貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos- (柳野 守利)
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序章 失う代わりに手に入れる
第1話 日常


 力を手に入れるには、何かを失わなければならない。それは当然のことだろう。無償で手に入る力なんてものは、高が知れている。

 

 

 それでも、力を望むというのなら……誰かを救いたいと思うのなら、声を上げろ。心の内にある渇望を叫べ。理性を超え、内にある本能を呼び覚ませ。

 

 

 そうすれば君は、力を得るに値するだろう。

 

 

 ……けれども、君は一体何を捨てたのだろうね。

 

 

 

─────────────────────

 

 

 

 

 21世紀、東京。技術革新によって進歩していた都市の風景は、今まさに未知の巨大な化物に破壊されようとしていた。辺りでは火災によって煙が立ち上り、逃げようとする人々の悲鳴が響く。ビルよりも大きな、化物。それが腕を振り抜くと、建物は倒壊し、構造体が辺りに飛び散っていく。

 

 あぁ、なんて酷い夢だ。そう思わずにはいられない。実際そこまで怖くないのも、これが夢だとわかっているからだ。現実で起きたら、なんて考えたくもない。

 

 夢の中の自分は、地面に這いつくばったまま動かなかった。動かそうとしても、力が抜けて伏せてしまう。そんなことを繰り返していると、すぐ右隣から苦痛の声が聞こえてくる。自分ではない、聞いたこともない誰かの声だ。

 

「うっ……くっ、そ……あんだよ、あれ……」

 

 首を隣に向ける。俺と同じように立ち上がろうとしている男の人がいた。けれど、顔が真っ黒でどんな人なのか分からない。

 

 彼は何とか身体を動かし、這うように近づいてくる。黒色のローブのような服が、汚れや傷でボロボロになっていて、血が滲んでいた。

 

「おい、氷兎(ひょうと)……生きてる、よな……?」

 

 大丈夫だ。そう言い返そうにも、言葉が出なかった。仕方なく、彼の腕を掴むことで、生きていると伝える。顔はわからなくても、安堵した様子が見て取れた。そして今度は左の方を向いて「良かった、お前も……生きてたか」と言葉をもらす。反対側にも、誰かがいるらしい。この人とは違って、鋭さを感じる声が聞こえてきた。

 

 その人も同じように、顔は塗りつぶされている。ただ、眼鏡をかけていることはわかった。確か最近テレビでやってる……様々な便利機能を搭載した眼鏡……EyePhone(アイフォン)だったか。お金持ちしか持たない便利な携帯だ。痛む身体を抑えている彼は、そんな富裕層の人には見えないが。

 

「生きてはいるが……全身、痛みでどうにかなりそうだ……」

 

「我慢してでも、なんとかここから逃げねぇと……」

 

「逃げる……? いいや……無理だ。どの道、勝たねば死ぬ。こんな身体で、核の範囲外まで逃げられると思うのか……?」

 

「勝つって……無理に決まってんだろ! あんな、化物なんかに……俺たちみてぇな人間が、勝てるわけねぇだろ!! 他の連中だってそうだ!! 俺たちがここで命張って守ってやる価値なんて、あるわけねぇだろ!!」

 

 泣き出しそうな声で、彼は怒鳴った。あまりにも理不尽で、勝ち目のない化物から、なんとか逃げるべきだと言う。

 

 彼の言っていることは、きっと正しい。人間が勝てるような相手ではない。けれども、また別の男は……勝たなければならない、と言う。苦痛の声を漏らしながら、納刀された刀を杖代わりにして立ち上がって化物を睨みつける。そんな無謀なことをして、どうしようと言うのか。

 

 あぁ……まったく、酷い夢だ。早く覚めてくれ。いつものように、魔王を倒す勇者の冒険譚のような夢を見させてくれ。才能もない、何にもなれない自分が、英雄(ヒーロー)になる夢を見させてくれ。

 

 心の中で何度も懇願するが、この夢が覚めることはない。

 

 俺はいつになったら、英雄(ヒーロー)のようになれるのだろうか。せめて夢の中でくらい、そのような人間でいさせてくれよ。

 

「おい……やべえって……アイツ、俺たちのこと気づきやがった……」

 

「クソッ……満足に、歩くことすらできんか……」

 

「氷兎、立て! 急いで逃げねぇと、このままじゃ……」

 

 焦る声。怒りの孕んだ声。二人は、俺の腕を肩に回してなんとか逃げようとする。引きずられるように動きながらも、視線は化物から逸れない。

 

 巨大な……人のような化物だ。ソレの顔の部分もまた、真っ黒に塗り潰されている。けれども、俺たちのことを見ているのだということはわかった。

 

「──────────ッ!!」

 

 金切り声のような、聞くに耐えない声が空気を震わせる。化物の巨体から放たれた声は、空気を介して身体すらも震わせた。そして次に化物は……倒壊したビルの一部をおもむろに拾い上げると、それをこちら目掛けて投げつけてきた。

 

 人の何倍もの大きさの破片。それが頭上にまで飛んできている。逃げられない。あと数秒もしない内に、潰れて死ぬだろう。

 

 けれど、その瞬間はやってこなかった。時間が止まったように、目に映る世界の何もかもが停止していた。俺の身体を引きずる二人も、破片も、化物も。全て動かなくなっていた。あれ程うるさかった周りの音も、完全に無音になる。

 

 そんな動きひとつない無音の世界に、誰のものとも形容し難い声が響く。

 

「……やぁ。なかなか、酷い有様だね」

 

 まるで旧友にでもあったかのような、軽々しさ。どこからともなく、クスクスと。囁くような笑い声が聞こえてくる。

 

「俺たちみてぇな人間が、勝てるわけないだろ……か。まるで、人間じゃなければ勝てるとでも言いたげだね」

 

 しわがれた老女のような声。透き通るような女性の声。幼い子供の声。そのどれもが声として聞こえてくる。

 

 その声の主であろう人物は、いつの間にか視線の先に存在していた。あたかも、元からそこにいたように。

 

 ひたすらに黒い、誰か。身体の起伏と、地面スレスレまで伸びた髪の毛のおかげで、女性なのだろうと判断できる程度。顔は、穴でも空いているのかと思えるような、漆黒の貌。そこに手を伸ばせば、その顔の穴の奥へと進んでいってしまいそうな気がしてくる。その空虚な貌には、確かに目や鼻の輪郭のようなものがあった。けれども、それらが上手く認識できない。人の顔として見れない。

 

 正直に言って、怖いという感想しか思いつかなかった。見ているだけで動悸が早くなって、息苦しさを覚える。ソレは恐怖を煽るようにゆっくりと近づいてきた。風もないのにユラユラと揺れ動く髪の毛が、どうにも俺を挑発しているように思える。負の感情しか抱かない、気味の悪い存在だった。

 

「あと一年あるかないか。それが君に残された時間だ。人間らしく足掻くか……それとも獣に堕ちるのか。どちらにしても、私を愉しませてくれなければ、そこで君は終わるのだと記憶しておいてほしい」

 

 空洞のような顔に、薄らと紅い三日月が浮かび上がる。笑っている。いや、嘲笑している。見下して、蔑んで、嘲笑(わら)っているのだ。

 

 近寄りたくない。けれどソレは目の前まで歩み寄ってくると、手を伸ばして顔を包み込んでくる。目に映るのは、空虚な空洞。見ていると吸い込まれそうだ。それに、さっきよりも息苦しさを感じる。

 

 どうでもいいから……早く離して欲しい。そう思わずにはいられなかった。そんな俺の想いを知っているのか、ここぞとばかりに頬を撫で、顔を近づけてくる。ダメだ、頭痛までしてきた。これ以上コレと関わり合いたくない。

 

「くっ、ふふっ……そんなに怯えることはないだろう。私は君だ。けれども、君は私ではない。普段から抑圧している本能を、君に思い出させてあげようとしているだけさ」

 

「ッ……」

 

 必死の思いで腕を振り払う。そのままソレを見ながら、後ろにゆっくりと後退していく。停止した世界に、自分の足が擦れる音と、ソレの歩み寄る硬い音が響いている。なんとかして逃げたい。逃げなくてはならない。誰か助けてくれ。そんな願いが通じたのか……いつもの夢が覚める合図が聞こえてきた。

 

 

───くん。

 

 

 聞きなれた声。安心すらも覚える幼馴染の声だ。それに反応して、少しづつ自分の身体の感覚のようなものが薄れていくのがわかる。

 

 

───ひーくん。起きて。

 

 

 彼女の声を聞きながら、身体は地面をすり抜けて真っ白な空間へと落ちていく。徐々に消えゆく意識の中で……アレはずっと、俺のことを見て嘲笑(わら)っていた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 何度も耳元で繰り返される声に、ようやく現実に引き戻された。机に突っ伏して寝ていたせいで、背中あたりがポキポキと音をたてる。その様子をいつものように、彼女は笑って見ていた。

 

「部活終わったよ。帰ろう?」

 

「……あぁ」

 

 短く返事をして、再度身体を伸ばす。視界に映っている彼女の貧相な身体を見ていると、同じように反らしても起伏が目立たないんだろうなぁと思えてしまう。つくづく昔から成長しない。

 

「ひーくん、人の胸見て哀れむような目をするのやめてくれない?」

 

「いや別に胸のことなんて考えてないし……初期設定弄れないかなって」

 

「キャラメイクからやり直せって言いたいの?」

 

「そこまでは……いや俺はやり直したいけど。主に名前」

 

「それは成人するまでの辛抱でしょ。あとちょっとだよ」

 

 まだ十七歳なんだよなぁ……。少なくともあと三年は必要だ。こんなキラキラネームまがいの名前、どうしてつけたのか。

 

 親への愚痴をこぼしながら、机の横に引っ掛けていたリュックを手に取って背負う。彼女の手を繋いで教室から出るところで、振り返ってもう一度教室を見る。誰もいないせいで、寂しさをも感じさせる閑散さだ。夏で日が伸びているとはいえ、菜沙(なずな)の部活が終わるまで待ってるのは少しばかり退屈に思う。

 

「そういえばさ、今日はどんな夢見てたの?」

 

 帰り道でいつものように彼女は尋ねてきた。どんな夢なのか答えようとしたけど……どうにも思い出せない。無理に思い出そうとすると、背筋を誰かになぞられたような、気味の悪い感覚があった。思わず身震いしてしまい、菜沙が不安げに見てくる。

 

「どうしたの?」

 

「いや……なんでもない。どうも思い出せないけど、どうせいつものだよ。俺ヒーロー。悪役倒す。お姫様助けて終わりってね」

 

 いつもいつも、そんな夢ばかりだ。誰かに賞賛され、代わりのいない唯一の自分でいられる。そして……いつも彼女の声で起きる。その度に、これが現実なら良かったのにと思ってしまう。

 

 思い返せばいつだって、俺は周りから劣っていた。好きだったバレーでさえ、中学の奴らには敵わない。高校では帰宅部になったと伝えた時には怒られたけど……俺は惨めな思いはもうごめんだ。絶対に。

 

「私もね、今日は夢見たんだよ」

 

「へぇ、どんな?」

 

「ひーくんと一緒にいる夢」

 

「……それは、つまらないな」

 

 握った手を強く握り返しながら、彼女は嬉しそうに言う。けれど、そんなのいつもと同じだ。今まで通り繰り返してきた日々と、全く同じ。手を繋いで歩いて、俺の家に帰り、一緒に飯を作って風呂の時間に帰る。夜寝る前には、向かいの窓から顔を出して、おやすみと言って眠る。習慣化された、つまらない日々だ。

 

「そうかな。私は素敵だと思うよ」

 

「夢ってのは現実との乖離こそが至高だと思うけどね。空を飛びたい。魔法を使いたい。そんな、現実離れした理想の世界だ。夢の中まで現実だなんて、つまらなすぎるよ」

 

 夢というのは不思議なもので、起きて少しすると忘れてしまうことが多い。夢は人の記憶の奥底深くにあるものを映し出すこともあったり、記憶の整理であったりと様々だ。だが、それは果たして夢と断言出来るものであろうか。

 

 例えば、だ。もし、俺が世界を救っていて、世界をあるべき形に戻したとしよう。その時、俺の記憶や周りの記憶も全て消え去って代わりのものが植え付けられたとするならば、それに疑問は抱かないだろう。つまり、俺は世界を救った可能性すらあるわけだ。昔の荘子って人も胡蝶の夢でそんなこと言ってたんだから、俺の理論は認められるべき。

 

「ひーくんってそうやって考えるの好きだよね」

 

「お前にはわからんよ。才能のない奴の気持ちなんてな。夢見ることしか出来ないんだよ。この前書いてた絵だって、入選してたろ? 俺にはそんな自慢できるようなもの、ないからな」

 

「そんなに卑下することないと思うよ。ひーくんには、ひーくんにしか出来ないこともきっとあるんだから」

 

 彼女は笑って俺を慰めてくる。別に傷ついていた訳では無いが。あぁ、それでも俺はずっと考え続けているのだ。夢が現実であればいいのに、と。

 

「例えば、同じ夢を見ている人がいたとするなら、それは証明にならないのかな」

 

「大勢の人が覚えていたら、証明になるのかもしれないね」

 

 こうやって俺の話にちゃんと答えてくれる彼女には感謝している。普通こんなアホみたいな話に付き合ってくれる人はそうそういないだろう。

 

 夢が夢であると証明できないのならば、現実を現実と証明できるものもない。もしかしたら、科学がよりいっそう進んでいて、俺達は過去の出来事を体験できたり、誰かの記憶の中に入り込んだりしているのかもしれない。

 

 現実を否定できるのならば……俺が見ていた夢というのは、まさしく俺にとって現実となるのだろう。残念ながら、今のところその証明はできないが。

 

「悪役を倒した証明ができたのなら、夢が現実だったと証明出来るのに」

 

「けど、それは証明できないし、私は貴方の隣にいる……でしょ?」

 

「となると、お前は俺にとって現実である証明にでもなるのかね」

 

 そう言ったら彼女はまた顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。昔から変わらないその仕草に、少しだけ胸が軽くなったような気がする。

 

「そ、そういうこと言うの恥ずかしくないの……?」

 

「逆にお前、今のこの状況恥ずかしくないの? もう慣れたし、周りの連中も何も言わなくなったけどさ。幼稚園の頃から手繋いで一緒にいるだろ。普通、こう……幼馴染とはいえ、なんか違くない?」

 

「恥ずかしくは……ない、かな。うん。慣れた」

 

「慣れて欲しくなかったな……。俺に彼女ができないの、多分お前のせいだろ」

 

「私だってできないもん」

 

 できない、とか言ってるけど……何度男を振ってきたのかわかんないんだよなぁ。髪型ショート、ちょっとキツめの目付き、眼鏡。器量よし、顔よし。俺といる時の笑顔をもう少し周りに振り巻けば、もっとモテるだろうに。惜しむらくは、胸の大きさか。芸術センスと引き換えに、胸を失ったらしい。

 

 彼女のことをからかいながら河川敷の辺りまで来ると……急に菜沙が立ち止まった。何かあったのかと尋ねてみれば、彼女は河川敷を渡る橋のあたりを指で示す。

 

 不良のたまり場になりやすい場所だ。誰かイジメにでもあってるのかと思えば……何人かの男に囲まれて、橋の下まで連れていかれている女の子の姿が見えた。思わず背筋に寒気が走る。

 

「あれ……女の子だよね?」

 

「女装した不良かもしれない」

 

 現実逃避しようとしていたら、菜沙が制服の袖を強く引っ張ってきた。思考を逸らすなと言いたいんだろう。一般人に無茶言わないで欲しい。

 

 大通りから離れてるし、夕方だから人が見当たらねぇし。どうしろと。

 

「ひーくん、どうしよう……?」

 

「……流石にすぐ通報ってのもなぁ。間違いだったらヤバいし、いやでも確認しに行きたくねぇなぁ……」

 

「誰か大人の人呼びに行ったほうがいい?」

 

「……近くの民家に声かけるのも、それはそれで……」

 

 悩んでる間に、女の子は橋の下まで連れていかれてしまった。壁に追い込まれてるし、完全に黒だろう。これは流石に……時間がない。

 

「……菜沙、離れた場所から録画。ヤバくなったらすぐに通報して」

 

「ひーくんが行くの!?」

 

「行きたくねぇけど時間ねぇよ。お前がちゃんと通報してくれたら、死にはしない……はず」

 

「でも……」

 

「気づいちまったもんは仕方ねぇだろ。頼むよ、菜沙」

 

 心底嫌そうに顔を歪めてから、彼女は手を離す。嫌なのは俺の方だというのに。それを顔に出さないよう、努めて冷静に、ゆっくりと息を吐きながら河川敷を下っていく。川の土手に降りて、不良グループらしき人物達の元へと向かう。

 

 深呼吸。胸を抑えて、どうするべきかを考える。心臓は今にも破裂してしまいそうだ。あぁ、嫌だ。どうして俺なんだ。でもこれが正解のはずだろう。きっと、そうだ。そうであってほしい。逃げるのは間違いだ。さんざん、勇者だの英雄だのになりたいと願っていただろう。だったら、逃げるな。

 

 心の中で何度も自分を鼓舞して、ようやく彼らの元へと辿り着く。橋を支える壁に背中を預けている女の子に、明るい様子は見受けられない。

 

「………」

 

 その女の子と、遠目から目が合ってしまう。彼女は視線で助けを求めているようには見えないが、ただただ面倒そうな、気だるげな目をしていた。それでも、これでもう逃げられない。無様な姿を晒すかもしれないけど……やるしかなかった。

 

「すいません、そこで何をしているんですか……?」

 

 意を決して、俺は彼らに話しかけた。いつも通りの無表情……という訳でもなく、少しだけ眉をひそめて不機嫌そうに。少しは威嚇になっただろうか。

 

「あぁ? テメェには関係ねぇだろ、とっとと帰れや」

 

 返ってきたのはドスの効いた低い声だった。睨みつける眼光も鋭く、ピアスなんてものもガラの悪さを強調していた。しかしここで逃げる訳にもいかない。壁際にいる女の子は髪が長く、遠目からでもわかる端正な顔立ちだった。こりゃ連れ込まれる訳だ。一応確認だけでもしておこうと思い、その女の子に話しかける。

 

「君は何かしたの?」

 

「何もしてないよ。ただ遊ぼうってここに無理やり連れてこられて……水切りでもするの?」

 

 ……なんて? この状況でこの子何言ってるんです?

 

 見てわかるほどに、男達の顔つきが厳つくなった。そんな挑発的な言葉を言わないでほしい。

 

 もうダメだ。菜沙、早く警察呼んで!! 心の中で叫んだが、しかし誰も来なかった。硬直した外面とは裏腹に、内面は酷く動揺しまくっている。そんな俺に気もくれず、不良の一人が女の子の言った言葉に対して怒り出した。

 

「水切りだァ? 女のクセにナメたような口きくんじゃねぇよ!!」

 

「おっと……そこまでにしといた方がいいですよ。警察呼びますけど、いいんですか?」

 

 ポケットの中にしまいこんだ携帯を見せるようにしながら、俺は意を決して男達に告げる。そのすぐあと、目の前にいた一人が目の前まで詰め寄ってきて、胸ぐらを掴んできた。タバコ臭い、早く離してくれないかな。心の中で独り言を何度も呟いて、精神的に落ち着けようとしていた。これはもうダメかもしれない。

 

「テメェもよぉ、さっきからうざってぇんだよ。邪魔なんだからとっとと───」

 

 失せろ。そう言おうとしたのだろうが、その言葉は突然響いてきた大きな音によってかき消された。

 

 誰かが硬い壁に叩きつけられる音。誰かが水の中に落とされる音。そして……誰かの嘔吐(えずく)音。

 

「あぁ? お前らなにやって……」

 

 その方向を見た俺とその男は……完全に言葉を失っていた。

 

 そこにいたのは、あの女の子だったからだ。壁に顔面を叩きつけられて動けなくなっている男、身体の下半身だけが川の中に落ちている男。そして蹲って動けなくなっている男。見た限り……あの女の子がこれをやったんだろう。にわかには信じられないが。

 

 でも……そんな事態になってくれたおかげで、胸ぐらを掴んでいる男の注意が逸れてくれた。

 

「……ッ!!」

 

「うぉッ!?」

 

 男の腕を、自分の腕を回しこんで無理やり外す。すぐに掌で男の顎に向かって振り上げるように打ち抜く。素人が拳で殴っちゃいけないって、漫画に書かれてたのを思い出せてよかった。実践してみたはいいものの……男は少しよろめくだけで、大したダメージにはなっていないようだ。当たり前だ。帰宅部にそんな筋力はない。

 

「ってぇな……ふざけてんじゃ───」

 

 ……またも、その男の言葉が聞こえることは無かった。後ろから近寄ってきていた女の子の綺麗なハイキックが、男の頭を蹴り抜く。まるでアニメのように男が横にすっ飛んでいき、動かなくなる。現実離れした光景に、言葉が出ない。

 

「……大丈夫?」

 

 件の女の子が俺の前までやってきて、掴まれていた部分に怪我がないのかをじっと見てきた。こうして近くまで寄ってこられると……さっき遠目から見たものとはまったく違っているのだと気付く。その容姿は間違いなく、俺が今まで見てきた女の子の中で一番かわいいだろうと断言できるものだ。そしてプロポーションも菜沙とは大違いで、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。髪の毛も長めで、清楚感すらも感じさせた。

 

 まさしく男性女性、両方の描いた理想のような女の子が目の前にいた。それを認識すると同時に、さっきとは別の理由で脈が一気に早くなってしまう。こんな時でもそういったことに考えが及んでしまうあたり……俺もまだ思春期なのだ。そういうことにしておく。

 

 浅はかな事を考えている自分に対する言い訳を考えていると、女の子は少し目を細めて俺に尋ねてきた。

 

「……貴方も、私になにかする?」

 

「いやなにも」

 

 女の子とはいえ、あんなに強いのに戦いたいとは思わないだろう。一旦落ち着けるように深呼吸をしてから、周りを見回した。川の中で上半身だけが出ている男、壁に寄りかかるように倒れている男、そして地面に寝っ転がってる男が二人。

 

 一応川の中の奴だけは助けておこう。窒息されても困るし。なんとか引き上げて地面に寝かしつけ、一応生きているのか確認しておく。触った感じ脈はあったから、全員大丈夫だろうということにしておいた。どのみち自業自得だろう。俺が男達の安否確認をしているのを見た女の子は、なんてことはないと言いたげな顔で見てきた。

 

「加減はしたから、大丈夫」

 

「加減って、人間が吹っ飛んでるんですがそれは……」

 

 加減でこの程度だというのなら、本気はどれほどのものなのか。霊長類最強は交代ですね、間違いない。

 

「……君は大丈夫だった?」

 

「見て分からない?」

 

「いやわかるけど」

 

 主に俺の方が大丈夫じゃない。精神的に。

 

 けど実際、お互いに傷一つなし。女の子の手とか確認してみたけど、赤くなったりもしていない。治療の必要もなし。最高の結果だろう、あの状況から考えれば。本当に最高なのは、話し合いで逃げ出すことだろうけど。

 

「そんなに確認しなくても大丈夫。私、強いから」

 

「見りゃわかる。にしても、凄かったなぁアレ」

 

 見事なまでのハイキックだった。そう伝えると、女の子はポカンとした表情で、不思議そうに俺のことを見てくる。俺は何か変なことを言っただろうか。

 

 ……いや言ったか。女の子に対してハイキック凄いですねは流石にない。先程の自分の言葉を恥じた。何かスポーツとかやってるのって聞くべきだったか。結構ガッチリしてるけど。

 

「……変に思わないの?」

 

「何が?」

 

「私のこと」

 

 呆気らかんとした表情で尋ねてくる彼女に、俺は別に何も思っていない、と返した。彼女はどうやらまだ俺のことを警戒しているらしい。まぁ、そりゃそうか。今しがた男に絡まれたばかりだからな。

 

 ……それにしたって、不思議な女の子だ。その姿はまさしく俺の描いていたヒーローと同じようなものだろう。絡まれている人を助けようとした人を助けるなんて、いやまったく……世界はどうにも俺に優しくない。

 

 自分の中では恒例となった世界への嫌味を吐いていると、土手の上の方から菜沙の声が聞こえてきた。どうやら大丈夫そうだと思ったのか迎えに来たらしい。

 

「ひーくん、大丈夫!?」

 

 菜沙が俺の名前を呼びながら土手を駆け下りてくる。そんな速度で下りてきたら流石に危ないと思うんだが……と思ったのも束の間。

 

「うわっ」

 

 案の定菜沙は足を滑らせてそのままの勢いで下に倒れるように落ちようとしていた。流石にこのまま顔面からいくのはまずい。やらかすだろうと思っていたから、なんとか彼女を抱きとめることに成功した。かわりにケツから地面に落ちてヒリヒリするが。

 

「あ、ありがとひーくん……」

 

 腕の中にいる菜沙は頬を赤らめながらお礼を言ってきた。まぁ、満更でもない。彼女がおっちょこちょいなのは知っていたことだ。こんな場面が今まで何度あったことか。

 

「貴方、ひーくんっていうの?」

 

「いや違う」

 

 そんな恥ずかしい呼び方は菜沙だけで十分だ。すぐさま否定したのだが……何故か菜沙に不機嫌そうな顔をされた。

 

 幼馴染の反応に意味わからないと愚痴を零したくなったが……それより先に自己紹介くらいはした方がいいだろう。その方が彼女も少しは接しやすくなるかもしれない。とりあえず自分から進んで自己紹介をした方がいいか。

 

「俺の名前は唯野(ただの)……氷兎(ひょうと)だ。こっちは、俺の幼馴染の高海(たかうみ) 菜沙」

 

「氷兎……。だから、ひーくん?」

 

「……そういう訳じゃないんだけど、俺は自分の名前が嫌いでね」

 

「なんで? 良いじゃない。氷兎、なんか可愛らしい名前だね」

 

「………」

 

 気恥ずかしくなって、片手で頬を掻いた。別にそういう訳じゃないが……本当、不便だ。こんな名前、早く変えてしまいたい。

 

 名付けに関して心の中で愚痴を零していると、今度は女の子の方から尋ねてきた。

 

「……貴方たちは、私のこと、助けに来てくれたの?」

 

「一応……助ける必要もなかったかなぁこれ」

 

「そういえば、警察に電話した方がいい?」

 

「いや……面倒ごとは嫌だな。どうせコイツらも警察の厄介にはなりに行かないだろうし、もしそうなったとしても、録画してあるから大丈夫だろ」

 

 でも、この男達がいつまでも気絶しているわけじゃない。そろそろこの場から離れた方がいいだろう。吉と出るか凶と出るかは知らないけど……どの道訴えられても勝つのはこっちだ。

 

「……とりあえず、場所を移すか。こいつらがいつ起きるかわかんねぇし」

 

「そうだね。そういえば、貴方の名前は?」

 

「……七草(ななくさ) 桜華(おうか)

 

 どこかぎこちなく自己紹介を終え、とりあえずは七草さんの家がある方へと歩き出す。

 

 いつもの日常からちょっと外れた、不思議な日。この日あったことは、きっとそう簡単には忘れられないだろう。

 

 

 

 

To be continued……




 唯野 氷兎

 平凡な男子高校生。特に目立った能力はなく、平凡としか言いようがない。何かに特化しない。


 高海 菜沙

 主人公である氷兎の幼馴染。昔からの付き合いで、氷兎の両親とは仲もよく、両親同士の付き合いも良い。基本的に氷兎の家に入り浸っている。家は氷兎の家の隣にある。

 七草 桜華

 髪の毛が肩くらいに長い女の子。体術が得意のようで、身体能力が高い。


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第2話 幼馴染

 浜辺に簡単に降りれるようなちょっとした高台に、ポツンと一軒の大きな施設が建てられていた。塀には潮風孤児院という看板が貼り付けられており、子供達が書いたような絵が同じく貼られている。

 

 キリン、象、ネズミ。はたまた何かわからぬ不定形な生物までが書かれているようだ。海の風景も書かれており、鯨やカモメ。しかし一際目を引いたのは、二足で立っている変な生物だった。それはどう見ても人間ではなく、例えるならば……魚人だろうか。ふと思い立って海の方を見ると、波が強く押し寄せては引き返す事を繰り返していた。見ていると少しだけ不安な気持ちになる。

 

「七草さんは、この孤児院の子なの?」

 

「そう。物心つく頃には、ここで暮らしていたの」

 

 菜沙以外の女の子と話すのが苦手な俺は、とりあえず黙っておいた。しかし、孤児院で昔から暮らしていたとなると、捨て子だろうか。本人にそんなことを聞けるほど俺は度胸もないし阿呆でもないので、適当に予想だけしておく。

 

「……しかし、暗くなってきたな」

 

 夕日は大分傾いてしまった。あと一時間もしないうちに完全に夜となるだろう。そうなる前には帰りたい。流石に夜遅くを菜沙と一緒に歩いて、誰かに絡まれたりなんてしたら、守れる気がしないし、一日に二度も絡まれるなんてゴメンだ。

 

「……ねぇ、氷兎君?」

 

 女の子、七草さんが俺に向き直って話しかけてきた。彼女のその瞳は真剣さと共に、儚さを感じさせるような、不思議な瞳だった。彼女は何度か言いにくそうに言葉を濁らせながら、不安げに尋ねてくる。

 

「私のこと、変に思わないの?」

 

 尋ねてきた内容は、河川敷にいた時にも聞いてきたものだった。変に思わないの、と聞かれても……俺にはなんだかわからない。七草さんは軽く俯いて、手を握っては開いてを繰り返しながら話を続けた。

 

「見たでしょ? 私、他の人と違う……」

 

「……なにが?」

 

 見てくれも何も、ただの女の子にしか見えない。あの時彼女が変身してチンピラを撃墜させたのならともかく、まるで武道を嗜んでいる人のような軽やかで、それでいて鋭い攻撃を繰り出しただけだった。他の人と違うというのなら、それはきっと才能とか、そういった生まれついたものの差ではないだろうか。

 

 明確な答えを出さない俺に対して何か思うことがあったのか。彼女は顔を上げて、別の方向を見ながら口を開いた。

 

「……見てて」

 

 何を、と尋ねる前に彼女は近くにあった大木に向かって歩いていく。そして徐ろに足を肩幅程度に前後に開き、タンッタンッとリズムを踏む。そこからは一瞬の出来事だった。彼女の足がブレたかと思えば、次の瞬間には木の側面に向けて蹴りを入れていたのだ。メキッと大木が悲鳴を上げ、木の葉が煩いくらいに音を立てている。彼女の足があった場所を見てみると、その部分だけが綺麗に足跡の形を残したままへこんでいた。

 

「……やろうと思えば折ることもできるよ」

 

「………」

 

 唖然として声が出なかった。この大木に俺が蹴りを入れても薄皮一枚も傷つけられないに違いない。太さは大体、俺が三、四人纏まって一つに括られた程度だろう。人体でこれを破壊できるとは思わないし、やれたとしても骨が折れるのではないか。

 

「……痛くないの?」

 

 流石に心配になって彼女に聞いてみる。人間を蹴るのとはまた訳が違うのだから。いくら平気そうでも、筋肉に痛みが出てきてしまったりするかもしれない。いや、木の中身がスカスカな状態なら……と思ったが、見た限りそんなことはないようだ。

 

 俺の言葉がそんなにも不思議だったのか、七草さんは何か変なものを見るような目で俺を見てきた。やめてくれ。それは俺に効く。

 

「……怖くないの?」

 

「なんで? 俺に向けられた訳じゃあるまいし、その点俺はどうでもいい。むしろ怪我してないか心配なんだけど」

 

「……変な人。皆私のこと怖がるのに」

 

 七草さんを怖がる、ねぇ……。いや仮に彼女が吸血鬼で、俺の身体を狙うというのなら、それは恐怖を感じるだろう。しかし、彼女は俺と変わらない人間だ。恐怖を感じる要素はあるだろうか。こんなにも、傍目から見てかわいらしい容姿をしているというのに。

 

 ……いかんな。これでは七草さんがかわいらしいから、どうだっていいやって言っているみたいだ。流石にそれはダメだろう。自分を咎めていると、七草さんがまた話し出した。

 

「……人は、人から逸脱した人を怖がるの。なのに、なんで怖がらないの?」

 

 ……なんともまぁ変なことを聞いてくるものだ。彼女のどこが人から逸脱した存在だというのか。どう見たって、普通の女の子だ。むしろこれだけ整った外見なのに僻んでいたら、一部の人から苦情が来る。それを伝えるために、俺は彼女に言った。

 

「……幽霊じゃあるまいし、ましてや化物でもない。君は人間だ。なら、怖がる必要はないと俺は思うよ。菜沙はどう?」

 

「……うん。私もひーくんと同じ。七草さんは女の子だし、怖がることもないと思うの。それに、何でもかんでも疑心暗鬼になって、隣に誰もいないのって寂しくない?」

 

「……寂しい、けど。誰も私と一緒にいたがらないから」

 

 常日頃から、木に蹴りを入れたりしていたら、そりゃ孤児院の子達も怖がって近づかないだろう。どちらかと言えば、彼女自身にも問題がある気がするが……。

 

 でも、隣に誰もいないというのは確かに寂しいことだろう。ぼっち慣れしているのならともかく、俺には気がついたら隣に菜沙がいる。彼女と一年間会えなくなったりしたら、それはとても寂しく思う。誰かが隣にいるなら、例え話さなくても、互いの事が理解出来ているのならそれはそれで寂しくはないと思える。

 

 ……正直な話。つらつらと言い訳っぽく並べただけだが、彼女が悲しそうな顔をしているのがなんとなく嫌だと思っただけだ。かわいい子に手を差し伸べてしまうのは、男としての性的なものだろう。だから別に変なことじゃない。そう言い聞かせながら、俺は彼女にある提案をした。

 

「……なら、暇な時にここに来ようか?」

 

「………え?」

 

 七草さんは、まるで理解出来ていないようで、目を見開いて驚いていた。心做しか右手にかかる握力が強くなった気がするが、それを気にしないようにして菜沙に声をかける。

 

「別に構わないだろ、菜沙?」

 

「……はぁ。ひーくんってどうしてこう……」

 

「菜沙」

 

「……別にいいよ、私は」

 

 ただしお前今日の晩御飯にピーマン入れるからな、と目で訴えられた。勘弁してください俺食えないんです。それが気のせいであることを祈りつつ、俺は七草さんに確認した。

 

「な? こいつも良いって言ってるから。それとも、俺達じゃダメかね」

 

「…………良いの? 本当に?」

 

「もちろん」

 

 ずっと疑うように俺と菜沙の顔を見ていた七草さんだったが、そう伝えると、彼女は心底嬉しそうに笑ってくれた。それは出会って初めて見た彼女の笑顔だった。

 

「………っ」

 

 ……その笑顔が、とても素敵なもので。彼女の元から良かった可愛さが余計に際立つような純粋な笑顔だった。汚れのない無垢な笑顔。一目見ただけで、俺は息を飲んで一瞬頭から何もかもが抜け落ちた。これが……見惚れる、ということなんだろうか。

 

 いやいや、何を考えている。俺は見惚れた事実を気恥ずかしく思い頭を掻きながら、菜沙に帰ることを提案することにした。これ以上ここにいたら、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。

 

「……それじゃ、そろそろ帰ろっか。暗くなっちゃうから」

 

「そうだな。それじゃあ、またね七草さん」

 

「……うんっ。またね」

 

 名残惜しそうに手を振っている彼女を背に、俺と菜沙はまた歩き出した。先程から菜沙が握っている手が悲鳴をあげている。

 

「……そんな不貞腐れるなって」

 

「別にっ」

 

「痛いって……」

 

 不貞腐れる菜沙は顔をそっぽに向けて、ひーくんなんて不能になっちゃえばいいとか恐ろしいことを呟いている。なんだってコイツはこんなに機嫌が悪いんだ……。

 

「ひーくんの今日の夜ご飯はピーマンの肉詰めね」

 

「……肉を入れてくれるあたりに優しさを感じる」

 

「だって私が作ったの残さず食べてほしいから」

 

「はいはい……。ありがとね、我儘に付き合ってくれて」

 

 お礼を言うと、彼女は一度俺の顔を見て、再びそっぽを向いて言った。

 

「……いいよ。私はひーくんの幼馴染だから」

 

 突き放すような言葉遣いではあったが、その言葉の中には確かに優しさが含まれていた。彼女は俺の手ではなく俺の腕をぎゅっと掴んで歩みを速める。

 

 海沿いをしばらく歩けば住宅街だ。海と陸とを分かつように作られた道路の側面に、波が強く叩きつけられる。波が押し寄せては引いていく音を聞いていると、ポチャンッと跳ねたような音が聞こえた。魚でも跳ねているのかと思ったが……どうにも変だ。薄汚れた海の中に、魚影にしては大きな影がある。ゆらゆらと揺れ動くソレは、ゴミではない。

 

「……菜沙、アレ見える?」

 

「どれ?」

 

「ほら、あの辺の……」

 

 彼女の顔を見るために、少しだけ視線を逸らしてしまった。元に戻した時には、そこにはもう何もいない。菜沙は怪訝な顔をすると、また手を引いて歩き出してしまった。

 

 夕暮れ時だから、きっと見間違いだ。そうに違いない。魚のように首がなく、けれども二股に別れた足のようなものがあったなんて……そんなはずないだろう。

 

 

 

 

To be continued……



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第3話 現実の証明

 常々思っていたことだ。こんな現実が、夢であればよかったのに、と。けど、現実を否定しようにも俺には証拠が見つからない。現実を肯定する証拠なら簡単に見つかるのに。

 

 軽く頬を叩けば、ほら……ここが夢ではなく痛覚のある現実世界だとわかる。だがしかし、痛みすらも味わうことの出来る電子世界もあった。なら、痛みは現実を証明する証拠にならないのかもしれない。

 

 ……まぁ、俺に痛覚なんてないんだがね。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ───ひーくん。

 

 その言葉が聞こえるだけで、俺は夢から覚めるようになった。中学時代はそんなことはなかったはずだ。いくら土曜日に互いに部活がなくて暇だからと、俺の部屋まで起こしに来てその台詞を言われようが、俺は全く起きなかった。夢から覚めるようになったのは高校に入ってからだ。むしろ、彼女に起こされなければ俺はずっと眠っているのではないだろうか。

 

「ひーくん、起きた?」

 

 寝ぼけ眼で、机に突っ伏した状態から首だけを動かして彼女を見た。彼女の口角が少しだけ上がっており、所謂ニヤケている、と言った状態だ。ズルいものだ。男がニヤけているとキモがられるのに、彼女がニヤけるとまるで微笑みを見ているような気分になる。

 

「……終わったよ?」

 

「……うん。準備するから、待ってて」

 

 体をグイッと伸ばすと、背骨がポキポキと音をたてた。これがなんとなく気持ちいい。机の横にかけておいた鞄のチャックを開けると、何故か中身が整頓されていて持ち帰るべき荷物がしっかり入っていた。俺が眠る前に荷物を準備するなんてことはない。となると……。

 

「ふふ、私がやっといたよ」

 

「……何故に」

 

 チラッと時計を見ると、いつもの時間よりも少しだけ遅かった。といっても、そんなに時間が経過していた訳では無いが、彼女の部活が遅く終わるというのはまずないので、おそらく俺が中々起きなかったのだろう。

 

「……俺そんなに寝てた?」

 

「ううん、いつも通りだよ。ただちょっと……寝顔を見てただけだから」

 

 ……だからニヤけていたのか。人の顔を見てニヤけるなんて余程の変態と思われる。まぁ、ほとんど互いのことを知り尽くしているので並の変態よりも理解しているのだが。流石に情事までは知らん。そもそも菜沙は彼氏を作らない。告白現場を見たことがあったが、彼女はスッパリと断っていた。真面目そうで、顔もよく、スタイルも中々。これでモテないほうがおかしいというものだ。イケメンに告白されていたことも何度かあったような気がする。

 

 ……まぁ、俺は告白されたこと一度もないんですけどね。そりゃそうだ。俺は至って平凡。魅力の欠片もない男だからね。突飛した才能があるわけでもなし。顔も良くはない。彼女と並んでいると自分がやけに醜く感じた。

 

 いや、この学校の顔面偏差値で言えば俺はそこそこのはずだ。そういうことにしておこう。

 

「ひーくんは昔から格好いいよ?」

 

 そんなことを話しながら、昨日約束した通りに七草さんのいる孤児院まで向かう途中、菜沙は俺にそう言った。お世辞とわかっていても、どうにも気恥ずかしくて頭を片手で掻きながら答える。

 

「世辞はよしてくれ。格好いいのなら今まで告白されない訳がない」

 

「……ふふ、そうね」

 

 菜沙が口元を抑えて上品に笑っていた。どこか黒いものを感じた気がするが、気のせいだろう。それにしても、モテる基準というのは成長するに従って変わってくるものだと思う。

 

 例えば、小学生。小学生の頃は足の速い奴がモテた。後は普通に格好いい奴。次に中学生。あの頃は、部活だな。部活で活躍してる奴はモテる傾向があった。あと顔が良い奴。そんで、高校生。これはもう突飛した才能だろう。コミュニケーションが上手く取れる奴、何か部活で特化した奴。ちょいワル系は学校による。後は顔だな。

 

 ……おい、顔ばかりじゃないか。結局顔面偏差値が高い奴がモテるのか……。顔、顔、顔、人として恥ずかしくないのか!

 

「人以外の発言は認めないわ」

 

「人なんですけど発言してもよろしいか?」

 

「ダメよ」

 

 菜沙は悪戯をする子供のように、無邪気に笑った。俺もそれに対して笑い返す。昔から休みの日は一緒にゲームやってたりしたし……案外女子もゲームをやるっていうことを彼女から教わったな。ネタをネタで返してくれるのは有難いことだ。

 

「ひーくんがやってるから好きなだけよ」

 

「……それってどうなのさ」

 

「別にいいじゃない。何が好きで何が嫌いなのかは、自分で決めるものだもの。私が好きなのは、つまり……そういうこと。わかった?」

 

「……なんとなく?」

 

 昨日も通った河川敷を、二人で手を繋いで歩く。春の間は、ここの河川敷にズラっと並んだ桜の木が満開になってとても綺麗な場所になる。けど、今は全部青い葉をつけていた。それもそうだ。もう夏だからな。鬱陶しい暑さのせいで、額には少し汗が出てきてしまっている。これだから夏は嫌いだ。互いに夏に対する愚痴を零していると、不意に菜沙は植えられた木を見上げながら、ある話を振ってきた。

 

「桜ね……ひーくんは一年中桜が咲いていたらどう思う?」

 

「……多分飽きるな」

 

「うん、私も同じ。短い期間だけしか咲かないで、咲いてもすぐに散ってしまう。けど、だからこそ咲いているその一瞬がとても綺麗に思えるのかな」

 

「……まっ、そうだな」

 

 春に咲く桜にこそ意味がある。雪が少しだけ降る中で桜が舞い散るというのも、中々見てみたいような光景ではあるが、やはり桜は春に咲いて、散ってしまうのが合っているのだろう。日本人固有の考え方でもある風情が絶妙なまでにマッチしているのが桜だ。俺は桜は結構好きだし、菜沙も好きな方だろう。

 

「桜とはまた別なんだけどね、サクラソウって知ってる?」

 

「サクラソウ……」

 

 確か、桜の形に似ているからと名付けられた花だったか。西洋では『死と悲しみ』を象徴していた。花の女神フローラの息子が恋人を亡くし、悲しみに暮れて死んでしまう。フローラは息子を不憫に思い、サクラソウに変えてしまったんだとか。後はドイツ語で、『鍵の花』とも呼ばれていたか。俺のどうでもよさげな話を、菜沙は少し驚いた様子で聞いてくれた。

 

「そんな由来があるんだ……それは知らなかったかな」

 

「神話については多少詳しいからな」

 

 ほとんどがゲームに感化されて調べた知識だけど。これでも多少なりは神話とかについてわかっているつもりだ。無論、にわかの範囲を出ないのだとは理解しているが。しかし、菜沙が言いたかったのはそうではないらしい。

 

「私が聞きたかったのは、花言葉の方。初恋、純潔、青春、少女の愛。こんな感じで女の子っぽいのが沢山あるの」

 

「さっき俺が言った由来とは違うな」

 

「ほら、色とかでも花言葉って違うから」

 

「ふーん。じゃあ、ナズナの花言葉は?」

 

 ちょっとばかし興味が出たので聞いてみる。菜沙の名前の元となった春の七草の一つだ。尋ねると、彼女は顔を少しだけ赤く染めながら、えっとね……っと躊躇いがちに答えた。

 

「……貴方に私の全てを捧げます、だよ」

 

「……そうだったのか」

 

 彼女にお似合いの花言葉だ。見ての通り身持ちは固いし。一度誰かを好きになれば、菜沙は尽くすタイプだろう。右手を握っている菜沙が、チラチラと俺に視線を送ってくる。何かしら答えた方がいいってことだろうか。

 

「菜沙にぴったりだな」

 

「ふふっ……そう思ってくれるの?」

 

「もちろん」

 

「……ありがと、ひーくん」

 

 菜沙の歩くスピードが少しだけ早まった。手を繋いでいる俺も、必然的にペースを上げることになる。こうやって二人で手を繋いで歩いていて、何度誤解されたことか。俺と菜沙はただの幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもない。付き合いが長いせいで、俺達のこういった行為というのは、もはや特別なものではないように思える。何事も慣れてしまえば、なんとも思わなくなってしまうものだ。

 

「ひーくん」

 

「ん、なに?」

 

「あんまりデレデレしちゃダメだよ?」

 

「……したつもりはないんだけどなぁ」

 

 七草さんのことだろう。確かに昨日彼女の笑顔を見て、かわいらしいと思ったが、デレデレしたつもりはない。だというのに、菜沙は頬を膨らませて握る力を強めてくる。

 

「そんなに大きいのが好きなの?」

 

「そういう訳では……」

 

 いやまぁ、確かに彼女はでかい。何がとはあえて明言しないが、彼女は確かにある種の選ばれた人なのだろう。菜沙は自分の胸に手を当てて、寄せてみたりしているが、悲しきかな彼女の大きさは無い訳では無いが、ある訳でもない。確かに存在しているが主張するわけでもない。へこんでいない事を喜ぶべきだな。

 

「………?」

 

 もうすぐ孤児院に着くといった所で、ふと何かの視線を感じた気がした。ここはもう海の近く。海の砂を防ぐ防砂林が所狭しと植えられ、反対側は強く波が押し寄せている状態だ。周りは人がいるにはいるが、両手で数え足りるだろう。

 

 だとすれば、この視線はどこから感じるのか。そういえば昨日、海の中を漂う奇妙な影を見た。いいや、それは見間違いだということにしたはず。きっと不気味な光景に思えて、無意識に怯えてしまっているだけだろう。

 

 感じる視線は気のせいだ。どこか逃げるような考えをしている中、菜沙は何も気づいていないようで、いつもの夢についての話題を振ってくる。

 

「そういえば、今日はどんな夢を見たの?」

 

「ん……確か……」

 

 ……どうにも思い出せない。何の夢を見ていたのか。流石に時間が経ちすぎたのかもしれない。いやでも、夢って結構長いこと覚えていられることもある。すぐに忘れてしまったということは、それはきっとどうでもいい夢だったんだろう。忘れてしまった、と彼女に告げると、対照的に彼女は嬉しそうに話し始めた。

 

「私はね、また夢を見たよ」

 

「どんな?」

 

「ひーくんと一緒にいる夢」

 

 菜沙は嬉しそうに頬を綻ばせた。面と向かって言われると、流石に恥ずかしい。けれど……彼女のその言葉には、俺にとってどうにも夢がないように感じる。頭をガシガシと強く掻きながら答えた。

 

「それはつまらないな。現実と特に変わらないじゃないか」

 

「だからいいんだよ」

 

 彼女は笑っている。しかし俺にはわからない。夢は夢であるべきで、現実と差異がなければならない。夢が現実ならなぁ、とよく言うだろう。つまり、現実からかけ離れているのが夢、ということだ。なら、現実に近い夢ならば、それは夢と呼べるのか。体感したことも、何もかもが現実に近ければそれは現実の延長上ではないだろうか。

 

「確かに、現実ではできないことをやる夢も楽しいのかもしれないよ。けどね、夢が現実と変わらないっていうのは、私は素敵だと思う。だって、夢でも現実と同じように過ごしたいと思っているってことでしょ?」

 

「……菜沙も女の子だな」

 

「ちょっと、聞き捨てならないんだけど」

 

 まぁ、彼女らしいと言えば彼女らしい答えではある。現実が充実しているのなら夢を見る必要も無い。欲しいものが手に入らないから人は夢に見るのだ。そして、現実での動力源にする。夢に見た世界に到達するために、人は動くのだ。そして、夢を叶えられればラッキー、叶えられなければそれまで。悲しいことに、夢を叶えられる人は限られる。最初から決まってるんだ、そういう奴は。才能という名の超能力を持って産まれてくる。

 

 生憎俺にはそんなものは無いが……しかしこれらを踏まえれば、夢と現実が同じであるというのは確かに素敵なことなのかもしれない。頷く姿を見て彼女は勝ち誇ったように言ってきた。

 

「でしょ? 現実でも夢でも、ひーくんは変わってなかったよ。いつも通り、優しくて、ちょっと捻くれてて、そして私の隣にいるの」

 

「全く変わらんな」

 

 俺が現実を夢見たというのなら、つまらないと吐き捨てることだろう。現実では現実でのみ体験できることを、夢なら夢でのみ体験できることをしたいと、俺は思う。人が自力で空を飛ぶことなんて出来やしないんだ。それを夢見ることは悪くないだろう。

 

 だから、別に異世界転生してお姫様を助ける夢を見たっていいじゃないか。可能ならば、その夢を現実であると立証したいところだが、何度も言うように俺にはそれを証明できない。現実を現実だと証明する手立ては多くあるというのに。

 

「〜〜〜♪」

 

 例えば、隣で鼻歌を歌いながら歩く女の子の手の温もりとかな。

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 海から波が強く押し付けられている高台に、潮風孤児院は存在している。昨日も来たこの場所だが、やはり堀に書かれた不思議な絵に目が引かれてしまう。孤児院の本館が目の前に建っており、その裏側には子供たちが遊ぶ庭のようなものがあると予想できた。なにせ、本館の奥の方から子供たちが元気に遊ぶ声が聞こえてくる。

 

「……あれ、七草さんかな?」

 

 菜沙が指差す場所を見ると、孤児院の入口の側で座り込んでいる女の子がいた。彼女はこちらに気がついたようで、暗かった顔が途端に明るくなって、駆け寄ってきた。走る度に彼女の豊満なアレが軽く揺れている。それに、彼女は汗をかいていて、白い服が少しだけ濡れて透けてしまっているようだ。なんとも目に毒だが……白、いやこれは……薄いピンクか……。

 

「……ひーくん?」

 

 見てないですから握る手の力を強めないでください。すいません出来心なんです仕方のないことなんです。思春期だから許してくださいなんにもしませんから。

 

 隣から向けられた絶対零度のような視線に晒される俺の様子とは正反対で、七草さんは笑顔で近づいてきて俺と菜沙の手を取ってきた。

 

「氷兎君と菜沙ちゃん! 来てくれたの!?」

 

「お、おう。昨日約束したからな」

 

 しどろもどろになってしまうのも仕方が無い。彼女は俺と菜沙の手を握ってぶんぶんと勢いよく振っているのだから。こんな反応アニメかラノベの中だけだと思っていたよ。貴重な体験をした気がするが……それよりも、気になることがある。

 

「七草さん、ずっと待ってたの?」

 

「うん、来るかなーって座って待ってたの」

 

「どれくらい?」

 

「んー、どれくらいだろう……」

 

 先程まで彼女が座っていた場所を見ると、雑草は潰されたまま直ることなく、しなだれたままになっている。そこそこ長い時間その場で待っていただろうと予想することは出来た。流石にこれには怒らずにいられない。

 

「別に来たら呼びに行くから、中で待っていればよかったのに」

 

「外で待ってた方が良いかなって思って……」

 

「お前今の季節考えてるのか? 夏だぞ、熱中症になったらどうする気だ」

 

「うぅ……ご、ごめんなさい……」

 

 シュンっと項垂れてしまう七草さん。可哀想に思えるかもしれないが、俺としては心配なのだ。流石にこの汗の量的に脱水症状を起こしていても不思議ではない。それに汗を拭くタオルすら持っていないときた。とりあえず水分を補給させて、汗を拭かせた方がいいだろう。

 

「菜沙、水筒の中身残ってる?」

 

「えっと……残ってない、かな」

 

「……仕方がないかぁ」

 

 菜沙と手を離して鞄の中からタオルと水筒を取り出した。タオルを七草さんの首にかけ、水筒の蓋を外してそこに中身を入れて彼女に渡す。七草さんは不思議そうに首を傾げて、渡された水筒の蓋を見つめている。

 

「この季節にその状態はまずいって。とりあえずタオル貸すから、それとその中身も飲んでおきなよ」

 

「……いいの?」

 

「脱水症状になる方が怖いって」

 

 そう伝えたら、七草さんは中身を少し口の中に含み、飲みこんだ。その後は美味しそうに、中身を一気に飲み干した。随分と喉が渇いていたらしい。飲み終わると彼女は、美味しかったと笑顔でお礼を伝えてきた。

 

「まだ飲む?」

 

「うん!」

 

 再度蓋の中に中身を注ぐと、彼女はまた美味しそうに飲み始める。なんだか餌付けをしているような気分になった。彼女はまるで主人の帰りを待っていた犬のようだ。お尻辺りから尻尾を生やし、それをブンブンと勢いよく振るのが簡単に想像できる。そうこうしている内に、七草さんはあげた分をまた飲み切った。彼女は再度お礼を言ってくる。

 

「ありがと、氷兎君!」

 

「……おう」

 

 笑顔が眩しすぎる。天真爛漫と例えるべきか、純真無垢と例えるべきか……ともかく彼女は俺が今まで見てきた中で一番かわいい、ということだろう。夢の中で出会った人も含んでも一番だと答えられる自信はある。最もほとんど忘れてしまっているが。

 

「でれでれしない」

 

「痛ッ」

 

 菜沙に頭を叩かれた。首が勢いよくガクンと下に向く。加減というものを知らないんですかね、この娘。

 

「さてと、どうします?」

 

 来たのはいいが、何をするかなんて全く決めていない。時間もあまりないし、遠くには行けないだろう。菜沙も何も考えていない様子だ。七草さんは、行きたい所や、やってみたいことが多くて決まらないみたいだ。

 

「あまり遅くまでは無理だよね。近くでどこか行きたい場所はある?」

 

「んー……わかんない、かな。それに、何して遊ぶかも……」

 

 まぁ、当然といえば当然か。高校生にもなると、『遊び』というのも限られてくる。子供のように走り回る、という訳にもいかない。心の成熟と共に、そういった行為は減る傾向にあると思う。まぁ、無邪気とはかけ離れた成長をしたからとも言えるかもしれないけど、少なくとも俺はこのクソ暑い中走り回ろうとは思わない。むしろ、木陰で一緒に話したりする方がいいと思う。男子高校生が集まった場合、すぐに携帯取り出すからな。男女が集まるとなると、それくらいしか思いつかない。

 

「近くに公園があったよね。とりあえず、そこに行ってみる?」

 

「……まぁ、いいんじゃないか。七草さんはどう?」

 

「私は大丈夫だよ」

 

「……じゃあ、行きますか」

 

 そう思い、移動しようとしたのだが……また、視線を感じた。なんとなく孤児院の方をチラリと見ると、やはり堀に書かれた絵が目に入ってくる。動物園にいるような生き物に交じる、二足歩行の魚。意識しなくても入ってくるあたり、情けないけれど心のどこかで怯えているのだろう。堀の絵から視線をぐるりと回すと、孤児院の玄関の部分の扉からこちらを見ている人を見つけた。背丈が高い、女性のようだが……。

 

「………っ」

 

 目が合った。とりあえず会釈をすると、向こう側も薄らと笑って返してきた。

 

 ……なんだろう、あれは。正直気味が悪い外見をしている。腫れぼったい唇に、限界まで開かれたような目。顔のパーツも全体的に崩れているような気がする。それでいて、首もずんぐりと太い。なんというか……生理的に受け付けない見た目だった。人間かどうかすら疑わしく思える。一体……なんなのだろう。

 

「……氷兎君?」

 

「え、あ、あぁ……悪い」

 

 呼ばれて彼女に視線を戻したが、どうにも視線が突き刺さる。首だけを回し、後ろを見るとやはりまだあの女の人がこっちを見て笑っていた。気味が悪い。先程よりも、何割か増して不気味だ。すぐ後ろを歩いている七草さんに、あの女性のことを尋ねてみる。

 

「……なぁ、七草さん」

 

「ん、なに?」

 

「いや……その、孤児院の人に顔が変っていうか……なんか、崩れたような人っている?」

 

「崩れたようなって言われてもわからないけど……見てくれる大人はなんか皆変な感じ、かな?」

 

 ……見てくれる大人が、皆変な感じだと? まさか、あの女の人みたいな大人が沢山いるというのか。正直俺じゃ耐えられないぞ。そういったものを患って産まれた人もいるが……あれは違う。何かが違うんだ。人間だと断言できるような見た目じゃない。もっと根本的な、本質のようなものが異なっている。そんな気がした。

 

「変な感じって、どう……?」

 

「うーん……私達となんか違うっていうか……そんな感じ? 私達みたいな子供はそうじゃないんだけど、大人はなんか違うかな」

 

「……そっか、悪いな変なこと聞いて」

 

「ううん、平気だよ!」

 

 彼女は笑った。先程まで見ていたあの女性の笑顔とはまるで別物だ。いや、別物とすら形容しがたい。あれは……なんだろうか。とてもじゃないが言葉にするのは難しい。

 

「………」

 

 差別、とかそういう気はまったくないが、あれはまた別種だろう。人のようで人でないと言うべきか……のっぺりしているのに、所々がぼこぼこと盛り上がっているというか……。決して、人の顔ではないような、そんな感じだった。

 

「氷兎君?」

 

「……なに、七草さん?」

 

「その……私といて、嫌じゃない?」

 

 彼女は泣きそうな顔で俺に尋ねてきた。俺、何かしただろうか。不安に思う中でそう聞き返すと、彼女は俯きながら答えた。

 

「だって……なんか、嫌そう……」

 

「嫌そう……?」

 

「ひーくんがさっきから上の空だからだよ」

 

 菜沙の私的にハッとなった。いやけど、仕方がないだろう。思考のほとんどが持ってかれるくらい衝撃的なものを見てしまったような気がするんだ。しかし、上の空になってしまったのも事実。軽く頭を掻きながら謝った。

 

「……悪い。そういう訳じゃないんだ。嫌だとかそんなこと思ってないよ」

 

「本当?」

 

「本当だよ」

 

「……よかった」

 

 心底安堵したように彼女の顔が緩んでいく。並んで歩いているわけだが、俺の隣に菜沙、そして少しだけ後ろに七草さんがいる。なんとなくこの距離に壁を感じて、彼女がまだ色々と遠慮している部分があるのかもしれない、と思った。とりあえず、距離を縮めていくにはいい機会だろう。俺は彼女に手招きをして近くに来るように誘った。

 

「そんな後ろ歩いてると話しにくいだろ? もっと前に来なよ」

 

「えっ……う、うん……」

 

 少しおどおどした形で彼女は俺と菜沙の間に入ってきた。昨日俺達に、木に蹴りあとをつけるところを見せつけていた彼女と比べると、だいぶ雰囲気とかが違うと感じる。というか差が明らかだ。柔らかくはなったものの、まだ対人関係に慣れていないのだろうか。

 

「七草さんは、他の子と遊んだりとかしてないの?」

 

「……うん。皆私よりも幼いし……それに、私のこと怖がるから……」

 

 まぁ確かに、幼い子供には七草さんのやったアレは怖いかもしれない。俺が子供の頃なら、うわすげぇって言って近づいていくかもしれないけど。戦隊モノを間近で見ているようなもんだよ、アレは。それくらいに俺の幼い心には響くものだと思う。あれだな、某ゲームのどーんっ、だな。雑魚敵確殺の裏技。素晴らしい。

 

 なんて、彼女の立場になっていない俺だからそう考えられるものの。彼女としては中々難しいところもあるんだろう。ここは少しでも、場を和ませながら会話をしていったほうがいいのかもしれない。

 

「まぁ、俺達にそんな気を使うなよ。気楽にいこうぜ、気楽に」

 

「……まぁ、壁ができるよりはいいからね」

 

 菜沙はどこかむすっとしていた。そんなことには気づかず……というか、わからない、と言った方がいいのか。七草さんは笑顔で俺達に、ありがとう、と伝えてきた。そんな無垢な彼女を見て菜沙は大人気なく感じたのか、少しバツが悪そうにしている。菜沙に向けてニヤリと笑ってやった。

 

「やられたな、菜沙」

 

「……なにがよ」

 

 クツクツと声を押し殺して笑った。菜沙は未だそっぽを向いており、真ん中にいる七草さんは不思議そうに首を傾げるばかりだ。

 

 そんなことをしていると、俺たちは無事に近くにあった公園までたどりついた。公園といっても、そこまで大きいものじゃない。あるのは、滑り台、シーソー、ブランコ、後はベンチが設置されているくらいだ。子供が遊ぶには少し物足りないだろう。事実、子供は誰一人としてこの公園で遊んでいない。

 

「まぁ、日陰でゆっくりとすることにしよう」

 

 ベンチは草によって作られた屋根で日陰になっている。日陰に入ると、外とは比較できないほどに涼しく感じた。日陰に入るだけでここまで体感温度が変わるとは、流石に思わなかった。息を深く吐いて、涼しいなここ、と言って座り込んだ。

 

「本当だね。日光が当たってないだけでこんなに違うんだ……」

 

「うぅ……また汗かいちゃった……」

 

 七草さんの首元には、会った時と同じくらいに汗が滴っていた。その汗の辿る先を見ていくと、胸元目がけて滑り降りていき……。

 

「ひーくん?」

 

 はいすいません。思春期なんです。なんか、男子高校生が思春期だっていうとその程度のことは許されそうな気がする……しない?

 

 流石に菜沙の視線がキツくなってきたので、鞄から先程返してもらったタオルを取り出して彼女の首にかけた。別に汚いとか思ってない。だって女子だし。そこまで気にすることでもない。菜沙なんて俺が汗拭いたタオル持って帰って洗ってるし。

 

「ほら、タオル」

 

「あ、ありがと」

 

 タオルをかけられた七草さんは、恥ずかしそうに俯いていた。これはアカンな。体温が上がってきそうだ。世の中の女の子は七草さんを見習って、どうぞ。なるべく彼女を見ないように屋根を見つめながら、心の中で呟いた。

 

「そういえば……氷兎君と菜沙ちゃんって恋人なの?」

 

 七草さんがそんなことを聞いてきた。菜沙と恋人なのか……か。恋人ではないな、幼馴染だし。まぁもし菜沙に彼氏が出来ても、俺はその彼氏以上に菜沙を理解している気がするけど。しっかりしているように見えて、たまに抜けてたりするからな。思い返せば、彼女に料理を教えるのは大変だった……。今では俺と同じ程度にはできるけど、昔の菜沙は塩と砂糖を間違えるというテンプレを繰り返していた。買い物に行ったらキャベツとレタスを間違えたりな。

 

「ただの幼馴染だよ」

 

「……そうだね。ひーくんと私は幼馴染で、昔から一緒によく遊んだりしてるの」

 

 よく遊ぶというか、毎日……だよなぁ。だってコイツ家に帰るんじゃなくて俺の家に帰るし。それで風呂の時間に家に帰って、次の日の朝一緒に登校って感じだ。

 

 普段の俺達の様子をを伝えると、七草さんは目を輝かせて、羨ましそうに見つめてきた。

 

「良いなぁ……仲良いんだね、二人は。羨ましいなぁ……」

 

「……七草さんも、そうなれるよ」

 

「本当に?」

 

「本当だよ。なぁ、菜沙?」

 

「そうだね……。きっとなれるよ」

 

 嬉しそうに彼女は笑う。その笑顔は、まるで太陽のように明るく感じる。彼女は話しているとよく笑う娘だった。俺と菜沙が馬鹿なことをやっていると、つられて彼女も笑う。菜沙と七草さんの二人で、ガールズトークのようなものをしていても、彼女は笑っている。他人に合わせる笑い、というものがある。これはきっと生きていく上で必要なものだと思う。それを俺らは生活していく中で身につけていくのだが、彼女にはそれを感じなかった。

 

 楽しいから笑う。面白いから笑う。素敵だから笑う。本音なんて隠さないで、本心で笑っていた。

 

「………」

 

 だからこんなにも、彼女の笑顔が素敵なものに見えるのか。菜沙と二人で話している彼女らを見て、そう思った。時計を見てみると、もうすぐ日が暮れる頃だった。そろそろ帰らなければならない。

 

「もう、帰っちゃうの?」

 

 七草さんは悲しそうにそう伝えてくる。服の一部をぎゅっと掴んでいて、別れるのがどれほど悲しいのかわかってしまった。また会えるというのに、どうしてそうまで悲しがるのか。

 

 ……あぁ、なるほど。そういった経験がないのか。子供の頃から友達と遊んでいれば経験するだろう。親が迎えに来ても、もうちょっと、後少し。そうやって時間を伸ばして遊んで、さよならをするのを拒んだ。明日も学校で会えるというのに。きっとその想いが今の彼女にあるんじゃないか。良くも悪くも、彼女は子供ということだろう。

 

 そんな彼女を安心させるべく、彼女と向き合って約束をした。

 

「大丈夫。また明日も来るよ」

 

「本当っ!?」

 

「あぁ。約束しただろ、暇な時は来るって。何しろほとんど暇だからな」

 

 受験生だというのに褒められたことでもないか。まぁ、彼女が笑顔になるのなら、それはそれでいいんじゃないかなって思うところがあったりする。菜沙も彼女の言葉に頷いて答えていた。

 

「それじゃ、帰るか」

 

 来た時と同じような並びで俺達は歩き出す。ただ、少しだけ七草さんと俺達の間の距離は縮まっていた。帰り道で話している間も、彼女は俺と菜沙との会話で笑っていて、こうして仲良くなることができてよかった、と内心安堵した。

 

「………」

 

 帰り道、また変な視線を感じた。それはまた海辺でのことで、嫌に背中がぞわぞわと来た。思い出したのは、孤児院にいたあの女の人。あの顔を思い出すと、背中にぞくりと嫌なものがはしった。

 

 会いたくないと願いつつ、俺達は孤児院までたどり着いた。明かりは灯っており、中からは子供たちの声が聞こえてくる。扉の前まで駆けて行った七草さんが振り返って、胸元で小さく手を振りながら言ってきた。

 

「じゃあ……またね。氷兎君、菜沙ちゃん」

 

 それぞれさよならを言うと、彼女は孤児院へと入っていった。今は視線は感じない。しかし……なんとなく、変な気分だった。視線を感じていた時の感覚が残留しているような感じ。正直、この場でさえ少し薄気味悪く感じる。明かりが灯っているはずなのに、温かさを感じさせない。孤児院の構造のせいだろうか。見える範囲で、窓は二つしかない。かなりの大きさだというのに。

 

「ッ────!!」

 

 七草さんの消えていった扉が開かれる。そこから現れたのは……あの女の人だ。ゆっくり、ゆっくりと一歩を踏み出す。片足が前に出たら、身体を不自然に揺らしつつ別の足を出す。その表情は笑み。相手との共感を図るための笑みじゃない。その不気味さは、まさしく恐怖を植え付けるためのものだ。人の姿をした、何か。

 

「菜沙っ、早く帰ろう!」

 

「う、うん」

 

 菜沙も気味悪がっているのか、握っている手に力が入っている。人なのに、人じゃない。距離は十分離れているのに、生臭い匂いが鼻につく。あの堀に書いてあった絵は、あの女性を描いたものじゃないのか。そうとしか思えない。あぁ……夢に出そうだ。

 

 

 

 

 その後家に逃げるように帰ると、何事もなく一日を終えた。菜沙との間で、あの女の話は出ない。言葉にしたら、すぐそこにまで来そうな気がした。七草さんと会う時も、ちょっと孤児院から離れた場所に来てもらい、なるべく近寄らないようにした。そんなことを、一週間くらい続けた時だったか。

 

 俺達の日常は、いとも容易く崩れ去ってしまった。

 

 

 

 

To be continued……



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第4話 バケモノ

 かなり昔の事なんだが、とても現実に近い夢を見た。いや、夢ではなく実際現実だったわけだけど。ともかく、それのせいでこうなったとも言える。

 

 ……アンタがやったのか。なるほど、全てはアンタの掌の上だったってことか?

 

 いつから俺はアンタにマークされていたのやら。だとすると、俺は知らないうちにとんでもない奴とエンカウントしていたというわけか。

 

 レベル1で魔王に挑むとか、そんなもんじゃない。赤子が魔王に挑むようなものだ。今でもアンタに勝てる気は微塵もしない。元より、人が勝てる存在じゃないしな。

 

 歯向かはないのか、だと? それをやったらアンタ、アイツを殺すじゃないか。そんなことするわけが無い。アンタとの契約を反故する気はないよ。俺は、アンタのお巫山戯(嫌がらせ)に付き合うし、アンタが失望するような真似はしない。

 

 言っただろう。アンタが世界を敵に回せと言うなら、俺はそのとおりにする他ない。目的達成の為に、俺は礎となろう。こんな世界、クソ喰らえだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「………」

 

 付近は夜の闇に包まれ、虫のさざめきが聞こえるだけの静かな夜だった。静寂に包まれた、と言えばまだいい感じに聞こえるかもしれないが、これはあまりにも異常だった。まるで現実ではないようで、でも俺は確かにここに立っている。身体の感覚もあるし、腕をつねれば痛みが生じた。

 

「……夢、じゃないのか」

 

 そう呟く俺の目の前に建っているのは、明かりの消えた潮風孤児院。堀に書かれた絵が、とてつもなく不気味に見えた。昼間の明かりでは気が付かなかったが、海の中に描かれた二足の生物は、目の部分が薄らと赤く塗られている。

 

 

 ───行ってみなよ。

 

 

 そんな声が聞こえた。女性のような声だ。やはり夢か、こんな不可解な現象が現実で起こるわけがない。第一、俺はさっき自室で布団にくるまって眠ったはずなのだから。こんな場所に立っているなんて夢以外の何があるというのか。ただ、寝巻きのままなのがそこそこリアルに感じさせる。まるでそのまま連れてこられたみたいだ。

 

 

 ───証明できる?

 

 

 その言葉に息を飲んだ。何故その台詞を俺に言えるのか。そういった話をしたことがあるのは菜沙だけだ。なら、この声は菜沙か?

 

 いや、ない。菜沙はこんな声じゃない。そもそも、聞こえる声自体が一人分ではない。若い女性から、老婆のような低い声までが混ざったように聞こえる。その声が聞こえると、鳥肌がたって背中がぞわぞわと落ち着かない。そんな自分を風が後押しするように吹き抜けていく。まるで逃げ道を塞がれたかのような感覚に陥った。

 

 

 ───そう、それでいい。

 

 

 気がつけば足は前へと歩み出していた。靴なんて履いてない。おかげで足に石が食い込んで歩く度に変な挙動になってしまう。しかしそれでも歩みを止めずに、孤児院の敷地に入っていった。

 

「………」

 

 夢か、夢ではないのか、それは今の俺には証明できない。なにせ情報も、証拠も何もかもが足りなすぎる。身体の感覚があって、痛覚もあるのだから現実だと思うのだが、それにしてはこの現状は現実味がなさすぎる。今の俺に出来るのは、この声に促されるままに孤児院の中に入っていくということだけだ。

 

 

 ───気をつけなよ。タイムリミットは案外近くにまで迫ってきている。聞こえるかい、奴らの声が。

 

 

 ……言われるがままに耳を澄ましてみた。風で揺れる木と虫のさざめき、そして強く打ちつけられる波の音が聞こえてくる。いや、よくよく聞き分ければ不自然な音が波の音に紛れていた。この音は……海で泳ぐ音だろうか。強く水を叩きつけるような、そんな音だ。

 

 

 ───見つかったら、ゲームオーバーだよ。君の勝利条件は、情報収集を完遂すること。簡単なことでしょう?

 

 

「……ゲーム感覚かよ」

 

 姿の見えない相手に悪態をつく。こうして突っ立っていても何も始まらない。とりあえず声の言うことを真に受けるのなら、時間をかけ過ぎると何かが来るんだろう。恐らく、海で泳いでいる何かが。それに見つかると負け。敗北条件はわかりやすいが、勝利条件に至ってはその限りではない。情報収集を完遂することとは、一体何の情報なのだろうか。

 

「……暗い。電気も何もないな、ここ」

 

 不安な心を宥めるためか。独り言が増えていく。孤児院の中は真っ暗だった。廊下にはいくつも部屋が面しており、その他にも大きな食堂や厨房がある。孤児の部屋を覗くと、子供達がすやすやと眠っていた。

 

(……なんだ、この扉?)

 

 館内を歩き回っていると、厳重そうな扉があり、立ち入り禁止の札がかけてあった。鍵はかかっていないが、子供の力では開かないような、とても重い扉だった。触って見た感じだと、まるで鉄か何かで作られているみたいだ。

 

 ……どうしようか迷ったが、このままでいても仕方が無いと思い、グッと力を入れて思いっきり引いてみる。ギィィッと音をたてて扉は開いた。部屋の中は更に薄暗く、細部まではわからないが、本棚が多いことと机と電気スタンドから書斎のようなものだと判断した。ぎっしり本が並べられた本棚は、少し埃っぽい。目を凝らして本を見てみれば、タイトルの多くは英語だった。読めない言語もある。

 

(……なんだ、これ)

 

 机の上に置かれた紙の束のひとつに目がいった。電気スタンドに電源を入れ、その紙に書かれていることが理解出来た。書かれている内容は、『18歳 数2』『15歳 数1』『質 良好』『廃棄 7』

 

「……年齢に質、廃棄……?」

 

 

 ───机の三番目の引き出しの板を外してみなよ。

 

 

 疑問に思いながらも、三番目の引き出しを開いた。小物と紙束がぎっしり詰められており、それらを取り除くと明らかに机の色とは違う板が敷いてある。爪を間に入れて取り外すと、そこには写真が添付された一枚の紙切れがあった。

 

(deep ones……深き、ものども?)

 

 紙には名前が書かれていた。深きものども、なんていう訳の分からない名前が。そしてその紙に付属している写真に映る影は、孤児院の堀に書かれていたものと似ていた。その影は二足歩行で、ちょうど海から上がろうとしている様子を写したものだ。少しボヤけているが、その顔はまるでカエルのようで、一見人に似たような個体もいる。そして……いつか見た変な顔の女性も映っていた。

 

「………」

 

 深きものども(ディープワンズ)。彼らは人間と交わって混血の種を生み出して人と生存している。混血の人間は一定期間は人間の姿をしているが、過度のストレスか深きものどもとの接触により、姿が戻ってしまう。陸上での移動は基本的には飛び跳ねることでの移動となる。魚類を食料とするが、人の血肉を喰らうこともある。

 

 ……概ね、そんなことが書かれていた。

 

「……いや、まさか……」

 

 苦笑いを浮かべて、バカバカしいと吐き捨てた。そんなことはないだろう。これは、アレだ。黒歴史ノートか何かだ。恥ずかしいからここに隠していたんだろう。いやぁ、流石の俺もこんなもの書いたら隠したくなるどころか火をつけて証拠隠滅したくなるな。にしても、誰だよこんな写真合成した奴……最近の合成技術ってこんなことできるのか。

 

 

 ───いや、まさか。そんなことはないだろう。

 

 ───だってここは夢だ。そんなことはありえない。

 

 ───タチの悪い夢だなぁ。早く醒めないかな。

 

 ───なんて、考えてるよね?

 

 ───じゃあ証拠は? これが夢だと断言出来るものは?

 

 ───これが現実だと判明できるものは?

 

 ───なにもないでしょ?

 

 

「…………」

 

 

 ───さっきの紙に書かれていたのは、連れてかれた(つがい)の娘だよ。

 

 ───廃棄は、使い物にならなくなったんだろうね。

 

 

「……なんなんだよ、これ」

 

 響く声を聞いていると、嫌悪感が身体を満たしていった。気がつけば持っていた紙に皺が出来るくらいに、手でギュッと掴んでいる。理解できない。いや、理解したくない。これは夢だ。そうだ、早くこんな所から出なくちゃ。夢から覚めて、家に帰らなきゃ。

 

 

 ───良いの? 七草ちゃん、ヤラれちゃうよ?

 

 

 ……その言葉を聞いて、踏みとどまる。彼女の年齢は、17歳。連れていかれた年齢は、15歳〜18歳と妊娠できる年齢なら誰でもいいといった感じだ。つまり、七草さんも連れていかれる可能性がある、ということだ。

 

 ……この情報が本当なら、の話だけど。加えて言うなら、この世界が現実であることも条件だ。

 

 

 ───連れて逃げなくていいの?

 

 

 脳内に響く声を聞きながら、部屋を元の状態にして後にした。扉もしっかりと締め、これで入った形跡はわからなくなっただろう。

 

 ……海の方で、何かが泳ぐ音が強くなっている気がする。恐らく、今海に向かえば見ることが出来るだろう。あの写真のバケモノが。少し見てみたい気もするが、声の通りに従うのなら、見つかった段階でアウトなんだろう。

 

 

 ───夢であるなら杞憂でよし、現実ならばVサイン。

 

 ───ほら、アイツらが帰ってくる前に逃げないと。

 

 

「………」

 

 確かに、その言葉には頷ける部分があった。夢であったことは現実ではなくなる。けど、そうすることが最善手であったなら? 誰かを助けられる行為であったなら? もし、それが現実だったら? 夢だと思ってやったことが現実で、それで人が救えたなら万々歳だろう。

 

 そうだ、これは夢だ。なら俺は、いつものように……魔王を倒す勇者にならなければ。そして、お姫様を助けて夢から覚めるのだ。

 

 

 ───そう、それでいい。

 

 

 ……酷い悪寒がした。自分がとても小さくなった気がして、その小さな世界で、とてつもなく巨大な何かが嘲笑(わら)っているような錯覚に身を震わせる。けど、自分は確かに人並みの大きさで、両足を地面につけて立っていた。

 

 変な錯覚が消えた今でもその声が聞こえる。アハハハハッと、まるで腹を抱えて笑うような、愉しむような声が。反射的に耳を塞いだが、その声はまるで脳に直接響くかのように聞こえてくる。

 

「……なんなんだよ……」

 

 悪態をつきながらも、館内を散策する。どうやらこの孤児院は年齢でおおまかに分けられているようなので、その年の層を探せばすぐ見つかるだろう。いずれにしても急がなくては。

 

「……誰ッ!?」

 

「うおっ……」

 

 歩き回っていて突然目の前が白くなったかと思えば、女の子……七草さんの声が聞こえてきた。必死にその視界を遮る光から目を背けて彼女に自分の名前を伝える。彼女は音をたてることなくこちらに近づいてきた。そういえば、体術を使う人は音をたてずに歩いたりできるんだったか。どこかでそんな話を聞いたことがある。

 

「氷兎君……? なんで、ここにいるの?」

 

 彼女は俺に向かって懐中電灯の光を向けたまま尋ねてくる。俺は、なるべく声を小さくして答えた。

 

「それは俺も聞きたい……ってか、なんで七草さん出歩いてるのさ」

 

「なんでって……なんか、変な音が聞こえたから……」

 

 なるほど、気になって見に来たわけか。懐中電灯のおかげで視界が確保でき、更に近くに知人がいるおかげか大分精神的に安定してきた。未だ心臓はうるさいくらい波打てど、身体が恐怖で震える状態ではなくなった。

 

「俺は……気がついたらここにいたんだ。それで、その……」

 

 ……どうしよう。なんて説明すればいい? バケモノがいるんだ、早く逃げよう? いや、そんな説明信じてもらえないだろう。

 

 

 ───そろそろ来るよ。

 

 

 脳に響いた声にハッとなり、耳を澄ますと濡れた長靴で歩くような、それか沼を無理矢理歩くような、そんな音が聞こえてきた。どんどん下の海から近づいてくる。もう、時間がないことは明白だ。すぐにでもここから逃げ出さなくては……。

 

「七草さん、説明は後でするからとりあえず逃げよう。ここにいるのは危険だ」

 

「危険? 何言ってるの、氷兎君?」

 

「良いから、行くよっ!」

 

「ひょ、氷兎君!?」

 

 彼女の手を取って走り出す。廊下を抜け、玄関で彼女の靴と誰のかはわからない靴を取り出して履き替え、すぐさま外に飛び出した。周りを見回してみても、特に人影のようなものは見当たらない。

 

「氷兎君、一体どうしたの……?」

 

 孤児院から遠ざかろうとすると、彼女は立ち止まってそう尋ねてくる。逃げようにも彼女が動かなくては逃げ出せない。まぁ、確かにあの孤児院は彼女の家だ。疑問があったとしても、逃げようとは思わないだろう。

 

「……信じてもらえないかもしれないけど、バケモノがいるんだ。あの孤児院に」

 

「……バケモノ……?」

 

 彼女が俯いてしまう。流石に言い方が悪かったか……いや、これ以上どう奴らを例えればいい? 怪物、地球外生命体、悪魔。それぐらいしか思いつかない。いずれにしても、簡単に例えられるのは、バケモノだろう。

 

「魚みたいなバケモノが……..ッ!!」

 

 立ち止まっている七草さんの後ろ側。今俺達が逃げてきた方から何かが跳ねるようにして移動してきている。更に海も多くの何かが泳ぐ音が聞こえてきた。バレたのか? いや、バレる様なヘマはしてないはず。だとしたら、単純に遅すぎただけか。

 

「逃げるところをちょうど見られたか……」

 

「な、なにあれ!? あれが氷兎君の言ってた奴……!?」

 

「とりあえず逃げるぞッ!!」

 

 七草さんの手を取って再び走り出す。跳ねて追って来る連中はどうやらスピード自体は遅いので追いつかれる心配はないだろう。だが、問題は真横の海を泳いでいる連中だ。波が道路に来ないように高くなっているとはいえ、相手は例えるならば魚人のようなものだ。海から高く飛び上がって地面に着地することもできるかもしれない。

 

「クソッ……どこまで逃げればいい……」

 

 とりあえず海から離れなくては。それが第一優先だ。後ろを跳ねて追って来る連中は、どいつもこいつも気分を害する顔をしており、人らしい奴は見当たらない。遠目からでも、見ただけで鳥肌がたつレベルだ。嫌悪感に顔を歪めながらも、彼女の手を取って逃げ続ける。

 

「……家まで走って逃げれるのか?」

 

 住宅地まで逃げてしまえば奴らは追ってこれないだろう。なにせ、海から遠い上に人に見られれば奴らは活動できないはずだ。見つかれば世間は奴らの存在を公にするかもしれない。

 

 ……いや、待てよ。ならどうして人に近い個体が追いかけてこない? なぜ魚人顔の連中に俺達を追わせる必要がある?

 

「……なっ!?」

 

 あと少しで住宅地といったところで、何やらその住宅地の方から何人もの人が集まってきた。各々手に何かしらの武器を持っていて、草刈鎌だったり農具だったりと殺傷性が高いものばかりだ。それを見れば嫌でもわかる。俺達を助けに来た人なんかではない。

 

「氷兎君、人がいるよ!! 助けてもらおうよ!!」

 

「いや、待て……あれは……」

 

 ……奴らもだ。あの目の前にいる人達は、深きものどもだ。間違いない。そもそも、人の顔をしている奴らが孤児院にいる必要は無い。住宅地にでも住まわせて人のように生きればいいだろう。つまり……あの群れなす人達は、人の顔をしたバケモノだ。

 

 足を止めて他の逃げ道を探すも、どの道にも奴らがいる。海から何体かバケモノが上がってきて、後ろには下がれない。前にも進めない。逃げ場が完全になくなってしまった。それでも諦めずに周囲を見回すが……なにも、ない。立ち止まった俺を不思議に思ったのか、七草さんが尋ねてくる。

 

「氷兎君……? 助けてもらわないの?」

 

「……違うよ、七草さん。あの人達も、同じだ。完全に囲まれた」

 

「……えっ?」

 

 彼女は人々を見て驚愕している。そりゃそうだ。俺だって思いたくない。まさか近くで一緒に生活していた人が、人ではなくバケモノだったなんて。

 

「……氷兎君。私、行くね」

 

 掴んでいた手をするりと抜けて、彼女が前に歩いていく。何を馬鹿なことを。俺は必死に彼女を呼び止めた。

 

「行くって……お前何言ってんだよ!! 殺されるかもしれねんだぞ!!」

 

「……私なら、大丈夫だから。ほら、知ってるでしょ? 私は強いから……氷兎君を逃がすだけの時間なら作れるよ」

 

 だから逃げて、と彼女は言った。泣きそうな顔で。彼女の顔を見て、胸がキュッと苦しくなった。その泣きそうな顔を、見たくない。彼女には、あの日見た純粋な笑顔のままでいてほしい。

 

 ……だが、俺に何が出来る? この状況を打破できる何かが、俺にあるとでも言うのか? いや、ない。バケモノと戦う勇気も、喧嘩が強いわけでもない。

 

「……いや……」

 

 ひとつだけ、あった。俺に出来ることはないけど、あの声の人物なら何かできるかもしれない。この状況を改善できるような情報か何かを持っているかもしれない。もう、藁をも掴むような心境だった。

 

 ……頼む。助けてくれ。 心の中で叫んだ。 彼女を守りたいんだ。彼女の笑顔を壊したくないんだ。なんだっていい、この状況を変えてくれ。アンタならなにか出来るんだろう!?

 

 

 ───藁にもすがる思いって感じだね。中々、面白いシチュエーションじゃないか。援軍もなし、頼れる者もなし。逃げ場もなし。ふふふっ……必死そうだね。なりふり構わず、私に助けを求めるんだから。

 

 

 その声は、こんな状況でも愉しそうに声を弾ませていた。その声に苛立ちが募る。何が可笑しい。どこが笑えるのだ。こんな絶体絶命のような状況のどこに笑える要素があるんだ。

 

 

 ───愚か者は好きだよ。禁断の果実を食べてしまった彼らのように、君もソレを手に取ってみる? 責任は取らないし、今後何が起ころうと知ったことでもないけど。

 

 

 ……周りを見回すと、本当にすぐ側にまで奴らは迫ってきていた。もう迷っている暇はない。俺は、声に向かって叫んだ。

 

 ……禁断の果実だろうが何だろうが、食ってやる!! だから、俺に彼女を助けさせてくれ!! っと。

 

 その返答を聞いた声は高らかに、満足そうに笑った。

 

 

 ───いいねいいね、それでこそヒトらしい!! その意地汚さと生への執着こそ、ヒトがヒト足り得るモノだ!! さぁ、君のその想いに免じて私から君へ力を貸してあげるよ。せいぜい……私を愉しませてちょうだい。

 

 

 声が聞こえ終わると同時に、足下から何か黒いものがせり上がってくる。まるで液体のようなそれは、俺の身体を飲み込むと溶けるように消えていった。その液体の中から出てきた俺は……別に身体が変わっていたりすることもなく、特に何も感じない。ただ……

 

 

 ……無性に空に向かって叫びたい気分だった。

 

 

 自分の真上では、満月に限りなく近い月が煌々と輝いている。まるで、新たなバケモノを祝福するかのように。

 

 

 

 

To be continued……



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第5話 渦巻く想い

 不思議な気分だ。身体がまるで自分のものではないように軽い。羽のように軽いという表現があるが、正しくそれだ。高揚感が身体を震わせ、戦えと心の底から何かが命じる。

 

 

 ───君にあげたその力は、月の満ち欠けで身体能力が向上するようになるものだよ。満月ならば最高潮に、新月ならば人並みに。ふふっ、まるで人狼(ウェアウルフ)だね。

 

 

 人狼。狼男とも呼ばれるモノだ。一般的には月を見ると狼化して人を襲うらしいが、そんなものも創作上の話だ。丸いものを見て変身するのもあれば、自分の意志で変われるやつもある。所詮は作り話、なのだが……。

 

 ……あぁ、確かに。証明できないが、現実なのだろう。今この身に起きていることは紛れも無く事実で、俺はこの場をどうにかして切り抜けなければならない。この力を使って。

 

「氷兎君……!? な、なに今の!?」

 

「……わからない。けど……使えることは確かだと思う」

 

 迫ってくるバケモノ達。心の底にいるナニカは叫ぶ。戦え、戦え、と。

 

 ……しかし、それは無理だ。武器もなし、戦闘経験皆無、守るべき女の子がひとり。土台無理な話だ。つまり、逃げることが最適解だろう。ラノベ主人公なら、ヒロイン助けて俺スゲーするんだろうが……生憎、こちとらそんな大層なものでもない。自己保身大好きな人間なのだから。

 

「しかし、どうする……」

 

 完全に囲まれている。奴らは『勝ち』を確信しているのか、不気味な笑みを浮かべながら歩み寄って来る。この場から離脱するなんて、空を飛べないと無理だ。

 

 

 ───もう少し君がどうするのか見たかったけど……もう来たのか。案外速かったね。

 

 

 不意に脳に響いたその声のあと、突如としてバケモノたちの後列の方で大きな火が上がった。爆発ではない。単純な火なのだ。まるで意思を持つかのようにソレは燃え上がり、バケモノからバケモノへと燃え移る。

 

「君達、大丈夫!?」

 

 バケモノの群れを跳び越えて、黒いマントのようなものを着けた中背くらいの女性が現れた。片手には細いレイピアのようなものを持っており、それを空中で振って先程の火炎を操っている。

 

 ……バケモノの悲鳴と、嫌な匂いがたちこめる。思わず顔を逸らした。

 

「あ、あの……貴方は……?」

 

 七草さんが女性に尋ねる。しかし、七草さんの後ろから人型の奴らが襲いかかってきた。咄嗟のことで、身体は動かない。彼女に危ないと叫ぶことすらできない。

 

「ぎ、あぁぁぁぁッ!?」

 

 ……襲いかかろうとした男の額に、レイピアが突き刺さる。悲鳴をあげて倒れ伏した男の頭から血が吹き出して、辺りを赤く染めていく。敵の存在に気がついてから行動するまでが、異常なまでに速い。なんというか、手慣れていると感じた。

 

「……困ったね。何処にこんな数いたのかしら……」

 

 彼女は俺達の声には聞く耳を持たない。いや、持てないと言った方が正しいか。なにぶん包囲された状態で、360度全ての攻撃から俺達を護らねばならないのだから。

 

「……君、まだ動けるよね。これ、護身用に持っておきなさい」

 

「これは……」

 

 真っ黒な拳銃を渡された。先端には筒のようなものがついている。ゲームで見たことがあった。これは……サプレッサーだろう。発砲音を小さくできる部品だ。持ってみると、昔持っていたモデルガンなんかとは比べ物にならないくらい重い。

 

 女性は近づいてくるバケモノ達を斬り捨て、時にはどこからともなく火を出現させて近づけないようにしつつ、俺に伝えてくる。

 

「君達がいると動きにくいの。逃げ場を作るから、その子を連れて逃げなさい。いいね?」

 

「……逃げる、ですか」

 

 願ったり叶ったりだ。しかし、この中を逃げろと? 火を操っているように見えるこの女性に、申し訳ないけど逃げ場を作れるとは思えなかった。

 

「………」

 

 ……飛んで逃げる他ない、とさっき考えたな。この女性の人は、跳んで来たわけだ。なるほど、確かにそれならば逃げられるかもしれない。人間のスペックでは不可能だと言いたいが、こんな不思議なことが連発していたら、驚くに驚けやしない。実際何故か、あの黒いのに覆われた後から嫌に冷静になっている自分がいる。

 

「……七草さん、行くよ。しっかり捕まって」

 

「え、ちょっ氷兎君っ!?」

 

 七草さんをお姫様抱っこで抱えあげて、一度体を低くする。そして……クラウチングスタートのように、一気に走り出して走り幅跳びのように斜め上に向かって跳躍するッ!!

 

「……まさか、天然物の起源……?」

 

 背後からそんな言葉が聞こえてくるが、そんなことにかまけていられない。下を見れば人型のバケモノが俺らを見上げて唖然としている。気分は優越、しかし考えるとこの後が不味い。

 

 物理的に考えてみろ。とんでもないスピードで跳んだ物体に着地した時にかかる衝撃を。空気抵抗以外では運動エネルギーが減少しないと考えれば、横方向にかかる力は減少しないせいで、このまま着地したら間違いなくコケる!!

 

「うわぁ……すごいよ氷兎君ッ!! 飛んでるよ!!」

 

 首元にしっかり抱きついて少し楽しそうに言う彼女に、俺は言いたい。そんな脳天気なこと言ってる場合かッ!! 死を免れたと思ったらまた死の危険だよッ!! しかも今度は自業自得ときたもんだ。

 

 あぁ、地面が……どんどん近づいてくる……!!

 

「お、っとぉッ!?」

 

「きゃっ」

 

 地面に着地した途端に、前向きにとてつもない力が加わる。それをなんとか後ろ側に力をかけることで抑えることが出来た。凄いもんだな、これ……。

 

 

 ───喜んでもらえたようで何より。

 

 

 ……脳に響く笑い声を無視しながら背後を確認すると、奴らのうちの何人かが追ってきていた。あの集団から抜け出すだけで大分跳んだもんだな……。なんて、呑気なことを言ってる場合でもないか。とりあえず逃げなくちゃ。

 

「……上だな」

 

「えぇ、また跳ぶの!?」

 

 見上げた先にあったのは民家の屋根だ。屋根伝いに走って逃げれば、奴らから逃げ切ることが出来るだろう。

 

 ……いやなに、忍者みたいに屋根走ってみたいとか思ってたわけじゃないよ。そう、これは逃走するための致し方ないルートなのだ。心の中でそう言い聞かせながら塀に飛び乗り、そこから更に屋根に登ってまた逃走を始める。腕の中では七草さんが、浮遊感を感じるのが楽しいのか笑っていた。

 

「凄いんだね、氷兎君!! こんなに跳べるんだ!!」

 

「いや……俺の力ではないって言うか……」

 

 複雑なものだ。しかし、彼女の笑顔の前ではそんなもの気にすることなく消えていく。まるで彼女の笑顔は邪念を祓うニフラムだ。アカンそれじゃ俺も光の彼方に消え去る……。

 

「……しっかし、これ迷惑だよなぁ」

 

 走って跳んで、屋根を伝っていく。当然、強い力は音を生む。屋根を走る音も、着地する音も無いわけじゃない。おそらく家の中にいる人驚いているだろうなぁ……。

 

「……見えた」

 

 自宅が見えた。今となっては愛してやまない我が家だ。あと少しで安全な場所に辿り着ける。

 

 ……が、何か変だ。ここからでも見える。なぜ、玄関の扉が開いているんだ……? 俺が外に出た時に開けた? いやでも、俺にその記憶はない。記憶がないだけで、開けて出ていった可能性もあるが……。

 

「氷兎君の家? なんか、綺麗だね」

 

「あ、あぁ……まぁ、そうだな」

 

 ……おかしい。嫌な予感がする。とてつもなく、抗いようのない不思議な感覚が胸の中で渦巻いている。行かなくてはならないという思いと、行ってはならないという意識が頭の中でグルグルと回っていた。

 

「……七草さん。とりあえず下ろすよ」

 

 家の前で飛び降りて、七草さんを下ろした。何やら彼女が少しだけ悲しそうな顔をしたが、今はそんなことに構っていられるほど内心穏やかではない。

 

「……七草さん、懐中電灯借りていい?」

 

「うん、いいよ」

 

「ありがとう」

 

 彼女に借りた懐中電灯を使って、玄関から中を照らした。靴が一人分多い。菜沙が来ている……? しかもこんな夜中に。それに、やけに靴が乱雑になっている……。

 

 ……何かが壁を叩く音が聞こえる。二階からだ。靴を脱ぐことも忘れ、俺と七草さんは中に入っていく。リビングに続く扉を開けて……。

 

 

 ……その凄惨たる光景を見てしまった。

 

 

「……嘘、だろう……?」

 

「……なに、これ……!?」

 

 赤だ。朱だ。紅だ。その部屋のあちこちにまるで絵の具をぶちまけたかのように、それらは広がっていた。そして、その広がる中心……そこには、昔から自分を育ててくれた父と母が三又に別れた槍のような何かに貫かれて死んでいた。

 

「なんだよ、これ……。は、はは……夢、か?」

 

 夢だよなぁ……。夢だと言ってくれ。嘘だ。嘘だッ!!

 

 こんなのありえない!! ありえるわけがない!! 俺は悪夢を見ているだけだ、こんなの、目が覚めてみれば何もかも無くなって、次の日にはいつものように記憶から消え去っている!!

 

「氷兎君、しっかりして!!」

 

 俺の前に回り込んだ七草さんが、俺の顔を両手で包んで瞳をじっと見つめて来る。

 

「氷兎君……落ち着こう、ね?」

 

 落ち着く……? 落ち着くだと?

 

「……そんなこと、出来るわけないだろッ。誰だ、誰が俺の両親を殺したッ!?」

 

 叫んだ。その声が家中に響いた後に、二階から悲鳴のような声が聞こえてきた。

 

 

 ……ひーくんッ!! ひーくん、お願い助けて!! ひーくんっ!!

 

 

「この声……菜沙ちゃん!?」

 

「っ、くそッ!!」

 

 階段を駆け上がる。真っ暗なその闇の中をただ進む。そして、二階にある自室の前には……三人の男が扉を何度も強く叩いていた。その身体には、真っ赤な血がついている。奴らは自分を照らし出した懐中電灯に気が付き、俺を発見した。

 

「おい、例のヤツだ。逃げ切ったのか……?」

 

「そんな馬鹿な……」

 

 なんて言葉が聞こえてくる。あぁ……確信した。コイツらもだ。バケモノだ。人の皮をかぶった……あのバケモノ(深きものども)だ。

 

「ッ……」

 

 無言で先程渡された黒い拳銃を向ける。正しい構えなんて知らない。ただ、懐中電灯と一緒にその銃を両手で奴らに向けた。

 

「……死ねよ、バケモノ」

 

 引き金を引いた。ゲームで聞いたような発砲音は出なかったけど……撃った弾丸は、確かに一番前にいた男の腹部に直撃した。小さな悲鳴をあげてその男が蹲る。

 

「お、お前なんで銃なんか……!?」

 

「……死ねよ、人の親を殺して……子供まで、いらなくなったら処分して……。お前ら、バケモノなんか……」

 

 今度は二発続けて発砲した。一発は、腹を抑えて蹲っていた男の頭に。もう一発はもう一人の男の肩に。反動なんてものを力づくで押さえつけ、再度引き金を引く。

 

「ッ、あ゛ぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」

 

 叫んだ。まるで獣のように。そして引き金を何度も何度も連続で引き続ける。銃口から弾丸が数発飛び出していき、弾丸は男達の身体を無慈悲にも貫いていく。

 

「──────ッ!!」

 

 もはや怒声とも言えないその声は止まることなく叫ばれ続け、引き金は銃が弾切れを知らせるカチッという音がなろうとも引かれ続けた。

 

「氷兎君ッ!! 弾切れだし、皆もう死んでる!! お願いだから落ち着いて!!」

 

「……あ、ぁ……?」

 

 背後から抱きしめられたその暖かさに、ようやく声は止まった。目の前に転がっている肉塊はもはや動く素振りもない。

 

「氷兎君……もう、良いの……。もう、終わってるから……」

 

 俺を抱きしめるその腕は、身体は……震えていた。それが、こんなことをした俺に対しての恐怖なのか、こんな非現実に対する恐怖なのか。それとも人が死んだことに対する恐怖なのか。俺にはわからない。

 

 ……わかるのは、銃を撃ったという感覚と、人を殺したという感覚と表現し難い罪悪感。そして、家族を殺されたという怒りと虚無にも似た何か。

 

 あぁ、形容し難い。なんなんだ、これは……。訳がわからない……。頭が、どうにかなりそうだ。

 

「……氷兎君。菜沙ちゃん、探そう? それで……ここから離れようよ」

 

「……あぁ。そう、だな……」

 

 彼女に手を引かれながら、俺は自室へと歩き出した。足元には肉塊が転がっていて、今にも動き出しそうで怖い。しかし、それらは動き出すことなく、自分の部屋の扉の前に辿り着いた。

 

「……菜沙、いる?」

 

 そう、声をかけた。すると中からは喜びとも悲鳴ともとれるそんな声で返事が返ってきた。

 

「ひーくんっ!? 本当に、ひーくんなの!?」

 

「あぁ……。扉を、開けてくれ」

 

「うんっ」

 

 何か重たいものを動かす音が聞こえる。おそらく、棚でバリケードでも作っていたのだろう。でなければこんな大人達の力ではこじ開けられてしまうだろうから。

 

 ……少し待つと、その扉はゆっくりと開かれた。中にいる菜沙が俺を視認すると、勢い良く開いて抱きついてくる。中で泣いていたのか、その顔には涙の跡が残っていて、誤魔化しているつもりなのか何度も身体に顔を擦りつけていた。

 

「よかった……ひーくん、助けに来てくれた……」

 

「……菜沙……」

 

 抱きついていた彼女は、下に倒れている死体を見て驚いた。言い訳する気もない。確かに明確な殺意をもって、俺が殺したのだ。そう、後悔はない。ない、けど……言い知れぬ不可解な感情だけが心の中を埋めつくしていた。そんな俺のことを見上げて、菜沙が尋ねてくる。

 

「これ……ひーくんが、やったの……?」

 

「……あぁ」

 

「……そっか」

 

 彼女はその後何も言わずに、ただ俺達を自室へと入れて扉を閉めた。そうしてようやく休める場所に来れた俺達は、床に座って休憩し始める。怖い思いをしたせいで俺から離れたくないのか、抱きついたままの菜沙に俺は問いかけた。

 

「……俺は、人殺しだ。奴らが、人ではないのだとしても、俺は殺した……なのに、お前は俺に何も言わないのか……?」

 

「……だって、助けてくれたから。それに、仕方の無いことでもあった。そうじゃないの?」

 

「……だが……」

 

 やるせない気持ちだけが、渦巻いていた。どうしようもないこの想い、いっそ否定された方が楽になれる気がする。お前は殺人者だって言われた方が、もっと何も考えずにいられると思った。それが、その場しのぎの逃げの手段であっても。

 

 そんな俺を見かねてか、菜沙は小さな声でポツポツと話し始めた。それは、ついさっきの出来事のようだ。

 

「……ひーくんの家から変な音が聞こえたから、見てみたら玄関が開いてて……それで、リビングにね、変な人たちがいてね……ひーくんのお父さんとお母さんのことを……。私、怖くなって悲鳴をあげちゃって、逃げようと思ったんだけど玄関にも人がいてね、仕方ないからひーくんの部屋に逃げたの」

 

 彼女は身体を震わせながら話を続ける。俺の服をぎゅっと掴みながら、耐えるように声を絞り出した。

 

「怖くて、助けも呼べなくて……けどね、そんな時にひーくんが来てくれたんだよ。ひーくんの声が聞こえて、幻聴じゃないかって疑ったけど……うん。ちゃんと助けてくれた」

 

 彼女は服を掴んだまま、俺を見上げて少しだけ微笑んだ。その目が、未だに揺れ動く俺の目を見据えているようだった。

 

「助けてくれて、ありがとう……ひーくん」

 

 ……どうにもならない気持ちがまだあって。捌け口も何もなくて。どうしようもなくて……。

 

 ……けど、彼女のその言葉と微笑みに、少なからず救われた気がした。

 

 

To be continued……



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第6話 起源

だいぶ長くなってしまった……。


 ……もうすぐ、日が昇る。弾は出ないとわかっていても持っているだけで不思議と安心できる銃を片手に、なんとか部屋で身体を休める。静かになった状況に落ち着いてきた頃、菜沙に七草さんのことを話した。あの孤児院がどんなものだったのか、そして何があったのかも。

 

 おそらく、俺は七草さんと孤児院で会った時点でマークされていたんだろう。あの顔のでこぼことした女性はきっと、そのためにずっと見ていたんだ。海からの視線もきっと、奴らに違いない。俺が七草さんと共に逃げた時点で、住宅地にいた連中に連絡を取って……父さんと母さんを殺したんだ。

 

「………」

 

 それは避けられないことだった。そうやって割り切れるほど俺は人として出来ていない。だって、何か解決策はあっただろう。もっと別の行動をしていれば何とかなったかもしれない。そうやって、頭の中で思考だけが空回りする。休んでいるはずなのに、まったく身体は休まらなかった。

 

 この後どうするのかも考えなくてはならないのに。色々なことがあって思考がまとまらない俺とは反対に、菜沙は冷静さを取り戻していた。彼女は窓の外を見ながら提案してくる。

 

「……日が昇ったら、逃げようよ。流石に日があるうちに追いかけては来ないでしょう?」

 

「……そうだな」

 

 彼女の言う通り、日が昇ったら逃げなくては。しかし、どこに? ここが俺の家だ。菜沙の家には逃げ込んでも意味がない。警察に話をした所で、とりあってくれるわけがない。人気のないところに行けば、より危険は増すだろう。

 

「………」

 

 ふと、持っていた銃に目がいった。この銃を渡してくれた女性は、何故こんなものを持っていたのだろうか。それに、このグリップ部分に刻まれたマークはなんだろう。OとGが半分ずつ重なったものだ。おそらく何かしらの組織を示すものではないだろう。会社のロゴなんかではこんなものを見たことがない。

 

 ……信じ難いことではあるが、あの女性が炎を操っていたように、そういったものがあるのかもしれない。あの口ぶりと慌てた様子のなさからして、戦いに慣れているのは明白だ。しかも拳銃所持。銃刀法とは一体なんだったのか。目を逸らしたくなる現実だったが、部屋の窓から外を見ていた七草さんの声で逸らしてる訳にはいかなくなった。

 

「氷兎君、外に人が来てるよ」

 

「……アイツらか?」

 

「ううん。多分……あの時の女の人じゃないかな? 服がそれっぽい気がするよ」

 

 火を操っていたあの女性が下に来ているようだ。一応侵入を防ぐために、扉の鍵は締めてあるけど……おかげでまたあの死体を乗り越え、両親の死体をまた見ることになった。本当に、気が滅入ってしまいそうだ。

 

「どうするの、氷兎君?」

 

「話を聞く限りだと味方……ってことでいいのかな? それなら早く助けてもらおうよ。ここまで来てくれたんだから、きっと何か助けてくれるはずだよ」

 

「……口封じじゃなきゃいいけどな」

 

 最悪そのパターンもありえる。あんな非現実的なものを見てしまったのだ。それが表沙汰になっていないということは、これまで起きたこういった事例を揉み消したということだ。つまり……見てしまった俺らも処分される可能性は高い。しかし菜沙は首を振って否定した。

 

「でも、それなら会った時点で殺すでしょう? それに、銃なんて渡さないはずだよ。わざわざ敵に塩を送る必要は無いと思う」

 

「……確かに、な」

 

 握っていた銃を一度強く握り直し、考え抜いた結論は話をしてみることだった。ただし、警戒は最大限しなくてはならない。玄関のチャイムを鳴らす音が聞こえてきた。もはやこれ以上悩む暇はない。

 

「俺と七草さんで相手をする。何かあったら……菜沙は逃げて。それまで隠れて待ってること。いい?」

 

「……うん」

 

 どこか不服そうに、しかしそれが最適だと思っているのか彼女はゆっくりと頷いた。自室から出て、一階に移動する。両親の死体をなるべく見ないようにして、菜沙を別の部屋に匿う。そして七草さんと俺で玄関に向かっていった。

 

『すいません。誰かいらっしゃいますか?』

 

 扉の向こうから声が聞こえてくる。声を確認しても、あの時の女性と同じということは明らかだ。少しだけ七草さんに離れてもらってから、俺はその声に応えた。

 

「はい。どちら様ですか?」

 

『その声……良かった。無事なようね』

 

 扉の向こうの女性は心底ホッとしたようで、声はだいぶ柔らかいように感じた。とりあえず、警戒はまだ続けながら話を続ける。

 

「おかげさまで。それより、何の用でしょうか」

 

『話したいことがあるの。君の両親はそこにいる?』

 

「……いえ」

 

 少しだけ口ごもったが、いないと答えた。いるにはいるのだ。ただ……生きていないだけで。考え始めると、また感情がマイナスに振り切れそうだ。今はそれを考えるべきじゃない、と俺は思考を切りかえた。

 

『そう……なら都合がいいかな。とりあえず入れてもらえない?』

 

「……そうホイホイと信用するわけにもいきませんよ。こっちも、結構切羽詰まってるので」

 

『逃げても追いつかれることになるけど? その銃に発信機ついてるから』

 

「……どうりで、この家がわかったわけだ」

 

 流石にこの住宅地をピンポイントで探し当てるのは難しいだろう。だとすれば、なるほど……発信機があれば見つけるのは容易いことだ。例え家にいようが、外で逃げてようが追いつくことが出来るのだから。にしても……弾が出ない銃を持っていても意味がない。捨てて逃げることも出来るが、おそらくもう逃げることも叶わないだろう。退路を絶たれている可能性が高い。

 

 となると……この女性の話を聞いた方がいいのか。信用ならないとはいえ、助けてもらった相手でもある。相手もそれを承知しているようで、更に話を続けてきた。

 

『……信用ならないのは仕方の無いことね。けど、よく考えなさい。私はあらゆる対抗手段がある。もちろん、あのバケモノに対して。けど、君は? 君みたいな子供に何が出来るの?』

 

「………」

 

『あのバケモノの残党がいれば、君は狙われるよ。けど、私と話をして判断してくれれば……君に対抗手段を提示できるかもしれない。君の命を取ろうだなんて思ってない。誓って、本当のことよ』

 

「……わかりました。話は聞きましょう」

 

 ……確かに、この女性の話には耳を傾けなければならない部分も多かった。なにしろ、俺には対抗手段が何も無いのだ。あの声が言っていた、月の満ち欠けで身体能力が向上するという変な能力があったとしても……それで何が出来る? 逃げることは出来るだろう。しかし、新月になったらそれもできない。自分の身と……菜沙と七草さんを護るためには、話を聞かなくてはならないだろう。

 

 扉を開けると、黒い服に身を包んだ女性が立っていた。短い髪の毛に、整った顔立ち。キリッとした眉が仕事のできる女性のような感覚を際立たせていた。女性の表情は俺達を安堵させるためなのか、柔らかな笑みが浮かんでいる。

 

「信用してくれたみたいね」

 

「……俺ひとりで何かできるかと言われれば、NOとしか答えられませんから」

 

「それに、その女の子もちゃんと護れたんだ」

 

「……まぁ、それに関してはおかげ様でとしか言えませんが。それと、話をしようにも……とりあえずこちらの現状に関して話をさせてもらいたいんです。リビングまで来ていただけますか?」

 

 女性は頷くと、玄関から上がり込んですぐ嫌な匂いに顔を顰めた。どうやら、何が起こったかを察したらしい彼女は、俺の右手に握られた銃を見て尋ねてくる。

 

「……残弾数は?」

 

「ゼロですよ。それと、まだ貴方にこれを返すわけにはいきません。返した途端リロードして撃たれたらたまったもんじゃないです」

 

「私には剣と魔術もあるんだけどね。忘れてない?」

 

 ……そう言われると、失念していたとしかいいようがない。だが、遠距離から狙われるよりは避けやすいだろう。七草さんなら近距離で余裕で剣を回避するくらいは容易いくらいに身体能力と動体視力が良いわけだしな。

 

「……まぁ、信用の為だし。これを預けておこうかな」

 

 彼女はそう言って鞘にしまわれた細い剣を、持ち手をこちらに向けて渡してきた。訝しげに思いながらも、俺はその剣を受け取ってからまたリビングへと歩き出す。多分持っていたところで戦力差は埋まらない気がした。接近戦に持ち込まれたら、剣を振るより速くこの女性が殴りかかってくるだろう。

 

「……これは、酷いね」

 

 リビングで起こった惨劇の痕を見た彼女の感想はそれだった。俺は隣で呆然としている女性に夜中に起きた出来事を説明した。

 

「なるほど……。ってことは、上に死体が三つか。隠蔽するのも大変だね、これ」

 

「……俺達も口封じで殺すつもりですか?」

 

「そんなことしないよ。でも……参ったね。ここじゃおちおち話もできやしない。となると……そうだね……私の所属している組織で話をする、ってのはどう?」

 

「わざわざ信用ならない相手の拠点に赴けと?」

 

「一応これでも国家機関よ」

 

「……冗談を。そんなもの聞いたことがない。ましてや、貴方の服装と、この銃や剣を見る限り自衛隊な訳でもないし警察でもない」

 

「それらも全部ひっくるめて、話をしたいの。悪いようにはしないよ。それに……なんなら保護もしてくれる。そこの二人もね」

 

 女性は後ろの方で待機している菜沙と七草さんを見ながらそう言った。それを言われると……どうにも強くは断れない。曖昧な返事になる俺に好機だと思ったのか、女性はトドメとばかりに言ってきた。

 

「どう、悪くない話でしょ? 君はこの世界について知れて、彼女達は国から護られる。君にとって悪くない話のはずだよ」

 

 ……本当に国家機関ならば、確かに彼女達の安全は確保されるだろう。それに、アイツらに関して知ることが出来るのならばそれに越したことは無い。隣にいる人物がバケモノかもしれない世界で、生きていこうなんて思えない。

 

 ……メリットに対してのデメリットがあまりにも無さすぎる。うまい話には裏があるものだが……。

 

「……その顔は、話を聞くってことでOKかな?」

 

 ……俺はその言葉に、ゆっくりと頷いた。いや、頷く他なかった。頼れるものが、なくなってしまったのだから。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 女性のものだという黒い車で長いこと揺られながら辿りついたのは、大きなビルの真横にある駐車場だった。それは幾人もの人が通る大通りに面していて、中でどんな事をしているのか検討もつかないものだ。後部座席で三人揃って座っている中、菜沙が服の裾を引っ張り小さな声で話しかけてくる。

 

「……本当に、ついてきちゃって良かったの?」

 

「……良いも悪いも、今後の話次第だろう。俺達に何も出来ないことだけは確かだ。それよりも、菜沙はいいのか? 恐らく奴らに知られてないはずだから、逃げることも出来たはずだ」

 

「……ひーくんが行くなら、私も行く。心配だから。それに、お母さんたちにも一応、連絡だけ入れてあるし。ひーくんと一緒にいるって」

 

 それはそれで問題になりかねないし、家に尋ねてこられたらアウトな気がするけど。それに、心配だからとついてこられても、最悪命の危険がある場所にまで来るとなると正直心労が増えるだけなのだが……。でもまぁ、隣に菜沙がいるだけで安心できる。いつも通り、というのはこんな状況だと心にとてつもない安寧をもたらすものなのか。こんな状況にでもなってみないと分からないことではある。出来ることならばそんな状況になりたくはなかったが。

 

「着いたよ。とりあえず私について来て」

 

 女性から渡された長い袋に剣と銃を仕舞い込み、降りていった女性について行く。俺が先頭で、隣にはいつものように菜沙がいて、手を握っている。その逆側では七草さんが遠慮がちに袖を掴んでいた。両手を使用不能にされると何かあったとき対処できないのだが……そんなことを、内心不安な彼女達に言える訳もない。そんな状況になっている俺を見た女性は、微かに笑って言った。

 

「仲良いのね、君達」

 

「……恥ずかしいだけですよ、こんなの」

 

 女性の目線から顔を逸らし、意識を周りに向けた。女性は、照れてるねぇ、なんて言って先を急いだ。ビルの中に入り、すぐの所にある社員専用と書かれたエレベーターの横に置かれたスキャナーのようなものにカードをかざすと、エレベーターの扉が開いた。

 

「さ、乗って」

 

 促されるままに乗り込むと、女性は下か上かしかないボタンの下を押した。エレベーター特有の浮遊感を感じながら下へ下へと降りていく。

 

「……長いな」

 

「まぁ、だいぶ地下に作られてるからね。誰も気がつかない、国家の暗部組織って訳よ」

 

 どれだけ下に行くのかと疑問に思うくらい乗り続け、ようやくエレベーターは止まった。

 

「……なんだ、ここ」

 

 ……そのエレベーターの扉が開くと、目の前に広がっていたのは廊下や部屋などといったものではなく、例えるならば庭園のような場所だ。木々が生え、草が生え、噴水から水が湧き、空を見あげれば太陽が輝く空が見えた。それはどう見ても地下には見えない。いや、地上とすらも思えなかった。街にはこんなに豊かで広い場所はないというのに、ここが本当に地下だというのか。いや、空には太陽がある。ならばここは地上なのか?

 

「綺麗……」

 

「うわぁ……!! 氷兎君見て、猫がいるよ!!」

 

 七草さんの指さす方向には、確かに猫が丸まって眠っていた。辺りには私服を着た人々が歩き回っており、皆年はそこそこ若かった。地下に来ていると思ったら、一体いつのまに地上に上がっていたのか。不思議な光景にポカンとしている俺達に女性は少しだけ笑いながら言った。

 

「ここが、私の所属している組織。基本的には地下で篭ってるんだけど、それだと精神的に持たないから、木々を取り入れ、癒しの小動物も取り入れて天井には空の景色を写すパネルを取り付けてあるの。おかげで昼か夜かもわかるし、なにより精神的に安定する。風がないのが残念って所かな。とりあえず、私達の指揮官がいる場所まで案内するから、着いてきて」

 

 地上よりも過ごしやすそうなこの場所を歩いていくと、大きな建物があった。この他にもいろいろと建造物はあったが、この施設のような場所だけは堅牢に作られていることがひと目でわかるくらいに、物々しい雰囲気がある。

 

 その建物の中に入っていき、迷いそうな通路を歩いていくと司令室と書かれた部屋の前まで辿り着いた。女性がノックをすると、中からは低い女性の声が帰ってきた。

 

「『魔術師』加藤(かとう) 玲彩(れあ)、只今帰還しました」

 

 俺達を助けてくれた女性……加藤さんがそう答えると、中からは入っていいぞという返事が返ってきた。加藤さんに続いて俺達もその部屋の中へと入っていく。

 

 部屋の中には、来客用のソファーと机、そして執務用の机と椅子が置かれていた。執務用の机と椅子の後ろには大きなテレビ画面のようなものが設置されており、椅子には厳かな雰囲気を醸し出す女性が座っている。知れずと生唾を飲み込んだ。

 

「ご苦労だった。連絡は既に聞いている。君達も、中々に大変な目に遭ったそうだな。まぁ、とりあえずそこのソファーにでも座りたまえ」

 

「……失礼します」

 

 一応礼儀は忘れない。促されたソファに座ると、そのままゆっくりと身体が沈んでいく。とてつもない心地良さが身体を包んでいった。

 

 その感触に浸っていたかったが、目の前の女性は両手を組みながら俺達に話しかけてくる。

 

「さて……話をする前に、自己紹介といこう。私の名前は木原(きはら) 咲瓜(さうり)。ここ、国家暗部組織『オリジン』の総司令官だ。オリジンというのは、君達が見たバケモノと戦う組織だと思って欲しい。無論、誰でも戦えるかといえばそうではない。バケモノと戦うには、人が本来持っている『起源』と呼ばれるものを感じ取り、行使できるかが条件となっている」

 

 淡々と話をする女性、木原さん。わからないことが多く出てきた。国家暗部組織、と彼女は言った。となると本当にここは国家組織なのだろう。そして、彼女の言う起源とはいったい何なのだろうか?

 

「起源についてか? 君は見ただろう。そこにいる加藤が炎を操るのを。彼女には『魔術師』という起源が存在する。そもそも、起源とはありとあらゆる人に宿っている……と考えられるものだ。100%かどうかは定かではないが、少なくとも君達にもあると思われるものだ」

 

 彼女は話を続ける。

 

 起源とは即ち、人の人生を決めるものと言ってもいい。身体的特徴なども、起源によってもたらされるものだと。稀に天然で自分の起源を理解し、行使する者がいる。それを起源覚醒者(オリジナリー)と呼び、起源を理解したものは、その起源に値する能力を手に入れることが出来る。それは剣の腕前であったり、事務的なものだったり、はたまた何に使えるのかわからないものもあるかもしれない。人は千差万別。よって起源も千差万別と言ってもいいだろう。

 

 我々も全てを理解しているわけではない。しかし、ここ十何年の技術的進歩により、我々は人の起源を読み取って理解させる装置を開発した。我々はその機械を敬意を込めて『タケミナカタ』と呼んでいる。

 

 そのタケミナカタを使い、起源を理解した者達は世を脅かすバケモノ……我々が神話生物と命名したその存在たちと戦い、世界を護っているのだ。

 

 ……と、俺達に説明した。彼女は両手を組んだ状態で問いかけてくる。

 

「率直に言おう。巻き込まれた段階で、我々はおいそれと君達を野放しにはできない。このことを世間にバラされるわけにもいかない。世を混乱させるわけにはいかないからだ」

 

 ……どこか嫌な雰囲気がしてきた。本当にこのまま口封じをされるのではないかと、不安になってくると、菜沙が俺の手をギュっと握ってくれた。

 

 ……大丈夫。口にしなくても彼女の思っていることが伝わってきた気がした。少し落ち着こう。一度深呼吸をして落ち着いたところで、木原さんは硬い表情のまま、俺達に選択を迫ってきた。

 

「君達には選択肢がある。我々オリジンと共に世界の為に戦うか。神話生物の存在に怯えながら我々に影から監視されて過ごすか」

 

「……自分がオリジンに所属することによるメリットを詳しく教えてもらえますか」

 

「ふむ……。まず、これでも国家組織だからな。給料は高いし、任務を遂行すれば特別手当が出る。装備の支給もするし、生活面での安全は確保しよう。無論、そこの女の子の両親もだ。住む場所に関してだが……残念だが地上では暮らせない。何かあった時にすぐに動けるよう、この地下施設にある居住スペースで過ごすこととなる」

 

「……高校に関しては?」

 

「残念だが、辞めてもらうことになるな。だがなに、安心するといい。給料なら高いし、不安な未来に身を置くよりは財政的に安定するさ。命の危険は伴うがね」

 

 ……選択肢なんて残されてないようなものだろう、これは。なにより、菜沙の両親の保護すらもしてくれる。住む所の提供までするときた。俺は別に……まぁ、戦うという命のやり取りは出来ればしたくはないが、奴らの影に怯えて過ごすなんてことはしたくない。

 

「……氷兎君、どうするの? 私は、住むところもないし……入ってもいいかなって。できれば、その……一緒がいいな、とは思うけど……」

 

 七草さんは入る気のようだ。まぁ、それもそうか。頼る宛もなし、家は使えない。そうなると最早ここだけが現状彼女の知る限り頼れる場所なのだから。

 

「ひーくん、死んじゃうかもしれないんだよ? 辞めとこうよ……私と、私の両親とで一緒に暮らせばいいでしょう。私、ひーくんに死んで欲しくないよ……」

 

 ……菜沙の言うことには、確かに頷ける部分もある。だが、思い返してみろ。俺はあの時、加藤さんが助けてくれなかったらどうなっていた? 無残に殺されていただろう。俺のほかに、そうなる人がいないなんてことは無い。

 

 正義の味方になりたいわけじゃない。俺だって両親が殺されてる。例えるならそう……復讐心にも似た何かだ。それと、二人を助けたいという想い。それだけだ。

 

「……悪い、菜沙。俺も七草さんと一緒に戦うことにするよ」

 

「……なら、私も一緒にいく。ひーくんから離れたくないから」

 

 離れることを拒否するように、菜沙は俺の腕を強く掴んだ。こうなると、菜沙は全くと言っていいほど話を聞かなくなる。困ったな……まぁ、目に届かないところで危険な目に遭うよりはよっぽどマシか……。

 

「……それに、ひーくんなら何かあったら護ってくれるでしょ?」

 

「……絶対とは言えないけど、やるだけやるさ」

 

「……うん」

 

 こほん、と咳払いが聞こえた。見れば木原さんが何やら甘ったるいものを食べたあとのような微妙な表情を浮かべていた。俺達が一体何をしたというのか。

 

「決まったようだね。なら、早速だけど君達の身分証明書を作らないといけない。ついてきてくれ」

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ついてこいと言われ、また迷路のような通路を歩いていきとある部屋に入ると、そこには何やら訳のわからない大きな機械が設置されていた。その機械の横には円柱状のカプセルのようなものが設置されており、何やら危険な感じがする。心臓がうるさくなる中、木原さんがその機械の前に立って話を始めた。

 

「君達の身分証明用のカードを作るために、起源を知らなければならない。さっき話した通り、これこそがタケミナカタだ。そこのカプセルに入ってスキャンすれば、君達の起源がわかる。とりあえず物は試しだ。誰から行くかね?」

 

「……自分からで」

 

 流石にこんな危なそうなものに菜沙と七草さんを先にやらせるわけにはいかない。木原さんに促されるままカプセルの中に入ると、機械の重々しい起動音が聞こえてきて、とてつもなく不安な気持ちになった。死にはしないだろうな、俺……。カプセルの上から下に向かって緑色の光のようなものが通り抜けていく。アナライズされた気分だ。

 

『ALERT!! ALERT!!』

 

 何やら警告文が鳴り響く。嘘だろ、嫌な予感がすると思えば……まさか俺本当に死ぬのではないか? 早くここから出してくれ!

 

 慌ててガンガンとカプセルの扉を叩くが、開く気配はない。目の前では木原さんも慌てている。この状況に驚いていた七草さんは、すぐさま駆け寄ってきて扉を無理やりこじ開けて俺を中から助け出してくれた。一気に身体から力が抜けていき、その場にへたれこんだ。

 

「こ、怖かった……」

 

「氷兎君大丈夫!? 何もない!?」

 

「だ、大丈夫なはず……」

 

 むしろそうであってくれと祈るばかり。木原さんは機械を弄っていて、何があったんだ……と呟いている。暫くすると、機械から一枚のカードが出てきて、それを手に取った。それを見た木原さんは、なにやらとても驚いた表情をしている。一体何があったというんだ。

 

「なんだ、これは……。いや、有り得るのか……?」

 

 彼女はその驚いた表情のまま俺の元へと歩いてくる。そして、そのカードを俺に向かって差し出した。

 

「見て驚かないでほしい。それが、君の『起源』だ」

 

 カードには自分の名前や生年月日、その他諸々が記載され、顔写真も乗っかっていた。そして注目すべきは、『起源』と書かれた欄。

 

 ……そこには、黒い服に身を包み、フードを被った人物が死体の上に立っている絵が描かれていた。そして、その絵の下には……『サツジンキ』と表記されていたのだ。

 

 

 

To be continued……



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第7話 仲間

 木原さんから渡されたカードを見て驚愕した状態で固まってしまった。横から菜沙と七草さんがそれを覗き見て、木原さんに抗議の声を上げる。

 

「なんでひーくんが殺人鬼なんですか!? おかしいですよ、こんなの!!」

 

「そうです。氷兎君はそんな人じゃない!!」

 

「いや、私に言われてもな……タケミナカタが変な挙動をしていたし、恐らく何かしらの不具合があったのかもしれない。起源も漢字ではなく、片仮名でサツジンキと書かれているからな」

 

 俺自身に関しては、それに対してどうこう思ったりはしない。君は殺人鬼なのだ、と突然言われても理解できる方がおかしいだろう。『起源』とは、その人の辿る経路か終着点、行動理念を表すものだと教えられた。ならば、俺は殺人鬼になる結末があると?

 

 ……いやいや、まったくもって笑い話にもならん。好んで人を殺そうだなんて思わないし、今まで生きてきてそんな兆候全くなかった。無意識のうちに人を殺していた、なんてこともありえない。なにせ隣には必ずと言っていいほどに菜沙がいたのだから。

 

「とりあえず……それが君の個人を証明するカードだ。なくさないでくれ。次は君達だ」

 

 次に入ったのは七草さんだ。俺の時とは違い、警告音が鳴ることなく終始平和で終わりを迎えた。本来ならばこれが正しいのだろう。まったく、なんで俺の時に限ってこうなったのか……。心臓に悪いったらありゃしない。

 

「氷兎君見て見て!! これが私のなんだって!!」

 

 嬉しそうにピョンピョンと跳ねる姿を幻視するかのような喜びようを浮かべながら、俺と菜沙にそのカードを見せてきた。

 

 『起源』と書かれた欄には、一人の女性が剣と盾を持ち黒いフードの人物の上に立っている姿が描かれている。ただし……逆さまに。不思議に思っていると、木原さんがその絵柄についての説明をしてくれた。

 

「すまない。先程のエラーのせいか、絵柄が反転してしまったのかもしれない。まぁ、機能自体に不具合はなさそうだ、そのまま使ってくれたまえ」

 

 彼女の起源は……『英雄(ヒロイン)』と書かれていた。なんだろうか、この差は……。まぁ確かに彼女には人知を超えた力があるとは思っていたものの、まさか英雄としての器があるとは思わなかった。

 

 つまりこれは、アレだろう? 世界を救っちゃったりする系のアレってことだろう?

 

 ……いや、良いなぁとか少ししか思ってないよ。だってそうだろ? 今まで実際に夢の中で見ていたような戦いの世界に足を踏み入れたわけだ。無論夢の中では俺は勇者だったさ。しかし現実は? 殺人鬼などという不名誉な称号と言ってもいいものが、俺という存在なわけだ。現実は、やはり俺には厳しい。もう少し優しくしてもらえないかな。

 

「さて、次は君だな」

 

 最後は菜沙の番。不安そうに俺を見てくる菜沙に軽く笑いかけ、彼女はカプセルの中へと入っていった。こちらも滞りなく終わりを迎え、彼女は俺達の元へと帰ってくる。

 

「これが、私の起源……?」

 

 彼女が渡されたカードには、天から差し込む光と、白いローブのようなものを着た、まるで神様とも見えるような女性が、両手で地球を構成しているような絵柄が書かれている。逆さまではない。そして、その下には『創造』と書かれている。木原さんがどこか嬉しそうに菜沙の起源について話してくれた。

 

「ほう、その創造は中々稀なものだ。様々な物質を作り替えたり、組み合わせたりして他のものを創り出すことが出来る。いわゆる開発向けといったものだな」

 

「……なるほど。確かに菜沙の起源かもな」

 

「私の……?」

 

「だって、菜沙は何かを描いたり作ったりするの、得意だろ?」

 

 まぁ料理に関しては及第点と言ったところではあるが、それ以外に関しては彼女は物を創るという点では類稀な人物だろう。

 

 ……それに、なんだか安心した。菜沙の力が何かを殺すものではないことに。彼女が創ったもので何かが死ぬかもしれない。しかし、彼女は手を汚すことにはならないだろう。結局、道具は創った人が悪いのではない。使った人が悪いのだから。

 

「にしても、二人もか……」

 

 と木原さんは呟いた。何のことだと問いただすと彼女は、カードの名前の横を指さした。その部分を見ると……俺のカードには何も書かれていない。一体何が……と怪訝な目を送ると、木原さんは菜沙と七草さんのカードを指さして言った。

 

「そこの二人、高海 菜沙と七草 桜華の起源は元より強力かつ練度がそこそこ高い。だから、二人のカードの欄には星のマークが記載されているだろう?」

 

「本当だ……。ひーくんは、ないよね。良かったぁ……」

 

 俺もそう思う。ただでさえ殺人鬼なんていう物騒な起源持ちなのに、練度があるとか何やってたんだって話だ。しかし、彼女達にはあって自分にはないというなんとも言えない敗北感のようなものも感じる。なくてよかったとは思うが、なんなんだろうな。

 

 なんだか変な劣等感を感じてしまい、俺は二人から視線を逸らした。俺の挙動を木原さんは気にしていないようで、淡々とカードの説明を続けていく。

 

「さて、君達に渡したそのカードはこちらの施設で位置情報がわかるようになっていて、更に生体反応があるかどうかも判別できるようになっている。常に肌身離さず持っておくことだ。あと、それを見せるだけで色々な店で割引が効く」

 

「便利ですねコレ」

 

 先程スキャンした時に、このカード自体に生体反応を識別させられるようにしたらしい。なのでこのカードがあればどこにいるのかはオリジン本部でわかるし、生きているか死んでいるかの判断もできるというわけだ。割引が利くとも言っていたが……いったいどれだけ安くなるのか。デパートで使えたりするかなこれ。

 

 日常的な部分でどれだけ有効的に使えるのかを考える傍らで、今度は任務についての話が展開されていった。

 

「次に話すのは、任務についてだ。基本は訓練兵から始まるのだが……高海と七草の二名に関してはこれは免除される。能力を使いこなせるのならする必要もあまりないからな。しかし、唯野には訓練を受けてもらわねばならない」

 

「……マジですか」

 

 二人共免除とか、なにそれ羨ましい。訓練とかとてつもなく面倒くさそうなんですけど。受け答え間違ったら腹パンしてくる教官とかいないですよね。

 

 不安いっぱいな俺を見かねてか、木原さんは引き締まっていた表情を緩めて俺に言ってくる。

 

「まぁ、安心するといい。そこまでキツイものでもない。訓練兵を卒業した後、一般兵へと昇格される。ここでようやく任務に参加出来るわけだ。ただし、基本的に男は外での任務に。女は基地防衛となる。まぁ、この基地が襲われるなんてことはないと思うが……精神的にも肉体的にも振り分けはこうなる」

 

「……なるほど。なら、安心ですかね。菜沙を危険なところに連れていきたくありませんでしたし」

 

「彼女は開発部に所属することになるだろう。武器の発明から、オペレートの手伝いまでする幅広い事務だ。七草に関してだが……先程の説明に加えて言わせてもらうと、一般兵の上にはオリジン兵と呼ばれる役職がある。君達が知ってる人物だと、加藤がそうだ。これは元の素質が高いか、任務の達成率で昇格することが出来る。無論給料も高いが……危険な任務が多い。七草は、既に基礎的なものも高い状態にあるので、最初からこのオリジン兵になるな」

 

「えっと……それって、つまり私は氷兎君と一緒の任務に出られないってことですか……?」

 

「現状はそうだな」

 

「……嫌です。私、氷兎君とじゃなきゃ任務に出たくないです」

 

 七草さんは木原さんに向かってそう言った。さて、言われた側の俺としては嬉しい限りなのだが……残念ながら、俺達が所属してしまったのは国家組織だ。いいや、例え国家組織でなくても社会の歯車になった時点で俺達にはルールというものが適応される。個人の我儘などそう簡単に通るわけがないのだ。

 

 とはいえ、七草さんもまだまだ子供。しかも精神年齢が見た目よりも幼い感じがある。そんなわがままを木原さんが聞いてくれるかどうかだが……その本人は困ったように眉をひそめていた。

 

「困ったものだ……まぁ、オリジン兵とはいえ君も年若い女の子だ。おいそれと危険な任務に出すわけにも行かない。基本は基地防衛に当てることになる。加藤のように、戦うことを志願するのなら唯野が一般兵に昇格してから任務に出ることになるだろう」

 

「……随分とそこら辺緩いんですね」

 

「当たり前だ。戦える人材は少ないのが現状なのだから。死人はあまり出したくはない」

 

 それもそうか。こんな起源なんてものを説明されて、お前戦えるからちょっとバケモノと殺し合いしてこい、なんて言われてもどうにもならない。覚悟があって、目的があってようやく戦えるのだ。

 

 ……まぁ、サブカルチャー好きな日本人だし、戦う覚悟なんかなくてもホイホイと参加しそうだけどな。そこら辺考えると、さっきの庭園にいたのが年若い人達だけだったのが理解できる。年寄りが戦うなんてできやしないし、おそらくこういった起源というものも、他者からの影響を受けやすい思春期が発現しやすかったりするのかもしれない。

 

「説明はこんなところか。施設の案内は別の者がすることになる。加藤と鈴華(すずか)、後は頼んだ」

 

 木原さんが閉まっている扉の方にそう言い放つと、扉が開いて加藤さんともうひとりの男の人が入ってきた。その風貌はどこか軽そうな人に見え、表情も緩んでいると見えなくもない。髪型は整えられているのかいないのかよくわからない形をしていた。いわゆる天然パーマだろう。黒髪ではなく茶髪なあたり、陽キャと例えるのがいいか。

 

 入って来た二人は俺達の前までやってくると自己紹介をし始めた。加藤さんは、さっきまで一緒にいたこともあってどこか嬉しそうに話しかけてくる。

 

「また会ったね。とりあえず、案内を頼まれた加藤 玲彩だ。こっちは……」

 

「うーすっ。先程呼ばれた通り、鈴華 翔平(しょうへい)だ、よろしくな! 後……あまり名字で呼ばないでくれよ。あまり好きじゃないんだ、女の子っぽくて……。そう思わないか、そこの少年?」

 

「……自分もそんな感じなんで、気持ちはわかります」

 

 話した感じ、とてもフランクな人のようだ。話しやすそうで安心できる。軽薄そうな見た目ではあるが、根は優しい人物のようだ。事前に打ち合わせをしていたのか、どうやら男女分かれて施設の案内をするらしい。まぁ、寝泊まりするところは流石に男女で別れてるわけだし、当然といえば当然か。

 

「じゃあ、また後でね氷兎君!」

 

「あんまり迷惑かけちゃダメだよ、ひーくん」

 

 軽く手を振りながら部屋から出ていく七草さんと、物寂しそうな顔の菜沙。三人が部屋から出て言ったのを確認すると、翔平さんが肘でつついてきた。何かと思えば、ニヤニヤと笑ってこちらを見ている。

 

「若いのにやるねぇ……二人も侍らせやがって」

 

「そんなのじゃないですよ。友達と幼馴染です」

 

「うわ、良いなぁ幼馴染。一緒に登下校とかやってみたかったわー」

 

 しかし最早そんな年でもなし。気がつけばあと少しで成人してしまう。あぁ、時間が流れるのは早いこって……。っと、大仰な手振りで落胆した。しかし、あと少しで成人ということは……歳近いのかこの人。

 

「そうそう、俺は大学を辞めてここに入って……まだそんなに長くはないな。まぁ、そこら辺は歩きながら話すとしようぜ。同じルームメイトになるわけだし? 親睦を深めるとしようじゃないか!」

 

 え、なにそれは。ルームメイト? そんな話聞いてないですよ俺。部屋共同で使わなきゃいけないのか……しかも、お相手はまさかの年上ときた。中々精神的に辛くなりそうなものだが。ノリの軽そうな人だし、付き合うには苦労しなさそうだけども。

 

「それで、翔平さん。どこに向かうんですか?」

 

「翔平さんなんて堅苦しいなぁ……もっと気軽に呼んでいいんだぜ? 歳近いし」

 

「流石に呼び捨てはしませんよ。となると……翔平先輩とかですかね?」

 

「先輩……先輩かぁ……なんか、いい響きだな」

 

 訂正。ノリが軽いんじゃなくてこの人ただの阿呆だ。先輩呼びとかむしろ堅くなってるでしょう、常識的に考えて。まぁ、敬語で話すことが出来るなら俺はなんともないわけだけど。

 

 どことなくしっくりきたのか、よーし! 俺は今日からお前の先輩だ! 等となにを当たり前のことを言っているのかと突っ込みたくなるのを抑え込み、彼の話を聞くことにした。

 

「んで、さっきの話な。大学辞めたのはまぁ、両立できないからだな。お前さん……って、名前聞いてなかったな」

 

「唯野 氷兎です」

 

「……ひょうと、か。なかなか稀な名前だな?」

 

 鈴華の方がまだマシなのではないか、と思うくらいの名前のセンスだ。リネームカードがあるなら、せめて読み方くらい変えさせてほしい。

 

「さて、話の続きだけど氷兎も高校を辞めるわけだろ? じゃなきゃ続かないし、仮にも国家組織だ。給料は高い。だから俺はこの組織に入ったってわけ。バケモノに襲われたのがこの組織に誘われたきっかけだったかなぁ……懐かしいなぁ」

 

 懐かしんでいる彼に、俺は今までの経緯を話した。両親が死んだあたりで、彼は顔を歪ませて、大変だったなと肩に手を置いてきた。その目がどこか潤って見える。感情の起伏の激しい人だ。

 

「俺なんかよりもしっかりとした理由で入ってんだな……」

 

「人それぞれですよ、そんなの」

 

「いやいや、立派なもんだと思うよ俺は。芯がしっかりしてれば、案外立っていられるもんだ。戦う理由ってのは、しっかりとしたのじゃないと自分を支えられなくなる。俺の同僚も、バケモノに襲われて恐怖のあまり狂っちまって戦えなくなった奴がいてなぁ……おかげで、今パーティーメンバー不在なのよ」

 

「……それで、新人の自分が先輩のパーティーメンバーになる訳なんですかね」

 

「そういうことなんじゃない? じゃなきゃ態々部屋まで一緒にしないよ」

 

 話を聞いていて、少しだけ背筋に嫌なものがはしった。同僚が恐怖のあまりに発狂か……。あまり聞きたくはない話だったな。やはり、これは命の奪い合いになるわけだ。相手は人間ではないバケモノ。俺も……一歩間違えれば発狂していたかもしれない。七草さんが止めてくれなかったら、どうなっていたことか……。

 

「まぁ、こんな話はここまでにしてだ。寝泊まりする部屋に向かうんだが……氷兎はゲームとかやるほうか?」

 

「……まぁ、結構やりますよ。自称ゲーマーを名乗る程度には」

 

「お、ならスマッシュシスターズでもやらないか? 相手がいなくて困ってたんだ」

 

「スマシスですか……って、ここゲームとかやれるんですね」

 

「当たり前だろ? むしろ金は貯まる一方だから娯楽に困ることはないぜ。ゲーマーにはありがたいことだな!」

 

 遊び相手ができて嬉しいのか、先輩のテンションが上がった。しかし、先輩がスマッシュシスターズを持っているとは……。色々な会社のゲームのヒロインが集まって大乱闘し、ヒロイントップの座を競うゲームなのだが、これがまた面白い。友達と一緒にやれば白熱した結果、リアル大乱闘が起こるまである。崖受け身程度なら俺でもできるし、それなりに相手はできるだろう。

 

「舐めてもらっちゃ困るぜ? 元グリーンべレーの俺に勝てるもんか」

 

「安心してください。俺だって元コマンドーです」

 

 流れるようなこの他愛ないやり取りで、俺と先輩の目が合った。間違いない……確実にと言えるほどに俺たちの心の中は同じことを考えていたと思う。

 

 ……この人とは仲良くなっていけそうな気がする。

 

 

 

To be continued……




ちなみに各キャラの名前ですが、重要キャラの名前は花の名前です。花言葉がその人を表すようになってます。

主人公は別です。


鈴華 翔平

一般兵。入ってまだ数ヶ月ほどで、同僚が発狂してしまったため現在はひとりの状態。今後は氷兎と共に活動することになる。髪の毛は軽い天パで、薄い茶色の毛色をしている。


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第8話 幼馴染との馴染み

 発砲音が響く。辺りには死体が数えられないほど転がっていて、火薬の匂いと血の匂いだけが満ちている。死体は男でも女でも何一つ変わらず身体や脳を撃ち抜かれ、あるいは鋭利なもので斬られた状態だった。

 

 

 ───なぁ、俺は後何人殺せばいい?

 

 

 返り血で染まった彼は、俺に尋ねた。俺はただ、返す言葉もなく俯いていた。見たくはなかったのだ。彼のその表情を。

 

 いつも明るく、飄々としているようで実はしっかりしていた貴方の……その憎悪と悲しみに満ちた表情を見たくはなかった。いつものように、貴方には明るい表情のままでいて欲しかった。

 

 

 ───ハ、ハハハ……あぁ、ざまぁみろ……。お前らは、アイツらにこれでも償えないほどの苦しみを負わせたんだ……。楽に死ねるだけ有難く思えよ……。

 

 

 ……言葉が出なかった。ただ、俺は仲間が欲しかったんだ。一人では無理だと思ったから。貴方なら賛同してくれると思ったから。けど……貴方のそんな顔を見るくらいなら、真実を伝えなければよかったと思った。

 

 

 ───ハハハハハ……なんだか、疲れたなぁ……。

 

 

 彼の瞳は、とても曇っていた。少なくとも、俺以上に。だって貴方は優しいから。きっと貴方は俺以上に人を殺している。きっと貴方は俺以上に傷ついている。きっと貴方は……誰よりも悲しんでいる。

 

 

 ───なぁ、正直に言ってくれよ。俺はお前と一緒に戻れないんだろう?

 

 

 ……頷けなかった。あぁそうだ。これは、俺一人しか戻れないのだ。貴方はこの世界で生きていかねばならない。それはとても苦しいことで、俺もこんなことになるなら貴方を誘うべきではなかった。

 

 

 ───わかってたんだ。それに、さ……きっと俺が一緒にいても、足でまといだ。お前は気が付けば、随分と遠くに行っちまったな……。なぁ、相棒?

 

 

 両眼から涙が溢れ出した。枯れてしまったと思っていたのに。あぁ……どうして、こうなったんだろうな……。

 

 

 ───悪い。俺はもう疲れた……。一足先に、あの娘の所に行くよ。もっとも……俺はきっと、天国ではなく地獄行きだろうけどさ。

 

 

 彼はその手に持っていた銃を俺に渡した。彼が昔から好んでいた銃。名を、デザートイーグル。彼は多くの銃を所持していたが、これの使用率はダントツだった。

 

 ……しかし、貴方が俺にこれを渡したということは……。

 

 

 ───お前の手で、俺を殺してくれ。なに、気に負うことはない。お前は正しいんだ。ただ……俺は疲れたってだけだ。お前のせいじゃない。これは、俺が選んだことなんだ。

 

 

 貴方は両手を広げて、上を見上げた。罅が入った天井が見える。最早その天井は昼も夜も映さない。ただの壊れた液晶画面だ。

 

 

 ───お前に会えて、本当によかった。楽しかったぜ、相棒……。

 

 

 ……俺も、貴方と会えてよかった。けど、出来ることなら……もっと別の出会い方をしたかったものだ。そうでしょう、先輩。

 

 

 ───……あぁ、まったくだ。なんだか、こんなシーンがゲームでもあったのを思い出すよ……。『お前ともっと別の出会い方をしていたら、きっと友達になれたかもしれないのにね』ってな……。

 

 

 ……えぇ。そうですね……。きっと、一生モノの友達になれたことでしょう。友人を超え、相棒を超えた……親友に。

 

 

 ───アイツも、アッチに居るのかね……。ハハッ、いたら退屈しなさそうだ……。

 

 

 ……もはや身体の感覚すらないこの身体を動かして銃口を彼に向けた。彼はただ、薄らと壊れたように笑っていた。

 

 ……違うか。貴方を壊したのは、きっと俺だ。

 

 

 ───じゃあな、■■。

 

 

 ……さようなら、先輩。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 ……アラームの音が聞こえる。目を開けてみると、そこにはそろそろ見慣れてきた天井が目に入った。真っ白で綺麗な天井だ。

 

「ふぁぁぁっ」

 

 反対側のベッドには、まだ先輩が眠っていた。この人はいつも起きるのが遅い。夜中まで一緒にゲームをやってたりするから、それが原因なんだが。むしろそれこそが原因なんだが。一緒になってやってるから特に何も言えない。

 

 俺がオリジンに所属してから、もうそろそろ一週間か。この一週間、ただただひたすら基礎訓練やVRによるヴァーチャルトレーニングを繰り返していたが……強くなったという気はしない。それと、自分の戦闘方法の確立もまだ定まらない。

 

 人には、得意不得意といったものが必ずしも存在する。それがないのはとんでもない超人か、不得意しかない可哀想な人かだろう。俺はどちらかといえば後者な気がしないでもないが……。

 

 この組織に入ったからにはあのバケモノと戦わなくてはならない。そんなこと重々承知していたはずだけど、どうもまだダメだ。いろいろな武器を試してみたものの、どうもしっくりこない。見た目と、取り扱いから刀を選んで使ってはいるけど、他の武器も試すべきだろうか。

 

 射撃訓練も、あまり良い成績とは呼べない。支給されたのは、コルト・ガバメントだったか。通称M1911、だっけ。詳しくは知らないが、先輩は結構詳しかった。ガンシューティングが得意で、気がついたら詳しくなっていたとか。そういえば棚にその手のマガジンが置かれている。

 

 有名な自動拳銃で、信頼性も高いらしいが、ド素人が扱ったところで、弾が狙った場所に飛んでいくわけがない。

 

「……はぁ」

 

 ため息がこぼれた。基礎トレーニングは割とすぐに終わったっていうのに、戦闘訓練をするヴァーチャルトレーニングだけはどうも上手くいく気がしない。VR装置なんてものも眉唾だったけど、それに自分の情報を電子情報として取り入れ、好きな設定で好きな相手と戦える、なんて……今になっても信じ難い技術だ。まだフルダイブゲームは開発されてないのに。

 

 身体の動きも何もかもが自分の限界までしか出せない辺り、本当に意味がわからん。イメージトレーニングの上位互換と思えと言われたけど……だったら、痛覚くらい遮断してくれ。死ぬほど痛い。

 

 VRに痛覚があるとか厄介にも程がある。殺した感覚もしっかりとあるし……現実世界と大きな変化がない。刀で斬れば、手には肉を絶った感触が残り、返り血は生温く、匂いも残る。唯一現実と違う点は、死んでも生き返ることが出来る、というところしかない。

 

「………?」

 

 コンッコンッ、と部屋の扉がノックされた。こんな朝早くに一体誰だろうか。寝間着から着替える暇もないので仕方なくそのまま部屋の扉に向かって歩いていく。

 

「おはよ、ひーくん」

 

 扉を開けると、そこにいたのは菜沙だった。彼女は普段通りの格好で、俺のように寝間着ではなく私服であった。基本女性は男性寮に来てもいいが、だからといって、男だらけのこっち側にそんな頻繁に来るのはよして欲しい。連れてかれたらどうする気だ、こいつは。

 

「おはよう、菜沙。こんな早くからどうした?」

 

「最近どうかなって。ほら、前まではもっと一緒にいれたけど、オリジンに入ってから一緒にいる時間短くなっちゃったから……。疲労とか溜まってない?」

 

「いいや、俺は大丈夫だよ。菜沙の方は? もう結構仕事とか慣れた?」

 

「私も大丈夫。基本的には七草ちゃんと一緒に過ごしてるから、話し相手には困らないしね」

 

 彼女は微笑んだ。普段通りの彼女に戻ってくれて心底ほっとしている。オリジンに入ってからすぐは……思い出すだけでも色々な感情がせめぎ合う。菜沙の両親に説明する時、そりゃもう二人共怒っていたし。あんな風に怒った二人を見たことがなかった。今までは、二人共とても優しいと思っていたけど……あの時の剣幕は凄まじく、今でも鮮明に思い出せる。

 

『なんで私の娘がそんな危険なモノに入らなければならないのですか!?』

 

『氷兎君の両親が死んでしまったのは心苦しいが、うちの娘を巻き込まないでくれるか!!』

 

『菜沙、私は許しませんよ!! そんなのに入ってどうするの!!』

 

『私はひーくんと一緒にいるの!! もう決めたんだから!!』

 

 言っては言い返しの酷い口喧嘩だった。それもそうだろう。彼女の両親にとって、菜沙は大切な一人娘だ。愛情を注いで育てられ、目に入れても痛くないどころか保養になるような、それでいて優しい女の子に育ったのだ。その大切な娘が、いきなり命の危険がある場所に入るだなんて言ったら、きっと俺に子供が出来たとしたら絶対に反対することだろう。

 

 ……だが、彼女は決して折れなかった。頑なに拒んだ。

 

『私なら大丈夫だよ!! 絶対にひーくんが護ってくれるから!!』

 

『そんな小僧に何ができるというんだ!!』

 

『護ってくれたの!! だから私もひーくんの隣で護るの!! 私は、ひーくんの隣にいるの!!』

 

 ……今にして思えば、とんでもない黒歴史を彼女は作ったのではなかろうか。居合わせた俺も中々に恥ずかしい思いをしたが。

 

 許可は貰えたけど、しばらく塞ぎ込んでたしなぁ。両親になんてことを……って言ってたけど。涙目で、それでも残ると決断してくれた。俺のために。

 

 ……護らなきゃなって、そう思った。いや、以前から思ってはいたんだ。けど、それとはもっと違うベクトルだ。今までは虐めや暴漢から護るために隣にいたが……これからは、彼女の命までも背負わなければならなそうだ。少し気が重くなるが、責任は果たさねばならない。

 

「そういえば、ひーくんの特訓風景見てないなぁ……。今日見てもいい?」

 

「別にいいけど……あまり見れたもんじゃないよ?」

 

「大丈夫だよ。私これでも結構強いんだよ、ここ」

 

 そう言って彼女は自分の胸を叩いた。あぁ、哀しきかな双璧よ。そこには水すら貯まるまい。視線を上げれば、半目で睨んでくる菜沙がそこにいた。

 

「……ひーくん?」

 

「……なんでもないです」

 

 女性にはやはり第六感という隠されたものがありそうだ。どうしてこういう時に限って人の心を見通してくるのか。不思議でならない。読心術はもうちょっと別な場所で使って、どうぞ。

 

「……まぁいいや。着替えてご飯食べてから行きましょう?」

 

「はいよ。菜沙は食べたの?」

 

「ううん、まだだよ。ひーくんのが食べたいなぁ……。ダメ……?」

 

「……まぁ、冷蔵庫にロクなもん入ってないから、いいものは作れないけどそれでいいなら」

 

「いいよ。私は、それがいいの」

 

 ニッコリと笑って、彼女は部屋に入ってきた。机に座って、俺の料理風景を眺める。その光景は、以前も度々あったものだ。

 

 ……壊れてしまった以前に戻れた気がして、本当に少しだけ……気が楽になった気がした。こんな日々がずっと続くとは思っていない。それでも、この日々が続けばいいと願うのは悪いことではないだろう。

 

 

 

To be continued……



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第9話 覚悟

 羽根をはばたかせて、醜いバケモノが飛びかかってくる。見るだけで正気を失いそうになるソレは、前足であろう部分についているハサミのようなものでこちらを切り裂こうとしてきた。

 

「……ッ!!」

 

 覚悟を決めて、両手で持った刀を上段から振り下ろす。頭部であろう、まるで触手の塊のような場所に刃が食い込んでいきバケモノを切断した。緑色の体液が辺りに飛び散り、醜悪な匂いが立ち込める。

 

 ……身体がふらつく程の目眩がした。胃の中身が逆流しそうになり、先程決めた『斬る』覚悟もまるで無かったかのように霧散していく。手に残った柔らかい嫌な感触を拭い去るように、ズボンに何度も擦りつけた。

 

「……やっぱ、ダメだな……」

 

 ため息を吐くと、目の前の空間に訓練終了のサインが現れた。辺りの景色が消えていき、自分の身体も青白いキューブのようなものとなって消えていく。気づけば、部屋は元の無骨な訓練室に戻っていた。

 

「お疲れ様、ひーくん。顔色悪いけど……大丈夫?」

 

 訓練室の扉を開けると、モニターを見ていた菜沙が近寄ってきた。彼女の言う通り、俺はどうにも酷い顔色をしているようだ。仕方がない。この訓練が終わる時は大体こうだ。今までのらりくらりと過ごしてきた俺には、こんな非日常的なものはどうにも慣れない。それはきっと、喜ばしいことのはずなんだが……それでは戦うことができない。仕事だと割り切るには、俺はまだ幼すぎるようだ。

 

「しばらくすれば治るよ……」

 

「そっか……。避けたりするのは問題ないのに攻撃するのはダメなんだね」

 

「……あの感触がどうもな。吐き気がするし、正直何かを『殺す』ということも気が滅入る。銃で撃つなら特に問題はないんだけどな……」

 

 置いてあるベンチに勢いよく座り込んだ。隣に座った菜沙が水の入ったペットボトルを渡してくる。お礼を言って、中身を一気に飲み込んだ。冷たい水が頭に響くが、むしろ気分が楽になった気がする。俯いて気分の悪さを誤魔化そうとする俺の背中を、菜沙は優しくさすってくれた。

 

「……私としては、このまま訓練兵でもいいんだけどね。その方が危険が少ないし……」

 

「そんなのはゴメンだ。何かあった時に、お前らを護れるくらいの力はつけておきたい」

 

「ひーくん……」

 

 ……目の前で大切な人が死ぬっていうのは、中々に堪える。頭の中が空っぽになって、心の中に次々と浮かんでくる感情や言葉が飛び出そうとする。理性の枷が外れ、自分の本能に従いたくなる。

 

 父さんや母さんが死んだ時に、俺はそうなった。奴らはバケモノだったとしても、人だったのだ。姿形や、声や、仕草までもが何もかも人間と変わらなかった。それを……俺は躊躇いもなく撃ち殺したのだ。憎しみに身を任せた結果だ。

 

 殺したことに後悔なんてしてない。けど、罪悪感を感じていない……と言えば嘘にはなる。けど、両親を殺した相手を殺そうと思って何が悪い。至って当然の心理のはずだ。

 

 考え始めるとどんどん悪循環で嫌なことばかりが浮かんでくる。それを断ち切ったのは、身体を揺すってきた菜沙の声だ。

 

「ひーくんっ」

 

「あっ……悪い。なんか言ったか?」

 

「もう……あんまり思い詰めちゃダメだよ。時には深く考えないことも大切なの。考え過ぎると、要らない心配まで増えちゃうから」

 

「……わかってるよ。大丈夫だ」

 

「心配だなぁ私は……」

 

 どうやら、彼女に心配されるほどに俺は精神的にきているらしい。もう何日も前のことだというのに……。自分の犯した罪からは、そう簡単に逃れられないということなんだろうな。その人に罪を犯した自覚があれば、の話だが。

 

「ひーくんってさ、他の武器使えないの?」

 

「他のだと……特になぁ。扱いやすいのがコレだっただけで他は同じようなものだよ」

 

「そっかぁ……」

 

「一応扱い方は教わったが……なんか変?」

 

「そうじゃなくてね……」

 

 彼女は先程まで見ていた俺の訓練時の状態と、戦い方について話し始めた。モニターに録画されている俺の戦闘記録を見せながら、動き方のぎこちなさ等を指摘してくる。

 

「やっぱり、ひーくんは何かを『殺す』ことを嫌ってる。私としては嬉しいことなんだよ、それ自体は。きっと、道徳観とか、人道とか……ひーくんの『起源』のことも自分の手で直接『殺す』ことを躊躇う原因だと思う」

 

「……まぁ、なくはないな。『殺人鬼』なんぞに、俺はなりたくない」

 

 人は『起源』に相当する力を発現する事で得ることが出来るらしい。しかし、俺にはそういったものはまったくもって現れなかった。対人戦なんてしたことはないが、それでなくとも何かしらの恩恵はあるだろう。運動能力が上がったり、刃物の扱いがうまかったり……。

 

 しかし、俺にあるのは『月の満ち欠けで身体能力が変わる』という、あの声の人物から授かった能力だけだ。流石にあの声の人物が『起源』と関係があるなんてことはないと思う。アレはもっと……なにか別のモノのような気がする。考え始めると、どうにも背筋がひんやりとしてきて、深く考えるのはやめた。

 

「私が思ったのは、何も殺すことだけが対処方法じゃないってことなの。気絶だとか、自由を奪うとか、そういったこと」

 

「……しかし、それをやるのは難しいだろ。刀で気絶なんて無理だし、自由を奪うにしても斬りつけなきゃならない」

 

「その点は大丈夫。武器の形状は違っちゃうけど……安心して。ひーくんにピッタリな武器を創るから」

 

「菜沙が作ってくれるのか?」

 

「うん! それに、私もその武器を渡すことでひーくんを護れてるなって思えるから……」

 

「……ありがと、菜沙。楽しみにしてるよ」

 

 彼女は笑って頷いた。そしてすぐに創る気なのか、部屋から出ていこうとする。その前に、今朝会って懸念していたことがあったのを伝えるために呼び止めた。急に呼び止められた彼女は不思議そうに首を傾げてこちらを見て来る。たまに、彼女は周りが見えていないんじゃないかと思える時があるから心配でならない。

 

「朝、お前一人で来ただろ? 次からは七草さんか他の女の人と来なよ。流石に男性寮に女の子一人はまずいって……」

 

「それもそうだね。心配してくれてありがと、ひーくんっ」

 

 心配されたことが嬉しいのか、彼女はまたニッコリと笑って、そのまま走り去って行った。こんな環境になっても、彼女は変わらない。何か作るときには、彼女は気分が高揚するのか、よくはしゃいだりするようになる。笑い方も、微笑みではなく歯を見せるような笑い方をするようになる。

 

 ……まぁ、どちらの笑い方でも彼女は可愛らしいのは変わらないことだ。俺としては物静かな菜沙も、何かを作る時に張り切る菜沙もどちらも素敵だと思うが……はて、なんであの子に彼氏ができないのやら。俺には不思議で仕方が無い。原因として挙げられるのは、やはり胸の大きさか。

 

「……ッ!?」

 

 突然背筋に嫌なものがはしった。これ以上考えるのはよそう。彼女に彼氏ができないのは、きっと彼女の中の理想が高いからだ。そうに違いない。そういうことにしておこう。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「おっ、帰ってきたか」

 

 自室という名の共同スペースに帰ってくると、先輩が椅子に座って小型の携帯ゲーム機で遊んでいた。この人は暇があるとすぐにゲームをし始める。もう見慣れた光景だけど……訓練とか、なさらないんですかね。

 

「はい。VR終わらせてきましたよ」

 

「吐かなかったか?」

 

「今回は、ですね」

 

 菜沙に言いたくはないから言わなかったけど。初日なんて思い出すだけでも酷い。ゲロ、追いゲロ、思い出しでさらにもう一度。ゲロラ、ゲロガを超えてゲロジャだ。先輩が後処理を手伝ってくれたおかげで助かったが……あまりぶちまけたくない。あの時は先輩がいてくれて本当に助かった。

 

「難儀だねぇ。俺なんて接近戦なんてしないからな」

 

「羨ましいですよ。交換しませんか、起源」

 

「殺人鬼は勘弁だなぁ」

 

 先輩はケラケラと笑う。『射撃』なんて便利そうな起源、羨ましい限りだ。昔からゲーム……特にFPSが得意だと言っていたし、恐らくそこら辺にも先輩の起源が働いているのかもしれない。

 

 しかも特別支給でデザートイーグルを渡されるとか、なかなか羨ましい。銃に疎い俺でもわかる有名さだ。それに多くのゲームで使われる。しかし俺が使うと反動が抑えきれないし……。それを扱えるのは流石先輩と言ったところか。

 

「しかし、お前さんが訓練兵の間は暇になるからゲームやり放題でいいねぇ。おかげでイカシューティングのランクがカンストしたぜ」

 

「暇人ですね本当……」

 

 ゲーム画面を見ながら、マンメンミッ、等と声真似をする先輩を少しだけ生暖かい目で見ながら、棚においてある黒いマグカップを取り出して、珈琲を淹れることにした。

 

「あ、俺も頼むわ。ブラックでいいぜ」

 

「背伸びしてます?」

 

「してねぇよ! 俺はブラックが好きなの!」

 

「味覚おかしいんじゃないんですかね」

 

 どうして砂糖も何もいれない珈琲が飲めるのか……俺には理解に苦しむね。言われた通り、棚から青色のマグカップを取り出して、準備を再開する。コーヒーミルを取り出して中に豆を入れて粉砕したら、今度は抽出するためにマグカップにフィルターを敷いて粉を入れてお湯を流す。豆を取り出した段階で匂いはしていたが、こうしてお湯を注げば更に良い香りがしてくる。この匂いこそ、珈琲の醍醐味ではなかろうか。

 

「……前々から思ってたんだけど、お前って細かいよな。珈琲淹れるって言ってそこからやるか普通」

 

「趣味なんですよ。家事全般と珈琲は」

 

「主夫か」

 

「専業主夫も、アリなのかもしれませんけどねぇ……」

 

 まぁ、そんな未来はないだろう。命かけてる仕事場で養ってくれるやつなんていやしない。それに、この仕事を辞めることは出来ないだろう。辞めたところで行き先もない。再就職しようにも、高卒すら取れてないわけだしな。厳しいだろう。

 

「……あれ、よくよく考えたら自分達ってこの仕事辞められなくないですか?」

 

「俺は大丈夫だ。高卒認定されてるし」

 

「あ、ズルい」

 

「ズルくねぇよ! これでも受験頑張ってた受験生だったんだぞ!?」

 

「で、どこ行ったんですか?」

 

「……そ、そこそこの大学だ」

 

「あぁ……」

 

 なんとなく察しがついてしまう。まぁ、そんなものも人それぞれだ。先輩に関しては、そんな大学に行くくらいならここにいた方が良かったのかもしれないけど。

 

 そんなことを話していると、珈琲の良い香りが部屋に満ちてきた。先輩の顔もどこか安らかそうだ。ゲームから目線は一向に離れていないが。

 

「……俺なぁ、大学なんて別にどうでもよかったんだ」

 

 ゲームから目線を離さずに、先輩は話を続けた。俺は珈琲の出来上がりを見ながらその話を聞き続ける。

 

「高校は進学校だった。まぁ、偏差値そこそこで家から近かったってのが理由だった。そんで、やりたいこともないまま三年になって、成りたいことも思いつかなくて。だから仕方なくって言っちゃあれだけど……大学には行っておこうってなったわけだ」

 

「子供の頃の夢とかなかったんですか?」

 

「戦隊ヒーローになるのが夢だった」

 

「色は?」

 

「ブラック」

 

「途中参加で手助けだけしてどこかに行く人じゃないですか……」

 

 二人の口から笑いが零れた。しかし、夢か……。生憎、俺には夢なんてものは存在しない。見る夢ならともなく、成りたい理想なんてものがない。

 

 ……為りたい幻想ならあるけれどね。夢の中で見たような、誰かを助ける勇者様って感じ。もっとも、そんなもんになれるんだとは思っちゃいない。現実はいつだって俺に対して残酷なのだから。

 

「成りたい理想がなきゃ、人は頑張れない。勉強にも身が入らなくて、大学に入っても特に気力は起きなかった。そんな所にオリジンからのお誘いだ。正直、渡りに船だったわけだ」

 

「怖いとか思わなかったんですか?」

 

「そりゃ思ったさ。けど……どうにも、俺にはペンを持つより銃を持ってる方が性に合うらしい。給料も高くて、誘い文句も中々魅力的だった。心のどこかで、誰かを助けられるヒーローになれるかも、なんて思ってた可能性もある」

 

「……同じようなものですよ、俺も。何に成りたいかなんて、まったく思いつきません。毎日を惰性の如く過ごしてましたよ」

 

 そう言って出来上がった珈琲の片方にミルクを入れて、砂糖を小さじで一杯とちょっと、そしてガムシロを二つ入れる。マグカップ二つを持って、先輩の座っている椅子の前にある大きな机に置いた。ちょうどゲームが終わったのか、先輩はお礼を言ってからそれを飲み始める。

 

 生憎と熱いものがすぐには飲めない。ゆっくりと冷ましながら飲み始めた。甘みと、仄かな酸味が心地よい。先輩の方も、満足しているようだった。

 

「……甘いのも、程々にしておけよ。人生苦いものばかりだ。こうやって、苦いものに慣れておくのも手だぞ?」

 

 先輩がニヤリとカフェオレを飲んでいる俺を笑った。それに対して俺も、口端を少しだけ上げて笑い返す。

 

「違いますよ、ソレは。人生苦ばかりだから、甘いものを摂取するんです」

 

「ブラック飲めないガキの負け惜しみにしか聞こえんなぁ……」

 

「ガキはどっちですか。歳一つしか離れてないのに、昼間っからゲーム三昧の人に言われたくもないですよ」

 

「お、やるのか? 喧嘩なら買うぜ?」

 

「上等ですよ」

 

 そう言ってお互い立ち上がり、棚に入っている棒状のものを取り出して、しっかりと握った。先輩の方はどうやら、ヌンチャクのようだ。

 

「……負けませんよ?」

 

「フンッ、前は負けたが……ありゃ本気の10分の1しか出してない。本気はこれからだ」

 

 真っ暗だった画面に光が点った。画面に浮かび上がるのは……数々のヒロインとスマッシュシスターズというタイトルロゴ。互いにweリモコン片手に不敵に笑った。

 

「勝ったらジュース1本な」

 

「それなら自分が勝ったら先輩はデスソースですね」

 

「待て、俺の被害が大きすぎるッ!?」

 

 そんなことは知らないとばかりに、俺はスタートボタンを押してゲームをプレイし始めた。

 

 気づけば夜飯の時間まで二人でゲームを楽しんでいた。先輩はどうやら前回は本当に本気じゃなかったようで……ゴリラにダンクされて呆気なく負けてしまった。飲み物を奢ってあげた時のドヤ顔が無性にイラッときて、飯に少量のデスソースを混ぜたけど、俺は悪くない。

 

 

To be continued……




『ミ=ゴ』

作中で書いたような容姿をしている。
知能レベルは高いらしく、外科手術が得意らしい。
生きたまま脳みそを缶詰にするのが好きらしいっすよ。


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第10話 黒槍

『設定完了。ヴァーチャルトレーニングを開始します。気分が悪くなった場合はすぐに使用を停止してください』

 

 その音声と共に不思議な感覚に身が包まれ、目の前が真っ白になっていった。そして、気がつけばどこかの建設跡地のような場所に俺は立っている。コンクリートむき出しの壁が少しだけノイズが走って四角いキューブのようなものに変わっていくのを見ていると、ここが現実ではないのだという実感が湧いてきた。

 

「……あまり、慣れないものだな」

 

 普段とは違う得物を手に持っているせいか、このトレーニングがいつも以上に緊張する。両手で斜めに構えている棒状の武器は、薄暗いこの場所で鈍く光っているように見えた。

 

『ひーくん、聞こえる?』

 

「あぁ、聞こえるよ」

 

 空からと言った方がいいのか。ともかく、上の方から菜沙の声が聞こえてくる。

 

『こっちでも見てるからね。今回はその使い勝手の確認だから、銃はあまり使わないでね』

 

「了解。んで、相手は?」

 

『えぇっと……ミ=ゴ……? ゴミの変換ミスじゃないの、これ』

 

「あぁ、うん……ミ=ゴで合ってる」

 

 もう何度も戦ったあのバケモノだ。身体はブヨブヨとした皮膚で覆われ、目などの器官はない。しかし耳はいいらしい。頭部は触手が固まったような気持ち悪い造形で、人で言えば両手となる部分はまるで大きなハサミのようになっている。切られれば一溜りもない上に、首チョンパされる危険性もあるのが恐ろしい。まぁ、何より恐ろしいのはそんな気味悪い生物が高速で殺しにかかってくることなんだが。

 

 初めて見た時は……さすがに衝撃的としか言いようがなかった。こんなのが日常生活に紛れ込んでいるとか、気が気じゃなくなりそうだ。蝿の羽音かと思って見てみたらミ=ゴでしたとか、発狂不可避。なんだか嫌な想像しちまった。

 

『とりあえず……頑張ってね。応援してるよ!』

 

 菜沙の声はそれきり聞こえなくなった。両手で持った武器をしっかりと握る。耐久性を考慮して作ってくれたらしい。持ち手から何からが硬い金属のようなもので出来ていて、先端部分は捻れて尖っている。持つところにはグリップが巻かれていて、握りやすい。

 

 身の丈程ある、槍。刀と比べてリーチが長い。接近するのはまだ怖いし、俺としてはかなりありがたいことだ。

 

 なにしろ、リーチの差というのは中々に厳しい。基本、剣は槍より弱いとされる。槍はそのリーチを生かして、相手に接近される前に倒すというのが定石だけど……初回からそう上手くはいかないだろう。

 

「……しかし、本当に『倒す』ための武器なんだな」

 

 槍の先端には刃を付けたりするものもある。ハルバート、と呼ばれる武器がその例だ。しかしこの武器は至ってシンプルなまでに真っ直ぐで先端が捻れて尖っているだけ。殺傷方法が突きか先端部分で引っ掻くしかない。

 

 しかも作りが硬い金属ときた。中国で使われる槍は、持ち手を木で作ってしならせることで威力をあげるという手段を用いる。対して、この槍はともかく硬くしてあるので強度は高い。相手の攻撃を受け流す、反撃で横殴りといったことができるだろうけど……かわりに、打撃でしか攻撃できない。槍と言うより、棒だ。

 

「………ッ!!」

 

 羽音が聞こえる。ミ=ゴが近くに来ているらしい。如何せん場所が場所なだけに音がこもって響くから、場所がわかりにくい。

 

「………」

 

 いや、むしろこちらの位置を割り出してもらうとしようか。その方が奇襲されるよりはいいだろう。ホルスターからコルト・ガバメントを取り出して虚空に向けて発砲する。乾いた音が辺りに反響していき、更に羽音が大きくなってきた。

 

(……..上かッ!!)

 

 恐らくコンクリートの柱に隠れながら背後から迫ってきたソレは、頭上にまでその羽根を動かして近づいてきていた。銃をしまい込み、両手で斜めに構え、足もそれに倣って開く。前傾姿勢で相手の出方を伺うことにした。

 

『キチ……ギチ、GI……』

 

 もはや虫の鳴き声とすら思いたくないその声を響かせながら奴は近づいてきた。恐らく、俺の居場所を察知したのだろう。少し後ろに下がると、一気にこちらに向けて突進してきた。

 

「………ッ!!」

 

 横に回避して、そのまま頭部に向かって槍を叩きつける。柔らかい皮膚のせいか、あまり効き目はないようだ。一旦距離をとって、再び槍を構え直す。

 

「どうしたもんか……」

 

『キチギチ……GYAAAAAA!!』

 

 地面に降り立ったソレは雄叫びをあげて再度突っ込んで来る。振り上げられたハサミを槍で弾き、そのまま弾いた反作用で槍を手元で回してもう一方のハサミを弾く。無防備な身体に向かって逆側で刺突、そして上にかち上げて頭部に打撃を与える。

 

「よいしょ、っとォッ!!」

 

 相手がふらついている中、地面に槍を立てて自分の身体を持ち上げる。そして空中で一回転してその勢いのまま頭部に向かって振り下ろした。手に伝わってくる柔らかい感覚。しかしその頭部の奥に奥にと槍は進み、やがて振り抜かれる。

 

「これで終わりっ」

 

 すぐさま地面に降り立ち、衝撃を膝で吸収するように片膝立ちになった状態でホルスターから銃を抜き取って発砲。一発目は身体に、二発目は頭部に、三発四発……と次々に撃ち込んでいく。

 

 ミ=ゴの悲鳴が響く。そんなものに構うわけもなく、七発撃ったら即リロード。マガジンを変えて、再度撃つ。そして相手がもう動く気力もなくなり、ただ生きるために足掻こうとする状態になったところで、両手で持った槍を思いっきり突き刺した。

 

「………」

 

 言い表せない不快感が身体を包んでいく。やはり、直接的に殺すのはダメだ。槍を抜き取ると、そこからは緑色の体液が流れ出して辺りを汚していく。

 

 そして目の前に浮かび上がる訓練終了の文字。乱射で倒したもんだが……まだ初回だ。これから何度か試していけばいい。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 VRルームから出てすぐの場所に菜沙と、七草さんも一緒にいた。彼女はここに来てからより一層笑うようになったと思う。同年代の友達が出来たのかもしれない。それに、期待の新人だと噂もされていた。流石は『英雄』様だ。

 

「思ってたよりも使えてるね。流石に最後の銃乱射はアレだけど……」

 

「仕方がない。倒すための戦い方なんだから、決定力に欠けるのは必然的なものだ」

 

 右手に持った持ち手から先端まで全てが真っ黒な槍を手元でクルクルと回す。流石に片手で回すのは中々にキツかった。一応両手武器だしな、これ。

 

 そうやって槍を弄っていると、先程までの俺の訓練の様子を見ていて興奮が収まりきらないのか、七草さんがどこか楽しそうに話しかけてきた。

 

「氷兎君凄いね! 最後の方飛んでなかった!?」

 

「あぁ、まぁ……棒高跳びみたいなものだな。ダメもとだったけど、案外出来た」

 

 まぁ、棒高跳びとは似て非なるものではあるけども。起源のおかげなのか、それともあの声のおかげなのか。身体能力は少しだけ人間離れしている。

 

 俺の訓練をじっと見られていたのは恥ずかしいけど……七草さんはまるで自分のことのように喜んだ。今も尚彼女の明るく無垢な笑顔は健在だ。なくならないでほしいと、切に願っている。

 

「……まぁ、結果としてはいいかな。どう、どこか変えて欲しいところとかある?」

 

 どうしてかふくれっ面な菜沙の言葉に、先程の戦いを思い返した。とは言っても、特に変更すべき場所はない。重さも充分、硬さも大丈夫、長さも扱いやすい。まぁ、まだ扱ってすぐだからというのとあるのかもしれないが……流石は菜沙と言ったところか。

 

「今のところはないよ。流石だな、菜沙。これ凄い扱いやすいよ」

 

「そ、そう……? うん……なら、良かったかな」

 

 ふくれっ面から一変。少し恥ずかしそうに顔を背けて、指で毛先を弄りだした。照れ隠しがわかりやすい。表情のせいでまったく照れ隠しになっていないけど。相変わらずこの娘は自分の表情を隠すのが下手というか……まぁ、菜沙らしいと言えばそれまでだ。

 

「……これで、ひーくんのこと護れるかな……?」

 

 不安そうに彼女は聞いてきた。それもそうだ、なにしろ命懸けの任務になるわけだし。仕事だからといって割り切れるわけでもない。もしかしたら、生きて帰ってこれないかもしれない。

 

 ……でも、彼女が作ってくれたこの黒槍(こくそう)は、きっとどんな窮地であろうとも俺のことを鼓舞してくれることだろう。彼女が俺を案じて作ってくれたもの。彼女が俺のために作ってくれたもの。昔から一緒にいた彼女が、離れていても隣にいるような感覚を感じさせる。

 

 きっと、この武器は俺のことを護ってくれるに違いない。そして、俺も彼女のことを護ろう。そう心の中で誓って、彼女の言葉に頷いて答えた。

 

「大丈夫だよ! 私も氷兎君と一緒に行くから、護ってみせるよ!」

 

 七草さんは自信ありげにそう言った。護ってみせる……と言われてもなぁ。女の子に護られるというのも、中々に男として体裁が悪いものだ。まぁ、実質彼女の方が強いわけだから四の五の言えないんだけど。

 

 ……果たして『殺人鬼』に『英雄』が護れるものなのか。

 

 少し自分に対して皮肉げに嘲笑(わら)った。何を馬鹿なことを言っているのか。殺人鬼だろうがなんだろうが関係なく、俺は彼女達を護りたい。それでいいじゃないか。

 

「まぁ、なんだ……俺も、七草さんのことを護れるように努力するよ」

 

 ここで、護るよだなんてカッコイイ台詞が吐けたらいいものだが……できないことは言うもんじゃない。命懸けで彼女を護ったとして、俺が死んだらどうなる? 彼女達は悲しむだろう。大切なのは、皆で生き残ることだ。少なくとも、俺はそう思う。

 

「えへへ……ありがと、氷兎君」

 

 七草さんは嬉しそうに笑った。俺もつられて、少しだけ微笑んだ。いや、どうにも暑い……。この部屋はクーラーが効いてるはずなんだけどな……。

 

「……ひーくん、顔真っ赤」

 

 菜沙の低い声で、一気に涼しくなった気がする。はて、暑かったのは気のせいか……しかし顔真っ赤と言われてもね。こんな可愛らしい女の子の幸せそうな笑顔を見て見惚れないのもおかしなものだと俺は思うけどなぁ。

 

「氷兎君ってよく顔赤くなるよね。体質なの?」

 

「ただの病気よ。放っておけば治るわ」

 

「阿呆。病気じゃないっての」

 

「ふーん……」

 

 ジトーっとした目で菜沙に睨まれた。俺がいったいお前に何をしたと言うのか。あれか、影で胸について批評したのがいけないのか。そんなにコンプレックスかそれ……。気にしないでもいいと思うんだがね。需要はあると思うよ、俺は。

 

「………?」

 

 七草さんはコテンッと首を傾げる。どうやら菜沙との会話のキャッチボールについていけてない様子。しかしまぁ……可愛らしい女の子がやる仕草というのは何をやっても可愛いようだ。菜沙はどちらかというと冷ややかな視線を送ったりする方が似合うんだがね。決して、首を傾げたりするのが似合わないと言いたいわけじゃない。

 

 菜沙は可愛い系ではなく、クールと可愛さのハーフなのだ。そこら辺は理解しているとも。

 

「さて、俺は部屋に戻るかな。先輩がやるゲームなくて暇してそうだし」

 

「二人揃ってゲームやっちゃうんだから……。でも、仲良くなれてよかったね」

 

「まったくだ。これで関係最悪だったら部屋割りの変更を要請してたよ」

 

 運が良かったとも言うべきか、それとも先輩の人の良さを褒めるべきか。なんにせよ、先輩との関係が上手くいってるのは非常に良いことだ。軽々しく話しかけられるし、ゲームに関してやちょっとした雑談などで話に花を咲かすこともある。学校で友人と話すのと何ら変わりない気がする。

 

「そしたら、私はひーくんと同じ部屋になろっかな」

 

「な、菜沙ちゃん……!?」

 

「お前高校生にもなって一緒に寝たがるのか……? そろそろ、親離れならぬ幼馴染離れをしてもいいんじゃないかと思うんだがね。それに、俺らも年頃の男女だ。同じ部屋ってのはダメだろう」

 

「それもそうだけど……別にいいじゃない。幼馴染なんだから、そういうのがあったって。ひーくんは私のこと何の了承もなしに襲わないでしょ?」

 

「当たり前だ。だが……お前はもう少し自分の容姿に関して考えた方がいい。ある意味思春期には毒だ」

 

「……そっか。そう思ってくれるなら、別にいいかな……?」

 

 相変わらず、彼女の言いたいことはだいたい分かるがこういったことに関しては何考えてるのかサッパリだ。なんだか七草さんも驚いてるし……。まぁあれか。ルームメイトがいきなりいなくなろうとして驚いたんだろう。

 

 菜沙はいつも通りのすまし顔……口元が少しだけ笑っているが、その状態を維持するように、俺の手を取って歩き出した。その後ろを、七草さんが追いかけてくる。どうやら、また俺達の部屋に入り浸るつもりらしい。

 

 

To be continued……



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第二章 未知の理解とは幸福なりや?
第11話 支度


 未知を理解するのは、素晴らしいことだと思うか。人は太古から未知を恐れてきた。その結果生まれたのが妖や鬼という御伽噺の存在だろう。

 

 では、例えば相手の考えがわかるとして……それは本当に素晴らしいことだろうか?

 

 君はきっと思うよ。こんなもの知りたくなかった、と。

 

 何たる矛盾。何たる我儘。未知は恐ろしいと言ったのに、理解した途端更に恐怖するのか。

 

 誰も知りたいものだけ、理解したいものだけを理解するなんて不可能だ。

 

 さぁ……未知の理解とは、本当に幸福なのかな?

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 朝を迎えて先輩と共にゲーム談義をしていると、俺と先輩に放送で招集がかかった。司令室まで来いとのことで、服装を整えて司令室の前へ。隣に並ぶ先輩の顔は緊張のせいか少しこわばっているように見えた。

 

「一般兵鈴華、訓練兵唯野二名、ただいま到着しました」

 

 部屋に入って、椅子に座って碇ゲンドウスタイルで待っていた上司……木原さんの前で揃って敬礼する。本当はしなくてもいいのだが、何事も雰囲気でなんとかなるという先輩の言葉でやらざるを得なくなった。一応軍隊ではないので、法律的にも引っ掛かりはしない……と思われる。

 

「ご苦労。早速だが、今回呼んだのは唯野の昇格任務についてだ」

 

「……早くないですか?」

 

 まだこの組織に所属して2週間しか経ってないんですがそれは。流石に早すぎるのではないですかね。そんな疑問を投げかけると、木原さんは後ろにあった画面に俺の訓練データを映し出した。

 

「見たところ、最近は大分戦えるようになってきている。戦闘面では問題ないだろう。しかし、戦えるだけがオリジンな訳ではない。現地での情報収集、情報を漏らさずに情報を得る、そして信頼の勝ち取り……そういった能力も必要だ」

 

「はぁ……」

 

「そして、今回丁度いい任務が用意できた。これの出来次第で、訓練兵からは卒業となる」

 

「俺は氷兎の付き添いっすかね?」

 

「あぁ。お前と、後オリジン兵である加藤も一応つける。万が一はおそらくないだろう」

 

 まさかの加藤さんも一緒についてくるらしい。戦闘面に関しては、この中で一番高いだろう。いやむしろオリジン兵になっている段階で俺達よりも高いことは歴然だ。木原さんは画面の映像を変えると、再び説明を始めた。

 

「今回の任務だが、ある山奥の集落に派遣していた諜報員の消息が途絶えた。元々変な伝統があるという噂の集落で、その調査に行かせた訳だ。しかし三日経っても連絡が帰ってこない。渡したカードの反応を見るに、生体反応が消失していることが判明した。諸君らにはその集落で何が起こったのかを突き止めてほしい」

 

「生体反応消失って……死んでるって事ですよね!? そんな危険な任務に初っ端からコイツを連れていくんですか!?」

 

 先輩が抗議の声をあげる。確かに……中々に恐ろしい任務の内容だろう。集落の人が諜報員を殺したという可能性がない訳でもないが……あんなバケモノの存在を知っている現在だと、バケモノが絡んでいるのだろうとしか思えない。

 

 木原さんは、ただ淡々と言葉を述べていく。これも昇格試験だ。第一割ける人員も少ない。オリジン兵も一緒だからそこまで大変な目には遭わないだろう、と。

 

 ……第一印象は、良くもなく悪くもない人ではあった。だが、こうして再度対峙してみると……なんだかとても冷徹な人なんだという印象を受ける。何かの目的のために、別の何かを切り捨てられる。合理的な判断の元で、ただ淡々と物事をこなすような……そんな人のように思えた。

 

「まぁ、受けるも受けないもお前次第だ。どうする、唯野?」

 

「氷兎、悪いことは言わない……。俺は流石に危険だと思うぞ」

 

 先輩は心配そうな目でこちらを見てくる。先輩は前の戦いで共に戦っていた同僚を失っていた。きっと、ここまで言ってくれるのもそれがあったからだろう。俺もそうなるのではないか……と。

 

 ……しかし、受けなければ昇格はできない。早いところ、実力を伸ばしていかなければならないのだ。そう考えると……やはり、受けた方がいいのだろう。

 

 俺は、木原さんに受けると頷いて返した。その俺の反応に、先輩は後頭部を掻き、木原さんは満足げに頷いて口を開く。

 

「まぁそういうことだ。加藤には連絡しておく。出発は明日にして、今日は準備をするといい」

 

「わかりました。しかし……任務となると、七草さんがついて来たがりそうですが……」

 

「今回はダメだ。昇格任務だからな」

 

「……了解です」

 

 懸念していたことの確認も取れた。七草さんは俺が任務に出ると言ったら絶対についてこようとするだろう。別に構わないんだが……やはり心配だ。

 

 彼女は『英雄』である以前に、女の子だ。それなのに危険な場所で戦わせるなんてあまりさせたくない。一歩間違えれば死ぬような世界だ。そんな世界で……まだ、彼女を護れるだけの力のない俺が一緒に戦うのは、怖すぎる。

 

 頭の中で色々な想像を繰り広げる中、木原さんに退室を促された俺達はそのまま外に出ると、すぐに先輩が話しかけてきた。

 

「……本当に、大丈夫か? 怖くなったら、俺が取り消すように頼んでくるけど」

 

 先輩はまだ不安なようだ。けれど、俺だって訓練はしている。毎日毎日サボることなくやっているのだから、少しは身になってるはずだし、怖くないといえば嘘になるが……大丈夫だろう。俺は先輩に、ほんの少し笑って言葉を返した。

 

「大丈夫ですよ。本音をいえば怖いですけど……そんなこと言ってられないです。俺は、せめて菜沙達を護れるくらいに強くならなきゃいけないですから」

 

「……そっか。なら俺は特に何も言うことはないかな」

 

 安心しきったような表情の先輩は、強めに俺の肩を叩いたあとニヤリと俺に向かって笑いかけた。

 

「まぁ、なんだ。困ったら頼れよ、俺はお前の『先輩』だからな!」

 

 ……その笑い方はどことなく自信と優しさを含んでいて、見る人に安心感を与えるようなものだった。不安だった心は晴れて、身体が少しだけ楽になった気がする。まったくこの人は……っと軽くため息をつきながらも、笑い返した。

 

「……えぇ。頼りにしてますよ、先輩」

 

「ひひっ、なんか恥ずかしいなコレ!」

 

「言わないでくださいよ、俺だって結構恥ずいんですから」

 

 通りすがる人たちが、訝しげな目で見るくらいに笑い合いながら俺達は自分達の部屋へと戻って行った。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 部屋に戻ってきて、いざ支度となると何を持っていけばいいのか中々思いつかない。長期滞在になる可能性もある。着替えは多いに越したことはない。後は治療セット、ソーイングセット、非常食など。こんなものだろうか。

 

「先輩は何か持っていったほうがいいものとかあります?」

 

「俺も滞在任務は初だからなぁ……正直分からん。とりあえず重くならない程度に詰めとけ」

 

 先輩も滞在任務をしたことがないようだ。しかし、だからといって鞄の中にゲーム機突っ込むのはどうかと思いますよ。流石に俺もゲーマーだが、任務だというのにゲーム機は持っていこうと思わない。

 

 とりあえず必要になりそうなものを詰め込んでいく俺を見ていた先輩が、どこか感心したような顔で話しかけてきた。

 

「……氷兎、お前って随分と家庭的だな」

 

「……そうですかね?」

 

「男で料理できて、裁縫から何からできるって何気にすごいと思うぜ。俺はそういったのはからっきしだ」

 

「まぁ、昔から菜沙と一緒に色々やってましたから」

 

 懐かしいものだ。お嫁修行と題して菜沙が俺に色々な事を教わりに来たのは何年前のことだったか。少なくともまだ彼女が料理が上手くなかった時のことだ。俺に得意なことはないけど……代わりと言ってはなんだが、いろいろと試していたからなぁ。親の代わりにやっていたとはいえ、料理も裁縫も特に何の苦もなく出来た。まぁ、すぐに菜沙に追いつかれて抜かされそうになっているが……。

 

 そんな俺の、数少ない趣味の珈琲だけは誰にも真似されない。ちゃんと豆から炊き始めて専用の機械まで使う。本格的な珈琲メイキングだ。

 

「……いや、誰も真似しないってそんなの」

 

「この奥深さがわからないのは……損してる気がしなくもないですけどね」

 

「きっとそう思うのは本場の人とお前だけだ」

 

 よっと、と声を出して先輩は荷物を纏めあげた。ゲーム機まで入っているはずなのに見てくれはコンパクトに纏まっているように見える。周りの散らかり具合は酷いものだが。

 

「周りの片付けしたらどうです?」

 

「手がつかないんだ。それに下手に弄るとパスワードとかコマンド書いた紙が紛失する可能性が出る」

 

「むしろ今の方がなくなりそうですけど」

 

 酷いものだ。先輩の私物として使われる机の上にはゲーム機と紙が何枚か散らばっていて、他の場所には漫画や攻略本がそのまま置かれている。今どきの男子高校生でももう少しまともな部屋だろう。

 

 苦言を漏らしながらも荷物の整理を進める中、先輩は今回の任務についての話を切り出してきた。

 

「……しかし、今回の任務は物騒だな。俺が今まで受けたのは、建設現場の夜間見回りと、事前調査とか。あとは地下水路の神話生物退治とか、そんな感じだった。ところが今回は一変して諜報員の死因究明ときた」

 

「生体反応が消失ってことはまぁ……死んでいる、ということなんでしょうけど。獣に襲われて死んだとかいう可能性はないんですかね」

 

「獣に襲われて死んだのなら、今頃ニュースにでもなってるさ」

 

 やれやれ、といった感じで先輩は肩を竦めた。最近のテレビではそういったものは報道されていない。となるとやはり、諜報員が死んだ可能性があるのはその集落だろう。

 

 携帯で調べてみても、最近そういったニュースはなさそうだ。人が調べている傍らで先輩は、まぁそんなことより……っと壁に立てかけてある槍を見ながら呟いた。

 

「武器を隠す方法をなんとか考えないとな。特にお前のその槍は隠しようがないだろ」

 

「……そういえば、確かに」

 

 身の丈程もあるこの槍をどうやって隠したものか。袋かなにかに入れても大きさ的に怪しまれるだろう。刀も隠しにくくはあるが、槍よりマシだろう。幾つか方法を考えるが、どうにもしっくりこない。まだ時間がある事だしっと俺は考えるのをやめた。

 

「まぁ、後々考えましょう」

 

「面倒ごとは後に回すと手につかなくなるぞ。ソースは俺」

 

「見りゃわかります。それに、自分そこら辺はズボラじゃないんで大丈夫です」

 

 まぁ、偽装するくらいならいくつか候補はある。例えば布を巻き付けて旗にするとか。そしてそれを掲げて高らかに叫べばいい。リュミノジテ・エテルネッルッ!

 

「ラ・ピュセル」

 

「先輩、それ自爆技ですよ」

 

 流石にやらないとも。俺はもう立派な高校三年生だった人間だ。厨二病はかかる以前に発症すらしなかった。懐かしき中学時代。俺がまだ部活に熱心だった頃……クラスにいたなぁ。目に入れても痛い上に言動も痛い男の子が。

 

「酷評過ぎて草生える」

 

「どこにだっていますよ、きっと。いませんでしたか?」

 

「あぁ……確かいたような気がするなぁ……」

 

 どこか懐かしむような遠い目になる。俺も少しだけ過去を思い出そうとした。しかし、過去に過ぎた日々はどれも菜沙といる光景ばかり。部活は楽しかったが、強くなれたわけじゃない。充実していたのか、と問われれば……まずまず、といったところか。断言できない辺りが、俺の灰色の人生を物語っている。

 

 ……その灰色の世界で色がついていたのは菜沙だけだ。今はどうなのか、と問われれば……最悪に近いと答えられよう。色に例えるならば、赤と緑。血液と奴らの体液だ。過ごす非日常は無情にも神経をすり減らしていく。

 

「……おっ、懐かしい。なくしてたと思ったもんが見つかると嬉しいもんだな」

 

 俺に言われて身の回りを少しだけ整理していた先輩は、なくしていたゲームソフトを見つけたらしい。

 

 ……おそらく、先輩がいなかったらもっと俺の神経はすり減っていただろう。この人が同じ部屋の住人で良かったと心の底から思った。もっとも、それを言葉にすることはきっとないんだろうが。

 

「……ん、来客か?」

 

 部屋をノックする音が響いた。先輩が扉を開けに行くと、そこにいたのは菜沙と七草さんの二人だ。彼女達は先輩に挨拶をすると、すぐにこちらに向かって歩いてきた。菜沙はどうにも意気消沈しているようで、表情は暗い上に、落ち着かないのか両手を合わせては離しを繰り返している。

 

「ひーくん……任務って、本当なの?」

 

「……まぁな。昇格任務だとさ」

 

 困ったように後頭部を掻きながら答えた。二人もどうやら木原さんから聞いたらしい。七草さんは不機嫌そうだ。頬がぷっくらと膨れている。

 

「もうっ、氷兎君のこと護るって言ったのに着いていけないなんて!」

 

「まぁ、次からは一緒だろうさ。今回は我慢してくれ」

 

 出来ることなら、彼女には戦って欲しくはないが。それはおそらく叶わない願いかもしれない。『英雄』である彼女には戦う運命が定められているのだろう。きっとそれは、悪しきを打ち破り、人々に安寧をもたらすことになるのかもしれない。

 

 ……いやはや、まったく。護りたいものほど、俺にとっては遠く感じてしまう。早く、せめて隣でなくとも足を引っ張らない程度には強くならないと。

 

「……次からって……わかってるのっ!? ひーくん、下手したら死んじゃうかもしれないんだよ!!」

 

 だが、どうやら菜沙は俺の返事が気に食わなかったようだ。一気に距離を詰め寄ってきて、半ばヒステリック気味に問い詰めてくる。彼女の言う通り、死ぬかもしれない。確かにそうだ。だが……。

 

「……そんなもん、承知の上でここにいる。怖がってたら、前には進めない。いざって時にお前達を護れなくなる。そんなのはごめんだ」

 

「けどっ……!!」

 

「はいはい、そこまで。一旦落ち着け二人とも」

 

 俺と菜沙の間に入った先輩が仲裁した。ニヤリと笑って、わざとらしい演技のかかった動きで俺の背中を叩きながら話し始める。

 

「心配なのはわかる。大事な幼馴染だもんな。けど、こいつだって男の子だ。意地とプライドってもんがある。大切なものは自分で護りたい。男の子って、そういうもんなのよ」

 

 一人で語って頷いている先輩を他所に、菜沙は俯いた状態で俺に話しかけてくる。彼女のその不安そうな声色が、やけに胸の奥に響いた。

 

「……嫌だよ。ひーくんがいなくなっちゃったら……」

 

「……俺達が所属したのは、そういう組織だ。仕方のないことなんだよ」

 

 気まずくなって視線をそらした。困ったもんだ。こういう時、どうしたらいいのか俺にはわからない。先輩に視線を向けると、自分でなんとかしろと言わんばかりの目を向けられた。心の中で、大きなため息をつく。どうしたらいいのかわからないが……正直に自分の気持ちを伝える他ないんだろう。彼女の俯きがちなその目を見ながら言う。

 

「……まぁ、なんだ。確証があるように言うのは好きじゃないけど……ちゃんと、帰ってくるから」

 

「……本当に?」

 

「……きっと」

 

 ……絶対に帰るよ、なんて言えなかった。死なないなんて保証はない。今だって、隕石が降ってきて死ぬ可能性がある。確率は、100%にはならない。だから、俺が彼女に言える言葉はこれだけだ。

 

「安心しなよ菜沙ちゃん! 君の幼馴染は、この超有能な俺がしっかり護ってやるからさ!」

 

 ドンッ、と胸を叩いて誇らしげに宣言する。彼なりの安心のさせ方なのだろう。少しは落ち着いたのか、菜沙は俺の手を握ると、ほんの数秒だけ目を閉じて祈るように握る力を強める。目を開けた彼女は、腑に落ちない様子ではあるが、精一杯笑って俺に言ってくれた。

 

「……わかった。待ってるから、帰ってきてね」

 

「……おう」

 

「私も、死んじゃ嫌だからね。菜沙ちゃんと待ってるし、何かあったらすぐに助けに行くから」

 

「ありがと、七草さん」

 

 各々、伝えることを伝えて彼女達は部屋から出ていった。菜沙に握られていた手を何度か握り直し、彼女達が出ていった扉を見る。死ぬわけにはいかない、何としてでも。

 

 一連の騒動を収めようとしていた先輩は、俺にも聞こえるくらい大きく息を吐いて、羨ましげにこちらを睨んでくる。

 

「良いもんだなぁ、幼馴染と美少女とか」

 

「僻まないでくださいよ」

 

「うるせぇ。ってか、俺の隣で死亡フラグを建てるんじゃねぇよ馬鹿野郎!」

 

「俺がいつ建てたんですか?」

 

「おま、女の子にちゃんと帰ってくるよ……とか、死亡フラグだろどう考えたって!」

 

「えぇ………」

 

 その程度で死亡フラグになってしまうのか。いや、あれただ普通に返事を返しただけなのに。じゃあどう返せというんだ。死ぬ気は毛頭ない、とでも言えば良かったというのか。こんな時にラノベ主人公ならどう言うんだろう。当てにならなそうな作品がつらつらと浮かんでくる中、先輩はやれやれと言った様子で肩を竦めた。

 

「しかも俺のフォローも意味がなくなったしよ……」

 

「それはすいません。しかし、超有能ってなんなんですか」

 

「俺は有能だぜ? 知らないのか?」

 

「戦闘スタイル見たことないですからね」

 

 そう答えると、突然先輩は何か考えついたような表情を浮かべて、ひとりでに笑い始めた。この人たまに怖いと思う。一体何を思いついたというのか。先輩は腹を抱えたまま、俺に向かって告げる。

 

「お前は俺が有能だと知ってるはずだ。You know 有能、ってな! くっ、はははははははっ!」

 

「……こりゃ酷い」

 

 くっそくだらないギャグ。しかも聞いてるのは俺だけ。まったく夏だと言うのに、冬みたいな寒さだ。アホくさ、恥ずかしくないのかよ。そう伝えたら、ん……まぁそう……なんて曖昧な返事が返ってきた。この人の頭の中、案外空っぽなのではないだろうか。

 

 

 

 

To be continued……



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第12話 天在村

 ───暇だねぇ。

 

 

 目の前にいる絶世の美女とも(とてつもなく醜悪な)言えるモノ(バケモノ)は退屈そうに欠伸をしながらこちらを見ている。気分が悪い。その黒よりも暗い、まるで暗闇そのものを表すような長い髪の毛が揺れて、自分を貶しているような気がしてくる。

 

 

 ───ねぇ、一つ気になったんだ。試してみない?

 

 

 嫌だ。その場から後ずさる。しかしよく動かない身体はすぐに彼女に捕まってしまい、そのまま拘束される。

 

 そして、なんてことはないように。例えるならば、子供の好奇心に溢れたような瞳で俺の眼を射抜く。その瞳は深淵のように深く暗い。吸い込まれて落ちてしまいそうな錯覚に陥った。

 

 

 ───私とヒトの子供って……どんな子が産まれるんだろうね?

 

 

 やめろっ。叫ぶも、彼女の手と巻き付く髪の毛が締め付けるせいで、その言葉はただの悲鳴へと変わる。彼女はただ不思議そうに、まるでその行為に意味はなく、結果に興味があるのだと言わんばかりの目を向けた。

 

 

 ───私のお願い(嫌がらせ)、聞いてくれる約束でしょう?

 

 

 逃げ場なんてものはなく、彼女は聞いてくれないのなら手伝わないと言い出した。あぁ、それは困る。困る、が……。

 

 ……その子に、産まれてくる子に罪はなくとも、きっとその子は幸せになれないだろう。すぐに死にゆく父と、誰もを魅了する(ありえない)母。

 

 

 ───安心しなって。私これでも初めてだけど、自信はあるよ?

 

 

 ニヤリと笑うその表情に、俺は悪態をついた。そして、信用も信頼もしていないどこかの神様に向かって祈った。

 

 ……どうか、産まれてくる子が異形などではなく、幸せになれるような子でありますように。

 

 ……そして、どうか俺が発狂しませんように。

 

 

 ───君は私を一体なんだと思ってるんだ。

 

 

 とんでもないバケモノ。

 

 そう答えたら笑顔でぶん殴られた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 ……車の揺れる振動が妙に眠気を誘う。おかげで車に乗って早々に眠りに落ちてしまったようだ。運転席に座っているのは、短い髪の毛の女性、加藤さん。そして助手席に座っているのは先輩だ。

 

「起きたの? もうすぐ着くから、準備と心構えだけしときなさい」

 

 その言葉に頷き、大きく息を吸って肺の中身がなくなると思うくらいに息を吐き出した。脈が早い。緊張しているようだ。気晴らしに外の景色を見てみると、舗装されていない道を走っているようだった。片方は木々が覆い茂る森、もう片方は畑だ。茄子や西瓜、トマト。見える限りではそのような野菜の数々が植えられているようだ。

 

 ……西瓜は果物? いや、西瓜は野菜だ。中学生でも知っている。

 

「……しかし、すごい道ですね」

 

「舗装されてない道なんて、そう滅多にあるものでもないわ。技術革新が進んで、田舎の利便性も上がった。知ってる? 田舎って昔は電車が1時間に一本しかないらしいの」

 

「……考えられませんね」

 

「そうね。けど、私達が今から行くところはそういう所よ。資料には目を通したよね?」

 

「えぇ、一通りは」

 

 木原さんから配られた資料には、これから行く集落の詳細が書かれていた。集落名を、天在村(てんざいむら)と言うらしい。技術革新の波に乗れていない昔からある集落で、その土地の土地神を信仰し、世に知らされていない風習があるらしいという噂があるようだ。

 

「私達は記者として潜入した諜報員の同社であるという体でいくから。そこら辺は宜しくね」

 

「了解です」

 

 ……と、言ったものの。潜入した諜報員の同社として話を進めるのはあまり得策ではないのでは、と思う。怪しまれはしないだろうか。村の人が殺した、という前提で話せば俺達も殺されるのではないか。

 

「……君のその心配は無用だよ。ちょっと思考を変えてみたらどう? これ以上同じ会社の人が帰って来なくなったら流石に怪しむ。そしたら、もっと多くの人や国家の力も借りることになって村の捜索をすることになる。村の人がそう考えるだけの頭があれば、私達を無闇に殺そうとはせずに穏便に帰そうとするはずよ」

 

「……なるほど」

 

 流石とも言うべきか。慣れているのだろう加藤さんには俺の考えていることは筒抜けの様子。そして、さっきから会話に参加しない先輩は何をしているのだろうか。

 

「あぁ、鈴華君ね。ゲームやって車酔い起こして眠ってるよ」

 

「……何やってるんだこの人は」

 

 頭を抱えた。こんな感じで大丈夫なのだろうか。

 

 ……いつもなら、大丈夫だ、問題ない。っと先輩が言ってくるのだが、本格的に眠りについている様子。この人からはゲームを取り上げた方がいいのかもしれない。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「よし、着いたよ」

 

 やっと着いたようだ。車から降りて、身体を伸ばした。座りっぱなしだったせいか、身体が痛む。先輩もどうやら起きたようだ。俺と同じように身体を伸ばしている。

 

「眠気がさっぱりするような新鮮な空気だな」

 

 言われてみれば、確かに。空気が透き通っているといえばいいのか。夏場だというのに妙に心地よい風が吹く。息を深く吸うだけで気分がリフレッシュするような感じだ。

 

 それはいいのだが……。

 

「……見渡す限り、転々とある民家と一面の畑。そして民宿はここの一箇所だけだ。まぁ、値段は安いみたいだよ。それとご飯が美味しいらしい」

 

 目の前に建っている、決して大きくはないが小さくもない民宿は、見てくれでわかるくらいに老朽化が進んでいる。だがしかし、それが実に味を出しているような気がしてならない。田舎の民宿と言えば、と言った感じだ。これはこれで悪くない。

 

「夜中に幽霊が出そうだな」

 

「……下手すりゃ幽霊よりもタチが悪いバケモノ相手してると、幽霊が特に怖くなくなるっていうのが不思議なもんですね」

 

「いや、幽霊の方が怖いだろう。なにせ剣が通らないからな……」

 

 まるで女の子のように怖がる加藤さん。いや、女性なんだけれども。しかし言ってることはただ脳筋こじらせた人のセリフなのが悲しいところ。結婚出来ないのは脳筋思考のせい……?

 

「蹴り飛ばすよ、唯野君」

 

「氷兎の言いたいこと、俺にはよくわかる。まさしく脳筋こじらせたセリフだが、問題はそこじゃない……。そう、外敵なんて恐れない加藤さんの幽霊を怖がるギャップ萌えがっ、あぁぁぁッ!?」

 

 笑顔で、しかし目だけが笑っていない加藤さんが先輩の背後に回って関節を極めた。ギリギリと嫌な音が聞こえてくる。先輩の悲鳴は、まるで地獄の阿鼻叫喚。だがしかし蜘蛛の糸は垂らさない。垂らしたら最後、糸が切れる前に無理やり手繰り寄せられることだろう。

 

「……はぁ。とりあえず、荷物下ろして民宿に置きに行くよ」

 

「はい。……先輩生きてます?」

 

「な、なんとか……」

 

 存外しぶとい先輩。中々に関節極められていたと思っていたが、動ける程度には加減されていたようだ。明らかにたてちゃいけない音をたてたり、手があらぬ方向に曲がっていたのが見えたりした気がするが、気のせいなのだろう、きっと。

 

 痛がっている先輩に目もくれず、加藤さんは自分の荷物を持つと、さっさと民宿の中へと入っていった。先輩は加藤さんがいなくなるのを確認した後に、少しだけ得意げな顔で言い放った。

 

「……やはり、女性の胸は柔らかかった」

 

「次は本気でやられますよ」

 

「合法的に女性にボディータッチされるのなら、いいのではないかと考え始めた俺がいる」

 

 これはもうダメかもわからんね。ONとOFFの切り替えどころか、未だにONの状態の先輩を見たことがないのだが。この人そのうちセクハラで連れていかれるのではないだろうか。

 

 そんなことを話しながら、車から荷物を下ろしていく。屋根の部分に括り付けた長い袋を地面に下ろす。勿論、中身は槍だ。布を巻き付け、その上で袋の中にしまってある。中身は何かと聞かれたら撮影用の道具だと言い張るつもりだ。

 

「ぐっ、なかなか重いな……」

 

 先輩は黒色のアタッシュケースを持ち上げるのに苦労していた。確か中には様々な銃が入っていたはずだ。ハンドガン、サブマシンガンなど。流石に狙撃銃の類はないようだ。愛用の銃であるデザートイーグル以外にはしっかりサプレッサーがつけられている。

 

 何故デザートイーグルにサプレッサーをつけないのかと聞いたら、カッコ悪くね、と返された。確かに、見た目はダサくなるが……愛用の銃で尚且つ高性能なのに普段使えないのはどうかと思う。ちなみに、俺の所持しているコルト・ガバメントにもしっかりサプレッサーはつけてある。

 

「しかし、コレ見つかったら警察行きですよね。その場合どうなるんですかね」

 

「オリジンだってことを証明すれば、なんとかなるらしい」

 

 そう言って先輩はポケットから身分証明用のカードを取り出した。『起源』を知るために作られたあのカードだ。先輩のカードには、両手で銃を持った男の絵が書かれており、その下には『射撃』と書かれている。名前の横の欄には、星のマークがついていなかった。

 

「先輩も、マークなしなんですね」

 

「……ん、マーク? なんだそれ」

 

「いや、名前の横に星のマークがついてる人は元から練度が高い優秀な人らしいですよ」

 

「へぇ〜、俺そんなの聞いた覚えなかったなぁ」

 

 この人の場合、素で忘れてそうだから参考にならないな……。おそらく、加藤さんのカードにはマークがついているだろう。確か木原さんが言うには、所属して即オリジン兵になったらしい。

 

 荷物を持って民宿に入っていくと、玄関に入ってすぐのところに淡い色の着物を着た女将さんが待っていた。

 

「お待ちしておりました。女性の方は先に行きました。お二人は別の部屋となっております」

 

「えっ、加藤さんと同じ部屋じゃないのか……」

 

「いや当たり前でしょうよ。流石に男二人と女一人はまずいですって」

 

「がーんだな。出鼻をくじかれた」

 

 さほど落ち込んではいない先輩と共に、この民宿の経営者である女将さんに案内されながら寝泊まりする部屋にたどり着いた。部屋は畳で、小型のテレビが置いてあり、真ん中には大きめのテーブルと座布団が敷かれていた。

 

 荷物を置いて、窓から外を見た。先程も見た光景が広がっている。川、畑、民家。のどかな田舎町だ。

 

「……一見、何もなさそうだがねぇ。こんな寂れた村に一体全体何があるのやら」

 

 先輩は荷物を下ろして整理しながらそう呟いた。確かにそうだ。こののどかな村で、人が一人死んでいる。しかも、おそらく殺されている。この窓から見える景色では、そんなものはありえないとしか思えないくらいだ。

 

 平和なこの村に……一体何の秘密が眠っていることやら。

 

 俺はただ、これからの不安と初の任務という高揚感に身を包まれながら調査の支度を始めるのだった。

 

 

 

To be continued……



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第13話 調査開始

 虫のさざめきと、川の水が流れる音が聞こえる。子供が遊び回る声や、おじいちゃんとおばあちゃん達の話す声が聞こえる。私はただ黙々と境内を掃除していた。夏だから落ち葉は少ない。秋はもっと大変だ。

 

 ……けど、この生活ももうすぐ終わりになる。小さい頃から教えられていた役目。私は、神様と一緒になるみたい。ずっとそうやって生きて来た。

 

 この半分だけの世界で、私は生きてきた。

 

 何の疑問も抱かずに。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 時刻は昼過ぎ。民宿について休憩していた俺と先輩の前に女将さんが昼食を運んできた。地元で取れた野菜をふんだんに使ったもので、とても美味しかった。新鮮な野菜というのは、みずみずしくて、甘かったり味が濃かったり。もはやドレッシングなど不要と言わんばかりの物ばかりだった。

 

「いや、参ったね。俺野菜嫌いだけど今の奴は普通に食えるわ」

 

「えぇ。味付けに盛り付け。文句なしと言ったところですね」

 

「お前の着眼点はそこか……」

 

 家庭的な奴の脳内がどうなってるのかさっぱりだ、と言わんばかりの目を向けてくる。いいではないか、別に料理が好きだろうが家庭的だろうが。世の中生きていく上で必要で、需要もある。女の子にモテたいのなら自炊くらいはできた方がいい気がする。

 

「いや、結局顔と金だろ」

 

「それ言ったらおしまいなんですって」

 

 中学の頃から菜沙と議論していた内容に、女は結局男の何に惹かれるのかといったものがあった。無論第一に上がったのはルックスだ。次点で清潔感。まずこれらがないと女子との接触がないという話になった。

 

 私は優しい人がいいな、と世の女の子は言う。俺はそれに疑問を持った。果たして、『優しい』とは何なのか。私に対して優しいのか、それとも分け隔てなく優しいのか。それに、優しいにも種類があるのではないか。態度、行動、表情。女の子の求める『優しさ』とは……。菜沙に聞いてみたが、彼女は答えてくれなかった。答えられなかった、と言った方がいいのか。

 

「先輩は、美人で性格ブスかブスで性格超いいか、どっちか選べと言われたらどうします?」

 

「……とりあえずどっちかに全振りするのやめようぜ」

 

「中学時代の俺もそう答えましたよ。結局聞いてきた女子生徒は、結局顔で選ぶんだろと何選んでも無理矢理論破してきましたけど」

 

「いるいる。俺の時にもいたわ」

 

 ……さて、この問題でもルックスか性格かの選択問題になったわけだが。そも、何故人がルックスを選ぶのかというのに着眼してみる。ルックスは、『目に見える』のだ。だが一方、性格は『目に見えない』訳だ。いや、性格の何もかもがわからないという訳ではない。その人の行動を事細かく観察してデータを作って分析すれば、おそらく結論は出るだろう。

 

 それは置いておくとして。俺が言いたいのは、内面はどう足掻いても視認することができないのだ。よく人が言うだろう、俺はこの目で見るまで信じないぞ、と。聞きかじった情報や、見てくれだけではその人の内面の全てを理解することは出来ない。否、本人ですら理解できない。

 

 例えば、さっきの問題で性格を選んだとしよう。果たして、その性格は本物なのか、というところだ。気に入られるために作られた『私』と、本当の、言い換えるのならデフォルトの『私』は同一ではないだろう。他人にどっちが『私』なのと聞いても、決してわかりはしない。

 

「……という訳で、人はルックスで判断するわけですよ」

 

「なるほど……。けど、その話にはひとつ考慮しないといけない点があるな。人は顔を変えられる、という点だ」

 

 先輩の言う通り。人は整形すればある程度好みの顔に変えられるだろう。この顔は『私』なの? と聞かれたら、他者は勿論と答えるだろう。

 

 顔を変えたのに、それが本当の『私』でいいのか?

 

 だって、それはもはや不変のものだ。移ろい変わる心情などという不確かなものではなく、しっかりと視認できて尚且つ触れることも出来る確かなものだ。

 

 少なくとも、見えないものを信じるよりは何十倍もマシではなかろうか。

 

「まぁ、男なんてそんなもんだ。見てくれと優しさがあればコロッといっちまうもんだよ」

 

「否定はしませんけどね。それより、こんなグダグダしてて良いんですか? 調査しないといけないのでは」

 

「明日から本気出す」

 

「これ、一応自分の昇格任務なんですけど……?」

 

 小さくため息をついた。そんな時、扉がノックされた。入ってきたのは加藤さんだ。なにやら額に青筋が浮かんでいるように見えるが……。

 

「……君達いつ動くつもりかな?」

 

「すぐにでも」

 

「い、今からやろうと思ってたんすよ」

 

 背筋に冷たいものがはしる。この人怒らせると中々怖い。先輩の額には一筋の汗が垂れていた。どんだけ精神的に驚いてたんだこの人は。

 

 まぁ、俺的にはそろそろ動き出したかったところではある。美味い昼飯も食べて、気合十分やる気も十分。気持ちを切り替えるように立ち上がって、槍の入った袋を持って旅館の外へと出た。流石に銃は置いていく。隠して持ち歩くのが困難だからだ。

 

「先輩はアタッシュケースごとですか」

 

「まぁな。俺これないと戦えないし」

 

 持ち込んでいた銃をひと通り詰め込んだアタッシュケースを先輩は持って出てきた。先輩が言うには、近接は全くもって出来ないらしい。そう言った先輩の目は少し泳いでいたが……まぁ、銃しか持ち込んでないあたり本当に近接武器は使えないのかもしれない。

 

「さて、じゃあ私は周辺の森とかで死体がないか探してみたりするから、君達はここで情報収集をお願い」

 

「わっかりました!」

 

「了解です」

 

 ベテランの加藤さんは単独行動。中程の大きさの袋を下げて近くの森へと進んでいった。加藤さんの場合、得物はレイピアのような剣とコルト・ガバメントだ。隠すのには苦労しないし、更に『魔術師』の起源覚醒者なので素手でも戦えることだろう。

 

 残された俺と先輩は、とりあえず民宿の女将さんに尋ねてみることにした。なにしろ、泊まれる場所はここしかないのだ。諜報員もここに泊まっていたはずだ。

 

「いいえ、ここには誰も泊まっていませんよ? こんな辺境に来る人も多くはないですし……お客様達が久しぶりのお客様なんですよ。なので料理も少し手を振るいました」

 

 ……と、聞いてみたところ泊まっていないという返事が返ってきた。変だな、集落となると隣人間の情報の受け渡しなどでは済まない。集落全体に情報が行き渡るはずだ。つまり、ここまで人が来ないのならば他所の人が来た段階で情報が出回るはず。

 

 つまり、諜報員はこの集落で泊まるどころか来てすらいないということになる。それはおかしい。その諜報員は確かにここにいて、そしてこの集落で生体反応が消えたはずなのだ。

 

 とりあえず女将さんにお礼を言って俺と先輩はまた外に出てきた。時刻はまだ昼。お日様も傾いていない。熱い日差しが立っているだけでも体力とやる気を削っていく。

 

「……どう思います?」

 

「さて……不思議なこともあるもんだ。確かに諜報員はここにいた。でも、見たことも聞いたこともないときた。つまり……ある日突然記憶が部分的にすっぽり抜け落ちたと考えるか」

 

「光を直視したら記憶がなくなるみたいな装置は未だに開発されてませんよ」

 

「だよなぁ。考えたくはないけど、集落の人達が口裏合わせてるって可能性が一番か。まぁ、まだ聴き込み一人目だし、他の人の証言も聞かないとな。口裏合わせてるだけなら、何人か聞けばボロが出るさ」

 

 やれやれだ。初任務は中々に手厳しい。しかし、口裏合わせとくると……さっきの話を掘り返す訳では無いが、心を見る力とか、そういったものが欲しくなる。人の顔が物語っていなくとも、心が見えれば嘘か本当かわかる。

 

 そんなものがなくとも、顔の部分的な動作とかを見ていればわかるにはわかるんだがね。例えば、瞳孔、口端、視線の動きなど。何かを尋ねて、左上を見れば未来を考えていて、右上を見れば過去を思い出しているなんてよく言われるものだ。驚いていれば瞳孔が開くし、右口端が動けば嘘をついている、なんてのもある。

 

 心理学と呼ばれるジャンルになるのだろうこれらは、覚えることが出来れば情報収集にも大いに役立つことだろう。目は口ほどに物を言う、とはよく言ったものだ。

 

「さて、粗探しといこうか」

 

「とりあえずは、近くから回っていきましょうか」

 

 そう言って、ぐるりと周りを見回した。

 

 ……近くと言ってもまぁ、民家の間が結構空いているんだけどなぁ。移動が大変そうだ。今度田舎に調査に行く時は車じゃなくて大型トラックで自転車でも積んでこよう。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 ───ここ最近でこの集落に人は訪れませんでしたか。

 

 

「だんか来たのかって? いやぁ、おらがさ村にはだんれも来とらんよ」

 

 

「都会っ子なんて来やせんよ」

 

 

「よそから来た人かぁ? あんまウチらの村歩き回らんでよ」

 

 

「用が済んだらとっとと帰った方がええ。ウチらよそ者をあまり好まんでなぁ」

 

 

 

 

 

 

 ……色々と歩き回ってみたものの、有力な情報は得られず。それどころか、よそ者に厳しいときた。時には話もせずに突っぱねられる時もある。調査は思ったよりも難航していた。

 

「……じい様ばあ様にイラついたのは初めてだ」

 

「奇遇ですね、同感です」

 

 ここまで来ると、むしろ怪しいものだ。隠そうとするあまり、隠すという行為自体が浮き出している。これでむしろ何も無かったのなら、本当に誰も何も知らないということになる。

 

「あぁクッソ! 調査がここまで面倒だとは……!!」

 

「まぁ、焦らず行きましょう。まだ来て一日目ですよ」

 

 空を見上げた。日が傾いてきて、もうすぐ夕暮れとなる。そろそろ歩き回って疲れも溜まってきていた。舗装されていない上に、距離も長いとなると疲れることこの上ない。携帯の方に加藤さんから連絡も入っていないので、あちらも特に進展はないだろう。

 

 今日はもうやめにしよう、と思っていたときだった。民宿に向かう途中で、赤い鳥居を見つけた。古く、所々赤味が抜けているようにも見えるが昔からある神社のような風格を保っている。その鳥居の奥には、そこそこ長い階段があった。

 

「神社か。どうする、神頼みでもしていくか?」

 

「……まぁ、やらないよりはいいでしょう。それに、中々良さそうじゃないですか」

 

「確かに。木が覆い茂る中にある神社。狐が出るか、ワープするか、どっちかだな」

 

「もしかしたら、忘れられたものが行き着く地へと行けるかもしれませんね」

 

 なんて、冗談を言い合いながら長い階段を上っていく。周りの木や、雰囲気などのおかげで階段を上るのは苦ではなかった。いや、オリジンに所属してから訓練はしてるので体力はついてきている。そのおかげでもあるのだろう。

 

 一段、一段、としっかり踏みしめて上っていく。そして遂に階段を上りきることが出来た。

 

「……お、おぉ……!?」

 

「…………!?」

 

 ……上りきった先にあったのは、上る前から予想できていた古びた神社。しかし、それだけではなかった。綺麗に整備され、掃除までされている境内。並んでいる像や地蔵もしっかり綺麗にされている。そして……。

 

「…………?」

 

 こちらを見つめて首をかしげている女の子がいた。紅白の巫女服と呼ばれるものを着込み、見ただけでわかるような手入れがしっかりとされた長く黒い髪。掃除用の竹箒を持つ、見るからに華奢な手。夏の暑さのせいで薄らと汗が滲んでいる額。背丈は、俺よりも少し低い。可愛らしい顔つきで、推定年齢は同じくらいだろう。

 

 そして、巫女服と同様に目を引いたのが、左目の部分に着けられている眼帯だった。

 

「……どうやら、本当に幻想の地に足を踏み入れたらしい」

 

「変態発言はNG。少し静かにしてください」

 

 この村で見かけることの少ない低年齢層……そして、話も聞きやすそうだ。この子なら何か知っているかもしれない。そう思った俺は、少し気恥しい思いに駆られながらも目の前で驚いたまま固まっている女の子に話を聞いてみることにした。

 

 

To be continued……



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第14話 人との差異

 目の前にいる巫女服を着た女の子は、珍しそうに、そしてどこか驚いたような様子でこちらを見てくる。隣で興奮している先輩はさて置いて、なるべく不振な素振りを見せないように歩み寄っていく。これでも、内心緊張しまくっている。自己紹介で噛みはしないだろうか。

 

「……どうも、記者としてこの集落の取材に来た唯野と言います」

 

「……あっ……ど、どうも……。巫女をやってます、花巫 菖蒲(はなみ あやめ)と言います」

 

 とりあえず噛みはしなかった。その事に安堵しつつ、彼女の服装などを見る。重たそうで、生地も厚そうだ。こんな炎天下の中そんな服装でいては熱中症で倒れないだろうか。とても心配になる。現に、彼女の額から流れる汗が首筋を伝って落ちていく。

 

「あ、あの……質問、なんですけど……?」

 

「なんでしょうか?」

 

 彼女、花巫さんは俺のことを……いや、目線がどうにも違う。彼女はどうやら俺の身体を見ているようだ。部分的には、心臓辺りだろうか。どことなく言いづらそうにしている彼女はオドオドとしたまま言葉を紡いだ。

 

「……腹黒い、と言われたことありませんか……?」

 

「……ないですね」

 

 いきなり内面否定されて驚いた。普通初対面の人に腹黒いなんて言うだろうか。答えを返してもなお、彼女は俺の身体の一部分をじっと見つめたまま動かなかった。

 

「……不思議な人、ですね」

 

「そっくりそのまま貴方に返させていただきます」

 

 言い返してしまったが、仕方がないだろう。別に怒っている訳では無い、ただ条件反射でツッコミ返してしまっただけだ。しかし、俺の返答に彼女は少しだけ笑うと、確かにそうですね、と返してきた。

 

「ごめんなさい、失礼なことを言ってしまって」

 

「構いませんよ。特に気にしていませんから」

 

「ありがとうございます。ところで、こんな寂れた神社に何か御用でも……?」

 

「……寂れている、とは自分は思いませんよ。立派じゃないですか。年月が経っているのに、原型を留めていて破損箇所も少なく、しっかりと掃除されていて、境内も綺麗ですし」

 

 率直に思った感想を彼女に伝えた。彼女はどこか恥ずかしそうに、頬に片手を添えて笑った。そんな彼女の顔を見ていると、やはり眼帯が気になってしまう。しかし、それを本人に聞くのは無粋というものだろう。

 

「ありがとうございます。これでも毎日お手入れ頑張っていますから……そう言っていただけると、嬉しいです」

 

「おひとりで、ここら辺全部を?」

 

「いいえ、時折祖父も手伝ってくれます」

 

「なるほど……。しかし、記事にするには中々にいい場所ではないですか。立派で風格ある神社に、綺麗な巫女さんまでいると」

 

「……そんなこと、ないですよ。綺麗だなんて……」

 

 視線を逸らし、少しだけ恥ずかしそうに俯いた。けど、その逸れた瞳の見つめる先は、やはり自分の心臓付近。彼女は一体、何を見つめているのだろうか。谷間があるわけでもない、まして彼女が女性で俺が男性だ。逆ならともかく、彼女が俺の身体を見つめる必要はないと思われる。

 

 ……単に話しにくいか、俺の顔が直視したくないほど醜いのか。後者なら泣ける。

 

「後ろの御方はお友達ですか?」

 

「……えぇ。仕事仲間ですよ」

 

 彼女が指差した後ろ側を向くと、先輩はカメラ片手に写真を撮りまくっていた。恐らく数分後にはSNSに挙がっている事だろう。流石に撮影許可くらい取りましょうよ。

 

 そんな願いが通じたのか通じていないのか、見られていることに気がついた先輩は笑顔で手を振りながら近寄ってきた。

 

「いやぁどうも、 同じ仕事やってる鈴華 翔平って言います! よろしく!」

 

「巫女をやっています、花巫 菖蒲です。……随分と明るい御方ですね」

 

「まぁ、そうですね……。先輩は元気で明るい人ですから」

 

 どことなく頬が緩んだように、安心した表情になった花巫さん。その視線は、先輩の顔から心臓付近に。やはり、表情ではない。ならば、彼女は一体そこに何を見ているのだろう。

 

「あっ、お時間大丈夫ですか? お茶入れますよ」

 

「なら、お願いできますか? こちらも幾つかお話を聞きたいものでして」

 

 彼女から話を切り出してくれたのは助かった。記者という名目上、記事になりそうな話を聞きながら本来の調査を進めなければならない。悟られるのは流石に拙いだろう。

 

 彼女は箒を片付けると、俺達を神社の裏手に招いた。裏手には、大きな洞窟のようなものがあり厳重に縄などで入れないようになっていて、何かを祀っているのか供え物も置かれている。それを通り過ぎると、小さな一軒家が建っていた。ここが彼女が普段生活する家なのだろう。

 

「さ、どうぞ上がってください。すぐにお茶を入れますね」

 

「あ、どうも、お邪魔します!」

 

「……お邪魔します」

 

 玄関に靴を脱ぎ、案内されたのは客間のような場所。真ん中にテーブルが置いてあり、座布団が何枚か敷かれていた。一面畳張りで、和風な家のようだ。

 

 そう言えば、畳には熱を吸収する作用があるんだとか。夏場には畳の上に寝っ転がると少し涼しいらしい。流石に招かれた家でそんな馬鹿な真似はしないが。

 

「はぁー、歩き疲れてクタクタだよまったく……」

 

「無駄足って訳でもないでしょうけど……収穫ゼロですからね」

 

 聞いて回ってみても、有益な情報は何も得られなかった。ここは、彼女が何か知っていないかにかけるしかないだろう。

 

 そんなことを考えていると、扉が開いて花巫さんが飲み物を持ってきてくれた。氷も入っており、受け取った容器が冷たくて心地よい。ゴクリッ、と一口飲み込むと乾いていた喉に冷たいものが流れていき、キンッと頭が痛くなった。

 

「冷たすぎましたか?」

 

「いいえ……とても美味しいです。喉が渇いていたので助かります」

 

「はぁ……冷たい麦茶って良いよな……。なんか、ザッ夏! って感じがする」

 

 貴方の脳内は年中春なのでは……? と突っ込むのを抑え込んで、適当に相槌を返しておく。花巫さんも麦茶を飲んで一息ついているようだ。

 

「……そういえば、この集落を見て回ったんですけど、花巫さんくらいの年齢の人って見かけなかったんですよね。子供は多かったんですけど……」

 

「えぇ。今では私一人です。大きくなると、皆都会に行ってしまいますから」

 

「はぁ、なるほど……。花巫さんは跡継ぎとして残っているとか」

 

「概ね、そんな感じですね」

 

 たわいない世間話を繰り広げる。どうやら本当に同年齢の人がいないらしく、友人もいないんだとか。だから、都会から来て尚且つ歳が近い俺と先輩と話すのが楽しいらしい。

 

「そういえばさ、花巫さん眼帯つけてるよね。ものもらい?」

 

「あっ……いえ、これは……」

 

 花巫さんが言葉に詰まった。それより、一体全体何やらかしてるんですか先輩はッ!! せっかくその話題に触れないようにしていたのに、台無しじゃないか。言葉に詰まるってことは、言い難いことなんだろう。しかも、会ってすぐの人に話すようなものでもない。だというのにこの人は……。

 

 内心先輩に対する愚痴を言いながら、困っている花巫さんに言葉をかけた。

 

「言い難いなら言わなくても大丈夫ですよ。それより、先輩はデリカシーが無さすぎます。普通聞きませんよ」

 

「えっ、いやそりゃ……気になったら聞きたくなるじゃないか」

 

「初対面で、会って間もない上に女性ですよ。流石にダメですって」

 

「お、おう……その、ごめんな花巫さん」

 

「いえ……大丈夫です。やっぱり、気になっちゃいますよね」

 

 頭を下げる先輩に、困ったように笑う花巫さん。どんよりとした重い空気が部屋に蔓延する。どうするべきか。元凶たる先輩が話題を振るか、俺が空気を変えるか、それとも……花巫さんが詳細を語るか。

 

 ……いや、それは酷というものか。時間もいい頃合だ、ここら辺で引き上げるのがいいかもしれない。

 

 そう結論づけて、何か迷った表情をした花巫さんに向けて俺は言った。

 

「……そろそろ暗くなってきましたから、自分達は帰りますね」

 

「あっ……そうですか。わかりました。唯野さんと鈴華さん、お話をしてくださってありがとうございました」

 

 頭を下げてお礼を言ってくる花巫さんを尻目に、先輩に視線を送る。先輩は、もう帰るのか? と言いたげな表情だったが、これ以上留まるのも良くない、と強引に視線と首の動きで帰るように促した。先輩は、小さく頷いてアタッシュケースを片手に立ち上がった。

 

「こっちも、楽しませてもらってありがとね。それじゃあ、先に外に出てるわ」

 

「了解です、すぐ行きますよ」

 

 先輩は足早と出ていった。流石にこの空気では居づらいだろう。優しいのは先輩の美徳だが、その心配する心は時に人を傷つける。親切は時に人のためにはならないのだ。

 

「……すいません花巫さん。あの人、優しい人なんですけど……」

 

「……いいえ、大丈夫ですよ。わかってますから」

 

 彼女は優しく微笑んだ。わかっていますから……か。確かに、先輩の話し方や態度を見ていると、そう思うのかもしれない。話すのが好きで、人と接するのが得意で、優しい心の持ち主だ。少なくとも、俺はそう思っている。

 

「……あの、お聞きしたいことがあるんです」

 

「なんでしょうか?」

 

 槍の入った袋を持ち上げて、忘れ物がないかを確認している途中で花巫さんにそう声をかけられた。不思議に思って彼女を見れば、彼女の目は伏せがちだが……今度はしっかりと自分の目を見ていた。

 

「……人と違うのは、いけないことなんでしょうか」

 

「……人と違う、ですか」

 

 彼女の質問は、答えるには中々に難しいものだった。彼女の表情は、良いものではない。彼女が眼帯をつけているのから察するに、その目は良いものではないのかもしれない。しかし、彼女は同情してほしい訳では無いだろう。

 

 彼女が欲しい言葉ではなく、俺の自論……俺の考えを、彼女に伝えるべきなのかもしれない。

 

「……人は、出る杭は打ちます。平均の中で突飛すれば、嫉妬に駆られて貶すでしょう。平均の中で下位に位置すれば、優越を感じて驕るでしょう。人というものは、そんなものです」

 

「……いけないこと、なんですよね。やっぱり……」

 

 彼女の表情は更に暗くなっていく。しかし、やはり人はそういうものなのだ。自分が誰かに劣っていると思いたくない。だから、他人を貶める。そうして心の安寧を保つのだ。一種の自己防衛機能だろう。

 

 ……俺は、そんな人という存在があまり好きではない。自分もその人の一人だというのに。

 

「……ですが、その群れの中で自分の意思を貫き通せたら、どれほど素晴らしいのか、とも思えます。自分という存在の在り方を尊重し、他者に何を言われようとも、自分は自分だと言い張れるのなら、それはきっと素晴らしいことだ」

 

「………」

 

「……自分の考えなんですけどね。人の定義ってのを考えたことがあるんです。結論としては、意思疎通ができる。道具を扱える。人型である、といったところでしょうか」

 

「……あの、それはどういう……?」

 

 ……まぁ、そうなる。いきなりこんな話をされても困惑するだろう。俺だって自分の頭の中で何を話せばいいのか、纏まっている訳では無い。正直緊張のせいで噛んだり、変なことを言いそうになって仕方がない。

 

 ただ……彼女に伝えたいことは、もっと別のことだ。困惑する彼女に、俺は言った。

 

「……貴方は紛れもなく人だ。そこに差異があるのだとしたら、それは最早個性と呼べるものでしょう。人が人を貶すのも、人が人を拒絶するのも当たり前のことだ。決して、貴方だから貶すという訳ではないんです。貴方だけが違うんじゃない。人という存在自体に、間違いが内包されているんですよ」

 

「………」

 

「まぁ……ただの自論なんで、あまりアテにしないでくださいね。なんか、本題からズレたような気がしなくもないですし……」

 

 アハハッ、と空笑いでその場をごまかそうとした。しかし、彼女の表情はもう暗くはなかった。驚愕と、嬉しさだろうか。おそらくその二つが混ざったような微妙な表情をしていた。

 

 ……選んだ答えが合っていたのかはわからない。けれど、間違ってはいなかったようだ。

 

 ……あぁ。なるほど、そういった考えもできるか。合ってる間違ってるのマルバツ問題じゃない。サンカク、という答えもあったか。

 

 彼女が欲しがったのは、恐らく〇か✕かではなく△だったのだろう。同意でも、反対でもなく、同情でもなく……。そのどれでもない、誰かの別な意見が彼女の欲した答えだったんだろう、きっと。

 

「……貴方は、わからない人ですね」

 

「……わからない人、ですか」

 

「はい」

 

 彼女はニッコリと笑ってそう答えた。俺には彼女の考えていることが理解できない。しかし、彼女が笑顔ならばそれでいいのだろう。今はきっと。

 

「……また明日、会えませんか? 今度は、二人だけで」

 

「……構いませんよ」

 

「……良かった。あっ、それじゃあ連絡先を……」

 

 彼女はポケットから携帯を取り出した。俺も携帯を取り出して、彼女と連絡先を交換する。それが終わると、彼女は微笑みながらその携帯を両手で包んだ。

 

「……それじゃあ、自分も帰りますね」

 

「はい……。お気をつけて、唯野さん」

 

 胸元で小さく手を振る彼女に別れを告げて、彼女の家から出た。外では先輩が携帯を弄りながら待っていて、出てきた俺を見るとすぐに謝ってきた。

 

「悪い、氷兎。謝ったりしてくれたんだろ?」

 

「えぇ、まぁ……気にしないでください。俺も、貴方に助けられることが多いですから」

 

 先輩はバツが悪そうに頭を掻いた。俺はそんな先輩の前に歩み出て、後ろを振り向くようにして言った。

 

「帰らないのなら置いていきますよ?」

 

「あっ、いや帰る、帰るって!」

 

 早足で隣に並ぶように移動してきた先輩に対して軽く笑いながら帰路を歩いていく。

 

 田舎だからか、空に浮かぶ星が綺麗にハッキリと見えた。心地よい風が吹き抜けていき、神社の裏に存在する洞窟のような場所を横切る時に、風に乗って何かの声が聞こえたような気がした。

 

『テケリ・リ』

 

 高い声だったように思える。しかし、周りには誰もいない。先輩も聞こえなかったようで、俺はそれに対して何も不思議に思うことなく、空耳として済ませることにした。

 

 

To be continued……



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第15話 夜の帳が下りて

 夜の帳が降りた。田舎の夜というものはより一掃静まり返り、風の音や虫のさざめき、空を飛ぶ飛行機の音すらも雑音となる。それぐらい、この場所は静かだった。騒ぎ立てる輩も居ない。物騒なバケモノもいない。平和で、のどかな場所だった。老後は、こんな場所で静かに暮らしたい。

 

「………」

 

 民宿の外で一人、夜風に当たりながら涼んでいた。ここの風呂は暖かく、夜飯も豪華だった。先輩とたわいのない話をして、部屋にやってきた加藤さんと今日の進捗について話をした。死体は見つからなかったらしい。

 

 情報交換の末、わかったことを上げていくとする。一つ目、この集落の人々はよそ者を拒む。二つ目、この集落には古くから伝わる神を祀る祠がある。三つ目、この集落には巫女である花巫さんを除いた高校生から上の年齢の若者がいない。

 

 一つ目二つ目はともかく、三つ目。これは致し方のないことでもあるだろう。なにせ、何も無いのだから。コンビニ、バス、電車……あまりに、ここは不便すぎるのだ。住めば都とは言うものの、現代の子供は情報に触れ、未知に触れ、そして田舎を拒み都会を目指す。あまりにも、ここは子供にとって狭すぎた。

 

「………」

 

 ポケットから携帯を取り出して、電話をかけた。相手はもちろん菜沙だ。出発する前に不安だから毎日電話をかけろと約束させられたのだ。破ると帰った時が怖い。なにより……。

 

 ……恥ずかしいが、彼女の声を聞くと落ち着くのだ。昔から一緒にいたからなのもしれない。変わらない日常を共に過ごした、自身が現実の証明とまで彼女に伝えたのだから、彼女への信頼と安心は大きいのだろう。

 

『───もしもし?』

 

 三コールもしない内に、彼女は電話に出た。携帯を片手に、まだかまだかと待ち望む彼女の姿がありありと浮かんできて、少しだけ笑いをこぼした。

 

『な、なに笑ってるのひーくん』

 

「いやなに……ちょっとね。それより、そっちはどう? 何か変わったこととかあった?」

 

『そうね……特にはないかな。そんなことより、私が聞きたいのは貴方の事。怪我とかしてない? 虐められたりしてない?』

 

「母親かお前は……大丈夫だよ。何も無い。至って健康体だ」

 

 良かった……と彼女の安堵する声が聞こえる。俺も少しだけ胸をなで下ろした。見ていないところで、何か起こるのはこの上なく恐ろしいことだ。流石に本部は安全だと思うが、見ていないところで菜沙が襲われたりしたら流石に困る。いや、困るどころの問題ではない。

 

『……ねぇ、そっちはどんな感じ?』

 

「こっちか? そうだなぁ……」

 

 空が綺麗だ。星が爛々と光って、それを遮るものがない。月は半月。されど美しい。風で草が靡いて、雑音にも聞こえるその音が嫌に心地いい。あぁ、なんと例えるべきか。

 

 ……風情がある、と答えるのが正しいのか。いやまぁ、そんなものを感じ取れるほど生きてはいないわけだけど。

 

『ふふっ……詩人みたいね。安心した、いつものひーくんだ』

 

「いつもの俺は、こんな詩人みたいなことをうわ言のように呟くのかね?」

 

『えぇ。だってひーくんのいつも語っていた理論は、聞くだけなら支離滅裂のようだし、けどどこか美しさを感じる。ほら、まるで詩みたいじゃない』

 

「……やめてくれ。そんな上等なものじゃない」

 

 気恥ずかしさを感じて、頬を指で掻いた。夏の夜は少し蒸し暑いが、それを涼しくさせる夜風がある。

 

 ……だというのに、昼間には及ばないが中々に暑い。

 

『……あっ、桜華ちゃんも話したいって。変わるね』

 

 彼女は七草さんのことを桜華ちゃん、と言ったか。名前で呼び合う程度には仲良くなれているようだ。良かった。時折菜沙は意味もなく七草さんを威嚇するから、実は内心仲が悪いのではと思っていたのだ。

 

『───氷兎君?』

 

「あぁ。こんばんは、七草さん」

 

『えへへ、こんばんは』

 

 菜沙とは違った、軽快で明るい声に菜沙の時とは別な意味で心が軽くなった気がする。返事を返してきた七草さんは、その後携帯の向こうで、うーんっ、んーっ、等と唸っていた。

 

「……どうかしたのか?」

 

『んー、なんか話すことなくなっちゃったな……って。だって、安全で健康だってこともわかって、何をしたのか、こっちはどうだったのかも話しちゃった。それに、氷兎君の声も聞けた。だから、話すこと聞くこと、なくなっちゃったな……って』

 

「……七草さんらしい悩みだな」

 

 彼女のそんな言葉に笑って返した。今どき、そんなことで悩む人がいたのか。基本、話すこともなくなったら互いに通話を終わらせるものだ。だから、彼女も切ってしまえばいいのだ。話した言葉数は確かに少ない。けれど、彼女の声の様子だともう十分に満ち足りたように聞こえる。

 

『切っちゃうの、なんだかもったいない気がするの。氷兎君の声は聞けたけど、まだもう少し色々な話をしたいなって』

 

「……そ、そうか……」

 

 あぁ、また暑くなってきた。夜風は仕事をしているのに、なんでこうも体温調節機能は働かないのか。このもどかしさと恥ずかしさはどこにも捨てられず、ただ自分の身の内に保存するだけとなった。

 

 ……そういえば、互いに電話をしていて切らない関係もあったか。互いにまだもう少し、と通話を続けたがる関係。互いの声をもっと長く聞いていたい関係。すなわち……。

 

 ……まぁ、もっとも彼女とはそんな関係ではないのだが。

 

『こっちに来てから、楽しいことは沢山あったよ。それでも、隣に氷兎君と菜沙ちゃんがいないと楽しめないことも沢山あると思う。だって、私を助けてくれたのは二人だから。だから……早く、帰ってきてね』

 

「……わかってるよ」

 

 いや、もっとこう……返す言葉は多くあるだろう? なのに、そんな一言で済ましてしまうのか。感謝の言葉とか、彼女の言葉に賛同する言葉だとか、色々とあるだろう?

 

 何を女子相手に手間取っているのか。さんざん女子と会話しているくせに……。

 

「……あっ……」

 

 ……そうか。俺はいつも菜沙と過ごしていた。そのせいか、菜沙以外の女子と親しくなったことは無かった。だから、彼女は初めて、それなりに親しくなれた女子なのだ。

 

 菜沙に対してなら言える言葉も、彼女に対しては言えそうにない。それほどまでに気恥ずかしかった。なんだ、まるで盛った中学生みたいだ。滑稽すぎてむしろ笑えてくる。

 

『……氷兎君?』

 

「……あぁ、いやなんでもない。とりあえずもう遅くなってきた。そろそろ終わりにしよう」

 

『あっ……わかった。それじゃあ、おやすみ氷兎君』

 

 そう言って、彼女の声は聞こえなくなった。代わりに、菜沙の声が向こう側から聞こえてくる。どうやら電話を変わったらしい。

 

『……楽しそうね?』

 

「開口一番にそれか。そう見えるのか?」

 

『傍から見ればね。健気よ、彼女。わかる? 頬が緩んで貴方と話す姿』

 

「はぁ……お前さんたちは仲がいいのか悪いのか。どっちなんだかね」

 

 はぁ、っとため息を吐くと、菜沙もため息で返してきた。彼女の声にはどこか怒気が含まれている気がした。何に対して彼女は怒っているのか、皆目見当もつかない。

 

 ……もしや、なでおろす胸がないのが原因か。逆恨みにも程がある。

 

『帰ってきたら一発ぶん殴るよ?』

 

「勘弁だ。それより、お前さんも早く寝なよ。寝不足はお肌の天敵だぞ?」

 

『っ、くぅ……』

 

 流石の菜沙もお肌は保ちたいご様子。それに、俺ももうそろそろ部屋の中に戻りたい。布団で横になって眠りたいのだ。なにしろ、足は歩き回ったせいでパンパンになっているのだから。

 

『……わかった。また明日電話かけてくるのよ?』

 

「わかってるよ。それじゃ、おやすみ」

 

『……おやすみ、ひーくん』

 

 ……まだ、私もう少し話していたかったのに……。っと、小さく聞こえた気がして、答える前に電話は切れてしまった。

 

「……なんだ、寂しいだけか、アイツは」

 

 幼い頃から変わらない幼馴染を思い描いた。何をするにも隣にいた彼女を、気がつけば普通とした。学校に行くのも、高校を選ぶのも、帰るのも。それが俺達にとって普通だった。

 

 ……それは、他者から見れば普通ではないだろうに。

 

 結局、慣れてしまえば普通になってしまうのだ。極寒の中で一年も過ごせばそれが普通になる。そんな人が普通の生活に戻った時、その人が防寒具を着込んでいて周りの人は私服でいる。そんなものだ。当人にとっては当たり前でも、周りから見ればそれは異質なものとして映ることもある。

 

「……ん?」

 

 携帯の着信音が鳴り響いた。画面を見てみると、どうやら花巫さんからのメールのようだ。メールの内容は、明日の夕方会えますか、とのこと。

 

「……そういえば、花巫さんのこと伝えるの忘れてたな」

 

 まぁ、そんなこと菜沙が気にすることもないだろう、と頭の隅に追いやって、良いですよと返事を送った。

 

 ……先程の話を掘り返すが、やはり彼女はその手の類なのかもしれない。本人にとっては、その目は最早普通のものだ。しかし、それは普通から逸している。だから彼女は普通ではないことが、いけないことなのかと聞いたのだろう。

 

「……まぁ、俺は俺のできることをやるだけだ」

 

 できることをやるだけ。なんと都合のいい言葉か。やれないことはやらなくていいのだから。

 

 ……しかし、やらなくてはならないことと、それをやれないことは違うだろう。そこら辺はしっかり分かっているつもりだ。

 

 そんな事を考えながら自身が寝泊まりする部屋に辿り着くやいなや、顔面目掛けて固い枕が飛んできた。突然のことで避けることもままならず、直撃した。鼻の頭が痛い。

 

「ひひっ、大成功」

 

 ニヤリと笑う先輩が嫌に腹立たしかった。とりあえず投げ返すと、先輩はそれをキャッチして今度は二つ同時に投げつけてきた。正確に投げられたそれは片方が顔面に、もう片方は腹に直撃した。

 

「いっつぅ……いきなりなんなんですか……」

 

「うっせぇ。美少女と幼馴染を侍らせる男の敵め」

 

「侍らせてませんって前も言ったじゃないですか!」

 

「煩わしい……こいつを喰らってとっとと眠れぇ!!」

 

 『射撃』の起源フル活用の先輩の高速枕投げに対処する術もなく、全てが命中するという悲惨な結果となった。こんなところで起源を使わないでいただきたい……。必中、ダメージ増加、連射とか、なんて鬼畜ゲームだ……。

 

「うるさいぞお前ら。さっさと寝ろ!」

 

『は、はい……!!』

 

 その後、やけに可愛らしい寝間着を着た加藤さんが止めに入るまで俺と先輩は(一方的な)枕投げをして、眠りにつくこととなった。

 

 

To be continued……



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第16話 未知と理解

 調査二日目。民宿で見慣れない天井を見て起床し、外の天気を確認した。外は快晴だ。嫌になるほどの暑さにうんざりするが、毎年のことだ。いや、去年よりも暑いか。なにしろ、環境問題は未だ改善されず、地球温暖化は進むばかり。年々夏の暑さはキツくなっていくのだ。

 

 未だ眠り続けている、寝癖でテンパが更に悪化している先輩を起こして、朝食を食べる。米や野菜の胡麻和え等の軽いものであったが、やはりこの集落で取れた野菜は美味しかった。

 

 そして身支度をして、加藤さんを交えて作戦会議。まぁ、やることは何ら変わりない。加藤さんは引き続き周辺探索。俺と先輩は集落内での情報収集だ。槍の入った袋を担ぎ、しっかりと水筒とタオルも持って外に出た。先輩もアタッシュケース片手に、眉をひそめながら隣を歩いている。

 

「情報収集とは言うものの、全く宛がないんだよなぁ。誰も何も喋らないし、本当に諜報員が来てないんじゃないかとすら思えてきたぞ」

 

 先輩は現状にうんざりしている様子。どうにも停滞した現状が好きじゃないようだ。まぁ、飄々とした人でもあるが、停滞を好まない人でもある。常に何かしらが発生し続けたりしないと面白くないのだろう。ゲームを好むのも、そこに理由がありそうだ。なにせ、プレイヤーが動けば動くほど物語は進むのだから。

 

「昨日の状況をふまえれば、今日情報収集をしても収穫は得られなさそうですね。何か、手がかりがあればいいんですけど」

 

「ゲームならなぁ、全員に話しかければ何かしらのヒントは得られるだろうけど、そんなこと現実じゃやってらんねぇよ」

 

「そりゃそうですよ。ゲームは何十人って数だとしても、この集落には少なくともその何倍もいるんですから」

 

 日照りが激しい。夏真っ盛りのこの季節、田舎というのは都会に比べれば涼しいのだろう。にしても暑いが。

 

 通り過ぎる人達に、話を伺いながら適当に散歩感覚で集落を歩き回る。子供が虫取り網片手に走っていくのを、半ば羨ましそうに見たりもした。本当、何も考えずに今を生きられるのなら、それはどれだけ楽なんだろう。

 

「歳をとればとるほど、子供が羨ましく思えるよ」

 

「何も考えなくても、前に進む時代ですからね。小学生までなら楽なもんです。中学生は流石に身の振り方考えますけどね」

 

「中学生なぁ……そういやぁ、氷兎の中学時代ってどんなもんだったんだ?」

 

「……いやぁ、つまらないもんですよ」

 

 何をやっても上手くなれない。何をやっても評価されない。何をやっても、俺はそこまでだった。周りが上手くなっていく中で、一人だけ残されるあの感覚は……なんとも子供心に来るものがある。今お前の心は大人かと聞かれれば、なんとも言えないが。あの頃よりは成長しているだろう。

 

 前向きな意味でも……嫌な意味でも。

 

 そんな俺の内心を知ってか知らずか……まぁ、内心なんて知る由もないわけだが、先輩は少しだけ笑って俺の話に返答した。

 

「バレーかぁ……。まぁ、置いてかれたとしても終わりまで続けたんだろ? そこまで努力したのなら、それは一種の勲章だろう。辛くてもやりきる能力って、中々ないもんだぜ?」

 

「……そんな大層なものじゃありませんよ」

 

 ただ諦めきれなかった、それだけだった。人の心を動かす原動力は、やはり目標や夢だろう。それらがなきゃ、頑張るに頑張れない。

 

 ……はて、今の俺の夢はなんだろうか。ほんの少し前までは、適当な職に就いて適当に暮らせればいいと思っていたが……今じゃそんなのんびりした暮らしはできないだろう。

 

「悲観的な奴だな、お前は。もっと前向いていこうぜ! 世界はこんなにも暑苦しいんだからな! 上向いて陽の光を浴びなきゃ、腐っちまうってもんよ」

 

「植物かなにかですか、俺は」

 

「植物だろうが人間だろうが、何も変わらんさ。今を生きて、今を楽しむ。人生はそんなもんでいい」

 

 晴れやかに笑う先輩のその言葉は、なんとも軽々しく聞こえる。けれども、先輩は本当にそれで良いと思っているのだろう。今を楽しめないなら、きっと明日も同じものだ、と。明日死ぬかもしれない俺たちだから、今日楽しむのだと。

 

 ギャンブルに金を使い切って破産しそうな考えが先輩の考えていることなのだろう。前向きなのはいい事だが、それを見習うべきではなさそうだ。まぁ、先輩はギャンブルに金を使いそうな人には見えないが。

 

「おっ、通りすがりの人発見伝! すいませーん!」

 

 笑顔は人を和ませ、緊張を解させる。そして警戒心すらも解いてしまう。先輩は自然に作られたその笑顔で通る人達に挨拶をしながら情報を集めていた。その横に俺も続いて話を伺っていく。

 

 そんな感じで、特になんの収穫もなく今日の情報収集も終わる事となった。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 夕方、時刻にして六時過ぎ。先輩に花巫さんと話があると言って別れ、彼女のいる神社に向かって歩いている。夕暮れ時ではあるが、まだ遠くの空が橙色になってきた程度。夏は昼の時間が長いおかげでこの時間でも特に不自由なく行動できる。

 

「……さて、着いたわけだが……」

 

 色の褪せた鳥居の目の前まで辿り着いた。あとは、この目の前にある階段を上っていくだけなのだが……。

 

 昨日とは違い、隣に先輩はいない。そしてこの上にどんな景色が広がっているのかという高揚感もない。つまり……言ってしまえば面倒くさい。階段は横に広く、真ん中に分けるように手すりのようなものが存在する。そして老人の多い集落のためか、階段の段差が小さいのだ。むしろ若者には上りにくい。

 

 しかし、約束を破るわけにもいかない。仕方がない、と心の中で呟いて階段を上っていく。虫の鳴き声が響く中を、ただ黙々と上っていくと、箒で掃除をする音が聞こえた。どうやらまだ作業をしていたらしい。この暑い中、よくやるものだ。

 

「……..あっ」

 

 階段を上りきると、昨日と同じく紅白の巫女服に身を包んだ花巫さんが竹箒で境内を掃除していた。彼女は階段を上りきった俺を見て驚いたようで、小さな声を上げていた。そしてゆっくりと歩み寄ってきて、こんにちはっと軽く頭を下げて挨拶をしてくる。俺も軽く頭を下げて挨拶を返す。

 

「どうも、花巫さん。まだ仕事の最中でしたか」

 

「すいません……すぐ終わらせますから、待っていてください」

 

 申し訳なさそうに言う彼女に、謝るのはこちらの方だと言った。早く来すぎたのはこちらの責任だ。花巫さんが謝ることではない。そう伝えると、彼女は困ったように笑った。

 

「……手伝いましょうか?」

 

「えっ……さ、流石に悪いですよ……」

 

「いえ、見てるのもなんですから。それに、手伝った方が早く終わりそうですしね」

 

 そう言って彼女から竹箒を借りて、一緒に掃除を始めた。彼女は一度俺の心臓辺りを見たあと、嬉しそうに笑って、ありがとうと言った。

 

 ……昨日もあったが、彼女は心臓付近に何を見ているのだろうか。後で聞ければ聞いてみようか。本人の込み入った話になるかもしれないけど、ここまで露骨だとむしろ気になってしまう。

 

「ふぅ……ありがとうございます。おかげでいつもよりずっと早く終わっちゃいました!」

 

 額から垂れる汗を軽く拭いながら、彼女はお礼を言った。借りた竹箒を返し、湧き出た汗をタオルで拭いてしっかりと水分を補給する。この程度の作業はなんともない。近頃はそこそこ重量のある槍を持ち運んでいるわけだし。

 

 片付けも終わり、掃除が完全に終わった頃になると流石に空が暮れてきた。階段の付近に立つと、そこからは木で邪魔をされていない部分だけ集落が見渡せる。田圃だらけの閑散とした風景だ。

 

「……どうですか? やっぱり、都会の人からすると色々と不便ですよね」

 

 隣まで歩いて近づいてきた花巫さんはそう尋ねてきた。まだ来て二日目だが……まぁ、長くいれば恐らく不便な点も見つかるだろう。しかし、案外環境的には良い場所だ。住めば都と言う言葉があるように、住んでみたら結構いい場所だと思えるのかもしれない。

 

 もっとも、今自分達はこの集落の人達に歓迎されていないわけなんだが。

 

「夜は星が綺麗に見えますし、ゴミが散乱してたりもしない。随分といい所のように思えますね。不便か、と聞かれたらそれは不便だとしか答えられませんが」

 

「やっぱり、そうですよね。電車なんてほとんど来ないし、バスも走らないし。移動が車とか自転車なんですよね」

 

 こちらは自転車も何も持ってきていないおかげで中々に足にくる距離を歩いているが……。そんなものも慣れてしまえばなんてことはないのだろう。利便性に溢れた生活をしていると、こういった不便さに苛立つ人も増える。俺は特になんとも思わないが。

 

 そういった話をしていると流石にお互い立ちながら話すというのも疲れて来た。俺と花巫さんは神社の床に腰を下ろして話の続きをしていく。

 

「……唯野さんは、今まで生きてきてコミュニケーションをとるのに苦労したことはありますか?」

 

「苦労ですか。いや……あぁ、ありますね」

 

 ないと言おうと思ったが、この集落に来てからコミュニケーション能力について悩むことはあった。まぁ、話し合いに困ったとかではない。単純に、相手の嘘を見抜けるかどうかという話だ。

 

「……私もあるんです。ほら、私ってこんななりじゃないですか」

 

 彼女は眼帯を指差しながら、自嘲するように笑う。笑うことではないだろうと思い、俺は黙って彼女の話の続きを聞くことにした。

 

「……皆、変に思うんです。もう慣れましたけど、最初の頃はそれを指摘されるのが嫌だったんです」

 

「……それはそうでしょう。俺だって、指さされて笑われたら嫌に思いますよ」

 

 俺の言葉に、彼女は口を噤んだ。俺はただ、彼女の言葉の先を待つだけだ。俺を呼んだ理由は、きっと彼女にとって大切なことなのかもしれない。そう思わせるだけの、彼女の雰囲気の変わりようがあったのだ。昨日の明るい女の子ではない。どこか哀愁を漂わせているのが今の彼女だ。

 

 日照りは優しくなり、吹く風が夏の暑さを奪い去っていく。それでも、彼女の頬や首筋に浮かんでいる汗は止まらなかった。眼帯をつけていない方の瞳が揺れている。酷い発汗と焦点の定まらない目。具合が悪いとか、その類ではない。心的な要因だ。

 

 鞄の中から、保冷剤と共に包んでおいたタオルを取り出して彼女の頬に当てる。ひゃっ、と可愛らしい悲鳴をあげて驚いた彼女は、そのタオルを自分に渡してくれているのだとわかると、お礼を言って汗を拭き始めた。冷たいタオルが気持ち良いようで、少しだけ頬が緩んでいる。どうにか精神的に立ち直らせることができたらしい。

 

「……落ち着きましたか?」

 

「……はい。おかげさまで」

 

 未だ彼女の哀愁感は消えないが、それでもさっきの思い悩んだような状態ではなかった。幾分かマシになったのなら、俺の行動は間違っていなかったようだ。

 

 ……彼女は目線を俺に向けず、遠くの方を見たまま話し始める。

 

「……唯野さんは、話してる相手が何を考えているのか、わかりたいなって思いますか?」

 

「……思う時はありますね」

 

「やっぱり、そう思いますよね。相手が何を考えているのかわかったら、受け答えも簡単です。相手の欲しい言葉を言って、自分が欲しい情報を相手が話さなくても入手することが出来る。人生、円滑にいきそうですよね」

 

 寂しそうに笑いながら彼女は話し続けた。それが、どうにも見ていられない。見ているだけで痛々しく、悲しくなるような笑い方だ。今まで思い悩んできた、彼女の想いがそのまま浮き出たかのようだった。

 

「……でも、そんなこと、ないんですよ。わかるって、とっても苦しいことなんです。善意も、悪意も、何もかもがわかってしまう。わかりたくなくても、わかってしまうんです」

 

 彼女は着けられていた眼帯を、そっと外してこちらを見てくる。そこには、あるはずの物がなかった。瞼はある、瞳もある。が、ソレは生きていなかった。人工的な輝きを放つそれは、人生で今まで一度も見たことはなかったが……義眼、というものなのだろう。

 

「生まれた時から、片目が見えなかったようなんです。それで、義眼にして生活してきました。でも、それが嫌だったんです。鏡で見ると、左右の瞳が違う。私は、人と違う。まるで私の人としての存在を否定されたんじゃないかって、幼かった私には思えてしまったんです」

 

 眼帯を着け直して、また彼女はこちらを見ないで遠くの空を見るように顔を逸らした。

 

「私は、左目が見えないんです。けど何故か、いつからだったんでしょう……。気がついたら、見えないはずのものが見えるようになってしまったんです」

 

 自分の手を透かしてみるように、空に手を向けながら彼女は段々と小さくなる声量のまま話を続けていく。

 

「皆が何を考えているのか、細かくはわからないんです。けど、大まかにはわかってしまえたんです。人の心臓付近に、色が見えるんです。赤色、水色、桃色、黄色……それらがどんな意味を持っているのか最初はわからなかった。けど、生きているに連れてわかってしまった。敵意、悲しみ、色欲、警戒心……。それらがわかってしまってから、私は人と話すのが嫌になりました」

 

 彼女は言った。仲が良かったと思っていた友達が、笑顔のまま敵意を向けているのだと。いつも笑顔で話しかけてくれる男の子が、本当は何を考えていたのかを。周りの人達が、自分に対して色々な想いを抱いている。それらは良い事ばかりではない。むしろ……悪いことの方が多かったのだと。

 

「……けど、貴方は違った。貴方の、ここには……」

 

 そう言って彼女は恐る恐るといった様子で、まるで壊れそうなガラス製品を触るかのように俺の胸付近を触った。何度もその部分をホコリを払うかのように撫でて、そして少しだけ微笑んだ。

 

「……見えないんです。貴方の色が、『真っ黒に染まって』見えないんです。最初は、驚きました。なにせ、初めて見る色だったから。腹黒い人なのかなって、思いました。けど違った。貴方がどんな話をしても、貴方の色は変わらなかった。貴方が何を考えているのか、私にはわからなかったんです」

 

 彼女は、もう心臓付近を見るのをやめて、ゆっくりと顔を上げた。彼女の右目から、涙がゆっくりと落ちていく。しかし、その泣き顔とは逆に、彼女は嬉しそうだった。

 

「貴方が何を考えているのかわからない。それが……どうしようもなく、嬉しかったんです。わからないって、こんなにも嬉しいことだったんだって、思って……」

 

 ひっく、と彼女は泣き始めてしまった。彼女の嗚咽を止める方法を、俺は知らない。ただ指で彼女の涙を拭ってやり、ゆっくりと彼女の背中を撫でた。

 

 辛かったね、なんて言葉はかけない。俺には彼女の辛さがわからないからだ。だって、それは彼女だけにわかることだから。

 

 『わかる恐怖』と『わからない恐怖』

 

 一般人なら、未知を嫌うだろう。わからない、というのはとても恐ろしいことだから。子供がお伽噺の鬼や幽霊を怖がるように、俺達は見えないものや、わからないものを怖がる。

 

 しかし、彼女はわかってしまった。わかってしまったが故に、それがどれほど恐ろしいものだったのかを理解してしまった。理解しなければ恐れるだけのものを、理解したが故にもっと恐ろしくなってしまった。

 

 あぁ、先輩の言葉を借りる訳では無いが……。

 

 ……それでも、彼女は『生きてきた』

 

 生を終えることをしなかった。それはきっと……とても苦しくて、辛いことだっただろうに。それでも彼女は生きた。生き続けるのが、苦しくても……生き続けた。それは最早、一種の勲章だろう。

 

 日が落ちて、辺りに夜の静けさが満ちてきた。暗くなってきた神社には彼女の泣き声だけが響く。俺はただ、彼女の隣でその苦しみを理解出来なくとも、共有だけはしようと思って隣にい続けたのだ。

 

 

To be continued……



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第17話 暗がりの中にあるもの

 仄かな甘い香りが鼻につく。自分の右肩には彼女の頭が乗っかっている。重い、とは思わなかった。いやなに、そう思うのは彼女に対して失礼だろう。

 

 すっかり日が落ちて、街灯がまともにない田舎町が暗闇に包まれている。流石に夏といえども、こんなに薄手で遅くまでいたら肌寒く思う。そろそろ彼女を家にまで送り届けるべきだろう。

 

「……唯野さん」

 

 そろそろ帰りましょう、と言おうと思った矢先だった。彼女はポツリと呟くように名前を呼んだ。依然として彼女は頭を肩に乗せたままだ。その声音は嬉しさが滲み出ているのがわかる。

 

「本当に、不思議な人です。貴方が相手だと、どんなことでも話してしまいそう。昨日あったばかりなのに、不思議ですよね」

 

「……まぁ、昔からそういう役回りみたいなものでしたから。案外、人の話を聞くのが上手いのかもしれませんね」

 

「聞き上手、とはまた別なような……そう、例えるなら会話上手でしょうか。でも、そんなことができるのも、貴方が優しいからなんでしょうね」

 

 彼女は顔を動かして、俺の体の心臓付近を見た。彼女は何度もその部分を触ったり払ったりして、その黒い塗りつぶされた『感情』とも言えるものを見ようとしている。

 

「きっと、綺麗な色なんでしょうね。……変ですよね。あれほど見たくないと思っていたのに……今は、貴方の色が見たくて仕方がないんです」

 

「……贅沢な悩みですね。見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞けるのなら、それはとても楽なことだ。けど、現実はそうじゃない。自分が欲しくてたまらないものほど、きっと手には取りにくい。そういうものでしょう」

 

「……そうですね」

 

 これ以上は流石に遅くなりすぎる。ここら辺で切り上げるとしよう。彼女の頭を軽く叩いて、そろそろ帰るとの旨を伝えた。それを聞いた彼女は、どこか悲しそうに頷く。自分が彼女の理解者になれたと豪語するわけじゃない。それでも、やはり不安なものなんだろう。弱音を、抱え込んだ辛さを話した相手と離れてしまうというのは。

 

「あの……また、会えますか?」

 

 潤んだ瞳で、下から見上げるように彼女は見つめてくる。一瞬胸が高鳴ると同時に、頭の中で昔の記憶が蘇ってきた。

 

 ───ひーくん、一緒に寝ちゃダメ?

 

 まだ幼かった時だが、菜沙はよく一緒に寝たいとせがんできた。その時に俺はいつも断れなかった。なにせ、彼女は自分でその潤んだ瞳を使いこなしていたのだから。断れるわけもない。

 

 花巫さんの仕草にドキッとしたけど、何だか物足りなかった。これは、あれだ。菜沙のせいだ。足りない胸を補おうとするあまり、俺から胸のドキドキを奪い去ったに違いない。おのれ菜沙、なんて考えながら彼女に返事をする。

 

「……えぇ。まだ仕事終わりませんから」

 

「……良かった。あと少しの時間だけでも、貴方と過ごしたいって思ったから……」

 

 嬉しそうに微笑む彼女を連れて立ち上がり、神社の裏手に向かっていく。そして、昨日も見たあの洞窟の前にまで歩いてきた。多くのお供え物が置かれていて、洞窟の奥の方を見ると何故か身の毛がよだつ。生暖かい空気が奥から流れ出てきて、鳥肌が嫌というくらいたち始めた。

 

「……花巫さん。ここって何か祀られてるんですか?」

 

「ここですか? ここはですね、この村の豊穣神が祀られてるんですよ。だから、毎日交代でお供え物を捧げて、一世代毎にお祭りを開くんです」

 

「お祭り?」

 

「はい。とは言っても……お祭りというよりは、儀式みたいな感じですかね。私も詳しくはわからないんですけど……」

 

 彼女がいうことには、もうすぐその儀式とやらが始まるらしい。こんなに多くのお供え物を、毎日別の人達が備えなければならないのか。納税なんかよりよっぽど厳しいのではないか。

 

 これでは、いくら豊穣神とは言えども生産と供給に割が合わないだろう。それとも、そんなに大事な伝統なのだろうか? 確かに、この集落の野菜はみずみずしくて美味しいが……。それらがひとえに神のおかげだと?

