦いが終わった。

 その時点で武内Pは英雄だった。

 プロデューサー連合軍は優勝してビールをかける野球選手のように狂喜乱舞していたのだが――

 

「面白そうなことをしているな。私も参加させてもらおう」

 

 まさかの美城常務だった。どうやら〝女VS男〟の飲み比べであると勘違いしたらしく、名誉の戦死を遂げた同胞を救う女神になるべくしゃしゃり出てきた。

 

 まさか常務に〝ただしアイドルに限る!〟とか〝ババア無理すんな!〟とか言えるプロデューサーがいるわけもなく、つまり――

 

 勝つしかなかった。

 

 まさかの敗者復活戦にアイドル達は我をわすれて声援をとばし、一度つかんだ勝利を逃してなるものかとプロデューサー達も声を張り上げた。

 

 ――そして、負けた。

 

 そもそも、手負いとはいえ高垣楓は強かったのだ。お酒が趣味であると公言している彼女はスカウター爆殺級の酒豪だったのだ。

 

 楓を倒した時点で武内Pのライフはほとんどゼロだった。

 それでも、善戦した。

 自分はとっくにへたってる癖に口だけは元気な同僚の無責任な「頑張れ!」に応えようと頑張った。

 

 ――その時の様子は、きっと後世に語り継がれる。

 

 武内Pは、限界突破の酒を飲み干すと、立ったまま気を失った。

 それはまるで、無数の矢をうけて、それでも倒れずに立ったまま絶命した武蔵坊弁慶を思わせる勇ましい死に様だった。

 同僚のプロデューサー達は男泣きに泣いて、アイドル達は優しい拍手を送っていた。

 

「たいしたやつだな……。しかし、勝負は勝負だ」

 

 美城常務は無情にも勝ち越しの一杯を飲み干して勝負を決めた。同僚のプロデューサーがどれだけ呼び掛けても武内Pが目をさますことはなく、飲み比べは女性チームの勝利となった。

 

 ――でも、やっぱりあれはズルいと思う。

 

 ラスボスを倒したと思ったら裏ボスが出てきてセーブポイント無しで連戦で負けたらバッドエンド確定みたいな、思い付く限りの汚い言葉で罵りながらコントローラーをぶん投げてやりたいクソゲー的な展開であったと、伊華雌は今に至っても納得できない。

 

 そのせいで武内Pは貴重な休日を無駄にしてしまったのだ。ようやく悪夢のような二日酔いから開放されたのは12月31日だったのだ。

 

 ――今年が終わる。

 

 それは暦の上での出来事で、壁にかかるカレンダーが新しいものに変わる程度の変化しかないのだが、リア充どもはそれだけじゃ寂しいと言わんばかりに徒党を組んで年越しの儀式を模索する。情報紙を読み漁ってリア充な俺たちが年を越すにふさわしい神社を探し、七五三の子供みたいに着飾って、年が変わると同時にハッピーニューイヤーを叫んで明けおめメールを一斉送信して携帯の基地局を破壊する。

 

 そんなリア充どもの行事に、やっぱり伊華雌は興味があった。

 

 人間だった頃はもちろん引きこもっていた。年末における伊華雌の懸念事項は、紅白を見るかガキ使(つか)を見るか格闘技を見るかの三択で、紅白はどうせ961プロのターンなのだから除外してガキ使と格闘技の間をいったりきたりするのが定番のパターンだった。

 

 しかし今年はわけが違う。

 346プロの独身寮で、伊華雌と武内Pは紅白を見る。予めミサイルの着弾を知っている軍事関係者のように、固唾をのんでその瞬間に備える。

 

『それでは次は、可愛いアイドルに登場していただきましょう!』

『961プロから、星井美希ちゃんと我那覇響ちゃんと四条貴音ちゃん。そして――』

『今年はスペシャルサプライズ! 346プロのアイドルが駆けつけてくれました!』

 

 ――歴史が、動いた。

 

 おそらくこの瞬間、日本中のドルオタが口をあんぐり開けているだろう。〝ずっと961プロのターン〟と書き込んで961プロの暴挙を非難しようとパソコンの前で待機していた連中が、急なスクープに目の色をかえる新聞記者の剣幕でキーボードを叩きまくる。衝撃を共有したドルオタによって掲示板のスレが怒濤(どとう)の勢いで伸びまくる。

 

 実際にその光景を目にすると、やっぱりすごいなと思ってしまう。メインはプロジェクト・フェアリーの三人であるが、しかしバックダンサーほど後ろではないポジションでLiPPSが踊っている。充分に存在を主張できている。こんなプロデュースをやってのけてしまうなんて……。

 

「さすが、ですね……」

 

 誰もが目を見張るスーパーゴールを決めたチームメイトに強い憧れを(いだ)いて、それがあふれてこぼれてしまったような言葉に伊華雌は同意せざるをえない。

 

 ――実際に、すごいと思う。

 

 どんな手を使えば961プロとのコラボなんて奇跡のプロデュースを実現出来るのか想像も出来ない。間島Pが言うには〝汚い手〟も使ってないとのことであるからますますプロデューサーとしてどれだけの潜在能力を秘めているのか底が知れない。

 伊華雌はリア充が嫌いでイケメンが嫌いで、だからいかにもリア充でイケメンな赤羽根Pが嫌いなのだが、認めざるをえないと思った。

 

 赤羽根Pは、すごい。

 すごいものは、すごい。

 

 ただ――

 

 だからと言って、真似をする必要はない。こんな風に誰しも認める成果を見せ付けられると、自分も派手な成果をあげられるプロデュースをしてみたいと影響されてしまうが、それが危険な罠であると伊華雌は知っている。間島Pのプロデュースをやろうとして失敗したように、赤羽根Pのプロデュースだって真似したところで同じ成果はあげられない。

 だから、トランペット奏者に憧れる少年みたいな顔になっている武内Pに言ってやる――

 

〝俺達は、俺達のやり方でいこうぜ。大丈夫、そのうちでっかい成果をあげられるって!〟

 

 そして、夢を語った。

 シンデレラプロジェクトは破竹の快進撃を重ねて社内で評判になる。その活躍に美城常務も一目おいて、地下室から一転、見晴らしの良い最上階に事務室を構えることになる。少女がシンデレラに憧れるように、アイドル達はシンデレラプロジェクトに憧れて異動願いが殺到する。その勢力は第一芸能課をも凌駕(りょうが)して346プロのトップに躍り出る。ぐぬぬと悔しがる赤羽根Pの視線を背に受けながら武内Pは346のトッププロデューサーとして島村卯月の担当を名乗る。

 

 鬼が笑った、ような気がした。

 笑わせておけばいいと、伊華雌は思った。

 

 小学生の妄想に劣る夢物語であるのは百も承知である。シンデレラプロジェクトが第一芸能課を抜いてトップになるなんて、鳥人間コンテストの出場者が大気圏を突破して月に刺さるぐらいありえない。そんな途方もない飛躍などありえないと分かっている。

 

 だからこそ、楽しい。

 

 現実味の薄い空想だからこそ遠慮なく妄想の翼を広げることが出来て、だから武内Pも笑ってくれる。

 

「シンデレラの舞踏会、なんてどうでしょう? シンデレラプロジェクトのアイドルだけで、アリーナ単独ライブをするんです」

 

 まったくの夢物語である。現状、三人しか所属していないのにアリーナライブを夢見るなんて、鬼でなくとも笑いたくなる。

 

 そういえば、うちのアイドル達はどうしているんだろう? 李衣菜は実家だから家にいるのだろうか? まゆとみくは帰省しているのだろうか? そして家族に、アイドル活動について話しているのだろうか?

 もし、そんな話をしているのであれば――

 

 その時の三人が、笑顔であることを伊華雌は願う。

 

 両親に笑顔で報告できるくらいにアイドル活動を楽しんでくれているならば、シンデレラプロジェクトはちゃんとアイドルを笑顔にできているということである。それはとても嬉し――

 

 インターフォンが鳴った。

 夜の10時だった。

 

 来客の予定もなければ宅配便を頼んでもいない。

 武内Pはテレビの音を消して息を潜める。玄関のドアに繋がる廊下をにらむ。

 

 再び、インターフォンが鳴った。

 

 対応するまで立ち去らないと、宣言されたような気がした。居留守が通用する相手ではないような気がした。

 

〝……武ちゃん。俺を使え!〟

 

 伊華雌はエクスカリバーの気持ちになって武内Pの武器となった。

 武内Pは臆病な警備員が警棒を先導させながら職務を遂行するようなへっぴり腰で歩きだした。

 

 インターフォンが鳴った。

 

 このプレッシャーはなんだろう? 既視感のあるプレッシャーである。ふと、シンデレラプロジェクトの地下室にいるかのような錯覚を覚えて――

 

 このプレッシャーは、まさか……ッ!

 

 伊華雌の予想は的中する。

 武内Pが恐る恐るインターフォンの応答ボタンを押すと、もう何年も待ち焦がれていたかのような声色で……

 

「プロデューサーさん……。まゆですよぉ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第29話

 

 

 

 眼福(がんぷく)、という言葉がある。見るだけで幸せになれる光景を目撃できた喜びを表現する言葉である。

 そして伊華雌(いけめん)は宣言する――

 

〝半端ない眼福がやって来たんですけどぉぉおお――ッ!〟

 

 ワンルームマンションのドアを並べる無機質な廊下が華やかだった。どんな高級インテリアでも名工のリフォームでも為し得ないくらい豪華になっていた。

 

 佐久間まゆが着物だった。

 みくと李衣菜も着物だった。

 

 ただでさえ女性の魅力を引き出す着物を、ただでさえ魅力満点なアイドルが着ている。そんなの、鬼に金棒である。そんなの、可愛いに決まっている。

 

「プロデューサーさんと、一緒に年を越したいなって……」

 

 両手に巾着袋を提げたまゆが首をかしげて微笑んだ。このまま等身大ポスターにして飾りたい! 伊華雌の率直な感想である。

 

「あのねっ、みく達女子寮で年越しパーティーやってるんだけど、他の子達がね、担当のPチャンに初詣連れていってもらってるの! だから――、お願いPチャン! みく達も初詣に連れてって♪」

 

 猫のポーズでおねだりされた。伊華雌は吐血する感覚をキモノネコチャンに捧げて思う。

 

 どこにでも連れてってやりてぇぇええ――ッ! ――っていうか連れ回してぇぇええ――ッ!

 

「わっ、わたしは、着物とか別に……。でも、二人がどうしてもっていうから……」

 

 李衣菜は初めてビキニの水着に挑戦したけどやっぱり恥ずかしくてタオル巻いてる少女みたいにもじもじしている。みっ、見るなぁっ! ――と言わんばかりに赤面されるともっとジロジロ見たくなるのは何故だろう?

 慣れない着物姿を恥ずかしがる李衣菜は伊華雌の中に存在する〝赤面させたら可愛いアイドルランキング〟の三位にランクインした。ちなみに二位は神谷奈緒で、不動の一位は神崎蘭子である。

 

「よく、似合っています。……その、ロックだと思います」

 

 ここまで雑な感想もないんじゃないかと思った。李衣菜に取り合えずロックと言うのは、輿水幸子に取り合えずカワイイと言うのと同じくらい雑で気持ちの薄い誉め言葉である。

 さすがに李衣菜も不機嫌になって――

 

「ロックって……。じゃあ、どこがどんな風にロックなのか言ってみてくださいよ!」

 

 さっきまで初めてアニメのプリントTシャツを着用して外の世界に足を踏み出した人みたいに照れていたのに、今は世界中の視線を集めようとするかのように両手を広げて着物姿を見せつけている。その青い着物は、製作過程を想像すると気が遠くなるほどの緻密な刺繍が施されており、李衣菜の中で爆睡(ばくすい)していた〝大和撫子〟を叩き起こして新たな魅力を引き出している。

 

「普段の服装からは見いだすことのできない多田さんの新しい一面が強調されて、新鮮な魅力にあふれています。上品で、大人びて、高垣楓さんのような――」

 

「わっ、分かった! 分かったから……」

 

 誉め言葉も〝凶器〟になるのだと、耳まで赤くした李衣菜を見て実感する。どうやら武内Pは〝誉め殺し〟のスキルをもっているらしい。

 

「ねえねえ! みくは!」

「まゆの着物はどうですか、プロデューサーさん……?」

 

 二人に詰め寄られて首の後ろをさわる様子は、元気すぎる姉妹に翻弄(ほんろう)されるお父さんのようで、何とかひねり出した「二人ともよく似合っています」という適当な感想で二人の満足を引き出そうなんて無理な話で、李衣菜にしたみたいな誉め言葉を求めてまゆとみくは武内Pを追い詰める。

 

「ねえ、早くしないと年が明けちゃうよ」

 

 一人だけ腹一杯食べた人みたいな李衣菜の言葉に救われる。武内Pの誉め言葉で満腹な李衣菜は上機嫌な口笛を吹いている。

 

「あのっ、急いで着替えてきますので……ッ!」

 

 逃げるように玄関から離れた。確かに、みくとまゆに誉め言葉を腹一杯食べさせていたら年が明けてしまいそうだった。まゆは簡単に満足してくれないだろうし……。

 

「洋服は、どうすればいいでしょうか……」

 

 武内Pが戸棚の前で途方にくれた。

 伊華雌ほどではないが武内Pはあまり洋服にこだわりがないようで、つまりお洒落な服があまりない。ざっと見渡す服の中では、城ヶ崎姉妹に選んでもらった洋服が抜群にお洒落であったが、クソ寒い年末に半袖ハーフパンツでお出掛けとかもはや不審者で、お巡りさんがいい笑顔になってしまう。

 

〝……スーツ、かな?〟

 

 プライベートでもスーツなのはどうかと思うが、そのくらいしかないと思った。なんせ相手は着物姿のアイドルなのだ。本来ならば紋付き袴を用意して、それでも釣り合うかどうか微妙な高嶺(たかね)の花なのだ。仕事用のスーツで着物姿のアイドルに立ち向かうなんて、生身でキラリンロボに喧嘩を売るに等しい無謀な行為であるが選択の余地はない。

 武内Pは手早くスーツに着替えると、あごをさわって硬直する。

 

「ひげ、剃ったほうがいいでしょうか……?」

 

 すぐに剃れ! 一本も逃すな! 全滅させろ! ――気性の荒い指揮官よろしく激をとばしたいところであるが、あまりアイドル達を待たせたくはない。ドア越しに誰かのくしゃみが聞こえたような気がした。

 

〝電気で、さっと済まそう!〟

 

 武内Pは洗面所に駆け込むと電気カミソリを頬にあてて最低限の身だしなみを整えた。ひげよし。鼻毛よし。ネクタイよ――

 

 それは、無機質なネクタイばかり並ぶ戸棚において異彩を放っているお洒落なネクタイだった。そのままセレブのダンスパーティーに付けていけそうなネクタイは、しかし武内Pが選んで買ったものではない。

 

 ――仁奈ママからのクリスマスプレゼント。

 

 一番してはいけないタイミングだと思った。他の女からのプレゼントを身に付けて佐久間まゆに会うとか、証拠品の血塗られた包丁を握りしめて刑事と食事をするようなものである。

 

〝武ちゃん、ネクタ――〟

 

「お待たせしました」

 

 間に合わなかった。

 武内Pはドアの外に出るとしっかり鍵をしめた。

 

「プライベートもスーツなの? まあ、自分のスタイルを貫くのはロックだと思うけど」

「Pチャンらしいにゃ!」

「素敵なネクタイですね……」

 

 楽しそうに弾む声と足音がドアから離れていく。

 

 ――間に合わなかった。

 

 焦るあまりに置き忘れたスマホが、トランシングパルスを流していた。

 (あるじ)のいない部屋で流れるそれは、渋谷凛からの着信だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第30話

 

 

 

「携帯を、忘れてしまいました……」

 

 武内Pがスーツのポケットを叩いた時、すでに神社が見えていた。周りを歩く人達の半分は和装で、さらに半分はカップルだった。慣れない下駄をカラコロ鳴らし、楽しそうに笑っている。

 

「まあ、どのみちすぐに使えなくなるからいいんじゃない? ほら、年があけたら明けおめメールで」

 

 李衣菜の指摘はもっともで、ハッピーニューイヤーな神社において携帯は高性能な電卓に成り下がる。

 

「では、はぐれないように気をつけてください」

 

「はい……」

 

 武内Pの言葉を待っていたのかもしれない。そのくらい、まゆの動きは速かった。

 

「まゆちゃん、大胆にゃ……」

 

 猫口をひきつらせるみくの視線をたどるとそこに恋人がいた。恋人にしか見えなかった。

 

「だって、はぐれたら大変ですから……」

 

 免罪符を強調しながらまゆは武内Pの腕をぎゅっと掴む。間接をきめようと狙っているかのようにしっかり掴んでいる。

 

 ごおん……。

 

 除夜の鐘が始まった。それが煩悩を打ち消すなんて絶対に嘘だと伊華雌(いけめん)は思う。だってまゆは煩悩のままに武内Pの腕をつかんでいるし、それを見ていると煩悩が活性化してよからぬ妄想が大量生産されてしまうし!

 

「みく、わたあめ食べたい!」

 

 みくが空いてる方の手を引いて、武内Pと屋台の親父を引き合わせた。普段は土木工事の現場監督でもやってそうなヒゲの親父が顔中クシャクシャにして笑う。武内Pもぎこちなく笑う。

 

「ねーねー、Pチャンお願いっ! わたあめおねだりにゃっ♪」

 

 ――この屋台にあるわたあめ全部持ってこい!

 

 興奮に任せて叫びたくなるほどみくのおねだりは伊華雌の心を貫いた。やっぱり除夜の鐘は無力だと思った。

 

「わたあめが欲しいなんて、みくちゃんはコドモだなー」

 

 わたあめをむぐむぐしているみくの目付きが鋭くなる。お気に入りの駄菓子をけなされて怒る小学生みたいな顔で――

 

「じゃあ、大人な李衣菜ちゃんは何を頼むのか、見本をみせるにゃ!」

 

 李衣菜は馬の手綱を引くように武内Pの手を引いて、目当ての屋台に歩かせて――

 

「プロデューサー。りんご飴一つおごってよ♪」

 

「全然大人じゃないにゃぁぁああ――ッ!」

 

 猫口をかっ(ぴら)いていきり立つみくをよそに、李衣菜は買ってもらったりんご飴をぺろっとなめて――

 

「自分が大人って思ったら、それが大人なんだよ♪」

 

 さすがに無茶苦茶な理屈だと思ったが、なんかもう、理屈とかどうでもよかった。それぞれ青とピンクの着物を着付けたみくと李衣菜が、お祭りの雰囲気をみせる神社の境内でわたあめとりんご飴を振り回しながらじゃれている。

 

 理屈なんてどうでもいい。

 理屈なんて必要ない。

 

 音楽が国境をこえるように、二人の可愛さを理解するために小難しい理屈は必要ない。心震わせる絵画を鑑賞するように、無心で鑑賞すればいい。そして除夜の鐘よ黙れと言わんばかりに、煩悩のおもむくままに――

 

〝アスタリスク可愛いんじゃぁぁああ――ッ!〟

 

 伊華雌がみく李衣菜に心を奪われている一方で、武内Pはもはや嫁の風格を持って腕を掴んでいるまゆに――

 

「佐久間さんは、何か食べたいものはありませんか?」

 

 うーん、そうですねー。まゆは細い人指し指をくるくると迷わせてから――

 

「まゆ、あれがいいです……」

 

 佐久間まゆのリクエストに伊華雌は戦慄する。

 

 いやそれ、まずいだろ……。まずくないけどまずいだろ! だって、想像しただけで煩悩が暴走で妄想が初日の出暴走なんですけど!

 

 動揺していたのは伊華雌だけだった。武内Pもアイドルもことの重大さに気付いていない。だから忠告してやめさせることは出来ない。

 

 だって、別にまずいことではないのだ。

 至って健全な行為なのだ。

 

 ただ――

 

 紳士フィルターを通してしまうと新世界が見えてしまうだけで、だから誰も悪くないんだけど、悪いのは紳士な自分であるから何も言えないんだけど、でも俺はどうすればいいんだぁぁああ――!

 

 伊華雌が神の前で髪をかきむしりながら葛藤する信者の気持ちになっているとは露知らず、武内Pは注文する。

 

「チョコバナナ一つください」

 

 チョコバナナ! これがいかに厄介な代物であるか、紳士であれば説明は不要である。

 平然とチョコバナナを佐久間まゆに渡している時点で武内Pの爵位は低い。いいなー、とか言いながら欲しがっているみくと李衣菜も当然ながら爵位など無い。武内Pがその手の事象に疎いとまゆは知っているはずだから、狙って注文した可能性もゼロだろう。

 

 つまりこの場には平民しかいない。

 ただひとり伊華雌だけが紳士な視線を有しており、そして一人苦悩する。

 

 絶対にバナナにモザイクをかけるな。絶対にバナナにモザイクをかけるな。絶対に――

 

 頭の中で繰り返して紳士な自分を抑え込む。除夜の鐘にもっと働けと激をとばす。それでも伊華雌の煩悩は屈強で、油断するとよからぬ妄想が――

 

 まゆがぱくっとバナナをくわえた。

 

 一瞬だけ、伊華雌は紳士になってしまった。

 

 一体、誰が発見したのか? それを初めて目撃したとき、伊華雌は名もなき天才の偉業に心を動かされた。

 

 まさか、チョコバナナにモザイクをかけるだけで、こんなにエロくなるなんて……ッ!

 

 錯視、というほど立派なものでなない。無限の想像力をかきたてるコラ画像である。モザイクのかかっているモノをくわえているという構図がアダルティーなDVDのそれと一致して脳が混乱してしまうのだ。

 

 くそ……、除夜の鐘もっと仕事しやがれ!

 

 チョコバナナを食べるまゆによからぬフィルターをかけまいと闘う伊華雌に愛想を尽かせたのだろうか、除夜の鐘が聞こえてこない。煩悩を爆発させる自分に恐れをなして職務を放棄したのかと思ったが――

 

 そうではなかった。

 

 境内に携帯の着信をしらせるメロディがこだました。そのメールの件名を予想するのにサイキックは必要ない。それをもらった経験はないが知識として知っている。

 

 ――この国には、年が明けると同時に明けおめメールを送る習慣があるのだ。

 

「明けましておめでとうにゃ!」

「あけおめっ♪」

「明けまして、おめでとうございます……」

 

 武内Pは、律儀に頭をさげて――

 

「明けまして、おめでとうございます」

 

 そして伊華雌は、猛烈な自己嫌悪に陥っていた。チョコバナナまゆによからぬ妄想を爆裂(ばくれつ)させながら年を越すとか、紳士にもほどがあるだろう……。

 

「初詣するにゃっ!」

「あっ、ちょっと待ってよ」

 

 みくと李衣菜が駆け出した。武内Pの腕をつかんだまゆが、恋人にしか見えない足取りで歩きだした。

 参拝客が新しい年の始まりに片っ端から浮かれる中で、伊華雌は自己嫌悪に沈んでいた。

 

 全部、チョコバナナが悪いのだ。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 パンパン。

 

 二回手を叩き、神様にお願いをする。

 

「ずっと、プロデューサーさんと一緒にいられますように……」

 

 隣で神妙な顔をしていたみくが、神様に聞こえないように声をひそめて――

 

「まゆちゃん、口に出しちゃだめにゃ。誰にも知られないようにしないとお願いかなえてもらえないにゃ」

 

 まゆはめげない。それならばと、いまだに右手をつかんでいる武内Pをじいっと見つめて――

 

「じゃあ、プロデューサーさんがお願いしてください。ずっと、まゆと一緒にいられるようにって……」

 

 なんかもう、神の力なんてまゆには必要ない気がした。神頼みなんてしなくても十分べったりである。これにゴッドパワーが加算されたらあとはもう合体するしかない。……いや、やらしい意味じゃなくてね! いや、ほんとに、ほんとに……ッ!

 

 神様の前で紳士であることを否定する伊華雌であるが、今さら焼け石に水であると思った。バカが死んでも治らないように、紳士も死んでも治らない。じゃあ開き直って治さない。

 そして神様にお願いする。きっと武内Pがやっているであろうお願いにさらなる効力を追加するべく強く願う。

 

 ――アイドル達がいい笑顔でありますように!

 

 マイクになる前と今とで、一番変わったのはアイドルに対する考え方であると思う。以前は純粋に崇め(たてまつ)る対象であったが、今は身内というか、親戚や家族のように考えてしまっている。

 だからこそ、笑顔になってほしいと思う。

 芸能界という、激戦区の地雷原みたいな場所を走り抜けて、それでも笑顔でいてもらいたいと願うのはもはや横暴かもしれない。だけど、だからこそ、その笑顔には何物にも変えがたい価値がある。

 

「みく、甘酒飲みたい! 甘酒おねだりにゃ!」

 

 そんなことを言うみくにゃんには甘酒を樽でプレゼントしたい!

 

「ちょっとお腹すいちゃったな。ねえ、たこ焼きおごってよ♪」

 

 よし、李衣菜ちゃんにはたこ焼きを屋台ごと買ってやらぁっ!

 

「まゆ、何だかぼーとしてきちゃいました……」

 

 甘酒で酔っちゃう子供なまゆちゃんにはチョコバナナをもう一本――って、だからチョコバナナはダメだっつってんだろぉぉおお――ッ!

 

 一人で盛り上がる伊華雌はさておき、武内Pも担当アイドルとの初詣を楽しんでいるようだった。屋台でおねだりをされた時は愛娘(まなむすめ)にたかられるお父さんみたいに嬉しそうな顔をしているし、いつもより口数が多い気がする。

 そんな武内Pに、さらなる喜びが追加される。

 

「プロデューサーさん、首が寒そうですね……」

 

 帰り始める人の波に乗って歩き、神社の石畳がアスファルトに変わった時にまゆが立ち止まった。巾着袋をごそごそやって――

 

「これで、暖かいですよ……」

 

 真っ赤なマフラーだった。それはただの赤ではない。まゆと運命の人を結ぶ、運命の赤い糸によって紡がれし運命のマフラーである。

 

「素敵なクリスマスプレゼントのおかえしです。手編みなんです……」

 

 佐久間まゆの手編みマフラー……ッ! それがどれほどの価値をもつのか、想像しただけで気が遠くなる。試しにヤフオクにだしてみなさいよ! 過去最高の取引金額叩き出すから!

 

「じゃあ、みくも……。Pチャン、手、出して!」

 

 武内Pの手に、見るからにキュートなネコチャン手袋がはめられた。それは可愛いすぎて武内Pにはあまり似合っていない。勇ましいブルドックに可愛いリボンが似合わないように、武内Pにキュートなアイテムは似合わない。それでも、みくは満足げに八重歯を光らせている。

 

「わたしからは、ロックでクールな――」

 

 背伸びをした李衣菜が耳当てを武内Pの耳に付けた。見るからに暖かそうなもふもふ素材のイヤーマフは、やはり武内Pに似合わない。綺麗にイルミネーションされた戦車みたいな、本人のイメージと装備品のもつ可愛らしさが致命的に噛み合っていない。それでも、李衣菜は歯を見せて笑う。

 

 ――そして、武内Pはどこまでも嬉しそうだった。

 

 きっと、何でも嬉しいのだ。〝何を〟もらったのかではなくて、〝誰に〟もらったかが大切なのだ。その気持ちが嬉しいのだ。

 

〝よく似合ってるぜ、武ちゃん!〟

 

 伊華雌は嘘をついた。優しい嘘だった。似合ってないけど、でも、似合っている。今の武内Pと担当アイドルの関係を表しているような格好だと思った。

 

 本人には悪いけど、仲の良い父親と姉妹にしか見えなくて、でも、それはプロデューサーとアイドルの関係として悪くはないと伊華雌は思った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 アイドル達を女子寮まで送った。今日は〝年越しパーティー〟と称して朝まで騒ぐと言っていた。玄関にいても楽しそうな歓声が聞こえてきた。

 

 アイドルだらけの新年会とか、定点カメラで撮影してぇぇええ――ッ!

 

 伊華雌の想いが届いたのか、みくと李衣菜が武内Pを誘ってくれた。それを辞退した武内Pに、まゆがすかさず――

 

「じゃあ、まゆのお部屋に来ますか……?」

 

 〝じゃあ〟の意味がよく分からない。パーティーに参加するよりハードルあがってますよ、まゆさん! さすがに深夜にそれはまずいですよ、まゆさん! 〝深夜のお部屋訪問〟というキーワードだけで妄想がとまらなくなるマイクもいるんですよ、まゆさんッ!

 

 武内Pはもちろんまゆの誘いも辞退してアイドル達と別れた。

 

 女子寮から独身寮まで、徒歩にして30分。それがやけに寂しかった。アイドルの足音が消えて、今は革靴の音だけで。さっきまでが賑やかだった分、寂しさが身に染みた。

 

〝何か、すっげー楽しかったなー〟

 

 伊華雌がつぶやくと、武内Pは穏やかな顔で月を見上げて――

 

「前川さんと多田さんは、屋台の好みが子供っぽくて……。佐久間さんは、本当に甘酒で酔っていたようで……」

 

 語るにつれて目の光を強くして――

 

「何だか、もっと頑張りたいと、思いました」

 

 ふと、気が付いた。チョコバナナまゆに気を取られていたばっかりに、大事な人に、大事な挨拶をするのをすっかり忘れていた。

 改まって言うのは、ちょっと恥ずかしいのだけど――

 

〝あっと、えっと……。今年もよろしく頼むぜ、武ちゃん!〟

 

「えぇ、こちらこそよろしくお願いします!」

 

 きちんと新年の挨拶をしたのなんて、初めてだった。何か、気分が良かった。人間だった頃は、今年もよろしくお願いすることもなければ、されることもなかったから……。

 

〝帰ったら新春特番チェックしないとな。結構アイドル出てくるから!〟

「346からは、高垣さんと片桐さんと川島さんが〝命燃やして話せよ乙女〟という特番を――」

〝あーあれいいよなー。酒飲みながらゲストとグダグダトークするやつ。――ってか、酒飲み過ぎだと思うんだけど、うちのお姉さま方!〟

 

 月夜を歩く一人と一本は上機嫌だった。伊華雌が人間であれば、肩を組んで笑っていたかもしれない。

 

 しかしその上機嫌も、独身寮の前に立つ人影に気づくまでのことだった。

 

 最初、心霊現象だと思った。

 だって、一般的な亡霊のイメージと一致していたから。

 

 女性で、黒髪で、ロングヘアーで。

 

 心の履歴書の〝苦手なもの〟の項目に大きく〝おばけ〟と書いてある武内Pは、足をとめて青ざめた。しかしその亡霊がスマホを操作してその明かりが顔を照らした瞬間――

 

「……渋谷さんッ!」

 

 駆け付ける武内Pを見るなり、渋谷凛は遅すぎるレスキュー隊を責める遭難者みたいな目付きで――

 

「携帯、つながらなかったから……」

 

 武内Pは手短に説明した。携帯を部屋に忘れて、そのまま神社へ向かってしまった。

 

 渋谷凛も手短に説明した。紅白に出場するLiPPSを応援するため、卯月・未央と連れだって観覧席に陣取った。無事にステージを終了させたLiPPSとプロジェクト・フェアリー。そして赤羽根Pと黒井社長が肩を並べて――

 

「あたし、その、意味がわからなくて……。卯月も未央も、どうしていいのかわからなくて、それで――」

 

「話を、聞かせてください……ッ!」

 

 月光の下、武内Pは本気の目付きで凛を見つめた。

 凛は、正しい道を教えてほしいと懇願するように――

 

「赤羽根さん、961プロに移籍するって。アイドルも一緒に……ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 〝みく・李衣菜編〟終了になります。お付き合いいただき、まことにありがとうございますっ!

 次回から〝赤羽根P編〟に突入します。武パネ戦争にケリがつきます。


 プロデューサーのみなさま、今年も各担当のプロデュースお疲れ様でした。良いお年をーっ!














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 第4章 ― 赤羽根Pと武内P ―
 第1話


 

 

 

 深夜の住宅街で冷静さを失っている渋谷凛をどうするべきか?

 

 凛の家は独身寮からさほど遠くないのでタクシーを呼んで送ってやるのが〝普通〟であるが、今の凛の状態を考えると家に帰してしまうのが〝正解〟なのか不安になる。

 パニック状態、というほどではないが混乱している。そもそも、電話がつながらないからと言って深夜におしかけてくる時点で彼女らしくない。普段の凛であれば冷静に明日の朝を待つはずだ。

 

〝女子寮、とかどうかな? アイドルのみんなの顔を見れば落ち着くんじゃないかな?〟

 

 こういう時こそ深刻になりすぎないほうがいいと伊華雌(いけめん)は思っている。学校で嫌なことがあった時、伊華雌は家に帰って島村卯月と対話した。もはや日常の一部となっている卯月の顔を見て、聞きなれた歌声を聞いて、ささくれだった心を浄化させていた。

 だから凛も、一人で家にいるより女子寮でアイドル達と一緒にいたほうがいいのではないかと思った。

 

「ひとまず、女子寮へ行きませんか? 今日は夜通しパーティーをやっているそうですので」

 

「うん……」

 

 迷子の子供のようにうつむいている。外灯に照らされる横顔は不安げで、〝アイドル渋谷凛〟としての強気でクールな表情はどこにもない。

 

「少しだけ、待っていてください」

 

 武内Pは寮に戻って携帯でタクシーを呼んだ。10分ほどでやってきたタクシーに凛を乗せて、自分も乗った。

 

「島村さんと本田さんは、家に帰られたんですか?」

 

 凛は、うつむいたままうなづいた。

 

「家族と予定があるからって。私は、特に予定無かったから」

「そう、ですか……」

 

 しばらく無言が続いた。混乱しているのは凛だけではない。実のところ、伊華雌のほうが遥かに混乱の度合いは強い。自覚がないだけである。度を越した怪我に痛みがないように、混乱に自覚が追いついていない。

 

 赤羽根Pが961プロに移籍? そんなこと、ありえるのだろうか? アイドルも一緒にって、そんなことが出来るのだろうか? だってアイドルには事務所との契約があって、346プロでは毎年一月に更新して今年一年よろし――

 

 そこまで考えて最初の混乱がやってきた。すでに敵の術中にはまっているのだと自覚して、こみ上げる焦りに息をのむ感覚を思い出す。

 

 赤羽根Pは、すごいのだ。

 すごいものは、すごいのだ。

 

 だから計算づくなのだ。契約によって計画を邪魔されることがないように考えているのだ。

 じゃあ――

 

 一体、誰が連れていかれるんだ?

 

 赤羽根Pが話を持ち掛けるのは担当している〝プロジェクト・クローネ〟のアイドルだろう。クローネには、LiPPSがいて、メローイエローがいて、インディビジュアルズがいて、トライアドがいて、ポジティブパッションがいて、ピンクチェックスクールがいて――。

 

 つまり、島村卯月が……ッ!

 

「大丈夫です……」

 

 武内Pが口を開いた。タクシーの運転手がルームミラー越しに視線を向けて、すぐにそらした。

 

「何があっても、島村さんの笑顔は守ってみせます」

 

 凛が、顔をあげた。手を差しのべられた迷子の子供が、その手を取っても大丈夫なのか迷うように――

 

「あなたの笑顔も、守ってみせます」

 

 緑色の瞳に武内Pの顔が映った。その控えめな笑顔が、凛の中で凍りついていた何かをゆっくり溶かしていく。表情が穏やかになっていく。

 

「信じて、いいんだよね」

 

 すがるような言葉に、武内Pはハリウッド映画の主人公みたいに勇ましく――

 

「自分は、絶対に逃げません」

 

 ウンとうなずく凛の向こうで、運転手もうなずいていた。勤続40年のベテランである。タクシーを乗り潰すたびに髪が薄くなり、今では立派なハゲの仲間入りをはたしたベテランである。その髪が抜け落ちるまでの間にドラマがあった。深夜の客がもめて泣いて抱きついて。そんな時はメーターをとめて待っていた。ドラマが終わった頃合いを見計らって、ウンとうなずき――

 

「お客さん、ここら辺でよろしいでしょうか?」

 

 タクシーはとっくに女子寮に到着していた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「周子ちゃん、346プロやめちゃうの!」

 

 女子寮に入るなり、みくの悲鳴が聞こえてきた。他のアイドルの声が続いた。不穏な空気が玄関にまで流れてきた。

 

「失礼します」

 

 談話室のドアを開けた。そこには10人前後のアイドルがいて、深夜の武内Pに驚いたのはその半分に過ぎなかった。残りの半分は塩見周子から目をはなそうとしなかった。

 

「Pチャン! 丁度いいところに! 今、周子ちゃんが……ッ!」

 

 お母さんに言いつける子供みたいに声を荒げるみくだったが、凛の姿を見るなり眉をしかめて――

 

「……まさか、凛ちゃんも? 凛ちゃんも移籍しちゃうのッ!」

 

 凛は首を横に振ると、真っ直ぐに向かう。質問攻めにあっている塩見周子と向き合って――

 

「ほんとに、961プロに行くの?」

 

 周子は、屋台に並ぶお面みたいな、本心の読めない表情で――

 

「流されてみるのもアリかなって。悪い話じゃないみたいだし」

 

 彼女は日本舞踊でも踊るような足取りで凛に近付いて、相変わらずの表情で――

 

「凛ちゃんも、頭ごなしに否定しないで一度考えてみるといい……」

 

 妖艶、と表現すべきなのだろう。妖しい魅力で人間をたぶらかす妖怪のように、周子の瞳が凛を捕らえて――

 

「他の子をたぶらかしたらあきまへん。周子はんみたいに強い子ばかりやあらへんさかい」

 

 小早川紗枝が割って入る。先輩の舞妓が後輩をしかりつけるような、引き締まった京言葉で――

 

「周子はんは実家飛び出してアイドルの世界に飛び込んだりができる(ごう)のもんやけど、そんなん一握りやと思うわ。自分が出来るから相手もできる思うんは勘違いどすえ」

 

 はんなりの〝は〟の字もない。丁寧な言い回しなのに迫力があって、伊華雌は母親の説教を思い出してしまう。

 

「そんなに(おこ)りなさんなって。可愛い顔が台無しだよ」

 

 曖昧な笑みで話をはぐらかして逃げようとする周子を、しかし紗枝は逃さない。その視線は一瞬たりとも動かない。周子は仕方ないなと言わんばかりのため息を落として紗枝と向かい合う。

 

「ちゃんと説明しておくんなまし。いきなりよその事務所へ移籍いわれても、青天の霹靂(へきれき)すぎて理解できまへん」

 

 旅館の古女将を思わせる迫力に、周子は母親に捕まったいたずらっ子のため息を落とし――

 

「別に難しい話じゃないっしょ? 961プロがあたしらを欲しがって、あたしらがその話を受ける。指名をうけてお座敷を移動するようなもんじゃない?」

「お座敷を移るんとは違いますな。周子はんは〝置屋さん〟を変えようとしているんどす。それは舞妓の世界ではご法度(はっと)どすえ」

 

 荒くなる語気に周りを囲むアイドル達の表情が強ばる。星輝子がキノコの生えた植木ばちを抱きしめた。小日向美穂がくまさんTシャツのすそをにぎった。みくが武内Pのそでを引いて〝何とかしてよ〟と無言で頼む。

 

「海外じゃヘッドハンティングなんてよくあることって、志希ちゃんは言ってたよ」

「日本の考え方やと世話になっとる事務所さんを見限ってよそに移るんはあまり感心できまへんな」

 

 もうほとんど喧嘩だった。普段のはんなりと穏やかなイメージが強いぶん、きりりと引き締まった目付きで一歩もひかない紗枝の姿に伊華雌は足を震わせる感覚を思い出す。

 しかし周子はのん気なもので、キツネが人間を化かそうとするかのような笑みを浮かべて、酔拳の達人が相手の攻撃を軽やかに受け流してしまうように――

 

「……ま、結局のところ、人それぞれってことでいいんじゃない? どれが正解ってことじゃなくてさ」

 

 言葉の接ぎ穂を奪い取る。相手の言い分を認め、それと引き換えに自分の言い分を押し通す。敏腕弁護士が狙い通りに休廷を勝ち取るように、紗枝が次の言葉を考えている隙にこの場から――

 

 紗枝が、周子の手をつかんだ。

 

「周子はんいなくなったら、うち、寂しい……」

 

 笑顔のお面にひびが入る。論理性のかけらもない感情的な一言が、しかし心を深くえぐる。しばし真顔の時間が続き、そして優しく紗枝の手をほどき――

 

「ごめんね」

 

 談話室のドアが閉まる。テーブルを占領しているピザとコーラが場違いに色鮮やかで、どうしようもなく冷めた空気の中で立ち往生してる芸人の悲壮感を漂わせている。

 

「……ねえ、美城常務はこのこと知ってるのかな」

 

 凛の言葉に、武内Pは曖昧な反応をする。当然知っているとは思うが、確証はないのだと思った。凛に言われるまで伊華雌と武内Pも知らなかったのだから。

 

「訊いてみます……」

 

 時間はすでに午前一時を過ぎている。これで電話が繋がったら、いよいよもってやばいと伊華雌は思う。それはつまり、正真正銘の緊急事態なのだろうから。

 そして――

 

 電話はすぐに繋がった。

 

「夜分遅くにすみません。確認したいことが――」

 

『赤羽根のことか?』

 

 これは訓練ではない! 繰り返す、これは訓練ではない! 何の映画かは忘れた。平和な世界に突如現れた敵を敵と認識するにはそれなりの時間が必要で、平和にボケた兵隊は敵を前にして〝訓練ではない!〟と怒鳴りつけられても心のどこかで信じてなくて。――そんな〝平和にボケた兵隊〟の姿が今の自分と重なった。

 

 やっと、認識できた。

 これは訓練ではない。

 赤羽根Pは、本気の本気でアイドルをかっさらって961プロに行こうとしている。

 

『明日、出社できるか?』

 

 今すぐにでも行きたい気持ちがあった。今まさにこの瞬間にもアイドルが麻袋に詰め込まれて盗まれてしまうような焦りがあった。

 

 ――しかし、焦ってはいけない。

 

 こんな時こそ、虚勢でもいいからどっしり構えなくてはならない。プロデューサーの慌てる姿は、いよいよアイドルたちを混乱させてしまう。

 

「明日、出社して正確な状況を確認します。みなさんは、落ち着いて普段通り過ごしてください」

 

 そんなこと言われても……。武内Pを見つめるアイドル達が無言で反発する。失われた日常は、そう簡単には――

 

『失恋して辛いのね、わかるわー』

『そういう時は、お酒になぐさめてもらいましょう』

『何でもお酒に投げてたら人生相談にならないわよ楓ちゃん!』

 

 川島瑞樹・高垣楓・片桐早苗の三人が、生放送で生電話の人生相談に答えている。新春特番に、見慣れたお姉さんアイドルに、日常の空気が呼び戻される。

 

「お料理、温めなおしますね」

 

 テレビのリモコンを持った佐久間まゆが、いつもの笑みを浮かべていた。

 

『困った時こそ、いつも通りにするのがいいと思います』

 

 テレビの中で高垣楓がおちょこを口に運んでいる。女子寮の談話室に穏やかな空気が戻ってきた。でも、それは仮初(かりそ)めのものである。いつ転覆してもおかしくない笹舟のような平穏である。

 アイドル達は横の繋がりが強いから、芸能界という戦場で戦う戦友だから。同じ塹壕で横並びになって戦う兵隊のように、強い信頼で結ばれてるから――

 

 ――だから、衝突がおこる。

 

 一人のアイドルが移籍すると、そのアイドルに繋がる全てのアイドルに影響が出てしまう。それは大きな波紋となって、346プロを揺るがす津波になるかもしれない。

 

 小早川紗枝と塩見周子の衝突は前兆にすぎない。

 346プロを襲う津波は、まだ、これから――。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 翌日、武内Pは346プロへ出社した。玄関にでかい門松がふんぞり返り、今日は正月であるぞ! と主張してくるが浮かれた気分にはなれない。

 裏口からビルに入り、美城常務の執務室を目指す。

 

 ――芸能プロダクションは眠らない。

 

 テレビ局がそうであるように、盆暮れ正月だろうが仕事は存在する。むしろ普段より多いくらいで、複数の担当を抱えたプロデューサーは着物を着たアイドルを引き連れてテレビ局を走り回る。

 だから、普段と様子は変わらない。廊下にはアイドルとプロデューサーが行き来して、顔馴染みとすれ違えば新年の挨拶をする。

 

 まだ、知らないのかもしれない。

 

 ほとんどのプロデューサーとアイドルは、船体にダメージをうけてゆっくりと沈み始める豪華客船の乗客よろしく、危機的状況を知らずに踊っているのかもしれない。

 

「失礼します」

 

 三回ノックして、ドアをあけた。誰かと思った。忘年会で飲み比べをやったのと、同じ人物と思えない。それくらい、美城常務は疲れていた。2~3日寝てないんじゃないかと、心配して当然の顔色をしていた。

 

「私は、君に謝らなければならない」

 

 余命いくばくもない病人が、最後の懺悔(ざんげ)をするかのように――

 

「私は、君を利用しようとした。その結果、今回の事態を招いてしまった」

 

 美城常務は、息子に出生の秘密を語る義理の母親めいた口調で――

 

「君をシンデレラプロジェクトへ配属したのは、赤羽根にプロデュース方針を改めてもらうためだった……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 明けましておめでとうございますっ! 今年もよろしくお願いします!

 諸事情により更新速度が遅くなってしまうかもしれません。お待たせしてしまい申し訳ないです……。精神と時の部屋が欲しい……ッ!(切実w













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 第2話

 

 

 

 赤羽根Pは天才だった。

 

 プロデューサーになるために生まれてきたような男であった。アイドルとのコミュニケーションは円滑で、プロデュースも的確で。営業も得意で、思いもよらぬ方面の仕事を取ってきては、それを一度きりでは終わらせない太い客にした。

 

 まさに天才と言うより他のないプロデューサーだった。

 そして、世の天才が満足を知らないように、赤羽根Pも現状に満足しなかった。

 

 きっと本気で、346プロをトッププロダクションにできると考えていたのだろう。

 きっと本気で、961プロを越えられると思っていたのだろう。

 

 ――今のやり方では961プロに勝てません!

 

 赤羽根Pの第一声は決まっていた。

 

 ――961のやり方を真似たところで、成果は出せない。

 

 美城常務の返事も決まっていた。

 

 新展の無い議論だった。平行線を辿るばかりで、どちらも結論を譲ろうとはしなかった。

 

 ――そして、議論の時間は終わる。

 

 赤羽根Pは、自分の考えるプロデュースを始めた。話し合いの段階を越えた敵対国家のように、実力行使に踏みきった。本当に才能のあるアイドル、磨かなくとも光る最高の原石を育て、それ以外は切り捨てる。

 

 961プロのやり方だった。

 そして、成果を出した。

 

 美城常務はそのやり方を否定することが出来なかった。有能な者は評価すると、常日頃から言っているのは他でもない自分自身である。

 

 しかし――

 

 このまま961プロのプロデュースをさせておくわけにはいかない。方針を変えさせるために、手を打たなければならない。

 

「そして、君をシンデレラプロジェクトに配属した」

 

 輝きを失ったアイドルを復活させるという、赤羽根Pのプロデュースに真っ向から対立する部署に武内Pを配属した。優秀な事務員である千川ちひろを配属した。それはつまり、赤羽根Pに対する明確な意思表示であった。

 

「私は、346プロの方針に従う部署を全力で支援するつもりである。それを行動で示すのが目的だった。君には悪いが――」

 

 あまり期待はしていなかった。

 

 そもそも、調子を落としたアイドルを復活させるなんて、上手くいったためしの無いプロデュースである。そんな困難なプロデュースを、自信を失い辞表まで書いたプロデューサーに出来ると考えるほうが間違っている。シンデレラプロジェクトに配属された武内Pが成果をあげられると、本気で考える奴がいたらそいつは絶対に人事職に就いてはいけないと思う。

 

 だから、驚いた。

 本当に成果を出してしまうとは……。

 

 そして、期待した。

 

 シンデレラプロジェクトの成果は、そのまま赤羽根Pのやり方を否定する剣となる。赤羽根Pのやり方では、輝きを放つ可能性を持ったアイドルを逃してしまう。シンデレラプロジェクトがそれを証明している。

 

 だから――

 

 赤羽根Pとしては、シンデレラプロジェクトに成果を出されてはまずかった。だから、仁奈を再プロデュースする際には表立って反対してきた。プロデューサー会議の場で武内Pと意見を戦わせた。

 

 そして、武内Pは仁奈の再プロデュースに成功した。

 

 ――決定的だった。

 

 赤羽根Pが不要であると宣言したパレードによって市原仁奈は復活したのだ。どちらの言い分が正しかったのか、もはや議論の余地はない。

 

 これで、方針をあらためてくれると思った。

 346のやり方で、346のプロデューサーになってくれると思った。

 

 ――甘かった。

 

 赤羽根Pは、隣国と秘密裏に話をつけて軍事クーデターをおこすように、全ての準備を整えてから961プロへの移籍を告げた。

 

「これは、私の失態だ」

 

 美城常務がどんな顔をしていたか、思い出せない。

 最初に会った時は、シンデレラをいじめる継母みたいな顔をしていたと記憶しているが、目の前にいる美城常務は、シンデレラに復讐された継母みたいに生気が無い。

 

 きっと、信じていたのだ。

 

 それでも赤羽根Pを信じていたから、頬を土気色にする程度にはショックを受けてしまったのだ。

 

「……どうして、話してくれなかったのでしょうか」

 

 美城常務を責めているのだと思った。

 勝手に利用して、失敗して。だからボロボロに疲れた顔を見せられても許すことは出来ないと、武内Pにしては珍しく怒っているのだと思った。

 伊華雌(いけめん)の思い違いだった。

 武内Pは、何も言わずに引っ越してしまった友人の家を見上げて途方にくれるように――

 

「赤羽根さんは、どうして自分に何も言ってくれなかったのでしょうか……」

 

 同期の桜、という言葉がある。

 就職したことのない伊華雌には分からないが、同期入社の同僚は特別な存在であるのだと、今にも泣きそうな武内Pの顔を見て思う。きっと伊華雌が思う以上に、武内Pは赤羽根Pのことが好きなのだ。天才と呼ばれる彼に、憧れて、肩を並べようと頑張って、自分では友人であると思っていたのに――

 

 何も言ってくれなかった。

 

「赤羽根のことは、残念だが仕方ない。君には、アイドルのことを考えてもらいたい」

 

 デスマーチを乗り越えて瀕死のSEみたいな顔をしていてもそこは美城常務である。混乱する戦場においてなお冷静な指揮官のように――

 

「できる限りでいい。346のアイドルを守ってくれ。961に易々と奪われるわけにはいかない」

 

 しかし武内Pは美城常務を見ていない。窓の向こう、嫌でも目にはいる961プロのビルを見据えて――

 

「……大丈夫、でしょうか」

 

 ぼんやりとつぶやいた。その黒光りするビルのてっぺんでふんぞり返っているであろう人物に問いかけるように――

 

「赤羽根さんは、961プロに移籍して大丈夫なのでしょうか……」

 

 ため息があった。机に吐き出したそれを、平手で叩き潰して――

 

「武内。今考えるべきは移籍するプロデューサーのことじゃない。口車に乗せられて移籍してしまうかもしれないアイドルのことだ!」

 

 美城常務の焦りも分かる。

 でも、武内Pの気持ちも分かる。

 961プロは確かにトッププロダクションだが、よからぬ噂の絶えないプロダクションでもある。ネットの掲示板を漁れば、元961プロ社員を名乗る人間による暴露スレが転がっている。

 

「赤羽根が移籍した後は、島村卯月、渋谷凛、本田未央の担当を君に引き継いでもらうつもりだ」

 

 だから引きとめろ。鋭さを取り戻した美城常務の視線が命じる。

 しかし武内Pは、ぼんやりと窓の外を見ている。

 

〝武ちゃん! まずはアイドルだ! ニュージェネの笑顔を守るぞ!〟

 

 伊華雌が声をかけても、武内Pの反応は薄かった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

〝とりあえず赤羽根に会って話をしようぜ。ほら、喧嘩の時ってさ、両方から話を聞かないと本当のところは分かんないからさ!〟

 

 直接、赤羽根Pに会わせないとダメだと思った。でないと、悶々と考えこんでしまってアイドルを説得するどころではない。手も足も出ないマイク野郎であることをもどかしく思いながら、伊華雌はしつこく声をかけて武内Pをプロジェクトクローネの事務室まで歩かせた。

 

 先客がいた。

 喧嘩していた。

 

「失礼、します……」

 

 遠慮がちにあけたドアの向こうで、千川ちひろが赤羽根Pに詰めよっていた。

 

「どうして、何の相談もなしにこんな大事なことを決めちゃうの!」

 

 ちひろが机を叩いた。

 赤羽根Pは、警官に銃を突きつけられた犯人のように軽く両手をあげて――

 

「悪かったと思ってる。でも、仕方なかったんだ。誰にも話せなかった」

 

 ちひろは感情的にかぶりを振った。武内Pのプレゼントしたクリスマス柄のシュシュを振り回して――

 

「話せなかったんじゃなくて、話す気がなかったんでしょ! 赤羽根君は、いつもそうやって一人で勝手に……ッ!」

 

「あのっ!」

 

 武内Pが割って入る。同期入社の三人が視線をかわす。入社したばかりの頃はイースター島の石像のように同じ方向を見つめていたはずなのに、今はもう――

 

「美城常務から話を聞きました。本当に、961プロに行くんですか?」

 

 嘘だといってほしい。必死の形相を見せる武内Pに、赤羽根Pは容赦なくうなずく。

 

「俺も色々と考えるところがあってな……。急な話で――」

「自分のせい、でしょうか……? 自分が、シンデレラプロジェクトで成果を出したから……ッ!」

 

 自責の念に押し潰されそうな。そんな視線に、赤羽根Pは苦笑する。

 

「お前は、どこまでも〝いいやつ〟だな。別に、武内がどうのってわけじゃない。事務所と考え方が合わなかった。それだけの話だ。お前が気にすることじゃない」

 

「それならどうしてアイドルを連れていくの? 赤羽根君だけが961プロに行けばいいじゃない!」

 

 ちひろは、目の前で大切な骨を奪われた犬みたいにくってかかる。

 赤羽根Pは、何度も説明を要求されて、辟易としている政治家みたいに――

 

「アイドルにとっても、これはチャンスなんだ」

 

 断言は人の心を引き付ける。歴史に名を残すスピーチは数多くの〝断言〟によって構成されている。

 

「961プロはトッププロダクションだ。そこに移籍できるんだ。それだけでトップアイドルに近付くことができる。アイドルにとっても悪い話じゃない」

 

 続く反撃を、あらかじめ予測して防御を固めるように――

 

「もちろん、強制はしない。移籍するかどうかはアイドルの意思に一任している。俺はチャンスを提供するだけだ」

 

 ズルいなと、伊華雌は思う。そのチャンスとやらに、抗えないアイドルもいるのだ。きっとこのプロデューサーは知っているのだ。強制はしないが勝算はある。いい人の見本みたいなメガネ顔に書いてある。

 

「赤羽根さん……」

 

 怒ってやれと、伊華雌は思う。今こそブチ切れたフランケンシュタインの怪物みたいに怒って暴れて思い知らせてやればいい。

 しかし武内Pは、大事な人を失って悲しむフランケンシュタインの怪物みたいに目を細めて――

 

「自分は、寂しいです……」

 

 その顔に、見覚えがあった。塩見周子を引きとめる小早川紗枝が同じ顔をしていた。同じ目をしていた。

 

 きっと、理論武装していたんだと思う。何を言われても論破できる自信が赤羽根Pの背中を椅子の背もたれから離さなかった。

 それなのに、泣きそうになった子供に慌てるように、腰を浮かせて――

 

「いや、その、悪いとは思ってる。何も相談しなかったことも」

 

 私には! ちひろが横から噛みついてくる。悪かった悪かったと手しぐさで謝る。

 

「961プロは、悪い噂も多い会社です。移籍して大丈夫なのでしょうか?」

 

 ようやく自分の武器で戦える。赤羽根Pはどさっと背もたれに背中をあずけて――

 

「大丈夫だ。961プロとしてもアイドルは貴重な戦力だ。大切に――」

 

「自分が心配しているのは、赤羽根さんのことです」

 

 ずりりり……。背もたれを滑って沈みこんでいく。ずり落ちたメガネにちひろがクスクス笑いだす。失礼なちひろに言葉の鉄槌をくだすべく、赤羽根Pは座りなおしてメガネをなおして――

 

「何か、懐かしいね」

 

 毒気を抜かれた。

 その一言がどんな魔力を持っていたのか、伊華雌には分からない。きっと誰にも分からない。この世界で、この三人にしか分からないやりとりなのだと思う。

 新入社員時代の優しい思い出は、しかし咳払い一つで消えてしまう。

 

「とにかく、そういうことだから。何も相談しなかったことは、悪かった」

 

 謝ること。それはある意味で最強の護身術かもしれない。ごめんなさいと謝られると、それ以上攻撃できなくなる。

 ちひろは、落ち着いた手つきで乱れたスーツの襟首を直した。

 武内Pは、首の後ろをさわっている。

 

 携帯の着うたが流れた。

 

 トランシングパルスだった。

 武内Pはスーツの懐からスマホを取り出しながら部屋を出た。

 

『あっ、プロデューサー! あのさ……、その――』

 

 深夜の住宅街を思い出した。あの時も凛は、突然に日本語を忘れてしまったかのように口ごもった。

 

「何か、あったんですか?」

 

 どんな言葉でも受け止めるから。父親のそれを思わせる真剣な声が、凛のためらいを押し流す。

 そして――

 

『未央が、961プロに移籍するって……ッ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第3話

 

 

 

 新春のファミリーレストランは混雑していた。

 元旦? 知らねえよこちとら24時間年中無休なんだよ! と言わんばかりに「いらっしゃいませー」と言われた。お一人様ですか? お煙草は――。

 たたみかける店員に手のひらを向けて、ニュージェネの三人を探した。

 初詣帰りだろうか、家族連れが多かった。

 もう着物脱ぎたい。お年玉は大切に。大吉だった!