 

「………」

 

 あまり好ましくはない考え方だった。少なくとも、俺にとっては。

 

 アダム・スミスの『神の見えざる手』という理論がある。経済系の話で、お金の循環等に関する理論なのだが……言ってしまえば、俺たちは生活してお金を回しているだけでいい。何か問題が起これば、神様がどうにかしてくれるだろう、という考えだ。もっとも、世界恐慌やらオイルショックやらでその理論は破綻した訳だが。

 

 いやまったく、世を壊すのはいつも人で、世を直すのはいつも人なのだ。そこに神の介入する余地などないものだと俺は思う。神様が天変地異を起こすよりも、どこかの国がアメリカ辺りに核ミサイルぶっぱなした方が世界は崩壊する。そんなものだ。

 

「……今日も遅くまでありがとうございました」

 

 考え事をしていたら、どうやら彼女の家の前に着いたようだ。小さく頭を下げてお礼を言う彼女に、俺はたいした事はしていないよ、と返した。その言葉に彼女は笑って、そんなことはないですよ。私は救われた気がします、と言った。

 

「……あっ、このタオル……洗って返しますね」

 

 彼女の首にかけたタオルは、先程汗をかいていた彼女に渡した物だ。保冷剤と一緒に包んでおいて良かった。あの時の彼女の状態は見ていて心配になるほどのものだ。外的要因ではなく、心理的な要因だろう。話すことを心のどこかで拒否をしながら、しかし話して楽になりたかったという思いの二つがぶつかってしまったのかもしれない。

 

「また明日……会いませんか? ほら、その……タオルも返したいですから……」

 

「良いですよ。とりあえずまた同じような時間帯に立ち寄ることにします」

 

「わかりました。それじゃあ……おやすみなさい。今日はありがとうございました」

 

 彼女に頭を下げて、来た道を戻ることにした。そしてまた、あの洞窟の前まで移動する。田舎を吹き抜けていく風の音に紛れて、別の音が耳に届く。

 

 ……何か、聞こえる。

 

『テケリ・リ。テケリ・リ』

 

 人の声ではない。いや、そもそもこれは声なのだろうか。音と形容するのが正しいのかもしれない。くぐもったようにも聞こえるし、いやに高くも聞こえる。説明しがたい音だった。

 

「………」

 

 その音は洞窟の奥の方から響いているように感じた。この集落の豊穣神が祀られているとされる洞窟。この先に、何かいるのだろうか。

 

「……神話生物か? だとしたら、流石に一人じゃ不味いな。それに確証も何も無い」

 

 少しずつ勇み足でその洞窟に近づいていく。縄が入口を塞ぐように張られているが、それを潜って少しだけ中に入ってみた。奥の方は暗くて何も見通せない。しかし、生臭い匂いと湿った生暖かい空気が奥から漂ってくる。あまり気分のいいものではない。長くい続けたら吐き気がしそうだ。

 

 そんな状態の中で、何か得られるものはないかと辺りを見回してみる。暗がりの岩場に、黒いカバーの小さな手記が落ちていた。これでも夜のうちなら月の影響で夜目が多少効くので、昼間ならむしろ見落としてしまうかもしれない。しかし、この夜目が効く状態でも奥の方が見通せないとなると、明かりが一切ないのだろう。

 

「中身は……ッ」

 

 その手記は、綺麗な字で書かれた日記のようなものだった。いや、日記というよりは調査した事柄を日付で纏めたりしたものだろうか。パラパラと捲ると、この集落に来てから調べたことについての疑問点などを書き上げているページがあった。とりあえず、これは恐らくこの集落に調査に来ていた諜報員の物で確定だろう。だが、問題はそこではない。

 

「なぜ、こんなところに……?」

 

 ……ここで、諜報員に何があった?

 

 いや、待て。ここでそれを考え続けるのは良くない。ここにいるのが誰かに見られたら、まず間違いなく集落の人達に襲われるだろう。この手記がここにある時点で、それを物語っているのだから。

 

 諜報員は確かにこの集落に来て、そして殺されたのだ。更にそれを集落の人々は必死に隠そうとしている。

 

 適当な嘘でもでっち上げればいいものを、彼らは何故ひた隠しにしようとしている? それほどまでに知られたくない何かを、この諜報員は調べてしまったのか?

 

 いずれにせよ、この場から離れて報告に戻るとしよう。そう思ってすぐにその場から駆け出した。身体能力の向上した夜のうちだから出せるスピードで走り抜け、長い階段を飛び降り、民宿に向けて怪しまれない程度のスピードで帰って行く。洞穴の中から聞こえる声のようなものといい、消えてしまった諜報員といい、既に心の中では警鐘が鳴り響いていた。

 

 

To be continued……



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第18話 次の捜査目標

 息を切らして民宿にまで辿り着き、すぐさま自分達に宛がわれた部屋へと向かう。部屋の扉を開けると、銃の手入れをする先輩と加藤さんがいた。急に忙しなく入ってきた俺に対して二人は怪訝な目を向けてくる。

 

「そんなに慌ててどうした? あの巫女ちゃんに告白でもされたか」

 

「これでも飲んで落ち着いた方がいい」

 

 あまりの慌てぶりに、加藤さんがコップになみなみと注がれた麦茶を渡してくる。それを一気に飲み干して、息を全て吐ききるように出した。そして、持ってきた黒いカバーの手帳を二人に見せる。先輩も加藤さんも不思議そうに手帳を眺めていた。

 

「これが神社の裏手にある洞窟の中に落ちていました。先輩は場所わかりますよね?」

 

「あぁ、あそこか。んで、それは?」

 

「おそらくここに来ていた諜報員の手帳です」

 

 そう伝えると二人の顔付きが変わった。先輩も銃を弄る手を止めて真剣な眼差しでこちらを見ている。事態が悪化し、急変した。ここから先どうするのか、真剣に考えていかなくてはならない。

 

「……それで、中身は読んだのか?」

 

「いえ、あの場で読んで誰かに見つかれば殺される可能性があると思ったので急いで逃げてきました」

 

「むしろそっちの方が怪しいんじゃねぇの?」

 

「まぁ、その発見した場で読むよりは正解だろう。とりあえず見せてくれ」

 

 三人で丸くなるようにして部屋の中心に集まって座った。加藤さんに手帳を渡すと彼女はパラパラと捲りながら内容を確認していく。そして、全て見終わったのか彼女は手帳を置いて口を開いた。

 

「間違いないな、諜報員の物だ」

 

「となると……この集落の人達の証言は嘘ってことっすよね」

 

「そうなるだろう。揃いも揃って口裏合わせて、よくやるこったね」

 

「……では、確実に他殺であると」

 

「まぁ絶対とは言いきれないが、ほぼ百%そうだろうな」

 

 はぁっとため息をついた加藤さん。俺も手帳を取って中身をパラパラと読み始めた。日記のような形で始まり、途中からは完全に捜査の内容を書きなぐっている。途中からは、走り書きでもしたのか解読の難しい字になっていた。そして、ある一部分でふと目が止まる。

 

「……天上供犠?」

 

「どうやら、儀式のようなものらしい。神様に供物などを捧げて豊穣の祝福を受け賜る様だ」

 

「………」

 

「どうした氷兎」

 

 不思議そうに見つめてくる先輩と加藤さんに先程花巫さんと話していた内容を伝えた。儀式のこと、豊穣神のこと、そして……あの洞窟の中から聞こえた声のようなもの。

 

 それらを聞いた加藤さんは顔を顰めて言った。

 

「どうにも、よろしくない展開がありそうだな」

 

「自分もそう思います。死体の捜索の必要は現状いいでしょう。できれば加藤さんにも聞きこみ調査をお願いしたいです」

 

「事態が事態だ、わかってるよ。手分けで聞き込みに行くとしよう」

 

「自分は明日この集落を纏めている村長の場所に向かおうと思います。揺さぶれば何かしら得られるかもしれません」

 

「なら、俺も手分けか?」

 

「いえ、先輩はできれば一緒の方が心強いです。言ってはなんですが……自分、朝だと一般人レベルなので」

 

 困ったことに、夜にしかマトモに戦うことが出来ない。真昼間から何かあるとは思わないが、万が一だ。戦うことの出来る先輩が一緒にいてくれるのなら心強い。そう伝えると、先輩はニヤリと笑って快諾した。

 

「とりあえず方針は纏まったな。近日行われる天上供犠についての情報集めだ。洞窟内にいるであろう神話生物にもまだ手は出せない。下手につつけば大惨事になる可能性がある。やるにしても、住民の避難なども考慮しなければならない」

 

 そう言って加藤さんは彼女の鞄の中から小さな黒い機器を取り出して俺と先輩に渡してきた。形状からして……これはインカムだろうか。随分と小さく、耳につけていても髪の毛で隠そうと思えば隠せてしまう。けれどマイクの部分がない。耳につけてみると、確かに加藤さんの声が機器から聞こえてきた。

 

「これから先は情報の即時通達が必要な時があるだろう。常時つけておいてくれ」

 

「……初日に渡せばよかったのでは?」

 

 こんな便利なものがあるのならば初日に渡してくれればよかったのに。そうすればわざわざ携帯で連絡を取りあわなくても、簡単に情報の交換ができたのだ。そう伝えると彼女は少しだけ俯いて、ぎりぎり聞き取れるくらいの大きさの声で言った。

 

「……基本任務って一人だから……こんなの、存在忘れてたんだよ」

 

「あっ……」

 

「……氷兎、謝れ。とりあえず謝っておけ」

 

「いや待ってください、それ逆効果ですって」

 

「もういい……静かにしててくれ……」

 

 がっくりと項垂れる加藤さんに、小声ですみませんと謝ってから居づらくなったこの部屋から出ていった。先輩が後ろの方で慌てた様子で呼び止めようとしていたが、ここはもう先輩に任せることにして俺は菜沙に電話をかけるべく民宿の外へと向かう。

 

 ……なんであんなに美人なのに彼氏とか任務仲間とかいないんだろうな、加藤さん。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 電話の向こうで少しだけ寂しそうな、さよならの言葉を聴いてから電話を切った。今日も彼女への電話はかけ終えた。流石にそろそろ先輩も加藤さんを慰め終えている頃だろう。

 

 そう思い、民宿へと戻ろうとした時だ。ふと誰かの視線を感じた。気のせいだと思いつつも周りをぐるっと見回してみる。田圃があって、森があって、家が転々と建てられている。それだけだ。特に出歩いている人がいるわけでもなかった。

 

「………」

 

 空を見上げた。月が煌々と輝いている。前は確か半月だったか。今の月は上弦の月、と言えばいいのか。満月でもなく半月でもない中間辺りの形だ。雲一つないその空に浮かんだ黄色の物体を見ていると、ふつふつと心の底から得体の知れない何かが湧き上がってくる気がする。

 

 

 ───やぁ。綺麗な月だね。そう思わない?

 

 

 ……声が、聞こえた。あの時の声だ。頭の中に直接響くようにしてその声は聞こえてくる。前は不明瞭で、色々な年齢層が混じったような声だったが、今聞こえてくる声は明らかに若い女性のような声だろう。しかし、高くもなく低くもない。不思議な声だ。聞いていると……寒気と安心感の相反する二つの気持ちが同時に湧き上がってきた。

 

 

 ───調査は順調そうだね。どう、私があげた力。ちゃんと使えてる?

 

 

 ……勿論、使えている。何かと助けられることが多い、と頭に響く声に対して返した。そして、同時に感謝の気持ちも伝えた。あの時力を貸してくれなかったら、俺は菜沙と七草さんを護れなかったのだ、と。

 

 それを聞いた声の主──仮に女声(じょせい)と呼称する──は酷く可笑しそうに笑い始めた。

 

 

 ───アッハハハハハ!! あぁ、お腹痛い……だからヒトって見ていて面白いんだよね。まさか、私に侮蔑の念どころか感謝をするなんて!!

 

 

 何がおかしいのか。力を貸してくれたからあの時助かったのだ。それに対して感謝をしないのなら、それは人として何か間違っているように思える。そう伝えても、女声はクツクツと堪えるような笑いをやめなかった。

 

 

 ───君も直にわかるよ。あの時感謝なんてしなければよかったって、思う時が来るさ。

 

 

 彼女が一体何が言いたいのかまったくもってわからなかったが、本人がどうでも良さそうなのでこれに関してはもう特に言わないことにした。それよりも、あまり脳内に直接話しかけてくるのをやめて欲しい。ガンガン響いて頭痛がするし、なにより気分が悪い。まるで、自分の中にもう一人別人が入り込んだような気持ちになる。

 

 

 ───ふぅん。あまり同調できていないのかも。まっ、それは仕方のないことなのかもね。

 

 

 ……同調? そういえば、力を貸してくれた時に俺の身体に黒い水のようなものがまとわりついたんだったか。そうすると、もしや身体の中になにか入っているのか?

 

 そう考えると、途端に気持ちが悪くなってきた。胃そのものが逆転しそうで、喉の奥になにか酸っぱいものが上がってきているのがわかった。吐かないよう、必死にとどめる。

 

 そんな俺の様子を間近で見ているような様子で、女声はまたも嘲笑(わら)った。段々、その笑い声が癪に障る様になってくる。

 

 

 ───今更悩んでも仕方のないことだよ。それよりも、大事なのはここから。君の行動を、ずっと見てるよ。私を楽しませてくれるのなら……そうだね……。また、別の力を君に貸してあげよう。

 

 

 ……上から目線の物言いだが、その申し出はありがたい事だった。なにしろ、日中はマトモに戦えないのだから、せめて昼間でも戦えるような何かが欲しい。かといって、日中三倍剣と比喩されるガラティーンとかを渡されても困るが。

 

 

 ───期待してるよ、『唯野 氷兎』

 

 

 その物言いに、ニヤリと笑った誰かを幻視した。しかし……重要なのはそこじゃない。何故、俺の名前を知っている?

 

「おい待てッ。まだ話は終わっちゃいない……!!」

 

 言葉を口にしたが、返事は返ってこなかった。最早誰の視線も感じない。あの女声は俺に干渉するのを一旦辞めたようだ。

 

「……なんなんだよ、お前……」

 

 そうボソリと呟いて、右手で頭をガシガシと勢いよく掻いた。この際、あの女声が自分の名前を知っていたことはどうだっていい。現状介入する気もなさそうだ。

 

 ならば、することはもう決まっている。この集落で起きた事件を終わらせなければ。ただの殺人事件では片付かないだろうと、今の段階でも十分予知できる。ここからはもう、命懸けの捜査になることだろう。

 

 ……嫌な胸騒ぎが、身体の中で暴れ回る。抑えつけるように深く息を吸いこんで、吐き出した。一向に気分は晴れないが、もう戻って眠るとしよう。明日はきっと、忙しくなるだろうから。

 

 

To be continued……



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第19話 駆け引き開始

 天在村調査三日目。今日も天候は晴天だ。しかし、気分はどんよりと暗いものとなっている。悪いことがあった訳では無いが、今日することは集落の人達との駆け引きだ。一手ミスをすれば間違いなく不味い展開になるだろう。できれば先輩に交渉をお願いしたいところだが……。

 

「ふぁ……」

 

 隣で寝ぼけ眼を擦っているこの状況を見るに、あまり任せられなさそう。あまり交渉なんて得意ではない……というよりそもそもそんな経験がないのだが、果たして上手くやれるだろうか。内心焦りと緊張で堅くなりながらも、なるべく顔には出さないようにして槍の入った袋を弄りながら集落を歩いていく。

 

「……そういえば、なにか作戦とか考えてるのか?」

 

 ようやく頭がスッキリとしてきたのか、今日やることについて話を切り出してきた。何か考えているのかと言われても、実際どうしたものかあまり考えついていない。そもそも、ちょっと前までただの高校生だった俺にはハードルが高すぎないか。

 

「なんだかんだ先輩ヅラしてるけど、俺もこの手の任務は初めてだからなぁ……交渉とか、駆け引きとかしたことないし。あまり口を出せることでもないんだよな……」

 

 困ったように眉間にシワを寄せる先輩。まぁ仕方のないことだろう。なにせ先輩もここに所属して一年経っていないのだから。それでも、歳が近くて話しやすいというのは本当に助かる。日常面においても、こういった時でも。

 

「……全く考えついていない、という訳では無いですが……ミスするの、怖いですね」

 

「そりゃそうだ。誰だってそうだ。けど、昨日の話じゃ人の命すらも関わる可能性があるって話だろ。なんだっけ、あのなんちゃらって儀式。氷兎も加藤さんもこの儀式がヤバいってことに気がついたんだろ? なら、やるしかない。どの道、後には引けないだろ?」

 

「……前向きですね、先輩は。羨ましいくらいです」

 

「おう、もっと褒めてもいいぜ?」

 

 そう言ってニヤリと笑う先輩。本当、よくわからない人だ。頼りになりそうに見えてダラっとしてるっていうか……。

 

 ……まぁ、先輩らしさというのかもしれない。ともかく、今は作戦を考えなければならない。加藤さんは集落の人にはまだあまり知られていないだろう。大々的に動くのなら顔の知られてる俺と先輩が色々とやらかした方が、いざとなった時に加藤さんが動きやすくなる。

 

「そんじゃあまぁ……頑張って行きましょうかねぇ」

 

「あぁ……心臓に悪い……」

 

 明るい先輩と暗い俺。二人して並んでこの集落の村長の家があるという場所に向かって歩き続けた。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 集落の中心辺りに、一際大きな家があった。周りの民家と比べて一回りは大きいだろう。ここが村長の家のはずだ。先輩と顔を見合わせ、玄関の前に立って扉をコンッコンッと叩いた。暫くすると、中からは老いた女性の声が返ってくる。扉が重々しく開かれ、現れたのは優しそうな顔をした老婆だった。

 

「おはようございます。記者としてこの集落の取材に来ました、唯野と言います。こちらは自分の同僚の鈴華です」

 

「おや……最近他所から来たって人達かい。こんなチンケな場所に、話題になるようなものなどありゃしないけどねぇ……」

 

 ……ほんの一瞬だ。目の前の老婆は怪訝に顔を歪めかけた。それを見逃さなかったのは幸運だっただろう。やはりこの集落の人達は俺たちよそ者を好んでいない。

 

 チラリと先輩を見たが、気づいていない様子。ならいい。このまま何事も無かったかのように平然を装いながら話を進めていこう。さて……まずは、第一関門か。緊張で噛みそうになる口をなんとか開いて、俺はその老婆に言った。

 

「いやぁ、皆さんに聞いて回ったところ村長さんに聞くのが一番だと言われましてね。ですのでここに訪ねてきた次第です。村長さんはいらっしゃいますか?」

 

「いるよ。まぁ、なんだね。お茶でも入れるから中に上がんなさい」

 

 そう言って老婆は俺たちを中に招き入れた。一応先輩には周りの警戒をバレないようにしてもらっている。物陰から襲われたらたまったものではない。

 

「………」

 

 中は随分と広かった。村長の家だからというのもあるのか、やけに他の家よりも豪華な感じがする。まぁ、多少裕福そうに見えるというだけだが。

 

 招かれるままに進んでいき、客間につくと還暦を迎えたであろう白髪の老人が座っていた。眉に皺を寄せて、こちらを睨んでいる。俺はあくまで営業スマイルでその白髪の老人に話しかけた。

 

「どうも、おはようございます。貴方が天在村の村長……でいらっしゃいますね?」

 

「あぁ……。儂がこの村の村長だ。何か用かね、こんな辺鄙な場所までわざわざ。お前さんみたいな若いもんが来るところでもあるまいて」

 

「お仕事の一環ですよ。時に、私はこの集落に関しての取材をしに来たのですが、あいにく情報が少なくてですね。できれば、村長さんからお話などを聞ければと思ったのですよ。会った人皆が、村長さんなら答えてくれると言うものですから」

 

 無論嘘だ。誰一人としてまともに取り合っちゃくれなかったが、こうでもしないとこの老人は逃げるだろう。なんとかして話を聞き出さなければならないのだ。村長はしかめっ面のまま、儂とて何もかもを知っている訳では無い、とため息をついた。

 

「そうですか。できれば資料や文献があれば良かったのですが……。あぁ、ならばこうしましょう。私達が調べた情報に関して、正しいかどうかを答えてもらいたいのです」

 

 そう言うと村長は、それならばいいだろう、と答えた。よかった。しかし、問題はここからだ。まだ第二関門突破……というより、ここから先はずっと修羅場か。胃が痛くなって、心拍数が跳ね上がってきてるが……抑えなくては。失敗は許されない。

 

「では……この天在村という名前なのですが。由来は『神様がいるから』という理由でよろしいですか。この集落では豊穣の神を祀る祠があると聞きます。そして、『天』は『神』を指すものではないか、と思ったのですが……」

 

「あぁ。合っているとも。といっても昔の村長が考えた名前だがね」

 

「なるほど……」

 

 村長の話を聞きながら、バレないようにチラリと先輩に視線を送った。そして膝に置いた人差し指で自分の膝をトンットンッと二度軽く叩く。それに気がついた先輩は、何気ない動作で天井を見上げた。そして不思議そうな顔をして、ボソリと呟く。

 

「……天上……供犠……」

 

「────」

 

 反応した。確かに、村長は軽く目を見開いて驚いていた。やはり、知っている。それが確信できただけでもいい。先輩は村長の視線に気がついたような態度をとって、苦笑いをしながら後頭部を搔いて言った。

 

「いやぁ……天井に釘っぽいのがそのまま残ってるように見えたもので……すいません。ただの木目ですね、あれ。最近仕事が多くて、目が疲れてしまったようです……」

 

 ハハハッと笑う先輩。村長の警戒心が目に見えるくらい上がっていっている。事を急かしすぎたか。少しばかり早まったかもしれない。とりあえず次の話をしなくては……。

 

「しっかりしてくださいよ、先輩。あぁ、すみません。とりあえず次のお話をお聞きしたいのですが……」

 

「……なんだね」

 

「はい、この集落を見て回ったのですが、若い人達が全く見当たらなかったんです。もしや、若い人達は誰一人いないという状況なのですか?」

 

「神社に住んでいる娘を除いて、若いもんは残っちゃおらんよ。皆、都会に移り住んでいった」

 

 花巫さんにも聞いた通り、この集落には若い人達がいないらしい。それが聞けただけでもいいだろう。切れる手札が増えたのはありがたいことだ。さて……少し詰めていこう。

 

「では、次の質問を。私も神社に赴いて神様を祀ってあるという祠を見たのです。洞窟にポッカリと穴が空いていて、その奥に祠がある……という見解ですが、まぁそれはさておきましょう。見たところお供え物が多く置かれていたのです。神社に住んでいる巫女さんに聞いてみたところ、皆様が交代でお供えしていらっしゃるとか」

 

「そうだ。儂らが育てた作物を供えているのだ。儂らの村はあの豊穣神様がいらっしゃらないと美味い作物は実らんのだ」

 

 ……果たして、本当にそうか? 確証はないが、あの奥にいるのは神話生物だ。その神話生物が村に利益をもたらしていると?

 

 ……ありえないだろう。

 

「なるほど……。あぁ、そうでした。聞かなければならないことがあったのでした。いえ、村のことではなく……私達の同僚のことなのです。先日この村に同僚の一人が取材に来たのですよ。しかし、連絡は途絶えて現在消息不明なのです」

 

「それは……困ったものですな。しかし、儂らの村には来ておりませぬ」

 

「おや、そうなのですか。確かに民宿の方に聞いても集落の方々に聞いても、誰も来ていないと言うのですよ。ですが……」

 

 ……さて、ここが最大の見せ場だ。恐れるな。俺なら大丈夫だ。そう言って心の中で自分を激励し、震えそうになる手を動かして、胸ポケットから黒いカバーの手帳を取り出した。それを見た村長の目付きが細くなったのを見て、心臓が掴まれたような感覚に陥る。

 

 やはり、この集落に諜報員は来ていた。そして、殺されたのだろう。

 

「……この黒い手帳は、その同僚の私物なのです。これがどういうことか……神社の裏手にある祠の入り口付近に落ちていたのです」

 

「……ほう」

 

「おそらく、民宿に泊まらなかったのでしょう。好奇心の強い人ですから、誰にも見られないように祠の中に入っていってしまったのかもしれません。あの中に電波が通っているとは思いませんし、それに何日も前のことです。下手をすれば……中で何か起こって死んでいるのかもしれません」

 

 少しだけ俯いて、村長の顔色を伺う。警戒心は最高潮に、そして驚愕と怒りだろうか。それらが混ざったような表情だった。口を開くことすら恐ろしい……。小心者の俺には、この睨みつける視線がとてもこたえた。けど、やめるわけにはいかない。

 

「神聖な祠なのでしょう。万が一彼に何かあったとして、中に死体を置いて置く訳にもいきません。ですので、できれば中に入る許可をいただきたいのです」

 

 そう伝えると、村長の口元が少しだけ上がった気がした。あぁ、何を考えているのか目に見えてわかる。

 

「あぁ……それなら別に構わない。ただし、中にあるものを壊さないでいただきたい」

 

 そう言ってくる村長の内心は、どうせ中に行けば生きて帰っては来ない、と思っていることだろう。だが、甘い。ここぞとばかりに俺は意を決して村長に詰め寄った。

 

「ならば、誰か人をつけてはもらえませんか。何か壊してしまうといけないし、何より見た感じ中はとても暗かったのです。とても、私達だけでは探せないでしょう。私達も会社の責任を負わねばならぬ立場ですので、器物破損などは御免被りたいのです」

 

「……なるほど。しかしのぉ……儂らも皆年寄りだ。とてもじゃないが、祠には辿り着けんよ。行ったのならばわかるだろう? あの階段は老人にはちとキツイものがあるのだ」

 

「そうなのですか。ならば、どうやってあんなに多くのお供え物を運んでいるのですか?」

 

「………ッ!!」

 

 村長の顔が歪む。顔のシワがより一層深まった。ざまぁみろ、と内心ほくそ笑む。かかった。自分で言った言葉が今自分を締め付けている。そりゃそうだ。若手がいないのならば、お供え物を運ぶのはこの集落の老人達だ。ならば……階段を上るのもわけないだろう。ならなぜ行きたがらないのか。

 

 ……あの中にバケモノがいるからだ。この集落の人々が崇め祀っている、バケモノが。

 

「……おいおい氷兎。流石に年寄りにそれはキツいだろう。きっとどっかに荷物を運ぶ機械かなにかがあるのさ。頼れないのなら仕方が無いことだよ」

 

「……まぁ、確かにそうですね。あぁあと、もうひとつだけ聞きたいことがあったのです」

 

 なんだ、と村長は返した。あぁ、完全に怒っている。でももうほとんど知りたい情報の裏は取れた。あとは適当にあしらって帰るだけだ。先輩も予定通りに話を止めてくれたことだし、なんとかこのまま逃げ切ろう。

 

「集落の方々が、もうすぐお祭りをするのだとか。どんな祭りなのですか?」

 

「……儂ら天在村の住人だけの祭だ。お主らのようなよそ者に参加する権利はない。荷物を纏めて帰っていただきたい」

 

「いえ、帰りませんよ。まだ同僚を見つけていませんので」

 

 売り言葉に買い言葉、と言ったか。挑発に対して俺も軽く返させてもらったが別にいいだろう。最早ここまで来たら小言の一つ二つは問題ではない。既に、俺たちは敵対者だ。村長側も敵意を隠すことはない。完全な宣戦布告だ。

 

「……お時間もいい頃合ですし、私達はここでおいとまさせていただきます。お話を聞けてよかったですよ」

 

「フンッ」

 

 先輩と共に村長の家から出た途端、バタンッと勢い良く扉が閉められた。駆け引きは終わり。そう脳が理解した途端、身体から一気に力が抜けていく。暴れだした心臓は止まることを知らない。歩きだそうとした途端、つまづいて転びそうになってしまうほどに精神的な疲れがきていた。

 

「おっと……大丈夫か?」

 

「はい……なんか、もう……疲れました……」

 

 先輩が近寄ってきて肩を貸してくれた。お礼を言って先輩の肩を借りて立ち上がる。背丈は同じくらいなので特に辛くはなかった。

 

 先輩はニヒヒッと笑って空いている手で俺の頭をグシャグシャと力強く撫で回してくる。くすぐったいと言うよりも、痛い。

 

「やるじゃん、氷兎。大成功だろこれ!」

 

「ハハッ……いや、よかった……本当に……」

 

 もっとも、今度はもっと大変な目に遭わなければいけなくなりそうだが、今はこの難所を超えたられたことに感謝しよう。もうこんなのはできればやりたくないものだ。

 

「うっし。今やることも済んだ。とりあえず帰って昼飯食って……そっからはまた考えるか!」

 

「……えぇ。そうしましょう」

 

 先輩の肩から離れて、二人で並んで歩き出した。後ろにある村長の家から、嫌な視線を感じる。けど、先輩は気がついていないようで、話題を振ってきた。いやほんと、鈍感だなこの人。

 

「しっかしまぁ、見事に対応変わったな。なんだよありゃ、『私が町長です』ってか?」

 

「どこの町の長ですかそれ。そういえば、リメイクでしばけるらしいですよ」

 

「マジで!?」

 

 なんて、くだらない話をしながら俺達は民宿に帰っていった。

 

 辺鄙な集落で起きた殺人事件。仕掛け人はおそらく集落の人全員。それに対抗できる人員はわずか三人。そう考えると、心の中で一抹の不安がよぎった。

 

 ……さて、ここからどうやってあの神話生物を倒そうか。

 

 

 

To be continued……




 感想、評価などいただけると作者のやる気があがります。とはいうものの...作者は現在受験シーズンなので書くスピードは上がらないかもしれませんが、それでもよかったらお願いします。

 ここをこう書いたほうがいい、といったご指摘でも大丈夫です。

 それではまた次回も読んで頂けたら幸いです。


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第20話 敵視か警戒心か

あらすじを変えてみました。
前のと今の、どっちがいいんでしょうかね。


 村長との話し合いという名の駆け引きの後、昼食を食べてから再び先輩と共に集落の調査に出かけた。どのような事があったのか、ということだけは加藤さんにも連絡をいれてある。なんにせよ、精神的にだいぶ疲れてしまった。今日はもう休みたい。

 

「……なぁ、氷兎」

 

 先輩が眉をひそめて話しかけてきた。なんだと思って尋ね返そうとしたところで先輩が、周りをキョロキョロと見ないようにしろ、と忠告してくる。

 

「……なんか、変じゃないか?」

 

 言われて、不自然さがないように視線だけを動かして周りを見た。畑や田圃、民家……。はしゃいで遊び回る子供たち。特に何も不自然な点は見当たらない。不思議な顔をする俺を見た先輩は、指で頬を掻きながら伝えてきた。

 

「なんか、さ……大人が見当たらないんだ」

 

「……言われてみれば、確かに」

 

 この集落自体が過疎っている場所だったとしても、必ず誰かしら大人はいた。田圃で作業をする人や、自転車に乗って移動している人、子供と遊ぶ人……。だが、今はその大人達が誰一人として見当たらなかった。

 

「嫌な予感がすんだよなぁ……」

 

 そう呟く先輩の言葉に俺も同意した。あまりに不自然だ。この集落に来てすぐに、俺は集落内では横と繋がりが強いので情報が出回るのが早いという話をしたが……。まさかとは思うが、あの村長何かやる気だろうか。それとも何か他の理由がある?

 

「祭りの準備なら良いんですけどね。おそらく違うでしょうけど」

 

「天上供犠、だったっけ。一体どんな儀式なんだ?」

 

「……憶測になるんですけど、良いですか?」

 

「大丈夫だ。むしろ推測できてることに驚いたわ」

 

 驚愕と共に強く頷いた先輩に、俺も天上供犠というものについて考えついたことを説明することにした。とは言うものの、全て憶測に過ぎない、確証も何も無い話なのであまり俺は話したくない。下手な先入観は考察を止めてしまうからだ。

 

 ……まぁ、この人が考察なんてする訳ないか。ゲームの事しか考察できなさそうだし、別にいいかもしれない。

 

「まず、朝村長にも言いましたが、『天』という字には『神』という意味もあるんです。おそらく、あの洞窟の中にいるバケモノを神聖視しているのかもしれません。だから、神の在る村、『天在村』と名前が付けられたんだと思います。それを踏まえると……天上供犠というのは、神に供物を上納する儀式なのではないでしょうか?」

 

「上納?」

 

「一般的に上納とは年貢を納める時などの、所謂税金の支払いなどに使われますが、ここでは奉る、捧げる等の意味として捉えましょう。つまり、あの洞窟の中にいるであろうバケモノに捧げものをするという儀式なのだと思います」

 

 そこまで伝えると、先輩は顎に手を当てて、それじゃあ何かおかしくないかと尋ねてきた。先輩の言いたいことはわかる。ここの集落の人達は毎日お供え物を持ってきているのだ。ならば、こんな儀式などいらないはずである。

 

 ……ならば、この儀式は何のために必要なのか。何を捧げるべき儀式なのか。よもや、ただ単に豊穣を祝い、次の農作物が美味しくできるように願うだけの儀式ではないだろう。

 

「……なら、何を捧げるんだ?」

 

「確信ではないですが……いえ、今はやめておきましょう。連中戻ってきたみたいですし」

 

 道の奥の方を見ると、チラホラと大人達が戻ってきていた。流石にこんな会話を続けるわけにも行かないだろう。会話を切り上げて歩き続けながら、今後どうするのかを相談する。

 

「……対策を考えた方が良さそうか。俺は一旦民宿に戻って装備を整える。氷兎はどうする? 俺としては、ここで単独行動は不味いと思うけど……」

 

「……花巫さんの場所に向かおうと思います。何故大人がいなくなったか、知っているかもしれないですし」

 

 俺の返答に、先輩は少しだけ困ったような顔をした。それもそうだろう。集落で溢れている不穏な空気は、最早目に見えて明らかだ。そんな中で俺が単独行動をするのはどれだけ危険なことか……。

 

 ふと思い出したが、ここに来てから加藤さんがずっと単独行動だった。彼女も呼んで一緒に行動するべきかと思ったが、脳筋(魔術)なあの人なら大丈夫だろう。なにしろ、俺を助けてくれたあの日の夜に彼女は一人であのバケモノの集団を蹴散らしたのだから。

 

「……わかった、気をつけろよ。銃は持ったか?」

 

「鞄の中です。流石に持ち歩けませんよ。この袋の中に突っ込んでたら何かの拍子に暴発しそうで怖いですし」

 

「槍があるなら、まぁ……。流石に相手も飛び道具は使わないだろ」

 

「わかりませんよ? 草刈り鎌ぶん投げてくるかもしれません」

 

「田舎特有の殺傷武器だな……」

 

 軽く言葉を交わして、俺と先輩は別れた。俺は真っ直ぐに花巫さんのいる神社に向かって歩いていく。幸いにも集落の大人達が帰ってくる方向とは逆なので、すれ違いで何かされることはないだろう。これで子供まで巻き込んで何かされたらたまったものではないが。

 

「……はぁ……」

 

 暑いくせに肝だけは冷えていく。暑さでかく汗も嫌だが、冷や汗も勘弁して欲しい。だから夏は嫌いなんだ。熱中症対策もしないといけないし、第一半袖が好きじゃない。ズボンなんて年中長ズボンだ。そう考えると、俺の服装は全くもって夏に適していないな。半袖の上に羽織ったシャツに、長ズボン。春か秋に着る服装だな、これ。

 

 昔は菜沙が勝手に俺の服をコーディネートしていたが……。なんで女子って明るい服を着させようとするのか、俺にはわからない。別に黒一色で良くないか。そう菜沙に言ったら呆れた目で見られた記憶がある。

 

「……この階段登るのも、中々疲れるんだよなぁ」

 

 ため息をつきながら登りきると、神社の境内には花巫さんがいなかった。昼間はここで神社の掃除をしているものだと思っていたが、ここにいないのならば彼女はどこにいるのだろうか。

 

「……集まりに参加した、か」

 

 彼女はもう子供と呼べる年齢でもないだろう。いや、世間一般からすれば紛れも無く子供なのだが。流石に集落の伝統行事らしいものの集まりであったのならば、呼ばれていてもおかしくはないだろう。

 

 しかし、あの集まりが俺達に対する対策会議だったとするならば……花巫さんが敵に回ることになってしまう。そうなると途端にやりづらくなるな。

 

「………ッ!?」

 

 不意に後ろから誰かに肩を叩かれた。周りは警戒していたはずだ、なのにどこから現れた……?不安と驚愕で背筋が一気に凍りつき、まずったと思った俺はすぐさま後ろに振り向く。すると、頬に何か柔らかいものが突き刺さった。

 

「……えへへ。大成功、です」

 

 振り向いて見えたのは、イタズラが成功して笑っている花巫さんだった。そして、頬に突き刺さったのは彼女の人差し指だ。俺は安堵の息を吐きながら彼女に苦言を漏らした。

 

「……心臓に悪いんですけど。寿命縮みましたよ、絶対」

 

「こういうの、やってみたかったんです。階段のお掃除しようとしたら唯野さんが来るのが見えたので、階段のすぐ隣の森に隠れてました」

 

 そう言って笑っている彼女とは裏腹に、俺は自分の警戒心の甘さを悔やんでいた。完全に盲点だった。神社に目がいくあまり、森の中にも隠れられることを失念していた。これで彼女以外の人だったら、下手すると頬ではなく腹に何か突き刺さっていたかもしれない。そんな俺の内心など知らぬ彼女は、微笑みながら傍に近寄って尋ねてきた。

 

「お昼から来るなんて、何かあったんですか?」

 

「……まぁ、そうですね。花巫さんに聞きたいことがあって来たんですよ」

 

「なんですか? 答えられることなら答えますよ!」

 

 そう言った彼女を見て、俺は初めて彼女にあった時を思い出した。そして、目の前の彼女と重ね合わせる。随分と態度が柔らかくなった。元々固かった訳では無いが、対話をするにあたって一歩引いていたような気がしたからだ。

 

 しかし、今の彼女は一歩引くどころか二歩くらい前に出てきている。正直に言おう。近い、恥ずかしい、さっきので嫌な汗かいたから出来れば近くに来て欲しくない。暑さ以外の理由で体温が上がりながらも、俺はなるべく悟られないように彼女に尋ねた。

 

「正午くらいから集落内で大人を見なくなったんです。何か知りませんか?」

 

「祖父が何か集まりがあると言って、集会場にまで行きましたけど……。それでしょうか?」

 

「なるほど……。何かあったんですかね」

 

 なんて、口では言ってはいるものの今現在心臓の鼓動がとんでもないことになっている。最早穏便にはいかないだろう。本当に、集落の人達が白であれと願うばかりだ。

 

 ……もう、黒が確定しているようなものだが。精神的な疲れに、深くため息を吐くと花巫さんが心配そうな顔で見てきた。いや、今は現状を憂うよりも花巫さんがその集まりに参加していなかったことを安堵した方がいいかもしれない。

 

 聞くことも終わった。民宿に戻った方がいいだろう、と思い彼女に別れを告げてこの場から離れようとしたその時だった。

 

「……菖蒲?」

 

 低く渋い声が聞こえた。声のする方を見れば、険しい顔つきの老人……という程の歳をとっているようには見えないが、恐らく60を過ぎてそう長くは経っていないように見える男性が立っていた。服装は紺色の袴に白の着物。神社の関係者だろうか。

 

「お爺ちゃん……」

 

「えっ……」

 

 目の前にいる爺さんは、どうやら花巫さんの祖父のようだ。先程からずっと、皺の多いその顔を歪めてこちらを睨んでくる。

 

 ……それが、よそ者に対する敵視の目なのか、それとも孫娘の隣に男がいることに対する警戒心なのか判別できないが、あぁ……もうこれ、ろくな目にあわないな、としか思えなかった。

 

 先輩助けて。

 

 心の中で仲間を呼んだが、しかし誰も来なかった。

 

 

To be continued……



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第21話 幸せの与え方

 それはまるで、思春期ならば多くの人が感じたであろう胸の鼓動の高鳴りだった。脈打つスピードがどんどん早くなって、胃がキュッと痛くなる。そう、それは母親に隠していたエロ本をそっと本棚にしまわれていた時の感覚に酷似していた。

 

 ……俺の場合は母親ではなく菜沙に見つかったが。いや待て、今考えるのはそうではないだろう。現実を見なければ。一刻も早くこの場から立ち去ろう、そうしよう。否、しなかったら間違いなく殺される。目の前の爺さんの目がそれを物語っている。

 

「……菖蒲。家に戻っていなさい」

 

「えっ……あ、でもお爺ちゃん……。唯野さんは悪い人じゃ……」

 

「戻りなさい。儂は彼と話があるのだ」

 

「……はい、お爺ちゃん……」

 

 寂しげな目でこちらを見てから背を向けて離れていく花巫さん。けど、今はそれを悠長に見ていられるほど状況はよろしくなかった。まるで人を言葉で殺せそうなくらい年季の入った声だ。震える声を察されないように腹に力を入れて話しかける。

 

「……場所、変えませんか? 彼女物陰から見てるかもしれませんよ」

 

「……ついてきたまえ。下手な真似はするんじゃないぞ」

 

「さて、下手な真似とはなんのことでしょうかね……」

 

「………」

 

 何気なく冗談をかましたら、睨みつける目がより一層鋭くなった。いや、状況的に挑発と取られた可能性もあるか。どちらにせよ……いつでも逃げ出せる準備だけはしておこう。

 

 心構えだけはしておき、花巫さんの祖父の後についていく。階段を降りて、中程の場所にある踊り場で彼は立ち止まった。俺も少しだけ距離をとって立ち止まる。体を半分ほどこちらに向けて、彼は鋭く細めた目で睨みつけてきた。

 

「……これ以上儂らの村に関わるな。そして、あの子……菖蒲にもだ。今お主らが出ていくのならば、儂らは何も言うことは無い。菖蒲の幸せの為にも、帰ってはもらえぬか」

 

「……話がよくわかりませんね。皆さん言いますが、何故そこまでしてよそ者を、自分達を拒むのですか」

 

「相互理解が出来ぬからだ。儂らには、儂らのルールというものがある。お主には、お主なりのルールがある。それらは、あまりにかけ離れたものだ。最早相互理解はできぬ」

 

 男の発する言葉は、諦めの色が濃いように感じた。本当にそう思っているのだろう。辺鄙な田舎の独自のルールと、都会という程でもないが、世間一般のルールの中で生きてきた俺達とでは、見えているものや感じるものが違うのだと。

 

 ……だが、それを理解する前に俺の心には怒りがふつふつと湧き上がってきた。逃げるべきだという恐怖の感情すらも塗りつぶして、それは前面に出てくる。

 

「……『うちはうち、よそはよそ』って理論ですか。いや……全く以てくだらない意見ですね。そういうの、昔っから大嫌いなんですよ」

 

「何も知らない若造が大層な口をきくな。お主には何もわからん。そして何も、理解出来ぬ。今お主が手を引くことが、誰もが穏便に事を済ませられる最善手なのだ。それこそが菖蒲にとっても幸せなことなのだ」

 

「……幸せだなんだと言ってますがね。爺さん、アンタ本当にそう思ってるんですか? 思ってるなら鏡を見た方がいい。到底、その内心とは似ても似つかない顔をしてますよ」

 

 皺だらけの顔の裏側の感情が、言葉となって現れた。それは諦めであろう。しかし、何に対する諦めなのか。それはもう、俺の中では一つの結論として出ていた。そして、その結論は最悪の予想の果てに行き着いたものだ。コレが真実だったなら……俺も流石に平常心を保てるかどうかも怪しい。

 

 だが、それこそが現状を打破できる可能性を秘めたモノだ。意を決して、口を開く。

 

「……彼女、花巫 菖蒲さんの左眼。先天性のものではないですよね」

 

「ッ……」

 

 驚きに目を見開いたあたり、予想は当たっていたようだ。彼女は生まれつき目が視えていなかったと言ったが、天上供犠についての話が出てきた辺りで俺は不思議に思った。今まで読んできた本の中で得た知識ではあったが、一つ儀式にまつわるものとして関連された事柄があるのだ。それは……

 

「我々日本人の昔話では、人身供犠……所謂生贄を神に捧げることで自然災害や川の氾濫を防止したとされます。そして……その生贄となる人は、片目がないか足が不自由な人であったというらしいです」

 

 彼はこの神社の神主だろう。ならば、全て知っているはずなのだ。あの祠の中に何がいるのかも。その事実を突きつけて、何が変わるという訳でもない。ただ、真実を知らなければならない。一息ついてから、俺は再度目の前の男を睨むようにして口を開いた。

 

「───花巫 菖蒲は、あの祠の中にいるバケモノの生贄となるべくして産まれ、左眼を抉られた。違いますか?」

 

 あのバケモノがあんなにも多くの食料を毎日食べているのにも関わらず、それでも尚何かを捧げなければならない。それこそが、天上供犠。犠牲によって数多の命に幸あれと願われる、少数切り捨ての儀式。

 

「……いいや、違う。半分だ。残りの半分は、正しくない」

 

 爺さんの言葉は、先程よりも更に重々しい。俺に対して警告を発した強気の爺さんはもういない。今目の前にいるのは、おそらく彼女の祖父としてではないだろうか。

 

 ……そう考えていたのも、次の言葉で全てが吹き飛んだ。

 

「あの子に生きる意味を見出させないために、儂が抉ったのだ」

 

「……は?」

 

 拍子の抜けた声が漏れた。今、目の前の老人はなんといった。生きる意味を見出させないため、確かにそう言った。それは、人としての存在の否定ではないのか。自論だが、人が生きるのは意味を見出すことにある。自分がそこにいて、何をしたのか。何を残すことが出来たのか。自分がそこに確かに存在していたのだという証拠を残すことこそが、俺達の生きる意味だと、俺は思っている。まさか、家族だというのに彼女からそれを奪い去ったというのか。

 

 俺の内心を知る由もない彼は、その言葉の節々から悲壮と怒りを感じさせる物言いで彼女の境遇を語り始めた。

 

「元より決められた運命だった。ならば、それをどうにかしてやりたいと思うのが家族としての情だ。元から世に期待も後悔もしていなければ、死ぬことに何の悔いがあろうか。元より何にもなれず死ぬのなら、痛みはきっとないだろう」

 

「………」

 

「義務教育はさせた。だが、高校には行かせなかった。あの子は自分の見た目からか友達を作らなかった。最早、あの子に希望はなかったのだ。それこそが、幸せであった。だが……お主は菖蒲にいらないものを持ってきた。期待だ。希望だ。生きる活力だッ。それは確実に、菖蒲を苦しめることになる!」

 

「絶望の中にいれば、死を絶望だと感じないと……。幸せがわからなければ、また不幸を不幸だと感じることもないと……。アンタ、それでも保護者かよッ!! 両親はどうした!? あの子の両親までもそんな想いだと言うのか!?」

 

「二人はとうにこの世にいない。生贄となって死んだ!」

 

「ッ……!!」

 

 怒鳴りつける俺の言葉に、彼もまた怒鳴り返す。次に彼が語り始めたのは、まだ花巫さんが幼かった頃に行われた儀式についての話だった。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 それは菖蒲が産まれてすぐの頃だ。我が家系は代々当主の嫁が生贄となることを義務つけられていた。無論、菖蒲を産んだ儂の娘がその義務を全うしなければならなかった。儂はそれを悲しんだが、儂の妻もその義務を果たしたのだ。

 

 だが、それに対して婿は怒った。到底耐えられるものではないと。こんな悪習は捨て去らねばならぬと。

 

 その意気込みは凄まじいものだった。そしてとうとう、儀式に参加して共に中に入ると言い出した。

 

 ……儂は、その時は婿の言葉に従った。儂も娘を失いたくなかった。だから、娘の儀式に儂と婿は共に臨んだのだ。互いに猟銃を持ってな。

 

 

 ───君は絶対に守るよ。そして、菖蒲のところに帰るんだ。

 

 

 婿の言ったその言葉に娘は泣いた。儂も、いざとなったら身を挺して守るつもりだった。両手で握りしめた猟銃を頼りに、祠の奥へと進んで行く。どうにかなるかもしれない、という期待が胸の中で生まれつつあったのだ。

 

 

 ───あ……っ………。

 

 

 その決意は、呆気ないことに簡単に砕けた。誰の声か、いや皆の声だったのかもしれない。穴の中に響く呆気に取られた声。

 

 祠の最奥に、ソレはいたのだ。不定形で、多くの目玉がついている、そう……例えるならば、アメーバか。ソレは不思議な声と共にジリジリと迫ってきた。液体が動くように近づいてきて、その体ともいえる部位から触手のようなものを伸ばす。

 

 

 ───っ……ぅ、あぁぁぁぁッ!!

 

 

 婿が悲鳴のような叫びをあげて銃を乱射した。しかし、それは奴に対して有効ではなかった。弾丸は体に当たると内部に吸収されて、溶けてなくなる。ジリジリと詰め寄る奴に、果たして娘と婿は捕まった。そして……

 

 

 ───ぁ…………….ぃ…….。

 

 

 婿が喰われた。口のような部分に放り込まれ、ポキリ、ポキリ、と噛み砕かれた。そして、奴の半透明な身体はそれを儂に見せた。まるで地獄を見たような泣き顔のまま、混ざり、砕き、やがて溶けていく。そして今度は、気絶してしまった娘を口へ放り込んだ。

 

 ……儂は逃げたのだ。娘を置いて、死にたくないと逃げ出した。手に持つ猟銃も投げ捨て、大切なものを何もかも置き去りにして、息を切らして逃げたのだ。奴は、追っては来なかった。あぁ、だが最早どうにもならぬのだと理解してしまった。

 

 祠を爆破しても、隙間から這い出てくるだろう。コンクリートを流して固めようとしても、奴はそれを察知して出てくるだろう。最早これは、止められぬものなのだと……儂は諦めたのだ。

 

 逃げ延びて数年、菖蒲には両親は菖蒲を捨てて逃げたのだと説明した。そして、儀式のことも……ただ、神様と一緒になるための儀式だと教え込んだ。

 

 儂は文献を探し回ってあのバケモノについて調べたが、わかったことは少なかった。昔この村にやってきて、祠に住み着いた。当初飢饉で苦しんでいた昔の人々は必要な食料数を減らすために生贄を捧げたらしい。すると、飢饉は過ぎて作物は実っていった。彼らはその後も生贄を出すことをやめなかったようだ。やがて供給が間に合い、余りが出ると生贄の代わりに作物を供えた。

 

 これで犠牲が出ることもなくなったと思っていたのだが、何年か経つと村に現れて人を一人喰らって帰ってゆくらしい。人肉が好みなのか、それとも何か別の理由があるのか。しかし、それこそが儀式を行い続ける理由だった。機嫌を損ねては、儂らが生活出来なくなる可能性があったからだ。

 

 誰も、辞めようとは言わなかった。否、言えなかったのだ。死ぬのが嫌だったからだ。

 

 歳をとれば死を恐れなくなる? いや違う。歳をとればとるほど、儂らは『死』というものを理解する。そしてよりいっそう恐れるのだ。だから、何も知らぬ子供のうちに……生贄にしようとしたのだ。

 

 菖蒲が儂の家系の最後となるだろう。年々奴は人肉を求める期間が短くなっていっている。次の犠牲者は……おそらく、なすりつけ合いになるのだろう。人間同士、醜い争いの果てに……儂らは、やがてどちらがバケモノなのか分からなくなってしまうのやもしれん。わかっていても、どうしようもないのだ。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ……爺さんの話はさほど長くはなかった。だが、その話はあまりに非常識だ。とうてい現実のことだとは思えないだろう。

 

 ……俺達以外ならば。

 

「せめて苦しまぬようにと、そう思ってやったことなのだ。理解してくれ。そして……ここから出ていってくれ」

 

 後悔、諦め、そして親愛。あぁ、確かにこの爺さんは彼女を想っているのだろう。しっかりと、考えているのだろう。だが、それは彼女が死ぬことを前提としたものだ。決して彼女の本当の幸せを思ってのことではない。

 

「そこまで聞いたのなら尚更です。最早俺達も引けないのですよ。嫌でも、介入させてもらいます」

 

「無責任なことをするな! 助けたとして、そのあとどうするつもりだ!? あの子は、高校には行っていない上に社会で働くことも知らぬ生娘だ。助かったとして、そのあとどう生きさせるつもりだ!? お主があの子の面倒を見るとでも言うのか!!」

 

 助けるだけ助けて、それでさよならをするのを許さない、と爺さんは言った。確かにそうだ。助けたとして、彼女はどうするべきだろう? 彼女は死ぬために生かされた。生きるために生きてきた訳ではない。世間に出るために必要なものが多く欠如しているだろう。ならどうするのか? 俺達が彼女の行く末を決めろと?

 

「……いいや、いいや違う! それは俺達が勝手に決めていいものじゃない。彼女の人生は誰かに決められてはならない。彼女が自分の手で選ばなければならないものだ!」

 

「それを無責任だというのだ!!」

 

「違うッ!! これは、人として当たり前の事だ!! いつまでも、あの子を生贄として扱うな!! あの子は人間だ!!」

 

「何の苦労も、苦しみも知らぬ若造が、知った口をきくな!!」

 

 爺さんの怒声が響いた。だが、それでも俺は怯まない。俺の心の中では、また別の決意が産まれていたのだ。天在村に来た時、俺は自分の将来の夢がないと言った。目標が思い浮かばないと言った。だが、今ここで指針は決まった。

 

「俺はバケモノのせいで理不尽に死なねばならない人を助ける。これは、俺の決意だ。アンタらの理由なんかで止まる訳にはいかないんだよ」

 

「……ふん。何も知らぬから言えるのだ……。直にわかる。お主の行動は、ただの子供の行為の延長線上だとな」

 

 爺さんが踵を返して階段を上っていく。俺も背を向けて階段を下りていった。民宿に向かいながら、俺は彼女の境遇を再度考え直す。

 

「……..あぁ。彼女が人を信用できなくなるわけだ」

 

 ボソリと呟いた。彼女の人の感情を色として認識できる能力は、それこそ昔から使えたのだろう。そして気がついた。周りがどう思っているのか。そして……愛を向けてくれるはずの祖父は、きっと彼女を憐憫の情で接していたことだろう。そして村の人達も……。

 

 誰かからの愛を欲していた彼女に待つのは、生贄という終着点。あまりに……酷い話だ。俺もきっと彼女の立場なら、誰も信用したくなかっただろう。自殺もきっと考えただろう。それでも強く生きていた彼女は、やはり何としてでも助けないといけない。

 

「……とりあえず、先輩達に報告しないと」

 

 急いで帰って民宿に辿り着き、自分達の部屋へと向かう。先に帰ってきていた先輩と、調査が終わったらしい加藤さんが部屋で待機していた。部屋には料理が既に運び込まれていて、時計を見ると夜の八時を越している。長いこと話し込んでいたらしい。俺の表情から事態を汲み取った加藤さんが座るように促して話を聞こうとしてくる。

 

「……進展はあったようだな」

 

「はい。そこら辺踏まえて話したいんですけど……」

 

「血生臭そうな話はメシの後にしようぜ。食欲が失せちまう」

 

「それもそうだな。私も部屋に戻って食べてくるとしよう」

 

 加藤さんが部屋を出ていき、俺と先輩は料理に手をつけ始める。食べ始めはいつも通りの味だった。だが、様々な料理に手をつけていくと、やがて口の中で違和感を感じるようになってきた。薬味のような、酷い味だ。あまりに酷く耐えきれなかった俺は口の中に入れたものを吐き出した。畳の上に噛み砕かれた野菜が撒き散らされる。先輩も口元を抑えていた。

 

「ゲッホゲッホッ……な、なんだこれ……クソマズイ……」

 

「何を間違えたらこんな……いや、まさかこれ……」

 

 身体から力が抜けていく。手先の感覚から徐々になくなっていき、全身が痺れて動けなくなってしまった。息をするのも苦労するくらいに、全く身動きが取れない。箸が手からこぼれ落ち、そのまま俺と先輩は横向きに倒れていく。

 

「ぐっ……おっ……ちくしょう……」

 

「……盛られてたか……ハ、ハッ……クソッ……」

 

 自分の警戒心のなさに悪態をついた。田舎は横の繋がりが強いと何度も自分で言ったではないか。なのにこの始末だ。苛立ちと恐怖が募っていく。そんなグチャグチャな精神状態の中で、段々と瞼が重くなっていった。開けようとするが、瞼は逆らう様に落ちていく。

 

 ……もう、耐えられない。諦めた俺は目を開こうとする努力をやめた。意識がなくなる直前、多くの足音が聞こえた気がする。

 

 

To be continued……



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第22話 先輩の片鱗

 ……冷たい。確か今は夏だったはずだ。なのに、まるで氷を直に触っているみたいに冷たい。心地よいはずなのに、鼻につく匂いのせいでそれを快適だと感じない。

 

「っ……ここは……?」

 

 目を開くと、目の前の景色はまったく見たことがない場所だった。床はコンクリート、家具なんてものはなく目の前の部屋とは鉄格子によって隔離されていた。天井も低く、立つことは難しいだろう。向かい側の部屋には俺達が持ってきた荷物が乱雑に放り投げられ、看守用の椅子と机が置かれている。薄暗い部屋を灯しているのは、LEDなんてものではなく油を使った旧式のランプだ。

 

「……よぉ。起きたか」

 

 隣から声が聞こえ、振り向くとそこには頬に赤い掌の形が残ったまま苦々しい顔をしている先輩と、済ました表情のまま周りを観察している加藤さんがいた。なんで頬が赤いんだろうか。

 

「どうやら、捕まったらしいな」

 

「捕まった……? ……あぁ」

 

 ようやく頭の中で情報が整理できた。昨晩、でいいのか。ともかく民宿で出された夜飯を食べたら、身体が痺れて動かなくなったんだったか。まさか薬が盛られているとは。しかし……何故身動きを封じるだけにしたのだろうか。薬を盛るなら毒薬でも混ぜればいいものを。

 

 ……殺せない理由があった、とか。いや、情報が少なすぎて何も考えつかないな。

 

「……そう言えば、加藤さんも自分達と同じところにぶち込まれたんですね」

 

「えぇ……。まったく酷い連中だよ」

 

 やれやれ、といった様子で特に堪えてはなさそうだ。流石何度も修羅場をくぐり抜けたであろう大先輩だ。この程度なんともないのだろう。きっと何かしら打開策も考えているはず。

 

 しかし……その……加藤さんは大丈夫だったんだろうか。いや、だって俺達は麻痺薬みたいな物を使われたわけで……その……身体に何かされたりとか、してないんですかね。

 

 そんなことを考えていた俺の肩に、先輩がポンッと手を置いて口元をニヤリと歪めながら言った。

 

「……安心しろ、氷兎。今お前がおそらく考えていることは既に俺が質問した。そして派手にビンタされた。のび太さんのエッチ並の高威力だった」

 

「何に安心しろと言うんですかね……? まぁともかく、無事で良かったですよ」

 

「ふん……。別にいい。ジジイどもにその気がなかっただけだ」

 

 ……なんだか加藤さんが拗ねている気がする。あれか。襲われなかったのはよかったけど、襲うほどの価値がないのではと内心不安なのか。見てくれは美人なのに、なんでなんだか……。どこか欠けてるというか、なんというか……。

 

「……いい機会だ。連中もいないし作戦会議を兼ねて唯野君が集めたという情報を共有しよう」

 

「……この状況でですか?」

 

「この状況だからだよ。焦っても何も出来ない。出ることも今は無理。なら、今後どうするのかを話し合って決めるのが一番よ」

 

「それが無難ですかね。んじゃま、氷兎。昼間別れたあと何があったのかを教えてくれ」

 

 先輩に言われた通り、あの後何があったのかを説明し始めた。花巫さんの場所に行ったこと。村長が人を集めて会議を開いたらしいこと。そして……花巫さんの祖父との会話のことを。俺のその説明を聞いた先輩は声を大きくして怒った。

 

「はぁ!? 自分の孫娘を生贄にされるってのに黙って見てるどころか加担するだと!?」

 

「……バケモノがバケモノなら、そのバケモノと一緒にいる人間もロクでなしか。流石に、放ってはおけないわね。神話生物がいるって時点で逃す気もないけれど」

 

「……まぁ、これがざっくりとした説明です。自分としてはなんとしてでも天上供犠を止めたいんですけど、そうなると神話生物との戦闘になります。おそらく洞窟内部では戦えないでしょう。その辺どうしましょうか」

 

「別に気にすることは無い。自分が助かりたいから子供を生贄に選ぶなんていう屑は気にかけるだけ無駄よ。村中使って戦うしかないわ。それで……必要ならば口封じかしらね」

 

「……口封じって、本気でやるんですか?」

 

 俺の時には何も無かったが、ここまでの集団単位では流石に口封じをしないといけなくなるのか。個人の監視ならともかく集団の監視は不可能だ。俺の疑問に対して加藤さんは答えた。

 

「唯野君。悪いけど、私達は正義の味方ではなく『人間』の味方なの。それが今の人の世を混乱させるのなら、私達は口封じとして何らかの処置を取らないといけない。金で封じるか、人質か……殺しか」

 

「……先輩は、知ってましたか」

 

「……話だけは、なぁ。俺がそんなことやることになるなんて考えなかったから、記憶の隅に追いやったけど」

 

 単に忘れていただけじゃないのかこの人。しかしまぁ……正義の味方ではなく人間の味方ときた。それはつまり、正義ではない悪の手を使う可能性もあるということ。もっとも、正義の味方なんてものは存在しないと思うが。

 

「……私達は、世界を守らないといけない。あの神話生物達から。だから特例として、私達には『殺人』すらも許可されている」

 

「……ッ」

 

「当然、無闇な殺しは処罰ものよ。けど……相手がこの世界を混乱させたりする要因となったり、神話生物と手を組んでいたりした場合、私達は人を殺せる権利がある。唯野君、君も直に分かる。何かを護るために殺すのは、仕方のないことなんだって」

 

 ……殺人は、紛れも無く悪であろう。人殺しを正義の味方はしてはいけない。正義の味方は……敵にすら情けをかける。では、正義とは何か。それは道徳的な正しさだ。そしてそれは……時と場合で異なってしまう。完全に固定化された概念ではない。

 

 殺人を正義とし、正当化するなんてのは間違っている。それが例え何かを護るためだとしても……。

 

「……まぁ、そうなる事態にしなけりゃいい話だ。でしょう、加藤さん」

 

「そう簡単にいくものでもないけどね」

 

 ……加藤さんは、もう既に人を殺したことがあるのだろうか?いや、あってもなくても、俺は彼女をどうこう思うようなことはないが……非日常に慣れてない俺からすれば、俺の倫理観や道徳観もこっちの世界では使い物にならなくなるのかもしれない。

 

「……誰か来たな」

 

 加藤さんのその呟きを聞いた俺と先輩は耳を澄ませた。遠くのほうからカツン、カツン、と硬い靴で降りてくる音が聞こえる。そして、この独房と思わしき部屋の唯一の出口であった扉が開かれ、見知った顔が俺達の前に現れた。

 

「起きたのか。随分と早いな……」

 

「……村長。どういう事なのか、説明していただけますよね」

 

 入ってきたのは、村長と他数名の男達だった。全員悪びれる様子もなく、ただただこちらを見下ろしてくる。その中に花巫さんの爺さんの姿がないのが幸いだが、にしてもまさか薬まで盛ってくるとは。村長が一人前に出て、地面に膝をついている俺達を馬鹿にした目つきで話しかけてくる。

 

「アンタらは知りすぎた。この間現れたあの男の同僚だと聞いた時から警戒はしていたが、よもやここまで探られるとは思わなかった」

 

「やはり殺したのはお前達か。大方、私達と同じように料理に薬を混ぜてバケモノの餌にでもしたか。そうであるならば、あの洞窟の中に手帳が落ちていたのも納得がいく」

 

「そうだ。だが、それを今確認したところで何になるというのか。儀式は間もなく行われる。その後、アンタらは次の生贄になるのだ。これで、我々の代は安泰だな」

 

 目の前の男はニヤリと笑って俺達を見下した。負けじと睨み返したが、こちらは立つことすらままならないほど小さな牢屋の中。座ったままでは睨み返しても効果は薄かった。それでも我慢ならないのか、先輩が村長に向かって怒鳴りつける。

 

「あの娘を生贄にしてアンタら何も感じねぇのかよ!! こんなの、おかしいだろうが!!」

 

「……生きるために産まれた命を、殺すために生かすなんてことが許されていい訳がない。あの娘を、花巫さんを解放しろ。あんなにも優しい子が、不幸になるのはあまりに理不尽だ!!」

 

 俺も男達に向かって怒声を発したが、男達は何も感じておらず、それの何が悪いのかといったふうに笑った。その目つき、態度、声音。彼らは本当に罪悪感を欠片も感じていないようで、握りしめた両手で今にでもぶん殴りたくなってくる。

 

「なに、聞こえんなぁ。俺たちゃ必要なもん貢いで細々やってんだよ。報われて当然だろ。あんな苦労も知らんガキに俺達の何がわかるってんだ」

 

「ガキはどっちだ!! テメェらあの娘の何を知ってるって言うんだよ!! 何も知らねぇだろ!? どれだけ苦しんだかも、どれだけ悲しんだのかも、それを知ろうとする気もないくせにあの娘を笑う権利が、テメェらに有っていいものか!!」

 

「黙れクソガキが!!」

 

 鉄格子に近づいていたせいで、男の足が腹に勢いよく叩き込まれた。入った箇所が悪かったのか、息ができなくなってそのまま前に倒れることしか出来ない。

 

 本当にふざけてる。花巫さんの苦しみも、何も理解しようとしないくせに。死を彼女に押し付けているくせに。なんでこんなヤツらが、のうのうと生きてんだよッ……。

 

「くっ、そがっ……ぁ……」

 

「唯野君ッ!!」

 

「っ……ふざけんのも大概にしろよアンタらッ!!」

 

 先輩が鉄格子を掴んでガンガンッと揺らすが、先輩も蹴られてしまったようで、苦しそうなうめき声が聞こえてきた。身体はうまく動かないが、あぁそれでも今この手に銃があったのならば、俺は……

 

 ……俺は、どうする……?

 

「そこまでにしておけ。死なれたら生贄の意味が無い。時間もいい頃合だ。そろそろ花巫の孫も準備が出来ただろう」

 

 村長のその言葉で男達は扉を開けて出ていった。村長は最後まで残っており、蹲っている俺達を嘲笑(わら)うと、皮肉げに言ってくる。

 

「お前みたいのが来なかったら、あの娘も何も感じず死ねただろうになぁ。あぁ、可哀想に……」

 

「ッ……待てよ……おい……待てってんだろうがッ……!」

 

 苦しくてもなんとか声を出して村長を引き止めようとした。だが、俺達に見向きもせず村長は部屋から出て行った。足音が遠ざかっていく……。

 

「あの、クソ野郎ッ……」

 

「あまり喋るな! 余計に痛むよ!」

 

「……アイツら、絶対目に物見せてやっからなぁ……」

 

 動けない俺と先輩の腹を優しく撫でるようにする加藤さんにお礼を言いながらも、二人してあの男達に毒づいた。なんとかしてここから抜け出して花巫さんを助けなくては……。しかし、俺たちを閉じ込めているこの牢屋は鍵こそないものの、出入口の部分が鎖と南京錠によって開かなくなっている。

 

 独房の外の空間には、俺達の荷物が一式雑に投げ捨ててある。せめてあそこにある荷物さえ取れるのなら、何とかなるかもしれないのに……。手を伸ばしても、絶対に届く距離ではない。

 

「……いってぇなぁ……絶対痣になるぞコレ」

 

「回復、早いですね……」

 

 先輩は既に起きても大丈夫なようだ。俺は未だに腹を抱えたまま前傾姿勢をやめられない。加藤さんも周りを見て何か使えるものがないのか探っているが、何も見つけられなくて顔を顰めていた。

 

「なんとかしてここから出ないと……」

 

「加藤さん、魔術でどうにかならないんすかね?」

 

「私の『魔術』はね、火種がないと使えないの。無から何かを作れるほど凄いものじゃないのよ。私が使ってた剣あるでしょ? あれ、強く握ると内部で火花が散る仕組みがあってそれで火を使ってたのよ」

 

 聞きたくもなかった事実だった。魔力を元にして何かを発生させるのではなく、ただ単に元になる火力を底上げする能力だったのか……。じゃあ、なにか火元があれば魔術は使えるのか。そう思って石かなにかないかと思ったが、本当に何も無かった。これでは火花すら散らせない。

 

「……アイツらが手荷物検査をしないバカで助かったぜ」

 

 そういった先輩は徐ろに着ていた上着を脱ぎ出した。加藤さんが顔を赤くして、なっなぁっ……なんて、言葉にならない声を発している。この人漢気あるくせに初心なのか……。

 

「……えぇ……」

 

 口からそんな呆れたような声が漏れた。先輩が上半裸になると、身体にベルトが巻き付けられていて、そこに取り付けられたホルスターには銀色の銃……デザートイーグルが入っていたのだ。それを指さしながら得意げに先輩は語る。

 

「愛銃ってのはな、肌身離さず持っておくものだぜ?」

 

「……ここに来て初めて尊敬しましたよ」

 

「何気に酷いこと言うね!?」

 

 いや、流石に呆れもするだろう。まさか本当に肌身離さず持っておくとか、ちょっと考えにくい。しかも身体に巻き付けておくとか、生活しにくそうな上に暴発したらヤバイ代物だというのに。

 

「おし、ちょっとどいてろ」

 

 そう言われた俺と加藤さんは、なるべく先輩から離れた位置で待機した。先輩は片膝を着いて両手でしっかりと銃を持ち狙いを定めた。

 

 ここ最近聞き慣れた火薬の弾ける音が二度響く。そして鉄の擦れる音とともに牢屋を閉めていた南京錠が破壊された。

 

「……すごいな。流石だな鈴華君、おかげで助かったよ」

 

「……いいセンスだ」

 

「褒められても、リロードはレボリューションできないぜ?」

 

 そりゃそうだ。先輩のはハンドガン、本家のはリボルバーだ。リロードの仕方から違っている。

 

 しかし、そう言ってニヤリと笑った先輩を見て、やけに格好よく見えた気がした。あくまで気がしただけである。すぐにいつもの表情に戻った先輩に続いて、独房の外へと出た。各々自分の荷物を装備して、準備を整えていく。黒の外套を身に纏い、背中に槍を括りつけ、ホルスターにはコルト・ガバメントを入れて準備は万端だ。

 

「うっし、準備完了! あの蹴り入れやがったジジイぶん殴ってやる!」

 

「いやいや、先に神話生物退治ですよ。花巫さん助けないと!」

 

「準備は出来たようだな。覚悟はしておけよ、私達は今から本当の命のやり取りをするんだ。……頼むから死ぬなよ」

 

 ハイッ!と先輩と共に返事をして、俺達は部屋を飛び出して行った。何としてでも、天上供犠を止めなくてはならない。彼女は、人並みの幸せを手に入れてもいいはずなのだから。

 

 

To be continued…… 



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第23話 天上供犠

 部屋の外はコンクリートで作られた通路になっていて、湿気のせいなのか若干かび臭い。その通路を走り抜けると、階段があった。その先には星が見える。どうやら外のようだ。

 

「地下に隠してたのかよ……」

 

「しかも、ここ民宿のすぐ裏手ですよ」

 

 出てきた先は民宿の裏側で、大きな荷物などを置いて見えないように作られていた場所だった。しかも丁寧に柵で囲まれており、出入口にはまたもや鍵がかけられている。南京錠ではないため、破壊は難しいだろう。

 

「今回は私の出番かな」

 

 加藤さんが細身の剣を片手で持ち扉に向けて振るうと、剣先から火炎が飛び出した。火炎は鍵の部分に直撃し、その部分を溶かしていく。十分に溶けたのを確認すると、加藤さんはヤクザキックで扉を荒々しく開けた。

 

「女子力(物理)」

 

「鈴華君、終わったら覚えておきなさい」

 

「アホなこと言ってないで急ぎますよ!」

 

 月が出ているおかげで身体能力が上がってるから、一人で先行したい気持ちに駆られるが、俺一人が突っ込んだところで何も出来ないだろう。二人を急かすようにして俺達は神社へと向かった。

 

 道中、所々で行灯や飾り付けがされており、今が儀式の真っ最中だと言うのは目に見えて明らかだった。急がなければ本当に間に合わなくなってしまう。道端を歩く人たちを躱しながら、全力で神社へと向かった。そして神社へ向かうための階段の近くまでやってくると、遠目からでもわかるくらい人がひしめき合っていた。

 

「……チッ、階段に人がいやがるな」

 

「中央突破で行きましょう、時間が惜しいです」

 

 階段の近くにいた大人達が、走ってきた俺達を見て指をさして声を上げた。なんでお前達がここにいる、と。どうやって抜け出したんだ、と。

 

 そんなこと知らぬという俺達は、ただ各々剣と銃を構えて怒鳴り散らすように走り抜けていく。

 

「オラオラオラッ、どかねぇとぶっぱなすぞオラァ!!」

 

「………」

 

 チンピラか。実際実物のチャカ持ってるのでチンピラとは一概に言えないが、もっと別の言葉はあっただろう。けれども俺達が持っている武器を見た連中は、驚きその場から退いていった。先輩のノリはこういう時にちょっと頼りになる。

 

「何だ騒がしい!! 儀式の最中だぞ!!」

 

 上のほうから先程も聞いた声が聞こえてきた。村長の声だ。チラッと先輩の顔を見ると口元が歪んでいる。蹴られたことをだいぶ根に持っているようだ。

 

 階段を一息に上りきり、境内に辿り着いた。多くの人がごった返す中俺達はただ邪魔な連中をどかしながら進んでいく。そして神社の裏手にあった洞窟、そこには村長を含めたおそらく地位的に上の立場であろう人達が集まっていた。

 

 ……しかし、そこには花巫さんの姿がない。

 

「邪魔だ、どけッ!!」

 

 近くにいた連中を蹴り飛ばし、洞窟の前まで辿り着いた。村長が声を荒げて罵声を浴びせてくる。

 

「アンタら、まだ邪魔をする気か!! 諦めろ、あの娘は既に儀式に臨んだ!! もう何もできることは無い!!」

 

 先頭にいた加藤さんが剣を村長に向けて構えながら、俺達に背を向けて言った。

 

「鈴華君と唯野君は中に行って。私がここで止める」

 

 背を見るだけで頼りになりそうな彼女は、ただ剣を持ってその場に佇んだ。しかし、一人だけにこの場を任せてしまうのは躊躇わせるものがある。そんな俺達を見かねて加藤さんは叫んだ。

 

「行けッ!! 彼女を助けるんだろう!!」

 

「っ……ご武運を!」

 

「カッコイイっすよ加藤さん!」

 

 俺と先輩は加藤さんに礼を言うと、洞窟の中に走り出した。暗い中を先輩が持ってきていた銃につけられたフラッシュライトを頼りに進んでいく。

 

 

『テケリ・リ。テケリ・リ』

 

 

 ……声が、聞こえる。進む度に寒気が増していき、嫌な匂いが鼻につくようになった。

 

 なんとしてでも、彼女を助けないと。その想いを強く抱いて恐怖を払い除け、進む足を早めた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 今日は儀式の日。私が子供の頃から教えられた、花巫の巫女として成長するための儀式。これが終わることで、私は巫女として一人前と認められるらしい。出来れば唯野さんにも見に来てもらいたかったけど、昨日の夜から連絡がつかなかった。……帰っちゃったのかな。

 

「……菖蒲、そろそろ時間だ」

 

 お爺ちゃんが私を呼びに来た。その胸の付近に浮かぶのは、くすんだ蒼色。昔からずっと変わらない。私にはお爺ちゃんが何を悲しんでいるのかわからないけど、ずっと表情だけは変わらなかった。ずっと、皺を寄せて私を見守ってきてくれた。

 

「はい、お爺ちゃん。すぐに行きます」

 

 鏡の前に立って、服装がおかしくないか確認した。いつもの紅白の衣装ではなく、白無垢に似たような衣装だ。これが儀式の際の正式な衣装らしい。まるでお嫁さんにでもなるような気分で、ちょっとだけ気分が上がる。

 

 ……机の上に置いてある携帯を手に取り、画面を点けた。けど、やっぱり唯野さんからは連絡が来ない。昨日お爺ちゃんと話してたみたいだけど、何かあったのかな。お爺ちゃんも、心なしか色が濃くなってた気がする。

 

「………」

 

 そういえば、借りていたタオルを返していなかった。唯野さんは覚えているはずだし、きっと取りに帰ってくるよね。そしたら、きっとまた会える。

 

 真っ黒なのに、優しい人。何を考えているのかわからなくても、私のことを案じてくれてるってわかるくらい優しい人。心の中を全て見せてしまいそうな、不思議な人。きっと、悩みも何もかも全て、彼なら話せてしまいそう。そしてきっと……ちゃんと答えてくれる。

 

 彼なりの言葉で、優しくも厳しく、私のためを思って言ってくれる。それが、何よりも嬉しい。

 

「……準備できました、お爺ちゃん」

 

「そうか……。似合っているよ、菖蒲」

 

 私の姿を見たお爺ちゃんが、また色が濃くなった。何を悲しんでいるんだろう。わからない、けど……。

 

「お爺ちゃん」

 

 私はいつものように名前を呼んだ。そして、少しだけ微笑んでお礼を言った。

 

「私なら大丈夫だよ。だから……今まで育ててくれて、ありがとう。私、ちゃんとした巫女になるから。そしたらお爺ちゃんは、ゆっくりしてていいんだよ」

 

「っ……そうか……そう、だな……」

 

 ……泣いていた。ずっと険しい顔つきだったお爺ちゃんが、泣いていた。皺を寄せたまま、堪えるように泣いていた。不思議と、私の目にも涙が溜まってきた気がする。

 

 きっと、彼に会えなかったらこんなこと言えなかっただろう。私はきっと、自分の境遇に嘆いて誰にも感謝を抱かなかっただろう。けど、彼に会えたから……私は自分の過去を受け入れることが出来た。だから、やっとわかった。こんな私でも、しっかりお爺ちゃんは育ててくれたんだ。

 

「……儂は………」

 

 お爺ちゃんは、泣き顔を見られたくないのか顔を逸らしたまま、何かを呟いていた。私は珍しいお爺ちゃんのその姿をじっと見つめる。徐に振り返ったお爺ちゃんは、涙を拭いたあと私に言った。

 

「……顔を、よく見せておくれ」

 

「……? ……はい」

 

 つけていた眼帯を外すと、お爺ちゃんは私の顔をじっと見つめてきた。そして片手を私の左頬に添えると、少しだけ微笑んだ。

 

「……母親に似て、別嬪になったな」

 

「……お母さんに、似てる?」

 

「あぁ……」

 

 お爺ちゃんが微笑んだことにも驚いたが、私を放って出ていったお母さんの話もするなんて、お爺ちゃんはどうしたんだろう。気になるけど、もう時間もない。そのまま玄関まで二人で歩いていく。

 

「……眼帯、つけなくてもいいのか」

 

「うん。私、わかったから。こんな眼でも、私を見てくれる人がいるって」

 

「……そうか」

 

 そう……私の眼を見ても、動じなかった彼。私の話を真摯に聞いて、答えをくれた彼。だから……もう、鏡を見ても怖くなかった。これが、私だ。本当の私なんだ。

 

「……行こうか」

 

「……はい、お爺ちゃん」

 

 差し出された手を握って、家を出て行った。握ったお爺ちゃんの手が、ゴツゴツとしていて、それでいて強く握られている。暖かい温もりがその手にはあった。

 

「………」

 

 ……色が、変わった。ずっと変わらなかったのに。蒼色から、紫色へと。初めて見た色だった。お爺ちゃんは、何を思っているんだろう。

 

「……よう来たな、花巫。もう準備は出来ておるぞ」

 

 祠の前まで行くと、村の人達が集まっていた。少しだけ、視界がクラっと来る。色だ。黄色、オレンジ色……皆楽しそうだった。いつも皆が私を見てくる色じゃなかった。儀式の日だから、かな。

 

「じゃあ、始めるとしよう。やり方は教わっているな?」

 

「はい……」

 

 祠の中に入って、一番奥にある祭壇で祈りを捧げて戻ってくる。それだけの内容だった。けど……祠の中は、暗くて奥が見えない。見慣れているけど、怖かった。

 

「……儂も行く。別に構わんだろう?」

 

「お爺ちゃん……?」

 

 前に出てそう言ったお爺ちゃんに、村長さんは顔を顰めたけど、まぁいい、と許可を出してくれた。

 

 ……一緒に来てくれるんだ。少しだけ、怖くなくなったかも。

 

「……儀式の邪魔はしないようにな」

 

「わかっておる」

 

 村長さんの警告を聞き流すようにして、お爺ちゃんは祠の入口に立った。どこか、遠くを見つめている気がする。

 

「……菖蒲」

 

 お爺ちゃんが、片手に行灯を持って私の方を見る。そして、お爺ちゃんの言葉に私は目を見開いて驚くことになった。

 

「……愛しているよ」

 

 ……笑った。初めて、笑ったお爺ちゃんを見た。また色が変わる。その色は、明るい桃色だった。見ている私の心が温まるような、そんな色だ。

 

 初めて向けてもらえたお爺ちゃんのその感情に……私の頬は緩んでいく。悲しくないはずなのに、込み上げてきた涙が目じりに溜まり始めた。

 

「さぁ……行こうか」

 

 再び差し出された手を取って、一緒に祠の中に入って行く。周りが良く見えなくて怖いけど……手を握ってくれたお爺ちゃんのおかげで、私は足を止めることなく奥へと進むことが出来た。

 

 昔から言われてきた儀式。私の役目。

 

 私は今日……神様と一つになるみたいです。

 

 

To be continued……



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第24話 天在村デの決戦

タイトルは誤字ではないです。カタカタなのには意味があります。


 それは、祠の奥に存在している見たことの無い生物だった。

 

「……ぁ……ぁ………」

 

 それは、不定形の存在だった。水のようでいて、けれど形を持って蠢いている。私の口から出た言葉に、身をよじらせる。

 

「………」

 

 それは、喜んでいた。心なんてあるのかわからない。でも、色として見えてしまう。

 

「ぉ、じぃ……」

 

「……菖蒲………」

 

 それは、楽しんでいた。私達が怯える姿を見て、その色を濃くする。私の口からは、言葉にならない声が漏れていくだけだった。

 

「……ゃ、ぁ……」

 

 逃げたくても、足が動かなかった。手を握ってくれた祖父の手は震えていた。目の前に居る存在の考えていることはわからない。けど、唖然とし、恐怖に怯えた自分達を見て楽しんでいることは確かだった。

 

「……すまなかった……菖蒲……。せめて儂も……」

 

 近寄ってくる。アレが、口を開いて近寄ってくる。

 

 臭い、気持ち悪い。知らない、こんなの知らない。なんなの、儀式はどうなるの。私はどうなるの。

 

「……っく……ぅ………」

 

 涙がこぼれてきた。嫌だ。嫌だ。ようやくわかったのに。ようやく、私は世界にいてもいいと思えたのに。ようやく、お爺ちゃんが私を見てくれたのに。

 

 ……ようやく、私を見てくれる人を見つけたのに。

 

 あぁ、迫ってくる。もうそれは目の前まで来ている。逃れられない。逃げられる訳がない。

 

 誰か……どうか、お願いだから……

 

 ……助けて。

 

 

 そう願った瞬間だった。

 

「喰らっとけぇ!!」

 

 目の前にいた存在の口が、爆発した。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

「………」

 

 そのバケモノは洞窟の奥に鎮座していた。液体のようにも見える、不定形のバケモノだ。目が沢山あって、大きさも様々。その真ん中には大きな口が開いている。その口から、あの声とも言えない音が聞こえてきた。

 

「っ……ぅっ……」

 

 見ていると急に目眩がして、何も入っていないはずの胃の中身が逆流しそうになる。これは、日常に存在してはいけない。それは、常識として認識してはいけない。今まで生きてきた中での常識と目の前に存在する非常識とが混ざりあって一種の混乱状況を招いていた。

 

 ……そんな中でも、先輩は冷静だった。

 

「喰らっとけぇ!!」

 

 先輩の投げた手榴弾がバケモノの口の中に入って爆発した。突然の反撃に唖然としたのか、そのバケモノはその場で悲鳴をあげながら蠢いている。爆発のおかげで混乱していた脳は一旦ショックで正常に戻ったのだが、その不定形なバケモノの動きでまたも不安定に陥りかけた。しかし、それでもなんとか気力で持ち直す。俺は俺の役目を果たさなくてはならない。

 

「……ぇ……ぁ……唯野、さん……?」

 

 バケモノのすぐ近くにいた花巫さんの隣まで移動して、バケモノを見据えた。なんとか間に合ったようだ。危機一髪だ。いや、きっと先輩が手榴弾を持っていなかったら間に合わなかっただろう。なんだかんだ言って先輩は用意が良かった。

 

「……大丈夫ですか、花巫さん」

 

「っ……はい……」

 

 彼女の左手が俺の服の裾を掴んだ。とりあえず一旦ここから離れた方がいい。流石にこの暗さと狭さでは太刀打ちできない。彼女の様子を見る限り、走ることはおろか立つことすらままならないだろう。当たり前だ、俺だって逆の立場なら腰を抜かして動けなくなっていたに違いない。

 

「先輩、爺さんを!」

 

「いや、いい……儂は大丈夫だ。それよりも菖蒲を……」

 

「おし突っ走んぞ!! 氷兎は先頭を行け、俺がラストだ!!」

 

「はい!! 花巫さん、ちょっと失礼します!!」

 

「きゃっ……」

 

 彼女を抱き上げてすぐにその場から走り出した。月が出ている夜で良かった。でなければ彼女を持ち上げて走るなんてことは出来なかっただろう。

 

 すぐ後ろを花巫さんの爺さんが、そして最後尾を先輩がバケモノを牽制しつつ走っている。先輩がインカムで加藤さんに連絡を入れた。

 

「加藤さん、そっちにバケモノ行きます!! そこら辺にいる人全員撤退させてください!!」

 

『んな無茶な。この人達そう簡単にどかないよ!』

 

「バケモノが来るっていえば皆逃げますよ!!」

 

 インカムから聞こえてきた加藤さんの声は呆れた様子だった。あの村長が俺達の話をすんなり聞くとは思えない。しかしこのままでは犠牲者が出る可能性がある。

 

「た、唯野さん……アレ、アレは……」

 

 花巫さんがあのバケモノについて尋ねてきた。しかし、今それについて詳しく語っている暇はない。後で伝えると言うと、彼女は震える声で、心底恐ろしそうに話し始めた。

 

「笑ってる……喜んでるんです……。誰かが恐怖に怯えたり、泣き叫ぶ姿を見て、アレは喜んでいるんです……!」

 

「……ロクなもんじゃないってことは確かです。それよりも、見ない方がいいですよ。アレは……いてはならないものだ」

 

 ミ=ゴでバケモノを見慣れていなかったらもっと取り乱していただろう。あの戦闘訓練は多少は役に立ったようだ。だからといってアレを長いこと直視出来るわけでもない。下手に見すぎると吐いてしまいそうだ。

 

「こっち来んなっての!」

 

 先輩が再び小さなバックパックから手榴弾を取り出して投げつけた。先程喰らった攻撃に対し、バケモノはその場で動きを一旦止める。その隙に一気に距離を離していく。

 

 背後で爆発音が聞こえる頃には、もう出口は見えていた。加藤さんが背を向けたまま人々に剣を向けている。爆発音に気がついたのか、彼女はこちらを見て、そして目を見開いた。それもそうだ、真後ろにはもうバケモノが迫ってきているのだから。

 

「っ……こいつはまたでかいな……」

 

 剣先をこちらに向けて待機する加藤さんの真横を走り抜ける。そしてある程度距離をとったところで洞窟を振り返った。どうやら、全員無事のようだった。

 

『テケリ・リ。テケリ・リ』

 

 ……ソレは洞窟から這い出て、その姿を見せた。固形なのに水のようで、色は黒いはずなのに向こう側の景色が透けて見える。そして何よりも、両手で数え切れないほどの目玉がギョロギョロと忙しなく動いていた。洞窟を塞ぎきれるほどの巨体が、外に出れた嬉しさなのか、それとも餌が目の前に大量にいるからなのか、波打つように揺れ動いている。

 

「い、いやぁぁぁ!!」

 

「神様だ、神様が怒って出てきたぞ!!」

 

「おっ……えぅ……」

 

 逃げる人、叫ぶ人、あまりの醜悪さに気分を害して吐いてしまう人。それらを一人一人見るように目玉たちは動いていた。

 

「おぉ、神よ……どうか、どうか静まりたまえ!」

 

「っ、村長!? 何やってんだアンタ!!」

 

 先輩が声を荒らげた。あのバケモノの前で村長が両手を合わせて懇願している。本当に、あのジジイはロクな事をしない。目の前の存在がどんなものなのか、わかっていないのか。あのバケモノに向けて手を合わせていた村長の矛先は、何故か花巫さんへと向けられた。

 

「どうか、どうかあの娘を差し出しますので治まってはもらえませぬか!!」

 

「ジジイ、ふざけたことぬかすな!! とっととそいつから離れろ!!」

 

 流石に黙ってはいられない。声を荒らげた俺に対して、村長は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

 

「黙れよそ者がッ!! これは我々の問題だ、アンタらが口を出すのは……あ……?」

 

 バケモノが蠢いた。崩れたスライムのようなフォルムだったソレは、両サイドから細い腕のようなものが伸び始める。その腕のようなものは、村長の体をがっしりと掴んだ。掴まれた本人は顔を歪めて暴れだす。

 

「な、何をする!? 違う、私じゃなくてあっちだ!! 違う、違う違う違う!! あの娘を───」

 

 バケモノは口を大きく開けて、その中に村長を放り込んだ。身体の透明度が高いせいで、取り込まれた村長の姿が見えてしまう。

 

「───────!!」

 

 暴れていた。両手足でもがき、やがて自分の喉を掻きむしって苦しそうな表情を浮かべてから、白目を剥いて動かなくなった。

 

「………ッ」

 

 溶けていく。皮膚が溶け、次に肉が。遂には骨まで……どんどん溶けていく。そして最後は内部で圧迫するように噛み砕いた。その様子が、嫌でも見えてしまう。目を離せば次は自分がこうなるかもしれない、けど目を離さなかったら正気でいられなくなるかもしれない。

 

 狂気と正気の狭間で意識を保っていると、それまで各々違った反応をしていた集落の人々は目の前で起きた残虐な出来事に遂に耐えきれなくなった。神社は人々の阿鼻叫喚に包まれ、バケモノはせせら笑うように鳴く。

 

『テケリ・リ! テケリ・リ!』

 

 目玉が忙しなく動く。ギョロギョロと動き回る。人々は我先にと逃げ始めた。怒号や悲鳴が飛び交う中、力のないものだけが取り残されて逃げ遅れる。

 

 一人の老婆が男に押されて倒れてしまった。それを見逃すバケモノではなく、その老婆に向かって身体の一部を伸ばしていく。手立てがなかった。今の自分には、有効打がない。槍は恐らく効かない。それどころか下手をすると自分が取り込まれてしまう。

 

 見捨てるしかない、と諦めの思考がよぎった時バケモノの身体の一部が発火した。

 

「鈴華君、今の内に救出して!!」

 

「っ、はい!!」

 

 先輩が駆け出して老婆の身を支えその場から逃れた。火に巻かれているバケモノは、ただただ鳴いていた。その声は、喜びに満ちているようにも聞こえる。

 

「チッ、火が効いてない……」

 

 女性らしからぬ舌打ちが聞こえたが、この状況では仕方の無いことなのかもしれない。先輩が老婆を逃がした後に加藤さんに向かって声を上げた。

 

「そんな水属性っぽい奴に火炎なんて効きませんよ!! 雷とか使えないんですか!?」

 

「使えるには使えるが……」

 

 加藤さんがポケットからスタンガンを取り出し電源を入れた。すると先端から電気がバチリッと帯電し、細い電気の束がバケモノに向かって放たれる。

 

『Tigy───!!』

 

 最早何を言っているのかすらわからない。けれど確実に効いているようだった。しかしそう思ったのも束の間、電撃で焼けた部分がすぐさま再生し始めてしまう。捕まれば即死、再生能力持ち。これは……かなり不味い状態だ。

 

「再生能力持ち……加藤さん、もっと強い威力じゃないとダメです!!」

 

「悪いけどね、私の『魔術』は簡単に言うと倍率みたいなものなの!! 火炎は倍率高いけど電撃はあまり高くないのよ!!」

 

「なんでそんな重要なこともっと前もって教えてくれないんすかね!?」

 

「だってどんな奴でも焼けば殺せるって思ってたんだもん……」

 

「そうだったこの人脳筋だった!!」

 

 先輩の虚しい叫び声が響く。魔法使いなのに脳筋とはこれ如何に。とりあえず現状は俺は花巫さんを抱えて爺さんと共に離れているが、このままではいつまで逃げ切れるか。加藤さんと先輩が全力でバケモノの攻撃を避けていた。まだ集落の人々の退避が終わっていないせいで、花巫さんを逃がすことが出来ない。従って俺も攻撃ができない。その現状に絶望しているのか、爺さんの悔しそうな声が耳に届いてくる。

 

「……無理だ。ヤツを殺すなんてのは、不可能なのだ。殺せるのなら、昔に殺していただろう」

 

「爺さん、何かないんですか。文献とか漁ったんでしょう?」

 

「何も記されておらん……。この村を、捨てるしかなさそうだ……」

 

 諦めてしまっているのか。爺さんは悲しそうに嘆いた。しかし仮に、だ。ここでこいつを逃したらどうなる? いくらこの天在村が山奥の田舎だったとしても、こいつは餌を求めてやって来るだろう。

 

 いや……目的は餌ではないのかもしれない。花巫さん曰く、あのバケモノは殺戮を楽しんでいる。何かが壊れるのを、何かが死ぬのを、何かが怯えるのを楽しんでいる。野放しになんてできない。

 

「っ……!!」

 

 バケモノの目がこちらを睨んだ。嫌でもわかる。間違いなくターゲットにされた。俺はともかく爺さんが避けきれるかわからない!!

 

 伸びた身体の一部が迫ってくる。触られたら最後抜け出すことは叶わないだろう。爺さんと共に下がるも、避けきれない……。半ば、死を覚悟したその時だ。

 

「伏せろ!!」

 

「ッ……!!」

 

 頭上を手榴弾が通り抜け、迫ってきていたバケモノの一部に吸い込まれた。手榴弾は内部で爆発し、伸びていた一部が欠片となって崩れ落ちる。

 

「先輩……!!」

 

「氷兎、避難は終わったから二人を連れて下がれ!! しばらくは俺たち二人で引き受ける!!」

 

「っ……すぐ戻ります!!」

 

 既に人々は階段を降りきって村の外れの方へと逃げていた。俺も爺さんのスピードに合わせて階段を下って神社から離れる。爺さんは年の割に体力もあり、体も丈夫そうだ。そこまでスピードを落とすこともなく走り続けていると、抱えている花巫さんが話しかけてきた。

 

「唯野さん……アレは、何ですか……? それに、貴方は……」

 

 花巫さんの質問に対し、どう答えたものかと迷った。下手に情報を漏えいしたくはない。最悪、花巫さんが口封じの対象になるかもしれないからだ。

 

 ……けれど、花巫さんはそういった事を言いふらす人だろうか。いや、しないだろう。恐らく黙っていて欲しいと言えば彼女は言わないはずだ。

 

「……すみませんが多くは伝えられません。裏ではバケモノ退治をしてるって言ったらいいんですかね。あの二人もそうです」

 

「バケモノ……アレ以外にもいるというのか?」

 

「えぇ。奴らは自分達が認識していないだけで、恐らくかなりの数存在します」

 

「なんという事だ……」

 

 爺さんは、バケモノがアレだけだと思っていたようだ。あんな規模のがポンポンいられても困るが……。何しろスケールが違いすぎる。大きさは不定形だから判別しにくいが、縦に四メートルはあるだろう。横にもかなりの大きさだ。あんなのが一斉に現れでもしたら……軽く日本の首都が落ちそうだ。落ちなくても核ミサイル辺りで焼き払われてある意味終わりだろう。

 

「……あれは……」

 

 しばらく走り続けると、人々が固まっている場所にまで辿り着いた。距離的にもだいぶ離れたはず。追ってこない限りここまで来ないだろう。花巫さんを下ろして、爺さんに預けた。

 

「……ここなら平気か」

 

 はぁ……っと一息つけたのも束の間だった。どうするべきか迷っていた人々が、一斉にこちらを見た。人々の視線が、花巫さんに集まっている。そんな緊迫感に包まれた状況の中、一人の男が声を上げた。

 

「ぜ、全部お前のせいだ……お前が、儀式を果たさないから……!!」

 

「ひっ……」

 

 ……マズい。このままでは人々の不満が爆発して全ての矛先が花巫さんに向けられてしまう。ふざけるなと言いたかったが、それよりも先に集団の至る所から声が上がってしまった。

 

「そうだ……お前のせいで神様が怒ったんだ!!」

 

「責任を取れ、今すぐに儀式を果たせ!!」

 

「ッ……ふざけたことをぬかすでないわ!! 儂の孫に全ての責任をなすりつけるつもりか!! アレは、ただ一人の責任にあらず、ここに住む(みな)の責任であろう!!」

 

 爺さんの張り上げた声も、民衆の声には届かない。花巫さんは座り込んで涙を流し、耳を塞いでいた。

 

 人々は口々に非難の声を上げる。責任を取れ、お前が悪い、どうにかしろ、と。

 

 明確なまでの『敵意』だ。きっと……花巫さんはそれを見てしまっているだろう。でなければ、こんなに怯えるわけがない。いや……見えていなくても、こんなの怖くなって当然だ。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 彼女は小さく呟いている。謝罪の言葉を。

 

 ……何に対しての謝罪だ。この無責任なまでの現状に、流石に黙ってはいられなかった。花巫さんの視界を遮るように、俺は彼女の前に出て大きく息を吸い込んだ。そして……。

 

「……黙れッ!!」

 

 一喝。その声は村全体に響いたのではないかと思われるほどの声量だった。夜だからだろうか。最早普段では考えられないほどの気の昂り様だった。

 

「人の苦しみもわからん奴に、誰かを非難する資格などない。彼女が何をした? お前達はいったい何をした?」

 

 ただ淡々と、冷酷なまでに冷えきった言葉が喉から溢れていく。

 

「彼女は独りで悩みを抱えて生きてきた。お前達が考えようもないほどの辛い悩みだ。それでも生きて、儀式の為と生かされてきた。お前達はどうだ。何をした? のうのうと生きていたのではないのか?」

 

 ……こんな若造に言い負かされる連中でないことはわかっていた。自分の辛さを棚に上げ、彼らは次々と暴言を吐いてくる。

 

「お、俺たちゃキツい供え物を提供してたんだ! 心の悩みなんかより、飢えの方がキツいに決まってるだろ!」

 

「……それは生きているから言える言葉だ。死ぬために生かされた彼女に、そんな自由はない。飢えが辛い? 死ぬよりマシだろう。供え物を出すのが厳しい? ただ死だけが待ち受ける未来よりもよっぽどマシだろう。第一……」

 

 ……先程も、爺さんが言った通りだ。この事件は、誰か一人の責任に在らず。全ての責任は、ここに住んでいた全員にある。

 

「この現状を解決しようとせず、あのバケモノを肥えさせたのはお前達全員だ! やがて時が来れば、奴は自ら村に出てきただろう。それこそ、もっと大きな存在となってだ。今一度問うぞ、この事件の責任は誰にあるのだ!!」

 

 ……辺りは静まり返る。誰も何も言わなかった。否、言えなかった。俺はただ、その非難を逃れようとする人々を見ていた。

 

 あぁ……だから人間は嫌いだ。嫌な事に目を背けるだけに飽き足らず、他人に罪を擦り付けようとするその性根に、どうしようもなく吐き気がする。

 

「っく……唯野、さん……」

 

 泣き続ける彼女を俺にはどうすることも出来ない。今すべきことは、そうではないからだ。今もなお、先輩と加藤さんが引き受けてくれている。早く戻らなければならないのだから。

 

「……爺さん。後は頼みました。俺はあのバケモノをなんとかしに行きます」

 

 爺さんは選んだ。だからあの場所にいた。過去の罪を清算しようと、彼女と共に死ぬことを選んだ。もう爺さんに彼女に対する後ろめたさはあっても、憐憫の目で見ることはないだろう。だからもう、花巫さんは爺さんに任せられる。

 

 きっと、彼女を守ってくれるだろう。俺はそう信じた。

 

「……それでいいんだろう、アンタら」

 

 視線を爺さんから再び村の人々に向け直した。皮肉げに言った俺の言葉に反対する者は誰一人として現れない。当然か、誰も死にたくはないだろうに。

 

 ……その死を、彼女に強制させたこの村人達を俺はきっと許せないだろう。

 

「唯野さん……」

 

 彼女が俺の名前を呼んだ。涙ぐみながらも彼女は必死に言葉を絞り出す。

 

「……どうか……死なないで……」

 

「……死にませんよ。こんなところで、死ねるわけがありませんから」

 

 せめて別れ際だけはと思い、俺は彼女に微笑んだ。そして夜間に出せる全力でその場から離れる。走りながらインカムで先輩に通信を送った。インカムから焦ったような声が聞こえてくる。

 

『氷兎か!! ヤバイ、もう手榴弾も尽きて加藤さんのスタンガンも電池が切れた!! 銃は撃ってもすぐに再生される!!』

 

「……先輩、奴に電気は効くんですよね?」

 

『あぁ、けどもう電池切れだし、そもそもスタンガンじゃ火力が足りない!!』

 

 逃げながらも、俺はなんとかアレを倒せる手立てはないものかと必死に考えた。そして、ふと考えついたことがある。

 

 加藤さんの『魔術』は簡単に言うならば倍率だと言っていた。元の火力を何倍にも上げて操れる、と言うのが彼女の能力だ。何も倍率が高ければ強いってわけじゃない。1を10倍したって10にしかならない。

 

 じゃあどうするのか。そんなものはわかりきっている。

 

「……先輩、俺に案があります。その場から離れて逃げてもいいので、もう少しだけ時間を稼げますか?」

 

『……信じていいんだな?』

 

「はい。加藤さんにはなるべく温存してもらってください。それが作戦の要です」

 

『……ったく、俺に囮になれってか?』

 

 インカムの向こう側で先輩の荒々しい息遣いが聞こえる。もう大分体力を消耗してしまっているようだ。

 

 ……それでも、力強い答えが笑いと共に返ってきた。

 

『ハハッ、良いぜ……やってやるよ。成功させろよ、氷兎ッ』

 

「……やってみせます」

 

 倍率が足りない。けど答えは大きくしたい。ならばどうする?

 

 

 

 答え。起電力(元の数値)を大きくすればいい。

 

 

To be continued……



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第25話 計画スイ行

電柱や土に関することは間違ってる可能性がありますが...まぁ、不思議なパワーでなんとかなったということにしてください。

それと、自分が今書いている小説ですが、書き方がよく替わります。今回は三人称となっています。


 ───不思議そうな顔をしているね。

 

 

 目の前の存在は、鏡を見ながらそう言った。鏡には、風景が写っている。今も尚時間通りに動く風景が。

 

 

 ───知ってるかい? 『土』って電気抵抗は高いほうなんだ。

 

 

 ……だから何だ、と俺は言った。彼女は、そんなこともわからないのかい、と不満げに顔を歪め、そして笑った。何もかも知っていたらつまらないか、と。

 

 

 ───土に電気は流れるよ。けどそれは、地球というあまりに大きすぎる面積を元に考えたからだ。

 

 

 つまり、面積が小さければ土は電気を通さないと言いたいのか。

 

 そう言うと彼女は、違う違うっと人差し指を振りながら答えた。やめて欲しい。その気になれば人差し指で人を殺せるのだから。

 

 

 ───電気は流れるよ。けど、それが人体に影響を及ぼさない程度にまで下がっただけさ。何せ、私これでも『土』の神様みたいだしね?

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 広々とした田舎の広場で戦いは繰り広げられていた。バケモノはその身体を部分的に伸ばして、まるで鞭のように振るった。翔平の頭のすぐ真上をソレが通り抜けていく。

 

「っ、ぶねぇな……。クソッ、氷兎はまだか……!?」

 

 もう何分戦ったのかすら彼にはわからない。時間を確かめる術も、休む暇すらもないのだから。ただ攻撃を躱し、相手の気が逸れないように時折銃で撃った。無論傷はすぐさま再生され、弾丸だけが無駄に減っていく結果となる。

 

「……おいおい、マジかよ……」

 

 翔平の目に映ったのは、バケモノが家の一部に張り付いてそれを吸収し、一回り大きくなるという光景だった。

 

「メシ食わなくてもでかくなんのかよ……巫山戯てやがる……!」

 

「鈴華君、チェンジだ! 一旦燃やすぞ!」

 

 後ろから投げかけられた声に、翔平はすぐさまその場から下がっていった。火炎が出現し、バケモノを飲み込まんと、まるでとぐろを巻く蛇のように絡みつく。しかしバケモノは新しく来るエネルギー(栄養)に喜びの声を漏らすだけだった。

 

「あまり使わないでくださいよ! 氷兎の作戦に支障が出たらまずいっすよ!」

 

「こうでもしないと君が休めないだろ! いいから呼吸を整えろ!」

 

 火炎を吸収している最中はあのバケモノは動きを止める。そのおかげでここまで何とか持ちこたえてきた。神社での戦いから下の広場での戦いまでずっと動き続けていたら流石に体力は持たない。しかも、相手は全ての行動が一撃必殺のようなものだ。精神的な負担も大きく、体力精神力共に凄まじい勢いで摩耗していく。

 

 しかし翔平は逃げ続けた。一筋の希望、それを運んでくるであろう男を信じて。

 

「……..ッ!?」

 

 突然、視界が真っ暗になった。完全なる闇という訳では無い。ただ、点いていた外灯が一斉に消えたのだ。辺りが暗くなったせいで、足元がよく見えなくなる。回避するのが困難になってしまった。

 

「おいおい、アイツ電柱とかに近寄らねぇはずなのになんで電気が消えるんだよ……!」

 

「……もしかしたら、唯野君の秘策というやつじゃないの?」

 

「だとしたら、完全に悪手になりかけてるんですけど!?」

 

 そう嘆いた翔平に、玲彩は励ますように激励の言葉を送った。今は彼を信じて逃げ続けるしかない、と。

 

 そんな事情なんて知らず、バケモノはその巨体を震わせた。ひと鳴きすると、また翔平に向かって攻撃を繰り出す。横薙ぎに払われる腕のような部位を避けるべく、翔平はその場で高くジャンプした。玲彩も同じく回避し、なるべく目を離さないように後ろへと後退していく。

 

 『起源』のおかげで二人の身体能力は常人のそれとは異なっている。もし一般人がコレと対峙することになったら、本当になす術なく吸収されてしまうだろう。

 

「喰らっとけ!!」

 

 翔平の愛銃──デザートイーグルが火を吹いた。放たれた弾丸は真っ直ぐにバケモノの身体に突き刺さり、その部分だけが抉られていく。見ただけでわかる弾丸の威力だが、即時再生能力を持つこのバケモノ相手では、その単発火力は足りなかった。せめて、身体を粉々にできるほどの連射武器があれば何とかなったかもしれないが、翔平が今装備しているのはハンドガンの類と手榴弾だけだ。ハンドガンではあまりにも連射が足りなすぎる。

 

「なら、こいつはどうだァ!!」

 

 弾丸が、無数にある目のひとつを貫いた。その部分から黒い液体が流れ落ち、目は閉じられた。バケモノの悲鳴が響く。

 

『Tigyue──!!』

 

 ……だが、その目は再び開かれた。弾丸が穿った痕は無く、傷一つない目玉がそこにはあった。しかし、先程とはまったく別なモノがそこに産まれていた。

 

 瞳が揺れている。まるで炎のようにゆらゆらと。そう、バケモノは微かに怒っていた。その怒りが翔平に向けられる。ギョロギョロと動き回っていた目玉が全て一斉に翔平を睨んだ。

 

「げっ……」

 

 まるで蛇に睨まれたカエルになった気分だった。あまりに異様な光景に脳は一時機能を停止し、足が動かなくなってしまった。その隙を逃さず、バケモノの身体が振るわれる。

 

「鈴華君ッ!?」

 

 突然動きを止めた翔平に、玲彩は援護しようとしたが判断が遅れてしまっていた。今まで動いていた人物が突然動かなくなったのだから当然とも言えるかもしれない。

 

 火炎を放つには間に合わない。駆け寄って無理やり動かすには時間が足りない。今からホルスターに手をかけて銃を取り出しても狙いを定められない。瞬時の判断だけで、頭の中は絶望で埋め尽くされた。玲彩の表情が悲痛なものへと変わっていく。

 

 

 

 

 

 

「───させるかぁぁッ!!」

 

 

 

 

 

 後方から、弾丸が数発飛んできた。その弾丸のうち三つがバケモノの目を抉る。バケモノはその身体を震わせて突然訪れた痛みに悲鳴をあげた。

 

「先輩、大丈夫ですか!?」

 

 凄まじい勢いで跳んできたのは氷兎だった。背中に槍を背負ったまま、ここまで走ってきたようだ。バケモノの目はすぐに再生するだろうと踏んだ氷兎は無理やり翔平を立ち上がらせてその場から退避した。

 

「た、助かった……。けど遅せぇぞ氷兎……!! 何度死にかけたことか……!!」

 

「すいません。けど、準備は整いました。加藤さんはコレを入れ替えておいてください!」

 

 そう言って氷兎が玲彩に投げ渡したのは、電池だった。玲彩はそれが何と交換するのかと言われなくてもわかった。スタンガンの蓋を外して電池を交換する。しかし、スタンガンでは電力が足りないはずだった。

 

「ここから真っ直ぐ下がっていけば、わかりやすい目印があります。その目印の奥側まで走って逃げてください!」

 

「待て、お前どうする気だ!?」

 

 一人残ろうとする氷兎を翔平が止める。二人がかりでようやく足止めができた相手を、一人で相手するなんて無茶だと氷兎に言った。しかし氷兎はバケモノを真っ直ぐに見据えたまま翔平に言った。

 

「先輩も体力は尽きてるでしょう。大丈夫です、もう打てる手は打ちました。後は俺の仕事です」

 

「っ……」

 

 その表情が、あまりに真剣味を帯びていて、氷兎がどれほどの覚悟を決めているのかが見ただけでわかってしまった。氷兎は更に続けて言った。

 

「それに、先輩走り幅跳びで10メートルも跳べないでしょう?」

 

「……お前なぁ、真剣な顔でそんなこと言うなっての」

 

「真剣ですよ、俺は。貴方に成功させろと頼まれた。だから俺は成功させます。これが確実なんです」

 

「はぁ……わかったよ。お前も中々頑固だな……」

 

 心配そうに氷兎を見ながら、翔平は後ろへと下がっていく。バケモノの身体の動きが激しくなくなってきていた。もうすぐ再生が完了する。

 

「……頼むぜ、氷兎」

 

「……任せてください」

 

 誰かに頼りにされた。重要な局面を任せられた。それは中学時代ではありえなかった事だ。部活でいくら頑張ろうが、試合に出れなかった。局面を任せられなかった。

 

 けど、今ここで任せられた。ならば果たそう。出せる限りの力で、ここでこのバケモノを打倒する。そう、強く心に決めた氷兎は銃を片手に一人でバケモノの前に立ちはだかった。

 

『Gi……g……tigyui……!!』

 

 バケモノの怒りの声が響いた。まるで身を凍らせるような威圧感と逃れられない恐怖が身体の中を埋め尽くしていく。

 

 ……けれど、氷兎の決意がそれらに打ち勝った。身に溢れていく力に、氷兎は口元をニヤリと歪めた。

 

「さぁ……こっちに来い、バケモノ!!」

 

 その場から勢いよく駆け出した。目玉を抉られた怒りに駆られたバケモノは、目の前から逃げていく氷兎をなんの疑いも無く追いかけていく。最早そこに相手を傷つけ、嬲り、恐怖を与えて楽しもうとする気持ちは感じられない。

 

 全力で目の前のゴミを叩き潰す。それがバケモノから感じられた。振るわれる身体の一部は凄まじい勢いで、周りにあるものを全て倒壊させ、追いかけるスピードは先程までの比ではなかった。

 

「っ、そらッ!!」

 

 勢いを止めることなく、その場で飛び上がって身体を捻って反転させ、空中でバケモノに狙いをつける。残っていた2発の弾丸のうち片方が目玉を抉った。悲痛の声を上げるも、バケモノの進軍は止まらない。それで良かった。気が紛れてどこかに行かれたら、それこそ計画が全て無駄になってしまう。

 

 空中で反転して射撃するという荒業を成功させ、着地に少したたらを踏みながらも目的地に向かって距離を離しすぎないように速さを調節しながら逃げていく。

 

「……..ッ!!」

 

 やがて、ソレは見えてきた。水の張ってある水田に浸けてある電線。それより少し離れた場所にいる翔平と玲彩。完璧だった。後は、このバケモノを誘導するだけである。

 

 心の中で氷兎は何度も呟いた。失敗するな、落ちたら死ぬ、どうにかなる、やれる、俺ならやれる、と。

 

「氷兎ーーッ!!」

 

 翔平が声を張り上げて名前を叫んだ。

 

 不思議な気分だった。何でもできるような、そんな不思議な気分になれた。目的地はすぐそこだった。

 

「………」

 

 あの時と同じ。あの夜の時と同じ。今は彼女を抱えた状態ではない。ならば、出来るはずだ。

 

 一気に加速し、水田よりも数メートル手前で膝を折り曲げ、全力で前に向かって跳ぶッ!!

 

『Gi,gyuaaa────!!!!』

 

 氷兎が着地するとすぐに、背後からバケモノの悲鳴が聞こえた。氷兎は最後の一撃を、玲彩に向かって告げた。

 

「加藤さん、トドメを!!」

 

「あぁ!!」

 

 玲彩の持っているスタンガンから、稲妻が走った。その電気の束が水田に辿り着くと、水田の中で感電しているバケモノの身体を更に強く感電させた。

 

 電柱にかかる電圧は600V、それらを経由する電線が水田に浸けられ、更に玲彩の『魔術』で電圧は更に上昇する。

 

「下がれ下がれ!! 巻き込まれるぞ!!」

 

 目に見えるほどまでに溜まった電圧がバケモノの身体を感電させる。バチバチと音を立てて、それらが周りにも放電された。下手に近づいてしまえば巻き込まれて感電死するだろう。

 

「くたばれ、バケモノ!!」

 

 玲彩のその声を合図に、更に電圧が上昇した。

 

『A─aaaaaa!!!!』

 

 バケモノの悲鳴が辺りに響く。動くことすらままならず、ただその場で悲鳴を上げて身体を蠢かせるバケモノは、次第に身体の端から焦げ、まるで砂のようになって崩れていった。

 

 端から徐々に、真ん中へ向かい、やがて最後の目玉すらも灰となって散っていく。

 

 スタンガンにまで及んだ負荷によって、スタンガンが壊れる頃にはバケモノは一欠片も残ることなく、その場から消え去っていた。

 

「……やった……..っ、やったぞぉぉ!!」

 

 翔平が嬉しさに声を上げる。そしてその場で後ろ向きに倒れて行った。

 

「……良かった……本当に……」

 

 成功するのかわからなかった計画を無事に成功させることが出来た氷兎も、疲れからその場に座り込んだ。玲彩も二人のそばに近寄っていき、二人を労うように笑った。

 

「良くやったね唯野君。勝てたのは、君のおかげだよ」

 

「お前、こんな作戦よく考えついたな……。ってか、どうやって電線切って運んだんだ?」

 

「切ったというよりは、銃で破壊しました。それで落ちたヤツを運ぶのに、ゴム靴とゴム手袋で無理やり運びました」

 

「……普通感電するもんなんだけどな、それ。運が良かったのかね?」

 

 まぁ、そうなんじゃないですかね、と氷兎は笑いながら疲れた身体を休めるようにその場で汚れることも気にせずに横になった。

 

 空を見れば、綺麗な月と星達が輝いていた。達成感と、安堵が心の奥底からこみ上げてくる。

 

「……待って、唯野君。どこから電池やゴム製品を持ってきたの?」

 

 玲彩のその言葉に、ビクリと氷兎が反応する。少し気まずそうにそっぽを向きながら彼は答えた。

 

「そ、それは……そこら辺の家の玄関、蹴り破って、ですね……」

 

「不法侵入か」

 

「いやだってバケモノのせいに出来るかなって。いいじゃないですか、緊急事態だし金目の物は盗ってないんですから!!」

 

「……はぁ。まぁ、大丈夫、なのかな……」

 

 少しだけ怪訝な顔をする玲彩。そしてその隣で仲良く寝転がっている氷兎と翔平。

 

 

 こうして、天在村に巣食ったバケモノは退治され、村からは生贄を出す必要がなくなった。氷兎にとって初の任務は、犠牲は出てしまったものの、無事に成功を納めたのだ。

 

 

 

To be continued……




 ショゴス

 テケリ・リ、テケリ・リという鳴き声を発する液体が固まったゼリーみたいな奴。玉虫色とかいう非常にわかりにくい色をしていて、目玉がたくさんある。物理攻撃無効だったり、銃の効き目が悪かったりとヤベー奴。


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第26話 帰路にて

 あのバケモノと戦った後、俺達は民宿に戻った。民宿では誰も邪魔してくることもなく、飯を食うだけの気力もなかった俺達は風呂に入った後に深い眠りについた。

 

 普段は夢を見るが、昨夜は見なかった。夢を見るだけの体力すらも残っていなかったのだろう。

 

 そして今日の朝、起きてすぐに飯を食い荷物を整理する。昼前にはオリジンに帰らなければならないからだ。

 

 事件は解決。神話生物も倒した。もうここに残ってやることは無いはずだ。断ち切った電線もオリジンが国家経由で何とかしてくれるらしい。流石国家暗部組織だ。

 

「……結局槍使わなかったな」

 

 袋にしまいこんだ武器を見てそう呟いた。いや、相手が悪かったというのもある。あんな不定形なバケモノ相手に物理攻撃は意味をなさないだろう。

 

「俺は痛い出費だなぁ……。マガジン五つと手榴弾が四つか……」

 

「それ自費なんですか?」

 

「支給品以外は自費なんだと。俺ほとんど支給品使わないからなぁ……」

 

 自費なのか。そこら辺もオリジンが持ってくれたらありがたいが、流石に無理か。国家が赤字なのに暗部に金が回るわけがない。まぁ、給料はいいみたいだし、恐らくそれらを買い揃えても金はだいぶ残るだろう。むしろ残らなかったら訴えてやる。

 

「二人とも、準備が出来たら荷物を車に積んでおきなよ」

 

「りょーかいっす」

 

「はーい」

 

 部屋の外から聞こえた加藤さんの声に返事をしつつ、荷物の整理を終わらせた。最後に周りを確認して、忘れ物がないかチェックする。

 

「……よし。それじゃ先に置きに行ってますね」

 

「はいよー」

 

 先輩は広げてあるゲーム機の収納に困っていた。だからゲーム機を持ってこなければいいものを……。

 

「……あっちぃなぁ」

 

 日照りがすごい。もう完全に夏だ。世間はそろそろ夏休みかぁ……。俺達の組織に夏休みなんてものはあるんだろうか。いや、ないか。バケモノとの戦いに休みなどないのだから。

 

「はぁ……こんな中運転して帰るのは嫌になるな……」

 

 日陰で涼んでいる加藤さんが心底嫌そうに呟いた。申し訳ないとは思うが、残念ながらまだ俺は車の免許が取れない。せめて原付の免許くらいは取るべきだろうか。

 

「すいませんね加藤さん。運転変われたらいいんですけど……」

 

「まったくだ。女に運転させといて、隣でゲームにふける馬鹿を乗せなきゃならんとはねぇ……」

 

「あはは……なんなら、今回は自分が助手席座りましょうか? 話し相手くらいなら務めますよ」

 

「君はすぐに寝るだろう? 菜沙ちゃんが言っていたよ。ひーくんは昔から車の揺れに弱くてすぐに眠たくなるんですって」

 

「アイツいらんことを……」

 

 まぁ確かに否定はできない。どうにも昔から車の揺れは眠たくなってしまう。あれだな。赤ん坊の頃に親が俺を眠らせるためにドライブに連れていったせいだな。眠らせる時は大体それだった。それが今も尚身に染みてしまっているんだろう。

 

 ……そういえば、菜沙の事で何か忘れているような。まぁ、思い出せないということはどうでもいいことなんだろう、きっと。

 

「……彼女とは仲がいいみたいだな」

 

「菜沙ですか? まぁ、昔からの幼馴染ってやつですよ」

 

「そうか……。良いなぁ、そういうの」

 

「……彼氏とかいないんですか? モテそうに見えますけど」

 

 そう聞くと、加藤さんはやれやれと言いたげに顔を横に揺らした。

 

「あのなぁ唯野君。女性においそれとそういった事を言わない方がいいぞ?」

 

「思ったことを言っただけなんですけど……」

 

「だから余計にタチが悪い。君はあれか、朴念仁とかタラシとか言われる類の人間だな?」

 

「んなわけありませんよ。産まれて此の方告白なんてされたこともないんですから」

 

「……本当か? 見てくれは悪くないと思うんだが……」

 

 ……さっきの仕返しに、俺も首を竦めて人差し指を左右に揺らしながら言った。

 

「そういうこと、言わない方がいいですよ? 男は狼って知らないんですか?」

 

「……ハッ。仕返しのつもり?」

 

「さて、どうでしょう」

 

「……それっ」

 

 加藤さんがペットボトルの蓋を開けて中身を勢いよくぶつけてきた。

 

 冷たいッ!! こんなアホなことで『起源』使うとか何考えてんだこの人!?

 

「……顔がびしょ濡れなんですけど」

 

「涼しくなったろ?」

 

「だからって何も中身をそのままぶつけるこたぁないでしょう……」

 

 鞄の中からタオルを取り出して濡れた部分を拭いていく。ぶつけた後も操作しているのか、水滴は服には垂れなかった。

 

 拭いていると、民宿から先輩も荷物を抱えて出てくる。俺のことを怪訝な顔で見てきた。そりゃ頭が濡れていたら不思議に思うだろう。

 

「なんで濡れてんの?」

 

「加藤さんにペットボトルの中身ぶつけられました」

 

「……加藤さん俺にもおなしゃす!! それってもう合法的な間接キスじゃないっすかね!?」

 

 加藤さんがペットボトルを先輩の脳天目がけて投げつけ、見事に命中する。いや、痛いなあれは……。なかなかに鈍い音が聞こえた気がする。投げつけた本人は薄らと頬を染めていた。

 

「ば、バカ言うな! こんなので間接キスになるわけないだろ!」

 

「慌てる辺り口はつけたんですね……」

 

「ッ──お、お前ら年上をからかって楽しいか!?」

 

『えぇ、とっても』

 

 そう答えたら加藤さんがいい笑顔で近寄って来て、俺と先輩の頭をガシッと掴んだ。

 

 ……え、ちょっ、待ってください!? と謝ろうとしたが、時すでに遅し。

 

「ふんっ」

 

 ガンッと俺と先輩の頭がぶつかる。痛い……とてつもなく痛い……。頭を抱えて痛みに悶える俺と先輩を、加藤さんはニヤリと笑いながら見下ろしていた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 帰る前に、何かやり残したことがないかと言われ、俺達は花巫さんのいる神社に来た。昨日バケモノが通ったせいで、いろいろな場所が壊れたり、跡が残っていたりと散々な事になっている。復旧が大変そうだ。

 

 階段を上り、境内に出ると花巫さんはいつもの様にそこにいた。ただ……いつもと違うのは、眼帯をつけていないというところだろうか。俺達を見つけた花巫さんは途端に笑顔になって走り寄ってきた。

 

「皆さん、来てくれたんですね! そちらの方は……」

 

「あぁ、二人の上司だよ。加藤 玲彩だ」

 

「玲彩さん、ですか。可愛らしい名前ですね!」

 

「ッ───」

 

 なんでこの人頬染めてんだ。褒められ慣れてないのか、耐性がないのか、初心なのか……。いや、全部だなこれ。

 

「皆さん、昨日はありがとうございました。皆さんがいなかったら、私はきっと……」

 

「いいってことよ! それが、俺達のお仕事だしね。なぁ氷兎!」

 

「まぁ、そうですね」

 

 適当に相槌を返しておく。境内をぐるりと見回すと、昨日の戦闘の跡が多く残っていた。幸いにも神社自体に大きな傷はなく、少しの修理で何とかなりそうだ。周りは凄惨たる様子だが。

 

「……帰ってしまうんですか?」

 

 花巫さんが話しかけてきたのはどうやら俺のようだ。辺りを見ていた視線を花巫さんに戻すと、彼女は寂しそうに顔を曇らせていた。

 

 ……けれど、どこかその表情が嬉しくも感じる。会った当初ではここまで感情を表に出さなかっただろう。少しだけ我が儘になれたのかもしれない。

 

「そうですね。やることは沢山残ってますから。きっとまだ、花巫さんのような境遇の人がいると思う。できるなら俺は、そういった人達を助けたい」

 

「……ちゃんと、自分が何をすべきかわかっているんですね。私には……まだ、何をするべきなのかわかりません」

 

 彼女は小さく言葉を紡いでいく。俺も先輩も、加藤さんも何も言わずに彼女の言葉を聞いている。

 

「なりたいものとか、何も考えられなくて……本当は、私は昨日終わる予定だったのに。だから、急に何にでもなれると言われても、私には選択肢が思い浮かばないんです。私は……どうしたら、いいんでしょうか……」

 

 彼女のその言葉の裏側は、きっと答えを出して欲しい、だろう。自分で言うのもなんだが、良くも悪くも俺は彼女に信頼されてしまったらしい。彼女は俺に道筋を決めてほしいんだろう。それに乗っていけば、私は大丈夫だと思っているんだろう。

 

 ……けれど、それじゃダメだ。

 

「……それは、俺に尋ねるべきことではないと思うよ。自分の人生なんだ。生き方も、行く先も、自分で決めないと。何もかも全ての選択を誰かに任せてしまったら、それはもう花巫さんの人生じゃない」

 

「……でも……私には、何も……」

 

「……ようやく、花巫さんは自分の人生を手に入れられたんだ。誰かによって終わらせられる命じゃない。ここから先はもう、決められた道じゃない。何も無いなら、悩めばいい。誰かに全てを聞くのではなく、可能性を聞けばいい。君は何になった方がいいじゃなくて、君は何になることが出来ると言われる方がずっといい」

 

「………」

 

 花巫さんは俯いたまま、俺の言葉を聞いていた。こんなこと言われなくても、彼女はきっとわかっているだろう。わかっていても、足を踏み出せないのは……彼女がまだそういった事を経験したことがないからだ。

 

 なら、誰かが背中を押してあげればいい。それだけで彼女は一歩ずつ進めるだろう。

 

「……先はまだ長いんだから、ゆっくり悩めばいいと思うよ。自分のしたい事、やりたい事、きっと今まで生きてきた中にヒントがあると思う。君のお爺ちゃんもきっと手を貸してくれるはずだよ」

 

「……私の、したい事……」

 

 彼女は顔を上げた。その顔にはもう翳りはなく、まだ迷っているものの、足を踏み出す勇気だけは手に入れられたように見える。

 

 こんな言葉でそう思えたのなら、それはそれで良かった。

 

「……もっと、考えてみます。私に出来ること……きっと何か、あるはず……ですよね?」

 

「……えぇ。きっとありますよ」

 

 そう言って俺は微笑んだ。彼女もつられて笑った。その笑った顔の頬に、一筋の涙が落ちていく。それに気がついた彼女は慌てて服の裾でそれを拭いた。

 

「あれ……おかしい、です……涙、止まんない……」

 

「………」

 

 ……昨日もそうだが、俺には彼女の涙を止めることは出来ない。ここで彼女を抱きしめてあやす事くらいは出来るだろう。けど、それはしない方がいい。それはきっと……彼女の為にならない気がした。

 

 困ったように隣を見れば、先輩も加藤さんも、ただ頷いていた。それでいい、と。

 

「……花巫さん」

 

 彼女の名前を呼ぶと、その赤くなった目を隠すようにしながら俺のことを見てきた。俺は彼女にある提案をして涙を止めようとしてみる。

 

「写真、撮りましょう。思い出を形にして残すのは、きっと良いことです。涙でお別れなんて、そんなもの今時流行りませんよ」

 

「ぅ……っ、で、でも……私……」

 

「ほら、涙を拭いて」

 

 ポケットから取り出したハンカチで彼女の涙を拭ってやる。まだ泣いてはいるものの、少しずつ収まってきたようだった。

 

「先輩、セットお願いできます?」

 

「勿論! じゃあ……神社バックに撮るか! こんな良い神社写さないのは勿体ねぇよ!」

 

「……私も写るのか?」

 

「そりゃ勿論!」

 

 渋々といった様子で、加藤さんは神社の前に歩いていった。先輩は携帯を置けるいい感じの場所を探し始め、俺は泣いている花巫さんの手を握って誘導する。

 

「ほら、行きましょう」

 

「ぅ、ぇ……せ、せめて涙止まってから……」

 

「そんな時間ないですよ。ほら、笑って笑って!」

 

 空いている手で彼女の口端を無理やり上げた。やめてくださいよ、と彼女は笑いながら抵抗する。俺も笑って、彼女にそれでいいんですよ、と言った。

 

「いいとこ発見! よーし、じゃあカウントダウン始めるぞー!」

 

 先輩が携帯をそこら辺からかき集めた廃材の上に置いてから走って戻ってきた。右端に加藤さん。真ん中に先輩、そして左端に俺と花巫さんが並んでいる。

 

「五秒前!」

 

 先輩の声が響いた。せめて形に残るものだから、俺も笑っておこう。

 

「二秒前!」

 

 あと少しでシャッターが切られる。花巫さんは手を握るのをやめ、両手で俺の腕を掴んできた。

 

 ……柔らかいものが当たっている気がする。

 

「はい、チーズ!」

 

 カシャリッと音が鳴り、写真は無事に撮影された。

 

 ……頬が赤くなったり、口元が歪んでいたりしていないだろうか。

 

「……唯野さん」

 

 彼女が握る力を強くしてから、俺の正面に回り込んだ。身長的に彼女が上目遣いになる形で、彼女は少し潤んだ瞳のまま、それでも笑顔でお礼を言った。

 

「ありがとうございました……氷兎、さん……」

 

「ッ……!?」

 

 物凄い衝撃を受けた気分だった。その恥じらうような笑顔が、どうにも可愛らしくて……。どうやら、上目遣いは菜沙によって耐性つけられていてもダメなようだ。顔が暑くなっていくのがわかる。彼女も、顔を赤くして俯いていた。

 

 ……少しだけ、イタズラしてみようか。

 

「……これから、頑張ってくださいね。菖蒲さん」

 

「っ、ぁ……はぃ……」

 

 真っ赤になって益々下を向いてしまった花巫さんを、俺は笑って見下ろしていた。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 とうとう、帰る時間となった。民宿で車を出す用意をしていると、遠くの方からゾロゾロと大勢の人達が歩いてくるのが目に入ってきた。先輩が嫌そうに顔を歪める。

 

「げっ……なんか言いに来たんじゃないのアレ」

 

「……先頭に立ってるの、花巫さんの爺さんじゃないですか。なら大丈夫でしょう」

 

「この距離で良く見えたな……」

 

 次第に距離は縮まっていき、俺達三人の前に花巫さんと爺さんを先頭にした集落の人々が集まってきた。爺さんが一人前に出て、俺達に頭を下げる。

 

「皆様にはとんだ迷惑をおかけした。本当になんと、お礼を言ったらいいものか……」

 

 ……ここはまぁ、加藤さんが対応すべきだろう。どうやら先輩もそう思ったようで、二人で加藤さんを見つめることになった。気がついた加藤さんは、聞こえないようにため息をついてから答える。

 

「……犯した罪が消えることは無い。貴方達が私達にしたことや、死んでしまった仲間のことを私達は忘れることは無いでしょう。恨みはないとは言いません。なので、ここで起きたことを他言無用にしていただきたい。それで私達は手を打ちましょう」

 

「……わかった。村の者も皆聞いたな」

 

 爺さんのその言葉に、村の人達は首を縦に振った。皆の先頭に立って爺さんが話を進めているということは、彼の立ち位置は変わったのだろうか。気になったので爺さんに向けて疑問を投げかけてみる。

 

「……爺さんが次期村長になったんですか?」

 

「あぁ。もうあんな真似はさせんよ。君にも随分と助けられた……。君が来なかったら、儂はきっと、菖蒲を本当の意味で見てやれなかっただろう。本当に、ありがとう」

 

「……まぁ、貴方なら安心ですよ。もう菖蒲さんを酷い目にあわせないでしょうしね」

 

「……勿論だ。儂の大事な孫娘は、絶対に守りきってみせよう」

 

 互いに頭を下げて、会話は終わった。花巫さん一家は昔から生贄とされてきた家系だ。それ故に集落の中でも地位は上の方だったんだろう。次期村長になるのも、きっと爺さんが皆を黙らせてなったに違いない。良い声してるしな、爺さん。

 

「……氷兎さん」

 

 花巫さんが俺の前に来て名前を呼んだ。少しだけ笑いながら、彼女は言った。

 

「私、まだわからないけど……人の心の傷を癒せるような、そんな仕事に就いてみたいんです。私が、助けられたように……私も誰かの心を、助けてあげたいんです」

 

「……それは、いい事じゃないですか。なれるといいですね、菖蒲さん」

 

「はい……!」

 

 笑いながら彼女は爺さんの元へと戻って行った。加藤さんが、そろそろ帰るぞと言ったので、俺と先輩は車に乗り込むために移動する。

 

「氷兎さん、ありがとうございました!!」

 

 後ろから花巫さんの声が聞こえる。俺は振り返って彼女に笑って手を振ってから車に乗りこんだ。色々な人の、感謝の言葉が聞こえてきた。それを聞きながら、車は遂に発進する。村の人達がどんどん遠ざかっていく……。

 

「……けっ。掌クルックルだなあいつら。360度も変わりやがって」

 

 先輩が余韻をぶち壊すように悪態をついた。まぁ確かに。昨日までの酷い仕打ちを考えると、アレを倒しただけで感謝されるのも中々人の汚い部分を見るようで嫌な気分だった。

 

「……それを言うなら、180度ですよ。この歴史的バカモンが」

 

「……仕方あるまいよ。あぁいうのが人間というものだ」

 

 先輩の言葉にネタで返し、加藤さんは苦々しく呟いた。先輩は、深いため息をつきながら突然思い出したかのように身体を動かし始める。

 

「あっ、あの蹴り入れやがったジジイ殴ってねぇ!! ちょっと加藤さん引き返してください!!」

 

「やめんか。殴りに行くなら君を捕まえるぞ」

 

「あ、ならそっちでお願いします……やめてくださいそんなゴミを見る目で俺を見ないでくださいすみませんでした」

 

「先輩……」

 

 良くも悪くも欲に忠実な人だな、本当。普通年上に向かってそんなこと言うかね。いや、もしかしたらこの二人案外仲がいいのかも。それから落ち着いたのか、先輩は携帯を横持ちにしてゲームをし始めた。

 

「蹴り入れられたで思い出したけどよぉ、おかげであの日ログインボーナス貰いそびれたんだよなぁ……」

 

「……あっ、そういえば俺も貰い損ねましたね」

 

 色々と大変だったから仕方がない。俺も確認しようと、携帯の画面を点けた瞬間だった。

 

「……加藤さん、俺降ります。帰りたくなくなりました。むしろ降ろしてください!!」

 

 画面には不在着信が127件。トーク画面は、ひーくん、ひーくんと同じ言葉が何度も送られてきている。そうだった、二日近く菜沙に連絡入れられてなかった……。このまま帰ったらどんなことになるのか……想像もしたくない……。

 

「ん……うわぁ……」

 

 先輩も、俺の携帯の画面を見て唖然としている様子。まずいまずいまずい、本当にまずい。この状態の菜沙はマジで何やらかすかわからん。昔誰だかしらん女子が俺の事が好きだとかいう噂が流れた時の菜沙の状態に酷似している……。

 

「あぁ、まぁ、なんだ……その……励めよ」

 

「何に!?」

 

「子作り」

 

「子作り!? なんで!?」

 

「ぶっ、ゲフッゲフッ……。な、何を言ってるんだ鈴華君!?」

 

「……あのなぁ、氷兎……」

 

 ミラー越しに見える先輩の顔は、とてつもなく真剣だった。先輩は何か打開策を知っているのだろうか。

 

「……俺は、お前が拉致監禁される未来しか見えない」

 

「いやいやいや、そりゃないですって! アイツ俺のこと好きじゃないですし、まず子作りって俺まだ17歳ですよ!?」

 

「はぁ……もうこいつダメだぁ……」

 

「ちょ、先輩何か知ってるなら助けてくださいよ!! 先輩、先輩ッ!!」

 

 ……帰りの車の中はやけに賑やかだったと言っておこうか。ともかく、今回の任務を通して二人との仲が深まった気がした。

 

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 ……彼が帰ってしまってから、私は家で彼のことをずっと考えていた。机の上においてある、彼が貸してくれたタオル。結局返しそびれてしまった。

 

「……えへへ。いい匂い……」

 

 彼の匂いがする。心がぽかぽかと暖かくなった。

 

 またきっと、会えるよね。

 

 ありがとう、氷兎さん。私はこれから、頑張って歩いていきます。今度は……私から、会いに行きたいです。

 

 

 

 

 

To be continued……




 名前の元になったもの

 花巫 菖蒲 花菖蒲(ハナショウブ)
 花言葉『優しい心 忍耐 あなたを信じます』


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第27話 夏休みの予定

 ───ずっと、ずっと待ってたよ……。

 

 背中で項垂れている彼女は、そう言っていた。

 

 ───迎えに、来てくれるって……信じてた。

 

 だんだんと、彼女の呼吸が浅くなっていくのがわかった。俺はただ、彼女を背負って走っていた。あと少しで、外に出られる。そこまで行ってしまえば、逃げ切れる。

 

 ───ごめんね……私、貴方の隣に……。

 

 必死に彼女の名前を呼んだ。けど、その声は大勢の怒声によって掻き消されてしまう。隣で一緒に戦っている先輩は、銃弾をバラまいて襲いかかる人々を殺していた。

 

 ───……大好き、だよ……ずっと……昔、から……。

 

 

 

 呼吸が止まった。

 

 信じたくないと叫んだ。起きてくれと嘆いた。

 

 ……彼女の温もりが、段々消えていく。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ……右腕の感覚がない。動かそうとしても動かない。薄らと目を開けると、最近ようやく見慣れた天井が見えた。右を向けば、幼馴染が幸せそうな顔で眠っている。

 

「……はぁ……」

 

 彼女を起こさないように、身体を起こした。部屋の香りが甘かった。少しだけゲンナリした気分になる。

 

 天在村での事件の後、帰ってきた俺に物凄い勢いで詰め寄って来た菜沙に、その日は一緒に寝ることを強要された。涙目で訴える彼女のその要求を、誰が断れようか。

 

「……6時半、か」

 

 ベッドから降りて、身体をぐっと伸ばした。身支度を整えて、冷蔵庫に向かう。中にあった食材を適当に取り出して彼女達の朝食を作り始めた。

 

「……ぅ……ひー、くん……」

 

 菜沙が眠たそうな顔で起き上がって、俺の元へと歩いてきた。連絡出来なかった二日間、まともに寝ることが出来なかったらしい。心配かけたと何度も謝ったが……いや、任務だし仕方なくないかと言うと、彼女の見た目からでは信じられないほどの怪力で抱きしめられて、危うく骨が折れるかと思った。

 

「ひーくん……ちゃんと、いるよね?」

 

「いるって。寝惚けてないで、顔洗いなよ」

 

「……うん」

 

 ……うん、とか言ってる割には洗面台に向かわず俺の身体に抱きついてくる。流石に寝惚け過ぎじゃないのかね。料理中に抱きつかれても困るんだけど……。顔を埋めるようにしている彼女から、少し震えたような声が聞こえてくる。

 

「……ひーくん。どこにも、行っちゃやだよ」

 

「仕事なんだけどな……。まぁ、暫くは任務もないだろうし、ゆっくり出来るだろうよ。お金も入ったから、今度どっか行くか?」

 

「……一緒なら、いいよ」

 

「なら、先輩とかも誘ってみるか。あの人外に出さないとそのうち苔が生えそうだしな」

 

 そう言ったら無言で背中を殴られた。だから料理中に妨害するなっての。危ないでしょうが。

 

「顔洗ったら、七草さん起こしてきて」

 

「……わかった」

 

 どこかムスッとしたまま、彼女は洗面台に向かっていった。そういえば、どこにも行っちゃやだと言われたが……なんだろう。何か変な夢を見たような気がする。何の夢だったかな……。

 

「……って、さっさと作り終わらなきゃな。これ終わったら部屋に戻って先輩の分の朝飯作らなきゃいけないし」

 

 誰か身の回りの世話できる人がもう1人くらい欲しいなぁ。普段なら菜沙が手伝ってくれるけど、疲れてるみたいだし。正直俺も疲れてるんだけどなぁ……。

 

 はぁ、っとため息をついていると、後ろの方で歩く音が聞こえてきた。料理の手を止めて振り返る。

 

「あっ、おはよう氷兎君。そういえば、私達の部屋で寝てたんだっけ」

 

「……っ、おはよう七草さん。もうすぐ出来るから、顔洗っておいで」

 

「うん。そういえば、氷兎君の作るご飯って美味しいんでしょ? 楽しみにしてるね!」

 

 そう言って、彼女は笑った。そして洗面台の方へと消えていく……。

 

「……っ、ぅぁ……」

 

 恥ずかしくなって顔を伏せた。チェックの寝間着に、少し寝ぼけた眼、そしていつもの屈託のない笑顔……。顔が熱い。どうしよう、本当に……。もうこの部屋で寝られない……。恥ずかしすぎる。

 

「……ひーくん」

 

「はい」

 

 背中から聞こえてきた底冷えするような声に、顔の熱さが一瞬で冷めた。なんで機嫌悪くなってるんですかねこの子。

 

 

 その後、朝食を一緒に食べる時に七草さんが笑顔で美味しいと言ってくれたことに対して、また顔が熱くなった。テーブルの反対側から、脛を菜沙に蹴られる。容赦ない一撃で、かなり痛かった。

 

「………」

 

「……なに、ひーくん?」

 

「いや……なんでもない」

 

 朝食を食べている菜沙をじっと見つめていたら、不思議そうな目で見られた。まぁそうなるか。でも……

 

「……….♪」

 

 俺が作った朝食を美味しそうに食べる彼女を見て、少しだけ心が安らいだ。本当に少しだけ……昔に戻ったような気がした。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 珈琲の香りが部屋に充満している。この匂いでようやく休めたような、そんな感じがした。ブラックで飲んでいる先輩は、ひたすら手持ちのゲームで遊んでいる。

 

「……部屋の中でイチャつくのはやめてくれないか」

 

 ゲームから目を離して、俺を一目見た先輩は忌々しそうにそう言った。俺の隣では、菜沙が肩に寄りかかるようにして休んでいる。そしてそれを少し離れたところで見ている七草さん。流石にこの部屋に四人も集まると狭く感じる。

 

「そう見えます? ただ単に寂しがってるだけですよ、この子は」

 

「その様を非リアに見せつけるのはなぁ、一種の拷問なんだよ……」

 

「……氷兎君、非リアってなに?」

 

「現実世界が充実していない、もしくは彼女がいない状態のことだな」

 

 不思議そうな目で尋ねてきた七草さんに対し、やはりどこかしら現代知識が抜け落ちているなと感じた。孤児院にいたせいだろうか。でも義務教育くらいは受けてると思うんだけどな……。

 

「……そういえばさっき話してたんですけど、今度どっかに遊びに行きませんか? 休暇をダラダラと過ごしてたら勿体無いですし」

 

「ヒッキーゲーマーの俺に夏なのに外に出ろとな? ハハッ、無理☆」

 

 語尾にキラットしたものをつけるほどまでに外に出るのが嫌らしい。まぁ確かに、こんな夏場のクソ暑い中外に出たくはないが……こんな地下空間でずっと過ごすのも何かと勿体無い。

 

「……暑いのが嫌なら、プールとか海とかどうですかね? 久々に泳ぎたい気分なんですよ」

 

「海なぁ……。美人がいるならともかく、あぁいう所ってウェーイ系の女の子しかいないだろ? 俺は気乗りしねぇなぁ……」

 

「すげぇ偏見だ」

 

「それにほら、行くっつったら七草ちゃんも高海ちゃんも来るんだろ? お前大丈夫なの?」

 

「何がですか」

 

 そう聞いたら、先輩は本人にバレないように七草さんを指差した。

 

「……水着だぞ?」

 

「……ッ」

 

 夏の日照りの中で、ビキニ姿の七草さんが遊んでいる景色を幻視した。今日何度目かわからない顔の熱さが込み上げてくる。先輩はそんな俺を見て口元を歪めていた。

 

「……いやもうむしろ行きましょう」

 

「お前もなんだかんだ男だな」

 

「海に行くの? バーベキューとか、アイスとか食べれる!?」

 

「あぁ〜……一式買いますか。だいぶお金入りましたしね」

 

「太っ腹だな。俺は金払わんぞ」

 

「マジですか」

 

 天在村での任務完遂のおかげで懐が暖かくなったものの、流石にバーベキューセット一式やら何やらを買うとなると中々に痛手だ。まぁ、買ってもいいかと思えるくらいに収入があったわけだけども。

 

 ……それに、七草さんがやってみたいというのなら、それでお金を使うのも悪くは無いだろう。

 

「……まぁ、百歩譲って行ってやるとしよう。しかし、俺肩身狭くないか。男女比トントンじゃなくて、男1女2対ボッチだからね」

 

「なら、加藤さんも誘いましょうか。あの人も暇でしょう」

 

「加藤さんか……」

 

 先輩がどこか遠くを見つめている。恐らく加藤さんの水着姿でも妄想しているんだろう。何しろ俺たちはまだまだ思春期真っ只中。疾風怒濤の時代である。女の子の水着が見れるとあっては、行かぬは損だろう。

 

「……行くか」

 

「じゃあ誘うの任せました。俺は買い物行きます」

 

「難易度高ぇよ……。二人に任せたらいいんじゃないのか」

 

「……七草さん、菜沙と一緒に加藤さん説得できる?」

 

「んー、多分? でも頑張ってみるよ!」

 

 胸の付近で両手をグッと握る七草さん。菜沙とは違う豊満なソレに目が惹き付けられそうになり、無理やりそらした。

 

「……じーっ」

 

 そらした先にあったのは菜沙の目。ごめんなさい仕方ないんです。俺だって男の子なんです。

 

「はぁもう……。海行くなら水着買わなきゃいかないかな」

 

「お前競泳水着で十分じゃない?」

 

「……ばかっ」

 

 顔を赤くした菜沙に頭を叩かれた。解せぬ。背丈ならともかく、その断崖絶壁に近い自己主張しなさすぎる陰キャラみたいな胸じゃ、ビキニはキツいだろ。背伸びした中学生みたいに見えそうだ。

 

「……やっぱり仲良いね、二人とも」

 

 どこか悲しそうに、七草さんは呟いていた。そんなに仲良さそうに見えるだろうか。

 

「……じゃあ、各自準備して……明々後日行くとするか」

 

 そんな雰囲気を察したのか、先輩が無理やりこの話を締めた。空気を読めるのか読めないのか……。不思議な人だ。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 天在村から帰ってきてすぐのこと。

 

 疲れやら何やらでボロボロの俺達は司令室に来ていた。天在村での事件の報告をするためだ。いつも通り碇ゲンドウスタイルの木原さんは、報告を聞き終わると満足そうに頷いた。

 

「ご苦労だった。無事に任務を終わらせて帰ってきたことを喜ばしく思うよ」

 

「今回の功績に関しては、唯野のものが大きく思われます。傍から見ていても、問題は無いと思います。訓練兵は卒業で良いかと」

 

「……そうだな。唯野、君はこれから一般兵だ。訓練スペースは勝手に使ってもいい。そして……これからは過酷な任務が多くなるだろう。平気か?」

 

 真剣な表情で尋ねる木原さんの言葉に、俺は力強く頷いた。それを見た木原さんも満足そうに頷き、組んでいた指を解いて楽な姿勢になった。

 

「さて……鈴華。これで彼を率いた任務は終わりだ。君のメンバーから唯野は外れることなる」

 

 その言葉に驚いたのは、俺と先輩の二人ともだった。これから先も長い間共に任務をこなすことになると思っていたからだ。この人となら、上手くやれると思っていたんだけど……。

 

「……言い方が悪かったか。鈴華、君はメンバーを変えることが出来る。どうする、まだ唯野と共に任務をこなすか?」

 

 その言葉を聞き、俺は横目で先輩を見た。先輩は、ただニヤリと笑いながら頷いて答える。

 

「勿論ですよ。むしろ……俺の仲間はこいつじゃないと務まりません」

 

 ……先輩の言葉に、身体が震えそうになった。先輩のその言葉だけで、嬉しさがこみ上げてくる。決意を新たに、俺は先輩と共に頑張っていこうと思った。

 

「わかった。これからも頼むぞ、二人とも」

 

「はいっす!」

 

「はい」

 

 二人で返事をし終えると、先輩が俺を見て歯を見せるくらいに笑いながら言った。

 

「なんだか……『相棒』みたいだな」

 

「……またそんな恥ずかしいことを。まぁ、あれです……貴方の『相棒』として恥じないように、努力しますよ」

 

 そう言い終えると、二人して笑い始めた。加藤さんも、どこか微笑みながら眺めているみたいだ。

 

 ……この人となら、仲良くやっていける。本当に心からそう思えた。

 

「……さて、笑うのはそこまでにしてだ。とりあえず報告書を書いてもらいたい。消費した物、現地で起こったこと、色々と詳しく書いて提出してほしい」

 

「……なんていうか、面倒くさそうですねソレ」

 

「私も毎回面倒だと思っているよ」

 

 首を竦めながら加藤さんが言った。木原さんから渡された紙には、本当に事細かな説明を要求するような内容が書かれていて、これをこれから書かなければならないと思うと少しだけ憂鬱な気分になった。

 

「……まぁ、二人で書けばすぐ終わりますかね先輩」

 

 先輩を見るように横を向けば、そこにはもう誰もいなかった。

 

「……君の『相棒』ならもう既に部屋から出ていったよ」

 

「せんぱぁーーい!?」

 

 俺の声だけが虚しく響いた。ちくしょうあの人面倒だからって逃げやがった!!

 

 結局その報告書は全部俺が書いた。次の日の先輩の朝ごはんにデスソースを混ぜることで鬱憤は晴らした。

 

 

 

To be continued……



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第28話 思春期故仕方無し

 波打つ音と人々の楽しそうな声が聞こえる。夏真っ盛り、熱中症になること間違いないくらいに気温は上がってきている。

 

「ひっさしぶりに海来たなぁ……」

 

 気持ちよさそうに先輩はぐっと身体を伸ばしている。確かに俺も久しぶりだ。隣を見れば、七草さんが目をキラキラとさせて海を見ていた。

 

 七草さんがいたあの孤児院は海辺に作られていたが……一緒に遊ぶ人がいなかったのか、海に来ることを楽しみにしていた。

 

 ……あのバケモノ、深きものどもだったか。アレのせいで海にいい思い出はないが、こういう時は何もかも忘れて羽根を伸ばそう。そう思っていると、俺達が乗ってきた車に寄りかかって休憩していた加藤さんが愚痴をこぼした。

 

「結局私が運転なんだからなぁ……。鈴華君、君免許持ってるんじゃないの?」

 

「持ってますけど……いやほら、ここは大人の方が安心できるじゃないっすか。なぁ氷兎?」

 

「先輩に運転任せたら事故りそうなんで、加藤さんがいてくれると助かりますよ」

 

「……そ、そうか……いや、まぁ……手が空いてる時ならこういうのも、な」

 

 ……この人チョロ過ぎる。どれだけ褒められなれてないのか。にしても、加藤さんの私服って中々シンプルだな。白いシャツに半ズボン……って田舎少年か。でもなんか普通に似合ってるな。元がいいからか。羨ましい。

 

「じゃあ私達着替えてくるから、ひーくん準備お願いね」

 

「はーいよ。不良に絡まれたら連絡しろよ、すぐ行くから」

 

「……うんっ」

 

 はにかむように菜沙は笑った。昔は不良が怖かったが……今となってはそんなものあまり怖くはないな。バケモノの方がよっぽど怖い。

 

 まぁ、加藤さんもいるし七草さんもいるから不良に連れていかれることはないだろう。あの二人の戦闘力俺よりも高いしな。言ってて悲しくなる。

 

「……じゃあ、準備しましょうか」

 

「そうだな……バーベキューセットに、クーラーボックス、パラソル、シート……沢山あるな」

 

「載せてくやつも持ってきたんで、なんとかなるでしょう」

 

 荷物を纏めて台車に載せ、手で持てるものは持って移動を始めた。車からそう離れていない場所で空いているところを陣取り、シートとパラソルを設置する。

 

 遠くの方で、ビーチバレーをする音が聞こえてきた。いいなぁ、俺もバレー久しぶりにやりたいもんだ。

 

「女の子って大変だよなぁ。簡単に着替えられないし」

 

「自分たちは海パンで外出てもセーフですからね」

 

 既に水着を履いているので着替える必要が無い俺達。十数分で荷物の設置が終わり、暑くなってきたので上に着ていたものを脱いだ。

 

「……自分で言うのもなんですけど、だいぶ締まった気がしますね」

 

「まぁ、見てくれは悪くねぇな。筋肉があるって訳でもねぇけど」

 

 オリジンに入ってからの訓練のおかげか、だいぶお腹周りが締まってきた。流石に割れてはいないが、見られても恥ずかしくはない体型になった。先輩も、中々にいい身体をしている。

 

 ……ゲーム三昧なのにどうして体型維持できているんだろうか。不思議だ。

 

「……んでよ氷兎。お前は誰が一番グッとくると思う?」

 

「水着ですか? そりゃぁ……七草さんじゃないですかねぇ」

 

「胸で決めんなっての」

 

「胸だけじゃないですよ」

 

 体型も、胸の大きさも、そして顔立ちも。七草さんは女性としてはだいぶ完成した存在だと思う。世の女性が嫉妬すること間違いなしだ。それに性格もいいし、笑うと可愛らしい。

 

「菜沙ちゃんが不憫だぁ……まぁ、俺は加藤さんだけどな。大人の色気っての? 五、六くらいしか差はないけど」

 

「四捨五入すれば三十路ですよ」

 

「やめてあげて。あの人結構気にするから」

 

 加藤さんも、中々にいいスタイルだと思う。シュッとしてるし、仕事ができそうな整った顔立ちだし、胸もまぁ悪くない。まるで秘書さんみたいな感じがする。

 

「ひーくん、お待たせ!!」

 

 一緒に海を見ていたところ、背中から菜沙に声をかけられた。どうやら着替えが終わったらしい。声のした方に振り向いてみると……。

 

「えへへ、どう? これでも結構いいの選んだんだよ?」

 

 ……いつもの菜沙とは、また違った彼女がそこにいた。いつもの通りの眼鏡をかけていて、チャックを開けた状態の薄い緑色のパーカーの前部分では白と緑の横縞柄のビキニが見えていた。いつも自己主張しない胸も心做しか大きく見え、おへそ辺りもくびれていて少し扇情的に見える。

 

「……随分と、似合ってるな」

 

 少しだけ言葉を失った。なんとか彼女に返事を返すと、菜沙は嬉しそうに笑いながら少しだけ頬を染めていた。

 

 俺の幼馴染がいつもより可愛らしい。天変地異の前触れだろうか。

 

「良かったぁ。ひーくんの為に選んだんだからね?」

 

「はいはい。可愛らしいよ」

 

「もう……またそうやって……」

 

 頬を染めたままそっぽを向く菜沙。最近の彼女はどうもどこかおかしい気がする。いや、昔からか。やっぱ特に変わってないなこの子。

 

 そうやって菜沙と話していると、肩をちょんちょんっと突っつかれた。振り返ってみると、そこにいたのは……。

 

「氷兎君、私も着てみたよ! どうかな……?」

 

「………!?」

 

 開いた口が塞がらない、とはこの事だろうか。突っついてきた本人は七草さん、なんだけど……。

 

 ……本人のわがままボディに飽き足らず彼女の純真無垢さを表したような白いビキニに、白いパーカーを前を開けて羽織っていた。魅惑的な谷間と、それに反するようにしてキュッとなっているお腹。そして恥ずかしそうに片手で腕を抑えるようにしているせいで余計に谷間が盛り上がっている。

 

 色白で綺麗な肌に、華奢な手足。ほっそりとした足に程よい感じに肉がついている。

 

 ……可愛いを通り越して、何かもう別のものだった。とても言葉で表せそうにない。

 

「……驚異的な胸囲だぁ……ぐほぁッ!?」

 

「っ………!!」

 

 アホなことをぬかした先輩の脇腹に肘を叩き込んでおく。先輩の言葉のせいで七草さんが顔を赤くして少しだけ俯いてしまった。それでもそこから見上げるようにして俺の顔を見てくる。

 

「ど、どう……? ダメ、かな?」

 

 一気にクラっと来て、少しだけ頭を抑えた。これ以上見られたら持たないと思ったので、すぐに頭の中に浮かんだ言葉を彼女に返す。

 

「そ、その……とても、似合ってるよ」

 

「……ありがとう、氷兎君」

 

 さらに真っ赤に顔を染めて、俯いた七草さん。気恥ずかしくなって、熱くなる頭を掻きながら視線を逸らした。

 

「……ばかっ」

 

「痛いっ」

 

 菜沙に思いっきり足を踏まれた。いきなり何をするんだこの子は……。彼女は、ふんっと拗ねたように声を出していつものように俺の右手を握ってくる。彼女の手がなんだかいつもとは違う感じがした。少しだけひんやりとしていて心地よく感じる。

 

「……さて、最後は私か」

 

 そして最期に満を持して登場したのは、加藤さんだった。流石に年齢もあれだからか、二人のように堂々とではなく、ゆったりと大人の佇まいを感じさせるように近づいてくる。

 

「どう? まだまだイケるよね? 大丈夫だよね?」

 

「い、いやいや全然イケますよ! めっちゃくちゃ似合ってます!」

 

 先輩が少し興奮気味に彼女を褒めた。褒められた本人は、そ、そうか……と言ってこちらも七草さん同様に顔を俯かせている。口元が抑えきれないのかニヤリと笑ってしまっているように見えた。

 

 加藤さんの水着はパレオと言われる、腰に布が巻き付けてあるタイプのものだった。色は落ち着いた青色で、静かな雰囲気を感じさせるものだ。当然、加藤さん自身のスタイルもいい。普段運動している人だから、身体も締まっているし肉付きもいい。美人さんだと思うが……俺には七草さんのインパクトが強すぎたようだ。

 

 ……きっとこの水着選んだ理由、天在村で爺さん共に薬盛られても身体触られなかったからだろうなぁ。いい事なはずなのに、軽くへこんでたからな。

 

「いよぅし、じゃあ海行きますかぁ!!」

 

「氷兎君、行こ行こっ!」

 

「あっ……ちょ、七草さん……!?」

 

 先行していく先輩についていく七草さんに手を引かれながら菜沙と一緒に海に突入する。全身浸かるのも早いと思ったので、皆で足先だけ入ってみた。少しだけ冷たいけど、夏の暑さには丁度いいくらいの温度だ。

 

 ……とりあえず七草さん目掛けて水を飛ばしてみる。

 

「きゃっ……もう、氷兎君!!」

 

「ごふぁ!?」

 

 勢いよく振り抜かれた足によって、考えられない量の水が勢いよくぶつかってきた。あまりの勢いに尻餅をつくかと思ったくらいだ。

 

 七草さんが超人的な力の持ち主だってことをすっかり忘れていた……。

 

「いよいしょっ」

 

「いだっ……な、菜沙お前まで……」

 

 後ろから近寄ってきた菜沙に身体を崩され、今度は尻餅をついた。そしてすかさず菜沙が水をかけてくる。

 

「ふふっ……」

 

 口元を抑えて笑っている菜沙を見て、少しだけイラっときたので、立ち上がりながら彼女の足と腰を腕で持ち上げた。

 

「ふぇ、ひ、ひーくん……?」

 

 顔が近い。それに身体が完全に密着していた。ここまで肌と肌を密着させる機会はそうないだろう。まぁ、特に彼女に対して思うこともない訳ではないが、身体を海の方に向けてニッコリと微笑んだ。

 

「そーらよっと!!」

 

「い、やぁぁぁぁッ!?」

 

 そしてぶん投げる。可愛らしい悲鳴をあげながら飛んでいき、そして水しぶきをあげて着水。少しだけ爽快な気分になった。浮上してきた菜沙の恨めしそうな目線が突き刺さる。

 

「桜華ちゃん、ひーくん投げちゃって!」

 

「え、ちょっとそれはシャレにならないんじゃないかなぁ……?」

 

 当の本人である七草さんを見れば、彼女は笑顔のままにじり寄ってくる。嫌な汗が背中に流れていく。少しずつ後退しながらも、必死に止めさせようと説得した。

 

「いや、七草さん……あのだな、流石にこれはマズイというかなんと言うか……と、ともかく止まって!」

 

「菜沙ちゃんも楽しそうだったから大丈夫だよ! 氷兎君も飛んでみようよ!」

 

「待って、頼むから待って!」

 

 そんな願いが聞き届けられるはずもなく、がっしりと彼女に手を握られてしまう。そして力づくで引き寄せられ、両腕で軽々と持ち上げられてしまった。

 

「……ぁ……」

 

 小さな、彼女の声が聞こえた。顔の距離が、30センチもない。そして、身体も密着していて彼女の果実が身体に当てられてぐにゃりと形を変えている。

 

 ……みるみるうちに顔が赤くなっていく。そして……。

 

「っ、えーーい!!」

 

「う、あぁぁぁぁぁッ!?」

 

 盛大に投げ飛ばされた。視界がぐるぐると回って、最終的に一面が水によって何も見えなくなってしまう。身体に叩きつけられた水のダメージも中々に高く、少しだけ意識が飛びかけた。

 

 なんとかもがいて浮上しきると、七草さんは顔を赤くしたまま笑っていた。反して菜沙はどこか不愉快そうにしている。

 

「……次は七草さんを投げるか」

 

「ダメっ」

 

 海の中で接近してきた菜沙に腕を掴まれ、残念ながら七草さんを投げることは出来なかった。ちょっと残念……いや本当にちょっと、うん、結構残念。

 

 ……けっこうモッチリしてるんだろうなぁ、とか思いながら海の中で3人で遊んでいた。

 

 そんな一方で、先輩と加藤さんはと言うと……。

 

「へぇ……魔術で水操作して砂の塊を強固にできるんすね……」

 

「すごいだろう? これなら砂のお城も楽々だ」

 

 二人してすっごい細かいところまで作り込まれた砂のお城を作っていた。やっぱりあの二人は仲が良さそうだ。

 

 

To be continued……



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第29話 大惨事バレー大戦

 全身海に浸かって、ぷかぷかと浮いている。夏の陽射しと海の温度が心地よい。隣を見れば、先輩が浮き輪にケツだけを突っ込んで浮いていた。

 

「あぁ〜……平和ってのはいいもんだよなぁ……」

 

 そう呟いている先輩の身体は完全に脱力しきっていた。普段の生活と何ら変わっていない。あれから二時間くらい経ったが、流石に女性陣は疲れたようなので俺と先輩の二人だけで泳いでいた。なにしろ、体力は有り余っているからだ。普段の戦闘に比べれば、遠泳なんて苦ではない。死ぬよりマシだ。

 

「……そういえば先輩。菜沙達放っておいて大丈夫ですかね? 揃いも揃って美少女揃いなんで、ナンパされそうなんですけど」

 

「おいおい、そんな漫画やアニメみたいなテンプレ起きるわけねぇだろ? 現実世界でナンパするやつなんていないって。いたら顔見てみてぇよ」

 

 ケラケラと先輩は笑っている。まぁ確かに。俺もアニメの見すぎか……。いやどうにも、離れてたらナンパされたり、どこかに連れていかれたりと変な妄想というか……嫌な想像が止まらない。海の色と同じく、俺の気分も少しだけブルーだ。

 

「大丈夫だって安心しろよ。へーきへーき、何かあったら加藤さんがパーンッてすれば万事OK」

 

「万が一何かあったら先輩の身体にデスソースぶちまけますよ」

 

「素肌はやめろよ? マジでやめろよ?」

 

「フリですか?」

 

「マジで言ってんの」

 

 最近先輩への嫌がらせにデスソースを持ち運ぶようになっていた。今日もクーラーボックスの中に冷やしてある。わざわざ冷たくしてあげるなんて、俺はなんて優しいんだろうか。素肌につけたらきっと涼しいだろう。

 

「ふぅ……そろそろ一旦上がるかぁ。喉乾いちった」

 

「水なら沢山ありますよ」

 

「海水飲んだら死ぬから。とりあえず押してってくれ」

 

 仕方がない、と呟きながら先輩の浮き輪を押していく。ようやく浅瀬まで泳ぎ終わると、何やら俺達が設置したシート付近で男達が集まっている。嫌な予感がした。

 

「おろろ……?」

 

「こりゃ先輩デスソースの刑ですね」

 

「使うなら今だろ。あいつらにぶっかけてこいよ」

 

「そんなことしたら怒られちゃうでしょ」

 

「俺にはいいのか……?」

 

 とりあえず二人で少しだけ眉をひそめながら集団に近づいていく。男達の反対側には、菜沙達が少し驚いた様子で話していた。菜沙はどうやら俺に気がついたようで、笑顔で手を振りながら俺の名前を呼んだ。

 

「ひーくん! こっちこっち!」

 

「ひーくん……って、まさか氷兎か!?」

 

 菜沙の近くにいた男が振り返った。その顔に俺は見覚えがある。中学時代一緒にバレーをやっていた友人だ。その他の奴らもみんな見覚えのある連中ばかりだった。どいつもこいつも、俺のバレー仲間だった奴らだった。

 

 その事実に少しだけホッとし、俺はひそめていた眉を戻して彼らの元へと歩いていく。

 

「久しぶりだな、カズ。それに、お前らも」

 

「氷兎、お前なんか体締まってねぇ!? お前バレー辞めた筈だよな!?」

 

「久しぶりにお前見たらなんか結構変わったな……」

 

 皆して俺の元へと集まってくる。どうやら、部活を引退した彼らはビーチバレーをするために集まったらしい。それで休憩がてらに散策していたら、菜沙を見つけたから話しかけたようだ。

 

「なぁ氷兎、久しぶりにバレーやろうぜ! そこの女の子達も一緒にさ!」

 

「バレーやるの? 私やってみたい!」

 

 その言葉に真っ先に反応した七草さんを見て、一気に俺達は凍りついた。嫌な汗が頬を伝っていく。当の本人は楽しみにしているのか、ニコニコと屈託のない笑顔のまま周りの男達を魅了している。

 

「……ヤバいっすよ、先輩どうにかしてください」

 

「ごめん無理。俺お腹痛いからトイレ行ってくる」

 

「ちょっ、逃げないでくださいよ!?」

 

「友人だろ? ほら、部外者抜きで楽しんでこいよ……骨は拾ってやるから」

 

 先輩に助けを求めたが、残念ながら先輩は頼りにならなかった。その上加藤さんを引き連れて観戦しようとする始末。仕方が無いので次はなんとか視線だけで、菜沙に助けを求めてみる。

 

「………?」

 

 だが、彼女は少し笑って首を傾げただけで俺の意図が伝わらなかった。なんでこういう時に限って彼女は俺の考えていることをわかってくれないのか。胸について批判する時はすぐに気がつくくせに。

 

「……ひーくん? 私疲れちゃったから、桜華ちゃん達と楽しんできて、ねッ」

 

「痛ッ……」

 

 足を踏まれた。なんでお前はそう、本当に……。もうダメだ、言葉にならん。もう地獄を免れることは出来ないのだろう。俺はただ、彼女と一緒のチームになれるように祈るだけだ。

 

「じゃあチーム分けてやるかぁ! 七草さん、だよね? 勝手にチーム決めちゃっていい?」

 

「んー、出来れば氷兎君と一緒がいいかなぁ……」

 

「……お前菜沙ちゃんと言うものがありながら、こんな可愛い子にまで手出してるの?」

 

「誤解だ。それに菜沙とはそんなんじゃないって何度言ったら……」

 

 そう答えたら、皆からため息をつかれた。何故なのか俺にはわからない。

 

「んじゃ、俺氷兎と組むわ。久しぶりにやろうぜ?」

 

「適当だなおい……。まぁ、よろしく頼むわ」

 

 中学時代のセッターのカズと組むことになった。残りのメンバーは適当に別れ、最初のサーブはこちらの七草さんからとなった。皆揺れる胸が見たいようで……。

 

「よーしっ、いっくよー!」

 

 そんな可愛らしい声とは裏腹に、初心者の筈なのに綺麗なフォームで回転をかけてボールをあげ、しっかりと踏み切って強烈なドライブをかけたジャンプサーブが放たれた。炸裂音のようなものが鳴り、気がついた時には既にボールは相手コートにあった。

 

「ウッソだろおい!?」

 

 リベロが素早く反応してボールの真下に入るが、ボールが腕に当たった瞬間あまりの勢いに腕が持っていかれ、強烈なドライブ回転のせいで何故か弾まずに彼の顔面へと直撃した。そのままボールは真上に上がっていく。

 

「な、ナイスカット!?」

 

 セッターが入り、なんとかトスをあげてスパイカーが打ってくる。

 

「………」

 

 久しぶりの感覚だった。相手の動き、手の向き、そして視線……それらを重ね合わせた上で、相手の思考を読んでどこに打ってくるのかを見分ける。

 

「……右だッ!!」

 

 予想通り、右側に打たれたボールを正面であげることに成功した。腕に当たった衝撃が、心地よい。

 

 ……あぁ。やっぱり、バレーって良いわ。

 

 とても、懐かしい気持ちとともに少しだけ目に涙が溜まってしまった。こいつらとやったバレーは、どんな結果であれ楽しかったのだと。そう思えた。

 

「よーし、もう一回!!」

 

「ファッ!? ま、まて七草さん、二回目で打つな!!」

 

 俺が上げたボールに対し、既に七草さんが後ろから走って跳ぶ姿勢に入っている。まさかの初心者なのにバックアタック。しかも正規のトスではなくカット球。流石にカズも目を見開いている。

 

「おりゃっ!!」

 

 揺れる彼女の豊満な双丘。まるで太陽のような楽しそうな笑顔。そして……放たれた豪速球。

 

「がはぁぁッ!?」

 

「ナラサカが吹っ飛んだ!?」

 

「でも上がってるすげぇ!!」

 

 偶然打球の軌道上にいたリベロのナラサカがカットしてしまった。当たった瞬間にナラサカが面白いように飛んでいった。アニメじゃない、これは現実だ。まさかボールで人が飛ぶなんて夢にも思わないだろう。

 

「チャンス返すぞ!」

 

 チャンスボールが緩く返ってくる。よし、今度はしっかりとカズに上げよう。そうしないとウチのわんぱく娘が人を殺しかねない。なんとか真下まで入ろうとすると、後ろからなんと七草さんの声が聞こえてきた。

 

「氷兎君、肩借りるね!」

 

「えっちょ、痛ァ!?」

 

 まさかの七草さんが俺の肩を足場にして跳躍。高く上がったはずのチャンスボールに向かって跳んでいく。そしておおきく振りかぶって……。

 

「七草さん、加減、頼むから加減して!!」

 

「えいっ!」

 

 俺の必死の忠告も虚しく、可愛らしい声とともに放たれた先程の威力を超える豪速球に、相手チームの連中がまた吹っ飛んでいった。楽しくなるはずのビーチバレーがまさかの悲鳴だらけのスパルタという名前が生優しくなるほどの拷問になるとは誰が思おうか。しかもやってる本人が楽しそうな笑顔のせいで、誰も止めるに止められない。

 

「やった! 氷兎君見てた? 私すごい?」 

 

「あぁ、うん……七草さんはすごいね……」

 

「でしょ? じゃあ私もっと頑張るね! 応援、してね?」

 

 俺の手を両手で握って、笑顔で語りかけてくる七草さんに、俺はもう何も言えなかった。ただ、このあまりに酷いバレーの試合の続行と、ボールの球速が上がった瞬間である。

 

 あぁもうめちゃくちゃだよ……。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 夕方になり、氷兎が買ってきたバーベキューセットで氷兎の同級生を含めて皆で食うことになった。肉の焼ける匂いが漂ってきて、食欲をそそる。だが……。

 

「……なぁ、女バレ見ててあんな子いたか……」

 

「いや、全国にもいねぇよ……」

 

 氷兎の同級生達は皆死屍累々。全身傷だらけで酷いものだった。けど、不思議と皆笑顔で、あの球はヤバかったとか、俺あれ上げたぞ、吹っ飛んだけどとか。少なくとも楽しめてはいたようだった。

 

「……ん?」

 

 加藤さんでも探そうかと思っていたところ、少し離れた場所で菜沙ちゃんと……確かカズ君だったかな。二人が話しているのを見かけた。ちょっとだけ気になったから、気づかれないように近寄って聞き耳を立ててみる。

 

「……なぁ、まだ氷兎と付き合ってないの?」

 

「……うん」

 

 表情は見えない。けど、なんとなく俯いて悲しそうな顔をしているんだろうなって事くらいはわかった。二人は仲が良かったんだろうか。

 

「アイツ、あの子に取られちゃってもいいのか?」

 

 そう言ったカズ君の視線の先にいるのは、仲間達と笑いながら肉や野菜を焼き、横から七草ちゃんに話しかけられて頬を緩めている氷兎だった。青春だな……。けど、本当なんでアイツは菜沙ちゃんの想いに気がつかないのかね。

 

「……嫌だよ。けど、でも……ひーくんは、私から離れていかないから……」

 

「そんな保証ないだろ」

 

「うっ……」

 

「……皆、ヤキモキしてたんだよ。昔っからお前らが付き合わないから。だから……取られる前に、何とかしないと」

 

「……わかってるよ、そんなの」

 

 そう言って、菜沙ちゃんは少し駆け足で氷兎の所へと戻って行った。それを見送るカズ君と目が合った。軽く会釈をして、彼は俺の元に近付いてくる。

 

「どうも、氷兎の……先輩、でいいんですよね」

 

「まぁ、そうだな。翔平だ、よろしくな」

 

「カズアキです。氷兎とは、中学時代よくツルんでました」

 

「へぇ……。なぁ、アイツの中学時代のこと聞かせてくれないか? アイツ、自分で言うと自分のこと卑下してばっかりだからさ」

 

「……そうですね……」

 

 カズ君は押し寄せてくる波を見つめながら、ポツポツと話し始めた。

 

「中学時代のアイツは、本当に熱心な奴でしたよ。多分、誰よりもバレーが好きだったと思います。人一倍向上心があって、他人のプレーを見て身につけようとする貪欲な心もあった。皆もそれを評価していました」

 

「……けど、上手くはなれなかった」

 

「……いえ、一概にそうとは言えません。ただ、周りが上手くなりすぎたんです。氷兎も良いプレイヤーでした。けどそれ以上に周りが強かったんです」

 

「……なるほどねぇ」

 

 前に氷兎から聞いた話と、あまり変わらなかった。ただ、自分のことをド下手くそなプレイヤーと卑下していたが。

 

「……顧問もあまりいい先生ではなかったんです。皆心もバラバラで、チームプレーはうまくなかったと思います」

 

「でも、聞いた話だと県大会でいいとこ行ったんだろ?」

 

「はい……。けど、それは多分氷兎のおかげだと思うんです」

 

「……氷兎の?」

 

 彼は頷いて、笑いながら皆で肉を食べている氷兎を見て少しだけ微笑んだ。

 

「アイツ、誰よりも努力をしていました。だから、皆アイツの言葉はすんなり聞くんです。ここはこうした方がいいって言う指導も多くしていました。アイツは皆のプレーを細かく見て吸収しようとしていたから教えられたと思うんです」

 

「……他人のプレーを見て、自分の吸収とともに悪いところは伝えるようにしていたのか」

 

「はい。だから、皆バラバラな気持ちでコートに立ってても、アイツがコートの外から一声かけるだけで皆の気持ちが高まったんです。俺は……出来るのならば、アイツともっとバレーをしたかったんですけど……アイツ、才能がないって高校では辞めてしまいましたから」

 

「……なんか、聞くだけだと凄いことしてるんだな」

 

「アイツは凄いですよ。皆認めてます。それこそ、アイツがいないと勝てない試合もあります。調子が悪くなる奴もいました。アイツはいるだけで、皆のやる気を高めてくれたんです。けど……やっぱり、本人は中に入ってプレーをしたがっていた。俺らも、一緒にしたかったんです。けど……顧問は氷兎の能力を評価していなかった。メンタル面では良くても、技術が足りない、と」

 

「………」

 

 頑張り屋にしかなれない、と氷兎は言っていた。アイツには、アイツなりの悔しさとかそういうのがあるんだろう。俺には、あまり理解ができないけど。だって、そこまでして何かに打ち込んだことがなかったから。だから……俺はすげぇって思う。アイツはそれでもやり切ったから。

 

「高校で皆バラバラに散って、練習試合で会う度に皆言いますよ。やっぱ調子が出ねぇって。氷兎がいないとダメだって」

 

「……いるだけで士気を高めるプレイヤーか……いるもんなんだな」

 

「えぇ、本当に……勿体無い奴でしたよ。俺なら、もっと上手くアイツを扱える気がしたんですけどね」

 

 そう言って彼はセットアップの形を作り、ボールをトスするように身体を動かした。少しだけその表情が憂いを帯びている気がする。

 

「……翔平さんは、氷兎と菜沙のことを見ていて何か思いませんか?」

 

「ん……あの二人かぁ……。まぁ、仲良いよなぁ。幼馴染なんて羨ましいよ」

 

「菜沙の奴、昔っから氷兎のことが好きなくせに……あぁして幼馴染という楽な枠に居座ってるんです。先に進むのが怖いのかわからないですけど……氷兎も氷兎で、その現状に慣れてしまっている。おそらく、菜沙が何をしても氷兎は特に何も感じないんじゃないかと思うんですよ」

 

「あぁ、わかるわ……。普段のアイツら見てると、もどかしくて仕方が無い」

 

「……お願いがあるんです」

 

 彼は俺の顔を真剣な眼差しで射抜くように見てきた。そして、少し頭を下げて頼み込んだ。

 

「菜沙のこと、応援してあげてほしいんです。あの二人に、できれば結ばれてほしいってのが……俺達の想いです。なにしろ、あの二人の甘い空間に悩まされましたから」

 

 そう言って彼は苦笑いをした。俺も少しだけニヤリと笑い、まぁ考えておいてやると答えた。

 

「……何もかもを決めるのは、アイツだからな。少しは手を出すかとしれないけど、基本的には傍観だよ」

 

「それでもいいです」

 

「そっか。んじゃ、頼まれたわ」

 

 頭を掻きながらそう答えると、腹の音がぐぅっと鳴った。そういえば、結局まだ肉を食ってなかった。カズ君は俺の腹の音を聞いて少し笑っている。

 

「……うーし、肉食いに行くか!」

 

「そうですね。俺もお腹減りました」

 

 いざ肉を食わん、と身を翻して未だに肉を焼いている氷兎の元へと向かう。アイツの側には、菜沙ちゃんと七草ちゃんがいて、氷兎は七草ちゃんの言葉に頬を染めながら肉を焼いていた。それを、菜沙ちゃんは少し恨ましげに見つめている。

 

 ……どうにか、してあげたいものだ。

 

 

To be continued……



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第30話 夜の海

 夜の海辺というのは、少しだけ怖い。いくら星が綺麗でも、どれだけ月が輝いていても、海辺や川の近くというのはなんとなく恐怖に駆られる。

 

「綺麗だね、氷兎君」

 

「……あぁ、そうだな」

 

 手に持っている線香花火がパチパチと輝いていた。バーベキューが終わると、バレー部の皆は遅くなるからと帰っていった。残っているのは、俺達だけ。暗くなってからは、花火をしながらまったりと時間を過ごしている。

 

「……あっ、ひーくんのが落ちた」

 

「あらら……負けたか」

 

 そこそこ大きくなったが、やはり最後には落ちてしまう。菜沙のも中々の大きさだが、七草さんの方が一回り大きい。いや、胸に関しての話じゃない。胸に関していえば一回り所の話ではなくなってしまう。

 

「……ひーくん?」

 

「何も言ってないよ」

 

 察するのが早い。俺に対してだけ読心術でも持ってるんですかね。

 

「……玲彩さん、遅いね」

 

「先輩の看病で手が離せないんだろ」

 

 バーベキューの最中、突如として先輩はぶっ倒れて動かなくなった。熱中症か、それとも他の病気か。なんにせよ、安静にして早く良くなってもらいたいものだ。

 

 ……しかし、先輩が余所見をしているうちに肉を包んだサンチュにデスソースを半瓶くらい垂らしたのはマズかったか。まぁなんだかんだ言って生きてるだろう、あの人は。素肌にはやってない。約束は守る男だよ、俺は。

 

「……綺麗だなぁ……」

 

 七草さんは、うっとりとした表情でずっと花火を見つめている。その顔を見るだけで、やけに心臓の鼓動が早くなる気がした。

 

 ……君のその表情の方が綺麗だよ、だなんて言う機会があるだろうか。

 

「ひーくん」

 

「はい」

 

 あれだけ早かった心臓の鼓動がピタッと止まり正常に戻る。菜沙の冷たい声がやけに心臓と背中に突き刺さる。幼馴染特権か何かだろうか。どうしても、彼女には逆らえない気がする。

 

「………」

 

 波の押し寄せてから帰る音と、遠くから聞こえる車の音。少しだけ静かに思えた。あぁでも、天在村の方が夜は静かだったか。辺境の田舎と発展した街を一緒にしてはいけないか。

 

「……あっ。私のも落ちちゃった」

 

 菜沙の線香花火もポトリッと落ちた。最後まで残ったのは一番大きく火花をあげている七草さんの花火だ。勝ち残った彼女は、えへへっと無垢な笑顔で笑う。

 

「やった、私の勝ちっ! ……あっ」

 

 喜んだ拍子に体が揺れ、最後の線香花火も落ちた。少しだけしょんぼりする七草さんを見ていると、どうにも庇護欲に駆られる。頭を撫でたら、彼女はきっと笑うだろう。落ちちゃったけど、一番大きかったよと言えば、彼女はきっと嬉しそうに微笑むだろう。

 

 ……もっとも、そんなことを言えるほど俺に勇気はないが。

 

「おーい、お前ら終わったかー?」

 

 後ろの方から先輩の声が聞こえる。生きていたのか。

 

「終わったなら、七草ちゃん片付け手伝ってくれない? 荷物重たいんだわ!」

 

「いくら七草さんだからって、荷物持ち頼みますか普通。俺やりますよ」

 

「お前でもいいが……背中に気をつけろよ? どこからか恨みを持った誰かがお前を蹴り飛ばすかもしれん。例えば、ナンパじゃなかったのにデスソースを盛られた俺とかな」

 

「えぇ……」

 

 いやまぁ確かにナンパではなかったが。おそらく俺達が行かなかったら結局アレはナンパになるだろう。皆七草さんのことじっと見てたしな。どれほど目潰ししてやろうと思ったことか。

 

「じゃあ、私行ってくるね。大丈夫だよ、私強いから!」

 

「……ごめんね七草さん」

 

「いいの。だって、今日楽しかったから。……ありがとね、氷兎君」

 

 小さな声でそう言った彼女は、そのまま先輩の元へと戻って行った。俺も花火のゴミを集めてから戻るとしようか。

 

「……ひーくん」

 

 不意に彼女から声をかけられた。しゃがんだ状態のまま、菜沙が隣に近寄ってくる。彼女の腕と俺の腕が当たり、彼女との距離感がいつものように戻った。

 

「どうした?」

 

「……ひーくんは、私と一緒にいるのって嫌?」

 

「……何をいまさら」

 

 彼女の問いかけを聞いて、呆れた。何年も一緒に過ごしているのに、一緒にいるのが嫌になるわけがない。

 

 だというのに、彼女は少しだけ俯いてしまった。

 

「あのなぁ、一緒にいるのなんて普通のことだろ。何年一緒にいるんだよ」

 

「何年も一緒にいるからだよ。私のこと、嫌になったりしない? 離れたいとか、思ったりしない?」

 

 普段の彼女よりも、数段声のトーンが落ちていた。それだけ気分がナイーブになっているのか。それとも、夜だからだろうか。夜はなんとなく、気分が落ち込み気味になる気がする。だから、俺はいつものように彼女の頭に手を乗せて何度か撫でてから言った。

 

「そう思うことはないと思うよ。なにせ、俺が誰かと結婚しても何故かお前が隣にいる気がするからな……。なんとなく、切っても切れない縁みたいなものがあるんじゃないかって思える」

 

「………」

 

 頭を撫でるのをやめると、彼女は左手で俺の右手を握ってきた。朝は冷たく感じた彼女の手だけど、今はどこかほんのりと暖かい。少しだけ安心できるような気がする。

 

「……ねぇ、ひーくん」

 

「なに?」

 

「もしも、だよ? 私が誰かと付き合うってなったら、ひーくんはどう思う?」

 

「……お前が? そうだな……」

 

 ……今のところ万に一つも菜沙が誰かと付き合う状況を意識しにくいが、まぁ俺が思うことはひとつだろう。彼女の幼馴染として、しっかりと接するだけだ。

 

「……相手のこと、色々と調べる。それで駄目そうなら、俺はやめておけと言うかもしれないし、それでも菜沙が幸せになれると思うなら、好きにしろと言うかもしれない。まぁ、あれだ……相手が菜沙のことちゃんと幸せにできるなら、俺は何も言うことは無いよ。菜沙が幸せなら、多分きっと俺も幸せだろう。それに……その人と何かあったのなら、俺が真っ先に駆けつけるさ」

 

 ……実際その時になってみないとわからないが、おそらく現時点だと俺の回答はこうだろう。幼馴染の幸せを願うのは、幼馴染として当たり前のことだろう。

 

 握られている手が、少しだけキツくなった。菜沙を見てみると、頬を赤くして少しだけ目尻に涙を溜めていた。

 

 ……俺何かマズイこと言っただろうか。

 

「な、菜沙……?」

 

「うるさいバカ。少し静かにしてて」

 

「あっ、はい」

 

 涙声の彼女に怒られた。少しだけ萎縮してしまう。

 

 彼女は涙を拭うためか、俺の右肩に顔を近づけてそのまま埋めこんだ。彼女の息遣いと、キツく握られている右手のせいか少しだけ鼓動が早くなった気がする。

 

「……お仕事、危険だってわかってるよ」

 

 くぐもった彼女の声が聞こえる。

 

「でも……ひーくんがいなくなったら、嫌だから……」

 

 少しだけ、胸が締め付けられるように苦しくなった。

 

「だから……ちゃんと、帰ってきて……。それで、貴方の隣にいさせて……」

 

「……出来る限り、努力するよ」

 

「……約束。ちゃんと、私の隣に帰ってきて」

 

 泣き腫らした顔をあげて、彼女は右手の小指を差し出してくる。指切りをしろ、ということだろう。俺も左手を出して彼女の小指とくっつける。

 

「……ちゃんと、守ってね」

 

「守るに決まってるだろ。約束も……菜沙も」

 

「っ………」

 

 赤かった顔を更に赤くして彼女は目をそらした。こういう反応をする彼女は本当に可愛らしいと思う。誰にでもこんな反応をしたら、きっともっと彼女はモテるだろう。

 

 ……誰にでもこんな反応をする彼女を見たくはないが。

 

「……帰ろう、ひーくん」

 

「ん……帰るか」

 

「……えへへ」

 

 前と同じように。俺達の日常がまだ本当の日常だった時のように。菜沙は俺の手を握りながら歩いていく。

 

 ……ただ、あの時と違うことと言えば、彼女との距離がもっと短くなったことだろうか。

 

────(好きだよ)

 

「……何か言った?」

 

「……ううん。何も」

 

 キツく握られた手が、やけに熱を帯びている気がした。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「……なぁ、氷兎。お前ぶっちゃけ七草ちゃんのことどう思ってるの?」

 

 加藤さんが運転する車の中で、先輩が聞いてきた。助手席には先輩が、後部座席に七草さん、菜沙、俺の順で並んで座っている。二人とも疲れたのか眠っていて、菜沙は俺に寄りかかるようにして寝息を立てていた。

 

 ……しかし、いくら何でもそれは今聞くことなのだろうか。例え本人が眠っていたとしてもだ。

 

「……今聞きます、それ」

 

「眠ってるんだから聞こえやしねぇよ」

 

「その恋バナ私も聞いてるんだが、良いのか」

 

「別に構いやしませんよ」

 

 俺は構うんですけど、と言いたくなるのを堪えた。もう何を言ってもこの状況じゃ聞かないだろう。

 

 はぁっ、とため息をついてから先輩の質問に答えた。

 

「……七草さんのことは可愛らしいとは思いますよ。そりゃ、誰だって見惚れるんじゃないかと思うくらい外見も整ってるし、そんな子に見つめられたり手を握られたりしたら、そりゃ赤くもなりますよ」

 

「……好きなのか?」

 

「さぁ、どうでしょうね……。自論なんですけどね、可愛いから好きになるんじゃなくて、好きだから可愛く思えるようになりたいんですよ。だから正直、七草さんがどっちなのかなんてわからないんですよね」

 

「……外見が異議もなく可愛らしいから、好きで可愛いのか、可愛いから好きなのかわからないってことか」

 

「そういうことです」

 

 傍から見ても、いや誰から見ても、七草さんは可愛らしい。今まで夢に出て来たどんな人よりも、今まで会ってきたどんな人よりも、彼女は可愛らしい。それは確定的に明らかだ。

 

「……なら、菜沙ちゃんは?」

 

「菜沙は……また別でしょう。そういったもんじゃないんですよ。隣にいるのが当たり前というか……言葉にしにくいですけど、そういったものなんです」

 

「……はぁーーーっ………」

 

 前の座席からとてつもなく長く深いため息が聞こえてくる。一体俺の答えの何が悪いというのか。

 

「もういい。お前には一旦幼馴染が何たるかを教えなきゃならんようだな。決めたぞ、明日俺と出かけるから予定空けておけよ」

 

「そんな急な……」

 

「……また私が運転か?」

 

「いやいや、流石に明日は自分の車で行きますよ」

 

「……そうか」

 

 少しだけ残念そうな加藤さんの声が聞こえる。なんだかんだ言って、加藤さんって先輩のこと好きなんじゃないかな。

 

「……そういえば先輩、デスソース平気でした?」

 

「ばっかお前、不意打ちで死ぬかと思ったわ。まぁおかげで加藤さんの柔らかい膝枕堪能できたからいいけど、できてなかったら今頃お前の背中には蹴り跡がついているだろうよ」

 

「……ッ!! な、何を言ってるんだ君はッ!?」

 

「うおっ、ちょっ、加藤さん前見て前!! 運転しっかりとしてくださいよ!!」

 

 急に荒々しくなった運転に悲鳴をあげながら、俺達はなんとか生きてオリジンへと帰り着くことが出来た。流石にもう疲れた。今日はゆっくりと眠れる気がする。

 

 

To be continued……



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第31話 ドキドキ☆ギャルゲー作戦

 海で遊んだ次の日のこと。俺は先輩と一緒に近くのゲームショップにゲームを買いに行った。何のゲームを買うのかと思ったら、まさかのギャルゲーだった。そう、鈍感系主人公が持ち前のイケメン力と優しさで色々な女の子を落としにかかるゲームである。

 

「……んで、なんでこんなの買ったんですか。しかもなんすかこのタイトル……『ドキドキ☆ラブ(ファースト)』って……新手のパクリか何かですか」

 

「大丈夫だ安心しろ。ちゃんとサイトの上位ランクに入ってるギャルゲーだ。それで、お前にはこれからこのゲームの、所謂幼馴染キャラを攻略してもらう」

 

「俺がやるんですかこれ」

 

 いや確かに、ギャルゲーはやったことはある。菜沙と一緒にやっていたら、菜沙が時々殴りかかってきたり、女の子の反応が訳分からないと愚痴をこぼしていたりと散々な目にあったのを覚えている。

 

「そうだ。お前には幼馴染が何たるかをこのゲームを介して学んでもらう! 終わる頃には、お前にも幼馴染がどんな存在なのかがわかってくるだろう……そう、幼馴染とは、幻想的で、優しくて、なんというか……救われてなくちゃダメなんだ……」

 

「ノベル物って大体幼馴染って不遇なキャラしてますよね。ぽっと出のヒロインに主人公取られたりとか」

 

「ハッハッハッ、誰のことだろうねぇ……?」

 

 大きなテレビ画面の前に置いてあるゲームをする用に配置を変えた椅子に、よっこらせと言いながら先輩は座る。俺も適度なお菓子と先輩と俺が飲む珈琲を淹れて机に置いてから位置につく。

 

「よーしっ、じゃあ電源ONっと」

 

 ゲーム機にカセットを入れて、テレビと本体の電源を入れた。画面が白くなり、タイトルロゴがドーンッと出てきて、おそらくキャラの1人であろう女の子がタイトル名を言った。

 

『ドキドキ☆ラブ(マイナス)!!』

 

 一瞬耳を疑った。しかし読み方はどう見たってマイナスだった。流石に俺は堪えきれずに現状についてツッコミを入れる。

 

「マイナスじゃないか……!? 初作品だからファーストなのかと思ったら、読み方マイナスじゃないか!! 先輩マズイっすよこれ、完全に何処ぞの会社に喧嘩ふっかけてますよ!!」

 

「……だ、大丈夫だって安心しろよ……ちゃんとサイト見たから、うん」

 

 横に座っている先輩の頬には一筋の汗が垂れている。いやホント怒られるぞこれ。プラスどころかマイナスって……。しかもドキドキマイナスさせたらアカんでしょ。誰が買うんだよこんなの。

 

 ……俺たちみたいな阿呆か。

 

「……案外グラフィックはしっかりとしてるな。ほら見ろ、幼馴染が起こしに来たぞ」

 

「いやー、懐かしいですね……最近は菜沙に起こされるというのも減りましたけど」

 

「………」

 

 横から先輩の視線が突き刺さる。俺が一体何をしたというんですかね。とりあえず、ゲームを進めていく。

 

 主人公は起こしに来てくれた黒髪ロングの女の子(巨乳)と一緒に朝ご飯を食べて一緒に学校へ向かう。主人公の言葉に照れたり、嬉しそうにはにかんだりする幼馴染ヒロインこと、アヤセちゃんは確かに可愛らしい。

 

「うむ……これだよこれ。俺が求めていたのはこれだったんだ……」

 

「……普段の菜沙を見てる気分なんですけどねぇ」

 

 学校が終わって放課後。アヤセちゃんと一緒に帰る約束をした主人公はそのまま帰宅し、夕ご飯を食べて就寝した。ここまでは普通のギャルゲーだ。

 

「二日目から幼馴染とのルートが始まるらしい」

 

「初日は随分とまったりですね……。昼休みに一緒に食おうとしてきた体育会系ヒロインとか、仕事を手伝ってくれとせがんでくる生徒会長ヒロインとか、結構いい女の子とかいましたけど……。長くかかりそうですね」

 

「うむ……個人的な好みとしては、影の方でほっそりと生きていた内気な女の子だな。頭なでなでしたい」

 

「もう先輩がやったらいいんじゃないかな……」

 

 二日目。幼馴染が起こしに来て学校へ。そして時間が一気に飛んで放課後。一日目に仕事を手伝えなかったため、今日手伝って欲しいという生徒会長の言葉に、主人公は選択肢もなく普通に手伝うことに。

 

「……あれ、生徒会長とのイベント回避できないんですね。アヤセちゃん待ってるんじゃ……」

 

「約束はしてないだろ。まぁ、必要なモノなんだろう、きっと」

 

 生徒会長に連れられて、生徒会室で二人で作業をする主人公と生徒会長。アンケートの集計の最中に、消しゴムを貸してほしいという生徒会長に、主人公が渡そうとすると手と手が触れ合って、互いに手を引いてしまう。

 

 ……他の生徒会役員はどこに行った。

 

「……あぁー、手が触れ合ってドキッとするシチュエーション。わかってるじゃないか」

 

「クールメガネ……そして時折見せる恥ずかしそうな表情……こっちの方が菜沙っぽいと思うんですけどねぇ」

 

「クールメガネの幼馴染キャラがどこにいるんだ。幼馴染ってのはなぁ、優しくて胸がでかくて黒髪ロングって相場が決まってんだよ」

 

「全国の幼馴染キャラに謝ってきたらどうですかね」

 

 仕事が終わって、夕暮れの街を一人で帰る主人公。もうすぐ家に帰りつくとなった時に、目の前を1匹の猫が通り過ぎていく。それを追いかける主人公。人の気配が少ない場所にまでやってきてしまった彼は付近から嫌な気配を察知する。

 

「……ん、なんかおかしくないですか。これバトル系でしたっけ」

 

「いやそんな筈は……ギャルゲーのはずだ」

 

 突如として背後から襲いかかられる主人公。黒ずくめの人物に背後から包丁で刺されて死んでしまう。画面にでてくるGAMEOVERの文字が血のように見えて生々しい。

 

「……死んだーーーッ!?」

 

「待て、いや待ておかしいって。今の誰だよ、ってか二日目からGAMEOVERってなんなんだよ!!」

 

 セーブデータをロードして、再び二日目へ。しかし拒否しようがない生徒会長のお誘いを受けて、再び刺されて死んでしまう。流石にこれは困った。詰みが早い。頭を抑えてどうしたものかと悩む俺と先輩は、携帯に手を伸ばそうとして、しかし躊躇ってやめた。こんなに早く攻略を見るのは負けた気がする。

 

「……どうするんですかねこれ」

 

「……ハッ!? まさか初日に生徒会長に出会わなければ二日目のイベントが起きないんじゃねぇのか!?」

 

「えぇ……なんて鬼畜な……」

 

 初めからやり直して、放課後教室に生徒会長が来る前に教室をさっさと脱出して幼馴染の元へと向かう。すると、二日目では幼馴染との帰りの約束がされており、生徒会長とのイベントを回避できた。

 

「おぉ、進めた」

 

「なんてゲームだ……。ただのギャルゲーじゃないですよこれ」

 

 その後何日かすると、休日を暇を持て余して過ごした主人公が次の日の朝ベッドで死んでいるのが発見された。

 

「……また死んだ!?」

 

「ヒントが出てるな……『なんで私に連絡してくれないの……?』って……えぇ……」

 

「ウッソだろ……」

 

 休日の朝、アヤセちゃんに連絡を入れると、その日は用事があるから遊べないとのこと。

 

「じゃあなんで連絡させたんだよッ!!」

 

「……もういい、進めようぜ。考えるのはあとだ」

 

 先輩の言葉に従って、ゲームを再開。幼馴染との甘くも酸っぱい日々に、少しだけ心がポカポカとする。隣の先輩も、あぁいいっすね〜……なんて顔をほころばせていた。気持ちが悪い。

 

「……ヌッ!?」

 

 放課後残って先生から渡された仕事を終わらせようとした主人公は、幼馴染に一緒に帰れないと連絡を入れたのにも関わらず、背中を刺されて死んでしまった。

 

「また死んだ……。ってか、この黒い人って絶対アヤセちゃんですよね? え、なんで?」

 

「いやまだわからないだろ……。幼馴染がその程度で刺しに来るわけないって」

 

「ベッドで惨殺死体ができたのをお忘れで……?」

 

 GAMEOVERの画面に書かれているヒントは、30分おきに電話をしろとのこと。

 

 ……幼馴染が重たすぎる。

 

「……あっ、選択肢ミスった」

 

 『一緒にいた女の子って誰?』の質問に、『ただのクラスメイトだよ』と答えたら刺されて死んだ。やっぱり刺し殺してるの幼馴染じゃないか……。

 

「じゃあもう一個の『赤の他人だよ』だな」

 

 『赤の他人だよ』と答えたら、『ならなんで一緒にいるの!!』と言われて刺された。画面に浮き出るGAMEOVERの黒い画面に、俺と先輩の歪んだ顔が反射している。

 

「……なんだこれはッ!! 避けられないじゃないかッ!!」

 

「いや待て……最初のパターンと同じだ。クラスメイトの女の子と話さなければいいんだ。学校が終わったらトイレにダッシュだ」

 

「絶対これギャルゲーじゃない」

 

 なんとか選択肢を回避して、何日か進んでいく。そして、主人公はある想いに気がついた。もしかしたら、俺は幼馴染のことが好きなんじゃないか、と。

 

「遅い。ここまでが長い」

 

「流石に疲れたな……けど、あと少しでエンディングだ」

 

 ……クリスマス。とうとう幼馴染の女の子に告白をした主人公。晴れてカップルになった次の日、主人公は生徒会長から連絡を受けるも、選択肢でいいえと答えてイベントを回避。

 

 ……したのだが……。

 

 主人公の携帯の履歴を偶然見てしまったアヤセちゃんの挙動が一気に怪しくなってしまった。

 

「……なんかアヤセちゃんの目のハイライト消えてるんですけど」

 

「落ち着け……大丈夫だって安心しろよ……」

 

 その日の夕食は、アヤセちゃん一人の夕食だった。並んだお肉を頬いっぱいに溜め込んで飲み込んでいく。そして、全て食べ終わってから一言……。

 

『これでずっと一緒だね……』

 

「喰われたーーーッ!?」

 

「……Eエンド……まぁまぁ、他のエンドがあるみたいだしな? 探してみようぜ」

 

「またはじめからなんですがそれは……」

 

 ここまで来たら、辞めるに辞められない。仕方が無いのでこのギャルゲーを続行して、幼馴染との全てのエンドを攻略することにした。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「………」

 

「………」

 

 二人の仏頂面が画面に映る。ゲーム画面ではまたもやGAMEOVERの文字が浮き出ている。二人の目元は隈が酷く、時計の針はまさかの二周半も回っていた。勿論短針である。

 

「……何故だ。パターンは全て暗記した。日々教室にやってくるスピードが上がってくる生徒会長から猛ダッシュで逃げるためにフレーム単位での移動も身につけた。アヤセちゃんへの電話は忘れずに30分毎に掛け直してるし、他のヒロインとは好感度を1も上げていない。なのに……何故トゥルーエンドが見つからないんだッ!!」

 

「やれることはやった……だが何故だ。どこを見落とした……?」

 

 たかがゲーム一本に満身創痍な二人。流石にそろそろ休憩を入れないと過労でぶっ倒れるところまで来ていた。累計プレイ時間は26時間を超え、ゲーム機本体が熱で悲鳴をあげている。

 

「……一旦休憩だな。ギャラリーでも見てみようぜ」

 

 今まで見て来たエンディングの数々をギャラリーで見ることにした。ここまで来た苦行の数々を見せつけられて少しだけ精神的に削られたが、不思議な達成感がこみ上げてきている。

 

「……ん? 氷兎、少し戻してくれ」

 

 先輩に言われた通りに画面を少し前に戻す。すると、先輩の目がカッと開かれて、口が半開きになり持っているマグカップがカタカタと揺れだした。

 

「……氷兎、落ち着いて聞けよ……」

 

「はい……?」

 

「……幼馴染とのエンドの枠が、全部埋まってる……」

 

「……ファッ!?」

 

 確かに。見てみると全てのエンディングを見終わったようで幼馴染の枠が全て埋まり尽くしていた。だが……ここまできてまだ死亡エンド以外を見たことがない。隠しエンドでもあるのか……?

 

「Aエンド『ずっと一緒だね』、Bエンド『ずっと、一緒だね』、Cエンド『ずっと、一緒だね……?』なんだこれはたまげたなぁ」

 

「全部同じじゃないか!? A〜Zまで全部同じエンディング名じゃないですか!?」

 

「……ずっと一緒だね」

 

「ヤメロォ!!」

 

 なんなんだこのゲームは!! いいや、もう我慢出来ない。攻略サイトを見よう。そうすればトゥルーエンドへの行き方が載っているはずだ……。

 

「……あっ」

 

「……今度はなんですか」

 

「ごめん。俺が見たゲームサイト、俺が普段使ってる鬼畜ゲームズだったわ」

 

「どうりでこんなクソゲーが見つかるわけだ……!!」

 

 こんなゲームが売れるわけがない。攻略サイトを見てみたが、どいつもこいつもトゥルーエンドがないと発狂した挙句ゲームを売り払っている。なんてこった……。

 

「そもそも製作者は何を考えてこんなゲームを……」

 

 パッケージを持ち上げて裏面をじっと見つめる。製作者側のコメントがつらつらと書き連ねてあり、ゲーム制作が大変だったと書かれていた。そして注意書きが一言。

 

『注意。このゲームはフィクションではありますん』

 

「どっちだァァァァァッ!!」

 

 パッケージをベッドに向かってぶん投げた。もう流石に疲労がピークだった。本格的に眠りにつかないとやばいかもしれない。ふらふらと動きながら椅子に座り直した。そんな折に、俺達の部屋の入口の戸を誰かが叩いた。

 

「氷兎、出てくれ……」

 

「誰だこんな時に……」

 

 愚痴を零しながら、ふらふらとした足取りで玄関へと向かっていく。壁に手を伝わせながらようやく辿り着き、扉を開けた瞬間心臓が一瞬止まったような気がした。

 

「……あっ、ひーくんって……酷い隈だよ!? なに、どうしたの!?」

 

「ひぇっ……あ、ぇっと……なんでも、ないです……」

 

 扉を開けるとそこに居たのは菜沙だった。思わず心臓が飛び出そうになって、口がもごもごと発音できなくなった。不思議に思った菜沙が部屋の中に入ってきて、画面を見て驚き声を上げた。

 

「……ひーくんになんてものやらせてるんですかぁぁぁ!!」

 

「まっ、待て、落ち着げふぁッ!?」

 

 先輩に固めのクッションが投げつけられ、不幸なことに顔面に直撃する。その後菜沙が俺の元へと近寄って来て、幼馴染ってこんなのじゃないから!! 等と弁解をしてくる。

 

 ……いやもう、そんなことより……眠い……。

 

「ふぇ、ちょっ、ひーくん……?」

 

 力が入らなくなって崩れ落ちた先は、菜沙の身体だった。

 

 ……柔らかくていい匂いがする。このまま意識を手放してしまおうか……。

 

「ひ、ひーくん……えへへ……」

 

 ……鈴華 翔平が、薄れゆく意識の中最後に見たのは、幼馴染に抱きつきながら眠りにつく友の姿だった。それを見て、一言呟く。

 

「……トゥルーエンド、発見……」

 

 バタりとその場で倒れて動かなくなった翔平と氷兎。偶然その場に来た菜沙によって二人はなんとか次の日支障が出ないように休むことが出来たようだった。

 

「……GAMEOVERでしょこれ。俺らも、制作陣も」

 

 起きた時に氷兎はそう呟いたらしい。

 

 

To be continued……



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第三章 それは人か否か
第32話 新たな任務へ


 人が人である証明ができるかい?

 

 道具を使える? 話せる? 姿が人型で二足歩行ができる?

 

 ……否、それは証明にならない。

 

 自分の事ですらまともに理解できないのに、他者を理解するなんておこがましくないかい。まして、それが人という一括りを理解しようだなんて到底不可能だ。

 

 仮に君の前に、恋人と瓜二つの人物が現れて……二人が同時に私が本物だと主張したら、どちらを選ぶのだろうね。

 

 

 

───────────────────

 

 

 

 まだまだ夏は終わらない。暑い日が続くが、気温が関係の無い地下空間では快適に過ごせている。今日は木原さんに俺と先輩、そして七草さんが呼び出された。今は司令室に向かっている途中である。

 

「……おや、あれは……」

 

 先輩の足が止まる。一体何があったのか……。早くしないと既に司令室に向かったらしい七草さんが怒りかねない。いや、彼女が怒るということはないか。怒っているところを想像できないし、可愛らしい顔しか浮かばない。

 

「おぉ、隼斗(ハヤテ)!! お前もう大丈夫なのか!?」

 

 片手を上げて先輩が走り寄って行った先は、前を歩いていた猫背の男性だった。隼斗……確か、先輩が前に一緒に組んでいた同僚だったか。発狂したと聞いているが、精神的に安定したんだろうか。

 

「……あぁ、翔平か」

 

 ……振り向いた彼の姿を見て、嫌に寒気がした。

 

 普通の姿形をしているが、猫背で髪の毛は整っておらず、頬は痩せこけて窪み、更に目が完全に色を失っていた。白目ということではない。俗に言う、死んだ魚の目という奴だろう。どうして後ろ姿だけで彼だとわかったのだろうか。

 

「なんだよ復帰したなら早く言えよぉ。どうだ、また飯でも……」

 

「うるさいな。俺は任務があるんだ、邪魔をしないでくれ……」

 

 肩を組もうとした先輩の手を払い除け、彼はそのまま猫背の状態でどこかへ行ってしまった。先輩の弾かれた手が行き先を求めてさまよっているように見える。

 

「……隼斗、一体どうしたんだ? 確かに生真面目で堅いやつだったけど……あそこまで……」

 

「……目、見ましたか。言っちゃ悪いですけど、ありゃどこかイカれた目ですよ。発狂したと聞きましたし、おそらく精神的に参っているのでは?」

 

「……いや、でも、なぁ……」

 

 先輩はずっと男の消えていった通路を見つめている。不思議なものだ。案外人間は図太い生物なのかもしれない。先輩から聞く限りだが、隼斗という人物の発狂の仕方というのはあまりにも酷く、仲間に攻撃したり途端に走り回り壁に頭を打ちつけるなど、傍目に見ても治る見込みはなさそうに思えたらしい。実際、精神科の先生はとてもじゃないが、と否定的な意見を述べたそうだ。

 

「……まるで、何かに取り憑かれた様にさまようゾンビみたいな感じでしたね」

 

「生気がないってのは……あぁいうことか。でも、なんで……」

 

「……行きましょう、先輩。今度会った時に聞けばいいじゃないですか」

 

「……そうだな」

 

 互いに止めていた足を動かし始める。俺はそっと、先輩にバレないように軽くため息をついた。暫くは、夢に出てくるゾンビがあの男の顔に見えそうだ。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 司令室に入ると、そこにいたのはいつもの碇ゲンドウスタイルの木原さん。そして動きやすそうな服装に身を包んだ七草さんだった。今日はスカートではないようだが、それでも似合っている。彼女は俺が司令室に入ってくるなり、顔をほころばせて喜んだ。

 

「おはよう、氷兎君!」

 

「おはよう、七草さん。木原さんもおはようございます」

 

「……俺にはなしかぁ」

 

 がっくり項垂れた先輩を尻目に、先程から早くしないかと急かすように睨みつけてくる木原さんに頭を下げて遅れた旨を伝えた。木原さんは少し顔を顰めたが、すぐに本題に入るようですぐ後ろにあるスクリーンに今回の任務についての情報を映し出した。

 

「集まってくれて感謝する。今回の任務についてだが、鈴華と唯野に加え志願していた七草を入れてのメンバーとなる。今回はこの三人で頑張りたまえ」

 

「うっす」

 

 先輩に倣って俺と七草さんも頭を軽く下げて返事を返した。スクリーンに映った映像が次々と変化していく。やがて映し出されたのはどこかの田舎の風景と一人の男性の写真だった。

 

「今回の任務だが、先日不可解な事態が起きた。この田舎に調査に向かっていた諜報員の生体反応が消失した」

 

「前回と同じですね」

 

「それだけならまだ話は簡単だ。問題は……死んだ筈のこの諜報員から調査の結果が途絶えずに送られてきていることだ」

 

 その言葉に心臓が少しだけ飛び跳ねたような気がした。それはつまり……死んだはずの人間から連絡が来ているということだろうか。それはありえない。いや……ありえてほしくないことだ。念の為に疑問に思ったことを木原さんに尋ねる。

 

「連絡ということは、声は聞いたんですか」

 

「あぁ。同じ声だったよ。少なくとも本人に何かがあったという確信はなさそうだ。けれども生体反応を示すカードはその田舎で死んだ状態のまま動き回っている。ならば……死んで生き返ったというのが現在考えられる有力候補だ」

 

「そんな馬鹿げた話が……」

 

 苦々しく顔を歪める。そんなことができるのなら、父さんと母さんを生き返らせてほしいものだ。あの二人は何も関係がなかったはずなのに。

 

 そんな俺の心情を察してか、先輩が頭を軽く小突いてきた。恨ましげに睨むと、先輩はニヒルに笑って誤魔化した。

 

「その調査が俺達の任務ってことっすね。声が同じで、生きているなら遭遇するはずですし、俺達はどういった体で彼に接すればいいんすかね」

 

「彼は現地で奇妙なことが起きていると報告している。その調査も行ってもらう予定だ。なので、お前達はいつものように調査に向かうだけでいい。ただし……何があるかわからん。その諜報員に関しては、あまり信用しない方がいい」

 

「……考えられる点としては、蘇ったのではなく神話生物がすり替わったというところでしょうか。おそらく蘇生よりも現実味がある」

 

「すり替わりっつーと……人の皮を被ったりとか。いや、それはなかなか怖ぇなぁ……」

 

「……次の内容に移るぞ」

 

 木原さんがそう言うとスクリーンに映る映像が切り替わった。映し出されたのは……。

 

「……血溜まり、ですか」

 

「……なんか、あの日のこと思い出しちゃうね……」

 

 七草さんが近くによってきて、俺の袖をぎゅっと掴んだ。別の意味で心臓が飛び跳ねそうだった。それを抑えつけながらも、その画像を見た感想を述べることにした。

 

「……明らかに致死量ですね」

 

 見てわかるくらい血の量が多い。この血液を持った人間は確実に死んだだろう。いや、その場で緊急治療し輸血が間に合ったならともかく、そんな奇跡が起こるわけもない。なにしろ、その写真は田舎の民家の裏側で撮られているようだからだ。

 

「夜分悲鳴が聞こえ、駆けつけたところこの血溜まりがあったらしい。だが……その地域周辺の人々は誰もいなくなっておらず、その血を流した本人も近くにはいなかった。死体すら発見できず、数時間後には綺麗さっぱりこの血溜まりがなくなっていたらしい」

 

「……訳がわからないですね」

 

 誰かが見ているかもしれない状況で、こんなにも大きな血溜まりを跡形もなく消せるものなのだろうか。俺にはできるとは思えない。それに不明瞭な点が多すぎる。血を流した本人はいないし、流させた犯人も見つからない。まさしく迷宮入り事件だろう、これは。

 

「血液検査とかしたんすかね」

 

「検査は行った。しかし……その血を流した本人は生きていた。それが、この女性だ」

 

 画面に映された写真は、40代程度の女性だった。少し皺があり、髪の毛は長めだ。どこにでもいる人物だろう。

 

 ……明らかな致死量の血液をばらまいたのに、この本人はピンピンしていたということか。尚且つ本人は何も無かった、と。これは中々面倒な事件になりそうだ。それに……田舎というと嫌な予感しかしない。またその地域の人達に薬でも盛られるんじゃなかろうか。今度は死ぬぞ、きっと。

 

「……その田舎で変な習慣とかはあるんですか」

 

「いや、特には確認されていない。いたって普通の田舎町だ。まぁ、田舎とは言うもののまた山奥の寂れた集落のような場所だがな」

 

「また僻地か……。よりによって何でそんな所で……」

 

「簡単だ。都会では神話生物共が生存しにくいからだろう。人間の肉体を持った連中でもない限り、我々が発見し駆除する。だから監視の目が届きにくい山奥や僻地に居を構えるのだろう」

 

「……割と、都会にも隠れる場所多いと思うんですがねぇ」

 

 ……まぁ、俺の場合が特殊なケース過ぎただけかもしれない。あの深きものどもは一応とはいえ人の形をしていたからな。完全なバケモノ個体を除けば、奴らは人と類似、あるいは完全に一致していた。

 

 なら、今回のも同じようなのかと聞かれれば……どうだろうか。今回のケースはきっと、すり替わりだろう。殺してすり替わったと思われるが、果たして簡単に解決できるのだろうか。闇雲に手は出せない。諜報員に、お前はバケモノだと言って詰め寄ったところで、何も掴めはしないだろう。

 

「では……引き受けてもらえるか?」

 

 そう尋ねた木原さんに対し、三人揃って頷いて返す。話は以上だ、と言われ退室を促された。揃って部屋から出ると、先輩が任務に関しての話を切り出し始める。

 

「……こりゃまた厄介そうだ。七草ちゃんは平気そうか? 多分結構怖いぞぉ?」

 

「私は大丈夫です! それに、氷兎君もいますから!」

 

「はぁぁ、こりゃまた随分とまぁ……」

 

 七草さんの期待と信頼が込められた目と、先輩の……憐憫だろうか。よく分からないが、変な目線を向けられた。七草さんにそう言われることに関しては……まぁ、悪い気はしないでもないが、せめてもう少し強くなりたいものだ。

 

 彼女のその言葉に、胸を張って俺が護ると言えるように。今は少しずつでも前に進まなくては。

 

「……まぁ、七草さんに関しては問題ないでしょう。はっきり言えば、俺と先輩よりも強いかと」

 

「……ゑ、マジ?」

 

「マジです」

 

 一度、七草さんが戦闘訓練をやってみたいと言ってやらせてみたら、ミ=ゴが蹴りひとつで軽々とミンチにされた。おかしい。俺の全体重を乗っけた叩きつけでも怯んだだけだったのに。それに、身体能力が夜間の俺以上に高い気がする。素早い移動で相手の虚を突いて、一撃必殺を叩き込む。パラメータ的には力と速がカンストしているのではなかろうか。

 

「……そんなに私ってすごい?」

 

「少なくとも今の俺じゃミ=ゴはミンチにできない」

 

「……私のこと、怖い……?」

 

 七草さんの視線が下がり、悲しそうな雰囲気を纏わせた。彼女は孤児院にいた頃から、周りと自分の差に酷くコンプレックスを持っていた。今もそうだろう。例え周りの連中が人外に対応できる程度に強くても、彼女の素の力というのはあまりに異常だ。けれど……俺が彼女を恐れてしまったらダメだろう。そんなこと、万が一にもないとは思うが。

 

「……どこがだよ。なに、そのうち俺もあの程度ミンチに出来るくらい強くなってやるさ。だから、七草さんは全然怖くない。むしろ、まぁ……一緒にいてくれると心強いかな」

 

 彼女に軽く微笑んで、そう告げると彼女は一気に明るくなって、笑顔でありがとう、と言ってきた。

 

 それでいい。その純真無垢な笑顔が、何よりも尊いものな気がするから。その笑顔が護れるように、俺も彼女の隣に立てるように……強くならなくては。

 

 だが、起源を見ると滑稽だな。『英雄』の隣に立つのが『殺人鬼』か。いやまぁ、カードの表記的には『サツジンキ』なんだけどさ。そんな事態、神話にも存在しなさそうだ。心の中で独り言を呟いていると、先輩の顔が苦々しく変化していくのがわかった。

 

「……さて、お前ら明日に出るから準備しろよ。あと氷兎、お前部屋に戻ったらブラック淹れといてくれ。甘味を摂取しすぎた」

 

「どこで甘いもん食ってたんですか。俺にもくださいよ」

 

「そこらへんの空気でも食ってろよ。綿飴みたいに甘いぞ、きっとな」

 

 そう言って先輩は片手を振りながら歩いていってしまった。残されたのは俺と七草さんだけ。さて、どうしたものか……。

 

「……甘くないね?」

 

 七草さんを見たら、そこら辺の空間に向かって口でパクパクと何かを食べるように動き回っていた。やっぱり彼女は可愛らしい。見ているだけで微笑ましくなってしまう。

 

「何やってるんだか。とりあえず、準備しに一旦菜沙のところに行こうか」

 

「うんっ!」

 

 返事をして俺の隣にまで来て一緒に歩いて行く七草さんに、さっきの光景と合わせて顔が熱くなってしまうのがわかった。流石に見られたくないから顔を背ける。きっと不思議そうに見つめられていたことだろう。

 

 ……さて、これが恋なのか、それとも保護欲か。全くもってわからないが、いつも通りやっていくとしよう。此度の事件は、何やら難解そうだからな。

 

 

To be continued……



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第33話 山奥の村へ

 車でうとうととしながら走り続けること数時間。山道の舗装されていない道路のでこぼこのせいで車が跳ね、その衝撃で目を覚ました。運転席に座っている先輩は、普段の様子とは違い真面目な顔付きで運転しているようだ。そして、後部座席に座っている俺と七草さんはというと……。

 

「……すぅ………」

 

「………」

 

 彼女は俺にぴったりとくっつく形で眠っていた。彼女の口や鼻から漏れでる息が首元などにかかって擽ったい。それに、彼女から甘い香りが漂ってくる。色々とキツい物がある。

 

「ん、起きたか氷兎」

 

「……お疲れ様です。あとどれくらいですか?」

 

「まぁあと30分ってとこじゃねぇかな……。後少ししたら七草ちゃん起こしとけよ」

 

「了解です」

 

 彼女を起こさないようにしながら、もうしばらく身体を休めることにした。彼女の方を見ていると変な気分になるので、しばらく窓から外の景色を眺めようとしたが、生憎見える景色は大量に生えた木だけだった。本当にこんなところに田舎町があるのだろうか。天在村でさえもう少し開拓されていた気がする。

 

「……どうだ、お姫様に寄りかかられる気分は?」

 

 前から聞こえてきた先輩の言葉に、俺は小さな声で返事を返した。

 

「……一言で言うなら、柔らかいですね」

 

「その台詞、帰ったら菜沙ちゃんに言いつけるからな」

 

「勘弁してください」

 

 なんて言葉をやり取りしながら、俺達は目的地である山奥村(さんおうむら)へと向かっていった。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「ぬわーん、疲れたもぉーん……。やめたくなりますよー、車の運転……」

 

「お疲れ様です、いや本当に……」

 

 中々に長い距離を車で移動してきたせいで、先輩は既に体力の限界だった。反して俺と七草さんは体力は有り余っている。強いて言うなら、ずっと同じ姿勢だったせいか少し身体が痛い。

 

「んー、なんかここら辺空気が美味しいね!」

 

 ぐっと身体を伸ばして息を深く吸い込んでいる七草さん。その身体の誇張している一部分に危うく目を奪われるところだったので、そっと目を逸らした。

 

「いやー、流石田舎。空気は美味いし、景観は綺麗だし、宿も前みたいにボロくはないし、いい感じだな」

 

 今回泊まる予定の宿は、天在村の民宿よりも少しだけ豪華だった。とはいうものの、やはり都会にあるようなものとは天と地ほどの差があるが。それは仕方がないだろう。

 

 ざっと周りを見回してみたが、景色はあまり天在村とは変わらない。ただ、向こうとは違って田圃や畑が少ないように思えた。代わりに民家は増えている。道の舗装具合は……どっちもどっちと言ったところか。

 

「ねぇ氷兎君、部屋割りってどうなってるの?」

 

「………..あっ」

 

 七草さんに言われるまで失念していた……。流石に男と女が一緒の部屋で寝るというのは良くないが……前の一件がある。できれば目の届くところにいて欲しいというのが切な願いだ。戦闘能力云々は置いておいて、彼女は少し世情に疎い。何かあった時に対処しかねるだろう。困ったので先輩の方を見たら、どうやら既に部屋は取ってあるらしい。

 

「一応二部屋取っておいたが……どうする? 男女で分けるか?」

 

「……どうしたもんですかね。なるべく七草さんを一人にしておきたくないってのが俺の考えなんですが……」

 

「なら答えは簡単だな。俺が一人部屋でお前ら二人」

 

「そりゃダメです。もうこの際三人で一部屋使っちまいましょう」

 

「皆でお泊り? 枕投げする?」

 

「あー、それはまた今度な……」

 

 先輩が頭を掻きながら七草さんを説得した。流石にこんなところで七草さんの全力枕投げが炸裂したら下手すると壁が壊れる。だから残念そうな顔をされても、俺達は妥協できない。ビーチバレーでさえあれだったからな……。

 

「よし、じゃあ荷物下ろすぞ」

 

「はーい」

 

 七草さんの明るい返事を聞きながら、荷物を下ろし始めた。持ってきた荷物は前回と変わりはない。着替え等を突っ込んだ鞄と、槍の入った袋だ。先輩も同様、着替えと武器の入ったアタッシュケース。七草さんに至っては普段の靴や戦闘時につける手袋を除けば武器がないため、ほとんど着替えしか持ってきていない。その身軽さがちょっと羨ましい。

 

 七草さんの履いている靴や着ける手袋は、耐久性が高くて少し無理な行動をしても身体にダメージが来にくくなっているようだ。もっとも、彼女の身体は元からかなり頑丈だが。

 

「……おぉ、思ったより広いな。これなら三人でも平気か」

 

 俺達に宛てがわれた部屋に向かうと、中は結構広かった。三人分の布団を敷いて、それぞれ荷物を置いてもまだ余裕がある。

 

 ……だが、だからといって着いてそうそうゲーム機を広げ始めるのはやめていただけないだろうか。流石に引きます。

 

「ふふっ、なんか夜がちょっと楽しみかも。この前は氷兎君がずっと菜沙ちゃんとくっついて話してたから、夜あまり話せなかったもんね?」

 

「確かにな……。アイツももう少し大人になるというかだな……男に対する警戒心とかを持たなきゃいけないと思うんだけどな」

 

「あの子は大人だと思うよ俺は。むしろお前がガキ過ぎるんだ」

 

「ちょっと聞き捨てならないんですけどねぇ……?」

 

 持ってきていた鞄の中からそっと赤色の液体が入った瓶を取り出した。先輩に対する嫌がらせ用に持ってきた俺特性のデスソースである。それを見た先輩は顔を歪めて少し後ずさった。

 

「待て待て、お前なんてもん持ってきてんだ!? こんなところにまでデスソース持ってくるやつがあるか!!」

 

「唯のデスソースじゃないです。特殊な製法で編み出すことに成功した二倍濃縮デスソース、通称デスソースセカンドエディションです」

 

「なんで濃縮しちゃったの!?」

 

「いや最近先輩への効き目が薄くなってきたもんで……」

 

 耐性でもついたのか、不意打ちにデスソースを混ぜても先輩は辛いの一言で済ませるようになってしまった。なんかちょっと悔しかったから頑張って濃縮させた結果、通常の二倍に濃くなった。普通の人が使えばまぁ……ヤバいだろう。俺は絶対に使わないけど。

 

「それ美味しいの?」

 

「いや、七草さんはやめといた方がいいかな……。特殊な訓練を受けている人じゃないとダメなんだよ」

 

「俺は特殊な訓練受けてないんですけど」

 

「不意打ちで俺が喰らわせてるじゃないですか。あれが特殊な訓練ですよ」

 

「ただの嫌がらせじゃねぇかちくしょう」

 

 流石に出しっぱなしにしておくと七草さんが興味本位で使いかねないので、鞄の奥の方に封印しておくことにしよう。おそらく俺がこれを使うのは先輩以外にいないだろう。とりあえず荷物を整えて、服をまくって腹にベルトを巻き付け、ホルスターに銃をしまっておく。前回の一件から学んだことだ。銃は携帯しておくのが一番だ。

 

「……私もそういったの持ってた方がいいのかな」

 

 七草さんが俺が銃を装備しているところを見て、そう言ってきた。俺は……流石に彼女に銃を持たせたくはない。彼女に人殺しなんてことは、絶対にさせたくない。

 

「……いらないよ。こんなもの持ってるのは、俺と先輩で十分だから」

 

 俺の言葉に、先輩も続けて七草さんに言った。

 

「そうそう、俺達だけで大丈夫だって。それに七草ちゃんは俺達にない武器を持ってる……そう、その容姿と胸という最大の──」

 

「デスソースッ!!」

 

「痛ッ、あぁぁぁぁぁぁぁッ!?」

 

 とんでもないことを口走った先輩に特性デスソースを口の中に流し込んだ。流石に痛みが凄いのか、先輩は口を抑えて叫びながらゴロゴロと転がっている。一方、言われた七草さんはというと……。

 

「……わ、私の胸ってそんなに武器になるの? 本当なの氷兎君?」

 

「いや間に受けなくていいから……」

 

 少し顔を赤くしながら、胸を押し上げるようにして俺に尋ねてきた。そのポーズはやめてほしい。流石に思春期の男にとって、それはとんでもない猛毒だ。顔が赤くならないうちに背けることにした。

 

 なんだか初日から色々と大変だ……。少し先行きが不安になった。

 

 

To be continued……



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第34話 新たな発見

 宿で少しだけ休憩を挟んだ後のこと。先輩は完全にグロッキー状態のため放置。俺と七草さんの二人だけで調査を進めることにした。まずやることと言えば……この村に来ている諜報員に話を聞くことだろうか。民宿はここ一つだけなので、夜にでも話を聞きに行くのもいいかもしれないが、やれる事は早めに済ましておくのが人生円滑に行く場合がある。まぁ、そんな事言えるほど俺は生きていない訳だが。

 

「なんだか、わくわくするね。知らない場所に来て、色々な人と話して……。そういうのって、なんだか楽しくない?」

 

 隣を歩いている七草さんの言葉に、俺は素直に頷けなかった。新天地に来て知らない人に話しかけるのは中々に勇気がいることだ。少なくとも俺にそんな勇気はあまりない。仕事だからしなければならない、というのならまぁやれなくはないが。七草さんはコミュニケーション能力に自信があるようだ。俺はかなり不安だけど。

 

「……まぁ、多少はな。でも気をつけろよ。知らない人について行っちゃダメだからな」

 

「わかってるよ! そこまで子供じゃないから!」

 

「ならいいけど……」

 

 やっぱり不安なんだよなぁ。七草さんは本当にどうも幼い。内面的な話だ、外面の話をしたらそりゃもう誰にも負けないナイスバディな訳で……っと、関係ないなそれは。あまり女性の身体について内心色々と言うのは控えよう。七草さんにまで心を読まれるようになったら赤面では済まない。

 

「……あら、お二人共お出かけですか?」

 

 民宿の廊下を歩いていると、女将さんに出くわした。まさかの着物だった。田舎の民宿で着物とは……形から入るスタイルなのか。旅館ではあるまいしな……客の入りもおそらく少ないだろうに。

 

 まぁ、何はともあれ聞きたいこともあったところだ。丁度いいし、一応聞いておこう。

 

「えぇ。一応先にこちらに来ている調査員の同業者でして……いくつか質問をしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

「はい、大丈夫ですが……随分とお二人共お若いですね……」

 

「まぁ、色々とありまして……」

 

 女将さんの言葉に困ったように頭を掻きながら少しだけ視線を逸らした。なんとなく、田舎の方だと話好きというか、そういった人が多い気がするのは俺だけだろうか。まぁ、流石に不思議に思うだろう。何しろ年齢的には俺と七草さんはまだ高校生なのだから。とりあえずこれ以上変な風に話がこじれる前に質問を終わらせてしまおう。

 

「それで、質問なんですが……先にこちらに泊まりに来ている紫暮(しぐれ)という男性が今何処にいるのかわかりますか?」

 

「紫暮さんなら……確か今の時間帯なら村を回って色々と調査をしている頃です。近頃物騒でして……この村で起きていることを聞いていらっしゃいますか?」

 

「概要は把握していると思いますが……できればわかる範囲で詳細を聞かせてもらえますか?」

 

 俺の言葉に女将さんは顎に手を当てて思い出そうとする素振りをしながら、ポツポツと小さな声で話し始めた。

 

「始まりは……二週間前くらいでしょうか。夜中に悲鳴が聞こえて、村の何人かで見に行ったんですよ。そしたら、血溜まりがあって……でも、怪我人は誰もいなかったんです」

 

「……他に誰か泊まっていた方はいらっしゃらないんですか」

 

「いえ、紫暮さんだけでした。一ヶ月程前にはひとりの学者さんが泊まっていましたが……おそらく関係はないと思います」

 

 ……学者、ね。あまり関係なさそうだが、一応覚えておくことにしよう。何かの拍子に事件に繋がる可能性もないわけじゃない。

 

 しかし……こんなことをしていると、本当に探偵にでもなった気分だ。本職はバケモノ退治のはずなんだがな……。そんな考えを巡らせていると、女将さんは次の話を切り出した。

 

「後は……村の奥にある池が赤くなっていたくらいでしょうか」

 

「……池が赤くなる、と。それは赤潮ではないんですか?」

 

「いえ……どうにも、まるで池の水が全部血に変わってしまったように見えました。匂いも……」

 

 そう言って女将さんは顔を歪めた。赤潮と言うのはプランクトンの異常発生によって生じる海や湖が赤くなる現象のことだ。しかし、それでもなくまるで血のように見えたと……。

 

 ……神話生物絡みだとしたら、怪しいのはその池だろうか。近づくのはまだ危険そうだし、今日のところはまだ辞めておこう。せめて先輩が復帰してからだ。

 

「……お話聞かせてもらってありがとうございます。それでは、自分達も外で色々と調べ物に行ってきますね」

 

「はい、お気をつけて」

 

 玄関を出てまで見送ってくれた女将さんに頭を軽く下げ、俺と七草さんは村を一通りぐるっと回ることにした。とりあえず地理の把握と住んでいる人からの情報収集が今日の主な仕事だろう。

 

 しかし、まぁ……。

 

「〜〜〜〜〜♪」

 

 ……随分と楽しそうだ。隣を歩いている七草さんは鼻歌交じりに辺りを見回している。基本孤児院から出ない生活だったせいだろう。目に映るもの全てが新しく、未知に溢れ、彼女の本来もっと早くに目覚めるべきであった好奇心が刺激されているのだろう。楽しそうにしている分には何よりなんだが……なんとなく、隣で一人歩いている俺としては気まずい感じがする。だって菜沙以外の女子と二人きりで長い間話したりして過ごすなんてしたことないからな……。

 

「ふぅ……やっぱり、こっちも暑いね……」

 

 そう言う七草さんの額には薄らと汗が。そしてそれらが垂れていく先は彼女の豊満な双丘の谷間……まずい、なんかいつかに見た光景な気がしてきた。流石にこれ以上横目であろうと見るのは宜しくない。鞄の中から保冷剤を包んでおいたタオルを取り出して彼女に差し出した。

 

「熱中症になるといけないから、タオルで汗拭いときなよ。冷してあるから首にかけておくだけで少し涼しくなるよ」

 

「あっ……ありがと、氷兎君」

 

 お礼を言った彼女ははにかみながらタオルを受け取り、汗を軽く拭いて首にかけた。彼女の場合長い髪の毛が鬱陶しそうだな……。

 

「なぁ、七草さんって戦う時髪の毛そのままなのか? 戦いづらくないか?」

 

「え? うーん、確かに邪魔だなとは思うけど……あんまり、切りたくないんだよね」

 

「……なるほどね。ちょっと待ってな」

 

 立ち止まって鞄の中をガサゴソと探り始める。確か昔菜沙が髪を長くしていた時期があって、その時のアイツのヘアゴムがまだ残ってたはず……。長くしたはいいものの、鬱陶しい上に髪を纏めるのが面倒臭いとか言いやがったからな。俺が居なかったらどうするつもりだったのか……。

 

「……おっ、あった。あー、七草さん髪の毛って自分で纏められる?」

 

「どうだろう……やったことないからわかんないかな……」

 

「なら、俺が髪の毛纏めようか? 多分少しは動きやすくなるし、涼しくもなると思うよ」

 

「氷兎君って何でもできるんだね……じゃあ、お願いしていい?」

 

「はいよ」

 

 ……とは言ったものの、七草さんっていうか、菜沙以外の女子の髪の毛触るのは中々に度胸がいるなぁ。下手に触って痛いとか言われないだろうか。とりあえずそっとやるとしよう……。

 

 ……あっ、なんかすっごいサラサラしてる。菜沙と同じかそれ以上に毛質が良いな。本当に女の子として完成されすぎじゃないかな、七草さんって。

 

「……よし、良いよ」

 

「ありがとう。これは……ポニーテール?」

 

「まぁそうだな。落ち着けないところだとこれが限界だ」

 

 やろうと思えばやれなくもないが、流石に外で長いこと時間をかけるのもダメだろう。とりあえずはポニーテールで後ろ側一本に纏めてしまった。

 

「………」

 

 髪の毛を纏めたせいで、首の後ろが見えてしまう。おかげで彼女のうなじの部分が俺の位置から丸見えだ。いや、まさかここまで女子のうなじにそそられる日が来るとは……。到底理解し難いものだと思っていたが、これはこれで……アリだな。

 

「氷兎君、何見てるの?」

 

「えっ……ぁ、いやなんでもない……。行こうか」

 

 彼女のいる方向とは別の方を向いて、俺は歩き始めた。さて、この暑さが夏の気温のせいなのか、それとも別の理由のせいか……。夏の気温のせいということにしておこう。そうしよう。

 

 

To be continued……



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第35話 紫暮

 死亡したとされる諜報員、紫暮さんを探しながら村中を歩き回って情報を集めていった。だが、わかったことは全て事前に聞いた事と大きな差異はない。収穫はゼロと言っても良いだろう。あとは、嬉しいことにここの村人達は俺達よそ者を拒んだりはしなかった。優しげな顔つきで、どこから来たんだとか、時には自宅で採れた野菜を恵んでくれる人もいた。僻地だからと警戒していたが……村人に襲われる心配は少なそうだ。ただ天在村と違って俺達くらいの年齢層の人もいるので、やはり七草さんひとりで捜査に行かせるのはやめておこう。どこかに連れていかれそうで怖い。

 

「さてと……あと行ってないのはどこら辺だ」

 

「んー、あっちの方? 一応道続いてるよ」

 

 七草さんの指し示した方角は村の更に奥の方へと続いている道だ。村から離れて木が覆い茂る道となっている。近くに立て札が建てられていて、『山奥湖』と書かれていた。おそらく女将さんの言っていた赤く染まったとされる湖だろう。

 

「……どうしたものか」

 

「行かないの?」

 

「情報が少ない上に、二人だけとなるとな……せめて先輩がいる状態で湖には行きたいな。下手すると神話生物の住処になってそうだからな」

 

 もっとも、本当に神話生物がすり替わりをしていたとするならばの話だ。聞いた話だと、村人はあまり湖には行かないらしい。時折獣も出るらしく、子供達にも奥には行かないように注意しているんだとか。湖の事で何か思い出したのか、七草さんが昼間に聞いた話を切り出してきた。

 

「そういえば、行方不明になった男の子が湖の近くで泣いてるのが見つかったって言ってたよね。その時に湖が赤くなってるのがわかったって」

 

「第一発見者は紫暮さんだったらしいな。一応オリジン所属の諜報員だから、戦闘能力はあるんだろう。だから率先して湖の方に探しに行ったのかね」

 

 流石大人の人と言うべきか。行動力からして俺達と違ってくる。俺達はまだまだ世間知らずのガキがいい所だ。今後の事も考えてもう少し柔軟かつ大胆に行動できるようにしないといけないな。まぁ、俺は安全を第一に考えて行動する派だが。死んだら元も子もない。俺ひとりだけなら、死ななきゃ安いで通すことも出来ると思うけど。流石に誰かと一緒の時にその行動はダメだろうな。

 

「……あれ、氷兎君向こうから誰か歩いてくるよ?」

 

 七草さんの指さす方向……湖のあるとされる道の奥の方から誰かがこっちに向かって歩いてきていた。黒スーツをしっかりと着こなしているのが遠目からでもわかる。

 

「……多分紫暮さんかな。こんな田舎でスーツ姿とか、普通ありえないけどな」

 

 そう言って身体に巻き付けてある銃を触って、しっかり装備しているか確かめた。大丈夫、ちゃんとある。七草さんにも一応警戒はしておくようにと念を押して、彼がこちらに辿り着くのを待った。向こうも途中から俺達に気がついたようで、怪訝な顔つきのまま足を早めて俺達の目の前にやってくる。見たところ、年はまだ若そうだ。穏和な顔つきをしている。

 

「こんにちは。君達は……この村の人じゃないよね。観光客かな?」

 

 どうやら、一般人だと思われているようだ。仕方がないか、なにせ俺達はまだ仕事に就くには早すぎる。しかも、仕事の内容が内容だからな。バケモノ殺し、下手すれば殺人にまで手を染めるかもしれない仕事を、俺達みたいなガキに大人はやらせたくないだろう。

 

「……いいえ。仕事でここに来ました。紫暮さんで合ってますか?」

 

「……驚いたな。こんな子供を送ってくるとは思ってなかったよ……。あぁそうだ、僕が紫暮だ。ここで諜報員として活動しているオリジンだ」

 

「調査活動の手伝いとして送られてきた、唯野です。こっちは七草で、今ちょっと体調崩していないんですが鈴華という男性の計三人です」

 

「よ、よろしくお願いしますっ」

 

 自己紹介を終えると、彼は少しだけ唸ってから何かを思い出したようで、七草さんの方を見て口を開いた。

 

「君がもしかして、『英雄』って呼ばれてた子? 想像してたよりも随分と可愛らしいね」

 

「……へっ? あ、の……その……」

 

「正直もっと筋肉ムキムキで厳つい女かと思ってたよ」

 

 ハッハッハッ、と彼は笑った。七草さんが可愛いと言われて慌ててることに関して何かフォローをすべきだとも思ったが……今重要なのはそこじゃない。

 

 組織の人間しか知らないはずの、『英雄』の情報をこの男が持っているということの方が大問題だ。それは一旦オリジン本部に戻らなければわからない情報のはずだ。ということは、だ。この男……神話生物ではないということなのか。すり替わりではなく、本当に生き返ったと?

 

「………」

 

 見たところ怪しい場所なんてない。昨日見た隼斗さんのような濁った目でもなく、変な雰囲気を纏っている訳でもない。言動もマトモ、歩き方も人間のそれだ。仕草も普通。これで皮をかぶってましたなんて言われたら……隣の人間すらも信じられなくなるくらいだ。

 

「えへへ……可愛いって言われちゃったよ氷兎君……」

 

「……はぁ。七草さん、少し気をしっかり持ってくれ……」

 

 嬉しそうに笑っているのはいいんだけど、さっき忠告したばかりだというのに……。やっぱりこの子を単独行動させるのはダメだ。下手すると目の前の男に良いように言われてホイホイついていって、信じて送った彼女がまさかビデオレターで……なんて展開になりかねない。いやならないけど。

 

 ……少しだけ別の意味でこの男を警戒する理由が増えた。

 

「とりあえず、何があったのかは事前に把握しています。新しく得た情報や、赤く染まった湖に関しての情報を提供していただけるとありがたいですね」

 

「ん、そうだね……。ここじゃなんだ、宿に戻らないか? 君のもう一人の連れもそこにいるんだろ?」

 

「……そうしますか」

 

 彼に提案された通りに俺達は宿へと戻ることにした。横三人で並んで帰る形になったが……七草さんが俺と紫暮さんの間に来ようとしたので、無理やり反対側に行かせるように左手で彼女の手を握った。

 

「っ……」

 

 隣を歩く彼女の頬が赤くなっている気がする。あまり見ないようにして、歩くスピードをほんの少し早めた。

 

 ……何度か俺の手を握り返すようにする彼女の行動に、やけに鼓動が早くなった。おかしいな……菜沙の時はここまで早くなることはないんだけど……それに、七草さんの手がとても柔らかい。ギュッと強く握ってみたい衝動に駆られる。

 

「……仲いいんだね二人とも。恋人同士?」

 

「いえ、違いますよ。友達です」

 

 色々とあったが、彼女とは友人な関係だ。まぁ、多少普通の友人よりかはスキンシップが多い気がするが……七草さんの性格や、俺達の過ごす日々の影響的に仕方のないことだろう。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 宿の俺達が使っている部屋でダウンしていた先輩を含め四人で話し合いを始めることになった。部屋の真ん中で円を描くように座布団を敷いて、楽な体制で話をしていく。それにしても、まさか半日もしないうちに先輩が復帰できるとは思ってなかった。もう少し濃度を濃くしてもいいのかもしれない。

 

 互いの自己紹介をしながらそんなことを考える傍ら、現地諜報員である紫暮さんはとうとう事件の話を切り出した。

 

「事件の内容に関しては知ってる通りだと思う。新しく入手した情報は……残念ながらないんだ。今のところ何か新しい事件が起きたってことは無い。ただ……夜中時折悲鳴が聞こえるくらいかな。駆けつけても、そこには何も無かった。周りには誰もいなかったよ」

 

「悲鳴の聞こえる場所はどんな所なんすかね。家の裏側とか、森の中とか」

 

「……家の中から聞こえることもあるんだ。尋ねてみても家族揃って何も無かったとしか言わなかったよ」

 

 紫暮さんの情報に、眉間に皺を寄せることとなった。家の中から悲鳴が聞こえるのにも関わらず、何も無かったというのはおかしいだろう。天在村の時のように、村人達が何か隠しているんだろうか。色々と見聞きしている紫暮さんなら知っているかもしれない。

 

「村人達が何か隠し事をしているということは、ありえそうですか?」

 

「いや……ないかな。そういったことに関しては素人だから強くは言えないけど、嘘をついているとは思えない」

 

「変な宗教とか、風習とか、そういったのも?」

 

「見たり聞いたりする限りでは、ないね」

 

 困ったな……。情報が少ない上に、何か核心に迫れるようなものがある訳でもない。前回は花巫さんという村人側での協力者のような立場の人がいたから立ち回れた部分もある。しかし今回は敵は村人ではない。どうしたものか……。

 

「……そういやぁ、赤い湖だっけ。それについてはどうなんすかね。女将さんに俺も後から聞いたんすけど、まるで血の池だったらしいじゃないですか」

 

 先輩のその言葉に、紫暮さんは険しい顔をして少し口元を抑えた。視線が揺れ動いて一点を見つめようとしない。どうにも気分が悪そうだ。それほどまでに凄惨な光景だったのだろうか。重々しく口を開き、彼はどんな状態だったのかを話し出した。

 

「……村の男の子が行方不明になって、僕はひとりで湖の方に捜索に行ったんだ。男の子は湖のすぐ側で泣いていた。その時に、僕は見たんだ……真っ赤な湖だった。広がっている部分全部、真っ赤だった。匂いも酷かった。あれは比喩もなしに……血の湖だったよ。今日僕は湖を見に行ってきたんだ。けれど……もう赤くなかった。普通の湖に戻ってたんだ」

 

「……血溜まりが消えたのと関係してそうですね。それに関して何か見解はありますか?」

 

「いいや、何も……。まるで意味がわからない。夢でも見ている気分だよ……。信じられるかい? 血溜まりが一瞬で消え、吐き気を催す光景も同様に消えてしまうんだよッ。神様のいたずらなんかじゃない……絶対に、バケモノの仕業だッ」

 

 紫暮さんの語尾が次第に荒くなっていく。どうやら精神的に参ってきているようだった。流石に俺もひとりでこんな任務に就きたくはない。頼れる人もなしにこんな場所にひとりで放られたら……想像したくはないが、俺はきっと宿に引き篭もっていただろう。

 

「……どうします先輩。正直今のところお手上げ侍ですよ」

 

「お手上げ侍……?」

 

 首を傾げる七草さんとは違い、先輩は顎に手を当てて唸っていた。あまり案は考えついていないそうだ。正直なところ、村人達にこれ以上話を聞いて回っても何も収穫はないだろう。現状は手詰まりだ。

 

「……見廻りするか。夜中に悲鳴が聞こえるのなら、事件が起きるのは夜中なのはわかりきってる。なら、現場抑えるしかないよな?」

 

「夜間見廻りですか……正直怖いですね」

 

「言うな、俺も怖い。だがやらないといけないのは明らかだ。できるなら四人で手分けしたいが……そりゃ危険すぎる。四人固まるか、半々で分けるか……どうする?」

 

 ……四人で固まれば、余程のことがない限り対処ができるだろう。だが、見廻り範囲が劇的に狭くなる。いくら狭い田舎とはいえ、見廻り隊がひとつだけでは足りない。なら半々はどうなのかと言えば……戦力の分散によって安全面が欠如するだろう。だが、夜間だから俺も一応戦闘能力は向上するし、先輩は前回一緒に戦ったからどの程度戦えるのかもわかった。問題は……紫暮さんがどの程度戦えるのかだ。

 

「見廻りには僕も賛成だ。できるのなら半々がいいかな。その方が範囲が広くなる」

 

「俺達は一応互いがどの程度戦えるのかわかります。紫暮さんはどれくらい戦えますか?」

 

「僕は……残念ながらあまり戦闘は得意じゃないんだ。『起源』が戦闘向きじゃなくてね……。まぁ、だから諜報員なんてことやってるんだけどさ」

 

「となると振り分けは……あぁ、でもなぁ……」

 

 先輩は俺と七草さんを交互に見やって、頭を抱えて唸っている。戦力だけを考慮するのなら、俺と先輩。七草さんと紫暮さんのペアがいいんだろう。けれど、正直七草さんを紫暮さんと組ませるのは心配だ。悩み続ける先輩に向けて、紫暮さんが要望を伝えてくる。

 

「僕としては、『英雄』である彼女が同行してくれるとありがたいかなぁ……。戦闘面に関しては、彼女はだいぶ優秀らしいじゃないか。男として恥ずかしいけど、僕は自分がどれだけ非力なのかわかってる。強い人が一緒だと心強いけど……」

 

 そう言って彼は七草さんを見た。下卑た目線はない。普通に仲間として見ているらしい。それと、女の子に守ってもらうという申し訳なさか。先程までの揺れている瞳ではなく、しっかりと見据えるように視線を固定させている。彼が七草さんに変なことを企んでいないか、確認するために彼の瞳の奥まで覗き込もうとする。

 

 ……瞬間、何か嫌な寒気が背中を駆け抜けていった。

 

「……ッ!!」

 

 ぞくり、と何かが這い回るような感覚に身を震わせた。彼を見ていると、何か心の奥底で訴えかけるようなものを感じる。ダメだ、彼女を彼と一緒にいさせてはいけない。何故かそう思えた。七草さんが彼に取られそうだから? いや違う……この感覚はもっと別の……。

 

「……すみませんが、七草さんは俺が一緒につきます。実戦経験が浅すぎる。それに、恐怖感への対処やバケモノと相対した時の決断力も培っていない。オリジン兵とはいえ……まだ彼女は幼い子供です。彼女のこれまでの経歴的にも信頼出来る人が隣にいた方がいいでしょう」

 

 若干捲し立てるようになったが……ほとんど俺のわがままに近い。なんとしてでも、彼女と紫暮さんを二人きりにしてはいけない。いや……させたくない。

 

「……まぁ確かにな。七草ちゃんは皆の言うような強い子って訳じゃない。外は良くても、中身はまだ子供だ。紫暮さんには俺がつきましょう。心配せずとも、これでも腕っ節は自信ありますよ」

 

「そうですか……。わかりました。では、よろしくお願いしますね」

 

 ……先輩がチラッとこちらを見て、どこか安心したような顔つきに変わった。隣にいる七草さんもホッとしたようで、少しだけ体を近づけてくる。一通り話すことは終わっただろう。紫暮さんが腕時計を確認して、見廻りのことを伝えてくる。

 

「……話し合いの内容としてはこんなところでしょうか。見廻りは22時を開始としましょう」

 

「そうっすね。じゃあ俺達はそれまでに準備しときます」

 

「えぇ、それでは……」

 

 紫暮さんは俺達を一瞥した後、部屋から出て行った。張り詰めていた気分が楽になり、息を吐ききって俺はその場で横になる。そんな俺を見て、先輩はどこか愉快げな笑みを浮かべながら話しかけてきた。

 

「……保護者だねぇ。そんなに七草ちゃん取られるの嫌だったのか」

 

「ふぇっ!? 氷兎君、そうだったの……?」

 

「いや……違いますよ……。七草さんにアイツと一緒にいて欲しくなかっただけです」

 

「いやそれ同じじゃねぇかよ……。まぁお前が言ってくれて良かったけどさ。俺も、七草ちゃんと紫暮さんを一緒にさせる気はなかった。ただ……断る理由が思いつかなくてな……」

 

 そう言って先輩は頬をポリポリと掻いてから困ったように笑う。自分でも一瞬わからなかったが、先輩との会話で紫暮さんではなく、アイツと呼称した。知らぬ間に警戒レベルがかなり上がっていたらしい。今の俺の内心はそんなに穏やかなものではなかった。自分のわがままで、先輩に危険な役目を負わせてしまった可能性がある。

 

「すいません先輩……多分、危険な役目任せてしまったかもしれません」

 

「ん……? どういうことだ?」

 

「紫暮さん……あの人が七草さんを見た時……なんか、嫌な感じがしたんですよ。直感としか言えませんが……」

 

「……こういった場合の直感って嫌に当たるからなぁ……。七草ちゃんは何か気がついたことある?」

 

「んー、私は何も……」

 

「そっかぁ……」

 

 先輩もごろんと横になった。それに倣って七草さんも理由もなく横になる。白熱電球が淡い光を発していた。明るいはずなのに、どうしてか不安な気持ちになる。天井を見上げながら、先輩の言葉に耳を傾けた。

 

「木原さんも信用するなって言ってたからな。まぁ、なに気にする事はない。年上に任せておけよ」

 

「……本来なら、あの時反論すべき言葉は七草さんが誰と一緒に行くかではなく、四人で固まって行動するべきだという提案にするべきでした……すいません……」

 

「で、お前は四人で固まって行動するメリットを説明できるのか?」

 

 そう言われると……何も言えない。デメリットしか頭の中に浮かんでこない。紫暮さんの言ったメリットを覆せるほどのメリットを、俺が提示できるとは思えなかった。俺はただ黙るという方法でしか先輩に返事ができず、先輩はそんな俺を見て笑っていた。

 

「……だろ? 俺も思いつかん。だから……これで良かったんだ。そう気を負うなよ氷兎」

 

 先輩の手が頭に添えられて乱暴にぐしゃぐしゃと撫でられる。やめてほしい、俺は先輩にそんなことをされるくらい年下ではないのだから。っていうかひとつしか年齢差がないのによくこんなことが出来るな、この人は……。

 

 ……まぁ、不思議と安心できるわけだけども。

 

「……ありがとうございます、先輩」

 

「おう」

 

 ひひひっ、と先輩の笑う声が聞こえる。俺は再度身体の中にある空気を吐き切るように出し切って脱力した。

 

「……それに、お前忘れてるだろうけどそろそろ新月だからな。新月時のお前のバフがどうなるのかわからんが……用心しろよ」

 

「……あぁ、そういえばそうですね……。気をつけます」

 

 道理で最近夜になっても気分が乗らないわけだ。あの女声から力を受け取って以来新月になったことは無かったが、一体どの程度まで落ちるのか……。下手すると、七草さんに護られるかもしれないな。それは流石に嫌だ。

 

「……ねぇ、氷兎君」

 

 横になった状態のままズルズルとこっちに近寄ってくる七草さん。真横まで近づいてくると俺の顔をのぞき込むように顔を近づけてきた。

 

「ありがとね。私のこと、心配してくれたんでしょ?」

 

「……まぁ、そうなるのかな」

 

「……氷兎君と一緒で良かった。本当に……」

 

 枕がわりにしている俺の腕に、彼女は頭を乗せてきた。近い。流石に近すぎる。羞恥心というものがないのかこの子には。少し距離を開けたいが、彼女が腕を枕にしているせいで逃げられない。

 

「……ちょっと、このままでいさせて……。氷兎君の近くって、なんだか安心出来るから」

 

「っ……どうぞ」

 

 なるべく彼女の方を見ないように、天井を見続ける。流石に七草さんにこんなことをされると、恥ずかしくて仕方が無い。そんな時横の方では先輩が頭を掻いて唸っていた。

 

「……氷兎、デスソースをくれ」

 

「ダメです。任務に支障が出ます」

 

「クソぅ……リア充め……」

 

 何やら先輩が聞こえない声で何かを喚いている。そんなにデスソースが食べたかったのか。癖になる味ってやつかな。やめておいた方がいいと思うけどね、俺は。あんなの好んで食べようとするとか、流石に引きますわ。

 

 

To be continued……



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第36話 微かに臭うモノ

 約束の時刻を過ぎ、俺達は二手に別れて村を半分程度に区分けして調査をすることになった。メンバーは話し合った通り。俺と七草さん、先輩と紫暮さんだ。

 

 ……正直、あの時紫暮さんに感じた変な感覚は未だに自分の中で引っかかり続けている。確証もない今何を言っても仕方がないが、少なくとも現状紫暮さんを俺は信用出来ない。一応紫暮さんには内緒で、俺達三人は小さなインカムをつけている。何かあってもすぐに対処できるようにだ。

 

「……真っ暗だね。外灯とか、たまにチカチカしてる」

 

 七草さんの言う通り、電気が上手く通っていないのか外灯は点滅を繰り返している。そのせいで、外灯には小さな虫たちが沢山集まっていた。正直見ているだけで鳥肌が立つ。俺は虫は苦手だ。

 

「……夜中だからか、流石に人はいないな」

 

 辺りを見回しても、誰一人として人はいなかった。一応夜間の仕事のため、身バレを防ぐために黒い外套を着用している。俺が初めて加藤さんと会った時に彼女が着けていたのと同じものだ。見た目が完全に厨二臭いが……なんかちょっと格好よくもある。七草さんも中々に似合っている。Trick or Treatなんて言われたら飴を渡すこと間違いなし。

 

 ……いや、ここは敢えて何も渡さずにイタズラしてみろと言って頬を赤くする彼女を見るというのもありか?

 

「氷兎君、何か考えてるの?」

 

「ん……いやちょっと先の事をね」

 

 そう、ハロウィンはもうちょっと先の話だ。今は今の話をするとしよう。

 

 夜中になるべく音を立てないよう村中を巡回する。流石に背中に槍を背負ったままだと動きにくい。袋から出していないので多少は槍がこすれて出る音も緩和されている。あまりうるさいと村人に怒られてしまうからな。

 

「何も無いね……あっちはどうかな?」

 

「どうだか……何もなさそうな気がするけど、ちょっと聞いてみるか」

 

 インカムを弄り、先輩との通信を繋げる。一応先輩とは繋がったものの、このまま会話しては紫暮さんに会話しているのがバレてしまう。なので、一手入れなくてはならない。

 

「先輩、会話しても大丈夫ですか?」

 

 すると……トンッ、トンッ、と二度インカムを叩く音が聞こえた。一度叩いた時はダメ、二度の時はセーフ。そうやって前もって決めていた。今回はセーフなようなので俺も安心して会話を開始した。

 

「そっちはどんな感じですか? あと、紫暮さんの様子は?」

 

『何もねぇよ。紫暮さんも今んところは平気だ。普通に人間だと思うんだが……警戒は解かないようにするけど、コイツをバケモノとは思えないぞ』

 

「……見てくれは確かに人間ですからね」

 

 動きも会話も、人と差はなかった。身体の動きにズレがあるだとか、そんなこともない。傍目からではどう見ても人間としか思えなかった。

 

『……そっちはどうよ?』

 

「こっちも同じくです。人っ子一人いませんよ」

 

『田舎には誰もいなかった、ってな。なんつ──』

 

 どうしようもないほど対処がしようのないクソみたいな駄洒落が聞こえてきたのでインカムの通信を遮断した。通信機越しに先輩の焦る声が聞こえた気がするが、きっと気のせいだ。

 

「……何かあった?」

 

「いや、何も無かった」

 

「そっか」

 

 少しだけはにかんだ彼女は身体をぐっと伸ばしながら歩いていく。ふと、空を見上げた。ここでも星が綺麗だった。月はほとんど欠けてしまっているが、雲ひとつない綺麗な夜空だった。

 

「わぁっ……綺麗だね氷兎君っ」

 

 同じく空を見上げた七草さんも感嘆の声を漏らした。やはり田舎の空というのは綺麗だ。都会だとどうにも空が見えにくい気がする。それに、高層ビルが邪魔になる。田舎は高い建造物なんてないから、周りを見渡し放題だ。

 

「菜沙ちゃんにも、見せてあげたいな……」

 

「確かにな」

 

 きっと今頃アイツは一人寂しく待っていることだろう。そう考えると、ちょっと胸が苦しくなる。一人で帰りを待つというのは、やはり悲しいものだろう。彼女もきっとキュッとなる胸を抑えて眠ることだろう。キュッとなりすぎて断崖にならなければいいが。そもそも苦しくなるほどアイツは胸があっただろうか。七草さんならともかく。

 

「……任務じゃなければ、氷兎君と一緒にこの空の下をゆっくりと歩けるのにね」

 

 不意に言われたその言葉に、俺は内心ドキリとする。少しだけ体温が上がるのを感じつつも、俺は彼女に当たり障りのない返事をしようとした。

 

 ……その時だった。

 

 

 ───ァァァァァァァァッ!!!

 

 

 遠くの方で、高い叫び声が聞こえた。暖かくなった体温が一気に冷めていくのを感じる。むしろ背中には冷や汗のようなものまで出る始末だった。驚き硬直する身体に喝を入れるように、七草さんに声をかける。

 

「七草さんッ」

 

「うん、向こう側からだよねッ! 行こ、氷兎君!」

 

 彼女も顔をキッと引き締め、その場から叫び声の聞こえた方に走り出した。俺も夜間の身体能力を活かしてなんとか彼女に追いつく……が、どうにもやはり力が入らない。新月に近づくだけでここまで身体能力が下がるものなのか。

 

「氷兎君、平気?」

 

「大丈夫だ、急ごう」

 

 彼女の様子から、俺は彼女に追いつけたのではなく彼女が俺にスピードを合わせたのだと気がついた。流石に少しだけへこんだが、今はそんなことで失速していられない。一刻も早く現場に向かはなくては……。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 悲鳴の聞こえた場所は、先輩が担当していた区域だった。途中からは先輩に電話を繋げて場所を教えてもらいながら走っていく。出せる限りのスピードで走った俺と七草さんは10分もしないうちに先輩のところへと辿り着いた。人通りの少ない舗装されていない道端に、二人は立って俺たちを待っていた。

 

 周りに何人かの村人が集まってきている中、先輩は目敏く俺達を見つけたようだ。片手をあげてこっちに来いと合図している。周りの人達に、すいませんと言いながら先輩の元へと歩いていく。

 

「……どんな状況ですか」

 

「見た通り……ってとこだ。悲鳴は確かにここら辺だった。それに……ちょっと息を深く吸ってみろよ」

 

 言われた通り、肺いっぱいになるまで息を深く吸い込んだ。すると……なんとなく、微かに何かが混じった臭いがする。この臭いは……両親が死んでいたあの夜の時と同じ。血の臭いだ。

 

「……血ですか、これ」

 

「そうだな」

 

「多分相当な血液量だったんだろうね。消そうとしても臭いが残ってしまったんだと思う」

 

 紫暮さんが眉をひそめながらそう言った。ということは、ここで人が死んだのは間違いないのだろう。一応周りにいる人にも確認した方がいいのかもしれない。

 

「……周りの人には既に聞いておいたよ。二、三人外を歩いていた人がいたんだけど……本人は生きてるし、被害者じゃなさそうだ」

 

「………」

 

 紫暮さんが言うことは、まぁ確かに普通に考えれば当たり前と言えることだろう。だが……俺達が関わっているのは普通の事件じゃない。十中八九神話生物絡みの、異常な事件だ。普通の考えというのは切り離した方がいいと思うが……そう簡単にはいかないか。

 

「紫暮さん、その出歩いていた人達の顔と名前は確認しましたか」

 

「一応ね。とは言っても、子供が二人軽い肝試し感覚で外に出ていたのと深夜徘徊を担当している村の人だよ」

 

 聞くと、村人の何人かが深夜徘徊をして怪しい人物を探ろうとしているのだとか。流石に今となってはそれはやめてほしい。普通ならありがたいが、こんな状況じゃ被害者が増える一方になりそうだ。

 

 ……いやでも、人数が減ってないってことは被害者はゼロってことなのか? しかし悲鳴はあがるし、血液は撒き散らされるし……訳がわからない。

 

「……ねぇ、氷兎君。ここで誰か死んじゃったの?」

 

「いや……わからない。死体も被害者もいないからね。現状だと、幽霊が巫山戯てるとしか言い様がない」

 

 そう伝えると、七草さんは少しだけ身体を強ばらせた。怖がらせてしまっただろうか。だけど、幽霊の仕業と思いたいものだ。血液検査の結果が出てるのだから、それはないだろうが。

 

 ……ばらまかれた血液と、本人の血液が同じってことはすり替わってないってことなのか?

 

 悩んでも、今の段階では解答は疎か予想すら立てられなかった。

 

「……氷兎、今夜は一旦やめだ。昼になったら湖に行ってみよう。ここで探し回っても、多分イタチごっこだ」

 

「……そうですね。村人の中には怖がってる人がいるでしょうけど……今は、休みましょう」

 

 先輩の提案には一理ある。そう思った俺はその提案に頷き、四人で宿へと戻って行った。

 

 

 ……布団で意識が途絶える直前、また誰かの悲鳴が聞こえた気がした。

 

 

To be continued……



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第37話 変ボウ

 ───ほら、見てみなよヒト。私達の子だよ。

 

 

 目の前にいる存在は、母性なんてものを一欠片も感じさせない瞳で、その両腕に収まっている少女の頭を撫でた。可愛らしい、女の子だ。顔の輪郭はコイツに似てる。でも、肌の色は普通だ。そして姿形も……人型だ。普通の可愛らしい女の子になるだろう。その事実に、俺は安堵した。

 

 ……しかし、如何せん致してから産まれるまでが早い。それに、成長も。

 

 

 ───なんだろなぁ。思ってたのと違う。もっとこう、私に似たモノが産まれると思ってたんだけどね。つまらないなぁ……。

 

 

 目が細められ、撫でていた手はいつの間にか幼い子の肌を引っ掻くように爪が立てられている。咄嗟にコイツを弾き飛ばし、子供をひったくる様に奪った。幸いにも、傷にはなってなかった。

 

 俺の腕の中で、赤ん坊は泣いた。

 

 

 ───お父さんにでもなった気なの? へぇ、君ってそんな顔もするんだね。

 

 

 黙れ。静かに声を発し、俺は子を守るように抱きかかえ、無意味とわかっていても距離をとった。

 

 やはりまともじゃない。アンタは異常だ。

 

 そう言うと、アイツは嘲笑(わら)いながら俺の前に移動して来た。そして、その両腕を伸ばして俺の頬に触れてくる。

 

 

 ───異常なのは、私も君も一緒だよ。ねぇ、ヒト……? そんなの放って置いて、こっちに来て一緒にヒトを見ていよう。

 

 

 お断りだ。俺は身じろぎして奴の両腕から離れる。すると、アイツは少しだけ不機嫌そうに眉をひそめた。そしてその真っ赤な口を開く。

 

 

 ───こんなつまらない結果なら、作らなくても良かったか。だって君は私に着いてきてくれないしね? いっそのこと………。

 

 

 

 

 

 ───……殺してしまおうか。

 

 

 俺は片手で子を抱え、もう片手で刀を手に取った。切っ先を奴に向け、出来る限りの補助魔術の詠唱を唱える。

 

 そんな俺の様子を見たアイツは……興味を失ったかのように、どこか別の方を向いて消えていった。残された俺は、緊張が一気に解け、その場に座り込んだ。赤ん坊は、まだ泣いている。

 

 ……アイツに子供は任せておけない。もう少し、大きくなったら………。

 

 ………どうか、幸せに。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ……暑苦しい。そう思って俺は布団から起き上がった。何か嫌なものを見た気がする。悪夢か。起きた途端内容はすっかり消えてしまったが、寝る前に聞いた悲鳴のようなものが原因だろうか。少なくともゆっくりと休める状況じゃないことは確かだった。

 

 隣の布団で眠っている七草さんは、恐怖なんて微塵も感じていないようで、幸せそうに寝息を立てている。一方先輩の方は……なんだかデスソースがどうのと魘されていた。目覚まし代わりにかけてやろうか。

 

「……最近、悪夢は見なかったんだがな」

 

 ボソリと呟いた。忘れてるだけなのかもしれないが、俺が見る夢は基本的には異世界冒険ファンタジーだ。剣や魔法で戦って、お姫様を助ける。そこにホラー要素なんて皆無な訳で。俺自身ホラーは苦手なんだがね。

 

「……にしても暑い。窓を開けるか」

 

 まだ少しだけ眠りたがる身体を動かして、窓をゆっくりと開ける。夏だが、田舎は風が心地よい。すっと部屋の中に入ってくる風のおかげで、少しだけ気分が爽やかになった。天気は晴れだ。洗濯物日和になりそうだと思う反面、熱中症にも気をつけなければと思う。

 

 朝食の時間はまだ早い。少しだけ散歩してこようか。先輩と七草さんが二人きりになってしまうが……先輩は七草さんに手は出さないだろう。起こさないように身支度を整えて、民宿の外に出た。

 

「じい様ばあ様は、起きるのが早いな。もう畑仕事に行くのか」

 

 外をぶらついていると、腰の曲がったお婆さんがゆっくりと歩いて畑に向かっていた。途中で向こうは俺に気がついたようで、手でちょいちょいっと、こっちに来いと仕草で伝えてきた。無視するわけにもいかないので、お婆さんの元へと向かう。

 

「どうも、おはようございます」

 

「おはよう、偉いねぇこんな早くに起きてて……。昨日来た人だっペ? 田舎は空気が美味しいっぺよ」

 

 特有の方言だろうか。お婆さんは優しそうに笑いながら話しかけてくる。言ってることは理解できる程度の訛りだ。会話に困るということは無い。もっと田舎の方に行けば……最早会話が困難になるレベルの方言が出てくるのだろうか。対話ができないと調査が厳しいからそんなところには行きたくないものだな。

 

「色々と調べてくださってるんだべ。助かるよぉ、うちの孫もまだちぃっこいから、危なっかしくてあまり外で遊ばせたくないんだわ」

 

「お気持ちはわかりますよ。早めに解決できるよう頑張りますので、お力を貸していただきたい」

 

「こんな老婆でよければねぇ」

 

 カッカッカッ、と笑いながら、お婆さんは歩いて立ち去っていく。誰かの家の角を曲がり、姿が見えなくなるまで俺はその場で立っていた。特に何もすることがないので、その場から歩いてどこか別の場所でも見て回ろうか、と思っていたその時だった。

 

 

 ──────ッ!?

 

 

 悲鳴が聞こえた。しかも、この声は………。

 

「お婆さん!?」

 

 聞こえた声は、間違いなくさっきまで話していたお婆さんだった。すぐさま悲鳴が聞こえた方へと走っていき、お婆さんが曲がっていった家の角を曲がると、少しだけ陽の角度のせいか暗がりになっている場所があった。

 

「お婆さん、大丈夫か!!」

 

 お婆さんに向かって呼びかけながら、ゆっくりとその暗がりに近づいていく。だが、ダメだ。暗くてよく見えない。仕方が無いのでポケットから携帯を取り出してライトを点けた。暗がりがライトの発する光で照らし出されていく……。

 

「………ッ!? こ、れは……」

 

 光で照らし出されたのは……飛び散った血液。おそらくお婆さんであったモノの肉片。それらがその暗がりにあった。あまりの光景に思わず携帯を落としそうになり、そのままその場からゆっくりと後ずさって離れていく。

 

 心臓が飛び出そうなくらい暴れていた。一刻も早くここから離れよう。武器もない、仲間もいない。しかも日中だ。俺では何かあっても勝てない。

 

 周りを警戒しながら、とにかく助けを呼ぼうと来た道を戻ろうとした時だ。

 

「……おや、どうしたんだい。まだ儂に用があったのかえ?」

 

「なっ───」

 

 聞こえるはずのない声が聞こえた。咄嗟に振り向くと、そこには何食わぬ顔で立っているお婆さんがいた。さっき話していたのと同じ、腰は曲がり優しそうな顔で話しかけてくるあのお婆さんだった。

 

 声が詰まってしまって何も受け答えできない。頭は何か回線が壊れたかのように、必死に現状をどうにか理解しようと無茶苦茶な回路で繋ぎ合わせていった。数秒の沈黙の間が流れ、ようやく俺は口を開くことが出来た。喉の奥から、震えた声が出てくる。

 

「お、お婆さん……貴方、さっき……」

 

「何かあったかえ。それにしても、儂はどうしてこんな所に……あぁ思い出した。畑に行くんだった。それじゃ、儂は行くよ」

 

 お婆さんは少しだけふらふらとしながら道を歩いていく。俺はその場から駆け出して、先程の暗がりの部分に戻ってきた。ライトを点け、その暗がりを照らし出す。

 

 ……だが。

 

「……何も、ない……?」

 

 綺麗さっぱり、そこには何もなかった。血の跡も、匂いも。何もそこには残っていなかった。

 

 いや、そもそもここに何かあったのだろうか。

 

 見間違えではなかったのか。疲れて幻聴が聞こえたのではなかろうか。

 

 そうだ、きっとそうだろう。そうに違いない。混乱した頭は、無理やりこの不可思議な現象を思考させないように終わらせようとしていた。

 

 だが、俺の頭の中はある一点を見ただけで凍りつき、また正常に稼働し始めた。

 

「……血が、少しだけ残ってる」

 

 家の垣根に少しだけ、ほんの少しだけ赤いものがポツリと付いていた。いや、それはもしかしたら別のものだったのかもしれない。赤いインクがついていただけだったのかもしれない。もしかしたら他の小動物のものだったのかもしれない。

 

 けど、けれど……俺にはそれが、あのお婆さんが流したものだとしか思えなかった。

 

「うっ……ぇ……」

 

 少しだけ嘔吐(えず)いてしまった。危険だとわかっていても、その場で座り込んで胃の中身が落ち着くまで待つしかなかった。気持ち悪い。とてもじゃないが……あんな光景を見てしまっては、最早正気ではいられなかった。

 

 俺は幻覚を見ていたのではなかろうか。そう思いたいものだ。吐き気がある程度収まると、俺はその場から逃げ出した。せめて、誰か安心できる人の傍にいたかった。

 

 ……菜沙の声が、聞きたくなってきた。

 

 

To be continued……



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第38話 是か否か

「おい氷兎、お前顔真っ青だぞ!? 外で何してきたんだ!?」

 

 帰ってきて、開口一番に先輩に言われたセリフだった。俺は……なんて答えたのか覚えていない。ただ恐怖心から逃れるように民宿に逃げ込み、部屋の中に戻ってきた途端身体から力が抜けて座りこんでしまった。頬や額には、冷や汗が多かった。

 

「……お前はトラブルメーカーというか、事件巻き込まれ体質だな……」

 

 ただ部屋の壁にもたれかかって震えながら、俺は脈絡のないセリフで説明をした。外に出て、何があったのか。何を見たのか。それらが全て、幻だったのではないか。とてもじゃないが、俺は正気ではいられなかった。頭がまだ混乱している。思考が上手くまとまらない。

 

 七草さんが容れてくれた水をちびちびと飲みながら、震える身体を押さえつけるように座っていた。七草さんが隣で手を握ってくれたり、先輩がタオルで汗を拭ってくれたりと世話をしてくれた。いつもなら自分でやるからいいと突っぱねるが……もはやそんな事を考える気力も行動するだけの体力も残っていなかったと思う。

 

「……落ち着いたか?」

 

「……なんとか、ですかね」

 

 時刻は昼近く。ようやく俺は動ける程度には回復することが出来た。大丈夫。身体も震えていないし、思考もまともだ。朝見たことは……あまり思い出したくはないが、あれを見ることが出来たのは不幸中の幸い、とでも言うべきか。あれはおそらく事件解決の手がかりになるだろう。

 

「本当に大丈夫? 怖かったら、今日は休もう? 氷兎君がおかしくなっちゃうの、私は嫌だよ」

 

 俺の隣で涙目ながらにも落ち着かせようとしてくれた彼女の頭を、優しく数回撫でる。大丈夫だ、俺は正気に戻った。そう言って笑いかけると彼女も少しだけ笑って返してきた。

 

「お前のそのセリフはアカンやつだ。まぁそんなセリフが言えれば問題なさそうか」

 

「心配かけました。まぁ……問題ないでしょう。それよりも、俺の話はだいぶ滅茶苦茶だったと思うんですけど、わかりました?」

 

「まぁ、なんとかな……」

 

 そう言って先輩は置いてあった小さなホワイトボードを取ってきて、俺達に見えるように置いた。こんなものを持ってきていたのか。聞くと、置いてあるだけでなんだか作戦会議っぽいだろ、とのこと。この人の行動基準が最近わかってきた気がする。

 

「とりあえず、簡潔にまとめた。氷兎の見た婆さんが殺されたことを前提条件とすると、殺されるまでの間がスムーズかつ短時間で行われる。そして、死んだはずの婆さんはすぐさまその場で蘇生。婆さんのその後の行動的に、蘇生直後は思考回路があやふやになっている。だが、その後すぐに自分のするべきことを思い出し、死ぬ前と同じ行動を取ろうとする」

 

「……近くに人がいたかどうかは、残念ながら見れませんでした。しかし、大人はいないと思われます。いたら気がつきますしね」

 

「おそらく、氷兎が近づいたタイミングで犯人は逃亡。氷兎が離れたタイミングで蘇生されたんだろうな。しかし……蘇生させる意味はなんだ? 犯人は殺すことを楽しんでるのかね」

 

「……数が減らないことを利用した半永久的な殺人ですか」

 

「わからん。だが、俺達は今まで世界の裏側とも言えるものを見てきた。神話生物しかり、俺達の『起源』しかり。加藤さんのような『魔術』を使える存在がいるのならば……蘇生は出来るかもしれない。そうなると……犯人は俺達のような起源覚醒者か」

 

 ……村の内部に起源覚醒者がいるということか。木原さん曰く、天然ものの起源覚醒者というのは存在するらしい。それこそ、超能力者だとかいったのがその例だそうだ。

 

 何が目的かはわからないが……楽しむことが目的なら、犯人は近くにいる。しかも、野次馬になることも出来て尚且つ犯人を探そうとする立場にもなれる中間位置あたりに。そういった手合いは、自分の身の潔白のために探す立場になり、そして皆が必死こいて探しているのを見て楽しむというタイプが多い。

 

 例えば、放火魔がいい例だろう。放火魔は家に火を放った後は、その場でバレないように留まり野次馬と一緒にその光景を見るのだとか。

 

「……だが、これらの話は前提条件が確かな場合が絶対だ。なら、他の可能性も出てくるわけだ」

 

 先輩がホワイトボードを裏返すと、再びペンで文字を書き始めた。先輩の表情は真剣そのもの。いつもの巫山戯た感じは見受けられない。やはりこの人はやる時はやる人なのだろう。いい性格をしているというか、なんというか……。

 

 そういえば、七草さんはどうだろうか。気になったのでチラッと横を見てみると、何が何だかわかっていなさそうで困惑した表情を浮かべていた。頭の上に疑問符が浮き出ているのが幻視できそうだ。

 

「俺の今までの人生経験(ゲーム歴)を使って考えるとだな……おそらく、婆さんは蘇生されたのではなく別の存在に生まれ変わったんじゃないかと予想される。そして別の存在に成り代わった人は……仲間を増やす。ゾンビみたいにな」

 

 ホワイトボードに、婆さん蘇生から婆さん転生、とごっちゃになりそうな文字が書き加えられる。いや先輩の言い方的には転生ではなく変成ではなかろうか。

 

 しかし……それを前提条件とすると、現状がとてつもなくまずいことになる。そんな俺の考えを見透かすように、先輩は軽く頷いてから話を続けた。

 

「氷兎の考えてる事は、おそらく当たりだ。別の存在にするということは、その別の存在になったモノが何かしらの目的として使用されるということだ。例えば、頭の中に信号を送れて、思いのままに操れるだとか。自爆装置がついていたりとか」

 

「最悪の場合……村人が全員ソレになって襲いかかってくることもありえます」

 

 俺の言葉に、先輩は今度は首を振って否定した。最悪のケースというのはそれではない、と。ではなんなのか、それを問いただすと先輩は少しだけ眉をひそめながら答えた。

 

「考えられる最悪のケース。それは……俺達が変わり果てた村人と同じになることだ。変化すると、思考回路は普通のままで生活することになる。つまり、今この瞬間この中の誰かが変化していてもおかしくないんだ」

 

「……あっ………」

 

 そう言われて、一気に身体中に寒気が出てきた。自分は今本物だろうか。襲われて偽物になり果ててはいないだろうか。その疑問を払拭するべく、先輩はある提案をしてきた。

 

「二人とも、ここにオリジンのカードを出してくれ」

 

 言われるがままに、俺と七草さん、そして先輩も互いに見えるようにカードを置いた。全員生存状態で、カードの故障も何も起こしていない。それを見ると先輩は安堵したかのように深く息を吐いた。

 

「おそらく……変化するとカードは『死んだ状態』になる。つまり、だ」

 

 先輩が言いにくそうにしているのを察し、俺はゆっくりと口を開いてその先を言った。

 

「……紫暮さんは変化している、ということですよね」

 

「俺の予想が正しいのなら、な」

 

 なんとも言えない顔のまま、先輩は後頭部を掻いて思考にふけった。俺も現状をどうにかできないか考えようとすると、チョンチョンっと服の袖が引っ張られた。見れば、七草さんが俺のことを見つめていた。

 

「えっと、今の話聞いてたらさ……紫暮さんが、その……違う人になっちゃったってことだよね?」

 

「まぁ、予想ではね」

 

「……やっぱり、あの時氷兎君が一緒にいてくれてよかった。じゃなきゃ私、きっと襲われてたのかもしれない。だから……ありがとう、氷兎君」

 

 いつもの純真無垢な笑顔で、お礼を言ってくる七草さんに対し俺はすぐには何も答えられなかった。ただその笑顔を直視するのが少し恥ずかしくて、そっと目を逸らしてから俺は、力になれて良かったと答えた。その返答に嬉しそうに、また七草さんは微笑んだ。

 

「………」

 

 そんな俺らのやりとりを先輩は苦々しく見ていて、思考がまとまらん、と容れてあった水を一気に飲み干した。その後すぐに先輩は、何か思いついたようで話し始めた。

 

「そういえばあの見廻りの時、俺は氷兎と連絡を取れる状態にあったわけだ。その理由は紫暮さんがトイレに行くと言って森の方に消えていったからなんだが……」

 

「……おそらくその時獲物を探しに行ったのでは?」

 

「……急に使命感に駆られるようにポッと別の思考回路が働き、やることを終えると疑問が残らない場所にまで移動して思考を切り替える、ということか」

 

「……厄介すぎる。本人に罪の意識はなく、犯人も特定されない。やった側もやられた側も何も覚えてなければ、証拠が出るわけがない。そりゃ、家の中で事件が起こっても家族揃って何も無かったと答えるわけだ」

 

 難事件すぎるこの任務に、流石にため息も出る。壁に寄り掛かって脱力し、今後どう動いていくかを考え始めた。

 

「……この前提条件を認めるのなら、時間は圧倒的に少ない。考え方としてはねずみ算式か?」

 

「一人が二人に、二人が四人に、四人が八人にっと倍々方式で増えていくってことですか。それは……まずいですね……」

 

 悲鳴が上がらないだけで、おそらくとてつもないスピードで村人達は襲われて変化していっている。村人全員が変化してしまうまで、時間はそうかからないだろう。それまでに変化した人を戻す、もしくは増えないようにする手段を見つけなくてはならない。

 

 ……けれど、この考え方をするにあたって、考慮しなければならないもっとも重要な問題が発生する。おそらく先輩も同じ考えだろう。

 

「もっとも問題視しなければならないのは変化していくことに関してじゃない」

 

 先輩はそう告げると、ホワイトボードにでかでかと文字を書いていった。全て書き終えると、先輩は少しだけ荒くペンを置いて、ホワイトボードを見せつけるようにしながら口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───変化してしまった人は『人間』なのか、だ」

 

 

 

 

 

 

To be continued……




この調子だと完結は200話近くになるんじゃないか……


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第39話 犯人は誰だ

 昼過ぎ。俺達だけで湖の探索をするので何かあったら連絡をしてほしい、と紫暮さんを丸め込んで村に残すことに成功したので、三人で湖に向かって歩いていた。

 

「………」

 

 昼間に話に上がった、変化してしまった人は『人間』なのかという話だが……俺にはどうとも言えない。だが、予想が合っているのなら、変化した人は人を殺して仲間に引き入れる。要するに、殺人だ。例え死人が出なくても、人が人を殺していることには変わりない。

 

 話のスケールを大きくすれば……変化してしまった人が、この村から出ていった場合、最悪全世界の人々が変化してしまう。一度死ぬということを経験して。皆変わってしまえば、いつも通りに戻るではないかと思うかもしれないが……とてもじゃないが俺は……。

 

 ……例えば、だ。もしも菜沙や七草さんが殺されて変化したら……俺は、殺した人を許せないだろう。なら、俺は変化してしまった人を『人間』だと許容できないのか?

 

「……あまり煮詰めるなよ、氷兎。今は難しく考えても仕方が無い」

 

「……すいません。どうも、頭から離れなくて……」

 

 どうやら気を遣わせてしまったようだ。軽く頭を降って、これからの事を考えようと思考を切り替える。気分転換に周りをぐるっと見回したが、見えるのは木ばかり。時折草がガサガサと揺れて小動物が走っていくのが見える。

 

「氷兎君見て、ウサギがいたよ!!」

 

 七草さんの見ている方向では、ウサギが黒い目をパチパチとさせながら見つめていた。草を口の中に運び、必死に動かしている。可愛らしい。少しだけその光景で癒された気がする。

 

「……流石は田舎。山に入ればそりゃ獣も多いわな」

 

 先輩は今日は銃を取り出しやすいように、羽織っている上着の下に隠していた。下手に動き回らなければ銃が見えるということもないだろう。流石にサプレッサーくらいはつけてほしいものだ。

 

「槍、取り出しといた方がいいですかね」

 

「人もいないし、いいんじゃないか? 誰も近寄らんみたいだしな」

 

 先輩の許可を経た後、袋から槍を取り出して肩に背負った。一応神話生物がいるかもしれない危険な区域だ。用心するに越したことはない。七草さんも戦闘用の靴に手袋をつけ、準備万端である。

 

 しばらく舗装されていない道を歩いていくと、ようやく湖らしきものが見えてきた。遠目からでは何があるかわからないが、少なくとも水は綺麗なままだ。槍を持つ手に少しだけ力を入れて、いつ襲いかかられてもいいように心構えをしておく。

 

「ここが件の湖だな。紫暮さんの言ってた通り、色は普通だな。周りにも特に何もなさそうか?」

 

 軽く周りを見回したが、何も無い。手入れはあまりされていなく、背の高い草が所々に生えている。腰ぐらいはありそうだ。

 

「手分けしてみるか?」

 

「やめておいた方がいいんじゃないですかね。流石に危険区域で単独行動は怖いです」

 

「氷兎君は私が一緒にいるから大丈夫だよ、ちゃんと護るから!」

 

 男としてそれはなんとなく遠慮したいものだ。軽く苦笑いをしながら、頼りにしていると答えて三人で何かないかを探し始めた。槍を両手で持って、草をかき分けるようにして進んでいく。

 

「………?」

 

 前の方に、草がなくなっている部分がある。一面草だらけなのに、そこの部分だけ丸くポッカリと穴が空いていた。何かあるのだろうか。慎重にかき分けて進んでいくと、やがて何か鼻につく臭いがしてきた。

 

 ……腐敗臭か、これは。

 

 なんとなく嫌な予感を感じつつ、その開いた部分の草をかき分けた。

 

「うぇっ……」

 

「どうした氷兎、何かあった……って、あんだよこれ……」

 

 赤い水溜りの上に、何か赤とピンクの混じったモノが置かれている。それはグチャグチャで、何と表現はできない。ただ……それは見るからに肉塊であることは確かだ。腐敗が酷く、息を深く吸ったら戻してしまいそうになる。

 

「……なに、これ……気持ち悪いっ」

 

「あまり見るなよ、七草ちゃん。氷兎、何かわからないか?」

 

「わからないかって……わかりたくもないですよ、こんなの……」

 

 少しずつ後ずさる。なんだか、蠢いているような気がしてきた。とてもじゃないが、長く見ていようとは思えない。来た道を戻ろうとしたその時だ。突然、肉塊が動き出した。

 

「……なっ!?」

 

 その肉塊はプルプルと震えた後、凄まじい勢いで俺に向かって飛びかかってきた。突然の事で身体が反応しきれていない。槍で弾こうにも、間に合わない。もう少しで身体にぶつかる、そう思った時に横から気合の入った声と共に勢いよく蹴りが飛んできた。

 

「やぁっ!!」

 

 その蹴りは見事に肉塊に命中し、赤いものを撒き散らしながら遠くにあった木にまで飛んでいって激突。弾けるように散っていった。蹴りを放った張本人である七草さんは、足についた赤色のものを見て顔を顰めた。

 

「うぇ、なんか赤いのついた……気持ち悪いよ……」

 

「なんつー反射神経だ……」

 

「ごめん、七草さん。助かったよ……」

 

 お礼を言いながら、彼女の靴や足についたモノをウェットティッシュで拭いていく。もちろん、ちゃんと捨てずに持ち帰る。何かしら得られるかもしれない。別に七草さんの足を拭いたから持ち帰るわけではない。断じて。

 

 ……しかし、先輩の言った通り本当に凄まじい反射神経だった。一番近くにいた俺が反応できず、少し後ろにいた彼女が一気に近くに来るのと同時に、その勢いであの肉塊を蹴り飛ばしたのだから、威力も凄まじいことになっていた。哀れ、肉塊は爆発四散。近づいて確認しようと思えない。

 

「……なんだったんだ、今の。あのグチャグチャしたの動いたよな? ホラゲーかよ……」

 

「魔術的なものでしょうか……犯人がやった実験の残りとか?」

 

「訳が分からん。というか、そろそろ俺の常識的なものが削れてきてやばい。モウナニモカンガエタクナイ」

 

 先輩の目が少しだけ暗くなった気がした。流石に気が滅入るだろう。俺もそうだ。だというのに、七草さんは相変わらず明るいままだ。今はその度胸が羨ましい。

 

 まぁ、流石に確認しないわけには行かない。さっきよりも念入りに警戒しつつ、先程肉塊が四散したところまで近づいていく。先輩も片手で銃を構えながら、周りを警戒していた。アレと同じものが他にもないとは限らない。

 

「……物の見事にぶちまけてますね。これじゃ何もわかりませんよ」

 

「ちょっと槍でツンツンしてみろ」

 

「嫌です」

 

 肉塊だったものは、最早なんなのかわからないゲル状の何かに変貌してしまった。動く兆しは見えない。コレをこのまま放置しておくのも流石にまずい気がしてきた。先輩にビニール袋を渡して、水を汲んできてもらい、その間に俺は槍の穂先で元肉塊の周りの草を適当に刈り取った。そして鞄の中からオイルライターを取り出して中身をぶちまけ、マッチに火を点けて投げ込んだ。

 

「……嫌な臭いだ」

 

 煙と共に嫌な臭いが立ち込める。幸いにも湖の近くだったおかげで土壌の水分が多く、周りの木や草に燃え移ることは無かった。アレが燃え尽きたことを確認すると、先輩がビニール袋の水をぶちまけた。ジュッと音がして火は完全に鎮火した。後には炭のようなものが少し残っているだけだった。

 

「……なんにも、わからなかったですね」

 

「来て損だったってことはない。きっと、コレは犯人が残したものなんだろうな。魔術的なものだったってことも確認できた」

 

 先輩は顎に手を添えながら、考える素振りをしつつ周りを見回した。他になにか怪しそうな場所はない。

 

「……湖、か。これが沼だったとしたら、完全にアレだな」

 

「何か引っかかることでも?」

 

「氷兎は、沼男(スワンプマン)って知ってるか?」

 

「……少しは。アレって心理学でしたっけ」

 

「心理学というより、哲学か。誰だかは忘れたが、人間のアイデンティティーについての問題だったはずだ」

 

 先輩の言葉に、少しだけ昔の記憶を掘り起こした。確か……ドナルド・デイヴィッドソン、じゃなかったか。同一性やアイデンティティーに関する問題として、『私とはなにか』ということを考える思考実験だったはずだ。

 

「沼の近くで男は休んでいた。突然雷が落ちて男は死んでしまう。すぐさま二つ目の雷が、今度は沼に落ちた。雷のせいで沼が変異し、男の遺伝子情報などを丸々コピーし、男と原子レベルで瓜二つの存在を創り出した。創り出された男はそのまま男の記憶を引き継ぎ、社会に溶け込んでいく。果たしてその男は本人なのか、別人なのか……って話でしたよね」

 

「大体そんな感じだ。今回の任務……これに酷似していないか?」

 

「酷似しているとは思えませんが……似ている節はありますね」

 

「……ここからは、俺の予想なんだがいいか?」

 

 先輩が今回は何か閃いたようだった。先輩の言葉の先を待つように、俺と七草さんはじっと先輩を見つめる。やがて言葉が纏まったのか、先輩は口を開いて予想したことを話し始めた。

 

「子供が一人、湖の側で発見された話があったな。もし、その時その男の子がさっき話した沼男になったと仮定すると……どうなる?」

 

「……雷が落ちたという話はありませんよ」

 

「馬鹿言え。雷で湖は変化しねぇよ……いや知らんけど。まぁともかく……男の子は、ここで犯人に会ったんだ。犯人は何かしらの魔術を使って怪しい実験を行っていた。それに男の子は使われてしまった。その男の子の成れの果てが……」

 

「……あの肉塊ってことですか? いや、そんな馬鹿な話が……」

 

 ……完全には否定出来なかった。俺達の常識は通用しないのだ。魔術も奇跡もある。バケモノもいる。俺達の日常は最早日常にはなり得ない。俺達が過ごしているのは、どうしようもない非日常だ。常識では戦えない。非常識でなくては歯が立たない。

 

 先輩のその予想を否定する言葉は、これ以上続かなかった。

 

「男の子は村に戻って仲間を増やした。何のために? それはまだわからない。もしかすると、実験は失敗だったのかもしれない。あの肉塊の腐敗の状況的に、数週間は経過している。そして……その数週間の内に、もっとも怪しい人物が訪れていた。何の為にここに来たのかも話さず、何の調査のためにここに来たのかもわからず、ただ訪れて暫くして立ち去った人物がいるはずだ。お前ならわかるだろ、氷兎」

 

 ……ここ数週間で訪れて。何の理由もなく、何の調査なのかも分からず。『起源』のようなものが使える人物。

 

「……紫暮さん?」

 

「いや違うな。もう一度良く考えろ。それに、紫暮さんは被害者だ」

 

 先輩は首を振って俺の言葉を否定した。もう一度、頭の中にある情報を掘り返す。そもそも、村の人ではないのなら外の人だ。外から来たのは、紫暮さんと俺達オリジンメンバー。その他には……

 

『一ヶ月程前にはひとりの学者さんが泊まっていましたが……おそらく関係はないと思います』

 

 ……まさか。

 

「ひと月前に訪れた、学者?」

 

 俺のその答えに、先輩はニヤリと笑って正解だ、と答えた。確かに、こんな山奥に学者が一人で訪れる理由もない。家族がここにいるという訳でもない。何の理由できたのか、何の調査できたのかもわからない、最も怪しい人物。だが、その人は……

 

「そうだ。学者は一ヶ月も前にここを発っている。その学者を犯人だと仮定する場合……実験は失敗だった。だからここから出ていった。巻き込まれないように、な」

 

「っ……なんてことを……!!」

 

 頭を抑えて、浮かんできた学者像の人物に向かって悪態をついた。その学者を捕まえることが出来ればいいが、どこにいるのかも分からない。最悪、この事態の収拾方法を知らない可能性がある。でなければこんな危険なものを野放しにはしないだろう。

 

「民宿に戻って学者が泊まっていた部屋とかを調べるぞ。何か残ってるかもしれん。時間は少ない、急ぐぞ!」

 

「了解です!」

 

「あ、はいっ!!」

 

 三人で湖から離れ、民宿へと走って向かうことにした。

 

 ……俺達に、この事態を穏便に終わらせることが出来るのだろうか。不安が心の奥底で渦を巻いて主張していた。

 

 本当にこの予測は合っているのだろうか。いや、合っていても合っていなくても、今の俺達にはこうする他道はなかったのだ。

 

 

 

 

To be continued……



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第40話 紫暮サン

「流石に私達の村の調査をしてくれるとはいえ、個人情報を開示する訳には……」

 

 女将さんは困ったように伝えてくる。湖から戻ってすぐに民宿に駆け込み、女将さんに頼み込んでみたが断られてしまった。流石に国家組織とはいえ、俺達は警察権限を持っている訳では無い。仕方が無いとはいえ、唯一の手掛かりをここでなくすのはあまりにも惜しい。

 

「部屋に何か残っていたりはしなかったんですか?」

 

 先輩がここで引くわけにはいかない、といった様子で詰め寄るが、女将さんは何もなかったとのこと。一応、名前は教えて貰えた。振村 志軼(ふりむら しいつ)という名前らしい。

 

 ……名前がわかったところで、顔がわからなければどうにもならないのだが。

 

「……どうするべきだ。このまま振村を探すか。それとも、この村の現状をどうにかするか」

 

 先輩のその言葉に、俺は頭を悩ました。あまりにも人手が足りない。あと何人か、せめて俺達以外に一人動ける人がいればどうにかなるかもしれない。だが、紫暮さんはダメだ。

 

 流石にこの村に誰か一人を残すというのは危険すぎる。かといって、誰か一人で振村を探すのは困難極まる。

 

 詰み。その二文字が頭をよぎった。手立てがない。何かないか。この状況を打破できる何か……

 

「……本部に連絡をして、応援を呼ぶのはどうでしょうか。何人か人が増えれば、どうにかなる可能性もあります」

 

「いや、応援はダメだ。俺達は人数が少ないから互いを監視して危険が及ばないようにしているが、人が増えればそれだけ被害者が増える。内部で敵が発生した場合、全体がどうなるのかは目に見えて明らかだ。ここは、俺達は現状打破に回り、本部は振村を探すという手分けの手段を取った方がいいのかもしれない」

 

 ……確かに。先輩のその発言には一理ある。三人という少ない単位だからこそ、俺達に被害は出ていないのだ。さて、本部に連絡を取って振村を探さなければならないのだが……名前だけではどうにもならないだろう。いくら国家組織とはいえ、名前だけで個人の特定をするのは厳しい。

 

「……氷兎、本部に連絡を頼む。詳細を聞かれるだろうが、事細かに伝えた方がいいかもしれない。隠しても、現状何もならないだろう」

 

「わかりました」

 

 民宿から出て、俺は一人少しだけ離れて本部に電話をかけた。数コールもしない間に本部の連絡係の人が電話に出た。緊急事態だという旨を伝え、木原さんに代わってもらうように頼んだ。連絡係の人は、すんなりとその頼みを了承し、木原さんに回線を繋いでくれた。電話の向こうから、彼女特有の少しだけ冷めた声が聞こえてくる。

 

『木原だ。唯野には……山奥村での調査を頼んでいたな。何があった』

 

「現状についての説明と、ある人物の捜索をしてほしいという申し出です」

 

『……話してみろ』

 

 木原さんにこの村で起きていることを事細かに説明した。その説明には、俺達が予想したことも含め、そうだった場合どうなるのかということも話した。人を殺して増殖している神話生物の名前を、仮に沼男(スワンプマン)と呼称した。その説明を聞いた木原さんは、少しだけ唸ると聞き手から一気に話し手へと代わっていった。

 

『村で起きた出来事及び捜索願いに関しては了承しよう。君達はその場で誰も村から出ないように監視していたまえ。勿論、紫暮諜報員には何も伝えずにだ』

 

「……監視、ですか? 現状の解決ではなく?」

 

『そうだ』

 

 ……その先の言葉を、俺は空耳であったと聞き流してしまいたかった。俺は、忘れていた訳では無い。天在村で加藤さんが言っていたあの言葉。

 

 ───私達は正義の味方ではなく、『人間の味方』なの。

 

 あの言葉は、しっかりと耳に残り……胸に焼きつけたはずだった。だが、その認識は全く持って甘かったのだということを思い知らされる。

 

 

『───これより、山奥村住民の"処理"を決行する』

 

 

 処理。その言葉に目を見開き、危うく携帯を落としそうになってしまった。聞き間違えではないのか。いや、もしかしたらなにか別の意味なのかもしれない。悪い方に考えるのは俺の悪い癖だ。一抹の希望に縋るように、俺は木原さんに聞き返した。

 

「……あ、あの……処理、とは?」

 

『処理は処理だ。村人と紫暮を含めた全員を抹殺する』

 

「なっ……そ、そんな馬鹿なこと出来るわけがないでしょう!?」

 

 すぐ近くで俺の会話の経緯を見ていた先輩が、俺の慌てふためく様子を見て少しだけ嫌な顔をした。俺の言葉に対し、木原さんはなんてことは無いとでも言いたげな感じで淡々と言葉を述べていく。

 

『お前はさっきから綺麗事ばかり考えていそうだがな、よく考えるんだ。本当にその神話生物……沼男だったか。その沼男が人間以外を喰らって増殖するという可能性は考慮しないのか?』

 

「っ……い、いや、でもそれはまだ予想の範疇で……」

 

『予想だろうがなんだろうが、最早そこまで予見できるほどに情報が現地で集まったんだ。なら、後するべき事は世の為人の為に沼男をここで完全に抹殺する。それが正解だ』

 

「何人いると思ってるんですか! 大人だけじゃない、子どもだっているんですよ!」

 

『話を聞く限り、感染源は子供らしいじゃないか。なら感染経路は両親、及び一緒に遊んだ子供だろうよ。ほら、もう誰も許容できない。綺麗事じゃ世界は回らない。致し方のない犠牲だ。コラテラルダメージ、というものだよ』

 

 ただ冷酷に告げられていく、死刑宣告のようなその言葉に対し俺は何も決定的な反論ができない。下手な言葉ではあっさりと返されてしまう。何かないのか。せめて、誰でもいいから助けられるような状況を作れないか。

 

 暑いはずなのに、冷や汗ばかりが流れる。背筋はまるで氷でも入れられたかのように冷たい。俺のこの会話で、人の生き死にが左右される。そう理解すると、最早恐怖という言葉では表せない感情が心の中で渦巻いていた。

 

「……沼男を見分ける方法なら、あるじゃないですか。ほら、自分達が受けた起源判別用の機械を使えば……」

 

『それこそ、何人いると思っている? それに、それをするということは本部にそいつらを招き入れるということだ。時間も、被害もデカすぎる。それと、もう沼男になった奴は判別できないだろう? お前達が判別できているのは、人間だった時に検査をしたからだ』

 

「な、ならせめてもう少し時間をください! なんとかして、沼男を見分ける方法を探し出してみせますから!」

 

『猶予がないということを理解しているのではなかったのか? それが田舎だからよかったものを、都会にソレが流出してみろ。世界は完全に崩壊する』

 

 ……ダメだ。どう言おうにも全て反論されてしまう。どうにもならない現状に、次第にイラつきが募り始めた。携帯を握る手に力が入る。少しだけ、ミシッと音が聞こえた。

 

「……ふざけないでくださいよ。そんな、人殺しとか、俺達に許容しろというんですか!?」

 

『許容も何も無い。それに、手を下すのはお前達ではなくこれから派遣する"処理班"だ。処理班がそちらに到着するまで、村人に悟られることなく、誰も外に出さず、監視をしていろ。これは、命令だ』

 

「待て、まだ話は……っ、クソがっ!!」

 

 ブツリッと一方的に電話は切られてしまった。掛け直しても無駄だろう。話を聞く気すらない雰囲気だった。

 

 ……本部からここまで数時間。タイムリミットはそれだけだった。先輩と七草さんが、心配そうな顔で近づいてくる。

 

「……ダメだったか」

 

「むしろ、悪化ですよ……」

 

 先程の会話の内容を、二人に話した。現状がどれだけ悪いものなのかを理解した先輩は、苦々しく顔を歪めて、どうすんだよこれ……と悔しそうに呟いた。

 

「……先輩、処理班ってなんなんですかね」

 

「処理班……聞いたことはある。後処理や口封じの為に派遣される特殊部隊だ。殺人慣れしてる連中ばかりだって噂だ」

 

「……冗談じゃない。本気でやるつもりなのか」

 

「私達、どうすればいいの? このままだと、皆死んじゃうんでしょ? そんなの、ダメだよ!」

 

「どうしようったって……あぁもうッ!!」

 

 先輩は苛立ちのあまり頭を両手で掻きむしった。何かしなければならないという使命感と、どうにも出来ないという無力感が合わさって、最早どうしようもないのだとわかっていてもじっとしてはいられなかった。

 

「……何か、ないか。沼男を見分ける方法は……」

 

「……電気を流してみる、とか」

 

「原子レベルで同じ生命体だったなら、何もわからんだろ」

 

「それはあくまで俺達が沼男だと定義付けしたから発生しているものです。本来、奴らは完全に同じモノなのか判明しちゃいないんですよ」

 

「でもよ、記憶も、服も、持ち物も全部……丸っきり同じなんだ。身体の構造も……」

 

 ……身体の、構造。そういえば奴らはどうやって人を殺しているんだろう。子供が大人を殺すのは中々に大変だ。しかも年は幼い。俺がお婆さんの死体を見た時は……肉片が飛び散っているだけだったのだから。少なくともとてつもない重量の何かが物凄い勢いで叩きつけられなきゃ、あぁはならないだろう。

 

「……諦める、しかないのか?」

 

「そんな、見殺しなんて出来ませんよ!」

 

「俺だってしたくねぇよ! でも何も出来ねぇんだよ!」

 

「二人とも、喧嘩はやめて!!」

 

 今にも取っ組みかかりそうなくらい、精神状態が不安定な俺と先輩の間に入ってきた七草さんが仲裁してくれた。彼女のその必死な顔つきにハッとなり、少しだけ落ち着いたが……だがダメだ。焦りは全然なくならない。

 

「クソッ……言いなりになるしかねぇのかよ……」

 

「諦めるんですか!?」

 

「諦めたくねぇよ。けどよ……もし、沼男がこの村から出ていったら……本当に、まずいことになる。手がつけられない事態になっちまうんだよ」

 

「けど……」

 

 ……あぁ、わかっている。先輩の言っていることが正しい事なんだって、理解している。けどそれを許容したくないのだ。それを許してしまったら……俺は、きっとどうにかなってしまう。助けられるかもしれなかった人を見捨てて、殺してしまうことを俺は心の奥でずっと悩み悔やみ続けることになるかもしれない。そんなのは……嫌だ。

 

「……一旦部屋に戻ろう。外で話してたら、熱中症になっちまう」

 

「………」

 

「悠長なことを言ってんのはわかるよ。でもよ、氷兎……俺も本当は諦めたくねぇんだ。それはわかってくれ」

 

「……すいません」

 

 ……先輩は幾分か大人だ。俺よりも、ずっと。きっと心のどこかで折り合いがついているに違いない。俺にはそんなことは出来そうもない。

 

 民宿に戻り、部屋に戻ろうとすると女将さんに呼び止められた。

 

 ……この人も、何の罪もないのに殺されてしまうのか。そんな言葉が頭の中をよぎっていく。すぐにかぶりを振ってそんな馬鹿げた言葉をかき消した。

 

「何か用ですか?」

 

「いえ、先程紫暮さんが慌てた様子で出ていってしまったので、何かあったのかと……。急に裏口を使わせてくれと言って飛び出していったんです」

 

「紫暮さんが……?」

 

「……あっ……まさか……」

 

 俺は何もわからないが、先輩は何か心当たりがあるみたいだった。女将さんに、自分達の方で紫暮さんを探すと伝えると、先輩はそのまま部屋には戻らずにすぐさま外に出ていった。俺と七草さんも後に続いて外に出る。

 

「先輩、何かあったんですか?」

 

「紫暮さんだよ!! あの人の起源、視覚や聴覚を研ぎ澄ませる『感覚強化』の能力なんだ!!」

 

「……まさか、聞かれた?」

 

「かもしれん。急いで追うぞ! 本部に連絡を入れて紫暮さんの現在位置を送ってもらえ! 裏口から出たなら、きっと逃れるために森の中に入ったに違いない。そっちに向かうぞ!」

 

「っ……はい!」

 

 七草さんも少しだけあたふたしながら、俺達のあとに続いた。本部に連絡を入れて紫暮さんのいる場所を特定してもらう。送られてきた場所をGPSを使って特定し、そこに向かって走っていく。先輩の読み通り、その場所は民宿のすぐ裏手にあった森の奥の方だった。紫暮さんだと思われる信号は、だんだん奥の方へと進んでいっていた。

 

「ねぇ氷兎君……紫暮さん、どうするの?」

 

「どうするのって、それは……」

 

 ……どうすればいいのだろうか。俺にはもう何も出来ないような気すらしてきた。七草さんの言葉に答えられず、ただ俺は心の中で祈った。追いついたらどうにかならないものか、と。

 

 葉っぱが大量に落ちた森林地帯を走り抜ける。そう時間も経たないうちに、おそらく紫暮さんのものであろう痕跡が残されていた。そのままスピードを緩めずに追いかけていく。

 

 やがて、彼の後ろ姿を捉えることに成功した。

 

 ……成功、してしまった。

 

「な、なんで僕の位置がッ……」

 

 向こうも俺達に気がついたようだった。それでも必死の形相でその場から逃げようと走るが、葉っぱに隠された木の根に足を躓かせてしまい、そのまま勢いよく転んでしまった。その隙に、俺達は紫暮さんのすぐ側まで近づいていく。

 

「く、来るなぁッ!!」

 

 ヒュウッと風を切る音が聞こえた。見ると、小さな小太刀を片手に持って振り回していた。無闇に近づけば、その刃が肉を断ち怪我をしてしまうだろう。少しだけ距離をとって、紫暮さんに話しかけようとするのだが……紫暮さんは、焦点の定まらない瞳のままこちらを見て震えている口を開いた。

 

「お、お前ら僕を殺す気なんだろ!! 知ってるんだよ、聞こえんだよ!! 可笑しいじゃないか!! これの、どこがバケモノだって言うんだよ!!」

 

 自分の身体が何でもないのだと証明するように、彼は身体のあちこちを見せるように動いた。けれど、少しでも近づこうとするとすぐに小太刀の切っ先を向けてきた。

 

「お前ら皆、頭おかしいんだよ!! そうだ、僕は正常だ!! 普通だ!! どこも可笑しくなんてない!! どっからどう見たって、人間そのものだろぉぉッ!!」

 

 ……ボコリッという音が聞こえそうなくらい、紫暮さんの左腕が膨れ上がった。筋肉ではない。ただ質量が一部分一気に肥大化したのだ。

 

 流石に目を疑った。少しだけ後ずさろうとしたが、すぐ後ろに七草さんがいることを思い出してなんとか踏みとどまる。

 

「違う、違う違う、違う違う違う違うぅぅぅぅぁぁぁぁッ!!!」

 

 紫暮さんの両眼から、涙がまるで滝のように流れていく。どんどん彼の身体は変化していった。細めの体型であった彼の身体はもはや……ところどころがボコボコと盛り上がった均等の取れていない不釣り合いな身体へと変貌した。身の丈は大きくなり、小太刀を持つ手は普通の大きさだが、もう片方の手はまるで建物を壊すための鉄球みたいに見える。

 

 彼は吠えた。自分の存在を主張した。そして泣いた。

 

「僕は、死にたくない……死にたくないんだよォォォォォッ!!!」

 

 その太くなった腕を振るう。木にその腕が衝突すると、亀裂が入っていきそのまま倒れていった。

 

 隣で立っている先輩が、とても苦しそうな声で俺と七草さんに指示を出してくる。

 

「構えろ……これは、もう……紫暮さんじゃない……」

 

 ……背中に背負った槍を、ゆっくりと構える。掴んでいる手が震える。足はうまく動くかわからないくらい固まっている。目の前の存在を、俺は……どうしても、人としか認識出来なかった。例えそれが、人からかけ離れてしまっていたとしても。こうして対峙するのは、とてもじゃないが……耐えられるものではなかった。

 

 彼は吠えた。今度はもっと大きく。出せる限りの大声で。自分の存在を、疑いたくないのだと言わんばかりに声を張り上げた。

 

 ……それは、開戦の合図となった。

 

 

「僕は、本物だぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」

 

 

 彼の心からの叫びが、森林に響いた。

 

 

To be continued……



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第41話 人ゴロシ

 緊迫した空気が森の中を張り詰めている。目の前で小太刀を片手で振り回し、両眼から涙を流している紫暮さんに向けて槍の穂先を向ける。

 

 ……けど、それは形だけだ。力なんて入ってないし、突き刺す度胸も持ち合わせていない。ただ、後ろにいる七草さんに無様な姿を見られたくないから歯を食いしばってその場に立っているだけだった。

 

「なんで、なんで僕だけがッ!! こんな目に遭わなきゃいけないんだよぉぉぉッ!!」

 

「ッ、一旦離れろ!!」

 

 肥大化した彼の左腕が振るわれる。先輩の声を聞いてすぐ、俺と七草さんは後ろに下がっていった。大きくなればなる分、それだけ質量が増える。質量が増えれば、速度は遅くなるはずだった。

 

 なのに目の前で振るわれる腕はとてもじゃないが鈍重には見えない。素早い一撃が何度も繰り返し叩き込まんと動かされている。彼の足もそうだった。ところどころが盛り上がっていてバランスが悪そうに見えるのに、しっかりと両足で地面を踏みしめていた。

 

「どうしろってんだよ、こんなの……!!」

 

 先輩が悪態をつきながら俺達の側まで走ってくる。片手には先輩愛用のデザートイーグルが握られている。しかし銃口は向けもせず、ただ片手で持っているだけだ。

 

 先輩も、撃てないんだろう。目の前にいる人物は、人間だった。さっきまで、人間だったのだ。

 

「……いいや、違う」

 

 ボソリと呟いた。人間だったのではない。今も彼は人間なのだ。その心が。でなければあんなにも苦しそうに、悲しそうに叫ぶわけがない。彼も認めたくないのだ。自分が……バケモノになってしまったことを。

 

 だって、自分が人間だと証明できないんだから。人は筋肉がいきなり肥大化しないし、その肥大化した部分に合わせるように服が伸縮するなんてのも以ての外だ。

 

「偽物なんかじゃない!! 偽物なんかジャない!! ボクは、ニセモノなんかじゃなイィィィィッ!!」

 

 肥大化した左腕で木を薙ぎ倒して動けるスペースを作り、接近してくると今度は右手に持った小太刀を振るってくる。振るわれる速さも先程の比ではない。空気が切り裂かれる音が耳障りになるくらい聞こえてくる。

 

「散開しろッ!! 纏まってたらまずい、特に氷兎はなるべく離れろッ!!」

 

 先輩が紫暮さんの顔の真横に弾丸を撃ち、自分が囮となってその場から離れていく。先輩の言う通り、俺は離れていた方がいいのかもしれない。時間帯は今は昼だ。身体能力向上は見込めないし、なにより俺は起源覚醒者であるのにも関わらず地の身体能力が低い。先輩や七草さんとは比べ物にならないくらいだ。

 

「氷兎君、私加勢してくる!!」

 

「あっ……」

 

 両手に手袋を嵌めた七草さんが走っていくのを止めようとしたが、先輩一人では無理だ。かといって俺が今突っ込んでいっても足でまといになる。七草さんにはできるだけ戦って欲しくなかったが……最早そんなことを言っていられる状況でもない。

 

「はぁッ!!」

 

 七草さんは先輩を狙っていた紫暮さんの背中に向かって飛びかかり、空中で身体を捻って回転するようにして蹴りを放つ。鈍い音が響き、紫暮さんのあの巨体がそのまま転がっていく。

 

「た、助かった……けど、なんつー力だ……」

 

 先輩はそのまま木を使ってジグザグに走り、紫暮さんとの距離を離しながら威嚇射撃を続行する。立ち上がった紫暮さんは、蹴りを入れた七草さんか、未だに命を削らんとしてくる弾丸を放つ先輩を狙うべきか少し迷ったあと、先輩に向かって走り出した。

 

「……俺は、どうすれば………」

 

 何も出来ないまま、なるべく紫暮さんの視界に入らないように移動していた俺は、何も出来ない歯痒さに苛ついていた。このままでは、先輩の弾が尽きる。長引けば、七草さんが怪我をするかもしれない。

 

 だというのに、俺は何も出来ないままでいた。槍を構えたまま、ただじっと二人の戦闘風景を見ていた。

 

「邪魔を、するナァァァァッ!!」

 

 幾度と無く先輩への攻撃を妨害し続けた七草さんにとうとう矛先が向いた。左腕を振るい、小太刀を振り抜き。しかしそれを軽い身のこなしで簡単そうに避けていく。見ていて溜まったものではなかった。

 

「どうにかしないと……でも、俺に何が出来る?」

 

 先輩の威嚇射撃に紫暮さんはもう反応しなかった。ただ攻撃を加えてくるのが七草さんだけだとわかったのか、もう先輩を狙うことはせずに七草さんだけを攻撃し始める。何も出来ない現状に苛ついていると、ズキリッと頭が痛んだ。

 

 

 ───そんなところでじっと見ていたままで、いいの?

 

 

 脳内に声が響いてきた。今まで何度か聞いてきた、あの女声だった。この状況に苛つき精神的に不安定になっていた俺は言葉を荒らげてその声に応える。

 

 いいわけないだろ! でも、俺に何が出来るってんだよ!

 

 

 ───あるじゃないか。君にも出来ることが。

 

 

 その響く声が、どうにも俺の事を笑っている気がして腹が立った。心の中で色々と言葉を荒らげる俺に、女声は少しだけ嘲笑(わら)ってから言った。

 

 

 ───君の腹に巻き付けてあるソレは、飾りなのかい?

 

 

 言われて、自分の腹を触った。そこにあったのは、オリジンから支給された銃だった。いつでも持ち歩けるように腹に巻き付けていたのを思い出す。

 

 ……これを、使えというのか。その小さな呟きに女声は応えた。とても、冷徹な言葉が頭に響く。

 

 

 ───殺せよ。

 

 

 たった一言。けれど、今まで生きてきた中でこれ以上言葉で衝撃を受けたことは無かっただろう。人を殺す決意もないのに、まるで自分の身体じゃないように、俺の意思に反して腹につけられた銃を片手で持った。

 

「………」

 

 七草さんが必死に攻撃を避けている。その光景を見ながら、俺はゆっくりと銃口を紫暮さんに向けていった。けれど、手が震えている。銃口は向けられていても、狙いが定まっていない。

 

 心臓が跳びはねている。脈打つなんてレベルではなかった。呼吸も段々と浅くなり、感覚も短くなってくる。

 

 ヒュンッと小太刀が振るわれた。紫暮さんの持っている小太刀が、とうとう七草さんの左腕を斬りつける。

 

「痛っ……」

 

「七草ちゃん!?」

 

 あっ……と小さく声が出た。

 

 七草さんが傷付いた。誰のせい? 遠距離から射撃をしている先輩のせい? 逃げ回るばかりで反撃をしなかった七草さんのせい? 攻撃を繰り返す紫暮さんのせい?

 

 ……いいや。

 

 

 ───君のせいだよ。

 

 

「ッ………」

 

 ダンッと一発の弾丸が放たれた。銃口がぶれぶれで、手が震えていたのにも関わらず、その弾丸は辛うじて紫暮さんの左腕を撃ち抜いた。

 

「─────ッ!!!」

 

 咆哮が響く。血走った両眼が俺を捉えた。今までの優先順位を無視し、身体に傷をつけた俺を殺そうと凄まじいスピードで走ってきて小太刀を振り上げた。

 

「氷兎君、逃げてッ!!」

 

「氷兎ォォォッ!!」

 

 逃げるだなんて、無理だった。足はもう固まってしまっていたのだから。咄嗟に片手で槍を動かして小太刀を防いだ。

 

 ……が、走って来た勢いに加えて強化された紫暮さんの腕力に、槍が小太刀によって弾き飛ばされた。片手では堪えられるわけがなかった。そして今度は左腕がぐっと引かれ、身体のど真ん中を打ち抜くように振り抜かれた。

 

「がっ、あぐっ……」

 

 ズシンッと重たい一撃が身体に響いた。腹に叩き込まれた俺はそのまま吹き飛び、後ろにあった木に衝突してそのまま前に倒れ込む。肺の中身が一気に失われ、呼吸ができなかった。

 

「死ネェェェェェッ!!!」

 

 なんとか首を上げて見ると、俺を叩き潰さんともう一度その左腕が引かれていた。

 

 ……ここで、死ぬのか。

 

 頭の中にふと、菜沙の姿が浮かんできた。約束を守れなくてごめんっと心の中で謝ると、俺は脱力して迫り来る死に備えた。

 

「氷兎君に、触らないでッ!!」

 

 ……来ると思っていた痛みは来なかった。七草さんが走ってきて、紫暮さんの左腕を蹴り飛ばして拳の進路を変えたのだ。しかしそれでも紫暮さんは止まらない。今度は右手に持った小太刀で斬りつけようと、右腕を後ろに下げた。

 

 七草さんは動こうとしない。俺を庇う気なのだろう。そんなこと、しなくていいのに。

 

 なんとかしてこの場から動かなければならないのに、身体は上手く動かなかった。動くのは、腕だけだ。身体に酸素が上手く回っていないせいだろう。腕だけではこの場からすぐには逃げられない。けれどこのままでは、七草さんが死んでしまう。

 

「させるかよッ!!」

 

 響く一発の銃声。カキンッと鉄が弾かれる音が聞こえ、紫暮さんの持っていた小太刀がどこかへ飛んでいった。離れていた先輩が、小太刀を狙撃したようだ。

 

「邪魔するナって、イっただろォォォッ!!!」

 

 何度も邪魔をされた紫暮さんは怒り狂った。

 

 このままでは、俺が邪魔になって全滅する可能性が高かった。それのせいで、七草さんや先輩が傷つくのは、御免だった。

 

 ……だから、俺は。

 

「ガッ、アァァァァァッ!?」

 

 腕だけを動かして、紫暮さんの眉間を撃ち抜いた。こんな至近距離で外すような訓練はしていない。

 

「ア、あぁ………」

 

 眉間から血が溢れ出し、そのまま紫暮さんは後ろ向きに倒れていった。

 

 身体構造が同じなら、脳を撃ち抜けば死ぬのも同じことだ。人間を真似ているバケモノならではの弱点だった。

 

「………」

 

「氷兎君、しっかりして!!」

 

 七草さんが俺の身体を起こして揺らしてくる。紫暮さんがもう動かないという安心感と、人を殺したという気持ち悪さに、もう動く気力すらなかった。

 

「氷……起き……!!」

 

「おい、……しっか……!!」

 

 途切れ途切れになってきた先輩達の声を聞きながら、俺は重くなってきた瞼を閉じて、そのまま意識を手放した。

 

 

 ───よく出来ました。

 

 

 意識が途絶える直前、誰かが俺を嘲笑(わら)っていた気がする。

 

 

To be continued……



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第42話 相棒ノ心

 ……何かが燃える匂いがする。そう遠くはないどこかで、何かがパチパチと燃える音がする。そして……

 

「いやぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 ……誰かの悲鳴に混じって、発砲音が聞こえる。嫌な夢でも見ているのかと思って数分。ようやく意識がハッキリとしてきた。目を薄らと開けると、車の天井が見えた。そして……視界の半分を塞いでいる誰かの身体。

 

「……氷兎君? 氷兎君、大丈夫!? 私のことわかる!?」

 

「……あぁ」

 

 七草さんの慌てた声が耳に響く。まだ少しだけ頭痛が残っていた。どうやら俺は七草さんに膝枕をされて横になっているようだった。

 

 ……俺は、何をしていたんだったか。

 

「───────ッ!?」

 

 悲鳴が聞こえた。その悲鳴を聞いてようやく、俺は何をしていたのかを思い出した。車の窓からは暗い夜空に向かって立ちのぼる真っ黒な煙が見えている。急いで飛び起きようとして、腹と背中の両方が痛みうまく動けなかった。腹には紫暮さんの拳が叩き込まれ、背中は木に激突したときに負傷したのだろう。

 

 ……でも、動けないほどではない。

 

「だ、ダメだよ! 気絶するくらい酷い痛みがあったんだから、寝てなきゃ!」

 

「……寝てる暇なんて、ない。先輩は、どこにいった?」

 

 途切れ途切れになる言葉を発しながら七草さんに先輩のいる所を聞いた。後部座席には俺と七草さんがいるけど、運転席には先輩はいなかったからだ。きっと……先輩は村の方にいるに違いない。

 

「翔平さんは、まだ村に残ってて……」

 

「そうか……」

 

 なんとか身体を起こして、引き止めようとする七草さんを宥めながら外に出た。車の外は鼻につく匂いが一層酷い。未だに銃声は時折鳴り響いている。

 

「ダメだよ氷兎君!!」

 

 車の中にいる七草さんにぐっと引っ張られた。彼女の顔は悲壮感に溢れていて、どうしても俺を動かしたくないように思えた。いや実際そう思っている事だろう。けど、俺はここにいるわけにはいかないのだ。あの惨劇の中心に行かなくては。

 

「……なら、私も行く。氷兎君だけじゃ危ないよ」

 

 七草さんが車の外に出ようとするのを、俺は両手で押し返すようにして押しとどめた。

 

「……七草さんが見る必要はないよ。こんなもの……見なくて十分だ」

 

「なら氷兎君が見る必要もないよ!!」

 

「俺には責任がある。あの時、木原さんとの通話で止められなかったのは、俺の責任だ」

 

 そう言っても、泣きそうな顔で止めようとしてくる七草さんに俺は今出来る精一杯の作り笑顔で言った。

 

「俺なら大丈夫だよ。だから、七草さんはここにいて」

 

「………」

 

 彼女の瞳から一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。その涙を手で拭ってやり、軽く頭を撫でてから俺は車の中に置いてあった外套を身に纏って車の扉を閉め始める。

 

 閉め切る直前に七草さんの涙声が聞こえ、少しだけ扉を閉めるのを止めた。

 

「……ちゃんと、帰ってきて」

 

「大丈夫。ちゃんと帰ってくるよ」

 

 そう言って扉を閉めた。まだ少しだけフラつく身体を引き摺るようにして、至る所で火をあげている村の中へと進んでいく。

 

 ……また、誰かの悲鳴が聞こえた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 最後に悲鳴が聞こえてから何分が経ったのだろうか。そんな事を考えながら翔平は、村の中央付近で行われていた惨劇の場を木に寄りかかるようにして眺めていた。

 

 やってきた処理班の人達はすぐに村を包囲し、民家を焼き逃げ場を塞ぎ、村中の人達を銃殺していった。老人だろうが、子供だろうが。男だとか女だとか関係なく。皆殺しだった。

 

 処理班のメンバーは皆あの黒い外套を着ており、フードも被っていた。

 

 まるで悪者みたいだ。こんなのが人々の平和を護っていると考えると……虫唾が走る。そう言って翔平は口の中に溜まっていた血をペッと吐き出した。この惨劇を止めようとした結果、処理班の男に殴られたのだ。

 

「………」

 

 気持ち悪い目付きだった、と未だに自分を監視している男達の背中に向かって翔平は毒づいた。外套から覗く眼は、何奴も此奴も腐っていた。あの眼を、つい最近見たばかりだというのに。

 

「……先輩、ここでしたか」

 

 見張りをしていた男に連れられるように、氷兎が歩いてきた。その瞳は潤んでいた。辺りで色々なものが燃えていて、少ししたら瞬きをしないと乾燥してしまいそうなのにも関わらずだ。

 

 氷兎はそのまま翔平の隣にまで歩いてくると、立っているのが辛いのかそのまま背中を木に預けて座り込んだ。

 

「もう大丈夫なのか?」

 

「……そう、見えますか?」

 

 氷兎の声はもう既に震えていた。おそらく泣くのを我慢しているのだろう。それが痛みのせいなのか、それともこの現状のせいなのか……。翔平は後者だろう、と思った。自分の相棒は身体の痛みで泣くよりも、心の痛みで泣く思いやりのある奴だと思っているからだ。

 

「……なぁ、隼人。これがお前のやりたかったことなのかよ」

 

 翔平は自分達を監視し続けている男……以前の仲間であった隼人に刺がある言い方で話しかけた。隼人は振り返り、その濁った眼を氷兎と翔平に向けた後、重々しく口を開いた。

 

「これが任務だ」

 

「……ハッ、そうかよ」

 

 隼人を鼻で笑うと、翔平の顔は少しだけ歪んだ。その苦々しい顔のまま、口をゆっくりと開く。

 

「……お前、もっと良い奴だと思ってたよ」

 

「与えられた任務をこなす。それが俺の責務だ。そこで大人しくしていろ」

 

 隼人は氷兎達を見るのをやめ、また焼け焦げていく村を見る作業に戻っていった。

 

「いやぁ!? やだ、やめて、お願いだから殺さないでっ!!」

 

 奥の民家に隠れていたんだろう女の人が、無理やり引っ張られるように連れ出された。連れ出した男はその女の人の足を力強く踏みつけて逃げないよう固定し、その近くにいた別の男が持っていた銃で頭を撃ち抜いた。

 

「……助けられるかも、しれなかったのに」

 

 とうとう氷兎は涙を流して蹲ってしまった。その惨劇から目を逸らしたくなったのだろう。翔平はただ、木にもたれかかったまま口を開いた。

 

「目を逸らすなよ。これは……俺達が助けられなかった人達だ」

 

「っ………」

 

 返事はなかったが、氷兎は涙を袖で荒く拭いながら顔を上げ、自分達の非力さの結果生まれたこの惨状を目に焼き付けた。もう、顔を逸らしたりなんてしなかった。

 

「……お前は、強いよな」

 

 小さく呟くように放たれたその言葉は、けれど氷兎にしっかりと届いた。氷兎は軽く首を振って、そんなことはないと答えた。

 

「俺は……弱いです。あの時、何も出来なかった。あんな手段でしか、俺は止められなかった。それに、この惨状を引き起こす引き金になったのも、結局は俺だったじゃないですか……」

 

「……いいや、お前は強いよ」

 

 翔平はホルスターに入っていた銃を片手に持って、それをじっと見ながら話し始めた。

 

「俺には度胸がなかった。本当はさ、俺は剣を振る適性もあったんだ。けど俺は剣なんて予備だろうが持たずに、こうして銃を持ち歩いてるんだけどさ」

 

 苦々しい顔で、話しにくそうにしている翔平の言葉を氷兎はじっと聞いていた。氷兎が見るに、まるで翔平は独り言を呟くようだった。返事を求めているのではなく、ただ自分の心の弱さを聞いて欲しいのだ、と。

 

「初めは意気揚々と剣を片手に敵を斬る練習をした。けど……あの手に残る感覚が気持ち悪くて吐いちまった。何度やっても吐いて吐いて……俺は、自分の手じゃ誰も殺せないんだとわかった。そんな度胸、どこにもなかったんだ」

 

 翔平は銃のマガジンを取り外し、中に入っていた弾丸も取り出してから、空に向けて空撃ちした。カチンッと弾切れを伝える音が、翔平と氷兎の周りだけに響いた。

 

「けど、銃でなら話は別だった。銃なら、手にあの嫌な感触は残らない。残るのは、銃を撃った反動だけだ。これでなら俺は、バケモノでもなんでも殺せると思ってた」

 

 弱々しく呟くだけだった翔平は、次第に声量が大きくなっていった。まるで非力な自分を叱責するように。

 

「けど現実はどうだ。俺は、紫暮さんがあんな風になって仲間を傷つけても、撃てなかった。仲間を守る為に……誰かを殺すという決断すらもできなかった」

 

「……それは、当たり前の事です。普通のことですよ。俺だってハッキリと決断した訳じゃないです。けど……あのままだと七草さんが俺のせいで死ぬかもしれないと思ったから、仕方なくやった……それだけです」

 

 ここまで来て初めて翔平の言葉に対して口を開いた氷兎は、あの時自分がどういう状態であったのかを話した。自分の意志でありながら、自分の意思ではなかったようなものなのだと。決断したのは、やむを得ずだったのだと。

 

 しかし、その言葉を翔平は首を振って否定した。

 

「それでもお前は決定して決行した。俺にはそれはできなかった。近接戦をする度胸もない。誰かを自分の手で直接殺すなんてこともできない。仲間の為に誰かを殺す勇気もない。だから俺は……お前を強い奴だと思った。銃だけ使えばいいものを、槍を持って接近戦の訓練もして、吐いても吐いても、大切な人を守るためだって割り切って克服して。とてもじゃないけど、俺には……そんなこと出来そうもない」

 

 翔平が言い終えると、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。未だにパチパチと焼ける音が響き、目の前では死体を集めている男達が忙しなく動いている。それらを眺めながら、氷兎は口を開いた。

 

「誰にだって、得意不得意はあります。俺にだって、先輩のような精確な射撃はできません。だから……それでいいんですよ。貴方は本当は優しい人だ。こんな所にいなければ、きっと道端にいる蟻を踏まないように気をつけるくらい命を尊ぶ人だと思います。だから、貴方はそれでいいんですよ。貴方に出来ないことは……俺が引き受けましょう。貴方の、相棒として」

 

「………」

 

 氷兎の言葉に翔平は答えなかった。ただじっと目の前の光景を眺めている。処理班はどうやら鎮火の作業に入ったようだった。先程よりも忙しなく動き始め、そう時間の経たないうちに全て終わることだろう。

 

「……帰りましょう、先輩」

 

「……あぁ」

 

 氷兎は木に手をつきながら立ち上がり、翔平よりも一足先にその場から歩いて離れていく。

 

「……強くならなきゃな」

 

 お前の為にも。誰にも聞こえないくらい小さく呟いた翔平は、氷兎の隣にまで走っていって肩を貸してやった。真っ暗な道を、二人一緒になってゆっくりと歩いていく。

 

 もう、誰の悲鳴も聞こえなかった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 車で揺られて帰ってきて、俺達はすぐに司令室に向かった。報告と……苦情を言うためだ。

 

 司令室の中では、木原さんがいつものように待っていた。部屋の中にいるのは俺達を含め四人だけだ。木原さんは俺達に何もなかったかのように報告を求めてきた。

 

 ……腸が煮えくり返って仕方が無い。その思いが顔に出ていたのか、木原さんは俺を睨みつけるようにして口を開いた。

 

「そんな顔をされても、私は何も言えん。これが世界にとって正しいことだったのだ」

 

「正しい……? 人を殺すことが、正しいだと? 巫山戯たことを言うな!!」

 

「アンタがあんな指示を出さなきゃ、誰か助けられたかもしれない。だというのに、その余地すらくれないのかアンタは!」

 

 俺も先輩も、我慢の限界だった。声を荒らげて自分の想いをぶちまける。隣で七草さんが少しだけ怯えていようが、お構い無しだった。

 

「俺達は人を殺すためにここにいるんじゃない。バケモノを……神話生物を殺すためにここにいるんだ!」

 

「バケモノだったじゃないか」

 

「そうじゃない人もいたはずだ!!」

 

 俺の言葉に木原さんはまったく動じなかった。涼しい顔をしたまま、俺の言葉に反論してくる。その顔に、腹が立って仕方が無い。

 

「あのまま時間が過ぎれば、なにか出来たのか? 何かしら手立てが用意出来ているのならともかく、無策ならば時間の無駄だ。余計な被害が出る前に全て終わらすべきだ」

 

「だからって……!!」

 

「もういい、氷兎。どう言ったって無駄だ。話を聞く気がないんだからな」

 

 先輩が俺の腕を掴んで止めた。仕方なく、口から漏れそうに罵倒をぐっと堪えて、少しだけ後ろに下がった。代わりに先輩が木原さんに対して口を開いた。

 

「氷兎も言ったように、俺達の目的は神話生物退治です。だというのに、今後こんなことが続くようなら……アンタの命令を放棄し独断で動くことになります」

 

「ふん……好きにするといい」

 

「……二人とも、出るぞ」

 

 先輩に部屋の外に出るように促された。けど、俺は一旦立ち止まって先輩に向き直る。

 

「……すいません。七草さんと先に出てもらってもいいですか?」

 

「……わかったよ」

 

 先輩は七草さんを連れて部屋の外へと出ていった。部屋に残されたのは、俺と木原さんだけだ。俺は振り返って木原さんの目を真っ直ぐ見据えて、口を開いた。

 

「……聞きたいことがあります。七草さんのいた潮風孤児院……あれ、どうしたんですか」

 

 俺達がオリジンに入ってからすぐは、忙しくてニュースなんて見る暇がなかった。けど、今回の一件があってからどうにも引っかかっていた。

 

 ……俺の中での予想は、最悪の形で的中していた。

 

 

「火事として処理したよ。中にいた連中、全部な」

 

 

 ……何も言葉が出なかった。こんなことを、七草さんには伝えられないだろう。仮とはいえ、あそこは彼女の家だったのだから。

 

 それに、中にいた連中全部ということは……あの子供たちも全て、ということなのだろう。流石に苛つかずにはいられない。握っている両手に力が入る。

 

「子供だろうと、あそこにいたのがお前の言う深きものどもの子供であった可能性もある。疑わしいのならば、諸共殺すまでだ」

 

「……殺人鬼め」

 

 忌々しそうに呟かれた俺のその言葉に、木原さんは鼻で笑ってから言い返してきた。

 

「それは君だよ『サツジンキ』。助けたい子供でもいたのなら、自分の金で孤児院でも建てればいい。費用を全て自分で持つのなら、私はその使い方に対して何も言うことは無い」

 

「……失礼します」

 

 そう言って部屋を出て荒々しく扉を閉めた。心の中で木原さんに対する暴言を吐きながら、すぐ近くで待っていた先輩と七草さんの元へと歩いていく。

 

 七草さんが心配そうな顔で近寄ってきて、下から顔を覗き込んできた。

 

「……何かあったの?」

 

「……いいや、何もなかった」

 

 ……木原さんのことが嫌いになりそうだ。それが例え世界のために必要なことで、正しいことだったとしても……俺は、あの行いを許容できない。きっとここにいる二人も、そう思っていることだろう。

 

 

To be continued……




題名及びあらすじを少し変更しました。


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第43話 温もり

 ドタドタッと誰かが勢いよく走ってくる音が聞こえる。そしてすぐに普段氷兎達が生活している部屋の扉が荒々しく開かれた。その開いた人物は、菜沙だ。そのすぐ後ろには桜華もいる。菜沙は入ってきてすぐに中を見回して、探している人物がいないことを確認すると軽く項垂れた。

 

 部屋に残っているのは、翔平だけだ。氷兎は部屋にはおらず、彼のベッドの上には荷物が置いてあるだけだった。

 

「あの、ひーくんは何処にいますか……?」

 

「……氷兎なら、さっき頭を冷やすって外に出てったよ。何処にいるのかは、流石にわからん」

 

 菜沙は桜華から氷兎が怪我したことを聞いていた。けれど、事の詳細を聞いていたわけではなかった。ただ彼が怪我をした。それだけで走り出す理由には十分だった。

 

 部屋に残っていた翔平のどこか暗い顔を見た菜沙は、何か大変な事があったんだろうと予想出来た。入口で立っていた二人は部屋の中に入ってきて、菜沙は翔平に尋ねた。

 

「ひーくんに、何があったんですか?」

 

「……説明すると、長くなるんだがな………」

 

 暗い顔のまま、翔平はポツポツと話し始めた。調査に行った村で何があったのか。氷兎がどんな状態になったのか。そして、氷兎が今きっと悩んでいるであろうことを自分なりに予想を立てて説明した。

 

 その説明を聞いた菜沙はすぐさま立ち上がって言った。

 

「私、ひーくんを探してきます」

 

 素早い動きで扉を開けて彼女は走り去っていった。その後を追う気なのか、桜華も立ち上がって外に行こうとする。

 

「わ、私も菜沙ちゃんと一緒に……」

 

「まぁまぁ待て。今回は菜沙ちゃんに任せておきなよ。きっと……その方がいい」

 

 翔平が彼女を引き止める。長い付き合いである菜沙の方が氷兎の心を癒すのに適していると思ったからだ。きっと、桜華が行ってしまうと邪魔になってしまうかもしれない。

 

 翔平は立ち上がって棚の中から適当に菓子類を取り出して机の上に並べた。

 

「ここでゆっくり待ってようぜ。珈琲でも淹れてやるよ」

 

「……はい」

 

 少しだけ悲しそうな顔をした彼女は、外に行くことをやめて椅子に座った。出された菓子をひとつ掴んで袋を開け、中身をポリポリと食べ始める。

 

 世話の焼ける後輩だ。そう心の中で呟いて、せめてここは先輩らしく格好よく場を収めておいてやろうと珈琲の入っている棚を開けて、暫くその場で動けなくなった。

 

「……珈琲の淹れ方がわからん」

 

 やっぱり格好つかなかった。それはそうだ。ここの部屋に置いてある珈琲は専用の機械を使わないと淹れられないようになっているのだから。

 

 小さく溜め息をついて、この後どうしようか悩んだ結果……

 

「あぁー、その……りんごジュースでいいか?」

 

 彼は苦笑いを浮かべながら妥協した。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ここに来てから、どれくらい時間が経ったのだろう。夏だというのに感じる寒さや悪寒に身を震わせながら、俺は思った。前に散歩していたら偶然見つけた、木が乱雑に生えている場所の真ん中にポツンと存在するちょっとした池のほとりで俺は座っていた。辺りはもう真っ暗だ。転々とある街灯がなければ、何も見えないだろう。

 

 ただボーッと池の中で泳いでいる魚を見て、そして流れ出る水の動きをじっと眺めていた。こうしていると、なんだか何もかもを忘れられる気がして、何も考えずにいられそうだったから。

 

「……ここにいたの、ひーくん」

 

 突然背後から声を投げかけられて、少しだけ身体がビクッと震えた。いきなり背後からやってくるのはやめて欲しい。これでも小心者なのだから。

 

 俺が返事をするよりも早く、彼女は俺の隣に腰を下ろした。地面に手をつけている俺の手の上に重ねるように、彼女も手を置いた。なんとなく寒く感じていたせいか、彼女の手が暖かく感じる。

 

「……よく俺がここにいるってわかったな」

 

「ひーくんって、水が流れてるのを見るのが好きだから。なんとなく、水のある場所にいるんだろうなって」

 

「エレベーター付近に噴水があっただろ」

 

「人が多いところ好きじゃないでしょ。それに、私もここ見つけてたの。初めてここに来た時、ひーくんが好きそうな場所だなーって思ってた」

 

「……流石と言うべきか、変態と罵るべきか」

 

「俺のこと好きすぎだろって返してくれてもいいんだよ?」

 

「……馬鹿言え」

 

 少しだけ心が軽くなった気がする。やっぱり菜沙が近くにいると、安心する。彼女の暖かさとか、匂いとか。人間慣れ親しんだものが近くにあるだけで精神的に安定するんだろう。少し息を吸ってから、肺の中身を全て吐き出した。

 

「ため息なんて、珍しいね」

 

「………」

 

「鈴華さんから聞いたよ。ひーくんが、何をしたのか。どんなことがあったのか」

 

「……それを聞いて尚俺の近くに来るのか? こんな滑稽なサツジンキの隣に?」

 

 自分のことを自虐するように、俺は言葉を発した。重ねられた手に痛みが走る。どうやら、彼女に抓られたようだ。

 

「サツジンキだとか、関係ない。私はひーくんの隣にいたいからいるの」

 

「……俺には関係ある。俺は人殺しだ。例え相手が人に似た何かだったとしても、俺は……この手で殺したんだ」

 

「そうしなきゃ、桜華ちゃんが死んでいた。なら、ひーくんは間違ってないよ」

 

「人殺しは悪だ。許されるべきじゃない」

 

「なら私が許す。皆が貴方を悪といっても、私は貴方の味方でいる」

 

「……馬鹿なのか、お前は」

 

 そう言って、顔を回して彼女の瞳を見た。

 

 ……それ以上は口が開かなかった。彼女の瞳は真っ直ぐで、その言葉に嘘偽りなんて存在しないのだと主張していた。重ねられた手が強く握られる。

 

「自分を責めないで。一人で抱え込まないで。苦しかったら、私に相談して。約束したんだから。私は……ずっと貴方の隣にいるから」

 

「………」

 

 すぐには言葉が出なかった。ただ、何と言うべきか。目の前の幼馴染が俺のことを大切に想ってくれているのだと、ハッキリと口に出してくれたおかげか。心の中が暖かくなった。さっきまで感じていた寒さや悪寒はなくなり、震えなんてものは元からなかったように消えていた。

 

 少しだけ恥ずかしくなり、それを隠すように彼女を嘲るちょっとした悪口を言った。

 

「……馬鹿だよ、お前は。考える頭と一緒に胸もなくしたんじゃないのか?」

 

「……なら、ない胸でも満足させてあげるよ」

 

 そう言って彼女は立ち上がり、俺の真後ろに回り込んで抱きついてきた。

 

 背中に少しだけ柔らかいものが当たり、俺の首を回すようにして手を回したせいで彼女の吐息が当たるくらい顔が近かった。彼女の温もりが、身体全体を包み込んでいく。

 

 先程とは違う理由で、身体が震え始めた。悟られないように、俺はまた彼女に苦言を漏らす。

 

「どうせなら、七草さんに抱きしめられたかったな……。お前の存在すら怪しい胸じゃ、いくら経っても満足しないよ」

 

「……満足するまで、ずっとこのままだから」

 

「っ……何時間かかることやら」

 

「何時間でも、ずっと」

 

「………」

 

 堪えきれなかった。彼女の暖かさのせいで、どうやら涙腺の機能が壊れてしまったらしい。オーバーヒートかな、これは。目元が熱さで赤くなってしまう。

 

 ……ポツリ、ポツリ、と涙が回されている彼女の腕に落ちていく。菜沙は何も言わずに、ただずっと後ろから優しく抱きしめてくれていた。前からでなくてよかった。こんな泣き顔を、彼女には見られたくない。

 

 壊れてしまった日常(まえ)のように側にいてくれる幼馴染に、俺はお礼を言った。

 

「……ありがと、菜沙」

 

「……帰ってきてくれてありがと、ひーくん」

 

 静かな時間だけが過ぎていく。誰も俺達を邪魔するものはなく、ただ天井に設置されたパネルが映している星が見下ろしているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なぁ、俺もう満足したんだけど」

 

「私はまだだよ」

 

「……そう」

 

 仕方が無いから、そのまま近くの木に寄りかかって座り、彼女を俺の足の間に移動させた。そして、今度は俺が背中から手を回して固定する。

 

「……満足か?」

 

「……もう少しだけ」

 

 結局、そのまま外で俺達は寝てしまった。ここが本当の外ではなく地下でよかった。毛布なんてなくても……暖かかったから。

 

 

 

To be continued……




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第44話 友達コントラスト

 山奥村で起きた事件。通称『山奥村沼男事件』は俺達に深い傷跡を残して一旦幕を閉じた。未だに振村という学者は見つかる気配がない。

 

 あの事件から数日。なんとか持ち直した俺達は以前のように部屋で二人、ゆったりと珈琲片手にゲームをしていた。これでもあの事件を終えて、また少しだけ先輩との距離が縮まった気がする。

 

「……なぁ氷兎」

 

「なんですか?」

 

「……欲求不満過ぎてやばい」

 

「いきなり何を言ってるんですか」

 

 呆れながら言う俺とは違い、先輩の顔はいたって真面目だった。こんな所でそのシリアス顔を使う必要は無いと思うんですけど。こんな昼間っからド下ネタは勘弁して欲しい。

 

「いや、普通の生理現象だと思うんだ。人間、死と隣り合わせになると子孫を残す為の本能が働く訳だ。つまり今の俺はその状態にあると言える」

 

「はぁ……まぁ、確かに危険な仕事ですけど……」

 

「俺も、そろそろ鞘が欲しいんだ。俺の聖剣を納める鞘が……」

 

「アンタ剣で突き刺したら吐くでしょ」

 

「今はそういうのはいいの。俺はともかく、このどうしようもない性欲をどうにかしたいの! このままだと俺は暴走してアイスティーに睡眠薬を混ぜてお前に飲ませるかもしれん」

 

「先輩っ、ホモの紅茶はまずいですよ!!」

 

 先輩の目は結構ギラついていた。この人本当にケツを狙ってくるかもしれない。流石に身の危険を感じたので、仕方なく先輩に付き合ってストレスやら何やらを発散させてあげようと思った。

 

「お前はいいよなぁ……どうせ陰で幼馴染と気持ちいいことしちゃってるんだろ? 爆ぜろ」

 

「してません。それに、先輩は加藤さんのこと好意的に思ってるんじゃないんですか? いっその事アタックしてきたらいいじゃないですか」

 

「あの人は俺の事を弟か何かとしか思っとらん」

 

 ガックリと項垂れた先輩。本当にそうだろうか……。基本堅そうな雰囲気を身に纏っている加藤さんは、先輩の前では割りと柔らかそうな物腰になっている気がする。それを家族に見せる態度と思うのは流石に性急ではなかろうか。

 

「この組織、屋上あるんだけど……焼いてかない?」

 

「勘弁してください」

 

「はぁ……俺も、なんかこう可愛い女の子と良い出会いをしてみたいもんだけどなぁ……」

 

 そう言って珈琲を飲みながら何かを考え始めた先輩。俺はとりあえず稼働を終えた乾燥機から洗濯物を取り出して、俺と先輩の服を分けて畳んでいく。

 

 自分のくらい自分で畳んでほしいものだ。いくら俺が家事ができると言っても、流石に任せすぎではないだろうか。俺はまだ専業主婦になった覚えはないのに。

 

「……ハッ、閃いた!」

 

 唐突に頭の上で電球マークがピコーンッと現れたようで、先輩は何かを閃いたらしい。どうせ碌でもないことだ。俺は洗濯物から目を離さずに仕方がなく先輩にその内容を尋ねた。

 

「ふふふ、聞いて驚くな……これから街に出てナンパに行くぞ」

 

「アンタこの前ナンパする奴が現実にいるわけねぇだろ的な事言ってましたよね」

 

「よし、決まったら善は急げだ。氷兎も準備しろ。拒否したらホモの紅茶飲む羽目になるからな」

 

「えぇ……」

 

 俺の困惑した表情なんて知らないとでも言いたげな先輩は、そのまま服の入ったクローゼットからワンセットの服を取り出すと、それを先輩のベッドの上に並べた。振り返って俺を見る先輩の顔は、いつものアホ面だった。

 

「さて、今回のナンパには俺が考えたとびっきりの作戦がある」

 

「はぁ……で、なんです?」

 

「まず、俺と氷兎を比べた場合……どちらかと言うと俺の方が顔は良い」

 

「……否定はしませんが」

 

「これこそが重要だ。オタクとノーマルが並んで歩いていると、どうにもノーマルがイケメンに見えてしまう状況がある。あれ、なんかあの人キモイけど、隣の人案外そうでもなくない? っていうアレだ」

 

「………」

 

「そう、ズバリ今回の作戦名は……『ブスが隣に並べばその隣の奴のイケメン具合に補正が入っちゃう大作戦』だ」

 

「ぶん殴られたいのかアンタ」

 

 流石にちょっとキレそう。確かに先輩と俺が並んでどっちがイケメンなのかと尋ねたら、10人中8人は先輩と答えるだろう。この腐れ天然パーマはあろう事か顔面の作りはいいのだ。神は先輩に顔面を与える代わりに天然パーマを与えたらしい。

 

 ……天然パーマを考えれば、別に顔面なんていらない。別に羨ましくない、うん。俺はそう結論づけた。

 

「そしてここで必要になってくるのがこのアイテム。このちょっとダサいTシャツとジーパン、そして眼鏡をかけてバンダナを巻き、リュックを背負えばあら不思議。君もオタクだ」

 

「一般人が想像するオタクの服装じゃないっすかこれ。なんでこんなもん持ってるんだ……。まさか先輩……」

 

「馬鹿言え。仮に俺がオタクだとしてもこんな服装着ねぇよ。これは去年買った福袋の中に一式詰め込まれてたものだ」

 

「在庫処分か何か?」

 

 流石にこんな物を来て外に出るなんてゴメンだ。先輩も着る気が無いようだし、今度これ一式はフリーマーケットで売ってこよう。いやネットショッピングなら一式買い取ってくれる人もいるかも……。今度Amazonesに登録しておこう。

 

「はぁ……先輩のアホみたいなナンパに付き合ってあげるんでさっさと行きましょう」

 

「お前最近俺の扱い冷たくなってない? 反抗期?」

 

「慣れです」

 

「なら仕方ねぇな!」

 

 この人が深く考えない阿呆でよかった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 流石にまだまだ外は暑い。適当に黒系の服装で固めたせいで日光を吸収して余計に暑い。流石にもう少し着る服を選んだ方が良かったか……。地下に篭ってると、どうにも外との気温差とかを忘れてしまうな。隣を歩いている先輩もいつも通りのラフな格好だ。

 

「……で、なんでわざわざ渋谷に来たんですかね」

 

「昔からよく言うだろ? ザギンでシースー、渋谷のチャンネーって」

 

「それ多分死語です」

 

 先輩の言っていた言葉はだいぶ前に流行って……流行っていたのだろうか。ともかく、言われていた言葉だ。しかし古すぎる。未だにそんな事を言う人が残っているんだろうか。

 

「それで、ナンパする覚悟はあるんですか?」

 

「……む、向こうから話しかけてくれるさ! ほら、俺顔はいいから!」

 

「顔は、ね」

 

 その天パがなければ本当に誰もが振り返るイケメンだったのだが……。勿体ない人だ。矯正でもしてもらったらどうだろうか。してもらえば多少はその天パも鳴りを潜めるだろう。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「ありがとうございましたー」

 

 店員のお礼を聞きながら、コンビニから出てくる。外はもう暗くなってきていた。夜になると多少は涼しい。コンビニの前にあるベンチに座って燃え尽きている先輩に買ってきた炭酸飲料を渡して、俺も座って自分のを飲み始める。

 

 ……うん。疲れてる時には炭酸が効くな。隣で真っ白な先輩には炭酸が効くのだろうか。多分精力剤でも飲ませれば元気になるかもしれない。もしくはデスソース。

 

「……一体何が、ダメだったんだろうね」

 

「日頃の行いでしょ」

 

「身も蓋もないことを……」

 

 先輩の顔はそれはもう疲れきっていた。ブラック企業に務めてしまったサラリーマンか何かだろうか。まぁ、そうなってしまうのも仕方の無いことなのかもしれない。話しかけた女性は彼氏持ちばかり。もしくは人妻。さらには……

 

「なんで話しかけてくる連中はオカマかオネェなんだ……」

 

「間違えて新宿二丁目に来てましたかね俺達」

 

「そんな馬鹿なことがあるわけないだろう」

 

 GPSで確認してみたが、ここはやはり渋谷だ。周りの女性達は高そうな鞄や服を着ていて、その隣には裕福そうなオジサンが腕を組んで笑っている。

 

「金か。やっぱ金なのか」

 

「そこらの一般人より金持ってると自負できるんですけど」

 

「見てくれがダサいんじゃね。今どきの男ってさ、やっぱ黒系よりもっと派手なの着るんだよきっと」

 

「いや多分もっと治すべき所があるんじゃないかな……」

 

 チラチラと先輩の頭を見ながら呟いた。その天パを治しさえすれば、きっともっとモテるはずだ。

 

 隣でずっと項垂れで唸っていた先輩は、吹っ切れたのか急に立ち上がって口を開いた。

 

「この辺にぃ、美味いラーメン屋の店があるらしいっすよ」

 

「あぁいいっすねぇ〜。じゃけん今から行きましょうねぇ」

 

 完全に吹っ切れた様子。もうさっさとラーメンでも食って帰ろうぜという先輩の後に続いて、先程調べたらしいラーメン屋に向かって歩いていく。

 

「地図だとこの辺らしいんだけど……」

 

「なんか袋小路になってそうな道なんですけど。周りに人いないし」

 

「おっかしいなぁ……。隠れ名店ラーメン屋で検索したんだけど……」

 

「アンタはもう変なワードで調べるのをやめた方がいいです」

 

「だって有名所は人が混むだろ」

 

「もう銀座で寿司でも食った方が良かったんじゃないですかね……」

 

 暗い道を二人で歩いていく。確かに周りにはチラホラと店があるが……見てくれ盛況していなさそうだ。あまり入ろうとは思えない。こんなところに本当にラーメン屋があるんだろうか。トボトボ歩いていると、ふと耳に何か高い音が聞こえてきた。

 

「ん……なにか聞こえませんか?」

 

「いや、何も。夜だから聴覚上がってて風の音でも拾ったんじゃね?」

 

「風の音にしては高いような……」

 

 一旦歩みを止めて、耳を澄ませてみる。大通りの人達の声と時折聞こえるゴォッという風の音に紛れて、何かが聞こえてきた。

 

 ……やめてください、だろうか。高い声からして女性のようだ。

 

「おっやべぇ、110番だな」

 

「言うよりも現行犯した方が早いですよ。行きましょう」

 

 先輩と共に聞こえてくる音を頼りに走っていく。曲がり角を何度か曲がった辺りで、先輩にも聞こえるくらい大きくなってきていた。走るスピードを早め、ようやく音の発生地点へと辿り着いた。

 

 そこにいたのは女の子が三人。そしてそれを取り囲んでいる男が五人。いつだか見たような、髪の毛を染めて固め、ピアスまでつけているチャラ男軍団だった。

 

 男達は嫌がる女の子の腕を掴み、無理やりどこかへ連れていこうとしている。隣にいる先輩にアイコンタクトを送ると、先輩もコクリと頷いた。先輩もやる気のようだ。

 

「おいゴルァ!! そこのパリピ共、遊ぶならスナックの前にいる髭の生えたチャンネーにしとけや!!」

 

「あぁ!? あんだテメェ、変な髪型しやがって!!」

 

「どっちもどっちだよ!!」

 

 なんで挑発する言葉がよりによってそれなんですかね。そんなに昼間のアレが堪えたんだろうか。だからってそんな下手くそな挑発をしないでほしい。もっと格好いいセリフがゲームであったでしょうに。

 

 挑発された男達は三人で女の子を抑え込み、下っ端らしき二人が前に出てきた。手をポキポキと鳴らして挑発している辺り、お相手もやる気らしい。以前の俺なら怖さの余り固まっていたかもしれんが……今となってはあのバケモノ共と比べて全く怖くない。徒手空拳でも余裕だ。

 

「先輩、先に手を出したら負けですよ」

 

「わかってるって。正当防衛成立させるから安心しろよ」

 

 正当防衛に関して簡単に言ってしまえば、危害を現在進行形で加えられている場合に対し、仕方がなく行った防衛行為に関して正当性があるのならば罪に問われないというものだ。現状反撃以外の鎮圧は不可。向こうが殴りかかってくれば反撃として鎮圧しても問題ないと思われる……多分。

 

「チッ、舐めてっと痛い目見んぞオラァ!!」

 

 ……その心配は杞憂に終わった。相手が先に殴りかかってきたので、俺はその腕を掴んで引き寄せて足を刈り取り、そのまま後ろ向きに倒す。見てから反応余裕でした。男は後頭部を打ち、そのまま動かなくなった。

 

 訓練で徒手格闘は習ったからいいものの、素人がこれやったら下手すると相手が死ぬな、うん。

 

「ぐっ、うぅぁ……」

 

 先輩の方は裸絞めで首を絞めて気絶させたようだ。なんでも有名な蛇を真似たらできるようになったらしい。

 

 一気に二人倒された男達は大慌て。今度は三人がかりで襲いかかってきた。流石にサシならともかく、集団戦だと危険の少ない気絶技は使いにくい。仕方がないのでこちらも殴りなり蹴りなりで対応する。

 

 まぁ……結果なんてわかりきっている。方や夜間戦闘能力が向上する一般人。方や起源覚醒で身体能力の向上した逸般人。そんな二人に例え男が三人であろうと勝てるわけがなかった。

 

「馬鹿野郎お前俺は勝つぞお前」

 

「二人に勝てるわけないだろ、ってね」

 

 格好よさそうでまったく格好よくない決めゼリフを言い終わった俺達は、下で寝っ転がっている男達を見下ろしていた。何奴も此奴も気絶なうである。

 

 まったく、馬鹿馬鹿しい。こんなことをして一体何になるというのか。性欲の発散? そんなことして人生無駄にしたくはない。こいつらは何を思って行動したのか。エロ本の読み過ぎかね。ヤれば好きになってくれるとでも思っていたんだろう。じゃなきゃ殺す気だったか。見た感じそんな度胸もなさそうだし、後のこと何も考えてなかったんだろうな。

 

「馬鹿みたいだ」

 

「一時の欲に任せて後のことを考えないとこうなる。少しは身に染みただろ」

 

「……あれ、ブーメラン?」

 

「俺は一時の欲に……任せてないこともないが、後のことちゃんと考えてるから。出来たらちゃんと愛してたから。しかも双方合意の上だし」

 

 先輩が少し慌てたように言い訳をしていたが、まぁそんなことは知っている。先輩は女性に暴力を振るったりする人ではないだろう。先輩の人の良さは俺なりにわかっているはずだ。今も怖がってた女の子達の所に向かって話しかけてるしね。

 

「ほら、君達も大通りまで送って行ってあげるから真っ直ぐ家に帰りなさい。そろそろ外出時間過ぎて補導されちまうぞ」

 

「は、はい……」

 

「すいません、ありがとうございます」

 

「う、うぇ……良かったぁ……」

 

 三者三様だった。泣いてる子もいれば、気の強そうな子もいる。不思議なメンバーだな。性格上かけ離れてると女の子って仲良くなれなさそうなイメージがあったが……少し情報修正しておこう。

 

 しっかし、この泣いている女の子……嘘くさいな。仕草がどうにも手慣れている気がする。練習に練習を重ねてひとつの技として覚えているような、そんな感じ。それに化粧も綺麗にされていて、清楚系と見せかけたやり手の雰囲気を俺は感じた。もっとも……そこまで女性経験があるわけではないので、違う可能性もあるが。

 

「先輩、こいつらどうします?」

 

「……放っておこう。いい薬になるさ。何かあったら国家を盾にして反撃する」

 

「やりますねぇ」

 

 という訳であの男達は放置。俺と先輩で女の子達の前に立って先導して人の多い大通りまで送り届けた。人の声が近づいてくるにつれ、後ろの女の子達の声に元気が戻っていった気がする。キャピキャピとしているし、女子高生くらいだろうか。幼い感じも残ってるし、大学生ではないだろう。

 

 ……もう会うことはないだろうに、何を観察しとるんだ俺は。阿呆みたいなことを考え始めた頭の中身をリセットするように、軽く頭を振った。

 

「よし、着いたぞ。君達気をつけなよ? 世の中悪い人とかいっぱいいるからな」

 

「そうですね。目の前にいる天パとかがいい例だ」

 

「うるせぇ。お前も天パにすんぞ」

 

「直毛なんで天パとかならないです」

 

 俺達のお巫山戯に、彼女達も少しは安心出来たのか笑いながら、帰ろうなどと話していた。それがいい。夜になれば……奴らが出てくる可能性もあるのだから。

 

「あ、あの……すいません」

 

「ん、どうした?」

 

 あの泣いていた子が近寄ってきて、俺と先輩の両方を見ながら、少しだけ恥ずかしそうな……演技をしてから口を開いた。

 

「れ、連絡先を交換してくれませんか……?」

 

「氷兎、貰っとけ」

 

「本末転倒じゃねぇか!」

 

「うるせぇ! 俺は年上の包容力のあるお姉さんが良いんだ!」

 

 尻込みする先輩の尻を蹴り飛ばした。先輩の苦々しそうな顔から察するに……先輩も目の前の女の子が見た目通りではないということを見抜いている様子。となると、俺の感じていたことも間違っていなさそうだ。

 

「あっ……やっぱり、私みたいな子供じゃ嫌、ですよね……」

 

「………」

 

「………」

 

 先輩と互いに目線が交差する。なんとなく受け取りたくないのだが、受け取らないと周りの視線が辛くなってくる。このままじゃ、俺達は女の子を泣かしたクソ野郎だ。

 

 ……まさかそこまで考えているのか? この周りの状況すら扱うというのか、この女の子は。

 

「……やっぱピチピチの女の子の方がいいよな、うん!」

 

「犯罪者みたいなこと言わないでください。とりあえず……俺も交換しときますか」

 

「ご、ごめんなさい……気を使わせてしまって……」

 

 本当だよ。これでこの女の子が無自覚でこの仕草や周りの状況を扱ってるのだとしたら、俺達は最低な奴に成り下がってしまう。

 

 仕方がないといった様子を見せないように、俺は携帯を取り出して連絡先を交換した。

 

 藪雨 藍(やぶさめ らん)……か。ヤブサメと言えば鳥だが、目の前の子はどちらかと言うと小悪魔だな、うん。

 

「ほいっと。これで大丈夫か?」

 

「はいっ、ありがとうございます!」

 

 一気に明るくなった女の子、藪雨さんは少し離れていた女の子二人の元へと走って戻っていく。そして、くるっと振り返ると満面の笑みを浮かべて口を開いた。

 

「仲良くしてくださいね、せんぱいっ!」

 

 言い終えると彼女達は笑いながら帰っていった。二人の女の子が藪雨さんを茶化していたり、それに恥ずかしそうに笑って答えている藪雨さんがいたりと、仲の良さそうなグループだ。

 

「……やはりあの子もパリピだったか」

 

「さっきからパリピパリピと、意味わかってるんですか?」

 

「パーリーピーポーだろ? んで、俺達一般ピーポー」

 

「あぁわかってないんですね……」

 

 わかってるって、と反論してくる先輩を置いて先に歩いていく。俺は早いとこラーメンが食べたいのだ。あんな小悪魔系後輩に構っていられる暇はない。

 

「先輩、行きますよ」

 

「わぁってるよ! ……にしても、あの子どうも苦手だな」

 

「わかります。多分本心隠して他人を欺き、お金だけ貰って逃げるタイプの人種ですよ」

 

「酷いと言いたいが、俺の方もそんな感じだからなんとも言えん」

 

 まだよく知りもしない相手をここまで貶すことになろうとは思わなかった。そこまで藪雨さんは、俺達からして裏がありそうだと勘繰るには十分な怪しさだったのだ。こんな組織で殺し合いや騙し合いなんてしてなければ、きっと俺はあの笑顔にコロッとやられていたことだろう。

 

「……やっぱ辛えわ」

 

「そりゃ、辛えでしょ。ナンパのことはもう忘れましょう。ラーメンのトッピングひと品奢りますから」

 

「ショボイ……けどありがと」

 

 この後探し当てた隠れた名店ラーメン屋は、とてつもなく美味かった。俺達がこの店のリピーターになることは、また別の話である。

 

 

To be continued……



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第45話 新たな仲間、拒絶不可

 暇な時間というのは案外多いものだ。午前の早い時間帯に自主練を終わらせ、昼近くになったら部屋でのんびりダラダラと過ごしている。こんなのが最近の日々だ。

 

 珈琲の香りが部屋を包んでいる。いい香りだ。この匂いを嗅いでいるだけで、ホッとできる。幸せな空間だった。

 

「……暇だな」

 

「……暇ですねぇ」

 

 特に何をしようというわけでもなく、互いに手待ち無沙汰な俺と先輩は珈琲片手に各々の趣味で時間を過ごしていた。先輩はいつものようにゲームを。俺は小説を読みながら適当に家事をしている。

 

「……そういえば、ちょいと前に木原さんに申請を出してきた」

 

「この前話してた、人員補強の話ですか」

 

 山奥村沼男事件での最大の敗因は、信頼出来る仲間が少なすぎたことだ。せめてあと一人、信頼出来て動ける仲間が欲しかった。だから互いに話し合った結果、パーティーメンバーを増やそうということになったのだ。この際男だろうが女だろうが関係ない。ともかく、人手が欲しいのだ。

 

「せめて加藤さんが仲間に入ってくれればなぁ……」

 

「そりゃ無理な話ですよ。あの人はオリジン兵ですからね。俺達みたいな一般兵より厄介な仕事を一人でこなしてるんですから」

 

「凄いもんだよなぁ。俺一人とか絶対無理だわ」

 

「遠距離職が一人で戦えるわけないでしょう。殴られて終わりですよ」

 

「ゲームバランス的に考えると、近接格闘の七草ちゃん。中距離で槍と銃を使う氷兎。遠距離特化の俺と、近中遠が揃っちまってるわけだ。個人的には魔法使い系とか、回復補助のヒーラーが欲しいところだな」

 

「この世の中にそんな便利な起源持ってる人がいればいいんですがねぇ……」

 

 確かに、回復系統の起源覚醒者は組織の中にいる。しかし彼らは基本的に組織の中でしか活動しない。どういった能力なのかは知らんが、表立ってその力を使えるのかといえば否であろう。そんなことしたら医者の立場がなくなる。

 

 ……しかし多くの人を救えるのも事実。医者の立場をなくして多くの人を救うのか否か。まぁ、今のところ俺達は表舞台には立てないのだから、どう足掻いても彼らが人を癒すということは俺達以外にないのだろう。

 

「……部屋にこもっててもあれですし、適当に散歩でもしません?」

 

「えー、俺はこうしてゲームをやっていたい。誰にも邪魔されず自由で、なんというか……救われてなきゃダメなんだ」

 

「だらけ過ぎです。動かないのなら、俺が作ったこれを喰らわせますよ」

 

 そう言って俺が鍵がかけられていた引き出しから取り出した霧吹きを先輩の目の前に置いた。中には真っ赤な液体が入っていて、近くに置いただけでも何か鼻と目に来る臭いがする。先輩も流石にゲームを置いて目を見開いた。

 

「な、なんだそれは……」

 

「液体では飲ませなければ効果がなかったので、ならいっその事霧吹きでぶっかけようと、デスソースセカンドエディションを更に濃縮したデスソースサードインパクト。通称、『ゲキカラスプレー』です」

 

「怒られちゃう!! しかもそれ人にぶっかけていいものじゃないって!!」

 

「濃縮されたゲキカラ成分が皮膚に触れると、とてつもない刺激に身体が興奮状態に陥り、素早い動きと共に攻撃力が上昇して地面をのたうち回ります」

 

「それ痛がってるだけだからぁ!! お願いだからソレこっちに向けないで!!」

 

「いっそのこと『ゲキニガスプレー』も作ろうとしたんですけど……生憎苦そうな物が思い浮かばず、作っても先輩は苦いの得意なので効かないと判断し、製作を取り止めました」

 

「お前のその創作意欲は一体どこから湧いて出てくるんだ……」

 

「先輩への……愛?」

 

「愛という名の加虐心ですねわかります」

 

 やれやれ、と首をすくめた先輩。俺も仕方がない人だ、と言いながらゲキカラスプレーを引き出しの中にしまいこんだ。顔を上げると、先輩のジトッとした目と合った。お前は一体何を言ってるんだ、とでも言いたげな目だった。

 

 その目を軽く流し、動く気のない先輩の対面の椅子に座って、読みかけの小説を手に取った。最近恋愛ものにハマっている。菜沙も結構小説を読むのが好きだ。試しに何か良い感じの小説はないかと尋ねたら、『僕は愛を作れない』というタイトルの本を薦められた。

 

 内容は、冴えない男の子と幼馴染の女の子との青春ラブストーリーといったところか。主人公が、いつしか恋心を抱いていた幼馴染に、自分の感情を伝えようとする。だが、主人公は悩んだ。『愛』とはなんだ。『好き』という感情とはなんだ。それらはどうやって形作られ、どうやって渡せばいいのか。

 

 ……結局。主人公はその想いを伝えられぬまま、幼馴染は他の男の人と結婚してしまい、主人公はそれを遠巻きに見ているという終わり方だった。

 

「……菜沙ちゃんからのオススメ本は、面白かったか?」

 

 顔を上げると、少しだけニヤニヤとしている先輩が俺のことを見ていた。俺は少し悩んでから、その本を読んだ感想を述べた。

 

「面白かったですよ。けど……ラストシーンは胸に刺さりましたね。なんとなく、こう……ズキっときました」

 

「へぇ……それはまぁ、何よりだ」

 

「………?」

 

 先輩の言っている意味がわからず問い返したら、その胸の痛みこそが答えだ、と意味のわからない返事を返された。先輩は菜沙が何故この本を薦めたのか、その理由がわかっているのだろうか。

 

「お前にも直にわかる日が来る……俺は切にそう願っている」

 

 ドヤ顔でうんうんと唸っている先輩。俺は立ち上がって引き出しから例のブツを取り出して、先輩の口に向けて吹き掛けた。

 

「いだぁぁぁぁぃぃぃッ!?」

 

 椅子から転げ落ちて、その場でジタバタともがき苦しむ先輩を見て、少しだけ気分が晴れやかになった。いやどれもこれも先輩がいけないのだ。あんなドヤ顔をされたらスプレーを吹きかけたくなるというもの。俺は悪くない。

 

「………?」

 

 動かなくなった先輩を眺めていると、部屋の中に設置されたスピーカーから音声が流れ出してきた。声の主は木原さんだ。何かあった場合、こうして招集のために館内放送がかかるようになっている。

 

『一般兵鈴華、唯野、及びオリジン兵七草は司令室に来るように』

 

 どうやら今回呼び出されたのは俺達のようだ。面倒だが、仕方がない。しかし任務のスパンがやけに短い。もう少し休暇が欲しかったが、仕事だから仕方なし。目の前で動かない先輩の身体をツンツンと突くと、ビクリと痙攣してから起き上がった。

 

「……痛みのあまり失神するとは……俺も、まだまだだな」

 

「普通の人なら軽く数時間は起きないと思うんですけどね。耐性付きすぎじゃないですか?」

 

「お前はなんで人に危害を加える兵器ばかり作るんだ……」

 

「先輩にだけですよ」

 

「そんな特別いらない」

 

 身だしなみを整えて、部屋から出て司令室へと向かう。通路ではあまり人にはでくわさないが、広場にまで来ると人が多い。しかしほとんどは話したことの無い赤の他人だ。時折自慢話が聞こえてくるが……自慢をして何になるというのか。命の奪い合いを、自慢するのは流石に罰当たりではなかろうか。

 

「あっ、氷兎君! それに、翔平さんも!」

 

 向かい側の通路から手を振りながら走ってきたのは、七草さんだ。身体が揺れる度に彼女の豊満なソレが上下に揺れる。

 

 ……周りの連中が七草さんを見ていたので、急かすようにして俺達は司令室へと急いだ。隣を歩いている七草さんが、顔を少し傾げながら尋ねてくる。

 

「何の召集だろうね? まだ、前の事件からそんなに時間経ってないのに」

 

「流石に任務の間が短いな。この前喧嘩売ったせいで目の敵にでもされたか……」

 

「それは有り得るな。厄介な任務でも押しつけられそうだ。まったく嫌になるぜ……」

 

 精神的に摩耗した三人。そんなことを話しながらようやく司令室へと辿り着いた。中々に距離があるせいで、時間がかかる。

 

 先輩がコンッコンッとノックしてから、順々に部屋へと入っていく。中にいたのは木原さん一人だけ。いつものように両腕を机につけ、手を組むように合わせて俺達を待っていた。全員が揃ったことを確認すると、木原さんは口を開いた。

 

「揃ったか。今回お前達を呼んだのは任務を任せるためではない。先日話があった、人員補強について目処がたったので、そのメンバーを紹介するためだ」

 

「……早いですね。つい先日言ったばかりなのですが」

 

「元から外に出たいという要望があったのだ。藪雨、入っていいぞ」

 

『……藪雨?』

 

 その名前をつい最近聞いたばかりの俺と先輩は互いに顔を合わせてから、司令室の入口である扉を見やった。軽いノックの音が二回聞こえると、扉を開けて一人の女の子が入ってきた。

 

 明るい茶色の髪の毛で、長さはショート。華の髪飾りを頭につけ、化粧は薄め。背丈は低い方だろう。誰かに媚びるような笑い方をしながら、彼女は俺達の前にやってきた。

 

「うわっ……」

 

「げっ、あの時のパリピ!?」

 

「うわっとかげっとか、女の子に対して酷くないですか!? あと、パリピなんかじゃないですよぉ!!」

 

 心の声が漏れてしまった。誰かにつけ入るために磨かれた話し方。媚びるような仕草や目線。何もかもが癪に障る。七草さんと比べたら、まるでその顔は泥でも塗りたくったように汚い。七草さんを見習ったらどうだ。彼女の純真無垢な笑顔は世界すら救えるはずだ。

 

「……え、まさかお前が新しい仲間候補!? ってか、お前オリジンだったの!?」

 

「だから、この前よろしくお願いしますって言ったじゃないですかぁ!!」

 

「あぁ、あの時のせんぱいってそういう……えぇ……」

 

 流石に頭を抑えた。頭痛が痛い。どうやら脳の処理能力すら低下してきたようだ。確かに目の前の女の子は味方にバステをかける能力を持っているらしい。迷惑すぎる。

 

「えっと……氷兎君の、知り合い?」

 

「いや赤の他人だ。今知り合った。七草さんはこんな女の子と仲良くしちゃダメだよ。穢れちゃうから」

 

「さっきからせんぱい達揃ってなんで私の事貶すんですかぁ!! 酷いですよぉ、こんなに可愛らしい後輩がせんぱい達の仲間になってあげようとしているのに!!」

 

「氷兎、こいつはダメだ。早いとこ収容所に帰そう」

 

「新手のSCPですかね。財団に掛け合ってみましょう」

 

「……積もる話は後にしてもらっていいか」

 

 咳払いをして場の空気を元に戻そうとする木原さん。仕方なく俺達は木原さんに向き直った。藪雨さんは、七草さんの隣ではなく何故か先輩と俺の間に入ってきた。

 

 ……ダメだ。俺と先輩の苦手なウェーイ系女子に媚を売るスタイルまで掛け合わせた最悪の相手だ。しかも頭の悪そうとまできた。多分メールとかで、ゎたしとか、ズッ友だょとか使う輩だ。きっとこんにちは、と書く時もこんにちわと書くに違いない。

 

「……知り合いだったのなら何より。彼女の名前は藪雨 藍。君達の新たな仲間候補だ」

 

「えへへ、よろしくお願いしますねせんぱいっ」

 

「ウザい」

 

「媚を売るな後輩」

 

「酷いっ!?」

 

「……話はあとにしろ」

 

 木原さんの冷たい言葉が部屋の温度を少しだけ下げた気がする。これ以上この女に構っていたら、おそらくストレスと疲労で倒れるかもしれない。スルーしよう。そう決めた俺は、沈黙して木原さんの言葉の続きを待った。

 

「最近オリジンに入ったのだが、どうにも中で待っているのが退屈で仕方ないらしい。丁度いいから次の任務を一緒にこなし、親睦を深め給え」

 

「……そんな理由で一緒にこられても困るんですが」

 

「そうだな。俺達はバケモノを退治しに行くんだ。言っちゃ悪いが……変な理由で着いてきて足でまといになるってのはゴメンだ。守ってやれるほど俺達も強くないんでな」

 

「えぇー、大丈夫ですよ。私これでもちょっとは戦えるんですから!」

 

 そう言って握りこぶしを見せてくる後輩。もうずっとこの前みたいに泣いたままでいてほしい。あの時の方が今よりもずっとマシだ。俺と先輩の心の内も知らず、彼女は笑顔を振りまいている。

 

「とりあえず、今はまだ任務がない。暫くは一緒に過ごす等で連携をとれるようにしておけ。話は以上だ」

 

 軽く頭を下げて、俺達は司令室から外に出た。すると、藪雨さんは俺達の前に出てきて、作られた媚びる笑顔のまま頭を下げてきた。

 

「じゃあ改めて、これからよろしくお願いしますね、せんぱい」

 

「え、やだ」

 

「頭痛が痛くなってきた……」

 

「え、えぇっと……よろしくね?」

 

 ……こうして新たな仲間が加わってしまった。勘弁して欲しい。いっそのことゲキカラスプレーでも吹きかけて動けなくしてやろうかと思ったが、一応女性なのでやめておいた。これで男だったら容赦なくぶちまけていたことだろう。

 

 

To be continued……




 藪雨 藍

 そこら辺にいる唯の女子高生だった女の子。順調に行けば高校二年生を満喫できるはずだったが、夜通し遊んでいた彼女は神話生物に襲われて、夜間巡回中の顔を隠していた加藤 玲彩に助けられる。
 その後オリジンに入ることを決意。親の言うことなんて突っぱねて過ごしていたが、つまらない組織内生活は彼女には合わなかった。明るい茶色の髪の毛と華の髪飾りがチャームポイント。周りの人を使って楽しようと、自分の可愛さを使って男達をたらしこみ、自分の手と足として使っていた。
 どうやら、彼女の性格にも秘密はあるようだが……。


しかし、次の章は難産になりそうだ……
中々話が良い感じに纏まらない


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第46話 藪雨後輩

 何もない日というのは案外続くものだった。未だに任務を任されていない俺と先輩は、いつものように少し自堕落的に自室で過ごしていた。最近先輩の性欲もなりを潜めているようで、前みたいに突拍子もなくド下ネタをぶっ込んでくることはなくなった。

 

 ……試しに今度性欲剤を飯に混入させてみようか。そしたら先輩はどうするのだろうか。加藤さんにアタックに行って帰ってこなかったらそれはそれで面白い。

 

「……なんださっきからジロジロと。そんなに俺のことが好きか?」

 

「万が一どころか億が一にもないのでご安心を」

 

「あっ、そう……? それはそれで悲しいものが……」

 

 さっきから横目で見ていたのがバレたらしい。アホな事をしていないで、小説の続きでも楽しむとしよう。そう思っていた矢先、コンコンッココンッとドアが小刻みにノックされた。そのノックの仕方から誰が来たのかを察した俺と先輩の顔が少しだけ歪む。先輩と顔を合わせると、行ってこいと手で指示を出されたので、仕方なく扉の前にまで向かっていく。

 

「……どちら様ですか?」

 

『せんぱい、私ですよ私! 暇なんで遊んでくださいよ』

 

「先輩、藪雨の奴が来ましたけど中に入れますかぁ!?」

 

「その前にボディチェックだ! それくらいわかるだろう!!」

 

「よし、まずパンツを脱いで両手を高くあげ、三回ワンッて吠えたら中に入れてやる。三回だよ三回、あくしろよ!」

 

『こんな廊下でそんなこと出来る訳ないじゃないですかぁ!?』

 

 扉の向こうから媚びる声が聞こえてくる。その声と話し方がやけに神経を逆撫でする。俺はこんなに短気だっただろうか。いやそんなことは無いはずだ。短気は損気。うん、落ち着こう。

 

 一呼吸ついて落ち着いた俺は、藪雨に向かって他の男に襲われないうちに女子棟に帰れと言ってから自分の椅子へと戻っていく。もはやあの後輩にさん付けするのも馬鹿らしくなってきた。

 

「なんでそんなに私の事邪険に扱うんですかぁ!!」

 

「何勝手に鍵開けて入ってきてんだお前!?」

 

 いきなり扉の鍵がカチャリと開いて、藪雨が部屋に入ってきた。この前見た時もつけていた華の髪飾りを頭につけている格好だった。

 

 ……いや今はそんなことはどうでもいい。重要なことじゃあない。どうやって部屋の中に入ってきやがったんだ。そう尋ねると藪雨はなんてことないみたいな表情で、私鍵開けできるんですよぉ、と片手に持った針金を見せるように振りながら返事をしてきた。ジーザス。なんでこんな女にそんなスキルを持たせたのですか。

 

「あれ、私の『起源』教えてなかったですっけ? 聞きたい? 聞きたいですか?」

 

「聞きたくない。氷兎、例のスプレーを持ってこい。使用を許可する」

 

「あの鼻に来るスプレーはやめてください! アレ絶対ヤバいやつじゃないですか!」

 

「俺特製のゲキカラスプレーをくらいたくなければ、もっとお淑やかにしておくんだな。あとその汚い顔をどうにかしろ。七草さんを見習え」

 

「あんな女の子の理想の具現化みたいなのと一緒になれとかそれこそ無理です!」

 

 考えてみればまぁ……確かにそうか。背丈、胸、すっぴん、スタイル。どれを比べても藪雨は七草さんには勝てない。そして内面でも勝てないときた。もはや居るだけで毒と化する邪魔者である。もう少しまともな仲間候補はいなかったのだろうか。

 

 ……まさか、この前売った喧嘩のせいでコイツを押し付けられたんじゃなかろうか。そう考えたら腹が立ってきた。クソが、上司なんて録なもんじゃない。内心上司に対して辛辣な言葉を吐いていると藪雨は気持ちを切り替えたのか、じゃあ今から発表しまーす、等と身体を翻して格好つけ始めた。

 

「ふふ、聞いて驚かないでくださいよ……。私の起源はズバリ、『忍者』です! そう、何を隠そう私はくノ一だったんですよ!」

 

「対魔忍かね。触手で嬲って差し上げろ」

 

「唐突なアダルトゲーの名前はNG。しかしお前みたいのが忍者とか恥を知れ恥を。忍者と名乗りたいなら天井裏から出直してこい」

 

「だからなんで私に対してそんなに辛辣なんですかぁ!? 唯野せんぱいは七草さんを扱うみたいに私に優しくできないんですか!?」

 

「……人生三回くらい繰り返したら優しくしてやらなくもない」

 

「そんなに嫌なんですか!?」

 

 なんだかんだいじられて笑っている藪雨を見て、コイツのポジションが確定した。いじられキャラだ。本人は特に不満もなさそうだし、このまま適当にあしらっておこう。流石に毎日鍵をこじ開けて入ってきやがったら対応を考えねばならんが。

 

 藪雨は俺達が帰れとアピールしているのにも関わらず、気にしていないような感じで空いている椅子に座った。仕方が無いので、俺は藪雨が飲むようの珈琲を作るべく立ち上がる。

 

「あれ、私の分作ってくれるんですか?」

 

「部屋に来ちまったもんは客だからな。もてなしくらいはするさ。先輩、戸棚にお菓子が入ってると思うので、それ出しといてください」

 

「……あ、ごめん。昨日ゲームしながら食っちまったわ」

 

「だろうと思ったんで板で区切って隠してあります」

 

「俺のことをよくわかってると言うべきなのか、それとも信頼されていないと落ち込むべきなのか、どっちなんだ?」

 

「両方ですよ。最近お菓子食べすぎですよ? 少しは自重してください。VRトレーニングだって、身体動かすわけじゃないのでエネルギー消費しないんですから」

 

「……そっか。確かに、動いてると錯覚しちまってるな。少し控えるか……」

 

「唯野せんぱいは鈴華せんぱいのお母さんですか」

 

 ジトっとした目で睨んでくる後輩。ちょっとイラッときたので珈琲を濃い目に作っておく。しかし、珈琲は濃ければ濃いほど、俺の好きな香りがしてくる。この香りがたまらない。一種の麻薬のようなものを使っている気分になってくる。

 

「……せんぱい、顔が歪んで気持ち悪いです」

 

「今度余計なことを言うと口を縫い合わすぞ」

 

 裁縫キットから取り出した針を持って見せびらかしながら警告しておく。いや流石に縫ったりしないが。麻酔がなかったら痛いだろうし、そもそも人体の縫い合わせなんてやったことがないのだから。

 

 ……麻酔があればやるのか? そう聞かれたら……いや、流石にやらないとも。俺は医者になる気はないのだから。

 

 藪雨の声を無視しつつ珈琲を焙煎していると、部屋の扉がコンコンッと叩かれた。この叩き方は、菜沙だろうか。珈琲を作る手を止めずに、入っていいと伝えると、予想通り菜沙と七草さんが部屋の中に入ってきた。

 

 ……菜沙が藪雨を見た途端少しだけしかめっ面になったのを、俺は見逃さなかった。やっぱり菜沙も自分を偽る女の子は嫌いなんやなって。

 

「ひーくん、随分と藪雨ちゃんと仲良くなったんだね?」

 

「仲良くない。即刻部屋から連れ出してほしいくらいだ」

 

「酷いっ!! せんぱい、私の下着を脱がそうとしたくせにそんなこと言うんですか!?」

 

 瞬間、ピシッと部屋の空気が凍りついた。背筋に寒気がする。振り向いてみれば、菜沙が笑顔を浮かべたまま俺のことを見つめていた。いや、目が笑ってない。ハイライトがついていない。なんだろう、前にやったギャルゲーのエンディングの一つが浮かんできた。俺は死ぬのだろうか。

 

「へぇー、ひーくんそんなに女の子の下着が見たかったの?」

 

「誤解です。断じて、俺はそんなことはしておりません」

 

「私に首輪をつけようとして、犬みたいに吠えてみろって脅してきて……」

 

「お前は黙ってろ藪雨ェ!!」

 

 最早事態の収束が困難になってきていた。菜沙はジリジリと歩み寄ってきているし、七草さんはオドオドしててダメだし、先輩は両手を合わせて合掌しているし、発端の藪雨はニヤニヤと笑っているし……。

 

 ……後であの二人にゲキカラスプレーぶっかけてやる。俺はそう決意した。しかし菜沙の進行は止まらず、それに対する俺の決意は定まらない。土下座で許してもらえるだろうか。そう思った俺はゆっくりと姿勢を前のめりにしていくのだが……。

 

「……冗談だよ。ひーくんがそんなことしないって、知ってるもの」

 

「な、菜沙……」

 

「あんまり、藪雨ちゃんのこと虐めたらダメだよ」

 

 至近距離まで近づいてきた菜沙は、コツンッと拳を頭を軽く叩くように置いた。その後彼女は少しだけ微笑むと、珈琲は甘めにお願いねっと耳元で囁いてから空いている椅子に戻っていく。

 

 ……やけに甘ったるい声が耳の中で反響していた。珈琲の焙煎を行っているせいだろうか。少しだけ、暑く感じる。その暑さを紛らわすように、俺はわかったと返事をしながら珈琲を作る作業に戻った。

 

「……なんでしょうねこの甘い空間は」

 

「羨ましいもんだ、本当……」

 

 後ろの方で何故か仲良く話している先輩と後輩には、ゲキカラスプレーだけでなく、デスソースのオマケを後でつける事にした。明日のトイレは尻が痛くなることだろう。トイレで顔を歪める姿を想像すると……少しだけ優越感が沸き起こってきた。これが愉悦なのだろうか。

 

「……氷兎君が変な笑い方してる」

 

「ひーくん、流石におかしいよ」

 

「……すまない」

 

 二人の声に我に返った俺は、出来上がった珈琲をそれぞれの元へと運んでいく。テーブルに出されたお菓子を適当に食べ、珈琲を飲みながら世間話に花を咲かせていった。平和な一時が流れていく……。

 

「………」

 

 珈琲を飲みながら時々俺のことを見て微笑む菜沙と、時折目が合ってはにかむ七草さんを見て、次の任務も無事に帰ってこようと気持ちが切り替わった。

 

 帰ってこよう。この場所へ。誰かが待ってくれているこの場所へ。彼女との、約束の為にも。

 

 

 

To be continued……




ようやく第4章にいけそうかな


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第四章 愛とは何か、恋とは何か
第47話 僕という個人


 愛とは何か、君は説明出来る?

 

 胸の高鳴り? 相手を想う心? 相手に貢いだ時間とお金?

 

 正解なんてないのかもしれないね。けど、君はそれでいいのかい? 君は証明できないことは嫌いだったはずだ。

 

 さぁ、証明してみてよ。『愛』とは一体なんなんだい?

 

 

 

───────────────────

 

 

 

 誰かは言った。初恋は実らないものなのだと。また別の人は言った。幼馴染との恋は実らぬものなのだと。それを踏まえると、幼馴染に初恋をしたのなら実らないのは絶対とでも言えるのではないだろうか。

 

「………」

 

 鏡を見て、自分の風貌に嫌気が差した。整わない顔立ち、少しボサっとした髪の毛、薄らと出来た隈。とてもじゃないが格好いいとは言えない。久々に仕事が終わり、生まれ育った場所へ帰ってきたと思ったら、羽を休めるどころかむしろ要らない心労まで増えてしまった。

 

「………?」

 

 鏡を見て憂鬱な気分に浸っていると、誰かが玄関のチャイムを押した。今日は特に届けてもらうものもない。まさか編集長がここまでやってきたのだろうか。流石にないとは思いつつも、僕は玄関の扉を開けて誰が来たのかを見た。

 

 ……それから起きた事は、まるで本の世界のようだった。ホラーか、ライトノベルか、いずれにしろ自分の好みにあったものでは無かったが……あぁ、それでも、この出来事は僕にとって重要なもので、全てを文字に表せば仕事がひとつ終わってしまうくらい濃い物語だったのだ。

 

 

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 

 

 

「いや、すいません本当に……。まさか宿が取れないとは思えなくてですね……」

 

「気にしなくても大丈夫ですよ。この家にいるのは僕だけですし、部屋も空いていますから。この時期に宿が満室になるというのも中々珍しいものですけどね」

 

 机を挟んで向かい側に座っている落ち着いた雰囲気の男の子は、深々と頭を下げてきた。年下に頭を下げられても……いや、誰にでも頭を下げられても僕は恐縮してしまうだけだ。僕にそんな敬意を払う必要は無いのだ。大それた人物な訳では無いのだから。

 

「有難い話ですが、本当にいいんですか? こんな素性もわからない連中を家に泊めても」

 

「この家には何も無いからね。盗られて困るものもないんだ。それに、困ってる時はさ……なるべく助け合いたいものだからね」

 

 僕よりもボサッとした髪型の男の子が申し訳なさそうに言ってくる。別に、僕はなんとも思っていない。事実僕は色々な人に助けられて生きてきたのだから。仕事だってそう。日常生活だってそう。だから僕も同じようにするだけだ。困ってる人がいるのなら、少しでも手を差し出そうと思っている。

 

 僕の家に彼らが寝泊まりすることが決まると、華の髪飾りをつけた女の子が両手を上げて嬉しそうに笑いながらはしゃぎ始めた。

 

「やったぁ!! これでお風呂に入れる!!」

 

「藪雨、頼むから黙っててくれ……」

 

「常識を知れ。七草ちゃんを見習って行儀良くして口を開かないようにしろ」

 

「先輩、こいつにゃ無理です。バカは死なんと治らんし、七草さんのような美少女にはなれません。微妙な少女、略して微少女にしかなれません」

 

「歳いってそうな呼び方しないでくれます!?」

 

「美少女……えへへ」

 

 席に座っている彼らは楽しそうに笑っていた。各々の自己紹介を纏めると、年長者である鈴華さん、その後輩の唯野さん。その更に後輩の藪雨さんに、仕事仲間だという七草さん。彼らはここでの生活を体験し、不便な点や利便性を確かめて報告するという土地開発の仕事をしているらしい。僕は詳しくは知らないけど。

 

 そして、皆僕から見れば顔が整っていて羨ましかった。特に鈴華さん。僕よりもボサッとした髪型なのに顔がいいから、本当に羨ましい。

 

「自己紹介が遅れたね。僕の名前は林田(はやしだ) 扶持(ふじ)。しがない小説家だよ」

 

「林田 扶持って……まさか、『僕は愛を作れない』の作者さんですか!?」

 

「あぁ、うん……そうだけど……」

 

 唯野さんが少しだけ目を煌めかせて詰め寄ってきた。まさかこんなに若い読者がいるとは思わなかった。年齢層的にもう少し社会人的な人達が読むと思っていたけど……。今の子達はこんな小説でも読むのか。ラノベにしか興味がないと思っていた自分を少しだけ諌めた。

 

 彼は物語の内容を話し、どこが良かったとか、どこの描写で心を打たれた、なんて事細かに説明してくれた。

 

 ……どうにも恥ずかしい。自分の作った作品を、こうも褒めたり色々言われたりすると、歯痒さで口元が歪んでしまいそうだった。年上の威厳として、なるべく醜態を晒したくなかったので堪えたが。

 

「読んでいて心臓が高鳴る作品でした。けど……最後、やっぱり幼馴染と結ばれないっていうのが心に来ましたね。主人公は、愛を理解出来なければ愛を伝えられないだろうとやめてしまったのが……。最初からハッピーエンドは書こうと思っていなかったんですか?」

 

「……いや、ね。そもそも僕にはハッピーエンドが書けないんだ」

 

 彼は首を傾げて、ハッピーエンドが書けないって……と呟いていた。唐突に言われても何もわからないだろう。何しろ、これは元は誰かに読んでもらうための作品ではなかったのだから。偶然が重なって作品となったものだった。僕は珈琲で喉を潤し、その苦さで心を落ち着かせながら話を続けた。

 

「あの作品、途中までは僕の人生を綴った日記のようなものなんだ。だから、ハッピーエンドは書けなかった。自分の幸せを想像するなんてのは、それはもう苦痛に感じてしまうんだ。どうせそうは上手くいかないものだろうってね。考えたことない? 例えば、不良に絡まれた女の子を助けて目出度く結ばれるだとか。けど考えて妄想したはいいものの、実際目の当たりにすると身体は動かないだろう? そういうものだよ」

 

「難しくてよくわかんないですけど、私も暇な時にその本読んだんですよ。人生を綴ったってことは、もしかして林田さんって幼馴染がいて、恋心を抱いちゃってる感じですか?」

 

「お前はそういった話に首を突っ込むなって……」

 

「ははっ、まぁ本当のことだからねぇ……。うん、話してしまった僕が悪いさ」

 

 うちのバカがすいません、と頭を下げてくる男の子二人に対して僕は、気にしていないからいいよと伝えた。流石に気にもなるだろう。仕方がないことだ。僕も逆の立場なら疑問に思うさ。それを口にするかはわからないけど。

 

 鈴華さんが肘でツンツンと唯野さんを突っついた。話を聞いてみたらどうだ、と話していた。何の話かを聞いてみると、鈴華さんは少しだけ笑いながら話し始めた。

 

「いやぁ、こいつも幼馴染がいましてね。さっさとくっつけと思うくらいに仲が良くて……」

 

「ちょ、勝手に言わないでくださいよ。しかも、俺は菜沙とはそんなんじゃないって何度も言ってるじゃないですか」

 

 ……不思議な子だ。唯野さんを見ていてそう思った。唯野さんが言ったセリフは、基本的に男の子が使う言い逃れや言い訳のセリフに近いものだ。そういった場合、恥ずかしそうにしたりするもんだけど、彼に限っては一切それがない。なら、本当になんとも思っていないのかと言うとそういう訳でもない。何かしら強い感情を、無意識のうちに抱いている。僕は彼の慌てなさから、そんなことを感じ取った。

 

 簡単に言うのならば、無意識に刷り込まれたものだろうか。幼馴染とは昔からずっと関わりのある人物のことだ。様々な影響を受けやすい子供の時に、自己が確立していない段階で刷り込まれたものは、そのまま変わらずに成長してしまうと自己として確立されてしまう。アイデンティティーと言うものだ。恐らく、彼はその類いなのかもしれない。

 

「なるほどね……。人生の先輩として、言うことがあるとするならば……後悔はないようにね。あの時こうしておけば、なんていくらでも考えられる。なら、あとに引きずらないように伝えてしまうというのも一つの手だ。僕には……とても出来ないけどね」

 

「気持ちを、伝える……」

 

 あまり話さなかった七草さんが、思案顔のまま少しだけ俯いて、ポツポツ呟いたあとに僕に顔を向けて聞いてきた。

 

「『好き』って、どんな感情なんでしょうか」

 

 言葉に詰まった。彼女も一人の女性であるからには、そういった感情を得てしまうのも仕方の無い事だ。だがしかし、それを言葉や文字に表すというのは不可能だ。なにせ、僕にはそれが出来ないのだから。

 

「……難しい話だね。僕には説明はできないけど……考える限り、『好き』というものは様々な種類がある。それこそ、十人十色だ。人それぞれにとって違うものだ。一般的な考えで言うと……相手を思う気持ちが強い状態の事じゃないかな。もしくは、独占欲が強くなった状態とも言える。自分を見てほしい。自分を特別なものとして他者とは違った扱いをしてほしい。……もしかしたら、『好き』というのは自分に存在意義を持たせるために作られたものなのかもしれないね。誰だって、自分は他人とは違った特別なものなんだと思いたいものがある。それは、自分の存在を自分自身で持つために必要なことだと思うんだ」

 

「え、えぇっと……?」

 

 七草さんは首を傾げてしまった。しまったな。どうやら分かりにくかったらしい。どうにもいけないな。自分の小説を面と向かって褒められたせいか、口が回ってしまっているらしい。少し気分を落ち着かせた方がいい。僕は本来こんなに話すような人ではないのだから。

 

「流石と言いますか、考え方がまた深いと言いますか。作っている小説が、『愛』とは何かを考えるものだったので林田さんも色々と考えているんですね」

 

「……まぁ、小説家なんてそんなものだよ。妄想を文字に書き表す。自分の世界を文字として作って、他者を引き込まなければ小説にはなりえない。読む人がいなければ、それは唯の落書きに過ぎないからね」

 

「恋愛小説は好きですけど、バトル物って好きじゃないんですよね~。ラノベとかモロそうです。だって女の子があんなに沢山出てきて一人の男の子に寄ってたかるとか、ありえないじゃないですかぁ」

 

 辟易とした感じで、藪雨さんは言った。確かにライトノベルだとそういった傾向がある。主人公は特別で、周りはその主人公を主軸に回っていく。女の子は助け、男の子とは友情を深めたり。多少は変なことをしても、主人公だからと見逃される世界。それは現実ではない。僕は彼女に対して思っていることを話そうと、口を開いた。

 

「確かにね。ライトノベルは、僕が思うに作者の欲望より産まれた……いいや、違うな。小説とは元より誰かの欲望から産まれたものだ。考えたことを伝えるため。自分では出来ないことを小説の主人公に当てはめて欲望を晴らすため。単にお金が欲しいため。有名になりたいため。そうやって、薄汚れた感情の果てに作られたのが、小説というものだ。少なくとも……僕の作品は、そうだね」

 

「けど、林田さんって結ばれるエンドを書かなかったんですよね? それって言ってることと違くないですか?」

 

「……自分自身で嫌になったんだよ。そんな事実に気がついてしまったから」

 

「お前は口を慎め、本当に」

 

「ハハ、気にしなくてもいいとも。僕としては君達みたいな子が読んでくれたことが嬉しいからね。作者にとって、作品を読んでもらって得られた情報や疑問を、言葉や文字として送られるというのはとても光栄で嬉しいものなんだ」

 

「何かを作る人ならではの感性でしょうね。作ったからには褒められたい、というのは恐らく子供も思うことでしょう。図工の時間に作った作品で親に褒められれば、嬉しいでしょうしね」

 

 藪雨さんの頭を軽く小突いていた唯野さんはそう返してきた。作品を作る人というのは、そういうものだ。作ったからには褒められたいと思うのは、悪くはないだろう。それは自信に繋がり、やがて技術にも反映される。結局は、小説を書くのに必要なのは技術じゃない。想いと自信、そして時間なのだから。

 

 そうして自分達の身の上話等をしながら時間を過ごしていると、外が暗くなってきていた。そろそろ夕飯の時間だろう。支度をしようと思ったが、人数が多いので食材が足りないかもしれない。作るのも面倒だ。外にでも食べに行こうかと提案したところ、唯野さんが外に停めてあった車からスーパーの袋を沢山運んできて、少しだけ得意気に笑った。

 

「泊めてもらうのに何もしないのはあれですから。料理は自分が作りますよ」

 

「えっ、せんぱい料理出来たんですか!?」

 

「当たり前だ、お前みたいなのと一緒にするんじゃない。そんじょそこらの男とは違うのだよ」

 

「安心してください、コイツの飯本当に美味いですから。いつも食わせてもらってるんですけどね、飽きないしレパートリーも多いしで、本当凄いんすよ」

 

 鈴華さんのその言葉に、それほどでも……と照れくさそうに頭を掻きながら笑った唯野さん。彼らは本当に仲が良いらしい。

 

 羨ましいものだ。これで仕事を一緒にこなしているというのだから、尚そうだ。残念だが、仕事でプライベートを過ごすほど仲の良い人はいない。むしろ、仕事仲間の人とプライベートを多く過ごす人は中々少ないんじゃないか。しかも男女で。歳が近いというのもあるのだろうけど、彼らは特に壁を作ることなく笑い合っている。

 

「えー、本当ですかぁ? 確かに珈琲は美味しかったですけど、料理まで出来るとかありえないですよ絶対」

 

 ……彼女を除けば、かな。なんとなく彼女はまだ壁があるように感じる。けど、それも些細なことだろう。僕が何か言うべきというわけでもない。むしろ、これは彼らの間で何とかしなければならないものだろう。

 

「………?」

 

 ポケットの中に突っ込んでいた携帯が震えた。どうやらメールが届いたらしい。彼らにその事を伝え、携帯を開いて届いたメールを見た。

 

「………」

 

 途端に、胸が締め付けられた。ただその名前が表示されていただけなのに。会社の人や仕事関係の人達の名前が連なる中、一番上に表示されていた名前。

 

 当たり前な物なのだと思っていた人。生きる活力をくれた人。僕という個人を形成するにあたって、大部分を占めていた人。そして……あの日から、連絡を取りたくなくなった人。

 

 忘れたかった。だから連絡もせずに帰ってきたのに。誰かお節介な人が僕が帰ってきたことを伝えたんだろう。嬉しさのせいか、はたまた困惑のせいかはわからないけど、その感情のせいで少しだけ震える手をゆっくりと動かして、その届いたメールの中身を見た。

 

 そこには慣れ親しんだ者同士の飾らない短絡的な文章が書かれていた。

 

『おかえり。帰ってきたんだって? 何か言ってくれればよかったのに。明日暇でしょ。そっちに行くから』

 

 ……懐かしい。けど、それでいて怖い。会いたくないと言えば嘘になる。けど、君はもう誰かの特別な人だ。僕が君の隣にいていい時間は、きっと終わってしまったのだ。

 

 だから……来なくてもいい。そう文字を打とうとしたのに、指は意思に反して別の文字を入力していく。飾らないまま、何の感情も抱いていませんよ、と思わせるような。まるで自分に言い聞かせているみたいな感じがした。

 

『ただいま。勝手に暇と決めつけないでほしい。朝は眠いから、昼からなら良いよ』

 

 当たり障りのない文章が羅列している。少しだけ迷って、僕は送信の文字を押した。最早取り消しはできない。どうせ彼女のことだ。昼に来いと言っても、早くに来ることだろう。

 

 心のどこかで、歓喜している自分がいた。それを押さえつけるように、僕は唯野さんが作ってくれたご飯を口の中に運んでいく。味は美味しかった。きっと料理としての質で言えば、彼女の料理よりも美味しいはずだ。

 

 けど……それでも、僕は君の料理の方が美味しいと感じる。変だろうか。味だけならきっと彼の方が上なのに。『好き』とはこういうことなのだろうか。

 

 わからない。わかりたい。けどわかりたくない。

 

 わかってしまったら、きっと僕はここには二度と帰って来れないような気がしたから。

 

 

 

To be continued……



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第48話 心の中に溜まるモノ

 夜ご飯を終えて、それぞれが風呂に入ったあと僕は空いている部屋に女の子二人が寝る分の布団を敷いた。残っている鈴華さんと唯野さんはソファで寝させてもらえればいい、と言って二人で座り込んでいた。僕は一応毛布を彼らに渡すと、自室へと向かって行った。

 

 廊下を歩いていると、ギシギシと音が鳴った。流石に古くなってきている。掃除も録にしていないので尚更だ。一応、掃除だけはしてほしいと業者に頼んでおいたが、隅々まで掃除が行き届いていないように思える。まぁ、そんなに頻繁に帰ってくる訳でもない。僕は寝泊まりできるのなら、さほどそういったのは気にならない(たち)だ。

 

「……特に何も、変わってないな」

 

 自室の扉を開けると、昼間に見た時と何も変わっていない部屋の風景が目に飛び込んできた。当たり前だ。誰もこの部屋に入っていないのだから。しかし、昔は時折部屋が荒れることがあった。まるで嵐のように近寄っては遠ざかっていった人がいたからだ。

 

 普段仕事をする机も置いてあった。机には何冊か、昔書いた小説が隠すように置かれている。手に取られた形跡はない。その事実に少しだけ安堵し、ホッと胸を撫で下ろした。

 

 ふと、外を見た。窓に映っていたのは雲の合間に見える月だ。ほとんど満月のような月が煌々と輝いている。こんな夜は……なんとなく、昔を思い出す。天気の良い夜には、よく彼女が遊びに来ていた。

 

 今も尚響いている窓の音のように、コンッコンッと……。いや、この音はどうやら幻聴じゃない。本当に誰かが窓を叩いているようだ。やれやれ、といったように僕は立ち上がって窓の鍵を開ける。すると、懐かしい声と共に胸が締め付けられるような感覚があった。

 

「……よっ。あまりに暇だったから来ちまった」

 

 男勝りな話し方と共に、ひょこっと彼女は顔を出してきた。昔は本当に男の子みたいな格好だったが、今目の前にいる彼女はそうではない。髪の毛を伸ばし、可愛らしい洋服を着た変わり果てた幼馴染の姿がそこにはあった。

 

 あまりに変わっていたから、一瞬誰とわからずに唖然としてしまった。それを悟られないように、僕は努めて冷静に口を開く。

 

「……明日の昼頃に来るんじゃなかったのか?」

 

「言っただろ、暇だったって。上がらせてもらっていい?」

 

「どうぞ。言っても聞かないだろうしね」

 

 彼女はニヒヒっとイタズラっ子のように笑って窓から家の中に入ってきた。勿論、靴はちゃんと脱いでいる。僕は彼女が家の中に入りきると、窓を閉めた。その窓ガラスには、複雑そうな顔をしている僕が映っている。

 

「変わってないな~。もうちょっと男前になってるかと思った」

 

「お前は……変わったな。随分と女らしくなった」

 

「だろ? ちょっとまだ足元スースーすんのが気になるけど、結構似合ってるだろ? アイツも可愛いって褒めてくれるんだぜ」

 

 アイツ、と彼女は言った。その瞬間に胸がギュッと締め付けられるように苦しくなった。彼女が変わったのは、そのアイツのせい。それを喜ぶべきはずなのに……どうしても、僕はそれを手放しで喜ぶことは出来なかった。

 

 彼女は僕のベッドに座り込むと、部屋の中をグルグルと見回した。特に飾り気のない僕の部屋は、見て回っても何の面白味もない。無論、彼女の部屋もそうだった。僕の部屋と大差はなかったはずだ。そんな昔を思い出しながら、僕もベッドの隅に座り込んだ。

 

「相変わらず殺風景だな。もうちょっと飾ってみたら? 近くにデパートが出来てさ、品揃えもそこそこ良かったんだ。良かったら見に行ってやろうか? やっぱ男の子だし、もうちょっと黒とか青とか増やせばいいと思うんだ」

 

「……別にいいさ。どうせこの部屋もまた使わなくなる」

 

 そう言うと、彼女は眉をひそめて不機嫌そうな顔つきになった。少しだけたじろぐ。彼女は可愛らしいが、怒ると怖い。彼女の不機嫌な時の顔と態度は、田舎特有の不良でさえも怯えるくらいだ。

 

 彼女は人差し指でトンットンッと膝を突っつきながら不満そうな声で言ってきた。

 

「私まだ許してないからな。お前勝手にいなくなりやがって。帰ってきたと思ったら、また向こうに戻るのか? もうちょっとゆっくりしていけよ。お前がいない間に、結構変わったところあるんだぜ? あっ、でも扶持が気に入ってた喫茶店は潰れちまったな……」

 

 不満顔から、少し落ち込んだ顔に。彼女は話している時ころころと表情が変わる。その変化を眺めながら、僕は彼女の話に相槌を返していた。ふーん、とか、へー、とか。そんな適当な返事でも、彼女は満足しているようだ。しばらく会うことがなかったせいか、彼女の話は止まることを知らない。次々と湧いて出てくる話に、ふつふつと心の奥底で気持ち悪いものが溜まっていく。

 

「そういえばアイツさぁ、いつもはちゃん付けなのに、急に呼び捨てしてきて、ドキッとしちゃってさ。手慣れてるのかな? こう、女の子の扱いっていうの?」

 

「……そっか」

 

 気持ち悪い。できることならば吐いてしまいたい。けど、それはダメだ。彼女の文句を言う、あの幸せそうな顔と来たら……とてもじゃないが、この反吐の塊より汚いものを言葉にすることなんてできない。

 

『好きって、どんな感情なんでしょうか……?』

 

 ふと、昼間に聞かれたあの女の子の言葉が蘇ってくる。好きとは……男女間における恋と同義ではないか。であるならば、恋とは……こういうことなのだろうか。こんな薄汚いものが、恋? ドブ川よりも見た目も臭いも酷いものが、好きだという感情だと?

 

 そんなことは無いはずだ。僕は心の中に浮き上がってくる様々な言葉を消し去るように、浅く溜め息をついた。これは恋じゃない。これは嫉妬だ。そうだ、これは醜い嫉妬なのだ。以前からずっと一緒だった彼女が、誰か別の人と一緒になってしまったという、至って普通の感情のはずだ。

 

 こんなに汚いものを、僕は恋だと認めたくない。

 

「扶持……?」

 

 彼女の声にハッとなる。俯いていた顔を上げると、すぐ近くに彼女の顔があった。彼女の呼吸が明確なまでにわかる距離。少しでも顔を前に動かせば、衝突してしまいそうな距離。

 

 今まで心の奥底で燻っていた汚いものが、一気に崩れ去っていった。代わりに、心拍数が普段の何倍にも上がっていった。

 

「どうかした? あ、もしかして眠い?」

 

 僕が気がついたのを確認した彼女はそっと元の位置に戻っていった。その動きや仕草が、彼女が女性であることを彷彿とさせるものだった。昔はもっと荒っぽかった彼女が、ここまで変化してしまった。最早、別人みたいだ。

 

「……そうだね、疲れてるみたいだ」

 

 嘘だ。目なんて冴え渡っているし、身体に疲労は溜まっていない。けど、僕がこうして彼女と二人でいるのは、どうしてもはばかられた。

 

「そっか。じゃあ私帰るよ。また明日来る。アイツ、仕事だって言ってたし」

 

 そう言って彼女はまた窓に向かって歩いていく。窓を開けて、よっと掛け声を出してから窓枠に座り込む。

 

 まだ話していたい気もする。けど、話していてはいけない気もする。嫌な板挟みだ。彼女のことを想うのなら、僕はこうしていてはいけないはずなのに。

 

「……紗奈(さな)、もう僕のところに遊びに来るのはやめなよ」

 

「えっ……?」

 

 僕の言葉にハッとなって彼女は顔を上げた。そんなことを言われるだなんて思ってもいなかったというような顔だ。

 

 落ち着かせるように、早まらないように。ズボンの上から自分の足をつねる。その痛みで自分の決意を揺るがせないようにして、僕は彼女に言った。

 

「こういうの、ダメだと思うんだ。君は付き合ってる彼がいる。僕は、もし彼女が出来たなら、知らないところで男と二人っきりになってるなんて嫌だと思う。きっと、彼もそう思ってるよ」

 

 言えた。言い切った。先程よりもドクドクと速く波打つ心臓に、うるさいと訴えながら彼女の言葉を待つ。彼女は、少しだけ俯いて悲しそうな顔をした。けどすぐに顔を上げて、女の子らしく、可愛らしく微笑んだ。

 

「そっか。そうだよね。うん……わかった」

 

 彼女は窓枠から外に出て、靴を履いてから僕に向き直った。外は暗く、部屋から零れた明かりでしか彼女の顔はわからないが、それでも彼女がきっと笑っているんだろうということくらいはわかった。

 

「ねぇ、聞きたいことがあったんだけどさ」

 

 彼女の言葉に僕は口を閉ざしたまま、次の言葉を待った。数秒だろうか、数十秒だろうか。沈黙の間が流れ、外で鳴いている虫の音色だけが僕と彼女の間に響いていた。

 

 そして、ようやく彼女は口を開いた。聞き間違えでなければ、それはすこし潤んだ声だったようにも思える。

 

「私と扶持って、幼馴染で、親友だよね?」

 

 いつもの彼女の声よりも小さなその言葉は、静かな夜だったからしっかりと聞こえてきた。何を迷うことがある。何を不安に思うことがある。そう、僕と彼女は幼馴染だ。互いに互いを思うようで、けど素の自分で接することの出来る数少ない間柄。相手に不満を抱かせないかを考える必要もなく、言いたいことを、話したいことを話せる人。

 

 僕はその言葉にゆっくりと頷いて返した。その返事に満足したのか、彼女はまた笑った。

 

「だよね。それじゃ……おやすみ、扶持」

 

「おやすみ、紗奈」

 

 暗闇の中を、彼女は走り去っていった。家の距離はそう離れていない。送っていかなくても、きっと大丈夫だろう。僕はそう決めつけ、窓をゆっくりと閉めた。

 

 静かな部屋で、ポツンと取り残される。なんだか変な孤独感が湧き出てきて、少しだけ寒気がした。ふと、頭の中に言葉が浮かんできた。窓の外を見ながら、僕は誰に言うでもなくポツリと呟いた。

 

「……男女の間には友情は成立しない、か」

 

 僕と彼女の間に友情がないとするならば、この嫉妬はどこから湧いてきたのだろう。こんな感情いらなかったのに。僕の中で勝手に湧いてきたのだろうか。それとも、彼女が僕にこの感情を運んできたのだろうか。

 

 答えなんて出なかった。ただ僕は、窓に映った月を見上げて昔の出来事に想いを馳せていた。

 

 

 

To be continued……




幼馴染ではあるが、親友であるとは明言していない


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第49話 明るい場所

『おやすみ、紗奈』

 

 その言葉を聞き終えると、俺と先輩は一旦目を合わせて互いに頷き、足音を立てないようにして扉の前から移動し始めた。寝る場所であるリビングまで戻ってくると、二人でソファーに座り込んで沈黙した。

 

 なんとなく聞いてはいけないものを聞いていた気がする。その罪悪感が今になって身体を蝕んできた。林田さんに聞こえないように、先輩が小さな声で話しかけてくる。

 

「……なんで、俺達聞き耳たてちまったんだろうな」

 

「それに関しちゃ俺のせいなんですけどね。満月近いせいでどうも聴覚が強化されて、あんだけ離れてても聞こえちまうんですよ。それに、この村に神話生物がいるかもって話ですし、用心するに越したことはないでしょう」

 

「いやまぁそうなんだけど。でも、なぁ……甘酸っぱいようでとてつもなく苦いお話を聞いてしまったよ、俺達は」

 

 先輩が頭を抑えて項垂れた。確かに、林田さんと、確か紗奈さんと言ったか。二人の間には特有の雰囲気が存在し、あの二人が幼馴染なのであろうことは予想ができた。そして、紗奈さんには彼氏がいるのであろうということも。

 

 林田さんの小説を読む限り、彼の書く小説の主人公は紛れもなく林田さん本人の筈だ。ならば、林田さんは確実に紗奈さんを好いており、反応を見るからに紗奈さんも悪くは思っていない。ただ、彼氏というどうにもならない現実的な壁があると言うだけで……。

 

「……まぁ、今俺達が悩む問題でもないでしょう。目下の目的は神話生物の捜索なんですから」

 

「おっ、そうだな。という訳で、さっさと夜廻りに行くか。女子陣は……寝かせといていいか」

 

「藪雨は『忍者』の癖して情報収集に手を貸さないとか、何しに来たのやら……」

 

「アイツの特技ピッキング以外しらないんだけど。むしろあの子何が出来るの? 俺達の疲労感を貯めるくらい?」

 

「クレームつけて返品しましょう。そんで、他の人探しましょう。多分俺の予想だと、アイツ大分引っ掻き回しますよ」

 

 軽くため息をついて、俺は予想される未来についての気苦労のせいで発生した頭痛を押さえつけるように手を頭に押し付けた。先輩も両腕を組んで、うんうんと頷いている。まぁ昼間も酷かった。宿が取れなくて最悪車で寝泊まりしようとしたら、風呂に入りたいだの車じゃ快適に眠れないだの、遠足気分かと説教してやりたかったくらいだ。先輩は呆れた顔で藪雨の文句を言いながら身支度を整えていった。

 

「あの媚びた笑いと仕草さえなければ唯の女の子なんだけどなぁ……」

 

「そりゃもう藪雨じゃなくて女の子Aとかいうカテゴリになると思うんですが」

 

 黒の外套を身に纏い、互いに自分の得物を持ってバレないように外に出る。外は暗く、さほど田舎ではないせいか虫のさざめきもあまり聞こえない。空には雲の間から見える満月に近い月が浮かんでいた。ソレを見ていると、どうにも気分が昂って仕方が無い。あまり見ないように目を逸らし、先輩と共に夜の村を駆け回った。

 

 

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 

 

 

 疲れでぶっ倒れそうな身体を動かして、朝食を食卓に並べていく。流石に帰ってきて寝る時間も短く、朝食も作らねばならぬとなると身体的にも精神的にもキツい。ソファーで寝っ転がってスヤスヤと寝息を立てている先輩を見ていると無性にデスソースをぶっかけたくなる衝動に駆られる。

 

 ふぁぁっと大きな欠伸が出た。まだ少しうつらうつらとしていると、寝ぼけ眼の藪雨と一緒に七草さんがリビングにやってきた。藪雨は並んでいる朝食に、眠たそうな眼を見開いた。嘘だろお前みたいな目で俺のことを見てくる。

 

「……せんぱいなんなんですか。女子力高すぎです」

 

「開口一番がそれか。まぁいい、顔洗って飯食っちまえよ。七草さんもね」

 

「ありがと、氷兎君っ」

 

 七草さんはいつものように笑って、洗面台の方へと向かっていった。藪雨は渋々と言った感じだが……。明日の朝飯はアイツだけ抜きにしてやろうかと本気で思った。他に何かやることはないかと探そうとしていると、のそのそと今度は林田さんがやってきた。寝癖で頭のてっぺんがぴょこんと跳ねている。

 

「……朝ごはんまで作ってくれたのかい?」

 

「泊まらせてもらってますからね。これぐらいはやりますよ」

 

「悪いね……。君みたいのに憧れるよ。僕は料理とか、からっきしダメなんだ」

 

「人それぞれですよ。貴方は文を書く力がある。しかし、それは俺にはないことです。ないものねだりなんてのは贅沢ですよ。まぁ……料理くらいなら簡単に覚えられると思いますけどね」

 

 そう言って俺は眠っている先輩の近くにまで歩いていくと、ポケットの中から赤色の液体が入った容器を取り出して、蓋を開けて先輩の口の中へと注ぎ込んだ。ドロドロとした液状と言っていいのかわからないものが口の中を満たしていく……。

 

「ッ、ごぼっ、あ、がうぁぁぁぁぁッ!?」

 

 突然目をカッと見開いて口を抑えながら身悶えする先輩。煩い叫び声が部屋の中に響く。近所迷惑だからやめてください、と言うと先輩は俺の事を恨ましげに睨んできた。やがて口の中が落ち着いたのか、肩で息をしながら俺の両肩を掴んで迫ってきた。

 

「な、何をする氷兎……」

 

「モーニングコールです」

 

「コールの意味を調べ直せ!! お前のやったことと90度くらい違う意味が書いてあるぞ!!」

 

「優しめの辛さにしたんで安心してください」

 

 俺に一体なんの恨みが……なんて言いながら先輩は洗面台に向かっていく。日頃の行いと日常的な家事を全部丸投げしてくることを、これで少しは省みて欲しいものだ。

 

 既に食卓に座ってご飯を食べ始めている七草さん達と一緒に俺も朝食を食べ始める。そして昨晩の捜査の内容について考えを巡らせていた。

 

 まぁ、収穫はゼロに近い。だが神話生物がいるだろうということはなんとなく掴めていた。例えば、木の影から何かが俺達を見ていたり、明らかに人のものでは無い足跡のようなものがついていたり。この村にいる神話生物は、上手く溶け込んでいるようだった。今のところ、村人に被害があったという話は聞かないが……この村では月一、もしくは二くらいの頻度で一家揃って引越しするという不思議な現象が起きている。しかも決まって新月と満月の次の日くらいに。それが現地での諜報員から得られた情報だった。

 

「………」

 

 今回は……いや今後も、諜報員は俺達と一緒に行動しないという方針で行こうという結論になった。俺達が神話生物と表立って交戦し、諜報員はバレないように日常的な部分から情報を集めるという分担作業の為だ。そっちの方が効率的にも、諜報員の安全面的な意味でも良いと判断した。

 

「氷兎君、どうかしたの?」

 

 七草さんの声で、俺はだいぶ思考に耽っていたのだと自覚した。ハッとなった俺は、彼女に大丈夫と伝えると残っていた朝食を掻き込んだ。そんな様子を見ていた藪雨がため息混じりに会話を始める。

 

「はぁ……唯野せんぱいって本当に男の子なんですか?」

 

「男だよコイツは。前に一緒に大浴場行った時に確かめたから」

 

 何食わぬ顔でリビングに帰ってきた先輩の言葉に少しだけムッとした。そんなに俺は男だと思われていないのか。先輩にもそう思われていたことが少しだけショックだった。言葉にせず、先輩を睨みつけることで俺が不機嫌であると伝えるが、先輩はそれを無視して朝食を食べ始めた。

 

「氷兎が女の子だったらなぁという個人的な願望を抱いていたんだが、そんなことはなかった」

 

「そもそも前に海行ったじゃないですか。俺海パンだけだったでしょう」

 

「いや胸が絶望的にない女の子の可能性を俺は捨ててなかった」

 

「こんな女の子がいてたまるか」

 

 片手を額に当てて、はぁっとため息をつく。こんな男らしい顔つきの女の子がいても流石に困る。俺は顔面偏差値なら校内でも高い方だったのだ。先輩と比べれば見劣りするが、それはそれだ。そう考えていると、藪雨がなんとなくわかります、と言ってきた。

 

「唯野せんぱいって、格好いいというより中性的な整い方してるんですよね。確かに顔はまぁまぁなんですけど……」

 

「格好いいと可愛らしいの中間位置に存在しているな。ちなみに俺は?」

 

「鈴華せんぱいはぁ……天パ?」

 

「それ顔じゃなくて頭だから! しかもそれ評価じゃないじゃん!」

 

 何やら喚いている先輩。うるさいですよ、と注意しようとした時に先程の先輩の言葉が頭をよぎった。氷兎が女の子だったらなぁ、と言うことは……もし仮に俺が女の子だったら先輩に襲われていた可能性が……?

 

 今後先輩との関係性を改めるべきかと悩み始めた時に、林田さんの堪えるような笑い声が聞こえてきた。その笑い声に、食卓が一瞬静まり返る。林田さんは少しだけ申し訳なさそうな顔で言ってきた。

 

「ハハッ……いやごめんよ。なんとなく君達を見てると、楽しそうだなって思えてね」

 

「えぇまぁ、仲は良いっすよ。俺達三人はズッ友です」

 

「天パせんぱい、その中に私入ってますよね?」

 

「申し訳ないが、魅力を感じない女の子はNG。背を高くするか、胸を大きくするか、もっと包容力のある行動を取れるようになってから出直してこい。お前は完全に俺のストライクゾーンからかけ離れている」

 

「頭にきました」

 

 椅子から笑顔のまま立ち上がって先輩の元へと向かう藪雨。仕方が無いので藪雨に向かって声をかけると、ポケットから赤色の例のアレが入った容器を取り出して投げ渡した。先輩が焦った顔で俺のことを見てくる。

 

「ちょ、氷兎なんでお前そっちにつくんだよ!?」

 

「申し訳ないが、唐突な変態発言は七草さんの前ではNG。†悔い改めて†」

 

「じゃあせんぱい、可愛い後輩があーんしてあげますねー。ほら、お口開けてください♪」

 

「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい! 待って! 助けて! 待って下さい! お願いします! あ゛ぁ゛ぁぁぁぁッ!?」

 

「仕方ないね」

 

 なんという語録密度だろうか。悲鳴をあげて椅子から転げ落ちてのたうち回る先輩を見て、林田さんを含めて皆で笑っていた。デスソースをあーんした藪雨は、やったぜと少しだけドヤ顔のまま達成感に浸っている様子。

 

 流石に可哀想なので、水を先輩に渡すと一息で全て飲み干し、もうダメかと思ったよ……とその場で動かなくなった。どうやら疲れてしまったらしい。代わりに俺の疲労感は少し取れた。やったぜ、と俺も机の下でわからないようにサムズアップした。

 

 

To be continued……



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第50話 好意を示す行為

まさかのあらすじにミスがあるとは……。
訂正致しました。おそらく気がついていない人がほとんどな気がしますがね……。


 心地よい風が吹く、暖かな良い日だった。鳥の鳴き声が響く中、過ぎ行く人達の話し声が聞こえ、車のエンジン音が遠くから迫ってくる。

 

 何か良い事がありそうだ。そう思えるような天気の中、僕は彼女に呼び出された場所に向かって歩いている。そして、ふと気がついた。あぁ、これは夢だ。何度目かの同じ夢だ。

 

 引き返そうか。いや、引き返したところで意味もないだろう。現実では過ぎた日だ。引き返すことは出来ない。そう、記憶の通りに。あの忌まわしき日を、もう一度。

 

『扶持っ、こっちこっち!!』

 

 彼女の声が聞こえてくる。そうだ、あの日は出来なかった。けど今なら笑って会うことが出来る。頑張って、普段あまり使われない頬の筋肉を動かして笑顔を作る。けど……例え夢でも、その笑顔は剥がれるように崩れていった。彼女の隣にいる、一人の男性によって。

 

『扶持、紹介するね。私の彼氏の──』

 

 彼氏。その言葉が聞こえた途端、何も聞こえなくなった。ただ紹介されたであろう彼は、にこやかに笑って僕に頭を下げてきた。髪の毛をワックスで整え、爽やかな笑みを浮かべる好青年だった。

 

 ピキッ、ピキッ、と地面に亀裂が入っていく。例えようのない不安と、嫉妬。それらが混ざってドロドロとした気持ちの悪い物質を作り出していく。胃の中から、喉を通ってそれは声となった。

 

おめでとう(さようなら)、そしてどうか幸せに(どうか忘れてください)

 

 地面が割れる。笑っている彼女がだんだんと遠ざかっていく。落ちる。堕ちる。墜ちる。故郷が遠ざかっていく。そして、やがて地面が見えてくる。それは僕が住んでいた町。僕の仕事をする町。

 

 現実から逃れた避難場所。仕事という名目の元、僕は逃げ出したのだ。その言い知れぬ不安を零さぬために。この醜い嫉妬を隠すために。

 

 

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 

 

 

 お昼ご飯を外に食べに行くことにした。彼らが滞在してからもう四日目となる。流石に買ってきていた食材も切れてしまい、買い物ついでにファミレスに寄ることにした。行き帰りの車は鈴華さんが運転している。中々に上手な運転で、乗っていても不安にならない。僕が自分の車を運転する時は、終始不安でたまらないのに。彼のその表情は不安なんてものを感じていないようだった。

 

「お昼時だから客が多いっすね」

 

 身体を伸ばしながら店の中に入ってきた鈴華さんが言った。確かにファミレスの中はごった返している。店員達が忙しなく動いていたが、幸いにも僕達の座れる席は残っているようだった。男女で別れて席に座り、それぞれ食べたい物を選んで注文していく。

 

「唯野せんぱぁい、ここのご飯奢ってくださいよぉ」

 

「自腹で払え。どうせ金使わねぇだろ」

 

「失礼な。これでも色々と使うんですよ? それに、女の子に払わせるとか甲斐性がなーい」

 

「俺はそうやって男に金を払ってもらうのが当たり前って考えてる女が大っ嫌いなんだ」

 

「同じく」

 

 腕を組んで唯野さんの言葉に頷いている鈴華さん。その二人を、こいつらマジで使えねぇみたいな表情で見ている藪雨さん。この三人はなんとなく仲が悪いように見える。一方、七草さんは大人しい。時折唯野さんと話しては、その可愛らしい容姿を更に際立たせる笑顔で周りの人を魅了している。アレは天然物だろう。彼女の将来が恐ろしいものだ。あれでまだ成人していないのだから。

 

「世の中には彼氏からのクリスマスプレゼントを次の日にネットで売る女がいるらしいですよ」

 

「えっ、何それは。こういうのがあるから女は怖ぇんだよなぁ……。もっと好意を大切にしてるということを行為で示して、どうぞ」

 

「わ、私はそういうことしないよ! 氷兎君がくれたヘアゴム、ちゃんと大切に持ってるもん!」

 

「七草さんはそのままでいてくれ……」

 

「現代にあるまじきナイスバディ&清らかな心。崇めて差し上げろ」

 

 唯野さんは懇願するように彼女を見上げ、鈴華さんは両手を合わせて拝んでいた。それを恥ずかしそうに手を振って辞めるように言う七草さんと、それらをシラーっとした目で見つめている藪雨さん。最初に見た時は、藪雨さんは猫を被っている気がしていたが、今の彼女の態度は素の物なのだろうか。やはり人の心というのはわかりかねる。

 

「林田さんもコイツ見て何も思いませんか? 絶対コイツ貰ったプレゼント即売り捌く奴ですよ」

 

「天パせんぱい、本人を目の前にして言って良いことと悪いことがあることを知ってますか?」

 

「お前にゃ話しとらん」

 

 猫の威嚇みたいに怒っている藪雨さんをスルーする鈴華さん。流石にソレをスルーするのは僕にはできない。というか、彼女と一緒にいることは僕にはキツい事だ。大人は皆、仮面を被って生活する。それは僕にも当てはまることだ。彼女はきっと、その仮面を早い段階で身につけてしまったんだろう。外せなくなってしまったのかもしれない。今は剥がれかけているが……。まぁ、僕が気にすることではないか。

 

「そうだね……。そういった人が居るということを、信じたくはないものだよ。人の好意を踏み躙ることじゃないのかな、それって」

 

 もっとも、好意もなにも、好きということすらよく分からない僕には大きな事を言えたものでは無い。クリスマスプレゼントを送った男は、確かに女を好いていたんだろう。でなければプレゼントを贈らない。だが、女は? 彼女は男を好いているから一緒にいるはずなのだ。なら何故? 何故プレゼントを売り払ってしまうのだ。そこにはちゃんと、『愛』が込められているはずなのに。

 

 それとも、女性にとって『愛』とはくだらないものなのか? もしくは、女性はただその一瞬を寂しく思わないために男を隣に連れるのだろうか。好きでも愛してもいない相手を。その日彼氏と一緒に過ごしたという実績の為に。

 

「……女の子にとって、男というのは飾りでしかないのか?」

 

 呆然と呟かれたその言葉に答えたのは、藪雨さんだった。彼女は少しだけ眉をひそめながら、いつもよりも心做しか低い声で言ってくる。

 

「そういうものと考える人もいます。だって、男にだってそれは言えるでしょ? 身体目当ての男なんてそこら辺に沢山いる。女だから、男だから。そんなもの関係ないんですよ」

 

 彼女には似つかわしくない声が聞こえてくる。歪んだ表情だった彼女は、ゆっくりとその表情を戻していき、やがて満面の笑みのまま口を開いた。

 

 

 

「人間総じて、皆クズですから」

 

 

 

 軽快な明るい声で言われたその言葉は、しかしズッシリと重くのしかかってきた。しばしの間、沈黙の間が流れるが、それを断ち切るようにして唯野さんが口を開いた。

 

「確かにな。どうしようもないくらい、クズな人間がいる。本心を隠して、人を欺く輩がいる。道理も道徳観も捨て去ったクソ野郎がいる。けどよ……誰も彼もが、そういった人じゃねぇよ。そんな環境にいても、足掻いていた人を、俺は知ってる。周りに誰も味方がいなくても、それでも他人の為に何かをできる人になりたいと願った人がいる。その人を見て、人間って捨てたもんじゃないって俺は思ったよ」

 

「……馬鹿みたい」

 

 藪雨さんが鼻で笑ってからそっぽを向いた。鈴華さんはその言葉に軽く頷き、七草さんは少しだけオロオロとしていた。

 

 彼らには彼らの生きてきた道がある。その途中で得た経験を、そう簡単には捨て去ることが出来ない。裏切られた人は、今後も誰かが裏切るのだと不安に思うだろう。人の綺麗な部分を垣間見た人は、人の善性を信じる心を捨てきれないだろう。全てが悪い人間ではない。言い換えれば、全てが良い人間な訳が無い。折り合いをつけなければならないのが僕達の世界なんだろう。

 

「……はぁ。藪雨、デザートくらいは奢ってやる」

 

「しょっぱいですね」

 

「デザートは甘ぇよバカタレ」

 

 唯野さんがデザートを奢ると言うと、藪雨さんは少しだけ機嫌を戻したようだ。僕から見て彼は渋々といった様子だった。おそらく、仕事仲間と劣悪な関係になりたくないからだろう。お金でどうとでもなるのなら、それでどうにかしてしまうのが楽なのかもしれない。

 

「……あれ、扶持?」

 

 ふと、聞き慣れた声が背後から聞こえてきた。いきなりのその声に驚き、しかしそれを悟られないようにゆっくりと背後を向くと……そこには、紗奈が立っていた。その隣には、彼がいる。柔らかな笑みを浮かべた彼が。返事をしなくては。しかし話そうとしても、中々喉から声が出なかった。

 

「……や、やぁ紗奈。こっちの人達は……」

 

「ども、友人の鈴華です」

 

「同じく唯野です。こっちは七草で、こっちは黒猫のジジィです」

 

「ジジィじゃなくて藪雨ですっ。私そろそろ怒りますよ!」

 

「は、初めまして……」

 

 どう説明したものかと一瞬悩んだが、鈴華さんが率先して自己紹介をしてくれた。友人……という括りでいいのか、迷ったのだ。仕事仲間という訳でもない。本当に、不思議な縁で繋がった人達なのだ。それらを見た紗奈も、温和な笑みを浮かべて挨拶してきた。

 

「どうも、扶持の幼馴染の月見(つきみ) 紗奈です。こっちは、今お付き合いしている彼……」

 

狩浦(かりうら) (せん)です。お久しぶりですね、林田さん」

 

「……お久しぶりです。お変わりないようで」

 

 当たり障りのない言葉で僕は彼に返事を返した。狩浦さん。それが、紗奈の彼氏。彼女が好きになった人。確かに、人受けの良さそうな顔つきだし、仕草もガサツでない。優しそうな男性だ。それは前に見た時から何一つ変わりない。

 

 紗奈も、隣ではにかむ様に笑っていた。その笑顔が、どうにも僕の心を締め付ける。また気持ちの悪い感情が湧き上がり、中で暴れ回っていた。その醜いモノを押さえつけるように、僕はお冷を一気に飲み干した。少しだけ落ち着いた気がする。

 

「お友達、増えたんだね。外でも仲良くやれてるみたいで、私安心したよ」

 

「ハハハ、まぁ、ね……」

 

「林田さんのご友人は皆綺麗だったり格好良かったりと凄いです……ね」

 

 少しだけ、狩浦さんの目が止まった。その目線の先にいるのは……唯野さんだろうか。彼を見た時、狩浦さんの顔が少しだけ強ばった。知り合いだったんだろうか。彼は少しだけ急かすようにして紗奈の腕を引いた。

 

「紗奈、邪魔しちゃ悪いし席に着こう」

 

「そ、そうだね……。またね、扶持」

 

 昔のような男勝りな性格なんて見せず、彼女は慎ましい女性のまま狩浦さんに着いていく。僕は引き止めることも何もせず、ただ二人が手を繋いで歩いていく姿を見つめていた。それらを見ていた藪雨さんが口元をニヤリと歪めて茶化してくる。

 

「ひぇー、格好いいですね……。あれが林田さんの好きな幼馴染さんですか。あの人もなんだか可愛いですねぇ。けど彼氏がいるし……略奪愛……?」

 

「……そんなことはしないよ。彼女は幸せそうだし、第一僕は彼女を好きじゃない」

 

「え、でもこの前は恋をしてるって……」

 

「恋なんかじゃないよ。これは、きっと……恋なんかじゃない」

 

 藪雨さんの言葉を、僕は否定した。こんなに汚いものが恋であってはならない。恋とはきっと、もっと綺麗なもののはずだ。もっと甘酸っぱく、そして苦い。こんな泥のように汚いものが恋であってはならないのだ。

 

 わからない。『好き』とは、『恋』とは、『愛』とは。

 

 それらはどういったものだ。どこから生まれてくるのだ。どのように消えていくのだ。理解出来ない。理解したい。けど理解したくない。

 

 誰か答えをくれないか。それが出来ないのなら、いっその事……こんな汚い感情を、消し去ってはくれないか。

 

 彼女に恋をしていた。それは好きだから恋をしたのか。では何故彼女を好きになった。それはきっといつも隣にいてくれたから。では、好きとは長い時間を過ごした人のことを言うのか。それはきっと違うだろう。

 

 世間は僕の小説を評価する。悲しい失恋の物語だと。その作者が失恋どころか恋すら知らぬとは……。笑える話だ。

 

 もしかしたら……この世界には『恋』や『愛』なんてものは何の意味も持たず、都合のいい表現として使われているだけなのかもしれない。

 

 彼女達とすれ違う様に運ばれてきた昼食を、口の中へと運んでいく。何故だろう。味が薄くて美味しくなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……氷兎、どうかしたのか?」

 

「いえ……なんとなく、変な感覚があったので」

 

「狩浦か……。どう思う」

 

「……グレー、ですかね」

 

 嫌な感覚が何であるのか、大体わかってきていた。それは恐らく、日常からかけ離れたものに感じるものだ。彼も何かを感じたに違いない。あの日から俺の中に住みつき始めた何かを。

 

 

 

 

To be continued……



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第51話 『恋』と『愛』

 昼にファミレスで起きた事が、どうにも頭から離れないまま夜を迎えた。見たくはなかった。彼女の幸せそうな顔を。

 

「……何を、馬鹿なことを」

 

 一瞬よぎったその想いを捨てるように頭を軽く振った。彼女の幸せそうな顔が見たくない? それは、馬鹿げている。彼女が幸せなのは、とても素晴らしいことではないか。なら何故、僕は彼女の幸せそうな顔を見たくないと思った? 僕は、彼女の幸せを望んでいないということなのだろうか。そんなにも、僕は他人を思いやれない畜生だったのだろうか。

 

「………」

 

 悩むばかりで、事態は進展しなかった。少しだけ頭でも冷やそうか。もうそろそろ満月だろう。綺麗な月が見えるはずだ。そう思ってベランダに向かっていくと、そこには一人の男の子が立っていた。癖のない髪の毛で、優しげな表情を浮かべながら彼は空を見上げていた。

 

 邪魔をしては悪いだろうか。僕は部屋に戻ろうか。なにぶん、人と話したい気分ではない。そう考え踵を返そうとしたところ、ちょうど彼が振り返って目が合ってしまった。彼は軽く頭を下げて、僕のことを見てくる。流石に戻ろうにも戻れない。僕も軽く頭を下げてから、ベランダに出た。

 

「どうも、林田さん。こんな夜更けにどうしたんですか?」

 

「……それは、僕も聞きたいな。どうしてここにいるんだい?」

 

「湯涼みがてらに、月を見ていました。なんとなく、満月が近くなると惹かれるような気分になるんですよ」

 

「月には人を惹きつける魔力がある、だなんて言われているからね」

 

「引きつける、とも言えますけどね。人の身体って水分が多いじゃないですか。それが、月に引っ張られるらしいんですよ」

 

「そういった話もあるね」

 

 一人でゆっくりと考えたかったが、不思議と口が回る。誰とも話したくなかったのが嘘のようだった。月のせいだろうか。それとも、彼特有の雰囲気のせいだろうか。初めて会った時もそうだった。彼と話していると、どうにも話が湧き出てくる。

 

 さながら、地の文だ。会話に情景描写なんてものはいらない。目的とか、理由とか。そういったものが伝えられればいい。けど彼と話していると、だんだんその時の想いとか、そういったものも話したくなってくる。不思議な男の子だった。

 

「……僕は、なんとなく考え事をしたい時には空を見上げたりしていたんだ」

 

「いいじゃないですか。空をよく見る人って、優しい人が多いらしいですよ」

 

「……優しくなんてないよ。僕は、自分が思っているよりも優しくない」

 

「自分で自分を決めつけるのは、中々難しいことではないですかね。人の価値は、残念なことに他人からでしかつけられないので。自分で自分の価値は付与できませんよ」

 

 ……確かに。彼の言うことには一理ある。人の価値は他人からしか得られない。相手の必要とするものがあれば、その人の価値は上がるだろう。逆ならば下がるだろう。けど、自分で自分の価値を決めつけることはできない。それは性格にも言えることなのかもしれない。自分の性格を自分で分析するのは難しいことだ。ただ、第三者の客観的事実ならば、印象や風貌も含めその人の性格なんてものを表せるのだろう。

 

 そうして会話を交わしていると、ふつふつと心の奥で湧き上がってくるものがあった。会話下手な僕が、自分から話したいと思うことは早々ない。けど、目の前の彼は僕の話を黙って聞いてくれるだろう。そう思えた。だから、僕は自分の想いを吐露してしまおうと思った。それがきっと、僕が楽になれる手段だったから。

 

「……僕の話を聞いてくれるかい?」

 

「もちろんです。現役小説家の話なんて、早々聞けない貴重な体験ですしね」

 

 彼は少しだけ微笑んでそう答えた。困ったな、そんなに良い話ではないのに。けれど、話を辞めようとは思えなかった。互いに外の風景を見ながら、僕はポツポツと自分の話を切り出していく。

 

「僕の両親は、幼い頃に僕を置いて消えてしまった。蒸発したのか、どこかで心中でもしたのか、そんなことはわからなかった。家に帰ったら、誰もいなかったんだ」

 

「………」

 

「昔は外で遊ぶのが好きでね、家にいる時間というのはほとんどなかったようなものだった。それで、その時一緒に遊んでいた子がいた。それが昼間に会った彼女……紗奈だった。彼女は身寄りがなくなった僕のことを案じて、一緒にいてくれた。彼女の両親も、僕のことを可愛がってくれた。きっと、四六時中一緒にいたよ。本当は、彼女は男勝りな性格でね……。だから、僕や男友達ともよく遊んでいたんだ」

 

 話していると、懐かしい記憶が蘇ってくる。小さかったあの頃、鬼ごっこをして僕は彼女によく捕まった。彼女の運動能力は目を見張るものがあって、当時の子供の中では一番速かった。木登りも得意で、スカートを履くよりもズボンを履いているような女の子だった。

 

「中学が終わり、高校も卒業出来た。けど、僕にはもうお金がなかった。大学に行く余裕なんてない。だから働かなくちゃいけなかった。地元で働きながら生活していた。その歳になっても彼女は地元にいて、僕と一緒にお酒を飲んだりもした。気がつけば……彼女が隣にいるのが、当たり前のようになっていたんだ」

 

「けれど、その当たり前は崩れてしまった。ですよね?」

 

「……そうだね。用事があると呼び出されて、僕が会いに行くと……そこには彼がいた。狩浦さんだ。どこでどう知り合ったのかは知らない。僕は……逃げたんだ。どうしても、その現実を認めたくなくて。その場から離れたら、彼女が追ってきてくれるかなって、心のどこかで思いながら」

 

「……好きだったんですね、月見さんのことが」

 

 尋ねてくる唯野さんの言葉に、僕は首を横に振って答えた。好きであったのかよくわからない。独占欲のようなものを感じ、それを汚いと思った。当たり前ではなかったのだ。それが普通であるはずだった。

 

 荒んでいく心、それを実感した僕は、ただただ汚い心を見せつけまいと彼女から離れた。こんな汚いものが、恋であっていい訳が無い。まして、愛であってたまるものか。そう吐き捨てた。けど彼は、それは違いますと否定してきた。

 

「貴方は、月見さんに恋をしていたんですよ。男女間に友情は成立しない。何故ならば、育んだ友情が好意へと変わってしまうから。貴方は気が付かないうちに、気持ちが変化してしまっていた。そしてそれを気がつかないふりをしたんですよ。気がついてしまったら、きっと今までのような生活を送れなくなってしまうから」

 

 彼の言葉に、僕は何も言えなかった。そうである、と答えられない。それは違う、と否定できることでもない。ただ僕は黙って、彼の言葉の先を待った。

 

「……貴方が欲していたのは、きっと月見さんとの日常だった。しかしそれは崩れ去ってしまった。月見さんに、彼氏という存在ができてしまったから。貴方が守ろうとしたものを、別の誰かによって破壊されてしまったんです」

 

「……けど、僕は……もうどうだっていいんだ。彼女のことも、諦めがつくよ。きっとそのうち、消えてくれるはずだ。この想いも、何もかも。僕は彼女が幸せであるのなら、それでいいんだ」

 

「いいえ。消えません。そして、貴方は一欠片たりとも、月見さんに幸せであれと願ってなどいません」

 

 明確な否定の言葉が僕に突き刺さった。荒々しく、棘のように鋭い。彼は月を見るのをやめて僕の目を真っ直ぐ見据えて、口を開いた。

 

「貴方は、月見さんのことを最早好きではないんです。貴方はもう、月見さんに『恋』をしていない」

 

 ……なぜ、そう言えるのだろうか。彼の言葉や雰囲気に圧倒されたまま、僕は彼の言葉の続きを待つ。彼ならば、きっと答えをくれる。そうでなくとも、答えのきっかけをくれる。不思議とそう思えてしまったから。

 

「貴方が恋をしていたのならば、月見さんを好いていたのならば……えぇ、きっと貴方は彼女の幸せを願えたでしょう。けど、今の貴方は違う。自分自身では気がつかないでしょうけど、貴方がさっき幸せであることを願うと言った時……苦しそうに顔が歪んでいましたよ」

 

 言われて、自分の頬を触った。しかし今は無表情。頬が動いているような形跡はない。そんなに顔に出やすいタイプではなかったはずだ。

 

 ……なら、なんで顔に出てしまったんだ?

 

「それは、貴方が本当に彼女の事を想っているからです」

 

 口にしていないのに、彼は僕に回答をくれた。本当に彼女のことを想っている?

 

 ……そんなわけが無い。ならば、この汚い感情はなんだ。泥のように汚れ、ドブ水よりも酷い匂いを発するこの感情は何故存在する。彼女を想っているのならば、こんな感情があるはずがない!!

 

 心の中で自分自身を叱責し、僕は頭を悩ませた。そんな僕のことなんて知らないかのように、彼は話を続けていく。

 

「……恋とは、一方通行が可能な感情なんです」

 

 ……恋が、一方通行。訳が分からない。彼の言いたいことが、よく理解できない。

 

「しかし、愛はそうではない。愛は……一方通行が可能ではない。しかし、存在することは出来ます」

 

 わからない。わからないわからないわからない。恋ってなんだ。愛ってなんだ。それらはどう違うのだ。好きってなんだ。愛してるってなんだ。それらは、一体何が違うのだ。

 

「恋をしている時、相手を何かと重ね合わせて夢を見ることが出来ます。しかし、愛ではそれはできません。愛とは……互いに贈りあわなければ成立しないんです。愛を与えたなら、愛を貰わなければならない。そうした等価交換のような応報こそが、『愛』なんです。それが破綻した場合……愛というのは砕けてしまう。それ故に、愛とは一方通行になりえないのです」

 

 ……愛は、相互に贈りあわなければならない。ならば、それは恋でも同じではないのか。例えば、僕が仮に彼女を好きであったならば、僕が彼女に告白をして……

 

 ……彼女は、僕を振る、のか? そうだ。好きではないのなら断るはずだ。そう考えれば、確かに……恋は一方通行で存在している。

 

「愛の反対は無関心である。エリ・ヴィーゼルの言葉ですね。これ、確かにそうだと思えるんですよ。そして、昔は似たような言葉がもうひとつあったんです。愛の反対は、憎しみだと」

 

 あぁ、聞いたことがある。確かにそんな話をどこかで聞いた。愛しているの反対は、愛していない。つまり、無関心であり、決して憎しみではないのだと。

 

「愛の反対は憎しみではないです。しかし、愛があるからこそ、憎しみというのは存在します。例えば、こんな話はどうでしょうか」

 

 彼はある物語を語り出した。

 

 あるところに、一人の人間がいました。彼は旅をしていて、行く先々で色々な人間を見ていくのです。あぁ、しかし人間は汚く醜いものでした。他人に責任を擦り付け、自分だけがいい思いをしようとする。そんな人間達を見た彼は、世界を脅かす魔王になってしまったのです。魔王は魔物を使って、世界を征服して魔物の世界を作ろうとしました。

 

 彼が無関心であったのならば、そうはならなかったはず。醜い人々を見ても、あぁそうか、と流してしまえたはず。しかし彼は人間というものを理解し、愛していたのです。だから醜いものが見えてしまった。それ故に、彼は憎しみを抱いてしまった。愛故に、憎しみが生まれてしまった。

 

「人が悪か。魔王が悪か。それはさほど関係がありません。大事なのは、そこには確かに人々を見て回るという愛があり、憎しみに変わってしまったこと。愛と憎しみとは、非常に近しい存在なのです。それはきっと、今貴方が感じているものではないでしょうか」

 

「……僕は、彼女に憎しみを?」

 

「そも、愛しているのならば相手の幸せを願えるわけがないのです。だって、愛した人が、自分以外の人と幸せになるのを、本当に愛しているのなら許容できるわけがない。許容できてしまったのならば、それは愛ではなく、恋だった。なら、貴方のはどうですか?」

 

「……僕は……僕の、想いは……」

 

 答えられない。彼女が幸せであれと願っている。しかし、この心に燻る想いは……きっと微塵もそんなことを思っていない。この汚い感情は、彼女に不幸であれと願っている気がしてならない。

 

「恋では現実には勝てません。一方通行の感情など、現実という壁に阻まれて終わってしまいます。ですが……愛ではどうなのでしょうか。現実をものともしない、強い愛があるのならば。ドラマとか、よくあるでしょう。許嫁の女の子を助けに行く、勇敢な男の子のお話が」

 

「……僕には、きっとそんなものは………」

 

「貴方はもう十分逃げたでしょう。貴方の恋は、彼氏という現実に阻まれて終わってしまった。それでも貴方は夢を見続けた。それが貴方の小説であったはず……もう、バッドエンドは懲り懲りではないですか?」

 

 彼の目が、スッと細められる。緊迫した雰囲気が柔らかなものへと変わり、彼の優しげな声がこの夜の空間に響いていた。

 

「十分(小説)は見たでしょう。もう『恋』ではどうにもならないのです。必要なのは、貴方の『愛』です。恋を愛へと変える時が来たのですよ。もう、一方通行では無理なんです。恋は現実に敗れ、現実は愛に敗れる。貴方の抱いた彼女への想いは……どうなんですか?」

 

 ……逃げた僕は、ただ書き連ねた。彼女との幸せそうな夢を、小説として書き連ねた。だがそれは悲劇として終わる。彼女に唐突にできた彼氏によって。

 

 夢見た少年の、儚い恋の物語。

 

 あぁ、もう十分だ。夢は見た。現実も味わった。ならばもう、残された道はひとつではないのか。

 

 この想いを伝えよう。この汚れた恋を、僕は愛と呼ぶんだ。この憎しみも、愛故に生まれたものであったのか。

 

 心の中で燻っていたものが、すっと消えていった。その代わり、新たに生まれてきたのは……忘れてしまっていた、彼女への想い。胸の高鳴り。脈が早くなって、心臓がうるさいくらいに活発になる。あの時とはまた別の気持ち悪さだ。でも……少しだけ、気分がいい。

 

「……決意は、固まりましたか?」

 

 尋ねてくる彼に、僕は首を縦に振って答えた。その答えに満足したのか、彼は慎ましくニッコリと笑ったのだ。

 

「……最後に覚えておいてください。愛とは、恋に敗れるものなんです。残念ながら、人間というのは愛している人がいるにも関わらず、恋をしてしまう生き物なのです。浮気や不倫が絶えないのは、そういうことです。もし仮に、彼女が貴方に恋をしたのならば……結果は、わかりませんね」

 

 彼はそう言ってベランダから中に戻っていった。一人残った僕は、空を見上げて月を見た。綺麗な月が浮かんでいる。

 

 恋は愛へと変わるものだ。現実から逃げた僕は、捨てきれない恋を、育ててしまった。

 

 あの小説は、最早恋の塊ではない。僕自身の愛になってしまったのだ。あぁ、叶うのならば……悲劇ではなく、喜劇で終われますように。

 

 

 

To be continued……




もっと簡潔にわかりやすく伝えたい。
しかし、自分には文字としてこの想いを伝える能力が足りないのです。


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第52話 藪雨

 滞在五日目。満月と言っても過言ではないと言える月が浮かんでいる。昨日も月を見ていて、まさかの林田さんから相談みたいなものを受ける事態になるとは思わなかった。今まで得てきた情報を自分なりに纏めて、自論として彼に話した訳だが……果たしてアレで良かったのだろうか。林田さんは朝早くから家を出て行ってしまい未だ帰ってこず、調査も上手く進んでいない。

 

 何かしらいることはわかっている。だが、尻尾が掴めない。村を歩いていて時折感じる違和感。狩浦さんを初めて見た時も感じたものだ。しかし、神話生物であるという確固とした自信も証拠もない。手詰まりだ。ベランダの柵に身体を乗せるように預けて、深くため息をついた。

 

「……月を見て黄昏れるとか、カッコつけですか? 全然カッコよくないですよー」

 

 ガラガラッとベランダと廊下を繋ぐ扉が開かれ、最近聞き慣れた声が聞こえてきた。振り向かなくてもわかる。いつも媚びへつらう笑顔を向けてくる後輩だ。しかし、どうにもその声には覇気が感じられなかった。普段とは違う後輩を不思議に思ったが、まだ知り合って長くない。彼女の事を詳しく知っている訳では無いので、特に気にしないことにした。

 

 誰にだって気分が沈む時というのは存在するものだ。月が出ている今となっては、俺は気分が高揚しているのだが。おそらく彼女は月を見てナイーブになるタイプなのかもしれない。

 

「うわっ、なんか顔ニヤけてるし。後輩と夜中に二人っきりになったからって浮つきすぎですよー?」

 

「ニヤけてるのはまた別の理由だ。ってか、ニヤけてたのか、俺?」

 

 隣にまでやってきて顔を覗きこまれた。指摘されて、自分の頬を触ったが、特に何も無い。次に口角付近を触ってみたら……どうやら少しだけ上がっているようだ。月の影響か、自然と緩みがちになってしまっているらしい。抑えるように心を落ち着かせながら、隣で外の風景を見ている後輩に声をかけた。

 

「何しに来た? 湯涼みか、それとも七草さんと喧嘩したか? 喧嘩したなら謝ってこい。きっとお前が全部悪い」

 

「だからなんでそんなに私にキツく当たるんですか」

 

「言っただろ? 俺も先輩も、色々あったんだ。お前みたいな腹に何か抱えたような奴は、どうにも相手しづらいんだよ」

 

 頬を指で掻きながら、困ったように俺は言う。この組織に入ってから、短い期間で色々とあった。世間の黒いところも、人の汚い部分も、そして綺麗な心を持った人も。多くの人を見てきたように思える。

 

 そんなことを内心考えていた俺の言葉に、藪雨は無表情のまま会話を続けてきた。

 

「そういうことだったんですかぁ。私に魅力がないのかなって不安に思っていたんですよねー。皆、私の仕草で操り人形にできたのに、せんぱい達は靡かないんですから」

 

「いや先輩はただ単に好みから外れてるだけだと思うけど。あと単純にお前みたいなウェーイ系女子が嫌いなだけ」

 

「何気に傷つく事実を伝えないでくれませんか」

 

 はぁ、っとため息をついた藪雨。しかしため息をつきたいのは俺の方である。なんだってこんな夜更けに藪雨と二人っきりで話をしなくてはならないのだ。こんな事になるのならば、先輩が唐突に始めた下ネタ会話から逃げてこなければよかった。

 

「……せんぱい、昨日の夜こうやって林田さんと話していましたよね。恋は一方通行で、愛は相互に贈り合うもの、でしたっけ?」

 

 ビクッと身体が震えた。ぎこちない動きで首を回して藪雨を見る。まさか聞かれていたのか。流石に恥ずかしい。このまま会話を切り上げて先輩のところへと逃げてしまいたいくらいだ。

 

 俺の反応を見て、藪雨は口をニヤリと歪めた。嫌な予感がする中、藪雨はニヤニヤとしたまま俺を弄らんと口を開いた。

 

「随分とポエミーでしたねー。あまりに笑えすぎて、SNSに投稿しようかと思ってましたよ。大炎上間違いなしです」

 

「やめろ訴えんぞ」

 

「あんな小っ恥ずかしいセリフをよく言えたもんですよねー」

 

 藪雨が人差し指でツンツンと脇腹を突いてくる。こそばゆい感覚と恥ずかしい感情に苛まれながらも、ここで変に反応しては藪雨の思う壷だと思った俺は、なんとか耐えることにした。

 

「本当、恋とか愛とかくっだらないことよくあんなに悩めますよねー。馬鹿みたい」

 

 ケラケラと林田さんを馬鹿にするみたいに藪雨は笑った。流石にそれは笑えない話だ。俺は片手で軽く藪雨の頭をコツンッと叩いた。舌打ちと共に、藪雨が俺のことを睨んでくる。それに対して俺も軽く睨み返した。

 

「笑うのはよせ。人には他人には理解できない悩みがある。それを笑うのは、ただの畜生だ。お前だってそうだろう、藪雨」

 

「そうやって正義の味方気取りですかー? 偽善者ヅラしちゃって。そういうの、カッコよくないですよー。それに、私のこと知ったような口きかないでくださーい」

 

「口の悪い奴だ。お前のことは何にも知らん。けど、ある程度は予想がつく。さっきの話といい、昨日の事といい、お前は他人の……いや、色恋自体に関してよく思っていないな。違うか? 人間総じて皆クズだと言い張った、クズの一員さんや」

 

「………」

 

 藪雨の睨みつける力が強くなった。その睨み方は、まるで尖った釘が向かってくるよう。長い時間睨みつけられていたら穴が空いてしまいそうなくらいだ。だが、俺も怯むわけにはいかない。ここで劣悪な関係になってしまっては任務に支障が出る可能性があるが……きっと、今ここでしかコイツの本音が聞けないと思ったからだ。

 

 嫌われるかもしれない? 上等だとも。どの道ここは学校じゃない。女子のグループで敵を作ったところでまったく怖くはないのだから。組織内での藪雨のグループが敵対したところで、痛手にはならないだろう。

 

「……まぁ、話聞いていればわかることですよね。知ったかぶっちゃって、カッコ悪い」

 

「元より格好つけようなんて思ってない。いい加減、俺達の前でくらい擬態しようとするのをやめろよ。ここにいる奴は、誰も他人を見下して嘲笑おうなんて思っちゃいない。学校で何やってたんだか知らんが、ここはもう学校という見た目や強さで階級分けされた場所じゃない。上司に対して下っ端が何人もいる人間社会だ。ガキが勝手に作り上げたなんちゃって社会とは違うんだよ」

 

 睨み合いが続く。先に目を逸らしたのは藪雨だった。彼女は空を見上げて思いに耽り始める。俺も同じく、月を見上げた。月が綺麗ですね、なんて小洒落た言葉を放つような雰囲気ではない。言ったら最後、殴られてどこかに行かれること間違いなしだ。

 

「……男も女も、表面的に見れば変わっているのに、根底では何も変わっていない」

 

 ポツポツと呟き始めた藪雨の言葉に、俺は相槌と共に返事を返した。

 

「当たり前だ。性別が変わろうが、人間であることには変わりない。自分大好きな自己中生物だよ。少し周りから飛び出ただけで、嘲り嬲り、その芽を潰す。ヒエラルキーが人間がトップであると誰が決めたのか。悪いことが起きれば神様のせいにして責任逃れ。かといって良い事が起きても神様のおかげ。周りの人間に敬意や感謝なんてものは抱いちゃいない」

 

「……そうじゃない人もいるみたいなこと、言ってませんでしたか?」

 

「そうだ。そういう奴は大抵その嘲られた立場であった人だ。相手の立場にならなきゃ何もわからない。だが、相手の立場になろうともしない。お前はコンビニの店員にお礼を言うか? 世の中言わない奴が多いよ。誰もコンビニで働かなくなったら、誰も買い物出来なくなるのに。働いてるのが当たり前じゃない。働いてくれてるから、当たり前のように使えているんだ。お前は……周りの誰かに感謝しているか?」

 

「……誰にも」

 

 嫌そうに彼女は言った。街灯の明かりと、廊下から漏れてくる光が自分たちを照らしている。横目で伺える彼女の整った顔立ちは、夜の暗さと光によって一層際立った。細く整えられた眉に、綺麗な肌。小さな鼻に、柔らかそうにケアされた唇。

 

 映画のワンシーンなら、告白してキスでもするような場面だ。まったく、口さえ開かなければ顔は良い子なのだが。それ故に……目の敵にでもされたんだろう。

 

「俺はしてるよ。少なくとも、両親に菜沙、七草さんに先輩。加藤さんとか……今まで出会って友達になった人にも。勿論コンビニの店員にも頭を下げるさ。クズの一員だと思いたくないからな」

 

「……いい子ぶってますよね」

 

「いいや、別に」

 

 月を見るのをやめて、眼前に広がる景色を見た。夜間に出歩く人がいる。車が通り、電車が走り去っていく。日常的な光景なのに、それが少しだけ綺麗に思えるようになった。この組織に入って良かったと思う点のひとつだろう。

 

 しかし、藪雨はずっと空を見上げたまま。現実に目を向けまいと、ずっと目をそらし続けていた。それが正解であるとも、間違いであるとも言えない。なにせ、俺は藪雨ではないのだから。だから、俺は何も言わない。

 

「……女の子には女の子のルールというものがあります」

 

 藪雨が小さな声で話し始めた。外の喧騒にかき消されそうなくらいの声だ。一言一句逃さぬように、夜間の聴力強化をフル活用してその話を聞く。

 

「誰が作ったのかもわからない。暗黙の了解のようなもの。男の子にはわからない、女の子特有のルールです。知っていますか?」

 

「……菜沙から聞いたことはある。全部は知らないけどな」

 

「女の子が好きな男の子の名前を言った時、他の女の子は手を出してはいけない。誰にでも愛想よく振る舞う女の子は、トップカーストに睨まれる。陰キャな女の子と一緒にいると、同じような扱いを受ける。特にダメなのが、最初に言った好きな人関連。これを破ると、完全に目の敵にされます。絶対に表には出ない、水面下での醜い争いが女の子の世界なんですよ」

 

「……おっかねぇもんだな」

 

 菜沙から聞いていたことと似たような話だった。男子というのは、喧嘩しようがそこまで大事には発展しない。最悪殴り合いで終わるのだから。しかし女子は肉体ではなく精神的に追い詰めてくるらしい。集団心理なんかも働くだろう。皆が纏まってる中で取り残されたりすれば、年頃の女の子なんかは傷つくだろう。

 

 友だと思っていた人が、急に掌を返して敵に回る。それが日常茶飯事なのだと、菜沙は言っていた。つくづく男でよかったと俺は思う。

 

 まぁ、藪雨がこの話をしたということは……被害者、なんだろうなぁ。生々しい、嫌な話になりそうだ。少しだけ気を引き締めて、藪雨の言葉の続きを待った。

 

「……男女間に友情が成立しないなら、きっと女性間にも友情なんて成立しない。きっと、私達が感じているのは、友情ではなく、寂しさを埋める何かなんです。少なくとも……私はそう思います」

 

「……俺は哲学者じゃないし、心理学者でもない。そんな俺の言葉でいいのなら、俺はまぁ……なんだ。下手な慰め程度はしてやれるかもしれない。お前が話したいと思うなら、な」

 

 今度は睨みつけるわけでなく、真っ直ぐに藪雨の目を見つめた。藪雨の目に宿っているのは、生気ではなく孤独感を感じさせるものだった。今にも消えてしまいそうな蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れているような感じ。

 

 彼女は俺の真っ直ぐな目線に折れたのか、軽くため息をついてからまた口を開いた。出てきた言葉は、強がるような虚勢心を表している気がした。

 

「仕方ないなぁ。どうせ、せんぱいの言葉で何が変わるって訳でもないし、しつこく言い寄られても面倒なので、しょうがないから話してあげますよ」

 

「………」

 

 何も言わない。それが答えだ。藪雨もわかっているようで、俺が何も答えなくともひとりでに話し始めた。時は、中学にまで巻き戻るという。

 

「中学時代なんて、色恋ばっかですよ。盛った男子に、ちょっとそういった悪いことに興味が出てきた女子。当然まぁ、私こんなに可愛いですし? 告白とかされちゃったりするわけですよ」

 

 藪雨の言葉に、俺も少しだけ中学時代を思い出した。まぁ、なんてことはない部活の日々。色恋なんて、どうでもいいと思っていた。時折彼女がいる奴を羨んだりしたこともあったが……懐かしき日々、というものだろう。少なくとも、俺にとっては。

 

「ある日、別のクラスの男の子が私に告白してきました。会話したこともない男の子で、一目見て好きになってしまったみたいでした。そんな人と、付き合う訳もなく私は振りました」

 

 当然だろう。会ったことも話したこともない人に、好きだと言われても靡かない。加えて言うのならば、それが格好いいから目に入ったりするというわけでもなく、平凡な人ならば尚更だ。

 

「……私の友達だと思っていた人達が、私の陰口を言い始めたのはその時からです。その告白してきた男の子が好きな友達がいて、相談を受けていました───

 

 

 ねぇ、私彼のことが好きだって言ったよね? どうして色目なんて使ったの!? 友達だと思ってたのに!!

 

 友達だと思っていた女の子は、私に詰め寄って怒鳴り散らした。しまいには、泣いて崩れ落ちてしまった。どうすることも出来なく、彼女が走り去っていくまで私はただぼうっと立っていることしか出来なかった。

 

 ───ねぇねぇ、あの子中古らしいよ。隣の駅の近くにある中学校の生徒らしいよ、相手。

 

 ───なぁ、いくらで相手してくれんの? えっ、だって金払ったらヤらせてくれるってアイツら言ってたぜ。

 

 ───あっ、ごめんね。打ち上げの連絡貴方の所だけ忘れちゃってたみたい……。

 

 確証のない嘘や噂が広まっていく。誰も彼もが私を嘲った。顔だけはいいくせに、とか。じゃあお前はなんなんだよって言ってやりたかった。顔どころか、性格もクソじゃないか。

 

 第一どうしろと言うのか。だって相手は一目惚れだ。私に何ができたというのか。相手の視界に入るな? それこそ無理な話だ。友達の恋の為に不登校になれとでも言うのか。ふざけるな。

 

 誰も私の話を信用しない。皆が私の陰口を言う。寝取り魔だとか。好きな人の話を目の前ですると、取られるとか。事実無根な噂を、まだ若い中学生であった彼女達は簡単に信用し、そして私を苦しめた。なまじ顔がよかったのが、余計に反感を買ってしまった。

 

 もうこんな場所にはいられない。頑張って勉強して、遠くの高校を受けて、誰も知り合いがいない場所に受かることが出来た。そして……私は私の生き方を変えた。

 

 友情なんて紛い物があったから、あんな事態になったのだ。だったらそんなものいらない。適当にあしらって、適当に繕って。周りに溶け込むように過ごせばいい。

 

 男達は私の頼みは断らないし、女の子の中では清楚系で純粋そうな子を演じた。男を操るなんて簡単だった。強そうな子には下から見上げるようにねだればいい。気弱そうな子なら、まっすぐ見つめて頼めばいい。そうして何もかも終わったあとに、ニッコリと笑ってあげればいい。

 

 こうして擬態という名の技術を磨いた私は、誰からも敵視されない立場を得ることが出来た。けど、そんなことを続けていれば気が滅入る。家では親と喧嘩する毎日。学校では偽りの自分を演じて、疲れるけど時折楽しめることもある。そんな毎日だった。

 

 

 ───紛い物の友情なんていらない。利害関係のみ成立する利用するされるの関係でいるのが、一番心地いい。そう思いませんか?」

 

 ……藪雨の言葉に、すぐには答えられなかった。けど……あぁ、それでも。俺はここ数日少なくとも藪雨という少女と共に過ごしてきた。最初は媚びるだけの存在だった彼女の、その笑顔が柔らかくなってきた気がしたのは、きっと気のせいではないはずだ。

 

「……そんなの、つまらないし疲れるだけだ。なぁ、今楽しいか?」

 

「楽しい? えぇ、楽しいですよ。あんな狭いところにいるよりも、こうやって外にいる方が何倍も……」

 

「違ぇよ。お前、俺達と一緒にいて楽しいのかって聞いてんの」

 

 藪雨の目つきがキツくなる。しかし俺は言葉を止めない。自分の思ったことを、伝えるだけだ。今までずっとそうやってやってきたのだから。

 

「最初に会った時からしばらくの間は、ずっとニコニコと笑顔のままで気味が悪かった。けど最近、そんな取り繕った笑顔が少なくなって、人間らしい表情の変化をするようになった。驚いたり、怒ったり、馬鹿みたいって笑ったり」

 

「貶しているんですか」

 

「そうやって、少し反抗的に言ってきたり」

 

 藪雨がギリッと歯を食いしばった。悔しいのか。まだ彼女が何を思っているのかはわからない。けど、まだまだ言うべきことは沢山ある。

 

「……楽じゃないか? きっと、学校でヘラヘラ笑ってるよりも、こうして俺と先輩にいじられたり、俺と一緒に先輩をいじったりと。少しは楽しくなかったか?」

 

「………」

 

 あぁ、なんだか認めたくなさそうだ。少しだけ視線を逸らして、反抗的な目つきで軽く睨んでくる。俺はその様子に少しだけ微笑んでから、彼女から目を逸らして背中を柵に押し付けるように預けた。

 

「少なくとも、いじられて笑ってる時はなんかこう……違うなって思った。案外、作られた笑顔と自然とできた笑顔って差が激しいんだな。だから、俺と先輩はあぁやってお前のこといじってんの。あんな汚ねぇ笑顔より、ずっとマシな笑顔が見れるんだからな」

 

「……汚ねぇとか、女の子に言うセリフじゃないです」

 

 彼女は俯いてしまった。背の高さ的に、俺では彼女が今どんな表情をしているのかわからない。だが、知る必要も無い。きっと……今の彼女の顔は綺麗だろう。確証なんてないが、そんな気がした。

 

「……いつか、もっと楽になれるよ。そうして、また人並みの生活を送ればいい。辛い演技なんて必要ない。頑張る必要なんてない。そんで好きな人でも作って、さっさと家庭を持て。こんなとこ、長々といる必要はねぇんだから」

 

「……なんなんですか。せんぱいって、何でこんなに話しやすいんですか」

 

「知らんよ。前からこんな役回りが多かったからな……慣れだろ、きっと」

 

 昔からこんな役回りばかりだった。相談役、仲介役、メンタルケア。人の悩みを聞いて、解決出来るように対応していた記憶が多い。そんな経験を生かして、藪雨のメンタルケアが少しはできたからよかったのだが……。

 

 ……心配はいらなそうだ。あとは時間が解決するだろう。ゆっくりと、慣らしていけばいい。まだ俺達は子供だ。時間なんて、沢山あるのだから。

 

「……ん?」

 

 誰かが走ってくる音が聞こえる。ドタドタと忙しない。ペースなんて考えず、全力で走っているようだった。音のする方を見ると、一人の男性が自分達が今いる家に向かって走ってきていた。服装からして……林田さんだろうか。藪雨と共に部屋の中まで戻っていくと、ちょうど林田さんが家の中に入ってきた。

 

 息も絶え絶えで、焦点の定まっていない目をあちこちに動かしながら、疲れて崩れ落ちた。しかしそれでも彼は動くのをやめず、近くにいた俺の足を掴んで懇願するように言ってくる。

 

「頼むっ、助けてくれ……僕の話を、信じてほしいんだ……。み、見たんだ、彼が、彼が人から変なバケモノに変化するところを……!!」

 

 ……どうやら、ようやくこの村にいる神話生物の尻尾が掴めたらしい。

 

 

To be continued……



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第53話 邂逅

 まだ、私が子供だった頃の話。私には幼馴染の男の子がいました。格好よくはなかったけど、優しい子で、頭が良かった。よく本を読んでいて、それで得た知識をわかりやすく話してくれたりして、そうやって一緒に話したりするのが好きだった。

 

 二人で夜に抜け出して、月がよく見える場所でたくさんのお話をした。そして昼には、互いを追いかけて遊んでいた。いつしか……そんな彼に惹かれていた。彼の両親が唐突にいなくなって、より一層私と彼は一緒にいるようになった。

 

 でも……それはいつしか苦痛を伴うようになってきてしまった。彼は、決して格好よくはないのだ。けど、それを補い余りあるくらい優しく、人当たりが良い。だから、気がつけば彼を取ろうとする女の子が増えてきてしまった。

 

 彼は気がついていない。それがより一層私を恐怖に陥れた。気がついてしまえば、きっと彼は意識してしまう。意識してしまえば……取られてしまう。なんとか私に意識を向けさせなければ。

 

 けれど、どんな事をしても彼は私に振り向いてくれなかった。いや……ずっと私に振り向いていてくれていた。だから意識なんてものをしてくれなかったのだ。

 

 だったら……私と同じ想いになれば、きっとわかってくれるんじゃないか。そう思ってしまった。嫉妬に駆られ、焦燥感に煽られた私は、やってはいけないことだとわかってはいても、それをやってしまったのだ。

 

『ねぇ、私の彼氏の振りをしてくれない?』

 

 私の周りにいた一人の男の人を捕まえて、彼氏の振りをさせた。そしてそれを、彼に見せた。

 

 私の頭の中では、もう幸せな日常が描かれていた。ふざけるな、って彼が怒鳴り散らしながら私をひったくって、彼女は俺のものだ、なんて言ってくれたり。そして晴れて付き合った私達は、結婚して子供も出来て……。

 

 ……けど、そんな妄想は崩れ去った。彼にそれを見せた時、彼はただ無表情のまま言った。

 

『おめでとう、そしてどうか幸せに』

 

 違う。私が欲しかった言葉はそれではなかったのに。なんで。どうして。何がいけなかったの。ぐるぐると心の中で言葉が混ざり合う。

 

 そうして何も出来ず、私も真実を伝えられず、気がついたら……彼はいなくなっていた。連絡をしても、返事は中々返ってこなかった。マメな彼は、必ずその日に返すのに、返ってくるのは決まって数日経ってからだった。

 

 彼がいなくなってから、友達から聞いた話を思い出した。

 

 彼氏が本当に好きでいてくれてるのかわからない。だから、嫉妬させてみた。そしたら喧嘩になって、別れちゃったって。

 

 あぁ……私はそれをしてしまったのか。

 

 空いてしまった穴を埋めるように……私は彼氏の振りをしてくれた彼と、付き合うことにした。

 

 ……付き合った彼もまた、優しかった。私のその話を聞いても、隣にいてくれた。それでもいいから、隣にいさせてくれと彼は言った。

 

 今では……私は、彼を愛している。空いた部分にすっぽり埋まってくれた、彼のことを愛しているんだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 心を落ち着かせるようなジャズと呼ばれる音楽が店内に流れている。机を挟んで対面に座っている彼は、ゆっくりと珈琲の入ったカップを傾けた。その仕草がやけに様になっていて、あまりに自分とかけ離れているので劣等感に苛まれた。

 

 それでも、僕は表情を崩さないように珈琲を一口飲んだ。特有の酸味と苦味が口の中を蹂躙していく。それらが喉を通っていくと、少しだけホッとするような気持ちになった。

 

「まさか、林田さんが誘ってくれるとは思っていませんでしたよ。しかも、良い所を知っているんですね。地元にいても、ここは知らなかったですよ」

 

 爽やかな顔つきの彼……狩浦さんは、特に緊張した様子もなさそうだった。いつものように髪を整え、身だしなみもしっかりしている。彼を呼び出したのは僕で、今いる喫茶店は僕のお気に入りの店の一つだ。もっとも、一番気に入っていた店は紗奈が言っていたように潰れてしまっていたが。あの店はよかった。ゆったりと寛げて、騒音もない。それに金額も安かった。当時の僕にとってはありがたいことだらけだった。

 

「ハハッ、まぁ……僕も昔から住んでいたからね。喫茶店とか好きだから、そういった所を手当り次第回って好みの店を探していたんだ」

 

「なるほど……自分はあまり喫茶店とか来ないんですけど、紗奈がよく来たがるんですよ。前もよく別の喫茶店に行っていたんですが……残念ながら、潰れてしまったんですよ」

 

 彼の言葉に、少しだけ身体がビクリとなった。なんで、紗奈はその潰れた喫茶店に行ったんだろう。きっとその店は、僕のお気に入りの場所だったところだ。彼女もよく一緒に行っていた。彼女もあの場所が好きだったのか。それとも……なんて、そんなことがある訳が無い、か。

 

 彼にバレないように小さくため息をついてから、顔を窓の外へと向けた。人の通りは少ない。都会ではないが、さほど田舎でもない。不便だと思うことは、あまりない。強いて言うなら今の仕事を続けるにはこの場所は適さない、といったところか。

 

「林田さんは、小説家になったんですよね? お話聞かせてもらえませんか。こんなところだと、最新作の本すらまともに書店に並びませんからね」

 

「……僕なんかの話でよければ、ね」

 

 他愛のない世間話を混ぜながら、僕は外の世界に出てからの軌跡を話した。都会での生活は、中々に疲れる。外を出歩くだけで犯罪に巻き込まれそうで怖かった、なんて昔の話をしてみる。

 

 それらの話を聞きながら、彼は相槌を打ち、時に笑いながら会話を弾ませた。優しげに微笑む彼に、ふと気がつくとモヤモヤとしたものが心の中に溜まっていた。

 

 少しだけ視線をずらせば、偶然入ってきた女子高生達が彼の事を見て笑っていた。嘲るような笑いではない。きっと、格好いいとか、そんなことを話しているのだろう。羨ましいものだ、クソがっと心の中で毒づいた。

 

 彼は知らない。目の前の男が決して誠実ではないことを。君の目の前で笑っている男は、心の中ではお前に不幸であれと願っているのだと。そして……そんな自分が、紗奈とは釣り合うわけがないのだと、笑っている彼を見て実感した。

 

「………」

 

 何がいけなかったのだろうか。確かに僕は、圧倒的に彼に劣っている。容姿、家柄、身体能力。それらはどう足掻いても彼には勝てないものだ。

 

 けど……彼女と、紗奈と過ごした時間は僕の方が何倍も多いはずだ。彼女も笑っていた。幸せな時を過ごしたはずだ。その時間は……彼の持っていたモノには勝てなかったということなのだろうか。神がいるとするならば、なんて残酷なのだろう。

 

 恵まれている者には、更に多くの幸せを。恵まれぬ者には、更に多くの試練を。神は死んだ、とはニーチェの言葉だったか。今それを痛感したような気がする。もっとも、ニーチェの言った意味はまったく別のものだが。

 

「……紗奈とは、どう? 仲良くやれているかい?」

 

 苦々しい顔を見せないように、僕は彼に聞いた。それに対し彼は、やはり爽やかに笑って答えてきた。

 

「えぇ、仲は良いですよ。とても……幸せです」

 

「……そうか」

 

 珈琲と一緒に頼んだ焼きたてのパンを口に運んだ。何か食べなければ、腹の中から何か得体の知れないものが出てきそうだったから。腹の中に収まったパンは、その何かと混ざって余計に気分が悪くなった気がする。

 

「顔色が優れないですね。大丈夫ですか?」

 

 覗き込むように見てきた彼に、僕は両手を軽く振って大丈夫だと答えた。病は気からというが、もはやプラシーボ効果みたいになってきている。何も無いはずなのに、何かあるような気がして、それが身体を害していた。

 

「お仕事大変なんですか?」

 

「いえ……確かに、大変ですけど……もうなんともありません」

 

 書こうと思えば、いくらでも話は書ける。それらがハッピーエンドとなることはないだろうが。

 

「そうですか……安静にしていてくださいね。倒れたら紗奈も心配するでしょうし。時間があれば、病院に送っていけるんですが……」

 

 彼はチラチラと時計を確認していた。もうじき空が暗くなってくる時間帯だ。何かこの後、重要な用事でもあるんだろう。例えば……紗奈と、デートとか。

 

 そう考えただけで、少しだけ戻しそうになってしまった。これは重症だ。早いところどうにかしなくては。

 

「……すいません、そろそろ自分は帰りますね」

 

 そう言って彼は立ち上がり、僕に向かって軽く礼をしてから喫茶店を出ていった。

 

「………」

 

 まだ残っていた珈琲を飲み干し、少ししてから僕も席を立った。

 

 あぁ、自分でもどうかしていると思う。けど、不安で仕方ないのだ。気になってどうしようもないのだ。せめて、終止符を打たねば。その終わりがどうであれ、僕はそれをしなくてはならないんだ。

 

 喫茶店から出た僕は、彼の後ろ姿を見つけてバレないように後をつけていく。どうしてか、彼は賑やかな中央部ではなく、外れの方に向かおうとしていた。紗奈とそんな場所で待ち合わせでもしているのだろうか。

 

「……なんでこんな場所にまで」

 

 小さく呟いた。とうとう彼は外れも外れ。近くに森のような場所しかない所まで歩いていった。先程から随分忙しなく周りの状況を確認しているような気がする。

 

 なるべくバレないように、死角になりそうな場所に隠れながら、ゆっくりと後をつけていく。

 

 彼は周りに特に注目している人がいないことを確認すると、早足でその場から移動していった。それも、森の方に。彼の後ろ姿が見えなくなってから、僕もその森の中へと入っていく。

 

 ここまで来たのだ。流石に気になってくる。まさか紗奈がこんな場所にいるはずもないだろうが……。いや、そういったプレイを彼らが望んでいたとするならば、話は別だが。

 

 ……考えていて気持ち悪くなってきた。足元に気をつけながら音を立てないようにして奥へと進んでいく。

 

「………」

 

 少しだけ奥に進んだ場所に、彼はいた。呆然と立ちながら、どこか遠くを見つめているようだった。近くには誰もいない。

 

 幾許かすると、彼の周りの空気がさざめき立っている気がした。周りの木の葉が揺れ動き、草がカサカサと音を立てている。

 

「─────ッ」

 

 息を飲んだ。それはまるで超常現象だ。彼の頭が溶けるようになくなっていき、その下から緑色の甲殻のような皮膚が浮き出てきたのだ。

 

 なんだ、これは。夢でも見ているのか。

 

 自分の足を抓ってみた。痛い。つまり、これは夢ではない。目の前で起きていることは……現実、なのか。

 

「………ふぅ」

 

 彼の声ではない。やけにガラガラとした声が聞こえてきた。彼が少しだけ顔を横にずらす。その顔つきは……

 

「─────」

 

 蛇だ。目付きが鋭く、やけにギョロギョロとしている。人の顔の造形ではなく、完全に蛇だった。鼻のような出っ張りもなく、突き出している部分に穴が空いているだけ。

 

 よく見れば、顔だけではない。手も緑色の皮膚に変わっており、それはどう見ても人間ではなかった。

 

「─────」

 

 声が出ない。足が竦む。漏れでる息がバレないように、両手で自分の口と鼻を抑えた。

 

「偉大なる父……我が身を……」

 

 小さな声で、彼は何かを呟いた。すると、どうだろうか。みるみるうちに彼の身体が変化し、戻っていくではないか。そこにいたのは、先程自分と会話をしていた狩浦さん本人で、彼はまた周りを見回してから動き出した。

 

「─────ッ」

 

 すぐさま隠れた。身体を低くし、バレない位置に移動して彼の視線から逃れる。間一髪、彼にはバレなかったようだ。目の前を一人の人間が歩いていき、やがてまた見えなくなる。

 

 十数分が経ち、僕の身体はその場に崩れ落ちた。

 

 なんだアレは。人なのか。いや、違う。人じゃない。バケモノだ。助けを呼ばなくては。いやでも、誰に。こんな話を信じてくれる人なんて、誰も……

 

「……紗奈……まさか……」

 

 思い浮かんできたのは、幼馴染だ。彼女なら自分の言うことを信じてくれるかもしれない。しかし、そこまで考えて、紗奈が危ない状況にいるのではと考えついた。

 

「紗奈の奴、もしかしたら騙されてるんじゃ……」

 

 あぁ、ダメだ。ダメだダメだダメだダメだ。助けなくちゃ。早く、紗奈を助けなくちゃ。

 

 なんだっていい。誰だっていい。誰か、誰か力を貸してくれ。

 

 暗くなる道を、僕は全力で走り抜けていく。頼れそうな人は……家にいる彼らしか、思いつかなかったんだ。

 

 

To be continued……



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第54話 狩浦

 僕は夜の町を駆け抜け、彼女のいる家へと向かった。狩浦さんが蛇のようなバケモノに変化したのを見てしまった僕は、家にいる彼らに助けを求めた。けれど……

 

『何を言っているんですか、林田さん。流石にそれは妄想の行き過ぎですよ。小説の内容を考えるのはいいですが……現実に反映させてはダメです』

 

 唯野さんは、信じてくれなかった。いや、当たり前だ。こんな荒唐無稽な話を信じてもらえるものか。唯でさえ、狩浦さんは僕の恋敵のような存在だ。いくら邪魔だからとて、そんなふうに扱ってしまってはダメだろう。そんな感じで言われてしまった。

 

『もし仮にそれが本当だとするのなら、貴方が自分で助ければいいではないですか。そうでしょう、林田さん』

 

 彼は薄く笑ってから僕とすれ違うように荷物を持って玄関へと向かった。すれ違う際に、僕の鞄に何かを入れていった気がする。

 

『先輩、七草さん、藪雨。荷物持って行きますよ……仕事、そろそろやらなきゃマズイです』

 

 こんな夜に仕事を始める気なのだろうか。しかし誰もその言葉に反論せず、各々の荷物を持った彼らは外に出ていってしまった。残された僕は、半ば呆然としながら自分の鞄の中を見た。そして……中に入れられていた物を見て、驚愕のあまりそれを床に落としてしまった。それは重たく、偽物と呼ぶにはあまりに精巧すぎた。

 

 けど……これが、もし本物ならば……コケ脅しくらいには、なるのかもしれない。彼がなぜこんなものを持っているのか分からないけど……唯野さんの言っていたように、僕が僕自身の手で、彼女を助けなくては。

 

「……狩浦さんの、車か?」

 

 彼女の家に着いた時、車が二台あることに気がついた。片方は確実に紗奈の物だ。ならば、もうひとつの方は必然的に、狩浦さんの物だろう。なにせ、車のルームミラーには蛇を彷彿とさせる飾りがつけられていたからだ。

 

「……鍵、開いてる?」

 

 ここで彼女を呼んでしまっては、確実に狩浦さんも一緒に来るだろう。それではダメだ。彼の動揺を誘わなければならないのだから。だからこっそり侵入しようとしたのだが……ドアノブはすんなりと回り、扉がゆっくりと開いた。

 

 玄関には男物の靴が置かれており、もう狩浦さんがいることは確定的に明らかだった。そのまま、ゆっくりと家の中に上がり込んだ。リビングには誰もおらず、彼女の両親もいなかった。ならば、寝室だろうか。彼女の寝室は二階だ。そしてこの時間帯に二人きりで、親もいないということは……。

 

「────ッ」

 

 想像するだけで、吐き気がする。最早僕の頭の中では、狩浦さんは人間の形をしていない。人間のような形をとった蛇にしか見えていないのだ。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 部屋の中にいるのは、二人の男女。月見 紗奈と狩浦 染だ。二人はベッドに腰掛けて、最近の出来事について話に花を咲かせていた。

 

 二人とも笑顔で、相槌を打つ際に軽く身体を押したり、頭をグシャグシャと撫でるなどのスキンシップをとっていた。

 

「ねぇ、染。月が綺麗ですね」

 

 彼女は窓から見える満月を見て、恍惚とした表情を浮かべながら言った。頬は緩みきり、幸せここにありといった様子だった。対する彼は一瞬顔を歪ませたが、すぐにスッと笑顔になって答えた。

 

「俺は君となら死んでもいいよ」

 

「染……」

 

 昔から伝わる愛を伝える言葉。それは直球的な言葉でなくとも、相手に伝わる日本に馴染み深い言葉だった。互いに言い終わったあと、二人の目線が交差する。

 

 月見の綺麗な瞳が潤む。狩浦の力強い眼差しが刺さる。言葉を交わす必要もなく、互いに身体を近づけていき、そのまま互いの唇を……。

 

「……紗奈から離れろ」

 

 合わすことなく、終わってしまった。急に扉が勢いよく開かれ、寝室に入ってきたのは林田だった。片手に持った黒い銃を狩浦に向け、苦々しい表情を浮かべながらゆっくりと二人に近づいて行った。

 

「聞こえなかったのか。紗奈から、離れろ」

 

 ようやく状況を飲み込めた二人。月見は幼馴染の狂行に驚きながらも、掠れた声で彼に話しかけた。

 

「ふ、扶持……? なんで、どうしたの……?」

 

「いいから。紗奈は離れていて」

 

 銃口は狩浦に向けられたまま、彼は少しずつ距離を詰めていく。狩浦は額に少し冷や汗を浮かべながら、紗奈を守るように身体を移動させた。そして林田に問うた。

 

「林田さん……なんで、こんなことを……?」

 

 林田は、色々な感情が入り交じった複雑な目で彼を見ながら、低い声で答えた。

 

「知ってるんだよ。お前が……お前が、人間じゃないってこと」

 

「ッ……何を馬鹿なことを言ってるんですか?」

 

「恍けるなッ!!」

 

 怒声が響く。林田は怒りに顔を歪めながら、狩浦を強く睨みつけた。狩浦もベッドから腰を上げて、いつでも動けるような体勢で対峙した。

 

「今日あの後、お前のこと着けていたら見ちまったんだよ。お前の化けの皮が剥がれて、その下にある緑色の皮膚を露出させたところを。まるで、蛇みたいな顔だった!」

 

「ねぇ扶持ッ、お願いだからやめて!!」

 

「うるさいッ!!」

 

 はぁ、はぁ、っと肩で息をする林田。銃を突きつけられたままの狩浦は、少しだけ悲しそうな表情を浮かべながら林田に言った。

 

「俺を殺す気ですか? 殺した後……どうするつもりなんですか」

 

「そんなの……知るかよ。ただ僕は、紗奈を助けるために……!!」

 

「貴方は小説家でしょう。自衛隊なんかじゃない。そんなエアガンで、俺が怯むと思っているんですか?」

 

「ッ………!!」

 

 銃口を向けたまま、腕先が震えてしまった。林田はただただ狩浦を睨みつけるだけだった。その様子を見た狩浦は、不敵に微笑むと前に向かって少しだけ移動した。その圧に押されるように、林田の足が数歩下がる。

 

「ッ、僕は……僕はッ……」

 

 彼はグッと歯を食いしばった。そして、震える手を抑えるように片方の手で腕を抑えながら狙いを定めた。その様子の変わりように、狩浦が一瞬たじろいだ。

 

「紗奈を助けるためなら……」

 

「ッ、ま、待て! 待つんだ林田さん!!」

 

 静止する狩浦の声に耳も貸さず、ただ睨みつけた林田は、ゆっくりと引き金を引く指に力を込めていく。そして……

 

「お前を殺してでも、僕が紗奈を助けるんだッ!!」

 

 引き金が引かれた。

 

「………えっ」

 

 ただ、カチンと音が鳴るだけで、弾は出なかった。何度も引き金を引くが、弾が出る気配はない。それを見た狩浦は安堵に表情を和らげて林田に言った。

 

「……林田さん。帰ってください。今ならまだ、今日のことは誰にも言いませんから」

 

「ち、違う……違う違う違うッ! お前は、お前はッ……」

 

 ゆっくりと林田に歩み寄っていく狩浦。彼が林田の腕に手を伸ばそうとしたその時だ。

 

「そこまでだ」

 

 狩浦の首元に、槍の穂先が置かれた。槍の持ち主は氷兎で、そのすぐそばには藪雨もいた。どこから入ってきたんだと彼らが周りを見回すと、何故か窓ガラスが開いていた。氷兎の後ろでニヤリと笑っている藪雨は、さも当然のことのように言った。

 

「あの手の窓って、上下にガタガタ揺らすと鍵開いちゃうんですよねー」

 

「今回ばかりは助かった」

 

「ふんっ、もっと褒めてもいいんですよー?」

 

 氷兎が軽く藪雨を睨みつけたが、すぐさま視線を狩浦に戻した。オリジンで支給される武器には発信機が取り付けられているため、武器がどこに行ったのかはすぐに分かるようになっている。

 

 それを利用して、彼らは月見の家を突き止めて決定的な瞬間を伺っていたのだ。二階の窓から侵入するのは、夜間の氷兎なら藪雨を連れた状態でも簡単に出来ることだった。

 

「……君は、何者なんだい?」

 

 狩浦から掠れたような声が聞こえてくる。氷兎は槍を置いたままその問に答えた。

 

「バケモノ退治の専門家だ」

 

「……なるほど、道理で……あの時、君から違和感を感じた訳だ」

 

「えっ……染? なに、言ってるの……?」

 

 立ち上がって狩浦に尋ねた月見。しかしその問に答えずに、狩浦は両手を上げて、降参だ、と言った。狩浦を壁際にまで移動させた氷兎は、林田から銃を返してもらった。林田は氷兎に、何故弾を入れていなかったのかと尋ねた。

 

「……貴方が手を汚す必要は無い。ヒーローってのは、自分の手を汚しちゃダメなんですよ。アメコミのヒーローとか、そうでしょう? 悪役は決まって、転落死するんですよ。ヒーローの手を汚さないために」

 

 そう言って氷兎は槍を握る手を強く握り直し、後悔や悲壮感と言った負の感情のこもった声で続けた。

 

「手を汚すのは、俺達みたいな奴らだけで十分だ。俺達はヒーローじゃない。人間の味方をする犯罪者だからな」

 

 最早正義の味方とは言うまい。唯の人間の味方とも言うまい。そこにあるのは例え自らが悪であろうと、人を助けるということを一番に考える、必要悪であると。

 

「……参った。ここまでされたら、俺には何も出来ない。けれど信じてほしい。俺は人に危害を加えたりしない。本当だ」

 

「染……?」

 

 狩浦の周囲の空気がざわめき立つ。不穏な空気に、氷兎は警戒を解かないまま物事の行く末を待った。やがて、狩浦の身体の一部が溶けるようになくなっていき、その下から緑色の甲殻のような皮膚が浮き出てきた。

 

 その顔は、完全に蛇であった。そのギョロリとした目に睨まれると、少しだけ寒気がした。

 

 蛇になってしまった狩浦を見た月見の身体が小刻みに震え始める。泣きそうな顔で、震えた声で狩浦に縋るように尋ねた。

 

「嘘……染、嘘だよね……?」

 

「……ごめん、紗奈」

 

「ぁ……あぁ………」

 

「紗奈ッ!?」

 

 日常に存在しえない生物を見たせいか、それとも愛していた彼氏がバケモノだったせいか。それらのショックで月見は崩れるように気絶してしまった。その身体を支えるために、林田が急いで駆け寄って抱きかかえた。

 

「……せんぱい……これって……」

 

「藪雨、俺達が相手するのはこういう連中だ。慣れろとは言わない。だが、気をしっかり持っておけよ」

 

「っ……はい」

 

 藪雨も月見同様に、僅かにその非日常的光景を見て気が動転していた。氷兎はもう慣れたものだった。人がバケモノになるなんて、もう見たことだ。藪雨を庇うように少しだけ移動しつつ、槍はまだ向けたままにしておいた。

 

 槍を向けられている狩浦は、両手を上げたまま懇願するように頭を下げてきた。

 

「どうか、槍を下ろしてくれないか。私が君達に危害を加えないのは、本当のことなんだ」

 

「信用出来る証拠がない。悪いけど、このまま質問させてもらう。正直に答えろ、いいな?」

 

 仕方がない、といったように狩浦は頷いた。氷兎は彼にいくつか質問を投げかけていく。

 

「お前達は何者だ?」

 

「見てわからないかい? 私は見ての通り、蛇人間だ。こうして人に擬態して生活している種族だよ」

 

「……仲間はどこにいる? 確実に、複数人いるはずだ」

 

「……何人かは私と同じように人間に擬態している。残りは森の中だ」

 

「お前達の目的は?」

 

「私はただ、平穏に暮らしたいだけだ。好きな人と一緒に過ごしたい。それだけなんだ」

 

 狩浦のその言葉に、氷兎は槍の穂先を少し突きつけるようにして脅した。氷兎の低い声が部屋に響く。

 

「お前のじゃない。お前達蛇人間の目的はなんだと聞いている」

 

「………」

 

 一瞬沈黙が流れるが、その沈黙はすぐに狩浦が破った。狩浦は、軽くため息をついてからその目的について話し始めた。

 

「我らが偉大なる父、イグ様を信仰するためだ」

 

「……イグ? 誰だ、それは。お前達の親玉か?」

 

「いいや、違う。我らだけでなく、全ての蛇の父である神だ」

 

 蛇の神、イグ。自分達人間で考えれば唯一神やキリストといったものなのだろう、と氷兎は考えた。しかしだ。狩浦は信仰するためと言った。何故人のすぐ近くで信仰する必要があるのか。もしやそれは……人に何か関係があるのではないか。

 

「……お前達の信仰とは───」

 

 尋ねようとしたところで、氷兎のインカムに通信が入った。声の主は翔平で、その声は焦りが入り交じっているように聞こえた。

 

『やべぇぞ氷兎ッ!! いろんな所から人型の蛇が集まってきてるッ!! どういうことだ!?』

 

「なっ……狩浦さん、アンタ何をした!!」

 

 槍を首筋であろう場所に突きつけた。狩浦は、ただ悲哀の感情を顔に浮かべながら、これから何が起ころうとしているのかを話し始めた。

 

「儀式だよ。我らが偉大なる父に、捧げ物をするのだ。新月、もしくは満月の夜に生きた生物を生贄に捧げる。それこそが、我らが儀式だ」

 

「……その生贄は、まさか人間だと抜かすわけじゃないだろうな」

 

「………」

 

「ッ、クソがッ!!」

 

 槍を勢いよく突いた。しかし槍は狩浦には当たらず、その隣の壁に突き刺さる。氷兎は狩浦を睨みつけながら、怒りを孕んだ声で威圧的に言った。

 

「儀式をやめさせろ。今すぐにッ!!」

 

「無理だ……。私一人の力では、どうすることも出来ない」

 

 狩浦は俯きながらそう答えた。その答えに氷兎はイラつきながら舌打ちをし、槍を壁から引き抜いてこれからどうするべきかを考え始めた。猶予は残されていない。なんとかして、この状況を打開しなければならないのだ。

 

「……なぁ、頼みがあるんだ」

 

 俯いていた狩浦が氷兎に聞いた。彼は真っ直ぐに氷兎を見つめ、それから深く頭を下げて頼み込んできた。

 

「どうか……私に力を貸してほしい。儀式を止めるために」

 

 

 

To be continued……



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第55話 満月に叫ぶ

 外にいるらしい蛇人間達。それらを物陰から監視している先輩と七草さんが言うには、森のはずれのほうに移動していっているとのこと。おそらくそこが儀式をするための場所なのだろう。

 

「元々我々蛇人間は、地下で暮らしていたのです。しかし、多くの蛇人間は人間を由としなかった。我々蛇人間こそが人間よりも上位の種族であると思っていた。だからこそ我々は地上に出てきたのです」

 

 地下で暮らしていたという蛇人間。目の前の狩浦さんだった生物は、敵対の意思を見せないまま俺を見つめていた。時折スっと視線を逸らし、月見さんのことを見て目を細めていた。

 

「……人に化けていたのは、その方が人間を生贄として持ち去ることが容易だからです。相手の家族や、婚約相手になり変わればある程度その家庭状況を操作することが出来る」

 

「だから、新月と満月が終わった後に引越ししてしまった家族が存在するわけだ。いなくなっても誰も不審がらないように」

 

「そんな……まさか、紗奈に取り入ったのも生贄に捧げるためだと言うのか!?」

 

「違うッ!! 私は……私は彼女を愛していた!!」

 

 人の声ではないガラガラとした怒声が響いた。狩浦さんは真剣な眼差しを林田さんに向けながら、自分の想いを吐露し始めた。

 

「一目見て、彼女を好きになってしまった。だが、私は蛇だ。他種族の恋なんてものが実るわけがない! けど私は、この想いを捨てきれなかった、我慢出来なかったのだ!! だから私は人間に化け、彼女の近くで……でも、本当は彼女が話しかけてくれるだけでも良かった。それだけで幸せだった。しかし彼女は私に恋人の振りをしてくれと頼んだのだ。あぁ、仮とはいえ、その言葉を投げかけられた時、どれほど嬉しかったか!!」

 

「……恋人の、振り?」

 

「君が、彼女の想いに気が付かないから、彼女の苦心の策として私が彼氏の振りをしたんだ。彼女が傷ついたのは、私だけのせいじゃない……君も、同じだ」

 

「……紗奈が、僕のことを? そんな……なら、でも……なんで紗奈はそんな回りくどいことを……」

 

 ……なんだか嫌な感じだ。このままだと泥沼になりそうだ。事態は一刻を争う。なんとかしてこの場を穏便に収め、事の収拾をしなければならない。俺は二人の間に割って入るように言った。

 

「恋は盲目、ということですよ。恋をすると、理性という心のブレーキが緩んでいきます。そうすると、善悪の判断であったり、今後の未来予想だったり。そういった事が考えにくくなります。だから……誰が悪いでもなく、皆悪かった。ただそれだけですよ」

 

「……そうか。そういう、ことだったのか……僕は、なんてことを……」

 

「悔やむのは後ですよ。貴方にはまだ未来があるんですから」

 

 そう言って、強引に会話を終わらせた。別に、言っていることは本当に本心から出てきたものだ。適当にそれっぽい言葉を並べていた訳では無い。そうするのが一番早かっただけの話だ。

 

「……こんな、蛇である私の話を信じてくれるのかい?」

 

 狩浦さんの驚きに満ちた目と合った。その瞳は澄んでいて、直感的に……あぁ、この人は嘘をついていない、と思えた。本当に、なんとなく感覚的なものだが。でも……あそこまで本心を吐露した人を、俺は疑うことは出来ない。

 

「蛇だから。人間じゃないから。それで互いに殺し合うのは、バカバカしいことです。そんなことをしたら、お互い同じ唯のケダモノへと成り下がりますよ。偏見や先入観に惑わされず、自分の意思で判断しなければ。それを辞めてしまったら……蛇も人も、差異がなくなってしまう。俺は、そんな何もかもを切って捨てるようなケダモノにはなりたくない」

 

 思い出すのは、山奥村での出来事。あぁやって助けられるかもしれない人を、バケモノと決めつけて殺すなんてことを俺は許容できない。何かもっと良い解決方法があるのではないか。そうやって考え続けなければならないのだ。

 

 考えるのをやめたら、人はそこで終わる。それだけは確かなことだ。

 

「……そうか。信じてくれてありがとう」

 

「ひとつ聞かせてもらいたいです。なんで、彼女を連れて逃げなかったんですか?」

 

「……逃げても無駄だからだよ。どうせ捕まってしまう。なら、彼女が生贄として選ばれるまでこうして暮らして……その時になったら、別れるべきだと考えていた。それなら、彼女だけでも逃がせるかもしれないと思っていたんだ」

 

 ……それで、別れられた方の月見さんは、どれだけ辛い思いをするのだろうか。しかし、それ以外の手が思いつかないんだろう。きっとそう。俺も逆の立場になれば、同じようなことをするか……もっと早い段階で、別れていただろう。心の傷が深くならない段階で。

 

 でも……きっと、できないんだろうな。だって、それが恋というものなんだろう。自分から大切なものを手放すなんて、誰だってしたくないだろうさ。

 

 そんなことを考えていると、インカムから声が聞こえてきた。今度は七草さんからだ。少し離れた所にいるのか、少しだけ途切れ途切れだがなんとか聞き取れた。しかし、その伝えられた内容に驚愕することとなる。

 

『氷兎君、大変!! 蛇みたいなのがこっちに向かって来てる!!』

 

「なッ…… 先輩はどうした!?」

 

『翔平さんも監視しながら逃げてきてる!! これ、森だけからじゃないよ、住宅地の方からも来てる!! しかも、今氷兎君達がいるところに向かって!!』

 

「何があったんですか?」

 

 狩浦さんに状況を伝えた。蛇人間達がこちらに向かって来ていると言うと、彼は額を抑えるようにして悔しそうに顔を歪めた。

 

「監視されていたのは私もだったかッ……」

 

「なぜ同胞を監視する必要があるんですか?」

 

「先の理由で、私はあまり蛇人間達の中であまりよく思われていなかったのだ。おそらくそのせいで……」

 

「………」

 

 どうする。どうするべきだ。頭の中で色々と策をめぐらしていく。狩浦さんが言うには、儀式をするための近くの民家、すなわちここら辺一体を含めて皆深い眠りにつかせる魔術を使われているらしい。そのせいで林田さんがあれだけ大きな声を張り上げても、誰も反応しなかったのだと。

 

 つまり、ここら辺なら戦うことが出来るということだ。誰かに見られるという可能性も少ない。しかし相手の数がわからない。どれだけの数がいるのかわからないのに、下手に薮を突くのも良くないだろう。しかし二人だけを隠すか逃がすかをしてしまえば、それを察した連中は彼らを探しに行くだろう。それは二人に危険が及ぶ可能性が高い。

 

『氷兎君、どうしたらいいの!?』

 

『氷兎、逃げ道なんてねぇぞ。どうする?』

 

「せ、せんぱい……私、どうすればいいんですか……?」

 

 インカムから、そしてすぐ側から。皆の声が聞こえてくる。早くどうにかしないと。この状況を打開しないと。そうやって焦りながら考えていても、まったく策は閃かない。むしろ、迫り来るタイムリミットに心臓が暴れだし、呼吸がどんどん浅くなってくる始末だった。

 

 息が苦しい。落ち着かなくては。けどどうやって。何か策は。何か案は。何か、何か……

 

『落ち着いて』

 

 ……インカムからの声に、一瞬呼吸と共に身体の機能も停止したような気がした。子供を宥めるような、優しい声が耳に届いてくる。

 

『大丈夫。氷兎君なら、大丈夫だよ』

 

 優しく励ましてくるその声に、グチャグチャとしていた頭の中がまるで晴天のようにサッパリとした気がした。不思議と呼吸も落ち着いてきて、槍を握る手からも余分な力が抜けていた。

 

 いつの間にか歪んでいた顔を元に戻すように触ってから、俺は全員に聞こえるように言った。

 

「……全員、戦闘準備を。敵の状況を見て、せめて二人だけでも逃がします」

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 静かな夜だった。上を見上げると、満月が煌々と輝いている。なんだか落ちてきそうなくらい大きく見えた。それが不安や緊張からくるものであると判断した俺は、深呼吸をしてから周りを見回した。

 

 家の近くにあった大きな広場。ここでなら戦闘するのも苦ではなく、周りに遮蔽物もない。どこかからいきなり奇襲される、なんてのもない。

 

 気絶してしまった月見さんを抱える林田さん。その二人を囲うようにして俺達は陣形を組んでいた。各々が自分の武器を持ち、ただただ過ぎ行く時を待った。藪雨は小太刀を。狩浦さんは曲刀と呼ばれる先端がカーブした剣を持っていた。

 

 ビュウッと勢いよく風が吹き抜けていく。それに何かを感じ取ったのか、狩浦さんが誰に言うわけでもなく声を上げた。

 

「来たよ」

 

 その言葉を合図としてか、ぞろぞろと蛇人間が集まってきた。物陰や木の裏から出て来て、俺達を更に大きな円で囲むように移動してきていた。見ているだけで気持ち悪くなりそうだ。緑色の皮膚を持つ人型のようなものに囲まれているのだから。そして周囲がざわめきたつ。それはきっと、蛇人間である狩浦さんがこちらにいるからだろう。

 

「……殺気を抑えてもらえないか。こちらは争いたくはないのだ。穏便に事を済ませたい。そちらの意向はどうか?」

 

 俺の言葉に、おそらく蛇人間のリーダーであろう者が輪から外れて一人前に出た。握り締めた槍を更に強く握り、その蛇人間を睨みつける。体格は他の者よりも一回りでかいだろう。奴らは皆、狩浦さんと同じような武器を持っていた。

 

「下等種族が我々に口を利くでない。それよりも……なぜ貴様がそちらにいる?」

 

 下等種族という言い方にカチンときたが、今は言い返してもどうにもならない。なんとか堪えて、狩浦さんの言葉を待った。彼は特に何も気負うことは無い、といったふうに答えた。

 

「全て私の判断でここにいる。彼らは悪い人ではない。どうか見逃してはもらえないか」

 

「巫山戯たことを抜かすでない! 人間如きの側に、我々と同じ蛇がいるのが気に喰わんのだ!! そうだろう、皆の者!!」

 

 そうだ、そうだっと雄叫びのような声が上がる。奴らは皆片手を上にあげ、自分の得物を月光で鈍く光らせた。こうとなってはもう、平和的解決はできないだろう。

 

 もっとも……人を殺していた段階で、許すも何もなかったようなものだが。

 

「問おう。何故人を生贄に捧げるのだ。生きた生物であるのならば、他の動物でも良いではないか」

 

 俺のその問にリーダーは答えた。その顔は暗い夜でもわかるくらいに歪み、笑っているのだとわかった。

 

「貴様らは数が多すぎる。その上環境に悪影響を与えるではないか!! 他の動物は貴様らの血となり肉となっておるぞ。なのに、貴様らは何の血肉にもならぬではないか!! 貴様は言ったな、他の動物でも良いと。所詮は自分至上主義の下等種族よ。ならば、それを殺して何が悪いと言うのか!!」

 

 再び、そうだそうだっと歓声が上がる。最早何も言い返せまい。しかし、俺達が彼らと戦うのは何も人間が殺されたからという理由だけではない。

 

 俺達が今、殺らなきゃ殺られる立場にあるから、戦うのだ。

 

「今宵の生贄は多いぞ!! 全て捕らえ、偉大なる父イグ様に捧げるのだ!!」

 

 一際大きな声が上がる。俺は、隣にいる狩浦さんに月の影響で高揚して震えそうな声を察せられないように抑えて話しかけた。

 

「……本当に敵対していいんですか?」

 

「私が決めたことだ。愛するものを守る為なら……私は、彼らを裏切ろう」

 

「……そうですか」

 

 一瞬の沈黙。辺りの音が一切なくなり、次の瞬間には蛇人間のリーダーが天高く上げた腕を俺達に向けて振り下ろし、その人ではない声を張り上げて命令を下した。そして、それに抵抗するように俺も声を張り上げる。

 

「裏切り者に死を!! 人間に死を!! 偉大なる父イグ様のため、殲滅せよッ!!」

 

「作戦、開始ッ!!」

 

 連中が俺達を皆殺しにせんと、一斉に走り出してくる。しかしこれこそが好機だ。距離はまだ十分にある。蛇人間が全員集まったであろうタイミングでしか、二人は逃せない。この瞬間を逃せはしない。俺の声を合図に一斉に林田さんの家の方面に向かって走り出した。

 

 先輩がハンドガン二丁で牽制しつつ、七草さんが単独で先に突っ込んでいき、その蹴りひとつで相手の一部を一気に吹き飛ばした。俺もポーチから手榴弾を取り出すと、ある分を全て退路先である方へぶん投げた。

 

「退避っ、退避しろぉぉぉッ!!」

 

 誰かが叫ぶも、遅い。爆発に巻き込まれて円のように囲まれていた陣形が崩れる。その間を一気に駆け抜けて、俺達は奴らの包囲網から抜け出した。そして俺と先輩で銃で牽制しながらその場から逃げ出していく。

 

「逃がすな、追えぇぇッ!!」

 

 怒気を孕んだ声が聞こえてくる。その声に、ざまぁっと嘲るように笑ってやった。俺達は七草さんを先頭にして、なるべく距離を離していく。

 

「あっ……せんぱい、あんなところに人が……!?」

 

 藪雨が逃げるルートの方で座り込んで動けなくなっている男性を発見した。彼女は何の疑いもなくその人物に駆け寄っていく。まずい、と思っても『忍者』の起源を持った藪雨の足の速さには間に合わなかった。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

「た、助けてくれ!! へ、蛇みたいな奴が襲ってきたんだよ!!」

 

「そんな……大丈夫です、私達がなんとか……」

 

 走って駆け寄っている俺達の方を振り返る藪雨に、俺は声を荒らげて怒鳴った。

 

「馬鹿野郎ッ!! そいつから早く離れろッ!!」

 

「えっ……」

 

 倒れていたはずの男が急に立ち上がって、藪雨に向かって隠していたのであろうナイフを振り下ろさんとしていた。

 

「いやぁっ!?」

 

 頭を護るようにしてしゃがみ込んだ藪雨。しかし藪雨にナイフは当たることなく、男性がその場に倒れ伏した。先輩の放った一発の弾丸が眉間を貫いていたのだ。

 

 いつ見ても惚れ惚れする射撃だ。しかし今は先輩を褒めている時間すら惜しい。藪雨に近寄って無理やり立たせながら、俺は言った。

 

「何警戒なく近づいてんだ!! 全員眠ってるってのにこんな所で生存者がいるわけねぇだろ!!」

 

「ひぅっ……ご、ごめんなさい……」

 

「いいから、とりあえずもう少し安全な所まで……」

 

 藪雨を引っ張って動かそうとしても、彼女は動けなかった。どうやら腰が抜けてしまったらしく、涙目の状態でまた座り込んでしまった。

 

 ……これ以上逃げ続けるのは厳しいか。仕方がない。もう少し逃げながら数を減らしたかったが、もう無理だろう。作戦自体は大分成功しているのだ。引き撃ちしながら敵を一方向に纏め、背後からの奇襲をなくして正面から殺り合う。それが今回の作戦だったのだ。

 

「七草さん、藪雨を連れて逃げて。俺と先輩と狩浦さんで、なんとか凌ぎきるから」

 

「で、でも……大丈夫なの?」

 

「大丈夫だ。きっとな」

 

 不安がる彼女を安心させるように少し微笑んで言った。本来は七草さんだけが林田さん達を護衛するはずだったが、仕方ないだろう。残る三人で走ってきた道を振り返り、逃げる段階で荒くなった呼吸を整えた。俺のことをチラッと見た先輩が、不安そうな声で話しかけてくる。

 

「……頼むから死ぬなよ。お前の横で戦えないのが、本当に悔しくて仕方が無い……」

 

「平気ですよ。仕方がないじゃないですか。それに……今回は、狩浦さんがいますしね」

 

「……私の招いたことだ。自分の始末は自分でするよ」

 

 決意を新たにする狩浦さん。もうすぐ蛇人間達が俺達に追いつく距離になってきていた。俺は少しだけ先輩の前に立って、顔だけを振り返るようにしてから口を開く。

 

「……背中は任せましたよ」

 

「ッ……お前にそれ言われちまったら、もう何も言えねぇじゃねぇかよ……」

 

 後ろからクツクツと笑い声が聞こえてくる。先輩も、十分やる気に満ち溢れているようだ。頼もしい相棒が後ろにいてくれることが嬉しく、自然と口角が上がっていく。

 

「……あぁ、任されたぜ相棒ッ!!」

 

 力強く返ってきた返事に、俺はニヤリと口元を歪めた。あぁ、気分がいい。満月がまるで俺の事を祝福してくれているようだ。

 

 もう高鳴る心を落ち着ける必要は無い。この高揚心に身を任せ、俺は向かってくる蛇人間共に向かって叫んだ。

 

「満月は、テメェらだけの特別じゃねぇんだよォッ!!!」

 

 槍をしっかりと握り直してから、俺は狩浦さんと共に駆け出した。一匹たりとも逃しはしない。人に害をなすというのならば、全員殺すだけだ。

 

 

 

To be continued……




 大学生になりたてで疲れているせいか、どうにも文章が良くないですね……すいません……。

 新環境で過ごす疲れからか、不幸にも黒塗りの高級車に追突してしまう。作者を庇い全ての責任を負ったあなたに対し、車の主、暴力団員谷岡が言い渡した示談の条件とは……。

「感想を書くんだよ。一回だよ一回、あくしろよ(懇願)」



 悪ふざけがすぎましたね。
 しかしまぁ、こういったことをするのなら前みたいなクトゥルフっぽい演出の方がいいのかな。
 無論しないのが一番いいと分かってるんですがね……。


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第56話 夜戦と蛇

今回ちょっと長いです


 最早自分では抑えきれないくらいに高揚している。満月時の影響というのは思っていたよりも厄介だった。しかし、今この状況においてはこれ以上にないくらい頼もしいものだった。

 

 駆ける。誰よりも早く駆ける。相手がスピードに驚き一瞬立ち止まったところに、槍を全力で振り抜く。手にかかる重さがどんどん増していき、そして一気に解放される。まるでボーリングのピンみたいに蛇人間達が飛んでいった。

 

「クソッ、ただの人間じゃねぇのかよ!!」

 

 曲刀が目の前に迫り来る。それを槍で弾き、そのまま回転して回し蹴りを叩き込む。蹴りひとつでも奴らは面白いように飛んでいった。流石に七草さんよりも威力は出ていないが。そもそも満月時ですら俺は七草さんの身体能力に勝てないのか。少し悲しい。

 

「背後に回れ!! 囲んで一斉に掛かるんだ!!」

 

 誰かの声が響き、その指示に従って奴らは俺を取り囲もうとする。なんとか背後に回った奴がいたが、俺はそれを無視した。

 

「がッ───」

 

 相手にするまでもない。後ろには先輩がいるのだから。先輩の撃った弾丸が回り込もうとする奴を一人残さず撃ち殺していく。

 

 流石だ、としか言いようがない。先輩の持ち武器は銃だけなのだ。確かに一発一発の威力は高いし、遠距離から攻撃出来る。しかし、その攻撃はいつか止まる。弾切れによって。

 

 だから先輩は考え続けながら射撃している。どれを倒せばいいのか。あと弾丸は何発残っているのか。どこを狙えばいいのか。リロードのタイミングはいつなのか。全て、全て考えた上で行動し、無駄な弾を消費しない。

 

 基本先輩の弾丸は外れないのだから。今だってそう。少し後ろを見てみれば、先輩が両手に持ったコルト・ガバメントで射撃を継続している。

 

「くぅ……たかが人間如きに……!!」

 

「人間舐めんなよ。繁殖力だけが取り柄か? いや違う。そういった人間ばかりではないことを、思い知って死んでいけ!!」

 

 容赦はしない。目の前の蛇人間の頭めがけて槍を振り下ろし、横薙ぎに払って数体吹き飛ばし、距離が開けたら近くの奴目掛けて狙撃する。

 

「さっさと、死ねッ!!」

 

 蛇人間が飛びかかってくる。しかし遅い。あまりに遅すぎる。その場から最小の動きで攻撃を躱し、着地の硬直を狙って背後に回り込んで後頭部を撃ち抜く。

 

 視界の端の方で戦っている狩浦さんと対峙した蛇人間が恨みのこもった声で怒鳴った。

 

「我が種族の恥晒しがッ!!」

 

「恥晒し、か。あぁ、そう罵るといい。だが私は後悔しない。幸せだった。あぁ、幸せだったのだ!! これ以上となく私は幸福だった!! わかるまい、お前達にはわかるまい!!」

 

 すぐ近くで戦っている狩浦さんの声が聞こえる。見れば側方の死角から狩浦さんを攻撃しようとしている蛇人間がいた。

 

 そうはさせない。その場から全力で跳ぶように移動し、そのままの勢いで貫いた。嫌な感触が手に残るが、そんなものは今はどうでもいい。槍に蛇人間を突き刺したまま、相手の固まっている場所に向かってぶん投げた。また面白いように吹っ飛んでいく。

 

「人の暖かさを、お前達は知らない。人の優しさを、お前達は知らない。そして、人がどれほど苦しみの中で生きているのかを、お前達は知らない!! 我々はこんな苦しみを味わいながら生活をしない!! だからこそ、私は……人の美しさを見出した!!」

 

 狩浦さんの剣が相手の剣を弾き、そのまま身体を斬りつける。緑色と赤色の混じったような体液を噴出させながらその蛇人間は倒れていった。俺も狩浦さんも、返り血に塗れている。

 

「私は『恋』をした!! 胸が裂けるほどの痛みを、心地よいと感じた!! だが……この痛みが、『愛』によって幸福へと変わったのだ!! 私は己の行いを後悔していない!! 何故ならば……絶対に、お前達よりも幸福を感じられたのだから!! この胸の暖かさこそが、私が人に寄り添い続ける理由だ!!」

 

 それは蛇か。それは人か。それはもう問題ではない。ここにいるのは狩浦 染という名のひとりの生命体だ。俺はその意思を汲もう。彼の生き方と、その想いを尊重しよう。

 

 彼は知ったのだ。『恋』と『愛』を。そしてそれは種族という垣根すらも凌駕してしまった。あぁ、全ての生命体がこうであったのならば、どれほど救われることか。

 

 だがしかし……世界はそんなに綺麗じゃない。

 

「裏切り者めがァァァッ!!」

 

「ぐっ……何故だ、何故人間を拒むのだ!! 確かに相容れぬ仲ではあるのかもしれないが、一方的に拒むのは、おかしいではないかッ!!」

 

 ……それは違う。周りにいる連中を薙ぎ倒しながら、俺は思った。

 

 きっと逆の立場なら。もしも人間が蛇人間を見つけたら。きっと話しかけるよりも前に殺すだろう。そういうものなのだ。俺達の日常にバケモノはいらない。理解できないものはいらない。だってそれが怖いから。今までの常識が崩れ去ってしまえば、人間はそれに耐えきれないかもしれないから。

 

 だから、人間を攫って生贄にするのは許容できないが、相反し憎み合うというのは間違ったことではないのだ。

 

「……だが、だからといって容赦はしない。お前ら人間殺したんだろ。ならもう許す必要も無い。ここで、必要悪()の手によって死ね」

 

 満月のせいだからか。普段は言わないような口の悪い言葉が次々と出てくる。それでも抑えようとは思わない。この猛りに身を任せ、俺は迫り来る危険を避けるだけだ。

 

「ぐぅッ!?」

 

 狩浦さんが力負けし、今にも武器が振り抜かれようとするが、その直前で武器が先輩の放った弾丸によって弾かれた。一瞬動きの止まったその蛇人間を、俺が槍で突き穿つ。

 

「あ、ありがとう……」

 

「気にしないでください。それよりも、今は目の前のことに集中して」

 

「……あぁ!!」

 

 斬りかかろうとする敵に向かってそれよりも早く武器を振るう。リーチが長いおかげで周りの連中も巻き込んで吹き飛んでいく。今度は前方から一気に押しかかってくるのに加え、三体の蛇人間が飛びかかるように上空から襲いかかってくる。

 

 だが、次の瞬間にはその三体の眉間に風穴が空いている。俺はそれらを気にすることなく目の前の敵を攻撃した。目に見えてどんどん少なくなっていく蛇人間達。無双ゲーかと疑いたくなってきた。

 

「うあぁぁぁぁぁッ!!」

 

 しかし、油断も慢心もしない。俺は叫びながらも、決死の想いで突撃してくる蛇人間の武器を弾き、叩きつけ、そして貫いた。手に嫌な感触がある。しかし戦わねば死ぬ状態。そんなものに一々構っていられなかった。

 

 流れ出る奴らの血液の匂いに、頭がくらくらとする。胃液がせり上がってきて思わず吐きたくなってしまう。しかし、今それをしてしまったら殺される。吐き気を我慢し、ただひたすらに目の前の障害をどうにかせん、と武器を振るう。

 

「氷兎出すぎだッ!! 少し下がれ!!」

 

 先輩の声に我に返った。どうやら必死になるあまりどんどん相手の方へと突き進みすぎたらしい。狩浦さんの様子を見ながら少しだけ後退する。すると、相手の動きが少しだけ鈍くなった。奴らの後ろの方から命令を下す声が聞こえてくる。

 

「撤退しろッ!! 一時撤退だッ!!」

 

 残りあと僅か。そんな時に奴らは皆舌打ちや暴言を吐きながらその場から逃げていく。それを追おうとする俺を、先輩が腕を引っ張ることで止めてきた。

 

「落ち着け氷兎。無闇に突っ込むのは危険だ」

 

「おそらく私達の儀式場へと向かったのかと。必要なら私が案内しますから、一旦落ち着きましょう」

 

「……そう、ですね……すいません、なんかもう思考がメチャクチャで……」

 

「月の影響か……。厄介なもんだな。どこぞの狂化みたいなもんか。思考能力を低下させる代わりにステータスを上げるって感じみたいだな」

 

 深く息を吸って、そして全て吐き出した。周りの臭いにむせ返りそうになったが、何とか堪えた。少しだけ頭の中がスッキリした気がする。

 

 とりあえずこの後どうするのかを考えなくては。まだ夜は長い。しかし今夜中に全て片付けなくてはいけない。何か作戦は思いつかないか、と俺が考えている間に先輩は本部に連絡を入れていた。大方この道路に横たわっている大量の死体の処理に関してだろう。流石にこれを放置したままではいけない。

 

「……よし、本部が死体の処理引き受けるってよ。俺達はこのまま奴らを叩くんだが……叩いちゃっていいのか、狩浦さん?」

 

 電話を終えた先輩が狩浦さんに確認をとった。敵対しているとはいえ、奴らは狩浦さんと同種族。しかもきっと家族だって向こうにいるのだろう。そう考えると、全て皆殺しにする、というのもなんとなく後味が悪い。

 

 しかし狩浦さんは首を振って、このまま殲滅しに行くべきだと提案してきた。

 

「私のことは心配しなくていい。今は……助けられる人を助けなくては。そうしないと、いつかきっと紗奈が生贄にされてしまう。そんなのは御免だ」

 

「……ですが、貴方にも家族がいるでしょう」

 

「確かに。産まれた限り親がいるのは当然のことです。しかし、我々蛇人間にとって親というのはそれほど重要ではないのです。元より我々は産まれた時に同い年の集団で集められ、子供達を一纏めとして一緒に生活させられていた。だから、私は私を産んだ親の事を良く覚えていない。それ故に……私を心配なさるな。先も言ったはずです。私は、私自身の判断でここにいるのだと」

 

「……すいません、では力をお借りします。それでは、ここからどうするのかですが……」

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 森の奥の方に、地面に不思議な模様が描かれたスペースがあった。そこに生き残った蛇人間達が集まっているようだ。数にして十体程度。最初はあれだけ多かったのに今ではこれだけだ。一応木の裏に隠れているが、どうしたものか。

 

「不意打ちを仕掛けますか」

 

「いや、待ってほしい。私に彼らと話をさせてくれないか」

 

 狩浦さんの言葉に俺は頷いた。無抵抗の敵を殺すというのはあまり精神的に良くない。これ以上悪さをしないというのなら、俺はもう別にいいのだから。狩浦さんは武器をしまってから、ゆっくりと奴等のいる場所へと向かっていった。

 

 狩浦さんの接近に気がついた蛇人間が武器を構えながら狩浦さんに怒鳴り散らした。

 

「何をしに来た裏切り者めッ!!」

 

「お前達と会話をしに来たのだ。頼むから武器を収めてくれないか。彼らはこれ以上人間を殺めぬのなら特に手出しはしないと言っている。どうかもう戦うのをやめてくれないか」

 

「巫山戯るなッ!! 人間の味方をした奴の言葉なんて聞くかってんだよ!! ここで死んで、あの世で俺達に詫び続けるんだなぁ!!」

 

 怒鳴っていた蛇人間が狩浦さんに襲いかかる。しかし武器が届く前に先輩の弾丸が額を貫いていた。突然倒れた蛇人間に、残っていた奴らも動揺が広がり始める。

 

 俺と先輩も木の裏から奴らに姿が見える位置に出てきた。最後の警告をするために俺は奴らに話しかける。

 

「これ以上無駄な抵抗はよせ。今剣を収め、もう人間を襲わないというのなら俺達はアンタらに危害は加えない」

 

「誰がテメェなんかの話を聞くかよ!!」

 

 聞く耳持たずだ。残った蛇人間達は次々に決意を改めるために口を開いていく。

 

「皆死んじまったんだ、このままノコノコと生きていられるかよ!!」

 

「殺す。殺してやる、人間如きに俺達が負けるわけねぇんだァ!!」

 

「殺せ、人間を殺せッ!! 我らが偉大なる父イグ様、どうか我らに力を与え給え!!」

 

 奴らが武器を持って突貫してくる。最早言葉は不要。話し合いではどうにもならないのなら……やるしかない。これが最後だと自分を奮い立たせて、俺は槍を両手で握り締めて振り回す。

 

 槍の穂先が喉元を切り裂く。弾丸が胴体や額を撃ち抜く。剣が身体を斬り裂いていく。問答無用、致し方なし。俺達は心を殺し、その場にいた蛇人間を殺し尽くした。

 

 もうきっと、誰も残っていないだろう。鼻につく臭いがする中、俺は緊張から解き放たれたせいか武器を落としてしまった。そして、自分の身体を見た。

 

「………」

 

 返り血で真っ赤になった身体。敵を貫いた時にかかった血塗れの手。少しだけ視界がぐらついてきた。どうやら、精神的にやられてしまったらしい。

 

「……先輩、七草さん達の所へッ───」

 

 帰ろうとした矢先、空間が張り詰める感じがした。何かに見られている。何かとてつもなくでかいものが近くにいる。身体が固まって、指先ひとつ動かせなかった。意識しなくては呼吸すらもできないほどに、酷い状態だった。

 

「な、ぁッ……!?」

 

 地面に描かれている模様が光だし、粒子となってその場から舞い上がって一箇所に集まっていく。やがてそれは大きな何かを形どっていき、何かを構成していく。

 

「な、なんだ……?」

 

「これは……まさか……」

 

「………」

 

 少しだけ後ずさりする先輩。そしてこれが何なのかを知っているような狩浦さん。ただ俺はその緊迫のあまり動けずにじっとその光景を眺めているだけだった。

 

 遂に、その光の粒子が一つの形へと変化した。

 

「──────」

 

 それは、とてつもなく大きな蛇だった。大きさは五メートルはあるだろう。しかし蛇人間と同じように、人型で茶色のローブのようなものを着ていた。あぁ、それだけならまだ良かったのかもしれない。

 

 しかし、目の前の存在が放つ威圧感というのは今まで感じたことのないものだった。それがあまりに非現実的過ぎて、脳が考えるのをやめようとする。少しでも気を抜いたら、その場で膝をついてしまうくらいに強烈なプレッシャーを放っていた。

 

 ギョロリッとその瞳で睨まれた。これが蛇に睨まれた蛙の気持ちなのだろうか。

 

 それは別次元の存在であった。一目見ただけでもわかるくらい、自分とは格が違うのだと思い知らされた。まさか……この蛇が、奴らの言っていた『イグ』なのだろうか。

 

『──そこな人間よ』

 

「────ぁ」

 

 厳かで低い声がその蛇から発せられた。どうやら、俺のことを言っているらしい。しかし返事をしようにも声がうまく出せなかった。それを知ってか知らずか、蛇はその目を細めて俺を見てきた。

 

『汝、自らの内に宿りしものを自覚しているのか』

 

 その言葉を首を振って否定した。蛇は少し驚いたように目を見開いた。そしてまた言葉を投げかけてくる。

 

『不思議な者だ。彼に魅入られているのにも関わらず、未だ自分の意思を持ち生きているとは』

 

「……彼、とは?」

 

 必死に絞り出した掠れ声で蛇に聞き返した。しかし蛇は首を振るばかりで質問には答えてくれなかった。

 

『我があまり口を開きすぎても彼に怒られるだけだ。我とて流石に彼奴を敵に回したくはない。よって、我が汝に言えることは極少ないものだ』

 

 彼、とは誰だ。しかもこんなヤバそうな奴相手に敵に回したくないって……一体、俺に力を渡した奴はどんな存在なんだ? けど、あの声は女の人の声だったような……。どういう事だ……?