 正月気分に浮かれる声が一斉に襲いかかってきて、それでも伊華雌(いけめん)はその声を聞き逃さなかった。

 

「プロデューサーさんっ!」

 

 やはり自分の耳には島村卯月の声を聞き分けるノイズキャンセル機能が搭載されているのだと思った。テーブル席で手をあげる卯月を見て確信した。

 武内Pは、店内にひしめく客をかき分けて進み、開口一番に――

 

「あの、本田さんは!」

 

 テーブル席には凛と卯月しかいなかった。並んで座る二人の向かいにフライドチキンの骨だけがあった。一人ぶんのくぼみを残したソファーがあった。そのくぼみが、一足遅かった武内Pを嘲笑っているような気がした。

 

「未央ちゃん、ポジティブパッションのみんなと話があるからって、行っちゃいました……」

 

 こんなことになるとは思わなかったと、卯月の落ち着かない視線が語っている。一目で気合いを入れたとわかる服装から、初詣を楽しめると思っていたのだと思う。皿の上でしなびている生ハムメロンから、未央の話がどれだけ予想外であったのか分かる。

 

「おじちゃん、邪魔ーっ!」

 

 ドリンク片手に我が物顔で店内を駆け回っている子供が武内Pを見上げていた。

 武内Pはソファーに腰をおろし、凛と卯月を順に見て――

 

「赤羽根さんと、話してきました」

 

 説明した。赤羽根Pの移籍は決定事項であること。アイドルの移籍は本人の意思に任されていること。961プロへの移籍は、アイドルにとって悪い話ではないこと。

 

「でも、じゃあ、何もしないのッ? 本人の意思だからって、未央を961プロに行かせちゃうのッ!」

 

 凛が、机を叩いて立ち上がった。その乾いた音が店内に充満していた正月気分に蹴りを入れた。全ての視線が凛へ向けられた。

 

 しってるー、痴話喧嘩ー。

 

 母親が慌てて子供の口をふさいだ。大人たちが失笑して、信号が変わったみたいに凍りついていた空気がゆっくりと動き出した。

 

「最終的にそれを決めるのは、本田さん本人です」

 

 ソファーに座った凛がまた立ち上がろうとする。それをとめる卯月も、飼い主に蹴られた犬みたいな顔をしている。

 期待していたのだと思う。

 伊華雌も期待していた。武内Pなら、絶対に未央を行かせはしないと、本気の目つきで熱い啖呵をきってくれると思っていた。

 

「どこ行くの!」

 

 鋭い言葉だった。追い討ちをかけるように緑色の瞳を光らせた。

 束の間、渋谷凛と武内Pがにらみあった。

 眉をハの字にした卯月が、弱々しく凛の袖を引いていた。

 

「本田さんと、直接話をします。本気で961プロにいくつもりなら、確かめなければなりません」

 

「確かめるって、何を……?」

 

「961プロへ移籍して、それでも――」

 

 武内Pの返事を聞いて、伊華雌は理解する。

 彼はもう、未央を〝担当〟しているのだと。担当プロデューサーとして使命を果たそうとしているのだと。

 

 武内Pの使命、それは――

 

 

 

 * * *

 

 

 

 電話で連絡をとることはできなかった。気付かないのか、それともさけられているのか、何度かけても留守電になってしまった。

 

「家を、張り込みましょう」

 

 刑事のようなことを言われた。真顔だった。冗談を言っているつもりはなさそうだった。

 そして、伊華雌にも異論はなかった。

 今、この瞬間にも未央の気持ちが固まってしまうかもしれない。そうなる前に話をする必要がある。考えを改めてもらう必要がある。

 

〝未央ちゃんってさ、武ちゃんがスカウトしたの?〟

 

 未央の家へ向かう車の中で訊いてみた。正月の首都高は、まるで貸し切りサーキットのようにすいている。前後に車のいない高速を、それでも武内Pは法定速度で走る。

 

「本田さんは、346プロのオーディションに合格して、アイドルになりました。ただ、普通の合格とは少し違いますね。実質、あれはスカウトでした」

 

 当時、オーディション審査員の間で本田未央はちょっとした有名人だった。

 

 ――実は2~3人いるんじゃないか?

 

 まことしやかにささやかれるほど、ありとあらゆるオーディションに出現していた。本田未央15歳です! という挨拶を何度聞いたかわからない。

 それはつまり、それだけ落選しているということであり、お世辞にもアイドルの才能に恵まれているとは言えなかった。

 

 可愛くて、元気で、礼儀正しくて。

 

 それじゃだめなのだ。そんな、図鑑で〝アイドル〟と銘打たれて解説されているような女の子じゃ、だめなのだ。そんな女の子はいくらでもいるのだ。

 プロダクションが求めているのは、群れて泳ぐ銀色のイワシではない。群れてなお存在を無視できない自分だけの色を持ったイワシなのだ。

 本田未央は、とても美しく、しかし個性のない銀色のイワシだった。

 少なくとも、オーディション会場では。

 

 ――彼女がその真価を発揮したのは、不運にも審査員の目が届かない控え室だった。

 

 おおむねオーディションは5人前後のグループに分けられる。同じ控え室で待たされる。自分以外の人間は蹴落として這い上がるべきライバルであって、そこにたちこめる空気は闘技場の控え室を思わせるほどに張り詰めている。

 それが普通、なのである。

 それなのに――

 

 笑い声が聞こえた。

 

 そっとのぞいた控え室で、武内Pは信じがたい光景を目撃する。オーディション参加者達が、小学校からの幼馴染みなんですよと言わんばかりに笑っている。みんなで合格するぞと意気投合している。

 すぐにオーディション会場に行って、資料を見た。接点は見つからなかった。今日初めて会ったはずなのに、藁人形に顔写真張って五寸釘打ってやりたいほどに憎いライバルであるはずなのに、さっきの様子は、まるで――

 

 ユニット活動をしているアイドル。

 

 逸材がいるのだと思った。五人の中に、とんでもない逸材が。

 武内Pは審査員に口を利いた。一時審査を通過させて、二次審査では全員バラバラになるように控え室を分けてほしいと頼んだ。

 

 ――そして、発見した。

 

 二次審査の控え室で、またしても初対面のアイドル候補達と笑みを交わしている本田未央を。

 

 誰とでもすぐに仲良くなれる。

 

 これは立派な才能であって、アイドルの世界では特に重宝される。だってアイドルは、他のアイドルとユニット活動をするから。

 そして武内Pは、まさに本田未央のようなアイドルを探していた。

 

 卯月と凛。アイドルの世界を歩き始めたばかりの二人を、元気づけて勇気づけて最高の笑顔にしてくれる。そんなアイドルを探していた。彼女ならきっと、二人の笑顔を引き出して、そして自身も笑顔になって輝いてくれると思った。

 

〝それさ、未央ちゃんは知ってんの? その……〟

 

 ――採用された理由。

 

 武内Pは、F1レーサーみたいな目付きで相変わらず車の一台もいない首都高速から目を離さずに――

 

「本田さんには伝えていません。ですので、少し焦っています……」

 

 未央は知らないのだ。

 自分がどういうアイドルなのか? どうして、輝いていられるのか?

 

 つまり、未央は知らないのだ。

 

 その輝きは、移籍と共に失われてしまうことを……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第4話

 

 

 

 あんぱんと牛乳が必要だと思った。

 そのくらいの長期戦を覚悟しなければならなかった。

 

 未央の住む団地に到着したのは昼過ぎだった。出入り口の見えるところに車をとめて、まるで本物の刑事みたいだ! とはしゃいでいられたのは最初の二時間。それからは〝忍耐〟という言葉の意味を体で覚える体験学習の時間になった。

 

 ――さらに二時間。

 

 退屈は神を殺すという格言の意味が分かった。何もしないのが、こんなに辛いとは思わなかった。

 初詣帰りだろうか、着物姿の住人が行き来している。お年玉を握りしめた子供が駆け抜けていく。久々に集まった親戚連中が何を言われても笑っている。

 現れては消える住人を無感情に監視していると、自分が人間以外の何かになってしまったように思える。

 

 ――まあ、今は人間じゃなくてマイクなんですけどね。

 

 自分でボケて突っ込んで、そしてまた退屈の波に飲み込まれる。この退屈は、神様を殺しても不思議ではないと思う。

 

 ――さらに五時間。

 

 すっかり暗くなってしまった。出入りする住人も減ってきた。

 

〝武ちゃん、メシとかどうすんの? 俺が代わりに見張っとくから何か食ってきなよ〟

 

 武内Pは朝から何も食べていない。いい加減腹が減ってるはずだ。

 

〝近くにコンビニあったから何か買ってきなって。何も食わなきゃ体もたねえって。刑事だって張り込みの時はあんぱんと牛乳を持ち込むんだからさ!〟

 

 ようやく、うなずいてくれた。

 車を降りてコンビニに向かう足取りがおぼつかない。ちゃんと疲れているのだ。それなのに弱音を吐かないのだ。誰かが気をつかってやらないと、ぶっ倒れるまで働き続けてしまうのだ。だからこうやって、怒ってでも食事をとらせないといけないのだ。

 伊華雌(いけめん)は武内Pの友人であると同時に母親の役割も果たすようになっていた。

 

「お待たせ、しました!」

 

 武内Pは小走りで戻ってきた。

 

〝対象はいまだ現れず。張り込みを継続せよ〟

 

 刑事っぽい口調で言ってみた。長い張り込みなのである。少しくらい遊びたくなってくる。

 

「了解です」

 

 武内Pがコンビニ袋に手をいれた。中からあんぱんと牛乳が出てきた。どこまでも真面目なのだこの人は。

 

 コンコン。

 

 誰かが車の窓を叩く。あんぱんをくわえた武内Pが、電源を落とされたロボットみたいに停止する。

 天敵の登場だった。

 ヘビがカエルをにらむように、猫がネズミを狙うように、車の窓をのぞきこむのは――

 

 お巡りさん。

 

「通報がありましてねー。昼間からずっと同じ車がいるって」

 

 深淵をのぞきこむとき、深淵もまたこちらをのぞいている。

 つまり、そういうことである。

 監視すると同時に監視されていたのである。

 

 自分がいかに素人であるか思い知った。刑事なら絶対に犯さない初歩的なミスだと思う。何があんぱんと牛乳だ。刑事気取るならもっとちゃんと車を隠せよ。団地の入り口の真ん前に路駐とか、少しは隠れる努力をしろよ!

 

「身分証ある? 何してたの?」

 

 アイドルのプロデューサーで、アイドルを待っていました。

 

「昼からずっと? 連絡とればいいんじゃない?」

 

 連絡がつかないくて、それで待ってました。

 

「なるほどねー。実は最近、同じことを言ってる奴がいてさ。連絡がとれないから直接会うしかないから家の前で待ってるって。そいつ、結局何者だったと思う?」

 

 警官が微笑む。

 武内Pは首をさわる。

 

「ストーカー」

 

 取りあえず話は署で聞くから、車から降りて。警官の命令に武内Pは従う。でも、自分は本当に! 弁解しようとしても警官は取り合わない。はいはい、話は後で聞くから。そう言ってパトカーに連れこもうとする。

 伊華雌には何もできない。

 警官に意見することもできなければ、冴えたアイディアも浮かばない。残酷な猟師に捕獲されてしまった仲間を茂みから見つめることしかできない小鹿の悔しさにを胸に歯を食いしばる感覚を――

 

「プロデューサー!」

 

 よく通る声だった。まるで舞台女優のような、素晴らしい発声だった。

 

「この人、私のプロデューサーなんです!」

 

 二人組の警官が、視線を交わして、首をかしげて――

 

「……えっと、あなたは?」

 

 帽子を取った。伊達眼鏡を外した。だめ押しとばかりに――

 

「本田未央、15歳! アイドルやってます!」

 

 未央ちゃん! ニュージェネの! ポジパのだろ! うるせえ俺はニュージェネ派なんだよ! なんだとてめえファンファンファーレしてやろうか!

 

 警官は死んだ。

 そこにいるのは、警察の制服を着たドルオタ二人で、警視総監にも見せないであろう情熱的な敬礼をしてみせた。どこでもいいからサインしてくれといって制帽の裏にサインをもらった。持ち主の名前を書くべきところに本田未央と書いてある。誰の帽子だ! と警察署で騒ぎになるのはまだ先の話である。

 

「ありがとうございましたっ!」

 

 握手会に満足して立ち去るファンの挨拶を残してパトカーが走り去った。無音で赤色灯を回している。パトカーまでも浮かれているように見えた。

 

「プロデューサー、どうしたの? こんな時間に?」

 

 それはこちらの台詞である。団地の公園に設置された時計をみると、日付が変わるところである。

 

「961プロに移籍するというのは、本当ですか?」

 

 いきなり、斬り込んだ。

 しかし未央は、あらかじめ手の内を読んでいた侍のように、眉ひとつ動かさずに――

 

「武内プロデューサーには悪いけど、すごいチャンスだと思うから」

 

 業界トップの961プロへ入るということがどれだけ凄いことなのか? 未央はよく知っているのだと思う。いつも来ていると話題になるほどオーディション会場を渡り歩いていたのだから。961プロのオーディションが、他の事務所と比べて一段と厳しいことを肌で感じていたのだから。

 

 その961プロへ移籍できる。

 途方もない数のオーディション会場を渡り歩いていた未央としては、誘惑に抗えないのかもしれない。

 

 けど――

 

「ひとつだけ、訊いておきたいことがあります」

 

 真剣を大上段にふりかぶるように――

 

「……なに?」

 

 未央は、どんな一撃がきても受け流す自信のある剣士の無表情で――

 

「961プロへ移籍して、その時あなたは、笑顔でいられますか?」

 

 受け流すことが出来ない。表情が崩れて、心に隙ができて、そこに渾身のひと突きを――

 

「961プロのアイドルとして、346プロのアイドルと、島村さんや渋谷さんとすれ違って、その時あなたは、笑顔でいられますか?」

 

 張り込みの最中に教えてくれた。

 未央は仲間を笑顔にして、自分も笑顔になれるアイドルなのだと。満点の星空のように、仲間と一緒に輝くことができるのだと。

 

 ――でも、月にはなれない。

 

 たった一人で、それでも絶対の存在感をもって夜の女王になれるアイドルであるなら問題はない。月の輝きは夜空を選ばないのだから。

 

 けど、星は――

 

 みんな一緒でなければ輝くことが出来ない。夜空を選ばなくてはならない。一つでも欠けてしまえば、それは星座でなくなってしまう。

 

「最終的な判断は本田さんがしてください。ただ、自分は、本田さんの元担当、ニュージェネレーションズの元担当として言わせていただきます」

 

 外灯が武内Pの横顔を照らす。まゆを再スカウトした時みたいに、仁奈の母親を背負った時みたいに、みくと李衣菜を全力で励ました時みたいに――

 

「346プロの本田さんは、最高にいい笑顔をしていましたッ!」

 

 余裕の無表情など、とうの昔に消えている。泣きたいのか笑いたいのか、複雑な表情から感情を読み取るのは難しい。

 

「ごめん。ちょっと、わかんない……ッ!」

 

 武内Pは追いかけない。走りだした未央の背中を黙って見送る。

 

 ――やるべきことはやった。

 

 その横顔が語っていた。伊華雌にも異論はない。武内Pは担当プロデューサーとしてやるべきことをやったと思う。

 

 ――担当アイドルを笑顔にする。

 

 それが武内Pの〝やるべきこと〟であって、〝移籍するかどうか〟について意見を押し付けることはしない。それは本人が決めることだから。

 

〝未央ちゃん、残ってくれるかな……〟

 

 ニュージェネのステージを思い出す。

 息を弾ませる三人は最高にいい笑顔をしていた。

 業界トップの961プロで、業界トップの待遇で、業界トップのレッスンを受けて、業界トップのステージに立って、それでもあの笑顔は出せないと思う。

 

 あれは、ニュージェネという夜空でしか見ることの出来ない最高の三ツ星(ミツボシ)なのだ。

 

「本田さん、次第です……」

 

 その無表情から感情を読み取れるのは、伊華雌と佐久間まゆぐらいだろう。

 きっと、特別な存在なのだ。ニュージェネレーションズは、武内Pにとって特別なユニットで、三人がステージで見せる笑顔を、その奇蹟(キセキ)のような輝きを、諦めたくはないのだろう。

 

 頼むぜ、未央ちゃん……ッ!

 

 伊華雌は、祈る。とにかく祈る。ニュージェネという三ツ星が、その輝きが346プロという夜空に戻る日を願って、ただひたすらに祈り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第5話

 

 

 

 年が明けて最初の出勤日。

 

 プロデューサーはそれぞれの事務室で担当アイドルの到着を待ち、明けましておめでとうございますの挨拶を交わして最初の仕事を始める。

 

 ――契約更新。

 

 それは儀式的なものであり、緊張はない。

 スカウトとは違うのだ。

 更新するのが当たり前なのだ。

 契約書にサインをして、今年もよろしくお願いしますと頭をさげるまでが新年の挨拶なのだ。

 

 しかし――

 

 今年は様子が違っている。どのプロデューサーも合否通知を待つ受験生のようにピリピリしている。

 みんな、知っているのだ。

 赤羽根Pがアイドルを連れて961プロに行こうとしていることを。

 みんな、心配なのだ。

 担当アイドルが、果たして事務室のドアを開けてくれるかどうか。

 

 ――これは、アイドルにとってもチャンスなんだ。

 

 赤羽根Pの言葉に誰が反論できるだろうか?

 業界トップのプロダクションに移籍出来るのである。それはつまり、トップアイドルに近づけるということであり、アイドルにとってもチャンスなのは事実であって、だから移籍を否定できない。

 

〝未央ちゃん、考え直してくれたかな……?〟

 

 そこはシンデレラプロジェクトの地下室で、凍えるような空気とエアコンが戦っている。ちひろが用意した鏡餅が机の端に置いてあって、控えめに正月の余韻を漂わせている。

 

「もっと、情熱的に引き留めたほうが良かったでしょうか……?」

 

 未央ぉぉおお――ッ! 行くなぁぁああ――ッ!

 

 夜の団地で絶叫する武内Pを想像し、伊華雌(いけめん)はかぶりを振る感覚を思い出した。

 情熱的な言葉が効果的なアイドルもいれば、そうでないアイドルもいる。

 未央の場合、売り言葉に買い言葉で感情的な言葉のやり取りになってしまうような気がした。そして深夜に仲良くポジティブパッションした二人は、お巡りさんのお世話になって仲良く留置所で一夜を明かしたのでした……、というバッドエンドを想像できてしまうあたり、情熱的な言葉は避けて正解だったと思う。

 

 カン。

 

 地下室に続く非常階段の音が聞こえた。

 武骨な鉄の階段である。その音は四方をコンクリートに囲まれた地下空間によく響き、それが来客を知らせるインターフォンの役割を果たしている。

 さらに伊華雌ほどのベテランになれば足音でアイドルの判別が可能になる。

 聞こえる足音は嬉しそうに跳ねている。大好きな恋人の部屋に向かう女の子の足音である。

 鉄扉を開けるのが誰であるか、絶対の自信をもって断言できる。

 

「プロデューサーさん、まゆですよぉ……♪」

 

 ですよねー、知ってた!

 

 この喜びを隠さない足音は、佐久間まゆ特有のものである。まゆはもう、全開なのだ。〝大好き〟が足音にまで溢れているのだ。

 

「プロデューサーさん、はいっ……」

 

 学校帰りだろうか、制服姿のまゆがカバンから取り出した。

 契約書だった。

 赤かった。記入するところが全部赤字だった

 

「ずっと、まゆのプロデューサーさんでいてくださいね……」

 

 おかしいな。一年契約の更新をしたはずなのに、婚姻届を受け取ったような錯覚を覚えてしまう。

 ……しかし、まゆならそのうちやるかもしれない。

 しれっと契約書の代わりに婚姻届をだして、そのまま市役所にゴぉぉおお――ル!

 

「また、よろしくお願いします」

 

 武内Pが頭をさげて、まゆが微笑む。

 

 ――理想的な契約更新だと思った。

 

 プロデューサーと担当アイドルが強い信頼の絆で結ばれていれば、移籍の誘惑なんて気にする必要はない。すべてのプロデューサーとアイドルが武内Pのまゆの関係であれば、移籍話におびえる必要なんて無い。

 ――と、思うものの、それはつまりすべてのアイドルがヤンデレな346プロということであり、アフガニスタンの激戦区と同じくらい生存確率の低いプロダクションになってしまいそうだと思った。

 

 カカン!

 

 二人ぶんの足音が聞こえた。

 仲良くじゃれる子供を思わせる足音である。もしもこれが1000万のかかった足音当てクイズであっても、伊華雌はファイナルアンサーを迷わない。

 

「Pチャン、お疲れさまーっ!」

「お疲れー、プロデューサー」

 

 みくと李衣菜が入ってきた。

 小学生の子供が家に帰ってきた大家族みたいにシンデレラプロジェクトの地下室が騒がしくなる。

 

「Pチャン! 今年はキュートなアイドル活動したいにゃ!」

「プロデューサー、今年はロックにいこうね」

 

 二人ぶんの契約書が差し出される。

 受け取って頭をさげる武内Pを尻目に口喧嘩が始まる――

 

「李衣菜ちゃん。今年はキュートにいくにゃ。アスタリスクはキュートで可愛いユニットにするにゃ!」

「いーや! クールでロックなイメージを押し出すべきだと思うんだよね。キュートなアイドルユニットとか、普通すぎて埋もれちゃうよ」

「クールでロックなアイドルユニットだってホコリをかぶっているにゃ! だから、もう一味(ひとあじ)必要なんにゃ。ただキュートなだけじゃなくて、アスタリスクがアスタリスクであるための――」

 

 学校のカバンに手を突っ込んだみくが、渾身のドヤ顔で八重歯を光らせながら――

 

「ねこみみっ♪」

「却下!」

 

 迎撃ミサイルを思わせる即座にして無慈悲な否定。

 そして李衣菜は、ライブハウスの片隅でアコースティックギターを鳴らしながら人生の真理を説く伝説のギタリストを、エアギターで再現しながら――

 

「ロックでクールじゃ物足りないなら、ギターを持てばいいんじゃない? デュオバンドなアスタリスク、悪くないと思うな……」

「自分で自分の首を絞めるのはやめたほうがいいにゃ。アスタリスクがギターバンドユニットになって、困るのは李衣菜ちゃんにゃ」

 

 エアギター李衣菜が、したり顔をひきつらせた。

 

「な、なんでわたしが困るわけ!」

 

 みくは、いつまでたっても初歩的な算数が出来ない小学生に呆れる教師のようなため息を落として――

 

「李衣菜ちゃんがギター弾けないからに決まってるにゃ。二人並んでエアギターで笑われるのが嫌なら大人しく猫耳を受け入れるにゃ」

 

 やられっぱなしじゃ終われない。李衣菜の瞳が、好戦的な光を放ち――

 

「でもさぁ、仮にアスタリスクが猫耳ユニットになったとして、困るのはみくちゃんだと思うけど?」

「根拠のない負け惜しみはみっともないにゃ。アスタリスクが猫耳ユニットになったら、みくは大喜びで――」

 

「きっと、増えると思うよ――」

 

 ドラキュラに隠し持っていたニンニクを突き出すような、一発逆転のドヤ顔で――

 

「お魚の仕事!」

 

 みくが死んだ。

 

 まるで速効性の毒を血液注射されたみたいにソファーに倒れた。震える手を伸ばしてまゆに助けを求める。

 

「まゆちゃん、なんとかしてにゃ。李衣菜ちゃんがいじわるにゃ……ッ!」

「お魚は美味しいですよ……」

 

 柔らかく微笑むまゆはみくの援護をしてくれない。

 

「じゃあPチャン! Pチャンはお魚食べられるの!」

 

 武内Pは、申し訳なさそうにうなずく。

 伊華雌の見ている限り、武内Pは食べ物にこだわりのない人である。何でも残さず食べている。もしも武内Pがペットだったら、飼育しやすくて人気がでるタイプだと思う。悪いペットショップであれば〝残飯処理に最適〟という売り文句を付けるかもしれない。

 

「コドモなのはみくちゃんだけだね。ってか、何で魚が苦手なの?」

 

 みくはのっそりと体を起こし、ブレザーの制服についたシワをのばし、李衣菜のセーラー服の黄色いスカーフを睨みながら――

 

「お魚は、キモいしクサイにゃ」

 

 お魚に転生しなくて良かったと思う。嫌悪に顔を歪めながら“キモいしクサイ”とか言われたら、ショックでマリアナ海溝に潜りたくなる。そして深海魚の世界で叫ぶのだ。

 失望しました! みくにゃんのファンやめま――

 

「でもさ、食べ方によっては大丈夫かもよ。今度、カレイの煮付け作ってあげるよ。得意料理なん――」

「ノーセンキューにゃ!」

 

 みくは意地になった幼児のようにそっぽをむいて――

 

「みくは自分を曲げないよ!」

「……いや、そこは曲げようよ」

 

 可愛くもわがままな幼女に振り回されるお父さんのように苦笑する李衣菜がいて、そのやり取りを優しく見守るまゆがいる。

 

 まるでここは核シェルターのようだと伊華雌は思う。

 

 今、346プロは〝961プロへ移籍〟という核爆弾の爆風が吹き荒れているというのに、シンデレラプロジェクトにその影響はない。

 

 武内Pのプロデュースだからこそ、だと思った。

 

 アイドルを笑顔にするプロデュースは、結果を追い求めるプロデュースよりもアイドルと強い絆を結ぶことができるのだ。移籍の話なんて、一笑に付して退けてしまうほどの信頼で武内Pと担当アイドルは結ばれているのだ。

 

 だから、核シェルターなのだ。

 何があろうとシンデレラプロジェクトは安全なのだ。

 

「ところでさー」

 

 李衣菜が、天気の話でもするかのように何気なく――

 

「周子ちゃんって、本当に移籍しちゃうの?」

 

 核シェルターだからこそ、話題にできる。自分達に関係ないから心配できる。火事を心配するのはいつも対岸にいる人間だ。

 

「本当に移籍しちゃうみたいにゃ。紗枝ちゃんが説得してたんだけどね……」

 

 女子寮の出来事を思い出す。はんなりでお馴染みの紗枝が怒っていた。きっと、それだけ真剣に向き合っていたのだ。怒るってことはそれだけ相手に本気であると、言っていたのは誰だっけ……?

 

「LiPPSのメンバーは、全員移籍しちゃうみたいです」

 

 まゆが残念そうに顔を伏せる。

 伊華雌も残念だった。

 年末の紅白歌合戦。プロジェクト・フェアリーの後ろで踊る姿が、まさか最後のLiPPSになるとは思わなかった。もしかしたら961プロで再びユニットを組むかもしれないが、それはLiPPSとは呼べないような気がする。

 

 ――その時、足音が聞こえた。

 

 みんな、反射的に耳をすませた。二人ぶんの足音だった。ひとつは音が軽かった。子供の足音だと思った。第三芸能課の誰かが来たのだと予想するが、それにしては静かすぎる。第三の子供達は五秒以上黙っていると死んでしまうはずである。

 

 ――じゃあ、誰だ?

 

 伊華雌のデータベースにない足音だった。

 その二人は、ドアの前に来ると、アンタはここで待ってて、と言い置いて、ドアを開けて――

 

「あけおめー☆」

 

 城ヶ崎美嘉だった。ギャルピースをしていた。

 

「ちょっと、話いいかな?」

 

 彼女は能天気なピースを引っ込めると、カリスマモデルとしてランウェイに挑む時の目付きで、武内Pをじっと見据えて――

 

「移籍の件で、アンタに話したいことがあるの……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第6話

 

 

 

「未央から、話きいたよ」

 

 城ヶ崎美嘉のヒールが音を立てる。その乾いた音がシンデレラプロジェクトの地下室に響き渡る。

 

 ――踏まれたい。

 

 そんな風に思う人間は少なくないだろうなと伊華雌(いけめん)は思う。現に、ここに一人……。

 

「961プロに行って、それでも笑顔になれるかって訊いたんだって?」

 

 一際大きな音を立て、足を止める。武内Pの真正面で、堂々と腰に手を当てて、

 

「それさ、答えあるの?」

 

 武内Pは、美嘉の鋭い視線を受け止めてうなずく。

 

「本田さんは、961プロでは笑顔になれないと思います」

 

「……何で、そう思うわけ?」

 

 武内Pは説明する。未央はアイドルの仲間を笑顔にして、自分も笑顔になることができるアイドルである。反面、誰かの笑顔を奪ってしまうと、自分も笑顔になることができない。

 

「本田さんは、346プロという夜空にあって初めて輝ける星なのだと思います」

 

「へえ……、なるほどね」

 

 今まで恐い顔をしていた美嘉が、急に笑った。にぱっと、ギャップに惚れてしまうくらいの人懐っこい笑みを浮かべて――

 

「未央のこと、よく分かってんじゃんっ♪」

 

 カリスマギャルの見せる無邪気な笑顔に、伊華雌はふへへとキモ笑いを披露する感覚に支配されてしまうが、武内Pは動じない。もしかして目が見えていないのかなと、疑ってしまうほどに美嘉の笑顔をスルーして、

 

「自分は本田さんの担当ですから」

 

 美嘉の笑顔が、貧乏な家のカルピスみたいに薄くなった。“薄幸のカリスマギャル”というタイトルのCDジャケットにふさわしい表情になる。

 

「……じゃあさ、アタシは、どうかな?」

 

 まるで、迷子の子供みたいな目をして――

 

「もし、アンタがアタシの担当だとして、そしたら、961プロに移籍させる?」

 

 難しい質問だと思った。城ヶ崎美嘉ほどのアイドルであれば、どこに行っても通用すると伊華雌は思う。961プロへ移籍すれば、アイドルとしてのステップアップになるかもしれない。もちろん、個人的な感情としては絶対に移籍して欲しくないけど。

 

「城ヶ崎さんは、移籍には向いてないと思います」

 

 武内Pの言葉に伊華雌は耳を疑う。

 いや、向いてんだろ! と言いたくなる。天下のカリスマJKモデル城ヶ崎美嘉だぞ! 事務所が大きければ大きいほどその力を発揮できるんだぞ! もちろん、行ってほしくはないけどッ!

 

「城ヶ崎さんは、たくさんのアイドルに慕われています。移籍すれば、たくさんのアイドル達を悲しませることになります。それでも笑顔になれるのであれば、移籍しても成功できるかもしれませんが……」

 

 武内Pは、娘を叱る父親のように、厳しさと優しさを真剣な眼差しに込めて――

 

「城ヶ崎さんは、移籍をするには優しすぎます」

 

 美嘉の中で、何かが溶けた。

 目を見開いて、眉根を寄せて――

 

「つまりアタシは、移籍しないほうがいいってこと?」

 

 武内Pは、ゆっくりと、しかし迷わずにうなずいた。

 

「そっか……」

 

 美嘉は、何かを噛み締めるように目を閉じて、自分のことを本気で心配してくれた父親に笑みを向ける女子高生のように――

 

「わかった。そうするっ♪」

 

 ギャルを主張する派手なネイルを誇らしげに見せつける指が、カバンの中から取り出した。

 

 ――契約書。

 

「美城常務がさ、346プロに残るならアンタに契約書を渡せって。だから――」

 

 城ヶ崎美嘉は、どこからどうみても城ヶ崎美嘉としか言い様のないギャルピースを決めながら――

 

「よろしく、担当プロデューサー!」

 

 ――城ヶ崎美嘉が仲間になった!

 

 言葉にすれば簡単だが、その衝撃は計り知れない。

 RPGですこぶる強いゲストキャラが仲間に入った時のような、いやむしろ、魔王を倒したら仲間になりたそうにこちらを見ていた時のような、えっお前仲間になんの! という驚きが喜びよりも先にくる。

 つまり喜びは遅れてやってくるわけで、ようやく理解の追いついた伊華雌は絶叫する――

 

〝美嘉ねえぇぇええ――ッ!〟

 

 まさか346プロにおいて地位も場所も底辺のシンデレラプロジェクトに城ヶ崎美嘉をお迎えできる日がやってくるとは思わなかった。大リーグの外国人選手が何かの手違いで入団してくれた弱小球団の監督こそ、今の伊華雌の心境を比喩するのにふさわしい。

 

「まー、アタシ的にも移籍はどうかなーって思ったんだよね。莉嘉に移籍の話をしたら、行かないでーって泣かれたし」

 

 そういえばと、思い出す。

 足音は二つだったはずだ。誰かがドアの外で待たされているはずだ。

 

「泣いてないよ!」

 

 ドアを勢いよく開けて踏み込んでくる。

 妹の特権だろう。カリスマと一目おかれる姉をにらんで、一切の遠慮もなしに詰めよって、威嚇するように長い八重歯を光らせて――

 

「泣いてないよ!」

 

 しかし美嘉は、オネショしたのにしてないと怒る子供に呆れるお母さんのような笑顔で――

 

「泣いてたじゃん。べそべそ泣いて、初詣の時もずっとむくれてたじゃん」

 

「そんなこと――」

 

 美嘉の手が、莉嘉の頭を撫でた。

 

 噛み付こうと興奮していた犬が、急に優しくされて戸惑って、しかし勢いはとまらなくて、噛み付くために半口を開けた状態で動けなくなってしまったように、莉嘉は行き場の無い八重歯を光らせたまま頭を撫でる姉を見つめて眉をしかめた。

 どうして頭を撫でるのか? それで誤魔化してしまおうとしているのか? こんな、みんながいる前で泣いたことをバラされて、それはつまり通学路にオネショのシーツを干されたようなもので、姉と言えどもその狼藉を許すわけには――

 

「アンタのお陰で、冷静になれた。移籍について、考え直すことができた。だから――」

 

 ――ありがとね、莉嘉。

 

 莉嘉の中で、二つの感情が戦っているのだと思った。

 氷水を張った風呂場に熱湯をドボドボと流し込んだみたいに、すぐには混ざらない二つの感情がせめぎあって、だから感情の置き所が分からなくて、口元にこみ上げる笑みをこらえながらそっぽを向くという中途半端な表情を披露してしまう。

 

「べっ、別に、あたしだけじゃなくて、他の子もお姉ちゃんに行ってほしくないって、言ってたし……」

 

 最後の意地を吐き出して、こみ上げる笑みを我慢しない。

 小さな子供のいる家の冷蔵庫のような、もはや下地が完全に見えなくなるくらいにデコられている学校のカバンに手を入れて、笑顔そのままに差し出してくれた。

 

「あたしもよろしくね、P君っ♪」

 

〝ファミリアツインきたぁぁああああ――ッ!〟

 

 もう叫ぶしかないだろう。

 城ヶ崎姉妹が仲間になるとか、ラスボスが仲間になったと思ったら裏ボスも仲間になりたそうにこちらを見ていますみたいな。えっ、お前も仲間になんのっ! という驚きに伊華雌は叫ぶことしかできない。

 

 シンデレラプロジェクトは、もはや346プロ最弱ではない。

 

 仲間が増えて、その心強さにテンションが跳ね上がって、負ける気がしない。シンデレラプロジェクトにとって最高のお年玉だと思った。

 こんな素敵なお年玉、生前を振り返っても貰った覚えが当然無い。

 むしろ、思い出せば出すほどろくなお年玉を貰っていない。

 札だと思ったら丁寧におりこんだ図書券だったあの正月。これで勉強しなさいねとしたり顔の親戚。

 分かったよ〝お勉強〟してやんよぉぉおお――ッ! と書店に突撃してエロ本を買ったあの正月が懐かしい。

 

 カカカン。

 

 足音が聞こえた。〝新春エロ本事件〟の思い出を振り払った。そんなクソみたいな記憶を脳内で再生している場合じゃない。

 どう考えてもおかしい。

 だって、シンデレラプロジェクトのアイドルは全員揃っているのだ。みくと李衣菜がソファーでじゃれて、まゆは武内Pの前、――じゃなくてすぐ後ろに移動している。

 

 ……いつの間に移動したんだ?

 

 この子は本当に、音もなくプロデューサーとの距離を詰めるな。暗殺の先生がみたら、10年に一人の逸材じゃぁぁああ――ッ! と絶賛してもおかしくない隠密行動のスキルを持っている。

 

 いや、今はアサシンまゆについて考察している場合じゃなくて……ッ!

 

 降りてくる足音は三つ。それなりの重みがある。子供のそれではないと思う。

 しかしそれ以上のことは分からない。

 伊華雌の足音データベースにはシンデレラプロジェクト所属アイドルしか登録されていないので、状況証拠から推測して答えを捻り出すしかない。

 

 きっと、クローネのアイドルだと思う。

 美嘉と同様に、346に残りたいならシンデレラプロジェクトへ行けと言われたのだと思う。

 

 じゃあ、もしかして――

 

 あの時、美城常務は言った。

 ニュージェネの三人は武内Pが担当することになると。

 じゃあ、ついにこの瞬間がくるのか?

 

 ――ラブリーマイエンジェル、島村卯月が降臨するのかッ!

 

 そんなの、掃き溜めに鶴――いや、違うな。掃き溜めに天使――いや、もっとだ。彼女の笑顔は、掃き溜めのような地下室をキレイキレイしてくれるのだ。だからふさわしい表現は――

 

 掃き溜めにゴミ収集車!

 

 ――って、それだと卯月ちゃんがゴミ収集車になってんじゃねえか、ふざけんなッ!

 

 期待が高まりすぎて錯乱状態に陥る伊華雌であったが、ドアの前に迫る足音に冷静さを取り戻す。

 

 迎えてやらなくてはならない。

 向こうからは見えないけど、でも、最高の笑顔で、島村卯月を――

 

「ちーっす。入るぞー」

 

 そうそう。このフワフワの髪の毛。男っぽい口調。太い眉毛。どこからどうみても島村卯月に――

 見えねーよっ! 神谷奈緒だよ! でも嬉しいよ! いらっしゃい奈緒ちゃぁぁああ――ッ! 髪の毛モフりてぇぇええ――ッ!

 

 モフモフ勝負で唯一羊に対抗できる人類として名を馳せている神谷奈緒が入ってきた。

 続いて誰がやって来るのか、当てるのは難しくはない。圧倒的なモフモフモザイクで顔を隠されていても余裕。連想クイズで予想できる。杏と言ったらきらり! アーニャと言ったらミナミィー! かな子と言ったらマカロ、――じゃなくて智絵里!

 そして、奈緒と言ったら――

 

「おつかれーっ」

 

 北条加蓮以外の選択肢は無いのである。

 病弱だったのは過去の話。今は恋の病を振り撒く病原菌として大成した北条加蓮である。

 ――って、加蓮ちゃんを菌扱いはまずいだろ! モフモフの人に絞め殺されるぞ! 神谷奈緒の毛で窒息死とか、むしろイエス! ――いやっ、イエスじゃなくてっ!

 

 伊華雌は冷静さを失っていた。それも当然であった。

 感覚としては、盆と正月がスクラムを組んで突撃してきたようなものである。

 ファミリアツインが加入しただけでもお祭り騒ぎなのである。

 それなのに、それなのに――

 

「また、あんたがあたしのプロデューサーだね。……まあ、悪くないかな」

 

〝凛ちゃぁぁああああああ――――ッ!〟

 

 色んなことがあったのだ。

 伊華雌が転生したばかりの頃は、凛と武内Pは喧嘩状態で、そこから少しずつ関係を修復して、頼ってくれるようになって、そして今――

 

 ――担当プロデューサーになった。

 

 契約書を受け取る武内Pの横顔はいつもと変わらない。普通の人には、いつもの仏頂面に見える。その表情の些細な変化に気付くことが出来るのは、伊華雌と佐久間まゆぐらいである。

 そう、伊華雌と、そして佐久間まゆには分かってしまうのである……ッ!

 

「プロデューサーさん、嬉しそうですね……」

 

 目が恐いですまゆさん。目が恐いですまゆさん!

 大事なことじゃないのに二回言ってしまうほどの迫力があった。

 最近はずっといい子だったから忘れていたけど、そういえばこの子ヤンデレの申し子だったなと思い出した。どんなに人馴れしていてもライオンがライオンであるように、サーカスに何年いようが熊が熊であるように、恋敵のいない世界で大人しくしていようが佐久間まゆが佐久間まゆであるという事実は変わらない。隠しているだけでヤンデレという爪と牙を持っている。

 

「まゆの時よりも、嬉しそうですね……」

 

 特定の侵入者を感知すると起動する古代兵器。さっきまで大人しかったのに急に目を光らせて冒険者に襲い掛かる。

 何の映画か忘れたけど、病みに飲まれた目を光らせて武内Pに詰め寄るまゆの姿は起動した古代兵器のようだった。

 さっきまであんなに大人しかったのに、今はもう1フレームで懐から刃物を取り出しそうだ……。

 おい、首の後ろさわってる場合じゃないぞ。うまいこといって誤魔化さないと、その首もっていかれるぞ!

 

「自分は、皆さんのプロデュースを担当できて、それがとても嬉しいんです」

 

 さあ、この回答は果たして何点か? 無難な回答だとは思う。ギャルゲーだと好感度の変化の無い選択肢だと思うけど、果たしてまゆの審判は……ッ!

 

「そうですね。まゆも、プロデューサーさんに担当してもらえて嬉しいです……」

 

 セーフッ!

 選択を間違えたら床がパカっと開いて奈落の底に落とされる恐怖のクイズで正解できた時の安堵に脱力感がとまらない。

 このスリルは久々である。

 ずっとサビ抜きの寿司を食べてて、久々に強烈なワサビ入りの寿司を食った時みたいな、懐かしい刺激を喜んでいる自分がいた。

 いい子なまゆもいいけれど、たまには病んでるところも見たい。

 人間は業の深い生き物である。

 

 ……いや、人間っていうか、俺か。

 

 登山家が山頂で振り返って、こんなところまで来てしまった……、と感傷にひたるように、伊華雌も感傷に浸っていた。

 いつの間にか、随分と紳士の扉を開けてしまった。

 もう、自分の性癖が何なのか分からなくなってしまった。

 これが〝大人になる〟ということなのだろうか……?

 

 伊華雌が大人の意味を履き違えていると、また足音がした。三人分の足音だった。

 

 もう、二択だと思った。

 二分の一で、島村卯月だと思った。

 

 階段を降りる足音が近づいてきて、伊華雌の緊張も高まっていく。取りあえず、服を脱いだ。正座をした。全裸待機というやつである。

 もちろん〝感覚〟の話である。

 そして慌てて服を着る感覚を追加する。

 何で全裸になるんだよ! 憧れのアイドルが来るかもしれない。よし、全裸になろう。

 おかしいだろ!

 その思考回路は紳士として成熟しすぎだろう! 好きな女の子に己の全てをさらけ出して喜んじゃうとか、お巡りさんの出番だよッ!

 

 伊華雌は高まりすぎた期待に翻弄されて錯乱していた。

 そしてついに、島村卯月のそれらしき足音がドアの向こうにやって来た。

 伊華雌は、教会のドアを開く花嫁を迎える真剣さをもって地下室の無骨な鉄扉を見つめた。

 

 アホ毛が出てきた。

 

 本人に先駆けて、太く、立派な、満月の夜のススキみたいなアホ毛が出てきた。もし自分がバッタだったら迷わずに飛びついている。

 ススキよりも小日向美穂のアホ毛だろうがぁぁああ――ッ!

 とか絶叫しながら飛びついている。

 驚いた美穂に叩き潰されてもそれは本望。美穂の手で逝けるのであれば、バッタの生涯として一遍の悔いもないだろう。

 

「あの、おつかれさまですっ」

 

 美穂に続いて入室してきたのは五十嵐響子で、つまり伊華雌の予想は的中していた。

 トライアドに続いてやってきたのはPCSで、PCSといえば、PCSといえば――

 

「プロデューサーさん、お疲れ様ですっ♪」

 

〝うっ、うッ、卯月ちゃぁぁぁぁああああああああ――――――ッ!〟

 

 今年一番の絶叫だった。

 どんな絶叫マシンをもってしても、これほどまでの絶なる叫びは引き出せないと思った。

 嬉しいのだ。

 大願成就の瞬間なのだ。

 予想外の形であるが、伊華雌と武内Pの悲願である、島村卯月の担当に――

 

「島村卯月、頑張りますっ!」

 

 契約書を差し出されて、いよいよ武内Pは涙ぐむ。

 後ろに立つまゆの病みが、ロケットブースタで射出されるスペースシャトルのように加速して、その恐怖に伊華雌も涙ぐむ。

 

 でも、恐怖の感覚に、喜びが勝ってしまう。

 

 もう、実感がなかった。

 なりたくてなりたくて、それはもう語りきれないほどに語ってきたのだ。

 もし、島村卯月の担当に返り咲けたらどうするか?

 そんな夢物語を、ベッドで散々ピロートークしてきたのだ。

 それがついに、実現するのだ。

 

〝……やったな、武ちゃんッ!〟

 

 それしか言えない自分に腹が立った。

 もっとこう、今の感動を伝えて分かち合う言葉があるだろうと思うが何も出てこない。

 結局、言葉なんてその程度なんだと思った。

 島村卯月の担当になれた喜びを伝えるために、言葉というコミュニケーションツールは未熟すぎる。今こそ、サイキック☆テレパシーの出番である。

 

 カン。

 

 フィナーレの足音が聞こえた。

 ここまでくれば、もう分かる。いくら空気が読めなくて、専門学校のリア充どもに〝KYという概念を越えた何か〟と悪口を叩かれていた伊華雌でも、誰が来たのか見当がつく。

 誰が来るべきなのかキャスティングできる。

 

 大団円だ。

 

 ここであの子がきて、ニュージェネが集合して、三人が抱き合って、尊みが爆発して……。ああ、そうなったら号泣するな。ウオンウオン言いながら泣いちゃうな。

 

 さあ、号泣の準備はできた。グランドフィナーレの時間だッ!

 

 降りてきた足音が、ドアの前で止まる。

 鉄扉のノブが回る。

 アイドルとプロデューサーとマイクが息を呑んでその瞬間にそなえる。

 

 そして――

 

「じゃーん♪」

 

 千川ちひろだった。

 その場にいる全て人間が真顔になった。

 

 ちひろが悪いわけじゃない。皿に乗ったお餅を持ってきて「じゃーん♪」しちゃったちひろには何の罪もない。

 ただひたすらに、タイミングが悪いだけである。

 でも悪いものは悪いので、この場にいる全てのアイドル・プロデューサーに代わって伊華雌は叫んでやる――

 

〝お前じゃねぇぇぇぇええええええええ――――――――ッ!〟

 

 その場の空気は、本田未央を待っていた。日野茜と高森藍子を引き連れてポジティブパッション参上! とか言って欲しかった。

 餅を持ってきたちひろに「じゃーん♪」とか言ってもらいたくなかった。

 

「わあっ、すごくにぎやかになっちゃいましたね。お餅、もっと持ってきますね」

 

 ちひろと一緒に何人かのアイドルが階段を上がる。すっかり新年会の雰囲気で、やっと正月がやって来たと喜びたいところではあるが、まだ喜べない。

 パズルのピースが揃っていない。

 大事な大事な、ど真中の一つが欠けてしまっている。

 

「お餅が、詰まったにゃぁぁ…………ッ!」

「わああっ、みくちゃんが! どうしよおっ!」

「背中を、叩かないと……ッ!」

「卯月っ、叩いてあげてっ!」

「はいっ! 島村卯月、頑張りますッ!」

「ニ“ャッ!」

 

 餅みく騒動を眺めつつ、伊華雌は願う。

 きっと来てくれると信じている。961プロになんて移籍しないと信じている。今頃、移籍すると宣言してしまった手前どんな顔をしていいのか分からなくて、気合いです! とか、大丈夫ですよ~、とか説得されて、そろそろ意を決して地下室に降りてくれるんじゃないかと希望を(いだ)く。

 

 しかし、みくが2回餅を喉に詰まらせて、李衣菜が1回餅を喉に詰まらせて、新年会がお開きになってアイドル達が帰り始めて武内Pと凛と卯月だけになって――。

 それでも最後の一人はドアを開けてくれなかった。

 

 夜の9時だった。

 

 武内Pは立ち上がり、凛と卯月に告げる。

 

「自分は、明日、本田さんの家に行こうと思います」

 

 スマホの画面を睨んでいた凛が顔を上げた。そのスマホの画面は〝本田未央 発信中〟となっている。一時間ほど連絡を試みているが、繋がる気配がなかった。

 

「私も、一緒にいく」

 

 凛が立ち上がり、卯月も立ち上がった。

 

「では、一緒に行きましょう」

 

 翌日、武内Pは凛と卯月を従えて未央の家に向かう。

 

 ニュージェネという三ツ星を輝かせるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第7話

 

 

 

 未央の家に向かう車の中。

 

 運転席の武内Pが口を閉じているのはいつものことだけど、後部座席の凛と卯月まで黙っているのは珍しい。幼馴染みが隣に座っているのに、長電話の武勇伝がウィキペディアに載っているのに、それなのに押し黙っている。合否発表を前に緊張が高まりすぎて青ざめている受験生の演技であれば、アカデミー賞を三回くらい取れる表情をしている。

 

 それだけ、大切なのだと思う。

 ニュージェネレーションズというユニットが、下唇を強く噛んでしまうほどに大切で、失いたくなくて、だから卯月は押し黙っているのだと伊華雌(いけめん)は思った。

 

「……きっと、大丈夫だから」

 

 膝の上で震える手を、慰めようとするかのように凛の手が包む。卯月の表情が、少しだけ緩む。言葉も無しに卯月を励ましてしまった。

 

 これが幼馴染みか……。

 

 伊華雌は感心する。自分にはそんな芸当出来ないし、そもそもする相手が――

 

 いや、いるじゃん。

 

 道路から目を離さない武内Pを見て思う。

 自分にも、言葉なんてなくても気持ちが分かる相手がいる。落ち込んでいたら、背中を叩いて励ましてやりたい相手がいる。それがどれだけすごいことなのか、自分ほど実感できる奴もいないだろうと伊華雌は思う。

 

 20年であり、240ヶ月であり、7300日である。

 

 それが伊華雌の〝友達いない暦〟である。

 改めて振り返ると気が遠くなるような年月を独りで過ごし、人間をやめてマイクに転生してようやく友達に出会えた。

 そんな伊華雌だから分かる。

 

 ――仲間がどれほど大切なのか。

 

 そんな伊華雌だから分かる。

 

 ――それを失うことがどれほど辛いのか。

 

 伊華雌は、マイクになって初めて〝大切なもの〟を見つけることができた。

 それと同時に〝大切なものを失う恐ろしさ〟を知った。

 

「二人は――」

 

 唐突に、武内Pが口を開いた。

 まっすぐに前を見たまま――

 

「これから先、ニュージェネレーションズで、どんなことがしたいですか?」

 

 意図の読めない質問だった。これから先も何も、二度と三人でステージに立つことはないのかもしれないのに。

 

「……舞台、やってみたいかも」

 

 うつむいていた凛が顔をあげた。ルームミラー越しに武内Pを見て、照れくさそうに目をそらして――

 

「前に未央が、すごい楽しかったって言ってたから。ニュージェネで舞台、できたらいいなって……」

 

 ほんの少しだけ、口元を緩める。笑みというにはあまりに些細な動きだけど、幼馴染みに感情を伝えるには十分だったようで、

 

「凛ちゃんは、どんな役をやってみたいですか?」

 

 いつもの卯月が、いつもの笑顔で問いかける。

 

「んー、どんな役、か……。あたし、どんな役が向いてるかな?」

「凛ちゃんは、そうですね……。かっこいい女スパイとか、キャリアウーマンとか。あっ、剣士なんてどうですか? 女剣士! 絶対に似合いますよ!」

 

 凛は、うーんとうなって、

 

「じゃあ、新撰組なんていいかもね。あたしと卯月と未央で丁度三人だし。……でも、卯月に剣豪の役は難しいかな。すぐに笑顔になっちゃうそうだし」

「そっ、そんなことないですよぉ! わたしだって、キリッとするときはキリッとしますから!」

「……キリッとしてる卯月が想像できないんだけど」

 

 組んだ足の上に頬杖をついて、子供の虚勢を面白がる親戚のお姉さんめいた笑みを浮かべる。

 さすがに卯月もむっとしたのか、ぷいっとそっぽを向きながら――

 

「じゃあ、笑顔のままで斬っちゃいますから!」

 

 島村卯月、頑張ります! 笑顔ならだけにも負けませ――斬りぃぃいい――ッ!