 

 一人悩んでいると、狩浦さんが隣まで寄ってきて、膝をついて頭を下げた。

 

「我らが偉大なる蛇の父イグ様。私はカリウラと申す者です。こうしてお目にかかることが出来、大変喜ばしく思います。しかし、どうしてこのような場所に……」

 

『今となっては我を信仰する場が少ない。今日とてこうして儀式が行われたから来たものを、何やら大変なことになってしまったらしいではないか』

 

 目の前に転がっている蛇人間の死体を見ながら、蛇……イグと呼ばれた存在はそう言った。そして、ここに召喚という形でやってきたのは、そこで死んだ蛇人間が生贄としての意義を果たしたからだ、とも言っていた。なるほど、ならば俺達がイグを呼び込んでしまったということだろう。

 

 ならば対処しなくてはならないのだが……どうしようもないことなのだとわかっていた。俺と先輩が仮に全力で戦っても傷一つつけることなく殺されてしまうだろう。

 

「……イグ様。どうか、どうかこの彼らを許してはいただけませんか。私の命の引き換えでいいのです。どうか、どうかお願いします」

 

「……狩浦、さん」

 

 狩浦さんは地面に頭を擦り付けるくらいの勢いで頭をもう一度下げた。そして、命と引き換えに俺達が蛇人間を殺したことを許して欲しい、と懇願した。そんなことを、命を張ってまでしなくてもいいはずなのに……。

 

「……狩浦さん、ダメです。そしたら月見さんが……」

 

「いえ……いいのです。これで、いいのですよ。同胞は皆死に、残されたのは私だけ。それに、言っていなかったのですけどね……私も、人を殺したことがあるんですよ」

 

 狩浦さんのその告白に、俺と先輩は目を見開いた。狩浦さんは俺達に顔を見せず、ただポツポツと話し始めていく。

 

「まず、我々が使う《似姿の利用》という魔術は……化ける相手を喰わねばならないのです」

 

 似姿の利用……つまり、狩浦さんのあの人間としての姿は、元々誰かのものであって、その人を狩浦さんは喰ってしまったと。そして、話はそれだけではなかった。

 

「私は、林田さんの家族も喰らったのです。そして生贄にした。その時に……私は、彼女を見つけたんです。まだ幼かった、紗奈を。彼女が愛らしく、そしてそれが林田さんが近くにいる時より輝くものだから……私は、林田さんを殺せなかった」

 

「……狩浦さん、アンタ……」

 

「だから……良いのです。私は生きていてはいけない。それに……もう、紗奈には会わない方がいいのでしょう。それがきっと、お互いの為なんです」

 

 彼が俺達に振り向いた。その顔は蛇だというのに、とても満ち足りた顔をしているのだというのがわかった。俺達は何も言えず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 

『……我は汝らを罰するためにここに来た訳では無い』

 

 イグの声が響く。その声はとても穏やかで、張り詰めるような空気が少しだけ軽くなった気がした。

 

『そも、汝らの争いは唯の生存競争である。死にたくないから争ったのであり、虐殺ではない。ならば我は何も言うことは無い。例えるのなら、猪と狩人だ。いつしも狩人が勝つわけではなかろう。猪が狩人に手傷を追わせることもある。汝らの争いというのは、すなわちこの猪と狩人のようなものだ』

 

「………」

 

『だが、カリウラといったか。汝の想いは聞き届けた。故に、汝の命と引き換えに今眠りについている者達の記憶の改竄をしてやろう。それでどうだ、魅入られし者よ』

 

「……それは」

 

 ……答えられなかった。狩浦さんは確かに人殺しなんだろう。だが、だからといってこうして一緒に戦ったのに、彼に対して死んでくれなんて言えるわけがない。

 

「……それでお願いします、イグ様。私は彼らの力になれるのならば、それでいいのです。そして……それで紗奈が幸せになれるのならば、悔いはない」

 

『……だ、そうだ。こ奴の意思を汲むか、それとも捨てるか』

 

 イグの目に射抜かれ、逃げるように視線を逸らした。そして今度は狩浦さんと目が合った。彼はただ真っ直ぐな瞳を俺に向けたまま、ゆっくりと頷いた。

 

 ポンッと肩に誰かの手が置かれた。振り返ってみれば、先輩が少し悲しそうな顔で俺に言ってきた。

 

「氷兎、狩浦さんの言う通りにしよう。このままだと、民家に紛れ込んでた蛇人間がいなくなったせいで家計が回らなくなる可能性がある。夫や妻がいきなりいなくなったら大騒ぎだ。だから……」

 

「……それでいいのです。私は……そうだ。自分の罪を贖うためにするのです。決して貴方が気負う必要は無いのです。ただ、頷いてくれるだけでいいんですよ」

 

 二人の言葉に、俺は……ゆっくりと、頷いた。視界の中では、狩浦さんが満足気に笑っているのが見える。俺の答えを聞いたイグは、微かに笑った。

 

『他者の死を悼み、気遣うその心。努々(ゆめゆめ)忘れることのないように。ではカリウラ、前に』

 

 彼は確かな足取りでイグの目の前まで歩いていき、跪いた。イグがその頭の上に掌を翳すと、緑色の光が手から溢れ出して狩浦さんを包んでいった。

 

 その光が全身を包むと、少しずつ小さくなっていき……やがて小さな光の塊となった。

 

 ブワァッと一斉に光の粒子が飛ぶように消えていく。その後に残っていたのは……一匹の白い蛇だった。

 

『お行きなさい』

 

 イグのその言葉に、蛇は一瞬俺達の方を見てから森の中へと消えていった。イグは不思議そうにしている俺達を見て口を開いた。

 

『カリウラという蛇人間の命は終わりました。彼はこれから白蛇として生きていくのですよ』

 

「……ありがとうございます」

 

 イグに頭を下げた。先輩も倣って頭を下げる。その様子を見て満足したのか、イグの足元が次第に光の粒子となって透明になっていくのが見えた。

 

『魅入られし者よ。どうか、人の心を捨てぬように。汝の力は周りに影響を及ぼす。人との関わりを絶つな。そして……例え絶望に苛まれようとも、諦めずどうするべきなのかを考えるのだ。では……さらばだ、魅入られし者よ。汝の行く末が光に満ちた未来であることを祈っている』

 

 イグの足先から徐々に光の粒子となって消えていく。やがて身体も消えていき、最後には頭も消え去った。その頭が消え去る直前、イグが俺のことを哀れみのような目で見ていたような気がする。

 

「………」

 

 なんにせよ、もうダメだ。立っていられない。

 

 緊張がとけ、足に力が入らなくなってしまった。先輩も同じようでその場にへたれこんでいた。俺はなんとか先輩の元へと這っていくと、すぐ横に寝っ転がった。

 

「……帰りましょうか、先輩」

 

「……あぁ、帰ろう」

 

 二人で夜空を見上げながらそう言い合った。帰ろうと言う割に、互いに力が入らずに動けなかったので、再度動けるようになるまでジッと空を見つめていた。

 

「……なぁ氷兎。結局のところ、蛇も人間も、大して変わんなかったと思うんだ。俺達があぁいった連中と仲良くやれる日は……来るんだろうか」

 

「……どうでしょうね。それこそ……その両者間に『愛』があるとするならば、現実をものともせずに、その理想を叶えられるんでしょうね」

 

 愛とは現実を破るものである。恋は現実に敗れるものである。あぁ、本当に……この世界が愛で溢れていたとするならば、きっともっと世界は平和だったんだろう。

 

 

 ───誰かの嘲笑(わら)い声が聞こえた気がする。

 

 

 

To be continued……




『イグ』

 全ての蛇の父であると言われる神様。
 信仰者にはしっかりと恩恵を与える、話せる神である。
 新月と満月の夜に生きた動物を生贄に捧げる必要がある。


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第57話 君と僕の物語

 町の外れにある小さな病院の一室。僕がその部屋の扉を開けると、彼女は窓の近くにあるベッドで身体を起こして外を見ていた。彼女は僕に気がついたようで、顔を向けると歯を見せるように笑った。

 

 昔の紗奈だ。男勝りな性格だった紗奈だ。その光景に懐かしさを覚えながら、僕は彼女のベッドへと近づいていく。

 

「扶持、今日も来てくれたのか?」

 

「……あぁ。今は特に仕事がないから、暇なんだ」

 

 あの夜から、もう数日は経った。彼女は起きた時に酷い頭痛に襲われて、そのまま緊急入院することとなった。今もどこか調子が悪いらしく、病院で寝泊まりしている。

 

 ……少しだけ痩せただろうか。数日前よりも腕が細くなっている気がした。彼女は少しだけ不安そうな顔で僕に尋ねてきた。

 

「なぁ扶持。私……何か、大事なものを忘れてしまった気がするんだ。お前何かわからないか?」

 

「……上品な仕草、とか」

 

「馬鹿言え。私にそんなもんがあるわけないだろ」

 

 彼女は笑った。僕は……笑えているのだろうか。今抱いている気持ちを漏らさないように、誤魔化すように彼女に笑いかける。

 

「……ずっと、隣に誰かいた気がするんだ。扶持がいない間、ずっと……」

 

「……そっか」

 

「どうして、思い出せないんだろうな。そもそも、私は本当に誰かと一緒にいたのか? なんだか、記憶が曖昧なんだ」

 

「……きっと、頭痛が起きた時に頭のどこかがイカれたんだ。気にする事はないよ」

 

「えぇー、それはそれで何か嫌なんだけど……」

 

 そう言って困ったように彼女は笑ってくれる。

 

 僕は……卑怯者だ。彼女に真実を伝えられないでいる。彼女の隣でずっと支えていた一人の男性のことを、僕は彼女に伝えられない。だって、伝えてしまったら……彼女の想いが戻ってしまうのではないか。それが堪らなく不安だった。

 

「そういえば、この前お前が持ってきてくれた小説読み終わったよ。『僕は愛を作れない』。読み終わって作者名見たら、お前の名前が書いてあってびっくりしたよ。そういや、お前小説家になったんだったなって思い出した!」

 

「……どうだった?」

 

「どうって……うーん、なんというか……嫌な気分になった」

 

 率直に伝えられたその感想に、僕の心臓がズキリと痛んだ。僕はこういった感想に慣れていないのだ。ましてやそれが彼女から伝えられたものだと尚更……。

 

 そんな僕の表情を見かねてか、彼女は両手を振って今の言葉を否定してきた。

 

「違う違う!! 私が言いたいのは、こう……なんて言うんだ……。主人公が、最後の最後まで『愛』がなんなのかわからなくて、ヒロインに想いを伝えられなかっただろ。それが嫌なんだ。私は……この二人に結ばれて欲しかった」

 

 口をへの字に曲げて彼女は不貞腐れた。その言葉に僕は少しだけ……ほんの少しだけ、心が踊ったような気持ちになった。そう思ってもらえて、嬉しかったんだ。それを察せられないように少しぶっきらぼうに返事をした。

 

「……それは悪かったな」

 

「話は良かったんだよ。でもさ……こうやって、しっかり相手の事を想っているのに伝えられないって、どっちも不幸にしかならないと思うんだ。この立場になったら、私は……嫌だな」

 

「………」

 

 何も、言えなかった。僕も彼女も、そうだったから。

 

 僕は結局、彼に会うまで『愛』が何なのかを求め続け、想いを伝えられなかった。

 

 彼女は、想いすぎるあまりに真っ直ぐに気持ちを伝えられなかった。

 

「なぁ扶持。ハッピーエンドって書かないのか?」

 

「……どう、だろうね」

 

 ……書けと言われたら、今なら書けるかもしれない。けれど言われて書くのは何となく嫌だ。僕は僕自身の想いで、ハッピーエンドを綴っていきたい。

 

「そういえば、『僕は愛を作れない』の続編の方なんだけどさ……」

 

「……は?」

 

 彼女は机の脇に置いてあった袋の中から背表紙も何もついていない一冊の本を取り出した。しかし、それはここに無いはずのものである。その本は僕の家においてあるはずの物だ。彼女がその本を手に持っていることに対し、僕の心は非常に動転していた。

 

「待って、その本は入れてないはずなのに……」

 

「そうなのか? なんか気がついたら入ってたから、お前が窓から袋の中に入れてったのかと思ったよ。トイレから帰ってきたら、窓が開いてたからさ」

 

 窓。ふと思い立った僕は窓の近くに寄って行き、そこから地面を見下ろした。近くにあるのは花壇、道、そして芝生があってその奥は森になっている。

 

「あっ……」

 

 芝生に、白いロープのようなものがポツンと置かれていた。それは、よくよく見てみたら……とぐろを巻いた白い蛇だった。白い蛇は僕が見ていることに気がつくと、下をチロチロと出してから、スルスルと森の中へと入っていった。

 

さようなら(おめでとう)。そしてどうか忘れてください(どうか幸せに)

 

 突然吹いた風に乗って、誰かの声が聞こえた気がした。

 

「扶持、何かあったの?」

 

「……いや、何もないよ」

 

 外の風景から目を逸らし、僕は彼女のことを見た。彼女はさっきからずっと僕のことを見ていたようで、彼女の目と合ってしまった。不意に心臓が高鳴り、脈が早くなる。その現象を……なんとなく、心地よいと感じた。

 

「それで、この本題名も決まってないし途中からは白紙だしさ……。私この本の続きが読みたいんだ。だから、続きを書いてくれないかなって」

 

 僕の顔を覗き込むように彼女が見てくる。

 

 題名も何も決まっていないその本は、確かに以前書いた『僕は愛を作れない』の続編に当たるものだ。無論……ここ数日をかけて僕が書いていたものである。内容は決まっている。僕が『愛』とは何かと気が付き、彼女のことを追い求めるお話だ。

 

 あぁ、そうだ。これこそが僕の『愛』だ。この小説こそが、僕の『愛』なのだ。僕と彼女の全てが、これからここに記されていく。だから、僕は彼女にこう言った。

 

「……これからゆっくりと書いていくよ」

 

 きっとこれからだから。この本の続きはこれから始まるのだ。

 

 この本がいつ完結するのかわからない。君の為に作るたった一冊の本だから。僕が彼女に想いを伝えた時か。結婚出来た時か。それとも死ぬ直前か。

 

 ともあれきっと、明るい大作になるに違いない。その題名は、僕の中ではもう決まっていた。

 

 そんなことを考えていると、彼女の声が僕の耳に届いてきた。寂しそうとも不安そうとも取れるような、そんな声だった。

 

「……ねぇ扶持。なんだか、怖いんだ。隣に誰かいたはずなのに、誰もいないのが」

 

「……そうか」

 

「だから……だから、ね。扶持が隣にいてくれる?」

 

「……僕なんかが君の記憶の中にある誰かの代わりでいいのかい?」

 

「いいよ。だって……扶持だもん。扶持だから、いいんだよ」

 

 郎らかに笑う君の手に、僕は自分の手を重ね合わせた。

 

 久しく触れた君の手の温もりは、とても暖かかった。あぁ、そうだ。この本のタイトルは……。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 任務が終わって、俺達は無事に本部へと帰ってくることが出来た。流石にあれだけの大立ち回りをしたせいか、本当に疲れて動けなくなりそうだった。

 

 そんな疲労困憊な中、俺達は報告をするために司令室へと向かっていく。扉をコンコンッと叩き、中へ入っていくといつものスタイルで木原さんが待っていた。先輩、藪雨、俺、七草さんという順番で横一列に並び、今回の事件のあらましと結果について報告した。

 

 その報告を聞き終えた木原さんは満足気に頷いてから、いつだか俺達が聞いたものと似たような台詞を言ってきた。

 

「さて、任務が終わった訳だが……これで藪雨はお前達のチームから外れることとなる。藪雨について、お前達はどうするつもりだ?」

 

 先輩と顔を見合わせた。先輩もちゃんと答えが決まっているようで、悩む素振りはなかった。七草さんの方を見ると、俺と先輩の判断に任せるよっと笑いかけてきた。

 

「まぁ……答えは決まってますよね」

 

「そうだな」

 

「なら、聞かせてもらおうか。藪雨をチームに加えるのか?」

 

 藪雨が期待を込めた目で俺と先輩を交互に見てくる。タイミングを合わせることもなく、俺と先輩は同時にその問に答えた。

 

『チェンジで』

 

 ……当たり前だよなぁ。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 蛇人間騒動から数日が経った。先輩はいつものようにゲームをしていて、俺は珈琲をちょくちょく飲みながら洗濯物を畳んでいた。

 

 コンコンッココンッと扉がノックされた。この叩き方は藪雨だ。先輩をチラッと見ると、入れてもいいぞと頷いて返してきた。仕方が無いので、彼女を部屋に招き入れることにした。扉を開けると、どこか驚いたような顔の藪雨と、菜沙と七草さんが立っていた。

 

「およ、今回はすんなり入れてくれるんですねー。もしかして……私のこと好きになっちゃいました?」

 

「お前のことを好きになることがあるだろうか。いや、ない」

 

「反語使ってまで否定してくるのはやめてください」

 

 笑いながら部屋に入ってくる藪雨に、その後から続いて入ってくる菜沙と七草さん。とうとうこの部屋は普段から五人で使われるようになってしまった。珈琲の豆の在庫がマッハだ。金はあるからいいんだけど、買いに行くのが面倒だ。

 

「ひーくん、もう疲れ取れたの? マッサージとかしてあげようか?」

 

「俺は平気だ。しかし先輩がなぁ……」

 

 全員で先輩を見やった。先輩はただ黙々とゲームに勤しんでおり、その目の下には隈が出来ていた。ひでぇツラだ。そろそろ寝かせなければ。

 

「泊まりがけのせいでそこまでゲームが出来なかったから反動が来ててなぁ。あぁやって徹夜でゲームやり続けてんの」

 

「うわっ、典型的なダメ人間だ。鈴華せんぱいって唯野せんぱいがいなかったら生きていけなさそうですよねー」

 

「……ひーくん、ダメだよ」

 

「何が。俺と先輩がくっつくことが? いやねぇよ。俺ホモじゃないから」

 

 菜沙が俺の手を引っ張ってその道に進もうとするのを止めてくる。いやそもそも、その道に走ろうとすら思っていないんだけど。そんな目で俺のことを見てくるのはやめてほしい。

 

「でも、氷兎君確か翔平さんと一緒に星見てたんでしょ? 二人っきりで横になって」

 

「ひーくん?」

 

「待って誤解だ。俺はそんなことは……したけどまたそれは別の理由があってだな……」

 

「せんぱいは私と二人っきりで月が綺麗な夜に話しましたもんねー」

 

「ひーくん……!!」

 

「だからなんでお前らは……あぁもう!!」

 

 腕を引っ張るどころか俺のことを押し倒さんとばかりにのしかかろうとしてくる菜沙を必死に食い止めた。それを見て七草さんと藪雨が笑っている。

 

 七草さんが俺のことを笑うのはいい。だが藪雨、お前はダメだ。後でデスソースの刑に処さなければ。

 

「……あれ、唯野せんぱいまた本買ってきたんですかぁ? しかもこれ林田さんが書いた奴ですよね」

 

「ん……あぁ、それあんまり触るなよ。林田さんが愛読者である俺のために作ってくれた世界に一冊だけの本なんだから」

 

 林田さんから送られてきた本。それは『僕は愛を作れない』の続編である物語だった。それを完結させて俺に送り届けてくれたらしい。一緒に送られてきた紙には、お礼の言葉と共に、その本はレプリカ……所謂試作品だと書かれていた。

 

 読んでみたらまぁ、本当にしっかりと完結させられていた心温まる恋愛小説だったわけだけどね。

 

「へぇ……ひーくん、私も読ませてもらっていい?」

 

「あっ……私も読んでみたい、かな」

 

「いいよ、二人なら。藪雨はダメだけど」

 

「だからなんで私だけダメなんですかぁ!!」

 

 藪雨がポカポカと殴ってくるのをデコピンで反撃する。痛かったのか、彼女はその場でうずくまってしまった。ざまぁみろと上から見下ろすように笑っておく。

 

「……まぁ、林田さんも前に進めたみたいで良かったよ」

 

 誰に言うわけでもなく俺は呟いた。

 

 林田さんの書いた物語の、たった一冊しかない続編。

 

 そのタイトルは、『愛の作り方(ラヴクラフト) 著・林田(Hayasida) 扶持(Phuji)

 

 『愛』を知った主人公が、幼馴染を取り戻すために奔走する物語である。

 

 

 

To be continued……




 最初の頃は、このお話バッドエンドにしようと思ってたんですよ。

 死んでしまった狩浦さん。それでもなお慕い続ける月見さん。墓石の前で、ずっと泣いている彼女を見て完結した本を片手に持ったまま立ち続ける林田さん。

「どうか貴方の愛した人を忘れないで。そしてどうか、貴方を愛してやまない僕のことなんて、忘れてしまっていいのです」

 そう言って彼は氷兎にその本を送り届ける。一緒に紙も送って。

 僕は愛を作れた。愛がどういうものなのかもわかった。ただ、あとは……あぁ、この愛の渡し方さえわかればよかったのに。


 そんな感じの終わり方にする予定だったんですがね、ハッピーエンド、書きたくなったんですよ。

 ……ハッピーエンド、ですよね?

 そもそもこの物語、どうして書こうかと思ったのが、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの想い人への手紙に書かれた一文で、「あなたがたが幸せになれますように。そして、あなたのことを永遠に忘れられない誰かの事はどうか忘れてください」という文章があるんですけどね……。

 いや、これがもう本当に書きたくなった理由なんですよね。だからバッドエンドにして、最後にこの一文でも載っけようと思ってたんですよ。しかし、書けなかった、と。

 まぁどうか皆さんもね、想いを伝える時は真っ直ぐに。

 嫉妬させようだなんて、思わない方がいいですよ。


 月見 紗奈 ツキミソウ
 花言葉 打ち明けられない恋

 狩浦 染は、仮初→狩染って感じです。

 そして林田 扶持は……わかりますよね?
 Hayasida Phuji→H.P
 そして彼が書いた本の題名は……


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第58話 祭りの準備

 カレンダーの日付を見る。今日の日付には赤いペンで夕方から始まる花火大会の文字が書かれていた。部屋にいる俺と先輩も、面倒なので既に甚平を着ていた。俺は真っ黒の物を。先輩は少しだけ花火柄の入っている物を着ていた。

 

 今の時刻は昼前。まだまだ時間は余っていた。いつものように、俺と先輩は部屋でダラダラと寛いでいる。先輩は積んでいたゲームが一通り終わってしまったのか、ブラック珈琲をチビチビと飲みながら何かを考えている。

 

 こういう時の先輩は決まって碌でもないことを考えている。俺は今までの経験から察して、とりあえず面倒事にならなければどうでもいいや、と甘々の珈琲を啜った。

 

「……ふむ、氷兎。俺は考えたんだ」

 

「……何をですか?」

 

「俺達のやる気向上のためにも、コードネームというものが必要なのではないか、と」

 

 また始まったよ。予想出来ていた事態に俺は頭を抑えながら辟易とした表情で返事を返した。本当に、当の本人は至って真面目に言っているのがタチが悪い。

 

「……必要ないでしょう。誰かにジャックされることもないし、聞かれて困ることもないでしょ」

 

「まぁまぁ落ち着きたまえ。よく考えるんだ……自分の名前を隠し、夜の街を駆け抜ける格好いい男達……エージェントのように仮の名を語り、颯爽と人を助けて去っていく……格好よくない?」

 

「えぇ、格好いいですね。言っている貴方が格好いいかはさて置いて」

 

「地味に傷ついた」

 

 言ってはいるものの、まったく傷ついた様子もない先輩はとりあえずコードネームの格好よさや使い勝手の良さについて話し始め、俺はそれを右から左に受け流した。今日も珈琲が美味い。

 

「それで肝心のコードネームだが……」

 

「え、マジで考えてあるんですか」

 

「当然だろう。とりあえず氷兎はTDNだろ? そんで俺はSZK」

 

「なんでそんな語録みたいに……七草さんは?」

 

「N草ァ!! だ」

 

「草ァ!?」

 

「違う!! もっと真剣になるのだ!! N草ァ!! だ」

 

「そんなコードネーム許すわけないでしょうが!!」

 

 誰がそんな巫山戯たコードネームを許すというのか。俺なんかTDNだぞ。これ本家の方に出てきてる奴だから余計にまずい。流石にこんなものを任務中に使うわけにはいかない。というか言いにくすぎてコードネームとして役に立っていない。

 

「とりあえずやめましょ。TDNは色々まずいですって」

 

「え? DT? D()T()N(なう)?」

 

「よし先輩ちょっとそこ動かないでくださいね。二倍濃縮ゲキカラスプレーを持ってきますんで」

 

「待って。悪かった、俺が悪かったからやめて本当に」

 

 土下座する勢いで頭を下げてくる先輩に、やれやれとため息をついた。下ネタに走らせるとこの人はこうでもしないと止まらない。いい加減にして欲しいものだ。俺だけ巻き込むならともかく、七草さんを巻き込むものなら俺は全力で先輩をぶん殴らなくてはならない。

 

「……しかし、花火大会ねぇ」

 

 先輩が少しだけ憂鬱そうに呟いた。学生時代は友人が多かったであろうに、何を憂鬱に思うことがあるのか。

 

「まぁ、俺の地元の奴ですから、そこまで大きくないですよ」

 

「うぅん……人が多いんだよなぁ。あとスリが多い。氷兎も気をつけろよ。甚平の袖に財布入れておくと、花火の音に紛れて財布スられるぞ」

 

「それは体験談ですか?」

 

「いや、まぁ……うん。見事にやられた。しかも甚平の袖部分を鋏かなんかで切られてた」

 

「そりゃトラウマになりますわ……」

 

 俺も袖には財布を突っ込まないようにしておこう。花火大会の会場で売ってる物は何もかも高いからなぁ。先輩も財布に多めに入れていたに違いない。それをスられたとなると、まぁ意気消沈するだろう。しかも当時は学生。あまり所持金が多くない時期だというのに。

 

「しかし、今回は男女比率がヤベェな」

 

「俺、先輩、菜沙、七草さん、加藤さん、藪雨の計六人。しかも比率は一対二ですからね」

 

「絶対面倒なことになるぞ……。痴漢騒動か連れ去りかナンパか……」

 

「菜沙と七草さんは俺がつきますんで、先輩は加藤さんと藪雨をお願いしますね」

 

「えぇー、藪雨は嫌だなぁ……。あいつ多分たかってくるもん。多分、せんぱいアレ買ってーじゃなくて、せんぱい財布って催促される気がする」

 

「アイツならやりかねませんね……」

 

 互いにため息を漏らして、夜に起きるであろう事態を憂いだ。まだ何も始まってないというのにこのテンションの下がりようである。やはり藪雨はバステをかける能力を持ってるんじゃなかろうか。このままゆっくりしていてもいいんだが、先輩がチラッと時計を見た。どうやらなにか考えついたらしい。

 

「まだ時間あるんだよなぁ……久しぶりにスマシスでもやらないか?」

 

「いいですよ、暇ですし」

 

「よし、じゃあ準備手伝ってくれ」

 

 二人でゲーム機を取り出して、カセット等の準備をしていく。スマッシュシスターズ、初めて先輩と会った時に一緒にやったゲームでもある。あの時先輩は手加減をしていたようで、次にやった時は僅差で負けていた。今回こそは勝ち越さなければ。ちなみにこのゲーム、少しだけ古いもので、最新のスマシスは少し前に発売されていた。

 

 懐かしいゲームの起動音と共に会社のロゴが出てきて、そしてオープニングをカット。キャラ選択画面で好きなキャラを選び始める。先輩が懐かしそうな目で画面を見ていた。

 

「昔はよくこれで友達と遊んだもんだ……人気だったのは桃姫だな」

 

「ふわふわして戦いにくいと思うんですけど。空中浮遊使うの難しくないですかね」

 

「馬鹿野郎。空中浮遊した状態で上攻撃するとパンツ見えるんだよ!!」

 

「それこのゲームの続編で修正されたやつですよね……」

 

 懐かしい。確かに俺も子供の頃はそれを友達と偶然見つけてやっていたものだが……だからってそのキャラを使い続けようとは思わなかった。何しろ復帰も必殺技も使いにくいのだ。コンボもうまく繋がらないしな。

 

「当時は若くオカズが必要でした」

 

「若くなくても必要だと思うんですけど」

 

「最近のネタは?」

 

「やっぱり俺は王道を征く……純愛系ですかね」

 

「そうか。ちなみに俺は人妻ものだ」

 

「……反応に困るんですけど」

 

 何が悲しくて昼間っから夜のオカズの話をしなければならないのか。しかもこの人は真面目な顔でそれを言ってくるから本当にもう手に負えない。次一緒に任務に行く人が男の人で尚且つ常識人であることを願おう。

 

 くだらない話や下ネタ等もぶち込みながら、俺と先輩は時間になるまでゲームをやり続けた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 夕方になり、俺と先輩は待ち合わせのためにビルのすぐ外で待っていた。なんで地下で待ち合わせしないのかと言うと、菜沙がこうやって待ち合わせした方がなんとなくそれっぽくて好きだという個人的な理由だった。特に反対意見もないため、こうして二人でこれから来る女性陣の浴衣姿について想像しながら待っていた。

 

「なぁ氷兎、浴衣って下履かねんだってよ」

 

「みたいですね」

 

「ちょっとそれが本当なのか菜沙ちゃんに聞いてみてくれ」

 

「嫌ですよ。なんなら藪雨に聞けばいいじゃないですか。失うものが何も無い」

 

「お前が菜沙ちゃんにそれ言って、見たけりゃ見せてやるよ……って展開になるのを俺は期待していた」

 

「ないです……ない、よね」

 

 少しだけ昔の菜沙の狂行を思い出して言い淀んだ。中学に入って少ししたくらいだったか。確か保健体育で色々なことを教わった日の夜くらいに、菜沙が俺の布団に下着姿で入り込んできたことがあったような……。

 

 まぁ、多感な時期だったしね? 菜沙もそういうことに興味があったんだろう。小学生の頃は時折風呂に一緒に入ってたこともあり、下着姿を見た程度じゃ何も思わなかったが。

 

「……なんでお前はそうやって幼馴染とのフラグを尽くぶち壊していくんだ」

 

「下着姿を見ることがフラグになるのはエロゲだけですよ。ここ現実ですから」

 

「お前が一番現実から目を逸らしているような気がしてならない」

 

 なんてこった……と先輩が頭を抑えて唸り始めた。周りの人達の目線が痛い。しばらく他人のフリでもしていよう、と先輩との距離を少しだけあけた。それに気がついた先輩の悲しそうな目が俺に届けられたが、携帯を見て無視することにした。

 

 そもそも、菜沙とは唯の幼馴染なのだ。それ以上でもそれ以下でもない訳であって、彼女が俺に好意を抱いている、なんてのは有り得ない訳だ。

 

「ひーくん、お待たせ!!」

 

 そんなことを考えていると、ビルの中から菜沙達が出てきた。

 

「………」

 

 言葉が出なかった。出てきた全員が浴衣を着ていて、なんというべきか……華がある、と言えばいいのか。とりあえず頭の処理が追いつかなくて、しばし呆然と彼女達を眺めていた。

 

「………? ひーくん、どうしたの?」

 

「……いや、なんでもない。似合ってるよ、菜沙」

 

「そう? よかった……」

 

 菜沙は緑を基調とした物で、所々に葉っぱのような模様が描かれていた。元から短い髪の毛には華のような髪留めがつけられていて、ちょっとしたチャームポイントになっている。年相応で、それでいて可愛く見える。菜沙らしいと言えば、菜沙らしい格好だった。

 

 ……本当、いつからこんなにお洒落になったのか。俺に頼ることの多かった彼女の成長に、少しだけ寂しく思う。

 

「こんにちは、氷兎君。どうかな、こういうの初めて着るんだけど……」

 

「………」

 

 話しかけてきた七草さんを見れば……こちらもまた、言葉に詰まってしまった。長かった髪の毛は団子のように纏められていて、少し後ろに回れば綺麗なうなじが見えることだろう。そして彼女の無垢さを表すような白い浴衣。華の模様が至る所に描かれている。そしてそれらを更に際立たせる彼女のプロポーション。締まるところは締まっていて、大きな所は大きく見せる。

 

 これは……色々とまずいものがある。口ごもった俺を不審に思い、彼女の表情が少しだけ暗くなってしまった。慌てて俺は彼女を褒めた。

 

「七草さんも似合ってるよ。その……やっぱり白が似合うね」

 

「ほ、本当に……? よかったぁ……」

 

「……デレデレしないっ」

 

 菜沙に軽く頭を叩かれた。解せぬ。いつデレデレしたというのか。叩かれた頭を軽く擦りながら、次に皆の前に出てきたのは、胸を張って誇らしそうにしている藪雨だった。

 

「ふふーん、どうですかせんぱい方。私の晴れ姿ですよ? ほら、褒めて褒めて!」

 

「馬子にも衣装か」

 

「いや違うな。豚に真珠じゃないか?」

 

「全然褒めてくれない!! もうやだこの人達!!」

 

『冗談だ、似合ってるよー』

 

「今度は感情が篭ってない!!」

 

 ……まぁ、弄ってはいるが藪雨も元が良いからか普通に浴衣が似合っている。女の子らしく薄いピンク色の浴衣で、ちょっとした模様が入っていた。いつものように華の髪飾りをつけ、化粧が少しだけ気合いが入っているような気がした。

 

 残念なのはその背丈か。もう少し背が高ければ、もっと見栄えたものを。

 

 藪雨の披露が終わって、最後に前に出てきたのは加藤さんだった。一目見ただけでわかる、お淑やかさが全面に出ていた。

 

「なんだか前もこんな感じだったな……最後は私だ。それよりも、誘われたことが意外だったがな……」

 

「っ……!! これは……やばい。すごい綺麗っすよ加藤さん!!」

 

「そ、そうか? いやそう言って貰えるのなら着てよかったよ」

 

 先輩の年上のお姉さん好きが発動しているようだ。いやまぁ、発動していなくても加藤さんは綺麗だった。

 

 菜沙のような可憐さでもなく、七草さんのような無垢さでもなく、藪雨のような可愛さでもなく。加藤さんは年上としての尊厳を損なわず、それでいてその年齢を上手く使った綺麗さを醸し出していた。

 

 青色が基調の浴衣で、花火のような柄が少しだけ入っている。菜沙よりも少しだけ長い髪の毛にも、どうしてか艶があるように見えた。化粧も薄く、少しだけ赤く染まった唇は、口紅でもつけているのだろう。

 

「ひーくんは、誰が一番似合ってると思う?」

 

 気がついたら横に来ていた菜沙がそう尋ねてくる。言われて皆のことを見回したが……特に優劣はつけられない。皆がそれぞれ自分の持ち味を使ったものだから、否定する場所も見当たらない。

 

「……難しいな。強いて言うなら、加藤さんかね。あの人が一番浴衣を着こなしているよ。年の功、かね」

 

「唯野君何か言った?」

 

「いえ何も。似合ってますよってだけです」

 

「そ、そうか……。こうも褒められるとどうも照れるな……」

 

 先輩に褒められた時と同様に頬を染めて照れだした加藤さん。立ち振る舞いとか見てると本当に歳上なんだなと思うけど、こういった子供っぽさも持ち合わせているとなると、本当になんでこの人に彼氏がいないのかわからない。

 

 そんな俺の対応を見てか、菜沙が訝しげな目で俺の事を見ながら聞いてきた。

 

「……ひーくんって、年上好きだっけ」

 

「いいや? どちらかというと年下……いや、やっぱ同い年だな。それが一番気負わなくて済みそうだ」

 

「……そっか」

 

 何故だか少し嬉しそうな菜沙が俺の手を握ってくる。そろそろ夕日が傾き始めてきた。会場に向かった方がいいだろう。先輩にそう伝えると、俺達は並んで会場に歩き出した。

 

「鈴華せんぱい、歩くのだるいです〜」

 

「はいはい頑張ろうな。リンゴ飴くらいなら買ってやるから」

 

「そういうのは年上に任せるべきじゃないか?」

 

「いやいや、加藤さんには……ってか、女の子にお金払わせるのはなんとなくはばかられるからいいっすよ!」

 

「氷兎君、お祭りって綿飴あるんだよね? 私食べてみたい!」

 

「はいよ。俺も久しぶりに食ってみたかったしね」

 

「ひーくん、今年も射的やろうね」

 

「今年は負けねぇからな。これでも射撃訓練してるんだから」

 

 仲良く話しながら、目的地に向かって歩いていく。

 

 今年の花火大会は賑やかになりそうだ。こうやって気兼ねなく誘えて一緒に過ごす仲間ができて、良かったと思う。これから先もこんな感じで続いていけばいいのにな、と俺は空に浮き出ていた星に向かって願った。菜沙が握っている手が、少しだけ強く握られた気がした。

 

 

 

To be continued……




前回の林田 扶持について何も反応がなかったのが、私は悲しい。

割と皆さん知らない人が多い? H.P.ラヴクラフトさん。


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第59話 夏の終わりに願うこと

 祭りの会場は人が多く、そして騒がしかった。周りを見回せば、私服や浴衣や甚平と色々だ。道端には赤白の断幕を吊り下げた屋台が所狭しと並んでいる。空は既に真っ暗だった。

 

 流石にこの人の多さでは手を繋いでいないとはぐれてしまいそうになる。菜沙は既に手を掴んでいるからいいとして、だ。

 

「人いっぱいだね……あっ、綿飴あった!!」

 

 子供のように無邪気に笑っている七草さんの手を握っておいた方がいいのか、だ。なんとなくこう……勇気がいる。尻込みして彼女の手は結局握れなかった。

 

「せんぱい、リンゴ飴買ってくださいよ!」

 

「はいはい、あまり暴れるなっての」

 

 先輩の方はというと、藪雨を真ん中にして左右で先輩と加藤さんが浴衣を掴んでいた。一見家族のようにも見える。俺と菜沙は……兄弟あたりがいい所だろうか。そんなことを考えていたら、グイッと菜沙に手を引っ張られた。

 

「今年は人が多いね。ひーくん、勝手にどっか行ったらダメだよ」

 

「行かねぇよ。お前に手を握られてんだからどこにも行けないって」

 

 その言葉に何故だか菜沙の頬が赤くなった。暑いのかもしれない。確かに会場は人の多さで熱気が溢れ、夏の夜だから普通に気温も高めだ。適度に水分を補給させた方がいいかもしれない。

 

 ちょっと前を歩いていた七草さんが急に立ち止まり、俺の方を振り返ってきた。

 

「氷兎君、綿飴だよ!」

 

「はいよ。じゃあ並ぶか」

 

 どうやら本当に祭りが楽しいらしい。天真爛漫な彼女の笑顔が、本当に尊い物のような気がする。どうかなくさないでほしい、と俺は切に願う。

 

 先輩達はリンゴ飴の屋台に並び、俺達は綿飴の屋台の列に並ぶ。綿飴を食べるのに並んでいるのは小さな子供達だ。子供は確かに綿飴が好きだ。歳をとるにつれて綿飴は食べる人が少なくなると思う。かく言う俺も、普段はあまり食べない。

 

 ならなんで今日は食べるのか? それは……まぁ、七草さんが食べたいから、一緒に食べるんだろう。他に食べたいというものもないしな。

 

 そんなことを考えながら待っていると、遂に俺達の番になった。待ちわびていた七草さんが笑顔で綿飴を注文する。

 

「綿飴二つくださいっ」

 

「あいよ、800円だ。そこから二つ好きなのを取りな」

 

 俺が店主にお金を払っている間に、七草さんが壁にかけるように置かれていた綿飴の袋を二つ取った。七草さんはピンク色の袋を。俺は青色の袋を彼女から受け取った。

 

 七草さんは手に取ってすぐに袋を開けて、ふわふわな綿飴を口の中に入れていった。口の中に入るとすぐに溶けていって、その甘さに彼女の顔が緩んでいく。

 

 ……可愛らしい顔だった。なんとなく、見てるだけで胸が暖かくなるような気がした。

 

「甘くて美味しいっ! 氷兎君、綿飴ってこんなに甘いんだね!」

 

「……喜んでもらえてよかったよ」

 

 ずっと俺に笑顔を向けてくる彼女に俺は微笑みを返し、持っている綿飴の袋を開けた。綿飴を口の中に運び込むとすぐに、菜沙が俺の持っている綿飴をパクリと食べていった。

 

「……うん、甘いね。私は全部はキツいかも」

 

「だろうな。クドい甘さだけど……俺は結構好きだ」

 

 祭りに来た時は基本的に大きいものを買って菜沙と一緒に分けて食べていた。今回も綿飴が二つでいいのはそれが理由だ。菜沙が言うには、安く済むし、他にも色々な物が食べれるから、だそうだ。

 

「あ、金魚すくいとかもある! それにあれは……」

 

「ちょ、待って七草さん。先に行きすぎるとはぐれちゃうよ!」

 

 初めての祭りに興奮しているのか、七草さんは俺達よりも先に前へと進んでいく。早いところ引き止めなくては、彼女がはぐれてしまう。

 

「ん、どうした氷兎。俺達は今買い終わったぞ」

 

 ちょうどその時に先輩に呼び止められた。少し目を離しただけだというのに、その短時間で七草さんを完全に見失ってしまった。人が多過ぎてなかなか進めない上に、前の方も全然見えない。

 

 話しかけてきた先輩に非難の目を向けると、先輩は慌てた様子で、俺何かしたの!? っと驚いていた。

 

「まずいです、七草さんが迷子に……」

 

「うっ……恐れていた事態が……」

 

「彼女に電話してみたらどうだ?」

 

「祭りの会場は基本的に電波が届きません。それ以前に、七草さんは携帯持ってないんですよ」

 

 加藤さんの提案は残念ながら使えない。本当に、なんで七草さんに携帯を持たせておかなかったのだろうか。明日絶対に彼女の携帯を契約しに行こう、と心に決めた。

 

「こんな人混みの中迷子は見つけるの大変ですねー。本当、あんな天然で可愛い子とか絶対にナンパされちゃいますよ。私達はせんぱい方が睨み効かせてくれてるんで大丈夫ですけどねー」

 

「困ったな……連れ去られたりはしないだろうけど、七草さんはお願い事とか中々断れないぞ。それに何かと騙されそうだ……」

 

「氷兎、探しに行ってこいよ。流石にこの集団じゃ移動出来ねぇし、もし万が一、七草ちゃんがこっちに戻ってきた時のためにも俺達はここに残ってるからさ」

 

「わかりました。じゃあ俺探しに行ってきます。菜沙はここで待ってて」

 

「嫌よ」

 

 菜沙を置いていこうとしたら、手を強く握りしめられた。彼女の顔を見れば、絶対に離すものかと言いたげな様子だった。

 

「私も一緒に行くから。二人の方が探しやすいよ」

 

「……まぁ、仕方ない。お前は絶対に離れるなよ」

 

「離れないよ、絶対に」

 

 手を一旦離すと、彼女は俺の腕に彼女の腕を巻き付けてきた。これなら絶対に離れないし、幅も取らない、ということなんだろう。柔らかい感触と共に、少し綿飴とは別の甘い香りが漂ってきた。

 

「……青春、だな。私にはなかったものだ」

 

「青春でいいんすかね、これ」

 

「なんで唯野せんぱいって可愛い女の子二人侍らせといてあんな反応なんですかねー」

 

 後ろから聞こえてくるそんな会話を無視しつつ、俺と菜沙は七草さんが消えていった方向に進んでいった。俺と腕を組んでいる菜沙の顔が、少しだけ緩んでいる気がする。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 祭りの会場から少し離れた場所。人も多くなく、屋台もない。ちらほらと花火を見ようとしている人がいる程度だ。そしてここは、河川敷。俺と菜沙が初めて七草さんに会った場所だ。

 

 今にして思えば、本当に不思議な出会い方だったと思う。不良に絡まれているところを助けたのなら、まぁそりゃどこにでもある小説みたいな話だ。しかし事実は違い、不良に絡まれているところを助けようとしたら逆に助けられたという展開だ。

 

 辺りが一層暗くなってきた。そろそろ花火の上がる時間である。その前に七草さんを見つけないといけないのに、彼女はどこを探しても見つからなかった。だから俺は、最後の希望をかけてここにやってきたのだ。

 

「……あっ」

 

 河川敷の土手に設置された白い柵の上に、真っ白な浴衣を着た女の子が座っている。遠くからでもわかるくらい、その顔は暗かった。けど、ようやく見つけた。俺は菜沙の手を引っ張るようにして彼女の元へと向かっていく。

 

 途中で彼女も気がついたようで、柵から降りると暗かった表情が一気に笑顔に変わった。

 

「氷兎君っ、菜沙ちゃんっ!」

 

 俺達の名前を呼ぶ。そしてその場から駆け出すと、俺と菜沙に抱きつくような形で飛びついてきた。なんとか菜沙が倒れないように踏ん張ると、むにゅんっと柔らかなものが押し付けられる感覚があった。少しだけ顔が熱くなるのがわかる。彼女は俺と菜沙の肩に顔を埋めるようにして少し涙ぐんだ声で言ってきた。

 

「よかった……二人とも、来てくれた……」

 

「まったく……祭りで楽しみなのはわかるけど、離れちゃダメじゃないか」

 

「ごめんなさい……」

 

 シュンッと彼女はしおらしくなってしまった。そんな彼女の頭を空いている手で優しく撫でた。無事でよかった。漂ってくる彼女の匂いに脈を早めながらも、俺は安堵のため息をついた。

 

 そして、撫でている最中にふと気がついた。七草さんの纏められている髪を縛っているのは、俺が以前山奥村であげた黒いヘアゴムだったのだ。

 

「……七草さん、まだこれ着けてたの? 可愛らしいのを買ってくればよかったのに」

 

 俺のその言葉に、彼女は埋めていた顔を戻した。肩に当たっていた柔らかな彼女の頭がなくなったことに、少しだけがっかりとする。

 

 七草さんはヘアゴムの部分を触りながら嬉しそうな声で言った。

 

「だって……氷兎君がくれた物だから。私の大事なものなの」

 

「……そっか。そりゃよかったよ」

 

 内心驚いていた。そんなに大層なものでもないのに、そこまで大事にしてくれていたことに、少しだけ嬉しく思う。彼女はえへへっと笑いながら、壊れ物を扱うような手つきでヘアゴムを触っていた。それを見た菜沙が、やれやれと言いたげな表情で言ってくる。

 

「桜華ちゃんね、可愛らしいヘアゴムつけようとしても、これがいいって言って聞かなかったのよ」

 

「……まぁ、貰いもんを大事にするのはいいことだ。気に入ってくれたのなら俺はよかったよ」

 

「うんっ」

 

 ニッコリと笑って彼女は頷いた。そしてふと何を思ったのか、数歩前に進んでいくと、彼女と初めてあった場所……橋の下の暗がりを見ながらポツポツと話し始めた。

 

「はぐれちゃった時ね、なんだかもう会えないような気がしたんだ。全然そんなことないはずなのに、おかしいよね」

 

「………」

 

 夏の魔物の仕業か。彼女はどうやら昔のことに想いを馳せるあまり、気が沈んでしまっていたらしい。彼女はそのまま続けた。

 

「それで、私また独りになっちゃうのかなって、怖かった。歩いて歩いて、気がつけばここに来てた。ここ、覚えてる?」

 

「……覚えてるよ」

 

「私達が、初めて会った場所だね」

 

 菜沙も橋の下の暗がりを見ながらそう言った。七草さんは俺と菜沙に背を向けて、また話し始める。

 

「私が独りになっても、また助けに来てくれるんじゃないかなって、思ってた。そしたら……本当に来ちゃった」

 

 彼女が振り返る。その瞳には薄らと涙が浮かんでいて、彼女が本当にそう思っていたのだと実感させられた。そして……彼女は誰もが見惚れるような笑顔を浮かべてから俺達に言った。

 

「助けに来てくれてありがとう、氷兎君、菜沙ちゃん。私、二人のこと大好きだよ」

 

 彼女の頬を、溜まっていた涙が零れ落ちていく。しかしそれは彼女の笑顔を一層際立たせた。その笑顔は無垢で、隠されたものもなく、とても綺麗だった。言葉では言い表せない、不思議な感情が蠢いている。

 

 彼女の背後を流れている川が、街灯で照らされて輝いていた。その輝きもまた、彼女を綺麗に映させる。川も、空も、この場所も。何もかもが彼女を取り囲んで美しくさせていた。それは例えるのなら幻想のよう。儚いものであり、触ってしまえば壊れてしまうような美しさだった。

 

 俺はただ、彼女のその姿に見惚れて何も言えず、恥ずかしい感情を隠すように頭を掻きながら視線を逸らした。我ながら格好悪い。気の利いた台詞のひとつも言えないのか、と思いながら彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「これからもずっと、ずっと一緒にいたい。色んな所に行ったり、色んな人と話したり。それをするのも、私は二人と一緒がいい。私の事を助けてくれた二人と、一緒に……」

 

 恥ずかしそうに両手を胸の前で重ね合わせて、彼女は俯いた。チラリと菜沙を見やる。菜沙もどうやら、俺と考えていることは一緒のようだ。二人でゆっくりと彼女の目の前まで歩いていき、菜沙が七草さんの手を取って言った。

 

「桜華ちゃんが本当にそう望んでるのなら、私はいいよ。私も、桜華ちゃんともっと色んな話がしたいから」

 

「菜沙ちゃん……」

 

 ……さて、俺も何か言わなきゃいけない訳だが。正直何を言えばいいのかわからない。けど、俺は彼女の手を取って話すという勇気はないし、ましてそれ以外何か出来る程の度胸もない。だから俺は、彼女の目を真っ直ぐ見据えて言うことくらいしか出来なかった。

 

「……人生、まだまだこれからだ。夏が終われば秋が来る。秋になったら紅葉を見に行くのもいい。冬になったら、雪合戦をするのもいい。そうして何度も何度も同じ季節が回っていく。これから先も、七草さんが願うのなら……いや、違うな」

 

 自分で自分の言葉を訂正する。恥ずかしいけど、俺は少しだけ彼女に微笑みかけながら言った。

 

「俺も、七草さんともっと一緒にいたいよ。だから、これからも宜しくな」

 

 そう言って俺は彼女に手を差し出した。おずおずと、彼女は空いている手を俺の手に重ね合わせ、握ってくる。柔らかな手に包まれ、不思議と手だけでなく身体も熱くなってきてしまった。

 

「氷兎君……ありがとう……」

 

 無垢な笑顔が、少し歪んだ。泣きたいのを我慢している子供のようにも見える。それがどうにも……愛らしい。彼女の言葉に何か返事をしようと思った矢先、ヒュルルルルッと空気の抜けるような音が聞こえてきた。

 

 火の玉のようなものが空に向かって駆け上がっていく。そして……ドーンッと空気を震わせる大きな音と共に花火が上がった。

 

「うわぁ……綺麗……!! 氷兎君、花火、花火上がったよ!!」

 

「ッ……ふふ、あぁ……そうだな」

 

 指をさして花火を見あげ、身体全身で楽しんでいることを伝えてくる七草さんを、俺は少しだけ笑いながら見ていた。

 

「菜沙ちゃん、あの花火クマだよね!?」

 

「うん、色んな形のがあるね。あれは……UFOかな?」

 

 彼女達は二人して指をさしながら、あの形はリボンだとか、星型だとか、笑いながら言い合っていた。

 

 それを、俺は横から眺めている。花火なんかよりも、この二人の笑顔の方が綺麗な気がするから。

 

 ドーンッ、ドーンッ、と空気が揺れる。その振動の心地良さに俺の口は自然と上がっていき、気がつけば笑っていた。

 

「たーまやー!」

 

 空に向かって叫ぶ七草さん。それを見て笑う菜沙。

 

 あぁ、護らなくては。この二人を。この笑顔を。

 

 彼女達が明日も明後日も、笑い続けられますようにと流れ落ちていく花火に向かって祈った。

 

 一際大きな花火が弾けた。今までよりも大きな音が響く。そして俺は思った。あぁ……もうすぐ夏が終わるのか、と。

 

 

 

 

To be continued……



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第60話 互いに歩み寄れず

 ゆっくりと息を吹きかけて熱々の珈琲を冷ましながらチマチマと飲んでいく。それらが喉を通っていくと、なんだか心が休まる気がする。

 

 俺と先輩の部屋には加藤さんを除くいつものメンバーが揃っていた。全員に珈琲を振る舞い、菓子類をポリポリと食べながら世間話に花を咲かせていた。ゲームをしながら話に参加していた先輩が、俺に話しかけてくる。

 

「そういや氷兎、人員補強の話で今日の昼に司令室に来いだってよ」

 

「今度は良識人だといいんですがね……」

 

「なんで私の事見るんですかー」

 

 いやだって、ねぇ……っとそんな感じに思っていた俺と先輩顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。その反応を見た藪雨は、少しだけ暗い表情になると軽く頭を下げて謝ってきた。

 

「……まぁ、わかってますけど。お力になれなくてすみませんでした」

 

「いや、まぁ……気にするな。実際鍵開けは助かったから。お前だって少し前は一般人だった訳だし、任務経験もない。腰抜かした事は大目に見よう」

 

「それ以外は大目に見てくれないってことですね……」

 

 藪雨がいてくれることで助かる場面が今後存在するのかもしれない。少なくとも今の俺には難しいピッキングは無理だ。藪雨に教えて貰ったが、本当に簡単なものしかできない。そう考えると、殆どの鍵を開けられる藪雨は結構貴重なのだ。足も速いしな。

 

 しかし問題は、彼女の戦闘能力と判断力だ。そりゃ少し前まで唯の女子高生だった彼女には色々と荷が重すぎる。いきなりの事に腰を抜かしてしまったりと、言い方は悪いが足でまといになりかねない状態だ。

 

「……でも、もういいです。私には向いてないんだなってわかりましたから」

 

 藪雨は少し表情を和らげて言った。帰ってきてすぐの報告の時に、俺と先輩がチェンジと言ったのを彼女は少し気にしていた。しかし自分でもわかっているようで、本部に残ることにすると自分から言い出したのだ。

 

「だから、せんぱい達はちゃんと帰ってきてくださいね。こうやって可愛い後輩が、せんぱい達の帰りを待ってるんですから。嬉しいでしょ?」

 

「お前がもっと背が高くて胸が大きくて年上だったら嬉しかったかもな」

 

「だからそれはもう私じゃないって何度も言ってるじゃないですかこの変態!! 天パ!! バーカ!!」

 

「おまっ、先輩に向かってバカとはなんだ!? チビのくせに生意気だぞ!! 氷兎も何か言ってやれ!!」

 

「擁護できません。貴方は変態で天パでバカです」

 

「ちくせう、後輩が先輩に対して厳しすぐる……」

 

 すっかりしょぼくれた先輩はゲームに戻っていった。藪雨も気落ちしている訳でもないし、むしろ俺と先輩に迷惑をかけたと思っているらしい。前みたいな仮面をかぶることも少なくなってきたし、ちょっとずつでも俺達の空間に順応してきているらしい。

 

「ねぇ氷兎君、私も顔合わせに行った方がいいんだよね?」

 

「まぁ、そうだな。来た方がいいと思う。七草さんもメンバーの一員だからね」

 

「……なんだか、ずるいなー。私だけ除け者みたい」

 

 菜沙がプイッとそっぽを向いて拗ね始めた。なんだか最近こういうことが多くなってきた気がする。反抗期……いや、単に構って欲しいだけだろうか。もう少し素直になればいいのに、と何度も思いながら彼女の機嫌をなだめるために話しかける。

 

「そんなことねぇよ。菜沙が俺の武器作ってくれなかったら、もっと俺は怪我してる。下手したら死んでる可能性もある。決して除け者なんかじゃない。それに……菜沙が帰りを待ってるって思うだけで、帰らなきゃなって、死んでられないなって思えるから。菜沙はそのままでいいんだよ」

 

「……本当にそう思ってくれてるの?」

 

「当たり前だ」

 

「……そっか」

 

 菜沙が椅子を動かしてきて俺の横に並べる。そしてそのまま肩に頭を預けてきた。信頼してくれてるのか、全体重をかけるように乗せてきている。俺は彼女のサラサラとした髪の毛を梳かすようにゆっくりと撫で始めた。そのうち彼女はスヤスヤと寝息を立て始める。

 

「……唯野せんぱいって、お母さんみたいですね」

 

「それわかるわ。ダメなところはダメって言うし、良い所は褒めてくれるし、朝昼晩飯風呂掃除洗濯諸々……身の回りの事なんでもやってくれるしな」

 

「氷兎君はお世話好きだよね。それに綺麗好き。女の子だったらきっと可愛いんだろうなぁ……」

 

 藪雨と先輩にはデスソースを後でぶっかけておくとして、七草さんの言葉には少しだけ冷や汗が湧き出る。何しろ昔菜沙に女装させられた記憶があるのだ。フリフリのスカートを履かされて、街中を歩き回った記憶がある。もう消し去ってしまいたいのに、どう足掻いても消えない。人はそれを黒歴史という。思い出すだけで顔が熱くなってきた……。

 

「わー、せんぱい顔真っ赤っか。褒められてそんなに嬉しいんですかー?」

 

「違ぇよバーカ、チビスケ、藪雨」

 

「私の名前を悪口みたいに言わないでくれませんか!? しかもチビまで言った、気にしてるのに!!」

 

 藪雨の声が部屋に響く。なんとか赤い顔をあまり見られないように隠しながら、俺達は招集のかかった昼まで時間を潰していた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 コンッコンッ、と扉を叩いて中へと入っていく。中にいたのは、いつもの碇ゲンドウスタイルの木原さん。そしてもう一人……眼鏡をかけた背丈の高い偉丈夫の男性だ。黒い髪の毛はワックスで固められ、全て後ろに流すようにしている。服装は黒いスーツみたいな格好だ。おまけに目つきも鋭い。

 

「………」

 

 先輩と目を合わせて互いに頷いた。間違いない、この男……。

 

「………」

 

 インテリヤクザだこれ。え、まさかこの人が新しい仲間? ちょっと勘弁していただきたい。隣にいる先輩の頬にツーッと汗が垂れてるし、絶対ヤバい奴だってこれ。七草さんも少しオドオドとしてるし。

 

 そんな俺達の心の中が荒みに荒んでいるなんて知らず、木原さんは俺達にその男の事を紹介してきた。

 

「よく来たな。この男がお前達が次に任務を一緒にこなすことになる隊員だ」

 

「……フンッ。こんな平和ボケしたような連中が次の任務のメンバーだと?」

 

 男は俺と先輩を睨みつけるように目を細めた。それだけで背筋が凍るような威圧感を感じ、負けぬように両手を握りしめた。何も感じてはいませんよ、とでも言うようにすまし顔のまま俺は木原さんの言葉の続きを待った。

 

「前に一緒に任務に出かけた隊員がまぁ、なんだ。メンバーから外してほしいという申請があってな。ちょうどお前達が仲間を探していたからこうして紹介した訳だ」

 

「唯の厄介払いじゃねぇか……」

 

 先輩が小さな声で苦々しく呟いた。確かに、こんな見た目とさっきみたいな協調性のなさそうな言葉からして、仲間から疎まれたんだろう。だが……流石に貧乏くじ過ぎやしないか。藪雨しかり、この男しかり、絶対面倒なことになる。

 

 男は眼鏡を直すように指で弄ってから、俺達を見下すような言い方で自己紹介をしてきた。

 

西条(さいじょう) (あざみ)だ。まぁ、名前なんて覚えてもらう必要も無い。どうせ一度きりだ」

 

「かぁッ、ムカつく奴だなお前ッ」

 

「まぁまぁ先輩、落ち着いて。貴方も、いらん挑発はしないでくださいよ」

 

 まるで親の仇のような目つきで西条さんを睨みつける先輩。流石に今関係をこじらせるのも良くない。なんとかこの間を取り持った方がいいだろう、と俺は二人の間に割って入った。先輩が何か文句を言う前に、俺が先に西条さんに自己紹介をしておく。

 

「唯野 氷兎です。よろしくお願いします」

 

「……鈴華 翔平だ」

 

「えっと……七草 桜華です」

 

 俺が頭を下げると、渋々先輩も軽く頭を下げた。七草さんも少し戸惑いながら頭を下げる。そんな俺達の行動を、西条さんは鼻で笑った。どうやら向こうには仲良くしようとする魂胆すらないらしい。

 

 見かねた木原さんが、西条さんについての補足の説明をしだした。

 

「そこの西条は、世界トップレベルの企業の西条グループの御曹司だ。そして、一般兵の中で最もオリジン兵に近い戦闘能力を持っている」

 

「ハッ、あんだよお坊ちゃんかよ。そんな大層なご身分の奴がこんな所にいていいのか?」

 

「……貴様には関係の無い話だ」

 

「あんだとっ!?」

 

「落ち着いてください。それ以上突っかかるならデスソースを使わざるを得ない」

 

 ポケットから取り出された劇薬を見た先輩は悔しそうに顔を歪めながら後退する。心の中で先輩に謝っておき、今度は俺が少し前に出て木原さんに進言する。

 

「木原さん。悪いですけど、こんな状態で任務は無理でしょう。連携すら取れやしない」

 

「そもそも連携をとる必要が無い。俺は一人で戦える。それに、俺は仲間なんぞいらんと言っているのに勝手に誰かと一緒に任務に行かされて迷惑しているのだ」

 

「単独での任務はオリジン兵じゃなければ許可出来んと何度言ったらわかる……」

 

 西条さんの物言いに木原さんが額を抑えながらため息をついた。おそらく何度もこういったやり取りがあったのだろう。西条さんはよっぽど肝が座っているらしい。俺は単独で任務をこなそうとは思わない。怖すぎるからな。

 

「へいへいお坊ちゃん。基本ルールは従わなきゃいけないもんだぜ。社会のジョーシキよ」

 

「貴様よりも社会については知っているつもりだがな」

 

「その言い方。貴様とか使うか普通!?」

 

「名前で呼ぶ価値すらない。それに、貴様の髪型はなんだ? それは世間的に大丈夫なのか?」

 

「うっせぇこれは地毛だ!!」

 

 モサモサとした頭を触りながら先輩が怒る。西条グループと言えば、色々なCMで名前を聞いたり、スポンサーとかで名前が出たりする有名な会社だったか。だというのに、そこの息子は対人関係を築くのが苦手と来たか。新手のコミュ障だな。話せないのではなく、話さないタイプだ。

 

「はぁ……厄介だなぁ本当に……」

 

「大丈夫、氷兎君?」

 

「もう本当、七草さんが俺の癒しだよ……」

 

「ふぇ……!? えっと……あ、ありがとう……?」

 

 赤くなってモジモジとしている七草さんを見て更に癒された。蚊帳の外とかしてきた俺達は遠巻きに彼らの言い争いを見ている。まるで子供同士の喧嘩だ。見ていて馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 

「くだらん。これ以上貴様と話していても時間の無駄だ。俺は帰らせてもらう」

 

「おうとっとと国へ帰れ帰れ!!」

 

「俺の母国は日本だ愚か者め」

 

 互いに言葉を吐き捨ててから、西条さんは部屋から出て行った。部屋の五月蝿さは消え去り、静かな空間と気まずい空気だけが残されている。先輩は西条さんの消えていった扉を見つめながら毒づいた。

 

「ケッ、いけすかねぇ野郎だ」

 

「そんなカリカリしなくても……口論の内容が小学生みたいでしたよ」

 

「お前は何も思わねぇのかよ。あんな態度取られたんだぞ?」

 

「いえ、ここはこう考えるんです。ゲームでもよくあるでしょう? 高飛車で傲慢知己なキャラクターは、実は世間知らずのネタキャラだった、みたいな。あんな人でも肉まん食った瞬間口からメテオを放ち、まさに味の絨毯爆撃だ!! みたいな台詞を言うかもしれないじゃないですか」

 

「いてたまるかそんな変態。その台詞言った奴確か主人公達に向かって小さな女の子を出せとか要求してきたロリコンだろ」

 

「初見ではそう思いましたがね……とりあえず、落ち着きましょう。あの手の輩は少しずつ歩み寄るべきなんですよ。俺と先輩みたいに段階すっとばすってのは無理です」

 

 先輩もわかっているのか、俺の言葉に頭を掻きながら悩み始めた。実際西条さんとの仲を取り持つためにはこうする他ないのだ。相手は仲良くする気がない。ならば、少しずつ距離を詰めていき、相手に仲良くしてもいいかなと思わせる段階までいかなければならない。

 

 次の任務は別の意味で大変そうだ。悩みの種が増えてストレスで禿げるのではないかと少し不安になったが、暗くなった俺を笑わせようとしてくる七草さんのおかげで毛根は活性化した。なんとか頑張っていこうと思う。

 

 

 

To be continued……




 西条 薊

 今作屈指のイケメンである。鋭い目つきにオールバックの髪型。なんと眼鏡はEye phoneで、本人はズーム機能をよく使う。日本どころか世界で有名な西条グループの息子。彼は実家で英才教育を施され、大体のことはできるようになった。しかし家事は苦手である。他人と関わるのを嫌い、一人で何もかもこなそうとする。そうなってしまった原因は一体……?

 氷兎から家事能力をなくして、戦闘と学力に特化させたステータスである。その戦闘能力はオリジン兵に匹敵するくらい強いとされている。


ようやく出せた三人目のメインキャラです。そして一話で話しといてようやく出てきたEye phoneです。眼鏡型の携帯のことですね。言わずもがな高級品です。


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第61話 ふたつの道

 時刻は昼過ぎ。任務のない状態で自堕落な俺達は部屋にこもって各々ゲームや家事に勤しんでいた。昨日メンバーに一時的に加わった西条さんの事に関してだが、本当にどうにかしなければならない。このまま劣悪な状態で任務に行けば、怪我人が出る。最悪死ぬ。先輩も薄々そう思っているのか、軽く頭を悩ませながらソファに寝っ転がってゲームをしていた。先程から何度かため息が聞こえてくる。

 

「はぁ……どうすっかなぁ……」

 

「西条さん、取っつきやすかったら良かったんですけどね」

 

「この謎解きマジわかんねぇ」

 

「必死こいて悩んでると思ったら謎解きかよ」

 

 呆れた。ポケットの中からこの前ゲキカラスプレーを更に濃縮したら何故か液体から気体へと変化を遂げたモノを取り出そうとしてやめる。小さな丸いボールみたいなもので、当たると破裂して辛み成分を撒き散らす爆弾だ。通称『デスソース零式』である。最早ソースじゃない。

 

 欠点としては、この部屋で使うと俺にまで被害が出ることか。使用は控えることとする。振り向いて俺を見た先輩の顔が青ざめている気がする。

 

「なんだか寒気が……」

 

「気のせいでしょう。寒いならここに一嗅ぎするだけで身体の芯から発火したかのような暖かさを得られるものがありますが」

 

「原因それだよなぁ!? 俺の寒気の原因の十割十分それだよなぁ!?」

 

「九割九分九厘、気のせいです」

 

「んなわけあるか!!」

 

 先輩が怒って仕方がないので、いつでも使えるように机の中に閉まっておく。今度藪雨が来た時にでも……いや、やめておこう。流石に女子にこれをやったら死ぬ。むしろ先輩以外が喰らったら多分死ぬ。先輩は弛まぬ努力により、対辛味Aを取得している。そのうちEXまで成長することだろう。

 

 そんなバカみたいなことをやっている俺達の部屋の扉が、コンコンッとノックされた。誰が来たのかわからないが、とりあえず中に入っていいと答えた。

 

「……邪魔をするぞ」

 

 背筋に一瞬寒気が走った。中に入ってきたのはまさかのヤクザ……ではなく、西条さんだった。意外な人物の登場に流石に俺も先輩も目を見開いて驚愕した。とりあえず、何をしに来たのか聞いてみる。

 

「……どうも。何か御用で?」

 

「フン、下々の連中の生活がどのようなものか見に来ただけだ」

 

「なんつー上から目線。昨日も言ったけどよぉ、態度デカすぎんよ」

 

「実際俺は貴様らよりも上だからな。しかし……」

 

 西条さんはぐるりと部屋の中を見回して、どこか悔しそうに顔を歪めた。その歪んだ顔がどうにもモノホンのヤクザにしか見えなくて恐ろしい。眼鏡の奥で眼球が人を殺せるくらい鋭い輝きを放っている気がする。

 

「……思ったよりも片付いているのだな。だが、二人部屋だ。その点俺の部屋は一人部屋……。フッ、やはり貴様らと俺の差は歴然というものか」

 

「多分同居人がお前と一緒に生活するのを嫌がっただけだと思うんだが」

 

「煩わしいぞ天パ。確かに俺の部屋は二人部屋並に広いが、俺が一人で生活するには狭いくらいだ」

 

「やっぱ元は二人部屋なんだよなそれ。同居人に嫌われてやんのープークスクス」

 

 うぜぇ。おそらく西条さんと心の中の声が一致した瞬間だった。片手で指をさし、もう片手は口元を隠すように置かれていて、人を貶す笑い方をする先輩の味方には流石になれない。先輩、最低です。

 

「……まぁあのバカは放っておいて、そこの椅子にでも座ってください。今飲み物いれるんで」

 

「すぐに帰る予定だったが……まぁ貰えるものは貰っておくとしよう」

 

「待って。サラッと流そうとしたけどなんで氷兎そっち側にいるの。しかもバカって言った!」

 

「猿でもバカの単語はわかるようだな」

 

「誰が猿だこのインテリヤクザ!!」

 

 椅子に座ったまま先輩が西条さんに向かって威嚇している。その光景はまるで餌を取られた猿のよう……。やっぱり猿じゃないか。

 

 なんてことを考えながら西条さんの分の珈琲を作っていく。豆が炊かれて、独特のいい香りが部屋に漂っていくのがわかる。癒される匂いだ……。

 

「……紅茶はないのか? まさかこんな()()()()()のようなものを飲ませるわけではあるまい」

 

 ピキンッとマグカップの取っ手が折れてしまった。おかしいな。この前買ったばっかりなんだが、もう老朽化しているのか。また新しいのを買ってこなければ……。それよりも、今なにか西条さんは言っただろうか。豆を炊くのに夢中で聞こえなかった。

 

「……失礼。今何か言いましたか?」

 

「紅茶はないのかと言ったんだが」

 

「その後です」

 

「下品な泥水のような───」

 

「くたばれクソッタレがッ!!」

 

 素早い動きで机の中にしまいこんだデスソース零式をぶん投げる。一瞬の迷いもない完璧な動きだったはずだ。なのにその動きに合わせて西条さんは俺の飲み終わったマグカップを使ってデスソース零式をキャッチ。そしてそれを先輩に向かってリリース。

 

「ちょ、まっなんでだァァイタァァァァァッ!?」

 

 直撃した先輩を中心として辛味成分の気体が蔓延する。閉鎖しきった空間に男が三人……何も起きないはずがなく……。

 

「思ったよりも範囲が……ごふっ」

 

「毒ガスだとッ!? うぐ、おぉぉぉ……」

 

 バタンッ、バタンッと俺と西条さんは倒れてしまった。西条さんは完璧に気絶しており、俺ももう痛みとは何なのかわからないくらいに神経の麻痺やら何やらが起きていて、だんだん瞼が重くなってきているような気がする……。

 

「クッソォ……これ前に喰らった奴より痛てぇよぉ……って、二人ともぶっ倒れてるし……」

 

 ……なんで先輩だけこんなにピンピンしているんだろう。それが気絶する前の最後の記憶だった。

 

 

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 

 

 

「まったく酷い目にあった……」

 

「まだ目が痛い……」

 

 意識を取り戻して、俺と西条さんは椅子に座って項垂れていた。お互い目が真っ赤でどう見ても体調はよろしくないように見えることだろう。元気な先輩はとりあえず俺達を救出した後、空気の入れ替えを頑張っていたらしい。地下施設だから窓開けても空気入れ変えられないのは辛いな……。

 

 換気設備についてどうにかしようと考えていると、西条さんの鋭い睨みが俺の顔を突き刺した。憎ましげな顔で彼は伝えてくる。

 

「貴様のことは俺のブラックリストに載せておこう」

 

「勝手にしてください。けど次また珈琲のこと下品な泥水とかぬかしやがったら次は拳が飛んでいくぞオイ」

 

「西条、頼むから煽るな。氷兎の語尾が荒くなるのって本当にガチギレしてる時だから……」

 

 先輩が俺の後ろ側に立って、氷の入った袋を額に当ててくる。頭を冷やせとでも言っているのだろうか。いや、俺は冷静だ。冷静に目の前の眼鏡が珈琲を貶したことに怒りを感じているだけだ。

 

 俺が睨みつけていても澄まし顔の西条さんは、俺の惨状を鼻で笑ってから立ち上がると、見下すような目つきで言ってきた。

 

「また無駄な時間を過ごしたな……。俺はこれで帰らせてもらうぞ。それと……紅茶くらいは淹れられるようにしておくんだな」

 

「だから煽るなって! 氷兎も猫みたいに威嚇しないの!」

 

 先輩に腕でがっしりと後ろから掴まれてしまっていて身動きが取れない。そうこうしているうちに西条さんは扉を開けて部屋から出て行ってしまった。まだ間に合う。まだ間に合うからその腕を離して欲しい。今ならまだあの背中に向かって走りよってドロップキックかませるから。

 

「クッソ……なんだよたかが紅茶の一体全体何がいいって言うんだ……」

 

「いや俺も紅茶苦手だからさ。頼むから落ち着こうな氷兎」

 

「あんなの茶葉を発酵させただけじゃねぇか。納豆と変わんねんだよあの眼鏡野郎」

 

「うるせぇ掘るぞ」

 

「サーセン」

 

 先輩の一言でいやに落ち着いた気がする。だってなんだか先輩の顔が近い。しかもさっきよりがっちり掴まれてるせいか、身の危険を感じる。ケツの安否がまずい。とりあえずもがいて先輩の腕から逃れておく。

 

「はぁ……なんだよまったく……」

 

「ここまで荒ぶった氷兎を久しぶりに見た気がする」

 

「前にガチギレしたのって天在村でしたっけ。あぁ、山奥村でもキレた記憶がありますね」

 

 とりあえず精神的に落ち着くために珈琲を作り始める。豆を焙煎すると香ってくる独特な匂いが心を安定させていく。この珈琲の香りのどこが泥水だというのだ。

 

 そもそも紅茶だって茶葉を発酵させたりしているだけなのに。その後のお湯の入れ方や、使う茶葉によってまた味も香りも違うだけだというのに……。

 

 ……あれ? ちょっと待てよ。

 

「……もしかして、珈琲と紅茶ってさほど変わらないのでは……?」

 

「落ち着け」

 

「まさか俺は何かとんでもない間違いを犯していたのか……?」

 

「落ち着けって。なんで今になって錯乱してるの」

 

「珈琲道と同じように、紅茶にも紅茶道というものが存在し、最終的にこのふたつは繋がっているのでは……?」

 

「ダメだこいつ、早く何とかしないと……」

 

 先輩が後ろで何かブツブツ言っているが、そんなことはどうでもいい。俺は勿体ないことをしていたのかもしれない。そう、一見違うように見えてきっとこのふたつは繋がっているのだ。互いの技術、そのブレンド。このふたつには何かすごい一体感を感じる。今までにない熱い一体感を……。風……なんだろう、吹いてきてる確実に、着実に、俺の方に……。

 

 こうしてはいられない。俺は必要な物を鞄に詰め込んで、部屋の扉を開いた。そして何故か唖然としている先輩に向けて、俺は言った。

 

「……修行に行ってきます」

 

「なんの!? ちょ、待てって!」

 

 ガタンッと閉めた扉の向こうから先輩の声が聞こえてくる。しかし俺は止まるわけには行かない。ようやく見えた。一筋の光が見えたんだ。俺はようやく登り始めたばかりだからな。この果てしなく遠い紅茶坂をよ……。だからよ……止まるんじゃねぇぞ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……飯どうしよう」

 

 氷兎が帰ってきた時には、部屋の中がカップラーメンや弁当の容器で散乱していたそうだ。無論氷兎は翔平にブチギレた。

 

 

 

To be continued……




遅くなりました。1話と2話の書き直ししたり、絵を書いたりしていたもので……。
間があいたせいか、どうにも文の質が落ちている気がします。


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第62話 男三人のティーブレイク

 俺と先輩の部屋には緊迫した空気が張り込めている。それもそのはず。もうすぐこの部屋に、西条さんがやってくるからだ。先日の一触即発な雰囲気といい、緊張するのも仕方の無いことだろう。しかし……俺には新しく会得した紅茶を淹れる技術がある。あのクソ眼鏡……いや、言い過ぎた。眼鏡野郎にギャフンと言わせてやる。

 

「……氷兎、殺気を抑えなさい。怖いよ」

 

「殺気じゃないです。やる気です」

 

「殺る気の間違いじゃねぇの」

 

「鎧袖一触です」

 

「殺る気満々だこれ」

 

 先輩が頭を抑えているが、どうでもいいことだ。そもそも、先輩は西条さんの事が嫌いじゃなかったんだろうか。俺の方の味方になるはずなのでは。

 

「……いや、うん。ごめん。お前と西条見てたら、いかに俺がくだらない喧嘩を西条としていたのかがわかった。頼むからお前も戻ってきて欲しいんだが……」

 

「西条さんが俺の紅茶で、ひでぶっとか、げぼゔぁとか言ったら張り合うのやめます」

 

「世紀末か! 西条がそんなこと言うキャラだと思うのか!?」

 

「あんな真面目野郎は総じてネタキャラに落ちる運命なんです」

 

「いや真面目な奴は真面目なキャラ貫き通す時だってあるんだからね……?」

 

 これはもう菜沙ちゃんを呼ぶべきか……? とか言ってる先輩には、後でデスソースでも飲ませておこう。菜沙が来たら俺が西条さんに嫌がらせできないでしょ。監禁拘束される未来が見える見える……。

 

 ……寒気がしてきた。一旦落ち着こう。クールダウンだ。菜沙の据わった目を思い出せ……。

 

 そうやって心を落ち着けていると、部屋の扉がノックされた。西条さんだろう。俺が入っていいですよと言うと、扉を開いたのは案の定西条さんだった。西条さんは、仏頂面のまま部屋の中に入ってきた。彼の片手には何やら高級そうな袋が握られている……。

 

「フン、あんなことがあってまた呼び出されるとは思わなかったがな……」

 

「上等でございますわすぐさま叩きのめしてやる」

 

「落ち着け。なんか色々ごっちゃになってる。いつもの氷兎に戻って頼むから」

 

「……情緒不安定かソイツは」

 

「八割がたお前の責任なんだよなぁ……。とりあえずそこ座れよ。氷兎が紅茶淹れるってから」

 

 先輩の言葉に、西条さんの眼がグッと開かれた。内心ほくそ笑む。俺が紅茶の修行をしているなんて思わなかったんだろう。俺をそこら辺の一般人と同程度に扱わないでほしいものだ。やる時はやるんだよ、俺は。

 

「……なるほど、根は素直か。伸び代がある奴は嫌いではない」

 

「俺の修行が間違いではなかったことを見せる時だな……」

 

 修行の際に買った白を基調とした紅い花柄の散りばめられているティーカップを取り出し、後は紅茶を作る為の道具を揃える。使用するのはディンブラだ。あの見た目からして、お茶独特の味よりもスッキリとした味を好むだろうという予想だ。

 

 沸騰した湯でカップを洗い、そしてまた沸騰させたものを茶葉の上に落としていく。これまたどうして、珈琲とは別種の匂いが立ち込める。これはこれで……悪くない。

 

「……フム、淹れ方は悪くない」

 

「ティーカップは一度洗う必要があるのか……?」

 

「紅茶にとってお湯の暖かさは重要だ。最初に沸騰したてのお湯でティーカップを暖めてから、再度茶葉を入れてお湯を高所から落とすように入れるのが、紅茶の淹れ方だ」

 

「……奥が深い、のか」

 

「当然だ。それに、立ち込める香りもいい。あれを嗅いでいるだけで、自然と心が落ち着くな」

 

「うわぁ……。氷兎と同じタイプかお前……」

 

「……なるほど。アイツは珈琲の香りで落ち着くタイプか……悪いことをしたか」

 

「自覚あったんすねぇ」

 

 後ろから先輩達の話し声が聞こえてくる。時間にして五分程度。茶葉を取り出し、ティーカップを西条さんの前に置く。西条さんは漂う匂いを楽しんだ後、カップに口をつけてゆっくりと飲み始めた。

 

 カチャンッとティーカップの置かれる音が響く。西条さんの顔は……変わらず仏頂面のままだった。だが、口から漏れたその言葉はどこか暖かみを帯びている気がする。

 

「フム……悪くない。このスッキリとした味わい。しかし味自体が濃い訳では無い……ダージリン、ではなくディンブラか」

 

「正解です。流石、飲みなれてますね」

 

「紳士の嗜みだ」

 

「お前ら英国人じゃなくて日本人だよね」

 

 先輩のツッコミを西条さんはスルー。無論俺もスルー。どこかガックリと項垂れている先輩を尻目に、西条さんは俺に向かって高級そうな袋を渡してきた。一体なんだろうか。彼の顔を見るに……どこかバツが悪そうだ。

 

「……いや、流石に人の趣味趣向を貶すのはあまりに人として馬鹿らしいと思ってな。謝罪の意を込めて、俺からの贈り物だ。喜ぶといい」

 

「なんで持ってるんだよ。お前まさかその日のうちに後悔して買ったはいいものの、中々部屋に届けられなくて悶々してやがったな?」

 

「黙れ天然パーマ」

 

「趣味趣向だけじゃなく人の元から持つ姿や格好も批判してはいけないと思いまーす」

 

「ムッ……」

 

 とりあえず渡された袋を開けてみる。中に入ってたのは……珈琲の箱だ。しかもなんか高級感溢れてる。名前は……

 

「コピ・ルアク……ってこれ高級豆じゃないですか!?」

 

「ワァオー、流石西条グループの息子……財力が違いすぎる」

 

「……自腹だが?」

 

「オリジン兵に近いと言われるだけの戦闘能力はあるって事か……。よし、まぁなんだ。とりあえず飲もうぜ。氷兎、頼んだ」

 

「えっ、いやでも……本当に飲むんですか?」

 

「高級品もな、使わなきゃ意味がねぇんだよ。飾るだけの宝石じゃねぇんだぜソレは」

 

「……まぁいいか」

 

 後々伝えればいいだろう。とりあえず恐る恐る蓋を開けてみるが……思っていたような臭いはしなかった。いや、これ普通に珈琲の豆の香りがするな。なんだ、案外普通じゃないか。少しだけホッと胸を撫で下ろした。

 

 高級豆を使うのは初めてだが、どれほどの味が出るのだろう。とりあえずはブラック一択の先輩に味見させてみるとしよう。

 

 マグカップを目の前に差し出された先輩は、珈琲の匂いを嗅いで、確かに普通の物とは違う気がする……と言ってから口に含み始めた。

 

「……これが、高級豆の味か。なんだかリッチになった気がする」

 

「……それよりも、先輩。コピ・ルアクって何だか知っていますか?」

 

「いんや、何か面白い話でもあるのか?」

 

 先輩はまた珈琲を口に含み、その味を味わいながらゆっくりと飲み進めていく。どうしてだろうか。この先の展開がすごい読める。おかげでさっきからニヤけるのを抑えるのに必死だ。

 

「コピ・ルアクとは、世界一高価な豆とも言われる珈琲豆のことですね。ジャコウネコと言われる猫に豆を食べさせるところから始まるんですが……」

 

「……な、なぁ氷兎。お前なんで笑ってるの? 猫に食べさせるって、まさか……」

 

「ただし豆は尻から出る」

 

「ブフッ、ぐぉぉ、マジかよ……」

 

「貴様、高級豆を……吹き出すとは勿体ない」

 

「だから作る前に言ったのに……」

 

 案の定吹き出した先輩の汚物を、雑巾で拭いて掃除しておく。匂いも味も問題ないとしても……猫の糞から取り出したって考えると中々飲む気が削がれる。本当の珈琲通なら何も気にせず飲むんだろうが……俺には流石にキツい。これを飲むだけの度胸が足りないようだ。

 

「この珈琲を飲む為には、豆に関する知識、それを知った上で飲み込む度胸、そしてそれを飲んだ自分を許せる寛容さが必要なようだな……。俺には足りない……」

 

「雨の日スペシャル肉丼よりも楽ですね」

 

「それとこれとは別ベクトルだっつの……。西条、お前謀りやがったな……」

 

「貴様の自爆だろう。いや、確かに俺も特に調べもせず高級品を買ったが、まさかそんな代物だったとはな……。珈琲も奥が深いのか」

 

「これでまた下品な泥水とか抜かしたらコピ・ルアクぶん投げるところでしたよ」

 

 とりあえず口直し用に普通の珈琲を先輩の前に置いておき、俺も作った珈琲を口に含む。コピ・ルアクは……いつか飲むかもしれないから取っておこう。一応アレとはいえ高級品だしな。それを捨てるなんてとんでもない。

 

 ……握りしめたら後悔しそうだがな。アイテム欄にコピ・ルアクが溜まりに溜まりまくって、捨てるにも捨てられず、使ったら握りしめて後悔する。もうアイテム袋の中が糞まみれや。

 

「……随分と、貴様らはゆったりとしているのだな」

 

 どんよりと落ち込んでいる先輩を見ていたら、西条さんがそんなことを言ってきた。いや、ゆったりとしていると言うよりは、馬鹿やってると言った方がいい気がしなくもないが……。

 

「……ゆったりとしてるように見えるのも、ひとえに先輩のおかげでしょう。何はともあれ、先輩がいてくれると案外その場の空気が何とかなるような気がしますから」

 

「それだけではない気もするがな……。互いの信頼関係……か。俺には合わぬものだな」

 

 斜に構えた態度で俺のことを見据えてくる西条さん。その睨みにはどこか覇気がなく、しかし鋭さだけは残されている。

 

 ……見た目通りでもないのかもしれない。この人もこの人で、何かしら悩みを抱えているのだろう。いや、誰しも抱えるものか。その大きさの程度はあれ……。それを解決出来るのなら、きっとこの人はもっと仲良くなれるんじゃないだろうか。

 

「……どいつもこいつも阿呆ばかりだ。俺と同い歳の連中は、皆やる気がない」

 

「……そりゃ、まぁ……歳が歳ですから。遊びたい盛りの時期ですからね。というか、西条さんって幾つなんですか?」

 

「十八だ。寄しくも、そこでくたばってる馬鹿と同い歳だな」

 

「誰が馬鹿だ!! ……って、同い歳かよお前。なんだよ俺改まる必要ねぇじゃんか」

 

「親しき仲にも礼儀あり、という言葉を知らんのか?」

 

「なんだよ、同い歳なんだしもっとフランクに行こうぜ。そんな硬っ苦しいから疎まれんだよ」

 

「……こ奴にはデリカシーというものがないのか」

 

「ないです」

 

 人当たりがいいのは先輩のいい所だが、デリカシーのなさが欠点か。デリカシーのないデカシリー……。いかん、先輩のオヤジギャグ感染が広まってきたか。

 

「ムッ……何かオヤジギャグ電波を受信した気がする」

 

「まぁた碌でもない事を……」

 

 先輩の頭の上に、電球マークがピコーンッとなったらしい。何を閃いたのか知らんが、どうせまた碌でもない事だ。西条さんも訝しげに見ているが……いや本当に碌でもないんでそんなマジマジと見てなくていいですよ。

 

 一方先輩は、どこか自信に溢れた顔持ちで椅子から立ち上がると、俺達を見下ろすようにして渾身のギャグを言い放った。

 

「知ってるか? 天パの気性は髪の毛のように荒いんだぜ? 天パのtemper(気性)rough temper(気性が荒い)ってな!!」

 

 ……部屋に沈黙が流れる。天パとtemper(テンパー)をかけたギャグなんだろうが。えぇ……、なにその無駄に高レベルなオヤジギャグは。絶対速攻で浮かぶようなものではないだろう。にしてもつまらないが。

 

「……いい時間だな。俺は帰らせてもらおう」

 

「すみませんねウチの馬鹿が」

 

「いや……。軽く貴様らの事を調べさせてもらったが、中々戦果はあるらしいじゃないか。足を引っ張ることもなさそうだが……まぁなに。今回の任務が終わった時に、その気があればまた手を貸してやらなくもない。貴様ら……特にお前か。あんな、おちゃらけた連中とはまた違うようだからな」

 

「……まぁ、やれることはやりますから。お互い頑張りましょう」

 

 軽く頭を下げる俺を、西条さんはまた軽く鼻で笑ってから部屋を出ていった。部屋を出る際に垣間見えたその顔つきは……どこか機嫌が良さそうに見えたような気がする。あくまで気がしただけだが。

 

「……なぁ氷兎。これ持ちネタなんだけど、ダメ?」

 

「ダメです」

 

「アァァァァァァァ……」

 

 先輩はへこたれてしまったようだ。また机に突っ伏して動かなくなっている。いくら自分が天パだからとはいえ、天パをネタにするのはどうなんだろうか。

 

 自分の椅子に戻って、少し温くなった珈琲を口に含む。うん、やっぱり庶民には庶民の味がいい。

 

 

 

 

To be continued……




ちなみにこの三人の作中年齢は、氷兎が17で翔平と西条は18です。まだ皆誕生日来てないだけですね。


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第五章 強さの意味と、その対価
第63話 気が付かぬ間に失ったモノ


 異世界に来た。特殊な能力を貰った。モンスターを殺した。人を傷つけた。人を殺した。俺は英雄になった!

 

 ……巷では異世界転生なんてものが流行りらしいね。いやぁ、見ていて愉快だ。ただの一般人が、モンスターや敵対した人を何の情も容赦もなく殺していくんだ。

 

 肉を斬る感覚に違和感を感じず、また己の道徳観にも何も感じず。受け取った『強さ』に酔いしれて、今日も女の子と一緒に楽しく殺し合いだ! 否、最早虐殺とも呼べるとも!

 

 そんな人間を見ていても楽しいけどね。やっぱり私はヒトの方が見ていて面白い。

 

 にしても、神様とやらは何を考えているんだろうね?

 

 生き物を殺しても何も思わない奴を転生させるなんて。神様のミスだから? そりゃ笑えるよ。いやでも、もしかしたら転生特典を与える代わりに、道徳観や倫理観を奪い去ったのかもしれない。だとしたら、神様とやらはきっと残酷な奴に違いない!

 

 そうでないのなら……異世界に転生する人達はきっと、カエルに爆竹を突っ込んで爆破するのを楽しんでいたに違いない。

 

 無償の強さなんてものは高が知れてると言ったじゃないか。それはそれは、大層強い力を貰ったのなら、知らぬ間に大切な何かを持っていかれていても不思議じゃないよねぇ。

 

 さぁ……君は私の力のおかげで少しずつ強くなっている。けどまだ足りないだろう?

 

 望めよ。ただし……今度も対価は払わないとね。安心しなよ。運が良ければ君はその支払ったものを取り戻せる。

 

 ……そんな状態にはさせないけどね。だって私はヒトの顔が苦しみに歪むのを見るのが好きな、残酷な神様なんだから。

 

 

 ───誰かの嘲笑(わら)い声が響いた。

 

 

 

───────────────────

 

 

 

 

 車の音が遠ざかっては近づきを繰り返し、田舎とは違って虫のさざめきは聞こえない。しかし今俺達がいるこの場所だけはある種の静けさで満ちていた。何も無いとわかっていても、背筋がゾワゾワとして気持ち悪い。

 

「……なんでよりによってこんな有名な墓地に来なきゃならんのよ」

 

 先輩の忌々しそうな声が響いた。東京にある墓地、青山霊園。立ち並ぶ多くの墓が存在感を醸し出すように堂々としていて、むしろ夜中に入り込んでいる俺達の方がこの場に適していないのだと言わんばかりだった。

 

「どこの誰かはわからん愚か者を恨め。罰当たりにも程があろうよ」

 

 今回の任務についてきていた西条さんは、いつも通りの堂々かつ冷静な面持ちで周りを見回していた。ここにいる全員、オリジンの黒い外套を着込み、それぞれ自分の武器を持って歩いている。

 

 西条さんの武器は刀だ。俺が配給された支給品の刀ではなく、西条さんのオーダーメイド品らしい。持ち手は浅黒く、刀身は鈍く光っていた。切れ味も中々良いらしい。

 

 本人の起源は『斬人(きりびと)』というらしい。カードには刀を構えた人物の絵が書かれており、本人の雰囲気と合わさって構えた時の彼自身の鋭さは、見ているだけで斬られたのだと錯覚するレベルだ。

 

「……夜って、こんなに怖いんだね」

 

「場所が場所だからな」

 

 いかに準備万端の七草さんと言えど、流石に幽霊は怖いらしい。理由を聞くと、殴れないからだそうだ。どこか加藤さんと似たような理由を聞いた気がする。あの人は確か、剣が通らないからとか言っていたような記憶がある。

 

 ……七草さんを脳筋だと言いたくはないが、戦闘スタイル的にも思考的にも脳筋だとしか言えないのが悲しいところ。

 

「にしても、西条はどのくらい強いんだ? オリジン兵に最も近いとか言われてたけど」

 

「……試すか?」

 

「切っ先を人に向けるなって」

 

 先輩が慌てて両手を振りながら刀の切っ先から離れる。向けた側の西条さんは、口元をニヤリと歪めて楽しんでいた。なんだかんだいって、この二人仲が良いのでは?

 

「西条の起源は『斬人』だっけ? 読み方変えたらザンニン……残忍だな! なんだお前にぴったりじゃねぇか!」

 

「貴様のその減らず口を斬り落としてやろうか?」

 

「残忍な斬人(ざんにん)とか言われて、ざんにんだにー」

 

「………」

 

 ヒュンッと刀の振るわれる音が響いた。しかし俺が見えたのは微かに残った刀の残像。そして納刀しようとしている西条さんの姿だった。先輩の天パの一部がパラパラと落ちていく……。

 

「O……Oh……抜刀術とは……」

 

「俺は貴様らとは出来が違うと理解したか?」

 

「うわぁ……速かったね。氷兎君は見えた?」

 

「……微妙だな。月が満月に近ければ完全に見えそうだけど、今の月齢じゃ反応できないな」

 

「反応されても困るがな」

 

 眼鏡をクイッと直しながら言う西条さん。一々その行動に、顔や仕草が相まって格好良く見える。これが未来を担う西条グループの息子だと言うのだから、ずるいものだ。色々と勝ち組過ぎやしないか。

 

「わかった、悪かったって。軽口叩いてねぇと、こんなおっかねぇとこいらんねんだよ」

 

「何を恐れる必要がある。どうせ神話生物の仕業だ、幽霊なんぞ怯えるだけ無駄というものだ」

 

 今回の任務。それは青山霊園で発生した死体の掘り返しから始まった。誰がやったのか、朝方になると墓が掘り返されており、遺骨等が散乱していたらしい。それを調査しに行った警察が夜間の張り込みをし……消息不明となった。一体何が起こっていたのか、その調査が俺達の任務だ。

 

「……にしても、お前さっきので俺の身体斬れてたらどうするつもりだったの?」

 

「死体がひとつ増えるだけだ」

 

「慈悲も容赦もねぇ……」

 

 ……本当、慈悲も容赦も持ち合わせていないように見える。だが、それでもきっと彼は優しさを持ち合わせている。毒舌と雰囲気がそれらをかき消しているだけのように思えるのだ。

 

 思い出すのは、先日西条さんとVRトレーニングで手合わせをした時のことだ。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 朝は基本的にVR室でトレーニングをしている。そこに、偶然西条さんがやってきて、俺の前に立ちはだかるように道を塞いできた。そして……俺に手合わせをしろと言ってきたのだ。

 

「……なんで手合わせするの俺だけなんですか?」

 

「あのメンバーで一般兵、そして近接だと貴様だけだからだ。せめて接近戦がどれだけ出来るのか見せてみろ。出来るようなら、次の任務で貴様に獲物を任せるくらいはしてもいい」

 

 VR室の扉の前に立って、西条さんは俺の事を見下すように睨みつける。少し寒気がしたが、俺も負けじと持っている槍を握りしめた。

 

「セッティングは、一対一のマッチ、一本だ。しかし……貴様がコレでトレーニングをしているとは思わなかったがな」

 

「……トレーニングをすることに何か問題でも? 強くならなきゃいけないんですよ、俺は。だから一応ほとんど毎日朝早くはコレやってますけど」

 

「……買い被りか。貴様はこのトレーニングの趣旨を理解しているのか?」

 

「現実に限りなく近い戦闘シュミレーションでは?」

 

 そう答えると、西条さんは軽く頭を抑えた。そして次に俺を見た時……その眼光の鋭さがよりいっそう増していた。俺は何か間違った答えを言ったのだろうか。

 

 いや、言っていないはずだ。これはVRトレーニング。自分の出せるだけの力を存分に振るい、自分がどれだけ戦えるのかを確認するためのものなのだから。

 

「……入れ。死ぬ覚悟だけはしておけよ」

 

「………」

 

 冷や汗が伝っていく。しかし俺には彼の考えている意図が読めない。仕方なく、震えそうになっていた足を動かして部屋の中に入った。

 

 待つこと数分……。部屋に歪みが発生する。自分の身体が徐々に情報化されていき、やがて青白いキューブで出来た空間に放り出される。そしてキューブは広がっていき、どこかの廃墟でも模したのであろう、鉄筋コンクリート剥き出しの薄暗い空間に変わっていった。窓が出来る予定であった部分からは、月明かりが差し込んできている。

 

 身体の動きを確認するように周りを見回した。鉄筋コンクリートで出来た柱、床、天井。そして……

 

「………」

 

 刀を構えた男が一人。西条さんは刀の刃を上に向け、右手で刀を引くように持ち、身体を斜めに向けている。おそらく、刺突の構えだ。

 

「……コイツが落ちたら開始だ」

 

 西条さんが左手で持っていたのは、一枚のコイン。ここからではその種類は見えないが、大きさからして500円玉だろうか。

 

 ……いや、今考えるべきはそれではないだろう。今なお俺に向けられているこの鋭い殺気を、どう逸らすのかを考えなくてはならない。

 

 弾く。逸らす。躱す。頭の中で数通りのパターンを考え、それに合わせて俺も両手で槍を握って体勢を整える。

 

 西条さんが指でコインを弾いた。乾いた音が響き、コインが宙を舞う。クルクルと回転しながら落ちていき……

 

 ……地面についた。

 

「────ァ」

 

 目の前に、刃があった。

 

 不思議とゆっくり流れる時間の中で、俺は思った。

 

 何故ここにある。距離はあったはずだ。一瞬で詰められたのか。そんなバカな。

 

 逸らす、弾く、いや無理だ。面ならともかく、突きは点だ。武器を当てることすら難しい。

 

 躱せ。躱せ、躱せ躱せ───。

 

「ッ、痛っ」

 

 頬の皮一枚を斬り裂いて、刃は顔の後ろへと抜けていく。顔を動かして躱したはいいが、ここからどうする。距離を取る、いや……あの速さで突きを放てば動けないはずだ。なら、ここはむしろ身体に打撃を加えるべきか。

 

「───ヒュ」

 

 ……視点は空を舞っていた。動かしていないはずなのに、何故俺の頭は動いている。

 

 ……痛い。熱い。首が熱い。燃えているのか、俺の身体は。

 

 あぁ、いや、待てよ……俺の身体はどこだ?

 

「……及第点すら程遠いな」

 

 西条さんが見える。刀をふり抜いたあとの西条さんが。そして……そのすぐ近くで倒れている、俺の身体が。

 

 首を斬られた。認識した途端、痛みが止まることなく湧き出てくる。叫びたい。しかし声すらあげられない。涙を流しながら俺は、トレーニングが終わるまで苦痛に耐えるしかなかったのだ。

 

「ッ───ハァ、ぁ、アァァッ!?」

 

 気がつけば、空間は元に戻り俺の身体も元通りになっていた。痛まないはずなのに、その場で蹲り、首を両手で締め付けるようにして俺は叫びだした。痛くないはずなのに。斬れてないはずなのに。

 

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ───!!

 

「喚くな」

 

「ガフッ……!?」

 

 腹が痛む。蹴られたのか。誰に……。いや、西条さん、か。蹲りながらも、俺は見下している西条さんを睨むように見た。彼は、まったく無表情であった。

 

「……首の痛みは消えたか?」

 

 その言葉に、頷いて返した。不思議と首の痛みの錯覚は消えていた。ショック療法だろうか……。だが、首を斬り落とされるなんて初めての体験だった。幻痛が生じたのは、そのせいなのだろうか。

 

「思惑通りだが、期待外れだ。こんなものをやっても貴様の言う強さには届かん」

 

「ぐっぅ……」

 

 腹の痛みを抑えながら立ち上がる。槍を杖の代わりにして立っていると、西条さんの鋭い目と目が合った。眼鏡越しの筈なのに、その鋭さは無いはずの首の痛みを再発生させる。その痛みは、耐えられないほど酷くはなかった。

 

「任務をこなすにつれ、色々な敵と相対した。それを殺すことで、自分は徐々に強くなっているのだと錯覚した。それは間違いだ」

 

「……俺、は……」

 

「……話をしてやろう。このVRトレーニングの本当の意味についてだ」

 

 VR室の壁を拳でコンコンッと叩きながら、西条さんは言った。本当の意味、とは何のことなのだろうか。部屋の中に、西条さんの冷徹な声が響き渡る。

 

「そもそも、VRトレーニングに痛覚まで付与する意味はなんだ?」

 

「……より、現実に近い体験をするため……」

 

「即戦力になる兵士が欲しければ、痛みを感じさせる必要は無い。痛みを知らぬ兵士は、我先にと敵に突っ込んで行き、戦果をあげた後に、その痛みに泣き叫びながら死ぬだろう。怖いもの知らず、ということだ。だが、それが痛いものなのだとわかった途端に使い物にならなくなる」

 

「………」

 

「では、痛みを覚えた兵士はどうだ? 日頃から身を裂く痛みを感じていて、それでも死なぬとわかっていたら?」

 

「……それは」

 

「恐れを知らぬ兵士よりもより屈強な兵士ができる。痛みや恐れを知ってもなお、敵に立ち向かう兵士が。そして、痛みとは直に慣れるものだ。慣れてしまえば……その痛みを無視して戦い続ける。これが、VRトレーニングの本当の意味のひとつだ」

 

 ……確かにと納得させられるモノがあった。それが例え、西条 薊という一人の男の演説力であったとしても、俺の頭は正常にそれを認識し、噛み砕き、理解した。そしてまだ、西条さんの話は続く。

 

「貴様はいつから生物を殺すことに嫌気を感じなくなった?」

 

「……は?」

 

 嫌気? そんなものは毎回感じている。何かを殺す度に手に残るあの気持ち悪さ。罪悪感も、俺の中には残り続けている。

 

 ……しかし西条さんは、俺の事を鼻で笑ってから言った。

 

「なら何故、俺と手合わせをした? 死ぬ覚悟をしろとも言ったはずだ。それはつまり……殺し合いをすることを許容したということだろう?」

 

「────」

 

 何か言おうにも、喉に何かが詰まって言葉が出なかった。違う。俺は殺し合いなんてする気はなかった。だが、勝ち負けの判定は、死亡判定と同義であって……。

 

 ……それを理解していてもなお、俺はそれをやったのか。

 

「この組織に入る前の貴様なら、俺の手合わせを受けたか? 死ぬとわかっていてだ」

 

「……受けない、です」

 

「それこそが、このトレーニングの意味のひとつにして、最大の目的だ」

 

 

 

 

 

 

「何かを殺すことへの拒否反応を薄れさせる。それはすなわち、貴様が今まで培ってきた道徳観や倫理観の崩壊を意味する。貴様は強くなったのではなく……『人でなし』になったのだよ」

 

「武器を人に向けて何を思った。武器を向けられて何を感じた。その槍が何かを突き穿ち、貴様が血で汚れた時に何を想像した。貴様は着実に、人として崩れ落ち、やがて『殺人鬼』に成り下がるのだ」

 

「これを続けていれば、貴様は神話生物を嬉嬉として殺し、その手に罪悪感なんてものを抱かず、やがて人殺しも躊躇しなくなるだろうよ。貴様は元より戦えたのだ。ただ、邪魔をしていた躊躇いがなくなっただけだ。強くなりたければ勝手になるといい。その内……俺の刀が貴様の首を撥ねるだろうがな」

 

 

 

 

 

 

 その言葉に何も返す言葉もなく。俺はただ痛む腹を抑えながら立っていた。視線が逃げ場を探して動き回る。

 

 俺が神話生物を吐きもせずに殺せるようになったのは……慣れではなく、躊躇いの喪失だった。そうだ。あの蛇人間との戦いの時、俺は何を思っていた……?

 

 『手に残る感覚が気持ち悪い』

 

 その感覚が気持ち悪いのであって、俺は殺すことに関して何も躊躇いがなかったのではないか。いや、どこかにはあったのかもしれない。しかしそれはここに来てからのモノとは大きさが違う。俺の心は……生物を殺すことに関しての躊躇いが、殆ど無くなってしまっているのか。

 

 視界が揺れる。地面が揺れていると錯覚するほどに。腹を抑えていた手を離し、額を抑える。目の前には……俺をただ無表情で見下ろしている男がいる。

 

「……貴方は」

 

 疑問が漏れた。それは聞くべきではないだろうに。しかしその言葉を抑えつける術を持ち合わせていなかった。

 

「何かを殺すことに、躊躇いがないんですか」

 

 あの首を撥ねた一振り。そして顔面を貫かんとした鋭い突き。そこには殺気しか感じなかった。

 

 西条さんの表情は変わらない。ただ俺の質問を、くだらない事だと吐き捨てた。

 

「俺には俺の目的というものがある。それを果たす為ならば、俺は何でも斬り捨てよう。躊躇いなど不要だ。元より俺は、道徳観が邪魔をしてくるほどできた人間ではないからな」

 

 西条さんが扉に向かって歩いていく。そして扉を開き切ると、顔だけを振り返るようにして俺に言った。

 

「所詮強さとは、何かを犠牲にせねば得られんのだ。俺のような強さを得たければ、取捨選択くらいは自分で決めるのだな。躊躇いも、友人も、何もかもを捨てれば……強くはなれるぞ。貴様のような未来を見据えぬ小僧が、それをしたところで結末は壊滅的だろうがな」

 

 西条さんが部屋から出ていく。残された俺は、その場に倒れるように崩れ落ちた。

 

 強くならなくてはならない。大切な人を護るために。

 

 そのために、俺は何を捨てれるのだろうか。

 

 それに……本当に、強さとは何かの犠牲の上に成り立たなければならないのだろうか。

 

 俺には何も答えが出せなかった。

 

 

 

To be continued……




作者には異世界転生モノを中傷する気は毛頭ございません。


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第64話 問いかけ

 結局、あの時の答えはまだ出ていない。思い出したせいで、少しだけ首がズキリと傷んだ。空いている手で痛む場所を擦りながら、俺達は霊園の中を歩き回っている。

 

 ……そうして歩くこと数分。何とも言えない違和感のようなものを感じた。身体が強ばるような、そんな感じ。おそらく近くに神話生物がいるのだろう。あの女声から貰った力のおかげなのか、周りに神話生物がいると、精度は悪いが違和感として感知できるようになった。

 

「……氷兎、近くにいるのか?」

 

「多分、ですけどね。気をつけましょう。物陰から飛びかかってくる可能性もあります」

 

 七草さんが持っている懐中電灯のライトが辺りを照らしていく。早期発見と迅速対処を心掛けなければ。各々自分の武器を取り出して、警戒を強めた。

 

 広めの場所にまでやってきた所で、俺達は合図もせずに足を止めた。すると、背後の方でジリッと砂を踏む音が聞こえた。ライトが背後を照らしていく。先輩がその明るい場所に向けて銃を向けた。

 

「貴様は馬鹿か。こんな夜の街中で発砲音を出すな。せめてサプレッサーをつけろ」

 

 西条さんが先輩の腕を無理やり抑えつけた。だから何度もサプレッサーをつけろと言っていたのに。仕方が無いので、代わりに俺が片手で銃を構えておく。

 

「……いやまぁ、一応サプレッサーをつけてるの持ってきてるけどさ。ってか、そもそもこんな所で銃ぶっぱなすとか罰当たりじゃね? 墓石に当たったら目も当てられねぇ」

 

「だったら敵の目に当てろ」

 

「手厳しい」

 

 デザートイーグルをしまい込んだ先輩は、コルト・ガバメントを二丁ホルスターから取り出して構えた。

 

 嫌な空気が張り込めている。そして、鼻につく臭いがする。泥と、血と、腐敗した臭いだ。敵はゾンビか何かだろうか。

 

「……ッ、氷兎君伏せて!!」

 

「なにッ!?」

 

 七草さんに言われるがまま軽く身体を伏せると、その真上を七草さんの蹴りが通過していった。鈍い音と共に、何かが墓石に向かって飛んでいく。

 

 光を向けていた方とは逆側……。最悪囲まれている可能性が高い。

 

「全方位に注意してください! おそらく囲まれてます!」

 

「……となると、コイツはそれなりに知性があるのか」

 

 西条さんを見れば、もう既に七草さんが蹴り飛ばした物を斬り殺した後だった。

 

 それは一見、人のようにも見える。しかし指についている爪は長く、口は大きく裂け、犬のような耳が存在している。身体の殆どは肌色だが、背中の部分は緑色の皮膚に変わっているようだ。

 

 足は強靭な筋肉でもあるのか、スラリとしているのにやけにゴツゴツとしている。そして足の指にも、長い爪のようなものが存在していた。

 

「チッ、来るぞ!!」

 

 先輩の声が響く。辺りの暗がりには、真っ赤な点がいくつも浮かんでいた。それらは動き回り、物陰から飛び出して襲いかかってくる。真っ赤な点は、コイツらの目の色だった。

 

「数だけは多いな」

 

 淡々と西条さんは刀で襲いかかってくる奴らを斬り殺している。俺も、目の前に迫ってきていた腕を弾き、蹴り飛ばし、そして槍の穂先で切り裂いた。数が多い。間合いに入られたら対処が間に合わなくなる。

 

「本当に全方位だなオイ……っと、七草ちゃん伏せな!!」

 

「っ、ありがとうございます翔平さん!!」

 

 この中で唯一女の子である七草さんに、奴らの攻撃は集中しているように思えた。その援護に先輩が回る。

 

 先輩を中心とし、それを護るように三方向に囲む陣形をとっていた俺達に現状死角はない。厳しそうだと思ったところに先輩が弾丸をぶち込み、接近戦を得意とする西条さんと七草さんが敵を倒していく。

 

 俺は……月が欠けていて思うように力が出なかった。槍で吹き飛ばすくらいはできるが、一撃で致命をとれるほどの鋭い突きが放てない。しかし、弾いたりする内に俺に攻撃が届かないと知ると、西条さんか七草さんの方に移動しようとする。

 

 その離れた連中を、先輩が撃ち抜く。そうして辺りに死体の山ができ始めた頃だろうか。ようやく、襲撃が終わった。襲いかかってくる個体もおらず、血の匂いが充満するこの空間に残されていたのは俺達と死体だけだった。

 

「……見た事の無い神話生物だな」

 

 死体を蹴り飛ばしながら、西条さんが言った。確かに見た事の無いタイプだ。口を開いている死体からは、長い舌と鋭い牙が見える。噛まれたら一溜りもないだろう。

 

「にしたって数が多い。マガジン幾つ使ったと思ってやがる。パッと見でも20以上はいるぞ」

 

「以前から失踪者が増えたと聞いていたが……犯人はコイツらかもしれんな」

 

「ゲッ……俺達が神話生物相手に戦ってる時に、世間は失踪者騒ぎか。氷兎は知ってたか?」

 

「いえ、この所ニュース見てなかったですから……」

 

「そういえば、菜沙ちゃんが怖いねって話してたよ」

 

 菜沙はニュースを見ていたようだ。いや、アイツは基本仕事がないと暇してるからな……。それに、俺も先輩も基本的にはオリジンの外に出ないから、ニュースを見ていない。というか、先輩が普段テレビゲームをやってるせいで見れない。

 

 世間の様子について話をしていると、西条さんが会話に割って入ってきて話を止めた。

 

「無駄話もここまでだ。コイツらの寝床を探すぞ。」

 

「コイツら倒せたんだし、もう残ってないんじゃね?」

 

「それでコイツらのガキが残っていたらどうする。火事は火種を消さんことには収まらん。繰り返しになる前に、一匹残らず殺すぞ」

 

「……物騒なことで」

 

 西条さんの物言いに、先輩は頭を掻きながら辺りを見回した。俺も少しだけ周りを見回し、違和感を探るが……何も感じない。周りには何もいなそうだ。その事を三人に伝えると、霊園の中を手分けして探そう、ということになった。

 

「なら話は簡単だな。俺が一人、貴様らは三人。その組み分けで十分だろう」

 

「おいおい、いくら強くたって一人はダメだろ。そこんとこ考えようぜ。俺とお前、そんで氷兎と七草ちゃんでいいだろ」

 

 先輩の考えたメンバーの割り振りに、西条さんは顔を歪ませた。なんとなく、この天パと一緒に行動したくないとでも言いたげな顔つきだった。しかしまぁ、妥当ではある割り振りだろう。

 

「いいや、却下だ。組まねばならぬと言うのなら、唯野、貴様が俺と共に来い」

 

「……俺ですか」

 

 先輩の考えに反対した西条さんが、俺に指を向けて言ってくる。そんなに先輩と一緒にいたくないのだろうか。いやまぁ、七草さんが西条さんと一緒に行くよりはマシだろう。

 

 ……視界の隅で七草さんがしょぼくれている気がした。

 

「当たり前だ。この中で強さ順に言えば、俺が一番。次点でオリジン兵である七草。オリジン兵には到底及ばぬが、三番目が天パ。そして……その三番目よりも更に劣るのが貴様だ、唯野」

 

「……西条。お前ここんとこ氷兎に対して当たりが強ぇよなぁ? 俺の大事な後輩虐めてんなら……お前の高そうな服に蹴り跡がつくぞ」

 

 先輩が俺と西条さんの間に割り込んで、西条さんを睨みつけた。その顔は真面目そのもので、声は彼が本気でそれを言っているのだとわかるくらい真剣味を帯びていた。

 

 七草さんが俺の外套の裾を掴む。彼女は不安そうに俺と先輩を見ていた。先輩と西条さんの間でバチバチと火花が散っている気がする。

 

「なら貴様らが三人で行けばいいだけの事だ」

 

「それはダメだって言ってんだろうが。お前には俺がついていく」

 

「後ろから誤射されたくないんでな。その点、唯野なら手が滑って攻撃されても先に殺せる」

 

「テメェそれ以上何か言ってみやがれ!!」

 

「先輩、落ち着いてください!!」

 

 西条さんの胸ぐらを掴みにかかった先輩を、俺と七草さんで無理やり引き剥がす。それでも先輩は西条さんに向かって再度掴みかかろうと、七草さんの腕を振り払うべくもがいていた。

 

「先輩、大丈夫ですから。俺は平気です。だから……落ち着いてください」

 

「……フン、俺は先に行っているぞ」

 

「待てや西条ッ!!」

 

 西条さんが一人で先に探索に行ってしまった。その独断行動に、先輩がまた怒った。西条さんが俺への当たりが強いのは……きっと、この前の事があるからだ。けど、だからこそ俺はあの人に着いていかなくてはいけない。

 

 先輩を抑えている七草さんに向けて、少し申し訳なく思いながらも頼み込んだ。

 

「……ごめん、七草さん。先輩のことお願いしていい?」

 

「私は平気だよ。でも……何かあったら、呼んでね。助けに行くから」

 

「ありがと、七草さん。じゃあ……行ってくる」

 

 二人に背を向けて、俺は西条さんの元へと走った。後ろから俺の名前を呼ぶ先輩の声が聞こえてくる。けど、振り返らない。心苦しく思いながらも、俺は彼の元へと急いだ。

 

 そう距離も離れておらず、すぐに西条さんの元へとたどり着くことができた。彼は俺が追いついても、その仏頂面を崩しはしなかった。まるで固まっているかのように思える彼の口がゆっくりと開かれる。

 

「答えも出さずによく戦場(ここ)に来たものだな。夜間に戦闘能力が上がっていてもその体たらくか。攻撃に迷いが滲み出ている」

 

「……そう簡単に、割り切れるものではありません」

 

「そうして長々と引きずるつもりか。やがて貴様自身の重りは、貴様と共にある者の重りにもなる。貴様が足を引っ張って誰かが死ぬことになる。まして、槍術でもなく()()()()()()しか扱えないのだからな」

 

「………」

 

 唇を噛み締める。確かに俺の攻撃は槍術ではないだろう。相手を傷つけるのではなく、気絶させるためにこの黒槍は創られたのだから。『殺す槍術』ではなく、『生かす棒術』になってしまっているのも仕方の無いことだと思っていた。

 

 ……そうやって、正当化していた。その心すら、西条さんにとってはお見通しだった。周りに何かないか探しながら、俺達は会話を続けていた。

 

「貴様は、神話生物に親が殺されてこの組織に入ったらしいな。その時点で何も考えてはいなかったわけではあるまい」

 

「……ただ大切な物を護らなくては。そして、俺と同じ思いをする人をなくさなければ、って思っていました」

 

「……本当にそう思っていたのか? だとすれば、それは素晴らしい心掛けだな」

 

 人を嘲るような声が霊園内に響いた。

 

「貴様はこう思っていたのではないか? 頼れる親が死に、俺はどうするべきかわからない。けどこの組織なら衣食住に加え、金まで貰える。()()()()()()()()()()、と」

 

「そんなこと、思うわけが……」

 

 ……完全には否定出来なかった。確かに、どこかしらそう思っていたかもしれない。両親が死に、俺はどう生きていくべきなのかわからなかった。そんな中、道標があったら、辿ってしまいたくなるだろう。

 

「何の指示もなく、危うくあやふやな未来に足を踏み出すのは恐ろしいことだ。だが、この組織では未来をどう生きればいいのかを指示してくれる。やるべき事を伝えてくれる。言い換えれば、学校と同じだ。所詮貴様は大人の真似をしようとしている子供に過ぎん。真に大人であるならば、誘われた時に未来を考え、普通の生活に戻ろうとするだろうよ」

 

「……貴方も大人ではないくせに」

 

「いいや、少なくとも貴様よりもよっぽど大人だ。俺はもっと未来を見据えている。自分の生き方は自分で決め、自分のとった行動で何が起こるのかを理解した上で動いている。その場その場で、楽だからと平坦な道を歩いている貴様とは訳が違うのだ」

 

 棘のある言葉が次々と突き刺さる。その言葉に反論できるだけの考えは思い浮かばず、俺はただ黙っていることしか出来なかった。

 

「……あれから、VR訓練をしていないようだな。悩むあまりに鍛錬すらも疎かにしたか」

 

「……悩みの種そのものじゃないですか。そんなのに気軽に手は伸ばせません」

 

「だろうな。だが、鍛錬を怠っていい理由にはなりえない。そも、今まで誰もあの装置について何も思わなかったのか。何故、痛みすらも感じるVRに対人戦までプログラムされているのか。殺人の練習でもしろというのか。いや、言っているのだろうな。癪だが、あの女は嘘をつくのが上手いからな」

 

「……木原さんですか」

 

「貴様も、あのバカも。この組織にいるほとんどがあの女に何かしら偽の情報を掴まされている。言葉の全ては真実ではなく、嘘を織り交ぜた判別のしにくい虚言だ」

 

「なのに、何故ここにいるんですか」

 

「言ったはずだ。果たすべき理想のために、必要なものがここで得られるからだ」

 

 そう言って西条さんは歩くスピードを速めていった。最早何が真実なのか測りかねていた。

 

 己の信じる強さとは。その対価に何を支払えるのか。西条さんの言葉は真実なのか。

 

 わからない。しかし、理解し答えを出さなくてはならない。西条さんの言う通り、俺はまだ子供なのだろう。

 

 ……あそこまで他人に対して邪険に扱う彼が、何故ここまで俺の面倒を見てくれるのかがわからない。しかし、彼の言葉に耳を傾けていれば……そのうち、何かしらが掴めるのではないかと思えてしまっていた。

 

 話すこともなく歩いていた俺達のインカムに連絡が来た。どうやら先輩が何かを発見したらしい。聞こえてくる声は、どこか確証がなく不安そうな声だった。

 

『……あの連中の仲間だと主張する()()が接触してきた。一旦戻ってきてくれ』

 

 ……その言葉にまた俺は、嫌な予感がしていた。ふと頭をよぎったのは、山奥村で起きた沼男事件であった。その類でないことを、心の底から祈りながら、俺と西条さんは先輩達の元へと急いだ。

 

 

 

To be continued……



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第65話 理性か、情か、それとも己の欲望か

 俺と西条さんが先輩達の場所へ辿り着くと、そこには一人の男性がいた。年は若く、スーツ姿の会社員のようだ。どこからどう見ても、彼は人間にしか見えず、見た目では神話生物だとは思えなかった。違和感も特に感じない。眉をしかめながら、西条さんが尋ねる。

 

「……コイツが奴らの仲間だと?」

 

「って、本人は言ってるんだけどな……」

 

 先輩が困ったように首を竦めた。とりあえず何かあるかもしれないので、七草さんの隣で待機しておく。

 

 彼は困惑した顔のまま、視線を忙しなく動かしていた。その慌てようからしても、彼がバケモノであるとは思えなかった。彼をバケモノだと断定できる理由が何もない。仕草や態度が、あまりにも人間臭すぎる。

 

「貴様は何者だ」

 

「……話すと、長くなります。端的に言えば……元人間、というところでしょうか」

 

 西条さんの斬れそうなくらい鋭い言葉に、彼は少し震えた声で答えた。元人間、彼はそう言った。つまり……さっきの連中も、元は人間だったと言うことか……?

 

「………ッ」

 

 少しだけ視界がゆらぎ、片手で頭を抑えた。幸いにもすぐに視界の揺れはなくなったが、気持ち悪さだけは残っている。知らなかったで済ませられる問題ではない。あの連中が人を殺していたとしても、だから俺達が殺していいというわけじゃない。

 

 嫌な事実を聞いてしまった俺と先輩は互いに顔を合わせて表情を歪める。けれども、西条さんだけはずっと冷静なままだった。

 

「なるほど。しかし、奴らと貴様とでは容姿が違うな」

 

「……時間の経過と共に、私たちは自我が薄れ、身体も別のものへと変わっていきます。そも、私がこうなってしまったのも理由があるんですが……」

 

 彼は話し始めた。仕事から帰る途中で、不意に意識が途絶えてしまった。起きてみれば、そこはまったく知らない場所であったという。コンクリートで作られた部屋に、何人もの人が逃げられないように鎖で繋げられていたらしい。

 

 そのうち部屋に男が入ってきて、一人ずつ別の部屋へと連れていった。遠くから悲鳴が聞こえ、また静かになる。それを何度も繰り返すうちに、今度は自分の番になった。腕を無理やり引かれて、暗い通路を歩いていく。辿り着いたのは薄暗く冷たい部屋だった。

 

 ……そこから先は、彼もよく覚えていないらしい。気がついたら、大きな館の外に捨てられていたのだと。周りは木に囲まれていて、人の生活する場所から離れているらしかった。そして……気がつけば自分の中で空腹感が暴れだしていたらしい。何か喰わねば。必死になって食べ物を探して、ようやく見つけた木の実を口に運んだ。

 

 しかし、その食べ物は喉を通った瞬間に吐き出される。何も口にすることが出来なく、飢えて死にそうになっていた所へ、一人の男性がやってきた。

 

 彼に何か、食べ物でもなんでも恵んでもらおうと、その時一緒に捨てられていた奴らで話しかけようとしたが……何人かの仲間が奇声をあげて、その男に掴みかかり、首を噛み切った。

 

 ───美味い、美味い……。

 

 奇声をあげた人達は、皆美味そうに、その男の死体を貪っていた。あぁ、吐き気がする。吐き気がするはずなのに……。

 

 ……どうして、あんなにも美味そうに見えるのか。堪え難い食人衝動に己を見失い、気がつけば己の手と口の周りは血に塗れていたという。

 

「……私は、自分がもう人ではないのだと理解した。奇声を上げたやつも、それに倣って人肉を貪った連中も……皆、どんどん変わっていった。皮膚の色、鋭利な爪、牙。見たでしょう。あの、犬とも人間とも似つかないようなバケモノを」

 

「……なるほど、人喰いか。さしずめ食屍鬼(グール)と言ったところか」

 

 西条さんは落ち着いたままだが、俺と先輩、そして七草さんは顔を歪めていた。彼らは人体実験でもされたのだろう。人から食屍鬼に成り果てた彼らは、墓を掘り起こして骨を貪り、やってきた警官を殺して喰らったのだという。

 

「なぜ貴様は人の姿を保っている?」

 

「……多分個人差がある。あとはきっと、人を喰った量だ。けど私も……もう、長くはもたないんだろうなぁ」

 

 彼は自分の服の袖をまくって、俺達に腕を見せてきた。その腕の上部は、既に人の肌ではなく、変色したブヨブヨとしている皮膚になっていた。さっきの奴らと同じ。暫く食人行為をしなくても、時間と共に変化してしまうのだろう。

 

 ……なんとか、彼だけでも戻す方法を見つけなくては。

 

「……その館の場所はどこかわかりますか?」

 

「あぁ……少し離れた場所にあるマンホールを辿って行けば、その館のあった場所の近くにまで行ける」

 

「……えっ、下水道を通れっての!?」

 

 先輩が嫌そうに言った。俺も流石に下水道を通りたくないし、七草さんをそんな場所に連れていきたくもないが……人目を逃れるようにここまでやってきた彼らには、それ以外の道がわからないらしい。

 

 そもそも、彼らは基本的に下水道に潜んでいて、夜になったら上に出てきていたようだ。今日の夜ここに来たのも、この前警官が来たからそろそろ別の人が来るだろうと思ったかららしい。それなりに知恵が残っていて、統率できる人でもいたのだろうか。飢えたくない。死にたくない。その状況になってしまったら……醜く足掻くしか、なかったのだろう。

 

「……話を聞くに、変異してしまってもコミュニケーションがとれるんですか?」

 

「私達なら、ね。多分人間が話しかけたところで、餌としか思わないよ……。私も、これでも我慢しているんだ」

 

「……下水道にまだ残っている人はいますか?」

 

「何人か、残っていたと思う。変異していても、まだ辛うじて人語が話せるくらいには理性が残っている人達だ」

 

「なら、早く行った方がいいですね。その館とやらに行けば、何か戻せる手立てがあるかもしれません」

 

 俺の言葉に、先輩と七草は頷いていた。一方、西条さんはただジッとその男性を睨みつけるように見ていたが。まぁ気にすることでもないだろう、と思った俺は彼に道案内を頼んだ。

 

 霊園から出てすぐのマンホールの蓋を開け、下水道に侵入する。中に明かりはなく、持ってきていた懐中電灯だけが頼りだった。足音や水の音が反響して、どうにも落ち着かない。

 

「一応道は覚えているから、ついてきてくれ」

 

 先頭を歩く彼に続いて、俺達は下水道を移動していった。二番目に俺が、三番目には七草さん。その後ろは先輩で、最後尾を西条さんが歩いている。しかし……酷い臭いだ。鼻が曲がりそうで、あまり呼吸をしたくなかった。下手すると服に臭いが染み付くんじゃないだろうか。

 

「うぅ……嫌な臭い……」

 

「あまり呼吸しない方がいいだろうな。鼻がやられる」

 

「流れる水の中落ちちまったら、災難だろうなぁ……」

 

 先輩の憂鬱げな声が反響していた。そうして歩いていると、七草さんが突然俺の腕を掴んで、そこに顔を押しつけてくる。何をされているのか理解ができず、何も言えずに俺は彼女を見ていた。

 

「あ、あの……七草さん?」

 

「……氷兎君の、いい匂いがする。こうしてれば、嫌な臭いがしないかも」

 

「……一応危険地帯なんだから、それやられても困るんだけどなぁ」

 

 しかし、彼女の緩んだ顔を見ていると、どうにも叱れなかった。片腕が使えなくなるだけだし、移動だけなら支障は出ないだろう、と俺は彼女に片腕を預けたまま歩き続ける。

 

 数分か、はたまた十数分か。時間の確認をしようがないのでわからないが、そこそこ長い距離を歩いたように感じる。ふと、そこで彼は立ち止まった。その立ち止まる場所をライトで照らせば、上に登るためのハシゴのようなものがついている。彼はそれを指さして、登れと伝えてきた。

 

「ここから上に出て、すぐ森の中に入っていけば館があるはずだ」

 

「……なるほど。どうしますか、先輩。場所がわかったのなら本部に連絡して、誰も逃げ出さないように封鎖することも考えた方がいいのでは?」

 

「この人達を変えちまった魔術師が逃げないように、か。確かにそうした方がいいか……」

 

「いや、その必要は無い。既に俺が連絡を入れてある」

 

 最後尾にいた西条さんが、彼の前まで歩いて出てくる。準備が早いことだ。しかし……下水道の中では電波は届かないと思うが。いつ電話したんだ?

 

「案内、ご苦労だったな」

 

「─────ァ?」

 

 ヒュンッと風を斬る音が聞こえる。薄暗い下水道では最初は何が起きたのか、わからなかった。しかしその場に崩れ落ちる彼の姿と、胴体と分かたれた彼の首を見て……西条さんが、彼を斬り殺したのだとわかった。

 

「……えっ?」

 

 七草さんの呆けた声で、ようやく頭がその事態を認識した。そして、認識すると同時に……俺が動くよりも早く、先輩が西条さんの胸ぐらを掴んで怒鳴りつける。

 

「何やってんだよお前ッ!! なんでその人を殺さなきゃいけねんだよッ!!」

 

「……コイツは人殺しどころか、人喰いだぞ?」

 

「だからなんだってんだ!! その人はまだ人間だ、治せるかもしれなかった!! そのために、俺達は館を目指してたんじゃねぇのかよ!!」

 

「……その足りない頭で、よく考えてみるんだな」

 

 西条さんの低く鋭い声が俺達の身体を貫いていく。その時、銃声が遠くの方から響いてきた。

 

 まさか……西条さんは、元からこの人達を殺すつもりだったんだろうか。下水道に入る前から、既に連絡を入れていたのではないか。七草さんが顔を背け、ギュッと身体を掴んでくる。俺達の顔が非難に歪んでいるにも関わらず、西条さんは表情を変えずに言ってきた。

 

「唯の人間が、まして犯罪歴もないような男が、人殺しに加えて人肉まで喰ったという。この男が例え、身体が人間に戻ろうと……その罪に対する罰はどうなる? 自分の犯した罪に対する罪悪感は、どう拭いさればいい?」

 

「ッ……だからって、人を殺して良い訳じゃねぇだろ!! 見てみろよ、結婚指輪だってつけてる。嫁さんが帰りを待ってるかもしれねぇんだぞ!!」

 

「罪は消えない。決して無くなりはしない。大義名分もなく犯した殺人に、何らかの罰が与えられない限り人は自分を赦せはしない。それに……治せなかったらどうするつもりだ? 下手に希望を与え、また絶望の淵に落とすよりも、今ここで苦しむ間もなく死んだ方が、コイツにとって余程幸せではないか?」

 

「そんな幸せがあってたまるかッ!! 家族に会いたいから、この人はきっと生きてたんじゃねぇのかよ!! 心の支えがあれば、きっとこの人だって……」

 

 先輩の悔しそうな声が聞こえる。まだ、遠くの方から銃声が響いてくる。誰も幸せにはなれやしない。そういう問題だった。先輩の言い分はわかる。俺だって同じ気持ちだ。けど……西条さんの言い分も、確かにわかることではあったのだ。

 

「貴様が思っているよりも、人間というのは弱く浅ましい生き物だ。心の支えとなる人がいる。だからどうしたというのだ。そんなもので罪悪感は拭いされはしない。心的ストレスで鬱になって死ぬのが目に見えている。そうでなくとも、あることないことを、うわ言のように呟き、今回の事件が社会に出回るような事態になったらどうするつもりだ?」

 

「んなことは……知らねぇよ!! ただ俺は、お前のしたことが許せねぇって言ってんだよ!!」

 

「人間誰もが弱き心を持っていると、貴様は知っている筈だろう。剣の適性があるくせに、剣を持っていない貴様はどうなのだ。例え起源が遠距離に特化したものであろうとも、普通は接近されても対処出来るようにナイフくらいは常備するだろう。それすらもしないとは……剣も振るえぬ臆病者に、とやかく言われたくはないものだな」

 

「お前ッ……!!」

 

「先輩、落ち着いてください!!」

 

 西条さんを掴んでいる、先輩の腕を間に入って無理やり引き離す。先輩の恨ましげな視線が刺さるが、それを無視して俺は西条さんに向き直った。

 

「人には、その人にしかわからない悩みがあります。貴方にだって、言われたくない悩みがあるでしょう。だから……何も知らないくせに、先輩を臆病者だと言うなッ!!」

 

「………」

 

 俺の怒鳴り声に、初めて西条さんが顔を歪めた。怒りか、はたまた別の感情か。わからない。しかし西条さんはそこで顔を逸らし、ボソリと呟くように言ってきた。

 

「……悪かったな」

 

 下水道の中に響かない、小さな声だ。けれどその声を、俺は拾うことが出来た。その声音は確かに謝罪する気持ちの含まれたもので、出任せではないように思える。

 

 西条さんはその後俺達に目もくれずに、一人で先にハシゴを登って上の方に行ってしまった。残された俺達の中で次に動いたのは、先輩だった。もう動かない死体と成り果てた男性を見て、悔しそうに顔を歪めながらハシゴに手をかける。

 

「……認めたくねぇよ。こんなのが、正しいことだって」

 

 泣きそうな、それでいて悔しそうな声だった。震えている声が、先輩の心を表している。カツン、カツンとハシゴを登っていく音が響く。もう銃声は聞こえてこなかった。

 

 七草さんが、俺の手を握ってくる。その手は震えていた。その震えを抑えるように、俺は彼女の手を少し強めに握り返す。

 

「……なぁ、七草さん。七草さんは、先輩と西条さんの意見、どっちが正しいと思う?」

 

 彼女は俯きながら答えを返してきた。

 

「わからない……けど、私は翔平さんと、似たようなものだと思う。助けられるのなら、助けたいよ。でも……助けることで、苦しんでしまうのなら……ううん、やっぱり、私には上手く答えられないよ」

 

「……そっか」

 

「でも……」

 

 七草さんの声が一旦途切れた。しかしすぐに、彼女は顔を上げて俺の顔をまっすぐと見つめて返してくる。

 

「もし、氷兎君が変わってしまったとしたら……私は、氷兎君が助けて苦しむことになっても、助けるんだと思う。大切な人に……離れて欲しくない」

 

「……ありがと、七草さん。最後は危ないかもしれないから、先に行っていいよ」

 

 濁りのない綺麗な目に射抜かれ、少し恥ずかしく思いながらも俺は彼女を急かすようにハシゴを登らせた。名残惜しそうに手を離した彼女は、ゆっくりとハシゴを登っていく。

 

 誰の意見も間違いではなく、正解でもない。

 

 合理的な判断も、人情的な判断も、個人的な判断も。

 

 しかし、選ばなければならない。その選択はきっと、それまで歩いてきた道のりで得た知識と価値観によってしか決められない。

 

 俺にはわからない。西条さんの意見も正しいと思うし、先輩の意見に賛同したい。七草さんの言葉に同じだと返したいし、もしそんな場面になったら、せめて苦しまないように自分の手で殺してやろうとも思うかもしれない。

 

 何も選ぶことは出来ない。俺は結局、確固とした道を判断して歩けるだけの知識も価値観もない、子供でしかなかったのだ。

 

 そばに横たわる男性の死体に黙祷を捧げて、心の中で謝ってから俺もハシゴを登り始める。

 

 下水道の中に不意に響いた何かの音が、まるで地獄から響いてくる怨嗟のように聞こえた。

 

 

 

To be continued……




凄まじいほどのスランプのようなものに陥り、執筆速度は落ち、文章力も激しく低下しました。この回の初めの方とか酷くないですかね。

……感想をくれる兄貴姉貴、ワシ(53歳)は岡山の県北にある川の土手の下で待っとるで。

……いやホント、誰か助けて欲しいレベルに酷かった。
挿絵書いたら少し落ち着いたんですけどね。

【挿絵表示】


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第66話 オールドワンズキャロル

 マンホールから出ると、どこかの住宅地の外れの方に出た。そのすぐ近くには森があり、この中に入っていけばあの男性が言っていた館があるのだろう。

 

 ただ、問題があるとすれば……

 

「………」

 

 この場の空気だろうか。西条さんだけが俺達から距離があり、先輩の表情は暗いまま。俺と七草さんだけが何事もなく活動出来るのではないかと思えるほどに、仲間内の擦れが酷かった。

 

「……とりあえず、俺と七草さんは先に行きます。せめて先輩は軽く頭を冷やしてください」

 

「別にいいって。俺は平気だ」

 

「どの口が言ってるんですか」

 

 俺が先輩の目を見据えると、先輩はすぐに目を逸らした。やっぱりダメだ。今この人を連れていけば、不意の出来事でうまく動けなくなる。それは怪我、ひいては死亡にも繋がる。

 

「……そこで延々と悩んでいるがいい。俺は先に行かせてもらうぞ」

 

「だから西条さん、貴方はもう少し協調性ってものを……あぁもう!」

 

 散々人に話をする割には、人の話を聞きゃしない。西条さんは一人で森の中へズカズカと入っていってしまった。七草さんと目を合わせて互いに頷いてから、すぐに西条さんの後を追う。

 

 森の中は不思議と静かだった。とりあえず西条さんを見失わないように追っていると、時折兎のような小動物が逃げていくのが見える。人の手の入っていない自然の中にやってきたのだと感じると同時に、こんな都会のどこかに自然が残っていることに驚いた。

 

「……あっ、あれが館かな?」

 

 七草さんの指さす方を見ると、確かに建物がそこにあった。夜で街灯もなく、あるのは月明かりだけ。その暗い空間を更に薄暗くさせるような、嫌な雰囲気が滲み出ていた。昔やったゲームに、森の洋館という場所があったが……例えるならば、それが適切だろう。

 

 普通の一軒家よりも大きく敷地もある。しかしその館の窓は殆ど木の板が打ち付けられて中が見えなくなっており、掃除もされていないのか苔や蜘蛛の巣が張っているのが見えた。そしてその館の正面玄関で立って全体を見回している西条さんがいる。

 

「……実家よりも狭いが、それでもデカイな」

 

 アンタの実家はどんだけデカいんだと突っ込みたくなったが、ぐっと堪える。正面入口に立つと、その大きさと異様さにまたも圧巻させられることになった。両開きの玄関は、嫌に重々しく存在している。

 

 そんな時に、誰かが後ろから歩いてくる足音がした。振り返ってみれば……先輩がどこかバツが悪そうにしながら、俺達の元へと向かってきていた。

 

「……多少は落ち着きましたか?」

 

「まぁな……悪かったよ」

 

 後頭部を掻きながら謝ってくる先輩に、少し笑いかけた。先輩も口端を上げるように笑う。

 

「相棒の側で戦ってやれないとかさ……それって、相棒失格だろ」

 

 いかにも先輩らしい理由を聞いて、もう大丈夫だろうと思った。それでも西条さんの方には近づかなかったが。西条さんの方も、一瞥するだけで特に何も行動を起こさなかった。

 

 とりあえず、この館に入らないことには始まらない。ドアノブを回して引いてみるが……鍵がかかっていて開かなかった。

 

「当たり前か……」

 

「別のところから入れる場所探すか?」

 

「いや、ちょっと試させてください」

 

 外套の中にしまいこんでいた針金の入った箱を取り出す。そして針金を変形させながら、鍵穴の中に差し込んでいき、何度も回しては外しを繰り返す。

 

 ……しかし、錆び付いているのかピッキングは成功しなかった。舌打ちをしながら扉から離れて俺は唸った。

 

「駄目っすね……。藪雨がいれば開けられたかもしれませんが」

 

「私が開けようか?」

 

「音出るからダメ」

 

 軽く肩幅感覚に脚を開いて力を溜め始めた七草さんを手で制した。七草さんなら蹴破れるだろうが、そんなことしたら万が一中に誰かいた場合大騒ぎだ。敵に見つかるのは避けたい。

 

「……少しどいていろ」

 

 西条さんが扉の前に立つと、刀を地面と並行に構えた。あの時の刺突の構え……かと思ったが、これはこれで一種の独特の構えらしい。確かに、ここから突きにも振り下ろしにも、相手の攻撃の逸らしにも対応出来る。

 

 一瞬の間のあと、西条さんが振り下ろした刀が丁度扉の間を抜けていき、鍵の機構だけを破壊した。鼻で笑って満足げに頷いた西条さんは、そのまま扉をゆっくりと開けて中へと入っていく。

 

「……精度がすげぇ」

 

「鍵開け(物理)かよ、まったく……」

 

「わ、私も開けられるもん」

 

「七草さんの鍵開け(物理)はダメだって言ったでしょ。張り合わなくていいから……」

 

 少し頬を膨らませて拗ね始めた七草さんの頬を指でつつく。ぷふぅっと空気が抜けていき、七草さんの顔が赤くなる。そして恥ずかしそうに笑った。

 

 ……顔が熱い。もう夏は終わりだと言うのに。

 

「……毒気が抜かれたわ」

 

「つまり七草さんの吐息は解毒効果が……?」

 

「お前だけにならヒール効果もあるわ」

 

 軽口を叩き合いながら、俺達も館の中へと入っていく。

 

 玄関を抜けると、そこは大きな広間になっていた。上に続く階段もあり、そこからまた左右に抜ける通路がある。どうやら見た目的にも二階までのようだ。しかし……探索に骨が折れるぞ、これ。

 

「俺は二階を探る。貴様らは一階の探索でもしていろ」

 

 俺達を見もせずに、西条さんがまた一人で行動し始めた。どう言ったって聞かないだろう。仕方が無いので、俺達は一階部分の探索をすることにした。

 

「手分けした方がいいですかね。今のところ、違和感も感じないし、人がいる気配もないですよ」

 

「埃すげぇもんな……。人がいればもう少し綺麗だろうし、手分けでも大丈夫か。月齢も考慮して、氷兎は七草ちゃんと行動しとけよ」

 

 そう言って、先輩は銃を片手に館正面から見て左側へと歩いていった。とりあえず七草さんを連れて、右側を探索することに。

 

「……部屋の扉には鍵がかかってないのか」

 

 通路へと続く扉も、部屋の扉も鍵がかかっている様子はなかった。とりあえず適当な部屋に入ってみると、そこは書斎になっていた。本棚が多く、中身はビッシリと敷き詰めるように本が入れられている。日本語で書かれた本だけでなく、英語や……ロシア語だろうか。ともかく様々な言語が入り交じっていた。

 

 ……その光景に、潮風孤児院を思い出した。あの書斎のような場所にも、様々な言語の本が置いてあったはずだ。表紙を読んでみれば、民俗学、神話、地質学……あまり馴染みのないものばかりだった。

 

「この部屋も埃っぽいね……」

 

「帰ったら手洗いうがいをしっかりしないとな」

 

「そうだね」

 

 この部屋をこれ以上見ていても、何も無いだろう……と思ったが、ふと目についたものがあった。棚に置かれた写真立てだ。中には一枚の写真が飾られていて、一組の若い男女が写っていた。この館の持ち主だろうか。

 

「……一応写真撮っとくか」

 

 その写真立ての中身を、スマホのカメラで撮影しておく。何か嫌なものが写ってそうな気がして、確認してみたが何も無かった。ホッと胸を撫で下ろして、七草さんが何をしているのか見てみた。彼女は部屋の真ん中で、ボーッとどこかを見ていた。

 

「……七草さん、どうかしたの?」

 

「……不思議だなぁって思って」

 

「何が?」

 

 彼女は笑いながら俺に向き直った。暗くてよくわからないが、それでも彼女の顔はいつものように、無垢な笑顔が素敵なことだろう。

 

「きっと私一人なら、こんなところ怖くて来れないと思う」

 

「……俺だって来たくないさ」

 

 こんな幽霊でも出そうなところ、流石に一人で来たくはない。そう答えても、彼女はまだじっと俺を見つめながら口を開く。

 

「けどね、今は全然怖くないよ。きっと……氷兎君がいてくれるから、かな?」

 

「───ッ」

 

 流石に不意打ちで、何も言葉が出なかった。薄ら寒く気分の悪くなりそうな場所なのに、身体の芯から暖まっていく感覚があった。何か答えなくては。けれどいつまで経っても、俺の口から彼女への返事は何も出てこなかった。

 

 彼女はそんな俺を見て、また笑った。そして俺の腕を掴んで引っ張って部屋から出ていこうとする。

 

「行こう、氷兎君」

 

「……あぁ」

 

 なんとか捻り出すように出した言葉は、非常に短い一言だった。しかしそれが限界だったのである。彼女の前では、菜沙に言える言葉も言えなくなってしまう。

 

 ただ単に、俺が菜沙以外の女子への耐性がないだけか。それとも……また何か、別の理由か。

 

 ……変なことを考えるのはよそう。俺は頭を軽く降って思考を頭の中から叩き出した。依然として俺の腕を掴んで先に進んでいく七草さん。近くにあった部屋を片っ端から見ていくが、特にこれといったものは見あたらなかった。

 

「書斎、寝室、物置、台所……。これでまだ上の階とかに部屋があるってんだから、アホみたいな広さだな……」

 

「大きい家だよね……。もし、私達がこの家に住んだら丁度いい人数かな?」

 

 七草さんの言う私達とは……きっと、俺や先輩、ひいては加藤さんまで含めた全員のことだろう。確かに、これだけの人数ならこの家に住むのは苦ではないだろう。

 

 ……その掃除と飯の支度をさせられる俺の身にもなって欲しいが。

 

「かもしれないな。とりあえず、こっち側は見終わったし先輩のところに行くか」

 

「うんっ!」

 

 最後に見ていた部屋を出て、通路に出る。その通路はまっすぐ玄関まで続いているので、その暗闇の奥の方で先輩が立っているのが見えた。

 

「あっ、翔平さん見終わったんだね。行こっ、氷兎君!」

 

 七草さんは先輩の元へと走っていった。今のところ危険がないとわかっているからか、七草さんは肝試しみたいな感覚でいるようだ。はしゃぐ七草さんの後ろ姿を見て、少しだけ笑みがこぼれた。俺も後を追おうと歩きだそうとしたが……

 

 ───七草さんが離れていったその時、不意に身体を襲う違和感に囚われた。

 

「………ッ!?」

 

 違和感の感じる方へ勢いよく振り向く。その方向は、今出てきた部屋だった。

 

 ……何も無かったはずだ。なのに、なんで今になって違和感を感じるのだろうか。

 

「………」

 

 行こう。心の中で強く決意し、ゆっくりと扉を開いた。部屋の中は伽藍堂で、机や椅子が倒れ、いくつか棚が置いてあるだけの部屋だったが……何故か、その部屋の壁に真っ黒な扉がぼんやりと浮かぶように出現していた。

 

「……さっきまで、なかったよな?」

 

 内心怯える自分を、少しでも和らげるように独り言を呟いた。部屋の中に入り、その扉の前までやってくる。朧気なその扉は、しかししっかりとドアノブを握ることが出来た。回してみた感じ、鍵はかかっていない。

 

 ……叫べば、先輩と七草さんが駆けつけてくれる。だから行ってみよう。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、俺は誘われるようにその扉を開けて中へと入っていった。

 

「……地下室か?」

 

 部屋の中にあったのは下へと続く階段だった。天井は蜘蛛の巣が張られていて、あまり行きたい気持ちにならない。しかし俺の足は止まることなく、下へ下へと降りていく。

 

 降りきった場所にあったのは、またあの黒い扉だ。今度も鍵はかかっていない。ゆっくりと回して中に入る。

 

「……なんだ、この部屋」

 

 その部屋の異様さに一瞬身体が動きを止める。部屋は薄暗いが、どうしてかぼんやりとした明かりがどこかから漏れでているようで、青白い光が部屋の床を見えるようにしていた。

 

 部屋はコンクリートで作られているようだ。そして床には……不思議な魔法陣のようなものが描かれている。間違いなく、ここはあの男性を食屍鬼にした魔術師の住んでいた家だろう。

 

「───ッ!?」

 

 背後からガタンッと大きな音が聞こえた。見れば、開けておいたはずの扉が閉まっている。

 

 何か嫌な予感がする。慌てて周りを見回した。そして……目に入ってきたモノが、俺の視線を釘付けにした。

 

「………」

 

 それは、机に置かれた一冊の本だった。薄暗い青色の表紙が見える。俺はその本を見て、生唾を飲み込んだ。一歩一歩、ゆっくりとその本へと近づいていく。腕を伸ばし、その本の表紙をサラッとなぞる様に触った。

 

 不思議な感触だ。どこか知っている感触、しかしわからない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そんな疑問を抱いた時、ふと耳に何かの音が聞こえてきた。

 

「な、なんだ……歌か、これ」

 

 一歩その場から後ずさる。しかしその歌のようなものは部屋全体に響くように聞こえる気がした。

 

Look to the sky(空を仰げ) , way up on high(空高く). There in the nigh stars are now right(今宵星が戻る)

 

 響く。聞こえる。聞きたくないと耳を両手で塞いでもその歌が聞こえてくる。

 

 英語の歌詞だ。なのに、なぜその意味が頭の中にすんなりと浮かんでくる。

 

Eons have passed(遥か永き時が過ぎ去り): now then at last Prison walls break(既に封印は解き放たれた) , Old Ones awake(目覚めよ、我らが主よ)

 

 目まぐるしく周囲の景色が変わっていく。

 

 元あったコンクリートの部屋は既になく、周りが開けた空間となる。その空間は、部屋の床だけを残して、広大な宇宙の空間を映し出した。俺は今、宇宙にいる。

 

 足元がおぼつかない。周りのどこを見ても、どこまでも続く宇宙が見えている。

 

They will return(主が帰ってくる): mankind will learn(人類は知るだろう) New kinds of fear(新たな恐れを) when they are here(彼らがここに帰ってきた時に)

 

 歌は続く。その歌声は誰のものだろうか。わからない。女性の声だ。様々な女性の声が……いや、女性だけじゃない。男性の声まで聞こえてきた。

 

 足が動かない。今俺の周りには……何かの暗い影が立体となって浮かんでいる。それは不定形の触手のようなもの。それは例えるならタコのようなもの。それは例えようもない程に大きなもの。

 

 それは、それは、それは、それは。人が認知してはいけないもの。暗い影に目だけを赤く光らせて俺を睨んでくる。

 

 俺はなんて小さな生物なのだ。この目の前の存在に比べたら、俺はアリのようなものだ。否、アリにも遠く及ばない。

 

They will reclaim(主は示す) all in their name(彼らの名を); Hopes turn to black(希望は潰えた) when they come back(彼らが帰ってくると同時に)

 

 影達が一体ずつ消えていく。そしてまた広大な宇宙だけが残る。

 

Ignorant fools , mankind now rules(無知で愚かな人類から今こそ). Where they ruled then: it's theirs again(主は再び支配を取り戻す)

 

 部屋が元に戻る。

 

 目の前に……女がいる。真っ黒だ。髪が地面につくのではないかと思うくらい長い。あぁ、まさしく闇と体現するに相応しい。それは絶世の美女(醜いバケモノ)だ。脳がありえないと警告している。そんな綺麗で美しい(醜く汚い)ものが存在するなんてありえないと。

 

 女は笑いながら少しずつ俺に近寄ってくる。あの歌を口ずさみながら。

 

Stars brightly burning(燃えて輝く星々が), boiling and churning(今死滅する). Bode a returning season of doom(運命の時がやってくる)

 

 カツンッ、カツンッと音が響く。

 

 逃げろッ。脳が警告する。今すぐにここから逃げろ。

 

 あまりにみっともない顔でその場から駆け出し、入ってきた部屋の扉のドアノブを回す。

 

 ───開かない。いくら回しても開く気配がない。

 

Scary scary scary scary solstice(この身を埋め尽くす恐怖よ). Very very very scary solstice(輝きを放つ至上の星辰よ)

 

 開け。開け開け開け開け開け開け。頼むから開いてくれ。もうすぐそこにまで来ている。逃げなきゃ、アレから逃げなくては。

 

 ガチャガチャとドアノブを回す音が響く。しかし歌は止まらない。女は歩み寄るのを止めない。より一層、その笑みを深くした。

 

Up from the sea(深き海より出でる), from underground(地の獄よりやってくる). Down from the sky(空から降りてくる), they're all around(この世の遍く全てより)

 

 女がすぐ側にまで来ている。開け、開け開け。嫌だ、頼む、誰か、誰か助けてくれ。

 

 叫ぼうにも声は出ず、ただ己の身を埋め尽くす恐怖が涙となって流れ落ちていく。絶望は終わらない。

 

They will return(主は帰ってくる): mankind will learn(人類は知るだろう). New kinds of fear(新たな恐怖を) when they are here(彼らが帰ってくると同時に).

 

Look to the sky(空を仰げ) , way up on high(空高く). There in the night stars are now right(今宵星が戻る).

 

Eons have passed(遥か永き時は過ぎ去り): now then at last Prison walls break(既に封印は解き放たれた), Old Ones awake!(主の目覚めだ!)

 

Madness(狂気) will reign(悲観), terror(恐怖) and pain(そして痛み).

 

Woes without end where they extend(それは終わりのない災厄だ).

 

Ignorant fools , mankind now rules(無知で愚かな人類から今こそ). Where they ruled then: it's theirs again(主は再び支配を取り戻す).

 

Stars brightly burning(燃えて輝く星々が), boiling and churning(今死滅する). Bode a returning season of doom(運命の時がやってくる).

 

Scary scary scary scary solstice(この身を埋め尽くす恐怖よ). Very very very scary solstice(輝きを放つ至上の星辰よ).

 

Up from the sea(深き海より出でる), from underground(地の獄よりやってくる). Down from the sky(空から降りてくる), they're all around(この世の遍く全てより).

 

Fear(恐れよ)……』

 

 後ろを振り向く勇気なんてない。扉を向いて俺はただ逃げようとする手を止めなかった。

 

 しかし、ポンッと肩に手を置かれたのだ。

 

 振り向く勇気なんてない。

 

 わかる、女の顔がすぐそこにある。

 

 吐息が耳にかかる。その女の声が聞こえる。

 

 その、最後のフレーズが耳元で囁かれた。

 

『───They will return(さぁ、主の帰還を讃えなさい)

 

 その嘲笑(わら)う声が聞こえると、俺は力が抜けてその場に崩れ落ちた。真っ黒な女の身体が見える。そして、その顔は……。

 

 ……ブツリッとテレビの電源が落ちるように、俺は意識を手放した。

 

 

 

To be continued……




『The Carol of the Old Ones』を自分なりに訳してみました。どうですかね。
いや、中々に辛かった。

あと……例の魔術書の表紙の皮は人皮装丁本と言って……生きた人の皮から作られてるらしいっすよ。SANチェックだ!


 黒い女

 APP18


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第67話 人間らしい時間

 ……何をする気だ。

 

 俺は刀の切っ先を向けながら尋ねた。アイツはいつものように嘲笑(わら)いながら言った。

 

「だって同じ物語(ストーリー)は二度見ても面白みに欠けるじゃないか」

 

 ふざけるな。

 

 俺はあの子が怖がらないように声を抑えながら怒る。しかし、奴にとっては俺の存在は唯の玩具でしかなく、玩具が騒いだ所で何も思わない。

 

「大丈夫だって。ちゃんと正しく扱えるよ。それに、そっちの方が都合がいいだろう?」

 

 

 

 ───嘲笑(わら)い声が響く。俺はただ……憐れみの目を向けるだけだった。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「……君、氷兎君ッ!!」

 

 ……誰かが必死に、誰かの名前を呼んでいる。薄らと目を開けてみれば……女の子が俺を見下ろしていた。その目は潤んでいて、今にも涙が落ちてきそうだった。

 

「起きた……良かったぁ……」

 

 柔らかい感触が俺を包み込む。彼女に抱きしめられたようだ。自分の事を確認する。俺は今横になった状態で彼女に抱きしめられている。彼女は座り込んで俺を抱きしめ、その後ろには髪の毛がボサボサとした男が安堵した表情で俺を見ていた。

 

「……外傷はなさそうだな。氷兎、何があったんだ?」

 

 氷兎……誰だ、それは。

 

 あぁいや、()か。そうだ、うん、大丈夫。俺は氷兎で、彼女は七草さん。そして彼は先輩だ。

 

 混濁した意識を戻すように、俺は軽く頭を振った。彼女にお礼を言ってから離れて立ち上がる。今いる部屋は……俺が倒れる前にいたあのコンクリートの部屋だ。

 

「……俺、どうなってましたか?」

 

「何か物音が聞こえて、七草ちゃんがお前がいないって言うから探しに来た。そんで、ここに来た。お前はそこにある魔法陣っぽい奴の上で倒れてたよ」

 

「……ナニカサレタヨウダ」

 

「よしOK、この状況でネタが言えりゃ大丈夫だ」

 

 ……いや多分、本当に何かされたような気がする。身体に違和感がある。といっても、ぎこちないとかではなく、単純に……身体能力が上がったのだろうか。満月の時ほどとはいかなくても、それなりに身体能力が上昇している気がする。先輩が不安げな表情で俺に尋ねてきた。

 

「この部屋で何があった?」

 

「……説明、しにくいですね」

 

 とりあえず、何が起きていたのかを簡潔に説明した。詳しくは言えない。思い返そうとすると酷い頭痛が起きるし、正直あの時何を見たのかすら思い出せない。

 

 ただ……女がいた。真っ黒な女だ。口は血塗れたように赤く、顔は……何とは表現出来ない。いや……認識出来ない?

 

 それを表現する術を、俺は持ち合わせていない。簡潔に、一言で言うならば……アレは、バケモノ(有り得ない存在)だ。

 

「……どうやら起きたようだな」

 

 部屋の扉を開けて、西条さんが入ってきた。先輩が言うには、ちょうどよく探索を終えた彼も一緒に連れてきて、部屋の外で誰も来ないように見張っていたらしい。

 

 彼は俺のすぐそばまで歩いてくると、荒々しく俺の腕を取って脈を測り、瞼を押し下げて眼を見たりしてきた。その後彼は息を吐いて無表情のまま言った。

 

「脈は早いが、それ以外は問題ないな。自分の名前が言えるか? どこの所属だ、ここにいる奴の名前はなんだ」

 

 次々と出される彼の質問に淡々と答えていく。どうやら、彼なりの安全確認のようだ。俺に特に異常が見られないとわかったのか、彼はその場から離れて、背中を壁に預けた。

 

「ここで、変な女に会ったらしいな。決めつけるのは良くないが、そいつがこの館の主人である可能性は高い。そして、魔術師である可能性もな」

 

「食屍鬼化の犯人か……」

 

 先輩と西条さんが唸る。

 

 ……しかし、どうにも違う気がするのだ。アレは魔術師なんて類のものでは無い。何と例えればいい。何か、アレに近しいものは……。

 

「……あっ」

 

「どうした氷兎」

 

「いえ、さっき言った黒い女なんですけど……感覚的に、イグに近いものだと思います」

 

「……マジで?」

 

 蛇人間達の信仰していた全ての蛇の父である、イグ。当時その場に一緒にいた先輩には、それがどれだけヤバい存在なのかがわかったようだ。神話生物なんて目じゃないほどの強さを持つ、神格。言ってしまえば神と呼ばれる超上的存在だ。アレの前では俺達は塵のような存在であり、それに手を伸ばすことすらおこがましい。

 

 俺の説明を聞いた西条さんは顔を顰めて何かを考え始めた。七草さんは、いまいちどんな物なのかわかっていないようで、顔を軽く傾けながら尋ねてくる。

 

「えっと……すっごい人ってことでいいの?」

 

「人と言っていいのかわからんけどね……」

 

「氷兎の神話生物センサーがそう判断したなら、きっとそうなんだろうなぁ……」

 

 周りを見回して、あの女に関するものが何か残っていないかと探してみたが、何も見つからなかった。

 

 しかし、見回してみて、ふと気がついた。机の上からあの青い本がなくなっている。

 

「……先輩、ここにあった青い本しりません?」

 

「いいや? そこには俺が部屋に入ってきた時から何もなかったぞ」

 

「………」

 

 あの女の所有物だったのだろうか。今考えても何も思い浮かばないが、気にしないことにしよう。そうしないと……何か嫌なものを思い出しそうな気がする。

 

「……貴様の言う黒い女が俗に言う神と同じ次元にいるとするならば、食屍鬼化の犯人はまた別にいると見てもいい。そんな奴が低レベルなことに手を出すわけが無い」

 

「人が人じゃなくなるのは、低レベルじゃねぇだろ」

 

「俺達からすれば、な。おそらく向こうにとっては些事なことだろうよ。人を生贄としか思っていないような連中の神だぞ。人間なんてどうでもいいと思っているに違いない」

 

 果たしてそうだろうか。少なくともイグは、まだ人間に寄り添うとまではいかなくとも、敵対視はしていなかった。全てが悪であると断ずるのは早計ではなかろうか。

 

「……とりあえず、ここで言い争ってても何にもなりません。探しても何も見つからないし、そろそろ帰りま───ッ」

 

 不意に激しい頭痛が起きた。両手で頭を抑えて蹲り、あまりの痛みに声を漏らした。

 

「どうした氷兎!?」

 

「氷兎君、大丈夫!?」

 

 先輩と七草さんが近寄ってくる。頭が痛い。目の奥が熱い。視線が自分の意思に反してぎょろぎょろと動き回る。そして……ある壁の一点を見て、俺の視線は止まった。そこを見ていると、頭の痛みが少しだけ和らいだり、はたまた更に激しくなったりする。

 

 その方向を指さして、俺は先輩に途切れ途切れながらも頼んだ。

 

「先輩……あの、壁を……」

 

「壁……?」

 

「コイツか」

 

 俺の視線がある方。それは部屋に入ってくる扉とは正反対の場所。そこの壁を、西条さんが拳でコンコンと叩く。軽い音が部屋の中に響いた。そして……西条さんの顔が歪む。

 

「……ハリボテか」

 

 西条さんが素早く刀を構えて振り下ろす。すると、その壁のあった場所が、まるでモヤのように変わっていって消える。その場には入口の扉と同じくらいの大きさの穴が空いていて、奥へと続く通路が見える。

 

 それが見えるようになると、痛みは自然となくなっていった。なんとか立ち上がろうとするが、身体にうまく力が入らない。

 

「氷兎君、無理しちゃダメだよ!」

 

 七草さんが俺の腕を肩に回して、半ば担ぐように俺のことを立たせてくれた。距離が近い。彼女の優しい香りが漂ってきて、自然と顔が熱くなった。先輩がその穴を見ながら感嘆の声を漏らす。

 

「隠し扉ってやつ? いや、通路か?」

 

「どちらにせよ……唯野の頭がどこかイカれたのは確かだろうな。これが技術的なものとは思えん。おそらく貴様らの言う魔術だ。つまり、唯野はこれを見抜けるようになったということだろう」

 

「言い方を変えろ。氷兎の頭がおかしくなったみたいに言うな」

 

「事実なんでな」

 

 西条さんは一人でその通路の先に行ってしまう。先輩が俺のことをチラッと見てきたので、俺は先に行ってていいと伝えた。頷いた先輩は、心配そうな顔をしながらも西条さんの後を追いかけて行った。

 

「氷兎君、歩ける?」

 

「一応、なんとか……」

 

 七草さんの肩を借りながら、俺は歩き出した。情けない。そんな自分に嫌気がさす。俺の顔をのぞき込んでいた七草さんが、俺の表情が曇ったことを察すると、何故か俺に笑いかけてきた。

 

「大丈夫だよ、氷兎君は私が護るから」

 

「……ありがとう、七草さん」

 

 えへへっと彼女は笑った。どうやら俺が今戦える状況じゃないから不安になったのだと思ったらしい。

 

 ……違うんだよ。俺は君と菜沙を護りたい。だから……俺が君に護られているようじゃ、ダメなんだよ。

 

 俺はいつになったら、夢見た勇者(ヒーロー)になれるんだろう。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 七草さんと一緒に真っ暗な通路を抜けていくと、また小さなコンクリートの部屋があった。部屋の半分は鉄格子で仕切られていて、狭く感じる。その鉄格子の前で、先輩と西条さんが立ち竦めていた。

 

「先輩、どうしたんですか?」

 

「……いや、これ見てみろよ」

 

 先輩のすぐ近くまで移動して、先輩の指さす方を見た。その鉄格子で区切られた向こう側。その隅に……女性がいた。髪の毛が長く、肌荒れが酷い。指先はまるで鉤爪のようになっている。その身体は細く、頬は痩せこけていた。

 

 ……食屍鬼、なのだろうか。

 

「ウ、ゥゥ……アァァァァァァッ!!」

 

「きゃっ」

 

 女性が血走った目で俺達を捉えた。七草さんの怯える声が聞こえ、そして次には鉄格子を強く叩く音が部屋の中を満たした。何度も何度も、その女性は鉄格子を叩いて何かを訴えてくる。

 

「ゥゥ……シィ……ク……ニ、ク……ッ!!」

 

「……どうやら、俺達のことを肉としか思っとらんようだ。手遅れだな」

 

 西条さんの呆れ声が聞こえる。ずっとこの人だけここに囚われていたのだろうか。ご飯も食べずに、ずっと……。

 

 ……どうしてだろうか。その人と半ばかけ離れた容姿に、どこか見覚えがあった。確かそう……あの写真だ。

 

 携帯を取り出して、写真立ての中に入っていた二人組の写真を見る。その女性の方が、今目の前にいる女性と似ている気がした。

 

「……どうして、こんなことを」

 

「それは、写真か? そういったのがあるのなら早く出せ」

 

 西条さんが俺の携帯を覗き込んできた。西条さんが眼鏡を弄ると、カシャリっと音が鳴る。そして今度は目の前の女性を向いて、眼鏡を弄った。

 

 そういえば、西条さんの眼鏡はEye phoneだったか。色々と便利な機能がついていたはずだ。おそらく顔の一致度を確かめるツールでも使っているのだろう。彼はしばらく眼鏡を弄っていると、やがて苦々しく顔を歪めてため息をついた。

 

「一致したな。その写真の人物と、目の前の女は同一人物だ。この写真は館の中から見つけたのか?」

 

「えぇ、そうです」

 

「となると……犯人はその隣にいる男の可能性が高いな」

 

 ……随分と頭の回転が早い。この人の頭の中では既にいくつかの予想が立てられているのだろう。先輩が西条さんに訝しげに尋ねた。

 

「その根拠はあんのか?」

 

「例えば、その男が魔術を使えるとしよう。そこにいる女が不治の病か何かにかかり、それを治す術を探していた。おそらく食屍鬼にされた人はその実験体だろう。何度も繰り返し、その食屍鬼化の進行が著しく遅い個体もできた。時間がおそらくなかったんだろう。その未完成な魔術を行使し、女はなんとか生き延びた。人肉が好きなのはどうにもならなかったがな」

 

「……人体の組成から何まで組み替えるレベルの魔術だから、治せるかもと思ったってことですかね」

 

「知らん、本人に聞け。俺の予想はこんなものだ」

 

 西条さんはまた壁に寄りかかって状況を見据えた。未だに女性は鉄格子を叩いて泣き喚いている。七草さんが、ギュッと俺の身体を掴んできた。怖がっているのだろうか。何となく不思議な優越感が湧き、彼女の頭を数度撫でた。七草さんの表情が綻び、少し気分が楽になった。

 

「……それで、どうするんだ?」

 

 西条さんが尋ねてくる。その声は鋭く、彼が何かをやろうとしているのがわかった。先輩もそれがわかったのか、顔を歪めて西条さんを見ながら聞き返した。

 

「どうするって、何を」

 

「そこの女だ。殺すのか?」

 

「なっ……だからダメだって言ってんだろ!」

 

「ならどうする。飢え死にさせるか。それでもまぁいいだろう。ソイツの苦しそうな声がまだ暫く続くだけだ」

 

 叫んでいる女性を見る。鉄格子を叩くのをやめず、外に出て肉を食べたいのだと言っているように聞こえた。

 

 西条さんの言葉は止まらない。

 

「この館を見た限り、写真の男は帰ってきていない。つまり、見捨てたんだろう。ならばもうこの女に未来はない。助ける手立てもなく、また人の言葉も理解出来ず。野放しにすれば人の肉を貪る殺人者になる……それでも、この女をここから出して助けたいと言うのか?」

 

「それは……」

 

「肉の調達は自分でしろよ。俺は面倒を見んからな」

 

「ッ………!!」

 

 先輩の顔が歪む。ただじっと、泣き叫んでいる女を見る。先輩は動けなかった。

 

「……死ぬとわかっているならば、苦しむ期間は短い方がいい。Quality Of Lifeくらいは知っているだろう。せめて……人間らしい時間が総計で長くなるようにしてやるのが、正解なんだろうよ」

 

 西条さんが刀を構えた。誰も止められない。誰も正解を言えない。誰もそれを間違いだとも言えない。

 

 

 ───部屋に断末魔の叫びが響いた。

 

 

 その後の部屋には静寂だけが残っている。誰も、何も言えなかったのだ。

 

 

 

To be continued……



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第68話 黒い女と魔術書

 気まずい雰囲気が残る中、俺達はオリジン本部へと帰ってきた。外はもう明るい。それとは対照的に、俺達の心境はまだ夜の出来事を引きずり、暗いままだ。

 

 任務の報告のために司令室までやってきた。そこにいるのは、いつもと変わらぬ表情で、指を組んで待っている木原さんだ。

 

「……任務から帰還しました。犯人は行方不明、被害者は……全員、死亡しました」

 

 苦々しく伝える先輩に対して、そうか、と冷淡な返事をした木原さん。あぁ、この人も人でなしだ。それが大人というものなのだろうか。大を助けるために小を切り捨てる。きっと犠牲者に対して何の感情も抱いていない。

 

 それに対し、西条さんはどうだろうか。確かにこの人も人を斬り捨てる。だがしかし、そこに感情が篭っていないかと言えば、おそらく否だ。彼には彼なりの独自の価値観と、培った知識とでその結末を想像し……その上で斬り捨てるのだ。まだ、こっちの方がマシだ。俺は目の前で座っている仏頂面に対して心の中で毒づいた。

 

「犯人の行方は現在も追っている。見つかったらお前達にまた任務が下されるだろう。それまでは他のことをして待っていろ。それと……西条に関して、お前達はどうするつもりだ?」

 

 西条さんをチームメンバーに加えるのか、という質問だ。俺の時も、藪雨の時もそう尋ねてきた。今回は……どうしたものか。先輩の方をチラッと見てみたが、俺と同様に悩んでいるみたいで、俺の視線に気が付かなかった。

 

 七草さんの方を見れば、彼女はまた、氷兎君に任せるよとでも言いたげな目で俺を見てきた。困ったな……。

 

「まぁ、答えなんて決まっているようなものだろう。この面倒なタライ回しにも慣れたものだ」

 

 西条さんは腕を組んで目を閉じたまま、そう言った。誰も彼の価値観にはついていけなかったのだろう。それか……人をいとも容易く殺す彼を怖がったか。他人の弱さを本人に容赦なく叩きつけてくるのも敬遠される理由だろう。

 

「……なぁ、氷兎。今回は俺に決めさせてもらっていいか?」

 

 先輩が真剣な面持ちのまま、そう聞いてきた。別に俺は先輩の意見に反対しようなんて思いはない。俺は頷いて、先輩に任せますと答えた。先輩は一呼吸おいてから、答えを言った。

 

「西条を俺達のメンバーに加えます」

 

「………」

 

 その言葉に一番驚いていたのは、おそらく西条さんだろう。珍しいことに、普段鋭くしているその目をいつもより開き、何度か瞬きを繰り返していた。なんとなく、その人間らしい行動に笑いがこぼれる。なんだ、この人も普通の人じゃないか。どうにも……彼を超人的な何かだと思い込んでいたらしい。俺達とは立っている場所が違うのだと、勝手に決めつけていたようだ。

 

「……後悔するぞ」

 

 西条さんの低い声が響く。最終警告とでも言いたげだった。今ならまだ俺のことを捨てれる。捨てた方がお前達の身のためだ、と。そう言っているように聞こえてならなかった。

 

 なんとなく、西条さんをチームメンバーに加えてやりたいという思いが強くなった気がする。天邪鬼みたいだな、と口元をニヤリと歪ませた。

 

「後悔するかもしんねぇ。けどよ、それはきっと必要な事だ。この世界でやっていくには、俺も氷兎も、まして七草ちゃんも、思考が寄りすぎてんだ。だから、俺達とはまた別視点のお前が欲しい。でないと……きっと、俺達は大きな間違いを犯すような気がするんだ。そんでもって……できるなら、お前だけに責任を負わせないようになりてんだよ」

 

 先輩の言葉に、西条さんは言葉を失っていた。そう言われるのが初めてなのか、先輩から気まずそうに視線を逸らした。先輩の言葉はまだ続いていく。

 

「人間、一人じゃ全部はできねぇよ。俺は一人じゃ戦えない。氷兎も、そんで七草ちゃんも、誰かが隣にいないと戦えない。お前は一人でこなしすぎたんだよ。そろそろ……誰かを頼れ」

 

 先輩は一人じゃ戦えない。それは接近戦ができないから。俺も一人じゃ戦えない。俺はまだ精神的に不安だから。七草さんも、戦えても誰か信用のできる人が隣にいないと、戦い続けることは出来ない。

 

 しかし西条さんは、ずっと一人だった。仲間と協力なんてせず、一人で全てをこなしてきた。そんなことをずっと続けていたら……間違いなく壊れる。身体が先か、心が先かはわからないが。彼の性格的にも、責任を全て自分一人で負うことを厭わない。だからこそ、西条さんの隣に誰かがいないといけないのだ。きっと、先輩はそう思ったに違いない。

 

「……まぁいい。メンバーの変更の申し出なんてものは、いつでもできるからな」

 

 そう言って、西条さんは部屋の扉を開けて出ていってしまった。まったく勝手な人だ。けど、今の状況だとあの人が照れ隠しで逃げたのではないかと思えて仕方が無い。頭の中の西条さんのイメージがぶち壊しである。ツンデレインテリヤクザ系男子って誰得ですか……?

 

「……これで良かった、のか」

 

「何今更後悔してるんですか……間違っちゃいませんよ、きっと」

 

 そう言って俺は先輩の肩を軽く叩いて、七草さんを引き連れて部屋の外へ出た。もう報告は終わったのだ。やることもないし、部屋に戻るとしよう。

 

 ……先輩は最後まで部屋に残ってたんで、報告書お願いしますね、と内心ニヤつきながら、俺達は自分の部屋へと帰っていった。徹夜の任務だったから、果てしなく眠い……。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 ……久しぶりの感覚だった。あぁ、自分は今夢を見ているのだと実感していた。最近は疲れてるのか、夢を見たり見なかったり。見ても忘れてしまったりと認識出来ていなかったが、ここまでハッキリと自分を意識したまま夢の中に入ってこれるのは本当に久しぶりだ。

 

 最近は疲れることばかり。たまにはのんびりする夢でも見させてもらいたいものだが……周りに何も無いな。真っ白な空間がずっと向こうまで続いている。まるで菜沙の胸みたいだ……。

 

 ……胸のこと言ったら菜沙が出てくるかと思ったが、そう上手くはいかないらしい。さて、どうしたものか。やることもないし、適当に周りでも見てみようと思い、後ろを振り向いた。

 

「……やぁ」

 

「──────────ッ!?」

 

 アレがいた。あの真っ黒な女がいた。旧友に話しかけるように、片手を上げて挨拶してきた。ちょいと、夢にしては酷すぎるんじゃないですかね。トラウマになってんじゃねぇかちくしょう!!

 

 心の中で悲痛な叫びをあげながら、俺はその場から逃げ出した。全力で、振り向きなんてせずに。だというのに……。

 

 

「どこに行くんだい?」

 

 

「随分と心の中は余裕そうだ」

 

 

「しかし身体は落ち着きが足りないね」

 

 

 逃げる先逃げる先、全て先回りして退路を塞いでくる。黒い水のようなものが地面にできたと思ったら、そこから生えるように出てくるのだ。相変わらず顔はなんだかわからないし、見てるだけで心臓が苦しそうに悲鳴をあげる。早く目を覚ましてくれ、現実の俺ッと本気で願っていた。

 

「そうやって慌てふためくのを見てるのも楽しいけど……ちょっと止まりなよ」

 

 黒い女が俺に指を向けると、ピタッと俺の身体はまるで時が止まったかのように動かなくなってしまった。それどころか、声すらあげられない。なんだ、これは。身をよじろうとしても全然動かなかった。

 

 女が俺の目の前まで歩いてくる。その顔は、わからないはずなのにとても美しいのだとわかる。その身体はとても素晴らしいものなのだとわかる。しかし、お前はとてつもなく醜いものなのだともわかっている。背反する二つの思考がせめぎ合い、それは頭痛として浮き出てきた。

 

「ふふっ、君は昔はこんなに弱々しかったかな。まぁいいや、それよりも……何か質問したいことはある?」

 

 語りかけてくる。質問したいこと……あぁ、そんなものいくらでもある。お前は誰だ。俺をどうしようというのだ。

 

 ……いや、待てよ。この声は、この声だけは聞き覚えがある。あの館の地下室で会った時は色々な声が混ざっていたのに、今はたった一つの声しか聞こえなかった。その声はまさしく……俺に力をくれた、あの女声だ。

 

「……貴方が、俺に力をくれたんですか」

 

 問に答えようとしたら、簡単に声は出た。俺のその質問に、黒い女は赤い口をニヤリと歪めて頷いた。その口から漏れる声が……段々、魅力的に思えてきた。俺の思考はどうかしている。

 

「そうだね。あの時、いやずっと前から。私は君のことを見ていたよ。どう? 少しは私があげた力にも慣れた?」

 

「……多少は」

 

「そう……。まぁ、一応身体能力を少しだけ上げておいたけど、流石に今の状態でもっと上げるのはね……うん、つまらない」

 

 ……つまらない? 頭がおかしいんじゃないのか。こっちは死にものぐるいだ。死にたくないから、助けたい人がいるから、こうやって殺し合いに身を投じているのに、それを……つまらなくなるから、力をこれ以上あげないと?

 

「そうそう。そうやって私に負の感情を向けていいんだ。それこそが私の糧になる。君はどう転ぼうと……ずっと、私の掌の上だ」

 

 俺の考えていることがわかっているかのように、女は嘲笑(わら)った。意味がわからない。その動作がとてつもなく俺の嫌悪感を湧き上がらせるのに、なんで……お前を綺麗だと思ってしまうのか。こんなにも、醜いはずなのに。

 

「その答えは、まだ君が中途半端だからさ。どっちにも傾向していない。いや、どちらかと言うとまだヒトだね」

 

 わからない。わかりたくもない。きっとそれを理解した途端に、俺は取り返しのつかないところまで堕ちることになるのが予想出来た。なるべく、この女とは関わりたくない。例えそれが命を救ってくれた相手であっても。

 

「さて、今回君の夢を介して会いに来たわけだけど……その前に君に質問がある」

 

 ……なんだ、と俺は返事を返した。いつの間にか身体は自由に動くようになっていたが、もう逃げようだなんて思えなかった。逃げても無駄だ、とわかっていたから。仕方なく俺は目の前の女の話に耳を傾けるしかなかった。

 

「力を得るためには、犠牲が必要だ。君はそれを理解しているかい?」

 

「………」

 

 西条さんに言われて、ずっと考えていた。強さとは、何かの犠牲の上に成り立つものだと。けど……じゃあ俺は何を犠牲にできるというのか。誰も犠牲にしたくはない。何も周りのものを失いたくはない。

 

「あぁ、声に出さなくても君の考えていることはわかるよ。理解はしていても納得はしていない、ってところだね。うんうん、実にヒトらしい考えだ。でも……それってこう捉えることもできるんじゃないかな?」

 

 

 

 

 

 

 

「───君が犠牲になればいい」

 

 

 

 

 

 

 ……その言葉はあまりに残酷で、冷徹な響きであった。あぁけど、それが最適解なのではないのかと心の奥底で納得している自分がいた。周りの物を何も犠牲にしたくないのなら、自分を犠牲にすればいい。それはごく単純で、明快な答えであった。

 

 けど……それをできる人が、一体どれだけいるというのだろうか。

 

 俺の心の声がわかっているらしい女は、血を塗りたくったような赤い口を愉快そうに歪ませた。

 

「わかってるんだね。じゃあ、私から君にとっておきのプレゼントをあげよう」

 

 女が右手を前に突き出すと、その掌の上にどこからともなく薄暗い青色の本が出現した。それは掌の上で宙に浮くように存在している。それを見ていると……自分の手が勝手に伸びていきそうになる。その本を手に取ってみたくなる。その衝動を俺は必死に抑え込んだ。

 

「これは一種の魔術書だ。この中には神秘が眠っている。君の知りえない情報が、嫌という程ね」

 

 宙に浮いた本が、触れられてもないのに開いてペラペラとページが捲られていく。その異様な光景を目のあたりにして、背筋が凍りついたような気がした。けれども俺の身体は未だにその本に手を伸ばそうとしている。

 

 そんな俺の状態を見て、女はずっとニヤニヤと嘲笑(わら)っていた。

 

「普通の人がこれを読めば、いとも容易く発狂する。君だって例外じゃない。むしろ、今の君は精神的にやられているから尚更だ。それでも……君はこの力が欲しくてたまらないはずだ。これを君が使えるのなら、君は色々な魔術を扱えるようになる。それは敵を一瞬で灰にしたり、吹き飛ばしたり、はたまた相手の肺に海水を満たすことも出来る」

 

 ……なんて恐ろしい魔術だ。本人は軽々しく言っているが、その内容はとんでもない。普通の人が聞けば、頭がイカレているとしか思えない話だ。

 

「さぁ……どうする? 取るも取らないも、君の自由だ」

 

 女は嘲笑(わら)っている。いい加減その顔にイラついてきた。一発ぶん殴ってやりたいとすら思えるほどだ。

 

 しかし……目の前の本をどうするか。取れば強くなれるんだろう。その代わり、自分の何かを失うことになる。それはなんだ。俺は何を失うんだ。

 

 そんな俺の疑問に、女は答えた。

 

「魔術とは君の精神力を使って扱うものだ。けど、君の知ってるゲームじゃ100以上あるMPなんてものも、君達人間は10程度が精々だ。これじゃ、魔術なんてポンポン使えるもんじゃない。けれど、その足りないものを補うものがある。それは君の正気度とも言われるものだ」

 

 ……正気度。それは一体どういうものなんだ。それを失ったら、どう言った弊害が出るんだ。

 

「正気度とはつまり、君の精神状態とも言える。魔術を使えば使うほど、君の正気は削れていき、やがて発狂する。けど、魔術というのはそれを大きく上回る効果を発揮するはずだよ」

 

 その説明を聞いて、俺の腕は震えだした。確かに怖い。正気でいられなくなれば、自分が自分でなくなる可能性もあるということだろう。だが、精神状態というからには回復する見込みもあるということだ。そういうことなんだろう?

 

「その通り。君が非日常から離れて日常を謳歌すれば、君は少しずつ精神的に治癒されて正気度は回復するだろうね」

 

 ……ハイリスクハイリターンな話だ。でも……使わなくてもいいんだろう。ならば、貰えるだけ貰っておくのがいいんじゃないのか。いざという時の、奥の手としてとっておく。それがきっといいはずだ。

 

 俺はその本に向かって手を伸ばし、掴んだ……と思った瞬間に、その本は光の粒となって霧散し、俺の身体の中へと入っていった。何か、身体の中心付近で冷たいものが蠢いている気がする。

 

「………ッ」

 

 口元を抑えて前屈みになった。気持ち悪い。身体の中に、何か異物が入り込んだみたいな感覚が残っている。吐きそうだ。吐いたところで、きっとどうにもならないのだろうけど。

 

「アッハハハハハハハハッ!! うんうん、そうだよね!! 君ならそうするって思ってたよ!! こうじゃないと、面白くない!!」

 

 女が嘲笑(わら)っている。うるさい。今は静かにしてくれ。気持ちが悪くて仕方が無いんだ。冷たい。身体の芯から凍えてしまいそうな寒さだ。あの本を手に取ったことを既に後悔し始めていた。

 

 女は腹を抱えて俺を嘲笑(わら)っていたが、ひとしきり嘲笑(わら)い終わったのか、俺のことを見てまた話しかけてきた。

 

「あぁ、久々にここまで笑ったよ。うん、いいとも。言い忘れていたけど、君の身体には私の力とも言えるものが入っているからね。魔術を使っても、ある程度は軽減できる。それと、君が読んだら発狂するのは変わりないからね。だから……私が直々に君に魔術を叩き込んであげよう」

 

 ……次第に俺の身体は調子を取り戻していた。身体の中の違和感はまだ拭いされないが、気持ち悪さでまともに立っていられないなんてことはなくなっていた。

 

 女は俺に魔術とはどういうものなのかを説明し始めた。

 

「魔術を行使するには、長ったらしい呪文を唱える『詠唱』と、呪文を必要としない代わりに条件が必要になる『行使』の二種類が存在する。唱えれば誰だって使えるわけじゃない。魔術を使う為には基本的には触媒が必要だ。もっとも、君にあげたネクロノミコンが触媒の役目を果たすからその点に関しては心配いらない」

 

 俺がさっき手にしたあの本は、ネクロノミコンと言うらしい。それを触媒として魔術を行使できる。生身の人間では扱えないのか……。よかった。七草さんが真似して発動してしまったら大変だ。

 

「魔術は私が時期を見て夢の中で教えるよ。今回教えるのは、『ヨグ=ソトースの拳』だ。理論的には、空間を捻じ曲げたりした後でそれを元に戻す際に発生するエネルギーを使って相手を吹き飛ばすって魔術なんだけど……まぁ細かいことはいい。詠唱は、ネクロノミコンが君に伝えてくれるはずだよ。使おうとすれば勝手に頭の中に浮かんでくるさ。問題は、行使についての条件だ」

 

 女が指をパチンと鳴らす。すると、俺の目の前に黒い水たまりができて、そこから俺と瓜二つの誰かが地面から生えるように出現した。

 

 ……人間か、これ。触ってみたが、感触は人間と同じようだ。反応はしなかったが。

 

「じゃあ、これを相手に今から魔術を叩き込んでみようか」

 

「……見た目が俺なんだけど」

 

「え、君は自分を殴れないのかい?」

 

「……やりゃいいんでしょ」

 

 悪趣味にもほどがある。わかってやってやがるなコイツ。俺の中でのコイツの株はどんどん下落していく。命の恩人だろうが、鬱陶しいことには変わりなかった。

 

「基本はイメージだ。心の中で、相手が吹き飛ぶ方向などを詳しくイメージする。後は助走をつけてぶん殴って……最初は心の中で念じた方が発動しやすいかな。声に出してもいい。『吹き飛べ』とか『ぶっ飛べ』なんて、わかりやすいものでいいよ。君の拳の威力があればあるほど、吹っ飛ぶ距離は伸びる。詠唱で使った場合は、吹っ飛ぶ際の衝撃に威力はない。けど、行使なら吹っ飛ぶ際に大きな力が加えられる。相手がなんであれ、昏睡くらいはさせられるよ。扱い方を間違ったり、硬い障害物に勢いよくぶつければ……身体が四散するかもしれないけどね」

 

 ……もう女のことを見ることすら億劫になってきた。俺は俺で、魔術を使ってみよう。目の前の自分が吹っ飛んでいくイメージ……何か嫌だな。仕方が無いけれども……イメージして、勢いをつけてぶん殴る。とりあえず……《吹っ飛べッ!!》

 

 俺の右拳が、目の前の偽物の頬を殴りつけた。その瞬間、身体から何かが抜けていく感じがして、目の前の俺の偽物は勢いよく前方に向かって吹っ飛んでいった。軽く10メートル以上は吹き飛んだ気がする。なんだか腕とか曲がっちゃいけない方向に曲がってるけど……あまり見ないようにしよう。俺はそっと目を逸らした。

 

「うんうん、上出来だ。一発で使えるなら行使は問題ないね。詠唱は……教えるのが面倒だからいいや。自分で現実世界でやりなよ」

 

 なんて投げやりな。でも、一応ネクロノミコンがサポートしてくれるらしいし……何度か自分で試してみよう。やりすぎには注意だ。まだ正気を失いたくはない。

 

「今君に教えてあげるのは、これだけ。次の魔術は次回教えてあげるよ。あぁそうそう、魔術は色々と応用が利く。君に教えた『拳』も、君が関わっていれば発動条件を満たす。拳で殴るだけでなくとも発動できるということさ。そこら辺は、自分で苦しんで探すといい」

 

 ……何故か身体の感覚が薄れてきた。夢の中のはずなのに、身体が重い。瞼が閉じようとしてくる。夢の中で眠りにつくのではないかと思えてきた。

 

「おや、時間かな。暇つぶしには十分だったよ。おっと……言い忘れるところだった。魔術を格上相手に使う時は気をつけるんだよ。君と相手とにパスが繋がって魔術は行使される。『深淵をのぞく時、深淵もまたお前をのぞいているのだ』なんて言うけど、そういう事だよ。君が魔術を使う時、相手もまた君と繋がったパスを介して、君に魔術を使って反撃してくることもあるってことだ」

 

 女の口は歪んだままだ。何がそんなに愉しいのか。俺には理解できない。おそらく誰にも理解なんてできない。そういう存在なんだろう、きっと。

 

 薄れゆく意識の中で、俺は最後にその女に名前を尋ねた。いつまでも女声だとか、女だとか呼んでいるのもアレだからだ。

 

 女は少し考える素振りをすると……珍しく、嘲笑(わら)うのではなく、微笑んで言ってきたのだ。

 

「私のことは、気軽に『ナイア』とでも呼んでいいよ。では……(むご)い現実を愉しむといい、『唯野 氷兎』」

 

 ……なんて酷い別れ際のセリフだ。そう思ったのが最後。俺は完全に意識を手放した。

 

 

 

 

To be continued……




なんとかSAN値が元に戻ったので初投稿です。

さて、ようやく氷兎がジョブチェンジしましたね。すっぴんから赤魔道士くらいにはなれたでしょう。

魔術システムは結構独自のものですね。簡潔に言うと、呪文を唱えて使うタイプと、接触する代わりに呪文を不要とするタイプの二種類ということです。


『ヨグ=ソトースの拳』

 空間を歪めて相手を吹き飛ばす魔術。吹き飛ばし自体に威力はないが、壁にぶつかればその分のダメージは喰らう。そして吹き飛ばされた相手は脳に大きな振動を受け、脳震盪を起こす。神話生物だろうが気絶させることが出来る可能性を秘めたヤベー奴。


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第69話 願う強さ

 俺の力というのは、決して独りでは機能しないものだった。知らず知らずのうちに、周りの誰かに機能するようなものだった。それを知った時、どう思ったか?

 

 ……別に何も。それこそが俺をこのような境遇に貶めたのかと思うと、少しイラつく。けど同時に、俺の今まではきっと無駄ではなかったのだろうとも思うようなものだった。俺がいたから、皆は強くなれた。そう考えると少しだけ優越感に浸れる。

 

 だから……こんな力は、いらなかったんだ。俺はただ、彼女と生きていたかっただけなのに。皆と過ごしていたかっただけなのに。

 

 俺はその辺に落ちていた手頃な木材を拾い上げると、半ば八つ当たりのように廃墟となった壁に投げつけた。木材は人の手で投げられたのだと思えない程のスピードで飛んでいき、壁にぶつかると四散するように壊れていった。

 

 ……こんな魔術で何が出来る。俺が欲しかったのは、誰かを守るための力だ。何かを殺すための力なんて、欲しくなかったのに。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 夢から覚めると、不思議そうに俺を見ている先輩と目が合った。何か身の危険を感じる。俺は咄嗟に先輩から距離をとると、先輩は悲しそうに顔を歪めた。

 

「いや何もそんなに嫌がらなくても……」

 

「起きてすぐそこに野郎の顔があれば驚きます」

 

「魘されてたから様子を見に来てやったってのに」

 

 どうやら魘されていたらしい。いやあんな夢見たら流石に魘されるだろ。ナイアとか言ったあの女性、見てるだけで心臓が痛くなるのだから。下手な悪夢より酷い。それはそうと……一応先輩には伝えておこうか。

 

「先輩、俺魔術師になりました」

 

「童貞こじらせちゃったか……」

 

「魔法使いじゃないです。それに俺まだ30才過ぎてないです」

 

 先輩に夢で起きたことを説明した。VR室で実際に実演もしてみた。どうやら俺の夢は夢のようでいて、そうではなかったらしい。確かに俺は魔術を使うことが出来た。まだ一種類しか使えないけど。

 

 そのことを理解した先輩は、驚きつつも俺に忠告してきた。

 

「氷兎、確かにお前の戦闘バリエーションが増えたのは嬉しい。厨二病感満載な魔術というのが手に入ってどこか嬉しさを感じているのもわかる。けど……あまり多用するな。隼斗みたいに発狂してほしくない。ただでさえ、お前は色々と抱え込みやすい性格なんだから」

 

 心底心配そうに、彼は俺に言ってきた。俺も重々承知しているつもりだ。使用せざるを得ない状況にならない限り使う気は無いし、そんなに多用しようとも思えない。我が身がかわいいのは、俺とて同じだ。

 

「わかってますよ。そんなやたらめったに使う気は無いです」

 

「それならいい。もっとも、そんな状況にさせないようにしなきゃいけねんだけどな」

 

 そう言って彼は俺の頭にポンッと置いてから、部屋から出ていってしまった。俺のことを数個年下の幼女とでも思っているのだろうか。男が男に頭ポンッてしたって効果はない。

 

 ……先輩はホモ化が進んできたようだ。心の中で先輩と少しだけ距離を離そうと決意し、俺もまた先輩に続くように部屋から出ていった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 魔術が使えるようになったとはいえ、それは緊急事態の時のみ使う予定だ。それと共に身体能力も向上したが、未だに俺の戦い方というのは甘い部分が多い。西条さんに言われた通り、俺の戦い方というのは棒術なのだ。決して槍術ではない。

 

 それでも強くならなくてはならない。決して一人で戦う為の強さではなく、誰かをカバー出来る、継続して戦い続けられる負けない強さを俺は手に入れたい。何かを殺す強さなんてものは、こっちから願い下げだ。

 

「……それで、わざわざ俺のところまで来たということか」

 

 VR室を出てすぐの場所にある休憩スペースで、俺は西条さんと面を向き合って話していた。彼に自分と手合わせをしてほしいと頼み込んだ時、それはもう睨み殺せるのではないかと思う程の眼光を向けられた。

 

 だが俺の考えを聞いた彼は、睨みつけるのはやめなかったがその顔を少しだけ緩ませたのだ。

 

「……口に出したくもないが、俺と貴様らは一時的な共闘関係にある。射撃ができる相方もいることだ。それに俺という近接特化もいる。貴様の考えは妥当と言ったところだ」

 

「……西条さんの言った強さは、俺には必要ないです。いや、こんな世界ですし、いずれ必要になるかもしれない。けど今じゃないです。それに、そんな状況にしたくはない。だから俺は、何かを殺す強さではなく、何かを護る強さが欲しいんです」

 

「それがどれほど難しいのか理解しているのか? 一般的に、攻撃から身を守る為に必要な力は、相手の三倍は必要だと言われている。貴様はより困難な道を歩むと宣言しているのだ」

 

「……理解した上で、俺は貴方にこうして頼み込んでいます」

 

 俺は彼に対して頭を下げた。西条さんは顎に手を当てて考える素振りをしながら、しばらく黙り込んでいた。休憩スペースの中が静寂で満たされ、彼特有の斬りつけるような雰囲気だけが俺の身を包んでいる。

 

 数分か、いや一分も経っていないかもしれない。時間の流れがわからないくらいの緊張を身に受けていた俺の耳に、彼の小さなため息が聞こえてきた。顔を上げて彼の顔を見てみると、相変わらずの仏頂面が俺を見据えていた。

 

「……いいだろう。貴様と戦ってやる。ただし、これは殺し合いでも手合わせでもなく、特訓だ。貴様の戦闘スタイルも何もかもを変えるつもりでやってやる。槍だけじゃない。貴様はどの武器も使えるという結果が出ているからな。様々な武器種の戦い方を叩き込んでやる。やがて貴様が槍以外を扱う時が来るかもしれんからな」

 

「……ありがとうございます。けれど、槍以外もですか」

 

「当たり前だ。貴様は才能がない。ある一定以上の成果を出せないという稀にいるタイプの人種だ。だが、どんな武器に得意も不得意もないというのはある意味才能でもある。武器についてわかっていれば、その武器を使う相手と戦う時にどういった動きをするのかがわかる。時に別の武器の扱い方が、今持つ武器の新たな戦法になる可能性もある。その才を活かせないのならば、貴様は凡人以下だ」

 

 棘のある言葉が突き刺さる。けれど……彼は俺の武器の得意不得意のなさを、才能と言ってくれた。何も極めることの出来ない、一定レベルで止まってしまうような俺のことを、彼なりに育ててくれると言った。

 

 きっと、彼以外の人はこんなことをしてくれないだろう。俺はこれから待ち受ける困難な訓練に身を震わせながらも、確固たる決意を表すかのように、頷いて彼の瞳を見据えた。

 

「……良い眼をするようになった。俺を呆れさせるなよ。先にVR室に行っておけ。ただし……覚悟はしろ。死ぬ気でやらねば、俺の刀は貴様の首を即座に斬り落とすぞ」

 

 ……ちょっとやりたくなくなってきた。けどもう後戻りはできない。俺は震える足に喝を入れながら、VR室へと向かっていった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 月明かりが差し込む廃ビルを模した仮想空間。そこでは鉄と鉄がぶつかり合うような甲高い音が何度も響いていた。

 

 眼鏡をかけた男、西条の振るう刀は全ての物を斬り裂いていく。氷兎が頭を下げて横薙ぎの一閃を躱すと、その背後にあった柱に横一直線の切れ込みが入った。

 

 『斬人』の起源を持っている西条の一撃は、斬れぬものなどないと言わんばかりに周りのものを斬りつけていく。しかし氷兎もそこで回避するばかりではなかった。

 

「………ッ!!」

 

 気合を込めた一撃。槍で下からかち上げるように放たれた一撃は、しかし西条の刀の腹で流すように受け流され、そのまま攻撃後の硬直を狙われて氷兎の首元に刀が突きつけられた。

 

「力を込め過ぎだ。槍の間合いよりも中に入られたのなら距離を取ることを意識しろ。剣の間合いで戦おうとすれば、簡単にいなされるぞ!!」

 

「ぐぅッ……!!」

 

 罰だとでも言いたげに、西条の蹴りが氷兎の身体に叩き込まれる。とても人に対して放っていいものでは無い威力だ。現に氷兎はその場から少しだけ後ろに飛んでいったのだから。

 

 腹を抑えて咳き込む氷兎を見ても、西条は顔色ひとつ変えなかった。刀を地面と平行に構え、刀の刃を上向きにする。西条の独特な構えだ。

 

「さぁ立てッ!! まだ終わってないぞ!!」

 

「ぐッ、クッソッ……」

 

 痛みを無視するかのように氷兎は立ち上がり、素早くその場から後方にバックステップで下がる。ある程度の距離を保たなければ、西条の突きに対処できないからだ。

 

 まだ氷兎がやる気を失っていないことを確認した西条は、口端をニヤリと歪めると、より深く身体を落として今にも斬りかかりそうな雰囲気を身に纏い始めた。氷兎の頬を一筋の汗が流れていき、他に物音のしないこの空間の静けさが彼の心を嫌にざわつかせていた。

 

「さぁ、槍を使え!! 貴様が持っているのは物干し竿ではないのだからなッ!!」

 

 西条が凄まじい勢いでその場から跳ぶように近づいていく。氷兎はそれに対して槍の持ち方を少し前めに変えると、槍の側面ではなく先端部分を当てるように払った。

 

 刀は弾かれてもすぐに振り払いがくる。それもまた槍の先端でいなす。素早い連撃が氷兎を襲いかかるが、それを必死に防いだ。持ち手を前めにしたおかげで取り回しが更に早くなり、側面ではなく先端で対処するようにしたおかげか、西条の連撃をなんとか防ぎきれている。

 

「それだ!! それこそが槍だ!! 振り払うだけの棒術ではない、突き穿ち、切り裂くのが槍本来の戦法だッ!!」

 

 西条の連撃は止まるどころか徐々に速さが増していった。

 

 氷兎の焦りが酷くなっていく。心の中では、速すぎてもう抑えるのは無理だと理解していた。それでもこの状況をなんとか打破しなければならない。しかし防ぐだけが精一杯、攻撃に転じることなんて無理だった。

 

「ハァッ!!」

 

 西条の今までよりも更に速く強烈な一撃が、氷兎の槍の側面を叩きつける。両手だというのに、その勢いは抑えきれず、余っていた槍の後部が氷兎の腹に叩き込まれてしまった。あまりの痛みに、氷兎の手から槍がこぼれ落ちる。当たりどころが悪すぎたのか、手にはもう力が入らなかった。

 

「ッ───!!」

 

 西条の腕が引かれるのを見た氷兎は、次に突きが飛んでくることを予測できた。しかし槍を取ろうにも時間はなく、また拳には力が入らない。避けることは出来ても、その次の一手で首を斬られる。

 

 ……打つ手がない。氷兎は次の一撃を避けてからの行動が何も思いつかなかった。

 

「これで終わりだッ!!」

 

 突きがくる。それをなんとか身体をよじることで回避出来たが、もう既に西条の身体は次の攻撃姿勢に入ろうとしている。次の攻撃は避けられない。

 

「ッ、《邪魔だッ!!》」

 

 氷兎の悪あがきの拳が、薙ぐ形で刀の腹を叩きつけた。

 

 ───瞬間、西条の刀が勢いよく弾かれて遠くにあった壁に突き刺さった。

 

 一瞬何が起きたのかを理解出来ていなかった西条だったが、事前に色々と聞いていたこともあって、すぐにその現象を理解した。むしろ氷兎の方がその現象を理解出来ていなかったりする。次来るはずの攻撃が来ない事を理解すると、氷兎はその場に尻もちをつくように座り込んだ。

 

「……なるほど、これが魔術か。代償がどれほどかもわからんが……訓練ごときに使うな」

 

「いや、今のはホント無意識に近くて……」

 

「チッ、それだとタチが悪いな……。まぁいい、今日はここまでだ。これ以上やって貴様の魔術を使った事の弊害が出ても面倒だからな」

 

 舌打ちをした西条は、VRトレーニングを終了させる通知を入れると、途端にキューブのようなものになってその場から消えていった。

 

 一人残された氷兎は、今さっき魔術を行使した自分の拳を見ながら、ボソリと呟くように言った。

 

「……魔術、か。使いこなせるようにならなきゃいけないのに、そう簡単に使えないってのは本当……使いにくいよなぁ」

 

 仮想空間に浮かぶ偽物の月を見上げながら、この力をくれたナイアに向かって彼は愚痴を零した。

 

 もうちょっと便利な力、くれても良かったんじゃないですかねと。そう考えた彼は、自分で自分を嘲笑った。貰えないよりはマシだ。貰ったのにケチをつけるもんじゃないな、と。

 

 

 ───せっかくのプレゼントなんだ。もう少し喜んで欲しいな。

 

 

 ナイアの嘲笑(わら)う声が、氷兎には聞こえた気がした。

 

 

To be continued……




この辺にぃ、主人公の一人が強くなるジャンプ御用達の熱い章のはずなのに、今までで一番短くなるような小説があるらしいっすよ?


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第70話 幼馴染の気持ち

 朝早くに西条さんとの特訓を終えて部屋に戻ってくると、部屋の中では先輩が何やら様々な工具を取り出して作業をしようとしている真っ最中だった。部屋に戻ってきた俺に気がついた先輩は、手でちょいちょいっと動かしてこっちに来いと伝えてきた。

 

「こんな朝っぱらから何やってるんですか」

 

「いや、ちょっとな……そういや、今日はお前暇か?」

 

「いえ、この後は菜沙を連れて家の掃除をしに行こうかと。それと墓参りですかね」

 

 月に何度も行く程ではないが、俺は家に戻って掃除をしていた。もう帰りを待ってくれる人もいないが……それでも、あの家は俺の家だ。仕事が一段落して、やることもなくなったらあの家で静かに暮らそうと思う。実家の安心感は、やっぱりかけがえのないものだ。

 

 それと、秘密裏に処理されたとはいえ両親の墓はちゃんと買って建てた。墓が思いの外高かったことに驚いたが、それでも日頃の感謝も込めて中々高くて上質なものを買うことにした。それで、たまに墓参りをしに行って、軽く掃除をしておく。せめてもの親孝行だ。

 

 ……生きているうちに、もっと話しておくべきだった。後悔しても遅いが、やっぱり……両親に会いたくて堪らなくなることもあるのだ。

 

「そっか……。いや、ならいいんだ。ちょっと煩くなるかもしれないからな。部屋にいるなら出かけてもらおうと思ってたんだ」

 

「何をするんですか?」

 

「この前、西条が夜間の市街地で撃つなって言っただろ。俺はどうしても、デザートイーグルにだけはサプレッサーをつけたくねぇんだよ」

 

 先輩が手元でデザートイーグルを弄り始めた。先程磨き上げたのだろう、綺麗な銀色の銃は重々しくも頼りがいのある造形をしている。威力は高いが、反動もすごいし音もでかい。そう易々とは使えないだろう。

 

「氷兎はスライドロックシステムって知ってるか?」

 

「……いえ、知らないですね」

 

「銃ってのは弾を撃ち尽くすとスライドが下がりきってホールドされる。映画とか漫画だと、ホールドされない状態で描かれる。カチカチ音が鳴るだけで弾が出ないと、クソっ弾切れか……なんて言ってたりするが、まぁあれは銃の機構が一般人にはわからないからって理由でそうなってる。スライドが下がるのは、弾薬の排莢を確実に行うためだな」

 

「確かに、映画だと拳銃撃ち尽くしてもホールドされないんですよね」

 

 初めて銃を扱った時に弾切れの状態を見て驚いた。スライドが下がりきって、中にあったバレルが半分ほど見えていたからだ。先輩はデザートイーグルの弾が入ってないことを確認すると、スライドを動かして銃の機構を確認していた。

 

「んで、スライドロックシステムってのは……このスライドが下がることをさせないようにするってことだ。スライドが動くから、音は外に漏れる。つまり、こいつを固定することで音を小さくすることが出来るんだ」

 

「……それ弾詰まり(ジャム)起こしません?」

 

「そうだな。弾詰まり(ジャム)が起こりやすくなるが、それはまぁアレだ。俺の起源がなんとかするだろ」

 

「雑過ぎませんかね。もうサプレッサーつけましょうよ」

 

「氷兎、男には譲れないプライドってもんがある。俺にとってデザートイーグルとは、そういうもんなのさ……」

 

「そのプライド、今まさにバラバラに分解されようとしてるんですがね」

 

 細けぇこたぁいいんだよ、と先輩は言って作業を始めた。先輩の銃好きがまさかガンスミスとしての道を歩ませることになるとは思わなかった。俺は邪魔にならないように部屋から出よう。そう思って出ていこうとしたその時だ。先輩が俺のことを呼び止めてきた。

 

「おっと忘れるとこだった。氷兎、お前は自分の動きと銃の重さミスマッチしてないか?」

 

「……そうですか?」

 

「傍から見てるとな。槍持ってるせいで、お前の銃の撃ち方ってのは少し変だ。だから、俺がお前に扱いやすいように改造してやるよ。軽量化と、低反動化だな。威力はちっと落ちるけど、まぁ気にすることでもない」

 

「それならお願いします」

 

「はいよ。帰ってくる頃には終わってるだろうし、使って確かめるぞ。多分自分じゃ撃ってる時のことはわからないしな」

 

 先輩に俺の銃を入れた箱の鍵を預けてから、俺は菜沙が待っている場所へと向かっていった。今日はやることが多くて、中々大変な1日になりそうだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 部屋の掃除も終わり、墓参りも済ませた。もう帰ろうかと思っていたところで、菜沙が俺の街にあった高台に行きたいと言ってきた。別に拒否する理由もないので、俺は菜沙と二人でいつものように手を繋ぎながら高台へと向かうことにした。

 

「菜沙は、ちゃんと両親とかと話してきたか?」

 

「したよ。ひーくんのことも、たくさん話してきた」

 

 俺のことを見上げるように笑ってくる菜沙。知らないところで自分の話をされていたと聞いて、少し恥ずかしくなった。照れを隠すように、俺は菜沙の頭を少し荒く撫でる。

 

「……もうちょっと優しく撫でてよ」

 

「喜んでんじゃねぇか」

 

「喜んでないもん!」

 

 本人はムスッとしているつもりなのだろうが、顔はもう完全にニヤけていた。何度やられても耐性がつかないらしい。そんなに頭を撫でられるのは気持ちがいいのだろうか。そんな疑問に、菜沙は答えた。

 

「多分ね……私が女の子だからだと思うよ?」

 

「……どういう意味?」

 

「女の子は、好きな人とかと手を繋いだりするだけで落ち着くし、幸せな気分になれるの」

 

「ふーん」

 

「男の子は、その……女の子と、そういうことしたりとか……」

 

「恥ずかしがるくらいなら言わなくていいから」

 

 少し頬を染めて顔を逸らした菜沙を見て、少し笑いがこぼれた。前はこんなにも平和だったのに、今となっては……こういった時間が本当に大切なものだったんだなと気づかされた。何気ない日々として、吐き捨てるように過ごしていたあの時間。今では、勿体ないと思うようになった。そう思えるようになったのは、きっと少しでも成長出来たということなんだろう。

 

 そうして他愛もない話をしながら歩いていくと、やがて山の麓に辿り着いた。その山には少し出っ張っている部分があり、そこは街を見下ろせるくらい高い場所で、景色がとても良かった。ちょうど、高層ビルが立ち並んでいないような地帯だったからだ。

 

「あと少しだな」

 

「ここに来るのも、久しぶりかもね」

 

 土と木枠で作られた簡素な階段を登っていき、やがて開けた場所に辿り着いた。屋根のついた小さな休憩スペースと、落ちないように囲われた木の柵の近くに設置されているベンチ。その光景を見て懐かしさに襲われた。昔はよくここで菜沙と一緒に星を見たりしていたものだ。俺にとっても、菜沙にとってもここはお気に入りの場所だ。

 

「やっぱり、ここの景色って綺麗だね」

 

 菜沙が柵に両手をついて、街を見下ろした。俺も彼女の隣にまで歩いていき、その景色を目に焼き付けた。眼下に広がる街並みと、地平線の向こうへと消えていきそうな夕焼け。平和な世界だ。なんとなくその光景を残しておきたくて、俺は携帯を取り出して写真を撮ろうと思った。

 

「写真撮るの? なら、一緒に撮ろうよ」

 

「一緒に……?」

 

「ほら、もっとこっちに来て」

 

 菜沙に引っ張られて彼女と身体をくっつける。そして彼女が手で持っている携帯で自撮りをする形で、後ろの風景の写真を撮った。シャッター音が鳴り、二人で撮れた写真を見てみると……微笑んでいる菜沙と、無愛想な俺が映り込んでいた。それを見て菜沙は吹き出した。

 

「ふふっ、ひーくん無表情だ。もっと笑ってよ」

 

「急にやられたらそりゃ驚いて表情作れないって。むしろ俺の驚き顔が写って事故画になってないことを喜ぶべきだな」

 

「それはそれで欲しいかも。もう一枚撮ろっか?」

 

「いやいいって……もう十分だ」

 

 後ろを向いて、俺は柵に背中を預けた。両肘がちょうど柵に乗っかる高さだから、中々リラックス出来る姿勢だった。菜沙は俺の身体に自分の身体を押し付けるような形で楽な姿勢をとった。菜沙は軽いから、押されてもそこまで気にはならない。彼女を見下ろす形になって、その身体を見たが……やっぱり、その胸の起伏は主張をしていなかった。

 

「……ひーくん?」

 

「どうした」

 

「何考えてたか言ってみて」

 

「まな板について考えてた」

 

「……私そろそろ泣くよ?」

 

「まな板にしようぜ! かなりまな板だよコレ!」

 

 言ったら全力で腹を殴られた。容赦のない一撃に加えてみぞを的確に狙ったものだった。流石に耐えられなくて、俺はその場に腹を抑えて座り込んだ。俺の幼馴染は暴力を振るうことにためらいがないらしい……。

 

 本人は、バーカッて言ってそっぽを向いていた。どうやら怒らせてしまったようだ。

 

「……悪かった。流石に言い過ぎた。プッチンプリンのプッチンする部分くらいの起伏はあるから」

 

「………」

 

「あ、待って。流石に無言で首締めるのはッ───」

 

 菜沙の両手が俺の首を絞めつけてくる。その目は完全にやる気満々で、腕にも相当な力が込められていた。

 

 完全に怒らせてしまったようだ……仕方がない、甘んじて受け入れよう、と覚悟を決めた時に、彼女の首を絞めてくる力が弱まっていった。かと思えば、そのまま腕を首に回して、彼女は抱きついてきた。もう何がしたいのかわからない。

 

「……傷ついたから抱きしめて」

 

「仕方ねぇなぁ……」

 

 彼女の頭を抑えるように片手を回し、もう片手は彼女の腰あたりを抑えた。これだけ密着してようやく、彼女にも胸があるのだと実感出来る。流石にプッチンプリンのあの部分よりもあった。訂正しておこう。

 

 なんてことを考えていると、菜沙は俺の胸の部分に顔を押しつけてから、すぅっと深く息を吸い込んだ。そして吸った分を吐き切ると、えへへと笑い始めた。

 

「ひーくん……」

 

「お前は本当に昔っから変わらないな……」

 

「変わんないよ、ずっと。私の行動も、性格も……胸も」

 

 最後はボソリと呟くようにだったが、やっぱり胸の小ささはコンプレックスのようだ。別に小さくても構わないんだけどな……って言ったら、顔を上げて睨まれた。

 

「だって桜華ちゃんの胸の方が好きでしょ」

 

「いや胸に好きも好きじゃないもないと思うんだけど」

 

「嘘つけ絶対見てるもん」

 

「なんで見る必要なんかあるんですか」

 

 悔しいのか、回している腕をきつく締めつけるように力を強めてきた。いや、だって、ねぇ……? あんなに大きなものが視界の中で動いたら目が追ってしまうのも仕方の無いことだろう。だから俺は悪くない。

 

「……ねぇ、ひーくん」

 

「ん、どうした?」

 

 腕の中で寛いでいた菜沙が、顔を動かして街の景色を見ながら言ってきた。

 

「……仕事辞めてって言ったら、辞めてくれる?」

 

「……なんで今それを」

 

「だって、もうお金も貯まったでしょ。ならもう危険なことしなくていいよ。このままゆっくりと暮らそう? そうだ、どこか二人っきりで遠いところに行こうよ。私達二人なら、きっと大丈夫だよ」

 

「……そうだな。それも悪くない」

 

 俺の返事が意外だったのか、彼女は目を丸くして俺を見上げてきた。そんな彼女の頭を、優しくゆっくりと撫で始める。

 

「……でも、やっぱりできないよ。皆を置いて行くなんてことはできない。先輩も、藪雨も、西条さんも。そして……七草さんなんて特にだ」

 

「………」

 

「とても魅力的な提案だけど、そりゃまだ無理だな」

 

「……してよ」

 

 小さな声だった。それに、震えていた。その声も、彼女自身も。胸に顔を埋め、腕の中で小刻みに震え始めた彼女は俺に訴えてきた。

 

「もっと、私のこと優先してよ……」

 

「……俺の中では、優先してると思うけど」

 

「そんなんじゃ足りないもん!!」

 

 彼女は完全に泣き始めてしまった。何故、泣いているのだろうか。俺にはわからなかった。できることもなくて、ただ彼女の話を聞くことしかできなかった。

 

「前はもっと、一緒にいれたのに……今は、全然一緒にいれない!! 寂しいよ……私、もっとずっとひーくんと一緒にいたいよ……」

 

 ……確かに、前はもっと一緒にいれた。でもそんな生活をしていても、いつかは終わっていただろう。高校の終わりか、大学の終わりか。大人になれば、ずっと一緒にいるなんてのは無理な話になってしまうのだから。

 

「心臓の音、聞こえるよ……けど、いつかこの音も聞けなくなっちゃうかもしれない。ひーくんが、任務で外に行く度に帰ってこないかもしれないって、怖いの……」

 

「……悪い」

 

「悪いと思ってるならッ……!! ……ごめん、私、なに言ってるんだろ……」

 

 ……心配させてしまうのは、本当に悪いと思っている。彼女は俺の帰りを待つことしかできないのだから。一緒に任務に行く訳では無い。それはきっと、たまらなく恐ろしいことだ。

 

「……菜沙。俺はそう簡単に約束は破らないように努力してるよ。待たせてばかりで悪いけど、さ……」

 

「……ごめんね、面倒だよね、私みたいな女の子……」

 

「……何をいまさら。お前がいなかったら、俺はきっともっと前に……父さんと母さんが死んだ時に、発狂してたよ。あの時お前が生きていてくれてよかった。お前は、俺の心の支えなんだよ。そんなお前が面倒なわけないだろ」

 

「っ……桜華ちゃんじゃ、なくて?」

 

「……一番の拠り所は、お前だよ」

 

 いつだって隣にいた。こんな状況になってしまっても、彼女は俺の隣にいた。それが……どれだけ俺の心を救ってくれたことか。きっと菜沙があの時死んでいたら、俺はきっと七草さんに依存していたかもしれない。そしたらもう、俺は録な人間にはなっていなかっただろう。復讐にとりつかれた、それこそ本当の殺人鬼になってしまってもおかしくはなかった。

 

 そう伝えると、彼女はまた腕の中で泣き始めた。震える彼女の身体を、優しく抱きしめる。大切な幼馴染だ。それを愛おしいと思って、悪いことはないだろう。

 

 ……もうすぐ、日が沈む。そろそろ帰らなければ。

 

「……菜沙、帰ろう?」

 

「……うん」

 

 身体から離れた彼女は、すぐに俺の手を握ってきた。力強く握られたその手を、俺も軽く握り返した。彼女の頬に残った涙の跡を、指で少し拭ってやる。彼女は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

 

「……いつか、二人きりでどこか遠くに行こう?」

 

「……長期休暇が取れたらな」

 

「絶対取って」

 

「世の中を守るヒーローに、休みは中々取れませんよ」

 

 調子の戻ってきた彼女を見て、俺は内心ホッとしていた。彼女が悲しんでいるのを見ると、俺も悲しくなる。そういうものなのだ、俺と彼女の関係というのは。

 

 手を繋いで、ゆっくりと帰り道を歩いていく。すると、ポケットに突っ込んでいた携帯が数回震えた。誰かからメッセージが届いたらしい。トーク画面には、七草 桜華と書かれていた。

 

『翔平さんが真っ黒になってた! なんだか楽しそうだったよ!』

 

 そんな言葉と共に、汚れた顔の先輩と一緒に写った七草さんと加藤さんの写真が送られてきた。菜沙も携帯を横から覗き見て、頬をふくらませた。

 

「……桜華ちゃんと、私の横で楽しくやりとりしてるの?」

 

「いや、送られてきただけだから」

 

「……もっと、私のことを見てよ」

 

 悲しそうに伝えてきた彼女に、俺はハッキリと答えた。

 

「俺はいつだってお前のことちゃんと見てるつもりだよ」

 

 ……その言葉に、彼女は答えなかった。ただ握っている手を、何度か力強く握り返してきただけだった。

 

──(なら、)────────(私の想いも気づいてよ)

 

 ……菜沙が何か言っていた気がするが、俺には聞き取れなかった。何度か尋ねてみたが、叩いてきたり、頬を突っついてきたりで、答えてくれなかった。

 

 

To be continued……



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第71話 ヒーローの在り方

 空の月は三日月。あまり力が出ない夜だ。しかし俺達の仕事に休みというのは中々ない。最近の任務達成率やら何やらで、一般兵として名を上げてきた俺達。とうとう夜間見回りの任務まで来るようになってしまった。いつもの黒い外套を身に纏った俺と先輩は、人に見つからないように暗い道を進んでいた。隣を歩く先輩から心底嫌そうな声が聞こえてくる。

 

「……なぁ俺もう帰りたいんだけど」

 

「俺も帰りたいです。正直眠いですよ」

 

 夜間見回りは、基本的に誰と行動してもいい。まぁ、七草さんは寝かせといてあげた方がいいからということで、俺と先輩の二人だけで見回りをしていた。西条さんは嬉嬉として単独行動に走ったため、今回は放っておくことにした。どうせそうポンポンと神話生物が見つかるわけじゃない。

 

「人もいねぇし、神話生物もいねぇし。何か明確な目的がある訳じゃない。ゲームで図鑑コンプした後みたいな虚しさを感じる」

 

「違和感も何も感じませんしね。今回の担当地区は外れでしょう」

 

「お、おい……もう帰ろうぜ……?」

 

「なんだよタケシ、ビビってんのか?」

 

「そこで帰っておけばあんな悲劇にはならなかったんだがなぁ」

 

 あまりに暇すぎて、俺達の会話も自然と中身のないものになってくる。実際問題、青鬼と正面切って戦ったら勝てるのだろうか。小説版だとアホみたいに強いからなぁ、アレ。先輩が銃撃ってれば勝てなくもなさそうだが……。

 

 そんなアホみたいなことを考えていると、遠くの方から誰かの声が聞こえてきた。またいつか聞いたみたいな、女の人が嫌がる声が聞こえてくる。先輩と顔を見合わせてから走り出したが、互いにすぐさまため息をついた。

 

「……神話生物退治より、そこら辺にいるチャラ男ぶん殴る方が回数多くなんじゃねぇの」

 

「まったく人間ってのはどうしてこう短絡的かつ快楽的に生きるんですかね」

 

「相も変わらず、世の中クソだな……っと。出会い頭にキャベツでもぶつけてやろうかな」

 

「食べ物粗末にしたら農家の方と俺から怒りの鉄槌が飛びますよ」

 

「ポケットから赤い液体取り出すの本当やめて」

 

 ……その日の見回りは、絡まれていた女性を助けるということを何回かして終わった。表沙汰にならないだけで、多くの人がそういった事件に巻き込まれているのだとわかってしまった嫌な日となったが……助けられた人がいたから、よしとする。

 

 夜間の身体能力と、起源覚醒による身体能力。そしてこの黒い外套のおかげで、人の目に触れないように闇夜を走り抜けることが出来た。時には壁ジャンプをして電気の消えたビルの窓枠に足を引っ掛けて跳んで行ったりと、わりと楽しみながら広い範囲を動き回っていた。今度はビルからビルへ跳び移る遊びでもしようか、と先輩が話していたが……落ちたら死ぬということを理解しているのだろうか。

 

 俺達は蜘蛛男じゃないのだから、落ちたら死ぬのは当たり前だ。だがまぁ……ビルからビルへ跳び移ってみたい気持ちはある。いやだって、格好いいじゃん。まるで映画みたいだ。フックショットが使えたらできなくもないが……あれはどう頑張っても、現実では使えない。先輩が暇な時に試作品を作っていたが、やっぱりゲームのようにはいかなかった。ガーンだな。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「せーんぱいっ、暇つぶしにどこか行きましょうよー」

 

 すっかり皆の憩いの場となってしまった俺と先輩の共同部屋。今日も今日とて、西条さんと加藤さんを除いた皆が集まっていた。藪雨はやることがなく暇らしい。俺達も暇と言っちゃ暇だが……休みの時は、何もしないでゆっくりするというのも大事なのだ。決して藪雨の相手をするのが面倒だと言い切るわけじゃない。

 

「……あのねぇ、俺と先輩は徹夜で外回ってきたの。そんで朝早くは特訓して、今やっと休んでるの。先輩を見てみろ、真っ白に燃え尽きてるじゃねぇか」

 

「いや鈴華せんぱいが倒れてるのって、せんぱいがヤバイ色した固形みたいなの盛ったからですよね」

 

「だって疲れてるのにアホな事ぬかしてくるんだもん。俺悪くない」

 

 ソファでぐったりしている先輩を横目で睨みつけた。疲れてる時に家事を押し付けないで欲しい。せめて手伝ってくれ、本当に。さすがの俺も疲れてる時は沸点が低くなるのだから、仕返しにデスソースセカンドエディションの別派生として作られた個体として濃縮された赤色のキューブ。通称ソリッド・ソースを使ってしまっても誰も文句は言わないだろう。

 

「ひーくんってデスソースだけでどれだけの種類を作ってるの?」

 

「原液を濃縮して更に濃縮して、スプレー、気体爆弾、固形物……俺もわからなくなってきたな」

 

 気がつけば溜まりに溜まった失敗作の数々がゴミ箱に捨てられている。そのうち自然発火現象でも起こしそうな気がしてきた。危険物として処理するべきだろうか。

 

 まぁそんなことはどうでもいいや、っと俺は珈琲を啜った。疲れはとれないが、十分落ち着く。先輩もそのうち起きれば体力が回復していることだろう。半強制的に寝かせてあげたのだから感謝してほしいものだ。

 

「……よくよく考えたら、今この状況って凄いですよねー。美少女三人と会話してるの、せんぱいただ一人だけなんですよ?」

 

「悪いな、俺の視界の中にいる美少女は二人だけだ。背の低い子供なら見えるが」

 

「また背が低いって言いましたね。しかも美少女まで否定した!! 私だって怒る時は怒るんですよ!?」

 

「その程度で怒るとは、やはり子供だな……。ってか、お前外に友達がいるだろ。そいつらと遊んでくればいいじゃねぇか」

 

「……素の私でいられるの、ここだけなんですよ」

 

 そう言った藪雨の顔は、心做しか暗く見えた。蛇人間達との事件の時に藪雨には軽く説教っぽいことをしたが……まぁ、ここでくらい素の自分でいられるようになったらしい。それは喜ばしいことだ。

 

 藪雨はマグカップを両手で持ちながら、暗かった表情を無理やり変えるように微笑んでから言った。

 

「……まぁ、感謝はしてますよ。なんだかんだ言って、ここはとても居心地がいいですから。遊びに来ればお菓子と珈琲も出てくるし、遅くまで居座っていればご飯も出てくるし」

 

「飯目当てかこの野郎……まぁ、いいけどさ。お前が楽に過ごせるようになったって言うなら、俺があの時お前に話した甲斐があったってもんだ」

 

 思い返してみれば、中々に恥ずかしい体験だったのではないか。満月の夜にベランダで二人っきり。互いに隠し事もせずに、腹を割って話し合った。まぁ、青春の1ページと言うことにしておこう。

 

 そう思ってまた珈琲を啜ると、ジト目で俺を睨んでいる菜沙と目が合った。心做しかその頬が膨れている気がする。

 

「……氷兎君は、いろんな人を助けてるよね。行った先で、現地の人だけじゃなくて、周りにいる私達も。きっとここにいる人は、皆氷兎君に助けられてるはずだよ」

 

 七草さんの笑顔が突き刺さる。その笑顔はいつ見ても綺麗だった。汚れのないその表情を、ずっと保ち続けてほしい。その為にも、その表情を曇らせないように頑張らなくてはならなさそうだ。

 

 そんな決意をする中、七草さんの言葉に頷いた藪雨と、距離を詰めて腕と腕をくっつけるようにしてきた菜沙。感謝されているというのは嬉しいが……こうも真正面から言われると、恥ずかしいったらありゃしない。俺は頬を掻きながら視線を逸らした。

 

「ふふっ……。氷兎君は、ヒーローみたいだね。困ってる人のところに現れては、助けて去っていく。まるで漫画の中に出てくる主人公みたい」

 

 ……七草さんは、俺をヒーローだと言ってくれた。しかし、そんなことはない。それを自称するには……それを誇りのように言うには、あまりに手を汚しすぎた。

 

「……そんなヒーローに、なれたら良かったけどな。俺にはもうなれないよ。誰も彼もを助けるヒーローなんてのは、きっともっと凄い奴だ。何の汚れもない手で、何もかも救っちまえる奴なんだ。俺は……助けられた人よりもきっと、助けられなかった人の方が多いよ。そんな天秤で数を競う訳じゃないけどさ……」

 

「……ひーくんは、そんな皆を助けられるヒーローになんてならなくていいんだよ」

 

 すぐ隣にいる菜沙が俺を見上げながら言ってくる。相変わらず、その瞳には揺らぎがない。真っ直ぐと俺を見据えて、偽りのない彼女の本心を伝えてきた。

 

「ひーくんはね、優しいから色々なものを背負っちゃう。皆を助けられるようなヒーローを目指したら、きっと倒れちゃうよ。だから、ね……私達のヒーローでいてくれればいいんだよ」

 

 俺の右手に彼女の左手が重ねられた。昔から変わらない柔らかさ。そして彼女の暖かさが、俺の心を満たしていくような気がする。

 

「ひーくんの正しいと思ったことをして、それで助けられない人が出たとしても……仕方ないと割り切ってほしい。私はそれを責めるようなことはしないよ。私がいつも思っているのは……ひーくんが、無事に帰ってくることだから。ずっと、私の隣で護ってくれるヒーローでいてね、ひーくん」

 

 重ねられた手が握られる。真っ直ぐな瞳が俺を貫く。その言葉に俺は……ゆっくりと頷いた。それを見て満足そうに笑った菜沙は、そのまま身体を傾けて俺に預けてきた。彼女の温もりが、身体と心を癒してくれるような気がする。長い付き合いの賜物なんだろう、きっと。

 

「……唯野せんぱいは、唯野せんぱいらしく生きていけばいいんですよ。菜沙さんの言ったように、誰かに何を言われてもいいから……自分の意思をちゃんと持って、頑張っていけばいいと思いますよ」

 

「いつだって、私は氷兎君のこと頼りにしてるんだよ。だから……氷兎君も、私を頼っていいんだよ。そうやって、これからも一緒に頑張っていこう……ね?」

 

 藪雨のどこか照れたような言い方と、七草さんの首を傾げた微笑みのせいで……体温が一気に上がった気がする。多分傍から見てもわかるくらい、顔が赤くなってしまっていることだろう。恥ずかしさを紛らわすように、俺は珈琲を口に含んだ。すると、ソファの方からゴソゴソと動く音が聞こえてきた。ようやく先輩が起きたらしい。恨みがこもってそうな声が聞こえてくる。

 

「うぐぉぉ……辛さと甘さでイカれちまいそうだ……」

 

「天パせんぱいおはようございまーす」

 

「起きて早々お前の声を聞く羽目になるとは、今日は厄日だな……」

 

「おいそれどういう意味だ天パ」

 

「後輩の口が悪くなる。やっぱ年上のお姉さんが至高だって、ハッキリわかんだね」

 

「あったまきた。唯野せんぱい、デスソースください」

 

「そこの失敗作なら使っていいぞ」

 

「氷兎ッ!?」

 

 数秒後、明らかに近所迷惑になるだろうと思われるくらいの悲鳴が響いた。辛さに悶える先輩と、それを見て笑っている俺達。こんな平和な日々が、毎日続けばいいのに。そう願って止まなかった。

 

 勇者(ヒーロー)。それは俺が夢見ていたもの。しかしそれは決して叶わぬものなのだと、実感してしまったもの。けれど特定の誰かの味方という意味でのヒーローであるのならば、なれるのかもしれない。

 

 俺にとってのヒーローは、きっと……そこで悶え苦しんでいる、格好悪い相棒(ヒーロー)なんだろうなぁ。

 

 地面に横たわった先輩をニヤニヤと眺めながら、俺は心の中で先輩に感謝した。心の支えや、戦う理由となっているのは菜沙や七草さんだけど……。

 

 いつも隣や後ろで俺を護ってくれてるのは、やはり先輩だったから。だから……これからも、よろしくお願いしますね、先輩。

 

 

 

To be continued……



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第六章 幸せの片道切符
第72話 暗雲立ち込める任務へ


 例えば、君は不幸な人生を送っていたとしよう。欲しいものが得られず、また他者から迫害でもされていたとする。けれど、そんな君にも大切なものはあった。

 

 ある日、君の目の前に幸せの片道切符が届いた。それを使えば、君は幸せになれる。君を取り巻く環境から逃げることが出来る。

 

 さぁ……君はどうする? 使ったっていいんだよ。君はもう十分苦しんだじゃないか。

 

 幸せになりたいだろう?

 

 

 

 

───────────────────

 

 

 

 

 何故、私には皆にあるものがないのだろう。私だって遊びたい。私だって好きなことをしたい。私だって……幸せになりたい。

 

 きっと私よりも不幸な人はいる。私がいないと、生きていけない子がいる。だからまだ、生きていられる。けれど……なんで、私がこんな目に遭わなければならないのだろうか。なんで、なんで……。

 

 気がつけば、私は人知れず泣いていた。こんな不便な土地で、こんな不便な身体で生きていくのは、とても辛い。

 

「どうかしたんですか? なんか……その、手伝える事とかありますかね?」

 

 今日もまたこうやって……誰かに助けて貰わなければ生きていけないのだから。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「……諸君、朝早くから集まってもらって感謝する」

 

 司令室にて、俺達のメンバーは全員呼び出しを喰らっていた。部屋の中ではいつものゲンドウスタイルを貫き通す木原さんと、横一列に並んだ俺達がいる。

 

「今回君たちにやってもらう任務とは……いや、先に先日起きた出来事について話しておこうか」

 

 木原さんがスクリーンに画像を映し出した。そこには何人かの男性や女性の研究職員らしき人達の写真が映っていた。それらを俺達に見せながら、木原さんは話し出した。

 

「ここに映っている研究員達が、それぞれ組織から逃亡した。重要書類や、世に出回ってはいけない機械なんてものも持ち出してだ」

 

「……逃亡した?」

 

 先輩が訝しげに問いただした。俺達からしてみれば、この組織を逃げ出す必要なんてないように思える。辞めたければ、辞めさせてくれと頼めばいい。ある程度信用が得られていたのならお咎めなしに辞められるだろう。

 

 それとも、研究職員の仕事はブラックだったのだろうか。だが、それほど過酷な作業だとは菜沙は言っていなかったと思う。そうなると……この職員達が逃げ出した理由がわからない。

 

「我々も理由はわからん。研究員はある程度組織内でのヒエラルキーが高い位置にある。だから組織内のパソコンを弄って監視カメラを止めたりできたわけだ」

 

「……それで、俺達に頼むのはこの裏切り者を連れ戻すことか?」

 

 西条さんは逃げ出した人達を冷たく突き放すように言った。俺はまだどうとも言えない。彼らが裏切り者であるのならば、何かしら理由がなければならないのだから。この国家組織を裏切れるだけの、大きな理由が。

 

 西条さんの質問に対し、しかし木原さんは首を振って答えた。

 

「連れ戻す必要は無い。君達に頼むのは、この研究員の始末だ」

 

「……おいおい、俺達はこの前言ったはずだ。人殺すためにこの組織に入ったわけじゃねぇんだぞ」

 

「そうだな。だが、数の多い処理班を送るには騒動がデカすぎる。言葉を変えようか。研究員の無力化が任務の内容だ。最後の始末は処理班に任せればいい」

 

 俺と先輩の目つきが鋭くなる。西条さんもこの任務に不服を感じているようで、いつもよりも目つきは反抗的だった。七草さんだけは、どうしたらいいのかと困惑している様子だ。

 

 そんな不満しかない俺達のことなんて気にもせず、木原さんは話を続けた。

 

「逃げ出した職員はバラバラに日本中に散っていったようだ。生体反応を追おうにも、彼らはどうやってか居場所がわからなくなっている。おそらく生きてはいるんだろう。その捜索は諜報員が行っていたが……ようやく足取りが掴めた。その研究員の一人をお前達に任せる」

 

 スクリーンに映し出された画像が変わる。今度は日本地図だ。拠点である関東地方から様々な場所に向かって矢印が飛んでいく中で、そのうちの一つを木原さんが指で示した。

 

「場所は、北海道だ」

 

「北海道ッ!?」

 

「アホみてぇに遠いじゃねぇか……」

 

 驚いた先輩と、頭を抑えながら愚痴をこぼした俺。西条さんもどこか面倒くさそうに眼鏡を弄っていた。

 

「北海道……涼しい場所なんだよね? 少し暖かい格好していかないとね!」

 

 楽しみにしている七草さんとは裏腹に俺達は任務の内容と足の確保の面倒くささにため息をついてから、木原さんに一瞥もせず部屋から出ていった。もうアレを上司だとは思いたくないものだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 翌日、俺達は飛行機に乗って北海道へと向かっていた。そう長くはないが、久しぶりの空の旅だ。椅子に身体を預け、ゆったりと寛ぐことにしよう。

 

「うわぁ……氷兎君、本当に空飛んでるんだね! 凄いよ、雲の中入っていってる!」

 

 飛行機の端の座席に座って、窓から外を見ている七草さん。その無邪気さに笑みを浮かべながら、俺は先程貰ったコンソメスープを一口飲んだ。熱かったが、コンソメの美味い味が口の中に広がっていく。通路側に座っていた先輩が周りを見て不思議そうな顔で尋ねてきた。

 

「……なぁ、西条はどこだ?」

 

「ファーストクラスらしいっすよ」

 

「ウッソだろお前……」

 

「まぁ、西条さんは良いところのご子息ですから。そういうのが当たり前だったんじゃないですかね。ってか、今回の飛行機のチケット取ってくれたの西条さんですし、文句言えませんよ」

 

「俺達を置いて一人でファーストクラスって、罪悪感とか寂しさとか感じねぇのかアイツ……」

 

「……多分感じてないんじゃないですかね。今頃我が物顔でふんぞり返ってますよ」

 

 頭の中に西条さんの高笑いする光景が浮かんできたのか、先輩は頭を抱えて、あの野郎……っと唸り始めた。そっとしておこう。俺は無視してスープを飲み続けた。すると窓の外を見るのをやめた七草さんが、先程の会話で気になったらしいことを聞いてきた。

 

「ねぇ氷兎君。ファーストクラスってなに?」

 

「ファーストクラスってのは、まぁ……お金持ちが使うような場所だな。広いスペースを一人で使えたりとかするみたいだ。使ったことないからわかんねぇけど」

 

「へぇー、やっぱり西条さんってお金持ちなんだね」

 

「俺たちゃ庶民らしく、ゆったりくつろごうぜ。今この場所も、まったく不満なんてねぇんだからさ……西条の奴が一人で楽しんでいること以外は」

 

「やけに根に持ちますね……」

 

「俺もリッチマンの気分を味わってみたかった」

 

「なら帰りはファーストクラスで帰って、どうぞ」

 

 いや、せめて一緒に行こうぜ……と先輩は言ったが、そもそもファーストクラスって一人用じゃないのか。詳しくは知らないけども。

 

「翔平さんがそのファーストクラスに行くなら……帰りは、私と氷兎君の二人っきり、だね?」

 

「……先輩が使えば、そうなるな」

 

 えへへっとどこか嬉しそうに微笑む七草さん。二人っきり、という言葉に少し胸がときめいた気がしなくもないが……いや、うん。正直言おう。俺も言われた時は嬉しいと感じた。だって七草さんみたいな美少女に二人っきりだねとか言われてみろ。勘違いして告白して玉砕して、次の日にはSNSでアイツに告られたマジキメェみたいなものが出回ること間違いなしだ。

 

 ……七草さんに限って、そんなことはしないと思うけど。

 

「……任務の先々で出会いを求めるのは間違っているだろうか」

 

「間違いだらけでは?」

 

「大学生(退)でも恋がしたい」

 

「そのうち良い相手が見つかるでしょう」

 

「社会人だけど愛さえあれば関係ないよね」

 

「もうアニメやラノベの名前で言ってくるのやめてください、くどいです」

 

 飽き飽きとしてきた先輩とのやり取りに、俺はため息をついた。最近ため息をつくことが増えた気がする。ささやかな幸せが逃げてしまうかと思ったが……考えてみれば隣に七草さんという美少女が存在するだけで幸福感を感じれるのだから別にいいんじゃないかと変な考えが浮かんできた。まるで男子校に通ってる学生みたいだぁ……。

 

「……そういやぁよぉ、真面目な話すっけど、今回の任務どこかきな臭くないか?」

 

 態度が一変。先輩は真面目な顔つきで俺に尋ねてきた。その言葉に七草さんも何か感じていたのか、小さく頷いていた。まぁ俺も確かに変だとは思っていたが……。

 

「唯の研究員が、生体反応を消せる装置とか作れたとしてだ。別にカード置いてきゃいいだけの話だと思うんだ。それとも、リスクを犯して拳銃を持ち出す必要があったのか」

 

「別々の方向に逃げたというのも気になりますね。計画的犯行の割には、実行犯がバラバラになって逃げる利点が思いつきません。行方をくらませやすいと思ったんでしょうか」

 

「それと、持ち出した機械とやらもだ。どんな大きさか知らねぇけど……普通バレるだろ。うちの警備体制ってそんなガバガバじゃねぇし、下手な事したら処理班が出てくるんだぞ。それを持ち運ぶことも考えると、車とかだろ。出入口は俺が知る限りでは噴水前のエレベーターと、その隣に隣接した長ったらしい階段だけだ」

 

「……捕まえて聞く必要がありそうですね」

 

「そうだな。無力化して、無理やりにでも口を割らせねぇと。下手したら……組織内部に、まだ計画に加担したやつがいる可能性もある」

 

「……これはまだ、なんとなくなんですけど……」

 

 どうにも言いにくくて、俺は一瞬口ごもった。先輩の促すような視線に、俺は考えついたことを口に出した。

 

「……木原さんが絡んでいるんじゃないかな、と」

 

「……おいおい、そりゃないだろ。組織のトップだぞ。それに、命令してきたのも木原さん本人だ」

 

「……そう、ですよね」

 

 頭の中に浮かんできたその予想を、俺は捨て去った。そうだ、そんなことをする利点がない。だけど……西条さんが言っていたように、木原さんの言うことはどこかに偽の情報が混じっているような気がしてならない。

 

 それら全てを正確な情報であると思ってはいけない。最近そう思うようになってきたのだ。それは俺が木原さんに対して不満を抱えているからなのか……まぁおそらくそうなんだろう。

 

「氷兎君、あんまり考え込んでたら疲れちゃうよ? 今こうして休める時に、ゆっくり休んでおこう?」

 

「……それもそうだな」

 

 俺の言葉に満足げに頷いた七草さんは、また笑いかけてきた。その笑顔に俺も笑い返すと、残った時間は身体を休めようと眠ることにした。

 

 ……眠りに落ちる少し前くらいに、七草さんのいる方の肩が重たくなった気がした。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 北海道。それは、日本の北にある土地である。技術革新の波に乗っかり、都会化を目指そうとしたものの、気候や交通の不便さ等が目立ち、結局は昔と大差ない場所である。ともかく、土地が広い。どこかに行くにも車がなければ不便だろう。

 

 空港の前で集まった俺達は、今後どうするのかを考えなければならなかった。

 

「さて、やってきました北海道。観光だけして帰りてぇところだが……」

 

「んなわけにはいかないでしょう。とりあえず宿ですよ宿、寝泊まりできなきゃお話になりません」

 

「おっそうだな。西条、宿はどこだ?」

 

「宿なら取れなかった。どこも空きがないらしい」

 

「……嘘だろ? 今は観光シーズンでもねぇってのに、なんでホテル埋まってんの?」

 

 なんだか前の任務もこんな感じだったな。しかし、先輩の言う通りだ。何故こんな時期に宿がひとつも空いてないのだろうか。田舎町なら仕方ないと言えるかもしれないが、ここは田舎とは中々言いきれない場所だ。宿もホテルもそこそこあるはず。

 

 西条さんは携帯を取り出すと何かのサイトを開いて俺達に見せてきた。どうにも胡散臭そうなサイトのように見える。

 

「最近ここ北海道では、いわゆる都市伝説のようなものが流行っているらしい」

 

「都市伝説だぁ?」

 

「『幸せの招待状』と言うらしいな。何処からか送られてきて、それを受け取った人は幸せになれるらしい。外から来た人でも、その宿に送られてきているらしいが……まったくバカバカしい話だ」

 

 やれやれ、と言いたげな西条さん。流石にそんな都市伝説みたいな話を信じるわけじゃないが……その話を信じた人達がいるから、宿が埋まってしまってるわけか。

 

「だが、コイツを調べたところある情報を得られた。幸せの招待状が送られ始めた時期は、研究員が逃亡してから少しあとのことだ」

 

「なるほど……研究員が絡んでるってわけか」

 

「可能性は高いだろう。しかし、こんな足のつきそうなことをよくやろうと思ったものだ」

 

 西条さんは心底呆れているようだ。ともかく方針は決まった。その幸せの招待状について調べていくのがいいだろう。そうと決まれば、まずは寝床の確保をしたい所だが……最悪また誰かの家に泊めてもらおう。その為にもどこかで飯の材料を確保しなければ。そう思って周りを見回したが……空港の周りとはいえ、大型スーパーなんてものは見当たらなかった。

 

「……困ったな、こりゃ」

 

「広いね……歩いて探し回るの、大変そう」

 

「レンタカーとか借りれねぇのかな」

 

 最悪タクシーを二台使って移動するというのも視野に入れた方が良さそうだ。

 

 今回の任務について話し込んでいる先輩達とは別に、俺と七草さんで周りを見渡していた。歩いている人達の多くは、おそらく現地の人ではないだろう。ここで聞き込みをしても、大したものは得られなそうだ。

 

「んー、なんにもないね……」

 

「冬は雪が凄いらしいからな。そりゃ、こんな所で経営するビルなんてのも多くはないだろうな。交通が不便になるだろうし」

 

「どこか近くに駅とかないのかな?」

 

「電車で移動か……。最悪駅に行けば、大型スーパーとかに行けるバスも出てるかもしれないな」

 

 先輩達も含めて話し合った結果、とりあえずマップを見ながら駅に向かって歩いてみようという話になった。西条さんがタクシーを使うべきだと主張したが、聞き込みも兼ねてだ。徒歩の方がいいだろうと返した。西条さんはタクシーの運転手に話でも聞いた方がいいと言っていたが……渋々と、歩くことにしたようだ。

 

 しばらく歩きながら、先輩と七草さんとで話していた。西条さんは一人少し離れて歩いている。

 

「にしても、思ってたよりもなんもねぇんだな」

 

「もうちょっと何かあると思ってましたけどね」

 

「下手な田舎町よりも、足がないことの弊害がでかいんじゃねぇの」

 

「かもしれませんねぇ」

 

 俺達を何台もの車が追い越していくのを見ていると、なんだかムカついてきた。大荷物を持っての移動だから本当に疲れる。せめて荷物を置いて調査を進めたいところだ。

 

「……ん? あれは……」

 

 歩いていて、ふと先輩は脇道に目を向けて立ち止まった。何かあるのかと見てみれば……そこには背を向けた女性が車椅子に乗ったまま俯いているようだった。しばらく見ていたが、動く気配がない。時折肩が震えているようだった。

 

「……泣いてねぇか」

 

「おい、何を立ち止まっている。さっさと駅に向かうぞ」

 

「……わり、ちょっと行ってくるわ」

 

 西条さんの止める声も聞かず、先輩は車椅子の女性の元へと歩み寄って行った。先輩らしいと言えば、先輩らしい。一応俺達も近くに行っておこう。そう思って俺は七草さんを連れて近くにまで寄って行った。

 

「どうかしたんですか? なんか……その、手伝える事とかありますかね?」

 

 先輩が女性に声をかけた。その女性が振り向き、その姿がわかった。年は見た目だと多分俺達と変わらない。端正な顔つきではあったが……その顔は確かに疲労が見て取れ、その両目はやはり涙を流していた。助けなくてはならない。そう思わせるような雰囲気を纏った女性であった。

 

 

 

To be continued……




今回の話、下手すると神話生物でないかも。
まぁ、現代でのクトゥルフ神話が主なだけだから、多少はね?
たまには人間同士のぐちゃぐちゃしたもんでも見ようぜ。


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第73話 相反性理論

 車椅子に座っている女性は泣いているところを見られたせいか、涙を拭って恥ずかしそうに笑っていた。目の下にある泣きぼくろが印象的な大人しそうな女性であった。

 

 ……その笑い方はどこかぎこちなく、決して柔らかいとは言えないものではあったが。

 

「すいません……お見苦しいところを……」

 

「いえいえ、いいっすよ。それよりも、どうかしたんですか?」

 

「いえ、その……なんでもないんです。ただちょっと、足が痛くて……」

 

 女性は自分の足をさするようにしながらそう言った。だが、残念なことにそれは嘘のように思えた。まぁ、見ず知らずの人のことをそう疑ってかかる必要も無い。泣いている理由なんて言い難いものだろう。咄嗟に出た嘘というのもありえる。今は気にする必要もなさそうだ。

 

「車椅子……それだと、ここら辺キツくないですかね。俺達でよければ目的地まで連れていきますよ!」

 

 先輩特有の、人の心を和ませるような笑い方だ。初対面相手なら中々に効果的だろう。それを本人が自覚してやっているのかは知らないが……まぁ、いい機会だ。車椅子で旅行に来るわけがない。現地の人に違いないし、何か聞いてみるのも良さそうだ。

 

 先輩に笑いかけられた女性は少し戸惑いながら、俺達の持っている大荷物を見てから首を振って答えた。

 

「いいえ、大丈夫です。それに、今日ここに来たばかりの人ですよね? なら、ご迷惑になりますから……」

 

「……それなら、出来ればお話を伺いたいことが幾つかあります。なので、それについて話しながら貴方を目的地まで送っていく、というのはどうでしょうか? 自分らは全然下調べもしないで来たもので……宿すら確保出来ていないんですよ」

 

 先輩の横までやってきて、俺は女性に言った。女性が提供出来るものは、物と情報くらいだ。対して俺達は普段の仕事もあって体力もある。交渉の内容としては上出来だろう。

 

 女性は悩むように周りを見回して、俺達のメンバーの中に七草さんがいることを見ると、少しホッとした面持ちになった。それもそうだ。こんな男軍団に、しかも車椅子乗ってるのに話しかけられたら怖いだろう。七草さんの楽しそうに周りを見ている仕草や表情が、女性に安心感を与えたのは確かなことだ。

 

 ……七草さんがいてくれて良かったと、俺は心の中で感謝した。

 

「……そういうことでしたら、お願いできますか? 見ての通り、不自由な身体でして……」

 

「うっす、任せてください! それで、どこまで行くんですか?」

 

「えぇっと……ちょっと距離があるんですけど、スーパーまで買い物に行こうと思っていて……」

 

「ならむしろ好都合ですね。自分達も、ちょうど飯とか買える場所を探していたので」

 

 なんとか材料の調達はできそうだ。それさえ出来れば、民家にお邪魔することもできるだろう。更に話まで聞けるとくれば、いい事づくめだ。目敏く女性を見つけてくれた先輩の……うん、まぁなんだ。性欲辺りにでも感謝しておこう。

 

 先輩が女性の車椅子を押し、俺が変わりに先輩の荷物を持つことにした。都会とは違った広い道を歩きながら、女性は俺達のことを尋ねてきた。何をしにここに来たのか、どんなことをしているのか、といった内容だった。車椅子を押している先輩がその質問に答えた。

 

「俺達は……そうっすね、都市伝説とかそういうのを検証して回る集まりみたいなもので……」

 

 適当にはぐらかして答えていく。その質問に答えながら、俺達は各自で自己紹介を終わらせた。西条さんのぶっきらぼうな物言いには、女性は怯えたように見える。初対面でこのインテリヤクザ顔は中々怖いだろうなぁ、と俺は西条さんと初めて会った時のことを思い出した。申し訳ないが、仲間にするのはNG。そう考えていた時期が、俺にもありました。

 

 俺達の自己紹介のあと、女性も軽く頭を下げて名前を伝えてきた。

 

「私は、賀茂(かも) 海音(かいね)といいます」

 

「海音さん……いい名前っすね」

 

「ありがとうございます」

 

 先輩がやけに積極的に話しかけに行っている気がする。あれか、先輩の好みに合っていたのかもしれない。しかし見た目は俺達とさほど差がないと思う。確かに見てくれはお姉さんっぽくはあるが……。

 

「そういえば、都市伝説を探しに来たんですよね。やっぱり……あの招待状、ですか」

 

「そうそう、そうなんすよ。何か知ってたりします?」

 

「……いいえ、特に詳しいという訳ではありません。でも、結構な数の人がその招待状を貰ったらしいです。そして……そのまま、帰ってきませんでした」

 

「……帰ってこなかった?」

 

 幸せの招待状。それを貰った人は幸福になれる。どうにもまだ事件の全容が見えない。先程から後ろで携帯を弄っていた西条さんが、俺の言葉に反応してきた。

 

「招待状と言うからには、招かれる場所があるということだ。そこでその招待主の言う『万人に共通する幸せ』か『個人に合わせた幸せ』というものが手に入るのだろう。帰ってこないと言うからには……その場所でしか、その幸福を得られないということだろうな」

 

「万人に共通する幸せ……果たして、そんなもんがあるんですかね」

 

 俺は歩きながら全員に聞こえるように、自分の考えを話すことにした。これはまぁ、前々から色々と考えていたことでもある。

 

「自論ですが、人間というのは物事に差がなければ認識出来ない事柄が多く、また物事とは相反する状態がなければ存在しないとも言えると思うんです。仮に、相反性(そうはんせい)理論とでも言いましょうか。まぁ、今回はその差について話をしましょう」

 

 珍しく、西条さんも俺の事をじっと見ていた。話を止める人もいないので、俺はその話の続きを言い始めた。

 

「例えば、同じ痛みをずっと感じ続けていれば、それを普通だと認識してしまう。それを人は慣れと言います。では、同じ幸せはどうか。これもまた、慣れてしまう。同じレベルの幸せをずっと感じていたら、それが普通なのだと思ってしまう。だからこそ、俺達には『幸福』と『不幸』という言葉が存在している。言い換えれば、『幸福』と『以前よりも幸福ではない』という状態です。この幸福の差がないと、俺達はそれを実感できない。幸福度が10の人が10の幸福を感じるのと、幸福度が0の人が10の幸福を感じるのとでは、幸せの度合いが違う」

 

「……それで、何が言いたい」

 

「西条さんの言った、万人に共通する幸せ。これって絶対無理なんですよ。人間は欲深い生き物です。だからこそ、更に上の幸福を、と差を求める。ずっと幸せでい続ければ、いつか天井に当たる。そこから先、何が起きても『不幸』でしかないんです。同じ道端に一日ごとに1万円ずつ加算するようにお金が落ちていたのが、ある日千円しか落ちていなかったとする。それを見たら思うはずです。あぁ、なんだ。今日はこれだけか、と。何も無い他者から見れば幸福に感じるものも、その人にとっては以前よりも幸福ではない。ずっと毎日幸せな日々、なんてのは存在しません。だからこそ、万人に共通する幸せなんてものは、嘘っぱちですよ」

 

「ならば、個人に合わせた幸せか」

 

「それもどうかと。西条さんもわかっているはずでは?」

 

「………」

 

 何故か西条さんに睨まれてしまった。個人に合わせた幸せ。それこそ無理難題だ。十人十色の幸せがあり、そのバリエーションに合わせて提供するなんてのは、一個人では無理だ。もし仮に、それができているのだとしたら……。

 

 ……まず間違いなく、神話生物が絡んでいる。しかも上位の存在だ。まだ俺達で相手にできる者ならともかく、上位存在に関しては俺達の法則が通用しない。なんでもありな連中だ。

 

 俺の話を時間をかけて理解した先輩は、もう一つの方の話を聞かせてくれと言ってきた。

 

「んで、氷兎の言った相反性理論だっけ。そっちはどういった内容だ?」

 

「これは簡単ですよ。物事には必ず『裏』がないといけないってだけです」

 

「裏?」

 

「裏がなければ表もない。例えば幸せと不幸、楽しいと楽しくない。簡潔に言えることですけど、仮にこの裏がなくなったとしたらどうなると思いますか?」

 

 俺の質問に答えたのは西条さんだった。顎に片手を添えながら、眼鏡の奥にある鋭い眼光が俺を見据えていた。

 

「さっきの話と繋がるな。不幸、即ち幸せでない状態がなくなった途端、幸せが永久的に続くことになる。それはありえない、ということか」

 

「そういうことです。片方がなくなれば、連鎖的にもう片方もなくなります」

 

「なるほど……。中々、面白い話ではあったな。理論としては穴がありそうだが」

 

「そりゃそうですよ。俺学者じゃないですから」

 

 西条さんは話を終えると、鼻で笑ってからまた少し距離を話して歩き続けた。七草さんは頭を傾げて悩ましげな表情を浮かべている。それを見て不意に笑いがこぼれた。必死に理解しようとしている七草さんが、子供っぽくてかわいらしかった。俺の表情に気がついた七草さんは一気に俺との距離を詰めて問いただした。

 

「氷兎君、なんで私のこと見て笑ってるの?」

 

「んー、なんでもないよ」

 

「うそっ、絶対何かあるもん!」

 

 服の袖をグイグイと引っ張ってくる。また自然と笑顔が出てきて、俺と七草さんは笑いあっていた。そんな傍ら、賀茂さん……言い難いし、海音さんでいいか。海音さんは俺の話を聞いてから、どこか暗い表情を浮かべていた。そして小さな声で、ポツリと呟いた。

 

「……ずっと幸せがないのなら、ずっと不幸もないのでしょうか」

 

「……まぁ、氷兎が言うには、ないんじゃないっすかね。きっと不幸だと思っている人は、普通の人にはわからない、ささやかな幸せに気がつけると思うんすよ」

 

「……本当に、そうなんでしょうか」

 

 その言葉には、誰も答えなかった。ただ先輩が時折別の話題を振って、その空気をなんとかしようと頑張っていたが。

 

 ……生きている限り、幸せには天井ができる。では逆は。ずっと不幸というのはありえるのか。

 

 それはどうだかわからない。おそらく、ずっと不幸の行き着く先、その下限は『自殺』だ。だが、その自殺の瞬間に何を思うのか。クソッタレな人生だったと思うかもしれない。来世があるなら、幸せになりたいと願うかもしれない。

 

 もしかしたら……ようやくこの不幸から解き放たれる、と幸せを感じるかもしれない。

 

 西条さんの言う通り、俺のこの自論はどうやら穴があるようだ。まだ堂々と提唱はできなさそうだが、それでもこの考え方はきっと大事なのではないかと思うのだ。

 

 

 

To be continued……



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第74話 賀茂一家

 スーパーで買い物をして海音さんの家にまで送った後、俺達はそのまま海音さんの家にお邪魔していた。そして俺達がホテルが取れていないことを伝えると、海音さんは泊まっていっていいと言ってくれた。なんでも、親はいない上に弟との二人暮らしをしているようだ。

 

「何から何まですいません……本当、助かっちゃいます」

 

「いえいえ、むしろ助けられているのはこっちですよ」

 

 俺はいつもの様にキッチンで夜飯の支度をしていた。西条さんは一人でずっと調べ物。七草さんは食卓に座って海音さんとお話。先輩は海音さんの弟と遊んでいた。

 

「ねぇねぇ、お兄さん達はどんなお仕事してるの?」

 

「んー、俺達はねぇ……世界中を回って、色んな人を助けて回ってるヒーローなんだぜ!」

 

 変なポーズをとって海音さんの弟から笑いを取ろうとしている先輩。弟の名前は賀茂 白菊(しろあき)君と言うらしい。まだ小学生なようで、海音さんとはだいぶ歳が離れているようだ。小学生ながらも、中々に聡明そうな顔つきである。将来は女の子を取って食う男の子になることだろう。海音さんにそんなことを伝えたら怒られそうだが。

 

 先輩を見上げる形で楽しそうに笑っている白菊君は、先輩のそのアホみたいな仕草を見て訝しげな目を向けた。ニチアサのヒーローでももうちょっと格好いいポーズとると思いますよ、先輩。

 

「えーっ、嘘だぁ。サラリーマンとかじゃないの?」

 

「おいおい、俺達がサラリーマンに見えるか?」

 

「うーん……ホスト……?」

 

「なんてこった」

 

 先輩はまぁ、ホストでもやっていけそうだが。多分天パのせいでそう見られているんじゃないですかね。

 

 しかしまぁ二人とも中々に仲が良さそうだ。先輩は子供と仲良くなるのが得意そうな性格をしている。白菊君も先輩と楽しそうに笑っているし、それを見て海音さんも嬉しそうだった。海音さんと一緒に話していた七草さんが俺の隣までやってきて作業を覗き込んできた。

 

「ねぇ氷兎君、手伝うことある?」

 

「いや、大丈夫だよ。先輩が白菊君に何か変なことしないか見張っていてくれ」

 

「仲良さそうだし大丈夫だと思うよ?」

 

 いや、そんなことはない。あの人が変なことをやらない日はないと思う。俺は料理で手が離せないし、何かあったら七草さんに全力で蹴り飛ばしてもらおう。

 

「そうかぁ……俺達はヒーローには見えないかぁ……。やっぱこう、ベルトとかあったらそれっぽいか? タ・ト・バ的な」

 

「懐かしいですね、それ」

 

「タドコロ・トオノ・BBだな」

 

「えっ、何それは……」

 

 そんな汚いライダーがいてたまるか。白菊君なんて、コイツ何言ってんだみたいな目で見てるじゃないか。穢れのない子供に語録を教えるのは、やめようね。

 

「ねぇ、ちゃんと教えてよ! どんなお仕事してるの?」

 

「困ったな、これは企業秘密って奴でなぁ……。よし、じゃあ俺が一般的な仕事について話をしよう。白菊君は"社員"って知ってるかな……? 今回は"社員"について……お話します……。"社員"と言うのはね、例えば月曜から日曜まで働いていると『気持ちがいい』とか、あるいは、残業をして定時退社をしないことを『気持ちがいい』、といったことを"社員"と言うんだ。毎月三日ずつ休暇を入れあって、もう気が狂う───」

 

「誰かそこの馬鹿を止めろ」

 

 七草さんに頼んで先輩のケツを蹴り飛ばしてもらった。七草さんはオドオドしていたが、子供の未来を守るためだと言い聞かせた結果、そりゃもう容赦のない一撃が先輩のケツに叩き込まれた。宙に浮くぐらいの威力を受けた先輩は、ケツを抑えてその場で蹲ってしまった。時折ビクンビクンッと振動している。

 

 なんか海音さんが目を丸くして驚いているが、俺達からすればもう日常的な光景になりつつあった。先輩がサンドバッグになる日は近い。

 

「うわぁ……すっごい! ねぇねぇ今のキックどうやってやったの!?」

 

「えっ!? えぇっと……」

 

 七草さんが白菊君にキラキラとした目を向けられて恥ずかしそうに顔を逸らした。俺の顔を見て、どうすればいいのかな、と聞いてきたので、俺は先輩を使って蹴り方を教えてあげていいと許可を出した。先輩の焦る声が聞こえた気がするが、俺は料理に忙しい。何も聞こえなかった。

 

「ま、待って、七草ちゃん俺のケツのライフはもうゼロ────ッ!?」

 

 何も、聞こえなかった。いいね? 俺は背後から聞こえてくる悲鳴をバックミュージックにしながら料理を進めていった。どうしてか、いつもより美味しく作れそうな気がする。他人の不幸は蜜の味。隠し味になってくれたのかもしれない。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 夜飯を食べ終わり、白菊君は先輩で遊び疲れて眠ってしまった。起きている俺達は食卓に座ったまま、互いに世間話をしていた。どこか満足そうな顔をした西条さんが俺に言ってくる。

 

「貴様飯を作れたのか」

 

「当たり前ですよ。誰が先輩の面倒を見てると思ってるんですか」

 

「なんか最近俺の扱い酷くない? 気のせい?」

 

 気のせいです、と俺は適当に空気椅子を続けていた先輩に言った。ケツが痛すぎて座れないらしい。飯を食う時の行儀の悪さと来たら……。

 

 そんな先輩の惨状をどこか苦い顔をして見ていた海音さんは、西条さんの言葉に頷くように言った。

 

「こんなに美味しいご飯、初めてかもしれません。お料理が上手なの、憧れます」

 

「ぐぬぬ……やっぱ家事ができる男って需要あるのか……」

 

「できないよりマシでしょう」

 

「おっしゃる通りで」

 

 先輩は空気椅子をするのが疲れたのか、壁に背中を預けるようにして楽な姿勢をとっていた。時折自分でケツを触っては顔を歪ませている。

 

 ……まぁ、七草さんと白菊君に嫌という程蹴られてたからね。気絶しなかっただけ良かったと思う。

 

 そうやって先輩のことを観察していたら、今度は七草さんが俺に話しかけてきた。その表情はどこか物怖じしているというか、不安そうな顔をだった。

 

「氷兎君は……やっぱり、家事とかできる女の子がいい?」

 

 だが、聞いてきたことはどこに怖がる要素があるのか、といったものだった。家事ができる女の子がいいか、か。まぁ確かにできるに越したことはないが……。でも、それは大切なことではないだろう。

 

「俺は別にって感じだよ。どんな女の子がいいのかって理由に、家事ができるってのは理由にならない。好きな女の子なら、別に欠点抱えてたって許容できると思うよ、きっと」

 

「そ、そっか……。よかった、私あんまり家事は得意じゃないから……。いつも菜沙ちゃんが色々とやってくれてるの」

 

「菜沙も家事はできるからな。俺が昔みっちり教えこんだし」

 

「……今度、時間があったらでいいから、家事とか……教えてくれる?」

 

「勿論、いいよ」

 

 上目遣いのような、恥じらいを帯びた頼み方であったが、俺がいいよと言うと彼女の表情は一変し、いつもの無垢な笑顔に戻っていった。その笑顔を見るだけで、心が安まる気がする。

 

「……珈琲があったらブラックで飲んでるところだぁ」

 

「先輩、デスソースならありますよ」

 

「お前は行く先行く先にデスソース持参するのやめなさい」

 

「死液の錬金術師として俺はデスソースを持ち続けます」

 

「いつお前錬金術師になりやがった」

 

「つい最近ですが」

 

「違うだろぉ?」

 

 いつものくだらない話をしていると、急に西条さんが立ち上がって荷物から黒い外套を取り出すと、部屋から出ていこうとした。その顔はいつもの仏頂面で、何を考えているのかわからない。彼は扉に手をかけ、半分振り返る形で言った。

 

「少し外を歩いてくる」

 

「ちょっ、西条ッ!?」

 

 先輩の呼び止める声に足を止めず、彼は部屋から出て行った。靴を履き変える音が聞こえ、やがて玄関から出て行ってしまった。食卓では困惑している海音さんと七草さん。ため息をついている俺と先輩が残されている。

 

 流石にここまで来て単独行動というのもダメだろう。神話生物の確認こそされていないが、研究員の捜索を一人でさせて勝手に動かれても困る。俺は先輩と目を合わせると、同時に頷いて荷物から外套を取り出しながら言った。

 

「俺、ちょっと西条さん追っかけてきます」

 

「あんまり遠くまで行くなよ」

 

「西条さんが行ってなければ遠出はしませんよ。多分コンビニでしょう」

 

 絶対違うけど。外套着て行ってる時点で捜索する気満々じゃないか。下手すると西条さんって先輩よりも手がかかるぞ。

 

 俺は内心西条さんに愚痴をこぼしまくりながら、海音さんの家から飛び出していった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 氷兎が西条を追いかけて行ってから数分後。翔平はようやく痛みが引いたのか、氷兎がさっきまで座っていた椅子に座ってコップになみなみと注がれた麦茶を飲み干した。彼の内心は穏やかではなかった。なるべく相棒をひとりにしたくないという想いがあったからだ。

 

「……鈴華さん達は仲がいいみたいですけど、西条さんとは仲が良くないんですか……?」

 

 海音が翔平と桜華に尋ねた。桜華は首を傾げて唸るばかりで、どうとは答えなかったが……翔平は軽く首を横に振ってその言葉を否定した。

 

「いや、なんっつえばいいんすかね……。確かに、仲が良いとは言い難いっすけど、やっぱアイツもどこかまだ壁があるんすよ。それさえなくなれば、仲良くなれると思うんすけどね」

 

 どこか煮え切らない回答ではあったが、少なくとも翔平は西条とも仲良くなりたいと思っているのだ。自分からパーティーメンバーに加えると言ったのだ。だからあの仏頂面をいつの日か崩してやりたい、と虎視眈々と狙っていた。まったく上手くいっていないのが現状であったが。

 

 翔平の話を聞いて、桜華は思っていたことを口に出した。

 

「それならきっと、氷兎君がやってくれると思う。いつだって、氷兎君は誰かと仲良くなるための道を作ってくれると思うの。私の時も、藪雨ちゃんの時もそうだったから」

 

 それを信じて疑わない彼女は、氷兎に対する確固たる強い想いがあった。桜華の話を聞いた海音は、確かにそう思います、と言った。

 

「唯野さんは、不思議な人ですね。なんとなく話し方は固く感じたり、かと思えばぶっきらぼうで少し荒かったり。でも……なんとなく、隠しておきたかった事とかを話してしまいそうになる。そんな感じがするんです」

 

「アイツの天性の素質っすかね。行く先で困ってる人がいたら話を聞いて、解決しちまえるような奴なんですよ。聞き上手とか、そんな感じなんすかね」

 

 そんな自分の相棒を誇らしそうに語った翔平は、今までやってきたことなどを話せる範囲で話し始めた。人の感情が見える女の子の話をし始めた時、どこか海音の顔つきは柔らかくなったように翔平には見えた。

 

 ……この人も心に何か抱えているんだろうな、と深く考えなくてもわかってしまった。いつも氷兎だけにやらせるのではなく、今度は自分でできることをやってみよう。翔平はそう決意し、海音と桜華との会話に花を咲かせ始めた。

 

 その話は、氷兎と西条が帰ってきた真夜中まで続いていた。

 

 

 

To be continued……




なんでこんなに書きにくいんだ……。
文章酷い……酷くない……?


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第75話 それでも手を伸ばすのか

 窓の外を見ても、どこまでも続くような闇が広がるばかり。こんなに暗い場所では、この子の教育にも悪いんじゃないかと最近思うようになった。

 

 俺のベッドの上で眠っているあの子は、安らかな顔で寝息を立てている。母親とは似ても似つかない、かわいらしい子だ。最近話せるようになったし、自分のことも色々とできるようになった。叶うことなら、学校にでも連れて行って友達をたくさん作ってほしい。

 

 ……こんなところに産まれさせてしまってごめんよ。そう言って俺は娘の頭を数度撫でた。かわいい声を出して身じろいだ彼女を見ていると、とても幸せな気持ちになる。

 

 そうして時間を過ごしていると、ふと誰かの気配を感じた。アイツじゃない、別の誰か。この空間にはそう簡単に入ってこれないはずだが。そう思って周りを見回すと、窓の縁に座っている女性がいた。

 

「やっほ、初めまして。君が彼……いや、今は彼女か。彼女と契約した人だよね?」

 

 やけにグラマラスな女性であった。胸元の大きく開いた服を着ていて、背中には蝙蝠(こうもり)を彷彿とさせる翼が生えていた。否応なしに綺麗な女性であった。

 

 ……先輩が見たら、きっと喜んだんだろうな。

 

「そこにいるのが、君達の子供? 半神半人が今の世の中に産まれるってなかなかないよね。いや、神というよりは精霊みたいなものなんだけどさ」

 

 ……貴方は誰だ。俺は目の前の女性から娘を守るように立ちはだかった。片手でいつでも魔術を使えるように準備をしておく。

 

 そんな俺を見た女性は薄らと笑いながら答えた。

 

「君達人間の言葉で言うなら……彼女の従姉妹、かな」

 

 ……従姉妹? 冗談だろう? 全然別物だ。俺は訝しげに女性を睨みつけた。しかし女性は態度を崩さずに、ゆっくりと俺に向かって歩いてくる。

 

「やめておきなよ。従姉妹ってだけでわかるでしょ。私……こう見えても強いから」

 

 一瞬だった。気がつけばその女性が俺の目の前に立っていた。それだけで実力差というものを知らしめられた。やはりアイツの関係者は化物しかいない。どいつもこいつも……次元が違いすぎる。俺は抵抗することを諦めた。女性に、娘だけには手を出すな、と忠告をしておく。それを聞いた女性はゆっくりと頷いた。

 

「安心しなさいよ。私は君に危害を加えに来たわけじゃないし。そもそも暇だったからここに来ただけ。それに……従姉妹とはいえ、そこまで仲が良いわけじゃないしね。邪魔だと思われたら多分殺されるよ、私」

 

 ……身内にすら容赦なしか。アイツの嘲笑(わら)う姿を思い浮かべながら、俺は毒づいた。そんな俺の態度にどこか共感を覚えたのか、女性はベッドの縁に座り込みながら俺に言ってきた。

 

「暇つぶしの相手をしてよ。君が知ってることとか、体験したこととかでいいから話して。そしたら、そうだな……少しだけ手を貸してあげるよ」

 

 その言葉に俺は驚愕した。アイツ関連の連中がまさかそんなことで力を貸すとは思っていなかったからだ。いつも何か巫山戯たことを要求してくるというのに。そう呟いた言葉が聞こえたのか、女性は額に手を当てながら言った。

 

「あのね、私は彼女とは違って、感性は人間よりなの。それに、手を貸すって言ったって、君には貸せないよ。やったら絶対に殺される」

 

 女性は自分の頬に指を当てながら天井を見上げて何かを考え始め、そのまま流れるような動きで眠っている娘を見て言った。

 

「この子の子守りしてあげるよ。それと、暇つぶしに私が君のところにちょくちょく来てあげるよ。どう?」

 

 ……俺はその要望を飲み込み、俺が今まで体験してきたことや、趣味などについて話し始めた。終始、女性は興味深げにその話を聞いていたのが印象に残っている。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 ……気がつけばもう外はほんのりと明るくなっていた。身体は睡眠不足を訴えていて、瞼は重いし頭痛もする。明らかな体調不良だ。けれど起きなくてはならない。身体に喝を入れて布団から起き上がった。

 

 西条さんは椅子に座って腕を組んだまま眠っており、先輩は置いてあったソファでだらしなく口を開けて寝ていた。七草さんは海音さんと白菊君と一緒に寝ているようだ。

 

「……飯、準備しねぇとな」

 

 やる気が起きない。そもそもこうなったのも全部西条さんのせいだ。夜中に聞き込みなんてしようとするから……。追いついたところであの人帰る気がないし、道行く人に招待状について尋ねては、その高圧的な態度で反感を買っていた。なまじ夜で酒の入ってる連中が多かったのも喧嘩を買われた理由のひとつだ。おかげで俺にまで飛び火しやがった。

 

「……菜沙を呼び出す召喚魔法とかねぇのかな」

 

 あまりに疲れているせいか突拍子もないことを俺は呟き始めた。もう限界なのかもしれない。それに無性に腹が立ってきた。先輩のご飯は白飯ではなく赤飯にしよう。着色料はデスソースだ。

 

 簡素な朝飯の準備をしていると、車椅子が移動する音が聞こえてきた。キッチンへと続く扉を開けておくと、寝巻き姿の海音さんがやってきた。彼女はキッチンを見た途端目を見開いて驚いていた。どうやら俺がこんな朝早くにいることに驚いていたらしい。

 

「朝ごはんまでやって貰わなくても大丈夫でしたのに……。誰もいないと思っていたから、こんな格好で来てしまいましたし……」

 

「いえいえ、泊めてもらう立場ですから。朝の準備はしておきますので、着替えてきてもらって大丈夫ですよ。手伝いが必要でしたら、もう少ししたら七草さんが起きると思うので、彼女に言ってください」

 

 七草さんは健康的だ。毎朝しっかりと食べるし、朝もちゃんとした時間に起きて、欠かさず挨拶もしてくる。たまに寝ぼけ眼の時はあるが、それはそれで愛嬌があっていい。つくづく完成された女の子だと実感する。惜しむらくは、まだ家事がそこまでできないことか。周りのこと、大体は俺と菜沙がやってしまうからね。

 

 ……そろそろ先輩に節約術を叩き込むべきかと考えていると、海音さんは頭を下げてからキッチンを出て着替えに行った。朝飯の準備もあと少しだ。これが終わったら……少しだけ仮眠をとろう。俺はソファでぐっすりと眠っている先輩にデスソースをぶん投げる妄想をしながら、調理する手を早めていった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 昼になり、俺達は北海道を適当に歩いて回ることにした。昨日西条さんと調査をした結果、ネットに書き込まれている以上のことは何も得られなかったからだ。

 

 まず、招待状は無差別に送られているらしい。裕福な人や、貧しい人関係なく送られていて、その人達に関連性が見られないからだ。

 

 次に、招待状はそれ自体が入場パスとなるようなものである、ということだ。現物を誰かから見せてもらったということ以外、その招待状を見た人がいないからだ。持っていかなければならないものなんだろう。

 

 そして……聞く話によれば、北海道では連絡の取れなくなった人が大勢おり、行方不明者が続出しているようだ。ようするに、招待状を受け取って帰ってこなかった人達が大勢いるとのこと。警察も動いているらしいが、足取りは掴めないのが現状なようだ。

 

 車もない俺達は、仕方なく徒歩で辺りを散策している。今いる場所は住宅街のような場所だからいいが、少し外れれば完全な田舎風景に早変わりだ。田圃がそこら辺にあり、車がなくてはどこへも行けない。隣にいる先輩に聞こえるようなため息をつきながら、俺はボヤいた。

 

「北海道って、もうちょっと都会なイメージがありました」

 

「あぁ、俺もそう思ってたが、まさかここまで田舎だとはな……」

 

「貴様らがそう思うのも仕方のないことだ。テレビで映る北海道は栄えている場所か民家の多い住宅街だからな。実際は広大な土地を活用して稲作をするド田舎だ」

 

「なるほどねぇ……」

 

 西条さんの言う通り、確かにテレビではこんな田舎風景を北海道だと報道することは少ないような気がする。というか見たことがない。おそらく北海道に足を運んだことの無い人の多くは、ちょっとは栄えた場所だと思っているのではないだろうか。

 

 例えば千葉県もそうだ。有名なテーマパークである夢の国(ドリームランド)付近は栄えているものの、下の方に行けば電車は一時間に一本だ。最悪ない時間もある。案外俺達は自分の住んでいない場所を誤解したまま生活しているようだ。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、不意に七草さんに袖を引っ張られた。何かと思って見てみれば、彼女はどこか物悲しそうな顔をしていた。 最初はどこか迷っていた彼女は、次第に決意したのか表情を引き締めて俺に伝えてきた。

 

「あのね、氷兎君。海音さんなんだけど……昨日の夜ね、一人で泣いてたの」

 

「……泣いてた?」

 

「うん。それに、やっぱり足が動かせないから、着替えも大変だし、白菊君にも手伝ってもらってたの。私も手伝ったんだけどね……」

 

「……申し訳なくて泣いていた、なんてことじゃないよなぁ」

 

「……うん」

 

 七草さんはそれを話すべきなのか迷っていたようだ。彼女は伝え終えると顔を俯かせてしまった。俺はそんな彼女に、伝えてくれてありがとうと言った。軽く首を縦に振って答えた彼女だが、その表情はまだ浮かばれない。

 

 話を聞いていた先輩も、難しそうに顔を歪めて悩んでいた。

 

「足の神経が麻痺しちまってるんだったか。生まれつきなんだっけ」

 

「確かそう言っていましたね。けど、一応手すりを使えば立って少しだけ歩くとかならできるみたいですね。完全に動かせない、という訳ではなさそうですが……それでも、日常生活は辛いでしょうね」

 

「こういうのってリハビリじゃどうにもなんねぇの?」

 

「……生まれつきのものだ。そう簡単にはいかないだろう」

 

 俺達よりも知識のある西条さんが言うからには、そうなんだろう。俺達には医学の知識はないからなんとも言えないが、本人もきっと治る見込みがないと思っているのだろう。

 

 ……それなのに両親もいない。加えて、面倒を見なくてはならない弟までいる。彼女の日頃の苦労がありありと浮かんできた。せめて俺達がいる間だけでも楽にさせてあげた方がいいのかもしれない。

 

「……そういえば、海音さんってどうやって生活してるんでしょうか」

 

「あっ、確かに。どうやって金稼いでるんだ?」

 

 ……一瞬やましい想像が浮かんできたので、俺は軽く首を振ってその想像を捨て去った。流石にお世話になってる人に対してそんな事考えてはいけないだろう。自分を叱責するように、俺は片手で額を抑えた。

 

 先輩もどこか変な想像をしている傍らで、西条さんだけは真面目に回答を返してきた。

 

「国からの援助金だろう。もっとも、そこまで多い訳じゃない。ひとりで食いつなぐのが精一杯なはずだ。なんらかの稼ぎ口は確保しているのだろうよ」

 

「封筒貼りのバイトとか、鶴を折るバイトとか、そういうのか……」

 

「そんなバイト実在するんですかね」

 

「知らん。地方に行けばあるかもしれんがな」

 

 西条さんの言う通り、自宅で出来るようなバイトか、そこまで身体を使わないような仕事をやっているのだろう。でなければ、これからお金のかかる白菊君を育てていくなんてのは無理な話だ。

 

「……海音さん、大変だよね。私は孤児だったけど、それでも育ててくれた人はいたから。けど、海音さんは違う。海音さんは育てる側の人になってるから……きっと、辛いんだよね。だから、泣いちゃったのかな」

 

 ……七草さんも、不遇な生まれの子だった。そんな彼女がこんな純真無垢な女の子に育ったのは奇跡と言っていいだろう。だが、そんな彼女だからこそ、きっと海音さんのことが気になってしまうのかもしれない。いや、彼女は優しい。自分の境遇がなくとも、彼女は海音さんを心配しているに違いない。

 

 優しい心を持った彼女の頭を数度撫でると、彼女の表情は少しだけ和らいだ。

 

「……ありがとう、氷兎君」

 

「いいんだよ。優しいな、七草さんは」

 

「そんなこと、ないよ。私はただ、辛そうな人がいたから助けたいなって思っただけで……」

 

「……そういうところだよ、七草さん」

 

 俺はそう言って笑いかけた。七草さんもつられて微笑んだ。そう、そういうことを考えられるから、七草さんは優しいんだ。だから、そんな優しい彼女にはやっぱり笑顔でいてほしい。その笑顔を曇らせないでいてほしいのだ。

 

 そんな俺達をずっと見ていた西条さんが、どこか苛立ちを孕んだ言葉で言ってきた。

 

「……俺達の任務を忘れるな。ただ寝場所を借りるだけの関係だ。そこまで肩入れする必要があるのか?」

 

「……いや、あるだろ」

 

「理解に苦しむな。所詮は他人だ。こういった機会がなければ出会うこともなかった奴だろう。なのにあの家族のことを悩まねばならんのか?」

 

 先輩の返事にも、西条さんはバッサリと斬り捨てるようにそう言い返した。だが……それは違うだろう。俺は西条さんの鋭い目に反抗するようにしっかりと見据えた。

 

「こういった機会があったから出会ったんですよ。そりゃもう、他人じゃないでしょう。任務に関係あるなしに関わらず、出会った縁は大事にしなくてはいけません。どうでもいいと切り捨てるのは、少なくとも俺にはできませんよ」

 

「……俺もできねぇよ。だってそうだろ。目の前で困ってる人がいんだよ。手を貸してやりたくなるのが、人情ってもんじゃねぇの」

 

「……偽善では人を救えん。それでも貴様らは手を差し伸ばすというのか?」

 

 西条さんの言葉に、俺と先輩、そして七草さんも頷いた。その行動に呆れたような顔をした西条さんは、少し顔を逸らした。そして俺達にしか聞こえないくらいの声で言った。

 

「……人間とは独善的な生き物だ。自分がよければ全ていい。自分こそが正義であり善である、と。世界中の人は貴様らを見て笑い、偽善者だと指をさして嘲るぞ」

 

「だからなんだよ。独善? 自己中? 上等だろ。だったら、俺が助けてぇと思うからそれこそが正義だ。偽善者だと笑われようがなぁ、助けてもらったやつが笑顔になってくれるんなら、やっぱやって良かったって思うだろ。俺はそうやって生きてぇんだよ」

 

「……俺も同じくですよ。第一、俺も偽善者だと思ってますからね。結局後で助けときゃよかったって後悔したくないから、俺は今やってるんですよ」

 

「……私は、助けてもらってばかりだったから。だから今度は私が助けたい。氷兎君が守りたいと言うなら、私もそれを守る。それが私の……考え、です」

 

「………」

 

 西条さんは黙って俺達三人をじっと見つめていた。しかし少しするとまた口を開き、俺達に言ってきた。

 

「……俺は何も考えない馬鹿が嫌いだ。自分のことだけを考えるような馬鹿が。今の世の中は、そんな馬鹿で溢れている。救いようのないそんな奴らを助けようと、貴様らは言うのか?」

 

「……西条さん。それは貴方も同じですよ。そう言って自分の用事だけを済ませて、誰も助けようとしない貴方は……紛れもなく、自分のことだけを考えるような馬鹿だ……違いますか?」

 

「………ッ」

 

 鋭かった目が開かれる。その眼鏡の奥から突き刺すような目つきは、今となってはただただ驚愕する一般人のそれだ。自分の額に手を当てて、彼は悔しそうに地面を見下ろしていた。

 

「……今日はもう帰りましょう。収穫は何もなさそうですしね……いいですよね、西条さん」

 

「……好きにしろ」

 

 またひとり離れて歩き出した西条さん。俺達は特にそれを咎めることもなく、海音さんの家に帰ることにした。きっと今は話しかけない方がいい。なんとなく、そう思ったのだ。

 

 ……少しだけ、西条さんのことがわかったような気がした。もっとも、何がわかったのかと説明しろと言われたら何も言えないが。なんとなく、そう、感覚的なものなのだ。彼もまた、卓越した新人類などではなく、俺達と同じような悩みを持つ人間だったのだ、と。

 

 

 

 

To be continued……




今回の章、なんとか神話生物出せそうだ。


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第76話 裕福と幸せは同等でなく

 今日は昼に歩き回ってみても何も得られず、ネットを見てもそれらしい事は書かれていない。困ったことに、手詰まりだ。何かヒントがあるわけでもなく、また明確な敵がいるという訳でもない。

 

 こういう時はゆっくりとひとりで物思いにふけるとしよう。幸いにも今日は綺麗な月が浮かんでいるはずだ。それに満月という訳でもない。夏の暑さはどこへやら、最近の外は涼しげな風が吹いている。考え事にはもってこいだろう。そう思って海音さんの家のちょっとしたベランダに行こうと思ったのだが……。

 

「………」

 

 なんともまぁ珍しいことに、ベランダでは西条さんが空を見上げて佇んでいた。まだ風呂に入っていないようで、髪型はオールバックのままだ。相変わらず服装も夜に紛れるような色をしているというか……いつまでヤクザスタイルを貫く気なのだろうか。

 

 邪魔をするのも悪いかと思ったが、なんとなく、そこまで悪い気はしなかったから、俺はベランダに続く窓を開けて外に出た。ベランダと言うよりは、テラスポートか。庭に続くような形で、家から飛び出た屋根がその部分を覆っている。

 

 窓を開けた音に気がついた西条さんは、いつもの鋭い目つきで俺を睨むように見てきた。何故か、今となってはそこまでそれを怖いとは思わなかった。軽く頭を下げて、俺は西条さんの近くまでやってきて立ち止まった。

 

「珍しいですね。いつも下を見ている貴方が上を見上げるとは」

 

「喧嘩を売りに来たのなら家の中に戻れ」

 

「いえ、考え事をしようと思っていたので。なんならちょうどいいですし、今後どうするかくらいは決めましょう」

 

「そういうのはあの天パとやってこい」

 

「あの馬鹿は今ゲームに夢中でして。さっきから、ふみふみきゃわたんとか訳の分からないことほざいてます」

 

「………」

 

 呆れたような目を向けられた。俺にとって先輩がゲームをして変なことを言い始めるのは日常茶飯事だが……まぁ、普通の人が見たらそう思うのも仕方がないことだろう。傍から見ても、携帯横持ちでニヤけながらゲームしてたら通報不可避だ。そろそろ隣にいる俺のためにもニヤけるのはやめてほしい。

 

「……呆れるな。貴様らはいつもそうか」

 

「えぇ、いつもこんな感じですよ。やる時はやりますが……ってか、ナチュラルに俺までやべぇ奴扱いするのはやめてくれませんか」

 

「十分貴様もそのヤバい奴の一員だがな。ここまで何かと言われ、特訓ではボロボロにされ、なのに泣き言ひとつもなくここまで来ている。そこら辺の連中ならもうとっくに付き合いをやめているか、俺にボロボロにされているだろうよ」

 

「……まっ、そこら辺は先輩のお墨付きですので。最後までやり抜くのは凄いんだぞって褒められてますからね、俺」

 

「……くだらんな。ホモか貴様らは」

 

「俺はノンケです。先輩は……」

 

 ……その先は言わなかった。なんとなく、こう、ケツが締まった気がする。俺はそろそろ先輩と部屋を別々にした方がいいのではないか。いやまぁ、流石に先輩でも襲いかかってこないだろうけど。

 

 でもなぁ……最近の先輩のゲーム、女の子の服が破れたりとかするゲームが多いんだよなぁ。この前も巡洋艦大破ァ!! とか言いながらスクショ撮ってたし。ヤバいな、そろそろ精神科をオススメしよう。もしくは風俗にでも行かせよう。

 

 頭の中に浮かんできた先輩のアホ面をかき消すように、俺は空に浮かんでいる月を見上げた。

 

「……貴様らは何故ここで戦っている?」

 

 突然だった。隣に立っている西条さんは、どこか遠くの方を見ながら俺に話しかけてきた。その声音は静かだったが、確かに確固とした意志を持っているような気がした。俺はその言葉に、しっかりとした理由を添えて返事を返した。

 

「俺は……幼馴染と、七草さんを護るために。あとはまぁ、生活を提供してくれますから。俺みたいな世間を知らないガキからすれば、高待遇でしたからね」

 

「……アイツは?」

 

「先輩は……俺にもわかりません。あの人、なんとなく飄々としてますからね。きっと今が楽しいからとか、誰かを助けられるからとか、そういった理由なんでしょう」

 

 そう伝えると、西条さんはまた、くだらないなと吐き捨てた。ふと、俺は西条さんに興味が湧いてきた。この人はなんでここにいるんだろう。顔よし、家柄よし、お金よし。俗世の女が見たら食いつくこと間違いなしだというのに。

 

「……貴方は、なぜ組織に入ったんですか?」

 

 少し迷ったが、俺は率直に尋ねてみることにした。彼は一瞬だけ俺のことを見ると、また遠くの方を見つめ始めた。一文字に閉ざされていた口が開かれ、彼は俺に言った。

 

「金と権力のためだ」

 

 吐き出された言葉は、なんともまぁ俗世的なものだった。しかし、それはおかしい。彼にはもうそれらは揃っているはずなのだから。

 

「……もう持っているのでは?」

 

「それは『西条』のモノだ。俺のモノではない」

 

「……庶民からすれば、羨ましい限りだと思いますがね」

 

「……貴様にはわからんだろうな」

 

 鉄仮面かと思われた彼の仏頂面は、今はどこか憂いを帯びているように見える。いつもの鋭さはそこにはなかった。今の彼は、言っちゃ悪いが……とても人間味があった。そしてまた、彼の口が開かれる。

 

「俺は『西条』という名が嫌いだ。いや、名だけではない。あの場所すらも、俺にとっては忌避する場所だ」

 

「……何かあったんですか?」

 

 睨まれるかと思ったが、彼はそのまま俺に目も向けずに話を続けていった。

 

「西条グループの息子だと言われているが……俺は次男だ。俺の上には兄がいる。歳もそう離れていない兄がな。そうなると、金持ちグループがどうするかわかるか?」

 

「……いえ」

 

「俺も兄も、同じ教育を受けさせられた。兄は優秀だった。学校でも人気者だったんだろう。俺は……そんな兄に追いつきたくて、必死に努力をした。兄が何かを為せば、両親は頭を撫で、褒めた。だが……俺には、何もなかった」

 

 その声は静かなままだが、そこには確かに怒りの感情が込められていた。ゆらゆらと立ち上る煙のような、燻っている強い怒りが。

 

「テストで一位になっても、何かの賞を取っても、俺は何もされなかった。ただ一言、そうか、よかったな、それだけだ。嫌でも気付かされた。奴らにとって、会社にとって必要だったのは先に生まれた兄だ。会社を継ぐのも、家を継ぐのも、全て兄だ。英才教育を施し、社会のリーダーとして兄を育て上げた。俺は……とりあえず同じことをさせておけ、というだけの存在だった」

 

「………」

 

「誕生日など、ろくに祝われたこともない。兄は様々な場所に呼ばれ、俺はずっと必死に勉強するだけの存在だった。わかるか。実の親から金の入った袋を渡され、これで好きな物を買えと誕生日の日に言われた、まだ幼かった俺の心が。好きな物を買えばいい。それが幸せだろう。そう思っていたんだろうよ……だが……違うだろうッ。一緒に選んで、一緒に買うというのが普通なのではないのかッ。せめて……何が欲しいのかを尋ねて買ってくるくらいは……普通じゃなかったのか……」

 

 ……何も言えなかった。それはあまりにも、俺達のような普通からかけ離れていて、それに対して何かを言えるような経験をしたわけでも、また知識があるわけでもなかった。

 

「……奴らにとって親の愛とは、費用だ。それまでにかけた金の額が、奴らにとっての親愛だ。俺は早い段階で、家に見切りをつけた。だが、それでもまだ俺は幼かった。どこかに自分の居場所がなければ落ち着かなかった。やさぐれてはいたが……俺は俺なりに、中学時代では頑張っていたと思う。クラスの集まりにも呼ばれた。皆で飯を食う中で、俺も混じって少しは会話に参加していた。だが……それこそも、間違いだった」

 

「……過酷すぎやしませんかね」

 

「……しばらくは黙って聞いておけ。俺が自分のことを話すなど、今後ないだろうからな。今は……少し口が滑っているだけだ」

 

「潤滑油でも塗ってるんじゃないかってくらい滑りまくってますけど」

 

「……中に戻るぞ」

 

「いえ、続きをどうぞ。茶化してすいません」

 

 今度こそ睨まれたが、西条さんはため息をついてからまた話を始めた。今度は中学時代に起きた出来事だったらしい。

 

「……それなりに、俺は居場所があった。ハブられていたわけではなかった。だが、やはりあの時代というのは頭の足らん阿呆ばかりだ。自分がよければ何もかもいいと思っていたんだろう。教室に忘れ物をして、仕方なく道半ばで学校に引き返した時だ───

 

 

 

 

 

 教室に近づくにつれ、まだ教室内で誰かが残っているのか、話し声が聞こえてきた。誰に聞かれているとも知らず、その声はかなりの大きさだった。本人達は、さぞ楽しかったことだろう。

 

「なぁなぁ、次の集まりのメンバーどうする?」

 

 聞こえてきた声は、野球をやっていた男子生徒だ。そしてソイツの取り巻きの声も聞こえてきた。

 

「とりあえず西条だろ」

 

「えぇ……アイツ態度悪いから一緒にいるとたまに空気が悪くなるんだよなぁ」

 

「でも、金持ちじゃん? 頼んだら断らないからさ、いくら食ったってアイツ足りない分払ってくれるしいいじゃん」

 

「確かに。返さなくても何も言わねぇもんな!」

 

「俺わざわざ金少なめにして持ってってるし、集まりでそこまで金かかんないのっていいわー。アイツが同じクラスでよかったぜ」

 

「ッ────」

 

 ……確かに、俺は打ち上げで金が足りなかったと言った奴に金を貸したことはある。それも、何度も。困っているから、俺は金を貸してやった。返ってこないのも、中々まとまった金が入らないからだろうと思っていた。奴らは結局それを返さなかったが……あぁ、なるほど。金か。結局金なのか。

 

「フッ……ククッ、ハハハハッ……」

 

 思いがけず、乾いた笑いが零れるように出てきた。教室の外に俺がいることを悟ったアイツらは、必死に言い逃れようとしていたが……当時の俺は、もうそんなことはどうでもよかった。

 

「貴様ら……俺は、貴様らの財布じゃない。俺は……俺はッ……」

 

「ま、待てって西条!」

 

「今のはホンの冗談だって……」

 

 荷物を持って逃げようとする。入ってきた扉を閉め、俺はとうとう……生まれて初めて暴力を振るうという手段に出た。

 

「ッ、ア゙ァァァァァ───ッッ!!」

 

 それはもう言葉としての体をなしていなかっただろう。学校側にそれはバレたが……西条グループは、それを揉み消した。結局は金だ。全部全部、金だった。

 

 高校に入り、勉強にだけ励んだ。クラスの出し物なんぞ知ったことではなかった。東大に行き、そして俺は……どうするべきなのか途方に暮れた。家からは、政略結婚の話も出ていた。昔から決められていた許嫁だとか、くだらんものを押し付けられた。俺はもう、奴らにとって会社を大きくするための道具でしかなかった。

 

 そんな時だ。何もかもが嫌になり、夜の街を歩いていた時に……俺は一人の神父に出会った。明らかに外人で、肌は浅黒かった。ナイ神父と名乗った男は、俺にこの組織のことを教えてくれた。そして、俺は……半ば家出の形で、この組織に入り込んだ。家が俺を連れ戻さないということは……つまり、そういうことなんだろう。見限ったか、それともこの組織すらも会社に取り込もうというのか。それはまだわからんがな。それに、ナイ神父はこの組織にはいなかった。奴が何者なのかもわからんが……だが、だからこそ今俺はここにいる。

 

 

 

 

 ───俺は決意した。この組織なら、金なんてものは普通に働くよりも手に入る。神話生物を殺していれば、いずれか社会の明るみに出た時に、それ相応の立ち位置を手に入れられると思っている。そして何もかもが揃った暁には……俺は自分の会社を建てる。それを大きくして……俺の手で、西条グループを潰してやる。俺の目の前に奴らの哀れな姿を並べ、言ってやるのさ。貴様らの教育のおかげで、俺はこうして成長することが出来た、とな。泣いて助けを乞おうとも、俺は手を差し伸べはしない。それだけが……俺がここにいる理由だ」

 

 ……それはあまりにも過酷で、凄惨な話だった。子供の頃から親の愛に飢え、しかし与えられず。彼に貼られたレッテルは、周りに利用され、やがて彼は人を信じることをやめた。自分をこのような目に遭わせた家を恨み、それを潰すことだけを生きる理由とした。

 

 彼の家は普通ではなかったから。許された者のみが得られる高級階層。しかし……彼が望んだのは、普通の家だった。普通の家族。普通の兄弟。普通の環境。俺らにとって普通であるものを……彼は欲しがった挙句、得られなかったのだ。

 

「……同情の言葉なんぞいらん。だが……なんとなく、貴様には話していいと思った。それだけだ」

 

「……そうですね。俺が何を言っても、慰めにもならないでしょう」

 

 そう言うと、西条さんは片手で額を抑えてため息をついた。

 

「……何をやっているのだ、俺は。こんな意味の無い事を、つらつらと話し込むとは……」

 

「……いいえ、無駄ではないと思いますよ」

 

 振り返って家の方を見れば……そこには窓ガラスにへばりついて涙を流している気持ち悪い先輩がいた。今の話が他の人に聞かれていたと知られた西条さんは、驚きその場で固まっていた。先輩は、俺達の会話が終わったと知ると窓を開けて涙声のまま西条さんに近づいていって無理やり肩を組み始めた。

 

「西条ぉ……お前、本当はそんな辛い過去があったんだなぁ……。嫌な奴だって思ってたけど……仲良くなれそうにないとか思ってたけど……お前、お前ぇ……」

 

「やめろ離れろ鬱陶しい!! 貴様いつから聞いていた!?」

 

「ふみふみきゃわたん辺りから……」

 

「最初の方からではないかッ!!」

 

「西条ぉ……俺は、お前を見直したぞ……。任せろ、俺がお前の友達になってやるからなぁ……!」

 

「貴様を友とも呼びたくもない! いいから離れろッ!」

 

 がっしりと肩を組んでいる先輩を引き離そうと西条さんはもがいているが、先輩は意地になって離れようとしない。それを見て俺は、少し離れた場所で笑っていた。

 

「えぇい何を笑っとるのだ貴様ッ! さっさとこの馬鹿を引き離せ!」

 

「先輩、月が綺麗ですし写真撮りましょうか」

 

「おっ、いいなぁそれ。じゃあ西条、後で連絡先交換しようぜ!」

 

「誰が貴様らと一緒に撮るか!」

 

「はいじゃあ撮りまーす」

 

 俺はポケットから携帯を取り出して、自撮りをする形で三人収まるように位置を整えた。ちょうど三人収まり、月もちゃんと映る距離ができたので、俺はカウントダウンを始めた。

 

「はい、3……2……1……よし、撮れた」

 

「よーし、じゃあ連絡先交換しようぜ! ほら西条さっさと携帯出せよ!」

 

「鬱陶しい! やめろ、腕を掴むな!」

 

 西条さんは逃げようとするが、先輩は全身を使って逃げないように拘束している。相変わらずの先輩の変わりようのなさに俺は感謝しつつ、西条さんを見た。彼は嫌がっているが、どこか違ったように見える。

 

 ……きっと、西条さんにとっての大切なものになるんじゃないか。そう思って俺は撮れた写真を見た。

 

 肩を組んで笑っている先輩と、肩を組まれて鬱陶しそうに顔を歪めている西条さん。そして携帯を持って撮影している俺が写っている。うん……いい写真だ。俺は一人で微笑んだ。

 

「わかった、わかったからさっさと腕を離せ!!」

 

「よっしゃ! 氷兎も西条のやつ交換しようぜ!」

 

「はーい」

 

 渋々と言った様子で携帯を取り出し始めた西条さんの所へと俺も向かっていく。

 

 ……ようやく、俺達はちゃんとしたメンバーになれたような気がするのだ。

 

 これからよろしくお願いしますね、西条さん。願わくは……今までの不幸を塗り替えられる幸福が得られますように。

 

 

 

 

To be continued……




 ナイ神父

 浅黒い肌の神父。どこの出身かもわからず、またどこの言語でも話せるようだ。ふと気がつけば、それは貴方の前に現れる。どこぞの宗教の神父らしいが……詳細不明のヤベー奴。


俺、100話達成したら皆に感想と評価をよろしくって催促するんだ……。気軽に推薦だっていいんだぜ。
とまぁ、なんだかんだいって長く続いてきましたこの作品。とうとう、西条が主人公格にランクアップ。
暗い過去を持ち、圧倒的な力で敵をねじ伏せ、イケメンで物怖じしない。
氷兎より主人公じゃない……?
ぶっちゃけ作者は西条が一番好き。
早いとこ西条を好きに動かせるようにしたかった。なんせ今の現状すごい書きにくいからね。


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第77話 普通

 窓からは陽の光が差し込んできている。昨日とは違い睡眠不足になっていない俺は意気揚々と朝食を作り上げ、食卓に並べていった。そして順々に皆起きて来て、揃ったら一斉にご飯を食べ始めた。

 

 白菊君は朝ごはんを美味しそうに食べ、笑っていた。まだ幼い彼は口元にご飯粒をつけながら言ってきた。

 

「おいしいっ! お母さんも、これ食べたら喜んでくれるかな……」

 

「アキくん……」

 

 白菊君本人は特に何を思った訳では無いのだろうが、その言葉は海音さんにとっては思うところがあったらしい。弟を愛称で呼んだ彼女は、その顔を少し曇らせた。白菊君はまだ幼い子供だ。だが、無邪気というのは時に残酷で、ナイフのような鋭さを持ってしまう。

 

「おねえちゃん……お母さん、いつ帰ってくるのかな……」

 

「……きっともうすぐ、帰ってくるよ。だからいい子で待っていよう?」

 

「……うん」

 

 白菊君はまた朝ごはんを食べ始めた。食卓には少し重苦しい空気が流れ始める。

 

 海音さんの母親は、少し前に家を出て行ったきり帰ってきていないようだ。それに……あまり、彼女の母親は精神的に良くなかったらしい。父親は白菊君が産まれたあと、しばらくして死んでしまったようだ。朝起きたら突然、死体となっていた。その姿はまるでミイラのようで、生気を感じないような死に方だったらしい。

 

 ……正直、その父親の死因は中々きな臭いものだ。警察も死因不明だと言っていたらしい。残された母親と子供二人。うち一人は身体が不自由だ。母親の苦労が目に見えてくる。だが……だからといって、子供を置いてどこかに行くなんてのは、ダメだろう。

 

「よーし、なんだか空気が重いし、ひとつここは俺の笑えるオヤジギャグを……」

 

「重い上に冷たくしてどうする気ですか。デスソースぶん投げますよ」

 

「身の程をわきまえろ。貴様のつまらんギャグで冬が来たらどうするつもりだ」

 

「待って。西条、お前まで俺のことをそんな風に言うのか!? 昨日一緒に腹を割って話し合った仲じゃないか!」

 

「知らん。貴様は勝手に聞いていただけだろう」

 

 確かに、昨日は先輩が勝手に聞いていただけだが……。それでも、あそこから一気に距離を縮めたのは先輩だ。西条さんもどこか話しかけやすそうな雰囲気になった気がするし、先輩のお手柄だろう。当の本人は困ったような顔をしているが。

 

「連れないなぁ……。わかった、実はお前ツンデレだな? 普段はドギツイ言葉を浴びせて、ふとした時にデレるんだな? じゃあもうそろそろデレてもいい頃合だな! よし、西条のデレ期到来RTAはい、よーいスタート。計測は西条のセリフが出てからだ」

 

「唯野、この馬鹿を黙らせろ」

 

「アイアイサー」

 

「待って、悪かった。お前がツンデレじゃなくてツンドラだってことはわかったからやめっ、ア゙ァァァァァァッ!?」

 

 哀れ、先輩の口には真っ赤な液体が。濃縮しすぎたせいか、先輩の口の中に入っているというのに独特な匂いが蔓延している。なんだか目に染みてきた。いつぞやの悪夢が蘇ってきて、西条さんと俺は苦しんでいる先輩から目を背けた。

 

 白菊君は先輩が暴れているのを見て楽しんでいたが、結局先輩を助けた人は誰もいなかった。自分で水でも飲んで、どうぞ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 朝食を食べ終わり、白菊君は学校へ向かった。俺達は昼間は辺りを散策して情報収集をしてみたが、まったく目新しい情報は見つからなかった。夜になって、先輩は帰ってきた白菊君にせがまれて海音さんの家に残ることに。俺と七草さん、そして西条さんの三人で夜間の調査に向かうことになった。

 

 しかしどうしたものか。近隣はほとんど調べ尽くしてしまった。これ以上収穫は得られなそうだが……。そうして考え込んでいると、西条さんが携帯を取り出して俺と七草さんに見せつけてきた。

 

「唯野、七草。貴様らには少し遠出をしてもらう」

 

「……一体どこまでですか?」

 

「俺達が降りた空港は、新千歳だ。そこから少し離れた賀茂家に移動。だが、近隣を探し回っても何も得られないということはこの付近にはおそらく何も無いのだろう。それに、大勢の人を収容できるくらいの施設だとすると、規模は中々でかい。ならば、その施設をどこに置けばいい。どこに置けば、人目につきにくくなる?」

 

「……住宅街から離れた場所ってことですか」

 

「更に言えば、ポツンと建っていても気づきにくい場所……それが考えられるとしたら、山か森だな。今回は山の捜索に向かえ」

 

「……冗談でしょう? 山っていったっていくつもあるし、全部相当な距離ですよ」

 

 西条さんの携帯のマップに記されている山の位置は、どれも現在地からかなり離れている。俺は明らかに嫌だという気持ちを隠さずに言ったが、西条さんはそれを無視。仕方の無いことだと割り切れと言ってきた。

 

「今は幸い夜間だ。月齢も悪くない。お前達二人なら夜に行って朝早くには帰ってこられる距離だろう」

 

「……タクシーもなく?」

 

「走って帰ってこい」

 

「……勘弁してくださいよ」

 

 俺は頭を抑えて辟易とした様子で答えた。この距離を走っていくことは多分可能だが……いや、どう考えたってやりたくないだろこんなの。俺は七草さんに向き直って、流石に走るのは嫌だよな、と聞いてみたが……。

 

「私は氷兎君と一緒なら、走っても大丈夫だよ! 色々な景色が見れるかもしれないし、行ってみよう?」

 

 彼女は笑顔でそう言った。退路を塞がれてしまい、俺はもう半ばヤケになって、あぁわかりました行きゃあいいんでしょうっとその場から七草さんを連れて歩き出した。後ろの方から西条さんの声が聞こえてくる。

 

「何かあったらすぐにインカムで連絡しろ。発見しても突入はするな。バレないように帰ってこい」

 

「了解です……ちくしょう、労基で訴えてぇ……」

 

 俺の嘆きはきっと七草さんにしか聞こえなかっただろう。最も、彼女が労働基準法というものを理解しているのかはわからないが。

 

 互いに黒い外套を身に纏い、人目につかないような場所を選んで走っていく。俺の夜間の身体能力と、七草さんの起源による身体能力。それはただただ目的地に向かうだけなら問題はないだろう。疲労を度外視すればだが。

 

「……なんだか、平和だね」

 

 すぐ隣を走っている七草さんがそう言ってきた。まぁ確かに、と頷ける部分はあった。

 

「神話生物がいて悪さをするわけじゃないしな。問題は、本当に幸せを得られているのかどうかだが」

 

「そうだよね……。たまには、ゆっくりと夜の街を歩いてみたいな」

 

「……どこか行きたい場所があれば、言ってくれればなんとかするよ」

 

「本当にっ!?」

 

 七草さんは嬉しそうに言った。彼女からは、どこがいいかなぁと悩む声が聞こえてきて、お互いフードを被っているせいで顔は見えないが、きっと楽しそうな場所を想像して顔を綻ばせているのだろう、ということは予想出来た。

 

「んー……考えたけど、なんだか思いつかないや。きっと……どこに行っても、氷兎君がいてくれるなら楽しめると思う」

 

「……俺が?」

 

「うんっ。だから……今度どこか一緒に遊びに行こう? 氷兎君のオススメの場所とか、お気に入りの場所とか、そういう所!」

 

「……そうだな。なくもない。きっとつまらないだろうけど」

 

 お気に入りの場所といえば、やはり地元のあの高台だ。そうだ、久しぶりにあそこから夜景を見るのも悪くない。適当にお菓子や飲み物を持って行って、あそこで時間を過ごすというのも悪くないだろう、きっと。

 

「じゃあ、そこに連れていってね。約束だよ?」

 

「わかったよ。約束な」

 

「ちゃんと守ってね?」

 

「当たり前だろ」

 

 隣からは、えへへっと笑う声が聞こえてきた。七草さんが嬉しいのなら、それはそれでいいんだろう。道中、話題に困ることもなさそうだ。七草さんとなら、本当にどうでもいい些細なことでさえ楽しく話せるような気がする。

 

 ……それに、なんとなく。七草さんと話していると気が弾むというか……恥ずかしいけど、話していたい、とか。そんな感じ。きっと菜沙以外の女子とここまで親しくなったことがなかったから、新鮮味を感じているのだろう、と俺は決めつけた。

 

 夜はだんだん深まっていく。途中からは、人もいなく、また車も通らず……二人だけの世界に入ったような、そんな気分になった。星が綺麗で、隣にはかわいらしい女の子が笑っていて。

 

 なるほど、端的に言えば……これが幸福というものなんだろう。俺はそれを笑いながら噛み締めた。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「白菊君はやっと眠ったか……。若い子って体力有り余ってるなぁ……」

 

 寝室で眠っている白菊の隣で、翔平は身体をぐっと伸ばした。動きたい年頃の子供の相手というのは疲れるものだ。なまじ翔平は、その性格からか子供との相性がいいから尚更白菊君との遊びが活発だった。

 

「さてと……どうすっかなぁ。氷兎達はどこ行ったかわかんねぇし、今から何か探すってのも……」

 

 時計を見れば、氷兎達が外に出ていってからだいぶ時間は経っていた。携帯を確認してみれば、昨日交換したばかりの西条から連絡が来ていた。氷兎と桜華は遠出をして捜索、西条は周辺で何か変なことがないかを調べてみるとのこと。

 

 特に何をしろと書かれていた訳でもない。これは今日はお役御免かな、っと呟いた翔平は寝室を後にし、海音のいるリビングへと向かっていった。たまには綺麗なお姉さんとお話でもしよう。彼らしい下心満載な腹積もりであった。

 

 リビングにまでやってくると、海音は車椅子に毛布をかけて窓の外を眺めている最中だった。翔平がやってきたのがわかったのか、彼女は車椅子を動かして翔平に向き直った。

 

「……あっ、鈴華さん。アキくんは寝ちゃいましたか?」

 

「ぐっすり寝てますよ。いやー、やっぱ若い子って凄いっすね。俺はもうヘトヘトっすよ」

 

 氷兎がこの場にいたら、お前は何を言っているんだと突っ込まれそうだが……。そんなことは知らないとばかりに、翔平は椅子に座って深く息を吐いた。そんな彼を見て、海音は口元をおさえながら微笑んだ。しかし、その微笑みはしばらくすると急に途切れるようになくなってしまった。

 

「……皆さんが来てくださってから、生活が楽になりました。私はこんな身体ですから……身の回りの事も、十分にはできなくて……アキくんにも、苦労をかけています」

 

「……やっぱ、大変っすよね。でも、白菊君優しくていい子じゃないっすか。頼まなくても色々と手伝ってくれるでしょう?」

 

「はい……。でも、アキくんも本当は自分のやりたいことがあるはずなんです。友達とも遊びたいはずなのに……いつも、学校が終わったらすぐに帰ってきて……」

 

「お姉ちゃん想いのいい子じゃないっすか。そりゃ確かに迷惑かけちまってるかもしれないけど……家族だし、やっぱ頼った方がいいと思うんすよ。白菊君が何かしてくれたら、ありがとうって言って頭を撫でてやるくらいでいいんすよ、きっと」

 

 翔平は海音に笑いかけた。しかし、依然として海音の表情は暗いまま。彼女は俯き、かけられた毛布を握りしめながら言った。

 

「……母が少し前に出ていったと、言いましたよね」

 

「えぇ、ここまで帰ってこないってことは……何か事件に巻き込まれたとか……」

 

「……母はきっと、招待状を貰ったんですよ」

 

 その言葉に、翔平は顔をしかめた。確かに心のどこかで思っていたことではあったのだ。時期的にも、今起きている失踪事件的にも。招待状を受け取って、そのまま帰ってこなかったというのが妥当な考えだからだ。

 

 しかし……それを認める訳にはいかなかった。認めてしまえば、母親は自分の子供を見捨てて幸せに暮らしているという事実を認めてしまうことになる。そんなことは考えたくもなかった。

 

「……招待状っすか。眉唾物じゃないんすかねぇ」

 

「なら、なんで鈴華さん達はまだここにいるんですか。少なくとも……それがあるってわかってるから、まだここに残っているんですよね」

 

「………」

 

 困ったことに、ここには口達者な西条も、話術で誤魔化す氷兎もいない。翔平は頭を掻きながら、ため息をついた。やっぱこういうことは苦手だ。翔平は心の中で静かに毒づいた。

 

「母は逃げたんです。私達を置いて……」

 

「……それが事実かまだわかんないっすよ」

 

「いいえ、きっと事実です……。だって、母は……私を疎んでいた。父が死んでから、手のかかる私の事をずっと嫌っていた。いえ……多分、父の死なんて関係なく、障害を患っていた私の事を嫌っていたんだと思います」

 

 ……もし仮に自分の子供が障害持ちなら、どうするのだろう。翔平は考えた。しかし出た結論は、それでも愛するのだろうという予想だった。しかしそれはきっと父親からの観点だ。母親同士の付き合いとなれば、それは致命的なものになるのではないか。

 

 翔平のその予想は、嫌なことに的中してしまった。

 

「母はずっと言われていました。障害を持つ子の世話なんて大変だねって。そんなことを、ずっとずっと言われ続けて……ある日、私にそれをぶつけました。どうして、普通の子に産まれてきてくれなかったのって」

 

「ッ………」

 

 怒鳴りたくなる気持ちを翔平は抑えた。目の前で苦しさを吐露する彼女のように、翔平もまた自分の手を強く握りしめた。

 

「私だって……好きで産まれたわけじゃない……。こんな、不自由な身体で産まれたくなかった……。産んだのは、お母さんだ。お母さんが私の事を勝手に産んだのに、なんで私がそんなふうに言われなきゃいけないの! 私は何も悪くないのに、全部全部ッ、私を産んだお母さんのせいなのにッ!」

 

「落ち着け海音さん! 気持ちはわかるけど、抑えて……。白菊君が起きちゃうし、それに……やっぱり、産みの母だ。悪くいうもんじゃないっすよ」

 

 海音の言葉はだんだんと荒くなり、声量も大きくなっていく。翔平は彼女に近づいて宥めようとするが、彼女は瞳に涙を浮かべながら翔平の服を掴んで手繰り寄せた。

 

「普通に産まれて、普通に過ごしてる貴方に、私の何がわかるっていうの!? 何もわからないくせに、何も理解できないくせにッ!」

 

「ッ………」

 

 翔平は何も言えなかった。彼は普通の家庭に産まれ、普通の学生生活を過ごし、普通に皆と遊んでいた、普通の男の子だ。今はこうして社会の裏側にいるが……それでも、自分は今こうして、恵まれた生活を送っていたのだと実感した。

 

 睨みつけてくる彼女に何も言うことは出来ず、また何かをしてやれるわけでもなかった。ただ黙って、服を掴んでいる彼女の手に自分の手を重ね合わせた。彼女の手は力が込められているのか、酷く震えていた。

 

「何も、しらないくせに……。私の苦しさなんて、理解できないくせに……」

 

「……海音さん」

 

「……ごめんなさい……私、口に出したらもう、止まらなくて……」

 

「……いいんすよ。俺も、すいません。確かに、俺はきっと幸せな家庭で産まれたんすよ。だから……俺は、海音さんの苦しみを、きっと理解できない」

 

 翔平は彼女と視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。何も出来やしない。何も言えやしない。ただ……彼は黙って、彼女の手を握ったまま見つめていた。

 

 彼女はもう片方の手で涙を拭い、翔平の視線から逃れるように目を逸らした。

 

「……私には、お金は稼げません。今はずっと母のお金で生活しています。でも、蓄えもそうありません。鈴華さん、貴方は私の事を理解できないと言いましたよね。何も出来ないって」

 

「………」

 

「……こんな私でもできること、あるんですよ。貴方にも、できることが。ねぇ、鈴華さん……私のこと、助けてくれませんか……?」

 

 彼女は涙を拭った手で、服のボタンを上からゆっくりと外し始めた。柔らかそうな肌が見え、やがて彼女の下着が見え始める。その事態の変わりように、翔平はただ目を見開いて絶句していた。

 

「……私の身体を、買ってください。私を、一時の快楽に溺れさせてください。そうやって……私を、助けてください。私が貴方と会った時も、その事を考えながら街に出ていたんです。ロクに働けないこの身体で稼ぐのは……私には、これくらいしか浮かばなかったんです」

 

「………」

 

「……まだ誰にも触らせてませんよ。貴方の好きなようにしてください。できることなら……私をそのままどこかへ連れていってください。貴方専用のモノになってもいい。そうやってお金を稼いで……」

 

「……稼いで、どうするんすか」

 

 翔平は握っている手を更に強く握りしめた。その顔は目の前に女性の素肌があるというのに険しく、怒りに満ちていたものであった。

 

「そんなお金で育てられた白菊君が、喜ぶと思ってるんすか。実の家族がそうやって稼いだ金で、喜んで学校に行けるわけがない」

 

「なら、どうすればいいんですか。私は、どう生きていけばいいんですか?」

 

「………」

 

 翔平は言い淀んだ。明確な答えはなかった。だが、このままではいけないことはわかっていた。

 

「……俺には、氷兎みたいに深い所まで考えて行動出来ないし、西条みたいに何もかもを即決断できるだけの判断力もない。だから……俺には、何も言えないですけど……でも、これはダメです。ダメなんすよ、海音さん……」

 

 翔平は彼女の目を見てから、服のボタンをひとつひとつ丁寧にかけ直していった。翔平の手には、ポツポツと彼女の涙が零れ落ちてきていた。それを拭うことは、彼にはできなかった。

 

「……ごめんなさい、海音さん。俺が海音さんに出来ることっていうのは、きっとほとんど何もないですよ」

 

「………」

 

「俺が今、できることっていうのは、きっと……」

 

 ……翔平は何も言わなかった。だが、その決意はもう明らかだった。招待状を突き止め、そこにいる海音の母親を連れ戻す。彼女のためにできることはきっと、これくらいしかないだろう。両手を握りしめ、彼は精一杯頑張って彼女に微笑みかけた。

 

「もう寝ましょう。今日は何も無かった……そういうことに、しましょう。寝室まで送りますよ」

 

「……いいえ、自分で行きます」

 

「……そっすか」

 

 海音は自分で車椅子を動かして、リビングから出ていこうとする。部屋の扉を開けて出ていく直前、彼女は翔平に背を向けたまま言った。

 

「……ごめんなさい、鈴華さん。私、どうかしてるみたい。でも……本当にちょっとだけ……気分が楽になりました。おやすみなさい」

 

「……おやすみなさい、海音さん」

 

 リビングから車椅子の音が遠ざかっていく。翔平は近くに設置された鏡の前までやってくると、鏡に映った自分の顔を見て自嘲するように笑った。

 

「……カッコわりぃなぁ、俺」

 

 やるせない気持ちを燻らせながら、翔平は昨日西条と打ち解けあったテラスポートに足を運んだ。今も尚調査を続けている仲間のことを案じながら、空を見上げた。

 

 今日はもう眠れそうにない。翔平は自分でもわからないうちに、歯を食いしばっていた。

 

 

 

 

To be continued……




夢を見た。ハーメルンの評価バーに色がつく夢を。
起きた時に思った。夢が現実だったらよかったのに、と。


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第78話 幸せを求めて

 起きた時にはもう日が高く登っており、時計の短針は午後一時を指し示している。食卓に向かってみれば、そこには俺と七草さんの二人分の昼食が用意されていた。多分、海音さんが用意してくれたものだろう。

 

 椅子に座っていざ食べようと思った時、ちょうど七草さんがやってきた。その顔はまだ疲れが抜けていないように見えるが、彼女の髪は綺麗で真っ直ぐだった。どんなに彼女が疲れていても、彼女自身が綺麗であることには変わりはなく、またその輝きは失われないのだろう。彼女は俺を視界に収めると、疲れた表情から一変して笑顔になった。

 

「おはよう、氷兎君」

 

「おはよう、七草さん。とはいっても、もう昼過ぎだけどな……」

 

「帰ってきたの、ほとんど朝だったもんね……」

 

「もう二度とこんな距離走ってたまるか……」

 

 俺の対面に座った彼女は、めずらしくため息をついた。さしもの彼女も明るく振る舞うことすら億劫らしい。いつも明るい彼女だったが、そんな彼女の別側面を見ることが出来て、彼女には悪いが……少し嬉しかった。

 

 そうやって彼女を見ていたら、ご飯を食べようとした彼女と目が合ってしまった。彼女は何も言わず、ただ微笑んだ。俺は顔が熱くなるのを認識しながら、微笑み返して自分の昼食を口の中へと運んでいく。

 

 そうして特に会話もなく……しかし気まずい雰囲気というわけでもない状態のまましばらく時間が経った。誰かの足音が聞こえ、扉の方を見ていると……これまた疲れた様子の先輩と、いつもの仏頂面を維持した西条さんがやってきた。

 

 ……なんで先輩はそんなに疲れきっているのだろうか。理由はわからないが、彼はズボンのポケットに手を突っ込んだまま挨拶してきた。

 

「よぉ、二人とも。おはようさん」

 

「おはようございます」

 

「おはよう、翔平さん」

 

「……疲れが抜けきってないところ悪いが、報告をしてくれ。夜間の調査はどうだった」

 

 先輩と西条さんも席につき、俺と七草さんはご飯を食べる手を時々止めながら夜間の出来事について話し始めた。

 

 山の調査を任された訳だが、そもそも山といったっていくつもある上に、山のどこに収容施設があるのかもわからない。闇雲に探していては時間の無駄だ。だから俺は、山の付近に車が多く止められている場所があるかどうかを探した。招待状に徒歩で来いとでも書かれない限り、確実に移動手段は車だ。しかも帰らないとなれば……車は放置されていることになる。

 

 だが、問題はなぜ警察が車を見つけられなかったのかだ。警察が見つけられていないというのなら、おそらく隠されているのだろう。それか……車が大量に置いてあっても不自然ではない場所。登山用の整備された山の可能性が高い。

 

 そうやって見当をつけて探した結果……見つけることができた。山に巧妙に隠され、しかし指示があれば見つけられるような場所に、コンクリートで作られた小さな建物があったのだ。その場所を覚え、俺と七草さんはまた走って帰ってきた。帰りついた頃には、俺も彼女も疲労困憊だった。家に辿り着いた時の記憶なんてものはろくに残っちゃいない。そんな疲弊具合だった。

 

 説明を交えながらの報告をすると、西条さんは顎に指をそえながら満足そうに頷いた。

 

「……なるほど、中々考えたものだな。しかし大きな建物ではなかったか」

 

「見た目はそう大きくはないですね。でも、真新しい感じもしてましたし……夜間だったおかげで、機械の稼働するような音が聞こえましたよ。それもおそらく、下からです」

 

「地下構造か。確かに、地下ならどれだけ大きな収容スペースがあっても表沙汰にはならない」

 

 西条さんは携帯でマップを見せてきた。それに俺と七草さんでどの辺だったかを話しながらおおよその場所をマッピングした。七草さんも小さく頷いているし、場所はまず間違いないはずだ。

 

 西条さんは携帯をしまうと、椅子から立ち上がって俺達に言った。

 

「準備をしろ。さっさと片付けるぞ」

 

「……ちっと休ませてもらえませんか。俺も七草さんも、まだ疲れが……」

 

「……私、ちょっと身体が重い感じがする」

 

 七草さんは自分の綺麗な足を触りながらそう言った。あれだけの距離を走ったのだ。流石に足の筋肉もパンパンだろう。できることなら、俺も今日ばかりは休みたかった。いやそもそも、昼間に突撃するのはやめてほしい。俺は昼間はまともに戦えないのだから。

 

 そうやって抗議しようとしたが……めずらしいことに、先輩が西条さんに続いて立ち上がったのだ。彼の表情は、いつもの様子とは違い真剣そのものだった。

 

 先輩は俺と七草さんに向き直ると、軽く頭を下げて頼み込んできた。

 

「悪い、二人とも……。でも、俺早くこの任務を解決してやりたいんだ。だから……頼む」

 

 俺も七草さんも、そして西条さんも彼の行動に驚かされた。まさか先輩がそんなことを言ってくるとは思わなかったのだ。先輩なら俺達の体調を気遣って来ると思ったが……なるほど、先輩が疲れたような顔をしている理由と関係があるのだろう。それはきっと、他の誰かのため。となれば……海音さんか、白菊君か、はたまた両方か。

 

 俺は七草さんと顔を合わせた。彼女は軽く頷いて、その顔を引き締めた。どうやら彼女はやる気らしい。まったく、男の俺よりも胆力がある。羨ましいものだ、っと俺は少し自嘲気味に口元を歪めながら返事を返した。

 

「……わかりました。じゃあ、行きましょうか」

 

「……助かるよ。でも、二人とも気をつけてな。怪我とかしないように」

 

「わかってますよ」

 

「私も大丈夫です。まだ、氷兎君のこと護れるよ」

 

 俺の方を見て微笑みながら言ってくる七草さん。俺は立ち上がって、そんな彼女の頭を軽く叩くように拳を置いた。彼女が不思議そうに俺のことを見つめてくる。俺は彼女に言おうとした言葉を一旦飲み込んだ。なんとも恥ずかしかったが……俺は彼女に言った。

 

「……俺も、七草さんのこと護れるように頑張るよ」

 

「……うんっ!」

 

 まるでお日様のような明るさの笑顔だった。彼女らしい笑顔だ。まったく……本当はそんなことを言いたかったわけじゃなかったんだがね。

 

 俺のことなんて護らずに、自分のことを護ってよ。そう言うには俺はまだ弱すぎたのだから。せめて、俺が彼女を少しでも助けられたなら……いや、そんな事態にならないことを祈ろう。そうして俺達は各自で荷物を準備し始めた。

 

「………」

 

 家を出る間際まで、先輩が海音さんのいるであろう部屋をじっと見つめていたことが気になったが、特に気にしないことにした。どうやら先輩は俺達の準備中に何かしていたらしいが……まぁ、先輩のことだ。きっと状況は悪くならないだろう。

 

 日はまだ高い。身体能力が上がっていないことが少し恐ろしかったが……俺達は逃亡した男性研究員、日向(ひなた) (あおい)のいるであろう場所へと向かって行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 現地まではタクシーを使っていった。先輩と西条さん。俺と七草さんに別れて二つのタクシーで移動したが……道中、七草さんは疲れからか寝てしまい、頭を俺の肩に乗せるようにして寝てしまった。非常に心の和むような時間だったということだけは確かだった。寝ていないのに眠気も吹き飛んだ。おそらく興奮のせいだろう。

 

 ……変態か。俺は逸る気持ちを先輩のアホ面を思い出すことで押さえ込んだ。

 

 各自で必要な荷物を持ち、タクシーが離れていくのを見届けてから、早速俺達は山へと向かっていった。舗装された山道に入るのではなく、しばらく迂回するように移動して進んでいると……不自然に開けたような道が存在していた。

 

「確かここのはずです。奥に行けば建物があるかと」

 

「一般人のいる可能性もある。武器はいつでも出せるように隠しておけ」

 

 西条さんの言葉通りに隠そうとしたが、服の中に銃を隠すことしかできなかった。槍はどうやっても隠せないだろう。仕方なく袋の中にしまったままにすることに。先輩と七草さんは武器を隠すのにも困らない。しかし西条さんはキツいのではないか。そう思っていたが……なんと彼はズボンの内側に刀を差し込み、上着で刀の上の部分を隠していた。

 

 ……なんだって俺だけこんな不便な装備なんだろう。今度ナイアに会った時は武器を取り出す魔術でもあるなら教えてもらいたいものだ。

 

「……そういえば、辿り着いたとして、俺達はどうやって中に入るんだ? 俺たちゃ招待状を持ってないんだぞ」

 

「確認してくる人物がでてきたなら、ソイツを鎮めて中に入る。機械ならば少し弄れば入れるだろう」

 

「お前まさか機械にも強いのか?」

 

「俺を誰だと思っている。金だけ無駄にかけられた世界トップ企業の息子だぞ」

 

 皮肉げに言っているが、西条さんの持っている知識や技能はそこら辺にいる人を軽く凌駕しているだろう。戦闘能力、技術力、知識……隙がなさすぎる。やはりこの男は超人か。

 

「……あっ、見えた。あれだよね氷兎君」

 

 七草さんの指さした方向に、コンクリートで作られた建物があった。来るものを拒むように重々しく作られた鉄の扉が見えている。見た限りでは、何か認証するような機械がある訳ではなさそうだ。

 

 周りに気を配りながら近づいていくと、鉄の扉は俺達を迎え入れるかのようにひとりでに開き始めた。錆び付いたり油が切れたりしていないせいか、やけにスムーズにかつ静かに扉は開かれた。

 

 中は殺風景な通路で電気がついて明るかったが、しかし人はいない。唾を飲み込んだ俺は、隣にいる先輩達を見ながら言った。

 

「……たんなる自動ドアじゃないですよね。明らかに誘われてますよ」

 

「パッと見監視カメラはなさそうだけどなぁ……」

 

「今の技術なら目につきにくい小さな監視カメラも設置が可能だ」

 

「うぇ……バレてんのか……」

 

「……どうしますか?」

 

 行くか、退くか。どちらにせよ悪手だろう。俺達のことがバレてる状態で行けば迎撃に遭う。かといってここで退けば逃げられる、もしくは警備を強化される。

 

「……行こう」

 

 先輩の声が聞こえた。彼の顔にはもう迷いはなく、静かにその先を見つめ続けていた。

 

 その言葉に反対する人はいなかった。警戒を更に強め、俺達はその建物の内部へと侵入して行ったのだ。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 一体どれだけの人が、障害を患った人を本心で心配するのだろう。上辺だけのものでなく、心の底から心配する人は、どれだけいるのだろう。

 

 ……きっといない。母でさえそうだったのだから。関係のない赤の他人がそんなことを考えるわけない。ならば、私を一体誰が助けてくれるというのだろう。

 

 昨日の夜、私は鈴華さんに当たり散らしてしまったけど……でも、きっと誰も私を責めることはできない。生きる権利を持ちながら、しかし生きる術を持ち合わせることの出来なかった私。そんな私を助けられるのだとしたら、どうやって助けてくれるんだろう。

 

 石油王が私を助けてくれる? 医者が私の足を治せる? 私に全財産をなげうってくれる人がいる?

 

 ……ありえないことだ。そして、ふと思ってしまった。私を助けてくれるのは、もしかしたら『死』だけなんじゃないかなって。それ以外に、誰がどうして、私を助けてくれるのだろう。

 

「………」

 

 バイクの音が遠くから近寄ってくる。次には誰かがポストに手紙か何かを投函していく音が聞こえた。そしてまた、音は遠ざかっていく。

 

 ……こんな私を、誰が助けてくれるのだろう。

 

 やっとのことで、ポストまで辿り着いた。中にあったのは、白い紙にピンクの彩色が施された一枚の紙だった。

 

 ……こんな私を、どうやって助けてくれるのだろう。

 

 その紙にはパソコンで入力された文字が書かれていて、裏側は地図が載っていた。表には、たった一文だけ文字が書かれていた。

 

『加茂 海音殿。貴方を幸せへと招待します』

 

 ……こんな私を、助けてくれるものがあったとするならば。

 

 それはきっと『死』という名の救済か……そう、『魔法』のようなものだろう。

 

 誰もいなくなった家を見上げてから、私は車椅子を動かしていく。

 

 誰も私を責めることはできない。誰も私を咎めることはできない。誰も私を止めることはできない。

 

 ……私だって、幸せになりたい。

 

 

 

 

To be continued……



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第79話 現実はどこだ

 ……風が吹いている。まるで身体を撫でるような柔らかい風だった。微睡みの中、もう少し寝ていたいという強い想いに身体を委ねると、しだいに動こうという意思すらもなくなっていく。

 

「……氷兎君」

 

 明るく優しい声が聞こえる。誰の声だろう。未だに俺の身体に動こうという気は起きなかった。

 

 多分女の子だろう。きっとすぐ近くにいる。

 

「氷兎君、起きて」

 

 誰かが身体を揺すってくる。仕方なく目を開けてみれば……まだ薄らぼやけている俺の視界には、水色の空といくつかの雲が見えていた。そして、視界の隅には胸の大きな女の子が……。

 

「………ッ!?」

 

「きゃっ」

 

 あまりに異様な光景に、俺は飛び起きた。隣で女の子の驚く声が聞こえたけど、そんなことはどうでもいいとすら思えていた。

 

 見渡す限りの晴れた空。下の方には田舎の風景が見える。田圃や川が流れる、現代の日本では見ることすら難しいような世界。俺が寝ていたのは、丘のような斜面だった。地面は柔らかい芝生で覆われ、触っているとなんだか心地いい。

 

 まるで、異世界にでも来たみたいだ。俺はさっきまで……。

 

「……俺、何をしていたんだっけ」

 

 記憶がハッキリしない。でも、ここじゃないどこかにいたはずなのだ。それはきっと建物の中だったはず。こんな景色のいい場所じゃなかった。

 

「もうっ、氷兎君ったら……起きるならもっとゆっくり起きてよ。びっくりしちゃった」

 

 俺の隣にいた女の子は、七草さんだった。服装はなんだかいつもと違う。真っ白なワンピースだろうか。それに長く艶のある髪の毛には白い花のような髪飾りがつけられている。

 

 ……何が起きている。未だに頭の中は混乱していて、うまく事態を飲み込めていない。そんな俺の頬を、彼女は両手で優しく包み込んできた。

 

「……起きた?」

 

「ッ───」

 

 近い。七草さんの顔が物凄く近い。少し前に顔を動かせば、彼女の柔らかそうな唇に俺の唇が当たるのではないか。彼女の息遣いすらも感じられる。

 

「氷兎君、顔赤いよ? もしかして……照れちゃった?」

 

「い、いや……それより、七草さん。顔が近いよ……」

 

「……七草さん?」

 

 名前を呼んだら首をかしげられた。何も変なことを言った覚えはないが。だというのに、彼女はその無垢な顔を曇らせてしまった。俺にはなぜだかわからない。

 

「……いつも、名前で呼んでくれるのに。今日はどうしたの?」

 

「……名前? 俺が、七草さんを名前で?」

 

「桜華、でしょ?」

 

 その眼は俺を逃がしはしない。その腕は俺を逃しはしない。ただ俺は彼女の汚れのない真っ直ぐな瞳に射抜かれるように、その場でじっとしていた。

 

 俺は確かに、彼女を七草さんと呼んでいたはずなんだ。なのに、なんだって急にそんなことを言い出すのか。

 

「……ごめん。何が何だか……俺、確かにここじゃない別の場所にいたはずなんだ」

 

「……夢だったんじゃない?」

 

「……えっ?」

 

 俺の驚く顔を見た彼女は、またニッコリと歯を見せるように笑った。

 

 ……その笑顔に、誰かの笑顔が重なる。知っているはずの誰かなのに、わからない。

 

「だって、氷兎君はいつも夢を見るのが好きでしょ? 今日もまたこうやって、ここで寝てたんだから。お義母さんに頼まれて探しに来なかったら、ずっと寝てたんだよ?」

 

「……夢。全部、現実じゃない……?」

 

 ズキリッと頭が痛む。痛みがある、ということは夢じゃないんだろう。俺は確かにここにいる。

 

 でも……俺の薄れゆく記憶の中にある誰かの声や、思い出は……本当に間違ったものだったのだろうか。いやでも、夢の記憶は徐々に薄れていく。ならばきっと、今薄れていっている記憶というのは、夢の中での出来事だったということなのか。

 

「ねっ、氷兎君。一緒に帰ろう?」

 

「あっ……」

 

 彼女の柔らかい手が、今度は俺の手を掴んだ。そのまま半ば強引に、俺を引っ張っていく。目の前にいる七草さんは本物で、その仕草や行動も彼女そのものだった。

 

 ……なるほど、夢だったか。それにしては長く、どこか現実的な夢だったけど。記憶の中では、俺は魔術なんてものを扱っていたようだ。馬鹿らしい、厨二病を今更患ったのか。

 

「……なぁ、桜華」

 

 自然と彼女の名前が出てかた。呼びなれているような、そうでもないような。不思議な感じがする。俺の呼びかけに、彼女は振り返った。

 

「なぁに、氷兎君?」

 

 笑顔だ。心做しか輝いて見える。俺は握っている手を強く握ると、彼女の真横まで近づいていった。

 

「……なんでもないよ」

 

「変な氷兎君」

 

 笑う声が聞こえてくる。どうにも恥ずかしくて、俺は顔を逸らした。そして自分の家へと向かって歩いていく。そう、確か丘の上に家がある。そこにはちゃんと、父と母がいるはずだ。

 

 足取りも軽く、辿り着いたところには一軒家があった。確かに俺の家だ。彼女に手を引かれながら、俺は家の中へと帰っていく。

 

「……ただいま」

 

 久しぶりに言った気がする。するとすぐに、懐かしい声がリビングから返ってきた。

 

「おかえり。桜華ちゃん、ありがとね」

 

「いえ、氷兎君のお迎えは慣れてますから」

 

「本当、助かっちゃうよ。ねぇお父さん」

 

「そうだな……。いつもフラフラとしてるし、手綱をちゃんと持っていてほしいくらいだ」

 

 ソファに座ってテレビを見ている父さんはそう言った。母さんは、キッチンでご飯を作っているらしい。

 

 いつも帰ってくるのが遅かったはずなのに、どうして揃っているのだろうか。いや、それは夢の中のことだったっけ。まぁ……どうでもいいことか。

 

「……ねぇ、氷兎君」

 

 彼女は俺の手を握ったまま聞いてくる。その行動に、その笑顔に、誰か別の女の子が重なっている。

 

 恥ずかしそうに顔を赤らめながら、彼女は言った。

 

「『ひーくんって、呼んでいい?』」

 

 声が重なる。聞き覚えのある声だ。どこか安心感すらも覚える声だった。

 

『自分の名前が嫌いなの?』

 

 どこか遠い記憶。それは夢だったのだろうか。記憶の中では、俺は女の子と向かい合っていた。まだお互い幼い頃だ。相手の女の子の顔は……よく思い出せない。

 

『氷兎君がそう言うなら……じゃあ、ひーくん! そうやって私はずっと名前を呼ぶから。皆に名前が言えなくても、私はずっとひーくんの名前を覚えてるよ! 約束!』

 

 ……約束。そうだ、約束。忘れていた記憶だけど、なんとなく現実味があった。確かに俺は、自分の名前が嫌いだったのだから。その名前を、目の前の女の子は知っているはずなんだ。

 

「……ねぇ、桜華。俺の名前覚えてる?」

 

 何気ないように、俺は彼女に尋ねた。彼女はどこかポカンとしていたが、いつものように笑って答えた。

 

「何言ってるの。そんなの忘れるわけないでしょ?」

 

 ……そうだ。忘れるはずがない。指切りまでしたのだから、忘れてはならないことのはずだ。そういう約束だったのだから。

 

 彼女は笑顔のまま、俺の名を呼んだ。

 

「───氷兎(ひょうと)君、でしょ?」

 

 ……俺は笑って、そばに置かれていたテーブルナイフを持ち、彼女に向けた。

 

「………えっ?」

 

 彼女はそんな奇怪な行動をとり始めた俺を見て、呆気に取られていた。俺はナイフを向けるのをやめない。

 

「そうだな。俺の名前は唯野(ただの) 氷兎(ひょうと)だ。そうやって、自己紹介したな」

 

氷兎(ひょうと)、アンタ何やってるの!? 今すぐソレを置きなさい!!」

 

 母さんが知らない誰かを怒鳴りつける。しかし俺はナイフを置かない。次第に、目の前の光景がブレ始めた。家の中は赤い絵の具をぶちまけたように汚れ、その汚れの中心には槍に突き刺されたまま息絶えた両親がいる。

 

 目の前にいる女の子は、両目に涙を溜め込みながら俺を止めようとした。

 

「やめて、『ひーくん』!!」

 

 その名前を呼んでいたのは、たったひとりだけ。

 

 その名前を呼んでいいのは、たったひとりだけ。

 

 そういう約束だったのだ。

 

 目の前にいる女の子の姿がブレ始める。まるで壊れたテレビに映った映像みたいに。

 

「……夢はこっちだ。俺の現実は、ここじゃない」

 

 ……そうだ。現実(菜沙)はどこにいる?

 

 いないのならば……それはもう、現実たり得ない。これは紛れもなく、夢だ。俺の両親はもう死んだ。七草さんはこんなに俺に積極的に近寄ってこない。俺にここまで近寄ってくるのは、菜沙だけだ。

 

 彼女こそ、俺にとって現実の証明だったはずなのだから。

 

 だから……こんな夢、さっさと覚めろ。俺は彼女の元へと帰らなければならないのだから。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 身体がビクリと反応し、俺は瞼を開けた。目の前にはガラスの板のようなものがある。そのせいで起き上がることができない。首を動かして周りを見れば、どうやら俺は何かの箱のようなものに横になって入れられているようだった。

 

 ……そうだ。確か俺達は突入したあと、その先の部屋でガスを吹きかけられて意識を失ったんだ。ならば、その犯人が俺をこんなところに閉じ込めたのか。いやでも、内部は中々快適だな。気温も保たれて、どうしてか空気を吸い込むと満足感が身体を満たしていった。

 

「……真っ暗だな」

 

 微かな明かりのおかげでガラスの外は見えるが、暗い色をした天井だけが目に映っている。どれだけ長い間眠っていたのかはわからないが、少なくとも一時間やそこいらではない。寝すぎのせいなのか、身体が嫌に重く感じるのだ。

 

「……携帯も、武器もなしか。困ったなぁおい……」

 

 ポケットの中には何も入っちゃいなかった。武器もない。現状手詰まりだ。流石に気が滅入る。独り言も多くなるというものだ。

 

 叫んだら誰か来てくれないだろうか。いや、下手に動けば俺達をこんな目に遭わせた犯人……おそらく研究員が何か仕掛けてくるだろう。どうしたものか……。

 

「……おっ?」

 

 なんとか目の前のガラスの蓋を開けようと押し上げてみたところ、蓋はなんなく上に開いていった。なんだ、鍵とかかかってたわけじゃないのか。出られることに安心した俺は、蓋を開けて外に出てみた。

 

 まだ少し身体がうまく動かないが、なんとか大丈夫だろう。身体をほぐし、手を何度か握り直してから、俺は周りを見回した。

 

「……なんだ、これ」

 

 ……多分、手に何か持っていたならば落としていただろう。目の前に広がっている光景に、俺は唖然とするしかなかった。

 

 薄暗い部屋に、例えるならば病院に置いてある酸素カプセルのようなものが所狭しと並べられていたのだ。規則的に並べられたそれらは、明らかに人の手が入り込んだものであった。

 

 俺はすぐ隣にあったカプセルの中をのぞき込んだ。中にはまだ若い男性が安らかな顔で、まるで死んでいるかのように眠っていた。

 

 ……数十という台数ではない。あまりに多すぎるそのカプセルの数と、その中にそれだけの数の人が眠っている。背中に襲いくる寒気を感じながら、俺はその場に座り込んでしまった。

 

 ……何がどうなっているのか、俺には理解できなかった。

 

 

 

To be continued……



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第80話 理想を求めて

 いつまでもこうして座っているわけにはいかない。異様な光景に身体はまだ怯えているが、俺はなんとか立ち上がってとりあえず歩き始めた。どこに行けばいいのかはわからない。だが、とりあえず先輩達を探さなくては。それに武器もだ。

 

 人の眠ったカプセルの横を通りながらしばらく歩いていると、何やら明るい場所が見えてきた。誰かいるのかもしれない。俺は足音を立てないようにその場所へと近づいていった。

 

「………」

 

 その光源となっていたのは、幾つもあるモニターだった。何かの数値を表していたり、監視カメラの映像だったり、そしてもっとも目を引いたのが……不規則に変わっていく映像だ。その映像は、色々な人の生活する様子だった。女の子をはべらせて、好き勝手にしている男がいた。暴飲暴食を繰り返す者がいた。男女で仲良く歩いている光景があった。サラリーマンが上司に向かって好き勝手に殴りかかっている姿があった。それらのどんな人も、嬉しそうに顔を破顔させている。

 

「……なんだよ、これ」

 

 いや、まさかこの映像は……眠っている人達が見ている夢なのだろうか。だとしたら、ここが招待状に書かれていた場所だというのなら……幸せとは、自分の欲望を映し出す夢ということなのか。

 

「───動くな、両手を上げろ」

 

「ッ………!?」

 

 誰かが後ろにいた。若い男の人の声だ。まさか……逃亡した研究員だろうか。背後を取られてしまっては、何も出来ない。男の出した指示に従って、俺は両手を上げて動きを止めた。

 

「……あの女、案外早く俺達を始末しにかかったか。君も言われてここに来たんだろう?」

 

「……日向 葵さん、ですか」

 

「そうだ。しかし、少し想定外だな。処理班が来ると思っていたら、まさかこんな子供を寄越すとは。まぁ、メンバーは凄まじかったがな。三人目のオリジン兵に、斬人、射撃、サツジンキ……。私があの組織にいた時には、既にそこそこ名前が上がっていた人員だな」

 

 両手を上げたまま、顔だけを後ろに向ける。研究員、日向さんは支給品であるコルト・ガバメントを俺に向けていた。

 

 白衣を着て、眼鏡をかけた男性だった。背丈も高く、見た目でわかるくらい、頭の良さそうな顔だった。ガッチガチの理系人間だろう。

 

「……なぜ、組織から逃げ出したんですか?」

 

「あの女の所になんかいられるか。私は、私の理想を追い求めているだけだ。だというのに、あの女の理想の犠牲になってたまるか。他の奴らとは違って、私は自分の意思で逃げ出させてもらっただけだ」

 

「……自分の意思? 他の人と違う?」

 

「君は何も知らないのか。いや、そうだろうな。知り得るわけもない。研究員の上位チームなら知っていたが……奴らも、所詮は処理班と同じあやつり人形だ」

 

 ……言っていることがいまいちわからない。あの女とは、多分木原さんだろう。木原さんの理想の犠牲? それにあやつり人形……ダメだ、わからない。

 

 未だに俺に拳銃を向けている日向さんに、俺は尋ねた。今はなんとか、時間を先延ばしにする他ない。情報を盗むか、この窮地を脱する手立てを整えなければ……このまま死ぬのはごめんだ。

 

「……あやつり人形とは、どういうことですか」

 

「そんなに質問されても困るんだけどね。君、今の立場を理解しているのか? 私は研究員だが、これでも射撃くらいはできるぞ」

 

「無駄な争いはしたくないので。貴方だってそうでしょう。それに、今ここで発砲したら、まず間違いなく後ろの機械に当たりますよ」

 

「足を狙ってうずくまった所を撃てばいいんだけどね。まぁ確かに、その機械に壊れてもらっちゃ困る」

 

「……貴方はここで、何をしていたんですか。それに、幸せの招待状を貰った人が得られる幸せとは?」

 

「……ふむ。確か君は高校生だったね。君は普通の生活から一変して奈落に落ちたような人生を歩んでしまった。そんな君になら……私が何をしていたのか、話してやってもいい。できることなら君の手を借りたいんだ。なにせ、ここに本部の連中がなだれ込んできたら対処できない。それに、エラーも何もなしに自力で起きれた君に興味もある。普通は起きれないはずだからね」

 

「話によりますが、ね」

 

 一応、そっち側についてもいいという意思表示だけはしておく。本部に反抗するための戦力が欲しいのなら、ここで俺を殺すというのは勿体ない。相手は完全に頭脳型。俺程度の子供なら口舌だけで引き込めると思っていることだろう。

 

 ……その手には乗らない。ここでなるべく情報と時間を稼がせてもらう。

 

「武器も何もないので、手を下ろさせてもらっても? そろそろ肩が痛いんですが」

 

「……まぁいいが、そこから動くなよ。それと、不審な動きを見せたら躊躇はしない」

 

「どうも」

 

 両手を下げて、だらんとだらしなくぶら下げる。ポケットに手でも突っ込めば間髪入れずに撃ち抜く気だろう。今は何もしないという意志を伝えなければならない。

 

 目線は日向さんではなく、モニターに移っている映像に向けた。そして彼に尋ねる。

 

「ここにある機械は、一体なんですか」

 

 俺の言葉に、彼は抑揚のない声で答えた。

 

「それに関して話すのは、まずは私の理想について話さないといけない」

 

「……お聞かせ願っても?」

 

「少しは君にも関心が持てるような話だ。私が願っているのは極々単純で、それでいて難しいものだ。簡潔に言うのなら、全人類を幸せにしてやりたい。それだけだ」

 

「……全人類を、幸せに?」

 

 聞き返すと、今度の彼の返事はどこか熱の篭ったものだった。それこそ、彼がそれを信じてやまず、それを実行しなければならないという確固たる想いが込められているような、そんな印象を覚えた。

 

「それはとてもじゃないが、無理難題な話だった。机上の空論とも言える。子供が描いた絵空事を、私はずっと追い求めていた。誰もが救われる世界、誰もを救える世界。犠牲なんてものを出したくないという、私の幼い頃の願いだ」

 

「……なら、この機械はそれを実現させるものだと?」

 

「そうだな。この装置は君達が使っていた技術を基にして作られたものだ。VR装置があるだろう。あれを流用し、使用者が願った夢を見させる、いわば明晰夢を見ることのできる装置だ。明晰夢はわかるか?」

 

「夢を夢だと理解した上で見ることができ、その夢の中である程度自分の意思で物事を操れるもの、ですよね」

 

「その通りだ。そして、この装置は夢を見させるだけじゃない。人体に必要な栄養を空気を介して与えることができる。これほど素晴らしいものを、私以外に誰が作れるというのか」

 

 彼は高らかに自分の作った装置について説明を始めた。なるほど、あのカプセルの中がやけに居心地がよく満足感が得られると思っていたのは、栄養が送られていたからか。しかしどうやってだろう。きっとそれを尋ねたところで、俺には理解できない技術的な話になるんだろうけど。

 

「私に出せた結論は、これだけだ。人間が人間である限り、他者との争いはなくならない。ならば隔離してしまえばいい。それぞれの、自分の世界に。その世界の主は、人間の望み通り、自分至上の世界を得られる。誰もが夢見て、しかし手が届かない理想を実現できる。これを、幸せと言わずして何と言うか」

 

 彼は言った。人間とは自分が大事で、それ以外は結局どうでもいいと思っているのだと。そんな人々を救えるのだとしたら、それはもう自分が神にでもなった世界を作るしかないだろう、と。

 

 ……なるほど、絵空事だ。彼の言ったように、それは実現しようのない机上の空論に過ぎなかった。だが、それは日常的な話。俺達が今いる世界には、それを実現できてしまう技術があった。

 

 痛みも感覚もあるVR装置。どこかのお話でもあったような、意識を完全に情報化してゲームの中に取り込むようなものだ。そのゲームは、プレイヤーである自分が思い通りに動かすことができる。

 

 昔は早くフルダイブのゲームが出ないかと望んでいたが……こうとなっては、それは決して創り出されてはいけない技術だ。自分の思った世界を作り、そこに閉じこもってしまう。現実からの逃避だ。それを今の時代に実現すれば……何人足りとも逃れることは出来ないだろう。

 

「私が作ったこの装置なら、望む世界を作りあげることができる。恒久的な幸せを実現できる。君も見ただろう? 皆幸せそうに眠っている。そこのモニターに映っている映像も、実に幸せそうじゃないか」

 

「………」

 

「君がどうやって夢から覚めたのかはわからないが、でも見たはずだ。君の幸せを体現した夢だっただろう?」

 

「……笑える話だ」

 

「……なに?」

 

 俺の嘲笑うような声に、日向さんの眉間に皺が寄った。自分の理想を否定されては、そりゃ怒るだろう。なにしろ、それは実現一歩手前までいっているのだから。

 

 だが……彼の理想は決して叶わない。それは矛盾を孕んだ夢だからだ。

 

「恒久的な幸せ? そんなものは存在しない。例え夢であろうとも、永久に続く幸せはありえない」

 

「……君の目は節穴か? そのモニターに写っているのは幸せな光景そのものだ。君の夢だって見させてもらった。死んだ両親と共にもう一度生活したい。そう願っていただろう?」

 

「……そうだな。幸せだ。それはとてつもなく、幸せだ。俺がそう思えるようになったのは、両親を自分の手で救うことができなかったという不幸を経験したからだ」

 

 時間稼ぎにはもってこいの自論だ。あの時言った相反性理論。今ここで、この男にぶつけるしかない。さぁ、言え。自分の考えは正しいのだと信じて疑うな。その堂々たる態度こそが、相手の価値観を揺るがせる行為だ。

 

「この世界には対になるものが存在しなければ、その物事は存在しない。幸せには、不幸がなければ存在しえない。貴方のその理想は、致命的な矛盾を孕んでいる」

 

「矛盾だと……? そんなことはない! 私のこの計画が間違っているなど、ありえない!」

 

「いいや、間違っている。この機械でずっと同じ幸せを与え続けてみろ。いつかは飽きがくる」

 

「それは別の幸福を求めることで解消される! 見てみろ、そのモニターに映っている男は夢の内容を変えてまた幸せな道を歩み始めたぞ!」

 

 モニターを見る。そこにはさっきまで友人と遊んでいた男が、富豪になって自分の好きな生活を送る姿があった。他にも、女を抱いていた男は相手の年齢層を変え、暴飲暴食をしていた者は痩せ細り、上司に反抗していた男は今度は上司になって部下をこき使い始めた。

 

 なんと醜い光景か。この歪んだ欲望こそ、人間を人間たらしめる物であり、俺が人間という種族を嫌う理由でもある。

 

「恒久的な幸せを実現させるためには、差異がなくてはならない。俺達が物事を実感するためには、その前の状況との差を感じることでしか実感できない。痛くないから、傷ができて痛いと思った。なら、幸せだったものが、より幸せにならなければ、幸せとは実感できない」

 

「それを実現できる。それがこの装置だ」

 

「……いつかは止まりますよ、それ」

 

「なに……?」

 

 苛立たしそうな彼は、しかしもう銃口を向けていない。彼はどうやら俺の言葉を聴き入る体制に入っているようだ。このまま、俺は彼の考えを打ち砕く。

 

「例えば、自分の好きなものを食べることに幸せを見いだせる人がいたとするならば、毎日同じものばかりでは飽きるでしょう? なら、次は別の物を食べよう。これも飽きた。色々なものは食べ飽きた。なら組み合わせよう。そうやって自分で幸せを追求していく。より幸せになりたいがために」

 

「それの、何がいけないというのだ」

 

「世界中の全てを網羅し、食に飽きる可能性もある。ならばもっと幸せを。もっと多くの幸せを。そうやって追求して追求して……やがて限界に至る。不幸を経験しないということは、幸せのグラフは斜め一直線だ。上限にぶち当たれば、そこから先は平行線。最上級の幸せが永遠に続くことになる」

 

「……それこそが、追い求めた理想だ」

 

「だが、飽きる。そうなればもう、それは幸せとは呼べない」

 

「………」

 

 彼は口を閉ざした。両手を強く握りしめ、俺を睨みつけてくる。俺はただ彼に向かって生意気そうな顔をしているだけだった。そう、そうやって怒らせろ。相手の余裕をなくせばなくすほど、俺の理論は彼の理論に打ち勝てる。

 

「俺達が真に幸せを体感したいというなら、不幸になればいい。些細なことを幸せと感じ取ることができるだろう。だが、貴方の理想は不幸を許さない。たった一欠片たりとも、その不幸を許容しない」

 

「……欲しいものが得られる世界。言ってほしい言葉を言われる世界。それは、正しいはずなんだ」

 

「正しい正しくないは、今は無関係だ。俺は貴方の理想について言及しているに過ぎない」

 

「ッ……君のそんな言葉に、惑わされると思うのか?」

 

「ならもう少しお話をしましょう。差がないとそれを幸せだと認識できないなら、外の世界からそれを監視していればいい。貴方は彼らの様子を、幸せそうだと認識できる。なにせ、今ここにいる貴方は幸せを眺めるだけの不幸者だ。そんな貴方だからこそ、その幸せの差を明確に理解し、その飽きるという幸福に意味を見出すことができる」

 

「……なら、仮にそうしたとする。それならば、君の理論は無意味だ」

 

「俺の理論は、ね。けど、貴方の理想は?」

 

「……私の、理想だと?」

 

 怒りの感情が俺にぶつけられる。しかし俺はあくまで優位にたっている自分を疑わない。大丈夫。俺は彼の理論に打ち勝てる。

 

 彼の理想は、実現しえないのだから。

 

 

 

「───観測者たる貴方が不幸であるのなら、全人類が幸せであるという貴方の理想は破綻する」

 

 

 

「─────」

 

 彼は呆然と口を開けたまま俺を見ていた。その姿を見てニヤリと口元を歪ませる。

 

「恒久的な幸せは実現せず、実現させようとしても貴方の理想は達成出来ず。貴方の理想は……致命的に矛盾している! 子供のような夢は机上の空論でしかない! 貴方が子供ならまだ青い()だけで終わるでしょう。しかし貴方はもう、子供ではない! その夢が提唱されて微笑まれるのは、無邪気な子供の時だけだ!」

 

「黙れッ!!」

 

 銃口が向けられる。視線を横に逸らして、モニターに映る時間を確認する。もう充分時間は稼いだ。内心ほくそ笑みながら、俺は彼に告げる。

 

「なぜ怒る必要がある。貴方が真に自分の理想を信じていたなら、そんなものは妄言だと捨てれるはずだ」

 

「黙れと言っているッ!!」

 

「貴方が怒っている理由、それは欠片でも俺の理論に共感してしまったからだ。自分の理論を、理想だけを貫き通せたのなら、貴方の中には怒りなんて感情は生まれない!」

 

「次口を開いて見ろッ!! 私は君を撃つぞッ!!」

 

 俺は嘲るように口を開いた。

 

 

「貴方の理想は、単なる子供のわがままだ!!」

 

 

「黙れェェェッ!!」

 

 もう月は出た。ならば、至近距離でもあの弾丸を見ることはできる。さぁ、躱せ!!

 

 自分で自分に命令を下す。発砲音が鳴るよりも早く、弾丸は銃口から放たれる。胴体、心臓狙い。全力で回避しろッ!!

 

「ぐッ……うッぐゥ……!!」

 

 急所は避けた。しかし左腕が弾丸に貫かれた。左腕は直撃した衝撃で勢いよく後ろに動き、そのせいで左腕が動かなくなった。痛みと同時に熱さが発生し、痛みに慣れていても口からは悲鳴をあげるのを堪えて苦しそうな声が漏れた。

 

 本当は泣きたい。叫びたい。助けてくれと誰かを呼びたい。だがそれをするだけの時間すら与えられない。

 

 二発目がもうすぐ来る。逃げなきゃ、死ぬ。けど、痛みで身体が竦んでる……すぐには、動けない……ッ!!

 

 まずい、まずいまずいまずいッ!! 何か弾けるものがないと、次弾は避けられないッ!!

 

 刹那の間に頭の中に過ぎるのは、今度こそ自分の胴体を貫く弾丸の様子。頭では避けなければと思っていても、身体は動かない。ただ……いもしない神様に祈るだけだった。

 

「───上出来だ、唯野ッ!!」

 

 声が聞こえた。そして次の瞬間には男の腕から拳銃が叩き落とされ、日向さんは背後から迫ってきていた西条さんによって地面に倒された。痛そうな音が聞こえ、次には日向さんの呻き声が。もがく日向さんが逃げ出さないように、西条さんが彼の上に馬乗りになって固定する。

 

「っ………」

 

 身体から力が抜けていく。緊張が一気に解けて、もう立っていることすらできなかった。そのまま落ちるように地面に座り込んだ。涙腺は崩壊し、両目から涙が落ちていく。

 

 ……助かった。あの状況から、生き残ることができた。その事実だけが頭の中を埋めつくしていく。

 

「ぐっ……君は、なんで起きて……」

 

「急に願いが叶うことなどありえるものか。苦労もせずして手に入れた地位なんてものに、一体どんな価値があるというのだ。血反吐を吐くような苦労の上で、奴らを蹴落とさねば俺は気がすまぬのでな」

 

「なんて、奴だ……」

 

 いかにも、彼らしい理由だった。その顔には不敵な笑みが浮かべられていて、きっと日向さんの思惑を上回ることができたから内心嬉しいんだろう。

 

 西条さんは馬乗りのまま、彼の首に刀を突きつける。

 

「貴様はまだ殺さん。吐けるだけ情報を吐いてもらわねばな」

 

「……クソっ……なんで、ここまで来て……」

 

 日向さんの顔が憎悪に歪む。目標達成を果たしたと思っていたら、急に来た俺にその理論を破綻させられ、拘束されてしまったのだから。その心の内は俺には計り知れない。

 

「……机上の空論は、達成できないのか」

 

「貴様の頭の中だけで考え出した根拠もない理論に、一体何ができるというのだ」

 

「……所詮は、子供の戯言だと……君は言うのか……」

 

 彼の目が俺に向けられる。撃たれた左腕を抑えながら、俺は彼を睨み返した。悪いけど……負けるわけにはいかなかった。

 

 彼の顔は歪んだままだったが、やがて諦めたかのように息を吐いた。恨みの篭もった声で、彼は俺に告げる。

 

「子供の戯言は、子どものうちでしか許されない、か……。ハハッ……なら、まだ君なら、許されるのか……」

 

 ……彼は何を言っているのだろう。俺には彼の脳の中身は覗けないし、覗いてもきっと何もわからない。

 

「君は絶対に、後悔する。君だけは、絶対に。その時にまだ……君が子供だったのなら……ッ!!」

 

「なっ……!?」

 

 最後の力を振り絞ったのか、彼は研究職であるにも関わらず馬乗りの西条さんを振り落とした。俺は急いで彼の銃を回収しようとしたが、それよりも先に彼に銃を取られてしまった。

 

 撃たれる……そう思っても、弾丸は来なかった。彼は立ち上がって銃を俺たちに向けながら後退していく。その顔は……憎悪と悲哀の混じった、悲しい顔だった。

 

「は、ハハッ……あの女のための犠牲になんて、なってやるものか……。私は、私の理想のために……」

 

「貴様何をしているッ!! 銃を下ろせ!!」

 

 銃口は俺達にではなく、彼自身の頭に向けられた。両手で銃を持ち、自分の額へと。まさか……自殺する気か。西条さんが走り出したけど、距離がありすぎる。

 

「君はまだ、子供なんだ……。わがままを貫き通せ。私の言葉を、忘れるなよサツジンキッ!! 君は絶対に……あの女を恨むことになるんだッ!! 犠牲の上に成り立つ平和なんて、クソ喰らえだッ!!」

 

 そう言ったが最後、引き金が引かれた。発砲音と共に、彼の身体は後ろに向かって倒れていく。重たい音を立てて、彼は床に横たわった。額から流れ出る血が周りに流れ出していく……。

 

「チッ……情報を吐く前に死んだか。逃げた理由も、何も聞くこともできずに……」

 

 西条さんは彼の隣にしゃがみこむと、傷の大きさや撃ち抜かれた頭部を見てため息をついた。即死だったんだろう。

 

「……そっちの怪我はどうだ?」

 

「……左腕に弾が……」

 

「見せてみろ」

 

 座り込んでいる俺の近くまでやってきた西条さんは、なるべく左腕を動かさないようにしながら銃創を見た。未だに左腕は上手く動かないし、血が止まることなく流れ続けている。西条さんはそれを見て深く息を吐いてから、どこか安心したような顔つきで言ってきた。

 

「骨に当たらずに貫通したか……。被害は軽いな」

 

「これで、軽いんですか……」

 

「銃弾が中に残っていたらかなり面倒だ。骨に当たっていれば最悪別の方向に突き進んでいただろう。筋肉繊維だけがやられているなら、まだ軽い方だ。消毒と止血を急げばなんともない。武器が保管されていた場所にアルコールがあったはずだ。止血をしたらそこに向かうぞ」

 

 西条さんは自分の服の裾を無理やり手で引きちぎり、その布で銃弾が貫いた場所をきつく縛りつけた。堪えられずに、俺は苦痛の声を漏らした。痛むところを縛り付けるとか……更に痛みが悪化している気がする。

 

「少しは我慢しろ。死ぬよりマシだろう」

 

「そうは、言いますけど……」

 

「……にしても」

 

 彼は俺の顔を見てから、ニヤリと口元を歪めた。人の顔を見て何を笑っているんだこの人は。不満げな顔をした俺を見て、彼は答えた。

 

「いやなに、俺に散々ボロボロにされても泣かなかった貴様が、今こうして泣いているのが愉快でな」

 

「そりゃ、こんなの泣くに決まってるじゃないですか……痛いし死ぬかと思ったし……」

 

「ならまだ気をしっかり持っておけ。消毒はより痛いぞ」

 

「勘弁してくださいよ……」

 

 一足先に進んでいく西条さんに置いていかれないように、俺は立ち上がって追いかけていく。先輩だったら担いで連れていってくれるのに……もう少し怪我人を労わって欲しい。

 

 左腕を抑えながら、俺達は消毒と残った二人を起こすためにこの施設の中を探索し始めた。

 

 

 

 

To be continued……




 日向 葵  
 向日葵 花言葉『夢を追い求める』


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第81話 蝙蝠

 暖かいを通り越して、暑いと思った。空を見上げれば、眩しすぎる太陽が輝いていて。でも、不思議と汗は出なかった。周りの風景は……いつかの、あの公園へと続く道だ。

 

「桜華、大丈夫?」

 

「……えっ?」

 

 隣から声が聞こえてきて、振り向けばそこには氷兎君がいた。いつものように優しそうな顔で、私に笑いかけていた。

 

 ……なんで、私はここにいるんだろう。それと、なんで氷兎君は名前で呼んでくれたんだろう。わからない、でも氷兎君もいるし、なら別に不思議なことが起きているわけじゃないよね。

 

「ひーくん、桜華ちゃん。早く行こう?」

 

 私と氷兎君を遠巻きに見ていた菜沙ちゃんがいた。菜沙ちゃんは、ひとりでに先に歩いていってしまう。氷兎君はそれを見てため息をついてから、私に手を差し出してきた。

 

 ……手? なんで、私に手を差し出しているんだろう。怪訝そうに顔を傾けた私を見て、氷兎君は吹き出すように笑った。

 

「ほら、行くよ桜華」

 

「あっ……」

 

 氷兎君が、私の手を握ってくる。そして引っ張る形で私を連れていってくれる。

 

 握られた手は暖かくて、少し手の皮が固くて、男の子なんだなって思えた。そのまま、どこまでもどこまでも、私の手を引いていってくれる。

 

 私と貴方が出会ったあの夏を思い出した。菜沙ちゃんと仲良く手を繋いでいるのを見て、私はきっと羨ましかったんだ。こうして今繋がっているのがわかると……離したくなくなってしまう。

 

 手を繋いでいるだけなのに、たったそれだけのことなのに、私の中を暖かいモノが埋めていく感覚がある。それは夏の日差しのような熱さと、木陰にいる涼しさを合わせたような……不思議なものだった。

 

「……手、握らない方が良かった?」

 

 咄嗟に顔を上げる。氷兎君は悲しそうに俯いていた。きっと私が下を向いて歩いていたから。握られていた手を強く握り返すと、氷兎君は驚いたように私を見た。

 

「ううん……大丈夫。氷兎君の手、繋いでると安心できるから」

 

 私は笑った。すると氷兎君もつられて笑った。幼さが残る笑い方に、私は心だけじゃなくて身体まで熱くなってきていた。

 

 普段は頼りにされるような態度と仕草で、笑う時もどこか捻くれているようにニヤッとするけど……こうやって、無邪気に笑う氷兎君も、目を逸らせないくらい素敵だった。

 

「そっか。よかった」

 

 繋がれた手は離れることなく、私達は歩きだす。どこまでも、どこまでも、私の手を握ったまま……。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「七草さん、七草さん起きて」

 

「んっ……ぅ……」

 

 カプセルの中で眠っている桜華の身体を、氷兎が右手で揺らす。その豊満な双丘も揺れ動き、幸せそうな顔で眠っている彼女の唇が少しだけ開く。そこから寝息が聞こえ、氷兎は不意にドキリとした。

 

 なんだこの寝顔、天使かなにかか。自重するために氷兎はそっと視線を逸らした。

 

「……しっかし、周りの連中は皆起きてこねぇんだな」

 

 先程西条に叩き起された翔平は周りを見回しながら呟いた。自力で起きれた氷兎と西条は、現実に対する強い楔があったから戻れたようなものだ。普通の人間がそれを持ち得るはずもない。

 

「嫌な現実から目を逸らしたくなるのは自然な行為だ。今の日本に、これから逃れられる者はそういまい」

 

 西条は呆れたように呟いた。結局のところ技術革新が進んだとはいえ、世の中は何も変わらないからだ。東京オリンピックを終えて、日本の経済は一時回復したように思えた。しかし、インフレが起これば次はデフレが起こる。オリンピックのためだけに作られた建物の維持費等々に加えて、技術開発に金を注いだ結果……日本はまたもや不景気に突入していた。

 

 経済的なものに幼い頃から関わっていた西条は、日本だけでなく世界的にも人間の低能さに呆れていた。もっとも、彼自身にどうこうできるわけもないと思っているが。

 

「夢だとわかんなかったからなぁ……。ごく自然に、現実に溶け込んだ感じがしたし。痛みもあったから、あぁ現実なんだなって思ってた」

 

「……ちなみになんの夢を?」

 

「んー……新作のゲームが次々と発売されてた。んで、確かお前と一緒にやってた気がする」

 

「……先輩らしいっちゃらしいですね」

 

 氷兎もまた呆れたように肩を竦めた。左腕には包帯がキツく巻かれているが、じんわりと血が滲んでいる。それを見て翔平は悔しそうに顔を歪めた。

 

「……何のんびり寝てたんだろな、俺。お前がこんな目に遭ってたっていうのに」

 

「仕方ないですよ。まぁ一応銃創にしては軽傷らしいので、そこまで悩まなくてもいいですよ。なんか腕動きませんけど」

 

「充分重症なんだよな……菜沙ちゃんに合わせる顔がねぇよ……」

 

「あっ………」

 

 翔平の出した名前に一気に氷兎の顔が青ざめていく。帰ったら絶対に面倒なことになる。氷兎はもう確信していた。今すぐにこの傷を治せる魔術を教えてくれと心の中で叫んだが、誰も答える人はいなかった。

 

「ん……氷兎、君……?」

 

 カプセルの中から眠たそうな声が響いてくる。氷兎が中を覗き込むと、瞼を擦っている桜華と目が合った。

 

「……夢、だったの?」

 

「……何の夢を見ていたかは知らないけど、まぁそうだな。ほら、起きて」

 

 氷兎が桜華に向けて手を伸ばすと、彼女はおずおずといった様子で手を握った。そして何度か強く握ると、どうしてか微笑みながらカプセルの中から出てきた。

 

 そして彼女が氷兎の腕に巻かれた血濡れの包帯を見ると、顔を青くして問い詰めた。

 

「氷兎君……これ、どうしたの……?」

 

「あー……いや、ちょっとヘマした。まぁ消毒も止血もしてあるから大丈夫だよ」

 

「止血の時に泣き喚いた奴がいうセリフではないな」

 

「ちょっと西条さん!?」

 

 クツクツと笑っている西条に氷兎は怒鳴った。そんな元気な氷兎を見た桜華は少し安心したが……やはり目線は包帯から逸れない。でも彼女には何もできることは無かった。寝ている間に守るべき人が傷ついたことを知って、彼女は唇を噛み締めた。

 

「……大丈夫だって。これくらい平気だよ」

 

 氷兎が右手で彼女の頭を撫でる。彼女の表情は少し柔らかくなったが、依然として心配そうに傷跡を見つめるばかりだった。

 

「……さてと、こっからどうするよ。この眠ってる人達叩き起こすか?」

 

「起こしたところでどうにもならんだろう」

 

「……いや、待ってください。誰か来たみたいですよ」

 

 氷兎の耳には遠くの方から聞こえてくる金属音とゴムの擦れるような音が聞こえていた。それを聞いた彼らは武装の確認をしてから、その音の発生源へと向かって走り出して行った。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 その音が大きく聞こえるようになってきたのは、地上と繋がっているエレベーターのすぐ近くだった。転々とある柱やカプセルに身を隠しながら、彼らはやってきた人物に接近していく。

 

 キコキコッと鉄の擦れるような音が聞こえるなか、翔平は苦虫を噛み潰したような顔で移動していた。怪訝に思った氷兎だが、何も指摘しなかった。

 

 物陰に隠れて近寄ること数分。すぐ向こうにはやってきた誰かがいる。翔平が柱から顔を出して、誰がやってきたのかを確認すると……やっぱりか、とばかりに落胆した。

 

「……海音さん」

 

「っ……鈴華さん、ですか?」

 

 車椅子に乗っている海音が翔平を視界に捉えた。隠れる必要もないとばかりに、翔平は彼女の前にまで歩み出る。氷兎達もその後に続いて姿を現した。彼らの服装と、持っている刀や槍といった武器を見て……彼女は目を見開いた。

 

「皆さん……こんなところで、何を……?」

 

「……都市伝説を調べていたらここに辿り着いたって言ったら、信じてもらえないっすかね」

 

「それにしては……その、そんな武器とか……」

 

「あー………」

 

「先輩、もう隠すのは無理ですよ」

 

 ため息をつきながら、氷兎が前に出た。自分達がどのような組織に属していて、どんな活動をしているのかを、部分部分を端折りながら説明していく。そして……ここがどういった施設であるのかも、事細かに説明した。

 

 その説明を聞いてなお、海音は落胆の顔を見せずに辺りを見回した。彼女がここに来た理由にいくつか心当たりのあった翔平が言った。

 

「海音さんのお母さんも……ここにいるかもしれないっす。探すの、手伝いましょうか?」

 

「……私は、その………」

 

「……ここに眠っている連中の名前と場所を記載したファイルがあった。それを見ればどこに母親がいるのかわかるぞ」

 

 西条がポケットから取り出したのは何回も折られた紙だった。データ上に記載されていた情報を印刷して持っていたのだ。幸いにも、ここにはそれらの機械も置いてあった。医療用の薬などがあまり置いてなかったこと以外、ここで生活するには困らないだろうというだけの物資もあった。

 

 どれだけ日向 葵という人物が、自分の夢の為に頑張ろうとしていたのかがわかるくらいだ。

 

「西条、どこら辺かわかるか?」

 

「……加茂 朱音(あかね)という女性であってるのなら、Cブロックの17番目だ」

 

「……やっぱり、母もここに………」

 

「よし、じゃあ行ってみるか。海音さん、俺が押していきますよ」

 

「あっ……はい、お願いします」

 

 翔平が車椅子を押していき、西条が先頭に立って場所を案内する。最後尾を、氷兎と桜華が並んで歩いていた。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 西条の言う通りに着いて行った一同は、参列するカプセルを見て回りながら海音の母親の眠っているカプセルを探していた。しかし、皆の足がピタリと止まる。

 

 西条の言ったCブロックの17番目。そのカプセルの前に……女性が立っていた。膝下程度の丈のスカートを履き、胸元の大きく開いた服を着ていて、そこからは桜華に匹敵するくらい大きな山が見えている。綺麗な肌色で、目を奪われそうになるが……それよりも目を引いたのは、その女性の背中にある蝙蝠のような翼だった。

 

「……やっほ。ようやく来たのね」

 

 女性が氷兎達に向き直る。氷兎の身体は既に違和感を訴えていた。目の前にいる存在は、神話生物だ。しかも、かなり上位の存在だ。それを実感した全員は臨戦態勢に入る。翔平は桜華に海音を任せてデザートイーグルを構えた。西条は刀に手をかけ、氷兎も片手で銃を構えた。

 

 敵意剥き出しの氷兎達を、しかし女性は笑って済ました。海音の母親の眠っているであろうカプセルの上に座ると、目尻を上げて氷兎を見てきた。氷兎は、また俺かと内心ため息をつきながら話しかける。

 

「……どちら様ですか?」

 

「んー、そうだな……。君にわかりやすく言うと、君が契約した彼女の従姉妹だよ」

 

「……従姉妹? 冗談でしょう、全然似てない」

 

「プッ……ククッ、アッハハハハハハッ!!」

 

 氷兎の返事に、女性は腹を抱えて笑いだした。目尻には薄らと涙が浮かんでいて、どれほど彼女のツボに入ったのかがわかる。そんな彼女の行動に、少しだけ警戒心を緩めていた。

 

「ハハッ、はぁ……いやいや、まさか二回も同じこと言われるとは思ってなかったよ。君、中々ギャグセンスがあるんじゃない?」

 

「……二回?」

 

「前に言われたんだよねー。まぁ、君は知らないだろうけど。とりあえず自己紹介からしとこうかな」

 

 カプセルから飛び降りた彼女は、翼を軽く動かしてから片手でピースサインを作って自分の名前を伝えてきた。

 

「私の名前は、マイノグーラ。君達は特別に、気軽にマイって呼んでいいよ」

 

「えぇっと……マイさん、は……なんでこんなところにいるんすか?」

 

 翔平が恐る恐る尋ねると、マイノグーラは薄らと笑った。その笑みは見たものによっては凍りつかせるようなもので、しかし見方によっては相手の心を魅了する微笑みにも見える。ここにいる人は、誰もが背筋に寒気を感じていたが。

 

「なんでここに来たのか、か。気まぐれと言えばいいのか、約束を果たしに来たと言えばいいのか……。まぁ、気にすることでもないよ。用があるのは、君だからね」

 

「……俺?」

 

 彼女が指をさしたのは氷兎だ。案の定俺かと嘆いた氷兎は、向けていた銃を下ろして彼女の言葉の先を待った。しかしそこに西条が割って入る。刀に手をかけたままで、どうやらやる気のようだった。

 

「いつまで話し込むつもりだ」

 

「いや、西条さん。やめたほうがいいです。絶対勝てません」

 

「そうそう、私に勝つのは諦めた方がいいよ。君ならわかるよね? 彼女の従姉妹ってだけで……私がどれだけ規格外なのか」

 

 瞬きする間に、マイノグーラが消えたかと思えばすぐさま目の前に移動してきた。彼女の手が氷兎の頬に添えられる。流石に氷兎も身じろいで距離をとった。そんな彼の姿を見てまたマイノグーラは笑った。

 

「……そういうことされると、地味に傷つくんだよ? 私これでも、感性は君たちと同じなんだから」

 

「つーことはつまり……マイさんは悪い人ではないってこと?」

 

「そうそう、悪い人じゃないよー。ごく普通に人間の生気が大好きなだけの女神だよー」

 

 そう言った瞬間、西条の刀が振り抜かれた。しかしマイノグーラに当たるかと思えば、その身体をすり抜けていく。マイノグーラの身体は霧のように消えていき、少し離れた場所に現れた。

 

「ちょっと、流石に傷つくって言ったでしょ」

 

「目の前で敵対宣言されて待つほど俺は甘くはない」

 

「つれないなぁ」

 

 刀を地面と平行に構えた西条に続いて、氷兎と翔平も再び銃を構える。海音はそんな彼らを見て怯えていた。桜華は彼女をすぐにでも連れて逃げられるように、体勢を整えている。

 

「いやいや、やめてほしいな。私人間が主食じゃないから。確かに美味しいけど、私にとって人間は趣向品なんだよ」

 

「……危険性はないってことか?」

 

「馬鹿者。感性が人間よりだと言っただろうが。小腹が空いたから、そこにあったから、暇だったから。置いてあるお菓子を食べる感覚で、奴は人間を喰らっているということだ」

 

「……女子高生が学校帰りにスタバに寄る感覚で人を喰らってるってわけかよ。冗談じゃねぇ……」

 

 翔平の目つきが鋭くなる。軽かった雰囲気はどこへやら。もう既にこの場には張り詰めた空気が存在し、警戒も高まっていた。

 

 敵意剥き出しの彼らを見て、マイノグーラの表情が変化した。そこには微笑みも何も無く、少しの苛立ちが感じ取れた。

 

「……そっか。慣れてた彼とは違って、君達はこういうの許せないのか。これをあげようと思ってたけど……気が変わった。私だって、そういった態度取られると……怒るんだからね」

 

 どこから取り出したのか、彼女が片手で持っている薄汚れた茶色の本を軽く叩きながら彼女は言った。

 

 なるほど、アイツの従姉妹というのも納得がいく。氷兎は心の中で彼女を蔑んだ。やっぱりコイツらロクなもんじゃない。

 

「……来なさい」

 

 彼女がそう口にすると、辺り一面に酷い悪臭が満ち始めた。鼻が曲がりそうな刺激臭だ。思わず鼻を抑えてしまう。

 

「私の子供じゃ強すぎるから……彼らに頑張ってもらおうかしら」

 

 悪臭はとどまることを知らない。あまりに酷い臭いに顔を歪めていると、()()()()()()から青黒い煙が吹き出した。

 

 その煙は辺りに広がるかと思えば、ひとつに集まっていき何かの生物を形とっていく。それは貴方達が目にしたこともない形で、四足歩行の何かとしか表現はできない。

 

 口であろう部分から伸びる太い管のような舌の先には注射器のような針があり、長く伸ばしてはユラユラと揺らして誘っているように見える。その身体であろう部分からは青みがかった脳漿のような液体が垂れ流されている。

 

 それはそこに存在しているのかわからない。しかし確かにそこにいる。実態を持たないような煙の如きその生物は、彼らを見ると狼の遠吠えを上げるように喜んだ。

 

 それを見た彼らの心は軋んで悲鳴をあげ、冷や汗が頬を伝っていく。胃の中身が悪臭とその醜悪な見た目に反応してせり上がってきている。事実海音は嘔吐した挙句その身体を震え上がらせている。

 

 彼らは吐きそうになるのを堪え、それぞれの得物を手に目の前のバケモノを見据えた。そんな彼らをマイノグーラはせせら笑う。

 

「さぁ猟犬よ、行きなさい」

 

 猟犬と呼ばれたその生物は目の前にいるエサに喜んで襲いかかってきた。

 

 

 

 

To be continued……




 マイノグーラ

 人間の前に姿を現す時は、蝙蝠の羽をつけたグラマラスな女性として現れる。いわゆるサキュバス。怒ると真の姿が……それは例えるならばギリシャ神話のゴルゴーン。髪の毛は蛇のようで、睨まれると石化する。サキュバスなのかゴルゴーンなのか……これもうわかんねぇな?

 影の女悪魔の別名を持つが、れっきとした女神様。ただ昔に死にかけた人間の生気を吸ったら美味すぎてハマってしまっただけの、感性が人間よりの神話生物。

 感性が人間寄りだからセーフ? そんなことはない。彼女にとって人間の生気とは趣向品。クッキー☆感覚でポリポリ食べているヤベー奴。やめてくれよ……。



疲れのせいか筆がのりませんでした。許してヒヤシンス。


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第82話 角の世界の猟犬

 猟犬は青みがかった液体をまき散らしながら素早い動きで接近し、その長い舌の先にある針で突き刺そうとしてくる。桜華はすぐさま後退。西条と氷兎はその場から跳んで、並ぶカプセルを盾にした。翔平も下がりながら射撃を行うが……。

 

「クソッ、なんだよ当たんねぇ!!」

 

 煙の如き猟犬は弾丸が当たる前にのらりくらりと避けていく。翔平の嘆きに対して、猟犬は高い鳴き声で笑った。目の前の存在全ては、自分に害をなさない無力なエサだと思っているようだ。

 

「七草さん、海音さんを連れて安全な場所まで撤退して!!」

 

「それなら氷兎君の方がいいでしょ!! 怪我してるのに!!」

 

「あの青い液体に素手で絶対に触れちゃダメだ!! 七草さんだと相性が悪い!!」

 

「そんなっ……わかった。無理しないでね、氷兎君ッ!!」

 

 桜華がすぐさま海音を押していって離脱する。車椅子に乗っていた海音の顔は青白く、酷く震えていた。しかし彼らには構っていられる余裕が無い。氷兎の叫びに、接近して斬りふせようとしていた西条の動きが止まった。その場から離れて、西条は氷兎に尋ねる。

 

「何故わかる!?」

 

「ネクロノミコンが教えてくれてるんですよ!! その液体に触れると、すぐに水で流さない限り身体がバケモノに変異します!!」

 

「近寄れぬではないかッ!!」

 

 苦い顔をした西条が振るわれる舌を回避しつつ、刀で舌を斬りつけようとするが、舌にも筋肉があるのか自由自在に動き回る。西条の刀は空を斬るだけで傷を与えられなかった。

 

 氷兎は片手で銃を構えながら移動を繰り返し、頭の中に流れ込んでくる情報を確認していた。それは120度以下の角から現れる、角の世界の住人である。半ば実態を伴わず、魔力を纏った攻撃でしか傷を与えられない。その情報を確認すると、氷兎は舌打ちをして猟犬の死角から射撃した。

 

『ウゥッ!!』

 

 しかし弾丸は当たらない。猟犬の身体に当たるかと思えば、その煙のような身体が揺れて避けられてしまう。魔術を使えるから避けられないかと思ったが、そうではないらしい。思惑の外れた氷兎の顔に焦りが生じる。

 

 現状誰も猟犬に対して有効打を与えられない。歯がゆい状態のまま膠着状態が続く。

 

『グルゥ……バウッ!!』

 

「ちょっ、こっち来んなっての!!」

 

 翔平に向かって猟犬が飛びかかる。犬とは比べ物にならない速さで、翔平も全力で回避する。そのがら空きになった背中に西条が斬り掛かるが、やはり猟犬は当たる直前にその攻撃を回避してしまう。

 

 攻撃をかわされた西条はすぐさまその場から退避しようとするが……間に合わない。振り向いた猟犬の伸ばした舌が西条に襲いかかる。

 

「クソッ!!」

 

 刺されてたまるものかと西条は舌に向かって袈裟斬りを繰り出す。しかし舌はひょいと避け、その先端の針が西条の腹に突き刺さる。嫌に生々しい音を立てて、その針は西条から何かを吸い出していく。腹に針を突き刺された西条は苦痛に顔を歪め、気分が悪いのか一気に顔が青白くなっていく。

 

「な、にを……ッ」

 

「西条ッ!!」

 

 五発の弾丸が猟犬のいた場所へと放たれるが、しかし一発も命中しない。針を抜いて撤退した猟犬はその場からすぐさま西条に向かって再び突進する。

 

「西条さん、しっかりしてください!!」

 

 氷兎が西条の元まで駆けつけ、肩を組んで強引にその場から跳び上がる。並んだカプセルを盾にしつつ、猟犬の目から逃れようとしていた。

 

「おら、こっちだバケモノッ!!」

 

 翔平が柱の影から抜け出して自ら囮となる。デザートイーグルの弾丸を温存しつつ、時折発砲しては猟犬の注意を引く。鬱陶しく感じたのか、猟犬は翔平に向かって舌を伸ばして攻撃し始めた。その隙に氷兎が西条の怪我を確認する。

 

「西条さん、怪我は……」

 

「……ない、な」

 

「……傷が、ない?」

 

 西条の服には傷どころか穴すら空いてなかった。血が流れている様子もなく、西条曰く今は痛みを感じていないらしい。どういうことだ、と氷兎が考える中、西条は口元を抑えながら腹にある違和感について話し始めた。

 

「……刺された瞬間に、違和感が腹の中を突き抜けていった。そして、俺の中から何かが吸われる感覚も……。不思議と意識が薄れて、今もまだ頭がぼんやりとして思考がまとまらん……」

 

「……血を吸われたとかじゃないってことですか……ッ」

 

 氷兎の頭に頭痛が発生する。そして、あたかも元から知っていたかのように脳の中に情報が刷り込まれていく。それを理解しようとする度に、背筋が冷たくなっていくのがわかる。氷兎は必要なものだけを認識し、他の情報を理解するのをやめた。

 

「……あの神話生物、針で人の精神力を吸い取るらしいです」

 

「なに……?」

 

「簡潔にいえば、西条さんの意思です。吸われ続けたら最悪……寝たきりになったりだとか、下手すると発狂もありえるかと」

 

「……刀は通らず、銃も効かず、近寄れば神話生物に変わり果てる可能性もある。俺達の手には余るな」

 

 自分の意識がハッキリしてきたのか、西条の目つきはいつものように鋭くなる。見つめる先は、必死に逃げ回っている翔平の姿だ。互いに合図をした訳でもない。ただ、氷兎と翔平はどっちが何を担ったらいいのかというのを理解していた。

 

 今もなお翔平が恐れずに注意を引き続けているのは、氷兎が必ず戻ってくると信じているからだ。だがしかし、状況は芳しくない。氷兎は背中に背負った槍を触って確かめるが、左腕が痛み始めたので患部を押さえつけた。槍は握れそうにない。

 

「……然しもの西条さんも、お手上げですか」

 

「フンッ……馬鹿を言え。俺を誰だと思っている。やられたからには……斬り返すまでだ」

 

 西条がその場から刀を構えて飛び出した。その後ろ姿を見ながら、氷兎は呟く。

 

「貴方らしい答えだ……」

 

 氷兎も駆け出し、銃を構えながら柱に隠れてカバー射撃をする。翔平の改造した氷兎のコルト・ガバメントは、低反動かつ軽量化されたものだった。片手でも、夜間の氷兎ならば撃つのは容易い。問題は、どんな場所からどんな角度で撃っても、躱されてしまうことだ。

 

 あれは半実態になっているせいだろう。煙の集合体のようなものではあるが、しかし実際そこには実態が存在するのだ。だから、その実態を狙わなければならない。そう思っていても、弾丸は逸れるばかりだ。

 

「おっと……!? 犬っころだって言うなら大人しく座ってわんわん鳴いてろっての!!」

 

 翔平の射撃は正確無比。本来外れる要素がないが、やはり目の前の猟犬には当たらない。弾丸は床を傷つけるだけで終わり、猟犬は素早く動き回って、カプセルの上を転々と跳びながら移動する。流石にカプセルに向かって翔平は射撃することはできなかった。

 

「クソッ、何か手はないのか!!」

 

「おい西条ッ!! 足元の液体に気をつけろよ!!」

 

「西条さん一旦下がって!! このまま突っ込んでも勝てないですよ!!」

 

 仕方ないといった様子で西条が前線から離れる。それを好機と見るや、猟犬は西条に向かって飛びかかった。

 

「そう易々と二度もやられるものか!!」

 

 西条に向かって飛びかかって来たのをひらりと躱し、刀は胴体ではなく首に向かって振り下ろす。首を狙えば、躱さなくては最悪舌に当たる可能性もある。それを危惧して、猟犬はその場から離れて行った。

 

「氷兎君、大丈夫ッ!?」

 

 空間に響き渡る女の子の声。『英雄(ヒロイン)』の登場であった。桜華は氷兎の隣まで走ってくると、猟犬を見据えて両手につけた黒い手袋の感触を確かめながら手を握り締めた。

 

 そんな彼女に氷兎は、背中に背負った槍を手渡した。使うことの出来ない自分が使うよりも、彼女に渡した方がいいと思ったからだ。

 

「七草さん、槍みたいに使えなくていい。長い棒を振り回す感覚でいって! 距離を詰めすぎないように!」

 

「わかったよ、氷兎君ッ!!」

 

 桜華は凄まじい速度で走り出し、すぐさま西条と同じ前線へと突撃した。槍の中程ではなく、完全に後方を持って、棒のように扱った。バットを振るようにフルスイングで槍を振るう。

 

「えいっ!」

 

 横薙ぎの槍を躱すべく、猟犬はその場で跳び上がった。しかしそれを予見していた西条はすぐさま猟犬に向かって飛びかかり、すれ違うように一刀斬りつけていく。ここでようやく、猟犬の身体に西条の刀身が掠る事ができた。しかし傷つけられた訳では無い。攻撃が失敗してすぐに西条はその場から距離を取った。

 

「まだまだッ!!」

 

「当たりやがれッ!!」

 

 桜華は槍を無尽に振り回す。氷兎ではその重さを自由自在に、まるで軽い素材でできた玩具のようには振るえないが、桜華にはその槍を軽々と振るうことができた。振り下ろしたらすぐに振り上げ、勢いを殺さぬまま今度は横に薙ぐ。その合間を狙って翔平はデザートイーグルで撃ち抜く。

 

 しかしやはり弾丸は猟犬の身体には当たらない。このままではジリ貧になるのが明らかだった。

 

「クソッ……どうすれば……」

 

 一人まともに戦闘に加われない氷兎は離れたところから射撃を繰り返していた。しかしもうすぐ弾は尽きる。その前に一手、何か戦局を変える一手を打たなければならない。

 

 ふと、氷兎は自分の身体の底が冷えていく感覚にとらわれた。指先までもが冷たくなり、脳には先程よりも酷い頭痛が襲いかかってきている。だが……そんな状況だというのに、氷兎の口元は歪み、嘲笑(わら)っていた。

 

 深く呼吸をしてから、彼は二人の仲間の名前を呼んだ。

 

「七草さん、西条さん! 合図をしてから30秒後に、奴を一瞬だけ動けなくさせます! その一瞬で決めてください!」

 

「えぇッ!? い、いきなりそんなこと言われてもっ……!!」

 

「……やるなら確実にやれ、唯野」

 

 動揺している桜華とは違い、西条は落ち着いたものだった。すぐ近くにいる猟犬の攻撃から逃れながら、刀を地面と並行にして構える。

 

 氷兎はまた深く息を吸い込むと……自分の意識が、身体が別の次元へと浮き上がるような感覚を感じた。身体は冷たい。だが、その身体の奥深くには小さな蝋燭の火のような暖かさがユラユラと揺らめいている。

 

 今もなお逃げ続けている翔平達とは違い、氷兎だけがただ立ち止まって息を吐いていた。

 

「……詠唱、いきます!」

 

 氷兎は魔術を使うことを選択した。この手でしか、あの猟犬には攻撃することができない。それを嫌という程理解してしまったからだ。

 

 彼が口を開けば、そこから漏れ出たのはもはや日本語ではなく、はたまたどの言語にも属さないであろう、聞くものによっては気味の悪い発音の言葉だった。

 

「にゃる しゅたん にゃる がしゃんな

 

にゃる しゅたん にゃる がしゃんな」

 

 詠唱を始める前に、契約を結んだ相手への賛美を二回。

 

「我 旧き神 外なる神より授かりし知恵を用い

 

その力の一端を振るわんとする者なり

 

宇宙の中心に在る全にして一の我らが主よ

 

今 我が声が届くのならば

 

目の前の空間を歪ませ 目の前の敵を歪曲させよ」

 

 呪文の詠唱を済ませ、その後は力を借りる宇宙の彼方に在る存在への賛美を唱える。

 

「いあ いあ よぐ・そとおす!

 

いあ いあ よぐ・そとおす!」

 

 身体はだんだんと熱くなり、やがて熱は右腕に集まり始める。氷兎は右手で持った銃を猟犬に向け、指向性を持たせた状態で、最後の呪文を詠唱した。

 

「《ヨグ=ソトースの拳ッ!!》」

 

 身体から何かがなくなっていく感覚と共に、目の前の空間が歪んでいく。詠唱が終わると同時に、桜華と西条は氷兎の射線上から退避していた。残された猟犬は誰を狙おうかと伺っていると……突然、目の前の空間がぐにゃりとネジを巻くように歪んだ。

 

 歪みは一瞬だった。次の瞬間には歪みは元通りになり、バチンッと何かに弾かれたように猟犬が青みがかった液体をまき散らしながら吹き飛ばされた。

 

「っ、いっけぇぇぇぇぇッ!! 」

 

 この隙を逃しはしない。桜華は手に持っていた槍を引いて、力の限りで投擲した。槍は綺麗な一直線を描いて飛んでいき、やがて空中で猟犬に突き刺さり、そのままの勢いで壁にまでいって突き刺さった。

 

「斬り落とすッ!!」

 

 西条が氷兎の時間ピッタリに走り出し、桜華の投げた槍が突き刺さると同時に猟犬に向かって跳び上がって刀を振り下ろした。刀身は避けられることなく猟犬の首筋にくい込んでいき、やがてその首を斬り落とした。

 

『ゥ……ガァッ!!』

 

「なにっ!?」

 

 首だけになっても猟犬は動いた。地面に落ちるまでの間に西条へと舌を伸ばし、もう一度針で突き刺そうとするが……。

 

「ラストだ」

 

 一発。銃声が響くと翔平の撃った弾丸が落下していく猟犬の頭を撃ち抜いた。勢いそのままに、頭は壁に叩きつけられて今度こそ活動を停止した。

 

 地面に落ちた頭はまた悪臭のする煙となって霧散していき、同様に壁に縫い付けられた胴体も、そして青い液体も、元からそこに何もなかったかのように煙となって消えていった。周りから危険がなくなると、翔平は西条に向かって歩み寄っていった。

 

「最後、油断したな西条」

 

「……まさか助けられるとはな」

 

「ひひっ、まぁ結果オーライだ。無事倒せたんだし、やったな」

 

 そう言って翔平が片手を上げながら西条の前までやってくる。しかし西条はその行動を見て首を傾げるだけだった。

 

「……なんだ、その手は」

 

「なにって、ハイタッチだよハイタッチ! ほら、うぇーい」

 

 翔平は半ば無理やり西条の手を叩いて、今度は氷兎の元へと走っていった。西条はただ頭を掻きながら叩かれた手を見つめていた。

 

「氷兎、お前今の魔術だよな。身体は平気か?」

 

「今のところ問題は……ないですね」

 

「はぁー、ならいいや。よく判断してくれたよ。あのままじゃジリ貧だったし、最悪全滅だった」

 

「……まぁ、こんな身体でも役に立てたなら良かったですよ」

 

 言いながら氷兎は怪我をした左腕を抑えた。未だに左腕は動かないようで、痛むのか顔を歪めていた。そんな二人の元へと、桜華が槍を持って駆け寄ってくる。その顔は笑顔で、見ているだけで氷兎の冷たくなった心が溶けるように暖かくなった気がした。

 

「氷兎君っ、勝てたよ! 私達勝てたんだよね!!」

 

「あぁ……そうだな。なんとか勝てたって感じだな」

 

「……落ち着くのはまだ早い。マイノグーラとやらが残っているだろう」

 

 西条も近寄ってきて、猟犬との戦いの最中に一切手だしをしてこなかった女神の名を呼んだ。すると、どこからともなく霞のようなものが集まってきて、そこからマイノグーラが現れた。その顔には怒りの感情はなく、むしろ関心を覚えているようだった。

 

「へぇー、すごいすごい。まさか倒せちゃうとは思ってなかったよ。物理的なものは効かないはずなんだけどなぁ……。もしかして、起源とやらのおかげかな?」

 

 軽く手を叩いて褒めてくるマイノグーラに対して、誰も警戒は解かなかった。いつ襲いかかられても対処できるように、全員準備していた。

 

「まぁまぁ、もう猟犬をけしかけたりしないから。それに、いい暇つぶしになったしね。これは君にあげるよ」

 

 そう言ってマイノグーラは手に持っていた薄暗い茶色の本を氷兎に投げ渡してきた。それは辞典と同じくらいの厚さで、触るとどこかひんやりとしている。

 

 氷兎が本に触れていると、やがて本が輝き始めて光の粒子へと変わり、氷兎の身体の中へと溶けるように入っていく。流石に氷兎はその状況に目を見開いて驚いた。そんな彼を笑って見ていたマイノグーラは、氷兎に告げる。

 

「これで君の中には魔導書が二つ。ネクロノミコンと象牙の書……エイボンの書ともいうね。ちゃんと利用しなさい。お姉さんとの約束よ」

 

 誰に向けてか、マイノグーラは投げキッスをするとその場から歩いて離れて行こうとした。軽く振り返り、片手を振りながらフランクに別れの挨拶を告げてくる。

 

「それじゃ、私は帰るから。今やってるイベントの周回しなきゃいけないし」

 

「……はっ? おいちょっと待て」

 

「じゃあねー、諸君。また会えたらね」

 

 にこやかに笑って、闇に溶けるように消えていったマイノグーラだったが、去り際の一言に翔平と氷兎が完全に呆気に取られていた。

 

「待て待て待て。今なんかサラッと凄いこと言って帰らなかった!?」

 

「……人外もソシャゲをする時代ですか」

 

「感性が人寄りって、まさか他の趣味とかも人間寄りなのかよ!! 俺達のやってるようなゲーム、わりといろんな神話生物がやってるんじゃねぇだろうな!?」

 

「そんなポンポンやってられても困るんですが……」

 

 ため息をついた二人と、何を言っているのか理解できていない残りの二人。とりあえず当面の危機は去ったということで、四人は海音の元へと戻り、休憩を挟むことにした。特に氷兎は心身共に疲弊しズタボロであった。

 

 

 

 

To be continued……




 ティンダロスの猟犬

 厳密にはティンダロスという場所に住んでいる存在である。猟犬というが見た目は犬ではなく四足歩行の何か。見た人が忌々しく「あの猟犬め」と呟いたためティンダロスの猟犬という名前になった。

 角の世界という、我々の世界とは異なる場所にいる。120度以下の鋭角から彼らは悪臭と共に現れる。鼻がよく、逃げても追いかけてくるので、物理はきかないから退散の呪文を知らないのであれば諦めて、どうぞ。

 青みがかった脳漿のようなものを垂れ流していて、触れるとドロドロの化け物に変異してしまう。触ったら洗おうね。それと、時間や時空を移動しようとすると確実に猟犬に見つかるから、移動するなら対策を立てよう。

 針のような舌に刺されると、POW(精神力)を吸われる。もう気が狂うほど気持ちが悪い。

 マイノグーラの落とし子であるヘルハウンズと呼ばれる角の制約を持たない上位互換存在の子孫とされる。猟犬でこれなんだから、ヘルハウンズやら角の世界の住人やらはどんだけ強いんですかね……。


説明が長すぎるっぴ。
いやー、ぶっちゃけティンダロス相手にこのメンバーでどうやって戦闘長引かせようかと思ってました。書くのすっげー辛かったゾ。

それと、今回の本文の文字数が6666文字でした。
なんか神秘的。


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第83話 幸せノ片道切符

 身体の芯が寒いと、心が訴えかけている気がする。いや心だけではない。身体も不調を訴えてきている。それは俺にはどうすることもできず、ただ時折くる目眩や吐き気等の感覚を耐えるだけだった。

 

 魔術を使ったことによる弊害。それをいまいちどのようなものだと理解できていなかった。けど、今こうして派手に使った後だと……この魔術を使い続けることがどれだけ身体の負担になるのかがわかった。背筋を誰かがなぞっていくような気持ち悪さに身を震えさせ、しかしそんな不安な心境を悟られないように、俺はなるべく無表情で先輩達の後について行く。

 

「海音さん、気分悪くないっすか? 正直俺らでもキツいもんを見ちゃってたんで、だいぶ精神的にきてるんじゃないかと……」

 

「……はい。でも、少し良くなりました。見た時は本当に、どうしようかと……」

 

 あのようなバケモノが日本中にいるんですよね、と車椅子に乗って俯きながら言った海音さん。確かに、俺も認めたくはない。だが現実、奴らは至る所に潜んでいる。それを人間が悪用したり、手引きしたり……。

 

 仮にこの世界で俺達が何もせず、ただ無力なまでに生活していたとしたら、奴らは何をするんだろう。やはり俺達人間を殺そうとするのだろうか。でも、奴らは人間の手引きがない限りそう易々とは人の前に出てこれない。蛇人間のような手を使わない限りは。

 

 ……そう考えだすと、途端に人間にも非があるような気がしてならなかった。奴らを利用する人間がいるのも確かで、奴らの技術や魔術を使う輩がいるのも確かだ。なら……人間と神話生物。その両者にどんな差があるというのだろう。人も人を殺す。神話生物もきっとそうだ。

 

 残虐性。それは人にも神話生物にも持ち得るもの。ただ俺達人間は運が良かっただけだ。運良く地上を得られ、運良くそこで生活基盤を整えられただけのこと。互いに善も悪もないのかもしれない。

 

「……氷兎君?」

 

「……あっ、悪い。どうかした?」

 

 怪訝な顔で俺を見つめている七草さんがいた。どうやら考え事をしすぎたらしい。

 

「顔色悪いよ、大丈夫?」

 

「……ん、平気。俺は大丈夫だよ」

 

 ……痩せ我慢か。それとも七草さんの前でみっともない姿を見られたくなかったからか。吐いてしまえば楽になるのに、俺は意地を張った。彼女に笑いかけると、俺はまた無心で先輩達の後に続く。

 

 そうして歩いていくこと数分、猟犬と戦った場所に辿りついた。床の至る所に銃弾の跡や、排莢された薬莢が転がっている。それと、あの猟犬の爪痕や液体によって溶かされた床や壁。どれだけの激戦を繰り広げたのかが見ただけでわかる。よく誰も死なずにいられたものだ。

 

「……今思えば、俺ひとりで勝てる相手ではなかったのかもしれんな」

 

 西条さんは顎に手を当てたまま、その跡を見て呟いた。そんな彼を見て先輩がニヤッと笑う。

 

「お前も、ひとりじゃできないことがあるってわかったか?」

 

「……二人組を作れと言われた時もひとりでできたが……だがまぁ、わかったこともある。俺もまだ鍛錬が足りんということだな」

 

「いや、せめて二人組を作る時は(てい)だけでもいいからやってあげて。相手の子可哀想じゃん……」

 

「知ったことか」

 

 鼻で笑って西条さんはそっぽを向く。かわいくない奴だなぁ、と言った先輩はなるべく平らな場所を選んで海音さんの母親が眠っているカプセルの元へと向かう。

 

 嫌に神経質になっているせいか、些細な音が耳に届いてくる。届く音を聞き分ければ、遠くの方からまた別の足音が聞こえてきている。この空間自体がやけに静かで、音が反響するせいかわかりやすい。また別の招待された人だろうか。

 

「……先輩、また誰か来たみたいですよ」

 

 音のする方を見ながらそう伝えると、先輩は一段と苦々しい顔をしてため息をついた。

 

「……七草ちゃん。悪いけど見に行ってくれないか」

 

「えっ……私、ですか?」

 

「あぁ。相手も女の子相手の方が気が楽だろ。敵だと思ったら逃げていい。そうじゃないなら……俺達のところに連れてきてくれ」

 

「……なら、俺もついて行った方がいいんじゃないですか?」

 

「その必要はねぇよ」

 

 どこか確信を持っているかのような口ぶりだった。先輩は来た人物に心当たりでもあるのだろうか。まぁ、別に先輩の意見に反対する気はない。敵はもう居ないはずなのだから、七草さんに行かせても大丈夫だろう。それに、民間人だって俺達みたいなのが行くよりも、見た目どころか中身まで整った七草さんの方が気が楽なのは確かだ。襲われないかは心配ではあるが。

 

 少し悩んだ七草さんだったが、頷いてその場から駆け出していった。入口付近にいるだろう、ということを一応伝えておいたので、多分大丈夫だろう。

 

「誰が来たのか、わかっているのか?」

 

「……まぁ、多分な」

 

「………」

 

 西条さんは怪訝な顔をするも、少しすると納得のいった顔になり、黙って歩き続けていた。西条さんも心当たりがあるらしい。先輩でも思いつきそうなことだ。それほど難しいことでもないんだろう。

 

 だとするならば……考えられるのは、一人だけいる。先輩も話したがらないようだし、秘密にした方がいいのだろう。

 

 そのまま足を進めると……ようやく、海音さんの母親の眠っているカプセルに辿りついた。掃除されていないのか、細部にはホコリや汚れがある。長らく稼働し続けたまま触られていないようだ。

 

 先輩に押された海音さんがカプセルの中を覗き込むと……悔しそうに顔を歪ませた。中にいたのは母親で合っていたのだろう。

 

「……私達を置いて、こんなところで一人幸せな夢を見てるなんて……」

 

 震えるその声には、確かな怒りの感情が込められていた。膝元で強く握られた両手は微かに振動し、肩には力が入っている。自分を置いて幸せになった母親を見て、どう思ったのか。俺には彼女の心の内にどれほどの負の感情が込み上げているのか察することはできない。

 

 しかし……並大抵の感情ではないはずだ。仮にだが、もし俺の両親がそんなことをしたら……怒りと同時に悲しくもなる。俺は両親にとっていらない子だったのだろうか、と。

 

「……幸せになれる箱。蓋を開けてみてみれば、なんともまぁ嫌な現実だったものだな。技術革新は、確かに俺達の生活を便利にする。鍛え上げられた技術は良いことにも……また悪いことにも使われてしまう。悩ましいものだ」

 

 カプセルを触りながら、西条さんは苦言を漏らした。明晰夢とはいうものの、それはものの例えかもしれない。VR技術を流用したと言っていた。ならば、夢ではなく情報で統括された電子世界に意識だけを情報として組み入れている可能性もある。

 

 それ即ち、完全なVR。ヴァーチャル・リアリティー、仮想現実だ。これを大手の企業が今躍起になって作ろうとしている。ゲーム好きならば、やってみたいと思うことだろう。だが……恐ろしいものだ。仮想と現実は互いに存在し合っている。仮想にい続ければ、いつか現実が殺しにかかる。

 

 それを世界中の人は体感し、体験しなければ考えもしないのだろう。仮想に逃げても、現実から逃れられたわけではないと。

 

「……それで、貴様はどうしてここに来た。招待状を受け取ったからか?」

 

 西条さんの口から発する厳かな言葉が海音さんを突き刺す。親に怒られた子供が萎縮するように、彼女は身体を強ばらせて目線を逸らした。呆れたようなため息が聞こえてくる。

 

「……母親を探しに来たとでも言いたいのだろうが、俺にはそうは思えんな」

 

「っ……貴方に、私の何がわかるって言うんですか……」

 

「何もわからん。貴様の感じていることも、考えていることもな」

 

 悲しみを感じさせる、今にも消えてしまいそうな彼女の声を、しかしバッサリと斬り捨てた。相変わらず容赦のないことだ。けれど……止めはしない。考えている通りだとするならば、俺はきっと西条さん側だろうから。

 

「痛みも、感情も、本人にしか理解できん。俺達は所詮外から眺めていただけの存在に過ぎない」

 

「だったら……」

 

「……だが」

 

 感情論に対して、何ができるというのか。激昴してる人物には何の声も届かない。自分の感情を振り回している人に諭しても効果はない。

 

 だが、それでも伝えなくてはならない。少しでも落ち着いた時に、その言葉を思い返せるように。

 

「外から眺めるということは、その風景を、周り諸共眺めるということだ。貴様は自分の主観に流され過ぎて、周りのものが見えていない。感情を振り回すのも大事だが、振り回されるだけの人間はロクなものではない」

 

「……そうやって言えるのは、貴方が私の立場になってないから……貴方もなってみれば、そんなこと言えなくなる」

 

「当たり前だ。俺はなってないから言えるのだ。そして、誰かが言わねばならん。本人にとって、それが憎たらしいことであってもな」

 

 彼特有の鋭い目つきが海音さんを射抜いていく。有無を言わさぬその態度に、辺りは静まりかえっていた。そしてその静寂を終わらせたのは、俺達の元へと走ってくる誰かの足音だ。音のする方を見て、俺達は軽く落胆し、そして海音さんは驚きに目を見開いていた。

 

「氷兎君っ、白菊君が歩いてきてたよ!」

 

 走ってきたのは七草さん。そして彼女に抱かれたまま連れてこられたのは、海音さんの弟の白菊君。なんともまぁ嫌な考えというのは当たるものだ。

 

「おねえちゃん……」

 

「アキくん……なんで、ここに……」

 

 白菊君は手に持っている一枚の紙を見せてきた。大事そうに握られていたそれはくしゃくしゃになっていて、子供でもわかるような字で丁寧に地図が書かれていた。そして、その場所への行き方も。

 

「……すいません、海音さん。なんとなく、嫌な予感がしたので……白菊君の机に俺が書き残しました」

 

 先輩が申し訳なさそうに言うが、ある意味ファインプレーになるかもしれない。なるほど、先輩が家を出る前に何かやっていたのは地図を書き残していたのか。先輩の嫌な予感というのはまず間違いなく、海音さんがここに来るだろうということ。

 

 確証も何もない中、先輩がそれを考えたということは、先輩なりに海音さんと接触し仲を深めたということだろう。少なくとも、相手の考えていることが何となくわかるくらい濃い接触だったはずだ。

 

「おねえちゃん、ここにお母さんがいるの?」

 

 七草さんに下ろしてもらった彼は海音さんの元まで歩いていくと、そう尋ねた。彼女は即答せず、しばらく黙ったままであったが、そのあとゆっくりと頷いて答えた。

 

「……ここにいるよ」

 

 海音さんの視線の先には、カプセルの中に眠っている母親の姿。白菊君はたまらずそのカプセルの縁に捕まって中を覗き込んだ。

 

 先輩も俺も苦々しく顔を歪め、西条さんの表情にもどこか陰りがある。唯一明るい表情を保っていたのは七草さんだけだった。

 

「………」

 

 車椅子から身体を乗り出し、カプセルの蓋を開ける。中からはひんやりとした空気が吹き出していく。数秒もしないうちに、中で眠っていた海音さんの母親の身体がピクリと動く。次いで指が動き、瞼の裏側で眼球が動きだした。そして重たそうな瞼を開いていき……眩しさに目を眩ませた。

 

「お母さん……お母さんっ!」

 

 カプセルの中に手を伸ばして、白菊君が身体を揺する。すると今度は掠れたような声が聞こえてきた。薄らと開かれた目は、外から覗き込んでいる白菊君を見ている。

 

「……しろ、あき……」

 

「お母さんっ、起きて! 一緒に帰ろうよ!」

 

 しばらく口を利くこともなかったのか。母親の声は上手く出ていなかった。それだけの間この中に閉じこめられていたのだ。おそらく身体の筋肉もまともに動かないだろう。

 

「……お母さん、起きてください」

 

「……か、いね……ここ、は……」

 

 細い腕を伸ばし、カプセルの中で身体を起こそうとする母親を白菊君が支えた。そうして身体を起こした母親は、目の前の光景を見たからか驚き口をカタカタと震えさせた。栄養が供給されていたとはいえ、筋肉は衰えるものだ。身体は細く、頬もややこけている。まるで病人のようだ。

 

「……わ、たし……かえって……」

 

「お母さんっ、一緒に帰ろうよ! ねぇ!」

 

 母親に会えた喜びか、白菊君は笑顔で母親の手を引こうとする。これでしばらくすれば、彼女達の生活はゆっくりとだが……元通りになっていくのだろう。

 

 ……そう、思っていた。

 

「……ちが、う……ちがう、違う違う違う、違うのッ!!」

 

「あうっ……」

 

「なっ───」

 

 驚きの声を上げたのは誰であったか。いや全員だったかもしれない。突如ヒステリックな声を上げ始めた母親は、なんと白菊君を手で払い除けて、弱々しくも突き飛ばした。

 

 母親はそれに罪悪感を覚えた様子もなく、ただこの世の終わりを見たかのような醜い顔で泣き喚いていた。

 

「あんたたちは、私の子供じゃない……私の子供は普通の子なのッ……車椅子なんか乗らないし手を掛けさせないし私に面倒なことをさせないしあなただってずっと私の隣に居るし誰も私を悪く言わないし毎日がしあわせで私のことをみんな羨んで誰も彼もがわたしのことを崇めるの、私の家はここじゃない、私の家はもっと綺麗でちゃんと私の子がいて───」

 

「この、痴れ者がァッ!!」

 

 ……西条さんの蹴りが母親に直撃する。嫌な音をたててカプセルの縁に身体を叩きつけられ、そのまま支える力もなく身体をだらんとさせて動かなくなった。

 

「ッ、おい西条ッ!! お前、何やってんだよッ!!」

 

「こんなのが、こんなのが母親なわけがあるかッ!! 見ていただろう、貴様の目には一体今のが何に見えたのだッ!!」

 

「確かにそうだよ!! でも、それは今実の子供の前でやる事じゃねぇだろ!!」

 

「だというなら、貴様は今この場をどうするつもりだったのだッ!! この愚か者の戯言を、延々と聞かせるつもりかッ!!」

 

「それは……でも、やっぱダメなんだよ!! 俺達だけならいい。だけど、白菊君には見せたらダメだろうが!!」

 

「もう、やめてくださいッ!!」

 

 互いに一触即発の状態にあった西条さんと先輩を、海音さんが止めた。俺はただ、七草さんが起こした涙目になっている白菊君と、時折痙攣している母親を見ていた。

 

「いいんです……もう、いいですから……」

 

「……チッ、ロクでなしが」

 

 西条さんが母親を見て吐き捨てると、その場から少し離れた。先輩も同様に、バツが悪そうに肩を竦めていた。

 

「おかぁさん……おかぁさん……」

 

 泣いてしまった白菊君は、母親を呼ぶ。しかし母親は目もくれない。先程までぐったりとしていたのに、それでもその目に狂気的な濁りを映しながら死にもの狂いでカプセルの中へと戻ろうとしていた。

 

「ちがう……私の家は、ここじゃない……帰る……帰らせて……」

 

 カプセルの中へと戻り、内側から蓋をしめて閉じこもる。カチャリッと鉄の擦れる音がした。見れば、西条さんが刀を抜刀しかけている。その顔はいつもの仏頂面ではなく、怒りの一色のみだった。

 

「……こんなのが」

 

 海音さんが呟いた。

 

「こんなのが、私達の母親だなんて……」

 

 彼女の握りしめる手に力が入っていく。俺達は誰も、何も言えない。

 

「……バカみたいだ、何やってたんだろう、私」

 

 瞼に溜まった涙を指ですくい、さっき通ってきた道の方を向いた。そして自分の手で車椅子を動かし、その場から去ろうとする。慌てて先輩が彼女を止めた。

 

「ちょっと待ってください海音さん!! どこ行く気なんすか!!」

 

「……いいじゃないですか、私がどこへ行こうと」

 

 背を向けていた彼女が車椅子を動かして向き直る。その瞳には、光が灯っていない。薄汚れた彼女のガラス玉には、何も映っていない。

 

「……貴方は招待客だ。当然、貴方用の空いた席がある。まさかとは思いますが……カプセルの中に入るおつもりで?」

 

 固めた拳の親指で、母親の眠ったカプセルを指差しながら俺は問うた。お前も母親と同じことをするのか、と。

 

 俺の言葉に彼女は頷くことはなく、俯いて身体を震えさせるだけだった。

 

「……もう、いいでしょう。放っておいてください。私は……」

 

「放っておくも何も……流石に看過できない問題があるので、見過ごせませんね」

 

「……どうして……ッ」

 

 徐々に力が込められていく彼女の身体は、とうとう決壊した。涙を堪えることなく、まるで滝のように流しながら彼女は誰にともなく訴えた。

 

「私の、何がいけないの!! 私には何も責任なんてないじゃない!! 産んだのは母親で、私は産まれてくることも、産まれてくる場所すらも選ぶ権利はなかったの!! 好きでこんな不自由な身体で産まれたわけじゃない!! 全部、全部お母さんのせいだ!! 私に責任なんて、何もないじゃない!!」

 

「………」

 

 彼女の訴えは至極真っ当だ。それに関して、俺は何も言うつもりはない。そう、それに関してだけは。

 

「皆が幸せに歩き回る中、私には遊ぶ権利すらなかった!! 自分の好きなことをする時間も、好きな人と過ごす時間も、何も与えられなかった!! その上、お母さんは私を置いて逃げて……もう、これ以上私にどんな不幸を味合わせようというのッ!!」

 

 俺達が感じる幸福と不幸。それは差によって感じることができる。だとするならば……不幸な彼女には、普通の人が余程幸せに見えたことだろう。ただ歩くことが。ただ話すことが。ただ自由な時間を過ごすことが。

 

 望んで産まれたわけではない。しかし望んだ生活を送る術を持ちえなかった。彼女には、未来に進むための足がないのだから。

 

「私だって、歩きたいっ。地面を自分の足で走り回りたいっ。普通の生活を、送りたいだけなの……。だから……もう、いいじゃない。私だって……幸せになりたいのッ!!」

 

 きっと誰も彼女を責めることはできない。誰も彼女を責める権利はない。彼女の訴えは、間違ってはいない。けれど……彼女は気がついていない。その方法こそが、最も間違っているのだと。

 

 だから気がつかせなければならない。外からその風景を眺めていた、誰かが。

 

「……どうぞ、お好きになさるといい。俺は別に貴方を止めたりはしない。貴方の言うことは正しい。貴方には全くもって、非がないのですから。神がいるのだとしたら、なんともまぁ残酷なことをするものだ」

 

 さも当然のことだ。俺はそう言いながら彼女に近づいていく。しかし……鏡で見れば、今の俺の顔や目つきというのは、そこらの不良ですら腰が引けるものだっただろう。

 

「けれど……アンタにはまだやらなきゃいけないことがある。そうだろう?」

 

「っ……これ以上、私に何をしろっていうの……」

 

「そもそも、アンタが行こうとしてるのは仮想現実。それがどういうところなのか……説明したはずだ」

 

 車椅子に座る彼女を見下ろす形で俺は言う。

 

「望んだものが得られる世界。自分の考えたことが実現する世界。誰もがアンタの望んだ言葉を言い、誰もがアンタを賞賛する。そこには不幸なんてものは欠片もないだろう」

 

「何を、言って……」

 

「わからないのか?」

 

 だんだんと荒くなっていく言葉。それでも俺は言うことをやめない。

 

「仮にアンタが、ほんのちょっとした気の迷いを起こしたとしよう。あぁ、例え満ち足りた世界であっても、俺達人間というのは、そんなことをふと考えてしまうものだ。もしも自分が死んだらどうなるのだろう。死んでみたい、と」

 

「……そんなこと、思うわけない」

 

「重要なのはそこじゃねぇんだよ。もし仮にアンタが死にたいと願ったら……周りの人全員が、アンタに笑顔で死ねと言って殺しにかかるんだ」

 

「─────っ」

 

 息を呑む音が聞こえる。止まることなく俺は続けていった。

 

「望んだ言葉を言われる世界。誰もアンタを、死んで欲しくないという身勝手な想いで助けようとする奴はいないんだよ。薄っぺらい関係だと思わねぇか?」

 

「ッ……それでも……私は、生きたいのッ!! 幸せになりたいのッ!!」

 

「ふざけるなッ!!」

 

 車椅子に座っている彼女の胸ぐらを掴みあげる。両手で必死に腕を引き離そうとするが、俺が全力で握った手はそう簡単には離れない。

 

「幸せになりたいんだったら、仮想に逃げたいのなら現実に憂いをなくしてから行けッ!! 今ここで……白菊君を殺せッ!!」

 

「なッ………」

 

 彼女と、そして後ろの方で事の成り行きを見ていた先輩と七草さんの戸惑う声が聞こえる。けれど俺はやめる事はない。

 

「アンタがいなくなったら、白菊君は独りだッ!! まだ小学生の子が、独りでどうやって生きていくと言うんだッ!! どうせ仮想に行けば、アンタはまた白菊君に会える。だが、白菊君はもうアンタには会えねぇんだよッ!! アンタがいくら逃げても、現実じゃ白菊君が独りで生きてんだよッ!! 逃げたいのなら、独り残される白菊君を殺してからにしろ!!」

 

「そんなこと……できるわけないじゃないっ……!!」

 

「アンタがいなくなっても、俺達は白菊君を助けねぇよ。それに、事件の関係者は殺してもいいって決まってるんでな……。アンタがやらないのなら、俺が殺す。現実の白菊君ひとりを犠牲にするだけで、アンタは幸せになれるんだ。ひとりの命でひとりの人間が幸せになれるのなら……上等だろう?」

 

「─────」

 

 彼女の目から怒りの感情は消え、新たに出てきたのは恐怖だ。言ったように、どうして俺達が白菊君をこんな理由で助けないといけないのか。彼女が現実から逃れるということは、現実の全てを手放すということと同義だ。自分がいなくなって支障が出るものは……全て失くすのが、道理ってもんだろう。

 

「あっ……ぅ……」

 

 その先に続く言葉はない。俺は黙ったまま彼女を睨み続けていた。

 

 そして……何かがゴンッと足にぶつかった。何度も何度も、足を蹴り、身体を殴りつけてくる。

 

「おねえちゃんを……おねえちゃんを、いじめるな!!」

 

 足元でずっと腕や足を振るい続けているのは白菊君だった。何度も何度も、その小さな身体で出せる全力をぶつけてきている。

 

「……チッ」

 

 わざとらしく舌打ちをして、俺は胸ぐらを掴んでいる手を離した。彼女が咳き込んでいるのを聞きつつ、俺はその場から離れていく。すると白菊君は俺を攻撃するのはやめて、彼女の元へと駆け寄っていく。

 

「おねえちゃん、大丈夫……?」

 

「……アキ、くん……なんで……私っ……」

 

 咽び泣く声が背後から聞こえてくる。俺は振り返らずに、先輩達の間を通り抜けてその場から歩き出した。

 

「先輩、あと頼みました」

 

「なっ……ちょっ、氷兎……」

 

「……俺も行くとしよう。あとの事は二人で事足りる」

 

「西条まで……」

 

 唖然としていた先輩と七草さんを置いて、俺は歩き続けていく。そのすぐ後ろを、西条さんもついてきていた。

 

 だんだんと遠くなっていく泣き声が聞こえてくる。ごめんね、ごめんねと何度も繰り返す声が聞こえてきた。

 

「アキくん……ごめんなさい……私っ、アキくんのこと……」

 

「おねえちゃん……泣かないでよ」

 

「アキくん……こんな私で、ごめんね……」

 

 ……少し後ろを振り向けば、床に座り込んで白菊君を抱きしめている海音さんが見えた。白菊君は彼女が倒れないようにしっかりと支えている。

 

 彼女をずっと支え続けた、小さなヒーロー。彼はずっと彼女を助けようと頑張っていた。それをようやく、彼女は理解できた。もう俺が手を出す必要もない。

 

「……まさか貴様がやるとはな」

 

「……意外でしたか?」

 

「多少はな。貴様がやらなくとも、俺がやっていただろうが」

 

 後ろを歩いていた西条さんが隣までやってきた。考えていることはきっと同じだろう。

 

「汚れ役を買って出る奴だとは思っていなかった」

 

「……人の心を助けるためには、優しくするだけではダメなんですよ。時には叱らなくてはいけない。そういうもんです」

 

「実に反感を買いそうな言葉であったがな。仮に俺が言えば、鈴華が俺を殴り飛ばしていただろうよ」

 

「さて、どうですかね……。先輩もなんとなく、わかっていたと思いますよ。でなけりゃ、白菊君をここに誘導させません」

 

 歩き続けて、辿り着いたのは眠っている人達の見ている夢が映っているモニターの場所。この機械は、ここにある全てのカプセルを制御している重要な装置であった。

 

 映っている映像を見ながら、俺は憂鬱そうに言った。

 

「……嫌な任務だ」

 

 隣にいる西条さんも、仏頂面ではなく顰めっ面でその映像を見ながら呟くように言った。

 

「俺達はここで眠っている連中をどうにかせねばならん」

 

「……ですが、起こしたところでってことですよね」

 

「そうだ。長い眠りで筋肉は衰え、本人は幸せな夢を見ていると来た。そんな連中にとってのリハビリは、とても過酷なものだ。飯も食っていないのだから胃も収縮している。味の薄い流動食しか食えないだろうな」

 

「……どれだけの人が、復帰できると思いますか?」

 

「むしろいると思っているのか?」

 

「………」

 

 軽く目を伏せ、俺は西条さんの言葉に沈黙で返事を返した。どうしようもない現実が、目の前にはあったのだ。

 

「処理班がここにくれば、おそらくここにいる連中は殺されるだろうな」

 

「……起きたところで、社会復帰は難しく、また病院に連れて行ってもここで起きたことを狂言のように言い続ける。それがマスコミに流れれば……」

 

「それを危惧し、木原は殺せと命令するだろうな。第一、これだけの規模の人数を受け入れる病院がどこにあるというのか。それに加え、この人数が同じようなことを言い続けてみろ。世間はこの幸せになれる箱を手に入れようと躍起になるぞ」

 

「信憑性が増してしまうってことですか……」

 

 片手で顔の半分を隠すように抑えた。深いため息をつきながら、目の前に映る幸せな映像から醜い欲望までの光景を見て、知らぬ間に歯を食いしばっていた。

 

「……どの道死ぬほかない。だが……ひとつだけ、幸せに死ねる方法がある」

 

「……栄養供給を止める、ですよね」

 

「その通りだ」

 

 考えていたことが次々に的中し、何もかもが嫌に思えてきて仕方がない。目の端に溜まってきた涙を拭って、俺は機械を弄っている西条さんを見た。

 

「栄養供給を止めれば、そのまま栄養失調で死ぬ。おそらくは幸せな夢を見たまま、な」

 

「………」

 

「……設定の変更は、あとはこの画面を触るだけで終わる。俺には痛む心もない。貴様は先に戻っていろ」

 

「……いいえ」

 

 西条さんの言葉に俺は首を振った。そして画面に掲げられた西条さんの手の近くに俺も手をかざしながら言う。

 

「……貴方だけに、責任は負わせません」

 

「……余計なお世話だ。俺ひとりでも何も変わらん。貴様が背負ったところで……」

 

「……もう、決めたことですから。それに……そういうのって、何ともないと思っていても心のどこかに残ってしまうものなんですよ。だから……俺も、やります」

 

「……勝手にしろ」

 

 画面に表示されたボタンを押す。カプセルの状態を表していたモニターに、異常を知らせる赤いマークが次々と点滅していく。

 

 栄養の供給は止まり、俺達が報告する時間をずらせば……処理班が来る前に死ぬ事だろう。

 

 それはさながら『幸せの片道切符』だ。その切符で往復はできない。行ってしまえば最後……帰っては来れないのだ。

 

 ……こうして俺はまた、自分の手を汚していく。気持ち悪さはない。だが……この後悔や、やるせなさは……きっとずっと抱えていくことになる。

 

 誰も助けられなかった罰だ。これは俺への戒めだ。

 

 俺は自分の犯した罪を、忘れることはないだろう。

 

 

 

 

To be continued……



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第84話 冷めた心を溶かしたもの

 陳列されたカプセルをなるべく見ないように、俺と西条さんは先輩達のいる場所にまで歩いていく。道中これといった会話はなかった。いや……できなかった。自分で決めた事とはいえ、後悔がないとは言い切れない。

 

 心配をかけないように、無表情を取り繕ってあの場所に戻ってきた。車椅子に戻った海音さんの膝の上には白菊君が乗っていて、その身体を彼女に預けていた。浮かんでいるのは笑顔で、彼女自身も涙ぐんではいたが……憑き物が落ちたような顔つきであった。

 

 戻ってきた俺に気がついた先輩と七草さんが近寄ってくる。とりあえず、もう帰ろうと俺は提案した。ここに残っていても、何もやることはない。それに……些か疲れた。心身共に、もうクタクタだ。

 

「……なぁ、お前ら何しに行ったんだ?」

 

「ちょっと気になることがあっただけですよ。もう問題ないですし、早いとこ帰りましょう」

 

「そうか……いや、待て。この眠ってる連中はどうするんだ?」

 

「……本部の連中に任せます。今俺らができることは、何もないですよ」

 

 何もない。そうだ、何もなかった。そう思わせるように俺は自分の心を偽った。申し訳ないとは思うが……こんなことを考える必要はない。知っているのは西条さんと俺だけで充分だ。

 

 左腕が痛いということを理由に、先輩を急かすように帰ることを促した。どこか納得いかないような顔ではあったが、先輩は何も聞かずに海音さんの車椅子を押して外に向かって歩いていった。西条さんもその後を続いていく。

 

「……ねぇ、氷兎君。私が荷物を持つよ」

 

 残っていたのは俺と七草さんだけ。心配そうに俺の左腕を見ていた彼女は、奪うように背中に括りつけた槍を取っていった。ありがたいけど……あまり荷物を持たせたくはないな。少しは男らしいところを見せたいものだ。

 

 怪我人が一丁前に何を言っているんだと言われそうなもんだが……とりあえず彼女にお礼を言って、二人で先輩達の後を追いかけていく。

 

「……あのね」

 

 隣を歩いている彼女の表情は、いつもの無垢な顔ではなかった。曇っているその顔は、見ているだけでも俺が何か悪いことをしたのではないかと思えてしまう。

 

「さっきの氷兎君がね、ちょっと怖かったんだ」

 

「……そりゃ、悪かった。でも、あぁでもしないと海音さんは気がつかなかったから」

 

「うん……わかってる。でもね、私……なんとなく、嫌なんだ。氷兎君は本当は優しいのに、怖いとか、嫌な奴だとか思われそうで……」

 

 ……困ったな。まさか俺がそう思われることを嫌がるとは思っていなかった。けれど、誰かがやらなきゃいけなかったことだし、やったことを後悔はしていない。むしろ今の彼女達の姿を見てみれば、やってよかったと思えるのだから。

 

「……氷兎君は、自分が傷つくのは嫌じゃないの?」

 

 目を見てまっすぐ尋ねてきた彼女の言葉は、しかし難しい質問であった。すぐには答えられなくて少し悩んだが……俺は思ったことを彼女に伝えた。

 

「嫌だよ。痛いのも嫌だし、誰かに嫌われるってのも嫌だ。自分が進んで傷つくのなんて、馬鹿らしいとさえ思うよ」

 

「……そうなの?」

 

「……そうだな。それでも、やっちまうんだよ。それで自分が傷つくんだってわかってても、気がつけば自分で傷つきに行くんだ。その結果で、誰かの笑顔とか、救われる人が見れるのだとしたら……それはそれで、いいんじゃないかって」

 

 偽善を振りまく子供のように。それを大人の社会でやったら、いとも容易く食い潰されるんだろう。 そんなに俺は強くはない。だからこそ、強く見せようとしているのかもしれない。もしかしたら、そうすることで自分に酔っているのかもしれない。

 

 答えなんてものは曖昧だ。でも、簡潔に言うとするのならば……それが、最善だと思ったから。その一言に尽きる。

 

「……私も、傷つくのは嫌だよ。でもね……なんとなく、氷兎君の言いたいこと、わかる気がする。私はきっと……氷兎君の為なら、傷ついてもいいかなって思えるの。誰でもじゃなくて……氷兎君だけ。これって、変なのかな」

 

「……えっ、いや、変じゃ……ないと、思うよ」

 

 ……何これは。不安そうに見上げてくる彼女の口から漏れた言葉は、あまりにも勘違いしてしまいそうなものだった。深呼吸して、心を落ち着かせる。そう、彼女にとって俺というのは……友達だ。彼女が心を許せていたのは、俺と菜沙だけ。だから、そう思うのも仕方のないことなんだろう。

 

「そう、かな? それなら、よかった。でも、私は氷兎君だけ。けど氷兎君は、色々な人の為に頑張れる。やっぱり、氷兎君って優しいんだね」

 

「……どうだか。俺はきっと七草さんが思うよりも優しくないよ」

 

 自分の右手を何度か握っては開くを繰り返す。洗っても落ちない汚れがついている気がして、俺は右手をポケットに突っ込んだ。

 

「……優しさって、難しいね」

 

「そりゃそうだ。誰かを助けることも、ちゃんと叱ってやることも、優しさだ」

 

「……なら、私は氷兎君を叱らなくちゃね」

 

「えっ」

 

「……メッだよ」

 

 急に七草さんが近寄ってきて、人差し指で額をコツンッと強めに押された。なんだってこんなことをしようと思ったのか……。見れば、彼女はいつもの無垢な顔に戻って笑っていた。

 

「あんまり、自分から傷つこうとしないで欲しい。私だって心配するから。だから……もっと相談して。氷兎君っていつも自分の中で完結させちゃうし、話すにしても翔平さんとかに話すし……。私って、そんなに頼りないかな」

 

「い、いやいや……頼りにしてるよ。ただ、やっぱり七草さんって女の子だしさ。あんまり心配かけたくないっていうか……」

 

「もうたくさん心配かけてるよ。私は隣にいて氷兎君を守るって決めてるんだから。それに、女の子だからとか、男の子だからとか……そうやって考えないで。お願いだから……もっと、私を……七草 桜華を頼って欲しい」

 

 見つめてくる彼女の視線から逸らせない。困ったように俺は頭を掻いた。彼女はきっと何を言っても折れないだろう。ここは、俺が折れるしかなさそうだ。仕方がないといったふうに俺は息を吐いてから、彼女に言った。

 

「……わかったよ」

 

「なら……頼りにするって証拠に、私のこと名前で呼んで欲しい……かな」

 

「……名前?」

 

 ……なんだか見ていた夢と重なる。けどここは現実だ。流石に彼女の事を名前で呼ぶのは恥ずかしい。それに、提案した本人も気がついてないんだろうけど顔がまっかっかだ。恥ずかしいのに、名前を呼ばせるのか……。

 

 ……まぁ、いいか。

 

「桜華……これでいいか?」

 

「………っ!?」

 

 頬を薄く染めていた彼女の顔が、一気に赤くなっていく。何か変なことをしただろうか。

 

 ……あっ。

 

「─────ッ!?」

 

 あぁぁぁぁッ!? 呼び捨てにしてるじゃないかッ!? 夢の中で呼び捨てにしたせいで、現実でも勝手に呼び捨てが定着しちゃってるじゃないか!?

 

 あまりの恥ずかしさに彼女同様に顔が熱くなって頭を抱える羽目になった。もうやだ穴があるなら入りたい……。

 

「あ……ぅ……な、なんか……恥ずかしい、ね?」

 

「……頼むから今は見ないでくれ。盛大にやらかした気がするから」

 

 赤くなって軽く俯いている七草さんから、俺は顔を逸らした。こんなにみっともない姿を見られたくない。

 

「……置いていかれる前に、帰ろうか」

 

「……うん、そうだね」

 

 彼女よりも少し早く、俺は歩き出した。なんとなくこの場で二人っきりというのは精神的にキツい。女の子と二人っきりとか、今までの人生で……。

 

 ……いや、いつも菜沙がいたわ。あの冷ややかな目を思い出したら、なんだか急に熱が冷めるどころか寒気すら感じてきた。一気にクールダウンできた気がする。

 

「……ねぇ、氷兎君」

 

「なに?」

 

「……手、繋いでいい?」

 

「っ……いいよ」

 

 隣まで来て見上げるように頼んできた彼女の願いを一体誰が払いのけられるというのか。決してやましい気持ちはない。そう、断じてない。ポケットから右手を出すと、少しして柔らかな手が重ねられた。

 

「……暖かいね」

 

 そう笑った君の手が暖かいのか。それとも、俺の体温が上がってるのか。それは終始わからなかったが……繋いだ手は、確かに暖かかった。

 

 指を絡めるわけでもなく、ただお互いの手を握っていただけだったが……不思議と幸福感が満ちていく。さっきまで嫌なことばかり考えていたのに、今はそんなことを考える余地もない。

 

 握ると、ちょっと強く握り返してきたりだとか。ふとした揺れで少しでも掌が離れると、すぐにくっつけようとしてくる。女の子らしい細い指に、手入れがしっかりとされた肌。

 

 なんてことはない、握手をずっと続けているようなものだというのに、浅はかな心は卑しいことを考えついてしまう。その考えを振り払うべく無心になろうとする度に、どうしても彼女と握った手の暖かさがより伝わってくるのだ。

 

「……今度は、綺麗な景色を見ながら……ずっと、ずっと歩いていきたいな。こうやって、手を繋いだまま……」

 

 嬉しそうな声音で呟いた彼女の言葉は、静かな空間によく響いて聞こえてきた。小さく頷いて、そうだねと返すと……より強く、握られた気がした。

 

 先輩達の元へと帰ってからも、彼女はずっと手を離さなかった。時折繋ぎ目を見ては……彼女は幸せそうに微笑んだ。無垢な少女の幸福を、誰が阻めるというのだろう。少なくとも、俺にはできなかった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 海音さんの家に着いた時には、既に空は暗くなっていた。幸いにも西条さんが飛行機を手配してくれてるようだったので、俺の腕の怪我のことも考えて今日のうちに帰ることにした。

 

 怪我の簡単な治療をして荷物を整え、玄関を出る。俺達を見送るために海音さんと白菊君も外に出てきた。彼女は車椅子に乗ったまま深々と頭を下げて、謝ってきた。

 

「皆さんには本当に迷惑をおかけしました……」

 

「いやいや、気にすることないっすよ。それに……今笑えてるなら、俺たちゃ満足っす。所詮は自己満足気味た事だったけど……海音さんと白菊君が笑ってくれてるなら、それが俺達の報酬っすから」

 

 なぁ、と同意を求めるように聞いてきた先輩の言葉に頷いて返した。正直少し気まずいんだが……その態度を俺が出してしまっては、相手にも気まずさをより与えてしまう。俺は何も気にしていないといったふうに表情を固めていた。

 

「本当に、ありがとうございました……。私、自分のことばっかりで、アキくんのこと全然見えてなかった……。ごめんね、アキくん」

 

「大丈夫だよ! 僕ね、将来は医者になっておねえちゃんの足を治すって決めたんだ!」

 

「おぉおぉ、立派だなぁ白菊君は。医者になるのは難しいから、今のうちに沢山勉強しないとな!」

 

「うんっ!」

 

 白菊君の医者になるという目標を聞いた海音さんは、感極まって目尻に涙を溜めていた。どこまでもまっすぐで、お姉ちゃんを助けようとする弟の姿。彼ならきっと医者になれるだろう。彼女の足を治せるのかはわからないが……それでも、彼はきっと諦めないはずだ。

 

 そんな彼らを見ていると、先輩が焦ったようにポケットから紙を取り出した。それを海音さんに手渡すと、頭を掻きながら照れくさそうに笑った。

 

「あの、これは……」

 

「海音さん、これから大変でしょう。やっぱ足が自由に動かせないってのは辛いことだし、ましてその……親もいないし。だから俺なりに調べたんすよ。海音さんでも働ける近場の場所を」

 

「っ……鈴華さん……」

 

 とうとう涙を堪えきれなくなり、海音さんは泣き崩れてしまった。そんな彼女の身体をさする白菊君と、それを見て笑っている先輩。なんともまぁ、あんなことがあったにしては綺麗な終わり方だ。

 

「……唯野。夜中にアイツが頼み込んできて俺も手伝ったことは口に出さん方がいいか」

 

「……言わぬが花ってもんでしょう」

 

 軽く近寄ってきて小声で尋ねてきた西条さん。今そんなこと言ったら余韻が台無しだ。流石に西条さんも空気を読んで黙ることにしたらしい。

 

「……鈴華さん。その、お願いがあるんです」

 

「なんすか?」

 

「……一緒に、少しだけ歩いてくれませんか?」

 

 海音さんの頼み事を、先輩は笑顔で頷き返した。屈んで肩を貸し、彼女と一緒に一歩一歩ゆっくりと歩いていく。唇を噛み締め、大地を踏みしめ。そうして十数歩程度進むと……彼女は崩れ落ちてしまった。先輩がすぐに彼女の身体を支える。

 

 ここからでは、彼女の顔は見えない。だがきっと笑いながら泣いているだろう。俺達が手を出す必要も無い。

 

「……ありがとう、ございました。やっぱり……歩くって、いいですね」

 

「海音さん……」

 

「自分の足で、地面を踏むのって……気持ちがいいです。だから……私、もうちょっと頑張ってみます。またいつか……こうやって、私の足で地面を歩けるように」

 

 見れば彼女の足は裸足であった。家の中でも車椅子とはいえ、靴を履くこともなかったからだろう。そのまま外に出たのだから、裸足なのは当然のことだった。

 

 しかし、裸足で直に地面を踏み、小石が皮膚に刺さる。例え感覚の麻痺した彼女でも、少しはそれがわかったのだろう。俺達では痛いとしか思わないその感覚も……彼女にとってはかけがえのない感覚だったに違いない。

 

「……アイツは、どうしてあそこまで他人に入れ込めるんだ?」

 

 隣で見ていた西条さんが尋ねてくる。そんなもの、答えは明白だった。

 

「……先輩は馬鹿ですからね。自分のこと差し置いて誰かを助けようとする底抜けの馬鹿に、優しい心を合わせたら、あぁなるんですよ」

 

「……なるほど」

 

「先輩らしいっちゃ、先輩らしいというか……まぁ、うん。あれが鈴華 翔平って男の在り方ですよ」

 

 なんだか目の前で笑ってる馬鹿な天パが誇らしく見える。そうやって言った俺の頬は自然に上がっていた。普段の行動はあれだが……彼は俺にとって、誇れる先輩だ。

 

「……翔平さんも、優しいよね。氷兎君とはまた違った優しさ。ひとえに優しさって言っても、色々あるんだね」

 

 七……いや、桜華も、先輩とその隣にいる海音さんを見てにこやかに笑っていた。彼女の言葉に、俺はそりゃそうだと返した。

 

「優しさってのは、丁寧に教えたりとか、ちゃんと叱ったりとか、色々ある。俺は自分で言うのもなんだけど、人の背中を押すタイプだ。自力で何かを掴ませ、前に進ませる。けど先輩は寄り添うタイプだ。何かと手を貸してやり、一緒に前に進んでいく優しさ。どっちがいいとも言えない。だけど……先輩のやり方は、多くの人にとって喜ばれることなんじゃないかな」

 

「……寄り添うだけでは怠ける者もいる。アイツだけではやはりダメだ。貴様ら二人でようやく一人前だな」

 

「……西条さんもいれば、もっと多くの人を喜ばせられるかもしれませんが?」

 

「突き放された怒りで追いかけてくる奴なんぞ、そうそういまい」

 

 ……ちょっと驚いた。西条さんが自嘲するように笑ったのだ。笑顔とまではいかなくとも、それでも笑っていた。なんだか意外な一面を見れた気がする。

 

「……飛行機に乗り遅れるぞ。そろそろあの馬鹿を連れ戻してこい」

 

「アイアイサー」

 

 笑っていたのはほんの数秒。すぐに仏頂面に戻ってしまったが……それでも、今回の任務を通して西条さんとの仲はそれなりに深まった気がする。

 

 別れを名残惜しむ海音さん達に笑顔で別れを告げ、俺達は飛行機で関東へと飛び立っていった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 飛行機に乗り、今回は窓際ではなく真ん中の列に座ることになった。右端から、桜華、俺、先輩。そして……西条さんだ。

 

「いやぁー、まさかお前がこっちに乗ってくるとはな。ファーストクラスはもういいのか?」

 

「ふん……上に立つ者として、庶民の生活というのも体験しておかなければな」

 

「上に立つより、下にいる方がよっぽど楽だぜ?」

 

「抜かせ。俺は……お前達とは考え方が違うのだからな」

 

「かぁー、気難しい奴……ん? 今お前って言った?」

 

「気のせいではないか?」

 

「いや言った、絶対言った! 西条のデレ期が来たぞ氷兎!」

 

「飛行機の中なんで静かにしてください」

 

 隣ではしゃいでる先輩と、先輩を見て頭が痛そうに抑えている西条さん。その表情は苦々しいが、若干口元が笑っているような気がする。

 

「……帰るまでコイツの隣で延々と話を聞いてなきゃならんのか」

 

「おっすお願いしまーす」

 

「ウザったらしい。窓から放り投げるぞ」

 

 ニヤニヤと笑っている先輩を見た西条さんのこめかみに青筋が浮かんでいるような気がしてきた。飛行機の中だから暴れるなよ……暴れるなよ……っと念を送っておく。

 

 アホらしい光景を横目で見ていると、ふと右手に手が重ねられた。右側を見てみれば、桜華が微笑みながら俺のことを見ていた。どうやら飛行機の中でも手を繋いでおきたいらしい。

 

 ……西条さんと仲は深まったと思うが、それ以上に桜華との仲が深まった気がする。嫌なことばかりの任務だったが……得られた報酬で報われた気がした。冷めた心を暖めたのは、間違いなく彼女の温もりであったことだろう。

 

 

 

 

 

To be continued……




そしておねショタへ……ってことで任務完了です。


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第85話 居場所

 夜の空を見上げている二人の姉弟。姉の方は車椅子に乗り、弟の方はその姉の膝の上に乗って抱きしめられていた。

 

 雲の間から見える月と星。その合間を縫うように飛んでいく飛行機を見て、彼女は優しく微笑んだ。そして弟の身体に回した腕を少しだけ強めに締めると、それに反応を返すように、彼は身体を彼女に完全に預けて空を指さした。

 

「……あの飛行機に乗ってるのかな?」

 

「……どうだろうね」

 

「おねえちゃんは、もういなくならない?」

 

「……いなくならないよ、ずっと」

 

 彼の服に、ポツリポツリと涙の跡ができていく。彼女が泣いていることを知ると、彼は指で流れてくる涙を塞き止めた。

 

「……おねえちゃん。僕、掃除とか頑張るよ。家の手伝いも、ちゃんとやるよ。僕、もっと頑張るから……」

 

「……私も、頑張るよ。アキくんにばかり、頑張らせないようにするから。だから……一緒に、頑張っていこう?」

 

「うんっ」

 

 彼女は腕の中にいる男の子をギュウッときつく抱きしめた。彼は苦しいよ、と嬉しそうな声で言っている。腕の中にいる子が、身体を包み込むような暖かさが、彼女の心を満たしていく。心の容器を満たして溢れていく幸せが、涙となって零れていった。

 

「……アキくん、ありがとう」

 

「おねえちゃん?」

 

「……大好きだよ」

 

 苦しさが人一倍ならば、またささやかな幸福すらも人一倍。腕の中にいる小さな幸福を、彼女は手放さないように強く強く抱きしめた。彼が感じた苦しさは……よりいっそう、彼にとって幸福を知らしめるものとなった。

 

 涙は不幸だけで流すことはないのだと、その家族は知った。他の家族とは比べ物にならない苦しみがあろうとも、そこには確かに幸せが存在していたのだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 何度も何度も、トーク履歴を見返しては時間を逆算する。飛行機が出ると言ってからもうすぐ二時間半。時間的にはそろそろ帰ってきてもいいはず。

 

 すぐ真後ろにある噴水に流れる水の音だけが聞こえてくる。それ程までに静かな深夜だった。

 

 そうして今か今かと待っていると……ようやく、待ち望んでいた音が聞こえてきた。エレベーターの動く音。それが上から下へと下がってくる。

 

 帰ってきた。ちゃんと帰ってきてくれた。高鳴る心を抑えつけながら、私は扉が開くのを待っていた。

 

「っ………」

 

 扉が開いた。そうして見えてきたのは先頭に立っていた西条さんと鈴華さん。その二人の間から見えるのが……ひーくんだった。

 

 見えるがいなや、私はすぐにひーくんへと飛びついた。ちょっとだけ汗の匂いがするけど……不快ともなんとも思わなかった。

 

「おかえり、ひーくん」

 

「ッ……ただいま、菜沙。遅くまで待ってなくてよかったのに……」

 

「だって、帰ってくるって言ってたから……そんな状態じゃ眠れないよ」

 

 私を引き剥がそうとしないまま、ひーくん達は施設の方に向かっていく。歩きながらひーくんは、なんだか申し訳なさそうに言ってきた。

 

「あぁー、待っててもらって悪いんだが菜沙……。このあと報告に行かなきゃいけないし、何よりさっきまで色々とあってな……。疲れてるから、話とかは明日……ってか、もう今日の昼か。それでいいか?」

 

「あっ……うん、大丈夫だよ」

 

「なら、今日はもう寝ろよ。俺もクタクタだ」

 

 私はひーくんから離れると……ひーくんの身体が不自然なことに気がついた。いつも空いている手はポケットに入れているはずなのに、左手がだらしなくぶら下がったままだったから。

 

「……ひーくん、左腕怪我したの?」

 

「……まぁ、ちょっとな。安心しろ、軽傷だ。重症だったらここに帰る前に医者に寄って帰ってくるって」

 

「……本当に?」

 

「本当に」

 

 訝しむ私から逃れるように、ひーくんは歩き出してしまった。もっと問い詰めたかったけど、本当に疲れてるみたいだし……。眠って起きたら、ちゃんと聞き出さなきゃ。

 

 だから今はもう帰って寝よう。そう思って踵を返そうとした時……右手が目に入った。

 

 キャリーバッグを引いている右手には、誰かの手が重ねられていた。ひーくんの右隣にいたのは……桜華ちゃん、だった。

 

「─────」

 

 声が、出なかった。ただその右手にだけ視線がいって、ずっと見ている事しかできなかった。

 

 なんで、なんで私には一緒に行ける力がなかったんだろう。そう悔やんだのは一度や二度なんかじゃない。けど……今がきっと一番悔しかった。

 

「……その場所は、私の場所なのに」

 

 ……きっと、私の想いも、この声も。君には届かないんだ。

 

 誰にも取られたくなくて、ずっと隣にいたはずなのに。なんで、貴方がそこにいるの。

 

 廊下を曲がって、ひーくん達が見えなくなる。私はずっと……そこで動けないでいた。ひーくんが見えなくなると同時に、嫌になるほど涙が零れてくる。

 

「……ひーくん……気づいてよ……」

 

 もっと……私のことを見てよ……。

 

 廊下には、私の啜り泣く声だけが響いていた。きっと……誰にも聞こえていないよね。

 

 私はいつから、貴方の隣にいれなくなったんだろう。答えてくれるはずの貴方は、隣にいない。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 ……目を覚まして、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。真っ白なカーテンに覆われたベッドに、シミ一つない天井。起き上がろうとして、ふと気がついた。あんなにも痛くて動かなかった左腕が自由に動くのだ。

 

「………」

 

 寝る前に医務室に寄ったことを思い出した。それで妙齢の女性の医療班の人が眠たそうな顔で治療をしてくれたんだったか。これ塗っときゃ治ると言ったその女性は、患者が来たからと起こされて不機嫌そうだった。

 

 今度なにか菓子折でも差し入れしよう。それにしても、なんだかいい香りがする。そう思いながらベッドから降りて、カーテンを開けた。

 

「……あら、起きたの?」

 

 そこには珈琲を飲んでいる女性がいた。なるほど、いい香りがすると思ったら珈琲を飲んでいたらしい。とりあえず頭を下げて治療のお礼を言っておく。

 

「……うん、傷もないね。塗っておくだけで治るっていう代物だけど、傷の治りが早まる分体力持っていかれるのよね。一日は起きないと思ったけど、案外早く起きて少し驚いてるよ」

 

「どうも、遅くにありがとうございました。それと……」

 

 女性の座っていた場所のすぐ隣の椅子。そこに座って机に突っ伏して寝ているのは菜沙だった。なんだってコイツこんなところで寝てるんだ。

 

 傷を確認し終えた女性は、菜沙を見てクスクスと笑っていた。

 

「君が眠ってすぐにこの子が来たんだよ。怪我はどうですかって。流石に銃で撃たれたなんて言えなかったから、ちょっとした打ち身って事にしておいたよ」

 

「そりゃ……助かります。撃たれたなんて聞いたら、次から任務に行けなくなりそうなので」

 

 苦笑いを浮かべながら伝えると、女性も苦笑いで返してきた。眠っている菜沙に近づいて、頬をツンツンと突いた。身を捩らせる彼女を見ていると、なんとなく帰ってきたんだなと実感する。

 

「……あまり心配かけちゃダメだよ。私としては、もう二度とここに来ないでほしいんだから」

 

「そうできるように努力しますよ。コイツも、いい加減少しは幼馴染離れをしてくれればいいんですがね……」

 

「……そう、困ったな。私は怪我なら治せるけど心は治せないんだよね」

 

「……自分に何か問題が?」

 

「強いて言うなら両方。まぁ、私は心理学者でもカウンセラーでもないから、自分達でよく考えなさい」

 

 珈琲を飲み終えた女性は、扉につけた札を裏っ返してCloseにすると、医務室から出ていってしまった。残されたのは俺と菜沙だけ。眠っている彼女を起こさないように、俺は彼女をベッドに寝かせた。起きるまでの間見張ることにしようと思い、ベッドの隣に椅子を持ってきて、座って携帯を確認した。

 

「……今日は西条のところに泊まります、ね」

 

 そんな内容が先輩から来ていた。虚偽の報告をする為に、西条さんが白紙の報告書を持って帰ろうとしたが……先輩の首根っこを掴むと手伝えと言って無理やり連れて帰っていった。おそらくそのままずっと報告書を纏めているのだろう。

 

 いつも俺がやってるのだから、少しは辛さを味わってもらいたいものだ。

 

「……ん、ひーくん?」

 

「起きたか?」

 

「………」

 

 眠っていた菜沙の目が開かれ、急に飛び起きたかと思えば左腕を掴んで傷を確かめてきた。跡すら残っていない完璧な治療だ。正直助かった。今なら傷薬で体力が50回復する主人公達の気持ちがわかる。医療班の作った傷薬は、まさにゲームの中のアイテムみたいだ。

 

「……怪我、大丈夫?」

 

「大丈夫だって。それより、お前こんなとこまで来て迷惑かけちゃダメじゃないか」

 

「……だって………」

 

 俯いてしまった彼女に、俺は少し怒ったふうに言った。

 

「医療班の人がいてくれたからいいものを、あの人がいない時に誰か来て襲われたらどうする気だ」

 

「……えっ?」

 

 あまりにも呆けた返答に、むしろ俺が呆けてしまった。彼女は何故か目尻に溜めた涙を拭いながら聞いてくる。

 

「私が来て、迷惑だったんじゃないの……?」

 

「なんでお前が来て迷惑になるんだ。今度あの医療班の人に会ったらお礼を言っておけよ。ちゃんとお前のこと見るために残っててくれたんだから」

 

「っ………!」

 

 彼女はどうしてか涙を流し始めてしまった。俺が一体何をしたと言うんだ。指で彼女の涙を拭ってやり、次いで彼女の頭を数度優しく撫でる。すると少しして、彼女は泣き止んだ。頭を撫でれば泣き止むのは、昔から変わらないらしい。

 

 彼女は泣き止んだが、そのあと無言になってしまいどうにも息苦しくて……俺は彼女に声をかけた。

 

「……あぁ、まぁなんだ……ただいま、菜沙」

 

「……帰ってきた時に、聞いたよ……?」

 

「あれ、そうだったっけ……?」

 

 冷や汗が噴き出したような気がした。そうだ、そういえば言った気がする。何しろあの時は怪我を気づかれないようにするのに気を回してて、全然心が休まっていなかった。

 

 何か言われるかと思ったが……彼女は泣いた後のせいかぎこちなく笑っていた。

 

「……変なひーくん」

 

「うっせ。ほら、いつまでもここにいちゃ悪いし、帰るよ」

 

「……うん」

 

 彼女の手を引くように立たせると、そのまま彼女は俺の右手を強く握りしめてきた。いつものような握り方ではない。疑問に思って、彼女に聞いてみようとしたが……彼女はただ笑っているだけだったので、別になんともないかと気にしないことにした。

 

「……ひーくん」

 

「なに?」

 

「……おかえりなさい」

 

「……おう」

 

 互いになんだかぎこちなかったが、そのぎこちなさがどうにも可笑しくて二人で笑ってしまった。彼女の部屋につくまで、右手はキツく握られたままだった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 部屋に戻ってくると、先輩が疲れた顔で椅子に座りながら携帯でゲームをしていた。俺が入ってくるのがわかると、先輩は携帯を置いて近寄ってきた。

 

「おう、怪我はどうだ?」

 

「医療班の技術に驚かされましたよ。接着剤使えばすぐ治せるって言ってました」

 

「接着剤で治すのか……」

 

 服の袖を捲り、傷があった場所を見せると先輩は安心した顔つきになって息を吐いた。心配をかけたが、むしろこれくらいで済んでラッキーだったと思っておこう。今日は普通に風呂に入れそうだ。

 

「で、医療班のアイテムがなんだって? 傷薬の効果が即効でHP回復すんの?」

 

「塗られたのは傷薬ではなくヒールゼリーみたいなもんでしたけどね」

 

「胸に塗らなきゃ……」

 

「その話はNG」

 

 昔のTASさんは一体何をやってたんだか。久しぶりにミ=ゴミ=ゴ動画でも見てみようか……。

 

「……ん?」

 

「どうかしたのか?」

 

「いや、ミ=ゴミ=ゴ動画ってあるじゃないですか」

 

「あぁ……ん?」

 

「………」

 

「………」

 

 互いに黙って顔を青くした。俺達の訓練の相手を務めた事のある神話生物。名前を、ミ=ゴ。昔暴れていたのを捕まえて研究し、データ化することに成功したおかげで訓練の相手として戦えるようになったらしい。

 

 ……ミ=ゴミ=ゴ動画。それはあらゆる廃人や暇人の作り上げた動画を見ることの出来るサイトだ。視聴者の書いたコメントが右から左に流れていくのを読みながら動画を見ると、それはそれで面白い。

 

「……氷兎。考えるのはよそう」

 

「日本侵食されすぎじゃないですかね……」

 

「いや侵食どうこうより神話生物がサイト作り上げて普及させたことほうがやばいと思うんだけど」

 

「頭いいらしいですよ、ミ=ゴって。ミ=ゴの住んでた場所にはいろいろな機械や、人間の脳ミソの缶詰が転がっていたらしいです」

 

「デデドンッ」

 

 明らかに絶望感漂う顔をした先輩を尻目に、俺は自分と先輩の分の珈琲を作り始めた。あの医療班の人が飲んでたから無性に飲みたくて仕方がなかった。ようやく一息つけそうだ……。

 

「……そういえば、西条さんとの報告書作成はどうでした?」

 

「二度とやりたくない」

 

「俺がいつもやってることなんですがね……」

 

「本当に、申し訳ない」

 

 口では言っているものの態度は全く反省してなさそうだ。まったく仕方のない人だ……西条さんも苦労したことだろう。

 

「……まぁ、悪いことばかりでもなかった。西条とも普通に色々話せるようになったしな」

 

「なら良かったですね」

 

 出来上がった珈琲を先輩の目の前に置き、俺も椅子に腰掛けて珈琲を飲む。砂糖マシマシの甘い珈琲が喉を通っていくと、とても幸せな気分になれる。いつかガムシロップをコップいっぱいに入れて飲み干したいものだ。

 

 そんなことを考えていると、コンコンッと部屋の扉がノックされた。入っていいと告げると、部屋に入ってきたのはまさかの西条さんだった。しかめっ面で眉にシワが寄っている。これは先輩何かやらかしたな。

 

「邪魔するぞ。唯野は怪我が治ったか。ならよしと言いたいが……鈴華、お前の書いた報告書が穴だらけだったぞ」

 

「げっ……」

 

「修正する手間が増えた。もうお前には頼まん」

 

「わ、悪かったな!」

 

 全力で目を逸らしている先輩。やっぱ適当にやってやがったなこの人……。まったく、私生活のだらしなさと来たら右に出る人がいない。

 

 そのまま西条さんは椅子に座ると、眼鏡のレンズを拭き始めた。この人先輩を連れ戻しに来たとか、そういった用事じゃないのか。

 

「……あの、先輩の悪口言うためだけにここに来たんですか?」

 

「それもあるが……いやなに、飯というのは一種の娯楽だ。味を楽しまなければ損だ。ならば……旨い飯が食いたくなるのも必然的なものだろう? しかもタダだ」

 

「ここに氷兎の飯の虜になった奴がまた増えたな」

 

「そろそろ手間賃を貰っても誰も文句言わないんじゃないかと思えてきた……」

 

 西条さん用のティーカップに紅茶を注ぎ終え、西条さんの目の前に置く。すぐに彼は紅茶に口をつけ、表情を和らげた。やるべきことを終え、俺は珈琲を飲みながら夜飯の内容を考える。これから先は基本的に三人分の飯を作らなければならなそうだ。勘弁して。

 

「まぁ、飯作るにしたって時間かかるし……あっそうだ。西条の部屋でかいテレビあったよな。ゲームやろうぜ」

 

「……ゲームだと?」

 

「まさか、お前ゲームやらない系男子か……?」

 

「そういった娯楽品は思考に害があると教わっていてな」

 

「……西条、ゲーム機を持て。俺がゲームが何たるかを教えてやる」

 

「自分で持て」

 

「ノリに乗れよちくしょう」

 

 なんだか目の前で楽しそうなこと話していらっしゃるが、それ多分俺抜きの話ですよね。ゲームやってるから飯できたら呼んでってことですよね。俺は母親じゃねぇぞ。

 

 恨みを込めて先輩にメンチビームを送るが、先輩はそれを無視して据え置きのゲーム機を取り出し始めた。

 

「おし、さっさと飲み終えるんだよ西条。ゲームするぞゲーム!」

 

「紅茶くらいゆっくりと飲ませろ」

 

「紅茶とゲーム、どっちが大事なの!?」

 

「紅茶だ」

 

「もういいわ、私先に行ってるから!!」

 

 なんのキャラだかわからないが、先輩はゲームを持って西条さんの部屋へと走っていった。もういいや、あの人の夜飯にはソリッド・ソースでも使おう。人参を細かく四角に切ったやつと混ぜればわからないはずだ。

 

「……慌ただしい奴だな」

 

「底抜けの馬鹿ですので」

 

「昨日言っていた言葉と同じはずだが、暖かさの欠片もないな」

 

「手元にデスソースがあったらぶん投げてるところですよ」

 

 仕方がないので立ち上がって夜飯の支度をし始める。西条さんも紅茶を飲み終わったのか、コトリッとカップを置いて立ち上がった。

 

「……紅茶、なかなか悪くなかったぞ」

 

「珈琲と比べたらまだまだですしね。もっと上達しておきますよ」

 

「楽しみにしておくとしよう」

 

 ニヤリッと笑った西条さんは、部屋から出て行ってしまった。西条さんの笑い方ってなんかもう怖いんだが。あの人は自分がインテリヤクザみたいな外見してることをわかっているのだろうか。

 

 ……なんだか身体がまだ疲れている。夜飯を食ったら風呂に入ってさっさと寝てしまおう。俺は脳内で先輩を苦しめるシュミレーションを繰り返しながら、料理の手を進めていった。

 

 

 

 

 

To be continued……




疲れてるんだか文章がうまく書けない


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第86話 己を律する心

 ───誰が予想しただろう。

 

 ───誰が予測できたのだろう。

 

 否、誰もが予想できず、予測できなかった事態だった。目の前の惨状を、頭を抑えながら見ることしかできなかった。あぁ、あの時止めておけば良かったのだ。後悔しても、遅い。

 

「……確かに、仲良くなれたらいいと……もっと話しやすくなればいいなと言ったけど……だからって……」

 

 両手を握りしめ、苦々しい顔のまま俺は言った。

 

「……誰が西条さんを人力TASにしろって言ったッ!!」

 

「いやごめんて……」

 

 珈琲を飲みながら俺の言葉に全く反省もしない先輩は、ただ黙々と手元にあるゲーム機で遊んでいた。西条さんはというと、テレビに繋いだゲーム機でパソコン片手に昔のゲームを始めていた。その顔は仏頂面ではあるが、真剣な鋭い目は健在であった。

 

「誰が人力TASだ。俺の腕ではまだTASには届かない」

 

「いや、普通の人はゲームやりながらExcelで乱数表とか作りませんから。てか、乱数表作るってそれもうゲーム好きの範疇じゃなくて廃人ですからね!?」

 

「ふむ、これを廃人というか……。いやしかし、鈴華に誘われたからやってみたが、これまたゲームというのは奥が深い。ストーリーやシステムもそうだが、やればやるだけ上達し、しまいには全てを手中に収めることができる。レアドロップも確定ドロップと同じものだ」

 

「普通じゃないですからそれ! あぁもう、西条さんは常識人だと思ってたのに……」

 

「俺は常識人だとも。対戦ゲームで煽ったり悪口を言ったりはしないぞ」

 

 違う、そうじゃない。どうにかして西条さんにゲームにのめり込むのをやめようとさせるも、彼は全て聞き流しやがった。もう無理だ。この部屋の男子は全員ゲーマーになってしまった。俺はまだともかく、先輩はやり込む派だし、西条さんに至っては廃人レベルときた。

 

 影で中毒者軍団とか言われてるのに……今度はどんな悪評がつくことやら。(カフェイン中毒)先輩(ゲーム中毒)西条さん(存在自体が毒)と言われてきた俺達三人の行く末はどうなってしまうんだ……。

 

「まぁまぁ氷兎、そう言ってやるな。西条は凄いぞ。俺とスマシスやって、三戦目には全力の俺と接戦を繰り広げるようになった」

 

「先輩の全力に三回目で追いつくのか……」

 

「他愛ない。プリンで眠るフィニッシュ決めた時のあの高揚感は……素晴らしいものだった」

 

「あのさぁ……」

 

 ……もう諦めた。少し現実逃避をしよう。俺はゲームをやり続ける二人からそっと目を逸らし、ベッドに寝っ転がった。そこまで眠くはなかったはずなのに、すぐに睡魔が襲いかかってきた。そのまま、微睡みの中へと意識が溶けていく……。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 深い、深い。どこかへと潜っていく感覚があった。身体は自由には動かないが、しかし意識だけは確かにあり、必死にどこかへと向かおうとしている。

 

 やがて、暖かな温もりが身体を包み込んでいく。閉じられた瞼の裏側に光が差し込んでくる。ゆっくりと、瞼を開けて外の世界を見る。

 

 そして俺は……

 

「……やぁ。おはよう」

 

 ……絶望した。目を開いた瞬間に目の前に現れた真っ黒な顔のわからない女がいることに絶望した。見た瞬間身体は異常を訴え始め、嫌悪感が内側を満たしていく。女はただ真っ赤な口を歪めて嘲笑(わら)っていた。

 

「私のこと見た瞬間に顔を歪めるのやめてほしいな」

 

「せめて100メートルくらい離れて現れてくれませんか」

 

「いやいや、それじゃあつまらないでしょ。私はいつだって、君達のすぐ隣に這い寄るものだからね」

 

「勘弁してくれ……」

 

 なるべくナイアのことを見ないように、俺は視線を逸らした。そして周りの風景が目に飛び込んできた。茶色の砂岩で造られた建造物。それは例えるならばローマのコロッセオ……闘技場のような場所だ。円形の壁に囲まれた場所の中心で、俺は呆然と立っていた。

 

「……いつもの真っ白な空間じゃないのか」

 

「当たり前でしょ。だって君この前逃げたじゃないか」

 

「誰だって逃げ出すと思うんですけど……」

 

「そのうち嫌でも慣れるよ。君は、ね」

 

 不敵に嘲笑(わら)ったナイアは俺のそばから離れていくと、くるりと回って俺に向き直った。そしてその場で手を翳すと、ぼんやりとした光に包まれながら二冊の本が浮き上がってきた。それはもう見たことのあるものだ。

 

「ネクロノミコンと、エイボンの書。確かに魔導書というのは多くある。はたまた、それは誰が書いたのかすらわからない書き留めただけのものですら神秘を持ち、読む者に干渉する。魔導書が多ければ多いほど、君の魔術行使の触媒が増えて負荷が減る。けれど……得れば得るほど、君は確かに人間の触れてはならない禁忌に近づいていく。集めるのならそこら辺は考えた方が身のためだよ」

 

 まったくどこからあの子はこんなものを拾ってきたんだか、とナイアは宙に浮くエイボンの書を指でコンコンッと叩いた。俺は直接その中身を読んだことは無い。一体どのようなことが書いてあるのか疑問ではある。

 

「……やめておきなよ。読むのなら、後戻りができなくなってからだ。まだ早い。そして、まだつまらない」

 

「……随分と親身になってくれるかと思えば、玩具を扱うように俺を見るんだな」

 

「そりゃそうさ。君の目の前にいる奴が、君が今まで見てきた奴が、一体何を考えていたと思う? 人間なんて所詮は比べ物にならないくらい下等な生物だ。それは例え人格を持つ私であっても変わらないことだよ」

 

 ……ナイアを例えることは、まず不可能なのかもしれない。なんのように、誰のように。それは彼女には当てはまらない。話す度に変化している気すらするのだ。温厚な女性、冷徹な女性、こうやって物腰柔らかく教えてくれる女性。何者とも形容しがたい。ただひとつ、変わらぬものがあるとするならば……

 

 ……ナイアという神格は、誰に対してであろうとも嘲笑い続けている。敵であろうと、仲間であろうと……自分であろうとも。

 

「……うん、確かに君の考えていることは間違いじゃない。それに、だから私は人間の行く末を見るのがやめられない。君のような洞察力の優れた人間であればあるほど、私は興味をそそられるよ」

 

 口の歪みが強くなる。ナイアはより一層笑みを深めた。

 

「どんなことを教えたら絶望するんだろう。どんなことをしたら仲間にナイフを向けるんだろう。どんなものを与えたら裏切るんだろう。誰が、どうして、どうやって。私は……私が与えたモノで人々が狂い自滅していく様を見るのが、堪らなく好きなんだよ」

 

「……どうかしてる」

 

「うんうん、わかってるわかってる。でも……それができるのは人間相手だけ。そして人間の複雑な心理だからこそ、面白い結末が見られる。だから私の興味は、人間からなくならない。そんな私に君は魅入られちゃったわけだ」

 

「……ずっと昔から、そうしてきたのか?」

 

「当たり前でしょ。例えば……君には年代的に馴染みがないかな。1945年に広島で起きたアメリカの核爆弾投下。その核爆弾を作るように後押ししたのは、誰だと思う?」

 

「……嘘だろ」

 

「本当本当。私が背中を押してあげたのさ。そしたら見事……その爆弾は多くの命を奪った。見ていて愉快だったよ」

 

 何も悪いことはしていない。そう言いたげな様子でナイアは事実を伝えてきた。遥かな昔から存在していて、俺達の日常の影に潜んでは、人の争いを見て愉しんでいたというのか。

 

 あまりに荒唐無稽な話であっても……自分の置かれた境遇を考えれば、それは否定できるようなものではなかった。

 

「考えるだけ無駄なことだよ。私だってもう手を出した事柄全てを覚えているわけじゃない。それだけ多くのことをやってきたわけだし。なにより暇だったからね」

 

「……暇だからって理由で殺される身になってみろよ」

 

「いやぁわからないなぁ。私殺されたことないし」

 

「………」

 

 最早言葉は意味をなさない。ナイアには何を言っても無駄なんだろう。いいや、ナイアだけじゃない。他の神話生物だってそのはずだ。宇宙に数ある惑星の中のたった一つの惑星。それが地球であり、だからそれがどうしたというのだ。きっとその程度としか思っていない。

 

「まぁ、私に関してはどうだっていいよ。とりあえず、今回手に入れたエイボンの書だね。これは魔導師エイボンの書いた書物で、ネクロノミコンにも記されていない魔術が多く載っている。そこで今回のこの場所だ」

 

 パチンッとナイアが指を鳴らすと、身体が軋み始めた。皮膚が、肉が、関節が。至る所の部位が軋み始め、身体がおかしくなったのかと思えば、しかしそれは違っていた。周りだ。周りの変化に自分の身体が巻き込まれているのだ。

 

 重々しく、息をすることすら忘れてしまいそうな嫌な感じが辺りにたちこめている。先程まで何もなかったはずなのに、目の前の地面上数センチに黒い靄のようなものが広がっていく。

 

 その靄の中から……音が聞こえる。バシャンッ、バシャンッと水を叩く音。ふと心の奥底からこみ上げてくるものがあった。どうしようもないほどの怒りだ。

 

 水を叩く音に紛れて波のうちつけられる音が聞こえる。そして、泥沼を歩くような鈍い音も聞こえてくる。あぁ、奴だ。奴らがやってくる。

 

「───ほら、来たよ。君の仇だ」

 

 ナイアの口元が愉快そうに歪んでいる。あぁしかし、そんなものは今はどうでもいい。今目の前に現れようとしているのは……全ての元凶。忘れるはずのないあの音、姿。醜い魚ヅラだ。

 

「さぁ、殺せ! 君がどうするのか、楽しませてもらうよ!」

 

「……深きものども(ディープ・ワンズ)ッ!!」

 

 目の前に広がる暗黒の霧。そこから這い上がるように奴らは現れた。太い唇、腫れぼったい頬。首と胴体の分け目もなく、眼球はとび出ているように見えた。背中には背鰭と共に魚鱗があり、服も何も着ていないその胴にはヌメヌメとしたテカリがある。

 

 手や足には水かきのようなものがつき、鼻や耳は潰れているように平べったい。頭髪はなく、肌は青白い。何体も何体も現れた奴らはギョロリと眼球を動かして睨みつけてくる。その手に持った三叉槍(さんさそう)を揺らしているその様は俺を挑発しているつもりなのだろうか。

 

 あぁ、あぁ、忘れるものか。あの日の惨劇を、惨状を、忘れるものか。

 

「いあ・いあ・くとぅるー・ふたぐん!!」

 

「いあ・いあ・くとぅるー・ふたぐん!!」

 

『いあ・いあ・くとぅるー・ふたぐん!!』

 

 敬愛なる我らが神よ。我らにその寵愛を与えたまえ。奴らはそう叫んだ。

 

 自分でもどうかしていると思う。なんで奴らの言葉の意味を(かい)せるのか。どうしてこんなに俺は自分の感情をコントロールできないのか。考えるだけで精一杯だ。俺の身体は……奴らを殺す許可を求めている。怒りのままに力を振るわせろと叫んでいる。

 

「ここは夢の中。君の精神体だけをここに呼んでいるのさ。そりゃあ感情が表に出やすいだろう。それと……死んだら植物状態になるから、せいぜい頑張ってね。勝てたら魔術を教えてあげるよ」

 

 ナイアの姿が虚空に消える。しかしそんなことはどうだってよかった。荒ぶる身体を抑えることが難しい。いっそ……全てを感情に任せてしまおうか。

 

 ……そうだ、それがいい。

 

「……全員纏めて……ぶっ殺してやる」

 

 両手を握りしめた。そして気づく。武器がない。槍も、拳銃も、何もない。対して奴らは全員武器を持っていた。それでも怖くはない。俺は……どうかしている。

 

「殺せッ!! ダゴン様に贄を捧げるのだッ!!」

 

『─────────ッ!!』

 

 雄叫びと共に奴らが襲いかかってくる。何体も、何体も同時に。しかしその動きはあまりに鈍重であった。ガニ股で飛び跳ねるようにしか陸地で動くことのできない連中だ。一体、何を恐れる必要があるのだろう。

 

 お前もよく知っているだろう。いつも使っているじゃないか。槍でどう攻撃してくるのかくらい……判断できるだろう。

 

「ッ、《吹っ飛べッ!!》」

 

「ゲブッ」

 

 突き刺してくる槍を躱し、全力で殴りつける。手にはヌメリとした感触が残るが、それでも魔術の行使はできた。詠唱なしに放たれた《ヨグ=ソトースの拳》が深きものどもを吹き飛ばしていく。大量に現れた奴らは徒党を組むように固まっていた。先頭を吹き飛ばせば、後ろの奴も一緒になって飛んでいく。

 

「ニンゲン如きが魔術だとッ!!」

 

「構わん、殺せッ!! 詠唱をさせるなッ!!」

 

 どれだけ多くいようとも、同時に襲いかかれるのは三体程度。逃さぬように囲みこんで突き刺してくるが、それを跳んで躱し、そのまま近くにいた奴の頭を蹴りつけ、吹き飛ばす。

 

 魔術を乱用しなくては切り抜けることすら難しい。それに……どうしてか。エイボンの書による負荷の軽減のおかげか。いつもよりも多く魔術が使える。いや、ハイになっているだけかもしれない。どちらにせよ都合がよかった。

 

「邪魔っ、すんなッ!!」

 

「ゲヒッ」

 

 腹を一発殴りつけ、蹲まっている間に奴の持っている三叉槍を蹴りあげて後方に向けて吹き飛ばす。いくら強く持とうが、魔術によっての吹き飛ばしならそんなもの簡単にすっぽ抜けていく。

 

 真横から迫ってきていた槍の先端を身を捩って躱し、そのまま勢いよく後ろに下がっていく。そして先程蹴り飛ばした槍を回収し、両手で持って構えようとする、が。

 

「っ、重ッ」

 

 いつも使っている槍よりも遥かに重い。満月の時ならともかく、夢の中とはいえそこまで身体能力は上がっていなかった。これでは槍を振り回せない。

 

「クッソがァッ!!」

 

 両手で後端を持ち、バットを持つようにしてなんとか振り抜いた。威力はまったくないが、槍は確かに深きものどもに当たった。

 

「《吹っ飛べッ!!》」

 

「ギャウッ」

 

 深きものどもが飛んでいく。そのまま槍を振りぬき、奴らに当たった瞬間に魔術を行使する。吹き飛んでいった連中のうち、持っていた槍が身体に突き刺さって動けなくなる奴らがいた。本当に少しずつだが、数は減っている。問題は、この武器が全然振るえない事だ。しかもなんかヌメヌメしている。気持ち悪い。

 

「っ……らぁッ!!」

 

 重い槍を持ち上げて、なんとか薙ぐように振るう。しかし威力はてんでない。それを好機と見るや、奴らはなるべくバラバラになって攻めかかってきた。

 

 槍を払い除けるも、槍を持ったままでは相手の攻撃を躱しきれない。だが……焦りのせいか。心の中で燻っていた怒りはなりを潜めていた。周りの状況を的確に捉えるだけの判断力と思考力も戻ってきている。

 

 このままでは負けることは目に見えていた。どうにかしようにも、この槍が使い物にならないのだからどうにもならない。

 

「クソッ!!」

 

 後退しながら槍を振るう。しかし……それが仇となった。奴らの体液で濡れている槍が、とうとう掌を滑り出してしまった。もう槍を振るうことは止められない。このままではせっかくの槍が……《飛んで》いってしまうッ……!!

 

「……なッ!?」

 

 ……スルリッと手元から抜けていき、なんとか指先まで這わせるもソレは手から離れてしまう。槍はそのままの勢いで地面に落ちるかと思いきや……目の前に向かって勢い良く飛んでいった。

 

「ギギィッ!?」

 

 目の前の一体を貫き、後ろに構えていた奴も貫き。最終的に壁にまで槍は穿ちながら飛んでいった。

 

 ……なるほど。どうして気がつかなかったのか。敵を吹き飛ばして意識を刈り取る魔術だとばかり考えていた。それに、槍というのは……突きや薙ぐだけの武器ではなかった。完全に盲点であったが、攻撃の手段を得ることのできた俺は自然と口元に嘲笑(笑み)を浮かべていた。

 

「……ここからだ。死んでたまるかよ」

 

 片足を前に出し、両手でどんな攻撃にも対処できるように構えをとる。向かってくる槍を躱し、側面から殴りつけて吹き飛ばす。背後から迫ってきていた槍をしゃがんで躱し、低い姿勢から腹に向かって蹴りを入れる。

 

 そうして何度も何度も相手の武器を落とすことに集中して攻撃を躱し続けた。やがて自分の周りには何本もの槍が地面に突き刺さっている状態となった。

 

「怯むなッ!! 殺せ、殺せッ!!」

 

 依然として奴らは勢いを失わなかった。どれだけ仲間が死のうとも。どれだけ仲間が傷つこうとも。正直気味が悪い。さっさと終わらせてしまおう。準備は整ったのだから。

 

「……《吹っ飛べッ!!》」

 

 足元に突き刺さっている槍に向かって蹴りを入れる。すると槍は凄まじい勢いで回転しながら飛んでいき、奴らの身体を切り裂いていく。しかしそれでも勢いは落ちず、壁にまで飛んでいってようやく止まる。

 

「何本でも、くれてやるよッ!!」

 

 一本だけ自分の武器として確保し、残りの槍は次々に弾丸の如く射出されていく。辺りには魚特有の匂いに混じって血の匂いが濃くなってきていた。不思議と今は吐き気を感じない。それよりも……奴らを殺すことに意識が向いていたのだから。

 

「ギギッ……い……あ……」

 

「ダゴン……様……」

 

「ギィッ───!?」

 

 悲鳴が響く。あれ程多くいた深きものどもは既に数えるだけとなった。槍はもう撃ち尽くした。ならば後は接近戦でケリをつける。

 

 手に持った槍を思いっきり引いて投げ飛ばす。槍は一体の深きものどもを貫いて壁に突き刺さる。投げてすぐに走り出し、振るわれる槍を飛んで躱し、顔面に空中で蹴りを入れる。よろめいた所で槍を奪いさり、蹴り飛ばしたあとで槍を投げ放つ。

 

 鈍重な相手に翻弄されるほど俺は弱くはないし、西条さんにだって鍛えられてきた。今のところはかすり傷だけで済んでいる。それでも気を抜かないように、最後の一体に対してトドメをさした。

 

「……はぁ」

 

 戦い方に気がついてみれば、あとは呆気ないものだった。辺りに散乱している槍や血濡れの死体。気が抜けたせいか、その濃い血の匂いに頭がクラクラとしてきた。奴らを殴りつけたりした手は、奴らの体液で濡れている。気持ち悪い。

 

「いやぁ、お見事だったよ。最初はどうなるかと思ったけど……うん。ちゃんと魔術を応用して戦えたじゃない」

 

 どこからともなく、気がついた時には既に目の前に現れていたナイア。両手で何度も叩いて乾いた拍手を送ってくる。別になんとも嬉しくもなかった。それに嫌な倦怠感が身体を包んでいる。緊張が解けたせいで、魔術のフィードバックや疲労が一気にきたらしい。

 

「……戦ってみてわかったよね? 君はまだ弱いよ。動きの遅い連中ならともかく、君が前に戦った蛇人間相手に単独だとこうはいかない。精進するんだよ」

 

「……俺にコイツらをあてがったのは、当てつけか」

 

 忌々しく思う俺の言葉に、ナイアは当然だとばかりに嘲笑(わら)い返してきた。

 

「家族の仇を前にして理性を失った君。けど、そんな自分の感情をコントロールできなければ勿体ない。人間というのは感情を振り回すだけじゃダメなんだよ。君にはまだ理性を持ったままでいてもらいたいんだ。事実、怒り一色のままでは魔術の応用はできなかったと思うよ?」

 

「……悪趣味だな、アンタ」

 

「ふふっ、わかってきてるだろ? 私はそういう存在なんだよ。君も少しずつ慣れてきてる。私が敬う存在ではないと理解してる。ぶっきらぼうに接してくる君は……嫌いじゃない。むしろ私にとっては好意的に映るよ」

 

「……アンタみたいなのに、好かれたくないものだな」

 

 悪口を言っていると、頭がぼんやりとしてきた。目の前が霞んでいって、視界が朧気になる。立っているのかわからなくなって、視界がふらふらと揺れ始めた。

 

「時間だね。魔術は使えるようにしておくから安心しなさい。それと……好くも好かないも関係ないよ。君は、私からは逃れられないんだから。それに、私は君という人間をかなり好いているんだよ。その過程を、その結末を。私はずっと見ているよ、ヒト」

 

 ……まるで電源の切れたテレビ画面のように、ブツリッと意識は途絶えていった。消える直前のナイアの言葉と、その歪んだ真っ赤な口だけが印象に残っている。

 

 

 

 

To be continued……




おまたせ!(気軽挨拶先輩)
課題やら何やらが落ち着いて空想切除も終わったので初投稿です。

前回加茂姉弟のことを載せ忘れていたので載せておきます。

 賀茂 海音 カモミール『苦痛の中で、苦痛に耐えて』

 賀茂 白菊 白妙菊『あなたを支えます』

さて、お久しぶりです。今回もまたナイアの嫌がらせをクリアし、氷兎は魔術を習得しました。まぁお披露目は後になりそうですが……。
今後はこういった夢の中での魔術習得は多分書かないと思います。氷兎が新しい魔術を憶えたりしていたら、コイツ夢の中でナイアの嫌がらせから生き残ったんやなって思っててください。


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第87話 更に戦う少年達

 惨劇の悪夢を終えてからというもの、特にこれといった出来事はなかった。今日も部屋では俺と先輩が珈琲片手にゲームに勤しんでいる。しかし、ゲームといえどもこうも休みが長いとやることもなくなってくる。たまには動画でも見て暇でも潰そうか。

 

 そう思っていた矢先のことであった。リンゴンッリンゴンッと喧しい音が携帯から鳴り響いて、危うく携帯を落としかけた。

 

「プフッ……」

 

「……いつのまに人の着信音変えたんですか」

 

「いや、暇だったから……」

 

 先輩が口元を抑えて笑っているのを睨みつけながら、どんな連絡が来たのかを確認する。誰から来たのかも見ずに、文面だけを見てスパムの類いだと眉をひそめた。私と一緒にゲームをしよう、と丁寧に女の子の画像でURL付きのメッセージを送ってきたからだ。

 

「スパムってなくならないんすかね」

 

「こんな手に今どきの誰が引っかかるっていうんだかなぁ」

 

「ですよね……」

 

 アホらし。とっととブロックしてメッセージを削除しよう。そう思って携帯のメッセージ一覧を見ると……。

 

『マイノグーラさんが携帯番号でお友達に追加しました』

 

 ………。

 

「先輩携帯に神話生物がッ!?」

 

「あぁん、なんで?」

 

「もう終わりだぁ!」

 

「……ウッソだろお前。笑っちゃうぜ」

 

 口では言うものの、先輩の目は全く笑っていなかった。画像をよく見てみれば、グラマラスなその姿の背後に蝙蝠の羽のようなものが映り込んでいる。間違いない、マイノグーラだ。あの神話生物とうとう人の携帯にメッセージ送ってきやがった。現代文化に毒され過ぎだろうが。

 

「……なんて言ってた?」

 

「いや、一緒にゲームをしようって」

 

「……そのURLのゲームなら、俺もやってるな」

 

 互いに頭を抑えながらどうしてこうなったと喚いていると、更に喧しくリンゴンリンゴンリンゴンリンゴンッと連続でメッセージを送ってきやがった。

 

「鬱陶しいッ!! 誰だ(ベル)エンジェルのボイスを着メロにした奴は!?」

 

「アンタだよ!!」

 

「そうだったな!!」

 

 部屋の中に頭が痛くなるほどリンゴンリンゴン鳴り響いている。不幸せな鐘の音の大合唱だよまったくもう。携帯をマナーモードにして再び送られてきたメッセージを確認する。どことなく現代っ子のような文章で彼女は送ってきていた。

 

『やっほ。腕の傷は癒えたかな? まぁ、今はそんなことはどうでもいいんだけどね。最近暇で仕方ないからさ、ちょっと面白いことをしてみようかなって。このゲームでこれからレイドイベントがあるんだけど、私の今日の獲得討伐ポイントを上回ったら君の勝ちっていうゲームをしよう。私が勝てばそこら辺にいた一般通過男性の生気を奪う。君が勝てれば人の命を救える。そっちの参加者は何人でもいいよ。ただし拒否権はキャンセルだ』

 

「はぇー、すっごい……。自然な語録使い、俺じゃなきゃ見逃しちゃうね」

 

「いや語録どうこうより人食われかけてるんですが」

 

「精気食われるならまぁ……いやもしかしたら性器を口にくわえられる可能性も……?」

 

「ないです。どうするんですかこれ」

 

「……やるしかないだろ」

 

 現実逃避気味になっていた先輩もようやく事態に真面目に取り組むことになったようだ。とりあえずゲームを起動して、マイノグーラの作ったらしいギルドに入る。メンバーはまだ俺達含めた三人だけのようだ。

 

 一応あと少ししたら始まるイベントのおさらいをしておく。とはいっても、普通のレイドイベントだ。ボスキャラを倒して討伐ポイントを稼ぎ、競い合うタイプのものだ。ただ、討伐ポイントは今回のイベント限定のレアガチャから排出される武器のレア度に応じて戦闘後の獲得ポイントに倍率ボーナスがつく。

 

 先輩と俺がガチャを引いてみたが、残念ながら最高レアの武器は出てこなかった。

 

「……一応やり込んでいるはずですが、総合戦闘力5万いってないですね」

 

「俺も5万ちょっとだ。んでマイさんの戦闘力は……14万ッ!? うせやろ!?」

 

「俺と先輩合わせても10万程度……」

 

「いや待て。マイさんは一人。俺達は二人。倒す時間が短くとも獲得ポイントは俺達の半分だ。俺たちが全力でいけば、あるいは……」

 

「せめて、もう一人助っ人が欲しいところですけど……」

 

「誰かこのゲームやってねぇかな……」

 

 イベントの開始まであと数分。その数分で誰か助っ人を呼べればいいが……。

 

 いや無理だろう。諦めかけていたその時、ちょうど誰かが部屋の扉をノックしてきた。こんな焦ってる時に藪雨の奴が来やがったらタダじゃおかねぇ。心の中で半ば呪詛を吐きながら、入っていいと伝えると……扉を開けたのは、オールバック眼鏡インテリツンデレヤクザこと、西条さんだった。

 

「どうせ部屋にいると思っていたが……やはりゲームか。何をしている? 俺も同行する」

 

「課金院ッ……!!」

 

「誰が課金院だ。そんな課金厨みたいな不名誉な名で呼ぶな」

 

「いや、これってもしかして、もしかするかもしれませんよ?」

 

「課金ブースタを持つ西条なら……!!」

 

「そこまで金をかけてる訳じゃないんだがな……」

 

「よし、とりあえずこっちに来い。そんでコイツを見ろ」

 

 西条さんが定位置と化した椅子に座ると、俺はマイノグーラとのトーク履歴を見せた。内容を見た西条さんは鋭い目つきを更に鋭くし、眉間に皺を寄せ始めた。刀を持っていたら刀の鍔を弄り始めていたことだろう。

 

「……やはりアイツはあの時仕留めておくべきだったか」

 

「いやどう足掻いたって全滅不可避なので。今はともかくマイノグーラ相手にゲームで勝つために力を貸してください」

 

「……まぁよかろう。そのゲームなら鈴華に勧められて少しはやっていたからな」

 

 そう言った西条さんのデータを見てみると……総合戦闘力7万。先輩より強いんですがそれは。よく見たら装備が全部最高レアで強化も終わっている。

 

 ……しかしここまでやってもマイノグーラには勝てないのか。

 

「なんでマイさんこんな戦闘力高ぇの?」

 

「おそらく装備の限界突破まで全て終わらせているのだろう。俺は強化までだがな。あとは……レベル差だ。このゲームはレベルによって補正がかかる。少なくともマイノグーラのレベルは俺達よりも数段上だ」

 

「やり込みスギィッ!!」

 

 戦う前からわかる。マイノグーラの強さは本物だ。あれはあまりに永すぎる暇な時間を費やして完成させられたデータ……。改竄の可能性もない。強い。この上なく強い。合計総合戦闘力でならこちらが上。しかし相手は神話生物だ。三対一だとしても……全力で挑まなければならない。

 

 時計の針がもうすぐ開始時刻になる。嫌な感じが身体を駆け抜け、心臓が暴れだして治まらない。

 

 ……人の命がかかった一度きりのゲーム。負けるわけにはいかない。

 

 携帯が震え、マイノグーラのメッセージが浮き出てきた。開始の合図だ。

 

『はい、よーいスタート』

 

「回せ、回転数が全てだッ!!」

 

「スタミナ回復アイテムを惜しみなく使わなければ……」

 

「……ゲームくらい落ち着いてやれ、お前ら」

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 イベントが始まってしばらく経つ。全力で使えるものを使ってボスを何度も何度も繰り返し倒していく。獲得ポイントを見るが……ダメだ。どうしてもマイノグーラの獲得ポイントに三人を合わせても適わない。一体どうなってやがる。焦りを感じる中でとうとう先輩が発狂し始めた。

 

「なんで……どうして追いつけない!?」

 

「……よく見ろ鈴華。マイノグーラの装備は全て、今回のガチャ限定最高レア装備だ」

 

「全補正かよクソがッ!! 西条が課金ブースタならマイさんは課金廃ブースタ持ちかよ!!」

 

「一回のポイント獲得料が桁違いだ……。三人合わせても勝てないって、コイツすげぇ変態だぜ?」

 

「馬鹿野郎お前三人に勝てるわけないだろッ!!」

 

「口を動かすより手を動かせ。負ければ会ったこともない赤の他人でどうせ生きていても代わりはいくらでもいる一般通過男性が死ぬぞ」

 

「お前もお前で助ける気あるの!? それと、代わりなんかいねぇからなぁ!?」

 

「ブラック企業の常套句はNG。かといって、人助けをやめるって訳にもいきませんよ。負けてたまるかってんだ」

 

 そこまで広いとはいえない空間に男が三人集まって携帯に充電コードを差しながらゲームをするその様は、世間から見たら一体どう見えることだろうか。これが当事者でないなら、アホくさ、やめたらとでも言えるだろうが……俺達はそんなこと言える立場じゃない。

 

「クッソ……そろそろ集中力というか同じことの繰り返しで飽きがきてる……」

 

「片手間にPCでもやってれば暇は潰せるぞ」

 

「とうとうゲームの片手間にPCゲームをするとかいうアホみたいなことやり出しちゃったよこの人……」

 

「ゲームじゃない。最近はミ=ゴミ=ゴ動画も見ている。あの廃人軍団は……見ていて心が踊るな」

 

「あぁ、もう西条さんが手の届かないところに……」

 

 片手で携帯ゲーム。片手でPC操作。これでキモオタだったらともかくインテリヤクザでイケメンときた。まったくなんだってんだ。終わりの見えないゲームのせいか俺もフラストレーションが溜まってきている。先輩にデスソースでも投げて発散しなきゃ……。

 

「……おい、ロードに入ったらちょっとこっちに来てみろ」

 

「なに、どしたん?」

 

 西条さんが何かを見つけたらしい。一応ゲームの方もちょうど区切りが良かったので、向かってみるとミ=ゴミ=ゴ動画の生放送一覧のページが開かれていた。今放送されているもので他と比べてやけに人気なものがある。それを西条さんは指さしていた。

 

「……この生放送の主、マイノグーラだ。アイツ生放送でゲーム実況してるぞ」

 

「嘘ォッ!?」

 

「なにやってんだアイツ……」

 

 マイノグーラの放送している動画をクリックして、大画面に表示する。その画面の半分を埋めているのは、蝙蝠の羽が生えた女性で、もう片方は今やっているゲーム画面だった。

 

 間違いない。声だってまんまマイノグーラのものだ。せめて背中の羽くらい隠せ。というか、生放送しながら俺達に勝ってるのかよ。ふざけてやがる。

 

「……コスプレ系でしかも美人だと評判がいいらしい。24chでも色々と書き込まれているな。愛称でマイちゃんと呼ばれている」

 

「あぁ、普通の人って羽見てもコスプレとしか思わねぇのか……」

 

「いや結構バサバサ動いてるんだから誰か疑問を持てよちくしょう」

 

「氷兎の精神が徐々に磨り減ってきてるな……」

 

 画面に釘つけになりながらもゲームを進める手は止めない。未だにマイノグーラとの差は縮まらず、完全なイタチごっこと化してきた。レイドの時間はまだまだある。終わる頃には携帯が熱で悲鳴をあげているに違いない。

 

『いやぁ、三対一でもなんとかなるものなんだね。これは私の圧勝かなぁ?』

 

「画面の向こうでなんか言ってるぞおい」

 

「もっと神話生物っぽくしろよな……」

 

 生放送最中のマイノグーラは暇なのかしらないが口笛を吹いて余裕たっぷりそうだ。その行動がいちいち癪に障る。完全に舐められているな、俺達。

 

『負けちゃったらちょっとアレなことしちゃおうかなって思ったけど、参加者君達は残念だなぁ』

 

「ん? 今なんでもするって」

 

「言ってないです。どうせロクなことじゃないので期待しない方がいいですよ」

 

「鈴華、手が止まってるぞ」

 

「わーってるよ」

 

 先輩も疲労と飽きがきている。かくいう俺もそろそろ集中力の限界だ。何か、革新的なことが起きないとこれ以上の続行が厳しい。マイノグーラのいる場所に隕石でも落ちてこないかな。

 

 そう思っていると、突然PCから焦ったような声が聞こえてきた。マイノグーラが何かドタバタと忙しなく動いている。

 

『……ゲームは程々にしろって言わなかった? なぁ、飯の時間だって言ってんのに来ないってどういうことだおい』

 

『ま、待って今行くから! ごめんね視聴者さん、ちょっと従弟が……ちょっと、お願いだからその棚の中身捨てようとしないで!』

 

 男性の怒るような声が聞こえたかと思えば、画面は生放送の終了を告げる文字が浮かび上がってくる。まさかの親フラというか兄弟フラ。しかも従弟……ん? 従弟?

 

 確かマイノグーラってナイアの従姉妹で、つまり今いたのってナイアの夫ってこと……?

 

「……まぁいいや」

 

 なんかもう面倒くさいから思考放棄した。今はそれよりも重要なことがあるのだから。

 

「マイさんが消えた……今がチャンスだ。全力で回せ!」

 

「ここで突き放さなければ、俺達の負けは確定するな」

 

「やる気が出たようで何よりですよ」

 

 先輩のやる気は回復したようだ。マイノグーラが戻ってくる前にポイントを荒稼ぎしなければならない。

 

 しかし……この状況は長くは続かなかった。俺も先輩も、とうとうスタミナ回復アイテムが尽きたのだ。絶望感に打ちひしがれながら、ひとまず休憩として珈琲を淹れた。

 

「……資材が底をついた。まずいぞ……」

 

「俺ももうスタミナ回復アイテムないっすよ。現状は課金ブースタで戦闘続行してる西条さんだけですが……」

 

「俺にそんなスキルはないと何度言わせればわかる」

 

 いや、困った。非常に困った。まだマイノグーラが帰ってきていないとはいえ、このまま西条さんの稼ぎだけに頼るのは負ける可能性が高い。

 

 ……目の前にいる先輩を見れば、その面構えは確かな意志を感じさせるものだった。何か、今まで我慢していたものを解き放つような、強い意志を感じる。

 

 両手を組み合わせて俯いていた先輩だったが……ゆっくりとその顔を上げた。

 

「……魔法のカードを、解禁するしかない」

 

「ッ……無課金を、やめるんですか?」

 

「よく考えろ。課金じゃない。俺達は魔法のカードを使って人の命を救うんだ。これは課金じゃない……寄付だ」

 

「……いや課金には変わりないと」

 

「課金じゃないんだよ! ここまで来て無課金やめられるかってんだ! たかが何万金を払うだけで、人の命を救えるんだ! ここで払わないで……どうするってんだよ!」

 

 まるで、雷が落ちてきたかと思うような衝撃を受けた。今まで無課金を貫いてきた俺達だが……そう、課金じゃない。偉い人は言っていた。課金は家賃まで。課金は、食事と同じだと。俺達のこれは食事じゃない。これは……人の命を救う戦いだ。

 

「……買いましょう。ここまで来たら、引けないっ……!」

 

「よう言った。それでこそ男や」

 

「今から買いに行くのか? その時間を討伐に当てた方が効率的だ。誰かパシリを呼ぶのがいいだろう」

 

「しかし、今ここでパシリに使える奴なんて……」

 

 そう思っていたその時だ。コンコンココンッと刻みよくノックがされた。このノックの仕方は……間違いない。アイツだ。先輩の顔が嬉嬉として明るくなっていくのが目に見えてわかる。

 

「いたよ! パシリだ!」

 

「でかした。藪雨、入ってきていいぞ」

 

 扉を開けていつもの作られたような笑顔で入ってきた藪雨は……部屋の中の惨状を見て一瞬立ち止まった。

 

「ゲームも程々にするとか、せんぱい方しないんですか。それと、そちらの方は……」

 

「いや、それは今度紹介する。今はお前に任務を頼みたいんだ。お前にしかできないことなんだよ!」

 

「え、えぇ!?」

 

 先輩と俺で出し合ったお金を藪雨に渡した。本人はきょとんとした顔で俺達を見ていたが、先輩の言った言葉に顔を歪めて怒りだした。

 

「藪雨、これでiTunesカードを買ってこい。今すぐにだ!」

 

「後輩をパシリに使うとか何考えてるんですか!? 嫌ですよ私!!」

 

「頼む! これで人が助けられるんだよ!」

 

「そんな馬鹿な話がどこにあるって言うんですかぁ!?」

 

「事実目の前で起きてんだよなぁ……」

 

 やり取りを見ていてボソリと呟いた。仕方がない。俺は財布から更に諭吉さんを一枚取り出して藪雨に手渡し、肩を軽く叩いてから言った。

 

「これで好きな物を買いなさい。だから至急速やかに、迅速にカードを買ってくるんだ。いいね?」

 

「……しょうがないですねぇ。まぁ、私こんなにも素晴らしい優しさのある後輩ですしぃ? 尊敬するせんぱいに頼まれたら使いっ走りくらいはしてもいいですよ?」

 

「そういう現金なところ、今だけは好きだよ」

 

「告白ですかぁ? やめてくださいよぉ私まだ死にたくないので」

 

 後半なんだかマジっぽい言動になりかけていたが、藪雨は臨時収入に喜んで飛びつき、部屋から走り去っていった。扱いやすい後輩で良かった、本当に。財布には少し痛かったが。

 

「よくやった氷兎」

 

「……あの喧しいのは友人か?」

 

「あぁ、西条にも今度紹介するよ」

 

 果たして藪雨と西条さんを引き合わせていいのだろうか。なんか藪雨が喧嘩売りにいった挙句負ける未来しか見えないんだが。俺はよした方が……いや、この部屋にいたらどのみち嫌でもエンカウントすることになるか。

 

 憂いが増えて嫌になる。俺はバレないようにそっとため息をついた。

 

「そういや西条は平気か? そろそろお前もスタミナ回復アイテムが切れるだろ」

 

「……いや、俺としてはそんな原始的な方法で課金をしているお前達に驚いたがな」

 

「……なんだって?」

 

「知らんのか? 最近の課金は仮想通貨が楽だぞ。どこに行っても使える世の中だ。現金よりも使い勝手がいい。外国でも使えるのだから、俺が使わない筈がなかろうよ」

 

「ワァオー、随分と未来的。いや、俺達が時代の波に乗れてないのか……?」

 

「仮想通貨も、随分とまぁ流行ったものですね」

 

「技術革新の賜物とも言える。科学技術だけじゃない。その裏では情報技術も確かに発達しているのだからな。コイツもその恩恵を受けている」

 

 人差し指で眼鏡をクイッと上げる西条さん。そういえば西条さんの眼鏡はEye phoneだったな。なるほど確かに地味ではあるが色々と便利だ。俺達の持つ携帯端末も、随分と進化を遂げてきたしな。

 

「うっし。もう休憩は十分だ。再開するとしよう」

 

「……なんかマイノグーラのポイント上がってきてますね。アイツ飯食って帰ってきましたよ」

 

「手を抜くなよ。計算上、残り時間的にはこのまま逃げきれるのだからな」

 

「よし、じゃあ俺の金ぶち込んでやるぜ!」

 

「財布が痛いですね、これは痛い……」

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 部屋の中にいるのは、ぐったりとしたまま動かなくなっている男三人。時刻は今日のイベントの終了時刻を指し示している。充電を続けながら使用を続けた彼らの携帯は既に熱で悲鳴を上げている。触り続けていたら本人が悲鳴を上げるほどには酷い状態だった。

 

「……なぁ、勝ったか」

 

「……ギリギリ、勝ってますね」

 

「流石の俺も、こんなに長時間の単調作業は精神的にくるな……」

 

「誰かUNICORN流して……」

 

「辛勝した淫夢くんUCの動画でも流すか?」

 

「いややっぱいいや」

 

 長時間のゲーム画面の見過ぎによって、彼らの眼は疲労を訴えていた。疲れただろ。今日はもう休もうぜと頭の中で猫が話しかけてくる錯覚を覚えていた氷兎だったが、突然携帯が震え始めた。メッセージを受信したらしい。確認してみれば、送り主はマイノグーラからであった。

 

『はぁ、もう……彼が来なかったら私の勝ちだったのに。まぁいいや、三人でよく頑張ったね。勝ちは勝ちだし、約束は守るよ。それと、ご褒美もあげなくちゃね』

 

 そう送られてきて少しすると、今度は画像が送信されてきた。身体のラインを強調し、脇や胸元が開いて見え、更にはへそも見えるという黒い布一枚の格好、いわゆるサキュバスチックな衣装を着たマイノグーラの写真が送られてきていた。

 

 それを見ていた三人のうち、鈴華が氷兎と顔を合わせて懇願し始めた。

 

「氷兎、その画像送ってくれ。オカズになる」

 

「いや、消しますよ。なんか持ってたら呪われそうじゃないですか」

 

「おま、戦利品だぞ!? 年上のグラマラスなお姉さんだぞ!?」

 

「年齢はBBAな上に神話生物だってことわかってます?」

 

「見た目若いだろ! なら問題ねぇ!」

 

「……まぁいいや」

 

 鈴華に写真を送りつけてから、トーク履歴を消した氷兎。あれだけ疲れていた鈴華はまさかの戦利品にガッツポーズをし、眼精疲労一歩手前まで来ていた氷兎と西条は静かに休むことにした。もう今日は携帯ゲームはいい。ゲーム好きがそう思える程までに疲弊した一日であった。

 

 

 

To be continued……




あと一点足りなくて単位を落とす夢を見たので初投稿です。


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第88話 贈り物

『えー、次のニュースです。最近街を歩いているとよく見かけます、この宗教団体についてなのですが……』

 

 ……身体が気怠くて、何もする気が起きなかった。耳に届いてくる最近のニュースはもはや何を言っているのかすら理解できない。左耳に入ってきたらすぐさま右耳から抜けていく。視界は真っ暗。腕を枕にして、机に突っ伏して瞳を閉じていた。

 

 こんな無気力に襲われたのはいつぶりだろうか。あぁ、まったく。今日は夕方から予定があるというのに。

 

「……唯野は風邪でもひいたのか?」

 

「いいや、なんか夜通しで作業してたらしい。ナイアに新しい魔術だかなんだか教わったらしくて、なんだっけな……魔道具? うん、マジックアイテムみたいなの作ってたらしい」

 

「とうとう槍兵ではなく魔術師の道を歩み始めたな、コイツは……」

 

「俺としては心配なんだけどねぇ……。氷兎にぶっ倒れられちまうと俺が困る。今日の朝飯はパン適当に焼いただけだし。氷兎に何か食わせてやろうにも、俺の作ったやつ食わせたらなんか食中毒になりそうで怖いし」

 

「流石の俺でも食中毒の心配はせん。それより、おかゆの作り方くらいならネットで調べられるだろ」

 

「いや、迷ったんだよ。消化にいいものの方がいいか、栄養のあるもん食わせた方がいいのか」

 

 すぐ近くで先輩と西条さんが話している。ゲームをやっている様子はない。どうやら、ゲームをしようにも心配でできないようだ。なんか、迷惑かけちまってるな……。

 

 申し訳ない気持ちもあり、俺はなんとか身体を起こした。しかし、いかんせん身体の気怠さは抜けない。小腹も空いたし、何か適当につつきながら珈琲でも飲もう。確か昨日の残り物があったはずだ。

 

「……うへぇ、ひでぇもんだな。氷兎、お前隈やべぇぞ」

 

「心做しか、生気がないようにも思えるんだが……まさかマイノグーラに何かされたか?」

 

「……いいえ、大丈夫ですよ。多分あれです。魔力の使い過ぎで体力ごっそり持ってかれてるだけです」

 

「今日は休んだらどうだ? 皆心配するぞ?」

 

「予定組んだんですから、行きますよ……。大丈夫です。身体はふらつきません。多分内面的な症状なんでしょうね、これ」

 

 冷蔵庫から適当に食べるものを出しながら俺は答えた。病は気から、というものもある。気分が乗らない時は、総じて身体の調子も悪いというものだ。どうしても部活に行きたくない時に吐き気がしてくる錯覚と同じようなものだ。休んだら休んだで吐き気は戻るのだから、俺だって今日明日くらいちゃんと休めば治るはずだ、きっと。

 

「主催者がこんなんでいいのかね……」

 

「まぁいい、どうせ車の運転は俺だ。後部座席で寝かせておけば問題ないだろう」

 

 飯を適当に口の中に放り込みながら、先輩達の他愛もない話を聞き流す。不思議だ。先輩の好みのために味を濃いめに作ったのに、薄く感じる。味覚までやられているのか。

 

 ……いいや、まさか神経か。なるほどそれなら合点がいく。そもそも魔力というのはそんなにぼんやりとしたものではない。身体の内側から湧き出るといった曖昧な存在ではないのだ。

 

 魔術を使う上で一番酷使されるのは、心だ。では、心とはどこだ。一般的には心臓と思われるかもしれないが、心があるのは俺は頭、つまりは脳だと思っている。

 

「……難しい顔をしてどうした?」

 

「……いえ、ちょっと考え事を」

 

 食べる手が止まっていたせいか、先輩に怪訝な顔で見られてしまった。まぁ、頭をスッキリさせるのには丁度いいのかもしれない。少し話をしてみよう。俺は先輩と西条さんの両方に向き直ってから話し始めた。

 

「先輩と西条さんは、心ってどこにあると思いますか?」

 

「……なんだ、藪から棒に」

 

「魔術を使うのに疲弊するのって、心なんですよ。それでちょっと身体の不具合と結びつきそうだったので聞いてみたくて」

 

「ふーん、心ねぇ……。やっぱ、ココだろ」

 

 自分の左胸付近を叩いて、心は心臓にあると主張する先輩。うん、一般的な意見だ。西条さんの方はというと、先輩の答えに対して眉をひそめていた。

 

「……ふむ、心なんて不確かなものが心臓にあるというのは、恐らく大半の者が思うことではあるのだろうな。心臓を移植したら、提供者に似た性格に変わったという事例もある。だが、確実ではない。外部からの刺激によって自分の体内情報が変異したという可能性もある。一概に心臓だとは断定できんな」

 

「えぇ。俺も西条さんと同意見です。俺が思うに、心とは脳にあるものだと思うんですよ」

 

「……脳? いやいや、それはノーだろ」

 

 ……寒気がした。どうやら体温調節機能も狂っているらしいが、気にせず先に進むことにしよう。

 

「じゃあ仮の話として……身体を六つの部位に分けてみましょう。四肢と胴と頭です。さて、四肢と胴のどちらに心があると思えますか?」

 

「そりゃ、両手両足に心なんてないだろ」

 

「では次……胴と頭。どっちに心がありますか?」

 

「胴だろ? 心臓あんだしさ」

 

「……本当ですか? 先輩の意識は、頭にあるんですよ?」

 

「……んん?」

 

「なるほどな。確かにそう考えれば、心は頭にあると言える」

 

「お前わかったのかよ……」

 

 流石の西条さん。頭の回転が早い。しかしまぁ、普通これだけじゃ想像しにくいだろう。先輩にもわかるように、もっと具体的に話をしてみようか。

 

「今の技術でも、もしかしたら可能かもしれません。小さなポットの中に頭だけを切り離されて、保管されるんです。血液も何もかも機械で送られてきて、意識もハッキリしています。お腹は空かないけど、暇を持て余すことになる。そんな時に目の前にテレビが置かれて、バラエティーでも見せられたら……楽しい、つまらない。そんな感想を抱きますよね?」

 

「……いや、うんまぁ……。頭だけで生きてるっていうのなら確かにそう思うわ」

 

「きっと目の前に可愛い女の子でも現れたら、恋に落ちる可能性だってある。ほら……心臓なんかなくても、心が揺れ動いているでしょう?」

 

「なるほどねぇ……。心も結局は、脳から送られてくる信号なのかね。それを認識しづらいから、胸の辺りが締め付けられたりするとか」

 

「胸が締め付けられるその原因は脳からのアドレナリンらしいからな。その辺りを考慮しても、心は心臓ではなく脳と言えるだろう」

 

「うぅむ……ロマンの欠片もねぇ話だぁ」

 

 ……理屈や理論主義みたいなところがあるからね、仕方ないね。まぁ、俺の頭の中で考えた答えとしてはこれだ。んで、心の疲弊が脳にくるというのなら……脳から伸びる神経にも影響がでる。そのせいで味覚まで麻痺してるのだろう。治ってくれればいいんだが……。

 

「……ちっとは頭が冴えましたよ。まだ気怠いですけど」

 

「まぁ夕方までまだ時間はあるし、休めるうちに休んどけよ」

 

 先輩のお言葉に甘えて、俺は身体から力を抜いてだらけさせた。夕方から、桜華との約束を果たすために地元の高台に行こうという話になった。勿論、全員でだ。たまには夜景でも見ながら皆でゆっくりするというのも、悪くはないだろう。

 

「……正直言えば、俺は居心地が悪いがな。七草と高海以外に俺は面識がない」

 

「加藤さんなら大丈夫だろ。藪雨は……どうだかなぁ」

 

「メンバーにオリジン兵の三人のうち二人がいるというのも、中々に変な話だがな」

 

「……あぁそうだ。頭の隅に追いやってたんですけど、日向さんが桜華のことを三人目のオリジン兵って言ってたんですよ。オリジン兵って三人しかいないんですか?」

 

「データベースを漁った限りだとそうだな」

 

 さも当然のことのようにハッキングをしている西条さんに流石に唖然とした。それ個人情報とかだからプライバシー的に見れないはずなんだけどなぁ。この人本当になんでもできるんだな……。本人はどこか誇らしそうに眼鏡を弄っている。最近この人も随分とまぁ柔らかくなったもんだな。

 

「そもそもオリジン兵なんてもの本来は必要ないと思うんだがな。なにせ一人目のオリジン兵は自分から出向くことのない木原だ。おそらく司令としてだけでなく兵としての階級で上の位置にいたかったのだろう」

 

「えっ、木原さんオリジン兵だったんですか?」

 

「流石に起源まではわからなかったがな。それで二人目は自力で成り上がった加藤だ。起源は魔術師。実力だけでオリジン兵になった事例だ。そして三人目が七草。起源は英雄。元からの素質で即オリジン兵になった例だ」

 

「……なんか、変な話ですよね。全員女性だし。西条さんだって充分に戦闘能力は高いのにオリジン兵に昇格はできてないし」

 

「裏がありそうだとは俺も思うがな」

 

「……そういえば西条さんは知ってますか? 元から素質がある人ってカードに星のマークついてるらしいんですよ」

 

「なんだそれは。聞いたこともないぞ」

 

 ポケットから自分のカードを取り出して、名前の横の場所を指さしながら聞いてみたが、どうやら西条さんも知らなかったらしい。先輩も聞いてなかったしなぁ。いや、二人とも元から素質があったわけじゃないから説明する必要もなかったと考えれば……まぁ納得できなくはない。

 

「……なぁ、ぶっちゃけどうよ。この組織」

 

 先輩がイヤに真剣な顔でそう聞いてくる。西条さんは顎に手を当てながら、眉間に皺を寄せていた。俺は珈琲をひと口すすってから先輩の問いに答える。

 

「木原さんの言うこと、全部信じきれるって訳じゃないです。不満な点は多いですよ」

 

 ……山奥村しかり、日向さんの事件しかり。あの人は少数と多数を比べていとも容易く少数を切り捨てる人だ。なんの躊躇いもなく、罪悪感もなく。いや、実際感じてないんだろう。あの人は指示を出すだけだ。殺すのは……処理班なのだから。

 

「……きな臭い点はある。だが、現時点では反旗を翻すだけの欠点がない。今は奴の言う通り、任務をこなす他なかろう」

 

「やっぱ不満あるんだな……。軽々しく処理しろとか言ってくるしよぉ。典型的なダメ上司だよな、アレ」

 

「決断を下すのが早いという点だけは褒めるべきだが……些か人道に反するところもある。俺が言えた口ではないがな」

 

 皮肉げな顔をする西条さん。どうやら思っていることは三人とも同じらしい。少しずつだが、この組織に対する不満が溜まってきている。いや、組織ではなく……司令官である木原さんにだが。

 

「……まぁ、下手な話はよそう。どこかで誰かが聞いてるかもしれないしな」

 

「それもそうだな」

 

 この話はやめにしようという先輩の言葉に頷き、別の話をし始めようとしたところで扉がノックされた。コンコンッココンッという小刻みなノック。言わずもがな藪雨である。アイツこんなに早く来てどうするつもりだ。

 

 余計に気怠くなりそうだ。でもまぁ来たものは仕方ないので、本当に不本意ながら俺は入っていいと伝えた。扉を開けて入ってきたのは藪雨だけで、他には誰もいないようだ。彼女の表情はいつもの貼り付けたような笑顔だった。

 

「えへへ、早いですけど来ちゃいました」

 

「そんな急に家の前に来た彼女みたいに言われてもまったく嬉しくもないんだよなぁ……。帰って、どうぞ」

 

「相変わらずせんぱい達は私の扱いが雑ですねぇ……。っと、そっちの人は……」

 

 藪雨が見ている方向にいるのは西条さんだ。せめてどうか面倒事にならないようにしてほしいと切実に願っておく。

 

「西条 薊だ」

 

「どうも初めまして! 私は藪雨 藍って言います、よろしくお願いしますね、西条せんぱい♪」

 

 ……うわぁ、やっちまったよ。やりやがったよコイツ。よりにもよって初対面用の作り笑いと仕草で西条さんに接近しやがったよ。頼むから気づいて。西条さんお前のことすっごい微妙な顔で見てるんだから。

 

 しかし、俺の心の声は彼らには当然届かない。西条さんの目つきがいっそう鋭くなる。これはもうダメだ。

 

「……お前らの友人にこんなのがいるとはな。ここまで汚い作り笑いをする奴は久しぶりに見たぞ」

 

「なっ、汚ッ……!? せんぱい何なんですかこの人!! 初対面で汚いとか言われたんですけどぉ!?」

 

「その話し方もやめろ。気持ち悪い」

 

「なぁーッ!?」

 

 驚き固まった後に目尻を釣り上げて威嚇しだした藪雨。やっぱりこうなったか……。西条さんは良いところのお坊ちゃんだったわけだし。そりゃ付け入ってこようとする汚い大人を見てきたことだろう。目の前の藪雨の、心を許さない相手に対する仮面が西条さんの逆鱗に触ってしまったに違いない。

 

「いや、俺初対面でお前のことボロクソに言った記憶ある」

 

「確か俺も先輩と一緒に言ったな。西条さんはそういったの嫌うからその汚い顔どうにかしなさい」

 

「なんでここにいる男どもって女の子に対してそう平気で酷いこと言うんですか!?」

 

「喧しい。静かにしろ」

 

「おふざけの欠けらもないですねこの人!!」

 

「そりゃ西条さんだし」

 

「西条だからなぁ……」

 

 西条さんが冗談を言ったところなんて見たことないんだが。嫌という程真っ直ぐな生き方してるからなぁ、この人。触れれば斬れてしまいそうな存在。西条さんの起源である斬人にピッタリな、一振りの刀のような人。曲がったことは大嫌いで、何もかも正面から叩き斬ろうとする。

 

 敵を作りやすい人だけど……うん。一緒にいても別になんとも思わない。今となっては仲の良い友人のようなものだ。

 

「……お前ら、友人くらいは選べよ。処世術として面の皮を厚くするのはいいが、なりふり構わず誰にでも笑顔を撒く奴なんてのはロクでもない者ばかりだ」

 

「せんぱい、私この人嫌です」

 

「藪雨、西条さんにも色々とあるんだ。それと西条さんも。コイツも色々と抱え込んでる奴なんですよ。確かになりふりはウザイし絡み方も面倒ですけど、大目に見てやってください」

 

「……悪いがどうにもな。その手の輩は、上に行けば行く程多くなる。笑顔の下にある素顔がわからんというのは恐ろしいものだ。欺き、金を搾り取ろうとする。その為に自分をアピールする奴を見てきた。率直に言えば、嫌いな部類だ」

 

「せんぱいデスソースください」

 

「藪雨、良い子だから落ち着きなさい。今珈琲とお菓子出してやるから」

 

「むぅ……わかりましたよ」

 

 不満たらたらな藪雨は西条さんから離れた位置に座り、先輩のことを弄り始めた。西条さんはというと、どこか気まずいようで紅茶を飲みながらどこか別な場所を見ている。よっぽど、藪雨の被っている仮面が気に入らないらしい。

 

「はぁ……」

 

 珈琲を淹れながらため息をついた。まったくどうしてこんなに疲れてる時に限って面倒なことが起こるんだか。せめて出かける時には何も起きないことを祈ろう。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 もうじき日が暮れる。あと少しで地平線の向こうに夕日が隠れようとしていた。高台に設置された柵から下を見下ろすと、建ち並ぶ家々と遠くの方に場違いだと思えるような高いビルが建っているのが見えた。

 

「うわぁ……私の住んでたところってこんな感じになってたんだね」

 

 隣にまでやってきた桜華も俺に倣って景色を見回している。横顔をチラリと見てみれば、その言葉は確かに嘘偽りなんてなく、本心から感心しているように思えた。こんな場所なんかで喜んでくれるのなら、提案した甲斐があったというものだ。

 

「座れるとこもあるんだな。いやぁ自然豊かでいいじゃんここ。学生の頃だったら仲のいい奴連れて遊んでたかもな」

 

「そんな奴いるのか?」

 

「いるよ! お前と一緒にすんな!」

 

 設置された木製の椅子に座って休んでいる先輩と西条さん。そこから少し離れて、というか西条さんから距離をとっている藪雨と、一緒にいる加藤さん。

 

 全員で集合する機会も中々ないものだ。だというのに……菜沙だけが浮かない顔で俺の隣で佇んでいる。行く場所を伝えた途端こうなってしまった。ここは彼女にとってもお気に入りの場所だったはずなんだが……いや、だからこそ人に知られたくなかったとか、そんな感じなのかな。

 

「……菜沙、どうかしたのか? さっきから黙りこくってて」

 

「別に……」

 

「あのなぁ、せっかく皆で来たんだから。もしかして体調でも悪いのか?」

 

「なんでもない」

 

 これは完全にご機嫌斜めだ。彼女はぷいっとそっぽを向いてしまった。まったく……こういう時に限って俺の体調が優れないってのがなぁ……。余計に気が重くなる。

 

───────(私とひーくんの)──────(お気に入りの)─────(場所なのに)

 

「……菜沙?」

 

「っ……なんでもないって言ってるでしょ!」

 

 彼女の怒鳴り声が耳に響く。味覚がやられたと思ったら今度は聴覚の調子まで悪くなってるのか。勘弁してくれ。しかも最初何言ってたのか聞こえなかったし。

 

「まぁまぁ菜沙ちゃん、そこまでにしてあげてくれ。今日の氷兎はちょっと具合がだな……」

 

「そういえば唯野せんぱい、今日なんだか脱力感凄いですよね。風邪ひいたんですか?」

 

「そんな状態なのに外に出てきたの? 唯野君は自己管理ができてる方だと思ってたんだけどね」

 

「いやただのガス欠なんで……心配しなくていいですよ」

 

 心配かけないように気を張っていたつもりだったが、それでも誤魔化せないくらい俺の状態は酷く見えるらしい。もう二度とあんな作業はしたくない。延々と呪文唱えながら石を磨いて印を刻むとか……完全に黒魔術だよ。

 

「……ひーくん、具合悪いの?」

 

「別にそうでもねぇよ。ただ、思っているよりかは疲れてるらしい。五感のうち味覚と聴覚が若干イカれたかな」

 

「イカれたって……何やってたのひーくん!! そんな、危険なことしないでよ!!」

 

「頼むから耳元で叫ぶのだけはやめてくれないか……」

 

 ふくれっ面だった菜沙は一変して怒り始めた。こういう時の菜沙はロクに話を聞きゃしない。もう少し暗くなってから渡そうと思ってたが……仕方ない。今渡しちまうとしよう。

 

 持ってきた鞄の中から包装された袋を取り出すと、それを菜沙に手渡した。急なことで、そんなことをされる理由も思いつかないのか菜沙はしばらく固まった後で、俺に聞き返してきた。

 

「えっと……これは?」

 

「開けてみろよ」

 

「……えっ?」

 

 袋から取り出したものを見て、菜沙は驚いて再び固まってしまった。中に入れていたのは、菜沙のイメージカラーに近い緑色の宝石を埋め込んだシルバーネックレスだ。チェーンは流石に売ってたのを買ったが、宝石を埋め込む枠とかは自作だ。

 

 それをおどおどとした様子で手に持った菜沙は、先程まで怒っていた様子はどこへやら。興奮冷めやらぬようで、俺に尋ねてきた。

 

「こ、これ……どうしたの!?」

 

「まぁ、なんだ……御守りだよ」

 

 なんだか照れくさくて、俺は少し視線を逸らした。菜沙はその御守りを夕日に照らして、透き通ってくる緑色の光を見て目を輝かせているようだ。

 

「翡翠って宝石を元に作った俺特製の魔道具だ。本物だぜ、それ」

 

「えっ……」

 

「嘘っ、宝石!? 唯野せんぱいそんなのどこで手に入れたんですか!?」

 

「馬鹿言え、普通に金出して買ったんだよ。ここまで透き通ってるの見つけるのは中々手がかかったよまったく……」

 

「菜沙ちゃん、いいなぁ……。すっごい綺麗……」

 

「……私が貰って、いいの?」

 

「お前以外に作る予定はねぇよ」

 

 少なくともこの面子の中でこれが必要なのが菜沙だけってのはあるんだが……。まぁ、言っちまえば不安だからだ。

 

「それ、星みたいなマークが掘ってあるだろ」

 

「……うん、不思議な形の星がある」

 

「旧神の印……エルダーサインってやつだ。それを持ってるだけで、魔除けの効果がある。神話生物を寄せつけないくらい強い魔除けのな。まぁ、それだけなら石にでも掘ればいいんだが……古来より宝石ってのは魔術に近しい存在なんだ。魔力を貯める道具としてや、媒体に使うこともある。より効果を高めるために宝石まで使ったんだ。肌身離さず持っておけよ」

 

「ちょっ、せんぱい私にもそれくださいよ!」

 

「やだ。というか二個目は無理。俺発狂しちゃう」

 

 呪文を途絶えないように延々と呟きながらその印を掘るのには本当に苦労した。というかその印自体、掘りずらいデザインしてやがる。歪んだ五芒星の中心には火が灯った目のようなマークがあり、そこから更に五本の線が広がっていくというデザインだ。

 

 まったくこんなもん考えた昔の魔術師はどんな頭をしていたんだか。俺には想像もつかない。

 

「……私の為にこれを作ったから、具合悪くなったの?」

 

「まぁ、そうだな。本来一介の人間が作る代物じゃねぇよ、それ。根性で徹夜して作ってやったけどさ。それに……お前、戦えないだろ。前から不安で仕方なかったんだ。いつだって俺が守ってやれるわけじゃない。だからせめて、それは絶対に手放さないでくれ」

 

「っ……うんっ!!」

 

「おっと……!?」

 

 菜沙が急に笑顔になったかと思えば、腰に向かって突進して抱きついてきた。眼鏡を外したあと、顔を何度も何度も身体に擦りつけてくる。犬かなにかか、お前は。

 

「ごめんね、ひーくん……それと、ありがとう」

 

「……ん、まぁ……喜んでくれたなら良かったよ」

 

「うんっ……」

 

 腰に回された手がより強く締め付けられる。顔を一向に身体から離そうとしないので、仕方なく彼女の頭を数度撫でた。柔らかい髪質で、指の間を溶けるように抜けていく。こうしているのが、なんだか久しぶりな感じがした。

 

「……なるほど。これがアレか。リア充爆発しろというやつか」

 

「西条がネットにのめり込んでくれて嬉しいような悲しいような、そんな気持ちです、俺」

 

「なんだ、真面目な顔つきかと思えばゲームとかやるのか君は。中々ギャップがあるな」

 

「やり始めたのは最近だがな」

 

「うへぇー、似合わないですねぇ」

 

「叩き潰されたいか、チビスケ」

 

「なぁっ、チビまで言いやがりましたね!? 私だって怒るんですよ!!」

 

「まぁまぁ落ち着きなよ藪雨ちゃん。私は君ぐらいの背丈は愛嬌があっていいと思うよ」

 

「こっちは大人の余裕ですか!! もうやだこの人たち!!」

 

 なんだか後ろの方が騒がしい。西条さんが輪に入れるかどうか心配していたが、杞憂だったようだ。あのメンバーの中でもちゃんと会話に参加してるし、更には藪雨を弄り始めたりもしてる。友達を作ろうと思えば、ちゃんと作れる人じゃないか。

 

 ……いや、あの人は周りの環境が悪かっただけか。そう考えれば、藪雨と西条さんって程度は違えど、似た者同士なのかもしれない。言ったら絶対怒られるけど。

 

「……ねぇ、氷兎君」

 

 隣にいた桜華が、椅子に座って話している先輩達を見ながら話しかけてくる。その顔は……微笑んでいた。優しく、それでいて儚い。俺は何度彼女の表情や雰囲気を表現すればいいのか。

 

 だが……表現したくなってしまう。彼女がそこにいるだけで、そこでただ笑うだけで。それはとても絵になってしまうのだから。

 

「……楽しいね」

 

 微笑みながらそう言った彼女に、俺は笑いながら答えた。

 

「桜華がそう言ってくれて良かったよ」

 

 ……彼女の名前を呼んだ途端腰に回されている腕の力が強められた。何か菜沙の逆鱗に触れるようなことをしただろうか。俺にはわからない。

 

「ずーっと、続いていくのかな。これから先も……」

 

「……そうだといいな」

 

 ……日が暮れる。休むために山に飛んでくる鳥達の鳴き声が響いていた。聴覚がおかしいせいか、やけに脳に響くように聞こえてくる。

 

 響いて聞こえるといえば……なんだろう。ずっと前にもあった気がする。アレは誰の声だっただろうか。

 

『一年あるかないか。それが君に残されている時間だ』

 

 ……あと、どれくらいの月日が残っているのだろう。ふと思い出して、それを考え始めた。が、すぐに目をギュッと強く閉じてから再度開いて、思考をやめた。

 

 いつか言われた気がする言葉。しかしそれに囚われて今を満足に生きれないのは馬鹿げた話だ。そんなもの、忘れてしまうのが一番いい。

 

 夏が終わって、涼しい風が吹いてくる。けれどこの陽だまりのような場所は、きっといつまでも暖かいままなのだろう。俺達が、俺達である限り、ずっと、ずーっと……。

 

 

 

 

To be continued……




 旧神の印(エルダーサイン)

 中心に火の柱(もしくは目)のようなマークがあり、そこから伸びる五本の線が繋いだ五芒星の印。その印は太古の昔に旧神が旧支配者と戦うために作られたもので、旧支配者そのものには効果は薄いが、その下僕には効果がある。

 持っているだけである程度の神話生物を寄せつけず、魔力を込めれば神話生物と戦う武器にもなる。本来は殆どの神話生物を寄せつけないが、氷兎が作ったものはオリジナルには及ばない。一言でコレを表すのなら、あれば大体の神話生物と戦えるヤベー奴。強い(確信)

 本来は魔除けの道具だから、持ってるからって戦おうとするのはやめようね!




祝50万文字突破!
これからも、よろしくお願いします。


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第七章 Are you Hero? Villain? Or……
第89話 単独任務へ


 人間の心というのは本当に不思議なものだ。最初はコレと決めていても、次第に心が移ろい、変化してしまう。それは多くの場合自覚できない変化だ。

 

 最初は自分のため。気がつけば誰かのため。じゃあ今は……なんのため?