 いい笑顔で斬りかかってくる卯月侍とか卑怯だと思った。意表を突かれて斬られてしまう。確か、そんな格闘技があった気がする。えっと……、そうだ。セクシーコマンドーだ。

 

「面白い企画だと思います。新撰組ガールズ、なんてどうでしょう?」

 

 武内Pは、別に笑いを取ろうとしたわけではないのだと思う。

 

 でも――

 

 武内Pの強面な顔で、腹の底に心地よく響く低い声で、いきなり話に入ってきて〝新撰組ガールズ〟とか言われると込み上げてくるものがある。

 

「ちょっ……、変なこと言わないでよ……」

 

 凛は後部座席の上で体を丸めて笑いをこらえる。

 

「あのっ……、その……、ごめんなさっ……」

 

 卯月は笑いをこらえきれない。

 

「自分は、何かおかしなことを言いましたか?」

 

 信号待ちでハンドルから離れた手が首をさわる。その純粋な表情に伊華雌の心臓がキュンと鳴く、――感覚を覚えた。

 

「新撰組ガールズはないでしょ……ッ! 単純すぎるっていうか、そのまんますぎるっていうかっ……」

 

 凛は、一度ツボに入るとしばらく抜け出せないタイプのようで、確立変動を起こしたスロット台のように、滅多に見せない笑顔を振りまいている。

 

「し、島村さんは、何がしたいですか?」

 

 武内Pの耳が赤い。凛があまりに笑うから恥ずかしくなってしまったようで、もうこの人がアイドルでいいんじゃないかと伊華雌は思う。

 

「わたしは、そうですね……。ニュージェネで単独公演、とかどうでしょう?」

 

 単独公演。

 

 その一言で、しかし無限に夢が広がる。

 どのくらいの箱で、どのくらいの規模で、どのくらいのファンが――。

 ライブはもちろん、トークパートも充実させて。寸劇もあったりして。友情出演でゲストが来て、メンバーをシャッフルしてそれぞれのユニット曲を歌ったりして――。

 ファンファンファーレすることになった凛が照れて、ラブレターすることになった未央が吹っ切れて、トランシングパルスな卯月が壇上でキリッと――

 

〝キリッとしているところがやっぱり想像できない……ッ!〟

 

 想像の中の卯月は精一杯眉を強めて、それでも口はいい笑顔になってしまって、ステージ袖から見守る凛と未央が苦笑している。

 

「実現、させましょう」

 

 武内Pが車をとめた。ワイパーの跡がくっきりと残るフロントガラスの向こう側に、見覚えのある団地が見えた。

 

「……自分は今まで、最終的な決断は本田さんに任せるべきだと思っていました。しかし、それは適切な判断ではなかったように思います」

 

 車を降りて団地をにらむ横顔から、武内Pの気持ちを読み取ることは容易である。

 伊華雌でなくても、佐久間まゆでなくても、武内Pの〝本気〟を感じて息をのむことができる。

 

「自分が説得します。本田さんはニュージェネレーションズに必要です。346プロに必要です。だから――」

 

 待っていてください。

 

 武内Pは凛と卯月を車に残して団地へ向かった。

 曇り空の下で武骨なねずみ色を見せる団地が、まるで未央を閉じ込めている刑務所のように思えた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

『だれー?』

 

 一階のインターフォンに応答したのは男の子だった。

 男、ではなく男の子。ともすれば声の低い女子かもしれないけれど、未央に妹はいないはずだから弟だと見当をつける。

 

 うらやましいと思った。

 

 現役のアイドルがお姉ちゃんとか、それが人生における〝運〟の全てを引き換えにしても手に入るか分からない程の幸運であることをインターフォンの向こうで『姉ちゃーん、プロデューサーって人ー』と面倒くさそうな声をあげている少年は自覚しているのだろうか?

 本田未央の弟に生まれた瞬間、この世の運を使いきり、もしかすると来世の運まで使いきっているかもしれない。これから先、この少年は道を歩くたびに鳥の糞が肩に乗って、黒猫が目の前を横切って、靴ひもが切れるのかもしれない。

 

 それでも、うらやましいと思う。

 

 鳥の糞が顔面を直撃して、黒猫の一個中隊に体当たりされて、触るだけで靴ひもがブチブチ切れても構わない。

 

 アイドルと一緒に生活したい!

 

 弟なんて贅沢は言わない。犬とか猫で構わない。猫のタマ○ンちゃんとか、酷い名前を付けられた可愛そうなペットで構わない。ペットショップで島村タ○キンちゃんとか酷いネームプレートを付けて、他の飼い主の失笑を一身に浴びるはめになっても全然構わない。島村卯月の飼い猫になれるのであれば、どんな酷い待遇だって笑顔で耐える自信がある!

 

『どう、したの……?』

 

 未央の声だった。

 伊華雌は慌ててクソみたいな妄想を消し飛ばした。

 

「あの、突然押し掛けてすみません。移籍の件で、話をさせていただきたくて……」

『……、…………』

 

 しばらく無言だった。

 ひたすらに赤く光る応答ランプを見つめて沈黙を耐えた。

 

『ちょっと、待ってて……』

 

 応答ランプが消えた。

 オートロックによって侵入者をこばむ自動ドアの向こう側を見つめる。

 エレベーターが動いた。

 上がって、下がって、連れてきた。

 

 部屋着にジャケットを羽織った本田未央を。

 

「突然すみません……」

 

 頭をさげる武内Pを一瞥(いちべつ)して、壁に背を預ける。

 その横顔が、本田未央と思えない。

 笑顔も無ければ元気もない。迷子になって泣いて泣いて、それでも誰も助けてくれないから泣くのをやめてその場にへたりこんでしまった幼児のように、壁に押し付けた背中を滑らせて、しゃがみこんで、一瞬だけ泣きそうになって――

 

「プロデューサーの、せいだから……」

 

 お前のせいで遭難したと、余計な助言をした登山家を責めるように――

 

「プロデューサーが変なこというから、わかんなくなっちゃた……。私、どこにいけばいいのか……」

 

 未央は語った――

 

 赤羽根Pから移籍の話を聞いて、悪い話ではないと思った。トップアイドルに近づくことができると思った。

 日野茜は、未央ちゃんが行くなら私もいきますよ! と言ってくれた。

 高森藍子も、お散歩というよりは冒険ですね、と眉を強めてくれた。

 でも――

 卯月と凛は、決して首を縦に振らなかった。

 

 ――武内プロデューサーさんとアイドルがしたいから。

 

 卯月の意思は固かった。

 気の強い方ではない卯月が、しかし頑として譲らなかった。

 凛もそれに同意して、震える卯月の手を握った。

 

 もどかしく思った。

 

 すごいチャンスなのに、まごまごしてたら乗り遅れてしまうのに、それなのにこの二人は動こうとしない。行き先表示板に〝トップアイドル〟と書かれた電車がホームに入って、発車ベルが鳴っているのに動こうとしない。

 

 じゃあ、仕方ない。

 

 自分だけでも電車に乗ろうとしたら武内Pが出てきて言った――

 

〝あなたはそれで、笑顔になれるのですか?〟

 

「そんなの、分かんないよッ!」

 

 未央は叫び、感情的な涙を散らしながら武内Pをにらんで――

 

「961プロに移籍して笑顔になれるかどうかなんて、分かんないよ! プロデューサーのせいで私、どうすればいいのか分かんないッ!」

 

 激しく燃える感情をそのまま取り出して、思いっきり投げつけるような言い方だった。

 武内Pは、表情を変えない。

 ただ、拳を堅く握りしめて何かを躊躇して――

 

〝武ちゃん、言ってやれ。言いたいことを、言ってやれッ!〟

 

 叩き付けるようなサンダルの音があって、ポケットから鍵をとりだして、インターフォンの脇にねじ込んで、動いた自動ドアの向こうに――

 

「あなたは、笑顔になれません」

 

 未央の動きがとまった。

 目の前で自動ドアが閉まって、それでも未央は振り向かない。

 

「自分は、ニュージェネレーションズの本田さんが好きです。島村さん、渋谷さんと一緒になって生まれる笑顔を、失いたくありません! だから――」

 

 ――移籍しないでください!

 

 武内Pは、最終的な判断をアイドルに任せていた。

 それは、フェアであると同時にフェアじゃなかった。

 

 責任をすべてアイドルに押し付けることが、果たして正解であるのか?

 

 もちろん、アイドル本人が選択すべきことであるし、その責任を本人が負うのは当たり前ではあるものの――

 

 担当プロデューサーとして、それが正しい姿なのだろうか?

 

 助言はするけど、判断はしない。

 そんな、中途半端なことでいいのだろうか?

 アイドルが進むべき道が、アイドルが輝ける場所が、どこにいけば笑顔になれるのか、分かっているなら迷う必要は――

 

「ニュージェネレーションズには、本田さんが必要なんです……ッ!」

 

 未央の体が、小刻みに震える。オレンジ色のジャケットの背中が、それだけでどんな顔をしているか分かるくらいに感情的に――

 

「……でもさ、私、結構キツい言いかたしちゃったから。二人にその気がないなら、私一人で961プロでトップアイドルになるって――」

 

 武内Pは、ハンカチを差し出しながら――

 

「今、島村さんと渋谷さんも来ています。二人とも本田さんのことを待っています」

 

 振り返った未央は、震える唇を強引に噛んで抑えて、ハンカチを受け取って、涙を拭いて――

 

「……どんな顔して、会えばいいんだろ」

 

 武内Pが、笑みを浮かべる。伊華雌でなくても、佐久間まゆでなくても、彼の気持ちを読み取ることができる。

 

「そのままの本田さんで、いいと思います」

 

 励ましたい。背中を押したい。そして笑顔になってもらいたい。

 そんな思いが、決して器用であるとはいえない笑顔にこめられていた。

 

「……分かった」

 

 武内Pはうなずいて、未央に先だって歩き出す。

 サンダルの音を確認しながら団地の外に出る。

 曇り空があって、コートの前をしめて早足で歩く人がいて、346プロの社用車がとまっていて――

 

 サンダルの音がとまった。

 車のドアが開いた。

 

 二人のアイドルが、声をそろえて――

 

「未央ッ!」

「未央ちゃん!」

 

 駆け寄ってくる。

 未央はしかし、顔を上げることができない。うつむいたまま、下唇を強く噛んで、ジャケットの袖を強く握って、二人に背を向けて――

 

 手をつかんだ。

 

 強引につかんで、引き寄せた。

 島村卯月の行動にしては大胆で、しかし島村卯月であるとしか言えない笑顔で――

 

「未央ちゃんが戻ってくれて、嬉しいですっ!」

 

 たまらず目を見開いて、それでもこみ上げるものを飲み込もうとして、目を閉じて――

 

「戻ってくれるんだよね、ニュージェネに?」

 

 凛の手が肩を優しく叩いた。

 

 それ以上、耐えることができなかった。

 固くつぶった目のふちから、涙をこぼして――

 

「……何で、何でそんなに優しいの? 私、自分勝手に移籍するって言って、二人にキツいこと言ったのに、何で……ッ!」

 

「未央ちゃんだから、です」

 

 卯月が、笑った。

 

「未央だから、だね……」

 

 凛も、優しく口元を緩めた。

 

 もうほとんど告白だと思った。

 理由なんて必要ない。ただ未央であるというだけでいい。

 ただ、未央がいてくれればそれでいい。

 

 伊華雌の中で警報が鳴った。

 もしかすると未曾有の〝尊さ〟が爆発してしまうかもしれない。爆心地にいる自分は〝もう男なんて必要ないんじゃー〟とか言ってしまうほどの尊人(たつじん)になってしまうかもしれない。早く逃げないと――

 

「しまむぅー……、しぶりん……」

 

 未央が抱きついた。

 涙を流しながら、激情のままに卯月と凛に抱きついた。

 

 その時発生した〝尊さ〟は、伊華雌の致死量を軽く越えた。紳士としての伊華雌は消滅して、尊さに目覚めた伊華雌がそれに変わった。

 彼はニュージェネの三人を眺め、悟りを開いた坊さんみたいに――

 

〝男なんて、必要ないんじゃー…………〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第8話

 

 

 

 武内Pが説得した翌日、本田未央は346プロとの契約を更新した。日野茜と高森藍子も一緒だった。

 

 移籍の話を取りやめたい。二人も一緒に残ってほしい。

 

 そんな風に言えるほど、本田未央は強くなかった。

 346プロ社内カフェ――メルヘンチェンジで、武内Pと卯月と凛に説得されたことを伝えて、今の自分の気持ちを伝えて、振り回してしまったことを謝りながら346プロに残りたいと言って深々と頭を下げた。

 

 茜と藍子は、迷わずに言った――

 

 それなら、自分達も346プロに残ると。だって自分達は、トップアイドルになりたくて961プロへ移籍しようとしていたわけではないのだから。

 

 未央と一緒にアイドルをしたいから。

 

 それが、961プロへ移籍しようと考えていた理由であって、未央が346プロに残るなら、961プロへ行く理由はもはや無いのである。

 

 ――誰とでも仲良くなれるアイドルは、いつの間にか、誰からも愛されるアイドルになっていた。

 

「えっと、その……。またよろしくね、プロデューサー!」

 

 未央から契約書を受け取る武内Pを見つめて、伊華雌(いけめん)は思う。

 

 ――この人も、アイドルに愛されているのだと。

 

 その証拠に、そうそうたる顔ぶれがシンデレラプロジェクトの地下室に集まっている。

 ファミリアツインが、トライアドプリムスが、ピンク・チェック・スクールが、そしてポジティブ・パッションが。

 それだけのアイドルが、赤羽根Pの誘惑振り切って武内Pの元に集まってくれた。

 

 これが結果、だと思う。

 

 対立してきたプロジェクトクローネとシンデレラプロジェクト。

 どちらが正しいと一言で片付けるのは難しい。単に数字の成果で言えば、シンデレラプロジェクトはクローネの足元にも及ばない。

 

 しかし――

 

 数字で推し量ることのできない成果がある。地下室に集まっているアイドル達の顔を見れば、そこに成果を見ることができる。

 

 文句の付けようの無い、いい笑顔。

 

 偉い人には理解できないかもしれない。

 この笑顔がどれほど貴重なものであるか。どれほどの可能性を秘めているのか。

 

 これだけのアイドルが、こんなに笑顔で、何も起こらないはずがない。

 

 961プロだって越えられるような、何かが起こるような気がする。根拠のない期待が込み上げてくる。アイドル業界にあらたなる歴史が刻まれてしまうかもしれないと、曖昧な期待が、しかしシンデレラプロジェクトのアイドル達を見ていると自然にこみ上げてくる。

 

 ――絶対に、何かが起こる。

 

 世界の片隅で核兵器を作り上げた博士の助手は、今の自分と同じ気持ちだったのではないかと伊華雌は思った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 結局、961プロへ移籍したのは一ノ瀬志希・塩見周子・速水奏・宮本フレデリカの4名にとどまった。

 

 そもそも、日本人は移籍に抵抗がある。

 

 いくら961プロが業界トップのプロダクションであるといっても、世話になったプロダクションに砂をかけてまで移籍するのはどうだろうかと、躊躇(ちゅうちょ)するアイドルがほとんどだった。

 また、移籍に意欲を持ったとしても、ユニットの全員がそれに賛成するとは限らない。

 

 例えば、インディビジュアルズ。

 

 早坂美玲と星輝子(ヒャッハー状態)は、挑戦するのも悪くないと乗り気であった。

 しかし森久保は宣言する――

 

 移籍とか、むーりぃー……。

 

 机の下に潜った森久保乃々を見て、美玲と輝子は手のひらを返す。

 乃々が嫌なら移籍は無しだ。

 リーダーの美玲が決断して、移籍話は無しになった。

 

 メローイエローでは中野有香が反対した。

 

 お世話になっている事務所を裏切るわけにはいきません、押忍っ!

 迷いのない有香の声に、椎名法子と水本ゆかりも押忍の声を合わせた。

 

 ダークイルミネイトでは蘭子が反対した。

 

 彼の地に瞳を持つ者がいるとは思えぬ。我の言葉を()せぬ世界へ降りたつは愚行の極みなり。

 相方の二宮飛鳥は赤城みりあの手を借りることなく熊本弁を理解して、蘭子の言葉にうなずいた。

 

「LiPPSの四人は残念だが、それでも被害は最小限に抑えられた。君の尽力に感謝する」

 

 戦争を終えたばかりの指令所かな? そんな風に思えてしまえるほどに疲労困憊(ひろうこんぱい)な雰囲気が(ただよ)っていた。

 乱雑に散らばる書類があって、疲れた顔の司令官がいて、それでも美城常務は安堵の笑みを浮かべて――

 

「本田未央、よく引き止めてくれた。おかげで日野茜と高森藍子も346に残ってくれた」

 

 武内Pは、喜ぶでもなく、誇るでもなく、無表情のままで首をさわった。

 彼が戸惑う理由は分かる。

 

 別に、そんなつもりは無かったのだ。

 

 346プロのためだとか、未央を引き止めれば日野茜と高森藍子も考えを改めてくれるとか、そんな打算は無かったのだ。

 

 アイドルの笑顔。

 

 それを守るために武内Pは死力をつくした。

 その結果、成果をあげることができた。

 それだけの話なのだ。

 

「今回の件、961プロからの宣戦布告であると認識している。346のプロデューサーとアイドルに手を出して、ただで済ませるわけにはいかない」

 

 美城常務の眉が強まる。徹底抗戦を叫んで核ボタンを連打する大統領みたいな顔をして――

 

 ふっ。

 

 鼻息を一つ落とすと、いつもの美城常務になった。

 まるで感情の起伏(きふく)を感じることの出来ない冷酷な笑みを浮かべて――

 

「――とはいえ、あいつらと同じことをするつもりはない。つまらない裏工作など必要ない。正々堂々とアイドルをプロデュースする。ステージでアイドルを輝かせる。その輝きで961プロをねじ伏せる。今の346プロであれば、それが可能であると思う」

 

 初めて、美城常務と意見が一致した。

 伊華雌も同じことを思っていた。

 今回の移籍騒動を乗り越えて、アイドルとプロデューサーの絆が一段と強まっている。それはそのままアイドルの笑顔になって、観客を魅了する輝きになる。

 

 ――今の346プロなら、きっと961プロに負けない。

 

「次の定期ライブ、構成を大幅に変えようと思う。今の346プロにふさわしい特別な構成にしようと思う。全てのプロデューサーに新しい企画を考えてもらおうと思っている」

 

 美城常務は、冷酷な司令官から一転、チームの勝敗が決まる打席に向かう四番打者の背中を叩く監督の顔で――

 

「特に、君には期待している」

 

 もう、〝裏〟は無いのだと思った。

 赤羽根Pとやりあうためにシンデレラプロジェクトを利用していた時とは違う〝本気の期待〟が、力強い声音(こわね)に込められている。否が応にも気持ちが高まってくる。

 

〝武ちゃん、やってやろうぜ。961プロの野郎をぶっ倒してやれるような、最高の企画を考えてやろうぜっ!〟

 

 ――しかし、である。

 

 武内Pは上の空だった。

 ぼーっとしていた。

 いつもの武内Pなら伊華雌の熱い言葉に、狙撃銃のスコープをのぞく殺し屋を思わせる熱視線で応えてくれるはずなのに、実に素っ気ない反応だった。お互いの気持ちがすれ違っているのだと、鈍感な自分でも確信できるほどに言葉の熱量が違っていた。

 

 もしかして――

 

 これが〝倦怠期〟というやつなのだろうか……。どんなカップルにも訪れるというサイレントキラーが、自分と武内Pを狙っているのだろうか……ッ!

 

 武内Pの無表情から、しかし気持ちを読み取ることは出来なかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「自分は、やっぱり赤羽根さんが心配なんです」

 

 誰もいないシンデレラプロジェクトの地下室で話してくれた。

 やはり、961プロへ移籍する赤羽根Pが心配なのだと。

 

 不要な心配だと思った。

 

 だって、あの赤羽根Pなのだ。美城常務をもって天才と言わしめる赤羽根Pなのだ。いったい何をそんなに――

 

「タンメンとタンタンメンです」

 

 いきなりラーメンの話に飛躍した。赤羽根Pよりも武内Pのほうが心配になってしまう。

 

「新入社員研修の時、赤羽根さんは辛いものが苦手なのにタンタンメンの食券を買ってしまったんです。本当はタンメンが食べたかったのに」

 

 大切な思い出を噛み締めるように、優しい吐息をついて――

 

「赤羽根さんは、確かにすごい人ですが、完璧ではないんです。失敗をすることだってあるんです。だから、心配なんです……」

 

 それは、武内Pしか知らないことなのかもしれない。

 だって、移籍の話を聞いて赤羽根Pを心配する人は、武内Pしかいないのだ。赤羽根Pは上手くやるに違いないと、みんな信じて疑わないのだ。

 それほどまでに、346プロでの赤羽根Pは完璧超人だったのだ。

 

 しかし――

 

 タンメンとタンタンメンを間違えてしまうような人は、完璧超人ではないと思う。

 完璧超人のように見える普通の人、と表現するのが正しいと思う。

 この違いは大きい。

 

「マイクさんに、お願いがあります」

 

 武内Pが、机の上のマイクスタンドにささる伊華雌を見つめてきた。

 

〝俺と武ちゃんの仲じゃんか、遠慮なんていらないぜ!〟

 

 伊華雌は勇ましく啖呵を切った。

 武内Pは、別れ話を切り出そうとするカップルみたいに、もじもじとためらってから――

 

「……赤羽根さんの、マイクになってもらえませんか?」

 

〝おう、任せと――えっ! ええぇぇええええ――――ッ!〟

 

 武内Pとの思い出が、走馬灯(そうまとう)のように脳裏を駆け抜けた。

 

 ――人間、死ぬ時だけじゃなくてフラれた時も走馬灯をみるんだなあ……。

 

 伊華雌は小学生並の感想を抱きしめながら白目を()いて泡を吹く感覚を味わっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第9話

 

 

 

 餞別(せんべつ)として伊華雌(いけめん)を赤羽根Pに贈呈する。

 文字どおり懐に潜り込んで、赤羽根Pが961プロでうまくやっていけるかどうかを見届ける。少ししたら赤羽根Pを飲みに誘って、理由をつけて回収するので、それまで赤羽根Pのマイクになってほしい。

 

 正直、嫌だった。

 

 伊華雌はマイクなのだ。自分の意思では何もできないのだ。武内Pの手から離れた瞬間、両手両足を縛られて渋谷のスクランブル交差点に放置された人のように、誰に何をされるか分からなくなってしまうのだ。無防備なのだ。生命の危機なのだ。

 

 しかし、引き受けた。

 

 他ならぬ武内Pの願いであったし、頼ってもらえたことが嬉しくて、誇らしかった。

 

 ――ということで、伊華雌は赤羽根Pのマイクになった。

 

 こうなったら開き直って見極めてやろうと思った。

 不細工な自分に対し劣等感を押し付けてくる〝イケメン〟という人種の正体を暴いてやろうと決意した。

 盗聴や盗撮なんて目じゃない。無機物に転生した人間とか、どんなスパイよりもこっそりと、しかし確実にターゲットの秘密を知ることができる。もしも自分が同じことをされたらと思うとゾッとする。

 

 全て、バレてしまうのだ……。

 

 部屋に帰ったら島村卯月等身大ポスターに〝ただいまっ♪〟の挨拶をして、エア友達とお喋りするみたいにポスターと喋って、卯月のラジオに一方的な相づちを入れて、会話が成立しているかのように笑ったりする。もしかすると、見えてはいけないものが見えているのだと勘違いした母親に胡散臭い霊媒師を呼ばれて、ポスターだらけの部屋を〝お祓い〟されてしまったこともバレてしまうかもしれない。

 

 あのインチキ霊媒師、島村卯月等身大ポスターの尻の部分に霊穴(れいけつ)があるとか言いやがって……。何が霊穴だよ! そこにあるのはアイドルのケツだよ!

 

 ――とツッコんでやったら、いっちょまえに白い目で見てきやがって、それがまた腹立たしい。

 

 伊華雌が前世の記憶に悶絶していると、スーツのポケットに赤羽根Pの手が入ってきた。束の間の同居人であった部屋の鍵先輩が連れ去られた。

 

〝……パイセンのことは、忘れないぜ!〟

 

 退屈しのぎに熱い台詞を入れてみた。ガチャと音がして鍵が開いて、職務を全うした部屋の鍵が戻ってきた。

 

〝パイセン、無事だったんですね!〟

 

 鍵は何も言わない。伊華雌の言葉に答える者は誰もいない。伊華雌は武内Pのいない世界のむなしさにため息を落とし、〝イケメン〟の正体を探るという重大な任務に戻る。

 

 そこは小綺麗なワンルームマンションだった。

 

 武内Pの住んでいる社宅とあまり変わらない。ユニットバスがあって、キッチンがあって、冷蔵庫があって、アイドルの資料と、アイドルの資料と、アイドルの資料と、アイドルの資料と――

 

〝アイドルの資料で部屋が埋まってるんですけどっ!〟

 

 彼の職業を知らなければ、行き過ぎたドルオタに部屋にしか思えない。

 並ぶ棚から溢れた資料の物量は圧巻の一語に尽きて、そのほとんどが世に出回っていない非売品であるとか、伊華雌は〝お宝を前にしてよだれを垂らす海賊の気持ちになるですよー〟状態に陥ってしまう。

 

〝……でも、お預けなんでしょ?〟

 

 腹を空かせた子犬みたいな上目遣いで、くーんと鼻まで鳴らしてみるけど、もちろん聞こえるわけがない。伊華雌が何を言っても赤羽根Pには届かない。悪口を言って放送禁止用語を連呼してみても、赤羽根Pは涼しい顔で缶コーヒーのプルトップを開ける。

 

〝う○こだ! それはうん○を液状にしたものだ!〟

 

 カレーとコーヒーの半径5メートル以内でそれを言ったら殺されても文句は言えない禁忌(きんき)にあえてふれたのに、赤羽根Pは何食わぬ顔でコーヒーを飲み干している。

 

〝なんだよう……。俺の声を無視しやがって、う○こ野郎め……〟

 

 伊華雌は言葉の通じない寂しさに拗ねながら時計を見た。0時を回っていた。そんな時間にコーヒーを飲んですることと言ったら一つしかない。

 

〝エロ本フェスティバル開催ですね、分かります……〟

 

 伊華雌とて紳士である。紳士のたしなみとしてエロスな文献に目を通し見識を広げるのは男子として当然の行為であって、赤羽根Pも男子であるから真夜中紳士タイムに突入することだってあると思う。

 

〝俺も紳士だ、野暮な真似はしないさ……〟

 

 他人の紳士的行為をのぞいてはいけない。

 これは紳士の掟であって、守るべき礼儀である。世の母親は、特に厳守してほしい。夜中に息子の部屋から物音がしても決してドアを開けてはいけない。それは恩返しにきた鶴の秘密を暴いてしまうよりも遥かに悲惨な結末へ続くドアですからね開けてはいけない。いや、マジで……ッ!

 

 勝手に失礼な気遣いをしている伊華雌を、赤羽根Pは裏切った。彼は雪崩を起こした雪原みたいになっている資料の中から、一ノ瀬志希、塩見周子、速水奏、宮本フレデリカの資料を拾い上げて、机の上に広げて頬づえをついて睨んだ。

 

 その横顔は真剣だった。

 仕事をしているようにしか見えなかった。

 

〝エロ本フェスティバル、延期のお知らせ……〟

 

 伊華雌は一人つぶやいて、そういえばしばらくエロ本見てないなと思った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 翌日。

 

 シャワーの音に伊華雌は目を覚ました。

 どうやら赤羽根Pは朝シャン派らしく、付けっぱなしのTVの中でアナウンサーが喋る声とシャワーの音が混ざっている。

 

 それが赤羽根Pの〝朝の音〟だった。

 武内Pの朝の音とは違っていた。

 

 武内Pは朝に弱く、ギリギリまで寝ている。そのツケを払うために、ドタンバタンとやかましく音を立てて忙しなく準備をする。必然、注意力が散漫になって忘れ物が多発する。それを的確に指摘するのが伊華雌の仕事であって、全く武ちゃんはしょうがないなあ、とか言いながらも伊華雌は役に立てていることが嬉しくて、新妻ってこんな気持ちなのかなと思ったりする。

 

 しかしながら――

 

 赤羽根Pのマイクになった伊華雌に仕事はない。

 ぼんやりとシャワーの音を聞いて、ぼんやりと付けっぱなしのTVを見る。定年退職した途端にボケるお爺さんはこんな気持ちなのかなと思ってしまう。何もすることがないのって意外と辛いんだなと思いながら朝日の差し込む部屋をぼんやりと眺める。

 

 シャワーの音がやんで、髭をそる音が続いて、その合間にお天気キャスターが今日の天気を予報する。強い日差しに日中はぬくもりを感じることができるでしょう。

 

 ユニットバスのドアが開いて、パンツ一枚の赤羽根Pが出てくる。彼は冷蔵庫を開くと、牛乳をコップに注いで飲んで、バナナを一つ剥いて食べた。それ以上は何も口にしなかった。

 

〝ダイエット中のOLかっ!〟

 

 反射的にツッコんでしまうほどの小食だった。

 武内Pなんて、どんなに時間がなくても絶対に346プロ社内カフェ――メルヘンチャンジでモーニングウサミンセットを食べるのだ。

 

 このモーニングウサミンセットというのがくせもので、まあ量が多い。

 

 いっぱい食べてプロデュース頑張ってくださいね、キャハ☆ とか言いながら安倍菜々17歳がご飯をよそってくれるのだけど、日本昔話に出てくるご飯くらい山盛りにする。ラーメン次郎のヤサイマシマシぐらいのボリュームでよそってくる。目じりを垂れさせて満面の笑みを見せるウサミンに、こんな量食えるか! と言えるはずも無く、武内Pは毎朝一人大食い選手権を開催している。

 

〝そんな朝食で大丈夫か?〟

 

 大丈夫だ、問題ない。――とか言って欲しいところだけど、もちろん赤羽根Pには聞こえない。

 彼はYシャツを着て、スーツのズボンを履いて、机に向かった。昨日、夜遅くまでまとめていた資料に再び目を通し、それをまとめてカバンに入れた。

 

 結局、何時まで資料に向き合っていたのか分からない。

 伊華雌は途中で寝落ちしてしまった。

 

 赤羽根Pの監視はあまりに退屈だった。ひたすら真面目に仕事していた。

 秘密の奇行とか、紳士的振る舞いとか、まったく無かった。

 

 まったく期待はずれだった。

 絶対に何あると思っていたのに。

 

 おっぱいマウスパッドを愛用しているとか、複数の動画サイトにクレカをマウントしているとか、ひっくり返すとエッチな抱き枕を愛用しているとか、一人でローション風呂に入って〝ヌルヌルじゃーっ!〟と言ってはしゃぐとか、そんな覗き野郎のテンションが爆発的に上昇するような発見は全くなかった。

 呆れるほどに真面目だった。

 

〝お前んとこの主人さ、どうなってんの? 真面目すぎへん?〟

 

 伊華雌は同じ無機物のよしみで机にならぶ携帯に声をかけてみた。

 当然ながら、携帯は何も答えなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 すっかり葉の落ちた街路樹が並ぶ冬の道路を車が走る。それは赤羽根Pの車で、伊華雌はスーツのポケットにささったままだった。

 

「あれ、まずいな……」

 

 赤羽根Pがつぶやいた。視線をたどると、駅のロータリーがあって、黒山の人だかりがあった。その中心に、まるで太陽系の中心で輝く太陽のような少女がいた。強い日差しを反射して、金髪が宝石のように輝いている。

 

 宮本フレデリカ。

 

 ファンの間で〝煮て食べたい〟と評判の金髪が、これでもかと輝いている。その隣には一ノ瀬志希もいて、サイン責めと握手攻めと2ショット攻めにあっている。

 

 当然の結果だと思う。

 

 自分だって街中で偶然フレ志希に遭遇したら喜びに理性なんて無くなってしまうと思う。2ショットを撮ってもらって、自分の顔のデカさとブサさがアイドルを隣にしたことで強調されてヘコみ、それでもアイドルと2ショットを撮れた喜びのほうが大きくてしばらく待ちうけにすると思う。

 

「おはようさん」

「おはよ、プロデューサー」

 

 赤羽根Pがロータリのすみに車を止めると、二人の少女が近づいてきた。一人は後部座席に乗って、もう一人はそこが定位置だといわんばかりに助手席に座った。

 

「いい天気、移籍日和ね」

 

 助手席にいた少女が帽子とサングラスを取った。

 

 速水奏だった。

 

 眩しそうに片目をつぶりながら天井の日よけを下げる仕草が、まるでドラマの一場面であるかのように思えた。その仕草が一々絵になっていて、見とれてしまった。太陽の光を浴びる唇がたまらなくセクシーで、キスしたいアイドルランキング堂々の1位も納得できた。

 ちなみにこのランキングは今この瞬間、伊華雌の脳内に発生したランキングであって、つまりなんの客観性もないクソランキングである。ただ単に伊華雌が奏の唇に目を奪われて紳士タイムに突入しただけの話である。

 

「あの二人、変装しなかったのか?」

 

 困り顔の赤羽根Pに、後部座席に乗り込んだ少女が変装をといた。

 

 塩見周子だった。

 

 彼女はトラブルを楽しんでいるかのように、あっけらかんと――

 

「ちゃんと変装してたんだけど、フレちゃんが歌っちゃった。志希ちゃんも声を揃えちゃって、あの有様。賢いしゅーこちゃんと奏ちゃんは、さっさと逃げた」

 

 問題、歌うと正体がバレてしまう歌はなんでしょう?

 答え、フンフンフフーン、フンフフー、フレデリカー♪

 

「ちょっと、連れてくる」

 

 苦笑した赤羽根Pが車を降りて、ファンに囲まれているフレ志希の元へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第10話

 

 

 

 961プロの本社ビルはまるで要塞だった。

 

 346プロの本社ビルだって決して小さくはないのだけど、961プロの本社ビルを間近で見上げると、迫力に威圧されて足がすくむ感覚を覚えてしまう。単に大きさの違いだけではなくて、業界トップのオーラというか、ギラギラした欲望のようなものが瘴気となってビルを包み込んでいるような迫力があって、もしも自分が上京してきたばかりの新人アイドルだったとしたら、びびって荷物をまとめて田舎に帰りたくなってしまうかもしないと伊華雌(いけめん)は思った。

 

 しかし、赤羽根Pは怯まない。

 

 車から降りた他のアイドルも、拳法の達人が〝少しは楽しめそうだな〟と言って浮かべるような不敵な笑みを浮かべている。あんたがあたしのプロダクション? まあ、悪くないかな――とでも言わんばかりの目付きで961プロの本社ビルを見上げている。

 

 そもそもの度胸が違うのだと伊華雌は思った。

 

 数万人のファンを前にしたステージを踏みこえてきた彼女達の足を震わせる場所なんて、もしかしたらこの世界のどこにも存在しないのかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 受付に行って事情を話すと、プロジェクト・フェアリーの部屋へ行くように言われた。

 

 961プロの本社ビルは、外見を裏切らない豪華な造りの内装を輝かせていた。まるで高級ホテルだった。床はふかふかの絨毯だし、エレベーターは広々として駆動音も静かだし、プロジェクト・フェアリーの部屋は西洋の洋館を思わせる重厚なドアによって守られていた。

 

「失礼しますっ!」

 

 ドアを開けた赤羽根Pが、凛々しい挨拶をして、綺麗なお辞儀をして、視線を動かした。

 ホテルのスイートルームを思わせる部屋には、一人の少女しか見あたらなかった。

 しかし――

 その一人の存在感が尋常ではなかった。

 

〝お、お姫ちん……ッ!〟

 

 窓辺にたたずみ外を眺めていた四条貴音に令嬢の面影を見たのは自分だけではないと伊華雌は思う。ははぁー、と声をあげて平伏したくなってしまう高貴なるたたずまいは、あだ名とはいえ姫と呼ばれるにふさわしい。

 

「新しいメンバーが来ると聞いていました。あなた方だったのですね」

 

 微笑む貴音に、伊華雌は再び、ははぁー、と平伏する感覚を捧げてしまう。時代劇で殿様が何か言うたびに、ははぁー、を繰り返すちょんまげ頭の気持ちが理解できてしまった。

 人間、あまりに上品な人物を前にすると頭をさげたくなってしまうのだ。

 

「ひっさしぶりだねー、お姫ちん」

 

 にゃははと笑いながら志希が貴音に近づく。その親しげな仕草に思い出す。

 プロジェクト・フェアリーとLippsは面識があるのだ。年末の紅白で共演しているのだ。

 だから貴音の姫オーラを前にしても志希は猫口を緩めているのだ。――と思う一方で、志希のことだから初対面からこんな感じかもしれないとも思った。

 そして志希は、貴音の前で足をとめると、くんかくんかと鼻を鳴らした。

 

「……どうしたのですか?」

 

 動揺する貴音に、志希は名探偵の眼差しを向けて――

 

「お姫ちん、お昼にラーメン食べたでしょ? ラーメン二十郎」

 

 貴音は手で口を押さえて――

 

「……ニンニクは抜いてもらったはずですが」

「うん。ニンニクの匂いはしないね。ただ、独特の化学調味料の匂いがしてる。……匂い嗅いでたらラーメン食べたくなっちゃった」

「何と言う面妖な嗅覚でしょうか……っ!」

「ねえ、プロデューサー! ラーメン食べにいこうよ! プロデューサーのおごりでっ♪」

 

 振り返ってねだる志希の声が気になったのか、ソファーからもそりと金髪の少女が起き上がって――

 

「あふぅ……」

 

 のんびりとあくびをした。

 それが星井美希だと、伊華雌はすぐに分からなかった。

 ステージで見る彼女は、素晴らしいダンスを披露して、キラキラと笑顔を輝かせて、それこそアイドルをするために生まれてきたと言っても過言ではない女の子なのに、ソファーの上で伸び伸びとあくびをしている美希はまるで――

 

「杏ちゃんみたいやねー」

「そうね、まるで杏ね」

 

 声をそろえる周子と奏に伊華雌も同意する。

 こんな光景、見た覚えがある。間島P不在の第一芸能課へ行けば、ソファーを根城にぐうたら王国を建設している杏に星井美希の面影を感じることが出来ると思う。

 

「あんずって誰なのー……」

 

 まだ頭の半分は夢の世界にまどろんでいる。そんな感じの間延びした返事があって――

 

「ミキ、もう少し寝るのー……」

 

 ぽてっと倒れて、寝息を立ててしまった。演技かと思いきや、どうやら本気で〝すやぁ……〟してしまったらしい。入眠スキルの高さに関しては杏を越えていると伊華雌は思った。

 そしてガチャリと、ドアノブがまわる音がして――

 

「はいさいっ!」

 

 開いたドアの向こうから、元気な声が飛び込んできて――

 

「シルブプレーっ!」

 

 フレデリカが応戦した。売り言葉に買い言葉の挨拶だった。

 

「しる、ぶぷれ……? 自分の知らないあいさつだぞ……」

 

 我那覇響が、首をかしげてポニーテイルとイヤリングを揺らした。

 

「シルブプレはフランスのこんにちは、だったかな? おはよう? こんばんは? うーん、まあ、いっか」

「えっ、……アバウトだなー。自分もアバウトだけど、えっと……」

「フレちゃんだよ。フレデリカって呼んでもいいし、宮本って呼んでもいいよ。だれも宮本って呼ばないんだけどね。なんでだろ?」

「……多分、宮本って感じがしないからだぞ。その髪って、地毛なのか?」

「そだよー。煮て食べたら響ちゃんも金髪になっちゃうかも?」

「え、いやっ、ならないと思うぞ。そんなんで金髪になったら困るぞ」

「そうだねー。そしたらスパゲッティ食べても金髪になっちゃうもんね」

「えっ、……うーん、そうなのか?」

「んふふー、よく分かんない」

「いやっ、それは自分の台詞だぞっ!」

 

 フレデリカワールドに響が翻弄されていた。伊華雌も翻弄されていた。

 〝考えるな、感じろ!〟系の話だと思った。

 なので伊華雌は深く考えるのをやめて、響のポニーテイルを見つめて、魅力的な躍動感を楽しんでいた。

 

「失礼する」

 

 そのポニーテイルの向こうから男の声がした。

 その男は、社員に見えなかった。社会人にも見えなかった。紫色のスーツを着崩して黒いシャツの向こうに日焼けした肌を見せている男は、歌舞伎町のホストですと言われればすんなり納得できるのだけど――

 

「黒井社長、この度は便宜を図っていただき、ありがとうございます」

 

 赤羽根Pが、頭を下げた。

 346から来たアイドル達は、ぽかんとしていた。えっ、こいつが社長? そんな気持ちが、寄せた眉根と半開きの口に表れていた。伊華雌も同じ気持ちだった。

 

「346プロの諸君、961プロへようこそ。君たちは正しい選択をした。346プロなんぞにいても未来はない。美城芸能が趣味でやっているような事務所だ。先は見えている!」

 

 ふはははっ! 黒井社長は上機嫌に笑って――

 

「プロジェクトフェアリーとLippsが手を組めば、我がプロダクションにもはや敵はない。君たちはその力を存分に――」

 

 アイドル達を順に眺めていた黒井社長が、言葉を止めて、アゴを触って――

 

「一人、足りないようだが……」

「あのっ、城ヶ崎美嘉は、移籍をとりやめたいと言いまして……」

 

 赤羽根Pがすかさず口を挟んだ。

 

「そうか。それは残念だが、まあいい。一人かけたところで大した問題ではない。4人もいれば十分だ」

 

 ふははと笑う黒井社長に、伊華雌は強い反発を覚えた。

 ユニットのメンバーが一人欠けて、それで問題ないと笑える神経が信じられない。それがどれだけ大変なことなのか、未央の移籍騒動で思い知っている。Lippsの4人の気持ちを考えれば、問題ないと言って笑うことなんて出来ないはずなのに……。

 

「ちょっと、これからのことを話そうか。アイドルは部屋に残ってくれ」

 

 黒井社長の後に続いて赤羽根Pが部屋を出る。

 見送る元346プロのアイドル達は、しかし誰も笑顔ではなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 黒井社長は赤羽根Pを連れて社長室に入ると、深々と椅子に腰掛けて――

 

「よく、やってくれた。礼を言う」

 

 やはり、社長に見えなかった。

 服装のせいだけじゃない。その態度が、オーラが、あまりにもギラギラと貪欲で、社長と聞いてイメージする人間と一致しない。

 

 いや……

 

 だからこそ社長なのかもしれないと伊華雌は思った。

 世間の常識からはずれた存在であるからこそ、社長室と言うには豪華すぎる調度品にあふれた部屋でふんぞり返ることができるのかもしれない。

 

「アイドル達を、よろしくお願いします。これ、今までの活動と、今後の方針をまとめてきました」

 

 赤羽根Pがカバンから資料を取り出した。見覚えのある資料だった。目の下にくまを作って完成させた資料を、しかし黒井社長は受け取ろうとしなかった。

 

「約束どおり、アイドル達は961プロで活躍してもらう。彼女達は、すでにアイドルとして必要なものを全て持っている。完璧な完成品だ。相応の舞台を用意すれば、勝手に輝いてくれる」

 

 黒井社長は机の上に肘を乗せて、頬づえをついて、赤羽根Pを見上げて――

 

 (わら)った。

 

 その瞬間に、伊華雌は気づいた。

 赤羽根Pは間違えたのだ。

 タンメンとタンタンメンを間違えるように間違えてしまったのだ。

 この人間は信頼にあたいするのか、それとも――

 

「もちろん、約束は守る。君も破格の待遇で迎える。346の倍の給料を払う」

 

 赤羽根Pが強張っていた口元を緩め、伊華雌は危機感を覚える。

 いけない。

 この男の前で、気を抜いては――

 

「君には、優秀な事務員として働いてもらう」

 

「……え」

 

 赤羽根Pのそんな顔をみるのは、初めてだった。

 あれほど嫌いだったイケメンが動揺している姿を見て、しかし怒りがこみ上げてきた。いつも優秀で、自分と武内Pの前に立ちはだかって、ことごとく対立して、そのうえイケメンでアイドル達とのコミュニケーションも円滑でリア充め爆発してしまえと思っていたはずなのに――

 

 こんな顔は、見たくなかった。

 

「それじゃ、約束が……」

 

 精一杯ひねり出した反論を、黒井社長は容赦なく叩き潰さんと語気を強めて――

 

「プロデューサーとして使ってもらえると、そう思っていたのか? 残念だが君にその価値は無い。君のプロデュースは確かに優秀だが、それだけだ。優秀な人間なんていくらでもいる。うちのプロデューサーで事足りている。それとも――」

 

 黒井社長の目が光る。出来やしないと分かっていて、その上で要求する意地の悪い笑みを浮かべて――

 

「君には何か、君にしかできないプロデュースがあるのか? もしそうなら、今ここでオレを説き伏せてみせろ。そしたらプロデューサーとして使ってやる」

 

 不敵な笑みを崩さない黒井社長の視線を受けて、赤羽根Pは無言のままに資料を握りしめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第11話

 

 

 

「プロデューサーを、やめる?」

 

 太陽が西に傾くとすっぽりと961プロ本社ビルの影に隠れてしまう喫茶店で、その声は他の客の喧騒に消されてしまうほどに穏やかだった。これがニュージェネレーションズであれば、未央が騒いで、凛が立ち上がって、卯月がおろおろして衆目を集めてしまうのだけど、Lippsの四人は騒いだりしなかった。

 

 冷静に、しかし強い視線を赤羽根Pへ向けていた。

 

「私はてっきり、961プロでも赤羽根プロデューサーが私たちをリードしてくれるものだと思っていたのだけど……」

 

 速水奏の口調は落ち着いていた。しかし穏やかな物言いとは裏腹に、形の整った眉を怒らせて赤羽根Pを見つめていた。

 

「まあ、色々と事情があってな……」

 

 赤羽根Pは、苦笑しながら目をそらした。そのよそよそしい仕草に伊華雌(いけめん)は悟る。

 

 赤羽根Pは、全部抱え込むつもりなのだ。

 アイドル達には何も話さずに、身を引こうとして――

 

「事情って、何?」

 

 赤羽根Pの隣に座っている一ノ瀬志希が、身を乗り出して、匂いをかげるぐらいの距離まで顔を近付けて――

 

「あたし達は赤羽根プロデューサーに連れてこられたんだから説明が欲しいな。連れてきてすぐにさようならなんて、それじゃまるで女衒(ぜげん)だよ」

 

 向かいに座るフレデリカが、のん気な声で――

 

「ぜげんってなあに?」

 

 伊華雌も思っていた。ゼゲンってなんだ?

 

「フレちゃんは知らなくてもいーことだよ」

 

 塩見周子がフレデリカの肩を優しく叩いた。

 フレデリカはむーっとむくれて、クリームソーダのストローに口をつけてブクブクした。

 伊華雌も同じことをしたい気分だった。

 もっとも、人間だった頃の自分がクリームソーダぶくぶくしたらキモすぎて通報待ったなしかもしれない。クリームソーダぶくぶくが可愛いのは美少女に限る。

 

「もしかして、()められた?」

 

 志希は、赤羽根Pの頬にキスでもするんじゃないかってくらいに顔を近づけて――

 

「黒井社長、くせものだよね。利用できるものは何でも利用してやる、そんなタイプの人間に見えた。なりふり構わない貪欲なやり方で業界トップにのし上がった、そんな感じかなー。迂闊に手を出すと危ないタイプって、言うのかな」

 

 赤羽根Pは言葉を返さない。湯気を出さなくなったコーヒーを見つめて沈黙している。

 

「利用しようとして利用されちゃったんなら、こっちからも手を打とーか? あたしが動いてもいーよ。赤羽根プロデューサーがプロデュースしてくれないなら、961プロをやめ――」

 

「それは駄目だ」

 

 穏やかな口調に、しかし迫力があった。

 志希は顔を引っ込めて、フレデリカはブクブクをやめた。

 四人の視線を受け止める赤羽根Pは、これだけは譲れないと、言わんばかりに視線を強めて――

 

「みんなには、961プロでアイドルをやってほしい。これがみんなにとってチャンスなのは紛れもない事実だ。人事異動でプロデューサーが変わった。そう思ってほしい。みんなは、自分達がトップアイドルになることだけを考えてほしい……」

 

 その言葉に伊華雌は理解する。

 赤羽根Pは、プロデューサーなのである。アイドルのことを第一に考える、模範的なプロデューサーなのである。

 

「本当に、それでいいの?」

 

 赤羽根Pの向かいに座る奏はどこか寂しそうだった。もっと違う言葉が欲しいと、言わんばかりに立てた人さし指で唇を触り、赤羽根Pをじっと見つめる。

「あぁ……」

 赤羽根Pが頷くと、薄く開いた唇からため息を落とした。

 

「人の意思を変えることって、出来ないのよね。変えられるのは、自分の意思だけ……」

 

 奏が、席を立った。立ち去り際、赤羽根Pの肩に手を置いた。何も言わずに優しい吐息を落として、手を離した。

 

「フレちゃん、行くよ」

 

 ストローをくわえたまま立ち上がる気配のないフレデリカを志希がぐいぐい引っ張っている。

 

「プロデューサー、今までありがとさん」

 

 周子が手をひらひらさせて、店を出た。

 フレデリカの手を引っ張る志希は、赤羽根Pを見ることなしに、窓の外に見える961プロの本社ビルへ視線を向けて――

 

「今ならまだ間に合うよ。きっとみんな、喜ぶよ。志希ちゃんも、喜んじゃうかも」

 

 赤羽根Pは、何も言わない。神妙な顔でコーヒーを見つめている。大切に育ててきた愛犬と別れなければならない飼い主のように、強く目を閉じている。

 

「そっか、分かった」

 

 志希は寂しそうに笑うと「フレちゃん行くよー」と言ってフレデリカの腕を引っ張った。無理に明るく振舞っているように見えたけど、気のせいかもしれない。わずかな仕草から女の子の心境を読み取るなんて、経験豊富なリア充にとっても至難の業であって、彼女いない暦イコール年齢という輝かしい経歴を誇る伊華雌にはさっぱり分からなかった。

 

「ばいばい、プロデューサー」

 

 フレデリカの、また明日会えることを信じて疑わない子供みたいな声を最後に、赤羽根Pの元からアイドルがいなくなった。

 ウェイトレスがやって来て、アイドル達の飲み物を片付けていく。赤羽根Pの前ですっかり冷えているコーヒーへ視線を落として――

 

「おかわり、お持ちしますか?」

 

 赤羽根Pは、固く閉じていた目をゆっくりと開けて――

 

「いえ、もう――」

「二つ、お願いできますか?」

 

 おじさんの声が割って入った。

 ウェイトレスが頭を下げてキッチンへ戻った。

 

〝え、誰……?〟

 

 伊華雌は、自分の声が届かないのも構わずに声を出してしまった。

 見ると、声色どおりおじさんだった。赤羽根Pの知り合いかと思いきや、赤羽根Pは不意に声をかけられた人特有のポカン顔をしている。

 

 じゃあ、まさかとは思うものの〝ナンパ〟なのだろうか?

 

 創作の世界で見かける、あちらの席のお客様からです、というやつなのだろうか?

 そういうの本当にあるんだ、と感心したいものの相手はオジ様である。オバ様が赤羽根Pをナンパするならまだ理解できるのだけど……。

 

「あの、どちらさまでしょうか?」

 

 勝手に対面に座ってしまったおじさんに、さすがの赤羽根Pも腰を浮かせて、いつでも逃げ出せる体勢をとっている。

 

「驚かせてしまってすまない。君は、赤羽根君でいいんだよな?」

「そう、ですけど……」

「僕は高木という者で、美城の古い友人なんだ」

 

 高木と名乗ったおじさんは、後ろを振り返って大きく手招きをした。

 それにこたえて、大きな帽子をかぶった女性がやってくる。帽子からはみ出た髪は緑色で、口元にホクロがある。どこかで見た顔だと思うものの伊華雌には思い出せない。

 

「えっと、オレに何か……?」

 

 赤羽根Pは今にも立ち上がろうとしている。そりゃあ、得体のしれないおじさんがナンパ同然に相席してきて、仲間を呼ばれたら逃げ出したくもなる。

 「単刀直入に言おう」

 ウェイトレスがやって来て、テーブルの上にコーヒーを置いて――

 

「赤羽根君。僕は、君が欲しい」

 

 もしかしたら、喫茶店にいる全員がぎょっとしたかもしれない。

 ウェイトレスがお盆を落として、その音が(こお)りついていた喫茶店の空気を動かした。全方位へ向けて「スイマセン!」と言って頭をさげるウェイトレスの横で、赤羽根Pはすぐにでも逃げ出せるように立ち上がっている。

 

「社長、それじゃ唐突すぎますよ」

「それもそうだな。いや、気がせいてしまったよ」

 

 女性にたしなめられて、高木は後頭部をかいて笑う。

 

「またとないチャンスだったもんで、つい焦ってしまった。ちゃんと説明するから、どうか座ってほしい」

「はぁ……」

 

 赤羽根Pは、恐るおそる着席する。勧められるがままに、湯気を上げるコーヒーに口を付ける。

 

「僕はこう見えて、アイドル事務所の社長なんだ。……とはいえ、まだ立ち上げたばっかりで、従業員は一人だけで、アイドルもプロデューサーもいないんだけどね」

 

 高木が笑って、隣に座った女性も笑う。

 赤羽根Pは、女性の口元にあるホクロをじっと見つめて――

 

「音無さんを、プロデュースするんですか?」

 

 その一言に、伊華雌の記憶の回路が復活した。

 そうだ、音無小鳥だ。このホクロと緑色の髪は紛れもなく音無小鳥だ!

 

「いやあ、たいしたものだ。さすがは美城の娘さんが目をかけているプロデューサーだ」

 

 高木の目配せに、小鳥が帽子を取った。

 記憶の中にある小鳥に比べると、その顔は若干大人びているが、それでもまだアイドルとして通用すると思った。夢を見るのに年齢なんて関係ないと、346のお姉さんアイドル達も言っている。

 

「音無君には、事務員として働いてもらおうと思っている。アイドルは、これから探そうと思っている。だがその前に、プロデューサーを探さなくてはならない」

「……それで、オレですか?」

「その通り。美城の娘さん――美城常務と言ったほうが分かりやすいかな。彼女に良いプロデューサーがいないかどうか、ずっと話をしていたんだ。346を辞めてしまうプロデューサーで、誰か良い人はいないものかと。そして、君の話を聞いた。わけあって961プロへ移籍してしまうが、プロデューサーとしての手腕は折り紙つきであると。新規に立ち上げる事務所の大黒柱になってくれるだけの実力を備えていると。だから僕は、なんとか君と話ができないものかと思って、この喫茶店で見張っていたんだ。そしたら、君の方から来てくれたから、焦ってしまった」

 

 高木は笑みを浮かべながら後頭部をかいた。人好きのするおじさんの仕草に、しかし赤羽根Pは表情を緩めることなく――

 

「でも、それだとオレは961プロの人間だって、知っているわけですよね」

「もちろん。だから、まあ、予約……だな。もし961プロで何かあって、そこを去ることになったら声をかけてほしいと、そう思っている」

 

 それを聞いた伊華雌は、ガッツポーズを取る感覚を覚えた。

 渡りに船のタイミングである。捨てる神あれば拾う神ありである。最初は怪しいおっさんだなと警戒したけれど、音無小鳥が隣に座っているという事実に多少は信用してもいい気がするし――

 

 ここは一発やってみようぜ! どうせ失うものは何も無いんだっ!

 

 武内Pが相手であれば、声を大にして背中をおしていたのだけど、赤羽根Pに伊華雌の声は届かない。伊華雌はもどかしく思いながら傍観(ぼうかん)することしかできない。

 

「……君は、黒井のやり方でアイドルのプロデュースをやりたくて346プロを出たと聞いた。何故、黒井のやり方を模倣しようと思ったのか、理由を訊いてもいいかな?」

 

 赤羽根Pは、湯気の薄くなったコーヒーを眺めながら――

 

「961プロは業界トップのプロダクションです。同じことをすればトップになれるはずです」

「なるほど、正論だ。だけど、それだと肩を並べて終わりじゃないかな。決して961を越えることは出来ない」

「961プロを越えることの出来るプロデュースがあるならもちろん採用します。それが分からないから――」

 

「僕には、心当たりがあるんだ」

 

 高木は、隣に座る小鳥と笑みを交わして――

 

「僕は、少し前まで961プロにいたんだ。黒井のやり方にしたがって成果をあげてきた。確かに黒井のやり方は効率的だ。本当に才能のある、磨く必要のない女の子だけをアイドルにする。その子がアイドルなれるように道を整える。道を外れてしまった子は脱落させる。それこそ野菜でも出荷するかのように、優秀なアイドルだけを選り分けてステージへ上げる」

 

 テーブルの上で手を組んで、真正面から赤羽根Pを見据えて――

 

「果たして、このやり方が正解だと、思うかね?」

 

 赤羽根Pは、迷わずに頷いた。

 

「実際にそれで961プロは業界トップです。他と比べて成果を出せるやり方であるのは事実です」

「……僕も最初はそう思っていた。でも、そのうちに考えが変わってきた。調子を落としたアイドルでも、脱落させるべきではないアイドルがいるんだ。応援して、一緒に苦難を乗り越えることが出来れば、もっとすごいアイドルになってくれると確信をもてる女の子がいるのに、しかし黒井のやり方であれば切り捨てることになる。果たして本当に黒井のやり方が最善手なのか、疑いを持つようになった」

 

 高木はちらりと、隣に座る小鳥に視線を投げて――

 

「音無君も、そんなアイドルだったんだ。彼女は調子を落として、黒井から戦力外を言い渡された。しかし、僕はまだやれると思った。諦めるのはまだ早いと思った。黒井に抗議をしたが、受け入れてもらえなかった。音無君は引退することになった。その時に僕は理解した。本当に自分がやりたいプロデュースをするためには、自分の事務所を立ち上げる必要があるのだと」

 

 高木が、スーツの懐に手を入れて、名刺をとりだした。

 

「アイドルのプロデュースに正解はない。やり方を押し付けるのではなくて、アイドルとプロデューサーが二人三脚で〝正解〟を探すべきだと思う。そうすればきっと、たどり着くことが出来る」

「たどり着く……?」

 

 首を傾げる赤羽根Pに、高木は名刺を差し出しながら――

 

「僕と一緒に目指してみないか? 輝きの向こう側を」

 

 受け取った名刺を見て、伊華雌は記憶を呼び起こす。ドルオタを自称する伊華雌である。アイドルはもちろん、芸能事務所だって名前だけなら全てを網羅している。

 それなのに聞いたことがなかった。

 本当に、新規に立ち上げる事務所なのだと思った。

 

 ――765プロ。

 

 それが高木の芸能事務所の名前であって、赤羽根Pも名刺を見つめて首をかしげていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第12話

 

 

 

 結局、赤羽根Pは961プロを去ることになった。

 

 黒井社長という相手は、あまりに強すぎた。

 きっと、黒井社長の目から見たら赤羽根Pは青二才で、詐欺同然の口車に乗せて利用してやろうと手ぐすねを引いていたのかもしれない。

 

 でも、まだ終わったわけじゃない。

 赤羽根Pはこんなところで終わってしまう人間ではないと、伊華雌(いけめん)は思っている。

 

 武内Pをして憧れの同僚で、美城常務をして天才プロデューサーと言わしめる人間が、業界の古だぬきに騙されて、それで沈んでしまうなんて有り得ない。

 

 ――赤羽根Pは、まだやれる。

 

 そう思うから、もどかしい。

 どうして、高木に電話しないのか? 転生前の自分みたいな日々を過ごして、それで島村卯月等身大ポスターとお喋りするようになったら完全に俺だぞ! ――と声を荒げてみたところで、赤羽根Pはぼんやりと平日の昼間からTVを観ている。

 

 ――駄目だこいつ、早くなんとかしないと……ッ!

 

 専門学生という名のニートである伊華雌に心配されるほど、赤羽根Pは部屋に引きこもっている。落ち込んでいるのだと思うけど、その表情から心の内を読み取ることが伊華雌には出来ない。武内Pのようにいかなくてもどかしい。

 その時、赤羽根Pの携帯が鳴った。

 赤羽根Pは携帯の画面を見て、一瞬だけためらってから、電話に出た。

 

『あの……、お久し振りです』

 

 受話器から聞こえてきたのは、武内Pの声だった。久々に聞く武内Pの声である。

 伊華雌はもう、瞬間的に感極まってしまって声をあげてしまう。

 

〝たっ、武ちゃぁぁああああああ――――ん!〟

 

 声を聞いただけで、こんなに嬉しいとは思わなかった。もう、武内Pなしでは生きていけない身体になってしまったのかもしれない。いや、多分なってる。今、なった!

 

「武内か、久し振り……って程でもな、けほっ」

 

 赤羽根Pが咳き込んだ。

 その理由を伊華雌は知っている。

 人間ってやつは、喋ってないと喋り方を忘れてしまうのだ。中年のお父さんが子供の運動会で、足をもつれさせてしまうように、使っていない筋肉が思うように動かなくて調子が狂ってしまう。

 

 でも、これはまだ序の口だ。

 

 さらにニーティングライフを続けていると、コンビニで店員に注文できなくなってしまう。

 

 ――ファミチキください。

 

 その一言が上手く言えなくて悶絶した瞬間、ニートとして一人前になったと胸を張っていい。

 少なくとも、俺は言えなかった。ファミチキくださいといったら、春巻きが出てきた。〝き〟しかあってないですよ店員さん! あと、俺が入店する度に「いらっしゃま、…………ひっ!」って語尾に悲鳴を付けるのやめてもらえませんか! さすがにそれ、メンタルにダメージがダイレクトアタックでライフがゼロになるから……。

 伊華雌が前世の切ない思い出にひたっている間にも、赤羽根Pと武内Pの話は進む。

 

『あの、もしよかったら、次の休みの日に飲みませんか? 近況など、聞きたいので』

「あ……、うん。そうだな……」

 

 赤羽根Pの歯切れの悪い返事を聞いて、伊華雌はしみじみとうなずく感覚をもてあそぶ。

 近況報告したくない状態の時に、昔の同級生と会うのって嫌なんだよなー。

 

 ――俺にそんな同級生はいなかったけど。

 

 小学校、中学校の同窓会とか、リア充連中の中で非リアは肩身が狭いんだよなー。

 

 ――俺は同窓会に誘われたことないけど。

 

 つまり伊華雌は、妄想の世界で肩身の狭い思いをして、その疑似体験を元に勝手に同情していた。いい迷惑以外の何物でもない。

 

『新橋に良いお店があるんです。川島さんや、高垣さんのオススメの店で』

 

 あー、あそこかー。

 

 ぼんやりとした説明を聞いただけでも、思い出がよみがえってくる――

 

 あの時は大変だったなー。朝方まで飲まされた武ちゃんが、それでも会社に行くとか言って、頑張って出社したら酒が残ってて、ちひろさんに怒られてぁぁああ――武ちゃんに会いてぇぇええええ――――ッ!

 

 完全に禁断症状だった。一週間も経ってないのに、伊華雌は武内Pの殺し屋みたいな仏頂面が恋しくてしかたがない。

 

「珍しく積極的だな。分かった、一緒に飲もう」

 

 そして武内Pは、もちろん忘れていない。

 

『それと、餞別(せんべつ)として渡したマイクなのですが、間違って会社のものを渡してしまいまして……。すみませんが、当日、持ってきてもらえませんでしょうか?』

「あー、うん、分かった。ぴにゃこら太のマイクだよな?」

 

『はい。大切なマイクなんです』

 

 その一言に、貫かれた。

 〝大切な〟とか言われたのは、前世から通算して初めての体験である。

 嬉しかった。

 単純に、素直に、それて猛烈に嬉しくて、どのくらい嬉しいのかというと、マイクと人間が結婚できる国とかないのかな? と真剣に考えてしまうほどの狂喜に支配されていた。

 でも、それをやったらまゆの狂気を覚醒させてしまう気がしたので、無機物婚は妄想にとどめておくことにした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 武内Pと赤羽根Pが飲みの約束をした日は、朝から雨が降っていた。

 

 冬の冷気を一身に浴びて育った雨粒が降り注ぐ様子は、見ているだけで身の震える感覚を思い出してしまうほどに寒々しくて、こんな日は友達と飲みの予定があっても適当な理由をつけてキャンセル、こたつに半身を預けて雨音に耳を傾けていたいと伊華雌は思ってしまう。

 

 ――友達から飲みに誘われた経験とか、ないけどな!

 

 切ない前世の交友関係を振り返りつつ、心配になってしまう。

 今の赤羽根Pは、失意の底にあって限りなく長期休暇中の自分に近い存在であって、つまりニート予備軍である。そんな人間が、氷雨(ひさめ)降りしきる冬の日に外出とか、出来るのだろうか?

 少なくとも、俺には無理だ。強情なる二枚貝のごとく家にこもって出て行かない。

 

 しかし、伊華雌の心配は杞憂に終わる。

 

 赤羽根Pはシャワーを浴びて、身なりを整え、戸棚からスーツと洋服を取り出して、ベッドの上に並べた。ひとしきり悩んでから、スーツを手に取り、戸棚からからアイロンを取り出す。丁寧な手つきでアイロンをかける赤羽根Pを眺めて、伊華雌は思う。

 

 ――もしかして、隠すつもりなのか……?

 

 961プロを去ったことを隠すために、スーツを選んだのだろうか。

 それとも、飲み屋が新橋にあると聞いて、新橋はサラリーマンの町だから暗黙のドレスコードに従ってスーツを選択したのか。

 

 赤羽根Pの胸の内を、一心不乱にアイロンをかける姿から読み取ることは出来なかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 赤羽根Pがワンルームマンションを出て、鍵先輩がポケットに入ってきた瞬間から緊張が始まった。

 

〝実は俺、今日でお別れなんですよ〟

 

 伊華雌が喋りかけても、無口な鍵先輩は何も言わない。

 

〝大事な人が、迎えにきてくれるんです。でも俺、ちょっと不安なんです。ちゃんと、今まで通りの関係に戻れるかなって……〟

 

 ――心配すんなって。お前のこと、大切なマイクって言ってくれたんだろ?

 

〝えへへ、まあ……〟

 

 ――じゃあ、大丈夫だ。あちらさんもお前に会うの楽しみにしてるさ。……俺は、寂しくなっちまうけどな……。

 

〝鍵先輩……ッ!〟

 

 全て、伊華雌の一人芝居である。

 マイク役――伊華雌、鍵先輩役――伊華雌、である。

 

 伊華雌は、誰とも話すことの出来ない一週間を経験することによって〝エア友達〟のスキルを獲得していた。赤羽根Pの部屋に存在する全ての家電と話せるほどに、こじらせている。ちゃんと会話ができるように、設定を考えた。

 例えば――

 

 携帯電話は、毎晩充電器を抜き差しされているので、淫乱ビッチの――アバズレ。

 貪欲に部屋の空気を吸い込んでいる空気清浄機は、匂いフェチの――オイニー。

 

 鍵先輩以外は全員変態という楽しいエア友達に囲まれて、伊華雌は孤独な一週間を乗り切った。

 その代償として、誰にも知られたくない黒歴史が増えてしまった。

 

「赤羽根さん、お久し振りです」

 

 声が聞こえた。

 伊華雌は、コートの内側にいるので姿を見ることが出来ないが、間違いない。間違えるわけがないさ。

 

 俺が武ちゃんの声を聞き間違えるわけがない!

 

 伊華雌はラノベのタイトルめいた確信を胸に耳をすませた。忘れていた緊張が復活して、鍵先輩はもう喋ってくれない。

 

「一週間ぶりだな、武内、けほっ。よく新橋で飲むのか?」

「いえ。実は、知っているお店がここぐらいしかなくて……」

「そうなのか。そういえば、お前とこうして飲むのって初めてだよな、こほっ。新入社員研修の時は、まだ未成年者だったもんな」

「……喉、どうかされたんですか? 風邪、ですか?」

「いやっ、そうじゃなくて、久しぶりで」

「久しぶり……?」

「なんでもないっ。それより、早く店に入らないか。立ち話をするには寒すぎる」

「そうですね。では、行きましょう」

 

 ――武ちゃんの声、五臓六腑に染み渡るぜぇ……。

 

 伊華雌は、一週間ぶりの渋い声を堪能していた。

 禁酒したアル中が久々に酒を飲んで、その味わいの深さに驚くように、禁武内Pしていた伊華雌も、その声の深みを噛み締めるように味わっていた。

 

「この店は、川島さんに教えてもらった店なんです」

「そうなのか。アイドルと飲んだりするのか?」

 

「らっしゃっせぇぇええ――っ!」

 

 耳覚えのある体育会系の挨拶があって、笑い声と食器のすれる音と、何かを焼くじゅわぁぁああっ! という音が聞こえる。もしも自分に嗅覚があったら、匂いだけでご飯三杯ぐらいイケるんだろうなと思った。

 

「個室を予約しました」

「何から何まで悪いな」

 

 コートのボタンが外されていく。

 再会の時である。

 叫ぶかな、と思った。

 号泣の感覚がこみ上げてくる、かもしれない。

 

 しかし、いざ一週間ぶりに武内Pと対面してみると、気恥ずかしさが先に立って、何て声をかけていいのか分からない。伊華雌は何も言わずに、じっと武内Pを見つめてしまった。

 

 すると武内Pも同じように、何も言わずに伊華雌を見つめている。

 

 完全に、目が合っている。

 そして、目を逸らすことができない。

 なにこれ、恋人?

 

「とりあえず、ビールでいいか?」

「あっ、はい……」

 

 赤羽根Pは、武内Pの視線に気付いて、スーツのポケットから伊華雌を取り出して――

 

「これで、良かったよな」

 

 伊華雌が差し出された。武内Pのごつい手に包まれた瞬間、伊華雌の中で何かが切れて――

 

〝武ちゃん……。寂しかったぜ、武ちゃんっ!〟

 

 伊華雌の中に駆け巡る再会の喜びは、例えるなら、飼い主と離ればなれになってしまった犬が壮絶な旅路の末に飼い主と再会して、千切れんばかりに尻尾を振って、飼い主に飛び付いて、押し倒して顔をペロペロしている状態に匹敵していた。

 そして、勢いあまって嬉ションを披露してしまい、飼い主に激怒されて捨てられる……。

 

 ――いやっ、何で捨てられてんだよ! 俺の妄想、どうしてバットエンドになりたがるんだっ! せめて妄想の中ぐらい幸せな結末を迎えたい!

 

 伊華雌が己の妄想の卑屈さに呆れていると、武内Pが立ち上がった。

 

「ちょっと、お手洗いに……」

 

 武内Pは、赤羽根Pにことわりを入れてから、足早にトイレへ向かい、誰もいないのを確認すると、個室に入って鍵をかけた。

 そして伊華雌へ、優しげな笑みを向ける。

 

「お久し振りです、マイクさん」

〝お、おう……。久しぶりだな、武ちゃん!〟

 

 会話ができるって、素晴らしい!

 伊華雌は、孤独から開放されて泣きそうだった。

 携帯電話のアバズレも、空気清浄機のオイニーも、自分からは喋ってくれない。

 っていうか、全部自分が喋ってた。

 

 ――もう、虚しい一人芝居はしなくていいんだ……。

 

 さらば孤独。

 さらばエア友達。

 お前らのことは、なるべく早く忘れたい!

 

「自分も、マイクさんがいなくて寂しかったです」

〝武ちゃん……〟

 

「一人で過ごす夜は、寂しいものですね」

 

 それはもちろん、アイドルの話が出来なくて寂しい、という意味だと思うのだけど――

 

〝ちょっ、意味深……ッ!〟

 

 伊華雌は、頬を赤く染める感覚を覚えるほどに照れてしまう。

 天然な発言をする武内Pとのやり取りはやっぱり楽しくて、自分の居場所は武内Pのスーツのポケットなんだなと実感した。

 

「ところで、赤羽根さんはどうですか? 961プロでも上手くやっているのでしょうか?」

〝そのことなんだけど……〟

 

 伊華雌は、全て話した。

 黒井社長の口車にのせられたこと。しかし、アイドルを巻き込まずに一人で身を引いた。高木という芸能事務所の社長が赤羽根Pを欲しがっているけど、赤羽根Pは高木に返事をしないで落ち込んでいるのが現状。

 

「そうなん、ですね……」

 

 一週間ぶりの再会であっても、伊華雌は武内Pの変化に乏しい表情から、気持ちを読み取ることができた。

 

 大きなショックと、一握りの疑問。

 

 赤羽根Pの現状に疑問を抱いてくれて、それが伊華雌は嬉しかった。やっぱり武内Pと自分は〝相棒〟なんだと思った。

 

「どうして赤羽根さんは、高木社長の元へ行かないのでしょうか?」

 

 伊華雌は、すでに結論を持っている。赤羽根Pがどんな人間か見抜いている。

 

 ――実のところ、伊華雌はリア充という人種に詳しい。

 

 陰キャとして20年を過ごした彼は、幾多の休み時間を一人で過ごしてきた。それはとても退屈で、クラスのリア充を観察するぐらいしかやることがない。生物学者が動物を観察して生体に詳しくなるように、伊華雌は退屈しのぎにリア充を観察してリア充に詳しくなった。

 

 一言にリア充といっても、その生態は多岐に渡る。

 

 積極的にグループを引っ張っていくタイプもいれば、それに追従するタイプもいる。音に反応してパンパンとシンバルを叩くチンパンジーの玩具みたいに、音に反応してウェーイと叫ぶタイプが衆目を集める一方で、グループのリーダーになろうと狙う野心家タイプが虎視眈々と機会をうかがっていたり。

 

 そんなリア充軍団の中に赤羽根Pを当てはめるとしたら、積極的にグループを引っ張っていくタイプだと思う。

 このタイプはコミュ力に優れ高い能力を誇る一方で、打たれ弱いという欠点がある。

 

 自信満々にグループを仕切っていける人間は、その自信に亀裂が入るほどの挫折を経験していないことが多い。

 だから自信満々なのだ。

 持って生まれた新品の自信を、一度も傷つけられたことがない。

 恐らく赤羽根Pは、伊華雌が幼稚園の時に経験した〝初めての挫折〟ってやつを、今になって経験してしまったのだと思う。

 

 伊華雌は、今でも思い出すことができる。

 

 幼稚園の遠足でクソ保母が、隣の子と手を繋いで行きましょう、とか余計なことを言いやがって、まだ素直だった俺はその言葉に従って手を差し出したら、女の子から「伊華雌くんはキモいから嫌っ!」とか拒絶されて、自分一人だけ隣の子供と手を繋げないままで目的地へ向かうという、地獄の行進をするはめになった……。

 あの時感じた〝はじめての疎外感〟は、転生した今でもほろ苦い記憶として覚えているよ。ってか、何で覚えてるんだよ。この手の切ない思い出ばっかり覚えてるのは何故なんだ……。

 え? そもそもほろ苦い思い出しかないだろって?

 そんなこと、なくは……、な……ッ!

 

 いやっ、とにかく――

 

 毎日が挫折のエレクトリカル・パレードだったおかげで伊華雌は打たれ強くなった。

 起き上がりこぼし、いや、サンドバッグのように、どれだけ殴られても平気な顔で立ち上がることが出来る。

 伊華雌はつまり〝挫折のプロフェッショナル〟であり、だからもどかしく思っていた。

 

 これしきの挫折でリア充イケメンから引きニートに落ちぶれるとは何事か! そんなら一度、俺の人生やってみろ! 毎日、日課として何らかの挫折が組み込まれているんだぞ! これは一体なんの修行なんだよっ! 俺の人生がハードモード過ぎる件について、ってタイトルでラノベ書いてやろうかこんちくしょうっ!

 

 そして伊華雌は、豊富な挫折経験から、赤羽根Pの直面している挫折を分析して、答えを出す。

 

〝俺、赤羽根はこんなところで終わっちゃいけない奴だと思う〟

 

 伊華雌の結論、それは――

 

〝アイツはいけすかない本物のイケメンで、リア充で、種族的には俺の天敵なんだけど――〟

 

 夜遅くまで資料をまとめていた。アイドルを巻き込まずに身を引いた。

 

〝アイツは、真剣にアイドルのプロデュースをしていた。アイツなりのやり方で、真剣にプロデュースをして、成果を出そうとしていた。だから――〟

 

 助けてやりたい。

 

〝俺と武ちゃんならできると思う。だって俺達は――〟

 

 シンデレラプロジェクトだから!

 

 かつて美城常務は、調子を落としたアイドルとプロデューサーのために、シンデレラプロジェクトを立ち上げた。

 何人ものプロデューサーが失敗して、唯一武内Pだけが、シンデレラプロジェクトの担当プロデューサーとして成果を出すことに成功する。

 

 だから、断言できる。

 自分と武内Pであれば、赤羽根Pを復活させて――

 

〝赤羽根を、いい笑顔にしてやろうぜ!〟

 

 そして相棒――武内Pは、伊華雌の期待していた表情を見せてくれる。

 

「えぇ、望むところです!」

 

 一人の男と一本のマイクが、トイレを出て居酒屋の喧騒に身を委ねる。

 すれ違ったバイトが、武内Pの顔を見て空のジョッキを落としそうになる。彼は厨房に走って、必死の形相で訴えた。

 

「今、殺し屋がいたんだよ! あの目付きは本物だよ!」

 

 泡くって厨房に駆け込んできたバイトに、店主は「いいから仕事しろ」と言ってビールの入ったジョッキを押し付け、背中を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第13話

 

 

 

 総力戦でいこうと思った。

 

 赤羽根Pが長年をかけて築き上げた〝プライド〟という名前の壁を打ち壊し、再びイケメンとして復活させるには、自分達の力だけでは駄目かもしれない。

 自分達だけで駄目なら助けを呼べばいい。

 誰かに助けを求めることに、もはや遠慮や躊躇は全く無い。自分の力だけで何とかしたいとか、誰かに頼るのは恥ずかしいとか、そんな安っぽいプライドなんてとっくに捨ててる。そうでなければ、シンデレラプロジェクトの担当なんて務まらない。

 問題は、誰に助けを求めるか?

 武内Pと伊華雌(いけめん)は、いったん居酒屋の外に出て相談した。誰がいいかを〝せーの〟で言って、あまりにきれいにハモってしまって同時に笑った。

 

〝まあ、そうなるよな〟

「ええ。早速電話してみます」

 

 相手はすぐに電話に出て、協力を約束してくれた。

 あの人に限っては武内Pの頼みを断らないと思ったし、赤羽根Pとも知らない仲じゃない。助っ人として適任だと思った。

 

〝さあ、行こうか武ちゃん……〟

「はい、考えを改めてもらいます!」

 

 武内Pはいつにも増して気合い充分で、身内に渦巻く熱い気持ちが、冬の冷気とぶつかって湯気になっていた。

 朝から降り続いている氷雨は、いつの間にか雪に変わっている。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 武内Pは、赤羽根Pの待っている個室に戻るなり、首の後ろをさわって長すぎる退席のいいわけをした。

「すみません、仕事の電話が入ってしまいまして……」

 すると赤羽根Pは、苦笑しながら言うのだった。

「あぁ、プロデューサーをやってると、よくあるからな」

 その口調は、まるで現役を退いたアスリートが昔を振り返っているかのようで、伊華雌は寂しさと腹立たしさを同時に覚えていた。

 

 ――隠居を気取るには早すぎるぜ。まだまだ現役でやれるってことを、今から分からせてやるからな……っ!

 

「では、まずは乾杯を」

 武内Pは、泡の消えたビールジョッキを持ち上げて、赤羽根Pも同じようにジョッキを持ち上げて、優しくぶつけてカチンと音をだした。

 果たしてそれは、試合開始のゴングになった。

 武内Pは、ファイティングポーズをとりながらリング中央へ向かうボクサーのような目付きで、様子見のジャブを放った。

「961プロは、どうですか?」

 対する赤羽根Pは、表情を崩すことなくビールを飲んで、浮かない顔でこたえる。

「まあ、ぼちぼち、だな……」

 その言葉に、伊華雌は赤羽根Pの思惑を悟る。

 

 ――こいつ、隠すつもりか!

 

 どうやら赤羽根Pの着ているスーツは、真実を隠すための隠れ蓑で、同期の友人である武内Pにすら胸襟を開いて近況を語るつもりはないらしい。

 

 ――これだからリア充あがりは……っ!

 

 友人にまで見栄を張って体裁を保とうとするのは、リア充の悪い癖だと伊華雌は思う。

 伊華雌はちゃんと報告していた。

 どんな嫌なことがあっても、辛いことがあっても、キツいことがあっても、その全てを島村卯月等身大ポスターに報告していた。島村卯月等身大ポスターは、伊華雌の悲惨な体験談を笑顔で受け止めてくれた。

 ポスターじゃなくて友人に報告しろ――という苦情は勘弁してもらいたい。

 だって友達とか、架空の生き物だと思っていたし……。ぴにゃこら太やブリッツェンの仲間だと、思って、いた、から……。……、…………っ!

 赤羽根Pを叱咤(しった)すべく意気込んでいた伊華雌であるが、比較対象として持ち出した前世の記憶があまりに痛烈すぎて、打ちのめされてしまった。

 

 ――思い出しただけでメンタルが死ぬとか、俺の前世はどんだけ悲惨なんだよ……。

 

 自爆して瀕死になっている伊華雌を尻目に、武内Pは目付きを強めて、言い放つ。

「実は、赤羽根さんは961プロを辞めたと、聞いたのですが……」

 それは赤羽根Pの逃げ道をふさぐ一言であって、もはやどちらかが降伏するまで終わらない口論を覚悟させる宣戦布告であった。

「……知っていたのか」

 ビールジョッキを机に置いた赤羽根Pは、しかしもう笑顔ではない。

「美城常務から、聞きました」

 武内Pも、厳かにこたえる。

 全て美城常務からの情報であると、そういうことにしておこうと決めてある。まさか、マイクが監視してたんですよ――とは言えない……。実はマイクに意思があるとか――絶対に言ってはいけない! そんなことを言ったが最後、武内Pの言葉は永遠に説得力を失ってしまう。

「じゃあ、高木社長のことも知っているのか?」

 赤羽根Pは、捕獲した敵国のスパイを訊問するような口調で訊いてきた。

 武内Pは、捕獲されても迫力を失わない殺し屋を思わせる落ち着いた声でこたえる。

「新しく立ち上げる芸能事務所のプロデューサーとして誘われていると、聞いています」

「そうか。全部、知ってるんだな……」

 赤羽根Pがジョッキに手を伸ばして、ビールを飲み干した。通りかかった店員におかわりを頼み、唐揚げと枝豆も注文する。

 

〝武ちゃん、一気にたたみかけろ! 酔っぱらってうやむやにされる前にっ!〟

 

 伊華雌は、ラウンド終了間際のトレーナーがボクサーをけしかけるかのように、武内Pをけしかけた。

 劣勢のボクサーがゴングに救われようと相手から逃げるように、赤羽根Pはアルコールをがぶりと飲んで、ベロベロになって武内Pの追及から逃れようとしているのだと思った。言うなれば〝ベロベロ大作戦〟とでも言うべき油断ならない作戦である。

 そして〝ベロベロ大作戦〟という言葉が、伊華雌の紳士スイッチを起動してしまう!

 

 ――語感的には〝ペロペロ大作戦〟のほうがいいな。何ていうか、夢が広がる……。

 

 うっかり紳士スイッチを入れてしまった伊華雌は、〝妄想の世界〟という名前の闇に飲まれて戻ってこない。

 

 しかし伊華雌は役目を果たしていた。

 すでに武内Pの本気スイッチは起動している。

 

「高木社長の話、受けないんですか?」

 その口調は、もはや極道の域に達しているといっても、許される。

 武内Pは、それ程までの〝本気〟を言葉に乗せて、赤羽根Pの心に届けとばかりに声を張り上げる!

 

「絶対に、受けるべきだと思います!」

 

 潔く言い切った武内Pは、真剣を振り下ろした侍が返り血を浴びながら相手を睨み残心をつくるように、赤羽根Pから目を離さない。

 強い言葉を叩きつけられて、強い視線に貫かれた赤羽根Pは、〝お前、本当に武内か?〟といわんばかりに眉根をよせてメガネを触った。動揺しているのだろうか、その手が微かに震えている。

 それはしかし、無理もないリアクションだと、ペロペロ大作戦にまつわる妄想から無事に生還した伊華雌は思う。

 武内Pは、本田未央のプロデュースを通じて学んだのだ。

 その人がどうすれば笑顔になれるか、分かっているなら迷う必要はない。強引に手を引いてでも、笑顔になれる道を歩ませるべきである。

 

 今ここにいる武内Pは、赤羽根Pの知っている武内Pではない。

 

 シンデレラプロジェクトという地獄の戦場で鍛えられて、もはや別人といってもいいほどに強い意思と信念をもったプロデューサーなのだ。

 

 そして伊華雌も、昔の伊華雌ではない。

 

 まさか〝ペロペロ大作戦〟という単語から、これほどまでに伸び伸びと妄想の翼を広げることができるとは思わなかった。イグアナのヒョウくんに憑依転生してアイドルをヒョウくんペロペロ無双するとか、そんな妄想が出来てしまう自分はもはや後戻りの出来ないほどに〝紳士〟なのだと自覚した。

 

 信念をもったプロデューサーと、紳士なマイク。

 

 後者はクソの役にも立たないのだけど、この二人に見据えられた赤羽根Pは、過酷な取り調べの末に観念した犯人のように肩を落として、言うのだった。

 

「オレには、無理だ……」

 

 それは、赤羽根Pと思えないほどの弱気な表情だった。

 リア充として、イケメンとして、張り巡らせていた〝プライド〟という城壁が、ついに崩れ落ちたのだと伊華雌は確信した。

 今、武内Pの目の前で見せている泣きそうな表情こそが、赤羽根Pの本心であり、武内Pと伊華雌の最終攻撃目標である。ここに熱い言葉を叩き込み、いけ好かないイケメンとして復活させるのがこの作戦の目的である!

 

「黒井社長は、オレを事務員として雇いたいと言った。プロデューサーとしての魅力が無いと言われた。最初は騙されたと思ったけど、でも――、一人でしばらく考えて……」

 

 言葉を詰まらせた赤羽根Pを見つめて、伊華雌は思い出す。

 黒井社長にプロデューサーとしての才覚を否定された赤羽根Pは、落ち込んでいた。部屋で一人で落ち込んで、見るからに辛そうだった。

 

 ――でも、辛いのはあんただけじゃなかったんだぜ……。

 

 ちょうどその頃だった。伊華雌が〝エア友達〟のスキルを習得したのは。

 誰とも会話できない辛さに耐えられなくて、到達してはいけない世界に足を踏み入れてしまった。最後の方は本当に賑やかだった。携帯電話の〝アバズレ〟や、空気清浄機の〝オイニー〟は氷山の一角に過ぎない。踏まれることが大好きな足拭きマットの〝ドエム〟。全裸な俺を見ろといわんばかりに裸体をさらしている観葉植物の〝ロシュツ・キョウ〟。全てのジャンルの変態が集合するのも時間の問題であると確信できるほどに、エア友達が増えていた。

 

 ――お前らのことは、なるべく早く忘れたいのに、何故か忘れることが出来ない……。オイニー、元気にしてるかな……。

 

 伊華雌が辛い時期を一緒に乗り越えた友人(エア)のことを思い出して、しみじみと在りし日の思い出に浸っている間にも、二人のプロデューサーのドラマはクライマックスを迎えようとしている。

 

「オレには、やっぱりプロデューサーとしての魅力が無かったんだよ。黒井社長がプロデューサーとして使いたいと思えるほどの、〝オレにしかできないプロデュース〟ってやつが無かったんだよ……っ!」

 

 正直に気持ちを打ち明けてくれた赤羽根Pに、武内Pも真剣に向き合う。復活して欲しいと願う気持ちを、強い眼差しに込めて伝える。

「それなら尚更、高木社長の元へいくべきです! 高木社長の元で、赤羽根さんのプロデュースを見つければ――」

 しかし赤羽根Pは、武内Pの言葉を遮るように首を左右に振って、強めた語気に気持ちを込めて――

「オレは秀才にはなれるけど、天才にはなれないんだ! お前みたいには、なれないんだ……」

「……どういう、意味ですか?」

 赤羽根Pと武内Pの、視線が交わる。

 二人の視線が、ぴったりと重なって、おいこれ告白するんじゃねえか! と伊華雌が焦った瞬間――、赤羽根Pは、実際に告白をする。

 ずっと思っていたけど、しかし言えなかったんだと、その声音(こわね)から分かるくらいに真剣な口調で――

 

「お前は〝天才〟だと思う」

 

 予想だにしない言葉を差し出された武内Pは、ポカンとして、すぐにかぶりを振って、反論しようと口を開いたところに、しかし赤羽根Pから言葉を畳み掛けられる。

「〝秀才〟ってのは、言われたことを完璧にこなせる人間だ。〝天才〟は、誰にも出来ないことが出来る人間だ。シンデレラプロジェクトのプロデューサー。あれは、お前にしか出来ない。お前が信念に掲げる〝アイドルを笑顔にするプロデュース〟。あれは、お前にしか出来ない……。つまりお前は、唯一無二の天才で、オレはいくらでも代わりがいる秀才なんだよ……ッ!」

 理路整然と語る赤羽根Pに、やはりこの人はどこまでも優秀なのだと、伊華雌は思う。誰が何を出来るか、自分が何を出来るか、客観的に物事をとらえて、最善手を打つことが出来る。

 

 だから、高木社長の元へ行けない。 

 だから、天才になれない。

 

 自分が天才になるためには、何が必要なのか、分かっているから、一歩踏み出すことができない。

「高木社長は、天才を求めている。誰もやったことのないプロデュースを、輝きの向こう側を見ることのできるプロデュースを目指している! ……そんなの、オレじゃ無理だ。絶対に、失敗する……」

 そう、失敗する。

 誰もやったことのないことをやろうとしたら、きっと失敗してしまう。

 だからみんな、誰かが通った道を歩こうとする。

 

 だから赤羽根Pは、天才になることが出来ない。

 

 彼の中に〝失敗をしてはいけない〟という鉄の掟がある限り、赤羽根Pは優秀であるがゆえに失敗を避けようとして、その結果――、天才になれない。

 でも、赤羽根Pは天才を目指すべきである。

 高木社長の元へ行くべきである。

 一歩、踏み出さなければならない。

 

〝武ちゃん、教えてやれ。武ちゃんだから言えることを、言ってやれッ!〟

 

 武内Pなら、……いや、武内Pにしか、赤羽根Pを縛り付けている〝常識〟という名前の鎖を引きちぎることは出来ないと思う。

 

 だって、一緒に乗り越ええてきたから。

 山ほど積み重ねてきたから。

 

 その結果、赤羽根Pも認める〝天才〟になれた武内Pだからこそ、その言葉に重みを持たせることができる。

 赤羽根Pに捧げる言葉は、たった一言。

 

「失敗、すればいいと思います」

 

 まさかの言葉に、赤羽根Pはぎょっとして武内Pを強く見つめる。

「お前、何を言って……?」

 その反応は、当然であって、しかし当然であってはいけない。

 天才を目指すのであれば、〝失敗〟は避けて通ることのできない試練であると、理解してもらう必要である。

 だから武内Pは、赤羽根Pの中にある常識を打ち破るために、机に手をつき、身を乗り出して――

「自分は、散々失敗しました。佐久間さんをプロデュースしようとした時、最初は相手にしてもらえませんでした。市原さんをプロデュースしようとした時は、お母さんを怒らせてしまい、状況を悪化させてしまいました。前川さんと多田さんの時だって、間違ったソロデビューをさせてしまって、二人を落ち込ませてしまいました! 本田さんの時だって、肝心な判断を彼女に押し付けて混乱させてしまいましたっ!」

 そして、結論する。

 正しい道を、教えてやる。

 赤羽根Pが何と言おうと、お前の進むべき道はこちらであると、強引に手を引くように!

「赤羽根さんが言うところの〝自分だけのプロデュース〟は、おびただしい数の失敗を乗り越えて、初めて手にすることができるものだと思います。赤羽根さんは高木社長の元へ行って、たくさん失敗してください。そして、自分だけのプロデュースを見つけてください。そしたらきっと――」

 武内Pは、笑みを浮かべる。赤羽根Pが目を見開いてしまうくらいの笑顔で、そんな風に笑ってほしいと、願いを込めて――

 

「赤羽根さんは、いい笑顔になれます!」

 

 これが、武内Pと伊華雌の結論だった。

 成果なんてクソくらえ。その人がどうすれば笑顔になれるか? それを考えて実行するのがシンデレラプロジェクト担当プロデューサー&マイクの仕事である。

 

「笑顔、か……」

 

 赤羽根Pは、もう武内Pのプロデュースを笑ったりしない。成果が出ないと失笑しないのはもちろん、それどころか、憧れの選手を見上げるサッカー少年みたいな目付きで武内Pを見つめている。

 その視線に、伊華雌は満足する。

 武内Pの言葉はちゃんと、赤羽根Pの心に届いたのだと思う。

 

 ――やれるだけのことは、やったぜ……。

 

 しかし復活できるかどうかは、赤羽根P次第である。

 ちゃんと復活できるかどうか、伊華雌には分からない。リア充でイケメンだった人の繊細な心が、果たして再生可能な代物であるのかどうか、そこまでは分からない。リア充に詳しいといっても、リア充と友達だったわけじゃないから……。

 

 ――っていうか、誰も友達だったわけじゃ……。

 

 これ以上考えるとメンタルのライフがゼロになってしまうので、伊華雌は考えを中断した。ネトゲで負けそうになった人がランケーブルを引っこ抜くように、思考を切断した。

 つまり何が言いたいかというと、赤羽根Pが復活できるかどうか不安であるから、ここからは助っ人のターンが始まる、ということである。

〝武ちゃん、例の人を特殊召喚だ!〟

 伊華雌の声に武内Pはうなずいて、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。例の人は店内に待機しているようで、すぐに向かうと言ってくれた。

 そして――

 

「じゃんっ♪」

 

 千川ちひろが現れた!

 赤羽根Pは混乱した!

 

「ちょっと二人とも、私だけ仲間外れにするなんてひどいんじゃない? 私たち三人は同期の桜でしょ?」

 武内Pが言いたいことをガツンと言って、ちひろにガツンと励ましてもらう。破壊と再生のダブルコンボで赤羽根Pを復活させる。

 それが伊華雌と武内Pの作戦であり、ここまでは予想通りであった。

 しかし、策士が策に溺れると格言にあるように、現実は思い通りに運ばない。まさかの展開に伊華雌と武内Pは度肝を抜かれることになる。

 

「みなさーん、お願いしまーす」

 

 千川ちひろは仲間をよんだ。

 

 川島瑞樹が現れた!

 片桐早苗が現れた!

 姫川友紀が現れた!

 三船美優が現れた!

 佐藤心が現れた!

 

 赤羽根Pはさらに混乱した!

 武内Pも混乱した!

 伊華雌も混乱した!

 

 こんな話は聞いてない。来るのはちひろだけだと思っていた。赤羽根Pを励ますにはそれで充分だった。むしろ、千川ちひろ一人でも充分すぎてお釣りがくるぐらいなのに、この面子はオーバーキルにも程がある……。

 

 ――これは、アカンやつや……っ!

 

 伊華雌がエセ関西弁で戦慄している間にも、346プロのお姉さまアイドルが群れを成して赤羽根Pに襲いかかる。どこかで一杯ひっかけてきたのか、みな一様に頬が赤く、機嫌が良い。

「まったく、346プロを引っ掻き回してくれちゃって!」

「どういうつもりなのか、キッチリ事情聴取させてもらうからね!」

 赤羽根Pの左に川島瑞樹が、右に片桐早苗が座った。笑みをひきつらせる赤羽根Pは、もはやパトカーの後部座席で護送される哀れな犯人にしか見えない。

「とりあえず飲もうぜ! 飲めよ☆」

「あの、なんかすいません……」

「なに謝ってんだよみゆちゃん☆ ほら、みゆちゃんもぐーとっ!」

 佐藤心はすでに出来上がっていて、三船美優が人柱のように絡まれている。

 

「プレイボールっ!」

 

 姫川友紀が持ち込んだ携帯ラジオの電源を入れて、試合が始まる。

 赤羽根P対346プロお姉さまアイドル(酒乱状態)という、悪夢のような戦いが……っ!

「店員さーん! お酒とつまみ、じゃんじゃんもってきてーっ!」

 川島瑞樹が声を張り上げて、店員は負けじと体育会系の声を張り上げる。

「……実は、武内君から電話をもらった時、ちょうど〝しんでれら〟って居酒屋で女子会をしてたの」

 はにかむちひろに、伊華雌は全力でツッコみたい。

 

 ――これ、女子会とかいう生ぬるい面子じゃないから! 全然スウィーティーじゃないからっ!

 

 酒気に帯びたお姉さまがたを呆然と眺める伊華雌の脳裏に、過去の飲み会の記憶がよみがえった。346プロのお姉さまと飲んで、果たして相方が無事であった試しはない。いい加減、学習すべきだと思う。居酒屋でお姉さまアイドルと遭遇したら全力で逃げろ! 決して振り向いてはいけないっ!

〝武ちゃん、戦略的撤退だ。この宴会、肝臓がいくつあっても足りないから……っ!〟

 武内Pも身の危険を感じていたのか、青ざめた顔でうなずいて、こっそりと立ち上がる。

 お姉さま達の視線が赤羽根Pへ向けられている今なら、こっそり抜け出すことが出来るかもしれない。いやむしろ、逃げるなら今しかチャンスは無い。今こそ、最大にして最後のチャンスなのだ……。

 武内Pは忍者のような忍び足で、個室から出ようとして、そして〝絶望〟と対面する。

 

 高垣楓が現れた。

 武内Pは逃げ出した――。

 

 しかし、まわりこまれてしまったっ!

 

 個室の出入り口を塞ぐ高垣楓に、伊華雌は〝女帝〟という言葉を思い浮かべてしまう。頬を僅かに上気させ、一升瓶をぶら下げて微笑む立ち姿は〝優雅〟の一語に尽きるのだけど、何故だろう……、ラスボスを思わせる迫力に、ひざが震える感覚を思い出してしまう。

「帰れませんよ」

 楓は、一升瓶を持ってないほうの手で窓を指差した。

 凍てつく外気がガラスを強く曇らせて、降りしきる雪がべったりと張り付いている。どうやら武内Pと赤羽根Pが熱いやり取りをしている最中(さなか)、外は冬将軍に支配されて大粒の雪に蹂躙されてしまったようで、この分だと電車が止まっているかもしれない。

 

「こんな夜は、夜通し飲まナイト」

 

 武内Pの笑みがひきつっているのは、楓のダジャレが微妙だから、という理由だけではないと思う。

 ――肝臓死亡のお知らせ……。

 伊華雌は心の中でつぶやいて、武内Pの肝臓の冥福を祈った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 居酒屋で一夜を明かした武内Pが外に出ると、一面の銀世界が広がっていた。

 北国めいた光景を前に、ここは本当に新橋なのかと、伊華雌は疑ってしまう。

「うへー、降ったわねー……」

 片桐早苗が、子供のように無邪気に笑って白い息を盛大に吐き出した。

「早苗ちゃん、それっ」

 川島瑞樹が、雪だまを投げた。

「あっ、やったわね!」

 早苗がやり返して、キャッキャウフフなやり取りが始まる。

「あっ、あたしもやるーっ!」

 野球大好きな姫川友紀が飛び入り参加して、佐藤心と三船美優は遠巻きに元気なお姉さんを眺めて笑みを浮かべている。

 

 そんな、元気一杯なお姉さまとは対照的に、プロデューサー2人は死んでいた。

 

 ちひろに手を引かれて歩く2人は、まさに〝生ける屍〟という比喩がふさわしい状態で、白坂小梅の審美眼を持ってしてもレベルの高い〝ゾンビ〟であると評価してもらえるんじゃないかと思えるほどにぐったりしていた。耳を澄ませば吐き気を抑えるために「うー……」と唸る声が聞こえて、それがまたゾンビっぽさに拍車をかけている。

「大丈夫ですか?」

 上品な笑みを浮かべて気遣う高垣楓が、しかしこの中で一番飲んでいるという事実が伊華雌には信じられない。

 肝臓を強化する手術を受けた改造人間なんです、とでも言われたらあっさり信じてしまう。っていうかむしろ、そうでも言ってもらわなければ納得が出来ないほどの、強靭な肝臓であると思う。

 

 ――実はこの人、チート転生者で、神さまに〝肝臓を強くしてください〟ってお願いしたんじゃないか? いやでも、それだったらもっと別なもん強くしてもらうか。ピンポイントで〝肝臓〟を強化するとか、どんだけ酒が飲みたいんだって話だし……。

 

 伊華雌が楓の〝酒豪〟スキルについて考察を深めている間に、武内Pと赤羽根Pはクライマックスを迎えていた。

 二人仲良く、電信柱に手をついて――。

 砲門開け! 射撃準備……、撃てーっ!

 

 おえー…………キラキラキラキラ。

 

 その光景は、しかし珍しくなかった。朝の新橋をぐるり見渡せば、どこかで誰かが電信柱に吐いている。

 新橋は、そういう町なのだ。

 たまったうっぷんを、飲み過ぎた酒と一緒に吐き出してすっきりさせてくれる、そんな優しい町なのだ。

 吐くものを吐いて、お姉さまアイドル達から介抱されている赤羽根Pは、きっと吐き出すことが出来たのだと伊華雌は思う。

 だって、朝日に照らされた赤羽根Pの横顔に、生理的な嫌悪感を覚えてしまったから。

 

 伊華雌に理由なく嫌われるということは、つまり〝イケメン〟として復活しつつあるという証拠なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第14話

 

 

 

 赤羽根Pを復活させるために居酒屋へ行って、なりゆきで346プロオールスターズと飲むはめになった武内Pは、瀕死の重傷を負ってしまった。肝臓さん息してる? と訊きたくなるほどに泥酔していた。

 武内Pはフラフラの千鳥足で、大雪に混乱する交通網に苦戦しながら帰宅する。見慣れたワンルームマンションに戻った時には、すでに昼を過ぎていた。

 久々に武内Pの部屋に帰ってきた伊華雌(いけめん)は、猛烈な安堵感を胸にはしゃいでしまうのだけど、武内Pは嘔吐のカウントダウンが始まっている時の顔で言うのだった。

「すみませんが、少し休ませてもらいます……」

 洗面所で口をゆすいだ武内Pは、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターをガブ飲みして、いい飲みっぷりだCMのモデルになれるぜ! と伊華雌が茶化そうと思った時には、すでにベッドに入っていた。スーツの上着だけ脱いで、そのままの格好でベッドインして、苦しそうに唸っている。

〝武ちゃん。スーツのズボン、シワになっちゃうぞい……〟

 伊華雌が声をかけても、反応はなかった。

 

 ――俺がマイクでなければ、お世話できたのに……っ!

 

 伊華雌はしかし、机の上のマイクスタンドで武内Pの回復を祈願することしか出来なかった。久々の武内Pの部屋で、しかし武内Pは生きる死ぬかの瀬戸際で、つまり伊華雌は誰とも話すことが出来ない。

 そして伊華雌は、武内Pを包む布団をぼーっと眺めながら思うのだった。

 

 ――優しく包み込んでお母さんの温もりを思い出させてくれる君は、母性たっぷりの〝バブミ〟に……。

 

 伊華雌は、ハッとして思考を打ち切る。

 無意識にエア友達を生み出そうとしていた自分に驚愕し、激しくかぶりをふる感覚をもって悪癖を矯正する。

 

 ――もうエア友達は必要ない! 何が母性たっぷりの〝バブミ〟だ! どうして変態なエア友達を量産しようとするんだ俺は……、目を覚ませっ!

 

 伊華雌は、苛酷な戦場から帰還した兵隊が、日常の何気ない騒音に過敏反応してしまうように、話す相手のいない孤独に直面するとエア友達を作ってしまうという、深刻な後遺症を(わずら)っていた。このままでは、武内Pの部屋にまで紳士なエア友達を召還してしまうかもしれない……ッ!

 

 ――ぐぅぅうう……っ! 静まれ、俺の右脳! これ以上、社会的に悲惨なエア友達を生み出してはいけないっ!

 

 伊華雌はまるで、邪気眼系中二病患者が右手を掴んで悶絶するかのように、己の妄想を必死になって抑え込んだ。

 重度の二日酔いに苦しむ武内P。

 重度の妄想癖に苦しむ伊華雌。

 二人は仲良く唸り声をハモらせながら、久しぶりの夜を過ごした。

 

 そして翌日の日曜日。

 

 昨日よりは幾分回復して、それでもまだ苦しそうな武内Pと、結局、武内Pのベッドの掛け布団を〝バブミ〟と命名し、武内Pを独占しているバブミに対して嫉妬心を燃え上がらせている伊華雌の元に、一人の訪問者がやってくる。

 昼も過ぎた頃にインターフォンが来客を知らせ、武内Pが頭痛にこめかみを押さえながらドアを開けると、私服も緑な千川ちひろが、はにかんでいた。

 

「じゃんっ♪ 来ちゃった……っ!」

 

 リアルで〝来ちゃった〟とか聞いたのは初めてだった。机の上のマイクスタンドから様子をうかがっていた伊華雌は、怒涛のラブコメ展開に〝もしかしたら……〟の期待を抱いてしまう。

 

 ――休みの日に健全な男女が一つ屋根の下にいて、何もおこらないはずもなく……っ!

 

 鍛え上げられた妄想力が爆発した。対象年齢がぐーんと上昇してしまう妄想を炸裂させる伊華雌であったが、しかし彼は忘れている。

 ただでさえフラグクラッシャーな武内Pが、今は重篤(じゅうとく)な二日酔いであることを。つまり結果として、武内Pは言語も文化も違う外国人に匹敵するぐらい空気が読めなくなっているということを!