 

 気づいていないだけで、手段と目的が変わってしまうのも多々あることだ。その原因は、大きな変化を得られたか、それとも停滞してしまったかのどちらかにある。

 

 君が謙虚でいられる自信はあるのかい? 人間というのは、否応なしに傲慢になってしまうものさ。

 

 見せて欲しいものだね。君がどうやってこの危機を乗り越えるのか。終わらせ方は多くあり、また過程も様々だ。君らしい結末を、私は期待しているよ。

 

 

 

 

 

─────────────────────

 

 

 

 

 いつからだったのかは記憶にない。ただ気がついた時には君は隣にいた。確か……そうだ。幼稚園のバスを待つのに、親が仲良くなったから一緒に行こうというだけの話だったと思う。君と会ったのはその時が初めてだ。

 

 その時の僕がどう思っていたかなんて、もう思い出せない。ただ、それからはよく一緒に遊んだ。一緒にバスに乗って、一緒に卒園して。一緒に小学校に入学して、卒業して。中学生になっても僕達は一緒だった。そこまでだと思っていたのに、高校になっても君と行くところは同じだった。

 

 いわゆる、幼馴染って奴なんだろう。いや、腐れ縁かな。どちらにしても、それだけ多くの時間を共に過ごせば……嫌でも君との記憶が僕の記憶の大半を占めることになる。

 

「もう、なに難しい顔してるの?」

 

 ふと顔を上げた。そこにはいつもの君がいる。飾り気のなかった彼女は気がつけば化粧を覚えていた。女の子らしいといえば、女の子らしくなったんだろう。

 

 まぁもっとも、僕の中では君はまだ小さな子供の時と何ら変わりない。慌てん坊も治ってないし、こうやって僕と二人で会うのも躊躇わないし。そんな彼女を……子供の時からずっと好いている自分も、何ら変わりないことだった。

 

「ごめんごめん。ちょっと考え事してて……それで、相談って?」

 

 慣れ親しんだ相手との会話ほど楽なものは無い。何も考えなくて済むし、逆に考えれば相手を喜ばせる会話をすることだってできる。昔から頭はそれほど良くはない君の事だ。どうせ今回も、近くなってきたテストの勉強を教わりたいんだろう。

 

 こうやって学校帰りにマックに寄ってポテトを摘みながらテストの話をするのだって、何度目だろうか。そんなことを考えながら、コーラを口に含んで飲み干した。

 

「えっとね……コウ君になら、話していいかなって思って……」

 

 少し俯きながら話す君の顔は……僕が今まで見てきたことのないものだった。一体どうしたというんだろう。でも、彼女が僕に話すということは、僕なら何か力になれるってことだ。ならその期待に応えなきゃ。その為に僕は体力だってつけた。筋トレだって頑張ったし……他にも、色々と頑張ってる。

 

「何かあったの?」

 

 そう……僕は、ヒーローだ。彼女のヒーローであり続けるんだ。僕にはそれができるんだから。

 

「……あ、あのね……私……」

 

 僕はいつだって隣にいた。君が望んだことをし続けた。誕生日をお互いに祝いあったし、夜中に二人で遊びに行ったこともあった。僕はいつだって……。

 

 

 

 

「……好きな人が、できたの」

 

 

 

 

 ……君のヒーローだったはずなのに。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「君達に集まってもらったのは、新しい任務に行ってもらうためだ。だが、今回はメンバーを分解させてもらう」

 

 朝早くから呼ばれて何かと思えば、次の任務についての話だった。司令室でいつものスタイルで待ち構えていた木原さんと、俺、先輩、西条さん、桜華の四人チーム。しかし今言われたように、今回はメンバーを分解させて異なった任務に行かせるという話らしい。

 

「メンバーの分解……。なぜ今になってそんなことをするんですか?」

 

「……困ったことに、組織内の平均能力が下がりつつある。君達はもはやこの組織のトップレベルだ。となれば、厄介な仕事が増えてしまうのも仕方がない話だが……如何せん、難易度の高そうな任務に行かせて帰ってこない連中が多くてな。帰ってきても、もう任務に行きたくないとPTSDを起こす始末だ」

 

 まったく困ったものだ、と木原さんは額を抑えてため息をついた。PTSD、心的外傷後ストレス障害。強いショックや恐怖体験のせいで、その出来事が終わったとしても酷い恐怖症状に襲われるというものだ。

 

 ……普通に生活してきた人間が、神話生物と戦って精神をやられないわけがない。俺達だって下手したら死んでいるような修羅場をくぐり抜けている。生きているのに運だって大きく関わっているのだから。

 

「……話についてはわかった。で、今は任務をこなせるだけの練度の兵がいない。だから俺達を分けて別の任務に行かせるというわけか」

 

「そういうことだ。それともう一つ悪いが……今後、オリジン兵である七草は君達と一緒に任務には行かせないことにした」

 

「えぇ!? な、なんでなんですか!!」

 

 流石にその事について俺も驚いたが……一番驚いていたのは桜華だった。彼女は木原さんの机に向かって近づいていき詰め寄ったが、木原さんは表情をピクリともさせずに口を開いた。

 

「知っての通りだと思うが……君はオリジン兵。いわゆる我々のリーサルウェポンだ。そして組織の防衛能力を担う女性陣だが……彼女らにも神話生物との戦いを実践でわからせなければ、いざという時に戦えない。君には今後、組織内で加藤と連携して女性陣の戦闘能力向上に務めてもらいたい」

 

「そんなっ……私は氷兎君と一緒じゃなきゃ嫌です! 氷兎君が任務に行くなら、私も一緒に行きます!」

 

「頼むから私の願いを聞いてもらいたい。実際、我々の組織のある地域付近で変な活動が増えたりと、不安な点も多い。それに、言ってしまえば過剰戦力になりかねん。戦闘特化の西条と情報収集能力の高い唯野。戦況判断とサポートに回れる鈴華。この三人で正直十分な戦力だ」

 

 木原さんがスクリーンを起動させると、そこには今まで提出してきた報告書から作成したのであろう、俺達ひとりひとりの能力値のようなものが映し出された。言われたとおり、西条さんの戦闘に関する能力は高く評価され、コミュニケーションの円滑さは低かった。

 

 逆に俺の戦闘に関する能力は低く、代わりにコミュニケーションと情報収集に関しては高い評価になっている。西条さんに言われ、俺は木原さんには魔術が使えることを話していない。戦闘能力の低評価はそれのせいだろう。

 

 そして先輩はどれをとっても平均的だ。やや戦闘能力が高いと評価されているくらいだろう。もっとも、一緒に任務にいないと先輩のありがたさというのはわからないんだろうが。

 

「……誰がコミュ症だ」

 

「鏡見てこいよ、西条。少し前のお前なら今この瞬間抜刀しかかってもおかしくないくらい他者とコミュニケーションをとろうとしてなかったぜ」

 

「お前に言われると腹が立つな……」

 

 少しムッとした顔で睨みつけている西条さん。なんだかんだいって感情表現も豊かになってきているようだ。その感情表現や他者との関係性も、多くはゲームの影響力がでかい気がするが……。

 

「……ともかく、任務についての話だ。西条と鈴華の二名、そして唯野は単独行動をとってもらう」

 

「……戦闘面評価が低いのに俺が単独なんですか」

 

「君にやってもらうのはそこまで面倒でもない。それに、西条と鈴華の任務が早期に終われば応援に行かせるとも」

 

「内容如何によるな。唯野は確かにひとりで多くのことをやれるが、ひとりではまだ不安な点も残る。今回はせめて七草を一緒に行かせるという考えはないのか?」

 

 西条さんが割って入り、俺の単独行動をやめるべきだと進言する。確かに不安だ。今まではずっと誰かと一緒だったわけだし……仮に俺が神話生物と戦うのなら、夜間以外は無理なのだから。昼間でも戦うことのできる仲間くらいつけてくれたっていいだろうに。

 

 しかし、木原さんは西条さんの言葉に首を振った。先程も言ったように、桜華は残って女性陣の訓練に当てさせたいとの一点張りだ。

 

 ……あまりにも不自然だ。怪しまない方がおかしいというもの。一体何を考えているんだ、この人は。

 

「七草を行かせるにしても、それは君達二人の手が離せないという状況下に陥った時だけだ。それまでは単独で頼む」

 

「……まぁ、ヤバくなったら逃げるだけですかね。流石にひとりで神話生物と戦うのはゴメンだ」

 

「面倒事じゃないと言っただろう。神話生物絡みの任務じゃないということだ」

 

「おい、また人殺し案件じゃねぇだろうな? 氷兎にそんなことさせねぇぞ」

 

「最後まで聞け」

 

 上司に不満を持つ三人。それに今までの木原さんの態度。俺達が反論しようとするのも無理はない。そんな現状に嫌気がさしているのか、木原さんは面倒そうにため息をついていた。ざまぁみろ、と心の中で嘲っておく。

 

「まずは西条と鈴華だ。君達二人には、山から聞こえる謎の鳴き声の正体を暴き、事態の収拾をしてもらいたい。地域住民の話からして、十中八九神話生物だ」

 

 スクリーンの画像が切り替わり、日本地図が映し出される。赤い丸で囲まれた場所があり、それは四国を示していた。なるほど、先輩達はまた遠出らしい。

 

「……毎度毎度遠いとこだなぁおい。オリジンって支部とかないんすか?」

 

「オリジンは暗部組織だ。それに、こんな規模のものをポンポンと作れるほど日本の経済は良くない。オリジンは日本でここだけだ」

 

「岡山の県北にある川の土手の下とかに支部つくればいいんじゃないっすかねぇ……」

 

「やったぜ」

 

「やめないか」

 

 言おうとしたら西条さんに止められた。いや、流石に全部言う気はないけど。こんな場所で堂々と朗読できるか、あんなもん。

 

「……話を続けるぞ。唯野にやってもらうのは……これだ」

 

 また画像が切り替わる。今度は黒い背景に、人々の悩み事などが書かれた胡散臭いサイトのようだ。デカデカと書かれているのは……『I'm your Hero』。私は貴方のヒーローです、ねぇ。

 

「……最近どこぞの地方で有名な、代行人だな」

 

「知っているのか、西条」

 

「SNSの投稿でいくつか見かけたな。なんでもそのある地域では、悪を成敗するヒーローがいるらしい。最初はそこらのチンピラがやられるだけだったが……いつしか、こうしてサイトが立ち上げられ、悪人を成敗してほしいと書き込みがされていった。恐らくサイトを立ち上げたのは別人だろうが……なんにせよ、そのサイトに書かれた悪人を倒して回っているのが現状だ」

 

「あぁ、現代に現れた正義のヒーローって話がありましたね。ガセネタだと思ってましたが……」

 

 わりと前からあった話だ。それこそ俺がオリジンに入るよりずっと前から。正義を執行するヒーローは、どんな方法で悪を成敗しているのかわからない。ただ、確かに悪党はボコボコにされて路上放置されていたり、オフィスでぶっ倒れていたりするらしい。

 

 警察はお手上げ。最初の頃は評判もかなりよかった。そう、最初の頃はだ。

 

「警察からの依頼だ。このヒーローを自粛させるか、捕まえろとな」

 

「あぁん、なんで? 良いことしてるのに?」

 

「そのボサボサな頭でよく考えろよ鈴華」

 

「俺を馬鹿にするのはいいが、アイデンティティである天パを馬鹿にするのは許さんぞおい」

 

「さっさとストパーをかけろ」

 

「拒否する」

 

「……えぇっと……氷兎君、どういうことなの?」

 

 隣でバカやり始めた二人。西条さんの言葉に疑問を感じたらしい桜華が俺に尋ねてきた。しかしまぁ、俺の考えがあっているのかはわからない。

 

「……一応予想だけどな。多分、監視されてるみたいで嫌なんだろう」

 

「監視? なんで?」

 

「ヒーローとまで言われる影響力を持った人間、あるいは組織。それが掲示板に書き込まれた悪を成敗しているらしい。犠牲者は悲惨な姿で発見される。そうなると……そこに住んでる奴は恐ろしいだろうな。自分が書き込まれるんじゃないかって」

 

「そうなの?」

 

「そうだよ。誰だって気がつかないうちに誰かの恨みを買っているものさ。書き込まれないように、周りに気を使って生きていく。このご時世、たいそう生きづらいだろうな。しかも書き込みは誰でも手軽にできる上に匿名だ。今となってはヒーローじゃなく……私刑で人を裁くヴィランだな」

 

 悪いことをしているわけじゃないのにね、と桜華は悲しそうな顔をした。まぁ、そうだな。決して悪いことじゃない。だが問題は……やり過ぎたんだ。なりふり構わず、誰かのヒーローであろうとした。

 

 正義なんてものは、決して凝り固まった概念じゃない。時と場合、そして主観によって大きく変わる。更にいえば、コイツ邪魔だからどうにかして欲しい、なんて悪いこと考えた奴の依頼も受けてしまってる可能性だってある。

 

 ネットの情報なんてものは虚構の入り混じった紛い物が大半だ。面と向かっての依頼じゃないのだから……そりゃ、悪用する奴が出てくるに決まってるさ。

 

 嫌なことばかり浮かんできて俺まで嫌になってくる。頭をガシガシと強く掻きながら、俺は深いため息をついた。

 

「そういうことだ。住民からも苦情が殺到している」

 

「都合がいい時だけ使い、邪魔になったら潰す。なんとも愚かな連中だな。苦情を言っているのは、どうせ自分が書き込まれるかもしれないという、自分が何かしら悪い事をした自覚がある連中だろう。やってやる義理はあるのか?」

 

「……まぁ、仕方ないですしやりますよ、俺は。しかし俺ひとりは中々に荷が重い話です。相手が単独か複数かもわからず、その上警察ですらわからなかった犯行手口。お手上げ侍だな」

 

 やれやれと言わんばかりに俺は両手を上げて降参ポーズ。俺ひとりでこんなのやってられるかってんだ。人海戦術くらい使わせてくれよ頼むよー。

 

 まぁそんな俺の提案が受け入れられることなく、木原さんは目頭を一度抑えてから言ってきた。

 

「君は情報収集の能力が高い。しかもそれは対人で活かされるという報告がある。現地で情報を集め、このヒーローを特定しろ。それなら戦闘する必要もない」

 

「世の中には物理的に口を割らせるという方法もあるんですがねぇ……」

 

「対人なら負ける要素は君達にないだろう。それほどヤワな鍛え方をしていないはずだ。では……心してかかれ」

 

 軽く頭を下げて、俺達は司令室の外に出た。木原さんに聞こえないところまで来ると、誰ともなしにため息をつき始める。まったくウンザリだ。

 

「……氷兎君……ちゃんと、怪我なく帰ってきてね?」

 

「わーってるよ。特定だけでいいなら、怪我することもないはずだしな」

 

 心配そうに言ってくる桜華の頭にポンッと手を置く。すると心配そうな顔はすぐになくなり、嬉しそうに頬を綻ばせるかわいらしい彼女が現れた。

 

 ……単独行動したくねぇなぁマジで。そんなやさぐれた心を桜華の笑顔が癒していくが……それでも癒し足りない。まるで仕事をする人が足りないのに人員補強をしないクソみたいな会社みたいだぁ。

 

「……唯野。単独行動に気をつけろと言いたいが……俺達が注視すべきはそこではないぞ」

 

 癒されている最中に、眼鏡を弄りながら話しかけてきた西条さん。そこにはいつもの鋭い目つきと真剣な表情があった。

 

「ここに来てオリジン兵を無理やりにでも引き剥がそうとしてきた。お前もそうだし、俺達もそうだ。何かやってきても不思議ではないぞ」

 

「……確かに、なんだか強引でしたからね。俺達なんでそんなに目つけられてるんでしょうか」

 

「知らんが……最悪戦闘になって、お前が死んでも構わない。言葉の節々からそんなことを感じた」

 

「えっ、それマジ?」

 

「流石に俺も人の心は読めん。これは直感と予想だ。死ぬなよ、唯野」

 

「……そんな簡単に死にませんよ。ちゃんと生きて帰ってきます」

 

 真剣な顔で心配してくる西条さんにお礼を言ってから、俺達は任務の準備にとりかかった。

 

 さてと……ヒーロー、ね。一体どんな奴が、どんな意図を持ってやろうとしたんだか。些か興味はあるが……ロクでなしじゃないことを祈っておこう。

 

 

 

 

To be continued……




とうとう氷兎が他の主人公達と別れて単独任務へ。しかも桜華もいない。オイオイオイ、死ぬわアイツ。
ヒロインが主人公と離れていいのかって?
馬鹿野郎お前いつも隣に這いよってる真っ黒なヒロインがいるだろ!

それと、評価が増えていましたね。評価してくれた人ありがとナス!


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第90話 唯の探偵

 部屋から出たくない。そう思える程の暑さだった。近くの高校を選んだとはいえ、通学はやはり億劫になるものだと思う。でも、早く準備しないと彼女が来てしまうし……。

 

袴優(こう)!! もう明日香(あすか)ちゃん来てるよ!!」

 

 ……これだもの。下から聞こえてくる母さんの声に応えて、すぐに荷物を準備して下の階におりる。玄関で立って待っていたのは、幼稚園の頃からずっと一緒にいる幼馴染だ。

 

「あっ、やっときた。コウ君、早くしないと遅刻するよ!」

 

「わかってるって」

 

 いつもの事と化した日常風景だった。僕が靴を履いている間、君は立ったまま僕のことを見下ろしている。もはや見慣れた君の微笑むような顔には、薄らと汗が出ていた。やはり外はそれなりに暑いらしい。

 

「よし、行こうか」

 

「それじゃ、行ってきまーす」

 

 君は僕の代わりに母さんに言うと、玄関の扉を開けて外に出ていった。僕も追いかけるように家から出る。すると、途端に嫌な熱気が身体を襲いかかってきた。想像以上の暑さだ。

 

「あっついな……こんな中体育あるとか流石に嫌になるよ」

 

「えっ、嘘!? 今日体育の日だったっけ!?」

 

「……忘れてたの?」

 

「やっちゃったぁ……。体操服持ってくるの忘れちゃったよ……」

 

 君の家に今から走って取りに戻ったとしても遅刻してしまうだろう。仕方がないし、他の人に体操服を借りてきたら、と僕は言った。

 

「そうしようかな……。あれ、でも火曜日の体育って私とコウ君のクラスだけだよね?」

 

「確かそうだよ。ウチのクラスが終わったら、借りに来るしかないね」

 

「そっかぁ……」

 

 君は手でパタパタと首あたりを扇ぎながら、誰に借りようかなぁ、なんてスマホをいじり始めた。多分誰かに体操服を貸してほしいと連絡しているんだろう。けど、流石に汗かいた体操服を貸そうと思う人はいるのかな。

 

「あっ、そうだ! コウ君体育終わったら貸してよ!」

 

「……えっ、僕の?」

 

「別にいいでしょ? 多少汗かいてても私は気にしないからさ!」

 

「いや、別にいいけど……この暑さだしなぁ……」

 

 体育は休もうにもちゃんと休む理由を親が生徒手帳に書いて、先生に見せなくてはならないという面倒な仕様だからなぁ。そうなると体操服がないからという理由で怒られてしまうわけだし……。

 

「ありがと、コウ君!」

 

 君は確かに僕に向けて笑っていた。多分、他の誰にも見せないような、笑い方なんだと思う。それを見るだけで僕は満足だったし、心が満たされていく気がした。けど、今となっては……。

 

「……でも、いいの? 君の好きな人に変な風に思われるんじゃない?」

 

 ……口にすると虚しくなってくる。心臓がギュッと締め付けられて苦しくなる。それ程までに……僕の中では、君はよほど大切な人だったんだ。きっと君はそんなこと知らないんだろうけど。

 

「んー、大丈夫だよ。だってこういうの何度もあるでしょ? 私がコウ君に何か借りに来たりとか、一緒に帰ることだってあるし……周りも結構、幼馴染ってそんなもんなんだなーみたいな感じで見てるよ」

 

「……そっか。ならいいや」

 

 幼馴染、だもんね。昔からずっと一緒にいる、幼馴染。親友以上、恋人未満。そんな微妙な位置にあるのが、きっと幼馴染なんだ。なんで僕は君と幼馴染なんだろうって恨む時もあるけど……けどきっと、どうせ僕は幼馴染なんかじゃなかったら君との接点なんてないんだろうな。

 

「……どう? 好きな人との関係は」

 

 聞きたくない。聞きたくないけど……聞かなきゃいけない。だって君にとって僕は唯の幼馴染だから。そういうものだから。君の瞳の中には、きっと僕は日常風景のひとつでしかないんだから。

 

 僕の言葉に、君は照れたように笑いながら答えた。

 

「いやぁ、それがまだまだっていうか……」

 

 ……はにかむ君は恋に浮かされ、僕は熱に憂かされていた。

 

 嫌な日差しを放つ太陽が、僕を嘲笑うように追いかけてきている気がしてならなかった。

 

 

 

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 

 

 

 

 街の中を吹き抜けていく風が少しだけ肌寒さを感じさせるようになってきた。少し暑苦しい格好でも変に思われなくて済む季節になって良かった、と氷兎は少し嬉しそうに外を出歩いていた。七分袖の白いシャツの上に、これまた黒い七分袖のパーカーを羽織り、長ズボンを履いたその姿は彼の普段のスタイルだ。

 

 夏のよほど暑い時じゃない限り、彼は上に何かを羽織っていなくては落ち着かず、またズボンは絶対に半ズボンを履かない。今の時期でも少しその格好は早いんじゃないかと思えるくらいだ。周りを歩く人々は、まだ半袖が多い。

 

「………」

 

 しばらく歩いていると、ちょうどいい感じな雰囲気を醸し出すカフェがあった。中に入るとジャズの音楽が流れていて、居心地もいい。とりあえずホットカフェオレを頼み、ガムシロとシュガースティックを大量に持った彼は窓際の席に座って外の風景を眺めていた。

 

「………」

 

 やけに人通りが少ない。しかも歩いている人の多くは携帯なんて持たず、ただ真っ直ぐ歩いていた。都会ですら歩きスマホがいるというのに、ここではそんな人を見かけない。

 

 それに……見た限り、何かに怯えているような気がした。そんな印象を氷兎は覚えたが、まぁなんてことはない、と思考を逸らした。悪い事をしたらヒーローがやっつけに来るんだぞ。子供にそう伝えたとして、実際に悪い事をしたら誰か知らない人がやっつけにくるのが今のこの街の現状なのだから。

 

「……話し相手いないのって、寂しいな」

 

 ため息をつきながら独り言を呟いた。ホットカフェオレを糖尿病になるくらい更に甘くした彼は、ゆっくりと飲み込んでいき、今度はため息ではなく幸せそうにホッと一息ついた。

 

 甘いものは正義。ハッキリわかんだね。彼は今はいない相棒の姿を思い浮かべ、思考にふけり始めた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 男性店員の明るい声が聞こえてくる。店内は客が全くいなかったが、ここに来てようやく客が来たらしい。見れば学ランを着た男の子がひとりアイスコーヒーを買って、氷兎と同じように窓際の席に座った。

 

「……はぁ」

 

 仕方がない、仕事をするかと意気込んだ氷兎は頭の中で喧しく騒いでいた相棒に向けてデスソースを投げつけて思考を中断させた。そして先程座った学生の元へと向かっていき、軽く手を振りながら近づいていく。

 

「やぁ少年。ちょっといいかい?」

 

 ……訝しげな目を向けられて心にダメージを負った氷兎だったが、何も話さない少年に向かってめげずに話しかけていく。

 

「俺は探偵をやっている者でね。まぁなんだ、ちょいと話を聞かせてもらえないか?」

 

 そう言いながら財布から名刺を取り出して渡した氷兎。もちろん探偵なのは嘘だし、ただそれっぽい名前の事務所と氷兎の携帯番号だけを載せた、いかにもそれっぽく見せた名刺だが……。少年はそれを受け取ると、話を聞いてくれるのか身体の向きを氷兎に向けた。話が聞けるだけ御の字だ、と氷兎は彼に聞き込みという名の情報収集を始める。

 

「……探偵、ですか。随分と若く見えますけど」

 

 少年はまだ氷兎のことを疑っている。彼の容姿はまだ幼さを感じさせるものだった。なんともまぁボクっ子の方がキャラ的に似合いそうだと思いながら、メモ帳とペンを取り出して話を続ける。

 

「いやいや、本当に探偵だとも。この街にやってきたのも依頼されたからさ。正義のヒーローを懲らしめてくださいってね。まったくおかしな話だと思わないかい? 何の罪も犯していない一般市民が頼み込んでくるんだ。何がそんなに怖いんだろうねぇ……。まったく、警察が長い期間かけて解けなかった事件を今更解決しろとか、嫌になるよ」

 

 やれやれ、といった風に氷兎は仕草を混じえながら説明した。少年の表情は未だ硬いままで、あまり長話ができるような状態ではなさそうだった。適当に話をして切り上げよう、と氷兎は内心思いながら話しかけていく。

 

「まぁともかく、ちょっと話をしようじゃないか。なんだか外の人達はどうにも話しかけづらくてね」

 

 窓の外を指し示しながらそう言うと、ちょうど歩いていく男性の姿が見えた。前を見ているが、やはり動きに硬さがある気がする。それ程までにヒーローという存在が大きいのだろう。

 

「……君はヒーローについてどう思う? やっぱり、正義の味方って感じ?」

 

「……どうなんでしょう。俺にはわからないです。けど、学校でも色々と話題にはなりますよ。学生からの人気は高いと思います」

 

「なるほどねぇ。君達はそういう年頃だしな。俺も若い時は教室に入ってくるテロリストをボコボコにする妄想をしたもんだ」

 

 軽く頷きながら氷兎は言った。無論若い時とは彼が中学生の頃である。誰だって若い時はそんなもんだ、とどこかオヤジ臭さを匂わせながら言う氷兎に、少年は少し笑っていた。

 

「若い時って、今でも随分と若いじゃないですか」

 

「いやいや、働き始めたらもうオッサンよ。上司にこき使われる毎日だ。仕事したくねぇなぁ、なんて思ったりする訳よ。君はバイトとかやってる?」

 

「いえ、やってないです」

 

「そうかい。進学とかは考えてる?」

 

「……そうですね。一応大学には行こうかなって思ってます」

 

「そうした方がいいよ。まだまだ働くには若すぎるってもんだ。でも……いつかは思うんだぜ。働きたくないでござるってな」

 

 冗談を混じえながら話していると、少しずつだが少年の表情が柔らかくなってくる。わざわざカフェで暇を潰すくらいだ。時間は有り余っているだろうし、このまま聞けるだけ聞いていこうと氷兎は話を続ける。

 

「まぁ身の上話はここまでにして。なんかヒーローについてわかることないか? なんだっていい。探偵ってのは情報と足が頼りだからな」

 

「……そうですね。ほとんどネットとかに載ってるような情報ばかりだと思います。俺が知ってるのは、手口が不明なことと、粛清されるのは悪者だということくらいでしょうか」

 

「……ふーん。なるほど、君は結構ヒーロー保持派かな?」

 

「えっ……?」

 

「ネットには粛清されるだなんて書かれてないからなぁ。粛清ってのは、悪者が倒されるってことだろ。ヒーローが悪者しか倒してないと思ってるってことじゃないか?」

 

 氷兎の目が少し細められ、少年を逃がさないような雰囲気を醸し出す。しかし少年は、最初はドキリとしたようだが、すぐに手元のアイスコーヒーを少し飲んでから答えた。

 

「多分ネットでも言っている人がいると思いますよ。掲示板とか……そういうので。こんな奴粛清されて当然だ、とか」

 

「そうかい? まぁ確かにやられて当然の奴はいるさ。けど、そこに明確な悪意があったのか。善意の裏返しではないか。誰かに命令されていたのではないか。詳細も確かめず、証拠も得ずにネットの書き込みだけを信じて悪者退治をしているとあっちゃ……そいつは、探偵や検事にもなれんな」

 

 言い終わると、氷兎はカフェオレに口をつけた。残念なことに、少し冷めてしまっている。それを気にせずに氷兎は飲み続けるが……反して少年はどこか悩んでいる様子であった。

 

「……ヒーローの目的って、何なんでしょうね」

 

「目的? そりゃ本人に聞かんとわからんさ。もっとも……善意で人助けをしているのだとしたら、とんだ阿呆だな」

 

「善意で人助けって、凄いことじゃないですか」

 

「そりゃすげぇよ。うん、両手放しで拍手してやりたいくらいだ」

 

「なら、なんで阿呆だなんて」

 

「……いやいや、善意で助ける奴なんてのはいないよ。誰だって、根底にあるのは欲望だ。達成欲、自己顕示欲。ロクなもんじゃない。しかも手を汚してるんだぜ。赤の他人の為に喜んで何度も手を汚す人間がいてたまるか。もし仮に、本当の本当に善意でやってるのなら……そいつぁ、君よりも若い子供だよ」

 

 高校生ぐらいになれば、世間の汚さなんて知ってるだろう、と氷兎は苦々しく言う。しかし少年は氷兎の言葉に首を振って、訂正をしろと言ってきた。

 

「……手を汚していないじゃないですか。手を汚すというのが殺人だというのなら、ヒーローは殺人を犯していない」

 

「一般的に手を汚すってのは、好ましくないことを自分からやっちまうってことなんだが……。まぁいいや。ヒーローが殺人を犯していないって話だが、このままだといつかやるよ。それは確信してる」

 

「……どうしてですか?」

 

「俺は警察の方とも連携してるからな、写真を見させてもらったんだよ。ありゃ酷かったな。血は出てるし、青アザできてるし、まぁ集団リンチくらった後みたいな状態だった。でも、生きてる。だから手を汚してないって言いたいんだろう?」

 

「……はい」

 

「なら、その後は? あんだけボコボコにされてりゃ、下手すると後遺症が残る。そういうレベルだ。医者によればヒビどころか骨折してる奴もいたらしい。その後の人生を奪っちまうのは重罪だぜ。まして、そいつが悪党じゃなかったらそれまたとんでもない罪だ。冤罪だよ、冤罪」

 

 もうカップの中にはカフェオレがない。もう少し甘いものが摂取したかったと嘆いた氷兎だったが、目の前の少年からはもう情報は得られなさそうだった。むしろ、いらぬ議論までしてしまう始末。次の情報を得るために少年から別な伝手を得た方がいいと判断し、氷兎は黙ってしまった少年に再度話しかける。

 

「まぁ変な話はここまでにしよう。君はよくこの店に来るのかい?」

 

「……えぇ、まぁ」

 

「そうか。ブラックなんて苦いもん飲んじゃってまぁ……。美味いか、それ」

 

「砂糖三本とガムシロ二個入れたそれは、珈琲なんですか?」

 

「いや君、これは立派な珈琲だ。頭が冴えるぞ」

 

 到底理解できないとでも言いたげな少年に、氷兎は笑いかける。そして名刺を数枚取り出すと、それを少年に渡した。

 

「なぁ、君学生だろ。なんか情報通とか、そういった面で強い子いない? できれば紹介してほしいな」

 

「……はぁ。学生を当たるより他を当たった方がいいと思いますけど」

 

「いやいや、俺の予想が当たれば……ヒーローは若いよ。うん、とても若い。これで髭生やしたオッサンがヒーローだったら俺は探偵を辞める」

 

 元から探偵じゃないんだがね、と内心零しながら氷兎は笑う。名刺を受け取った少年は、とりあえず誰かしら探してみますと言って名刺を鞄の中にしまい込んだ。

 

「そういえば、君の名前を聞いてなかったな。俺の名前は名刺を見りゃわかるが……唯野 氷兎だ」

 

「……俺は、藤堂(とうどう) 袴優(こう)です」

 

「なるほど、藤堂ね。じゃあ後は……そうだな。連絡先交換してくれない? 人生相談くらいなら乗るよ。役に立つような経歴ないけど」

 

「……そうですね。彼女が出来た時の、浮気調査でも依頼します」

 

「……君、ちょっと未来に明かりがなさすぎないかね」

 

 苦笑いを浮かべながら互いに連絡先を交換し終えると、氷兎はカップをかたしてから店を出て言った。出る直前に少しだけ少年……藤堂を見たが、彼はアイスコーヒーを飲みながら勉強を始めたようだ。

 

 情報源を確保し、ここから少しずつヒーローについて調べていこうと思っていた氷兎だが、懸念に思うことがあった。ヒーローの手口だ。姿を見せないアサシンのような手口。普通なら迷宮入りとして放棄したいが……氷兎は魔術師だ。当然頭に浮かんでくる可能性として、ヒーローが魔術師の類であることも考えていた。

 

「……面倒な任務だねぇ、まったく」

 

 今も尚暗躍しているヒーローに向けて、愚痴を零した。強すぎる力を持つと、人はそれを恐れる。それが例え、ヒーローであってもだ。古今東西、英雄(ヒーロー)ってのは……誰かのために死ぬか、民衆によって殺されるんだぜ。そうなる前に、早いところ自首してくれ、と。

 

 

 

 

To be continued……




今回ちょっと酷いかな……?
主人公が氷兎しかいないのってすごいやりにくい。

Q.なんで書きにくいって言った恋愛をまた書いてるの?

A.書きたかったから……。

Q.筆の進み具合は?

A.ボロボロでございます……。


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第91話 女の子の連絡先

 昨日も。今日も。そして明日も。僕は君と一緒に学校に行って、他愛もない話をするんだろう。机に座って互いに向き合い、なんてことはない変な話で笑うんだろう。そう、今みたいに。

 

「ねぇコウ君。コウ君はどんな服が好き?」

 

 昼休み。窓際にある僕の席の一つ前の席に、君は反対向きで座りながら尋ねてくる。にしても、服か。僕はそれといった好みってものがある訳じゃないし……かといって露出が多けりゃいいってものでもない。確かに露出が多いと目がいく。けどそれは男の性だ。どうにもならないことだし……他の人にもそう見られるわけだから、やっぱり外に着ていくのだとしたら露出の少ない格好がいいんだろう。

 

 君はそそっかしいからなぁ……。ワンピースはない。いやそれより、おとなしい感じを出させた方がいいかな。ちょっと長めのスカートとかいいんじゃないだろうか。

 

「そうだね……。こう、清楚系っていうのかな。おとなしい感じがいいね」

 

 ……おかしいな。なんだか特集で童貞の特徴として清楚系を推すみたいな話があったような……。いや別に、いいじゃないか。清楚系。うん、淫らな人よりよっぽどいい。

 

 にしても、なんで今になって服装について聞くんだろうか。校外学習は制服だし……。

 

 ……まさか。

 

「そっかぁ、清楚系かぁ……。私似合うかなぁ」

 

 生唾を飲み込む。気がついた途端に寒気がして、背筋に稲妻が走ったような感覚があった。俺はなんとも思っていない。そう信じ込ませながら、震えそうになる声を必死に抑えて君に尋ねてみる。

 

「……僕の意見なんか聞いて、意味はあるの? 僕の好みと君の好きな人の好みは別物だよ」

 

 周りで聞いている人がいないか確認しながら聞いてみた。すると君は照れくさそうに笑いながら僕に言う。

 

「えへへ、やっぱりそうかな? でも、コウ君のセンスならきっと響くんじゃないかなーって思って。私がこういうこと聞ける男の子って、コウ君だけだし」

 

 柔らかそうに動く唇。細められた目についている長いまつ毛。そんな君をまじかで見られるのは、僕だけだ。そう思っていたんだ。だというのに……君のその唇も、仕草も、手の温もりも。きっと何もかもなくなってしまうんだ。

 

「……コウ君、どうかしたの?」

 

「えっ、あ、いや……なんでもないよ」

 

 自分でも訳がわからないくらい、手に力が入っている。本当に、訳わかんない。だって僕は努力した。体力もつけたし、なよなよしく見られないように筋肉だってつけた。見ただけじゃ身体が細いからわからないけど、腹筋は割れてるし、握力だって体力テストで余裕で10点取れる。

 

 それなのに……何が足りないの。僕には、君にとって何も魅力がないのか。昔の弱い自分じゃ、君の隣にいられないと思ったからこうして強くなったのに。受動的だった自分をやめて、色々と積極的になったのに。君の為に……頑張ったのに。

 

「……明日香は、どうして……いや、どういう経緯があってその人のこと好きになったの? 名前も何も教えてくれないし、アドバイスしようにも相手のこと探れないしさ」

 

「うーん、恥ずかしいから名前はなぁ……。でも、気になり始めたのは文化祭の準備の時かな。一人で黙々とやるような人だったんだけど、話してみたら結構面白くてさ」

 

「……そっか」

 

 文化祭、か。確かに彼女とはクラスが違うから、文化祭の準備は一緒にできなかった。けど、準備が一緒ってことは……同じクラスか。一人で黙々とやるってことは、そこまで陽キャでもないんだろう。

 

 それなら目星はつけられる。今度少しだけ探ってみようか。ソイツがどんな男で、どんな生き方をしてきたのか。もし仮になんの努力もしていないような男だったら……きっと僕は頭がおかしくなる。なんの努力もしないくせに、そこにいられるのかって。

 

「告白、しないの?」

 

 途切れそうになる言葉を繋ぎ合わせ、君に尋ねた。君は両手を振って、慌てて僕から視線を逸らす。

 

「無理無理無理! だってその……まだ、そこまでじゃないっていうか……」

 

「……服の好みを聞いてくるってことは、遊ぶ約束とかしたんじゃないの?」

 

「い、いやその……ほ、ほら! 今のうちに好みっぽそうなのに慣れておいて、当日慣れない服装で緊張しないようにしたりとか……」

 

「……告白は、だいぶ先だね」

 

 笑いながらそう言った僕の心は、ホッとしていた。いつかその好意の先が逸れてくれないか。何か幻滅するものでも見て、その彼のことを嫌いになってくれないか。いっそのこと……事故にでもあって死んでくれないか。

 

「─────」

 

 ……馬鹿みたいだ。もし心が読まれていたら、きっと僕が幻滅されてる。

 

 なんか、もう……嫌だなぁ……。

 

「……コウ君、大丈夫? なんか顔色変だよ?」

 

「……ううん、大丈夫だよ。なんでもないんだ、本当に」

 

 ……君が好きだから。いつだってその顔を見ていたいし、君と話していたい。こうやって会って話すのもとても幸せに感じているんだ。

 

 だけど、君の口から彼についての話が出るのは……とても辛い。そしてその彼に対して酷いことを心の中で言ってしまう自分が嫌いだ。

 

 会いたいのに、会いたくない。話したいのに、話したくない。一体なんなんだ。僕は……どうしたら、いいんだろう。

 

「……予鈴が鳴ったよ。次の授業の準備しなくていいの? 移動教室でしょ?」

 

「あっ、そうだった! じゃあ、私戻るね!」

 

 予鈴が鳴り終えると同時に君は忙しなく教室から出ていった。予鈴が鳴り終えてもなお、僕の心臓は鳴り止まない。あぁ、いっそのこと僕が死んでしまえば……。

 

「………」

 

 ……馬鹿馬鹿しい、か。うん、死にたくはない。でももし、僕が死んでしまったとしたら……君は、僕の為に泣いてくれるのかな。

 

 

 

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 

 

 

 

 授業が終わって放課後になると、教室は伽藍堂になる。皆は部活に熱心だ。残念なことに僕には部活をやる時間が無い。それに、それほどスポーツとかに打ち込める訳でもない。明日香は今日も、この炎天下の中外でテニスをしているんだろう。熱中症にだけはならないでほしい。

 

「………」

 

 この教室には帰宅部は僕だけだから、特に話す人がいない。まぁ、学校に残っていても……明日香のテニスをする姿を遠目で見ることくらいしかやることはない。いや、流石に最近は自重してる、うん。変な気を起こさないうちに家に帰ろう。

 

 荷物をリュックに詰め込んで、教室から出る。廊下にはまだ、ちらほらと生徒が残っているようだ。あいにく仲のいい友人は残っていない。仕方がない、帰って筋トレしよう。それで夜は軽く走るんだ。

 

 そんなことを考えながら、どこか浮ついたように僕が歩いていると……曲がり角でちょうど、誰かがぶつかってきてしまった。

 

「いってて……」

 

 ぶつかってきたのは女の子だった。これでも鍛えてるから、僕はビクリともしなかったけど……そのせいで彼女は勢いよく倒れてしまったらしい。

 

「あっと……ごめんね。大丈夫?」

 

「は、はい……ごめんなさい。ちょうど角になってて気がつかなくて……」

 

「いや、仕方ないよ。俺も見えてなかったんだ」

 

 女の子は立ち上がりながら床についてしまった制服をはたいていた。髪の毛はショートよりも少し長めだろうか。黒い艶々とした髪の毛だ。それとちょっと赤みがかった眼鏡が特徴的だろうか。どこの学校にも一人はいるだろう、真面目そうな雰囲気の女子だ。確か……どこかで見たことがある気がする。

 

「……あの………」

 

 彼女は訝しげに僕を見てくる。考えながらマジマジと見過ぎたらしい。でも、おかげでようやく思い出せた。

 

「あぁ、ごめん。どこかで見たことあると思って……。あれだ、明日香のクラスのルーム長さんだっけ」

 

「あっ、そうです。加賀(かが) 莉愛(りあ)っていいます」

 

「加賀さんね。俺は藤堂 袴優っていいます」

 

「藤堂君……あっ、もしかして明日香さんの幼馴染って藤堂君のこと?」

 

「まぁ、そうですね」

 

「なるほど……なんか仲がいいってことで有名ですよね」

 

「ハハッ……いや、腐れ縁みたいなものですよ」

 

 ……明日香の話題を出されるとどうにもダメだな。色々と気になって仕方がない。僕はそっと彼女から視線を逸らした。しかし彼女はどうやらまだ会話を続けるらしい。困ったな、と内心ため息をついた。

 

「そういえば、さっきぶつかった時……なんか凄い硬い壁にぶつかった感じがして……」

 

「……これでも一応鍛えてるんですよ。筋トレとか走り込みとかやってます」

 

「えっ、そうなの? じゃあ割と筋肉とかあるんだ……。見た目結構細いのに」

 

「やっぱ細く見えますか? なんか、どうしても身体の内側に筋肉がついちゃって……」

 

「……でも、今のままでもいいと思うよ。なんか、ごつくなるよりも今のままの方が、多分うけるんじゃないかな?」

 

「そうかな……」

 

 加賀さんはそう言うけれど……僕には到底そうは思えない。だって一番重要な人が振り向いてくれないんだから。

 

 内心憂鬱になっていても加賀さんの質問責めは止まらなかった。彼女はまだ僕に色々と尋ねてくる。眼鏡の奥の瞳は、なんだか好奇心で輝いているように見えた。

 

「……藤堂君は今帰るってことは、部活とかやってないよね。なんで筋トレしようと思ったの?」

 

「ん……そうだな……」

 

 ……あれ、おかしいな。なんで僕筋トレしようと思っていたんだっけ。いや、明日香に相応しくなるためだってことは覚えてるんだ。でも……その相応しくなろうと思った瞬間の出来事が思い出せない。何か、それは大切な記憶だったはずなのに。

 

 ダメだ。どうしても思い出せない。あと少しというところで、霧の隙間から見えたものがまた見えなくなってしまう。それに加えて頭痛までしてきた。右手で額を抑えるけど、そんなことで痛みは引くわけがない。僕はなるべく無表情を心がけながら、加賀さんの質問に答えた。

 

「……忘れちゃったな。なんか、自分の生き方を変えるような出来事があった気がするんだよ。昔の俺って、すごい弱々しかったからさ」

 

「そうなの? 自分の生き方を変えるって……なんだか凄い事があったんだね。アニメとかでいう、主人公が覚醒するシーンみたいな」

 

「……加賀さんって、アニメとか見るの?」

 

「あっ……」

 

 なんだかまずいことを言ってしまったようで、彼女は慌てて口を閉じた。なんだか意外だ。少女漫画くらいなら見ていてもおかしくなさそうだけど、まさかのアニメか。話の内容からして、今流行りの異世界転生系のアニメとかだろうか。今のシーズン、それくらいしかやってないし。

 

「意外だね。なんかそういうの見たりしなそうだ」

 

「……やっぱりおかしいかな」

 

「いいや、そんなことないよ。明日香見てると、女の子ってこんなにガサツなのかなって思うこと沢山あるし。アイツ教室でもそそっかしくない?」

 

「……うん。結構元気がある方だと思うよ」

 

「やっぱり?」

 

 ……まぁ、なんとも明日香らしい。教室で騒いでいる彼女のことを思い浮かべると、自然と笑ってしまう。まったく本当に昔から変わらない。

 

「ふふっ……藤堂君って、明日香さんのこと大切なんだね。なんか凄い自然に笑ってるよ」

 

「そう? まぁ……付き合い長いからね」

 

 加賀さんもつられて笑っていた。周りを見回すと、人は随分といなくなっている。どうやら結構長いこと話し込んでいたようだ。

 

「あっ、ねぇ藤堂君。帰る前に、私と連絡先交換してもらっていい?」

 

「……俺の?」

 

「うん。なんか、結構話しやすいし……アニメのこと知られちゃったし」

 

「それは俺のせいじゃないんだけど……」

 

「い、いいから!」

 

「ん……まぁいいよ。交換しよう」

 

 ポケットから携帯を取り出して、互いに連絡先を交換し終える。そういえば……明日香と家族を除いて、女子の連絡先を登録するのは初めてかもしれない。なんだかそう思うと不思議と気分が高まる気がした。さながら童貞のようだ……いや童貞だけど。

 

 心の中で変なことを呟いていると、加賀さんは携帯をしまって再度僕に向き直った。そうしてもう一度彼女の全体を見てみると……すごいキッチリしている女の子だ。スカートの長さも守ってるし、流石ルーム長といったところか。なんだか仕事ができそうな顔だ。いや、悪くいうわけじゃない。割と整っている方だろう、きっと。

 

「ありがと、藤堂君。それじゃあ私まだ教室でやることあるから……」

 

「ん、わかった。それじゃあね、加賀さん」

 

「またね、藤堂君」

 

 軽く手を振って彼女は遠ざかっていく。ルーム長というのは忙しいらしい。どこか早歩きでぎこちないけど……焦っているのかな。長々と話してしまったし、きっとやらなきなゃいけない仕事が多くあったんだろう。なんだか悪いことをしてしまったかもしれない。

 

「……まぁ、仕方ないよね」

 

 うん、仕方がないことだ。僕は勝手に一人で納得して昇降口まで歩いていく。不思議と今日はいつもより長く走りたい気分だった。

 

 

 

 

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 

 

 

 

「……あの、マスターさん。この店繁盛してるんですか?」

 

 めっきり客のいない静かなカフェで、カウンター席に座った氷兎は目の前で珈琲を作っている店主であろう少し年を食った男性に声をかけた。店主は無精髭を擦りながら答える。

 

「最近は客が減ったよ。皆、訳の分からんヒーローが怖くて外を出歩きたくないみたいだ」

 

「はぁ……そこまでですか」

 

「アンタ、探偵なんだろう? 何とかならないかい?」

 

「いやぁ……今のところはなんとも。まぁ仕事ですし、やるだけやりますよ」

 

 氷兎は出されたカフェオレを今回は何もいれずに、ゆっくりと傾けて飲んでいく。そして数口飲んでカップをテーブルに置くと、少し悩んでから口を開いた。

 

「グァテマラですか?」

 

「ほう……。わかるのかい?」

 

「これでも自分で珈琲を作ったりするんですよ」

 

「昨日は砂糖とガムシロ大量に入れていたからね。甘めの奴を選んだつもりだ」

 

 マスターはカウンターの向こう側にある棚に参列された様々な珈琲豆の瓶を見ながら言う。その品揃えの多さに氷兎は舌を巻いていた。羨ましい。率直に心の中でそう呟いていた。

 

「……暇な時はここに来て珈琲談義をしに来てもいいですか?」

 

「仕事ちゃんとやってくれるなら、私は何も言わないよ」

 

「ハハッ、大丈夫です。しっかりやりますよ」

 

 それからも店内では二人の珈琲についての話や、カフェを営む経緯についての話なんてものが続いていた。収穫は人生についての経験談。事件に関してはまったく情報が集まらなかった。

 

 

 

 

 

To be continued……



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第92話 見つめる先

 

「あぁー、疲れたぁ……」

 

 ボフンッと音を立てて君はベッドに倒れ込んだ。だらしなく力を抜ききって、短いスカートのまま足をバタバタと意味もなく動かしている。スカートが少しずつめくれていき、君の傷一つない綺麗な足の面積が増えていく。このままこうして立ったまま君を見下ろしていたら……見えてしまいそうだ。流石にそれは僕の良心が痛むので、忠告しておく。

 

「……あのさ、何度も言うけど僕のベッドでそうやってじたばたするの、どうなの? それと、スカートのまま足動かすと見えそうだからやめなよ」

 

「えぇー、別に私何も気にすることないなぁ……。ここまで来たら、もう私の部屋もコウ君の部屋も、何も変わりないよね?」

 

 僕の呆れた声に君は聞く耳も持たない。土曜日だからゆっくりしようと思ったらこれだ。午前練を終わらせて、家に帰らずに僕の家に来るとか、君は一体何を考えているんだろう。

 

 ……汗、かいてるはずなのに。なんだってそんな無遠慮に僕のベッドで寝ているんだ。恥じらいも何も無いのか、君は。

 

「……来るならせめて、一言くらい連絡を入れて欲しいな」

 

「だって、コウ君いつも暇でしょ? 家から出ないし」

 

 ……恥じらいを感じる必要もないってことか。僕は君に男として認識されていないってことなんだ。

 

 そう考えると、胸の奥がじくりと痛む。なるべく何も考えないように、僕は彼女の姿が見えない位置で壁に背をもたれかけたまま座り込んだ。

 

「……君の好きな人が、これを知ったらどう思うことやら」

 

「うっ……で、でもまだ告白できてないし……。それに、コウ君の部屋ってクーラー効いてて涼しいし……」

 

「その前に、女の子としてどうなの?」

 

「私は別に、コウ君ならなんとも思わないし、気楽にいられるから」

 

 ……なんとも、思わない。君の口から告げられたその言葉が鋭いナイフになって、僕の胸に突き刺さる。じくりと傷んでいた胸の奥は、やがて激痛に似たものに変わり果てた。

 

 流れ出ていく血のように、ぐずぐずとした痛みが残留し続ける。さっきからうるさいくらい脈が暴れだしていて、その度頭の中が嫌なくらい揺れ動く。

 

 そんな僕のことなんて、君は見ない。未だに足をバタバタと動かして、ベッドにうつ伏せのままだ。スカートから伸びているスラリとした足の根元から……スカートとは別な黒い生地が見えた。

 

「っ………」

 

 ……頭の中で、声が反芻する。襲え。襲え。何度も何度も、僕に命令してくる。襲ってしまえよ。お前がどれだけ好いているのか、証明しろよと。

 

 右手に力が入っていく。目線の先にあるのは、君の身体。生唾を飲み込み、すっと立ち上がる。

 

 脈が早い。うるさい。何もかもが煩わしかった。でも声は止まない。あの柔らかそうな唇を奪え。手を抑えつけろ。綺麗な首に噛み付け。何もかも、自分の思うがまま……その劣情をぶつけてしまえ。

 

「………」

 

 すっと立ち上がって、ゆっくりとベッドに近づいていく。間近で見た彼女の足は、細いが確かに肉がある。それに噛み付いたらどんな反応をするのだろうか。

 

 ベッドからだらしなく垂れ下がっている君の左手を掴んで離さなかったら、君は照れるだろうか。

 

 目の前にある君の身体を、誰のものにもしたくない。だからこそ今、僕が全て奪ってしまいたい。君の全てを……。

 

 誰も僕を止める人はいない。親も今は家にいない。君の唇を塞いでしまえば……。

 

「……明日香ッ」

 

 左手首を掴み、強引に君の身体を仰向けにする。そして足を君の足の間に入れて、もう片手は君の顔の真横に身体を支えるように置いた。

 

「……えっ、と……コウ君……?」

 

 君は驚いていた。けれどその純粋な瞳だけは僕のことを見据えている。僕はこれから君のことを襲おうとしているのに。

 

「ど、どうしたの……?」

 

 君は……君は何も、疑っていない。僕が君を襲うだなんて思っていない。

 

 なんで……そこまで、僕は……。あぁ、クソッ……クソッ、クソッ、クソッ……!!

 

「……もう、やめなよ。こういうの、ダメだよ。好きな人がいるなら、僕の家にそう簡単に来ちゃダメだ」

 

 ……努めて、冷静に。努めて、無表情で。僕は君に言う。君は驚いてしばらくは瞬きひとつしなかったけど、少ししたらまるで苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

 

「……そっか。うん……ごめんね、コウ君」

 

 ……謝るべきは君じゃない。本当は浅ましい考えをした僕こそが謝らなきゃいけないんだ。

 

 君の手首から手を離して、僕は少しだけ距離をとる。君はゆっくりと起き上がってベッドに腰掛け、すぐ側に置いてあった黒いリュックを持ち上げると、膝の上に乗せて両手でギュッと抱え込んだ。

 

「……私のこと、ちゃんと考えてくれてるんだね。私はこんなに、告白から目を逸らしてるのに」

 

「……それは、違うよ」

 

 情けない。どれだけ筋肉をつけても、どれだけ体力をつけても、僕はひ弱な昔のままだ。僕が何を言うのか、君はじっと見つめてくる。君の目の前にいる男は……もう君の幼馴染を名乗れるような人物じゃないんだ。自分が情けなくて、さっきまで考えていた事がバカバカしくて。

 

 ほとんど、贖罪に近い。僕は罪悪感から逃れるために……君に言葉を投げかけるしかなかった。

 

「僕は君にとって……誠実でありたかった。それだけだよ」

 

 ……誠実でありたかった。もはや過去形だ。君はそう捉えていないんだろうけど。だってほら、君は薄らと笑っているんだから。

 

「……ありがと、コウ君。私、もっと頑張ってみる。もう少しだけ、ちょっとずつだけど前に進んでみるよ」

 

 今目の前にいない別の男の顔を思い浮かべているんだろう。君は恍惚とした表情でリュックを強く抱き締めた。

 

 ……あぁ、嫌だなぁ。きっと君はもう、そう簡単にここには来ないんだろうな。

 

 さっき言ったことを取り消したい。でももう、言ってしまったことだ。後悔しかないけど、それでも……君が泣くよりマシだと、そう思うことにした。

 

「……あのね、コウ君。やっぱり告白って怖いんだ。初めてのことだし……できるなら、成功したいし。だから、お願い。これからも相談に乗ってくれる?」

 

 見上げるように尋ねてきた君の言葉に……頷いて返す他なかった。それが僕の贖罪でもあったし……断ったら、君はきっと悲しむから。

 

 頷くと、君は花が咲いた様に微笑んだ。ありがとう、とお礼を言った君は、リュックを背負って部屋から出ていく。僕も鞄に適当なものを詰め込んで、後を追うようについて行った。

 

 玄関を出て、玄関の鍵を閉めて君の帰る道とは反対側の方に少しだけ歩みを進めと、君は僕を呼び止めた。

 

「コウ君、どこかに行くの?」

 

「……これでも、いつも暇ってわけじゃないんだよ。僕にだって遊ぶ友達くらいいるさ。適当に……女の子がどうしたら気を引けるのか、その子に聞いてみるよ」

 

「……友達って、まさか女の子?」

 

「……一応」

 

 ……まぁ見え透いた嘘だ。流石に気まづくて君から視線を少し逸らした。でも君は笑って僕に言うんだ。

 

「そっか。遊ぶってことは……仲良いんだよね。よかった、コウ君にもそういう子がいて」

 

 えへへ、と笑ったあと、君はバイバイと手を振りながら帰っていく。それを呆然と見つめてから、僕は背を向けて歩き出した。

 

 ……あぁ、君は嫉妬もしてくれない。本当に僕のことなんて、なんとも思っていないんだね。

 

「ッ………」

 

 悔しいなぁ。どれだけ想っても、気づいてくれないなんて……。少しくらいは僕のこと、見てくれたっていいじゃん。

 

 目尻に溜まった涙を、袖で荒く拭い去る。家に帰る気も起きなくて、この暑さだというのに僕は宛もなく歩き続けた。

 

 日差しが体力を削っていく。しかしそれが気にならないくらい、僕は多分参っていたんだろう。何も考えることなく、ただ無気力なまでに歩いていると……ふと、公園が目に入ってきた。その中で小さな男の子が蛇口から流れる水を飲み終えて走り去っていくのが、ちょうど視界に入ってくる。

 

 喉が渇いた。ぼーっとする頭の中で浮かんできたその言葉に誘われるがままに、ふらふらと蛇口に近づいていって水を飲んでいく。冷たい水が喉を通り、もう飲む気がなくなろうとも口元を水ですすぎ続ける。

 

「……何やってるんだろ」

 

 次第にこんな自分がバカバカしく思えてくる。蛇口の栓を捻り、近くにあった木陰の中にある木製のベンチに座り込んだ。日陰と日向とでは感じる温度が違う。なんだかもう、動く気すら起きなかった。

 

『ワンッ、ワンッ!!』

 

 すぐ側から犬の鳴き声が聞こえてきた。ふとその方を見れば、小さな柴犬が僕の元へと駆け寄ってくるのが見える。口を開けて舌をだらしなく出しながら、赤い首輪をつけた柴犬はとうとう僕の足元へと擦り寄ってきた。前足で何度も僕の足を叩いてくる。野良犬だろうか。

 

「ご、ごめんなさい!! それ、私の犬で……!!」

 

 柴犬が来た方を見れば、そこには汗をかきながら走ってくる女の子がいた。落ち着いた黒い長めのスカートと、対象的な白い服が目に入る。誰かと思えば……それは、最近知り合ったばかりの加賀さんだった。どうやら彼女も僕に気がついたらしい。口元に手を当てて驚いていた。

 

「あれ……もしかして、藤堂君!?」

 

「……こんにちは、加賀さん。随分と人懐っこい犬だね」

 

 一鳴き吠えて、尻尾がちぎれるんじゃないかと思うくらいの勢いで振るわれている。さっきまで足を叩いていた柴犬は、今では目の前で座って構ってほしそうな目で見つめていた。

 

 ……お前は、僕のことを見てくれるのか。犬にすら僕は心を揺さぶられてしまった。手を伸ばして、頭を数回撫でると気持ちよさそうに目を細めて尻尾の勢いを更に強める。

 

「ごめんね、うちの犬が……。リードが外れちゃって、そしたらいきなり走り出しちゃったんだ」

 

「そう……。お前も、あんまり迷惑かけちゃダメだぞ」

 

 そう笑いかけると、僕の言葉がわかっているのか、それともわかっていないのか……軽く頭を縦に振ると、加賀さんの足元まで近寄っていった。

 

「……藤堂君は、どうしてここにいるの?」

 

 首輪にリードをつけ直しながら、加賀さんが聞いてくる。なんて言うべきか迷った。全てを話すなんて馬鹿なことは出来ない。頬を軽く掻きながら、僕は遠くを見るようにして答えを返した。

 

「ちょっと休憩だよ。ずっと家にいるのも、なんだかなって思って」

 

「そっか……。こんなに暑いのに、よく外に出ようって思ったね」

 

 よいしょ、っと声を出して彼女は少し距離を開けて僕の隣に座り込んだ。リードに繋がれた柴犬は、さっきまでの勢いが嘘のように大人しくなって、彼女の足元で身体を丸めて休み始めた。大きな欠伸をしている柴犬を見ていると、この暑さだというのになんだか眠くなってくる。

 

「……柴犬、すごい大人しいね」

 

「そうだね。コロって言うんだけどね、いつもはこうやって寝てることが多いんだよ」

 

「コロか……。個人的な話だけど、柴犬ってかわいらしいよね」

 

「わかる? 私も、柴犬好きなんだ」

 

 彼女が足元で寝ているコロの頭を撫でると、耳をぴょこぴょこと動かした。随分とのんびり屋らしい。ふと、撫でている彼女を見たら……その口元が嬉しそうに歪んでいた。

 

「……コロが行ったところが藤堂君の所でよかった。知らない人相手だと、ちょっと怖かったから」

 

「俺は内心怖かったけどね。最初野良犬かと思ったし」

 

「あはは……迷惑かけちゃってごめんね」

 

「気にしなくていいよ。いいもの見れたからね」

 

 ……さっきまで足元を擦り寄ってきていたコロのことを思い出す。嬉しそうに目を細めて尻尾を振るあの姿は、なんだか心が温まる気がする。随分と荒んでいた僕の心は、少しずつ穏やかになってきていた。

 

 犬か……。いいな、そういった小動物がいたら、僕の心の支えはもう少し増えたんだろうな。

 

「え、えぇっと……あ、ありがとう」

 

「………?」

 

 彼女は何故か俯きがちにお礼を言ってきた。なんだか勘違いさせてしまったかもしれない。けど、僕は何か変なことを言っただろうか。まぁ、指摘をしない方がいいんだろうな、きっと。

 

「……コロ、おいで」

 

 身を屈めて、ちょっと手を差し出して名前を呼ぶと、のっそりとコロが起き上がって鼻を近づけてくる。掌を向けたら、その上に右前脚を乗せてきた。お手もできるらしい。大人しい上に、お手もできれば犬としては上等だろう。かわいらしいし、柴犬の愛嬌はとてもいい。

 

「いいなぁ、柴犬」

 

「……と、藤堂君が良ければ……たまにコロと遊んでくれる?」

 

「いいの?」

 

「……うん」

 

「なら、たまに遊ばせてほしいな」

 

 コロの頭を撫でながら、僕はそう答える。加賀さんがコロと遊ばせてくれるのなら、僕は存分に堪能させてもらおう。どうやら僕は、とんでもないくらいコロに心を奪われてしまったらしい。

 

「……藤堂君が元気になってくれてよかった」

 

「えっ……?」

 

「なんだか、最初見た時は暗かったから」

 

「……そっか」

 

 加賀さんと会う前の僕は、明日香とのことで荒んでいたから。それを考えれば今は随分と落ち着いている。それに……明日香に言った、女の子と遊ぶって話。実現してしまったな。

 

 ハハッ、なんだかおかしいや。言ったことが実現してしまうなんて話があったけど……あぁ、なら明日香が告白しませんようにとずっと呟き続ければ、実現してくれないものかな。それをするにせよ、しないしせよ……加賀さんにはお礼を言っておかなくちゃ。

 

「……ありがと、加賀さん。ちょっと気が楽になったよ」

 

「藤堂君は、悩み事があったの……?」

 

「悩み事……うん、そうだね。でもいいんだ。今はちょっと……別のことを考えていたいから」

 

 ベンチから立ち上がって、僕は加賀さんにお礼を言う。そして数歩ベンチから離れてから、振り返るようにして彼女に言った。

 

「本当にありがと、加賀さん。俺行くところあるから……じゃあね」

 

「あっ……うん。またね、藤堂君」

 

 少し惚けた様にしている加賀さんに軽く手を振ってから、僕は歩きだした。特に行く宛もない。でも、やらなきゃいけないことはある。たまには遠くの方まで走ってみようか。運動したあとは結構サッパリできるしね。

 

「あの、藤堂君!!」

 

 後ろから聞こえてくる加賀さんの声。振り返れば、加賀さんがベンチから立ち上がって僕のことを見ていた。

 

「私でよければ、相談に乗ってもいい?」

 

 ……加賀さんも、随分と踏み込んでくる人みたいだ。いや、面倒見がいいのかな。明日香から聞いた彼女の普段の態度は、誰にでも親しく接する面倒見のいい女の子らしいし。断るのも……なんだかアレだ。

 

「今はそこまで問題でもないから……。でも、その時になったら相談に乗ってもらってもいい?」

 

「っ……うん!」

 

 笑って頷いた彼女は、胸元で小さく手を振っている。足元には座り込んだコロが舌を出して見送ってくれていた。僕もまた少しだけ手を振り返して、また歩き出す。

 

 ……明日香と加賀さんは同じクラス。話だってきっとするんだろう。なら、色々と手伝ってもらえたりするかもしれない。恋を応援するにも、邪魔をするにも。

 

 ただ今は、何も考えないでいたい。考えるとしたら、明日香のことだけを考えていたい。そんな心境だった。また何か病みそうになったら……コロに会いに行こう。僕は心に深く刻み込んだ。

 

 

 

 

To be continued……



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第93話 痛い

 とくん、とくん、と脈打つ黒い物体がある。それは見てくれは心臓のようだ。暗い地中に埋められたソレは、上から漂ってくるモノを感知して吸収していく。

 

 とくん、とくん、とくん。脈打つ度にその心臓のようなものは輝きを増していく。それは鈍い黒の光だ。暗い地中よりもなお暗い。

 

『アイツのせいで……』

 

『さっさと死ねばいいのに』

 

『死にたい』

 

『嫌だ、死にたくない』

 

『何がヒーローだ』

 

『アイツのせいで、何もかも滅茶苦茶だ』

 

『殺しちまえばいいんだ、全員』

 

 響く。脈打つ。死ね、殺せ、死ね、殺せ、シネ、コロセ。

 

 誰かの悪意が流れ込んでいく。心臓は……脈動することをやめない。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「………」

 

 気がつけばもう放課後になっていた。最近は明日香も僕との接触を少なくしているのか、会いに来ることが減った気がする。でも連絡はいつものように取り合っていた。どうしたらいいとか、アレが格好よかったとか。たわいない話から、君の好きな人自慢まで。

 

「……帰ろう」

 

 何か嫌な予感がしていた。心臓が嫌に脈打っていて、呼吸が少し浅くなっている気がする。こういう日はさっさと帰った方がいい。それに、なんだか最近物忘れも酷い。心臓の暴れ具合といい、物忘れといい……僕は何か病気にでもなっているのだろうか。

 

 あぁいや、ずっと昔からかかっている病気ならあったな。恋の病とかいう、どうにもならない不治の病だ。どんな薬も、治療も効果はなく、唯一治せるとすればそれは……告白して振られるという自殺行為のみ。

 

 カバンを持ち上げて、いざ帰ろうと席を立つと……ちょうど、誰かが教室の前の扉を開けて中に入ってきた。学生服をしっかりと着こなし、赤い眼鏡をかけた女の子。なんだか最近、彼女と会う機会が多い気がする。

 

「まだ教室にいたんだね、藤堂君」

 

「今から帰ろうと思っていたところだよ」

 

 彼女は優しげな笑みを浮かべながら近寄ってくる。カバンを持ってきている辺り、今日は何も仕事がないらしい。

 

「ちょっと話でもしない? 帰りながらでもいいけど……外は暑いから」

 

「……まぁ、いいよ。特に用がある訳でもないし」

 

 断るのも僕の心境的に良くない。嫌な予感はしてるけど、まぁいいやと僕は流した。それに、彼女にはコロと会わせてくれた恩もある。

 

 自分の席に座って話を聞く体制になると、加賀さんも隣の席に座った。その座る時の動作とかがとても洗練されている気がする。その立ち振る舞いだけで随分とお淑やかな感じがしてきた。当の本人はSNSとかでアニメの話が多いけど。

 

「藤堂君はこの前放送開始したアニメ見ましたか?」

 

「転生したらなんたらでしたってやつ? いや、俺は見てないよ」

 

「そうなんですか? 結構面白かったんですよ、アレ」

 

「加賀さんはアニメが好きだね……」

 

「それはもう、大好きですよ。やっぱり男の子が女の子を助けるために戦うみたいな王道物もいいですけど、何もかも奪われて復讐する復讐物も中々捨て難いですし……」

 

 最近はMADも作ってるんですと言った彼女はとても生き生きとしていた。もはやオタクの領域ではないか。人は見た目によらないものだという言葉がここまで突き刺さるとは思わなかった。

 

「そうそう、アニメといえばこの辺りでもヒーローの話があるじゃないですか」

 

 彼女は唐突に、ヒーローの話をしてくる。どうやら現実世界のヒーローにも彼女は興味津々らしい。

 

「そうだね。神出鬼没で手口もわからないって言われてるけど……」

 

「えぇ。でも私凄いことに気がついちゃったんですよ!」

 

 自分の好きなことを話せて嬉しそうに顔を破顔させている加賀さん。なんだか目がキラキラしている。アニメ好きだと本人もアニメ表現ができるようになるのか。末恐ろしい。

 

「実は……ヒーローって高校生かもしれないんです!」

 

「……なんで?」

 

「だって活動は基本夜中ですし、ヒーローの活動について語るスレとかで日付とか確認してみたら、夏休みとかは活動量が多くて、逆に去年の高校受験期間とかはめっきり活動してないんです。つまり……ヒーローは高校一年生なんですよ!」

 

「随分と詳しく調べたんだね、加賀さん……」

 

 正直呆れた部分が多い。一体何が彼女をそこまで突き動かすんだ。小さなため息をつく僕に気づかず、彼女はまだまだ話を続けた。

 

「それに、受験は前期で終わってます。後期の時期は既に活動を再開させて、その活動量も増えてますね。前期で合格できて嬉しかったんでしょうか?」

 

「えぇ……」

 

 流石に頭を抑えた。ダメだ、流石にここまで僕はついていけない。加賀さんの情報収集能力が高すぎる。しかも彼女が言うには、スレの内容もしっかりと確認して、実際にそれが起きたことなのかも逐次確認していったらしい。

 

「……加賀さんは楽しそうだね」

 

「それは……楽しいですよ。だって現代に現れたヒーローって、格好いいじゃないですか。女の子として、危険なところを救われてみたいなーとか思うわけですし」

 

「通りすがりの、たい焼き屋サンよ……って?」

 

「流石にそれはちょっと……。藤堂君って昔のゲームとかも知ってるんですね」

 

「たまにミ=ゴミ=ゴ動画見たりするから、それのせいかな」

 

「私もよく見ますよ。レアハンターとか、RTAとか」

 

 ガッツリオタクだ。真面目そうな顔してパソコンの前でカタカタやってるのが思い浮かんでくる。真顔でコメント打ってそうな気がしてきた。こわいなぁ、とづまりすとこ。

 

「……加賀さんって、随分とその……アレだね」

 

「あ、アレって言わないでくださいよ! 私他の人には恥ずかしくてこんなこと言えないんですから!」

 

「その割には自爆してた気がするけどね」

 

 真っ赤な顔で、両手を振って否定している加賀さん。なんだか笑いがこぼれてくる。別にこんな性格なら、多少……いやガッツリオタクでもそこまで引いたりしないだろう。

 

『アッハハ』

 

 話していると、ふと耳に女の子の笑い声が届いてきた。その声は……僕が何度も聞いたことのあるものだ。間違えるはずもない。明日香の笑い声だ。そういえば今日は部活が休みだったっけ。ならすぐそこにいるのかな。

 

「ごめん加賀さん、ちょっと……」

 

「あっ、藤堂君?」

 

 加賀さんの声を聞き流しながら、僕は前の扉を開けて教室の外に出た。廊下には何人かの生徒が残っていて、二つ程隣の教室の前で見知った後ろ姿の女子生徒が見える。明日香だ。誰かと話しているらしいけど……。

 

「それでね、私その時ちょうど部活帰りの時でさ」

 

「そう……。それはちょっと怖いね」

 

 ……誰と、話しているんだ。

 

「………」

 

 この位置からじゃ誰と話してるのか見えない。でも、その声は確かに男の声だ。

 

 ……とくん、とくん、と心臓が脈打つ。引き返した方がいいと心が訴えかけている。それでも、それでも足は前に進んでいく。

 

「──────」

 

 彼女の陰から見えたその人物は……冴えない、男子生徒だった。気の弱そうな顔立ちで、背も高いとは言えない。なんとなく既視感に刈られる。それは、まるで……。

 

「あ、あの……藤堂君?」

 

 袖が引かれる。でも僕はその言葉に振り向くことすらできなかった。頬が引き攣る。目の前の光景を嘘だと吐き捨てたかった。

 

「アッハハ」

 

 笑っている。君が笑っている。郎らかに、嬉しそうに。そんな顔、僕にしか見せないと思っていたのに。なんで、なんで……。

 

「あっ、待って!」

 

 誰かが僕を引き止めようとする。でも、もう止まれなかった。袖を引く手を振り払い、その場から後ろを向いて駆け出した。カバンも持たずに階段を駆け下りて、昇降口を通って走っていく。

 

 痛い。胸が痛い。心臓が痛い。痛くて、泣きたくて、どうしようもなくて。頭の中で誰かが警鐘を鳴らしている。痛いよ。痛くて痛くて、仕方がないよ。君に会痛い。会って何もかも話してしま痛い。

 

 なんで、彼なんだ。なんで、僕じゃないんだ。だってアレは、あの男は、まるで……。

 

「……昔の、僕じゃないか」

 

 誰にでも一人称が僕で、気弱で、コミュ力もなくて。あの男はどうしようもなく昔の僕に重なっている。それなら、なんで……僕じゃないんだよ。

 

 僕で……いいじゃないか。君に似合う男になるために、必死に頑張ったのに。君以外の人と話す時は、俺を使うようになったし、少しは他の人とも話せるようになったし、服装も格好よくなるように勉強して合わせて……。全部、全部君のために……。

 

 なのに、なんで……。

 

「僕じゃ、ダメなの……」

 

 公園のベンチに座って身体を抱きしめながら泣く僕は……どうしようもなく、不格好で格好悪い。そんな僕を、誰が見てくれると言うんだろう。

 

 

 

 あぁ……頭が、痛い。

 

 

 

 

To be continued……




現在、投票者が4人です。作者なら知っていますが……投票者数が5人になると、評価バーに色がつくんですよ。
100話行くまでに、評価バーに色つかせたいなぁ(遠い目)


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第94話 忘れないで

 夕暮れ時。カラスの鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。まだ気温が高いこの真夏日に、公園で黄昏れる男なんてものがいたらそれは、変質者以外の何者でもないんだろう。

 

「……頭、痛い」

 

 ずきん、と鈍い痛みが何度も押し寄せてくる。頭だけじゃない。胸も痛かった。加えて言うとするなら心臓が痛い。何度も何度も味わってきた、この苦痛。恋煩いの症状のひとつ。

 

 ……何もかも、忘れてしまいたい。もう今までの記憶は全て、大切な思い出ではなく、未来を棒に振ることになる忌まわしき過去だ。そんなもの、もう僕にはいらない。

 

 誰かがかすめ取るように、なんの痛みも感覚もなく、スっと奪い去ってくれないか。それか、記憶を捨て去る力をくれないか。

 

 虚ろな目をしているであろう、僕はベンチのすぐ横に落ちていた空き缶を拾い上げると、右手で握り潰した。変な音が出て、握った手に痛みが走る。それをベンチに座ったまま遠くにあるゴミ箱めがけて投げ捨てた。ガコンッとゴミ箱の縁にあたってそのまま中へと落ちていく。

 

「……壁に当たれば、奈落の底まで落ちていくのも当たり前か」

 

 なにせ、逃げ道がなかった。僕はただ彼女だけを見て、彼女の為だけを想って前を見続けた。色々な道があったんだろう。けれど、それら全てを捨てて……今僕は、どうしようもないところに来てしまった。後戻りもやり直しもできない。

 

 ……いいなぁ、アニメのヒーローは。好きなことやって、危険が迫ればすぐ駆けつけて。ヒロインが危険にさらされることも毎度のようにあるし、それを毎回助けている。僕にはそんな事はできないんだ。

 

『ワンッ、ワンッ!!』

 

 いつか、どこかで聞いたような鳴き声が聞こえてきた。けれど、それを探すことも億劫だ。ベンチに座って項垂れたまま、地面に落ちている砂の粒を数えてみる。数え終わる頃には死んでいるだろう。

 

「ワンッ!!」

 

 すぐ近くから鳴き声が聞こえてきて、次の瞬間には足に何か重いものがぶつかってきた。流石に目を逸らさずにはいられなくて、足元を見てみると……茶色の丸いもふもふとしたものが体当たりをするように頭を押しつけている。

 

 ……柴犬だ。あぁ、誰の犬だっけ。なんだか記憶が曖昧だ。

 

 僕にぶつかってくるのをやめた柴犬は、すぐ横で座って僕を見上げてくる。その目は一切ぶれなく、真っ直ぐに僕を射抜いてきた。口を開けてだらしなく舌を垂らしているその姿は……。

 

「─────」

 

 頭に嫌な痛みが走った。まるで昔のブラウン管と呼ばれたテレビに映っていた砂嵐のような映像が、ほんの一瞬だけ頭に浮かんでくる。どこかの路地裏。そこに倒れている柴犬。それに群がる人達。

 

 しかし映った絵はそこで消えた。その一瞬だけが、ふと思い浮かんできたのは……一体なぜなんだろう。

 

「お前……どこかで会ったっけ」

 

「ワンッ!!」

 

 僕の言葉に返事をした柴犬は、尻尾をぶんぶんと振り回す。

 

 ……あぁ、そうだ。思い出した。僕が柴犬の頭を優しく撫でると、柴犬は嬉しそうに目を細めた。

 

「コロ……だよな」

 

 確かそんな名前だったはず。とすると、きっと近くには……。

 

「……藤堂君」

 

「……加賀さん、か」

 

 飼い主である彼女がいることもまた、当然のことだ。少し離れた位置にいた加賀さんは、僕が気がつくと歩み寄ってきて、僕のすぐ隣に座り込んだ。首筋に浮かんでいる汗や、滲んだ襟元、そして彼女の呼吸の荒さからして……走ってきたんだろうなって思った。

 

 彼女の手元を見れば、そこには僕のカバンがあった。中身は大したものは入ってないけど……これを持たせて走らせてしまったのなら、申し訳ないことをしたと少し反省している。

 

「……コロがね、見つけてくれたの。また前みたいに、藤堂君がいるってわかってたみたいで……」

 

「……そっか」

 

 それきり、互いに言葉は中々出てこなかった。足元にいるコロだけが時折小さく鳴く程度。そんな沈黙に耐えられなくて、僕はずっとコロの頭を撫でたりしていた。

 

「……カバン、持ってきてくれたんだね。ありがと」

 

「あっ……ううん、いいの。ただ、その……」

 

「……別に、いいから。何もなかった。それでいいんだよ」

 

 彼女からカバンを受け取って、立ち上がる。どうにも今は彼女と話したい気分じゃなかった。でも……。

 

「待って……!!」

 

 逃げようとする僕の手を掴んで、離そうとしない彼女のせいで帰れなかった。振り向いてみれば、彼女の瞳にはなぜか涙が溜まっていたし、握る手は酷く震えている。それでも彼女は口を開いて、僕に待ったをかけてきた。

 

「相談、乗るから……」

 

「……相談?」

 

「っ……あの時、言ったよ」

 

「……そうだっけ」

 

「ッ……!!」

 

 握る力が強くなる。でも、僕には何がなんだかよくわからない。あの時とは、どの時だ。

 

 ……頭が、痛い。

 

「あの時、今はそれほど問題じゃないって言ってた……。でも、今がその時なんじゃないの。今は、藤堂君の中で問題になってるんじゃないの……?」

 

「……問題。いや、何も」

 

 あぁ、そうだ。何もない。何も、ないんだ。

 

「……何も、残っていないんだ。大切だと思っていたものが、今は何もかもが忌まわしく感じる」

 

「……それって、明日香さんのこと?」

 

「………」

 

 何も言えなかった。でもそれは肯定の証でもある。彼女はそれを理解していて、ぼうっと立ったままの僕の前に立つと、その小さな指で僕の目元を拭っていった。

 

「……泣くほど、大切だったんだね」

 

「……そりゃ、そうだよ。何年も前からずっと、そうだったんだ」

 

 そう、何年も前からずっと。あぁ、もうどれほど昔のことなのかすらも思い出せない。確かに僕は君と居て、一緒の時間を過ごす中で……いつしか恋に落ちていたんだ。

 

 大事にしようと思っていた。この想いも、何もかも大事に育てていこうと思っていた。いずれも全て、過去のことだ。

 

「誕生日プレゼントは毎年買っていたし、よく一緒に家で遊ぶし。自分の姿なんて何も気にしてない。そんな気の知れた仲だっていうのに……アイツにとっては、ただの居心地のいい場所でしかなかったんだ。気にしてないってことは、関心がないってことだろ。僕のことなんて、何も思ってないんだ」

 

「……藤堂君」

 

「……彼女は化粧を覚えたよ。身だしなみの整え方を覚えて、学校に行く時には必ずどこか変じゃないか確認するようになった。それらは全部、僕のためじゃない。加賀さんも見ただろ。アイツの……あの男と話してる時の、嬉しそうな顔。あんなの、僕の前ですらそうそう見せることないんだ。なのに……」

 

 ……今でもあの光景を鮮明に思い出せる。ほんの少し前の時間のことだけど。僕のことなんて気がつかない君が、僕の知らない奴と楽しそうに笑っていた。その相手が、昔の僕に似ていたというんだから……それはもう、歯止めが利かなくなってもしょうがないじゃないか。

 

「僕の方が強いはずだ。僕の方がもっとオシャレにだって気を使ってるはずだ。彼女の好きな物も嫌いな物も、何もかも僕の方が知ってるはずだ。僕の方が……あんな奴よりも、彼女に相応しいはずなんだよ……!!」

 

「……あの、ね」

 

 決壊したダムのように、零れ続ける僕の言葉を遮るように彼女は言った。

 

「相応しい、とか。相応しくない、とか。そんなの自分で勝手に決めたものだよ。誰を好きになるのも。どうやって好きになるのかも。他の誰にも、それは決められないんだよ」

 

「でも……僕は……」

 

「藤堂君は、明日香ちゃんのことをどうして好きになったの?」

 

「どう、して……?」

 

 ……そんなの、知らない。彼女のことが好きなことに、理由なんてなかったはずだ。でも、それでも、何かあったとするのなら……ひとつ、あったはず。けれど思い出せない。

 

「……やっぱり、幼馴染ってそういうものなの? 気がついたら好きになったりとか」

 

「……だって、ずっと一緒にいたから」

 

「ずるいなぁ、そういうの。藤堂君は、それが嫌だったんだ。ずっと一緒にいたから、それを取られたくなかったんだ。それなら藤堂君って……幼馴染だったら、誰でもよかったんじゃない?」

 

「ッ、そんなわけあるかッ!!」

 

 握られていた手を振り払う。悲しげでもなく、無表情でもなく、ただ微笑んでそう言ってくる彼女に対して怒り以外の何の感情も湧かなかった。

 

「僕が好きになったのは、明日香だ!! 幼馴染だからじゃない、例え幼馴染じゃなくたって、僕は明日香のことを好きになっていたはずなんだ!!」

 

「……そっか」

 

 また、彼女は笑った。何も可笑しいことなんてないのに。

 

 でも……彼女の次の言葉には、僕は唖然とする他なかった。

 

「なら、それでいいんだよ。好きでいていい。ずっと想っていればいい。だから……こうやって、燻ってちゃダメだよ」

 

「っ………」

 

「堂々と言えるくらい好きなんでしょ? なら、それは誇らしいことなんだよ。だから……お願いだから下を向かないで。私が惨めになっちゃうよ」

 

 彼女は笑っている。笑いながら、涙を流している。惨め? どうして彼女がそう思わなくてはいけないんだろう。

 

「……誰が誰を好きになるのも。誰がどうやって好きになるのも。関係ないよ。ただずっと……振り向いてくれるまで、近くにい続けるの。私に気づいてって」

 

「……加賀、さん?」

 

 近寄ってきたかと思えば、額を胸に押しつけるように抱きついてきた。そのまま何度か額を擦らせると、背中に回された手が服を強く掴んでくる。

 

「……藤堂君は、今までのように好きでいていいんだよ。いつか明日香さんが振り向いてくれるように。諦めたくなったら、もう簡単に諦めていいんだよ。私が……ここにいるから」

 

「………」

 

 諦めて、いい。そう考えると、何故か身体が軽くなった気がしてきた。とんだクソ野郎だ、僕は。

 

 ……あぁ、でも……もう、下は向けそうになかった。今下を向いてしまったら、彼女の姿が見えてしまう。

 

「……ごめんね、加賀さん。それと……ありがとう」

 

「……いいんだよ。私たち……まだ、友達だから」

 

 強かな女の子だった。加賀さんは名残惜しそうに僕の身体から離れると、コロにリードをつけてからまた僕に向き直る。

 

「……もう、大丈夫?」

 

「……うん、大丈夫」

 

「そっか」

 

 眼鏡をずらして、涙を拭っていた。赤く染った目元と耳が、嫌でも彼女がどういう気持ちを持っているのかを知らしめる。

 

 ……それでも、下は見ない。

 

「また、相談に乗ってもらっていい?」

 

 酷い男だ。彼女にそんなこと、言うべきではないはずなのに。それでも彼女は笑って頷いてくれた。

 

「いいよ。そのかわり……私と一緒の時は、その話し方でいてね」

 

「……うん」

 

 気がつけば、僕は僕として彼女と話していた。不特定の誰かと話す俺ではなく、あの頃の名残として残っていた僕として。それは明日香の前でしか見せなかったけど……今は、彼女の前でもその弱かった自分を見せてもいいかと思えていた。

 

 日が暮れてくる。残された夕日が彼女の顔を明るく照らしていて、それがあまりにも眩しかった。彼女のあり方が。僕にはきっと、どうやってもそうはなれないんだろう。

 

「僕はきっと、これからも黒いことを考えてしまうんだ。明日僕は、何度も死ねと心の中で呟くよ」

 

「そんな君の愚痴を、私は何度も聞くよ」

 

「明日香と話すだけで変な優越感を覚えて、驕ってしまうかもしれない」

 

「私は今君と話していることを、誰かに自慢したいよ」

 

「……加賀さんは、変な人だね」

 

「君がよく知ってるはずだよ。私は……こういう人間なんだって」

 

 笑っている彼女のその姿が脳裏に焼きついていく。あぁ、それでも僕は君のことを好きになれない。僕が好きなのは明日香だ。それはきっと変わらない。

 

 ただもし、何か変な間違いがあって。僕の気持ちが変わってしまったのだとしたら……。いや、そんなことは考えるべきじゃない。明日香と真っ直ぐ向き合う為にも。彼女に対して真摯でいる為にも。

 

「藤堂君、今日のことは忘れないでね」

 

「忘れないよ。絶対に」

 

 それは夏にあった出来事だった。僕と彼女のこれからの付き合いが少し濃くなったとも言えるもので……それと同時に、僕が明日香のことをもっと考えるようになってしまったとも言えるものでもあった。

 

 忘れられないものとして、心の奥底深くに刻み込むような出来事だった。僕は……ほんの少しだけ前に、進めた気がする。

 

 

 

 

 ……あぁ、頭が痛い。

 

 

 

 

 

To be continued……




前回評価者云々と言い、ついに評価バーに色がつきました。誠に嬉しい限りです。評価してくださっ方々、並びに読んでくださってる方々。ありがとうございます。

……えぇ。日刊ランキングに乗ってたり、お気に入りが今までの比じゃないくらい増えたりしてちょっと嬉しさを超えて、やべぇと思っていた私です。

それでは皆様……コンゴトモヨロシク。
やる気出たよ。ありがとナス!!


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第95話 透明なヒーロー

 数日経っても、僕の心はまったく晴れなかった。明日香と一緒に学校に行くのは、とても心が踊ることでもあるし……逆に、君のその笑顔を見る度にあの時の後悔を思い出してしまう。

 

 クラスの伝手を使って、君の好きな人を調べてみた。けどもう、名前すら覚えていない。おかしい。憎くて仕方が無いはずなのに、名前すら覚えていないとは。

 

 それだけ憎いのだろうか。名前を覚えて痛くないくらい、僕は彼に嫉妬しているのだろうか。

 

 あぁ、にしても……頭が、痛い。

 

「………」

 

 授業の内容なんてロクに入ってこなかった。数学の教師が新しい公式を伝えてこようとも、化学の元素記号を教えられても、現代文で昔の人が書いた話を読もうとも……頭痛がして集中できない。

 

 気がつけばもう周りには誰もいなかった。教室に取り残された僕は、嫌な暑さが風とともに窓から入ってくるのを鬱陶しく感じるだけだ。何もやる気が起きず、また明日香の部活も今日は休み。見に行くこともない。

 

 ……明日香。あぁ、何か忘れている気がする。そういえば僕は昨日君とやり取りをしたっけ。毎日のように君の話を聞いていた気がするけど、時折その間の記憶が抜けてしまう。若くしてボケてしまったのだろうか。

 

「……明日香?」

 

 ポケットの中に突っ込まれていた携帯が震え、取り出してみれば画面にはよく見るSNSのメッセージ画面が映っていた。そこに書いてあったのは……。

 

『告白、成功したよ!!』

 

「……あっ」

 

 プツンッと糸が切れた様に、変な感情のスイッチが入った気がする。慌てて昨日のメッセージを確認すると……そこには、明日告白してみるという話がされていた。

 

「……なんで、忘れて……」

 

 そう、こんな大事なこと……なんで覚えてなかったんだ。確かに嘘だと思いたかったけど、それならそれで彼女になにか危険なことがないか近くで見張るくらいはしようと思っていた。なのに、なんで……。

 

 気がつけば手が震えていた。それは決して携帯のバイブなどではなく、携帯を持つ右腕全体が壊れてしまったかのように震えている。そして画面に増えていく、彼女からのメッセージ。

 

『コウ君が相談に乗ってくれたおかげだよ』

 

 ……違う。

 

『色々なこと教えてくれたりしてくれたから、今日成功できたんだと思う』

 

 ……違う、違う違うッ。僕は応援なんてしていないんだッ。全て、何もかも失敗すればいいって、そう思っていたんだッ。

 

 だから……違うんだよッ。

 

『ありがとう、コウ君』

 

「ッ……ァァ……」

 

 画面にポツリッ、ポツリッと涙が落ちていく。きっと画面の向こうにいる君には、そんなことどうやったってわからない。僕がどう思っているのかなんて……わからないんだ……。

 

「あ、ァァッ………」

 

 机に項垂れ、携帯を強く握りしめて泣く僕のことなんて、誰も見ない。画面に映るハートを持ったウサギのスタンプが、余計に心を抉っていく。

 

 あぁ……なんで、この記憶は消えてくれないんだ。

 

 君に彼氏ができた忌まわしき日を……どうしても、忘れられない。忘れてしま痛いのに、都合よく消えてくれなかった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「あぁー、もうやってられねぇ……」

 

「大変そうだねぇ」

 

「マスター、甘いのちょうだい」

 

「はいよ」

 

 すっかり常連客と化した俺である。相変わらずカフェの中には人はいない。あの少年、藤堂も今日は来ていない。そりゃ毎日いたらそれはそれで金銭的に問題だろうが……。

 

 カウンター席で突っ伏している俺の目の前に、甘い香りの漂ってくる珈琲が置かれた。身体を起こして珈琲を啜っていくと……不思議と心が落ち着いてくる。

 

 しかし、困ったものだ。あれからそれらしい情報は全く見つからない。警察の内通者を通じて犯行現場に行ってみたり、写真を見たりしてみたが……いや、全くといっていいほどわからなかった。夜に先輩に電話してその事を話したら、向こうは向こうで色々と大変らしい。

 

『山の中入ってたら霧が濃くなってきて……気づいたら頭の上に何体もミ=ゴが飛んでやがったんだよ。いや、流石に肝が冷えた。しかも本部は巣を見つけて全滅させろだとよ。何体いるんだか……』

 

『痕跡も多々残っている。中にはガラクタだかなんだかわからん物まであるが……その中でも現在稼働している奇妙なものがあった。例えるなら心電図だ。波長がモニターに映されていて、つたない文字ではあったが……お前のいる地域の名前が書かれていた。一応気をつけておけ』

 

 会話の内容的に、この事件に神話生物、特にミ=ゴが関わっているのかもしれないという疑惑は高まった。だが、どう考えたって実行犯は人間だろう。神話生物なら人間を生かしちゃいない。

 

 ……個人的にはミ=ゴが人間の文字を理解しようとしていた所が恐ろしいんだが。いや、プログラムが組み立てられる時点で文字は書けるのか。アイツらの身体構造的に、文字が汚くなってしまっただけなのかもしれない。

 

「………」

 

 そう考えていると、珍しく……と言っちゃ悪いが、店の扉が開いた。マスターのいらっしゃいという言葉に軽く会釈を返した人物が二人。男女の学生カップルのようだ。

 

「……ケッ」

 

 あぁくそ、ストレスが溜まって仕方がねぇ。その上リア充まで来るとか……これはもう、デスソースじゃな?

 

 ……流石にやめておこう。奴らにゲキカラスプレーなんて使ったら最後、俺が警察にしょっぴかれちまう。

 

「アイスコーヒーをひとつと、アイスカフェオレをひとつ」

 

 一見冴えなさそうな男の子が注文を頼み、二人は窓際のテーブル席へ。携帯を弄るふりをして少し横目で見てみたが……甘い珈琲が更に甘くなるようなイチャつき様だった。しかも男の方は完全に草食タイプだ。女の子は割とガツガツいってるようで、目に毒だ。クソが。

 

 溢れ出るリア充撲滅オーラに、女の子の方が振り向いてきたので俺は携帯を弄る作業に戻った。SNSを開いて、呟く。投稿者、変態糞土方。先日常連になったカフェで、草食系の兄ちゃんを縛り上げ、気の強そうな姉ちゃんと、ワシ(17歳)の二人で盛りあったぜ。

 

 ……寝取られはNG。心臓が抉れてしまう。俺はとうとう考えることをやめた。

 

「……はぁ、あのリア充全開オーラの中に突っ込んで行きたくねぇ」

 

 誰にも聞こえないようにボソリと呟いてから、俺は珈琲を飲み干してメモ帳とペンを取り出す。そしてカップルのところへ近づいていくと、なるべく警戒されないように話しかけた。

 

「どうも、デートの最中失礼するよ。俺は探偵をやっている者なんだが……」

 

 話しかけられると思っていなかった二人は少し驚いていたが、俺がそれっぽい名刺を出すと女の子の方が食い気味に話をし始めた。

 

「探偵って、本物!? えっ、すごい!!」

 

「……明日香さん、ちょっと声が……」

 

「でもでも、探偵だよ!?」

 

「いや確かに珍しいけどさ……」

 

 冴えない少年の方はどうにも落ち着いた性格らしい。明日香と呼ばれた女の子をたしなめつつ、何かあったのかと尋ねてきた。少しは話してくれるような雰囲気だ。何かしら情報を握ってくれていればいいんだが……。

 

 とりあえず、夜中に作成したヒーローについての資料などをチラッと見せながら、俺は話し始めた。しかし、二人は特になんの反応もない。ただ、格好いいよねとか、少し怖いと思うとか、そんな他愛のない話だ。内心落胆していると、女の子の方が急に思い出したように話を切り出してきた。

 

「あっ、そういえば……ヒーローといえば、私はハル君じゃないかなって……」

 

「えっ、僕!?」

 

「そうそう!!」

 

 ……なんだか変な惚気が始まりそうな予感がする。もう帰りたい。でも仕事が帰してくれない。俺はな、社畜になりたかったわけじゃないんだよ……。

 

 そんな俺の内心を知らない女の子は、どこか嬉しそうに顔を緩ませて話し始めた。

 

「えっとね、ハル君と遊びに行った時に……ナンパされちゃって、ハル君が間に入って助けてくれたんだけど、そのままハル君だけ路地裏に連れてかれちゃって……」

 

「……えっ、何それ怖い。君草食系の顔して中々大胆なことするんだな。勇敢じゃないか」

 

「い、いや……僕は……」

 

 そんなことないです、と謙遜している様子の男の子。冴えないなんて言ってごめんよ。しっかし……ヒーローが怖くない奴がまだ残っていたのか。それとも信じていない奴か……はたまた、外部から来た奴か。

 

 まぁそれは後だ。今はとりあえずその先を聞いてみるとしよう。女の子に続きを促すと、また嬉しそうに話し始めた。

 

「それで、私すぐに誰か呼ばなくちゃって思って……でも、すぐにハル君が路地裏から出てきたんです。ちょっと怪我してたけど、路地裏を覗き見たら……ボロボロになったナンパ男達が転がってたんですよ!」

 

「……悪いな少年。この子の証言のおかげで容疑者リストに君の名前が載ったぞ」

 

「えぇっ!? だ、だから僕じゃないんですって!! 確かに、一発殴られましたけど……でも、気がついたら男達が倒れてて……」

 

「イキリト君かな? 気がついたら周りのDQNが血だらけで倒れてたんだろ? やっぱり君じゃないか……」

 

「だ、だから違いますって!!」

 

 少年改め、イキリト君は容疑を否認しているようだ。困ったな、俺もうとっとと帰りたいんだけど。自首してくんないかな……っと邪な考えをしてみたが、ちょっとこれはヤバいな、うん。

 

 彼の話が本当だとするのなら、ヒーローは姿を見せず、彼が殴られたその後の一瞬で男達をボコボコにしたという事だ。

 

 ……現場検証をした結果、魔術が使用された形跡らしきものはなかった。最近起こったことなら少しは残り香みたいなものがあるんだが、ナイアに尋ねたところ、そんなものはないとのこと。

 

「……あの、どうかしたんですか?」

 

「ん、いや……なんでもないよ。それより、君達他に何か情報はあるかい?」

 

 長く思考に耽りすぎたようだ。女の子の方に心配されてしまったので、とりあえずここで切り上げることにした。彼らはもう何も情報は持っていないようだしな。

 

「情報提供ありがとう、二人とも。遅くならないうちに学生は帰りなよ。イキリト君は、ちゃんとアスナちゃんを守るんだぞ」

 

「イキリトってなんですか……。それに、彼女はアスナじゃなくて明日香です」

 

「うん、まぁそう……気にするな」

 

 俺は彼らに背を向けて、置いてあった荷物などを持ってカフェの外へと出た。外は日差しが強いが、それでも吹く風が涼しさを感じさせる。相変わらず、人通りは少ない。

 

「………」

 

 ナイア、聞こえているか。そう心の中で言うと、頭に響くように返事が返ってきた。

 

『聞こえてるよ。まったく、今回はやけに私をこき使うね』

 

 ……先輩と西条さんがいないから仕方ない。とりあえずさっき聞いたことを尋ねてみると、すんなりとナイアは答えを返してきた。

 

『魔術じゃなければ、考えられるのは君と同じ能力者だよ』

 

 俺と同じ能力者。それはつまり……起源覚醒者ということだろうか。そういえば、木原さんが前に言っていた言葉を思い出した。超能力といった類も、起源の一種だと。

 

『天然起源覚醒者。簡単に言えば、超能力者だね』

 

 頭に響く声を聞きながら、俺は宛もなく歩き続ける。しかし、相手が超能力者と来たか。だとすれば……透明人間とか、そういったものだろうか。

 

『さぁ、どうだろうね?』

 

 何やら知ってそうな口振りだが、答える気はないらしい。仮に透明人間なら、俺に勝ち目がないんだが。いやそもそも、なんで戦う前提なんだ。人物特定だけして本部に帰るのが任務のはず。しかし……このままじゃいくら経っても、顔が割れない。

 

 もうあのイキリト君が犯人ってことでいい……よくない?

 

『BADエンドまっしぐらだね。別に私はそれでもいいけれど』

 

 アッハッハッハッ、と頭痛になりそうな嫌な嘲笑(わら)い声が響いてくる。もう会話をするのはやめよう。これ以上話していたら頭がイカれちまいそうだ。

 

「………」

 

 にしても、腹が減った。なんだか甘い物が食べたい気分だ。周りを見回してみると……ちょうどたい焼きの屋台があった。いいね、たまにはたい焼きを食おう。

 

 頭の中でさっさと探せよと催促する声が聞こえてきたが、そんなもの知らない。だったらちったぁ役に立つような探査系の魔術を寄越せと愚痴を零しながら、俺は買ったたい焼きの頭にかぶりついた。餡子が美味い。

 

「………?」

 

 たい焼きを食べていると、ポケットの中にある携帯が震えだした。誰なのかと見てみれば……まったく知らない番号から電話がかかってきているようだ。口の中に入っているたい焼きを飲み干してから、俺は電話に出た。

 

「はい、唯野ですが……」

 

『……あの、探偵さんですか?』

 

 携帯から聞こえてくる声は女性の声だった。しかし、今のところ女性で俺を知ってる人はさっきの女の子以外いないはず……。となると、藤堂が情報通の子を探し当ててくれたんだろうか。

 

「えぇ、そうです」

 

『……ヒーローについて、調べているんですよね?』

 

「まぁ、そうですね。何か知っていることがあれば教えていただきたいんですが……」

 

『っ……あの、私の言うことが凄く変なことだったとしても……聞いてもらえますか?』

 

「……まぁ、聞くだけ聞きますよ。こちらも探偵として活動する身です。それなりに変なトリックとかありましたからね。今更変な話のひとつやふたつ、構いませんよ。ヒーローが透明人間だろうと、驚きはしません」

 

 電話の向こうからは何も聞こえてこない。どうやら悩んでいるようだ。しばらくそのまま待ってみると、決心がついたのか……先程よりも、しっかりとした声で話してきた。

 

『……明日の午後、時間はありますか?』

 

「大丈夫ですよ」

 

『あの、場所とかは……』

 

「……そうですね。じゃあブランというカフェに来てください。そこで窓際の席に座っている黒い外套を膝の上に乗せた男がいたら……それが自分です」

 

『……わかりました』

 

 ……電話をかけてくるってことは、相当なにか重要な手がかりを握っているんだろう。ひとまず、どんな内容を掴んでいるのか聞いておこうか。

 

「……どんな話をするのか、簡潔に話してもらえませんか? 調査が必要なら、少しは情報を集めてから話を伺いますが」

 

 ……数秒経つが、返事は返ってこない。何かまずい事でも聞いてしまったのだろうか、と不安になった頃。携帯の向こうから聞こえてきた言葉は、俺の予想の遥か斜め上をいくものだった。

 

『私、ヒーローが誰なのか……心当たりがあるんです』

 

 ……ようやく足が掴めそうだ。思いもよらぬ情報に、俺は彼女に感謝を告げながらニヤリと口元を歪めた。

 

 

 

 

 

 

To be continued……




投稿し始めて一周年だよと思ったら、一周年は前回だった。悲しみの中初投稿です。


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第96話 ヒーロー

 夜の街には人気がない。夜の散歩を趣味とする者も、夜更けまで遊ぶ学生も、また終電を逃すまいと急ぐサラリーマンですら、その街にはいなかった。

 

 朝でもそこまで賑わうことのないというのに、それが夜となってはまるで死街だ。もぬけの殻のようなこの街を、好き好んで歩く輩はそういないだろう。

 

 いたとするならそれは……犯罪者か、ヒーローを信じぬものか、それとも……ヒーローを捕まえようとする阿呆かだ。

 

 ここでいうヒーローとは、正義の味方であると考えられる。悪を許さず、また市民の声を聞き、それを遂行する存在。しかしその行いに正当性がある、と断言できるのだろうか。

 

 得てして、人というのは間違える動物だ。厄介な事に、人間には多種多様な心がある。感受性も人それぞれ、それを一般的に個性という一括りで言い表されてしまう。

 

 ……似たもの同士であるのならば、きっと些細なことで喧嘩は起きない。だが、個性の差があればあるほど、些細なことでの論争というのは起きがちであろう。

 

 今の世の中は発展し、人々は情報を発することが容易になってしまった。事実無根な話が様々な形で人々に知らされていく。その中で人間というのは、嘘を嘘だと見抜く力が低下してきていた。幼い頃から様々な情報を得るということに集中しすぎて、吟味を怠るからだ。

 

「………」

 

 果たして、夜の街を駆けるヒーローに、正当性があるのか。ネットに書き込まれた情報を頼りに悪を成敗する、私刑の執行者。だが、それは人の世とは反する生き方だ。人は人を、法で裁かねばならない。そういう世の中に、人を勝手に倒して回るというヒーローが現れたらどうなるのか。

 

 最初は持ち上げられたヒーローも、今や形無しである。畏怖の象徴として祭り上げられたヒーローは、それでも私刑をやめない。その様はブレーキの壊れた車だ。舵取りだけをし、減速をしない。誰かが止めようにも、轢かれてしまうのだから。

 

「──────ッ」

 

 誰も居ないはずの街の広間。黒い外套のフードまでしっかりと被った氷兎は、来るはずであるヒーローを待っていた。袋にしまわれた槍を弄っていたそんな折に、目の前の景色が一瞬だけブレた。周りにあるコンサートに使われるようなステージも、観客の座る椅子も、周りにある木々も、何ら変わりない。

 

 けれど、変化は確実に起きていた。先程まで吹いていた風がピタリと止まったのだから。まるで、この広間とその他とが遮断されてしまったかのように思えた。

 

『昨日の文化祭、どうだった?』

 

 誰かの声と共に、一瞬だけ学校の景色が見えた。その景色の中には男女多くの生徒がいて、目の前には女の子がいた。しかし、所々が真っ白な色で塗りつぶされてしまっている。これでは誰なのかわからない。

 

「………」

 

 カツン、カツン、と硬い靴が石の床を歩く音が聞こえてきた。それは今自分のいる場所よりも後方。どうやら相手は早々に殴りかかっては来ないらしい。氷兎は昨日話をした女の子との会話を思い出しながら、無表情のまま背後にいる人物に声をかける。

 

「……よう、少年。夜中まで労働とは勤勉だな」

 

 氷兎が振り向く。そうして見えたのは、これまた氷兎と似たような服装の男であった。黒いだぼっとしたズボンに、フード付きの黒いシャツ。両手には野球選手のつける滑り止めの手袋のようなものがつけられていた。そして肝心のその顔は……黒い骸骨のお面がつけられていてよくわからない。

 

 しかし氷兎には目の前の人物が誰なのか知らされていた。健気な女の子の依頼とあっては、氷兎も引き下がれない。互いの距離はそれなりに離れている。その状態のまま、黒づくめのヒーローは話しかけてきた。

 

「……アンタに復讐したいという奴がいた。探偵という身分を利用して、色々なセクハラをされたと」

 

「丁寧に顔写真も載ってただろ? どう、中々キマってた?」

 

「……何を言ってる」

 

「わからない? あの投稿者は俺だよ。写真は依頼人に撮ってもらっただけさ」

 

 そう言いながら、氷兎はフードを外した。街灯によって照らされている彼の顔は、物事を確信している人物のしたり顔のようだ。依頼人と手を組み、この時間に氷兎に呼び出されたと書き込みをすれば来るだろうと、自分を餌にしてヒーローを釣ったのだ。

 

「……アンタ、何者なんだ」

 

「俺? 俺は……そうだな……」

 

 投げかけられた質問に、氷兎は少し頭を悩ませた。しかしすぐに口をニヤリと歪ませると、自分を見せびらかすような仕草の後にヒーローに人差し指を向けて言い放つ。

 

「唯野 氷兎……探偵さ」

 

「……帰らせてもらう」

 

「いやいや、待てよ藤堂」

 

 氷兎がヒーローの名前を呼ぶ。唐突に名前を言われたヒーローは、その場で帰ろうとするのをやめて氷兎のことを見据えてきた。

 

「……誰だ、それは」

 

「おいおい、しらばっくれなくてもいいだろうに。新しい依頼人の予想なんだけど……その様子だと当たってるな?」

 

「………」

 

「顔くらい見せろよ。別に取って食ったりしねぇから」

 

 氷兎の言葉に少しの間沈黙が流れたが……ヒーローは仮面に手をかけてソレを外した。仮面の下から現れたのは、童顔な少年。カフェの中で出会ったあの時の少年……藤堂 袴優だった。

 

「……なんで、わかったんだ」

 

「犬だとよ」

 

「……犬?」

 

「そう……。依頼人の犬は、飼い主と家族にしか近寄らないらしい。というのも、鎖を壊してしまったその犬は夜中に街を駆け抜け……気の荒い青年達に蹴られたりしたようだ。その犬が見つかったのは翌日。同じくボロボロにされた青年達のすぐ近くで、治療された状態で横たわっていたらしいな」

 

「………」

 

「助けられた犬は決して他人に近寄ろうとしない。だが……お前さんの匂いを覚えていたのか、その犬は脇目も振らずに擦り寄っていったらしい。依頼人の証言だがね」

 

「……赤い眼鏡をかけた女の子か?」

 

「依頼人に関しては黙秘させてもらうよ。でもまぁ……お前さんならわかるだろ」

 

 このまま穏便に事が運べばいいんだけど、と氷兎は内心思いつつ話を続ける。

 

「……依頼人はお前のことを心配している。友人の記憶が曖昧なんだと。その上、時折目つきが鋭くなって、まるで別人みたいになる。そして声をかけてみれば……本人は頭をおさえて何かを忘れてしまったと呟くんだと。それだけならまぁ、普通は医者に行くことをオススメするが……依頼人はそうは思わなかった。犬の件といい、記憶の件といい、友人は何かとんでもない秘密があるに違いない、と。まるでアニメみたいな考え方だな」

 

「……そうか。彼女は、それなりにオタクだったな。なら、そう考えたりする可能性もある」

 

「……それも忘れちまってたのか?」

 

「さぁ……。忘れてしまったということは、存在しないことと同じだと思う。なら、俺にとってあった過去というのは全てなかったことと同じなんだ」

 

「……異常だな。お前さんどっかイカれてるんじゃないのか?」

 

 訝しげに見つめていた氷兎だが、藤堂は首を傾げて何も知らないというばかりだ。氷兎はその場から歩きだして、しばらく離れていくと透明な壁のようなものにぶつかった。なんだと思って触ったり叩いたりしてみるが、その奥には行けそうにない。ちょうど広間と木々を隔てる部分であった。

 

「……結界とか、その類か? いやでも、魔術だっていうなら俺の中でレジストなりなんなり反応するし……やっぱ、超能力かね」

 

「何も不思議に思わない辺り……アンタ、普通の人じゃないんだな」

 

「そうだな。普通か普通じゃないかなら、後者だよ。にしたってこれは……随分と凄いもんだな」

 

 隔てられた外界にある大きな時計を見上げた。その時計はまったく動いていない。ここに来た時の時間と照らし合わせると、どうしても合わない。

 

「一定の空間を切り離し、時間の流れすらも変化させる。さしずめ、この中はお前さんの世界ってことになるのかね」

 

「……詳しく考えたことはない」

 

「だろうな。ぶっちゃけよくわからんし。でも……これがヒーローのタネってわけか。これ、引き込む相手も指定できるんだろ。それができりゃ、誰にも見つからずに指定の相手だけをボコボコにすることができる。声も外には聞こえないし、周りから見れば、気がつきゃ近くにいた人が倒れていたみたいになるのか。ビルの中侵入すんのも楽だっただろうなぁ」

 

 コンコンッと壁のようなものを叩きながら氷兎は関心していた。この能力があれば色々とやれることが増えるのに、と。潜入調査も楽にできるし、街中で神話生物と戦うこともできる。むしろ仲間に引き込みたいくらいであった。

 

「いいなぁ、この能力。もしかして女子更衣室覗いたり……」

 

「する訳ない。俺はこの力をヒーローとしてしか使わないと決めている」

 

「あっ、そう。それは感心するけど……」

 

 困ったもんだ、と氷兎は頭を掻いた。藤堂は自分のヒーロー活動が間違っていないと思い込んでいるらしい。いや、もしかしたら……その善悪すらも、記憶の消失ということで歪んでいる可能性もある。これだけの力を持った能力だ。何かしらのマイナス面があることだろう。もしや、記憶が代償になっているのだろうか。

 

「……そろそろ、やめておけよ。お前さん、これ以上やってもロクなことにならねぇよ」

 

「いや、俺はやめない」

 

「なんで?」

 

「俺はヒーローにならなくちゃいけない」

 

「その理由は?」

 

「理由……いや、そんなもの必要ない。俺はヒーローであり続けるんだ。街の皆も俺を頼っている」

 

「利用されてる、の間違いじゃねぇの?」

 

「違うッ!!」

 

 藤堂は強く否定した。遠目からでもわかる。彼の顔は歪んでいた。それが怒りによるものなのか、それとも別のものによるせいなのかはわからなかったが……。しかし氷兎はここで引き下がるわけにもいかなかった。当初の目的とは違うが、新しい依頼もある。彼を止めて欲しいという、少女の願いのために。

 

「今の街の人達がどう思ってるのか、知ってるか? 皆お前のことおっかねぇって言ってるよ。街なんか見てみろよ。人っ子一人見当たらねぇ。活気もねぇ街に、一体どんな価値があるってんだ」

 

「けど、俺のしてることは正しいはずだ。イジメを誰にも相談できない子が、俺を頼る。力のない子が、助けて欲しいと頼ってくる。俺のあり方に、間違いなんてないはずだ」

 

「前に言っただろうが。そもそものあり方が間違ってんだよ。確かに、弱いものの味方になれるのは素晴らしいことだ。けど……どこまでいったって、お前のそれは私刑だよ。俺の相手するような……例えばお前みたいな立証不可能な奴なら、俺やお前がやらなきゃいけない。それは私刑ではなく義務とか責務とかそんなもんだ。それに、何でもかんでも引き受けて……冤罪にでもなったらどうするつもりだ」

 

「俺だって、受けるべきものとそうでないものくらい分けている」

 

「なるほど……。まぁ、言いたいことなんざ前に言っちまったしな。お前さんが忘れていなければ、俺が言うことなんて特にないんだが……」

 

 氷兎は小さくため息をついた後に、先程までの緩んだ雰囲気をやめて気を引き締めた。自然と二人の表情も引き締まり、身体に力が入っていく。

 

「いつの時代も英雄と呼ばれた存在の死に方ってのは酷いもんだ」

 

 氷兎の口から出てきたのは、今までの話とは特に脈絡もないものであった。しかし藤堂は黙って氷兎の話に聞き入っている。

 

「戦いで生き残っても、最終的には民衆の手で殺されちまうんだ。ジャンヌ・ダルクは魔女として処刑されたなんてのは有名な話だな。じゃあ、どうしてそうなったのか。それは、人間が恐れてしまったからだ。自分よりも上の人間を。自分よりも遥かに強い人間を。それが神なんて超常的な物であったなら話は別だ。だが、困ったことに神ではなく人間が力を持ってしまったことが原因なんだよ」

 

「……だから、なんだ」

 

「例えば、すごい力を持ったヒーローが世界を救ったとしよう。人々は崇めるだろうけど……いつの日か、殺されちまう。だってヒーローが強いからだ。自分がどれだけ足掻こうとも勝てないような奴がいるのは、恐ろしくて仕方がないんだ。だってソイツが何もかも決めてしまえるんだから。いざとなれば一人で反乱でも起こせる。そんな強い奴を放っておけるわけないだろ?」

 

 藤堂は何も答えない。しかし氷兎は話を続けた。人間はどうしようもなく、他人に頼る動物だと。仮にヒーローがいたとしたら、皆そいつに頼り、やがて堕落し……全ての責任を擦り付けるのだ、と。

 

 驕った市民は思うだろう。例えば二人の人間が襲われていて、片方しか助けられなかったとする。助けられなかった人間は、なぜ自分は助けないのにアイツは助けるのかと糾弾するだろう。全てを救いきれるわけがないのに。それを理解しないのは、自己主義な人間である以上避けられないことなのだと。

 

 そうして民衆から疎まれるようになると、ヒーローは何を考えるのか。自分で法律を作ってしまう。俺が正しく、お前達は間違いであると。間違ったことをしたら、俺が正すのだと。それではもう無法者と変わりない。自分が生きづらい世界を、民衆は決して許容しないのだと。

 

「神は人の上に人を造らず。だが、人の上に人ができてしまった。誰からも頼られるヒーローだったとしても……結末は民衆による迫害だ。ヒーローが世界を救ったらどうなるのか。結局は邪魔に思うそこら辺の人に殺されるんだよ。自分よりも上の存在なんていても怖いだけだからな。世界を救ってもらったら死んでもらうのがいいのさ。He law(ヒーロー)……そいつが法律になったら面倒だろう?」

 

 ひとしきり話し終わった氷兎は、一呼吸入れた後にまた藤堂に話しかける。その声音は諭すような優しいもので、決して責め立てるようなものではなかった。

 

「……俺が心配してんのはお前だよ。このままじゃお前は守ってきた民衆に殺される。今のお前の評判は悪くなる一方だ。いつか罪を擦り付けられ、お前の尊厳が損なわれる。そうなる前に……やめておけ。依頼人もそれを望んでるんだ」

 

 余計な音が一切ないその空間に、氷兎の言葉だけが虚しく消えていく。藤堂はその言葉に対して、首を横に振るという行為で返事を返した。小さなため息が聞こえ、困ったなぁと氷兎が呟く。

 

「……どうしても、やめないのか?」

 

「何度も言うよ。俺はヒーローにならなきゃいけないんだ」

 

「……お前はなんでヒーローになるんだ。その理由は。そう思った出来事は。せめてそれを言ってくれよ」

 

「………」

 

「……忘れちまったんだな?」

 

「……うるさいな。頼むから帰ると言ってくれ。俺の正体をバラさないのなら、何もする気はない」

 

「依頼人がお前のこと知ってんだがなぁ……。それはどうするつもりだ? 口封じでもするか?」

 

「……泳がせておく」

 

「甘いねぇ。そんな甘ったれた心で、なんの為に戦うのかも忘れて……流石に、このままにしておけねぇわ」

 

 袋の中から黒い槍を取り出した氷兎は、それを片手で持って藤堂に向けた。穂先を向けられても藤堂の視線はぶれない。恐れないだけの覚悟があるらしい。

 

 ……交渉決裂。それでも依頼はこなさなきゃならない。仮に組織の依頼を優先した場合、殺すか引き込むかの二択。その二択ならば、藤堂が反発し、木原は殺すだろうと容易に予想がついていた。

 

「……依頼を、果たさせてもらう」

 

「……そう。困ったな、武器か」

 

 確かに藤堂は困ったような顔をしていた。しかし次の瞬間には、彼の右手に水晶で作られたような透明さを持つ西洋剣が握られている。目を見開いて驚いた氷兎だが、本人はそれを片手で軽く振るうと……ぎこちない姿で剣を構えた。

 

「へぇ……なるほど、アンタの言った通りだ。この場所は俺の世界。なら、ある程度のことは思い通りになるらしい」

 

「……マジかよ」

 

 顔を歪めて、せめて二人が任務を終えるまで待っていれば良かったと後悔した氷兎。けれど、逃げようにも周囲は完全に外界と遮断されており、両手を挙げて降参する気にもなれない。

 

 やれやれ、と軽く空を見あげれば、半月程度の月が煌々と輝いていた。両手で槍を構え、姿勢を低くする。

 

 ……誰かが止めてやらねばならない。これ以上は彼にとっても、頼んできた依頼人にとっても良いことはないのだ。大丈夫、対人戦なら嫌という程西条さんとやったはず。相手も殺すまではやらないだろう。

 

 心の中で何度も言葉を唱え、浅くなっていた息を無理やり整える。正面で剣を片手で構えた男をしっかりと見据えて、戦う前の最後の会話を始めた。

 

「……言っておくが、負けてやる気はねぇぞ」

 

「俺も負ける気はない」

 

「ド素人に負けたらどやされちまうからなぁ……武器構えんだったら、覚悟くらいはしておけよ」

 

「……御託はいいよ。明日も学校なんだ」

 

「あぁ、そう……じゃあ……」

 

 ジリッと靴が地面を擦る音が聞こえた。互いに相手を見据え、どう動くのかを見る。息をすることも、唾を飲み込むことも躊躇ってしまうような緊張感が張りつめる中、氷兎は槍を握る手を更に強め……。

 

「……行くぞッ」

 

「ッ………!!」

 

 全力で駆け出し、持った得物を振るい始めた。

 

 

 

 

To be continued……




書ききってここまで後悔したことはない。
……なんでもっと氷兎と藤堂を絡ませなかったんだ。
なんか釈然としない……しなくない?
しかも内容も、うんまぁ、そう……(白目)


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第97話 閉じられた記憶

 武器を使った戦いで先に動きだしたのは、当然ながら戦闘歴のある俺の方だ。槍の穂先を逆にして構えながら姿勢を低くし、夜間の身体能力を駆使して急接近する。穂先は決して使わないように、そしてなるべく腕や足を狙って戦意を削ぐ形で戦わなければならない。

 

 初撃、下段から素早くかち上げられた槍を藤堂はぎこちなく手で持った西洋剣で防いだ。

 

「ッ………!!」

 

 そこで俺はぶつかった時の衝撃に微かに目を開くことになった。堅い。相手は素手ならともかく、白兵戦は素人のはずだ。だというのに、叩いたはずの槍が思っていたよりも動かない。それどころか、押し返す力が強くなってきていた。

 

 これはまずい。想定外の事態に少し取り乱したが、すぐさま二撃目に移る。槍を引いて今度は真っ直ぐに剣を持つ腕狙いで突く。

 

「うっ……」

 

 向かってくる攻撃に耐性がない藤堂は、恐怖に呻くも剣の腹でいなし、そのまま斬りかかってきた。それをバックステップで回避し、また槍を構える。

 

「……怖いんだったらやめておけよ」

 

 むしろここでやめてくれ、と心の中で願う。藤堂には斬る覚悟がまだない。剣筋がブレブレで、腰もまだ引けている。だから降参するのならばここでして欲しかった。

 

 それに……ここが藤堂の世界であるのは確定的だ。不良を即座に倒す手際の良さ、怪我なく生還する肉弾戦の強さ。そして一般人ならばありえない程の力。

 

 自分の夜間と同じように、この世界で身体能力が向上するという性質があるのだろう。常人では捌けない突きを初見でいなした段階で、その程度の予想はついた。

 

 そして当然……相手が殺す気になれば、負けるのは殺すことのできない自分であることも。

 

「……手加減、か。うん、そうだろうね。俺は初めてだ。こうやって戦うのも、人を斬ることも」

 

 でも、と藤堂は続けた。そして左手を振るうと、現れたのは二本目の硝子のような西洋剣。ここに来て相手が二刀流という、初心者には絶対にオススメ出来ない戦闘スタイルを選んだことに更に驚いた。

 

「でも、やめられない。俺はヒーローにならなきゃいけない。絶対に……ッ!!」

 

 その目に覚悟が宿ったのが嫌でも察っせてしまう。相手の前のめりになる姿勢、握られた両手。本気になったらしい。流石にため息をつかずにはいられなかった。

 

「……やだねぇ、ホント。お前みたいな主人公キャラってどうしてこう……簡単に割り切れるんだろうな」

 

「そんなこと……知るかッ!!」

 

 苦々しい顔をする俺に構わず、今度は藤堂が駆け出してきた。右手の剣を叩きつけるように振り下ろしてくる。それを槍で弾くと今度は左の剣が。それも槍を真横にする事で防ぐ。そして空いている腹に向かって蹴りを入れようと、右足を前に突き出すが……。

 

「くっ……」

 

 それを藤堂は紙一重で回避する。その足腰にはブレがない。本来急な身体能力向上には前もって身体を鍛えていないと、感覚にズレが生じる。それを感じさせない身のこなし……彼は普段から訓練をしているのだろう。そして益々、俺は自分の不利を悟った。

 

「オラッ!!」

 

 また斬りかかってくる藤堂。右手の剣を横薙ぎに振り払うのを槍を縦にして防ぐも、今度は左手の剣が身体を貫かんと近づいてくる。

 

「んの、野郎ッ!!」

 

 そんな手にやられてたまるものか。肩を使って槍を支え、身体をねじって剣を避ける。そして左手を槍から離すと、近づいてくる手首を掴んで無理やりたぐりよせ、藤堂の腹に向かって膝蹴りを叩き込んだ。

 

「なっ……ぐッ!?」

 

 苦悶の声を漏らしながら右手で腹を抑えて数歩下がる。それを逃す訳もなく、更に追撃。左腕に向かって突きを入れ、剣で防がれたらそのまま槍を地面に突き立て、姿勢を低くし足払い。転倒した藤堂の剣を踏みつけて動かなくさせると同時に槍を喉元に突きつけた。

 

「クソッ!!」

 

 だが藤堂は剣を手放すことでその場から離脱。軽やかな身のこなしで転がって離れ、その場で後方に飛び上がって地面に立つ。腕を踏みつけなかった甘さゆえに、相手に距離を取られてしまった。

 

 難しいものだ、と俺は内心愚痴をこぼした。この場合どちらかというと俺の方が防衛戦になる。防衛するためには攻撃側の三倍は強くなくては成り立たないという話を思い出すと同時に、どう考えたって相手との戦力差が絶対に三倍はないと思った。

 

「ッ……俺は……俺は、負けられないんだよ!!」

 

 両足で地面を踏み締め、まるで親の仇のような目で睨みつけてくる藤堂。これはもう、気絶でもさせなきゃ止まらないだろう。

 

 足で踏みつけていた剣が、ガラスの割れるような音を立てて砕け散る。その瞬間に頭の中にまた声が響いてきた。

 

『コーウーくーん! あそぼうよー!』

 

 幼い女の子の映像と共に聞こえてくる声。相変わらずそれは一瞬な上に、見えるものは所々が白く塗りつぶされている。これは、一体何なのだろうか。

 

「うらァッ!!」

 

「うおッ!?」

 

 流れてきた映像に気を取られていると、藤堂は両手に剣を出現させてから投げ飛ばしてきた。クルクルと回る剣を弾くのは中々難しい。これが真っ直ぐに貫くようにならともかく、回転しているとなると、その逆回転の方向に武器をぶつけなくてはならない。しかも押し勝つ威力でだ。

 

 そうしなければ、下手すると俺の方に武器が飛んでくる。にしても……完全に藤堂が吹っ切れたみたいだ。容赦がない。

 

 投げられた剣をなんとか《飛ばす》と、今度は何本も投げつけられてきた。手に出現させては投げるを繰り返し、俺はそれを的確に槍を素早く当てて《飛ばし》ていく。こういう時、力の必要ないヨグ=ソトースの拳が便利だ。軽い力でも、当てれば剣が飛んでいくのだから。

 

 そうして剣が飛んでいって砕け散ると、また頭の中に変な映像と音声が流れてくる。勘弁して欲しい。集中が削がれる。

 

「なら……これで、どうだ!!」

 

 藤堂が叫ぶと……不思議なことに、彼の周りに幾本もの剣が出現して、糸で吊るされるわけでもなく浮かび上がった。主である藤堂を守るように、不規則な並びで剣が存在している。

 

「……マジか」

 

 何の力も働いていないように見えるその剣達は、切っ先を俺に向けて浮遊している。その様はどこかで見たことのあるような……そう、例えるならば金ピカの……。

 

「これでも、くらえッ!!」

 

「いやいや、ウッソだろお前ッ!?」

 

 浮くだけだった剣が俺目がけて次々と放たれる。こんなの無理ッ、弾けきれる気がしないッ。即座にその場から退避し、全力で走り回る。すぐ後ろに剣が突き刺さったり、真横を通り抜けていったりする剣があり、肝が冷えた。

 

 危ないと思ったものは槍で弾き、間に合わなければ身をよじる。時折服だけを斬り裂いていくものもあり、このままでは負けるのは明白だった。なんとかして身を隠さなくてはならない。そう思った俺はステージに向かって走っていくと……。

 

「よっとッ……!!」

 

 ステージの壁に突き刺さった剣を踏み台にして高く跳び、空中で壁を無理やり蹴り飛ばしてなんとかステージの屋根にまで登りつめる。円状になっているステージの屋根には段差があった。そこに屈んで身を隠す。

 

 見た感じ、あの剣は真っ直ぐにしか撃てないようだ。追尾機能はなし。そんなもんがあったら、もうお手上げ侍だ。

 

 とりあえず、落ち着こう。奥の手はなるべく温存したいし……さっきから剣が割れる度に頭に変なもんが流れ込んでくる。集中が乱れ過ぎて、途中何度か魔術が行使できずに焦った。厄介過ぎる。

 

「……隠れても無駄だよ」

 

「ッ………!?」

 

 嘘だろ。頭上から声が聞こえてきた。見上げてみればそこには……剣の上に乗った藤堂がいる。まさか、剣に乗ったまま空を飛んだっていうのか。万能すぎるぞお前。

 

「凄いな、これは。一本だけなら自由に動かせる。空を飛ぶのも攻撃するのも、自由自在だ」

 

「……一本だけか。そりゃよかった」

 

 どうやら自由に動かせるのは一本だけ。つまり空中浮遊した状態で動き回りながら剣を飛ばすなんて荒業はできないってことだ。

 

 何をされてもいいように槍を構えていると、藤堂は剣を消してステージ屋根に降りてきた。その顔は、新しい玩具を貰った子供のようだ。そりゃそうだろうなぁ。自分に新しい力が目覚めたら、嬉しさが滲み出るものだろう。

 

「どうする? 降参するなら今だよ、探偵さん」

 

「ハッ……いや、こりゃ参ったね……」

 

 ここで降参だと両手をあげるのはとても簡単だ。この場で彼を倒すことに比べたら、天と地ほどの差がある。

 

 けど……諦めたら絶対に後悔する。負ければもう二度目がないことは明白だ。だから、俺はニヒルに笑いながら藤堂に言ってやった。

 

「……探偵が負けたら、話がそこで終わっちまうだろ。まだ、トリックを暴いてすらいないんだぜ?」

 

「……口が減らない人だな」

 

「そりゃどうも。舌戦は俺の持ち味でね」

 

「あっ、そう。じゃあ……」

 

 藤堂が右手をあげると、空中に剣が出現する。そのまま腕を引くと、剣の切っ先は俺に向く。何秒も経っていないんだろう。けれど、俺にはその状態が長く続いていた気がした。浮かび上がる剣が、全て俺に向いている。精々視界の中に収まるだけの数ではあるが、それを捌くのは困難だ。

 

「……口をきけなくしてやるよ」

 

「ッ………!!」

 

 藤堂の腕が俺に向かって振るわれる。それと同時に剣が次々と射出され、俺を貫こうとしてきた。もはやどれが最初に飛んできたのかわからない。マトモに相手にしてはいられなかった。その場から後ろに向かって全力で走り出し、飛んできた剣を一本だけなんとか掴むと、そのまま屋根から飛び降りた。

 

 無論、高さ的に飛び降りたら着地の時に膝をやるだろう。だから着地する直前で、奪い取った剣を地面に叩きつける。剣は砕けたが、その分落下の衝撃は減った。受身を取って、直ぐにその場から離れる。降りてきた場所には、既に何本もの剣が突き刺さっていた。

 

「……諦めの悪い人だな。俺を本当に人殺しにさせる気?」

 

 追撃をやめて、剣に乗って地面に降りてきた藤堂は、さっさと諦めろと言ってくる。それでも俺は首を縦に振る気はない。依頼を達成する為にも、お前自身を助ける為にも……負けるわけにはいかなかった。

 

「……まだ、俺はやれるぜ。意外としぶといよ、俺は」

 

「身に染みてるよ。でも、今度こそ終わりだッ!!」

 

 剣を両手に構え、正面きって斬りかかってくるのかと思えば、藤堂の背後からは剣が射出され始めた。剣戟と射撃の二段構え。これは……。

 

「ッゥ……」

 

 全部は、弾けない。接近されて逃げることもできない。藤堂の剣を《飛ばし》ても、飛んできた剣が皮膚を浅く裂いていく。ヒリヒリとした痛みと共に、傷跡が熱くなってくる。

 

 そして頭の中に流れ込んでくる映像。それが何よりも邪魔をしてくる。集中できない。鬱陶しくて、目の前の景色が移ろって、剣がどこにあるのかわからない。

 

「ッ、くらえ!!」

 

 藤堂の声が聞こえる。女の子の声が聞こえる。剣が割れる音が聞こえる。目の前の景色が変わっていく。夜の街、学校、部屋、広場……。

 

 ……俺は今、どこにいる。

 

「……ァ、あァ……」

 

 プツンッと、電池の切れた玩具のように俺は動けなくなった。立っている力もなく、そのまま地面に向かって倒れていくのがわかる。

 

 腹を打って息もできず、強く打ち付けた鼻と額が痛い。そして、何よりも……足が、動かない。

 

「……足、もう動かないみたいだな」

 

 これでもう終わりだと、俺の上から聞こえてくる。首を上げることもできない俺には、それに言い返すことはできなかった。足……切れてはいないんだろう。でも、動かない。

 

 それに……なんだか、視界の隅の方がボヤけて、段々と黒くなってきた。

 

「─────」

 

 ……情け、ない。こんなところで……俺、は……。

 

 ………。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 ───誰かの声が聞こえる。俺は今、どこにいる?

 

『ねぇコウ君、聞いてるの?』

 

 ……そこは、マックの角にあるスペースだった。店内では音楽が流れ、食欲をそそる匂いが漂ってくる。目の前にはポテトをつまんでいる女の子がいた。確か、この女の子は……。

 

『昨日の文化祭、どうだった?』

 

 確か……あの冴えない男の子と一緒にいた、明日香って女の子だ。いや待て。じゃあ、俺は……?

 

 視線を動かすと、身体が見えた。でもそれは自分のものではない気がする。慌てて座った状態から立ち上がると、座ってた場所には……藤堂がいた。

 

『ルーム長も割とやる気でさー』

 

 女の子の話を、何気ない顔で聞いている藤堂。その顔はどこか嬉しそうだ。まるで、話すことが当然のようで、それを誇らしそうに思っているみたいだった。

 

 ……明日香という女の子は他の男と付き合っていたはず。つまりこれは過去の出来事なのだろう。

 

 俺は確か……藤堂との戦いに負けて、倒れたはず。そういえば、明日香って子の声が戦闘中に何度も聞こえた。そして今は、まるで藤堂の過去を見ているようだ。

 

「……まさか」

 

 藤堂の持っていた超能力。剣を出現させて、それが割れると俺に過去が一瞬見えた。そして外界と遮断された時も、何かが聞こえた。それはつまり……。

 

「記憶を、力として使用しているのか……?」

 

 ……だとすれば、納得がいく。記憶がすり減ってしまうのも、力を使っているからだろう。身体能力向上にも記憶が使われるのなら、普段の活動でも記憶の摩耗が起きる。

 

 そして更に、今使っている剣の具現化と、その剣の破壊。それがより一層記憶の摩耗を早めているのではないか。

 

「……意識を失ったせいで、アイツの記憶が流れ込んできてるのか」

 

 ……だが、それがわかったとしてどうする。今の俺に、ここで何ができるというのか。そんなことを考えていると、突然女の子の方が少し身体を強ばらせた。

 

『えっとね……コウ君になら、話してもいいかなって思って……』

 

 女の子が照れくさそうにしながらそう言った。藤堂は何を考えているのかわからないが……。

 

『……あ、あのね……私……』

 

 ……これは。

 

『……好きな人が、できたの』

 

 ……藤堂の顔が、一瞬で真顔に変わった。けれどすぐに、表情を元に戻す。あぁ、でもこれで……わかってしまった。藤堂はこの女の子のことが好きで、だというのに本人から恋愛相談のようなものを受けてしまったのか。

 

『僕はいつだって隣にいた。君が望んだことをし続けた。誕生日をお互いに祝いあったし、夜中に二人で遊びに行ったこともあった。僕はいつだって……』

 

 今まで一言も話さなかった藤堂が口を開いた。その言葉は、女の子には聞こえていない。彼の口から漏れる言葉は、今にも泣きそうだった。震える声を絞り出している彼の姿は……正直、見るに耐えなかった。

 

『君の─────』

 

 ……藤堂は何か言っていたようだ。しかしそれが聞こえる前に、俺はまた別の場所にいた。夕暮れ時の、公園だろうか。風が吹いて、錆びたブランコがキコキコと嫌な音を立てる。ざっと周りを見回してみると……公園の隅で、五人の子供が集まっていた。

 

 三人の男の子が、座り込んで泣いている男の子を見下ろしている。その間に割って入っている女の子も見えた。幼い顔立ちではあるが……どことなく、さっきまでいた明日香という子に似ている気がする。

 

『弱虫のくせに、また明日香に守られてんのかよ』

 

『うるさい! アンタたちはさっさとどこかに行きなさいよ!!』

 

『いってッ!?』

 

 真ん中の男の子が、女の子に頬を叩かれた。中々に痛そうな音が聞こえたので見てみたら……叩かれた男の子は泣き目になっている。

 

『フンッ、アンタも泣いてるじゃない! 泣いてるくせに、コウ君のことを弱虫だなんて言うな!』

 

『うっ……う、うっさい! バーカ!』

 

 真ん中の男の子が走って逃げていくと、両隣りの男の子も走って逃げていく。随分と強い女の子だ。それに比べて、座り込んで泣いている男の子……恐らく、これは藤堂だろう。彼はずっと泣きじゃくっていた。

 

『もう、いつまで泣いてるの!』

 

『だ、だってぇ……』

 

『そんなんだから、いつも下に見られちゃうんだよ! もっとシャキッとするの!』

 

『む、ムリだよ……』

 

 ……今の彼と比べたら、比べ物にならない。泣き止まない彼の隣に座り込んで、女の子は頭を撫で始めた。そうしているうちに、藤堂は泣き止み、二人は並んだまま話し始める。

 

『あ、明日香はなんでいつも僕のこと、助けてくれるの?』

 

『……コウ君が頼りないから。守ってあげなくちゃって』

 

『うっ……』

 

『あぁもう、また泣くの!?』

 

 女の子が乱暴に手で彼の涙を拭っていく。なんだか、微笑ましいものを見ている気がする。彼の過去に、こんなことがあったのか……。

 

 ……二人は幼馴染なんだろうか。俺と菜沙のような、深い繋がりがある関係なのかな。俺には全てはわからないけど……。

 

 でも……藤堂が、彼女のことを大切に思っていることはわかった。そして彼女も藤堂のことを大切に思っているのだろう。彼女は少し浮かない顔で、藤堂に言った。

 

『……私だって、いつまでも守っていられないよ?』

 

『えっ……』

 

『だって私……女の子だもん。私だって、守られたいなって思うよ』

 

『う、ぅ……』

 

 下を向いて唸り始めた藤堂は、そのまま動かなくなってしまった。ため息をついた女の子はその場から立ち上がると、数歩彼から離れて立ち止まる。

 

『まぁ、コウ君には無理かなー』

 

『っ………』

 

 ……藤堂が立ち上がる。涙の跡が残るその顔は、先程まで泣いていた男の子の顔ではなく、覚悟を決めたひとりの男の顔だった。彼は背を向けている女の子に向かって告げる。

 

『ま、守るよ! 僕が、きっといつか……守れるように、なるから!』

 

 とても大きな声で彼は言った。ご近所さんにも聞こえるような大声で。その決意を込めた言葉に、彼女は微かに笑いながら振り向いて、彼に言った。

 

『ふふっ、なれるの?』

 

『うっ……な、なる。絶対に、なるから!』

 

『……そっかぁ。じゃあ、約束!』

 

 小指を差し出した女の子。そしてそれを理解し、また同じく小指を出した藤堂。二人の小指が、固く結ばれる。そして女の子はとびっきりの笑顔で藤堂に言った。

 

()()()()()()になってね、コウ君』

 

『っ……うんっ!』

 

 幼いふたりの交わした大切な約束。子供の頃交わした約束を……幼い藤堂は、頬を染めて強く頷いていた。

 

「っ………!!」

 

 場面が次々と変わっていく。

 

『はぁ、はぁ、はぁ……っく……』

 

 夜、誰もいないような場所で走り続ける彼がいた。

 

『っ、ふぅ……ふぅ……』

 

 家の中で、汗を垂らしながら必死に腕立てをする彼がいた。

 

 どれだけそれがキツくても、彼は止めなかった。例え風邪をひいても、彼は止めなかった。それが旅行中でも、彼は止めなかった。

 

 ただひとつの……守るべき約束のために。

 

「……あぁ、なんだ……お前、こんな大切なこと忘れちまったっていうのかよ」

 

 汗と涙を垂らして、お前が守ろうとしていたものは……。

 

『僕は君のヒーローになるんだ』

 

 ……そんな、約束だったんだ。

 

 

 

 

 

To be continued……



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第98話 心を守る記憶

  ───気がつけばそれは当たり前だった。

 

 朝が来て、夜が来て、そしてまた朝が来る。そんな常識的なことみたいに、変わらないものなんだろうって思っていたんだ。

 

 朝に君と出会って、昼は一緒にいて、夕方に別れて。楽しく笑う君も、感動して泣く君も、悲しくて蹲る君も。あぁ、でも最近は……その姿を思い出せなくなった。大切な記憶で、今後何も変わらないと思っていたもの。

 

 でも……変わらないものなんてない。いつの日か、そう……何もかも、ふっと風が吹いて飛んでいってしまうんだ。

 

 だから……いいんだ。僕は、このままで。

 

 そう思っていても……何かがつっかえる。一番大切なものを忘れてしまった気がする。いつだろう。気がついた時にはもうなかったし、それとも最初から存在しなかったのかもしれない。

 

 本当に大切なことなら、心の奥底で眠っているはずなのにね。思い出せないってことは、きっと……。

 

 ……大切じゃないってことなんだ。誰に聞くまでもない。当たり前のことだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 手には手汗がびっしょりだった。手袋の中が正直気持ち悪いけど……目の前で、血を流して倒れている男を見ていると、そんなことも気にならない。

 

 ……死んではいない。でもどうしようか。適当に救急車でも呼んでおけばいいのかな。それとも放っておこうか。

 

 何も悔やむことはないというのに。だって、お互い譲れなかったんだ。覚悟をして、互いに刃を向けた。それなら、別に相手に対して悩む必要もないはずだ。僕は、正しいことをした。そのはずなんだから。

 

「……何か、それらしい事くらい言えよ。探偵ならさ」

 

 ……何か、言ってほしかったんだろうか。いや、わからない。それでもきっと、何か期待していた。今まで僕にここまで歯向かう人はいなかったから。でも、勝てなかった。きっと手加減されてたんだろう。それでも僕の勝ちだ。

 

 だからもう、僕に構わないでくれ。そう心の中で呟いた後、背を向けて離れていく。一歩一歩が、重い。それに……頭が、痛い。どうして、こんなに痛むんだ。わからない……何も……。

 

「……っ、ぐっ……うっ……」

 

 ……嘘だ。後ろから呻き声が聞こえる。驚きながらも振り返ってみれば、そこでは……倒れていたはずの彼が、槍を支えにして無理やり立ち上がろうとしていた。

 

 腕には傷は少ないが、それでも胴体や足には多くの切り傷がある。足なんて、どんどん血が地面に向かって滴り落ちていた。そんな状態なのに……。

 

「なんで……」

 

「っ……なんでも、何もあるかよ」

 

 歯を食いしばって、彼は完全に立ち上がった。そこにはあの不敵な笑みも、自信満々な表情も何もなく。ただ真っ直ぐに僕を見つめる強い瞳があった。そんな彼は、僕に言ってくる。

 

「……お前を、ぶん殴らなきゃいけない理由ができちまった」

 

 ……なんだ、それは。意味がわからない。倒れていただけのはずなのに、彼は何を考えたというんだ。わからない。全然わからない。なぜ立つ。なぜ歯向かう。そのまま向かってくれば、死ぬかもしれないのに。

 

 僕の中で考えは纏まらない。けれど、彼は支えにしている槍を片手で持ち上げると、僕に穂先を向けてきた。

 

「……お前の能力は、記憶の具現化だ」

 

「なに……?」

 

「いいや、正確には……お前の心が感じた記憶の性質変化とでも言うべきか」

 

 ……わからない。何を言っているのか理解できない。記憶、心、具現化、性質。どれもこれも、意味がわからない。

 

 だというのに……彼には、わかるっていうのか。僕にすらわからない、僕自身の力が。

 

 強い眼力で睨みつけてくる彼に対して、僕は何もできなかった。ただ……彼の言葉全てが、すんなりと内側に入り込んでくる。

 

「お前にとっての過去。大切な女の子との、記憶。お前の剣が壊れる度に、それが俺の中に流れ込んできた。お前にとって、明日香という女の子の記憶は……自分の心を刺し貫く、痛々しいものでしかなかったんだ」

 

「明日香との……記憶が……?」

 

「心を傷つける記憶は、やがて剣となった。お前の平穏を守る日常の記憶は、やがて血肉となった」

 

 彼は……言った。明日香との記憶が、僕の心を傷つけているのだと。それは誰かを傷つける剣となった。そんな僕を守る日常の記憶。何気ない友人との会話。それらが僕を守る身体となったのだと。

 

「……しかし、使う度にお前の記憶はすり減っていった。だから、お前は記憶が欠落しているんだ。何気ない言葉も、約束も、何もかも」

 

「……そんな、馬鹿な……」

 

「……そして、その記憶の具現が……お前の心に更に痛みを与えている」

 

 彼は頭を人差し指で二回ほどコツンッと突きながら、そう言った。心の話なのに、なんで頭を突くのか。そう疑問に思っていると、彼は僕に言った。

 

「……心は心臓にあるんじゃない。心があるのは……俺達の頭だ」

 

「頭……?」

 

 ……けれど、悲しみを僕の心は……心臓は何度も伝えてきた。締めつける感覚や、痛みとして。それなのに、心があるのが頭だと言い切るのか。

 

「超能力。それを使って疲弊するのは、お前の心。すなわち頭部。更に言えば……脳の記憶に関する部分だ。下手するとお前、脳がぶっ壊れるぞ」

 

「……そんなわけ、あるか。だって今まで大丈夫だった。ずっとこの状態で、やってきたんだ!!」

 

「ふざけるなッ!!」

 

「ッ……!?」

 

 今までにない大声に、身が震えた。怒っているのか。どうして……会って間もない僕に対して、彼は怒っているんだ。

 

 さっきまでの表情とは違って、まるで鬼の形相のような顔で彼は睨みつけている。

 

「ずっと同じ状態だと……? お前、一番大事なもん忘れてるくせに、よく言えたもんだなぁ!!」

 

「……一番、大事なものだと?」

 

 ……そんなもの、ない。一番大事だというなら忘れないはずだ。力として使わないはずだ。だから、そんなもの……存在しないはずなんだ。

 

「あるわけない! そんなもの……存在しない!」

 

「いいや、ある!! お前の奥底に眠ってるんだよ!! 能力の使い過ぎで、欠落してるだけなんだ!!」

 

 そう言って彼は槍の後端を地面に突きつけた。わからない。僕には彼の言いたいことが、わからない。それでも彼は言葉をとめない。僕の身体の内から、怒りにも似た感情が湧き出していく。彼は言葉を震わせ、僕は身体を震わせていた。

 

「思い出せよ!! お前の、何よりも大切な記憶を!!」

 

「そんなもの、知らない!!」

 

「わからないなら、思い出すまで戦ってやる!!」

 

「やってみろよ……くるなら、今度こそアンタをッ!!」

 

 身体の中から、何かが消えていく感覚があった。それと同時に僕の周りには剣が浮び上がる。剣の強度や大きさはそれぞれ違う。この剣のひとつひとつが、僕の記憶だというのなら……どれほどそれが僕に影響を与えたのかによって、剣もまた変わってくるんだろう。

 

 そしてそれはきっと、いらない記憶に違いない。だって、なんの躊躇いもなく使っているのだから。それに、僕はやめない。ヒーローになるんだ。ヒーローでいなくちゃいけないんだ。その強迫観念にも似た想いだけが、今の僕を動かしている。

 

 だから……僕は……。

 

「───来いよ、藤堂ォォォッ!!」

 

「うあぁぁぁぁッ!!」

 

 剣が飛んでいく。もう止められない。その全ての剣は彼の身体を貫くためだけに飛んでいく。

 

「ぐっ、おぉぉぉッ!!」

 

 彼が槍を振るう。それだけで、剣が吹き飛ばされていく。その場で少しずつ、一歩一歩ゆっくりと僕に近づいてくる。僕がこのまま剣を飛ばしながら後ろに下がっていけば、彼に勝ち目はない。

 

 でも……下がれなかった。下がったら負ける気がする。目の前で叫ぶ男の声が、そう思わせていた。だから……引けないッ!!

 

「まだ、まだァァッ!!」

 

 飛ばす。飛ばす。飛ばす。その度に欠落していく。なるほど、言われてようやくわかった。それでもやめない。

 

 どれほど強い剣でも、彼の一撃は何もかも吹き飛ばしていく。そんな力が込められているようには思えなかった。だとしたら、僕の知らない力があの槍に働いているに違いない。

 

 あの、槍を……。

 

「負けて、たまるかってんだよォッ!!」

 

 彼が叫ぶ。そして歩いていたはずの彼が、僕に向けて走り出した。身体が傷つくのを厭わず、本当に危ないものだけを槍で弾いていく。距離はまだ、ゆうに30メートルはあるはずだ。ここに来る前に、力尽きさせるだけの距離はある。

 

 ガラスの割れる音を響かせながら、槍と剣がぶつかり合う。背筋に冷たいものが走ってもなお、僕はやめない。剣を……ありったけの、(記憶)を……!!

 

「ぐっ、うぅ……ッ!!」

 

 痛い。頭が焼かれているみたいだ。でもとめない。射出させるのとは別に、僕は一本の剣を出現させると、それを無理やり動かす。

 

 それだけで、頭に酷い痛みが出てきた。それでもやめない。それだけの無茶をしないと、彼は絶対に止まらない。だから……射出させつつ、この剣を……動かすッ!!

 

「あ、あぁぁぁッ!!」

 

 悲鳴が漏れる。それでも剣を動かす。彼の死角に動かし、そしてそこから……彼の槍めがけて、撃ち込むッ。

 

「なっ……しまった……!?」

 

 カランッと槍が硬い音を立てて地面を転がっていく。射抜いた剣は消えてしまったけれど、彼から槍を奪うことはできた。射出をやめて、かわりに彼の槍の周りに剣で檻を作る。

 

 これでもう、彼は槍を使えない。剣を弾くこともできない。その場で立ち尽くすことしか、彼にはできないんだ。苦痛に苛まれながらも、僕は彼に言ってやった。

 

「どうだ……もう、槍はない。アンタの負けなんだよ!!」

 

「……負けてねぇ」

 

「悪あがきはよせ!! もう弾けない、次はアンタの身体に突き刺さるぞ!!」

 

「……やってみろよ。やれねぇくせによぉ!」

 

「ッ……!!」

 

 浮かんでいる剣を一本、彼の正面に飛ばした。目を見開いた彼はそのまま身体を横にずらすも、間に合っていない。右手の掌を飛んでくる剣に添わせる形で軌道をずらした。彼の身体には刺さらなかったが……右手からは、鮮血が滴り落ちていく。

 

「……次は、当てる」

 

「……そこまでの、覚悟があるのに……忘れるなんてな」

 

「知らない。そんなもの……」

 

「そんなもんじゃねぇ!!」

 

「黙れッ!! これを見ても、まだ戦うというのかッ!!」

 

 今までにないくらいの大量の剣を出現させた。数えることすら億劫な程の数。それを……僕は、次は同時に発射する。そう言ったのに……。

 

「思い出すまで……戦うって言っただろうがァァッ!!」

 

 なんで……怖気づかないんだよ……ッ!!

 

「ッ、くたばれェェェッ!!」

 

 我慢の限界だった。もう、止められない。浮かんでいた剣が全て彼に向かって同時に飛んでいく。そのまま砂漠のサボテンのように……棘だらけになればいいんだッ!!

 

「《吹っ飛べッ!!》」

 

 諦めない彼の悪足掻きか、どうしようもないというのに……彼は血だらけの右手を剣に向かって振るった。

 

 そして……何故か、彼の身体を突き刺すはずの剣が、音をたてて割れていく。

 

 何かが僕の頬に飛んできた。それを指で触ってみると、それは粘着性のある赤い液体……彼の、血だ。まさか、血を飛ばしているのか。そんなことで、僕の剣が……砕けたっていうのか……!?

 

「ありえない……」

 

 血液の弾丸が、襲い来る剣を壊し尽くした。足を止めていた彼が、走り出す。僕に向かって、全速力で。でも、その右手にもう血は残っていない。血を飛ばして剣を弾くなんて馬鹿げた……まるで、魔法みたいなことは、できないはずだ。

 

「なんで……」

 

 もう弾く手段はないはず。それなのに、なんでまだ……向かってくるんだ!!

 

「ッ、来るなァァァァッ!!」

 

 今までにないくらい、とてつもなく大きな剣を作り出した。それを後方に引いて、全力で撃ち出す。無理だ。これはかわせるわけがない。だからもう、これで終わりなんだ!!

 

 僕の叫び声に対抗するように、彼は傷ついた右手を前に突きだした。そんなもので、防げるわけがない。

 

「─────」

 

 ……防げるわけ、ないのに。なんで。

 

 なんで彼は、そんなに真っ直ぐな顔でいられるんだ。

 

「《逸れろォォッ!!》」

 

 彼が何かを叫ぶ。突き刺すはずの剣は……不思議な軌道を描いて、彼から逸れていった。

 

「ハッ……ハハッ……そんな、馬鹿な……」

 

 どんな障害も物ともせず。どれだけ傷ついても戦い続ける。決して辛いと漏らさず、前だけを見て進み続ける彼のその様は……。

 

「藤堂ォォォォッ!!」

 

 武器もないのに。ここまでやってくるなんて。一体、どうして……。

 

 まさか……。

 

『お前を、ぶん殴らなきゃいけない理由ができちまった』

 

 僕を……殴るため、だけに……。

 

「─────」

 

 目の前に迫る彼。引かれた右腕。握られた拳。あぁ、その様は、まるで……。

 

 ……ヒーロー、だ。

 

「《吹っ飛べェェェェッ!!》」

 

「がッ─────」

 

 頬に彼の拳が突き刺さる。ただの拳なのに……痛い。そう思った時には僕は空を舞っていた。

 

 脳が……揺れる……。

 

 あぁ……()が、痛い。

 

『私のヒーローになってね、コウ君』

 

 ……聞こえ、た。彼女の声が。

 

 あぁ……あぁ……こんな、大切なことを、僕は……。

 

 ……忘れてしまっていたのか。

 

 君はずっと、僕の心の奥深くで……僕の()を守ってくれていたんだね……。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 ……倒れている藤堂の身体と、傷ついた俺の身体に医療班の人から貰ったゼリー状の傷薬を塗っていく。すると、身体の傷は凄まじい勢いで治っていった。小さな傷はもう既に見えなくなっている。

 

「うっ……ぅ……」

 

 ヨグ=ソトースの拳で吹き飛んだ藤堂が、薄らと目を開ける。横たわったまま周りの様子を確認し始め……そして俺を見つけると、深いため息をついた。

 

「……負けた、か」

 

「あぁ……お前の、負けだ」

 

「まさか、探偵に負けるなんて……」

 

「……悪いね。俺探偵じゃねぇんだわ」

 

 横たわる藤堂と、その隣に座っている俺。互いの視線を交差させながら、俺は彼に言った。

 

「俺、魔術師なんだ」

 

「……ズルいなぁ」

 

「馬鹿言え。お前の能力の方がズリぃよ」

 

 言い合うと、合わせるわけでもなく互いに吹き出した。藤堂の結界が解けた今、辺りには静かな風が吹いている。心地よい風と共に、先程までの喧騒は何もかも飛んでいってしまったんだろう。辺りには優しい静寂だけが訪れている。

 

 藤堂は俺から視線を逸らすと、空に浮かんだ月を見ながら言った。

 

「……思い、だした。俺の大切な記憶」

 

「そうかい。そりゃ、良かったよ」

 

「あぁ……。明日香の、ヒーローに……明日香を、守るために強くなったっていうのに……結局、俺はアイツに守られてばかりだった」

 

 忘れてしまっていた時でも、と彼は言う。その両目から涙が零れていき、地面に流れ落ちる。でも、彼の口は微笑んでいた。

 

「俺の脳が壊れないように、ずっと知らせてくれていたんだ。それを、俺は……」

 

「……お前の能力は、強力だ。それ故にリスクもでかい……わかってるな?」

 

「あぁ……うん、わかってる。もう、やめるよ」

 

 俺はヒーローなんてもんじゃない、と彼は呟いた。彼の目指したヒーローは、個人の味方だ。決して大衆を守るためのものではない。あぁ、でも……。

 

「ならいい。けど、よく今まで頑張ったな」

 

「……えっ?」

 

「方法は正しくなかった。それでも、人を助けたことには変わりないんだ。傷つけた人を、そしてなによりも……守れた笑顔を、忘れるなよ」

 

「っ……あぁ」

 

 泣きそうな声で返事を返してきた彼に笑いかける。強がっていても、根は優しく臆病な子だ。それでも、好きな人のために変わろうと努力したんだ。

 

 俺はそれを否定しない。これでもう、彼も懲りたはずだ。道を違えることはない。立ち上がって、彼に手を貸して立たせた。

 

「……俺はまだ、この街にいるよ。疲れたからな。しばらくは休みたい」

 

「……そう、ですか」

 

「何今更敬語使ってんだよ。なんもかんも、遅ぇなお前はよぉ」

 

 彼の頭を無理やり荒く撫でつけた。やめてくれと言う彼の顔は、どこか嬉しそうに緩んでいる。俺はまた彼に笑ってから、手を離して数歩離れた。携帯を取り出して、彼に言う。

 

「……まぁ、そういう訳だ。なんかあったら電話しろよ」

 

「……する機会があればね」

 

「悪いことしたら、今度は俺よりおっかねぇ人連れて集団リンチだからな」

 

「それは嫌だな。そうならないようにするよ」

 

「おう、そうしろよ」

 

 互いにニヤリと口元を歪めて、離れていく。お互いの身体が夜の闇に溶け込んでみえなくなった頃、俺はため息混じりに呟いた。

 

「これにて事件は解明。探偵仕事はお開きかな」

 

 真実はいつもひとつってな。まやかしを使う魔術師が言えたもんじゃないがね。

 

 それにしたって……まったく、彼は容赦がない。ズボンなんてダメージジーンズみたいになってる。これは、縫うの大変だなぁ……。そう愚痴をこぼす俺の口元は……きっと、笑っていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 ───どくん、と何かが聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

To be continued……




今回氷兎が使った魔術。一応奥の手として覚えていたものですね。


 被害をそらす

 自分に向かってくる被害を、込めた魔力によって軽減、もしくは完全に回避する魔術。当然普通の人間のMPじゃ連発はできない。燃費が悪いというか、相手の攻撃が痛すぎるので、必要なMPが大きくて連続使用できないだけ。常識的に考えて、普通にヤベー魔術。

 詠唱は必要なく、行使も心の中で《逸らす》など呟いたり、《逸れろ》なんて発言しても効果が出る。無論夢の中で氷兎はナイアに虐められて取得した。



たまにはこういった、少年漫画みたいな戦闘も……いいねんな……。


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第99話 名前のない誰か

 

 ───人々は願った。

 

 

「誰かなんとかしてくれないかな」

 

 

 ───人々は嘆いた。

 

 

「皆が、私を虐めるんだ……。皆、いなくなればいいのに」

 

 

 ───人々は歓喜した。

 

 

「日頃の行いが悪いんだよ、ざまぁみろ」

 

 

 ───人々は。人々は人々は人々は人々は人々は。誰もが欲を抱いた。

 

 

「『誰か』助けてくれないかな」

 

 

 ───しかし人々は……願うだけだった。

 

 誰かがやってくれるだろうと放棄した。

 

 そんなことはありえないと思考すらも放棄した。

 

 私こそが絶対だと責任を投げつけた。

 

 悪いのは全て自分以外の誰かだと擦りつけた。

 

 誰か。誰か。誰か誰か誰か誰か誰か。自分以外の誰か。

 

 やりたくない。だからやらない。誰もやらない。誰かやるだろう。終わらない。誰の責任。誰の。いや、誰かの。

 

 

 ───誰か。誰か。誰か。人々は姿の見えぬ誰かを呼んだ。

 

 

 ……果たして、誰も成さなかった。

 

 誰かがやるだろうと期待した。自分じゃなくてもいいだろうと放棄した。面倒だからと擦り付けた。それら全て、己が成さねばならぬ事であろうとも。

 

 

 ───だから、誰か()は産まれたのだ。

 

 

 誰かと叫んだ、誰かの為に。

 

 

 助けてと叫んだ、誰かの為に。

 

 

 

 ……願うがままの存在として。

 

 

 

『学校の田中がウザイ。痛めつけてやれ』

 

『誰か助けて。皆が私を虐める』

 

『コンビニで飲み物を買った警察がいた。職務放棄だ、殺せ』

 

『煙草を吸ってただけでキレてきたあのBBAどうにかしろ』

 

『昼に歩いていただけで、散々なことを言われた。好きで学校に行かないわけじゃないのに』

 

『カツアゲされて、財布を取られた。助けて』

 

 

 

 やら(I'm)ねばな(your)らない(Hero.)咎を(And)全て担(I'm)っても(Villain.)

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 昼間の街には活気があった。その街の中央部はレストランや古本屋、カフェやカラオケと様々な店が建ち並ぶ場所だ。そこを通る人の年齢にはとてつもない差がある。ゆっくりと散歩をする老人がいれば、買い物に行く主婦。そして遊んでいる学生達。利用できる施設の多さに、人々は嬉しく思いながら通いつめる。

 

 そんな人の多い場所に、ポツンッと一人の男が立っていた。全身が黒い服や手袋で被われ、顔にはただ真っ黒な仮面がつけられている。フードを被っているのに加え、何故か黒のマントが風にはためいていた。そんな怪しい男がいるのだが、不思議なことに誰も彼に気がついていない。

 

 通り行く人は彼が見えていないのか、素通りして目的の場所へと向かっていった。誰にも気づかれない彼は、ただじっと通行人を眺めている。言葉一つ発さなかった彼だが、誰かを見つけたのか……通行人の女を見つめると、声を漏らした。

 

「……見つけた」

 

 人々の合間を縫うように、その女の元へと向かっていく。スーツ姿で歩くその女は、やはり彼に気がつかない。

 

「……新堂(しんどう) (さき)だな?」

 

「……えっ?」

 

 突然背後から声をかけられ、慌てて女は後ろを振り向く。そうして、ようやく彼は認知された。仮面のせいでこもった低い声が、まるで冷たい刃を突きつけるように女に差し向けられる。その異様な姿と冷徹な言葉に恐怖した女は、顔を青ざめさせ、唇を震わせながら返事を返した。

 

「は、はい……そう、ですけど……」

 

「……そうか。じゃあ……」

 

 鉄の擦れる音が聞こえる。元からそこにあったかのように、彼の右手には黒の鞘に収まった刀が存在していた。女は、それがなんであるかを確認する間もなく……。

 

 

「───死んでくれ」

 

 

 一突き。彼と女の間には隙間がなく、抱き合うようにも見えた。だが……女の背中からは刀が生えている。真っ赤な鮮血をポタポタと垂らしながら……。

 

「あ……あぁ……」

 

 女の喘ぐ声。しかしそんなものに興味はなく、彼は刀を抜くために蹴り飛ばした。堪える力もない女はそのまま地面に倒れ、赤い液体が水をふんだんに含んだ絵の具のように伸びていく。

 

「ね、ねぇ……アレ……」

 

 周囲からはどよめく声が聞こえ始めた。現状を理解できず、思考停止する者。持っていた荷物を落とした者。開いた口から声にならない音が漏れていく者。遠くから携帯を構えて、その様子を写真に写す者。

 

 彼は何も言わない。だが、民衆の中にいた男が死体の側に立つ男を見て叫んだ。

 

「ひ、人殺しだ……!!」

 

 恐怖は伝播した。各々の心の内に植え付けられた恐怖の種が、男の声で一気に成長して開花する。悲鳴、叫び声、泣き声。様々な者が逃げようとする中で、一人笑ってそれを見ている男がいた。

 

「ハッ……ハハッ……お前が、悪いんだ……。会社の男と不倫なんてしやがって……ッ!!」

 

「………」

 

 歪んだ顔で笑っている男の元に、彼は向かっていった。それに気がつくと、男は両手を合わせて頭を下げる。

 

「……私の書いたアレを、読んでくれてんだろう? 復讐ができて、よかった……。ありがとう、ヒーロー」

 

「……そうか。だが……」

 

 血塗れた刃を手に持つ彼は、常人では何をしたのかも理解できないような速さで刀を構え、袈裟斬りで男の身体を斬りつけた。遅れて血飛沫が噴出し、彼の黒い身体を赤くしていく。歪んだ顔は、また別の理由で歪み、その両目からは涙がこぼれていった。掠れた声で、男は言う。

 

「な……なん、で……」

 

「……君が恋の邪魔だそうだ」

 

 先程刺し殺した女を指さして、彼は告げた。涙目の男は目を見開き、死に体だというのに悔しそうに嘆く。

 

「ちく、しょう……あの、女ぁ……」

 

「………」

 

 女に向けて伸ばした手は、やがて地面に落ちて動かなくなる。辺りからは人の気配が消え、代わりにパトカーのサイレンが鳴り響いていた。

 

「……そういえば、警察とやらにもいた」

 

 呟いた彼は刀についた血を気にすることなく鞘に収め、また歩き出した。

 

「……なぜ、逃げる。君達が望んだことなのに」

 

 斬り殺した男の死体を遠目から眺め、彼はそう思った。頭の中にはまだまだ多くの依頼がなだれ込んでくる。名前や画像つきのデータに加え……辺りに隠れている人間の、恐怖という感情すらも受信していた。

 

 どくん、どくん、と彼の体内から音が響く。身体を両手で押さえつけた彼は、仮面の内で一筋の涙を流した。

 

「……悲しいとは、こういうことか」

 

 それでもやらねば。呟いた彼は服についた血も気にせず、人々の逃げた方へと歩いていく。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 ……目を覚ました時には、既に時刻は正午を回っている。机の上に乱雑に置かれたカバンや、真っ黒な服を見て……殴られた頬が少し痛く感じた。擦り傷なんてものは、唯野さんの持っていた傷薬で治ったけど、不思議と頬の痛みだけは消えてくれない。

 

 でも……なんだか、晴れやかな気持ちだった。昨夜の出来事がなければ、僕はまた変なことを考えて勝手に意気消沈して、あるもの全てを恨んでいたことだろう。

 

 流石に疲れていたとはいえ、まさか寝坊するとは。母さんは学校に電話してくれたのかな。きっと明日香も迎えに……。

 

「……いや」

 

 服を着替えながら、思い出した。そういえば明日香は付き合い始めてから僕の家に迎えに来なくなった。一瞬忘れてしまっていたよ。けど、そう思っても今じゃ胸の中で燃える嫉妬なんてものは欠片程度にしか感じなかった。

 

 ……せめて幸せに笑っていて欲しい。けれど、あの男がダメだとわかったら……今度こそ僕から彼女に告白しよう。今は虎視眈々と、彼女のことを狙いつつ……そうだな。何をしようか。ヒーロー活動はもうしないし、そうなると筋トレなんかもあまりやる気になれない。

 

 困ったな。今から学校の友人と親しくなって、一緒に出かけることはできるかな。こう、何気ない感じで……。

 

「……ん?」

 

 出かけるといえば、今日は確か授業は午前中で終わりか。午後は三年生の修学旅行がどうの……。となると、今皆は制服姿で遊びに行ってるのか。そう考えると、部屋の中で眠っていた自分は、何かもったいないことをしてしまったみたい。

 

 そういえば、明日香もデートするって言ってたっけな。そのうちSNSに何かしら投稿してるかもしれない。監視じゃないけど……気になるものは仕方がないだろう。前まで感じなかった罪悪感を少し感じながらも、僕はSNSを開いてタイムラインを眺め始めた。

 

 そして……一番上にでてきた最新の投稿を見て、ふと指が止まった。

 

「……なんだ、これ」

 

 うちの学生だろうか。女の子が『まじやばい』と動画つきで投稿していた。クリックして動画を再生すると……。

 

「……人が、殺されてる……?」

 

 背中から剣の先端が飛び出たスーツ姿の女の人がいた。その後突き刺さっていた剣を抜かれ、力なく倒れていく。血溜まりができ、周りに映る人々も唖然としていた。そして悲鳴が響き、動画の撮影者も走ってその場から逃げ出していく。

 

 動画に映っていた黒いフードの人物。そして手に持っていた反りのある刀。これは、本物なのだろうか。

 

「ガセ……? いや、でもこの場所……」

 

 街の中央部。周りには学生服もチラホラ見えた。間違いない。これは、僕の街の……。

 

 急いで動画のコメント欄を確認した。書かれているコメントは、何動画撮ってんのとか、何これCGじゃないの、ガセでしょ、早く警察に電話しろ……。

 

 ……ヒーローは何をしているんだ。いや違う、アレがヒーローだ。怒って出てきたんだ。皆殺される……なんて、訳のわからないものまで書き込まれていた。

 

「ヒーロー……? いや、違う。ヒーローは僕だ。じゃあ、アレは……」

 

 心ないコメントばかりのSNSを閉じて、すぐに明日香とのメッセージ画面を開く。そこに書かれていたのは……。

 

『明日は街中でデートするの! 中央部なら映画館もあるし、カフェもあるし……ねぇ、何かいいとこないかな?』

 

「─────」

 

 ……明日香が、いる。あの場所に、明日香が。

 

「ッ………!!」

 

 荷物も何も持たずに、家を飛び出した。後ろから母さんの呼び止める声が聞こえるけど、足を止めていられない。何度も明日香の携帯に電話したけど……一度も繋がらない。

 

 ツーッ、ツーッ、ツーッ。そんな音が虚しく聞こえてきた。何度かけ直しても電話に出てくれない。

 

「明日香……明日香ッ……!!」

 

 頭痛がする。けど、そんなものに構っていられない。自分の身体だけを自分の世界として、無理やり力を行使した。上がった身体能力を使って全力で街の中央部に向かっていく。

 

 心臓が嫌なほど飛び跳ね、頭は力を無理に使うなと忠告してくる。けど……けど、そんなもの関係ない。

 

 明日香がいる。あそこに、明日香がいるんだ。もしも明日香が死んだら……僕は……僕の、今までに意味がなくなってしまう。

 

 守るんだ。そのために、今までやってきたんだ。それだけが、僕の生きる理由だったんだ。だから……頼む。電話に出てくれ……明日香……ッ!!

 

「………ッ!!」

 

 走りながら携帯の音を聞いていた。何度目かもわからない電話のかけ直し。それでも僕は諦めずに掛け直した。

 

『……コウ君』

 

 そして……とうとう、聞こえた。君の震えた声が。苦しい呼吸をなんとか抑えながら、安否を確認する。

 

『私は、大丈夫……。でも、すぐそこまで来てて……。警察の人も、殺されてるみたいなの……』

 

「どこ……どこに、いるの?」

 

『映画館の近くで、ハル君も隣にいて……』

 

「わかった。すぐ行くから、家の方向に向かって逃げてきて!」

 

『あっ……コウ君ッ』

 

 電話を切ってポケットの中に突っ込む。携帯がなくなったおかげで、さっきよりもスピードを出せる。あの殺人犯が来るよりも前に……明日香の元に、行かなくちゃ。

 

「っ……悪いけど、通して!」

 

 中央部に向かうと、逃げてくる人達が大勢いた。それらを押しのけて走っていく。そして……うずくまっている学生服の女の子と、それにつきそう学生服の男が見えた。あの髪型は……間違いない、明日香だ。

 

「明日香ッ!!」

 

「っ……コウ君!?」

 

 男には目もくれずに彼女の元へと駆け寄る。右の足首を手で抑えて動かない君は、瞳から涙を零していた。

 

「明日香……何があったの?」

 

「逃げてくる人に押されて、足……くじいちゃって……。すぐそこまで来てるのに、逃げたくても、歩けなくて……」

 

 涙声の君の背中をゆっくりと擦る。視界の隅に映っている男物の靴を見て、君の彼氏がいたことを思い出した。そのまま視線を上げると……情けない顔で俯いている男がいる。それを見ていると、昔の僕を見ているみたいで腹が立った。少し声を荒らげながら、目の前の男に向かって苦言を漏らす。

 

「……お前、明日香のこと抱えて逃げてやるとかできないわけ?」

 

「ぼ、僕には……そんな力、なくて……」

 

 ………。何も言わない。こんな男に僕は劣っているというのか。まったく馬鹿馬鹿しい。

 

 いや、それよりも……明日香をどうにかしなくちゃ。

 

「コウ君……逃げよう。一緒に、逃げようよ。もう、ここにいるの怖いよ……」

 

 半ば悲鳴に近い君の声。そんな声を漏らしながら立ち上がろうとするけど……やはり立てない。僕なら明日香を連れて逃げられる。けど、この男は?

 

 この男を置いて行ったら、彼女は怒る。そしてきっと、悲しむ。

 

「………」

 

 すぐ近くから響く悲鳴と、パトカーのサイレン。そして怒号。さっきよりも近くなってる。きっとこっちに向かって来ているんだ。そんな喧騒の中だというのに、君の声だけが綺麗に耳に届いてくる。

 

「コウ君……やだ、嫌だよ……あんな、風に……死にたくないよ……」

 

「……明日香」

 

 久しぶりに、君の泣く姿を見たような気がする。そして、僕に泣いてすがってくる君も、本当に久しぶりだ。僕が忘れてしまっただけなのかも。いやでも……それは過去のこと。今君は泣いていて、僕に死にたくないと言ったんだ。

 

 ……死なせるものかよ。大切な君を、こんなところで。

 

「……逃げるんだ。ゆっくりとでいい。彼の肩を借りて、家に帰るんだ」

 

 諭すように、優しく君に言った。涙が今もこぼれ落ちていくその目を丸く開いて、君は震えた手で僕の手を掴んで引き寄せようとする。

 

「待って……待ってよ……コウ君は、どこに行く気なの……?」

 

 ……行きたくない。不安げな君を置いて、行きたくはないさ。けど……だからこそ、行かなきゃいけないんだ。

 

「……約束を守る。それだけだよ」

 

「なに、それ……訳わかんないこと言わないでよ……。一緒に、帰ろうよコウ君ッ……!!」

 

「……忘れて、しまったんだね」

 

 少し悲しい。けど、僕も昨日まで忘れてしまっていたことだ。そうとやかくは言わないさ。なるべく君を安心させるように、とびっきりの笑顔を作って、君に笑いかけた。

 

「大丈夫だよ、明日香。僕は大丈夫。だから……」

 

 僕の手を掴む君の手を、優しく離して数歩離れる。君は無理にでも僕を捕まえようと、必死に近づこうとしてきた。泣いた顔のまま、僕の名前を呼んだ。

 

 ……痛いなぁ。心が、とても……。でも、嬉しいと思った。僕にそんな顔を向けてくれたから。僕の名前を呼んでくれたから。だから、僕は行くよ。

 

「……最後くらい、君のヒーローでいさせてくれ」

 

 再び目を開いた君を、僕の記憶の中に閉じこめた。その場から殺人犯のいる方へと向かって走っていく僕を、呼び止める君の声が聞こえてくる。それでも、もう振り向かない。

 

 ちょっとした意地悪だ。君は振り向いてくれなかっただろ?

 

 だから僕も今は……振り向いてあげないよ。

 

 ヒーローは後ろを振り向かない。決して音を上げない。いくら傷ついても諦めない。そして何よりも……。

 

 

 ……大切な人の為に命をかけられる。絶対に君だけは守るよ。

 

『私のヒーローになってね、コウ君』

 

 ……そういう、約束だから。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

「……どうなってんだ、おい」

 

 警察から電話が来て、何かと思えば街の中央で殺人事件が起きたと言っていた。警察が俺に頼ってくる時点で何かおかしいと思っていたが……。

 

「………」

 

 その場所は凄惨たる状態であった。転がる死体は皆苦しそうに顔を歪め、涙を流したまま死んでいる人もいる。成人した男女や、制服を着たままの子供……そして、警察官までもがその場で息絶えていた。

 

 どの人も、鋭利なもので斬られて死んでいる。傷の数は一つだけ。一撃で人を殺して回っている人物がいるということだ。

 

「……なんだ、アレ」

 

 進んだ先には真っ黒な服を着た人物がいた。何にも邪魔されることなく歩いているその様は、まるで鎌を構えた死神がゆっくりと死を与える人物を探しているかのように思える。

 

「─────」

 

 その人物が振り向いた。フードの中には黒い仮面があるが、そこには穴ひとつ空いていない。だというのに、自然と目が合ったのだという感覚があった。身体の中を嫌な不快感が駆け抜けていき、違和感として残留する。

 

 ……神話生物なのか。それも、人型の。

 

「……君は、唯野 氷兎だな」

 

 底冷えするような暗い声。黒い姿を見て、藤堂かとほんの一瞬だけ思ってしまったことを恥じた。目の前の存在はどう考えても人間じゃない。額から嫌な汗が流れていくのがわかる。それでも、億さずに言葉を返さなければ。

 

「……なぜ、俺の名を?」

 

「……依頼があった。だが、既にその依頼は達成されたと報告されている。なのに、なぜ君はそこにいる?」

 

「依頼だと?」

 

「そう……。人々の望んだ、依頼だよ」

 

 声の質からして男だろう。彼は持っている刀を向けずに、俺の言葉に返事を返してきた。依頼と言うと……あのセクハラ云々の奴か。仮にそれが達成済みになっていなかったら、今頃きっと斬りかかられていたに違いない。

 

 いやそもそも、なぜ彼は依頼をこなそうとしている。ヒーローの真似事か。神話生物が?

 

 ……ありえない。

 

「……おや?」

 

 男が呆けた声を出した。身体の向けた方を見れば、そこにいたのは肩で息をしている藤堂がいる。アイツ、どうしてここに来たんだ。

 

「藤堂ッ!!」

 

「っ……唯野、さん?」

 

 呼びかけると、彼は俺に気がついた。すぐにその場から走り出して、俺の隣にまでやってくる。俺一人で戦うべきだと思っていたが……いてくれるのなら、心強い。袋から槍を取り出して片手で持ちながら藤堂に話しかけた。

 

「お前なんでここに来た?」

 

「……明日香がまだ逃げれていない。アイツを守るために、俺はここに来た」

 

「……なるほど。なら文句は言わんさ」

 

 自分の信条に従うというのなら、俺は何も文句は言わない。身体にまた別の感覚が響き、辺りで死んでいた人間達の死体が一つ残らず消え去っていく。

 

「これで、俺を倒さない限りお前は外に出られない」

 

 自分の世界を広げていき、俺と藤堂、そしてあの黒い男だけを閉じこめた。なるほど、これならば戦闘中に逃げられることもない。あの男も依頼を果たせない以上、俺達に向かってくる他ないということだ。それがわかったのか、わかっていないのか……男は顎の部分に手を添えながら話しかけてきた。

 

「……君の名は、藤堂と言うのか」

 

「だったら、なんだ。アンタ、一体何者なんだよ!」

 

「俺? 俺は……誰でもない誰かだよ」

 

「はぁ?」

 

 ……流石に俺でも訳がわからない。今のところはあの男は危害を加えてくる様子はないが……いや、そもそも敵意も殺意も感じられない。あの男、一体何を考えているんだ。

 

 そんな疑問だらけの俺達なんて気にもしないといった風に、男は話しかけてくる。その声音は、どこか嬉しそうだ。

 

「……いい。とてもいい感情だ。これは……恋か。いや、愛か。そして僕に向ける怒りや、覚悟。それら全てが強く輝いている」

 

「……いやいや、そんな抽象的なこと言われてもわからん。できれば簡潔に話してもらいたいね。お前の名前、存在、敵対するのかどうか、その他諸々な」

 

「簡潔に、か。なるほど……俺としても、全てを把握できているわけじゃない。ただ言えることは、名前なんてものは存在しない。そして、俺は造られた存在であるということだ」

 

「……造られた?」

 

「そう。人の知識にはない存在。だが生命としての呼称を、ミ=ゴとされている」

 

「げっ……」

 

 ……こんなところで出てきやがったか。ミ=ゴが絡んでいる事態となると、また話が色々ややこしくなる。藤堂なんて、コイツ何言ってんだって顔してるし。裏に関わってこなけりゃ、そりゃわからんことだらけだろう。

 

 小さなため息をつきながら、俺は藤堂に軽く説明をした。それらは人間の生活の影に隠れて過ごす生命体であり、人間よりも遥かに知能は高く、それでいておぞましい姿をした化物なのだと。その話で一応納得はしてくれたみたいだ。まだ眉をひそめたままではあるが。

 

「ミ=ゴに造られた俺は、ずっと地下深くで放置されていた。いや、その時はまだ『俺』ですらなかった。ただの物質として存在し、上からやってくる感情を集める機械のようなものだった」

 

「……感情、ね」

 

「人間の感情とは、とても興味深いものであったらしい。ミ=ゴ達はそれを理解したかったみたいだけど……俺には、さっぱりだ。喜怒哀楽だけでは到底表すことのできない。そして、人間の感情とは簡単に移ろうものだとも。そんなもの、初期の段階で生命としての道を違えてしまった時点で理解不能だ」

 

 男は抑揚のない声で話を続けた。彼にはそれなりに考えがあるらしい。だが、まだわからない。人を殺した理由はなんだ。そもそも、ただの物質であったというのに、なぜ人型になっているのか。

 

「……人間は不可解だ。愛していると一言で告げても、次の日には別の人に好きだと告げた。表面上では笑顔を装いながらも、本心では相手を貶していた。人の多いこの場所の地下で、様々なモノを感じたよ」

 

「……まぁ、言ってることはわかる。俺達人間ですら、全部わかっちゃいないんだ」

 

「あぁ。でも俺よりは理解できている。それは羨ましいことだ」

 

「……人間なんてものを理解したところでって話な気がするがね。案外唯のロクデナシだよ」

 

「そうかい? まぁ確かに……不思議だった。プラスな感情よりもマイナスな感情が多かったんだ。俺は聞きたい。なぜ人間は働きたくないのに働くのか」

 

 藤堂と顔を見合わせた。働きたくないのに、働く。その理由は至って簡単だ。生きるため……もっと砕けば、金のため。金がなくては生きていくことは難しい。

 

「……生きるため、か。なるほど。でも働きながら生きていたくないと感じる人もいた。俺にはわからない」

 

「……十人十色って言葉で済ませられるのならいいんだが。そうはいかんよな……」

 

「生きるために働くだけじゃない。働くことが好きだから働く人もいる。生きていたくない人は……きっと、世の中に疲れただけだ」

 

「世の中に疲れた、か。君達人間の過ごす世界なのに、なぜもっと快適にさせる事ができないのか」

 

「……そう言われても、ねぇ」

 

 ……男の言葉に随分と悩まされる。敵意も殺意もないのだから、こちらも対応に困った。ただ、今はこの男の真意を図らなければならない。それだけは確かだ。

 

「……結局のところ、理解はできなかった。俺も、ミ=ゴも。だからミ=ゴは新たな情報源を作りあげた。I'm your Heroという、話題のヒーローへの依頼サイトだ」

 

「あのサイト作ったのミ=ゴかよ……」

 

 頭が痛くなってきた。なんだってアイツらこんなに人間の世界に対して積極的なんだ。出会った瞬間殺す気で襲いかかるくせに。

 

「そのサイトと、俺はリンクしている。今も尚色々な情報が流れ込んでくるよ。誰かを殺して欲しい。どうにかしてほしいって」

 

「……お前、サイトの依頼を片っ端から解決する気か」

 

「そうだね。そう願われたんだ」

 

 男の声が、なんだか悲しそうに聞こえてくる。俺達の方を見ずに、どこか遠くの方を見ながら男は話を続けた。

 

「そもそも、物質であった俺は……サイトとリンクしたことによって様々な情報を得始めた。そしてそれに伴い、地上から感知できる感情も増え……その思考すらも、聞こえてきたんだ。俺のこの姿は、人々の願ったままのものだよ」

 

 真っ黒な服を見せびらかすように動かし、マントをいじるその姿はどこか人間味があった。一通り見せることを終えた男は、また話をしてくる。その内容は……あまりにも、酷いものだった。

 

「人々の描いたヒーローの像。誰にも姿を見せず、その正体はきっと男だろう。アニメのヒーローみたいなマントを着ていて、全身黒服のはずだ。人の為に戦うんだから、優しい口調なのかもしれない。けれど、やはり残虐性もあるんだろう。そういった事実無根な噂が、俺の存在として定着し始め、変異してしまった。人々の願った、『誰か』という存在。それこそがヒーローであり……俺でもある」

 

「……人々の考えたことが反映された存在だということか?」

 

「そう。人々は嘆いた。『誰か』助けて欲しいと。そんな他力本願な願いを、しかし誰も助けなかった。皆が呼んだ『誰か』という人物。名前も素性も知らないヒーローという『誰か』に皆縋っていた。積もりに積もったその願い。その感情の集合体として……俺は産まれたんだ」

 

「だから依頼された人を殺す、と」

 

「それ以外、何もできないんだ。そう願われたのだから」

 

 ……つまり、この男は人々の願いの集合体ということなのか。サイトに書き込まれた願いを、その想いを受け取り、具現化した存在。気に入らない奴を痛めつけろ。アイツを殺せ。そうやって命令されたことをこなす事しかできない機械みたいなものだと。

 

 それは……なんて、悲しい存在なのだろうか。目の前の存在は、人間の汚点とも言える。それを背負わせてしまったのか。

 

 何も言えなくなってしまった俺達に、男はまた話を続けた。

 

「人々は、ヒーローを欲しがっていた。誰でもよかったんだ。自分の欲求を果たすためなら……。そんなヒーローは、一体どんな人間だというんだろう。姿も見せないし、強いし、驕らないし……。あぁ、そうか。なるほど……ヒーローは……人間じゃないに違いない」

 

 仮面に手が伸び……顔を覆っていた面が外された。

 

「─────」

 

 互いに、何も言葉が出なかった。

 

 ホラーなんかで人が怖がるのは、突然出てきたという驚きの要素だけでなく、恐怖を煽る敵の存在が不可欠だ。それは人型である方が恐ろしい。人が恐れるのは人であるからだ。それでいて、あるべきものがなければより恐ろしい。例えば目がなかったり、歯が赤かったり。

 

 あぁ、目の前の男には目はあるのだ。

 

 だが、その造形がどうしようもなく人間としての心に恐怖を植え付けてくる。その目はあるべき場所になく、顔の中心付近で歪んだ形で存在し、瞳なんてものはなく真紅の目だけがあった。

 

 鼻はなく、口は顔の右側にある。肌の色なんてものはなく、何よりも黒い色が塗りたくられたようなモノがあった。

 

 人のようでありながら、人ならざるもの。

 

 それはこの上なく恐ろしい存在でもあった。

 

「俺は、バケモノとして産み落とされた。人々を理解するための装置だった俺が、人からかけ離れた存在になってしまったよ。酷い話だ」

 

「……あ、ぁぅ……ぁ……」

 

「ッ……藤堂、しっかりしろ!!」

 

 目を見開いて瞳孔を震えさせている藤堂の頬を思いっきり叩いた。身体の震えは小さくなり、なんとか目の前の存在に目を向けられるようにはなったようだ。だが、震えは完全に消えていない。歯を食いしばって逃げようとする自分をおさえつけているようだ。

 

 そんな俺達を見ても、男は……いや、目の前の存在は首を傾げたりすることもなく、ただじっと見つめてきている。

 

「……人々は願った。自分の役割を放棄したいがために、誰かに役割を押しつけようとした。そんな怠惰的な存在だ。感情が豊かとはいえ、その本質が腐り切っている気がしてならないんだ」

 

 仮面が外れた途端、抑揚のなかった声が……聞いているだけで気分が悪くなるような酷い声に変わる。真っ赤に染まった目が、俺達を串刺しにするように見つめていた。

 

「……あぁ、そういえば質問の答えがまだだった。敵対するのかどうか……。そんなもの、決まっているだろう?」

 

 手に持った刀が俺達に向けられる。ここに来てようやく……相手から殺意がぶつけられてきた。正直怖い。昼間だから力も出ない。でも……戦わなきゃいけない。

 

「君達が願ったんだ。だから殺さなきゃ。殺されたくないなら……俺を殺す他ないよね」

 

 辺りの空気が重苦しくなってくる。不思議と呼吸が浅くなって、息がしづらい。できることなら、このまま背を向けて逃げてしまいたいという衝動に駆られた。

 

 でも……隣にいる藤堂が、逃げなかった。震える身体で、目の前の存在に立ち向かおうと……その場で歯を食いしばっていた。

 

「名前のない怪物。そんな俺に名前があるなら……ネームレス、なんてのはいいかもな。ヒーローでありながらヴィランでもありそうな名前だ。俺は君達が願った助けのために、全ての罪をこの身で担う存在。そう願われた存在。俺は……君達の感情、そのものだ」

 

 ……ネームレスと名乗ったバケモノ。あぁ、なんとも惨たらしい。それでいて悲しき存在だ。俺達人間の嫌な部分が詰め合わさってできてしまったような生物。

 

「さぁ、始めよう。この街に住む人間の感情と……君達二人の力。果たして、どちらが上なのか」

 

 ……手に持つ槍を握り直す。そしてバケモノ……ネームレスに向けて構えた。隣にいる藤堂も、俺に倣って剣を出現させて両手で構える。

 

 まだ震えている藤堂に対して、俺は声をかけた。

 

「……やれるか?」

 

「……やる。やらなきゃ、いけないんだ」

 

 藤堂の口から漏れた言葉は、ネームレスと同じような悲しみを帯びている気がした。

 

「民衆のヒーローなんてものになってしまったから。人々は願ってしまったんだ。あのバケモノは……俺が生み出してしまったようなものだ」

 

「……いずれ、こうなってたさ。気にするな」

 

「だとしても……俺が、やらなきゃいけない」

 

「……そう。そりゃ結構。へっぴり腰じゃなけりゃ惚れてるね」

 

 無理やりニヤリと笑ってやると、藤堂も負けじと歪んだ笑みで返してきた。互いに武器を構え、始まりの時を待つのみとなっている。浅い呼吸を整えながら……俺と藤堂は声を合わせて身体の震えを打ち消さんと、腹の奥から声を張り上げた。

 

「やられんなよ、藤堂ォッ!!」

 

「そっちこそなッ!!」

 

 打ち合わせた訳もなく、俺達は同時に声を上げた。

 

『いくぞッ!!』

 

 ネームレスを相手に俺達は戦わねばならなかった。ここで倒せなければ……より多くの人が殺されるだろう。例え相手に罪がなかろうとも、人を殺すのならば……人間の味方として、俺は殺さねばならない。自分の力が十全に発揮できなくとも。

 

「来なよ。せめて苦しまないように……一撃で葬ってあげるからさ」

 

 悲しげなネームレスの声が、嫌に耳に響いた。

 

 

 

 

 

 

To be continued……




人間の感情なんて吸収していたら……そりゃあね……?
ネームレスの発言などがいまいちかもしれませんが、お兄さん許して。


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第100話 カン傷、カン情

 槍と刀がぶつかり合う。金属を叩く音が響き、次の瞬間にはまた金属音がなる。素早い動きで槍の間合いにまで近づき、ネームレスを接近させないように連続して槍を突いていく。

 

 そして合間を縫うように、背後から透明な西洋剣がネームレスに向かって飛んでいった。しかしネームレスは槍で刀が抑えられて動かせない時であろうとも、それに動じることなく身をよじって回避するか、その場から後ろに跳んで避けていく。

 

「チッ……」

 

 藤堂の剣で互いに距離をとることになった俺は小さく舌打ちをした。表では相手に悟られないように無表情を保ってはいるが、内心ではかなり焦っている。戦えるとはいえ、藤堂は民間人だ。時間帯は昼間で力も出ない。そして何よりも……。

 

「……二人とも中々やるね。どうやら一撃で命を絶つことは難しいようだ」

 

 ……奴の力だ。せめて相手が苦しまぬようにと、ネームレスの一撃は鋭く急所を狙ってくるものが多い。刀の動きは西条さんのものを見ているから対処はしやすいが、その刀を握る力や、斬りかかってきた時の手に来る反動が並ではなかった。少しでも気を抜けば、槍が手元から離れていってしまう。

 

「唯野さん、今度は俺が前にッ……!!」

 

「やめておけ。慣れてなきゃ刀が見切れねぇ」

 

「でも……」

 

「いいから。あまり記憶を使わねぇように、後ろで的確に剣を投げてろ」

 

 背後から聞こえる藤堂の声に反応しつつ、息を深く吸い込んでから吐ききる。そして刀を構えたネームレスに向かって……全力で突きにいく。

 

「速いね」

 

 余裕そうな声が聞こえた。刀は槍を側面から斬りつけて軌道を逸らす。そしてそのまま刀の切っ先が腹部目がけて突いてくるが……弾かれた槍を刀にぶち当てて呪文を行使した。

 

「《吹っ飛べ》」

 

 刀を飛ばすために、ヨグ=ソトースの拳を行使した。頭で思い描いたように、刀が飛んでいくはずなのに……。

 

「ッ─────」

 

 刀が飛んでいかず、頭に鋭い痛みが走った。自分に向かってくる刀は進路を変えることはなく、あと少しで身体を貫くだろう。

 

「唯野さんッ!!」

 

 飛んできた剣が腹の前で盾となる。刀は剣を貫けず、ここに来てようやく意識がハッキリとした俺はすぐにその場から離れた。

 

「……一体、何が……」

 

 確かに、魔術は発動した。だというのに刀は飛んでいかず、頭に生じたのは痛みだ。どういうことなのかわからない。まさか、昼間だと魔術が発動しても確率でスカになるとか、そんな巫山戯た仕様があるのだろうか。

 

『深淵をのぞく時、深淵もまたお前をのぞいているのだ』

 

 いつかナイアに言われた言葉を思い出した。魔術を使えば、相手が魔術で対抗してくることもあると。

 

「……なるほど、君は魔術師か。現代で魔術を使える人間が普通に生きているとはね」

 

 知ったふうに言ってきたネームレス。だが、奴が魔術を使ったような感覚はなかった。となると……魔術に対する抵抗か。奴はミ=ゴによって造られた生物。ならば魔術を軽減、もしくは対抗するだけの性質があるのかもしれない。そうなると相手に対して使うことになるヨグ=ソトースの拳が使えない。

 

 いや、魔力を込めるか詠唱するならば使えるかもしれないが……今はそんなことをしていられない。

 

「……面倒だな」

 

 呟いている最中にも、ネームレスは走って向かってきている。槍の先端で刀を弾き、また弾き。そうしていると相手との力の差で徐々に間合いの内側に近寄られてきてしまう。

 

 槍の間合いから刀の間合いに入った途端、剣戟の速さが増す。袈裟斬りを弾けばその反動で刀を引いて薙ぎ払い。それも防ぐとまた反動で刀を持ち上げて上段から斬りかかってくる。反動、反動、反動。決して鍔迫り合いに持ち込むことがない。

 

 奴の力は強い。だからこそ反動による二激目も速い。そして繰り返せば繰り返すほど、速さと威力が増していく。刀の間合いでは槍は完全に不利だ。防ぐことしかできず、逃げようにも追撃が速すぎる。

 

「むっ……」

 

 ネームレスが首を傾ければ、首があった部分を剣が通過していった。その一瞬だけ刀の速度が遅くなり、引くのではなく一気に詰め寄って腹に蹴りを入れた。ネームレスの身体が崩れ、後ずさったところに槍の間合いで追撃をしかける。

 

 突きを刀で弾かれ、しかしすぐに弾かれた反動を使って上に持ち上げて振り下ろす。それを後ろに下がって回避されたら今度は下から斜め上にかち上げ、それもまた回避されたら槍の中ほどに手を添えて真横に薙ぎ払う。

 

 当然、その程度の攻撃じゃ届かない。だが、ネームレスが避けた先には既に藤堂が剣を飛ばしていた。剣はネームレスの脇腹を斬りつけて、そのまま後ろにあった建物に突き刺さる。

 

「ッ………」

 

 ……ネームレスから流れ出た血液らしきものは、真っ黒だった。決して赤色なんてものではなく、傷をつけた瞬間を見ていなくてはそれが血液だとすらわからないだろう。

 

 歪んだ顔は、苦痛によって更に歪むなんてことはなく、むしろ流れ出た血を見て虚しそうに呟き始めた。

 

「……人の身体には赤い血が流れる。しかし俺にはそんなものはない。なんとも、バケモノらしい」

 

「……言動はまったくもってバケモノらしくないがな」

 

「そう言ってもらえるのなら嬉しいものだ。けれど……そういうものだと定義されてしまった身としては、それは自分のものではないのだから、変な気分になる」

 

 人々の願いに歪められた存在。バケモノとして産み落とされたネームレスには、自分で最初から持ちえたものがない。言動も、容姿も、何もかもが奴にとっては誰かに与えられたものなのだ。

 

 そしてその使命すらも。所詮は誰かに与えられたものでしかない。それは……想像するだけで悲しくなるものだ。

 

「……俺にはわからない。人の子よ、どうして君達は俺に刃向かうのか」

 

 流れ出る黒い液体をおさえつけながら、奴は俺達に尋ねてきた。両手に剣を出現させたままの藤堂がその問いに答える。

 

「明日香が……俺の、大切な人が殺されるのが嫌だからだ」

 

「……恐怖に立ち向かうだけの理由と、その想いが君にはあるというのか。ならば、唯野 氷兎。君はどうなんだ」

 

 真っ赤な目が俺に向けられた。決して隙を見せないように、槍を握ったままの状態で俺は答える。

 

「……お前みたいなバケモノに、理不尽に殺される人が増えないようにするためだ」

 

「その人が、俺を造り出し……そして今こうして、人々の願いのために殺そうとしていても?」

 

 ……正直、答えるのには困る質問だった。人々によって造られたのに、なぜネームレスを殺さねばならないのか。悪いのは造り出したミ=ゴと人間達だ。ならば、俺が戦う必要はないのではないか。一瞬そう思ったが……それでも、答えは簡単に出てきた。

 

「……夢見が悪いだろ。目の前で殺されてる奴見つけて、放置してても」

 

「君は心にある正義感に従っているのかい?」

 

「正義感? そんなもんねぇよ。ただ……後悔したくねぇだけだ」

 

 何もやらないで後悔するより、何かやって後悔した方がいい。俺はそう思っている。

 

「正義感なんてもん、この世のどこに存在するってんだ。人間の行動基準は、欲望だ。何の見返りもないのに、何も感じることなく全てを終えることができる奴がいるならそれは、聖人君子様だろうよ。そいつはきっと、お前みたいなバケモンだぜ」

 

「それは、ボランティアの人に言えるのかい?」

 

「言えるとも。ボランティアだろうがなんだろうが。結局自己満足だろ。これをやって、誰かが笑顔になるんだろうなぁって思った瞬間、それはもう欲望になってんだよ。自分にとって何かしら益がなければ、誰も何もやらん。やるのは心のないロボットぐらいだ」

 

 暗く冷たい声であろうとも、ネームレスには誰かから与えられた感情だけでなく、自分で得た感情というものがある。悲しげに尋ねてくるその声が、目の前の生物が人間に限りなく近いバケモノであることを感じさせた。

 

 暴力に訴えるなんてものは猿でもできる。対話で終わらせようとすることが、人間らしさだ。今ネームレスは対話をしようとしている。だからそれを拒むのではなく……受けて返さなくてはならない。この瞬間にでも駆け出して心臓を突くことなんてのは簡単だ。だが、それはしない。俺達は人間であるが故に。

 

「この世にあるのは偽善と悪意だ。そんな薄汚ぇ人間を理解しようとしたお前達が間違ってんだよ。そうだろ、悪意の塊さんや」

 

「……理解しようとした事自体が、間違っていたのか。なるほど、それは……」

 

 ……寒気を感じさせる笑い声が聞こえてくる。ネームレスの身体が細かく振動していて、それが笑いを堪える為に震えているのだと気がつくには時間がかかった。

 

「フッ……ククッ……なんて、酷い。君は俺の存在自体を、間違いだと言うんだね!」

 

「……そうだ」

 

「ハハッ……ハハッ、アッハハハハハハハハッ!!」

 

 ネームレスが狂ったように笑いだした。その身から流れ出た黒い液体が足元に広がっていき、一定の感覚で波打っている。まるで、どくん、どくん、と脈打つ心臓のように。

 

「こんなにも……こんなにも、人間の心がわかるのに! こんなにも、人間の嘆きが聞こえるのに! それを助けてあげたいと思うことすら間違いだというのか! あぁ、所詮は造り物さ! 助けたいと思うことすらも、誰かによって与えられたんだ!」

 

 アッハッハッハッハッ。低かった声が嫌に高く聞こえてくる。笑い声には狂気が滲んでおり、聞いているだけでも身の毛がよだつ。そして同時に、憐れみをも感じさせられた。目の前のバケモノが、可哀想に思えてくる。それでも……それでも、言わねばならない。

 

「……お前は、ヒーローでもヴィランでもない。だって、誰でもないんだろ。自分の存在証明ができないやつは……ヒーローにもヴィランにもなれないよ」

 

「ハハッ、アハハッ、アッハハハハハハッ、ハハッ、アッ、アアァァァァァァッ─────!!」

 

 どくん、どくん、と脈打つ音が聞こえる。そしてネームレスの足元に広がっていた黒い液体は、ネームレスの身体を覆い尽くすように足をよじ登っていく。下半身が包まれ、やがて手先も染まりきり、頭まで被さる。そして頭の先から溶けるように形がなくなっていき……全てが足元の黒い水溜まりに消えてなくなった。

 

「アァァァァァァァァァァァァァッ!!」

 

 水溜まりから悲鳴が聞こえる。そして次の瞬間には水溜まりが爆発したように弾け、飛び散った黒い液体が空中で浮遊するように留まる。それらが互いに液体を伸ばしあっていき、何かの形を象っていく。

 

 それは巨大な円柱だった。真っ黒な円柱が存在している。やがてその円柱の上の部分から黒い液体が剥がれるようになくなっていく。その下から出てきたのは、銀色の蓋で上下を挟まれた硝子のカプセル。中には薄い水色の液体が満たされ、巨大な脳みそが浮いていた。

 

 脳みそから伸びている触手のようなものが揺れ動く。呼吸をしているのか、どこからともなく気泡ができて浮かび上がっていく。そして、どくん、どくん、と脳みそが脈動している。

 

 わからない。なんだ、これは。先程までの理性を残した人型はどこにいった。

 

 突然の変わりように頭が壊れてしまったかのように働かない。視点は浮かんだ脳みそを注視して動かず、腕はもう槍すら構えていなかった。

 

『邪魔だし消えてくれないかな』

 

 目の前の物体から女の子の声が聞こえてきた。

 

『アイツマジでうざいんだけど』

 

 今度は男の声が。

 

『セクハラとかまじウザすぎ』

 

『退社時間くらい守らせろよ』

 

『転んだのに手を貸してやったら触るなと叩かれた』

 

『浮気されてた、許さない』

 

『金を取られた』

 

『教室の人全員殺してくれないかな』

 

 聞こえる。たくさんの声が。それらが全てこの街の住人の声だというのか。

 

『誰かどうにかしてよ』

 

『誰か殺してよ』

 

『誰か代わりにやってよ』

 

『誰か殺してくれよ』

 

『誰か、誰か、誰か誰か誰か誰か誰か誰か』

 

 ……聞いているだけで不快になるような声が聞こえてくる。それに呼応するように脳みその脈動が早まり、カプセルから黒い液体が漏れだしていく。それらは三本の細い腕のように造られていった。カプセルの上部に一本、カプセルの脇に二本だ。

 

 長く長く伸びていき、上部の一本には何もかもを叩き潰すような槌ができた。右側から伸びた腕の先には斬りつけるための剣ができた。左側からは刺し貫くための槍ができた。

 

「アァァァァァァァッ!! ミンナ、ミンナガネガウンダ!!」

 

 目の前の物体から慟哭が響いた。槌が派手に動き回って建物を殴りつけ、剣は辺りの街灯を斬り倒し、槍は地面に穴を開けていく。それは、まるで……産まれたばかりの赤子が、泣き叫んでいるかのように思えた。

 

「ダケド……ダケド、コノオモイダケハ……カナシイト、カンジタコトダケハ……オレノ、モノナンダァァァァッ!!」

 

「ッ……まずい、藤堂ッ!!」

 

「ァ………」

 

 目の前の存在に圧巻されていた藤堂が狙われた。口を半開きにしたまま虚ろな目で、叩き潰そうとしてくる槌を見上げている。ようやく動くようになった身体で全力で駆け出して、藤堂を突き飛ばした。

 

「《逸れろッ!!》」

 

 向かってくる槌を逸らし、なんとか直撃を回避する。だが、地面に槌が着いた瞬間に発生した地震のような揺れに身体を崩してしまった。

 

 そこを目がけて今度は槍が向かってくる。避けられる訳もなく、今度もまた逸らすしかなかった。

 

「ゥ……俺、は……ッ!!」

 

 正気を取り戻した藤堂が、両手にあった剣をカプセルに向かって投げ飛ばした。近づいてくるその剣を、ネームレスの剣が弾いていく。その動きは俊敏だ。手数が三に増えただけでなく、その巨体さも相まって更に戦いにくくなっている。

 

「チッ……」

 

 舌打ちをしてその場から駆け出した。狙うはあの脳みそだ。俺達の身長を遥かに超えている高さにあるが、それでもどうにかして攻撃しなくては。

 

 上部からまた槌が振り下ろされ、それを逸らす。そして地面についているうちに、槍を地面に突き刺して踏み台にし、槌の上に飛び乗った。

 

「藤堂、剣を寄越せッ!!」

 

「あぁッ!!」

 

 藤堂の造り出した剣が俺に向けて射出され、それを受け取って腕の上を走っていく。走る俺を狙って、今度は槍が向かってきた。それを跳んで躱そうとするが、槍の大きさのせいで躱しきれない。

 

「《逸らすッ!!》」

 

 向かってくる槍の被害を逸らし、まるで宙に浮いたかのような挙動で避ける。そして今度は槍の腕に着地してカプセルに向かって走り出した。剣が俺を狙うかと思ったが、剣は藤堂の射出する剣の対応で手一杯なようだ。

 

 好都合だ。このままあのカプセルを叩き斬る。右手に握った西洋剣を両手に持ち替え、その場から一気に跳躍した。そして大きく剣を持ち上げ、全力で振り下ろす。

 

「なっ……!?」

 

 しかし剣はカプセルの蓋に傷をつけることなく、砕けてしまった。そのまま重力に従って落ちていく俺に向かって、また槍が突進してくる。

 

「クソッ……!!」

 

 何度も何度も突いてくる槍に対して被害を逸らす。まるで空中を自在に動いているのではないかと思うような挙動でその場から飛んでいき、最終的には藤堂の近くまで飛ばされてきた。

 

「無理だ、硬すぎて俺の剣じゃ……!!」

 

「手の打ちようがねぇ。こうなったら槍を魔術で飛ばして……」

 

 次の作戦を考えようとしたところで、ネームレスの異変に気がついた。脳みそに、赤い目が二つ出現している。それが怪しく発光しているのだ。

 

 何か、とてつもなく嫌な予感がする。咄嗟に藤堂のことを突き飛ばして、俺もその視線の先から逃れようとしたが……。

 

「─────」

 

 間に合わなかった。赤い光が放たれ、俺の身体を包み込んでいく。

 

『死ね』

 

 脳に直接響くように、声が聞こえた。

 

『死にたい』

 

 誰の声なのかもわからない。

 

『殺してやる』

 

 酷く、物騒で。

 

『楽に死にたい』

 

 悲しく、悲観的な。

 

『死ね。死にたい。殺して。殺したい。死ね。嫌だ。死にたくない。死ね。殺せ。殺したい。殺せ。嫌だ。殺して。生きたくない。生きていたくない。死にたい。死んでしまいたい。殺して。殺せ。死ね。死んで』

 

 あァ……聞こ、えル……。声が……蔑ム、声……助ケを求めル、声……聞こエ……。

 

 あァ……アぁ、聞きたクなイ……。

 

 耳ヲフサイデも聞こエル……。ダレかの、声……。

 

 アァ……アァァ……。

 

 

「ウア゛ァ゛ァァァァァァァァァァァァァァッ!!」

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 突き飛ばされたのだと感じた時には、耳をつんざくような悲鳴が聞こえていた。さっきまでいた場所には、真っ赤な目で睨まれて赤い光を身体から発してる唯野さんがいる。顔を歪ませ、口を大きく開き、そして目は見開いていた。開きっぱなしの口からは唾液が地面に向かって垂れていき、目からは涙がこぼれおちている。

 

 早く、助けなくちゃ。でも、どうやって。あの目で睨まれてしまえば、僕も唯野さんのようになってしまう。

 

「アタエラレタモノナンテ、コンナモノバカリダ……。エガオヒトツ、オレニハツクレナインダァ!!」

 

「っ……!!」

 

 立っていることすら出来ないほどの地響きが起きた。あのバケモノは自分の武器で辺りを見境なく壊していく。その度に、頭に鈍い痛みが出てくる。この場所は僕の世界。壊れたものも、元に戻る。けど、壊せば壊すだけ……僕の心に傷がつく。

 

 早く、しないと。このバケモノをどうにかしないと……。いずれ、僕の世界が壊れて、外に出て行ってしまう。

 

「ッ……うあぁぁぁッ!!」

 

 剣を出現させて、あのバケモノに向けて放った。けれど……透明な剣は、容易く破壊されていく。僕の心が感じた記憶を、力に変える能力。それほどまでに僕の記憶は弱いのか。それとも、心が弱いのか。硝子の心なんてもの、僕は持ち合わせてはいない。なら……足りないのは、僕の記憶なのか。

 

「わからない……どうすればいい……」

 

 バケモノは蹲る唯野さんには目もくれない。未だに動き回る僕目がけて、その槍を突き刺してきた。その場で跳んで躱し、お返しとばかりに剣をぶん投げる。カプセルに当たった瞬間、また音を立てて割れてしまった。

 

 今まで、ずっと前線で戦ってくれた唯野さんがいない。率先して動き、相手への対処を考えていたのは彼だ。僕だけで、こんな相手に勝てる気がしなかった。

 

 迫り来る武器達を躱すのにもそろそろ疲れてくる。一本の剣を創り出して、その上に乗って一気に距離を取った。

 

「はぁ……っ、クソッ!!」

 

 荒くなった息を整える余裕すらくれない。カプセルは動かないくせに、その腕は自由自在に伸びてくる。見ているだけで気持ちが悪い。

 

 下がりながら大きめな剣を創り出し、全力で放つ。しかし剣は、バケモノの剣と槍によって押さえつけられ、ハンマーによって叩き壊された。割れてしまった剣を見ていると、自分の中でまた何かが消えてしまったのだという無力感が湧いてくる。

 

「どうすんだよ、こんなの……」

 

 なんでもできると思っていた。誰も自分には勝てないのだと思っていた。けれど、事実は全然違っていて。僕よりも強い奴なんてのは、案外簡単に出てきてしまった。これでも、毎日筋トレは欠かしてないし、走って体力だってつけてる。それなのに、努力をしているというのに……。

 

 ……現実は、あまりにも酷かった。神様がいるのなら、目の前で悪態をついてやりたい。僕はこれだけ頑張ってきたというのに、どうして……こんなにも、酷い仕打ちをするのか。

 

 好きな子には告白もできぬまま彼氏ができて、大切な記憶も忘れてしまっていて。そのうえ今度は、こんなバケモノに殺されかけてる。

 

「ミンナガノゾムンダ……コロセ、コロセッテ!!」

 

 ……嫌なものを、多く見てきた。自分の都合しか考えないような奴を見た。自分の非力を恨み、誰かに頼ることしかできなかった奴を見た。それを助けたのは、正しい事だったのか。今でも答えは出ない。

 

 半ば諦めの気持ちで満たされながら、暴れているバケモノを見ていると……その後ろ側に、人が見えた。

 

「ッ─────」

 

 隔絶された世界の向こうに、君が見えた。外の世界は止まっているわけじゃない。ゆっくりと時間が進んでいる。だから、君がそこにいることは不思議じゃない。でも……なんで、来たんだ。そんなまともに歩けない状態で。僕は逃げろと言ったのに。

 

『コウ君ッ!!』

 

 遠くて、君の顔はよく見えない。それでも君が叫んでいる気がした。僕の名前を、呼んでいる気がした。

 

 ……一瞬だけ世界を元に戻して、明日香と一緒に僕の世界に引きこもる。そういうこともできる。願った市民達は死ぬだろう。自業自得とも言える。

 

 でも……それは、とても……格好悪い。

 

『私のヒーローになってね、コウ君』

 

 約束。君を守る、約束。あぁ、そうだ……。僕は君の、ヒーローになるんだ。

 

 どんな障害も物ともせず、どれだけ傷ついても戦い続ける。決して辛いと漏らさず、前だけを見て進み続ける。昨日の夜に出会った、一人のヒーローのように。

 

「……また、忘れてたよ」

 

 もう逃げない。諦めもしない。後ろは振り向かない。

 

「……お前を、倒さなきゃいけない理由があったんだ」

 

 君はきっと怒るだろう。僕を殴ってくるかもしれない。それに……悲しませてしまうかも。だけど、決めたんだ。あの時、あの公園で……君を守るって。

 

「例え……君との記憶を全て失っても……」

 

 ……心の中を埋めつくしていた君との記憶が、薄れていく。それでも、僕は念じ続ける。

 

 もっと強い剣を。もっと強い記憶を。もっと……大切な記憶を。

 

「……僕が、君を守るよ」

 

 両手に現れた剣はズシリと重く。その透明さはより透き通り。陽の光を浴びて君は輝いている。

 

「カナシイ……オレニハ、コンナカンジョウシカ、アタエラレテコナカッタンダァ!!」

 

 ……まだだ。こんなものじゃないだろう。君との記憶は、それこそ数え切れないほどあるはずなんだから。

 

 もっと剣を。君との思い出を。全て、ここに。

 

「っ……ぐ、うぅ……」

 

 ()が、痛い。それでも剣を増やすのをやめない。出現させた多くの剣を、一斉にバケモノに向けて放つ。

 

「ウアァァァァァッ!!」

 

 狂ったように叫びだしたバケモノは、一心不乱にその武器達を振り回した。その大きさは、僕の剣を逸らすのには十分だった。足りない。いや違う。

 

「うっ……あぁ……ッ!!」

 

 自由自在に動かせるのは、ひとつだけ。そんなもの……知ったことか。例え脳が壊れようとも、絶対に……お前は、ここで倒すッ!!

 

「ぐっ、あぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

 君との記憶が空を埋め尽くす。現れた剣が次々と軌跡を描いて飛んでいき、バケモノを囲むように浮遊している。

 

 あぁ……頭が痛い。でも、君を失うことの方が、もっと痛い。

 

「これでッ……」

 

 一斉に……君の記憶が、消えていく。降り注ぐ剣は蓋を破壊し、横から射出された剣は腕を破壊する。そして……一際輝く、大きな剣を創り出した。

 

『───────────────』

 

 夕暮れ時。君との約束。あぁ、もう思い出すことはないんだろう。君がどんな想いでいたのかも。僕がどんなふうに想っていたのかも。

 

 でも、これでいいんだ。だから……さようなら、明日香。

 

「終われぇぇぇぇッ!!」

 

 浮かんでいる()に向けて……全力で投げ飛ばした。

 

「アァ、アアァァァァ───────!!」

 

 ……脳に突き刺さった剣が、音を立てて砕け散る。バケモノは黒い灰のようになって、散るように消えていく。

 

「アァ……イイ、カンジョウダ……」

 

 消えていくバケモノはそう言い残した。あのバケモノが何を感じたのか、何を見たのか。わからない。悲しげな声音はなく、そこには暖かみが感じられた。

 

 あぁ……酷く、頭が痛む。視界の端がだんだんと暗くなってきて……でも、不思議といい気分だった。

 

「うっ……ぐぅ……」

 

 身体が倒れていく最中、蹲っていた男の人が立ち上がるのが見えた。

 

 なんだろう。とても他人事のように思える。きっとそれは自分にとって大切なことなのかもしれないのに。

 

「………」

 

 遠くの方で、誰かがフラフラと歩いている。誰だろうなぁ。

 

 ……痛みが痛みだとわからなくなってくる。自分は今どうなっているんだろう。何をしてこうなっているのだろう。

 

 わからない。わからない、けど……。

 

 ……間違ったことはしていない。そんな気がした。

 

「─────」

 

 意識が途絶える直前に、誰かの笑顔が見えた気がする。

 

 

 

 

 

To be continued……




記念すべき100話目です。
ここまで約一年ですか、なんとなくこう……感慨深くもあります。

ここまで書いてこれたのも、読んでくださる皆様方がいるからこそです。
100話記念ということで、普段感想とか書かない人とか、気軽に書いてくれてもいいんですよ。
まぁ、そもそもあまり多くの人に読まれていなかった作品ですし、こう……気軽にね。

推薦だろうが、感想だろうが、宣伝だろうが……練習気分で書いてみてください。作者のエネルギーとなります故。
そう……何も考えることはない。気軽に書かれたその一文が、作者にとっては発狂ものです。

評価バーに色がついたり、お気に入り100人超えたり、日刊ランキング載ってたりと、最近は嬉しいことが多いです。
それでは皆様、コンゴトモヨロシク……。


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第101話 まだ……

 慌ただしく動きまわる看護婦達の間を通り抜け、病室の扉に手をかける。開いてみると、おびただしく積み上げられた果物がまず一番に目に入ってきた。その他にも包装された箱なんてものも置いてある。それらは基本白でまとめられている病室の中では異質に思えた。

 

 しかし、目当てはこれではない。ひとつだけポツンと設置されたベッドの上に眠っている男の子がいる。眠っているのか、瞼は開かれておらず、規則的に胸が上下に動いていた。

 

 なるべく足音を立てないようにして、窓際まで歩いていく。そこから下を見下ろせば、病院の前には多くの人が群がっていた。カメラを持っている輩もいる。正直見るに堪えない惨状だ。取材拒否と何度伝えたら消える気だ、アイツらは。神がいるのだとするならば……見ろ、人がゴミのようだ。そう伝えてやりたい。

 

「……あの」

 

 集めきれなかったゴミが世間の風に吹かれていく様を見ていると、背後から声をかけられた。振り向いてみれば、どこか警戒して様子で俺を見てくる藤堂がいる。それもそうか、と内心ため息をついた。とりあえず……あの時のように言ってみるとしよう。

 

「よう、少年。調子はどうだ?」

 

 片手を上げて気さくに話しかけてみたものの、彼は困惑した顔でなんとも言えない返事を返してくるだけだった。やるせなさが込み上げてくるのを抑えて、また会話を続ける。

 

「……記憶、どこまであるんだ?」

 

「……わかりません。それよりも、アナタは?」

 

「俺か? 俺は……魔術師だよ」

 

「……魔術師?」

 

 胡散臭そうな目で俺を見ないでもらいたい。こっちは割と真剣……ってわけでもないか。砕けた感じでしか話せない辺り、どうにも負い目を感じてしまっているようだ。

 

 ……気がついた時には、あのバケモノは消えていく真っ最中だった。ふらつく身体で周りを見れば、倒れている藤堂がいて、少し先にはいつか見た女の子までいる始末。仕方なく死んだ振りをする他なかった。幸いにも女の子は俺の顔を見ずに救急車と警察を呼んでくれたし、オリジンの戦闘服は黒色なのでSNSに載っていたものとも区別はつきにくい。

 

 流石にバケモノを大っぴらにする訳にもいかない。倒れている俺を犯人扱いとし、偽造データは警察とオリジンに全任。警察の発表したカバーストーリーによって、なんとかバケモノの情報漏洩は防ぐことに成功する。

 

 その代わりに……藤堂は記憶を失った。当時の俺は正直な話、正気を保っていられる状態ではなく、彼については予測しかできない。だが、彼がネームレスを撃破したはずなのだから……能力の使い過ぎによって脳の記憶が破壊されたか。それとも、自ら記憶を代償にして奴を倒したのか。

 

 どちらにせよ、それを知る術はない。民間人であった藤堂に被害が出てしまった以上……いや、共に戦った戦友である以上、俺は彼に対してすべきことがある。

 

「ロクな魔術は使えないけどね。勿論、お前の記憶を戻すなんてことはできない。けど……伝えることならできる。お前がどんな男で、どんな生活を送っていて。そして……何を大切にしていたのか」

 

「……以前の、自分?」

 

「そうだ。全てを説明するのは無理かもしれない。でも、大切なことだけはキチンと伝えられる」

 

「大切なこと……」

 

 顔を俯かせて動かなくなった。どうやら悩んでいるようだが……まぁ、当人ではない俺には理解できない。ただ、もしも俺が彼の立場になったのなら。きっと前の記憶を知ろうと思うんだろうけど。

 

「……いいえ、知らなくてもいいです」

 

 ……俯いている彼が言った言葉は、どうにも俺には納得できないものだった。彼にとって、とても大切なことがある。幼い頃の約束。それは彼という人格を形作る上で必要不可欠なものだ。それを……知らないままでいさせるのは、どうにも胸につかえる。

 

「……本当に? それはお前が、十年以上も抱え続けた大切なものだったとしても?」

 

「いいんです。以前までの自分は、きっと死んだんです。テレビを見て、伝えられた自分の名前と同じものが映って。自分が何をしたのか、実感が湧かないんですよ。そしたら……なんか、全部さっぱり消えちゃったみたいだなって」

 

「……以前までの自分が?」

 

「はい」

 

 答える彼の顔には陰りはない。それはそうだ。何もかも忘れてしまっているのだから。いや……忘れたのではなく、消えてしまっている可能性もある。でも……俺は、伝えなきゃいけない。いや、伝えたい。それが正しいことのはずなんだと、葛藤している時だった。藤堂の言った言葉が、俺の中で燻る決意を鈍らせた。

 

「それに……大切なことだというのなら、きっと心の中にちゃんとしまってあるはず。だから、いいんです」

 

「……自ら、その記憶を捨てていたのだとしたら?」

 

「ならそれこそ、知らなくてもいいです。捨てたのだとしたら、捨てる前の自分はちゃんと考えた上で捨てたんですよ。その方がいいって、思ったはずです」

 

「……俺には……そうは、思えない」

 

 ……陰りを見せてしまったのはむしろ俺の方だった。窓の淵に腰をかけて、嫌なくらいに晴れ渡った空を見上げる。なんとも言えない気分だ。最後に藤堂の決意が鈍くなることにすがって、もう一度尋ねた。

 

「……本当に、知らなくていいんだな?」

 

「はい」

 

「お前の携帯は壊れて、俺の連絡先は入ってない。もう二度と会うことはないだろう。それでも?」

 

「……はい」

 

「……そうか」

 

 ここまで言ってダメなら、もう何も言うことはない。誰か他に知ってる人がいるなら、伝えてくれるかもしれないし、親だって何かしら言ってくれたりするだろう。

 

 ……とんだヒーローになっちまったもんだよ、お前。好きな子を守る代わりに、好きな子を忘れちまったら、そりゃないだろ。願ったヒーローになれても、お前はそれに気がつくことさえできやしないんだ。

 

 周りからはヒーローだ、ヒーローだと持て囃されることだろう。なにせ、ネットで騒がれてたヒーローは犯人扱いされ、藤堂はそれを倒した新ヒーローとして扱われてる。

 

 望みは叶ったのか、それとも叶っていないのか。俺にはわからない。これ以上、彼になにかしてやれる訳でもない。後は……今日から来る見舞い客を見て、思い出してもらうしかないんだ。

 

「……ヒーロー。これから何かと色々聞かれんだろ。俺のことは言わないようにな」

 

「魔術師ってことを?」

 

「そうだ。俺は……悪い魔術師だからな」

 

 積み上げられた果物の山に、俺もひとつリンゴを加えておく。最後に藤堂に向けて軽く手を上げるのを、さよならの代わりとして俺は病室から出ていった。

 

 ……先輩が迎えに来てくれるまで時間がある。トイレにでも行って時間を潰そうと思い、手近なトイレを借りることにした。中に入ってみれば、他には誰も使っていないらしい。ふと、鏡を見て身だしなみを確認してみたら……右肩辺りに、黒い女の影が映っている。慌てて振り向くと、口元を手で抑えられて壁に押しつけられた。

 

「静かに。誰か来ちゃうでしょ」

 

「ッ……ナイア、か」

 

「お化けだと思った?」

 

「……少し」

 

 口を塞がれていた褐色の手が退けられ、離れるかと思えば今度は俺のポケットの中を探り始めた。男子トイレ、女の人、下半身に伸ばされた手。見ようによっては情事だが、俺にとっては恐怖以外の何物でもない。近づかれると心臓が痛むし、心拍数まで跳ね上がる。気分が悪くなり始めるが、どうすることもできず……視線を逸らすという方法しかなかった。

 

「あったあった。これだ」

 

 ポケットからナイアが取り出したのは、大きな黒い石みたいなモノだ。それはどうやらネームレスの消えた場所に落ちていたらしく、持ってると偶に、どくんっと脈動している気がしてあまり気分のいいものではなかった。

 

 しかしナイアはそんなこと気にならないようで、それを電気に透かすようにして見上げている。俺にはなんだかわからない。そんな俺を見て、ナイアは真っ赤な口を歪めた。相変わらずどんな顔をしているのかすらわからない。ただ、それがとてつもなく美しいのだという事実だけが情報として認識される。訳がわからない。

 

「……私の顔について知りたいの?」

 

「知りたくない」

 

「そう、残念。絶世の美女なのに」

 

「……んなこた、どうだっていい。その黒いのはなんだ」

 

「これかい? これは、ミ=ゴの作った感情を集める装置だよ。なかなか、面白い発想するよね」

 

 口を歪めてニヤニヤと笑っているナイア。感情を集める装置といえば、そんなことをネームレスが言っていたような気がする。あの時の記憶を掘り起こしていると、ナイアはその黒い石を手元から瞬時に消滅させた。どうせ異空間にでもしまったんだろう。コイツはそういう奴だ。

 

「今回は、なんか微妙な感じだったよね。最後の最後で動けなくなったし。でもまぁ……ふふっ、いい叫び声だったよ」

 

「……悪趣味な」

 

「それぐらいしか楽しみがないし。まぁ頑張った御褒美に……私のこと少し教えてあげようか」

 

「いや、いい。知らなくていい」

 

「……ダーメッ」

 

 ……両手で首を固定させられた。逃げようにも背後は壁。前を向くしかないが、向いたらナイアが見える。さながら地獄だ。目を閉じればいいとも思ったが、閉じたら何をされるかわかったもんじゃない。俺はこの地獄に耐える他なかった。

 

 俺の体力がゴリゴリ減っていくのなんて気にもせずに、ナイアは話し始める。

 

「そうだね……ヒトは私の顔が認識できない。それは私が千の貌を持つ神としての権能を使っているからだよ」

 

「……どういう意味だ」

 

「要するに……私には、もはや顔という概念が必要ないのさ。君達にとって最も美しく思うもの。それが私の顔になる。私達みたいな存在に触れていない人間にとっては、見る人によって変わる絶世の美女になるわけさ。感じてるだろう? 目の前にいる私が……とても美しいと」

 

「……醜いとも感じてるけどな」

 

「それは私達サイドに寄ってきてる証拠。人間には美しく見えるのさ」

 

 ……じゃあ俺は人間じゃないと? 冗談じゃない。こんな奴らと一緒になんてなってやるものか。心の中で吐き捨てて、俺は首を固定するナイアの両手を引き離した。案外すんなりと離れていった辺り、話すことを話したら後はどうでもいいらしい。

 

 数歩俺から離れたナイアは歪んだ嘲笑を見せながら俺に告げてくる。

 

「じゃあ、私はそろそろ帰るから。これからも頑張るんだよ。つまらないゲームを二週目プレイしたって、途中でリセットボタン押したくなるだけだからね」

 

「……二週目?」

 

「そうとも。せっかくの強くてニューゲームだ。少しは私を楽しませてくれなくちゃ……ね?」

 

 微笑んでいるつもりなのか。見ているだけで寒気がするような口の歪みを見せつけられると、音もなくナイアは消え去った。トイレには元から俺しかいなかったような静寂が訪れ、用を足そうとすら思えない気分になっている自分がいる。

 

 ……訳のわからないことを告げられ、頭を掻きむしる他なかった。鏡に映る自分の姿を再確認する。どうにも……目が濁り始めている気がしてならなかった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 静謐な空間にポツンと一人でいると、もの哀しいという感情よりも空虚感を感じる。身体は至って健康体だ。ただ、病院の方が自分を出したがらないだけ。せめて他の病室と同じようにすればいいものを、なぜか自分一人だけがいる個室の病室だ。

 

 病院の中では看護婦さん達が歩き回ったりする音だけが聞こえるような状態だけど、外は全く違う。未だに多くの人々が病院に突入しようとして門前払いを喰らっていた。

 

 テレビで見たような活躍を、自分がしたようには思えない。右手を握ってみると、そこそこ握力はあるようだ。それに、眠ってばかりでも身体はそれなりに動く。むしろ動きたくて仕方がない。記憶がなくなる前の自分は、随分と身体を動かすのが好きだったようだ。そのおかげで……こうして、得体の知れぬヒーローなんてものになってしまったのだけれど。

 

 記憶がないというのは存外不便だ。誰も彼も、知らない人。両親だと名乗る人間も、どこか違和感を感じて仕方がない。医者が言うには、脳に深刻なダメージを受けたようで、様々な記憶が欠損しているのだとか。

 

 まぁ……今こうして記憶を失ってしまった自分になってからは、どうでもいいような気がしなくもない。記憶がないってことは、知らないってことと同じだ。

 

 今まで生きてきた中で何があったのか。どう思って生きていたのか。それをあの魔術師と名乗った男は教えてくれると言った。けれど、別にいいかなと思ったんだ。

 

 大切なことは心の中にちゃんとあって。それは記憶がないのではなく、しまってあるだけで。キッカケがあれば思い出せるんだ。そうすれば、知らないことじゃない。

 

 何もかもを失ってしまったのだとしたら、また歩き出せばいい。幸いにも、意味記憶は失っていないということはわかっている。勉強については問題ない。消えてしまったのは、エピソード記憶。仮に友達がいれば、そいつとの思い出が消えてしまっただけだ。

 

 なら、また思い出を作ればいい。友達がいるのなら、記憶が消えても友達なはずだ、多分。

 

 そのうち退院することになるんだろう。どうしてか、未来に不安はない。晴れ渡る空が、清々しいと感じれるほどに……いや、空っぽな自分にはそれを感じるだけの余裕があるのか。なんて、少し自嘲してみる。

 

「………」

 

 コンコンッと扉がノックされた。今度は一体誰が来たというのだろう。また知らない人に泣きつかれるのはゴメンだ。カップルらしき人達が来て、女の子の方が泣いて抱きついてきた時には流石に心臓がキュッと締まった気がする。彼氏の前でそういうことをするなんて、どういう間柄だったのだろうか。

 

「……どうぞ」

 

 ベッドではなく、窓の淵に腰掛けたまま。そう告げると、扉はゆっくりと開かれた。

 

「─────」

 

 見舞いに来たのは……女の子だった。綺麗に整えられた髪の毛に、長めのスカート。清楚感よりも真面目さを感じさせる顔立ち。歩くだけで、どこかお淑やかな感じがし、何よりも目を引いたのは……赤い額縁の眼鏡だ。

 

「あの……起きてて、大丈夫なんですか?」

 

「ぁ……うん、大丈夫」

 

 ……どうしてだろう。自分にとっては初対面のはずなのに。嫌というくらい心臓が動き出していた。

 

 誰だっけ。いや、知らないはずだ。それでも思い出さなきゃいけない気がする。

 

 必死な俺とは対照的に、女の子は静かだった。いや、静かというよりは……落ち込んでいるようだ。近くまで近寄ってくると、おもむろに自分の手を掴んでくる。反射的に、手を引っ込めてしまった。女の子は微かに驚いて、身を離す。

 

「……藤堂君が無事でよかった」

 

 本当にそう思っているのか。彼女の声には悲しげな感情が隠れているように思えた。自分と彼女の間柄は、なんだったのだろう。今まではどうでもいいとすら思っていたことなのに、それが知りたくて仕方がなかった。

 

「……私のこと、覚えてないよね?」

 

 泣きだしそうな彼女の言葉に、口の中が乾いていくような感覚があった。答えなくては。でも、今までのように、知らないの一言で済ましてはいけない気がするんだ。何か、思い出せないのか。キッカケがあれば……何か、ないのか。

 

「ッ……ごめん、ね……やっぱり、忘れて……」

 

 ……忘れて。いや、違う。何か、あと少しなのに。

 

「やっぱり、無理だよ……藤堂君の想いを無視して、こんなに都合よく……私の想いだけ伝えるなんて……」

 

 病室の中には二人だけ。誰の視線を気にすることなく、彼女は目の前で泣き始めてしまった。なんの声もかけられない。その身体に触れることすら今の自分では許されない。

 

 泣きじゃくる彼女の声が、嫌に脳に響く。聞いたことのある声だ。そんな気がする。

 

『藤堂君』

 

 彼女の声で、自分の名前が呼ばれるのを、何度も聞いたことがあるんだ。その先を……知りたい。彼女の涙の理由が、そこにある気がする。前の自分は、大切なことをなんで紙に書いてくれなかったんだ。忘れないでくれよ、こんなに心が痛むことなら。

 

『今日のことは忘れないでね』

 

「─────」

 

 ……忘れないで。あぁ、そうだ。それだ。忘れないで、だ。

 

 唐突にそのことを思い出した途端……心の奥底にしまわれていた記憶が蘇ってくる。公園で泣いている自分。そして隣に座って話を聞いてくれた女の子。君の、名前は……。

 

「……加賀、さん?」

 

「えっ……?」

 

 泣いたまま目を見開き、自分を見つめる女の子がいる。何もかも全てを思い出せたわけじゃない。でも、大切なことを思い出せた。あの時、思ったんだ。心の中にしっかりとしまっておこうって。忘れないようにしようって。

 

「……私のこと、思い出したの?」

 

「……全部じゃない。けど……忘れないでって言った君のことを、覚えてる」

 

「っ………」

 

 流れる涙の跡にそっと手を添えて、それを拭っていく。せっかく拭いたというのに、君はまた涙を流し始めてしまった。何度もしゃくりあげながら、君は尋ねてくる。

 

「なんで……明日香ちゃんのこと、思い出してないのに……」

 

 明日香ちゃんというのが、どういう人なのか一瞬わからなかった。でも、そういえばお見舞いに来た人の中にそんな女の子がいた気がする。けれど、それは今はどうだって良かったんだ。

 

「どうしてだろうね。でも……覚えてる。他は全て忘れているけれど、あの公園での約束を思い出したんだ」

 

「っ……いい、の? 私に……こんな、ことがあって……」

 

 彼女が何を思っているのか、わからない。それでも今大事なのは、目の前にいる君だというのがわかっていた。心の奥にある記憶が、大切にしろと言っている気がしてならない。

 

「私、よりも……思い出さなきゃいけない人、いるんだよ……?」

 

「……でも、思い出せたのは君だから」

 

「……ずるいよ、こんなの……」

 

 泣きながら見上げてくる彼女の眼鏡を外して、そっと抱き寄せた。彼女の頭に手をやって、無理やり自分の胸に押しつける。抵抗されることもなく、彼女はされるがままに腕の中で泣き続けた。そんな君に、今度は自分から尋ねる。

 

「……加賀さんとは、どんな関係だったっけ」

 

 知っている。どんな関係であるのか。それでも聞きたかった。涙声のまま、腕の中からはくぐもった彼女の声が聞こえてくる。

 

「……まだ、友達……だよ」

 

 ……そう。自分と彼女は……。

 

「……まだ、友達だね」

 

 小さく頷く彼女を、キツく抱きしめる。すると君も、腕を腰に回して抱き返してきた。

 

 こんな意味不明なやり取りでさえ、君との間であるのなら、ちゃんと意味がある。それがどうしようもなく嬉しかった。

 

 病室の中には誰も入ってくることはなく、君との時間を邪魔する人はいない。空虚な心が満たされていくのを感じる。消えてしまった過去の自分はどう思うのかわからないけど。今の自分は……幸せだ。そう言いきれる。

 

 

 

 

 

 

To be continued……




 藤堂 袴優 藤袴『あの日を思い出す』

 加賀 莉愛 カカリア『秘めた恋』


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第102話 起源判明?

『ニュースをお伝えします。先日東京都内で起きた交通事故についてですが、トラックに轢かれて死亡した少年は自殺であったことが判明しました。彼は自宅に遺書を残しており、自分の境遇を嘆く文が連なっておりました。その最後の一文には、俺は異世界に行くんだという文が───』

 

 部屋に置かれているテレビからはそんな報道が流れていた。珍しいことに先輩が部屋には居らず、俺と西条さんの二人だけだ。互いに珈琲と紅茶を飲んでいたのだが、流石にこのニュースを聞いて手が止まった。チラッと西条さんの方を見れば、その目が何もかもを物語っている。その気持ちを代弁するかのように、俺はため息混じりに言った。

 

「あ ほ く さ」

 

「……弁解の余地もない。死んで極楽浄土に逝くのならともかく、異世界転生ときたか」

 

「これトラックの運転手が可哀想ですよね。例え自殺だったとしても、運転手が十割悪いってことになるんですか?」

 

「いいや、自殺だと明確に判別できたのなら軽くなるはずだ。それでも二割程度は賠償金を払わねばならんが」

 

「ゼロにはならないんですね……」

 

「車は乗ってるだけで罪が重くなるようなものだ。車同士でない限り、どうしたって重い責任がのしかかる」

 

「なんかそこら辺、おかしくないですかね」

 

 俺の言葉に西条さんは、ふむ……っと軽く考え始め、紅茶で喉を潤し始めた。未だにニュースでは自殺した少年の話がされており、見ていてどうにも気分が良くはならない。チャンネルを変えようかと思ったところで、西条さんは口を開いた。

 

「憂うべきは車の法律か、それともそんな自殺を考えさせるような子供の環境か。もしくは社会か」

 

「……社会では?」

 

「ならば、無理だろうな。改善されることはないだろう。社会が改善されるより、異世界転生トラックによる安楽死の方法が確立される方に俺は賭けるな」

 

「それより先に、VRによる安楽死が確立されるんじゃないっすかねぇ……」

 

「アメリカでは既にあるぞ」

 

「マジっすか」

 

 進んでんなぁ、アメリカ。確かにVRと言えば俺達も嫌な場面を見ることになった。幸せな世界に入り浸ることができるあの装置。流石にそこまで自由な設定はできなくとも、死ぬ瞬間を感じることなく、恐怖に怯えることのないまま安楽死を選べるというのは割と人気らしい。

 

 日本でそれをやるとなったら……また賛否が分かれるんだろうが。例えば、死ぬ間際に家族の顔を見せないのは変じゃないのか、とか。いや……流石にそんな変な意見はでないか。もっとも、日本じゃ安楽死は法律で認められていないけど。

 

 衰弱して死ぬ恐怖と、苦痛に耐えながら死ぬ恐怖、そして安楽死による恐怖。どれが一番いいんだか、俺にはわからない。まぁ、せめて死ぬとするのなら、苦痛を感じずに死にたいところだ。

 

 己の死生観について考えていると、視線を感じた。西条さんがジッと俺の事を見つめている。何かあったのだろうか。

 

「……唯野。お前、なんだか目が濁っていないか」

 

「やっぱりそう思います? なんか、任務が終わってから気分も優れなくてですね……」

 

「確か、精神に負荷をかけるような攻撃を受けたと言っていたな。一応精神科にでも行ってみたらどうだ」

 

「医者に行って治るもんでもないと思いますけど」

 

「なら……しばらく休んだらどうだ。慰安旅行とまでは行かなくとも、遠出をして自然に触れ、心を休ませるなんてのは効果があるかもしれん」

 

 真剣な顔で休むことを伝えてくる西条さん。確かに、ネームレスによって精神に負荷をかけられ……一時発狂状態にあった。そのせいで目が濁ってると言われればまぁ、納得できなくもない。病院で鏡を見た時にも思ったが、瞳の色が以前よりも暗いように感じた。死んだ魚の目とはいかなくても、その差は傍目からでもわかるくらい変化しているらしい。

 

 しかし、長期休暇か。この組織、有給なんてもんがないからなぁ。その代わり任務がない時は基本的に暇なんだが。けれどいつ次の任務が来るともわからないし……。

 

 そうしてしばらく悩んだが、ここは西条さんの言う通り休むべきだろうという結論に至った。菜沙からは、いつか一緒にどこか遠くに行こうという約束をしていたし、彼女を誘って旅行にでも行こうか。

 

「……西条さん、今のシーズンで旅行とかどこがいいですかね。菜沙と一緒に行こうと思ってるんですけど」

 

 そんなもん自分で調べろと言われるかと思ったが、西条さんは顎に手を添えて考えてくれた。最近この人も、俺達の前では柔らかくなったものだ。それは素直に喜ばしいことだし、本人もそれで楽しいと感じてくれるなら、なおのこと嬉しい。笑ってしまいそうになるのを珈琲を飲むことで誤魔化すと西条さんは、そうだな……と旅行についての計画を説明してくれた。

 

「季節としては秋だが、まだ紅葉はない。それに、普通に大阪なんかを観光してもつまらんだろう。ここは、どこか良い旅館にでも泊まって温泉に浸かり、現地を好き勝手に散策するという、計画性のない旅行をオススメする。行き当たりばったりではあるが、事前に何も調べず、その場その場で見つけていく楽しみというのは良いと思うが」

 

「温泉ですか……中々いいですね。冬にでもなったら、今度は皆で行きましょうよ」

 

「……まぁ、構わんが」

 

 どこか照れているかのように、西条さんは顔を逸らした。未だにこういったことは慣れていないというか、本人も心のどこかで意固地になって認めたくないんだろうなぁ。俺達といる時、随分とリラックスしているというのに。

 

 紅茶を飲んでる時なんて、仏頂面がかなり崩れてる。一部の人にはギャップ萌え間違いなしだ。問題は、そのギャップ萌えの瞬間を見ることができる人物が限られることだが。なんて勿体ない人なんだろう。

 

「……旅行に関しては置いておいてだ。今回の任務で感じたことがある」

 

 西条さんが先程よりも真剣な顔と声で話し始めた。それと同時に、ポケットから細かく折り畳んだ紙を取り出し、それを見せてくる。内容は……身体能力の測定だろうか。同じ項目を二回、別の日に測定したもののようだ。しかしどうにも数値に大きな幅がある。西条さんは何故これを見せてきたのか。自慢……とは考えられない。

 

「俺と、そして鈴華もだが……身体の調子が良くなかった。いや、俺からすれば元に戻ったと言ってもいい」

 

「……どういう意味ですか?」

 

「その紙の内容を見比べてみろ。一回目はお前が近くにいる時。二回目はお前がいない時に測ったものだ」

 

「いつの間に……。見比べると、一回目の方が数値が高いですね」

 

「鈴華も感じた身体の不調。それは恐らく、お前がいないからだと俺は考えている」

 

 ……いやいや、そんな真顔で言われても全く持って意味がわからない。俺がいるのといないのとで、一体何が違うというんだ。あれか、いつもお前達といるから俺の身体が変化して、一緒じゃないと本領発揮できなくなったと言いたいのか。やけに遠回しな言い方だなおい。西条さんこんなところでツンデレ発揮しなくていいから……。

 

「……お前、俺の言いたいこと理解してるか?」

 

「いや、全然」

 

「……仮説をハナから説明するのは、非常に面倒なんだが」

 

 なんとも面倒くさそうに顔を歪めた西条さん。いや勘弁してくださいよ。西条さんの頭の中を覗けるわけじゃないし、更にいえば脳の作りから違ってる。普通のパソコンとスーパーコンピュータぐらいの差があると思うんですが。

 

 そこをなんとかわかりやすく説明してくれませんかね。そう頼むと、仕方がないといったふうに西条さんは説明をしてくれた。

 

「お前の起源は『サツジンキ』だ。しかし、それはエラーが発生した結果生じたもので、本来は別の起源がある。そう考えられないか?」

 

 ……起源判別時の警告音。機械の誤作動等ではないが、それをエラーが発生したのだと西条さんは捉えたわけだ。そのせいで起源がこんなクソみたいなものになってしまったと。まぁ、確かにそう考えられなくもないが。

 

「……何度か起源を調べ直しましたが、結局は警告音が鳴って起源は変わらないままでしたよ」

 

「だとしたら、何かしら外的要因があるのかもしれん。お前には力を貸してくれている輩がいるだろう。ソイツの力のせいで判別がエラーになったとしていたらどうだ?」

 

「有り得なくはないですが……いや、アイツなら嫌がらせで俺にそんなことをしてきそうな気もします。つったって、そんなことして何になるのかって話ですが」

 

 頭の中に浮かんできたナイアの全体像。思い浮かべるだけで身の毛がよだつ。心の中であの野郎っと何度も悪態をつきながら、甘い珈琲で心を潤した。あんなブラックの塊みたいな奴に、誰か砂糖でもぶっかけてくれないものか。

 

 色白のお姉さんでかわいかったら、文句なしなんだけどなぁ。ナイアの夫がいるのだとしたら、どうにかして、どうぞ。

 

「……目くらましか。いや、それにしては大袈裟だな。だが、仮に唯野の起源を隠すのだとしたら……」

 

「……西条さん?」

 

「……いや、なんでもない。考え過ぎだ」

 

 なんだかブツブツと呟いていたが、一体何を考えていたのやら。言葉にしない辺り、そこまで重要でもないんだろう。気にしないことにして、それよりも知りたいことを尋ねた。

 

「……まぁ、起源についてはどうだっていいじゃないですか。肝心なのはどんな能力なのか、ですよ」

 

「そこら辺も調べてある」

 

 眼鏡をクイッと指で動かし、心做しか決め顔でそう言った西条さん。流石仕事が早い。さっすがー、なんて褒めてみたら、当たり前だと言いつつも顔を逸らしていた。だから男相手にそういうギャップはやめろって。苦笑いしかできないじゃないか。

 

「……確かお前は、中学時代にバレーボール部に所属し、県大会に出場したらしいな」

 

「えぇ、まぁ」

 

「中学時代の連中の情報を調べたところ、高校ではあまり戦績が良くなかった。中学時代を知っている者からすれば、ジャンプ力の低下や足の動きも悪くなっているらしい」

 

「……えっ、一体どこまで調べてるんですか?」

 

「仮説を成立させるために色々と調べ回った。少々、骨が折れたがな」

 

 現代じゃSNSで居場所を特定することは容易で、更に今回は菜沙からも力を借りたと言っていた。そこまでするのか。てか、怖い。この人のネットを使った情報収集力高すぎませんかね。なんてことを話したら、金だけは無駄にかけられてスキルを磨いてきたからな、なんて自虐ネタで返された。反応に困る。

 

「そして、今回俺が測定したその結果から察するに……お前の能力は、共に過ごした……いや、ある程度仲の良くなった人物が近くにいる場合、身体能力強化等の恩恵を与えるという能力があるんじゃないかと考えた」

 

「……いやいやいや、そりゃないでしょう」

 

「そうか? よく考えてみろ。お前は中学時代、どんな部活生活を送ってきた?」

 

 言われた通り思い返してみる。中学時代。何をやっても、誰よりも下手だった俺。周りに追いつこうと努力する度に、周りはそれ以上の成長で先を行く。しかしそれでも、毎日が楽しかった。一緒に過ごし、遊びに行き、くだらないことで笑いあった日々。

 

 練習試合で俺が休んだ時、皆は不調で勝てなかったって言ってたっけ。いつもなら簡単に勝てるような相手だったのに。

 

「……えぇ、嘘やん」

 

 ……当てはまることが多すぎる。えっ、なに。俺まさか周りの友達を強化する能力があったせいで追いつけなかったの?

 

 じゃあ、あの時の俺の努力って一体……? 考え始めたらなんだか過去の自分がバカバカしく思えてきた。それと、高校になって部活もやらずに不貞腐れてた時期を思い出して、一気に意気消沈する。なんだこれ。わけわかんねぇ。

 

「……まぁ、仮説は仮説だ。それに、お前の努力が無駄になった訳ではなかろう」

 

「いや、だって……」

 

「お前は今、この組織で活躍してるんだ。過去は忘れろ。今は未来のことだけを考えればいい」

 

「……西条さんって、本当メンタル強いっすよねぇ」

 

 羨ましいもんだ。いや、西条さんの境遇になりたいとは思わないけど。金持ちには金持ちの悩みがあるし、才能がない奴には才能がないんだ。そうやって前は切り捨てたはずだろうに。

 

「まぁ、どの道お前には何かを極める才能が見いだせん状態だ。バレーも途中で成長が止まっていたことだろう。挫折する前に辞められてよかったな」

 

「あのですね……それ絶対貶してますよね。才能に溢れたお坊ちゃまとか、まぁ大層なことで。羨ましい限りですわ」

 

「首を刎ねられたいか?」

 

「さっきある程度仲が良いのなら能力向上するって言ってたし……西条さん、俺と仲が良いって自覚できるようになったんすね。そんな仲の良い人の首刎ねて、罪悪感とか湧かないんですか?」

 

「……知らん。どうせ仮説だ。そんな当てにならんことを引き合いに出すな。それと、別に仲が良い訳じゃない」

 

 ツンデレ乙。そう言ったら肘で頭を叩かれた。くっそ痛い。いつか覚えてろよ……最近は被害をそらす魔術のおかげで、西条さんの刀も避けられるし、そろそろ組手で俺が勝つのも時間の問題だ。そん時は上から見下ろしてやるわ。

 

「随分と小生意気になったものだな貴様」

 

「西条さんの貴様とか久しぶりに聞いた気がしますけど。小学生ですら使わないのに、恥ずかしくないんですか?」

 

「よし、今から特訓の難易度を上げる。すぐにVR室に行くぞ。その首、空中で三枚に卸してやる」

 

 えぐいこと言うなぁ、西条さん。珍しく頭に血でも登ってるのか、それとも照れ隠しなのか。互いに何度も口論を続けていると、不意に扉がノックされた。コンコンッココンッと。その叩き方は藪雨のものだ。こんな時に一体何をしに来たのか知らんが……とりあえず入っていいと伝えると、いつもの貼りつけたような笑顔で部屋に入ってきた。

 

「おっはようございまーす。唯野せんぱい、西条せんぱい」

 

「おう、藪雨。嫌な……いや、良いタイミングで来たな」

 

「へっ……?」

 

 チラッと西条さんを見たら、俺に向けられていたヘイトが藪雨に向いていた。完全にとばっちりである。藪雨はあたふたとして、なんで私こんなに怒られそうになってるの、なんて言っていた。俺はただそっと、両手を合わせて合掌するだけ。間が悪かったんだよ。恨むなら西条さんのツンデレ気質を恨んでくれ。

 

「……朝から面倒な奴が来たな」

 

「昼に来たって、夜に来たってアナタそう言うでしょ!? 唯野せんぱいとかなら、まだ罵倒に優しさが込められてるのに、西条せんぱいって優しさの欠片どころか殺意しか込められてないじゃないですかぁ!!」

 

「その笑い方に腹が立って仕方がない」

 

「はぁー、こんなかわいい女の子の笑顔で靡かないとか、マジありえないんですけどぉ!!」

 

 そういうとこだぞ、と言っておく。勝手にお互いでメンチビーム切ってるのは置いておいて、珈琲を新しく淹れながら、藪雨になんで部屋に来たのかを尋ねてみる。言い争うのをやめて俺に向き直ってきた藪雨は、小さなため息と共に話してくれた。

 

「いやー、なんか鈴華せんぱいが、部屋に来てくれーなんて言うもんですから。まぁ、日頃お世話になってますしぃ? 私こう見えて結構優しい後輩ですから、来てあげようかなーなんて」

 

「おっ、そうだな。まぁ肝心の先輩がいないんだが……」

 

 朝早くから、誰かから電話が来たようでどこかに行ってしまった。なんか遠くの方から、ふざけるなよとか、そんな話し声が聞こえた気がするが……あの人何かやらかしたんだろうか。正直不安だ。

 

 先輩の日頃の行いとかを思い返して一抹の不安を抱えていると、部屋の扉がゆっくりと開かれて、先輩が帰ってきた。いつものおちゃらけた表情ではなく、どこか真剣味が感じられる。何か問題でも発生したんだろうか。

 

「……藪雨が来てくれるまで、ずっと外でスタンバってました」

 

「いやそんなこといいんで」

 

「まったく後輩を呼び出すとか、とんだせんぱいですねぇ」

 

「さっさと用件を言え」

 

「冷たいね君達。いやまぁ、言うけどさぁ……」

 

 覚悟を決めたのか、そこから流れるような膝をついていき、正座の体型に。そして両腕を折りたたんで太ももの上に乗せ、まるで一種の洗練された動きのように身体をゆっくりと曲げていく。顔も伏せ、そんな状態で先輩が言った言葉は……。

 

「頼む。合コンの数合わせに協力してくれ!」

 

 ……土下座しながらなーに言ってんだこの人。両脇にいた西条さんと藪雨の目が、まるでゴミを見るように荒んでいたのが印象に残っている。

 

 

 

 

To be continued……





今序盤の方見返してみると、随分と下手くそな地の文を書いてるなと思ってしまって仕方がない。


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第103話 ゴウコンなんて嫌いダ

普通の小説の会話率はだいたい30%くらいらしいですね。
ちなみに私の小説は57%くらいです。
序盤の地の文のなさが響きますが……これからちょっと地の文多めで頑張ろうかなと。
というわけで、今回地の文多めです。


 いつものように七分袖の黒い上着を羽織り、ジーンズの長ズボンを履いている氷兎は、どこか内心ソワソワとしながら翔平と西条と共に渋谷109の前で集まっていた。翔平の格好も、いつもよりオシャレを意識しているのか、明るい茶色の上着を羽織り、何度も襟元を触っては変な着方をしていないか確かめている。西条だけは、いつものようにオールバックで髪の毛をキメて、まるでスーツのような黒と白だけの服を着ていた。

 

 彼らが身だしなみに気を配る理由は、先日の翔平による合コンの数合わせとしてお呼ばれしたからである。なんでも翔平の友人から彼女が欲しいから合コンしようぜという誘いがあり、まぁいいかと翔平が二つ返事で了承したところ、女の子を集めて欲しいと言われ、仕方なく藪雨を頼ったのであった。

 

 頼まれた藪雨は、絶対に菜沙に何も言わず、言うとしても自分の名前を出さないという約束の元で協力を得ることができた。組織の中で仲良くなった年上の人を何とかして合コンに誘ってくれたようで、氷兎達は翔平の友人が合流してから店に向かう予定だ。

 

「……なぜ俺まで合コンなんてものに行かねばならんのだ」

 

「まぁまぁいいじゃないですか。こういった経験がどこかで生きるかもしれませんよ」

 

 面倒そうに顔を顰めている西条だが、翔平に頼まれた時も氷兎の口八丁に乗せられてしまい、渋々と参加することになった。ただし、酒は飲まないとはずっと言い続けている。それはもちろん氷兎も鈴華も承知の上だった。閻魔様にどうでもいい罪状を伝えるなんて、馬鹿馬鹿しいだろうとは西条の言である。

 

 そうこうしていると、ようやく翔平の友人だという男がやってきた。翔平の大学時代にできた数少ない友人であり、類は友を呼ぶとはよく言ったものだと氷兎が内心思う程に、その男は軽薄そうな見た目をしていた。茶髪で耳にはピアス。ズボンはダメージジーンズだ。また、ノリも軽く、氷兎と西条に向けてチーっすなんて挨拶をする始末。危うく西条がブチ切れて帰りそうになるのを、氷兎はなんとか押し留める。男、片桐(かたぎり) 浩平(こうへい)は後頭部を掻きながら悪びれる様子もなく話しかけてきた。

 

「いやぁ助かったわー。俺だけじゃ合コンなんて開けなくてさー」

 

「俺がどれだけ苦労したか……氷兎も西条も、金はこいつが出すってから遠慮せずに飲み食いしろよ」

 

 痛い出費だなぁ……なんて片桐は言っているが、そこまで悲しむ様子は見受けられない。それなりにバイト等でお金を貯めているんだろうと氷兎は予想し、気にせず食わせてもらおうと意気込んだ。なんにせよ、今回は片桐の彼女を作るための合コンであり、氷兎達はサポートに回るという作戦であった。

 

 今のうちに作戦を決めておこうと片桐が言い、机を指で叩いた回数で左から何番目の女の子を狙うのかというのを知らせ、サポートに回ってもらうという話になった。その他の女の子は別に取っちまって構わねーぞ、なんて言い始め、氷兎は西条がどこかに行ってしまわないようにするのを必死に防ぐことになる。

 

 そしてもちろんのこと、あまり乗り気ではない西条だったが、彼はとことん生真面目だ。もちろんこちらにも西条による作戦はあった。任務の時に使うインカムである。最近菜沙によって改良され、その小ささは耳の中に入れれば髪の毛で隠せてしまうし、装着している者の脳波を感知し、ポケットに忍ばせているリモコンのボタンを押している間は考えていることを既に登録されてある彼らの音声で伝えてくれるという、マイクが必要ない便利なものだ。三人はこれをつけているので、声を出さずにお互いに話し合えるという利点を得ていた。

 

「確か……そうだ、ここ。この店の奥の座敷にいるってさ」

 

 渋谷109から少し離れた場所にある店までやってくると、翔平が藪雨から伝えられた店を見つけて立ち止まった。そんじゃ一番乗りーっと片桐が店に入っていき、続いて氷兎達も中に入っていくが……店に入った途端、氷兎は身を襲う違和感に立ち止まる。

 

 とてつもなく嫌な感じがして仕方がない。氷兎は店内を見回すが、特にこれといった変な部分は見かけなかった。厨房で忙しなく働いている男性らしき従業員が見え、カウンター席には誰も座っていない。いや、それどころかテーブルにも誰も座っていなかった。ガラガラもガラガラ。感じた違和感は人の少なさのせいかと一瞬思ってしまう。立ち止まる氷兎に、西条は話しかけた。

 

「……どうした、唯野」

 

「いや、なんかすんげぇ違和感が……」

 

「違和感、感じるんでしたよね?」

 

「お前はさっさと席に案内しろ」

 

 翔平も話に加わりたそうな目で見ていたが、先に行くことを促される。西条からは、初の合コンで緊張でもしているのだろうと言われ、それもそうかと氷兎は無理やり納得しておくことにした。

 

 そうして四人で予約済みだという座敷の場所に行くと……そこには綺麗に着飾り、薄めの化粧をしている女性が四人揃って座っていた。インカムからは翔平の嬉しそうな声が聞こえてくる。

 

(うひょー、こりゃ凄い。べっぴんさん揃ってんねぇどうりでねぇ!)

 

(えぇまぁ、確かに……)

 

 そう言って氷兎は女性を軽く見回していく。一番左にいる女性から、次々と見ていき……そして四人目でピタッと視線が止まった。目は完全に開かれ、身体が小さく震え始める。ファッ!? っと氷兎は呟いていた。インカムでその声を拾った翔平と西条が何かあったのかと尋ねる。

 

(い、いや……左から四人目……見てくださいよ)

 

(……えぇ……?)

 

(いや待て、冗談だろう……)

 

 三人とも完全に唖然とする中で、四人目の女性は薄らと微笑んでいた。胸を強調させるような大胆な服装に、短めのスカート。顔つきはどうにも日本人とは少し離れているように思える。瞳の色もカラコンでも付けているのか金色に輝いていた。蝙蝠がモチーフの髪飾りのようなものを身につけている女性は、三人に向けて軽く手をあげて挨拶してくる。

 

「やっほ」

 

(『マイノグーラじゃねぇかぁぁぁッ!?』)

 

 気軽に挨拶してくるが、三人は完全に焦り始めた。どう見たってマイノグーラなのである。北海道で出会い、時にはゲームで『多々買わなければ生き残れない事件』を引き起こしたあのマイノグーラである。うあぁぁぁっ、なんでなんでなんでなんでなんで。氷兎は発狂し始め、流石に翔平も苦笑いをする他なく、どうにかして逃げようにも片桐は既に一番右端の席に座ってしまった。お前らも早く座れよという片桐に、出会って十数分だと言うのに氷兎と西条は殺気剥き出しである。

 

(えっ、嘘やん。マイさんなんでこんなとこいるの!?)

 

(そんなこと知るか。バカヤロウ逃げるぞ)

 

(いや、逃げたらとんでもない目に遭わせるって顔してますよアイツ……)

 

 仕方なく各々座布団に座り始めるのだが、マイノグーラのお前が対面に来るんだよという視線に氷兎が押し負け、右端から片桐、西条、翔平、氷兎の順で座った。目の前にいる神話生物のせいで、氷兎は内心穏やかでない。もうマヂ無理……。氷兎は始まる前から既に泣きそうだった。

 

「はいはーい、じゃあ自己紹介からいきましょー! 俺、片桐 浩平っていいまーす」

 

「私は───」

 

 各々自己紹介をしていくのだが、氷兎はまったく耳に入ってこなかった。目の前にいるマイノグーラに順番が回ってきて、彼女は姿勢を正し、更にニンマリと笑顔を浮かべると、誰もを魅了するような声で自己紹介をし始める。

 

「私は舞野(マイノ)=グーラでーす。日本とアメリカのハーフなんですよー」

 

(んなわけあるかぁッ!!)

 

 氷兎は心の中でツッコンだ。もうやだ帰りたいとインカムに響く氷兎の声に、隣に座る翔平が宥める。なんとかしてこの合コンをジェノサイドパーティーにしないようにせねばならない。三人はマイノグーラと正面切ってやり合うのか、逃げるのかを思案し始めていた。もはや合コンのゴの字すらも彼らの頭の中には残っていない。

 

(鈴華、女性は藪雨によって集められたと言っていたな)

 

(いや、アイツは仲の良くなった女の子一人に頼み込んで他の人誘ってもらったって……)

 

(どっちにせぇよ、もう帰りたいです。お腹痛くなってきました)

 

 しかしここでトイレに行くなんていえばマイノグーラに何されるかわかったものでは無い。氷兎は目の前にいる怪物から目を背けることなく、耐えるしかなかった。この店に入ってきて違和感を感じた段階で逃げるべきだったと今更ながら後悔する。

 

「いやぁ、皆かわいいっすねー。ちなみに、どんなお仕事やってるんですか?」

 

 片桐が積極的に女性に話しかけていく。机に置かれた右拳から人差し指だけが動き出す。頼むから四番目だけは許して、と氷兎は内心懇願し始めた。机を指がコツンッと叩いていく。その数なんと……四回。氷兎の胃が限界を迎えそうである。

 

(『よりにもよってマイノグーラかよぉ!!』)

 

 三人とも同じように思い、インカムから聞こえてくる。いや、どうすんのこれ。やべぇよやべぇよ……。氷兎と翔平の額に汗が湧き出ていく。なんとかして片桐とマイノグーラが、はぁい、情事ぃ……するのを防がなくてはならない。しかし西条だけはその表情を崩さず、顎に手を添えてジッと何かを考え始めていた。そして徐ろにメニュー表を手元に取ってくると、スっと手を上げて口を開く。

 

「……話はあとにしよう。先に飯を頼まないか。俺は腹が減ったからこのヒレステーキ定食を頼もうと思うんだが」

 

(西条ォッ!? 何考えてんのお前ぇ!?)

 

(ステーキ!? この雰囲気の中の中で!? うせやろ、こんなところで財力アピールとかしなくていいから……)

 

 互いに何考えてんだこいつと思うも、西条は素知らぬ顔でメニュー表を見るばかりであった。もうダメだ、こいつとち狂っちまった。翔平は西条が正気を失ってしまったことを嘆きながらも、なんとか氷兎は守らなければと決意する。

 

 片桐がおっ、そうだなっと言った感じで飯を頼む形になり、各々好きな食べ物を頼み始めた。とはいうものの、翔平も氷兎も食欲が根こそぎ奪われている。軽めでいいやと二人でチャーハンを頼み、それらが届くまでお互いに質問タイムが始まった。片桐がさっき質問した通り、女性達は質問に答えていく。そんな中でマイノグーラの答えといえば……。

 

「お仕事は……恥ずかしいんだけどぉ、これでも動画の投稿とかしててぇ……いや、普通にお仕事もしてるんだけど、ほとんどは動画の収入かなぁ」

 

(お前ヨウチューバーかよぉ!?)

 

「趣味は……結構ドラマとか見るのが好きで……。格好いい俳優さんとか見てるとそそられるというか……」

 

(食欲がだルルォ!?)

 

「家事、ですか? えぇ、まぁ……それなりに?」

 

(ゲームやってばっかで飯の支度他人に任せてたよなぁ!?)

 

(氷兎、落ちケツ)

 

 かわいらしい仕草で片桐の心を鷲掴みにしていくマイノグーラ。そんな彼女に対して心の中で荒ぶりながらツッコミを入れていく氷兎。そんな後輩を見ていると、翔平は目頭が熱くなって仕方がなかった。できることなら席を変わってやりたいと思ってはいるが、マイノグーラの手前そんなことはできない。頼みの綱である西条はさっきからだんまりだ。その無表情が今では悟りを開いた神官のようにさえ見えてくるのだから、彼らの心にはもう余裕がなくなってきている。

 

 やがて頼んでいた料理が運ばれてきた。ヒレステーキ定食を頼んだ西条だけ異様に豪華であり、他の人はそこまで大それたものを頼んでいない。それはそうだ。この場所は合コンなのだから。目の前の席にいる女性達から、美味しそうなんて聞こえ始め、携帯を取り出して写真を撮り始めた。インスタ映えだとかいう訳の分からないやつだろう。

 

 そんな女性達のことなんて気にする余裕もない氷兎は、頼んだチャーハンを口の中に運んでいった。米はいい感じに炒められていて、パサパサとしている。美味しいはずなのに、どうにも気分が上がらなかった。どれもこれもマイノグーラのせいである。氷兎は恨みを込めて睨みつけた。

 

「ふふっ」

 

 しかしマイノグーラはニヤリッと笑って返してくるだけ。クソがっと思いつつ、こんな時に西条さんは何呑気にステーキなんか食ってんだと西条の方を見るが、どうにも箸が進んでいない様子。適当にステーキナイフで肉を切った後、誰にもバレないようにそっとナイフを机の下に隠してティッシュで拭いていく。

 

 えっ、なにやってんの。そう思い西条の顔を見れば、口元が不敵に歪んでいるのが見えた。それを見て翔平の顔がハッとなる。

 

(まさか西条……武器を確保するためにステーキ定食を!?)

 

(ステーキナイフで戦う気!? 西条さん正気ですか!?)

 

(俺は斬れるのならなんだって補正がかかる。例えステーキナイフだろうが……神殺しだろうとやってのけよう)

 

(無理だって! お前表面上装ってるけど実は内心かなりテンパってんな!?)

 

 無言で脳内会話を繰り広げる三人。西条は左手で器用にご飯を食べていき、右手はずっとナイフを握ったまま机の下に隠している。殺る気満々な西条に対して氷兎は流石に草も生えない。戦っても勝てないから争いは避ける方向で、どうぞ。しかし西条は聞く耳を持たなかった。

 

 西条の起源は『斬人』であり、得物が斬れるものであるのならばどんなものでも補正がかかるという便利な起源だ。ステーキ定食をわざわざ頼んだのも、武器の調達のため。もう彼の中では戦闘は避けられぬ事態になっているらしい。

 

 そんなことなんて露知らず、片桐を含めた残りの四人は楽しそうに会話をし、時折振られる話を氷兎は返していく。マイノグーラはずっと氷兎達の慌てふためく姿を見て笑っているだけだった。タチが悪すぎる。

 

 そんな中、片桐がビールビールっという感じで頼み出してしまい、女性陣もそれに乗っかってしまう。三人だけは、未成年だからという理由で酒飲みを断った。

 

(片桐さんって未成年じゃないんですかね)

 

(いや、世の中未成年で飲酒してる奴が何割占めてるかわかんねぇぞ)

 

(馬鹿馬鹿しい。日本に生まれたからには、法律に従うべきだろう)

 

(お国のためにーって?)

 

(自分の身のためにならないようなものは断る)

 

 それぞれがビールを飲み、口が軽くなっていく中でシラフな三人はどうにも場から浮いているように感じ始めている。これもう酒入ってるし、途中退散してもバレないんじゃ……と氷兎は思うも、机の下からマイノグーラに蹴りを入れられ、逃げることは叶わなかった。

 

 そうして皆の頬がほんのり赤くなってきた頃、氷兎達に更なる試練が襲いかかることになった。マイノグーラがメニュー表を持ちながら、すっと手を上げて提案したのだ。

 

「みんなー、このロシアン・クトゥルフ焼きってやつ頼んでみないー?」

 

(……えっ、なにそれは)

 

(ロシアン……なんだって?)

 

(嫌な予感しかしないな)

 

 三人の顔が青ざめていくのを感じたマイノグーラは、薄らと微笑んでいる。目を凝らしてメニュー表を見てみるが、ロシアン・クトゥルフ焼きは見てくれたこ焼きのようであった。氷兎の中でクトゥルフ=タコの方程式ができ上がったが、それでも嫌な予感は拭えない。しかもこれはロシアン形式。ハズレを引いたらとんでもないことになる。

 

 流石にやらないよなぁーなんて淡い期待はすぐに砕かれた。えぇぞ、えぇぞっとやる気に満ちた酔っ払いどもの言葉に、ロシアン・クトゥルフ焼きは実行されることになる。脳内会議はてんやわんやとし始めた。

 

 やがてロシアン・クトゥルフ焼きなるものが運ばれてくる。それは茶色く、少し崩れた球状をしていて、円状の陶器のようなものの上に規則的に四つずつ並べられていた。それが二列存在している。所々に緑や赤の不定形な印が刻まれ、上には向こう側が透けて見えるくらい薄い茶色の皮のようなものが何枚も乗っけられていた。それらをドロドロとした焦げ茶の液体が上から被さり、緑色の粉末のようなものが所々に散りばめられている。熱を発するその存在は、触れば皮膚を軽く焦がすのは明白であった。口の中に入り込まれたら最後、あまりの熱に身を焦がすだろうというのは容易に理解できるものだ。

 

 それは、どこからどう見ても普通のたこ焼きであった。しかし……色が劇的に違うものがある。氷兎達から見て上段の右から二つ目が、何故か青と緑の混ざったような気味の悪い色をしているのだ。しかしどうしてか、皆は騒ぎ出さず、クスクスと笑っていた。

 

(アホみたいにわかりやすいのがあるんですが、それは)

 

(男の度胸が試される奴なんじゃないかね、これ。女の子絶対食わないでしょ)

 

(んで……どうする。マイノグーラは頼んだ人だから最後に食うと宣言したぞ。俺達は順番は後の方……)

 

(いや、マイノグーラに食わせる他なくないっすかね)

 

(それもそうか……)

 

 順々に女性から食べ始め、やったセーフ、なんてやり取りが繰り広げられる。マイノグーラを飛ばし、片桐が食べるも青色のたこ焼きには手を伸ばさない。次は西条の番だ。しかし、彼はそこで一旦手を止めて待ったをかけた。

 

(……待てよ、何かおかしいんじゃないか?)