 武内Pは、寝癖そのままのボサボサ頭をかきながら、もはや開いているのか閉じているのか分からないくらい細くなっている目をちひろへ向けて、言うのだった。

 

「何か、用ですか?」

 

 その反応はあんまりだ! と伊華雌は心の中でツッコんだ。

 だって、良く見て欲しい。確かに、ちひろは緑だ。普段の事務員姿と代わり映えしない色味を見せているけど、でも、それでも……、どう見てもオシャレをしている! 耳にはイヤリングがあって、胸元にはネックレスがあって、その緑色のコートは会社に着てくるコートとは別物で、〝とっておきの日〟のために温存しているんですと、いわんばかりにシワ一つ無い。

 つまり、ちひろは最高に着飾った状態で、これなら武内君も私のことを見直してくれるかもっ、みたいな期待をしていたのかどうかは分からないけど、そんなことを考えていてもおかしくないであろう自信満々の〝じゃん♪〟に対する返答が――

 

 何か、用ですか?

 

 ――なんでだよっ! 何で渾身のちっひに対するリアクションが、新聞の勧誘や宗教の勧誘の時と同じなんだよ、いい加減にしろっ!

 

 さすがに、伊華雌も少し怒ってしまった。ちひろに強く同情していた。無機物だからこそ、彼女の気持ちを冷静に読み取ることが出来て、だから感情移入してしまって、武内Pを叱ってしまう。

 

〝武ちゃん。もっとちひろさんを歓迎してあげて。服とか、褒めてあげてっ!〟

「えっ……?」

 

 首をさわりながら振り返って自分を見つめる武内Pに、伊華雌は語気を強めて言い放つ。

 

〝まずはちっひの服を褒めてあげなさいってばよっ!〟

「……はぁ」

 

 武内Pは、何がなんだか分かりません……、といわんばかりに首を触りながら、玄関でやり場のない笑みをさ迷わせているちひろに向かって、言うのだった。

 

「……えと、そのコート、……似合っていると、思います」

「えっ!」

 

 固まっていたちひろの笑みが、熱湯をかけられた氷のように、ゆっくりとほぐれていく。本気の勝負服で参上したら、何か用ですか? とか言われてショックのあまり活動停止していた彼女の感情が、しかしゆっくりと動き出して、頬が微かに赤くなった。

 

「あの、ありがとうっ! ……中、入ってもいいかな?」

「あ、はい……。散らかっていますが」

「ううん。突然押しかけちゃったんだから、全然気にしないよ」

 

 いつもの笑顔を取り戻したちひろが部屋に入ってきて、その様子に伊華雌は安堵の吐息を落としてしまう。いつものことながら武内Pのフラグクラッシュは、見ているこっちが気が気じゃなくて声を荒げてしまう。

 

 ――まあ、まゆちゃんが相手の時に比べれば、全然マシなんですけどね……。

 

 ちひろが相手であれば、まあ、死ぬことはない。

 まゆが相手である場合は、最悪の事態を想定する必要がある。

 武内Pは、無自覚にまゆの嫉妬心を炎上させてしまうような行動を取ろうとするから、一瞬たりとも油断できない。伊華雌は、まゆが視界に入った瞬間、武内Pの行動を厳しく監視する癖がついている。それこそ王族に礼儀作法を教える教育係のように、心を鬼にして武内Pの不適切な行動に目を光らせる。

 そうでもしないと、武内Pはどんな粗相をやらかしてしまうか分からない。まゆの前でスマイリングの鼻歌を歌うとか、それはもはや自殺行為だからやめてほしい。そこはエブリデイドリームでぇぇええ――ッ! と絶叫した回数は数えきれない。

 伊華雌が、病みに飲まれたまゆを思い出してゾクゾクしていると、部屋に入ってきたちひろが、手に提げていたスーパーの袋を開けて、食材をキッチンに置き始めた。

「えっとね……。武内君、二日酔いで大変だと思ったから、ご飯、作ってあげようと思って……」

 彼女は、照れ隠しにえへっと笑って、コートを脱いだ。

 ここでキュンとするべきは、ちひろの健気さである。

 二日酔いに苦しむ同僚のために、わざわざ雪の残る冬の日に、とっておきの洋服でオシャレしてご飯を作りにきてくれるとか、その健気さに〝惚れてまうやろーっ!〟と叫ぶべき場面である。

 しかし伊華雌は、別の部分にキュンとしてしまう。

 

 ――コート脱ぐちひろさん、なんか、えっろいなぁ……。

 

 その下に裸があるわけじゃないのに、それでも女性が服を脱ぐという仕草にエロスの入口を見いだてしまった伊華雌は、そのドアを全力であけて、紳士の階段を駆け上がってしまう。

 この調子で成長すれば、女性の一挙手一投足にエロスを見いだして興奮できる〝エロスの達人〟になれるかもしれない。おかゆ作るから、と言って鍋を洗うちひろの手の動きを、アレな動作に脳内変換するのは序の口で、パックの梅干を取り出して味見とばかりにペロっと舐める仕草を見るなり、ペロペロいただきましたーっ! と快哉(かいさい)を叫んでしまい、ピンポーンという音に己の妄想が男子として正しいのであると自信をもって胸を張る。

 

 ――ピンポン……?

 

 そのインターフォンの音に、予感があった。

 そして伊華雌は、青ざめて絶望する感覚に陥ってしまう。

 プロの棋士が先を読んで、勝ち目が無いことを悟って、負けを認めてこうベを垂れてしまうように、伊華雌もその〝予感〟が行き着く先に何があるのか、考えれば考えるほど、どうしようもないのだと分かって絶望に支配されてしまう。

 

 ――詰んでいる……。どうしようもなく、詰んでいる……ッ!

 

 玄関に向かう武内Pを呼び止めたところで、しかし伊華雌の予感が正しければ、ドアの向こうで待っているであろう彼女が立ち去ることはない。そして恐らく、この〝予感〟は的中する。

 だって、二回目だから。

 こんなことが、年末にもあったから!

 どうすればいいんだと頭を抱える感覚に苛まれる伊華雌を尻目に、武内Pは眠そうな顔で、そのドアは修羅場に繋がる羅生門であるというのに、無警戒に開けてしまった。

 そして、伊華雌の予感は的中する。

 ドアの向こうに待っている彼女は、恋人との再会を喜ぶ笑みを浮かべながら、言うのだった。

 

「プロデューサーさん、まゆですよぉ……」

 

 うふふと微笑む佐久間まゆに、しかし武内Pは動じない。ちひろの時と同じように、何の用ですか、とボケた挨拶をかましそうな様子である。

 事態の深刻さを感じとって息をのんだのは、キッチンでビニール袋から食材を出しているちひろであって、万策尽きたと言って空を仰ぎたいほどに絶望している伊華雌の二人であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第15話

 

 

 

 ついに、対決の日が来てしまった。

 むしろ、今日まで平穏であった奇跡を、喜ぶべきなのかもしれない。

 

 ちひろとまゆは、ギリギリのところで衝突を回避してきた。

 あたりそうで当たらないベーゴマのように、今風にいうとベイブレードのように、同じフィールドで回転して、いつかは激突して雌雄を決する運命にあるのだけど、しかしその瞬間がいつまでたってもこないので、伊華雌(いけめん)はこのまま平和な日常が送れるんじゃないかと平和にボケていた。

 

 そんなわけ、なかったのだ。

 

 同じ人を好きになってしまった二人の女子が、同じ部署で顔を合わせている時点で、三角関係のラブコメが〝よーいどん!〟で始まってしまうわけだし、その片方が佐久間まゆという時点で、少なくとも〝まゆが身を引いて自然消滅〟という結末は有り得ない。

 かといって、無機物として完全に公平な視点で今日(こんにち)までの成り行きを傍観してきた伊華雌の感触でいくと、ちひろ側にも身を引くつもりはないと思う。彼女はそれこそラブコメ漫画の幼馴染みキャラのように、武内Pのすぐ近くに陣取って、虎視眈々と〝恋人の座〟を狙っていた。

 加えて仁奈ちゃんママも武内Pの恋心争奪レースに参加しているのだけど、彼女は武内Pと接触する機会が極端に少ないので、今は圏外であると思う。仁奈ちゃんを遠隔操作型のスタンドのように操って距離を縮めてくる、という一発逆転の可能性を秘めてはいるが、しかし現時点では〝伏兵〟であって、ダークホース的な存在である。

 つまり佐久間まゆと千川ちひろこそ、武内Pのハートにもっとも近い存在であり、しかし武内Pはその二人を平等に〝恋愛対象として見ていない〟という三角関係と表現するにはあまりにラブ感の薄い相関図を元にラブコメがギリギリ成立して――いない……。

 

 ――武ちゃんが誰かを好きにならないと、ラブコメにならないんだよなぁ。

 

 くぁー、とのん気にあくびをする武内Pを見て、伊華雌は頭を抱えたくなってくる。

 美人の事務員と現役アイドルが部屋に来たというのに――、何だその反応は! と叱りたくなってしまう。武内Pは、ちゃんと現状を把握してほしい。

 ほら、あなたの後ろで、佐久間まゆが病みに飲まれて恐い顔をしてるからっ!

 

「ちひろさん、お疲れ様です。お仕事ですか……?」

 

 にっこり微笑むまゆの放った一言は、もはや強烈な先制攻撃であると伊華雌は思う。

 仕事ですか? と訊くことによって、プライベートであることを真っ向から否定して、武内Pとの距離を離そうとしている――ような気がするのは、さすがに邪推だろうか?

「仕事じゃないですよー。武内君に、ご飯を作ってあげようと思って、プライベートでお邪魔してるんです」

 ちひろも、にっこりと微笑みながらこたえる。

 その笑顔を、さて、どこまで信じていいのか伊華雌には分からない。微笑みをぶつけ合っているちひろとまゆから、睨み合う暴走族のリーダー、という単語を連想してしまうのは何故だろう?

 

「まゆちゃんこそ、どうしたんですか? アイドル活動のことで武内君に相談ですか?」

 

 ちひろのそれは、やられたらやりかえすの報復にしか思えなかった。

 仕事で来たんだよね? と言わんばかりのにっこり笑顔に、しかしまゆは動じない。その大きな瞳から、ふっと色を消して言うのだった。

「川島さんから、プロデューサーさんが二日酔いで大変だって聞いたので、看病しに来たんです。もちろんご飯もまゆが作りますから、ちひろさんは、帰って大丈夫ですよ……」

 ふふふと笑っているものの、その迫力は相当なもので、ヤンデレの本領を発揮したまゆを直視した伊華雌は〝ひぃっ!〟と悲鳴をあげて尿を解放する感覚に打ち震えた。

 これは、さすがのちひろも怖気づいてしまったのではないかと思いきや、ちひろは茶色の瞳を好戦的に光らせて言い返すのだった。

「大丈夫よ、まゆちゃん。武内君のことは同期の私が面倒みるから、ね? まゆちゃんはアイドルなんだから、料理をしようとして怪我をしたら大変だから、ね……?」

 

〝うわぁっ! こっちも恐ぇっ!〟

 

 伊華雌はついに悲鳴を上げてしまった。

 ニーティングライフのかたわら視聴していた昼ドラで女性同士の愛憎劇がいかに恐ろしいものか知っていたが、知っているつもりになっていただけなのだと思い知った。常識人で健気で大人しい女性だと思っていたちひろが一瞬見せた〝爪と牙〟に、伊華雌はガクガクブルブルと震える感覚で怖気づくことしかできない。

 今、この瞬間ばかりは自分がマイクでよかったと思う。こんな空気、きっと生身じゃ耐えられない……。

「大丈夫です。まゆ、お料理得意ですから、怪我したりしません……。それに、そんな料理じゃプロデューサーさん、元気になれませんよ? まゆが、ちゃんとしたお料理を作りますから……」

 ずいずいと部屋に入ってきたまゆが、キッチンに並ぶ食材を見下ろして肩をすくめる。

 ちひろが持ち込んだ食材は、レトルトのおかゆを主力として編成された〝一人暮らしの学生の食事〟というタイトルで紹介されそうな材料ばかりだった。パックの梅干があって、鯖の缶詰があって、リンゴが転がっている。

「こっ、これだけじゃないんだから。とっておきのやつがあるんだからっ!」

 料理の腕を否定することは、すなわち女子力を否定するに等しい。

 それは女性にとって看過できない屈辱であるのか、ちひろは敬語も忘れてむきになって、スーパーの袋の中からとっておきの逸品を取り出してまゆへ向けるのだった。

 それは、大きな星飾りもまぶしいスタミナドリンクだった。

 

 ――料理でもなんでもないよ、ちひろさん……。

 

 わなわなと震えながらスタドリを印籠のように掲げるちひろに、伊華雌は〝もういい、下がれ〟と出すぎた兵に後退をうながす指揮官の気持ちになって、まゆは笑みを消して、ため気を落とした。

「病人にドリンクは駄目です。お腹を壊しちゃいます。お料理はまゆに任せてください……」

 正論を叩きつけられて、しかしちひろは下がらない。踏みとどまって、とんでもないことを言い始める。

「武内君は、スタミナドリンクが大好きだから大丈夫なの! ねっ、武内君?」

 ちひろに詰め寄られた武内Pは、困り顔で首の後ろをさわる。

 そもそも、スタドリを愛飲している様子はなかったし、二日酔いの時に栄養ドリンクはさすがにキツいだろうと伊華雌も思う。

 そして武内Pは、ちひろの必死の問い掛けに、否定も肯定もせずに、くあっと大きなあくびをするのだった。

 

 ――この張り詰めた空気の中であくびとか、やっぱ武ちゃんすげえ……。

 

 伊華雌は武内Pの男気というか、女性に動じない心に感心してしまうが、そんな煮え切らない態度にしびれをきらしたかのように、まゆとちひろの戦いは決着を求めて動き出す。

「プロデューサーさんは、まゆのおかゆが食べたいんですよね……? まゆのおかゆしか、食べられないんですよね……?」

 病みに飲まれた佐久間まゆが、光の消えた瞳で武内Pをじっと見上げて、その腕をぎゅっと抱きしめる。

 きっとラノベ主人公だったら、む、胸が当たってるっ!? とか言ってドギマギするのだろうけど、武内Pはあまりにも無反応で、だから伊華雌は武内Pの代わりに叫ぶのだった。

 

〝胸が当たってるよ、武ちゃんっ!〟

 

 しかし武内Pは、ぼーっとしたままである。

 まゆのアプローチに対して鈍い反応を見せる武内Pに、勝機を見いだしたちひろが一気に畳み掛ける!

「武内君は、レトルトのおかゆのほうが、食べ慣れてるから好きなんだよね! あと、スタドリも大好きっ!」

 武内Pを巡る女たちの争いは、ついに最終局面をむかえる。

 インターフォンを鳴らされた瞬間に伊華雌が覚悟した〝詰み〟の瞬間がやって来る。

 

「プロデューサーさんは、まゆのおかゆが食べたいんですよね……?」

「武内君は、私のおかゆを食べるよねっ?」

 

 武内Pは、迫られてしまう。伊華雌が正解を見いだすことの出来なかった、二者択一を……ッ!

 

「まゆのおかゆを食べてください、プロデューサーさん……」

「レトルトのおかゆだけど、心をこめて温めるからっ!」

 

 ちひろとまゆが武内Pの部屋で鉢合わせてしまった瞬間から、こうなることは分かっていた。最終的に、どちらを選ぶのか迫られてしまうのだと思い、だからこそ伊華雌は絶望に打ち震えていた。どんな言葉を用意すればこの場を収めることが出来るのか、伊華雌には皆目見当が付かない!

 

 ――何てアドバイスすればいいのか、分からねえ……。力になれなくてすまねぇ、武ちゃん……っ!

 

 伊華雌には、両手を床について悔し涙を流す感覚をつくって己の不甲斐なさを詫びることしか出来ない。

 まゆのおかゆを選んでも、ちひろのおかゆを選んでも、そのどちらもバッドエンドに直結しているような気がする……。

 この修羅場は、果たしてどうやって乗り切ればいいのか?

 伊華雌が、どうにか切り抜けてくれと祈りながら見つめる先で、ちひろが幼馴染みを思わせる必死な眼差しを向ける先で、まゆが光の消えた瞳に過剰な愛情を込めて見つめる先で、そして武内Pは――

 

 笑みを浮かべた。

 

 それは、張りつめていた空気をじんわりと緩めてしまうほどの〝いい笑顔〟で、毒気を抜かれてしまった女の子二人に、武内Pは言うのだった。

 

「自分は、自分のために料理を作っていただけるのであれば、それは残さずにいただきたいと思います」

 

 武内Pは、選択しない、という選択をした。

 果たしてそれは、いい加減なことを言うなと、質問者を激昂させてしまう可能性を孕んだ回答であったが、しかしまゆとちひろは、大人しくうなずいてしまう。

 

 ――これが、笑顔の力か……ッ!

 

 伊華雌はパワー・オブ・スマイルのなんたるかを噛み締めつつ、荒ぶっていたちひろとまゆを笑顔にしてしまった武内Pのスマイリングに、心酔して、感服した。

 

 ――どうなることかと思ったけど、修羅場も無事に終わったことだし、あとはまゆちゃんとちひろさんのおかゆを武ちゃんが頑張って完食すれば、ハッピーエンドだ。

 

 これで災難は去ったと、油断してしまう伊華雌は、まだ認識が甘かったのだと思う。

 武内Pがいかにトラブルメーカーであるか、理解が足りない。

 

 ピンポーン。

 

 インターフォンが鳴った。

 新たなる戦いの火種がやって来たのだと伊華雌は警戒した。まゆとちひろも目付きを鋭くしている。

 

 ――せっかく鎮火した火事現場にガソリンを撒こうとするやつは、誰だっ!

 

 心の中で荒々しい声を上げてしまったことを、しかし伊華雌は後悔することになる。

 だって、インターフォンの向こうから聞こえてきた声は――

 

「お疲れ様です、プロデューサーさん。島村卯月ですっ♪」

 

 まさかの卯月だった。

 もちろん嬉しいけど、でも、駄目だ。

 こんな、昼ドラの炎に焼かれて燃える危険地帯に、ラブリー・マイエンジェル――島村卯月を降臨させるわけにはいかないっ!

 

〝逃げて、卯月ちゃんっ!〟

 

 伊華雌の叫ぶ声は、しかし卯月には届かない。

 ドアの向こうで、もこもこと暖かそうなダッフルコートを着ている卯月は、武内Pを見上げてにっこり笑って、かばんから大きなタッパーを取り出した。

「プロデューサーさんが病気だって聞いたので、ママに頼んでおかゆを作ってもらいました。良かったら、食べてくださいっ♪」

 そして卯月の隣に、もう一人。

 卯月と並ぶと一回り小さく見えるけど、同じ17歳で、しかしそれよりも遥かに年上であるような瞬間を見せることがある安部菜々が、卯月のそれよりも一回り大きなタッパーを差し出しながら〝キャハ☆〟と笑った。

「あの、心ちゃんから武内プロデューサーさんが大変だって聞いたんで、良かったら食べ……、あれ、みなさんお揃いで……」

 ウサミンは、きっと何かを感じとったのだと思う。同じ17歳の卯月が、どうかしたんですか? といわんばかりの笑顔で小首をかしげているのに対し、菜々は自分の軽率な行動を後悔するかのような引きつった笑みを浮かべている。彼女の視線の先で、果たしてちひろはその瞳を好戦的に光らせて、まゆは大きな瞳から光を消していた。

 

 ――せっかく、丸く収まりかけていたのに……っ!

 

 武内Pの辞書に〝平穏〟とか〝退屈〟という文字はないのだと、伊華雌は思い知った。

 そして武内Pは――

 

 このあと滅茶苦茶、おかゆ食わされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第16話

 

 

 

 伊華雌(いけめん)が346プロを離れていた一週間の間に、シンデレラプロジェクトを取り巻く環境は劇的に変わっていた。

 まず、出社した武内Pが最初におこなう行動からして違っている。エレベーターの〝上がる〟ボタンを押した武内Pに、伊華雌は思わず言ってしまった。

〝武ちゃん、ボタン間違えてるぜ。我々は地下帝国の住民だ。下のボタンを押さないと〟

 もしかするとまだ酒が残っているのか、もしくはおかゆが残っているのかもしれない。昨日、千川ちひろ、佐久間まゆ、島村卯月(ママ)、ウサミンの四名によるおかゆを一人大食い選手権するはめになった武内Pは、その全てを完食してアイドルと事務員の笑顔を守ったのだけど、その代償として食べすぎによる胃もたれに苦しんだ。それは夜通しうーんと唸ってしまうほどの胃もたれで、だから武内Pはまだ本調子じゃなくて、それで事務室の場所すら分からなくなってしまったのかと思った。

 しかし、事務室の場所を分かっていなかったのは伊華雌のほうだった。

 

「実は、マイクさんがいない間に引越しをしたんです」

 

 他の社員に怪しく思われないように、武内Pは小声で教えてくれた。

 移籍騒動を前後して大幅に所属アイドルの増えたシンデレラプロジェクトを社内カースト最下位の地下室に押し込めておくのはよろしくないと、美城常務の鶴の一声が炸裂し、シンデレラプロジェクトはその何の通りシンデレラ的大躍進を遂げたのだ――と、言葉で説明されてもイマイチ実感がもてない。百聞は一見にしかずという格言を思い出しながら、伊華雌は半信半疑で武内Pの説明に生返事をしていた。

 そして武内Pは最上階に近いフロアでエレベーターを降りて、つい最近までプロジェクトクローネの事務室だった部屋の前で足を止めて、誇らしいのか気恥ずかしいのか、はにかみながらドアを開いた。

 

「ここが、シンデレラプロジェクトの事務室です」

 

 その光景が、怒涛の〝実感〟となって押し寄せてきた。

 都内を一望できる素晴らしい展望が、モデルルームを思わせる洗練された室内が、ごうごうと音をたてて快調に動作する空調が――。素晴らしい設備を与えられているという事実がつまり、〝武内Pがプロデューサーとして評価されている〟ことを証明してくれて、どうしようもなく嬉しくて泣けてきてしまう。

 だって、ずっと粗悪な地下室で頑張ってきたのだ。それがついに会社に評価されて、こんなに良い部屋をもらえて……ッ!

 

〝武ちゃん、良かったなぁ……。頑張ってきたもんなぁ……っ!〟

 

 伊華雌は、大成してメジャーになった地下アイドルを見上げるファンみたいな気持ちで武内Pへ熱い視点を送ってしまう。そして感激の嬉し涙を流す感覚に翻弄されながら事務室の壁へ視線を向ける。

 346プロには〝所属アイドルのポスターを事務室の壁に貼る〟という習慣があって、その事務室の壁を見ればその部署の戦闘力が一目で分かる。

 シンデレラプロジェクト発足当時はポツンと佐久間まゆのソロデビューを応援するポスターが貼ってあるだけだった。これだけだと寂しいので島村さんのポスターを貼るのはどうでしょう、とか言い出した武内Pを全力で止めた覚えがある。

 それが今は、所狭しと壁中にアイドルのポスターが貼ってある。まゆのポスターがあって、アスタリスクのポスターがあって、ファミリアツイン、トライアドプリムス、ポジティブパッション、ピンクチェックスクール。

 

 ――なんだよこれ、俺の部屋かよ……。

 

 伊華雌が前世の自室を思い出してしまうほどにシンデレラプロジェクトの事務室の壁はカラフルな色彩を放っていた。これだけのアイドルが所属しているということは、つまりこれだけのアイドルから武内Pが信頼されているということであり、ずっと武内Pを応援してきた伊華雌としては相棒の躍進(やくしん)が嬉しくて泣きたくなってしまう。

 そして伊華雌は、ピンクチェックスクールのポスターを見つめて、その真ん中でエンジェリック☆スマイル(天使の笑顔)を輝かせる島村卯月と視線を交わして、しみじみと噛み締めてしまう。

 

 ――俺達、島村卯月の担当になれたんだなぁ……。

 

 どうやら〝心の底から嬉しい事〟というやつは喜びが炭火のように持続するらしい。恋愛ドラマで告白を成功させたリア充野郎が女の子と別れて一人になってから時間差ではしゃいだりするけど、伊華雌はその気持ちを理解できてしまった。

 これから先、武内Pと一緒に卯月をプロデュースできると思うと、とまらないワクワクでありもしない心臓が爆発するんじゃないかと思う。もしも自分が人間だったら、喜びのあまり服を脱いで不思議な躍りを躍ってしまうかもしれない。そしてたまたま入室してきた美城常務のMPを吸い上げてしまって怒りの懲戒免職……。

 

 ――いや、クビになってるよ! 何で俺は妄想の世界ですらバッドエンドを目指しちゃうんだよっ!

 

 伊華雌が卑屈すぎる己の妄想に呆れていると、武内Pがこほっと空咳をついて、告白でもするかのように全身を強張らせた。

「実は今日、これからプロデューサー会議なんです……」

 伊華雌は妄想モードを終了させて、武内Pの顔を見つめた。その真剣な横顔に見覚えがある。仁奈のプロデュースをしている時にこんな顔をしていた。あれは確か、パレードの企画を考えた時だったか。

〝武ちゃん、何かあるんだな? 会議で通したい企画が〟

 伊華雌の予想は、果たして的中する。武内Pはブリーフケースから書類を取りだして、それを机の上に広げた。

「マイクさんはどう思いますか? 是非、意見を頂きたいのですが……」

 武内Pは、346プロ最上部に位置する部署のプロデューサーになった今でも、伊華雌と出合ったばかりの頃に見せていた弱気な部分を残している。偉くなっても謙虚であることは美徳であると思うけど、もう少し普段から強気であっていいと思う。この人はノーマルモードと本気モードの落差があまりに激しいのだ。さながら良い子モードとヤンデレモードの落差が激しいまゆのように。

 

 ――どれどれ、どんな企画かな……。

 

 伊華雌は差し出された企画書に視線を向けて、読み進めて――。そして全身に鳥肌の立つ感覚を覚えてしまう。

 

 ――何これ、すごい……っ!

 

 赤羽根Pの言う通り、武内Pは〝天才〟かもしれないと思ってしまうほどに独創的な企画だった。それはライブの常識を覆す企画であると言っても過言ではないかもしれない。

 普通ライブは、ファンを笑顔にすることを目的とする。ライブとはつまり、チケットを買って足を運んでくれたファンを満足させるための興行であるから、その考え方はライブの企画として常識であり王道だ。

 しかし武内Pの企画は〝アイドルを笑顔にすること〟が企画の根幹をなしている。

 アイドルを嘘偽りのない〝いい笑顔〟にして、それを見たファンに笑顔になってもらう。まわりくどいやり方であると指摘されてしまうかもしれない。最終的にファンを笑顔にするのが目的であるなら、最初からファンを笑顔にするためのライブを企画したほうがいいと反対意見が飛んでくるのは目に見えている。

 しかし――

 ファンを笑顔にするための企画。

 アイドルを笑顔にして、その笑顔を見たファンに笑顔になってもらう企画。

 

 この二つは似ているようで全然違う……。

 決して同じ結果にならない!

 

 シンデレラプロジェクトの活動を通じて〝いい笑顔〟を間近に見てきた伊華雌はその力を信じることが出来る。ただの笑顔といい笑顔は、同じようで違うのだ。輝きがまるで違うのだ!

 アイドルを笑顔にするプロデュースを信念にかかげるプロデューサーによる、アイドルを笑顔にしてファンに笑顔になってもらうための企画。

 これはまさに武内Pにしかできない企画だと思う。

 赤羽根Pの言葉を借りれば、〝天才〟による唯一無二の企画である!

 

〝最高にいい企画だぜ、武ちゃん。これはまさに、武ちゃんの企画だ……。シンデレラプロジェクトの企画だっ!〟

 

 伊華雌が絶賛すると、武内Pはむずがゆそうに口を動かして、伊華雌から視線をそらした。その動作の意味するところを、伊華雌はもちろん読み取ることができる。

〝武ちゃん、照れんなって!〟

 親しげに背中を叩く感覚をつくりながら声をかけると、武内Pは照れ隠しとばかりにコホっと空咳をついた。そして書類をブリーフケースに入れた。

「マイクさんのおかげで自信がつきました」

 立ち上がった武内Pは、銃を手にして戦場へ向かう兵士のように、勇ましい表情で事務室を後にする。

 確かに、武内Pは戦場へ向かっている。

 しかし手にしているのは銃ではない。

 

 総合エンターテイメント企画――シンデレラの舞踏会。

 

 武内Pは渾身の企画書を手にして、プロデューサー会議という名の戦場へ向かうのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 346プロの会議室に、かつてない緊張感が張りつめている。

 一様に渋面を浮かべるプロデューサーの視線が、立ち上がり発言をしている武内Pに突き刺ささる。議長たる美城常務も、かすかに眉根をよせて静観している。

 大勢の人間がたった一人を見据えるという光景は、見ているだけでも胸が苦しくなるほどの圧迫感を覚えてしまい、伊華雌は小学校時代の悲劇を思い出してしまう。

 

 それは後に〝オナラ裁判〟と呼ばれる、人という種族の闇を浮き彫りにする悲惨な事件である。

 

 初めに結論を言ってしまうと、これは冤罪(えんざい)なのだ。当事、小学三年生だった伊華雌少年は、完全に白で、無実で、被害者である。ただ〝不細工である〟という理由で隣の席に座っていた女子の放屁責任を押し付けられてしまったのである……。

 それは、すごく可愛い女子だった。クラスで一番、いや、学年で一番可愛い女子かもしれない。そんな女の子の隣の席に座ることができて、伊華雌少年は席替えの神様に感謝していた。

 

 その可愛い女子が、可愛さのかけらもない毒ガスをケツの穴から発射してクラスメイトを無差別攻撃するまでは……っ!

 

 そのオナラはあまりにも強烈で、男子は毒ガステロだと騒いで、女子はハンカチで鼻を押さえて実行犯の特定・死刑を声高に叫んだ。クラスメイトは犯人の特定に奔走(ほんそう)し、複数の証言から爆心地を特定し、やがて容疑者は二名に絞られた。

 学校一の美少女と、学校一の不細工。

 もう、勝ち目がなかった。誰しも伊華雌の犯行だと思っている。常識的に考えて、スカンクみたいにくっさいオナラを発射するのは不細工の所業であって、美少女はハンカチを鼻にあててしかめっ面をするのが世の理である。

 みんな、そうあって欲しいと思っている。

 だから伊華雌へ威圧的な視線を向けて自白をうながしてきた。

 しかし伊華雌は知っている。自分がやってないことも、真犯人がクラス一の美少女であることも。

 だから、行動した。

 美少女の前日の行動を探って、そして――、とある中華料理店で決定的な証拠を掴んだ。オナラ事件の前日、美少女は家族と中華料理店に入っている。そこで餃子を食べていた。ニンニクのたっぷり入った餃子を!

 伊華雌は意気揚々と逆転判決につながる証言を並べた。あの日、あの場所で、あそこまで激烈な臭気を放つオナラを発射できたのは、前日にニンニクを食べていたお前しかいない……。真実はいつも一つ!

 それは橘ありすをもって〝論理的ですね〟と認めてもらえるほどの磐石な推理であって、伊華雌は逆転無罪を確信していた。

 そして、絶対絶命の窮地に立たされた美少女は――

 

 ふえーんと、泣き始めた。

 

 『伊華雌くん酷いよぉ……』と、嗚咽の合間に伊華雌を批難しながら泣きじゃくることによってクラスメイトの同情を引き出し、もはやオナラのことなんてどうでもいいお前が謝れ! という空気を構築し、クラス全員から威圧的な視線を向けられた伊華雌少年はその迫力に負けて謝罪したのだった。

 

 ――しかもあの毒ガス女、嘘泣きだったんだよなぁ……ッ!

 

 伊華雌は苦い思い出を噛み締めながら、武内Pを全力で応援する。あの時のクラスメイトを髣髴(ほうふつ)とさせる厳しい視線を向けてくるプロデューサー達に負けることなく企画を通してほしいと思う。

 そして武内Pは、プロデューサー達の(おごそ)かな視線と、伊華雌の熱烈な視線を受けながらプレゼンを続ける。

「自分はアイドルの〝いい笑顔〟を引き出して、ファンにも笑顔になってもらいたいと考えております。そのためにはアイドルの個性を活かしたライブ構成を考える必要があります。具体的には、企画段階からアイドルの意見を積極的に取り入れて、アイドルが〝やりたい!〟と思えるライブを目指します。もちろん、アイドルはライブ構成に関して素人でありますので、実現可能なライブに出来るように担当プロデューサーが調整します」

 武内Pの説明を受けたプロデューサーの意見は真っ二つに分かれる。

「挑戦することを悪いとはいいませんが、無茶というか、無謀というか……」

「アイドルにもプロデューサーにも、負担が大き過ぎるかなと……」

 保守派のプロデューサーは、苦笑しながら美城常務に同意を求めた。

「面白い企画だな。オレはアリだと思う!」

「これをみんなが聞いたら収集がつかなくなるくらいの騒ぎになりそうだけど……、盛り上がるのは間違いない!」

 間島Pと米内Pは、武内Pに笑みを向けた。

 勢力的には五分五分である。

 移籍騒動を引き起こした961プロに一泡ふかせてやりたいと意気込むプロデューサーは武内Pの企画に賛成して、移籍騒動を対岸から眺めていたプロデューサーが反対している。そんな感じの情勢であると読み取り、伊華雌はもどかしく思った。

 

 ――これは絶対、すごい企画なのに……っ!

 

 この企画が成功すれば961プロに一泡ふかせるのはもちろん、アイドル業界の勢力図を塗り換えるきっかけになるかもしれない。シンデレラの舞踏会をきっかけに、346プロのアイドルは笑顔の輝きが違うとファンに認知してもらえる可能性がある。それはつまり、武内Pが信念に掲げる〝アイドルを笑顔にするプロデュース〟がファンに認めてもらえる、ということであって、彼の信念が実を結ぶ瞬間である。

 だから伊華雌は、この企画を是が非でも通したいと思う。

 アイドルの笑顔のために。そして何よりも、武内Pの笑顔のために! 

 

〝武ちゃん、負けんな……。押し通せ! あんたの企画は、絶対に成功するっ!〟

 

 反対派の意見を前にうつむいていた武内Pが、顔をあげた。

 右から左に、不満顔のプロデューサーへ視線を送って、言い放つ。

「自分が、責任をとります」

 そして武内Pは、本気の眼差しを美城常務へ向ける。

 

「失敗したら、その時は自分が責任をとります。やらせてください……ッ!」

 

 怒鳴りつけるような声が、ゆっくりと会議室の沈黙にのまれていく。天井の空調がうなる音が聞こえて、口元を強張らせたプロデューサー達の視線が美城常務へ集中する。

 美城常務はしばし黙考(もっこう)を挟んだ(のち)に、赤い口紅を塗られた唇をゆっくりと動かして――

 

「駄目だ」

 

 伊華雌は耳を疑った。こんなに凄い企画を、これほどの熱意を持ったプロデューサーが、己の進退を賭けて挑もうとしているのに、何でこの人はそれが分からないのか!

 しかしそれは、早とちりだった。

 美城常務は企画を否定したわけではなくて――

 

「責任は私が取る。君は企画を成功させることだけを考えろ」

 

 何を言われたのか、すぐに分からなかった。

 美城常務の口元に笑みあって、それを見た瞬間に、理解した。

 

 企画が、通った!

 

「次回の定期ライブは〝シンデレラの舞踏会〟と名前をあらためて公演する。武内は総括プロデューサーとして各プロデューサーの指揮を取れ。この企画はアイドルとプロデューサー、そしてプロデューサー同士の連携が成功の要となる。各自、武内の指示にしたがってもらいたい」

 美城常務の目配せをうけて、武内Pが立ち上がる。

「美城常務のおっしゃったとおり、今回の企画は、プロデューサー同士の連携が重要であります。……あのっ」

 武内Pが、深々と頭を下げた。

 プロデューサー達は戸惑って視線を交わす。

 

「皆さんの力を、自分に貸していただけませんでしょうか!」

 

 頭を下げ続ける武内Pがいて、それでもプロデューサー達は迷っている。

 パチ……、パチ……。

 間島Pが拍手をして、米内Pがそれに続いた。

 その音は次第に大きくなる――。反対していたプロデューサー達も、肩をすくめて苦笑して、そして手を叩いてくれた。

 伊華雌は自分に手が無いことを悔しく思いながら、しかし誰よりも大きな拍手を送る感覚をもって武内Pを祝福するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第17話

 

 

 

 プロデューサー会議が終わってから、武内Pは夕方まで打ち合わせに追われた。

 

 武内Pは〝総括プロデューサー〟として、他のプロデューサーと打ち合わせをする必要がある。それは、どんなライブを提案すれば担当アイドルのいい笑顔を引き出すことが出来るか? を考える打ち合わせであって、必然的に時間がかかってしまう。

 全ての打ち合わせを終えた武内Pは、さすがに疲れが顔に出ていた。白坂小梅が見たら『いい感じにゾンビみたいだね』と言って嬉しそうに微笑むかもしれない。

 

〝武ちゃん、お疲れ。ちょっと休憩しようぜ。昼飯とか、食ってないじゃん〟

 

 伊華雌(いけめん)が心配になって声をかけても、武内Pは足を止めようとしない。346プロの廊下をひたすらに歩く。

「まだ、今日中にやっておきたいことがあるので……」

 一度走り出したら目的を達成するまで突っ走る。それは武内Pの長所であると同時に短所であると伊華雌は思う。

 体を壊してしまうのではないかと心配になる。それこそ旦那を心配する嫁の気持ちで働き過ぎを(とが)めたい。

 

 ――せめて俺がマイクじゃなくてミキサーに転生していれば、乙倉ちゃんもびっくりのミックスジュースを作ってやれるのに……っ!

 

 伊華雌は無力なマイクであること悔やむばかりである。

 もしも自分がミキサーであれば、栗原ネネちゃん秘蔵のレシピ(青汁)によって効果抜群な特製スタミナドリンク(ゲロまず)を生み出して、武内Pの疲労を吹き飛ばしてやることができる。そして青汁を生み出した代償として〝悪臭を放つミキサー〟にメルヘンチェンジ! 燃えないゴミの日に捨てられる……。

 

 ――いやっ、可哀想すぎるだろ俺! なんでいつも俺の妄想は悲惨な結末まっしぐらなんだよっ!

 

 伊華雌が己の妄想にクレームを付けている間にも、武内Pはゾンビの足取りで廊下を進む。シンデレラプロジェクトの事務室の前で足を止め、ドアを開けた。

 

「あっ、Pチャンにゃ♪」

「プロデューサー、おつかれー」

 

 ソファーに並んで座っているみくと李衣菜が、振り返って武内Pを見上げた。その顔に輝いているのは、父親の帰宅を喜ぶ子供みたいな笑顔。

 二人の向かいのソファーに座っているのは佐久間まゆで、彼女は武内Pに気付くとすっと立ち上がる。窓から差し込む夕日の中をしずしずと歩き、武内Pの真正面で足をとめた。

 

「お疲れ様です、プロデューサーさん……」

 

 制服姿の佐久間まゆである。

 しかしその(たたず)まいが、エプロン姿で旦那を迎える妻に見えてしまう。『ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも、うふふ……』と言わんばかりの眼差しを武内Pへ向けながら、ブレザーのふところへ手を入れた。

「プロデューサーさん、新しい企画のことで疲れているでしょうから、これ……」

 まゆがブレザーのうちポケットからスタミナドリンクを取り出した。キャップの星飾りが夕日を反射して光る。

「プロデューサーさんがお腹を壊さないように、温めておきました……」

 

 ――佐久間まゆが懐で温めたスタミナドリンク……だとッ!

 

 伊華雌は雷に打たれた人の気持ちになりながら、差し出されているスタミナドリンクを見つめてしまう。

 懐で何かを温めるのは豊臣秀吉の専売特許である。それは歴史の教科書に載ってしまうほどに献身的な行為であるけど――。

 じゃあ、プロデューサーのために懐でスタドリを温めたまゆはどうだ?

 

 ――秀吉ってレベルの献身じゃない。

 

 秀吉の体温で暖められた草履を受け取った信長は、〝草履あったけー〟ぐらいの反応だろう。

 しかし、まゆの体温で温められたスタドリとか、そんなものを飲んでしまったら……っ!

 

〝体の一部が、すごくホットに!〟

 

 今回、伊華雌が開けた紳士の扉は〝女の子の体温で温められた食品に興奮する紳士〟。その趣向はマニアック過ぎて、その扉の向こう側には誰もいない……。

 どこまでも真摯(しんし)に紳士を目指す伊華雌は、前人未踏の領域に足を踏み入れようとしていた!

 

「ありがとうございます」

 

 妄想を暴走させる伊華雌を尻目に、武内Pは表情を一切変えることなくまゆからスタミナドリンクを受け取る。

 

 固有スキル――〝フラグ・クラッシャー〟発動!

 〝まゆの体温で温められたスタドリ〟は無効化される!

 

「ねー、Pチャン。企画、どうだった? シンデレラの舞踏会、出来そう?」

 学校の制服に赤い眼鏡という〝マジメ・ネコチャン仕様〟のみくに訊かれて、武内Pは少しだけ照れくさそうに……。でも、誇らしげな笑みを浮かべる。

「プロデューサー会議での承認を得ることが出来ました。つきましては皆さんの希望を――」

 

「やったにゃぁぁああ――っ!」

「プロデューサー、ロックだねっ!」

 

 みくと李衣菜が同時に歓声を上げた。

 思わず首を触ってしまう武内Pを尻目に、二人はどんどん盛り上がる。

「みんなにも教えてあげないと!」

「じゃあ、シンデレラプロジェクトのライングループで――」

「みくたちでライブを作れるなんて最高にゃ!」

「最高にロックなステージにしたいなぁー」

「みくは、猫チャン1万匹ライブが――」

 ソファーの上ではしゃぐ二人のアイドルを見つめ、伊華雌は何ともいえない疎外感を噛み締めていた。

 きっと、自分が赤羽根Pのマイクだった〝空白の一週間〟の間にドラマがあったのだ。シンデレラプロジェクトのアイドル達が意見をかわして、紆余曲折の末にシンデレラの舞踏会の企画を完成させたのだと思う。

 その会議に参加できなかったことが残念で、自分がいなくても凄い企画が産まれてしまったことが、少しだけ寂しい。

「今回のライブは、皆さんの意見を積極的に取り入れていきたいと思っております。もちろん、全てを実現出来るわけではありませんが、出来る限りは皆さんの希望を取り入れていこうと思っておりますので――」

 武内Pの説明にみくと李衣菜は、窓から差し込む夕日よりもまぶしい笑顔を輝かせる。

 

「了解にゃ! みく達、すっごいアイディアたくさん出しちゃうんだから♪」

「最高にクールでロックなアイディア、期待していいからね、プロデューサー!」

 

 そしてまゆは、夕日よりも熱い気持ちを視線に込めて、

 

「まゆは、プロデューサーさんが望むことでしたら、なんでも……」

 

 その声色(こわいろ)に、視線に、愛情が溢れている。

 しかし武内Pは贈呈された愛情を、首に手をあてるだけでさらりとかわしてしまう。模範的な〝華麗にスルー〟。それを見た伊華雌は、あらためて思う。やはり武内Pは〝佐久間まゆ担当〟にふさわしい。

 もし仮に自分が〝望むこと、何でも……〟とか意味深なことを言われたら、頭の中で会議が始まってしまう。

 無駄に高い妄想力の全てが動員されて、白熱する議論はR18の垣根も越えて、結論が出る頃には夜が明けている。早朝の事務室で、放置された仕事を見つめて、俺は一体何をやっていたんだ……、とうち震える。出社してきた千川ちひろに、あなたは一体何をやっていたんですか! と怒鳴られて足が震える。懲戒免職待ったなし!

 

「それでは、自分は失礼します」

 

 武内Pはアイドル達に丁寧なお辞儀をして、シンデレラプロジェクトの事務室を出た。

 廊下を歩く武内Pは相変わらずゾンビの足取りで、たまらず伊華雌は声をかける。

 

〝とりあえず何か食べようぜ武ちゃん! メルヘンチェンジ、まだやってるっしょ?〟

 

 アイドルの笑顔で〝心〟を満たすことはできても、〝胃袋〟までは満たせない。(かすみ)を食って生きる仙人のように、アイドルの笑顔だけで生きていくことは出来ないのだ。

 

 ――いやしかし、どうだろう……?

 

 長年の修行を積めばあるいは、島村卯月等身大ポスターを眺めるだけで生きていける超生物になれるかもしれない……。人間の可能性は計り知れないのだから!

 まあ、その可能性はあるのだけど、今必要なのは超生物を目指すことじゃない。腸に栄養を送ること。武内Pをけしかけてご飯を食べさせなければ!

 伊華雌は口やかましいおかんのように『早くご飯を食べなさい!』と言いかけて――

 

 しかし、声を出せなくなってしまう。

 

 廊下の向こうから、制服姿の女の子がやって来る。アイドル事務所なのだから制服JKが廊下を闊歩(かっぽ)していることに疑問を挟む余地はないけど、しかし不思議に思ってしまう。

 

 ――あの女の子、可愛すぎじゃないか?

 

 〝人間〟というカテゴリーから逸脱して〝ラブリーマイエンジェル〟という種族にカテゴライズされている少女が近づいてくる。武内Pに気づくと、嬉しそうにはにかむ。

 それを見たイケメンもこっそりはにかむ。

 同じ〝はにかみ〟という動作であるが、その効果は大違い。人間だった頃に〝はにかみ〟を発動させて、果たしてどうなってしまったか?

 

 ――女・子供は悲鳴をあげて、男性はファイティングポーズをとる……。でも一人だけ、にっこり笑ってくれる人がいた。きちんとした服装で、優しい笑顔で、ちょっと署まで来てもらえる?

 

 伊華雌は悲しい過去を振り払い、目の前に降臨した天使の笑顔に集中する。

 

「プロデューサーさん、お疲れ様です!」

 

 制服姿の島村卯月――という名前の超生物が、武内Pを見上げていい笑顔を炸裂させた。

 

〝卯月ちゃん、今日もいい笑顔なんじゃぁぁああ――っ!〟

 

 卯月の〝ゼロ距離いい笑顔〟によって伊華雌は天に召された。汚れた魂を儚く散らした彼は、しかし最高にいい笑顔だったという……。

 

「さっき、みくちゃんがラインで教えてくれたんですけど、シンデレラの舞踏会、出来るんですねっ!」

 

 卯月の言葉の語尾がぴょんぴょん跳ねている。その言葉すらも笑顔であると思えてしまう。

 武内Pがうなずくと、卯月の喜びは加速する。よほど嬉しいのか、その場でステップを踏みはじめた。〝心を許した人の前では無邪気になっちゃう感〟が途方もなく可愛くて、伊華雌は再び逝ってしまう。

 

「舞踏会、楽しみですっ! わたし、いっぱいアイディア出しますからっ♪」

 

 卯月はまるで、魔法のドレスをもらったシンデレラみたいに全身で喜びを表現する。無邪気にはしゃぐ姿がとても愛らしい。伊華雌は〝あー駄目だ、また逝くわー〟とか思いながら本日三度目の昇天をしそうになって――踏みとどまった。

 

 ――さすがに逝きすぎだろ俺っ! こんなにガンガン昇天して……、そろそろ天使に門前払いされそうだよ! またお前かよ、帰れ! ぐらい言われそうだよ。……でも、しょうがない。こればっかりはどうにもならない。だって〝島村卯月〟という名前の愛天使(ラブリー・エンジェル)が可愛すぎるんだからぁぁああ――っ!

 

 伊華雌は短時間に連続で昇天しすぎてどうにかなりそうだった。幸せの過剰摂取で満身創痍。確かこんな症状に名前があった。えっと、あれは、テクノブレ――

「それでは、自分はこれで」

 武内Pが頭をさげた。それを卯月がいい笑顔で見送る。

「島村卯月、舞踏会のアイディア出し、がんばりますっ♪」

 卯月はなんと! 笑顔だけでは飽き足らず、両手にピースサインを作った……。

 

 ――エヘ顔ダブルピース……、だとぉッ!

 

 伊華雌は逝った。

 何度も逝った。

 だって卯月の笑顔が、記憶の中に存在する〝島村卯月フォルダ〟の中にあるどの笑顔よりもまぶしくて、こんなの逝くしかないじゃない! とか言いながら逝きまくる。

 そして、覚醒――。

 

 新しい称号を獲得しました:テクノブレイカー

 

 マイクの身でありながらテクノブレイクを経験した伊華雌は、その代償として意識を失った。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 伊華雌が意識を取り戻した時、そこは346プロ社内カフェ――メルヘンチェンジだった。

 武内Pがちゃんとご飯を食べていることに伊華雌は安堵して、その物量にぎょっとする。茶碗の上にそびえたつご飯は、〝富士山〟という単語を思い浮かべてしまうほどの山盛り。

 

 ――きっと語尾にキャハ☆ってつけるあの子の仕業なんだろうな。

 

 伊華雌の予想は的中する。

「足りなかったらおかわりもありますからねっ!」

 キッチンから顔をのぞかせている安部菜々17歳が、しゃもじ片手に目尻をさげて微笑んでいる。その笑顔に、仕草に、伊華雌は幼少期の記憶を刺激されて口走ってしまう。

 

〝か、母ちゃん……っ!?〟

 

 しかしすぐに自分の言葉を否定する。安部菜々17歳がおかんなわけない。だって、17歳なのだ。17歳っていったら卯月と同い年。花の現役JKだ。母性を発揮できるわけがない。

 

 ――でも、何故だろう……。ウサミンを見てると童心にかえって、お母ちゃん! とか言いながら腰に抱きつきたくなる。現役JKであるウサミンに、どうして母性を感じてしまうんだぁぁああああ――――っ!

 

 伊華雌が〝ウサミン最大の謎〟と戦っていると、どこからともなくスマイリングが聞こえてくる。それは武内Pのスマホの着信音だった。

 武内Pはスマホの基本着信音を、みんな大好き島村卯月のスマイリングに設定している。

 たしかにスマイリングは名曲であるし、島村卯月の担当である武内Pがそれを着信音に設定するのは間違っていない――と言いたいところなのだけど、伊華雌はあえて否定する。スマイリングに限らず、誰かの個人曲を着信音に指定するのは控えたほうがいい。

 

 問題――

 武内Pのスマホから誰かの個人曲が流れたら、何が起こるでしょうか?

 

 正解――

 まゆの瞳から光が消えます。

 

 事務室にいる時に着信があって、スマホからスマイリングが流れた瞬間、まゆがどんな顔をしているのか? 武内Pは気にするべきだと伊華雌は思う。

 どうして一度、スマホの着信音が勝手にエブリディドリームに設定されていたのか? 真相を推理してゾクっとするべきだと思う。

 鈍感なのは武内Pの美徳であるけど、〝行き過ぎた鈍感・難聴は主人公を殺す〟という格言を教えてあげたほうがいいかもしれない。もしくは防刃チョッキをプレゼント。

 

「もしもし。――いえ、大丈夫です」

 

 食事の途中で電話を始めた武内Pを、安部菜々17歳がじっと見ている。それは見るからに不機嫌な目付き。例えるなら、食事中にTVばかり見て箸を動かさない子供を叱るカウントダウンに突入した母親の眼差し。

 ウサミンはしかし17歳。母親の目付きができる年齢じゃない。できるわけがないのに出来ているということは、つまりウサミンは17歳じゃなくて、でもウサミンは17歳だから、つまり、その……。

 

 ――17歳って、なんだろう?

 

 伊華雌が17歳という概念に哲学を感じていると、電話を終えた武内Pがスマホをテーブルの上に置いた。

〝武ちゃん、誰から?〟

 すかさず訊いた伊華雌に、武内Pは小声でこたえる。

「赤羽根さんからでした。会って話がしたいと」

 赤羽根Pと聞いて伊華雌は、待ってました! とテーブルを叩く感覚を覚えた。

 

 あの夜の説得が、果たして実を結んだのか? それとも徒労に終わったのか?

 結果発表の時間である。

 

〝すぐに行こうぜ、武ちゃん!〟

「はいっ」

 武内Pが立ち上がった瞬間、キッチンから様子をうかがっていたウサミンの表情が曇った。

「ちょっと、プロデューサーさんっ!」

 彼女はキッチンから飛び出すと、メイド服のフリルを揺らして武内Pに近付く。武内Pと並ぶと大人と子供にしか見えない体格差がある。しかしウサミンは堂々と武内Pを見上げ、母親の威厳をもって言い放つ。

 

「残さずに食べないとだめですよ! 食べ物を粗末にする人は、お尻ペンペンですからねっ!」

 

 菜々は人差し指を突き立てて〝めっ!〟と言わんばかりに視線を強める。

 武内Pはお母さんに怒られた子供みたいに、しゅんとしながら席についた。

 そして伊華雌は、菜々が発した〝お尻ペンペン〟という単語に強い違和感を覚える。

 完全に〝おかん〟の言葉である。だって、お尻ペンペンでお仕置きをするのはおかんに限るから。ご褒美でお尻ペンペンするお姉さんもいるけど、ウサミンはそれを脅し文句として使った。

 どうして安倍菜々17歳に、母性を感じてしまうのか?

 母親の面影を感じてしまうのか?

 どんなに頭を悩ませたところで答えは見つからない。

 

 謎は深まるばかりである……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第18話

 

 

 

 夜の時間を迎える新橋の駅前は賑わっていた。

 

 月曜日から居酒屋に繰り出そうと考えるサラリーマンは気合いの入った飲んべえである。迷わぬ足取りで赤提灯を目指す背中に常連の風格が漂う。そんな見るからに飲み馴れたおじさんの中にあって、武内Pも負けていない。体格の良いスーツの背中が、新橋を行き交うサラリーマンの中に溶け込んでいる。

 

 ――まあ、何気に結構来てるからな。

 

 武内Pは新橋の〝常連〟を名乗っても許されるんじゃないかと、伊華雌(いけめん)は思う。例の居酒屋に関しては何度も足を運んでいるし、赤羽根Pを巻き込んだ壮絶な飲み会――というか飲み地獄から大して日にちが経っていないと、歩道のすみに残る雪に教えられる。

 武内Pが白い息を弾ませながらいつもの居酒屋に到着すると、その入り口に待っていた赤羽根Pが手をあげた。

 

「武内っ!」

 

 その覇気のある声に、街灯に照らされた笑顔に、伊華雌は懐かしい気持ちになる。そういえばこの人、こんな笑い方をするんだったな……。昔のビデオを見た時のような気分になって、赤羽根Pが〝イケメンリア充〟という種族であるのだと思い出した。

「赤羽根さん、お疲れ様です。あの――」

 言葉を焦る武内Pを、しかし赤羽根Pは親しげに肩を叩いて黙らせる。

「とりあえず店に入ろうぜ。話はそれからだ」

 軽やかに、そして爽やかに主導権を奪い差って居酒屋の暖簾(のれん)をくぐる赤羽根P。その後ろ姿を見た伊華雌は、懐かしくも荒々しい感情に翻弄される。マイクという無機物に転生した今においても己の中に脈々と流れる陰キャの血が騒いでいる……。イケメンのイケメン的行動に対し理由なく突っかかりたくなって、リア充を起爆する呪詛(じゅそ)の言葉を唱えたくなる!

「待ってください」

 赤羽根Pの後を追って武内Pも居酒屋に入った。

 

「らっしゃっせーッ!」

 

 体育会系な挨拶が二人を出迎える。見るからに美味しそうな煙が立ち込めて、笑う声とジョッキをぶつける音が同時に襲ってきた。

 この店はいつ来ても変わらない。

 実はここだけ時間がループしてるんですよ、と店主に言われたらあっさり信じてしまう。そのくらいに変化がない。でも、そこが良いんだと思う。変わらない場所であることがこの店の魅力なのだ。だからこそ常連が通いつめている。いっそのこと店の名前を〝エンドレスエイト〟にすればいいんじゃないかとすら思う。

 そんなどうでもいいことを考えているうちに赤羽根Pはいつもの個室に入り、武内Pはテーブルを挟んで向かいに腰をおろした。

「ビールでいいか?」

 赤羽根Pの声に武内Pはうなずく。オーダーして、すぐにビールがきて、お通しが続いた。

 しかし乾杯は続かない。

 その前に訊きたいことがある。

 

〝武ちゃん、確かめよう〟

 

 伊華雌の言葉に武内Pはうなずいて、ジョッキをテーブルに置いた。

「あれからどうなったのか、訊いてもいいですか?」

 赤羽根は、あぁ……、と生返事をして、外と店内の気温差でくもってしまった眼鏡をハンカチでふき始めた。

 伊華雌は焦る気持ちを抑えつつ、赤羽根Pがメガネを拭き終わるのを待つ。

 きっと朗報だと思う。そう思えるだけの情報を赤羽根Pは見せている。服装は黒のスーツで、伊華雌の嫉妬心を日野茜ファイヤーっ! できるほどのイケメンな仕草と雰囲気を身に纏って。

 だから期待したいのだけど、油断できない。乾杯は事実を確認してからだ。

 メガネを拭き終わった赤羽根Pは、それをかけて、武内Pの視線を受け止める。

 

「この前は、ありがとな……」

 

 赤羽根Pは、一瞬、照れくさそうに視線を外して。でもすぐに武内Pを見つめなおして、自嘲するようなため息をつく。

「オレ、正直言って参ってた。961プロへ移籍して、そこのプロデューサーとして活躍する。――絶対にそうなるって思ってたから、あてが外れて、どうしていいのか分からなくて……」

 

 赤羽根Pと武内P。

 二人のプロデューサーが視線を交わし続ける。

 言葉以上の何かを読み取ろうとするかのように、互いの目から視線を外さない。

 

「高木社長に誘われて、でも、自信も勇気もなかった。黒井社長から、プロデューサーとして魅力がないって言われたの、結構ショックでさ……。高木社長の元へ行っても、失敗して迷惑かけるんじゃないかって。そう思うと、決断できなくて……」

 その言葉に、伊華雌は気付かされる。失意のあまり部屋にこもった赤羽根Pは、伊華雌が変態エア友達を量産している傍らでいろいろと考えていた。ただ呆然と、何も考えずにぼーっとしていたわけじゃない。

 

 ――ニート状態の時の俺なんて、そろそろ悟り開けるんじゃね? ってくらい何も考えてないんだけどなぁ……。まさに〝無の境地!〟って感じなんだけど……。

 

 引き込もり中の己の心境をかえりみた伊華雌は、赤羽根Pと自分の〝意識の違い〟みたいなものを思い知った。自分の意識があまりに低くて鬱になりかけた瞬間――、赤羽根Pが立ち上がる。

 

「お前に言われて、分かったんだ。オレとお前は、何が違うのか」

 

 赤羽根は、自分に言い聞かせるように。

 そして武内Pに訴えかけるように――

「オレは失敗を恐れていた。だから成功しているやり方を真似て、それで成果を出そうとした。武内は失敗を恐れなかった。だからたくさん失敗をして、でも、自分だけのプロデュースを手にいれた。きっとこれから、大きな成果をあげると思う」

 そして赤羽根Pは結論する。

 今の気持ちを、武内Pに伝える。

「オレは、お前みたいになりたい。失敗を恐れずに突き進んで、自分だけのプロデュースを見つけたい! だからっ!」

 赤羽根Pの手が、スーツの懐から小さな紙切れを差し出した。

 

「765プロの赤羽根です! よろしくお願いしますっ!」

 

 差し出された名刺を見つめて、しばし武内Pは沈黙する。

 ほんのわずかに、じんわりと目の湿度をあげて、込み上げてくるものをこらえようとするかのように口を引き結ぶ。

 そして、赤羽根Pと同じように立ち上がってスーツの懐から名刺を取り出す。

 

「346プロの武内です! よろしくお願いしますっ!」

 

 名刺交換。

 社会人の間で毎日のように行われている行為であるが、赤羽根Pと武内Pのそれには深い意味がある。それは、それぞれ別の道を歩むことになった同期の仲間がお互いの前途を祝福しながら背中を叩き合うような、余人の介入を許さない神聖な別れの儀式だった。

 そして赤羽根Pは、もう一枚、名刺を取り出した。

「あとこれ、ちひろにも」

 差し出された名刺を、しかし武内Pは受け取らない。

「今、呼んでみます。できれば直接」

「あぁ……、そうだな」

 スマホを取り出す武内Pを見て、赤羽根Pは不安げに眉をハの字にする。そして苦手な女性の来店に怯えるイケメンホストみたいな弱々しい声で、

「できれば、ちひろ一人だけを呼んでほしいんだけど……」

「えぇ、分かってます」

 苦笑する武内Pは、赤羽根Pの気持ちを充分に理解しているのだと伊華雌は思う。だって、武内Pも〝飲み会という名の地獄〟を共に乗り越えた戦友なのだから。高垣楓と差し向かいで一升瓶を空けたのだ。本当に346のお姉さまアイドル達の肝臓はどうなっているのか? 武内Pと赤羽根Pがつぶれた後も、まだまだこれから! のテンションを朝まで維持したバイタリティに戦慄を覚えるのは自分だけではないと思う。

「千川さんは、あと少しで仕事が終わるので駆けつけてくれるそうです」

「そうか……」

 視線を交わす二人のプロデューサー。

 そこにはあるのは、伊華雌には分からない彼らだけの空気。

 同期で入社した二人が、時間が経って、立場が変わって。

 それぞれの道を歩むことになって――。

 それがどんな気持ちなのか、伊華雌には分からない。

 

 ――就職とか、したことないし……。

 

「それにしても……」

 武内Pが、何かを思いだそうとするかのように目を細めて、ふふっと笑った。

「……何だよ、いきなりどうした?」

 不満顔でのぞきこんでくる赤羽根Pに、武内Pは珍しく無邪気に笑いながらこたえる。

「さっき赤羽根さんが、自分のようになりたいと言っていましたが……。その、自分も昔、同じようなことを言っていたんです」

「同じようなこと?」

 首をかしげる赤羽根Pに、武内Pはうなずいて、大切な思い出を語る子供の口調で話し始める。

「佐久間さんのプロデュースをしている時、どうやってプロデュースすればいいのか分からなくて、川島さんや城ヶ崎さんに相談したんです。その時、この居酒屋で訊いたんです。どうすれば、赤羽根さんのようになることができるのかと」

 そういえばそんなこともあったなと、伊華雌は思い出した。

 赤羽根Pのようになって佐久間まゆを振り向かせたいと言って――、叱られた。誰かの真似じゃなくて自分自身のやり方で勝負しなければ駄目だ。思えばあれは、価千金の金言だった。

「そんなことが、あったのか……」

「はい……」

 赤羽根Pと武内Pが視線を交わす。

 見つめ合って、笑みをかわして――。

 そんな二人の甘い空気が伊華雌には面白くない。

 

 ――こいつら、イチャコラしやがって……ッ!

 

 赤羽根Pを気にいらない理由は、単にイケメンでリア充だから、というだけではないのかもしれない。多分に〝嫉妬〟の感情が作用しているような気がする。武内Pから赤羽根Pへの好感度がやたらに高くて、それがどうにも気に食わない!

 どうやら〝嫉妬〟という感情は友人相手にも発生するらしい。

 そんなこと伊華雌は知らなかった。

 

 ――だって友達とか、いたことないし……。

 

「では、あらためて乾杯を……」

 ジョッキを持った武内Pを、しかし赤羽根Pは真面目な顔で制止する。

「その前に、話しておきたいことがあるんだ……」

 

 ――なんだよなんだよ! まさか告白でもしようってんじゃないでしょうねえ! そんなの、俺が許しませんよっ! いい加減にしないと同志佐久間まゆを召集してやるからな。そして二人で病んでやる……。俺が、俺達が――、ヤンデレだっ!

 

 嫉妬心をたかぶらせるあまりヤンデレの扉に手をかける伊華雌であったが、赤羽根Pがあまりに真剣な表情をしていたので、一旦病みを引っ込めた。

「高木社長の知り合いで善澤さんっていう芸能記者がいるんだけど、その人が気になることを言ってたんだ。961プロが、週刊誌をつかって346プロのアイドルを叩こうとしてるって」

 伊華雌の中に荒れ狂っていた嫉妬心が、すっと消えた。

 武内Pを守りたいのはもちろんだけど、アイドルだって守りたい。961プロの手先たる〝芸能セブン〟の言いたい放題やりたい放題のスキャンダル記事を看過するわけにはいかない。

「誰が、狙われているのですか?」

 武内Pはすでに臨戦態勢だった。ついさっきまで赤羽根Pと仲良く笑顔交換していたとは思えないほどに表情を引き締めている。

 伊華雌も〝総毛立つ猫の気持ちになるですよーッ!〟と心の中で叫びながら赤羽根Pの言葉を待つ。

 赤羽根Pは、一瞬だけためらってから、口を開く。

「961プロが狙っているのは――」

 彼はまるで、大病の告知をする医者のような重々しい口調で――

 

「島村卯月だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第19話

 

 

 

 赤羽根Pから情報をもらった週の芸能セブンに記事が載った。

 

 〝島村卯月、天使のような悪魔の笑顔〟

 

 そのタイトルだけでも伊華雌(いけめん)は世界を火の海に変えてやれるほどの怒りを燃え上がらせることができる。

 

 ――ラブリーマイエンジェル島村卯月を悪魔扱いするとは、よろしい……ならば戦争だッ! 今すぐ芸能セブンを出版している会社のホームページにアクセスして、F5キーを16連打でサーバーを焼き払ってくれるわ!

 

 そのくらい語気荒く怒り狂うはずの伊華雌であるが、何も言えなかった。怒りがあって、それ以上に動揺があって、どうしていいのか分からない……。

 

「これは、あんまりです……」

 

 武内Pが口を開いた。そこはシンデレラプロジェクトの事務室。平日の朝ということもあってアイドルも事務員もいない部屋に、明確な怒気を含んだ武内Pの低い声が響き渡る。彼の視線の先には机の上に広げた週刊誌の記事があり、繰り返し読んだ文面を眺めて伊華雌は思う。

 

 ――どうすりゃいいのか、分からねぇ……。

 

 武内Pがおもむろに立ち上がった。寡黙な表情そのままに、しかし殺し屋すら怖気づかせるほどの眼光を光らせて、荒っぽい手つきで週刊誌をつかんで握りしめた。そしてシンデレラプロジェクトの事務室を出ると、美城常務の執務室へ押しかけて糾弾する。

 

「これは名誉毀損ですっ! 訴えて、雑誌を差し止めさせてくださいッ!」

 

 武内Pは、握りしめてグシャグシャになった週刊誌を広げて、その表紙を美城常務へ突き付けた。しかし美城常務はそれを見ようとせずに、机の上へ視線を落とす。そこには武内Pが持っているのと同じ週刊誌があった。

「こちらが騒げば向こうは喜ぶ。相手にしないのが最善だ」

 美城常務は冷静だった。イヤリングをまるで揺らさずに、じっと武内Pを見据えて理解をうながしてくる。

「しかしッ!」

 感情を激する武内Pを落ち着かせようとするかのように、美城常務は週刊誌のページを開き、問題の記事を爪でトントンと叩く。

「残念ながらこれは事実だ。確かに書き方に悪意がある。大袈裟に装飾してある。しかし夏のライブで事故があったのは事実であるし、いまだその被害者が植物状態であるのも事実だ。346プロに過失責任がほとんどないと言っても、ライブで事故が起こってしまった事実を消すことはできない」

「でも、なんでこんなタイミングで……」

 悔しそうに週刊誌を握りしめる武内Pに、美城常務は敵軍の策略を認める指揮官のような無表情で、

「むしろこのタイミングだから、だろうな。961プロはいつでもこの記事を出すことができた。だから温存していた。346プロが攻勢を仕掛けてきたところで鼻っ柱をへし折ってやろうと画策していた」

 世の中はそういうものだと、達観する大人の眼差しをつくる美城常務が、熱くなっている武内Pの頭に冷水をかぶせようとするかのように思慮深い口調で語る。

「この記事はシンデレラの舞踏会を潰すために書かれたものと見て間違いない。島村卯月を潰して、連鎖的の他のアイドルも巻き込み、ライブを失敗させようと狙っている。明確な敵意のもとに作成された宣戦布告のようなものだ」

 美城常務と武内Pの視線が交差する。

 

 常務とプロデューサー。

 それぞれの立場で、それぞれの言葉で――

 

「君の仕事はアイドルを笑顔にすることだ。島村卯月の笑顔を守れ」

「……分かりました。自分は、自分に出来ることをします」

 

 うなずき、部屋を出る武内Pに、伊華雌は言葉をかけることができない。

 その辛そうな表情に胸が締め付けられてしまう。

 彼を苦しめている週刊誌の記事が憎い。

 

 でも、それ以上に――

 

 

 

 * * *

 

 

 

 武内Pがシンデレラプロジェクトの事務室に戻ると、ちひろがいて、その隣に凛がいた。

「渋谷、さん……」

 武内Pが戸惑うのも当然だった。今日は平日で、窓から差し込む朝日がまだ十分な勢力を保っている。時計を見るとまもなく9時で、高校生の凛が事務所にいてはいけない時間である。

 

「ちょっと、この記事なんなのッ!」

 

 凛がスクールバックから取り出したのは例の週刊誌だった。今朝から何度も見ている表紙を見て、そこに踊る文字を見て、伊華雌は食べ物を吐き出す感覚を思い出してしまう。

 凛はその雑誌をグシャっと握りしめて、悔しそうに唇を震わせながら、

「こんなの、ひどい。こんな言い方されたら、卯月……ッ!」

 卯月の名前が出た瞬間、武内Pは息を呑んだ。事故現場で子供の安否を確認している父親のような顔を凛に向けて、

「し、島村さんは、何か言っていましたか! この記事について……」

 凛は握りしめていた雑誌を武内Pの机に置くと、ブレザーのポケットからスマホを取り出して、ラインのやり取りを武内Pに見せた。

「卯月は、気にしてないって。アイドルをやっていたらこういうこともあるから、大丈夫だって」

「そう、ですか……」

 吐息をついて表情を緩めようとした武内Pは、しかしすぐに全身を強張らせる。

 アイドルの細い手が、スーツの襟首をつかむ。

 力を込めて、強引に自分の目線にプロデューサーの顔を持ってきて――

 

「真に受けないで……ッ!」

 

 緑色の瞳が湿っている。高ぶる感情に頬が上気している。その横顔に〝クール・プリンセス〟の面影はない。渋谷凛は、自分が何者かなんてどうでもいい、ただひたすらに荒れ狂う感情に支配されて、唇を震わせながら――

「卯月、大丈夫じゃないから。大丈夫なわけ、ないから……。夏のライブの時みたいに、大丈夫大丈夫って口だけで、笑うこともできなくなって、だから……ッ!」

 襟を掴んで震える凛の手を、武内Pの大きな手が包み込んだ。

 

「自分が、守ってみせます」

 

 武内Pは、吹き荒れる暴風雨のような凛の感情を、大きな体で受け止める。その体よりも大きな心で抱き締める。

「今度こそ、島村さんの笑顔を守ってみせます。絶対に、逃げません」

 その言葉を、待っていたのかもしれない。

 武内Pの襟から手を離した凛は、小刻みに震える自分の手を見て、武内Pの顔を見て、表情を緩める。

「……そうだよね。もう、前のあんたとは違うんだよね」

 武内Pは、ゆっくりとうなずいた。首をさわることもなく、目をそらすこともなく、凛を見据えて堂々と。

「あの、凛ちゃん。学校に……」

 ちひろに声をかけられて、凛はうなずく。

「……迷惑かけちゃって、ごめんなさい。学校には、遅れるって連絡しておきます」

 凛は最後にもう一度だけ武内Pを見た。何かを問いかけるような視線があって、安心して、いや……、安心したいと願う気持ちをかすかに緩めた口元にみせる。そして彼女は黒髪をひるがえし、シンデレラプロジェクトの事務室から出ていった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 プロデューサーとマイク。二人だけの事務室で、武内Pは話してくれた。

「去年のサマーライブで、事故があったんです」

 ライブにはアイドルが〝トロッコ〟と呼ばれる大きな箱に乗ってライブ会場をめぐる演出がある。後ろの席の観客にも間近でアイドルに声援を送ってもらうための演出だ。とても人気の高い演出で、ほとんどのプロダクションが可能であればトロッコをライブに組み込んでいる。

 そして、サマーライブ。

 ニュージェネレーションズを乗せたトロッコが会場を回っていた時のこと。

 

『卯月ちゅわぁぁああ――ッ!』

 

 それは、一際大きな歓声だった。

 声につられて視線を向けて、目が合っていたと卯月は証言している。

 その青年は憧れのアイドルと視線を交わして、興奮のあまり身を乗り出して、等間隔に並んだ黒服警備員の間をぬって通路に転がり落ちた。

 

 それが、致命傷になった。

 

 言ってしまえば〝当たり所が悪かった〟の一言で片付けられる不幸な事故だ。体勢を崩した瞬間、全ての物理現象が青年に牙を剥いて、最悪の場所を最悪の勢いで強打。青年は意識を失った。

 しかし卯月は、それを自分のせいだと言った。その青年と視線を交わして、自分の名前を呼んでいて、だからこれは自分のせいだと決めつけて落ち込んでしまう……。

 

「その時、自分は、落ち込んだ島村さんを励ますことができなくて、逃げてしまったんです……」

 

 これは不幸な事故であって卯月に責任はない。だから気にする必要はない。必死の説得を試みるも卯月は聞いてくれない。だんだん元気がなくなって、笑顔は輝きを失って、しかしどうすることもできなくて……。

 だから武内Pは、赤羽根Pに泣きついた。

 このままでは卯月がアイドルの世界を去ってしまう。でも、アイドル島村卯月はこんな所で終わっていいアイドルじゃない……。もっともっと輝くことのできる可能性を、潜在能力を秘めている!

 だから――

「自分は、ニュージェネレーションズの担当を赤羽根さんに代わってもらいました。赤羽根さんなら、なんとかしてくれると思いましたので……」

 赤羽根Pは持ち前の明るさとコミュニケーションスキル、つまりリア充スキルを発揮して卯月を復活させた。それを見た武内Pは、プロデューサーとしての能力の違いを痛感する。すっかり自信を喪失して、346プロを去ろうと決意してしまう。

「そして、マイクさんに出会いました。自分はマイクさんのおかげで、今もこうしてプロデューサーを続けることができています」

 微笑みに感謝の気持ちを滲ませる武内Pを、しかし伊華雌は怒鳴りつけてやりたくなる。その笑顔を受け取る資格が自分にはないと、号泣の感覚を胸に抱いて叫びたい。

 

 武内Pの話してくれたサマーライブの話には続きがある

 週刊誌の記事が〝その後〟を語っている。

 

 島村卯月の笑顔に魅了されるあまり醜態をさらして意識を失った青年。彼は今をもって植物状態であって、その意識は回復していない。346プロはライブ中に事故を起こしてしまったことを謝罪して、青年の治療費を請け負っている。それでも週刊誌の記事は悪しように346プロを責める。島村卯月を責める。その見当違いな糾弾に重みを持たせたいのか、家族に取材を敢行し、その青年の実名を記事に載せている。

 ライブ中に己の過失で怪我をして、卯月から笑顔を奪って、武内Pから自信を奪い去った青年の名前は――

 

 只野 伊華雌。

 

 大嫌いな自分の名前が、そこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 〝赤羽根P編〟終了になります。お付き合いいただき、まことにありがとうございますっ!

 次回より〝島村卯月編〟に突入いたします。長いお話になってしまいましたが、これにて最終章となります。ラストスパートかけて更新頻度を上げていきます。
 最後までお付き合いいただけると嬉しいですっ!


 ――遅ればせながらツイッターを始めました!

栗ノ原草介@魔法少女さんだいめっ☆
https://twitter.com/sousuke_anzuP

 小説のことや、アニメのことや、アイマスのことや、漫画のことをつぶやくと思います。二次元限定ツイートになる未来しか見えませんが、構っていただけると嬉しいですっ!















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 最終章 ― 島村卯月を再プロデュース ―
 第1話


 

 

 

 自分をぴにゃこら太のマイクに転生させたアイツは、本当に神様だったのだと思う。

 

 だって神様は人を〝試す〟から。

 試練と称して人を苦境に叩き落として、非情な選択を迫るのだ。

 

 大好きなアイドルを苦しませたくない。

 でも、せっかくできた友人と別れたくない。

 

 何より只野(ただの)伊華雌(いけめん)に戻るのは嫌だ。

 

 どうしようもなく不細工で、何の取り柄もなくて。プロデューサーになるための専門学校へ通っているけど、本当に本気で目指していると胸を張ることはできない。現実逃避の一種だろと、指摘されたら黙ってしまう。

 そんなどうしようもないニート予備軍に戻るぐらいなら、このままマイクで、武内Pと一緒にアイドルのプロデュースをしていたい。

 

 ずっとこのまま、武内Pと一緒にいたい……。

 

 伊華雌は迷い、決断を先延ばしにする。

 正体を隠し〝マイク〟として武内Pのそばに居る。

 しかしいつかは選択しなくてはならない。

 

 大好きなアイドルの笑顔か。

 初めてできた友達か。

 

 伊華雌は非情な選択を迫られていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 シンデレラの舞踏会にむけて346プロは活気づいている。

 プロデューサー達は早足で廊下を歩き、アイドル達は頻繁に事務所に顔を出す。夕方にもなると制服姿のアイドル達が事務室に集まり、その様子はさながら学校の教室である。とはいえ集合しているのは現役のアイドルであるから、そこは恐ろしく顔面偏差値の高い教室である。

 どこをみても美少女しかいない事務室の中にあって、伊華雌はもちろん嬉しいのだけど、若干ながら居心地が悪い。不細工な青年だったころの感覚が残っている。

 

 ――こんな美少女だらけの空間に俺がいたら、オセロみたいにひっくり返って〝イケメン〟になっちゃうんじゃないかな!

 

 そんなわけないと分かっているのだけど、思ってしまう。自分の視点で見ると美少女ばかりなのだから、自分も美少女かもしれない! と勘違いをしそうになる。

 

 ――実際は〝ぴにゃこら太を擬人化した結果〟なんだよなぁ……。

 

 人間だった頃の自分は本当にぴにゃこら太に似ていた。全裸になって頭から緑のペンキをかぶれば完璧だ。そして『ぴにゃぁぁああ――っ!』と絶叫しながら住宅地を駆け抜ける。住民は悲鳴をあげてパトカーのサイレンが鳴り響く。わいせつ物陳列罪で、前科1犯!

 

 伊華雌がいつもながら卑屈な妄想をもてあそんでいると、誰かがバンっ! と机を叩いた。

 

 武内Pがいるはずの場所に立って、プロデューサーの机に両手をついたのは本田未央だった。

 

 彼女はアイドル達の視線を受け止めると元気な笑みを浮かべる。そして後ろ髪のように元気よく跳ねた声を張り上げた。

 

「それではこれより、シンデレラプロジェクトで何をやるか会議を始めます!」

 

 夕方の事務室にアイドルが集まっている理由は、シンデレラの舞踏会で何をやるのかを決めるためだった。

 このライブは〝アイドルがやりたいことを積極的に採用して、いい笑顔を引き出す〟がテーマである。何をやりたいかアイドル同士で話し合って、その提案に対してプロデューサーが現実的であるかどうかを吟味する。例えるなら、文化祭で何をやるのかを話し合うようなもので、武内Pは学校の先生さながら事務室のすみでアイドル達のやりとりを見守っている。

 

「はい、みくにゃん!」

 

 教壇に立つ学級委員を思わせる未央の声。

 そして、全ての視線がみくに集中する。

 

「え……」

 

 みくは、ぎょっとしていた。

 ぼーとしているところをつつかれた猫みたいなリアクション。それも当然で、みくは別に挙手をしていたわけじゃない。今日のメニューはハンバーグかなー、とか考えていそうなところを突然指名されたのだ。

 猫だましをくらった猫みたいにぽーっとしていたのは、しかし数秒!

 前川みくはアイドルである。いつまでも呆然としてしまう素人ではない。マジメ・ネコチャンモードから〝みくにゃんモード〟へ移行すべく、赤い眼鏡を外してブレザーの胸ポケットにさしこみ、スクールバックから猫耳を取り出して、それを頭に装着してにゃんにゃんポーズを――

 

「時間切れ! 次、李衣菜ちゃん!」

「えっ、ちょっ!」

 

 猫のように手首を丸めたみくが硬直する。ポーズまで決めたのだ。このまま引き下がるわけにはいかない。

 猫口を開けて抗議しようとするみくであったが、未央は道場の師範のように腕を組んで厳しい眼差しを向ける。

「アイドルの世界は瞬発力が大切なのだよ、みくにゃん。マジメモードからネコチャンモードまでの変身が遅すぎる!」

「ふにゃあっ! だって、急だったから、ちょっと油断したっていうか……」

「その油断が命取りなのだよ」

「むむぅー……」

 まあ、確かに時間がかかっていたと伊華雌も思う。そもそも、意見を言うだけだったらわざわざ猫耳つけなくてもいいんじゃ……? とか思ってしまうのだけど、そこはみくのこだわりなのかもしれない。〝アイドル前川みく〟として発言する時は猫耳厳守。そんな自分ルールがあるのかもしれない。

 

「じゃあ、提案、いいかな?」

 

 みくの隣、ソファーにゆったりと背中を預けている李衣菜が口を開いた。セーラー服のスカーフを撫でる仕草に込み上げる自信の片鱗(へんりん)を見せている。

「みんなで、それぞれの持ち歌を順番にメドレーで歌うってのはどうかな? ショートバージョンのメドレーにすれば、そのぶん沢山曲を歌えて、ファンのみんなも喜んでくれるかなって」

 

 シンデレラプロジェクトの事務室が、しーんと静まり返る。

 

 向いのソファーに座る凛と卯月も。窓辺で夕日を浴びている日野茜と高森藍子も。ローテーブルの上にお菓子を広げている神谷奈緒と北条加蓮も。いつの間にか武内Pの近くに陣取っている佐久間まゆも。

 誰一人として口を開かずに李衣菜を見つめる。

「……あれ? わたし、おかしなこと言っちゃった?」

 戸惑う李衣菜に、みくが真実を告げる。

「逆にゃ、李衣菜ちゃん。まともな意見すぎてびっくりしたのにゃ。李衣菜ちゃんは、何か……、とりあえずロック! みたいな、具体的には何をしたいのか分からない曖昧な意見を言うと思っていたにゃ……」

 みくの言葉に、伊華雌も同意してしまう。

 

 居酒屋に入ったら、とりあえずビール! 多田李衣菜といったら、とりあえずロック!

 

「なにそれ! わたしだって、ちゃんと考えてるんだからっ!」

 身を乗り出して怒る李衣菜に、みくは素直に頭を下げる。

「……そうみたいにゃ。何か、ごめんにゃ」

 そして李衣菜は、ここぞとばかりにドヤってロックを語る! ――と思いきや、ゆらりと視線を泳がせた。

 

「どんなアイデアを出せばロックか、沢山考えたんだよ。……………………なつきちと」

 

 再び沈黙が流れる。

 アイドルが次々と眉根をよせる。

 そして一番大きく眉根をよせているみくが、事務室に漂う疑念を口にする。

「李衣菜ちゃんもしかして、なつきちゃんのアイデアを自分の手柄に……」

 

 じーっ。

 

 ジト目による無言の圧力。アイドル達から向けられる疑惑の視線。

 それらを振り払おうとするかのように、李衣菜はわたわたと手を忙しなく動かしながら、

「いやっ、これは、わたしとなつきちのアイデアだから! 二人の共同作業だからっ!」

「怪しいにゃ。李衣菜ちゃんはただひたすらに、ロックだね! って相づちを打っていただけなんじゃないの?」

「いひゃ、そんなことは……」

 笑みをひきつらせて視線を窓の外へ逃がす李衣菜。それはあまりにも分かりやすい誤魔化しの仕草であって、ここまで〝顔に出る〟タイプも珍しいと伊華雌は思う。カジノで兵藤レナとポーカーとかやらないほうがいいタイプだ。財布の中身を全部巻き上げられてしまう。

 

 ちなみに伊華雌も表情を隠せないタイプであるけど、ババ抜きは強い。

 

 あれは、小学生の時のお楽しみ教室。クラスメイト全員参加のババ抜きトーナメントが行われて、なんと伊華雌は優勝したのだ。

 しかしその理由が切ない。

 伊華雌と対戦した男子は語る。

 

『不細工すぎてなに考えてんのか分かんねー』

 

 そして女子は、ため息混じりに、

 

『そもそも直視できないし……』

 

 ――いやっ、直視はできるだろ! 太陽じゃないんだからっ! 見つめても目がつぶれたりしないからっ!

 

 伊華雌が前世の記憶と格闘している一方で、アイドルたちはメドレーのアイディアで盛り上がっている。

 みんな、自分の個人曲には強い思い入れがある。しかしライブの時間には限りがあって、個人曲は優先順位が低くなる。最近の曲や、全体曲が優先されるのはライブの宿命なのだ。

 でも、やっぱり個人曲が歌いたいし、ファンもそれを求めている。

 例えショートバージョンのメドレーであっても、それが笑顔につながるのは間違いない。

 アイドルたちはその気になって、楽しそうに談笑している。それは休み時間の教室を思わせる和やかな空気で、伊華雌は机に突っ伏して寝る感覚を思い出す。

 

 ――だって休み時間とか、机の匂いをかぎながら瞑想する時間だから……。うん。

 

 輝かしい青春を送る学生――の近くで寝たふりをしていた頃のことを思いだした伊華雌は、当時のように視界を遮断し耳をすませる。

 

「卯月はメドレー、何が歌いたい?」

 

 〝卯月〟という単語に伊華雌の全てが反応する。くわっと開眼する感覚をもって視線を向けた。

 凛が、ソファーに並んで座っている卯月に声をかけていた。

 声をかけられた卯月は、悪夢から醒めた人のように大きな瞳を泳がせて、全身を強張らせて。

 そして断末魔の悲鳴でもあげるかのように――

 

「し、島村卯月っ、がんばりますッ!」

 

 休み時間の喧騒が消えた。

 まるで、クラスメイトの一人が急に誰かを怒鳴って、聞いたことのない声に驚いて視線を向ける学生のように、アイドルの視線が卯月に集中する。

「あ、あの、わたし……」

 卯月が、自分を抱いた。温度を失う空気に怯えるかのように。

 

「し、しまむー気合い充分だね! 未央ちゃんも負けないように、がんばりますっ!」

 

 声を出したのは未央だった。卯月の真似ですと言わんばかりに「エヘっ」と声をだしてピースサインを作って見せる。

「全然卯月ちゃんに似てないですよ、未央ちゃん!」

 日野茜が気合い充分にツッコんで、穏やかな空気が戻ってきた。

 その空気に卯月の吐息が混ざる。

 安堵の吐息。

 そう呼んで間違いないであろう息づかいがあって、強ばっていた全身から力が抜けて、そのままストンと、ソファーに腰をおろした。

「卯月、大丈夫?」

 凛が、小声で卯月に声をかける。体調を気遣う家族のような視線と共に。

「あ、はい。大丈夫です」

 卯月が笑顔をつくる。それはしかし、心配する凛を安心させるためにつくったような笑顔であって、〝いい笑顔〟とは言いがたい。前世では島村卯月のポスターやグッズに囲まれて生活していた伊華雌である。その笑顔の良し悪しを評価することに関しては自信があった。

 だから、断言できる。

 

 卯月は、大丈夫じゃない。

 

 真綿で首を締めるようにゆっくりと、しかし確実に卯月の笑顔は色を失っている。

 その笑顔に宿る輝きが完全に失われてしまった時。

 彼女の中で12時の鐘が鳴ってしまう。

 そして、魔法を失ったシンデレラが城から立ち去るように、アイドルの世界から……。

 

 ――大丈夫だ。武ちゃんと俺で、何とかできる。

 

 伊華雌は信じていた。

 今までのように、自分と武内Pで何とかできると思っている。

 しかしそれは盲目的な信頼で。

 向けるべき現実から目をそむけ希望にすがりついているだけである。

 

 大好きなアイドルの笑顔か。

 初めてできた友達か。

 

 どちらか一つ、選ばなくてはならない。

 伊華雌は選択を迫られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第2話

 

 

 

 346プロ社内カフェ――メルヘンチェンジは夜の7時で店を締める。

 その理由は二つ。

 

 夜になるとお酒を持ち込んで酒盛りを始めるお姉さんが出現してしまう。

 ウサミン星が遠い。

 

 以上の理由により夜間営業はしていない。夜の8時には後片付けをおえた安部菜々17歳が戸締まりをして、翌朝までメルヘンチェンジは暗闇と沈黙の世界に包まれる。

 しかし今日は、夜の8時を過ぎているにもかかわらずカフェの一角に明かりが灯されていた。

 武内Pの大きな背中があって、丸いテーブルを挟んだ向かいにみくと李衣菜と夏樹が並んでソファーに座っている。

 

「李衣菜ちゃん、全部自分の手柄にしようとしたんだよ!」

 

 みくの言い方は先生に言いつける生徒のようで、隣に座る木村夏樹は苦笑してしまう。

「ちゃんとなつきちとの共同作業って言ったじゃん! 事実をねじ曲げないでほしいんだけど!」

 李衣菜はすぐに応戦する。数々の実戦を経験している古参兵のように、ためらいのない口調で舌戦の火蓋を切り落とす。

 

 ――アスタリスク名物、猫・ロック戦争の時間だぁぁああ――っ!

 

 伊華雌(いけめん)が心の中でゴングを鳴らし、みくと李衣菜が睨み合う。

「でも、夏樹ちゃんとのアイデアだってずいぶんと後になってから言ったにゃ。しかも、すっごい小さな声で! 普通、そういうのは真っ先に言うものにゃ」

「そ、それは、でも――」

 みくの言葉に李衣菜はぐうの音もでない。もごもごと口ごもりながら、しかし起死回生の一手を諦めることはしない。好戦的な視線をみくの全身へ走らせて、猫耳を見るなりギラリと目を光らせる。

「そもそも、みくちゃんは何もアイディア出してないじゃん。ごそごそ猫耳の準備してただけで」

「あっ、あれは未央ちゃんがチャンスをくれなかったからにゃ。みくの頭の中には、すごいアイディアがあったのにゃ!」

「へー、それは興味深いなぁ。聞かせてよっ!」

「えっと、それは……」

 みくの頬にだらだらと冷や汗が流れる。彼女の頭の中にアイディアは存在しないと、血の気の引いた横顔を見れば一目瞭然で。

 しかし李衣菜は純真無垢な子供みたいに目をキラキラさせている。その様子に伊華雌は感心する。彼女は中々の策士である。

 相手を追い詰めるのは烈火のごとく激しい視線だけじゃない……。

 子供ような無邪気な眼差しにこそ最大の破壊力が宿る瞬間がある!

 

「猫チャン100万匹ライブ、とか……」

 

 みくの猫口が言葉を紡ぐ。苦し紛れにひねり出したことが伝わるか細い声だった。

 そして李衣菜は、捕食者の剣幕をもってみくの意見に食らいつく!

「100万匹って、さすがに無理でしょ。お客さんより多いよ」

「……じゃあ、1万匹でもいいにゃ」

「よくないよ。1万匹でも多いし、そんなに猫つれてきて何するの?」

「可愛い猫チャンと、ふれあい、とか……」

「ライブ関係なくなってるよ。ファンのみんなが猫とふれあって、わたしたちは何をしてるの?」

「それは、猫チャンのお世話、とか……」

「もう猫が主役になってんじゃん。ただの猫のイベントだよ。アイドルどこいっちゃったの?」

「う、うるさいにゃ! まだ考え中なのっ! そもそも、李衣菜ちゃんこそ偉そうなこと言って自分一人じゃアイディア出せてないにゃ」

「べ、別に、言ってないだけで、わたしだって最高にロックなアイディア、あるし……」

「聞かせてほしいにゃ」

「えっと、それは……」

 みくと李衣菜。

 二人の口論は終わらない。

 終わる気配を見せない言葉のドッジボールに木村夏樹が肩をすくめて苦笑する。歯を見せて笑う彼女は優しい先輩――を通り越して優しい保護者に見える。

 伊華雌も保護者の気持ちで猫・ロック戦争を眺めながら心の中でつぶやく。

 

 ――穏やかに苦笑しながら二人のキャットファイトを見守りたいだけの人生だった……。

 

 喧嘩するほど仲が良いという格言はこの二人のためにある。この二人の喧嘩はもはや〝イチャコラ〟の亜種であって、いつも喧嘩している二人は隙あらばイチャつくカップルみたいなものである。早く結婚したほうがいい。

 

「それで、どうだいプロデューサーさん。あたしたちのアイデアは?」

 

 夏樹が武内Pに声をかける。イチャイチャと口喧嘩をしているみくと李衣菜の声が途切れた一瞬の隙をついて差し込まれた言葉だった。

 そもそも、武内Pは夏樹のアイデアを検討するために夜のメルヘンチェンジに来ている。みくと李衣菜のミッドナイトキャットファイトを観戦しにきたわけじゃはない。

 それなのにみくと李衣菜ときたら話の腰を折ってイチャイチャイチャイチャと――

 

 ――いいぞ、もっとやれッ!

 

 伊華雌は心の中に〝力強く拳を突き上げるイメージ〟を思い浮かべた。みくと李衣菜のイチャコラであればいつまでも観ていられる。三食二人のキャットファイトでも構わない。……構わないっ!

 

「自分は、良いと思います。きっと、ファンのみなさんにも喜んでもらえます」

 武内Pが受けた提案。それは――

 

 アスタリスクwithなつなな。

 

 アスタリスクと先輩二人が特別ユニットを結成する。シンデレラの舞踏会にふさわしい、一夜限りの夢のステージ。これは絶対に盛り上がる。ファンはきっと熱狂する。

 

 ――少なくとも、俺は盛り上がる!

 

 伊華雌が夏樹たちのアイデアを絶賛していると、厨房のほうで音がした。

「菜々ちゃん、みくも手伝うにゃ」

 みくが立ち上がり厨房へ向かった。

 李衣菜と夏樹が視線を交わし、その視線を厨房へ向ける。何かを警戒するような目付きだった。さながら、闘技場の門が開いて、その向こうからやってくるであろう巨大な怪物を恐れる戦士のような。

 二人が何を恐れているのか。

 その答えは、ウサミンが厨房に立っているという事実から推測できる。

 

「お待たせしましたー」

 

 菜々が厨房から出てきた。

 両手に大皿を持っている。

 残り物をかき集めて炒めました! と言わんばかりの野菜炒めは、しかしいい感じの色味に火が通っている。マイクの身でありながら空腹の感覚を思い出してしまう。

 

 量は半端ないけど。

 

 もう一方の皿には海老のチリソース。適度にちらされた唐辛子の存在がいい感じのアクセントになっている。きっとピリ辛でうまいんだろうなと、海老チリ欲をかきたててくれる魅力的な一皿。

 

 量は半端ないけど。

 

 どうやらウサミンは食べ物を山盛りにしてしまう手癖みたいなものがあるらしく、学生食堂のおばちゃんかっ! とツッコみたくなってしまうほどに何でも山盛りにしてしまう。しかし安部菜々17歳が食堂のおばちゃんなわけもなく、どうしてそんな印象を抱いてしまうのか、謎は深まるばかりである……。

 

「ごはんにゃー」

 

 菜々に続いてみくが厨房から出てきた。山盛りのごはんを持っている。

 

 このお店はあれだろうか? 山盛りとデカ盛りと爆盛りと激盛りしか選択肢がないのだろうか。山盛りを完食したところで『我ら四天王の中では最弱!』とか言われてしまいそうな気がする。

 

「わたし、こんなに食べられないよ。いつも夜は栄養ゼリーとかだし……」

 弱音を吐いた李衣菜の前に、みくは容赦なく山盛りのご飯を置いた。

「アイドルは体が資本だからちゃんと食べないとだめにゃ。目指せ1日30品目にゃ!」

 みくの口上を聞いた菜々が、腕を組んでウンウンと頷いている。弟子の成長を喜ぶ師匠のような仕草だ。それを見たみくは、頭を撫でてもらった猫みたいな笑みを浮かべるのだけど――、そのハートフルな光景に李衣菜はジト目を向ける。

「偉そうに言ってるけど、それ、菜々ちゃんの受け売りなんでしょ?」

 ずばっと差し込まれた言葉のナイフに、しかしみくは動じない。李衣菜の方へ視線を向けずに、その発言を黙殺しながら割り箸を配る。

「さぁっ、冷めないうちに食べるにゃ!」

 

 じーっ。

 

 李衣菜のジト目はみくを逃さない。完全にロックオンしている。

「みくちゃんも同じことやってんじゃん。菜々ちゃんの言ってることを、さも自分の意見みたいに言って」

「べ、別にみくは李衣菜ちゃんとは違うにゃ。みくは菜々ちゃんの意見をリスペクトして――」

「わたしも、なつきちの提案をリスペクトして――」

「みくだって――」

「わたしだって――」

 

「二人とも!」

 

 菜々の声がみくと李衣菜を黙らせた。その声色に、眼差しに、喧嘩する子どもを一喝して黙らせるおかんの迫力が宿っている。

「早く食べないと冷めちゃいます。話すのは食べてからにしましょうね」

「はいにゃ……」

「はーい……」

 みくと李衣菜は素直に箸を手に取って、それを見た菜々と夏樹が視線を交わして微笑んだ。

 

 ――家族かっ!

 

 伊華雌は思わずツッコんでしまう。それほどまでにアットホームな雰囲気だった。

 菜々が母親で、夏樹が父親。みくと李衣菜が子供で、優しく見守る武内Pはさながら親戚の叔父さんといったところだろうか。

 

 ――そんな家族なら、ペットでいいから参加したい。

 

 伊華雌は猫に転生した自分を夢想する。

 拾ってくださいの段ボールに放置されているところをみくに拾われる。『お母さん飼ってもいいでしょ? ちゃんと世話するにゃ』『ダメです。ウサミン星はペット禁止です』押し問答の末、根負けした安部ママ17歳が飼育を許可する。『やったにゃぁぁああ――』喜ぶみくが猫な伊華雌を抱きしめる。

 

 アイドルに抱きしめられた伊華雌は、歓喜のあまり最大出力で糞尿をぶちまける!

 

『うわぁ、ロックだね……』ドン引きする李衣菜。『そうだな、ロックだな……』夏樹もドン引き。『……みくちゃん!』怒る菜々。『……こんな猫、ノーセンキューにゃ!』みくは前言を撤回して飼育放棄。猫な伊華雌を段ボール箱に返却する。

 

 ――だ、ダメだ。卑屈な妄想癖を何とかしないと、妄想の世界ですら俺はバッドエンドを量産してしまう。猫になってみくにゃんの膝の上で丸くなる妄想をしたかっただけなのに、どうしてこうなった……ッ!

 

 伊華雌が勝手に妄想して勝手に落ち込んでいると、誰かがメルヘンチェンジに駆け込んできた。

「あっ、いた。武内君!」

 それは千川ちひろだった。

 その表情を見た伊華雌は、反射的に身構える感覚をつくってしまう。

 ちひろはメッセンジャーである。良い知らせを届けてくれることもあれば、悪い知らせによって絶望をもたらすこともある。

「美城常務が、武内君に話があるって」

 まるで悲惨な事件を報告するかのような表情。

 あわくって警察に通報する人の口調。

 

 そして〝美城常務〟という強単語(パワーワード)

 

 その全てがあまりにも不吉で、伊華雌は〝悪い知らせ〟を覚悟した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 武内Pはすぐに美城常務の執務室へ向かった。

 美城常務は武内Pを見るなり、写真を差し出してきた。

「確認してほしい」

 伊華雌は、何だそんなことかと思って安堵した。

 ただの写真チェックである。

 雑誌に乗せるアイドルの写真をチェックして、写っちゃいけないものが写っていないかチェックするのだ。パンツとかあの子とか、雑誌に載せるわけにはいけない写真にNGを出す。

「どう思う?」

 美城常務の言葉にトゲがある。

 責めるような口調だった。

 彼女が何を言いたいのか、伊華雌にはよくわからない。そもそも雑誌の写真チェックとか、常務の部屋に呼び出してやらせることじゃない。信じられないくらいクッキリ〝あの子〟が写っているのだろうか?

 武内Pが凝視している写真を伊華雌も見つめて――

 

 息のとまる感覚を思い出した。

 

 それは、ピンクチェックスクールの写真だった。

 雑誌のスナップ写真だろうか、三人のアイドルが並んで笑みを浮かべている。小日向美穂がアホ毛を躍動させながら微笑む。五十嵐響子も、今日はハンバーグですよーと弟妹たちに声をかけるかのようなほっこりスマイルを見せる。

 そして、卯月は――

 

「それが〝いい笑顔〟なのか?」

 

 違う。 

 断じて違う。

 こんな――笑顔の形をつくっただけの表情が島村卯月の笑顔なわけない。卯月の笑顔は、水をあびた朝の花みたいな輝きを放つ。そのはずなのに、写真の中の卯月の笑顔は、人工物で作られた造花のように生気がない。まるで輝きが感じられない。

「これでも散々撮りなおして、一番ましな写真だそうだ」

 美城常務は苛立ちを隠さない。

 腕を組み、失望の吐息をついて、言い放つ。

 

「島村卯月を、シンデレラの舞踏会から外せ」

 

 その冷酷な言葉に思い出す。

 そもそも、美城常務とはそういう人なのだ。結果を出すことに対して容赦がない。武内Pが好調であったからこそ味方であったが、結果を出せないと分かれば手のひらを返す。

 この若さで常務の地位に上り詰めるとは、つまりそういうことなのだ。

 親のコネだけでは346の常務は務まらない。

 

「待ってください! その判断は尚早です。確かに島村さんは、まだ週刊紙の記事の影響を残しているのかもしれません。しかし、もう少し様子を見て――」

「いつまでだ?」

 

 必死の抗弁を試みる武内Pに、美城常務の態度は厳しい。初めて会った時のような、シンデレラをいじめる継母のような冷たい視線を向けて訊いてくる。

 

「島村卯月がアイドルとして使い物になるのかどうか、いつになったら判断できる?」

 

 武内Pはすぐに答えない。全身を強張らせて、眉間にしわを集めて。

 そして、針でつついたら爆発してしまいそうなくらいにはりつめた空気の中に低い声を響かせる。

 

「一か月ほど、様子を――」

「遅すぎる」

 

 話にならない。

 言わんばかりにかぶりを振ってイヤリングを揺らした美城常務の目付きは厳しい。そして彼女は、触れれば凍りついてしまうほどの冷たい口調で宣言する。

 

「一週間だ。それで復活の兆しがなければ、島村卯月はシンデレラの舞踏会から外す」

「それは、あんまりですっ!」

 

 思わず声をあげる武内Pを、視線だけで黙らせる。常務の肩書きは伊達ではないと、思いしるに充分な迫力をもった眼差し。

 

「島村卯月一人のために、シンデレラの舞踏会を失敗させるわけにはいかない」

「…………」

 

 武内は、何も言えない。

 伊華雌も反論できない。

 

 ――卯月一人のためにライブを失敗させるわけにはいかない。

 

 悔しいが、美城常務の言葉は否定のしようのない正論である。

 

「一週間は、待っていただけるのですね……」

 

 武内Pの目付きが変わる。

 本気になった時の顔だ。

 その強い視線に、もはや敵意に近い気迫が込められている。

 上司をそんな目でみるなと、叱責されても文句はいえない。

 

 しかし――

 

 美城常務はそれを待っていたのかもしれない。

 武内Pの火を吹くような視線を受けとめた彼女は、かすかに口許を緩めて言うのだった。

 

「成果を、期待する」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第3話

 

 

 

 卯月の状態は、伊華雌(いけめん)が思っている以上に深刻だった。

 

 カメラの前で笑顔になれなくなった。

 体調不良を理由にレッスンを休む。

 武内Pがお見舞いにいくと、明日にはレッスンに行けると思いますといって気丈な笑みを見せる。

 

 しかし、今日も卯月はレッスンを休んだ。

 

 346プロのレッスンスタジオ。

 ニュージェネでレッスンをやるはずだったのに、いるのは未央と凛の二人だけ。

「卯月、今日も調子悪いみたい」

 不安げな視線を向けてくる凛。

「まー、明日には来てくれるでしょ。大丈夫大丈夫っ」

 明るく振る舞う未央だって、その声音ほどに明るい表情はしていない。

 

 どうにかしなくてはいけない。

 そしてどうすればいいか、伊華雌(いけめん)は知っている。

 

 卯月が落ち込んでいる原因も、それを解消する方法も、分かっているのだけど実行できない。

 

 ――きっと、本気の武ちゃんならなんとかしてくれる。

 

 伊華雌は祈るような気持ちで武内Pを信じて〝選択〟を先伸ばしにしていた。

 ――どうすれば卯月を復活させることができるのか?

 武内Pに相談されても、曖昧な返答しかできない。その答えを、教えるわけにはいかない……。

 

 その時、レッスンスタジオのドアが開いた。

 

 トレーナーが来たのかと思いきや、顔をのぞかせたのは成人男性に見えない童顔のプロデューサーだった。

「おっ、武内君発見! ちょっといいかな?」

 米内Pに連れられて、武内Pは隣のレッスンスタジオに移動する。防音になっている分厚いドアを開けたとたん、賑やかな音の洪水に飲み込まれる。

 

 ハイファイデイズ。

 

 アップテンポの新曲がラジカセから流れて、スタジオのすみには赤いランドセルが一列に並ぶ。そのランドセルの数と同じ人数のキッズアイドルたちが汗を散らしてダンスレッスンに励んでいる。その真剣な表情に『小学生は最高だぜ!』と叫びたくなってしまうのは伊華雌だけではないかもしれない。

 

 第三芸能課は、シンデレラの舞踏会で新曲を披露する。

 

 何でもありの企画で、しかしあえて無難な演目に落ち着いているのにはわけがある。

 意見があまりにも多過ぎて、まとめることができなかったのだ。

 自分たちの希望をライブに反映させることができると聞いた子供達は歓声をあげた。自分の好きなものをライブ取り入れてくれと声高に主張する。市原仁奈は着ぐるみだらけのライブを希望。結城晴はサッカーをしたい。的場梨沙はパパと踊りたい。ありすはイチゴの衣装を提案、桃華はローズヒップティーをファンに振る舞いたくて、ひょうくんペロペロ、みりあもやるー。

 

 もう、全然収集がつかない!

 

 学級崩壊した教室を思わせる喧騒にのまれつづけて三日間。

 文化祭の出し物をきめる会議がグルグルと迷走したあげく無難な〝喫茶店〟に落ち着くように、いい加減会議に疲れた子供達は米内Pの提案する〝新曲〟というアイディアに賛成したのだった。

 

「いい感じだと思うんだけど、どうだろう?」

 

 レッスンスタジオの隅で子供達を見つめる米内Pの言葉は誇らしげである。その表情は、自慢の生徒を紹介する教師のそれに似ている。

 童顔で低身長であるけれど、米内Pは子供達のプロデューサーであり保護者であり先生なのだ。実際に龍崎薫は米内Pのことを『せんせぇー』と呼ぶ。

 

「……すごい、ですね。もうこのままステージに上がれるレベルだと思います」

 

 武内Pの称賛を受けて、米内Pは少年のように歯を見せて笑う。

「みんな気合い入っててさ。けっこう自主連とかやってるみたいで、トレーナーさんももう教えることがないってさ」

 きゅっきゅ。ダンスシューズが音を立てる。子供達のダンスは一糸乱れない。まるで全員で一つの生き物であるかのように息はぴったりで、しかし個人の個性がちゃんと振り付けに現れている。梨沙と晴は激しく、小春と千枝は一つ一つの動きを真面目に丁寧に。ありすはクールに、桃華は華麗に。そしてみりあと仁奈と薫は元気に!

 自分の踊りたいように踊る子供達はとても楽しそうで、曲が終わってダンスシューズが最後の『きゅっ』を鳴らした瞬間、最高の笑みを輝かせる。

 

〝小学生は最高だぜぇぇええ――ッ!〟

 

 伊華雌は思わず叫んでしまう。

 込み上げる気持ちを胸の奥に押さえ込むことなんてできない。ロリコンと呼ばれても構わない。もういいよロリコンで! そんな決意を固めてしまうほどに第三芸能課の子供達の笑顔は最高だった。この笑顔のためなら交番に行って『お巡りさん、俺です!』って言うはめになっても構わない。……構わない!