 

(どうかしたんですか?)

 

 氷兎が尋ねた瞬間……たこ焼きに変化が起きた。青かったたこ焼きの色が普通に戻っていくのだ。目の前で起きたあまりにも異様な事態にそれぞれ目を見開くも、すぐに氷兎は犯人が誰なのかわかった。すぐさま氷兎はマイノグーラの顔を伺うと……彼女はニンマリと笑っている。やられた、と氷兎は舌打ちをし、苦言を漏らす。

 

(幻覚……いつの間に!?)

 

(違和感はどうした?)

 

(この店入ってから違和感感じまくってて気づかないですよ!)

 

(違和感を隠すのなら違和感の中ということか……クソッ)

 

 残された四つのたこ焼きの中のひとつがハズレ。しかもマイノグーラによって先程まで騙されていた。これはどうするべきかと考え始めたところ……翔平と西条が脳内会議で作戦を伝えあっている。西条は既にハズレの手がかりを掴んでいるようであった。

 

(先程から嫌に魚臭いのがひとつある。それを先に選ぶから、お前達は避けろ)

 

(いいや……万が一お前の考えが外れたとして、氷兎にそんな得体の知れないもん食わせるわけにはいかねぇ。辛いのなら俺は平気だ。ここは……俺が引き受ける)

 

 無言で頷いた二人。西条が残されているたこ焼きの、下段の二つのうち、左側にあったものを選ぼうとしてから、右側にあるものを選択。それに楊枝を突き刺して一思いに口の中に放り込んだ。さしもの西条も強ばった顔つきであったが……噛み始めるといつもの仏頂面に戻る。

 

(……セーフだ)

 

(よ、よし……いくぜっ!)

 

 続いて翔平が先程西条が最初に選んだものを突き刺して口のそばまで持ってくる。確かに、異様な匂いがしていた。ゴクリッと唾を飲み込み、えぇい、ままよ! っと口に入れて噛み潰す。苦々しい表情をしていた翔平だが……顰めていた眉が元に戻る。

 

(……セーフだった)

 

(馬鹿なッ!! 確かにソイツは匂いが変だったはずだぞ!!)

 

 脳内でのやり取りを聞いた氷兎がすかさずマイノグーラを見る。彼女は腹を抱えて笑うのを堪えていた。あの野郎匂いまで魔術で偽装しやがった、と氷兎は恨みの篭もった目で睨みつける。

 

 残されたたこ焼きは二つ。うち片方はハズレのはずであった。そしてまた……残された二つのうち右側のものが青っぽく変色していく。マイノグーラはただニヤリと笑うだけだった。

 

「ねー、ここで男の子がハズレ引かないと、可哀想だよねー」

 

 馬鹿げた話が女性達から聞こえてくる。しかもその中には今までの根底を覆すようなものも混じっていた。

 

「おいおい、ここは青いのいっとこうぜ!」

 

 片桐の言ったその言葉に三人はハッとなる。まさかの、元から色つきのものがあって、それを更に魔術で誤魔化すという三重の罠だった。しかし問題は……。

 

(……どっちが本物だ。奴らの見てるものと、俺達が見てるものはおそらく違うかもしれんぞ)

 

(魔術かけられてるのが俺達だけですからね……)

 

 どうするべきか。悩み始めた氷兎に対してマイノグーラは笑いながら言ってくる。

 

「別に私は、左側の奴でもいいよー?」

 

 左側。それは普通の色をしたたこ焼きだ。仮にマイノグーラが魔術を使っているとするのなら、左側は青色のたこ焼きになる。だが、これがブラフだとしたら。ハズレは右側だ。

 

 そしてさらに氷兎には考えていることがあった。

 

(……マイノグーラの言った方がハズレなら、右を選んだ瞬間に女性陣からブーイングが来る。好感度か、危険性か……なんて、いやらしいことをッ!!)

 

(馬鹿、正直に付き合ってやる義理はないだろ、右を食え!)

 

(いや待て唯野。ブラフだ。左を行け!)

 

 完全に意見が分かれてしまった。氷兎は悩むが……もうこれは運に任せるしかないという判断をするしかなく、翔平の意見に従って右のたこ焼きを選んだ。俺は女の子の好感度より、身の安全を選ぶんや、と意を決して口の中に放り込む。

 

(……これ、は)

 

 口の中に広がる、青臭い味。噛んだ途端に辛味が広がっていき、今度は何故か甘い味までが広がり始めた。辛味と甘味が合わさり、更には中に入っているタコのようなものが……口の中で蠢いている。

 

 流石に吐き出すわけにもいかないという理性という名の枷が邪魔をして噛むという手段しかなかった。噛めば噛むほど、広がる気分の悪くなる味。あまりにも酷く、胃液が込み上げて混ざりあってしまった。辛味、甘味に加え酸味である。まさしく宇宙の心理を得たかのような顔つきになった氷兎はもう噛むことすらままならず、それを無理やり飲み込んだ。

 

(……なんて、冒涜的な……)

 

 食への冒涜ともとれる酷い味に、氷兎の視界が暗くなっていく。飲み込んだはずのたこ焼きが、腹の中でグルグルしている。あぁ〜、たまらねぇぜ。もう気が狂いそうになる程気持ち悪いんじゃ。もう無理限界。氷兎は暗くなる視界の中で意識を手放しかけていた。

 

「……ごふっ」

 

「氷兎ォッ!?」

 

「すまない、ちょっとコイツをトイレに連れて行ってくる」

 

 机に突っ伏し、顔を青くして動かなくなった氷兎を西条と翔平が抱えあげてトイレに向かって連れていく。後ろからは腹を抱えて笑うマイノグーラの笑い声が響いていた。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 トイレの個室の便器に胃の中身を全て捻り出していく氷兎を、翔平は背中を摩りながら見守っていた。氷兎の口から漏れでる半固形の物体達が、何故か全て緑色に変わっている。西条は見るにも耐えないのか、個室の外で壁に背を向けて携帯を弄りながら待っていた。

 

「……食ったもんに加えて胃液まで緑色になるって、どういうことなの?」

 

「なんてものをこの店は出しているんだ。営業停止を言い渡してやりたい。鈴華、この店の名前はなんだ」

 

「確か……食い処ルルイエって名前だった気がする」

 

「……おい、検索にヒットしないぞ」

 

「えっ、マジ?」

 

 氷兎から離れて、翔平が西条の携帯を覗き見るが……確かにルルイエという店は存在していない。おっかしいなぁ……なんて翔平が悩んでいるところ、ようやく氷兎は中身を全て吐き出した。フラフラとした足取りで、未だに顔は青白いままだが、なんとか意識はある様子。

 

 翔平に促され、氷兎は洗面器で口の中をゆすぎ始めるが……口の中に含んだ途端、咳き込みながら水を吐き出した。顔をすぼめて氷兎は伝える。

 

「げぇ……これ、しょっぱい……」

 

「……おい、これ海水じゃないか?」

 

 西条が水を口に含み、あまりのしょっぱさに吐き出した。Eye phoneで成分を分析したところ、本当に海水だったようで、流石に三人とも顔を見合わせる。

 

「なんか色々おかしいよなぁ?」

 

「違和感感じるし、たこ焼きは酷いし……うぇ」

 

「……更に店はヒットせず、か。しかもトイレでは潮の香りまでする」

 

 どうなってんだよと話し合う中で、携帯を弄っている西条が何やら気がついたようだ。神妙な顔になり、額からは珍しく汗が垂れている。何かまずいことでも起きたのかと、翔平が携帯を見るが……画面には関東地方のマップが映っているだけであった。なんだよ驚かすなよなぁ、なんて翔平がおどけるが、西条は違うと返し、携帯をよく見るようにと押しつける。

 

 氷兎も倣って見つめてみるが……特に何も変な場所はなかった。西条の口が重々しく開かれ、驚愕の事実が伝えられる。

 

「……GPSで俺達の居場所が映っていない」

 

「……へっ?」

 

 言われてみると確かに、現在地を知らせるポインターが反応していなかった。どういうことなの……と氷兎は考え始めるが、翔平は生唾を飲み込み、震え始める。その様子を見た西条は、ゆっくりと頷くだけであった。

 

「じ、じゃあよ……俺達今、どこにいるんだ……?」

 

 嫌な沈黙が流れる。氷兎どころか翔平まで顔を青くし、西条の表情までもがいつもよりも強ばっていた。

 

 その後、三人揃って顔を青くした彼らは片桐に、氷兎が体調不良だから連れて帰るという旨を伝えてから店を出た。すぐさまその場から離れ、逃げるようにオリジンへと帰っていく。

 

 嫌な……事件だったね。そんな言葉じゃ済まされないくらい、恐怖を感じた三人であった。

 

 

 

 

To be continued……



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第104話 自分なりに

 長めの休暇をもらって、菜沙と一緒に温泉旅行へ行った。森林浴をしたり、色々なお土産屋を見て回ったり。それはもう有意義な時間を過ごすことができた。三泊四日のちょっとした旅も終盤、明日には帰ることになる。

 

 今日も歩き回って疲れが溜まっていた。旅館の温泉の外には露天風呂がある。湯の色は白色。なんでも、にごり湯と呼ばれるものらしいが……これ、風呂から出ると本当に肌が潤ってすべすべ感が増す。それに、浸かっているとなんだか若返ったような気分にもなっていく。

 

 ……こんなにゆったりと何も考えずに過ごすのは、久しぶりかもしれない。先輩達と過ごしていても時折ブラックな話は出てくるものだ。その点、菜沙とはそんな話は一言もない。それに、互いに気の知れた仲だ。一緒にいて迷惑なんてこともない。

 

「……ふぅ」

 

 肩までどっぷり湯に浸かると、自然と息が漏れていく。湯の温かさが心地よい。周りを見回してみれば、シーズンが違うせいか、それとも田舎の温泉のせいなのか。人は誰一人いない。風呂の縁に背中をあずけ、上を見あげれば夜空が綺麗に見えた。黒の布地に、パウダーをまぶしたような。都会と田舎では空の見え方が違うと言われるが、こうまで違うものだとは思ってもみなかった。

 

 そうして空を見ていると、どうにも昔の出来事に思いを馳せてしまう。昔といっても、俺がこの組織に入った数ヶ月前の話だが。

 

 ……今思えば、随分と無茶な場面を生還してきたものだ。最初の任務の神話生物。ナイアが言うには、ショゴスと呼ばれるもの。あれは大変だった。加藤さんがいなければ、まず間違いなく死んでいたことだろう。

 

 次々と浮かんでくる神話生物との激闘。そして……汚れていく己の手。湯の中から右手を取り出して見つめてみる。一瞬、手が真っ赤に染まっているのを幻視した。けれどもすぐに肌色を取り戻す。一種の強迫性障害のようなものなのだろうか。それとも……自分が徐々に壊れていってるのか。

 

「……いつになったら、終わるのかな」

 

 この世からせめて、人に害をなす神話生物がいなくなってくれるのはいつになるのだろう。そしてそれまで……自分はどれほど手を汚してしまうのだろう。そんな真っ赤になってしまった自分は……果たして、幸せになっていいのだろうか。

 

 他人の命を奪っておいて、幸せになるのはあまりにも酷い話じゃないか。いつかきっと、誰かにその事実を突きつけられる気がしてならない。その時自分は、どう答えるのだろう。

 

「……やめだ。旅行に来てまで考えるのは、馬鹿らしい」

 

 湯船から上がって、脱衣所に戻る。部屋に置いてあった青色の浴衣を身に纏い、首からタオルを下げて部屋に向かって歩いていく。そろそろ菜沙も部屋に戻っていることだろう。

 

 そして部屋につけば思っていた通り、菜沙は部屋に布団を敷いてその上で座って待っていた。俺が着ているものと同じく、青色の浴衣を着た状態で。携帯も弄らずに何をしていたのかと思えば、彼女は窓から見える外の景色を眺めていたらしい。俺が部屋に戻ってきたのに気がついた彼女は、おもむろに立ち上がって手を取ってくる。

 

「ねぇ、砂浜に降りられるんだって。行ってみない?」

 

 せめて温泉に浸かる前に言って欲しかったが、彼女の頼みだ。いいよ、と快諾すればすぐに彼女の顔が笑顔になる。じゃあ行こうっとそのまま手を引かれて旅館を抜け、海辺にまでやってきた。石で作られた通路の上にはいくつかベンチとテーブル席が設置されている。ここで朝食を食べたりもするのだろう。

 

「……なんだか、夜の浜辺っていいよね」

 

 並べられていたベンチに腰をかけ、そのまま二人で押し寄せてくる波を見つめていた。夜の浜辺は確かに、不思議と心が落ち着くような気がする。俺と彼女の間にそれきり会話はなく、波の音だけが響いていた。未だに握られている手には熱がこもり始めている。温泉で火照っていたせいだろう。

 

「……なんか、あっという間だったね」

 

「確かに、な」

 

 今までの旅を思い返しているのか。彼女の声には名残惜しさが滲み出ていた。それでも時というのは残酷で、いくら待ってと言っても止まってくれない。

 

 ふと、視線を海から菜沙に移した。眼鏡の奥に見える瞳は真っ直ぐで、口元は優しく緩んでいる。浴衣から見える健康的な鎖骨。そして視線が下にいけば……ほっそりとした身体が目に入ってくる。悲しいなぁ。

 

「……ひーくん、あんまり胸とか見ないで」

 

「うんまぁ、そう……育ち盛りだし、多少はね?」

 

「おい何考えてるのか言ってみろこの馬鹿っ」

 

 空いている左手で頬を思いっきり引っ張ってくる。痛みよりも、怒った顔でそれをしてくる菜沙を見て笑ってしまった。引っ張られて喜ぶとかMみたい、なんて菜沙が言ってくるが……そうじゃない。

 

 右手で彼女の頭を撫でてやると、怒っていたはずなのにすぐさま破顔していく。頬を引っ張る手も離れていき、恥ずかしいのか口元を抑えて俯いてしまった。

 

「……お前は変わらないでいてくれ」

 

 撫でる手を止めてそう言った。不思議そうに彼女は見つめてくるが、俺は視線を逸らして海を見つめ始める。俺達はこれから、どうしようもなく変わっていってしまうんだろう。良い方向か、悪い方向かはわからない。けれど、きっと今より悪い方向にいってしまう気がしてならない。撫でていた右手は赤く染まり、気がつけば元に戻る。

 

 本当に、我儘な願いだけど……すり減っていく心を、いつものように支えていて欲しい。前々から、それこそ組織に入る前から一緒にいる菜沙だからこそ……安心できるし、こういった何気ない行動でも笑えてしまう。それこそが、何よりも荒んだ心を治してくれるのだと、今回の旅行で学んだ。

 

「……変わらないよ。ずっと、ずっと……ひーくんの隣にいるから」

 

 左肩が重くなる。乗っけられた彼女の頭から甘い香りが漂ってきた。いつもと違う匂いなせいか、少しドキリとしてしまう。匂いが違うのは温泉のせいだろうか。

 

 ……あぁ、それでも落ち着いてしまう自分がいる。彼女の匂いでなく、彼女という存在自体に落ち着いてしまう。それは果たしていいことなのだろうか。

 

「ひーくん」

 

 肩に頭を乗せたまま見つめてくる彼女を見ていると、そんなことがどうでもよく思えてきてしまう。口元に落ちてきている髪の毛を耳の後ろにまで掬ってきてやり、そのまま後ろにいってしまわないように彼女の身体を支えるよう、背後に手を回して肩を抱き寄せた。

 

 お互いの呼吸の音すらも聞こえてしまうような距離。そんな中で、彼女は小さく呟くように言った。

 

「このまま……時間が止まればいいのに」

 

「……そうだね」

 

 あぁ、それもいいかもしれない。返事を返せば沈黙が流れ、彼女が部屋に戻ろうと言うまでは無言が続いていた。そんなお互いの頬が薄らと赤かったのは、やはり温泉のせいなのだろう。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 氷兎が菜沙と旅行に行っている間、翔平と西条は自炊をしていたが、美味しいとは言い難いものだった。最初の頃は楽しくできていたものを、今となっては皿洗いが面倒だからコンビニ弁当にしようと言い出す始末。

 

 そんな彼らだが、氷兎が行ってしまってから三日目。昼飯をどうするのかという話になり、翔平はラーメンが食べたいと言い出した。しかし西条は……。

 

「ラーメン? 食ったことないな。汁を飲むと身体に悪いとか言われている、あのラーメンだろう?」

 

 なんて真顔で言うものだから翔平はすぐさまラーメンを食わせねば、と氷兎とよく食べに行くラーメン屋に向かうことにした。もちろん、玲彩と藪雨、桜華も連れてだ。

 

 五人で昼間の街を歩いていると、どうにも人目を引くことになる。桜華は言わずもがな、藪雨も玲彩もそれなりに良い容貌を持ち、西条に至っては目つきの悪いイケメンだ。翔平は顔よりも天パに目がいくことになり、嫌でも視線が集まっていく。

 

 女性陣は慣れたもののようだが……西条は視線を鬱陶しそうに感じているようだ。時折周りを見回しては小さく舌打ちを繰り返す。翔平も苦笑いを浮かべる他なかった。

 

「……こんなことなら、俺と鈴華の二人だけで行くべきだったな」

 

「そもそも、せんぱい達が自炊できないなら頼めばよかったんですよぉ。私が作ってあげたのにぃ」

 

「料理できるのか? そんな足りなそうな頭で?」

 

「かぁーっ! 料理に頭の出来は関係ありませーん!」

 

 藪雨と西条の口喧嘩が続いていくその隣では、翔平が玲彩と桜華と共に最近の出来事について話を繰り広げていた。そして話題は今旅行中の氷兎の話になり、楽しそうでいいなぁ……っと羨ましそうにしている桜華と、休暇で旅行したことがないと嘆く玲彩。そして、翔平だけは氷兎の身を案じていた。

 

 翔平には竹馬の友ではないが、友人がいる。氷兎のことだ。互いに無言で頷きあい、邪智暴虐な王の前に差し出されようとも快く人質になり、ひしと抱き合って全力で殴り合える程の友である。翔平には女の心はわからぬ。大学に進み、平凡に暮らしてきた。けれども他人の色恋に対しては人一倍に敏感であった。

 

 旅行に行く前に、寝る前と起きた時の身体の状況と周りの状態を報告しろと言っておいたのだ。なにしろ氷兎は幼馴染に対してはあまりにも鈍感である。どれくらい鈍いかと言うと、足の小指をぶつけても平気な顔をするくらいには鈍いだろう。

 

 そうして翔平は送られてきた内容を確認していたのだが、二日目のメールを見た時は流石に気の遠くなるような思いであった。

 

『菜沙が身体に跨っていて、目が合った瞬間首を絞められる夢を見たんですよ。苦しくてハッとなったら目が覚めたんですけど……えぇ、周りは特に変化なしです。ただ……自分溜まってるんすかね。恥ずかしながら、なんか夢精してたっぽいんですが。なんかカピカピしてるし』

 

 氷兎、それ夢とちゃう、現実や。声を大にして言いたかったが、翔平にはそれは叶わなかった。仕方なく、思春期だし、俺も高校生の時あったから……と励ますことしかできなかったのだ。幼馴染相手に劣情を抱くなんてと後悔していた氷兎だが、その幼馴染がやべぇ程劣情を抱いているなんて彼は知らないんだろう。

 

 これはもう既に童貞は奪われてますね、間違いない。前に氷兎が、菜沙といると頻繁に眠くなってしまう時期があったと言っていたが、睡眠薬でも盛られてヤラれちゃったんだろうと予想はついていた。なんて罪深いことを、と一瞬思ったが、結局は羨ましいという感情に落ち着いた翔平である。

 

「まったく、唯野君は旅行とか羨ましいね。けどまぁ、休まなきゃいけないくらい酷い目にあったってことなんだけどさ」

 

「……俺達がさっさと任務終わらせてれば、そんな目にあわせずに済んだんすけどね」

 

「仕方あるまいよ。過ぎたことより、これからどうするのかが大事だ」

 

 優しく諭すように言ってくる玲彩に対し、あぁ……年上のお姉さんってやっぱいいわと再認識した翔平。口喧嘩の絶えない二人と、桜華によってほんわかとした状態のまま歩く三人。もう少しで目的地であるラーメン屋に着くといったところで……彼らのすぐ側に一台の黒い車が停まった。まるで新品のような輝きを持つ高級車だが……それを見た西条の足がピタリと止まる。何かあったのかと翔平が顔を見てみれば、西条の顔は仏頂面ではなく怒りに近いものであった。眉に皺を寄せ、目つきも普段より鋭い。

 

 周りにも変な動揺が広まる中で、車の後部座席の扉が開かれた。中から出てきたのは、黒髪をワックスで整え、胸元にふわふわとしたジャボと呼ばれるものをつけたスーツ姿の男性だ。見てくれは翔平達よりも年齢は上だろう。落ち着いた表情ではあるが、口端が上がっている。どうにも見下されているように思えてしまい、翔平は心の中でなんだこいつ、と蔑んだ。

 

「……家にも帰らず何をしているかと思えば。まさかこんな場所を彷徨いているとはな、薊」

 

「……今更何の用だ、兄上」

 

 西条の口から出た言葉に、その場にいた全員が驚いていた。なんと、目の前の男は西条の兄だという。藪雨がうっそだぁなんて目で見比べているが、どうにも見た目が違っている。兄は優しそうだが、弟は厳格そうな雰囲気だ。ただ……翔平にはその仮面の下が見え透いていた。アレは他者を見下す……前の西条と同じ。いや、それ以上に酷いものだと。

 

 西条は確かに人を見下していたが、それは人を真正面から見据えた上で、そう対応していただけのこと。しかし兄にはそんな様子はない。言葉の節々や態度からわかる。庶民に向ける目はないのだろうと。

 

「そろそろ、あのお嬢と結婚しろと催促されているだろうに」

 

「……断る。何もかも、貴様らに決められてたまるものかッ。俺の生き様は、俺が決める」

 

「今まで従う他なかったのにか? 随分と、反抗的になったな……後ろにいる、お前達の仕業か?」

 

 優しく開かれていた彼の目が一気に鋭くなる。怯えて後ずさりする藪雨の前に翔平が立ち、玲彩も心做しか表情を固くした。そんな彼らを見て、西条の声に段々と熱がこもっていく。

 

「こいつらは関係ないッ。俺の意思で、俺はここにいるッ!」

 

「西条の名前が無ければ、お前は何もできんだろう。不祥事を起こして揉み消したのは誰だ? 不自由なく生活できたのは、誰のおかげなんだ?」

 

「不自由なく、だと……? こんなものが、名前がッ、自由の証だとでも言いたいのかッ!!」

 

 自分の胸を叩きながら西条は怒鳴りつける。ここまで激昂する西条を見るのが愉快なのか、彼は口元を更に歪ませて畳み掛けていく。

 

「じゃあ、大学に受かったのも自力で頑張ったからだと思っているのか?」

 

「……なんだと?」

 

 彼はニヤリと笑って西条に言う。どの道大学側も落とすつもりもなく、例え点数が足りていなくとも、西条グループによって無理やり入学させていたのだと。西条の点数が足りていたのか、いなかったのか。それを彼はあえて濁していた。それのせいで西条にはわからない。自分が本当に、自力で合格できていたのかが。先程までの威勢はどこへやら。怒りの表情が驚愕へと移り変わる様を、彼は鼻を鳴らして見ていた。

 

「本当に努力で勝ち取ったものだと、思っていたのか?」

 

「バッ、馬鹿げたことを!」

 

「裏でずっと手を引いてやってんのは、俺達なんだよ。お前はただ、引っ張られていただけ。西条の名前がなかったら……空っぽなんだよ」

 

「人の、努力をッ……」

 

「それも全て、提供してやっただろう。優秀な家庭教師、教材、何もかも揃ってる。誰だってそうなるものだ。お前にある価値なんてものは……自分の名前だけなんだよ」

 

「ッ……貴様ァ!!」

 

 とうとう西条は我慢ならなくなった。実の兄に向かって胸ぐらを掴みにかかり、凄まじい剣幕で詰め寄る。流石に場所も場所だ。周りには人の目がある。このままでは何かしら西条に不利になる事態になることを考えて、翔平は西条を背後から掴みにかかり、無理やり引き離した。翔平の腕の中では、西条が離せと叫んでいる。それを見て彼はまた笑っていた。

 

「無様だな……。素行も悪いとくれば、西条の名に傷がつく。そうなれば婚約も破棄されるやもしれん。父に報告して、何か起こる前にさっさと結婚の日程を決めてもらおう」

 

「ふざけるな!! 俺は、貴様らの操り人形なんぞではない!!」

 

「空っぽなお前を助けてやろうとしているのに。今のお前に何ができると言うんだ。それに、そんな社会的な価値もなさそうなボンクラどもと行動を共にするとは……」

 

「ッ……貴様には、わからんだろうなッ!! そんな驕り腐った眼球には、光り輝く金目のものしか目に入らんのだろう!! 血反吐も吐いたことの無い貴様に……何もわかるものかッ!!」

 

「どうどう、落ち着けって西条!!」

 

 暴れる西条をなんとか押さえつけるべく、翔平だけでなく玲彩も加わり始めた。あぁ、こんな時に氷兎ならばどう言い返すのだろう、と翔平は思案する。こういう時に頼りになっていたのは、氷兎と西条だった。しかし西条は今や乱心。氷兎もいない。彼らのような相手の核心をつく皮肉を、なんとか言えないものか……。

 

 しかし……考えても考えても、翔平には何も浮かんでこなかった。この状況をひっくり返せるような、格好いい言葉が何もないのだ。

 

 でも……それじゃ何も解決できない。それならば自分なりに言ってみるしかないのだろう。どの道氷兎のようにはなれないのだから……自分なりの、青臭さで戦おうと翔平は決意を固めて口を開いた。

 

「……実の兄だかなんだか知らないっすけど……西条のこと、馬鹿にすんのやめてもらえないっすかね」

 

「これは西条家の問題だ。口を挟むな」

 

 案の定簡単にあしらわれてしまったが、それでも翔平は怯まない。相手の言い方にカチンときたようで、眉間に皺を寄せて話を続けた。

 

「……いいや、挟ませてもらう。俺、頭も足んねぇし、運動能力だって西条には適わない。大層な歴史を持つ家柄でもない。でも……俺は、コイツの友達なんで。大事な仲間傷つけられて、何も言わねぇとか……そんなの、友達失格だろ」

 

 なんとも馬鹿馬鹿しい。そう言いだけな目で彼は翔平達を見下していた。突然そのようなことを言われた西条は、ただ唖然としている。口を少し開けたままポカンとしている珍しい西条を見て、翔平は笑っていた。

 

 完全に互いに喧嘩腰になり、険悪な雰囲気になってしまっている。そんな中だというのに、一人だけ雰囲気に飲まれずにいる人物がいた。桜華である。彼女は持ち前の強さと世間知らずの天然を発揮しているのか、翔平達の前に歩みでて必死に喧嘩を止めようとし始めた。

 

「み、皆喧嘩はやめようよ! こんなことしても、なんにもならないよ! ほら、もうお昼だし……お腹空いてるんだよね? だからきっとイライラしちゃってるんだよ! ほら、この人だって今からご飯に行くんだし!」

 

「……俺は一言も、昼食を摂りに行くとは言っていないが」

 

 目頭を抑えて呆れたように彼は言う。しかし彼に対して放った桜華の言葉が、完全に場を凍りつかせる事となった。

 

「えっ、だって……首からよだれかけみたいの着けてるでしょ?」

 

 ……一同唖然。彼の首からかけられているのは、ジャボと呼ばれる貴族のつける胸飾りのことだ。それがふわふわとして広がっているものだから、彼女にはよだれかけのように見え、食事に行く予定があるのだと考えたらしい。

 

 流石のその言葉に、彼は何も言えなかった。まさかそう言われるとは思ってもいなかったのだろう。

 

 そんな誰一人言葉を発さないその場で……肩を震わせている者がいた。西条だ。彼は俯いて口元を右手で抑え、肩を細かく震わせている。それが笑いを堪えるものだと気がつくのは、西条の我慢の限界が迎えた時だった。

 

「クッ、ククッ……ハハハハハハハハッ!! そうか、よだれかけか!! なるほど中々……ククッ……やるじゃないか、七草!! こんなに笑ったのは久しぶりだ!!」

 

「ッ……薊ッ!!」

 

「黙れ、よだれかけ かけ太郎!! 俺は今から、こいつらとラーメンを食いに行くのでな!!」

 

「ラーメン……だと?」

 

 目を見開いて驚く彼に、翔平はなんだか阿呆を見ている気がしてならなかった。それと同時に、良かったとも。こんな奴よりも、西条の方が何千倍もマシだ。出会った頃はともかく、今では大事な仲間なのだから。

 

 未だに笑いが収まらないのか、西条は今までに見た事のないくらいの笑顔のまま彼に向かって言った。

 

「ククッ……空っぽだと言われた俺にも……付き合う底抜けの馬鹿がいるのでな! あぁ、馬鹿は嫌いだが、底抜け程の馬鹿ならば、俺もレベルを合わせて馬鹿になってやらなくもない! 貴様はせいぜい、高級食材でも適当に食って満足していればいいのだ!」

 

「薊ッ、家に歯向かうつもりか!!」

 

「歯向かう? いいや、とんでもない……そんなレベルで済ますものか。いずれ貴様らを潰す。俺に……いや、こいつらに手を出してみろ。その四肢、一瞬で斬り落としてやる」

 

 ハッハッハッハッと高笑いしていた西条が一転して、いつもの鋭い目と不敵な笑みを浮かべる彼に戻った。斬り落としてやると言った彼の言葉には確かに殺意が込められており、言葉の刃が実の兄を斬り裂いていく。その場に立ちすくんで動けなくなった彼を置いて、西条は先に先にと歩いていった。それを笑いながら翔平が追いかけていき、他の三人も続いていく。

 

 翔平が西条に追いついた時に、そのまま勢いよく肩に腕を回して笑いながら腹を小突いた。

 

「なんだよ西条〜、なんだかんだ言って俺達のこと友達だって思ってくれてんじゃーん」

 

「……フンッ、友ではない」

 

「なんだよー照れちゃってさー」

 

「照れてなどおらんわ!! さっさとラーメンを食いに行くぞ!!」

 

 翔平の腕を振りほどいて、歩く速度を早めた西条に置いていかれぬように翔平もまた速度を上げる。それでもなお先を歩く西条の口元は、普段とはかけ離れた微笑みを浮かべていた。

 

 ……友なんて軽い言葉では、表せぬものだ。笑っている西条には、どうしても彼らを一言で表す言葉が見つからなかった。実に西条らしい考えであったが、その心は本人以外には知る由もない。

 

 こうして、一悶着ありながらも彼らは無事にラーメン屋にたどり着き、西条のお気に入りの食べ物にラーメンが追加されるなど……彼らにとっては中々に濃い一日となった。

 

 

 

 

 

 

To be continued……




地の文多めって書くの疲れますね。


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第105話 魔術と話術は近しいもの

 そろそろ肌寒くなってくる季節の朝のこと。朝起きたら天パが更に悪化している先輩を見るのも日常風景になり、個人個人の私物どころか西条さんの私物まで部屋の中に増えてきた。暖かい味噌汁を作っていると匂いに釣られたかのように西条さんがやってきて、眠りこけている先輩を叩き起こす。

 

 朝から運動することになるので基本は軽めに作り、冷めた身体を暖めるべく、なるべくできたての朝ごはんを振る舞う。そうしていつものように滞りなく日々が過ぎようとしていたのだが……。

 

「ちょっと西条せんぱいっ、最後のやつ私が食べようとしてたのに!」

 

「馬鹿者。早い者勝ちだ」

 

 訓練が終わって一休みだというのに、部屋の中は騒がしい。暇な藪雨はひとりで部屋に遊びに来ることがままある。そして先程作った金鍔を巡って藪雨と西条さんがいつもの口喧嘩を始めたのだ。爪楊枝を口に入れたままほくそ笑む西条さんの憎たらしさと来たら……そりゃ、藪雨も怒りたくなるだろう。

 

「先輩、また始まりましたぜ」

 

「うーむ、これは……根じゃな?」

 

「は?」

 

 思案顔で訳の分からないことを言った先輩に対して思わず怒声を上げかけたが、手元にあるカフェオレで心を癒す。遠巻きから眺めている分には、あの二人の口喧嘩もかわいいもんだが……如何せん、ここは俺と先輩の共同部屋。別にメンバーの憩いの場というわけじゃない。というか、俺が憩えない。外でやって、どうぞ。

 

「あぁもうあったまきたッ!! その眼鏡ペシャンコにして焼き入れてやるぅ!!」

 

「年上になんたる口の利き方か。義務教育からやり直せ」

 

「ヌッ! クッ! フッ! ゥ゛ウ゛ウ゛ウ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ウ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!! ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!」

 

 藪雨がブチ切れ、とうとう女の子が出してはいけないような声を出し始めた。いや、元ネタの先輩は女の子だったはず。となれば藪雨が言うのも違和感はない……?

 

 目力先輩と化した後輩。つまり先輩は後輩であり、後輩が女の子なので先輩も女の子。QED終了。学会に報告しよう。

 

「この部屋にいる人どんどん語録の沼にハマっていってません?」

 

「堕ちたな……」

 

「女の子は語録NGじゃないんすかねぇ……」

 

「野獣先輩は女の子だろいい加減にしろ!!」

 

「個人的にオシリスの天空竜説を推したいです」

 

 まぁ、どうでもいいことだ。ヒートアップしてきている二人を尻目に先輩と会話していると、ふと何かを思いついたのか手招きをし、ちょっと部屋の外へ行こうぜと連れ出された。部屋の中からは二人の口論が聞こえてくる。ちゃんと防音対策してあるはずなんですが、それは。

 

 しかしなんだって先輩は俺を連れ出したのだろう。不思議に思って見つめてみるが、先輩はニヤニヤとした顔を隠そうともせずに口を開いた。

 

「氷兎、俺にいい考えがある」

 

「当てにならなそう」

 

「まぁ聞け。西条と藪雨は確かに仲違いしやすい。しかしそれはある種の同族嫌悪というか……似たもの同士なんだ。境遇を知ってる俺たちからしたらな」

 

 先輩の言い分は確かにわかる。西条さんも、藪雨も。互いに他者を信用できなくなって壁を作っていた。その壁が今は取っ払われているが……藪雨の作られた笑顔を西条さんは嫌い、また西条さんの他者に対する不器用なコミュニケーションを藪雨は嫌う。同族嫌悪とまではいかなくとも、似通った部分を感じてしまっているんだろう。それこそ、磁石の同極が反発しあうように。

 

「というわけで……俺は作戦を考えました。題して、『なんで嫌いなはずなのに、こんなに気になるの……?』大作戦だ!!」

 

「あ ほ く さ」

 

「藪雨のマイナスと西条のマイナスを掛け合わせ、プラスに転換してしまおうというこの発想。嫌な奴と嫌な奴を掛け合わせれば総じて残されるものはプラスになる」

 

18782(嫌な奴)18782(嫌な奴)足したら37564(皆殺し)になるって知ってます?」

 

「掛け算だから。西×藪だから」

 

「それは草」

 

 こうしていつもの先輩によるアホみたいな作戦は実行されることとなり、裏で秘密裏に準備を進めていくこととなる。バレた時に西条さんに首を飛ばされないか、ちょっとだけ怖かった。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「……藪雨のことが嫌いなのか、だと?」

 

 いつもの部屋に、いつもの三人。藪雨がいないので、俺は率直に西条さんに尋ねてみた。彼は顎に手を当てて、しばらく思考の海に潜る。ふむっ、と喉を鳴らすような声を出した西条さんの結論は……。

 

「嫌いだな」

 

「バッサリいきましたねぇ」

 

「あの仮面がどうにも癪に障る。それと、男を手球に取ろうとするあの態度も気に食わん」

 

「禿同」

 

 うんうん、と先輩は頷いている。いないところでボロクソに言われている藪雨だが、仕方がないことだ。俺でさえ時折甘々な声で近寄られて、うわなにこいつウッザって素で思うほどに藪雨は俺たちの神経を逆撫でる。

 

 まぁ、俺の事は置いておいて……カフェオレで喉を潤わせたあと、西条さんにひとつ提案をする。

 

「西条さん、藪雨にちょいと一泡吹かせてやりたいと思いませんか?」

 

「なんだ、藪から棒に」

 

「いやあの野郎部屋に来る頻度が西条さんに次いで多いんで、しかも棚のお菓子勝手に食うわで食費がですね……」

 

「それは……まぁ、なんだ。ご愁傷さまと言っておこう」

 

 嘘は言ってない。この事実が発覚した時、どれほど脳内にいる藪雨に向けてデスソースをぶん投げたことか。液体ではなく瓶ごとぶん投げてやりたくなる衝動に駆られること数度、俺は先輩にデスソースを与えることでストレスを発散していた。

 

 このままでは先輩の身体が危ない。なので早急にこの事態をどうにかしなくてはならないのだ。

 

「と、いう訳でですね……今度藪雨を含めた女性陣を引き連れて、ドリームランドに行こうと思ってるんですよ。そこで、日頃からの感謝の印として皆にプレゼントを渡すということを考えまして……藪雨のプレゼントを、西条さんに選んで買ってきてもらおうかと」

 

「……俺が?」

 

「はい。ついでに藪雨にプレゼントを渡す役もお願いします」

 

「いや、俺にはそういった経験がないのだが……。しかしそれのどこが奴に一泡吹かせることになる?」

 

「西条さんからのプレゼントとか、藪雨は顔を歪めるに決まってるでしょう」

 

 まるでそれが至極真っ当で、当然の事のように俺は言う。西条さんは唸りつつも、嫌がりはしなかった。本人も一泡吹かせてやりたいとは思っているんだろう。

 

 もちろん俺も思っている。洗い物の最中に次々と新しい皿を出してお菓子を貪ったり、楽しみにしていた羊羹を勝手に食われたりと、かなりの被害を被っているのだから。絶対許早苗。

 

「……まぁ、よかろう。しかし普通の物を買っては一泡吹かせようにも吹かせられんな」

 

「えぇ、そうでしょう。しかしご安心を。色恋にまったく縁のなかった西条さんのために、わたくし今回は特別に調べて参りました」

 

「ほう……?」

 

 まるで通販番組みたいだ。けれど西条さんの眼鏡の奥にある鋭い目がキラリと光る。西条さんは乗り気だ。内心ほくそ笑んでいるのをバレないようにしつつ、俺は藪雨に買うべきプレゼントを伝えた。

 

「ズバリ、櫛ですね」

 

「櫛……だと?」

 

「えぇ、髪を梳かすあの櫛です」

 

 カバンの中から菜沙の髪の毛梳かす用の薄緑の櫛を取り出して、西条さんに見せながら説明する。

 

 曰く、クシとは苦と死が入ることから、贈り物としては少々敬遠されるものだ。しかしながら、櫛とは女性にとっては必需品。朝起きて髪の毛をセッティングするのも、風呂上がりに髪の毛を乾かしながら梳かすのも、櫛は必須だ。男なら真っ黒で梳かせるのならなんでもいいと思うかもしれないが、女性なら少しは気を遣うだろう。

 

 それに、普段使いしやすいものを贈り物として贈られるのはそれなりに嬉しいものだ。その敬遠されるべき物を贈られることと、けれども使い勝手が良いという狭間で葛藤し、更には贈られた相手が西条さん。これには流石に藪雨もぐぬぬっ……となるに違いない。

 

「なるほど……なかなか直接的にではないものの、しっかりと考えられた作戦だ」

 

「どんなものを買うのかは任せますよ。綺麗なものを買って、悔しがらせるのもよし。骨董品のようなものを買って、反応を楽しむのもよし。西条さんの気の向くままに、どうぞ。あっ、ただし通販はNG。箱置いてあったら藪雨にバレます」

 

「俺に足で直接買ってこい、とな」

 

 面倒くさがるかと思っていたが、西条さんはどうやらそうは思っていない様子。作戦成功だ、と心の中でニヤリと笑った。隣を見れば先輩が、はぇー、すっごい……とでも言いたげな顔で俺のことを見つめている。よせやい照れるだろう……。

 

 ……ケツに悪寒がする。言葉の意味は全くわからないが、ともかくケツに悪寒がする。俺はそっと先輩から目を逸らした。

 

「……わかった。では買ってくるとしよう。お前達はどうする?」

 

「俺は他の連中誘ってきますよ。あと、昼からお料理教室開いてきます」

 

「えっ、なにそれは。お前いつの間にそんなものを?」

 

「わりと女性から人気です。少なからず男性もいますよ。俺と菜沙で、桜華に料理を教えるついでに他の人にも教えてたら、いつの間にかお料理教室になってました」

 

「うーん、この対人コミュ力……」

 

「来れないというのはわかった。仕方あるまい、たまには一人で買い物というのもいいだろう」

 

 西条さんは立ち上がると、自分の荷物を持って部屋から出ていく。そっと扉を開けて、西条さんが遠くに消えていくのを見届けた後で……俺と先輩は大きなため息をついてソファに身体を預けた。

 

 先輩命名の『嫌いなはずなのに、どうしてこんなに気になるの……?』大作戦の準備はこれにて整った。ひとまず安心である。隣で特に何もしていないのに、マジ疲れたーとか言っている先輩は、笑いながら俺の事を褒めてくる。

 

「いやー、流石だわー。俺じゃ西条のことあんなに易々と丸め込める自信ない」

 

「俺だって冷や汗もんですよ。成功してよかったです」

 

 人を騙すためには、まずそれが本当に正しいのだと思い込ませなくてはならない。そのためには、自分がそれを正しいのだと思い込むことから大切になってくる。自分の発言を信じて疑わなければ、相手もそうなのかもしれない、と心を揺さぶられる。数々の事件を乗り越えて、会話による情報収集と心理戦、騙し合いの経験値はかなり高まったと思う。

 

 まったく、このままじゃ詐欺師にでもなってしまうんじゃないか。今なら巧妙な手口で藪雨に高い壺を買わせることができそうな気がする。

 

「それにしても、本当に櫛で良かったのか? 藪雨の奴、悲しがるんじゃね?」

 

「なーに言ってんですか、先輩」

 

 どこか心配そうな顔をしている先輩に、俺は口元を浅く歪めて嘲笑する。

 

藪雨(あの馬鹿)が櫛にまつわる話なんて知ってるわけないじゃないですか」

 

「……お主も悪よのぅ」

 

 互いに黒い笑みを浮かべて、ハイタッチ。次いでロータッチからの腕を交差。まさしく俺たちの大勝利である。

 

 あとは……藪雨と西条さんがこう、いい感じになってくれれば……。

 

「……最後の問題が超難関っすねぇ」

 

「西条に関するクエストの難易度は最上級だなぁ……」

 

 ……そろそろ雪が降る季節にでもなったか。ドリームランドに行く日に雪降られちゃ困るんで、先輩はしばらく黙っていてもらいたいものだ。

 

 先輩から視線を背けて、カフェオレを一口。なんとまぁ、温くなってしまっていた。これはいけない。先輩は温かいものが好きなのに。仕方がないから、芯から暖まれるように、そっとデスソースを加えておく。俺はなんて優しい後輩なんだろう。

 

 

 

 

To be continued……





投稿遅れて申し訳ナス!
課題発表して2週間後に寸法を変更とか、もう許さねぇからなぁ!?
作り直しだよ全く!!

というわけで課題が一区切りしたので初投稿です。
それと、今後も更新は遅くなります。
ネット小説大賞用に、恋愛小説書いてまして……。
完結したら、なろうの方にて載せる予定です。
こっちでも載せるかな……?


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第八章 友を殺せるか、否か
第106話 ドリームランド


 

 例えば、君に友人がいるとして。その友人が敵に操られてしまった時、君はどうする?

 

 助ける? 殺す?

 

 ……判断できない?

 

 それはダメだね。うん、ダメダメだ。

 

 

─────────────────────

 

 

 平日の朝早く。舞浜駅から降りて数分歩いた場所にある有名な大型テーマパーク。名前を、ドリームランドという。まさしく夢の国だ。週末はさることながら、平日だろうと人でごった返している。そんなテーマパークの入口で、少し距離を離して立っている二人の人物がいた。

 

 夢の国には似合わないピシッとした黒色の服でかためている西条と、華の髪飾りをつけている背の小さな女の子こと藪雨だ。彼女は携帯を弄りながら時間を潰しているが、西条は腕を組んだまま苛立たしげに眉をひそめていた。

 

「……遅い。遅いぞアイツら」

 

「何分待たせる気なんですかねぇ。しかもバラバラで現地集合とか、何考えてるんでしょう」

 

「よりによって貴様と待たねばならんというのが余計に腹立たしい」

 

「はぁー? こっちだってイライラしてるんですぅー」

 

 売り言葉に買い言葉。今にも喧嘩に発展しそうな二人だったが、ほとんど同時に携帯の着信音が鳴る。西条の携帯には翔平から。藪雨の携帯には桜華からだ。互いに届いたメッセージを確認すると、合わせたわけでもなく同時にため息をついた。

 

 横目で視線を合わせ、まったくやれやれだと言わんばかりに顔を歪める。

 

「鈴華の奴、加藤が足くじいたから看病するといって、今日は来ないらしいな」

 

「こっちも、七草さんから『氷兎君が菜沙ちゃんに連れ去られたから追いかけます』って……」

 

「待て。それは放置したらまずいだろう」

 

「いいんじゃないですかねぇ。あの二人のことですし」

 

 はぁーっとクソデカため息。まさかの他の人が全員ドタキャンという馬鹿げた結果になってしまった。残された二人は、流石に遊ぶ気にもなれない。しかも、互いに忌み嫌う者同士だ。

 

「どうするんですかぁこれ」

 

「知らん、俺は帰るぞ。まったくとんだ無駄足だ」

 

「えぇー、せっかくここまで来たのにー? チケットも前日に配られてるのに、勿体なーい」

 

「貴様と回るのはゴメンだ」

 

「うわぁー、ひっどーい。まぁいいですよー、西条せんぱいって絶叫マシンとか怖くて乗れなさそうですし」

 

 そこまで言われ、流石に西条の眉間がピクリと動く。睨みつける力が一層増し、不機嫌そうな顔つきで藪雨に詰め寄った。

 

「誰が怖がるか、そんなもの」

 

「えぇー、だって今までこういった所に来たことがないお坊ちゃまでしょ? ジェットコースターのレバーにしがみついてガタガタ震えちゃうんじゃないですかぁ?」

 

「それは貴様ではないのか?」

 

「私怖くありませんしー」

 

「俺とて、こんなもの怖くはない」

 

 互いに睨み合うこと数分。西条はポケットの中に突っ込まれていたパンフレットと共に小さな紙を取り出し、それを藪雨に見せつけるようにして言った。

 

「上等だ。ここに全てのアトラクションを効率良く回るルートが書いてある。貴様が泣きっ面になりながらも全て回り終えるまで連れ回してやろう」

 

「うわっ、テーマパークで効率とか……。まぁ別にいいですよぉ? 西条せんぱいの怖がってる顔写真とか、せんぱいたちに高く売れそうですし」

 

「では貴様の泣きっ面を組織の中でばら撒くとしようか」

 

「やってみろこのなんちゃってヤクザ!」

 

「チビ助。あまり離れると保護者はどこだと聞かれることになるぞ」

 

「チビって言うなぁ!!」

 

 二人はそのままテーマパークの入口へと向かって歩いていく。間に多少の隙間はあるが、あまりに鬱陶しい西条の言い回しにカチンときた藪雨が何度か小突くように拳を入れている。おかげでその隙間はあまり広くは感じられなかった。

 

 そしてそんな二人を遠くの柱の影から見守っている男が二人。赤色の帽子を深くかぶり、サングラスをかけ、チャラチャラした服装をしている男と、その隣に立っている黒髪に赤色が所々に混じった髪色をし、これまたサングラスをかけている男。

 

 天パを抑えた変装をしている翔平と、この日のためにエクステまでしている氷兎だ。彼らは互いに顔を見合わせると、さり気ない動作でハイタッチをし、柱から身体を出す。

 

「いやー、なんとか二人とも中に入っていってくれましたね」

 

「うんうん、これで二人がくっつくように後ろからチマチマとやってやれば……」

 

「目的は達成ってわけですね」

 

 二人以外のメンバーはというと、既に事情を話して買収済みである。実働隊はこの二人だけだ。先に入っていった二人を追うようにして、翔平と氷兎の二人も入口へと向かっていく。入ってしばらく行くと、大きな噴水がある広場にまでやってきた。噴水の前では西条と藪雨が口論を繰り広げており、遠巻きに眺めている二人の心境はハラハラとしている。

 

「だーかーらー、効率なんて考える必要ないんですよぉ!!」

 

「馬鹿を言うな。これだけ広い敷地を一日で回る必要があるのだぞ」

 

「違う、違う、ちっがぁーう!! それはドリームランドの楽しみ方じゃないんですー!!」

 

「俺の事前調査が足りないとでも言いたいのか?」

 

「効率なんて二の次!! 乗りたいものに乗って、待ち時間でお喋りするのが楽しみ方なんです!! 友達のいないお坊ちゃまにはそんなことわからないんでしょうけどね!!」

 

「貴様も友人などおらんだろう」

 

「いますぅー。せんぱいたちは私のお友達ですぅー」

 

「貴様が一方的にそう思っているだけではないか?」

 

 なんて幼稚な会話なんだろう。氷兎はなんだか頭痛がしてきた。いや、なんとなく嫌な感覚はドリームランドに近づいてきた時からしていたが、あの二人がこうまで反発し合うとは思ってもみなかったのだ。まさか一日中あぁして喧嘩をしているわけではあるまいが……。氷兎はなんとなく不安だった。

 

「とりあえず乗ってみたい奴を見に行って、並んでたらファストパスとって、他の場所回る。これが歩き方ってもんですよ!」

 

「貴様に指摘されると無性に腹が立つな……」

 

「うっさい! いいからさっさと行きますよ!」

 

 西条と藪雨の二人は適当に見て回るつもりなのか、とりあえずといった感じで歩き出した。方角的には水しぶきが舞うようなジェットコースターのある場所だろう。藪雨はともかく西条は恐怖とは縁遠いような性格だ。藪雨の方も気が立っているせいか、恐怖感を感じていない様子。どんなアトラクションでも楽しく乗り回せるだろう。

 

 そんな二人から離れ、買ってきたチュロスを食べている氷兎と、肌寒くなってくる季節だというのにアイスを齧る翔平。二人の目は細められ、なんともいえない顔をしていた。それもそのはず。せっかく遊園地に来たのに、この二人は派手に遊びまわることができないのだ。

 

「……あの二人、俺たちが介入する隙あるんですかね?」

 

「うーん……難しいな。俺たちが従業員だったならともかくなぁ」

 

「なんとかならんもんですかねぇ」

 

 前の方を歩いている二人を見失わないように彼らもついていく。西条と藪雨は比較的に並ぶ時間の短いジェットコースターを乗ることにしたらしい。待ち時間30分程度。そう苦にもならない。背が高く、服装もきっちりしている西条は離れていてもわかりやすかった。同じようにして、列の少し後ろ辺りに氷兎と翔平も並んでいく。

 

 腕を組んだまま周りを見回している西条は、なんとも不思議そうに言葉を発した。

 

「待ち時間100分となってる場所もあったが……果たして100分も待つ価値というのはあるのか?」

 

「西条せんぱいは考え方がダメダメですねぇ」

 

「なんだと?」

 

「いいですか? こういうのは、友達とかと待ち時間に過ごすことや、アトラクションが終わったあとの興奮を共有することに意味があるんですよ。まぁ、待ち時間が長くてもアトラクション自体は楽しいですよ、本当に」

 

「100分待つことが、その刹那のような時間をより濃密にさせる、と言いたいのか。なるほど、待てども待てども進まぬ事態。期待は高まりいざ乗ってみれば、これまた満足できる質を提供される……リピーターがつくのも納得がいく」

 

 自分の中で納得ができたのか、軽く満足げに頷いてから、いったいどのような興奮を届けてくれるのかと不敵に笑い始めた。生まれてこの方、遊園地になど来たこともない。家族で旅行なんてものもなかった西条にとって、ドリームランドは少し輝いて見えていた。

 

 周りにいるのは子供を連れた家族やカップル。平日だからか学生はいなさそうだ。それでも、そんな『誰か』と一緒に楽しむというこの場所に、まさか自分が来ることになろうとは思ってもみなかったと、西条は思う。縁遠いもので、自分には不必要だと思っていたもの。それが今になって、自分の元に歩み寄ってきていた。

 

 それを幸せだと喜ぶべきなのか。それとも、普通のことなんだと考えるべきなのか。とりあえず、隣にいる小娘が仮に唯野や鈴華だったのなら、今この時間をどう過ごしていたのだろう。その時の自分は、果たして笑っているだろうか。

 

「ちょっと西条せんぱいっ!」

 

 聞こえた声に西条がハッとなる。思考の海に潜りすぎていたらしい。眼鏡の位置を指で直し、気がつけば進んでいた前の人に続いていく。

 

「もう、ぼーっとしないでくださいよ。隣に女の子がいるのに考え事ですかー?」

 

「……いやなに。仮に隣にいるのがアイツらだったのならと考えていてな」

 

「……なにそれ。西条せんぱいって、他人に無頓着過ぎますよねー」

 

 不貞腐れたように頬を軽く膨らませ、ぷいっとそっぽを向く。そんな藪雨を見た西条は、無性にカチンと来ていた。あざとい。男を手玉に取るようなその仕草が嫌に神経を刺激する。しかしここは遊園地。西条も少し大人になるべきだと心を落ち着かせ、彼女から視線を逸らした。

 

「今隣にいるのは私なんですから、ちゃんと私のこと考えてくださいよー」

 

「………」

 

 思うところがあったのか、西条は再び藪雨の方に顔を向ける。すると、見上げるようにしていた彼女と視線が確かに交わった。未だに不貞腐れた顔をしている藪雨と、初めてのことに多少の動揺や興味を隠しきれない西条。そしてそんな状況で不意に伝えられたその言葉は、どうしてか西条の頭の中で反芻していた。

 

 しばらくの無言の後に発した言葉は、彼にとっては珍しく覇気のない申し訳なさそうな声音だった。

 

「悪かったな。確かに、今隣にいるのはお前以外に他の誰でもない。だというのに、他人を投影して考え事とは……些か、褒められたものではないな」

 

「─────」

 

 彼の口から出てきた言葉に、藪雨は唖然として口を開けたまましばらく呆けてしまった。不思議なものを見るような目のまま、西条が彼女に言う。

 

「……どうした、口に虫が入るぞ」

 

「い、いや……謝るんだなって」

 

「何を言うか。謝罪するのは当然のことだろう。非があると思えば、頭を下げねばならん。俺は確かに排他的ではあるが、礼節は弁えているつもりだ。礼節を尽くすべき相手かどうかは俺の判断によるがな」

 

 いつものように小馬鹿にしたような笑みを浮かべた西条は、なんともないことだと言わんばかりに先に進んでいく。藪雨は正直、もっとキツくて、当たりが強くて、酷い人だと思っていた。それらがなくなるのも、あの二人の前だけなんだろうとも。けれどそんなことはなかった。

 

 確かに他人に対して厳しい目を向ける西条だが、彼は基本的にしっかりとした相手ならば見下すこともない。人間嫌いも、少しずつ氷兎たちによって緩和してきている。丸くなったとも言えるのだろう。

 

「……ま、まぁ今回は西条せんぱいが悪いですし? えぇ、存分に反省してくださいね。女の子が隣にいる時に他のことを考えるのはご法度なんですから」

 

「なるほど、覚えておこう。俺にそんな機会があるとは思わんがな」

 

「今あるでしょうが! 実践してホラホラ!」

 

「流石に喧しいぞ」

 

 鬱陶しそうに眉をひそめるも、そんな西条の事なんぞ意に介さんと思っているのか、藪雨は態度を改めない。そんな二人のことを後ろから眺めている氷兎と翔平は、なんだか胃もたれを起こしそうになっていた。

 

「西条がデレた? デレたか?」

 

「徐々に心を開いてきている気がしなくもないですねぇ」

 

「いける。いけるぞ、西条。そのままくっつくんだ」

 

 バレないように小声でエールを送る。そうこうしている間に、順番は回ってきていた。西条と藪雨はカップルとでも思われているのか、二人一緒に乗せられてそのままジェットコースターは出発する。カートは一気に下るために、その高度をぐんぐん上昇させる。身体がシートにへばりつくような感覚に、二人の緊張と興奮は高まってきていた。

 

「……中々、緊張感のある上り坂だな」

 

「つ、強がっちゃって。本当は怖いんじゃないですかぁ?」

 

「馬鹿言え。これよりも怖いものを日頃体験している。こんなもの、まったく怖くはな─────」

 

 突如始まる急速な落下。西条の言葉は掻き消され、乗客たちの歓声ともとれるような悲鳴が更に興奮度をはね上げる。下り、曲がり、捻れ。そして最後は水辺に向かっての急速落下。大きな水しぶきと悲鳴を上げて、ようやくジェットコースターは終わりを告げた。

 

 カートから降り、写真を販売しているショップへと向かう途中。身体をわなわなと震わせている西条は、傍から見てやべぇ奴と思われても仕方がない様子であった。

 

「ククッ、なるほど。これは……中々刺激的だ。いや、侮っていた。たかだか遊具だと思っていたが……これ程とはな!」

 

「いやぁー、怖かったけど楽しかったですねぇ! ほら、写真ありますよ!」

 

 落下途中の乗客の様子を写した写真が画面に映されている。自分たちのはどれだと探してみれば、藪雨はすぐさま見つけだして指をさして笑い始めた。

 

「ぷぷっ、あははははっ! 西条せんぱいの顔、引きつってる!」

 

「予想以上で動転していただけだ、二度目はない。しかし……お前も変顔じゃないか。見てみろ、この面を。髪の毛までボサボサだ。まるで泉津醜女(ヨモツシコメ)だな」

 

「言ってることはわからないですけど、すごい侮辱された気がする!」

 

「ほう、侮辱の意味がわかるのか」

 

「それぐらいわかりますぅー。ほらもう、次行きますよ!」

 

「急ぐとしよう。時間は有限だからな」

 

 なんだかんだ、楽しめている二人だった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 しばらく経ち、西条と藪雨はトイレ休憩。氷兎と翔平も休憩を入れるべく、近くにあった自販機で飲み物を購入することに。しかしハロウィンの時期でもないのに、妙に自販機の色が禍々しかった。黒や赤が入り乱れるその見た目もさることながら、中身もまた一風変わったものばかり。ボトルだけでなく酒瓶まで並んでいた。

 

「……黄金の蜂蜜酒って、これ酒ですかね」

 

「遊園地で酒……いや、名前だけじゃね?」

 

「こっちはルルイエの天然水。あれ、ルルイエってどこかで……」

 

「コーラ、黄衣の王風味……なんだかよくわかんねぇけど、コーラなら外れはねぇだろ」

 

 ガシャコンっと自販機からボトルを二つ購入する。コーラの色をした不思議な飲み物だ。振ってもいないのに中身がグルグルと回転して、時折黄色が混じっているように見えたりする。本当に飲んでもいい代物なのだろうか。氷兎は訝しんだが、買ってしまった手前飲まないわけにもいかない。蓋を開けると、hastur……と空気が抜ける音にしては不思議な音が聞こえた気がする。ボトルを傾け、中身を口の中に流し込んでいくと……。

 

「ッ、おっぶ……おぉぉ……」

 

「おぼッ……ひ、氷……おぇッ」

 

 口の中に広がる理解することも恐ろしい冒涜的な味。コーラの甘味なんてものは一切なく、感じられるのは生臭さ。胃の中身すらも道端に全て吐き出していくも、口の中には未だに風味が残り続け、まるで口内に生きた何かが存在しているのではないかという錯覚まで感じさせる。

 

 口の中に指を突っ込み、何もないのだと実感しても尚悪寒は止まらない。指を更に突っ込み、喉の奥へ奥へ……。

 

「はい、ストップ」

 

 突然響くようにして聞こえた暗い女性の声に、二人の狂気に塗れた行為が止まる。今、自分は何をしていたのか。それを理解するのに十数秒はかかった。周りを歩く人々はまるで何も起きていないかのように素通りしていく。異様な光景だったが、それよりも身の毛がよだつような酷い悪寒を氷兎は感じていた。声の主……漆黒とも言い難い喪服のような服装に身を包んだ認識できない顔の人型。胸の起伏で女性だと判断できる。それと服装くらいでしか判断の材料がない。

 

 今まで窮地に陥った時に手を差し伸ばし、時にはむしろ地獄に叩き落とすような真似をしてきた神話生物。ナイアだ。

 

「……なんで、ここに」

 

「うぇ……っと、新顔さん。知り合いか?」

 

「ナイアですよ、こいつが」

 

 はろはろーっと仕草だけは楽しそうに翔平に向けて手を振るう。翔平の目にはナイアは確かに見目麗しい女性に見えていた。大人びた容姿を持つ美しさ。だがそれと同時に、培ってきた直感が警告を発していた。ヤバい。近寄るな、と。

 

「ご紹介にあずかり光栄。私がナイア、彼に力を貸しているモノだよ。それと、ようこそドリームランドへ」

 

 仰々しい動きで、本当に歓迎しているのかとも思えるように感じる挨拶だった。氷兎の、なんでここにという質問にナイアは答える。

 

「私はここの管理人の一人さ」

 

「……驚くところなんだろうけれど、すんませんが水貰えないっすかね。口の中が胃液で……」

 

「あぁ、それならどうぞ」

 

 翔平の頼みに、ナイアが指をパチンッと鳴らす。すると突然閉じられていた氷兎と翔平の口の中に液体が発生し始めた。塩辛い。これは海水だ。すぐさま二人は口を開いて再び吐き出す。まるで滝のように流れ出る海水は、数秒間続いた後にピタリと止まった。代わりに彼らの額には汗がにじみ出ている。

 

「や、やりやがったなナイアっ……」

 

「ふふっ、いい見世物だったよ。まぁ、存分に楽しんでくれたまえ。どうやらお客が来ているみたいだからね」

 

 瞬きをしたその一瞬、風に吹かれたかのようにナイアは消え去っていた。代わりにその場に現れたのは数人の暗い紫色のローブを来た人型たち。ローブの中はまったく見通せない。そのうちの何人かは掃除用具を持って二人の吐瀉物を片付け始めた。

 

「な、なんかすんません……」

 

「いやそれより、こいつらもヤバいですって。そもそも、周りの連中まったく気がついてないし……なんか、空の色までおかしくなってますよ」

 

 言われてみて初めて翔平は気がつく。空の色は晴れ渡った水色ではなく、薄暗い紫だ。彼らのローブと似たような色をしている。一体いつの間にと考えたが、間違いなくあの飲み物のせいだろう。意識が混濁している間に、似たような別世界にでも連れてこられたらしい。

 

 ローブを着た人型の一人が二人の前に歩みでる。どうやら歓迎しているようだ。

 

「ようこそ、起きたまま訪れた『夢見る人』よ。そしてあの御方のご客人。ここは幻夢境(ドリームランド)。貴方たちがおられた世界、『覚醒の世界』とはまた異なるパラレルワールド。本来ならば正規の手順を踏まねばなりませんが……あの御方は無理やり連れてこられた様子。ご自分のお身体をもう一度よく確認してくださいませ」

 

「ちょっと待て。いきなりで何がなんだか……って、なんじゃぁこりゃぁ!?」

 

 翔平が驚き声を上げる。なんとその姿は黄色い半袖のシャツに青色の短パンという青少年スタイルだったのだ。何故か腰にはポーチがあり、中には野球ボールがぎっしり詰まっている。

 

 一方氷兎も見てみれば、これまた奇っ怪な格好であった。身体にまとわりつく黄色の毛皮と赤色のベスト。不思議な形をした手には木製の棒のような限りなく鈍器に近いものが握られている。自分自身でもどう握っているのかわからない。更には頭部にはいつの間にかキグルミの頭が装着されている。だというのに自然と視界は開けていて、なんだかよくわからない。

 

「なんだこれは、たまげたなぁ。氷兎が完全にプニキじゃないか」

 

「先輩のそれは……ロビカスですかね」

 

「こちらでは、それ相応の格好に変わります。一応遊園地ですので、周りの人に見られても大丈夫な服装になっております」

 

「……上位存在が敬語使ってることに違和感を感じて仕方がないんですが。それで、一体俺たちに何を……?」

 

 コホンっと改めるように咳払いをしたローブの人型は、氷兎の質問に答えるべく自分たちが何者であるのかを説明し始めた。

 

「我々はこの星に住まう古の神。訳あってあの御方の力の庇護下に置かれる形でこの地に住まわせて頂いております。無論、あの御方のお客人に粗相をするわけにもいきませぬゆえ、このような言葉遣いでございます」

 

「神……そう、神……神ッ!?」

 

「あぁぁもう、頭痛くなるぅ……」

 

 目の前の存在が異様なものであると知った翔平は驚き、氷兎は頭痛を感じ始める。もう嫌だ帰りたい。氷兎は既に逃げ腰だ。しかしそうは問屋が卸さない。逃がさんとばかりにローブの人型、古の神々たちによって取り囲まれてしまう。

 

「あの御方のお客人だからこそ、頼み事があるのです。敵対する旧神ノーデンスが、この地に尖兵を送り届けております。名を、夜鬼(ナイトゴーント)と申します。こ奴等はこの遊園地にいる人々に幻夢境から覚醒の世界に移動して接触するためなのか、あちこち飛び回っております。既に何体かは覚醒の世界にいるかと……。お客人には、このナイトゴーントの退治をお願いしたいのです」

 

「放っておくと一般人に被害が出る……ってことですか?」

 

「その可能性が高いと申し上げます」

 

「あぁーっと……戦うのは別にいいんだけど……この装備で?」

 

「はい」

 

「いや、はいじゃないんですが」

 

 もっとマシな装備を支給しろよと二人は自分の格好を見て思う。しかし古の神はそれを申し訳なさそうに謝罪した。

 

「覚醒の世界と幻夢境を行き来して奴らを倒すには、その格好でなくては目立ってしまいます。幸いにもここは遊園地。施設は顔パスでどうとでもなりますし、パレードに紛れて奴らを倒すこともできます。武器も持っていて不思議ではありませんし、行き来するためのゲートは各地に点在しておりますので。それに、その装備には我々の加護が宿っております。普通の装備よりかは強いでしょう。どうかこれで、奴らの退治をお願いできませんか?」

 

『……えぇー……?』

 

 西条と藪雨をくっつけるための作戦は、いつの間にか人々を守るための神話生物掃討作戦へと変わっていた。

 

 かくして彼らは戦いに赴く。フルスイングで場外ホームランを狙う黄色い熊と、様々な球種と緩急のつく速度を投げられる化け物ピッチャーとして。

 

 プニキのホームランダービー in 幻夢境。開催である。

 

 

 

To be continued……





 ドリームランド

 正規の手順を踏まなくては行くことのできないパラレルワールド。神々の住処になっていたりする。死んでも夢から覚めるだけだが、二度とドリームランドに行くことはできない。


月一更新になっちゃうやばいやばい……。


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第107話 プリーグ開幕

 紫色の空を悠々と飛び回るモノがいた。それは全身が黒色で、遠目からならば少し大きい鴉程度にしか思わないだろう。けれどもそれは目の前数メートル先で旋回し、何かを探すように首を動かしている。

 

 その姿は鳥ではない。鍵爪のような両手足、そして漆黒の翼に長い尻尾。あろうことか、人でいうところの顔面に角まで生えている。しかしその面には、何も無い。皮膚と同じ黒色で塗り潰されている。それを見て、何と例えるべきなのか。頭に過ったのはガーゴイルだ。仮にこれがビルの上で止まって動かなかったら、そういうものなのだとしか思えないだろう。

 

「……アレですよね」

 

「だろうなぁ。あんなに高いところ飛んじまってたら、攻撃できねぇじゃん」

 

 現実、覚醒の世界の人々が何食わぬ顔で通り過ぎる中、丸太を持った黄色の熊と季節外れな格好をしたチャラ男だけが立ち止まって空を見上げている。

 

 起きている人々は氷兎たちのことが見えていない。また触ることもできない。するりと身体を通り抜けていく。試しに翔平が通りすがりの女の子に頭を突っ込んでみたが、真っ暗で何も見えなかった。流石にスカートの中を覗こうとしたのは氷兎が止めたが。

 

「先輩、いけます?」

 

「よーし。じゃあちょっとメジャーリーガー目指して全力投球してみますかぁ!」

 

 無限にボールが湧き出る不思議なポーチから一つ球を取り出して、親指と人差し指、中指で挟むように掴む。胸の前で構え、左足を上げて前へ突きだし、渾身の一球を投げつけた。

 

『──────ッ!?』

 

 ゴスッと鈍い音をたてて、ボールは頭部に命中。翔平の『射撃』は適用されているようだ。威力と命中が向上し、なおかつ神の加護が宿ったボールはナイトゴーントを傷つけるには十分であった。そのままフラフラとしたかと思えば、制御を失って落下してくる。

 

「ナイスボール、そんでもって……」

 

 全力で走り出す黄色の熊。落下地点の数歩前辺りでサイドステップに切りかえ、そのままステップを踏み込んでいき……。

 

「ホームランッ!!」

 

 全力スイング。丸太は落下してきたナイトゴーントの胴体を的確に捉え、振り抜かれる。凄まじいスピードで吹き飛んだナイトゴーントは、アトラクションを支える鉄柱にぶつかると、そのまま動かなくなった。

 

 念のために近寄ってナイトゴーントを確認してみる。翔平のボールが当たった場所と氷兎の殴りつけた部分から白い煙のようなものが出ていた。どうやら神の加護のおかげでスリップダメージが入り続けているらしい。しかも打撃武器のはずなのに裂傷まで起こしている。

 

 流れ出る血は人間のものに近い。赤ではあるが、それは暗かった。赤色の絵の具に黒を足したような穢れた色。丸太も少し変色していた。

 

 確認している氷兎の元に翔平が駆け寄ってくる。半袖短パンに帽子とサングラスは似合わない。氷兎は着ぐるみの中で苦々しく顔を歪めていた。

 

「……倒せなくはないな、うん」

 

「問題はどれだけの数がいるのか……」

 

「元の世界にもいるんだろ? 西条たちの邪魔したくねぇし、なるべく隠密で片付けたいけど……」

 

「普段の格好ならともかく、俺は目立ちすぎですね」

 

 自分の格好を見せびらかすように身体を動かす。しかしなんとも暖かそうな格好だ。翔平は両腕を擦りながらそう思う。流石に夏も終わって半袖短パンは寒い。けれども防御力が高いと言われてしまえば、何も言う事はできない。

 

 いやそもそも、半袖短パンに防御力は存在するのだろうか。

 

「危ない水着ですら防御力があるんだから、この格好にも防御力はあるんだよな……」

 

「ゲーム特有の謎理論が現実で適用されると思ったら大間違いかと。先輩、脛とか狙われたら間違いなくダメージ貰いますよね」

 

「脛は誰だって痛いだろ」

 

 周りを見回しながら歩き回り、中身のない会話を繰り広げる。神話生物退治だというのに、やけに精神的に安定していた。おそらく脳の処理が追いついていないせいだろう。これは全部夢ですと言われたら素直に信じる程度に、現実味がなかった。プニキとロビカスが裏世界で戦っているだなんて、誰が思うだろう。

 

「……おっ、あのオールバック眼鏡は西条だな」

 

 幻夢境で覚醒の世界にいる西条と藪雨を見つけることに成功した。どうやらまたジェットコースターを乗るために並んでいるらしい。向こう側の声はまったく聞こえないが、二人の表情からしてそれなりに楽しんでいる様子。

 

「うーん、やっぱイケメンだよなぁ……。オールバックも様になってるし、藪雨もなんだかんだいって女の子らしいっていうか……」

 

「げっ……ちょ、先輩ーっ!」

 

「んー、氷兎ちょっと見てみろよ。西条の眼鏡ってこんな感じになってるんだな」

 

 後ろから聞こえてくる氷兎の焦った声に気がついていないのか。翔平はマジマジと西条を見ている。すると、ふと西条が周りをキョロキョロと見回し始め、その視線が一点を見つめる形で止まった。偶然なのか、気がついているのか。それは見えるはずのない翔平を確かに捉えている。

 

「お、おぅ……西条、勘が良過ぎない……? えっ、これ見えてる?」

 

 翔平はふしぎなおどりを踊った。しかし効果はなかった。

 

 ぐるぐると西条の周りを回りながら、NDK(ねぇどんな気持ち)? NDK? と煽りたてる。しかし西条に効果はない。

 

「うーん……つまらん。なぁ氷兎」

 

 そう言って翔平が振り向くと、そこにいるはずの氷兎はいなかった。どこに行ったのか。探し始めようとしたところで、背後からポンッと柔らかい手で肩を叩かれる。

 

「おっ、氷兎。何してたんだよー」

 

 翔平が振り向く。そこにいたのはどす黒い血液が着ぐるみにこびりついている、もはや黄色の熊とは呼べない何か。真っ黒のはずの瞳は何故か煌々と赤く輝いているようにも見え、頭部の布越しでも怒っているのだとわかる。

 

「……人がナイトゴーント相手に戦ってる時に、一体何してるんですか」

 

「ひぇ……あっ、いやそのだな……。うん、その着ぐるみ洗った方がいいぞ。返り血だらけのプニキとか子供がギャン泣きする」

 

「アンタの返り血でこのベストを更に赤くしてやろうか?」

 

「ごめんって!」

 

 口調の荒い氷兎は怖い。身体をがっしりと捕まれ、柔らかな両手で頭を揉みくちゃにされる。一見してじゃれあっているようにしか見えなかった。いや実際、氷兎もそこまで怒っているわけでもなく、いつものように軽く仕返しをしているだけなのだが。

 

「はぁ……西条さんのこと見てるのもいいですけど、仕事しますよ。この辺りにはもういなさそうですし、そろそろ現世に出ていったナイトゴーントでも探しますか?」

 

「そうするか。ゲートがあるのは……ここからだとプニキのビーハントが一番近いか」

 

「じゃあ行きましょう」

 

 揃って歩き出し、覚醒の世界へと戻るためのゲートを探し始める。身体にまとわりついた返り血は、手で払うようにすると何故か綺麗に消えていった。この装備がオリジンの標準装備ならどれほど楽になるのか。報酬でその技術や魔術を教えて貰いたいくらいだ、と氷兎は思う。

 

 そうして目的地に着く頃には返り血はなくなっており、並んでいる人たちを無視してアトラクションの中へと入っていく。従業員通路を抜け、休憩室らしきものの近くにやってくると、やけに光量が増してきていた。

 

 その光を辿るように歩いていけば、身の丈を余裕で越すほどの大きさのゲートがあった。扉の輪郭の内側は眩い光で満たされている。これを抜ければ覚醒の世界へと戻れるらしいが……。

 

「……戻れる保証、ないんですよねぇ」

 

「それなんだよなぁ。これ別のとこ繋がってたりしたらどうしよう」

 

「ちょっと怖いですよね」

 

 ゲートの前で尻込みする二人。五分くらいその場でどうするべきか考えた結果、せーので合図をしたら同時にゲートの中へと飛び込もうという話になった。

 

『せーのっ』

 

 ゲートの中へと飛び込むように入っていく。光が目を覆い尽くし、身体を変な浮遊感が包み込んでいく……。

 

 ……まるで寝起きのような倦怠感に襲われたとき、辺りの景色が変わり始める。白一色だった世界は、元の休憩室のような場所へ。表の方から聞こえてくる人たちの声や機械の稼働音。それらが覚醒の世界へと戻ってこれたことを明確に示していた。

 

 ほっと一息つくが、まだまだ仕事は始まったばかり。肩に丸太を背負った黄色の熊と、片手でボールを回して遊んでいる半袖短パンの男の戦いは、楽しげな空間の裏側でひっそりと続いていく……。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 自分の順番になるのを今か今かと待ち続けている人たち。そんな長蛇の列の中で待っている西条と藪雨だったが、ふと西条は視線を感じ始めた。辺りをキョロキョロと見回して、誰かが見ているのかと探してみるが……見つからない。いるのは、西条の容姿と藪雨との背丈の差を見て奇怪な目を向けている人たちだけだ。

 

「……誰かにおちょくられている気がして腹立たしいんだが」

 

「気のせいじゃないですか? 知り合いなんてだーれもいませんよ」

 

「気のせい、か。だが、なんだ。本当に無性に腹が立つ。鈴華の顔面を殴りたくなってきた」

 

「理不尽な暴力が鈴華せんぱいを襲う。流石にやめてあげてくださいねー」

 

 他愛のない話。順番が来るまでそうして暇を潰していく。再び乗ったジェットコースターは、やはりスリリングで楽しいものだった。写真でも、西条は仏頂面を崩してニヤリと笑い、藪雨も口を開けて笑っている。最初の険悪な仲はどこへやら。今となっては素直にドリームランドを楽しんでいた。

 

 そして二人がアトラクションから出てくると、何やら道端で人だかりができている。子供たちの「プニキだー」という声に、着ぐるみが来ているらしいことがわかった。

 

 プニキという言葉に西条の眉間がピクリと動く。顎の辺りに手を添えながら、視線は人だかりへと向かう。

 

「……あれあれ、西条せんぱいったら着ぐるみ見たいんですかぁ?」

 

「むっ……いや、着ぐるみというよりはプニキが見たいんだが」

 

「同じじゃないですか。てか、どうしてプニキなんですか」

 

「プニキ、格好いいだろう?」

 

「格好いい……ですかねぇ?」

 

 まぁいいや、といった感じで藪雨は西条に続いて人混みへと向かって歩いていく。集まる人々の中心では、黄色の熊が丸太を持ちながら愛嬌よく振る舞っている。その隣には相棒とも呼ぶべきロビカス……らしきものが一緒になって笑っていた。

 

 パフォーマンスのつもりなのか。その場でプニキは丸太をブンブン振り回す。ホームランだけを狙う強烈なスイングだ。何度か振り終わると、プニキが腕でロビカスに指示を出す。シッシッと払うと、ロビカスはポーチから球を取り出して数歩距離をとっていく。

 

「やけにチャラいロビカスだな……。だが、何やら面白いものが見られそうだ」

 

「なーんかあの帽子にサングラスしてる人見たことあるような……」

 

「そりゃ見た事あるだろう。あの有名なロビカスだぞ」

 

「何が有名なんですかねぇ……」

 

「まぁ見ておけ」

 

 ロビカスは指先にボールを乗せてクルクルと回す。そして土ならしのつもりなのか、アスファルトの地面を足でガツガツと蹴りつけたあと、身体をゆっくりと伸ばしていく。

 

 補助をするためなのか、紫色のローブを着た人たちも集まってきて、ラジカセから音楽を流し始めた。やけに小気味好い音楽のあと、プニキは丸太を構える。

 

 そして始まったのは……バッティングだ。まるでここに放ってこいとでも言いたげに、プニキは二、三度丸太を振る。そしてピッチャーのロビカスがついに構えた。

 

 腕を振るって放たれる一球。まさしく『ロビカスのクソみたいな汚いフォームから放たれる七色の変化球』だ。そして対峙するのは『100メーターの森の住人特有のハチミツで得た偽りの肉体』を持つ我らがプニキ。ドリームランドで行われた、プリーグの行く末は……!!

 

 放たれた変化球に対して、プニキは丸太を振るった。先ほど振った時と変わらぬ位置に、同じように全力のフルスイングが振るわれた。ロビカスの放った球は直進すればどう考えてもバットの上を通過してしまうだろう。

 

 しかし流石は七色の変化球を持つクリスト・ファッキン・ロビン。丸太の直前で急速落下。ボールは丸太の芯で捉えられ、勢いよく飛んで行った。

 

『カキーンッ』

 

 耳に残るいい音が聞こえてくる。飛んで行ったボールは、空に浮かんでいた黒い物体に当たり、物体はそのまま落下していく。見ていた観客の中から小さな悲鳴が聞こえたが、ロビカスが前に出てきて話を始めた。

 

「はーい皆さん、アレは今回のために用意した的ですので大丈夫でーす! 皆、楽しんでくれたかなー?」

 

『ハランデイイ!!』

 

 ロビカスの声に答えるように、お約束が返ってくる。藪雨は何がなんだかわからない。しかし西条は口元を緩めて微かに笑っていた。プリーグ、無事に終了である。

 

「じゃあ皆、この後も楽しんでくれよなー! よし、退場用BGM、ドーンッ!!」

 

 ローブを着た従業員がラジカセを操作してまた別の音楽を流し始める。なんだか身体が勝手に動きだしてしまいそうな音楽だ。その音楽に合わせて、プニキたちは腕を曲げて前に突きだし、その逆足を円を描くように出していく。

 

 そしてそのステップを踏みながら、彼らは従業員用の通路へと消えていった。誰もいなくなったその場所を見つめながら、半ば呆然としたように藪雨が呟く。

 

「……なんでドリームランドで宝島ステップなんですかね」

 

「中々面白い見世物だったな」

 

「そうですかぁ? 私は何がなんだかぜんっぜん意味不明だったんですけど」

 

「ならばお前にはプリーグの成り立ちから話さねばならんな」

 

「長くなりそうなのでいいです」

 

 どこかげんなりとした藪雨。しかし西条は満足そうだ。そんな彼らが辺りを見回してみれば、もう街灯が明るく見えてくる程度には暗くなってきている。随分と長くいたような気もしたが、西条は体感としては短く感じていた。

 

 楽しい時ほど早く過ぎる。なるほど、あながち間違いでもなかったらしい。西条は一人静かに頷いていた。

 

「あっ、そうだ!」

 

 唐突に藪雨が何か閃いたのか、西条の服の袖を引っ張った。そして彼女が指さしたのは……ドリームランドを端まで見渡せるほどの巨大な観覧車だ。既にライトアップされていて、煌びやかに輝いている。

 

「一番最後、アレ乗りましょう! ファストパス、今のうちに取りに行きましょうよ!」

 

「観覧車、か。しかしアレはカップルが乗らないと意味がないと聞くが?」

 

「関係ないなーい。それに夜景とか綺麗なんですよ? ジェットコースターとかもいいけど、やっぱり最後は穏やかーな感じで終わりたいじゃないですか」

 

「……床が開いたりしてな」

 

「ちょっと恐ろしいこと言わないでくださいよ!」

 

「あまりにも高いからといってチビるなよ」

 

「チビりませんって!!」

 

 互いに手を繋ぐということもなく。ただ距離感だけは少し縮まって。小突き合う程度の軽口を言い合いながら歩いていくその様は、友人のようにも見え、また年の離れた兄弟のようにも、そして……恋人のようにも見えている。

 

 そんな二人の後ろ姿を、黄色の熊と青年は静かに見つめていた。

 

 

 

 

To be continued……




バイト帰りに姫始めの会話をしているカップルを見て腹が立ったので初投稿&作者からのクリスマスプレゼントです。

皆さん、メリークリスマス。私にもプレゼントちょーだい。

 ナイトゴーント

 夢の世界に生息する様々な神に仕える種族。夜鬼と書く。攻撃方法は『くすぐり』なのだが、これは相手を深淵に突き落とすための動作なのだとか。顔はなく、蝙蝠のような翼に尻尾がある。


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第108話 回って止まって、一休み

 並んで時間になるのを待ち、普通に並んでいた人々を追い越すようにして列は動き出していく。

 

 季節が季節だ。暑苦しい夏と比べれば、時計の短針が半分を回った段階ですっかり暗くなっている。けれども、遊園地の中では人々のざわめきが消えることがない。

 

 周りを歩くのは、やはり男女のカップル。逢い引き最中の奴らには、周りのことなんぞは頭に入ってこない。何かに夢中になる度に、視野が狭まる。そして、見落とす。

 

 思い返せば俺も、ただ夢中だった。剣の腕を磨き、夢の中で何度もあの憎たらしい家族を斬り殺した。

 

 だが……晴れぬ。復讐のための剣は、己の心をより鈍く曇らせるだけだった。それに、性にあわないのもある。真っ向から奴らを斬り伏せねばならんのだ。実力で、そこまで這い上がって。

 

 その過程で……俺は何かを見落としていただろうか。自分では気づくことすらもできない、何かを。

 

 人としての情、良心、善悪を定める審美眼。見落としたのではなく、歪んだのかもしれない。

 

「ちょっと、西条せんぱい? ボーッとしてると、また列の間が空きますよ」

 

 不貞腐れた顔で見上げる、組織の後輩を見て……あぁ、俺は何をしているのだろう、と何度も反芻させた。復讐はどうした。鍛錬はどうした。このようなことに……意味はあるのか。

 

 どうにも答えが出なくて。口からは曖昧な返事が漏れるばかり。どうにも、らしくない。

 

「ほら、ゴンドラ来ましたよ。乗り遅れる気ですか?」

 

 袖を掴み、無理やり引っ張って不器用な球体にある扉をくぐる。微妙に足元が揺れる。観覧車とは、恋仲同士の者が乗ってこそ真価を発揮するとネットには書いてあった。俺とこの後輩は、まったくそんな仲ではない。むしろ、その笑い方や作られた仕草に身体が拒否反応すら起こす。

 

 何度も見てきた。人に媚びへつらう、その態度。表面では笑っているくせに、内心では下に見ている、腹の黒い者共。

 

「……西条せんぱい、具合でも悪いんですか? もしかして、高いところとか閉鎖空間が苦手とか?」

 

 そう尋ねてくる後輩の顔は、本当に心配しているように見えた。少なくとも、下手にでて相手の顔色を伺うような態度ではない。

 

 ……やはり、奴のようにはいかん。唯野、アイツならばこんな状況下でも対応してしまうのだろう。こんな普通の疑問ですらも、なんなく聞いてしまえるのだろう。

 

 

 ───何故、普通に生きているだけのお前がそんな仮面を被っているのか。

 

 

 俺ならばわかる。立場的にも、そうならざるを得ない場合があった。嫌々でも、付き従う他なかった。だが、こいつは。普通の家で、普通に学校生活を送り、何不自由なく生きていた普通の女は、どうしてここまで歪な仮面を被る必要があるのか。

 

「苦手、ではない。俺が苦手とするのは……お前のような仮面を被った人間だ」

 

 閉鎖空間。逃げ場もない。だというのに、切り出した。ゆっくりと高度を上げていくゴンドラの中で、まるで初めて神話生物と退治した時のような息苦しさを覚えた。

 

 斜に構えず、真っ向から人と向かい合う。やってきたつもりで、実はやれていなかったのかもしれん。

 

「疑問だった。普通に産まれて、普通に生活している奴らが……例えば、鈴華。あ奴のように、見ればわかるような人間に育つものだと思っていた。俺と同じ場所に立つ者はすべからく、同じような環境と教育を受けて、育てられたのだと思っていた」

 

 誰も信用できず。また周りからの情報を全てカットして。一人孤高に。悪くいえば孤独に生きてきた俺は、周りの普通の人間が妬ましかったのだろう。持って生まれた『普通』というものが。

 

「……お前は、いや、お前のような他者に対して仮面を被り、自己を押し殺し、息を潜めて耐え忍び、気がつけば首元にナイフを突きつけてくるような輩を、俺は見てきた。同じ境遇で生まれ育った男が、友になろうと近づき、愚痴を言えるような間柄になったかと思えば、親が家に近づきたいがための策であったと知った。笑っているだけの者がその時、より一層恐ろしく思えた」

 

 虚しく響いていく己の声を聞いて……なんとも、馬鹿馬鹿しく思えてきた。何を話しているのだろうか。あの馬鹿共と連んでからというもの、おしゃべりが過ぎるようだ。こんな事では、あの世界では足を掬われる。

 

「……すまん。あまりにもらしくないことをした。夜景が見えるんだったか」

 

 目線を逸らし、窓の外へと目を向ける。賑わう人々とライトアップされた城が見える。遠くの方では明かりの灯った住宅街も見えた。

 

 煌びやかな光を浴びる城を、大勢の人がカメラで写真を撮っている。ドリームランドのキャラクターが出てきて、軽くショーを行い、それを見てまた盛り上がる。

 

 綺麗、なのだろう、きっと。けれども……どうにも、今目に映るその景色を、純粋に綺麗だとは思えなかった。

 

「……西条せんぱいは」

 

 嫌に強ばった声が聞こえ、思考は外の景色から後輩へと戻っていく。

 

「他人を寄せつけないで生きていくの、疲れたりしないんですか」

 

 視線を戻す。椅子に腰掛け、膝の上で両手を握っている後輩は、俺にとってまったく不思議な言葉をなげかけてきた。

 

「他人を寄せつけるとは、隙を晒すということだ。孤高であり続けるからこそ、その情報は漏れず、また盗まれもしない。社交的であれ、との教えに対する反抗心もあったのだろう」

 

「……西条せんぱいは、どうして組織に入ったんですか」

 

「無論……金と権力のためだ」

 

 金がなくてはなにも出来ない。お金が無くとも幸せだと、人はいう。なるほど、金の必要ない幸せもあるのだろう。だが、金とは手段だ。幸せになるための手段。それがなくては……選択肢がなくなってしまう。

 

 俺の答えを聞いた後輩は、そのあまりにも俗物的な要求に目を開いて驚いていた。この話をしたのは、唯野と鈴華だけだったか。まさか、女にこの話をすることになるとは思ってもいなかったが。

 

「西条せんぱいって、西条グループの次男ですよね。なのに、お金……?」

 

「全ては復讐のためだ。元手になる金がなければ、奴らを真っ向から叩き潰せん。だが……これでは、まるで金の亡者になったみたいだ。奴らと同じように」

 

 目標があって、到達する手段があって。けれどもその手段こそが目標から遠ざかるものであった時、果たしてどうするべきなのか。それでも、やるしかないと足を踏み出し続けてきたが……ふと、考え直して足が止まる。今のように。

 

「……前に、西条せんぱいのお兄さんに会った時。せんぱいはとても嫌な顔をしていたのを覚えています。踏み込まれたくないんだろうなって、思いますけど……なんでしょう。誰かさんのお節介が移ったんでしょうか。話を聞いてあげたいなって、そう思ったんです」

 

 真っ直ぐに見つめてくるその瞳が、どうにも唯野と重なる。なるほど、アイツのお節介は確かに伝染したようだ。いつかのあの夜、唯野は何事もなく近寄り、そして枷を一つ外していった。肩の荷が少し軽くなったと感じたのは……その時からなんだろう。

 

「……聞いても楽しい話ではないが、な」

 

 だから……話してもいいと、思えたんだろう。

 

 産まれを。育ちを。その過程を。かつて唯野……いや、あの二人に話した時のように、嫌味たらたらと、そして嫌悪たっぷりに混じえて言ってやった。過ぎ去った時間は戻らないのだと言わんばかりに、観覧車は上へと上昇していく。

 

「……何も、殺したいとは言わん。ただこの手で、奴らをひれ伏せさせ、嫌味ったらしく言ってやりたいだけだ。俺は俺として、ここまで来たのだと。『西条』としてでなく、『薊』として」

 

 そこまで言いきったあたりで、ちょうどゴンドラは真上辺りに来たのだろう。視界はやけに高くなっていた。だが、きっともっと高い。奴らは、もっと高いところから見下している。

 

「だから、俺は自分の名前が嫌いだ。西条なんて肩書きは……金持ちの息子というレッテルは……まるで、呪いのようなものだ」

 

 ゴンドラは急に動きを止める。まるで時間が停滞したかのようにも思えたが、時間は確かに進んでいた。

 

 消えることはなく、一生つきまとうもの。名前という呪い。時間のように、止まりもせず、消えることもなく、ただひたすら今を生きる俺の背後にピタリとついてくるのだ。

 

「……ゴンドラ、止まっちゃいましたね」

 

 慣性が働いて少しだけ揺れ動く。そんな中では息のつまるような空気だけが閉じ込められていた。だが……不思議と、息苦しいとは思えなかった。話すことを話してしまったからなのだろう。愚痴を零すだけで、人間というのはどうにも安定するようだ。

 

 後輩は俺の言葉を聞いて、何を感じたのだろうか。いいや、別に何を考えて欲しい訳でもない。同情も何もいらない。なら、俺は何を期待して話したのだろう。

 

「今度は……私の話でも、しましょうか」

 

 苦々しく、けれども薄らと笑いながら。後輩は俺と同じように、産まれてからの軌跡を話し始めたのだ。

 

 ……俺が期待していたのは、これだったのだろうか。答えは出ないが、それでもその言葉の裏側まで探るように、閉じられた空間に響く音を拾い集めた。

 

 ごく普通に生きていた。なんとも羨ましい家庭で育ち、そして友人からの妬みで己の地位を失落させ、辿りついた結論は擬態だった。誰にでも好印象を与え、自己を押し殺し、そして静かに耐えていく。内心では人を貶しながら、人を煽てるその精神性から、いつからかどんな人にでも仮面を被るようになったのだと。

 

 ……あぁ、と。気がついた時にはそんな声が漏れていた。

 

「……これが私の過ごした日々です。せんぱいと比べたら、そりゃ笑えるような話かもしれないですけど。それでも、辛くて、我慢して……ここでようやく、私はその仮面を見破って引き剥がそうとする人に出会ったんです。それも、一人ではなく……何人も」

 

 どこか嬉しそうに語る後輩。その見破った人とはまさしく唯野で、引き剥がそうとしたのは間違いなくアイツらなんだろう。

 

 やかましいが、人と関わることになると奴らは途端に手強くなる。そして、だからこそ今ここに俺がいるのだろう。そしてまた……こうして他者と向かい合わなければ、気がつくことさえもさえもなかったのだろう。知らなければ、ないことと同じように。知ろうともしなかった俺は、ようやく人並みになってきたんだろう。

 

「……俺がどうして、お前を嫌っているのかがわかった気がする」

 

 軽く息を吐いた。どうにも、後輩の顔が見れない。太ももに肘を乗せ、そして額を抑えるようにして俯きながら俺は言う。

 

「お前は、有り得たかもしれない俺の結末なんだ」

 

 もし仮に、俺に反抗心がなかったら。俺はきっと自分を殺して、他者に擦り寄り、西条グループをできる限り大きくしようと奔走していただろう。目の前の後輩は、紛れもなく俺の可能性だったものなんだ。

 

「なるほど……ククッ、いや……同族嫌悪にも似た何かだったのか、この気持ちは」

 

 歪んだ笑みを浮かべてせせら笑う。顔を上げる気力すらもなくなりかけていた。ただじっと、動く気配のないゴンドラの中で床だけを見つめている。

 

「……実は、似たもの同士だったんですね、私たち」

 

 聞こえた声に、首が動く。後輩の顔が暗くてもよく見えていた。儚く微笑むようなその表情が、じっとこちらを見つめている。

 

「勝手に思い込んで、知ろうともしないで、一方的に嫌って。それって、皆が私にしてきたことと同じなんだって気がつきました」

 

 後輩の腕が伸ばされる。互いに向かい側の椅子に腰掛けていて、その中空で手が差し出されていた。この手は、何を意味しているのだろう。不思議に思い、後輩の顔を見つめてみれば……アイツは、くすりと笑って言ってきた。

 

「変な確執とか、やめて仲良くしましょうよ。私、わかりましたから。せんぱいはきっと、とっても不器用なんだって。真っ直ぐにしか生きられないから、とても生きづらいんだって。だから、なんでしょうか。せんぱいの隣にいてあげないとなって思うんですよ」

 

 もちろん、友達とかそういう関係で、と彼女は付け足した。隣にいてあげないと、か。不思議だ。以前そんなことを鈴華に言われた気がする。傍目から見ても、俺はそんなにも不器用に見えるのだろうか。

 

「……思ったよりも、お節介なんだな。まぁ……そういった奴は、嫌いじゃない」

 

 差し出された手に、自分のものを重ねる。堅い剣ばかり触ってきた俺にとって、その手はなんとも言えない柔らかさがあった。なんだか、心地よい柔らかさだ。

 

「えへへ……これから、よろしくお願いしますね、()さんっ♪」

 

 手を握りながら、楽しそうにそう告げてくる。その声音は嬉しさ一色なんだろう。それくらいは汲み取れた。

 

「……名前呼び、か」

 

 なんだか、いざ呼ばれるとくすぐったい気もする。知れずと俺は視線を逸らしていた。

 

「だって、西条って名前嫌いなんでしょう? だから、私はせんぱいのことを薊さんって呼んであげます。私のことも、名前で呼んでくれてもいいんですよ?」

 

 悪戯っ子のような笑みを浮かべる、という言葉がある。なるほど、まさしくそれであった。歯を見せるように笑うその姿は、確かに子供っぽさをも感じさせる。

 

 俺はその返事として、彼女の名を呼んでみた。

 

「……これからよろしく頼む、()

 

 ピクリッと握られた手が動く。彼女を見てみれば、月明かりや下からの光だけでも、頬が紅潮しているのだというのが見てとれた。何を恥ずかしがっているのか、俺にはわからない。

 

「っ……あ、あざとい! あざとすぎますよ薊さんっ!」

 

「どこがだ?」

 

「名前! 呼び捨て!」

 

「……俺は普段、さん付けをしないからな」

 

「で、でもっ……うぅ……」

 

 悔しがっているのか。仕返しとばかりに握っている手を強く握り潰そうとしてくる。けれども、柔らかい感触が更にわかりやすくなるだけに終わった。

 

 互いに不自然な沈黙が続く。未だに観覧車は動き出す気配がない。息苦しくはないが、どうにも落ち着かなかった。お互いに手を離して、視線をそわそわと動かす。

 

「なっ、なんか別の話しましょうか! そうだ、せんぱいたちの話をしましょう!」

 

「アイツらの、か。まぁ……よかろう」

 

 提示された話題に乗っかるように、俺たちは話を始めていった。他愛のない話であったり、また任務中の様子であったり。天パはどうやっても天パにしかならないという身も蓋もない話まで。

 

 互いに言い合ううちに、随分と俺と彼女がアイツらに助けられていたのだと実感する羽目になった。俺はともかく、いや俺も彼女も、あの二人がいるから今ここにいる。 それは確かなことだった。

 

「不思議ですよね、特に唯野せんぱいは。なんか、なんでも話してしまいそうになるというか……」

 

「……アイツはな、自分では何も才能がないと卑下していたが……とんだ食わせ者だ」

 

「と、言うと?」

 

「確かに武器を扱うには、いや何かを修めるということに関して、アイツは才能がないのかもしれん。だが、アイツは間違いなく天才の一人だ。よくアニメでもいるだろう。他人に合わせるだけで、自己主張しないようなキャラクターが」

 

「えぇ、まぁ……確かにいますね」

 

 アニメの話を始めてしまったが、彼女はわかってくれているようだ。そのまま俺は話を続けていく。

 

「アイツはその他人に合わせる人間の完成系だ」

 

「……あの人が?」

 

「そうだとも。他人に合わせるということは、他人に合わせないという選択もできる。他人の心に歩み寄り、そこから掻き回すのも手繰り寄せるのも思いのまま……。昔の国には宮廷道化師というものがいた。他人に笑われるピエロだが、間違えてはいけないのは笑われているのではなく、笑われているように見せることだ」

 

 そう、あの男の恐ろしいところはそこだ。手の上で転がしているかと思えば、ふと気がついた時には自分が転がされている。いや、最初から転がしているように思わされている。道化師とは頭が良くなければなれない職だ。なにしろ、王様に対して怯えることなく言葉をいえる人物だからだ。

 

 おどけているように見せかけて、その実裏で牛耳るような実力すらも持ち合わせる。末恐ろしい。アイツが敵でなくて良かったと、今は思っている。誰に対してもその態度を変えていき、合わせることができる。超能力に近いものだ。仮面を被るのではなく、まさしく自分すらも騙すように化けてみせる。

 

「……だが、俺はそこに興味がある。誰に対しても変化するというのなら……本当の唯野とは、一体誰なのか。どんな時、奴は自分の本性を明かすのか。それはどんな性格なのか。窮地に陥った時、人は化けの皮が剥がれる。だからこそ、その瞬間が少し楽しみといえば、楽しみだな」

 

「唯野せんぱいが、そんな……。じゃあ、鈴華せんぱいは?」

 

「アイツは……そうだな。少し前までは、唯野が弱かった。戦闘スタイル的にも。だが、今では鈴華がまちがいなく一番弱い。戦闘能力ではなく……その心がだ」

 

 どうしようもない場合になってしまった時、自分を奮い立たせるもの。それが鈴華にはない。唯野は、それを持ち合わせた上で戦い抜くだけの根性がある。いや、もはや執念や執着に近い。狂気的なものだ、アレは。

 

 しかし、鈴華は。何もないのだ。何しろ自分がなぜ組織にいるのかすらしっかりと理解できていないだろう。それを自分で考えて立てるようにならなくては……崩れ落ちるのは、まず間違いなくアイツだ。

 

「……馬鹿だからな、アイツは。今を楽しむあまり、自分を省みていない」

 

「……なんとなく、わかるかもです」

 

 ひとしきり話し終わっただろう。そんなタイミングで、ゴンドラが揺れ始めた。景色が少しずつ動いていく。どうやら、再稼働し始めたらしい。

 

「おっ、動きましたね」

 

「そのようだな」

 

「あっ、夜景! 話し込んでて全然見れてない!」

 

 言いながら、彼女は身体ごと視線を窓の外へと向ける。そしてその景色を見て、目をきらびやかに光らせた。はぁーっと感嘆の息が漏れている。

 

 その景色を見ていたら、気がつけばポケットに手を伸ばしていた。そこから携帯を取り出して……カメラでその光景を写す。カシャリッと音が鳴って撮れたものは……ライトアップされた城と一緒に写る彼女の姿。俺が写真を撮ろうとした瞬間に振り向いたおかげで、変なふうに笑ったまま写ってしまっている。

 

「ちょ、薊さん!?」

 

「いやなに……綺麗だったんでな」

 

「綺麗ッ!? あっ、夜景! 夜景ですよね! いやー、綺麗ですよねー。私も写真撮りたくなっちゃうくらい」

 

 そう言って近づいてきたかと思えば、彼女もポケットから携帯を取り出してカメラを起動させていた。隣に座り、腕を伸ばして内カメにする。これは……よくSNSに載っている自撮りというものだろう。

 

「ほら、もっとくっつかないと入らないでしょ!」

 

「むっ……」

 

 十分入りきっているだろうに、彼女はより距離を詰めてくる。お互いの身体がぶつかりあうところまでやってきて、ようやくカシャリッと音が鳴った。

 

 ……写真には仏頂面の俺と、それと対照的に笑っている彼女が写っている。

 

「うわー、薊さんって写真写るとなんかこわーい」

 

「お前の背丈をあと5センチ縮めてやろうか」

 

「やーめーてーくーだーさーいー!」

 

 頭に手を乗せて無理やり押し潰そうとすると、彼女は小さな悲鳴をあげながらどこか嬉しそうに身をよじらせていた。

 

 そんな彼女をひとしきりいじり倒した後、何か視線を感じて、城とは逆側の窓を見てみた。観覧車の中心にある動力部付近で、黄色の熊と帽子をかぶった青年。そして紫色のローブを着た従業員らしき人がいたのが見えた。

 

 気にすることでもない、先程の点検だろう。視線を戻せば、外を見ていたことを怒っているのか、頬を膨らませている彼女がいる。指で刺してみれば、ぷすっと空気が抜けていった。

 

 それを見て不覚にも……お互い、笑ってしまったのだ。

 

 

 

 

To be continued……




あけましておめでとうございます。
今年も長々と続けていきますが、どうかよろしくお願いします。


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第109話 帰路を見つめる影

 観覧車の動作不良についての謝罪がドリームランド中に響き渡っている。それを聞き流しながら、西条と藪雨は出入口に向かって歩いていた。時間もちょうどよく、はしゃいだせいか疲労もあった。十分楽しめたし、観覧車を最後にしようと言ってもいたのだ。帰ろう、と言い出すこともなく、ただ少しの名残惜しさだけを漂わせながら歩みを進めている。

 

「………」

 

 はて、そういえば……っと西条は唐突に思い出した。カバンの中には櫛が入っているのだ。藪雨に皮肉たっぷりに渡すためのプレゼント。けれども、どうしたものか。どうにも渡す気が起きない。

 

 別に、渡す必要もないのだが。ただどうにも落ち着かない。最初から騙すつもりだったとはいえ……こうなってしまったのだから。

 

 悶々と悩みながら歩くうちに、とうとう出入口の近くにまでやってきてしまう。そして目に入ってくるのは、子連れの親子たちが近くの店から、クマのぬいぐるみが入った袋をこさえて出てくる様子。

 

「……藍、少し待っていろ。買い物をしてくる」

 

「あっ、お土産ですか? 私も買います!」

 

「……そうか」

 

 少々眉をひそめた西条だったが、別にお土産を買う気は更々なかった。当日の全員ドタキャンといい、白々しい連絡といい、そして思い返してみれば氷兎のまるで商品紹介をするテレビ通販のような態度があまりにも違和感を覚えさせる。間違いなく、これは仕組まれていたことだ。

 

 普段ならば二人の頭を捕まえてぶつけさせるところだが……今回は別にしなくてもいい、と思えていた。なにしろ、少しだけ普通の人間らしく楽しめたのだから。けれども騙したことに関して仕返しは必要だろう。お土産はなしだ。

 

「……痛手ではないが、物価が高いな」

 

「そりゃあ、楽しさ補正もかかって多少高くても買っちゃいますからねぇ、こういうの」

 

 お土産屋のぬいぐるみの値段を見て、なんやこれぼったくりやろ、と西条は目頭を抑えた。けれどもそれが遊園地やテーマパークというもの。藪雨がお菓子を見ているうちにそっと離れていき、値段が張るものの中でも更に値の張るアクセサリーの類を見ていく。

 

 けれども、いざ何を買おうかと悩み始めるも、どれがいいのかさっぱりわからない。アクセサリーは、贈るものによって別の意味を持ち合わせると聞きかじった覚えがあるが、そんなもの覚えてはいない。世間知らずな西条にとって、贈り物とは少々難易度が高かった。

 

「……どれも幼稚だが、楽しさ補正や思い出補正というものがあれば、多少はマシに思えるだろうか」

 

 並ぶアクセサリーの中からひとつ、普段つけるのにも困らず、また藪雨のつけていないものを選ぶ。そしてバレないようにレジへと持って行き、清算を済ませたら何食わぬ顔で藪雨の元へと戻っていく。彼女は戻ってきた西条を見て、両手に持ったお菓子の缶詰を見せながらどっちがいいかと尋ねてきた。缶詰の中身はチョコかクッキー。どちらも定番のお土産だろう。

 

「……どちらかと言えばクッキー、だな」

 

「ほほう、その心は?」

 

「紅茶にも珈琲にも合う……そうすれば、皆でゆったりと食えるだろう」

 

「なんだかんだ、薊さんってせんぱいたちのこと好きですよね」

 

「……嫌いではない」

 

 視線を逸らす彼を見て、藪雨はひっそりと頬を染めるのだった。

 

 そうしてお互いの買い物を済ませ、彼らはドリームランドから外に出た。辺りにはまだ人が多い。これから帰る人だらけで、駅の方面は人の行列になっている。流石は有名なドリームランドといったところだろう。

 

 騒がしい遊園地から抜けて、同時に気も抜けたのか。藪雨はぐーっと身体を伸ばし、気持ちよさそうな声を出しながら空を仰いだ。星は少ししか見えないが、それでも綺麗だと思えるのは、まだ心が楽しんでいる最中だからなのだろう。

 

 そんな彼女を見て、ポケットの中に突っ込んだ袋を触る。先程買ったアクセサリー。渡そうにも、どうにも中々踏ん切りがつかない。何をモタモタしているのか。そんな自分に少しばかり憤りを感じつつ、最終的に選んだ方法は……袋を藪雨に突き出すような形で、ぶっきらぼうに差し出すという方法だった。無論、藪雨もそんなふうに差し出されては困惑するというもの。

 

「えっと……これは?」

 

「……つまらん話を聞かせた詫びだ。いらなければ捨てておけ」

 

「捨てておけって……」

 

 そう言いながら苦笑いを浮かべて受け取る。袋を丁寧に開封して、中身を取り出してみれば……薄い桃色の板にトレードマークの刻まれたネックレスが入っていた。流石にこれには目を見開いて、彼女は西条に詰め寄っていく。

 

「ちょっ、薊さん!? 詫びにしては高すぎません!?」

 

「いらなければ捨てろと言ったが?」

 

「い、いやいらないとかじゃなくてですねぇ……」

 

 目の前の男から贈り物をされるだなんて思ってもいなかった。そんな様子を隠す気もない藪雨を見て、西条はそっぽを向いて視線から逃れる。

 

「……初の試みだったのでな。無難なものを選んだつもりだが」

 

 そう言って照れ隠しのように頬を指で掻く西条を見て、また一気に心拍数が跳ね上がっていく。貰ったネックレスをもう一度見てから、袋から取り出し、自分でつけてみる。気温のせいか、触れる金属部分が冷たくてくすぐったい。それでも、胸元に垂れ下がるその桃色のネックレスを触りながら……見たこともないくらいに破顔させる。そのあまりにも幸せそうな顔に、また西条も自分の脈が早くなるのを実感した。

 

「ありがとうございます、薊さん。これ……大切にしますね」

 

 えへへっと笑う彼女から、どうにも視線が逸らせない。ただどうしようもないくらいに暴れだしそうな心臓を抑えつけるように、ポケットの中に手を突っ込んで見えないように拳を握る。

 

 不器用で、他者との関わり方を歪めてしまっていた二人の恋路は、まだ始まったばかりだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「甘ぁぁぁいッ!!」

 

「先輩、周りの視線が痛いんで叫ぶのやめてくれませんか」

 

 一方こちらはまた別の先輩後輩チーム。離れた場所から二人のやり取りを見ていた鈴華は発狂。服装が元に戻って、チャラ男スタイルの彼は帽子を脱ぐと、つばの部分を手で持ってサイドスローの構えをとる。黄色の熊から元に戻った氷兎は、流石にそれを止めに入った。

 

「ちょいちょいちょい、今いいとこなんですから! せっかく報酬で観覧車止めてもらったのに、そのムードぶち壊す気ですか!?」

 

「いいや、止めてくれるなよ氷兎! だって、おかしいだろ!? 確かに当初の予定通りだよ。でも……俺たち特に何も得を得ていないというか、そろそろ何か良いことあってもよくない!? あんな血みどろな争いを勝ち抜いたんだぜ!?」

 

「まぁ確かに軽く二十以上は殺ったと思いますけど、今は西条さんの幸せを願ってですね……」

 

「あんなストレスだらけな仕事してこんな甘々なシーン見せつけられてみろ! 年末バイト帰りに姫はじめの会話をするカップルを見た時と同じくらい苛立つに決まってるだろ!」

 

「ストレスだらけって、先輩あまり仕事しなかったじゃないですか! SNS見てくださいよ、プニキが建物から建物を跳んで移動する動画アップされてるんですよ! どうするんすかこれ!」

 

「じゃかしいわ!! こちとらなんとかシャツ一枚くらい透過できないもんかって試行錯誤して結局見えなかったんじゃい!!」

 

 売り言葉に買い言葉と言わんばかりに、二人の口喧嘩が続いていく。言っていた通り、鈴華はあまり仕事をせず……というよりかは、現実世界ではあまりボールを投げられなかったので、仕方なく氷兎が建物間を跳び回ってナイトゴーント相手に空中戦をふっかけていただけなのだが。

 

 SNSに動画がアップされているが……経営者が神話生物なので大丈夫なのだろう。いや、神話生物の段階で何一つ大丈夫じゃなさそうだが、触らぬ神に祟りなし。面倒ごとは全て投げ捨てて逃げ帰らんとばかりに氷兎と鈴華は帰ってきたのだ。仕事の報酬は観覧車の一時停止。流石に武器と防具、魔術は貰えなかった。

 

 ともかく幻夢境の古の神々たちは人当たりが良い……という訳ではなく、単に氷兎がナイアの客だからという理由で良くしてもらった訳だが、人に危害を加える様子もない。こちらからも手を出す理由もないので、とりあえずやるべき事はもうないはずなのだ。

 

「先輩、野暮なことはよしましょうぜ。せっかく西条さんが人並みの普通の幸せを手に入れられそうなんですから」

 

「ぬぐぐっ……お、俺だってなぁ……素直に拍手したいけど……けど、けどぉ……」

 

「はいはい。先輩にもいい人がそのうち現れますよ」

 

 目深に帽子をかぶり直した鈴華の背中を、氷兎が優しくさすり始める。サングラスのせいでよく見えないが、恐らく薄らと目の下に涙でも浮かべているのだろう。余程鈴華は女性との縁が羨ましいらしい。

 

 そんな彼から視線を逸らし、初々しいあの二人へと視線を戻す。背の高い西条が藪雨の頭をガシガシと抑えつけるように撫で始め、藪雨はどこか嬉しそうに反抗する。

 

 片や孤高を貫き、他者との関係を絶った者。片や、人々に愛想を振りまき、己を騙し続けて耐えていた者。違うようでいて、少し違えば似たような結末を辿っていたであろう二人。どちらも自分ではどうしようもない理不尽を抱え、巡り合った。せめてここでは、その他者に対する嫌悪感を和らげ、安らかに過ごして欲しい。そう氷兎は願っていた。

 

「そういえば、先輩は贈り物のネックレスにどんな意味があるのか知ってますか?」

 

「んー、なんだっけな。独占欲?」

 

「えぇ。『貴方とずっと一緒にいたい』だとか、そんな意味があるみたいですよ」

 

「へぇー」

 

 視線の先にいる彼らは並んで帰路を歩き出した。その様子を見つめている氷兎と鈴華は、甘ったるいため息をつくだけだ。

 

「なぁ氷兎。西条は知らねぇだろうけど……藪雨は知ってると思うか?」

 

 その言葉に対し、氷兎は当然でしょうっと頷いて返した。

 

「アイツは馬鹿ですけど……女の子ですよ?」

 

「ひひっ、それもそうか」

 

 それは当人にしか知る由もないことだが。けれども並んで歩く二人の間に、しっかりと繋がれた手があることが……きっと答えなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 ───そんな彼らの様子を空から見下ろす翁がいることに、誰も気がつくことはなかった。

 

 

 

 

 

To be continued……




今日は私の誕生日なので初投稿です。
歳をとるにつれ、誕生日に何も思わなくなる……ならない?


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第110話 不穏な夢

 朝目が覚めて、すぐに朝ご飯が食べれて、それらの準備や片付けも全てやってくれる上に、洗濯も何もかもしてくれる人がいたとしたら、それを『嫁』以外の何といえばいいだろうか。俺とアイツは、まだ出会って一年も経っていない仲だが、それにしては仲が良くなり過ぎた。自分でも不思議なくらいに。

 

「ぐっうーーっ」

 

 身体を伸ばして、ベッドから起き上がる。反対側の壁側にあるベッドの上にはやはり誰もいない。アイツはもう起きているようだ。毎日毎日、よくもまぁ寝坊せずに早起きができるものだ。それに、飯も作ってくれるし、それが美味いときた。朝飯を食うことが日常的な幸せとして痛感できる。だから、こうして起きた時に朝飯は何かと想像するんだが……どうにも変だ。何故か飯の香りがしない。いつもは何かしら匂いがするはずなのに。

 

「ふぁー……氷兎、おはようさー……ん?」

 

 気にもとめずに、欠伸をしながら食卓のある部屋へと行ってみるが……そこには誰もいなかった。食卓にはご飯すら置かれていない。これは何か変だ。

 

「ははーん……さては菜沙ちゃんに連れていかれたかな?」

 

 まったく仕方のない野郎だな。今日ばっかりは適当に自分で作ってみるか。目玉焼き程度なら俺でも作れるだろう。そう思い立ち、冷蔵庫へと向かおうとしたところで、コンコンッと扉がノックされた。いつものように西条が飯をたかりに来たか。けど残念、今日は氷兎がいないんだな。

 

「入っていいぞー」

 

「邪魔するぞ」

 

 相変わらず、西条の奴は朝からオールバックの髪型でキマってるな。とりあえず、飯を作るために適当に食材を取り出していく。こうなりゃ、西条にも飯作ってもらおうか。そうだ、それがいい。

 

「西条ー、今日なんか氷兎がいねぇから飯作んの手伝ってくれ」

 

「……氷兎? 誰だ、それは」

 

「……へ?」

 

 背後から聞こえてきたその言葉に、流石に振り向かずにはいられない。西条の奴、冗談を言うようなキャラじゃないんだけど。なんだ、一体どうしたっていうんだ?

 

「おいおい、冗談キツイぜ。いっつも一緒にいんだろ?」

 

「……寝ぼけているのか? さっさと目を覚まさないと、怪我をするぞ。今日の飯担当はお前なんだからな」

 

「いやいや、待って。今日エイプリルフールかなにか? えっ、なに、俺騙しても何も得ねぇよ?」

 

 椅子に座っている西条は、ため息しかつかない。寝ぼけているのは西条の方じゃないのか。そうやって問い詰めてみるけど、西条は氷兎なんて知らないの一点張りだった。そんな馬鹿なことがあるか。今まで一緒に頑張ってきた仲間なのに、忘れるなんてことがあるわけない。けれど、西条が嘘をついてる様子もなくて、そもそも嘘なんてつくような男じゃないし……。

 

「何度も言うが、氷兎なんて男は知らん。お前の妄想じゃないのか?」

 

「ばっ、バカ言うなよ!! 見てみろ、氷兎が使ってたベッドには小物とか置いてあるだろ!!」

 

 そう言って氷兎のベッドを指さす。確かに枕元には目覚まし時計やティッシュケースなどの小物が置いてあって、ベッドの下の収納スペースには氷兎のゲームカセットなんかも入っている。タンスの中には氷兎の服も入ってるし、ちゃんとここで氷兎は生活していたんだ。

 

「……お前、部屋に一人は寂しいからといって適当に設置したの忘れたのか? その服も、元々お前が持っていたものだろう」

 

「違うって!! この服は確かに氷兎ので、アイツはちゃんとこの部屋で一緒に……ッ!!」

 

「……もういい、今日は休め。飯なら俺が作ってやる」

 

「聞いてくれよ、西条ッ!!」

 

 呼び止めても、西条は呆れたような顔をして朝飯の準備を始めていく。冗談だろう、何かの間違いだ。何度も何度も心の中で繰り返した。

 

 携帯の中のフォルダを見ても、氷兎の写真はひとつもない。天在村で撮った写真も写真立てに入れておいたはずなのになくなっている。いや、それどころか氷兎の黒いマグカップまで……。

 

「は、はは……なんだよ、これ……」

 

 今までのが、全部夢だったとでも? いや、俺には西条と二人でここまでやってきた記憶なんてない。どういうことだ? なんで氷兎がいないんだ?

 

「なんなんだよ、これ……」

 

 背筋に嫌なものが走っていく。呼吸がだんだんと浅くなって、息が苦しい。その場で崩れ落ちて、両手をついたまま何度も深く息を吸おうとする。

 

 けど……上手く、呼吸ができない。

 

「おい、おい鈴華ッ!! どうした!?」

 

 ………。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「─────ッ!!」

 

 寝ている身体が、咄嗟に跳ね起きた。俺がいるのは、自分のベッドの上。服装は寝巻きのまま。向かい側のベッドを見てみるが……やはり、そこには誰もいない。

 

 けど、漂ってくる匂いが鼻腔を擽った。それと同時に、お腹も収縮を始める。寝癖でボサボサな髪の毛を気にすることもなく、食卓のあるリビングへと歩みを進めた。

 

 扉を一枚挟んで向こう側に、確かに人の気配がある。それが西条なのか、それとも氷兎なのか。頼むから氷兎であってくれ。そう願いながら、ゆっくりと扉を開く。

 

「あっ、先輩。おはようございます」

 

 鍋を掻き回しながら、俺の後輩はいつものように挨拶してきた。俺とは違い、真っ直ぐな髪の毛。最近伸ばしているのか、耳がちょっと隠れて、襟足も長い。既に寝巻きから普段の服装に着替えている彼は……間違いなく、氷兎だった。

 

「……よかったぁ〜、夢だったかぁ」

 

「夢? なに見たんだか知らないですけど、そろそろ飯できますよ。あっ、珈琲飲みますか?」

 

「あぁ、うん。頼むわ」

 

 はいはいって返事をして、氷兎は食器棚に向かっていく。そして俺の青色のマグカッブを取り出して、珈琲を抽出していく。椅子に座って待っていると、漂ってくる香りが、鍋の中で煮えたぎる味噌汁と相まって複雑な匂いになる。けど……自然と落ち着いていくのがわかった。どうやら、俺も氷兎に毒されているらしい。

 

「……あれ、先輩俺のマグカップ知りません?」

 

 椅子に座って伸ばしていた身体が氷兎の放った一言で強ばるのがわかった。何もなかったのだと、油断していた。マグカップ。その言葉に心臓がキュッとなる。夢の中でも、氷兎のマグカップはなかった。いや、あれは夢だ。何をそんなに怯える必要がある。

 

「いや、知らないな。洗ったままとか?」

 

「洗い物はさっさと片付けるタチなんですがねぇ……本当、どこいっちゃったんだろ」

 

 まさか菜沙か……なんて氷兎は口にしていたけど、この部屋は俺と氷兎しか普段は使わない。いや、毎日のように人が出入りしているけど、食器棚を触るのは氷兎と菜沙ちゃんだけ。菜沙ちゃんが持っていく可能性は……なくもないが、低いだろう。

 

「んー、まぁいいや。しばらくは来客用のマグカップ使いますかね」

 

「……なぁ、氷兎」

 

 いやまさか、自分がここまで怯えることになるとは思ってもいなかった。なんだか、さっき見た夢があまりにも現実味がありすぎて。そう、まるでこっちが夢なんじゃないかとすら思わせる。ゲームで、胡蝶の夢の話があったけど……なるほど、確かにそう思いたくなるのもわかる。でも、氷兎はちゃんと目の前にいるのだから、間違いなくここが現実のはずだ。

 

「お前、いなくならないよな?」

 

 氷兎はマグカップの中になみなみと珈琲を淹れて、俺に差し出した。見上げて彼の顔を見れば、呆れているのか。氷兎はちょっと意地悪そうに笑いながら返事を返してきた。

 

「なに馬鹿なこと言ってんですか。先輩、俺がいなくなったら食生活狂うでしょ。いなくなりませんよ、俺は」

 

「はっ、ハハ……そうだよな。お前がいなくなるわけねぇか」

 

「なんか嫌な夢でも見たんですか?」

 

「……そうだな。まぁ、気にすることでもないし、しょせんは夢だ。俺は気にしないことにした」

 

「そっすか」

 

 適当に相槌をうつ後輩。氷兎は俺のことを、いつも先輩先輩って慕ってくれる。最初はちょっと後ろを着いてきて、すぐに隣を歩くようになり、気がつけば俺を守るかのように前に立って戦っていた。俺たちは、色々なことを経験してきている。戦いも、人の生活も、そして誰かの死も。確かに積み上がってきている。それが氷兎を、成長させているのだと見ていて実感した。

 

 ……けど、俺は? 俺は一体、何か成長できたのだろうか。人として、肉体として、何か変わったのか?

 

「先輩」

 

 俺のことを呼ぶ声にハッとなる。心配そうに見つめている氷兎の頭を、グシャグシャと強く掻き乱した。手にはしっかりと質感がある。触った感触がある。氷兎は、ここにいる。

 

「……俺って、割とナイーブになりがちな性格かな」

 

 誰に尋ねるわけでもなく呟かれたその言葉に、氷兎は返してきた。

 

「先輩とは無縁のもののような気がしますがね。なにせ、ころっと次の日には忘れちまうんですから。先輩はいつだって、前を見て歩いてる。うじうじ悩むの、先輩らしくないですよ」

 

「……俺らしく、か」

 

 対面の椅子に座って微笑む氷兎を尻目に、珈琲を呷る。ちょうどいい温度と、ブラック特有の酸味。そして苦味。不安で震えそうな心を、それらが塗りつぶしていく。

 

 本当は、自分がどれだけ情けないのか知ってる。虚勢を張ることだってある。それでも……俺はここから逃げることはしない。逃げちゃいけない理由ってのが、なんとなくある気がするから。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 飯を食い終わって、氷兎の特訓の間は何も暇な時間ってわけじゃない。両手で一丁ずつ構えたコルト・ガバメントによる連続射撃。強風に煽られる状態を想定した高所での移動射撃。遠距離狙撃のための移動と、動くターゲットの狙撃。時には、物を投げるコントロールを鍛えるためにストラックアウトのようなものもやってみる。

 

 そしてあとは組手。素手での戦いを想定した近接格闘術……とは名ばかりの、喧嘩殺法。それと柔道を模した鎮圧術。VR装置でちょちょいと弄れば、なんだってできる。自分にできそうなものを探して、鍛えて、備える。最近は銃を使用した近接格闘術も編み出した。銃自体がそれなりに堅い代物だ。マガジンの底の部分で殴りつけるだけでかなりダメージは出る。暴発には気をつけなきゃいけないが。

 

「鈴華、終わったぞ」

 

 特訓を終えて休憩室で休んでいたら、西条が氷兎を肩に背負ってやってきた。最近はなかなか見なくなったが、前はこういったことはかなりあった。この二人の特訓内容はかなりハードだ。氷兎が必死にくらいついて、たまに西条に傷をつけられるらしいが……その場合、西条がヒートアップして氷兎がついていけなくなり、倒れる。メキメキと氷兎の近接戦闘の練度が上がっているのを見る限り、これはこれでいいんだろう。本人たちも、最近は楽しそうだ。

 

「おっと、氷兎が撃沈してら」

 

「組手で足払いをくらってな……倒れる俺を歪んだ笑みで見てくるものだから、つい……」

 

「お前って負けず嫌いだよなぁ」

 

 まぁ、西条らしい。もうちょっと休ませてと頼み込む身体を無視して、西条から氷兎を受け取ると、今度は俺が背中に背負って部屋へと運んでいく。それなりに筋肉はついているはずだけど、見た目通りな軽さだ。氷兎の身体能力は筋肉が発達したとか、そういったものじゃない。多分魔術的なものとか、人智の及ばない類のものなんだろう。昼間の身体能力は、一般人よりも強いが一般兵と比べたら弱い。真骨頂は月のある夜だが、それよりもコイツは人と話すことを特に得意としている。

 

 本人に自覚はないんだろうけど、人間観察の能力はかなり高い。それこそ、顔や声音でその人の抱いている感情と、言っている言葉の真偽まで予測できる。多分どうやってって聞いても、本人には答えられない。人生を生き抜く上で、自然と身についた類のものだ。平凡だ、ポンコツだと自分を貶すけど……そりゃ、自分の価値に気がつけていないだけだ。

 

 自分にとっては無価値でも、人からすれば輝く宝石のように、氷兎は他人から必要とされやすい人物であり、人格であると言える。

 

「なぁ西条。氷兎のことでちっと話があんだけどさ」

 

「唯野がどうかしたのか?」

 

「んー、いやちっとな……。そんなに悩むことでもないのかもしれないけど、ちょいと不安でな」

 

「脳天気なお前が不安となると、明日の天気は雨でも降るか」

 

「いやわりと真剣な話なんだがなぁ……」

 

 うだうだと話すうちに、俺たちの部屋へとたどり着いた。最早西条との共同スペースと化してきた俺と氷兎の部屋だが、どうにも薄ら寒い感じがする。暖房はつけていないが、気温はそんなに低くない。

 

 ……やっぱ、心的要因か。氷兎をベッドに寝かしつけて、俺は両腕をさすった。どうしてか鳥肌までたっている。

 

「……やけに落ち着きがないな。何があった?」

 

「いや、それがさ……」

 

 今朝見た、あまりにも現実的な夢の内容を話し始めた。何を馬鹿なことを……って言われると思ってたけど、西条は真面目にその話を聞いて、椅子に座ったまま顎に指を当てて悩む仕草をする。どうにも西条は何か俺の話に引っかかることでもあるみたいだ。

 

「……夢の話で悩むなんて、馬鹿らしいと思うか?」

 

「いや……そうでもない。むしろ、何か起こる前触れかもしれんな」

 

「と、言うと?」

 

 俺も椅子に座って、西条の対面で身体を楽にする。背もたれに体重を乗せて、軽く傾けていきながら天井を見上げた。氷兎の丹念な掃除のおかげか、天井には染みひとつない。そんな状態のまま西条の言葉の続きを待っていたが……。

 

「───俺も、同じ夢を見た」

 

 ……危うく、そのまま後ろへ倒れていきそうになる。椅子を勢いよく元に戻して、西条の目を見た。鋭い眼光は、嘘を言っていないことを示している。

 

「いつも一緒にいるお前が、氷兎なんて知らないと言っていた。その時点ですぐに夢だと察したが……」

 

「……まったく同じ夢を、同じ日に?」

 

「ありえない、とは言えない。だが内容からして、変だと思わないか」

 

 西条は氷兎が眠っている部屋の方を見た。もしかしたら、今のこの瞬間にいなくなっているんじゃないか。そう思って、俺は咄嗟に寝室の扉を開けた。ベッドの上では、氷兎が横になったまま動いた形跡がない。

 

「……夢を介して、天啓を授かるなんて話は昔からごまんとある。それに夢が記憶の整理だなんて話もあるが……まったく意味不明な夢を見ることすらある。夢というのは、とても曖昧なものだ。これが予知夢なのかもしれないし、俺とお前が普段から一緒にいるせいで夢がリンクした、なんて馬鹿げた話の可能性もある」

 

「でも、仮にこれが予知夢だったら……」

 

「それは判別がつかん。それに、仮に俺とお前が同じ夢を見たなら……夢を見た人間は、きっと他にもいるだろう。例えば、高海とかな」

 

 菜沙ちゃん、か。確かに氷兎と一緒にいることが多いし、可能性もなくはない。けどそんな夢を見たら、彼女は一目散にこの部屋に飛んできそうなものだけど……。

 

『コンッコンッ』

 

 部屋の扉がノックされる。西条と顔を見合わせてから、扉のところまで向かう。少しだけ、手が震えていた。それを我慢するようになんとか腕を伸ばし、ドアノブを回す。開かれた扉の先にいたのは……。

 

「あっ、おはようございます、鈴華さん。あの……ひーくん、いますか?」

 

 菜沙ちゃんだった。いや、彼女だけじゃない。その後ろには七草ちゃんと、藪雨もいる。皆表情が強ばってて、それだけでなんとなく察しがついてしまった。

 

「あぁ、いるよ」

 

 この子たちも、見たんだ。氷兎だけがいなくなる、あの夢を。

 

 全員を部屋へと上がらせて、氷兎の確認をさせる。菜沙ちゃんは泣きかけそうになりながらも、氷兎の手を何度も握っては笑っていた。

 

「薊さんも、鈴華せんぱいも同じ夢を見たんですよね」

 

「私も、変な夢だなーって思ってたけど……起きて菜沙ちゃんが、氷兎君がいなくなる夢を見たって泣きそうになってて……」

 

 菜沙ちゃんは氷兎の傍にいさせてあげて、七草ちゃんと藪雨は椅子に座らせる。生憎と氷兎が気を失ったままだし、珈琲も何もないが……いや、のんびりと飲んでいられるような雰囲気でもない。

 

「写真立てはあるけど……氷兎のマグカップは消えたままだ。夢でなくなったものが、現実でも消えたと仮定していいんだな?」

 

「現状は、な。何もわかってはいないが、これだけの人数、しかも唯野の関係者が同じ夢を見た。間違いなく、これから何かしら起こる前触れだろう」

 

「何かって……」

 

「氷兎君、いなくなっちゃうの……?」

 

 七草ちゃんの言葉を最後に、部屋は静まりかえる。為す術がないこの状況が、とてつもなく恐ろしかった。親しい友人が、相棒が、消えてしまうかもしれない。

 

 ……しれずと握りしめた両手を自分の足に叩きつけた。

 

「いなくならねぇ」

 

 全員が、俺のことを見てくる。この想いは、揺るぎはしない。大切な仲間だ。失ってなるものか。

 

「氷兎は、いなくなったりしねぇし、させねぇ」

 

 七草ちゃんが頷いて、同調するように藪雨も頷いて返した。西条だけはじっと顎に手を添えたまま、俺を見据えている。

 

「当たり前だろう。だが、今は何もできることがない。経過観察程度か……もしくは、寝ないというのも手かもしれん」

 

「なら、俺が起きて氷兎のことを見張ってる」

 

「一人じゃ何徹もできないだろう。俺と交代で見張りだ」

 

 互いに頷きあって、気持ちを新たにする。ベッドで眠っている氷兎の方を見ながら、また両手を握りしめた。

 

 氷兎は俺が守る。それが相棒としての努めだ。ここにいる皆も、氷兎のことを助けたいと思っている。心強い味方がいるのは、なんとも頼もしいことだった。

 

 

 結局その日は西条が見張りをしていたけど……夢の中で氷兎は、やっぱりいなくなっていた。

 

 

 

 

To be continued……



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第111話 薄れゆく境界線

 起きれば氷兎がいる。寝れば、氷兎はいなくなる。日に日に氷兎の身のまわりの物が、少しずつなくなっていく。でも、どうしてだろう。氷兎は物が消えていくというのに特に何も気にしていないようだった。なくなったら、また買えばいい。そんなことばかり言っている気がする。

 

 寝ても醒めても同じ光景が広がってくると、時折自分がどっちにいるのか分からなくなる。だから、右手の手のひらに『現実』と黒のマーカーで力強く書いておいた。寝れば、その文字は消えている。これで夢との判別も容易だろう。

 

 今日は氷兎と菜沙ちゃんは実家に帰って掃除をするらしい。部屋には俺と西条の二人だけだった。

 

「……明らかに、外部の力が働いているな」

 

「徹夜しようとしても、いつの間にか意識がなくなってるんだもんなぁ……」

 

 初日は西条が見張っていたけど、気がついたら眠っていた。本人も、何か変だと思ったのか次の日も見張りを引き受け、眠気覚ましの栄養剤なんてものも買い込んできた。

 

 だけど、それらには何の効果もなく、ゴミと化した空き瓶が増えるだけ。これは異常だ。何かしらの力が働いているとしか思えない。西条はペットボトルの紅茶を飲みながら、忌々しそうに顔を歪めていた。

 

「何か手立てはないのか。やられたまま、というのは癪に障る」

 

「手に何か書いとけよ。俺は現実って書き込んで、夢と区別してる」

 

「それも手なのかもしれんが、根本的な解決にはならん。一応俺も前に言ったが……元素記号のNhはなんだ?」

 

「えっと……日本変人連合」

 

「それでいい」

 

 西条も夢との区別対策に、このやり取りをするようにした。元素記号のNh……俺にはわからないから、適当にNhの含まれる言葉を言えっていわれたっけ。夢の中の西条はそれこそ本人の記憶が強く根付いているから、例え俺が馬鹿でも夢の中の俺は答えられる……らしい。逆に夢の中で西条にNhはって聞いたけど、西条は答えられなかった。まぁ、俺が知らない話を夢の中の西条が知ってるわけないって、そういう話なんだろう。

 

「本当に夢の中の俺って正解を答えてるの?」

 

「そうだな。何度も言うが、調べるなよ。お前が答えを知ったら全部がパーだ」

 

「なんか納得いかねぇ……」

 

 あまり深く考えるな、と西条は言うが……本当に、こんな感じでいいんだろうか。夢との区別化は確かに重要だけど、もっと何か他にやれることはないのか。

 

 試しに腕をつねってみたけど、普通に痛かった。飯の味もちゃんとあるし、空腹感も、満足感も確かにある。間違いなく、こっちが現実のはずだ。

 

「監視カメラは設置しても次の日にはなくなるし、起き続けられねぇし、どうすればいいんだよ……」

 

「何か、尻尾でも掴めればいいんだがな」

 

 結局、それらしい話は出てこず、その日は俺が見張りをすることになった。そういえば、氷兎はこんな状況なのによくまぁ呑気に寝られるもんだ……。

 

 

 

 

~・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 起きて、最初に右手を見る。そこには何も書かれていない。どうやら夢のようだ。相変わらず現実と変わりない部屋で、見分けがつかない。氷兎はベッドにいないどころか、小物一つ置かれていない。今回は何がなくなっているんだか。

 

 部屋中を見てみたところ、どうやら氷兎のゲーム類がなくなっているらしい。俺からすれば発狂ものなんだが。まぁ、本人が気にしていないってことは……アイツ、夢の中でナイアって奴と会ってるのかな。そこで何か話聞いてたりとか。

 

『コンコンッ』

 

 いつものように、西条は部屋にやってくる。毎度毎度、飯の当番がどうのこうのとやるのも面倒になってきた。しかも、毎回交代でやってるみたいで、今回の夢は俺が当番のはず。部屋に招き入れて、さっさと俺は朝食作りを開始した。西条も何も言うことがないのか、それか飯を作っている俺に文句がないのか、何も喋ることはない。

 

 夢は夢で、質素だ。でも料理の腕は少しずつ上達している気がする。まだまだ氷兎には及ばないけど……今回の事件が終わったら、少しだけ楽をさせてあげようか。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 起きて、手を見る。何も無い。

 

 起きて、手を見る。現実。

 

 起きて、手を見る。何も無い。

 

 起きて、寝て、起きて、寝て、見て、見て、見て。まるで同じような日々が嫌でも続いていく。日付は確かに、二日で一日進む。二度寝れば、先に進む。

 

「Nhはなんだ?」

 

 ───この問答に、意味はあるのか。

 

「日本……」

 

 現実。現実。現実。そう、変わらない。物は消えていくけど、それでも何も変わらない。進展は、ない。

 

 ───何も、ない。

 

 

 

 

~・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

「西条、飯できたぞ」

 

「あぁ」

 

 お互い、口数は少ない。なんだろう、そこまで険悪な仲ではなかったはずなのに。どうにも居心地が悪い。最近ロクな飯を食っていない気がするのは、気のせいだろうか。

 

『コンコンッココンッ』

 

 小刻みなノックが聞こえる。誰が来たのかも丸わかりだ。入っていいと伝えると、予想通り藪雨が眠たそうな顔で部屋に入ってきた。瞼を擦っているが、寝不足だろうか。それに寝巻きだし、髪の毛もピョコンっと一部跳ねている。

 

「おはよぅござぃます……」

 

「寝癖と服くらいはちゃんとしろ、藍」

 

「だってめんどくさいんですー」

 

 二度手間ですよ、二度手間。心底面倒くさそうにそう言った藪雨は、椅子に座ると机にうつ伏せになって溶けるように身体から力を抜いていく。

 

「ひーまーでーすー」

 

「やかましい。こっちだって同じものだ」

 

「そうだぞー藪雨ー。なんかもう俺もやる気が起きねぇんだよー」

 

「この部屋から暇つぶし要素をなくしたら、私薊さんに甘えるくらいしかやることがなーい」

 

 気の抜けたような声を出しながら、スッと起き上がり、藪雨は西条に向かって身体をダイブさせていった。なんでこいつらのイチャつきをこんな所で見なくちゃいけないんだか。外行け、外。

 

「……なんか、寂しいなぁ」

 

 あぁ、俺っていつもどうしてたっけ。合いの手を打ってくれたり、同調してくれたり。そんな人がいたんだよ。今はいないけど。でも、それって本当に俺にとって大事なことだったんだなぁ。

 

 どうしよう。本当に、つまらない。

 

 手を見る。何も無い。

 

 もうすっかり癖になった。手を見て、何も無い。一体何が、何も無い?

 

 何も無い。現実。何も無い。現実。何も無い、現実。何も無い、現実。何も無い現実。何も無い現実。

 

「……何も、ない」

 

 何も変わらない。それって、日常? それって、現実?

 

 あまりに空虚な気持ちになって、虚空に手を伸ばし、掴んでみた。右の手のひらには、何も無い現実があった。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 相変わらず変わらない日々が続く。何だか日付の感覚も変になってきた。飯を作って、西条と食って、適当に訓練して……ゲームやって、テレビ見て、寝る。俺の生活はいつもこんな感じだったっけ。味気ない、なぁ。

 

 あぁ、飯を作るのも億劫だ。朝飯に食パンの上に目玉焼きを乗せて出したら、流石に鋭い目で西条に睨まれたけど、それなりに美味かった。飯を食ったら珈琲が飲みたくなってきた。残念なことに、部屋には電気ケトルはない。だから片手鍋に水を入れて、そのまま加熱して沸騰させる。市販の珈琲だが、不味くはない。なんだか物足りない感じだ。

 

「鈴華、紅茶を頼む」

 

「はいよー」

 

 西条の分の紅茶も淹れて、椅子に座って気長にティータイム。携帯をいじっていると、SNSの書き込みが目に入ってきた。どうやら今人気の男性俳優が酒に酔って人を刺殺したらしく、炎上しているようだ。

 

 ……くだらない。今度は記者会見が開かれるらしいが、見る価値もない。どうせ、へこへこと頭を下げて、その場しのぎの謝罪を繰り返すだけだ。それを面白おかしく写真を撮り、記事を仕上げ、マスコミはあることないことを市民に提供していくんだろう。

 

「人気な男性俳優が人殺して、記者会見だってさ」

 

「俳優なんてどうでもいいが……個人的には実写よりアニメ派だからな」

 

 新聞を広げ、適当に記事を読んでいる西条も興味はなさそうだ。実写化か……確かに俺もアニメ派だ。アニメには、アニメにしかないものがある。それが好きで、アニメを見ているんだから。

 

「謝罪会見で親も同伴だとさ」

 

「息子が世間を騒がせてすみません、と言うんだろう。まったく馬鹿馬鹿しい。自立して自分で選んだ道だろう。責任を取れないくらいなら、自立なんてするもんじゃない。第一、何故親が謝る必要がある?」

 

「そりゃ、息子だし? 世間は、育てた親にも責任があるって追及するんだろ。こんなことをするなんて、どういう教育をしたんですかって」

 

「人殺しの親は人殺しか? いや違うだろう。虐待を受けた子供は、自分の子供に虐待するのか? いいや、絶対とは言いきれない。親と子の因果なんぞ、そこまで強固ではない。自立するとは……大人になるというのと同じ。自分で責任を取り、自分で選択できる力があるということだ」

 

 意思、責任感、そして先を見据える力。それらが大人になるのに必要なのだと、西条は言った。世の中には大人になれないガキが沢山いる、と。また大人になったつもりのガキも沢山いると言っていた。

 

「子供はかわいらしいかもしれんが、ガキは手に負えん。特に年齢だけが取り柄の上司や、自己中心的なクソガキだな」

 

「俺たちの上司も、年齢だけが……いや、なんだかんだ言って、指示は出すんだよな」

 

「当たり前だ。奴は奴で即時判断して部下を動かすことができる。問題は奴の判断を決定づける論理感と道徳観、優先順位だ」

 

「バケモノがいたら、人の姿であろうと即殺せ。疑わしきは殺せ。バケモノの中に人間が混じっていようが、被害が拡大する前に処理しろ。当事者からすれば、たまったもんじゃない。処理班の連中も、どうかしてるぜ……」

 

 記憶の中にあるのは、山奥村で起きた沼男事件。住人の誰が沼男なのか判別できず、結局皆殺しにしてしまった。処理班を止めることもできず、紫暮さんを助けることもできず。あの時ほど、自分の無力を嘆いたことはない。

 

 銃が撃てる。戦う力がある。バケモノを殺せる。人を救える。なんて、生易しい考え。犠牲なしでやり遂げた任務なんてなかった。俺は、このまま戦っていけるのか?

 

「……なぁ、西条。俺って何の為にここにいて、何の為に戦ってんのかな。人の為だなんだと言っちゃいるものの、いまいち自分の中でそうだと断定できないんだ」

 

 右手を伸ばし、空想の中で銃を握る。人差し指をゆっくりと動かして、引き金を引く。弾丸は神話生物を屠り、そしていつか人間すらも撃ち抜く。仕事の際につけている手袋は、指先だけが摩耗して磨り減っている。こうやって少しずつ、何かがなくなっていくんだ。綺麗だと思っていた手のひらも、汚れて赤く染っていく。

 

 今の自分の手のひらには何も無いが、そのうち血に塗れて、傷ができて、人と手を繋ぐことも躊躇するようになるのかもしれない。

 

「あのな……俺はお前じゃない。お前がそこに立ち続ける理由は、自分で決めろ。なまじお前は場の雰囲気に流されやすい。何か決定的な心の支えや指針がなければ、お前も処理班の連中同様に、人の心を失い、虚ろな目で引き金を引く人形のようになるぞ」

 

 人形。誰かに動かされるまま、自分の意志なく行動するもの。処理班には、組織に入ったばかりの頃に一緒に任務に行っていた隼斗がいる。アイツも、今となっては虚ろな目のまま淡々と処理を実行するだけの存在になってしまっているんだろうか。

 

「ちなみに、処理班は死亡率がかなり高い。そのくせ人員だけはそこまで減らんというのが、なかなかきな臭い。お前の友人も、まだ生きているのかわからんな」

 

 ……なんか、怖いなぁ。俺ってこんなに、弱かったっけ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 ───いや、これはまずいね。あの爺、他の神とも協力してきたみたいだ。

 

 暗い部屋の中で珍しくその真っ赤な口を苛立たしげに歪めている女がいた。彼女は腕を組み、しばしの間悩み続ける。

 

 ───この姿の私じゃ、あの爺には勝てない。かといって何か送り込んでも無意味だ。いや、困った困った。ここまで来て彼を失うのは痛いんだけどなぁ。

 

 その顔は暗がりのせいでよくわからないが、言っていることとは正反対な表情をしているような気がする。その顔には憤怒や侮蔑はなく、やはり愉悦と好奇心だけが滲み出ていた。

 

 ───そうだ、彼女に発破をかけてみようか。言葉でなくとも、彼女の強い記憶さえ呼び起こせば事態を好転させることができるかもしれないね。

 

 彼女はその場から振り向くと、また口元をニヤリと歪めて嘲笑(わら)った。

 

 ───安心しなよ。流石に傷つけたりしないから。それやったら今後の楽しみが台無しだもんね。

 

 手を出すことはできない。歯がゆい気持ちのまま、傍観者に徹するしかない。まったく……忌々しい。

 

 

 

 

To be continued……





第111話です。111……なんか芸術的。
思わない? あっ、そう……(白目)
それはそうと、そろそろキンハー出ますね(投稿遅延)


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第112話 歪んだ彼

 それは、個人にとっては遠い過去の話。特に他者と比べてもなんら変わりないごく普通の男女がいた。やがて二人の間には男の子が産まれ、大切に育てていこうと思っていたのです。

 

 二人は男の子に名前をつけました。ちょっと他人とは風変わりな名前だけど、意味は普通の名前です。特別なものになろうとしなくてもいい。一般人でいい。何も無謀なこともせず、ただ普通の幸せを手に入れて欲しい。本人にはその意図は伝わることはなかったが、二人は確かにそう想って名前をつけたのです。

 

 ところが、名前とは不思議な力があるもので。名は体をあらわす、とはよく言ったもの。産まれた子供は少しばかり精神的に他者とは異なりつつも、普通を演じるようになってしまった。

 

「おい見てみろよコレ! アリの大群だぜ!」

 

「本当だ、スゲー!」

 

 子供たちが公園の隅でアリの大群を座ってみていた。もちろん、その中に彼もいる。同じように近くによって、マジマジとアリを見ていた。行列を成して進むアリを見ていると、どうにも不思議な感情が湧いてくるのを彼は感じていた。

 

 誰もその列から飛び出さず、はぐれてもすぐに元の列に戻る。それがとても不思議だった。

 

「えいっ!」

 

 無邪気な子供は、時に残酷だ。不意に立ち上がると、その好奇心を抑えることも無く足の裏でアリを踏み潰した。

 

 あっ……と彼は言葉を漏らす。アリは隊列を崩したが、けれどもすぐにまた列を成す。潰れて死んだ同胞の亡骸に目もくれず、巣に向かって。あるいは別の目的地へと、歩みを進めていく。

 

 見て見ぬふり。皆同じことをしている。どうしてなんだろう。誰も、助けないの。

 

 彼はアリが死んだという悲しみよりも、疑問が湧き上がっていた。そしてアリを踏み潰した友人に向ける目も、怒りや同調ではなく、疑問を孕んだ猜疑の目。

 

「あはは、おもしろーい!」

 

 他の友達もまた、同じようにアリを踏みつぶす。慌てふためくアリの様子に、子供たちは興味津々だった。ただひとり、彼を除いて。

 

「なぁ、氷兎もやってみろよ。すげーわちゃわちゃ逃げてくんだぜ」

 

「あっ、いや……俺は……」

 

 彼、氷兎は言葉を濁した。やりたくないのではなく、やる必要性を見いだせなかったのだ。殺すことになんの意味がある。アリを困らせて、何か得があるのか。この場で盛り上がることに、どういう意味があるのか。

 

「なんだよ、つまんねーな。お前いっつもそうだよな。皆がやってる事やらねーし、ひとりでずっと見てるだけだし」

 

「えっと、さ……皆でやるのはいいんだけど……俺は……」

 

「なんだよ、皆やってるのに。変なやつ」

 

 変なやつ。自分は変なのか。皆がやってる事をやらないで、笑っているのに笑わないで。それは、変なのか。何度か心の中で問いただしても、答えは彼には浮かんでこなかった。

 

「お前ノリ悪いよな。なに、俺たちと遊ぶのつまんないの?」

 

「い、いや……違うよ」

 

 男の子のひとりが彼に近づいて、身体を詰め寄らせる。ノリが悪い、とは何なのだろう。流れに乗らなくてはいけないものなのだろうか。笑ってるから笑うのは、本当に正しいのか。

 

「変なの。行こうぜ」

 

 男の子がそう告げると、一緒になって遊んでいた子供たちは荷物を持ってその場から歩き出していった。その途中で飲みかけのペットボトルを呷る様に飲み、空にすると公園のゴミ箱に向かって投げた。それは中に入ることはなく、ふちに当たって地面へと落下する。

 

「ちぇ、入んなかった」

 

 そんなセリフを吐いて、男の子たちはその場から離れていく。落ちているペットボトルはそのままだ。彼はそれに近づいていくと、拾い上げてゴミ箱の中に落とす。

 

「ほっとけよ。どうせ誰かが捨てるんだから」

 

 彼の背中に投げかけられた言葉は、さらに彼を困惑させた。誰か、とは誰なのだろう。ゴミを捨てることの何が悪かったのだろう。

 

 簡潔にいえば、彼は他の子供たちとは少々異なっていた。別に障害があるというわけではない。極々単純に、彼は精神的な成長が他者よりも早かっただけだ。周りの行動があまりに幼稚に見え、また自分が彼らと同じことをするのに躊躇いがうまれるようになっていた。

 

 子供というのは、恥を知らない。どんなことをしても、彼らはそれを気にとめない。だけど彼は違った。恥を感じ、羞恥心に心を悩ませ、取り留めのないことまで真剣に悩んでいた。

 

 周りの『子供』のように無邪気にはしゃぐことはなく、ただただ『大人』しかった。

 

「うちの子ったら、ちょっと遊び足りないというか。元気がないっていうか。まぁ大人しいのは有難いんだけど、佐藤さんの息子さんみたいに、もっと走り回ってもいいと思うのよね」

 

 母親のそんな言葉を彼はいつか耳にした。今の自分はダメなのだろうか。自分は、悪い子供なのだろうか。周りに合わせなくてはいけないのだろうか。

 

 あぁ、母が困っている。自分は、変わらなくてはいけないのか。そんなことを日々考え続け、周りとの差に悩み、それら全て自分に責任があるのだと感じてしまった。そうなった幼い彼はどうしたのか。

 

「なぁ氷兎、俺の方が正しいよな?」

 

「いや違う! 俺の方が合ってるって!」

 

 どちらが正しいのかを問われた時、彼はいつもの様に曖昧な言葉を返そうとしたが、ふと彼らの表情を見て気がついた。彼らはただ自分が相手より優位でありたいだけで、その正しさなんてものは案外どうでもいいと思っている、と。

 

「俺は……二人とも、間違っていないような気もするけど」

 

 だからこそ、彼はそう答えるようになった。どちらも間違っていて、そもそもが競い合うことでもなくて。自分の気持ちを騙して、彼は偽の本心を語る。

 

 幼い頃に培っていく個性。足が早い。勉強ができる。オシャレに気を使う。体臭が強い。喧嘩が強い、などなど。いわゆる自分のアイデンティティを確立させていく段階で、彼はその精神性から失敗したのだ。

 

「うちの子は喧嘩はしないし、テストもそこそこ取れるし、勉強しろって言わなくてもやるから困らないわ。それに大人しいし、いい子に育ってくれたよ。最近は友達ともよく遊ぶみたいで……」

 

 彼が変わり始めてから、母は喜ぶ機会が増えたように感じていた。なるほど、これは正しいらしい。自分は間違っていない。

 

 周りの態度に合わせ、自分を変化させる。すなわち、空気だ。彼は空気を読むというスキルを無意識のうちに会得し、磨き上げてしまっていた。いいや、空気だけでない。相手の態度、表情を、些細な動きですらも、彼は情報として取り入れて相手に合わせようとする。

 

 傍から見れば、大人しくて面倒みが良くて、それなりにいい人に見えていたことだろう。だが違う。彼は紛れもなく『無個性』という名の『個性』を確立させてしまったのだ。明確な自分というものを持たない。無意識に騙し、それを本心だと認識するという、自己暗示。そしてそれが、間違いなのだと誰も指摘せず、褒めてしまった。

 

 あれほど周りの行動に羞恥を感じてしまっていても、いざ強要されれば彼はなんなくやり遂げた。無論周りには笑っているように見えるし、本人も笑ってやっていると錯覚している。苦しくないと、感じている。

 

 子供は『本能』で動く。やがて知性を育て、『理性』で動くようになる。彼は子供の頃から本能を恥とし、理性で合わせてきた。その弊害は、どうしようもなく大きくなるのだと彼はまったく知りもしない。

 

 そんな歪んだ育ち方をした彼は、ある日いつものように小学校へと通っていた。教室の中は騒がしい。無邪気な子供が猿のように暴れ回る。そして、その暴れる猿の矛先は一人の女の子へと向けられていた。

 

「やめろって、菌が移るだろ!」

 

「うわっ、菌がついた! お前にもやるよ!」

 

 女の子の机の周りで走り回る男の子たち。それを遠巻きに見ている別の女の子たち。机に座ったまま、じっと堪えている女の子は、彼にはとても馴染みのある女の子だった。

 

 世間一般的に言う、幼馴染というものだ。幼稚園の頃はよく遊んでいたが、小学校に入ると男は男で。女は女で遊ぶようになる。それが彼と彼女を分けてしまったのだ。それが当たり前だったから、遊ばなかったし、たまに話す程度の仲になってしまっていた。そんな彼女は今、イジメの標的にされている。いや、イジメと言えるのだろうか。これは弄りなのではないか。

 

 どちらにせよ一過性のものだ。そのうち別の人がターゲットになる。子供というのはそういうものだ。それに、教室にいる子供にとってそれは正しいことだった。大多数の人で少数を虐めるというのは、この小さな世界では当たり前であった。だから彼も、それに対して何も思うことは無くなってしまっていた。

 

「───」

 

 ……かに思えた。幼馴染の女の子は涙目で彼を見ている。それを見てしまった彼は、思わず手を伸ばしてしまいそうになった。それは間違いだ。クラスの決まりだ。そう、これは仕方の無いことなんだ。だってそういう空気だったから。

 

 けれど、そうして自分を正当化しようとしていることに彼は気がついた。騙そうとしても自分を騙せない。それどころかふつふつと湧き上がる感情に戸惑い、どうするべきなのかという判断基準があやふやになっていった。

 

 目の前で泣く幼馴染と、クラスの友人たち。どちらが正しいのだろう。いや、正しいとか正しくないとか、そういう問題か。なぜ幼馴染に手を伸ばそうとする。それは間違いだ。皆から責められる。母親もいい顔はしない。それは……とても、怖いことだ。

 

「……なぁ」

 

 あぁ、怖い。怖くて怖くて、恥ずかしくて仕方がない。それでも彼は……騙せなかった。

 

「もう、その辺にしとこう。泣いてるから」

 

 彼にしては珍しい行動だったからか、周りの子供たちは仕方がないといったふうに離れていく。泣いている幼馴染を引き連れて、彼は教室から出ていった。

 

 顔が熱い。羞恥で死んでしまいそうだ。自分は今とんでもない間違いを犯したのだ。

 

「ぐすっ……ひーくん……」

 

 幼馴染は彼の名前を呼ぶ。けれども彼は苦々しく顔を歪めるばかりだった。

 

「ありがとう……助けてくれて」

 

 お礼を言われても、彼は優しく微笑みもしない。ただただ、俯くだけ。

 

「……俺は、最低だ」

 

 助けてくれたのに、なんで卑下する必要があるのか、彼女には理解できなかった。幼馴染は、時々何を考えているのかわからなくなる。

 

「……どうして、助けてくれたの?」

 

 その答えは、首を横に振るというものだった。

 

「わからない。ただ……菜沙が虐められてて、なんか嫌だったから」

 

「ひーくん……」

 

「変だよね。これはきっと間違いだ。だって今までどんな人が虐められても何もしなかったのに」

 

「……でも、おかげで私は助かったから」

 

 必死にあなたは悪くないと伝えようとしても、彼は頑なに自分は悪いのだと主張する。そしてまたもう一度、俺は最低だ、と呟くのだ。

 

「俺は……虐められてたのが、菜沙じゃなかったら助けなかった。見てるだけで、何もしなかった。だから……最低だ」

 

「ひーくん……」

 

 言い換えれば、菜沙だからこそ助けた。その言葉は重く彼女にのしかかる。けれども、それを重いとは感じず、彼女はただ嬉しさに胸を踊らせるだけだった。

 

「ひーくんって、いつも何を考えてるの?」

 

「……わからない」

 

「じゃあ、さっきは?」

 

「……わからない。ただ、恥ずかしかった」

 

「恥ずかしい?」

 

「……うん」

 

 彼にとって本能は恥だ。すなわち、理解不能な行動。それを引き起こす、怒り、悲しみ、そういった負の感情。騙し続け、それらを感じることすらもなくなったというのに。どうして彼女の場合はその本能を止められなかったのか。

 

 彼女の姿を見つめながら考えると、その答えは案外簡単にでてきた。彼女は彼に対して偽ることを望んでいなかった。幼い頃から一緒にいるおかげで、変わる前の彼のことを知っていた。つまり……彼にとって、彼女は本能を晒してもいいと思える人物であったということだ。

 

「ひーくんは、優しいんだね」

 

「……違うよ。俺は……酷い人間だ」

 

 いいや、違うのかもしれない。彼にとって彼女とは、自分をさらけ出すことができる存在なだけであり、だから一緒にいてもいいと思えるのかもしれない。そんな打算が渦巻くのを感じ始め、また恥を感じる。

 

「いいんだよ、ひーくん」

 

 彼女の言葉は、そのあと彼をまた縛りつけることになる。

 

「楽になって、いいんだよ」

 

 楽になる。騙す必要がなくなる。彼の目からは涙が流れ出していった。恥だ。どうしようもない恥だ。彼女の前以外では、到底見せられない。

 

 そうして彼は、少しだけ人間らしくなることができた。その結果として、彼は人に合わせるだけでなく、人に対して何をしてあげるのが正しいのかという、完璧な正しさを捨て去ることに成功したのだ。

 

 けれども、彼のその無個性さは変わらない。だから彼女は隣にい続ける。なぜなら、本当に彼のことを好きな人が出てきたら、彼は断れないから。是認するのが正しいのだと思ってしまうから。だから隣にいないといけない。彼が本心で好きな人と一緒にいれるように。

 

 やがて時が経ち、彼は成長することもなく、周りが成長していった。ようやく同じ土俵に立てた。彼にとっては、その状況はとても簡単だった。精神が同じ程度ならば、話もしやすい。彼は人々の空気になりつつ、その流れを変える力も磨きあげつつあったのだ。

 

 幼馴染は彼を否定しない。そして、その優しさで隣に居座ろうとする。それを護ってやるのが役目だと、正しさだと、彼は感じていた。彼女を守るためなら、何をやっても許されるのではないか。あの後クラスの人たちから何も追求されなかったように。女子生徒からは褒められたように。彼女を護ることは、何も間違いではないのだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 布団から起き上がる。緑のクローバーが散りばめられた布団には、今しがた流れ落ちた涙のせいでポツンッポツンッと染みができている。心の中に空いた穴が無性に虚しさを掻き立てる。

 

 何か大事なものを忘れてしまった。そんな気がしていた。

 

「あっ、おはよう菜沙ちゃん」

 

「おはよう、桜華ちゃん」

 

 食卓に向かえば、そこには既に桜華ちゃんがいた。最近料理が少しできるようになったからか、朝ごはんを作ってくれたりする。素直に助かるから、嬉しかった。

 

 椅子に座って、彼女が作ってくれたものを口に運ぶ。けれども、味があまり合わない。もっと美味しいものがあったはず。なんだっけ、思い出せない。

 

 いやそもそも、私はなんでここに居るんだろう。

 

「桜華ちゃん。私って……なんでここにいるの?」

 

「なんでって……それは……あれ、なんでだろう?」

 

 桜華ちゃんも、何か疑問に思っているみたい。今度は味噌汁を啜ってみる。ちょっと薄い。でも、何と比べて薄いんだろう。

 

「ねぇ、あとで翔平さんのところに行ってみよう? 私たちが感じてる疑問とか、何かわかるかも」

 

 彼女の提案に、頷きかけている自分がいた。まるでそうするのが自然なようで、けれども私の心はそれを不自然だと言っている。

 

 そもそも、私はどうしてここにいる。どうやって鈴華さんに出会った。なんで桜華ちゃんと一緒にいる。わからない。何も、わからない。

 

「……ごめん、桜華ちゃん。ご飯はもういいや」

 

「えっ? どうしたの? 具合悪い?」

 

「……私、帰るね」

 

 適当な服に着替えて、必要なものだけポケットの中に入れて、私は部屋から飛び出した。後ろから桜華ちゃんの声が聞こえてくる。それでも、不安で仕方がなかった私は足を止めることをしなかった。ここで止まったら、何もかもを失ってしまうような、そんな最悪な気分だったから。

 

 地下から地上に上がって、ビルからも出て、電車に乗って自分の住んでいた場所に帰る。そもそも、私には理由がない。鈴華さんたちと一緒にいる理由が、わからない。どうして私は、あそこにいたんだろう。

 

「………」

 

 住宅地にまでやってきた。目の前にある家は、私が住んでいた家。中には両親が過ごしているはず。けれども私の視線はまた別の方向に向く。まるで前からそうしていたように、ごく自然と。

 

「……誰の、家?」

 

 私の家ではない、誰かの家。表札に書いてある名前は、掠れて読めない。中には、誰かがいるような気配もない。まるで空き家のような、そんな感じがする。

 

 ふと気がつけば、足はその家の敷地の中に入り込んでいた。堂々と、躊躇いもなく。まるで自分の家のように、前へと進んでいく。扉の横にある雨水の通るパイプの裏。下から5番目の支えの場所に、鍵はある。それをどうして知っているのか。いや、身体が勝手に動いて、自然とそれを取ってしまっていた。

 

「………」

 

 扉を開けて、玄関を過ぎ、リビングにやってくる。壁には不自然に補強された部分が残っている。まるで穴でも空いていたかのように。

 

 ……とても、懐かしい。そんな気分だった。知らない他人の家だというのに、とても落ち着く。けれど、私の足はそこで止まらない。階段を上って、奥にある部屋の前までやってくる。しばらく掃除されていないのか、ドアノブは汚れていた。

 

「……ここ、は」

 

 扉の先にあった部屋。簡素なベッドに、本棚。勉強机などの質素な部屋。部屋の中心まで来て、深く息を吸い込んだ。それが肺に満ちていくと、心まで満たされる気がした。知っている。この部屋を、私は知っているんだ。

 

『───菜沙』

 

「えっ……?」

 

 誰かの声が聞こえた。周りを見回しても、誰もいない。

 

『───菜沙』

 

 また聞こえた。その声は不思議と心が落ち着く。そして、ゆっくりと脈が速度を早めていき、やがて暴れ出す。落ち着きと凶暴性を孕む、不思議な声。

 

『───菜沙』

 

 その声がどこから聞こえるのか。必死に探そうとしたら、目に入ってくるものがあった。勉強机の上に、さっきまで何も無かったはずが、写真立てが置かれていた。恐る恐る、それを手に取ってみる。飾られている写真には……学生服を着た男女が並んでいた。中学校を背にして、女の子は笑って。男の子は、困ったように頭を掻いている。

 

 その女の子は……私だ。じゃあ、この隣にいる男の子は……?

 

「ッ───」

 

 頭に一瞬鋭い痛みがあった。呼吸が不規則になって、何度も落ち着けようと息を吸う。けれどもそれが逆効果になって、私の意識はだんだんと薄れていくのを感じていた。

 

 苦しい。なんで。貴方は、誰なの。

 

 手からは写真立てが零れ落ち、それは地面に当たると粉々に砕け散る。そして、まるで元から何もなかったかのように黒い靄になって消えていった。

 

「ぁっ……ぅ……」

 

 その場に崩れ落ちる。身体にはもう力が入らない。視界が少しずつ暗くなってくるのがわかる。怖くて、叫びたくても声すら出ない。必死に誰かに助けを呼ぼうとする。誰か。誰か。誰か。

 

「ぅっ……っ、ぁ……」

 

 苦しくもがく私の身体に、暖かな温もりが感じられるようになった。それは、私の胸元の辺りから感じられる。必死になってそれに手を伸ばした。掴んだものは……首から提げられていた、ネックレス。それが淡い緑色の光を発していた。

 

『……俺は、最低だ』

 

 また、声が聞こえてくる。悲しそうで、苦しそうで。思わず手を握ってあげたくなるような、そんな声。

 

『菜沙じゃなかったら助けなかった』

 

 その声が、その言葉が。胸に空いた空白を埋めていく。

 

『……俺は、酷い人間だ』

 

「……それは、違うよ」

 

 誰に言うでもなく、その声に向かって。私は話しかけていた。誰かが隣にいてあげなくてはいけない。自分の本性をさらけ出せるような、そんな誰かが。

 

「誰よりも、他人を理解したかっただけなんだよ。楽になっていい。自分を抑えなくていい。貴方の本性も、私は否定しないよ。だって、私を助けてくれた時の貴方は、確かに貴方だったから。そうだよね、ひーくん」

 

 零れたその名前が、私の胸を締め付ける。口元を抑えて、必死に何度もその名前を頭の中で繰り返した。

 

「ひーくん……それって……」

 

 パキンッと何かが割れるような音が頭に響いた。それと同時に、一斉に過去の記憶が流れ出していく。私の隣にいた男の子。ずっと一緒にいた男の子。恥ずかしくて一緒にいれなくなっても、護ってくれた男の子。

 

「……嘘」

 

 なんで、どうして忘れていたの。こんな大事なこと、忘れちゃいけないはずなのに。

 

 ポケットの中から携帯を取り出して、電話帳の中から彼の名前を探す。けど、そこには彼の名前はない。何もかも、消えてなくなっていた。写真すらも。

 

「っ………」

 

 電話をかける先を変える。私じゃ何もできないから。彼らに助けてもらうしかない。早く、助けないと。彼がいなくなってしまう。

 

『───はい、もしもし』

 

「鈴華さん、お願い助けて。ひーくんが、ひーくんがいないの!!」

 

 携帯の向こうにいる鈴華さんに助けを願った。けれども彼は、何を言ってるんだと笑うだけだった。

 

『変なことを言うなよ。ひーくんなんて人はこっちじゃいない。寝れば会えるだろ』

 

 ……あぁ、皆おかしくなってしまった。私以外、皆……この状況を、理解できていなかった。彼が消えてしまったこの世界は、間違っているのに。

 

 

 

 

 

To be continued……




ちなみに、前回氷兎は1度も登場してないんですよ。


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第113話 思い出

 高海 菜沙の精神的な錯乱とも呼べる異常事態に対して、いち早く現状を理解し、自分の状態を分析できたのは西条だった。彼の培ってきた知識と経験。それらが現状の不可解さを捉えた。

 

 そもそもがおかしい事だらけだ。菜沙がいるはずのない人を探し続けるのも、翔平が寝れば会えると戯言を吐くのも、そして……西条自身の『Nhは何か』という問いに答えが必要なく、その問いかけこそが重要なのだと認識を変えられていたこと。これは明らかな認識変化だ。頭の中の回路をごっそりと変えられてしまっている。

 

「……それで、高海。唯野 氷兎という人物がいたというのは確かなことなんだな?」

 

「間違いないです。ひーくんは、ちゃんとここにいたんです。お二人と一緒に、任務にも出ていたんです」

 

 翔平の自室では玲彩を除く全員が集まっていた。菜沙が無理やり全員を集めたのもあるが、西条自身も何かがおかしいという認識のズレを感じていたため、すぐに全員に集まるように指示を出した。唯野 氷兎という人物がいなくなった。その名前を聞いても、菜沙以外の人物は皆首を傾げるばかりだ。

 

「……最近夢のことで悩んでいたのは記憶にある。だが、そこから何か記憶のズレが起き始めていた。俺が鈴華に問いかけた質問も、答えではなくその行動に意味があると認識がすり替えられている」

 

「なんでそうわかるんだ?」

 

「俺がそんな無駄なことをすると思うか?」

 

 自分のことを誰よりもわかっているのは自分だ、と西条は言う。翔平も頭を悩ませながら、自分の右手を見て「何もない」と呟く。すっかり癖になってしまったその仕草を、西条は見逃さなかった。

 

「鈴華、その右手になんの意味がある?」

 

「手に、『現実』って書いた気がするんだ。それがないと夢なんだなって、そう思ってた」

 

「今は何もないな。本当に書いていたのか?」

 

「書いてたはずだ。間違いない」

 

 何度か右手を握りしめながらそう答える。三人の会話に、桜華と藪雨はまったくついていけなかった。二人で飲み物を飲みながら適当に菓子の袋を開けて食べている。なんとも緊張感がなかった。

 

「……なーんか、物足りないですよね。せんぱいたちもそう思いません?」

 

「私も、なんとなく藪雨ちゃんの言ってることわかるかも。足りないっていうか、寂しいっていうか……」

 

 コップに注がれた飲み物は市販のジュースだ。それらを飲む彼女たちは寂しさや物足りなさという感覚を覚えたという。菜沙はそれがどうしてなのか、わかっていた。

 

「だって、いつもはひーくんが珈琲を淹れてくれたり、お菓子も作ったりしてくれるから。物足りないのはそのせいだよ」

 

「……確かに最近紅茶が不味くなった気がしたが、なるほど。確かに高海の言うように、誰かいたんだろう」

 

「待て待て。そもそもこの話がこっちで起こること自体変なんだって。こっちは夢だろう?」

 

 訳の分からないことを言い出す翔平に、皆の白い目が向けられた。西条は椅子から立ち上がると翔平の前まで歩み出て、右の手のひらでかなり強めに翔平の頬を引っ叩く。パチンッと痛そうな音が響いて、女性陣は一瞬みを竦めた。もちろん、やられた翔平とて黙ってはいない。

 

「いってぇな……なにすんだよ西条ッ!!」

 

「いい加減目を覚ませ。お前の言う通り、俺たちは夢と現実を行き来していたんだろう。だが、いつの間にかすり替えられていたんだ」

 

「すり替えだぁ?」

 

「外部からの力がかかっているのはわかっていた。ならば、俺たちの行動を逐一監視しているはずだ。それを利用し、現実と夢の境が曖昧になったところで逆にしたんだ。最初は恐らく、唯野 氷兎がいない方が夢であり、途中からは唯野 氷兎がいる方が夢になった。お前の手の文字も、すり替えの段階で逆にされたか、そもそもすり替えられてから字を書いたかの二択だ」

 

 西条が胸ポケットから手帳を取り出す。あるページを開いて、そこに書かれているものを全員に見せるように机に置いた。内容は、マグカップ、時計、ゲーム機、服……などなど、一貫性のないものばかり。けれども西条には、これがなんなのか理解していた。

 

「これはなくなったもののリストだ。恐らく唯野 氷兎が使っていた私物。身の回りのものが少しずつなくなっていき、本人が消えた段階で夢と現実を反転。この場合、少しずつというのが厄介だ。人間の脳は順応することに適している。つまり、少しずつの変化だと人間はそれを不自然だと捉えずに当たり前のことだと錯覚してしまう」

 

 部屋の中に設置されていたホワイトボードを引っ張り出してくると、そこに現状についての説明をつらつらとわかりやすく書いていく。チーム随一の頭脳と戦闘能力を持つ西条は、既に自分たちが罠にハマっているのだと確信していた。

 

「これは長期的な認識変化と暗示だ。自分の目的を他のものにすげ替え、消えた人物が元からいなかったものと錯覚させられる。俺たちは、完全にしてやられたということだ」

 

「……薊さんの言っていることが正しければ、の話ですけどねぇ。間違ってたら黒歴史どころの話じゃないですよ?」

 

「向こう一年は弄り続けられる自信があるな」

 

「真面目に考えろ。俺は不愉快で仕方がないんだ。そもそも、昔の俺が今こうしてお前たちと会話しているわけがない。何かしら、誰かしらが俺とお前たちとを結びつけない限り、繋がることのなかった(えにし)だ」

 

 昔の西条。家庭環境と周りからの待遇によって他者に対して冷徹な対応をしていたときのこと。今でこそ丸くなっているが、彼自身わかっているのだ。ここにいる人たちと自分がすんなりと仲良くなれるわけがないと。その間のワンクッションを誰かが置かないといけなかった。では、その人物は。今はどこにもいない。西条は既に、唯野 氷兎という男が実在していたのだと信じきっている。

 

「……西条さんは、ひーくんとよくぶつかっていました」

 

 悪くなる雰囲気の中で、菜沙の声が響く。全員が彼女に注目し始めた。菜沙は両手を腿の上でギュッと固く結び、心の中にいる彼のことを忘れないように思い返しながら、今までの記憶を語っていく。

 

「誰も寄せつけない態度で、ひーくんは近づく度にぶつかって。それでも特訓の師範になってもらったり、難しい話をずっとしていたり、時にはチェスや将棋なんかで競ったりしてました。ひーくんは、勝てたことはなかったけど」

 

「……師範、か」

 

 西条は顎に手を添えて、自分と真っ黒な誰かで組手をするのを想像する。不思議と難なく相手の動きが想像でき、それに対して自分がどのように動いていくのかが手に取るようにわかる。腹に膝蹴りを入れて、蹲っても歯を食いしばって見上げてくる真っ黒な誰かに向けて手をさし伸ばした。切磋琢磨とはいかずとも、相手は自分の技と動きを吸収し、こちらは自分の欠点を洗い出して更に強固な技術を身につける。

 

 想像の中でしかない、いるかもわからない人物。けれども確かに二人は手を握りあった。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「鈴華さんは、ひーくんと一番仲が良かったです。どこに行くにも一緒で、正直ちょっと嫉妬しちゃったりもして。けれど、傍から見ても羨ましくなるくらい、信頼し合っていました。ひーくんはよく言っていましたよ。先輩は背中を任せられる相棒で、頼りになるんだって。時々センスのないオヤジギャグを言うのが玉に瑕だけど、優しくていい人で、自慢できる友人だって言っていました」

 

「……相棒?」

 

「はい。最初の任務の時から、ずーっと一緒です。辛くて苦しくても、二人で乗り越えていくうちに、ひーくんたちは集まってチームになりました」

 

 翔平は菜沙の言葉を聞き、頭を悩ませる。相棒とも呼べる人物。いつでも一緒にいる友人。同じ部屋で生活して、一緒にゲームをして。更には掃除や洗濯、ご飯まで作ってくれる。時には叱ってくれたり、まるで母親のような態度をとる。苦しい時も、いつだって二人で乗り越えてきた。

 

 ……翔平の頭の中に燃え盛る炎が浮かび上がる。何もかもを燃やし尽くしていき、逃げ惑う人々を銃で撃ち抜く黒の外套を纏った組織の人たち。誰一人逃れることはなく、呆然とその場に立ち尽くす翔平と、座って動けない誰か。その行為を止めることはできず、あとに残ったのは灰や死体なんてものではなく、犯した罪だけ。

 

 木を背もたれにして座り込んでいた誰かは、立ち上がるとふらふらとした足取りでその場から離れていく。それを追いかけて、翔平は肩を貸して二人で歩いて行った。田舎の星々が上から見下ろす中で、この罪を背負っていくのだと、そして友の為に強くなろうと決意した日。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「藪雨ちゃんは、一緒に過ごすようになった頃はひーくんと鈴華さんに煙たがられてた。仕草だとか、態度だとか、そういったものがどうしても癪に障るって、愚痴を言ってたっけ」

 

「……なんか、私の扱い酷くないですか?」

 

「それでも、藪雨ちゃんはちょっと嬉しそうだったよ。二人にいじられながら、それでも輪に入っていって。それで、ひーくんとお話したって聞いたよ。今までの自分を否定せず、かといって無理に肯定することもなく。これから少しずつ変わっていけばいい。もうここには、藪雨ちゃんを虐めるような人はいないんだよって」

 

 虐めるような人。その言葉を聞いて思い浮かぶのは藪雨の中学時代。他人からの嫉妬や偏見。それらのせいで人格にまで影響を与えてしまった暗い時代。そのまま逃げるように高校へ進学して、そこで新たな自分を作り上げた。自分の気持ちを押し殺して、耐えて忍ぶ。笑顔を絶やさず、また本音も言わず。

 

 そんな彼女を変えたもの。それは蛇人間による生贄が秘密裏に行われていた街に任務で出かけた時のこと。彼女は今でも確かに記憶に残っている。ベランダで月を見上げている誰か。その隣にまで歩いて行き、一緒になって街を見下ろしていた。隣にいる誰かは、ただじっと彼女の話を聞き、そしてやや挑発的に彼女を窘める。向かい合わせになった視線は逸れない。それだけ、その誰かは彼女のことを案じていたというだけの話だ。好き、嫌い、男、女。そんなものはそこでは一切関係がなかった。ただひたすら、真っ直ぐな言葉が彼女を刺し貫く。

 

 内心認めたくはない。けれども、そのあまりに誠実で優しい言葉が今までの過去を全て包んでくれるような。そんな希望を感じてしまう。苦虫を噛み潰したような顔で、けれども誰にもわからないくらい小さく微笑んで、彼女は言葉にならないお礼を心の中で告げた。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「桜華ちゃんは……」

 

 その先を言おうとしていた菜沙の口が、キュッと力強く結ばれる。彼女の心の中は、揺らいでいた。それが桜華に対する嫉妬なのか、羨望なのか。彼女自身にもわからないが、良くないことなのは確かだった。七草 桜華は純粋だ。穢れのない白無垢のようで、触れば壊れてしまうような儚さと、何もかもを壊してしまうような力強さ。それらを内包する、不思議な女の子。

 

 その純粋さは確かに彼に影響を与えている。彼の紛れもない本性。本能。それらをさらけ出させようとする。一緒にいる時の嬉しそうな顔や、紅潮する頬。それらが表す答えは、菜沙にはわかっていた。

 

 彼が菜沙と一緒にいるのは、菜沙がそう望んだから。彼の歪んだ精神は菜沙の想いを知らぬ間に汲み取り、それを当然の事として認識している。今となっては、菜沙は自分こそが彼にとって枷になってしまっているのだとわかってしまった。

 

 彼の理性が望む人。彼の本能が望む人。未だに彼は、理性で己を騙している。自分の気持ちは間違いだと逃げようとする。そんなこと、もう既に幼馴染はわかっていた。

 

「……私たちが出会った時のこと、覚えてる?」

 

「うん。忘れるわけがないよ。河川敷の橋の下で、私を助けようとしてくれたんだよね」

 

 その言葉に、菜沙は静かに首を横に振る。

 

「違うよ。助けに入ったのはひーくんで、けどむしろ助けられちゃったんだよ。不良を倒したのは桜華ちゃんで、私たちはそれから友達になったんだよ」

 

 学校が終わって、時間が許す限り遊んで。話したいことを沢山話して、そして日が暮れたらお別れをして。そんなことを続けているうちに、事件に巻き込まれてしまった。

 

 思えば、あの出会った日から彼は桜華に惹かれていたのかもしれない。一目見た段階で、彼の心が、本能が惹きつけられていた。人はそれを、一目惚れというんだろう。きっとそうだ。そうに違いない。菜沙は握る手を更に強く握って、悔しそうに唇を噛み締めた。

 

「私たちを護るんだって、何度も何度も繰り返して。必死に……努力してたんだよ。辛くても、苦しくても、護るために強くなるんだって」

 

 海に行った時、幸せそうに花火をする桜華を彼はじっと見つめていた。その幸福を感じている彼女を見て、彼は何を思っていたのか。護りたい。支えたい。それは彼にしかわからないけれど、それでも……今まで幸福を感じる機会のなかった女の子に、幸せを味わわせたい。そんな願い。

 

「……貴方には、忘れないで欲しかったな……」

 

 菜沙の両目から涙が零れ落ちていく。握りしめた両手に、ポツリポツリと雫が落ちて、弾ける。

 

 海。真っ暗な中で線香花火をしていた。それに似ている。落ちて、弾けて、消えてしまう。一時だけの儚い火花。

 

 幸福とは何か。桜華は時折考えることがある。けれど結論はいつも同じだ。大好きな人と一緒にいたい。祭りではぐれてしまった時、独りで寂しく待っていた。迎えに来てくれたのは、二人。どちらも桜華にとって大切で、大好きな人。ちゃんと助けに来てくれたことが嬉しくて、つい抱きついてしまった。

 

 これからもよろしくと言って、手を差し出している誰かがいる。それに迷うことなく手を伸ばして握りしめる。暖かくて、ちょっと硬いその手は……桜華の心を幸福で満たしていく。

 

 

 ───パキンッと何かが割れる音がする。

 

 

「………」

 

 誰も、何も言わない。静謐な空間には呼吸音と小さなしゃくり上げる声だけが響く。大切なものが失われてしまった世界。誰もそれを覚えていない世界。それは、酷く悲しい世界。それを思い出してしまった少女だけが取り残される。世界にも、彼からも。

 

「───氷兎は、どこだ?」

 

 ……震えている。その声も、身体も。この場にいる全員がそうだった。

 

 このままでは終わらない。彼らの目には友を消し去った存在に対する明確なまでの敵意が揺らいでいた。

 

 

 

 

To be continued……




難産でした……(遠い目)
評価してくれる人が増えて、日間ランキングに三日間も載り続けるという素晴らしい出来事が起きました。
読んでくださってる方々、並びに評価や感想をくださる方々、本当にありがとうございます。


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第114話 迎えに行く人、帰る場所

 椅子に座っている全員の顔つきが変わる。忘れてしまっていた記憶。上書きされていた過去。それらを取り戻して現実へと帰ってきたのだ。そして、部屋には氷兎がいない。否、彼の持ち物や関連する物なんてものは何一つ残っていない。

 

「……やられたな。対策も、何もかもが無意味だった」

 

 西条は悔しそうに眉をひそめ、腕を組んで椅子に背中を完全に預ける。罠にはめられた苛立ち。何か起こっているのに対処できなかった不甲斐なさ。それらが彼の心の中で荒ぶり、珍しく貧乏揺すりまでし始めていた。こういう時ほどスッキリとした紅茶が飲みたくなるが、淹れてくれる氷兎はここにはいない。

 

「のんびりしてる場合じゃないだろ! 氷兎がいなくなっちまったんだぞ!」

 

「そう急くな。俺だって焦りはある。だが今は問題をひとつずつ片付けるのが先決だ」

 

 机を荒々しく叩いて、今すぐにでも助けに行こうと翔平は言うが、西条の言う通り今は現状をひとつずつ整理していかなくてはいけない。そもそも、何が発端でこうなったのか。誰が実行したのか。それを確かめなくてはならない。そう伝えた西条は部屋の隅に置かれているホワイトボードを持ってくると、確認すべき項目を書き出していく。それを見せながら会議は進められた。

 

「まず、どうしてこうなったのかだ。夢を操る力を持ってる奴が相手で、おそらく夢の中で俺たちの意識は途中から同じ場所にあった。夢でありながら、現実と差異のない場所。そんなことがそこら辺にいる下級の神話生物にできるとは思えん。間違いなく、上位の輩だ」

 

「上位のって……それじゃ、ひーくんは……」

 

「まぁ待て。そう悲観的になるのも早計だ」

 

 菜沙がまた取り乱しそうになるのを西条が律する。彼の中ではある程度対立する神話生物がどのような心持ちでいるのかを理解していた。今までの行動と、自分たちに対する暗示や催眠。それらには一貫した意図があると、西条は告げた。

 

「催眠や暗示、認識変化。これらを使って俺たちを出し抜き、氷兎を連れ去った……いや、正確には連れ去ったかは定かではないが、ここではそう仮定しよう。だが、そうなると今まで俺たちが対峙してきた神話生物とは毛色が違うことがわかるだろう」

 

「えぇっと……七草さん、わかります?」

 

「私も、さっぱり……でも、氷兎君が無事な可能性は高いってことなんだよね?」

 

「……敵意がない?」

 

 翔平の口から漏れ出た言葉に、西条は強く頷いて返す。あまりにも回りくどいやり方だ。ここまで干渉できるほどに力があるのなら、自分たちを殺すこともできる。そうしないのは、何かしら別の意図があり、なおかつ穏便に済ませたいということなんだろう。今までの敵意マシマシな神話生物が相手ではない。おそらく、人間との対立をあまり好まないタイプだと西条は予想していた。

 

「唯野だけを俺たちの認識から外す。相手は唯野に対して、何かしらするつもりなんだろう。だが、唯野だけが神話生物に睨まれる可能性は低い。だとしたら……睨まれているのは、唯野に力を貸しているナイアという人物じゃないか?」

 

「ナイア……夢……」

 

 翔平の頭の中に浮かんできた言葉が、点と点を結んでいくように繋がっていく。最近起こった出来事で、神話生物絡み。そしてナイアまで接触してきた事件。

 

「───幻夢境(ドリームランド)だ」

 

 有名テーマパーク、ドリームランド。そこはその実、夢の世界へと繋がる場所であった。翔平たちのいる世界を『覚醒の世界』と呼び、向こう側を『幻夢境』と呼ぶ。その世界では古の神々が鎮座し、更にその上には神話生物であるナイアがいる。

 

「ドリームランドだと?」

 

「あぁ、いや実は……」

 

 隠す訳にもいかない。訝しげに睨んでくる西条に対して、翔平は起きた出来事と経緯を詳細に説明した。元は西条と藪雨を仲良くさせるためのもの。その最中に起きた、ナイトゴーントと呼ばれる神話生物退治。そして、そのナイトゴーントは古の神々曰く、ノーデンスという神の尖兵だという。

 

 その説明を聞いた西条は目頭を抑えて項垂れてしまった。

 

「犯人は絶対にそのノーデンスとかいう輩だろう」

 

「あっ、やっぱり?」

 

「当たり前だ。信じて送り出した手下がビデオレターに血塗れの状態で録画されて送り返されてきたようなものだぞ」

 

「西条がヤバいやつ相手にして内心テンパってら」

 

 人間を襲おうとしていた神話生物を退治した。聞くだけならいいが、退治された側はというとたまったものではない。その腹いせに氷兎が連れ去られたというのも十二分にありえる話だった。しかも丁寧に記憶処理の嫌がらせまでしてくる始末。穏便な相手ではなく、姑息で悪知恵の働く嫌なタイプな可能性が浮上してきた。西条の心は穏やかでない。

 

「……いや、待てよ。ナイトゴーントとかいう神話生物は本当に人間を襲おうとしていたのか?」

 

「襲おうとっていうか……なんか、空飛び回ってたりしてたな。襲うっていうよりは何かを探してる感じかもしれない」

 

「……穏便なタイプか嫌なタイプかが五分五分だな」

 

 総合的に判断し、そう結論づける。なんにせよ会ってみないことにはわからないものだ。西条の中で決意が少しずつ固まっていく中で、藪雨は飲み物を口につけながら驚いたように話しだした。

 

「私たちがデートしてる時に、裏でそんなことやってたんですね」

 

「依頼の形だけど、断るに断れなかったしなぁ。つけ狙われたのお前らのせいだぞって言えば、あの胡散臭い神様たち武器と防具貸してくんねぇかな」

 

「神の加護が宿った装備、か。あれば心強いんだがな」

 

 現状オリジンで支給される装備は、各々の武器とコルト・ガバメント。そして制服の黒い外套と手袋だ。勿論全部技術班による最新鋭の装備であり、外套は衝撃を吸収し、武器なども多少荒く使っても壊れにくい。菜沙が技術班に加わったことで、それらも急激にパワーアップしていた。それでも、神の加護という不可思議な力には適わない。

 

 西条の武器はオーダーメイド。翔平のデザートイーグルは特別支給。他の人は全て支給品だ。無論氷兎の使っていた槍は菜沙によるオーダーメイドである。

 

「さてと……話すことは話したと思うぜ。どうするよ、西条」

 

 一通り話を終え、翔平は両手を組んで西条に視線を送った。送られて本人は、言うまでもないと首を静かに縦に振って答える。

 

「ドリームランドに行き、夢の世界へと向かう。そこからノーデンスの元へとカチコミをかけるとしよう」

 

 そう言い終えると、じゃあさっさと行こうぜとばかりに翔平が立ち上がる。しかし西条は座ったまま、落ち着けと翔平に言って無理やり座らせる。出鼻をくじかれた翔平は西条に対して不満げな顔をするも、彼はため息混じりに言葉を返してきた。

 

「その前に、申請を出さんといかん。でないと武器の持ち出しは不可能だ」

 

「じゃあさっさと書いちまおうぜ」

 

「いいや、問題はここからだ。あの木原が俺たちの事情を聞いて唯野を助けに行かせるとして、だ。七草を同行させると思うか?」

 

「氷兎の非常事態なんだぞ!?」

 

「だとしても、俺は拒否されると思うがな。行くなら俺とお前の二人で行け、と」

 

 最近の上司は氷兎、翔平、西条のチームに対して少々不利なことを申し付けたり、また面倒な任務を任せてきたりしている。チームとしての戦力を期待されているのか、といえばそうでもない。どうにも完全に敵視されている気がしてならなかった。その原因の一端には、集合がかけられた時に西条がRTAを走っていたり、それを録画編集している翔平がいたり、氷兎が買い物に行っていたりと、ロクに集まらなかったりするのがあるのだが。

 

「私は氷兎君を絶対に助けに行きます!」

 

 桜華は意気込んで彼らにそう伝える。無論、西条とて桜華を連れていかないという選択肢はなかった。なにしろ一般兵ではなくオリジン兵。素の身体能力ならば誰よりも高く、ステゴロでは西条は彼女に勝てないと理解している。

 

 相手がどんなに硬くとも、威力を内部に伝え、また蹴りひとつで刃の通らない甲殻を破壊できる。武器がなくとも、己の身体が武器になる超戦力。まさしく組織のリーサルウェポンとして相応しい。そんな貴重な彼女を木原が連れ出すことを許可するのか。答えは否だろう。木原なら、氷兎がいなくなったことは手痛いが、これ以上犠牲を出すのもバカバカしいと救出にすら行かせないかもしれない。

 

「あ、あの……私も、ひーくんを助けに行かせてください!」

 

 桜華に続いて、菜沙までもが名乗りを上げる。戦闘能力のない彼女まで同行しようとし始め、藪雨は居た堪れない気持ちになっていた。自分の方が戦える。けれど、前の任務で酷い失態を犯してしまった。正直な話、とても怖いのだ。それでも……自分を変えてくれた、救ってくれた人を助けたい。その想いも確かに胸の中にある。

 

「わ、私もっ……今度は、私がせんぱいを助けます!」

 

 この場にいる総勢五名。それなりの実力者も中にはいる。助けられるかどうかという話は置いておき、勝てない神話生物を除けば多くの神話生物に対して有利に戦えるだろう。心強い味方である、が……。

 

「藍、そして高海。お前たちは留守番だ」

 

「なっ……菜沙さんはともかく、私もダメなんですか!?」

 

「当たり前だ。正直に言わせてもらえば、完全に足でまといになる」

 

 藪雨も菜沙も、それが事実であることを自覚しているのか歯を食いしばってグッと堪える。それでも菜沙は諦めきれない。大切な幼馴染を、大好きな幼馴染を助けたい。その想いだけはこの場にいる誰よりも強い。けれど、西条は彼女を押しとどめる。

 

「第一、今までで一番強い相手になるかもしれんのにお前たちを連れて行けるわけがないだろう。高海に何かあったら、仮に唯野を救出できたとしてなんと言えばいい?」

 

「そ、それは……でも、私だってもう待ち続けるのは嫌なんです!」

 

「お前は、唯野にとって帰るべき居場所だろう。迎えに行く側じゃない。我慢して、ここで待っていろ」

 

 そう言われても、もう待ち続けるのは嫌だった。彼女は目元に涙を薄らと浮かべながらも、両手を握りしめて泣くのを堪える。その執念深さには西条も半ば呆れが混じっていた。何がどうなったら、こんなにも執着心が強くなるのだろう。独占欲もあるのだろうが、それよりも強い離れたくない想いがある。まるで透明な鎖で結ばれているかのようだ。赤い糸、なんてものではない。

 

「……私って、やっぱり足でまといですよね。そりゃ、戦い慣れとかしてませんし……」

 

 藪雨も足でまといと言われて流石にしょぼくれている。事実は事実だ。それを隠しもせずにハッキリと伝えられるのは西条の美点でもある。しかし、どうしてそう思ったのかを伝えきれないのは彼の欠点だ。それを理解している翔平が間に入って、藪雨に慰めの言葉を告げる。

 

「まぁ、確かにそうかもしれないけどさ。西条だって心配なんだと思うよ。そうだろ、西条?」

 

「……ここで残って、高海を見張っていればいい。無理に戦う必要もない」

 

 小さなため息とともに、彼の口からは言葉が漏れ出していく。自分の気持ちを伝えられるようになってきたのは、紛れもなく彼が成長している証拠なのだろう。

 

「俺は……お前を守って戦えるほど自信はないからな」

 

「薊さん……」

 

「俺は確かに強いが……それは個として、守る必要がない状況下だからこそ強いのであって、これが防衛戦になれば俺の手には負えん。そういうのが得意なのは唯野だ」

 

 西条は完全に攻撃一辺倒。翔平は援護射撃でサポート重視。そして氷兎は臨機応変に対応して攻撃にも守りにも転じる。そもそも、西条が氷兎に戦い方を教えたのも、誰かを守るための力をつけさせるためだ。その点、氷兎はかなり優秀だった。今となっては魔術もある。誰かを守りつつ戦うのは三人の中では一番得意であった。

 

「敵は、強い。それこそ無傷で生還なんてのは難しいのかもしれん。俺は不安な要素はできる限り減らしたいんだ」

 

「回りくどいねぇ。要するに、藪雨が心配でたまらないってことだ。嬉しがっとけよ」

 

 ニヒヒッと翔平が藪雨に笑いかける。藪雨も、その言葉が真実なのを受け止めて、この場で待つことを選択した。それぞれの想いが交錯する中、ようやく話は纏まる。あとはどうやって木原を出し抜き、桜華を連れていくのかだ。

 

 それこそが最も難関かと思われたが、菜沙が自ら進んで彼らの装備の調達を申し出る。彼女の所属は技術班であり、またその中でもかなり特異な位置にいる。

 

「私が夜までに皆の装備を作ります。だから……ひーくんを、絶対に助けてください」

 

 彼女は自分の起源を説明した。彼女自身の起源は『創造』であり、他の技術班と違って『有』から『有』を生み出すのではなく、『無』から『有』を作り出すことを可能にする。錬金術真っ青な不等価交換だ。勿論彼女はそれなりに疲れも溜まるし、考えの及ばないものは創ることができない。それでも、この場にいる全員の装備を整えることは可能だった。

 

「ならば、これで唯野の救出に行けるな」

 

「……ぜってぇ助けてやるからな、氷兎」

 

 やる気を滾らせる男二人。そして同行する桜華も、胸に手を当てて瞳を閉じる。思い描くのは氷兎の姿。彼の無邪気な笑顔を見てみたい。また一緒に笑いたい。これからも、一緒にいたい。だからこそ……。

 

「……今度は、私が氷兎君を助けるよ」

 

 だから、待っててね。そう小さく彼女は呟いた。

 

 これ以上できることはない。気持ちも準備も十分だ。

 

「唯野の救出作戦は今日の深夜決行だ。ドリームランドに侵入して、夢の世界へと向かう。失敗は許されんぞ」

 

「おうッ!」

 

「はいっ!」

 

 大切な友のため。大切な人のため。例え相手がどれほど強大であろうとも、その足を止めるに値しない。氷兎救出作戦は、まもなく始まろうとしていた。

 

 

 

To be continued……





西条 薊は公式チートって、ハッキリわかんだね。


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第115話 正体

 誰もいない無人の遊園地。昼間は多くの人々で賑わうその場所が閑散としているその様は、ある種の恐怖心を煽りたてる。従業員すら見かけることはない。それはむしろ好都合だった。オリジンの制服である黒の外套を身に纏った西条、翔平、桜華の三人は流石に堂々と正面から入って監視カメラに映るのを避けるため、フックで壁をよじ登って侵入する。西条は楽々と登っていき、翔平もちょっと苦戦するも登りきる。桜華に至っては、パルクールのように壁走りと壁蹴りでロープを使わずに登りきっていた。その身体能力の高さには流石の西条も唖然とする。

 

 遊園地の中にはいくつか監視カメラがあるが、勿論西条がそれを考えていないわけがない。事前に調べるだけ調べ、場所は把握していた。それらを避けながら彼らは奥へと進んでいく。

 

「人っ子一人いない遊園地、ねぇ。不気味なもんだな」

 

「私は来たことないから、氷兎君を助けられたら遊びに来たいな」

 

「お前たち、気を緩めるなよ。ここはもう神話生物のテリトリーだ。いつどっちが接触してくるのかわからんのだからな」

 

 幻夢境の住人である古の神々が接触してくるのが先か。それともノーデンスが接触してくるのが先か。現状行く宛がないので、どちらが接触してきても好都合ではある。ともかく今は幻夢境へ入ることが目的なので、翔平は記憶を頼りに転送用のゲートを探していた。

 

「仮に裏のドリームランドに行けたとして、だ。その後どうするよ。ノーデンスの居場所わからねぇんだぜ?」

 

「さて、な。古の神々とかいう胡散臭さMAXの連中に話を聞くか……ナイトゴーントがいれば、しばき倒して道案内させるのもアリだろう。受けた命令を実行する脳があるなら、それくらいはできるはずだ」

 

「本当、お前がいてくれてよかったわ……。頼りになりすぎてヤバい」

 

「褒めても刀の錆にしかならんぞ」

 

「怖ぇよ。てか褒めてんのに斬るなよ」

 

 勿論本人に斬る気はないが、指先で鍔を弄っているその姿を見ると思わず抜刀するのではと翔平は思ってしまう。どうやら西条には刀の鍔を弄る癖があるらしい。感情が昂ったりする時はそれが顕著に現れる。

 

 そうやって三人で遊園地内を歩いていると、水を被ることで有名なジェットコースターのある辺りで一瞬だけ淡い光が発生したのに気がついた。こんな夜中に稼働する機械もないだろう。いつでも戦闘に入れるよう心構えと準備をして、その光の発生源へと向かう。

 

 なるべく柱や建物に隠れる形で移動し、ようやくその光の発生源の元へと辿り着いた。柱の影から顔だけを覗かせて、光の正体を見据える。あまりにも堂々と設置されているその形状を見て西条が翔平に尋ねた。

 

「……あれがお前の言っていたドリームランドに行けるゲートか?」

 

「いや……似てるけど、違うな。俺たちが使ってたのは黒系のゲートだった」

 

「これは水色っぽい門だね」

 

 桜華の言った通り、彼らの身長を軽々と超える門のようなものがそこに鎮座していた。建物の中などではなく、人々が普段歩く交差した道のど真ん中だ。その門の内側は光で満たされていて、先が見えない。翔平と氷兎の使った門の縁は黒に近い配色であったが、これは青色に近い寒色系だ。季節が季節だが、それでもその門の近くにいるとひんやりとした肌寒い空気が皮膚を浅く撫でつけ、鳥肌として残留していく。どことなく厳かで、冷たい。そんな印象を彼らは覚えた。

 

「……どうする。種類が違うのならば行き先が違う可能性が高いぞ」

 

「どうするったって……明らかに今さっき出現しましたよって感じのやつだろ。誘われてんじゃね」

 

「態々相手の掌に乗っかってやることもないと思うがな。危険性は高いぞ」

 

「でも、氷兎君のところに辿り着ける可能性は高いんじゃないかって思いますけど……」

 

 誰が出現させたのかがわからない。古の神々か、それともノーデンスか。それを通り抜けるにはあまりにもリスクが高すぎた。流石の西条も尻込みしてしまう。

 

 話し合いながら悩み続けていたその時だ。門の中から音が聞こえ始めた。ピタッピタッと素足で床を歩くような音。誰かが門を通ってこちらに来ようとしているのか。すぐさま西条は刀に手をかけ、翔平は両手でデザートイーグルを構える。桜華も両手の手袋を引っ張ってつけ直すと、足を肩幅に開いて戦闘態勢に入った。

 

 ピタッピタッ。カツンッカツンッ。足音と共に何か硬いものを地面につくような音も聞こえてくる。息を飲んで、相手が出てくるその瞬間を待った。たったの十数秒とは思えないほどの時間を経験した彼らの前に現れたのは……黒い面、翼、そして尻尾を持った神話生物。翔平も戦ったことがある、ナイトゴーントだった。鉤爪になっている手には、黒い棒状のものが握られている。

 

「あれって、氷兎君の槍!?」

 

「どうやら、その先はノーデンスの居場所で間違いなさそうだな。片付けて向かうとしよう」

 

 西条が刀を地面と平行に構える。彼が普段使う戦闘スタイル、霞の構えだ。いつでも斬りかかれる準備をした途端、ナイトゴーントはその場で翼をはためかせ、飛び立ったかと思えば門の中へと消えていく。氷兎の使っている黒槍と共に、何をするでもなく帰っていった。しばし呆気に取られた三人だが、再度門から出てくる気配はない。構えを解いて、消えていった門の先を見据える。

 

「……着いてこい、とでも言いたいのか」

 

「アレは間違いなく氷兎の槍だ。行くしかねぇだろ」

 

「仕方がない、か」

 

 覚悟を決めて門へと歩み寄っていく。近づけば近づくほど、身体の芯が震えるのがわかる。理屈ではなく、人間としての本能が何かを訴えかけている。それでも彼らは光の中へと進んでいき、その姿を現世から消し去った。

 

 眩い光の中、周りには何も見えない。浮遊感と倦怠感に襲われたかと思えば、急にビクリと身体が震えた。まるで寝そうになっていたところを起こされたような、そんな感覚だ。どうやら光からは抜け出せたらしく、近くにはしっかりと三人集まっていた。ナイトゴーントがいるのかもしれないという危機感にいち早く対応した西条はすぐさま周りを見回す。そして自分たちを取り囲む周辺の状況に目を見開くこととなった。

 

「どこだ、ここは……」

 

 地面と思わしきものは全て綺麗に透き通る海のようになっており、立っている場所からは波紋が広がっていく。しかし水の中に落ちるなんてことはなく、足は地面を踏みしめていた。話に聞いていた限りでは、空は紫色だったという。けれども、空の色は自分たちの世界と同じものだ。強いて言うならば、夜に突入したはずなのに昼間と同じように明るいことだろうか。流れていく雲があまりにも現実と差異がなく、本当に異世界にとんできたのか不思議に思えた。

 

「うわぁ……綺麗っ……」

 

「遊園地ですらねぇ……。あれって、その場所の裏側に通じてるとか、そういうものじゃなかったのか」

 

「まるで、距離や時空なんてものを跳躍したように思える。ここが元からあるものなのか、それとも神話生物が作ったものなのか……。後者ならば、中々センスのある場所だ」

 

 桜華が目を輝かせて海の底を見つめている。小魚やイカといった魚類が悠々と泳ぎ回っている。神秘的で、けれども現実的。不思議な空間だった。思わず警戒を解いてしまうほどに。

 

「───よくきたの、若い人間たちよ」

 

 だからこそ、その翁が背後に現れたことにも気がつけなかった。突然声をかけられ、慌てて振り向く。身の丈は二メートルを超え、右手には先端が三叉に別れた白い杖のようなものを持ち、清潔感すらも感じられる灰色な髭が首よりも長く伸びている。一見穏和そうな顔立ちの灰髪の老人。けれどもシワがあり、声が少し低いから老人だと思えるだけであり、その堂々たる佇まいや腕の太さ、まして柔らかそうな目つきからは考えられないほどの力強さを感じる。身に纏う衣はこの世界を体現するかのような寒色系の入り交じる布のようなもの。上下に別れてはおらず、腰でベルトのようなものによって分けられているように見えるだけだ。よく目を凝らせば、その衣は地面同様に静かに波打っているように見える。

 

 彼らが門を見た時に感じたものと同様。厳かで、冷たい。そして静謐。その見てくれと態度、放つ気配。それらを端的に纏めるとして、一言で表すとするならば……それは間違いなく、人々が神と崇め、畏れる存在である。

 

「っ、いつの間にッ!!」

 

 西条がすぐさま刀に手をかけるが、翁はそれを左手で制した。けれども、そう簡単に彼らは警戒を緩めることはできない。それを仕方のないことだとばかりに、翁は口元を緩めていた。

 

「落ち着きたまえ。私は争う気はない」

 

「そう易々と信じられるとでも?」

 

「ふむ、まぁそうだろうな。では、こうしよう」

 

 翁が右手に持った杖を、彼らがいる場所とは別の方向に向けて振るう。すると、翁のすぐ隣の地面から水が湧き上がり、それは天高く登っていくように流れていく。そしてその水位は徐々に下がっていき……やがてその水の流れの中から、ある物だけが取り残される。空中に浮遊するように横たわっている黒髪の少年。寝間着姿のまま眠っている彼は、間違いなく唯野 氷兎本人であった。

 

「氷兎ッ!!」

 

 翔平がすぐさま駆けつけようとするが、氷兎と翔平を隔てるように地面から水が湧き上がって壁となる。足止めをくらった翔平は恐れることもなく翁を睨みつけた。その威勢の良さ、友のためとあらば強大な敵であっても怖気ないその姿に、翁は少しばかり口元を緩めていた。

 

「あまり事を急くでない。変に動かれると、うっかり殺してしまうかもしれんぞ」

 

「ッ……」

 

 氷兎を人質のように扱われ、仕方なく翔平は下がっていく。歯を食いしばり、それでもなんとか助けることはできないのかと水壁の向こう側にいる氷兎を見ていた。

 

「まずは、私の自己紹介からいこうか。おそらく知っているかもしれんが……ノーデンス、それが私の名だ。遥か遠き時代から存在する旧き神である。君たちのことは前々から眺めておったよ。なにせ、厄介な奴が絡んでおるからな」

 

「……質問したいことが幾つかある。唯野を攫った動機。どのような存在であるか。そして、俺たちに対する敵意の有無だ」

 

 相手が動かないのならば、こちらも冷静に対応しなくてはならない。西条はノーデンスに疑問に思っていることを投げかけた。ノーデンスは特に敵対するような素振りを見せることなく、彼の質問に答えていく。

 

「まず、私に敵意はない。どのような存在であるのかといえば……君たちが神話生物と呼ぶ存在と同じようなものだ」

 

「その割には、姿が普通に見えるが」

 

「多少は変えておるよ。見ただけで発狂する輩というのは往々にして存在するものだ。まぁ、このような人に近い姿ならば変に気構えることもないだろう。別に、人間を取って食うような事はしない。退屈しのぎに、気に入った奴と空を飛び回ったりすることはあるがな」

 

 それはそれで問題があるような気がしなくもないが、ノーデンスに敵意はほとんどないと言っても良さそうだった。翔平と桜華は警戒心を多少緩めたが、西条は依然としてその態度を崩すことはない。交渉の基本は気を緩めないこと。そして、堂々と自分の意見を述べることだ。その点西条には抜かりはない。世界トップ企業の息子として育て上げられ、様々なスキルを身につけてきたのだから。

 

「では、何故唯野を攫った? ナイトゴーントと呼ばれる連中を唯野と、ここにいる鈴華が殺したことは確かだ。しかし、それは人間に害をなそうとしていたという報告をドリームランドの神々に伝えられたからだが。そちらと敵対関係にあるようなことも言っていたらしいな」

 

「いいや、別にあの神々にはなんとも思っとらん。問題は奴だ。あの憎たらしい邪神こそ、私が敵対する理由だ」

 

 ノーデンスが腕を払うと、先程作り上げられた水壁が静かに消えていく。氷兎は未だに眠ったまま、ふわふわと宙に浮いていた。その表情は少しばかり険しい。どうにも具合が悪そうだった。

 

「あの少年の中にも宿っている。本音を言えば、あの少年ごと殺してしまった方が人のためだ」

 

「そんなことさせるわけねぇだろ!!」

 

「落ち着け鈴華。特に手を出したようにも見えん。今は気持ちを抑えていろ」

 

「……話ができるようで何よりだ」

 

「唯野に宿っている、と言ったな。アイツに力を貸している存在がいるのは認知している。ナイアと名乗る、真っ黒な女だそうだ。それが危険な存在だと言いたいのだな?」

 

 西条の言葉に対し、ノーデンスはゆっくりと首を縦に振った。氷兎が裏社会に入るキッカケにも関与しているナイア。魔術を教え、力を貸し、時に氷兎にとって悪影響を及ぼすような囁きをする。

 

「人間に対し積極的に接触を行い、時には信仰に対して力を差し出し、莫大な対価を払わせる。信仰した者には確かな力を授けることから、信仰者も多く、また他の神と同時に信仰する者も多い。その存在は多種多様。固定された概念や姿を持つことはなく、多くの場合人間にとって不利益を生じさせる。心に潜む悪意を後押しし、人が自らの手で世界を暗黒面に陥れさせようと動く異質な邪神。その名を……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───ニャルラトテップと呼ぶ」

 

 

 

To be continued……




いあ・いあ・にゃるらとてっぷ・つがー


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第116話 ニャルラトテップ

 ニャルラトテップとは。旧支配者と呼ばれる、かつて太古の地上を支配していた神々の一柱であり、また外なる神と呼ばれる非常に力の強い存在でもある。旧支配者は四大元素に分類されるとされ、中でもニャルラトテップは土の精として崇拝されていた。旧支配者の中でも最も強いとされる盲目で白痴の神アザトースと同格の力を持ちながらも、神々に使役されるメッセンジャーとしての側面も持ち合わせる。

 

 ノーデンスはアザトースについて詳しくは言及しなかった。それは人が知るにはあまりにも惨たらしく、狂気的で理解不可能。物理的な存在でありながらも、エネルギー体であり、それは宇宙を創造した経歴もある。しかしながらアザトースは深い眠りについていて、彼の意思を代行するものとしてニャルラトテップは存在している。ニャルラトテップとは、アザトースの息子であったのだ。

 

「……理解に苦しむ内容だな」

 

 説明を掻い摘んで聞かされた西条は眉をひそめて、なんとか自分の中で噛み砕いて理解しようとする。けれども、それは動物としての本能なのか。一定のところまで考えが及ぶと、そこで思考を放棄しようとしてしまう。これ以上考えるなと言わんばかりに、脳は停滞するように無意識に警告している。人間としてありたいのならば、それを知ってはならない。理解してはならない。恐れることは臆病ではなく、人間性を保つ為の防衛反応なのだ。

 

「ニャルラトテップについて詳しい話をするには、他の神の話をしなくてはならん。しかし、それを知るというのは危険だ。人間が知りえない、知ることのない知識。では、なぜ知らないのか。誰かが意図的に隠しているからだ。知らないのではなく、知ってはならないものとして」

 

「もう既に頭がパンクしそうなんだけど……いや、そもそも俺が知りたいのはそういうことじゃないんだよ! 氷兎が無事なのか、それか危ない状況にあるならその解決策を教えて欲しいんだよ!」

 

「解決策、のぅ……。そんなものがあるのならば、私が教えてもらいたいものだ」

 

 ため息混じりに伝えられたその言葉に、翔平は顔を苦々しく歪めた。目の前にいるのは自分たちとは比べ物にならないほど大きな存在。その力を持ってしても氷兎の問題を解決できないと言っているのだ。それはつまり、人間には到底解決できない無理難題だということ。あまりにも絶望的な言葉だった。

 

「そんな……氷兎君は、助からないんですか……?」

 

「助かる、助からないの二択で表すのは難しい。そもそも、この少年からニャルラトテップの力を取り除くのは困難だ。だから君たちのことも考え、ヒュプノスの手をかりて暗示までかけ、ナイトゴーントに荷物を持ち運ばせた。どうにかできればそのまま返していたし、無理ならば殺していた。だというのに、君たちは暗示を打ち破ってここまで来てしまった。いや、それは素直に賞賛すべきことなのだろう」

 

 ノーデンスは心からの賛美を送る。神の力を破ってここにまでたどり着いたというのは、普通の人間には到底できない偉業だ。けれども、彼らはその称賛を素直には受け取れない。ノーデンスはなんでもない事のように言っているが、その言葉は確かに彼らの価値観を傷つけ、また怒りをも募らせる。本人の許可もなく連れ去り、周りには何の説明もせず、挙句記憶処理。果てには、殺していた可能性があると宣うのだ。人間としての思考や倫理とは異なる。ノーデンスが幾ら人間に対して友好的であっても、彼は神話生物なのだ。人間ではない。

 

「賞賛はいらん。ニャルラトテップというものが危険極まりない存在だというのはわかったが、どんなものなのかがいまいち把握できん。それがわからねば、対処も難しいというものだ」

 

 西条は眉をひそめながら尋ねかえす。現状氷兎の命の綱を握っているのはノーデンスだ。彼らの中に怒りが芽生えていようとも、それを抑えなくてはならない。彼らは戦いにきたのではなく、氷兎を助けにきたのだから。

 

 ノーデンスは少しばかり悩む素振りを見せつつ、彼らに対して言葉を返してきた。

 

「どんなものなのか、か。それを説明するには……いや、まずはこれだな。君たちは普遍的無意識、あるいは集合的無意識とは何か知っているかの?」

 

「どっかで聞いたことはあるけど……」

 

「私は、こういったのはさっぱり……」

 

「……心理学者ユングの提唱したものだ。俺も説明するとなると少々難しいがな」

 

 三人の中で普遍的無意識についての知識を持っていたのは西条だけだった。彼は思い出せる限りの知識を二人に伝えていく。心理学者ユングの提唱した普遍的無意識とは、人間の無意識の先にある構造のことだ。人間の行動や思考といったものは外的要因によっても決まるが、普遍的無意識からもたらされるものによっても左右される。誰の心にでもある先天的な構造であり、あらゆる感情などの元型があるとされる。考え方によっては、人々の心は奥底で繋がっているとも言える。普段認知することは絶対にない、けれども全人類が普遍的に持っている。それこそが普遍的無意識という領域だ。

 

「俺たちの思考や判断を左右する感情など。それらは普遍的無意識にある型から生産され、俺たちに支給される。仮にその普遍的無意識に潜ることができたのなら、俺たちは地球の裏側にいる人間と交信、あるいは精神を乗っ取るなんてことができるのかもしれん」

 

「……要するに、心の底で皆繋がってますよってことか?」

 

「穿った考えだが、間違いではない」

 

「翔平さんの言ってることなら、なんとなく理解できるかな」

 

 桜華はあまり難しい考えが得意ではない。翔平もそこまで得意な方ではないが、これまでに培ってきたゲーム感覚である程度のことは補える。西条の説明をなんとなく理解した彼らに対して、ノーデンスはニャルラトテップについての説明を続けていった。

 

「ニャルラトテップとは、存在が認知されていた頃から異様な態度を取り続けていた。元はおそらく男神であったのだろう。その存在が急激に変貌したのは、人間が産まれてからだ」

 

「先程の話を踏まえるに、人間の普遍的無意識が何かしらニャルラトテップに作用したと?」

 

「いいや、違う。ニャルラトテップは最初期はおそらく単一の存在であった。元より力が強かったが、奴はその力の強さというのを誇示しなかったのだ。恐れるべきは力ではなく、性質。奴はあろうことか、人間が誕生した途端にその心のあり方に興味を示し、普遍的無意識と呼ばれる領域にまで潜り込んでいった」

 

「待て。普遍的無意識というのは、あくまでユングの提唱したものだ。実際に存在するとは限らない、彼の頭の中で紡がれたものだぞ」

 

 人間が初めて人間としてあった頃。その頃にユングは産まれていない。ならば、その普遍的無意識をどのように見つけたというのか。まさか、自力で。人間の心に潜ってみたら見つけてしまったとか、そういうことなのだろうか。西条の頭の中はしばし混乱していた。けれどもノーデンスは話を続けていく。

 

「世界には(コトワリ)、ルールというものがある。観測論なんてものもそうだ。人間が観測したからこそ存在する。ならば、ユングが提唱したからこそ存在する。そういうものなのだ」

 

「意味がわからん」

 

「過去、現在、未来。それら全てを記録しているものがあるだろう? それのせいで、未来で示した事が過去でも実現しているのだ」

 

「……アカシックレコードか!?」

 

 西条が驚き声を上げる。アカシックレコード。宇宙誕生以降の過去から未来まで全てを記録している媒体のこと。

 

 ……では、宇宙を創造したのは誰であったか。

 

「宇宙の創造者であるアザトース。宇宙の誕生以降を記録しているアカシックレコード。アザトースの息子、ニャルラトテップ。結びつくとは思わんか?」

 

「冗談じゃない……!! ニャルラトテップはこれからの未来のことまでも見通せるということだろう!?」

 

「その上で暗躍し続けておる。何をしでかすかわかったものではない」

 

 やれやれとばかりにノーデンスはため息をつくが、西条は既に敵対予定のニャルラトテップに対して勝ち目がないことを悟っていた。ノーデンスでも対処できない理由が語られている。アカシックレコードを創ったのは、間違いなくアザトースだ。それをニャルラトテップは使用している。未来で起きる事象を観測することで現在でも存在を確定させる、世界の理。それを利用してニャルラトテップは人間の普遍的無意識にまで潜り込んだのだ。けれども、そんな説明をされて簡単に理解できるわけもない。桜華は彼らの会話に首を傾げるばかりだった。

 

「アカシックレコードって、どんなものなんですか?」

 

「宇宙誕生以降の出来事を全て記録しているものだ。そこには過去や未来まで、更には当時生きている人間の感情まで記録されている。所詮はオカルトだと、そう思っていたが……」

 

「ってことは、なに。ニャルラトテップは未来予知まで出来ますよってこと? それは流石に俺たちと次元が違いすぎるだろ。五、六個次元上げないと……」

 

「クッ、フフ……いや、流石の俺もお手上げといきたいところだ。勝てる勝てないの次元ではない。どう足掻いても、ニャルラトテップの掌の上からは逃れられないということだろう、それは。なんて、おぞましい……」

 

 ハハハッ、とから笑いが西条から漏れだしていく。なんだかいつもと様子が違う。不安にかられて翔平が彼のことを見てみれば、眼鏡の奥から覗く双眼は鋭さを失っていた。彼らしくもない、どこか濁りのある眼だ。

 

「おい西条ッ!! どうした、落ち着けって!!」

 

「ハハッ……いや、落ち着いている。この上なく、どうしようもなく、俺は落ち着いているとも。そう……俺は、平気だ……いや……俺は……」

 

 これは不味い。瞬時にそう判断した翔平は、右拳を握りしめて全力で西条の左頬を殴りつけた。反動で眼鏡が少しズレる。顔がガクンッと揺れ動き、痛いという言葉を発することもなく、ただただ無言のまま西条は動かなかった。やがて眼鏡を元の位置に戻すという作業をするまで、彼は終始無言のまま虚空を見つめていた。

 

「……すまん、少々取り乱した」

 

 誰よりも知識があり、それを活かす知恵があり、応用できる経験がある。それは生き抜く上でとても重要で、重宝されるもの。だが……それは時に牙を剥く。頭が回るというのは、それだけ様々な想像ができるということ。行き過ぎた妄想は止まることなく想像され、やがて本人の意識を超える。自分では抑えられなくなるまで膨らんだ想像を、きっと狂気と呼ぶのだろう。

 

「……知恵があるのも考えものだな。先程の続きを話すが、よいかの?」

 

 ノーデンスの言葉に対して、西条はしっかりと頷いて返した。その瞳はブレなく現実を見据え、表情もいつもの仏頂面だ。先程までの錯乱した状態は消えてなくなっている。その様子を確認できた翔平も内心安堵しつつ、ノーデンスの言葉に耳を傾けた。

 

「ニャルラトテップは普遍的無意識にまで潜り込み、そこで様々な情報を得た。感情、というのは凄まじいエネルギーを持っている。そしてそれは幸福などのプラスの感情よりも、不幸なマイナスの感情の方がより強いエネルギーを保有している。ニャルラトテップはそこに着眼したのだ」

 

 曰く、ニャルラトテップとは存在して以降確固とした己というものに何の執着も持たなかったという。普遍的無意識に潜ったニャルラトテップは、そこで人々の負の感情を集めだした。恐怖、悲哀、狂気。好奇心などの正と負の両面を持つものまで。そして、人間たちの根底にあるイメージというものまで取り込んでいったのだと、ノーデンスは言う。

 

「普遍的無意識にある情報を元に、己の存在を千変万化させる。単一であったニャルラトテップは、そこでオリジナルを投げ捨てて、同時に複数存在できる化物へと姿を変えたのだ。這い寄る混沌、膨れ女、無貌の神。そういった様々な化身へと姿を変化させていった。そのあまりにも異様な在り方から、奴は千の無貌とも呼ばれる。人間の恐怖は底がない。今も尚、奴の化身は増えておるだろう。そこには既に、性別や理念なんてものはなく、全てがニャルラトテップであり、また化身ごとの個々の考えがある。その全ては純粋な悪意で構成され、物事を楽しいか、楽しくないかで判断する」

 

「人間がいる限り、その存在が増えていく……えげつない化物だ。それと、化身とはなんだ?」

 

「化身とは、神の現身だ。我々の多くは太古に封印されておる。覚醒の世界にその姿を現すには、自分の力が弱すぎる。また召喚されようにも、今度はむしろ強すぎる。だからこそ、奴らは自分よりも弱い化身を生み出し、人間の手を借りたりすることで覚醒の世界に送り込むのだ。化身の目的はひとつ。本体を顕現させることだ」

 

 まぁ尤も、ニャルラトテップは封印されるのを逃れ、その力が強大すぎるのもあって自力で顕現できるというのもタチが悪い、とノーデンスは心底嫌そうな顔で言う。正直な話、西条にも情報量の限界が訪れようとしていた。これ以上理解したくない。そんな気持ちも存在している。

 

「それで、その……氷兎については?」

 

「今言った化身のうちのひとつが、この少年に埋め込まれている。やがて少年の心を喰らい、表へと出てくるだろうな」

 

「そんなっ……」

 

 今まで散々聞かされてきた理不尽な存在。その化身が氷兎に入っている。どうにもならない、とノーデンスが言うのも仕方のないことなのかもしれない。けれども、それでも……なんとかならないのか。ノーデンスに向けて懇願する。長く伸びた髭を弄りながら、暫し考えにふけり……やがて重々しくその唇を開いた。

 

「ニャルラトテップの化身は、人間では太刀打ちできない個体から、簡単に勝てる個体まで様々だ。実際、人間にちょっかいをかけて集団に殴り殺されたり、悪事が上手くいって高笑いしていたら世界の抑止力たる人間によってトラックで轢き殺されたりしているのを見たことがある」

 

「ギャグかなにか? それと、世界の抑止力?」

 

「簡単だ。それも世界の理のひとつ。存続が危ぶまれる時に世界の方が用意した(プレイヤー)だよ。本人は否応なしに災難に見舞われ、暗き深淵を歩む探索者として世界を救う一端を担う。まぁ、たまに失敗するがな」

 

 口端を上げてニヤリとほくそ笑む。ノーデンスの視線の先が一瞬だけ桜華を見つめていたが、すぐに彼ら全員を見回すように目を動かした。

 

「私も悪魔ではない。この少年の中にいる化身がどのようなものかわからぬが、それに対処できる力が証明できるならば……この少年を、君たちに返すとしよう」

 

「ほう……力づくか。そういった考えは嫌いではない」

 

「えっ、神様相手にすんの……」

 

「えっと、それで氷兎君が助けられるなら……!」

 

「まぁ待て。その前にひとつ、君たちに確認せねばならんことがある。いざという時に、考慮しなくてはならん大切なことだ」

 

 瞳を閉じ、一瞬とは思えないほどの時間が流れる。雰囲気の変わりように、彼らは自ずと生唾を飲み、その身体を緊張で固くした。先程までとは比べ物にならないほど、ノーデンスの神としての存在が大きくなったように感じる。厳かで敬うべき神性だ。その重厚な唇が開いていき、紡がれた言の葉が彼らの心を穿っていく。

 

「───いざとなった時、この少年を……君たちの友人を、殺せるか?」

 

 

 

 

To be continued……




 ノーデンス

 人間に友好的な海の神。灰色の髭に白髪らしいが、なんか変だなと思い私の小説では灰髪になっている。旧神としてアザトースが起きないように見張りを続けているらしい。気に入った人間と空を飛んでいるらしいが、多分死ぬと思うんですけど(白目)


 アザトース

 宇宙の中心にあるもの。盲目白痴の魔王。あらゆる魔術に精通しているとか。謁見することもできるが、間違いなく死ゾ。この世界は彼の見ている夢であり、目覚めた途端我々は存在諸共消滅する(白目)
 夢だから今後の展開を決めるのは彼の動き続ける脳みその機能。それ即ち、アカシックレコードである。こじつけ。


 ニャルラトテップ

 基本となる姿を持たない神。あまりにも純粋な悪意で、人間の心が恐れる姿をいくつも持っている。千とか言われてるけど、実際もっと多い。クソ強からクソザコナメクジまで取り揃える、ピンキリですよでもね。クトゥルフ界隈のトリックスターで、本人は自分の手で世界を混沌に陥れようとはしない。多分本気出したらすぐに人類滅亡すると思うんですけど(名推理)

「人類滅亡RTA、はっじまーるよー。ではまず宇宙からの色を大量に投下します。終わり、閉廷! アザトースを起こすのは人類消滅なのでレギュレーション違反です。いやー疲れました。完走した感想ですが……」

 本気の奴ならやりかねない(白目)
 ちなみに男の神でイホウンデーという女神と子作りしてるけど、基本となる姿を持たないから関係ないよね。作者の自己解釈で色々変えられる便利なやつ。クトゥルフ関連は大体こいつのせい。だからニャル子さんは解釈違いじゃないんや。


 宇宙からの色

 宇宙から降ってくる物体。それが着弾した地域では水は枯れ、植物は育たなくなり、住んでる人は狂気に苛まれる。人類崩壊待ったナシのやべーやつ(白目)


 ヒュプノス

 ギリシャ神話にもいる眠りを司る神。ドリームランドと覚醒の世界の狭間にいて、気に入った人間の姿を変えて永遠に一緒にいようとする。ヤンデレか何か?


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第117話 チャリオット

「……殺せる」

 

 その言葉を言い切ったのは西条だった。空中で浮かぶように眠っている氷兎を見ながら、刀の鍔を触る。仲間から殺せるという言葉が出てくると思っていなかった翔平は驚きのあまり目を見開いて彼に問いつめた。

 

「西条……お前、なんでそんなこと言えるんだよ!!」

 

「俺は前に唯野に言った。強くなりたければなるといい。そのうち俺がお前の首を撥ねるがな、と」

 

 まだ出会って間もなかった頃。氷兎が西条に戦い方を教わる前の話。闇雲に力を求め、己の人間性を欠落させた人でなしになる可能性を秘めていた氷兎に対して、戒めるように言い放った言葉だった。

 

「人でなしの殺人鬼に成り下がるのならば、俺は奴を殺そう。それは奴も承知していることで、そうなるまいと心に刻んだはずだ」

 

「でも、だからって……」

 

「よく考えろ。俺たちには腕は二本しかない。掬いきれず、溢れ落とすものが大半だ。その中から俺たちは選ばなくてはならん。自分の正しさと、優先すべきことを。それが唯野を殺すことだというのなら、俺はこの手を汚すことに躊躇いはない」

 

 氷兎を見ながら右手を強く握りしめる。西条とて人間だ。全てを掬い上げることはできない。何を捨てて何を得るのか、その取捨選択をしろと西条は氷兎に言ったことがある。これまでの生き方から、西条には捨てることへの躊躇いはない。得るために、斬り捨ててきたのだから。それでも、氷兎への想いがないのかと言えば……それは違う。

 

「唯野は悩んで苦しみ、それでも前に進もうとする人間らしさがある。もし仮にそれらが失われ、人々を己の意思でなく殺して回るバケモノに堕ちたのなら、それはもう唯野であって唯野ではないのだろう。俺は奴に、殺戮をさせる気はない。いや、唯野が殺戮を行う輩であると思いたくない。だからさせない。その為に、俺は斬ろう。唯野が俺たちと共にあった人間のままでいさせるために」

 

 仲間である氷兎が、無意識に人を殺すようなバケモノにならないように。そんなことをさせるくらいなら、人間としての氷兎が貶められるくらいなら、己の手を汚す方がマシだ。そう西条は言いのけた。結果はどうあれ、彼は自分なりに想っているのだ。

 

 けれど、他のふたりはそうではない。確固たる意思はない。俯いて唇を噛み締める翔平と、氷兎を見つめながら両手を握り締める桜華。親友であり相棒である氷兎を、恩人であり大切な人である彼を、殺すという選択肢はなかった。

 

「私は……無理、です。氷兎君を殺すなんて、できないです。私が守る。氷兎君が、そんなことにならないように守ります」

 

 あくまで殺すのは無理で、守りきるのだと桜華は言う。翔平もそう言い切りたかった。便乗して、俺もそうだと言いたかった。けど、できない。氷兎の中にいるバケモノがどれだけ危険なのかは分からない。しかしニャルラトテップの危険性は重々承知していた。だから、言えない。答えられない。いざという時に、氷兎を殺さずに助けられるほど自分は強くないから。

 

「俺、は……」

 

 助けたい。殺したくない。その選択ができない。強くない。特別な力もない。人を助ける力はない。あるのは……何かを貫く弾丸だけ。弾丸は人を救えない。弾丸は命を救うのではなく、奪うものだ。肉弾戦は得意じゃない。剣は怖くて振るえない。西条のように確固とした意思と、成長を続ける肉体と剣技、体術は持ちえない。桜華のように純粋さと、それを行えるという自信を後押しする才能がない。

 

 あるのは、完成された銃だけ。成長することは無い。翔平にとっての成長とは、誰かを気絶させる剣技や体術などではなく、いかにして相手を傷つけることができるのかという殺傷能力の向上だ。だから、翔平()氷兎(ヒト)は救えない。

 

「……わからない。助けたいけど、俺には……その時どうすればいいのか、わからねぇよ……」

 

 右手に持っているデザートイーグルは鈍い銀色に輝いている。人を殺すための道具だ。包丁のように、使いようによっては人を殺しもするし、料理を作るといった多様性を持つわけではない。銃は弾丸を放ち、弾丸は何かを穿つ。それだけのものなのだ。

 

「……なるほど。君たちの考えはわかった。だが、だからといって簡単には返せん。示せ、その力を。人に仇なす敵意を迎え撃てるのだと証明してみせよ!」

 

 ノーデンスが持っている白の三叉槍のような杖で地面を叩く。すると彼らから少し離れた場所で地面である海が揺れ動き始めた。泡立ち、膨れ上がり、水柱ができていく。それがなくなった場所から出てきたのは、貝殻だ。白く大きな、それこそ彼ら三人が乗ったとしても余裕があるほどの大きな貝殻。形は真珠貝だろう。上半分はなく、器のような状態でその場に浮かんでいる。

 

 何が起きるのかと三人が見ていると、貝殻はカタカタと小さく揺れ動き始め、やがて中身に水が満ちていく。それが貝殻に収まりきらなくなって溢れ出し、どんどん量が多くなっていった。やがて水は物理法則を無視して上へと登っていき、彼らの身の丈の二倍はあるだろうという高さにまでなる。そこから更に、腕や手のようなものが象られ、頭部と思しき部位には彼らを睨みつける目が浮かび上がった。

 

 それらが透明な水であるのだから、まるで神話に出るような神々しさを感じる。けれど、彼らは日本人だ。神様が思い浮かぶよりも先に頭を過ったのは、妖怪。さながらその姿は海坊主のように思えたのだ。

 

「で、でかっ……!?」

 

「唯野がいなきゃ勝てない類の敵はさすがに勘弁だぞ」

 

 以前対峙したティンダロスの猟犬がそうであった。あれは魔力の伴った攻撃でしか効き目が薄い、または当たらないという厄介な敵だったが、氷兎が魔術で応戦したため事なきを得たのだ。それと同じものだとしたら、彼らに勝ち目は薄くなってしまう。

 

「再生や魔術抵抗などはない、ただの水の塊だ。だが、質量とは威力に直結する。まして速度もそれなり。奴が乗ってるのは、私が普段愛用しているチャリオットだからな」

 

 足の部位はなく、その水の巨人は貝殻に乗っかっているだけだった。それを見据えながら彼らは己の武器を構えて戦闘態勢に入る。人間とバケモノ。その差は歴然だ。長く戦い続ければ負けるのは人間である。だからこそ、短期決戦が望ましい。

 

『──────────ッ!!』

 

 巨人が吼える。地面である海が波立ち、巨人はその流れに乗るように突撃してきた。その速度は車を彷彿とさせる。

 

「全員回避だッ!!」

 

 西条の声で桜華は向かって右側に避け、翔平と西条は左側に避ける。桜華は余裕であったが、ほか二人はギリギリだった。飛び退けるように逃げた二人目掛けて、また巨人は突撃してくる。

 

「やらせないっ!」

 

 横から走ってきた桜華が巨人に向かって攻撃しようと近寄るが、巨人は右腕を引いて全力で叩き潰しにかかる。それを跳んで回避することに成功し、背後で水しぶきが上がるのを感じながら桜華は一気に接近する。そして勢いをのせた蹴りで貝殻を弾き飛ばした。地面をこすれながらその場から動いていく巨人の次の標的は、蹴りを入れた桜華へと変わる。すぐさま突撃し、桜華はギリギリのところで走って避けきるのだが……すれ違いざま、桜華の目には右拳を握りしめて殴りかかろうとしている巨人の姿が見えた。跳んで回避はできるかもしれない。けれど次の回避ができない。その場で勢いを殺して拳を受け流そうとした時だ。

 

 桜華の視界に黒い物体が映り込む。それが巨人の右腕に入り込むと、爆発を起こした。その場所から先の部分が何の変哲もない水へと変わって、右腕から中程が消滅する。動き回る巨人に的確に手榴弾を投げつける。そんな芸当ができるのは翔平だけだ。

 

「七草ちゃん、少し下がって目と耳を閉じろ!!」

 

 言葉を聞いて即座にその場から撤退。続いて投げ込まれてきたのは円柱状の手榴弾。一秒程度の間が空いて、爆発して凄まじい音と閃光が発生した。至近距離なら鼓膜が破れて気絶し、閃光は視界を黒に染めあげるほどの輝きを持つ閃光手榴弾。桜華の耳が少しだけキーンッと痛むが、それを至近距離で防御せずにくらった巨人はたまったものではない。左腕で目を抑え、その場で身体をうねらせていた。

 

「七草、頭を狙えッ!!」

 

 言われた通り彼女はその場から走り出して跳躍。オリジン兵であり『英雄』の起源を持つ彼女の身体能力はかなりのものだ。余裕で巨人の肩に飛び乗って、そこから更に跳躍。空中で一回転して、巨人の頭に向けて踵落とし。水とは思えない硬さだが、反動で巨人が前のめりになり、左腕も地面に近くなる。

 

 そこに西条が走り寄って、左腕を空中で踏みつけてから肩に飛び乗って跳躍。刀を両手で宙で構えながら落下していき、当てる直前で身体を捻る。菜沙の創造した刀は以前使っていたものよりも切れ味がいい。頭の中程まで刀がめり込み、そのまま落下の勢いで地面にまで斬り落ちていく。そして貝殻によって刀が止まった時、巨人は完全に身体の中心部位を二つに分けられるかのように斬られていた。

 

 ノーデンスの言った通り再生能力はなく、そのまま水となって地面へと還っていく。それに巻き込まれて多少西条の服が濡れたが、巨人を斬ることのできた彼は満足げであった。

 

「ふん、他愛ない」

 

「二人とも流石だな」

 

「翔平さんも助けてくれてありがとうございました!」

 

「気にすんなよ。アレくらいしかできねぇし」

 

 それぞれが自分のできることをやり抜いた結果だった。サポート、攻撃、囮。一対多では手数の多い彼らの方が有利だ。もっとも、強いアタッカーが二人もいるというのが要因としては大きいのだが。方やオリジン兵。方や一般兵最強ともいえる人物だ。少し大きいだけの巨人は、装備の整った彼らにとっては驚異ではなかった。

 

「なるほど、連携もできる。装備もある。意思の強い人間もいる。よかろう、あの少年は君たちに返すとしよう」

 

 遠巻きに彼らを見ていたノーデンスが氷兎を指さして、そのまま指を彼らの元へ向けると氷兎が宙に浮いたまま飛んでいった。それを桜華が慌ててキャッチして抱きしめる。腕の中にいる彼は本物。暖かく、触ることができる。彼女はそれを噛みしめ、頬を緩ませていった。

 

「腕試しにしては、弱かった気がするがな」

 

「人間でアレだけ戦えるのなら十二分だろう。それと……お主、刀を見せてみろ」

 

「刀?」

 

 西条が言われた通り納刀した刀をノーデンスに見せる。すると刀はひとりでに彼の手元から離れていき、ノーデンスの手の中に納まった。

 

「お主の意思、しかと拝見した。いざとなったときには役に立つだろう」

 

 握られている刀の持ち手が黒から青色へと変わっていき、刀を抜いてみれば銀色の刀はまるで鏡のように反射する刀身になっており、目を凝らせば波立っているように感じられる。

 

「私の加護だ。水とは、せせらぎを持って心を安らかにさせるが、時に荒々しい流れは何もかもを切断する。そして古代より聖なる水は人外に対して効果を持つ。友を……バケモノを殺すための刀だ」

 

「……感謝する」

 

 刀はノーデンスから離れて西条の元へと戻る。抜き身にした刀は確かに鏡面の如く、覗き込む西条を映し出す。水鏡(みかがみ)の刀。魔を斬り、友を殺す神器だ。それを鞘にしまって、彼は軽く頭を下げて礼を述べる。

 

「さて……そこらの刀と一緒くたにされては質も落ちる。銘をつけるといい。名がついてこそ、力とは得られるものだ」

 

「刀の銘、か……」

 

「聖剣"月"か邪剣"夜"の二択?」

 

「鈴華、ちょっと黙ってろ」

 

 渾身の睨みつけに翔平はしぶしぶ下がっていく。しかし、友を殺すための剣だと言われても悩ましい。なるべくそんなものからかけ離れた銘であった方がいいだろうと西条は考える。水の刀。流れる水は癒しと破壊をもたらす。時に寄り添っては共に流れ、やがて困難に陥った時には全てを断つ。その刀の銘は……。

 

「……最上(もがみ)、だな」

 

「最上って……最上川か?」

 

「流れる川の名をつけるのがいいだろう。水の力が宿った刀のようだからな」

 

「……最上って、さいじょうとも読めるよな」

 

「お前余計なことばかり言うなら首を撥ねるぞ。俺の前で実家と関連づけようとするな」

 

「おっと目がマジだ……」

 

 心に迷いを持つことがない西条を表したかのような刀は、最上と銘づけられた。二人が話しているところへ桜華が氷兎を抱きかかえて近寄ってくる。氷兎の顔色は優れない。早く帰って休ませてあげたいと三人は思っていた。その意図を汲んでか、ノーデンスが腕を振るう。すると彼らの背後に、来る時に通ってきた門が再び出現していた。

 

「荷物はそのうちナイトゴーントにでも運ばせる。今はその少年を連れて帰るといい」

 

 互いに顔を見あって、頷き合う。情報の提供に感謝して、彼らは門をくぐっていった。来た時と同じような倦怠感や身体の震えを感じると、彼らは現世へと帰りついた。しかしそこは遊園地のドリームランドではなく、氷兎と翔平の部屋だ。粋な計らいに感謝しつつ、彼らはすぐに氷兎を医務室まで運んでいったのだ。

 

 

 

To be continued……




遅くなりましたね。これじゃ唯の西条強化イベントじゃないか……。


まだまだ更新ペースは早まりません。活動報告にも書いたのですが、なろうの方で恋愛のようなヒューマンドラマを書いていまして。書籍化したらいいなと本気で書いております。まだしばらくはそっちに専念しますので、良ければ読んでください。『日陰者が日向になるのは難しい』という小説です。

……恋愛もどきを書けるのって?
ハハッ、今までの話を読んでわかるでしょう。王道どころか邪道まっしぐらな私ですよ。当然、ねぇ(黒笑)


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第118話 模造現実

 浮遊感のようなものを感じる。けれども、落ちている気はしない。ただそこに漂うように、浮いている。薄らと目を開き、目に飛び込んでくるのは光だ。上から風に吹かれるカーテンのように揺らめきながら、光が差し込んでくる。それと同時に見えるのは、水。身体にまとわりついて浮遊感を与えているのはコレだった。そして……あまりにも場にそぐわないものもある。鎖だ。天から伸びているソレは両腕に巻き付き、離れようとしない。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。鎖のはずなのに、暖かい。離れようとしないのではなく、離れたくない。そんな気がする。

 

(……この、鎖は……)

 

 息苦しくはないし呼吸もできるが、言葉が発することはない。今度は光のある水面の方ではなく、昏い深海に目を見やる。光の届かないソコでは、ただただ闇が広がるばかり。水があるとすら思えない。

 

 奥の方はもう黒の絵の具をぶちまけたような酷い暗さだ。だというのに、何かが蠢いている。四本の触手のようなものが手や足のように……。

 

(……違う)

 

 手足じゃない。あの揺らめく触手の三本は、足だ。根元が太く、そこから先にかけて細くなっていく円錐形。ゴテゴテとした胴の部分もあり、人間に似た両腕が生えている。では、あの赤い色をした触手は頭部なのか。蛇が舌をチロチロと動かすように、その赤い触手は動く。水の中を動くその触手は……まるで、血濡れているみたいだ。

 

(っ……引きずり込まれてるっ!?)

 

 浮遊感の消失とともに、今度は吸い込まれるような感覚が生まれた。俺を誘うように、あの生物とも呼称しがたい何かは手招きしている。天から伸びる鎖だけが、俺をかろうじてこの場に繋ぎ止めていた。

 

 逆に言えば……この鎖がなくなった途端、俺は間違いなくあちら側に行ってしまうのだろう。コレは、俺が人間である証。ヒトであるために、繋ぎ止めてくれるものなのだと嫌でも理解できてしまう。堕ちてこない俺に怒りでも感じているのか、アレはただ洞窟の中に反響する機械音のような声を投げかけてくるだけだった。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

「っ……!!」

 

 次に自分の意識がハッキリしたとき、もうそこは海の中ではなかった。今はもう、誰もいないはずの自宅のベッド。私服姿のまま、そこに寝ていた。

 

(……夢?)

 

 試しに自分の腕を抓ってみる。痛みも感覚もある。ではこれは夢ではないのか、と断言もできない。なにせ、北海道の事件がある。五感が全てある夢、明晰夢。仮想現実。では、これはその類なのか。いや、それとも違う気がする。ただ……この場所にいるだけで、呼吸をしているだけで、酷く疲れる。気分が悪い。なんなんだ、ここは。

 

「……ようやく目覚めたか」

 

 不意に響く、低い男性の声。部屋の扉の前に、誰かがいる。それを必死に見ようとしたところで、まったく意味がないのだとわかる。人型だ。けれども貌はなく、全身が煙でできているようだ。風に吹かれてもその場に形を保ったまま漂い続ける、黒煙の人型。見ているだけで吐き気が増す。今までの感覚からして……いや、見た目からでも神話生物以外ありえない。

 

「……誰だ。俺をこんな場所に連れてきて、どうするつもりだ」

 

 武器もない。携帯もない。戦う手段は拳と魔術。勝てるわけがない。いつでも部屋の窓を破って逃げられるように、窓を背にしつつ尋ねる。喉から漏れでる声は、震えていた。

 

「別に、何も。ただ……今は厄介な事態が起きている。私を取り除こうとしている輩がいた。無理やりにでもお前を取り込もうかと思ったが、中々それも難しい」

 

「取り込むって……俺を、殺す気かッ!?」

 

 後ずさり、背中に窓をつける。奴をにらみつけながら、手だけで鍵を外して窓を開けた。それでも奴は近づいてこない。いや……近づく必要がないようにも思える。逃げてもすぐ捕まえられる。余裕そうな態度が、そう物語っていた。

 

「こちらとしても、中々不本意だ。急に呼びつけられたかと思えば、まさかこんな小僧の中に埋め込まれるとは。歪んだ精神性、周りの環境。私の興味の範囲外だ」

 

 言っていることをいまいち飲み込めない。それでも、興味を持たれていないというのは幸いなのだろう。立ち向かうなんて無謀なことはせず、逃げることもせず、対応するのがいいのかもしれない。それでも、いざという時に逃げの一手は使えるようにしておくべきだが。

 

「……だが、興味を引いたこともある。小僧、お前の行動だ」

 

 男がその言葉を発すると同時に、足を形取る煙が霧散していく。そして徐々に身体も揺らめきながら崩れていき……やがて、煙はそこで漂うのをやめて一気にこちらに向かってくる。咄嗟に逃げようとしても、煙の方が数段早い。身体に襲いくる強風。そして、煙が全てなくなった時には……首を締めつけるような感覚が残されていた。鏡で確認してみると、黒と赤が交差するように作られた鎖が首を締めている。

 

「見定めさせてもらう。久々に、退屈しのぎになりそうだ」

 

 鎖から聞こえる声。首輪のつもりか。隷属の証だとでもいいたいのか。逆らったところで何をされるかもわからない。反抗できる状態でもない。仕方なく、この首輪を受け入れるしかなかった。

 

 しかし、行動を見定めるとはなんなのか。考えようとした矢先、部屋の外から懐かしい声が聞こえてくる。

 

「氷兎、起きないと遅刻するよ!」

 

(……母さんの声だ)

 

 逸る気持ちを抑えながら下の階に降りていく。そこには朝食の支度を終え、仕事に行く準備をしている母さんがいた。懐かしい。思わず見続けていたら、怪訝な顔を向けられてしまった。

 

「なんで私服着てるの。学校でしょ?」

 

「えっ、あ……あぁ」

 

「じゃあ、お母さんは仕事行ってくるからね」

 

 そう言ってリビングから出ていく。首輪は見えていないらしい。それと……学校か。組織に入らなければ、今でも通っていたんだろう。自分のしていることのせいで忘れがちだが、俺はまだ未成年だ。変な人生を送っている。

 

「どうでもいいところはそのままにしてある。大切なのは、これからだ。さぁ、さっさと向かえ」

 

「……飯ぐらい食わせてくれません?」

 

「不便な身体をしているな」

 

「一緒のものと考えないでほしい」

 

 何回か首を絞めつけてくる首輪のせいで朝食をとる時間は短く、適当にかき込んでから支度を整えて学校へと向かう。いつも玄関の前で待っている菜沙は、いなかった。

 

 どうでもいいところはそのまま、そう言っていた。じゃあ、菜沙はどうでもよくないのか。学校での行動を見るって、一体どんなものを見たいのか検討もつかない。通学路に何も変化はなく、学校も見た目は何も変わっていない。けれど……自分の教室がある二階にいる人々は、まったく記憶にない人たちばかりだった。それどころか、知っている人が誰もいない。

 

(……まるで転校してきたみたいだ。気が休まらねぇ)

 

 俺は本当にここの生徒なのか、不安になる。すれ違う人、遠くから見る人。皆、変な目で見てくる。それはきっと、この人いたっけみたいなものじゃない。嫌悪だ。中には明確に敵意を向けてくる人もいる。なんだこれは。居心地が悪いとか、そんなもんじゃない。半ば逃げるように自分の教室へと入っていく。その現象は教室の中でさえも変わらなかった。入った途端、皆が俺を見る。晒しものかよ、俺は。

 

(クソッ、俺の席はどこだ……)

 

 記憶を掘り起こして、最後に自分が座っていたであろう机を見る。途端に、背中をぞくぞくとした感覚が駆け抜けていった。俺の机であろうものには、白い花を挿した花瓶が置かれている。それどころか、机の表面は傷だらけだ。下敷きなしではテストすら受けられない。

 

「……俺の席、ここですよね?」

 

 近くにいた女子生徒に尋ねてみる。そしたら、楽しそうに会話していたはずなのに一気に表情を嫌悪感たっぷりに歪めて身を引かれた。そして一言。

 

「そうに決まってんじゃん、気持ち悪っ」

 

 周りの女子生徒がキャハハと笑う。苛立たずにはいられない。けれど、波風立てない方がいいんだろう。これは、何にも接触せずに時間を過ごす方が懸命だ。そう思って自分の机の方へ振り向いたら……頭から、冷たいものが流れてきた。水だ。肩には白い花が力なく乗っかっている。

 

「なに女子に話しかけてんだよ、お前」

 

 右手に花瓶を持ちながらニヤニヤと嘲笑う男子生徒。茶髪で人受けの良さそうな顔だというのに、そんな人を小馬鹿にするような笑い方をしているんじゃ台無しだ。頭に血が上っていたのを冷やしてくれたと思えば、少しは苛立ちも抑えられる。

 

「……人に水をぶっかけたにしては、えらく態度が悪いな」

 

「あぁ? あんだよ、随分と生意気な口きくじゃねぇか」

 

 左手で胸ぐらを掴まれる。随分と前にもこんなことがあった。桜華と出会った時、あの時は大学生かフリーター紛いの不良だったが……。

 

(……コイツ、その不良か?)

 

 顔立ちが似ている。このまま成長してガラの悪さもそのままなら、確かにあの不良と同じようなものになるだろう。

 

 胸ぐらを掴まれても平常心を保っている俺が憎いのか、右手で持っている花瓶を振りかざして、何度かゆらゆらと揺らした。脅しのつもりか。ナイフじゃあるまいし、怖いには怖いが、そこまでだ。ナイフを突きつけられて怯えるのは、ナイフが怖いからか。いや違う。ナイフを持つ人が怖いだけだ。ナイフは恐ろしいものではない。それを履き違えた輩は、これみよがしに見せつけてくる。お前が持っているんじゃ、怖さも半減だ。

 

「花瓶を下ろした方がいいんじゃないか? SNSに載っかっちまう……」

 

 言いながら周りを見回した。そして……絶句する。携帯を構えていることには予想できていたが、まさか教室の中にいるヤツらが、皆笑っているとは思いもしなかった。サーカスの見世物でも見物するように、遠くから携帯を構えつつ笑いながら見ている。なんだ、これは。

 

「ナメた口きいてんじゃねぇよ!!」

 

「っ……っぶねぇな!!」

 

 幸いにも両手はフリーだ。振り下ろされる右腕を片手で抑え、胸ぐらを掴む手を引き剥がしてそのまま脇をすり抜けるように背後に回り込んで押しのける。距離が空いた途端、間髪入れずに男は花瓶をぶん投げてきた。その場から左に飛び退けば、花瓶は壁に当たって粉々に割れてしまった。

 

「おいおい、殺す気かよ。正気かお前?」

 

「生意気な口ばかりききやがって……ウザイんだよ!」

 

 俺の机を蹴り飛ばしてくるが、それを飛び越して回避する。俺相手になら何やってもいいとでも思ってんのか。周りにいた数名の男子生徒が笑いながら近づいてくる。右側から来た奴が右腕を引いて全力で殴りつけてくるのを受け流して押し飛ばし、その場から離れる。

 

 次は二人、左右同時に襲いかかってきた。左からくる顔目がけた拳をかわして、今度は背後から蹴りを入れようとしてくるのを足を上げて防ぐ。また左から来ていたやつが殴りかかってくるが、受け流しからの腕を掴んで背中に曲げて拘束。押し飛ばして右側から来てたやつにぶつけた。

 

「さっきっからウザってぇなぁ! 学校来てんじゃねぇよ!!」

 

 茶髪。多分イジメのリーダー的な役割にでもいるんだろう。まさかの、今度は椅子を持ち上げ始めた。物ぶん投げるとか反則だろう。一昔前のヤンキーかよ。

 

「いやいや、お前バカだろ。素手相手に数で攻めた挙句、物使うとか騎士道精神の欠片もねぇな!?」

 

「気持ち悪いことペラペラ喋ってんじゃねぇよ!」

 

 騎士道だって、笑えるー。なんて言葉が聞こえてきた。ここにいるのは馬鹿ばっかだ。本当に同じ人間かよ。頭チンパンジー以下じゃねぇか。

 

 さすがに椅子はキツイ。とりあえずその場から逃げるように扉にまで移動していたら、身体目がけて本気でぶん投げてきた。他の人に当たったらどうするつもりなんだ。飛んでくる椅子を蹴り落とすのも、抑えるのも不可能。《逸らす》しかない。

 

(……魔術が、発動しないッ!?)

 

 逸らすと心の中で呟いても椅子は挙動を変えることはない。なんとか教室の外に向けて飛び込むように逃げて、受身を取って体制を立て直す。被害をそらす魔術の不発なんて初めてだ。いや……そもそも魔術自体が使えないのか。息をなんとか整えつつ、考えを巡らせる。呪文を小さく呟いてみても、身体の冷えるような感覚はなかった。魔術の使用不可。人間としての身体能力しかない。

 

 色々試そうとしていたら、教室から茶髪がでてきた。つられてぞろぞろと何人か外に出てくる。廊下にも同じような奴がたくさんいた。皆笑いながら携帯を向けている。呆れ、苛立ち。思わず吼えてしまいたくなる。

 

「おいおいどうすんだよこれー。お前のせいで皆の机とかぐっちゃぐちゃじゃん」

 

「知ったことかよ。人に物ぶつけちゃいけませんってお母さんに習わなかったのか?」

 

「はぁ? 何言ってんのお前。いつまでもそんな口きいてんじゃねぇよ!! ド底辺野郎のくせによぉ!!」

 

 ……対話をしている気分にならない。猿に話しかける方が有益だ。苛立たしい。奴らは物をぶん投げたりして発散してるだろうが、こっちはそうじゃねぇよ。避けてばっか、人に対して暴力を振るおうだなんて思っちゃいねぇのに。面白半分で見てる奴、笑ってる奴、無視を決め込んでいる奴。どいつもこいつも……。

 

「うざってぇのはこっちだッ!! テメェら、何様のつもりだ!!」

 

 怒りのあまり窓ガラスに向けて裏拳を放つ。音を立てて割れ、地面へと落ちていく。怯える様子はない。楽しそうに笑っている。いや……馬鹿にしている。

 

「何マジになっちゃってんのこいつ。くっそ笑えるんだけど」

 

「はぁ……?」

 

 茶髪が笑い出すと、周りの奴らも笑い始めた。意味がわからない。なんだこれは。

 

「おい誰だァ! 窓ガラスを割った奴はッ!!」

 

 廊下の奥の方から聞こえてくる怒声。ガタイのいい赤いシャツを着た先生だ。体育教師か何かだろう。なんにせよ、ひとまずは沈静化しそうだ。

 

「せんせー、コイツがやりましたー! 教室の中も全部コイツです!」

 

「なっ……テメェ濡れ衣着せる気か!!」

 

 茶髪はニヤニヤと笑ったまま。ふざけるにしても程がある。イジメじゃない。それよりもタチが悪いこれは、一体なんだというんだ。こんな大人しそうな外見してる奴よりも、あの茶髪の方が絶対おかしいだろ。

 

「唯野、お前がやったんだな!!」

 

「ちがっ……少なくとも教室の中はアイツらがッ!!」

 

「言い訳かぁ? 皆そうだって言ってるだろう! ほら、こっちに来いッ!!」

 

 体育教師が腕を掴もうとしてくる。窓ガラスに関しちゃそうだが、納得いくわけがないだろこんなの。手を払い除けて距離を取ろうとした途端、背後から迫ってきた数名に腕を抑えられた。そのまま地面に倒されて身動きが取れなくなる。

 

「っ……オイ、おかしいだろこれ!! なにしやがんだよ、テメェらッ!!」

 

「口が悪いぞ唯野ッ!! 大人になってそんな口のききかたでは大変だッ!! 俺が叩き直してやろうかッ!!」

 

 体育教師が髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。痛いなんてものじゃない。ちくしょう、体罰だ。逃げようにも身体は動かない。首輪が愉快そうに緩んでは締まるのを繰り返していた。

 

 

 

 

To be continued……




残念ながら、なろうにて連載している『日陰者が日向になるのは難しい』は一次突破すらできなかったので初投稿です。


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第119話 差異トハ

 謂れのない罪を問われ、反論は聞かず、でかい図体と威圧、そして極めつけは暴力。私が悪かったですと言うまで部屋からは出さない。そのうち母さんまで呼ばれてしまった。俺がやった事ではないとはいえ、生徒指導室にいるその姿を見て、どう思われたのか。やはり落胆させてしまったのか。

 

 俺に罪はない。そう思っていても、母さんの見る目が辛くて、苦しい。逃げるように学校から出て、母さんの車に乗って家へと向かう。学校から出る際には、二階からカメラのシャッター音がひっきりなしに鳴っていた。嘲笑(わら)われている。何もないはずなのに……酷く、惨めだ。

 

「……こんなことになってごめん」

 

 運転している母さんに向かって謝ったが、何も返事はない。そのまま家へと帰りつき、母さんはソファに座り込んだ。少し離れて、また俺は謝る。ごめん、と。けれども、反応がない。

 

「……母さん?」

 

 横顔ばかり見ていたが、今度は正面に近いところから顔を見る。途端に、その表情は変わり果てた。鋭い目つきは俺の存在を蔑み、ひそめる眉は不機嫌さを表す。こんな母さんを、見たことはなかった。

 

「どうでもいいから、もうこういうのはやめて」

 

「……どうでも、いい?」

 

 本当に心の底から、そう思っているらしい。俺の母親は、こんな人だったか。いや、違う。この世界は現実といろいろなものが異なっている。ならば、目の前にいる母さんも……。

 

「……なに、その目つき」

 

 姿かたちは母親のもの。その怒るような声も、そっくりだ。少しばかり身がすくんでしまう。けれども、問わなくてはならない。

 

「あなたは、本当に俺の母親なのか……?」

 

 朝学校に行く前、確かに名前を呼ばれた。けれども対応はこの通りおざなりだ。学校にいた不良といい、差し替えられたような人物たちといい……この世界で、俺に何をしろというんだ。

 

「あぁもう、うるさいな……」

 

 その場で頭を掻きむしりながら、近くにあった机を数度荒々しく叩く。そんな母親を見た事はない。整えられていた髪の毛は乱れ、垂れ落ちる髪の毛の隙間から血走った目が俺を捉えた。

 

「あんたなんか、産まなきゃよかった」

 

 拒絶。けれども悲しみはない。母さんはこんなことを言う人じゃなかった。それはハッキリとわかる。目の前の人物がどれほど俺を……いや、俺というキャラを恨み、拒み、蔑んでいるのか。飯は作ってくれたとしても、教育をすることがない。よっぽど、この立場にいた人は酷い環境にいたようだ。飯が食えるだけマシだと思えるかもしれないが。

 

「気がついたか。この世界の真理に」

 

 首に巻き付く鎖から聞こえる声。母親という体の存在から目を逸らし、リビングから出て玄関へと向かう。リビングからは、時折呻き声や物を叩く音が聞こえてきた。

 

「全部、というわけじゃない。学校はまだわからないが、少なくともこの家庭は……当てはめただけなんだろう。その役割に、その姿に」

 

 俺の立場だった子供がいたとして。その子は学校でいじめられ、母親からも疎まれるような存在だったんだろう。仮に気がつくことがなければ、それは俺の心を蝕み、病ませていた可能性がある。けれど、気がついたらそこまでだ。母親でもない他人の言動に、いちいち気を病む必要はない。姿が同じというのは、少しばかり心が痛むが。

 

「……この家庭に関しては、な。その役割に当てはまる人物を適当に選んで姿を変えただけだ。しかし……学校は違う」

 

 あのバケモノの声を聞きながら、靴を履いて家から出ていく。戻るつもりはさらさらない。そのまま適当に近くをうろつきながら、学校の近くへとやってきた。時間の感覚も随分とおかしい。正午ぐらいの時間の経過だというのに、もう夕方だ。この世界で俺の心を病ませるのが目的だとするならば……なんとか、心を保てるように動く他ない。濡らされた制服を脱ぎ捨てて、ワイシャツだけになる。今後どうするのかを公園で考えようとしていた時だ。

 

 公園の隅で何人かの男女の生徒が集まっているのが見えた。遊具も何もない簡素で寂れた場所だというのに、何をやっているのか。見れば、あの茶髪もいる。そしてそれらの足元に転がっているのは……犬、だろうか。犬種はよくわからないが、茶色の小型犬だった。それがピクリとも動かないまま、その場で横になっている。

 

「……何をしてるんだ、お前たち」

 

 近づいてみれば、その犬の有様はなんと惨たらしいことか。口には血の泡がつき、傷だらけで汚れている。腹が上下に動いていない。死んでいるようだ。

 

 その場にいた全員が振り返って俺を見る。その顔は、先程まで笑っていたのだろう。

 

「その犬、どうしたんだ」

 

「あぁ? 誰かと思えばセンコーに連れてかれた唯野じゃねぇか。見りゃわかるだろ、死んでんだよ」

 

「……殺した、の間違いじゃなくてか?」

 

 言った途端、茶髪が近づいてきて顔面を殴りつけようとしてくる。受け流して、距離をとる。苛立っているらしく、先程までの歪んだ笑顔はそこにはなかった。

 

「俺たちが好きなように生きて何が悪いんだよ。テメェも、同じようにしてやろうか!!」

 

 女子生徒は遠巻きに携帯を構えて、男たちは一斉に殴りかかってくる。殴り、蹴り、時には近くに落ちていた石や缶のゴミを投げつけられた。それらが素人の動きで、遅かったからよかったものの……何も習っていない子供に向けたものだったら、酷い仕打ちだ。避けることも、反撃することもできないだろう。幸いにも地面は土だ。殴りかかってきた生徒の腕を掴んで足をひっかけ、そのまま地面に向かって倒す。鎮圧術は少しは身につけたものの……数がキツい。最初は片手だ数えられる人数だったはずなのに、気がつけば両手で数えられなくなる。どこから湧いてきたのか。

 

(……無理だ。こんなの全員相手になんかしてられねぇ)

 

 犬の件はともかく、逃げた方がいい。退路を作って逃げようとした時だ。

 

「ッ……!?」

 

 近くにいた生徒の一人が顔目がけてスプレーを吹きかけてきた。咄嗟に目を閉じるも、目に痛みを感じ始める。数秒もしないうちに、それは激痛へと変わり始めた。目も開けられない。両手で目を塞ぎ、苦痛に声を漏らす。

 

(ふざけんなよ……こんな、イジメに催涙スプレーなんか使いやがってッ……!!)

 

 何も見えなきゃ対処もできない。笑いながら近づいてくる生徒たちの拳や足が身体を痛めつけていく。助けを呼ぶ。でも、誰に。無理だ。逃げようとしても近くにあった段差でコケてしまう。転んでしまえば……腹に向けて蹴りを入れられた。息すらまともにできない。

 

「がっ……ぁ、ぅ……」

 

 シャッター音が鳴り響く。笑い声が聞こえる。水をかけられる。これは、なんだ。この連中は……血が通っている人間なのか。

 

「……何故、反撃をしない」

 

 バケモノは問いかけてくる。苦しくて声も出せない。そんな俺の心でも読んだのか、馬鹿にしたように笑われた。

 

「力を持つものが無闇に振るってはいけない? お前の目は節穴か。目の前の連中を見て、それでもそう答えるのか」

 

 強くなったところで、扱い方を間違えたら何もかもおしまいだ。だから、殴らない。蹴らない。反撃をしない。それが、正しいはずだ。

 

 どれほど時間が経ったのかわからないが、目は開くようになった。視界に映るのは、笑っているモノたち。目を開けれることに気がついたらしく、今度は顔目がけて蹴りを入れられた。痛み、もうそこまで感じられない。けれども……けれども……。

 

「怒り。心の中で揺らめくソレを解放してしまえばいいではないか。殴られたのだ。殴り返せばいいだろう。蹴られたのだ。蹴り返せばいいだろう。尊厳を損なったのだ。お前は……目の前の連中の尊厳を、奪ってもいいはずだ」

 

 薄れていく視界に映るのは、近づいてきた誰かが短い棒のようなものを振り上げている姿。ソレが……力強く、足に突き刺される。

 

「──────ッ!?」

 

 途端にクリアになる視界。足に突き刺さっているのは、カッターだ。痛みのせいで腕が動かない。足に突き刺さるソレを取れない。逃げるように視線を動かしてみたら……公園の入口付近で立っている女子生徒を見つけた。短めの髪の毛に、メガネ。その様子は見てはいけないものを見て、見てない振りをしようとしているようだった。彼女に向けて、必死に手を伸ばす。

 

「な、ずな……」

 

 伸ばした手は踏み潰される。彼女はその場から逃げていく。笑われ、蔑まれ、逃げられ。これは……なんだ……。

 

「現実だとも」

 

 声はそう断言する。地面の土を爪で抉るように握りしめ、心の奥底で震えて暴れだそうとしているソレに身を任せてしまいたくなる。また……腹を蹴られて動けなくなった。

 

「だっせぇー。見てみろよコイツ。泣いてるぜ!!」

 

 こんなに殴られたら、誰だって泣く。俺じゃなくとも、お前だって……。目の前の男を睨みつけながら、呪詛を吐く。

 

「ふざ、けるなよ……」

 

 同じ目に遭わせてやりたい。苦しませてやりたい。殴られ、蹴られ、泣くその姿を写真に収め、バラ撒き、笑い、ひれ伏すその姿を……嘲笑(わら)ってやりたい。

 

「すればいいじゃないか。人間とは独善的な生き物だ。お前のその願い、それを否定する理由がどこにある?」

 

 鎖がカタカタと音を立てて、そこから煙が立ち昇っていく。

 

「お、おい……なんだよこれ……」

 

 生徒たちにどよめきが広がる。その煙は人型になり、やがて俺を見下すようにその場で立っていた。

 

 ペリッ。ペリッ。何か、紙を引きはがすような音が聞こえてくる。

 

「力を持つものが正義。容姿に優れたものが有利。大多数で少数を揉み潰すのが絶対的」

 

 俺の足の方から聞こえてくる。ペリッ。ペリッ。ペリッと。何か、紙切れのようなものが宙を漂って、黒煙の人型の足に貼り付いていく。

 

「人外は同じように動くのか? お前たちのような穢れた心を持ち合わせない彼らは、きっとこんな精神的に痛めつけ、肉体的に損傷させることはしないだろう」

 

 ペリッ。ペリッ。足の方から次第に上へと登ってくる。黒煙の人型は、やがて煙ではなくなっていった。靴が見える。そして、制服のズボンの下の方まで……。

 

 視線を自分の身体へと向ける。宙を漂うその紙片は……俺の、身体だった。自分の足は既に黒煙へと変わり果てている。下の方から徐々に存在が剥がれていき、目の前の黒煙へと貼り付けられる。

 

「人間とは霊長類ヒト科という獣の名だ」

 

 下半身は既に黒煙へと変わり、やがて上半身もなくなっていく。存在が、変わる。消えてしまう。そんな恐怖に声が漏れ出るが、目の前のバケモノは何も気にしていない。

 

「お前が殺してきた神話生物と、何が違う? 神話生物とて言葉を話す。二足歩行で歩く。道具を扱える。人と、神話生物。差異はどこにあるのだ?」

 

 うるさく感じるほどに、身体から存在が剥がれ落ちていく。聞きたくない。両耳を塞ごうとして両手を動かしてみたら……煙のような両手が目に入ってきた。目の前にいるのは、学生服のズボンにワイシャツを着た、顔が煙のような男。

 

「では、お前に問おう」

 

 肌色の首が、顎が、口が、目が、髪の毛が。そこにいたのは自分と瓜二つ。口元を歪め、嘲笑(わら)う自分自身。俺の身体はなくなり、そこにあるのは煙の塊。痛みも、感覚もない。寒い。冷たい。苦しい。

 

「───お前は、何者だ?」

 

 あぁ。あぁ……。自分の身体すら持たず、その問いに答えられない己は……。

 

「アァァァァァァァァッ───ッ!!」

 

 黒煙が叫ぼうとも、誰も気づかない。目の前にいる男は愉快そうに笑っていた。

 

「差異がないのならば、この姿でいる俺は紛れもなくお前自身。ならばお前は私か。どちらも、バケモノも人間も、ただのケダモノに過ぎぬ。この世界を見よ。紛うことなき現実だ。いた場所は違えど、この者たちは実在する人間だ。その心だ。これを見て、まだ人間の方が素晴らしいと宣うのか。人間であることを誇らしいと胸を張るのか」

 

 その場で振り返り、様変わりした男の姿に怯んでいた生徒たちを見回す。煙がその右手に集まり、黒槍へと変わる。

 

「怒り。恐怖。悲しみ。私が俺だという証に、代行してやろう。お前の、殺意を───」

 

 近くにいた男子生徒の腹に槍を突き刺す。血反吐を吐き、蹲り、動かなくなる。蜘蛛の子を散らすように皆逃げ始めた。けれども公園から外に出ることは叶わない。入口は煙のようなものによって遮られている。否、公園自体が外界から隔絶されていた。逃げ惑うソレに槍を刺し、悲鳴をあげるソレの腕をねじ切り。助けを乞うソレの頭から槍を貫通させ、串刺しにし、ソレらが集まる場所へと投げ捨てる。手頃なソレを捕まえて、腹に蹴りを入れ、地面に転がったら再度蹴りつける。水をかけるために持ってきたバケツに水を満たし、そこにソレの顔を押しつける。足で頭を押さえつけ、数秒ごとに呼吸をさせてはまた水につける。

 

 狂っている。人間の所業ではない。

 

「そうか。本当にそう思うのか?」

 

 俺は、笑いながらそう言ってくる。

 

「お前がやられた仕打ちを思い出せ。水をかけられ、花瓶を投げつけられ、椅子を投げつけられ。蹴られ、殴られ、刺され。それらがひとつひとつ間を置いてあったが……通算したらどうなる? それらが一度に身に受けたらどうなってしまう? 少しずつのイジメなら許容される? 死なないなら何度繰り返しても良い? なぁ、俺は痛みを返しているだけだ。やられた痛みを、その程度を、そっくりそのまま。俺たちの言葉で、こういうのだろう。自業自得、とな」

 

 嘲笑(わら)う。高らかに、楽しそうに、愉悦を感じながら。

 

「俺はお前。お前は私。私は全。全は私。その身に降りかかる災厄を、全て己に返還させよう。なぜなら私は……お前だからだ」

 

 その場にいるソレらに指を差し向け、同じだと告げる。災厄を、痛みを、全て返そうと。

 

「なぁ、小僧。死にたくなかろう。その隣のヤツを差し出してみたらどうだ?」

 

 茶髪に歩み寄り、伝える。死にたくないと嘆いた茶髪は嬉嬉として隣にいたソレを差し出した。同じく、死にたくないと嘆いている。泣いている。ソレの足に槍を突き刺し、蹴りを入れ、頭を槍の側面で殴りつける。

 

 そして今度は茶髪の髪の毛を掴み、足が地面から離れる高さにまで持ち上げた。表情は絶望一色。

 

「なんで、やめてくれ! アイツを差し出したら、助けてくれるんじゃないのかよ!」

 

「助けるとは一言も言ってない。お前の希望的観測だろう。罪は重なる。より凄惨に、より陰湿に、惨たらしく……」

 

 公園の中心付近に茶髪を投げ捨てる。そして逃げ腰なソレらに向けて、これ以上ないくらい笑顔で告げた。

 

「あの男に報いを受けさせろ。お前たちがここにいるのはその男に誘われたからだろう? 仲間にいなければ、こうはならなかった。原因は奴だ。死にたくないだろう。ならば、ならば……あぁ、助けてやろうとも。やりたくなくても、やらされていたとしても、俺は許してやろう。さぁ、報復だ。復讐だ。その鬱憤、恐怖、晴らすといい」

 

 誰も動かない。けれど、しばらくしたら一人、また一人と動き出す。目指すは茶髪。蹴り、殴り、嬲り。お前のせいだと糾弾する。

 

 お前のせいだ。死にたくない。悪いのはコイツだ。俺は悪くない。違う。全部、全部……。

 

「愉快、愉悦。人間性どころか猿より劣る。お前の守るべきモノとは、なんだ。俺が命を張るモノとは、こんなものか。なぁ……どうなんだ?」

 

 俺が俺を見つめる。愉快そうに笑うその姿。血を見て笑うその姿。残虐に人を殺すその姿。怖い。ソレが自分に向けられると思うと、怖くて怖くて仕方がない。

 

 誰も殺すことはできない。それは己自身。殺ったら殺り返される。どうやったら消せる。その方法は、単純明快。己の消失。全人類の死亡。お前がいなくなれば俺も消える。簡単な、答え。ソレは、どうしようもなく恐ろしい……

 

 

 

 

 ……ニンゲンというバケモノだった。

 

 

 

 

「──────」

 

 地獄のようなその様を、ずっと見続けるのかと思っていた。ところが、どこからともなく現れた鎖が腕の部分に巻き付き、そのまま天へと運んでいく。光だ。暖かな光が身体を包み込んでいく。

 

「逃げられはしない。お前は人間か。お前はバケモノか。その答えを聞かせてもらおう。認めてしまえ。お前は純粋な人間とはかけ離れたモノなのだ」

 

 暇つぶしとばかりにその場にいたソレに槍を突き刺して嘲笑(わら)う、己の姿。俺は何者なのか。私は何者なのか。ソレは人間か。ソレはケダモノか。

 

 この身を恐怖が埋め尽くす。アレは、人間が誰しも内包する残虐性。外に出しては……いけないものだ。

 

 

 

 

 

To be continued……




書き終わって思った。
なぁにこれぇ……。


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第120話 望ムベキ理性ト本能

 朦朧とする意識の中、暖かい光に包まれていた氷兎はなんとかして目を開けようとする。飛び込んでくる光が眩しく、しかし数秒もすれば目が慣れてきた。ベッドから体を起こして周りを見回す。白いカーテンで区切られたこの場所は医務室だった。とりあえず外に出ようと思ったところで、右手が動かないことに気づく。見れば、菜沙が腕を掴んだままベッドの端に頭を乗せて眠っているようだ。どうやら現実に帰ってこれたらしい。先程までの身が凍りつくような恐怖感は拭いされないが、それでも帰ってこれた。その事実は心に安寧をもたらし、深いため息をつく。

 

「……菜沙」

 

「ん……ひー、くん?」

 

 名前を呼ぶと、菜沙は眠たそうな目のまま起き上がった。そして氷兎を見るなり、またひーくんと名前を呼んで抱きついてくる。首に手を回して、離さないとばかりにキツく締め付けてられた。首筋に菜沙の涙が垂れていく。氷兎は彼女を優しく抱き返しながら、その温もりに身を委ねた。

 

「氷兎ッ、起きたのか!?」

 

 カーテンが勢いよく開かれ、そこからは見知った顔が現れる。翔平に西条、桜華と藪雨に玲彩まで。無事に起きた氷兎の姿を見て、翔平は感極まって涙を浮かべ始める。

 

「良かった……お前、そのまま起きないんじゃないかって……」

 

「……何があったんですか」

 

「簡潔にいえば、神話生物騒動だ。話すには少々内容が濃いがな」

 

 西条が手短に何が起きたのかを説明していく。玲彩は今回何も力を貸すことはできなかったが、流石に知り合いがこんな状況になっていては様子を見にこざるを得ない。聞けば聞くほど、とんでもない状況だったということに皆苦々しく顔を歪めていた。

 

「氷兎君は、大丈夫? どこか痛かったりしない?」

 

「痛くは……ないけど」

 

「せんぱいったら、心配かけ過ぎですよ! 身の回りのお世話とか大変だったんですからね!」

 

「お前は飯たかりに来ただけだろう」

 

「掃除と洗濯したのは私ですーっ!」

 

 西条と藪雨がいつものように軽い口喧嘩を始める。そんな光景を見て、やっと帰ってこれたのだと実感できた。未だに離れようとしない菜沙の頭を撫でながら、西条に聞かされた情報を頭の中で整理していく。ニャルラトテップ。自分の中にその化身と呼ばれるモノがいること。それは人の負の心を基に産まれてきた存在であること。その行動原理、理屈の通じなさ、嫌でもわかってしまう。あの夢のような場所で相対した、あの煙の塊のような……いや、それよりも前。海中で目にした多数の触手を持つアレこそが、化身なのだと。

 

「君は、助けられてから随分と眠っていたよ。時々うなされたり、涙を流したり……何があったんだい?」

 

 玲彩の言葉に、氷兎はなんて返すべきか迷う。正直に全て話してしまうべきなのだろうか。けれども……怖い。それを話してしまえば、自分が純粋な人間ではないかもしれないと思われてしまう。排他すべき、神話生物と同じようなものだと。でも……心の中にしまっておけるようなものじゃない。不安と恐怖。それらが氷兎の心を確かに侵し、ジワジワと火で炙るように壊していく。

 

 呼吸が少しずつ浅くなっていく。話してしまえば、楽になれるのか。後戻りできなくなるだけじゃないのか。そんな悩みのせいで、言葉が出ない。なかなか話し出さない氷兎を、皆怪訝に見始めた。何があったのか知りたい。皆そう思っていた。

 

「……嫌な、モノを見ていました」

 

 氷兎の精神は歪んでいる。表立って見えないだけで、しかし確実に。周りの空気、状況、それらを汲み取ってしまう彼は、心の中にある不安を止まることなく零していく。あの惨劇を。あの残虐性を。あの痛みを。それらを話し終え、やがて自分自身についても話し始めた。最後に問われたこと。己は何者なのか。人か、神話生物か。そのどちらでもない、半端者なのか。

 

「ひーくんは、ひーくんでしょ」

 

 すぐ耳元で、菜沙の声が響く。彼女は身体を少し離すと、氷兎と向かい合わせになり、目を合わせる。揺らぎない彼女の瞳から、思わず氷兎は逸らしてしまいたくなった。けれども彼女はそれを許さない。

 

「ひーくんが変わってしまっても、私にとってのひーくんは変わらないよ」

 

「……菜沙」

 

 あぁ、違う。違う。そうではないのだ。彼女の言葉に嬉しく思いながらも、叫んでしまいたくなる衝動を抑える。この恐怖や不安は、そんな生易しいものではない。拭いされるものではない。自分が自分でなくなる恐怖など、当事者以外にどう理解できるというのだ。周りに当たり散らしはしないが、氷兎の顔は苦痛に歪む。

 

 あの時の、恐怖。虐められる中、菜沙に手をさし伸ばしても、彼女はその場から立ち去った。仮にそれが、彼女の心だったとしたら、その言葉は……。

 

 両手を握りしめ、歯を食いしばる。それでも、氷兎の身体は震え始めてしまった。彼の理性も、本能も、それを拒絶しようとしている。

 

「……ごめん。ちょっと先輩と西条さんに話したいことがあるんだ。加藤さん、申し訳ないですけど……菜沙を、頼みます」

 

「ひーくん……?」

 

「……わかったよ。ほら、私たちがいたんじゃ話しづらい内容なんだろう。皆外に出るぞ」

 

 玲彩が菜沙の手を引いて医務室の外へと向かっていく。それについて行くように、桜華と藪雨も外へ向かう。菜沙の非難するような目が、氷兎の心を強く痛めつけていった。けれども、彼女に話せる内容じゃない。

 

 残された二人は仕切るカーテンをしめると、近くにあった椅子に座って話を聞く体勢に入った。ニャルラトテップという存在が、どれほど恐ろしいものであるのか。彼らは知っている。そしてその化身の危険性も、話した内容だけでおおよそ理解はしていた。

 

「……アイツは、殺せません。多分、どう足掻いたとしても無理です。誰でもない故に、誰でもある。ナイのにアル。そんな矛盾だらけの化け物です。見た能力は、至って単純な……自業自得という名にふさわしいもの。傷を与えたら、その分返ってくる。そして奴自身はその他大勢の人類でもある。だから……死なない。個人でありながら全人類でもあるアレを、人間は殺すことができない」

 

「聞けば聞くほど、厄介な相手だ」

 

「そんなのが氷兎の中にいるってのが……なんとか、ならねぇもんなのかな」

 

 両腕で身体を抱きしめるようにして震えを抑える。翔平も西条も彼の身に起きていることを憂いているが、氷兎はなんで俺が、とは思っていない。いや、そんなことを考えられる余裕がない。思考の大半は恐怖で埋め尽くされる。それは、己の境遇を嘆くのではなく……ただ、あのバケモノが恐ろしくて仕方がない。誰も勝てない。誰も殺せない。

 

「……先輩、俺のお願いを……聞いてくれませんか」

 

 声が震える。身体の震えは既に歯止めが利かない。怖い。怖くて、怖くて、仕方がない。自分の存在が他者を害する。自分の身勝手で、取り返しのつかないことになる。周りの望む、正解を。それを、選ばなくてはならない。

 

「どうか、俺を……殺してください」

 

 それが、世界中の誰もが望む正解のはずだから。口にしてしまえば、涙が溢れて零れていく。みっともなく、服の袖で拭い去りながら、殺して欲しいと懇願する。

 

 頼まれた翔平は、頷けるわけがなかった。立ち上がり、氷兎の近くに寄って考え直せと伝える。

 

「お前……なに馬鹿なこと言ってんだよ! できるわけねぇし、死なせるわけねぇだろ!」

 

「馬鹿なことを言ってるのはあなただ!! あなたは、何も知らないでしょう!! あの恐ろしさを、産まれでてしまえば誰にも止めることはできない、あのバケモノを!! これが、正しいんですよ!! アレは絶対にッ……この世に、出てきちゃいけないんですよッ!!」

 

 堪えることのできない氷兎は、泣き叫び、怒鳴り散らす。これが正しい。こうしなきゃいけない。怖いから。自分の心が負けてしまえば、全人類にとっての天敵が産まれてしまうから。そんなものを抱えて生きるなんて……無理だから。だから殺して欲しいと懇願する。今のうちに、産まれてこないうちに、己ごと消し去ってくれと。

 

「……生誕を祝福されぬバケモノか。確かに、正しいのだろうな。全を助けるために一を犠牲にする。関係のない者からすれば、さっさとそうしろと言わんばかりだろう」

 

 椅子に座ったまま、成り行きを見ていた西条が話し始める。眼鏡の向こう側から睨みつける眼光は鋭く、その言葉は氷兎の言動を否定しない。まさか、殺すつもりなのか。翔平は西条に詰め寄ろうとするが、彼は言葉を続けることによって制した。

 

「だが、それは正しいだけだ。お前の意思はどうなんだ、唯野」

 

「そんなもの、さっきから何度も……!!」

 

「それは本当に、お前の意思なのか?」

 

 西条も立ち上がって、ベッドのすぐ側まで近寄ってくる。彼は唯野 氷兎という人物の歪みについて気づいていた。周りに対して己を変化させる、己を騙し通す才能。基本的に彼は周りの状況を把握し、その状況下における正しさというものを模索し、周りの人物含めた全てを掌握して結果に導こうとする。だからこそ、西条は尋ねるのだ。それは氷兎の本心ではなく、正解という答えを述べているだけではないのか、と。

 

「周りに合わせるばかりで、本来の己を見失う。誰でもないが故に、誰でもあるニャルラトテップからすれば、格好の獲物だろうな。その精神性が似通っているのだ。周囲の望む答えを、正解を選ぶ。その人物にとって、正しいと思われる言葉をなげかける。ならば、今のお前が考えているのは全人類にとっての正解か。なんともまぁ、馬鹿馬鹿しい」

 

 それが正しいはずだから。そうするべきだから。その悉くを、西条は否定する。

 

「己を騙すな。正解の道に逃げようとするな。苦しみから目を背けるな。自分と向き合えない輩が……全人類と向き合おうなんぞ、馬鹿げた話だと思わんのかッ!!」

 

 一喝。覇気すらも感じられる彼の言葉に、氷兎は身を凍らせる。震えが止まり、溢れていた涙もまた止まる。それでも……怖いから。これは、本能だ。本能もまた恐怖しているのだ。まして理性なんてものは、死ぬべきだと断言している。それが正しく、それ以外は間違っている。彼はいつだって、本能ではなく理性を選ぶ。だからこそ、また彼は口を開き、俯いて弱音を吐くのだ。

 

「俺、は……死ぬ、べきで……」

 

「愚か者がッ!! 何度言わせれば気が済むのだ貴様は!!」

 

 西条の手が氷兎の前髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。揺れる瞳。恐怖で青白くなった貌。震えている身体。それはとても過酷な道だ。常人が耐えられるものではないのかもしれない。それでも、彼は問いかける。

 

「貴様のッ、意思はッ、どうなんだッ!!」

 

 髪を掴む手のせいで、氷兎は顔を逸らせない。西条の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、心の中で言葉を反芻させる。己の意思。自分自身の意思。本能も理性も、同じく恐怖に怯えている。

 

「俺、は……俺は……っ」

 

 理性は拒む。その生誕を。その存在に怯え、消し去るべきだと願っている。そのために、この身を犠牲にしようと。

 

 本能は拒む。理性と同じく、恐怖し、怯えている。ただ、そこに差異があるとするならば……。

 

「……いです……」

 

 バケモノを見て、人間は怯える。理性はバケモノの危険性を考え、その存在に怯える。だが本能は。もっと単純で、動物としての根本にあるその機構が怯えるのは……。

 

「死にたくっ、ないです……」

 

 訪れる、死への恐怖。生きる以上避けられないもの。誰しもが抱え持つ、簡単な答え。死にたくない。ただ、それだけ。

 

「……それでいい」

 

 静かに、そう答えた。彼の髪の毛から手を離して、先程よりも量を増して流れ落ちる涙を見ながら、彼にしては珍しくそっと微笑んだ。

 

「どうしようもなくなったら、その時は俺が殺してやる。だから、それまで……足掻け。醜く、生にしがみつけ。お前が、自分が人間であると主張できるようにな」

 

 それは西条に課された使命でもある。果たしたくはないが、その場面になったらしなくてはならない。氷兎のためにも。

 

 西条の言葉に、とうとう声すら堪えきれなくなる。あぁ……あぁっ……と泣き声を上げる。そんな彼に寄り添って、翔平は手を握る。それくらいしかできないから。

 

「……抱えきれなくなるまで、一人で背負い込むなよ。俺が一緒に、背負ってやるから。頼りないかもしれないけどさ」

 

「お前が背負ったところで、重荷に潰れるのが関の山だろうに」

 

 西条が翔平を鼻で笑う。そしてカーテンを開いていけば、医務室の扉からそっと覗き込んでくる心配そうな面々が見えた。それらを見せるようにしながら、彼は言った。

 

「一人や二人では無理でも、ここには少なくとも五人はいる。お前の結んできた縁だ。人間らしくありたいと願うのなら、頼れ。一人で全てをこなすのは無理なのだ。人という字のように、結んだ縁が切れないよう……生き続けろ」

 

 西条の言葉に、いつかイグに言われた言葉を思い出す。

 

『どうか、人の心を捨てぬように。汝の力は周りに影響を及ぼす。人との関わりを絶つな。そして……例え絶望に苛まれようとも、諦めずどうするべきなのかを考えるのだ』

 

 その言葉の意味が、ようやく理解できた気がした。氷兎は溢れ出る涙を強引に拭いながら、不器用に笑おうとする。まだ大丈夫。まだ、平気。握られた手を強く握り返しながら、ありがとう、とお礼を返す。結ばれた手も、西条によって荒々しく頭を撫でられたその手も、確かに暖かかった。

 

 

 

 

To be continued……




日間ランキング18位になったりして、より大勢の人にまた見てもらえました。ありがとうございます。そしてまた、これからもよろしくお願いします。

よろしければ、ハーメルンにも『日陰者が日向になるのは難しい』というヒューマンドラマを投稿したので、硬っ苦しい文章ではありますが……興味が出たら、読んでくれると嬉しいです。


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第121話 影と過去

おまたせしました。
前回から2ヶ月もあいてしまったので、前回までの簡潔なあらすじを……。

西条と藪雨をくっつけるべく奔走する氷兎と翔平。けれどもドリームランドでドッタンバッタン大騒ぎ。
ノーデンスに襲われ、氷兎の存在がこの世から消え去ってしまう。
取り返すべく、西条と翔平、桜華がドリームランドへと乗り込んで、戦いの末見事に氷兎を奪還する。

けれども氷兎は、自分の中にいるバケモノと相対して、精神的に参ってしまう。殺してくれと懇願するも、西条によって、生きたいと思ってしまった。

だが、氷兎は悩み続ける。自分の存在と、中にいるバケモノ。それと向き合えるのかどうか……。


 深い水の底に落ちていくような、そんな嫌な圧迫感と浮遊感を感じながら、夢から飛び起きることが最近増えた気がする。季節はもう涼しくなってきているのに、寝汗も酷く、動悸まで早くなっていた。

 

 起きてすぐに洗面台に向かって、鏡に映る自分の姿を見る。暗い瞳、目元の隈、覇気のない顔。嫌になってすぐに目を閉じる。すると瞼の裏に……細く赤い輪郭で嘲笑(わら)っている誰かの姿が見えた。

 

「っ……!!」

 

 咄嗟に目を開けて、驚愕と怯えに染まった鏡の中の自分を見る。大丈夫、瞼の血管が何か別のものに見えただけだ。そう思いつつ、口の中を水でゆすぐ。そして顔も水で洗い流し……びしょ濡れのまま、また鏡を見あげる。

 

(……影、が)

 

 鏡の中にいる自分の身体に、黒く細い手の影のようなものがまとわりついている。慌てて自分の身体を見てみれば、自分の体から伸びる影が不自然に動いて身体をよじ登ってきていた。

 

(なんだよ、これ……)

 

 声を上げて先輩を呼ぼうとしても、声が出ない。伸びていく影はやがて首元にまで達して、締め付けるように両手で巻き付く。

 

 息が苦しい。漏れ出る声が耳に響き、自然と目が閉じていきそうになる。そして目に入った鏡の中の自分は……真っ黒な人影に変わり果て、口だけが真紅の血のように鮮明な三日月を描いていた。

 

「っ、げほっ、げほっ……」

 

 急に苦しくなくなって、息ができるようになった。何度も何度も呼吸を繰り返しながら、壁に背中をつけつつ鏡から離れていく。こんな場所に留まりたくない。脱衣場の扉を開けようとしたところで、身体の違和感に気づく。

 

 首を絞めていたのは、影でもなんでもなく……自分の手だった。

 

「………」

 

 足元に視線を落とす。足から伸びていく影は、ハッキリと自分の輪郭を描いていながらも……時折愉快そうに揺れ動くのだった。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 ノーデンスという神話生物に連れ去られてから、いや……自分の中にいるあのバケモノを認識してから、周りに見えるものが何もかも恐ろしいモノに見えてしまう。鏡に映る姿は、以前夢の中で見たあの不定形の触手のような姿に見えたり。起きた時には自分の影が目の前にあって、その口元が嘲笑(わら)っていたり。窓にいくつもの手形や、何かが這いずった跡のようなものが残っているように見えたり。少なくとも……まともな精神で耐えられるものじゃなかった。

 

 あまりにも憔悴仕切っていた時は、部屋に置いてあった鏡を叩き割ってしまったし……精神的なものなのか、それともあのバケモノによる弊害なのか。

 

 鏡の置かれていない部屋で、いつものように珈琲を啜るのがどれだけ幸せなことか。部屋の中にいるのは先輩だけ。それでも、近くに先輩がいてくれるのだから、これ以上怖がることはないだろう。少なくとも、今は。

 

「……先輩、少し聞きたいんですけど」

 

「ん、どうした?」

 

 マグカップを時折かたむけながら、先輩はスマホゲームに勤しんでいる。それでも話しかければ、目だけを向けてくれた。いつもと変わりないその姿に、つい安心を覚えてしまう。

 

「……自分の影が鬱陶しいって、思ったことないですか」

 

「影って……言われてもなぁ」

 

「いつもいつも付き纏って、離れない。どう足掻いても逃げることはできない。暗闇にいると……膨れ上がるのが、なんとなく嫌だって思うんです」

 

「影……影かぁ……」

 

 先輩はまた珈琲を啜り、俺も同じように珈琲を飲む。しばらくしてから考えが纏まったのか、先輩は天井のLEDライトによって作り出される自分の影を動かしながら話を続けてきた。

 

「確かに、離れてくれないよな。生まれた時から、形を持ってしまった時からコイツはずっとついてくる。離れることなんてない。でも俺は……鬱陶しいとも、嫌だとも思ったことはないよ」

 

「……そう、ですか」

 

「あぁ。影はずっと足の裏にくっついてる。時に手に、時に身体に。寝そべったら自分の全身にくっつく。それってよく考えたらさ……自分を支えてくれてるって思えないか?」

 

「支え、ですか?」

 

 正直そんなふうには思えない。目を離せば首を絞めてくるような影だ。逃げられるのなら逃げたいと思う。

 

 今だって、椅子に座る自分から伸びていく影は……俺の目には、辛うじて人の姿を保っているようにしか見えない。

 

「生まれた時からずーっと一緒にいる存在なわけじゃん。歩く時だって、ジャンプして着地する時だって、コイツは俺の足を支えてくれてる。つまり……自分という存在の過去だって言えるものじゃないか?」

 

「コイツが過去、ですか。とてもそうは思えませんけど」

 

「誰も見てないことでも、影はずっと見てくれてる。過去の出来事も、過去の罪も。だから今こうして、俺はここに立っていられるんじゃないかって思えるよ。影を見る度、自分の罪を思い出せ……ってね」

 

 苦々しく笑う先輩の言葉は、どうしても腑に落ちない。怖いものは怖いのだから。どこに行くにも付き纏って、生まれた時からの自分を知っているのだとしたら……この影が、いつか自分に取って代わることだってあるじゃないか。そんなの、恐怖でしかない。

 

「……氷兎には何に見えてるのかはわからないけど、俺からすればコイツは生まれた時からいる、無口なもうひとりの自分だ。恥ずかしいことでもなんでも、コイツは知ってるんだよ」

 

 どこか恥ずかしそうにしながら、珈琲を飲んで苦々しく顔を歪める。物思いにふけるように、先輩はどこを見つめるでもなく部屋の遠くの壁の方を見ながら話し始めた。

 

「俺は昔、女の子を叩いたことがある」

 

「……先輩が?」

 

「あぁ。つっても、そんなに酷くじゃない。いや、あの時は大人に、女の子は受ける痛さが違うだのどうのと言われたが……それでも、俺が叩いたことには変わりない。お互いまだ中学生で、初めてできた恋人同士。何もかもが未知で、楽しくて、そして……若かった。我慢とか、嫉妬とか、そういったもんをやり過ごすことが上手くできなかったんだ」

 

 その光景は、今の先輩からは考えられない。彼女がいたということに驚きはしないけれど。なにしろ、顔はそれなりにいいのだから。

 

 とはいえ、お互い中学生で初めての恋人。我慢できないというのも、何となく分かるかもしれない。高校生くらい、それよりも後になって、物事をちゃんと考えられるようになる。後のことを考えられるようになってようやく、ちゃんとした付き合いというのができるのかもしれない。

 

「……手を上げるような奴には見えないって?」

 

「えぇ、まぁ……」

 

「そう見えてんのなら、きっと良いんだろうな。俺はちゃんと、少しは成長できてるんだろ」

 

 身体をぐっと伸ばして、椅子を後ろ向きに若干傾けていく。バランスを保ちながら後頭部で手を組んで、天井を見上げながらどこか懐かしそうに顔を緩めた。

 

「俺たちは結局、現実っていう舞台の上で、自分らしさを演じる役者に過ぎない。そんな言葉を、どっかで聞いたんだ」

 

「役者ですか」

 

「そう。優しい人間の方が演じやすい。傲慢な人間の方が生きやすい。そうやって演じてるんだよ。演じやすい自分を、な。だから俺は……せめて人には優しくあろうと、その時に決めたんだ。優しい自分を、俺は演じ続けていた。その結果が、今お前の前にいる俺だよ」

 

「自分を演じる……なんとなく、わかるような気もします」

 

 人を騙すのも、自分を騙すのも、演技に近いものだ。役になりきるのは生きるのに必須な技能なのかもしれない。

 

 生きやすい自分を演じる。それこそが自分らしさだと、先輩は言う。元の先輩がどんな性格をしていたのかはわからない。けれど、きっと大差ないように思える。

 

「……周りの人にも、親にも、随分と迷惑をかけちまった。その時の恥だとか、苦い想いだとか、今でも鮮明に思い出せる。例え記憶の片隅に置いてきちまっても、俺は影を見る度に思い出す。泣いて悔やむ自分を、ずっと見つめ続けてくれたんだからな」

 

「影は自分の過去を知っていて、いつも支えてくれる土台。先輩がそう捉えられるのは、やっぱり良い人生を歩んできたからじゃないですかね」

 

「歩んでるよ、今もな。100パーセント良いかって言われたら首傾げるけど」

 

 にひひっと笑ってから、照れを隠すように珈琲をすする。そんな先輩の笑う姿を見て、羨ましいと思えてしまう。この人は、普通の人だ。俺や西条さんなんかとは違って、普通に生きて、普通に生活して、普通の人間が背負うような苦楽を経験してきた人だ。

 

 それが羨ましい。そしてここまで優しくなれるように生きてこられた、この人の努力を……きっと評価できる人は少ないんだろうけれど。

 

「二度と同じ過ちは繰り返さない。そんな戒めも、この影は覚えていてくれる。だから俺は怖くないよ。影は土台で、恐れるべきものじゃない」

 

「……それでも、まだ、俺は……」

 

 いつかこの影は、自分という形をなくしてしまう。そう思えて仕方がない。そうなった時に俺の過去は消えてしまうのか。土台の役目はなくなり、影は俺を蝕み、やがて成り代わってしまうのか。

 

 足の先から伸びていく影は、未だに揺れ動いているように見える。

 

「怖いならさ、俺の影を踏めよ」

 

「えっ……?」

 

 突然言われたその言葉に、意味を理解できず聞き返した。先輩は格好つけてるつもりなのか、ニヒルに笑いながら足でトントンッと地面を踏みつける。

 

「お前一人支えるくらい、俺の土台はしっかりしてるつもりだぜ? だからさ……いつだって近くにいろよ」

 

「……先輩の発言がホモホモしい」

 

「真面目に話してんのに、お前って奴は……」

 

「冗談ですよ……ありがとうございます、先輩」

 

 おうっ、と先輩は言い返してくる。お互い笑いながら、自分の過去の話をすることにした。先輩の中学時代は、今とあまり変わっていない。やっぱり生まれつき、この人はきっと優しい人だったんだろう。

 

(……影は恐れるものじゃなく、自分を支えてくれるもの。自分の過去。生き続ける限り、逃れることはできない。この影は紛れもなく……俺自身であり、俺の中にいるアイツでもある、のかな)

 

 もう一度、自分の影を見下ろす。明かりは天井にあるものだけしかないのに、揺れ動くように見えるのは不気味でしかない。

 

 そんな影を、踏みつける。ジリジリと擦るように、自分の足に擦り付ける。

 

(向き合わなきゃいけない。それが例え怖くても……もう、過去のことなんだ。あったことからは逃げられない。お前は恐ろしいけど……でも、そう簡単にこの身体を明け渡す気はない)

 

 ニヤリと嘲笑(わら)って、手に持っていたマグカップの中身を影に向けてぶち撒ける。明るい茶色の液体が地面を濡らし、広がっていく様を見つめていると……酷く滑稽に思えた。

 

 座っていた先輩が身を乗り出して、俺のしでかした狂行に目を見開く。

 

「お、おい氷兎、なにしてんだ……?」

 

「いや……喉乾いてるんじゃないかと思いましてね」

 

「誰が?」

 

「もうひとりの自分ですよ」

 

 珈琲で濡れた床を拭くために、雑巾を取るべく椅子から立ち上がる。まるで地面に縫い付けられたように、もう影はひとりでに揺れ動くことはなかった。

 

 

 

 

To be continued……




『日陰者が日向になるのは難しい』が完結したので初投稿です。
これからは新しい小説の設定が上手く浮かび上がるまで、こっちを更新していきます。早く完結させたいけど、書きたい話も多いんですよねぇ。


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第122話 人間らしさ

 眠るのが怖い。寝てしまえば、次に起き上がることはないんじゃないか。起き上がったのは、自分ではない誰かじゃないか。自分以外の誰かが、ナニかが身体の中にいる。それがどれほど、恐ろしいものか。

 

 全人類でありながら、個人である。さながら存在自体がチートじみたバケモノ。それをどうこうするというのは、俺にはできる気はしない。

 

 ただ……あの時言われたことを、その答えをずっと探していた。俺は人か。俺はバケモノか。俺は神話生物か。

 

 例え、この身が異形になり変わろうとも。俺を俺だと言ってくれる人がいるのならば。俺の名前を呼んでくれる人がいるのならば。俺は……皆のいる方につくのだろう。それで迫害されたとしても。元より俺は、人間という種族が好きじゃなかった。だから俺は個人につく。あの人たちの隣にいる。

 

 ……答えは出た。あとは、あの醜い自分の面を……歪ませてやるとしようか。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 自分のいる世界が夢であるとわかる。感覚的なものでもあったし、やけに現実味がないというのも、その理由のひとつ。でも一番の理由としては……自分の身体が、あの時同様に黒煙の塊になっていることだった。

 

 風が吹いても飛んでいかず、人の形を保ち続ける。モヤモヤとして輪郭は不安定だが、どこら辺までが自分の身体なのかはわかった。

 

 立っている場所は、あの無残な事件が起きた公園。凄惨な光景は、最後に見た時よりも悪化していた。立ち並ぶ木には、槍で縫い付けられた少年少女。地面に横たわるのは、一部身体の原型を保っていない人間。隅の方では、膝を抱えて許しを乞う人型。

 

 許して欲しい、と彼らは言う。助けてくれ、と乞い願う。震えて泣く彼らの瞳は、きっと俺を捉えてはいないだろう。何に脅えているのかなんてものは、わかりきっていることだ。

 

「自らこちらにやってくるのか。自殺願望でもあるのか、お前は?」

 

 背後から聞こえる、声。きっと先輩がいたら、その声を俺の声だと言うだろう。自分でも少し首を傾げるものがある。もうちょっと良い声だと思っていたのに。自分の声は自分にはちゃんと聞こえていない、というのは変な話だ。

 

「……お前を殺したら、自殺になるのかね。ちょっとばかり興味はある」

 

 振り向いた先にいたのは、紛れもなく自分自身。ワイシャツに制服のズボン。年相応な格好と言ってもいい。俺はまだ高校三年生だったはずなのだから。

 

「戯れに投げかけた質問の答えは出たのか?」

 

「俺が人か、否かって?」

 

「人の姿ではなく、しかしバケモノとは言い難い。だが心には確かに巣食っている魔物がいる。やがて内から這い出でる、人ならざるものがな」

 

「中に巣食ってたら、皮があろうとバケモノか? 心を持っていても、人ではないのか? 果たして仮に、俺がそうなったとして。俺は人間を殺すのか?」

 

 いいや、答えは否だ。俺はいつまででも、人間であることを主張しよう。俺個人で抱えきれなくなった時は……きっと、隣にいる誰かが止めてくれる。それで死んだのなら、それはそれで仕方がない。

 

 過ぎ去った過去は変えようがない。だとしたら、今を生きる他ないんだろう。

 

「俺は、ヒトだ。そう主張し続ける。例えこの身が変わり果てようとも、俺は自分がヒトであることを信じよう」

 

「何を持って人間たらしめると言うのか」

 

「今も行っていることだよ」

 

「……なに?」

 

 不機嫌そうに眉が動く。人間の身体でいるのならば、その仕草や表情もまた、人間の制限に縛られる。だからこそ察しやすい。その上俺は、今は人間の姿をしていないのだから、悟られることもない。

 

「人間? バケモノ? 差異なんてないじゃないか。人間は堕ちて獣になる。お前たちと同じようにな。だとしたら、人間が人間らしくいるために、何をすべきか。

 それこそが、対話だよ。共感を図るべく、理解をすべく、俺たちは言葉を交わす。人間は未知の解明を目論んできた種族だ。理解したいという本懐を抱えた獣に過ぎない。けれど……それこそが、人間らしさだろう。

 だからこそ、俺は……人間らしくありたいから、言葉を交わすんだ」

 

「対話か。果たしてそれになんの意味がある。獣とて会話をする。人語でないだけで、な。それは差異とは呼べないだろう」

 

「いいや、明確なまでに差異になるさ。猿にだって物は扱える。拳で殴ることはできる」

 

 未だに要領を得ないと首を傾げている俺に向けて、少しずつ歩み寄っていく。共感を得るために対話をし、衝突を避けるために対話をする。

 

 しかし、もっと古いものがある。人間として、古から伝わる技術だ。

 

「人間は獣と同じだと、お前はそう言ったな。いや、事実俺もそう思うよ」

 

 お互い、殺ろうと思えば殺れる距離。自分の姿がすぐ目の前にある。

 

「それでも言葉を交わすということこそが、大事だと思う。相手の意志を聞き、自分の意思を伝え、歩み寄り、衝突を避ける。対話こそが、人間らしさだ」

 

 あくまでもそう主張するのだと、伝える。すると、ペリッ、ペリッと何かが剥がれるような音が聞こえ始めた。見れば、目の前にいる俺の顎から皮膚が剥がれていくのがわかった。やがて周りも次々剥がれていき、宙を漂って俺の元へ帰ってくる。奴の鼻から下は黒煙に変わり、俺には口周りだけが帰ってきた。

 

「言葉が大切だと言ったからかね」

 

「私にはわかりかねるがな」

 

「いいや、わかるとも。少なくとももうひとつ、伝えることがあるからな。口も戻ってきたし、ちょうどいい」

 

「伝えること、だと?」

 

「あぁ、そうだとも」

 

 間髪入れずに、目の前にある顔面を殴りつける。完璧だ。完全に不意をついた一撃だ。避けられるはずもなく、全力の拳は相手の身体をふらつかせる。

 

 両目が揺れ、俺の姿を捉えた。あぁ、ようやく口元が戻ってきてくれた。ざまぁみろ、と嘲笑(わら)い返す。

 

「対話っつうのはなぁ、こういった使い方もできんだよ。卑怯? 馬鹿言うんじゃねぇ。弱い人間が獣を狩るために、知恵を絞った結果だろうが。言葉もまた道具に過ぎない。だが獣にはそういった使い方はできない。だからこそ、対話が人間らしさだと言ったんだ。

 そして対話が通じないのであれば、力を振るうこともまた人間。お前が初手で対話に応じた時点で、こうなるのは避けようがなかっただろうよ」

 

「……言葉巧みに騙すか。人間の証明など、もっと別の方法があるだろうに」

 

「そうだな。俺がお前を殺して生きていたら、バケモノだという証明を実行してもよかった。が……俺にとっては言葉こそが最も重要でね。話し合いができるのなら、無駄な血を流さなくても済む。見つけたから殺す、なんてことをしなくて済むのは楽だよなぁ」

 

 いつものように、皮肉るように、嘲笑(わら)うように。言葉を口にする。あぁ、俺が話せなくなった時。対話ができなくなった時。それこそが、俺がバケモノに堕ちたという証明だろう。

 

 その時まで、俺は言葉を紡ぎ続ける。言葉の力がどれほど素晴らしく、残酷なものなのか。奴らはきっと理解できないだろう。

 

「じゃあ次は……その身体、返してもらおうか」

 

 言葉はもう通用しない。ならば、あとは殴る他ないだろう。言って聞くような輩じゃないんだから。

 

 肩幅程度に足を開き、身体から余計な力を抜く。大丈夫、徒手空拳だって訓練はしてる。人間の身体としてそこに存在しているのなら、まだ勝機はあるはずだ。

 

「……ここまでコケにされるのは、中々久しい。記憶にあるのはクトゥグアに森を焼き払われたとき以来か」

 

 口だけが黒煙の俺も、同じように構える。そのまま、しばらくは無言の時が流れていった。先に動いたら、対処される。そんな気がしていたからだ。

 

 元より相手の動きに合わせて対処を変える戦い方でもあった。奴が俺と同じように動くのなら、きっと戦法も似たようなものだろう。

 

 だとしたら不意をつくか。けれどもどうやって。飛び道具も何もないのに、どう先手をとる。

 

「……おいおいどうした? コケにされた割には、殴りかかってこないのか?」

 

「安い挑発だな」

 

「喧嘩買ってくれないと、挑発が安くなっちまうものでね。どうだ、今なら安いぞ?」

 

「私にその類が通じると思うのなら、笑止千万だな」

 

「さっきそれで顔面殴れたんだよなぁ」

 

 どんな軽口を言おうとも動じる様子はない。なら、こっちから動くしかないだろう。

 

 一気に詰め寄って、初手でフェイントを混じえ、右で殴りかかる。けど、案の定受け流された。やっぱり動きは基本的に同じようだ。受け流されて体勢が崩れたところに、相手も左で殴ろうとしてくる。体勢を低くするが、そうなると膝蹴りがきた。何やろうとするのかは、だいたいわかる。すぐさま後退して、膝を避けた。

 

 受け流されないような攻撃をするしかない。軽くステップを踏んで、顔めがけてハイキック。腕で防がれると、相手も同じように腹に向けて蹴りを入れてきた。

 

 けど、前蹴りなら受け流せる。逸らしてまた詰め寄り、今度は腹に向けて拳をぶつけにいく。

 

「おいおい、後ろガラ空きだぜ?」

 

 相手の思考が一瞬遅れる。もちろん、後ろには何もない。嬉々とした笑みを浮かべ、顔面を殴りつけた。そしてそのまま腹、腕、胸、顎と次々ラッシュを決めていく。

 

 ペリッ、ペリッと剥がれ落ちていく身体。戻ってくる度に力が満ちていくのがわかる。

 

 ここで止めたら、二度目はない。腹を抉るように拳をいれ、頭が下がったところで再び側頭部にハイキック。流石に立ったままではいられず、奴は地面を転がって距離をとった。

 

 帰ってきたのは右腕、右足、胴の右半分。鏡合わせのように、半分に分かたれていた。ただ差異があるとするなら、奴は無表情で、俺はきっと嘲笑(わら)っているという点だろう。

 

「私にその類が通じると思うなら、笑止千万だな……ってのは、俺の聞き間違いか?」

 

「……いいや、なるほど。確かに」

 

 戦意を失ったのか、奴は構えを解いて対峙する。黒煙の部分が揺らめき、さながら以前見た影のように見えた。

 

「随分と、『私』らしくなったな」

 

「……どういう意味だ」

 

「そのままだとも。まぁ私はもっと……醜く嘲笑(わら)うがね」

 

 残された奴の目が歪む。黒煙の右腕から煙が噴出し、宙で漂って形を成していく。先端が鋭く、刃のついた槍。それを引くようにして、投擲の構えをとる。

 

「おいおい、素手相手に武器か」

 

「お前たちもよくやるだろう? 無力な者に刃を向けるのは、よくあることではないか」

 

 槍を引いたまま、そこから急に身体の向きを変える。向けられた先は……公園の隅。膝を抱えてる連中がいる場所だ。

 

「ッ……ざっけんな!」

 

 すぐにその場から走り出す。それとほぼ同時に、槍は投擲された。間に合うかどうかは、ギリギリ。それでも止めなければ。例えこいつらが悪人であっても、今のこいつらを殺すなんてのは許されないはずだ。

 

 もう少し。けど、手が届いたところで止められない。かくなる上は……。

 

「ッ……!!」

 

 飛ぶ槍の側面に向かって、全力で飛びかかる。持ち手の部分に当たれば怪我もしないと思ったが……回転して、その勢いで穂先にあった刃が身体を切りつけていく。右肩から血が流れ、力が入りにくくなる。

 

「っ、くそ……」

 

 未だに動く気配のない人たち。それらを庇いながら戦うのはもう無理だ。しかもこの怪我じゃ、自分が勝てるかすらも怪しい。

 

 せめてとばかりに、奴を睨みつける。けれど、奴に残された俺の目は……何か奇怪なものを見たように丸くなっていた。

 

「……私を止めるでなく、庇いに行くか。なんとも不可解だな」

 

「……それがわからねぇのなら、お前は人間にはなれねぇな」

 

「それもまた、らしさというものか」

 

「きっとな」

 

 右肩を抑える俺を一瞥すると、奴はその場から離れていく。半分ほど俺の体を残したまま、背中を向けた状態で言ってくる。

 

「答えは得た。暫し、静観するとしよう」

 

 そう言うと、奴の足元から黒煙が広まっていく。辺りの景色すらも飲み込み、視界が全て黒に染っていった。そして訪れる……浮遊感。目覚めが近い合図だった。

 

 奴が何をしたかったのか。俺にはわからないけれど……身体の半分だけ、帰ってきただけだ。それが指し示すことは、きっと俺はまだ人間であり……また、バケモノにもなりうると言うことなんだろう。

 

 

 

 

To be continued……




異世界ものを書き始めたので初投稿です。

執筆遅れ気味ですね……。
異世界物の方も、どうぞ。
家族をテーマにしたハートフルな物語です。
ちなみにハートって、hurtで痛みという意味がありますね。


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第九章 鏡合わせの観測者
第123話 これがTSちゃんですか


 例えばの話、自分と同じ存在がいたとして。その外見を見て、あぁなるほど、自分は他人からこう見えるのか。自分の声はこう聞こえているのか。表情はこうなっていて、笑うと笑窪ができるのか。そういったものを目にし、感じ取ることになるだろう。

 

 だが、それとは別のものとして。自分を知っているからこそ、客観的にそれを眺め、見えてくるものもあるだろう。目配せ。仕草。腹積もり。

 

 そんなもの見たところで、別に面白くはない。

 

 あぁ、でも……もっと面白いものが見れるよ。それを人間らしさと言うべきか。それとも浅ましい存在だと嘲るのか、君次第になるだろうけどね。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 暗闇から、ふっと浮き上がるように意識が覚醒したことを実感する。今日もまた、朝がやってきた。気怠い身体に言うことをきかせるよう、頑張って眼を開こうとする。横向きになって眠っていて、瞼を開ければ先輩のベッドが見えるはずだった。

 

 ただ、すぐ隣に見えたのは自分以外の誰かの後頭部。同じように横を向いて寝ている。先輩か、それとも『彼』が布団に潜り込んできたんだろう。いつまで経っても、ベタベタと……嬉しい半面、恥ずかしくもある。

 

 でも、そんなことより起きなくては。朝ごはんを作って、先輩を起こして、それから西条さんとの訓練に行くんだ。

 

「……ん、ぅ……」

 

 隣で眠る誰かは、そろそろ起き始めそうな気配がしていた。先輩はこんなに早く起きない。なら、やはり彼か。

 

 寝ぼけ眼で、彼を見る。長めの襟足。化粧で整えれば、女の子に見えそうな顔。服装は、寝巻きではなく私がいつも着ているオリジンの制服。

 

(……ん?)

 

 ベッドから出ようとして、思わず二度見する。今度は正面から、彼の顔を見た。その人物は、まったく身に覚えのない人で、そのまま腰が抜けてしまいそうになる。

 

(……誰この人ッ!?)

 

 なんとか距離をとって、彼から目を逸らさない様にしつつ、静かに先輩を呼ぶ。

 

「先輩、起きて……起きてくださいっ」

 

「んん……どうしたの、こんな早くに……」

 

「ふあぁ……なんだよ、モーニングコールはやめてくれよ藪雨……」

 

『……え?』

 

 三人の声が重なる。今間違いなく、自分以外に二人の声が聞こえた。しかも片方は、男の声。後ろを振り向いて、先輩のベッドを見る。そこにいたのは、二人。いつもボサボサな髪の毛の先輩と……同じく、ボッサボサな髪の毛の男の人。二人は互いに何が起きているのかわからず、何度か目を擦る。その仕草までもが、何もかも同じだった。

 

 そしてようやく状況を理解した先輩が、素っ頓狂な女らしい悲鳴をあげる。

 

「なんだこのおっさんっ!?」

 

「おっさんだと!? お兄さんだろォ!?」

 

「先輩、朝からうっさい語録はやめてくださ……なんだお前ッ!?」

 

「それこっちのセリフ! なに女子部屋入ってきてるんですかあなたたち!!」

 

「えっ、いやここ俺たちの部屋じゃ……なんだこの女子っぽい小物類ッ!?」

 

「あすいません、あの、自分の部屋に、変態がちょっと入り込んでるんですけど……。不法侵入ですよ不法侵入!」

 

 てんやわんやとし始めた私たちの部屋。とりあえず、縛らなきゃ。

 

 男だろうと、私たちなら勝てるだろう。ベッドから飛び起きた先輩と一緒に構え、相手は困惑しつつも徒手空拳を受けるつもりなのか、構え始めた。

 

 狭い室内。どう仕掛けるべきかと悩み始めたその時。部屋の扉がノックされた。時間的に、部屋に来たのは西条さんだ。頼もしい助っ人が来た。先輩が扉に向かって大声で叫ぶ。

 

「西条、ヘルプ!! 変態が部屋にいるから助けて!!」

 

「待ってくれ、俺たちは変態じゃ……!!」

 

「そうそう、誤解だって! 俺たち何もしないから!」

 

『……あぁ、なんだ。そっちにもいたのか』

 

 渡しておいた合鍵を使って、西条さんが部屋に入ってくる。珍しく黒一色なシンプルな寝巻きのままで、肩には縄で縛られた男の人が担がれていた。

 

 その人物は眼鏡をかけていて、担がれていてもなお鋭い眼光で睨みつけてくる。まるで、西条さんみたいな人だった。

 

「いやなに、こちらの部屋にも朝起きたら変態がいてな……」

 

「西条さんッ!?」

 

「嘘だろ、西条がやられたってのか!?」

 

「その声……あぁ、お前たちか。すまんが弁解を……無理みたいだな……」

 

 まさか同じ名前だとは。でも、そんなことで一々驚いたりする前に、驚愕して固まっているこの人たちを縛らなくては。

 

 背後に素早く回り込んで、背中を蹴り飛ばす。倒れた隙に乗りかかり、両手を背中に回して拘束する。隣では先輩も同じように侵入者を拘束していた。

 

 まったく、女子の部屋に入り込んでくるなんて、なんて変態たちなんだ。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 どうしてこうなった。頭を抱えたくなるような事態だというのに、両手は縛られて動けない。先輩も西条さんも、仕方なくあの女性たちに言われて正座中。向こうの三人は、椅子に座っていて、まるで尋問をするかのよう。いや実際する気なんだろう。

 

「それで、貴様ら女性の部屋に堂々と入った挙句、添い寝をするという所業を犯した訳だが……弁解の言葉が必要か? ないのなら首を撥ねるが」

 

「確かに、女性側からすれば生きた心地がせんだろうな。だが、俺たちにも言い分はある。なにしろ急なことでな。実際どうなっているのか……少々、状況を整理したいんだが」

 

 一際恐ろしい目付きで睨んでくる女性。西条さんと似たような眼鏡をかけ、短髪で目も鋭い。雰囲気も、話し方も、かなり西条さんと似ている。それと胸がでかい。

 

 その隣の椅子では、えらく中性的な女性が座っていた。ショートボブで中性的であるとしか、彼女に関しては言いようがない。これといった特徴はなさそうだった。ボーイッシュと言えばいいのか。ともかく男の服を着させればそれなりに見えるし、実際少しばかりの胸の起伏がある程度。

 

 最後に中性的な女性に背後から抱きつくようにして睨みつけてくる、三人目の女性。先程まで少々跳ねていた髪の毛は綺麗に梳かされており、二人の距離はかなり近い。百合かもしれない……なんてことはなさそうだ。実際かなり仲は良さそうではある。見えづらいが、胸は二人の中間あたり。一般的な程度だろう。

 

 あとは……さっきから語録を使ったりする。性格がかなり先輩に近い。なんだろう、かなり既視感を覚える人たちだ。

 

 隣から小さなため息が聞こえてくる。先輩は困惑した様子で、やれやれと言わんばかりに首を振っていた。

 

「なーんでこんなことになってんだ俺たち……。西条もやられてるしよぉ」

 

「普通にステゴロ始めたんだがな……自分の部屋じゃないことに気づいて、その隙に腹に一発重いものを貰った。なかなか、鋭い腹パンだったな……」

 

 その光景を思い出しているのか、口端が上がっていく。戦闘狂の笑みだ。手合わせできるのならまたやりたいと思っているな、あれは。しかし、西条さんを沈めるほどの武術の使い手が桜華以外にいたとは……。

 

 西条さんとの戦いが向こうもそれなりに満足のいくものだったのか、腕を組んで挑戦的な笑みを浮かべた。あの、腕を組むと胸が強調されるんですが……何も気にしていない様子だ。

 

「侵入云々はともかく、貴様は腕は確かなようだ。もっとも、この組織にそんな輩がいるだなんて知らなかったが」

 

「それはこちらもだ。女性陣で戦果を上げているのは加藤くらいなものだと思っていたが……」

 

「加藤……? 女で加藤という名は特に聞かんな。男ならいるが」

 

「なに? 加藤はオリジン兵だ。名は広まっているはずだが」

 

「オリジン兵の加藤だろう。奴は男だ」

 

「……どうにも変だな」

 

 彼女曰く、加藤さんは男である。そんな馬鹿な話があるはずない。しかしオリジン兵は加藤さんと桜華、そして木原さんだけのはず。

 

 変なことばかりだ。俺たちが女性部屋で寝ていたことだって変だし、そもそもオリジンの制服のままだ。ベッドの近くには、俺たちが使っていた武器も落ちていたし……いや、そもそも昨日の記憶が曖昧だ。一体何があったのか……。必死に思い出そうとしていたら、隣で先輩の頭に電球マークが浮かび上がったようだ。

 

「ふむふむ、なるほど。これはピンと来たぜ!」

 

「手縛られてるのにふざけたことぬかしたら、そこの女性に折檻してもらいますよ」

 

「ふふん、聞いて驚け。俺たちはなんと……性別が逆転した平行世界に来てしまったのさ!」

 

「すいません、この人ちょっと頭が……」

 

「いえ、ウチの先輩もそんな感じですので……」

 

「ちょっと酷いよ氷兎っ、私ここまで酷くないでしょ!?」

 

 先輩のような女性が、中性的な女性に対して氷兎と呼んだ。思い返してみれば、彼女たちは西条と叫んでいた気もする。

 

 これは……まさか本当に先輩の言った通りに?

 

 そんなこと信じたくもないが、左隣で縛られてる先輩はドヤ顔で胸を張っていた。

 

「な? 名前も同じだし、絶対そうだって」

 

「……だとしたら、貴様ら異世界から来たと? なんとも、馬鹿馬鹿しい。信じるに値せんな」

 

「鈴華の言っていることが本当ならば……俺の内ポケットにカードが入ってる。それを確認してみろ。偽装も何もできないものだ。お前のものと一致していたら……まぁ、癪だが鈴華の言った通りなのかもしれん」

 

 西条さんが、目付きのきつい女性に確認を促す。彼女は西条さんの制服に手を入れ、内ポケットからカードを取り出した。それを見て、眉間に皺が寄る。その表情が、西条さんと似ていて……先輩の言ったことが、本当に真実のように思えてきた。

 

 今ここにいる三人の、女性バージョンが目の前にいる三人だとするなら……あの中性的な女性は俺なのか。胸の大きさで、菜沙を馬鹿にできないな、これは。

 

「……名前も、起源も、誕生日も同じか。気味が悪いな」

 

「ちなみに俺は小学生以降、誕生日を碌に祝われたことはない。好きなラーメンは味噌。RTAのWR(ワールドレコード)保有数は三。編集は鈴華に大体任せていた。大嫌いなものは血の繋がった家族だ」

 

「うわぁ……西条と同じレベルの廃人がここに……。あれ、同じ人なんだっけ。てことは、私は……そこの天パ? 嘘でしょ?」

 

「氷兎が背中から抱きついてくるようなことはないし、俺はたまにするから……そうなんだろうなぁ」

 

「じゃあ私は、あなたですね。認めたらペルソナになってくれませんか?」

 

「乗っ取るレベルの邪神を降魔することになるんですがそれは……」

 

 向こうも向こうで、そんなこともあるのかもしれないと感じ始めているようだった。まぁ、仮に同存在だとしたら……これまで散々な目に遭ってきてるし、それなりに適応してきてしまうんだろう。

 

 未だに向こうの西条さんは警戒を解いていないようだけど……。それにしたって、一体どうして俺たちはこんな場所に制服のままいたんだろうか。何か事件に巻き込まれたような記憶はない。確か……そうだ。いつものように訓練をしていて……。

 

「……あぁ、なんとなく思い出しました。多分これ西条さんのせいじゃないですかね」

 

「俺に責があると? 身に覚えはないが」

 

「揃って記憶が混濁してますね。思い出してくださいよ。いつもの朝食の時間、ウッキウキで西条さんが部屋に来たじゃないですか」

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 朝ごはんを食べてから、西条さんが見せたいものがあると言って俺たちをVR室へと連れていった。いつもの訓練かと思っていたが、そうではなく。三人揃って森林のようなVR空間へと招かれると、珍しくどこか嬉しそうな顔で西条さんが最上を抜く。それはVR空間であっても、鏡のように光を反射していた。

 

「ノーデンスの加護が宿った刀。何かしら不思議な力はないものかと試していたんだが……昨日、神経を研ぎ澄ませながら素振りをしていた時だ。妙な脱力感を覚え、気づけば刀身が伸びていた」

 

 西条さんが刀を正眼で構え、目を瞑る。すると、不意に軽い頭痛に襲われた。魔術の反応。まさかと思ってみていれば……刀がまるで水のような膜で包まれ、その水は刀身よりも更に長く形状を残したまま伸びていく。おおよそ、その長さは二倍ほどに。刀は基本、約六十センチ。その倍となると、もはや大太刀だ。片手で振るえるものではない。

 

「おぉー、すっげぇ。リーチがかなり伸びるなぁこれ」

 

「……これ、魔力使ってますよね。西条さん平気なんですか?」

 

「そう長くは保たん。今はまだ難しいが……振る一瞬。その刹那の時間だけ伸ばすことができれば、かなり戦いやすくはなるな」

 

 そう言って、いつもの霞の構えではなく、野球バットを引くように大太刀を構えた。そして近くにあった木に向かって、力任せに振り抜く。重量もそれなりに増しているだろうに、それを感じさせない鋭い一振。水刀は少量の水を弾きながら、二人分ほどの太さはある巨木を斬った。斜めに入った筋に合わせ、そのまま綺麗に倒れていく。

 

 魔術を使ったこともない人が、まさかたった一日でここまでするとは。魔力制御も慣れれば問題ないと言うあたり、この人やっぱり頭おかしい。優秀という枠を飛び越している。

 

「魔力は、俺のものを使っていると思うが。仮に、この武器を唯野の魔力で活性化させることは可能か?」

 

「別のものへの魔力譲渡とかやったことないんですが……」

 

 まぁやってみろ、と西条さんは刀を横持ちにしてこちらへ向けてくる。持ち手の部分に触れてみると……ひんやりと涼しい感覚が腕を突き抜けていった。

 

 試しに、ぐっと力を込めて握ってみる。詠唱で魔術を扱うように、集中して精神を研ぎ澄ます。心の内で、冷たく燃える炎のような、矛盾した気味悪い感覚を覚え……掴んだ右手が急激に冷たくなる。まるで氷水に手を突っ込んだような感じだ。思わず手を離してしまう。

 

「……どうもダメみたいですね。ナイアとは相性が悪いんだと思います」

 

「敵対した奴の力は無理、か」

 

「俺の場合、魔術の負担の多くは魔導書で軽減して、足りない魔力はナイア経由ですからね。俺自身の真っ当な魔力なんて微々たるものですし。まぁそもそも、その武器ノーデンス直々に力を渡されたものですから。認められた西条さんしか扱えない可能性もあるんじゃ?」

 

「認められた人だけが使える神器ってクソかっこいい……かっこよくない? 俺もそろそろ属性攻撃を覚えたいんだけど」

 

「火炎瓶なら属性武器だぞ。酒と導火線と火種で作れるからコスパもいい」

 

「いやそうじゃなくて、銃から炎が飛び出すとかさぁ……」

 

「異世界転生でもしてろ」

 

 馬鹿馬鹿しい、と西条さんは先輩を貶すように言う。俺だって属性攻撃ができる訳じゃない。炎は出せないし、できるのは空間歪曲くらいなものだ。加藤さんなら起源でいろいろとできるっちゃできるんだが……先輩の場合、何もないところから炎を出したい訳で。そりゃ流石に無理だなとしか言いようがない。

 

「氷兎、異世界に行ける魔術とかない?」

 

「俺が廃人になる代わりに先輩をブラジルに飛ばす転移系なら……」

 

「だよね、ないよね」

 

 ドリームランドで見たものと、おそらく同じような魔術をナイアに勧められたが、流石に俺には荷が重い代物だった。癒えない精神的苦痛を受ける代わりに、次元をも超える空間転移ができる魔術、門の創造というものがあるらしい。流石に代償がデカすぎる。下手すると幼児退行したり、何も無いところを見てずっと笑い続けたり、土を食べ始めたり……碌なもんじゃない。教わるのは断った。

 

「いいなぁー属性攻撃。西条は遠距離苦手だし、リーチが伸びるから文句無しの強化じゃん」

 

「銃を撃てないわけじゃない。斬ったほうが早いだけだ」

 

「いやね、普通の人は撃った弾丸斬らねぇから。遠距離なら俺の勝ちだと思ってた、あの時の心を返して」

 

「そんなお前に朗報だ。この武器、遠距離攻撃もできるぞ」

 

「うそん……恵まれ過ぎじゃない?」

 

 今から見せてやる、と言って西条さんは納刀して、体制を前傾にした。腰につけられた鞘に左手を添え、右手は持ち手の近くで宙に浮いたまま。息を深く吐ききっていき、その静けさに俺も先輩も、何も言えなくなる。

 

 一陣の風が吹き抜けた。その瞬間、西条さんが刀を握る音が響く。音が耳に届いた時には、既に彼は抜刀して水を纏った刀を振り切った後だった。

 

 彼が振り抜くその瞬間を目に捉えることはできなかったが、代わりに見えたのは……刀の軌跡をそのままに飛んでいく、水の刃。それは決して西条さんの位置からでは届かない、遠くにあった木を斬りつけ、両断する。まさしく、斬撃を飛ばしたと呼称すべきなんだろう。

 

「うわぁ……マジか……綺麗な月牙天衝だ……」

 

「逆に汚い月牙天衝とは……?」

 

「月牙天衝が何なのかは知らんが、まぁ見ての通りだ。水を纏った状態で素早く振り抜けば、刃として飛んでいく。高水圧の水は何であろうと斬り落とす。ウォーターカッターのようなものだな」

 

 西条さんの背後で、木が倒れていく。近距離、中距離、遠距離。隙がなさすぎる。こんなんじゃ勝負になんないよ……。ウチの組織に勝てる人いるのかな。攻撃を魔術で逸らしても、逸らす被害が大き過ぎてすぐガス欠になるし。しかも本人の動きも早いから、気を抜くと視界からいなくなる。何だこの人。主人公かよ。

 

「元から強かったのに、神器貰って余計に強くなっちゃったよコイツ。流石我らが部隊のリーダー」

 

「リーダーがコミュ力に難ありでいいんですかね? コミュ障じゃなくて、威圧的なのが問題なんですけど」

 

「勝手にリーダーにするな。対人の情報収集なら唯野、遠距離が得意な鈴華がいれば、別に俺が何やろうと問題はなかろう」

 

「西条さんと一緒に情報集めに行った時の苦労は忘れもしない……」

 

 北海道のことを思い出して、また会話が弾んでいく。

 

 そんな折に、VR空間に『Beep!Beep!』と警告音が響き渡った。突然のことに驚き、なにが起こったのかと周りを見回したら……空間の遠くの空から、景色が水色のキューブのようになって崩れ落ちていくのが見える。それは間違いなく、このVR空間が崩壊しているという目印だった。

 

「お、おいなんかヤバくね!? ログアウトした方が良くね!?」

 

「……チッ、ログアウトできん。どうなっている!?」

 

「えっ、ちょ……まさか西条さんが神器なんか振り回したから、システムエラー起こしたんじゃ!?」

 

「俺のせいにするな!」

 

「言い争ってる場合かよ! やべぇって、もう近くの地面まで消え始めてるぞ!?」

 

 ジリジリと、足場が消えていく。森だった場所は何も無くなり、とうとう俺たち三人の周りだけを残して全てが消え去った。周りには虚無とも言える、黒い空間があるばかり。

 

 先輩と西条さんの体にピッタリとくっつく。これ以上はもう逃げられない。

 

「やべぇ、やべえってこれ!!」

 

「クソッ……」

 

 その恐怖を言葉にはできない。とうとう足場がなくなり、身体は奈落へと落ちていく。

 

 先輩の悲鳴が遠のいていき……俺も段々と、意識が薄れていくのを実感していた。これはもう、助からないんじゃないか。そんなことばかり、考えていた。

 

 

 

 

To be continued……




お久しぶりです。
この小説も完結させたいんですがねぇ……そのためには書かないといけない話がまだまだありまして。今回の『鏡合わせの観測者』の他に、『空は何色か』『加藤の過去』『本物と偽物』『神話生物大戦』『終章』と、まだまだ多くあります。
その他にも、書いてみたい話もあって、『湯けむり殺人事件』『幼馴染を取り戻せ』とか。

とりあえず、頑張ります……。


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第124話 相性関係

しばらく書かないだけで、地の文がめっきり書けなくなりました。ツラい。


 互いの事情や情報を交換してから、三十分ほど。ようやく拘束が解かれ、俺たち三人は長時間の正座による足の痺れを感じながら、地面に這いつくばるように彼女たちを見上げた。

 

 女性版の自分、というのもなかなか興味深いものだ。並んでみたら、ちょっと女の子っぽい俺と、男の子らしい俺で見分けられる。先輩たちは顔が違うし、西条さんに至っては胸が巨大化してるし……。

 

「その胸、動きづらくないのか? 刀を構えにくいだろう」

 

「普段はサラシを巻いているに決まっているだろう。貴様がいたせいで準備する暇がなかっただけだ」

 

「サラシを外したら巨乳とかすっごい俺得」

 

「わかる。初めてサラシ外したの見た時、思わず触りに行ったもん」

 

「感触は?」

 

「そこの天パ、殺すぞ」

 

「待って、頼むから足はやめて! まだ痺れてるのォォォ!」

 

 女性の西条さんが先輩の足をズカズカと踏みつける。先輩が釣り上げられた魚みたいにビタンビタンッと暴れ回った。辛そう。

 

 まぁそれはどうでもいい。いちいち西条さんだの女性版だの言い分けるのもなかなか面倒だ。どうにか良い呼び方はないものか、と話してみたところ、普段とは逆の呼び方をすればいいという結論に至った。名前なら苗字を。先輩は苗字呼びすればいい。俺は……どうしようか。普通に唯野さんと呼べばいいのか。なんだか不思議だ。

 

「そろそろ足の痺れも取れたし……珈琲でも飲みながら状況を整理していきません? 俺たちは元の世界に帰りたいし、俺たちの世界とこっちの世界で何か違うところがあれば、そこから探りを入れてみるのが現実的かと」

 

「確かにな。そもそもVR空間にいたのに、どうして別世界にいるのか不思議な話だが。装備は訓練中のもので、携帯も何もなし。金もないときた。どう生活したものか」

 

「まぁ……そこは私たちの部屋でいいんじゃない? 西条だって部屋空いてるし、私たちは同性同士か自分同士で寝ればいいし」

 

「そりゃ助かる。まぁ自分とはいえ、女性とお泊まりってのはなかなか……てか、氷兎の女性バージョンってかなり良くない? 家事やってくれるし面倒見てくれるし、ゲームも一緒にやってくれるし。どうする、結婚する?」

 

「確かに……がわ゛い゛い゛な゛ぁ゛びょ゛う゛と゛く゛ん゛」

 

『申し訳ないけど異性の先輩はNG。貞操の危機を感じる』

 

 いくら先輩が女性であっても、なんとなく抵抗感がある。てか先輩は年上好きでしょうに。

 

 嘘か本気かわからない先輩の戯言を流しつつ、唯野さんが淹れてくれた珈琲と紅茶でホッと一息つく。唯野さんも俺同様にカフェオレ、鈴華さんはブラック、薊さんは同じ茶葉。趣向も同じだから当然っちゃ当然なんだが。差異を探す方が難しそうだ。

 

 テーブルを囲むように、男性女性で別れて座っていると……なんとなく、元の世界のことを思い出す。やっぱり、こっちの世界の人は皆性別が反転しているんだろうか。となると……。

 

「なぁ、もしかして菜沙って男なのか……?」

 

「当然だよ。そっちだと、藪雨が女の子になってるってことだよね。やかましそう」

 

「男バージョンの菜沙ちゃんか……俺の知ってる菜沙ちゃんのままだと、ちょーっといろいろ不味い気がするんだけど……主に氷兎ちゃんの貞操的な意味で」

 

「貞操もなにも……付き合ってたら、自然とそうなっちゃうじゃないですか……」

 

「だよねぇ、付き合ってたら……はぁ!?」

 

「えっ、菜沙と付き合ってんの!?」

 

 思わず問いつめる。唯野さんはしどろもどろしつつ、頬をほんのり赤らめて笑っていた。まさかの差異発見伝。まるっきり全部同じって訳じゃないらしい。むしろ付き合ってないのかと驚かれた。向こうの鈴華さんと薊さんからも。そしてこっちの二人からも。

 

「やっぱ付き合ってるのが自然だよなぁ。七草ちゃんが嫉妬してそうだぁ」

 

「……七草ちゃん、ですか?」

 

「うちにそんな人いたっけ」

 

「いいや、七草という女性……いや、こちらだと男性か。そもそもその苗字の人物はオリジンにはいない」

 

「桜華がいない……? いやいや、そんなはずないです。最初の頃から、ずっと一緒にいるんですよ!?」

 

 交友関係が変わっていて、一緒にいる人も変わっていて。そもそも桜華と出会ったから、俺はここにいると言っても過言じゃない。だとしたら、向こうの俺はどうやってこの組織に入ったんだ?

 

 菜沙がいるにも関わらず、こんな命懸けの組織に入る。俺の場合は桜華を放っておけなかったってのが理由の一つだけど。それがなければ、俺はこんな組織入ってなかった可能性も高い。

 

「……そっか。そっちだと、生きてるんだね」

 

 思考を続ける耳に、小さな声が届く。ボソリッと呟くように、彼女は言った。遠い昔を思い出すように、苦々しく顔を歪めて。

 

 生きてるんだね、と彼女は言う。その言葉に耳を疑うしかなかった。それはまさか、この世界では死んでいる、ということなのか。そんな馬鹿な。あの天然で、頭も緩いけど、その笑顔に何度も救われてきたというのに。そんな彼女が、いないのではなく……死んでいた……?

 

「それは、どういう……」

 

「……初めて神話生物と会った時の事、覚えてる? 七草君と一緒に、私は孤児院から逃げ出した。けど、深きものどもに追いつかれて、彼は私を護るように戦い始めた。だけど……武器持ち相手に敵うはずがなくて。私は、黙って……彼の死を、見続けることしかできなかった。加藤さんが助けに来てくれるまで、私はただ、震えて泣き続けることしかできなかったよ」

 

「そんなっ……」

 

 桜華は、既に死んでいた……? 最初のあの時、助けられずに?

 

 確かに、彼女は最初から強かった。その時の俺は、戦えるような状態でもなかった。俺は彼女に護られるだけの存在でしかなかったのかもしれない。だとしても……この差は、一体なんだ。ただの平行世界なのか。俺たちが辿ったかもしれない、可能性の世界だとでも言いたいのか。

 

 じゃあ……他のはどうなんだ。天在村は。山奥村は。蛇人間の事件やその他諸々の出来事は。

 

 説明できるだけ、彼女たちに話していく。そのひとつひとつに頷き、また首を振り、俺たちとの差を明らかにしていった。

 

「花巫さんが人の心を色で見れたのは同じ。でも、私の心は見えていたし、それなりに仲は良くなったけど……きっと、君が言うように、完全に心を救いきれたわけじゃないと思う。その他のは、ほとんど同じだよ。誰を助けて、誰を殺してっていうのも」

 

「最近の出来事で、決定的に違うのもあったな。私たちはドリームランドに遊びに行った時、ノーデンスに会って園内の神話生物退治を依頼された。最上はその時に貰ったものだ」

 

「……なるほど。つまるところ、こっちの唯野の中には……奴がいないんだな?」

 

「ナイアと契約していないってことですか。だから……俺は桜華を救うことができなかった、と」

 

「そんなところだろう。出生は同じでも、辿った歴史がほんの少し違う。その根底にあるのは……お前がナイアに見初められたかどうか、なんだろうな」

 

 ナイアに目をつけられたかどうか。たったそれだけの差。本当に、たったそれだけのことで……彼女と俺は、いや、彼女たちと俺たちは明確に異なっている。例え同じ存在であっても。

 

 自分が化け物になるかもしれない恐怖と……桜華を救うことができなかった、罪悪感と無力感。どちらがいい、とも言えない。どっちも最悪だ。

 

 こっちの俺は、幼馴染である菜沙と付き合っている。その理由も、なんとなくわかった。壊れかけたんだ。彼女を、いや……彼を救う事ができなかったから。目の前で殺されるのを、見ている事しかできなかったから。崩れそうな心に加え、その後自分の両親の死を見た。唯一残されたのは、菜沙だけ。だから、そうなってしまったんだろう。

 

「……一体、なんなんでしょうね。どうして俺たちは、この世界に来たんでしょうか」

 

「意味のないことはない、と言いたいが……如何せん、情報が足らんな。俺たちの、もしもの可能性なのか。それともまた、別のものなのか」

 

「どーするにしたって、結局のところ俺たちにできることねーじゃん? 今はともかくさ、元の世界に帰る方法探しつつ、こっちの世界でしばらく休暇ってことでいいんじゃね?」

 

「働かざる者食うべからず、だ。貴様らの衣食住は賄ってやるが、その代わりこっちの仕事を手伝ってもらうぞ。幸い、武器はあるようだからな」

 

 薊さんが、壁に立て掛けた俺たちの武器を見てそう言った。先輩の言う通りでもあるし、薊さんの言う通りでもある。現状、情報を探しつつ、彼女たちの仕事を手伝うしかないだろう。

 

 この世界との差異を突き詰めていけば、何かしらわかるかもとは考えてはいるが……桜華が死んでいたから、何か変わるのか。俺と菜沙が付き合っていることで、何かしら変化はあるのか。その差異に、きっと意味はない。

 

 じゃあナイアとの契約か。これもまた微妙なところだ。最大の差異は性別だが……男女逆転したところで、性格も何も変わっていないし、戦闘能力だって差があるようには思えなかった。

 

「……考えたところで、キリがないですね」

 

「今貴様が悩んだところで、出ないものは出ないだろう。それより、他の組織の人間に見つからないように行動する術を模索して欲しいものだがな」

 

「あぁー、確かにね。私たちはともかく、藪雨とか来たら説明が大変だぁ。木原さんにも何かしら言われるかもしれないし。氷兎くんは……ウチの氷兎とあまり変わらないからねぇ。そのままでもいけそうだけど」

 

「良い機会だし、氷兎はメイクの練習でもしてみたらどうだ? ほら、潜入捜査とかで女装する可能性もなきにしろあらずだし」

 

「絶対に嫌です」

 

「女の子のメイク舐めてませんか、そっちの先輩。まぁこっちの先輩も女子力そこまでありませんけど」

 

「氷兎がいてくれたら髪のセットとか超楽。私もう氷兎抜きの生活考えられない」

 

「わかる」

 

 何故かどうでもいいところで意気投合して、先輩同士で握手している。実質先輩が二人に増えて、ツッコミも二倍。気苦労も二倍。向こうの先輩から度々視線が向けられるし……この人本当に狙ってきてる? そんなことないよね、多分。いくら先輩が女性でも、流石に素直には頷けない。

 

「なぁ、ところで質問なんだけどさ。仮に、自分同士でヤったとしたら、それは童貞卒業になるのか? それとも自慰扱い?」

 

「いや、流石に相手が男の私ってのは……初めては好きな人にあげたいし?」

 

「あらら、価値観の違いか……? 俺は童貞捨てたいんだけどなぁ」

 

「お互い初めてがまだなのは変わりないみたいだね。でもこの歳でまだなのは、なかなか恥ずかしいんだけどねぇ……。年上の男の人にリードされつつ、初めてを迎えたい」

 

「わかる。年上のお姉さんに甘やかされつつ、時に厳しくこう、リードされて……優勢逆転した時に恥ずかしがる顔とか見てみたい」

 

「……なぁ、それ以上下世話な話をするなら、その粗末な棒っきれを斬り落とすぞ」

 

「ほう、奇遇だな。俺も似たようなことを考えていた。乳房を落とせばその女の口は止まるか?」

 

「貴様……」

 

「フンッ……」

 

 ……なんで西条さんは自分同士で喧嘩してるんですかね。あの二人、波長が合わなすぎる。先輩もドン引きしてるし。てか悪いのは完全に下世話な話をしだした先輩なんですけど。

 

 身内はともかく、相手の世界の人には厳しい感じか。なんて面倒くさい性格してるんだあの人は……。そもそも首落とせば口も止まるんですけどね。息子を斬り落とすのはちょっと勘弁願いたい。ともかくこれは、仲裁しないと西条さんが斬り合い始めちまうな……。

 

「今回は先輩が悪いと思いますけど。流石に女性に振るネタではないんじゃないですかね」

 

「どうせウチの先輩も、似たようなことそのうち話し出していたでしょうし、私の方は別にって感じですけど。なんかもうやっぱ……同じなんだなぁって……」

 

 向こうの俺も心做しか疲れきった目をしている。普段からそういった話を振るのは、例え性別が女性でも変わらないらしい。先輩は本当にもう……いやでも、これが先輩らしさだし、それで救われることもあるから困る。

 

「とりあえず、西条さんは喧嘩腰をやめて。先輩たちは変な話するなら別室に行ってくださいね」

 

「西条さんも、武器しまってください。お二人が斬り合い始めたら誰も止められないので。最悪、周りで死人が出ますよ」

 

「そのオールバックが気に入らん」

 

「だらしがない胸だ」

 

「生まれ持った特徴を馬鹿にするな、殺すぞ」

 

「オールバックは前髪が邪魔にならん。それがわからんのか」

 

「丸めてしまえ。頭が軽くなるぞ」

 

「斬り落とせばサラシを巻く手間も、無駄な脂肪もなくなって身体が軽くなるだろうな」

 

「よし、訓練室だ。貴様の髪型を坊主にしてやる」

 

「上等だ。無駄な肉を削ぎ落としてやる」

 

『だから喧嘩はやめてくださいって!!』

 

 向こうの俺と一緒に、西条さんを止めにかかる。こんな感じで、大丈夫なんだろうか。そのうち本当に自分同士で殺し合い始めそうで、気が気じゃない。

 

 自分同士で愚痴を言い合う機会が増えそうだ。向こうの俺の顔をみたら、同じようなことを考えていたようで……互いに小さくため息をついて、西条さんを宥め続けた。事の発端の先輩は、自分同士で笑いながらこの惨状を見ている。後で絶対にデスソース喰らわせてやる。そう心に強く刻んだ。

 

 

 

To be continued……




そういえば、書かなかった期間でバーの色がオレンジに……。
この小節が完結する頃には、バーが全部埋まって、色も赤になったらいいなぁと思います。
まぁ……最終章とその前章はかなりやばく作りますけどね。早く書きたい。


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第125話 差異探索

まだしばらくは地の文のリハビリになりそうです。


 料理を二人でしていると、時折邪魔に思うことがある。けれど、そのパートナーが菜沙ならそうは思わないし、ましてそれが自分自身だとしたら、邪魔だなんて思うわけがない。

 

 使う調味料、次の調理過程、それらを網羅している。そして必要なものは先に切っておいてくれたり、火にかけてくれたり。言うことなしの完璧なコンビネーションだ。先輩と一緒にやるとこうはいかない。それは唯野さんも思っているのか、作業を止めることなく感嘆の息を吐く。

 

「料理がすっごい楽。単純に手の量が二倍になった感じ」

 

「だよね。代わりに量も二倍だけど」

 

「それは本当にごめん。無一文だからどうしようもない」

 

 金なし携帯なし着替え無し。制服は借りればいいが、下着はそうはいかない。少しばかりお金を借りて揃えたはいいんだけど……なんかこう、ヒモになったみたいで嫌だな。いや働くけど。

 

「……それにしても、やっぱり先輩たちって変わらないんだね」

 

「そりゃ、変わらないだろうな。いつも通りどころか、人が増えて四人で大乱闘してるし」

 

 後ろの方から聞こえてくる、先輩たちの遊ぶ声。「火遊びクソガキやめろやオラァ!」なんて声が響いていた。ゲームやる時は仲がいいから、まぁ別にいいんだけれど。

 

 西条さん同士が戦うと、途端にTASみたいな動きになるから笑ってしまう。なんでステージの下で延々と殴り合えるんですかね。数フレームしかない入力を繰り返して、ずっと受け身と攻撃を繰り返しているその姿は、もう人力TASそのもの。あの人本当に人間かよ。動画にサイボーグ兄貴のタグついてたぞ。

 

「なんていうか、最初はどうなることかと思ったけどさ。平和なもんだね」

 

 火元から目を離さず、彼女はそう言った。端正な横顔だが、自分と似ているとなると何も思うことはない。

 

 彼女の言う通り、本当に最初はどうなることかと思っていた。まぁ実際、自分がもう一人いるわけだし。どんなことだろうと多分対処できるだろう。西条さんが二人いる時点で勝ち確みたいな感じがあるし。

 

「平和だけど、さっさと帰り道見つけないとな。いつまでもこうしていられないし」

 

「こんな状況で部屋に人が来たら大変なんだけどね。女子部屋だから、藪雨は簡単には来られないけど」

 

「菜沙は?」

 

「彼は普通に来るよ」

 

「えぇ……」

 

 女性棟にすんなり入ってくるのか。流石にそれはまずいだろうに。いや実際、こっちの菜沙もそうなる可能性があるってことなのか。男性だったら、こういうことするよってことなんだろう。藪雨はまぁ来れないだろうが。

 

 それにしても……この世界の住人はちょっと曖昧な部分が多いな。男の菜沙が平気で部屋に来るのはともかく、名前に関して疑問がないのが不思議だ。男らしい名前なのに、女だったり。菜沙なんてモロそれだろう。

 

「……何か、考え事?」

 

 手が止まっていたのを不思議に思われたのか、彼女が顔を覗き込んでくる。中性的な顔に、綺麗な肌。俺とは少し違う。鏡で顔を見る度、目元の隈とか濁った目が気になる。濁りは少し薄くなったが、それでも曇ったガラス玉のような瞳は治ることはない。

 

 けれど、彼女の瞳は綺麗だった。いや……綺麗とはまた別なものかもしれない。確かに瞳なのに、どうにものっぺりしている。人間の目をガラス玉だとするなら、それは透き通ったものではない。俺のような曇ったガラスでもない。自然の水が固まってできた氷を自然物とするなら、彼女のは人為的に綺麗に作ろうとした氷のように思えた。

 

 彼女は少しばかり俺と異なった歴史を歩んでいる。そのせいなのか。それとも、女性だからメイクやコンタクトで隠しているのか。聞くほどのものでもないが、少しばかり気になってしまう。

 

「いや、なんでもない。さっさと作り上げちまおう。先輩がそろそろ腹空かせてるよ」

 

「それもそうだね」

 

 彼女は出来上がった料理を皿に盛り付けていく。見栄えよく整えながら、綺麗に。盛り付けたらテーブルに並べて、また次の料理を。

 

 包丁の握り方。動かし方。フライパンを揺らして中身をひっくり返すやり方。そのどれもが普通だ。人間らしさ溢れる動きだ。

 

 だというのに……どうしてその瞳だけ、人間らしくないと思えてしまうんだろうか。近寄らなきゃ分からない。本当に至近距離で、その何も映さない瞳を見てしまうと、不安な気分に陥る。思考を横切る、人間ではないんじゃないかという可能性。

 

「………」

 

 いやそもそも、俺が人間らしくないか。人のことを言えたものではない。

 

 いつか夢で見た、煙のような自分。そしてニャルラトテップの化身。身体の半分だけ、自分のものではない。そして簡単に奪い去られてしまう。取り返すのは容易ではない。

 

 精々、奴の口車に乗らないようにしないと。なんてことを考えていたら、部屋の扉がノックされた。コンコンッココンッと、小刻みに。もう聞きなれたリズムだ。しかし藪雨は来ないはずじゃなかったのか。そう思って彼女を見たら……困ったように頬を指で搔いて、苦笑いを浮かべていた。

 

「いやぁー、菜沙と一緒に来ちゃったかなぁこれ。藪雨が来る時って、基本菜沙を連れてくるからさ」

 

「絶対説明面倒くさいやつだこれ。せんぱーい、藪雨の野郎来ましたよー」

 

「野郎の藪雨が来たって? こっちと違ってマジモンの忍者だったりしない?」

 

「残念、ウチのも対魔忍だ」

 

「草生えるわそんなん」

 

「藍を対魔忍扱いするなぶっ殺すぞ」

 

「こっちの西条物騒過ぎィ!!」

 

 やかましい。その騒ぎが聞こえていたようで、藪雨は入っていいと許可を出していないのに部屋に入ってきた。小動物を連想させるような、小顔の少年だ。その後ろには……随分とクール系な男の子もいる。あれが菜沙なのか。

 

「なっ、なんか似てる人がいっぱいいる!?」

 

「落ち着いて藪雨。説明するから」

 

「そうだぞ。暴れられると面倒だからとっととあのゲーマー共の所に行って、どうぞ」

 

「うわ唯野せんぱいが二人に!?」

 

「よく見ろ。俺は男だ」

 

 こっちの世界でも相変わらずうるさい。どうなってるんですかーと叫んでいる藪雨の後ろでは、菜沙らしい人物が俺と唯野さんを見比べている。

 

 俺は制服。唯野さんは私服。それだけで簡単に判別できる。菜沙は迷わず唯野さんの元へと近寄ると、少し強引に手を引いて俺から遠ざけた。

 

「ひーちゃん、どういうことなのか説明して」

 

「えっと……離れ離れになっていた血の繋がってる弟……?」

 

「血は繋がってるな、多分。いやどうなんだろ。性別違うしDNAも違うか……?」

 

「とりあえず私のペルソナです」

 

「ひーちゃん、ふざけないで」

 

 菜沙が唯野さんのほっぺたを強く引っ張っていく。痛そうな声を上げているけど、唯野さんは笑顔だ。俺もこんな感じで、菜沙と笑いあっていただろうか。

 

 なんにせよ……説明するのに骨が折れる事態になりそうだ。自分を説得するよりも楽だと、そう思っておこう。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 夜の街並み、人の通り。組織のビルの屋上から、見慣れたその景色を見下ろした。それらはまったく記憶にあるソレと相違はない。裏路地でたむろする感じの悪いガキも、女性を侍らせる裕福な男性も、疲れきったサラリーマンも。

 

 ただ、少しばかり気になるのは男女比。不良少女の多さ、スーツ姿の女性。あの裕福そうな男性は、実は女性を侍らせているのではなく、その逆のようにも思える。

 

 先輩曰く、男女の性別が逆転した世界。なるほど確かに、そうなんだろう。この世界ではそれが当然のように扱われている。男性の専業主婦は、別にさほどおかしなことではないと彼女たちは言っていた。少々、女性の権利が強い風潮がある。

 

「悩み事か、氷兎?」

 

 背後から声が聞こえた。振り向いた先には、二人の先輩と唯野さん。夜の巡回は終わったらしい。

 

 オリジンの制服を着た唯野さんは、本当に俺と見間違えてしまいそうだ。顔を見ればわかるにはわかるが、背中を向けていたらわからないだろう。背丈も変わらず、髪型も大して変わらない。

 

「少しだけ、考え事を」

 

「綺麗な月夜に一人物思いにふける。うーん、この一枚絵は金になりそうだ」

 

「なーにアホなこと言ってんですか」

 

「だってよ、こんなに空が綺麗なんだぜ? 月見酒ならぬ、月見珈琲といこうや」

 

 ほれ、と言って先輩がカフェオレの缶を投げ渡してくる。冷たかったはずの缶は、先輩が持っていたせいか生暖かくなっていた。

 

 先輩は俺同様にフェンスに背中を預け、女性の二人も同じようにしていた。向こうの先輩はブラック。唯野さんはカフェオレ。本当に、趣味趣向も同じ。当然といえば当然だけど、変な気分だ。

 

「んで、なに考えてたんだ?」

 

「この世界のことですよ。俺たちの世界とは性別が逆転してるせいで、男性主体だった社会風潮は女性主体のように思えます。選挙ポスターも女性ばかり。強い女性が多いんですよ」

 

「そう? まぁ、私たちにとってはそれが普通だから、特段変には思えないんだよね。ねぇ氷兎」

 

「まぁ、そうですよね。世界が違えば常識が違う。そんなものじゃないですか?」

 

「そんなもの、なんですかねぇ。俺たちからすると、この世界は一部の人間に喜ばれそうなものなので、なんだかなぁって」

 

「あー、SNSにいる自称フェミニスト集団か。確かに、あの人らが目指した世界って、こういうものなんかねぇ」

 

 先輩も俺と同じように思ったらしく、缶珈琲を傾けてから苦々しく顔を歪めた。基本的に逆なのだから、こっちでは今度は男性が権利を主張し始めているんだろう。

 

 どの世界でも生きづらいのは、きっと変わらない。強者がいれば弱者がいる。有利があるなら不利がある。まったく、平等というものは机上の空論でしかない。空想上の産物だ。そんなもの、数学にしか使えない。だというのに、人々は不平等を叫ぶ。この世界は必ず偏りが生まれるものだというのに。

 

「叫ぶべき不平等もあるさ。海外だとよくある話だろ?」

 

「昔の日本も、その例に漏れずだしね」

 

 あまり批判的に考えるな、と二人の先輩は言う。その通りだと思うけど、どうにもその考えは簡単にはなくなりそうにない。俺の人間という種族嫌いは昔からのものだ。

 

 カフェオレのように、黒と白とでちょうどよく甘くなればいいのに。現実はそう甘いものではないのだと、過去を振り返る度に思い知らされる。嫌な世の中だ。きっと、どの時代でもそう思う。

 

 自分の世界のことだとか、過去だとか。そんな話題へと話を変えた。先程までの変な雰囲気もなくなり、中学時代の話をし始めると、やっぱり部活で苦労したという体験談に落ち着く。悔しそうな彼女の顔は、俺が中学時代にしていたものと同じだろうか。

 

「……お前ら、揃ってここにいたのか」

 

 話し込んでいると、屋上の扉が開いて西条さんがやってきた。その後ろには薊さんもいる。気が合わなそうだと思っていたのに、二人で見回りに行くと言い出した時は少々驚いたものだ。

 

 西条さんは女性の二人を一瞥したあと、俺と先輩の元へと近寄ってくる。そして親指を街の方へと向けながら、表情ひとつ変えずに言った。

 

「お前ら、ちょっと来い。近くの風俗店まで行くぞ」

 

 その言葉に、えぇ……と思ったのは、絶対に俺と先輩だけじゃない。呆れた目をするこちらの先輩と唯野さんが印象に残っていた。

 

 

 

 

To be continued……




赤バーに戻ることができ、ランキングにも載っていました。ありがとうございます。


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第126話 悪魔

 夜は恐ろしいものだ。周りは見えず、影も見えず。ただ音だけが増長して聞こえてくる。路地裏やビルの影に、何かがいるかもしれない。足早に去っていく人もいる。それは普通の反応だ。

 

 しかし西条は違う。彼、そして彼女は物怖じせず暗闇に足を踏み入れ、微かな呼吸音も逃すまいと耳を立て、制服に隠している刀の鍔を触る。まるで恐怖とは縁遠い二人の姿は、段々と夜の街に溶け込んでいく。

 

「……まるで変わらんな」

 

 隣を歩く薊に聞こえる程度の小さな声で、西条が呟く。暗闇があれば明かりがあるように、表通りは人が多い。キャッチをする男性、くたびれたキャリアウーマン。その姿こそ変わっているものの、やっていることは何一つ変わらない。

 

「馬鹿馬鹿しい。差異を探したところで、帰還方法が解明する訳でもない。無駄骨だな」

 

「如何せん、足で稼ぐしかないんでな。頭を抱えても、なかなか答えは出ん」

 

「答え、か。時に、物事には答えがない場合もある。今回のがそれじゃないのか」

 

「思考をやめれば、そこで終わりだ。帰るためなら悪魔の証明だろうとやり遂げるぞ、俺はな」

 

 悪魔の証明をする、と西条は言う。ひとつの例えとして、世界に白いカラスがいないことを証明せよと言われれば、それは悪魔の証明と呼ばれるものとなる。あることを証明するのは、ソレを提示すれば済むことだ。しかし、ないことを証明するのは難しい。世界中にいるカラスを全て、間違うことなく、調べなくてはならないのだから。一羽の見落としも許容できない。そんなのは無理だ。

 

 けれど西条は、ソレをすると言い切った。無理難題だろうとやり遂げる。そうまでして、帰らなくてはならない。

 

 オリジンの制服のフードを外し、顔を顕にする。同じように薊も顔を出した。その顔に違いこそあれど、雰囲気は似ている。鋭い目付き、整った顔。互いに睨み合っていなければ、それは正しく美男美女のカップルだと思われてしまうだろう。薊はサラシを巻いていて、胸もなるべく抑えつけている。そのせいで背格好や体型も大差ない。

 

「……男女の性別反転。VR空間。確実にコレが解明の手口になるはずだが」

 

「こちらとしては、信憑性に欠ける話だよ。逆ならどうだ? どうせ信じないだろう」

 

「疑いの目は持つだろうな。なにせ、人智の及ばぬ規格外のバケモノを相手にしてきた。今回のも、きっとそうなのだろう。人の神経ばかりすり減らしてきおって……忌々しい」

 

 眼鏡を外し、目頭を抑えて鬱陶しそうに言う。互いに明かりから遠ざかり、暗闇の道を進んで本部への道を歩いていく。夜間の見回りはここまでだ。

 

 付近に神話生物らしき気配もない。そして、その場にいるのは頭脳の優れた二人。同一人物とはいえ、思考回路までまるっきり同じとは言えないだろう。視点が少しでも違えば、得られる情報は増える。互いに小声で、自分の中の情報をポツポツと交せ合う。

 

 お互い、異世界の人物である。経歴に差はない。親に決められた結婚相手も同じ。親に向けた敵意も、きっと同じ。隣にいるのはきっと自分の真の理解者であろうに、仲良くなろうとはお互い思えなかった。けど、有能だということだけは知っているから、利用できるだけその能力を利用する。そんな関係だった。

 

「私にとっては普通のことでも、貴様にとっては普通ではない。それはなんだ?」

 

「藪から棒に、なぞかけか。答えは貴様の性別だ」

 

「貴様、議論する気はあるのか」

 

「ある……が、残念ながら答えが定まらん」

 

「……なら、考え方を変えてみたらどうだ」

 

「それができるのなら苦労はしないんだが……考え方、か。数学的に、逆か、裏か、対偶か」

 

「……アホか。そんなもの考えるだけ無駄だ」

 

 真面目にやれ、と薊に睨みつけられる。しかし西条は至って真面目だ。帰れないかもしれないという、少しばかりの焦りもある。帰れないのは困るのだ。帰れなければ……家族に復讐することも叶わないのだから。

 

 何か。何かないのか。そう何度も考えを巡らせる。ここまで来て、何日も過ごして、性別以外は何も変化がない。何もかも同じだ。そう、何もかも。

 

(……何もかも、同じ……同じ、だと?)

 

 同じ。性別以外、まったく、何一つ変わることなく、同じ。氷兎の経歴と桜華のことは例外として、世界は全く同じだった。店の並び、道筋、人の数。そして、部屋の位置も。自分の歩く道も。

 

「……そうか、道理で。逆だ。違和感がないのが問題だ」

 

「とうとう、頭が狂ったのか?」

 

「いいや、正常だ。だからこそ気づかなかった。いつもと同じ光景だったからな。部屋を出て、外に行く道。それらは全て同じだ。俺たちがいるのは……女性棟だというのに」

 

 それは西条にとっては日常のような景色。男性棟と女性棟が分けて作られるのは普通のことだ。だからこそ、おかしい。入る場所も出る場所も同じ。西条の世界で男性棟だった場所が、女性棟になっている。

 

 仮に同じ世界なのだとしたら、本来は逆の位置に立地していなければおかしいはずだ。だというのに、同じ立地で、男性棟と女性棟が入れ替わっている。これではまるで、性別が反転したのではなく、男性と女性のパラメーターが反転したようなものではないか。

 

 思い返してみれば、本部の共用部にあるトイレは男女逆になっていた気もしてくる。本当に些細な違和感だが、それこそが致命的な見落としであったかのように、西条はその場で立ち止まって、近くの建物に背中を預けて思考に陥った。

 

「仕事は同じ。人間も同じ。男女という概念が反転。考え方……逆、裏……」

 

 薊も立ち止まり、ブツブツと独り言を呟く西条を見る。もう少し。あとそこまで出かかっている。ひと押し。そのもどかしさは彼女もよくわかる。だからこそ下手な言葉はかけられない。

 

 考えて、考えて、これではないと投げ捨てる。何度も何度も、思考を投げ捨てた。

 

「マズイもの……いや、反転して、困るもの……」

 

 思考はより深く。そして方向性は変わる。世界の差異を見つけるのではなく、西条は世界の間違いとも呼べるものを探し出そうとしていた。それも、ほぼ無意識に。考えるうちにその方向に思考が変わっていった。そして、ある疑問を口にする。

 

「仕事も人間も同じで……反転して困るもの……?」

 

 やってる人間は同じ。内容も同じ。けれど逆になることで致命的なミスが出てしまうもの。その考えに至ると、悩んで皺の寄っていた眉間が元に戻る。積年の悩みがなくなったように、一気に開放感が押し寄せてくるのを西条は感じていた。

 

「そうか……性別が逆で困るもの。確かに疑問に思えることだ」

 

「……一体どういうことだ?」

 

「口で説明しても、きっと貴様には理解出来ん。これは、こっちの世界に来たからこそ到達できる思考だ」

 

 西条がそう言い切ると、今度は薊が眉間に皺を寄せた。自分ならそうなる、と西条もわかっているので、仕方ないと心の中で割り切る。それよりも彼女に聞かなければならないことがあった。直球に、濁すことなく、彼女に問いかける。

 

「貴様にとって、風俗店とはどのようなものだ。あぁ、もちろんパチンコなどではなく……いかがわしいものだ」

 

「何をいきなり……基本的なイメージでいえば、男性が女性に奉仕したり、か……いや、待て……?」

 

「そこだ。男性が女性に奉仕するのは、ホストがある。その逆はキャバクラ。なら、それではなく……性的なサービスを提供する仕事内容だとしたら。男女が逆になれば問題が生じると思わないか。基本的に、風俗とは女性が男性に奉仕するというものだ。しかも店が同じ、業務内容もだ。デリヘルも、かなり問題になる。それがこの世界の当たり前なのか?」

 

「いや……わかる。それは、わかる。だが、なぜ……いや、変だ。どうなってる。それは当たり前なのに、なぜ変だと思う。クソッ、なんだこれは……頭がッ……」

 

 薊が頭を抑えて座り込む。それを黙って見下ろしていた西条は、別に彼女のことをどうでもいいと思っていた訳ではない。ただ、まだ考えなくてはならないことがあり、彼女にそこまで構っていられないからだ。

 

(……この世界は、本当に異世界なのか。仮に、そうではなかったとして。あぁ、俺の想像通りだとして。どうすればそんなことができる? 生きてる人間、生活習慣、街並み。ニュースや事件。それらをまったく同じで、普通に回せている。適当に作られたものではない。明らかに現実的で、しかもこの世界に来た日付は、元の世界と同じ。つまり、今は未来に生きている)

 

 段々と自分でも訳が分からなくなってきそうになり、また眼鏡を外して目頭を抑える。そして深く息を吸い、吐く。蹲っている薊は、呻き声は止まったが、そのまま座り込んでいる。その様子を鑑みても……西条は、自分の考えが間違っていないのではと思えて仕方がなかった。

 

 あぁ、でも、だとしたら。そう、間違っていなかったとしたら。

 

(過去、未来。世界、瓜二つ。そんな馬鹿げたスケールのことを、神話生物ができるのか……?)

 

 仮に、正しかったら。その仮説がまかり通ってしまうのならば。それを成し遂げる存在が、いてしまう。いることになってしまう。

 

 そこまで考えて、気づく。いないことの証明は難しい。けど……あぁ、いることを証明するのは、簡単なことだ。そう、たった一例あげるだけでいい。そのたった一例を、知っているのだから。

 

 過去も。未来も。何もかも。それは、知っている。介入することができる。下手をすれば改ざんすることもできる。できてしまう。

 

 そんなことができる存在。忌々しい、アレを。

 

(アカシックレコード……ニャルラトテップ……ッ!!)

 

 その結論に、辿り着いてしまった。

 

 過去から未来。全ての情報がそこにある。それこそがアカシックレコード。それを利用できる、ニャルラトテップ。

 

 あぁ、あぁ、なんてことだ。そんな馬鹿な。いくら取り繕っても、その結論は揺るがない。

 

「ッ……クソッ」

 

 額に手を当てて、顔を隠すようにしながら西条は崩れ落ちる。その真実に、辿り着きたくはなかった。いや、辿り着かなければならなかった。そんな矛盾した答えに、辟易とする。

 

 崩れ落ちて、顔を青くした西条を見て、薊はようやく意識が正常に戻った。彼女には彼の考えは分からない。その結論に辿り着けない。彼女は、アレを知らないから。

 

 互いに何も言わないまま、路地裏の暗闇に二人の身体がポツンッと取り残される。まるで世界から乖離してしまったように。けれどもそんな二人を現実に引き戻したのは、音だった。着信のバイブ音。薊に誰からか電話がかかってきた。

 

 傍から見れば顔が青く見える西条も、朦朧とした吐き気を覚えつつ、彼女を見る。薊は携帯を取り出すと、電話の向こうにいる相手と話し始めた。その言葉は、あまり西条の耳には残らない。今は何も考えたくはない。そんな気分だったからだ。

 

「……えぇ。いや、こちらもちょうど気になることがあった。準備が出来次第、そちらに向かう」

 

 そう言って、彼女は電話を切った。そして立ち上がり、険しい表情のまま西条に告げる。

 

「……比嘉(ひが)刑事からだ。風俗店で厄介事があったらしい。私たち向けの、な」

 

「……そうか」

 

 比嘉とは誰だ、と聞く余裕もない。その言葉に生返事をして、西条はゆっくりと立ち上がる。そして足並みをそろえることなく、本部へと歩いて帰っていった。

 

 なんとか、気を持ち直さなくては。そう考える西条の耳には……どうしてか、誰かの嘲笑(わら)い声が聞こえた気がした。本当に、すぐ隣にいて、囁くかのように。隣には、彼女しかいないのに。

 

 舌打ちをして、硬いビルの壁を殴りつけた。痛い。けれど……少しだけ、気分はマシになった気はしていた。

 

 

 

 

To be continued……




西条くんもうまそうやなほんま……()

ナイ神父に誘われて組織入った段階で、目はつけられてんだよなぁ。

さて、そろそろまた大学が始まりますね。徹夜の日々、再びです。
発狂しないように頑張ります。
日間ランキング14位になったりしていました。本当にありがとうございます。


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第127話 泣く蜘蛛

 風俗店という名前を聞いて、良いイメージが浮かぶ人と、そうでない人の二種類がいると思う。俺と先輩は、その二種類だった。先輩は男性にとって嬉しいことをしてもらえるというイメージ。しかし、俺にとっては嫌々その仕事をしなければならない、一般的に失敗したような人が就くような職だという偏見がある。きっとそうではないのだろうけれど。

 

 西条さんは風俗店に行くとしか言わなかったけど、薊さんからは少し思いがけない話が聞けた。警察内部にいる協力者との繋がりがあるらしい。それが比嘉刑事なのだと。

 

 薊さんが言うには、警察には特殊な部門が設立されていて、俺たちのような特殊な人間でないと解決できない事件を取り扱うらしい。その事件を預かり、オリジンの本部に連絡。そして俺たちへ仕事が回ってくる。比嘉刑事はその部門の刑事で、 後始末や現場の付き添いなど、いろいろと手を回してくれているようだ。

 

 まぁ確かに、そういったものがないと任務にも支障が出る。入ったばかりの警察官なんて、俺たちの存在すら知らないだろう。任務をスムーズに進めていくためと、民間人への情報漏洩を防ぐという点に注力する公安部門。その名も、『ゼロ』。協力関係にある機関との情報のやり取りなどを行うらしく、基本的な仕事は情報収集と統括なのだとか。詳しいことは流石に警察からNGを喰らったらしいが。

 

 そのゼロも比嘉刑事も、俺との関わりは多分ない。こっちの俺は随分と外部にも協力者がいるようだ。任務先で様々な人と出会い、関係を作り上げていく。そのコミュニケーション能力は間違いなく俺以上だ。

 

「比嘉刑事とは、どこで知り合ったんですか?」

 

「ネームレスと戦った時かな。あの時は警察とも連携とりながらの任務だったし、ネームレスが出て応援を頼まれた時も比嘉刑事から連絡が来たと思う」

 

「……そういえば、確かにそんな名前の人がいたような」

 

 あの事件で懇意になった人は喫茶店の店長だけのような気がする。藤堂は……今も元気にしているだろうか。近くに行くことがあったら、少し探ってみるのもいいかもしれない。

 

「しっかし、風俗店ねぇ。こんな黒服集団が集まったらヤバいでしょうに。ケツ持ちって思われそうだぁ」

 

「それっぽい人いますからねぇ」

 

「俺をヤクザ扱いするのはやめてもらおうか」

 

 だってヤクザにしか見えないですもん。西条さんは眼鏡外してオールバックをやめれば、ちょっと強面のお兄さん程度になるかもしれないけど。今のままじゃどう見たってインテリヤクザだ。

 

 それから数分くらい西条さんの容姿について話しながら歩いていたら、通りに人が少なくなってきた。周りに見えるのは、ピンク色の文字が光っているホテル。そういった店の並ぶ場所にまでやってきたらしい。

 

 こんなところ男女で固まって歩いていたくはないんだけど……そうもいかない。もう少しで問題の風俗店に着くといった所で、ふと景色に違和感を感じた。神話生物のような感覚じゃなく、普通に。道の奥の方で、空間が一瞬だけ揺れたような気がする。

 

「随分とこの辺人が少ないですね。それに、なんだか奥の方も変な感じがしますし」

 

「比嘉刑事が人払いをしてくれている。さっさと来いとでも言いたげに、さっきから何度もコールしてきてるな。鬱陶しい」

 

「まぁまぁそう言わずに。夜中だってのに大変なんだからさぁ」

 

 少しは労わってあげて、と鈴華さんが言うも、薊さんはどうでもいいと言いたげに顔を逸らす。普段の俺たちは、確かにこんな感じで過ごしていたんだろう。仲がいいということが傍目から見てわかる、というのは案外嬉しいことなのかもしれない。

 

「奥の方が変に感じるのも、近づけばわかる事だ。とっとと行くぞ」

 

 先を歩いていく西条さんに置いていかれないよう、全員で着いていく。奥に進めば進むほど、その違和感というのは如実になってくる。もうそれは違和感では済まされない、確実な異変だった。

 

「おいおい、なんだよこれ……」

 

 先輩の口から漏れ出た言葉は、きっとこの場にいる全員の気持ちを代弁したものだっただろう。

 

 辿り着いた風俗店は……いや、なんとも言葉にするのは難しい。看板はジガジガとブレて読めないし、建物も所々ノイズが走ったように揺れ動いている。まるで、映像作品のように思えた。

 

「これは、アレだな。バグってんな」

 

「現実でバグって……中で誰かケツワープでも試したんですかね」

 

「中に金髪幼女のTASさんがいるかもしれない。急ぐぞ氷兎!」

 

「待て馬鹿者。入ってお前までバグったらどうする気だ」

 

 いざゆかんとばかりに突撃しようとする先輩を、西条さんが襟首を掴んで引き止める。そもそもこんな訳の分からない場所に突っ込んでいかないでください。何があるかわかったもんじゃないのに。

 

「わーってる、冗談だって……いやでも、コイツは冗談じゃねぇんだよな? 俺の目がおかしいとかないよな?」

 

「誰の目から見ても、バグってると思いますよ」

 

 確認するように周りを見回せば、薊さんも鈴華さんも、そして唯野さんも頷いている。目の前の光景は、確かに全員に見えているようだ。

 

 とりあえずとばかりに、先輩がポーチからマガジンを取り出して投げつける。狙った場所は、建物のバグっている部分。数秒毎に青白く光って建物がブレる。けれどもマガジンは確かに硬い音を立てて跳ね返った。そこには建物としての形状が残っているらしい。

 

「これは、一般人には見せられないね。西条はどう思う?」

 

「……さぁな。こんな奇っ怪なモノ、私にわかるわけないだろう」

 

「じゃあそっちの西条は?」

 

「さて……仮説ならたてられるが、これは言わん方が良さそうだ。まぁバグという言い方は、言い得て妙だがな」

 

 西条さんは何かしら仮説はたてられているらしい。言葉にしないのは、彼なりに考えがあるんだろう。

 

 ……薊さんを軽く睨みつけるのも、その理由の内なのだろうか。薊さんの方も、西条さんのことを睨み返している。仲が悪いのはわかったけど、ここではそう態度を悪くしないで欲しい。せっかくの頭脳が二人いるのに、勿体ないだろう。

 

「よぉ、お前さんたち。今日は随分と人数が多いな」

 

 建物を眺めていたら、急に背後から声をかけられた。黒スーツで、髪の長い女性がタバコを吸いながら俺たちのことを見ている。目元の隈も濃く、やる気も感じない。ダウナー系、と言えばいいのか。顔のシワやスーツの着こなしから見ても、かなり年上だろう。

 

 女性陣は彼女のことを知っているらしく、軽く頭を下げた。どうやらこの人が比嘉刑事らしい。

 

「暇そうだったので、応援を頼みました。それで比嘉さんが私たちを呼んだのはまぁ……コレですよね」

 

「そうだねぇ。今までなんともなかったのに、急にこんなことになって困ってたんだ。しかもここだけじゃない。全国各地で同じような現象が起きてる。こんな風になるのは決まって、風俗店だってのがなんともまぁおかしな話だよ。いい加減、こんな変な事件に巻き込まれるのは勘弁なんだけど」

 

「いつもすいません。今度菓子折りでも持っていきますから」

 

「菓子折り程度で、私の崩れ去った常識が戻ってくるなら受け取るよ」

 

 あぁもうやだ、と比嘉刑事は光を失った目で空を仰ぐ。吸い終わったタバコを手持ちの吸殻入れに捨てて、また新しいタバコを口にくわえる。どうやら重度のヘビースモーカーのようだ。

 

 ……吸ってないと、こんなことやってられないとも思えるけど。いや実際そうなんだろう。市民の平和を守る警察官が、まさか出世したばかりにバケモノと相見えようとは。とんだ人生だと、嘆きたくなるのもわかる。

 

「それで、俺たちにコレを調査しろというのが公安からの依頼でいいんだな?」

 

「いや、それもあるんだけど……それはまた別働隊を派遣してもらう。今のところは、国の方でなんとか誤魔化すだろうね。問題はまた別にあってだね……ここで働いてた風俗嬢の一人が、どうにも変なもんを見たって言うのさ。でっかい蜘蛛だとか、言ってたっけなぁ」

 

「……唯野、何かわかるか?」

 

「いや蜘蛛って言われましても、魔導書は辞書じゃないんですから。勝手に人の記憶にこびりつけてくるので、自由に扱えるもんじゃないんですよ」

 

 いつの間にか知っていた、という事実だけを残していく。それが俺の中にある二冊の魔導書だ。記録媒体という扱いではなく、もっぱら魔術行使の触媒扱いになっているけど。

 

 蜘蛛、蜘蛛……と心の中で言い続けても、何も反応はない。はー、つっかえ。pdfファイルにでも変換してくれれば……いやダメだ。面白半分で読んで死ぬやつが出る。絶対に。

 

「まぁ、蜘蛛だなんだって話はその嬢から聞いてほしい。問題はまだあって……」

 

「いやいやいや、ちょーっといいっすかね。この意味不明なバグに加えて、その風俗嬢の話もあって、更にまだあるんすか!?」

 

「その風俗嬢と関連してるかもしれないって話。とりあえず、西条さんに動画送るからさ。それを皆で見てほしい」

 

 比嘉刑事が西条さんの携帯に動画を送り付け、更にそこから鈴華さんと唯野さんに送られる。とりあえず俺は唯野さんの携帯を横から覗き見てみたが……再生されている動画は暗く、遠くに設置された街灯の明かりで薄らとシンボルが見えている程度。

 

 日付が示されていたり、固定カメラだったりで、多分これは監視カメラの映像だ。写っている場所は、ここからそう遠くない場所にある公園だろう。石で作られたベンチと芝生の位置関係には見覚えがある。

 

「公園に監視カメラなんてあんの?」

 

「一部設置された場所はある。しっかりと条件をつけた上でだがな」

 

「へぇー、でも今んとこ何も映ってなくね?」

 

「もうちょっと待って。そしたら……見えるはずだよ」

 

 見えるって、何が。そう聞こうと思ったら映像に変化が現れた。左下の方から、上半身だけが映った女性の姿が見え始める。耳には赤色のピアス。服装は水色で、黒い長丈のスカート。それだけなら何も問題はないけど……女性はそのまま監視カメラの中央を通って奥の方へと進もうとして、動きが止まった。

 

 両腕で身体を抱きしめるように抑えつけ、内股になって震え始める。ガタガタという音が聞こえそうなくらい振動し、やがて立っていられなくなり、地面に四つん這いになった。そして……

 

「ッ……」

 

 誰かの息を飲む音が聞こえる。その刺激的な瞬間は、思わず身体がビクリと動き、両手に力が入ってしまうようなものだった。

 

 女性の足が、大股開きになる。普通ではありえないほど開かれた足。そして肥大化していく腰から下の部位。膨れ上がった尻は後方に向けて大きく膨らみ、その部位から液体と共に食い破るかの如く突き出してきたのは、新しい足。しかも色は黒い。

 

 最初に開かれた足も、徐々にその色を黒へと変えていく。履いていたハイヒールを雑に脱ぎ捨て、ボロボロになったスカートを両手で押さえつける。

 

 人間の上半身。けれど下半身のソレは、まるで昆虫のようだ。足の本数は、八本。昆虫は基本六本だ。だとしたら、それは昆虫ではなく……蜘蛛だ。まるで産まれたてのそのバケモノは、足が上手く動かないのか、その場で地面に伏している。

 

「な、なにこれ……人が変異って、まるでスワンプマンみたいな……」

 

「人間なのか、バケモノなのか。変異してしまったとしたら、自分の意識はあるのか。そこら辺は考慮すべき点だろうな」

 

 薊さんも、西条さんも動じた様子はない。先輩は鈴華さんと顔を向け合い、表情を固くする。普通の人間らしい反応だ。それを見て、怯えているのが自分だけじゃないことに、少しだけ安堵する。

 

「もし仮にこれが人間だったとしても……殺さなきゃいけないのかな」

 

 隣から聞こえる声に、覇気はない。俺だってそうだ。この女性が人に危害を加えないとも限らない。例え人間としての意識や記憶があろうとも……スワンプマンのようになってしまったとしたら、殺す他ないのだから。

 

「……今は、なんとも言えないかな。話が通じればいいんだけど」

 

「だよね。話してみないことには、なんともならないよね」

 

 少しだけの希望を残しつつ、また動画を見る。震えていた女性は、生えたばかりの足をそれぞれ不規則に動かし始め、次第にゆっくりと立ち上がった。八本の足で、地面を踏みつけ……その場でくるりと身体を回す。今まで後頭部しか見えていなかったけど、顔が見えてしまった。

 

 悲痛、恐怖。歪んだ顔と、流れ落ちる涙。目の中にある瞳の数は増えていて、ギョロギョロと動く。口は開きっぱなしで、きっと何かしらの呪詛を吐いているのだろうというのは容易にわかった。

 

 その顔を見ればわかる。その涙を見ればわかる。声が聞こえなくともわかる。女性は今の自分の境遇を嘆き、張り裂けるような声で泣き喚き、両手で自分の顔を掻き毟った。

 

 これは夢だ。これは夢のはずだ。早く醒めて。そんな、声が聞こえる気がする。人間から変異したという不気味な光景に恐怖をそそられるよりも、その女性の泣く姿を見て可哀想だと思う感情の方が勝り始める。

 

 いくら泣き叫んでも、その声は録音されていない。一体どれだけ声を張り上げたのかはわからないけど、録画しているこのカメラに気づいて……涙を散らしながら飛び上がり、無理やり手で破壊した。映像はここで途絶えている。

 

「……蜘蛛、ですよね。足の本数と目の数から考えて、ですけど」

 

「風俗嬢の言っていたことと重なる、か。ソイツはこのバケモノを見ただけじゃないのか?」

 

 西条さんが比嘉刑事に疑問を投げかけるが、彼女は首を振って否定した。タバコを吸い込み、長く息を吐いて煙を散らしていく。

 

「その映像に映っているのが、件の風俗嬢だよ」

 

「人間に戻ったとか、そういうことっすかね」

 

「いいや、彼女は『蜘蛛を見た』と言っただろうに。それに、もっと意味不明なのがあるんだよ。カメラの映像、よーく見てみな」

 

 言われた通り、映像をもう一度再生する。暗い公園の景色だけが映されているだけ。何も不思議に思うところはない。

 

「管理してた人も、泡吹いて倒れたさ。だって……日付、見てみなよ」

 

 もう一度、映像を見る。画面の端に表示された日付は……今日のものではない。なんなら昨日のものでも、最近のものでもない。普通じゃありえない日付が、そこには表示されていた。

 

「三日後の日付だよ。破壊されたはずのカメラも無事。つまり……その映像、未来の出来事を映し出してるってことだろう? 信じたくはないんだけど、さ」

 

 燻るタバコの煙が、暗い空へと消えていく。ソレを事実だと言えない。未来のことなんて確定していないから。きっと誰かのイタズラだ。そう思いたくなる。

 

 でもこの映像は、生理的嫌悪を催すような刺激的なもので、それでいて現実的。その薄気味悪さもまた、現実味を帯びさせている。

 

 こんな世界に生きていなかったら、信じない。でも俺たちは、神様にだって会ってきた。だからこそ……信じる他ないんだろう。これは紛うことなき、未来の映像で……この女性は、三日後に泣き喚きながら蜘蛛になるのだと。

 

 

 

 

To be continued……





ベルナデッタがオールS+になったので初投稿です。

日陰者の小説をまた別の賞に応募したのですが、選考は通らず。悔しいのは悔しいのですが……Twitterとか見てると、どうにもポイントだけ見てる、とか。まぁ負け惜しみの感想かもしれませんがね。なろうだと200ちょいしか評価ありませんし。

でも、小説を出したいと思う身でもありますから……来年の4月に電撃大賞の締め切りがあります。最後の手直しをして、『日陰者が日向になるのは難しい』を公募に出してみようかなと。その時には一旦非公開にします。

そういえば、出版社からの話で、キャラが薄味になってきているという話があったそうな。私はそれなりにキャラは魅力的に描いているつもりなのですが、まぁこの小説は公募には出せませんね。著作権とか……ネタがね。語録アリのクトゥルフ神話とか、売り出し文句としては良さそうだけど。


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第128話 公園探索

生きてます。死にそうなくらい疲れてますけど。

また期間が空いたので簡潔なあらすじをば。

性別が反転した平行世界にきてしまった氷兎たち。風俗店がバグっていたり、風俗嬢が化物に変異する映像を見てしまったりと、大変なことに。急ぎ事態を収拾せよ。


 巨大な蜘蛛を見た。それは確かに現実で、けれど夢のようにも思えるような出来事。仕事の休憩中に視線を感じて、ふと部屋の隅の天井を見た時にソレがいたのだと。流石に悲鳴をあげ、不意に意識が途絶えた。起きた時には蜘蛛はいなくなっていて、首筋辺りがしばらく痛み続けたらしい。きっとあれは夢で、疲れて倒れでもして頭を打ったのだろうと、件の風俗嬢は話した。

 

 その言葉に偽りはなく、少しの脅えが感じられた。なにしろ今の風俗店の状態を見るに、もしかして夢ではなかったのではと不安になっているらしい。

 

 本人に動画を見せるわけにもいかない。けど、彼女は公園は寄る理由がなく、帰り道も逆側だと話していた。だとしたらあの映像はなんなのだろうか。理由もなく公園に向かう、なんてことはない。

 

 動画に映っていた辺りを西条さんが見回っているけど、何も収穫はなさそうだ。そもそも彼女からは神話生物らしい反応は見受けられない。CGだと思いたいものだ。

 

「西条さん、多分今探しても何も見つからないんじゃないですかね」

 

「未来の映像だとすれば、ここに何かあるはずだがな。理由もなく訪れるのであれば……おそらく、引き寄せられたと考えるべきだ」

 

「神話生物に、ですか」

 

「あぁ。人よりも大きな蜘蛛らしきものにな」

 

 人よりも大きな蜘蛛。そんなもの見たら、例え本来の蜘蛛の造形をしていても発狂ものだ。気味が悪い。糸で巻取られて喰われたりしたら……なんて、嫌な想像ばかり浮かんでくる。

 

 軽く鳥肌がたって身震いしていたら、遠くの方まで探索に行っていた先輩たちが帰ってきた。女性陣と仲良く話ながら帰ってくる先輩の姿は、大学生のパリピーに見えなくもない。そんな未来も、きっとあっただろうに。どうせ並行世界に行くというなら、平和な世界に行きたかった。誰に愚痴を言えるわけでもなく、そっとため息をつく。

 

「なんだよ氷兎、ため息なんかついて」

 

「別になんでもありませんよ。自分と西条さんだけ残して、女の子と楽しく話してることを僻んでなんていません」

 

「悪かったって。女の子だけで探索なんて危なっかしいだろ? 機嫌直せってー」

 

 そう言って背中に回り込んで、背後から首に手を回すように体重をかけてくる。鬱陶しい……けど、慣れたものだ。それに、こんな夜中に人気のない公園にいるのも心細い。そういった意味では先輩のこういうところは有難かった。

 

 抱きついてきてる先輩と俺の二人を見てくる周りの目は少しばかり痛々しいけれども。薊さんなんか、気味の悪いものを見たかのようにそっぽを向いてしまった。

 

「二人とも本当に仲良いねー。よーし、じゃあ私の氷兎も同じことする?」

 

「先輩のそういうところ、嫌いじゃないけど好きじゃないよ」

 

「……ホモとレズしかいないのか、このメンバーは」

 

「入力速度を考慮した結果だから仕方ないダルルォ!?」

 

「最速は『あ』だけに決まっているだろう愚か者め……」

 

 RTA芸人の先輩とRTAガチ勢の西条さんとでは多少の差はあるものの、誤差だよ誤差。もっとも、西条さんの世界ではその数秒に何人も走者がいる廃人共の巣窟なわけだけど。走り終わって、満ち足りた顔で身体を伸ばしている姿は確かに気持ちよさそうだが……そうなろうとは思えない。そもそもフレーム単位で動かすことができないからやる気もない。傍で見ていながら、はぇーすっごい……って言っている方が性に合っている。

 

「それで、そっちの方は何か収穫はあったのか?」

 

「いやー全然。そもそも魔術反応とかは氷兎ちゃんは感知できないし、普通に氷兎を連れていくべきだったわ。見た感じ何もなさそうだけどさ」

 

「……そうか。奴と契約していないから、向こう側の唯野に感知能力がないのか」

 

「そっちの氷兎くんってそんなことできるの? いろいろと恩恵受けてるんだねー。強力な存在との契約、他者にはわからないモノを感知し、人知れず世界を救う……くぅー、カッコイイ!」

 

「じゃあ先輩はそっちの私と付き合えばいいですね。もう世話してあげませんから」

 

「えっ、ちょっ冗談キツイよ! 虐めないでよ氷兎ーっ」

 

 拗ね始めた唯野さんに正面から鈴華さんが抱きつきにいった。演技だとわかっていても、その仲睦まじい光景は本物だろう。視界の隅でそわそわしてる先輩は放っておいて、とりあえずもう少し探索した方が良さそうだ。何も収穫なしでは方針も立てられない。

 

「どうします、西条さん。公園から外れて、近くの捜索でもしてみますか?」

 

「宛もなしにか。非効率的で意味がないな」

 

「いや……そもそもだ。私たちは監視カメラの映像に映っていたからこの場所を捜索しているわけだ。あの女が、あの後どうしようとしていたのかはわからんだろう。家に帰れず、仕方なしに反対側に来ただけか。それか、また別の目的があったのか」

 

「その目的となるものがこの公園にあるかもしれない、という見解の元捜索していたわけだが。唯野が風俗嬢に何も違和感を覚えなかったのなら……まだ邂逅しただけで、神話生物に変化する理由はこれから起こるのではないか?」

 

「なら、あの女の周りを探るか、警護か。それとも……三日間放置してみるか」

 

「薊さんは、あの人を見殺しにする気ですか」

 

 俺の言葉に、彼女は何も言わず顔を背けた。三日目の夜には彼女は変異してしまう。それを待とう、と彼女は言うのだ。見殺しにするのと何ら変わりない。無論、そんなことをしようとは思わないが。

 

 彼女を助けるためには、この三日間の間に事件を解決しなくてはいけない。しかし、それらしい取っ掛りもなく、唯一の手がかりは未来の映像だけ。まったく、お手上げ侍だ。

 

「……風俗店がバグってんのも、その蜘蛛のせいなんですかね? 何か痕跡あるかもしれませんし、一旦戻ってみませんか?」

 

「一理あるが……俺は、どうも手がかりがあるようには思えん。あの現象と、今回の蜘蛛はきっと別問題だ」

 

「何か根拠が?」

 

「ないこともない……が、話すには諸々足りんものがある」

 

 そう言って西条さんは、未だに戯れている先輩たちの方を見て、また視線をこちらに戻した。先輩を見ていた、というよりは近くにいた唯野さんと鈴華さんを見ていたといった方がいいだろう。あの二人に関係があるのか。見ている限り、何も問題はないように思えるけど……。

 

 彼女らをまじまじと遠目で観察していたら、不意に舌打ちが聞こえてきた。舌打ちをしたのは薊さんのようで、彼女は眉間に皺を寄せてこちらを睨みつけてきている。両腕を組んで、いかにも不機嫌だとばかりに西条さんのことを鼻で笑った。

 

「貴様、随分と訳知り顔のような態度を取るな。本当は何が起こっているのか知っているんじゃないか?」

 

「あいにく、わからんことだらけだ。未確定要素が多すぎる」

 

「どうだか。見回りの時の態度といい……いや、そもそもだ。平行世界から来ただのと、訳がわからん。本当は、貴様が黒幕ではないのか?」

 

「ふざせたことをぬかすな。俺を化物の仲間扱いか。だとしたら、あのバカもコイツも、化物だと言いたいのか」

 

「己が化物の仲間でないと証明ができるのか?」

 

「ハッ、笑わせるな。現代科学を以てか。それとも摩訶不思議な技にでも頼ってか。いずれにしろ、貴様が認めん限り証明は通らんだろう。馬鹿馬鹿しい」

 

 お互いを貶し合い、鼻で笑い、しまいには隠してある刀を触りだした。このままだとお互い本気で抜刀しかけない。仲間割れなんて、それこそ馬鹿馬鹿しいだろう。

 

 至近距離で睨み合う二人の間に入って、西条さんの方は刀を触る手を抑えつける。こうでもしないと、俺がいるのをお構い無しに斬るだろう。

 

 邪魔されたことが気に喰わないのか、薊さんはより一層鋭く睨みつけ、そして見下してきた。彼女はほんの少し背が高い。その威圧に押されないよう、正面に向き直って対峙する。

 

「お二人とも、そこまでにしましょう。人間同士で争う方が、よっぽど馬鹿馬鹿しいですよ。含みのある言い方をした西条さんも悪いですし、薊さんもあまり突っかかるような言い方をしないでください。お互い同じ人物なんですから、やられたら嫌なことくらいわかってるでしょう」

 

「あぁ。だからあえてやってるんだ。信用ならんのだよ、貴様らは」

 

「だったら別行動にするか? 俺はその方が好都合だが」

 

「喧嘩をしない。意味もなく別行動もしない。協力しにくいなら、せめて二人とも距離をとってくださいよ。無理に仲良くする必要ないんですから。一緒に任務をこなす以上、最低限の付き合いは必要でしょうけど」

 

「……チッ」

 

 わざとらしく舌打ちをして、薊さんは離れていった。身内ならまだしも、他人には針地獄のようなトゲトゲしさで接する。今回は薊さんだっただけで、きっと西条さんも似たようなものなんだろう。

 

 ただ……やけに敵対視されてる気がする。これ以上とないくらいに警戒され、離れた今でも敵意が伝わってくるようだ。どうしてここまで彼女が俺たちに敵意を向けるのか……。西条さんだけが理由って訳でもないだろう。未だに平行世界の住人だと信じてもらえていないのもあるだろうし……西条さんの含むような言い方も気になる。彼は何かしらの答えをもう見つけているのだろうか。頭の回転はスパコン並だというのに、せめてコミュニケーションに容量をさいてほしい。多分1ギガも対人にメモリを使ってないぞ、この人。俺と先輩に丸投げはやめてくれ、本当に。

 

「おいおいおい、喧嘩すんなよ西条ー。お前自分自身を許せないありがちな設定持ったキャラだったか?」

 

「馬鹿をいえ。俺は自分自身を好んでいるとも」

 

 薄く笑うように彼は冗談を言った。珍しいこともあるもんだと思ったが……その後、離れた位置にいる女性陣に聞こえないような小さな声で、「だがな……」と続けた。

 

「あまり仲良くせん方が身のためだと、俺は思うがな」

 

「えー、氷兎ちゃんと仲良くしたいけどなー俺はなー」

 

「先輩、ぶちのめしますよ。そんなにデスソース食べたいんですか」

 

「嫉妬してる俺の後輩かわいくない? どうよ西条」

 

「なにがどうよ、だ。少しは頭を使えよボサボサ頭。脳みそ詰まってるのか」

 

「詰まってるよ! ギッチギチに詰まってるっての!」

 

 自分の頭を触りながら、馬鹿ではないと言及する先輩。西条さんとの軽口が続く裏では……女性陣たちも、笑いながら話をしていた。薊さんの顔は険しいままだけど。

 

 何を話していたのかまではわからない。この距離なら夜間だし聞こえそうなものだけど……。いや、待てよ。もしかして聴覚が強化されていないのか。それだけじゃなく、精神的な揺らぎも、身体強化もされていない……。月は満月に近いっていうのに……?

 

 何度か目を擦って、月を見直す。夜空に転々とある星よりも一際輝く、月。それを見ても、心はざわつかない。変だ。いつもなら、嫌な衝動が湧き上がってくるのに。

 

(……月が、偽物……なんてことはないよな)

 

 あんな巨大なものを隠すか、別の物と取り替えるなんてこと、そうそうできるもんでもない。そんな上位存在がいて欲しくない。身体強化がないのは結構困るけど……前と違って、今は魔術がある。今回はこれに頼る他ないだろう。

 

「しっかしまぁどうするよ。護衛でもするか?」

 

「……それしか手立てがない、か。唯野と向こうの唯野で、あの女の周りを固めて、俺たち四人で調査が妥当なところか。何かあれば、お前ならすぐにわかるだろう」

 

「わかるっちゃわかりますが……戦力として期待しないでくださいよ。どうにも、満月に近いのに調子が悪くて……」

 

「あら珍しい。いつも満月はバーサク状態なのに」

 

「……満月なのに、か。どうも、俺の仮説が仮説でなくなりつつあるな」

 

「仮説ですか」

 

「話せるような事じゃない。さっきもそう言っただろう」

 

 そう言って、俺たちにしかわからないように彼は親指で女性陣を指し示した。彼女たちにはまだ隠された秘密があり、西条さんは既にそれを暴ける段階まできている、ということなのだろうか。

 

 思い返せば、唯野さんの人工物のようなのっぺりとした瞳は、どうにも気になるところではある。けど今は、変に探りを入れるわけにもいかないだろう。彼女たちが神話生物じゃないことはわかってる。協力して、蜘蛛を突き止めるのが先決だ。

 

 

 

 

 ……結局、女性の護衛をしても何も得られず、調査は進展しないまま、俺たちは三日目を迎えてしまった。

 

 

 

 

To be continued……





3時間前まで課題をしていました。嫌になりますよ……。
生きてることは、私のTwitterで確認していただけると嬉しいです。不意に呟かない状態が続いたら、寝不足でくたばったんだなとでも思ってください。

ここからは、活動報告にも書いたことを書いていきます。

小説の続きが書けなくて本当に申し訳ない。建築系の大学クッソ辛いです。来たい人はつまり……覚悟をして来ている人ですよね?ってことです。一週間、二週間徹夜はざらです。

書く時間が無いので、クトゥルフと日陰者を他サイトで連載し始めたんですよ。まぁこれがまた読まれない。クトゥルフはまた序盤の書き直しが必要そうですね……。次の話を書く前に一話を書き直そうかな。

あとは、感想などでもいいのですが、Twitterで呟いていただけると、時折エゴサしている私が、いいねを押しに行きます。えぇ、コミュ障なので話しかけられませんが。なにとぞ、宣伝などして頂けたらなという思いです。正直書く時間もそうですが……疲労でモチベが……。



……そういえば淫夢が海外で学会発表されましたね。つまり淫夢だらけのクトゥルフも書籍化が可能に……? いいゾーこれ。海外兄貴の語録はすぐに音声素材になり、ご本人は嬉嬉としてダウンロードしたそうです。えぇ……(困惑)


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第129話 アラクネ

また期間が空いてしまいました……また徹夜中です。


 何も手がかりが得られないまま、とうとう三日目になってしまった。彼女の周りを探ってみたものの、得られたものは何もない。彼女に違和感を覚えないから人間のはずだし、周りに神話生物の気配も感じなかった。

 

 実はあの映像は偽物で、本当は何も起きませんでした。そんな展開になればいいのに。でもきっと、そうはならない。そんな気がする。

 

 もうじき深夜だ。風俗店は軒並みバグってるせいで働くにも働けず、自宅で待機しているか、そこら辺を散歩しているくらいしかしていない。神話生物との接触もない。このまま、彼女がアパートから出てこなければ……この事件は杞憂だったで済むのに。

 

「やっぱり、あの人は変わってしまうのかな」

 

 隣で携帯をいじっていた唯野さんが、憂鬱げな声で尋ねてくる。俺に聞かれても、わからない。できることというのは、この場でじっと……カップルの振りをして見張りを続けるだけだ。

 

「どうだろうな。部屋の電気は消えたままだし、多分もう寝てるだろ。このまま起きないで欲しいもんだがね」

 

「そうだよね……。でも、もしも。彼女が変わってしまったとしたら……あなたは、殺せる?」

 

「……わからない。殺すしかないのなら殺すし、そうでないのなら助けられる方法を探すよ。なんにせよ、意思疎通ができるかどうかだ」

 

 その時になってみなければ分からない。けれど、覚悟だけはしておかないとダメだ。いざとなった時に身体が動きませんでしたじゃ話にならない。

 

 あまり考えたくはないことだ。憂鬱な気分を紛らわせるために、アンパンを齧る。餡はこし餡に限る、なんてことを唯野さんと話していたら、とうとう深夜を周り、時刻は午前一時。あの映像、日付は覚えているが、時刻がいつだったかは忘れてしまった。けど、これ以上遅くなるのなら、もう何もないと思っていいだろう。ここからあの公園まで、それなりの距離がある。

 

「……動かないね」

 

「ハズレかな。とりあえずもう少し様子を見て……っ!?」

 

 そろそろ切り上げようとしたところで、アパートの扉が開いた。それは風俗嬢の部屋で間違いなく、中からは水色の服と黒い長丈のスカートを履いた女性が出てくる。吐きそうなのか、口元を手で抑えて前屈みになっていた。

 

 止まればいいものを、彼女はふらふらと、ゆっくり歩みを進めていく。階段を下り、路地の奥へと消えていく。遠目からでも違和感はない。だけど……どう見たって、今の彼女は異常だった。

 

「唯野さん、連絡回して。多分……アウトだ」

 

「……わかった。声の届かない範囲で、追いかけていこう」

 

 見るからに覇気をなくした唯野さんは、鈴華さんたちに携帯で連絡を入れた。これで向こう側も待機しておいてくれるだろう。今はともかく、バレないように彼女の後をついていかなくては。

 

「……助けられなかった、のかな」

 

「……まだ、わからない。これから助けられる可能性だってある」

 

 今はそう願うしかなかった。外套を羽織って、彼女の後をつける俺と唯野さんの顔はきっと……ずっと苦々しく歪んでいただろう。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 こちらの世界の唯野から連絡が来て、公園付近で待機していた西条たちは各々の装備を改め、映像に映っていた事件現場へと向かう。念の為に比嘉刑事に辺りを封鎖してもらったとはいえ、街中でドンパチを繰り広げるわけにはいかない。未だにマスコミが辺りをうろついているのもあり、騒ぎをでかくするわけにはいかないのだ。

 

「氷兎ちゃんの言った通りだとして……俺たちはどうするべきなんだ? まさかとは思うけど、出会い頭に殺す……なんて言わねぇよな?」

 

「確証もなしに斬りかかるような奴に見えるのか? 俺は手遅れと判断して斬るか、見逃した場合に起こる被害を考えて動くまでだ。とりあえずは、奴のその後の行動を観察すべきだろう」

 

「その後っつうと……変異してから、か。結局……俺たちは、何もできなかったな……」

 

「全員を救えるだなんて思うなよ。神様とやらを見てみろ。奴は救った数より殺した数の方が多いぞ。神ですらそれなのだ。その出来損ないが、それ以上のことをできるものか」

 

 信じていない神様を皮肉るように嘲笑し、現場へ向かう足を早める。最後の最後まで何かないかと探してみたものの、彼らには何も見つけられなかった。魔術的な素養がないからだと考えてはみたが、氷兎を連れてきた時も何も感じることはなく、結論としては公園は偶然近くにあっただけで、事件とは何ら関わりがないのではないか、ということになった。

 

「鈴華と、そっちのも。奴が街の方に走ろうものならすぐに撃ち殺せ。躊躇うなよ」

 

「あんまりそういったのは考えたくないけど……わかった。とりあえず、私は西条と隠れてればいい?」

 

「いや、四方に散れ。なるべく互いに対角線上に位置取り、何があってもすぐに対処できるようにしろ」

 

「だってさ。西条もちゃんと聞いてた?」

 

「……確認せんでもわかってる」

 

 設置された監視カメラの近くまで四人が辿り着くと、それぞれが四方を囲むように、木や遮蔽物に姿を隠す。相変わらず西条同士の仲は険悪なままで、なんとか鈴華が間に入って取り持とうとしている。翔平も向こう側の薊と仲良くするべく近寄ろうとするが……西条にやめておけと止められてしまう。その理由を、彼は未だに話してはくれなかった。

 

 唯野の連絡から時間を逆算すれば、もうじきこの場所に風俗嬢がやってくる。この場にいる誰もが、好き好んで人を殺したい訳ではない。だが、殺らねばならない事態になるかもしれない。そしてその時、何も悩むことなく引き金を引けるのか。どちらの翔平も憂いていた。

 

 敵が悪であればいい。迷うことなく引き金を引けるクソ野郎なら、どれほど楽なことか。だからせめて。敵になるのだとしたら、変に人間性を残さないで欲しい。化物であって欲しい。そんな身勝手で、人としてあまり良くない考えばかりが頭に過っていく。

 

『……来たぞ』

 

 インカムから西条の声が響く。長丈のスカートを揺らしながら、ふらふらとした足取りで歩いてくる女性。遠目からでは表情は分からないが、少なくとも正常な精神状態には見えない。

 

 今からでもなにか助けられることはないのか。翔平はそう考えるも、何も手立てはない。

 

「……ゥ……ァ……」

 

 女性の顔が街灯で照らし出される。西条が眼鏡を弄って、彼女の顔にズームしていった。拡大された女性の表情は、病人のソレだ。青紫色の唇はカタカタと震え、額には汗が滲み、目の焦点は定まらない。その姿は、まるで自分の意思で動いているのではなく、何か糸のようなものに引かれているかのようであった。

 

 少し小突けば倒れてしまうだろう。そんな足取りだというのに、目的地だけは決まっているようで。それを表す言葉があるとするのなら、(いざな)われていると言うべきなのだろう。

 

 しかし、何に。少なくともこの付近一帯でそのようなものは見受けられなかった。このあとの行動次第では、殺すのではなく泳がせる必要も出てくる。この嬢が見たという化物を探し出すという意味でも、これから彼女が行き着く先に何かしらの答えがあるはずだと、西条は踏んでいた。

 

 それが例え、彼女を見殺しにするという手段であっても。

 

「な……んで、わたじ……がらだがァ」

 

 隠れている彼らにも声が聞こえるくらい、彼女は近くまでやってきた。自分の身に起きていることが何一つわからないのか、身体を抱きしめるように抑え、鈍重な足取りで一歩一歩、ゆっくりと歩いている。

 

「いだい……わだじ、なにもわるいごどしでないのに、いだいよぉ……」

 

 とうとう彼女は動かなくなる。身体を震えさせ、その場で口を大きく開いて呼気を漏らす。口の端から垂れ落ちていく唾液。両目から流れ落ちる涙。自分は何も悪いことはしていないのに、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのかと、怨嗟の声を漏らす。

 

「どうじで、だれもいないの……だれがぁ……いだぃ、ぃだぃぃ……」

 

 隠れていた木から翔平が飛び出そうとするのを、西条が視線で留める。その目が物語っていたのは、もう手遅れであり、自分たちにできることは何もないのだという、諦めであった。

 

 翔平には魔術は使えない。不可思議な力なんてものはない。あるのは、たった一丁の銃だけ。それで彼女をどう救えようか。

 

 あるいは、これから彼女の身に起こることを考えるのならば……いっそ殺してやった方が、救いになるのかもしれない。未だに人の形を保ち続ける彼女に、銃を突きつけるなんて真似は……彼にはできないが。

 

「あぁ……あ゙ッがギ」

 

 何か、固いものが捻れるような音が聞こえる。ミシミシと粉砕するような、ゴムを無理やり捻じるような、乾いた音。

 

 街灯が照らし出している彼女の姿は、徐々に変化していった。這うような姿勢になると、臀部が肥大化し、巨大になった楕円の臀部を突き破るように、内部から節足動物のような足が生えた。黒色で、産毛のように細い毛がビッシリと生えていて、体液で濡れているソレが動くと、ピチャリと音がする。

 

 顔を覆うようにしていた両手も、開かれていた足も、黒色に変わっていく。ガタガタと、産まれたばかりの子鹿を連想させる動きをしていたが……やがて、八本ある全ての足を駆使して立ち上がった。

 

 両目を開いて空を仰ぎ、黒く染った自分の手を見る。そして身体を捻り、あるはずのない複数の足を見て……渇いたように笑った。

 

「なに、これ……なによ……なんなのよぉ……」

 

 粘着質な体液を足から滴らせ、その場で数歩動き回る。ぎこちない動きは、やがて本物の蜘蛛のように、複数の足を同時に、または別々に動かせるようになった。

 

 その姿を遠目で見ていた彼らには、まさしく蜘蛛人間のように見えていた。上半身だけが人間で、下半身は蜘蛛。

 

 西条の脳裏に過ぎるのは、ギリシャ神話に登場したアラクネだ。女神アテナとの機織りに負けた彼女は、人の姿から醜い蜘蛛へと変えられてしまう。全く傲慢な、神による仕業。人智の及ばぬ異形の業。

 

「やだ……やだよ、なに、なんなのこれ……」

 

 彼女の複眼に、世界はどう見えているのか。彼らには知る由もない。ただ、彼女は一心不乱に辺りを見回して、周りの状況を何とか知ろうとしていた。その行動はまさしく人であり、心を持った生物であることを知らしめる。

 

「いや……見ないで……見ないでよ……見るなっ……見るなァァッ!!」

 

 理解できず、状況も飲み込めない。彼女の視界に映りこんだのは防犯カメラ。それを人ならざる跳躍力で跳びかかると、無理やり引きちぎってその場で放り捨てる。

 

「嫌ァァァァァァァッ!!」

 

 また両手で顔を覆い隠すと、誰にも見られたくないようで……通りの方ではなく、公園の中へと姿を消していく。嫌でも耳に届いてくる女性の金切り声に、さすがに西条といえども気が滅入ってしまう。

 

「西条さんっ!!」

 

 女性の背後から追跡していた氷兎と唯野の二人が、西条たちと合流する。各々自分の武器を携え、交戦する用意はできていた。けれど……覚悟ができているのかと問われれば、それには肯定できない。

 

「……アレは、化物ではありません。まだ彼女は人の心を持ってる。どうにかして、彼女を元に戻す手段を探さないと!」

 

「それができるのは、唯野……お前だけだ。アレを物理的手段で戻せると思うのか? 何か言うのであれば、とっととお前の中のアレから魔術を教わってこい」

 

「奴が教えてくれるわけないでしょう!」

 

「二人とも、言い争ってる場合じゃないでしょ! ほら、他の三人も。追いかけていって、足止めなり捕獲なりしないと、助けるどころじゃないでしょ!?」

 

「……捕獲か。確かに、それが一番かもなぁ。早いとこ追いかけようぜ。あの人が……誰か殺しちまう前にさ」

 

 鈴華に怒られ、氷兎と西条は互いに顔を見合わせたあと、なるべく足音を立てないようにしてその場から走り出した。それに続くように、残りの四人も走っていく。

 

 それなりの速さではあるはずなのに、女性にはいっこうに追いつける気配がない。速度を上げていき、公園の奥の方にある森林に囲まれた散歩コースまでやってくると……氷兎が頭痛を訴え始めた。神話生物の反応ではなく、魔術反応。それがどういうことなのか……彼らが先に進んでいくと、その答えが見えてきた。

 

「なんだありゃ……こっちの世界に来て、とうとう俺たちの目までイカれたとか、言わないよな?」

 

 翔平の力ない声に答える者はいない。誰もそれに対する答えを持っていなかったからだ。

 

 コースから外れた森の中に、明らかに目を奪われるような"穴"が空いていた。まるで空間を左向きに捻ったように、空間に跡を残しつつ……ポッカリと空いている。その向こう側は森ではなく、岩肌のゴツゴツした洞穴のようであった。

 

 現実の光景とは到底思えない。足を止めてしまった彼らの中で一番先に動き出したのは氷兎だった。すぐ近くまで歩み寄ると、その境目に既視感を覚える。

 

 空間を無理やり繋げるような、雑な手口。ともあれば自分にもできる気がしないでもない。別の次元同士を繋ぎ合わせたその裂け目を作ったのは、自分が魔術を扱う際に賛美する存在(ヨグ=ソトース)とは別な存在だろう、と。

 

 そしてこめかみに鈍く響く痛みとは別に、胸元に発生する嫌な感覚。

 

「……この先に、多分神話生物がいます。おそらくあの女性も中に入っていったと思いますけど……どうしますか」

 

「……行く他あるまい。今回の事件の首謀者かもしれん。この穴も、放ってはおけんしな」

 

 西条の言葉に、小さく頷く。薄暗く、明かりのなさそうな洞穴を、二人の翔平が持っているタクティカルライトで照らしながら進んでいった。生暖かい空気が奥から流れ出て、彼らの額や背中をじんわりと蒸らしていく。一人で歩いていたら、即座に引き返していただろう。隣を歩く仲間の姿に自分を鼓舞しつつ、奥へ奥へと進んでいった。

 

 

 

To be continued……




何か言いたいことがあった気がしますけど忘れてしまったので初投稿です。

徹夜続きで俺の体はぼどぼどだぁ!
また次の話も間が空くかもしれません。だって冬休みの間ずっと図面書くんですもん。
来年も似たようなこととか嫌になりますよ……。
感想とかお待ちしてます……。


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第130話 夢と現実の狭間

また長らくお待たせしました。色々と落ち着いてきたので、また書いていきます。期間が空いてしまったので、また軽くあらすじを。

男女逆転の世界にきてしまった氷兎たち。変異した風俗嬢を追って、変な空間の穴へと突入♂

穴の先はDEEP♂DARK♂FANTASY

いかん、危ない危ない……(レ)


 洞窟の中は薄暗く、入ってすぐの場所は外の明かりでなんとか見える程度。二人の翔平が持っているライトがなければ、足は止まってしまうだろう。暗闇というのは本能に恐怖を覚えさせるものだ。幽霊なんてものは、今となっては恐怖にもならない。本物の化物がすぐそこにいるかもしれないのだから。触れるかも分からないものより、物理的な障害の方が恐ろしい。

 

 一歩、また一歩とゆっくり歩を進めていく。不思議と彼らの間には言葉は出なかった。嫌な緊張感が充満し、話す気にもなれない。誰かの生唾を飲み込む音すら聞こえてくる。音はほんの少し反芻し、奥へと消えていくようだった。漂ってくる臭いも、正直良いものでは無い。湿気を感じさせるような、変な臭いだ。今まで嗅いだことはないだろう。

 

 道は一本のようで、見落としていなければ背後から奇襲されるような心配はなさそうだった。天井は彼らの背丈の二倍ほど高く、穴もない。固そうな土壁には文字はおろか、文明を感じさせるようなものすら見つけられなかった。これがあの蜘蛛の巣穴だというのなら、絵柄のひとつくらいあっても良さそうなものだが。

 

「……奥の方、なんか光ってんな」

 

 翔平が何かを見つけたようで、全員でその場に近づいていく。光っていたものは……今まで見てきたのと同じ、土壁だ。亀裂が入っているようにも見えるが、そうではなく、それはそのような柄であるらしい。淡い緑色に、薄らと発光している。

 

「……自ら発光しているのか、これは」

 

「あんまり触らない方がいいんじゃない?」

 

「自然発光する物質っていうと……何かあるんですかね」

 

「いや……鉱物で自然発光はないだろう。ブラックライトで照らされて光るものならあるが」

 

「となると……ここはもう、俺たちの常識の範囲外な場所ってことですよね」

 

 西条の言葉に、氷兎は確信を持った。あの空間の歪みのような穴の先は、別の空間に繋がっていたわけではなく……おそらく、次元が異なった場所へと繋がっていたのだろう。先程から感じている胸騒ぎにも似た感覚が、それを雄弁に物語っている。

 

「現実じゃあねぇってことか」

 

「穴の先は異次元、か。閉じていなければいいがな」

 

「それは……まずいですね……。もう帰りません?」

 

「この場所がどういうところなのか確認せんことには帰れんだろう。穴の閉じ方も、時限式なのか、何かしらの手段があるのかわからんしな」

 

 どう考えてもこのまま突入するべきではなかっただろう。そう氷兎は思ったが、そんなものはもう後の祭りだ。今はとにかく進むしかない。最後尾には薊と唯野がいるので、少なくとも背後からの奇襲は心配しなくていい。一番怖いのは天井に穴が空いているパターンだろう。それらに注意しながら、奥へ奥へと進んでいった。

 

「ねぇ西条、後ろから何か来てたりしないよね?」

 

「わからん。あの穴が消えていれば、別の通路になっているかもしれん。元々あった道に戻ったとしたら、後ろから何か来るかもな」

 

「少なくとも、後ろからは音はしませんよ。先輩はともかく、見落としがないように照らしてください」

 

「でも、ここら辺は光ってるおかげで明るいし、ライトも温存した方がいいかな……電池切れが怖いし」

 

「確かになぁ。なら、ライトを消して進むか。いいよな、西条」

 

「……まぁ、いいだろう。非常事態の時に使えないよりはマシだ」

 

 西条の言葉に頷いて、二人はライトを消した。道はまだ奥へと続いているようだ。暗闇にも目が慣れてきたおかげで、発光する壁の明かりだけで十分に見える。先頭をいつでも交戦できる西条が歩き、その背後を氷兎が歩く。真ん中に二人の翔平が移動し、最後尾は変わらず薊と唯野だ。

 

 翔平と鈴華の二人の間にはそれなりに会話が生まれつつあったが、相変わらず男女の関係は悪いまま。喧嘩に発展しないのが救いだろう。そんな余裕が無いとも言えるのだが。

 

「………ッ」

 

 歩いている最中、突然氷兎は立ち止まった。ここに来てから違和感はなんとなくあり、頭痛もしている。そんなことは今までに何度もあり、辛くはなかった。だが、今だけはいつもと違う。足が前に出ない。いや、出したくないのだ。なんとなく、前に進みたくない。そんな心情に足が支配されている。

 

 突然立ち止まった氷兎に、翔平はぶつかりそうになった。動き出しそうもない氷兎に疑問を持ち、何故と問いかける。

 

「……何か、嫌な感じが……なんかこう、この先に行きたくないような……」

 

「……なるほど。だとすれば上位の神話生物……いや、生物と呼ぶには相応しくないか。また神格か何かだろう」

 

「いやお前、そんなポンポン神様がでてきてもなぁ……んで、どうすんだよ。引き返すのか? ぶっちゃけ俺は引き返したい。氷兎が立ち止まるって、多分相当やべぇぞ」

 

「そんなにヤバい奴なの? 流石に私も帰りたくなってきたな……」

 

「たわけ。事件をお蔵入りできるような状況じゃないだろう」

 

「解決するのが、私たちの仕事だ。例えここで帰ったとして……誰が解決できる? 自衛隊でも送り込むか? 十や百の犠牲で済めばいいがな」

 

「組織に現状、太刀打ちできる人員がいませんからね……よくて加藤さんですけど、あの人がいたとしてもってところですか」

 

「……そっか。こっちだと桜華がいないんだよな……」

 

 男女混じえての作戦会議。オリジン兵である加藤 玲彩と七草 桜華の二名がいれば、多少は戦局が有利に働くかもしれない。だが、こちらの世界では桜華は既に死亡している。英雄と呼ばれた彼女はいないのだ。例えここにいるのが普段の二倍の戦力であっても……桜華がいるという事実に比べたら、大して差はないだろう。戦闘メンバーは多すぎても邪魔になるだけなのだから。

 

 ある種、この三人は戦闘要因としてはほぼ完成系なのだ。攻撃、サポート、防衛、連携。加えて魔術もある。メンバー六人と数えるのではなく、パーティー二つと捉えた方が良いのだろう。

 

 その二つのパーティーの仲が一部険悪なのが心配事ではあるが……仕事に関して、手を抜くような彼らではない。そんなことをしていれば、とっくに死んでいるのだから。引くか、進むか。その二択を迫られたが、先頭にいた西条が刀にいつでも手が届くようにしながら、前へと歩き出してしまった。悩むよりも、スパッと決めてくれる彼の姿に少なからず有難みを感じたが……やはり恐怖心は拭えない。いつ襲われてもいいよう、彼らは各々の武器を握りしめる。

 

「……あの穴の向こうは、多少開けた空間のようだな」

 

 今までモグラが進んだような一本道であったが、とうとう空間にぶち当たったらしい。壁に背中を這わせるように進んでいき、様子を確かめる。穴の内側から見えるだけでは、どうにも光があるらしい。今まで見てきたような、淡い緑色の光だ。天井から照らされているように思える。

 

 そして耳に届いてくるのは、何かの動き回る音。囁くような声も聞こえる。何かを話しているようだが……氷兎にはわからなかった。日本語ではない。怪物語かなにかだろう。

 

「……フランス、中国、ロシア、そんな程度か」

 

「いや……英語も混じってる。さながら、国際交流会だな」

 

「なんで二人は聞き取れるんですかね……」

 

 西条と薊の二人には、それが外国語だと聞き取れたらしい。そもそも何ヶ国語知っているのだろうか。相変わらずの化物スペックだと感心し、何を話しているのかを氷兎が尋ねてみたが……二人揃って、首を横に振った。

 

「馬鹿言うな。こんな状況で複数言語を聞き分けて翻訳なんぞ、流石に俺でもできん。各言語につき一人は聖徳太子が必要になるぞ」

 

「……そりゃ、そうですよね。でも……ここには、人間の言葉を話せる奴がいるってわけですか」

 

「あの変異した蜘蛛だろう。聞く限り、どれも音域が高い。女性の声ばかりだな」

 

「女性ばかり狙われたってことか……いやー、まさしく変態だな。間違いなく、敵は野郎だぜ」

 

「……男女反転してたら、元の世界では男ばかり狙う女の化物ってことなんですかね?」

 

「あまり無駄口を叩くな。勘づかれる」

 

 忠告され、素直に口を閉じる。壁に背中をつけたまま、ゆっくりと前に歩いていき……穴から顔を覗かせた。進んできた道はそこで途切れている。なにしろ……そこは巨大な空間であり、地面などない穴だったのだから。いや、穴と呼ぶには似つかわしくない。崖だ。対面にも壁はあり、そこには同じように大小様々な穴が空いている。

 

 崖の下は、底なしのようであった。先が見えないほど暗くなっている。上を見上げれば、幾重にも張り巡らされた通路のようなものがあり、その隙間からは不思議な色をした光が漏れている。上には空のようなものがあるらしい。

 

「……なんだ、これは」

 

 先頭の西条が絶句するのも無理はない。続いていた地面がバッサリ切り落とされたように、いや切り抜かれたと言う方が正しいのだろう。その部分だけ不自然に切り取られ、ぶち抜かれた崖。対岸に向かって、通路のようなものが伸びているように見えるが……向かい側に向かうためには、それに飛び乗らなくてはならないだろう。まるで、迷路のような通路だ。壁はなく、人が通るには細い。それを通り抜けるのは至難の技だ。

 

「なんつーか、幾何学模様みたいな道の作り方だな。アレだ、蜘蛛の巣みてぇな……」

 

「……いや、多分その通りだと思います」

 

 張り巡らされた通路を、大きな物体が駆け抜けていく。数本の足を器用にワキワキと動かす、下半身が蜘蛛の人間……それは氷兎たちが追いかけていた風俗嬢の変異した姿と相違ない。

 

 それがこの空間の至る所に生息していた。壁や通路に張り付き、蜘蛛の卵のようなものを作っている個体もいる。身も心も、蜘蛛になってしまったというのだろうか。

 

「……ねぇ、氷兎。あの奥の方、なにかいない……?」

 

「なにかって……アレは……」

 

 彼女らが指さす方を、氷兎は見据える。崖の下の方に、今まで見てきたような蜘蛛の巣とはまったく別物の巣が張り巡らされている。糸が緑色に光っているのだ。しかも巣の作り方も、かなりキメ細かな、繊細な作りになっている。それを作っているのは……とてつもなく、巨大な蜘蛛だった。

 

「ッ……!!」

 

 見ていることがバレたのか、蜘蛛が体勢を変えてこちらを見てくる。その蜘蛛もまた、他と同様……いや、少々異なった姿ではあった。体は完全に蜘蛛そのもの。しかし顔であろう部分は卵形に丸みを帯びており、口元は大きく裂け、複眼は全て真紅に染まっていた。目だけを除けば……人の顔の造形と、大して差はないだろう。

 

「───Atlach、Nacha」

 

 氷兎の口から、ふと言葉がこぼれる。その名前を聞いて、何と聞いても答えられる人はいないだろう。それは今も尚、彼らのことを見つけても一瞥しただけで、巣を張り巡らし続けるのをやめない神性を指す呼称なのだから。大昔、人がそれを呼ぶために名付けた名前だ。自ら名乗った訳では無いだろう。

 

 夢と現実とを繋ぐモノ。アトラク=ナクア。今の氷兎には、それだけを認識する余裕しか残っていなかった。ただわかることは……近寄らない方がいいというだけ。近寄って邪魔をしたら最後、無惨に喰い殺されるだろう。

 

 足場も不安定。戦えるわけもない。ここはアレの意識の外にあるうちに、撤退するべきだ。そう氷兎は提案する。しかし、だ。

 

「ここで撤退する訳にもいかんだろう。何も、解決していないのだからな」

 

「……たかが一介の人間如きに、解決できる問題ではないんです。俺たちにできるのは……きっと、見なかったこととして目を閉じるだけなんですよ。神と呼べば、感じはいい。しかし……アレらは、人智の及ばぬ化物です。撤退しましょう。目をつけられる前に」

 

 どうにかなる相手ではない。そう伝えて、氷兎は踵を返そうとする。そんな時……耳に不快な音が聞こえ始めた。カサカサと、何かの這いずり回る音。それも多数の。

 

 彼らのいる穴の天井に、何か小さなものが蠢いていた。発光する壁の光では、詳細が掴みにくい。誰もが息を呑んで、少しずつ来た道を戻ろうとする。そこにいる何かを識別しようと……翔平は、手に持っていたライトでソレを照らしだした。

 

「ひっ……!?」

 

 鈴華と唯野が小さな悲鳴をあげる。天井の一部を、海苔の佃煮のように纏まって張り付いていたのは……小さな赤子の顔をした、手のひらよりも大きな子蜘蛛だったのだから。

 

 

 

To be continued……



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第131話 撤退戦

前回のあらすじ

天井を見上げると、蠢く赤子がこちらを見ていた。

できそこないが出現した (ruina風)


 天井に蠢く集合体。それだけで人によっては腰を抜かしてしまうだろう。まして、それが人の赤ん坊のような顔をしているとなれば、より一層気味が悪い。これは正しく、あの人蜘蛛の子供だ。

 

 鈴華と唯野のあげた小さな悲鳴に、その蜘蛛たちは一斉に奇声を上げた。シワシワで、目もまともに開いていないような顔からは想像つかないような、人の声ではない絶叫にも似た声。赤子が知らせるサイン。親を呼んでいるのは間違いなかった。

 

 集まって固まっていた蜘蛛は奇声と共に動き始める。四方八方、蜘蛛の子を散らすという言葉の意味が目に見えて理解できる様だ。多足の拳程の小さな生物がぐちゃぐちゃと蠢く様子は、彼らに生理的な嫌悪感と鳥肌を起こさせる。足は自然に来た道を戻り始めていた。

 

「おい、やべぇって……こんな声出されたらバレるだろ……」

 

「広場ならともかく、この穴の中で戦うなんて無茶ですよ……!」

 

「鈴華、焼夷手榴弾で奴らを焼き殺せ」

 

「い、いや無理だ……だって、赤ん坊なんだぜ!?」

 

「だが化物だ。顔が人間に近かろうと、奴らはもはや人ではない」

 

 いくら人の形を生していないとはいえ、殺すのに躊躇いが生まれる。翔平も鈴華も、それらに対して攻撃をしようとは思えなかった。いや……その一線を超えるのに戸惑っているとも言える。奴らは天井に集まっているだけで、こちらに対して危害を加えたり、降って襲いかかってくることはない。ただ目の前の未知、恐怖に対して泣き叫んでいるだけだ。

 

 それはもう人の赤子と変わらない。それを撃ち殺す、ないし焼き殺すというのは人の倫理に逆らうようで、やろうとは思えなかった。

 

「西条、一旦引こう! 先に進んでも囲まれるだけだし、今引けば一本道の通路を逃げるだけで済むよ!」

 

「……引くには、少々遅かったかもしれんな」

 

「えっ?」

 

 薊の言葉に、彼らは揃って神経を集中させる。耳に届いてくる絶叫以外の音。壁を伝う、カタカタという音。そして他国の言語。入り交じるその声を翻訳するのは不可能だ。ただ……おそらく、我が子を思う言葉なのではないだろうか。あの大蜘蛛、アトラク=ナクアの眷属になってしまった彼女らに、我が子を思うような心が残っているのかは定かではないが。

 

 少しずつ、彼らはその場から後退していく。その姿を隠すよりも先に……彼女たちは姿を現した。一糸纏わぬ姿で、しかし下半身は蜘蛛。口からは尖った牙のようなものが見え隠れしている。目に白目との区別はなく、眼球全てが紅く染まっていた。

 

 そんな彼女らが穴の出口を塞ぐように、何人、いや何匹と這い登ってくる。天井に張り付くように、壁を這うように、地面を歩くように、彼らのいる巨大な穴の通路を埋め尽くさんとしていた。

 

 変異した姿は、一般人よりも大きく見える。その下半身のせいだろう。力比べをしたら負けると思わせるような、威圧感を感じさせるものだ。例えその上半身が日頃見慣れないような、情欲をそそる姿であっても……死と恐怖の前に、それらは思考の隅からも追いやられてしまう。

 

「杀死入侵者」

 

「Cibo per quella persona」

 

「Давайте поймать это живым」

 

 金髪、褐色、色白。様々な人種の成れの果て。それらは元同胞であっても、殺意を剥き出しにしていた。背中を向けて逃げ出しても、おそらく速度的には向こうの方が上だろう。地面を走るだけの彼らより、壁を走れる彼女らの方が地形的に有利だ。

 

「侵入者を殺すか、生け捕りにしてエサにするつもりらしいな」

 

「エ、エサってどっちの!? 赤ん坊、それともあのでっかい奴!?」

 

「どっちも変わらんでしょうが! あの化蜘蛛が興味を持つ前に、とっとと逃げましょうよ!」

 

 後退しながら今後のことを相談するが、彼女たちはそれを許容してくれたりはしない。牙の見える口を大きく開き、切る事もなく伸びた爪で引き裂こうと、壁にいた一匹が飛びかかってきた。

 

 それが着地するよりも速く、西条が前に出て刀を振り抜く。魔力を込めて伸びた刀身は、彼女の上半身と下半身を分けるように切断した。緑色の体液が撒き散らされ、上半身が彼らの近くに転がってくる。

 

「──────ッ!!」

 

 上半身の目はまだ開いており、言葉にならない奇声と共に、伸ばした腕で斬りつけようとしてくる。元人間であったとは思えない生命力だった。変質して黒くなった爪は、皮膚を容易く引き裂くだろう。当たらなかった爪が固い壁に鋭利な傷跡を残していたのが、より一層強くそう思わせる。

 

 一匹殺された事で、残りの蜘蛛たちは殺意を増した。穴の出口からはまだわらわらと集まってきている。

 

「鈴華、スタンを投げろ! でないと逃げきれん!」

 

「この洞窟の中で爆発物投げるのはマジィ気がするんだけどよ、平気なのか!? 俺たち地球防衛軍のEDFじゃねぇんだぞ!?」

 

「スタンなら平気だ、耳を塞ぐのを忘れるなよ!」

 

 翔平がスタングレネードを取り出そうとするが、それよりも早く彼女たちは襲いかかってくる。天井から攻撃してこようとする蜘蛛を、鈴華がデザートイーグルで撃ち抜く。身体を撃っても止まらない彼女に、仕方なく脳天を撃ち抜くことで殺した。

 

 天井から落ちてくる蜘蛛を、今度は氷兎が槍で『ヨグ=ソトースの拳』を使用して吹き飛ばす。魔術を込めた吹き飛ばしに、巻き添えを喰らって何匹かは後方に飛んでいった。

 

 壁から近づいてくる蜘蛛は薊と唯野が前に出て、唯野が彼女らの足を払って転んでる間に、薊が首を斬り飛ばす。彼女たちの一撃が致命になりかねないので、彼らは慎重に攻撃と防御を重ねていく。それでも数が多い方が有利だ。徐々に押されていく彼らは、前衛陣が撤退する事が出来なくなっていた。

 

 翔平がスタングレネードを投げようにも、前衛が一度引かないといけない。しかしその隙を作ることができない。彼女らは床壁天井のどこからでも襲いかかってくるのだから。そして死体に見向きもしない。仲間意識はないのだろう。

 

(この距離でスタンは気絶する可能性が高い。かといってあの西条さん二人でも、数が多すぎる。あまり長引けばアトラク=ナクアの気を引く可能性も高い。そうなったら間違いなく死ぬ)

 

 氷兎は殺すのではなく吹き飛ばすことで数を減らしながら、現状について思考する。最悪の状況というのはあの神性がここまでやってくることに他ならない。

 

 魔導書の知識がいくらか流れ込んできているとはいえ、そこに弱点であったり、攻撃手段がわかったりするわけではない。そもそも無差別に頭の中に入り込んでくるせいで、戦闘中なのに意識が逸れる。勘弁して欲しい、と舌打ちをしてまた蜘蛛を弾き飛ばした。

 

 劣勢なのは変わらない。どうするべきか。男性陣がそう悩み始めた時……前線に出ていた唯野が後方に下がり始める。

 

「氷兎、頼むよ!」

 

「了解!」

 

 鈴華がカバンから瓶を取り出して、彼らにぶつけないように投げつける。地面に落ちた衝撃で破裂し、中から液体が飛び散った。

 

 それを確認した唯野が、ポケットからライターを取り出す。そして火をつけると、腕を前に伸ばしきって高らかに叫んだ。

 

「燃えろっ!!」

 

 小さな炎が揺らめく。それは次第に大きくなり、手元を離れて空中に漂い始めた。突然現れた火炎に、彼女たちは行動を止める。その隙に前線のメンバーは後方にまで戻ることができた。

 

 膨れ上がった火炎は、そのまま火炎流となり目の前の壁を燃やしていく。先程の液体に引火して、壁、更には天井にまで火の粉は上がっていった。

 

「よし来た、投げるぞ!」

 

 千載一遇のチャンスとばかりに、翔平がスタングレネードを投擲する。各々が閃光と爆音に対策を取り、その場から全力で逃げ出した。

 

 緑色に発行する壁は少なくなり、やがて土壁が増えてくる。その頃になると、後方から凄まじい怒声が聞こえてきた。どうやら頭にきた彼女たちが追いかけてきているらしい。追いつかれてしまうのも時間の問題だろう。

 

「おいおい、ちょっとしか時間稼ぎにならねぇな……てか、さっきの氷兎ちゃんのアレはなんだ? 魔術か?」

 

「『魔術師』の起源を借りただけですよ。そっちの自分もできるでしょう?」

 

「魔術師って……加藤さんの起源か? 俺にはそんな芸当できねぇぞ」

 

「えっ、できないの!? それでよくここまで生きてこられたね……」

 

 どうやらこちら側の唯野には、氷兎では使えない能力があるらしい。聞く限りでは他人の力の一部を行使することができるようだが。オリジナルに比べれば見劣りするものの、様々な能力を扱えるらしい。なんて羨ましいものを、と氷兎は心の中で呟いた。

 

 しかし悠長に話していられるのもここまでだ。彼らが後ろを少し振り向くと、蜘蛛の先頭集団が見え始めている。驚異的なスピードだ。出口に辿り着けるかどうか、微妙な距離だろう。

 

「そもそも、このまま逃げ切ったとして、どうすんだ!? あの穴から出たところで、状況は大して変わらねぇと思うんだけど!」

 

「こんな上からも襲いかかられるような状況に比べたら遥かにマシだ。囲まれる可能性もあるが、外に出た方が戦いやすいだろう」

 

 ともかく外に出なければ、と彼らは言う。しかし、出たところで状況が優勢になるかといえば、そうではない。

 

 あの穴を閉じることができれば……その方法があるのだろうか。走りながら氷兎は考え続け、あの穴がどういったものだったのかを思い返す。空間を無理やり左向きに捻って穴を開けたような、そんなものだった。

 

 空間を捻じ曲げることくらいなら、おそらく『ヨグ=ソトースの拳』でできるだろう。見た限りそこまで出来のいい穴ではない。

 

 ただ問題は、穴を閉じるのにどの方向に捻じ曲げるのか。左向きに更に捻じることで穴を塞ぐのか、それとも逆方向に捻じることで空間を元に戻せるのか。

 

「……もしかしたら、穴を塞げるかもしれません」

 

「マジか!?」

 

「ですが、多分魔術の行使じゃなく詠唱が必要です。一度外に出て、止まった状態でやらなければいけない。そしてその間……中で、食い止めてもらう必要があります。それで魔術の詠唱が完了したと同時に、外に出てきてもらうしか……」

 

「できるんだな?」

 

「……おそらく」

 

「ならやるぞ。悩む暇も惜しい。もう少し進んだら、もう一度火炎を撒いて、穴の外まで脱出だ。食い止めるなんて無謀なことはするな。外からありったけの鉛玉と手榴弾を投げ込んでやれ」

 

 西条の作戦に頷いて、彼らの走る速さを更に上げる。途中で唯野と鈴華の二人でまた炎をばら撒いたが……彼女たちは身体が多少燃えたところでは勢いを落とすことはなかった。それ程までに、捕まえてエサにしたいらしい。

 

 想像していたよりも嫌な事態に、翔平は最後のスタングレネードを投擲する。それでも少ししか彼女らの足を止めることはできない。けれども、その少しの時間が彼らにとっては状況を左右するものだった。

 

 見え始めた空間の穴。大きさ的に蜘蛛一匹程度しか通り抜けられないだろう。全員で脱出し、出てきた場合に備えて西条二人で最前線に。唯野と翔平二人の計三人は銃と手榴弾を構える。そして一番後方に、氷兎が陣取り魔術の詠唱を始めた。

 

「来たぞ!」

 

 薊の声が響く。暗がりの奥から全速力で向かってくる蜘蛛。それに向けて、後方三人は一斉に射撃を開始した。鈴華が穴の入口付近に手榴弾を投擲し、その手榴弾を翔平が弾丸で弾くことで更に奥へと運ぶ。蜘蛛の集団の中心付近で炸裂し、悲鳴が穴の奥から響いた。

 

 それでも向かってくるのを辞めることはない。そして、まさかの仲間の死体を盾にすることで弾丸を防ぎ、外へ出てこようとする者もいた。死体ごと西条が斬り捨てることで難を逃れたが、そう長くもちこたえるのは難しい。なにしろ生命力が段違いだ。

 

「『ヨグ=ソトースの拳』ッ!!」

 

 時間にして三十秒程度。氷兎の詠唱が完了した。右手を前に向け、穴を掴むように手で空間を握りしめる。そして……腕を左向きに捻じ曲げた。

 

 腕に連動して、左向きに空間の穴が捻れる。まるで中心の一点に向かうように回りながら閉じていく。今まさに閉じようとしていた穴から……一匹の蜘蛛が飛び出そうとした。上半身を穴から出したものの、下半身が大きすぎるせいで通り抜けられない。

 

「捻れて……戻れッ!」

 

 魔術を止めることはない。何かに突っかかるように腕は回ろうとしなかったが……力に無理を言わせる形で、無理やり腕を左に回しきった。

 

 そして……裂ける音がした。次いで、地面に重いものが落ちる音。上半身だけの蜘蛛が……いや、人間の上半身が、地面に赤色の血を流しながら転がっていた。空間の穴は、中心に向けて回るように閉じきっている。それを今度は右向きに捻じることで、空間を元に戻した。そこに空いていたはずの穴は、元から存在しなかったように元通りになっている。

 

「……この女は」

 

 地面に転がっている死体に西条が近づく。赤い血の色。上半身にはまだ服がある。顔つきも、人間らしい。いやそもそも、その顔は日本人のもの。しかもそれを……見たことがある。

 

「……救えないどころか……殺して、しまいましたか……」

 

 その女性は、氷兎たちが監視していた風俗嬢だった。既に事切れていて、目からは涙が流れている。

 

 自分たちを殺しに来たのか。それとも、外に出るために走ってきたのか。その真相は定かではない。あまりにも後味が悪く、氷兎は自分の手で殺してしまった彼女の開ききった瞼を閉じた。

 

「……救われただろう。化物に堕ちるよりは、な。そう思っておけ」

 

「………」

 

 西条の言葉に、氷兎は何も返さない。彼女を捻じきった右手を閉じては開くことを数度繰り返し……彼女に黙祷を捧げて、心の中で謝罪した。

 

 穴の中でもっと多くの人を、蜘蛛を殺したというのに、目の前の彼女だけに祈りと謝罪を捧げるべきなのか。殺しにかかってきた連中に、祈りは必要ないのか。

 

 道徳観や倫理が、少しづつ薄れているような気がして、悪寒を覚えていた。

 

 

 

 

To be continued……




恋愛ホラー小説を書き始めたので、良かったら読んでもらえると嬉しいです。


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第132話 真実を考究する男

 結局風俗嬢は救うことが出来ず、風俗店はバグが続いたまま。未だに何一つ解決していない事態だったが、彼らはひとまず生還したことに安堵し、眠りについた。

 

 別段大きな怪我もなく、こちらの世界の菜沙にも小言を言われるようなこともない。別働隊が風俗店の調査を進めているので、昼過ぎになってようやく目を覚ました彼らには仕事がなかった。

 

 唯野と鈴華の部屋にいつものメンバーが集う。テーブルを囲むように座って、各々差し出された珈琲や紅茶を口につけるものの、そこに明るい話題というものはない。確かに民間人に出る大きな被害を食い止めることはできたかもしれないが……任務は失敗だ。護衛対象は死んでしまったのだから。

 

「……いささか腑に落ちない部分もあるが、俺たちにできることは現状無い。あのデカい化け蜘蛛……アトラク=ナクア、だったか。アレについてはどうなんだ、唯野」

 

「どう、と言われましても……生きて帰れて良かったとしか言いようがないです。神性に喧嘩売ること自体、蛮勇ですよ。まぁ今回は相手が良かったと言いますか……奴は自分の作業以外気にすることがない、所謂仕事中毒(ワーカーホリック)です」

 

「ワーカーホリック? あんな蜘蛛が?」

 

「ただの蜘蛛じゃないですよ。アレにもきっと知性があります。多分俺たちよりも、ずっと高度な……いや、それとも差をつけることすら烏滸がましいのか、ジャンルが違うのか。例えようがありませんね」

 

「危険性についてはどうだ」

 

「……今後も、被害者は増えるでしょう。止める手立てがありません」

 

 西条の質問に答える氷兎の顔はいいものではない。アトラク=ナクアという神性は、自分の仕事以外に興味を示すことが少ないのだ。だからこそ自分の身の回りの世話をさせるために、女性に噛み付いたりすることで変異させるのだとか。そしてその(つがい)こども(落とし子)も、そうなる運命だという。

 

 ノーデンスが言っていたように、おおくの神性は既に封印されている。このアトラク=ナクアもそうで、幽閉されている最中はずっと巣を張り巡らせることに従事していて、邪魔すれば殺されることは間違いない。

 

 これから先もずっと、奴は誰かを攫い続けるだろう。そのことを氷兎が伝えると、全員眉間にシワを寄せることになった。どうにもならない相手がいることは知ってはいても、許容できるかはまた別だ。酷く傲慢ではあるが、人間というのは自分よりも強い生物がいることを拒む。霊長類が生物の頂点であると信じていたいのだ。

 

 だからこそ……いつ攫われるのか、死ぬかも分からない存在がいるのは本能的な忌避感を抱かせる。

 

「つまりそれって……私たちにできることはないってこと? 運良くあの蜘蛛が近くで出現したら、氷兎くんが穴を閉じるくらいしかできないと」

 

「その力が私に使えたらいいんですけど……生憎、私と彼とではいろいろと異なった部分があるんでしょう。起源の能力しかり、魔術しかり、ね」

 

 こちらの世界の唯野と氷兎の性能差。それは過去の経歴のせいだというのはまちがいない。ナイアに見初められたかどうか、なんて嫌な条件だ。むしろ氷兎は目の前の彼女が羨ましい。怯える必要が無い……が、そうなると桜華を救うことができないという欠点もある。お互いないものねだりだ。

 

 依然として空気は重苦しいまま、カップの中身を啜る音が時折響く。西条同士は異性側と話そうとはしないのだが、こちらの薊は気になったことがあったのか、渋々と氷兎に質問を投げかけてくる。

 

「先程、巣を張り巡らせ続けると言ったな。何故奴はそれを行い続ける? 幽閉から解き放たれたければ、別のことをするはずだろう。自分で外界に穴を開ける事も出来るのに、一体何に駆り立てられているんだ」

 

「……それに関しては……」

 

 言葉に詰まる。氷兎はその意味を知っていた。魔導書から無理やり植え付けられた知識ではあるが、果たしてそれを伝えるべきなのか。

 

 あぁ、それはまったく碌でもない事なのだ。説明するにも難しいが、それを理解するのもまた難しい。ただ聞くだけでわかるくらい、頭のイカれた結果になるというだけ。

 

 その巣が張り続けられ、やがて『完成』したとき。何が起こるのか。

 

 それを知っていても取り乱さないのは、現実味がないからだ。実際目の当たりにしないと、きっと体はなんの変化も起こさないだろう。それほどまでに常識外れで、人智の及ばぬ領域の話だ。人間というのは、あまりにも自分の思考からかけ離れたものを知っても、それを想像するに至れない。愚ゆえに助かったというべきか、それとも来るべき破滅を想像できない愚か者と称されるべきか。

 

 いずれにしても、氷兎を突き刺すように睨みつけてくる薊から逃れる術はないだろう。それが彼ら彼女らの思考の琴線に触れないことを願いながら、なるべくわかりやすいように、端的に、簡潔に話そうと心に決める。

 

「……おそらく、それこそが奴にとっての脱出手段なんだと思います。俺たちが行ったあの場所は、現実世界ではありません。現実世界と、現夢境(ドリームランド)の狭間と言うべきでしょうか」

 

 厳密に言えば、アメリカの地下の更に地下。人では決して近づくことのできない暗黒空間。ン・カイと呼ばれる場所。そことドリームランドが繋がっているらしいが、それは説明する必要はないだろう。

 

「奴が巣を張っていた崖……厳密には深淵の穴と呼ばれる場所ですが、それこそが現実とドリームランドを分けています。つまり、まぁ……奴がそこに巣を張るということは、その繋がりを強固にするということ、らしいです」

 

「まさか完成すると、こちらと向こう側が繋がって、化け物が好き勝手に出てくるということか?」

 

「……それなら多分、まだマシなんですが……おそらくそうではありません。もっと最悪です。伝承によれば、あの巣が完成すると世界に破滅が訪れる、とか」

 

「……気は確かか?」

 

「さぁ……狂ってるのは俺なのか、それともあの化け物どもか」

 

 まぁどう考えたって手に負えない向こう側だろう。諦めにも似た境地に達しつつあった氷兎は、手元の珈琲で心を休ませる。

 

 わかりやすく端的に言ったが、世界の破滅だなんて言われても、まったくなんのことだかといった話だろう。氷兎にも何がどうなるのかまったく想像がつかない。

 

「どうも、現実と夢が完全に混ざり合うとか……いや、まったくさっぱりですね」

 

「夢が現実になるってことか? 空飛べたりとか?」

 

「アホか。現実と夢が混ざり合うということは、区別がつかなくなるということだろう。目の前に道が続いているように見えて、実はそうではなかったり、想像し難い化け物がいたり、これは現実じゃないと錯乱した人間による奇怪な行動、あるいは殺人まで起きるかもしれん」

 

「……わからん! お前の説明聞いてもさっぱりだわ!」

 

「あくまで憶測だ。当てにするな」

 

 魔導書から知識を得た氷兎ですら理解できないのだから、他の人が理解できないのも当然だ。夢の世界と繋がるなんて、まったく意味がわからない。

 

 しかし繋がった結果どうなるかといえば……現実世界に姿を現せない神話生物が出現することだろう。封印からも解き放たれ、自在に世界に姿を現す。それこそ神と呼ばれるソレも、未だどこかで眠り続ける神性も。そうなれば人間は為す術なく狂っていくしかない。

 

「今の話聞く限りだと、ここでこうして待ってるってのもねぇ……どうする西条?」

 

「……風俗店の調査を木原に申し出たらどうだ」

 

「あぁ……いや、顔だしずらいよ……。店長には説明いってるけど、親御さんも今頃大騒ぎしてるだろうし、死体のある広場も封鎖。あんまり関係者に会いたくないなぁ……」

 

 鈴華の言葉に、氷兎は苦々しく顔を歪める。殺したのは自分だからだ。それ以外に手段がなかったとしても、仮に自分が殺らずとも他の誰かに殺されていたとしても。あの穴の生活がどれほど人間性を欠如させるのかわからないが、まだその方が幸せだっただろうか。

 

「……やる事がないなら、俺たちは帰るための調査をするとしよう。ちょうど気になることもあったからな。すぐに出るぞ、二人とも」

 

「今からですか……男だけで?」

 

「俺たちの問題だからな、これは。なに、別に俺たちだけでも問題ない。武器は一応携帯しておけ。あの蜘蛛が腹いせに仕返ししに来るとも限らん」

 

 西条の言葉に頷いて、壁に立てかけてあった武器を各々手に取る。それを持ち運ぶために隠し、彼らは部屋を出ていった。

 

 部屋に残された女性陣は何をする訳でもなく、唯野と鈴華は今後のことを話し始める。

 

「………」

 

 そんな二人とは違い、薊は眉間に皺を寄せて腕を組んだまま扉を睨みつけていた。

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 彼らがオリジンの制服に身を包んでやってきたのは、未だに付近に立ち入ることを禁止されている風俗店だった。真昼間から黒服を着て外を出歩くのは中々に視線が厳しいが、現場の張りつめた雰囲気に当てられてそんなことも気にならなくなる。

 

 比嘉刑事が現場を取り仕切っており、西条が声をかけると現場の立ち入りを許可してくれた。

 

 未だに風俗店はバグっていて、アナログテレビの砂嵐のようにジガジガとブレている。辺りは封鎖と監視のための警官が何名かいる程度。店の中には誰もいない。調査は一通り終わっているらしい。原因はまったく掴めなかったようだが。

 

 そんな入る気の起きない建物を前にして、翔平は頭を掻いてため息混じりに話し出す。

 

「そんで、どーすんだ? まさか中に入るのか? 出れなくなったら嫌だぞ、俺」

 

「仕方あるまい。恐らくだが……俺の推測が正しいものなら、この店の中にいるべきだ」

 

「どういうことです?」

 

「黙ってついてこい。話は中でしてやる」

 

「風俗かぁ……いやでもさぁ、なんかこう拒否感がさぁ……」

 

「黙って、ついてこい。体と離れたくはないだろう」

 

「ひぇっ……物騒だなぁお前……」

 

 先に店の中へと入っていく西条を見て、仕方ねぇ、と呟いて翔平も続いていく。氷兎も中へと入っていくと、そこは受付と待合所になっていた。ただ、壁も床も、椅子も何もかもバグったように時々白や赤、緑のピクセルのようなものに化けてしまう。

 

 そんな床を踏まないように進んでいく西条に続いて、二人も後を追う。幸いにも電気は点いているようだった。そのまま通路を進んでいくかと思いきや、他よりもバグの少ない場所で立ち止まって、西条は壁に背中を預けるように立ち止まった。同じように、二人もポケットに手を突っ込みながら背中を預ける。

 

「お前ら、この世界はなんだと思う?」

 

 腕組みをして尋ねてくる彼に対して、二人の返答は同じようなものだった。

 

「なんだって言っても、異世界だろ? パラレルワールド的なやつ」

 

「なら……これはなんだ? 俺たちの世界はこんなバグにまみれたものだったか?」

 

「神話生物の仕業じゃねぇの?」

 

「でも違和感はないんですよね……いや見た目バリバリ違和感あるんですけど、いつもの変な感じはないです。魔術でも神話生物の仕業でもないと思います」

 

「だろうな。おそらくこれは、本当に文字通り『バグ』なんだ」

 

 西条が壁のジガジガとした部分を拳で数回叩く。コンッコンッと硬い音が響いた。元の情報はあるが、テクスチャだけが変に乱れているように思える。少なくとも氷兎はそう感じていた。

 

 翔平は未だに納得していない様子だが、西条の眼鏡の奥から覗いてくる鋭い眼光に言葉を失ってしまう。そのまま彼の言葉の続きを待った。

 

「そもそも、俺たちはここに来る前どうしていた? VR訓練をしていただろう。そしてなんらかの動作不良で、ここに飛ばされた。だとしたらここは、この世界は……仮想世界なんだろう。なまじVR装置が五感を感じさせる高性能なもののせいで、気づくのに遅れてしまったがな」

 

「待て待て。ウチのVRは確かにすげぇけど、こんな大規模なのは設定上できねぇだろ。どんだけデータ処理すればいいんだよ」

 

「いいや、データならある……はずなんだが、変な箇所がひとつある。唯野、この世界のお前の経歴差だ」

 

「……まぁ確かに、俺だけはこの世界と辿った道が違いますね」

 

「その部分だけ考えなければ、仮説が通ったんだがな……」

 

「まぁ一応聞かせてくれよ。氷兎のは抜きにしてさ」

 

 元よりそのつもりだったと、西条は話を続けてくる。

 

 まずここが異世界ではなく、電子情報で作られた仮想世界であること。男子棟と女子棟の位置が逆になっていたり、トイレも男女位置が逆になっていることから、男子と女子の性別が逆になったのではなく、データ上の性別項目が反転していて、この世界ではあらゆる男女の項目が逆になっていること。

 

「そして、男女が逆になることで成り立たなくなる稼業。それが風俗だ。その致命的な不具合を修正できず、こうして『俺たちがこの世界に来た途端』バグが発生したんだ」

 

「うーん……言いたいことはわかるんだけどさぁ、やっぱ世界丸々電子情報で作るのは無理だろ。だってその通りなら外国まで作られてる上に、未来予測までしてるんだぜ? 演算機こわれる」

 

「だがデータがある。過去も未来も全て記録したデータがな」

 

「……まさか、アカシックレコードですか」

 

 告げられた言葉にハッとなる。データがいじれるのならば、氷兎の経歴も変えることはできるだろう。そして、そんな芸当が出来るやつがいるのかという問題だが……いるのだ。それが出来るバケモノを知っている。

 

 アカシックレコードを扱うことのできる、アザトースの息子。何かと彼らに事件を運んでくる、厄介者。

 

 西条はゆっくりと頷いて、その名を口にする。

 

「この事件の首謀者は、ニャルラトテップで間違いない」

 

「その通り。だーいせいかーい」

 

 通路のさらに奥から声が響く。咄嗟に臨戦体制をとって、声のする方を見据えた。

 

 誰もいなかったはずの店の中。曲がり角の暗がりから、ゆらりと揺れて彼女は現れる。まるで元からそこにいたかのように。

 

 明かりに照らされて映し出される顔は、まったく美しい(醜い)顔だ。氷兎の目には……真っ暗な黒の顔が映し出されるだけであったが。

 

 嘲笑(わら)う声が通路に響き渡る。背中にある槍を、懐に隠した銃を、腰に隠した剣を、それぞれ手に握りしめる。数ある修羅場を潜り抜けてきたが、彼らの背筋に伝う嫌な寒気は今までで最も酷いものだった。

 

 

 

 

To be continued……




『何もない』にI love youと囁かれて喰われたので初投稿です

やっぱ……公式チート西条くんを……最高やな!


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第133話 引けない

お久しぶりなので前回のあらすじ

男女が反転した世界に来てしまった三人。実はこの世界仮想世界じゃねと気づいてしまう。

西条「こんなことできるやつひとりしかいねぇよなぁ?」

ニャル「だいせいかーい」

三人「ファッ!?」


「流石だね、西条 薊。君ならすぐに答えに辿り着くと思っていたよ」

 

 喪服を思わせるような黒の服に身を包み、見るもの全てを魅了するような美しい容貌を持つ女性。西条と翔平にとって、それは紛れもない事実。背丈が低めの可愛らしい女の子がコテンッと首を傾げるように、気の強そうな女性が腕を組みながら睨んでくるように、それは心の奥底にある理想の女性像を映し出す。

 

 ただそれでも、その滲み出る嫌な気配を本能で察してしまう。修羅場をくぐりぬけてきた彼らにとっては尚のこと。隠していた武器を握る手には嫌な汗が湧き出ている。

 

「……貴様がニャルラトテップか」

 

「そうだとも。初めまして、かな。それとも……久しぶりと言うべきか」

 

「会ったのは初だがな」

 

「そうかな? よく思い出すといい……君は『私』に既に会っているよ」

 

 含むような嘲笑を続ける彼女の言葉に、西条は一瞬思考を途切れさせる。会ったことがあるといわれたが、そんな覚えはない。いつ、どこで、どのタイミングで会ったというのか。

 

 しかしそれをこの場で考えるのはあまりに愚策。すぐに思考を振り払い、鞘に納められた刀をゆっくりと抜く。目の痛くなるようなバグだらけの空間で、彼の神秘を帯びた刀──最上は全てを癒すような淡い輝きを見せつける。

 

 鏡を思わせるような透明感のある刀を見たナイアは、一瞬眉をひそめた。当然だろう。この刀はノーデンスから授かった加護を持つ。最悪とまではいかずとも、少なからずナイアにとっては忌避感を覚えさせるものだ。この隙を逃すものかと、氷兎はナイアに問いかける。

 

「……一体、なんの目的で俺たちをここに連れてきやがった」

 

「目的? いいや、むしろご褒美と言って欲しいね。私からのささやかなプレゼントなんだ、これは。君にとって、とても重要な……ね」

 

「御託はいい。とっとと俺たちを元の世界に戻せ。さもなくば……ここでケリをつけるか」

 

 西条が地面と水平に刀を構える。霞の構えをとった彼に、しかしナイアはその余裕そうな嘲笑を崩さない。負けることはないと思っているのだろう。事実そうだ。彼女に一時ばかりの敗北こそあれ、完全な負けはない。ここで彼女を刺したが最後、それは己に返ってくる可能性がある。全人類でありながら個人である、なんて酷い話もあったものだ。

 

「少しは落ち着きたまえよ。別に、帰りたければ帰るがいいさ。この世界でVR室に行けば、君たちが使用していた装置がある。作動したままになってるそれを止めれば、君たちは元の世界へと帰ることができるとも」

 

「そんな話をバカ正直に信じろとでも?」

 

「だが、それ以外に帰る道はない。所詮この世界は作り物。データを元に作られた、仮想世界だ。でも……どうして仮想世界というものは存在するんだろうね?」

 

「話に耳を貸す必要なんざないですよ、西条さん。コイツの話は半分程度で聞き流した方がいいです。嘘と真実を織り交ぜて話すぶん、タチが悪い」

 

 話す表情や声音、心情を察することで氷兎と西条は嘘かどうかを見抜くことに長けているが、問題はナイアに顔がない事だ。それでは氷兎に見抜く術はないし、西条にとっても読み難い。

 

 唯一雰囲気でしか察することのできない翔平は、ただデザートイーグルを両手で構えながらじっと待つことしかできなかった。氷兎の陰に隠れながら機会を窺う彼には、いつだってナイアの頭を撃ち抜く準備ができている。

 

 それを知っているだろうに、彼女にはまったく慌てる素振りがない。厄介この上なかった。

 

「フフッ、考えるのを放棄するのかい? いや、それでも構わないとも。思考放棄した人間の行く末なんて見飽きたものだけどね。醜く死ぬがいいさ」

 

「……さっきっから聞いてりゃ、意味わかんねぇことばっかりだな。結局のところ、アンタは俺たちにどうして欲しいって言うんだ?」

 

「なに、少し話をしようと思っていただけさ。それが終われば一足先に帰るよ」

 

 彼女は通路の奥側の壁に背中を預け、腕を組んだまま正面にいる三人を見据えてくる。手を出す気はないという意思の表れなのか。そんなもの信用に値しないと、武器を収めたりはしないが。

 

「話を戻そう。仮想世界についての話だったかな。そもそもシミュレーションというのは、ある法則に基づいた模擬実験のことだ。地震や津波による建物の倒壊とかね。つまるところ、それを実験し、観測しなくてはいけないのさ。そして、観測者が失われた時……仮想世界は、その意味をなくす」

 

「……だからどうしたというんだ」

 

「わかりにくいかい? なら、ゲームで例えよう。君たちの世界をセーブファイルA、この世界をセーブファイルBとする。勿論君たちは真っ当に生きて、正史の歴史をAで歩んでいた。ところが手違いでセーブファイルがコピーされ、Bが作られた。プレイヤーが遊べるのは片方だけ。Aからやってきた君たちだけが、このBという世界で遊べるのさ」

 

「余計に意味がわからなくなってきたんだけどさぁ……なんでAの俺らがプレイヤーなの?」

 

「ちょっと黙ってろ。頭で整理してる途中だ」

 

 西条に黙ってろと言われてしまっては、何も言うことはできない。物悲しそうな顔をして前にいた氷兎の肩を叩くが、今は慰めも何もできないでしょ、と言いたげにため息をつかれる。余計に翔平の心が抉れた気がした。ノリでぴえんなんて言ったら最後、二人から蹴りが飛んでくるだろう。言いたくなるのをぐっと堪えた。

 

「さて、Bにいるプレイヤー。あえて観測者と言おうか。この観測者はAから離れてしまっただけで、Aという世界は君たちがいなくともつつがなく続いていくだろう。だが……Bはそうはいかない。手違いで作られたBは仮想世界だ。そこに観測者がきたことで、シミュレーションは再開された。当然……観測者がいなくなれば、この世界はそこで終わり。電源を落としたゲームのように、保険で作られた別データのように、二度と遊ばれることはない」

 

「……俺たちが帰還すれば、この世界は止まると。そう言いたいのか」

 

「その通りだ。無駄なシミュレーションを続ける意味はないだろう?」

 

 世界が止まる。だが、言ってることはこの世界の全てが終わってしまうと言い替えても問題はないだろう。観測者がいなくなってしまえば、この世界で物語が紡がれることはない。三人がいなくなったこの世界は、消えてしまうのだ。永遠に動き出すことはない。

 

 どの道バグだらけのこの世界は、いずれ崩壊する可能性もある。そうナイアは付け加えた。それを聞いて、一体どうしろと言うのか。勝手にこの世界に連れてきたくせに、と怒りが込み上げ、同時に変な虚しさや虚脱感を覚えさせる。

 

「君たちは重要なファクターであり、観測者(Observer)。その存在がこの世界にある限り、たとえ意識が途絶えようとも世界は存続するだろう。さて、この話を聞いた君たちは帰還することを選んでもいいし、残ることを選択してもいい。バグは残るが、遺恨は残らない。そうだろう?」

 

「随分とふざけた真似してくれたな……だけど、帰るって選択肢を選ばないとでも? 菜沙も、桜華も向こうで待ってんだ。俺の居るべき場所はここじゃない」

 

「当然だな。この世界に親はいない。復讐のために生きてきたのに、それを失っては元も子もないのでな」

 

「……まぁ、そうだよなぁ。家族とか、大事なもんとか全部向こう側だし。ここにいるってわけにもいかねぇよなぁ」

 

 三者三様ながら、帰還することを決意した。いや、帰還しなくてはならないのだ。どうあれ全て元の世界にある以上、それを手放すことはできない。家族、友人、恋人、復讐者。それらを捨てきることはできなかった。

 

 その答えを聞いて、ナイアは口元を片手で隠しながら嘲笑(わら)い始める。上品な仕草から放たれる神経を逆撫でするクソみたいな声。思わず眉間に皺がより、一発かまそうかと思ってしまう。

 

「ハハッ、アッハハハハッ、そうだとも! 君たちはそれを選ぶしかないんだ! 帰り給えよ、君たちの居るべき場所へと! フフッ、ッハハハッ!」

 

「──やかましいッ」

 

 透明な刀が一瞬の煌めきを放つ。瞬時に振り抜かれた刀は見えるだけの刀の範囲よりも遠くまで軌跡を描き、壁に傷をつけながらナイアごと斬りつけていた。

 

 斬られた彼女は胴体の中ほどから二つに分かれ、そのまま水のような黒い液体となって地面に溶ける。そのまま元から何もいなかったように消えてしまった。風俗店の通路には、天井から奥の壁、更に左の壁へと続くように斜め一文字の痕が残るだけだ。

 

「……仕留め損なったか」

 

「まぁ、いくらノーデンスの加護といえどもって感じですかね……そもそも、そこにいたのがやつの本体かってのも怪しいですが。案外分身かなんかだったのかもしれませんね」

 

「壁まで斬りつけちゃってまぁ……一瞬で数メートル先まで刀の範囲伸びるの、控えめに言って頭おかしいな。お前とはもう正面からやり合いたくねぇわ」

 

「最上がなくとも、正面から来るだけならば全部斬り落とすだけだがな」

 

「弾丸を斬るなって。五右衛門かよ」

 

 軽口を叩きながら、周囲をざっと見回す。氷兎も嫌な気配を感じなくなっていた。もう周りには何も潜んでいないだろう。それを伝えると、各々持っていた武器を隠していく。

 

 これからどうしようか。そんなことは話し出す前から決まっているようなものだった。刀を隠した西条が一足先に出口へと向かっていく。背を向けたまま語りかけてくる彼の言葉に、二人は何も言うことはなかった。

 

「帰るぞ。俺たちの世界へな」

 

 それが何を意味するのか、理解している者と、いまいち理解していない者。けれど時は進むばかり。足を止めている暇は、彼らには残されていなかった。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 元の世界のカードが使えることに安堵しつつ、彼らはオリジンのビルへと入り、エレベーターを使って地下に潜る。フードを被って顔が見えないようにしつつ、花が咲き、人が語り合う噴水広場を通り抜けた。向かうのは司令室のある本部棟。そのVR訓練室だ。

 

 足早に去っていく彼らの姿を見る者はいても、止める者はいない。そのまま何事もなくVR室にたどり着き、部屋に入っていく。

 

「……本当に、これで帰れるんですかね」

 

「さぁねぇ。ナイアの言うことを真に受けるならって感じだけど」

 

 三人で横並びになりながら、部屋にあるVR装置へと歩みを進めていく。彼らの歩む固い音が室内に響いていて、妙に鼓動を早めていた。

 

「信じるべきかって言うなら、俺は逆の見解ではあるんですけど……手段がこれしかなさそうってのも事実ですし。どうなんですかねぇ、西条さ──」

 

 疑問を投げかけるべく、二人の間を歩いていた西条に視線を向ける。しかし次の瞬間、ふと視界から消え失せた。そして、代わりに響いてきたのは鉄のぶつかり合う硬い音。

 

 一体何がと言葉にするより早く、二人は瞬時に背後に向き直る。そこにいたのは、透き通る鏡のような刀を鍔迫り合わせる、二人の西条の姿。そしてそれを背後から見守っているこの世界の唯野と鈴華だった。

 

 ギリギリという音が聞こえている。上から抑えかかるように斬ろうとしている薊を、西条が下から押しとどめていた。数秒の間の後、西条が強引に刀を流して彼女の体制を崩す。即座に真一文字に振り抜き、斬り伏せようとするが……それよりも早く薊は後方に飛ぶように下がり、彼女の前に唯野が槍を構えて立ち塞がった。

 

(音がしなかった……いつの間にそこにいたんだ……)

 

 西条が気づいていなければ背後から斬りかかられていただろう。元から部屋の中にいたのかもしれない。だとしても音もなく斬りかかるとは。西条の手腕を褒めるべきか、非常識な奴だと蔑むべきか。

 

 しかしその言葉を言う資格は己にないことを、氷兎はわかりきっていた。相棒は慌てふためき、事態がどうなっているのか理解できていないようだったが。

 

「……いきなり背後から襲いかかるとはな。不躾な奴だ」

 

「不躾だと? 貴様、一体どの口で言うか」

 

「ふっ、なるほど。貴様あの時、あの場にいたな。話を根っから聞いていたんだろう」

 

「当然だ。徹頭徹尾、聞かせてもらったとも。だからこそ……貴様らを帰す訳にはいかん」

 

 体勢を立て直した薊は再び霞の構えを取る。自然とその切っ先に視線を向けてしまいそうになるが、この場にいるのは三人。戦場を広く見ないと痛い目を見るのは身体に染み込んでいる。

 

 それなりに覚悟を決めているのだろう。無論、薊は覚悟なんてものをとうに通り越しているし、唯野もその表情から見て取れる。ただ銃も何も持っているだけで構えていない鈴華だけは、その場で視線を向こう側とこちら側を右往左往させていた。

 

「ま、まぁ待ちなって西条。ほら、とりあえず斬るよりも話し合いをさ……」

 

「先輩。甘えたこと抜かしてる余裕はないんですよ。ここでコイツらを行かせれば……この世界は終わる。私たちだけじゃない。菜沙や藪雨、加藤さんだって、全部消えてしまうんですよ」

 

「ハッ、そもそもの話だ。仮想世界だ、消えるだなんだと。頭のおかしなことばかり言ってくれるな……。この世界が間違っているだと。私たちが、元より存在すらしていなかっただと……巫山戯たことをぬかすなッ!! 私たちの現実は、ここだ!! 突然目の前に現れて、異世界から来ただのと喚きおって……貴様らこそが、この世界を終わらせる化物だったとはなッ!!」

 

 気まづそうな顔をしている鈴華とは違い、二人は完全に目の敵にしている。当然だろう。いきなり目の前に現れて、私たちは異世界から来ました。この世界は間違っています。だから全部消します。なんて言われたところで……ふざけるなよクソがと言いたくなるだろう。

 

 ただ彼らは帰りたいだけだ。しかしその帰るということこそが、この世界の破滅へと繋がっている。今更ながらにその現状を理解した翔平は、頭の奥底でナイアの嘲笑(わら)う声が響いてくる気がした。苦々しく顔を歪めて、デザートイーグルを取り出すが……構える気にはなれない。

 

「私たちの過ごした日々を、思い出を、記憶を。全て、全てが間違いだとアンタらは言うんだろ。構えろよ。異世界の自分だかなんだか知らないけど……殺して全部元に戻るって言うなら、やるさ。やるしか、ないんだよ」

 

 唯野の槍の矛先が、氷兎に向けられる。とっとと構えろと言いたいんだろう。

 

 選択肢は思い浮かぶだけでいくつかある。一人が全速力で駆け出して、装置を止める。ここで互いに殺し合うのもひとつの手だ。だがこの二つはデメリットが大きい。

 

 何より、向こう側の西条を無視できない。彼女はその気になればこちら側の西条の攻撃をくぐり抜けるくらいはしてくるだろう。守備と攻撃とではそこまで違ってくる。

 

 それにいくら西条とはいえども、唯野と鈴華の揃った三人を相手に耐えることはできない。三人纏めて殺り合えば……いかに西条を活かして戦うかという、残った二人からすれば遺恨の残る戦いになることは間違いない。それに、どこから飛んでくるかわからない鈴華の弾丸と、射程外から斬りかかってくる薊の相手なんて、混戦状態でしたくはない。

 

 だとすれば、ここですべき事はなんなのか。三つ巴の戦いではなく、タイマンに持ち込むことだ。

 

「……まぁ、ね。否定はしねぇよ。俺たちは帰らなきゃなんねぇ。けど、アンタらは俺たちを帰す訳にはいかねぇ。殺し合いで止めるってのも、まぁ納得のいく方法だろうさ。だが……この場で三人纏めてやるってのか? お互い並外れた力を持った西条だけを守りながら戦うのが目に見えてる。そんなの、随分と馬鹿げてると思わねぇか?」

 

「……なるほど。サシか。それなら全力を出せないだなんて言い訳もできない。なにより……自分を殺すのに、手元は狂わないだろうね」

 

 異世界の自分なら、殺すのに躊躇いはない。だが他の二人なら、万が一にも躊躇する可能性がある。特に氷兎が鈴華を、唯野が翔平を殺す時なんて特にだろう。

 

 思考の似通った氷兎同士。その提案は悪くないと返される。ならお互い一旦武器をしまえよ、と言い放ち、なんとか西条の武器を収めさせた。刀に手を添え、いつでも抜刀できるよう構えたままではあったが。

 

「幸い、他に使ってる奴もいねぇ。訓練室を使えば、やり合うのに邪魔は入らないだろ。それで……構いませんよね、西条さん」

 

「……俺は構わん。だが、勝敗はどうつけるつもりだ」

 

「奇数ですし、勝ちが多い方でいいのでは?」

 

「それじゃダメだね。生き残りで最後まで、だよ。それが一番だ」

 

 対面の唯野に睨まれ、タイマンに持ち込めただけでも良しとしよう、と氷兎はその言葉に頷いた。ただそれに納得しかねている人も、中にはいる。先程から聞いては慌てるだけで何も出来なかった翔平は、氷兎と西条に向けて頼むように言葉を紡いでくる。

 

「ま、待てって! なんで殺しあわなきゃいけねぇんだよ! もうちょっとこう……なんかあんだろ! この世界を終わらせない方法とかさぁ!」

 

「そうだよ! 私たちだって、殺し合いがしたいわけじゃないんだからさ! そうでしょ、西条! 今はともかく、話し合いで……」

 

『甘えたことをぬかすなッ!!』

 

 西条が同時に自分側の翔平を睨みつける。もうそんなラインはとっくに超えているのだと。その気になればすぐに帰れるうえ、一人でも残れば勝ちのこちら側と、殺す気で止めなければ終わりの向こう側とでは、そもそも敗北条件が異なりすぎている。

 

 たった一人でも、隙をついて装置を止めてしまえば、終わりなのだ。そんな危険な状態をこれ以上一秒たりとも長引かせてはいられない。

 

「帰るんだろう。それとも、こちら側にお前だけ残るか。いいじゃないか、円満で終わるぞ。俺は絶対に残らないがな」

 

「で、でもよ……アイツらにだって、俺たちと同じような……」

 

「だから引けないんでしょう。俺たちも、あの人たちも」

 

 それだけ言うと、氷兎は槍を背に括りつけて前へと歩き出した。向こう側の誰も変な動きをしないように、西条はいつでも斬りかかれるようにしつつ睨み続ける。

 

「……言い出しっぺですし、行きますか。死なんでくださいよ、二人とも」

 

 氷兎が彼女らの隣を通り過ぎると、唯野も身を翻して部屋から出ていく。他の訓練室へと向かっていった彼らの後ろ姿を、翔平たちは惜しむように手を伸ばそうとしていた。

 

 自分の相棒が死地に向かった。それだけで心臓に悪いのは明らかだ。けど、それを止める手立てを持たない。

 

「……では、俺たちも終わらせるとしよう」

 

「先に行け。背後から斬りかかられてもかなわん」

 

「ハッ、どの口が言う。先に斬ってきたのは貴様だろうに」

 

 それでもお互いのモラルはあるのか。刀は持ったまま、しかし右手をポケットに突っ込んだ状態で、並んで外へと向かっていく。

 

「ま、まてって……」

 

 止めるために伸ばした手は、何も掴むことなく落ちていく。なんでお互い殺し合いができるのか。唖然としたまま部屋に残された二人の翔平は、互いに銃を向けることなく、彼らが出ていってしまった部屋の扉を見続けていた。

 

 

 

 

To be continued……





ここ三週間くらい課題でろくすっぽ寝なかったりしてたので初投稿です

なんで夜から朝の七時とかまで課題をしないといけないんですか
そして一限や二限にでないといけないんですか
zoomで寝ちゃって発表できない人もいるんですよ
目元が死んでる人とか
家にいるからって暇じゃねぇんだぞ
毎週毎週課題出すのやめちくりー、図面書くだけで精一杯なのぉー

人間ってあんなアニメみたいな寝不足表現ができるのかと、驚きましたね


ちなみに今回は前々から書きたかった回のひとつでもある
パラレルワールドに来てやる事が自分殺しってマ?


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第134話 女だから

お久しぶりです。課題は終わりましたが、精神的、肉体的疲労が凄まじく……青藍島に出張してました。アサちゃんかわいいです。

あらすじ

帰りたいなら殺してからにするんだな


 二人だけの訓練室。互いに引けぬ覚悟と刀を携え、薊が親指でコインを宙に弾く。乾いた音が響く中、二人の動作はまったく同じだった。ただ呼吸のリズムを整え、息を殺し、刀を水平に構える。霞の構えも、両者同様。そしてついにコインは落ち……音が鳴った瞬間、彼らは一気に肉薄した。面倒事は嫌いだ。初手で殺しきるつもりだった。それはお互い同じだったのだろう。

 

 昔、氷兎の首を落とした神速の突き。僅かながら西条の方が速い。それを顔の横スレスレで、正しく紙一重で躱して彼女の肉体が間合いの内側に入り込んだ。西条もすぐさま左手で腰元にある鞘を抜き取り、腹を斬ろうとした刀を防ぐ。

 

 蹴りを入れ、一旦間合いの外へ。だが休む間を与えるものかとばかりに、彼女は振りかぶって上段から斬り下し。それを下から刀で受け止める。鍔迫り合いに持ち込まず、すぐさま刀を流す。

 

 次の一手。手の側面を狙った鋭い一振は、難なく彼女に弾かれる。即座に反撃として、首めがけて水平に刀が襲いかかってきた。西条は刀の腹で受け止め、勢いを殺さぬまま身体を当てる。鍛え上げられた体躯だが、それでもよろめいた。刀を振る暇はない。肘で当身、狙うは腕。潰してしまえば勝ちだ。

 

 しかし見え透いた肘が当たることはない。姿勢を低くした彼女の肩に肘が突き刺さる。腕に当たるよりはマシな結果に抑えられてしまった。けれども未だに拳の間合いであり、刀は意味をなさない……などということはない。肩に当てられた勢いそのままに、彼女は凄まじい勢いで回転しつつ、更に姿勢を低くする。下段、足を斬り落としにかかった。

 

(まずいッ……)

 

 跳ぶ。しかし地に足つかぬ空中は、彼に無防備な状態を作り上げてしまう。一般人からすればほんの一秒程度の滞空時間であろうとも、薊からすれば追撃の時間となる。ここぞとばかりに、刀を伸ばして更に一回転。威力を受け流すことも叶わず、空中で攻撃を受け止めてしまった西条は、きりもみ状態から地面に着地。幸いにも視線の先に彼女の姿を捉えていた。

 

(引くなッ!!)

 

 無意識に距離を取りたがる身体を制止するように、心の中で叫ぶ。前傾姿勢で、両手でしっかりと刀を握る。薊の手元には納刀された状態の刀。数メートルの距離が空いているが……一歩で距離を詰められる。二歩で踏み込み。三のタイミングで……鞘を引き抜きつつ、抜刀。

 

 自分の技だからこそ、それがわかりきっている。しかし抜き放った一撃は到底そのまま止められるものではない。来ると分かった瞬間に、刀の腹を片手で抑える。そして全力で受け止めた。

 

 ガンッ。その音を文字に表すとしたら、そうなるのだろう。踏ん張って堪えている西条と、殺しきれずに忌々しそうに顔を歪める薊。お互いの視線が交錯する。

 

 叩きつければ折れてしまいそうな、透き通る刀が二振り。それぞれノーデンスの加護を与えられた、人間では成し得ない業物。いくら斬り結ぼうとも、刃こぼれはなく、水の膜が刀をあるべき姿へと戻していく。

 

「クッ……!!」

 

 ギリギリと、刃が擦れる。女体を思わせない鋭く重い一撃だった。それもそうだ。この世界ではそれが当然なのだ。筋肉の付き方。思考回路。社会的立場。そのどれもが男女反転している。だからこそ、目の前にいる彼女というのは、外見だけが異なる自分自身と言って相違ないのだ。

 

「どうした、後手に回ってばかりだな」

 

「……甘く見るなッ。一手切った貴様の劣勢だと、わかっているだろうッ!」

 

 押されているように見える西条の、負け犬の遠吠えとも取れる言動。しかしその実、その指摘は間違ってはいない。お互い携えている武器は、己の魔力と呼べるものを使用して刀身に水を纏わせる。使い始めて間もない身ではあるが、それを自分がどの程度扱えるのかは身に染み込ませていた。

 

 そう何度も振るえるものではないのだ。出し惜しみはしていられない。かといって使用しすぎると、前後不覚に陥りかねない。

 

 自分の限界と、押し切らねばならない場面。ここぞという時に使わねばならないのだ。ゲームでいうMPとは訳が違う。使い切ったということは、己の精神力の枯渇。意識不明になりかねない。それを気にせず戦えるのは、現状は魔術師であり、ナイアと契約している氷兎だけなのだ。

 

「だが貴様も、既に一度使っただろう。盛大に、スカしたようだがなぁ!」

 

 風俗店でナイア相手に一度使っている。それから休息を取らずにここまで来ていた。現状、精神力という意味では互角。西条の言葉は相手を惑わすに至れなかった。

 

 刃は未だに己の首を斬り落とそうとしている。押さえつけているだけでは埒が明かない。踏ん張っている足を無理やり動かし、薊の軸足を蹴りつける。重心がズレたところで、刀を流して距離を詰め、タックル。体勢は崩れたが、転ばない。

 

(穿てッ!!)

 

 距離を離そうとした薊に向け、離れた位置から刀で突く。届くはずのない距離。しかし魔力を伴って纏われた水が、刀身をさらに伸ばす。そのまま彼女の胴体を貫かんとするが……水の刃を刀で受け止めた彼女は、その勢いを借りて一気に跳んで下がっていく。

 

(ここで、詰めるッ!!)

 

 納刀する暇はない。抜き身のまま即座に肉薄せんと、走り出した。彼女が地面に着地し、刀を構えるのとほぼ同時に距離がなくなる。そして横一文字に刀を振るった。

 

(────ッ!!)

 

 ニヤリと彼女は笑う。まだ突き飛ばされた勢いは殺しきっていない。それをさらに利用し、彼女は背後の壁へ跳ぶ。空に浮いたまま壁を蹴り、西条の頭を跳び越すように跳んだ。彼女の姿が、視界から消え失せる。

 

 刀は振り抜かれ、空を斬り。彼女は空を跳び、刃を振るう。ほぼ真上から首を落とすように、刃が迫る。だが……その動きを、西条は知っていた。氷兎との訓練で、よく使われる手だった。相手の勢いを利用し、虚をついた一撃を与える。周囲の地形を使って、視界から逃れる。

 

 故に──

 

(甘いッ!!)

 

 振り抜いた刀を、そのまま首の後ろへ持ってくる。相手がどういう動きをしているのかなんて、既に目で追えていない。これは完全に勘であり、自分なら首を狙うという憶測に過ぎない。

 

 だが、自分の刀が首を打ち付ける。衝撃は地に足が着いた時よりも小さい。読みが当たったのだ。そして彼女は、跳んだからには着地せねばならない。

 

 刀は未だについたまま。首の後ろにあるそれを滑らせながら、着地した彼女へと接近。首で抑えたおかげで、片手が空いている。流石に受け止められると思っていなかったようで、着地の姿勢が甘い。

 

 刀の鍔と鍔がぶつかり合う。その距離で、西条の肘が彼女の腹に突き刺さった。部屋の隅まで追いやられていた彼女は、跳んだ壁とは別の壁に激突し、喉で空気が詰まる。腹部の強打で、一時の呼吸困難に陥った。

 

(まだだッ!!)

 

 突き刺した肘を伸ばし、顔面に裏拳。後頭部を強打し、彼女の姿勢が前傾に。しかしやられるばかりではない。彼女は右手に持った刀を戻すと、西条の腹部目掛けて振るう。

 

 『そうするだろうと、わかっていた。』苦し紛れの一手は、実に読みやすいものだ。今度は西条が地面を蹴り、壁と垂直となって一回転。迫る刀を躱しつつ、前傾姿勢となった彼女の後頭部に向けて爪先を落とす。勢いそのままに、彼女は顔から地面に激突する。

 

(トドメを……ッ!?)

 

 着地した西条が身体に刀を突き刺そうとすると、彼女の刀が光り輝き始める。彼女の身を守るように、刀から水が勢いよく噴出し、とぐろを巻く蛇のように彼女を取り囲んでいった。

 

 その水に触れようものなら、衣服は切り刻まれ、皮膚は裂け、肉が落ちる。流れる水のようでありながら、刃としての性質を持つ。流動する刃のようなものだった。

 

 それは彼女を守るだけでなく、徐々に広がっていく。

 

(離れねばならんか……)

 

 蛇はやがて竜巻となる。中身すら見えなくなるほどの水の量。西条は背を向けないまま、なんとか距離を離していった。どうするべきかと様子を伺っていると……その竜巻の中で、一瞬の煌めきを目にする。

 

 背筋に一筋の寒気が走った。その場で身をかがめると、竜巻を斬り裂いて真横に水の刃が駆け抜ける。反応が遅れていたら、腹部から上が落ちていただろう。広いはずの訓練室。だというのに反対側まで刃が届いている。

 

 すかさず二撃目がきた。竜巻の中から現れた彼女は、鼻から血を流したままこちらを睨んでいる。それに応えるように、西条もまた魔力を伴わせ、その刀を迎え撃つ。

 

 当たった瞬間、互いの魔力が中和されたのか、それとも弾けたのか。刃であった水は当たった部分から先が砕けるように普通の水へと変わっていき、やがて宙を漂う空気の一部に成り果てる。

 

(……奴は、今どこを見ていた)

 

 彼女の視線が一瞬だけ別の方向へ向けられた。それを機敏に感じとった西条は、応援でも来たのかと周囲に神経を巡らせる。しかし、誰かが見ている様子はない。

 

 だとしたら彼女は今、なぜ視線を逸らした。この戦場で。この死地で。数秒先は死の世界で。何を想ったのだ。

 

「っ……貴様、なんぞに……」

 

 血を拭う。西条も額や首に滴っていた汗を拭い……それが朱色に滲んでいることに気づく。首で受け止めた時に、刃が触れたか。気付かぬ間に身体を掠めていた部分があるらしい。

 

 体力、精神力、共に有利。だが一撃で沈むほどの威力を互いに持っている。そも剣士にとって、身体への傷は致命的だ。本来なら、一撃も許容できない。

 

 彼女に与えた殴打は腹と顔。もう少し上を狙って、肋を折っておくべきだったと悔やむ。骨が折れていれば、少しは動きも鈍るだろう。

 

「私がっ……負けるものかっ!!」

 

 劣勢だと踏んだのだろう。このままでは負けるとも。刀は常に水を纏い始める。そう長くはもたないだろう。それ即ち……決戦。彼女はここで落としきると決めたのだ。

 

「ハッ……余裕のない顔だな。血を流して多少は冷静になったかと思えば……血の気が多すぎて、効果が薄れたか」

 

「ほざくなっ! 負ける訳には……ここで、止まる訳には、いかない! まだ何も、成していない!」

 

「そうだ。何も成していない。我が身を燻る、この想い……あぁ、よくわかる……よく、わかるとも」

 

 静かに、刀を構える。霞の構えではない。下に向けていた刃を、ゆっくりと上へと持ち上げる。両手で優しく握りしめ、切っ先を相手に向けた。基本となる、中段の構え。正眼の構えとも言い……五行で表すと、『水の構え』と呼ばれるもの。

 

 対して、彼女は刀をくるりと回して納刀。鞘からも滲み出る、水の気配。抜刀術は相手の虚をつき、その素早さで仕留める技。抜き放ちつつ一手を防ぎ、弐の太刀で殺す。弐撃決殺の技。

 

 だがその構えは、西条にとって別の意味ともなる。斬撃を飛ばす、神速の太刀。それを常人に目で追うことは不可能。

 

 だからこそ、神経を研ぎ澄ませる。

 

「────」

 

「────」

 

 心臓が脈打つ。この鼓動に合わせて、剣を振るうのが一番いい。彼女と鼓動は同じなら、好都合。だがそうもいくまい。

 

 最悪なタイミングで来るなと。そう願う。

 

 脈打つ。脈打つ。ドッ、ドッと。

 

 呼吸が浅い。鼻で息をしていられない。口から微かに漏れ出ていく。深呼吸なんてしていられない。あぁ……息が詰まる。

 

 されど。この刹那の時が───

 

「───セァッ!!」

 

 ───心を、狂()に彩るのだ。

 

「ッ───!!」

 

 刀が振り抜かれ、水の斬撃が西条を襲う。それを正面から、同じく纏った水で叩き斬る。斬撃は露と消え、弐の太刀が襲いかかる。伸ばされた水の刃は足元を狙い、それを身体を横向きにして回転しながら避ける。跳んだ西条を狙う参ノ太刀。回転しながら刃を振るい、かき消す。

 

 着地すると、彼女の姿が目の前にあった。血塗れた顔で睨みつけ、それを鼻で笑う。

 

 壱撃。弐撃。参撃。肆、伍、陸。漆、捌、玖。ひたすら斬り結ぶ。躱しきれない刃が肉を浅く貫き、太ももからは血が流れ、眼鏡に血の斑点が付着する。

 

 だが止まれぬ。止まることなどできぬ。己はまだ、何も──成しては、いないのだ。

 

「───ッ!!」

 

 拾。その一撃は力任せ。息も切れ、精も尽き。西条が残った力で彼女を水の刃の範囲外まで弾き飛ばす。

 

 纏うだけの力は、絞り出す程しか残っていない。お互いに、その距離はもうなんの意味もない。額から落ちていく血を、鼻から垂れていく血を、崩れ落ちてしまいそうな、血塗れた足を、振り抜くだけで精一杯な腕を。

 

 あと一度。そう言い聞かせる。

 

(……また)

 

 彼女の視線が、西条から逸れた。だがそれも一瞬のこと。

 

 死に体も同然の彼女。立っていることすら苦痛な西条。お互い、それが最後の一撃となることは、わかっていた。否、これで終わらせられなければ、負けだということを。

 

「っ……ふぅ────」

 

 構える。一手でいい。ならば、霞の構えを。

 

「スゥ……フッ───」

 

 構える。一手でいい。だから、霞の構えを。

 

「───っ」

 

 勝たなければならない。そうしないと、世界が終わってしまう。眉唾物だが、あぁ……そんな理不尽な世の中だ。きっとそうなのだろう。だから、勝たねばならない。そうしないと……何も、成せない。

 

「───ッ」

 

 負けてはならない。己の敗北は口惜しいが、だがそれは負けではない。そうだとも。己にはまだ残っているものがある。残っている人がいる。だから、負けてはならない。それこそが……己の、成すべきことなのだ。

 

『────』

 

 間が流れる。一瞬だ。過激で、惨劇で、狂喜なこの舞台は、あぁ終わる時は儚いものなのだ。

 

 勝たねばならない。

 

 故に。

 

 負けてはならない。

 

 故に。

 

「っ……せあぁぁっ!!」

 

「ッ……ゼアァァッ!!」

 

 血の水溜まりを跳ね飛ばし、刀を引く。同時に跳び、ただこの刃をその胸に突き立てんと。そして叫ぶ。血が滲む声で、己の成すべきことを。

 

()()()()()!!」

 

 勝たねばならないから。

 

 刃から、細い水の刃が伸びる。それは極小であるが、極めて密に纏まった束であった。その水は全てを貫き、穿ち、射殺すだろう。その一撃、ただ勝利のために。

 

()()()!!」

 

 負けてはならないから。

 

 刃を水の膜が覆い尽くす。それはやがて小さな渦潮となり、迫り来る恐怖を跳ね除ける。全てを穿つであろう水柱の軌道を逸らし……その水は西条の右頬に傷を残す。

 

「───がっ……は、ぁ……」

 

 刃が生える。彼女の背中から。血に濡れても尚、その輝きを失わない鏡の如き刀身が、貫いている。

 

 最早刀を握ることもない。西条は彼女に刀を突き刺すと、そのまま横を駆け抜け、止まる。背後からは彼女の倒れる音と、刀が地面に落ちる音が聞こえてきた。

 

 勝敗は決した。ただ、勝たねばならない。負けてはならない。その差だった。全員を殺して、なおかつ生き残らなければならない薊と、自分が死んだとしても問題はなく、疲弊した薊なら後の二人でもどうにかなると、ある種の信頼をしていた西条。その差が顕著に現れ出たのだ。

 

「か……か、ふ……」

 

 まだ死んではいない。振り向いた西条が目にしたのは、落とした刀を拾うでもなく……必死にどこかへと手を伸ばしている薊の姿だった。その手の先は、訓練室の扉。そして、その先であったのだろう。

 

「……愚かだな。殺し合いの最中に、他人を想うことに思考を割くとは」

 

「ぐ……ぁ……、ぜ、だ」

 

「何故、と問うたか」

 

「……お、なじ……なんだ、ろう……だ、のにぃ……なぜ、まげだ……ぁ、たし、がっ……」

 

 動けなくなった薊の顔の前へと移動する。その顔は、憎悪。恨み、妬み、嫉み、呪っている。それを西条は、正面から受けて立つ。

 

「わだし、がっ……おん、な、だから……まげた、のか……」

 

「……あぁ、そうだとも」

 

 無慈悲な言葉を差し向ける。

 

「やはり、違うのだ。貴様と、俺は。それに……この憎しみも、痛みも、全て……俺のものだ。貴様のものではない。貴様がこの世に生まれ、育ち、得たものは……やはり貴様のものなのだ。それがデータであったとしても。例え本当に体験していなかったとしても。それを感じ、どう思ったのかは……貴様だけのものだ」

 

 だから、違うのだ。貴様が殺し合いの最中に、彼女らの身を案じたことも。俺が、そうでなかったことも。そもそも不可解だ。なぜ奴らの身を案じなければならない。よりにもよって、死の間際まで。

 

 最後の最後まで、俺に目を向けず……あの扉の向こうへ、手を伸ばす。

 

「……そうだ。『俺とは違う()』だから……貴様は……」

 

 未だ、手を伸ばしている。その両目から零れ落ちるのは、朱色の涙。

 

 ゆっくりと近づき、彼女の胸に突き刺さった刀を握る。

 

 差異なんて、きっとそうなかった。けど違うのだ。同じじゃない。同じ気持ちを共有なんてしたくない。自分が得たものは、自分だけのものだ。だからこそ……。

 

「……負けたのだ」

 

 引き抜く。彼女の口から、嗚咽が漏れた。血塗れた刃を振り払って、鞘に収める。

 

「……死の間際に想うことが、それか」

 

 復讐でもなく、悔いでもなく。ただ届かぬ言葉と祈りを、扉の向こう側へ。

 

「……解せぬな。やはり、別物だ。俺は……俺だけだ」

 

 家族への復讐。それだけが望みだった。だからこそ、死の間際に手を伸ばす先が、違うだろう。俺はそんな存在じゃない。

 

 もはや動くことのない女から、目を逸らす。頬に刻まれた一文字から、血が滴り落ちている。それを袖で荒く拭うと、扉に向けて歩みだした。

 

 ……本当に、最後がソレなのか。

 

 扉を開ける直前、彼女をもう一度見やる。伸ばした手は、誰に掴まれることもない。孤独な終わり方だ。きっとそうだろう。この手を掴む者はいない。

 

 家族への復讐だけを。だから……その手は……。

 

「………」

 

 まだ、終わりじゃない。あの手から目を逸らした西条は、訓練室から重い足取りで出ていった。

 

 

 

To be continued……




やっぱ殺し合いを……最高やなと思ったので初投稿です。
長くなりましたし、久しぶりの執筆はなかなかアレですね……。
失踪はしませんよ。終わりまで話は固まってますし。結末書きたいですしね。

そうそう、この小説を捜索板で紹介してくださった方がいました。ありがとうございます。クトゥルフ要素薄い……薄くない……?


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第135話 鏡合わせの人物像

お久しぶりです。なんか4ヶ月くらい経ってますかね。ようやく課題が終わりました……が、今度は就活公務員卒論設計課題……休めないですね。

前回のあらすじ

西条vs薊 勝者は男の西条でした。


 思えば昔から、自分は普通ではなかったのだろう。いや、そう思い込んでいるだけかもしれないが。例えば道行く蟻を踏み潰して遊ぶ友人に、何が面白いのか問いかけた時。例えば、ゴミ箱に向かって投げたペットボトルが外れて、そのまま放置して笑っていた友人に、何故と問いかけた時。

 

 きっと、自分は間違っていなかったと思う。いや、間違いではない。そうだ。自分は正しく、しかし人と異なっていた。子供という枠組みから、若干外れていただけのことだ。しかし間違いではないというのに、人は、親は、変だという。子供らしくないと。

 

 らしさ、とは。なんだろうか。ヘラヘラと笑うことだろうか。同調することだろうか。共感することだろうか。共に涙を流してやることだろうか。当たり障りの無い言葉で励ますことだろうか。見て見ぬふりをすることだろうか。周りに合わせることだろうか。くだらない理由で喧嘩し、暴力を振るうことだろうか。

 

 総括して、その『らしさ』というのが自分にないのだとしたら。俺は『らしく』ならなければならないのだろう。芝居をするような手振りで、誰も疑わない顔で、誰かに共感し、叱責し、涙し、そして……。

 

 ……なるほど。ということはつまり、俺は誰かを殺すよりも先に『自分』を殺していた、というわけだ。

 

 それでも……捨てきれないものもあった。ただそれだけのために。『彼女』のために。俺は親友を撃ち、仲間を殺し、そして『自分(ヒト)』を捨てたのだ。

 

 

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 

 

 正直に言えば、気が気じゃなかった。けれどもそれを顔に出してはならない。よく西条さんに言われたことだった。

 

『窮地に陥った時こそ、ほくそ笑め。まだ手があるのだと疑わせろ。自分はまだ大丈夫だと信じ込ませろ。焦った顔を見せるな。お前ならそれができる。自分すらも騙せる(殺せる)というのなら、それを使わない手はない』

 

 いつか訓練中に言われた言葉を反芻する。呼吸のリズムを整えながら、半歩後ろを歩いている彼女に悟られないよう、ポケットの中に突っ込んだ手を握りしめる。

 

 平静を装え。そして嘲笑(わら)え。打てる手の数と初見殺しが自分の武器だ。そうだとも。初見殺しこそ、一度しかない人生においては最強の技なのだから。

 

「……よくもまぁ、あの場を分割させようと切り出したね」

 

 後ろから言葉を投げかけられた。同じ人間同士、どんな答えが返ってくるのかわかっているだろうに。

 

「相性が悪いんだよ。俺は西条さんにはどうあれ勝てないし、先輩と戦うにはアンタを躱さなきゃならない。戦い方が同じなら、だけど……どうせ変わらないだろ。攻撃は西条さんに任せて、俺は先輩を守りながら臨機応変に対応する。そんな地獄みたいな戦い、したくないな」

 

「同じ、か……。確かに、そうだろうね。私と貴方を除けば、だろうけれど」

 

 誰も使っていない訓練室の扉を開ける。だだっ広い空間に、天井を支える柱が規則正しく並んだ部屋。遮蔽物がある広域。戦いやすい場所ではあるだろう。

 

「……人殺しなんてしたくはなかった」

 

「今更だ。もう人殺してんだろ」

 

「直接殺すのは初めてだよ。それがまさか……自分になるとは、思いもしなかったけど」

 

 部屋の真ん中辺りまで進んでくると、不意に硬いものが落ちる音がした。カラン、カランッと。見れば床に自分が愛用している黒槍が転がっている。

 

「不殺のための槍。そのために、彼が作ってくれたもの。けれど……そんなものは、覚悟が鈍るだけ」

 

 振り向く。彼女は少し離れた場所で、腰元に備え付けられた刀の鍔を触り、カチンッと鳴らした。鯉口を切る動作。いつでも抜刀できるように、彼女は腰を低くする。

 

 見慣れないものがあると思えば、きっと向こう側の西条さんの告げ口だろう。覚悟しておけとでも言われ、その証が刀か。俺の粗末な棒術とも言える槍術では、人を殺すのに躊躇う可能性がある。

 

 ならそもそも殺すための武器にするのが、気の迷いもなくなるというもの。そのために菜沙が作ってくれた武器を手放すというのは、甚だ遺憾ではあるが。

 

「正気か。槍と剣、どっちが強いかなんてわかるだろ」

 

「リーチの差なら覚悟で埋まる。私なら尚更だ」

 

「……恐ろしいな、お前」

 

 あぁ、本当に。恐ろしい。怖くて仕方がない。この女は既に覚悟ができている。俺よりも強固で、芯の通った強さがあった。置かれている状況がそうさせているのだろう。彼女には完全に後がない。死ねば終わり。けれども俺はそうじゃない。所詮は電子で構成された情報に過ぎないのだから。

 

 誰かが生き残ればいい。誰かが勝てばいい。しかし彼女たちは、誰一人として欠けてはならない。あの日々を迎えるため。あの日々をもう一度、手にするためには……生半な覚悟で立つことなどできやしないんだ。

 

「……ふぅ」

 

 彼女はそっと息を吐く。そしてポケットから一枚のコインを取り出した。よく西条さんと訓練をする時に使う、合図のコイン。ただの五百円玉だ。それを弾き、地面に落ちたら死合が始まる。

 

 いつもそうしていたように、彼女は親指にコインを乗せる。背中に括りつけた槍を両手で持ち、しっかりと構えた。

 

 見据えてくる彼女の瞳を見る。それは自分のような薄汚れた眼ではなく、しかし作り物のよう。けれども……強さが見え隠れしていた。彼女はきっと、自分より強い。そうだとも。俺の力は所詮借り受けたもの。月のない状態ではただの一般兵。しかし彼女は違う。歴史の異なる彼女の能力は……厄介の一言に尽きる。

 

「─────」

 

 キンッと鳴る。コインが弾かれた音が耳に響いた直後。

 

「─────ッ!!」

 

 コインがまだ上がっていく途中。発砲音が響く。コインを弾いた直後にガバメントを抜き撃ちしてきた。けど、まだ反応できる程度のものだ。ここで『被害を逸らす』という手を見せたくはない。

 

 不意打ちの弾丸を穂先で弾く。狙いの適当なソレは胴体を狙っていたが、次弾は腕を狙ってきた。それも弾く。そしてすぐさま離脱。遮蔽物に隠れると同時に、コインが地面に落ちた。

 

「っ……まったく、顔に似合わず卑怯な手を使いやがって」

 

「わかっていたから、対処できたんでしょう」

 

「追い込まれりゃそんな手も使うってか。いやはや……俺も汚ぇ人間に成り下がったもんだなッ!」

 

 昔の自分ならともかく、西条さんに鍛え上げられた今となっては。そんな手も使うだろう。守るために自分を犠牲にすると決めたのだから。菜沙を、そして桜華を。あの二人を守るためならば……。

 

(……あぁ、そうだ。帰るんだ、菜沙の元へ)

 

 遮蔽物から飛び出して銃を向ける。しかし……彼女の姿がない。どこか別の柱に身を隠したのか。

 

(……いいや、違うッ!)

 

 振り向きざまに、先程まで隠れていた柱の上部に向けて射撃。彼女は柱の反対側、天井付近に張り付くように身を潜めていた。探すために前に出ていたら、背後から奇襲されていただろう。

 

 ほとんど距離がないというのに、彼女は弾丸を刀で弾いた。そのまま柱を蹴って肉薄してくる。

 

 槍の間合いの内側。無理に槍で払おうとはせず、片手の銃で刃を受け止め、蹴り飛ばした。リーチの関係上、槍の間合いならこちらが完全に有利。人殺しの覚悟……いいや、悩む暇すらない。殺らねば。死にたくはないのだから。

 

 狙い澄ました刺突。点の攻撃を弾くのは困難……しかし彼女は難なく弾く。槍と刀が衝突し、火花が出る。そして火花は……意識を持ったかのように燃え盛り、その威力を増大させ火炎弾として襲いかかってきた。

 

(これは……加藤さんの起源か!?)

 

 とっさに距離を取り、火炎弾を避ける。しかし彼女がそれを見逃すはずがない。相手が自分だとしても、能力が違う。彼女も同様に……初見殺しの技が多彩なはずだ。

 

 肉薄した彼女の斬撃を躱す。バックステップで回避しても彼女は接近をやめない。更に詰め寄り、完全に刀の間合いへ。銃撃の余裕はない。槍で下手に攻撃しようものなら手を斬られる。

 

(っ……《逸らす》!!)

 

 隠していた魔術を使う他なかった。当たるはずの斬撃は何故だか空を斬る。それに戸惑い、一瞬の隙を生じさせ、また蹴り飛ばす。ヨグ=ソトースの拳も利用した吹き飛ばしで彼女は空間に弾かれ、一気に距離が離された。

 

 脳を揺さぶる衝撃だというのに、彼女の瞳はぶれない。すかさず三発弾丸を撃ち込むが、素早い動きで一発目と二発目を弾き、三発目を回避された。

 

 火や水、電気といったものを増大させ操る起源。いやそれだけではない。彼女は多くの起源を扱えるのだ。あの判断力はおそらく、日暮さんの感覚強化……そして西条さんの斬人、先輩の射撃。それぞれ大本に及ばないものの、確かに彼女の力となっている。

 

 馬鹿みたいに早いクイックドロー。しっかりと刃を立てた斬撃。その重さ、速さ。何度も被害を逸らす魔術を使わざるを得ない状況に追い込まれる。そして極めつけには、火花が火炎弾として襲いかかってくる始末。接近戦を許さず、かといって遠距離もキツい。

 

(魔術がなかったらとっくに死んでるな、これは……!!)

 

 太腿を掠っていく弾丸。腹部を浅く斬りつけていく刃。心臓を狙った刺突。致命傷ではない、が……痛みは動きを鈍らせる。

 

 被害を逸らせば逸らすほど、自分の体から力が抜けていきそうになる。頭の奥が熱い。目がズキズキと痛む。殴られていないはずの鼻からは血が垂れている。耳の奥側で何か物音がする。

 

「ハァっ!!」

 

 刃を防ぐ。甲高い音がやけに鈍く感じる。彼女は攻撃の手を緩めない。防がれた刀をまた振りかざし、勢いをつけて斬りかかってくる。

 

 その顔は、勝気だ。血を流す俺の姿は滑稽だろう。このまま押し切れると思っているんだろう。

 

「ッ……《吹っ飛べッ》!」

 

 魔術行使。詠唱無しのヨグ=ソトースの拳。槍とぶつかった刀が突然不可視の力で弾き飛ばされた。

 

「なっ……」

 

 焦った。歪んだ。ざまぁみろ。初見殺しとしてはこちらの方がタチが悪い。

 

 刀は手を離れ、それを掴んでいた腕ごと体は後ろに逸れていく。逃がさない。一突きで腹部を貫きにいく。

 

「くそっ……!!」

 

 彼女の手元が光り輝く。あたかもそこにあったように、右手に透明な西洋剣が出現した。腹部を狙った突きは防がれ、左手に新たに出現した小ぶりのナイフが手元を斬りつけようとしてくる。

 

 避けられない。手の甲に一筋の赤い線ができる。お互いに顔を歪め、距離を離す。吹っ飛んだ刀はそのまま天井に突き刺さるが、彼女の両手には透明な武器が二振り。

 

(……アレは、まさか……藤堂の記憶の武器化か……? 使えるのは、起源だけじゃない……)

 

 なんてことだ。武器さえ弾けばと思っていたのに、このザマでは。これ以上無闇矢鱈と魔術を使い続けると、先に意識が途切れる。

 

 藤堂と戦った時に使った血の弾丸も、使うべきではないだろう。アレは藤堂の記憶が弱かったからなんとかなったもので、彼女の出現させた剣は彼の比ではない。どんな記憶を使ったか知らないが……あの見るだけでわかる強固な剣を破壊できるとは思えない。

 

「わからないってのは、恐ろしいね……まだ何か、隠してるんだろ」

 

「……こんだけボロボロで、まだ何か隠してあると思ってんのかよ」

 

「私ならそうする」

 

「………」

 

 やりずらい。自分を敵に回すとこれ程までに面倒なのか。焦った表情を隠すように、彼女は口元を歪ませる。ニヤリと挑発するように笑っていた。

 

 そして出現し、浮かび上がる様々な武器。槍、刀、大剣、ナイフなどなどなど。あぁ、藤堂がやってきた武器の具現化と射出。ここまで使ってこなかったのは、記憶を使いたくなかったからだろう。それを解禁するとなると……何をも犠牲にする覚悟まで、到達してしまったということか。

 

「これを、避けられるとは……思えないね」

 

「……両手をあげて、降参って言ったら……?」

 

「馬鹿ね。そんなの……安心できないでしょう」

 

 射出。迫ってくる武器を槍で弾いていく。手元で回し、振り払い、叩き落とし。避けられないものは魔術で逸らす。数多に出現した武器たちを個々に操作することは、おそらく藤堂でないと不可能。彼女にできるのは創造して射出するその二工程のみ。

 

 それほど多くの記憶を使用できるわけもない。無意識にセーフティをかけるはずだ。けれど……耐えるのは、厳しい。

 

(ッ……まずいッ!!)

 

 両手で使うのも難しい大剣。それが回転しながら襲いかかり、槍が弾き飛ばされる。そして……襲いかかってくる武器と、彼女が向けている銃。

 

(死んで、たまるか……!!)

 

 その場から飛び込むように地面に転がる。身に残った魔力を振り絞って、弾丸を逸らす。無様に這う姿勢から、柱の影に逃げ隠れた。

 

 息が整わない。一歩間違えれば死ぬ。余裕がない。槍は二つほど離れた柱に突き刺さっている。

 

(取りに戻れるのか……いや、ならその辺に落ちてる武器を……)

 

 待て。そもそも武器を残すのは何故だ。そんなことをしても俺に有利に働くだけ。ならば……拾って使われる前提なのか。いつでも記憶を戻せるのなら、武器がぶつかる瞬間に消すことで体勢を崩すことができる。残された武器は、罠だ。

 

(……歩いてる様子は、ない。武器に乗って移動……も、ない。現状彼女は待つだけで勝てる。落ちてる武器を使われないと思っているはずだ。なら狙うのは……飛び出した瞬間か、槍のある場所に置き技をしておくこと。体力的に圧倒的不利。失血死の可能性もある……が)

 

 ほくそ笑む。逃げながら拾っていたナイフが二本。緊急用の短めの包帯。そこに流れた血で旧神の印(エルダーサイン)を書き込み、ナイフに突き刺して、槍の元へ投擲。

 

 元からいつでも攻撃できるようにしていたんだろう。ナイフの元へすぐさま武器が射出されてくる。

 

(俺は剣士でも、槍術士でも、策士でもない……)

 

 ナイフは粉微塵になる。けれど、包帯は残る。壁に縫い付けられた旧神の印。薄れそうになる意識を、舌を噛んで踏みとどまる。

 

 自分の血で描いた旧神の印による魔術行使。右手でパチンッと指を鳴らす。

 

「《転移ッ》」

 

 小さく呟く。視界が暗転し、身体が宙に浮く。先程まで倒れ込んでいた場所とは違う。包帯のある場所。槍の突き刺さった柱の場所までの小転移。

 

「なっ────」

 

 息を飲む声が聞こえる。反則的な瞬間移動、エルダーサイン移動式。すぐさま柱の上部に突き刺さっている槍を抜きに行く。柱に垂直に立てるほど深く抉りこんだそれを、抜き放った勢いで彼女の元へと馬鹿正直に跳んでいく。

 

(魔術師を、舐めるなッ……)

 

 呆気に取られていたのは数秒。すぐに武器が射出されてくる。身体を掠めていくのを気にせず、危険なものだけ弾く。着地地点にいる彼女に向けて、槍を突き出す。

 

「舐めるなっ!!」

 

 紙一重で彼女は顔の横スレスレで槍を避け、腹部を横一文字に斬りつけるべく、取り戻した刀で肉薄する。それを跳躍して避けるが……人間にとって宙は無防備。彼女の顔がニヤリと歪む。

 

「これで、終いっ!!」

 

 左手に出現させた透明な小刀で、宙で無防備になった俺に向かって斬りつけようとする。槍で防ぐことはできない。そして、空中で回避行動はとれない───

 

「……は」

 

 呆けた声。避けられないはずの一撃。宙に向かって振るった刃は、しかし当たらない。

 

 普通は避けられない……俺以外にとっての話だが。

 

 更に宙に浮くように身体が動き、物理法則を無視して攻撃が逸らされる。クソみたいな初見殺し。さっきから頭が爆発してしまいそうだ。けれど、けれども……。

 

「ハァッ!!」

 

 袖に隠していたもう一本のナイフ。首狙いのソレを、彼女は首を傾けて回避する。ヒラヒラとした紙が付属した、ナイフは地面に突き刺さり───

 

「《転、移ッ》」

 

 エルダーサイン移動式。空中からナイフの突き刺さった場所。彼女の背面に転移する。そして拾ったナイフで……。

 

「か、はっ───」

 

 脇腹を突き刺す。引き抜き、背中を駆け上がるようにナイフを滑らせ、彼女の頭上を飛び越して前側に着地。そのまま彼女の胸の間を縫うようにナイフで斬りつけ……腹に突き刺す。

 

「がッ……あ、が……」

 

 ……引き抜く。血塗れたナイフは消え失せ、付着していた彼女の血だけが地面に落ちていく。

 

 地面に後ろ向きに倒れていく彼女を見ながら、倒れてしまいそうな身体を槍で支える。歪み、憎しみ、怒り。彼女は口から血を吐きながら俺を見た。

 

「あ、ぁ……く、そ……」

 

「……俺の、勝ち……だな」

 

 直立できない。けど彼女は立ち上がれない。お互い全身血だらけで、意識を保つのもやっとのこと。それでも……やった。殺ったのだ。自分は、勝った。

 

「……悪い、な。恨みたきゃ、恨めよ……」

 

「ちく、しょ……ゲフッ、がっ、ぁ……ほん、と……さいあく、だ」

 

 血反吐を吐く。死にゆく人間を見届けるべきだろうか。いや……侮辱になるかもしれない。彼女から目を逸らし、杖がわりの槍でゆっくりと、訓練室の扉に向かって歩き出す。

 

 あぁ……歩けばすぐそこなのに、遠い。

 

「しりたく、なかった……じぶん、が……」

 

 プチュッ。自分の身体から音が鳴る。音が遠くから響いてくる。鳴ったのは、小さな爆裂音。腹部から、血が吹き出している。

 

「こん、なに……きたない、にんげん、だったなんて……」

 

 顔しか動かない。倒れゆく身体。そして視界の隅に映ったのは……向けていた銃を落とし、動かなくなる彼女の姿。

 

 ……あぁ、なるほど。そのためならば、俺は……こんな汚い手を、取るのか。

 

「……さい、あく……だ、な」

 

 何もかもが遠く聞こえる。自分の倒れる音。誰かの叫ぶ音。全て、全て……。

 

 ………。

 

 誰か、が、嘲笑(わら)って、る。

 

 

To be continued……




エルダーサイン移動式

エルダーサインの元に転移できるコスパが良い魔術。行使には自分の血で書くことが必要。


鏡合わせの世界で見つけた自分自身。そこに見えたのは、自分の汚さだった。


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第136話 人殺し

お久しぶりです。
なんか気づけば2年半くらい経ってました。
社会人で小説書いてる人は凄いと思います。
書き方とか前と変わってるかも知れません……。


 シンッと静まり返っているVR室。そこにいるのは表情を曇らせた二人の男女。手に持つ銃を構えることなく、また相手と目を合わせるわけでもなく。時折耳に微かに届いてくる地獄のような音を聞いて、まるで自分の事のように身を縮こまらせる。

 

 どうしてこうなったのだろう。どうして、殺し合いをしなくてはならないのだろう。どうして。俺は。私は。ここで何もすることができないのだろう。

 

 友を守ると、いつか誓った。相棒のために強くなろうと、確かにこの銃を握りしめた。嘆く悲鳴と絶叫は今でも耳に、そして脳に刻まれている。

 

 相棒は誰よりも早く死合を初め、仲間は臆することなく扉の向こう側へと消えていった。助けてやるでもなく、また殺し合うでもなく。何もせずただじっと夢であれと願っている自分は、果たしてどうなのだろうか。見ようによっては……仲間に対して不誠実なのでは。

 

 守るべきもののために自分の命を、そして罪をかけようと言うのに、何もできないまま待つばかりでは……。

 

 あの扉が開かれて、氷兎が、もしくは唯野が出てきた時、自分はどうするのだろう。諦めるなんて言葉は口にできない。

 

(……これが、アイツの望んだことか。アイツが見たかった景色なのか。だとしたら……そんなもんと契約しちまってる氷兎は……)

 

 時折、彼は愚痴を口にする。夢の中での出来事や、鏡を通して語りかけてくる内容だとか。妄想なのか現実なのか定かではないソレのせいで、いつか洗面台の鏡を叩き割っていたのを思い出した。首元には両手で締められたような跡までついて……。

 

 ……そんな精神に異常をきたすような非日常を、あたかも日常であるかのように過ごしている。西条曰く、氷兎は本能を理性で殺しているようなものだと。周りの状況や人によって自分を変化させ、場を調律しようとする。求められればどんな自分でも演じてみせる。

 

 そこに恥はなく、また恐怖もない。心の奥で感じていても、それを表面に出さない。出させない。氷兎が心の弱さを自分からさらけ出す人がいるとすれば、それは菜沙だけだ。求めなければ彼は弱音を吐くことすら、容易にしないだろう。そんな彼が心の奥底で縛り付ける本能を、ナイアは揺さぶり炙り出そうとしている。

 

 恐怖、後悔、悲壮。そういった負の感情をもって、理性を壊そうとしているのだ。

 

「……どうして、こうなっちゃったんだろう」

 

 鈴華がそう呟いた。翔平は首を振って答えるだけ。そんなもんわからない。俺が聞きたい、と。

 

 この世界に来てしまったことだろうか。彼女たちと交流してしまったことだろうか。そもそも氷兎がナイアと会わなければこんな目には遭わなかったんじゃないか。そんなことを一々あげだしてもキリがない。

 

 重要なのは、今殺し合いをしていることで。そしてその元凶がナイアだということ。銃を向ける先がわかっているのに、どうして隣人に銃を向けないといけないんだ。

 

「……音が、聞こえてくる」

 

「……あぁ」

 

 氷兎の方からではなく、西条の入った部屋の方から凄まじい音が聞こえてくる。剣戟。破砕。雄叫び。中でどのような死闘が繰り広げられているのか想像もつかない。氷兎とはまた違った形で、西条は人間を辞めている。彼は天才だ。そんなもの、一緒に過ごしていれば嫌でもわかる。

 

 そんな天才同士が殺しあっているのだから、どんな苛烈な戦いが繰り広げられているのか想像もつかない。なにしろ、天賦の才と神に授かった神器を持っているのだから。

 

「……何か、なかったのかよ。こんなの、ただアイツの手のひらの上で踊らされてるだけじゃねぇか……」

 

 ナイアによってこの世界に連れてこられたのだ。始めから、こうして殺し合わせるために。きっと奴は救済策を用意していないだろう。そんなものがあっても、つまらない。氷兎曰く、奴を突き動かすのは好奇心だと。どうすれば楽しくなるのか。どうすればより凄惨になるのか。どうすれば更に悲劇的になるのか。その為ならば力を使うことを躊躇わない。

 

 そんな奴が逃げ道を用意するはずがないのだ。避けようのない事態だった……そう、言い訳するしかない。人殺しを、『仕方のないことだ』と。『どうしようもないことだった』と。

 

(……あの日から、何も変わってない。これじゃまるで、木原さんみたいだ……)

 

 仕方のないことだと割り切って、小を殺し大を生かす。しかし今、小なのは自分たちだ。この世界から3人が消えてなくなるだけで、何十億という人間が死ぬ。

 

 そう考えると、息苦しさが増してきた。ずっと首を絞められているようで。ずっと、誰かに見られているようで。脳裏に浮かぶのはナイアの嘲笑う姿。無性に腹が立ったけど……何もできることはない。

 

(……何か、ないのかよ。なんでもいいんだ。奇跡でも、神様でも、なんだって……)

 

 縋るように、拳を握る。翔平にはわかっていた。自分にはなんの力もないことを。二人と違って、一般人でしかないことを。ただほんの少し、体を上手く動かすことが出来て、少しだけ銃を撃つのが上手くて。

 

 ……魔法なんて使えない。とびきり頭が切れるわけでもない。なにか特別な血筋があるわけでもない。神様に因縁づけられてる訳でもない。劇的な変化を起こせる力はなく、大勢の人間を鼓舞できるようなカリスマ性もない。

 

 ゲームが好きで、日がな一日ゆっくりと過ごすのが心地よくて。友達と遊ぶのが好きで、人殺しなんてしたくなくて。物事を判断するのは好きじゃないし、責任なんて本当は負いたくもない。どこまでいっても……彼は『普通の男の子』なのだ。

 

「───────あっ」

 

 不意に嫌な感覚が背中を走り抜けていった。動こうともしなかった体は意思に反して扉へと歩み出していく。ふと隣を見やれば、そこではこの世界の鈴華が同じように動き出していた。

 

 未だ剣戟の音が鳴り響く扉を尻目に、ゆっくりと相棒の消えていった扉へと向かっていく。もう音は何も聞こえてこない。

 

 息が詰まった。この扉の奥の光景を、見てはいけないと直感が伝えてきている。けれど、見なければならない。凄惨な光景なはずだ。そこにはどうあれ、『友』が死んでいるはずなのだから。

 

「ッ……氷兎っ!!」

 

 訓練室の扉の先。そこにはふたつの体が横たわっていた。赤々とした血が止まることなく流れ出ている。背後から撃たれたように地面に倒れ伏している氷兎と、深く抉られた刀傷によって腹部と背部から血を吹き出している唯野。

 

 どちらが勝った、なんてことはその光景を見てしまうと一切頭から消え失せていた。互いに自分の相棒の元へと走り出す……が。

 

「……ぁ」

 

 掠れるような、小さな呼吸音。いや、それは最早呼吸とは呼べないものだった。空気の漏れるような音が、しかし確かに耳に届いたのだ。至る所に切り傷がつき、背中から撃たれ、それでも相棒はまだ死んではいなかった。

 

 だが、じきに死ぬだろう。こんな深い傷は応急処置だけではどうにもならない。輸血が必要だ。医務室に行けばなんとかなるかもしれないが、果たしてそこまで持つだろうか。いやそもそも下手に動かしたら死にかねな───────

 

「───────ッ!!」

 

 思考を遮る叫び声が部屋中に響き渡る。彼の腕の中で氷兎は今にも消えそうな呼吸をしていたが……この世界の彼女の腕の中にいる唯野には、何もなかった。呼吸も、返事も、鼓動も、何もかも。

 

 誰が奪った。誰が日常を壊した。誰が私たちの幸せを消してしまったんだ。どうしてこうなった。何が悪かった。ただ来る日を退屈そうに過ごし、彼女の淹れてくれた珈琲を飲み、食事を共にとり、他愛のない話をしていただけ。そんな日々を、どうして壊されなくてはならなかったのか。

 

 自分の相棒を殺したのは───────

 

「おまえ、がっ……お前らがぁっ……!!」

 

 最早何も残されていない。歯止め? そんなもの、この骸の前で砕け散った。守らなければならなかった。守りたかった。けれど何もできなかった。風が吹くように、世界から消えてしまったのだ。突然に、突拍子もなく、刹那的に。

 

 許せない。赦したくない。我慢なんてできない。あまりにも理不尽だ。どうしてこんな目にあわなきゃいけない。なんで死ななきゃならない。

 

 あれも、これも、全て。全てすべてすべて……。

 

「お前が殺したんだ────っ!!」

 

 ホルスターから銃を引き抜く。震える手を怒りで抑え込む。銃口の位置は正確だ。迷うことなく射撃準備ができている。誰も反応できるはずがない。

 

 この弾丸で、アイツを撃つ。私の氷兎を殺した、あの男を。未だに生きている、あの少年を。異世界の、自分の……

 

(……相、棒を)

 

 ……ぁ。と小さく零れた。次の瞬間、一発の銃声が響く。部屋の中を反芻していく音は、瞬く間に消えていった。そして……彼女の体がゆっくりと倒れていく。

 

「……ぁ、あ……俺、俺は……」

 

 翔平が放った弾丸は見事に彼女の心臓を貫いていた。構えた瞬間は確かにブレなく、綺麗な状態であったが……今は見る影もない。手は震え、口元から息が抜けていく。目の焦点は定まらず、重なるように死んでいる二人を、ただ視界に納めているだけだ。

 

 鈴華は完全に不意をついていた。そこから構えるまでの流れもスムーズで、誰一人反応できないレベルのものだ。

 

 けれども、彼女は一瞬。ほんの一瞬だけ、止まったのだ。殺したいほど憎い相手が、異世界の自分に抱きかかえられていて。苦しそうな顔をしていて、それを見ている彼は泣きそうな顔をしていて。

 

 あぁ……、と。躊躇ってしまったのだ。殺したかったはずなのに。自分の中の感情を抑えきれなかったはずなのに。けれども、あんまりにも似ていた自分の相棒と同じ少年を……撃つ指は動かなかったのだ。

 

 そしてその一瞬は、翔平が銃を構えて撃ち抜くのに十分すぎる時間だった。銃を向けられたことに対して反射的に、ホルスターから抜き撃ちする形で弾丸を一発。オリジンに所属してから、幾度となく死ぬような目に遭い続けてきた彼の身体に染み付いてしまった動きだ。

 

 ……相棒を撃つのに指は自制を利かせた。しかし自分自身を撃つことには、指は何も躊躇わなかった。正常な判断ができない状態で起きた、ただ一つの結果だ。

 

「ち、違う……こんな、つもりじゃ……」

 

 弾丸を放った振動はまだ手に残っている。残響は嫌という程室内に満ちていて、彼自身の浅い呼吸と、もうじき死んでしまうであろう相棒の微かな息だけが聞こえていた。

 

 腕の中に抱えた少年の血が、彼の衣服にべったりと染み付いていく。その嫌な感触でようやく思考が元に戻された。人を殺してしまったこと、許されないことをしてしまったこと。それよりも、今はただ相棒を救わなくてはならない。

 

 バックパックから医療キット、そして医療班が開発した止血剤、造血薬、手持ちのありとあらゆるものを使用して氷兎の治療を進めていく。そして、別の部屋で鳴り響いていた剣戟が止む頃には治療を終えることができた。

 

 死んでしまった人間を蘇生させることはできないが、息がある人間ならば延命できる。医療班の能力には頭が上がらない。

 

「……まだ、ここにいたのか」

 

 訓練室に西条が入ってくる。全身がボロボロで、刀傷があちこちについているが、動くのに支障はないらしい。氷兎の治療を終えて、しばらく動くこともできず、目の前で倒れている二つの死体を見ては、自分の感性が一般人のソレから変わってしまっていることを自覚した。

 

 殺してしまった直後は、あんなに頭が真っ白だったのに。今は……いや、考えがまとまらない。頭が回らない。それはきっと、彼の防衛本能がそうさせていたのかもしれない。あまり余計なことを考えすぎるな、と。

 

 それを耐えられるだけの心を、持っていないのだから。

 

「終わったな。唯野は重症だが……生きてはいる。俺も、お前もな。三人揃って生き残れたのは、幸運だったのかもしれん」

 

「……こう、うん? この惨劇が、幸運だって……?」

 

「あぁ、そうだ。二度同じ事をやって、また三人残れる保証はない。それほどの相手ではあったからな」

 

「ッ……殺したんだぞ! 俺たちが、彼女たちを!」

 

「それに対して、罪悪感でも抱いているのか? まぁ……抱こうが抱かまいが、お前の勝手だが。これが『悪かったこと』なのかを決めるのは、今この場にいる俺たちの仕事ではない。そんなもの、未来が勝手に決めてしまうものだ。気取った評論家だの、お茶の間のコメンテーターだの、よくわかっちゃいない一般人だの、そういった連中がな……」

 

 流石の西条も疲労がきているようで、ゴホゴホと咳き込む。けれども眼鏡の奥から見える眼は、鋭さを失ってはいなかった。いつもの西条が、いつものように、さも当然と宣うかのごとく、翔平に告げる。

 

「俺たちはただ、目の前で起きた出来事に対して、その場でできる限りのことをした。それだけだ」

 

「……もっと良い方法だって、あるんじゃないのかよ……」

 

「あるかもな。それは、『今』の俺たちにはできないことかもしれん。あるいは、『未来』の俺たちなら、対処することができるのかもしれん。が……そんなもの、考えるだけ無駄なことだ」

 

 深呼吸をしてから、西条は目線で氷兎を担ぎあげるように促した。それに応え、翔平は氷兎を背負う形で持ち上げると、先に訓練室の外に歩き出している西条に置いていかれないように歩み出す。

 

 後悔や、罪悪感、そんな負の感情に押されている翔平の顔を見ないようにしつつ、西条は背を向けたまま告げる。

 

「俺たちはこれから……全世界80億もの人間を殺し、自分の世界へと帰る。後には、もう引けんぞ」

 

「──────」

 

 息を飲む音が聞こえた。例え電子の仮想世界であっても、ここはナイアがアカシックレコードを基に作り上げた世界。生まれた感情は確かに自分が感じていたものかもしれないし、この世界で実際に生きていた自分にしか感じられないものかもしれない。

 

 この世界で起こした行動は、自分が起こすであろう行動だった可能性もあるし、この世界で生きていた自分にしか起こせない行動だった可能性もある。

 

 全てが電子でできていたとして、その感情すらも演算で叩き出したものだったとして、流した涙が論理的な思考(悲しい)から辿り着いた結果(泣く行動をとった)として生じた事象でしかなかったとして。

 

 それを全て、偽りだと言えるのだろうか。本当に、それはデータから導き出された結果でしかなかったのだろうか。

 

 それに、否と答えられなければ……西条の言う人類全員を殺すということにも、違うとはいえないのかもしれない。

 

 三人がこの世界から消えれば、この世界は止まる。観測者がいなくなった世界の物語を、進めることはできない。それ即ち世界の破滅と呼んで差し支えない。

 

「……帰らなければならん。俺たちにとっては、あの世界がすべてだ」

 

「わかってる……わかってるさ……」

 

 それが割り切れないことであることも。きっと無表情を貫いている西条も、心中は穏やかではないのかもしれない。諭すように、引っ張るように、言葉と行動で前を歩み続けている彼の背中を見てそう感じとっていた。

 

 いつもより浅い呼吸が空間に響く。そんな中を三人は進んでいき、やがてVR訓練室へと辿り着いた。装置のひとつが、ずっと稼働し続けたままになっている。これを止めれば、自分の世界へと帰れるらしい。

 

 手が空いている西条が装置を止めようとした、その時。不意にVR室の扉が開いた。思わず手を止めて背後を振り返る。

 

 そこに立っていたのは……涙で顔を歪ませ、身体中に血の色が付着している、幼さと冷たさを感じさせる顔立ちの少年……この世界の、高海 菜沙だった。

 

「やっぱり……やっぱり、あなたたちが……」

 

 付着した血が誰のものなのか、考えなくてもわかる。あれはこの世界の氷兎の血。幼馴染の亡骸を見つけてしまったのだろう。なんて間が悪いのだろうか。内心、西条は舌打ちをする。

 

「返してよ……ひーちゃんを……私のひーちゃんを、返してよぉっ!!」

 

 彼の手元が光り輝き、どこからともなくハンドガンが出現する。それは彼の起源である『創造』による能力だ。

 

 目から光が消えてしまっている彼は、ロクに訓練もしていない腕で構えて発砲してくる。

 

「クソッ……!!」

 

 すぐさま西条が翔平と氷兎を守るように間に入る。弾丸は彼らには当たらず、別の場所へと着弾した。が、高海は外れてしまったことなど、なんてことはないといった様子で何度も弾丸を放つ。数打てば当たる。そう体現するように、いくつかの弾丸が西条に向かい、それらを辛うじて斬り落とし、弾き逸らしていた。

 

「ッ、鈴華ァ!! はやく、装置を止めろッ!!」

 

 平然を装っていた西条も、体力は既に限界であった。これが翔平クラスの腕で射撃されていたら、為す術なく死んでいただろう。まだ生き残れているのは、下手くそな射撃手がロクな構えもせずに撃っているだけだからだ。

 

「ぁ……っ、んだよ……なんなんだよ、ちくしょぉぉッ!!」

 

 翔平が踵を返して装置を止めようとする。その間、高海の射撃は止まることを知らない。弾が切れれば即座に新しい銃を創造し、絶え間なく射撃を繰り返している。ただただひたすらに、想い人を返せと泣き叫びながら。

 

「返してよぉっ、このっ……人殺しどもっ!!」

 

 人殺し。そんな言葉が翔平の耳に響く中……世界は瞬く間に白く染まりあがっていき、やがて自らの感覚すらもなくなっていった。

 

 

 

 

 

To be continued……




待っていた人いたら、大変申し訳ない……。
完結させるつもりですが、なかなか小説を書くことが難しい。
時間がとれず、また他にやりたいことがあったりすると、
小説を書くという行為に、時間をかけることが一瞬嫌な気持ちにさせられます。
なので、社会人で小説を書き続けている人は素直にすごいと思います。
まぁ、2部まで頭の中に構成があるので、そこまで完結させたいですね。
何年後になるんだろう。


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