 

「あっ、パパ!」

 

 武内Pに気づいた仁奈が声をあげた。

 それは佐久間まゆによる情操教育(意味深)の成果である。

 仁奈がシンデレラプロジェクトにいた頃、仁奈を子供、武内Pを旦那としてままごと遊びを繰り返した結果、今でも仁奈は武内Pをパパと呼ぶ。そしてたびたび事情を知らない人に聞かれてあらぬ誤解の種となる。

 

「武内君、えっと、ん……?」

 

 米内Pが首をかしげる。授業中に先生から質問されてこたえられない中学生のように。

「パパって、どういうことですか?」

「あまり聞かないほうがよろしくなくて?」

 ありすと桃華は質問をためらう。

「えっ……、だって仁奈ちゃんのパパって、えっ……」

「新しい王子様って、ことかなぁ?」

 千枝と小春は顔を見合わせて、頬を赤くする。

「あんたがパパ? 貫禄はあるけど、あたしのパパに比べたらまだまだね」

「パパに関しては厳しいな、お前……」

 梨沙と晴はあまり興味がないのか、反応が薄い。

「仁奈ちゃん、どういうこと? どういうこと!」

「武内プロデューサーがパパなの? 何で何で?」

 みりあと薫は好奇心のおもむくままに仁奈を質問攻めにする。

 仁奈はえへんと胸を張って、宣言する。

「武内プロデューサーは、仁奈のパパなんでごぜーます! 仁奈はその子供でごぜーます!」

 

 ――ただし、ままごとの中で!

 

 心の中で補足する伊華雌は気付いてしまう。

 レッスンスタジオの扉がわずかに開いていることに。

 そして、扉の向こうから女性がのぞいている。

 入るタイミングを逃した、と言わんばかりの表情を浮かべているのは――

 

〝まっ、ママぁぁああああ――――っ!〟

 

 伊華雌は叫んでしまう。

 突然バブみに目覚めた、というわけじゃない。その扉はとっくに解放されている。〝バブみを感じてオギャりたい〟という定型文がすでに頭の中にある。

 

 そうじゃなくて――

 

 本物のママが、そこにいた。

 母性を感じるロリじゃない。本物の母性を必然的に備えている女性がスタジオに入るタイミングを逃して困っている。

 

「あっ、ママっ!」

 

 仁奈が母親の存在に気づいた。駆け寄って扉をぐいっと開けて、手を引いてスタジオの中に入れる。

「あの、えっと、みんなに差し入れを……」

 仁奈の母親はケーキの箱を持っていた。それを見た子供達の顔つきが変わる。一斉に歓声をあげて仁奈の母親の元へ駆け寄った。歌のお姉さんみたいな状態になってしまった仁奈の母親はスーツ姿で顔が赤い。武内Pをちらりと見て、すぐに目をそらした。

 

 ――そりゃあ、子供に思いっきりパパ候補をバラされたら、まあ……。

 

 伊華雌は静かに同情する。

 きっと仁奈が武内Pのことをパパと呼んで周囲を騒然とさせていた時、彼女は扉の向こうで〝羞恥心〟という言葉の意味を理解しながら悶えていたのだ。

「イチゴのタルトだー」

「ショートケーキもあるよー」

 みりあと薫が目を輝かせる。

「みんな、手を洗ってこい。準備しとくから」

 米内Pが声を張り上げると、子供達は歓声をあげながらスタジオから出ていく。急にスタジオが静かになる。子供達がどれだけ賑やかだったのか、しーんと耳に痛い静寂に教えられた。

 米内Pと武内Pはスタジオのすみにある折り畳み式のテーブルを持ってきて設置する。そして、給湯室から持ってきた皿を並べた。その上に仁奈ママがケーキを置いて、プラスチックのフォークをそえる。

「オレ、コップと飲み物とってきますね」

 米内Pがスタジオから出ていって――

 

 武内Pと仁奈ママが、二人きりになった。

 

 あるのはただひたすらの静けさと、耳をすませば心臓の音が聞こえそうなくらい顔を赤くしている仁奈ママ。

 これでもかってくらい分かりやすいシチュエーションである。

 しかし武内Pはぼーっとしている。

 その心がトキメキエスカレーションする予兆は感じられない……。

 

「あっ、あの! ……ご無沙汰、してます」

 

 仁奈ママが声をかけた。

 この場に子供達がいたらかき消されているであろうか細い声。

「ご無沙汰してます。お元気、ですか?」

「はっ、はひ。わたしも、仁奈も、元気です……」

 小柄な体をもじもじさせながら上目遣い。狙ってやっているのではと思ってしまうほどの萌え仕草。

 

 ――もうこの人がアイドルでいいんじゃないかな。〝ママドル〟という新しい扉を開くべきじゃないかなっ!

 

 伊華雌は仁奈ママの愛らしい仕草に無限の可能性を見いだしていたが、武内Pはいつものアレを発動させる。

 

 固有スキル――フラグクラッシャー!

 

 ありとあらゆる恋愛フラグをねじ伏せる。その幻想(かたおもい)を、破壊する!

 武内Pは模範的な〝真顔〟で仁奈ママの上目遣いを華麗にスルーしてしまう。もったいない。本当にもったいない。無惨に天井を吸収される上目遣いとか、うっかりこぼしてアスファルトに吸収される高いジュースと同じくらいもったいない! 伊華雌は心の中でひたすら嘆く。

 

「苺、お好きなのですか?」

 

 武内Pが、声をかけた。 武内Pのほうから声をかけた! まさか武内Pもまんざらでもないのか! ――と思いきや、その表情に色恋にまつわる変化はない。

 伊華雌と佐久間まゆは分かるのだ。

 その表情から推察できる。

 今の武内Pの中にある感情は〝純粋な好奇心〟である。

 

「えっ、いっ、苺好きなんですか!」

 

 対する仁奈ママの反応は劇的だった。

 とんちんかんな回答をしながら苺と同じくらい顔を赤くして、パタパタと手を振り動かして。

 

 ――なんだこの生き物は! 可愛いなぁ……。

 

 伊華雌はあらためて仁奈ママに萌えながらテーブルへ視線を向ける。

 そして、武内Pと同じ好奇心を抱く。

 ショートケーキ・苺のたると・苺のムース。

 皿の上に乗るケーキは、どれも苺を使うものばかりだった。

 

「……初めて差し入れをした時に、ありすちゃんが苺のケーキをもらいそびれて、その、泣いちゃったみたいで」

 

 それは仁奈の言葉であるから本当にありすが泣いたのかどうかは定かではないと、付け足してから仁奈ママは説明した。

 ある日、子供達にケーキの差し入れをした。喜んだ子供達が仁奈ママの元に殺到する。ありすは大人ぶって『わたしは最後でいいです』と豪語したのだけど、残されたチョコレートケーキを見つめる黒い瞳は涙に濡れていた。

 

「だから、差し入れをする時は全部苺のケーキにしてるんです」

 

 つまり、仁奈ママの優しさである。ありすが苺のケーキにありつけなくて泣く、という世界線を回避しているのだ。

 

「市原さんは、優しいのですね」

 

 低い声で言って、滅多にみせない笑みを浮かべる。その瞬間に関して言えば、武内Pはもはや乙女ゲームの登場人物と言っても過言ではないくらいの胸キュン指数を誇っていた。

 

「は、はひ……っ!」

 

 武内Pを見つめる仁奈ママは、完全に恋する乙女の顔で。きっと彼女の視界の中では武内Pの周囲にキラキラと星みたいなエフェクトが発生しているのだと思う。

 これを無自覚でやっているんだから武内Pはたちが悪い。罪深い。佐久間まゆに断罪されてしまう日も遠くないんじゃないかと伊華雌は心配になる。

 

 武内Pと仁奈ママによる乙女ゲー空間は、しかし唐突に終わりを告げる。

 

 スタジオのドアが、勢いよく開いた。

「手、洗ってきたよーっ!」

 元気な声を張り上げた赤城みりあを先頭に子供達がなだれこんできて、その賑やかな空気がラブコメな空気を駆逐する。

「ほらー、ジュース持ってきたぞー」

 米内Pも現れて、完全に第三芸能課の空気が戻ってきた。

 ケーキを食べて、ジュースを飲んで、楽しそうに笑う。そんな子供達を仁奈ママと武内Pが並んで見守る。

 仁奈ママは完全に母親の顔で、武内Pはずっとプロデューサーの顔で。

 

 ――ラブコメタイム終了のお知らせ。

 

 伊華雌は、ほっとするような、残念なような。そんな気持ちで油断していた。

 子供達が練習を再開して、武内Pと仁奈ママはスタジオから出て。そして『お疲れ様でした』の挨拶を交わして別れるのだと思っていた。

 

 甘かった。

 大人の女性を舐めていた。

 

「あのっ……!」

 

 スタジオから出て分厚い防音ドアを閉めた瞬間、仁奈ママが声をあげた。その手が武内Pの袖を引いて、

「このあと、お暇ですか? そ、そのっ……」

 彼女は白いのどを大きく動かして、ためらいを飲み込んで――

 

「お話したいことが、あるんです……」

 

 仁奈ママのターンは、まだ終わっていなかった……ッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第4話

 

 

 

 美城プロ社内カフェ――メルヘンチェンジで、武内Pと仁奈ママがテーブルを挟んで向かい合っている。

 スーツ姿で向かい合う姿は仕事の打ち合わせをしているように見えるけど、それにしては仁奈ママの視線が熱っぽい。見る人が見ればその視線の意味は一目瞭然。色恋沙汰に縁のない伊華雌(いけめん)にすら分かるのだ。

 しかし肝心の武内Pが、その視線の意味を理解しようとしてくれない!

 

「あの、食事をしてもよろしいでしょうか?」

 

 そんなことを言い出して、よりによっていつもの大食いメニューを注文した。

 せっかくのラブコメな雰囲気を叩き斬るかのような行為である。だって、例えばギャルゲーでカフェへ行って、『どれを注文する?』っていう選択肢が出た場合に――

 

 1、コーヒー

 2、パンケーキ

 3、日替わり大盛り定食

 

 ――明らかに3は選んじゃいけないやつでしょ! 好感度がしゅーん、って下がるやつだよっ!

 

 ギャルゲーの経験に関しては豊富であると胸を張れる伊華雌である。その知識を元に考えると、武内Pが選ぶべきはこっひー、――じゃなくてコーヒーだと思う。できればブラックで渋くキメてほしい。武内Pの男らしさが際立って、好感度がぐーんと上昇する。

 それなのに武内Pは、大盛のご飯としょうが焼きという〝ガテン系メニュー〟をガツガツ食べている。

 

 ――ちゃんとご飯を食べてくれるのは嬉しいけど、タイミングが……。

 

 さすがに呆れられてしまったのではと思う伊華雌の視線の先で、しかし仁奈ママは相変わらず熱っぽい視線を向けている。むしろその温度が上昇したような……。

 そして彼女は、カフェオレを一口飲んで言うのだった。

 

「武内さん、よく食べるんですね。仁奈みたい……」

 

 母性が! 母性が刺激されている。なるほどギャルゲーの攻略対象はうら若きJKばかりで、子持ちバツ1とかいない。母親の視線で見れば、たくさん食べる男性は子供と重なって好感度が上昇するのかもしれない。

 

 つまり、〝大盛り日替わり定食〟がまさかの正解だった!

 

 次に仁奈ママが何をしてくるか? もはや伊華雌はまるで想像できない。

 唯一の恋愛経験であるギャルゲーの知識が役に立たないのだ。伊華雌にはもう、まゆとちっひが通りかからないように祈ることぐらいしかできない……。

 

「あの……」

 

 口火を切る。そんな言葉がふさわしい、決意に満ちた眼差しと口調。

 仁奈ママはもてあそんでいたカフェオレをテーブルに置いて、武内Pをじっと見つめる。

「わたし、武内さんに感謝しているんです」

 その真剣な言葉の響きに、武内Pは茶碗を置いた。

 

 武内Pと仁奈ママ。

 二人の視線が交差する。

 

「武内さんのおかげで、わたしも、仁奈も、笑顔になれました。あの時アイドルを辞めさせていたら、きっとこんなふうに笑うことはできなかった……。だから――」

 仁奈ママは母親として、一人の女性として、武内Pへ最高の笑顔を送る。

「ありがとうございます、武内さんっ」

 そして武内Pは、割りばしを皿に置いて、じっと仁奈ママの顔を見つめて――

 

「いい、笑顔です」

 

 その一言で、撃ち抜いた。

 仁奈ママのハートを、容赦なく、ずきゅーんと!

 

「へぁっ、あの……。ありがとう、ございま……」

 

 ただでさえ小さい体を縮めながら頬を真っ赤に染める仁奈ママ。

 ずずっと、食後のお茶をすする武内P。

 

 ――何でだよ! 何でお茶すすってんだよ! ちょっとはママにキュンキュンしようぜ武ちゃん!

 

 伊華雌の心の叫びは、もちろん届かない。

 武内Pと仁奈ママの温度差は縮まらない。

 

 かたや初恋の相手と初デートしている乙女みたいにどぎまぎしている。

 かたや大衆食堂で食事を終えたサラリーマンみたいにまったりしている。

 

 さすがに仁奈ママが不憫に思えた。応援してあげたくなるけど、それをやったら緑の人と赤い人に恨まれてしまう……。

 仁奈ママを応援するべきか否か、悩む伊華雌であったが、そもそもその必要はなかった。

 

 仁奈ママには最強の味方がいる。

 

 誰よりも彼女を愛し、遠慮という言葉をしらない。勢いが重要である〝恋愛〟において心強い味方になる。

 

 たんたんたん。

 

 元気な足音が駆けてくる。メルヘチェンジに入ってきた彼女を、安部菜々17歳は笑顔でむかえる。もう一人の店員が『ママはあっちだぞ☆』と教えた。

 そして彼女――市原仁奈は、武内Pと母親の並ぶテーブルにたどり着いて、開口一番――

 

「ママとパパ、仲良しでごぜーますね!」

 

 その言葉に深い意味はない。

 武内Pをパパと呼ぶのはままごと遊びの名残であって、つまり紛らわしいあだ名のようなものである。……いや、この場合は〝しゃれにならないあだ名〟と言うべきかもしれない。

 

「に、仁奈っ! なっなっ、何をっ!」

 

 仁奈ママは慌てて、椅子から転げ落ちるようにして愛娘の両肩を抱く。

 しかし仁奈はキョトンとしている。

 

「どうしたでごぜーますか? 武内プロデューサーはパパでごぜーますよ。ママも家で言ってるでごぜーます。武内プロデューサーがパパならい――」

「わっ、わーっ! あーっ!」

 

 仁奈ママは必死に仁奈の口を塞ぎながら大声をあげる。

 伊華雌は仁奈の言葉を繰り返して、気づいてしまう。

 

 ――今の発言、間接的なプロポーズだったような……。

 

 仁奈ママは完全にパニック状態で、財布から千円札を抜き取るとそれをテーブルの上に置いて、まだ何か話そうとする仁奈を抱き抱えてメルヘンチェンジから逃げようとする。

 

「市原さんっ!」

 

 武内Pが声を上げた。

 いつになく真剣な表情で立ち上がる。

 仁奈ママは足をとめて、ゆっくりと振り返る。

 

 ――これはまさか、仁奈ママフラグが、成就……っ!?

 

 雰囲気は恋愛ドラマのラストシーン。武内Pが、僕もあなたのことが好きです、とか言った瞬間、リア充専用曲みたいヤツがどこからともなく流れ始めてハッピーエンド。

 その可能性は、しかしゼロではないと伊華雌は思う。

 もし仮に武内Pが〝年上好き〟だったとしたら、仁奈ママエンドも充分あり得る。

 

 伊華雌は固唾をのんで二人を見守る。

 仁奈ママは、仁奈を抱えたまま頬を赤くして言葉を待つ。

 そして武内Pは、テーブルの上の千円札を手に取って――

 

「これは、もらいすぎです」

 

 仁奈ママが頼んだのはカフェオレ一杯300円で、確かに千円はもらいすぎだ。指摘して返却するのが社会人の務めであるけど――

 

 ――他にもっと言うことあるんじゃないかな武ちゃん! ほら、何かを期待していた仁奈ママが、恋人からのメールかと思ったらスパムメールでした、みたいな顔してるからぁ!

 

 仁奈ママは抱えていた仁奈を降ろすと、曖昧な笑みを浮かべた。そして仁奈と手をつなぎながら、大きなため息をついた。

 

「今、こまかいのがないので、とっておいてください」

 

 仁奈ママは武内Pが何か言うより早く背をむけた。そのまま仁奈の手を引いてメルヘンチェンジを後にする。

 武内Pは残された千円札を見つめて、首の後ろを触った。

 

「見ーちゃった☆」

 

 武内Pに声をかけてきたのはメルヘンチェンジのバイト店員。

 アイドル事務所の社内カフェである。店長はもちろん、バイト店員もアイドルがやっている。今日のバイトは菜々の友人で、アイドルにしては大きな体で、その存在感はもっと大きい。

 

〝げーっ、しゅがはっ!〟

 

 伊華雌は思わず声をあげてしまった。

 誤解を招く場面を見られたくないアイドル――佐藤心が、武内Pへ好奇心旺盛な瞳を向けている。

 

「さっきの、どういうこと? 仁奈ちゃんのママと禁断のスウィーティー? やーん、はあと気になる! 飲みものおごってあげるから、はあとにこっそり教えてよ。教えろ☆」

 

 そして、訊問が始まる。

 

 テーブルを挟み向かい合って座る心は芸能リポーターさながら武内Pと仁奈ママの〝スウィーティーな話〟を訊きだそうとする。仁奈が自分のことを〝パパ〟と呼ぶのはままごと遊びの名残であると、口下手な武内Pはうまく説明することができない。キッチンの影から様子を見ていたウサミンもいつのまにか訊問に参加して、その状況を一言で総括すると――

 

 誤解を解くのが大変でした!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第5話

 

 

 

 ハッピープリンセスが復活する。

 

 その情報が346プロの公式ホームページより発信された瞬間、ネットはちょっとした〝祭り〟になった。

 ファンは期待していたのだ。佐久間まゆの脱退によって活動休止状態であったハッピープリンセスの復活を。

 そしてハッピープリンセスのメンバーも、再び同じステージに立てる日を諦めていない。

 そんな事情を知っていたから、武内Pは提案した。

 

『シンデレラの舞踏会は良い機会です。ユニット活動を再開しませんか?』

 

 まゆとしては、ためらいがあったと思う。

 彼女にとってハッピープリンセスとは、赤羽根Pとのアイドル活動そのものである。その相手との〝思い出〟がたくさん残っている。それは素敵な記憶であると同時に辛い記憶だ。今となっては思い出したくないかもしれない。

 

 だからこそ、ソロで活動してもらっていた。

 そしてタイミングをうかがっていた。

 

 まゆをハッピープリンセスの一員として復帰させた瞬間、彼女の〝再プロデュース〟が完了する。

 みくと李衣菜は、先輩から独り立ちして〝自分の輝き〟を手に入れることができた。

 仁奈は笑顔を取り戻して第三芸能課へ戻った。

 

 しかしまゆは。

 

 まだ完全に復活しているとは言いがたい。

 元通りにユニット活動を再開して、ステージの上で笑顔になれた瞬間、彼女の再プロデュースが完了する。

 

 そして、今。

 

 武内Pと伊華雌(いけめん)は346プロライブ劇場(シアター)の舞台袖にいる。

 流れる曲は〝おねがいシンデレラ〟。大入り満員の観客が熱烈な歓声を上げて、力一杯ペンライトを振って。

 熱のこもった声援を受けとるのは、小日向美穂。日野茜。川島瑞樹。城ヶ崎美嘉。

 

 そして、佐久間まゆ。

 

 もしかしたら赤羽根Pのことを思い出して調子を落としてしまうかもしれない。

 そんな伊華雌の不安を吹き飛ばすかのように、まゆは問題なくステージをこなしている。伊華雌がまだ人間で、一人のファンだった頃に見ていたハッピープリンセスのように。

 

 いや……。

 

 その時よりも輝いてみえる。

 その笑顔は、輝きを増している!

 きっとこれが、武内Pによる再プロデュースの成果なのだと思う。

 アイドルを復活させるのはもちろん、もっと〝いい笑顔〟にしてしまうのだ。

 

「みんな、ありがとーっ! ハッピープリンセス、よろしくねーっ!」

 

 曲が終わって、一段と大きくなった歓声に負けじと美嘉が声を張り上げる。

 そして、巻き起こる拍手に手をふってこたえながら退場する。

 美嘉を先頭に、茜、美穂、瑞樹と続き、最後にまゆがステージを降りた。舞台袖にいる武内Pを見つけると、まゆは嬉しそうに微笑む。

 

「どうでしたか、プロデューサーさん……。まゆ、プロデューサーさんが望むまゆになれましたか……?」

 

 愛情にあふれた熱い視線と、どこまでも生真面目な視線が手を取りワルツを踊る。

 そんな表現をすべき視線のやり取りに、他のハッピープリンセスのメンバーが苦笑している。

 美穂はアホ毛まで赤くなるほどに赤面して、茜はラグビーでも観戦しているかのように興奮して拳を強く握る。瑞樹は若いカップルを見守るお姉さんの笑みを浮かべて、美嘉はやれやれと肩をすくめる。

 そして武内Pは、どこまでも誠実にまゆの視線を受け止めて、一言。

 

「いい、笑顔でした」

 

 ――これでこの二人、付き合ってないんだぜ?

 

 伊華雌が心の中で呆れてしまうほどに、甘苦しい世界が広がっている。

 〝二人の世界〟という名前の閉鎖空間が舞台袖に出現して、次のステージの出演者であるインディヴィジュアルズが嫌そうな顔をしている。早坂美玲はまだしも、星輝子と森久保乃々は本当に嫌そうだ。眉がはっきりハの字になっている。

 

 ――リア充が苦手なのね、分かるわ……。

 

 伊華雌は輝子と乃々の表情に深い共感を覚えてしまう。

 伊華雌も高校時代、リア充カップルに散々嫌な思いをさせられてきた。

 休み時間にトイレに行って帰ろうと思ったら、廊下の真ん中でリア充フィールドを展開しているカップルがいた。仕方ないから迂回しようと思って下の階に降りたらそこにもリア充がいるし!

 頭にきたから、すれ違いざまにすかしっ屁をかますという通り魔的犯行をもってリア充カップルの空気を悪くしてやろうと思った。

 しかし力みすぎてしまった結果、伊華雌は暴走族のバイクさながら『ブオン!』という爆音を轟かせてしまう。

 

『うわ、さいてー』

『ははっ、すげー音』

 

 リア充(女)にはなじられるし、リア充(男)には『ははっ』とか笑われるし。ミ*キーみたいな笑い方しやがって! そのせいでしばらく*ッキーが笑うたびに切ない気持ちになったんですけど!

 

 伊華雌の共感を背に受けたインディヴィジュアルズがステージに上がる。いつもより輝子のシャウトが激しいような気がする。きっと気のせいではないと思う。

 彼女の〝ヒャッハー〟は全てのリア充へ向けた宣戦布告。

 そして全てのボッチをなぐさめるための鎮魂歌。

 

 武内Pは好きだけど、リア充は好きじゃない。

 

 人情と感情の板挟みに苦しめられているボッチな伊華雌は、星輝子のヒャッハーに心の安らぎを覚えて、つぶやくのだった。

 

〝やっぱり輝子ちゃんは最高だぜ……っ!〟

 

 

 

 * * *

 

 

 

 武内Pとまゆの視線交換が一段落した頃、城ヶ崎美嘉が声をかけてきた。

 

「ちょっと、相談があるんだけど」

 

 美嘉に連れられるまま、武内Pは控え室へ向かった。他のハッピープリンセスのメンバーも一緒に控え室に入る。

 そして彼女たちは横一列に並んだ。あらかじめ打ち合わせしていたかのような動きである。

 

 リア充の人なら『サプライズパーティーかな?』と思ってびっくりリアクションの準備をするのかもしれない。

 しかし伊華雌の場合は『どっきりだ! 各員戦闘配置!』と叫んで身構えてしまう。

 

 小学生の頃に流行ったのだ。TVの影響を受けたクラス内ヒエラルキー貴族的身分の男女が、下々の者に対してどっきりを仕掛けるというたちの悪い遊びが。それは座ると『ぶー』とおならみたいな音がするクッションを仕掛けて、庶民が当惑している様子を笑うという悪趣味な遊びだった。

 

 そして伊華雌も〝どっきり〟のターゲットにされてしまう。

 

 普段使っているクッションの中にブーブークッションを仕込まれた。座ったとたん音がして、待ってましたとばかりに貴族たちが出て来て笑いだした。頭にきたので、本物の放屁がいかなるものか? 実演をもって教えてやった。『バブォッ!』とすごい音がして、ブーブークッションの持ち主が『もうあれ、使えない』と言って泣き出した。

 

 誰かを泣かせること。

 

 その行為自体が小学生の間では重罪である。泣いているのが女子ならなおさら。

 

 ――なんで俺が謝罪させられて、しかもブーブークッションを買い取らなきゃならなかったのか、未だに意味が分からない!

 

 伊華雌は思わず切ないエピソードを思い出してしまったが、ハッピープリンセスのアイドルたちは武内Pにどっきりを仕掛けようとして横一列にならんだわけではない。

 

「シンデレラの舞踏会でさ、握手会をやりたいなって思うんだけど……」

 

 美嘉が頬をかきながら、ちらっと上目遣いに武内Pを見る。

 武内Pはしばし目を閉じて考えてから、ウンと大きく頷いた。

「いいと思います。ハッピープリンセスの活動再開を待っていてくれたファンも喜んでくれると思います」

「そ、そうなんだよね。待っててくれたファンにさ、もっかいこのメンバーで活動できるって、伝えたくて……、ね」

 美嘉が他のアイドルへ視線を送る。アイドルたちは、各々の仕草で肯定の気持ちを表す。

「じゃあさ、ちょっと練習、付き合ってよ」

 美嘉はただの握手会ではなくて〝ハッピープリンセスの握手会〟を希望する。それはつまり、メンバー全員と順番に握手をする形式したい、とのことだった。

「ちゃんと順番にも意味があるのよ」

 川島瑞樹が打ち合わせをする女子アナのようにてきぱきと説明する。

「まず、美穂ちゃんがファンの緊張をほぐすの。そして美嘉ちゃんがテンションをぐいっとあげて、茜ちゃんの熱い握手でサプライズ! ビックリしたファンを私が落ち着かせて、最後にまゆちゃんの笑顔で癒される。どう? まるで全身ボディスパのフルコースみたいでしょ? アンチエイジングできちゃうかもしれないわよっ!」

 テンションの上昇に伴って面白お姉さんモードにギアが入ってしまった。ぐいっと身をのりだす瑞樹に、武内Pは一歩さがって首の後ろをさわる。

 

「い、いいと思います。面白い趣向です」

「でしょ? じゃあ早速、ファンの役をお願いね、武内くん」

 

 キャハ☆ とか言い出しそうな瑞樹の笑顔に武内Pがうなずいて、握手会のシミュレーションが始まった。

 一番手は小日向美穂。身長差から、武内Pの顔の前でアホ毛が揺れる。伊華雌が猫なら飛び付いている。人間であっても飛び付いている。『アホ毛が本体まであるぜぇぇええ――っ!』とか言いながら美穂のアホ毛にゴッドフィンガー! 警備員のお世話になる。

「あ、あの……。ライブのあとなんで、汗が……」

 こしこしと衣装で手汗をふく美穂に、武内Pは言い放つ。

「構いません」

 そして伊華雌も言葉を続ける。

 

 ――むしろありがとうございます。

 

「わっ、わたしが構いますっ!」

 さくらんぼみたいに赤くなりながら妙な日本語を使う美穂に伊華雌はクラっとしてしまう。島村卯月という存在がいなければ危なかった。小日向美穂ガチ勢の扉が開いて、コーヒーとこっひーの区別がつかなくなってしまう。

 一杯のモーニングこっひーから俺の一日は始まる。

 夜明けのこっひーを一緒に飲もう。

 

 ――だめだっ! コーヒーがこっひーになっただけで、意味深な単語が世の中にあふれてしまう!

 

 伊華雌が小日向美穂ガチ勢の苦悩を垣間見ている間に、武内Pは美穂との握手を終えていた。

 

「次は、あたしだね」

 

 城ヶ崎美嘉が手を差し出す。

 そのカラフルなネイルに伊華雌は目を奪われてしまう。カリスマJKモデルは、その手もまた高いカリスマ性を持っている。

 記憶の中にある自分の手とは大違いだ。そもそも毛が生えていない。毛穴さんが仕事していない……。うちの毛穴さんは、やけに気合いいれて太い毛を生やしているのに! 専門学校のリア充野郎に『お前なんで指から陰毛生えてんの?』とか笑われるほどの剛毛を……。

 

 伊華雌のそれとは別次元のものであるとしか思えない芸術品のような手が、武内Pの大きな手と握手をかわした。

「こうしてまたハッピープリンセスとして活動できるようになったのはあんたのおかげだから、その……」

 美嘉はゆっくりと握手をほどいて、カリスマモデルの表情を捨てる。

 どこにでもいる女子高生の、無邪気な笑顔で――

 

「ありがとっ」

 

 武内Pは、はにかむように微笑んで、美嘉の言葉と笑顔を受けとる。

 

「次は、私ですねっ!」

 

 ふんと元気な鼻息をついた日野茜が、熱血スポ根漫画の主人公よろしくその両眼に炎を燃やす。そんな錯覚を覚えてしまうほどの熱い視線が、武内Pへ向けられる。そして両手で、武内Pの手をつかんだ。

「まゆちゃんを笑顔にした武内プロデューサーに、情熱のエールを送りますっ!」

 その小さな身体のどこにそんな力があるのか、見るからにパワフルな握手をしながら――

 

「ファイヤぁぁああああ――ッ!」

 

 闘魂注入。

 そんな単語を連想してしまうほどの声を張り上げ、茜は満足げにひたいの汗をぬぐった。

「どうですか、プロデューサー。元気になりましたかっ!」

 腰に手を当ててニッコリ笑う。日野茜はどこまでも熱い体育会系アイドルである。ポジティブパッションのポジティブパッション担当は伊達じゃない。

 

「次は私ね……」

 

 大人の表情を浮かべた川島瑞樹が武内Pの前に立つ。元女子アナの貫禄めいたものを漂わせていた彼女は、しかし手を差し出した瞬間に表情を変える。

 

「かわしまみじゅき、17歳ですっ☆」

 

 時間が、止まった……ッ!

 時空を操る特殊能力が突然覚醒してしまったのかもしれない! そんなふうに思ってしまうほど、全員の表情が固まっている。

 

 ――もし、時間停止の能力を獲得できたらどうしよう? 定番の女子更衣室から始めるべきだろうか……? それとも、勇気を出して女風呂かっ!?

 

 いち早く硬直状態から復帰したのは武内Pだった。

 彼は真面目な表情で、どんな罵倒よりも鋭利な言葉の刃を振りかざす。

 

「それは、やめたほうがいいと思います」

 

 情け容赦のないマジレス!

 しかし瑞樹は落ち込まない。ふっと吐息をついて肩をすくませるだけで武内Pの言葉を受け流す。

「言うようになったわね、武内くん」

 瑞樹が武内Pと握手をかわす。彼女はいつかの居酒屋で武内Pに助言をくれた時のような、優しいお姉さんの顔で――

 

「プロデューサーとして成長したのね……。わかるわ」

 

 武内Pは、伊華雌とまゆにしか分からない程度にはにかむ。――と、言いたいところであったが、その表情の変化を瑞樹も感じ取っていた。

「照れちゃって、かわいいんだからっ」

 ずっと近くにいたから気づかなかった。

 

 武内Pは変化している。

 成長している。

 

 誰が見てもわかるくらいに表情が柔らかくなっていた。未だに目付きは鋭いけれど、もう〝殺し屋みたいな〟とは言えないかもしれない。

 

 瑞樹の手が、武内の手から離れる。

 

 そして最後を飾るのは――

 ヒラヒラとリボンのついた衣装をなびかせて、武内Pの正面で足をとめた佐久間まゆ。

 その表情に、初めて会った時の面影はない。

 あれは、まだ秋の季節だった。メルヘンチェンジでミミミンウサミンオムライスを頼んでしまって、慌てているところに彼女はやって来た。色のない表情でアイドルを辞めると言った。

 

 あの時のまゆと、今のまゆ。

 同じ少女であるはずなのに、全然違う女の子に見える。

 

「最後はまゆ、ですね……」

 

 まゆが細い手をさしだす。

 武内Pの大きな手に包まれる。

「……あの時、まゆを引き留めてくれて、ありがとうございます」

 まゆはちらりとハッピープリンセスのアイドルたちを見て。

 そして担当プロデューサーをじっと見つめて――

 

「やっぱりアイドル、楽しいですっ」

 

 その瞬間の笑顔に関して言わせてもらえば、島村卯月のそれを凌いでいたかもしれない。

 その笑顔は、島村卯月の超ガチ勢を自負する伊華雌をもってして、卯月以上であるかもしれないと思わせるほどに――

 

 どうしようもなく、いい笑顔だった……。

 

 二人はしばらく見つめ合って、

 そしてゆっくりと手を離――

 そしてゆっくりと手を離――

 そしてゆっくりと手を離――そうとしない!

 まゆの手はぎゅうっと武内Pの手を強く握りしめて離さない。ふふふと夢見心地な視線を向けて〝二人の世界〟を構築する。

 武内Pはどうしていいのか分からなくてぎこちない笑みを浮かべるばかり。

 ハッピープリンセスのアイドルたちは、人目を気にせずイチャつく二人に呆れて優しく苦笑する。

 

 ――いやっ、誰か止めてさしあげてっ!

 

 まゆに愛情を注入されて困っている武内Pを救ったのは、スマホの着信音だった。

「この音……」

 そのメロディにまゆの顔つきがかわる。

 武内Pの手を握る力が、ぎゅっと強くなって――

 

「まゆの歌じゃないですか……っ!」

 

 武内Pのスマホから流れているのはエブリディドリームである。

 今朝、伊華雌が変更するように忠告したのだ。

 まゆの前でスマイリングの着うたが流れたらどうなるか? 最悪、歌と一緒に血が流れる。そんな事態を避けるために、着うたを変更させた。〝病みのま〟対策に抜かりはない。

「あの、出てもいいでしょうか?」

 握手という行為にこれほどの愛情を込めることができるのかと、感心してしまうほどに情熱的な握手をしていたまゆであるが、さすがに電話に出ることをとめはしなかった。

 武内Pのごつい手を離して、その手をそのまま武内Pの腕にからめた。

 

 ――この二人は、恋人以外の何なんだろう?

 

 まゆに腕を絡めとられた状態のままで、武内Pはスマホを耳に当てた。

『あっ、プロデューサーっ!』

 電話の向こうから聞こえてきたのは未央の声だった。ひどく焦っている様子だった。

「何か、あったんですか?」

 武内Pの目付きが険しくなる。

 未央。ニュージェネ。卯月。

 伊華雌の中に黒々とした不安が押し寄せてきて、それは未央の言葉をもって現実のものとなる。

『ちょっと来てほしくてっ! しまむーが、しまむーがっ!』

「島村さんが、どうしたんですか!」

 電話の向こうで、一瞬だけためらって。

 そして未央は、大人に助けを求める子供の声で――

 

『しまむーが、アイドル辞めるって!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第6話

 

 

 

 武内Pと伊華雌(いけめん)は、ライブ会場からタクシーに乗って未央たちのいるファミレスに向かっていた。

 

 車窓から差し込む夕日が武内Pの横顔を照らす。複雑な感情が複雑な表情を作り上げている。タクシーが赤信号で止まるたびにピクリと眉毛が動く。苛立ちの仕草だ。少しでも速く卯月の元へ向かいたい。猛威をふるう焦りの感情がその表情を強張らせている。

 

 夕日がゆっくりと姿を消して、冬の町が闇色に染まる。

 

 歩道へ目を向ければ、そこにあるのは点在する街灯。それはまるでスポットライトのようだ。その明かりが照らしだすのは帰路を急ぐ人々で、コートをかき抱く仕草に冬の寒さを思い出す。

 寒々しい冬の夜にあって、温かみを感じることのできる照明。冬のファミレスは凍てついた心を暖めてくれるオアシスであるはずだけど、伊華雌は心を引き締める。大切な人の窮地に駆けつけるヒーローの気持ちで、間に合ってくれと祈る。

 そしてタクシーが、ファミレスの駐車場に停車した。

 

「お釣りは、結構です」

 

 武内Pは運転手に札を押し付けると、装甲車から飛び出す兵隊のように勢いよく外へ出た。白い息を吐きながらファミレスの入口へ駆けて、中に入る。禁煙か喫煙か訊いてくる店員を手仕草で黙らせて、探す。

 いつもは手を挙げてくれる。

 長身の武内Pは目立つから、向こうから見つけてくれる。

 けど、誰も手を挙げてくれない。

 捜し出すまで、少し時間がかかってしまう。

 

〝窓際の隅の席だ、武ちゃん!〟

 

 伊華雌が先に見つけて、声を上げた。

 武内Pはうなずいて、凛と未央と卯月の座るテーブル席に向かって早足で歩く。

 そして、声をかけた。

 

「あのっ、お疲れ様です……っ!」

 

 うつむいていた三人が同時に顔をあげる。

「プロデューサー……」

 未央がつぶやき、向かいに座る二人へ視線を向ける。

 武内Pを見上げる凛の眼差しは厳しい。内面に渦巻いているであろう苛立ちが、眉間に小さなしわをつくっている。

 その隣、通路側の席に座る卯月は、すぐに視線をテーブルへ戻してしまう。その仕草はまるで親に叱られる子供のようで、叱責を恐れているかのように首をすくめる。

 

「状況を、教えていただけますか?」

 

 武内Pの質問に答えようとするものはいない。

 その質問から目をそむけようとするかのように、うつむいている。

 その様子は、学校で問題が起こった時の臨時ホームルームを思わせる。『ちゃんと説明してくれないと、いつまでたっても帰れませんよ!』声高に責める教師がいて、ひたすらにうつむき黙秘権を行使する生徒たちがいる。

 事実を知っているのだけど、発言できない。したくない。

 そんな空気が、ニュージェネの三人を包み込んでいる。

 

 がたっ。

 

 椅子が音を立てた。

 突然立ち上がった卯月が、

 

「……ごめんなさい」

 

 そして彼女は、一瞬だけ武内Pを見上げる。

 

 見たことのない表情だった。

 そんな顔は、見たくなかった。

 

 だって伊華雌は、卯月の笑顔が好きなのだ。

 島村卯月の、いい笑顔が好きだから。

 

 泣き顔なんて――

 

「わたし、もう……、アイドル――っ!」

 

 卯月は武内Pに背を向けて、足早に戸口へ向かう。

 

「島村さんッ!」

 

 武内Pが声をあげても卯月は振り向かない。

 12時の鐘を背に受けながら走り去るシンデレラのように、ファミレスから出ていってしまった。

 

「卯月っ!」

 

 凛が声をあげてすぐに後を追って走り出した。まるで、シンデレラを追いかける王子さまのように。

 

 残された武内Pは、呆然と立ち尽くしている。

 何が起こっているのか、分からなくて何もできない。そんな気持ちが、薄っすら開いた口元に現れている。

 それは伊華雌も同様で、何が起こっているのか分からなくて、何も言えない。

 

「プロデューサー、座りなよ」

 

 未央が隣の席をすすめてくれた。

 その表情は落ち着いているように見えるけど、でも、電話してきた時の様子を思い出すと、未央だって冷静ではないはずだ。

 武内Pは未央の隣に座り、すがるような視線を向ける。

 

「何があったのか、教えてもらえますか?」

 

 未央は静かに頷いた。跳ねた後ろ髪をまったく揺らさずに。切なげな視線をフライドチキンへ向けながら。大好物であるはずのフライドチキンがどうしてそのままの姿で冷めているのか、言い訳をするかのような口調で話し始める。

 

「今日、しぶりんと一緒にしまむーのお見舞いに行ったんだけど……」

 

 体調不良を理由にレッスンを休んでいる卯月のことが気になって、家を訪ねた。未央は純粋に見舞いのつもりだった。

 

 けど、凛は違った。

 

 凛は卯月の幼馴染みである。未央よりも卯月のことを知っている。レッスンに来ない〝本当の理由〟に心当たりがあった。

 そして卯月の部屋に入った凛は、その机を見るなり声を荒げた。

 

『こんな週刊誌の記事なんて、気にすることないって言ったのに!』

 

 卯月の机の上には、例の週刊誌があった。

 凛はその存在を消してしまおうとするかのように、週刊誌をつかんで握りつぶす。

 卯月はベッドの上で、壁に背をつけて膝を抱えていた。

 

 笑顔じゃなかった。

 

 胸の中に居座る何かに苦しめられるかのような。

 その辛そうな表情に、未央はようやく理解する。

 

 自分が思っているよりも事態は深刻だった。

 

『わたし、もう笑えないんです……。わたしの笑顔のせいで、今も意識を失ったままの人がいるって思うと――』

 卯月は唇を噛んで、大粒の涙を流しながら――

 

『笑顔になんて、なれない……ッ!』

 

 未央の知っている卯月の声じゃなかった。

 

 どれだけ悩んだのか。

 どれだけ苦しんだのか。

 

 安易に励ましの言葉をかけることすらためらわれるほどの苦悩が、部屋に名残を残す言葉の響きから伝わってきた。

 

「しぶりんは黙っちゃうし、しまむーは泣いてるし。このままじゃまずいって思ったら、いつものファミレスにきて、そこで好きなもの食べながら話せばなんとかなるかなって、なんとかなって……、なんとか……っ!」

 

 気丈な表情が、崩れた。

 きっと未央は、必死に感情を抑えていたのだと思う。担当プロデューサーに正確な状況を伝えるまでは取り乱してはいけないと、思ってこらえていたのだ。

 だからその使命を終えた瞬間、濁流を押さえ込んでいたダムが決壊するように、表情を崩して泣き出してしまう。

 

「状況は把握しました。自分が、なんとかします」

 

 武内Pの声は頼もしい。

 本気であることを感じとるに充分な声音に、未央は泣きながら、少しだけ微笑む。

 

「たのんだよ、ぶろでゅーさー……っ!」

 

 未央の手が、武内Pの肩をつかむ。

 そして、とんっと、頭を武内Pの胸に預ける。

 武内Pは、未央の頭を胸で受け止める。その感情を抱き締める。

 彼女の気持ちが落ち着くまで、その涙がとまるまで、武内Pは動かない。

 

「……ありがと、プロデューサー」

 

 顔を上げた未央は、いつもの未央だった。

 その顔にあるのは、跳ねた後ろ髪のように元気な笑顔。

 

「よーし、しまむーに気合い注入だーっ」

 

 椅子から立ち上がった未央は、元気に握りこぶしを振り上げた。

「あの、無理はしないように……」

 慌てて声をかける武内Pに、未央は肩をすくめて、

「分かってるって。何かあったらすぐに相談するから。頼りにしてるよ、プロデューサー!」

 未央は悩みを一人で抱え込んでしまうことがある。

 『大丈夫、大丈夫っ!』と言いながら、本当の気持ちを隠して自分を追い込んでしまう。961プロへ移籍しようとした時のことを考えると、卯月だけでなく未央のことも心配になる。

 

 ――でも、今は大丈夫な気がするな。

 

 ファミレスの出入り口へ向かう赤いパーカーの背中を見ながら、伊華雌は思う。

 武内Pを信頼し、本当の気持ちを話してくれる今なら、手遅れになるほどに追い詰められてしまうことはない。心を開いて相談してくれれば、自分と武内Pでいくらでもフォローできる。絶対に、フォローしてみせる。

 だから今、心配するべきなのは――

 

「島村さんについてですが……」

 

 誰もいないテーブル席で、武内Pがスマホを耳にあてている。外で伊華雌と会話をする時は、電話のフリをする。そうすることによってあらぬ疑いをかけられないようにしている。

 

「シンデレラの舞踏会は、諦めてもらうべきかと思います」

 

 その言葉に伊華雌は耳を疑った。まだ、美城常務の指定した期限まで時間があるのに、どうして……ッ?

 

「今、無理にアイドル活動をさせようとしても、良い結果になるとは思えません。きっと逆効果になります。シンデレラの舞踏会に出演できないどころか、アイドルを辞めてしまうかもしれません……。なので、一旦休養をとってもらい、アイドル活動ができる状態に戻るのを待って活動してもらうべきだと思います」

 

 武内Pは、島村卯月をアイドルの世界に残すことを最優先に考えている。

 だからシンデレラの舞踏会を捨ててでも、休養して復帰してもらいたいと提案した。

 卯月を大切に思っているから。

 だから武内Pは守りに入っている。

 卯月の泣き顔を見て、弱気になっている。

 

 ――でも、それじゃ駄目だ。

 

 伊華雌の中に、込み上げてくる。

 かつて感じたことにない焦燥感が、怒涛の勢いで自分の中に荒れ狂う。

 

 ここで休養したら、きっと卯月は復帰できない。

 

 島村卯月がアイドルとして生き残れるかどうか。

 彼女がシンデレラとして輝けるかどうか。

 

 それは舞踏会にかかっている。

 

 だって伊華雌は何人も見てきたのだ。

 長期休暇に入り、そのまま消えてしまうアイドルを。仮に復活したとしても、別人になってしまったアイドルを。

 

 輝きが、失われてしまう。

 

 アイドルの輝きというのは、それこそ魔法のようなもので、失ってしまえば二度と手に入らない。

 島村卯月が島村卯月であるためには、絶対に舞踏会にでなきゃ駄目なんだ!

 

 だから――

 

〝卯月ちゃんには、シンデレラの舞踏会に出てもらう。舞踏会までに、彼女の笑顔を取り戻す〟

 

 もし、自分が人間であったら、きっとにらみ合っているのだと思う。

 大好きな友人と、それこそ敵意すら感じられるほどに強い視線をぶつけあっているのだと思う。

 

 どちらも譲らない。

 決して譲れない。

 

 互いに一番大切なものを賭けているのだ。簡単に譲れるわけがない。

 

「それは不可能です。さっきの島村さんの状態を見て、それでもマイクさんは島村さんの笑顔を取り戻せると思うんですか? シンデレラの舞踏会で、輝くことができると思うんですか!」

 

 武内Pの言い分はもっともである。

 確かに、不可能だと思う。

 武内Pの手札だけで島村卯月復活させることなんて、どんな敏腕プロデューサーにだってできやしない。

 

 でも――

 

 伊華雌は持っている。

 一発逆転の切り札を。

 それを使えば、きっと卯月は笑顔になれる。

 間違いなく笑顔になれる。

 だって、彼女の笑顔を曇らせている、その原因を断ち切るのだから。

 

〝一つだけ、方法がある〟

 

 話し出して、それでもまだ、ためらいがあった。

 言ってしまえば、引き返せない。

 手放した未来を、取り戻すことはできない。

 

 武内Pと一緒にアイドルをプロデュース。毎日一緒に通勤して、次々と降りかかる困難に立ち向かって、アイドルを笑顔にするにはどうするか一緒に考えて、アイドルの笑顔を引き出せた時なんか最高で、武内Pを一緒にアイドルをプロデュースするのが楽しくて、楽しくて、楽しくて、楽しくて――

 

〝俺の名前、マイクじゃないんだ……〟

 

 伊華雌は、選択する。

 

 大好きなアイドルの笑顔を守るために。

 そして、大好きな友達を笑顔にするために――

 

〝俺の名前は……、只野伊華雌。卯月ちゃんから笑顔を奪った、張本人だ!〟

 

 きっと、自分をマイクにしたアイツは神様なのだと思う。

 苦悩する自分をみて、笑っているのかもしれない。

 

 それでも、伊華雌は恨まない。

 

 この最高に無愛想で、最高に優しくて、誰がなんというと最高の友達に会わせてくれたことに、ただひたすらの感謝をしながら、言い放つ――

 

〝武ちゃん、お別れだ……〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第7話

 

 

 

 冬の冷たい空気がワンルームマンションの部屋に居座っている。

 

 部屋に帰って来た武内Pは、暖房を入れることもしないでぴにゃこら太のマイクと向き合っている。

 彼が向き合っているのは机の上のマイクスタンドにささるマイクではない。

 その中に存在している、只野(ただの)伊華雌(いけめん)という青年。

 

「やはり、信じることができないのですが……」

 

 武内Pは、伊華雌の告白を受けとめることができない。

 ファミレスで話を聞いた時、彼は戸惑い、そして怒った。島村卯月がアイドルとしてやっていけるかどうかという、大事な話をしている時にたちの悪い冗談を言われたのだと勘違いした。

 

 当然の反応だと、伊華雌も思う。

 

 喋るマイクの正体が人間で、しかも卯月の笑顔を奪った張本人なんて……。

 自分だって同じ立場におかれたら、悪い冗談はやめろと怒っている。

 

 しかし、事実なのだ。

 

 あの週刊誌を見た瞬間に、伊華雌は理解した。

 只野伊華雌としての人生は、まだ終わってなかった。

 

 確かに、よく考えればいろいろとおかしい。

 仮にこれが〝来世〟であれば、前世の記憶がここまで明確ではないと思う。普通、生まれ変わったら記憶はリセットされる。

 それに、時代だって不自然だ。

 転生ものといったらまったく別の時代か、別の世界と相場が決まっている。現代にそのまま転生するなんて話は、創作の世界でもあまり聞かない。

 

 つまり、これは転生ではなかった。

 

 何かの拍子に魂が抜けて、それがぴにゃこら太のマイクにすぽっと収まった。

 そう考えるのが自然である。

 そして、納得すると同時に悲しくなってしまう。

 

 ――何で俺、不細工な人間から不細工なマイクに乗り換えてんだよ。どんだけ不細工が好きなんだよっ!

 

 もしかすると、只野伊華雌の前世はとんでもないイケメンで〝あー、女とかうっとーしーわー。来世は不細工になりたいっすわー〟とか言ってたんじゃないかと疑ってしまう。

 もしくは、呪術師に不細工になる呪いをかけられたとか。

 だからきっと、猫や犬に生まれていても〝ブサカワ〟と呼ばれる種族になっていたのかもしれない。

 ってか、飼ってる犬、パグなんだよな……。散歩してると『飼い主に似てるーっ!』って近所の小学生がバカにしてくる。ペットは飼い主に似るって言葉、〝行動が似る〟って意味で、顔面が似てるって意味じゃないからっ!

 

 伊華雌はいつものように切ない前世の――、いや、人間だった頃の記憶を思い出してツッコみを入れていた。何かしていないと部屋に立ち込める沈黙に押し潰されてしまいそうだ。武内Pがどんな顔をしているのか、怖くて見ることができない。

 

 怒っているのか。

 それとも悲しんでいるのか。

 

 少なくとも〝マイナスの感情〟であるのは間違いない。

 怒りに身を任せてへし折られても文句はない。むしろそうして欲しいとすら思う。

 沈黙が辛い……。

 伊華雌の心境はさながら、極刑の執行を待つ死刑囚。

 

 そして、武内Pが口を開く。

 座っているベッドをぎしりときしませて、ゆっくりと視線を伊華雌へ向けて。

 

「まだ、完全に信じきれていないのですが、恐らく本当のことなんですね。マイクさんは、自分をからかったりするような人ではありませんから」

 

 審判の時だと思った。

 伊華雌は、最後の判決を受ける容疑者の覚悟を握りしめて武内Pを見つめる。

 

「自分は、残念です……」

 

 武内Pの目付きは鋭く、その奥から何かが込み上げてくる。

 

 ――きっと、涙だ。

 

 武内Pは自分に対して失望し、悲しみの、呆れの、そして怒りの涙を目のふちからこぼそうとしている。

 そして次の瞬間、抑えていた感情を爆発させて、只野伊華雌という存在をマイクもろともへし折って終わらせる。

 

 伊華雌は最悪の別れかたを想像して、でも、それで構わないと思う。

 

 それだけのことを自分はしたのだ。

 島村卯月の笑顔を奪っておきながら『卯月ちゃんの笑顔を取り戻そうぜ!』と偉そうな口をきいて相棒を気取った。まったく呆れて言葉が出ない。初めてできた友達から罵倒されてお別れするとか、結局いつものバッドエンドだ……。

 

「自分は、マイクさんと別れたくありません」

 

 そうそう。もう二度と見たくありませ――

 

〝え? 今、なんて……?〟

 

 武内Pの言葉に、そして表情に、伊華雌は気付く。

 

 どうして見間違えていたんだろう。

 自分とまゆは、武内Pの表情から気持ちを読み取ることができるのではなかったのか?

 

 武内Pは、怒っていない。

 彼の目からこぼれた涙の正体は――

 

 大切な人との別れを惜しむ、惜別の涙。

 

「しかし、マイクさんのことを待っている人がいます。そのことを考えると、マイクさんを引き留めるわけには……」

〝いやっ、ちょっと待って武ちゃん。俺、卯月ちゃんの笑顔を奪ったんだよ? 武ちゃんがニュージェネの担当外れたのだって、元をただせば俺が原因なわけだし――。怒る場面だと思うんだけど!〟

 

 伊華雌は、絶対に怒られると思っていた。

 『許さない……、絶対にッ!』とか言われて、粉々になるまで交通量の多い道路に放置される。そのくらいされてようやく許されるほどに自分の犯した罪は重い。

 それなのに、武内Pは――

 

「マイクさんは、わざとやったわけではありません。むしろ、自分の大好きなアイドルを不意に傷つけてしまって、大きなショックを受けていると思います。マイクさんの気持ちになって考えれば、一番辛いのは誰か、分かります……」

〝俺の、気持ち……?〟

 

 そんなふうに言われたのは初めてだった。誰かが自分の気持ちになって考えてくれたことなんて記憶にない。

 いつもバカにされてきた。

 誰かに〝笑われる〟ために存在するピエロのような存在だった。

 ピエロに同情する人がいないように、自分の気持ちになってくれる人なんていなかった。

 

〝何でそこまで、俺のこと……?〟

 

 その質問を投げるのは怖かった。

 だけど知りたい。

 確認したい。

 自分と武内Pの気持ちが、果たして通じているのかどうか。

 

「それは、その……」

 

 武内Pは言いよどむ。

 落ち着きなく泳がせる視線に戸惑いの気持ちを示し、ほのかに赤みをおびる頬は恥じらいの(あかし)

 でも、ちゃんと言ってくれる。

 言うべき時に言うべきことを、言ってくれる人なのだ。

 

「マイクさんは自分の――、友達っ! ……ですので」

 

 もう、叫ぶしかないだろう。

 こんなの、星輝子のヒャッハーよりも熱く、もっと強く、ほとばしる感情を少しでも伝えるために――

 

〝武ちゃぁぁぁぁああああああああああああ――――ッ!〟

 

 伊華雌は叫んだ。

 人間がどうして叫ぶのか理解しながら。

 友達の意味を噛み締めながら。

 

「……先ほど話していましたが、マイクさんは人間に戻ったらアイドルのプロデューサーになるのですか?」

 

 伊華雌は武内Pに自分の生い立ちを話していた。ドルオタで、芸能業界に入れると謡う専門学校に通っている学生で、ライブ会場でやらかしてマイクになった。

 

〝まあ、そのための専門に行ってるけど、なれるかどうか分かんないな〟

「マイクさんなら、絶対に良いプロデューサーになれると思います」

〝いやー、そんなことないと思うけど……。だって俺、すっごい不細工だし、どんくさいし、コミュ力も低いし……〟

 

「でも、きっとアイドルを笑顔にできると思います」

 

〝今までやってきたことを言ってんなら、それは俺の手柄じゃないよ。みくちゃんも李衣菜ちゃんも仁奈ちゃんもまゆちゃんも、みんな武ちゃんが笑顔にしたんだ。俺は横でごちゃごちゃ言ってただけだよ。たまに間違ったことも言ったし……〟

「いえ。マイクさんが笑顔にしてくれたんです」

〝いやだから、俺は誰も――〟

 

 伊華雌はしかし、武内Pが何を言いたいのか分かってしまった。

 

 そして、言葉を失う。

 

 きっと、それは正しい。

 誰がなんと言おうと、どんなに卑屈な妄想を動員しても、それでも――

 

「マイクさんは、自分を笑顔にしてくれました……っ!」

 

 その笑顔を、果たして否定できるだろうか?

 武内Pの顔に浮かんでいるそれを、偽物の笑顔であるといえるだろうか?

 

 ――まるで、卯月ちゃんみたいだ……。 

 

 さんざん殺し屋だの兵隊だの言ってきた。それほどまでに、出会った頃の武内Pは怖い顔をしていた。

 それが今は、島村卯月と肩を並べるほどの――

 

「きっと自分は、遅かれ早かれダメになっていました。例の事故がなかったとしても、他の障害を前に挫折していたと思います。プロデューサーとして一人前になれたのは、こんなに笑顔になれたのは、マイクさんがいてくれたからです。いつも自分の味方でいてくれて、一緒に泣いて、笑って、真剣に話を聞いてくれて……」

 

 伊華雌はずっと、諦めていた。

 ぴにゃこら太みたいに不細工で、運動神経ゼロで、コミュ力もない。

 これほどまでにマイナス要素てんこ盛りなのだ。人生の難易度はベリーハードを越えてナイトメア。つまり自分にとって人生ってやつはクソゲーで無理ゲーでマゾゲー。

 

 だから〝人並み〟を諦めていた。

 他の人と同じように〝何か〟を成し遂げることなんてできないと思っていた。

 

 だけど――

 

 そうじゃない。

 だって武内Pがこんなに笑顔なんだから。

 

 ――俺は不細工で、なんの取り柄もなくて。

 

 伊華雌の中で、ずっと自分を縛り付けていたものがほどけていく。

 生まれもって背負わされた重すぎる十字架を、ゆっくりとおろす。

 そして軽くなった背中をおもいっきり伸ばして、

 

 ――それでも誰かを、笑顔にできる……っ!

 

 晴れ晴れとした気分だった。

 何だってできるような気がする。

 やりたいことが、たくさんある。

 今まで勝手に諦めていたことに挑戦したい。

 

 その中でも、一番やりたいことは――

 

〝俺、人間に戻るよ。そんでもって、武ちゃんみたいなプロデューサーになる。アイドルを笑顔にして、ファンも笑顔にできる。そんなプロデューサーに!〟

 

 武内Pは伊華雌の〝本気〟を応援してくれる。

 さながら、〝本気モード〟の武内Pを応援した伊華雌のように。

 

「マイクさん――いえ、伊華雌さんなら、絶対にアイドルを笑顔にできるプロデューサーになれると思います!」

 

 その夜は伊華雌にとって〝門出の日〟になった。

 

 生まれて今まで、ずっと自分を縛り付けていた劣等感から解放されて、本気でやりたいことを見つけて。

 だから二人は泣いたりしない。

 泣き顔は友の門出にふさわしくないから。

 

〝今日の議題、どうする?〟

 

 伊華雌は、まるで普段と変わらない様子で、いつものようにミッドナイトアイドル会議を始めようとする。武内Pと何度もやってきた会議だ。それができなくなるのは寂しいけど、そのことは考えないようにする。

 

「自分に、希望があります」

 

 武内Pが何を考えているのか、伊華雌は見抜いていた。最後の会議にふさわしいアイドルは島村卯月をおいてほかにないだろう。卯月についてならいくらでも語れる。今夜は寝かさないぜ!

 

 最後の夜に向けて意気込む伊華雌であったが、彼は勘違いをしていた。

 武内Pの中の〝一番〟は卯月ではない。

 彼が最後の夜に選ぶアイドルは――

 

「只野伊華雌さんについて、語りましょう」

 

〝そうだよな、最後はやっぱり卯月ちゃ――、えっ!〟

 

 まさかの提案に動揺する伊華雌に、だめ押しの一言。

 

「あなたのことが、知りたいんです」

 

 佐久間まゆを思わせる熱い視線を、伊華雌は受けとめることができる。

 〝俺なんて〟――から始まる卑屈な感情はどこにもない。

 伊華雌は武内Pのそれをこえるほどの熱い視線をつくって、答える。

 

〝俺は、武ちゃんについて知りたい〟

 

 そして二人は語り合う。

 一睡もせずに、お互いのことをひたすらに。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 翌日。

 

 武内Pはいつものように伊華雌をスーツのポケットにいれて、タクシーで病院へ向かった。

 聞けば、武内Pは何度かお見舞いに行ったことがあるらしい。

 どう考えても悪いのは伊華雌ただ一人である。見舞いも謝罪も必要ないと当の本人が思うのだけど、武内Pは何度も病院へ足を運び、家族に追い払われていたのだという。

 

〝お袋、ぴにゃこら太に似てたっしょ?〟

 

 その質問にすんなりYESと言えるやつは、友達ではないのかもしれない。武内Pは首の後ろをさわって返事をうやむやにする。これぞ友情……。優しい世界!

 専門学校のリア充野郎なんて、

 

『お前のかーちゃんぴにゃこら太ーっ! ついでにお前もぴにゃこら太ーっ!』

 

 とか言ってきた。

 小学生か! とツッコみたくなるような騒ぎ方だった。

 思うに、アイツはリア充ではないのかもしれない。

 小学生の頭脳を搭載した専門学生の可能性が高い。まさに〝逆コナン君〟だ。頭脳は子供! 体は大人!

 

「本当に、大丈夫なのでしょうか?」

 

 病院のロビーで足をとめた武内Pが不安げな表情をしている。

 患者が行き交う通路にあってスーツ姿の彼は目立つ。しかし誰も気にとめない。その立ち姿が殺し屋にしか見えなかったのは過去の話。今の武内Pは真面目なサラリーマンにしか見えない。

 

〝言ったとおりにしてくれれば大丈夫だ。植物状態の只野伊華雌に俺を握らせて、スイッチを入れさせればいい。そしたら俺は、そいつの体に入るはずだ〟

 

 本当にそのやり方が正解なのかどうかは分からない。

 ただ、意識を移すことができるのは確実だ。一度、武内Pでやっている。何も知らない武内Pがマイクチェックをしようとして、その体に入ってしまって。

 

 思えば、あれが全ての始まりだった。

 それ以来楽しくお喋りできるようになって、一緒にアイドルのプロデュースをして……。

 

 伊華雌の中に熱い感情が込み上げてくる。

 涙の感覚だ。

 全米が泣いた映画を観ても大あくびをかましていたのに。自分の涙腺は〝使い物にならない〟という意味で崩壊していると思ったのに。

 

 それでも、込み上げてくる。

 本当に熱い涙が流れているんじゃないかと錯覚してしまうほどに、鮮明な感覚が次から次へと。

 

「会いに、行きますから」

 

 武内Pのごつい手が、スーツのポケットから伊華雌を取り出す。無理やりつくった笑顔で泣き顔を隠している。そんな表情を見せられて、伊華雌はためらってしまうけど。でも、言葉にする。もう、決めたのだ。

 

〝あのさ、武ちゃん。……武ちゃんからは、会いに来ないでほしいんだ〟

 

「え……」

 

 武内Pの顔から色が抜け落ちそうになって、伊華雌は猛烈に焦りながら、

 

〝そうじゃないんだっ! そのっ、もちろん武ちゃんには会いたい。友達だからさ、会いたいんだけど、でも……、だからこそ会っちゃいけないっていうか。あー、何ていうかっ!〟

 

 コミュ力が低いとは、つまり話が下手ってことだ。気持ちを言葉にするのが下手くそなのだ。

 だから伊華雌は、無理に説明するのをやめる。かっこよくとか、上手にとか、考えない。

 単純に、この胸にある気持ちを言葉にする――

 

〝俺、一人前のプロデューサーになって、そんで武ちゃんに会いに行く! だからそれまで、待っててほしい……〟

 

 伊華雌は自分の弱さを知っている。人間になって、武内Pと再会したら、それで満足してしまう。

 きっと、せっかく握りしめることができた夢を手放してしまう……。

 本当にプロデューサーになりたいのであれば、武内Pとは距離を置いたほうがいい。

 

「本気、なんですね……」

 

 武内Pの声も、眼差しも、真剣そのものだ。

 伊華雌の言葉を受けとめて、飲み込んで。

 つまりこれから数年は会うことができないと理解して、それでも友の意志が固いのであれば笑顔で見送ろうと、別れを惜しむ感情を抑え込んでいる。

 

〝会いに行く。絶対に、会いに行くから……ッ!〟

 

 しばらくの間、武内Pは強く目を閉じていた。

 眉間に深いしわが刻まれて。一文字に結ばれた唇の向こうで強く歯をくいしばり。それでも涙をこぼすことはしないで、薄く開いた口から震える息を吐き出した。

 

「……行きましょう」

 

 武内Pが歩きだす。

 患者とすれ違い、医者とすれ違い、看護師とすれ違う。

 そして、個室の前で足をとめる。

 ドアをノックする。

 

「はい?」

 

 その声は、紛れもなく母親の声だった。

 こればっかりは、聞き間違えることがない。家に誰かが来たときに「はい?」とやけに語尾をあげる癖がある。不機嫌なように聞こえるけどこれが普通なのだ。もうちょっと愛想よくしてくれと、何度も注意したのに全然直らない。

 

「346プロの武内と申します。只野伊華雌さんのことで、お話があります」

 

 武内Pは閉ざされたドアに向かって話した。そこに相手が立っているかのように、誠実に、実直に。

 それなのに母親は、ドアを開けようともしないで、

 

「間に合ってます」

 

 ――いやっ! 新聞の勧誘じゃないんだから! 俺のことで話があるってんだからちゃんと聞こうぜお袋!

 

 どうやら伊華雌の母親は346プロの人間に良い印象を持っていない様子だった。

 理由どうあれ息子を植物状態にされたのだ。毛嫌いして当然なのかもしれない。悪いのは完全に息子であって、346プロはなにも悪くない。そのくらいのことは理解できると思うけど、それでも彼女にとって346プロは悪者で、そこのプロデューサーは敵なのかもしれない。

 ドア越しに話す武内Pは苦戦している。何せとりつく島がない。何を言っても「間に合ってます」の一点張りだ。何が間に合ってるのか分からないし、このままだと卯月の復活が間に合わなくなってしまう……。

 こうなったら、一か八かの強行策に出るしかない!

 

〝武ちゃん。事情を話そう〟

 

 武内Pは一瞬だけためらって、しかし伊華雌の望み通りに話してくれた。あなたの息子の魂がマイクに入っています。自分はそれを戻しにきたんです。

 

「警察、呼びますよ」

 

 警戒レベルが上がった! しかしこれは想定内。むしろ、ちゃんと話を聞いてくれていることを喜ぶべきだ。続く言葉で、信頼を勝ち取る。

 

〝武ちゃん。俺の言ったことをそのまま伝えてくれ〟

 

 伊華雌が武内Pに話したのは、自分しかしらないはずの超プライベートな情報。

 只野家には犬がいる。性別はメス。パグの成犬で右の耳に傷がある。名前はウヅキ。少年漫画が好きな父親が〝イギー〟にしようと言ってきたが、ドルオタの伊華雌は譲らなかった。散歩のたびに小型犬とは思えないほどの糞をする。大型犬並みのボリュームだ。そんな犬にウヅキの名前をつけてしまったことを伊華雌は後悔している。

 

 ゆっくりと、ドアが開いた。

 

 ドアの向こうからこちらをのぞく母親は、さすがに気味悪そうな顔をしている。家族しか知らないはずの話をされたのだから当然だ。

 

「このマイクを、伊華雌さんに握ってもらって、指を動かしてスイッチを入れてください。それできっと、目を覚まします」

 

 武内Pがマイクを差し出す。

 母親はおそるおそるの手つきでそれを受けとる。

 

 ――ぐっと、力がこもる。

 

 武内Pが、マイクを離そうとしない。

 

〝……武ちゃんッ!〟

 

 伊華雌が声をあげて、ようやく武内Pは手を離す。

 彼は背を向けて、そして何もつかんでいない手をぎゅっと握って――

 

「自分は、待ってますから……」

 

 きっと伊華雌は忘れない。

 寡黙な男の、震える背中を。

 込み上げる感情に震える声を!

 

「いつまでも、待ってますからッ!」

 

 それが、伊華雌の見た武内Pの最後の姿だ。

 伊華雌は、母親がドアを閉める瞬間までその後ろ姿を目に焼きつける。

 

「……変な人だよ」

 

 母親はつぶやきながらも、武内Pの言葉に従う。マイクを息子に握らせる。

 他人の視点で自分を見るのは初めてだけど、なるほどこれは不細工だ。顔のパーツとその配置バランスがまさにぴにゃこら太である。鏡で見るよりずっと不細工。よく芸能人を実際に見た人が『テレビで見るよりずっと綺麗!』とか言ったりするけど、自分の場合は逆かもしれない。鏡で見るより、ずっと不細工……。

 

 ――でも、そんなことはどうでもいい。

 

 伊華雌はもう、気にしない。

 不細工な自分の顔を見つめて、その未来を想像する。

 

 きっと大手プロダクションには入れない。聞いたこともないような弱小プロダクションに滑り込むのが精一杯。それでも職業はプロデューサーだ。アイドルをスカウトして、輝かせて。最高の笑顔を引き出してステージに送り出す。舞台袖で担当アイドルを見守る自分に、スーツ姿の男性が近づいてきて、一言。

 

『いい、笑顔です』

 

 そしたら俺も、言ってやる。

 

『いい笑顔だろ』

 

 二人のプロデューサーが笑みを交わす。久しぶりの再会であるが言葉は必要ない。顔を見れば、それで充分。

 

 もう、伊華雌の妄想はバッドエンドになろうとしない。

 悲観している暇はないのだ。

 涙を流して別れを惜しんでくれた友人――、いや……、親友のために。

 ひたすらに前を向いて歩くのだ。

 

「ほんとうにこんなことで……?」

 

 伊華雌の母親が、息子にマイクをにぎらせる。

 その親指に手をそえて、マイクのスイッチを入れる。

 

 そして――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第8話

 

 

 

 そして伊華雌(いけめん)は人間に戻った。

 

 果たしてそれが本当の意味で元に戻ることができたのかどうかは分からない。マイクのスイッチをオフにした途端、再びマイクに戻ってしまうかもしれない。

 怖いので、スイッチの部分にガムテープをぐるぐる巻いて、机の鍵のかかる引き出しの奥に放り込んだ。そこは親の手が届かない〝聖域〟だ。先住民は秘蔵のエロ本。紳士の道を突き進んでいたマイクの保管場所にふさわしい。

 

「伊華雌! 起きてるーっ?」

 

 母親のダミ声がドアの向こうから聞こえてくる。

 そこは伊華雌の部屋で、窓から強い朝日が差し込んでいる。太陽の光を浴びて微笑む島村卯月等身大ポスターに〝おはよう〟を言って、今日という一日を始める。

 

 半年に渡る植物状態から回復した伊華雌は、まるで奇跡の生還を果たした英雄のように扱われた。

 親戚が集合して口々に『良かったなぁ!』を繰り返す。やがて訪ねてくる親戚の数も減って、部屋にぽつんと残る〝現実〟と対面する。

 

 伊華雌は専門学校を休学になっていた。4月から復学して1年通えば卒業できるのだけど――

 

 卒業だけじゃだめだ。

 アイドルのプロデューサーになって、再会の約束を果たさなくてはならない。

 

 そして伊華雌は、車の教習所へ向かった。

 アイドルのプロデューサーは車を運転できたほうがいい。そう思って車の教習を始めたものの、苦戦した。天性のどんくささと不器用さがタッグを組んで免許取得を妨害してくる。呆れるような失敗をやらかして教官は大激怒。一生分怒られたかもしれない。そんな状態だから試験が受からない。何度やっても不合格。いい加減諦めそうになったけど――

 

 ――本気でプロデューサーになりたいんなら、何回試験で落とされようが諦めずに挑戦しろ!

 

 伊華雌は自分で自分を熱くはげまして試験を受け続けた。マイクだった頃、本気の武内Pを本気ではげましたように、熱い言葉で弱気な自分を抑え込んだ。

 

 その甲斐あって、免許をとることができた。

 

 再試験の回数は教習所の歴代3位。絶対に自分が一位だと思っていたが、どうやら上には上がいる。世界は広い。

 

 ともあれ、これで準備は整った。カレンダーはまだ3月。復学前に免許が取れたのは嬉しい。教習所と学校を両立できる自信はなかった。

 

「ねーっ! ウヅキちゃんが玄関でウンチしちゃったんだけど!」

 

 台所にいる母親がとんでもないことを言っている。

 そのせいで伊華雌はとんでもないことを考えてしまう。島村卯月等身大ポスターを見据えて、もんもんと妄想する。

 

 制服姿の卯月が玄関にしゃがみこむ。スカートをたくしあげて、島村卯月、がんばりま――

 

 ――朝から何を考えてるんだ俺は! いい加減にしろっ!

 

 伊華雌はまさに〝邪念〟をふりはらって部屋の外に出る。

 歩くたびにぎしぎしうるさい年代物の廊下を進む。伊華雌の家は相当に古い木造の家だ。どうやら祖母の代から引き継いでいるらしく、視界に入るすべてのものに〝昭和感〟がある。部屋の床は畳だし、普通にちゃぶ台とかあるし、風呂は安定のバランス釜。ウサミン星のバスルームもバランス釜であるらしいけど真相は定かではない。

 

「ウヅキー」

 

 伊華雌が声をかけながら玄関の引き戸を引くと、キャワンキャワンと元気な声がかえってくる。

 犬小屋にパグがいて、そのとなりに大盛りのカレーがある。小型犬の体から発射されたとは思えない物量だ。

 これはウヅキの悪い癖である。何故かこの犬は飼い主に対する不満を糞尿で表現する。餌を忘れると、ドン! 散歩を忘れても、ドドン! 玄関に巨大な糞をする。

 

 ――ペットは飼い主に似るとか、俺は絶対に信じないからな!

 

 伊華雌はウヅキの糞を袋に入れて、彼女のリードを手に取った。ブロック塀に囲まれた門に近づき、足をとめる。

 

 赤いポストに何か入っている。

 その封筒に見覚えがある。

 

 ――346プロの封筒だ……っ!

 

 伊華雌はウヅキのリードを手放してポストへ手を伸ばした。それは確かに346プロの封筒だった。見慣れたマークが入っている。しかし差出人の記入はない。あるのは郵便番号と住所と、そして――

 

 マイクさんへ。

 

 伊華雌は封筒を破った。散歩を急かすウヅキがその場でぐるぐる回り始めるが放置する。武内Pからだ。絶対に武内Pからだ! 自分のことをマイクと呼ぶのは武内Pだけだからっ!

 

 封筒の中に入っていたのは一枚のチケットだった。

 そのチケットが招待するのは――

 

 シンデレラの舞踏会。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 週刊誌騒動から島村卯月がどうなったのか、誰も知らない。

 

 卯月はあれから、表舞台に顔を出していないのだ。

 予定されていたライブはすべて中止になった。346プロライブ劇場に出演することもない。雑誌に写真が載ることもなければ、ブログが更新されることもない。

 

 このまま、引退してしまうのでは……。

 

 ファンはみんな心配している。

 伊華雌も心配だ。

 全ての元凶である自分が意識を取り戻せば卯月は復活できる。武内Pがなんとかしてくれる。そう思っていたのに卯月は姿を表さない。彼女がどんなふうに笑っていたのか、すぐに思い出すことができない。

 

 ――でも、きっと大丈夫だ。武ちゃんなら、きっと……っ!

 

 伊華雌は武内Pを信じる。チケットを握りしめてアリーナへ向かう。最寄り駅からアリーナへ続く道を歩くのはアイドルグッズを身につけたファンたちだ。彼らの会話に耳を傾ければ〝島村卯月〟という言葉を聞くことができる。そして〝引退〟の話題が続く。

 

 やっぱりみんな、心配なのだ。

 

 島村卯月は今も〝シンデレラ〟なのか?

 彼女の笑顔を、もう一度みることができるのか?

 

 伊華雌は足をとめ、巨大なアリーナを見上げる。

 ガラスの靴をはいたシンデレラが集う舞踏会。

 

 果たしてそこに、卯月の姿はあるのだろうか……? 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 伊華雌はアリーナに入り、自分の席で開演を待った。

 アリーナの真ん中ぐらいの場所だった。ステージから、近すぎず、遠すぎず。

 もしかすると、プロデューサーになるまでは再会しないと誓った伊華雌の気持ちに配慮してくれたのかもしれない。仮に前方の列であったらうっかり再会してしまう可能性がある。あのプロデューサーは気を遣ってくれるのだ。

 

 ――どっかに武ちゃん、いるんだよな……。

 

 そう考えると、そわそわしてくる。ステージへ視線を向けてスーツの男性を探してしまう。

 

 その時、すっと照明が消えた。

 

 ペンライトに明かりが灯る。プラネタリウムをひっくり返したような景色だ。その星はファンの情熱。アイドルに対する気持ち。アイドリングするレーシングカーを思わせる熱気が会場全体から立ち上る。

 

 最初はきっと、全体曲だ。

 

 出演するアイドルが一人のこらず出てきて歓声を爆発させる。それはライブの起爆剤。その熱量をアンコール終了まで保つことができればライブは成功だ。

 

 しかし今日のライブの最初の曲は、全体曲ではなかった。

 それは、一人のアイドルの言葉から始まる。

 

 強い気持ちと――

 ただならぬ決意を込めて――

 

「島村卯月、がんばりますっ!」

 

 スポットライトに照らされた卯月は制服姿だ。その顔に笑顔はない。何かを恐れるように、それでも何かを信じたくて、強くマイクを握りしめる。

 何があったのか、分からない。

 

 しかし――

 

 ステージに上がるのに相当な勇気が必要であったのだと、その強張った表情に教えられる。

 

 そして、スマイリング。

 

 卯月の個人曲が流れて、彼女はマイクを口に近づける。

 初めて舞台に上がった女の子のような。

 たどたどしくて、不安定で、色のない歌声。

 

 でも――

 

 変わっていく。

 色のない世界が、ぼんやりと輝き始めて――。

 

 そして鮮やかな色彩を放つ!

 

 まるで魔法のようだった。

 平凡な女の子が、才能を開花させてアイドルの世界に羽ばたく。

 

 そして卯月は取り戻す。

 魔法をかけられたシンデレラが美しいドレスを身にまとい、笑みを浮かべるように――

 

 最高の、笑顔を……ッ!

 

 凄まじい歓声が上がる。

 卯月の名前を叫びながらピンク色のペンライトを振り回す。

 興奮するファンの中にあって、伊華雌は声をあげることができない。

 

 ――だって卯月が、ぴにゃこら太のマイクを使っていたから……っ!

 

 それが何を意味するのか、あらゆる想像ができる。

 約束を律儀に守って担当マイクにしてくれたのかもしれない。

 それとも単に〝お守り〟として卯月に託したのか。

 もしくは――

 

 約束を果たしてほしいと、願ってのことかもしれない。

 

 ここに確かに〝絆〟は存在している。

 

 ――マイクな俺と武内P。

 

 二人の関係は夢でも幻でもなく現実のものである。

 だから、約束を果たしてほしい。

 

 必ず会いに来てほしい!

 

 その気持ちを担当アイドルに託したのではないかと思う。

 あのプロデューサーは寡黙で、照れ屋で、そのくらいまわりくどいことをするかもしれない。

 

 ――武ちゃんの気持ち、受け取ったぜ!

 

 伊華雌は声を上げる。

 卯月を応援するファンの声に、負けないくらいの大声で――

 

「待ってろよぉぉおお――! 武ちゃぁぁああ――――っ!」

 

 舞台袖にたつプロデューサーと、歓声をあげるファン。

 立場が変わっても二人は〝友達〟で。

 言葉を交わすまでもなく、お互いの気持ちは分かっている。

 

 ライブが終わって会場を後にする伊華雌は。

 ライブ会場でファンを見送る武内Pは。

 

 おなじ言葉を胸に抱き、背を向けて己の道を進む。

 

 ――いつかまた会う日まで。

 

 そのライブは二人にとって別れの儀式だった。 

 次の一歩を踏み出すために、最高の相棒と(たもと)を分かつ。

 

 でも――

 

 二人がどんな表情であるか、今さら語るまでもない。

 遥か未来の再会を信じる二人に泣き顔は必要ない。

 

 いい笑顔。

 

 それ以上にふさわしい表情が、果たしてあるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 エピローグ ― 伊華雌な俺と…… ―
 ― 最終話 ―


 

 

 

 伊華雌(いけめん)が人間に戻ってから、一年の月日が流れた。

 

 武内P率いるシンデレラプロジェクトは快進撃をみせている。

 シンデレラの舞踏会でアイドルが見せた〝いい笑顔〟が高い評価を受けた。説明するのは難しいけど、何か違う。見てるだけで元気になれる。そんな感想を抱いたファンが、シンデレラプロジェクトのアイドルを応援してくれている。

 

 武内Pのプロデュースが、成果をあげたのである。

 

 それが伊華雌は、自分のことのように嬉しい。あの薄暗い地下室で生まれた信念が実を結んでくれたのだ。胸を張って威張りたい。武内Pは凄いだろう! と言ってドヤり散らしたい。

 

 今やシンデレラプロジェクト所属のアイドルは大人気だ。テレビでも雑誌でもライブでも。ところ狭しと活躍している。その勢いはとどまるところを知らない。961プロのアイドルと比べても、どちらが上であるか甲乙つけがたい。

 

 現在のアイドル業界は、346プロと961プロがにらみあっている状態である。

 長年〝王者〟として業界に君臨してきた961プロが346プロを迎え撃っている。

 

 しかし、961プロに挑戦しているのは346プロだけではない。

 

 俗に〝弱小〟と呼ばれる小規模なプロダクションをあなどってはいけない。〝第三勢力〟を名乗るに充分な実力を秘めている事務所がある。

 

 それは、765プロ。

 

 赤羽根P率いる765プロは発足したばかりの弱小プロダクションながら、この一年でめざましい活躍をみせた。業績の伸び方が尋常じゃない。その理由について関係者に訊いてみれば、同じ言葉が返ってくる。

 

 あそこのプロデュースは、普通じゃない。

 

 765プロは〝奇策〟とも言える型破りなプロデュースをする。

 その最たるものが〝生っすか!? サンデー〟である。

 休日の昼枠にテレビ番組をねじ込んだのだ。実績のない弱小プロダクションであるから、当然ながらスポンサーなんてろくにいない。かかる費用は借りて集めて、返済のめどは出世払い。

 

 それはまさに社運をかけた企画であった。

 その企画が、当たった。

 

 毎週の生放送が、実際にアイドルに会っているかのような錯覚をファンに与えてくれる。テレビをつけるだけで会えるアイドル。会いに行かなくても会えるアイドルとして多数のファンを獲得した。

 番組で司会を務める天海春香と如月千早は特に人気だ。アイドルファンでなくても二人の名前は知っている。アイドルの世界において知名度はそのままCDの売り上げに直結する。単にCDの売り上げを語るのであれば、346や961のアイドルに負けていない。他の765プロのアイドルもじわじわと人気を伸ばしている。

 

 武内Pと赤羽根Pは、自分の道を突き進んでいる。

 二人とも頑張っている。

 

 その活躍が耳に届くたびに、伊華雌は〝俺も負けてられない……っ!〟と思う。込み上げる熱い気持ちを胸に、二人の背中を追いかける。

 

 マイクから人間に戻った伊華雌は、無事に専門学校を卒業した。

 そして今、彼は――

 

 

 

 * * *

 

 

 

 南無三寺(なむさんじ)

 

 都心から特急電車で1時間。天気の良い日には富士山がはっきりと見える田舎町。周囲を田んぼに囲まれた竹林の向こう側に大きな寺がある。

 田舎の寺らしく境内は広い。大きな桜の木がご神木として奉られている。春の初めには見事な桜の花を咲かせて、ひっきりなしに近所の住人たちがやってきてはその(みやび)な立ち姿に惚れ惚れとした。

 しかし今、桜の花はただの一つも残っていない。

 四月のカレンダーはその役目を終えて、世間はゴールデンウィークに浮き足立っている。竹林を揺らす風はすっかり温かくなって、その風が大きく開け放った寺の戸を潜って伊華雌に届く。

 

 古風な剣法道場を思わせる板の間。

 そこで伊華雌は座禅を組んでいた。

 

 頭は潔く丸刈り。固く座禅を組んでぴしっと背筋をのばす。その顔つきは真剣そのものだ。厳しい表情で目を閉じていると、不細工であることが気にならないどころか、妙な威厳のようなものを感じてしまう。

 

「伊華雌、結構です」

 

 伊華雌の向かいで座禅を組んでいた男性が言った。年の頃は初老といえる。短く刈り上げた頭に白いものが混じるごましお頭で、その落ち着いた佇まいと身につけた法衣から彼が寺の住職であると分かる。

 

 そんな人と向き合っている伊華雌は出家してしまったのだろうか?

 己の紳士過ぎる思考を改めるべく、仏門に入りナムナムとお経を唱えてエロ退散?

 

「何が、見えましたか?」

 

 住職に問われ、伊華雌はゆっくりと目を開ける。すっと呼気を吸い上げて、自信に満ちた声を板の間に響かせる。

 

「担当アイドルが武道館で単独ライブをやっている場面が見えました!」

 

 つまり伊華雌は、何も変わっていない。

 アイドルに人生の全てを捧げるほどのドルオタだ。島村卯月等身大ポスターに「おはよう」の挨拶をすることから一日を始め、夜の紳士的探求活動をもって一日を締めくくる。

 

「よいものが見えましたね。それがよき知らせであることを祈りましょう」

 

 住職の言葉に、伊華雌は深くうなずく。

 

 ――彼が何故、寺で座禅を組んでいたのか?

 

 その答えは彼の服装にある。

 法衣を着ている住職に対し、伊華雌は黒のスーツを着ていた。

 服装はその人の体を現す。法衣を着ている初老の男性が住職であるならば、黒のスーツを着た男性の職業は果たして何なのか?

 答えは一つ。

 

 そう、プロデューサーである。

 

 マイクから人間に戻った伊華雌は頑張った。

 車の免許を取った。学校の授業は誰よりも真剣に受けた。外国人アイドルを担当した場合にそなえて英語の勉強をした。担当アイドルのボディガードになれるようにと格闘技を習った。

 

 それでも、大手プロダクションには入れなかった。

 頑張り始めるのが遅すぎた。

 

 確かに伊華雌は1年間本気で頑張った。

 でも、たかが1年である。

 本気の本気でプロデューサーになりたくて5年・10年と努力を積み重ねてきた人間に敵うわけがない。敵ってはいけない。努力が嘘をつかないのであれば、たった1年しか頑張れていない自分は負けて当然なのだ。

 伊華雌は敗北を真摯(しんし)に受け止めて、しかし諦めることはしなかった。

 

 約束したのだ。

 一人前のプロデューサーになって会いにいくという、絶対に違えることの許されない約束を!

 

 だから、粘った。どんな弱小でもいい。自分を使ってくれるプロダクションはないものか? アイドルのプロデュースにかける熱い気持ちだけは誰にも負けないから!

 そして、伊華雌の熱意を評価してくれた講師に勧められた。

 

『南無三寺の住職が新しいプロダクションを立ち上げたいと言っている。行ってみるか?』

 

 伊華雌は迷わない。どんな弱小であろうと関係ない。自分の頑張り次第で成果を出すことはできる。赤羽根P率いる765プロがそれを証明してくれた。

 

『オレも一緒に行くぜ。よろしくな、ぴにゃちゃん!』

 

 プロデューサーは人気の職業である。その話に飛びついたのは伊華雌だけではなかった。

 見た目は大人、頭脳は子供! でお馴染みのリア充(?)野郎も一緒に面接に行くことになった。

 このリア充はあまりに授業をさぼりすぎた結果、専門学校を留年するという快挙をなしとげて伊華雌の同級生だった。

 

 そして二人は南無三寺を訪れる。

 

 住職――棟方(むなかた)篤志(あつし)の面接は普通じゃなかった。

 彼が二人に課したのは、禅問答のような一言。

 

『十時愛梨、及川雫、大沼くるみ。この三人について教えてください』

 

 何が狙いであるか分からない。正解の読めない質問だ。

 悩む伊華雌を眺める住職は、菩薩像のように目を細めて穏やかな笑み。その表情から何を考えているのか読み取るのは難しい。

 

『えっと、愛梨ちゃんは、癒し系っていうか、ファンの心を――』

 

 リア充がペラペラとそれっぽいことを答える。

 間違ったことは言っていない。アイドル誌にのっている評価をそのまま口にしたような解答だ。満点ではないけど及第点はとれるような無難な言葉の羅列。

 

 それを横で聞いていた伊華雌は、しかしかぶりを振った。

 

 きっとそんなことを求められてはいないのだ。どんなに正論であっても、そこに情熱がなければ人の心を打つことはできない。本気の武内Pに教えられたではないか。人の心を打ち貫くのは、激情のままにほとばしる不細工な言葉であると!

 

 長々と喋るリア充が黙るのを待って、伊華雌は口を開く。

 往年の武内Pを思わせる殺し屋のような眼差しで、抜刀する侍のごとき気迫をもって――

 

『みんな違って、みんな良い……ッ!』

 

 住職が、開眼した。

 リア充の言葉には無反応であったのに、住職は厳しい視線を伊華雌へ向けて、厳かな口調で訊ねてくる。

 

『……その心は?』

 

 伊華雌は、これまでたくさん解放してきた〝紳士の扉〟に手を突っ込んで、ありのままの言葉を投げる!

 

『十時愛梨は挟まれたい。及川雫はつぶされたい。くるみちゃんは将来が楽しみだ!』

 

 しばらくの間、伊華雌と住職は視線を交わしていた。〝戦わせていた〟と表現するべきかもしれない。そのくらい強い視線の応酬があって、やがて住職が目付きを緩めた。

 

『貴方との出会いを、感謝します』

 

 差し出された手を受け取った瞬間、伊華雌はプロデューサーになった。

 

 七六三(なむさん)プロ。

 

 ドルオタの住職が、ドルオタをこじらせて設立したプロダクションである。

 〝寺〟という立地がアイドルを育成するのにふさわしいのではないかという住職の考えは、なるほどそうかもしれないと伊華雌をうならせた。

 座禅用の板の間はレッスンにもってこいだし、お祭りごとに使われる広い境内でミニライブもできる。実際に〝観客〟を前にしたライブを経験できるのは大きい。大きなステージを前にしても足を震わせることのないメンタルを養うことができる。

 

 この七六三プロは、トップアイドルを輩出してもおかしくないほどのポテンシャルを秘めている。

 しかし現状、深刻にして致命的な問題を抱えている。

 

 所属アイドルが、いない!

 

 アイドルのいないプロダクションなど、苺のないショートケーキのようなものである。橘ありすに存在意義を全否定されて『論破です』フンス(鼻息)されてしまう。

 まずはアイドルをスカウトしなくては話にならない。

 

「今日こそ、未来のトップアイドルをスカウトして来ます!」

 

 伊華雌は座禅をといて立ち上がる。手早くポケットを叩いて持ち物を確認。ハンカチ、よし。ティッシュ、よし。名刺、よし。

 

「伊華雌」

 

 住職が近付いてくる。菩薩様のような穏やかな表情をしていたが、弟子を見送る師匠のような厳しい顔つきになって、

 

「大事なのは、ここですよ」

 

 ぽんと、胸を叩いた。

 

 ――大切なのは、外見じゃなくて心。

 

 というハートフルな言葉に聞こえるが、そうではない。この御仁はそんな聖人君子ではないのだ。

 

 彼の名前は棟方篤志。

 その苗字にピンときた人は、もしかすると登山家かもしれない。

 

 そう、彼は登山家アイドル――棟方熱海の親戚なのだ!

 誰よりも真剣に〝お山〟を追い求める彼女のように、この男性もまた山登りに人生を捧げている。

 そもそも、振り返れば面接の質問の時点でおかしかったのだ。巨乳アイドルならべて説明を求めるとか趣味全開すぎる! どんだけお山が好きなんだよ! 一生ついていきますよろしくお願いします!

 

 住職であり社長である棟方篤志という男を伊華雌は尊敬している。

 彼のお山に対するこだわりは本物だ。人生に迷った人に説法をとくように、今晩のおかずに迷った伊華雌に新世界を教えてくれた。

 

「行ってきますっ!」

 

 見送る住職に手を振って、伊華雌は境内を歩く。足の裏に石畳の固い感触。竹林を風が抜けて葉のすれる音が聞こえる。どこかの田んぼでトラクターが土を掘り返して、砂っぽい風に目を閉じる。

 伊華雌はスーツについた砂を手で払って、空を見上げる。

 

 ペンキで塗ったみたいな青。

 呆れるほどに良い天気。

 

 今日こそは運命の担当アイドルに会えるような気がした。

 伊華雌は胸ポケットを叩き、そこに名刺入れの感触を確認する。

 そして、駅へ向かって歩き始めた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 伊華雌は電車を乗りついで原宿駅に到着した。

 

 ゴールデンウィークの原宿はたくさんの若者でごったがえしている。

 ここはオシャレに命かかけている人間の〝戦場〟だ。行き交う人の服装にかける気合いが違う。奇抜とオシャレの境界線を攻めている。自分のセンスの限界に挑戦しているようだ。

 まさにファッションという文化の最先端を体現できる町にあって、スーツ姿の伊華雌は浮いている。しかもぴにゃこら太級の不細工であるから目立ってしまう。そんな男が名刺片手に言うのである。

 

「アイドルに興味、ありませんか?」

 

 通報待ったなしである。

『不審者がアイドルのスカウトのふりをして女の子に声をかけてます。なんとかしてください』

 善良な市民からの電話を受けてミニパトがやって来る。

 しかし伊華雌は驚かない。むしろこちらから声をかける。

 

「おっす、たくみん」

 

 その女性は、警察の制服こそ着ているものの警官に見えない。あーん? という言葉が聞こえてきそうなほどに強く眉根を寄せて、チッと舌を打って伊華雌を睨む。

 

「馴れ馴れしくすんなって言ってんだろ不細工! またおめーは仕事増やしやがって……」

 

 婦警のコスプレをした特攻隊長。

 それこそが彼女の肩書きにふさわしいと思うのは、伊華雌だけではないと思う。

 

 向井拓海。

 

 特攻隊長として夜露死苦(よろしく)やってた彼女がどうして婦警をやっているのか? 警察の世話になっているうちに警察になった――という説が有力であるが、本当のところは分からない。

 

「ぴにゃちゃん、お疲れぽよー」

 

 ミニパトの反対側のドアを開けて出てきたのは藤本里奈だ。

 彼女はいかにも〝今どきのギャル〟って感じで、これまた警察の制服が似合わない。どちらかと言えば原宿や渋谷で婦警さんに補導される側だと思う。

 

 どうして彼女が婦警をやっているのか?

 

 これがまた謎である。

 拓海を一人で放っておくのが心配だった。拓海が寂しがっているからついていった。

 諸説あるけど真実は分からない。

 二人ともあまり質問にこたえてくれないのだ。

 だって、伊華雌が質問をされる側だから……。

 

 さぁ、〝職務質問〟の時間だ!

 

「おめー、初めてあたしと会ってからどんだけ経ってるか、分かってんのかよ?」

 

 ミニパトの天井に肘をついた拓海がためいきをつく。心底呆れている。そんな仕草で伊華雌にジト目を向けてくる。

 

「一か月ぐらいだけど、もっと昔から知ってるような気がする。これはもしかして、運命――的な!」

「おめーが毎日のように通報されてっから無駄にたくさん会ってんだよ!」

 

 拓海がミニパトの天井を叩いて、里奈が楽しそうに笑う。その笑い声が伊華雌は嬉しい。どんな理由であっても女の子に笑ってもらえると嬉しくなる。例えそれが職務質問の受け答えであったとしても!

 

「いーかげん諦めたらどうだ? アイドルのスカウトだっけ? おめーにゃ無理なんじゃねーか。人には向き不向きってもんがあるから、スパッと諦めて、他に向いてること探したほーがいーんじゃねーか」

 

 拓海は優しい。一か月〝職質フレンド〟として過ごした伊華雌は、荒っぽい口調の中にちゃんと優しさがあるのを知っている。

 確かに、正論だ。一か月もスカウトをして、まともに話を聞いてもらった回数はゼロ。通報された回数は数え切れない。

 ここにきて〝ぴにゃこら太フェイス〟が足を引っ張っている。この不細工すぎる顔面によってスカウトの難易度が途方もなく跳ね上がっている。

 でも――

 

「俺、諦めませんよ」

 

 伊華雌は思い浮かべる。

 どんなに辛いことがあっても。

 どんなに落ち込むことがあっても。

 

 あの時の背中を

 言葉を。

 そして約束を。

 

 あの人の存在が心の中にある限り、足をとめるわけにはいかなない。

 一人前のプロデューサーになるまで、足をとめるつもりはない!

 

「出会えてない、だけなんです。きっとどこかに、俺の担当アイドルがいるんですッ!」

 

 伊華雌の声が原宿の喧騒を貫いた。

 一瞬だけ、本当に一種だけ全ての音が消えて、無数の視線が伊華雌へ向けられる。

 その瞬間に原宿を歩いていた人の視界に、スーツを着たぴにゃこら太の姿が映る。

 

 ――その少女も、伊華雌を見ていた。

 

「……そんなに言うなら好きにしろ。でも、あんまりめーわくかけんじゃねーぞ。こっちは忙しいんだよ」

 

 拓海は大袈裟に肩をすくめて呆れてみせた。

 彼女の本音を隠さない性格を伊華雌は嫌いではない。そして顔は文句なしの美人。どうやらスタイルも抜群で、きっと棟方社長も喜んでくれる。

 

 ――やるか……。

 

 伊華雌の心境は、さながら犯行におよぶ強盗。ずっと頭の中で考えていたプロセスを一瞬でおさらいして、内ポケットへ手を伸ばす。

 

「なっ、なんだよ……」

 

 伊華雌の必死すぎる表情に拓海は警戒してしまう。

 しかし伊華雌はとまらない。

 内ポケットから名刺入れを抜き出して、何度も練習したとおりに名刺を取り出して――

 

「アイドルに興味――」

「ねえよっ!」

 

 即答だった。

 あまりにも速くて、断られたのに気付かないくらいだった。剣の達人に斬られた町民が斬られたことに気付けないように、伊華雌はしばし呆気にとられた。

 

「……えっと、アイドルに――」

「だから興味ねえっつってんだろ! あたしがアイドルとか、有り得ねえだろ!」

「いやでも、たくみん美人だし」

「別に、美人じゃねーよ。あと、たくみんって呼ぶなっつってんだろ!」

 

 二人のやりとりを見ていた藤本里奈が、ミニパトのボンネットを叩きながら楽しそうに笑う。笑われたのが悔しいのか、拓海は頬を赤くしながら伊華雌をキッと睨んだ。

 そして長い黒髪をひるがえしてミニパトに乗る。窓を開けて、窓枠に肘を乗せる。とても男前な仕草だ。やだ、イケメン……。伊華雌は反射的にそんなことを思ってしまう。それほどまでに向井拓海の表情は凛々しい。凛々しすぎて婦警に見えない。

 彼女はかつて向かうところ敵なしであった特攻隊長の顔つきで、鋭く伊華雌を睨んで言い放つ。

 

「アタシに生意気な口きいたんだ……。担当だか担任だかしらねーけど、とっとと見つけていなくなっちまえ!」

 

 情熱的な言葉だった。荒っぽくて、ちょっと怖いけど、でも、気持ちが伝わってくる。激励してくれている。

 

「……ありがとう、たくみん」

「たくみんって言うなっつってんだろ不細工っ!」

 

 拓海はガオっと吠えるライオンのように身を乗り出して伊華雌を睨む。

 しかし伊華雌は怯まない。本当に噛み付くつもりのないライオンは怖くない。

 拓海は〝ちょっとはビビれよ〟と言わんばかりにチッと舌を打つ。そして、つまらなさそーに前を向いて、ミニパトのハンドルを握った。

 

「じゃーねー、ぴにゃちゃーん!」

 

 助手席で手を振る藤本里奈に、伊華雌も手を振り返す。

 ミニパトが走り去って、伊華雌は原宿の雑踏の中に一人残される。

 

 ――さて、もうひと頑張りするかっ!

 

 ミニパトを見送った伊華雌は道路に背を向ける。

 振り返った瞬間、その少女と目が合った。

 

「わっ、すっ、あっ……」

 

 動揺している。

 もしくは、おびえている。

 不意に自分と遭遇した女の子の反応として珍しくない。ホラー映画で殺人鬼に出くわした女優の演技を想像してもらいたい。それが初対面の女の子のリアクションだから……、うん。

 

「えとっ……、そのっ……」

 

 それにしてもその女の子はオロオロしている。そんなにショックだったのだろうか? そんなに怖がらなくてもいいんだよ。不細工なだけで人畜無害だから! 安全・安心の只野伊華雌だよっ!

 

 そんな台詞を口にしたら、きっと状況が悪化してしまう。『あっ、怪しいものじゃないんです!』と自分で言う奴の怪しさは人一倍だ。かといって『そうです、私が怪しいものです』とかいったら通報されてしまう。つまり疑われた時点で何をやっても駄目なのだ。何も言わずに去るのが正解……。

 

 伊華雌はその女の子から離れようとして、気付いた。

 

 リアクションが、ちょっと違う。

 

 普通、自分と接近遭遇してしまった女の子は、オドオドしながら嫌そうな顔をする。クモとかゴキブリとか、女の子が嫌いなものを見た瞬間の表情を浮かべる。〝クモ・ゴキブリ・伊華雌〟みたいな感じに害虫諸兄と同じカテゴリーに属しているのだろうと伊華雌は思っている。

 

 しかし――

 

 この女の子は、全然嫌そうな顔をしていない。

 むしろ、遊園地で大好きなキグルミのマスコットを目撃した子供みたいに目をキラキラさせている。さぁおいで! と言って手を開いたら、胸に飛び込んできてくれそうだ。

 っていうか、本当に遊園地帰りっぽい。頭にそれっぽい帽子をかぶっている。ってか、この帽子は――

 

 ――ぴにゃこら太の帽子……だとッ!

 

 帽子だけじゃない。その女の子はぴにゃこら太のプリントTシャツを着ている。ネットで見かけるたびに、罰ゲーム以外の用途が見当たらないんですがそれは……、と伊華雌がつぶやいているTシャツを着て、それどころかバックもぴにゃこら太仕様で、紐でくくりつけられたぴにゃこら太ヌイグルミが揺れている!

 

 ――まさかとは思うけど……。

 

 伊華雌は必死に情報を整理する。

 ぴにゃこら太コーデに身を包み、ぴにゃこら太にそっくりな自分に熱いまなざしを向けてくるこの子はつまり、そういうことなのか?

 

 ――ぴにゃこら太が大好きな女の子?

 

 世の中にはいろんなマニアがいる。どんなマイナーな分野にも専門家はいるのだ。ネットの海を泳いでみればその多様性に驚かされる。

 

 だからまあ、不思議ではない。

 

 ぴにゃこら太を好きな女の子がいてもおかしくない。

 その女の子と、ぴにゃこら太フェイスの自分が出会ってしまう可能性もゼロではない。

 

 ――これはもしかすると、最初で最後のチャンスかもしれない。

 

 今まで自分を苦しめてきた〝ぴにゃこら太フェイス〟がむしろプラスに作用する。

 そんなことは生まれて初めての経験だ。

 

 しかも――

 

 この女の子、すごく可愛い。

 顔立ちはもちろん、その立ち姿に品がある。ダンスとかバレエとか、何か習っているのかもしれない。

 ずっとアイドルを追い掛けて、そして実際にアイドルのプロデュースを間近に見てきた伊華雌は断言することができる。

 

 ――この子は、トップアイドルの原石だ!

 

 もしかしたら島村卯月をしのぐ逸材かもしれない。今自分は、とんでもない幸運に恵まれている。こんなすごい女の子が、ぴにゃこら太を好きで、好意を満ちた視線を向けてくれて――

 

「穂乃香ー! 行くよーっ!」

 

 女の子の友達と思われる三人組が女の子に声をかけた。彼女はそれに反応して伊華雌に背を向ける。

 

 逃すな。

 絶対に逃すな!

 こんなチャンス、もう二度とないかもしれないッ!

 

「あっ、あのっ!」

 

 伊華雌は声をあげた。

 女の子が、振り向いた。

 

 ――落ち着け、俺。落ち着け……ッ!

 

 伊華雌はまさに、長年待ち続けた獲物を見つけた猟師のように。震える手をゆっくりと内ポケットに入れながら。ドクンドクンとうるさい心臓の音を耳に聞きながら。

 

 名刺を、差し出した。

 

 ぴにゃこら太大好き少女――綾瀬穂乃香は、無様にぷるぷると震える名刺を受け取ってくれた。

 

 そして伊華雌は、彼女に最初の言葉を捧げる。

 

 どんなアイドルも、この一言から始まる。

 アイドルとプロデューサー。

 絆を結ぶための最初の儀式。

 それはまるで魔法の呪文。

 彼女を笑顔にすると誓いながら。

 絶対にいい笑顔にしてみせると、心の中で叫びながら――

 

「アイドルに興味、ありませんかっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ― あとがき ―


 ここまで読んでくださいましたプロデューサーの皆様へ、まずは最大限の感謝の気持ちを捧げさせていただきます。

 長い物語にお付き合いいただき、まことにありがとうございますっ!

 アイドルのマイクに転生したオリ主の話とか、もしかすると誰もやってないんじゃ……!?
 そんなふうに考えて書き始めた〝出オチ〟感の強い作品です。まさかこんなに長い話になるとは思っていませんでしたw
 武内Pと伊華雌の熱いやりとり。病みにのまれるまゆ。元気で可愛い仁奈ちゃんに、仲良く喧嘩するみくと李衣菜。
 デレマスのキャラクターを書くのは本当に楽しくて、油断すると筆が止まらなくなってしまいます。
 実のところ、もう一つエピソードを書く予定があったのですが……。

 武内Pが〝新人スカウト〟を命じられて街頭スカウトに挑戦。卒業暴走を楽しんでいた向井拓海とばったり。彼女に無限の可能性を見いだした武内Pがスカウトするも無残に失敗。
 しかし、武内Pは諦めない。
 彼女の気を引くために夜露死苦(よろしく)スタイルでバイクにまたがる!

 ――なんて過激なプロットもあったのですが、さすがに展開が間延びしすぎるという理由でお蔵入りになりました。エピローグにたくみん&りなぽよコンビが出てくるのはその名残です。出番がなくなってしまったことに対する謝罪です。ごめんよたくみんっ!

 物語を終わらせるタイミングについても悩みました。フリスク編をやって伊華雌と武内Pの再会まで書くべきじゃないか? そして幸せなキ――いやいや、それはさすがにまずい! そのキスは誰も幸せにならない!w
 そうではなくて……
 人間に戻った伊華雌の話は、さわりだけでいいかなと思いました。そもそも〝マイクな俺と武内P〟ですからね。人間に戻った時点でお話はたたむべきかなと。

 ということで、あとがきらしく作品についてお話しさせていただきました。
 あらためて、拙作にお付き合いいただき、ありがとうございますっ!
 プロデューサー様方にお読みいただき、感想や評価を頂いて、それがとても励みになったのは言うまでもありません。おかげさまで完結させることができました。

 プロデューサー様に、最大の感謝を!
 今、この文章を読んでいる全ての方に、SSRが当たりますようにっ!
 そして、アイドルマスターというコンテンツに祝福をっ!

 アイマス最高ッ!


 ――次回作について。
 いろいろと落ち着いたら、ウサミンのオリ主ラブコメ(ラブ薄め)とか書きたいですね。もしくはポンコツアンドロイドがたくさん出てくる近未来SM――じゃなくてSF! 近未来SMってなんだよ予測変換いい加減にしろっ!w そんなの時子様がヒロインで決まりだよ! むしろ書きたくなってきたよ近未来SM!w
 ……先のことはどうなるか分かりませんが、忘れたころにぬるっと何かを投稿すると思います。さながら、忘れたころにやってくる担当ガチャのように!w


 ――商業活動。
 小学館ガガガ文庫様にて『魔法少女さんだいめっ☆』という作品を執筆させていただきました。こちらもよろしくお願いいただけると嬉しいですっ!















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